新潮文庫
化石の森
[#地から2字上げ]石原慎太郎
誰か人をでも殺してやりたいほどの暑さだった。季節が狂ってしまっている。
冬からずっとこうだった。花の咲いた後に雪が降ったり、つい半月前にも山で霜の降りる寒さがあった。昨日今日はこの暑さだ。まだ真夏の陽射しもない空の下に暑さだけがたちこめている。そよぐ風もなく、薄皮のように空を覆った濁った雲の|彼方《かなた》で太陽が地上を|茹《ゆ》でようとしていた。
昨日来、新聞もラジオも飽和に近いという湿度の指数をくり返し告げていた。人間たちも挨拶代りにそれをくり返し合った。それが何になる訳でもない。異常な蒸し暑さは今日に入って何年来の記録といわれた昨日の午後を、午前にとうに上廻っていた。
体を動かす度に、辺りにたちこめた湿気が肌に感じられる。わずかな動作がすぐに肌の上に、熱された湿気を汗にして|貯《た》めた。突然地上の空気の濃度が増したように、人間たちはそれについていうのをもうあきらめ、ただ口を開けて|喘《あえ》いで、なんとかこの状況になれようと努めていた。
濃く湿ったこの熱気の中では何をしても無駄なような気がする。何かを僅かでも試みると、眼に見えぬが熱気がはっきりと立ちはだかって感じられる。周囲を覆いつくしたこの熱苦しい被膜を、どこかで切り裂いて逃れようとしても手応えがない。|焦《いら》だつことにも疲れて、縁の下で体をかかえて息をついている犬が利口に見えるような午後だ。
こんな時、人間たちは、人間というより獣のように見える。風のそよぎもない街頭でのゆきずりに、突然見知らぬ相手の強い汗の臭いを|嗅《か》ぎ、初めてそんな他人のいることに気づいたり、走るまま風の通っていた電車が止ると、急にたちこめる同族の汗のいきりの中で、|咎《とが》めるいわれもなく互いに|胡《う》|乱《ろん》に見交わし合う。街の|喧《けん》|騒《そう》も、それを作り出した人間たち当人にも今日だけは|関《かか》わりなく感じられ、その中をみんな肩をすぼめ喘ぎながら自分の道を一人で歩く。丁度暗い密林の中で自分だけの道を歩く獣たちのように。
歩こうとした横断歩道の信号が赤に変り、立ち止った前を行く歩行者の背が胸に触れた。男は季節外れの厚ぼったい上着を手にして、背中は汗に濡れシャツの地が肌について黒く縞になっている。
後ろから押し当った治夫を男はふり返り、咎めるでもなく見つめるとそのまままた前を向いた。男の汗に汚れた背中のいきりが感じられ、避けて|踵《きびす》を返そうとした彼の背へ、彼がしたと同じように後ろから来た誰かが当って触れた。
自分がひどく険しい顔でふり返るのがわかった。見返した後ろの男の表情は投げてあきらめたように動かなかった。
周りに立って待っているどの顔を眺めても同じだ。信号を待ってはいるが、それを渡った先、彼らがそれぞれの行く先を心得ているのか危ういような気がする。車道を隔てた向うで、こちらを向いて立っている人間たちの顔も同じだった。車の流れをはさみながら熱気の|陽炎《かげろう》の中で、ふと自分が大きな鏡に向って立っているような気がする。治夫はふと、向いに立った人間たちの中に自分を捜しかけた。そんな錯覚から逃れるように、彼は周りを|掻《か》きわけ別の信号に向って踵を返した。
いこうとしている場所はその大きな|交《こう》|叉《さ》点の対角にある。どちらの信号を先に渡っても同じことだった。
初めて降りた地下鉄駅で出口を間違え、一番離れた口から地上に出た。出て見ると、まだ少し涼しくましに思えた地下と比べて地上は、乗り込む前と同じ暑さだった。僅かな距離、地下を潜って来るだけで、辺りの様子が旅でもしたように一変する訳もないが、地下からの階段を上がった時、自分を|塞《ふさ》ぐように立ちこめた地上の熱気の重さに、改めて挑むように立ち直して見たが、立っている自分よりも、肌に感じられるこの蒸し暑さの方が、ずっと確かな存在感があった。
人間も辺りの樹木も、道路でさえが、この厚く重い熱気の中に半ば溶けかかって仮象のようにも感じられる。暑気のための気だるさでか、自分自身までがひどく非現実的なものに感じられて来る。
方向転換は間に合って、治夫は堀端に向って交叉点を渡り切った。
|濠《ほり》の水も、浮んだ白鳥も、石垣沿いの立木も、何も全く動いていない。眺めていて、丁度、技術の悪い映画の合成フィルムのように、熱気の中で静止して動かぬ景色は、その周りに動いている車や人間の流れがひどくちぐはぐで非現実的なものに見えて来る。信号が変るまでの十数秒だが、垣下の白鳥は僅かに首を曲げたまま捨てられた置きもののように微動だもしなかった。
あの鳥は生きている、と逆に、彼は思った。
信号が変り、もう一度横断歩道を渡る。建物の正面玄関までの数十メートル、外国の旅行会社の事務所の広い窓が並んでいる。開いた窓の中に、花の咲き乱れた畠の中で国の祭り|衣裳《いしょう》を着た若い女と、もう一枚、どこか北欧の、深い森の中の青い河の流れに臨んだ白い古城の大きなポスターを背景にして、黒っぽい上着を着、ネクタイをした男が坐っている。冷房が通っているのだろう、男は汗もかかず、向き合って坐った客に熱心に何か説明しているが、その光景も外から眺めると非現実だ。ポスターに写っているあんな風景が、今この地上のどこかにあるということが信じられないような気がする。坐っていた男はそれを信じてこれから出かけていこうというのだろうが。
彼はふと、明後日日本を|発《た》つという同じ大学医学部の助教授の市原のことを思った。これから市原と会う約束がある。このビルの上階にあるホテルのロビーで待ち合せ、彼に手渡すものがあった。
ヨーロッパである学会のために初めて外遊する市原は、準備の忙しさに自分の手で間に合わぬ資料の翻訳を治夫に頼んでいる。治夫が市原と同じ故郷で|遠《えん》|戚《せき》の人間という気安さと、語学の達者な彼に仕事を与えることで縁者に経済的に恩恵をほどこすという彼なりの自己満足もあったろうが、いずれにしろ市原が治夫を重宝にしていることに間違いはない。
|頻《ひん》|繁《ぱん》に彼の仕事を引き受けていると、|従兄《いとこ》の又従兄ほどになるこの遠縁の病理学者の内側の仕組がどんな風になっているか大よそ透けて見えて来る。
外国の最新の情報を目ざとくあたって博識を気どっているこの男も、あるところでは結構通用している様子だが、彼の博識のからくりを知っている治夫にして見ると、大学や学会での講義などというものがますます味気ないものにしか見えなかった。日本語からの翻訳を依頼されたどこか外国に出す論文の中に、以前治夫が他の論文から訳して渡した原稿の部分が、そのまま、市原の書いた前説後説にはさまれて出て来るなどということが時々ある。
出発前、資料として翻訳を頼まれた文献は、どこで集めて来たのか、現代医学を頑強に否定しているある新興宗教団体の教義テキストとその参考資料で、現代の文明の宿業の起因は現代医学を盲信する人間の愚かさにあるとしたそのドグマはなかなか華麗で、ある部分大いに的を射てい、訳しながら治夫にも興味が持てた。
教団テキストの中には外国の著名な医学者の現代医学への反省が幾つも例に引かれてあり、また日本の開業医たちからの共感同調のコメントと、その臨床例が沢山載せられてあった。どんなつもりで市原がそれを持っていくのか知らないが、外国まで出向いていって、自分たちの専門を否定しにかかるものの考え方に大いに共鳴を披露するつもりなのか。この男にしては、心がけが殊勝ということにもなるのだろうか。いずれにしろ請け負った仕事をしながら、それを依頼した市原の内に透けて見える、現代の医者とか医学の虚構が、その新興宗教の教祖の断じるところを|証《あか》すような気がした。
市原自身は、外国の著名な医学者がそうした反省を見せたことに安心して、彼の国籍を代表したつもりで同種の反省の開陳をするつもりなのだろうか。資料の中に報告を寄せている日本の医者たちにしても、結局は、依然医者として店を構えていくに違いはない。彼らがどういい逃れようと、これはパラドクスでもなく、ただの矛盾でしかなさそうだ。
|尤《もっと》もこの世の中では一人医者だけではなく、誰しも多かれ少なかれ同じような橋を渡っているに違いない。それに気づいても簡単に引き返すという訳にはいかないのだ。
だが、同じ資料の中に、同種の疑念からとうとう自分の選んだ道に不安を来たし、反省の末に学業を途中で|放《ほう》り出してその教団の布教師になった元医学生の手記が載っていた。
治夫はある種の感動でそれを読んだ。有名大学の最後のインターンまで来てそれを捨てて新興宗教に走ったというその若い男を、そこまで駆りたてたものは一体何だったのだろうか。
その男の行為の馬鹿利口、損得ではなく、一体何を|賭《か》けて、どこまで本当の自信があってそれが出来たのかということに、ふと、他人ごととして見過しに出来ないものがあるような気もする。それは一種、|羨《せん》|望《ぼう》と|嫉《しっ》|妬《と》に似た感慨でもあった。
骨髄炎に冒され、むごたらしい手術を何度も受けながら、逆に|希《のぞ》みのなくなった一人の少女の病が、医者の施療を全く否定し無視した宗教的治療で完治された時、その男の疑念は頂を極め、そして氷解した。|即《すなわ》ち彼は、自らが選んだものを人間のために悪しき誤りとして捨て去った。そして、|嘗《かつ》て医学を選んだと同じ目的同じ理念のために自ら願ってその教団の布教師となった。
そこまで読むと、この男には元々、大学で医学部へ進むに当っても他人にない、少なくとも治夫にはない何かがあったということになる。他人のために生きるなどということは、今の治夫にとってはどう考えても不可能なことがらでしかなかった。
市原にテキストと一緒に翻訳した原稿を手渡す時、この医学生についてどう思うか|訊《き》いて見ようかと思ったが、彼の答えは知れているような気もする。同じ医学の徒といっても、市原にこの医学生が当初から持っていたような志のある筈はない。それは自分も同じことだ、と思うと、治夫には急に今まで以上に市原がおぞましいものに感じられた。
ビルの扉を押して入ると世界が一変した。涼しいだけではなく空気が乾いている。息をつきながら治夫は、今来がけに|覗《のぞ》いて見た旅行会社の事務所に張られたポスターを思い出した。今になると、同じこの地上にもあんな風景が実際に在るのがうなずけるような気がする。が、すると急にまた、胸の内に険しい何かが感じられて来た。少し疲れているのかな、と彼は思った。
冷房装置が送り出す空気に表象された、自分に関わりない世界に向っての何とはない敵意をこめて、治夫はホールで立ち止り辺りを眺め直す。息をつきながらも、この突然の清涼に違和感があった。みるみる汗を吸い乾いていく肌を、何かになぶられながらだまされまいと確かめるように彼は自分の手でふれ直してみた。
ふと視線を感じて見直して見る。制服制帽をつけたビルの守衛が、外来者の中から治夫の敵意を嗅ぎわけたようにじっと彼だけを見つめている。彼は黙って挑むようにそれを見返した。
|一寸《ちょっと》の間見つめ合った後、男は他の用事を思い出したような素ぶりでゆっくり眼をそらし、横へ歩み去る。それを確かめ、更に敵意の微笑を浮べて治夫は正面のエレベーターに歩み寄る。
扉が開き、青地に金モールのついた帽子をかぶったボーイが上を指した。最後に乗り込みながら治夫はもう一度ふり返り、ホールの円柱の横にいるはずの守衛を見た。男は|何故《な ぜ》か不安そうな眼で彼を見送っていた。何かに勝ったような他愛のない快感があった。が、それもエレベーターのランプが次の次の階を指す頃には消え、足元から伝わって来るエレベーターの上昇感をこらえながら、彼は間近な若い外国女の肩から二の腕にのった|雀《そば》|斑《かす》に見とれていた。
約束の時間通り、四時丁度に治夫はホテルのロビーに入った。市原はバーに近い斜め奥の椅子に誰か先客と向い合って坐っている。近づいた彼を認め、
「ああ、まだこっちの相談が終ってなくてね。悪いが二十分くらいしたら来てくれないか」
相手の男は|質《ただ》すように治夫を見上げた後、知らぬ気に手元の何か書類に目を落した。
見返した治夫を、市原は体で促した。何故か彼はひどく横柄に見えた。こんな建物の中で見るせいだろうか。横柄だが、少し滑稽にも見える。
二十分ほどして戻って来てくれ、といういい方は、市原と一緒でないと治夫にはこのロビーにいる資格がないとでもいうようだ。他にまだ空いた椅子はいくつもあった。いわれるまま踵を返した後になって治夫は腹をたてた。が、また引き返すのも業腹で、丁度やって来た開いたエレベーターに乗った。
暇をつぶすといっても当てがない。外の暑さを思えば建物から出る気はしない。確かめずに乗ったエレベーターは下り出した。見上げた壁に各階のオフィスの一覧表が出てい、アーケイドが地下一階にある。そのまま地下で降りた。
地下一階の印象は、地下に似合わずひどく明るかった。大窓にレースのカーテンを引いた上のロビーよりもむしろ明るい感じだ。エレベーターをおりてすぐ右手の靴磨きスタンドの上に、奥にある理髪店の|飴《あめ》ん棒の看板がかかってい、左手には外国人相手の肖像画屋の、注文客がまだ引きとりに来ない、写真を基に描いた肖像画が大小何枚もカタログ代りにかけられてある。絵の中の人物は、老いも若きも、国籍を問わずみんな同じように白い絵具の入りすぎた安っぽい肌の色をしている。不思議なもので、描き手が同じだと、|顕《あき》らかに違う家族の人間までが親戚同士のような顔に見える。
エレベーターのホールから中に入った商店街は通路に添って天井に|蛍《けい》|光《こう》燈が|点《とも》され明るかった。その明りが、居並んだ店々のどれも外国人客向けの派手な商品に映えて、一軒一軒壁板に仕切られただけで並んだアーケイドは、地上の商店街よりも洗練されて見えた。渋い紺地のビロード張りのケースに並べられた真珠、銀器、陶器、絹の反物、国籍のわからぬ柄と仕立ての部屋着。|鞄《かばん》屋。靴屋。子供向きの|玩具《おもちゃ》屋の野暮な塗りの安っぽいブリキの玩具までが、この彩光の下だと、特別製にも見える。いや、辺りの|雰《ふん》|囲《い》|気《き》の中に、玩具が一番似合っても見えた。
余り客の通らぬ通路で、玩具屋の店員が、客引きにとり出して見せた、電気で遠隔操縦の自動車の玩具を通路から店の中へいったり来たりさせている。
地上に比べれば喧騒の無い通路を、やっと人心地ついたように数少ない外国人客がゆっくり、一軒一軒覗きながら歩いている。覗くといっても外側からだけで、中へ入って品物を捜す客は余りない。ここでの商売にとって今がそんな季節なのか、それとも今日という日がそうなのか、どの店の店員も、表を通る人間には期待薄のように奥のケースによりかかったまま動かなかった。
治夫が通りすぎて見た陶器屋でも、隣りの|刺繍《ししゅう》屋でも、店番の女の子は同じような姿勢でうつ向いて自分の爪に見入っていた。
立ち止った治夫の気配に気づいたように眼を上げても、一瞬その眼がどこを向いているのかわからない。待ちながらすることなく、時計を見上げるような眼つきで彼を見た後、女は右と左をとり換えてまた爪を眺めている。
気づいて眺め直して見ると、明るすぎるほどの彩光の下で、広さの限られた地階にびっしり居並んだ店たちはそのまま地下に沈んだように動かず、色づけの精巧な動かぬ書割の前を数少ない通行人だけが、これも非現実なほどの速度でゆっくり通りすぎていく。治夫はふと以前大学病院の長期入院の特患の病室で見た、熱帯魚の大きくまばゆい|水《すい》|槽《そう》を思い出した。
右手のいき止りは、これも外人相手らしい、派手なのれんを|吊《つ》った日本食のレストランだった。のれん越しに覗いた中に、客のいぬまま、天ぷらの揚げ|鍋《なべ》の前に板前がこちらを向いて立っている。|他所《よ そ》と違って、その板前だけは、戸口にさした人影にはっきり自分の仕事を意識して立ち直し、待つように彼を見返した。治夫は後ろめたさで踵を返した。
エレベーターのホールを中心に左右相対につづいている逆の側も同じような店がつづいていた。ただその途中、小さなフルーツパーラーの前で細い通路が横へ折れてい、先の奥の曲り角に主に外国の雑誌を売っている小さな本屋があった。
本屋を覗きにその角を曲ろうとした時、
「あら」
治夫は女の声を聞いた。自分にかけられたものとは思わなかったが、それがこの地下へ降りて初めて聞いた人の声のような気がし声に向ってふり返った。
通路に向って開け放たれたパーラーのレジスターの側に、女が一人こちらを向いて立っている。ふり返った彼に向ってはっきりと|微笑《わ ら》いかけた。
「やっぱりそうね、|緋《ひ》|本《もと》さんでしょう」
一寸手間どったが、それでも女が微笑し直して見せる前に彼も思い出した。東京に出る前、故郷の高等学校で一緒だった井沢英子だった。見直した英子は、以前と殆ど変っていないように見える。ただ、何のためにか彼女が今着ている半袖の白い上っ張りが、彼女の印象を昔と一寸違えていた。
「わかった」
英子はいい、
「わかったよ。久しぶりだね」
「久しぶりね」
改めて確かめ合うように二人は見つめ合い、英子はひどく嬉し気な顔で真っ直ぐに彼に向って近づいて来た。
「そんなものを着ているから、一寸の間わからなかった」
「ああ、これ。私そこのバーバーでマニキュアしているのよ」
自分の指の爪をさし出しながらいった。彼女のそんな仕草は、なんとはなくこの地階の雰囲気に似合って見えた。
「東城大へいってるんですって、医学部。あんたのこと、後で聞いたわ。大変だったのね」
間近で親し気に眺め渡すようにしていう。いわれて何故か治夫は、今までいつ誰に昔の出来事のことをいわれたよりも気にならなかった。いいながら彼女はそのことについて思いやるというより何の好奇心もないように見えた。
「あんたもあの後逃げ出して学校|止《や》めちゃったんですって。私と同じね」
英子は|悪戯《いたずら》っぽく笑った。そんな表情は彼女を全く昔のままに見せた。治夫は以前、彼女が今のような風に笑うのを見たことがある。だが昔それは彼にひどく大人びたものに見えた。
学校時代、英子は他の生徒たちにとって異端の人間だった。大柄で、その頃から太りじしな、とうに成熟してしまった体つきで、たとえ学校が命じた制服を着ていてもそれが不似合いに見えるほど彼女の雰囲気は大人っぽかった。休日、街で着物や普通の洋服を着た彼女を見て、治夫たちの眼にもその方が彼女らしく見えた。
学校の中の、非行で注視されている生徒たちの彼女はいわば|領袖《りょうしゅう》だったが、彼女が交際している相手は同じ年代の学生たちとは違っていたらしい。そんなグループと親し気にはしていたが、彼女の本当の遊び仲間はその中にはいなかったようだ。
二年生の半ば頃、英子は突然転校して出ていった。自発的な退学とも強制的なものとも|噂《うわさ》があったが、いずれにしろ彼女の素行が警察沙汰になったということだった。後に二度ほど街で見かけたが、その時も制服ではなく普通の姿で、その後絶えて彼女を見ることはなかった。噂はいろいろあったが、彼女がもうその町にいないことだけは確かだった。
その頃は当り前の、俗物秀才型の生徒だった治夫も、大人になりかけの男として英子に強い印象を受けた。まだ知らぬ性について|秘《ひそ》かに想う時、その空想の相手に、表は青いながらもう熟れて感じられる英子を選んだことが何度もあった。
ひと頃、男の学生たちの間に、英子のところへいって手をついて真剣に願えば、彼女は|頷《うなず》いてその体を与えてくれる、という噂があった。他の女生徒なら、好きでもない相手にそんなことをするわけのありようはなかったが、英子にはそんな伝説が生れるほど大人びたコケットリイがあった。
噂を半ば疑いながらも、一人きりの想像に熱い夜、治夫は明日学校のどこかで秘かに彼女にそう頼み込む手だてについて、知らぬ間に真剣に考えたりしたこともあった。
彼女にとってあの高校時代の三年間は、女として全く不自由な|檻《おり》の内だったに違いない。高校での彼女の居ずまいには、確かに、男の学生たちの噂をそうと信じさせる、熟れてしまった自分の体を持て余しているような、彼女自身が知らずに際どい一線の上を歩いているようなものがあった。それでいて|尚《なお》、同年代の男の子たちが好奇な手出しをするのを許さぬ、距りを感じさせていた。
彼女が制服の下に下着一枚もつけていないという噂を誰かが流し、それを聞いた後、ある時治夫の眼の前で偶然英子がとけた靴のひもをかがんで直すのを見ながら、胸元から透けて見える奥の肌に、|抗《あらが》い難く眼が引きつけられ、自分のしていることへの|羞恥《しゅうち》と、噂と違ってつけて見えた下着の下に尚見え隠れに感じられるものへの|戦《せん》|慄《りつ》に、|痺《しび》れたように自分の鼓動ばかりを感じていたことがある。
彼女が退学し、その後町からもいなくなってしまった時、噂を聞きながら|憐《れん》|憫《びん》とか軽侮などではなく、治夫にはそれが彼女にとってごく自然な成りゆきであったような気がした。
その彼女が突然今、このホテルの地下に働くマニキュアガールとして自分の眼の前に現われたことに、治夫は、余り驚くことなく、何故か納得のいく思いだった。
立ったまま見つめ合いながら、彼女に関して、彼女自身の知らぬ治夫の秘かな記憶を思い浮べさせるほど、英子は昔の雰囲気を|喪《うしな》わずにいた。
だが、変らぬというより、この年齢まで過ぎていった時間のままに、尚育って熟れたという感じだ。同じ年頃の他の女と比べても多分、昔のように彼女の方が大人っぽく見えるだろう。商売柄、髪の形や化粧も以前よりはずっと整ってはいるが、大ぶりで太りじしな顔や体に、よく見ると、以前には無かったかすかなたるみが来ている。それがかえって、昔彼が感じた彼女の印象を強調して見せた。
見つめている治夫へ、問い質すように英子は|微笑《ほほえ》みかけ、首をかしげて見せる。いつも誘うようにかすかに開いている唇からちらりと歯が見え、それを慌てて隠すように唇を深く閉じ|顎《あご》を引いて見せる。すると、かすかな肉のたるみがはっきりとわかり、昔通りの浅い|笑《え》|窪《くぼ》が出来、それがひどく肉感的に見えた。
濃かった眉毛を少しそいで落し、切れ長のはっきりした二重の眼に入れなくてもいい墨を入れている。その化粧だけが浮いて見え、それがこの都会での彼女の生活を感じさせた。それに、昔から余り奇麗でなかった白眼が、明りのせいか|染《にじ》んだように少し濁って見える。
見つめたままでいる治夫に、急に手を口元にかざすと彼女は声を挙げて笑い出した。
「いやだわ、どうしたの」
「いや、君は変らないな」
「嘘よ。もうよれよれよ」
その時だけ急に投げ出すように蓮っ葉に、以前学校の頃の彼女をぎくりと思い出させるように英子はいった。
「どうして」
逆に、彼が彼女のために弁解するように訊き返した。
「こんな地下に一年中いて御覧なさい。変になっちゃうわよ。見てよ、顔だって、こういうの蛍光燈焼けっていうんですって」
手を挙げ頬の上の辺りを指した。挙げた手の手首に、何に使うのか、ゴム輪を二本はめている。その輪が太りじしの彼女の腕の肉にきっちり食い込んでいた。
一瞬、治夫はその部分だけを見つめていた。それはとても肉感的だった。そう感じている彼に向って示してかざすように、一寸の間、英子は手を挙げたまま見返していた。
「忙しいのかい」
「まあね」
「バーバーって、床屋かい、男の」
「そうよ」
「男がするのかい、マニキュアを」
「そうよ、外人は好きよ。フィリッピンなんか特にね」
その国籍の客にどんな思い出があるのか、一寸眉をひそめて見せる。
「お茶でも飲まない。私、今飲んだばかりだけど、いいわ」
英子は出て来た店を眼で指した。何年ぶりかに出会ったばかりで、なれなれしいといえばいえたが、もっと話したそうに、いかにも懐かし気な彼女の様子が彼には好ましかった。
「いや、それが時間なんだ。すぐ後このホテルのロビーで人に会わなけりゃならない。先客があったんで待ちに下へ降りて来たんだ。本屋で本でも見ようかと思って来たら君に」
「そう」
素直に頷くと英子は先にたって彼を奥の本屋へ促した。
「用事って長くかかるの」
「いや、頼まれた翻訳の仕事を渡すだけだ。明後日外国へいく大学の人間にね」
「私、今日早番だから仕事は六時に終るわ。後でお茶でも飲まない、いろいろ話したり訊きたいことあるわ。故郷へはずっと帰ってないのよ」
「僕もだ」
「ずっと」
「ああ、ずっと、一度も」
「そう」
何かを理解したように頷き、彼女は質すように彼を見た。
治夫は何故かひどく素直になれた。
「学校で一緒だった人に会ったことある」
「いや、殆どない」
「私もよ」
本屋の前まで来、
「ここは割に新しい雑誌あるのよ。直輸入だから」
促すようにいった。
見渡したが、娯楽や趣味の雑誌が殆どで彼が関心あるものはなかった。彼が見渡している間、英子は彼を待ちながら、何もいわず手元にある大判の家具の雑誌を眺めていた。
「あなた、どこに住んでいるの」
「今、練馬だけど、もうじき越さなきゃならない。辺りが区画整理でね」
「私は中野よ」
訊かないのに自分でいった。
「東京へ来て四年になるのに。今まであなたと一度も会わなかったわね」
いって彼女はそれがとても|可笑《お か》しそうに笑って見せた。
「その前は、どこにいたの」
「前、大阪。いやあ、名古屋か。あちこちにいたわよ。とにかく」
|他《ほか》の誰かだったら、別の意識で違ったいい方をするようなことを、彼女はあっさりといった。治夫にはそれが好もしいものに聞えた。彼女はふと今でも以前同様、彼にとっては自分よりずっと大人っぽく感じられた。
「でも、私あなたのこと聞いて知ってたわよ。詳しくじゃないけれども。よくあることよね」
簡単にいった。
「君があの町からいなくなって、みんな随分噂していたよ。一体どこへいったんだろうって」
「何をしにね」
自分でいってまた笑った。
「みんな勝手なこといってたでしょう」
「ああ、いろいろな。学校にいる頃から、君にはそういう噂が、いや、伝説があったからな」
いいながら、彼は自分が今まで嘗てなく、英子の間近にいるのを悟り直した。意識はしていても、今まで、こんな風に話したことなど一度もなかった。
「伝説、どんな」
子供っぽい、まじまじした眼で彼女は見直した。
「聞いたら驚くよ、いや、怒るかな」
声をたてて笑うと、
「想像つくわ、でも、教えて、怒らないから」
「ああ、いいよ。僕はそれについていろいろ悩んだものだ」
ふざけて|大《おお》|袈《げ》|裟《さ》にいった彼を、
「それどういうこと」
覗き込んだ後、何かがわかったように彼女は眼の奥で笑って見せた。
「英子、何してるんだ」
見知らぬ中年の大柄な男が来て呼んだ。男は立ち止ったまま咎めるような眼でゆっくり治夫を眺め渡した。が、彼女は聞えなかったようにふり向かずまだ含み笑いしながら治夫を見つめていた。彼女がわざとそうしているのがわかった。
「英子」
治夫を見つめたまま、他の犬と遊んでいた自分の飼い犬にもう帰れというように男はいった。浅黒いでっぷりした男だ。油をつけた長い髪を真ん中からきちんと分け、濃い飴色の太い縁の眼鏡をかけている。眼鏡は彼の大きな顔の真ん中に、非常に|旨《うま》くとまっているという感じだった。太い指に男は何か石の入ったプラチナ台の指輪をしていた。
「お客ですか」
ちらとふり返っただけで彼女はいった。
「そうだよ」
「淳ちゃんいないの、あの人の番よ」
「指名だよ、ミスター・クローンだよ」
「今いきます」
頷く代りに肩をすくめた。
待つように男は立っているが、英子は話のつづきに治夫へ向き直った。
「早くだよ」
英子にというより治夫に向ってのようにいい捨てると、男ははっきりなじるように彼を見返し、もう一度値踏みするような眼でぶしつけに見渡すとゆっくり踵を返した。
太りすぎた体を一歩一歩ゆするように歩いていき、廊下の曲り角で男はもう一度こちらへふり返り、不愉快極まりないという眼で治夫を|睨《にら》みつけた。離れた後の子供の強がりのようにも見えるが、いい印象は残らなかった。
「誰だい」
「マスターよ、店の。小うるさいのよ」
「でもいいのかい、店を出てて」
「手が空いてたからよ。うるさくて嫌な奴よ」
後ろから投げつけるように英子はいった。
じゃ何故そんな店にいるんだ、と訊きかけて止めた。東京で若い女が働いて暮していくのに、店の主人の良し悪しをいってはいられまい。それに仕事に指名の客がつくようになれば、おいそれと捨てられる職場でないに違いない。
腕の時計を見、
「はやくいったら。僕は、上へ戻るよ」
「そう」
素直に頷いた後、|囁《ささや》くように、
「ね、後でお茶でも飲まない。こうして会うと、矢っ張り懐かしいわね」
いった表情に嘘はなく、彼女はまたもう一度、本当に懐かしそうな顔になった。
「英子さん」
さっきの男が消えた廊下の奥から、同じ上っ張りを着た若い女が出て来て呼んだ。あのマスターが呼びに来させたのだろう。
「今」
ふり返って頷くと、
「店はこの奥よ、じゃあね」
急に自分をせかすように小走りに去った。
エレベーターへ戻りながら彼は思いがけぬ拾いものをしたような気分だった。全くの偶然で巡り合った井沢英子は、彼にとって思い返すも|億《おっ》|劫《くう》な昔のある出来事とはどう関わりもない人間だった。彼女が彼に|蘇《よみがえ》らせた懐旧は、ふと彼自身が忘れていた遠い以前の自分自身を、それが|未《ま》だ決して喪われていなかったものとして思い起させた。
ロビーで市原は先刻の客とまだ話し込んでいた。戻って来た彼へ、
「や、悪いな、もうじき終るから」
今度は姿を消していろとはいわず、辺りの空いた椅子を眼で指そうとしたが、あいにく空席は遠くにしかなかった。
頷いて離れる治夫へ、市原の目下と見てか相手客は再度待たせながら会釈もしなかった。
ホールを横切り、離れた壁際のカラーテレビを囲んだ席のひとつに治夫は腰を下ろした。この季節にどこか地方の野球場で好カードのデイゲームをやってい、周りの客たちは午後の暑さしのぎかそれともゲームに|魅《ひ》かれてか、用談もせず手に手に酒の入ったグラスを持ちながらテレビに見入っている。
ボーイがすぐにやって来、彼を見下ろし、冷やかさをこめた|慇《いん》|懃《ぎん》さで飲みものの注文を尋ねた。要らぬと答える彼に、ボーイは許すような微笑で頷いて帰る。また何かが彼を刺した。
色刷りの悪いグラビアのようなテレビスクリーンは、映し出しているものをいかにも安手の見せものに見せた。それでも人気の選手が投げ打つ度、スコアがよほど緊迫しているのか、周りの客たちはしだいにどよめき、声を挙げての声援まである。
治夫は思わず確かめるように辺りを見直して見た。
涼しいが薄暗いホテルのロビーの片隅でちっぽけなスクリーンに映し出される貧相な見せものに、大勢の人間たちが、彼ら自身の何かを賭けでもしたように熱中し、体をゆすって見入っている。殆ど互いに見知らぬ同士なのだろうが、そこには一種奇体な連帯感のようなものすらあった。
人気の選手がヒットして塁に出、更に盗塁し、つづいて出た同じ人気の同僚の、劇的な、とアナウンスがいったヒットで彼が返ると、みんなは沸いた。それはスクリーンに映し出される陽射しの下の喧騒のささやかな支店には違いなかったが、なお隔絶があった。そう思えば、映し出される球場につめかけた観客たちと、ホームインした選手の表情にも隔絶があった。選手たちの表情を眺めると、周りの喧騒は選手自身に関わりないように見えた。
再びヒットが出て彼が走った時、治夫は一瞬テレビのスクリーンから眼をそらし横を向いた。そうでもないと、彼の横に坐った、たった今連れが電話か手洗いに立っていった年輩の男は彼に向って話しかけて来そうだった。
“こいつら何をしているのだろう”
改めて眺め直すと、そこだけ明るいスクリーンとの対比で、薄暗いロビーの隅に固まった観客たちがふとまた非現実な存在に感じられる。彼はつい今し方あの交叉点の|陽炎《かげろう》の向うに見た人垣を思い出した。
いじましさのようなものが体の内に|氾《あふ》れて、治夫は一瞬立っていき、見守る彼らの前でスクリーンのスイッチを切ってしまいたい衝動にかられた。
スクリーンに背を向け、向い側にいる市原を眺めて見た。市原は連れのさし出した書類に、何やら問い返した後しきりに頷いて書き込んでいる。先刻、彼に向ってそっちで待てといった態度とは大分違う。相手の男は彼と同年輩で、話しながら寛容そうな微笑を浮べかがみ込むように熱心に説明している。彼の渡航を扱った旅行社の社員だろう。離れて眺めると、その男の前で市原はひどく自信無げで、書き込みながら相手を見上げる様子はすがろうとしているようにも見えた。
治夫が見ている前で市原は何かを書き終え、相手はそれを元の袋に収めると念を押すように何かいい、二人はやっと立ち上がった。
礼をして見送った後、市原は思い出し治夫を捜すようにこちらを向いた。視線が出会うと彼の態度に今までと違うものが蘇り、治夫に向って|鷹《おう》|揚《よう》に頷いて見せた。
治夫は質すように坐ったまま待った。市原の方でやって来るかと思ったが、一旦そうしかけ気づいたように市原は坐り直すと彼を手で招いた。
立ちながら、なんで俺はこいつに呼ばれて立たなくてはならないのだ、急に焦だつように彼は思った。
が、また、しかしなんで俺はこんなに焦だっている、今日の暑さのせいか。いや、今日だけではない。自分をなだめるように思った。
黙って努めた無表情で近づいた治夫の気配を察してか、市原は|媚《こ》びるように笑って椅子を指す。
「待たせたね。出かける前いろいろ予想以上に用事が多くてね。初めてのことだし、まいる」
浮いた気持を隠し切れないのが表情にうかがえたが、それでも口ぶりは一応後ろめたそうだ。
黙ったまま治夫がとり出して置いた原稿を眺め、
「出来たかい」
やっと雇用者の優越感をとり戻したように原稿を手にとりながらいった。
「全部です」
「それは有りがたい」
「まずいところは飛行機の中ででも直して下さい」
「いや、君のいつもの仕事なら大丈夫だ」
旅に出る前のせいか今日はひどく寛容で謙虚だ。
「しかし、余計な心配かも知れないけど、こんなもの訳して持っていって何にするんです。医者の立場としたら困る話じゃありませんか」
結局、なしくずしな形で治夫は彼に|訊《たず》ねて見た。
「いや、いっていることに真理はある」
「しかしそういっても、誰も医学を止める訳にはいかないのでしょう」
「それはそうだ。しかし、是正は出来る」
「是正|云《うん》|々《ぬん》の次元の問題じゃない、とこの中じゃいっていますよ」
「それは、まあ見方だな。科学のいきすぎということはあるさ。それに気づかぬと元も子も無くすことになる」
「見方、ですか」
「そうだね。いずれにしても、人間にとって万全の方法などというものは有りはしないよ。科学的な意味でね。信心は別だよ」
とうに割り切ったように市原はいい、自分の解説に改めて満足したように頷いた。
「すると、科学は信心ではないということですか。科学に信心はない」
「そうだね」
少し後ろめたそうに市原はもう一度頷いて見せた。
「すると、科学者ってのは、何も信じない。僕のいうのは信仰じゃなく、ただの信心ですが」
「科学は科学さ」
|曖《あい》|昧《まい》な返事を、押しつけるように市原はいった。
治夫はテキストの中にあったあの医学生の転職のことを持ち出しかけて止めた。この男がこんな答えをするのは自明の筈だ。
しかしまた彼は、科学は科学であり、科学でしかない、という決り文句を彼なりに信じているのだろう。こんなテキストを翻訳させてまで外国での学会に持ち込む矛盾をそのままひっくるめて、彼の選んだものを信じとりすがっている。
それを俗だと|嘲笑《わ ら》うとしても、それなら治夫が途中で愛想つかして|放《ほう》り出したあの経済学をひっくるめて、社会科学というふやけた領域の中に埋没し、その経済数式の美的な、と驚くことにある有名な教授自身がいったのだが、架空のモデルビルディングとやらにうつつをぬかして、それが現実に一向作用していかぬもどかしさをとうにあきらめ、政治の支配は最早、科学の領域ではないと超俗したつもりでいる手合いと、どちらがましかということになれば、同じようなものだ。いや、まだこの市原の方がましかも知れない。
しかし数年前、その気になって専攻した経済学に、要するに見きりをつけたつもりで、医学部へ転入しはしたが、その時治夫自身が代りに何を信心しようとしたかは、今になればなるほど曖昧なものになっていた。
確かに医学という領域で彼らが扱う病める人間は数限りなく在ったが、そうした現実の、直接の接触で、医学という方法が果して彼が願った有効さという形で人間たちに及んでいるかということになると、それは、社会科学のもどかしさ、或いは、その観念の|自《うぬ》|惚《ぼ》れに決してどう勝るというものでもない。
人間が考え出したさまざまな方法は、結局その内のいかなるものも、人間同士を絶対確実に|繋《つな》ぐことも出来はしないのだ。
ただ誰も、全く何の方法も持たずにすますことが出来ず、それぞれ、選んだというより当てがわれたものを信じたふりをしているだけではないか。
あの、医学生から新興宗教の布教師に転向した男のように、その馴れ合いの|欺《ぎ》|瞞《まん》を自分に咎めてさらけ出して見せたところで、神とか仏とかいう眼に見えぬものを信じてかかることもまた、一種の黙約、一種の馴れ合いではないのか。
ただそれが眼に見えぬだけに、黙約が結果として破れ、裏切られたものであっても、泣きごとはいえないということか。
彼が選び直した医学の、他に比べての良さは、人間同士を|関《かか》わり合せる医学という方法の結果がいつかやがては、患者が治るか治らぬか、生き延びるか死ぬかという極めてはっきりした形をとるということだ。どんなに巧みに症状を|糊《こ》|塗《と》しても、助からぬものは助からずに死んでしまう。駄目なものは駄目、そして人間はどんなものでも、いつかはどうしようもなく死んでしまうのだし。
医学での人間の関わり方は、彼が以前、彼を一人で故郷から東京へ離れさせたあの出来事で得た、というか悟った人間の世の中の公理のようなものに一番似合った気がした。
馴れ合いや黙約を結局は許さぬ、他に比べて早急な結果の選択を、この方法だけは人間に強いた。
彼があの出来事で悟った公理も、人間の世界が、ひっくり|覆《かえ》して裏を見れば味気ないほど|杜《ず》|撰《さん》ななれ合いで出来上がっているということだった。あの体験で、彼は丁度、医者や周囲が隠していた病の秘密を知ってしまった|癌《がん》の患者のように、急にとにかく何もかもが見えてしまったような気がしたのだ。
家を出、故郷を出ることで、彼はもっと本質的に、住むところを換えたつもりだった。彼が居を換えた世界で学んだものは、いわば|氾《はん》|濫《らん》したなれ合いからの、自分の|遮《しゃ》|断《だん》だった。
その遮断の中で、彼は一人で|昂《たかぶ》ったある|耽《たん》|溺《でき》、ある陶酔のようなものを味わった。しかしそれはそこでかもし出される幻覚の中で彼を他の何の世界に繋げることもしなかった。一人で飲む酒のように。
その孤立の中で彼の得たものが周囲への軽侮や憎しみだろうと、酔いが|醒《さ》めた後の心持はいつも悪く、彼はいっそう|焦《いら》|立《だ》った。酔っている時は他と遮断した自分を|嘯《うそぶ》きながら、醒めて来るとうそ寒く周りを見廻し、自分がいるところを確かめ直そうとするが、その手がかりになるものはいつも何もなかった。
彼は漂っているような自分を感じることがある。そんな自分を据え直した方がいいような気がすることもあるが、そのために、自分以外の何かが介在して来ることを、あの出来事以来彼は自分に強いて嫌わせて来た。かといって、漂っている自分だけを、天動説みたいに信じるほど、自分に確信もなかった。
今、市原を眺めながらも、それじゃお前は何なんだ、と結局自分に肩をすくめるよりない。
が、そんな会話の先を|遮《さえぎ》るような身ぶりで、
「じゃこれ」
市原は胸のポケットから財布をとり出し、約束の翻訳料を、気をもたせるようなゆっくりした手つきでテーブルへ置いた。
治夫も半ばそれを無視したように、丁度待ち人が来て並んでロビーから出ていく、先刻のエレベーターの中の若い外国女とその連れを眺めながら、片手で無雑作にとり上げ数えもせずに|収《しま》い込んだ。
どうやらその小さな勝負は治夫が勝ったようで、市原はたじろいだように彼を見返していた。治夫はふと、先刻一階のホールで見た守衛を思い出した。今まで相手にとって恩恵であった筈の自分の行為が、何故かその意味を|喪《な》くしかけたらしいということの意外さが、市原を不安にさせたようだ。実際、最近頼まれていた外国小説の下訳でまとまった金が入り、治夫の懐ろは久しぶりにうるおってもいた。
|尤《もっと》も、実家が東京の私立の大きな病院で、金を与える相手が東京で一人苦労している|縁《えん》|戚《せき》の人間ということで、仕事の度、市原が治夫に払うものは決して少なくなかった。しかし何より、それが彼の仕事の役に立ってい、そしてその種明かしが仲間内にはもれないという重宝さはあった筈だ。
「じゃ」
そのまま治夫が立ち上がろうとした時、
「あ、君、知っているかい」
市原は微笑し直し、試すように覗き込んだ。
「多津子さんが東京に出て来ているそうだね」
他人名でいわれ、治夫は一瞬それが誰だったかを思い当らずにいた。
「おふくろがですか」
「ああ、五、六日前、母に手紙して来たそうだ」
「どうして」
「さあ」
市原は微笑して見せる。その微笑には含んだようなものがあった。彼がその訳を知っているのが治夫にはわかった。
「一人でですか」
注意深く治夫は訊ねた。
「そうらしい」
与えた問いに生徒が答えのきっかけをつかんだのを見守る教師のように、市原は満足そうに微笑し直した。
それ切り黙った治夫に、また不安を抱いた教師の顔で、答えの暗示を与えるように、
「近い内、母が会うつもりらしい。何か相談のようだ」
市原はいった。
「そうですか」
それだけの彼へ不満そうに、
「居所は、書いてはいなかったが、母は知っているようだ」
治夫の母だった多津子と又|従姉《いとこ》の市原の母親は、昔あった出来事のために親戚筋の中で孤立した多津子と、まだ何かの繋がりがあるようだった。
「いいのかね」
「なにが」
|訊《き》き返した治夫を、一瞬驚いたように、そして|咎《とが》めるように見返すと市原は繕った微笑を浮べ直した。そのちぐはぐな微笑が、相手の偽りの好意と無責任な好奇心を透かして見せた。
「余計なことをいってしまったかな」
「いや。しかし僕には関係のないことですよ」
「君に嫌なことを思い出させてしまったみたいだ」
いった後、嫌なという形容詞が自分に向って使われでもしたように、市原は驚いたような顔で|一寸《ちょっと》赤くなった。
「いいですよ、別に。もう関係ない」
「なるほど、そうだね、いや、そうだよ」
慌てて断定するように彼はいった。
がまた、
「しかし」
いいかけ口をとざすとそれきり気まずく黙り合ったまま市原は、聞いて知っている過去の事件をもう一度思い出し、その時のように、自分が突然殴られるのを|怖《おそ》れたように治夫を見つめ、治夫は治夫で母親が突然一人で東京へ出て来た訳について考えざるを得なかった。
訳は、想像出来そうだった。しかしそれを市原に向って確かめることは自分に許せぬ気がした。
関係ないじゃないか、もう一度確かめるように彼は思った。
多津子の男が東京へ出て来ているのだ。多分彼女はそれを追って来たのだ。或いは男に捨てられ、すがりに来たのかも知れない。
治夫はふと、故郷の隣りの県で、料理屋の仲居をしていたという母親の噂を思い出した。いずれにしても、彼女は年老ったに違いない。しかし、彼は実際には、年老いた母親を想像出来なかった。
様子を|窺《うかが》った後、
「それじゃ」
市原の方で立ち上がった。
「どうも有りがとう。発つまで会えないと思う。それから、今いったこと、余計な口出しかも知れないが、君は矢っ張り今までのままではいかんと思うよ」
思いきった風情でいったが、坐ったまま治夫は頷かずに黙って彼を見上げていた。治夫は自分の視線に気づかなかったが、
「余計なことをいって、悪かったな」
すさるようにしながら弁解するように市原はいった。そんな時彼はひどく小心そうで、明後日初めての外遊に出かける若き病理学者というより、貧しさのために心ならずもやったちっぽけな不正融資の発覚を怖れておののいている銀行員のように見えた。
すると急に治夫は怒鳴るなり殴るなりしてこの男をもっと怖れさせてやりたい衝動にかられた。それは怒りとか憎しみ、というよりもむしろただわずらわしさだった。一刻も早く、この男が眼の前から居なくなればいい、と彼は思った。
立ち去っていく市原を見送らず、椅子に深く坐り直して治夫は天井を仰いで見た。こうして一人になって、居心地のいい椅子に坐りながら今考えればいいことは沢山ありそうな気がした。
ボーイを呼ぼうとふり返ると、ロビーで飲んだ飲みものの払いに手間どっている市原の姿がまだ見えた。もう一度視線が出合い、何か表情を示そうとする相手から先に眼をそらすと、彼は違うボーイがこちらを向くのを待った。待ちながら、彼は、初めての外国行きに乗り込んだ市原の飛行機がどこかの海で墜落するのを想像した。想像は突飛に思えたが、彼は満足した。それはあの男になんとはなく似つかわしいざまに思われ、冗談か皮肉にそんな送別の辞を伝えてやれなかったことに後悔した。
しかし彼は、市原が母親の多津子のことをいい出し、自分に見返されて後悔しおびえたことに満足だった。それは、先刻のあのホールで守衛に対したよりもずっと確かな勝ちのように思えた。
治夫が母親のことをいわれて見せた反応は、彼がそれを今どう感じているかを示す、ということでなく、他人が自分の内側を|覗《のぞ》こうとすることへの遮断だった。
母親の出来事は、それが彼にとって何であったか、ということより、その後彼がどうなったかということに|於《おい》ての方に意味があった。そして、彼自身はその二つを因果で結んで考えまいとして来た。ただ他人がそれを覗いて勝手に判断し、いかにも彼を理解したように彼に向って頷いて見せることが彼には許せなかった。
彼は手を上げボーイを呼んだ。やって来たのは先刻向うの椅子へ注文をとりに来たと同じ男だった。
「ビールをくれ」
治夫はいい、相手は頷く前に市原が立っていって空いた横の椅子を|質《ただ》すように見た。頷きながら、ボーイは先刻のようには微笑まなかった。不都合な出来事をやむなく許すように、頷いた後治夫を見直して引き返していった。
ボーイはすぐに注文を運んで来、ビールをグラスへ注いだ。
「今、払おうか」
「いいえ、後ほどで結構でございます」
いった後、はりつけるような手つきで伝票をテーブルへ置いた。相手が自分を無視してかかろうとしているのがわかり、治夫はわざと大きく頷き、
「有りがとう」といった。
ボーイはむっとしたように顎を引いて頷き立ち去った。
注がれたグラスを手にした時、ふとロビー中の人間が自分を見つめているような気がした。見直したが、誰も見つめてはいなかった。丁度テレビスクリーンで何か残念極まるプレイが映し出されたのか、テレビの前に居並んだ人間たちは、前にかがめていた体を起し、あるものは|絨毯《じゅうたん》の敷かれた床を加減して一つ|蹴《け》り、その後で空いたままだったグラスに新しい中身をふり返って注文していた。
すると彼はまた急に、下宿の部屋で時折突然に感じる、あの水の底に一人沈んでいるような気持に襲われたのだ。いつか、近くの大通りの建築工事で、深夜クレーンで|杭《くい》を打つ音に寝つかれず坐り直した時も同じものを味わった。その騒音が、杭ではなく、水の底に沈んだ自分を上で封じて尚深くとじこめようとするもの音のように響いて感じられ、叫びたい衝動にかられながら、しかしそうすることの無駄を知ってじっと我慢しつづけた。今、叫べば、何かに自分が負けるのだといい聞かせながら。
もう一度辺りを見廻して見る。誰も見つめてはいない。あのボーイすら。誰かに見つめられたいのではない。しかし今急に、別の眼に見えぬ何かの壁が自分の周りを遮って在るのを彼は感じる。その壁の向うとこちらと、一体どちらが非存在なのか。下宿でそう感じながら、自分に問うように、今ここでもそれを知りたいと思う。
奴らだ、俺じゃない、|勿《もち》|論《ろん》奴らだ。
何かを試すように彼は手にしたグラスに口をあてて飲んだ。
ビールは冷たくこまかな発泡は刺すようにして|喉《のど》の奥に消えた。そのひと口が、今日一日外界で自分がどのようなものを体中に負うて過して来たかを改めて|覚《さと》らせた。
注ぎ直した次の一杯は彼を落着かせた。最早、自分を周りから遮って在る眼に見えぬ壁については想わず、彼は今一人でいるこのどこか水の底にじっくり坐り直した。
市原はもうおらず、彼のための仕事もすみ、今彼自身にとっての時間は充分にあるように感じられた。
何から考えようか、グラスを手にしたまま彼は眼をつむり椅子の背に寄りかかり直す。自分が今の瞬間にそう不満ではないのを感じる。厄介な考えごとも、今ならすましておけそうな気持だった。
暑さにひしがれたせいか僅かなアルコールが、他愛ないほど自分を開いてしまうのがわかる。丁度酔いにまかせてやっと男の前で着ているものを脱いで見せる女のように。そして彼は自分にそれを許した。今、ここで誰も彼を見つめているものはいないのだ。
彼は市原が告げた母のことを思った。もう一度想像し直して見、彼は矢張り母が男に捨てられ、それを追って東京へ来たのだ、と思った。|何故《な ぜ》か彼はそう断定した。それが彼女にとって一番残酷な結末だからというのではなく、自分がずっと以前からそれを予期していたような気がする。
彼女が隣りの県のある町で仲居をしている、と誰かから聞かされた時、彼はそれを予期したと思う。
あれはそんな女だ、グラスを手に眼をとじたまま彼は思った。
母親が東京に出て来ているということが、自分にとって何なのかを考えかけて|止《や》めた。顔を合わさぬ限り、二人の間は今までと同じ遠さでしかない。そして、こちらから努めぬ限り、彼が彼女と顔を合わすこともないだろう。多津子が治夫を訪ねて来るということはある筈がなかった。
彼女が今どこで何をしているか。訪ねてやって来た男は果して|捉《つか》まったのかどうか。他人事というには身近だが、しかし母親の身の上というより、むしろ、やや父親が娘を思うように彼はそれを考えた。
他人はそんな心象を何というか知らぬが、彼はそれを自分の母親に対する、未だ残っている子供としての感情などと思わない。時がたって見ると、むしろ在るものは、あの時自分があの出来事をあんな風に解釈してふるまったことで、両親を、特に多津子をあのように追い込んでしまったことへの後ろめたさだった。
七年前治夫は他所で他の男と逢っている母親を踏み込んでいって捉えその顔を蹴りつけて倒したのだ。後になって思うと、そこまでは意図してはいなかったのだが、その時彼女が寝乱れたままおびえて逃れようとした男をかばおうとしたからだったかも知れない。男がどんな顔をしていたか今でも覚えている。
しかしあの時、蹴られて口もとから血を流し起き上がりながら自分を見上げた母親を見た瞬間、彼は相手が自分にとって他人なことをはっきりと感じた、というより覚ったのだ。
家を空けて留守だった父親を捜し当て、彼は手をついて自分の起した一切を話した。父親は|流石《さすが》にそこへ呼びつけていた女を隠してはいたが、それを聞いて思いがけぬほど白い眼で彼を見返し、|暫《しばら》くものをいわなかった。
父親と向い合いながら、彼はつい先刻、母親の眼を見ながら感じたと同じものを覚ったのだ。
自分が何を|目《もく》|論《ろ》んでそれをやったかわからぬながら、そんな行為の内に、彼が漠然と期待していたような劇も|奇《き》|蹟《せき》も起りはしなかった。
多津子はそれきり家へは帰らなかった。間にたつ人間もいたが、その使いに彼女は治夫を理由にもう家へは戻れぬといったそうだ。
戻らなかった母親について、姉や弟は彼を咎めた。父親までがそう見えた。多津子の籍が抜かれた後、父はすぐに違う女を家へ入れた。そのことについても、父は姉と弟には断わったらしいが、彼には何もいわなかった。
家にいながら、ありがたいほど彼は一人とり残され、間もなく家を飛び出し親しかった友人の家へ泊り込んだ。友人の父親が間に入り、父は治夫に金だけ出してよこし、彼は大学の受験に上京しそのまま東京に一人で住んだ。
彼が上京する時、友人の父親が遠廻しに、もし彼があんなことまでしなかったなら、ことはああまで壊れはしなかったろうことを、度を越した潔癖の不徳というような言葉を使って説いたが、彼は遠い感慨でそれを聞いていた。
時には眼をつむってでも|容《い》れるべきものがある、ということを友人の父は説いたのだろうが、治夫にとって、発端となった出来事の発見より、その結果予期せずに覚られた、母親の、或いは父親の、あの|眼《まな》ざしの意味の方が彼にとってはずっと大きなものだった。
それを覚ってしまえば、友人の父の言葉を聞くまでもなく、自分が考えていたことが何もかも思いすごしの誤りだったということがよくわかった。とにかく、彼は人間の世の中というものを、あの出来事で、ひっくり|覆《かえ》して後ろ側から見てしまったのだ。
あの事件の結果が彼に与えたものが何であれ、それを覚ってしまった後、彼には周囲の何もかもが透けて覗けて見えてしまい、その確信こそが他の何よりも彼を強く支えて来た筈だ。
そしてその確信、というより信念が他の並ないろいろの感情を彼から|塞《ふさ》ぎ、彼を、周囲から本質的に遮断したのだ。
東京での一人住いの訳を訊かれて彼は別に誰に隠しだてもせずに来た。そしてそれを知った周囲の人間たちが示すさまざまな反応にも無関心で通したし、彼らが自分に期待する惨めさを僅かももらし示さぬことで、彼らが味わえる筈の同情の優越感を塞いで来た。誰かが示す|憐《れん》|憫《びん》や同情の視線に、彼はあの時母親が自分に向けたと同じ眼ざしを返してやった。その時だけ、彼は母親だった女を身近なものに感じることが出来た。
市原からああ聞かされ、自分が今彼女に関して何を|希《のぞ》んでいるのだろうかを、問いつめるように思って見た。
彼女が母親としてではなく、一人の女として在る、ということの実感が殆どない。実際それは彼には関わらないことだ。彼女の上京の理由を想像しながらも|尚《なお》、それは今現在の彼女についての想像ではなく、七年前のあの時見た一人の女についてでしかない。
あれきり七年間、一度も顔を合わしたことのない多津子だけではなく、実家の父親や姉弟たちもそうだ。仕事に失敗し落ち目になったという家からの仕送りが二年前に絶えたきり、実家はすでに無きに等しかった。
ようやくそれに馴れてしまった頃、身近な人間の口から思いがけず母親の名前が出た。それをどう受けとっていいのか、彼にはもうその習慣がない。しかし、ないからといって矢張りその場で忘れてしまえるほどのものでもない。
治夫は飲み干したグラスに残っているビールをみんな注いだ。液体は余りもせず、足らずでもなく、置いたグラス一杯に|溢《あふ》れかかり、グラスのへりに後一息で溢れかけた小さな泡が真珠の首飾りのミニチュアみたいにきちんと一列に並んで見えた。
眺めながら彼はまたふと満足していた。自分のやり方、生き方のすべてに矢っ張り満足出来るような気分だった。僅か一本のビールの酔いで、突然持ち込まれた母親の、あの女の問題をこんな具合に受けとめていられることに彼は満足だった。今も、要するにいつもの自分のやり口でいけばいいのだ、と思った。
とにかく、あの女のことが一体俺に何をもたらす。俺は何を得られるというのだ、いつもするように彼は考えた。
何もある訳はなかった。彼女が故郷の九州で、誰か年寄りで寡夫の炭坑主でもつかまえて出て来たというのなら話は別だが、彼女が物質的に彼に与えるものをもたず、代りに何か別の関わりで繋がって来ようとするなら、それこそ大昔の勘定書をつきつけられるようなことになる。
この東京のどこかで、もしも出会ったりするようなことがあったら、相手よりも早くあの時あの女が浮べた眼つきで見返してやればいい、彼は思った。すると、このことは結局自分にとってそう大した問題には成らずに終えそうな気がした。
それが当り前だ。たとえブーメランでも、七年前に投げたものが今になってこの手元へ戻って来る訳がない。誰が投げたとか、やったとかいうことではなく、それぞれが自分で身勝手な自分一人の軌道を飛んでいただけの話だ。俺がやった誤りは、その軌道が、親子というだけで一つのものだとか、一つになると思い込んでいたことだ。もとより、彼女を避けて俺が東京を逃げ出すいわれもないし、彼女にしても、出て来た東京に俺がいるということは来るまで思っても見なかったに違いない。それで上等だ。
彼はふと、外のあの暑さの中で、渡ろうとして信号を待つ|交《こう》|叉《さ》点で、向い側に並んだ人間たちの中に彼女を見た時のことを想像しかけて止めた。それは、暑さを想うだけではなく、胸の悪くなるような想像だった。
忘れようとして彼は最後のグラスを半分飲んだ。しかし何故か|執《しつ》|拗《よう》に、今想い浮べたイメイジはつきまとって離れなかった。
先刻、交叉点で背中と胸の触れたあの中年の男のように、季節外れの着物を着、暑さに胸をすこしはだけ裾を乱しながら、うだった歩道を傘もささずに立っている母親。何故だか彼女は汚れた|割《かっ》|烹《ぽう》|着《ぎ》を着ているような気がする。
それを追い払うようにさっきしかけた別の想像をして見る。誰か金持と結ばれて東京へ出て来た多津子。交叉点に立っている彼の前を、彼女を乗せた車が通る。彼女は男と一緒に、或いは一人で坐っている。ふと見上げ、立っている彼と視線が合う。彼がするよりも早く、彼女の方が、七年前のあの時と同じ視線を返す。
この想像は彼の気持を少し救いはしたが、彼は自分でそれを打ち消した。そんな風に想って見て彼が憤る気にもならぬのは、あの女に限ってそんなことは絶対にあり得ない、といえるからだ。彼はそう信じた。まだ残っている親と子の近しさで、ということかも知れないが、彼女のためにそう信じた。
しかしまた、彼は別の違う想像をして見る。前よりは少し落ちるが、少し現実性のありそうな。彼女が今、東京で、何をしているか。
残ったビールを少しずつ口にふくみながら、詰め将棋のように彼は考えた。そして段々彼の持ち駒が減っていった。
最後に彼は突然ふと、多津子とは全く違うある女を思い出した。年齢は多津子より上で、もう五十をとうに越しているだろう。彼女もいつも割烹着を着ていた。
彼が時々使う中野の連れ込み宿の女中とも仲居とも|女将《おかみ》とも知れぬ女だ。彼女はいつか宿の主人みたいなことをいったが、彼女が女将でないのはいつの間にか知れてわかった。他に若い女中が三人いたが、客の出迎え、勘定はみんなその女がやっていた。
やって来る客の数は多いのだろうが、彼女はすぐに治夫の顔を覚えた。
いつだったか、何かで女が宿から先に帰った時、彼女はやって来、丁度|他所《よ そ》が暇だったのか彼に入れ直した茶を運んで来、部屋へ坐って話しこんだ。
若い人はいい、という風な、誰でもがいいそうなことを彼女もいったが、どういう訳かその日、僅かだが部屋代を負けてくれた。以来、彼が連れていく女が変る度、必ず彼女は部屋代を負けた。
日頃に似ず、連れ込んで見たらそれが初めてだった女の時、出がけに釣りを返しながら、女には聞えぬように小声で、「罪だよ」とけしかけるように|囁《ささや》いたりした。彼女には、連れの女に今夜起ったことが初めてなのがとうに知れている様子だった。廊下ですれ違った時など、彼女はその夜の相手を以前の違う相手と比べてきわどい冗談をいったりもした。
友情と呼んでいいかどうか知らぬが、彼にとって負担にならぬ互いの気安さが彼女との間に生れていた。
治夫には、自分が違う女を連れていく度、何故かは知らぬが、とにかく、彼女がそれを歓んでいるように思えた。女やその親から何か尻を持ちこまれた時、彼はいつも冷淡にそれをつき放して来た。勿論、そんないきさつについて、彼女に何も|報《しら》せはしなかったが、最後の時には彼女に相談出来そうな気がした。尤も、一度もそんなことにはならなかったが。
その女が自分に何かを|賭《か》けていたような気もする。いずれにしろ、彼女にとって彼はただの客以外の何かだったに違いない。先に来て宿で女を待ったりする時、彼女は彼に最初女をここへ連れ込む時何と誘うのかなどと訊ねたりした。彼が隠さずに話すと声をたてて笑い、
「馬鹿だねえ、女はすぐに自分の損得がわからなくなるから全く馬鹿だ」
などといった。
彼は何故かその言葉を、というよりそういった彼女をよく覚えている。その時、彼女が以前何をし、何があり、どうしてここにいるのかを訊ねようと思ったが、丁度、待っていた女が来た。訊いても、多分話しはしなかったろうが。
そして彼女は、突然その宿屋からいなくなった。若い女中たちに訊いても、彼女がどこから来たのか、どこにいったか、何でやめたのかもわからなかった。
女がやめる前、一度、街で彼女に会ったことがある。新宿の駅前の横断歩道で、信号を待つ間、通りの向い側に立っている彼女を見た。連れだろうか若い背広の男が側に並んで立っていた。ネクタイをせず、学生とも、勤め人とも見えたが、待つ間、男は前を向いたまま一度だけ女に|頷《うなず》いて見せた。女は話しているように見えず、何故か放心したような顔で、変ろうとしている信号よりもっと遠く高いどこかを一心に見つめて見えた。いき違う時、声をかけようかと思っている内、女は気づかずに通りすぎていった。宿で後から聞いて、彼女がいなくなったのは治夫が街で彼女を見てから一週間もたたぬ頃の筈だった。
あの女に関して知っているだけのことを繋ぎ合わしても、ある人間ならそれ以上の何かを想像出来たろうが、治夫にはそれきりしか、彼女のイメイジが出来上がって来ない。しかし彼女は確かに、彼女だけの世界のようなものを持っていた。治夫を同類項と思ってかどうか、そこから彼女は彼に触れて来ようとしたが、結局、二人の仲はそれだけだった。しかし何故今、自分が最後にあの女のことを思い出したのだろうか、と思った。或いは、街で彼女と一緒に見た若い男のせいでか。二人の年の開きは彼と多津子以上にあった。彼にとって多津子は比較的若い母親だったが。
多津子が以前していた仲居という商売の連想か。
いや、そんなことはどうでもいい。
いずれにしても、東京での彼女があの女より程度の悪い状況にいるということは充分にあるだろうし、彼女がそんなところに働いてい、彼がそこへ泊りにいき、そのせいで彼女が逃げ出すというようなことも、或いはあの若い男のような相手が出来て、店の金をつかんで駈け落ちするということが、多津子にもあるかも知れない。
確かに以前は母親だったあの女について、一体何を想像したら俺は満足し、納得するというのだろう。納得したところで、それが俺に何をもたらす。俺は今、あの女がこの東京に来ているということで、何を損われることも困ることもない、打ち切るように彼は思った。
残ったビールを飲み終り、彼は煙草を出してくわえた。ロビーを廻っていた掃除婦がやって来、テーブルの側にあった灰皿を掃除し、火をつけた後のマッチ棒を彼が捨てるのをじっと立って待ち、捨てたマッチをほどこしを受けたように礼をしてつまみ容器に入れて運び去った。下のホールの守衛と違い、白い頭巾をかぶり、灰色のおしきせの作業衣を着た彼女はとっくに何かをあきらめたように、眼の前にいる客を識別もせず、うつ向いたまま彼に向ってまで頭を下げてすぎた。
この女は多分、外のあの暑さの中に出た方がもっと人間らしく見えるだろう。
ふと、今の掃除婦がもし彼女だったらどうしただろうかと思った。その想像は一寸の間彼を楽しませた。
多分、俺は彼女と見合ったままわざとゆっくり煙草に火をつけ、マッチ棒と、一本だけ残っているこの煙草の箱をそのまま丸めて灰皿ではなく、彼女のもった箱の中にじかに|放《ほう》り込んでやるだろう。これを捨てるから、一寸蓋を開けろという仕草で、何もいわずに。
「お代りをお持ちいたしましょうか」
通りかかったボーイが|訊《たず》ね、
「いや、いい」
ひどく快活に彼は答えた。
何だろうと、起ったことは、飲んでしまった酒と同じだ。どんな風に酔ったにしろ、もう酔いは醒めかけている。この酒の勘定書はすんだ。もう俺には関係がない。
勘定書の下に書き込まれたサービス料と、その下の欄の数字を眺め、よろしい、結構だ、彼は思った。市原がいい出したことについて、俺が今ここで自分に確かめ直したことへの税金としたら安いものだ。
坐り心地のいい椅子の中で、彼は腰をずらして深く坐り直し、寝そべるように|肢《あし》を一杯にのばして見た。
そうしていると、酔いではなく、今飲み終えたビールのアルコールが体の中の奥を|芯《しん》の方から暖め、活発な新しい何かを補っているのを彼は感じた。
向う側のテレビの試合は終ったらしく、観客たちは体を起し、あるものは立ち上がったがそのまま立ちさるではなく、他にいく当てもないように、これから先の時間が、にわかに心もとなく不安気に周りを見廻し、近くの他の椅子に坐り直す。どの顔も、今まで眺め入っていたものに、満たされた様子も、さりとて、|甚《はなは》だ不満だったという様子もなかった。
奴らには何も起らなかった。俺にも何も起らなかった。奴らは関わりない。俺とは関わりない。
治夫はそんな人間たちを見捨てるようにして立ち上がった。今日に残された、これからの時間が、自分にとってはそう悪いものではないような予感があった。一本のビールが、今は、彼をそんな気分にさせてくれた。
他の客に真似て、治夫はボーイがテーブルに張りつけていった伝票を手にし、バーの横のレジスターへ歩いていった。レジにいたボーイは先刻のボーイより年かさの男で、彼は見事なほどの無表情で伝票と金を受けとり、スタンプし釣りと一緒に返して寄こす。その後で、戻って来た先刻のボーイが、その男を真似たように、彼に関してはもう自分に関わりはないといった顔で横を向いていた。伝票を手にし治夫が|踵《きびす》を返す時、二人は彼でない他の誰かにいうような、焦点の決らぬ声で礼をいった。
エレベーターは丁度いったばかりでなかなかやって来なかった。待つ間、彼の右左に他の客があつまりだす。左側のは、先刻エレベーターの中で見た|雀《そば》|斑《かす》の女によく似た、彼女より、少し若い外国女で、白い上着に白いネクタイをした若い男とより添っている。辺りに客が混んで来ると、男は他の人間たちから女をかばうようにしっかりと腕をとり女も彼に寄り添っている。二人は三つ並んだ中で、自分たちの立った左側の扉が最初に開くと信じ込んだように、みんなに背を向けるようにして立っていた。しかしエレベーターは治夫の立っていた真ん中に止り、重なって乗り込んだ乗客の最後から、二人はあきらめながら尚、何かを警戒するような眼つきで乗り込んで来た。狭い箱の中でも、男は懸命に連れを護ろうとするように、|蔽《おお》うように彼女を隅へ押し込みみんなへ背を向けた。そして、その蔭から覗いて見える女の眼には、何故だか、何に向ってか知らぬが、敵意のようなものがあった。
下りていく先がどこだと思っているんだ、治夫は思った。
一階で人波にのって吐き出されるようにして下りた。下りてから治夫は英子を思い出した。六時に非番になるといっていたが後一時間近くある。
他に用はないが、彼女のために一時間待つことは考えてはいなかった。
しかし彼は辺りを見廻し、横手の地階に下りる階段を下りた。英子のため、というより、正面のガラス|扉《ど》一枚開けて出ていった外気の暑さを彼は考えた。それに、或いは彼女は今また体が空いているかも知れない。もう一度英子に会いたいというのではなく、ただ、このまま彼女と言葉を交わさずに出ていってしまうのは出会いの偶然にしては|呆《あ》っ|気《け》なさすぎる気もする。下りていく階段の途中で治夫は立ち止り考えた。ただ懐かしさか。しかし、彼女以外の、同郷の知人に会ってもそう感じる訳はない。今まで、街でそんな相手を認めたこともある。しかし声をかけなかったし、相手が気づいて自分を認めそうになる前にわずらわしくて顔をそらした。
声をかけたのは英子の方からだったが、ふり向いた後、気安く話し合えたのは、結局、相手が英子だったからだろう。一種同族同士の心やすさということか。
治夫はつづいて階段を下りた。地下一階に下りるのに、幅広い階段はゆるい|勾《こう》|配《ばい》で三重に曲りひどく長い。治夫は今自分が他人と会いにいくのに、別にどう身構えてもいないのを感じる。いつもはこんなことはない。誰でも他人に会うのは、いつもわずらわしい。学校や医局で日常顔合わせている相手でもそうだった。
久しぶりに自分が相手に何かを期待しているような気さえする。それがもし、懐かしさなら、それもそう悪いものではないと彼は思った。
が、じきにまた彼は自戒した。要するにただあの女に、井沢英子に会いにいくだけじゃないか、と。
英子は先刻出て来た喫茶店にも、本屋の前にもいなかった。
本屋の前の、アーケイドの裏通りの細い廊下の奥に青赤の|飴《あめ》ん棒の看板が廻っていた。広いガラス窓にバーバー・コンチネンタルと金文字のアルファベットで記してある。どこの高級ホテルにもある、選んだ客相手の高級理髪店だ。
窓際の待合室に、日本人とも外国人ともつかぬ男が一人坐っている。仕上がったばかりの頭から見ると、中にいる連れを待っているのだろう。男は前かがみに外国のグラビア雑誌を拡げて眺めながら時々気にしたように頭の横に手をやる。どんな趣味か知らぬがこの陽気に油のつけすぎだ。
大きな植木鉢の|棕《しゅ》|櫚《ろ》とついたてに仕切られた奥に椅子が並んでいる。窓から中は見えず、入口から覗き直すと一番奥に英子が見えた。中身をあけた何か空の容器を手にしてこちらへ来かかり、洗いが足りなかったように眉をひそめ手にしたものを天井の明りにすかして拭い直した。
子供っぽい半袖のおしきせの腕を上げ、口をとがらした様子は、彼女なりに一生懸命働いているように見える。そしてそんな彼女は、なかなか可愛らしく、ふと子供っぽくも見えた。
そこから声をかけていいかどうかわからずにいた時、英子の前のついたてに隠れた椅子の側から、さっき見た大柄な店の主人が出て来た。彼と英子は殆ど同時に、戸口に立った治夫に気づいた。
英子は嬉しそうに、さっき会ったのにまだ少し懐かしそうに笑いかけた。
男の方は、どういう訳か一瞬立ちすくんだように、有り得べからざるものが自分の眼の前に現われたという眼で彼を見直した。治夫の方が、知らぬ間に自分の背に羽根が生えでもしたかと後ろめたくなるほどの眼つきだ。
相手は不安そうな顔になり、次の瞬間はっきりと、不快そうに治夫を見直した。確かに、彼は断わりなく男の店の敷居を半歩またいで立ってはいたが、銀行に犬が預金を下ろしに来るほど場外れてはいなかった。少なくとも、客の足元の床で彼らの靴を磨いている、店の専属らしい、ジーンズとポロシャツの少年よりは彼の方が客らしくは見える。
男の眼には|顕《あき》らかに敵意がある。しかしそれは、ホテルのロビーのあのボーイとは少し違ったもののような気がした。誰が通ってもいい廊下に立っていた彼を、男はさっきも同じような眼で見た。
丁度その時、男の横の椅子から散髪を終えた、彼よりも背の高い白人が立ち上がった。そこに待ってろというように治夫に眼を走らせると、男は客に道を開けて低頭し、気がめいるほど全く日本人らしい英語で礼をいった。
その後、男が塞ぐように治夫に向って胸をそらせようとした時、彼は黙って店へ踏み込んだ。その瞬間、彼はたった今決めた思いつきで、前半をリードし後半の試合に臨むスポーツ選手のように快活で自信があった。
英子に向って、
「マニキュアしてくれる」
治夫はいった。
いったことの意味は、英子より早く男に伝わったようだったが、治夫は無視した。
瞬きし見直した後、英子は歯を見せて笑い彼の|悪《いた》|戯《ずら》にはっきり加担していた。
彼と同じように英子も男を無視し、治夫を促すと、店の真ん中のマニキュアテーブルに坐らせた。他の客のように頭を刈られながらするのと違って、マニキュアだけの仕事は、二人が同じ高さの椅子に腰かけ、小さなテーブルをはさんで向い合う。相手の手を握ってとるのは女の方だが、二人の姿勢は、街のそこら中にある薄暗い喫茶店で若い男と女同士がするのと殆ど同じことになる。
ニッパーで手際よく右手の爪を切って、クレゾール入りの|石《せっ》|鹸《けん》|水《すい》にひたすまで、英子は治夫の|企《たくら》みを意識し、二人を見つめている男を心得て、わざとものをいわなかった。
左手の爪を切り終えた時、両手でそれを握ったまま、顔を伏せるようにし英子は忍び笑いし出した。ふり向いて見た治夫に、戸口を出ていく男の幅広い後背が見えた。
治夫がいう前に、
「|厭《いや》な奴」
子供っぽく顔をしかめて見せた。そんな様子はあの男に|楯《たて》つくのに馴れているようにも見える。
「しかし、あんなに|睨《にら》みつけられるほど、僕は場違いかね。たまにはこんな|贅《ぜい》|沢《たく》もいいだろう」
「あら、そんなに高いものじゃないのよ」
英子は咎めるようにいった。
それ切り治夫は何となく黙った。はずみで思い立ちここまで店へ入り込んで来たが、この後のことは英子まかせでしかなかった。勤めだけに、英子はものもいわず一生懸命に仕事している。時折、癖のように口をすぼめ、大切なものを扱うように握った指をそっと持ち直すと真剣な眼で爪の根元の甘皮を細く巧みに切っていく。
指一本を彼女の手に握られただけで、治夫は不思議に何もかも預けたような気分になった。うつ向いたまま眉をひそめ、口をすぼめる英子を見下ろしながら、自分の知っている昔の彼女にそんな癖があったかどうかを考えた。
「あら。夏なのにさか|剥《む》けがある。親不孝しているのね」
突然、顔を上げて覗く。何故だか、ひどく説得力のある口調だ。いわれるまま一瞬、治夫は、親の所在を忘れて、ふとそんな気になった。それは、親という言葉の意味に|関《かか》わりなく、忘れていた昔を思い出させるようで、悪い気持ではなかった。
「指が奇麗じゃないわね。さか剥けでもこんなにしておくと怖いのよ、|黴《ばい》|菌《きん》が入ると。だから外国人は神経質よ」
いって気がつき、
「あら、あなたお医者さんなのにね」
一人で笑い出した。
が、笑い声を急に止めると肩をすくめる。店の主人が戻って来た。英子のそんな様子は、男を嫌いというだけではなく、何かに遠慮気がねしているようにも見える。
治夫はふり返り、彼を見てみた。さっきと同じ視線が返り、男はすぐに横を向いた。怒るというよりいらいらしながら耐えている顔だ。
治夫はもう一度英子を見直して見る。彼女は最後の小指の甘皮を切っている。二人は治夫をはさんで、平行に横を向いている。
小指の甘皮を切り終え、|鋏《はさみ》を机に置きながら、英子はうつ向いたまま男の方を見た。見た、というより、伏せた眼のまつ毛だけがちらと男の方に動いた。
その瞬間、治夫は理解したと思った。ひどく簡単なことがらだった。それで何もかもが解ける。確かめるように男を捜して見つめた治夫を、相手は、彼がそう気づいたことを感じたように、また、咎める眼で見返して来た。男は、不安で、不快で、焦って上気した血がそのまま|淀《よど》んで濁ったように、陽焼けした肌の色とは関係なく、どす黒い顔をしていた。
急に、男が小さく見える。治夫は、胸の中で立ち上がり爪先だって彼を見下ろした。なんだ、そんなことだったのか。それにしてもなんだその眼は。
英子はこの男の情婦なのだ。どれ程の間かは知らぬがとにかく男は英子と寝ている。英子がどんなつもりでそうしたかは知らないが、男の方が彼女にまいっている、少なくとも、今はまだ執着はある。英子はここで働いているし、二人の間が物質的にどんなものかは知らぬが、彼女はとうからこの男に不満なのだ。要するに、割に合わなかったか、或いは、二人だけのことで男が彼女にとってもの足りぬのか、英子の方は男の執着にうんざりしている。そうに違いない。
治夫は英子を見直して見た。男はまだ彼を見つめていたが、彼女は横を向いている。治夫は一人で|微笑《わ ら》った。
男がそんな自分を見つめているのがわかる。ますますいらいらし、不安になりながら。
微笑いを収めて、もう一度男をふり返って見る。思った通り、男は見まいとしながらもこちらを見ている。慌てて眼をそらし、横で仕事をしている店員を何かで咎めた。注意された店員は不服そうに男を見返す。男はひどく惨めに見えた。彼自身も自分を惨めに感じているに違いない。
男の方を見たままの彼に気づいて英子が指を引いて戻す。顔を見合せると、彼女はさっきと同じ、共犯者の笑顔をして見せた。笑い返しながら、治夫は男から彼の情婦を盗んでやる決心をした。そう思いたった後になって、この役割は、さっき廊下で三人で出会った時からすでに決っていたように思えた。
トリムを終え、英子は指と手の甲にクリームを塗り出した。握られた彼女の掌の内で指を一杯にのばしながら、顔を近づけ、
「今晩、どこかで御飯食べない」
治夫はいった。
「いいわ。私もそういおうかと思ってたの」
英子は微笑して頷いた。
彼のたった今の決心を察したように、その笑顔には今まで見せなかったコケットリイがあった。
男もそれをはっきりと見とどけたのを治夫は感じた。
クリームを塗った指を、英子は包むようにして|揉《も》み始める。男がゆっくりと彼の背を過ぎる。男にして見ると、手で包まれ触れられているのは英子の方に見えるだろう。
自分の内に今、全く、男に対する反感や憤りが消えてしまっているのを治夫は感じる。代りに、すでにとげてしまった情事の相手の、寝取られた亭主に対するような、たとえ相手に通じなくても、一方的だが男同士だけにある、後ろめたさをこめた憐憫の友情さえ感じそうだ。
一年ほど前、近くの薬屋の若い細君と通じたことがある。そんな商売のくせに病弱な亭主に代っていつも店に出ている大柄で派手な顔つきの女だった。常用している睡眠薬を買いにいく度、彼が医学生ということで薬についての雑談を、亭主を交えてしている内に近くなり、亭主が専属製薬会社の招待で旅行にいっている間に出来上がった。誘った通り、夜、女は急の配達に見せて、亭主に代りスクーターに乗って彼の部屋までやって来た。
その後、風邪で寝込んだ彼のところへ、亭主は女房と同じようにスクーターで頼んだ氷枕を持って来、上がり込んで枕まで作ってくれた。その時、彼は後ろめたい友情で、心から礼をいった。そこから引っ越した後で聞いた話だが、その男は暫くし、自殺したそうだ。理由はわからない。この頃薬はへらしたが、それでも時折睡眠薬をとり出して使う度、治夫はあの男の作ってくれた氷枕のごわごわして芯の冷たい、うなじへの感触を思い出す。
マッサージし終えた指を英子は蒸したタオルで包み、子供でもとり上げるように眼の前へ高く持ち上げてクリームを拭きとる。そのはずみに半袖の白いおしきせの袖の奥の二の腕が|覗《のぞ》けて見える。治夫は確かめるようにそれを見直した。
突然眼の前に、|嘗《かつ》て何年か前、少年だった彼を|苛《さいな》んだ井沢英子が、嘗てのいつよりも間近に在った。彼は、彼女の手にはめられ肉に食いこんだゴム輪の作る|窪《くぼ》みを見つめた。それは、薄く短い白衣の下に隠された、彼女の肉体の他のすべての部分を連想させ、感じさせた。彼の右手をさすっている英子の白くはずみありそうな腕の、窪んだ細いゴム輪の肉のひだは、それ自体がしめって|艶《つや》やかに、それを見つめるだけで、同じように湿潤に違いない彼女の脇や乳房や他の秘密の部分を想像させた。
昔、親友の誰かが|噂《うわさ》していた、そしてそのために幾夜となく苛まれて苦しんだ、手をついて頼めば許してすべてを開き迎え入れてくれるかも知れぬという英子の熱い伝説が、ゴム輪で刻まれた肌の窪みの中に鮮やかに|蘇《よみがえ》って感じられた。治夫は今はっきりと、眼の前の英子を懐かしいものに感じた。
嘗ての思い出が、自分の気づかぬまま体の奥に残ってい、そのすべてが今また熱く蘇って来る。握られているまま、その手で彼女を握り返してやりたい衝動を彼はこらえた。
それに気づいたように、英子は眼を上げ黙って|微笑《ほほえ》み返す。その微笑は、彼女自身が自分の、昔の伝説を治夫に向って|証《あか》そうとしているようにも見えた。
再び手元の作業に眼を落してうつ向く彼女の、少しほつれた髪のかかったうなじから、丸首のゆるいカラーの下に落ち込み、僅か肩に覗けて見える肌へ眼を移しながら、治夫はその下ずっと奥の彼女の体の部分をさぐり感じようとして見た。それは簡単に出来た。ただ見つめるだけで治夫は彼女を|剥《は》いで|晒《さら》し出し、触れることが出来るような気がした。
そして彼女が自分に何を与えることが出来、それが、どのように湿って熱く、どのようになめらかで心地いいものかも感じることが出来た。それは、彼女が今手にした熱いタオルで包み拭いながら揉み上げ押しつけて来る指と指との感触の中に、凝縮され確かなものとして予知することが出来た。彼は、静かに、|秘《ひそ》かに興奮しかけた。
感じているものを、現実に自分の手にすることの期待に、それを覚られまいと彼は身を固くし、もう一度ふり返りあの男を眺めて見た。
男はあい変らず小さくしか見えず、何かをこらえるような横顔で店員の側から椅子の客の頭に向ってドライヤーをかざしている。
間違いなく、男は英子にひどくまいっているのだ。彼の、英子に対する執着は彼自身にどうにもならぬほど大きくて、そのことが彼をことあるごとに|焦《いら》だたせ、不安にするに違いない。男は今にも、せめて横眼ででも、治夫たちを眺めたそうに見える。そして、彼はそのことに耐えている。耐えることで多分、やっとこの店の主人としての|矜持《きょうじ》をとり戻しているのかも知れない。しかしいずれにしろ、それは、彼がこの店で持っている秩序や自信と全く関わりないものに自分を奪われた、一人の迷える中年男の横顔だ。治夫には、この見知らぬ男の内側の何もかもがみんな覗けて見えるような気がした。
俺は多分、この井沢英子をものにするだろう。突然、彼はひどく愉快になった。
確かめるようにもう一度彼女のうなじから肩、そして|糊《のり》のきいたおしきせの下に感じられる、多分、充分な容積のある胸と乳房、そして、手元のゴム輪のひだを眺め直して見る。そのどれもが、彼の考えていることがらを不可能にするということは有りそうに思えない。
これは間違いなく井沢英子だ。俺はあの男よりもずっとずっと前から、この女を知っていた。そして、彼女も俺を。
ある権利主張を彼は自分に説いた。あの男は勝手に割り込んで来ただけだ。
治夫はふと、昔学校で英子が、制服の胸の前を許容すれすれまで開きながら、その胸全体がひどく鳩胸だったのを思い出した。
タオルで拭い終えると、英子は立ち上がっていき、奥の化粧品を載せたワゴンから薄い紅色をしたクリームを指ですくって戻り、治夫の指に少しずつつけると、裏皮を張った細いポリシャーで一本一本の指を手にとって磨き出した。一本が終り、次に移る時、彼女は指をかざすようにして持ち上げすかして見る。
右手の薬指まで来た時、
「ここ、後もう僅かだろう」
治夫は|訊《き》いた。
時計を見上げ、
「そうね、どこで待っていてくれる」
|躊躇《ちゅうちょ》せず英子はいった。
「君は、お酒を飲むだろう」
答えず英子は黙って笑う。
「じゃ、六時十分に、ニュートーキョーの表口で待っている」
「いいわ」
英子はもう一度笑って見せ、小指を終ると、左手をとり直した。とり直した後、英子はポリシャーを持った手で、ほつれてさがった髪の毛をかき上げながら更にもう一度笑い直した。彼はますます英子を間近いものに感じた。
自分の|希《のぞ》んでいるものを手に入れるための、今夜の手順について彼は考えかけた。しかし、|何故《な ぜ》かそれが面倒臭く、いつものように綿密にはなれず、彼は前に寝たことのある、その後久しぶりにあった女を眺めるように、英子を眺め直した。
彼女が最後の指を終ろうとした時、突然、背後で甲高い、何ともいえぬ奇妙な叫び声を聞いた。狂った人間のような声だ。一瞬、あの男が、と思って思わず振り返った。男はドライヤーを|収《しま》いかけている。
「隣りのビューティサロンにいる九官鳥よ」
英子は笑って教えた。
「真似が|旨《うま》いのよ。店に来るフィリッピンがよくからかって、その真似までするわ」
「すると、今のが地声という訳か」
「はい、終ったわ」
英子は最後の指を握ったまま頷いた。この作業は終ったが、しかし、という注釈つきの挨拶だった。
治夫は立ち上がり英子も立ち上がった。あの男は、ドライヤーのコードを巻きながら、ちらっと横目で彼を見たまま通りすぎ、手にしたものを奥の戸棚に収いにいった。
英子は入口脇のレジスターに自分で入っていき、「五百円よ」と告げ、治夫のさし出した千円札に、店中に聞えるように勢いよくレジスターのバーを叩いて箱を開けると釣銭をとり出した。
店の奥であの男が見守ってい、治夫はそれを感じ、英子もそれを感じているのがわかった。
「どうも有りがとう」
奥の男に見せつけるように、首を|傾《かし》げて笑いかけると、英子はとり出した札を丁寧にのばすようにして置いた。手渡し、受けとる動作の中に、二人が同じたくらみをしめし合せているときめきのようなものがあった。
出ていく治夫に、
「またね」
と英子はいった。治夫には、彼女がそれを自分よりも、中にいるあの男に向ってかけているのがわかった。この先旨く誘えば、今夜でも、英子は寝るだろう、と彼は思った。
後をふり返らずに店を出た彼の後ろで、隣りの店の九官鳥がまたけたたましい声で|啼《な》いた。すると彼は突然、自分を見送っている筈のあの男に、|嫌《けん》|悪《お》を感じた。それは、英子のこととは全く関わりなく、満員の地下鉄の中ですぐ隣りの人間に感じる、故の知れぬあの|侮《ぶ》|蔑《べつ》をこめた感慨だった。
廻り道し、時間通りに約束の場所に立ったが英子はまだやって来ていなかった。彼女の仕事場からここまで、着換えの時間を入れても十分はかかるまいが、治夫には彼女が遅れている訳がわかった。多分、あの男だ。
治夫は戸口で立ったまま待った。日盛りはすぎたとはいえ、まだ陽が沈み切らぬこの時刻では、暑さのいきりは日中と殆ど変らずに残っている。間近い車道で混み合い立往生する車の甲羅はまだ焼けてい、車だけではなく、側を通りすぎる人間の体にも、日中の暑さのいきりが残っている。
飽和に近く湿った大気は太陽に熱され沸騰したまま冷えようとはせず、他のどこへ動こうともしていない。
動かずに立っていると、自分がこの熟れて腐りきった大気の|檻《おり》に|捉《とら》えられたままどうにも逃れられないのがわかる。少しずつ、全身の肌が侵され汗になって溶け出す。しかしどういう訳か、マニキュアしたばかりの指の先だけが軽いような感触で、そこだけ涼しかった。
治夫の周りにも、同じように誰かを待っている人間が何人もいる。彼らは、来るのか来ぬのかわからぬ相手を、それが残された最後の|術《すべ》でもあるかのように、半ばあきらめたような顔で、額や、|襟《えり》や、肩の辺りに自ずと|湧《わ》き出て来る汗を時々拭い、静かに|喘《あえ》ぎながらじっと動かずに待っている。丁度、汚れて淀んだ|水《すい》|槽《そう》の底にいる魚のようだ。
その内の誰かにやっと待人がやって来ても、歓声もなければ大した笑顔もない。この水槽の中では、選ばれた二人などというロマンチックな幻想はとっくに|溺《おぼ》れて死んでしまっている。やっと相手の現われた二人連れも、眼の前を手をとって過ぎる人間たちも、どれを眺めても情欲的ですらない。水槽の中の疲れ果てた回遊魚といったところだ。
英子は二十分近く遅れてやって来た。それでも、立っている彼が見えた交叉点の渡り口から彼女は駈け出して来た。
笑って、
「待った」
訊いた後、いい訳のように一人で顔をしかめて見せる。遅刻の理由は治夫の思った通りだろう。彼はただ黙って頷いた。
「よかったわ、待っていてくれて」
英子ははしゃいだ声でいい、笑って見せた。その笑顔は、辺りのどんよりよどんだ|雰《ふん》|囲《い》|気《き》になじまず、ひどく新鮮に見えた。治夫の横で同じように待っている人間が、たじろいで二人を見直したほどだ。治夫は、今までそこに立っていた自分をそれで許した。
英子は青と薄い桃色のプリントのワンピースに着換えている。洋服の柄も仕立ても彼女に少し若すぎる、というより、|一寸《ちょっと》似合わない。そういえば英子自身の印象がいつも、その年齢に似合っているかどうか。
その洋服は、彼女には少しあどけなさすぎ、それがかえって一層コケティッシュに見え、少なくとも他人が、この女は一体何だろうと|詮《せん》|索《さく》したがるようには見える。それならば成功ということか。とにかく、あの白いおしきせ以上に、彼女は一人前以上に成熟した女に見えた。
冷房のかろうじて効いた室内は、どこもみんな満員だった。一階では客たちはジョッキを手にしながら立って待っていた。
建物の裏側の地下のホールで、丁度客が立ち、相席で坐ることが出来た。前からいる五、六人の相客はみんな男だ。三十前から四十がらみまで、同じ会社の勤め人か。彼らは、坐れて、運良くすぐに運ばれたジョッキを手にする眼の前の二人を|咎《とが》めるように眺めた。その後、男たちは英子だけを、何かを探り値踏みするような眼でぶしつけに眺め渡す。
気づかぬのか、馴れているのか、英子は知らぬ顔で手にしたジョッキに眼を細めながら口をつけ、治夫に向って頷いて見せた。
男たちの眼は、彼女の唇から飲みこまれたものが、体の内を伝わっていくままにその眼で彼女を裸にして眺めていた。多分、その視線は胃の|腑《ふ》だけではとどまらず、もっと露骨にその行方を追っているのだろう。
あのむれてよどんだ大気から逃れ、ともかくも少しは乾いて低目の気温と、少量のアルコールさえ体に入れば、人間はどうやらその知覚をとり戻し、更にアルコールが加われば、日中忘れていた夜のための感覚を蘇らせることが出来るようだ。
どんな話か知らぬが、今までしていた会話を|止《や》め、眼の前に坐った一人の女を眺める男たちの視線は、相手を知らぬだけに、そして、彼らが多人数でいるだけに、あざとく情欲的に好奇だった。
手にしていたジョッキを一度テーブルに下ろし、英子が治夫に何かいったはずみに、男たちは改めて、連れの彼を見る。
注がれる視線の底にあるものを治夫は感じる。英子も感じている。彼らのあるものは、その眼の奥で、眼の前の英子と治夫とを交り合せている。
で、治夫は渇きが収まるにつれ、彼らに代って英子を見直し、彼らの代りに英子について想像して見た。
治夫が彼女に答えて何かいうと、あるものは投げたように視線をそらせ、仲間に向き直る。しかし、他の或るものは、自分を忘れたように|尚《なお》執拗に英子を見、治夫を見ていた。
その眼に、治夫はいってやりたいのをこらえた。
「少なくともお前らは今夜、この女とは寝られない」
男たちは驚き、或いは怒り、彼を殴るだろうか。
彼らの眼の前に坐っているのは、わずらわしいがそう不愉快ではない。男が、女を他の男たちの前で連れているというのは、悪いものではない。優位、というのはもともと、そこから発した観念ではないのか。
まして、その連れが他の男から奪って盗み出したものだとしたら尚。
治夫は、彼らに代って英子を眺めつづけた。彼女は笑って|頷《うなず》いて見せる。
確かに彼女は他の女よりも他の男たちの眼を|惹《ひ》く。太りじしな|顎《あご》も、唇も、首も、肩も、手も。それは男たちに同じことを想像させる。こうして見ると、英子は以前以上、はるかに井沢英子らしかった。
見直して見たが、手首にとめられてあったゴム輪は外されてい、跡だけが薄く残っていた。それは彼に、下着をとり去った後の、彼女のその部分の肌を、そして彼女全体を、そして、彼がいきつくべき彼女の部分を想像させた。
それに感づいたように、彼女はまた微笑する。どきっとするような、商売女のようなコケットリイがある。
「でも、本当に思いがけなかったわ」
英子はいった。
彼女はまたもう一度、先刻の|邂《かい》|逅《こう》まで|遡《そ》|行《こう》しようとする。
そんなことはもういい。俺たちはとにかくここまで来たんだから。しかし彼は笑って頷き返した。
懐旧や、思いがけなさがまだ本当に彼女の内にあるのなら、それはそれで、これから先いろいろなことに使えるだろう。
治夫はすでに最初のジョッキを空けた。
「もうひとつどう」
英子は笑って頷き、空になった治夫の容器を確かめるように見比べて自分のジョッキを持ち直し、息をとめるようにして残りに口をつけた。アルコールには強そうだ。英子は容器の底に三センチほどの中身を残し、手にしたものを口元から離すと小さく肩を落してひと息し、彼を見返して微笑み、そっと右手の甲を当てるようにして唇の端を拭った。
酒を飲む英子を、治夫は初めて眼にする。そんな時の方が英子はつつましく見える。眺めながら、治夫はふと違う女を感じる。違うといっても、英子以外というのではない。そんな印象を重ね合せて、英子は思い出のつくるイメイジだけでなく、今まで会い見ることのなかった間の彼女なりのいろいろな体験を経て今ここにいる、もっと厚みも幅もある存在として見えて来る。つまり、英子は熟し切った女になっている。
次を注文した後、空になったジョッキを押しやりながら彼は手の指先を眺め直した。
「奇麗になるもんだね。人に爪を切ってもらうなんて、随分久しぶりだ」
いった後、彼は自分の今の言葉が相手にいろいろなとっかかりを与えるかも知れぬのに気づいて、笑い直した。英子は確かさっき、彼が故郷を出た訳を詳しくではないが人から聞いたといっていた。
しかしまた英子ならば、以前故郷で自分に起った出来事についてありのまま話せそうな気がする。どこまで知っての上でか、「よくあることね」と彼女はいった。多分、この女にとっては、大方の出来事は、よくあることになるのだろう。彼女にそういわせるのは、結局、彼女の今までの生き方ということになるだろう。
異質な体験というものは人間を、他人の変った出来事を、すぐに理解出来るような気にさせるものだ。病院にいる患者同士を眺めているとよくわかる。
笑って見せながら、俺が以前に手の爪を切ってもらったのは、矢張り母親ということになるのかとふと思った。
彼女は笑い返し、覗くように首を傾け、
「あなた、さっき、マニキュアするためにあすこへ来たんじゃないでしょう」
少しはしゃいだ声でいった。
そんな仕草にも、アルコールがもう彼女の体に入って効き出したのがわかる。同席の男たちは、その気配で敏感に、二人の相客が同じテーブルの一部で彼らだけの領域を持ってしまったのを察知したように彼女を眺めるのを止め、仲間同士の別の会話を見つけ出した。
「どうして」
「どうしてでも」
同じ悪戯に加担したことをもう一度明かすように英子は笑って見せた。
「俺みたいなのは、場違いだろうからな」
「そんなことないわ」
「でも思ったより安いんだね」
「でしょう。また来て」
「あいつがまた睨みつけるだろうな」
笑ったまま肩をそびやかしかけ、気づいたように英子は彼を見直し、眉をしかめて見せた。その表情には、さっき遅れてやって来た時のいい訳の顔とは違って、ついうっかり、まだ持ち出して見せるべきではなかったことを覗かせてしまったことへの|狼《ろう》|狽《ばい》と後悔と、用心の影が見えた。
「いやな感じだな、あいつ」
相手をかばうためにいった。
「そうなのよ」
英子は眉をしかめて頷いた。
あの男と英子との間のことを持ち出すには、これからまだ時機がある。それをどう使うかは知らぬが、今はまだ相手の立場でいてやらなくてはなるまい。女にはいつでもそうだ。女の立場になるか、それとも女をこちらの立場にさせるか。いずれにしても共演なのだ。彼女がもしもあの男との関係を告白して嘆くなり、怒るなりすれば、その時こっちも一緒にその気になればいい。
しかし今は、二人はあの男に悪戯をしかけて勝ったばかりのところだった。
治夫がそれを思いついたのは、相手が初対面の自分に投げた眼つきのせいだ。しかし、英子がそれに加担したのは、もっと深く長い訳がある筈だ。今日一時か、或いは以前からずっとか、英子はあの男を憎んでいる。そしてあの男はそれを感じ焦っている。
しかし、英子は先刻からの自分の行為の底に、それがあるのを|迂《う》|闊《かつ》に忘れている。そして、治夫がそれに気づいていることも感じていない。
将棋の手を読むように、彼はそこまで考えて来、急に投げ出した。
そんなことどうだっていいじゃないか。この英子が誰とどう関係あろうと、ついさっき会ったこの俺に関わりない筈だ。そんなことより、さっきあそこで呼びとめられ、向い合った瞬間、今までの他の誰とも違って、|何故《な ぜ》か自然に、素直に言葉を交わし合えたのは何故だ。結局、俺には、この女が懐かしかったのだ。今まで他に、懐かしいと感じたような人間がいたか。俺はこの女に対しては、彼女が俺にそうしたように、もっと単純に、この邂逅を珍しがっていいのじゃないか。
自分にいい聞かせると、彼は急に、前以上に懐かしい、はしゃいだような気持になった。
「あの松岡っていう音楽の教師、どうしたかなあ」
突然、自分でも思いがけず、彼は一人の教師の名を口に出した。その男は音感教育という名にかこつけ、特定の女生徒を楽器のある自分の個室に残して彼女たちに破廉恥な行為をしかけ、小心な少女たちが父兄に打ち明け兼ねて秘密が保たれていたが、ある時、遂にたまりかねた一人がことを明かすに及んで、すべてが発覚し免職となった。
学校は秘密|裡《り》にことをすまそうとしたが、怒った父兄が新聞沙汰にし、ことがことだけにひと頃地方ではもちきりになった。
いいながら自分がなんでそんな名前を口にしたのかが彼にも解せなかった。
俺も矢張り、アルコールが少し効き始めている。が、それでいいじゃないか、彼は思った。
「ああ、あの先生」
英子は嬉しそうに笑った。その笑顔は全く悪びれず、彼女自身はとうにあの事件を一種の経験者として理解し、許してしまったように見えた。
「あの先生、君を誘惑はしなかったのか」
「私を」
|質《ただ》すように見返し、
「あら、私にそんなことをしたら、すぐにばらされるのがわかってたからでしょう」
英子は、あの時代と同じように蓮っ葉に笑って見せた。
「そうだよな。被害者には、君みたいな生徒はいなかった」
「私みたいなというのはどういうこと」
睨んでは見せたが、懐かしそうだ。
治夫はふと、自分が知らぬ間にひどくくつろぎ、素直な気分になっているのを感じた。
運ばれた二杯目に、彼より先に口をつけながら、
「昔の話って楽しいわね」
英子はいった。
それは少しばかり儀礼的に感じられはしたが治夫は素直に頷いた。二人を今以上に近づけていくためには、多分、昔話が何よりも都合いいに違いない。
新しいジョッキに口をつけながら、自分が気楽に、今までふり返ったこともない、ふり返るつもりもなかった過去の思い出の中へ入っていけるような気がしていた。そこに何を期待するというのではないが、むしろその意味の無さに、彼は久しぶりにくつろげた。
遊戯の道具を並べるように、英子は思い出す教師の名を並べて見せる。彼はその名のひとつひとつに|相《あい》|槌《づち》を打った。それが彼女のどんな思い出に関わりあるのか、誰かの名を出した時、彼女は声をたてて笑って見せた。
久しぶりに人に爪を切らせたように、自分をこんな風に他人に預けた気持になったのは、故郷を出てから初めてかも知れない、と彼は思った。
すると、酔いが神経までも|弛《し》|緩《かん》させたように、彼はなんとはなしセンチメンタルにまでなれ、それがまた心持よかった。今自分が、何に向っても用心し身構えてはいないのを感じた。懐かしさだけではなく、久しぶりに自分を許して他人へ気安くなれたせいに違いない。しかし相手が英子でなければ今ここにこうして一緒に坐ってはいなかったろう。混み合う建物の中で彼は、辺りを気にすることなく、英子と二人だけでいる自分を何度も悟り直した。それは多分、彼の日頃の生活に最も欠けているもののひとつだった。今まで他のどの女といる時もこういうことは無かった。
英子は少しずつ|饒舌《じょうぜつ》になった。話して笑う度、彼女は治夫を見すかすように首を傾げ眼を細めて見せる。彼女が以前もこんな風にして話したかどうか覚えてはいない。
そういえば、治夫は以前にどれだけ、正面から井沢英子を眺めたことがあっただろうか。面と向って彼女と話したことなどありはしなかった。
仲間の誰かは、ことさらに何かの機会を作り彼女に口をきいてもらい、仲間のところに戻って来てそれを話した。その男にとっても、それを聞く治夫にとっても、英子は、それだけでも熱い存在感で伝わって来る相手だった。
自分と彼女との会話を何度も夢想したことがある。誰かがいっていたように、機会をとらえ、手をつき真剣に頼み願い、彼女がそれに頷いてその体を与えてくれるという、その伝説を彼は想像の中で何度行なったことだろうか。
しかし今、井沢英子は彼の眼の前で一緒にビールを飲んでいる。二人の間を窮屈に隔てているものは何もなさそうだった。突然の邂逅の後、短い時間に二人の間をここまでにしたのは、結局、今まで隔てられていた時間の長さだろうか。
あのアーケイドで出会ったのが、もし自分以外の同窓生だったら彼女はどうしただろう、とふと思った。しかしそんな想像は意味のないものに思えた。
眼を伏せ、唇に当てたジョッキの中身を飲み込む彼女の肉づきいい白い|喉《のど》|元《もと》を、治夫は何度も眺め直した。彼はふと、今まで、彼女に出会うことのなかった、自分以外の嘗ての他の級友たちのことを思い、満足だった。
そう思って、間近に見直す彼女の体のどの部分も、嘗て彼が|倦《あ》かずに想像した彼女の隠された全身に|繋《つな》がっていた。そして、眼の前の英子は、あの時よりも更に肌白く熟れて豊かに見えた。
彼女が手洗いに立った時、見送った後、彼はもう一度ふり返り、椅子と椅子の間をぬって歩いていく彼女の後姿を眺めた。狭い通路で人とすれ違う時、彼女は立ち止り、横を向いて体をそらせ、その度小さ目なくらいにぴっちりした薄地の洋服はその胸の隆起の輪郭を張り出して示した。
遠ざかっていく彼女の背中、腰、尻、ふくらはぎ、彼女を形作っているすべての部分を、彼は改めての距離から素早くひとつひとつ眺め直して見た。彼女は今決して、遠くに見える他人ではなく、すぐにまた、彼のために、ここへ戻って来る人間だった。伝説は、もう現実になり得るところに在った。
角を曲り向うへ消える時、英子はふとふり返り、見送っている彼を認めにっと笑って見せる。治夫は一寸狼狽し、微笑し頷き直す。初めて女を知ろうとしている時のような、|痺《しび》れたときめきがある。追って来る視線を知ってふり返り微笑して見せる英子には、馴れた娼婦のような優しさがある。
椅子に戻り、英子は待つような微笑で彼を見直す。治夫は出来得れば今夜、自分が嘗て彼女に抱いた夢想を現実のものとすべきことを改めて|覚《さと》り直した。この次よりも、更にその先よりも多分、今夜の方がそれが容易に違いないと彼は自分に頷いた。
相客たちが、とうとう何かをあきらめたようにぞろぞろと立ち上がり、その後にすぐ、違った二組の客が坐った。
「出よう、ここは落着かないや」
治夫は促した。
建物から出ても、陽は暮れていたが暑さに変りはなかった。辺りが暗くなっただけに、熱された大気が汚れ|淀《よど》んでそこに在るという感触が、昼間以上に感じられる。色とりどりの明りが街に|氾《あふ》れながら尚、夜は不透明に淀んで見えた。
「どこへいくの」
「もう少し飲んで飯を食おうよ」
「今度は私がおごるわ」
「どこへいこうか」
「どこって、どこでもいいわ」
ふと用心するように英子はいった。
治夫は、彼女が普段どこで誰と酒を飲んでいるのだろうか、を考えた。
何故そんなことまで、と思いながら、彼はそれを、ここにいない嘗ての級友たちのためにした。彼がこれから試みようとしていることもまたそういうことになる。自分が今、この女を欲しいのは一体何のためになのか、ということをそれまで治夫はまだ考えずにいた。
新宿に向って、地下鉄に乗らず車を拾った治夫に、
「いいの」
と英子は尋ねた。そんな時、彼のまだ知らぬ彼女の生活の断片が覗けて見えた。それは彼が知る、彼女と同じ年頃の女たちのつましさとそう違いはないようにも思える。
「さっき、仕事の金が入ったんでね」
自分を覗かせるように彼はいった。
「誰かを診察したの」
「いや、そんなことじゃなく、学会の資料の翻訳さ」
「偉いわね」
英子は素直にいった。
聞きながら治夫は、彼女が嘗ての自分をどう眺め、何を感じていたかを理解出来たような気がした。あの頃学校で、彼は評判の成績の生徒の一人だった。それだけの印象では彼女にとって何のとり得もなかろうが、その後、彼に起った出来事は、その印象と並べると一層目立ったものに映ったに違いない。多分あの出来事のお蔭で彼は、英子の記憶に|留《とど》まっていることが出来たのだ。
開けた車の窓から流れ込む風は、淀んだ熱気がただ流れ込むだけの感触しかなかった。それでも車が|濠《ほり》|端《ばた》をすぎる時、英子は、
「ああ、涼しいわ」
といった。
そんな彼女は少女っぽくも見えた。治夫は暗がりの中ですかして彼女を眺めた。英子は何かを装っているようにも見える。それが酔いか、子供っぽさか、或いはたとえ懐かしさであったにせよ、治夫にとって悪いことではない筈だ。
今日の午後市原から受けとったものを、この女のために全部費っても惜しくはない、と思った。しかし、パセティックになっている訳ではない。むしろ長い間かけて来た仕事を今夜、やっと仕上げてしまいたい、というような気持だった。
時折、吹き込む風の角度で、彼女の匂いを彼は|嗅《か》いだ。それは女にある野心を抱いた男を痺れさせる、汗っぽい香水の匂いだった。治夫は、どこかのホテルか、自分の部屋、或いは彼女のアパートの床の中で、もう少し間近く胸一杯にそれを嗅ぐことを想像した。少なくともそれは七年前にした想像よりは現実的だった。
彼の部屋にも、そして多分英子のアパートにも冷房はない。冷房のある宿の値段は知っている。今夜、彼にとってそれはそう苦しい|贅《ぜい》|沢《たく》ではない。しかし、もし出来たとして、英子の太りじしな体は、汗に濡れた方がよりそれらしいかも知れない。片側の窓に寄っている彼女の肩から腰の辺りを眺めながら、彼は思った。
「何が食べたい」
「なんでもいいわ」
あずけ切ったようにいった。
「あなたは」
「俺も」
「私、なんでもよく食べてよ」
いって彼女は一人で声を上げて笑った。
一緒に食事して、いつも食べない女を治夫は嫌いだった。
以前二度ほど市原に連れて来られたことのある新宿の小料理屋に入った。表は古いが、中は、大学の助教授が人を呼んで一応体裁づけられるぐらいのかまえはある。
天井は通っているが、壁で仕切られた小部屋が並んでい、戸口には障子をたてられる。一番奥の部屋が空いていた。建物全体の冷房が余り効かず、女中は小さな扇風機をつけた。
すすめられ、英子は女にしては並より多い注文をし、肩をすくめて見せた。
周りの雑音は聞えたが仕切られた部屋に二人だけになると、いかにも、英子に向って全級友の中から選ばれた自分の立場を治夫は感じた。間違いなく、今、英子は段々彼に向って近くなっている。
彼女もそれを感じたように、殊勝にきちんと正坐し、質すように彼を見直す。今までのいつよりも、彼女は装って見える。
壁によりかかり、|片《かた》|膝《ひざ》引いてたてながら治夫は微笑み直した。
「君とここにこうしているなんて、なんだか信じられないな」
「私もよ」
英子は合わせるように頷いて見せる。
「|他《ほか》の奴らが聞いたら、うらやむだろうな」
「あら、どういうことそれ」
「だって、君はいつも僕らの評判だった」
「どんな評判よ」
「なんだか、まぶしかった」
「嘘ばっかり。私のこと、見ようとして見たことなんかなかったくせに」
「馬鹿いっちゃいけない、僕だってみんなと同じだった」
「どういうこと、それ」
「君が、手もとどかないところにいるような気がしていた。あの頃は男の方が子供だからな。それでも矢っ張り男は男さ。僕だってその一人だった」
「あら」
張っていた姿勢を斜めに崩し、英子は|睨《にら》むようにして笑って見せる。商売女のような|媚《び》|態《たい》だ。しかし多分、これは井沢英子にとって、天性、自然のものに違いない。
「君がいなくなってから、僕ら、気落ちしたみたいになった」
「あら、あなたも」
「そうだよ」
「有りがとうっていっていいのかしら」
彼女は声をたてて笑った。そういわれることで彼女は楽し気だった。
「あの後、どこへいったんだい」
「隣りのN女高よ、でも、あすこも、三年の途中で止めたわ。あなたが、止めたのは」
「あの後間もなくだよ」
彼女が何かいいかけるのを|塞《ふさ》ぐように、
「でも、君は変らないな」
治夫はいった。
「そうかしら」
「殆ど変らない」
「でも、少し太って、矢っ張り年をとったわ」
「年をとるというのはこれからのことだろう」
「あら、お医者さんだけあって旨いのね」
英子は、患者によくいる水商売の女のような口をきいた。
「医者は本当のことしか言わないよ」
「そう、ありがとう」
しなをつくって頭を下げて見せる。
「でも、本当にいろいろあったのよ。あなたほどじゃないかも知れないけれど」
治夫はまた身構えた。
それはひとつの習性で、自分からあのことについて話すことはなかったが、誰かがそれを話す時、彼はいつも相手に向って心の扉をきっちりと閉じた。閉じながら彼は、結局は他人の災難の弥次馬でしかない彼らへの憎しみだけを感じて来た。同情を口にしたり、彼のやったことへのことさらの共感や|讃《さん》|辞《じ》をのべたりする時の彼らの顔に浮ぶ満足そうな表情を許す訳にはいかない。
時がたち、たとえ彼自身の考え方がどう変ろうと、あの出来事が、他の人間には何の|関《かか》わりもないことがらであることだけは確かなのだ。
彼がもし、そこで心の扉を少しでも開けば、他人どもはそこから踏み込んで好奇の触手で彼の心の内を勝手に|撫《な》で廻し、願ってもないお慰みを彼らに与えてやることになるのだ。
しかし、今夜は何故かそう身構える必要がないような気がした。英子にいわれ、治夫は昼間市原からいわれたことをまた思い出しかけたが、酔いも手伝って、あのことについて英子がどこまで知ってい、それについてどう言うかを黙って聞いてもいい、と思った。
実際、誰に何をいわれても、もう何を感ずることもない筈だ。ただ他人がそれで自分の心の中へ入り込んだようなしたり顔をすることだけが不愉快なだけなのだ。
「結局、どっちが悪かったのよ。お父さんとお母さんと」
英子は身を少し乗り出すようにして|訊《き》いた。彼が予期していたとは違って、彼女はもっとあけすけに好奇そうだった。彼女はあの出来事を、ここにいない全く第三者の身の上話のように話した。それならば一層気がおけなかった。治夫は微笑し直した。
「どっちがどっちだかな。両方だよ、とにかく親の面倒までは見切れたものじゃないよ」
彼女は声をたてて笑い、
「そうね」
といった。それは飾り気はないが、|甚《はなは》だ率直な共感の表明だった。
その後、|箸《はし》を使いながら促すように英子は彼を見た。
「でも、不便じゃない」
その問いも、寂しくはないか、と訊くより親身だった。
「もう馴れた」
「けど、結局あなたが一番気の毒ね」
食べかけていたものをゆっくり呑み下しながら英子はいった。彼女がなまじ箸を置いたりしないだけに、その同情も彼女なりに、かえって本ものに見えた。
「一番損したわね」
いいながら彼女は手をのべ、運ばれたばかりの皿を手元に引いた。
「君は、俺に同情するかい」
突然、治夫は尋ねた。どんな答えが返るだろう、と思った。待ちながら、治夫は愉快になっていた。
「同情」
何かに|遮《さえぎ》られたように驚いた眼で英子は見返した。
「それはね。でも、もう馴れたんでしょ」
微笑し直し、ついで声をたてて笑い出しながら、彼は満足だった。彼女の答えはある時期、彼が|秘《ひそ》かに自問し答えた答えだった。そして、それはいかにも井沢英子らしかった。
「どうしたの」
慌てたように英子は見返した。
「いや、なんでもない。その通りだよ。もう馴れた。つまらぬことさ」
「一人で、寂しくない」
彼女は思いついたように尋ね、その問いはありきたりだった。
「君だって同じだろう。一人じゃなきゃ出来ないことが沢山あるよ」
「そうね。そうだわ」
英子は、自分が励まされたように頷いた。
「私も、家を飛び出してから、したいことが出来たわ」
それが何だったかを、治夫は訊きたいと思った。
「でも君だって、いろいろ大変だったんだろう。どうなんだい、さっきのあの店の主人も、余り感じいい奴じゃないな」
一度伏せた眼を上げて英子は彼を見た。今度は彼女の方が身構えて見えた。治夫はすぐに退り、
「あいつ、なに人だ、日本人じゃないだろう」
「あら、日本人よ、あれでも」
英子は笑った。
彼女はいった通りよく食べ、少し飲んだ。彼が飲みものをすすめると、
「私、食べる時は余り飲まないの」
やすりの後は甘皮を切る、というように生活の信条を、既にきちんと決めているというように、妙にきっぱりと彼女はいった。
「じゃ、食べた後飲みにいくか」
「いいわ」
彼女はもう、今夜の彼のもてなしに遠慮してはいなかった。彼女は、こういうことに馴れているようにも見えた。
小料理屋を出て入ったサントリーバーで、ウイスキーを二杯ずつ飲み、二人は酔い出していた。そこを出、彼は、|梯《はし》|子《ご》で彼女をいきつけの店へ連れ込んだ。
顔なじみのバーテンダーに、英子を、
「この人、僕の、同級生。高等学校の同級生、懐かしい人」
紹介していった。
「またまた」
本気にせぬのが愛想と心得たように、バーテンダーはいったが、
「あら、本当よ」
酔った英子は乗り出すようにむきになった声でいった。
彼女が手洗いに立っていった時、バーテンダーは近づいて来、彼女の消えた方を顎で指し、
「病院の看護婦でしょ」
彼は治夫が医学部の学生であることは知っていた。
|曖《あい》|昧《まい》に笑い返しながら、なるほど、と治夫は思った。つまり、それが、世間の人間が彼女を判断する眼という訳か。この男が看護婦に抱いているイメイジがどんなものかは知らぬが、多分そうまともなものではあるまい。
戻って来た英子を眺めながら、彼は頭の中でもう一度彼女を|晒《さら》し出し、今着ているものの代りに看護婦の白衣を着せて見た。それはそれなりによく似合うような気がする。そういえば、大学の病院にも白衣を着た英子のような看護婦がいた。彼女は、教授や婦長の|顰蹙《ひんしゅく》をかいながら、助手やインターンや、軽症の患者たちには人気があった。
「君、今までに看護婦したことがある」
グラスをとり換えに来たバーテンの前で、治夫は尋ね、英子は首をふった。
「どうして。あれは面倒な試験がいるんでしょ。私、面倒なものは駄目よ」
英子は英子らしく適確に答え、治夫に笑って見返されたバーテンダーは愛想に、どうも素姓がわからぬというように首をかしげて見せた。
店を出た時、二人は酔っていた。英子はそれを隠せずにいたが、治夫は酔いを隠すべきか見せるべきかに迷った。
彼女は立ち止り、彼を仰いで|覗《のぞ》き、
「私、酔ったわ」
と嘆いて見せた。
「俺も」
と、彼は酔わぬような声でいった。
歩道の敷石の割れ目で彼女は本当によろけ、治夫が腕で支えた。彼女は預けたようにそのままの姿勢でい、彼が自分の姿勢を換え、その手を廻して肩を抱いてもされるがままになっている。
彼は初めてその肌に触れて井沢英子を抱いたのだ。二人はそのまま歩いた。彼女はもたれたままでいる。その時になって、彼は酔ったように自分からも少しよろけ、時々、抱きながら逆に自分の体を相手へ預けた。
廻した手と、胸に、薄い一枚の布に覆われただけの、肉ののったたわわな英子の肩と腕が感じられた。
彼がよろけながら胸と腕の間に彼女を|挟《はさ》み込む度、それは重い弾力で弾み、彼女の全身のヴォリュームを感じさせた。それは少し汗ばみ、それでも尚|艶《つや》やかに脂っぽかった。そして彼女は、さっきの車の中でよりも間近く、匂った。井沢英子を初めて抱きながら、彼は歩きにくくなるほどにわかに興奮して来た。
「外は涼しくなったけど、私は、熱いわ」
|喘《あえ》ぐように、しかし、うっとりと彼女はいった。彼女はその息苦しい熱さを楽しんでいるようにも見えた。同じ姿勢で歩きながら彼は|窺《うかが》ったが、歩調は乱れはしても、彼女は苦しさに立ち止るような様子はなかった。
「あーあ」
と自分の酔いにじれたように彼女がいった時、言葉の遠廻しの意味が伝わる程度に歩を落しながら、
「休もうか、どこかで」
彼は訊いた。
英子は|肯《がえ》んじもせず、拒みもしなかった。言葉が聞えなかったように装った様子もなかった。
「休もうか」
「どこで」
同じ感じで、何を気にした様子もなく彼女は問い返した。
「どこででも。それとも、帰る。僕のアパートで休んでも、君のところまで送ってもいい」
「送っていって。私のところの方が近いわ」
英子はいった。
止めた車に、歩いて来たと同じ姿勢のまま乗り込んだ。かかえたままの彼女に風がよく当るよう彼は後ろに体を引いた。坐って見ると、前よりももっと、重く確かな輪郭で英子は感じられた。英子は体を預けたままでいる。この時刻、この街で拾う客の坐る姿勢には馴れ切った運転手は、行く先を訊いた切り鏡の中でふりかえりもしない。車が角で曲って揺れたはずみ、相手へかかりすぎた体を元へ直そうと抱かれたまま手で支えた時、彼女は興奮している彼の部分にまともに手をついた。彼は窺ったが、英子は元の姿勢のまま腕の中で動かなかった。
やがて、
「来ましたがね」
運転手がいった。
彼が答える前に、
「ありがとう、その先でいいわ」
彼にではなく、運転手にだけ英子はいった。
戸口の側にいる彼が料金を払い終るまで、彼女はじっとしていた。釣銭を受けとった彼が出かかると、初めて彼女はにじるようにして車から出た。
辺りを確かめるようにのろのろ見廻す彼女の後ろで、一緒に降りて彼女を窺っている治夫の心づもりを察したように、運転手は素早く扉をしめると車を走り出させていった。
「大丈夫かい」
半歩近づき、半ば手をのべた彼へ、英子は|尚《なお》行方を捜すようにしてふり向きながら、半ばだけ体を預けた。相手を支えながら、彼は素早く辺りの店屋の看板から番地を読んだ。読んだ上で、彼は黙って彼女を待った。
「また喉が渇いたわ」
英子はいった。治夫はそれがどういう意味かを考えた。辺りにはもう、開いている飲食店は無さそうだ。
「大丈夫かい」
彼はもう一度探るように尋ねた。
「あなた、渇かない」
彼女が訊き返す。これはどういうことなのか。彼女の方で出した、何かへの繋ぎか。
「ああ、少し」
彼は答える。が、
「こっちよ」
急に彼女は歩き出す。酔った彼女を支えるという、暗黙の了解で、彼は彼女に従って歩き出す。二つ目の路地の角で、|一寸《ちょっと》立ち止った後彼女はそこを曲った。そんな仕草は、本当に酔っているようにも見える。女にしては可成りの酒を彼女は飲んだが、最後の店を出るまで、酔態は見えなかったが。
「この辺り、前に何かで来たような気がするな。ああ、教授の使いで、他の大学の教授のところに資料をとどけにだ」
ふとそんな気がしたので彼はいって見た。多分、違うだろう。しかし、今は何か|饒舌《しゃべ》っていた方がいい。
「あら、そう」
「いや、駅の反対側だったかな」
答えながら彼は体の内で歩数を計るようにして歩いた。彼女のアパートは出来るだけ近い方がいいのだが。
辺りは、どれも小さく貧相な家の並んだ住宅地だ。路地を曲り、五十メートルほどいって更に右へ曲ると、部屋数十二、三の細長いアパートがある。木造の、そこだけ空いていた地面に無理に建てられたような家だ。英子は一階の端の部屋の玄関の上を|跨《また》ぐようにしてかかった裸の階段を二階へ上がる。
通りすぎた手前の部屋の窓は開け放しになってい、灯の消えた部屋の中にテレビのスクリーンのぼんやりした明りが見え、かすかな|蚊《か》|遣《や》りの匂いが伝わって来た。端から二つ目の部屋の前で英子は立ち止り、
「ここよ」
その声は、酔っているようにも聞えたが説明的で、治夫は黙って|頷《うなず》いたままでいた。
「喉が渇いたわ」
彼女はまたいった。
「俺も」
「冷たいもの何かあったかしら」
いい訳するように彼女はいったが、その声はもう眼の前の部屋の扉を彼に向って開いていた。
とり出した|鍵《かぎ》を、何か気に入らぬものを眺めるように口をとがらしてかざすと、持ち直し英子は扉へさして廻す。
|小《こ》|体《てい》だが、悪い部屋ではない。
「去年まで姉さんと一緒にいたのよ。姉さんが結婚しちゃったんで」
尋ねもしないのに英子はいい、それはいい訳のように聞え、治夫はすぐに昼間彼女の仕事場で見たあの男を考えた。
部屋の中は、女の住み家らしく一応片づいてはいるが同時になんとなく雑然とも見えた。御多分にもれず、部屋の奥にある化粧台の上が一番混雑している。しかし、彼女の年頃の女の部屋にありそうな飾りもの、例えば、少女趣味のカレンダー、贈りものの旅土産、安ものの一輪差し、などという品は見当らない。
新しいプリント地のカーテンを引いて、英子は窓を開けた。よどんでいた部屋の空気がゆっくりと入れ換ると、後は風もなかった。
流しの下の戸棚に収まり切れず、床に置いた小型の新しい電気冷蔵庫から彼女はジュースとコーラを出して注いだ。冷蔵庫への説明はなかった。
一つだけ出ている座ぶとんを彼にすすめ、英子は畳の上に正坐を崩して坐ると、両手でコップを持ち、眼をつむって、ゆっくり飲んだ。そんな仕草は子供っぽく見える。傾けたコップに合わせて少しのけぞった|顎《あご》から喉の辺りを眺めながら、治夫は出されたコップの中身を半分以上残して持ったままでいた。それを飲み終った後どうするか。流しの辺りを眺めたが、酒は置いて無さそうだ。しかしともかく、彼女なりには、もう充分飲んだ筈だ。
ゆっくりだが、一息に、コップの中身を飲み終る彼女を眺めながら、いいか、俺はここまで来たんだ。もうこれは予選の段階じゃない、彼は自分にいい聞かせた。
彼女は確かめるように彼の手にしたコップを見る。
「上げようか。僕は、水でいいんだ」
「いいのよ、飲んで」
促され、彼がコップに口をつけると、英子は安心したように笑って見せた。その笑顔はひどく献身的で、彼がふと、爪を磨かせた後ずっと今まで彼女にかしずかれていたような気持になるほどだ。
彼がコップを置こうとした時、突然、
「いやだわ」
英子は眉をひそめて立ち上がり、開け放していた窓ガラスを音をたてて閉めた。
「どうしたの」
「隣りの家の男の子が覗くのよ。いつもなの。それが嫌で曇りガラスにしたのよ」
「なるほど」
閉められた窓へふり返る彼へ、
「浪人なのよ。二年も落ちてるんだって。どうせ出来は悪いんだろうけれど」
むきになって|蔑《さげす》むように、英子は唇を|歪《ゆが》めて見せた。
「前にも向うの明りを消して、私が着替えているところを見てたのよ」
治夫はふと、英子以外の女だったらそれをそう気にせず、第一、気づかなかったのではないか、と思った。そしてまた、隣りの息子は、英子だからこそ、つづけて覗こうとするのではないか、とも。
「俺たちも昔、君を覗いたよ」
彼はいった。
「あら、いつ」
「いや、そんな意味じゃないが、俺だって。つまり、心の中で、君を覗いた。君を覗くことを想ったよ」
「いやだわ」
英子は声をたてて笑った。
「そんなんならいいけど、今だって、きっと明りを消して、見ているわ。管理人から親に注意してもらったんだけど、親の方で、そんなことはないって。頭に来たから、私いつか、こっちも薄明りにして、着替えてるふりしていきなり懐中電燈つけてやったわ。そしたら気味悪いの、男の子の眼だけが犬の眼みたいにぴかり光って見えたわ」
治夫が笑うと、釣られて英子も笑い出した。
笑いながら、治夫はふとまた、隣家の少年が覗こうとしたのは、果して、彼女だけの時だったのだろうか、と思った。
「しかしこれから夏に、窓をしめていたのじゃたまらないな」
「暑いでしょう」
英子は唇を歪めて見せた。
「カーテンを引いて、そっちの明りだけにしたら」
「それでいい」
「いや、俺はかまわないけど」
英子は立ち上がり、頭上の明りを消すと、ガラス戸を開き、カーテンを引き戻した。その足で、彼女は空になったコップを持ち去り、流しに置くと水道の水で流し水を切っただけで台に置いた。その間に、彼女は急に、二人の高校時代に|流行《は や》った外国映画の感傷的な主題歌をハミングし出した。その調子は、懐旧というには陽気で、立ち上がった彼女の動作も、相変らず酔って見える。
その歌に治夫も思い出がある。その歌は聞く度、それが流行った当時の自分の記憶に繋がり易かった。歌が感傷的懐旧的というより、その頃の彼が、歌を感傷的に聞くことが出来たせいかも知れない。
どんなつもりで彼女がそんな歌を、と思ったが、コップを置いて戻ると、立ったまま、
「この歌、あの頃流行ったのね。ジョン・フォンティーン」
奉仕にして見れば、随分念の入ったものだ。それとも、彼女は今夜、俺に会ってセンチメンタルにまでなっているのか、と治夫は思った。いずれにしても、段どりは具合よく運んでいるのじゃないか。
それにしても、そんなに簡単に懐旧的になっているのだとしたら、彼女が今の自分にそう満足していない証拠でもある。患者と同じように、女の不満は面倒でも聞いてやった方がいい。彼らにとっては、聞かれる、ということが救いの手がかりになる。
「ああ、丁度あの頃だなあ」
窓際に、もたれ直すようにして治夫はいった。その言葉が押し|釦《ボタン》のように、彼女は立ち止り、|踵《きびす》を返すと、横の|箪《たん》|笥《す》の引出しから、数葉の写真をとり出し、
「こんな写真、まだ持ってるのよ」
体を投げ出すように、彼の前に膝ついてさし出した。高等学校へ入学した時、入学生全員で撮った記念写真だ。英子がどうしてこんなものをまだ持ち歩いているのかわからず、治夫は写真よりも彼女の顔を見直した。
「あなたどこにいるかしら」
薄暗い明りに、畳へ置いた写真を向うの明りに向ってずらすように曲げて覗きながら、
「あ、ここよ」
はしゃいだように叫んで指した。治夫の確かめ直した自分は、あの出来事の起る以前、この世間のことは何も知らず、知ろうともしないような顔で、右も左も同じような顔の中に埋もれて、真っ向から射す陽の光に少し眉をひそめている。それは、自分には似ていても、|何故《な ぜ》かひどく現実性のない、今眺めて全く親しみの|湧《わ》かぬ顔だった。それは、思い出とか記憶などというものが、いざ顔つき合わして見るとこんなものでしかない、と|証《あか》していた。
「私どこにいるかわかって」
畳の上の写真を彼に向って少しずらして寄こしながら彼女はいった。この|詮《せん》|索《さく》の方がずっと興味が持てた。しかし男に比べて少ない女の中から、彼女を見つけ出すのに意外に手間がかかった。彼が今夜車の中で、或いは今、同じ写真を肩触れ合って覗きみながら感じつづけている井沢英子はどこにも見当らない。
「これか、いや、こっちだ、これだ」
ようやく彼が指さすと、
「ここよ」
英子は声をたてて笑い出した。
「へえ、こんなだったのか。まるで今の君とは違うな。あすこで会った時はすぐにわかったのに。全然変ってないと思ったけど」
「変ったわよ」
「いや、君はこの写真をとった後に変ったんだよ」
「あら。それどういうこと」
英子は間近に彼をふり返り睨む真似をして見せる。
「どうって、とにかく、入学した時は、君のこと、気にならなかったものな」
「そうね、二年生からだったわね」
過去の何かを認め直すように、あっさりといった。
「これが松岡ね」
英子はさっき|噂《うわさ》にした、教師の顔を指していった。その後、二人はゲームのように替る替る、写真の中の顔から、名前とそれに関わりある思い出を見つけて拾い上げた。それに関する限り、英子の記憶の方が正確だった。時折彼がそれを正すと、彼女はむきになっていい返した。彼女は楽しそうだった。
この先、いつまでこれをつづけて、その先がどうなるのかを彼が考えかけ彼女の顔を覗き直した時、何かいおうとした英子が彼へふり返り間近に二人の顔が合った。そのまま英子は黙った。そしてはにかんだように、半ば、おびえたように|微笑《ほほえ》んだ。治夫は、自分が多分、同じように微笑み返すのを感じていた。二人がその微笑で示したものは、同じような気がした。
そう思うと、彼は突然忘れていたものを感じ直した。一枚の写真を挟んで、覗き込むために|交《こう》|叉《さ》して畳へつかれた腕と腕、触れ合い押しつけ合った肩と脇と腰の、急に熱い感触。同じことを、彼女が今、今夜の今まで以上に、車で殆ど体を預けていたあの時以上に、感じているのを彼は覚った。
彼が身じろぎし、触れ合った部分を少しずつ離して、彼女に向き直るのを、英子は同じ姿勢のまま、じっと見つめながら動かず待っていた。時かけて、前よりもずっとぎこちない姿勢で彼は彼女の背中から肩に、やっと片腕をかけた。更に中腰に、もう一方の腕を、彼女の開いてついた両腕の間に斜めに通すようにして彼女の体をはさんだ。そのまま力入れて|曳《ひ》き寄せた。彼の中へ、英子は総ての意志を放棄したように、たてていた腕の力を抜いてもたれて来た。彼女は思いがけないほど重く、彼は中腰の膝を思わず片側ずらして支え直しながら、英子を曳き寄せて抱いた。それでも尚、英子は彼の腕に余りそうに感じられた。
接吻の直前、また強く彼女を嗅いだ。そしてそれを塞ぐように、匂いと違う、もっと熱したいきりのような味のする唇が彼へ覆いかぶさった。そのまま彼女は彼を押し倒すように体をかけて来、それを抱きとめながら彼は腰を下ろして坐り直し、その膝の間に彼女は体ごと入り込んで来た。二人は唇を離さぬまま、互いに、しっかりと隙間なく抱き合った。
抱き合い、接吻しながら、治夫は、これが|正《まさ》しく自分の欲していたものであったのを悟った。今日、再会してからだけではなく、その以前から、彼女の伝説に悩まされて過した|嘗《かつ》ての頃に、自分がどれだけこのもののために悩みそれを欲していたかを、彼は今生々しく思い出すことが出来た。
唇を合わせたまま、彼は同じ接吻を何度も味わい直した。彼女の接吻は、熟れて濡れながら、同時に少女のようにみずみずしくも感じられた。同じ接吻に、彼女が何を感じ味わっているのか知らぬが、治夫は腕の中で、英子が少女のように震え、更にまた、熟れ切った女のようにもだえるのを感じた。唇を離さぬままの初めての接吻は、ただの接吻や、前戯ではなく、それ自体がまるでセクスのように、何段階にも分れ、段々に高まり、うねり、からみ合い、声にならぬささやきやうめきや、叫び声に満ち満ちていき、|痙《けい》|攣《れん》し、充たされ、頂を極めてゆるやかに後退し、|恍《こう》|惚《こつ》の余韻を残して終った。
唇が離れた時、二人は最初の性交を終えた同士のように、二人の関係が、それの前と後とでは、すっかり違ったものになっているのを感じた。
接吻の後英子は、閉じていた眼をおずおずと見開いて彼を見上げた。薄暗がりの中で、彼女の眼が濡れたようにうるんでいるのがわかった。見上げた後、英子はまた眼を閉じる。それは、今の出来事におびえているようにも、またその余奮を追おうとしているようにも見えた。
ひと息つき、治夫は彼女の体を抱き直す。彼女はその腕の中で、さっきよりも身を固くする。二度、ということは、一度とは違う。二度重ねてしまえば、もう簡単にいい訳はたつまい。しかし彼女は彼を押しのけたり、|抗《あらが》ったりはしなかった。
彼はそれを見すまし、彼女の体を前とは違った位置で抱き直しながら接吻した。唇を重ねる前、もう一度胸一杯、英子の匂いを嗅いだ。香水と汗と、それだけではない、確かに、治夫に向ってふくれ上がり開きかけた彼女の体のかもす、彼女自身の匂いの混った、嗅いだ男を性急にしてしまう、甘く熱い匂いだ。
二度目の接吻を、彼はようやく接吻として味わった。濡れて熱い唇、誘うように舌を動かす治夫に応えて、ためらいながら、仕方なく彼に曳きずり出されたというように、従い、応える英子。最初はまるで、つい最近思春期を終えたばかりの女であるような舌の表情だ。しかし、治夫に一度|捉《とら》えられると、彼女はそれきり|退《さが》りもせず、従うだけではなく、強く応えて来た。
治夫は突然、自分が今、嘗ての伝説の中に生きている男であることを悟った。彼が今、唇を合わせているのは正しく、あの井沢英子なのだ。
その感情は、腕に抱いた彼女の体の感触を、あの頃に想像しながら感じた切ない|憧《あこが》れの恍惚で上包みし、治夫を|痺《しび》れさせた。
胸と腕にかかって来る熱く重い英子の感触は、英子が彼にとって一人の初めての女であるということ以上に、不安なほどの|戦《おのの》きを感じさせた。
治夫は急に焦り出した。焦る理由はまだ何もありはしなかったが、英子の感触に重なって感じられる、戦きが、丁度、生れて初めての経験の時のように彼を焦らせた。
もう一度確かめるように、英子を抱きしめ直した。その動作で、余裕の出来た左腕を背からずらせ、彼女の胸に触れようとする。しかけて、彼は一寸の間息をとめてうかがう。彼女は、気づかず、接吻に夢中のように見える。偶然のように、しかし、偶然に気づいて立ち止ったように、彼の手が胸元に止り、その偶然を確かめるように薄い着物の上から乳房に触れると、彼女は初めて気づいたように身じろごうとする。しかしそれもしっかり抱いた彼の腕の内だけでだった。
治夫が引きつけると、離れかかった唇がまた重なり合い、英子は合わせた唇の下で何かいったように思えたが、彼にも、彼女にも何も聞えはしなかった。彼女は決して、抗い、逃れようとはしなかった。
彼の掌の内にある、熱くもり上がった乳房の感触は、彼が捉えようとしている嘗ての伝説をより確かなものに感じさせた。胸を覆った下着の下から|氾《あふ》れようとしている、汗に熟れた熱く柔らかい乳房の息づきを治夫は確かめ、味わい直す。それがかえって彼の焦りを静め、まともに彼を興奮させた。
より深い接吻の中で、彼は英子の胸元の手をずり上げ、ブラウスの|襟《えり》|元《もと》からじかに肌に触れて下へ伝い直す。下着をたくし上げた指が氾れかかる乳房に触れて握り、その乳首を捜し当てるまで英子は気づかぬようにじっとしてい、ようやくまた身じろいだ。しかし、それだけだった。
治夫は、|安《あん》|堵《ど》を感じた。これで、必要な最初の手順はすんだ。彼は申し出、彼女は答えた。或いはこの分なら、いきなりスカートをまくって手を入れても、払いはしなかったかも知れない。しかし矢張り必要な手順はあるものだ。その方が、廻り道のようでも、結局、ものごとを潤滑に運ぶ。
合わせていた唇を離し、相手のうなじへ押しつけ、彼女が息をつき、喘いでいる間に、胸元の指が離れ、そのまま背へ廻って下着の掛け金にかかる。相手を休ませてはならない。治夫はようやく、馴れた作業をする余裕をとり戻した。英子は喘いでい、治夫はようやく懐旧を忘れ、情欲的だけになろうとした。下着の掛け金は待っていたように簡単にはじけて外れ、英子は何かを預けようとでもするように、彼女の方からしっかりと彼を抱きしめた。
それに応えて預かるように、相手の体を抱いたまま押し倒す。今解き放つものを|暫《しばら》く忘れて、まず、また駄目押しの接吻。
氾れ出た英子の乳房は覆っていたものの上から感じたより、はるかに大きく熱く、それ自体、成熟し切って何かへ正に変化しようとしている活きもののように、息づき汗ばみ分泌していた。持主が誰であろうと、正にそのものは、熟れて待ちに待った女だった。
また改めて、感慨があった。彼が今|口《くち》|吻《づ》けし両掌にかかえているのは、まぎれもない、あの伝説そのものだ。伝説は、今、彼の掌の中で息づき熟して彼に向って溶けかかり、彼は懸命にそれを両の掌の鋳型に押しとどめ確かめようとする。
それは情欲を超えた感動だった。彼は何故か突然、故郷の高等学校の放課後のグラウンドを思い出した。というより、それを自分の背に感じたのだ。
いや、そうだ、放課後ではない。朝礼の時、或いは昼間の何かの集会で、彼はそのグラウンドに集まった仲間たちに、号令をかけたことがあった。今その仲間たちを、彼はもう一度背後に感じられるような気がした。
彼が今手にしているのは、彼にとって、一人の未知の女の肉体以上の何かだった。女を抱き敷きながら、彼がこんなに強く、所有への到達に心を打たれたことがあったろうか。
英子は、息をこらえたように、かすかに喘ぎながらじっとしている。
彼女が今、どんな顔をしているか、治夫はつかの間を盗むように覗いて見る。そんなことを今すべきでなく、一時も早く、その先へ確かに進まなくてはならぬのだが、そうせずにはいられなかった。自分が今、背の後ろに感じているもののためにも、それを確かめなくては。
彼女は眼を閉じている。その表情は眼を見開いて彼を見つめる彼女よりもあどけなく、一生懸命に見えた。彼女も彼と同じようにこのことの中で、このこと以上のものを感じようとしているように見えた。
彼の体をしっかり抱いたまま眼を閉じている英子は、間違いなく、彼に向って何かを期待しながら、許し、開かれたものに見えた。
治夫は、突然、何かを信じられそうな気がした。自分の人生の中での、何かを。こんなことは今まで絶えてなかった。或いは、自分が選ばれたものではないのか、という気さえした。
俺の人生の中にも、俺以外の手で用意されていたものが矢張りあるのだ。こいつは、感動だ。
今、手にしているものを、自分が嘗て体の|芯《しん》が熱くなるほど欲しいと思ったことがあるのだ、ということを、彼は、改めて何度も思い出して見た。そして、あの頃の他の誰がこれを、こうやって手にすることが出来たというのだ。
井沢英子は、間違いなく、彼の胸の下、腕の中にいる。そして、嘗ての頃に、自分や他の仲間たちが同じように夢想したものが、想像のその通りだったのを彼だけが|証《あか》すことが出来たのだ。
英子は、あの頃想いながら感じたと同じように、熟れて甘く、豊満で氾れるほどだった。両手でかかえ寄せ集め、鼻と唇を埋めて嗅いで味わう彼女の乳房の匂いの中に、彼は七年前の自分の思春期の情欲の熱さと匂いを嗅ぎ直した。
治夫の体の内で時間は|遡《そ》|行《こう》し、二重に重なり、彼の体の内の熱さも二重になった。
俺は今、あの井沢英子をこうして手にしている。彼は何度も自分にそう語りかけ、その|反《はん》|芻《すう》は、彼の現実の情欲を中断せず、ますます息苦しいほどのものにした。そう思う度、彼にとって、過して来たあの時代が、今急に満たされ、ひどく懐かしく輝かしいもののようにさえ思えた。
胸に顔を埋めたまま、彼は両手でその脇を伝い、汗ばんだ肉づきのいい肩から背を、腕や首やうなじを、そして脇から腰の|窪《くぼ》みまでを触った。伝って触ることで、彼は七年前、いく度想っても決して定かにまとまらなかった井沢英子のイメイジを、今、ようやくその感触の中にまがいなく定着することが出来た。
彼が願い、|希《のぞ》んでいたものはこれだったのだ。そして、今夜、希んでいるものもこれだった。その興奮は、彼が以前、井沢英子をこうして手に入れることを願ってから、たった今までの間に過ぎていった時間を、まるで在りはしなかったもののようにさえ感じさせた。
しかし、英子の下半身にまだまつわっているものに手がかかった時、治夫は再び、つかの間だったが、冷静になった。自分の手がしかけている動作が、英子も今味わっているものを壊しはせぬか、と彼は窺って見た。
しかし彼女は眼を閉じたままでいる。彼女は喘ぐのをこらえようとしているようにも見えた。
今は間違いなくその機会だった。こうして抱き合いながら味わっている懐旧に気がねする必要はない筈だ。多少の性急さも、その懐旧が許すだろう。懐旧に払うべき敬意はもう充分に払った。治夫は自分に命令した。
汗が彼女のスカートを肌にまつわらせ、治夫の手は志したように真っ直ぐにはすすまない。そのぎこちなさを英子はじっと動かぬまま、待っていた。彼の手が下着にかかった時、彼女は初めて、気づいて驚いたように彼を強く抱きしめた。大体の女がこうだ。治夫はようやく伴走していた感傷から|脱《ぬ》けて、しかけている仕事に熱中した。
彼女のセクスも、彼女の接吻と同じように、濡れて氾れようとしている。彼の手が到達した時彼女は、拒むというより、迎えるようにその部分をすぼめて見せた。彼女は、濡れて氾れながら熱く豊かで、その感触は他のどの部分より井沢英子らしかった。
それは手にした瞬間、かつての伝説の本体という以上に、彼が今日再会し、こうすることを希んで思いをとげつつあるまぎれもない、一人の女を強く感じさせた。そして彼はこの瞬間にようやく、嘗て自分がどんなにこの女のために一人で悩んだかを、本当に知ることが出来た。
彼女は発酵した|蜜《みつ》のようだった。それを味わった時、治夫は自分が今までに知っていた他の女のセクスが何でしかなかったかを知ったような気がした。むせて氾れる彼女の内で、治夫は初めて味わううるおいをむさぼり飲んだ。自分が今まで、実は|渇《かつ》えていたのを初めて知らされたような気がした。
行為の序盤で同じように夢中に見えた英子は、やがて冷静になった。というより彼に向ってもっと開いて多くを与えようとするように努めていた。彼がしたように彼女は手をのべ彼の体をさぐり、彼がつけたままでいた上半身の着物をとり去るのを手伝った。
そんな仕草は治夫を白けさせず、彼は息づき眼をとじたまま、汗に濡れた彼の下着をとり去ってくれる英子に素直に感謝した。されながらふと彼は、先刻のバーで、バーテンダーが彼女のことを看護婦でしょう、といったことを思い出していた。
彼女が、彼の下着を外してから、行為のすべての段取りも、それに付随した快感も恍惚も、久しぶりに会った夫婦のように殆ど完全なものになっていった。
夢中な思い出話のように彼は汗の入り混った英子の匂いを嗅ぎつづけ、きりなく氾れる彼女の何もかもを体に受けとめようと努めた。
快感がまし、恍惚が近づくにつれて、治夫にとってそれはただの素晴らしい性交ではなく、全く別の陶酔をもたらす何かの儀式のように感じられて来た。恍惚に近づくことで、彼は嘗ての自分に重なり還ろうとしていた。快感の中で、自分にとって死んでしまった時間が|蘇《よみがえ》り、英子に|関《かか》わりない嘗ての自分のすべての時代が彼の内で本当に終りを告げ、ようやくそれを超えることが出来るような予感さえあった。
英子は彼の腕の中で、一杯に氾れた最後の上げ潮に激しく身をふるわせ、何か小さく叫ぼうとするが、それがもう声にならぬようにただ歯をかちかちと鳴らしながらうめいていた。
彼が到達すると、それを待ち受けていたように彼女は痙攣して応えた。
初めての性交を、|完《かん》|璧《ぺき》にやりおおせることの出来た幸運な少年のように、彼は今、何ものかへの大きな感謝と、深い安息と強い生き|甲《が》|斐《い》のようなものを感じ、感謝にうなだれるように汗に濡れた英子の胸の内に頭を埋め直した。
息づく彼女の胸は一面に汗ばみ、彼女の匂いをたちこめさせながら大きくゆっくりと上下し、まるで今まで交わり合っていた部分のように、横たえた彼の顔を濡れそぼった乳房の内にかかえこんだ。
胸から顔を上げ、肩を抱いて彼が接吻すると、その後、英子は初めて、驚いたように大きく眼を見開き、彼に向って笑いかけた。
それは気恥ずかしく面映ゆ気で|悪戯《いたずら》っぽい笑顔だった。
治夫はふと、嘗て英子が、自分がしたように、自分とこうしたことをする想像をしたことは無かっただろうか、と思った。
「恥ずかしいわ」
英子はいい、開いた窓の隣りの窓から死角になる方へ体をすさらせた後、のけぞるようにして窓を見上げ首をすくめて笑って見せた。
「隣りの男の子が見ていたらもう覗かなくなるだろうな」
「なぜ」
「がっかりしてさ」
英子は彼女の方から顔を近づけ彼の肩口へ押しつけた。
「隣りの子だけじゃない、昔の高校の、他の男の奴らもみんながっかりするだろうな。みんな同じことを夢見ていたんだから」
「いやだわ、男の子って」
英子は、確かめるように指で彼の裸の肩を押した。
「俺だってその一人さ。そして女王|蜂《ばち》とこうなることの出来た選ばれたる一人って訳だ」
「そんないい方、嫌だわ。私、あの頃の自分が嫌いだもの」
「どうして。そんなことはない、それに、君は前も今も変ってない」
「変ったわ」
彼女は両手で自分の乳房を支えるようにしていった。そんな仕草は女の癖としてありきたりだったが、かえって、治夫には万感こもごもにも見えた。
「もし俺たちが高校の頃、こんな風になっていたとしたら、どうだったろう」
「あら」
英子は甘えたように彼を覗き込んだ。
「多分、俺はあんな風には家を飛び出さなかったろうな」
意味のない想像だが、彼はその仮定に一寸興味が持てた。
「そうかしら、私と一緒に飛び出してたんじゃない」
いった後、英子は自分に近づいた話をそらすように、
「でも、そんなこと考えても意味がないわ」
「でもな、あの時、もし俺に勇気があって、君にもし――」
声を上げて笑った後、
「でも私、緋本さんとなんだか今夜急に初めてっていう気がしないわ」
英子はいうと治夫の胸に顔をつけた。その動作は自然で、彼の心を動かした。
「俺もだよ。さっきもそう思ったんだ」
彼が抱き寄せると、英子はそのまま覆いかぶさるように接吻して来た。
「私たち昔じゃなく今だから良かったのよ。今になってからだからこうして」
熱っぽく彼女はいった。そんな彼女は、彼同様に、年に不相応のいろいろな出来事を経て、この世の中を一応体得し、それでいてまだ以前のままのものを残して持っているように見えた。
「そうだよな。俺だって、今、君に会えて良かった。今より以前の俺だったら、君に声かけられてどうしたかわからない」
少し芝居がかった感傷だったが彼はいった。
さっき予感したように、ことが終った後、彼にとって高校時代の大方の記憶の印象が前とは違ったものになったような気がした。
「でも、あなたに偶然会えて良かった」
英子も少し感傷的にいった。
「どうして。後悔しているんじゃないか」
「嘘じゃないわ。私、誰も友だちがいないんだもの。いつもなんだか張り合いがなくって、なんのためにこんな風に暮しているんだかわかんないわ」
「そいつは大ごとだな。しかし、誰だってそんなもんだろ」
「あなたも」
「そうだよ」
「結局どこへいっても同じだわね。東京にいたからあなたに会えたのね」
いいながら英子は治夫の胸にたまった汗を手の指で拭って見せた。
彼女はまだ少し酔っているようにも見え、それがかえって、いっていることを本音に見せた。
「でも君は、今日あそこで会うまで、俺のことなど考えたことなんぞ無かったろう」
皮肉ではなく、あの偶然への別の感慨で彼はいった。
「それはそうね」
誠実に考え直して見た挙句のように、英子はいった。
「本当に偶然だったわ。でも、人生ね」
治夫はその言葉にひどく感動した。そのひとことに彼は自分の及ばぬ、彼女の今までの生活を感じたような気がした。彼は一瞬、以前遠く手に入らぬものとして彼女に抱いた憧れに重ねて、敬意をすら感じた。
「いいことをいうな。君は」
「いやだわ」
英子は笑い、黙って体を寄せて来る。また、彼女の匂いが間近に|氾《あふ》れる。彼はそれを抱きとめ、接吻しながら安らぎ満足した。
今も同じことをして、その直後に、後悔や|虚《むな》しさや|倦《あ》き足りなさを感じなかったのは随分久しぶりだ。この以前に、誰といつそうであったか覚えてもいない。
今夜の出来事は、ひとつの性交、というだけではなく、いろいろなオーヴァチュアと、そして今|尚《なお》つづいている後奏を伴った、完璧なシンフォニイのような気がする。一人の女を新しく手に入れたことで、今までこんなに安らぎ満たされたことは無かった。これには確かに、英子がいったように、人生というものの深ささえ感じられるような気がする。
腕にしたものを、彼はまたもう一度確かめ直すように抱きしめて見た。英子も、同じように強く押しつけて来た。
或いは、ひょっとしたら、彼女は以前、俺のことを、俺がしたように気にしたことがあったのかも知れないぞ、彼は思った。それは有り得ぬ筈のことだったが、今の彼には、そんな可能性を想像出来るような気さえした。
接吻の後、汗ばんだ彼女の輪郭に尚手を伝わらせる治夫をゆっくり押しのけると、英子は立ち上がり、開いたままの窓を気にするように体をかがめ小走りに部屋を横切ると、向うに|点《つ》いていた明りを消し、水でしぼったタオルを持って戻った。
|肘《ひじ》をついて起きようとする彼を柔らかく押し倒すように、英子は彼の汗に濡れた胸から肩を拭いた。
そんな仕草は、あの地下のアーケイドの店での彼女の作業を思い起させた。
そして治夫はまた、あの店の主人を思い出した。そして更に、或いはこうしてここに自分と同じようにしていたかも知れないあの男について。
しかし、彼は自分に命じてそんな詮索を今夜は|止《や》めた。いずれにしろ、二人は、今日あそこで偶然に出会うまでは互いに不在でしかなかったのだから。
だがもしそうとしたら、俺はこれから先あの男にどんな気持を抱くだろうか、と思った。
帰るつもりで彼が脱いだものを身につけ出した時、英子は、
「帰るの」
不安そうな声で訊いた。治夫は黙って腕にした安い夜光時計を出して見せた。
「いいのよ」
|怖《おそ》る怖るつぶやくように英子はいった。そんな仕草は、初心の娼婦のようでもあり、また本当に、日頃も寂しそうにも見えた。
「明日、午前中に病院に用事があるんだ」
大した用事ではなかったが彼はいい訳した。
何故か、今夜はこのまま帰るべきなような気がした。久しぶりに感じる、新しい情事への節操だった。
シャツの袖を通す彼の横で、英子は裸の上にじかにスカートとブラウスを着込んだ。そんな様子はひどくコケティッシュに見える。彼が手をのべると、英子はそのまままた、もたれるように彼の胸へ倒れ込んで来た。一枚きりのスカートとブラウスの上から、治夫は今夜自分のものになった新しい女の体を改めて素裸より生々しく感じ直し、満足だった。
「明日、電話するよ」
|覗《のぞ》き込んでいった彼へ、
「ええ」
何故か急にあきらめたような声で英子は頷いた。
「本当なんだ、明日どうしても手術に立ち合わなけりゃならない患者があるんだ」
少し慌てて治夫はいった。彼は英子が今夜の出来事を、彼にとって、或いは彼女にとっても、今までによくあった出来事と同じに考えることに不満だった。といって今夜のことが、彼にとって正しく何であるのかということについて考えた訳ではないが、いずれにしろ、彼は今までになかった風に満足し、安らいだ気持になれたのだ。他人が、それも女が、彼をそんな気持にさせたということは、或る意味で、彼にとっては驚くべきことといえるかも知れない。
いき当りばったりの偶然から始まったが、彼は英子に向って、この偶然の上の何らかの必然について説明したいような気がした。しかしそれが何かは彼にもよくわからない。
「俺の、医局の電話番号だよ」
手帳のメモに書いて千切って渡す治夫を英子は黙って見返す。
「どこかに書いておいて。明日は俺の方から電話するけれども」
念を押していった。少なくとも、これは、奇遇以上の何か、遊び以上の何かに違いない。彼はそれを彼女にも悟らせたいと思った。つまり、性交の終った後でも、彼はまだ興奮してい、酔っているような気がしたのだ。
「明日、手術があるの」
彼の試みが通じたように、英子は彼のいい訳を信じ、今夜以外の再会を信じたように問い返した。
「あなたがするの」
「いや、そうじゃない、でも大事な手術なんだ」
それは大事というより、新しい手術だった。しかし、昼間、彼は明日のその手術を見学するかしないか、決めかねていた。だが今は、それを口実に英子の部屋を出て自分の家に帰る。何故かそうした方がいいと感じた。理屈ではなく、ただの勘だ。その方が、必ず後々のためにいい。少なくとも彼は自分に今夜起ったこの出来事に、そんな風に一目おいたのだ。
「その内、あなたも手術するんでしょう」
「さあ」
「あなたに手術されるとしたら、どんな気持だろう」
彼女のそんな想像は、治夫に彼女をひどく身近な人間に感じさせた。今まで彼に向ってそんなことをいった相手はいない。
「どんな手術なの明日のって」
「頭さ。子供の頭の中に、できものができてるんだ」
「頭を切るの」
英子は顔をしかめて見せた。
「そうだよ、切っても切っても出来てくるんだ。今度で三度目かな」
「助かるの」
「どうかな。明日手術するのは、有名な専門家だからな。片輪になるかも知れないが、命は助かるだろう」
「死んだほうがましねえ」
英子はいった。
いわれた言葉を、治夫は反芻して見た。奇妙に、自分の話していることにも、彼女の言葉にも実感がなかった。そんなものかも知れない。いずれにしろ、彼の見知らぬ患者の生命の問題は、今夜、この英子の部屋の出来事の、或いはまたそれを押し包んだ蒸し暑い天気の、はるか|彼方《かなた》のものごとにしか思われない。
「明日、手術が終ったら電話するよ」
彼は片腕で彼女の厚い肩を抱き寄せながら立ち上がった。
戸口の|鍵《かぎ》を外した後、二人は狭い|三和土《た た き》で抱き合って接吻した。その後、英子は建物の外まで送って来、路地を見すかした後、下着をつけていない一枚きりのブラウスの胸元を手で確かめながら、肩を寄せて路地の外までついて来た。先刻車を降りた通りに出る前、二人は脇の家の門蔭でもう一度抱き合った。押しつけ合った体に、薄いブラウスを通して彼女の裸の乳房がはっきりと感じられ、彼は体の内に蘇るものを感じ、英子もそれを感じとったように、彼女の方からは体を離そうとしなかった。くり返した接吻は、情事の後というより、始まる前のような気がした。
彼女は小路の出口まで送って来、やって来る他の人影に、胸元を気にする彼女を治夫が押し戻した。人影が近づくと彼女はようやく後ずさりし、何度も手を挙げながら帰っていった。奥の路地に消えていく彼女の姿を、彼は惜しいような気持で見送った。それは全く自身でも思いがけない気持で、歩き出した時、彼は知らずに自分が明日のことを考えようとしているのに気づいた。
なるほど、こいつは一寸したものかも知れないぞ、と彼は思った。
少なくとも、彼は今までのように、不満で、|焦《いら》だち、退屈な人間ではなくなっていた。そう感じ直した時、どういう訳でか彼は突然、このことによって自分が素直な人間になれそうな気がしたのだ。そしてそれは懐かしい、子供っぽい幸せを予感させた。
時おり通りすがる、夜遅く疲れた通行者たちとは違って早い足どりで大通りまで歩いた。そこまで来てようやく、彼は今夜が蒸し暑い夜だったのを思い出した。
手術は何かの都合で午後の二時半に変っていた。医局を覗いてみたが、局員は|他所《よ そ》に出ていて人気がなく、雑然としたまま無人の部屋は誰かに略奪されつくした後のように見えた。白衣の姿の見えぬ医局は、人間の生命や健康にかかわりある場所とは思えぬほど薄汚れて見える。
廊下で、何かをとりに帰る見知りの看護婦といき合った。彼女は今日の手術の見学願を覚えてい、
「オペは午後にのびたのよ」
と|報《しら》せてくれた。
そうしたもののいい方の中に、看護婦学校を出、ようやく病院に馴れ、ナイチンゲールとしてという訳ではないが、そろそろ自分のやっている仕事が|他《ほか》と違ってどんなものであるかを実際に知り出した若い看護婦の、研究員に対する、専門的にはともかく先輩のおごりが感じられる。それでもこの女は中ではましな方だ。若い局員たちに女として噂されることもある。彼女は白衣を着ない方が可愛らしく見え、つまり女としての魅力があり、一度互いに非番の日街で出会い、当然在り得るそんな|邂《かい》|逅《こう》に彼女がひどく驚いて見せた時、治夫は「寝てもいいな」と思ったこともある。
医師たちと違って、彼女たちにとって、人間の生命とか健康とか肉体というものはどんなものに映るのだろう。より尊く、より複雑なものか、それとも、より安易でより単純なものか。
看護婦同士が患者の病状や手術について、医師の口真似で話し合っているのを聞く度、嫌な気がする。自分の学んでいることを彼女たちが辱しめているというのではなく、その逆で大方あんなものに違いないという気がするのだ。
しかし、結局のところ、そうでなくては医術など成り立たぬのかも知れない。ともかく、医学を専攻して時がたてばたつほど、医学の理念などというものはますます遠い、火星の植物のように、ありそうであり得ないものに思えて来る。
それにしても病院という奴は、と彼はよく思う、皮肉な小説家なら一月いれば、この建物の内容について千ほどのアフォリズムを考え出すことだろう。
医局から捜し出したレントゲン写真を持って小走りに戻りながら、彼女は横をすぎる時彼の脇にぶつかり、彼の方でわざとそうしたようにふり返り、笑って|睨《にら》んで見せながらどういう訳か、突然、
「昨日は暑かったわね」
といった。
それがいかなる交流になるのかは知らぬが、彼は約束のように微笑し|頷《うなず》き返す。
彼女は満足したように頷くと走り去った。その後姿は、白衣ながら、白衣でない時の彼女を感じさせ、彼女もまた気まぐれで訳のわからぬ、要するに肉体だけの、女というものの一人だという印象を残した。
病院の建物には適当な冷房が通ってい、治夫は言われた後、つい昨日の暑さに実感が伴わず、改めて昨日を思い直すことで英子を思い出した。
外気も、昨日に比べるとずっとしのぎ易くなってい、今日は夜になって小雨ぐらい来そうな曇りようだ。今思い直して見ると、英子との出来事が昨夜のような気がしない。かといって、いつともいえない。何年も前から一緒に暮したような気もするが、同時に、昨夜以上に新しい出来事にも感じられる。
そして何故かほんとの出来事は、彼が今いる世界とは時間的にも空間的にも全く|繋《つな》がりのない世界の中で起ったような気がする。それは多分、今の俺の生活と、英子と一緒に過した頃の生活とが全く通わなくなってしまったせいだ、と彼は思った。
昼前を図書館で過し、昼食の後、彼は資料の翻訳の頼まれものをしている高野教授のところへ仕事の中の用件について確かめに出かけていった。
教授の部屋に治夫が見学する今日の午後の手術を執刀する宮地教授がいた。二人は丁度、今日手術を受ける患者について話し合っていた。宮地は患者の病気、|癌《がん》に関係ある何かについて高野に確かめにやって来ていた様子だ。高野は治夫を横の椅子に待たせ、手元の何か資料を眺め直しながら首を|傾《かし》げた。
治夫の前で二人はかざしたレントゲンフィルムを眺め直す。
「これが前に撮ったという断面スライドだがね、これでは|星状芽細胞腫《アストロプラストーマ》だが、前の手術が表面的なだけに、実際に開けて底まで覗いて見ないとわからない。ともかくここまで|腫《しゅ》|瘍《よう》が来ている」
「すると、底部が神経|膠《こう》|芽《が》胞腫だということもあり得る訳だね」
「ある。としたら、手術も無駄ということになる」
「アストロでも悪性だからね」
高野は覗こうとする治夫に向って患部の断層スライドの写真をさし出して見せた。治夫は宮地に午後の手術見学を告げて写真を手にした。
「ここで聞いた話は、外では黙っていたまえ。見学者に必要なだけのことは私から話すから」
宮地は念を押すようにいった。
「現在の障害は」
高野が|質《ただ》した。
「耳と眼へ来ている。腫瘍の場所からいって、患部を全部切除しても、聴覚の方はむつかしいな。それだけですめば安いものだ。場所が場所だけに、前の手術は二度とも上っ面で誤魔化して体裁つけているが、結局すぐにぶり返している。ここまで来たら、一応根こそぎのつもりで開け直すが」
口封じをした後、共犯の心安さでか、半ばは治夫に聞かすように宮地はいって見せた。
「助かりそうですか」
治夫の向けた、ぶしつけで|素人《しろうと》じみた質問に、宮地は|咎《とが》めるように見返すと、
「手術でかね」
「いえ、患者の一生として」
「手術が四分六、その後は、まあ、六分四分かな」
用意していたように宮地は答えた。いい方には、突き放して非情というより、ものを造る職人が納期を請け合うような軽薄さがあった。そしてまた、治夫は見知らぬ一人の患者の運命が、手術場のまばゆい白熱燈の下の緊張によって変えられ造り出されるのではなく、まだ白衣も着ずマスクもつけぬ、そり損った|顎《あご》ひげの残ったどこか|卑《ひ》|猥《わい》な横顔の男の思いつきでとうに決められてしまっていることに割り切れなさを感じた。
治夫は改めて、テーブルに置かれた患部のレントゲン写真を手にとりかざして眺めた。子供の小さな|頭《ず》|蓋《がい》|骨《こつ》が写ってい、患部を示す薄暗い|翳《かげ》りを見ずとも写し出された頭蓋骨の小ささは、それだけで不吉でとうに生命のないもののように見えた。
やがて宮地は時計を見、持って来た写真を集め、立ち上がりかけ思い出したように来週にある予定の医者仲間のゴルフ試合のことを質し、何やら話し合っていた。その様子は、今まで患者について話していたと同じように、緊張も期待も楽しさもなく、手術もゴルフも、ともに、この男にとってはその意味を欠き同次元のものになってしまっているように見えた。
宮地の帰った後、用件についての話し合いが長引き、治夫が手術教室のある建物に入った時は示されていた開始の時間に遅れていた。廊下にはもう参観者の姿は見えず手術中の|灯《あか》りが|点《とも》って部屋の扉は閉っていた。円型階段教室の上部の扉に通じる横の細い階段を上がろうとした時、横の患者運搬用エレベーターの扉が開き、看護婦に付き添われた患者が車のついた担架ベッドに寝かされて出て来た。その後からつづいて、三十前の印象の女と中年の男が降りたった。
女は、扉に向って動こうとするベッドに手をかけ、その気配に看護婦たちは立ち止った。女は何か重い荷を背負い切れず思わず手をつくように白布に覆われた患者の腕の辺りに触れた。看護婦が咎めて見返し、女はおびえたように手を引き、その後、たった今死んだ人間を眺めるような眼でまじまじと患者を見守った。
すでに麻酔の効いた子供の患者は、血の気の引いた寝顔で動かなかった。手術のため頭髪を|剃《そ》り落された青い顔は、少年か少女かわからない。睡って動かぬ患者の顔は血の通わぬ塑像のように見える。そんな我が子に向って、母親は|呆《ほう》けたように半ば口を開いたまま何か語りかけようとしながらそれが出来ずに見えた。手術の前に、その子を悼むような母親の後ろで、夫らしい男はこれから起る出来事が何であるかを解せぬように、無表情に、戸口に点った手術中の灯りばかりを見上げている。
治夫はこの親たちが、さっき彼が高野の部屋で聞いたと同じことをどこかで聞かされたのではないか、と思った。
婦長が押すようにして彼女の体をベッドから離し、車は開かれた扉の中に消えた。最後に残った婦長が|囁《ささや》いて元来た方へ促したが、彼女は激しく|抗《あらが》うようにかぶりをふって廊下に残った。
婦長が消え中から扉が閉じられた時、彼女は階段の上り口に立ったままでいた治夫へ気配に気づいたように向き直り彼を見つめた。側に立った夫がまるでその場にいないように、残された最後のものにすがるような表情で、彼女は治夫に向って一歩近づいた。必死に何かいおうとし、その言葉を知れぬまま|喘《あえ》ぐように彼女は身を震わした。
治夫は突然打ちのめされたように、彼女を見返しながら立ちつくしていた。ある強い感動を彼は体の内に味わった。それは僅かの感傷も洗いそぎ落した後に残った、何か最後の最後のものに感じられた。そして、今自分が味わっているものに、治夫は何故かふと、はるか以前の覚えを感じたのだ。
が女は身を震わせながら、そのまま落すように視線をそらすと、治夫から外れるように今来た道に向って踏み出していった。遅れてその後を夫が従った。
その時何故、自分が彼らを追って歩き出したか治夫にはわからなかった。
「休んで待たれる部屋は、このつき当りにあります」
彼はいった。
女はふり返り、祈るような眼で彼を見つめ直した。その眼の前に、治夫はまた立ちすくんだ。新たな衝撃が体の内にあった。この女の眼にはっきりと見覚えがあった。すぐにそれを思い出せた。
それは、幼い頃通った幼稚園の何かの記念日に彼がもらい、子供心に何故かひどく気に入って子供部屋の壁にかけつづけておいた、額入りの子供向きの聖画の聖母の表情だった。
連想は荒唐に思えたが、それを滑稽と感じる前に彼はその連想に押し切られ眼を凝らして相手を見直していた。何と定かでないまま、|痺《しび》れたような感動が体の内にあった。
それは、我が子を生とも死ともつかぬ困難な手術に送り込んだ母親という設定に全く関わりなく、むしろ逆にそうしたものを一切忘れさせてしまうほど、ただ視覚的絵画的な強い印象だった。
自分で知らぬ間に彼はいっていた。
「御安心なさい。手術は大丈夫ですよ。私は今まで宮地教授の部屋にいて、教授が他の教授にこの手術のことを話すのを側で聞いていましたが、まず大丈夫だろうということでしたよ」
女は問い返すようにまじまじと彼を見直した。そして、おずおずと、しかし確かに彼女は|微笑《ほほえ》んだ。その微笑は、また新たに彼を打った。彼女の微笑は治夫に、今自分がしたことについて錯覚させた。いかなる他人にも不可能な、これから彼女の子供の手術を執刀する宮地教授でさえ不可能なものを、彼はこの女に与えてやれたような気がしたのだ。女に応えて彼も微笑し返した。
自分の浮べている微笑みが、彼がいつも反発をもって眺め、それを自分の習慣としては決して受けつぐまいと思っている、あの教授たちの浮べる、患者やその家族たちにとっては、多分神々しくもうつる微笑であるのを彼は知っていた。それでいながら、なぜか今だけ彼は自分を咎めようとしなかった。自分が今この見知らぬ女に、|嘗《かつ》て誰に対しても抱いたことのない素直な澄んだ感情で向い合っているのを彼は感じた。それは|庇《ひ》|護《ご》者である医者の優越などではなく、もっと間近な何かだった。それは彼にとっても未知なるものに思えた。
女は心もとなげに微笑んだまま、一心に彼を見つめなおし、治夫はそれにこたえて迎えるように立っていた。やがて彼女は微笑んだまま、彼に向って深く頭を下げ彼の教えた廊下の奥の部屋に向って歩き出した。何か大きな仕事をし終ったあとのような気分で彼は彼女を見送っていた。
痺れたような何かが体の内にあった。治夫はまだ半ば茫然とその後姿を見送っていた。たった今自分のしたことについての反省の前に、一種使命感に裏打ちされた満足があった。
それは、手術見学のために中二階の見学席へ扉を押して入り、空いていた席に腰を下ろしても尚、突然の感傷として薄らいではいかなかった。
すり鉢型の手術教室の床では宮地が背後のスクリーンに拡大された患部の断層スライドについて説明していた。病状についての彼の主観はいっさい話さず、これから行われる手術の経過についてあらかじめ説明すると、部屋中の明りが元に戻り、手術燈が点いた。その明りに照らし出されて、床の中央の手術台にさっき見た子供が|仰《あお》|向《む》けに寝かされている。それは相変らず、手術を受ける患者というより、血の通わぬ塑像のようにしか見えない。
しかし少なくとも治夫は、そこに置かれているものが、小さいながら正しく人間であり、その運命が一人の女の全存在に関わりあるほど重いに違いない、ということをここにいる他の誰よりも知っていた。
宮地が眼の前の小さな頭の頭皮を|剥《は》ぐ最初のメスをかまえて切り口をマーキュロで記した時、治夫は一瞬、自分に向って願うように微笑み廊下の奥の部屋に向って歩き出していったあの女の後姿を思い出して見た。
まばゆい手術燈に照らし出されたまま動かぬ、剃り跡も青い小さな頭部は、これから頭蓋骨を割って外し脳の底にある得体の知れぬ|腫《は》れものをとり出すという大手術を受けるにしては、余りに小さく心もとなげにしか見えなかった。それは、この手術を経てなんとか生きようとしている生命というよりも、すでに命絶えて|萎縮《いしゅく》凝固してしまった物体にしか見えぬような気がした。
だが、宮地の手のメスがその動かぬ物体に突きたてられ引かれ、その軌跡を|紅《あか》く染めて吹き出すものを眺めた時、彼はそこにあるものが正しく、あの母親の運命をすら|賭《か》けさせるものであることを、痛いように感じた。今まで幾度も手術を観て来たが、そんな感慨は初めてだった。
宮地が頭蓋を外すための|穿《せん》|鑿《さく》に頭上に|鑿《のみ》をあてがい|槌《つち》をふり上げ打ち下ろした瞬間、治夫は息をつめ、思わず願った。願った後で、今自分は祈ったのではないか、と思った。
宮地は手なれた様子で、子供の頭に|穿《うが》った穴に|糸《いと》|鋸《のこ》を通し引いていく。参観者は繰り拡げられるオペラの序曲を聞くように、その単調で不吉な物音に聞き入っている。
本当の幕が開くまでの間に、治夫は急いでもう一度、たった今の自分について考え直して見た。
女があの時ふり返り、あんな風に俺を見なかったら、俺はあんな言葉もかけはせず、今もこんな気分で眺めたりはしなかったろう。
あの時の女の顔が、俺のあの絵の記憶に繋がって感じられたことも確かだ。
しかしあの一枚の絵が、今突然あんな風に思い出されるのはどういう訳なのか。多分、あの絵は俺にとって何かのメタファか象徴なのだ。多分、俺があの絵を大切に思ったあの時代そのものの。するとこれは、俺の、今さらの母親への何かの気持の現われという訳か。
外科の手術を眺めながら、科外の精神分析の答案はひどく簡単に書き上げられそうで、彼は苦笑した。
しかし、そうだとしてもいいじゃないか。
自分の考えが、母親という厄介なしろものにいき当ったが、彼はいつものようにそれを避けて通りすぎようとはしなかった。
自分の内にあった、母親に対する何かがこういう気持にさせたとしても、彼はどういう訳か素直にそれをそれとして、|勿《もち》|論《ろん》、自分の母親とは全く関わりなしにだが、今の気持を許して|容《い》れられるような気がした。
そう確かめて、彼は前よりも落着いた。そして、やや感傷的とも情熱的とも言える気分で眼の前の手術に向い直した。
手術はすすんでいき、何センチ平方かの頭蓋骨が切り取り外される。スピーカーを通して、教授たちの使う鑿や鋸や槌の音が響いてくる。患部を見つけ出すまでのそうした作業の物音だけ聞いていると、扱われているものが人間の、それも子供の頭などとはとても思えない。やがて骨が取り除かれ開いた口から、宮地は職人が何か貴重で精密な機械の故障をのぞくような手つきで脳の中へ指を入れた。探す指の前に立ちはだかる何かを丁寧におしのぞけながら彼は当りをつけ、助手に向って次の器具を要求した。離れた参観席から微細なところはわからぬが、助手に向って促し示す教授の様子から患部が発見されたのがわかる。麻酔や血圧の報告を確かめ、宮地は何の|躊躇《ちゅうちょ》もみせずこれから患部を切り取ると宣言した。それは軽率ではないにしても、悪びれなさすぎ、眺めている治夫にかえって不安を感じさせた。参観者の目から小さな患部をふさぐようにして宮地の指先の作業は進められ、何分かして彼の手は横から差し出された受け皿に、血にまみれた赤ぐろい軟体を取り出して捨てた。それは想像できる子供の小さな頭の容積から差し引くには多過ぎるくらいの量に見えた。だが彼の指は、また再び開けられた穴の中へ差し込まれ、両三度宮地の指は、微細な生きた機械の中から切り出したものを受け皿の中へ運び出した。それこそが、何の原因かは知らぬが、幼い患者の脳髄を|蝕《むしば》んでいたものの本体だった。
なお残るものはないかというように、助手の差し出した断層写真を眺め直したあと、四度宮地の指が差し込まれ、最後に残った少量を取り出したとき、治夫はふと、何度か目にしたことのある堕胎の|掻《そう》|爬《は》を思い出した。
軽便なあの手術でも、子宮|腔《こう》内に執着しながら|掻《か》き出されてくるものは、本体とは全く別個の生きものなのだ。人間というやつは結局、自分の内の全く別なるものに、多かれ少なかれ悩まされながら生命を保とうとしなくてはならないようだ。話が自分の外側の他人というしろものになればなおさらのことだが、妙な連想で治夫は思った。
腫瘍の切除のあと、宮地は手早く患部をしまい込んだ。切り取られた頭骨がはめ込まれる。「これが時計の分解掃除ならばな」と、手術場よりも先に緊張の解けた参観席で誰かがいい、それが誰しもの感慨だった。
行われた手術の手際に関係なく、宮地が相手にしたものがどんな厄介なものかは誰もが知っている。治夫が連想した掻爬と違って、何の意思も|恍《こう》|惚《こつ》もなく子供の頭の中にひそかに受胎されたものが一体何なのか、なぜやってきたのか、なぜこのからだを選んだのかは誰にもわかりはしない。癌を含めた悪性の腫瘍と患者との結びつきの機縁は、いってみれば神秘なくらいのものだ。そのものの発生、成長、|侵蝕《しんしょく》、占拠の総体に比べれば、医者がそれを見つけ出し、切り取るなどということは、医学の無知をあかすまるで野蛮なほどのものでしかないような気がする。
宮地は婦長に促し、患者を運び出させた。治夫は手術室の外での眠ったままの患者とあの母親の対面を想像してみた。手術は決して|呆《あ》っ|気《け》なくはなかったが、今まで眼の前で行われていたことは、何故か、あの女の怖れや悩みと関わりなかったことのような気がする。
彼女は手術の前、廊下ですれ違った見知らぬ男の与えた言葉を|憶《おぼ》えて、それを信じようとしているだろう。いや、きっと運び出されてきた息子の顔を眺めながら、必死にあの言葉にすがろうとしているに違いない。
患者が出された後、宮地はマスクを外しゆっくり手を洗うと、汚れた手術着のまま参観者に向ってふり返った。ようやく蘇ったようにしわぶきしざわめく参観者たちを、宮地は手術台に肘ついたポーズで見直すと、みんなに断わり、煙草に火をつけてくゆらす。完全に一本の煙草を何もいわず長々と吸いつくす彼の姿には、たった今すませた仕事への自信が|窺《うかが》えた。
やがて宮地は助手と二階の観覧席の参観者たちに向って断層写真をかざしながら、手術の経過を説明し直した。二枚の写真を示し、
「この二枚の断層写真でも、骨の蔭に入って鮮明でないこの部分が患部であるかどうか不明であったが、切開してみた結果、予想のとおり患部は側葉のこの深さにまで達していた。この種の腫瘍はともかく全患部の切除を必要とする。しなければ、わずかの部分を残しただけで、短期間に必ず再発してくる。患部がここまで届いていることは、切除に関してある危険を伴ったが、私はあえてそれを行なった。これがいま少し深いところまで侵されておれば、再発を予期しても今回は切除はやめただろう。すなわち脳側葉をこの深さでオペすることは、この部分におさめられた神経機能を侵す怖れが多分にある。最も予期されるものは聴覚神経の障害である。この結果患者は聴力を低下させるか、失うかもしれない。しかしながらなお私は、腫瘍の侵蝕状況からみてあえてそれを行うことで少なくとも患者を短期の再発から救い、あるいは疾患に関しての全治の可能性も与えたわけである」
と宮地はいい、同意を求めるように立ち会った病理の高野教授へふり返った。
高野は請われたことの意味に気づいたように、間をおいてから頷いてみせた。その間宮地の様子は悪びれぬ、というよりも、悪びれまいとするように見えた。
「つんぼか」誰かがつぶやくようにいった。宮地がほのめかしたことは、|麻《ま》|痺《ひ》がさめ、患者の知覚が戻ったときすぐにわかるだろう。しかし宮地の判断は多分間違ってはいなかったに違いない。そしてほとんど目に見えぬ微細な脳神経を一々避けて多量な患部を切り取るということは誰に出来ることでもない。しかしあの母親が問われて、息子の聴覚と生命のどちらを選ぶかは知れているはずだった。
手術の衝撃が無事に過ぎ、麻酔がさめてあの患者が知覚を取り戻せたとき、あの女がどんな顔で息子をのぞきこむかを彼は想像してみた。それは今までどのような病状の患者のどんな手術を見た後でも、彼が持ったことのない習慣だった。彼はふと、執刀者の宮地があの母親に問われても口にせず、あるいは同業の自分からの専門的な質問には明かすかもしれぬ事柄について、質してみたい衝動を感じた。こんなことは初めてだった。彼はガーゼに包まれた患部しか見なかったあの子供にも、また患者の病気にも特に関心があったわけではない。そういえば今まで医者を志しながら、病気や病人に本気で興味を持ったことがなかった。
あの母親に対して彼が感じたものは、ただの関心とは違っていた。いままで患者に関係ある附添人や見舞の女に関心をもって近づき、外で交渉を持ったことだってあるが、それとこれとは全く違う。
明りが戻り、宮地の退場に拍手が起った。拍手は、今までこの部屋で行われていたことがらに、どう考えてもそぐわず、場違いで殺伐なものに聞えた。宮地も頷くようにそれに応えただけで部屋を出ていった。
参観者は解き放されたようにざわめき、席をたって出ていく。手術場では残った看護婦たちが、互いに何か冗談をいって笑いながら後片づけをし出した。
今までここに居合せた人間たちにとって、今行われたことがらは結局何だったのだろうか、と治夫は思った。あのことに真実関わりあったのは、結局、あの女一人だけなのかも知れない。
「やるだけのことはやったというんだろうが、結果として、助かるのかね」
治夫の横をすぎる一人が連れにいった。
「頭に穴をあけて、脳味噌の底までさらったんだからなあ」
好奇で冷酷な観客の声を、治夫はなるほどという思いで聞いていた。
参観室を出、治夫は思い切って宮地の部屋を訪ねて見た。軽率な気もしたが、何故かそんな自分を押えられなかった。宮地は着換えて丁度、彼の部屋を出るところだった。
治夫を見、相手は彼を思い出した。
「先生の手術を拝見しました。教室ではお尋ね出来なかったのですが、開けて見て、腫瘍は何だったのでしょうか、アストロですか、それとも矢張りグリオでしたのですか」
|訊《き》いた治夫を、宮地は咎めるように見返した。
「君がなんでそんなことを訊く」
「さっき、高野先生の部屋で、あそこまでお聞きしましたからです。是非、結果を知りたいと思いました。いけませんか」
宮地は最初不興気に黙ったままでいたが、やがて思い直したように、
「まだわからない。助手が患部の切片を断層写真に撮る筈だ。その結果は、高野君の方にも廻すが」
向うで訊け、というようにいった。
「腫瘍が予想以上に深部まであったということですが、全部切除出来たのですか」
相手は黙ったまま彼を見返し、その眼の中に躊躇の影があった。そのまま何もいわず、宮地は立ち去っていった。その様子だけで、聞けずとも答えは知れていた。
治夫に今わかることは、深すぎて取り残された患部の根があり、腫瘍は多分いつかはより深いところで再発するということだった。
彼はすぐに、あの女の顔を思った。
今、それを知り、俺はあの女の前に、あの時と同じように立っていられるのだろうか、と思った。その時、彼の体の内にきざしたものは、自分に全く|関《かか》わりないことがらでありながら、かすかだが確かな、おびえだった。それを|塞《ふさ》ぐように、教室に遅れただけのきっかけで自分が垣間見てはならぬものを覗いてしまったことの意味を余り考えまい、と思った。
しかしまた、断層写真の出来て来る明日か明後日、治夫はその結果を高野教授のところへいって確かめて見ようと思った。あの女とその子供の運命がどうしても、自分にとっては他とは違う関わりに感じられてならなかった。
帰り支度の後、だれもいない医局の隅の小部屋で椅子を引いて一服している治夫へ何かものを探しに来た見知りの看護婦が「どうしたの」と聞いた。
「どうもしやしないよ」
「ばかに考えぶかげね、失恋でもないでしょう」
彼女はいうことと同じように、俗っぽい顔に俗っぽい化粧をしていた。治夫より一つ二つ年上で、彼女はいつか彼を誘ったことがある。彼はそのとき気づかぬ振りをした。相手がかなりあからさまだったから、彼が気づかぬふりをしたことは相手にもわかっただろう。彼女はそれで大して傷ついた様子もなかった。病院ではそんなに男出入りの多い女ではないが、彼女は探しものを手にした後、なお何かを待つように、立ったまま彼を見おろしていた。
俺は今そんなに隙のある顔をしているのかな、治夫は思った。
「オペを見て疲れたかな」
「あなたでもそんなことがあるの」
多分どんな意味でもなく彼女はいったのだろうが、彼は聞きながら同じ問いを自分にくり返してみた。
「さあね」
彼は笑った。
「嬉しそうね、なんだか」
彼女はまつわりつくようにいった。眺め返しながら、治夫はこの女の月の支配の暦ぐあいを考え、ついで、誘いに乗らず抱くことのなかった白衣の下の彼女の肉体を想像してみた。彼女は期待と、俗な女の俗な善意をただよわせた目で彼を見返しながら、躊躇したように微笑んでみせた。そんな様子は多分ふだん着に着替えたときよりも肉感的に見えた。彼の想像は目の前の白衣の中身ではなく、すぐに英子を連想させた。治夫はやはり手術で疲れている自分を感じ直し、もう一度彼女へ微笑して見せた。話しかけるかわりに彼が手をのべ電話を取ると、彼女の面に失望が浮び、それを隠すように、彼女はひどく|曖《あい》|昧《まい》な微笑に変ると、突然なにか無理に気づいたように、あたふたと部屋を出ていった。
電話は話し中だった。手にした受話器を一度置くと、間を置いて多分この次にかかるに違いない英子との電話に、小さな期待のようなものが感じられた。疲れてはいたが、何とはない、充足感があった。彼はそれを確かめ、一人で首をかしげて見た。
今の俺のこの気分に、さっきの手術前の出来事は関わりあるだろうか。
あるかも知れない。英子と同じように、あの親子も、突然、俺の内側に向って踏み込んで来た他人だ。なまじな他人と違って、英子は彼の不可能なほど遠いと思っていた昔の記憶の中の人間であり、あの親子は、出会うまで全く見ず知らずの人間だった。ということで、俺はいわば、理想の他人づき合いを手に入れたということになるのかも知れない。
自分の生活にたち入って来るのをふるいにかけ、結局はしめ出すのがいつもの習慣になっていたが、英子も、あの親子も、気づいた時、もう彼にとって思いがけぬところにいたといえる。
それにしても、俺はあの廊下であの女を見て何故あんなに強いものを感じたのだろうか。
顔を合わす度に不快な市原と会った後、思いがけず井沢英子といき会ってから、どういう訳か自分の生活の調子が変って来たような予感が、ふと今もある。そんな気分にいわれがないと知りながら、いつものように|頑《かたく》なではなく、彼はそれを楽しんだ。
二度目にかけた電話は出た。声ですぐに相手があの店の主人とわかった。井沢英子、というと、相手の声の表情が微妙に変り、治夫の名を訊き返した。
「英子の兄です」
どういうわけか、とっさにそんな嘘が出、そのことに彼は愉快になった。
「兄さん」
相手は訊き返し、
「そうです。今日東京に出てきましたので」
「ちょっと待って」
男は明らかに不服そうにいいのこし、間をおいて英子が出た。すぐに気づいて、
「あら、あんた」
彼女は|嬌声《きょうせい》に近い笑い声を立てる。多分その声は、客の誰よりも、すぐ近くにいるあの男の神経にさわっただろう。
「今夜会える? 何時に」
「いいわよ、わたし遅番だから」
いいかけ、背後で呼ばれたか、
「ちょっと待って」とまでもいえずに、声がと切れ、彼女が電話をふさぐ気配があった。予期した以上に長く会話がと切れた。次第に治夫には電話の向うで起っていることが想像出来た。彼が英子の兄などとふざけて名乗ったことで、相手はかえって彼が誰だかを察したに違いない。
英子に兄がいるのかどうか、治夫は知らない。手でふさがれたままの受話器を通して、治夫はこの前あの店で感じた彼女と男の間が間違いなかったことを悟った。こんなに長く、一たん電話に出た彼女を引きとめておけるのは、あの男しかいないはずだ。そしてあの男は、彼女が彼と電話で話し合うことに不愉快以上のものを感じている。待たされる不本意さの間にも、治夫は電話の向うにいるあの男へ|憐《れん》|憫《びん》と優越を感じた。他人の女を取って感じるこうした気分に彼は馴れていた。
それにしても待たされる時間が長すぎるような気がした。
待ちながら、昨夜、腕にしたものについて彼は思い出してみた。それは今、こうして待つだけの価値のあるものに違いなかった。少なくとも今ほかと取りかえはきかぬような気がする。
ひどく手間どって英子はようやく電話に戻った。
「ごめんなさい、ちょっと急用ができて、それで私、今夜駄目なの」
興奮を隠そうとしながら、押え切れぬように、彼女は小さく息をはずませていった。
「お店の中の整理がいろいろあって、仕事が終ったあと、遅くまでかかるのよ」
それが嘘なのは治夫にはすぐにわかった。いい訳をしながら、いかにもぎこちなく、彼女の声は彼に嘘をつくということとは別に、何か憤りをこらえ切れぬように、震えていた。
自分の感情を押えきれずに、声を震わせている英子に、そのぎこちなさの故に、彼は好感を持った。今までの経験のように、今夜のあいびきを不可能にさせた第三者への無関心とは違って、彼女を引きとめたあの男への新しい反感が育ったということで、自然に彼と英子の境遇は恵まれぬ恋人たち、という形になりおおせたわけだ。
「俺はいくら遅くてもいいけれど」
未練ではなしに一応彼はいった。
「でも、いつまでかかるかわからないのよ」
彼女はまだ少し喘ぎながらいった。
「今夜は駄目ね、この次まで待って」
彼女の声は急に落着き、冷たいくらいな口調に変った。治夫には彼女がそれを近くにいるあの男に聞かせるためにいったのがよくわかった。
「君のところで待っていてもいいが、それより終ったら、十二時前なら俺の下宿先に電話してくれてもいいよ」
相手を困惑させぬようにいったが、
「わたしのところ、駄目だわ。鍵が、それにお姉さんが」
英子はうろたえたようにいった。
「じゃあ明日だ、明日もう一度電話するよ。それとも都合のいいとき、病院へ君のほうからしてくれるかい」
「ええ、するわ。ごめんなさいね、ほんとうに」
すがるように英子はいった。
女はこんなとき、いつも同じような声を出す、彼は思った。
そしてその声にはやはりコケットリイがある。それを感じることで彼は満たされない自分の情欲を悟り直した。いつもはそれをその場で忘れることができたが、電話を切ったあと、まだなお改めて彼は昨夜、自分が抱いて腕にしたものを思い出した。そして、それはじかに見ずに、離れていても彼にある興奮を予感させるだけのものだった。わずか昨夜の出来事でありながら、彼はそれを懐かしいものにさえ感じた。今夜は会えぬ英子に、自分をこんなふうに執着させているものは何なのかと彼は思った。それは何故か、さっき、手術前にあの母親を見て感じたものとどこかで関わりがあるような気がふとした。それが何かさだかでないまま、自分が他人にこんなにひっかかって感じられるのは、とにかく今までの彼にとっては珍しいことだった。
ふと自分が今妙な立場にあるような気がし、彼は苦笑し、立ち上がった。このままでいくと、なんということなく、自分があの店の主人と同じことになりかねない。彼女が今夜、何で、どのようにしばられているのかということを想像しかけて|止《や》めた。このことはとうに察して承知していた筈なのだ。
それでもなお、英子と今夜会えぬと知らされて、電話を切った後で、彼は彼女を今夜来させなかったあの店の主人に不快以上のものを感じた。
それは最初、英子と再会したとき、店まで入って彼女となれなれしく話した彼を、身分違いの客として咎めて眺めたあの男の目つきへの反発、とも違った気分だった。英子とああなった後でも、あの男と英子の関係を想像してみることで治夫はあの男に焦だち、憎んだりする気はなかったが、今になって彼はあの男の存在を、今までのいつよりも強く不快なものに感じた。
それは|嫉《しっ》|妬《と》や英子への同情などではなく、自分の前にあの男が他人として立ちはだかっていることへの不快だった。いままで他人の女を盗んだとき、相手の男が気がつきかけたり、あるいはその男が都合悪く女と一緒にいることで、望んだように女を手にすることができないということは何度もあったが、|諦《あきら》めるというよりも、それが当然のことと割り切って次を待った。女が次にそのことにひけ目を感じてみせても、それにつけ込んだりすることもなかった。
が、しかし、治夫ははじめて不満だった。昨夜から今日にかけて続いてきた何かが、あの男が立ちはだかることで駄目になったような気がする。あの男のやったことは英子だけでなく、さっきの手術であの母親を通して彼が味わい感じていたものまでを損い、けちをつけてしまったのだ。それは今夜満たされなかった情欲への不満だけでなく、もっと深いところで彼を刺して傷つけた。
昨夜抱いた英子の肉体のこまやかな感触を思い出す代りに、治夫はもう一度あの店で不愉快そうに自分を見わたした男の目つきを思い出してみた。思い出すことで彼はよりいっそう不快になった。
あの男への敵意の執着は、今夜果されることがなくなった情欲に裏打ちされてか、時がたつにつれてより確かに強いものになった。彼はそれを憎しみに違いないと判断した。
これもまた彼にとって思いがけず珍しいことだった。彼はこの種の心の作業を、七年前のあの出来事以来、生活の中で習慣として止めてしまっていた筈だった。浅黒くでっぷりした、客種を金銭ずくで露骨に見分ける目つきのあの男を自分が憎んでいると悟ったとき、治夫は心のうちでときめきのようなものをさえ感じた。
それは長らく離れていたかつてのなじみのスポーツを、偶然に思いがけず手がけ直し、ラケットかクラブを握り直してみたときのような軽い興奮だった。このラケットでははたして昔のようにうまくボールが打てるだろうかと治夫は思った。それは英子に感じたあの懐かしさの中での安らぎや、それとどこかで関わりありそうな、あの手術前の母親への共感と比べて、彼にとっては嘗て慣れていただけに、より確かなものに思えた。
自分が今あの男に感じているものの裏に、英子は動機の一部としてしかないような気がする。
そして、そのほうが俺にとってわずらわしくない、と治夫は思った。
その日、残された時間をつぶすあてもなく、代りに今胸のうちにあるものについて考えながら、彼は練習を再開する運動選手のようなときめきを感じていた。
もしやと思いはしたが、その夜十二時まで英子からの電話はかかってこなかった。時計を確かめ、読んでいた小説の区切り目で本を閉じ、明りを消した後、彼は自分が突然激しく情欲的になるのを感じた。そして彼は、英子の体のことだけを考えた。そんな自分を鎮めるために、彼は電話の後であの男に対して感じたことをもう一度思い出してみた。が、それは彼が今感じているものを相殺してはくれず、かえって熱いものに育てた。興奮してしまった自分を床の中で持てあましながら、彼は遠い以前、昼間学校で目にした英子を夜思い出し|苛《さいな》まれた自分を振り返ってみた。あの頃と今と二人の間を妨げているものは明らかに違っている。それだけ英子が間近くなったことに疑いはなかったが。
翌日、病院に出て着替えると、すぐに、治夫は外科病棟に行き、見知りの助手に、きのう宮地教授の手術を受けた患者のその後の容態について尋ねてみた。子供はまだ特別看護室に入れられている。教授の回診はまだだが、経過は大事ないようだった。宮地がいっていた脳側葉の患部処置によってもたらされるかもしれぬ機能障害について質して見たが、助手はまだそこまではわからないといった。その後の経過についても聞かしてくれるように頼んで別れた後、子供のいる特別看護室の前を通ってみたが、看護婦の出入りもなく、あの母親の姿もなかった。おそらくそうしても何の益もないまま、彼女は、昨夜眠らずに、息子のそばに付ききりでいたに違いない。
宮地が手術後の最初の回診で患者を見、何かいうまで彼女は手術後と同じ不安でいるに違いないが、治夫はとにかくもう一度あの女を眺めてみたかった。
昼休み、昨日の手術を見た周囲の誰かが、回診した宮地の所見をまた聞きして来て話していた。今のところ経過は順調で、手術のショックもそれほど大きく残ってはいないそうだ。
昼になっても英子からの電話はかかってこなかった。昼休みの後、階下の公衆電話で店に電話してみた。店員らしい若い男の声が出、彼女は今日休んでいる、といった。彼女と一緒にあの主人の姿も店にないのかどうか、確かめるすべはなかった。失望の代りに彼はまたあの男への不快を感じた。それは自分で測り直すまでもなく、間違いなく憎しみだった。それをまぎらすために彼はもう一度、あの子供のいる特別看護室の前へ行ってみたが、母親の姿を垣間見ることは出来なかった。
三時前、病理の解剖室にいた治夫へ看護婦が電話を知らせた。手を洗っただけの白衣のままで内線電話をとると、相手は英子だった。
「昨夜は御免なさいね」
窺うような声でいった。
「すごく遅くなって、そのあとみんなで夜食をたべに行ったので無理だったの」
英子のいい訳はひと晩と半日考えただけあって、昨日の電話の時よりは無理なく聞えた。
「いいんだよ。それより君、今日は休んだの、店へ電話したんだ」
「そうなの」
「公休じゃないんだろう」
問われて何かに臆し、身構えるように、
「でもいいのよ」
彼女は多分それを治夫のために、ととってもらいたかったのだろう。
「そうか、それならおれもサボるか」
「ほんと」
英子ははしゃいでみせた。そうやって彼女は昨日の電話での出来事を通り過ぎるつもりだったのだろう。四時に落ち合う場所を約束して受話器を置いた。
その時になってあらためて治夫は手にしみた解剖用のホルマリンの匂いに気がついた。その匂いは、電話がかかるまでの、馴れて気にならぬようで矢っ張り気になる彼の気分を象徴しているように思えた。電話を終え、満足しかかっている自分を彼は感じ、自分が英子との再度の|逢《おう》|瀬《せ》に、知らずにどれほど期待していたかを悟り直した。確かにあの汗ばんではずみのある彼女の体の手ざわりに比べれば、彼がその午後触り続けていたものは殺伐以上だった。
手を洗い、着替えて、助教授に「急用で早退する」と断わって医局を出た。
本館の表玄関を出かけた時、治夫はガラス扉を押して入ってくるあの母親を見たのだ。わずかな暇に家へ何かものを取りに帰ったのだろう、大きな風呂敷包みを抱えている。昨日の不安に打ちひしがれ、なかば絶望したような表情と変り、今の彼女は息子のいる病室へ戻るということだけに心を占められていた。行き交う人間の多い玄関ホールの中で、雑多な周囲の何にも関わりなく、全く違う種類の人間のように彼女はたった一人きりに見えた。顔色は昨日と違って沈んだようにくろずみ、彼女は昨日よりもずっと疲れて見えた。昨日の不安と恐怖の代りに何が彼女の心の内を占めているか、治夫にも想像ができた。
とはいえ、その不安もすべてが取り去られたという訳ではなかったろう。抱えていたものを持ちかえ、下げ直し、はずみに重さによろめいて、手にしたものを石の床へ支えるようにおろすと、立ちどまる暇ももどかしげに、|噛《か》むようにわずか唇を曲げると荷物を持ち直し、それでようやく平衡をとったように体を斜め前にかたむけたまま、一心不乱に彼女は歩いてくる。それはふと、何かの宗教画に出てくる、過大な荷物を負うて耐えようとする殉教の人物のように見えた。
一瞬は声をかけることに治夫はためらった。相手のそんな気配と、こんな場所で、白衣から着替えた自分を相手が認めることができまい、と思った。自分から明かせば彼女は思い出したろうが、|何故《な ぜ》か彼はそうしたくなかった。彼女に顔を合わすだけで思い出されたかった。だが、何かの気配に気づいたように彼の前を通り過ぎようとした時、彼女は顔を上げて彼を見、彼は声をかけてしまった。
そして彼女は、自分一人だけだった世界にようやく他人を一人見出せたように、|翳《かげ》った顔色の中にふと|安《あん》|堵《ど》の表情を浮べ、彼に向って微笑み、立ちどまったのだ。
彼女は治夫を憶えていた。そのことが、強く彼を打った。あの手術から今までの時間を超えて、初めて行き会った時と同じように、自分でも不思議なくらい素直な気分で彼は彼女に微笑み返した。
「いかがですか」
「お蔭さまで」
二人は同時にいった。
「医局で聞きましたが、順調のようですね。まずご安心でしょう」
「はい、おっしゃっていただきましたとおりに、お蔭さまで」
手にしたものを放して床に置くと、両手を前にそろえて、丁寧に頭を下げる。
「大きな手術ですから、予後も充分注意されますように。もっとも子供は大人よりも|恢《かい》|復《ふく》がずっと早いですよ」
「でも、まだ絶対安静で」
「それはそうです。しかしそれももうじき解ける。何しろ場所が場所ですからね」
あの時と同じように、彼は自分に許されてもいないことを請け合っていた。
「はい」
そしてあの時と同じように、一心にすがるような目で彼女は|頷《うなず》き、頭を下げた。
「そこまで手伝いましょう」
手を伸べ包みの片側を持ち上げ、ホールの端のエレベーターまで一緒に歩いた。
|踵《きびす》を返して立ち去る治夫へ彼女はもう一度両手をそろえ、頭を下げた。酬いられたような安らぎが彼の内にあった。
玄関を出、これから待ち合わしたものを思ったとき、その日の午後は|大《おお》|袈《げ》|裟《さ》でなしに、彼の短い半生のうちでも最も充実したものに感じられた。
約束した場所に治夫は時間丁度に着いたが、英子は彼よりも先にやって来てい、彼女のほうで彼を見つけ出した。彼女が時間前からそこにいたのは様子でわかった。彼に向って|微笑《ほほえ》んだ後、彼女は気をとり直したようにちょっと表情を固くし、窺うように彼を見つめた。それは罰を受けるのを待っている子供のようにも見えた。
「時間どおりだね」
それが皮肉にとられぬように彼はいった。
「ゆうべは御免なさい」
英子はいった。
「月に一度やる大掃除と整理が急にあったの。私だけ帰るわけにいかないし」
目をそらしながらいう。
「じゃ店は今日はずいぶん清潔になっているだろうな」
相手を助けるように治夫はいった。
「下宿に帰って十二時まで電話を待っていたんだぜ」
「御免なさい」
治夫を確かめ、安心したように彼女は小さく肩をすくめてみせる。そんな仕草の中にも再会の初対面の時にはなかった|媚《び》|態《たい》があった。
「いいんだよ、気にしないで」
「怒っていない」
「ああ、だから今日を楽しみにしていた」
嬉しそうに肩をすくめてみせると、英子は自然に彼の腕をとった。並びながら彼女はもう一度だけ、確かめるように斜めに彼を見上げてみせた。彼女を|咎《とが》めたり、軽い皮肉でいじめたりすることは容易にできたが、彼はせずにおいた。昨夜の二人の逢瀬を妨げたものについては、いつか彼女が打ち明けて話すべきだし、彼から聞き出せはしたが、別にそれが今である必要はなかった。再会の後の二人の短いつき合いで、彼女が今それをどうしても告白しないでいられないというほどの気持の様子もない。昨日の電話の時のように、今はまだ彼女はそれを出来るだけ隠そうとするだろう、少なくとも彼のほうで問い|質《ただ》さぬ限りは。
もし彼女が今日店を休んだ訳を質せば、彼のために、というかもしれないが、それは彼の都合も知らずに、勝手にすぎる。英子は昨夜の出来事の後、ただ闇雲に店へ出る気がせず、そして多分あの男の顔を見る気がせずに休んでしまったのだろうが、それはそれで彼女のあの男への気持を明かしていて、治夫は今のところそう確かめただけで充分だった。
第一、二度目の逢引がもし告白で始まりでもしたら、ずいぶん鬱陶しいものになるだろう。
「めし食う前に何する、まだちょっと早いだろう、映画でも見る」
治夫ははしゃいだようにいって見せ、英子は頷いた後、更にもう一度確かめるように彼を見つめ、
「昨日、何かいいたいことあったの」
英子が突然そう尋ねたことで彼女が案外正直なのがわかる。現在彼女の立場ではそんなことを聞き返すのは禁句の筈だった。
「どうして」
彼はわざと問い返し、
「そんなふうに見えるわ」
「君に会えたじゃないか」
「あら、それだけ」
「そうだな、まあ」
「何よ、教えて」
英子は甘えてみせた。ここらの呼吸は二人とも合っていた。
頷きながら、昨夜から今日にかけて自分が病院で体験した事柄について|迂《う》|闊《かつ》に話しかかり、彼は思いとどまった。それを他人にどう説明していいのか、彼自身にもまだよくわかっていない。いえばただ当りまえの出来事になってしまうだろう。彼が語るべき何かは彼自身の内にあって、それがまだ何か、彼にも確かでないのだ。
「手術がうまくいったのさ、危なかった手術が」
あたりまえにいった。|尤《もっと》もそれは英子にはなにか荘重な響きでも伝わったらしく、けなげに感慨深げな表情で、
「よかったわね」
彼女は頷いてみせた。
「八つの子供の頭の中に|腫《は》れものが出来たのを取り出したのさ。もう少し遅れたら死んでいたろう。ぎりぎりで命は助かったが、ひょっとしたら|聾《つんぼ》になるかもしれないがね」
「聾に」
心を打たれたように、彼を見上げた後、
「でも、その子のお母さん、それでも感謝しているわね、きっと」
英子はいった。
彼女が無意識にいった言葉は治夫を感動させた。昨日から今日、自分一人が見て感じていたものについて、そこにはいなかった彼女が同じように感じ、簡潔にそれをいい表わしたことに、彼は、自分と彼女の間に通い合う何かがあるような気にさえなった。少なくとも英子のいったことは、彼が彼女に告げかかってやめた、いい表わしがたいあの事柄を察して、それをどう損いもしてはいなかった。
「君はいい子だな」
彼はいいかけ、その後の説明を思ってやめた。
二人が今望んでいるものは互いにわかっていたが、それをいきなり求めるには今までの逢瀬の回数が少なすぎ、二人は出来たての恋人同士のように、そのためのいわば儀式として映画を見、食事をとった。映画は儀式にふさわしく、退屈で、食事はデザートのあとに待っている欲望までを軽減するほど|美味《う ま》いものではなかった。
食事の後、また少し酒を飲み、英子は一昨夜よりも早く酔いかけた振りをしてみせた。初会のぎこちなさの必要はなかったが、二度目にはまだ二度目の節度のようなものがあって、一軒すませた後、どちらからともなく「もう少し」といい出して、別の店で飲んだ。
「どこへ行こうか」
店を出、通りまで出て治夫は訊いた。そのときだけ英子は身構えるように彼を見返し、
「どこか落着くところがいいわ」
うつむきながらいった。彼女の下宿が都合悪い訳を治夫は質しかけて止めた。それはまたのことでいい。
「君は泊れるの」
そんなたぐいの旅館に行くくらいの金はまだ何とかある。彼を見上げた後、英子はだまって頷いてみせた。頷くことで彼女が何かを振り切ろうとしているのがわかる。
「あなたの部屋は」
「それでもいいが、あんまりぞっとしたところじゃない。どこか宿屋を探そう」
英子はさからわずに頷いた。知ってる旅館はあったが、拾った車の運転手に尋ねた。値段の見当を告げると、運転手は一人で算段し、請け合って車を出した。
盛り場をはずれた近くにある、その目的のためだけにあるありきたりの旅館だった。案内し、交渉に先に入っていった運転手から予算を聞かされてか、二人を迎えた女中は改めて客を値踏みする表情もなく、通りすがりに道を訊かれて路地の入口を指して教える人間みたいに、無表情、機械的に案内した部屋の戸口を指した。
こうした旅館の使用人というのはみんな似た顔をしている。部屋の中で行われることの尊厳さへの敬意のあまりこんな無表情になるのか、それとも同質の人間としてのむきだしの好奇さのせいかのどちらかだ。どっちにしても慣れぬ客には心細いが。
尤も、治夫はこんな宿屋で臆することはなかった。そして英子も、慣れた様子ではないが、案内された部屋にすわって|寛《くつろ》いで見えた。丁度、空いていた風呂を女中がすすめ、治夫は承知し、英子も頷いた。部屋の外にある風呂場を教えて女中が立ち去った後、英子は坐ったまま彼を見上げ、ゆっくり微笑んで見せた。
風呂に促されて立ち上がると、彼女はそのままもたれるように彼に抱かれて来、受けとめられると、むしゃぶりつくように唇を合わせてきた。唇は少し酒臭く、接吻しながら彼女が大きく|喘《あえ》ぐのが、押しつけられた胸の動きで感じられた。
こんな場所に初めて来てしまった女のように、そのまま興奮しかかる彼女をなだめるように治夫は体を離し外へ促した。
いつも感じることだが、こうした旅館の廊下というのは、部屋ごとに客が入り込んでいるくせに、いつも妙にしんとしている。各部屋に|収《しま》われたものごとがそれほど確かな秘密でもあるまいのに。しかし紙の|襖《ふすま》や、薄い板戸一枚で|遮《さえぎ》られた部屋でも、ともすると、銀行の金庫のような荘重さに感じられる。
風呂場の扉の内|鍵《かぎ》は、英子が馴れた手つきで手を伸べてかけた。斜めに背を向けて脱ぎ合った後、二人は素裸のまま脱衣場で互いに見つめ合い、湯殿に入ってもう一度眺め合った。
確かな明りの下で|晒《さら》されたものの上に、一昨夜の感触を思い出そうとした時、さっきと同じように英子のほうから抱きついて来た。抱き合いながら、手にしていたタオルを彼女のほうが先に離した。
取り去られた衣類と、湿ったタイルの冷たさと、あけられた|浴《よく》|槽《そう》から立ちのぼる湯気が二人に外界への隔絶を感じさせた。この種の知覚が、どんなに若い恋人たちをも、急速に大胆に、年をとらせてしまう。
英子は目を閉じ、立ったまま喘いで、丁度その姿勢でベッドに横たわった時のように、体を沈ませていく治夫の接吻と|愛《あい》|撫《ぶ》を受けていた。まわした手と、頬と、唇で|挟《はさ》むようにして抱いた英子のむき出しの肉体の輪郭は、たわわに熟れきってはずみがあり、彼女自身がそれをもて余しているように、喘ぎ、うめいたまま、体を|慄《ふる》わせていた。
晒し出した英子を抱き締めながら、治夫は、一昨夜のあの満足の内にはなかった気持の余裕が、今はあるのを感じていた。あの再会からはからずも手にしたものが、昔の夢を超えて、現実に何であるかを彼は今焦らず、おびえもせず、確かに触れて、|嗅《か》いで、味わいながら、計ることができた。それは彼を一昨夜以上に興奮させ、大胆にさせた。それは英子にも伝わり、突然目ざめたように、|抗《あらが》うように、彼女は治夫に向ってむしゃぶりつき直した。
タイルの床に二人は互いのからだを抱えて計るような姿勢で、坐りこんだ。タイルの固い冷たさが、二人の情欲の最初の突風を沈めて|醒《さ》まし、同じ姿勢で見つめ合ったまま、二人は微笑し、やがて体を離した。離れる体を最後まで|繋《つな》ごうとするように、固く高まった彼女の乳首だけが彼の胸に触れていた。彼が指でそれに触れると、英子は隠していたものを見つけられたように身をくねらせた。一昨夜よりも二人は出来たての恋人らしく見えた。
二人にとって、二度目のことがらは、このためにしつらえられた旅館の部屋という数字を当てはめられた因数分解のように、何の滞りもなく解けて進んだ。何の気づかいもなく、二人は相手に投げ出して与えられる限りのものを与え、奪い合った。
英子は始め、胸の中にある何かを振り切ろうとするように、少し不自然なほど努めて見せたが、やがて本ものの興奮と快感がそれを押し流した。興奮の渦が二人を巻き込んでいくにつれて、二人は迷うことなく盲目になり、|貪《どん》|欲《よく》になり、一昨夜以上の快感がそれをあがなった。|氾《あふ》れ出たものにまみれながら、二人はきりなくいつまでも抱き合ったままでいた。英子が声や、表情や、姿態で示すものが、治夫に快感の中でも自分がなお彼女に追いついていないのではないかという焦りと渇きを育て、彼は際限なく、残酷なくらい、相手を責めつけ、彼女もきりなくそれに応えた。
二人は、二つの快感が重なり練り合わされた玉のように揺れながら転がった。それは性交そのものであり、二人がいま交わし合っているものは、スイッチの操作で、トーチランプの先から次第に紅から紫へ色を変えて吐き出される|焔《ほのお》のように、余分な感情をすべて完全燃焼させたあとの、情欲そのものだった。
氾れたものの中で、治夫は彼女の体の内に交えた自分の部分が自律を失い、そのまま熱く溶けて彼女の体の内全体に広がっていくのを感じた。それは、きりなく反復される動作の内での|静《せい》|謐《ひつ》なほどの感覚であり、その感覚の中に、彼は自分の何もかもを投げ込んで浸すことが出来た。
ある極点に向ってじりじり近づきながら、彼は自分がこうしながら、いつも、体の内のどこかに残して持っている、最後の一枚を脱ぎ捨てようとしているのを感じた。それは彼にとって初めてのことに思えた。そしてそれは、生れて初めての|恍《こう》|惚《こつ》に達せられそうになった女のように、彼を|昂《たかぶ》らせた。
自分が到達する寸前に至ってしまい、そのまま自失してしまったように硬直したまま彼女の内の最後の虚空に向って突き刺さりながら、その瞬間、治夫の意識は、現実からはるか以前の時間に向って|飛翔《ひしょう》し、いわば歴史的な知覚となって、この瞬間の二人が用意されたものであったのを悟った。
そして今夜だけは、いつものように、至り尽したものの向うにぽっかりと口を開いた|淵《ふち》は用意されておらず、どんな|虚《むな》しさの中へも落ち込むことなく、彼は今まで感じ続けたよりももっとほてって、熱く、大きく、確かな彼女の肉体を、腕の内に感じ直した。
むしろ彼女のほうが、あの極の中での自失から、ようやく目醒めて自分を取り戻し、感じたままでいる彼に焦って追いつこうとしていた。体をかえ、結ばれていた部分をなおしっかりと繋ぎとめようとするように押しつけながら、彼女は、押しつけた体の上で顔だけをのけぞらせるようにしながら、彼を見つめ直し、突然、また力いっぱい彼を抱き締めた。
「好きだわ。なんだか、このまま死んでしまいたいみたい」
そして、
「あなたのこと、ずっと前から好きだったのが、わかったわ」
英子はいった。
治夫は戸惑わず、警戒もせずに、それも聞いていた。儀式や習慣として頷き返すかわりに、治夫は腕をかえて英子を抱き直した。彼女が|囁《ささや》いたことを、少なくとも今彼は素直に聞きとることが出来た。
彼とて、ずっと以前井沢英子をあんなに強く意識し、その欲望がどうかなえられることもないまま時が過ぎながらも、その渇きが自分の内に知らぬままずっと潜んであったということを、一昨日の|邂《かい》|逅《こう》で知らされたのだ。
しかし、彼女の囁いた言葉に答えたり、その意味を考えたりするよりも、彼は、今腕にしているものを、もう一度、今と同じように得直したかった。その欲望は、探そうと努めなくとも、たった今過ぎて行ったものの余奮のすぐ底に、またすぐ上げて来る潮のようにはっきりと感じられた。間もなくやってくる潮の時を測って待つように、彼は、抱いた片方の手をはずし、腕の内にあるものの輪郭に沿って伝わらせて見た。
その手が二度、三度往復するうち、彼女の内にも同じものが兆し、英子はさっき風呂場でしたように、電源を繋ぐように、固くなった乳房を自分の手で持ち上げ、彼の胸に押しつけた。「さわって」、彼女は囁き、彼がそうすると、|蘇《よみがえ》りかけていた|羞恥《しゅうち》を飛び越えて、英子の体はすぐにそれに応えた。
彼の指の間で乳首がすぐ固く大きくなって上をさし、大きな乳房全体の色がほんのりと変って来る。それはまぎれもなく、生きた、みずみずしい肉体だった。
「俺は今日の午後、この手で死体をいじっていたんだよ。解剖でね」
英子は一瞬意味がわからずにいたが、その後顔をしかめ、身を引く代りにさし出したものを、逆に、彼に向って強く押しつけた。
「それは女のひと」
笑いながら彼女は|訊《き》いた。
「さあ、どうだったかな」
「若い女のひと、おばあさんなら許してあげるけど」
低く声を立てて英子は笑って見せた。
翌日遅くまで眠って同じ頃二人は目をさました。時計を見ながら、
「病院はいいの」
英子はいったが、自分の勤めについては、何もいわずにいる。
注文した朝食を浴衣のまま向い合って食べると、治夫は、英子が新鮮さを失ったということではなしに、ただ、二人の仲がずいぶん前からあったような気がした。いつもなら彼はこんな時、自分がこの女と別れる時のことを考えたりするのだが、今朝は頭に浮ばなかった。
短い浴衣のすそを合わせながらきちんと正坐して朝食をたべている英子を眺めながら、彼はまた、その一枚の浴衣の下に収われてあるものを考え、感じていた。それは、日中の自然の明りの下では、また今までとは違ったものであるに違いなかった。
彼が考えていることを感じとったように、食事の途中、英子はふと手を休めて彼を見つめ、驚いたように微笑んで見せた。
旅館の玄関を出て歩き出しながら時計を確かめ、
「半日遅刻ね」
英子はいった。
「君もだろう」
答えず、肩だけすくめると英子は眉をひそめ、確かめるような目つきで前方を見つめた。彼女がまた彼女の現実に戻ったことが彼にもわかった。
彼が何か、いおうとする前に、|塞《ふさ》ぐように向き直り、
「明日電話ちょうだい。私からしてもいいわ」
「店にしてもいいかい」
「いいわよ」
逆に挑むようにいった。
「じゃ、今日の夕方にでもするか」
「今夜も」
驚いたように見返し、にっと笑うと、
「でも私、お店今日も休むわ」
「じゃ、これからどうする。俺も休んでもかまわない。つき合おうか」
「駄目よ。私姉さんのところに行ってくるわ」
分別くさく、たしなめるようにいった。
駅の中で右左に別れ、彼女の方は立ちどまって治夫を見送り、階段の下で振り返った彼に、英子は女学生がするように手をあげて見せた。
こんな具合に、途中で一度立ちどまって振り返ったりして女と別れたことなんぞなかった、確かめるように彼は思った。
病院で昨日しかけていた解剖の続きを終え、下宿には九時近くに戻って、当てにはせずに待ったがやはり、その夜は英子からの電話はなかった。
翌日治夫は、見知りの助手に質し、三日前行われた脳|腫《しゅ》|瘍《よう》手術の患者が、昨日特別病棟看護室を出て、普通の病室に移されたと聞かされた。手術のショックはとれ、経過は順調にいっているようだ。患者の聴覚障害については、回診した宮地教授は今のところは結論は下していないらしい。助手は他の用事で、昨日の回診にはついてはおらず、詳しい経過については知らなかった。彼のいる病理学科の高野教授にも質してみたが、宮地からその後の詳しい経過についてはまだ報告が来ていない。大体、こうした大学の大学病院内での学科相互の連絡はよほどのことでないと疎通を欠いていた。
治夫は午後暇を見て、あの母親が看取っている患者の病室を訪れて見ようと思った。特別看護室に比べて普通の病室ならば、部外者がのぞく程度でさしさわりはない筈だった。
午後、彼は外科の看護婦室に電話し患者の病室番号を確かめた。塩見というのがあの親子の姓だった。外科病棟の三階の、二人合部屋の並一等の二十一号室に、塩見和彦は寝かされていた。
部屋は、階段と看護婦詰所のちょうど真ん中あたりにある。廊下には他の白衣の姿もなく、まぎれこんだ他学科の白衣が咎められることもなしに、部屋の扉を叩いた。
彼が手をかける前に扉は中から開けられ、あの母親が顔をのぞかせた。白衣の訪問が時間外だったか、一瞬彼女は身構えるような表情を見せたが、すぐに彼を認めて頭を下げた。
「いかがですか。経過は順調だそうですね。私は病理のほうの科におりますので、すぐにお見舞に来られませんでしたが」
「はい、お蔭さまで」
母親は両手を前へ|揃《そろ》えて頭を下げ、|窺《うかが》うように奥に寝ている息子を見やった。
衝立で仕切られた片側のベッドに、少年は頭中を包帯に包まれ寝かされている。眠っているのか、戸口の気配に気づかぬように軽く目を閉じたままだ。
ベッドの脇に、彼の祖母か、母親と目鼻立ちの似通った年輩の女が坐っている。彼女が何もいわぬのに、老婆は立ち上がって同じように頭を下げた。
脇に立って|覗《のぞ》き込んだ治夫を、|暫《しばら》くしてから|瞼《まぶた》を|痙《けい》|攣《れん》させ少年は薄く目を見開いて仰いだ。それまで眠っていたというより、意識が半ばはっきりせぬままにいたようにも見えるが、
「どう、元気になった」
彼がいうと、少年は薄く笑い返す。しかしその表情ははかなく見えた。彼を見、探すように母親を見詰めた後、少年はあきらめたようにまた目を閉じる。
振り返った治夫を、母親と老婆は不安そうに、質すような目で見返していた。一昨日見た時、生色ないほど疲れ翳って見えた彼女の顔色は、ようやく青白いというくらいまでに戻っては見えたが、不安の影は消えておらず、そのせいか彼女は一昨日よりも|痩《や》せて見える。
彼女は願うように彼を見詰めていた。|倣《なら》うように老婆も立ったまま彼を見詰めている。その時になって彼は、一昨日の午後、病院の正面玄関で感じたものを詳しく確かめることができた。間近にながめ直した彼女の顔は、やつれてはいたが、美しかった。それは、不安と|怖《おそ》れに晒されたためにいっそう研がれた、美しさともいえた。
長い間の心の苦痛に、すべての表情が奪われてしまった後、生れつき与えられていたものだけが、かろうじて最後に残ったという心もとなく淡いような美しさだった。それは今の彼女の、そして多分これからの彼女の立場をそのまま明かしていた。
大きな悲劇が襲った時、それに抗し切れぬ人間の顔は、醜くなるか、或いは、美しくなるよりない。後者は、特に若い医師たちをたじろがせる。
彼女はただ願うように彼を見詰めている。
治夫は、彼女たちが自分に期待しているものについて悟った。手術後の新しい不安の中で、彼女は手術前のあの時と同じように、彼が何か福音をもたらすことを願っているのだ。
「何かご心配でもありますか」
「この子の目と耳はどうなるのでしょうか」
治夫が予期したことを、彼女は尋ねた。
「手術された宮地教授が何かおっしゃいませんでしたか」
「お尋ねしましたが、手術直後ではまだはっきりわからないと」
「今日ですか」
「いいえ、今日の回診にはおいでになりませんでした」
そのときノックがあり、看護婦が隣りの骨折らしい患者のずれたギプスを直しに入ってきた。見詰められている目の前で、治夫は話を中断する訳にはいかなかった。
「手術前はどの程度だったんです」
「目も耳もかすんで、ときどき全然見えなくなったり、聞えなかったりしたことがありました」
「しかし、計らねば正確にわかりませんが、いま見たところ、視覚の反応は正常にあるではありませんか。何しろ頭の手術ですし、手術後の神経のショックもあるでしょう。やはり一度に恢復ということはありませんでしょう。現に前にそれだけ神経を侵されていたとなると、その恢復もある程度時間がかかりますよ」
「はい。けさになって、ようやく私の顔を見て、笑ってくれるようになりましたが」
母親は息をとめ、窺うように治夫を見詰めた。
「でも耳のほうが全然、何をいっても、全く聞えないようなんです」
治夫は、宮地教授が手術後参観者に向ってした説明と、手術前、高野教授の部屋で断層写真を手にしていった所見を思い出した。
手術の可能性を、四分六と低く見た彼が、手術を一応の成功と認めた後、参観者たちに行なった説明は、輝やかしい成功のあとに残る最低の障害への、自らの権威のための弁護であったに違いない。もともと手術は四分六で、死ぬか、よくて聾と決っていたのだ。
しかし、子供の生命がともかくもとりとめられた今、子供の聴覚は、母親にとってもう一人別の子供の生命のようなものに違いなかった。それを|贅《ぜい》|沢《たく》と咎めることは誰にも出来まい。
宮地は彼女にはそこまで詳しく明かして執刀しはしなかっただろう。ただ、一か八かとだけいい渡された手術が成功と告げられれば、母親は、失われかけていた息子の総てが戻ってくると信じようとするに違いない。
治夫はふと英子がいったことを思い出した。しかしこの母親があきらめと感謝の心境になれるのは、もっと先のことだろう。しかし、それが早ければ早いほど、誰よりも彼女のためになるのだ。
「聴覚も、うまくいけば、時かけて段々に戻るでしょう。視力と並行して、ということは必ずしもありません」
治夫は決して不用意にそういいはしなかったが、
「うまくいけば」
母親は叫ぶようにいって壁へ倒れかけた。老婆が慌ててそれを支え、治夫も手を貸し、彼女を老婆の今までかけていた椅子に坐らせた。
「いいですか。宮地教授も手術前にいわれたと思いますが、あの手術は、前の二回の手術が不充分で、その結果、いわば手遅れのものだったのです。それに成功しただけでも拾いものでしょう。手術がもう少し早ければ、あるいは聴覚も完全に救えたかもしれませんがね。結果について軽率にはいえませんが、もう少し時たてばわかります。しかしもし耳がだめだとしても、|喪《な》くす筈だったものに比べれば|些《さ》|細《さい》といえるものですよ。|勿《もち》|論《ろん》あなたが総てを望まれるのはわかりますが、しかしそれをよくお考えになってください。やがてわかる結果に親が取り乱せば、子供にいい影響もありませんからね」
隣りにいた看護婦が出ていった。それを見すまして、
「あのとき申しあげましたように、手術前、私は宮地教授と一緒に、手術の資料をながめておりました。そのときの教授の判断では、手術は極めてむずかしいが、万が一成功しても、耳だけは危ないだろうということでした。しかしそれはあくまでも、もう少し時がたってみなければわかりません」
「どれくらいの時間でしょう」
「僕には詳しくわかりかねます。人にもよるでしょうし。でも、耳に関して悪い結果になっても、それでお気落しになってはいけませんよ。手術前の確率からいったら、本当に拾いものでした」
青ざめ目を据えたままでいる彼女へ説くために、治夫は知らずに、最初会った時、自分がかけた言葉が嘘だったことを明かしてしまっていた。
声に出さず、何か叫ぶように唇を曲げると、体を震わせて彼女は両手で顔を|蔽《おお》い、息子のベッドの端へうつ伏した。その背へ老婆がかがみこみ、囁くように何か繰り返していった。彼女は肩で頷きはしたが、顔を蔽った手をいつまでも放せずにいた。
「お疲れでしょうが、どうか気をしずめて、よくお考えになってみてください。それに、今からもう決めてかからず、ともかくもう少し様子を見ることです。それに、たとい今は駄目でも、将来何か新しい技術の開発があって、喪くした聴力を与えられるということもあるかもしれません。最近目ではよくそんな例がありますからね。とにかく、今周りの方が動揺されることが、お子さんにも悪い影響を与えるでしょう」
母親は体で頷き顔をあげ、取り出したハンカチで頬のあたりを拭った。手を押しつけたまま泣いた頬のあたりが赤く|染《にじ》んで、一瞬彼女の表情の底に沈んだ、|嘗《かつ》ての少女のころの面影を感じさせるような気がした。治夫はこの若い母親の年齢を考えてみた。
挨拶をして病室を出かけ、彼女が扉を開いた時、出会いがしら廊下に外科の助手が立っていた。看護人に黙礼したあと、
「君は」
男は咎める目で質した。
「病理の緋本ですが、|一寸《ちょっと》お見舞に寄りました」
「一寸来てくれないか」
助手は高飛車にいった。その後、
「おそれいりますが、あなたもどうぞ」
彼女へ促す。不安そうに見返す母親へ、治夫は微笑して見せた。
助手はそのまま黙って先に立って歩いていく。治夫は、この男がこの前の手術に助手の一人として立ち会っていたのを思い出した。
治夫が予感したとおり、医局の一室に宮地がいた。その横に助教授の富田と数人の職員がいる。案内した助手は、母親には椅子をすすめたが、宮地は治夫に坐れともいわなかった。
「君は、こちらの塩見さんとどういう関係なのかね」
頭から咎めるように富田が訊いた。
「別に、ただ偶然手術前にお目にかかって話しただけですが、それでお見舞に行っておりました」
坐らされた母親は、部屋の|雰《ふん》|囲《い》|気《き》の異常さを感じて、不安そうに治夫と彼らを見比べた。
「それにたまたま手術前、高野先生のお部屋におりましたところへ宮地教授がいらして、所見の交換を聞いておりましたので、関心もありましたし、手術も参観しました」
何かいおうとする助教授を身振りで制すと、もったいつけた仕草でタバコを灰皿にひねりながら宮地は治夫へ向き直った。
「君が患者の病室へやって来たことは、お見舞というだけのことではないようだな。私が手術場で参観者にした説明も、いわば専門家だけの内輪のもので、患者の責任者である私以外の口から、患者の関係者に誰が告げるべきものでもないが、君は高野教授の部屋で聞いたことまでも話したのか」
質すというより、宮地は咎めて、断罪するようにいった。
多分、隣りの患者のギプスの調節に来ていた看護婦が告げ口をし、その後、誰か気のきいた助手か医局員が、扉の外で立ち聞きしてたのだろう。
確かに、許可もなく、他科の病室にやってきた医局員は、病室を間違って入った見舞客よりも異端者に違いない。病院の秩序というものは、そうした他人への識別感覚でなり立っているともいえた。
「|僭《せん》|越《えつ》ではあると思いましたが、こちらが心配していらっしゃって、尋ねられましたので、いずれ教授もおっしゃることと思いましたので、つい」
「そのいずれという時は私がきめるのだ。いい訳はいい。自分がやったことの意味だけを考えたまえ」
「あの、私がこちらにご相談して」
いいかけた母親を、
「いろいろご心配はわかりますが、あの手術の責任者は私だということをお忘れ頂いては困りますな。同じ医局員ならともかくも、専門外の、それも未熟な人間に、何を質されどんな回答を受けても、それが患者のためにならなかったり、あなたご自身を迷わしたり不安にしたりしかねない。お子さんに関してのどんな相談も私にして頂きたい。私を御信用いただけないというなら、話は別だが」
患者はその肉親のものというよりは、病院では誰よりもこの自分の持ちものだというような|傲《ごう》|岸《がん》さで、彼はいった。
その語気に呑まれ、母親は青ざめすがるように治夫を見た。
「私のやったことがさしでがましかったのはわかりますが、しかし私は何も誤ったことは申し上げておりません」
彼女をかばうようにいったが、
「黙りたまえ。君はこの私が何を考えているかまでわかるというのか。君がどんな能力の、どんな人間かは知らぬが、それ以前に、医師としての根本的な考え方に誤りがあるのがわからないか。もちろん私から高野君に抗議するが、彼が君に何といおうと、君自身の問題だ。口ごたえは許さん」
宮地がいうことはわかり過ぎるようにわかっている。母親が治夫ではなし、宮地へ訴えたとしても、彼が告げるだろうことは、同じ事柄だったに違いない。
ただ、治夫がやったことは確かに僭越であり、宮地の|面《メン》|子《ツ》をつぶしたことにもなるといえばいえるが、それを咎めるならば、患者の母親をどんな引き合いにおくこともない筈だった。
多分宮地は、自分が行なった手術に、それがあの条件下では充分な成功であったがために医者というよりは職人としての執着があり、それに関する一切を自分でまかなうつもりなのだ。そして、あの病状で、たとい当然な結果であろうと、患者の失聴は、自らの口で説明しない限り他の誰の口から漏れても、手術の|瑕《か》|瑾《きん》と受け取られると感じているに違いない。
「申し訳ありませんでした」
治夫は頭を下げた。それには答えず、代りに、
「以後、こういうことがあっては困りますな。塩見さん」
脅すように宮地は母親に向っていった。その後、目ざわりな者がまだ残っていたのに気づいたように、
「もういい」
汚ないものを払うような手つきで治夫を追い立てた。坐ったままでいる彼女に彼が声をかけるのも許さぬよう、宮地は治夫を無視して彼女へ向き直り話しかけた。
立ち去る自分を彼女がその背で感じ、肩をすぼめるのがわかった。戸口で彼女を見直す治夫を、宮地はなお立ちはだかるような目で見つめていた。
その目つきに覚えがあった。どこかで見覚えがある。それを思い出せぬまま、治夫の体の内にこみあげて来るものがあった。怒りというよりも、憎悪だった。|叱《しっ》|責《せき》されたことへの腹いせだけではなし、自分が何で今これほどこの男を憎むのかがわからぬまま、彼はその憎悪に身をまかせ、その憎しみを、受取に押して突き返す印鑑のように、自分を|睨《にら》みつけている宮地の額の上へ返す視線で焼きつけた。しかし実際には、彼は表情に表わさず、代りに多分、恐縮したような微笑で立っていた。そしてもう一度黙礼のあと|踵《きびす》を返した。
病棟を出ながら治夫は思い出した。宮地のあの目は英子の店の主人のあの男の目と同じだった。場違いに入ってきた彼を咎め、値踏みし、|蔑《さげす》んだように、自分のちっぽけな権威を傷つけられたことに怒って立ちはだかった、あの男の目の色そっくりだった。
|他《ほか》にもあった。市原と待ち合わした高級ホテルのロビーで、注文を取りに来、彼を見下ろして立っていたあのボーイの目も同じだった。
今まで幾度となく治夫にはそんな経験があった。彼が経歴も名もなく、無力で貧しい人間であるというだけで、彼の前に傲岸に立ちはだかろうとした人間たち。彼らはそうすることで、自らの内の何かの平衡をとろうとしているのかも知れないが、しかし、今宮地はこうやって彼を追い払うだけではなく、彼からあるものを奪ったのだ。まだ奪われたというべきではないかも知れぬが、しかし彼女は、あの部屋の椅子の上でも背をかがめ、うつ向いたまま、彼を振り返ることも許されずにいた。
あの女と自分との間に最初の邂逅以来保たれてあった、口ではいい表わすことの出来ない、通い合う互いの心の安らぎとでもいうべきものを、宮地は責任者という名を借りてつまらぬ面子と権威のために、それを察しようとすることもなく踏みつぶしたのだ。
彼が宮地の目の内に見たものは、七年前、あの事件で、彼が父親のためにと思ってやってしまったことを、父が怒りながら、冷たい目で見返した、あの人間の薄汚ない、白ちゃけたエゴのおぞましさと同じものだ。
俺は何でいつも、それに対して卑屈なほど我を折ることがあるのだ。あのとき家を飛び出したことだって、結局はそうではなかったか、彼は思った。
治夫は、自分が出てきた後、宮地や他の医局員に取り囲まれ、一人残されたあの女のことを思った。彼女はあそこで、何を|質《ただ》し、彼が何と答えたかを逐一聞き咎められ、彼らはもうそこにいない治夫を非難し、|罵《ば》|倒《とう》し、|軽《けい》|蔑《べつ》してみせるだろう。彼女は混乱させられ、なまじな期待を強引に当てがわれることで、またいっそう不安に陥ることだろう。そして彼らは口汚なく、彼女と彼の間にある、あのいい表わせぬ心の通いを打ちこわし、二人を切り離そうとする。その結果、彼女が何を与えられるというのだろうか。
彼女は一体俺にとって何であり、俺は何であったのだろうか、宮地と同じことを口にしながらも、彼女にとって俺こそが福音をもたらすものであり、そのことに、俺がある満足と喜びを感じることが、どうして許せないことだというのだ。
このまま駈け戻って、あの部屋の中から、彼女を引き立てて戻りたい衝動に駆られ、降り切った階段の下で彼は立ち止り、深呼吸し直した。
辺りの石炭酸くさい空気に思いをとどめられて、歩み出しながら、彼は改めて、体の内にある憎悪を心の手で確かめ握りしめた。それをもたらした宮地の顔が、あの店の主人や、父親や、その他彼にとって同じようなおぞましい他人たちの顔と重なり合って、胸の内にあるものを倍にふくれあがらせ、彼はもう少しで、七年前のあの直情的な行為と同じような何かに身をまかすことが出来そうな気がした。そして今だけではなく、こうした出来事に今まで耐えて来た自分にも、彼は新しい憎しみを感じかけた。
気持をしずめ、間を置いて高野教授に会い、宮地から抗議が来る前にさっきの出来事について話して|詫《わ》びた。
眉をひそめて聞いてはいたが、彼がありのまま伝えた宮地の叱責の言葉を聞くと、
「誤ったことを教えた訳じゃないし、何もそうむきになることないじゃないか。彼にしてみりゃ、手術前、病理の僕に腫瘍のことで念を押しにきたこと自体が、|癪《しゃく》なのだろう」
高野は高野で皮肉にいった。
「|大《おお》|袈《げ》|裟《さ》なことをいわれない前に、私のほうから一応挨拶を通しておこう」
教授にいわれ、感謝して部屋を出た。
仕事に返り治夫は、あの患者、というより、あの母親とのこれからについて考えて見た。彼女と見知りの治夫があの病室を見舞うのを誰がこばむ理由もないのだ。しかし今日の出来事から、少なくとも高野教授にわかれば、慎むように注意を受けるだろう、或いは外科の局員がまた咎めるか何か中傷するかもしれない。
が、治夫はあの女のことだけを考えた。宮地たち外科の局員が、彼女やその息子のためにどれだけ尽そうとも、彼女は何かでやはり自分を求めようとするのではないか。そう思うことに何の根拠もなく、宮地がいったとおりあの患者の病について、経験も知識も乏しくはあったが、彼には、あの女のためにしてやれそうな何かがあるような気がした。そしてそれは、|何故《な ぜ》か他の誰にも出来ないことに思えた。
宮地のあの視線を思い出し、挑むように、彼はそうすることに心を決めた。
なお暫くし、彼は、自分がさっきの出来事でよほど興奮してすべきことを忘れていたのに気づいた。
仕事の手をあけ、部屋を出、電話をとって英子の店を呼んでみた。店員らしい女の声が、彼女は一昨日からずっと店に出ていない、といった。欠勤の訳を尋ねてみたが、女は不服そうに何の連絡もないと答えた。
治夫の気分は塞がれたままでいた。彼女の欠勤不在と先刻の出来事は|関《かか》わりないようで実際には彼の体の内で繋がっていた。当てにしていた水口が塞がれたまま見つからず、病院の仕事が終るまで、治夫は閉ざされた憎しみを抱いたままで通した。
下宿にも言づけはなく、晩飯の後思い立ち、彼は四日前の夜、車で訪ねうろ覚えに覚えている彼女のアパートを捜して訪ねて行った。|滅《めっ》|多《た》にないことだが、情欲以外のことでも、英子が必要に感じられ、彼はそんな自分を寛容に許した。
あやふやな記憶を|辿《たど》ってあちこち迷い込みながら、彼はふと、自分が今英子の隠された部分に許可なく立ち入ろうとしているような気がした。男のほうで踏み込むよりも、女から明かされたほうが都合いいに違いないが、ようやくこの前車を降りて曲った路地にいき当り、さらにそれから折れて入った小路を探し当てた時、治夫は、辿りついた彼女の部屋の戸口に立ちはだかって自分を突き返そうとするあの男を想像した。忘れていたものが体の内に兆し、それなら俺は今、あの宮地のかわりにあの男を突きのけ、中にいる英子をさらってでも来るだろう、と思った。
英子は留守だった。並んだ部屋の中で、そこだけ|灯《あか》りが消えてい、扉をたたいても人の気配がない。戸口に、昨日と今日の牛乳が二本、並べられたままでいる。
踵を返そうとした時、隣りの部屋から寝巻きを着た女が出て来、ちりとりにはき|溜《た》めたごみを表のプラスチックのバケツにあけた。声をかける前に女は立ちどまり、好奇に彼を見渡した。
「お隣りの井沢さんはいつからお留守でしょうか」
「さあね。ゆうべちょっと戻って来たようでしたけど、またすぐ出ていきましたよ。誰かと一緒に」
女は試すように治夫を見直した。
そう聞かされ、露骨に迷惑か、困惑した表情だけが、相手の好奇心の裏をかいてやることが出来る、と思って彼はそんな顔をしたつもりだった。しかし、彼が階段を降りるまで女は戸口に立ったまま見送っていた。英子は多分日頃、あの女が好奇な関心をそばだてるに足る隣人に違いなかった。
翌日の昼前、店に電話して見たが、英子は相変らず休みだった。
午後、治夫は白衣を脱いで塩見和彦の病室を訪ねて見た。廊下で看護婦と白衣の医局員にすれ違ったが、彼らは昨日あの部屋にいなかったせいか治夫を見|咎《とが》めなかった。
ノックした扉を彼女が開けて迎えた。彼を見、|狼《ろう》|狽《ばい》した表情になる。
「中に入ると、また何やかやいわれますから、ここで」
いわれながら、彼女はおびえた目で廊下を見渡す。
「お気の毒させたお詫びに。あれから宮地教授は何といわれました」
「ハイ、やはり、もう少し様子を見ろとのことです」
あきらめたように|頷《うなず》き、
「でも、目のほうはだんだんはっきりしてまいりました。それでかえって耳の不自由が本人にもわかりまして」
「なるほどね。しかしまだともかく、希望は喪くさずに待ってみることです」
「ありがとうございます」
「何か遠慮があって、他にいえないことでもあったらまたご相談ください。電話でもけっこうです。ぼくは病理にいる緋本治夫です」
彼は初めて正式に名乗り、女も両手をそろえ、
「塩見菊江でございます」
改めて名乗った。
彼女は前と同じように青ざめ、疲れていた。そして前に感じたと同じように、|翳《かげ》って美しかった。彼女のこの美しさは多分一生、あの息子の不具と同じように続くだろうと、彼は思った。不安と悲しみのはてに翳ったまま、彼女の顔は、今ある静けさのようなものを得かけているような気がした。彼は、確かにこんな顔を聖画のどこかで見たことがある。彼女の微笑は、息子のこれからの一生を通して、医者たちには知れぬ何かを感じ、見詰めようとしている。それは、治夫にとっても未知なるものでありながら、何故か彼はそれを懐かしいものに感じた。
彼の方で会話を打ち切り、恐縮する彼女を扉の内に押し込んで離れた。
期待したとおり廊下で、この前あの部屋で見た助手の一人に出会った。治夫を確かめ見直す相手に、全く表情のない微笑で彼は頷き返してやった。
「君」
臆したような顔で相手は呼びとめ、
「何ですか」
同じ無表情で問い返す治夫へ、
「いや」
|曖《あい》|昧《まい》に相手のほうで踵を返した。相手もこの廊下で宮地を気取って見せることの意味の無さに気づいたのだろう。しかし、宮地を見た時、あの男が何かの報告を加えることに間違いはなさそうだ。
夕方仕事が終る前、治夫はもう一度英子に電話をしてみた。覚えのある、あの男の声が出た。
「井沢さんは店に出てきましたか」
彼の声を聞き、確かめるように一寸の間黙った後、
「あんたは誰だね」
男は電話の向うで身構え、横柄にいった。治夫はこの前彼女を呼び出して会えなかった時、彼女はその後男に咎められて自分のことを話してしまったに違いないと思った。それならば、悪びれることもない筈だ。
「彼女の友人ですが」
無表情に、紋切りにいった。
「用事があるのですが、呼んでもらえませんか」
「何か知らないが、仕事の時間にあまり電話されると迷惑だがね」
「私はお宅の店の客でもあるんですがね」
男は黙って答えない。
「というと、彼女は今店にいるのですか」
「いや、いないよ。休んでいる」
「おかしいですな。どこにいるんでしょう」
「そんなことまで知るものか」
「それじゃ」
彼がいいかかる前に、
「とにかく井沢は休んでいる」
それだけいうと、男は向うから電話を切った。
男は明らかに挑戦的だった。少なくともあの男は、一昨々夜から一昨日丸一日は英子の行方不明を治夫のせいにして探していたに違いない。が、彼に向って腹を立てる前に、治夫は英子の行方を考えた。あの話しぶりだと、相手も英子の居所を知らぬらしい。しかし、彼女の下宿の隣人は、英子が一昨夜家に戻り、すぐに誰かと一緒に家を出ていったといった。あの女の話しぶりから、その相手は男であり、多分あの男のような気がする。少なくとも店の主人は、治夫よりも後の彼女の消息を知っている筈だった。
翌日の午後、高野教授にいいつかった翻訳の文献の問い合せに、丸ノ内の輸入図書会社に出かけ、その帰り道彼は心をきめ、英子の勤め先のある有楽町へ廻って見た。
ホテルへ着く前に外から電話したが、同僚の店員は、今日も彼女は休んでいるといった。
ホテルの正面玄関を入り、地下のアーケイドへの階段を降りながら、彼は自分が今しつつある行為の意味について考えて見た。
俺は井沢英子を必要としている。しかしそれは決して今でなくてはならないということではない。子供でもない彼女の行方を本気で心配しているという訳でもない。多分彼女は何かのために、どこかにいるのだ。そのことについて、あとで俺が問いただせば、英子は多分本当のことを答えるだろう。が、そんなことよりも、いま俺がしようとしていること、しなくてはならぬことは、あの男に面と向って、彼女と自分との関係を悟らせてやり、その上で、彼に彼女の居所を尋ねてやることなのだ。そうすることがこの俺に、そして多分英子にも必要なのだ。あの男のあの目つきと、口のきき方に対して、今それだけのことをしてやる必要がある。
思いながら彼はまた、今日高野教授からいい渡されたことを思い出した。宮地からの抗議は高野に届き、それは高野にとっても不快なものだったらしく、すでに事情を知っている高野は言葉少なにしか、宮地の言葉を伝達しなかった。余計な若僧をみだりに俺の城の中に入れるな、と宮地はいったのだ。
その後の患者の聴覚の|恢《かい》|復《ふく》について治夫が念を押すと、そんなことより、あれだけの手術をしたということの方が、あの男には大切のようだと高野はいった。今となれば、子供が|聾《つんぼ》になってしまうということは、患者の親よりも、彼にとって、許せぬことなのだろう。しかし、そうなることは、彼がいちばんよく知っている。
「君がこれ以上首を突っ込むと、患者の聾のしりを君に廻しかねないよ」
高野は皮肉に笑っていった。
彼が今降りていきつつあるアーケイドのあの店も、あの男にとって城に違いなかった。階段を降りながら治夫はもう一度、先日、|蠅《はえ》を払うような手つきで自分を追い払った宮地の目つきを思い出してみた。あの宮地のためにもこの下の店にいるあの男にいってやる必要があるのだ、彼は思った。それは代行というより、彼にとって本質的にまったく同じ事柄に思えた。
大きく明るいウインドーの横の開け放たれたガラス扉を入ろうとしたとき、隣りの美容室の前に置かれた鳥籠の九官鳥がけたたましい声で|啼《な》いた。それは辺りの雰囲気にも、いま治夫の胸の内にあるものにとってもまったく不協和な雑音だったが、ただ鳥が、鳥だけに感じられる迫ってくる何かを予感しおびえて立てる悲鳴のようにも聞えた。
治夫はそれをどう感じもしなかったが、店の中の客のために、店の小さなロビーで、テーブルに散らばった雑誌を|整《せい》|頓《とん》しかけていたあの男は、その声で何かを予感したようにぎょっとして振り返り、入ってきた治夫を認めた。彼は男の視線を無視して、戸口に立ちはだかったまま、奥の深い店中を眺め渡した。
店は混んでい、従業員の大方が働いているようだったが英子の姿はなかった。振り返った治夫へ、男は手にした雑誌を置き直すとゆっくり近づいて来た。
「何だね」
男は何かをこらえながら、それでも咎めるように|訊《き》いた。
「井沢君がどこにいるか、知りたいのですがね」
近くを通り過ぎる他のマニキュアガールにわざと聞えるように彼はいった。彼女は横顔のままその声を聞いていた。男は明らかにそれを意識し、彼女が離れるのを待って、彼を店の外へ押し出そうとするように近づき立ちはだかろうとしたが、その前に治夫はロビーの手近な椅子を引いて腰をおろした。
「私がどうしてそんなことを知っているんだ、家にいるのじゃないか、病気か何かで」
「家にはいませんでした。それに、何の連絡もないそうじゃありませんか、私はあるいはあなたならと思って来たんですがね」
「なんで私が」
怒りながら、周りにはひそめた声で男はいった。
「隣りの部屋の人がそう教えてくれましたもんですから」
男の顔は怒って赤らみかけ、すぐに逆に青白くなった。店中を気にしながら、
「それはどういうことだ」
「さあ、彼女にでも会ったら訊いてみますが。とにかくどこにいるのか、弱ったな、急な用事があって」
「友だちというのなら、君のほうが知っているのじゃないか」
「古い知合いですが、会ったのは久しぶりでね」
「店員のそんな用事でここまで来られちゃ困るんだ、帰ってもらいたい」
「いや、それはついでの用です。ぼくは客ですよ。いたら彼女にしてもらおうと思ったがまた指をやってもらいたい」
男の顔には、考えたあげくどうにもならぬガラスの知恵の輪を投げ出し、踏みつけたそうな怒りと屈辱のまじった青黒い影がさした。そんな顔をするとこの男は急に、大きいだけでふやけた脳なしに見える。
「お願い出来ますか」
治夫はかまわず、近くに来かかった他のマニキュアガールに手をあげて声をかけた。女はわざとのように男を見ず、頷くとそのまま彼をこの前英子がしたと同じマニキュア台へ連れていって坐らせた。
彼女は、彼が先日英子の客だったのを|憶《おぼ》えているようだった。
指を取って爪に|鑢《やすり》をかけながら、
「まだ奇麗じゃないの」
「いや、何となく手が荒れて気持が悪くてね。病院でずっと解剖をやっていたもんだから。臭いませんか」
「あらいやだ」
女は|嬌声《きょうせい》に近い声をあげ、手にした指をほうり出す真似をしてみせた。多分その声はこちらを見守っているあの男の神経にさわったのだろう。
治夫が振りかえると、ロビーのレジの前で男は彼の背を睨みつけてい、視線が合うと息苦しそうに|瞬《まばた》きし、踵を返しどこかへ出ていった。
「あの人は何だか変っているね」
治夫がいうと、女は|鋏《はさみ》を使いながら肩をすくめる。英子とは違った反感をこの女も同じ主人に持っているようだ。
「井沢さんがどこにいるか尋ねたら、何だかひどく怒って、訳がわからないな。こっちは高校の同窓会を東京でやる相談に来たんだけれど、ずっと休みなんだって」
「今日で五日目よ」
「五日前に仕事の後で会うつもりでいたら、急に店の大掃除とかで駄目になって、それっきりさ」
「大掃除ですって」
女は顔を上げ、自分だけが知っている嘘を明かしたような顔で笑ってみせた。
「ここの主人は店員の私生活についてもずいぶんうるさいんだな。もっとも、無断でそう休まれちゃ困るだろうが」
「人にもよるのよ、マスターは」
含んだように笑い、それ以上いいたそうだが、女は道具を手に持ちかえた。
「井沢さんはよく店を休むの」
「時と場合ね」
よくわからぬ思わせぶりでいうと、
「世の中にはいろいろあるでしょう」
彼女は精一杯の暗示に、治夫が勘よく何もかも呑み込んでくれるのを待つように、間近から|覗《のぞ》き返した。
曖昧に笑って見せた。
「行方が知れぬとなると弱ったな」
英子のアパートの隣人にしたと同じように治夫は困惑してみせた。
「何しているんだかあのひと」
英子かマスターか、どちらともつかずにいうと、気を変えるように、
「あら、このさかむけ、ひどいわね。こんなので解剖して|黴《ばい》|菌《きん》が入ったりしない。指先って恐ろしいわよ。爪の間だけじゃなしに、あま皮のすぐそばまで毛細血管が来ているんだから」
英子と同じように、気安く説教するように女はいった。
マニキュアが終った後男は戻って来、レジの前に立った治夫を確かめ直すような目つきで見詰めていた。彼は、さっきとはまた違った焦りと怒りで顔を|歪《ゆが》め、これ以上こらえ切れぬというような顔をしていた。
料金を払い、磨かれた爪をかざして眺め、
「ありがとう」
なれなれしく女にいう治夫へ、男は何か向うからいいたそうに見えたが、しかしやはり思い直したように、釣りをしまう彼を先刻と同じ立ちはだかり咎めるような目で見つめている。
一寸の間、治夫は正面から男へ振り返り、相手の目を見返した。
どいつも同じだ、彼は思った。男のどす黒い不快気な顔をながめながら、口の中までこみあげてたまったものを治夫はようやくこらえた。
もし治夫が男に向って、僕はほんとうに井沢英子の同窓生だけなんです、とでもいってやったら、男は安心して、その場で坐りこんだかもしれない。男は、今かろうじて立っているようにも見えた。微笑し直し、
「じゃ、英子はぼくのほうで探します」
いって、店を出た。その背後で、店の誰かに当り散らす男の怒声が聞えていた。
その夜遅く、思いがけず英子から下宿に電話がかかった。
「どこへ行っていたんだ、探したんだぞ。今日の夕方、店まで出かけて行ったんだ」
彼の言葉にも驚かず、
「会って話したいことがあるの。会ってくれる」
「当りまえだ。それなら、なぜもっと早く連絡してくれなかったんだ」
「会えない訳があったのよ」
思い詰め、沈んだ声で英子はいった。
「君がどこにいるか、店の誰も知らなかったよ」
英子はそれをどうともとらず、
「ええ、市川の姉さんのところにいたの。今帰ってきたのよ」
「どこにいるんだ、今」
「新宿の駅の電話でかけているわ」
「すぐ出ていくよ」
わかりやすい喫茶店で待ち合せ、治夫はすぐに下宿を出た。
大きな喫茶店の薄暗い隅のブースに、彼が探し出してくれるのを待つように、中へ背を向け、英子は一人で坐っていた。
「どうしたんだい、一体」
向い合って覗いた彼へ、唇を曲げながらもの憂げに顔をあげて見せる。顔は全く英子らしくなく青ざめ、疲れて見えた。どういう訳か、この前と違って、後ろに束ねてあった髪を、顔のほとんど左半分を|蔽《おお》うように前へ垂らしている。その大げさな髪型は、陽性な彼女に似合わず、第一、この季節に暑苦しそうだった。
見詰め合い、彼が|質《ただ》そうとする前に、英子は黙って手を上げ、前に垂れかかる髪を持ち上げて見せた。左目のまわりに青黒い|痣《あざ》があり、目の下が|腫《は》れている。|顳ソ[#「ソ」は「需」+「頁」Unicode="#986C" DFパブリW5D外字="#F4BF"]《こめかみ》の隅にも切れた|痕《あと》があり、細い|絆《ばん》|創《そう》|膏《こう》が|貼《は》ってあった。
「どうしたんだい」
答える代りに、彼女は、季節はずれに着込んだ長いブラウスの袖をまくり上げ、二の腕につけられた大きな|掻《か》き傷と痣を見せた。
そのまま英子はがっくり頷くと、両手を顔へ押し当てて泣きだした。
こんなふうに話がほころびるとは思ってもいなかった。彼はその日の午後、とっくに渦中にいた訳だ。
今日の午後、店で立ちはだかり、自分を睨みつけた主人の目つきを思い出して見た。あの男に違いなかった。治夫と会った時男は自分が英子に何をしたかを承知してい、その訳を心得ていたのだ。
胸の内に|溜《た》めていたものが彼を見て|堰《せき》切れたか、英子は段々に声まで出して泣いていた。彼が何故と尋ね、彼女が答えることで二人は互いに一番肝心な話題にとりつくことが出来、治夫は、あの男と彼女の関係について確かめることは出来たろうが、その先どう話を進めていいか治夫も英子もわからずにいた。
英子はともかく泣きじゃくっている。彼女の様子に気づいて、ほかのテーブルの客が振り返って覗く。英子は彼らに背を向け顔を蔽ってい、その前に坐っている治夫ばかりが目につく。こんなふうに目の前で女に泣かれた経験もないではないが、少し条件が違っていた。何よりも泣いている女の事情に彼も本気で関心がある。それがかえってまわりの視線に対して治夫を面映ゆくさせた。仕方なく、
「今までどこでどうしてたんだ」
なだめるように彼は別のことを訊き直した。
「だから姉さんのとこ」
英子は答え、それがこの出来事に何の関わりがあるのか、また大きくしゃくりあげる。
彼がもう一度何とか声をかけようとする前に英子は自分を自分で抑えたように泣き|止《や》み、顔から手をはずすと治夫を見つめ、
「あいつ殺してやりたい」
といった。
聞いてから|暫《しばら》く間をおいて、治夫は英子が何をいったかを理解した。
ぎょっとするほど英子の声も顔も本気に感じられた。まだ腫れて痣を残した顔を怒りで歪め、|蒼《あお》ざめさせながら目を据えて彼を見つめる英子の表情には思いつめたすさまじさがあった。彼はそれを理解し、急いで頷いた。そうしなければ彼女はもう一度同じことをいいそうに見えた。頷いた彼を確かめるように覗き込んだ後、すがろうとするように英子は瞬いた。
「とにかくここを出よう」
促され黙って頷くと、彼女は彼より先に立ち上がった。英子も胸の内にあるものを吐き出すために、別の場所を望んでいるように見えた。彼女は黙って彼について店を出、寄り添うように彼の側に立っていた。
「君の部屋は」
半ばも聞かぬ内に、肩をすぼめ激しくかぶりを振る。あの部屋で何が起ったか見当がつくような気がする。どこか旅館をと考えたが、
「あなたのところは」
英子はいった。|躊躇《ちゅうちょ》する前に、もう部屋の前まで来てしまったような感じだった。自分の部屋に、女に限らず他人を連れて行くことに本能的に身構える習慣が治夫にはあった。いつかの薬屋の細君のように、近所の彼の住いを知った上で出来た関係もあるが、大体のところ彼は外に出て闘うほうで、女が自分で彼の住いを訪ねて来た時が事の終りといった例は何度かあったが。訪ねられることで侵される何もありはしないが、相手が誰だろうと治夫は自分で示して見せる以外の自分を他の誰にも覗かれたくなかった。
しかし今夜は躊躇しなかった。それに新道路のための区画整理で遠からず出なくてはならぬ住いという気やすさもあった。電車はあったが彼女のために車を拾った。向う途中、彼女は彼から離れて隅に身を寄せたまま殆ど口をきかなかった。
すでに半ば近くの居住者が移って去った取り壊し前のアパートの戸口を入りながら、英子は辺りを見まわし確かめることもなかった。そんな好奇心以上のものが彼女の胸のうちを占めているのだろう。部屋に入ってもさっきの店と同じ表情だ。
「飲むかい」
彼が注いで出したアルコールを、英子は拒むような顔つきでそれでも頷いて取ると、機械的に空けてしまう。アルコールが彼女の緊張をどれほど解いたかは知らぬが、表情は変らない。
「どうしたって」
促すように微笑して見せると、やっと連れてこられたところがどこなのかに気づいたように、あたりを見まわし、
「殺してやりたいわ」
言葉のつぎ穂に同じ言葉を吐き出したが、その声にはさっきと同じ真情があった。
話そうと努める彼女の目にまた涙が浮び、治夫は黙って待った。
あの時治夫が電話で|巫《ふ》|山《ざ》|戯《け》て兄と名乗ったことで、あの男は彼についていっそう疑って咎め、いい合った後英子は治夫のことを自分の口から「友だち以上の相手だ」といったのだ。男は彼女を脅し、あの夜彼と会うことを禁じたが、次の日彼女は勝手に飛び出して店を休み、翌日まで治夫と一緒にいて帰らなかった。男はそれでますます逆上して英子を殴った。
「だけど、あいつに脅かされてどうしていうことを聞かなければならないんだ」
念を押すように治夫は訊いた。
「金よ。お金を借りているのよ、私も姉さんも」
「姉さんも」
一瞬、迷ったような目で見返したが、|諦《あきら》めて頷いた。
「姉さんも前にあの店にいたのかい」
「ホテル・プラザのほうの店にね。姉さんがあいつを私に押しつけたのよ」
口走るようにいった。
英子のような性格の女が、金銭がからんで、どんなぐあいにあの男と今の関係になってしまったかは想像出来るような気がした。多分あの男だけの責任ではないだろう。しかし治夫はそう思わぬことにした。
「あいつ、いうことを聞かないと姉さんの主人にまで、前のことをばらすっていうのよ」
いうと絶句し、英子の目に溜まっていたものが|溢《あふ》れて落ちた。
「私がいい返したら、本気だぞって脅して私をぶったわ」
「汚ない野郎だ」
「そうよ。でもあいつならほんとうにそんな汚ないことをやるわ」
あの男が意趣返しだけではなしに、殺しかねないほど英子に参っているのは治夫にも感じられてわかった。
だが治夫はそれを、今はあの男への|憐《れん》|憫《びん》などではなく不快なものに感じた。
「姉さんが可哀相」
英子は口走り、唇を|噛《か》んだ。そんな言葉は、自分にあの男を押しつけたといったさっきの言葉にそぐわなかったが、いかにも本気に聞え、英子の善良な性を感じさせた。多分姉がいなければ彼女はこんなふうに追い詰められる前に、彼女らしくもっと自由に身をひるがえしていたに違いない。
いうだけのことをいった後、新しくこみ上げてくるものをこらえ切れず、英子はまた涙を溜めて彼を見つめたまま身を震わせ、
「どうにもならないわ」
うめくようにいった。彼女が本当に追い詰められているのが治夫にもわかった。そして、多分あの男は、彼女が面当てに翌日、まる一日一緒に寝て過した相手の治夫と手を切れと脅した筈だ。
「畜生め」
思わずつぶやいた彼へ、突然何か泣いて叫ぶと英子は倒れこんできた。
「ほんとうにあいつ殺してやりたい」
押し殺した、しかし激しい声で彼女は叫んだ。
受け止めた彼女の体の衝撃の中で、その声はまがいない彼女の心情を彼にまで伝えた。彼女を抱きしめその声を聞きながら、彼は体の内に突然すがすがしいものを感じたのだ。その瞬間、彼女は彼の体の中に入り込んで来、彼自身に重なって感じられた。彼女のその憎しみを彼は突然、自分自身のものとして感じた。何故かそれは、自分が今まで探し求めて来たもののような気がした。
俺は今まで、どうして他人を殺してやりたいと願うことがなかったのだ。どうしてそう思えなかったのか。やれる、やれぬにせよ、なぜ本気で誰かを殺してやろうと思わなかったのだ。英子は正しい、この女が本当なんだ。
突然かぶっていた夜具をはがされ、陽に|晒《さら》された自分を見るように、彼はあの出来事以来、今までの自分の、自身に対する|欺《ぎ》|瞞《まん》を咎め、後悔して恥じた。
殺そうと思えば殺せた。そうやって殺すべき人間が何人もいたのだ。
|醒《さ》めたように彼は思った。そう感じることで彼は七年前の出来事の抑圧から、初めて完全に自由になれそうな自分を予感した。
英子を抱きしめたまま、彼はたった今から|遡《さかのぼ》って、自分が殺意を抱くべきだった相手を探した。宮地教授を思い出した。あの患者の母親を前に引き据えて、自分に|傲《ごう》|慢《まん》に立ちはだかった男。そしてすぐに宮地に重ねて、あの店の主人を思い直した。何故か彼女の店の主人と宮地教授は、彼にとって重なり合った同じ人間に感じられた。今になって改めて治夫は宮地に対する憎しみをこらえ切れぬものに感じた。今でも遅くはない、彼は思った。彼とあの母親との間に通ってあったものを、頭から彼を若僧呼ばわりして追い払うことで踏みつけにした宮地を彼は今憎み切れるような気がした。そして、宮地への憎しみを通して、宮地と同じように立ちはだかり、自分を侮りとがめたあの男を治夫は憎むことが出来た。
「畜生」
思わずつぶやいた彼を、間近に英子は見上げて来た。その目に向って、
「殺してやる」
いいながら、彼の体の内に爽やかなものが突き抜けた。それは忘れていた何かの習性が突然|甦《よみがえ》ったような|昂《たかぶ》りと|戦《おのの》きだった。
そうだ。俺はいままでに誰かを殺していなくてはならなかったのだ、治夫は思った。絶対にそうなのだ。俺にはその力も資格もあったはずだ。
待つような目で英子は見つめていた。彼女は今彼を見つめ、|窺《うかが》い、彼に向って重なり、彼の内側に入って来ようとしていた。彼はそれを今まで他人に向ってしたようには拒まずに、許した。それは彼にとって全く未知のすばらしい試みのような気がした。
自分にとって初めて、他人の魂がこの手の内に落ちて来る、そしてまた、初めて自分の魂が他人の手の内に落ちて行くのを彼は感じた。それは彼に未知の幸せと充足を予感させた。
自分に向って彼は頷きつぶやいた。
「よし、殺してやる」
見返す英子の目の中に新しい光が|点《とも》って輝いた。今一番求めていたものを与えられたように、彼女はひしと治夫を抱きしめ直す。二つの魂が重なり合い、二つ重なり合った同じ手の中へ落ち込んでくるのを彼は感じた。
誰か他人とこんなように感じ合うのは生れて初めてのことに思えた。満足の中に、ある解放感があった。
治夫は英子を抱き返し二人は唇を合わせた。
彼の手が伝うと英子はすぐに|喘《あえ》ぎ出し、彼女は四日前の出来事をようやく通り過ぎ、忘れようとしていた。
治夫の下宿部屋の中で初めて二人が行なったことは、四日前の夜の繰り返しではなく、今までにないものが加えられてあった。それは快感をより大胆で大きなものにした。性交の中で、二人は今まで以上に|完《かん》|璧《ぺき》な結合を予感した。快感の極に向って進みながら、行為は儀式のような重々しさに感じられた。それは結婚という言葉の無意味さを予感させさえした。|恍《こう》|惚《こつ》の極点で英子は涙を流した。それを見、治夫は素直に感動した。それは決してただの男の満足ではなく、いわば同志としての感動だった。そしてその感動と恍惚が、二人が今誓ったことを成しとげた時、更に倍の大きさになることを彼は信じた。
同時にいきついて行為を終えたとき、恍惚から覚めながら、たった今あの快感を与えたものを振りかえり、手を伸べそれを確かめるように、彼を見上げ、
「本当に」
彼女は|訊《き》いた。
そして治夫も確かめ直すように頷いた。行為の後も、事前に彼をとらえていた感動は少しも薄れてはいなかった。快感の行為のあと、それは|夾雑物《きょうざつぶつ》を払って、お題目にこめられた理念のように単純で確かなものに感じられた。
「殺してやる」
彼は誓った。
「何か毒でもちょうだい、私があいつに飲ませてやる」
目を宙にすえながら英子はいった。
その声は彼を俗な良識に引き戻したりする代りに、たった今、彼が採択した理念に、甘い想像の衣をかぶせた。「毒か」彼がつぶやくと、英子は何かに気づいたように、急に体を起して彼を窺い確かめるように見つめて来た。
「あの男をどうにかしなけりゃ、俺たちの仲はめちゃめちゃだ。俺たちだけじゃなしに、君の姉さんだってな。やつは君に参っている。だから脅していったとおりにやるだろう」
念を押すように彼はいい英子は頷いた。
「どうしたらいい」
「少し考えよう、何かいい方法がきっとある。君も姉さんも俺も傷つかない方法がな。悪いのはあいつなんだ」
「そうよ、あいつよ」
身を|慄《ふる》わせながら英子はいった。
その日病院にまわされてきた死体は高野の執刀で解剖されたが、内臓、特に肝臓、|脾《ひ》臓、|腎《じん》臓に著しい異常が見られた。肝臓、脾臓は極端に硬化し、腎臓には|水《すい》|腫《しゅ》がある。付加されてきたカルテは、患者の死因は脳の神経障害による呼吸|麻《ま》|痺《ひ》での窒息となっているが、そんな障害が起らなくても、この内臓の状態では遠からず同じ結果になったに違いない。カルテでは当然、患者は脳神経の|痙《けい》|攣《れん》と並行して内臓の疾患による自覚症状を訴えてもいた。
患者を診た医者が行なった諸検査でのデータも書き添えられているが、血球の比率も白血球が異常に減って、血液の状態は致命的に破壊されている。患者がどの程度の自覚症状を得てから医者にかかったかは知らぬが、カルテでは担当医が患者を診てからわずか二カ月弱で、患者の病状は解剖でわかったように、死に至る状態にまで激変している。どんな原因が重なったのか知らぬが、患者の体はこの世の業苦を全部背負い込んだような有様だった。
解剖を終えた後、添えられたカルテを見直し、高野をはじめ立ち会った助手たちは、思わず眉をひそめて開かれた死体を眺め直したほどだ。何か問いただそうとした身近の助手へ頷くと、身振りで制した後高野は部屋の隅の机の上から何やら薬品の入った|瓶《びん》を手にして来、解剖台の死体の足元に置き直し、初めて今日、|何故《な ぜ》かその解剖に立ち会っていた薬学の竹内教授を促した。
「この患者の死因はこの薬品にあると思われます。日薬化工の新製試作品で、薬品名はメディアチオンという許可された農薬です。この被解剖人は日薬化工付属農園の技師だが、何らかの不注意でこの薬品に侵された模様だ。報告だと同じ研究農園に患者と同じ自覚症状を訴えている所員が他に数人いるそうだが、この当人は何かで特に強く薬害をこうむったようです。それが一度のものか、蓄積性のものであったかをなお微細な解剖によって確かめて頂きたいのと、内臓内にどれほどの蓄積があるかも調べて見たい。ご存じのとおり最近害虫の薬品に対する抵抗力が著しく増加していて、各社が強力な新製品の開発に努めているが、日薬はこの製品を自信をもって開発し、販売に移ろうとしていたところ、この事故が起ったのです。会社から依頼があり、病理と薬学の共同で、改めて当院で動物実験をやり直すことにしました。薬品の方程式はのちに示しますが、式からみても扱いに慎重を要する危険な薬品なので、念のために申し上げておく」
竹内は瓶を持ち直し、周囲の助手たちに示して見せた。
「除虫を目的とする農薬には、二つの大系列があり、一つは、DDTに始まる有機塩素化物であり、いま一つは、有機|燐《りん》|酸《さん》エステル系の薬物である。特に後者は、薬物というよりは、有数の毒薬であって、ご承知かどうかは知らぬが、ドイツの毒ガス研究の副産物として発見され、既成製品の代表的なものとしては、パラチオン、マラチオン等のものがあるが、このメディアチオンは、パラチオンからさらに開発された新製品です。これは、パラチオンの|滲《しん》|透《とう》殺虫性を薬学的により強めた製品で、パラチオンに見られるDDT等の塩素誘導体の薬品に比べて、薬性の分解性を長期間に引きとどめようとしている。
そうした点から見ると、身体に付着した後の滲透継続による蓄積性も高いだろうし、第一、母体のパラチオン自体が吸収された場合の毒性はきわめて強いことを、くれぐれも忘れないで頂きたい。
ある科学者が、かつて、パラチオンの急激な中毒の最低量を確かめようと、ごく少量を飲み込んだとたん、○・○〇四オンスというごく微細な量だが、手もとに用意しておいた解毒剤を飲むひまもなく、麻痺に襲われて死亡したという有名な|挿《そう》|話《わ》があるくらいです。
であるから、飲み込まなくとも、単なる付着による蓄積や、目に見えざる外傷、あるいは粘膜等から滲透した場合、予想以上の急激な影響力も考えられる。
正直な話、こうした危険な薬品に関しては、製造元はその生理的な影響力について、必ずしも充分に研究を重ねず、需要に追われて、いたずらにより過激な新製品の製造を相次いでいるという現状です。薬と抵抗力を増す害虫と、この競争は、私たちの目から見ると必ずしも人間の知恵のほうが勝っているとはいい切れない。日薬化工のように、当院にこうした症例を実際に廻してくるのは良心的ともいえます。まだ|迂《う》|闊《かつ》にはいえないが、この当人にしても他の所員にしても、彼らが信じている以上に、はるかに危険なものを扱わされているといえるだろうな」
瓶を置き直しながら、
「しかし、メディアチオンとはつけたものだ。余談だが、これはギリシア神話の新婚の贈り物に、毒の|衣裳《いしょう》を贈って、恋敵を殺した魔女メディアの名をつけたのでしょうな。メディアは、薬物の世界では有名な、間接致死の方法を使った殺人犯の元祖だからね」
竹内は笑っていった。
治夫の頭の中で|閃《ひらめ》くものがあった。彼は、それを確かめとらえるように、竹内が置いた半リットルほどの黒い瓶に入れられた液体と、そのそばに横たわる、切り開かれた死体を眺め直した。眺めながら彼は、たった今聞いた竹内の説明を|反《はん》|芻《すう》してみた。死体の足元に置かれたものを、自分が探し望んでいたのを彼は感じた。竹内の説明はすべて治夫を満足させ、彼の願っていたことへのこの上ない忠告に聞えた。彼は、目の前にある死体の足の指先を眺め、手の指を眺め、そして更に、自分の手の指を見直して見た。今思いついたことは、容易に可能なことに感じられた。
そこで一度自分を区切り、それを思いついた自分を内側からもう一度彼は眺め直して見た。
今考えたことの世間的な道徳の上での意味は、考えるまでもなく理解出来た。しかしそれは彼をどうさまたげもしないような気がした。自分がそれを行うことは、そんな意味以上に当り前であり、その意味が持つ意味は、彼自身には何故か全く|関《かか》わりないことに感じられた。
自分は殆ど絶対に失敗しないだろうし、失敗しない限り、そのことは世間的な意味を持ち得ないのだ、と彼は自分に説明した。しかし、そんな説明もわずらわしいほど、その思いつきは彼にとって種々条件に恵まれ、自然なものに思えた。
そして、それを自然に感じる自分に、彼は何の疑問も感じなかった。そのために都合のいいことに、今までどこでも彼は一人きりだったから。
解剖が一段落した後、この後の微細な解剖調査と、今後の薬学との共同調査に高野が一、二の助手を指名した時、治夫はこの調査に興味があるので自分も研究の余暇に手伝いたいと申し出た。高野はそれを許し、決められたスタッフを残してあとの者は部屋を出て行った。
一服つけかかる竹内に、
「この薬品は、ただ放置してある場合にも何か毒性があるのでしょうか。たとえば匂いとか、揮発性とか」
治夫は質した。
「それはない。パラチオン等に比べても、匂いはほとんどない。他の有機燐酸系の農薬には、深く|嗅《か》いだだけで強い生理反応を起させるものもあるが、この薬品には、方程式からいっても、気体としての強い特性はない。さっきいったように、外気に|晒《さら》されることでの早期の分解を防いであるからね。だから逆に、付着した場合の作用はおそらく想像以上だろう。強い滲透性があるに違いない。ともかく君ら、この瓶一本だけで、あの有名なボルジア家の毒薬全体の、そうだな、まず十万倍の強度はあるだろうからね」
竹内はいった。
「ともかくパラチオンに関しても、隣りの畑のスプレーが飛んできてかぶり、それだけで全身麻痺を起したとか、薬物を入れてあった袋をいたずらして触れた子供数人が、その夜のうちに中毒して死んだなどという記録があるのだ。この当人なんぞも、馴れが手伝って、おそらくどこかで|杜《ず》|撰《さん》な扱いをしたに違いない。君らも実験の途中に薬品を扱うときは、必ずゴム手袋とスポイトを使うように」
聞きながら、治夫は胸の中であることを決めた。決めながら彼は、英子の店の主人と、それに重ねて、宮地教授の顔を思い浮べてみた。更にそれに重ねて何人もの人間の顔を思い浮べて見たが、|妄《もう》|想《そう》はそこで打ち切った。竹内教授の手元に置かれた瓶を見直しながら、満足とときめきを同時に彼は感じた。
数日し、更に|屍《し》|体《たい》の解剖と調査で、あらゆる内臓からメディアチオンが検出され、脳のある部分が完全に破壊されていることもわかった。脳のその部分の神経は薬品に侵され、変質し、その形のまま灰に燃えくちた縄のようになっていた。検出されてくる結果は想像以上に|怖《おそ》ろしいものだったが、すべて治夫のために用意されているようだった。
病理の実験室で動物実験が開始され、だれかが興味半分メスで傷つけて、その傷口にスポイトで薬品をたらしたモルモットは、その手の中で痙攣し、十数秒で死んだ。それを眺めることで、治夫は考えている計画をより慎重に行う必要を悟らされた。
その週末、局員がほとんど帰ってしまった後で、治夫は忘れものを取りに引き返した。実験室を自分の|鍵《かぎ》で開け、用意していた小瓶に、竹内の注意のとおりゴム手袋にスポイトでメディアチオンを10t移し入れた。竹内教授の言葉が正確ならば、移して盗んだだけの毒薬でも、彼は、ボルジア家の殺人者たちが殺した倍を超す人間たちを殺すことが出来る筈だった。
治夫は英子からの電話を待った。あれ以来、あの男のいうことに従って、英子は治夫と切れたと見せかけるために、治夫のほうから電話させず、彼女が外から病院か下宿に電話して来る。あの男への意地と、二人の間が会う度に進んでいって、英子は殆ど一日置きに電話して会いに来ている。
翌日の日曜の午後、英子からの電話があった。
「あら、日曜だけど、やっぱりいたのね」
どこからかけているのか、はずんだ声で彼女はいった。
「日曜なのに、私|出《で》なのよ。でも、早く終るの。どっかへ出てくる」
「いや、いい知らせがある。まっすぐ俺の部屋に来ないか。来るとき忘れずに、マニキュアの道具を一式持ってきてくれ」
「マニキュアの道具、何にするのよ」
「俺が頼むのさ。本当だよ。忘れるなよ」
「いいわ」
英子は浮かれた声で答えた。
八時前に、英子は途中で買った冷えた飲み物と|惣《そう》|菜《ざい》を持ってやってきた。飲み物の栓を抜きかかる英子へ、
「その前にまずマニキュアをやってくれよ」
「どうしたのよ」
「やってほしいんだ。訳は後で話す」
彼女の持ってきた道具を目で指す彼を、どう察してか、英子は|頷《うなず》いて坐り直し、セットの|小《こ》|函《ばこ》を開いた。
「店でいつもやるとおりにやってくれよ」
「でも、最初に指を漬ける消毒液は持ってこなかったわよ」
「あの小さなボールに入ったやつだな、あれは毎日替えるのか」
「もちろんよお客の度に」
代りに、彼に手を洗いにたたせ、戻った治夫の手を英子は小さなタオルで押し包み、指先を拭いた。セットの中から取り出した爪切りで爪を切ると、そのあとを鉄と紙の|鑢《やすり》で手際よく丸める。鑢をかけ終ると英子はセットの中の、透明な液体の入った方の小瓶の蓋を開け、彼の右手の指の爪のつけ根に沿って、持つ部分にすべり止めの細い銅線を巻きつけた鋼の小さな棒を手にして押しつけた。棒の両端は、それぞれ違った形の弱い刃がついている。英子はその小道具に液をつけながら、爪の根元の甘皮を一本一本、根元に向って固めるように押しつける。治夫が手を伸べ、取り上げた小瓶のラベルにはネイルビルダーと記してある。液体には揮発性の匂いがあった。
「その棒はなんていうの」
「プッシュよ」
「先は刃がついているのかい」
「少しね」
「切ろうと思えば切れるな」
「でも、切れすぎるとかえってやりにくいのよ」
プッシュでめくり上げるように押しつけた甘皮を、英子は|小《こば》|鋏《さみ》で丸く切り取っていく。その作業が一番技術を要するようだ。彼女は場所を忘れ、一心不乱に見えた。指先で操る小さな鋏の動きを見のがすまいとするように呼吸を整え、じっと目をこらす彼女の横顔は真剣で、彼女が少なくともある種の専門家であることを明らかにしていた。
それを見つめながら、治夫は突然情欲的になる自分を感じた。彼女もそれを感じ取ったように、一本切り終ると顔を上げ、間近ににっと笑ってみせる。
「うまいもんだな、これで甘皮を深く切りすぎるとどうなる」
「どうって」
「血が出るのかい」
「あまりそんな失敗しないけど。でも、血が少しくらいにじんでも痛くないわ、逆むけとは違って。あら、まだ逆むけがあるわ」
彼女はニッパを取り直し、治夫の右くすり指の逆むけを切った。
「あの男に逆むけがあるか」
英子は質すように顔を上げた。
「君はあの男のマニキュアをすることがあるんだろう」
「マスターの」
臆して用心するように彼女は訊き返した。
「何日に一度くらい」
「週に一度か二度だわ」
「君がするんだろう」
何の感情も交えぬようにいったが、不安気に、|咎《とが》めたそうな目で、
「ほかの人がすることだってあるわ」
英子はいった。
「じゃ、これからいつも君がするんだ。当分は」
「私が」
治夫は頷いてみせた。
鋏とプッシュでトリムした後、オイルを塗り直し、持ちかえた木の細いスティックで英子はもう一度甘皮の部分を押しつける。眺めながら治夫は満足だった。期待したとおりの可能性があった。後、残されたのは、それをやる決心だけだ。それを何とかすることがこの計画の中での彼の責任だった。治夫は英子を見直した。
仕上げた指にコールドクリームを塗り、濡らしたタオルでそれを拭い取ると、彼女は指をもんで、最後の仕上げに桃色の爪クリームを塗り、セーム皮のバフをかけ、真剣に仕事を仕上げようとしている。
あの時の感情があのまま、今も彼女の内にあるかどうか。だがもしその気持がなくなっていても、それを与え直してやらなくてはならない。二人のためにそれが必要だし、このことをしなければ出口はないのだ。大事なことは彼女が何かで妙な具合に諦めたりしないことだ、治夫は思った。英子もそれをいやだということは出来ない筈だ。それは、彼女のためだけではなく、今では治夫自身のためにも必要なことだった。彼女にそれをやり遂げさせることで治夫は自分のために未知の何かをやり遂げることが出来るような気がする。
そうすることで俺は何かを|掴《つか》める。新しい自信、新しい満足、あるいは新しい生き|甲《が》|斐《い》かもしれない。いずれにしろ、俺はこのことのために今までああやってこらえてきたのだ。これは多分うまくいくだろう。そう思えるのは、英子が俺の代りにそれをやるからでは決してない。俺は決して|卑怯《ひきょう》じゃない。このことを思いつき決心したのも、彼女にもほんとうの決心をさせるのも俺なのだ。これが俺や英子にとって本当にどれだけ必要であるかをこの俺だけが知っているのだ。
「はい、終ったわ」
左手の小指を磨き終えると、英子は|捉《とら》えていた手を放し、店ですると同じように微笑し小さく会釈してみせた。
「なんで今夜、こんなことをさせたの」
「あとで話すよ。それにしてもらいたいと思っても、もうあの店へは出かけていけないからな」
治夫がいうと英子はうつ向いた。そうだ、確かな決心をさせるためにも、この女をもう一度あの男に殴られ痣をこしらえた時と同じところへ突き落す必要がある。
「君はあの男に俺のことを何と話した」
「え」
いきなり訊かれ、英子は|怯《おび》えた顔を向けた。
「いや、君がいわなくても、俺にはこの間君の店に行ったとき、あいつがあんまり失敬なんで、はっきりと名乗ってやったんだ。医大にいる助手がお前の店へ来ちゃいけないのか、とね。そのせいかどうか知らないが、二、三日前大学の病院へ電話かけてきた」
「電話を」
治夫は嘘をついた。しかし英子にはそれを疑う余裕はなさそうだった。
「俺にじゃなし主任の教授になんだけど」
「なんて」
「つまり脅迫だな。学校と病院の名誉だの何だのってな。もっとも、訳を話したら教授はわかってくれたけどね。あんなことを度々重ねられると、俺だって困る」
「済みません」
英子はがっくり片手をついてうなだれた。
「馬鹿いっちゃいけない。君があやまることなんかないんだ」
治夫は手を伸べ英子に触れた。たった今の作業で汗ばんで見えた彼女の肌は冷たかった。蒼ざめた顔で英子は治夫を見直す。この女はあの男のことでまだ参っている。あの後もまた何かあったのかもしれない。それに或いは、彼女はあの男のせいで俺を|喪《うしな》うことを|惧《おそ》れているのかもしれない。
「でも、俺は君をもう放せない」
情熱的にではなく、むしろ押えて、心の内にあるものを解くように彼はいった。半分は嘘ではない。いま腕にし直したこの女、このたわわに熟したものを、彼はあの男のために|呆《あ》っ|気《け》なく失うことはできない。そして彼の方がそれを求めることをあきらめなければ彼女はその度に追い詰められていくに違いない。
「君だってそうだろう」
彼が促すと英子はそれまでこらえていたものを|堰《せき》切ったように、何か口走りながら抱きついてきた。彼女はまた彼の腕の中で涙を見せた。治夫は安心した。打つべき鉄はまだ熱かった。泣きじゃくりながら、彼女は何もかも彼に向って預けたように、彼の腕の中で彼を抱きしめていた。彼はそれを迎え入れ、言葉で教えるかわりにまず接吻した。不安を|塞《ふさ》ごうとするように英子は重なった唇を強く吸い返す。追い詰められ混乱している彼女に今夜与えるもののために必要な下地を治夫は|先《ま》ず彼女の体の中に開いていった。
英子は|渇《かつ》えていたように彼を受け入れ、治夫はこれから二人が分ち合うものが英子にとっても絶対に失うことの出来ないものであることを改めて悟らせるために、情熱的に、しかし冷静に、時をかけて彼女を|曳《ひ》いていった。
高まって行くもののさ中にも、しかし彼女が二人が今も危険をおかしてそれをあの男から盗んでいるのだというおびえに|苛《さいな》まれ、せめても一瞬なりとそれから逃れようと願っているのがわかった。粗末な下宿部屋の中で、治夫は亡命の馬車の中でちぎり合う薄幸の恋人たちの役を勤め合おうと努力した。今ここで得られる恍惚がより高く、彼女がその中に何もかもを忘れれば忘れるほど、醒めた後戻ってくるものは、醜くうとましいのだから。通い合い、重なり合い、一つになった二人の内でかさんでいく快感と恍惚の中で、いつの間にか治夫までが、その背後にあるものに強迫され、無理につくった快感のとぎれ目に、思いたったことをたとえ一人ででもやり遂げることを誓いまでした。
あの男が何者だろうと、いま俺が手にしているものを奪うのを許せはしない。
治夫が努め、見守る前で、英子は何度となくいきつき、その度にまた一段高い快感の階段を喘ぎながらよじのぼっていった。その頂上間際で、彼は彼女を待ち受け、二人は重なりながら、極まった。
彼が|覗《のぞ》いて見た英子は、醒めていくものを怖れて無理にすがろうとするように、きっちり目をとじたまま涙をにじませている。なお夢にすがろうとしている子供を起すように、
「畜生」
治夫はつぶやいて見せた。彼を抱きしめたまま彼女の体の内に|戦《せん》|慄《りつ》が走る。
「あいつを殺してやろう。ほんとうに殺してやるんだ。そうしなけりゃ、俺たちはどうにもならない」
治夫は説くようにいった。答えるかわりに、彼女はもう一度力を入れて彼を抱きしめ直した。
「やつを殺したって当り前だ。誰も咎めやしない。このままじゃ法律も何も俺たちを守ってくれやしない」
余計な注釈のような気がしたが、最後の言葉が英子を決心づけたように見えた。彼女は目を見開き、払うように涙をぬぐうと、すわった目で彼を見つめた。間近に見返し、治夫は彼女からのメッセージを受け取ったように、ゆっくり頷いてみせた。
「方法はある。絶対に確かな、絶対に人にわからない方法が」
彼女は黙って待つように見つめている。
「この間、病院でそう思った。でもたった今決心がついた」
預けるように、英子はゆっくり頷く。その表情は、たった今した決心のわりに、あどけないものに見えた。英子をそのままとどめて、治夫は腕を抜き、机の引出しの中のメディアチオンを入れた小瓶を取り出した。
「この薬だ。いま病院で俺たちが研究している。まだ世間にも出てはいないし、これがどんなふうにきくのか、他の誰も知らない。これをそのマニキュアの瓶に混ぜて、あいつをする時に、やつの指に塗るんだ。出来るだろう。出来るな」
英子の裸の肩を抱きしめ、間近に目を覗き込みながらいった。操られたように英子は頷いた。
「万一ということは絶対にないが、責任は俺だ。この薬が何かを知って持ち出したのは俺なんだからな」
聞きながら、初めて英子は微笑してみせた。その笑顔は蘇ったように見えた。
「君はただ俺にいわれたとおり、これをあいつの指先に塗って、マニキュアをしてやればいいんだ。出来るだろう」
「出来るわ」
少ししわがれた声で英子はいった。しわぶきした後、
「でも本当に効くの」
はしゃいだように彼女は尋ねた。
「効くよ。塗っておくだけでいいんだ。もしさかむけか何か、どんな小さな傷でもあればもってこいだが、あるいはやつがマニキュアのあと、何かで指をなめでもすればな」
「それでさっき訊いたのね」
英子は笑った。
「でも、どれくらいであいつが死ぬの」
「あの男の運だな。傷があったり、なめでもしたら、半分の回数で済むだろう。強い薬だよ。扱う君も注意してくれ。今までの実験でも、もう人が一人死んでいるんだ。間違って他の客につけるなよ。やつをやる時、この瓶を取り換えられるだろうな」
「大丈夫よ」
英子は手を伸べ、彼の手から薬の入った小瓶を取った。腹|這《ば》いのまま、明りにすかすように掲げて覗くと、
「名前はなんていうの」
「まだついていない」
治夫は名を伏せたが英子はそれでかえって感嘆し、初めて見る宝石でも手にしたように目を細め、小瓶の中身に見入っていた。話し合っている事柄にかかわらず、彼女の様子は昂りも緊張もしていなかった。
この女はまだ醒めていないのじゃないか、治夫は用心するように彼女を眺め直して見た。が、|暫《しばら》く見入った後、彼を振り仰ぐと、
「私たち共犯ね」
にっと笑って英子はいった。どんな顔を返していいのかわからず、無表情のまま頷いた彼を、
「嬉しいわ」
小瓶を丁寧な手つきで枕もとに置くと、英子は下から両手を広げて抱きしめて来た。ぶつかるように唇を合わせてくる相手を受けとめながら、治夫は自分の内に新しい情熱のようなものが兆すのを感じた。起き上がった英子は、治夫の見ている前で、ネイルビルダーとオイルの小瓶から半分ずつ中身をあけ、メディアチオンを注ぎたした。栓をした後手で振ると、両方とも薬はよく融け合った。見たところ色も変らぬ中身を確かめ、英子は振り返り、小瓶を突き出すようにして笑ってみせる。治夫は彼女が間違いなくいわれたことをやるだろうと思った。
彼はふと七年前のあの頃耳にした、井沢英子のもう一つの性情を思い出した。在学中、素行を誰かに咎められて彼女は居直ったという。
彼女はやるだろう。そしてあの男は死ぬのだ、多分間違いなく。それが一体、何を意味するのか、そしてそれから先がどうなるのか彼は考えなかった。今のところ、自分に新しい充足をもたらしてくれるものについて考えるだけで充分ではないか。
「初めてこれをあいつにつけてやったら、電話するわ」
新しい冒険について、声をひそめるように英子はいった。
「薬が効きだしたら様子を見にいくけど、それまでは俺のことはいわれたとおりにしたって顔でいりゃあいい。あいつが俺の病院へかけて来た電話のことも咎めだてせずに、黙っているんだ」
英子は頷いた。
今俺たちを結びつけているのは何なんだろう、ふと治夫は思った。
久しぶりに病室へやってきた治夫を、彼女は一瞬おびえたような顔で迎えた。
「いかがですか」
声をかけながら、ベッドの患者を眺めたが、少年は手にした絵本に見入ったまま、戸口の物音や声を感じていない様子だ。治夫に向って立ち上がる母親の様子に、少年は初めて絵本から目をはずし治夫を見る。そんな息子をかえり見ながら彼女はおずおず|微笑《ほほえ》んで見せた。
「その後、耳のほうはいかがですか」
「はい」
頷きながら、彼女の表情が変った。たった今まで忘れようとして努めていたものを、その一言で思い出させられたように表情が|翳《かげ》り、彼女はもう一度息子を振り返る。
「思わしくありませんか」
衝立の向うの隣人を気にするように彼女は素早く頷いた。が、その小さな動作に込められたものを治夫は感じとった。
彼女は今、ある絶望の|淵《ふち》に立っている。息子と一緒に落ち込まなくてはならぬその淵を見ながら、やはり彼女はあきらめられずにいるのだ。多分その内、費やされていく時が彼女を徐々にそこへ引き込むだろうが、彼女は今はあきらめられず、ただそれを待っている。主治医の宮地もそれを待っている。本来なら、感謝が絶望に代るべきものだが、患者の母親にそう望めぬことを、宮地も経験で知っているだろう。自分の手術の成果を売りつけ、相手がそれをいい値で買わぬと見たあとは、時をかけ、悟らせる以外にないのだ。
確かに、治夫の行為は彼に先んじて性急にそれを説こうとし、宮地はそれを許さなかった。本来ならわからぬ道理ではないが、宮地が自分と彼女との間に立ちはだかったということで、治夫は宮地の思惑を許せぬものに感じた。
そして治夫は宮地の医者としてごく当然の、患者の家族とのかけ引きを逆に利用しようとした。
「宮地教授はまだはっきりしたことはいわれませんか」
彼は尋ね、母親は隣りを気づかうようにおびえた目を返し、かすかに頷いてみせた。
「それはご心配ですね。あまりここに長くいるとまたご迷惑をかけますから、何か僕にできるご相談があったら、医局のほうにお電話ください」
内線の電話番号を告げると、見送ろうとする母親をとどめて部屋を出た。
その日の夕方近く、塩見菊江から医局に電話がかかった。彼女はぎこちなく先刻の扱いについて|詫《わ》びたが、彼女に何の咎もなく、彼女が気づかいながらしか彼を迎えられぬ訳は互いに知れていた。
彼女は彼を呼び出してしまったあと、本当に何を話していいかわからずにいるようだった。彼女も多分手術前の見知らぬ男との|邂《かい》|逅《こう》を、さだかならぬながら、その中の何かを信じて、すがりたいと思っているに違いない。彼女にとって治夫の役は、手術の執刀者よりも先んじた予言者であり、彼女は今もう一度彼女の願い、或いは絶望に、手っとり早く裏打ちしてくれる相手を求めているに違いなかった。
「またご迷惑をかけるといけませんから、病院の外でお目にかかりましょうか」
治夫は病院の近くにあるパーラーを教えて、彼女は承知した。
白衣を脱いで部屋を出ながら、彼はふとときめいたものを感じた。それは彼がこれから彼女と交わす会話の内容とは|関《かか》わりなかった。ただ彼女に再び会えるということ、彼女と自分との関係が、再びあの手術前の時のように返るということへの期待と満足だった。それは彼にとって、日頃の生活の中の異例であり、それで何が得られるものでもありはしなかった。考えれば考えるほど彼は今までこんな風に他人と関わりあったことはなかった。
先に着いて店の奥のテーブルで待ちながら、俺は何のためにあの女を待っているんだ、と彼は思った。そして、その答えがわからぬことに、彼は満足だった。
間もなく彼女はやって来、彼に招かれ恐縮したように、大きな植木鉢の蔭に表へ背を向けて坐った。
辺りを確かめ、彼女はようやく解かれたようにほっと微笑して見せた。まるで、周りの目をのがれて密通の|逢《おう》|瀬《せ》にたどりつけたようにも見える。その瞬間だけ、彼女は病室に置いてきた|聾《つんぼ》の息子を忘れたようにも見えた。
「呼び出したみたいで申し訳ありません」
「いいえ、ちょうど母が来てくれましたものですから」
しめやかにいう。
注文の品が運ばれてくるまで、彼女はじっと機を待つように黙ってうつ向いたままでい、ウエイトレスがグラスを二つ置いて立ち去ると、待ちかねていたように、思いつめた顔で彼を見直した。
「本当にどうなんでございましょう、和彦の耳は」
彼女はいった。そう|質《ただ》すことで、彼女は宮地を信ぜずに治夫をとったのだ。
問われたことがらの彼女にとっての意味や価値を考えずに、彼はそう問われたことに満足を感じていた。
今彼が宮地に代ってどのように残酷な答えを与えても、それは多分この女にとって、絶望の福音ともなる筈だった。そして、その絶望から更に彼女を励まし勇気づけ、助けることで、宮地は更に遠ざけられ、二人の結びつきはより固いものになるのだ。それは誰のためのものでもなく、ただこの母親と自分二人のためだった。その関係を何と呼ぶべきかは知らぬが、そうした関わりのために、何故、自分とこの女がそれぞれ選ばれたのかを彼は考えた。その訳が知れよう筈はなかった。何かがあの邂逅を与えたのだ。そして二人は同じようにそう感じたのだ。
彼女一人の魂だけではなく、息子を含めてその母子の全存在を今この手に預かっているのを彼は感じていた。それは彼に未知の何かに対する自信と希望を与えてくれるような気がした。自分の内に|喪《な》くしていた何かを取り戻せるような気がした。この若く美しい心乱れた母親に向い合い、彼は心安らぎながら、今までのいつ誰に対するよりも誠実でいられることが出来た。そう感じながら、医師としての自分の立場では許されないこの関係を、彼は簡単に自分に許したのだ。
「聴力の戻る様子はありませんか」
「はい。目のほうは前と同じくらいに直りましたが、耳は全然」
「宮地教授は何といっています」
「ただ、もう少し様子を見るとだけ。本当にどうなんでしょうか」
「なにぶん、微妙なところの手術ですからね。教授にこの先どんなつもりがあるか知りませんが、今特に耳のために何かしておられますか」
「いいえ、別に。一度耳鼻科の先生がお見えになりましたが、同じようにもう少し様子を見るとだけ」
「なるほど。耳鼻科の所見の方は後で訊いてみましょう。ただ、私が手術前に立ち会った時の話では、手術が成功しても、聴力は危ないのではないかという予測でした。なにしろ、前の手術が完全でなかったようで、病気が深いところまで大分進んでいましたからね。この前も申し上げたように、命をとりとめたことが拾いものとお考えにならなくては」
彼女はうつ向きながら、薄く唇をかんだ。治夫はそう繰り返すことで、彼女を自分に失望させたくないと思った。
「残酷ないい方かもしれませんが、お子さんの病気が何であったかをよく承知しておかれることです。他の病例を調べてみても、あの手術は成功した方です。それは親としては、完全な|恢《かい》|復《ふく》を願われるでしょうが、しかしなまじな気安めよりも、お子さんのためにも、あきらめるものはあきらめて、これからのことを考えておあげになるべきではありませんか。もちろん、宮地教授がいうように、これから万が一ということもあるかもしれません。しかし、それをあてにされて気を病まれるよりも、そう思い切られた方が、少なくとも気は楽ですし、新しい希望も生れてきますよ」
治夫はゆっくり|諭《さと》すように話し、彼女は一語一語頷きながら聞いていた。
「私があんなふうに申し上げたことで、宮地教授は私を叱った手前、そういいにくいのではないかと思いますが、もうこれだけ経過してみれば、わかるものはわかっている筈です。これは私の立場でいうべきことではないでしょうが、結論の出ぬままあなたがお苦しみになっていらっしゃるのを見ると、お気の毒で。それは、どんなにつらいかよくわかります」
治夫がいうと、彼女は突然片手で目をおおい、うつ向いた。そのままじっと動かず、声も出さずにいたが、やがて取り出したハンカチで目をぬぐうと、顔を上げ、彼に向って頭を下げ直した。
「宮地教授が伏せている所見を私があばくということは、具合が悪いのですが、とにかく耳鼻科のほうの所見も訊いてみましょう。しかし、早く覚悟されたほうが、気持も楽になると思います。お子さんは周りの、特に親の様子は敏感に感じとりますからね」
彼女は告げられることばを懸命に受け入れようとするように頷いて見せた。間を置き、彼が運ばれたままの飲みものをすすめると、彼女はようやく落着きを取り戻したように、つつましくグラスのストローを口にした。
「今まで二度手術されたそうですが、発病されてから、どれくらいたちます」
頭の中で数え、
「まる二年近くなります」
「お気の毒ですね。お子さんも可哀相だが、親の気持もどれだけつらいか。ですからこそ、今度の手術の結果を喜ぶようにしなければ」
「あの、また再発は」
「それはもう大丈夫です」
治夫は|賭《か》けるように嘘をついた。そう答えなければ、彼が与えようとしているどんな福音も意味をなさなくなる。嘘でも彼女を今はその点では救ってやらなければなるまい。
「耳を犠牲にしてまで、深いところを切り取ったのですからね」
実際には|繋《つな》がらぬ理屈だが、何も知らぬ彼女はそれでやっと納得出来、気をとり直したように微笑んだ。
「耳のことさえ納得されれば、あなたもこれでやっと落着かれるのではありませんか」
叱られて泣いたあと、子供が大人の道理をやっと納得したように、彼女は小さくだが、体で頷いて見せた。
「二年間も大変だったでしょう」
「はい。子供よりも私たちのほうがまいってしまいました。あの子があんなことになって、主人も何だか人が変ってしまったようです」
治夫はあのとき恐怖に放心していた彼女の横で、とうに感情を失ってしまったような顔でいた男を思い出した。
「主人の仕事の方が思わしくなくなったところへ、ちょうどまた子供があんなことになりまして」
「なるほど、それならご主人もお子さんも一番あなたを頼りになさるでしょうに」
彼女は何かに気づかされたように、微笑して見せた。その微笑はやっと今、張りつめた気持の中で、自分をゆだねられる他人を見つけられたように、嬉しそうだった。それは、美しいが、やつれてひ弱なこの女の中に秘められた崇高な何かを垣間見せるような表情だった。治夫はもう一度、あの最初の邂逅の時の彼女の居ずまいの内に自分が感じたものを思い出して見た。彼はそれを、もっと遠い何かの時に向って懐かしいものに感じていた。懐かしいというより、それはある渇きに似た感慨だった。それを体の内に確かめながら、この女のために、俺がもっと確実に出来ることは何だろう、と彼は思った。
翌日、耳鼻科にいる知り合いの助手に会って、塩見和彦の聴力についての所見を確かめてもらうように頼んだ。翌日返ってきた答えは、予想どおり絶望だった。専門医の診察では、聴覚神経は完全に聴器官に至る前の源で破壊されており、何らかの治療で、将来患者の聴力が復活する可能性は全くないとのことだった。それをどういう言葉で菊江に伝えようかと考えていた午後、治夫は資料室に行く廊下で、宮地と出会った。呼びとめた治夫を、最初誰と気づかずに宮地は振り返った。
「先日、先生の執刀された患者について失礼いたしました緋本です」
わるびれず名のった彼を見直して思い出し、薄暗い廊下で何を感じたか、資料をかかえたまま、一瞬宮地は身構えるような顔になった。
「わずかな縁ですが、気になるものですから、あの子の聴覚はやはり駄目なのでしょうか」
黙って見返し、手にしたものを持ち直しながら、たった今の自分に悔いたように宮地は別の表情をつくった。
「駄目かどうか、まだ結論を下す段階ではないから、そういってあるのだ」
つき離すようにいうと、そのまま宮地は歩み去った。その背は、立ちどまって見送る治夫を意識していた。見送りながら、治夫はまた英子の店のあの主人を思い出した。
その日の夕方、英子から電話がかかった。
「とうとう今日やったわ」
いきなり彼女はいった。
「何も気づかれずに、すごく|上手《う ま》くいったわ」
「そうか。俺はなんだか、君が今日やりそうな気がしていたんだ」
さっき廊下で見送った宮地を思い出しながら彼はいった。
「今夜会える、あなたの部屋に行っていいでしょう」
甘えたように、英子はいった。
「いいとも」
「九時には行くわ、私たちこれで|完《かん》|璧《ぺき》ね」
英子はいった。彼女がいった完璧という言葉の意味について彼は考えかけ、止めておいた。何でもいい、彼女に今自信を持たせることが必要だった。
「あ、それからあいつの指にも逆むけがあったわ」
英子はいい、笑ってみせた。その声にあるコケットリイが彼に、今夜腕にするものを感じさせた。
夜、約束どおりの時間に彼女はやって来た。部屋に入り、彼が注いで差し出したものを飲むとすぐ、英子は今日店でやったことについて話し出した。
「珍しく暇で手が空いていたとき、店員の控室で私があいつに、マスター、マニキュアしましょうかっていったのよ。店へ道具を取りに行って、消毒室でセットの液の瓶を取り替えて、消毒ボールの中にも一滴たらしてやったわ」
あの男の左中指にあった逆むけの様子を彼女は事こまかに話した。逆むけをわざと少し乱暴に深く切り、液をつけ、プッシュで突くと、男は「痛いっ」といって顔をしかめた。
やがて客が来、他の店員がいなくなった控室に二人だけ残ってあの男の指を握ってマニキュアする英子に、あの男がどんな風に体に触ったり、何をいったりしたかまでが治夫にはわかった。すると、より期待と小気味よさが胸に|湧《わ》いた。聞きながら自分に確かめたが、後ろめたさも怖ろしさもなかった。それが余人に全くわからぬ仕組みで次第に出来上がっているというだけではなく、相手の男の顔を思ってみるだけで、後悔や懸念のかわりに満足があった。治夫はふとあの日病理の解剖室で見た、急激な肝臓障害で全身異様な褐色に変色した男の|屍《し》|体《たい》を思い出した。
「いつもするより半ミリくらい深く甘皮を切ってやったわ、それだけ早く効くんでしょう」
「そうだよ。あるいは今日一回の分でだって致命的になるかもしれない」
「お願い」
英子は胸の前で祈るように両手を合わせて見せた。
「君の願いはそう遠くなく聞き届けられるだろうさ」
「でも、本当にうまくいくかしら」
「絶対にいくさ」
そういう治夫を英子は本気に祈って願うような目で見返した。彼はふとここでもまたあの塩見菊江に向ってと同じように、福音を伝えているような気分になった。
「終ったあと、あの男は何ていった」
「お前の仕事はやっぱり一番確かだって」
英子は声を立てて笑った。
「一週間くらいしたらまたいい出してしてやるわ。こんどはペディキュアもしてやる」
「ペディキュア」
「足の爪よ。上と下一緒なら早いでしょう」
新しく買った何か電気器具の性能を確かめるような、ほかの何の感情も混えぬ口調で彼女はいった。それは潔く心強いものに聞えた。
英子を見直しながら、彼はこの前の夜感じたことを思い出した。
この女は自分がやっていることが何なのか本当に承知しているのだろうか。知らない訳はない。俺の方が初めこの女にそれを教えられたのじゃないか。今までの俺よりも多分彼女の方が、もっと何かで自分を押え、ひん曲げ我慢してきたに違いない。
治夫は手を伸べ同志である英子を引き寄せた。待ち受けていたように英子は腕の中へ倒れ込んできた。
彼は自分が今まで知らずに、このめぐり合いを待ち続けていたような気がした。そして、出会ってみれば思いがけず、その相手は英子だった。そのことにまったく不満はなかった。それは|昂《たかぶ》った感動とは違って、冬場長らく探していた靴下がやっと見つかったような安息と満足だった。
その夜、英子は、今まで気づかぬままなお二人の間にあった何かの|枷《かせ》がはずれたように、彼女の方から思い切って積極的だった。彼から教えられた仕事をまず一度|為《し》|遂《と》げてきたことで、彼女の内に女としての自立の自信と意欲が急に培われたみたいに、彼女は快感に対してまで向う見ずになった。
要するにその夜は共犯で手を染めたという興奮が二人の快感を新しく彩り、力を添えたのだ。この分でいくと、あの男が死ぬまでに二人は新しい刺激に事欠かぬような気がした。あの男に対する共同作業で彼がとったイニシアチブを取り戻そうとするように、英子は大胆に彼に向っていき、それを受けとめ、応えながら彼は満足だった。あの男は今日から間違いなく死にかけている。それに比べて二人が今分ち合っているものの快感は間違いなく生命的だった。彼は生れて初めて他人に向って確かな勝利を得られるような気がした。濡れて|氾《あふ》れ、激しく息づいている英子の体を抱きしめながら、治夫はすぐ目の前にもう一つ変色して横たわったあの男の死骸を想像してみた。そして二人はまた同時に同じ|恍《こう》|惚《こつ》にいきついた。
「ああ、私たち完璧ね」
うわごとのように英子はいい、そのとき彼はようやくその言葉を理解し、納得した。どの男にも、真実合った女がこの世に一人はいる、というロマンチックな|妄《もう》|想《そう》などではなしに、ともかく今二人はぴったりと合って感じられた。
メディアチオンについて大学病院での調査がさして進行しないうちに、前に患者を送ってきた日薬化工の研究室はさらに二人の患者を送り込んできた。二人とも前に解剖された男の所見と同じ症状を呈している。彼らが扱っていた新しい毒物は、作り出した人間も、その尻ぬぐいをさせられている人間たちも考えていないほど強い毒性を持っているようだ。普通ならこうしたケースは会社のほうで患者を犠牲に蓋をしてしまうのだろうが、研究所、会社と大学の薬学科との間に流通があり、同じ秘密|裡《り》の処置でもこうした処置になったようだ。更に詳しく事情を聴取したところだと、一たんものに付着した後の薬物の分解はほとんどなく、その|滲《しん》|透《とう》性と蓄積性は予想以上に強度のようだ。彼ら二人は薬品の毒性を充分承知してそれを扱っていた筈なのにこうした結果を招いている。患者二人の内臓はあちこちに障害が起き、血液の破壊は進んでいた。片方の男はすでに一度軽い|麻《ま》|痺《ひ》を起している。それらの新しい資料は治夫にいっそう自信と期待をもたらした。英子の店の主人に遠からず起ってくる症状を、事前に病院の病棟にいる二人のモルモットの上に|仔《し》|細《さい》に眺めることが出来たのだから。
一週間して英子はまた男にマニキュアを施し、いっていたとおり足の爪も磨いた。その時男は、前々日新しくはいたゴルフシューズでこしらえた靴ずれをそのままメディアチオンの入った消毒液のボールに漬けたそうだ。彼女はその報告を持って次の日彼の部屋までやってきた。
更にその翌日の夕方、医局の治夫に英子から電話がかかった。
「マスターが、あいつがさっき倒れたわ。お客の頭刈ってるとき、急に気持が悪い、吐きそうだって、今|悪《お》|寒《かん》がするってホテルの医者を呼んで、控え室に横になっているわ」
「君はどこからかけているんだ」
「もちろん外よ。あれが効いたのかしら」
少しこわばった声で、英子はいった。
治夫はカルテで見たあの入院患者の発病の容態を思い出してみた。片方の患者はある日突然吐き気と悪寒に襲われている。それが止らず、彼がかかった最初の医者が念のために調べた血清検査で男のGOT・GPTの指数はすでに一〇〇〇近くあり、少なくとも何かで肝臓が破壊されていることを示していた。障害は|胆《たん》|嚢《のう》に及んでい、すぐに激しい|黄《おう》|疸《だん》が来、医者は肝臓病と診断して対処したが、一定の休養期間を置いても病状は恢復せず、更に他の障害が出た。
「間違いない、思っていたとおりの症状だよ。今この病院にも同じ薬でやられた患者が入っているんだ」
「その患者は死ぬの」
「多分助かるまい。手当が遅れすぎている」
「あいつはうまくいくかしら、今ホテルの医者が来ているのよ」
「気付けを打ったくらいで治るもんじゃない」
「それならいいけど」
英子はいった。
声だけで聞えるその言葉は一瞬彼をどきっとさせた。治夫は自分が当事者でないかのように、どこかの電話ボックスにいる英子の様子を想像してみた。聞かれる筈のない二人の会話を、もし誰かが聞いたとしたらどう思うだろうと思った。全く無意味な想像だったが、彼は|一寸《ちょっと》の間、自分でも何とわからぬもののためにそれを想像した。それは手術で開腹してしまったあと、にわかに内科の医学辞典を引き直すようなことに違いない。しかしそれでも彼は第三者が|窺《うかが》うように、電話の向うにいる英子の様子を想像した。彼女は薬の反応を目の当りに見たことで、前よりもいっそう確かにこの船に乗り込んできていた。
「その後、様子をまた出来るだけ詳しく知らせてくれ」
「ええ、でもやっぱりうまくいったのね」
彼に向って念を押し、確かめ、勇気づけられようとするように英子は言った。
「そうさ、間違いないよ」
「私戻るわ、戻ってどんな様子だか見てくるわ」
子供みたいに気負っていうと彼女は急いで電話を切った。
次の日の夜、二人は町で落ち合った。何を食べるかを彼にまかせきりにして、英子は昨日の出来事を事こまかに話して聞かした。隣りの人間が聞き耳を立てたら、仕事に熱心で患者に親身な看護婦の報告とでも聞いただろう。
驚くべきことに彼女はあれから店に戻り、あの男を診断した医者に彼の容態について所見を尋ね、何を注射したかまで|訊《き》き出していた。治夫は彼女を完璧なパートナーとして見直した。
ふと彼は思った。あるいは俺が現われなかったら英子はあの男にとって、こんな具合によく気がつき、行き届いて申し分のない女だったのじゃないか、その想像は彼の自尊心を少し刺激した。
呼ばれた医者の診断と手当はまったく無意味なものだった。彼はそう告げ、英子は満足し|頷《うなず》いた。彼女が使っている薬が、かけつけた医者の考え及ばぬ、この世で僅かな人間しか知らぬものであるということを彼女はあらためて悟り、それが彼女をいっそう大胆にさせたようだ。彼女から握って結んだ手を振りながら、
「ああ、いつになるのかな、待ち遠しいわ」
はしゃいだように彼女はいった。顔を|腫《は》らし、|痣《あざ》をこしらえ、打ちしおれていた時に比べて確かに英子は、今期待と自信にあふれて見えた。他人がそれを幸せな様子ととって間違いということは決してない。彼女にとって今、世界はやっと広く感じられ出したようだ。
「医者が帰った後、あいつ私の手を取って、俺は一体どうしたんだろっていったわ。どうしたんだろうだって」
英子はまた声を立てて笑った。その笑い声は満足そうなだけ、少し残酷だった。そして、それは|何故《な ぜ》か英子に似合った。彼女に、というより、女に、というべきかも知れないが。テーブルを|捉《つか》んで、身を乗り出すと、声をひそめながら、
「私に水をくれっていったの、よっぽどそれにも一滴入れてやろうかと思ったわ」
自分がそうしろといえば、彼女は今度それもやるだろうと治夫は思った。
「それは|止《や》めたほうがいい。あんまり急によりも、時間をかけたほうが自然に見える」
「そうね」
身をすり寄せるようにして彼女は頷いた。彼はふと薬学の竹内から聞いたあの薬の名前の意義を英子に教えてやろうかと思った。どうやらあの男にとって英子はメディア以外の何ものでもなさそうだった。
食事しながら、彼女はなおもあの男の様子について話し続けた。それは彼女にとってアペリチフかも知れなかったが、治夫には、前に解剖した屍体と、いま明らかに死にかけている患者を連想させた。彼はふと、病院に廻って来たあの男の屍体を解剖させられる自分を想像した。
「もういいよ」
隣りのテーブルに客が坐ったついでに治夫はいった。
「どうして」
英子は心外で、|咎《とが》めるように彼を見直した。隣りを目で指し、
「そういう話は慎重にした方がいいぜ」
彼の当然の忠告で英子はやっとなみの注意を取り戻したように、肩をすくめ、頷いた。
思い直し、フォークを取り直した後もう一度、
「うまくいくと思う」
英子は質した。
「ああ、うまくいくよ、絶対に」
「今日は休んでいるけど、あいつ、いつごろまた出てくると思う」
「それはわからないな。爪がまたのびた頃かもしれない」
彼女は自信あり気に微笑し、頷いて見せた。その微笑は道徳を犯しながら自らを助ける一人の女の決意をはっきりと示していた。治夫が応えて微笑しないことは|不《ふ》|均《つり》|合《あ》いだった。英子を真似て治夫も微笑して見せ、英子は契約書にサインし終ったあとの契約者のように満足そうにもう一度微笑し直した。
ちょっとの間二人はほかの話題を探そうとするように黙ったまま食事し、英子は、彼が許せば、何度でもあの男のことを話したそうに彼を窺って見た。
しかし治夫には何故か、昨日のあの店で起った事柄が強い実感で感じられなかった。あれを思いつき、彼女に明かして教えようとした時のほうが、やろうとしていることに生々しい実感があった。彼女が倒れた男の顔色や息づかい、あるいは最初薬を指に塗ったときの緊張について、詳しく話せば話すほどその実感は遠のき、彼はこの事柄から取り残されたような気分になった。しかし彼が英子に代る訳にはいかない。そうしてまた、彼が共犯でないということも絶対にないのだ。彼はふとこの事柄が発覚した場合のことを思ってみた。検事の求刑、そして下される罰、しかしそれらのことも全く実感で伝わってこなかった。俺はこのことで英子に|羨《せん》|望《ぼう》を感じているのじゃないだろうか、彼はふと思った。
「あなた、いつかあいつが店へ出てきたら見にこない」
突然思いついたように英子はいった。そうだ、そのことだ。俺は薬を入れられる男をこの目で眺め、確かめなければならない筈だ、彼は思った。
「しかしまずいだろう」
「大丈夫よ、私、迷惑そうに知らん顔してあげるわ。あいつそれできっといい気になるわよ」
英子は声を立てて笑った。健康な笑い声だった。
「ほんとうに|上手《う ま》くできるか」
「できるわよ。私、芝居上手いのよ」
「そいつは楽しみだな」
「面白いわ、きっと」
英子はいった。
翌日医局に塩見菊江から電話がかかった。彼女は治夫が前に約束した耳鼻科の専門医の所見を尋ねてきた。訊き出してはいたが、それをそのまま伝えることに治夫は決心つかずにいた。第一それは、前に宮地から|叱《しっ》|責《せき》を受けた以上の|僭《せん》|越《えつ》だったし、彼女がそれで動揺し宮地を咎めるかどうかして、逆に出所を確かめられないとも限らない。それに、聴覚の恢復の絶対不可能を知らせることは、彼女に対する彼の今までの立場を壊してしまうことになりはしないか。これは手術前の、いわば無責任な気やすめとは全く違う決定的事実なのだ。菊江は治夫の都合いい時間に先日の店で待つといった。決心つかぬまま、彼はからだの空く時間を答えた。
入っていった店の、先日と同じテーブルに菊江は、思いがけず息子を連れて坐っていた。手術後の日数からしても、傷の経過さえ良好なら、まして恢復の早い子供はもうそろそろ出歩き出来る筈だった。
取り寄せた飲み物のストローをくわえていた少年は、治夫を迎えて立ち上がる母親の気配に気づいて彼を見上げた。
「和彦さん、先生よ」
彼女は唇を読ますように少年へ体を廻して|覗《のぞ》き込んで告げ、肩を押して促した。和彦はいわれた言葉を理解したか、彼に向って包帯を巻いた頭を下げる。一瞬、一杯に巻かれた包帯の容積が、彼がその重さを首で支え切れぬのではないかと思われるほど危ういものに見えた。喫茶店で見る和彦の包帯はやはり痛々しかった。
「いかがですか」
「はい、どうやらここまで」
互いに探り合うようにいった後、二人は同じように和彦を眺め直し、沈黙した。和彦は二人の会話を身をもって聞こうとするように、二人を交互に見つめている。
「あの、来週にはもう退院してよいといわれましたのですが」
「それはよかった」
「ですが、耳のほうはまだ全く」
「何もいわれませんか」
「はい、ただ前と同じように」
窺うように見つめると、
「この前診ていただいた耳鼻科のほうの先生は何と」
菊江は訊いた。和彦は振り返って母親を見つめ、彼女が黙ると待つように治夫を見つめた。
何か動物の目のように澄んだ、交わされている会話に対して何の表情もない少年の目を見返しながら、治夫はふと、その実この子供が何もかも理解しているのではないかと思った。彼は突然ふと目の前の二人の母子づれを、遠い以前の記憶の中で知っているような気がした。それは幼い頃見た聖画の中の二人だった。彼の頭の中でその絵の記憶だけが急に鮮明に|蘇《よみがえ》って来る。暗い森の中に、迷った聖母と赤児が、一本のか弱い|蝋《ろう》|燭《そく》の|灯《あか》りをかざして彼らに道を告げようとしている森番と向い合っている。その小さな灯の上には小さな天使が飛んでい、まわりの暗がりには邪悪な悪魔や化け物たちがひそんで二人を見まもっていた。
幼なかった彼は何故かその絵にひどく心を打たれ、多分クリスマスカードとして同じ幼稚園の友人の誰かに宛名して|投《とう》|函《かん》するようにいわれたその絵を出さずに隠してしまい込んだのだ。その絵の記憶が一体どうしてこの現実に繋がるかはわからぬながら、彼はその記憶の懐かしさを、目の前に坐った、自分と今までまったく|関《かか》わりなかった、しかし今突然好意以上の何かを感じてしまった母子と結びつけ、納得出来るような気がしたのだ。
その聖画にはもう一つの記憶がある。後に小学生になった時、家に遊びに来ていた年長の友人の誰かが、何かでその絵を見つけ出し、ふざけて落書し、懸命にそれを咎めた彼の前でその絵を破る真似をして見せた。その瞬間彼は自分で驚くほど狂暴な衝動にかられ、一つか二つ年上の相手を突きとばし、手にした鉛筆でえぐるようにその顔を殴った。それは彼の日頃に全く似合わぬ|猛《たけ》|々《だけ》しい行為で、傷つけられた相手は一度におびえて泣いて逃げ帰り、周りもとめる|術《すべ》もなく見守っていた。しかし誰よりもそんな治夫に目をみはったのは彼自身だった。
あの一枚の小さな聖画の印象が彼にとってどんな意味を持ち、何を暗示していたのかはわからぬが、今現実の二人の母子を目にしながら、突然鮮明にその記憶が蘇って繋がったことに驚きながらも、彼はある安らぎを感じることが出来た。それは誰に知られることもない彼一人の確かな感情だった。そしてそれが、言葉で|証《あか》す必要なくすでに目の前の二人に何かで通じていることを彼は感じていた。
彼はただ微笑して見せた。その微笑に何かを感じようとするように彼女と少年も|微笑《ほほえ》み返した。今自分が果すべき福音を彼は考えつかぬまま、一番確かで残酷な事実を彼は粉飾した。
「どうも、耳のことは耳鼻科の方でもわからないそうです。今の段階では宮地教授のいわれるように、あるいは将来何かで聴覚が僅かでも戻ることがあるかもしれないということでした」
相手に聞きとられていく自分の言葉の余韻を確かめるように、彼は二人の目だけを見つめていた。
今俺が嘘をついているということがわかれば、俺たちの間はもうこれきりになる。願うような気持で彼は思った。母親はなお待つように彼を見つめ、和彦はそっと母親を振り返り、また彼を見直した。
「しかし、その万が一という期待にいつまでもすがって裏切られるよりも、今一応決心されたほうがお子さんのためにもあなたのためにもいいと私は思いますね。それは不幸なことには違いないが、しかし最悪だった場合を考えてみて下さい。それに、もっともっと不自由で不幸な子供は沢山いるのですからね。坊やのために今までいろいろ御苦労があったでしょうが、これでやっと報いられたと思われるべきだと私は思います。何よりも命をとりとめたのですから」
自分の言葉と声に確かな誠意があるのを彼自身が感じていた。
俺は多分これから先、こんな風に誠心誠意他人のために嘘を説くということはあるまい、彼は思った。
同じことをあの宮地教授がいっても決してこうは伝わるまい。治夫を見返す彼女の|瞳《ひとみ》のうちに段々ある淡い影が覆い、しかしまた、覆われた瞳の底から別の光が湧いて射しかけてくるのを彼は感じた。彼を通してもっと遠いどこかを見つめているように、彼女の瞳は動かずにいた。
突然彼女は気づいたように間近にいる息子を振り返り、そっとその肩に手をかけ、彼女を振り仰いだ息子と見つめ合った。やがて神秘の彼方からやってくる|曙《しょ》|光《こう》のような微笑が彼女の唇に浮んで来、治夫の目の前で母子は微笑み合った。彼女の微笑の内におびえた影はもう見当らなかった。
それは母と子の回心の瞬間であり、治夫はそれを感じた。自分の言葉が、いや自分の存在が一人の他人の魂をとらえて教化し、新しい信仰に踏み切らせたことを彼は|戦《おのの》きながらも信じた。その瞬間、法悦のように、せつないほどの懐かしさと安らぎを彼は感じた。微笑んだまま母子は彼に向って振り返り頷いた。頷き返しながら彼は今二人の内にある自分を感じ、二人は彼の内にあった。
彼らは俺にとって一体何なんだろう。|痺《しび》れたように繰り返し治夫は思った。
病院に帰った彼を看護婦が探して呼びに来た。病理と薬学で預かっていた日薬化工の患者の一人が、容態が急変し、三時間前に死亡したのだ。通夜のあと、また病理薬学合同で解剖が行われる予定で、その打ち合せに薬品の調査を受け持ったスタッフが会議していた。患者を看とった内科の報告では、今回の死因は麻痺ではなく、強度の肝硬変、その他の内臓疾患の合併症として来たようだ。患者は今朝がた用足しに起き上がろうとした時、|目眩《めまい》して倒れ、そのまま|昏《こん》|睡《すい》に入ったという。新しい報告を加えて、手に廻ってきた患者のカルテを治夫はあの男のために|諳《そら》んじた。
「これを見ると解毒剤の処方の時期が遅かったなどというよりも、メディアチオンの毒性のほうが強くて複雑なようだ」
薬学の竹内教授がいった。
「こうなってくるとただ新薬をつくってしまうのは片手落ちという気がしますね」
助手の一人がいう。
「全くね」
「この毒性への抵抗なり解毒の方法を、多分この薬にも抵抗性を備えてくるだろう害虫に訊いてみたいよ」
「しかし、とにかくここまで来ると薬の開発も頭から考え直さなくてはならないような気がするな」
「解毒剤のない毒物をつくることは安全装置のない爆弾をつくるよりもたちが悪いということになりますね」
「これは当分日薬化工のほうにも製造を見合わすように忠告したらどうでしょう。これじゃ元も子もありませんよ」
彼らの会話を聞きながら治夫は、あの男がもう一度店へ出てくることが出来るだろうかを考えた。患者の屍体は解剖されたが、体を侵した毒物自体の量が微少なわりに、その作用が強力であったために体の器官から蓄積された薬物の検出は容易ではなかった。もしあの男がこの患者のように肝臓等の内臓病疾患で死んだとき、あの毒物について知識のない市中の医者はせいぜい一夜で人を殺す電撃性肝炎くらいと見るだろうし、もし麻痺が彼を死なせたとき、本人に先天的に潜んでいた脳内部の疾患が出たか、原因不明の後天的障害ということだけで片づけられるだろう。いずれにしろ患者の新しい死は、あの男が歩み出したものへの確かな道標に違いなかった。
患者が死んでから一週間ほどしての午後、英子は病院に電話してきた。
「あいつ、今日からまた店へ出てきたわ」
彼女は一昨夜治夫の部屋に泊っていき、あの男があれっきり家で寝て、寝ついたまま死んでしまうのではないだろうかといっていた。家で死んでしまわなくとも、その前に彼がどこかへ入院してしまうことはあり得た。その想像に治夫は不満だった。それではあまりに事柄が|呆《あ》っ|気《け》なさすぎる。彼は自分がやったことが何であるかを知れずにあの男を|喪《うしな》ってしまいかねない。
「一時間ほど前に出てきて店にいるわ。私、お客の使いで外に出て、外からかけているの」
「様子はどうだ」
「まだよくなさそうだわ。顔色は前よりもずっと悪くて、何だか|蒼《あお》|黒《ぐろ》くなっているの、息切れがしてふらふらするって。医者は肝臓を悪くしたんだろうって。でももう峠を越したそうよ、あのままよくなるのかしら」
「多分、いや、絶対にそんなことはないだろう、同じ訳で具合悪くなって病院へ入っていた研究所員の患者だって、この間死んだんだからな。かかりつけの医者は誤診しているだけだ。これからもただ悪くなるだけだよ。そうやって家から出て無理すればするほど早くなるだけだ」
「私、またマニキュアしてやるわ」
看護婦が、かかりつけの患者の体温を復唱して書きつけるような声で英子はいった。
「彼はまだそこにいるのか」
「夕方までいると思うわ。いろいろ用事が|溜《た》まっているし、それに今日店内を改装するために、店を閉めた後デザイナーが来るの」
「よし、俺はやつを見に行くよ」
「見に」
「ああ、じかに眺めて俺が診察してやる」
「ほんとう」
「君は俺には嫌な顔をしていりゃいい。俺が何かしかけたら、つんとして取り合わないでいろよ。少しはやつの見舞になるだろう」
英子は笑い出した。
「芝居するのね、いつかいったみたいに」
治夫は店の看板時刻を確かめた。
「本当に来るのね」
「本当に行くよ。今日いかなきゃ、このままあいつに会いそびれちまうかも知れないからな」
「本当にそうなるかしら」
急に声をはずませて英子はいった。
治夫が店に入った時、男は丁度奥から一番古手らしい店員を従えて何か戸棚の中の整理をいい渡しながら出て来た。そのすぐ後ろに英子がいた。
男の顔を見た時、治夫はわざと|躊躇《ちゅうちょ》した顔をして見せた。男も彼を認め、驚いて身構えるように見返し、そしてすぐに、咎めるように後ろをふり返って英子を見た。
英子は治夫を見、ふて腐ったように横を向いた。芝居は|上手《う ま》かったが、一寸|大《おお》|袈《げ》|裟《さ》にも見えた。しかし、男はそれで完全に納得した顔になった。
男は余裕を持ち、治夫を無視して英子に向って何かいったが、英子は肩をそびやかせて奥へ|踵《きびす》を返した。
男は今までで初めて、笑みを含んだ顔でもう一度、治夫へふり返った。
それに臆したように彼は眼を伏せ、間近にいた店員に、躊躇しながらのように、髪を刈ってくれ、と頼んだ。
事情に気づかぬ若い店員は、空いていた奥から三番目の椅子を指した。
|暫《しばら》くし、白布で包み終られた彼の後ろを、英子は、まだ見守っている男のためにか、鏡の中の治夫に向って肩をそびやかせて通りすぎた。
それから二度三度、男は治夫を全く無視したように彼の後ろをいき来し手の空いた店員に何か命じている。鏡ごしに眺めた顔色は、英子がいった通り蒼いというよりどす黒く、肌の|艶《つや》が全くない。期待した通りの症状がはっきりと現われている。
暫くし、男は治夫に間近い奥の消毒室の前から、|顕《あき》らかに彼に聞かせるために、やっぱり戻って来た飼い犬を呼ぶような自信に満ちた声で英子を呼んだ。
いいつけに頷いた後、
「マスター、後でマニキュアしましょうか。今、丁度空いているから。それに久しぶりでしょ」
|媚《こ》びるように、そして、治夫に意識して当てつけるように英子はいった。
男が横眼で自分を見据えるのを感じ、治夫は二人のそんな会話に屈したように、眼を落しうつ向いて見せた。
男は自分から、奥の控室でなく、店の中央の、いつか治夫が坐ったマニキュア台に坐った。坐るだけで、男は大儀そうに見える。治夫は薬に血液を冒された男の血清検査の数値を想像して見た。
英子がどんな風にしたか知らぬが、それにしても、薬の毒性の強さは想像以上のようだ。
男からいわれた用事を終えて戻った英子は消毒室に置いてあった彼女のマニキュアセットを取り出し、消毒液を入れた小さなボールと一緒に、小さなワゴンに載せて、男の坐った椅子の脇へ運ぶ。
ついさっき彼女は奥の消毒室で、この男のための、液体の入った|小《こ》|瓶《びん》を取り替えておいたに違いない。治夫は斜め横の鏡に映った男と、その前にかがみ込んだ英子を眺めた。彼の視線を感じながら、男は目を閉じ、|仰《あお》|向《む》けに椅子の背へ寄りかかったまま動かない。男は今死ねば一番幸せに違いない。
片手の爪切りを終え、体をずらして残る一方の手にかかりながら、
「あら、また逆むけがあるわ」
大きな声で英子はいった。彼女は治夫に伝えるためにいったのだ。いわれた男も彼なりに、治夫を意識して満足したろう。
中指か、薬指か、いずれかの指を握りながらそこにある逆むけをそっと掘り起し、その上にあの薬を塗りつける英子の指の動きを、彼は白布の下の自分の手の指に移して感じようとしてみた。倒錯した奇妙な快感があった。他人の体の上に伝わる彼女の指の感触が彼に伝わって来、彼は今行われていることを理解出来た。英子の手の動きを眺めながらその感触の一つ一つに彼はときめき、初めて味わう快感が次第に高まっていくのを覚えた。|勃《ぼっ》|起《き》する自分を感じ、同時に離れたところで、じかには届かぬ自分の指によって、濡れて、興奮していく英子を感じたのだ。それは、彼が今までに知っていたどのみそかごとよりも完全に、二人きりの行為だった。おそらく男が寝ているベッドの下で、息せずにその女と交わったとしても、これだけの感じはないだろう、と彼は思った。姦通だけではなく、|嗜虐《しぎゃく》をこめた、息のつまるような興奮があった。
「ちょっと、今の指をもう一度、駄目よマスター」
甘えて不服そうに英子がいった。
いわれるまま、男はいずれかの指をもう一度さし出す。彼女はそれを握りしめ、なおもの足りなかったようにあの毒をステインの小刀の先に着けて塗り込んでいる。その感触を感じながら、突然治夫は自分の体の内にあの男を感じたのだ。それは唐突だが、確かな感じだった。今、自分があの男の全身を預かり持ち、二人は重なり合い、密着し、男は彼の内なる部分となって感じられた。思いがけぬ発見だった。今までこんなふうに、他人が抜き差しならぬ形で、自分に関わりをもって感じられたことはなかった。英子を通じてこの男の運命を手にしたことで、治夫は自分にとってのある他人の存在を、自身の何か分泌物に触れるように、生々しく感じ取ることが出来た。それは|裸足《はだし》の|踵《かかと》で思わず踏んでしまった、|渚《なぎさ》に流れ着いた何か腐った軟体動物のような触感だった。死にかけて青黒い、異形な他人は今、彼自身の中に感じられた。治夫は息をつめてそれに耐え、それを味わった。そしてこの感情こそが、自分が今まで求めながらも避けてきたものだと知れた。
彼女の作業の感触を自分の指に感じながら、彼は、彼女を通じて、今あの男を感じることが出来たのだ。つまり、英子もあの男と同じように、彼の体の内にあった。数メートル離れたところにいながら、彼と英子はその作業を通じてぴったり重なり、やがて後に行う行為の時以上に確かに|繋《つな》がり合っていた。
髪を刈られている自分を、向い合った鏡の中に見直して見ても、治夫の知覚は麻痺したように混乱し、混乱しながらなお彼は今まで感じたことのない、ある確かな充足を感じることが出来た。それを確かめるように彼は、あの男と英子と自分とを、それぞれの鏡の中で眺めなおして見た。鏡の内に見えるものは、鏡のこちら側にあるものと違って、もっと真実な気がした。
「足もしましょうね」
あの男と、治夫だけにわかる、甘えて、かしずくような声で英子はいった。男は頷き、かたわらの店員が、英子の横にかがんで、男の靴ひもを解いて脱がせる。英子は靴下を外して、男の爪先を消毒液のボールに漬けた。
「あら、あの靴ずれ、まだよくなおっていないのね。どうしたのかしら」
再び、治夫にも聞えるように、英子はいった。そう伝えることで彼女は多分、そのボールの中の液体に何が混っているかを、治夫に改めて教えたのだ。
病院での実験で、|稀《き》|薄《はく》に溶解した毒薬を外傷に塗ったモルモットは毒物の細胞破壊で傷口がただれ、|恢《かい》|復《ふく》せずにいた。英子のたった今の報告は実験の結果にも符合していた。
「これじゃいつまでも靴にすれて痛むでしょう。|尤《もっと》も病気で寝ている間は靴も要らないけど」
英子は男を仰いではっきりと媚びるように笑って見せた。その横顔が鏡の中に見える。彼女のその笑顔の意味を、世界の中で、治夫だけが知っている。英子は治夫から離れながらも、今彼と一緒に寝ようとしている。
彼女が仰いで微笑みかけたのはあの男でなく、治夫なのだ。彼はそれを感じる。そして、彼女もまた、彼が感じていると同じ倒錯を感じている。彼にはそれが感じられてわかる。男に見せた彼女のコケットリイは、実は今夜の二人のための前戯なのだ。ますます興奮する自分を感じ、治夫はそれを知られぬように白布の下で手で押えた。
英子が片足を終え、もう一方に取りかかろうとしたとき、別の女店員が男の待っていた客を案内して来た。男は仕事の途中で足を|収《しま》って立ち上がり、はっきりと治夫を無視したまま、客と一緒に店を出て行った。
手にした小道具を消毒してしまうと、英子は遠く店の奥から二人だけにわかる角度で、鏡を使ってチラと笑って寄こし、後は知らぬ気に、控室に向って店を出て行った。
顔を|剃《そ》った後、最後の調髪にもう一度|鋏《はさみ》が当てられたとき、あの男と連れ立って店を出て行った年輩の店員が慌てて店へ駈け込んで来た。
「医者を、松山先生を呼んでくれ、マスターが向うで倒れた」
「どうしたの」
受話器を差し出しながら、レジの女が訊いた。
「何だか知らない。向うのパーラーでお茶を飲んで話していたら、急に青くなって倒れた。息が出来ないみたいだ」
「息が」
驚いて立ち上がる女の前で店員はテーブルのメモ帳をのぞき、ダイヤルを廻した。廻しながら周りに立っている他の店員たちに、
「今控室に運んでくる、お前ら行って手伝ってくれ、早く」
居合せた男たちが走り出して行った後電話は話し中で、ようやく三度目にかかり、相手の医者は不在だった。
「松山さんがいないと、どこだ。隣りの歯医者じゃ間に合わないし」
「救急車を呼んだら」
レジの女がいったとき、
「僕でもよけりゃ」
鏡越しに、治夫は声をかけた。
「|他《ほか》の医者を呼ばれるにしても、よければとりあえず、僕は東城大病院の医局にいる者です」
店員は振り返り、
「お願いします」
見境なく、駈け寄ると、頭を刈っている店員に代って白布を外しながら頭を下げた。
「様子はどうなんです」
「それが、目眩がするといったと思ったら急に息がつまって、胸のあたりを|掻《か》きむしり、そのまま椅子から倒れて」
男は緊張し、青ざめた顔でいった。
「僕は今何も道具を持っていませんから診るだけしか出来ませんが、とにかく至急他の医者を呼んでください。今までにこんなことがあったのですか」
「いいえ、ただ昨日まで肝臓のほうが悪くて家で休んでいたのですが、或いはまだ出歩くのは無理で、貧血したのかもしれません」
治夫が戸口を出ると、アーケイドのパーラーから店員たちがあの男の体を抱えてやって来、店の横の細い廊下の奥にある従業員の控室に運び込んだ。控室の長椅子に横たえられた男を眺めただけで、症状がただの貧血でないことがわかった。男はチアノーゼを起している。|痙《けい》|攣《れん》は心臓を襲ったようだ。唇が紫色になり、顔色は前よりももっとどす黒く沈んで、男は目を|吊《つ》り上げ、白眼を出して硬直しかけながら、|喘《あえ》いで、刻むような呼吸を辛うじてしている。パーラーで倒れたはずみにどこかをぶつけたのか、男の|顳ソ[#「ソ」は「需」+「頁」Unicode="#986C" DFパブリW5D外字="#F4BF"]《こめかみ》からは血が流れていた。案内した年輩の店員が事情を説明し、促されるまま、治夫は今初めてこの男に触れたのだ。さっき頭を刈られながら、マニキュアしている英子を眺めて感じた彼にとってのこの男の実在感が、前よりもっと強く、確かにあった。治夫は近づき、男の手を握り、脈をとった。彼がどんな風に手をあてようと男はびくとも動かなかった。
英子を通じ、彼が毒を注ぎ込み手にかけた男は、今こうして確かに彼の|生《いけ》|贄《にえ》として手の内にあった。辛うじて脈を打っている男の手首を握りながら、自分が今間違いなくこの男と確かな|絆《きずな》で結ばれているのを彼は感じた。生あたたかく骨太い男の手首の感触は、不快でおぞましく、彼にとっての他人というものをまざまざと感じさせた。それはレストランのテーブルに残されている前の客の食べ残しの皿やコップのように汚らわしく、押しつけがましい、誰にも避けることの出来ない他人というものの存在感だった。
「これは貧血じゃない」
いって、治夫は辺りを捜し、控室の回転椅子の上にあった座布団を折って男の枕に差し込んだ。
「誰か、タオルを熱く絞って持ってきてくれませんか」
頷いて飛び出して行く店員のうしろに、英子がいた。治夫だけにわかる薄い微笑で、英子は彼と男を見比べていた。
「貧血ではなし、病気はどうも心臓のようですな」
彼は、英子に向っていった。それは言葉に関係なく二人だけにとっての新しい事実の確認だった。注ぎ込まれた薬は、わずかな時間に、早い速度で男の体の到るところに障害を引き起していた。英子は大きく頷いて見せた。
「誰でもいい、医者を早く呼んで下さい」
しかし呼ばれた医者が彼と同じ診立てをし、注射で麻痺による心筋の|梗《こう》|塞《そく》を解こうとしても、多分それは何にもなりもしまい。運ばれてきた熱い蒸しタオルを、彼は手を延べ男の胸を開いて心臓に押し当てた。先刻、英子のマニキュアを自分の指に感じながら襲った興奮が、前よりも強くあった。
自らが手がけて殺そうとしている男を、今この場だけ命を取りとめるための医者として最も無駄な手を施しながら彼は興奮し、勃起し、満足だった。背徳の満足以上に、何といおう、この男を通じて世界を手の内に収め、それを造り替えることすらが可能に感じられる充足感があった。
見知らぬ人間たちに囲まれた満座の中で、彼は今腕のなかに英子の裸の肉体をほしいと思った。それは彼が今まで味わったことのない、ただの渇きとは違って火のように熱く鋭い情欲だった。今ここで、英子と裸で交わりながら、この男を|苛《さいな》み、この男に触れていたいと彼は思った。
タオルを片手で押えたまま、
「誰か、脱脂綿にアルコールをつけてきてください」
男の顳ソ[#「ソ」は「需」+「頁」Unicode="#986C" DFパブリW5D外字="#F4BF"]の傷を確かめ、治夫はいった。
「はい」
英子が答えた。
彼女が出ていったと入れ違いに、
「今医者を頼みました。向いのビルの診療所から来てくれるそうです」
店員の一人がいった。
英子はすぐに戻ってき、手にした脱脂綿で、可成り大きく深く切れた男の額の生え際の傷を拭った。かがんで看とっている治夫と同じ姿勢で並び、肩を触れ合せながら、彼女は一心に男の傷を拭っている。
最初の脱脂綿のかたまりで血を拭き終えると、英子は示すように手にしたものを掲げながら治夫を見つめた。その仕草で英子が自分だけに何を告げたかが治夫にはわかった。消毒室で、脱脂綿にアルコールをひたしながら、その中に彼女が何を混えてきたかを、治夫はすぐに悟った。彼が頷くと、英子は汚れた綿を捨てず、自分の上っぱりのポケットに入れた。
英子は再び男に向ってうつ向き、残った奇麗な綿を傷口へ押し当て、なおにじんで来る血を止めようとしている。うつ向いた横顔の唇の端、目尻、そしてうなじで彼女は、治夫に向って語りかけ、笑いかけて来た。
心臓に当てたタオルを裏返しながら、治夫はさり気なく、前よりも強く並んだ肩を彼女に押し当てた。重なり合った部分に新しく二人共通の|脈搏《みゃくはく》が生れ、それが快感の鼓動となる。今こそ二人して全き形でこの男を犯し目指したものを遂げようとしているのだ。その興奮に治夫はほとんど痺れかけた。興奮に硬直していく自分を、隠して押え込むように、彼は更に大きく痙攣し出した男の|瞳《どう》|孔《こう》をかぶさるようにして覗き込んだ。
数分し、呼ばれた医者がやってきた。治夫は自分の立場と状況を説明し、医者は皆の前で治夫の診立てと処置を認め、それに添った注射を打った。その間、治夫が確かめる前に英子の姿は部屋から消えていた。多分それが決定的となったが、彼女の今日の作業の証拠を流しにどこかで水洗のハンドルを押しているに違いない。
数分待ったが、注射が効かず、患者の症状は悪化して見えた。医者は診療所に残してきた仕事の責任でそれ以上とどまれず、代りに救急車を呼ぶように店員に命じた。それ以上、病院での立会いの巻き添えを食ったりしないように、治夫は車が来る前に医者に挨拶して部屋を出た。店の前を過ぎようとした時、店に戻っていた英子は中から彼を認めた。誰もいなくなった戸口のレジに坐りながら、英子は彼を見つめ、細く、薄く、かすかに笑って見せると、わざと他人行儀に頭を下げた。その微笑は精巧なミニチュアのように同時に、さまざまな表情を感じさせた。それを感じ取りながら、今このまま知らぬ気に彼女の前を通りすぎていくことが、彼には殆ど苦痛だった。
今まで以上に激しく蘇る情欲に苛まれながら、一瞬彼はその場に立ち尽していた。
彼の内にあるものを|嗅《か》ぎ取ったように、英子は微笑し直し、そして更に、たしなめるように微笑んで見せた。
その夜どんなに遅くなっても、英子はやってくるだろうと治夫は思った。
夕刻あの店で味わったひそやかな興奮がそのまま、情欲への期待と予感になって続いていた。目に、手に触れ感じとった出来事が英子への情欲を焼きこんで結晶させてしまったような気がする。彼女を待ちながらも彼は、英子を体の内に感じることが出来た。
十一時近くなって、英子はやって来た。扉を閉めて入るなり、英子は抱きついて接吻して来た。彼女の体のはずみを腕に感じることで、改めて夕方の出来事が確かなものとして蘇って来る。銀行の大金庫でも破った二人組が、無事でまた落ち合ったように、治夫も英子も抱き合いながら二人して仕遂げたことを確かめ合い、改めて満足だった。あの作業の成就によって約束された新しい幸せがあることは知りながら、それを考える前に、成功した犯人がまず女を求めるように、二人は互いに|渇《かつ》えたように接吻し合った。そしてその後、二人は一緒に声を立てて笑い出した。
「私、病院までつき添っていって、様子を確かめてきたわ」
英子はいった。
「どこへ入院させたんだ」
「近くの救急病院よ」
英子は病院の名を告げた。そんな病院では、万が一にもあの男の容態の本当の訳が知れる筈はなかった。
「どんな具合だった」
「お医者さんは薬が効かないっていうようなことをいっていた。あのまま意識がないんだって」
「意識がないというのは、まだ死んじゃいないということか」
英子はわざと驚いたように彼を見直して見せた。
「あのままあそこで死ぬかしら」
「あの時、額の傷に、アルコールと一緒にあれをつけたんだろう」
尋ねた治夫を、英子は一瞬だが身構えるように見返し、小さく|頷《うなず》いて見せた。
「あれが命取りになるかもしれないな」
英子は何かいおうとし、言葉を探すように、焦って不安げに彼を見つめなおした。それは今更筋の通らぬ躊躇だったが、治夫には英子の気持がわかった。微笑し、
「俺が君だったら同じようにやったさ。早い方があいつのためにもいいんだ」
彼が与えた道義的な解釈に、自信をつけられ、英子は改めて得心したように彼に向って笑いかけた。
「明日になったら死んでるかしら」
「かもしれない」
「そしたら私たち」
後の言葉を探すように、英子は一杯に目を見開いて彼を見つめた。それは二人にとって互いの立場の恢復などではなくそれ以上の何かに違いなかった。しかし、それが何であるかを、実は二人とも未だ考えていなかった。
そしてまたそれは実際にあの男が死んでからのことでもよかった。二人にとってはその前にまだ今日の夕刻、二人が仕遂げたばかりのきわどい仕事の興奮の余韻があった。二人がこれからわかち持とうとしている快楽のためのいろいろな手がかり足がかりは充分にある筈だった。二人とも、|贅《ぜい》|沢《たく》がどんなものであるかを悟れたような気持だった。
英子を引き寄せながら、この肉体の中で自分がこれから得ようとしているものが、以前以上に、どれほど自分をたかぶらせ、痺れさせてくれるかを彼は予感し、体が震えるのを感じた。英子も同じ興奮に駆られたように、何度も彼女の方から彼を強く抱きしめ直した。
「明日死ぬかしら」
抱き敷かれながら、うめくように英子はいった。
「大丈夫だ、必ず|上手《う ま》くいくよ。君は立派だった」
「あなたがいれば、何も怖くないわ」
指導者を|讃《たた》えるように、英子は|可《か》|憐《れん》な声でいった。
これでもし、俺たちがあのことにもっとおびえていたら、二人は多分もっと興奮するだろう、彼はふと思った。
二人がともに進んでいき、高まるものが限界を越えると彼女は泣いて願う声に変りながらも、時々うわごとのように、
「明日死ぬかしら」
くり返して|訊《き》いた。
「ああ、大丈夫だ。明日か、明後日」
抱きしめ、彼女に向って押し入りながら、彼は耳元で頷き|囁《ささや》いた。
二人が完全に繋がり、重なり合った時|何故《な ぜ》か突然彼は、英子がさっきいったことを思い出した。「あの男が死んだら、そしたら私たち」すると突然、抱きしめた腕の中から何かが失せていくような気がした。かれの体の中を、何かよくわからぬ、ある感慨が風のようにすぎた。それは丁度、|断《だん》|崖《がい》の上で、一人で海を見ながら感じる|眩暈《めまい》のようだった。そしてまた、断崖の眼下に砕ける白い浪がしらのように、ありありとしたものでもあった。
が、次の瞬間、彼はそれを自分の|天邪鬼《あまのじゃく》のせいにした。いまのこの充足を疑う一体何があるというのだろうか。彼は今自分が繋がり、腕にしているものを味わい直した。何よりも確かに、これこそ、彼が生れて初めて自らの手で、他人からもぎとり|獲《か》ち得たものに違いないのだ。それは彼にとって初めての確かな勝利でもあった。
あの男は次の日の昼近くに死んだ。
午後英子が電話でそれを伝えてきた。
「死んだわよ、とうとう」
どこでかけているのか声をひそめるというより、息をはずませるようにいった。
「いつだ」
「二時間くらい前よ。今お店それで大変なの。詳しいことは、後で話すわ」
「そうか」
報告を受けても、いわれたことの実感は余り強くはなかった。治夫は昨日、手で触れた男の感触を思い出そうとして見た。その手触りの印象は残っていても、その相手が死んだということに、さした感慨はなかった。確かに病院では昨日、いやさっきまで話し合っていた患者が急に|逝《い》くということはざらにあった。そして、それを彼ら医師たちは、患者に新しく起った事実として受けとるだけで、いちいちさしたる感興を示したりはしない。
こいつは特別な筈だ、と思って見たが、ああそうかという気持だけで、何か大きな仕事が片づいた|安《あん》|堵《ど》とか、新しい緊張は不思議なほど起ってこない。
「本当に、|上手《う ま》くいったわね」
英子も彼と同じようにしか感じていないのか、出来事の思った通りの決着の意味を彼に向って確かめるようにいった。
「思った通りだったな」
ただ彼女に合わせるように彼もいった。
彼の身の周りには、電話で話している英子以外誰もいなかった。今だけではなく、多分これからもそうに違いなかった。他人に関わらない生活の中で、世間の他人が考えるようなことの意味を考えたところで彼にとって何になる訳もなかった。
自分たちが成し終えた仕事の、世間的な意味を考えかけて、治夫は止めた。考えて見ようとすること自体が、彼には非現実にしか感じられなかった。それは結局誰のせいでもなく本質的には他人である彼らのせいなのだ。
しかし、自分をこんな風にしたのが彼らの責任とはいえないなら、それこそが他人との関わりだということを彼は|覚《さと》らされたのだから、今、自分がそのことについてこんな風なのもこちらの責任ということにはなりはしない、と彼は思った。
「今、忙しいから後でね」
店が取り込んでいるのか、英子はそれだけで電話を切った。電話が切れた後で、治夫は、英子がどんな声でそれを告げたかを思い出そうとしたが、出来なかった。とにかく、もたらされた報告は|呆《あ》っ|気《け》なくただ当り前のことに当然に感じられた。あの男の死体が他の中毒者と同じようにこの病院に運ばれて来、自分たちの手で切り開かれることを想像して見た。そうでもしなければ、この決着の彼にとっての専門的実感はありそうにない。あの男が自分にとって何であったか、今になってもう一度考えて見た。まだあの男の名前さえ知らない。しかし、こうなった今、あの男は他の誰よりも、何よりも深くただならぬ関係で繋がった他人には違いない。いや、他人だった。
男は、治夫に殺され、彼はあの男を殺した。それ以上深刻な関わりがこの世の中にあるだろうか。多分肉親以上に確固とした関係といえるかも知れない。そう思いはしたが、その実感は全くない。二人の関係は複雑そうだったが、実際には呆っ気なく解けてしまった数式みたいな気がした。
数式の中で向いあった二つの項の分母分子を相殺していったら、結局あの男がなくなり、彼が残った。治夫の項に、英子を掛け合せたせいか、或いは彼の項を左側のプラスの位置に移し、相手をマイナスに移して見たら相手が消去されたのか、ともかくこうやって数式は解け、彼だけが残った。案外他のどんな問題も、皆こんな風に解けていくような気がする。要するに人間同士の関係なんぞつき詰めていけば、どれもこの変形にしかすぎないのではないか。自分という項を、正にして残そうとすれば、思いきって相手を負の項にして消去していくしかない。殺さなくともだ。そして自分が残り、自分にとって正の属項の、英子が残った。あの男が死んだ、というより、その結果自分がこうして残っているという感じの方が強くあった。ただ、忘れていた自分を久しぶりに見出せたような気持だった。今までの自分が偽りでしかなかったような気さえした。こうやって、俺はもう一度俺としてこの世間に戻ってきた、彼は思った。
憎むことが、俺を俺にとり戻させた。俺は今までそれをただ避けてしようとしなかった。英子がそれを教えて来た。彼女と俺のために、俺はあの男を憎んで殺すことで消去した。それが俺を|蘇《よみがえ》らせ俺を|塞《ふさ》いでいたものを開かせ、見知らぬ他人のあの男に俺を結びつけた。俺はこれでこの先何とかもっとやっていけるだろう。彼は思った。
英子は夜にやって来た。黙って彼女の報告を聞いている治夫に、
「あなた、嬉しくないの、思ったとおり|上手《う ま》くいったのよ」
英子は|覗《のぞ》きこむようにして訊いた。彼が笑えば彼女は手をとってはしゃぎかねない様子だった。
「怖いの、絶対に誰にもわかりゃしないわよ」
逆に|諭《さと》すように英子はいった。
「馬鹿いえ、怖い訳がない」
「じゃ何よ。私、|完《かん》|璧《ぺき》に上手くやったわよ」
「あいつが死んだのはわかるが、ただ、全然そんな気がしないだけだ」
「あんたがお医者さんだからよ。見て確かめなけりゃね」
英子は笑っていった。
「そうなんだ。この前だって、出かけて行って、君がああやるのを眺めていて初めてその気になれた」
「でも、私たち二人がやったのよ」
念を押すように英子はいった。
「あいつの解剖を俺の病院でやってやりたいよ」
「でも、明後日がお葬式よ。あんた、お葬式に来て見たら。お焼香くらいしたっていいでしょう」
わざと蓮っ葉に英子はいった。
「場所を教えるわ」
治夫の目に英子はまぶしいものに見えた。彼女に何もかも教わるような気がする。あの男の葬式に行ってみることで、今日の午後|報《しら》されたものの確かな裏打ちを得られるに違いない。そうしないと、彼女にとっては終った出来事も、自分の内では完結したことにならないような気がする。はしゃいでさえ見える英子を眺めながら治夫は消化不良と、飢えを同時に感じるような気分だった。
翌々日の昼前、彼は主任の高野教授に、知り合いの不幸を理由に早退を断わった。
英子が記してくれた地図を訪ねて行く途中、道端の雑貨屋で喪章を買って腕につけた。
男の葬儀は家の近くの寺で行われていた。この陽気で死体がもたず、遺骸は前に密葬され、|荼《だ》|毘《び》に付された遺骨を添えての葬儀だそうな。
男が同業の世界でどんな地位にいたかは知らぬが、店に出入りの知名人の客の名をつけた|花《はな》|環《わ》も数多く、葬場は大層な|賑《にぎ》わいだった。遺族の焼香が終りかけて、本堂の外に立った焼香者が係りの案内で動きかけている。治夫が境内の横手にしつらえられた天幕張りの受付の前を目礼して過ぎようとした時、あの時の治夫を見覚えていた年輩の店員が彼を認め、頭を下げ、手で記帳に招いた。目で断わって前へ進もうとしたが、体の内の何かが彼を押しとどめ、|踵《きびす》を受付の台に向けさせた。
「あの節はどうも有りがとうございました」
店員は本気の感謝で治夫に頭を下げた。
「思いがけぬことになりましたね」
「はあ、こんなことになるとは」
「で、原因は」
「やはり心臓の方のようで」
相手はいい、治夫は|真《しん》|摯《し》に頷いて見せた。
差し出されたペンをとりながら、僅かな|躊躇《ちゅうちょ》を押し切って、彼は本名と病院の医局の住所を書いた。
この出来事に|関《かか》わった自分の|証《あか》しのつもりでそれを記した。本名の記載は多分絶対に、誰に何を証しもしまい。森の中の木の幹に、いつかにやってくる誰かの目にとまるかもわからぬながら、今現在の自分の存在の証しを刻んで残すように、自分一人のために彼はゆっくりと自分の名を書きつけた。
動き出した焼香者の列に従って本堂への階段をのぼり、三列に並びながら細長い机の上にしつらえられた焼香台に向って進んだ。歩みながら目で英子を探してみた。
「急でしたな」
「本人も気づいていなかったようですな、体の具合については」
「何だったのです」
「|癌《がん》じゃないのですか、結局」
男の知り合いの焼香者たちは、治夫のすぐ横で勝手な|詮《せん》|索《さく》をしていた。端的な|可笑《お か》しさに、彼は尤もらしい顔でうつ向きながら耐えた。
そんな会話を聞きながら、結局、その焼香者たちも、あの男にとって、ただ知り合っているという以外の何でもなかったような気がする。
今ここで、これだけの人間たちが集まって行なっていることの意味、つまり、あの男が死んだということの意味。彼はそれについて、その参加者の一人として考えようとしたが出来なかった。
この人間たちが集まったあの男の死に、実は、自分が深い関わりを持ち、|他《ほか》でもない、この自分がそれを与えたのだということを自分に向って説き直しても、未だに不思議なくらいその実感がない。
あの出来事の意味はただ、この人間たちがここに集まることで証しているように、あの男がいなくなったということだけだった。しかし、彼らに証されなくても、彼は誰よりも自分自身でそれを確かに知っていた。
殊勝気にしわぶきし、黙って葬列に加わっている人間たちの中で、彼は自分の手で成したこの事実について自分が、もっと違う、彼らと同じ何かの感情なり感慨を持たなくてはならないのではないかと思って見たが無駄だった。
この人間たちが、その死を悼んでかともかくそのために集まって来たあの男と自分の関わりの意味は、何よりも、あの男がいなくなった、ということであって、それ以外の何でもありはしなかった。
それがあの男との関わりの意味であり、目的でもあった。
彼はそれを仕遂げた。その満足だけがあった。
しかし、それを明かすには、ここに集まった人間たちは、彼自身に何の関わりもなかった。
そして、誰もあの男の死について疑わぬ限り、それはただの死だった。それが呆っ気ないくらい完全に殺された、というからではなし、治夫は、ことの前にも最中にも、そしてそれが成った後にも、あのことを、ここに集まった人間たちの価値の尺度で計ろうという気は、全くしなかった。
それくらい、彼自身と、あの男を含めて、彼の周りにいる人間たちは関わりないものでしかなかった。
それは互いに住んでいる世界の或いはその世界の価値観の差とか違いではなく、全くの関わりなさでしかなかった。
この葬列に加わってから、治夫は何度となく、|所謂《いわゆる》、世間並みの後悔やおびえ|怖《おそ》れを自分に強いて突きつけて見たが、自身の反応はなかった。
この群衆の中で、自分に嫌でも、罪について考えるか感じさせようとする自分に、彼は途中で腹をたてた。
俺のやったことは、俺のやったことでしかないんだ。結局、あの男が俺や英子にとって在った意味と、ここにいる人間たちや遺族たちにとって在った意味は全く違うのだ。彼は思った。
英子は彼のためにそうしているように、男の|縁《えん》|戚《せき》者の参列席の一番後ろのはずれに坐ってい、焼香台に近づいた治夫を認めると、目だけでだが大胆に笑って見せた。
五人、四人、三人と段々に、台へ近づいていく彼を、英子は待ち受けるように見つめている。何やら鹿爪らしく読経している坊主の背の向うの、大仰な供物と花に埋もれた葬壇の上段に、あの男の写真と、白い布に包まれた遺骨が飾られてあるのを治夫は見た。
写真の男はいまにも歯を見せそうな顔で笑っている。その表情は、治夫が今まで見たいつの彼よりも若やいで、快活そうで、自分で何か尤もらしい冗談をいって見せた後、笑い出した相手に釣られて、自分も声をたてて笑い出しそうな顔をしている。治夫が知っているあの男のイメイジとはまったく繋がらず、従って、今行われている葬式が、あの男のためのものだという実感がおよそなかった。妙にはぐらかされたような気持で治夫は、葬壇を仰いだ。
が、彼はすぐに、自分がやったことの、確かな証しを見つけることが出来た。それは、あの男が、病院の解剖台に|屍《し》|体《たい》として横たえられるよりも、もっと確かにその存在を|喪《うしな》って、もはや治夫に向って立ちはだかることもなく、確かにもうこの世にいないという証しの、白布に包まれた骨箱だった。それは、あの男の印象からして、余りに小さすぎた。白い小さな箱は治夫へ|傲《ごう》|慢《まん》に立ちはだかったあの男の完全な転身を見せつけてくれた。骨箱を仰ぎながら更に一歩進み、彼は英子を盗み見た。
待ち受けていたように彼女は彼の目を|捉《とら》え、こんどははっきりと微笑して見せた。知らずに自分が彼女に向って、目で|微笑《ほほえ》むのを彼は感じた。その瞬間、彼が期待し、予感していたものが彼を襲ってとらえ、三日前、あの男の手を取りながら感じたと同じ興奮が体の内に|湧《わ》き上がった。それをこらえるように、治夫は英子からそらした視線を足元に落すと、列に従ってまた一歩、ゆっくりと踏み出した。
この葬式に集まっている人間たちに向って、自分が今感じていることを叫んでやりたい衝動に彼は駆られた。
香をつまみ焼香している、前の男の背越しに、葬壇の写真と遺骨を眺め直した後、治夫は壇の横に並んだ男の遺族たちを眺めた。彼らについて、不思議なほど全く何も感じなかった。自分があの男にしたことと、その男の遺族たちとの関わりという図式の上で何も感じようとしない自分に、後ろめたいほどだった。
その遺族たちの後ろに、もう一度英子を見直して見た。彼女は大胆に、さっきから同じ微笑で彼を見守っている。彼を何かに誘うように英子は小さく口をすぼめて|微笑《わ ら》いかけた。あの男を控室で看とった時以上の興奮に襲われながら、防ぎようなく、体の部分が硬直するのを彼は感じた。
焼香を終えた前の男が横へすさって深く礼をし、それを感じた遺族が目を上げその男を確かめ、次いでたった今最前列にたった治夫を見た。その目に向って会釈し、体の上に現われたものを隠すように壇に近づき、前に真似て香をつまみ火に落した。ゆっくり三度繰り返される作業の間中、彼は注がれる英子の視線を感じていた。
焼香し、合掌の前に、壇上の遺骨と写真を仰ぎ直しながら、興奮がなお高まり、そのまま極みにいき着いてしまうのではないかと思った。隔てられた空間を越えて、彼は間近に、いや体の中に、英子を感じることが出来た。
高まり、射出してしまいそうな自分を押えつけるように、彼は強く掌を合わせて耐えた。耐えながら、自分が今、何かを|完《まつた》き形で犯しているのを彼は感じ、犯すことで自分のために今あるものを確かに獲ち得たことを、治夫は悟った。
体の内に感じているものの白熱して行きつく極みを、治夫は壇上の小さな包みのまばゆい白さに見た。
他と比べて長過ぎる彼の合掌を待つように、後ろの客がしわぶきした。その声に、解かれたように彼は手をほどき、体をすさらせた。立ち去る一瞬に見た英子は、まだ前と同じように彼を見つめていた。彼が体の内に感じていたと同じものを彼女も感じているように、彼女はまだその快楽の中にあるように、かすかに唇を開き治夫だけを見つめていた。
踵を返して出た外界が、今までと全く違うものに見えた。世界は、前よりも生き生きしていた。歩き出した時、彼はまだ硬直したままでいる自分に気づいた。
その夜やって来る英子を治夫は殆ど苦痛の中で待った。前戯の|愛《あい》|撫《ぶ》や性交の間に手を休められ身もだえして待つ女の側の苦痛を、彼は英子を待ちながらやっと理解した。
やがて彼女はやって来、今までになく、言葉を交わすことなく、二人はいきなり互いに|晒《さら》し合って抱き合った。すべてが昼間の出来事から続いていた。昼間のあの時から二人は、二人で至るべき極みの寸前にいたのだ。
しかし、性交は生理の快感のための手順を踏み、その行程に二人は昼間あの寺で感じ合ったものの予感に苛まれ、快感は拡大され、倍の|恍《こう》|惚《こつ》が二人を覆った。それはこの先に残されているものが何であり、少なくとも今までのすべては、この瞬間に向って用意され、二人がこの瞬間の|為《ため》に歩んで来たことを悟らせた。彼が獲ち得たと思ったものを確かに証す最高の瞬間が、今まさに来つつあった。英子の体の内で、祈るように彼はそれを待った。
それは彼にとっての回心の瞬間だった。
そして今までのいつ以上に英子は大胆に見えた。大胆というより、押し進められていく行為の一つ一つに、彼女は解き放たれ、間断なく燃焼し、恍惚そのものに結晶していこうとしていた。
泣き、きしり、うめき、やがて失われていく知覚の中に、突然また新しい知覚を獲ち得たように、のけぞりながら、
「そうなのよ、そうなのよ」
彼女は叫んだ。その声は、二人が獲ち得たもののすべてを肯定し、全く新しい意味さえ与えたように聞えた。
到達し、爆発があり、拡散の中に融合があり、結晶があった。
この性交の、この極まりを忘れまい、何人の男にそれが出来たか、彼は思った。思いながら二人が極めたものの内からたった今生れた自分自身に、彼は目を凝らし、耳を澄ませた。
「私たち完璧ね」
囁くように英子はいった。自分の内側から聞えてくるその声に彼は頷いた。
医局で外遊について局員たちから質問を受けながら市原は気負って見えた。生れて初めての外国行きは、彼にいろいろなものを経験させたに違いないが、それについては旅行中にとうに慣れてしまったというように|頻《しき》りに努めている。どんな程度のものか知らぬが、外国での学会に出席したということを、無理して誇るまいとするように、専門がかった問いにはわざと淡泊に、他の他愛ない出来事や経験には、おどけて、或いはわざと皮肉に答えて見せてはいるがいかにしても、初めて女を知ったばかりの男のように、気負いが見え透いて微笑ましくもあった。
「学会ではちゃんと研究発表してきたんでしょうね」
助手の一人が|媚《こ》びるようにいうと、
「それはまァな」
気を持たせて、自信ありげに市原はいった。
眺めながら治夫は出発前あのホテルのロビーで会った時の彼を思い出した。確かに経験というやつは人間をしたたかにする。あのとき|初《はつ》の外国行きで、旅行社の社員に、不安気にすがるような顔でものを尋ねていた男が、今ではとにかく見違えるくらいのものだ。一昨日帰国して、今日初めて病院に出てきた彼は、隠しても気負いがとれぬが、もう半月もすれば、この男は外国行きの経験を、五年、十年の長きにわたってのものだったように錯覚するに違いない。ひと区切り終って、みんなが立ち上がると、
「君」
市原は気づいたように、隅にいた治夫を目で促し、廊下へ出た。
「どうでしたか、あの資料、役に立ちましたか」
「うん」
相手に不本意な先手を取られたような顔でわずらわし気にいったが、思い直し、
「僕の発表は評判がよくてね。学会誌から論文の依頼も受けたんで、また君に新しい資料の翻訳を頼みたい。ともかくも、君に訳してもらったあの資料だけじゃないが、現代医学の、特に薬学的な進歩というものが人体にとって、はたしてほんとうに進歩かどうかという根本的な反省は、どの国も同じだね」
いいながらまた急に、そんな説明を資料の翻訳の協力者にまでしなくてはならぬ自分を、|咎《とが》めたような顔になった。
「それよりだね、帰ってきて母に聞かされたんだが君のお母さんね」
|嵩《かさ》にかかるように市原は微笑し直した。
「僕が発った後、二度ほど会ったんだそうだが、大分困っていられるようだ」
反応を確かめるように市原は治夫を見直し言葉を継がずに見つめている。治夫にはこの男のために、自分がいまどんな顔をしてやったらいいのかわかってはいたが、その気になれなかった。
黙って見つめている治夫の視線に|焦《いら》だったように、
「どうだ君一度会ってみないか」
「誰にですか」
治夫がどんな表情でいったかは知らぬが、市原は慌てたように|瞬《まばた》きして見せた。もともとこの男は、この件について今日いい出さなくてもよかったのだ。自分の帰朝土産話に乗ってこず、部屋の隅にいた治夫への多分面当てのつもりだったのだろう。
「いや、僕の母と一緒でもいいんだよ」
「何のためにですか」
「何のためって君、一人で|非《ひ》|道《ど》く困っておられるそうだ。前に何があろうと、まぎれもない親じゃないか」
市原は自分の言葉に力を得たように、治夫を|睨《にら》み返した。
「あれで、まぎれもない親ですか」
思わず微笑していう彼に、
「そういういい方はよくないな」
勢い込んだように市原はたしなめた。そんな瞬間、この男はお節介な好人物には見えた。
「しかし、母に会ってどうしようというのです」
「一緒に住めないか。君だってその方が便利だろう」
「便利」
思わず訊き返した治夫に、口ごもりながら、市原はようやく自分の言葉の無神経さに気づいて、
「それが皆のためにいいと思うがね、君だってあの人のことを思えばこそやったことだろうし、それにあの人があんなではお|家《うち》の方だって安んじてはいられないよ。君が一緒に住むようになれば、僕の母から説いて、故郷のほうにも、すべきことをもう少しきちんとしてもらうそうだ。いや、実はもう僕のいない間に母は話したらしい」
「父にですか」
市原は頷いた。
「答えはまだ聞いてはいないが、相手もその気がありそうだといっていた。余裕がない訳じゃないんだからね。それに君だけじゃなし、弟さんや、姉さんのためにも、その方がいいんじゃないか」
「しかし、それが僕のためにもなるとはいえませんね」
何の感情もなかったが、しかし、はっきりと塞ぐように治夫はいった。
今いる下宿の強制立退きの条件を決める時にしたように、彼は冷静に相手に自分の立場を説明しようとした。今になって母親と、つまりあの女と、一緒に、一つ屋根の下に住むということは、彼には利不利、好き嫌いの以前に、想像出来ない事柄だった。無理に想って見れば見るほど、それは滑稽な事柄でしかない。
「何よりも僕には今その必要がありません。便利などということじゃなしにとにかく、そんなこと考えられないのです」
「何故考えられない」
治夫は微笑し市原を見直した。
「それは僕じゃなければわからんことです。他人にいっても仕方がない」
気押されたように市原は|一寸《ちょっと》の間黙ったが、
「しかし、そうした方がこれから君にも有利じゃないのかな、いろいろと」
初めて怒りがこみ上げてき、治夫はもっと以前からすでにこのことの中に土足で入り込んでいる相手を見返した。が、また思い直し、説くようにいった。
「そんなことはないでしょう。期待もしていませんし、それに、もし今父が僕への処置に後ろめたさでも感じて、そんな条件をつけてごま化そうというなら、何もかも断わります」
「そういういい方はよくない」
にわかに逃げ腰になって市原はいった。
「それじゃ今日でも帰る前に、僕の母にだけでも会ってみちゃくれないか」
そうすることに何の意味もなく、何が生れる訳もなかったが、拒むことで、また自分の心の内を詮索されるわずらわしさを考え、彼は黙ったままでいた。
市原と別れて、持ち場に帰りながら、たった今いわれたことを考えて見た。いくら考え直してみても、市原に答えたと同じことでしかない。
今までに断片的に耳にしていた母親の|噂《うわさ》を|繋《つな》ぎ合せて、彼女が今どんな境遇にいるか、それは充分想像出来る。或いは想像以上のものかも知れない。といって、そのことと市原の提案は、まったくどう繋がりもしない。その提案が彼女自身の口から出たのだろうかと思ったが、それだけはあり得ないような気がする。あの女のせめてもの|矜持《きょうじ》のために、治夫はそう思うことにした。とすれば、お節介な第三者が、目ざわりな似た者同士を体よく片づけるために思いついたことだろう。それが彼にとっても、母親にとっても、よけいな節介でしかないということを悟れぬということだけでも、彼らは充分他人なのだ。
しかし、母親の窮状をどんなふうに想定しても、彼は彼女のためにしてやれそうなことが何も思いつけなかった。思いついて、それをするしないは別にして、ともかくもあの女と自分の間に、たとえば前に別れた情人との関係以上の何が残されているか、思いもつかない。彼女の存在は、彼女がやったことが彼に何を与えたかを別にして、昔読んで捨ててしまった小説の中の主人公よりも、彼にとっては今では非現実で遠いものにしか感じられない。
研究室に戻った後、治夫の胸に残ったものは、突然自分を捉えてあの目つきであんなことをいった市原へのうとましさの方が強かった。それは彼の身の上を誤解して捉え、勝手な思惑で彼の中へ踏み込んで来ようとする他人への反発だった。市原の信じている俗な人間観がどんなに愚かしく、自分にとっても役に立たないものであったかを、七年前に治夫は自分の家庭を失う代償で悟ったのだ。市原が口にした母親という人間は、治夫にとって今では、関わりも必要もない他人だった。彼は研究室の椅子で改めてそれを自分に確かめた。その確認のために、今自分に関わりあるものの中で、彼自身に本当に必要な人間を数え上げてみた。
英子と、あの塩見母子と、三人もいた。彼は、満足だった。ついこの間まで、彼にとってそんな人間は一人もいなかった。この上他に何が要るというのか。そう思うことで、市原のうとましさを彼は許した。
椅子を廻した時、治夫は机の上に置かれてあった葉書に気づいた。葬儀の礼状で、初め記された名前が思い当らず、治夫は表を|覆《かえ》し宛名をただした。
それは、あの理髪店の主人の葬儀の礼状だった。治夫は今初めてあの男の名前を知った。差出人は、喪主である男の細君の名になっている。あの時遺族席にどんな顔をした女がすわっていたかを思い浮べようとしたが、出来なかった。あの時弔問の記帳に記した名前と研究室の宛名に、葬儀の手伝いの店員たちが印刷された葉書を出したのだろう。
治夫はふと、この葉書の上書きを英子がしたのではないかと思った。すでに故人となった馬場良治という男の名前を、治夫は椅子を引いて坐り直し眺め直したが、改めて何の感慨もなかった。
病院で彼の属している科が科だけに|滅《めっ》|多《た》にないが、それでも時折関係した患者が死亡し、後の挨拶を何かの形で受け取ることがある。しかし、死んでしまった人間が医師に新しい何かを与えてくれるということはありはしない。いずれにしても、彼らがそれを手にかけ殺してしまったのだが、死は、病院にとっても、医師にとっても、一番平凡で通俗な出来事でしかない。その出来事を書き込むことで、どんな分厚いカルテでもただの紙くずに変ってしまう。
しかし、この男は俺にとって特別の患者だった、と思おうとしてみたが、その感慨は一向になかった。
ただ葉書を手の内で裏返しながら、彼が感じたうとましさは、あの男が余りに呆っ気なく死んでしまったことへの不満だった。
あいつはもう少し生きていてよかった。今になって治夫は思った。
自分に立ち塞がりまつわりつく人間のしがらみを、彼は今まで自分から踏み込んでいって断ち切るということをしないで来た。七年前の出来事で、いわば未熟な一途さがもたらした結末が、その後、彼に身をかわすことだけを教えたのだ。しかし、今度だけは、彼は自ら考えてあの男を完全に除き、英子を得た。
それはまさに生産的な試みであり、そして英子が口走ったように、二人しての完璧な仕事だった。今まで治夫は、他の誰と一緒に何か一つのことを仕上げたこともなかった。研究室でも彼は一人だった。
そして今、あの完璧な仕事が終ってしまった後の、充足の更に後の、|虚《むな》しさの予感のようなものを早や、彼は感じかけた。
看護婦が治夫の名前を呼び、面会人を告げた。医局の戸口に塩見菊江が立っていた。
「どうなさいました」
子供の病状に何か変化でも起きたのかと思ったが、彼女は黙って首を横に振った。子供の失聴に変化がないということに、彼女は今ではあきらめて、慣れようとして見えた。しかし、それを他人から|質《ただ》されることは、まだ苦痛に違いない。
「宮地先生から退院のお許しが出ましたので」
菊江は疲れたようにゆっくりと頭を下げた。その仕草には未練があり、彼女が最後の何かを、出来ないと知りながら、治夫に託そうとしているのがわかった。
しかし、それが出来ないことはお互いがよく知っていた。そしてそのことが、広い病院の建物の中で二人を、二人だけが同じ犠牲者であるかのように結びつけていたのだ。
「そうですか」
そこにはいない宮地教授に向って|楯《たて》つくように、明らかに不服げに治夫はいった。
菊江は顔を上げ、すがるように彼を見返す。
「どういうつもりなのかな。僕から教授にいいましょうか」
彼女の期待に応えるように彼はいった。治夫にとって今、手術前、高野教授の部屋で聞いた患部の断層写真をもとにした所見は、無意味なものでしかなかった。それを思い出しながらも、彼はそう感じた。つまり、病状という一つの事実の意味をきめるものは、実は医学の所見だけではなく、例えば、この母子の期待であるとか、おびえであるとか、医者から見れば理不尽な、医学の論理以外の何かであるべきだということを治夫は悟ることができた。彼女がそれを彼に教えたのだ。治夫はそれに共感した。たとえ、それが医師としての逸脱であるとしても。
「いいえ、でも」
ゆっくり|肯《がえ》んじながら、彼女は微笑しようとして見せた。
「しかし」
とまた、彼女に代って|抗《あらが》うように、彼はいった。
それが子供のためというよりむしろ、二人の中にある気持の|絆《きずな》への、一種馴れ合いの|慰《いたわ》り合いであるということを知りながら、二人は、一寸押せばすぐに倒れる、今は丁度|上手《う ま》く均衡がとれ支え合って立った二本の細い棒みたいに、互いに寄りかかり合いながら立っていたのだ。今までこの病院の中で、治夫は、自分以外の人間をこんなふうに感じたことはなかった。
そうした感情の中で、彼は初めて、自分を権柄ずくに閉め出した宮地教授を憎むことが出来、自分が働いているこの建物全体を憎むことが出来た。
「私からももう一度」
相手に甘え、彼はいって見せた。
「いえ、これからは月に二度ずつ来ればいいとのことですから」
逆に彼を救うように菊江はいい、治夫は|頷《うなず》いた。結局頷くほかないのだ。彼女はかすかに微笑し、彼を見詰めている。それは彼のために浮べた微笑だった。彼はそれを感じた。
そのまま二人は、別離の運命を悟った恋人たちのように黙って見詰め合ったまま立ちつくしていた。彼女の浮べた微笑は、相手を諭そうとする年上の恋人のようにも、子供を|諫《いさ》める母親のようにも見えた。
それは治夫にとって、懐かしいものに感じられた。彼はそれを喪いたくなかった。それを彼から奪おうとしている男として、彼は宮地教授を憎んだ。またぞろであることはわかってはいたが、
「私に出来ることがあったら、これからも、何でもおっしゃって下さい」
彼はいった。
人間はよくそういうが、その実彼らは自分に何が出来るかを信じていないし、相手がそれを期待しないことを願ってもいる。しかし、少なくともその時だけ、治夫は彼女とその息子のために、この上自分に何かが出来ることを願い、彼女がそれを期待することを願った。でなければ、彼女もわざわざここまで退院の挨拶にやってくる筈はないのだ。
彼女には息子の聴覚に未練がある。その未練を病院側に繋ぐことの出来るものは俺しかいないと彼女は思っている、と治夫は思った。
「いつ退院なさいます」
「明日に」
彼女は明らかに|怯《おび》えた顔でいった。その表情は治夫を安心させた。
「大丈夫ですよ」
医者がよく無神経に使うその言葉を、彼も、何が大丈夫なのか確たる当てもなく、しかし精一杯の誠意をこめていった。そして、彼にそういわれる時だけ、彼女の心の内に蘇るものがあるのを、治夫は強く感じることが出来た。
「お住まいはどちらですか」
それを聞くことが何かになるとは思わぬながら彼は尋ねた。
「|保《ほう》|谷《や》でございます」
保谷のどの辺りかは知らぬが、治夫が通っている電車で二つ先にも保谷という駅がある。
「近くですね。私は練馬に住んでいます」
それを彼女がどう当てに出来るものでないことは、二人とも知っていた。
「退院されても、病院へいらした時はお寄りになって下さい」
それが彼女にとって、この世の中でたった一つの救いの声であるかのように、菊江は大きく頷いて見せた。
階段のある廊下の端まで治夫は菊江を送って行った。階段の降り口と、更にもう一度、途中の踊り場で丁寧に頭を下げて、菊江は帰って行った。
見送りながら広い建物の中で、彼女と自分の二人だけがこの建物に|容《い》れられぬ、あるいはこの建物に許せぬものを分ち持っているような気がした。それは広いどこかの国に送り込まれ、ようやく巡り合った二人の|間諜《かんちょう》が、不安の心細さの内で互いに感じる共感のようなものだった。少なくとも二人は、この建物の中の|気《き》|狂《ちが》いじみた特殊な世界の中で選ばれたものとして、互いに考え合っていたのだ。塩見菊江のお蔭で、彼はこの病院の中で一人切りではなかった。
戻った部屋の机で、先刻置いたままの葬儀の礼状を取り直し、破いて捨てようとしたが思いとどまり、代りに、預金通帳か財産目録を|収《しま》うように、丁寧に引出しの奥へ収い込んだ。
その葉書は、あの男が死んだ証しだけではなく、その一枚の紙の上に、彼が男を除いて間違いなく|獲《か》ち得た英子や、たった今別れた菊江とその息子との関係までが、彼にだけわかる符号で記されているような気がした。
二つの人間関係は、治夫を|芯《しん》にした同心円だった。あの男と英子、そして、あの母親と息子と巡り会ったことで、治夫は七年前の出来事以来、やっと、初めて他人との関わりを、自分の内側で考えたり感じたりすることを、自分に許したのだ。それまでそれを自分から閉め出すことで一人で生きてきた治夫にとって、それは得直して見れば懐かしい、そして、賑やかな財産だった。
それらはそれぞれ無理なく、均衡のとれた形で彼の内に収われていた。彼を中に据えて、あの男はいわば負の存在であり、英子は正だった。菊江も、彼女の息子も正であり、この場合の負は彼女の息子の病魔でもよかったし、あるいは、彼と彼女を取り囲んだこの病院の社会全体でもあった。
今まで抵触を避けては来たが、彼を取り囲み、絶えず|苛《さいな》み、脅かし、彼が|嫌《けん》|悪《お》し|軽《けい》|蔑《べつ》し、わずらわしく感じて来た他なるものを、頭を上げてはっきりと憎み嫌い、取り除こうとする新しい意志のための、英子も菊江母子も、触媒だった。
そしてその触媒自身が、彼の得直した新しい他人だった。自分にとって、他人がこんな風にあり得るのだということを、彼は初めて知らされたのだ。彼は自分のために、つまり、彼が欲した英子という他人のために、あの男を除いた。そしてまた、菊江母子のために、彼は何かを除き、何かを獲ち得たいと思った。
手術前から病に侵されてもう戻らぬと知れていた息子の聴覚のために、医師や病院や、医学を憎む訳にはいかない。しかし、彼は塩見母子のお蔭で新しいものを得た。それは医師としての、患者という他人に対する感情だった。それがわずらわしいから、彼はそうしたものと一番疎遠な病理を選んだのだが。
それは彼が一応自分の方法として選んだものへの、初めて持った本質的な関心ともいえた。そして菊江はその中に、この病院の中でただ一人医師からの誠意を感じたに違いない。
医局で市原に母親のことをいわれてから三日しての夜、治夫は資料のことで高野教授の家に呼ばれ、ついでに夕飯を馳走になって九時近く下宿に戻った。
この夜、英子を待ち合せる約束があった。彼女が向うを出る前に急の都合を電話で伝え、彼女は治夫の下宿で待っていた。部屋の|鍵《かぎ》の隠し場所は教えてある。夕飯をすまして帰るといった彼に、英子はどこまで自分でやったのか、簡単な夜食を|卓《ちゃ》|袱《ぶ》|台《だい》に並べていた。着換えを手伝いながら、
「ビール、それともウイスキーにする。買って来てあるわ。その前に体を拭いたら」
英子は促すようにいう。
治夫はそれをわずらわしくも、くすぐったくも感じなかった。以前も、限られた期間だったが、彼に向ってこんな風に尽した女はいた。しかし英子にはそんな女とは違った自然さがあった。いってみればそれは二人の間の以前からの長さで、彼は気が置けずにすんだ。それに彼女の仕草の中には、商売柄日頃客を扱いなれた、相手を安心させる確かなものがあった。
今まで彼の下宿には、誰か彼以外の人間が待っていてもいなくても、部屋に入る前に彼自身を身構えさせるような何かがあった。それは部屋の中というより、彼の心の中の事だったかも知れぬが、確かに今彼は自分の部屋で随分久しぶりに、いや、多分初めて|寛《くつろ》げるような気がする。
「体を拭こう。しかし飲むのは後にしよう」
治夫がいうと、英子はそれだけで意味をとり肩をすくめ、咎めるように彼を睨みながらも、誘うように笑って見せる。そんな表情は、まだ僅かしかたっていないのに、互いの関係への馴れを感じさせた。
彼が脱ぎ捨てた汗の下着を洗面器につけながら、
「ああそうだ、さっきお母さんが来たわよ」
いわれたことの意味がわからず、
「何だって」
治夫は|訊《き》き直した。
「あなたのお母さんが来たわ、ここに。でも、いつ帰るかわからないといっちゃった。悪かったかしら」
小さな|悪戯《いたずら》を告白するみたいに、英子は彼を振り返り肩をすくめた。
「何だって」
思わずもう一度彼はいった。相手の言葉は聞き取れたが、その意味がわからない。
「あんたのお母さんよ。誰かもう一人女の人と一緒に、ええと、市原さんといったわ」
介添えの人間の名を聞き、治夫は理解した。それは随分馬鹿気て他愛ないとさえいえることだったが、今突然介添えの名と一緒に|報《しら》されて見ると、充分あり得ることに思えた。
治夫は医局での市原の節介で後ろめたそうな顔を思い出した。出来事に腹を立てたり、驚いたりする前に、彼はまず当惑した。何かスポーツの試合で、突然全くルールを破り、手で持ってはいけないボールをかかえて、走ってならぬところを走りゴールインした相手を、酔狂とも茶番とも、深刻な反則とも解しかねて、白ける前に何の感動もなく、ただぼんやり|呆《あ》っ|気《け》にとられて眺めるような、妙に張りの抜けた気分でしかなかった。
驚くべきなのに、自分があまり驚いてもいないことが、彼にはもどかしかった。
「悪かったかしら」
英子はもう一度訊いた。
「何が」
「帰ってもらっちゃってよ。だって私、相手をしているの何だか|嫌《いや》だし、私ももうすぐ帰るといったの。一寸来たついで寄っただけだからって。悪かった」
「悪い訳はない。第一こうやって帰って来て、君の代りにそんな客がいたら、俺のほうが仰天するよ。しかしどういうことなのかなあ」
卓袱台に坐り、英子が買って来たウイスキーに手をかける彼へ、
「飲むの」
英子はグラスをとって差し出す。
「飲みでもしなきゃ、どうしていいかわからないよ」
「どうして」
笑って|覗《のぞ》き込んだが、何かを思い出したように、
「あなた、お母さんにずっと会っていないの」
「ああ、|勿《もち》|論《ろん》」
聞き手の英子を手がかりに、自分の気持をまとめるために治夫はゆっくりと頷いて見せた。
「ずっと会ってない。故郷を出てからずっと」
「お母さん、懐かしそうにしてたわ。部屋中見廻して」
「懐かしそう」
治夫は突然、大きな声で笑い出した。笑いながら、自分がこの笑いを僅かも気取っていないのを彼は確かめた。英子は|怪《け》|訝《げん》そうに眺め直した。
「どうしてよ」
「だって、君なら懐かしいか。君が何であの町を追い出されたか、追ん出たか知らないが、そんなやつらが懐かしいかね」
「でも、親じゃないの」
「親か」
英子がそんな言葉を使うのが、ひどく不自然に感じられた。
「私にだって親はいるわよ」
「懐かしいか」
「そりゃね、親ですもの。でも、わたしの親はあなたのとは違うわね」
いって気づいたように、
「私の親だって誰の親だって、皆違うってことよ。あなたのお母さんのことだけじゃなしに」
「そりゃそうだ。ただあの女は、俺の母親はさ、今現われられても、とにかく厄介だな、本当に全く困っちまうよ、俺は」
英子は声を立てて笑って見せた。この場に彼女がいてくれることに彼は満足だった。彼一人でも、或いは彼女以外の誰とでも、この出来事をこんな風には受け止められなかったに違いない。彼が出したコップに英子は寄り添うようにしてウイスキーを注いだ。
「あれはどんな具合だった」
「あれって」
「おふくろさ」
その言葉を口にしながら、彼はぎこちなさを感じた。しかし、そのぎこちなさは彼にとっては自然のものだった。
「そうね」
彼の心の内の何かを|窺《うかが》うように、英子はちょっとの間彼を見つめ首をかしげて見せる。彼女のそんな|躊躇《ちゅうちょ》は彼には初めて少しわずらわしいものに感じられた。
「どんなだったかね、かまわないから見たとおりいってくれ。なりはどうだった」
英子は|咎《とが》めるように彼を見返し、眉をひそめた。治夫は、今夜宵の口突然やって来たという、長らく見たことのない母親の様子を想像してみた。英子の表情からすれば、多分みすぼらしいものだったに違いない。それが当然なことに思える。ついでに彼は、そんな母親を連れて、というより従えてやって来た、市原の母親を思った。彼は市原によく似たこの女を好かなかった。
大病院の院長の細君で、暮しも何も落着いてしまい、好奇心ばかり働くこの母親の又|従姉《いとこ》は、情事で家庭を飛び出し、落ちぶれてしまった又従妹の無責任な世話を無上の暇つぶしにしているに違いない。彼女は日頃息子が面倒を見てやっている、母親同様過去に問題を起した息子の下宿に、その母親を土産代りにして無断でやって来、彼女の好奇心を満たしてくれる筈だった他人の親子の久々の対面を眺める代りに、この粗末な部屋を眺め廻し、自分の息子と治夫とを比べたり、この部屋を市原の書斎と比べて多分とても充たされた気持になり、それを殊勝に押し隠し、息子に会えずに帰る母親に、もっともらしい慰めをいったに違いない。治夫は急にそのことに腹が立った。
「どんなだった、彼女は」
問われて彼女なりに考えた末、
「おかあさん、|老《ふ》けたんじゃない」
英子はいった。
その答えは意外だったが、しかし彼にはすぐに納得がいった。
「私、おかあさんに前に会ったことないけどさ」
英子は正直にいい足した。
多分その通りだったろう。前に会ったことのない人間が眺めても、以前にあった出来事の噂からすれば、物語の女主人公の今日の姿は|落《らく》|魄《はく》そのものだったに違いない。それをただ老けたといったのは日ごろ客なれた英子の機知だろう。彼は感心して頷いた。
しかし頷きはしたが、想像が当っていたということは惨めでしかない筈なのに、不思議にそんな気がしない。気味のよさもなかった。彼はただ当惑し、注がれたウイスキーを黙って飲んだ。
「私のこと、どう思ったかしら」
突然英子はいった。
「どうって」
「変な女だと思ったでしょう。一体誰だろうって」
「誰だっていいじゃないか、連中には関係ないさ。たとい君が俺の奥さんだろうと関係はない」
英子は声を立てて笑い出した。
「いやだわ」
「なにが」
「奥さんだなんて。そう思ったかしら」
英子は笑いながら体をすくめて見せた。
しかし今夜ここに来た女たちが、留守に来て坐っている英子を見て、俺の妻だとも、婚約者だとも思わなかったことは確かだ、と彼は思った。初めて見た相手に多分他のどんな女よりも、英子は情婦らしく見えたに違いない。
「これ食べる」
英子は自分が並べた夜食の|惣《そう》|菜《ざい》を、話の|継《つぎ》|穂《ほ》のように気が無さそうに勧めて見せた。その時|何故《な ぜ》か突然、これがもし塩見菊江が留守に来てここにいたなら、それにもしあの息子がここにいたら、やって来た女たちは何と思ったろうか、と治夫は思った。それは子供がよく、今直接自分に|関《かか》わりあるとは夢思わぬながら、心の中で果して神が存在するかどうかを自分に問うて見るような、突然ではあったが、何故か彼にとって大層意味深い想定に感じられた。
しかし彼はすぐに、その不思議な連想を|放《ほう》り出した。
「だけどあなた、本当に自分が結婚してもお母さんに知らせない気」
英子は一寸媚びたように彼を覗き込んだ。
「必要がないからな」
「本当に」
「本当にさ。死んでいなくなったみたいなもんだもの」
いい方が深刻に聞えたのではないかと思って、
「生きちゃいるが、どこかにいるかいないかの違いだけだ」
いい足したが、ますます意味あり気になったような気がした。
「でも、本当によかったの、お母さん帰しちゃって」
「だって何しに来たんだ、俺には全くそれがわからないんだよ」
「会いたかったからでしょう」
「何故」
「何故って、親子じゃない」
「そう簡単にいっちゃいけない。俺は何も今無理して彼女を締め出しているんじゃない。昔出て行ったのは彼女の方なんだからな。それで親子の義理は果せたんだ。互いに子としての、親としての貸し借りはそれでなくなったのさ。それだけのことなんだ。最初はわからなかったけど、その内に俺にはそうわかって来たんだよ。つまり互いに全く自由になっちゃった。ほかの親子が出来ないことを俺たちはやれたんだから。親子に限らず他の人間同士だってみんなそうだろう。気持の貸し借り、往き来がなけりゃそんな他人はいないのと同じだよ。親でなくても、気持の貸し借りがある相手は、自分と本当に関係のある相手さ。例えば君の店の主人にしたって、やつは俺を憎んだ、そして俺もやつが嫌いだった、だからあいつは俺にとって正しく関係のある人間だった。今夜来た女以上にな」
治夫は自分がいつになく|饒舌《じょうぜつ》に語るのに気づいた。それは何かに向っての抗議やいい訳でなく、言葉は心持いいほど自然に口から出た。
「あなたのいうこと面白いわ。でも、そりゃそうね」
英子は、一寸した暗示でわからなかった問題の解けた子供みたいに、少し意外そうな表情だが、素直に深く頷いて見せた。
「君ならわかるわな」
「うん」
頷いた後、
「あら、どうして私ならよ」
「そう思ったのさ。だって、君と俺だからあのことも出来たんだ。憎んでも好きでも、俺たちがはっきり気持を抱ける人間だけが関わりあるんだ。他のやつらは皆互いに馴れ合いで寄っかかり合っちゃいるが、どれとどれが自分に本当に必要なのか、本当に邪魔かわかっちゃいない」
「私にはわかるわ、結局一人で生きて見るとそれがわかるのよね」
頷いていったが、独白めいた英子の言葉は、彼の知らぬ彼女の今までの生活の部分を感じさせた。
「店のマスターのこと、あなたどう思っていたか知らないけど、私には殺してやりたいと思うほど憎らしいやつが必要だったのよ。あいつだけじゃなしに、今までそんなやつばかりがいたわ。でも私、それでくよくよなんかしたことないわ。だってさ、あいつがいなけりゃ、あなたとまた会ったってこんな風になりはしなかったでしょう」
「本当だ」
治夫は頷いた。彼は、英子が自分の言葉につられてごく素直に、自然にあの男との関係を告白したこと、そしてまた英子が、利口に彼の言葉を利用してそれを正当化したことに満足だった。或いはそれは、勝手な理屈かも知れないが、彼にはどうでもよかった。彼は今自分が救済した同志に感じる共感というか、愛情のようなものを英子に感じることが出来た。
「俺なんかより、君の方がよっぽど苦労したんだろうな」
彼はいった。
「そんなこと、もうどうだっていいわ」
彼女はしなをつくるようにしていった。それは英子らしくなかったが、しかしかえって真実味があった。そんな彼女は今や愛する女、というより苦労の果てにやっと世帯を持てた若妻のように見えた。
「でも君は変ってないな」
「そんなことないわよ」
「いや、あの頃よりも君らしくなった感じがするよ」
「どういうことよ」
「ほかのやつらが馴れ合いでしている誤魔化しを君は知っていたんだから。だからあの頃から、君だけが大人に見えた」
「大人って、そういうこと」
「本当の人間ってことさ。何だってまず自分があるんだ、まず自分しかないんだってことを知るってことさ。そういうことになりゃ、世間には案外大人はいないよな」
「そうね自分しかね。でもその自分って何よ」
「憎いやつははっきり憎むことだ。殺すまでな。俺たちがやったように、嫌いなものは嫌い、好きなものは好き、しかし案外そうなってないんだ。どいつもみんな自分を誤魔化してる。大方自分なんていなくなっちゃってる。相手に感じていることをむき出しにしてやるのが、自分を助けることになるのにな。どうにも嫌いなことや、憎いことがあるのにみんなそれを隠して、押えて、化石みたいになっちまってるんだ。だけど一体何のためにだ。他人のためか、馬鹿な話さ、自分にとっての他人なんて、大方憎むか、嫌うかの相手でしかないのにな」
「そうね、他人なんて。あんたのいう通り、親兄弟だって、結局そうだわ」
「しかし、君は確かにこうして俺のためにいてくれたんだ」
治夫は手を伸べ、英子の肩にかけて引き寄せた。かけられた手を確かめるように英子は一瞬だったが体でこらえ、彼を見返すと、黙って崩れてきた。彼が今いった通り、熟れた肉体が彼の腕の内にあった。初めの頃のような期待の興奮の代り、彼は落着いて自分のために用意されたものを押し開き、触れて確かめた。今になってようやく、決して馴れでなく、今までの興奮の中で見過していた、もっとこまやかで本質的なものを彼女の内に理解し味わいとることが出来るような気がした。
彼はふと、愛し合ったまま結婚した男と女を想像できるような気がした。彼女も今までのように、取り乱すのを懸命にこらえて彼を受け入れるのではなく、今まで|昂《たかぶ》り、急いだ余り、彼に与えることの出来なかったものを与えようとするように、落着いて彼の手を待ち受け迎え入れた。
なお互いに高まり、襲いかかって来ようとしている快感の波の前で、一旦身を引いて、それを眺め直し楽しもうとするように彼は彼女をたしなめ、ゆっくり押し戻し、身に不自然な形でまつわったものをはずそうとし、彼女もそれを待った。その後、彼女は気づいたように彼の脱いだ浴衣を帯なしで羽織ると立って行き、二人のために床を敷いた。シーツをのべながら、黙って待っている彼を|諭《さと》すような目で見直して微笑すると、英子はふとまた思い出したように、
「お母さん今度いついらっしゃるか、訊くの忘れたわ」
その瞬間治夫は、無視して遠ざけたと思った人間が、思いがけずすぐそこの扉の外に立って待っているような気がした。
「そんなこと、どうだっていいよ」
怒ったようにいったが、
「よかないわよ」
逆にたしなめるように英子はいった。
「俺に関係ない人間が、君に、なんで関係あるんだ」
「あら、私はあんたのためにいったのよ」
そのまま寝そべるのを|躇《ためら》ったように、浴衣のまま布団の上に坐り直すと彼女はいった。自分と英子と二人だけの部屋に、今また入り込んで来ようとする人間を|塞《ふさ》ぐように治夫は手をのべ、乱暴に英子を引き倒した。
次の日病院で顔を合わせたとき市原は、治夫に向って、後ろめたそうな、同時に好奇な臆測の表情を浮べて見せた。
医局に行く途中の階段口で突然顔を合わせてしまったせいか、市原は|咄《とっ》|嗟《さ》に、どちらか片方の表情を収う暇がなく、仕方なく|曖《あい》|昧《まい》に微笑して見せた。治夫の方も市原に会ったらいうべきことがある筈だったが、顔を合わせて見ると、急にどちらでもいいような気がした。|咎《とが》めて何かを強くいえば、それだけ自分が昨日の留守中の出来事を気にしているようにとられるだろう。治夫にとっての幸いは、昨夜結局やって来た客と顔を合わせずに済んだことだ。彼が今市原に望むことは、再び彼女たちが彼を訪ねてやってこないことだけだが、今それに駄目を押せば、市原は余計に彼の心の内を覗こうとするだろう。
昨夜の出来事と同様、それも彼にとってはただわずらわしかった。他に用事を抱えている振りをし治夫は最初ただ黙礼だけして行き過ぎようとした。が、
「君」市原は彼を呼びとめ、いかにも彼のためのような仕草でまず辺りを見廻して見せた。彼は明らかに昨夜の今日、治夫に黙殺されそうなことに不満そうだった。ことの|詮《せん》|索《さく》をどう切り出していいか、ちょっとの間躊躇した後で、
「昨夜うちの母が君のところへ行ったそうだね」
好奇を|噛《か》み殺し、無表情を装いながら彼は尋ねた。
「はあ、そうらしいですね」
もの憂そうに相手を見返しながら治夫はいった。そんな様子に当惑しながら、なお詮索の目を|瞬《またた》かせ、市原は微笑し直した。もし治夫が思い詰めた顔で、ここでは具合も悪いから、後どこかでゆっくり相談したいのですがとでも頼めば、この男は午前中一杯上機嫌で治夫を待ち、ついでに得手勝手な臆測を、息子同様節介な自分の母親に電話でもするに違いない。多分この男には治夫が実際に昨夜のことをどう感じているか、あるいは何故彼がそうなのかということは、理解をはるかに超えたものに違いない。
或いは存外市原は市原なりに治夫親子の関係について、それが少々お節介であろうと本気で心を痛めているのかも知れないが、いずれにしろ市原親子の間には治夫たち親子の間に起ったような出来事の起りよう筈はないのだ。なにしろ、頼まれた仕事のためにやむを得ず何度か訪れた家で、息子よりずっと年下の治夫にまで息子の自慢をしてみせる母親なのだから。
「一緒に君のお母さんも行ったことは知っているだろう」
決心したように、少し、|嵩《かさ》にかかって市原は訊いた。
「はあ」
「聞いたんだろう」
「ええ、聞きましたよ」
|鸚《おう》|鵡《む》返しにいう彼を、市原はまぶしいものを見るように見返した。
「|言《こと》|伝《づて》をいった筈だが、一度会いたいと。君らは会うべきなんだ。それが当りまえだよ」
いった後で自分の言葉に気が咎めたように、治夫ではなく、誰もいる筈のない辺りをもう一度見廻して、
「どうなんだ」
「どうって、第一、そんな言伝は聞かなかったし、今更、何も」
「いやいい残して来た筈だ」
塞ぐように市原はいった。
「先客があったそうじゃないか、その人にちゃんと頼んだということだ」
「二人が来たことは聞きましたが、そんな言伝はいう必要もないと思ったのでしょう」
「必要がないだって。その人は一体どういう」
「友だちですよ、女の」
逆に塞がれたように市原は彼を見返した。
「だから母たちも気を利かせて帰ってきたんでしょう」
当惑したように見返し、
「余計なことかも知れないが、その人が、君の何かは知らんが、君も将来家庭を持つようなことがあるのなら、これはいい機会だと思うよ」
「僕が家庭を持つ、いつ誰とです」
「いや、そんな詮索をしているんじゃない。ただ、もしそうとしたらだ」
「何がいい機会なんです」
相手が英子のことを口にしたおかげで治夫は市原をからかう口実が出来た。
「君はお母さんと、つまりこんなになっているのを何とか」
「よりを戻せというのですか」
「そういういい方はよくないな。二人がこんな具合になったのも、結局は互いが必要だったために、一層ことがこじれてしまったのじゃないのか」
「親子関係の深層心理ですか」
微笑していう治夫に、
「いや、僕はそう思うよ」
精一杯誠意をこめた表情で市原はいったが、その顔はいつ以上に偽善者じみて見えた。
「この前もいっただろう、君がお母さんを迎え入れれば総て|旨《うま》くいく。君の家の方でもすべき援助をする。いや、援助といういい方はおかしいな、すべきことなんだ」
「僕は別に今金に困ってやしませんよ、あなたにだって仕事もらっているし」
それを皮肉ととるべきかどうか市原は一瞬迷って、まぶしそうな顔をした。
「しかし、おかあさんは困っておられるよ、いろいろと」
「じゃ、彼女のために、僕に何かしろというのですか、|親《おや》|父《じ》に金を出す気があるというのなら、彼女一人のために出してやればいいじゃないですか。自分の後ろめたさの口実に僕を利用することはない」
「いや、お父さんの気持に負い目があるとするなら、それはお母さんにより、君の方にじゃないのかな。僕は詳しいことは知らないが」
「同じことです。ならば、なんでそれを金で|償《あがな》おうとするのに、おふくろの出現を待たなくちゃならないんです」
「それは君、きっかけというものだよ。やっぱり時期というものが来たんだ」
市原は眉をひそめ、精一杯世知にたけた顔をして見せたが、それは自信のない診断をする時の渋面にしか見えなかった。
「その時期が来てやっと僕は、何もかも忘れられた気がするんですがね」
「そういういい方はよくないな」
彼はまたいった。結局彼にいえることはそれしかないように見える。
「あなたは一体誰のために忠告をしてくれているんですか」
「それは君のためだよ」
躊躇しながらのように市原はいった。
「ならば話は簡単です。僕は今別に不自由はしていない」
「不自由自由の問題じゃないよ、君は家ということを考えたことがあるかい」
「いえ」
治夫は微笑して見せた。市原は自分が思いがけずいい出した古めかしい言葉に自分で当惑し、身構えるように彼を見返した。
「それがどんなものか、僕は多分あなたよりも知っていると思いますがね。あなたのいった意味でのそれがどんなものでしかないか。世間のいう意味じゃ、あなたのお|家《うち》のほうが僕の家よりもまともで立派だといえるかも知れない、しかし僕は別に今そんなもの欲しいと思わない。まして、今更体裁だか|贖罪《しょくざい》のために、継ぎはぎして、そんなものを持たされたりするのは御免です。手術の後の接着法みたいなもので|上手《う ま》くくっつく訳はないし、たとい縫い合せたところで傷跡は残るでしょう。ところが僕は今神霊手術じゃないが、跡もつかずにすっかり治ってしまっているんです。自己暗示か何か知らないが、あのことから僕は完全に治ったと思っている。あることを悟れたことで僕にはあの出来事が無かったことに等しくなってしまったんです」
「あることって何だね」
「簡単なことです。要は自分ということ。断わっときますが僕は別に自分をどれほどの人間と思って、偉そうにいっているんじゃないんです」
市原は話の継穂のために、何とか治夫のいったことを理解した顔をしようと努めて見えた。
「結局自分が決める人間対人間の問題じゃないですか、自分で選んでそれを決めりゃいい。嫌なら嫌、いいならいい、嫌でもなくよくもなくてもそれなりに関わりあるということだけど、関わりないものは全く関わりないんだから。それを今更いわれても全く困っちまうな」
「君、それは、そういうものじゃないぞ」
市原は思い切って|脅《おど》すようにいった。そうすることで彼の治夫への誠意を見せつけようとしているのが見えすいていた。
「しかし、僕は僕の家の出来事でそれを教わったのですよ。つまり家や親なんて実はあなたがいわれたように、そんなに動かしがたいものじゃないんだな。それに気づいて驚いたり怒ったりすることもないんです。考えて見りゃその方が自然で、第一便利ですよ。とにかく自分以外のものは自分じゃないんだから」
「しかし君は、家の君以外の人のことを全く考えないのか」
「彼らは考えていますかね。例えば僕のこと。だから僕もというんじゃないんです」
「いやしかし弟さんたちは」
「それは親父もおふくろも、僕のことを考えているかも知れない。憎むかうとましくね。とにかく僕がああやって騒ぎさえしなければあんなことにはなりゃしなかったんだから」
「それだけ君は家のことを思っていたんだよ」
「あの時はね。それが一体どんなものかも知らないで。つまり世間知らずということです。家の出来上がり具合だって、他の世間だって結局同じことですからね。家の方は絶対的なものにされてしまっているから始末悪いが。僕は|上手《う ま》い具合に馬鹿正直にそれを突破しちまった。破ってみれば、あとは互いに白けちまうほかない。皆が楽しんでいる手品の最中にそのネタをばらしてしまったようなものです」
「いや、家庭は手品じゃない」
それしか思いつかないように重々しく市原はいってみせた。
「手品ですよ」
逆に、たしなめるように静かに治夫はいった。
何かいおうとしたが、急に臆したように市原は黙って彼の顔を見つめていた。
「その種の割れてしまった手品を、もう一度僕にやれというのですか」
「じゃ、君はお母さんや弟さんたちのことを考える必要はないというのかね」
「まあそうでしょう。しかし僕がそういったところで、家の誰も僕を咎められやしませんよ。誰が一番損して割を食ったかといえば、手品の種を見せつけられてしまった僕なんですから。今もし僕がおふくろと一緒に住めば、親父や弟たちの|面《メン》|子《ツ》も立ち安心出来るというなら、そいつは虫がよすぎる。彼女もそれでいいというなら、そいつあ甘え過ぎているんじゃないですか」
「君はお母さんに向って、自分でそういえるかね」
「どうして。僕にいえない訳がない。実際にそう思っていることですから。しかしその必要はないでしょう、あなたが伝えてくださればいい。それで彼女は充分納得する筈です。すべきなんだ。そうやって幾つかに割れてしまったものを形の上でまとめて、その上に何をしようというんです。その馴れ合いがどんなに退屈で、第一、罪だってことはわかってる筈なんだ」
「罪だって。しかし、君は今、非常に困って疲れておられるお母さんを見捨てようとしているんだぜ」
「その方が罪だというのですか。それは間違いだな。僕ともう一度一緒に住みたいなんてことを彼女にいわせたら、それこそ彼女にもう一度罪を犯させることになりますよ」
「それは君の理屈だ、もっとまともに考えて見たまえ、お母さんは今」
「僕のいっていることが一番まともでしょう。人間についてまともとは何かということ、それを僕は経験から知ったんです。それだけが僕の貞操みたいなものなんだ」
「しかし、とにかく一度会ってみないか」
そして何を勘違いしたか、
「僕や母がいない方がいいんなら、最初は二人だけで会ったらいい」
「やめろ」と叫びたいのをこらえて、治夫は微笑してみせた。
俺はこのことでこの男に卑屈になる負い目は全くないが、出来ればこのついでに、こいつがまともと信じて自分を支えているものが実はどんなに滑稽なものでしかないかを、わからしてやってもいい、彼は思った。
「その必要はないでしょう、僕が彼女と会うのは、僕のためではなしに、むしろあなた方のためなんでしょうから」
皮肉が半分わかったように、繕った寛容さで市原は微笑して見せた。
「あなたがもし僕と同じような立場に立ったら、つまり同じようなことがあなたのお家に起ったら、多分僕と全く同じことをし、同じ考えを持たれたでしょうね。但しあなたが本当にあなた自身だとしたらですが」
自分が挑んでいることを悟らせるように治夫はゆっくり彼を見返した。
「それはどういうことかね」
むっとしたように市原はいった。
「そういういい方は失敬じゃないか」
「そうですか」
「僕は、君やお母さんを気の毒だと思うが、しかし、そんなことが僕の家にあっていいとは思っていない。第一ある訳がない」
「そうですか。でも、それはあなたが信じているあるまともさの上では考えられないことかも知れませんが、実際にはどこでもあり得ることだし、あってもいいことじゃないんでしょうか」
「君に家庭の道徳論を聞かされようとは思わなかった。ごく新版のやつをね」
説教したいのはお前の方じゃないか、思ったが治夫はただ微笑して見せた。曖昧な微笑だけが全く違うものの考え方の人間を、何とはなし一緒にいさせるたった一つの|術《すべ》だ。
俺は最初から笑うだけで、ぬらくらしておいた方がよかったのじゃないか、しかし、話の通じる筈のないこの男との話がこんな羽目にまでなったのは、案外、昨夜の出来事に俺が知らずに動揺しているせいかも知れない。いや、そんな筈はない、といい聞かせながらも治夫はひどくわずらわしくなった。
「ま、とにかく、あなた方が僕を利用されるのならそれはそれで結構ですが」
「利用。そんなことなど考えていないよ、皆本気なんだ」
「僕も本気でそういったんです、彼女がこの際僕を息子ということで利用したいのなら、それはそれでいい。僕は今不自由していないし、彼女がそれで上手くいけば結構なんだから。でもそのために必要なことは、面倒でも僕ぬきであなた方にして頂きたいと思います。ただそのために僕が彼女に会うのは端的に面倒なんです」
市原は唇を|歪《ゆが》めて見せたが、また思い直したように、急にひどく親しそうに顔を近づけ、
「気持をかまわずに、一度あっさりと会ったらどうなんだね」
「かまっちゃいませんよ。率直にいって僕も彼女も、あなた方が考えているような気持じゃいませんよ。もし道で偶然に出遭ったら、逃げもせず、まともに挨拶するでしょう。ただ、今親子として会えといわれても僕は困るし、そんな気になれる訳がない」
「君の気持もわかるような気がする。そりゃ君が一番の被害者なんだからな」
最後に少し妥協して見せるように市原はいったが、被害者という言葉は、結局今まで治夫のいったことを彼が何も理解していない|証《あか》しだった。日頃仕事の中でのつき合いから、気持の上で、市原はどうしても治夫を被害者にし、自分がその保護者にならなければすまなそうだ。
「とにかく一度会うことだな。会えばそれだけで通じ合うものだよ、親子なんてそんなものなんだ」
その場の説得を|諦《あきら》め、愚痴のように市原はいった。そんな様子は一人よがりの節介だが、悪い人間には見えなかった。
半分は好奇、半分は相手へのサービスとして、
「母には会われたんですか」
治夫は訊いてやった。
「ああ、昨夜は家へ泊っていかれたよ」
再会した息子の部屋へ泊るべきだった母親が、|縁《えん》|戚《せき》とはいえ他家に泊っていったことからその胸中を察しろというように、荘重に市原は|頷《うなず》いて見せた。
「君も随分大きくなっただろうといっておられたよ。最近のことを話しておいたが」
|窺《うかが》うように治夫を見直し、
「随分苦労されたようだな」
深刻につくった声で市原はいった。
しかし治夫には相手の節介へのサービスに、それ以上そういわれて胸を衝かれたような顔を見せる気にはなれなかった。
仕方なし、「そうですか」とだけ彼は答えた。
その答えに最後の思惑を外されたか、市原は露骨に不満そうな顔になり、時間の無駄を悟ったようだが、それでもまだ節介への執心を捨てず、
「このことは後できちんと話そう。僕にも考えがあるから」
高飛車にいうと歩み去った。
市原を見送った後、実らぬ会話の|滓《おり》のような|焦《いら》だたしさが残った。それは彼と話している間よりも、|寧《むし》ろ話が終った後の方に強く感じられた。
俺はあの男に何を説明しようとしたのだ。あいつが俺の母親と呼んで押しつけようとしている女と、俺との関わりが何でしかないかを知ることなんぞ、あの男には何の役にも立ちはしまい。彼はこの節介を浮世の義理とでも思っているかも知れないが、それなら黙ってそうさせて、最後にこちらが身をかわしてやればいいのじゃないか。あの男に俺がいおうとしたことは、あの男にとっては異教の宗旨に|鞍《くら》替えるくらいの背徳に違いない。俺はあの男や大方あいつに似た他のやつらに比べれば、回心出来た聖人みたいなものじゃないか。
そして最後にそれとなく母親の様子を尋ねた自分を思い出し、彼は唇をかんだ。
あいつのいう親子の深層心理ではないが、俺はやっぱりどこかでこの事を気にしているのじゃないか。予想どおりあの女が落ちぶれていると聞かされて、それがそのまま納得出来ることの中には、俺の遺恨じみた期待が隠されているのではないか。考えかけ、彼は振り切るようにそれを止めた。
|羽《は》|蟻《あり》か何か突然外界に|氾《あふ》れて|湧《わ》いた虫たちが、戸をたて閉め出したつもりでいたが、気づいて見るとどこか隙間からまた忍び込んで、枕元や机の脇を|這《は》い廻っているのに気づいた時のようなおぞましい気分に治夫はなった。といって、それを追い出すためにもう一度戸をあけるわけにはいかない。そうすれば、もっと|非《ひ》|道《ど》いことになる。とにかく相手はすぐそこまで来てしまっているのだ、留守中に部屋にまで上がり込んでいたのだから。七年振りの今、得手勝手に向うからすぐ間近までやって来たあの女の胸の内について想像してみようとしたが、出来なかった。
彼女はひょっとすると、俺の気づかぬところでずっと俺を見守っていたのかも知れない。
そんな気さえふとした。
治夫は以前何かで読むか映画ででも見たような気がする、生き別れた我が子を相見ることが出来ずに、校門の蔭から通学の子供を垣間見、涙するかなにかして帰る母親の姿を想像しうんざりした。うんざりしながらも彼はその女の姿に母親の顔を添えて更に一層腹を立てた。
端で見る者にはどうだろうと、今度のことは、相手の身勝手以外の何ものでもない。何であろうと今、間近に|蘇《よみがえ》った母親なるものは、どんな想像よりもっと落ちぶれ惨めなものに違いない。そんな彼女に廊下でいき会い、声をかけられ、|一寸《ちょっと》の間立ち停って思い出し、「いや、どうです」などと、医者が患者に話しかける無責任な挨拶を交わすだけで立ち去ってしまう自分を想像して見る。それで別に心が|昂《たかぶ》ることもなく、今の彼にはそれが一番自然で楽で、相手にとっても結局それが有り難い筈に思えるのだが。
しかし、どういいくるめられたか知らぬが、市原の母親と一緒に下宿までやって来たという相手のやり方は、一種の規則違反のようなものではないか。|尤《もっと》も、その規則は彼が一人で造ったものだと周りはいうが、しかし英子にはそれがわかった。
昨夜泊り込み、今朝病院へ出てくる時にはまだ部屋にいた彼女の汗ばんだ裸の肉体を彼は思い出した。形だけ彼の浴衣をまとい、はだけた部分に夏布団を当てて、彼が起き上がって身支度するまで英子は寝起きが悪かった。
薄暗く、人気の余りない、他と比べ冷やっとした病理学科の廊下で思い起す英子の姿態は、それまで枕に押しつけていた片側の頬と|顳ソ[#「ソ」は「需」+「頁」Unicode="#986C" DFパブリW5D外字="#F4BF"]《こめかみ》に、乱れたまま汗で張りついた髪の毛までが、突然ひどく肉感的に蘇って来た。昨夜、息子の留守の部屋にいて彼女たちを迎え入れた英子の存在に、多分母親が傷ついて帰ったことは想像出来た。ほかの女とは違って、商売柄英子がそんな折の客扱いにそつがなければないほど、あの女は期待を外され、母親としての自分がいないまま息子にとって過ぎた時間の長さを悟ったことだろう。
そう思うと彼は相手に犯され|蝕《むしば》まれていたものを少し奪い返せたような気がした。
それから三日して治夫はまた市原に呼ばれた。
「僕は今日の午後から|明後日《あさって》まで、研究出張で大阪の大学に行くが、明後日の夜家に来てくれないか」
治夫が|訊《き》きかえす前に、
「君にまた頼む仕事のことで打ち合せておきたいんだ」
塞ぐようにいった。
「じゃ頼むぜ、七時以後なら帰っている、久しぶりに飯でも食おうか」
言葉を返す間なく、市原は|鞄《かばん》を取ると、治夫を残したまま部屋を出て行った。仕事の用にかこつけて彼を呼び寄せ、有無なく母親に会わせようとするつもりは、相手の立ちぎわの様子でも想像出来た。そう知っても、切羽つまった気持などなく、結果が知れていることだけに、ことがどう仕組まれても相手に会う会わぬのことはどうでもいいことにしか感じられない。
その夜会った英子に治夫はあの夜以来のいきさつを打ち明けて話した。
「それでどうするの、行くの」
「俺にはどっちでもいいことなんだよ、今更」
「なら行ったらいいわ。行かなきゃかえっていろんな具合に取られるわよ」
英子はあっさりいった。
「あの晩だって、あなたは逃げて遅く帰ってきた訳じゃないんだから。でも、あんまり思っているままのことはいわない方がいいわよ」
「どうして」
「いったっていわなくたって、結局同じことでしょう。今日は、お久しぶりっていえば済むことよ」
「しかし相手はどうやらそれ以上のことを当てにしているんだ。市原は俺に一緒に住んだらどうだとまでいったんだ。相手だってそのつもりじゃなきゃ、今頃俺の前へ現われはしないだろう」
「だとしたら、あなたどうするのよ」
|悪戯《いたずら》っぽく英子は訊いた。
「考えたこともないよ、また考えることもない。俺はあの女を今じゃ好きでも嫌いでもない。考えてみたら前からそうだったんだ。親子なんてそんなものだよ」
「それでも、可哀相ね」
「誰が」
咎めるようにいった治夫へ、
「あなたよ」
鼻の頭に|皺《しわ》を寄せ、子供をあやすように英子はいった。
「こういうことって、いつまでもぴしゃっとけりがついて終らないものよね。これがお母さんのお葬式に行くっていうのならわかるけどさ」
「葬式はもう一度出したんだ」
「それが、相手にはわかっちゃいないわ。向うは死んだのはあなたくらいに思っていたかも知れないもの。それが思いがけなく生きていたって」
「しかし、お化けは向うだよ」
「だから会ってみたらいいじゃないの」
「かなわねえな、全く」
「だけど人間のつき合いなんて、相手が死にでもしなけりゃ、片がつかないものなのよ」
諭すように英子はいった。
「そうさな。俺は今になって君の店の主人に友情みたいなものを感じるよ、彼が懐かしい」
「駄目よ」
英子は気づく訳もない隣りのテーブルにいる客を、治夫のために振り返って確かめ、向き直ると咎めて|睨《にら》んで見せた。
思い返すと全く、二人だけでし終えた仕事の秘密は懐かしく、その二人の関係の証明書のようなものだった。それについて、周りに気づかれずに話すのは、二人だけの|符牒《ふちょう》で互いのセクスについて話すのに似ていた。その夜の前戯はいつもそこから始まるのだ。
その夜市原が治夫に依頼した翻訳の仕事は特に急いだものでも、別に重要なものでもなかった。仕事の条件を聞かされた時、それがその夜の前説でしかないのがはっきりした。
「ところでだ、君も」
お聞き、これだけはわかるだろう、という風に市原は治夫を見直し、|頷《うなず》いて見せた。
先日の会話がどう響いたか知らぬが、彼は急に緊張して見えた。次の用件を切り出せば、聞いただけで治夫が立ち上がるかも知れぬと思っているのか。彼を追いかけ、玄関先で母親にとりすがらせようとまでは考えていまいが、相手を助けるように治夫は微笑した。
「母が来ているんでしょう」
「そうなんだ」
相手が口ごもりながらさんざん考えていたいい訳をしようとする前に、
「多分そうだと思いました」
市原は救われた顔で彼を見、
「会ってあげるだろうね」
|窺《うかが》うように卑屈なくらいおだやかな声で尋ねた。
「いいでしょう、ここまで来て逃げ出すこともない、あなたの顔を立てますよ」
その言葉を市原はどうとったか、満足そうに頷いた。気の変らぬ内にと思ったか、慌てた手つきで机の上のインターフォンを押すと、
「お茶を入れかえてくれないか」
スピーカーで細君が答え、多分それが合図だったのだろう、市原はそれ以上何もいわず、部屋にも、スピーカーの中にも沈黙があった。
治夫はふと期待のようなものを感じかけた。今まで決して思って見なかったものでもないが、今となっては興味が持てた。待つ間、|密《ひそ》かに|怖《おそ》れていた懐かしさなどはなかった。扉の向うから現われるものが何か知りながら、一体どんなものが現われるのかという好奇心だった。側で一心に自分を見つめている市原の視線を彼は感じた。今、とんだドラマを待ち受けているのだろうが、そうそう思惑通りのものを与えてやる訳にはいかない。しかしまた、相手の期待を壊すためにことさら装い努めるつもりもない。
いずれにしろここは俺の部屋じゃない。そう確認し直し、彼は新しい煙草を取り出してくわえ、市原は自分の何か大事な願い事のために招いた客にでもつくすように、慌ててライターを差し出した。
「つまり、何年ぶりになるのかね」
自分の興味をそそるように市原は尋ね、
「そうですね、何年ですかね」
いった時ノックがあった。
市原が治夫に振り返ってから答えると、臆したように間を置いて扉が開いた。差しかえた茶を盆に載せ、彼女はそこにいた。新しい主人の前で、対面の許しを乞うように、彼女は伏せていた目を上げて|先《ま》ず市原を見、市原が頷くと、慌てて思い出したように治夫を見た。
「治夫さんですよ」
妙にこわばった声で市原がいい添え、彼女は治夫に向って、正しく他人の客にするように頭を下げた。多分知らずに、治夫も市原も同じ視線で、新しい登場人物を見守った。治夫がその瞬間感じたものは、端的に今まで以上の好奇心だった。彼がそれしか感じられぬほど彼女は変っていた。彼が|嘗《かつ》て母と呼んだ女の跡は確かめねばわからぬほどだった。彼女は驚くほど長く二人のその視線に耐えて、何の表情も浮べずにいた。治夫が想像し期待した通り、いやそれ以上に彼女は今では|落《らく》|魄《はく》の卑屈さに慣れて、疲れて、もの憂げに見えた。しかしきっと、彼女にとっての新しい主人である市原が笑えといえば、彼女は治夫に向って笑い、泣けといえば泣いたに違いない。戸締りを超えて身の周りに忍び込んだわずらわしい羽虫の正体を、彼は今はっきりと確かめて見た。それはさっき市原に問われて思い出せなかった七年という歳月が、自分にとってとは全く違う意味と形で、この女の身の上に、まざまざとあったのだということを悟らせた。
「君」
促すように市原がいい、彼女はその声を自分にととって、|曖《あい》|昧《まい》に伏せていた視線をもう一度上げ、初めてはっきりと治夫を見た。そして、ものを乞うような微笑で彼女は頷いて見せた。それは場違い、相手違い、第一、年齢違いの|媚《こび》にしか見えなかった。
何かを飲み込むように、
「今晩は」
治夫はいった。
自分がいつの間にかひどく寛容な微笑を浮べているのを彼は感じた。彼は何かを理解したような気がし、|何故《な ぜ》か|安《あん》|堵《ど》し、悪びれず、熟練した医者のように、更に注意深くこの相手を迎えることが出来た。変り果てた母親に向って、彼はもう一度黙って頷いて見せた。それは医者が患者を|微笑《ほほえ》んで受け入れながら、同時に互いの立場の違いを示して間を仕切る仕草だった。彼女がそれを悟るのが彼にも感じとれた。曖昧に視線を外し、どちらを見るような見ないような角度の目礼でうつ向き、彼女は微笑した。その微笑は自分を|嘲笑《わ ら》っていた。しかし、彼女はそれにもすでに慣れて見えた。
市原が声をかける前に、先ず当面与えられた小さな仕事を終えると、彼女は会釈をし盆を引いて部屋を出て行った。
治夫は一種の感動でそれを見送った。それは勝ち負けなど感じさせぬほど|完《かん》|璧《ぺき》な落魄だった。とにかく相手は変り切っていた。変り過ぎ、変る前の彼女を現実の彼女が覆い尽してしまった。嘗てのあの女はどこにもおらず、七年たって新しい彼女だけがいた。|憐《れん》|憫《びん》とか|蔑《さげす》みとか|嫌《けん》|悪《お》を通り越して、彼はただ驚き、誕生し直した彼女を眺めていた。それは彼にとって全く新しい他人だった。
「駄目じゃないか」
ひそめた声で、市原は真剣に彼をなじった。
「何故声をかけて上げないんだ」
「かけましたよ」
「もっとだ」
「何て」
「何でもいい、声をかけることで通じて行くんだよ」
「通じる、何がです」
「君はまだそんなことをいうのか」
「待ってください。そりゃ僕だって話くらいはできるが、でもその前に驚いて」
「だろう」
たしなめるように市原はいった。
「変っただろう、お母さんは」
「でしょうね」
いぶかし気に市原は彼を見直し、
「話し合うことが沢山ある筈だよ。先ず君から話しかけなけりゃいかん」
一方的にいった。
市原は再度インターフォンを押すと細君に彼女に自分の母親と一緒にもう一度書斎へ来させるように命じた。間があってノックがあり、細君が顔を|覗《のぞ》け市原を呼び出し戸口で何やら|囁《ささや》き合うと、彼は治夫を残して部屋を出て行き、|暫《しばら》くして戻った。
「お母さんが向うで泣いておられるぞ」
単純に感動した顔で市原はいった。しかしどうやら市原は勘違いしている。彼女が泣いているのは再会の感傷のためなんぞではあるまい、いかに落魄して屈辱に慣れても、自分の息子にあんな風に迎えられたことにやはり彼女は耐えられなかったのだろう。治夫には彼女の身になってそれが想像出来た。
しかし何をどう考えていたかは知らぬが、今になって彼に会う気になること自体が|可笑《お か》しいのだし、どんな期待があったか知らぬが、それを外されて泣くことの|咎《とが》は自分にしかない筈だ。彼女の泣く訳がわかりはしても、彼の方がどう態度を変えるという訳にはいかない。実際に、あんな風に彼女を眺める以外にどうしていいのか彼にはわからなかった。
久しぶりに目にした母親は、嘗ての出来事の頃から見れば意外に変り果てていたろうが、その意外さは彼女や他のまわりの者にとってのもので、治夫には、あくまで、ただ予期していた以上の度合いの問題だった。だから治夫は、市原や彼の母親が彼女を見てのようには心が動きはしなかった。彼はただ彼女の内外ともの変貌だけを認めた。互いにとってもそれで充分ではないか。この上、その変り様の中から何を感じて受け取れというのか。彼女が勝手にもっていた期待に彼が応えなかったとしても、それを咎めるいわれは相手にはない筈だ。第一、治夫が今妙に同情したりしないことが、家庭を捨てて飛び出して行った彼女の矜持への思いやりというものではないか。
茶の間かどこか向うの部屋で泣いているという母親に、彼は初めて蔑みと不愉快さを感じた。これでは涙の押し売りだ。これは彼が望んでいたただの再会の挨拶とはあまりに違い過ぎる。
母親の涙と聞かされて、俺に向うへ飛んで行けというのか。市原にどう答えていいかわからず、治夫は黙って彼を見上げていた。
「どうしたんだ」
不服そうな顔で市原はいった。いわれて治夫は、自分が今どんな顔をしているのかわからなかった。
「どうしたって、別に」
「別にということはないだろう」
「ですから、母がどうしたんですか、話ならしますが」
「君のそういういい方がよくない、なぜ相手をいたわろうとしない」
「いたわる」
「そうさ。それは君が君なりに今までどんなに苦労したかは僕にもわかる。しかし、自分でもいっているように、今君が何の不自由もないというなら、君の間近にいる、君よりはるかに困っている人間をいたわるのが人間として当り前だろう」
「どういう人間としてです」|訊《き》き返そうとしたが|止《や》めて、治夫はただ微笑して見せた。
市原自身がどんなに博愛人道的な人間かは知らぬが、いい分はそれなりに筋は通っている。|尤《もっと》も、それはあくまで向うの理屈だ。自分はその理屈を信用しないのだということをここでいい合っても、会話は前と同じものにしかならない。
「わかりました。いいですよ、でも、どうしたらいたわることになるんですか」
「お母さんの話を聞いて上げるんだ、そして君のことも話したらいい」
「ぼくから話すことはないです。あったら苦労しないんだ」
「いや、ある、話している内に出てくるさ」
市原は簡単に請け合った。
「で、彼女は何か話すことがあるのですか」
「なけりゃ君に会おうとはしないだろう」
「何か注文ですか」
「そんなことの前に、先ず君に|詫《わ》びたい気だってあるだろう」
「詫びる」
思わず訊き返した治夫に、市原は大きく頷いて見せた。詫びるってのは、落ちぶれてしまったことか、と思ったが黙ったままでいた。
「とにかくお母さんと話をするね」
「どうぞ、僕が断わった覚えはありませんから」
子供をあやすのに手をつけかね、笑って誤魔化して見せる先生のように、市原は歯まで見せて笑うと二度三度頷いて見せた。
市原に連れられ、こんどは市原の母と一緒に彼女は書斎へ戻って来た。どれほどの涙かは知らぬが、そういわれれば泣いた跡があるようにも見える。彼女はそれを隠そうとはしていない。今度は手ぶらで、正に彼に向って何かを話すためだけに部屋に入って来て坐ると、前と同じ曖昧な微笑で、しかし前よりははっきりと治夫を見つめ頭を下げた。その居ずまいの中には、おずおずとしながらも、さっきはなかった、これが駄目なら駄目でいいんだという、どこかふて腐れた気配がある。それこそ彼女が今までの経験で|掴《つか》んだものに違いない。
詳しくは知らぬが、年上の筈の市原の母親の方が彼女よりもずっと若く見える。顔のつくりも派手で、普通ならずっと若く見える筈の彼女の方が、着ているものも趣味悪く安手で派手目だが、ずっと老け込んで見えた。それに、もっと大柄の女だったと思ったが、彼女は部屋の中で誰よりも小さく見えた。
これが俺のおふくろと呼んだ女だったか、彼は改めて思った。自分にそういい聞かせないと、これから始まる何かを自分がどう理解し、理解の前にどう関心を持つことも出来そうにない。市原もその母親も示し合せたように、この場では|鷹《おう》|揚《よう》な顔をしている。治夫はまた自分が場違いな人間に感じられた。彼女の方はどこかから何度目かの逃亡を見つけられ、途中で引き戻されこれから裁かれる人間のように、こうした場には慣れているが、疲れた様子でじっと坐っていた。
「こうやって折角会ったんだから、多津さん、あなたも素直になってお話しなさいな」
市原の母親がいうと、打ち合せ教えられていたように、彼女はうつ向いたまま大きく頷き、ゆっくり顔を上げると治夫を見つめ、
「治ちゃん、本当にいろいろ申しわけなかったわね。母さん一度あなたにだけはお詫びをいいたくて」
|誦《そら》んじるようにいった。
思い出そうとしたが、不思議にその声は聞き覚えのないものにしか感じられなかった。彼女の表情には、今いった言葉が嘘とも真とも、方便とも明かさぬ、ただ曖昧な微笑しかなかった。
彼が答える前に、市原と彼の母親の方が深く頷いて見せる。状況はこれでどうやら二人が苦労し望んだ通りの芝居がかりになってきたようだ。しかしそれは逆に、この七年間、彼が身につけて来た他人への姿勢をここでも|蘇《よみがえ》らせた。
何と呼んでいいかわからぬまま、
「やはり少し変りましたね、ちょっと年を取った」
治夫は相手にいった。
が、それがきっかけの合図のように彼女はたちまち涙をこぼした。見物の二人は心を動かされたような顔をしたが、その涙は治夫にはただ、いかにも都合のいいものにしか見えなかった。
「あなたにお詫びをしたくて」
確信を得たように、涙のまま彼女はくり返していった。しかし彼はそれをどう受けていいかわからず、市原を振り返った。促すように市原は頷いて見せる。が、それきり沈黙があり、治夫はますます自分を場違いなものに感じた。
今自分が嘗てのあの出来事の予期しなかった続きの上にいるのだということを自分にいい聞かせるために、彼はその場に来て七年前の事件を詳しく思い出そうとして見た。
彼が踏み込んで行く、それをとどめようと年配の女中が立ち|塞《ふさ》がる。彼は叫んでそれを脇へ突き飛ばす。女中は嘘のように軽く唐紙を破って倒れた。その瞬間彼はすでに激しく予感していたのだ。自分が今突然目|醒《ざ》め、背丈が倍に伸びたように一人前の大人になってしまったことを。彼が叫び、咎め、壊そうとしていたものは|他《ほか》でもなく、彼自身を覆うていた|雛《ひよこ》の殻だった。
彼を止めようとした年配の女中が眼鏡をかけてい、突いたはずみに外れて飛んだ彼女の眼鏡のつるを踏んで折ってしまったことまで、彼ははっきり覚えている。あの出来事の微細な部分までを彼は忘れずにいた。いや、時が経つにつれ、出来事に付随したいろいろなもの事、父親や母親、|姉弟《きょうだい》たちのいい分を全部忘れてそぎ落していくにつれ、逆にあの出来事だけは、全く独立した、何か特殊な光彩を施した絵のように蘇って来た。ある意味でそれは彼自身の誕生の光景だったかも知れない。その後一人きりの生活の中で何かが起った折々、彼はあの時の光景を思い出した。そして、それは彼が抱きかけた後悔や、怖れや、あるいは弱気な期待を総て拭い去ってくれた。それは手術で蘇り、その後時をかけて|恢《かい》|復《ふく》し切った患者に思い出される、麻酔から|覚《かく》|醒《せい》して最初に目にした世界の、今に残る鮮やかな残像だった。
廊下を進んで行く彼の後ろから「奥さん」と女中が叫んでいた。その声が、まぎれもなく自分の母親を呼んでいるのを彼は悟り直した。その瞬間、友人がしていた|噂《うわさ》の噂から、彼が疑い出し、人知れず確かめ、それでもなお信じまいとしていた事柄が、今目の前に間違いのない事実としてあるのを彼は悟ったのだ。それは夢と知りながら、なお確かな存在感で自分にのしかかって来る、夢の中での恐ろしい出来事のように、それはその瞬間になってみれば思いがけずしかし確かに目の前にあった。
後ろで叫ぶ女中の声を聞いた一瞬、彼は引き返そうと思った。そう思ったことを彼は覚えている。しかし彼の内の何かが彼を前に駆った。前に向って足を踏み出しながら、その瞬間に彼は引き裂かれていたのだ。今思えば、彼を駆ったものは、彼が新しく|捉《とら》えた彼自身だったかも知れぬ。あの瞬間、引き抜きで変身する役者のように、知らずに彼は前の自分を脱ぎ捨てていたのだ。
離れの部屋には戸口を塞ぐように|屏風《びょうぶ》が立ててあった。彼は手でそれを払った。そしてその向うに二人がいたのだ。
その屏風が治夫にとっての、いわばどんでんの扉だった。いつか行ったことのあるゲイのバーで、彼の連れていた女への面当てに、ゲイボーイの一人が彼を口説いて、彼らの世界を説明していっていた。それはいってみればどんでん返しの扉一枚向うの世界のようなものだそうで、思い切ってその扉を引っくり|覆《かえ》して|潜《くぐ》って見ると、その向うに全く違う、しかし、こちらと同じ大きさの世界が拡がっているのだそうな。そちらに比べればこっちは人が少ないから、もっとのびのびしていられるわと、その男の子はいった。
あの時払って倒した屏風の向う側に、彼の思っても見なかった、全く違う、一人切りの、しかしもっと自由な世界があったことにはなる。
あの扉の向うで彼が改めて目にしたものは、今でもはっきりと記憶に残っている。それはかつて夢に見たどんなに恐ろしい出来事よりも、彼の知覚を|痺《しび》れて埋没させ、彼を捉えてしまった。どれほどの長さだったろう、彼は払った屏風から一歩踏み込んだところで、ものもいえず突っ立ったきりでいた。その一瞬の間に、彼にとっての転身の千年が一挙に過ぎて行ったに違いない。痺れた知覚の内にも|戦《せん》|慄《りつ》があった。自分が間違いなく禁断を破ったことを彼は悟っていた。かくして夢はとうとう現実になった。部屋の中にいた彼女たち二人にとって治夫は刺客にも見えたろう。現われたものが治夫の父親であり、彼女の夫ならば二人はもっと慌てなかったに違いない。治夫は彼らにとって、二人が犯していた事柄にとってあくまで部外の筈の人間だったろう。不倫は、つまり父親と母親とその男、三人だけの小さな世界の内での事柄であった筈だったから。
だから、本当に犯した者は治夫だったということになる。治夫がそこで目にしたものは、彼が咎め、取り戻そうとした、多分そのつもりで行ったのだろうが、あの屏風を倒した瞬間から、彼は自分がその時そこに何をしに行ったかの記憶を失ってしまったが、母親とは全く違う一人の女だった。異形な母親というより、母親の形をした、鮮やかなほど全く違う女だった。それは治夫が初めて官能で眺めとった母親でもあった。彼女は目の前に立ちはだかったものを仰ぎながら、自らうつ伏せに抱きしめていたものをなお離さずにいた。逆さに|仰《あお》|向《む》いた男の顔は、はだけた彼女の胸元に|翳《かげ》って、定かに見えなかった。彼女の|露《あらわ》になった胸は白く、そして思いがけず豊かに見えた。解かれた長い髪が片方の肩から胸元にかかっていた。部屋にたちこめたものも彼が今まで知らなかった母親の匂いだった。めくるめく|瞳《ひとみ》を凝らしながら治夫は避けがたく、母親の顔をしたその女の一つ一つを見て確かめた。彼女はゆっくりと身を起し、「治夫」、と呑み込むように彼の名を呼んだ。見知らぬ人間に、名を呼ばれたように、彼は意外な思いで立ちつくしていた。すでにそこにあった出来事のために寝乱れた寝具、激しく|皺《しわ》寄り、部分部分たくれた敷布や包布の下から|氾《あふ》れはみ出し、|臓《ぞう》|腑《ふ》のように覗いた極彩の寝具の肌。片隅に寄せられた机の上や、枕元に散らばった見おぼえある母親の小間物と、その中に点在する覚えのない男の持ち物。彼女は着ていた着物を|衣《い》|裄《こう》にかけ、男はぬいだ上着を床の脇に投げ出していた。見るものの|全《すべ》てがつい今しがたまでここにあった出来事を露に彼に向って明かしていた。後の何かの|証《あか》しに貯えるように、治夫は部屋中のものを一つ一つ見廻し、確かめようとしたが出来なかった。それらのものは彼の視界に氾れ、彼の体の内に氾れ、彼を痺れさせ|苛《さいな》んだ。それらの全ては彼にとって、その瞬間までいかに想いこそすれ、全く未知なるものでしかなかった。もし彼女があの時治夫の名を叫ばなければ、或いは彼は自分を|闖入《ちんにゅう》者として恥じ、|踵《きびす》を返したかも知れない。
だが彼女は息子の名を呼び、寝乱れた胸元を隠そうとしたがそれはかえって彼女の手の下で氾れ、彼女はなお慌てた。
それはいかにもこの種の出来事らしい身も心も取り乱した姿態だった。それが彼を引き戻したのだ。彼は二人に向って踏み込んだ。それが何歩であったかは覚えていない。彼女は彼に何かいおうとしていたが、言葉にならなかった。そして何のためにか「お母さん」彼はいったのだ。彼が彼女をそう呼んだ最後だった。そのひと言で男はようやく出来事の意味を悟った。一瞬測るように男は二人を見比べた。今まで抱き合っていた女と闖入者との間柄から、男は治夫に、彼女と比べて自分への寛容を期待したように、彼に向って|微笑《わ ら》おうとした。或いは彼を説得しようとしたのかも知れない。そして男は、自分の身の|楯《たて》に彼女を使おうとするように、彼女に向って促すようにぎこちなく微笑しかけた。
男はこの出来事の中で全く目障りで余計なものだった。今彼女に向って何かを伝えようとしている自分との間に介在する男に治夫はそのことだけで憤った。二人の間からこの見知らぬ他人を取り除くために、治夫は手近に落ちていたコートハンガーを手にし、振り上げ、叫んだ。
男が何かを叫び返したと思った。しかしそうではなかった。男は|呆《あ》っ|気《け》ないほどおびえていた。突然の出来事に、それまでむしろ紅潮していた男の顔が目の前で嘘のように白くなるのを治夫は見下ろしていた。木製のハンガーをかざしながら彼は生れて初めて手に凶器の重さを感じていた。恐怖に形相を変えた男は坐ったまま空を|掻《か》くようにして手を伸べ、傍らにいる彼女を捉えようとした。そのおぞましさに治夫は叫びながら、手にしたものを男に向って叩きつけたのだ。力が入り過ぎ、ハンガーは男の|膝《ひざ》|元《もと》の畳に当って跳ね上がり、縁側の障子を破った。治夫を指して何か咎めて叫びながら男は布団にもつれて立ち上がれず、|這《は》ったままで逃れた。下着をつけず、寝乱れたままの男の姿は滑稽で醜かった。逃れながら男は彼女を捉えてすがろうとした。治夫は母親のためにそれを防ごうとした。その一瞬治夫は確かに母親と男を分ち、少なくとも彼女の側にあった。がしかし彼女が身をもってその男を|庇《かば》おうとしたのだ。彼の名を叫び、彼を咎め、彼女は身を投げるように両手を開いて男から治夫を|遮《さえぎ》った。今までこの部屋にあった出来事より、一層、その瞬間の出来事の意味がわからなかった。
「治夫さん」
他人のように彼女は彼の名を呼んだ。
「あんた」
同じように彼もいった。いいながら自分が何もかも間違っていたのを彼は悟った。
目の前にいるのは違う女だった。目の前の彼女が持っている母親の顔は、彼女自身にとって何の|関《かか》わりもないものだった。目を見張り息を呑んで、立ち尽し、彼はそれを確かに悟ったのだ。
動揺につけ込むように、彼女は挙げた手をなお高くかざして、開いた。帯なしでまとい、手でかき合せただけの浴衣が正面からはだけ、ほとんど素裸に近い姿で彼女は膝つき立っていた。
それは彼が信じていた母親とも、余りにかけ離れた一人の女だった。彼はまた茫然と立っていた。
その時彼が感じたものが|躊躇《ちゅうちょ》であり、|羞恥《しゅうち》であったとするなら、それは後姿が似てい、勢いよく声をかけた相手が振り返られて見ると見も知らぬ他人であったばつの悪さに似ていたかも知れない。要するに彼は幼な過ぎ、目にしたものから官能を感じ取る余裕も能力もありはしなかったのだ。後に時がたって、彼自身男としての経験を経て、あの出来事をただ一つの光景として思い出せるようになって、ようやく治夫は自分の官能の鏡に照らして、あの時目にしたものを納得し、みずからに|収《しま》い直すことが出来た。それはある意味で、彼女を母親という|衣裳《いしょう》を|剥《は》いだ一人の当り前の女として、あの出来事の中で許せたということかも知れない。彼女を許せた時、彼に初めて全て人間の関わり合いが透けて見えたともいえる。それで初めて彼は一人切りで立つことが出来たのだ。
だがあの時の彼にとって、眼にしたものは余りに|直截《ちょくせつ》に過ぎた。
たじろいだ彼へ彼女が重ねて何かいおうとした時、自分をおびやかそうとするものへの恐怖にかられて、彼は闇雲に突き進んだ。体が触れる直前に彼女は何か叫んだ。その声に彼は聞き覚えがあった。昔子供のころ、度が過ぎた|悪戯《いたずら》に悲鳴に近い怒声で彼を叱った母親の声だった。その声に励まされ、治夫は母親に突き当った。仰向けに倒れ一層露になったものを踏みにじるように、足元に拡がったものを踏まえ、更に起き上がろうとする彼女の顔を|蹴《け》ったのだ。
男は何か叫んだ。その男へ彼女はとりすがろうとした。それを遮って彼はもう一度彼女を突き倒した。その隙に男は部屋から逃れ出た。
それを確かめた時治夫は手を置いた。
髪を乱し、切れた口と鼻から血を流しながら彼女は思い直したようにゆっくり彼を見返し体を起した。傷を確かめるように唇をすぼめ、鼻から流れたものに気づいて指で拭うと、周りを見廻し、見つけた枕元の絞り手拭で汚れた手を拭い、うつむいたまま乱れた浴衣を同じゆっくりした動作で整えると、|帯《おび》|紐《ひも》で閉じた。彼がそこにいることを無視したように、彼女の動作はわざとらしくもなく、落着いていた。し終えて彼を見直す前に、彼女はもう一度濡れた手拭で押すようにして|染《にじ》んだ鼻血を拭き取った。
見守りながら、その時だけ治夫は禁断を犯した報いが、今間違いなく現われたことにおびえていた。しかし同時に自分がもう引き返せないことを悟ってもいた。
やがて彼女は治夫に振り返った。それはまがいなく他人の顔だった。この相手を自分が母親と信じていたことが不自然だったと悟れたほど、彼女ははっきりと違う人間だった。
「わかったわ、もうお帰りなさい」
見知らぬ他人の|労《いたわ》りを感じさせる声で彼女はいった。彼は頷いて部屋を出た。
あの出来事はあれで終った筈だった。終らなければ、彼にとってその後の七年間はなかったことになってしまう。
しかし彼女は依然その続きの上にいて、今あの出来事について彼にだけは詫びたいという。それを向うの勝手気ままという前に、彼はただ当惑して相手を見返していた。
あの出来事の中で転身した彼女は、彼の知らぬ間にまた転身してしまっている。あの出来事の中で彼が目にした彼女の形骸、というより、それはむしろあの事件の前の母親に通うものなのかも知れないが、しかし、彼が嘗て望んだ母親は決してこんなものではなかった。嘗て彼女は彼が信じていたものと余りに違い、そして今もまた、余りに違っていた。違い過ぎたことで、まるであの出来事がありもしなかったようにさえ思える。
これは一体俺にとって何だというのだろう、目の前の母親を眺め直しながら彼は思った。今、眼の前で殊勝にうつ向いている女は、あの出来事の時以上に、彼にとって関わり薄いというより、関わりないものにしか思えなかった。
それっきり沈黙のままでいる母子を取りなすように、
「ああやって、お母さんも君には済まない、君だけには詫びたいといっていられるんだ。君も今までいろいろ辛くはあったろうが、ここはやっぱり血の|繋《つな》がった二人の仲を君も考え直して」
市原はいった。
「|一寸《ちょっと》待ってください、その、僕に詫びるというのは一体何なんです」
「それは君、君だって気にすればこそあんなことを」
市原は母親へ取り次ぐように頷いて見せた。
「僕が気にし、あなたが済まなく思って詫びたいといわれるのは、あなたの姦通のことですか」
「姦通」
母親は首を締められたような声を挙げた。おびえたように見返す彼女の表情の内にあの出来事の中で見た女の面影がちらとあった。
「そんないい方をするやつがあるか、誰にでも間違いはある。お母さんの間違いを君はいつまでも咎めたいのか」
彼女と同じようにおびえた顔と高い声で市原はいった。
「いや、あなた方のほうが間違っているんです。第一どうしてあのことが本当に間違いなのですか。間違いだったかどうかは、それをやった自分が今どんな身の上になっているかで決ることなのですか、そう簡単に決められはしませんよ。誰にもわからんことかも知れない。或いは僕らが親子の仲なんてものを一生懸命大切にしたことの方が間違いだったのかも知れない」
「何をいうんだ」
市原を無視し、治夫は彼女に向き直り、患者を|諭《さと》すようにいった。
「いいですか、僕はそれをあなたから教えられたんだ。皮肉でいっているんじゃない、考えてみりゃ一番大事なことを教えられたんだ。感謝してもいいくらいです。それをわかってください」
「私があなたに何を」
おろおろした声で彼女は尋ねた。
「人間なんてお互いにそんなものだということですよ。たとい親子でも、しかしそれが正しいんだ。当り前のことなんだ。ただ皆、一番大事なそのことを馴れ合いで|騙《だま》し合っているんだ。あなたはその嘘をぶっ壊して教えてくれたんです」
「そんな残酷ないい方ってあるか」
市原の声に救われたように、彼女はまたしゃくりあげて泣き出した。
「残酷。しかし僕はそう教わったんだ。あの頃まだ少し年は若過ぎたけどね。つまりあれが免許皆伝じゃなかったのですか。その悟りのお蔭で僕はどう曲りもせず、今までこうやってこられたんです」
「君は僕らに説教する気なのか」
「或いはね。とにかく僕にはその資格がある」
「資格」
「ええ、僕はこの中で一番醒めた人間のつもりです。そして彼女、お母さん、あなたもそうだと僕は思っていましたがね。それが今になって違うというのじゃ、お互いに立つ瀬がない。僕はいいが、あなた御自身にお気の毒ということになってしまうな」
彼女はただ体を引きつらせて泣いていた。その肩に手をかけながら、市原の母親は咎めるとも、|称讃《しょうさん》するともつかぬ顔で治夫を眺めていた。いずれにしろ彼女は年の功のせいか、自分の息子と治夫とのやり取りを聞きながら、遅まきの処女体験に、生れて初めての何かについて知れたような様子だった。
「君、君の立場を一歩出て、お母さんの身になって考えて上げたまえ、何といっても君はまだ若いんだ」
「だから、その、立場を一歩出ることが意味ないということを教わったというのですよ。人間は誰の身になってやることも出来やしません。自分以外はね。皆ただその振りをしているだけです。立場を出ないよりも、そのことの方が実は罪は重いんですよ」
どうしていいのかわからぬように市原は二人を見比べた上で、改めて彼を睨んで見せたが、実は治夫より泣いている彼女の方がより不快そうだった。
「僕はね、お母さん、後々になってやっとあなたのことを理解出来たんです。許す、許さないなんてことの前に、あれでよかったんじゃないか、あれが当り前だったのだって」
しかし、彼女はただ一層激しく泣いて見せた。
「だから、もしどこかで行き会っても、当り前に声をかけたと思います。そのつもりでいたんだ。ただ泣いたり、謝られたりするのは困るんだな。それじゃ話が違うということですよ」
「君」
市原は遮っては見たが、その後どう言葉を継いでいいかわからず、自分の母親を振り返った。
「治夫さんもあなたも、こうして会ったんだから、互いに思ったままをいった方がいいのよ。でもあなたはやっぱり謝るしかないわ。悪かったのはあなたなんだから」
又|従妹《いとこ》の肩に手をかけながら彼女はいった。
「そうじゃない、悪かったなんてことじゃないんです。あなたもなんで今になって、脇から人がそういうからといって、自分もそんなことをいい出したりするんです」
「でも、やっぱり私が悪かったの」
子供が追い詰められ、一挙に|懺《ざん》|悔《げ》するように彼女は泣いて叫んだ。
「じゃ、あなたは今になって後悔しているんですか」
突き放したつもりがその言葉にすがるように彼女は強く頷いて見せた。
「じゃ、何で後悔したんです」
「お母さんだっていろいろ苦しんだのよ、一人で疲れて、それをわかってあげてちょうだい」
市原の母親がいった。男に捨てられたから後悔したのじゃないか、いおうとしたが彼は止めた。そう|質《ただ》せば、結局彼女は頷いたに違いない。彼女は今なら何をいわれても、ただ泣いて頷くだろう。彼が一人になることで得たものを彼女は逆に|喪《な》くしてしまったようだ。
「一人でいることがそんなにこわいんですか」
彼女は手で顔を覆ったまま、待っていたようにまた頷いた。
「お母さんは女なのよ」
市原の母親がいったその言葉は、市原のどんな取りなしよりも何とはなし力があった。彼の方は男だし、そういわれてしまえばそれっきりだった。その言葉を待っていたように、彼女は今まで以上に激しく体を震わせて泣いていた。その様子は今の言葉を借りてこの話し合いに|目《め》|処《ど》をつけてしまおうというように見えた。仕組まれた、手の内の見えすいた芝居を眺めるように白けた気分で治夫は彼女を眺めていた。
これでは俺のいい分がどこで通るというのだ。一度ではなし、今度で二度も相手は身勝手なルールを俺に押しつけてきたことになる。今になって俺のいい分を、彼女たちは、昔俺が守ろうと努めたルールを持ち出して防ごうとしている。そして今度も俺を押し切ろうというのか。そう思った時、全く身につまされることなく眺めていた目の前の、老いて落ちぶれた女に、彼はうとましさおぞましさ以上に、はっきりと憎しみを感じた。
それは再会した母親に初めて彼が持てた感情らしい感情だった。
要するにこれはペテンじゃないか、彼は思った。あの時、親だとか、家だとかいうものに入れあげてすってんてんになった俺に今度は自分の尻拭いをさせようということだ。
取引する商売人の気分で、彼は坐り直し相手を眺め直した。眺め直して見ると、彼女は泣いていながら、したたかに見えた。今こうやって泣いて見せることだって厚かましいといえば厚かましいのだ。思えばこの相手にさんざん引きずり廻された挙句、結局今またこの虫のいい話し合いに強引に引き据えられているのだ。
「で、一体何を望まれるんです。そのために僕に何をしろと。懺悔なんぞじゃなしに、互いに必要なことだけを話し合いましょう」
改まった口調で治夫はいった。
「他の誰かのために、僕があなたを許したということが必要なら、そういうことにしたっていい。しかし、さっきいったようにそのことは僕自身には関わりない。しかし、そういうことにしてその先何が出来るのです。故郷の父があなたに仕送りをしてくれるのですか」
「そうだ、そのためにも君はお母さんと一緒に住んだ方がいい」
すかさず市原がいったが、
「それはおかしいな。それは僕のためより彼女のためにでしょう、断わっておきますが、僕にはその必要はない。あなたと一緒に住みたくない、というより必要がないんだ。つまりそんなことは考えられない」
「何故」
「何故ですって。そんなことを聞いたらまたさっきの話に戻ってしまいます」
市原は臆したように自分の母親を見やっただけだった。
「しかし、どうやらあなた方には僕が彼女と一緒に住むことが必要のようだ。つまり|故郷《く に》の父はあなたには金を出さない。父の気持はまだそこまでは行っていない。どんなつもりか知らないが、父は僕には仕送りしようという気持になった」
「お父さんだって、君に済まなく思っておられるのだ」
「それはそれでいいでしょう。それも実は僕に関わりないことだが。で、父は僕が母と一緒に住んでくれていた方がいいといった。つまり彼は僕になら金は出す。しかしその金をあなたが使うことまでは咎めない。そうじゃありませんか。だから、僕のための仕送りで暮すためにあなたは僕と一緒に住む必要がある、あなたの方にそれが必要なんだ、違いますか」
彼女はしゃくり上げるのを止め、おびえたように市原を見つめ、市原はひるんだように彼を見返した。
「互いの事情を率直に認め合った方が話は|旨《うま》く行くと思いますがね。僕は別にそれにつけ込もうというんじゃない。今いったことが違っているというならおっしゃってください」
「君の考えを聞こう」
押し切られたように市原はいった。市原は話が急にこんな具合になったことを、正直なところ憂えていいのか、喜んでいいのか、測りかねて見えた。
「だから、僕があなたを許したということにし、そしてあなたと一緒に住んでいるということにしたらいい。向うもわざわざその証拠まで確かめにやって来はしないでしょう。あなた方のどなたかが父と会われてそれを請け合って下さればいい。父が幾ら送ってくれるつもりか知りませんが、そうやってその内からあなたが必要なだけのものをお使いなさい。あなたが僕に許しを乞うて、一緒に住んでもいいというのは結局そのためのことでしょ。しかし、父には僕にあなたを許せという権利も、一緒に住めという資格もない。彼はそのことをよく知っていますよ。仮に、あなたが今になって本気で僕と一緒に住みたいといっても、それじゃこっちはこっちで同じように、あなただけじゃなく誰とも一緒に住みたくはない。その必要もない。それを何故と、また問うのはやめておいて下さい。ということです」
三人は黙ったまま顔を見合せた。そして、すぐに彼女だけが|諦《あきら》め、まかせたように膝の上に両手を組み肩を落してうつむいた。その実彼女が誰よりもこの申し出に安心したのが見てとれた。そんな仕草にはこの種の取引に慣れた|姑《こ》|息《そく》さがしみ出して感じられた。腹立たしさから話をむき出しの取引にしてぶつけた後、うつむいて、胸の内で舌を出していかねない相手を眺めながら治夫はさっきに増した|嫌《けん》|悪《お》を感じた。
結局のところ、負けて譲ったのは治夫の方なのだ。彼女はそれを素直に恩恵としてとらず、一度仲介に預け、肩を落して見せながら様子を|窺《うかが》っている。姑息なその芝居で彼女が守ろうとしているものが、今更彼に対しての母親の誇りとでもいうのだろうか。
市原は明らかに不服そうに見えた。ただそれは治夫が申し出たことに対してでなく、仲介の市原からではなしに、彼を差し置いて治夫の方がいきなり恰好な条件を突きつけたことにだった。この際彼ら親子に必要なものは仲介者の|面《メン》|子《ツ》でしかないが、市原より彼の母親の方が少しばかり世知にたけていたようだ。
「わかりました。それじゃ今はまずそういうことにしようじゃないの。治夫さんだって何年振りかに会って、一度にすぐに気持がどうのってものじゃないと思うものね。やっぱりこういうことは少し時間をかけなきゃね」
又従姉にいわれて彼女はいかにも、金銭の問題なんぞより、治夫の気持を取りつけられなかったことの方を悔むように、もう一度肩を落し罪深気に|頷《うなず》いた。
そんな母親を眺めながら治夫は口の中に苦いものを感じ目をそらせた。七年前の出来事の時以上にもっといまわしい、見てはならぬものを見てしまったような気がする。今彼女が見せている、失望と苦痛を装いながらその実満足と安息の擬態は、かつての出来事で彼が見せつけられたもの以上に裏切りだった。彼が口の中に|噛《か》んだ苦いものは、彼が我慢し、一人悟って信じつづけて来たこの七年間にとっての後味の悪さだった。
彼はそう認めまいとし、目の前に見えているものを拒んだ。拒むために彼はそれを、改めて嫌悪し、憎んだ。彼と英子との間に踏み込み、一方的に立ちはだかったあの店の主人を憎んだように、一人でいた彼の扉を勝手に開いてまつわりつこうとしている彼女を治夫は、今はっきりと嫌って憎んだ。譲歩の後、出来ればその気持をはっきりと伝えてやりたい、と彼は思った。
「それじゃそういうことにしよう」
まだもの足りなさそうにいった市原に「あんたら、この女にだまされているんだ」といいたいのをこらえて治夫は頷いた。
「もう遅いから、よかったら今夜は泊っていらっしゃい」
どういうつもりでか市原の母親がいった。その瞬間思わず治夫は彼女の横にいる自分の母親を見、彼女も彼を見た。彼女はその目の中でまだ卑しく何かを当てにして見えた。それを突き放すように、
「いや、帰ります。それより一つだけ訊きますが、お母さん今何をしているんです」
彼女はひるんだように|瞬《まばた》きし、又従姉へ振り返った。多分それを改めて息子に訊かれることは彼女にとって屈辱だったのだろう。
「前の仕事はもう|止《や》めて、新しいお仕事が見つかったのよ」
代りに市原の母親がいった。
「それは住込みですか」
何かわからぬが、そんな種類の仕事のような気がした。
「そういうことになるわね、結局」
市原の母親の口振りは、彼らが治夫が彼女と一緒に住むことを最初から半ば当てにしていなかったようにもとれた。
「僕のほうから連絡することはないと思うけど」
「後のことはまた僕が連絡するが、君はたしか下宿を変えるといっていたね」
市原は余計なことを思い出して尋ねた。
「ええ、近い内に」
「移り先は」
「まだ決めていませんが」
「本当かい。決ったら必ず僕には知らせてくれよ」
それが彼女のための奉仕でもあるように市原は念を押した。答えず、目礼して立ちかける治夫へ、
「治夫さん、この間あなたがお留守の時いらしった方によろしくおっしゃっておいて下さい。とても親切にして頂いたのよ。お友だちなの」
おもねるように市原の母親がいった。
「ええ、故郷での同級生です。こっちで働いているんですが、彼女も何があったのか、学校の途中で故郷を飛び出して行ったんですよ。案外似た人間はいるもんですね」
それをどう受け取っていいかわからぬ顔で彼女を見やると、
「あんな人があなたたちの間で一緒に話し合ってくれるといいのにね」
冗談じゃない、それこそ全く余計な世話というものだ。あの女とこのことと何の関係がある。いいたいのをこらえて治夫は微笑で相手を黙殺して立った。
「じゃ」
目礼し直す治夫へ、
「治夫さん、有りがとう」
彼女は突然畳に手を突いて頭を下げた。その仕草は取ってつけたものにしか感じられず、ただそうやって彼女は今夜の収穫に駄目を押したようにしか見えなかった。
「何かあったら、こちらには御迷惑でしょうが市原さんにおっしゃって下さい。断わっておきますが、もうじき下宿を移りますし、移っても僕のところには来ないでおいてください。いいですね。それを約束してもらえないと、僕はあなたに何もしてあげられないことになる」
彼女はまたおびえた顔でつき添いの二人を見た。その顔は彼が今までいったことを何も理解しなかったずるさというより、理解出来なかった愚かしさにしか見えなかった。張っていた気が急にくじけ、治夫は結局愚かなだけだったようなこの女を、改めてさらに憎んだ。
憎しみは、彼と母親との間に出来た新しい関係ともいえた。明らかに彼女は、彼にとって無関心な相手から、彼を憎しみにまで駆る相手になった。当然なことかも知れぬが、会わずに想像していたよりも、実際に目にした彼女は姑息で、愚かでそれなりに不快でおぞましく、彼にとってはるかに存在感があった。それは彼が予想していた通り|落《らく》|魄《はく》した、しかし同時に全く違った母親だった。落ち切ったことでかえってしたたかな何かを彼女は持っていた。市原親子はそう感じなくとも、彼にはそれがわかった。それは結局、あの出来事によって、一人で家を飛び出した後の彼が|獲《か》ち得たものと同じといえたかも知れない。
その夜部屋に戻って、治夫は夢を見た。いつか立ち会った手術の夢だった。手術の夢は何かの加減で見ることはあった。しかし、その夢の中で彼が眺めていた手術は夢の中では初めてのものだった。女の卵巣によく出来るデルモイドチステだ。この異常|腫《しゅ》|瘍《よう》は異常感のある患部を実際に切り開いて見なくてはわからない。しかし、夢の中で、いつの間にか自分が執刀者になって切り開いていきながら、治夫はすでにそうと知っていた。異常に|腫《は》れふくらんだ患部の卵巣を開くと、そこに患者がかつて胎児の頃、患者と一緒に胎内に併合されて生きていた異なる命の|残《ざん》|滓《し》がまだ残っている。患者の肉体の発育が完成し、発育のエネルギーの剰余が出来ると、それが、寄生し残っていた別の生命のために働いて自らの肉体の内でそれを育てようとするのだ。
開腹され、卵巣が取り出し|晒《さら》される。腫れ上がった臓器に最後のメスがたち、患部が切り開かれ、メスがかちりと固い感触で何かに触れる。メスが二つに割った臓器の中に、まっ白い|下《した》|顎《あご》の歯が一並びと、その歯の間に黒々とした髪の毛が一束|収《しま》われてある。
初めてそれを目にしたとき、手術場で治夫は思わず声を挙げた。無気味を通り越し、何とも異形の、|正《まさ》にこの世に在り得べからざるものに見えた。裂かれてぱっくり口を開いた血まみれの卵巣の中から突然現われる純白な歯並びと、黒く長い髪。生命の残滓が何でそんな形をとるのかは誰にもわからない。ある時には子宮とはまったく機能の違った卵巣の中から、全身で発育しかけた小さな胎児の形をした、腫瘍や、腫瘍の形をした胎児などが取り出されることがある。
夢の中で手術しながら、治夫は手にかけた患者の卵巣の中にある黒い髪と白い歯を予期しながら最後のメスを入れていった。しかし、それを切り開いた時彼が手に取る前に髪は一人で|湧《わ》き上がるように臓器から氾れ、その中に歯が並んでいたが、更に彼は思わず目を凝らして見た。患部に氾れた黒い髪と歯ならびに額縁のように囲まれて、中にもう一つ何かの顔があった。手をかけて引き出して見た。取り出されたものは母親の顔だった。その時になって治夫は、今自分が手を下し、切り開いた患者の顔も彼女だったことを思い出した。|目《め》|覆《かく》しをとり除き、見直して見る。手術の始めの時若かった彼女は、患部が開かれた今、取り出された顔と同じように老けてしまっている。取り出された彼女の顔を、血にまみれ、すべる手で彼は懸命に元の部分に押し込んで収おうとするが出来ない。夢の中で彼は宵の口市原の家で味わった口中の苦さをはっきりと思い出していた。
二十日ほどして治夫は下宿を|保《ほう》|谷《や》に移した。他に二つほど同条件のものがあったが、そこに決めたのは近くに塩見母子が住んでいるせいだった。英子は最初自分のアパートから遠くなることで反対したが、彼の理由を聞いて納得した。
「お医者さんて、怖いところも優しいところもあるのね」
二人だけにわかる|符牒《ふちょう》でいって彼女は笑って見せた。
部屋が落着いてからの最初の週末、|退《ひ》けて帰った治夫は、病院のカルテで番地を控えた菊江たちの家をたずねて見た。
彼女たちは一週一度といわれていた病院通いもここのところしていない。カルテの最後の書き込みは一月近く前になっている。施された治療も毎回同じで、症状の変化の書き込みは何もなかった。
菊江の家は難儀の挙句にやっと見つかった。辺りはここ数年来急に開け、街道筋の古い家並のすぐ後ろに新道路が|布《し》け、それに沿って新しい住宅が建ち並び、更にその背後の|沃《よく》|野《や》には緑を払って大きな工場が建ち出している。区画が未整理で、住所の番号は数字が一つ違うととんでもないところまで飛んでしまう。塩見家はそんな変化から辛うじて取り残された武蔵野の面影の|櫟《くぬぎ》や|欅《けやき》の林の蔭にあった。
土地に古い家柄をしのばせる正面の塗り壁の|塀《へい》は、舗装工事から外された穴だらけの|小《こ》|径《みち》の雨天時の泥を浴び、汚れ痛んだままだった。門の扉は壊れたまま取り外されてい、|覗《のぞ》いて見た屋敷内には小高い土蔵と、以前人を使って味噌か醤油でも作っていたらしい、煙突のついた、手工業用の工場らしい古ぼけた一棟が見える。まだ|伐《き》り倒されぬまま背後に林が茂って日を遮り、屋敷内は翳って薄暗く、この陽気なのに家全体はどことなく陰気だった。
表札を確かめて治夫は門をくぐった。庭内の様子は手入れが届いているというより、物がなくなってがらんとしたという感じだ。玄関の横に置かれたままの子供の三輪車で、治夫は包帯姿の少年を思い出した。玄関を開け案内を乞うたが人の気配がなく、戸口を確かめベルを鳴らし、三度四度大きな声で呼んでいる内、後ろに人の気配があった。
振り返ると、何か水仕事をしていたのか、エプロンを外して畳みながら菊江が立っていた。一瞬彼女は治夫に気がつかなかった。病院の名を名乗って、初めてあっと驚いて声を挙げた。そんな菊江に治夫は何となく心外なものを感じた。白衣こそ着ていないが、名乗るまでもなくわかりそうな気がする。が、驚いた後、|何故《な ぜ》かおびえたような目でまじまじ見つめる相手に、
「坊やはいかがです、最近病院の方へ余りおいでになっていないようですが」
隠していたことを|咎《とが》められたように、彼女は肩をすぼめた。
「実はこの近くに引っ越して来たもので、一度伺おうと思っていたものですから」
慌てて礼をいうと中へ招じはしたが、どこかためらうようなものがあった。
座敷に通され、冷やした茶が出たころ、声がし、誰か年上の子供に手を引かれた和彦が庭先に立った。包帯を取ってしまった頭に、大きな白い帽子をかぶっている。
「和彦さん、病院の先生よ、|憶《おぼ》えているでしょう」
声をかけた母親に|無頓着《むとんちゃく》に、和彦はちらとだけ治夫を見直し、逆に連れを促すように裏の方へ歩み去った。和彦は治夫を憶えてはいなかったし、呼ばれた時の様子で彼の聴覚が手術後のままなのがわかった。振り返った治夫に菊江は何もいわず、それが彼女のせいのように目を伏せ、頷いて見せた。
「それでも御元気そうですね」
慰めにならぬことをいった自分に気まずく治夫は沈黙した。そんな彼を窺うように、
「病院にも行かなくてはならぬと思っているのですが、手のないままについ。でもお薬だけは頂いておりますが」
聴覚の復活を願う母子のために病院が与えているものは、他愛のない保健薬でしかなかった。薬の処方一つ見ても、宮地教授が少年の症状をすでに結論が出たものにしていることは|顕《あき》らかだった。教授にすれば、命を救われてそれ以上何を望むのかということだろう。
「後は体に力がついて自然の|治《ち》|癒《ゆ》を待つしかないのでしょうが」
病院に代ってのようないい訳を治夫がした。
「別に何かあって参ったのではないんです、ただその後どうしていらっしゃるかと思いまして」
「有りがとうございます。病院であんなに御親切にしていただきまして」
菊江はもう一度頭を下げたが、何故かそのいい方には、彼らにとって病院でのことはもうすでに終ってしまったような響きがあった。意外な気がし、治夫は焦ったものを感じた。菊江が今、手術後の病院の措置に不信、不満を述べたとしても、彼は何のこだわりもなくそれを聞いただろう。すでに彼女たちが病院にいる間にも、彼はそのことで菊江に肩を持ってやったのだ。彼と菊江母子との間の行き来はあの病院の|枠《わく》を越えたものであった筈だった。しかし、今の彼女の言葉には、その彼をやはり病院の人間としてあの枠の中に押し戻そうとするような気配がある。
「あれから病院にいらしった時、何かで僕を探されたことがありましたか。外出しているときもありますので」
気を廻して彼は|質《ただ》した。
「いいえ、伺わなくてはならないのですが、あの子も元気になりましたものですからつい」
菊江は同じいい訳を繰り返した。それは何故か治夫を不安にさせた。
考えてみれば治夫は今日わざわざ辛い目をしに出かけて来たのだ。菊江の息子の聴覚が戻らないことは治夫自身がよく知っている。菊江もそれを知っている筈だ。しかし、彼女は母親としてそれを諦めようとはしまい。病院では二人を結んだある種の感情があったとしても、それは|所《しょ》|詮《せん》あの枠の中でのものであり、そこを出てしまえば、菊江が満たされない患者の母親であり、治夫は病院側の人間に|他《ほか》ならなかった。母親が最近、いわれた通り病院へ来ていないということも、菊江の病院に対する不信の現われに違いない。それを承知で彼はやって来たのだが彼女にしてみれば病院からやって来た人間は誰でもうとましいものには違いない。|勿《もち》|論《ろん》治夫がここまでやって来たのは、病院の処方した治療を続けるように勧めるためではない。それ以外の理由は彼だけのものであり、それは菊江には黙って通じる筈だった。彼自身にも|上手《う ま》くいい現わすことが出来ない来訪の動機が、ただある種の感情というなら、それがどんなものにしろ、自分の感情を他人に明かすことを、彼は今まで自らに封じて来ていた。それが彼の習慣だった。この場になって彼はそれに気づいた。焦りながら、どうしていいかわからず、彼はただ黙ってすわっていた。
そんな彼を迎えて、彼女もいづらそうに見えた。それを感じてなお彼は不安になった。
もし今言葉が見つかったとしても、一体彼女に何を確かめたらいいのだろうか。病院では互いに確かに感じ合ったあの触れ合いは、ただあの世界の枠の中だけのものなのか。今二人の間をあり来たりの関係に堕さぬために、治夫は出来るだけ病院に関わりある話題を避けようとし、彼女は逆にわざわざたずねて来た治夫のために、息子の聴覚の役にはたたなかった病院の話をしようとして、互いに気まずい思いをしているみたいだった。何か無難な話をしようとしてかえって彼はぎこちなく行き詰った。といって、近所への下宿移転の挨拶だけをするには訪問は唐突過ぎた。結局前と同じように、
「僕に出来ることがあったら、何でもおっしゃってください。納得されるように文献や資料が必要ならいつでもお見せします」
いいはしたが、今更彼女が納得出来るものは何もありはしないことを彼の方がよく知っていた。が、
「有りがとうございます。でも、もう考えないことにいたしました」
菊江は微笑して見せた。それこそが、許されるならば医者が最も与えたい処方に他ならなかった。
治夫の目に菊江の微笑は急にまぶしかった。微笑は諦めというよりもその先にある境地を見出したように、落着いて見えた。そして、彼女がもう考えまいという限り治夫が彼女たちの前に現われるいわれもない筈だった。病院の中で彼がどんな人間だったろうと、彼はこの母子にとって不完全な施術を行なった病院の人間に違いない。しかし、治夫にはこのままこの母子を失えない気がした。それが何故かよくわからぬまま、ともかくも彼は今日ここまでやって来たのだ。
誰かほかに待ち人でもあるのか、彼女は彼を気にしながら、次の間の時計を見上げた。帰るべき時に思われた。これ以上いることが不自然だった。
そして、立ち上がる潮に、彼は結局また子供の病気にかこつけて菊江の気を引くために、病院の人間としての嘘をついた。
「この間調べましたら外国で坊やと似た病症で、一度は何種類かの知覚を失いながら、|奇《き》|蹟《せき》的になおった患者の例がありました。患者を治療した医者も驚くくらいの|恢《かい》|復《ふく》でしたが、結局あの種の病気はまだまだわからぬことが多いのですよ」
なぜか無表情なほど静かな面持ちで彼女は治夫を見返した。おびえも諦めも感じさせぬ子供のように澄んだ目で覗くように菊江は彼を見つめた。その口元にかすかににじむような微笑が浮び、問うというよりも、みずからつぶやくように、
「その方もやはり何かを信じ切ってすがられたのでしょうね」
彼女はいった。
言葉の意味を解しかねながらも、気圧されたように治夫は頷き返した。そして、そんな彼へ彼女は許すような微笑を浮べて見せた。立ち上がった治夫を彼女は引きとめず、もう一度柱の時計を見上げると、何故かほっとした様子で送りに立った。
玄関を出かけたとき和彦が横手から前庭へ現われた。空の虫籠を手にし立ちどまって二人を見守っている。
「病院の先生がお帰りになるのよ、さよならをおっしゃい」
菊江がかけた声に、それを聞きとれたように少年は帽子のまま頷き、
「さようなら」
聴覚の不自由な患者のくせの抑揚のない声だったが、母親に|救《たす》けられたように和彦はいった。その瞬間、母子の間だけに通う交流が確かにあった。治夫はそれを感じ、菊江へ振り返った。先刻と同じ静かな微笑で菊江は頷いた。その目は逆に彼を諭すようにも見えた。少年は前庭に立ったまま、客を送って出る母親を見守っている。その彼の面にもたった今菊江に見たと同じ澄んだ、おだやかなものがあった。
治夫はあの時麻酔を施されて手術室に運び込まれて行った、|蒼《そう》|白《はく》な仮死の少年の顔を思い出した。今、背後の木立ち越しのはだれた西日の下に立っている少年は、あの時の彼から|蘇《よみがえ》ったというよりも、その上に薄く一重まとうか、あるいは一重薄く脱ぎ捨てただけのいたいけな、か弱いものにしか、見えなかった。そして、彼がそれを告げようとするのを静かに諭してとどめるように、母と子は同じ澄んだ目で彼を見つめていた。彼らにこの表情を与えたものが何なのかを彼は考えた。それは或いはただ家庭に戻った母と子の安らぎというだけのことかも知れない。
門を出ようとした時、若い男が勢いよく入ってきた。男が彼女に向って声をかけようとした時、治夫を見た菊江の面に何故かひるんだような影が過ぎた。それを確かめる間もなく、
「どうもありがとうございました」
菊江は新しい来客にかまわず治夫を送り出した。彼女が時計を気にしながら待っていた客がこの男であるのがわかった。
歩き出した治夫の背で、
「どうも遅くなりまして申しわけございません、友田さんのお宅での教習が長びきましたもので」
|几帳面《きちょうめん》に挨拶する男の声が聞えた。
或いは最近かかり出した近くの医者なのだろうかと治夫は思った。それにしては客は手ぶらだった。
この前自分の家で治夫を母親の多津子に会わせた後考え直したのか、或いは自分の母親から何かいわれたのか、そのことを伝える時、市原は今までのような押しつけがましい説教ではなく、多津子に代ってものを頼むように話した。
先日の話し合いについて市原の母親が、治夫がいった通りを|故《く》|郷《に》|元《もと》の父に伝え、父は治夫がその気になったのならと、治夫母子への仕送りを承諾した。そして、来週治夫のすぐ下の弟と、一昨年の暮に嫁いだ姉が上京して治夫と多津子に会うという。治夫の姉の嫁ぎ先が父の仕事の大事な取引き相手で、彼女の夫は在校時代治夫と親しかった友人の|従兄《いとこ》だった。姉の夫はその友人から事情を聞き治夫の身の上についても知っていて、彼に同情し、義父に対しての仕事の上での自分の優位から、一人だけ|放《ほう》り出されている義弟の面倒見を強制したそうな。仕事の上でどんな負い目があったかは知らぬが、父がそれを受け入れたというのが真相らしかった。
「しかし、お父さんにしてみれば、|寧《むし》ろそうやって強いられたことが有りがたかったのじゃないかな。お父さんだってお母さんと同じように、君のことを考えないことはなかったに違いない。こういう風にもつれた出来事は、結局何かまたきっかけで解決するものだからな」
父親の態度の変化に関して市原はまた安直な楽天主義をひけらかした。しかし、そうやって父の態度変更の裏の事情を聞かされ、治夫は未だ会ったこともない義兄の節介に感謝する気にはなれなかった。あの母親を彼の前へもう一度持ち込んだのは、その男ということにもなる。いずれにしろ、いつも思いがけない他人が彼の事情を変えようとする。
「故郷から出てくる二人に何といやいいんです」
「いうだけじゃない、会ってちゃんと納得してもらわなけりゃ、特にお姉さんは見た通りを旦那さんに報告するだろうしな」
「一緒に住んでいることになってるアパートの中まで見せろというのですか。断わって置きますが、僕はこれ以上のことは出来ません」
「いや、それは向う次第だ。そんなことの前に、君が旨く話して相手を納得さしてくれればいいんだ」
|曖《あい》|昧《まい》に市原はいった。
「姉が納得しなけりゃどうするのです」
「そりゃあ君」
市原は当惑したような顔になった。
「余り|依《い》|怙《こ》|地《じ》になるなよ、そりゃ君の気持はわかるよ、何たって君がいちばん、その、正しいんだ」
仕方なく、譲るように市原はいった。
「僕の母もあの夜、後で君のいう通りだっていっていた。だけどな、今度一度でいいんだ。これが初めの終り、これだけ済ませば、君がいっている通りお母さんとの関係も落着く。つまりもうわずらわされずに済む、そう考えて我慢してやって欲しいんだがな」
黙っている治夫に、沈黙を承諾と受け取ったか、逆に市原は頷いて見せた。
「この前仕事を替えるといっていましたが、彼女は今何をしているんです」
「ある更生施設の|賄《まかな》い方をしてもらっている、母が人に頼んでね。君、それまではどこか妙な宿屋の女中さんをしていられたんだよ」
市原は治夫のために口はばかるようないい方をしたが、治夫には大して思いがけぬことには思えなかった。
「仕事の都合でそこに泊ることは多いが、休日には君と一緒にいるということにでもしたらどうだ。彼女もそんな仕事で人に尽したほうが気がまぎれるということで」
故郷の姉と弟が上京してくるという前々日治夫は英子から思いがけぬことを聞かされた。その日の午後、母親が英子の店へ訪ねて行ったという。
「どうして君の店がわかったんだ」
「それがね、この前お部屋を片づけに行った時アパートの路地にお母さんが待っていたのよ。あなたに会いに来たのかと思ったら、そうじゃなしにあすこで私を待っていたの」
「なんで」
「その時にはただこの前のお礼をいわれて、そして、あなたのことをよろしくお願いしますっていったわ。私困っちゃった。どういい訳していいかわかんなくてさ」
「いい訳しなくたっていいじゃないか」
「だって」
睨むように英子は笑って見せた。
「そのときお店の電話を|訊《き》かれたから教えたのよ。そしたら今日電話がかかって来て、大事な頼みがあるというからびっくりしたわ」
「で、何を話したんだ」
「明後日、お姉さんたちと会うんですって。その時のことをどうかよろしく頼むって、私からもあなたにそういってくれって。今度話が駄目になったら、もうどうしていいかわからないっていってたわ。明後日お母さんへの仕送りのことで話をきめるんですって。その時、あなたがうんといってくれなけりゃご破算になるんでしょ」
不快なものが込み上げて来た。
一度会っただけで英子が自分にとって今何であるかを察したのは彼女なりの世知に違いない。その英子にまでもたれて、要するに|稼《かせ》げるものを稼いで安心しようという姑息な底意に腹がたった。
路地の角で、彼には気づかれず、いつ来るかわからぬ英子を張って話を持ちかけるやり口は、ぎりぎり切羽詰った人間というより、妙にもの慣れて見える。自分や英子までが利用されているのがはっきりとわかる。
「あなた、嫌だっていったの」
「いや。とっくにうんといってやったよ」
「お母さん、あなたと一緒に住みたいっていったんですって」
「そんなこともいったのか」
英子は窺うように頷いて見せた。
「住みたいってより、仕送りのために住む必要があるんだ。親父は俺になら金を送るといっている」
「あなた、断わったんですって」
「当り前だろう」
「でも、どうしてよ」
「でもって、それは断わるよ」
「私のせいで」
「馬鹿な」
が、治夫は気づいて英子を見直した。
「あいつ、そういったのか」
「たびたびお邪魔するの申しわけないから、こうして外で会って話すんだって、そういういい方だったけど、だから私困っちゃったのよ。どういい訳していいかわかんなくて」
|姑《しゅうとめ》が嫁をないがしろにする世間並とは逆に、母親が息子の情婦を取り持ち、持ち上げて使おうとしている。いうことは身勝手な親子の人情で持ちかけ、実際のやり口は他人だった。
「もう電話して来ても会わないといってくれ」
「どうして」
「どうしてって、君には関係がない」
「だって、あなたのお母さんじゃないの」
英子の方があっさり相手の|罠《わな》にはまった感じだ。治夫は胸苦しいほど腹がたった。
「ともかく、今度電話して来たら、必ず、俺にいわれたから会えないっていってくれ、じゃないと、今度の話はいつでも俺の方からご破算にしてやるって」
治夫の語気に英子は驚いたように見返したが、
「あなたの気持わかるけど、お母さん困っているんでしょう」
「自業自得だよ」
「そりゃまあそうね」
治夫にいわれ、英子はどうでもいいようにあっさりと頷いた。
姉の恭子は結婚して随分変って見えた。彼女の夫になった男がどんな人間かよく知らぬし、彼が彼女のどこを見込んで結婚したのか、治夫には想像つかない。七年前の彼女はおよそ、男を振り返らせるようなものを何も持っていない女に思えたが、久し振りに会った彼女は、落着いて、女らしく成熟して見える。母親との再会と違って治夫は姉を眺めながら、端的にあれから今日まで過ぎていた時間を感じた。
それが長いか短いかは知らぬが、少なくとも彼ら互いにとっては充分な時間だったようだ。彼女の居ずまいを見ただけで、新しい生活が|旨《うま》く行っているのがわかるような気がした。あの頃やがて持ち上がる出来事を予感していたように、彼女にまでとげとげしたところがあったが、今見る彼女の笑顔は本物に見える。
彼女の夫はどうやらひどく健全で、道徳的で、自分の好ましさを精力的に他人にまで、妻だけでなく不道徳な自分の義父にまで及ぼすほどの人間に違いない。
あの出来事で婚期を遅らせただろう彼女に、ようやく女としての機会がやってきたということで、世の中はなかなか公平にできている、そして、有りがたいことに今度は俺の番か、治夫は思った。
姉の恭子は現われた治夫を確かめるように眺め、笑って見せた。俺はこの通りだがおふくろのほうは大変だぜ、といいたいのをこらえて、
「姉さん、何だかすっかり変ったな」
「そう」
彼女は臆することなくそれを|讃《さん》|辞《じ》にとり、微笑して見せた。
「第一奇麗になったよ」
「有りがとう。これであなたも大人になったという訳ね。でも、安心したわ、あなたは余り変っていないもの」
「俺はあれっきり同じだよ、一人で殻に閉じこもった切りさ」
事情はよく理解しているが、それももう自分が終りにして上げるというように、彼女は自信ありげに微笑し、頷いて見せた。
「お母さんは」
弟の宏夫がぎこちなく|質《ただ》した。大阪の大学に行っている弟は、学校の|徽章《きしょう》のついたバックルをし、上着なしのワイシャツ姿で、七年経ちはしたが、今でもひどく子供っぽく見えた。恭子といると若い母子にも見えそうだ。あのときこの宏夫が訳もなく母親の肩を持って治夫を咎めた。宏夫は総て治夫の誤解に生れた軽はずみがあの事件を造り出したのだともいった。一度だけ治夫が彼と二人で、|全《すべ》ての事情を初めから説明しようとしたが、彼は途中で泣き出して飛び出して行った。その後彼が何をどうしたか、何で出て行く母親にすがらず、父と一緒に残ったのかは知らない。治夫と顔を合わせて七年前の記憶とどんな風に|繋《つな》がるのか、宏夫は最初から、昔一方的に咎めたその兄をおびえているようにも見える。「母親は」と尋ねながら、その顔は彼女が現われることにもおびえて見えた。
「宏夫、お前大阪で一人でいるのか」
「いや、友だちと下宿している」
問われたことの真意を測ろうと努めた顔で彼は治夫を見返した。
「お前、今度のことは自分で望んで来たのか」
どう答えていいか、窺うように宏夫は姉を見た。
「私が誘ったのよ。折角なんだもの。母さんとはともかく、あんたとは仲直りした方がいいわ」
恭子はあっさりいった。
「姉さんがそういうことをいうといろいろにとれるけどな」
「どうとってもいいわよ。あれから七年か、これだけ時が経てば残っているのは形の問題だけよ。もう起っちゃったことは起っちゃったんだから」
「姉さん」
咎めるように宏夫がいった。
「もういいじゃない、来る途中さんざんいい合ったんだから」
「何をいい合ったんだ」
いおうとする宏夫を恭子は母親みたいな素振りで押えつけた。
「じゃ、一つだけ訊くが、お前まだ俺のことを怒っているかね」
笑って訊いた治夫へ、むきになったような顔で宏夫は強く首を横に振って見せた。
「僕だってもう大人だからな」
そういった彼はかえって子供っぽく見えたが、治夫はある種の感動でそれを眺めた。
「いつか二人でよく話しなさいよ、宏夫ちゃんは宏夫ちゃんで悩んだんだからさ」
「だけど、形の問題で片がつくことじゃないよ」
いい返そうとする宏夫へ、
「いいからもう今日は」
恭子は子供を叱るように眉をひそめて見せた。
「それじゃ、宏夫はこのことで形じゃないものにまだ期待しているんだな」
「兄さんはどうなんだ」
「俺か、俺は多分姉さんと同じだな。しかし、それも随分妥協してだよ。この間も市原にいったんだ。とにかく今じゃもう俺には本当に関係ないことなんだって。最初訪ねて来られて、とにかく困っちゃったんだ。どうしていいかわからず、第一、何て呼んでいいのかわからない。今のお前なら、以前の俺みたいに黙って殴るなりするかも知れないが」
「じゃ、今度のことはやっぱり嘘なんだろう」
「何が」
「母さんと一緒に住むってことは」
「本当だよ、原則的にはな。しかし、向うにも勤めがある」
「じゃ、兄さんは許したのか」
「だから、許す許さんなんて問題じゃなくなっているんだ。住めるなら住むってことさ、つまり形だよ、姉さんのいう通り。しかしもともと形でしかないんだよ」
「そうじゃない」
駄々をこねるように宏夫はいった。
「兄さんはあれっきり飛び出して行っちゃったからそういえるんだ、だけど僕らはそうじゃなかった。なまじ残ったために形で済まないものが今でもついて廻るんだ」
「それはお前自身のせいだろう、|尤《もっと》も、あの時お前が幼な過ぎたんだ」
「それが僕の責任かい。あの後僕がどんな思いをしたか知らないだろう」
「知らないさ。お前だって俺のことを知らないよ」
宏夫は黙って唇を|噛《か》んだ。うつ向いたまま目を|瞬《またた》く彼が、今にも泣き出すのではないかと治夫は思った。
「じゃ、俺が必要だったというのか」|喉《のど》まで出かけた言葉を|塞《ふさ》いで治夫は弟を眺め直した。
「形で済むことじゃないんだ」
もう一度宏夫はつぶやいた。
「じゃ、お前はまだ許してないんだな、おふくろも、親父も」
宏夫ははっきり頷いて見せた。
「いいじゃないか、それはそれで。許しても許さなくても、お前はまだ|諦《あきら》めずその形の中にいる。俺は外に出ちまった。だから、形もあったってなくたっていいんだ」
「一人で沢山てことかい」
「そうじゃない、|先《ま》ず俺一人から始めるってことさ。俺にだって好きなやつ、嫌いなやつはいるよ、その繋がりはつまり、間違いなく俺にとっての新しい形だろう」
「そんなこと、今話さなくてもいいでしょう」
恭子はいった。
「今にも、後にも必要ないさ。こいつだけはお前に代数を教えたように教えるわけにいかないからな」
いいながら治夫は試すように宏夫を見つめて見た。彼の体の内に、なんとない期待のようなものがあった。そういって突き放しておいて何を願うかわからぬが、治夫は宏夫を待っていた。が宏夫はさっきと同じように、しかし瞬きはせず、唇を噛んだままうつ向いていた。自分が待ったものが、何であったかわからぬまま、治夫はいい知れぬうとましさで同じように唇を噛んで横を向いた。このうとましさは結局、そんな自分に向ってのものではないのかと治夫は思った。
「僕ら一体誰のためにここで会うんだ」
突然また宏夫がいった。
「皆のためよ」
すかさず恭子はいった。
「皆」
「そうよ、これで八方旨くいくわ」
「八方」
「形ではね」
「形か。いや少なくともあの人のためではある」
「あの人、そんないい方」
「やめろか、市原もよくそう注意するがね、あいつはただのお節介だが、しかし、実際にはそう呼んでやる方が、あの人だって蔭で楽なんじゃないのかね」
宏夫は咎めて、何かいおうとしたが出来ずにいた。
「お前、最近彼女に会ったことがあるのか」
「いや。どんな様子」
「|非《ひ》|道《ど》いよ。こっちまで惨めになる。それだけで勘弁してくれといいたいよ」
「兄さん」
「わかっている。相手は困っている人間だ。しかし、困っているやつは、|他《ほか》にも沢山いる。しかしとにかく、彼女はもと母親だからな。つまりそういう形がある。それを何とかしなくちゃならん。だがね、たまたま裏目が出たんじゃないか、わかっていたことだといやあいえるが、本人は大いに逆のつもりで家をおん出てった。それが大外れに外れた。だからというんじゃ虫が良すぎやしないか。最初俺は我慢したが、この頃また段々腹が立って来たんだ。何しろ、俺という人間がいたんで旨い形になった。これがもし、俺があのことで死んででもいたら、こう都合よくはいかなかったぜ」
「来た」
その時宏夫が小さく叫んだ。彼らのいたホテルのロビーの入口に、ボーイに中を指されている多津子の姿が見えた。彼女は遠目に見ても卑屈なくらいボーイに頭を下げ、その後、薄暗がりを歩く人間のようにうつ向き、足元を探るようにして入ってくる。その姿を宏夫が遠くから見分けたことに治夫はやはり胸を打たれた。近づいて来る七年振りの母親を、目を見はって見つめている弟の横顔を治夫は何故か快いものに感じていた。
うつ向いたままやって来、すぐ目の前にあるものに気づいたように目を上げ、彼女はそれまで考え考えながら、遂にその瞬間までどんな顔を向けていいかわからぬまま来着いてしまったように、|狼《ろう》|狽《ばい》した表情で顔を上げて恭子と宏夫に笑いかけようとしたが、その横に治夫がいることに気づいて、慌ててまた頭を下げた。眺めながら治夫は、下宿の不浄場で踏んで生殺しのまま便器に落して流そうとしながら、流れる水の反流に乗って何度となく浮び上がってくる油虫を眺めるようなおぞましさに駆られた。
「お坐りなさい、お母さん、二人とも久し振りでしょう」
見つめ合っている三人の間を断つように治夫はいった。恭子は咎めるように彼を見返した。
「お母さん」
思わずいう宏夫に多津子は答える前にちらと治夫を|窺《うかが》い、口もとを緊張にこわばらせ、目もとだけで笑おうとしながら、また頭を下げた。三人の再会の挨拶を煙草一本に仕切るように、治夫は横の灰皿に向いながら火をつけた。煙草が半ばもいかぬ内に三人は押し黙った。恭子はただ母親の老け方を驚きながら、非難するような目でぶしつけに眺めている。
宏夫はここまで変った母親をここでどう取り扱ったらいいかわからずにおびえた顔でいた。
煙草を捨て向き直ると、
「お母さん、お話の前に断わっておきますが、我々のことで井沢英子に妙な相談を持ちかけないで下さい、あなたは何か勘違いをしておられるようだが、このことは彼女に何の関係もない。今度ああいうことをされたら、当人もはっきりそういうでしょうが、あなたがこの約束を守れないのなら、今後、いつでも僕からこの話はなかったことにしてもらいます。我々に何をされるのもいいが、他人をわずらわす迷惑だけは|止《や》めて頂きたい」
突然の治夫の語気に多津子よりも恭子と宏夫が驚いて彼を見直した。しかし、彼の言葉を裏づけるように、二人の前で多津子はたちまち肩をすぼめ、うなだれて見せた。
「いいですね」
念を押され、
「はい」
手を突かんばかりに彼女は|頷《うなず》く。治夫は恭子へ振り返って促して見せた。多分これで彼女は持ち前の話を切り出し易くなったに違いない。
「お母さん」
恭子はまず自分の言葉を自分で試すように口を切り、これでいいかと断わるように治夫を見た。
「もう市原の伯母さんからお聞きでしょうけれど、私の主人からそう申し上げて、お父さんはこの話を承知したんです。いろいろなことがあったけど、皆がばらばらになり切っちゃわないでこうやってまた会えたのも、有りがたいことでしょう。お母さんも苦労したでしょうけれど、治夫さんも宏夫ちゃんも私も、みんないろいろ苦労したわ」
多津子は両手を|膝《ひざ》の上に|揃《そろ》え、ひと言ひと言承るようにして聞いていた。
「だけどもう、私だって|他者《よ そ》の家の者になったんだし、治夫さんも、宏夫ちゃんだってやがて卒業し、社会へ出るんでしょう。お父さんは昔からああだったけれど、この頃じゃ少しは落着いたし、そりゃ、あの頃のお母さんの気持はわからないことはないけれど、とにかくもう落着いてくれなきゃ困るのよ。そのために主人や私がお父さんにいってうんといわせたの。お父さんは治夫さんには済まないって、自分の口でそういったわ」
多津子は大きく頷き、うつ向いたまままた治夫に向って頭を下げて見せた。治夫はぞっとしながらやっと、あきらめのようなものを感じた。
突然宏夫がすすり泣き出し、治夫は驚いて見直した。母親の余りの変りようを見て、情けなさに泣き出したのかと思ったが、そうでもないようだ。
「で、治夫さんも承諾してくれたんだし、今突然にそういっても、いろいろ気持のわだかまりもあるでしょうけれど、段々に旨くいくようにして下さいね。私たちだって、出来ればもう一度みんな一緒に住みたいけどね」
全く後ろめたさもなしに恭子は嘘をいい、母親を促すように自分から頷いて見せた。
「とにかくお互いにもう一度努め合うことよね。血の通い合った家族なんだし、それに世間てものだってあるんだから」
恭子の口調は事務的な確信に満ちて、若いながら手広く事業をしているという彼女の夫が、彼女の何を見込んだかが治夫にはやっとわかるような気がした。
治夫へ向き直ると、
「じゃ治夫さん、よろしく頼んだわね。結局何事もあなた次第なんだから」
治夫の前で治夫を立て、含ますものは含ませ、いうべきことをいってしまうと、まだ泣いている宏夫へ、
「宏ちゃん、泣くことないわよ。これで皆旨くいくんだから」
何を考えているのか、宏夫は涙を拭い、唇を噛んだまま黙っている。
「後は時間が解決してくれるわね」
恭子は簡単に宣告した。
母親が来る前彼女がいっていた通り、総て形で片づけ、さばいてしまった恭子のやり口は、治夫には寧ろ快かった。宏夫には多分それが不満でやり切れなかったのだろう。が、治夫は恭子に今まで感じたことのない好感を持った。案外これで彼女は嫁いで行った先で嫁としての、自分の家庭への後ろ暗さを、一応帳簿の上では清算し、夫のための世間体をも整えて、内助の功ということなのかも知れない。ついでに治夫は初めて、こんな姉の亭主である男の想像までしてみた。
「それじゃ、月々の仕送りは、治夫さんのアパートのほうへしてもらうわね」
恭子はいった。
「いや、それは」
治夫は慌てていったが、かぶせるように、
「だって、そうじゃなきゃおかしいでしょう」
形の話が決った後、治夫と多津子の間が実質どうだろうが|頓着《とんちゃく》しないのを明け透けに見せて恭子はいった。
「あんたたちのことなんだから」
もう一度治夫に聞かせるようにいうと、
「面倒でもそうしてね」
「わかったよ」
受けとった後こちらからまた彼女へ送ってやれば済むことだ。毎月金を渡すために会わずには済むだろう、治夫は思った。
「よかったわね、今日こうやって会えて。ね、お母さん。これで安心でしょう、私たちも安心だわ」
家の中での女の座をとっくに母親と代ってしまったように恭子は母親へ駄目を押した。放っておけば、恭子からいい出して、手でもしめかねない。
「さて、これからどうする」
「治夫さん、あなた用事があるんじゃない」
立ち去れと促すように恭子はいい、
「そうなんだ」
すかさず答える彼に、恭子は姉というより保護者として満足したように微笑し、頷いた。
「お母さんはどうなの」
問われ、多津子はどう答えるべきか、伺うように恭子を見直した。
「お仕事大変なんでしょう。でも、そんな仕事があった方が身の張りになるわね」
「はい」というように多津子は頷く。
「私ね、向うを出る前に主人に急にいわれた用事が一つあるの。一軒廻っただけで済まないかもしれないんで」
「いいじゃないか、行けよ。こうなったんだから、またいつでも会えるさ。お互いに家つきの子供じゃないんだから」
こんどは治夫が救いを出した。このまま別れても、この恭子なら向うへ帰って、東京で四人|団《だん》|欒《らん》の食事をとったなどと、間違いない報告をしてくれるだろう。
「そうね」
恭子が宏夫へ振り返って尋ねる前に、
「僕は母さんと話がある」
挑むように宏夫はいった。顔を見合せた治夫と恭子はすぐに母親を見直した。誰よりも彼女が一番当惑して見えた。
「ね、お母さん、いいでしょう」
多津子はどう答えていいか、また伺うように治夫を見、恭子を見た。
「お母さんさえよければそうなさいよ」
うんざりしたような声で恭子はいい、依怙地になったように、
「お母さん、|何処《ど こ》かにいって一緒に御飯食べよう」
宏夫はいった。上着なしでそんな|台詞《せりふ》をいう宏夫は、かえって子供っぽく見えた。
「姉さんたち行ってくれよ、用事があるんだろう」
皮肉にというより、|咎《とが》めて追い立てるように宏夫はいった。
「そうするわ、市原の伯母さんのとこへは私から報告するから、宏夫ちゃん、それにお母さんも、もう何もいっていかなくていいわよ」
きめつけると、治夫を促し恭子は立ち上がった。ロビーの出口で一度後ろを振り返ると、
「宏ちゃんもいつまでも子供で困るわね」
恭子は唇を曲げて見せた。
「いいじゃないか。しかし、あいつはこれからまたおふくろを|吊《つる》し上げる気かも知れないぞ」
「宏夫にいわれてあの人の迷惑そうな顔見た」
治夫は黙って微笑して見せた。|何故《な ぜ》かその一瞬、彼はこの七年間の自分の姿勢が報いられたような気がした。
「ね」なお念を押して恭子はいった。
「そんなもんさ」
「でも、全く驚いたわ。ひどい変りようだわ。どういうつもりだったんだろう」
「つもりはいろいろあったんだろうがな」
「でもあの人が東京にいてくれてよかったわ」
「それが本音だろ」
「あんた、本当に大人になったわよ」
恭子は共犯者の微笑で彼にふり返った。
「結婚は旨くいっているみたいじゃないか、すこぶる」
「そうよ」
何故か恭子は身構えるように治夫を見直した。
「行きましょう」
半ば後ろを振り返りながら恭子は促した。
恭子が自分からいい出した、交通に便利なだけで構えの悪い貧相な、地方の客の多い繁華街裏のホテルの、駅の待合室じみた、薄汚れてだだっ広いロビーの隅の椅子に、うつむき合っている多津子と宏夫の姿は、中世の複製画の群衆の中の人物のように、遠く丸まっちく、汚れて見えた。
玄関脇の電話台まで来ると、財布を取り出しながら、
「それじゃ」
恭子は男のようににやっと笑って見せた。
「あんたには悪いけど、とにかく形だけは旨く繋いでおいて。同情するけどさ、我慢してね」
外には風が吹いてい、ホテルの中よりも心持良かった。どこへ行く当てもなかったが、建物から遠去かるために、ともかく治夫は歩き出した。
「形か」
|反《はん》|芻《すう》するようにつぶやいてみた。そして、たった今別れた姉を思い出し、治夫は一人で微笑した。忘れていたずっと昔の何かの勝負の結果を今知らされ、そのささやかな配当をもらったような気がした。
あの後残った二人がどこへ何をしに行き、宏夫が母親に向ってどんな話をするだろうかを思った。治夫はまた口中に苦いものを感じた。それはたった今もらった勝負の配当が、結局時がたち過ぎてか、何の価値もないような|虚《むな》しさだった。あの場で泣いていた宏夫がまだ諦めず、捨て切れずに持っているものを決してうらやみはしなかったが、それを捨てるにせよ、捨てずにいるにせよ、形だけだろうとなかろうと、自分が今になってなお、こうやって引き廻されていることへの|怪《け》|訝《げん》さに彼はまた改めて腹が立った。
翌々日東京を発って行く二人から治夫の医局へ電話があった。
「もういいっていったんだけど、宏夫がかけるっていうから。とにかく頼んだわよ、もう騒動は御免よ。あなたも大人になったんだから、あの人を利用してやったつもりで、それで本の一冊も余計に買ったらいいのよ」
電話になると恭子はもっといいたいことをいった。代った宏夫は疲れたような声で、
「兄さん、帰ります」
いった後、決心のために間を置いて、
「母さんを頼みます」
あきらめたようにいった。
その声で宏夫が一昨日、あれから母親とどんな話をしたか、想像出来そうな気がした。そのことには触れず、
「どうだ、出て来てよかったか」
「ああ」
どちらにもとれるように宏夫はいった。
「兄さん変ったな」
また突然、そんな感情を込めた、煮つまった声で宏夫はいった。
「変ったさ、変らなきゃもたないよ」
電話の気軽さで治夫はいった。
「兄さん、恋愛でもしろよ。恋愛したことがあるかい」
緊張し、しかし押し殺した声で宏夫はいった。治夫はその声をまともな忠告ととるべきか、それとも形を変えた相手の告白と聞くべきかに迷った。
「好きな女くらいいるさ」
「本当」
ひどく真剣な声で宏夫はいった。相手にそれ以上妙なことをいわせず、
「真っ直ぐ大阪へ帰るのか」
「ああ」
|曖《あい》|昧《まい》にしか答えず、電話はまた恭子に代り、二人のやりとりを側で聞いていてあきあきしたように、
「それじゃ」
いっただけで恭子はあっさりと電話を切った。
「何をいってやがる」受話器を置いた後治夫は口に出していった。
親身なつもりでの彼の忠告。何の忠告かは知らぬが、結局二人は母親を彼に押しつけて去って行ったのだ。そしてまた治夫と母親との二人が残った。治夫は恭子も、宏夫も、市原母子も入れず、一つ部屋で二人だけで彼女と向い合っている自分を想像した。何か手帳にこまごま書き込んだ控えを見せ、仕送りの中からもう少し自分の取り分をもらえまいかと自分に頼み込む母親を想像して見た。その時彼女がどんな化粧で、どんな着物を着、どんな顔で、どんな声を出し、どのように笑って見せるだろうか。
憎しみでも|嫌《けん》|悪《お》でも、もちろん愛着、執着でもなく、ただ彼が選ぶ前から勝手に会った形を笠に、何よりもしつこく自分にまつわりついて来るもの、それについて思うだけでおぞましさにかぶせ怒りが込み上げて来た。あの女がもし死んでいたならと、初めて本気で彼は思った。
東京郊外の武蔵野は今では|瀕《ひん》|死《し》の床の中にある。|嘗《かつ》ての豊かで広大だった自然は、時かけて|執《しつ》|拗《よう》に|蝕《むしば》む人間たちの精力に、無惨に形を変え、大きな|櫟《くぬぎ》や|欅《けやき》の林は切り株も残さず大工場や、学校の敷地となり、林に換えて構内には余り熱心に手をかける者もいないまま、発育の悪い芝生が敷かれているか、|埃《ほこり》っぽい運動場に変り果てた。嘗ての|沃《よく》|野《や》を今覆っているものが文明だとしても、天上から眺めればそれは地上の|瘡《かさ》にしか見えぬに違いない。それでもところどころ、洪水の泥水に漬かりきらずに残った|洲《す》のように、昔の自然の面影を忍ばせる部分がありはしたが、それとて雨あがりでもない限り、もはや自然の遺影を感じさせる色も|艶《つや》もありはしない。
蝕まれ、切り裂かれ、ずたずたにされたのは自然だけではなく、辺りの人間の暮し向きも、その歴史、というのは|大《おお》|袈《げ》|裟《さ》にしても、その習慣、形もおよそ違えてしまった。都心に見られる|混《こん》|淆《こう》、混乱はここにも持ち込まれている。辺りの変化が都心に比べ急だったために、整理や調整が追いつかず、あちこちに不思議としかいいようのない併存が見られた。
早い話が旧街道の補修で間に合わず、そのすぐうしろに貫通されたバイパスがあり、バイパスであるべき道路の脇に、急増する人口をしまう新しい家並が出来、その人間たちのための仕事場が建ち並んでしまった。旧道とバイパスが接近した辺りでは、旧道に戸口を開いた|藁《わら》屋根の、同じ棟にバイパス側にはトタン張りの新屋が継ぎ足された店舗が何軒も見える。辺りを襲った混乱に巻き込まれ、都心ならば山手と下町に分れるような連中が道路を距てるだけで同居し、この国全体を覆っている文明の混乱を、以前の農家の前庭を改造したガソリンスタンドで、自家用車にガソリンを入れる中級程度の勤め人の細君と、最近では|鍬《くわ》の代りにガソリンシューターをかざす農家の次男坊が表象している。
この歴史的な急激な混淆を|証《あか》すように、|侵蝕《しんしょく》から取り残された、スタンドと農家の|母《おも》|家《や》の間に、古く大きな欅が埃にまみれて立っている。何かが衰退し何かが起ろうとしている機運が感じられてあるといえばいえるが、通じたとたん交通量が増し、たちまち定期的に渋滞するバイパスに立ってみると、この混乱や併存が|所《しょ》|詮《せん》一時のものでしかなく、やがてもうすぐ、もっと徹底した何かが辺りにやってくるような気配があった。
となると、人間はこの先どこまで逃げていったらいいのか、想像がつかない。それでも未だ夕方のラッシュが過ぎれば、都心にはない田園的な平穏さの断片のようなものが窺われはした。
治夫が引っ越して来たアパートは旧道に近い郊外線の駅を降り、旧道を横切り、さらにバイパスを渡って、まだ開拓の手から残されている小広い農地に沿っていった、これは戦前からある、最近では|寧《むし》ろ他の施設に比べて古び、見劣りしてきた旧兵器工場の広い構内にかかる手前にあった。果樹が植えられた農地と大工場の間の|産土《うぶすな》の社には、神威にかけて守り抜かれた境内の木立がある。木立の持主の百姓が、流行に応じて神社に続いた自分の敷地にアパートを建て、その一室を治夫が借りた。治夫が下見に行った時すでに一室しか空いておらず、それもすでに先口があったが、彼が病院に勤める医者と聞いて、持主の百姓はその場で前者を差し置いて承諾した。どうやら持主には持主なりの所存があったようだ。
いずれにしても治夫の新居の辺りは、侵蝕に負けて奇妙な都会になりかけた周囲の中では、まだしも田園らしきものの面影を残していた。
辺りを捜すと、点と点を拾って線に繋げていくように、今までいた下宿では出来なかった、人や、少なくとも車には、出会わずにすむ散歩が出来る。転居の余得で、治夫は休日には暇つぶしにそんな散歩に出かけ、|寛《くつろ》ぐことが出来た。
そんな自分を案外に思ったが、
「それは、お母さんのことが一段落したから、気持に余裕が出来たのよ。あなた、やっぱりずっと前から心のどこかでお母さんのこと気にしてたのよ」
英子はいった。
いい返そうとしたが、止めておいた。止めることが出来たというのは、母親に関して、彼自身、あの決着で一安心しているということにもなりそうだ。
いい渡した通り、母親はもうこのアパートにまではやって来ず、故郷へ帰った姉の差配で、父からの仕送りは定期に届き、それを治夫の手元で分けて、彼女の分を市原が手渡してくれている。お蔭で治夫の生計も前よりずっと楽にはなった。それに、母の一件が自分の口利きで一応落着したことに、市原がどれだけ満足しているかは知らぬが、治夫に対する保護者意識がますます出来上がったようで、自分の研究の手の内を明かす資料翻訳の仕事も、治夫の保護という気分でか今まで以上に持ち込んで来る。
しかし英子にそういわれても、治夫は自分の気持に特に余裕が出来たとは思わない。逆に、再会した母親にまたわずらわされたことで、嘗てとは違ったおぞましさが心の底に残ってあった。決着といっても、それはあくまで向うからの一方的な決着でしかない。
嘗て、あの出来事で何もかもが終ったと思ったが、今度は、またいつか何かでこんなことが起るのではないか、という不快な予感と、避けようとしたが、自分が結局、彼女に都合のいい射程に|掴《つか》まってしまったという腹だたしさがあった。
同じ顔をした全く違った二人の人間から、七年を隔てて、違った形の被害を受けたような気がする。いって見れば、今度の出来事は、七年前の事件の後、一人切りになって以来感じつづけて来た、自分の周囲に対するうとましさの、勘定書のようなものかも知れない。
が、あの店の主人を英子と一緒に殺して除くことで、彼は今までしなかった、他人に対する自分の意志をとげることが出来たし、今までの女たちと違った|関《かか》わりを英子との間に持つことが出来たと思ったのだが。
しかし、そんな彼を|嘲笑《わ ら》うように、何かが彼に向って母親を|蘇《よみがえ》らせた。母親の再来、という形で、彼がとり戻しかけたものに、何かが水をぶっかけた。
あの男を除き、英子を得た後、治夫はまた、母親という他人にわずらわされ、とり戻しかけたと思ったものについて迷いそうな気がする。同じ他人である、母親と英子が自分にとってはそれぞれ全く違う人間だという証しなど、どこにもないのだ。母親ですらこうなのだから、他人は結局他人でしかない、のではないか。彼は段々、自分が前よりもひどい目にあったような気がして来た。それを誰に質し、確かめる|術《すべ》もないが。或いはその内に、英子までが母親と同じようにわずらわしい相手になるのではないか、そんな気さえした。
彼がそういうと、英子は声をたてて笑った。
「私とお母さんと、そりゃ違うわよ」
「しかし、どう違う」
「だってさ」
英子は|悪戯《いたずら》っぽく笑って見せた。
「なんだよ」
「あなたは私と一緒にすることがあるでしょ」
「その代り、あの女は俺を生んだんだぜ」
何が|可笑《お か》しいのか、彼女はまた笑った。
「結局、一人で暮してるとそうなるのね。それが、一人でいることの、いいことでもあるし、悪いことでもあるのよ」
「どういうことだ」
「要するに人づき合いが悪くなるのよ」
簡単に英子はいった。
「なるほど。じゃ、君はどっちがいいんだ。一人でいるのと、そうじゃないのと」
「そりゃ一人の方がいいわ。私、もう馴れたもの」
「ただ馴れたからか」
「初めから自分でその気になったのよ。あなただってでしょう。いい意味の気まま、我がままがしたいからよ」
「いい意味のか。いいも悪いも、本当はこれしかないんだがな」
「とにかく、一人の方が気が楽よ」
しかけていた片づけものの手を置いてふり返ると、
「お互いに一人じゃなきゃ、こんなに気ままに会えないし、第一、あのマスターのことだって出来やしないわ」
治夫の反応を封じるように、
「ああしなかったら、私たち今頃どうなってたと思う」
悪戯っぽく英子は|微笑《わ ら》って見せた。
「別に。ああしなくたってすんだことだ。例えば、君があの店を止めるとかさ」
英子は坐り直し、|覗《のぞ》くように彼を見返した。
「しかし俺たちはやったな」
畳の上で腹|這《ば》いになりながら治夫はいった。いった後、彼は胸の中でもう一度、その言葉を反芻して見た。それは何故かとても確かな感触の、心強い言葉に感じられた。
しかしまた、最近のことでありながら、七年前の母親のあの出来事よりももっと以前のことのような気がした。
「懐かしいな、なんだか」
「懐かしい」
「そうさ、ああやって、今の俺たちが出来上がったんだからな」
「そうね」
英子は|尚《なお》、窺うように彼を見つめながら頷いた。
「我々だから、やれたんだろう」
「そうね」
あやすような微笑で英子はもう一度頷いた。
「とにかく、懐かしいよ。本当は、もっともっと世の中には、ああいうことが要るんだよな」
治夫に背を向け、英子はしかけていた仕事を始め出した。
あのことを先にいい出したのは、どっちだったろうか、治夫は|一寸《ちょっと》の間思い返して見た。
「そういえば、あの時の薬どうした」
「捨てたわよ」
ふり返り、びっくりしたように|瞳《ひとみ》を凝らしながら英子はいった。
「前にもそういったでしょ」
「そうだったかな」
あの時治夫の眼の前で、彼女はペディキュアの消毒液のボールにまで薬を入れ、あの男は卒倒し、彼がやって来ぬ医者に代って男を診察した。あの男はもうあの時に死相を浮べていた。控室での騒ぎにだけ、英子は姿は見せなかったが、あの男を看取りながら、治夫は、今人のいないところで彼女はあのボールに入れた薬を捨てているのだろうと、想像した。多分あの時、英子は残りの薬を捨てたのだろう。
「メディアチオンか」
腹這いのまま一人ごちた彼へふり返ると、
「また散歩に行かない。こないだ、楽しかったわ。雨、まだ降りそうもないけど、傘さしてだっていいでしょう」
窓の外を見上げながら英子はいった。
アパートと地つづきの社の森を、拝殿の裏へ廻って下りると小川がある。小川は辺りに建った学校や団地、工場の裏手を縫うように流れている。小さすぎるせいか工場や団地の排水にも利用されぬまま、小川自体が辺りの開発からとり残されたように、水もそれほどひどい濁り方をしていない。
一度、社の森の裏手で釣糸をたれている人間がいたが、覗いた|魚籠《び く》には何の獲物もなかった。が、一寸糸をたれて見ようかという気になるような風情が小川沿いにはまだ残っている。
アパートの持主の農夫の話では、はるか上手の貯水池まで|繋《つな》がっているのではないかというが、この小川がどこまでどんな風につづいているのかを治夫自身確かめに歩いて見たことがある。探索は一寸した見つけものだった。それ以来この小川沿いが治夫の散歩道になった。
小川の周囲は上流に行けば行くほど、もっと寂れて来る。一度だけバイパスに出た後、それを越えると、とり壊され別の用地になった昔の|兵器廠《へいきしょう》への引き込み路線に沿って行くが、路線が廃線になって回収された後の土地が、多分、所属が曖昧のまま捨て置かれ、そのまま、遊歩道になっていた。
更にその先は、他の工場群に通じる私設路線と合流しているが、その路線とて、殆ど使われている様子がなく、赤|錆《さ》びた鉄路に沿って雑草が生え、落着いた散歩道だった。
路線は工場や学校や何かの寮のような大きな建物の裏手ばかりを縫って進み、いくつか、小さな島のように残された田や|畠《はたけ》に沿って、やがて辺りの町と町の境らしい小広い沼地にかかる。ここだけ全く何かで見捨てられたように、開発の手がつかぬまま、|葦《あし》や背高い雑草の生えた辺りは虫狩りの子供たちの|他《ほか》は、通る人影もない、寂しいくらいの場所だった。
沼にはいくつか小川の水口があるようで、ここが水源ではなさそうだが、どこか更に遠い源から来た水が|溜《た》まってここから分れているようだ。アパートの主人のいった通り、或いは、小川の水源は貯水池かもしれぬ。
線路は沼地の縁から更に延びて、その先、まだ広く残っている田畠を抜け、どこかの本線に通じていた。
治夫は何度かこの沼地までは歩いた。可成りの道のりだが、遠く、或いは近くハイウェイを行く車の騒音や工場の騒音、学校のグラウンドの子供たちの騒ぎ声を聞きながらも、殆ど人に出会うことがないのが気に入っていた。一度、線路の上で犬を|曳《ひ》いた浴衣がけの年輩の男に会ったが、相手も自分一人と思った散歩道で、他人に出くわしたことが不本意そうに見えた。以来、治夫はその男と、この世にすねたような|孤《ひと》り切りの小川とその土手の遊歩道を共有することにしていた。
この隠し道に馴れれば馴れるほど、貸間の条件にはうたっていなかった思いがけぬ財産を見つけたような気がした。大都会の周辺で、歩きながらこんなに長い時間、誰にも会わずにすむというのは、計ってもむつかしいことに違いない。
一度英子を案内したが、遠い遠いといいながらも、日の暮れかけた帰り道、沼地の手前の茂みで抱き合ったせいか、彼女もその散歩道が気に入ったようだ。
昼前から|雨《あめ》|催《もよ》いだったが、空はまだなんとかもっていた。英子が傘を持ってまで散歩に出かけようというのも余ほどのことだろう。
沼までの道のりの半ば近くまで来た頃、辺りの雨気がやっと飽和になったように|小《こ》|糠《ぬか》の雨が降り出した。英子は引き返そうとはいわず、ひとつさした傘の下に肩をくっつけて来た。
廃線路の土手を過ぎ、近くの工場から出て沼地にかかる線路との接合点の前まで来た時、前方の水際から七、八人の子供が虫取りや釣りの道具を持って上がって来た。夕方に近いのと、雨が降り出したので引きあげるのだろう。手に手に道具と獲物籠を下げて、彼らは治夫たちの左斜め前から線路に沿ってばらばらに歩き出した。
子供たちが治夫と英子の眼の前で線路の接合点を過ぎた頃、珍しいことに上手の奥で線路が|収《しま》われ消えている工場の|裏《うら》|塀《べい》のゲイトが開き、小型のジーゼル機関車に押された四両連結の貨車が現われた。濡れ始めた灰色の風景の中で、突然扉を開いて現われた貨車たちは、線路の通っている辺りの沼地に関わりある、何か異形な生きもののように見えた。
塀の扉が開く時、ゲイトのサイレンが鳴り、工場から走り出す前に、機関車の運転手は前方に散らばった人影を見て、甲高い警笛を短く鳴らした。
その|報《しら》せで、子供たちは立ち止りふり返った。
ゲイトを出て接合点にかかる前の、ゆるやかに弧を描いている軌道の上から一度前方を確かめた運転手は、そのまま列車を走り出させた。
灰色にくすんだ辺りの中で、物音は聞えはしたが、それでも列車は音を忍ばせて這って行くようにも見えた。
更にもう一度機関手は窓からのり出し前方に向って警笛を鳴らし、子供たちはてんでにふり返って立ち止ると、前方の仲間に向って何やら声をかけながら線路を外し、足場の悪い斜面に次々に立ち直した。
貨車は殆どにじり寄るように、しかし確実に子供たちに向って距離を縮めていった。
が、距離を置いて列車を眼の前にやりすごそうと接合点の近くで立ち止り眺め直した時、治夫は突然思いがけぬものに気づいた。十人近い子供たちの中で、たった一人、立ち止らず、近づいて来るものに背を向けたまま、まだ線路の上を歩いている子供がいた。
それは思いがけぬ、というより在り得べからざるものに見えたが、確かめ直すまでもなく、その子供だけが他と全く違って、後ろから迫りつつあるものに全く無関心な様子で歩きつづけている。
|咄《とっ》|嗟《さ》にどう判断していいかわからずにいた治夫へ、ことの意味を明かすように子供たちが一斉に声を揃えて叫んだ。
甲高い声は、しのびやかに迫って来るものの、しかし今はもう隠せぬほど確かな地響きよりも、はっきりと治夫の耳にとどいた。
そして、その気配は機関手にも伝わり、二度三度、警笛が鳴った。
が、驚くことに、先頭にいる子供は、それらのもの音を一切聞かぬように、歩を止めずふり返りもしない。
手にした細い|竿《さお》を|杖《つえ》のように一歩一歩つきながら、下げた虫籠の中を絶えず気にして確かめ、幼く小さな歩にあまる鉄路の敷石の上を懸命に歩いて行く。
訳のわからぬ事態を判断するために、治夫はそれまで眼にして来たものを急いで反芻した。
先頭をいく一番幼なそうな二人連れの子供は、それまで互いに手をつないでいた。が、この直前に、片方の子供が歩きながら何かで、獲物の入っていた籠を相手の子にさし出し手渡したのだ。手が放れ、その時、後ろの仲間からの注意で空手の子供がふり返って立ち止った。子供は背後から来るものを見、眺め直しながら、本能的に歩を外し、身を避けた。そして確かに、彼はたった今手を放した相手に向って何か叫んだ。
が、立ち止った時、一歩二歩開いた間隔はそのまま更に離れた。
何故か、先頭を行く子供一人だけが、何も聞こうとしていなかった。
治夫は叫んだ。
が、叫んだ瞬間、彼は理解した。同じ瞬間、彼は走り出していた。
横合いから、ゆるやかに見えるが、すでに可成りの惰性をつけて迫って行くものと、斜め前に、それを知らずに小さな足で前に向って進みつつあるものとの距離を測りながら、廃線路と、前方の鉄路とが交わる|二《ふた》|股《また》の空地を駈け下り、駆け上がった。すでにその息づかいが感じられる黒く|巨《おお》きな沼地の怪物と競って彼は走った。
警笛が鳴り、誰か大人の声が叫んだ。警笛も、声も、今度は治夫に向けられたものだった。しかし、何も彼をひるませはしなかった。
疾走の中で、治夫は更に、何かを理解していた。それを確かめるために、まるで自分自身に対する本能に駆られたように彼は走った。足をはばむ鉄路の|瓦《が》|礫《れき》を|蹴《け》散らして走った。そして寸前、彼は鉄の獣を走り抜いた。そう感じた瞬間、不覚に彼は枕木につまずいてよろけた。その背にたった今、抜いたものの息づかいが重く厚くのしかかった。
そしてその瞬間、眼の前にあるものをぶつかるようにして抱き取った。同じ瞬間に治夫は重い手につき飛ばされて宙を飛んだ。その|踵《かかと》に貨車の車輪が触れ、履いていた靴がもぎとられるのを彼ははっきりと感じた。
どれほどの間だったろう、途絶えていた意識が戻った。最初にうつ伏せに倒れた胸の下で|蠢《うごめ》くものの感触を感じた。胸で圧していたものを本能的にかばおうと身を起した時、彼は背後で叫ぶ人の声を聞いた。そして重く|軋《きし》り、鈍くぶつかり合って急停止する列車の音があった。
応えるように治夫は立ち上がった。が、貧血で眼まいがし、足が|萎《な》えて|膝《ひざ》をついた彼を、彼の腕の中から立ち上がった子供が逆にすがるようにして支えた。
ひざまずいた彼と顔を合わせ、子供はたった今自分に起きた出来事の意味を|質《ただ》すように治夫を見つめていた。その顔は、ようやくおびえて見えた。
帽子が飛び、まだ髪がのびかけの子供の頭の、斜め後ろの|傷《きず》|痕《あと》へ確かめるように手を添えながら、治夫は微笑して見せた。
「大丈夫だよ、和彦君」
記憶にあやふやだった相手の名前が、何故かこの時だけ自然に口から出た。|喪《うしな》われた聴覚を超えて、相手は治夫の言葉を理解したように微笑し直した。
その笑顔を見直すまでもなく、治夫は自分が、走り出したあの瞬間、眼の前にいる相手が誰であるのかを知っていたことを|覚《さと》っていた。
|放《ほう》り出すのを忘れ、開いたままの傘を曳きずるようにして英子が駈け寄って来た。子供たちと機関手がつづいて来た。
信じられぬものを見るように英子はまじまじと治夫だけを見つめ、彼が|頷《うなず》くと、初めて、おびえたように彼の抱いた子供を見直した。
「僕の知っている子供だった。この子は、耳が、聞えない」
子供たちは一斉に頷いたが、いわれたことがわからぬように英子だけはまだ彼を見つめている。
「よかったよ」
その言葉に促されたように、英子は突然治夫にとりすがり声をたてて泣き出した。
「どうしたんだ」
その肩に手をかけようとした時、治夫は自分がどこかを怪我し、手の甲に血が伝わっているのに気づいた。傷の痛みはまだ感じられなかった。汚れた血を自分のズボンで拭うと、彼はその手で彼女の肩を抱いた。英子は激しく泣きじゃくり、その後ろで子供たちは最初の英子と同じように、まじまじと彼ら三人を見つめていた。
治夫は微笑したまま立ちつくしていた。ひどくすがすがしい気持だった。虚脱の後、すべての|夾雑物《きょうざつぶつ》を|払拭《ふっしょく》して、澄んで安らいだ気分だった。間一髪のことをやってのけられたという満足や充足などではなく、何故か、自分が生れ生きつづけて来、今ここにこうしているのを悟り直したような、限りなくおだやかな気持だった。今までの一生の内で、自分が今一番、時と所を得て在るような気がした。そして、それを理解したように、英子はとりすがって泣いてい、子供たちは黙って敬うように彼を見上げていた。
たった今起った出来事に全く関わりなく、治夫はふと幸せというものについて、生れて初めて、間近く|直截《ちょくせつ》に、考えようとしていた。
「大丈夫かね」
ただ一人、おびえた顔で近づいて来た機関手が、当り前のことを尋ねた。現実に曳き戻されたように治夫は男を見返し、頷いた。
「こいつら、一体」
ようやく自分をとり戻したように、急に表情を変えていう機関手に、
「この子は、耳が聞えないんだ」
|塞《ふさ》ぐように治夫はいい、その言葉の気配に相手は臆して和彦を見直した。
「怪我は」
気づいた機関手が治夫を指さし尋ねた。
その時になって初めて肩口の傷に痛みがあった。
「切れているわ、大きいわ」
「大丈夫だ。何か当てて、このシャツを破って縛ろう」
逆の手で傷口を調べかけ、肩の関節が|脱臼《だっきゅう》しているのに気づいた。寸前に、貨車のどこかの部分が当ったのだろう。傷を縛ることで新たに流れ出し腕を伝う血の感触に、たった今の出来事の生々しさが初めて感じられた。その時になって、治夫は片方の靴が脱げてなくなり、靴下に穴の開いた踵に鉄の車輪の擦過の熱いほてりを感じることが出来た。
傷の手当に近い場所が見当らず、機関手は治夫と英子と和彦と、もう一人中で一番年長の子供を機関車に乗せると、出て来た工場に向って貨車を戻した。
馴れぬ英子の応急の包帯は要所を外れてあまり効かず、代りに彼女は傷口に当てた布に後ろから手を添え続けた。
狭い機関室の中で、和彦と連れの子供はとうに緊張を忘れ、思いがけぬ便乗に珍しそうに辺りを見廻していた。眺めながら、治夫は、和彦の内にもう殆ど動揺の影がないことに満足だった。それは、間接だが、かつて病院で彼を看とった医師としての感慨でもあった。
逆戻りした列車の警笛に、驚いた物見が現われ、ゲイトがまた開いた。
機関車を降り、広い構内を横切る女と子供づれの怪我人に皆が足を止めた。
医務室での処置では足りず、係員が救急車を呼び、連れの子と治夫から聞き合せ和彦の家に警察からの連絡を頼んだ。
町の病院で止血した傷口を縫い合せ、脱臼を戻して三角巾で腕を|吊《つ》った頃、母親を連れた警察官が着いた。
病院の応接室へ腕を吊って入って来た治夫を見た時、菊江は眼を見はり声を挙げた。一緒にいる機関手がすでに警察官にした事情の説明から、息子が間一髪救われたことは知っても、その相手が誰かを想像出来た筈はない。機関手自身が、治夫を、子供のつんぼに咄嗟に気づいて救った男としか考えていなかった。
「あなたが、あなたが」
|喘《あえ》ぐようにいうと、菊江は膝に置いていた和彦をもう一度両腕で|掻《か》き抱いた。
「僕も驚きました。本当に危ないところだった」
微笑して見せる治夫を、子供を抱きしめながら、菊江はさっきの英子と同じように、信じられぬものを眺めるようにまじまじと見直した。
突然、|嗚《お》|咽《えつ》が走ると菊江は和彦を抱いたまま、その手を前で合わせ、彼に向って合掌したのだ。
相手の思いがけぬ仕草にどう応えていいかわからず、治夫は突っ立ったままでいた。しかし、我を忘れて自分を拝んでいる相手を大袈裟には感じなかった。人前で拝まれる|羞恥《しゅうち》の前に爽やかな感動があった。その時になって初めて、無意識でした自分の行為の意味のようなものを、彼は悟り直した。
そして周りの誰もが、拝まれている自分と拝んでいる彼女を、奇異とも滑稽とも感じていないことを、部屋の静寂の内に、彼は理解した。
突然また英子が彼の横で嗚咽し出した。
皆を元に戻すように、
「あんなところまで遊びに出ていられるんですね」
治夫はいった。
合掌の手をほどきながら、菊江は頷いた。
「はい、他のお子さんもいますし、家から割に近いものですから」
「そうですか。僕もよくあの辺りまで散歩に行きますが、互いに案外近いんだな」
それをどうとってか、菊江は彼女だけにわかる何かを悟り直し収い込むように、|瞑《めい》|目《もく》し、深く頷いて見せた。
治夫を入れて事情を聞きとり、塩見母子と治夫の病院での関係を知ると、
「それは偶然だなあ。いや、通りかかったのがこの人じゃなかったら、気づかれずに、子供さんは死んでいたかも知れないな」
警察官はいった。
他人にいわれてようやく、治夫はこの|邂《かい》|逅《こう》の偶然が誰にとっても思いがけぬものであることを改めて悟った。この偶然にどんな意味を見つけたらいいのかはわからぬが、思わず自分を拝んだ菊江の姿に、何もかもがいい尽されているような気がする。
多分、いや、間違いなく他の子供でも駈け出していたろうが、しかし相手に触れる寸前に自分が予感し気づいていたことを、それがどういうことなのか、むしろ、菊江に聞いて見たいと思った。
「夢中で走り出したのですが、|捉《つか》まえる前に、|何故《な ぜ》か、はっきり和彦君だという気がしたのです。不思議ですね」
「そうでございましょう」
菊江は強く頷いて見せた。
それは治夫が期待したとは少し違った表情だった。菊江は治夫には伝わらぬ何かを信じ、自分一人に向って|肯《がえ》んじているように見えた。二人の間に|秘《ひそ》かに通い合っていたと治夫が思っていたものについて今彼女が頷いたのなら、それは、前回、彼女の家を訪ねた時に感じた何とないうとましさとはそぐわぬものにも思える。しかし、治夫は結局素直に受けとった。今、彼に向って胸一杯の感謝をしない母親のいる訳はないのだ。
表現出来ぬ感情を包んで二人がそれ切り黙ってしまったのを見て、警察官は治夫と菊江と機関手の三方に、この出来事を事件にしたてないことを念を押した。承諾した三人に、仕事がひとつ省けた満足で笑い直すと、警官は治夫に向って人命救助の表彰申請を約束して立ち去った。
麻酔が|醒《さ》めると肩口の傷は|疼《うず》いて痛んだ。しかしその痛みの中に、治夫は自分と塩見母子の|絆《きずな》が、偶然にとはいえ、再度確かに繋がれたのを感じることが出来た。そう願ってやった訳ではないが、この怪我の代償に得られたものに、彼は満足だった。
それにしても、飛び込んで行きながら、相手が和彦と確かに悟ったのは何故だったのだろうか。治夫は神秘を信じたりはしないが、それが何故かを知りたいと思った。あの時菊江が強く肯んじた訳を、いつかもっと詳しく彼女から聞くことを彼は秘かに期待した。
英子は重傷者を看とるように何もいわずアパートまで治夫につき添って戻った。
二人向き合って坐り直した時、まぶしいような眼つきで治夫を見返し、
「あなたって、あんな人だったとは思わなかったわ」
英子はいった。
「あんなって、どういうことだい」
「だって」
「男なら誰でもするさ」
「そうかしら。でもあなたは」
「俺は特に、しそうに見えないか」
「そんな意味じゃないけど」
一生懸命かぶりをふると、
「今になった方が、どきどきするわ」
「俺が医者だからこそ気づいたのかも知れないな。相手に聞えないことを」
「でも、どんなお医者でも、気づいたって飛び込んで行きはしないわ」
|抗《あらが》うようにいった。
「つまり、君は|讃《ほ》めてくれてるんだな」
覗くように見つめ直すと、微笑を収い、
「あのお母さんは、拝んでいたわ」
「あれにはまいったな」
「どうして」
|咎《とが》めるようにいった。
「あなたはそうやって怪我をしたわ。もう一瞬遅かったら、あなたも死んでたかも知れないのよ」
「そしたら今度は君が俺を拝む」
「変なこといわないで。でも、どうして、不思議だわ」
「本当に、偶然だな」
「それだけのことかしら」
「そうさ」
「そうじゃないわ。だから不思議なのよ」
英子のいう方が正しいような気がしたが、何といっていいかわからず治夫は黙っていた。
「とにかく飛び込んでいく時は何も考えなかった。間に合うと思っただけだ」
「でも、何故、何故やったの」
どうして彼女がそんな|訊《き》き方をするのかわからず、
「罪亡ぼしだ。だから本当は表彰辞退だな」
治夫は笑っていった。
「本気」
「なんて。関係ないよ」
「変なこといわないで。そんなこといったら折角のことが意味ないわ」
英子はにじり寄り、彼の無事な方の肩をゆすった。
「君は、俺が死んだと思ったか」
「ううん。ただ何が起ったかわからなかった。でも、あなたはやっちゃって、生きてたわ。死んだかも知れないのに」
英子の言葉は妙に生々しく、彼が仕損じた時のことを想像させ、そして行為の結果、彼が|獲《か》ち得て今も保っているものを悟らせた。
自分でもそれを確かめ、確かめながら彼に証すように、英子はのべた手を肩口から彼の体を伝い、伝わせながら寄りかかって来た。
傷をかばって半身に受けとめながら、半身に余る英子の肉体のたわわな感触に、治夫は今までと違った感慨で、自分がきわどい|賭《かけ》に勝ったのを悟り直した。
治夫が拒む暇を与えず、傷ついた彼をかばいながら、しかし今までのいつよりも積極的に英子は自分を開き、彼を開いてかぶさって来た。
醒めかけていた先刻の出来事の余奮が体の内でまた燃え上がり、不自由な体で治夫は英子を抱きとめた。
動作のはずみに傷は疼いたが、痛みは高まっていくものを殺さず、逆に助けた。自分でも異常に感じられる興奮は、償いのない危うい賭に勝って生き残った自分を証してくれた。
いつもの治夫の位置に代って英子は興奮し、互いの|恍《こう》|惚《こつ》以上のものを確かめるように、彼を覗き込み、しがみついて来た。
それに応えながら彼はふとあの瞬間、もし自分が喪われたとして、その後、自分が遺すものは結局この英子一人だったのではないか、と思った。あの時、開いた傘を曳きずるようにして駈けつけ、声を挙げて泣き出した彼女を思い出した。
いつくしみのような優しい柔らかい感情が彼の体の内にきざし、それを|捉《とら》えるように、彼は片腕で抱いているものを更にさすって見た。
行為の中で高まっていくものの内に、今まで味わったことのない、優しい甘さを彼は感じることが出来た。
「君と、一緒になってもいいな」
自分に確かめるように、彼は|囁《ささや》いた。
英子は半ば夢うつつのような眼を見開き、彼を見直した。頷いた彼に向って、小さく何か叫ぶと英子は更に乱暴に、かぶさって来た。
治夫の人命救助は新聞に載り、次いでやがて、医師と患者の不思議な邂逅ということで、ある週刊誌の一頁記事にもなった。
出来事の翌日の午後、治夫は病院へ出、町医者がした手当の結果を外科で確かめてもらった後、高野教授に断わって帰宅しようとした時、アパートを廻って来た菊江の見舞を受けた。
教授の前で重ねて礼をいわれる面映ゆさを隠しに、
「僕の怪我は知れてますが、昨日のショックで、和彦君に何か変化はありませんでしたか」
「いいえ、当人はいつもと全く変りございませんが」
「一度病院にお連れになって、よく確かめられた方がいいと思いますが」
治夫にいわれ、菊江は眼を伏せた。
彼女のそんな様子の内に治夫はまた、彼にとって馴染まぬ何かを感じた。この前、彼女の家を訪ねた時に感じたと同じためらいのようなものが彼女に見える。あの時は、それが自分に向けられたものと思ったが、どうもそうではなさそうだった。息子を救われ、彼に向って手まで合わせた感謝には変りないが、医師である治夫を含めて、この病院全体に、彼女がはっきりと不信を抱いていることが、今の表情や仕草から感じられる。
母親として無理ないことかも知れぬが、四分六分といわれた手術から、ともかく聴覚以外は救った病院側にして見れば不本意だろう。
板ばさみの治夫としては、身を|挺《てい》して息子を救った代償に、せめて彼女のその感情の中から自分だけは外させなくてはならぬ気がした。彼女に、息子をつれて病院へ来る意志がなく、治夫がこの母子に|未《ま》だ、何かを感じて|魅《ひ》かれるのならば尚更だった。
以前この病院の患者だった息子を持つ母親の詳しい心情を知る筈のない教授の前から菊江を離して、この機会に、治夫は二人だけで話したかった。
救い主の医師に改めて礼をのべて立つ菊江に、教授は、弟子の昨日の冒険のスリルも|所《しょ》|詮《せん》新聞の上の出来事といった顔で、形だけの|労《いたわ》りとねぎらいで彼女を送り出した。見馴れた怪我人の、怪我の由来にいちいち関心をもったらつとまる商売ではないが、どんな美談にしろ、教授は自分の弟子が、三角巾で腕を吊った小英雄になってしまったことに、むしろ当惑して見えた。
病院を出、彼は菊江を喫茶店に誘い、彼女は恐縮したように頷いた。
「あの時は夢中でしたが、後になって見ると、僕はなんだか罪つぐないが出来たような気がしました」
昨日、思わず、合掌した後、まだ敬い|怖《おそ》れたように自分を見つめる相手に、|媚《こ》びるように治夫はいった。
「罪つぐない、なんでそんな」
菊江は驚いた顔で見返した。
「いや、今になればなるほど、あなたが病院に強い不満を抱かれるのはよくわかります。しかし、前にも、確かこの店で申し上げましたね。病院としては、今の医学で出来ることの総てを、ぬかりなくやりました。その結果をどう評価するかは、それぞれ立場で違いましょうが。そして、今はあのようでも、和彦君は、或いは将来治るかも知れません。そんな例はいくつかある。その或いはを信じて頂く以外に」
「信じております」
小さく低い声だったが、何故か、はね返すような語気で彼女はいった。
「あなたが昨日、和彦を救って下さいましたことで、私、ますますそれを信じられる気がいたしました。その自信が|湧《わ》きました」
意味がよくわからず、見返した治夫を、菊江は足らぬ言葉を気持でおぎなおうとするように、何か並ならぬ決意を感じさせる表情で見つめて来た。
「あなたがあの時あの場にいらしたことを、みなさんは偶然とおっしゃいますが、違います。ただの偶然ではございません。いえ、偶然などというものはございません」
治夫は、菊江がそんな風にものをいうのを初めて聞いたし、それは妙に彼女にそぐわなかった。
それを彼女自身が心得ているように、自分をふり切るように、彼を見つめたまま菊江はもう一度頷いて見せた。
「偶然などないといえばいえるが、しかし」
「いいえ、あれは|奇《き》|蹟《せき》でございます。でも、私たちのために、神さまがちゃんとお与え下さった眼に見えない仕組みでございます」
尚、彼を見つめたままいい切ると、初めて菊江は微笑して見せた。治夫は驚いて見直したが、その微笑の内には、|羞《は》じらいの影はなかった。
治夫は昨日、自分に向って合掌した菊江の姿を思い出して見た。すると、彼女が手を合わしたものは、自分に、というより、彼女だけに見える自分の後ろに在ったものへ、ということか。
「どうもそういわれると。いやしかし、或いはそうかも知れませんな」
考えて見ると彼女がいっていることを否むいわれは治夫にはなかった。
「さようでございます。神さまが、あなたをお遣わしになったのです。昨日だけではなし、初めてお目にかかった時からそうだったのです。そのことを、昨日、初めてわからせて頂きました」
「なるほど」
彼はいった。そういう考え方もある。そういわれても、彼自身にそんな実感などありはしないが、しかし、彼にとって、都合の悪い理屈ではない。
しかし、どんな顔をしていいかわからず、
「私にはよくわかりませんが」
「はい、私にも初めて」
そう悟った時の感動に、改め何度でも打たれようというように、居ずまいを正し、何かに祈りながら、菊江はうつ向き頭をたれた。
「昨日初めて、あなたのお蔭で、和彦がやがて必ず直るのだ、という因縁を悟らせて頂きました。その自信がやっと持てました。有りがとうございます」
意味が解せぬまま、彼が、病院の関係者が入り、混んだ辺りを気にする暇を与えぬ、真剣なものが彼女にはあった。
全く違う人間を眺めるような驚きで治夫は菊江を見直した。
「おっしゃることが、わかるようで、よくわかりませんが、何か信仰をお持ちでいらっしゃいますか」
労るように治夫は尋ねた。
「はい」
顔を上げ、微笑し直すと、菊江ははっきりと頷いた。その微笑の内に、法悦の影さえ感じられ、治夫は気押されたまま彼女を見返していた。
「最初は|藁《わら》にすがるような気持でおりましたが、でも、こんなにすぐ私たちが救われる因縁の|証《あか》しを頂きました」
大それた動作を出来るだけ慎むように、菊江はテーブルの蔭の膝の上で、また小さく手を合わせ、瞑目した。
「証しといいますのは」
「ですから、あなたが和彦をああしてお救い下さったことでございます」
彼女は前に、こんなもののいい方をしただろうか、と治夫は思った。
「そういうことが、あるかも知れぬと申されておりました」
「ほう、和彦君が事故に逢って、誰かに|救《たす》けられると、誰かがいったのですか」
「いいえ。でも、そういう因縁について」
「どういうことなのです」
「和彦の病が並のものでないことだけは存じておりました。いずれにしましても、あの子と私たち親の因縁業因でございます。それが信仰で消えて救われるものなら、私たちがあの子の病気から、救われるものなら、必ずその証しがある。あの子や私たちの業因が深すぎて救われないものなら、神に私たちが祈ることで、あの子はやがて早く死ぬに違いない、と申されました」
「そんな」
「いいえ、あなたが、|他《ほか》ならぬあなたが昨日、あんな奇蹟であの子を救って下さいました」
「しかし」
いいかけた治夫を塞ぐように菊江は|微笑《ほほえ》んで見せた。
「いいえ、あなたでさえも御存知ないことですわ。あなたが御存知でそれをなさったなら、あなたが神さまでございましょう」
「なるほど」
口をつぐみながら、治夫は微笑していた。
今、自分を偽ることの方が、彼女への誠実になることを彼は理解した。
和彦の聴覚は治らない。それが器疾的に喪われたことを明かすには、脳の構造が複雑すぎるだけだ。聴覚の復活どころか、脳|腫《しゅ》|瘍《よう》自体が復活しないという保証はどこにもなかった。そして復活すれば終りであることだけは確かだった。しかしそれをいって何になる。その反論のロジックと、彼女が今選択した論理は所詮全く異なる|範疇《はんちゅう》のものに違いない。
今、俺自身がどんなに皮肉な役を果していようと、そして、いつか後、彼女の夢が破れようと、それは少なくとも俺の責任じゃない、治夫は思った。
「しかし、病院の治療を受けられることは、あなたがおっしゃることの何のさまたげにもならぬと思いますが」
多分蛇足だとは思ったが、治夫はいって見た。
|躊躇《ちゅうちょ》したように一度うつ向いたが、すぐに心を決めたように彼女は治夫を見つめて微笑んだ。微笑には、秘密を打ち明けてしまった人間同士の心安さがあった。
「いいえ。そのことで一度お話したいと思っておりましたの。申し訳ないとは思いますが、でも二つを選ぶという訳にはいかないと思います」
「二つを選ぶとはどういうことです。つまり、信仰と病院ということですか」
「はい」
問いつめられ、むしろほっとしたように菊江は頷いた。
「それはどうもおかしいですね。どういうさまたげになるのでしょう。|勿《もち》|論《ろん》、今の医学に限度があるにしても、その限りで力を尽して見るということが、いけないことなのですか。誰かがそういわれたのですか」
「はい、そう教えられました。そのような気がいたします」
「なるほど、一度ゆっくりそのお話を聞かせて下さい」
「はい」
菊江は期待をこめた眼で頷いた。
「失礼ですが、御信心なさっている信仰は何ですか。何か新しい宗教ですか」
「|御《み》|霊《たま》の道教会と申します」
どこかで聞いたことがあるような気がした。
「そこでは、医学は駄目だといわれるのですか」
「いいえ、そうとは申しませんが」
菊江は迎えるように微笑んで見せた。治夫はふと、最初、手術教室の前で見た彼女の顔を思い出した。その違いに戸惑いを感じるが、それでも、治夫にはやっと訳がつかめた。
「一度、ゆっくりお話をお聞きになって下さいませ」
菊江の方で願うようにいった。
「うかがいましょう」
|謎《なぞ》の解けた安心で、治夫は頷いた。
立場は皮肉だが、頭から|嘲笑《わ ら》ってすまされぬ気がする。互いの道理の問題ではなく、彼自身の気持の問題だ。昨日、彼がやったことは彼女の側の道理にはまったようだが、彼にして見れば本意とはいえない。行為は行為だが、それを手前側に都合よく利用して彼女を説き伏せている人間に、医師の立場、というよりこの母子に自分でも解せぬ気持で|繋《つな》がっているものとして、治夫は反発を感じた。
治夫は要らぬといったが、英子は彼の怪我が落着くまでといって、勤めの後、彼の部屋に戻って来た。
昨日の出来事がどんな風に彼女の心を捉えたのか知らぬが、英子は単純に彼に、敬意を抱いていた。面映ゆく少々わずらわしかったが、拒む理由もなく、治夫は彼女の|敬《けい》|虔《けん》なる奉仕を受けた。片腕きかぬ彼の着換えを手伝いながら、英子は新聞に載っていた彼の人命救助の記事が不当に小さいと文句をいったが、それが妙に世帯染みた愚痴に聞え治夫は苦笑した。
「あの時、病院で彼女が僕に向って手を合わせたのを見た」
「ええ、見たわ。私感動したわ」
聖句を聞いた敬虔な信者のように英子はしかけていた仕事の手を休めてふり返った。
「実は、あの訳が今日わかった」
今日、病院でした菊江との会話を治夫は話した。
「前に一度訪ねていった時、変だった様子の訳がやっとわかった。安心したよ」
「安心」
「何ていったらいいのかな。あの母子が好き、というか、何故か気にかかるんだ。病院で病人や看護の家族を珍しがってたらきりないが。初め会った時の印象だな」
「あなたがそんなこというの珍しいわ」
微笑しかけ、途中で思い直したように真剣な眼で|覗《のぞ》くように英子はいった。
「そうだよな。それにこんなこと君以外の誰にいったこともない。君が昨日一緒にあそこにいたのも、彼女にいわせりゃ、因縁ということかも知れないぜ」
「それじゃ、私があなたと初めにあそこで会ったのも」
「そうさ、偶然などない。すべて眼に見えぬ力が与えたものなのだそうだ」
「本当にそうかも知れないわ。だってそんな気がしない」
「そんなこといやきりがない。しかし、何て話だ」
「でも何だろうと、あの人があなたを思わず拝んだ心に変りないわ」
英子は待つような眼で治夫を見た。
「あの人、美しい人ね。奇麗というより、美しいのね」
突然、思い直したように英子はいった。
「ああいう母親の気持は、あんな子供を持って見なきゃわからない」
「だから美しいの」
「美しいだけじゃすまないものがあるんだよ、彼女にすれば」
「それはわかるわ、私にだって」
「しかしとにかく因縁の信心とは何て話だよ」
「あなたは不服そうね。でも、あの人がどんな信仰をもったっていいじゃないの。信心でもしなきゃ救われないでしょう」
「どういうことだ」
「だって、手術で一度|聾《つんぼ》になっちゃった子供って治るの、治らないんでしょう」
黙って見返した治夫へ、
「治りゃしないんでしょう」
かぶせるように英子はいった。
「あなた、治らないこと知ってるんでしょ。だから一層あの人のこと気になるんでしょ。違って」
「そんなこと、誰にもいえないよ」
「私にも。でも、私知ってるわ、少なくとも、あなたがそれを知っているということは。それでいて、あの人の心を神さまが横取りしたって怒ったって、無理よ」
「何が無理だ」
「あなたの我がままよ」
「我がまま」
「そうよ。あなたがあんなにしてあの子を救ったのは偉いけど、でも結局、あの子はあの人の子供なのよ。ひょっとしたら、あの人、あの子が|轢《ひ》かれてでも死んでくれたら、と思ったことがあるかも知れなくてよ。それをあなたが救けたことで、あの人も息子が助かるものなんだと悟れて救われたんだわ」
「君は|旨《うま》いことをいうな」
「そうかしら。人間て案外そんなものじゃない」
想像つかなかったことをいわれたような気がし、治夫は英子を見直した。なるほど、という気がするが、それに頷くことは、英子にでなく、菊江を信心がかりでいいくるめた誰かに負けるような気がし治夫は黙ったままでいた。
そんな彼を見すかすように、
「いいじゃないの病院から信心に乗り換えたって、それはあの人の自由だわ」
「それはそうだがな。しかし俺の役廻りは妙なものだぜ。昨日やったことで、結局彼女のいう理屈でいきゃ、彼女を病院から決定的に切り離したことになる」
「いいじゃない。病院で治らないものなら、あなたもその方が気が楽でしょ。それでも、あなたとあの母子はますます縁が深くなったんだから」
「だから何なんだ」
治夫は慌てて挑むようにいった。
塩見母子との|関《かか》わりは、英子には関係ないことだった。彼女が昨日の出来事を思い返しどんな風に感動するのも勝手だが、うがった口ぶりで彼女がこれ以上このことに立ち入ってくることのうとましさを治夫は予感した。
母親との一件に彼女が関わり合うのを嫌ったように、このこともまた結局自分だけの問題だった。
が、
「意外なのよ」
英子はいった。
「何が」
「あなたが、他人にこんな風に特別の気持を持つということが。不思議だわ」
「不思議じゃないさ、わかってるだろ。俺には君が必要だった。だからこそ君の店のマスターにも、俺は特別の気持を持った。ただ、あの男の時には、君が一緒に飛び込んでったがな」
それを、どう特別にもとらず、
「そうね、あなたって、そういう人なのね。はっきりしてるって訳」
「必要な時にはな」
いった治夫へふり返ると、
「じゃ、あの母子はどういう風に必要なの」
英子は訊いた。
さっき予感したうとましさを治夫ははっきり感じ直し、黙ったまま答えずにいた。どれほどの好奇心でした問いか、知らぬが、英子もそれ以上訊き返しはしなかった。
新聞に載った人命救助の記事は、思いがけぬ波及力で治夫の知り合いに伝わり、事件後三、四日間、何人かから見舞の手紙がとどいた。手紙の文面から、出来事がいかに治夫の日頃の印象とかけ離れたものに映ったかが、読みとれた。しかし英子に問われて黙ったままだったように、そのいい訳をする義理もない。ただ姉の恭子と、母親から来た速達には|辟《へき》|易《えき》した。
恭子は父親の意向も|汲《く》んでか、この前会った時の口吻とは違って、体の安否を|質《ただ》した後、他人にそれだけのことが出来るのなら、実の母親にもう少し気を使えないかと書いて来た。
母親の手紙は、この思いがけぬ機会を捉えて、露骨に彼に向って媚びようとしていた。報じられた怪我を案じて、許してくれるなら見舞にいって看取りたいという申し出は、あの出来事に全く関わりない他人の、ことにかこつけた無心にも思えた。
黙殺するとかえって面倒が起きそうで、恭子宛に速達の葉書で、全く心配ないということを彼女の口から母親にも伝えてくれるように頼んだ。
出来事から四日目の夜、遅番から帰った英子の作った夕飯を終えた頃、突然菊江がやって来た。
エプロンをかけたまま戸口に出た英子に驚いた表情の菊江を見て、治夫はひどく慌てた。何か計算外のことが突然起ったような気がし、それに気づけなかった自分に腹が立った。
菊江を驚かせた英子に怒るのは筋違いと知りながら、彼をふり返りもせずもの馴れた愛想よさで菊江を招き入れる英子に、何故か彼は腹立たしさ以上のものを覚えた。
「いかがですか、坊やは」
英子は治夫をさし置いた心配をして見せる。
その後ろから、
「井沢さんです。僕の同級生で、あの時一緒だったので、その後、見舞と手伝いに来てくれているのです」
治夫はこと改めて彼女を紹介した。いいながら、そういう自分も、それを聞く菊江もぎこちなくなるのを彼は感じていた。
「さようでございますか。本当なら私がうかがってしなくてはならないのですが、申し訳ございません」
菊江は治夫の身内の保護者にするような挨拶で、英子に向い畳に手をついた。二人の女のそんな挨拶の仕草にも治夫は|焦《いら》だたしいものを感じた。
「こちらへお見舞が遅れましたのも、実はあれから、あの子を連れて泊りがけでお礼のお参りに行っておりましたもので」
|詫《わ》びた菊江に彼が|頷《うなず》く前に、
「御信心をしていらっしゃるそうですね」
英子は治夫を促すように寛容に笑って見せたが、治夫は急にそんな英子が不快だった。
そんな自分が奇態にも思えたが、同じ一つところに菊江と英子が居合せていることが彼を落着かせず、一刻も早くこの悪い夢から醒めたいような気持だった。
英子が彼を看取り、菊江が改めて見舞にやって来ることは、どちらもあり得たことだが、二人を一度に前にして、彼はますます故の知れぬ焦りを感じてならなかった。
治夫への詫びに英子に先に頷かれ、菊江は|窺《うかが》うように彼を見直す。
「いや、この前彼女が見舞に来てくれた時、|一寸《ちょっと》、病院でお聞きしたことを話したのですが」
口を添えるぎこちなさが、いい訳以上のものを相手に伝えてしまうのが、同じようにぎこちなく頷く菊江の様子で感じられる。彼はまた焦った。
二人の仕草に、英子も気配を察したように黙って茶を入れに立ち上がる。菊江はますます場違いのところへ来てしまったようにうつ向いたままだった。
今ここで、何か確かなメッセイジを彼女に伝えなくてはならぬような気がした。しかし、その言葉が浮んで来ない。それが出来ぬまま、治夫と菊江は、今までのいつ以上に、他人行儀に坐っていた。
「実は、先日お話を聞いてやっとわかったのです」
仕方なく、彼は英子との会話を菊江のためにむし返した。
「何でしょうか」
菊江はやっと眼を上げて彼を見直した。
「病院へお見えにならない訳がですよ。この前、お宅にうかがった時、何か感じたのですが」
菊江は素直に頷いて見せる。
「おかしいと思われるかも知れませんが。でも、私たちが正しかったことを、あの奇蹟で悟らせて頂きました」
英子は入れた茶を二人にさし出しながら坐り直し、会話の先を促すように二人を、交互に見直し、微笑して見せる。治夫は、この前の夜、菊江の信仰について英子と交わした会話を胸の中でたどり直した。英子はそのつづきを、今、菊江の口から聞こうとしているのだろうが、彼にはそれがますます自分と菊江にとってわずらわしいものに感じられた。
英子が何であろうと、菊江と向い合って見れば、英子は二人にとっては関わりない他人でしかないのだ。治夫には、たとい英子だろうと自分以外の誰かが、このことに首をつっ込むことが許せぬものに思えた。
英子を封じるように、彼は急いで先に口をきいた。
「信仰のことは私にはわかりませんが、しかし、この前も申し上げたように、それと、病院へお通いになることとは、さしつかえがないように思えますが」
「はい。でも選ばなくてはならないことなのです」
眼を伏せて頷いた後、菊江ははっきりと彼を見直した。
「いや、そのことは、今度ゆっくり聞かせて下さい。またお宅にうかがった時にでも」
「どうして。私お聞きしたいわ。選ぶって何をです」
英子がいった。
菊江は戸惑ったように治夫を見た。
「いや、君には関係ないんだ」
たしなめる口調で、しかし、自分でも思いがけぬ言葉が口から出た。
「どうしてよ。私もあの出来事は奇蹟だと思ったわ」
|抗《あらが》うように英子はいった。
「そうじゃない、僕が医師の立場として聞きたいことなんだ」
ぎこちなく、|塞《ふさ》ぐように治夫はいった。
菊江は救われたように眼を伏せ、詫びるように英子へ会釈して見せた。その仕草もやっぱりぎこちなかった。治夫は英子を前にして菊江が抱いている当惑と不本意さを感じることが出来た。菊江のためにも、彼は彼女と自分の間に今、思いがけなく介在してあるこの他人が急に不快でしかなかった。
「それでは失礼させて頂きます」
菊江は彼へ手をついた。その挨拶は唐突だが、この場合にはそれしかないように感じられた。
治夫は、英子さえいなければ、今夜二人がする筈だった、そして、|顕《あき》らかに菊江が望んでいた会話についてを考え、彼の横で、彼に代って手をつき丁寧に挨拶し返す英子にまた腹をたてた。
扉を引いて廊下に出際、菊江はもう一度、治夫だけを見つめて頭を下げた。その視線ははっきりと、おびえていた。菊江が今夜の訪問に何かを期待し、それを思いがけなく裏切られ、傷ついたのが彼にも感じられてわかった。彼女がもし彼を|咎《とが》めて見つめでもすれば、救われただろうが、その眼に頭を下げながら、扉が閉った後自分と一緒に残ったものに、それが誰であるかを忘れ、治夫は一瞬、怒りのようなものを感じていた。
「どうしたの」
客を送り出した後、英子は挑むように彼へふり返った。彼女の顔も、不満で、傷つけられたように見えた。
治夫にとってはそれも意外だった。慌てて英子の立場を考えようとしたが、しかしやはり、彼と菊江の間にとっては、英子は関わりない人間でしかなかった。
「なんだい」
わだかまっているものを一挙に忘れようとするように、気をとり直し訊き返した。
「あの人が、勝手に今頃、私の後から来たんじゃないの」
「そうだよ、俺も知らなかった」
「じゃどうしていちゃまずいの」
「誰が」
「私がよ」
「なんで」
「そんな感じだったわ」
治夫は英子のいったことの意味を充分理解したが、それにどう答えていいかわからずにいた。
確かに、英子は菊江と彼の前にいるべきではなかったが、その訳は、実は彼自身にもわからない。
「あの人、あなたにとって何なのよ」
英子は、彼自身が質したいことを尋ねた。そして、彼女の面にある皮肉な微笑に治夫は困惑した。
「それは、どういう意味なんだ」
「意味って、それだけよ。教えて」
自分の質問の意味を悟らせようとするように、英子は彼の眼だけを見つめ、微笑して見せた。
治夫はなお黙ったままでいた。黙っていることが、妙な意味を伝えそうなことを知りながら、そう問われても、本当にどう答えていいかわからない。
「私が邪魔みたいだったわ」
その通りだ、彼は思った。が、
「違うよ。ただ、医者と患者の問題だからな」
「そうじゃないわ、それだけじゃないでしょ」
「そりゃ、普通の患者より親しくはあるさ。患者にだっていろいろあるからな。偶然にそうなったんだが」
菊江に対する自分の感情を整理するように、彼はいった。しかし、そういいながら、それが一向に整理されていないのを彼は感じた。第一、自分が今口にした、偶然という言葉ほど、今になって見ればこの前菊江がいっていたように、似つかわしくない言葉はないように思われた。
先刻、彼が英子に感じたわずらわしさ、そして、それを敏感に感じとった英子が、今くり返している問いの中に、案外整理の|鍵《かぎ》があるのかも知れぬが、治夫はそれを他人の手で他人のためにする気にならなかった。帰ってくれてむしろほっとした相手について質そうとする英子は、治夫にとって前と同じようにうとましく、わずらわしかった。
「偶然だけじゃないわ」
彼自身が感じたことを一人ごつように英子はいった。
「じゃなんだ」
仕方なしに治夫は訊いた。
英子は答えず、咎めるように彼を見返す。
突然、彼は英子がいおうとしていることを理解した。それは彼にとって全く思いがけぬことに思えたが、何故か一方で納得が出来た。それが、当っているのかいないのかを確かめる前に、少なくとも今、英子がそう思って彼を咎めようとすることは自然に感じられた。
「馬鹿だな、君は。そんなことを考えているのか」
「そんなって、何よ」
「彼女と息子は、俺が君に会う前から病院にいたんだぞ」
英子は黙ったままでいる。
「患者にいちいち本気でかまってはいられない。とはいっても、医者だって人間だからな。何かで情も移るさ」
「だからよ」
まだ半分すねたように英子はいった。
「それをいちいちそんな風にとられたらかなわないな。医者の気持や気分てのは、他の人間にはわからないよ」
治夫は自分に命じ|微笑《わ ら》って見せた。微笑って見ると、実際に、彼は少し愉快でもあった。
英子が自分を|挟《はさ》んで菊江に|嫉《しっ》|妬《と》している、ということの思いがけなさは、思いがけぬだけではなく、彼にとって快いものを含んでいた。彼女の嫉妬が、菊江に対する自分の気持をいい当てているかいないかは別にしても、自分自身で旨く説明のつかなかったことがらに、英子が当てた明りの思いがけなさに、治夫は感心し、ある種の満足のようなものをさえ感じた。
「どうなのよ」
半ば納得しかけたように、蓮っ葉に英子はいった。
「馬鹿だなあ、君は」
いっただけで笑いながら、彼女がいったことを自分に問い直す興味の内に、あるときめきのようなものがあるのを、治夫は快い秘密のように胸に|収《しま》い直した。
彼女の嫉妬がもたらした、思いがけぬ贈りものに、先刻来、英子に抱いていたうとましさを帳消しにして、治夫は手をのべ彼女を引き寄せた。
十二畳、八畳、八畳とつづいた部屋の間の|襖《ふすま》がとり払われて出来た小広い広間に六、七人ほどの人間が、治夫にとっては全く見馴れぬ恰好で|行《ぎょう》をしている。
広間の正面の一間半幅の床の間には|八《はっ》|束《そく》が据えられ、その真ん中に白木の三方が置かれてある。台の両端に小松をあしらった生花と、燈明用のぼんぼり、三方の中身は、信者の上げる半紙に包まれた|玉《たま》|串《ぐし》料らしい。
床の間の|御《み》|簾《す》は上げられているが、奥の壁にかけられた軸の前には、更に薄い|紗《しゃ》の幕がかけられてあった。
大幅の軸に治夫にはよく読めぬ達筆で、なんとか大霊神、とある。
広間の四方の|鴨《かも》|居《い》にも、正面の軸と同じ筆跡で大書された額がかかっていた。この字はよく読める。「大日月」「創造」そして「歓喜」とあった。
床の間の横の違い棚の上にかかった、和服を着た年輩白髪の男の肖像写真が、この教団の教祖らしい。部屋の内の様子は、新しい宗教ということで、治夫が想像していたと全く違って、むしろ簡素なくらい、さっぱりしている。
行をしている人間も、廊下を隔てた部屋で何やら事務をとっている者も、入って来た菊江母子や治夫たちに目礼したままで声もかけない。
治夫を眼で真ん中の部屋の隅に坐らせると、菊江はそそくさと息子を促し、一番|下《しも》の部屋の隅の机の上に置かれた黒塗りの文箱の中からすでに折られた半紙を一枚とると、財布からとり出した紙幣を入れて畳み直した。
それを手にし、奥の部屋にいる人間たちの横をすり抜け、床の間の三方に手にしたものをうやうやしく置くと、|退《さが》って正坐し、畳に両手をついて頭を下げる。合掌した手を二度三度開いては手をつき、ゆっくりと三度手を打つと、懐ろからとり出した小冊子の頁を開いてつぶやくように何かを唱え出した。
どう坐っていいのかわからず、治夫は一度正坐した|膝《ひざ》を崩してあぐらをかいた。
菊江が祈っている間に見廻して見たが、何もわからない。彼女がしていることも奇異だが、この建物全体が見馴れぬものだった。
祈っている菊江の横で二組正坐して向い合っている人間たちは、上座のものが合掌した手をかざし、合わした指先で相手のどこかを指しながら、ゆっくり動かしている。指先から出る何かを、相手の体のどこかへ向って吹きつけているようにも見える。される方は、両手を膝についてうつ向いたままだ。
その動作にどんな意味があるのかは知らぬが、する方もされる方も、別に|昂《たかぶ》った様子はないが、真剣そうだった。
眺めて滑稽というより、治夫はただ戸惑いを感じた。
祈り終えた菊江が、改めて横にいる人間たちに手をついて挨拶すると、それまで知らぬ気だった皆が、必要な手つづきをすませた新来を初めて認めたように、愛想よく挨拶し返した。
その挨拶が自分にも向けられているのに気づいて、治夫は坐り直した。
「先生、この前お話しいたしました、和彦を|救《たす》けていただいた緋本さんです」
いわれて上座で手をかざしていた六十近い年輩の女と、三十すぎの若い男が微笑して手を置き|頷《うなず》いた。
「よくいらっしゃいました。塩見さんからお話はうかがっておりましたわ」
年輩の女がいった。
「お医者さんでいらっしゃるそうですね」
「はあ、大学の病院で、私の患者ではありませんでしたが、塩見さんとは偶然知り合いになりまして」
「専門は何ですか」
若い男が|訊《き》いた。
「私は臨床ではなく、病理学です」
「ほう」
男は笑って頷いた。
治夫はこの男に見覚えがあった。確かこの前、菊江の家の前でいき違った男だ。
菊江母子に強いて、病院の治療と信仰を選ばせる元凶がこの二人か、と思ったが、相手の様子がおだやかというか、妙に寛容そうで治夫は気勢をそがれたような気持で坐っていた。
「先生にお話して頂きたくて、わざわざ来て頂いたんです。緋本さんならば、わかって下さると思います」
菊江はすがるようにいった。
「私もお話をうかがいたいと思いまして。信心は自由ですが、坊やの治療は、もう少しおつづけになった方がいいと思いますがね。どちらかを選ばれる、というのがわかりません」
二人の内、格が上らしい年輩の女の方に向って治夫はいった。
「いいえ、最初からどちらか選べとは申し上げていないのですよ。でも、この御道の説くことがわかって頂ければ、結局、片方は無駄だということになるのですね」
相手はおだやかに微笑して見せた。
「無駄というのは」
「お医者さまには、なんだか申し上げにくい、というより、一番わかって頂きにくいと思いますわ。でも、あなたは塩見さんとは何か不思議な御縁で繋がっていらっしゃる。だから、塩見さんのために、わかって上げて頂きたいと思います」
「病院のやることが、無駄だということをですか」
おだやかにではあるが、|釘《くぎ》をさすように治夫は訊いた。
「ええ。でも私なんかより、あなたのような方には、辻さんの方がいいでしょう。こちらは、以前はあなたと同じお医者さんでしたのよ」
見直した治夫へ、
「辻です」
若い男は笑って頭を下げ直した。
「私ももと医者でしてね。恵成医大で、初めは内科、後で変り、あなたと同じ病理学に移りましたが、結局、皆|止《や》めて、代りに、この御道に進ませて頂きました。つまり、私も選んだのですよ」
悪びれぬ微笑で辻はいった。そして、
「教団には、私のような人が他に何人もおりますよ」
念を押すようにいった。
「じゃ、|何故《な ぜ》、二つの内、こちらを選ばれたんです。いや、その前に、どうして、信心と医者が並べて選ばれなくてはならないのですか」
「並んではいません。人間が並べているだけで、もともと、大きさも次元も違うものです。信仰は科学以前、科学以上のものですからね」
「なるほど、そうかも知れない。しかし、それでもとにかく、医学は医学としてある」
「しかし、それを信じようとしたら間違いですな。結果は|怖《おそ》ろしいことになる。優れた医者なら、実はみなさんそれを知っている筈でしょ。しかし、それをいわないで、違うことを教える。それをいわないことが医者としての使命だと錯覚もしている。そして、人々は、本当のことを告げられないまま、医学を信じようとするのです」
「本当のことってのは何です」
「医学を含めて、科学がいかに寸足らずであるか、ということですよ。例えば、そこにいる塩見さんの坊や、とうとう聾になった。この坊やは助かりません。少なくとも、耳はもう治らない」
いきなり断言した後、辻は試すように治夫を見返した。
「あなたは実はそれを知っていらっしゃる筈です。脳|腫《しゅ》|瘍《よう》に限っても、一体その内の何パーセントを今の医学が見極め治療することが出来ますか。みんなそれを知りながら、患者を切り刻んでいる。|勿《もち》|論《ろん》、悪意ではない。それが今のところ医者として与えられた使命なのだ、と信じながらね。
和彦君は何度目かの手術をお宅の病院でし、その手術は今までの手術よりは要領がよく、医学的には成功した。しかし、それはただ医学の上での話でしょ。ただ、病気のある段階を防いだだけですよね。根本の何をとり除いてもいない。その根本、病気の本当の根が何なのかを医学は知れないのだから。和彦ちゃんの病気に限っていえば、本当の根の前に、|所謂《いわゆる》、医学的な根だって未だ知られてはいない。それでどうして、人を救けたことになりますか。あなたも実は、そのことは知っていられる。それでも|尚《なお》、手さぐりで進むことでしか、医学は進歩せず、人々は救われない、と医者は思っている。しかし、手さぐりで、どっちへ、何に向って進むというのでしょうかね。私はそれが知りたくて、もう一度逆戻りするつもりで病理学をやって見たのですが、一層わからなくなりました。いや、よくわかったのです。人を救うということが実際はどんなものであるかということが。
緋本さん、人を救うというのは、|他《ほか》でもない、あなたがこの間、あの引き込み線の線路で、和彦ちゃんを救けたようなことをいうのです。一つの危うさから、あなたがされたように、根本的に、決定的にその存在をきっぱりと救いとり、確かめ直し、与え直してやることですよ。
あの出来事の中では、坊やは、死ぬか生きるかしかなかった。そして生きた。救いというのは、生きるか死ぬか二つの内の一つでしかないんです。違いますか。あなたは、御自分でそれをおやりになった」
おもねるような表情はなく、辻はただ|微笑《ほほえ》みながら治夫に向って頷いて見せた。その後、合わしていた手を置くと、前に坐っていた年輩の男に向って合掌し直し、
「はい、終りましたよ」
いわれた男は坐り直し、辻に向って同じように合掌すると、頭を下げて席から立った。
辻はそのまま、隣りの事務室にいる若い女に客たちに茶を入れるようにいうと、坐り直し、煙草に火をつけた。
「病気には、治るか治らぬかしかない。絶対にそれを治すためには、その本当の原因に触れなくてはならない。現代の医学は、現象ばかりを追いかけ、その本当の原因から外れ、それを忘れて、自分で勝手に違う原因を作っているのです」
「違う原因」
「ええ、違うというよりは、窮極まで|溯《さかのぼ》り切らぬ原因です、ごく浅いところの。いわば、偽りの原因とでもいいますか。医学だけではない。科学の合理主義という奴はどれもみなそうじゃないですか。医学でいえば、医者は人間の病気をただ経験論的に分析し整理しただけじゃありませんか。確かに近代医学は細菌を発見し、培養もしました。しかし、それだけじゃありませんか。細菌はその前から確かに在ったのだし、在った限り、見つけられるべきものでしかなかった。腹痛にしたって、風邪にしたって、解明はその限りでしかない」
そこまでいい、次の一服をした後、辻は気づいて慌てて、出したままだった煙草を治夫にもすすめた。
「なるほど、すると、その窮極の原因なるものを知って、治すことの出来るものが信仰だという訳ですか」
「そういうことです」
「それにしても、その窮極の原因が何かは知らないが、それを治すのに、医者の処方を選ばせない、というのはわかりませんね」
「つまり、無駄だからですよ。無駄だけじゃなし、有害でさえある。私は医者として、そんな体験は計り知れずしました。あなたもだと思いますね。例えば機械的に行われる手術或いは新薬の弊害がどれだけ多すぎるか。それも医学の進歩のための必要悪ですか。というのなら、そんな医学で救われようとしているのは、実は人間じゃなし、医学そのものということになるじゃありませんか。人間は|所《しょ》|詮《せん》一人が一人だけの生命人生を負うて生きているのですからね。患者の救済には、人間一人一人の問題で、医学の名誉や進歩も実は全く関係ないとさえいえるんです。
和彦ちゃんに対するお宅の病院の処置にけちをつけるつもりじゃありませんが、和彦ちゃんを例にとっていえば、今度の手術が今までよりましだとしても、聴覚は|喪《うしな》われた。手術で喪われた限り、これはもう多分戻らないでしょう」
「それじゃ手術しないで耳が駄目になったのなら、或いは聴覚は戻ったというのですか」
「ええ、きっと」
茶化してではなく、微笑していたが、辻はおごそかな面持でいった。その自信が何から来るのかは知らぬが、治夫は生れて初めてのものを眺めるような気分で相手を見返した。
「後で、よろしかったら追い追い話させて頂きますが、窮極の原因を正せば、どんな病気でも、必ず治るか、必ず治らぬかのどちらかです」
「当り前じゃないですか」
「当り前でしょ。しかし、あなた方がやってることはそうじゃありません。大部分、中途半端で患者を苦しめつづけているだけです。私のいう、治るか、さもなくば治らぬか、というのは、死ぬか生きるか、ということで、実は、すべてが救われるのです。つまり原因は肉体の上だけにあるのではない、ということですよ」
「ああ、つまり霊魂とか」
安直に、半分からかったつもりでいった言葉に、辻は真面目に頷いて見せた。
「結局そこへ逃げ込む訳ですか」
「いや、逃げ込むのではなく、原因は結局そこにしかないということです。和彦ちゃんはこの間あなたによってすべて救われたのです。しかし、手術は無駄だった。手術後の施療も無駄ですよ。どうせ、包帯の巻き換えと、栄養剤の注射ぐらいのものでしょう。それと放射能治療、しかし栄養剤にしたところで、その良し悪しは本当にはわかっていはしないんだ」
「じゃ、坊やが元々救かったのだ、といういわれは何なんです」
「それはあなたです」
静かに|諭《さと》すように辻はいった。その瞬間、彼はひどく厳粛な眼で|覗《のぞ》くように治夫を見つめて来た。装ったものではないにしても、相手のそんな表情は、なんとはなし、いうところのものを|詭《き》|弁《べん》に感じさせた。
「誰かが和彦ちゃんの運命に関してつくった数式の未知数の項に、あなたがあの出来事ではっきりと一つの思いがけぬ数字をあてはめて下さった。それを見てやっと我々は、この数式が実は解けるものだったのだ、ということを悟らされたのです」
「しかし、私がやったことのそんな意味を|証《あか》すものは何もありませんよ。偶然はどうにでも意味づけが出来るが」
「偶然が|蓋《がい》|然《ぜん》であることを悟るためには、別の方程式がいるのです。失礼だが、それをおやりになったあなたにはそれがまだ無く、私たちはそれを持っているということです」
「仮説の数式をね」
「いや、違う。確かな数式ですよ」
「信仰でしか得られないものが、どうして仮説じゃないんですか。信仰というものは、所詮、個人的な心情でしょう」
「そうです。しかしそうであって、違います」
「どういうことかな」
治夫はふと気づいて辺りを見廻して見た。
当家の主人らしい年輩の女教師を含めて、広間にいる皆が、二人の会話を理解しようと努めるように、じっと耳を澄まして聞いていた。
している議論の内容への当惑と面映ゆさに、治夫は思わず菊江を窺ったが、彼女は願うような眼で彼を見返した。
何故か、その場でそんな議論をつづけることが自分の本意不本意に|拘《かかわ》らず彼女にもう一度何かを与え直すよすがになるような気がし、彼は努めて辻に向い直した。
「それなら、あなた方が絶対の頼りにされる経験というものが、果してそんなに確かなものですか。その絶対性は何です。それはただ、他人と共通した感覚的事実ということでしょう。しかし、信仰というものも、実は、初めは必ずそうした経験でしか基礎づけられないものですよ。
私には、あなたは今信じられないかも知れないが、私自身も、初めは信じられなかったそんな経験がいくつもあります。私は医者としてそれを納得しようとしたが、出来ませんでした。しかし、そうやって体験した事実は、医学の論理性にはあてはまらなかったけれども、科学全般の骨組になっている、合理主義の条件にはあてはまったし、ある意味で合理的な意味づけだって出来ましたよ。第一に、私はそれを明らかな感覚的事実として受けとれた。第二に、その事実に基づいた明白な仮説を立てて見た。第三に、そこから、明白な推理を論理的に引き出せました。そして第四に、私はそこから、一つの抽象的原理を明確に述べることが出来ましたからね」
「その原理とは、つまり、神さまですか」
「ええ、神と信仰です」
そして煙草をひねると、
「面白いものをお見せしましょう」
辻は立ち上がり横の事務室の机の引出しから、何やら小冊子と十数枚の|綴《と》じた原稿用紙を持って帰った。
「これは最近、フランスの学士院管轄下のある研究所の医者からとどいた資料です。あなたや私と同じ病理学をやっている男です。面白い内容なので、訳しておいたのですがね」
辻が手渡したパンフレットの表紙には、英語で、『泉の|奇《き》|蹟《せき》についての臨床報告』とあった。
「フランスとスペインの国境に近いピレネの|麓《ふもと》に、ルルドの泉という、カソリックの聖地があるのを御存知ですか。昔から巡礼や、信者が奇蹟を求めて|参《さん》|詣《けい》するので有名なところですがね。実はそこの泉の側に、数年前、フランスの学士院が国費で奇蹟研究所を建てて、医者を置いたのです。つまり、そこに|詣《まい》って病気が治ったという人たちを、医者として確かめカルテをつくるためのものです。これはそこにいた医者が発表した資料です。これによると、彼がいた四年間に、奇蹟と呼び得るものが、十七件確かにあったという。彼が奇蹟として認めざるを得なかった事実の資格は、内臓疾患や精神病のように、それまで他でしていた施療が、いつどんな風に効いて来て効果があったのかがわからぬようなものはすべて除き、巡礼が参詣前にカルテをとって、先天的にしろ後天的にしろ、医者が見て、器疾的に絶対に不治と診断したもの、例えば進行した|癌《がん》、先天的|聾《ろう》|唖《あ》者、或いは歩行が全く不可能な骨髄炎の患者等ですが、そうしたものが、泉に参詣し、その水を浴びることで、とにかく治っているのです。彼は医者としての論理でそれを認めている。
実は、彼が見知らぬ私にこのパンフレットを送って来たのは、以前私があるものに書いた論文まがいのものが、偶然にこの男の眼にとまったらしいのです。向うであった学会に出た日本からの参加者が、発表の中で、どこで手に入れたのか私の論文を引用したようです。この男の報告の中にもある例と同じ、悪質、というより骨髄炎でたちのいいものはありませんが、完全に助からぬと思われていた患者のことを書いたのです」
治夫はある感慨で眼の前の男を眺め直した。間違いはなさそうだった。
「あなたのその論文の中に、|淋《リン》|巴《パ》|腺《せん》癌の症例のことも書かれてはありませんでしたか」
「ええ。読まれたのですか」
答える前に、彼がこのことをまた何と説明しにかかるかを考え、治夫は苦笑した。治夫にとっては、これは少なくとも確かな偶然といえた。
「向うの学会であなたの論文を引用して発表したのは私のいる大学の市原という、私の|縁《えん》|戚《せき》の助教授です。そして実は、私が彼のためにあなたの論文を翻訳したのです」
辻はくわえて火をつけかけた二本目の煙草をゆっくり唇から外し、治夫を見直した。
「本当ですか。驚いた。これは思いがけない偶然だ」
治夫は、彼が多分不用意にいった偶然という言葉で、むしろこの男に新たな興味と身近さを感じることが出来た。
市原が土産の自慢話に、自分の発表に反応があったなどといったのも、こんなパンフレットが辻のところまで届けられているのを見ると、まんざら嘘ともいえないようだ。
治夫は改めて眼の前の男を見直して見た。どんな酔狂で市原がこの男の論文を資料にとり上げたかは知らぬが、翻訳をしながら、治夫は確かにある興味で、それを読んだ。辻がその中に書いた、医学にとっては説明のいかぬ、所謂奇蹟的な|快《かい》|癒《ゆ》なんぞよりも、そうしたものを踏まえて、わざわざ選んだ医学という自分の方法に見切りをつけ、何やら|胡《う》|乱《ろん》気な新興宗教の布教師になったと記している男が、医学にしろ後に選び直した布教にしろ、自分の方法を探して選ぶ時に、心の一番底で何を考え求めているのかを、治夫は、自分とは全く異なる種類の人間を眺めるような興味で想像して見たのだ。
そしてその男が今眼の前にいた。
辻は、治夫が漠然と想像していた人間に似ているように思えた。いずれにしろ見た限りで、この男の顔は、誠実そうだった。しかしそれにしても、この偶然を聞かされて彼の浮べた笑顔は、いかにも自信があり落着きすぎて見えた。
「どうですか」
微笑しながら誘うように辻はいった。
「このパンフレットを書いた医者にしても、認めざるを得ない事実がある、ということは認めています。あなたの縁戚の方が、学会でどんな発表をされたか詳しくは知りませんが、多くの医者が、そうした事実を認めています。ならば、何故、そうした事実があるのかということを、もっと積極的に考えないのですか」
あの市原が、なんとはなしこの男に買いかぶられていることは滑稽だった。辻の論文を引いたりして、市原が現代医学への根本的疑惑や、その限界を|云《うん》|々《ぬん》したりしたのは、辻とは全く違って、ただ当節そうした問題を投げかけることが、科学的なシニスムのポーズになることを彼が誰かから教わっただけにすぎまい。学会で|饒舌《しゃべ》ったこととは裏腹に、市原のような男は、一生、医学に疑問を持つことも、また本気で信じることもなしに終るに違いない。
「あなただって、こんなパンフレットを読まれなくても、そんな事例をとうにいくつか御存知の筈だ」
「しかし、それは|範疇《はんちゅう》の違う症例の比率の問題ですな。医学の論理と方法で、治る患者があれだけ多くいるじゃありませんか。勿論、治らぬものもありはしてもです」
「いや、そんなことをいわれると、話はまたさっきのふり出しに戻ってしまう。じゃあ、ただの腹痛でも、医学は完全に治していますか。栄養剤が、ただ栄養だけになり得ると、一体誰に保証が出来ます」
「そうなると、健康というものに対する主観の問題になりますよ。絶対の健康なんて、ありはしない」
「いやあり得ます。少なくとも、それを目指すことは出来る。医学では、それは出来はしませんが。その方法を私たちは世に教えようとしているのです。つまり、奇蹟といわれるもの。それを行う方法は、実は、奇蹟ではなし、当り前のこととしてある。医学よりも、もっと|完《かん》|璧《ぺき》に病を治せる方法が」
「つまり、本質的原因治療ですか」
「そうです、だから表面的治療の医学ではない、奇蹟があり得るのです」
「その病気の本質的原因というのは」
もうわかっているつもりだが、治夫は訊いてやった。
「その病を与えた、眼には見えぬ、つまり決して合理ではないが、しかし筋道のたった力の仕組を知り、それに順応することです」
「霊魂とか、因縁ですか」
「そうもいえます。結局、肉体は仮象であり、霊や魂が実象なのですから。霊の曇りが、肉体に現われて来る。それを眼に見えぬところでブレーキをかけたり、促したりするのがさまざまな因縁です。いずれにしても、実象である霊の曇りを治して清めなくては、仮象の肉体は何も治って来はしません。治ったように見えても、それはただの仮象です」
「どうも、それだけでは、私にはよくわかりませんがね。結局、もっと筋のたった説明が欲しくなる」
「だから、筋のたった説明、合理的な説明は出来はしないのです。しかし、幸いなことに、非論理だが、経験出来る事実は在る。ですから、残された唯一の方法として、私たちは推測し仮説をたてることは出来るのです。つまり、パスカルのいった、信仰の|賭《かけ》の理屈ですね。その仮説をたて、賭けて見ると、結果が当る。すべて、その仮説を証したてる結果ばかりが得られる、ということです。結局、我々のようなインテリという他愛のない人間は、経験し、それをあくまで経験として真面目にとらえられるかどうかで、思いがけぬ扉が開けて来る、ということでしかない」
「でも、何故、医学が全部無駄ということになるのです」
「ですから、否定ではない。ただ所詮無駄だとわかる、ということですよ。燃えてる何階建てかの家の、三階四階を消しても下が燃えつづけていれば、いつまでも火の手は上がるでしょ。私たちには、医学を否定する論理はない。あってもそれは合理的なものでないのだから。しかし、いずれにしろ、合理主義の科学というものを歴史的に眺めて見れば、科学は人間にとって本質的なさまざまなものを殺して来ましたね。要するに、科学は人間にとって仮象でしかないものを優先する。いや、それだけにこだわる、というより、もともとそれしか扱えないのですから」
「そんなことをいえば、私たちは自身の知覚を頼りに生きている限り、その仮象の中にしか生きられないのだからな。どっちを実象というにしろ、まず、あなたのいう仮象の方が先にある。患者の苦しみや病もね。誰にとってもそうでしょう」
「そうですよ。だからこそ、人間はその仮象の中で自分の存在以上の存在感を求めようとし、信仰の必要性が、意識に拘らず生じて来るのです」
治夫は今まで、自分の信仰について考えたことなどなかった。といっても、それを否んで来た訳でもない。辻にそういわれて見ると、別に改まって異存があるような気もしないが、といっていわれるままを受け入れられる気もしなかった。
笑いながら小首を|傾《かし》げて見せる治夫を察したように、
「要するに、試して見れば見るほど、仮説がたて易くなり、更に試せば、当りの結果が得られるということですね。その点は、新薬の製造道程と似ているようでもありますが。あなたのような方には、結局、純粋に医者としての好奇心で試して下さいという以外にないですね。ただ、現代の医者で、医学に不安や疑問を持ってない医者がいますかな。いたとしたら、その人は少なくとも医者としては誠実じゃない。優秀でもない。そして、不安や疑惑を抱いている方法を信じ切ったふりをするのは、患者に対しての気休めなどではなし、偽りの罪ですよ。医者は他のどんな科学者より、自分の方法に完全を願わなくちゃならぬ筈でしょう。
塩見さんの坊ちゃんにしたってそうです。坊やの最後の手術の執刀者が誰であろうと、その以前に、あなたは、あの病気に対して医学が何でしかないかを知っていられた筈です。違いますか。これは医者同士の打ち明けた問いとして」
覗くように治夫を見つめ、辻は笑って見せた。
「あなたは、坊やは治るといわれるのですね」
治夫は訊き返した。
「ええ。私は本気です。しかしあなたは本気でそういえますか。幸か不幸か、和彦ちゃんはもう耳は聞えない。だから本当のことをいって下さってもいい。お母さんはつらいかも知れないが」
これは一種のペテンだ、治夫は思った。
相手は|巧《うま》く|罠《わな》を張っていた。菊江が息子の聴覚を、一度はその生命までをもあきらめた、ということを辻は知っている。しかし、方法は異なるが、ともに、息子を救おうとしている人間の前で、彼女はそうはいわぬだろうし、そういわれることを望みもしまい。そして辻も、治夫と同様に、すでに試された医学ではこの患者が完全に救からぬことを知っているのだ。
「じゃあなたは何故、彼が必ず絶対に治るといわれるのですか。絶対ということをどうしていえるのです」
「いや、絶対にいえることは、いかなる病でも、塩見さんの坊やも、絶対に救かるか、絶対に治らぬかのどちらかだ、ということです」
「それは絶対という形容詞をつけた詭弁じゃないですか」
「違いますよ。この坊やの病気は、坊やだけじゃなし、お母さんやお父さんの病気でもあるんです」
辻は菊江に聞かせるようにいい、菊江は深く頷いた。
「長い人生でいろいろなことをして来た人ならともかく、こんないたいけな子供が、こんな病に侵されるということには、坊や自身以外のつくった、本質的な原因がある。でなければ、こんなむごい怖ろしいことがある訳がない」
辻は|誦《そら》んじるようにいった。治夫は何かいいたかったが、何をいっていいかわからずに黙っていた。
「この子には、信仰の意味が何であるか、霊とか因縁とかを司る力が何であるのかはわかりません。しかし親にはそれがわかる。だから、親が信仰を持ち、子供の病気の本質的原因を直そうと努めれば、子供は治るのです。
しかし、その病の原因があまりに大きく強くて、親がいくら努めても及ばずこの子供が終生病気に悩まされなければならぬ場合には、子供は、早く死ぬでしょう。終生、不幸に生きる代りに、死にます。神は人間に応えて結局、そのどちらかしかお与えにならない」
治夫にというより、菊江に向って断じるように辻はいった。
菊江はまた深く頷き返した。治夫は、相手のいうことよりも、菊江の反応が気になった。
「じゃなぜ、早く死ぬのか。それはですね、不幸な子供を持つ親には、そのような子供の持つ業因、霊の曇りがあるのです。しかし、信仰によって、その曇りが、少しでも消えれば、不幸な子供を持つ宿命がなくなったことになる。そうなるとこれに応じて、子供は治るか、死ぬかのどちらかでなくてはならないのです。お子さんが亡くなっても、その子供は、死ぬことでもっと次のもっと高い位の生を与えられ、来世にもっと幸せな形で|蘇《よみがえ》って来るのです。だから病は、絶対に治るか、絶対に治らず死ぬかのどちらかなのです」
治夫が口をはさもうとした時、辻は彼を無視したように菊江に向き直っていった。
「しかし塩見さん、これは一般論ですよ、あなたの場合には、その内のどちらの一つだという証しを、有りがたいことにもう頂いたのですから。奇蹟を予言する奇蹟がすでにあったのですからね」
この男が教えたのだな、治夫は思った。治夫がその意味を決めかねていた偶然を、彼より先に、この男が巧みに利用して彼女の心を|捉《とら》えてしまったことに、治夫はようやく腹がたった。
辻が今|饒舌《しゃべ》ったことが、彼のいう仮説の上の仮説のドグマであることを、菊江に明かしてやれそうな気がしたが、それをどう手つけるかの前に、そうすることが結局菊江に何をしか与えないかを治夫は考えて迷った。
こいつのいっていることは、たちの悪い麻薬の注射だ。或いはそれは人によっては一生効くかも知れないが、しかしそれを今|醒《さ》ませば、患者が痛んで苦しむことだけは確かだ、治夫は思った。
「そして、その奇蹟を与えたのがあなたなのです」
辻はわざわざ指で眼の前の治夫を指して見せた。菊江は操られたように、ますます深く頷いた。
「勿論、あなたにはそんな自覚はおありにならないかも知れない。しかし、あの出来事は正しく啓示です。あんなにさり気なく、あんなに手の込んだ、ただの偶然なぞあると思いますか。なぜあの時、あの場所にあなたがああいう形で選ばれていられたのです。他の誰でも、どこでも、いつでも良かったのに」
雄々しく、唱えるように辻はいった。菊江だけでなく、女教師や、出来事について知っているらしい、他の客たちも一緒に頷いていた。
こいつはまるで詐欺だ、治夫は思った。しかし、それに今反発することが、彼と菊江の間に今は何ももたらさないことを治夫は悟り直した。それに、この男にそういわれさえしなかったら、治夫自身、彼なりに考え、あの出来事に偶然以上の意味を持たせようとしたに違いない。
「お母さんにも、お導きしている私たちにもわからなかったことを、あなたが教えて下さった。或いは、助からず新しい生を与えられるのかも知れないと思っていたこの坊やが、その二つの内の一つ、絶対に治って救われるのだということをあなたが教えた。そのため以外の何のために、わざわざ、あの出来事があったというのですか。あれこそあるべくしてあった奇蹟です」
その時、初めて母親の横で絵本を読んでいた和彦が本を置き、顔を上げて母親を見、辻と治夫を見比べた。
その瞬間、治夫は今までのいつ以上に、この小さな患者に|憐《れん》|憫《びん》を感じた。
黙って三人を見つめた子供の眼は、辻が今までしたり顔に話していたことなんぞよりも、もっともっと奥の何かを問いかけるように見えた。見つめていると、引き込まれそうな和彦の眼を、治夫はふと不吉なものに感じて仕方なかった。
が、辻は|無頓着《むとんちゃく》に、かぶせるように言葉をついだ。その中に、また自分が出て来ることに治夫は腹を立てた。
「そして、このパンフレットにまつわる因縁、これも正しく、因縁でしょう。あなたが私の論文を資料として翻訳され、それをこの著者が読んだ。今まで私たちが経験した奇蹟に、これだけ|顕《あき》らかな証しが重ねて用意されたことはありませんよ。私は正直、さっきそうお聞きして、何だか|襟《えり》が寒くなりました。なんという眼に見えぬお力でしょうか」
辻はそこでゆっくりと合掌し眼を閉じて見せた。仕草は|大《おお》|袈《げ》|裟《さ》ではなかったがますます確信に満ちて見えた。治夫にはそれが腹だたしかった。
辻に|倣《なら》ったように、菊江も合掌していた。
ということなら、俺の役は一体何なのだろう、治夫は思った。
結局のところ、あの時和彦を救けたのが、彼でなくても、辻のいい分は同じだったに違いない。ただ、それが治夫であったということで、菊江にとって、話は一層|信憑《しんぴょう》性を増した訳だ。
合掌を解き、辻は微笑し直して治夫を見た。その顔は、自分が今までいったことは、お前にわかろうとわかるまいとどちらでもいいのだ、というようにも見えた。実際、治夫は彼にとってただの証人に過ぎない。辻は治夫が命を賭けてやったことを、彼の布教のために体よく横からかすめとったのだ。しかしこの男がいなければ、治夫がやったことに対する菊江の感謝の気持も、多分もっと違ったものになったに違いない。どちらが良かったかは、まだよくわからない。
辻は待つように治夫を見つめていた。そっちが何をいおうとやろうと、この母子はもうこっちのものだ、という自負がその顔にうかがえた。
この男が医学を捨てた、はたから見れば、馬鹿正直ともいえる動機については疑わなかったが、それに心を動かされる前に、彼が今示し持っているその自信に、菊江母子が介在していることに、治夫は訳もなく反発を感じた。
が、菊江を見比べながら、この際、治夫は口を閉じた。多分、今彼がどうすすめても、彼女はこれ以上医者に頼ろうとはしまい。たとえ彼女が気持をまた変えたところで、辻がいったように、結果は知れているのだ。結局、今彼女が信じて賭けた信仰が、母子にとって最後の|術《すべ》でしかあるまい。他の救からぬ患者やその周囲は大抵、そこまでいかぬ内にあきらめるだけの話ではないか。
彼女が今選んだ方法の可能性を信じるかどうかの前に、それが少なくとも害がないということだけはわかっていた。ならば、それを止めだてする理由もないということになる。
ただそのために、かつての病院時代の彼に代って、塩見母子のために、今、この辻という男がいるということに治夫は|焦《いら》だった。
病院にいた時自分にすがった以上のものを、今菊江はこの男の言葉に賭けている。それが彼らにとって最後の術であるが故にも。
これはどういうことなのか、自分でも|怪《け》|訝《げん》な思いで彼は考え直した。自分にとってこの母子が何であるかを考えるための、新しい手だてがそろったような気がする。
治夫はこの前の夜、菊江が帰った後、英子がいったことを思い出して見た。
あの時はそういわれ、それが当る当らぬの前に英子の|嫉《しっ》|妬《と》がなんとなし快くて笑ったが、今自分も英子と同じように、この辻という男に焦だっているのだろうか。そんな気もするが、少し違うような気もする。
それならまた、英子は一体俺にとって何なのだろう、彼は改めて思った。
ただ、この感情が何であろうと、菊江たちのことを、自分以外の人間にまかすことが許せない。思いがけぬ他人が、思いがけぬ形で彼と菊江たちとの間に介在し、それに焦だつことで、彼は改めて、菊江母子こそが、彼が生れて初めて手に入れた何かであるような気さえした。
確かにそれは、彼が初めて味わう、他人に対する切ないほどの感情だった。それが一体何かを定かに出来ぬまま、それを喪わぬために、たとえ辻に利用されようと、治夫は今のところ、辻に|讃《たた》えられる奇蹟の証人の役を降りずにいることにした。ということは、菊江が、辻の説く方法を信じることを妨げずにいるということだ。
ふられた役への忠誠を証しだてるためにも、彼は辻が顕らかに半ばからかい試すように誘った神霊治療を、和彦と並んで受け、帰り際には菊江と並んで、床の間の神殿に二礼三拝して合掌して見せた。
彼女に倣って同時に頭を上げ、合掌を解いた時、治夫をふり返った菊江の|安《あん》|堵《ど》の微笑に、彼は辻の前でのこの屈辱から救われることが出来た。
「あなたがもし、お暇な折々、ここに来て下されば、いろいろなことをじかに見て、御自分の判断の上で、この御道を理解して頂けると思いますが。それにしても、たとい、今日だけでも来て頂けてよかったですね、塩見さん」
辻にいわれ、菊江は深く頭を下げた。
その瞬間、今までの口論の筋道をみんな|放《ほう》り出して、治夫はこの男に反発以上の、憎しみに近いものを抱いた。
そういって菊江をふり返る辻の居ずまいには、治夫の前で、まるで自分が手をつけ、ものにした情婦に対するような自信となれなれしさがあった。
あれだけの話を聞いても、その理解は、治夫にはどうでもいいことだった。もともと本気で信じている訳でない医学という方法は、この際彼にとって、自分と菊江母子を|繋《つな》げるためだけのものだったのだから。
しかし今はそれを飛び越して、いわば治夫とは違う方法で菊江母子を奪いとった相手に、奪われたものの憎しみを治夫は抱いた。
治夫を前に辻の行なった講釈も、治夫のためではなく、結局自分が捉えた獲物をもっと確かに掌の内にするためのものに違いない。最後に合掌し合う二人を見て、治夫はそれを悟った。
この相手に対する気持をどう現わすか、或いはどう抑えていいかわからず、治夫は急に黙り込んだ。
そんな彼を見やりながら、辻は自分の講釈がこの新来にも効果あったと思ってか、急に愛想よく、新しい茶をさすように事務員に命じた。何か叫んで菊江と和彦の手を引きずって立ち上がりたい衝動をこらえて、治夫はなお黙ったまま坐っていた。
この気持は一体何なのだろうか。彼はまた自分に問うて見た、案外嫉妬というやつなのかも知れない。何で俺がこの男に嫉妬するのかは別にして、とにかく今までこんなことはなかった。
確かに、生れて初めての感慨だった。どこに身を置いていいかわからぬまま、治夫は菊江がその家を辞して立ち上がるのをじっと待った。
家まで送って別れ際、
「どうも有りがとうございました」
心底感謝して頭を下げる彼女に、自分があの家まで一緒に行ったことが、彼女がした賭のどれだけ支えになっているかを感じ、彼は得心しようとした。
「もうひとつだけおうかがいしますが、お宅の御主人もこの信心をなさってるのですか」
治夫が尋ねた時、はっきりと菊江の顔が曇り、答える代りに彼女はうつ向いた。
治夫はある満足でそれを眺めた。彼女の家庭の中で、夫が、彼女の新しい賭を信用していないということは、治夫にとって分のある条件だった。菊江と辻との奇妙な三角関係の中で、治夫はやっと味方を見つけることが出来たような気がした。
「どうしてですか」
慰めるように治夫は訊いた。
「あの人、もう何もかもあきらめてしまったみたいで」
「何もかもとは」
「この子の病気で、いろいろ無理もいたしましたし」
治夫は菊江のいうことを感覚的に理解した。この家の長である夫に、子供の思いがけぬ病気は、精神的だけではなく、いろいろな打撃を与えたに違いない。
辺りの開発からここだけとり残された感じの塩見家の屋敷は、周囲の木立に|翳《かげ》って|他《ほか》よりも早い|黄昏《たそがれ》の中で陰鬱な衰退を感じさせた。
病院にいればわかることだが、余程の貯えがない限り、子供の奇病大病で、衰えたり救われたりするのは親も一緒だった。子供の命だけではなく、救われなくてはならぬものは、塩見家の他にもありそうだった。
もし、あの男のいっていることが本当だとしたら、俺がこの次に、この家族に示してやれる奇蹟とは一体何なのだろうか、ふと治夫は思った。
「お困りのことがあったら、どうか、何でもおっしゃって下さい」
彼は将来を測るようにいった。
|僭《せん》|越《えつ》なその申し出も、辻の講釈が治夫の役割をあのように説明した限り、菊江にとっては啓示に近いものである筈だった。
菊江と一緒に行った|御《み》|霊《たま》の道教会の様子を話すと、英子は急に黙りこくった。その沈黙が彼女の不機嫌を現わすのを、治夫はすぐに感じとった。
しかし不機嫌の訳が、この前の夜菊江が帰った後に英子が見せたものだとしても、沈黙は大袈裟なような気がする。治夫は場合によっては、最後に、あの教会で布教師の辻に感じた自分の憎しみについても、話していいつもりでいたのだ。
たとえあの気持を自分で嫉妬と呼んで打ち明けてもなお、英子に対して後ろめたいものは感じない筈だった。それは、彼と英子の間とはカテゴリーの違う関係における感慨の筈だった。
「どうしたんだ。聞きたくないのか。妙な議論をずいぶんやったが、案外、君が聞けば面白かったかも知れないけどな」
「それはどういうこと」
英子は|咎《とが》めるように|訊《き》き返した。
「君は彼女の信仰に理解があったみたいじゃないか」
「だからどうしたのよ。そんなこといったって、私を連れていかなかったじゃないの」
「だって医者として行ったんだからな」
「前もそういったわ」
「おい、この前の妙な話をむし返すのはやめてくれよ」
「じゃなんで、あの人の前に私がいるとまずいの」
「誰がそんなこといった」
「じゃ、この前なんであんなに慌てたのよ」
「どういうことだ」
「あなた、あの人が来て、ずいぶん慌ててたでしょう」
英子はこの前の夜以上、あの時の治夫の様子の意味をとり立てて咎めようとしていた。彼はそれを感じた。
「妙ないい方はよせよ。君は何か、|嫉《や》いてるんじゃないだろうな」
封じるつもりでいったが、
「それはどういうこと」
英子はなお、逆に切り返した。
「じゃ、なんでそんなことをいうんだ」
彼を見返し、ゆっくり何か呑み込むと、
「あの人、あなたにとって、何なのよ」
「だから、因縁で結ばれてるんだそうだ」
「誤魔化さないで。あなたはどう考えているの」
「どうって、実は、俺にもよくわからない。ただ何とはなし、とても気になる。それは確かだ。だけど君、相手は治らぬかも知れない病気の子供をかかえた母親だよ」
|一寸《ちょっと》の間黙って見返すと、
「あんた、お母さんがあんなでいないから、代りが欲しいの」
英子はいった。
治夫は思わず英子を見直した。どんなつもりでいったかは知らぬが、ひどく専門的な表現に聞えた。
そしてその着想は、なんとはなし、彼にとって快いものにも感じられた。
「なるほど、そういう見方もあるのかね。案外そうかも知れない。すると、あの病気の子供が俺の代りということになる」
彼は急いで知っている限りの、精神分析のパターンを思い出そうとして見た。それは平凡だが、いかにも、あてはまりそうなことに感じられた。
気勢をそがれて不満気に、英子は彼を見直した。
「だけどあの人はあなたのお母さんじゃないわ」
「だからそれを自分のおふくろに見たてているというんだろ。専門的にも合ってるようだぜ」
「また誤魔化す。それだけじゃないわ」
「じゃ何なんだ。変に水を向けない方がいいぜ」
「いや」
彼女はそれ以上、言葉がなくなったように、突然むしゃぶりついて来た。
「私は何なのよ、じゃ」
「君は、君はだ、少なくともおふくろの代りじゃない。だったらこんなことしないだろう」
抱きとめながらいう彼へ、
「何なのよ」
急に甘えてすがるように英子はいった。
「なんでそんなこと急に訊くんだ」
「私、不安だわ」
「不安、なんで」
「この前、いったこと本気なの」
「いつ、何といった」
「忘れたの」
咎めるように英子は、抱かれたまま、片手で彼の無事だった方の肩を突いた。
「何ていったっけ」
「どんなつもりでいったのよ」
「だから、いつ、何て」
「あの子を救けた晩よ」
「あの晩」
「そうよ。一緒になってもいいっていったわ」
間近に、真剣に|覗《のぞ》きこんで英子はいった。
見返しながら、治夫は自分に説いて、答えるべき言葉を慎重に選ぼうとした。その前に、彼は或いは自分が|迂《う》|闊《かつ》にいったかも知れぬその言葉に、当惑していた。
確かに、あの時、そんなことをいったような気がする。しかし、今となって、しかも菊江のことを話題にしながら考えると、その時の感慨は、ひどく遠く、不確かなものにしか感じられなかった。
「ああ、いったよ」
仕方なく、彼はいった。
「どういうこと」
「その通りのことさ。しかし君がそれを必要とするかどうかは知らないが」
英子は黙ったまま、測るように彼を見返して来た。
「私のせいにするの」
英子は大人びた微笑を浮べて見せた。
「そうじゃない。二人それぞれのことだからな」
黙ったまま|尚《なお》見つめ、|暫《しばら》くし、
「でも、このままでいって、私たちどうなるのかしら」
英子はいった。
この女も結局同じことをいうのか。英子が今までの女たちと違った何かを彼に与えたとしても、それを何で互いに言葉にして確かめ合う必要があるのか。人間という奴は、同じようにこらえ性がなくて、いつも同じことをくり返す。彼は思った。丁度、ふり返ったら石になるという|呪《じゅ》|文《もん》を忘れて、ふり返り、どいつも皆石になってしまうようにだ。
「ねえ」
せかすようになお英子はいった。
化粧のはげた女を見るような気分で、治夫は腕にしたものを眺め直した。
もう一度、もっと確かにいうことは|容易《たやす》かった。その時それをいわれて安心しても、結局は表われてしまった言葉の嘘が、しみ込む水のように重なり合っていたものをはがすのだ。それは、他の星座図に真似て、今見ている星と星を結んで自分勝手な星絵を描くようなものだ。時がたてば星が動いて、そんな図柄はすぐに崩れて無くなってしまう。
英子を含めて、自分以外の人間との|関《かか》わりに意味を持たせたところで結局それが何にもならぬということだけを、俺も、この女も、知って来たのじゃなかったのか、彼は思った。
他と比べて二人のこの関係の意味は、それをいわずにすむ黙約ともいえた筈だ。
「ねえ」
英子はまたいった。
「どうもこうもないさ。こうなるんじゃないか」
彼女を抱きしめ、うなじに接吻しながら治夫はいった。
が、接吻は外され、彼を突きのけるようにして、
「駄目よ、誤魔化さないで」
彼女はいった。
「誤魔化しちゃいないさ」
俺は前にも同じことをいったことがあるな、と彼は思った。
「じゃ、何といったらいいんだ」
彼女の体に手だけをかけたまま彼はいった。
「君なら、僕になんていうんだ」
「|卑怯《ひきょう》だわ」
「そうかな」
「そうよ」
「俺にはわからない」
「わからない訳ないでしょ」
肩にかかったままでいる彼の手を自分で外しながら英子はいった。
たった今もつれた時、ブラウスの|釦《ボタン》が外れ、すいた襟の間から、彼女の太りじしな胸元が覗けて見えた。
どうしてこの女までが、俺たちの関わりが、結局、俺もそのために待ち、彼女もそれを期待してやって来る、たった今から二人がしようとしていることのためだけにあって、関係の意味だの価値だのも、そのことの中にしかないということを認めようとしないのだ。それじゃその他に一体、何があるというのだ、彼は思った。ありもしないそれ以外のことを、|尤《もっと》もらしくあるようにいう習慣の嘘を、俺たちだけは知り尽して来たのじゃないのか。
彼の視線に気づいたように、英子は外れていた胸元を指で直しかけた。治夫は今、それを喪うことは出来ないと思った。
そしてそれを確保するために、
「だから、何があっても、俺は君を喪えない」
自分が聞きとらぬ内にいってしまうように、彼はつぶやいた。
英子は胸元に手をかけたまま、|質《ただ》すように彼を見返した。
彼の言葉をどうとったか、
「本当、それ」
「何で嘘をいう必要があるんだ。それよりも君はどうなんだ」
こんな風にして、いつかも、何かをとりあえず繋いだことがある、彼は思った。
「私もよ」
英子はこっくり|頷《うなず》いた。
他愛ない気がしそれならいいじゃないか、いおうとして彼は|止《や》めた。
そのまま黙って見つめている彼の腕の中へ、英子は自分の方でもたれて来た。
「馬鹿だな、君は。どうかしてるぞ」
「でも本当よ」
彼女はいった。
「本当によ。私から逃げちゃいやよ、私もう離れないわ」
確かめるように腕の中で彼を見上げながらいった。どう答えるのも面倒で、治夫はそのまま彼女に接吻した。
唇を離した後、なおもたれながら、
「私、不安なの」
英子はまたいった。頷きながら、治夫も何となく、彼女と違って不安なような気がした。
彼はふと、以前、英子としたあの|完《かん》|璧《ぺき》な共同作業を思い出した。
俺たちが今手にしようとしている快楽を、あの男がはばもうとしたからこそ、二人ともあれだけはっきりとあの男を憎み、完璧にそれをとり除いたのじゃないか。この女が持った、この|艶《つや》やかなセクスを介在して、俺にとってあの男がい、俺はあの男をあれまでに憎めたのだ。それ以外の何のために、一人の人間が殺せるというのだ。何故この女は、このことだけに|留《とど》まれないんだ。
彼女が留まれない限り、その先にあるものは見えている。その平凡な結果が、この快楽を相殺してしまうことに、治夫は今から不安と同時に腹が立った。
半月ほどしたある日突然、菊江が病院に訪ねて来た。
「こんなこと、緋本さんには全く関係ないことなんですが、でももうどうしていいかわからずに御相談に上がったのです。他に誰も相談出来る人がいないんです」
うつ向いたまま菊江はいった。
彼女は今日は息子を連れずに一人だった。そのことが、息子に関わりない彼女の他の何か火急な用件を|証《あか》していた。
治夫は満足だった。相談が何なのか見当もつかぬながら、彼女がいった通り、自分に関わりない何かについて彼女がわざわざ相談に来たということに安堵をさえ感じた。
話を聞く前に、出来れば、このことをあの辻という布教師に相談したかどうかを確かめたいと思った。
「何かわかりませんが、僕に出来ることなら何でもします。おっしゃって下さい」
治夫はいった。
最初はまだ臆したように、
「本当に、こんなこと御相談して申し訳ないのですが」
彼女は同じいい訳をくり返した。彼女がこの相談を今まで他にしたかしないかは別にして、誰からも満足のいく忠告を受けていないことだけは確かだった。気負った自分を抑えるように、
「どうぞ」
患者の告白を聞く医師のように努めて、治夫は促した。
確かに、菊江の相談は治夫には全く関わりないことがらだった。彼の専門外、というよりも、並の知識の上でも、一番うとい領域のことだ。しかし彼は、相手のいうことを充分理解し、その上で何か適当な処置がとれるかも知れない素振りで話を聞いた。
彼女の夫の仕事は大分前から余り思わしくなくなって来ていたが、和彦が発病してから子供の治療に気をとられてますます手がつかず、その間、組んでいた相手が仕事に見切りをつけ彼を|騙《だま》して逃げ、会社の借財の責任が全部彼に廻って来た。
加えて、和彦の数度の手術と治療に予想以上に経費がかさんで、家の経理の収拾がつかなくなり、夫は考えていた新しい事業の資金にするつもりだった、最後に手に残った近くの土地を売る決心をしたのだが、その取引でまた人に騙された、という。
それまで塩見家の土地の整理は一昨年まで生きていた夫の父親が眼を通していたが、そんな仕事に馴れぬ彼女の夫が初めの終りで扱った取引に、相手に|旨《うま》く載せられたのだ。
相手は|舅《しゅうと》の代から出入りしていた不動産屋だが、取引の相手が変ったことで欲が出たのだろう。それにしても、|素人《しろうと》の治夫が聞いても、赤ん坊を|縊《くび》り殺すように、手もなくひっかけられている。
菊江はそこまでいわなかったが、相手の不動産屋からすれば、先代と違って、菊江の夫は取引に関し無知に近かったのではないか。
治夫は一度、あの手術場の前で会っただけの彼女の夫の印象を思い出そうとしたが、出来なかった。不思議に、全く印象が残っていない。初対面に、治夫を捉えたのは、つき添った母親とその小さな息子の印象だけだった。
彼と塩見母子との関わりの中で、菊江の夫の存在は初めから|稀《き》|薄《はく》でしかなかった。しかし彼にとって何だろうと、夫であり父親である男のへまが、妻と子を追い込もうとしていることに違いはない。
菊江の夫は、辺りに進出して来た大企業の申し込みを断わり、今まで手に残した、二千坪ほどの雑木林を半分売って、その金で残り半分の土地に、ある新製品の下請工場をつくるつもりでいた。
しかし、家に出入りしていた三津田という不動産屋が、土地を二分することは得策でないと説いて、ある大企業の工場用地にまとめて高値で売っての利食いを熱心にすすめた。
治療とつぶれた会社の整理に急いで金が要り、結局夫はその説得に動かされた。
しかし、三津田がもって来た売口はいくつかあったが、価格や条件が合わず、むしろ三津田自身が、この条件では損だからといって、急ぐ塩見を抑え、条件のいい相手を捜して待つように説いて来ていた。
一月ほど前、以前の仕事の取引先から、ある大手の食品会社が都心に近い製造工場の用地を捜しているという紹介があった。
相手も急いでい、取引の立場はこちらの方が強かろうということで、出向いて行ってした話し合いでは、今までかかった口よりも価格が押せて、塩見はその相手に売却する決心で帰って来た。
丁度その頃並行して、ある印刷会社と取引の交渉をすすめているといっていた三津田に塩見はその報告をしたが、三津田は、自分のしている話も同じ条件になるかも知れぬからその返事はもう少し延ばしてはどうかといった。
相手もあることだし、塩見は三津田からの返事に日を限って、相手の食品会社への返事を待ったが、約束の日が過ぎても三津田からは何もいって来ない。電話をしても、訪ねて行ってもいつも三津田は不在だった。
その内に突然、相手の食品会社から、取引の前に、敷地計画の係員が物件を見に行ってみたら、他の会社の依頼でどこかの建設会社が地盤のボーリングと整地の工事の準備をしているという、文句が来た。
信じられず現場へ行って見た塩見は仰天した。その時すでに、印刷会社の工場用地と看板まで立って工事が始まっていた。
かけつけたが、三津田は相変らず不在、というより店が閉っている。|埒《らち》があかず、当の印刷会社まで出かけて行き、塩見は更に思いがけぬ事実を知らされた。
会社はすでにあの土地の買収を、塩見ではなし、三津田との間に正式に行なってい、土地所有権はすでに会社へ移っていたのだ。
なお調べてわかったことは、その取引の前に、土地は三津田の名義に一度換って登記されてある。所有者名義変更の理由は、塩見の前につぶれた会社の借財の貸し方債権を、どこでどう連絡とってか、その相手から三津田が肩代りし、その返済に代えて塩見が物件を譲渡したことになっている。そのための土地の代価は、実際の市価の約八分の一に見積られていた。塩見から三津田への名義変更は、その手続きを塩見が白紙委任したことになっている。
そこまで来て、塩見はやっと三津田の|罠《わな》のからくりに気がついた。
委任状は三月ほど前、塩見が願っていた通りの価格であるミシン会社と明日にも話がまとまりそうになった時、相手側の手続きの書類一切を|揃《そろ》えて見せた上で三津田が塩見からとったものだった。しかしその話は、相手の勝手な都合で、土壇場で流れた。
三津田はその時、相手を信用しすぎて、手金をとらなかった自分の非を、塩見に向って、畳に手をついて|詫《わ》びたのだ。
念のため、塩見はそのミシン会社に連絡し直して見たが、会社が塩見の土地に目をつけた、というのは初めから三津田のつくりごとだった。三津田が持って来て見せたミシン会社側の書類は偽造で、三津田が自分で自分のつくり話を御破算にしたのだ。
そして、その偽造は、すでに証拠もなく、告訴の理由にはなり得なかった。
明らかなことは、三津田はその以前からすでに、塩見の土地の詐取を計画していたのだ。そして、先代とは違って、塩見は易々とそんな飼犬に手を|噛《か》まれた。
三津田が、塩見の署名した白紙委任状に加筆し、その上に、偽造した実印を押しているのも明らかだったが、法的には、塩見自身の署名がそれを有効にした。
同情した食品会社が、会社関係の弁護士に相談させてくれたが、専門家の意見は悲観的で、告訴しても勝味はなく、要は塩見の取引の無知による軽率であり、解決は両者の話し合いによるしかない、ということだった。
そう聞かされても治夫に弁護士以上の知恵の浮ぶ訳はなかった。世間でよく聞くような話がここにもある、ということだが、ただ確かなことは、そのために菊江母子が完全に恐慌を来たすのだ。
塩見にとっては決定的な打撃だったのだろう、何度出かけて行っても三津田にとり合われぬまま、この頃ではどこへも出かけず、一日家にいながら妻や子とも口を利かなくなったという。
「前は、自分から家でお酒を飲んだりしたことなぞなかったのですけれど」
眼を伏せたまま菊江はいった。
能のないまま仕事に失敗し、妻子にも当れず一人で青ざめ酒を飲んでいる亭主など俗極まりないが、うつ向いたままの菊江を眺めると、彼女と息子の追いつめられたありさまが治夫にも伝わって来る。
事態がもうどうにもならぬということは、誰よりも彼女の夫がよく知っていることなのだ。しかし、どうにもならぬですむことではなく、だから、菊江がこうして彼のような筋違いの相手にまで出向いて来たのだ。
「他にどなたかに御相談になりましたか」
治夫は試すように訊いた。
「いいえ」
菊江は|窺《うかが》うように見返した。彼女があの布教師の辻のところへ相談に行ったかどうかわからぬが、行ったにせよ、頼り|甲《が》|斐《い》のある何の解答もなかったことだけは確かだろう。
「こんなことになりますと、私たち、何も世間のことがわかりませんもので、他にどなたに相談していいかもわからず」
菊江はまたいった。彼女のいう、私たち、というのが、彼女と夫か、それとも彼女と辻たちのどちらかわからぬが、あの男がこんな相談を受けて答えそうな文句は想像出来るような気がする。いずれにしても、それがこの急な場合に、何の救いにもならぬことは誰よりも菊江が知っているに違いない。
そう思うと、治夫は満足し、彼女に与える最初の言葉を|慮《おもんぱか》った。
俺が今このことで、彼女にしてやれる|奇《き》|蹟《せき》とは、どういうことになるのだろうか、治夫は思った。
そして、その奇蹟を今どうしてもしなくてはならぬ。それこそが、菊江から、あのしたり顔な辻という男を突き放す唯一の|術《すべ》に違いなかった。
少なくとも今はまだ結果の知れぬ子供の病気では、仮説もなり立ち、選択も出来た。しかしこの出来事はすでに起り、そして大方の決着がついてしまっているのだ。ここで起る奇蹟とは、事態が少しでも彼女たちによく動き直す、ということだろう。それは、彼らを陥れた|狡《こう》|猾《かつ》な相手と、もう一度戦い直すことだろうが、彼女の夫はすでにそれをあきらめてしまったようだ。
治夫が今すべきことは、菊江にとって、唯一の男である夫に代ってのことに違いない。治夫は心の中で辻と夫を消去した上で、やり甲斐を感じた。考えて見れば、この前の捨身の救出も、|勿《もち》|論《ろん》そこに居合せはしなかったが、仕事としては子供の父親の仕事だった。
「専門が違いますから、私には確かなことはいえませんが」
そういっただけで、菊江はすがるように彼を見直す。
俺にではなく、この女にとって、俺は一体何なんだろうか、彼は思った。
次の言葉を、更に選びながら、彼はいった。
「とてもこのまま許せる話ではありません。私に許せぬならば、世間が許さぬということです。何か方法を考えましょう。私からも、人に充分相談して見ます。お急ぎと思いますが、少し時間を下さい」
菊江は何度も頷いた。
結局最後は紋切り型の|労《いたわ》りと励ましで送り出したが、それでも別れ際の菊江の表情は、初めより安らいで見えた。そしてそのことに、それがこの後、どんな負担になるかは知らぬながら、治夫は満足だった。
夕方病院へ電話して来た英子と夜、外で逢った。
彼が昼間逢った客の用件について話すと、英子は怒り出した。
「一体どういうことなの。あなたもあなただけど、あの人あなたを、何と思ってるのかしら」
「何だろうと、とにかく気の毒じゃないか」
「それであなたどうするつもり」
「何とかしたいと思っても、医者には土台わからん話だしな」
いいながら、菊江とのやりとりについて、英子に嘘をつくことに治夫はふと小さな楽しみのようなものを感じた。
「本当にそういってやったの」
咎めるように英子は念を押した。
「いったさ。それしかいいようないもの」
「どういう家なんだろうね。親がそんなじゃ、子供も病気になる訳よ。詐欺は信心じゃ直りはしないわ」
「全くだな」
自分に代っていった英子に満足して彼は頷いた。
「あなた、そんな話深入りしない方がいいわよ、いくら可哀相でも」
「深入りするったって、しようがないよ、もう」
逆に、英子に何かを許されたような気分で彼はいった。
確かめるような眼で見返す英子に、殆ど気がないように、治夫は自分から話題を変えた。そして英子はすぐにそれに乗った。
彼女に受け答えながら、治夫は明日、菊江から聞いた食品会社の顧問弁護士に連絡をとって様子を聞き直そうと思った。それを知らずに何か熱心に話している英子を眺めながら、治夫は久しぶりに、他人の女を盗む時と同じようなときめきを覚えた。
菊江が彼にとって、そして彼が菊江にとって一体何なのか、まだ確かにわからぬながら、その二人の間に英子がどうやら嫉妬染みて気を病むことで、彼は菊江との関わりの意味を教えられるような気がした。
翌日食品会社の総務に電話して尋ね、菊江がいっていた弁護士の事務所に電話をかけた。約束をとり治夫は教授に届けて早退し、九段にある事務所を訪ねた。
治夫の相談を受けたのは、法律事務所の若い弁護士だった。治夫は、菊江の|従弟《いとこ》と名乗った。
「ひどい話ですが、あのケースは救いようありませんな。相談した相手も|欺《だま》し易いと見て初めからその気で用意をしていたようですね。残った手はまあ仮処分の申請、それもたとえ出来ても、結局、いやがらせ程度にしかならんでしょう。裁判が成立しますかな。委任状はあるし、短い期間でも、前には実印を預けたりまでしてるんだから、とにかく無知ですよ。東京近郊じゃもう余りないが、何かで開発ブームの地方に行くと時々こういう悪質な話がありますがね」
「すると、結局」
「完全に負けですね。後はただ、相手に道義的に訴えるしかない。とにかく会えなきゃね。被害者の方も、一寸性格が変っているというか、ま、それが当り前でしょうが、大分感情的になっているようでしたね。気持を収めて話し合うか、それとも誰か冷静な第三者を立てるかするのですな」
自分が直接担当することがないと知ってか、相手はかえって親身になった顔でいった。
「被害者は大分追いつめられているようですが、余り騒ぐと相手を余計に刺激するから、冷静に訴えることです。何か、重病のお子さんがいらっしゃるとかいってたようですが、そこらから相手の気持を突くよりないなあ。相手も人間だし、尤も、鬼や蛇みたいな人間も大勢いますがね。とにかく、聞いた限りでは、弁護士が出て行く前の次元で成立しちゃった事件ですね」
最後は逃げるようにいった。
「塩見さんは、訴訟を起す気でうかがったのでしょうか」
「いや、うちはただ相談にのっただけですが、それは依頼すれば、どの弁護士でも手続きはとりましょうが、しかし、まず無理だとは忠告するでしょう」
事務所を出ながら、治夫はその不動産屋に自分で出かけて行くことに決めた。
話し合いしかないというなら、誰かがそれをしなくてはならぬ筈だ。相手とのかけ合いに、彼は医者としての立場を利用するつもりだった。相手を脅すなりすかすなりする|術《すべ》は、結局弁護士もいったように、和彦の病気よりないような気がする。
アパートへ戻る途中、電話帳で調べ、三津田の事務所に電話して見た。八時近かったが、男の声が出た。
三津田かと|質《ただ》した治夫へ、答える前に、相手は用件を訊き返した。
名前を告げ、売却を依頼したい物件があるので会いたいが、このところ店が閉っているようだ、といった。
相手の声は矢張り三津田で、明日は一日出ているが、夕方六時以後なら、こちらの店でなく国電の駅で二つ先の町に新しくつくった事務所の方にいると答えた。
三津田の事務所は、駅横の、区画整理で建て直された三階建ての商店街ビルの、一番外れにあった。|灯《あか》りはついていたが、表の扉は閉っている。戸口のベルを押すと、若い男が横の窓のカーテンから顔を覗け、扉をすかして|質《ただ》した。昨夜の電話のことを話して名乗ると、一度扉を閉め奥へ尋ねてから治夫を招き入れた。
入る時気づいたが、ムサシノ不動産という看板に並んで、ムサシノ商事という看板が出ている。店の中は、街の不動産屋としては小広く、セメント床の七、八坪の室内に、新しいスチールの事務机がきちんと五つ並んでいる。|他所《よ そ》の不動産屋にあるように、物件の張り紙は一枚もなく、代りに、「物件」と書いたスチールの書類整理箱が二段に積まれてい、正面の壁に近郊の地図が張られ、何やら色とりどりの印が書き込まれてある。一見して、街の不動産屋より、仕事の量も|一《ひと》|桁《けた》上で、景気は良さそうだった。
固い髪の毛を無理矢理ねじ伏せようと一杯にポマードを塗った、爪の汚ない若い男が、事務机だけで手狭な室内に、無理矢理据えたソファのセットに治夫を案内した。男が歩く度に、甘いポマードの匂いがし、治夫はそんな匂いをずいぶん久しぶりに|嗅《か》いだような気がした。
不意の若い客に、店の男は茶を入れるべきかどうかをためらったように奥の隅の小さなガスレンジの前に立っていた。治夫が坐るとすぐに、奥の戸が開き、手洗いで顔でも洗っていたのか、ネクタイをゆるめ、ハンカチで顔の辺りを拭いながら五十がらみの男が出て来た。
それが合図のように、若い男はレンジに火をつけた。
「お待たせしました。三津田です」
男は愛想よく頭を下げるとネクタイを直すのを忘れてそのまま腰を下ろした。
上背が高い癖に|猪《い》|首《くび》の、陽焼けた顔は荒れて|皺《しわ》が濃いが、髪の毛だけが不釣合いに濃く黒い。男の声は、割れているが昨夜聞いたよりも甲高く、全体の印象と似合わない。何の帰りか、黒いダブルを着てい、地方の議員のようにも見えた。狡猾そう、というより、精力的に見える。
名乗った後、治夫が何もいわぬ前に、三津田は時間外の、今日最後の仕事に気をとり直したように笑って見せた。
「実は、昨夜お電話したとは一寸違う用件で上がったのです」
相手はいわれたことが解せなかったように、笑ったまま治夫へ頷き返した。
「私は、あなたと取引のあった|保《ほう》|谷《や》の塩見の家内の|親《しん》|戚《せき》になるものです。緋本といいます、医者です」
治夫は名刺を出して置いた。
三津田はようやく笑いを収め、何とはなし後ろの若い男へ半ばふり返った後、治夫を見直した。店の男は、主人の様子に気づかず引出しから茶碗を取り出して並べている。
「誰かが、一度どうしてもお目にかかってお話しなくてはならぬことだと思いましたのでね。あんな電話をかけてすみませんでしたが」
三津田は何もいわず、注意深く確かめるように治夫の名刺をとって本人と見比べた。
「塩見さんが、なかなか会って頂けないようなので」
「いや、そうじゃないんですよ」
思い直したように笑うと、三津田は|遮《さえぎ》った。
「一度は会ったんですがね。あの人じゃ話にならないんですよ。頭からこっちを罪人呼ばわりされたんじゃね。あんたも親戚の、それもお医者さんなら、公平に聞いてもらいたいんだ。私の方はどこへ出ても筋の通ることをしかしていない」
念を押すよういい、のけぞるようにして後ろの机の上から煙草をとると治夫にもすすめて火をつけた。
「とにかく、あの人のいう通りにしといたら、あの家は後一年ももたずに元も子も無くしてつぶれますよ。お聞きになったかどうか知りませんが、私はあすこのお|祖父《じ い》ちゃんの代から出入りもして、いろいろお世話もしたし、世話にもなった。だから、他の客よりも親身になって忠告して来たんだ。しかし自分にどんな能があると思ってるのか知らないが人のいうことを聞いた試しがないんでね。その挙句にあのざまだ。人がいいてんじゃすまないですよ。一寸考えりゃ見込みのないのがわかりそうな仕事に、身元の確かでない奴らのいいなりになって金を入れ、結果はいつもパアだ。その度、私は注意して来た。お祖父ちゃんからもくれぐれ頼まれたしね」
三津田は逆に、治夫へ訴えるようにいった。
「あれじゃあね、あんた御親戚だそうですが、奥さんも病気の子供も可哀相ですよ。何やって、何度失敗してもこりずに、誰のいうことも聞こうとしないんだから。
今度の件も、あなたにはなんといったか知らないが、土台、塩見の望む条件が無理なんですよ。私がいった通り、もっと早く処分しとかないから、周りが開けて、あすこだけ真ん中にとり残された。ものを建てたって、今じゃ表へ出る道が便利にはつかない。二年前旭電子が隣りに工場を建てた時、口がかかったのにうんといっておきゃこんなことにはならなかったんだ。
しかし私あそれでも随分いい口を捜して来ましたよ。それがまとまりかけると横から誰が何をいうのか、また迷って話を断わる。一体何度同じことをやったのかね。今度の、彼がいっている東明食品だって、聞いて見りゃ、条件の話し合いも、契約書の段階まで行ってなんぞいやしないんだ。向うは、土地の立地条件を見る前に、ただここらでこんな程度のものが欲しい、あればこれくらいまでは出してもいい、というだけの話でね。道路をつけるのに切りとられる死に地の勘定だってしちゃいない。だから、私はもう、葛城印刷の条件を呑んで手離さなきゃ、これだけの機会は二度とない、と思ってやったんですよ。そのために、ちゃんと白紙委任状はとってある」
「しかし、その委任状は他の取引のためにでしょ」
身構えるように三津田は治夫を見直した。
「いや、それだって塩見が急にいやだといい出して流れた話なんだ。だから、その後委任状の件はそのまま持っていただけですよ。いやならいやで、返せといやいいんだ」
「土地の名義を一度、塩見からあなたに書き換えられたのは、どういうことなんでしょう」
「あんた」
何か気負っていいかけたが、こらえたように、三津田は指の間で短くなっていた煙草を念入りな仕草でつぶして消した。
「話をどんな風に、どこまで聞いているのか知りませんが、塩見がつくってつぶした泰成産業に関しちゃ、私も被害者なんですよ。あの会社に不渡りくった園田って相手は私の大事な取引先でね。それも、塩見が不渡り出す原因になった、ある取引先に出された千二百万の不渡りも、私や園田が危ないから止めろというのを、塩見が聞かずに深入りしてやられたんです。私は泰成の株ももたされ、得意先への会社の不始末の尻も拭わされて、立つ瀬がないよ。別にうちは大財閥でもなんでもない、ごらんの通りの暮ししかしてない。ただお祖父ちゃんからの|繋《つな》がりがあるだけで、昔はそりゃ世話にもなったが、お祖父ちゃんが脳軟化で倒れてからは尽す一方で来たんだ。それでも、年寄りがなんとか生きている間は、|呆《ぼ》けてはいても、ちゃんと判断はつけていたが、先代が死んだら、息子の方は、よいよいの年寄り以下だよ。何も親戚のあんたに、こんなことまでいいたかないが。しかし、とにかく、奥さんや子供は気の毒だと思いますよ」
三津田は思い出したみたいに、もう一度つけ加えた。その瞬間だけ、彼は後ろめたそうにも見えた。
そんな時の三津田の印象は、治夫が想定していた敵役とは大分違って見える。会う前には、治夫なりに気負って、自分と英子に邪魔だった相手を憎んで二人でやった仕事まで思い出して見ていた。が、眼の前の三津田に対してそんな気は起らない。
この男が、菊江の夫の非をあげつらっても、いい分に半分は理があるような気さえする。
治夫はふと、菊江のために、この男と、彼女の夫と、二人ともがいなくなることを考えたりした。
「ま、これまでのいきさつはいろいろあるでしょうが、そうすると、今度のことで、あなたはどういうおつもりなのでしょうか。とにかくいえることは、印刷会社へ売った値段と、あなたの塩見への債権の額とは、可成り違うようです」
「塩見がどんな数字をあなたにいったか知らないけど、私の方の今までの被害はあなたが考えているようなものじゃないですよ」
「しかし、その差がないということはないでしょう。あなたはその数字を塩見さんとつけ合わして下さったんですか」
三津田は急に不機嫌な顔になった。置いたままだった茶を、急に手にとって一息で飲むと、
「だがね、彼は白紙委任状を出しているんだよ、ちゃんと」
居直るようにいった。
「それはわかっています。しかし、そういったきりで話し合いが途切れるのなら、塩見の方も仮処分だの何だの、余計なことまでしなくてはならなくなるでしょう。相手の会社にも迷惑がかかるだろうし」
「仮処分、本気でそんなこといっているのかね。保証金でも山と積めば、工事中止にもなるが、そんなこと出来る訳がないよ」
三津田は本気で怒った顔になっていった。そんな様子は、まるで彼の方だけに理があるようにも見える。
「いえ、だからそれは止めるようにいいました」
治夫は嘘をついた。彼がうろ覚えに知っている仮処分という方法も、昨日会った弁護士のいい方からすると、多分役にたたぬものに違いない。
「そりゃその方がためだよ」
それでも幾分、そんな措置をとられることがわずらわしいのか、三津田は念を押すようにいった。
「とにかくですね、さっきいったあの土地の売り値と債権の差額について話し合って頂きたいんです。塩見さんが駄目なら、弁護士なり誰なり、冷静にそちらの話を聞ける人を寄こしますから。失礼ですが、あなただって、その差額をどうこう、つまり、誤魔化そうというおつもりじゃないのでしょうし」
「当り前だ」
三津田はいった。いった後で彼は相手に釣られた自分に気づき、不愉快そうな顔になった。
「是非そうお願いします」
治夫は頭を下げた。
「私のようなものがこうして出て来たのも、実は医者の立場で、あの家の子供の病気のことを知っているからなんです」
「頭の中に出来物が出来たんだそうだね」
「ええ、厄介な病気でしてね、子供もつらいが、親もつらいでしょう。それに、費用がかかりますからね、頭の手術は。今までも随分かかっているが、これからだって、いつまた手術ということになるかも知れない。今のところ、耳が聞えなくなっただけですんでいますが、それにたとえ手術をしなくとも、いろいろ治療をつづけなくてはなりません」
「治るのかね」
露骨に三津田は尋ねた。その口調がかえって、治夫にある期待を感じさせた。
「治療次第ですね。手術も前の二度のように、いい加減なところでなくすれば。親もなんとか助けたいでしょうし、そのための費用としても、あの土地を当てにしていた筈です。新しい仕事|云《うん》|々《ぬん》のことは知りませんが、病気の方は明日にでもということもありますし。ここはひとつ、人助けということでお考え願って、話し合って頂けませんでしょうか。あの家にはもう他に何も残っていないと思うんです」
日頃になく、家族とも話さず家で酒を飲んでいるという塩見から、勝手な想像で治夫はいった。菊江の夫を弁護する気はしなかった。菊江の打ち明け話や、三津田のいい草からして、彼女の夫が仕事に関してはどうやら世間知らずの能なしであることに違いはなさそうだ。
「まあ、もう何もないだろうな。あの家のことは、あの男より私の方がよく知ってるくらいだよ」
「ですから、母親と子供のことだけを考えて頂きたいのです。医者としてお願いします。助かるものを助けなくては罪にもなりますからね」
三津田は|咎《とが》めるように見返したが、治夫は、彼だけにいったつもりではないように微笑して見せた。
「どれぐらいかかるんです」
取引するように、三津田は握り合わした手をほどいて眺めながらいった。
「それは今から申し上げられませんね。場合によっては一生ということにもなるでしょうし。それに今までの払いもすんではいないようです」
「そんなこといわれても困るね」
|抗《あらが》うようにいったが、何を思い直したか、仕方がないというように三津田は笑って見せた。
「わかりました、とにかく話し合いましょう。話のわかる人がいい。あんたでもいいが、そうだな、あの亭主より、奥さんの方がいいな。以前のことも少しは知ってるだろうし。いいかね」
「結構でしょう」
「それじゃ、奥さんとざっくばらんな話をしよう」
「いつ」
「そうさな、日時と場所は、後で私の方から|報《しら》せるよ」
「それじゃ、塩見へ直接じゃなし、私にして下さい。私の方から彼女に伝えます」
「それがいい。あの男が出て来たら、まとまるものもまとまらない」
ここまでの話の決着に満足したように三津田はいった。実際、彼は話の途中よりは、ずっと機嫌よさそうに見えた。
「いや、あんたに来てもらって良かったよ。いつかちゃんと話をつけなきゃと思ってたことなんだ」
彼はいった。しかしその言葉はいかにも|追従《ついしょう》に聞えた。この男が菊江をどんな風に丸めこもうとしているか気になったが、今からそれを咎める訳にいかず治夫は相手に合わせて微笑して見せた。
三津田は治夫をわざわざ戸口の外まで送って来た。治夫は訪ねて来るまでほどは、この男に敵意を感じなかった。多分、この男が|饒舌《しゃべ》った塩見の悪口が、半分以上当っていたからに違いない。
翌日病院から菊江に電話していきさつを話した。菊江は会って話を聞きたいといい、夜でも治夫の部屋を訪ねたいといった。
いわれて|何故《な ぜ》かすぐ、治夫は英子のことを考えた。その日、英子がやって来る約束はなかったが、或いはということもあり得た。そしてその時のわずらわしさを彼はすぐに|覚《さと》った。
治夫は自分が訪ねるといい、菊江は家では主人がいるから、出来たら先日案内した教会に来てくれぬかといった。
「あすこでも、このことを御相談になったのですか」
咎める口調を隠して、治夫は|訊《き》いた。
「はい。御守護をお願いにまいりましたので」
菊江はいった。
「なるほど」
許せた気分で彼は頷いた。
「わかりました。教会へ伺いましょう」
あの布教師たちが何をいったところで、それで彼女の事態が僅かにどう変る筈はなかった。このことに関し、治夫は自信を持って菊江の前で辻を無視してやれる筈だった。
菊江は長々礼をいって電話を切った。治夫の報告を聞き、菊江が今では最後に彼にすがろうとしているのが、声からはっきり感じられた。
今夜会った時、彼女はもう一度辻の前で、今みたいに感謝するだろう、気負ったように彼は思った。
夜、菊江は治夫よりも大分遅れて教会へやって来た。恐縮して詫びたが、その様子から、出がけに、多分彼女がここへやって来ることで夫との間に何かあったのがわかった。彼女を出すまいとしたに違いない彼女の夫は、今になるといじましいものにしか感じられない。それは多分、彼が初めて塩見に対して持った個人的な感情だった。いずれにしても、あの男には、今日外へ出かける女房にあたるぐらいのことしか出来ないのだろう、彼は思った。
神殿のある広間ではなく、反対側の、台所につづいた茶の間に二人は通された。
「私たちも御一緒に聞いてよろしいですか。心配はしていたのですが」
家の女主人の布教師が辻を促しながら治夫へ断わり、茶をさしながら菊江の横に坐った。
一昨日と昨日、関係者に会って聞いた話をそのまま治夫は話した。三津田に会う前に、彼が食品会社の弁護士にまで会ったということに、菊江は彼の配慮を感じてしきりに感謝して見せた。
辻たちが菊江の家庭をどう思いやっているかは知らぬが、治夫は三津田がいった言葉も借りて、ことの責任の半ばは、彼女の夫にあるとはっきりいった。
「弁護士も、委任状があったのでは話にならぬといっていましたよ。紙きれ一枚だが、それにどんな意味があるか、大人なら充分知っていていい筈だとね」
わざとにべなくいう治夫へ、菊江は夫に代ってのように肩を落してうつ向き、辻も家の主人も、自分たちの専門外の知識から来る冷酷な断定に、言葉をはさむ余地もなく黙りこくったままだった。
「仮処分を申請しても、実際に有効にするためには、莫大な保証金もいるでしょうし、大体裁判所が申請却下することは間違いないでしょう。とにかく、法的には手も足も出ない。ま、申しちゃなんですが、随分|迂《う》|闊《かつ》なことをされたものです。相手を見損ったといえばそれまでですが、何にしても、相手は他人ですからね」
「人を信じちゃ駄目ね」
家の主人は菊江に同情したつもりか、彼女が奉じている教えからすれば、多分許され難い言葉を思わず口にして見せた。
「で、後は土地を買ったと売ったの差額について、坊やのこともあるし、人道的に話し合ってくれ、といいました。|旨《うま》く問いつめたら、自分の方は、肩代りした債権が、塩見さんが思ってるよりも多いのだ、自分の方はもっと被害もあるのだ、といいましたが、いずれにしても全部横領する気はない、とはいいました。それから後のことは、初対面ですし、私からは具体的に何もいえないし、向うのいい分を聞いても仕方ないので、奥さんに会って頂いた上での話にして来ました。向うから、塩見さんでは話にならぬから奥さんに、ということでしたが。とにかく一度お会いになって見て下さい。私がまた会うにしても、その話し合いの上でのことでしょう」
菊江は不安そうに彼を見返し、家の主人と辻へふり返った。
「とにかく良かったわ。そこまで相手が折れて来たんですもの」
家の女主人は楽天的に|頷《うなず》いて見せた。
「でも、私どんな風に話していいか」
「だからそれをこちらに充分うかがっていらっしゃい。その前に充分に御守護をお願いするのよ。私たちも祈願させて頂きますから」
この連中には、結局それしかいえやしまい。思いながら治夫は辻の顔を見直して見た。
辻は、何かいいかけたが、どういっていいかわからぬ自分自身に不満そうな顔をして坐っていた。治夫は満足し、辻までが同じように、自分に頭を下げるのを待つように黙ったままでいた。
が、
「奥さんが、訴えられたらどうでしょう」
辻はやっと言葉を捜したようにいった。
「誰を訴えるんです。自分の御主人をですか」
「いえ、まさか。その相手をです」
辻だけではなし、みんなが驚いたように治夫を見返した。
自信なげな辻は、にわかに愚かそうに見えた。それでも彼はまだ何かいいたそうだった。
「誰が訴えても同じことです。委任状一枚で、相手は法律的には何をやってもいいんですから」
|塞《ふさ》ぐようににべなく治夫はいい渡した。
「だから残された方法は、相手の気持を動かすしかない。お祖父さんが元気だった頃から出入りしていた人らしいし、いろいろあって御主人には|頑《かたく》なになっているようだが、女のあなたが行けば向うの気持も少しは変るでしょう。完全に負けた勝負をとり戻すには誰が考えても、結局それしかないのです。どの弁護士に相談をされても、訴訟を起す前に、同じ忠告をされるでしょう。それを御主人が一番よく知っていられる筈ですがね」
「だから今度はあなたがしっかりしなきゃ駄目よ」
女主人はいった。
「私が」
いいかけた菊江に、
「そうよ」
女主人がかぶせた。
菊江は訴えるように治夫を見返した。その眼は子供のように不安気でおびえて見えた。
治夫はふと、大学病院の手術室の前で彼女を初めて見た時の印象を思い出した。菊江はあの時と同じように、かすかに身を震わし、|喘《あえ》ぐように何かいおうとし、それ以上言葉にならぬようだった。
治夫は突然、彼女が今どれくらい追い込まれたところにいるのかを感じてやれたような気がした。彼女は、治夫が辻への気負いで、言葉の手綱をしめたりゆるめたりして見せる度に、それを身を刻まれる思いに感じるほど、ぎりぎりのところまで来ているのだ。あの手術を前にして半ば子供を|喪《うしな》いかけていた時と同じように、彼女は今、子供の将来の健康も含めて、何もかもを喪おうとしているに違いない。夫の迂闊さが引き起したこの事件の最もの被害者は、夫や息子でなく、彼女の筈だった。
あの時、思わずかけた言葉に、彼女がどのようにすがり|蘇《よみがえ》ろうとしたかを治夫は思い出そうとした。あの時も、夫は呆けたようにただ、手術室の扉の灯りを見上げていたではないか。
自分が彼女の気持までを|弄《もてあそ》ぼうとしていたような気がし、彼は突然|慙《ざん》|愧《き》し、次の一瞬、側にいる他人を忘れて、菊江に向って|昂《たかぶ》る気持でいった。
「大丈夫です、奥さん、私も御一緒に行って、どこか近くで待っています。その後すぐに相談して、すぐに私が会い直してもいいです」
「それがいいわ、塩見さん。こちらには私たちからもお願いするわ、ね辻さん」
女主人はいった。治夫は辻を無視したが、彼が同じように頷くのはわかった。
微笑し直すと辻にも向って、
「どうか御守護をお願いいたします」
治夫はいった。
翌日の夜、廻り道して帰ると部屋に英子が来ていた。
夕飯をすました時、思い出したように、
「さっき、三津田さんという人から電話があったわ。あんたいつから、塩見さんの親戚になったのよ」
「なんだって」
「私が代りに出たら、向うの人がそう念を押したわ」
「ああ、都合でそういうことにして会ったんだ。何といって来た」
「明後日の午後三時に、秋津の秋花荘という旅館に来てくれって」
「旅館」
「その人がやっている旅館ですって。新しいからすぐにわかるって。電話も聞いといたわ」
「わかった」
が英子はそれで|止《や》まず、
「どういうことなの」
装った無表情で訊いた。彼女の無表情をどうとっていいかわからず、|躊躇《ちゅうちょ》はしたが、結局治夫はあっただけのことをさり気なく話した。話しながら、彼は測るように彼女を眺め直した。
英子がこの件に関して彼を咎める筋はどこにもない。治夫も菊江も英子をしめ出した訳ではなく、英子がただその場にいなかっただけで、また、いる必要もなかった。菊江に同情した治夫が、彼の立場として出来るだけのことをしただけだ。菊江の立場が惨めであることは、誰の眼にも同じだろう。
だから英子が咎めるとしたら、ただの感情でしかない。彼女自身それを知っているから、何とはなし不満なままで、無表情をつくろうよりない。しかしそれがかえって、はっきりと彼女の|嫉《しっ》|妬《と》を感じさせた。
いつか、菊江が部屋に不意に見舞にやって来た時、初めて治夫が英子の気持を察した時は、唐突で、いささか滑稽で、愉快にもなったが、今夜はもう、そんな英子はうとましく、不愉快でもあった。
|尚《なお》黙っている英子に、治夫は、この機会にこのわずらわしさに片をつけられればと思った。それは、英子に対する、ある種の誠意ともいえる筈だ。第一菊江を|救《たす》けることで、英子に後ろめたさを感じる筋は、どう見ても彼にはない筈だ。
「どうかしたのか」
水を向けるように彼はいった。
「どうもしないわよ、なんで」
突っかかるように英子はいった。
「なんかいいたそうだからさ」
英子は黙って唇を|噛《か》んだ。その顔は、露骨に口惜しそうに見えた。
「このことで、妙なかんぐりはやめてくれ。はっきりいって、妙なこといわれるだけ不愉快だからな」
「私だってそうよ」
「君がどうして」
「私だって不愉快だわ」
理屈を|放《ほう》り出し、ただ駄々をこねるようにいった。そんな時の英子は、かえって彼女らしく見えた。
「医者として医者としてっていうけれど、どうしてあの人だけが特別なの」
「だからそれは俺にもわからん」
「どうして。ずるいわよ、そんないい方」
「どうしてって、本当だよ。だから君まで不安がってくれる訳か」
「有りがたい因縁なんでしょ」
塞ぐようにいった。
「あの人、甘ったれてるのよ」
「甘えてるかどうか知らないが、自分以外の誰かに頼りたくもなるだろう」
「自分で生んだ子供じゃないの、もっと可哀相な親だって沢山いるわよ」
ぶつけるようにいった。
「そういういい方は|止《よ》せよ。君だって俺だって、どんな医者でも、可哀相な人間を全部面倒は見られやしないんだ」
「甘ったれてるわ」
英子はくり返した。
「あなたも、あなたらしくないわ。人に甘えられて、いい気持なんでしょ」
治夫は思わず英子を見返した。彼女の言葉は彼の肝心なものをいい当てているような気がした。
「なるほど、もう少しいって見てくれないか」
「何いってるのよ、馬鹿にしてるわ」
「いやそうじゃないんだ」
確かめるように彼を見返すと、英子は、乾いた唇をなめるように、口元を|歪《ゆが》めて見せた。
「だから、あなたがあんたらしくなく、変ったのよ。人に甘えられていい気持になれるようになったって訳よ」
「なるほど。しかしそれじゃいけないってのかい」
「あなたらしくないわよ」
英子はいった。
「私、あんたに甘えたりしちゃいないわよ。あんたと私があすこでいき会って、こうなったのは、もっとぎりぎりのことなんじゃないの」
問うように英子は彼を見つめ直した。
「確かに、君は甘ったれちゃいないさ」
いいながら、治夫は、あの店の主人が倒れた時、彼が下した指示の通りにてきぱき動いた彼女を思い出した。
「しかし、あの人だって甘えちゃいないよ」
「甘ったれてるわよ」
英子はいい返した。
「何故だ」
「あの人、一人じゃいられないんだわ。だからあなたにものを頼むのよ」
「しかし、あんな子を持てばそんな気持になるだろう」
「へえ、あなたに親の気持がわかるの。それにどうしてわかってやる必要があるのよ」
今度は治夫が黙った。
確かに、塩見菊江の前にいる俺は、いつもの俺じゃない、それは確かだ。そして、それが何故だか俺にもわからないのだ、治夫は思った。
「あの人が甘ったれてない、というのは、あなたのいい訳よ。あなたは、あの人に甘えて欲しいんでしょ。それであなたも甘えられるんだわ」
「それがこの前いいかけたことか。彼女がおふくろの代りだという。じゃ、あの人を、おふくろとして|妬《や》いてるのか、君は」
「妬いてるんじゃないわ」
「じゃ何だい、俺に説教してるのか。何とでもいえよ。俺は今まで通りあの人を救ける。救けるべきだと思ってるからやるんだ」
「それだけ」
「そうさ」
「違うわよ」
|依《い》|怙《こ》|地《じ》のように英子はいった。
「俺はあの人を救けるよ。それが俺には、自然なんだ」
「自然ですって。それはあんたが変ったのよ、そんなこと、何にもならないわ」
「出来るか出来ないかは別だ」
「そうじゃなくて。あなたまたきっと、がっかりするわよ」
「どういうことだ」
英子は黙って見返したまま、やがて気をとり直したように薄く|微笑《わ ら》った。
「いいのよ、でもおかしいわね。あなたまだ、他人に色気があるのね。実のお母さんにはあんなにつれないくせに」
「君だって他人じゃないか」
英子は微笑を収め、彼を見直した。そしてまた、微笑して見せた。
「違うわよ。私とあなたとは同じ人間よ。私はそう思ってたわ」
「そうかな、俺みたいな人間は、この世に一人しかいないよ」
「そうかもね」
微笑したまま英子はいった。
その先、何かいうかと思ったが、彼女は彼を見つめたまま何もいわなかった。英子の微笑は、まだいうべきことがあるようにも、また何かをあきらめたようにも見えた。それは何か、と彼は思った。そしてふと、自分に代って英子が、彼の知らぬ何かを予感しているような気もした。
同じ微笑のまま、
「もうよしましょう」
彼女の方でいった。
「私のいい方が悪かったならあやまるわ」
いいながら彼女はまだ何かをこらえているように見えた。そして、そんな時、英子は彼よりもずっと大人の、彼より世馴れた英子らしく見えた。
菊江は最後まで治夫に一緒に来てくれるように頼んだ。しかし最後に彼は叱るように、一人で行く決心を菊江につけさせた。
話し合いによっては、第三者が横にいてはいえないことがらも出て来るに違いない。特に、ここはこらえてでも、彼女が自分の夫の非を認めて見せ、相手にすがらなくてはなるまい。
事前に落ち合って彼が与える忠告といっても、結局、たとえ卑屈になってでも、子供の健康や家の内情に訴えて相手の心を動かせということしかなかった。
三津田がどこまで折れるかは見当つかぬが、彼の債権や、塩見から|蒙《こうむ》ったという被害の額を大幅に譲って認めても、たとえ僅かでもとり戻せるものをとり戻さなくては、一家が明日からも困ることは知れているのだ。
そして、差引きの計算はどうであろうと、横領しかけたものの一部を返すことで、三津田自身、自分のやったことを正当化することも出来る筈だった。
いずれにしても、|面《メン》|子《ツ》ばかりを気にして、総てを喪うか総てをとり戻すかのどちらかという選び方は、塩見家の現実では出来る訳がない。
治夫に再三|諭《さと》されて菊江はそれを充分に納得したようだ。
三津田のいって来た旅館は、町の外れの街道に出る通りに面してあった。|割《かっ》|烹《ぽう》を兼ねた、都会の郊外によく見る、半ば泥くさい和風のつくりだ。表の|母《おも》|屋《や》は古いが、その後ろにいくつか見える離れ風の棟は新しい。
治夫は旅館の門の前まで菊江をタクシーで送りつけて別れた。
今までいた喫茶店に戻り、一時間後に連絡し合う約束にした。それ以前に話が終れば、彼女の方から電話して来る。
タクシーを降りた後、|暫《しばら》く辺りを歩いて喫茶店に戻った。時間はまだ半分以上ある。二人の話し合いがどんな具合にいっているか、想像しようとしたが出来なかった。大体、この会談がどれほどの結果をもたらすか、初めから目安のたてようがない。ただとにかく、当事者同士が会って、まず互いのいい分を伝え合わなくては、ことが事件にも解決にもなりようがない。
約束の時間の十分前になって、治夫はふと、一時間という時間が長すぎたろうか、或いは短かすぎたろうか、と思った。考えて見ると、今日ここですぐに話の決着がつく訳がなく、とすると、案外すでに最初のめどがついたかも知れない。
しかし|未《いま》だに電話がないところを見れば、双方がいい分を示し合って、結局菊江は三津田があの調子でいうことを一方的に受け入れさせられようとしているのではないか。
今になって、治夫は三津田には無断で菊江と同行しなかったことを後悔しかけた。
が、いずれにしても、後十分だ。
やがて一時間が過ぎ、治夫は旅館へ電話をかけた。電話に出た女中らしい女に三津田の名を告げ、その相客を呼んでくれるように頼んだ。
何故か相手は躊躇したように、治夫の名前を確かめ、菊江との関係まで|質《ただ》した後、暫くして違う年輩の女の声が出た。
女は前の声と同じことを訊いた。
「どうしたんですか、その客はまだいるのでしょう、そこに」
「ええ、おいでにはなりますが。三津田さんに、大事なお話だから、話が終って、こっちが呼ぶまで誰もとりつがぬようにといわれてますので」
「しかし、内線の電話でも入れてくれませんか」
女は当惑したように答え、いわれた通りしたかどうか、間があり、
「矢っ張りお話が終ってないようですけれども」
「それじゃ、私がこれからそちらに行くから、話が終っても、そこにいるように、といって下さい」
これだけ時間をかければ、途中から自分が現われても、都合悪いことはあるまいと思った。
喫茶店を出、駅の前まで来てタクシーを拾い、再度旅館に乗りつけた。
玄関に入り、出て来た若い女中に三津田の名をいって部屋を尋ねた。「萩」という一番奥の離れだと女中が教えた時、さっきの電話の声の主らしい、割烹着を着た年輩の女が奥から出て来て治夫へ質した。
靴を脱いで上がりながら、その相手に今聞いた部屋の名を確かめ直した時、相手の顔に何故か|狼《ろう》|狽《ばい》の影が走った。
「奥から行けるね、離れへ」
見当つけていった治夫へ、
「|一寸《ちょっと》、一寸待って下さい。いきなりいらして頂いたら困ります」
ひどく慌てて女は塞ぐように手を挙げて制した。
「さっき電話したじゃないか、受けたのはあんただろう」
「でも、まだ通じてないんです」
「何故」
答えられず、おびえた眼で彼を見上げると女は他の救けを求めるように奥へふり返った。
その瞬間、治夫の体の内を寒いものが走った。どれほどの間だろうか、胸苦しさをこらえ息をつめ、彼は眼の前の女と見つめ合った。知覚が|麻《ま》|痺《ひ》したような無力感の中に、彼は|錯《さく》|綜《そう》した時間の|眩暈《めまい》に襲われた。突然自分が昔のある時点に立ち返っている錯覚があった。同時にまた、彼は今と全く同じ瞬間が過去にあったのを感じていた。
彼の体の内で何かが引き裂かれ、同時に、今まで裂かれて離れていたものが、突然、遭遇し殆ど音をたてて重なり合った。それが白昼夢でないことを、彼は何でもいい、身の周りの何か確かなものにすがって確かめようと願った。
つぶやくように、彼は自分でも知れぬ何かをいった。或いは、叫んだのかも知れない。しかし、彼自身は自分の言葉を理解出来ず、聞きとれもしなかった。
眼の前にいる女中の表情がはっきりと恐怖に変るのを見た。そして、彼女は願って祈るような姿勢で治夫の胸を押した。
よろめきながら、彼はその手の感触に、はっきりと記憶があった。
踏みこたえ、更に抗って踏み出しながら、眼の前にあるものを彼は突きのけた。相手は、あの時と同じように、簡単に倒れた。
その瞬間、自分の行手にあるものを、彼ははっきりと知ることが出来たのだ。
追いすがるものをふり切り、彼は奥へ踏み込み、離れへ通じる渡り廊下を走った。
確かめなくても、行くべきところはわかっていた。五つ六つ並んだ離れ座敷の一番奥の部屋の戸口まで治夫は走った。
後ろで、誰かが何か叫んでいた。戸口にかけられた「萩」という部屋の名札を彼は読んだ。何もかもあの時と同じだった。
戸口のガラス障子には|鍵《かぎ》がかかっていた。中に向って治夫は一度、彼女の名を呼んだ。応えるような人の気配があった。しかしそれを確かめる前に、彼は足でガラスを破り、手を入れて掛け金を外し戸を開いた。
|三和土《た た き》から駈け上がり、|襖《ふすま》を開いた向うに二人がいた。眩暈を感じながら彼は確かめ眺めた。過去と現在と、錯綜した時間の錯覚は、錯覚ではなく、今、まざまざと眼の前にあった。予感は確かだった。何もかもが、かつてと同じだった。
位置の乱れた家具、脱ぎすてられた男の上着、ひっくり返って置かれた彼女のハンドバッグ、そして、驚き慌てて彼をふり仰ぐ男と女。目くるめくような、部屋中の乱雑。たちこめた、濃くむせるような、|猛《たけ》|々《だけ》しく甘い熱気。その瞬間、女は身を繕う前にかぶさった男の下から相手を突きのけて部屋の隅へ逃れた。
それはあり得べからざる異形な塩見菊江だった。しかし彼はすでに、彼女の姿を知っていた。逃れながら彼女は何か叫んだ。その声を、彼はすでに聞いたことがある、と思った。
とうとう自分が戻って来た、という気がした。このことのために、今までの時間がすぎて行ったのだ。いや、かつての出来事との間に、実はすぎた時間などなく、あの時から、自分はここにこうしていたような気がした。
どれほどの間か、彼は知覚を喪ったようにつっ立ったままでいた。その時、男が何かいった。操られたように治夫は相手に向き直った。
三津田は|呆《ほう》けたように彼を見上げていた。
その顔は無理に笑おうとしたが、笑顔にはならなかった。男は、治夫が先日会った男には見えなかった。見えぬながら、ひきつった顔をなんとかしようと、驚きながらも無理に笑おうとしているこの男に治夫は遠い見覚えを感じた。
次の瞬間、自分でもわからず何か叫びながら、彼は男に向って飛びかかった。男は起ち上がろうとし、彼は踏み込んでその胸を|膝《ひざ》で|蹴《け》った。
|仰《あお》|向《む》けに音をたて頭を畳へぶつけて倒れた男にそのまま|跨《また》がると、治夫は尚叫びながらその顔を殴りつけ、ゆさぶるようにして首を絞めた。
自分が今、何故、何のために、そうするのかがわからぬまま、彼の体の内で何かがふっ切れてほとばしり、彼は自分の内から|溢《あふ》れ出し、自分を覆ってしまった見知らぬ自分に夢中で操られ、夢中で殴り夢中で相手の首を絞めた。しながら、自分が何かから解放されるような|恍《こう》|惚《こつ》があった。激しい行為の中で、彼は、たった今まで何かに縛られ耐えていた自分が痛ましく涙が流れるのを感じていた。
菊江が叫んでいた。その声に、戸口から男と女の顔が|覗《のぞ》き、割烹着を着た男が止めに入った。
飛び込んだ男が彼に手をかける前に、|憑《つ》きものが落ちたように治夫は手を引いた。
三津田の体から下りると、治夫は菊江だけに向ってふり返った。
さっき、彼を止めようとした年輩の女が、後に続いたものたちをたしなめ、割烹着の男と二人で三津田の体を部屋の外へ|曳《ひ》きずっていった。
静寂が戻った。部屋の内だけでなく、外界もしんとして音がなかった。その中で、二人は黙ったまま見つめ合っていた。
はだけた胸元も、はぎとられた下着もかえりみずに、菊江は一杯に見開いた眼で、ただまじまじと彼を見つめていた。|微笑《ほほえ》みに似た淡い影がその顔ににじんで、かすかに、ゆっくりと二度、彼女は|今《いま》|際《わ》の人間が唇にしめされた水を飲みこむように、言葉にならぬ何かを呑み込んだ。
治夫はその顔に見覚えがあった。それは、初めて、あの手術室の扉の外で出会った時そのままの彼女だった。
彼女が今呑み込んだものに向って|肯《がえ》んじるように、彼も黙って頷き返した。
突然、菊江は童女のように微笑んだ。次の瞬間、はじけたように彼女は泣き叫ぶと彼に向って飛びついて来た。
治夫はそれを抱きとめた。自分で定かでない狂おしいような感動の中に、安らぎがあった。自分が遠いどこかへ戻って来、喪っていたものに今やっと巡り合ったような気持だった。
確かめるように、力をこめて治夫は菊江を抱きしめた。その腕の中で、彼女はいやいやをするように激しくかぶりをふりながら、尚強く、彼にすがりついた。
腕の内に震えて息づくものは|可《か》|憐《れん》なくらい小さくか細く感じられた。それを測り直すように、治夫は更に更に強く彼女を抱きしめた。
恐怖の後、親に巡り合って救われた童女のように、菊江はいつまでも泣きじゃくり、戻ることの出来た胸の内の心持良さを確かめるように、まだ|痙《けい》|攣《れん》しながら彼の胸に何度もところを変えては顔を押しつけて来た。
自分でも故の知れぬ激情の爆発の後、身にしみ入るような安息と満足があった。静寂の中で、こうして結ばれたまま、今二人っきりで確かに在る彼女と自分を彼は感じていた。
耳をすませば聞える、遠いかすかなもの音は、かえって、今こうしている二人だけの確かな世界の、他の総てからの隔絶を感じさせた。
菊江はまだ、胸にすがったまま泣きじゃくっている。しみ込んだ彼女の涙を彼は胸の肌の上に感じた。それは懐かしいような熱さで伝わって来た。彼女をあやすように、あやしていつまでも泣かせておくように、彼はゆっくりと腕にしたものをゆすってやった。
どれほどしてだろう、菊江は未だしゃくり上げながら、腕の中で暖めていたものが芽生えてつぼみが開くように、ゆっくりと顔を上げ、彼を仰いだ。
その顔は、濡れながら、さっきと同じように微笑んで感じられた。
そのまま二人は間近に見つめ合った。そして、何かに促されるように、知らずに二人の唇は重なった。
接吻は、長い長い何かの果てに今、治夫の内にあった何かを解いて開いた。開け放たれたその向うに、自分がやっと踏み出して行くのを彼は感じた。
感じながら、彼は理解していた。それまで菊江に関して自分の内に理解出来なかったすべてのことを。彼はそう思った。
その封印が解かれた時、治夫は腕にしているものを、感触として覚り直した。それははかないほどか細くはあったが、彼が今までそうやって腕にしたことのあるすべてのものと違っていた。それは、彼にとって選びぬかれ最後に与えられたもののように、彼自身の内の何かに|繋《つな》がる、意味のようなものを彼の腕に感じさせた。
初めての接吻が自然にほころんで唇が離れ、二人は初めての接吻を終えた総ての恋人たちのように、たった今の出来事に驚いたように見つめ合った。
その一瞬治夫は息を呑んで|怖《おそ》れた。たった今感じたのは、或いは彼だけのことだったのかも知れない。
が、彼女はなお問うように見つめていた。互いの内にあるものを確かめるように、治夫は微笑しようとした。そして、それに応えるように、彼女も怖る怖る微笑しようとしていた。
その微笑を確かめ受けとめるように、彼はもう一度唇を近づけた。菊江は|抗《あらが》わなかった。確認の接吻がまた離れかけた時、彼の腕の中で突然身を震わすと、何かから逃れようとでもするように、彼女は自分から求めて彼の唇を追った。
自分にとって全く新しい何かが確かに始まったのを彼は感じた。新しい激情が彼を|捉《とら》えた。それをどんな言葉にしていいかわからず、
「あなたに、こんなことをさせるなんて僕が馬鹿だった。許して下さい」
治夫はいった。
答える代りに、菊江は眼をつむり、彼を|掻《か》き抱いた。
三津田の顔はまだ|腫《は》れぼったく、左眼の上の切り傷に、拳闘選手がするような細い|絆《ばん》|創《そう》|膏《こう》が張ってあった。
「危うく殺されるところだったよ」
治夫の顔を見るなり、三津田はふて腐ったように笑って見せた。
この話し合いに、他の従業員を外させたようで、六時過ぎたばかりだが、店の中には誰もいない。
治夫が何もいわぬのに、
「こうなりゃ、悪く逃げだてはしないがね。とんだ商売になりそうだな。で、訴える気かね」
「それはあんた次第ですね」
「そうだろうと思った」
三津田は笑っていった。その顔は|狡《こう》|猾《かつ》そうというより、むしろ、人がよさそうにも見えた。治夫を迎えても、彼は、三日前に起った出来事が信じられないような顔をしている。
不思議に、こうして会い直して見て、不快さはあったが、この男に強い憎しみを感じない。あの時、彼の言葉の通り、危うく彼を殺しそうになった自分が、|何故《な ぜ》か違う人間だったような気もする。
「とにかく、一応弁護士に相談しましたが、こちらが訴えれば、あの件に関しては、あなたは有罪です。あの出来事の前の事情からいって、一、二年の実刑にはなるそうです」
「実刑」
「嘘だと思うなら、自分で調べたらどうです。委任状があろうとなかろうと、心情的に二つの事件は裁判の上では繋がりますよ。あなたのやったことは、あなたの考えてる以上に悪質ですからね」
三津田は何もいわず、そこにも傷がある、というように、首筋の後ろを太い手でそっと|撫《な》でた。
突然、思いついたように、
「じゃ、あのことは、塩見も知っているんだな」
一瞬、どう答えていいかわからずにいる治夫を三津田は上眼づかいに|窺《うかが》って来た。
実際には、菊江の夫はまだ出来事を知らずにいる。菊江が治夫にそう頼んだ。治夫も出来ればその方がいいと思った。
「そんなこと、どう関係があるんです」
「いや、どうなんだ」
「知ってますよ。裁判になりゃ、わかることじゃないですか」
「本当かね」
初めて三津田は狡猾そうに笑って見せた。
「知れりゃ、あいつは頭に来て|気《き》|狂《ちが》いみたいになるだろう。そうだったろうな」
試すようにいったが、治夫は無視した。
「それじゃ、裁判にしますか。下手すりゃ、二年入りますよ」
三津田は不機嫌そうに治夫を見返した。
つまずきはしたが、あんなやり口は、この男にとって|常套《じょうとう》のようにも見える。
「話は別だが、あの後、あんたのところへ誰か何かいっていったかね」
わざとらしく横を向きながら、三津田は|訊《き》いた。
「あの旅館から、電話がかかりましたがね。私の名刺は置いてきたけど、壊れたものは、あんたに請求してくれといっておきましたよ」
「誰がかけて来た」
「旅館の|女将《おかみ》です。あの日は留守だったようですが」
女将という女からの電話を思い出し、治夫は笑って見せた。それだけで、この男には意味が通じそうだ。電話の会話から、女将と三津田の関係が想像出来た。彼はそんな相手の留守を計って、ぬけぬけとあの家を利用したのだろう。
「ちぇっ、馬鹿にしてやがる」
またふて腐ったように一人ごとにいったが、そんな三津田は滑稽だった。あの時、電話の相手の女も、治夫に出来事を確かめ、同じ言葉を吐いた。
「裁判になれば、あの女将を含めて、あんたの周りにはもっと詳しいことが知れるでしょう」
三津田はむきになった顔で何かいおうとしたが、
「とにかく、塩見一家にとっては、もう面子も世間体もありゃしないでしょう。あんたがそう追い込んでおいて、その上であんなことをしたんだ。だからその上で、この間彼女がする筈だった話のつづきを私がしに来たのです」
「わかったよ」
「本当にわかっているんですか。あなたはどっちかを選ばなきゃならない」
「どっちかって何だ」
「だから裁判を受けるか、返すべきものを返すか。裁判をすれば結果は知れてますよ。私という目撃者もいる、それにあの旅館の使用人も大勢いる」
「わかったよ」
三津田は投げ出すようにまたいった。
「土地の問題がなきゃ、塩見さんはその場であんたを訴えただろうし、あんたもあんなことをしなかったでしょうがね」
「で、条件は何だ。返すものといったって、そうなりゃ、俺の方だっていい分はある」
「こちらとすりゃ、余りそれを聞く気はありません」
「馬鹿いえ、じゃ、全部返せというのか」
わめきたそうな顔で三津田はいった。
「やろうとしたことを今更隠しゃしねえが、未遂だからな」
窺うように彼はいった。治夫は怒る代りに、相手のそういういい方に三津田らしさを感じた。多分この男は、一年前転んだ相手に手をのべ救けてやったことも取引の条件にするに違いない。
「あんたは一体、あの土地を相手に実際はいくらで売ったんです。表は坪七万で一億三千万といっているけど、あの辺りの土地価格はどう考えても十万じゃきかない。十万としても、千九百坪で二億。相手側の当事者とどんな裏取引をしたかは知りませんが、手に入ったものは他にもある筈です」
「何いってる、そんなこと」
「してなきゃないでいい。とにかくこっちのいい分は、いいですか、最低ゆずって、あんたの表向きの取引を折半。黙ってそうしてもらいたい。あんたの塩見に対する債権の見つもりや税金や何や、そっちのいい分もあるでしょうが、黙って六千五百万円を戻して下さい。それか、あんたのした取引を全部元に戻すか」
「そんなこと出来る訳がない」
「そんなことって何です」
三津田は黙って不服気に治夫を|睨《にら》み返した。しながら、彼は尚、胸の内で何か算段をしているように見えた。
「折半なら出来るでしょう。あんたには、裏で入るものがあるんだ。税金のやりくりもそれでするんですね。それでたとえ|儲《もう》けがただになったところで、何もいえない筈ですよ」
「高いものについたな」
|嘯《うそぶ》くように三津田はいった。
「そういういい方はされない方がいいでしょう。私は聞かないことにしておきますが。本人が聞いたら、話し合いを|止《や》めて裁判にする、といいますよ。念のためにいっておきますが、弁護士は、訴えて刑事事件にした方が、土地の問題もこちらに有利になる、といってるのですがね」
治夫は嘘をついた。菊江が誰か弁護士に相談する、といったのを彼が世間体を説いて押えたのだ。
「じゃ、どうして訴えないんだね」
手の内を窺うように三津田は訊いた。
「塩見には、明日にもいる金ですからね。時間がかかると困るのです。ただ、これはむしろあんたへの思いやりみたいなものですよ。いっておきますが、我々は裁判を起してもいいのです。もともとそのつもりなんだから」
何かいおうとしてまた迷い、思い直したように、
「わかったよ、考えさしてくれ」
「いつまでです」
「一週間」
「冗談じゃない、三日間だ」
「じゃ、四日」
何についてでも、一分一厘でも|稼《かせ》げるものは稼いでおこうというように見える。
「じゃ、来週の火曜日に返事を聞きに来ます」
四日先のことを、今から考え出そうとするように、三津田は横を向いたまま返事をしなかった。
が、立ち上がり出て行こうとする治夫へ、
「あんた、医者だっていったね」
念を押すように訊いた。
「ええ」
ふり返って|頷《うなず》いた治夫へ、
「あんた、奥さんの|従弟《いとこ》って、本当かね」
何故か笑って見せながら、三津田はいった。
土曜日の午後早く、医局から帰ろうとしていた治夫へ電話がかかった。菊江からだった。
至急会って話したいことが出来たという。どこからかけているのか、彼女の声はうろたえていた。
「何かあったのですか」
「はい」
「例の件に関係あるのですか」
「はい」
菊江は答えるだけだった。
相手の気配を察し、
「そこではいえないんですね。今どこです」
「教会から電話させて頂いているのですが」
何しにそこへ行ったのか知らぬが、結局祈るだけでは|埒《らち》のあかぬことに違いない。
「私の仕事はもう終りましたが、そちらへうかがいましょうか」
「いえ、ここでは。私がうかがわせて頂きます」
彼女は話し合う場所に教会を選ぶことをはっきり断わった。そのことに治夫は満足だった。
「どこでも伺いますが、よろしかったら私の部屋ででも。四時すぎには戻りますが」
「はい」
背後に気づかうか、彼女は肯んじただけだった。
「しかし何ですか、一体。今電話で話せるところまで」
言葉を選ぶように間があり、
「相手が、夫に話したようなのです」
「御主人に。相手とは、三津田がですか。なんと」
思わず訊いた。
「とても|非《ひ》|道《ど》いことを」
何かを怖れてはばかるように彼女はいった。
治夫はあの時の三津田との会話を思い出して見た。三津田は何度か、この話し合いを、塩見が知っているのかどうかを|詮《せん》|索《さく》していた。それを三津田の口から塩見に明かすことで、彼は何を稼いだのか。
嫌な予感がした。
その後、電話し直して英子を呼んだ。
彼女と明日の休日の約束があった。そのために、英子は今夜の内からやって来るかも知れない。
今日は遅番だ、と彼女はいった。彼は資料のことで寄り道し、部屋に帰るのは十二時近くになる、と断わった。
「それじゃ明日、お昼前に行くわ。それより、さっき、あなたのお母さんがまたここへ来たわよ。私、一寸出てていなかったけど」
「なんだって」
「知らないわ。何か用事でしょ。後でまた来るといっていたけど」
会うな、と英子に改めて命じることがわずらわしく、
「何だか知らないが、いい加減に聞いといてくれ。君には関係ないことなんだからな」
「わかってるわよ」
愛想良く英子はいった。
四時半きっかりに菊江は部屋へやって来た。和彦は連れていなかった。
上がりながら彼女は何もいわず、ただ、おびえたように治夫を見つめた。顔は疲れ切ってい、隠すように斜めにうつ向いてはいたが、左の頬の上に打たれたような青い|痣《あざ》があった。
「どうされたんです」
尋ねたが、菊江は彼を見上げ、子供がいやいやをするように首をふった。
「三津田が、御主人に何を話したんです」
「私、もうどうしていいかわからなくって」
菊江の言葉は彼女に似合わず蓮っ葉に投げたように聞えた。彼女は|嗚《お》|咽《えつ》しかけ、それをこらえるように、唇を|噛《か》んでうつ向いた。そんな様子は、自棄寸前に見えた。子供のように両手を膝に|揃《そろ》えて置き、肩を震わしている彼女が、想像以上のものを耐えているのが、治夫にも感じられた。
「まさか、三津田が、あの旅館であったことを御主人に話したのではないでしょうね」
そんな推測をした治夫におびえたように、彼女は顔を上げまじまじと彼を見返した。
「どうなんです」
菊江は激しくかぶりを振った。
「どっちなんです。まさか」
が、菊江はがっくり頷いて、こらえ切れぬように嗚咽し出した。
「馬鹿な、一体なんと。自分の恥じゃないか。恥ですまない、訴えられれば必ず罪になるんだ」
菊江は殆ど畳に顔を伏せ、身をよじるようにして泣いていた。
そう聞いて、ある推量が治夫にも出来た。
「三津田は、何といったんです」
「ひどい嘘を」
「嘘、どんな嘘です」
涙を|溜《た》めたまま菊江は顔を上げた。
「いって下さい、はっきりと。僕にはなんでもおっしゃって頂ける筈でしょ」
「私が、そのつもりで話をもちかけて来たんだと、そういったそうです」
「なるほど。畜生、そうか」
それが読めなかった自分に腹がたった。相手は一番弱いものを、一番えげつない方法で攻め返して来たのだ。
「お金の値段をいってきたそうです、三千万円と」
「三千万円だって」
治夫がいった値段の半分、おそらく三津田が土地を売った実際の値段の十分の一にもならぬだろう。
「それはもともと返すつもりでいたお金で、それ以上は出せない、いやなら裁判をしてもかまわない。あれは私があなたとぐるになって持ちかけたことだというんです。自分はむしろ被害者だと」
「被害者、馬鹿な。僕が|美人局《つつもたせ》のゆすりでもしたというのですか」
「証人もある、といったそうです」
「証人」
菊江はおびえ切った顔で頷いた。
治夫はすぐに、旅館の女中や、後で電話して来た女将を想った。あの宿の主が三津田とそんな関係なら、彼女たちは後でどういいくるめられもしただろう。
「しかし奥さん、そんなことは、当人のあなたと、最初の目撃者の僕が証言すれば通ることです」
「でも、裁判をしたら、恥をかくのは私の方だと」
「恥をかく。何故です」
「三津田は主人に嘘を申しました」
「どんな」
菊江は身をちぢめるようにして首をふった。
「まさか」
「嘘です」
「嘘でしょう、嘘だ。僕が踏み込んだ時、間に合ったのでしょう」
知らずに大きな声で、菊江を|咎《とが》めるように治夫は叫んだ。
「ええ、嘘です。でも」
「でも、何です。そんな馬鹿な|出《で》|鱈《たら》|目《め》をよく」
「でも、主人は信じてくれません」
「御主人がどうして」
「信じてくれないんです」
涙を拭おうとした彼女の仕草は、頬の痣を指すように見えた。
「僕が訳を話します」
「駄目なんです。私もそう申しましたが、三津田が、あなたのことでも、嘘をいったんです」
「どんな」
菊江の従弟と偽ったことは確かだったが、黙って首を振る彼女の様子で治夫には更に想像が出来た。事件の後の話し合いの時、最後に三津田のした問いと妙な笑い顔を治夫は思い出した。
「馬鹿な」
高い声でいった彼を菊江はふり仰いだ。彼女は何故か問うようにじっと彼を見つめていた。彼女は怖れているように見えた。が、彼を見つめながら、彼女は自分の内にあるその怖れをようやく超えたように次第に落ちついて見えた。そしてやがて彼に向って、菊江は何故かはっきりと微笑みかけた。童女のような微笑が|蘇《よみがえ》った。|痺《しび》れたように治夫も微笑み返していた。
三津田の汚れた邪推や、彼女の夫の愚かな疑惑を超えて在る何かを、治夫も菊江も同じように今感じていた。それを確かめるように、二人は頷き合った。
初め気づかれなかったものが、二人が追い込まれるに従って、逆に互いの内に強く感じられ、はっきりと見えて来たのだ。
それは治夫にとって、どこかはるかに遠くを巡った末の回帰のような気がした。
気づいた時、菊江は彼の腕の内にいた。彼女もまた、すべてから逃れてここへ帰って来たように、前よりも安らいで彼の腕の内に在った。知らぬ間に抱き合った時、二人はすべてを|遮《しゃ》|断《だん》して在った。二人とも強くそれを感じた。
素直に、そして自然に、二人は接吻していた。それぞれの遠い回帰を、すでに互いに確かめ合った後、ためらいも|羞《は》じらいも無く、互いの動きを許し受け入れ合った。
この前、あの出来事の後、突然、偶然のようにやって来た二人の巡り合いが、実ははるか以前に用意されてあったのだということを気負いなく受け入れる心のゆとりが今日の二人にはあった。
自分がこの前悟ったことが、決して間違いではなく、自分と同じように彼女もそれを悟り、今またそれを確かめているのだ、ということを治夫は信じた。
そして突然彼は、辻のいった因縁という言葉を理解出来たような気がした。
まぎれもなく、自分自身のために、この人生の中で用意され与えられていたものを、その|形象《かたち》の上でも理解し、自分に|収《しま》い込むために、彼は手をのべ、腕の中で仰向いたままの彼女の顔の輪郭を伝い、眼に触れ耳に触れ、今重ねた唇に触れ直した。その感触の下で、彼女は今すべてを忘れて待つように、身じろぎしなかった。
新しい入魂の儀式のように、二人は互いに見つめ合ったまま、互いに許し合った。その営みのために、まだ明るすぎる周囲があり、所が安アパートの室でしかなく、柔らかみもない畳と座布団の上であるなどという意識はすべて隔てられて除かれていた。
互いの立場から|関《かか》わり深いものへの背徳の後ろめたさや、互いの同情や思いやり、そうした、すべての感情の|夾雑物《きょうざつぶつ》をそぎ落して、二人はただ触れ合い、抱き合うだけで自らの内に在る相手を感じ、全き繋がりの安らぎの内にいることが出来た。それは、愛し合う自分自身のような、あり得ぬ満足の安らぎだった。
その行為の道程に治夫は気負ったり怖れたり、相手を|慮《おもんぱか》ったりすることもなかった。菊江は何かの啓示を受けてするように、初めから彼にすべてを預け、与え切っていた。何かを更に確かめ分ち合うべく、相手のために己れに与えられた責任を果すように、二人は尽し合った。
たった一度だけ、彼が彼女の内に入り切ろうとした時、彼女は二人の道のりが知らぬ間にそこまで来ていたことに突然気づいたように眼を見開き、彼を見上げた。彼は止って待ち、彼女に向って頷いた。一瞬の、更に短い瞬間に、彼女の面に二つの表情の影が重なって過ぎた。おびえと、何かに挑むような影が。そして彼女はゆっくり頷き返し、待つように眼を閉じた。その瞬間に、彼女がすべてを超え、完全に回帰したのを彼は感じた。彼は進み、彼女は自分にそれを告げるようにかすかに小さく叫んだ。
菊江は小さく可憐で、繊細で、優しかった。この世で彼女だけが、彼の何をも拒まぬものに感じられた。彼が今までよくその行為の中で思い返したように他の女たちと比べてなぞではなく、彼女の小ささ、優しさは、彼だけのもの、彼女が彼だけに初めて示すことの出来たもの、つまり、彼にとって絶対のものに思われた。
今まで何度も経験した筈の同じ行為の中で、彼は生れて初めてのものを感じていた。それは、それまで彼が決して考えることのなかった、このような形をした行為の、意味のような気がした。
彼女が彼だけに与えた全き優しさの中で、やがて彼はいきついて終った。彼女を確かめ彼が覗き下ろした時、彼女も眼を見開いて彼を仰いだ。その瞬間、間近に出合った視線の内に、彼女は更に感じ、小さく叫んで身を震わせた。
しかし、たった今二人して遂げられたものが、二人が今行なっていることにとって、僅かな部分でしかなかったことを二人は更に悟ることが出来た。遂げられた肉欲の果てに二人をもっと痺れさせる広く平らな安らぎがあった。
心の内だけではなく、治夫は体の内にもそれを悟った。そして、彼には生れて初めてのそれが懐かしいものに感じられた。
それは、二人がそれぞれ与えられている時間の系譜の外の、その時だけに与えられた他の何か絶対の瞬間の継続だった。そして、自分がそれまで過して来た時間を離れて、彼は今この時に、どこかで確かな記憶を感じていた。
息づきながら、二人は黙ってなお抱き合っていた。ととのえられていく呼吸の間の長さが、次第に、微妙に違って織り混っていくことで、彼はこの絶対の時の中にいる、自分のための唯一の他人を悟り直すことが出来た。
抱き合ったまま、寄せ合った頬に、彼女の涙が伝わるのを彼は感じた。
それこそ、今自分が悟り味わっているものを彼女も同じように知った|証《あか》しだと、治夫は素直に思った。その涙こそ、このことの意味なのだと。
頬を離し、今、二人の頬と頬の間を伝わっていたものを確かめ、彼は、乱れた髪のかかって汗ばんだ彼女の額の脇に接吻した。
額は彼女の化粧と汗の混った匂いがし、彼はようやく、二人が今行なっていることの世俗的な意味と、その中にあくまで部分としてだが在って、遂げられた情欲の余奮を|嗅《か》いだ。
手をのべ、彼は彼女のうなじから耳、耳から額へかけて、乱れた髪を掻き上げた。その手が離れる前に、菊江は自分の手を添えて彼の手を頬の横に押しとどめた。
「大きな手。熱いわ」
眼をとじたまま、つぶやくように彼女はいった。
それは彼が今、彼女の額の匂いに感じたと同じもの、このことの中で、菊江も一人の女として味わったものへの、彼女の満足を感じさせた。
手に手を添えて押しつけたまま、彼女はじっと眼を閉じたままでいた。
「睡っては駄目ですよ」
眼をつむったまま、彼女は微笑んだ。
「でも、眼を開くと、怖ろしいわ」
「どうして」
「恥ずかしい」
彼女はいい換えた。その声は彼に向って、もたれていた。
「なんで私たち」
菊江はいいかけ、口をつぐんだ。
「僕はこうなることを自分で知っていたような気がします。初めに会った時から、そんな気がしていたんです」
彼女は眼を見開き、彼を見つめた後で、小さく頷いた。
「でも、それはどういうこと」
「僕もその意味を考えたが、でもそんなことはもうどうでもいい。言葉で説明し合う前に、僕らはそれをわかり合えたのじゃないですか。あなたに僕が必要だったように、僕にもあなたが必要だったのです」
「私が」
菊江は眼を見はるようにして彼を見上げた。
「そう、そうなんです。そのことを僕はずっと長い間感じていたんだ。僕にとってあなたが一体何なんだろうかを考えながら」
「私がどうして」
不安そうに菊江はいった。
それは言葉に表わせば表わすほど、彼女には伝わりにくいことに思えた。その言葉の前に|躊躇《ちゅうちょ》している菊江を、治夫は突然いじらしくいとおしいものに感じた。
「まだ不公平だ」
触れた手でまた髪を撫で上げながら彼はいった。
「どうして」
「あなたには、あなたに僕が必要だったように、僕にもあなたが必要だったということがわかっていない」
「何故なの」
「僕には、誰かが必要だったんだ」
彼はいった。
いった後で、彼は自分が今、初めて他人に向っていった言葉を|反《はん》|芻《すう》した。そして、その言葉を彼は何の抵抗もなく自分に収い直した。そんな自分に、最早、後悔も|羞恥《しゅうち》も、|軽《けい》|蔑《べつ》も、感じはしなかった。
懸命に理解しようとするように彼女は治夫を見つめていた。そしてやがて、彼女は理解したように微笑み頷いた。その微笑が自分を包むのを彼は感じた。更に大きな安らぎがあった。
それは、彼がいつも性交の後に味わう後味の悪さ、|虚《むな》しさ、或いは満たされた情欲の|残《ざん》|滓《し》の気だるさ、とは違って、何か一つのことの始まりを感じさせる、静かなときめきを与えてくれた。
彼女はまがいなく、彼に与えられた、その関わりの中で安らぐことの出来る初めての、唯一の他人だった。
「なんで私たち」
さっきと同じことを菊江はまた一人ごちた。
「誰かが、そう決めていたのですね。私たちが知らぬ間に」
誰もがどこかで一、二度は口にしそうなセンチメンタルな文句を、彼は、多分、他の誰もがそれをいう時持ち合わさない強い実感を抱きながら彼女に向って告げた。いいながら彼は、最早何の感情も持たず、あの辻という布教師とその言葉を、ただ思い出した。
腕の中で菊江がかすかに身じろぐのがわかった。
「僕は、あなたが今までおっしゃったことを、今になって、すべて信じられます。不思議だけど、本当にそうなんだ」
それが菊江にとって絶対の、そして唯一の免罪符であることを承知しながら彼はいった。いずれにしても、彼女はそれで救われ勇気づけられもするのだから。
狭い部屋の隅で、窓に向ったままふり返らないでくれと治夫に頼んで菊江は身繕いし、向い直した時、彼女は初めて恥ずかしそうに頬を染めた。
そんな彼女を彼はもう一度抱きしめた。抗おうとしたが、それでも彼女はじっとしていた。そして彼はまた突然、そんな彼女に情欲を感じたがこらえた。
「どうしたらいいんでしょう。私たち、どうなるんでしょう」
つぶやいた彼女の方が先に二人を現実に引き戻した。しかし戻った現実は、二人にとってさっきとは少し違ったものに感じられた。厄介な現実の方が、今の彼らにとってはふと非現実なものに感じられた。
「僕が話しましょう」
「何を」
菊江はおびえたように訊き返した。
「三津田とのことを御主人にです。三津田が何をいい、御主人が何と思っていられようと、こうなれば僕から説明すべきです。そうして、説得もします。御主人さえよく考えて下されば、三津田も従う筈です。我々があの男から逆に脅される理由は無いんですからね」
「でも、主人は誰のいうことも聞かないと思います。それに、あなたに御迷惑がかかっては」
「僕に、どんな迷惑です。辻さんがいった|奇《き》|蹟《せき》になるかならぬかは知りませんが、僕は何かから与えられた仕事としてやっているつもりです。そして、あなたが僕にして下されることは、僕をただ信じて下さい。それで満足なんですから、僕は」
菊江は何かを懸命に理解しようとするように頷いた。
「僕ら二人が、互いにとって何なのか、この先もっとはっきりとわかって来ることだと思います」
「でも、あなたに御迷惑をおかけするだけですわ」
「迷惑ならとっくにそういっています。あなたは、僕がさっきいったことをまだわかってくれていない。僕にはあなたが必要だったんだ、最初から」
治夫は向い合ったまま彼女の両手をとった。偶然、それは合掌したような形になった。
「それをまず信じて下さい。そうじゃなかったら、僕はもう何もしませんよ」
彼女は子供のように頷いた。治夫は結局、今ようやく、自分があの辻にとって代ったことを悟った。新しい仕事を始める前のように、気負っている自分を、彼は快いものに感じた。そして、故の知れぬ、幸せのようなものまでを彼は予感することが出来た。
英子が持って来た母親についての|報《しら》せは、予期した通り、いいものではなかった。
彼女は何か急な都合で、どうしても勤めの住み込みが出来なくなり、勤めも近い内に|止《や》めなくてはならなくなったという。その後の相談を治夫としたいのだが、持ちかけにくいから、英子から口を添えてくれといったそうだ。
「詳しい事情は何かいいにくそうだったわ。私が聞いたのはそれだけよ」
「で君は何といったんだ」
「あなたにはそうとり次いどくといっただけよ。会って上げたら」
「何故」
「何故って、あなた」
「そんな約束はしてないんだ」
「約束ったって、相手は困ってるんじゃないの」
「困っていようと、それは向うの勝手だろ」
「そういういい方は、あなたの勝手よ」
「俺の勝手。勝手なら勝手でいい。互いにそういう間の筈なんだ」
「だけど何があろうと、相手はとにかく親で、それが急に困って会いたいっていっているんじゃないの。いくら主義は主義でもさ」
黙っている治夫になお、
「私が口出しすることじゃないかも知れないけれど。お母さん、本当に困って急いでいるように見えたわよ」
英子はいった。
「同情があるんだな」
「だって、なんたってあなたのお母さんだもの。いざという時には」
「いざという時は、なんだ」
それには答えず、気を変えたように笑うと、
「お母さん、面白いこといったわよ。早く一緒になって、三人で住みたいってさ」
「なんだって」
「私さえよけりゃって。あなたのことは全然いわなかったわ」
英子は声をたてて笑い出した。
どうやら本当らしい。腹が立つより、不愉快が先にたった。落ちぶれ疲れた母親が、|姑《こ》|息《そく》に努めて、英子にどんな風にとり入ろうとし、彼女の心を少しでも|捉《とら》えようとどんな顔をしてそういったかが想像出来る。そして今笑ってはいるが、英子が|秘《ひそ》かにどう反応したかも。
今の彼には、自分が母親と一緒に住むことも、或いは、母親のいったように、英子と結婚して住むことも、そして、彼女らと三人で住むことも、全く想像の外にあることだった。
彼には、英子の笑い声も、もの欲し気に聞えた。反作用のように、彼は菊江を想い出した。
彼はようやく焦りのようなものを感じていた。確かめぬまま、それぞれ全く違う|範疇《はんちゅう》のものと思い込んでいた英子と菊江、それぞれとの関わりが、想いに背いて段々交わり重なって来たような気がする。そして、何か最悪のものを予感しながら、彼はそれをどうすることも出来ずにいた。
菊江との間がああなりはしても、その事実の前に、英子を不要だとは思わない。未練とは違って、もともと二つのことがらは彼自身にとってはっきり違うものの筈だったのだ。
彼の英子に対する気持は、彼女の肉体への執着は別にして、いわば自分と同じように、他人との関わりをいつでも外し自分|孤《ひと》りになってかまわずにいられる人間への共感のようなものだった。かつての二人の協同作業で確かめたものは、実はそのことだった筈だ。
そして、そんな彼女が、彼の母親に同情することは、彼には不本意で不愉快だった。それは英子として無責任か、或いは英子らしくないかのどちらかだ。
一緒に出歩いて戻り、英子が泊る仕度をしかけた頃、突然誰かが扉を叩いた。一瞬、菊江かと思ったが、戸の叩きようや、その前、廊下を行きつ戻りつしていた足音の気配が違っている。
「どなたですか」
治夫に代って英子が立ち上がった。
戸を開けると、見知らぬ、中年の男が|三和土《た た き》のはきものを|蹴《け》散らしながら扉にもたれるようにして入って来た。
英子にはかまわず、中に坐った治夫に向って、
「緋本さんですね」
男はいった。
「そうですが。どなたですか」
男は答えず、扉に|肘《ひじ》でもたれたまま無表情に彼を見下ろしている。その眼が据わってい、顔はむしろ青ざめているが、男は|顕《あき》らかに酔っていた。
「どなたです」
間に立った英子が咎めて|訊《き》いた。
男はちらとだけ笑うと、
「私は、塩見です。塩見と申します」
わざとのように、丁寧に頭を下げた。
いわれて治夫はやっと思い出した。しかし、それでも記憶にある印象とは|繋《つな》がらない。あの時の印象も弱々しかったが、その後起った出来事のせいだろう、もっと|瘠《や》せてやつれて、頬の輪郭までがすさんで見える。
「なんでしょうか」
|塞《ふさ》ぐようにいったが、英子が促し、男はそのまま靴を脱いで上がり込んだ。坐りながら、敷きかけの夜具と英子を見比べるように眺め、何やら一人で皮肉に笑って治夫に頷いて見せる。
「御用はなんですか」
尋ねた治夫の横で、夜具を畳んで戻すと英子はその後ろへ坐り、測るように二人を眺め直した。
|闖入《ちんにゅう》者は、治夫には不安よりも不愉快だった。
黙って彼を見、英子を見比べている相手へ、
「なんですか」
彼は咎めていった。
塩見はまた努めたように笑い直した。これから何かいおうとすることのために、この男が馴れぬ酒を飲んで来たのがわかった。
「あんたは、何なんだ」
いきなり塩見はいった。
「何とは、何ですか」
「俺がいつあんたに、何を頼んだ」
「何も」
「それじゃ余計なことをするな」
「余計なこととはどういうことですか。三津田の一件ですか」
英子を意識しながら、出来るだけ冷静に治夫は訊き返した。
「あれは奥さんに相談を受けたからしたのです。専門家に訊いて見ても、結局話し合いより方法はなかったからです。ただ、あそこで起ったことについては責任を感じています。奥さんにもお|詫《わ》びしました。三津田という男をよく調べなかった私の不注意でした」
「それですむことなのか、お詫びします、というだけで」
「いいえ、申し訳ありません。しかし、幸い大事になる前に、私が現場に行きましたから。三津田が何といったかは知りませんが、信じて下さい」
「三津田が何かいった、それじゃ菊江が君にまた話したんだな」
「ええ、昨日、電話を頂きました」
塩見の顔が|歪《ゆが》んだ。
「いいからもう余計なことをするな。君なんぞに指図されなくても、自分の家のことは自分でする」
青ざめ声を震わせていったが、そんな様子は子供のようにひ弱にしか見えない。相手の様子に治夫は逆に落着いて来た。
「三津田のいい分では、あなただと感情的になられて駄目だというので、奥さんにお願いしたんです。そして、話が決ったところで奥さんから打ち明けて頂くつもりでした。あなたのお気持としては、どんな話し合いも妥協でしかないと思われるでしょうが、実際に他にどんな方法がありますか。残念ながら、法律的にはもうどうにもならないことは御自分でもおわかりでしょう」
「そんなことを訊いてるんじゃない。君は、人の女房をあんな目にあわせてしまって、すみませんですむというのか」
「あんな目とはどういうことです」
「しらばくれるな、俺は知っているんだ」
「何をです。あなたはあの詐欺師と御自分の奥さんと、どっちのいうことを信用されるんですか。三津田はあなたをまた|欺《だま》して脅して、取引しようとしているんだ」
「何があったろうと、君と菊江とで何とでもいえるさ。俺に恥をかかせておいて、その上で、二人してまた欺そうとする」
途中で絶句した塩見は、眼に涙を浮べていた。
「それじゃ三津田に、奥さんや私の前で、あなたにいったと同じ恥知らずなことをもう一度いわせて御覧なさい。いえる訳がない」
「嘘をつけ」
「あなたはどっちの嘘を本気にするんです」
「三津田のいったことが嘘だろうと、君は、菊江をそそのかせて、一人で旅館の部屋にあの男に会いに行かせたじゃないか」
声を震わせて塩見はいった。
いわれて治夫は沈黙した。その時だけ彼は、この能のない夫である塩見の、自分の面子をかまえてではあろうと、妻に対する愛情を感じたような気がした。
「何の権利が君にあるんだ。君は何だというんだ」
「そのお咎めは受けます。が、奥さんも、あなたやお子さんのためだと思ったからこそ、そうされたんです。それだけはわかって上げて下さい」
「あいつに、菊江の従弟だといったそうだが、君は菊江の何なんだ。馬鹿な女をいいくるめて、そのために、医者のくせにいい加減な信心まで同じようにして見せているんだろ。何のためにだ、一体」
英子はそれまで努めて無表情で聞いていたが、初めて、促すように治夫へふり返った。しかし、彼はただ苦笑して見せた。
塩見はそんな英子へふり返っていった。
「奥さん、失礼ですが、あなたのためにもいわしてもらいますがね、あなたも迷惑でしょうが、私も迷惑なんだ。この人のやっていることは他人に何といわれても仕様がないことじゃないですか」
「それはどういうことでしょう。お宅の奥さんがいろいろお困りだということは、私も彼から聞いて知っていましたけれど。病院からの御縁もあって、彼なりにお力になったのじゃないんでしょうか」
英子は治夫よりも落着いて見えた。
塩見を前に、英子がどうしてそんなもののいい方をするのか治夫には|解《げ》せず、彼は黙って見守った。
塩見にも、そんな英子の態度は思いがけなさそうだった。
「じゃ、奥さんあんたは、この人のやったことを結構だというんですか。他人が何といっているかも知らずに」
「人が何といってるか、知りませんわ。私まだ何も聞いていませんし。それに、私まだこの人の奥さんじゃありませんの」
英子はにべないいい方をした。
「これはどうも失礼しました」
わざと丁寧に頭を下げると、塩見は皮肉に笑って二人を見比べ直した。
「それで、他人が何といってるのですか、彼と奥さんのことを」
英子は|訊《き》いた。
塩見は臆したように笑い直した。
「それは、あんたが彼から聞いたらいいだろう」
「じゃあそうしますわ」
塞ぐようにいわれ、塩見は沈黙した。
「それで、あなたは三津田とのことをどうされる気ですか。あの男がそんな恥知らずのことをいってるのなら、裁判にしてもいいでしょう。三津田が負けるのはわかってるが、前の事情もあって、罪ももっと重くなるでしょう。しかし、それでとられた土地が返って来るかどうかは別のことでしょうが」
「君の指図は受けないよ」
「それはわかりましたが、じゃどうされるのか、それだけ聞かせて下さい」
「いうこともないだろう」
「しかし、裁判にされるなら、私は証言します。それに奥さんの名誉の問題だってある。どうされるつもりですか」
「知りたきゃ、菊江に訊いたらいいだろう」
わめくようにいうと、塩見は体をゆすって立ち上がり、よろけて足を踏まえ直した。そのまま治夫を見下ろすと、
「とにかくもういい加減にしてもらいたい。君には関係ないことだ。手を引いてくれ」
「手を引けって、私は自分からは何もしてはいませんよ。一つだけお訊きしますが、あなたが今夜ここへおいでのことは、奥さんは御存知なのですか」
「菊江には関係ないよ」
「なるほど」
治夫は微笑し返した。
「あんた、この男に欺されるなよ」
最後に英子に向っていい捨てると、塩見は三和土のはきものを更に蹴散らして出て行った。やって来た時よりも酔いが出たように見える。出て行くそんな後姿は、いかにも疲れて、貧相だった。
「なんて男なの、あれじゃあんたやあの人に同情しちゃうわね」
開いたままの扉を閉めに立ちながら英子はいった。
「俺にはいいが、奥さんには同情してやってくれよ。初めて話し合ったが、あの男に能がないのがよくわかったな」
「でもよくいるわよ、あんな男」
「しかし、家族はかなわないさ」
「そこであなたが大サービスという訳ね。何があったのよ」
英子は向き直ると、大人が咎める前に、子供に相手のやったことの説明を求めるような声でいった。
結局、治夫は逐一話した。突然やって来たあの男の印象を借りた方が、あった出来事を出来事なりに納得させられるような気がした。
「それじゃ結局、あの男は今何をしに来たの」
聞き終ると英子はいった。
「俺にもわからない。多分あの男にもわからないだろう。起る出来事が何もかも不本意には違いない」
「でも、ひとつだけ確かだわ」
「何だい」
「あの人、あんたに|妬《や》きに来たのよ」
「馬鹿な」
「だってそうよ。三津田があの奥さんにしたことが本当に未遂だったのなら、代りに一層、あんたを妬くわよ。あの人にはそれしか、確かに筋だって他人に文句のいえることがないんでしょ」
「どうして筋だっている」
「本当にそうじゃない」
英子は|覗《のぞ》くように見つめ直した。
「|何故《な ぜ》だ」
「じゃ、あの人はあなたにとって何なの」
「また同じことを訊くのか」
「そうよ。あの男だって訊いたでしょ」
「わからない、俺はただ」
「わからないけど、とにかく、あの人はあなたにとって特別なんでしょ。それだけであの男は充分にあなたを妬くわ。自分がへまで能なしなだけにね」
「だからそいつは筋違いだよ。俺は見かねて、あの男の尻ぬぐいをしてやっただけじゃないか」
「だからあなたが何故、わざわざそういうことをしたかということよ」
いつものようにからんでではなし、駄目を押すように英子はいった。
治夫はわずらわしさに黙った。
「あなた、私があの人のことを口にすると不機嫌になるわね」
英子は努めたように微笑して見せた。
「そりゃそうだ。君に関係ないことなんだから」
「でも、三津田がいったことが本当だったらどうなの。それでも私に関係ない」
「おい、いい加減にしてくれよ」
「あの男だって、三津田がいったことで迷っているんでしょ。私だって同じだわ」
「今君らに妬きもちを妬いてもらう余裕は、俺にも、あの人にもありはしないよ。それどころじゃない」
治夫はいった。いった後で、彼は自分の嘘に気づいた。気づきながら、そのことでこんなに素直に嘘がつけるくらい、菊江が自分の内の深いところに入ってしまっているのを彼は感じた。英子に向ってそういい切ることが、はっきり嘘となったのは、今日が初めてということになるのに、もう何度も当り前に、その嘘をついて来たような気がする。
「わかったわ。じゃ、あの人が本当に私に関係ないのかどうか、そのためにもう一度だけ確かめさせて」
「何をだ」
「お願い、そうしたら、私安心するわ。私今までこんな気持になったことないの、変ね、これ妬きもちだわ」
英子は真剣に彼を見つめ、|微笑《ほほえ》んだ。彼女が本気で、本当のことをいっているのが彼にもわかった。
「いいよ」
彼は|頷《うなず》いた。その時、彼は英子に対してひどく人間的な気持になった。彼女の真剣な問いに、自分がはっきり嘘をつくことで、彼女にそれまで感じたことのない友情のようなものを彼は感じかけていた。
「あなた、私を愛している。私は愛しているわ」
彼女は微笑もうとしながらいった。それは予期したよりありふれた問いで、彼はその意味も考えず、
「|勿《もち》|論《ろん》」
と答えた。
頷いた後でその意味を彼は考え直したが、やっぱり、どうでもよかった。反省して見ると、彼は今まで自分から、そんな言葉を使ったことは一度もなかった。しかし今、彼はそれについて考え直して見る必要があるような気がした。
しかし答えた後では遅すぎた。
「それじゃ、あなたは、あの人を愛してはいないのね」
治夫は思わず英子を見直した。彼女はじっと彼を見つめて来た。
「つまり」
「私とは違うのね」
かぶせるようにいった。
「それは違うさ」
彼は頷いた。が、何故か、英子は後悔したような顔になった。逆に彼は安心した。そして彼の胸の内の、故の知れぬ後ろめたさが消えた。
「君に対する気持と、あの人への気持とは違うんだ、全く、それは」
念を押し、言葉のやりとりの中の何かを際だたせようとしたが、かえって彼は|怖《おそ》れていた|曖《あい》|昧《まい》さの中に戻って行くような気がした。
「私、不安なの。だからはっきりいって。あなたにとって、あの人よりも私の方が――。いいえ、そうじゃなし、あなたが愛しているのは、本当に、あの人じゃなし、私だけなのね、そうなのね」
「そうだよ」
「誓って」
「誓うよ」
何度も前にも同じことをしたような気がする。
「私にはあなたしかいないわ。あなたにも、ね、本当に、そう」
ひとことひとこと念を押すように彼女はいった。
「ああ、誓う」
「マスターが死んじゃって、私そう思ったの。している最中は夢中だったけど、結果が出て見て、そう感じたのよ。私にはあなたしかいないわ。私たちそれを確かめるために、あんなことしたんでしょ」
英子はすがるような顔になった。
彼女が唐突にいい出したことに当惑しながらも彼は頷いた。彼女が突然口にした出来事は、今ではひどく遠い以前のことのようにしか感じられない。
「もしあなたが嘘ついているんだとしたら、私たち、一体何のためにあんなことしたことになるの」
一人ごつように英子はいった。それが愚痴なのか脅しなのかを治夫は彼女の顔で測ったが、そんな彼女はただ、ひどく平凡な女にしか見えなかった。
俺があの時、この女に感じた満足は何だったろう、彼は思った。それは多分、完全なパートナーとしての共感と満足だった筈だ。とにかく俺はそれまでに他人と真剣に一つ仕事をしたことはなかったのだから。それにしても、あれは、俺と彼女どっちのためのものだったろうか。
やっぱり、英子のためだ。俺はどうにでもなったが、英子はあの男がいては自由が利かなかった。
後々の何かのために、彼は自分にそう確かめた。
その結果、彼は改めて、あのことに二人にとっての等分の意味をもたせた英子のいい分を彼女の勝手とし、腹を立てた。
いずれにしても、以前のあの出来事が何であろうと、今ここの話にそれを持ち出してくるのは唐突で公平を欠いている。どう考えてもあんなことは、互いに忘れてしまった方が都合いいのだ。
黙っている間に彼は、英子がさっきいったことを急いで思い出して見た。
彼は英子を愛している。だから、菊江を愛していない。
それは嘘だ。
英子がいながら、その英子以上に、彼は菊江に|魅《ひ》かれる。そして二人は互いに必要とし合っている。それは、あの店の主人を除いた作業の中で、英子と自分がそうだった、はるか以上にだ。そのことを彼は、彼女のいう因縁などという言葉をさえはめても信じられそうな気がする。
ということが、愛なるものの証しではないのか。
菊江との|関《かか》わりの中で生れて初めて、彼は自分が相手に尽すことの切ないような満足を感じることが出来た。そしてそれは彼にとって全く意外な自分だった。彼女はそれを必要とし、そして実は、彼自身も自分にそれを欲し、必要としていたのだ。
これが多分本ものなのだ。これがつまり、愛などと呼べる代物なんだ、彼はそう断定した。
思いながら、おくての少年が、初めて性を知って|眼《め》|醒《ざ》めたように、彼は自分に何か未知で可能なものがあるのを予感したような気がした。
それは、自分が今眼の前にいる英子に嘘をついている、ということで更に強い実感で感じられた。
黙ったままの彼女を促すように、彼は微笑し、頷いた。
「私、不安だわ。でも、少し安心したみたい」
自分に納得を強いるように彼女は頷き、微笑み返した。
不安を怖れるほどの何が、実際に、この女と俺との間にあったというのだろうか、彼は思った。
少なくとも俺が彼女に求めたものは、あの理髪店の主人を殺した時と同じような、セクスの中でのパートナーシップ。|煎《せん》じ詰めるとその|他《ほか》に何があっただろうか。それはそれなりに|直截《ちょくせつ》な、意味づけも解釈も要らぬ、一つの価値だ。それをある尊さと呼んでもいい。他の女たちと比べて、俺はそれを測ることが出来る。
そして、それ以上の何か、故の知れぬ懐かしさの内の安らぎ、戻るべきものに戻っていく満足の快さを菊江の内だけに見出すことが出来たのだ。
しかし、菊江は彼にとって余りに初めてすぎ、余りに唯一のものでありすぎた。
そして、彼女がそうであることは、かえって、彼にとって英子が今その関わりの形で在ることをどうさまたげもしないように感じられた。
彼の勝手な都合ではなく、彼は実際にそう感じていた。
しかし、今もし、そうだ、もし今英子が選べというなら、俺は多分、英子をさえ捨てて、菊江を選ぶだろう、彼は突然に思った。その考えは彼の心を|昂《たかぶ》らせ、定かではないが、何か使命感のようなものまでを予感させた。
そして結局、自分が予感していた決着点に自分で飛び込んだのを彼は感じた。
その瞬間、彼は眼の前の英子をうとましいものにさえ感じた。そのうとましさは、今までと違って、決定的なものに思えた。
しかし、その気持をこの際英子に明かす必要はなさそうだった。彼は|労《いたわ》るように笑って見せた。
「不安だけど、安心したみたい、か。馬鹿だな君は」
「でもあなたがもし私に嘘をついたら、私たちの間は終りよ」
彼を追い込み、駄目を押すように彼女はいったが、その順序だては彼女の勝手な都合でいささか飛躍があるようだった。彼がさっき心の中で選択を決めてしまった限り、英子が本当にその気ならそれでいいのだ。
「いいよ、わかっている」
言葉の指きりみたいに彼は簡単に、しかし重々しく頷いた。
翌日、治夫は病院で市原に呼ばれた。
彼もうんざりだが、|流石《さすが》に市原も|辟《へき》|易《えき》して見えた。今までとは違って市原は、治夫をこんな粗相な母親の息子であるということだけで|咎《とが》めたそうに見えた。
「だから余りかまわないで下さい、と最初にいったんです。あの人は好きなようにさせておけばいいんです。自業自得なことは当人が知っているんだから。それを周りで、|親《しん》|戚《せき》だの何だのということでかまうから、こうやってもたれて来るんです。御迷惑になるのは、初めからわかっていました」
「率直にいってうちも迷惑なんだ。僕の母の口利きで決めた勤め先だしね。母の顔もあるし、かといって、このまま知らぬでもすまされない」
「どうしてすまされないんです」
「だって君」
市原は嘆息して見せた。
今までの説教じみた口調と違って、今度は市原が治夫に相談を持ちかけていた。
要するに、お前の方の勝手じゃないか、治夫は思った。
ただ逆に、この慈善気取りの節介屋に、平気でその顔をつぶしまた迷惑をかけた母親を、治夫は、勝手な当惑をしている市原の前では、小気味いいものに感じた。
市原の話では、多津子は彼の母親の口利きで住み込みで行った厚生施設の|賄《まかな》い方の仕事場に、男を引っ張り込み物議をかもしたそうだ。彼女は最初、年下のその男を自分の|従弟《いとこ》と人に紹介したが、間もなく間柄が知れた。それも、所かまわず彼女が始めた男との痴話|喧《げん》|嘩《か》から相手の素姓が割れた。
施設の責任者が苦情をいうと、最初二人は夫婦だといって居直ろうとしたが、相手側が、それでは初めに市原の家と話した条件とは違うから、市原にも話して|止《や》めてもらうというと、折れて、期限つきで男だけが出ることになった。が、その期限の前日、また派手な喧嘩の後、その夜男は彼女の貯えと施設の事務所の金をかすめて姿を消してしまったのだ。
治夫には、なんとも見事な話に聞えた。
しかし、その尻をにわかに自分に持ってこられても迷惑でしかない。施設の被害の金は市原の家が弁償してすませたが、同時に彼女の身柄も即刻つき戻された。彼女も無一文で、どこにも行けず、とりあえず市原の家に置いてはあるが、それを治夫になんとか引きとれぬか、と市原はいった。
少し前に、多津子が英子を訪ねて行ったことを思い返すと、彼女もかねがね周りに気がねはしていたに違いない。すると、彼女はその年下の情夫とやらと一緒に彼のアパートに転がり込むつもりででもいたのだろうか。
英子もそこまでは気づいていなかったろうが、迷惑とか、不愉快の前に治夫は、半ば感心しない訳にいかなかった。
落ちぶれていささか形は変えたが、それにしても、彼女は七年前の彼女と本質どう変っていなさそうだ。彼女にとってそれを喜ぶべきか、或いは彼女の業かは知らぬが、どんなに卑屈で姑息にはなっても、結局のところ、傍若無人としかいいようがない。
信条あってかどうかは知らぬが、とにかく筋の通った彼女の生き方に比べれば、市原母子の偽善の|鍍金《めつき》は、今思いがけぬ|火傷《やけど》に慌てて泣き言をいっている市原を見れば、全くもろすぎた。他人ごとですむなら、それをあばいて見せた母親を痛快といいたいくらいだ。いずれにしろ、彼らにすれば多津子を恩知らずと呼びたいのだろうが、そういって|放《ほう》り出すことは、彼らが気取っている寛容の手前出来ないのだろう。今更の相談は、下手なドリブルで結局持て余したボールを苦しまぎれに勝手にパスしてこようとするようなものだ。
流石に辟易したようで、市原はいつになくもののいい方が|下《した》|手《て》だった。
「とにかく、いつまでも僕の家にいてもらう訳にいかないんでね」
おずおずと治夫を|窺《うかが》うように市原はいった。
なぜ駄目なんだ、といい返したいのを、治夫は我慢した。多少の粗相はしても、そのまま彼らの偽善の|愛《あい》|玩《がん》に飼い殺しにすればいいのだ。落ちぶれた多津子に一番先に、興味を持ったのは市原母子ではないか。
「どうしたらいいんですか」
逆に治夫は訊いてやった。このパスは、彼にしたところで持ち切れない。
「どうしたらって、君」
市原は沈痛な顔をして見せた。柄にもないことをしかけた癖に、この男の表情のつくり方は無器用だった。ここでこんな顔をすれば、結局彼の方がこの出来事に悩んでいることを|証《あか》すことになる。
「僕にもどうしていいかわかりませんよ。もともと彼女が自分の意志で選んだ生き方をして来たんだから。僕はただただびっくりさせられるだけでね。もう一度、|故郷《く に》の父にでも相談して頂いたらどうです」
思ってもいないことを治夫はいってやった。
「そりゃ駄目だ。こんな事情を打ち明ける訳にはいかない。お父さんにしたって、ただ不愉快なだけな話だからな」
俺だって同じことじゃないか、治夫は思った。
「じゃ、急病だといってやったらどうです。|癌《がん》らしいとでも。当節は癌だって治るし、結構もちますからね。結局、金ですむことなんでしょ」
市原は頷きかけたが、危うく思いとどまって、慌てて首を振った。
「いや、それだけじゃない。彼女は矢っ張り寂しいんだ。誰か心の支えが欲しいんだよ」
「まさか、それを僕にしろというんじゃないでしょうね。僕の手元で隠居ですか」
いった後で治夫は後悔した。
果して、市原はいつもの説教じみた微笑を浮べ直した。
「結局は親と子の仲だよ。それが一番自然なんだ。過去にどんなわだかまりがあろうとね。それに第一、君が何といっても一番間近にいる肉親なんだから」
その俺が実は一番遠いところにいるんだ、ということがどうしてもこの男にはわからない。それよりも、彼女自身はどう思っているのだ。
「この僕に、この上どうしろというのです」
「だから、お母さんの支えになってあげて欲しいんだ」
「それは無理ですよ。たとえ、僕と彼女が同じ屋根の下に住んだとしても、それだけは出来ないでしょう。僕が彼女の支えになる訳がない。それは彼女が一番よく知っている筈です」
「そんなことはない。お母さんはそう望んでいるんだ」
「僕は望みませんよ」
「ま、聞きたまえ、昔の出来事に対する君の気持はわかる。しかし、結局はね、親子というものなんだよ、今はわからなくても、やがてその内にそれがわかる」
ひどく曖昧だが、確信あり気に市原はいった。
「それまでは、一人のよく知っている他人としてでいい、その人が、ひどく困っているんだ。その人のために君の出来ることをして上げてくれないか」
「前にもいいましたが、あなたは最初から肝心なことを誤解しています。昔の出来事に対する僕の気持など、あなたが考えているようにはありはしない。それがあれば、もっと始末がいいんでしょうがね。僕が今知っていることは、結局親子なんだということじゃなく、結局親子も他と同じだった、それでいいんだということなんだ。親子ということで、何も無理をすることはないし、また、それを簡単に他と違うと考えることも間違いなんです。だから、彼女は今僕にとって、あなたがいうように、他人です。それも実は、よく知った他人じゃない。彼女のやっていることは、|未《いま》だに僕には何もかも意外で、僕は彼女のことは何も知らない。しかしいっときますが、僕はそんなに冷たい人間じゃない、ということがこの頃自分でわかった。つまり、よく知ってるある他人のために、僕は今、何故だか知らないが、あることで本気になって苦労し努めてやる気になっているんです」
市原は何となく自信無さそうに治夫を見返した。訳もわからぬことをいわれて、話をそらされまいとするように、急いで頷いた後、
「それなら、お母さんのためにも出来る筈じゃないか」
「そんな余力はありません」
「しかし、一緒に住んで上げるだけでいいんだ」
「彼女がそういい出したんですか」
「ああ、そう出来たらとね。それに君、僕はまだ知らんが、君には誰かいるそうだな、同級生とかで、その内結婚するつもりの相手が」
治夫は黙って相手を見返した。市原は|躊躇《ちゅうちょ》したが、思い切ったように、
「お母さんは、彼女にも相談したそうだ。三人で住めないかって、その人はそれを|希《のぞ》んだそうだが。そうなれば、それこそ僕は、祝福するね」
「冗談じゃない。それは彼女の都合のいい|妄《もう》|想《そう》だ」
「いや君、君のその相手の人は、君がもし嫌だといったら、そうする前に、彼女が君のところへ移って、その後に一時、お母さんを住まわせてもいいといったそうだよ」
「馬鹿な」
治夫は驚いていった。驚いた後、ひどく不愉快になった。
しかしふと、英子が多津子に向って実際にそんなことをいったような気もした。
自分と英子との関わりについての市原の口ぶりも、母親を通して英子自身がいったことのような気がする。
英子は英子で、多津子から受けた相談を逆に利用しようとしてい、多津子もそれを知って利用されながら、また逆に英子を使おうとしているのだ。
二人の目的はともに、自分と治夫との関係に今までと違う形を与え、その形に違う意味を持たせようというのだ。そして彼自身がそのいずれをも希んでもいないことだけは確かだった。
治夫は特に、英子が一時だろうと彼の母親に自分のアパートを与えて、自分と一緒に住もうとしていることに、英子の、自分との関係への執着を通り越した、悪意のようなものをさえ感じた。
二人の間で、互いの立場の均衡がとれていれば、関係自体は何の害にもならぬが、それが崩れると、途端に、片方にはそれがうとましくなり、片方には執着が出る。
そして、英子が自分でその均衡を破ったのだ。彼と菊江の関わりを、二人の間に持ち込んだのは、英子の方だ。菊江と一緒にいる自分の前に、英子がいることのわずらわしさを菊江が突然訪れたあの夜感じはしたが、しかしそれは物理的に避ければそれですんだ。少なくとも彼にとっては。
英子は結局、彼女自身のし馴れないことをしたのだ。二人が満足して分ち合っている他に抜きん出た肉体の快楽に、それ以上の意味をもたせようとした。背景に何があろうと、二人の|絆《きずな》は互いのセクスの歓びであり、それだけで充分だった筈ではないか。
英子がそんなことをし出した原因は、勿論、塩見菊江だろう。しかし、それが英子の変身の動機になったことを彼が悟ったのは、英子が騒ぎ出してからであって、英子は自分で自分の変身を促したともいえる。
いずれにしても、菊江とのことは英子との|邂《かい》|逅《こう》に重なって起ったのだし、むしろもっとその以前から決められていたような気がする。ともかく、菊江との間が、ああいう形まで進めば、やがてもし強いられるのなら、治夫の選択は宿命論の説くところに傾くだろう。しかし、彼がその選択を希んだ訳ではない。英子がそれを強いるのだが。辻が与えてくれた宿命論的な暗示は、この際、治夫にとって都合のいいものでもあった。
「しかし、彼女は本当にお母さんにそういったそうだよ」
市原は最後にその事実にすがるようにいった。
「彼女なりの思惑があったんでしょう。彼女が母に何といい、母がどう受けとったか知りませんが、僕はその女と一緒に住む気もないし、結婚を考えたこともない。まして、母と三人で住むなんぞ考えたこともない。二人に会ったら、一体どんなつもりなのだといってやります」
「他に誰かいるのかね」
窺うように市原はいった。
「そんなこと関係はないでしょう。はっきり断わっておきますが、僕は今、その女にも、母にも、僕と住んで欲しい気は全くない。必要なら僕からそういいます。とにかく、もういい加減にして下さいよ。母が自分でそんなことをいってるなら、故郷の父に、この間の話し合いの種明かしをするぞ、といって下さい。僕はあんな金が欲しくてやったんじゃない。あれが、彼女にしてやれる、ぎりぎりのところなんだ。それがわかってないなら、こっちも考えがある」
市原は当惑したように眼を|瞬《またた》いた。
「僕は決して、僕が一緒に住めないから、お宅に預かっておいてくれとはいいませんよ」
「じゃどうしたらいいんだ、無一文になって」
「なんなら当分、故郷から送って来る金は、全部彼女に渡してもいい。それで足りぬことは、自分で考えさせたらいいでしょう」
「いや、金のことをいっているんじゃないんだ」
「しかし、彼女がそんな浅ましい追い出され方をしなかったなら、お宅だって扱いが違うんじゃないんですか」
「なんていい方をする」
「いや、率直に話した方がいいんです。お宅はうんざりでしょうが、僕にとっちゃ昨日今日のことじゃないんだから」
「しかし、そういっても君」
「とにかく、相手は一人の大人なんですからね。しかも充分健康で、年齢もなりふりもかまわない勇気だってあるようだし」
「そんないい方はよくない」
「我々が隠しだてすることもないでしょう」
市原はあきらめたような顔になった。
「しかし、君ら親子というのは、その、変ってるんだな」
いい|淀《よど》んだ後で、言葉を誤魔化したように市原はいった。
「親子なんて鍍金をはがして見りゃそんなものですよ。ただ皆そんな地金を見たがらないだけなんだ」
「そうは思わんね。今に君もわかると思うよ。親子は矢っ張り、他の金属じゃ代えられない特別の地金なんだ」
まだ未練あり気に、しかし|尤《もっと》もらしく|諭《さと》して市原はいった。
「話は別だが、お母さんが会ったというその人の他に、君は誰か、その気の人がいるのかね。結婚を考えているような」
さり気なく何かを探るように市原は尋ねた。
「何故です」
「いや、君みたいな経験をした男は、出来りゃ早く結婚した方がいい。つまり、家庭を持ち直して見るためにね。そうすりゃ、その内に、お母さんのことが理解出来る」
「僕はとっくに理解しましたよ。だからこういうんです」
市原はもう一度、あきらめたような顔になった。
口にするつもりは勿論なかったが、治夫は菊江のことを考えた。家庭というものが何か、その中の人間同士の関わりが何かということについて、彼女の家庭も改めて治夫にいろいろ教えてくれた。
「君はさっき、誰かのために何かしてやっているといったが、あれはどういうことなんだ。つまり、君の将来の結婚に関わりあることじゃないんだね」
「でしょうね」
市原は好奇な眼で彼を見返し、ついでに腕の時計を眺め直した。話ついでの|詮《せん》|索《さく》の時間はどうやらありそうだった。
「どういうことだい」
相談を受けたそうな微笑を彼は浮べて見せた。
「つまり、そのことで何も求めてはいないということです。しかし僕は今以上のことをその相手にしてやりたいと思っています。自分でも意外なくらいですがね」
「奉仕と献身か。確かに君には似合わない感じだな」
「あなたがいわれた間近さということなら、その相手の方が、母親よりも僕には間近にいます」
「それは、愛情の問題ということかね」
「そうかも知れません」
「それは君、他人というものは何といっても他人で、珍しいからな。親子の仲という間は、愛情なんて言葉を持ち出す以前のものなんだよ」
市原は未だ未練気だった。
「ま、何か知らぬが、君にとって珍しそうなその体験を通じて、君にとって他人のようで絶対他人じゃない人のことをもう少し考えるようになってくれるのを、君のためにも、期待するがね」
市原は立ち上がった。
それでこの後、お宅ではあの女をどうするつもりですか、と訊いてやろうとしたが、意地悪すぎるようで止めた。他人が飼っている、いつかは治夫まで無理に手をとられ|撫《な》でさせられたペットを、今になって悪い病気があるともて余し放り出しかねているのを、その先の詮索してやる必要がある筈なかった。
市原と別れた後、治夫は、菊江に対する自分の気持を愛情という言葉で問われ、自分がどんなつもりで何と答えたかを思い返して見た。
市原は、他人は珍しいから、といった。確かに菊江は彼にとって珍しかった。今まで、何かで他人との関わりはあっても、その意味を考えたりするようなことはなかった。彼が誘惑したり一緒に寝たりした女たちも、ただ、彼の生活の部分を具体的につくり上げた、彼にとって実利的な素材でしかなかった。
そんな関係を、世間は多分決して人間的とは呼ばないだろう。しかしどう呼ばれようと、彼が悟って心得た人間の関係とはそのことに|他《ほか》ならなかった。その限りで期待したり、外されたり、|欺《だま》されたりしても、そう傷ついたり動揺したりすることはなしですませた。
英子との仲も、その邂逅の偶然や、彼女についての彼の記憶の意味合は別にして、結局、互いに充分心得あった限りでの関係だった筈だ。第一そうでなければ、あんなに何も考えず、簡単に|旨《うま》く、あの男を殺せる筈はない。実利的な人間関係こそが、人との関わりの処置について冷静で勇敢で、つまり一番実利的な方法を考え出し、それを行わせることが出来る筈だ。
二人が互いに感じた満足や共感は、その最中、いかなる意味や心情も必要としないセクスの中で得られたものだし、同じように、他人が意味や心情を気にする人殺しを、それにこだわらず、冷静にしとげることで得られたのだ。つまり互いの共感は、自分だけかと思っていた条理にぴったりかなった人間が、もう一人いたという驚きと心強さだった。
菊江に対する彼の気持や、行為は最初から、彼が自分に課していた条理に外れていた。
そもそも、最初の印象からしてが、根拠もなしただ心情的なものだったし、彼が初めに思わず示した好意は、実利に遠い、何の|贖《あがな》いもないものでしかなかった。尤も、彼女はそれに感謝はした。しかしそれを行為の償いととるには、彼はそれまでの生き方の中で、感謝なるものを、することもされることも敬遠し避けて来たのだ。そんな風に自分の規格に外れた自分を、彼はただ訳がわからぬ、とだけしか自分に説明して来なかった。それは規格を外れているのだから、まず、不条理であるともいえた。
そしてその不条理を、いつものように自分に咎め、退けることなく来たことも、不条理だった。
つまり、市原がいったように、それは結局彼にとって、珍しかったのだ。
ということは、俺にそれが欠けていた、或いは、俺が知らずにそれを希んでいた、ということになるのか、彼は思った。とすれば、俺が母親のことでああむきになるのも、実は、思いがけず俺自身に矛盾した何かが、まだ俺の内にあるということか。つまり、俺には母親がいながらない、ということか。
いや、俺にそれをなくさせたものは、あの出来事だし、そもそもあの女がその元凶なのだから、これは別だ。
しかし、別だと区別するところに、実は思いがけず、俺にあの女へ何か希むところがあるということになるのじゃないか。
が、医者が自分の病気に処方しながら、何となくそれが効く筈ないと感じるように、そんな分析もどこか勝手に手順を欠いていて、結局、虫のいい結論を出しそうな気がし、彼は止めにした。
何でもいいじゃないか、俺は今、菊江が必要だし、彼女も俺を必要としている。そして俺は今までの自分の生き方にどうこだわることもなく、そのことに満足をしているんだから。
彼は今までの実利主義を、勝手にそこまでパラフレイズすることにした。
しかしそれでも|尚《なお》、菊江との関係が、彼にとって未だに|捉《とら》え切れぬものであることに変りはなかった。第一、彼はそれがこの先どうなって行くのか、今までのいつとも違って全く目算がたたず、どうすべきかも知れずにいた。
そしてそれが未知であることに、ときめきのようなものを覚えた。それでも尚不安の時は、あの辻の宿命論にすべてを預けることにした。
つまり彼は、自分が規格して自分に押しつけた以外の自由があるということを感じかけていた。それはいって見れば自らに対する造反だった。
その日の午後、終業近く、治夫は病院に思いがけぬ男の来訪を受けた。男は、三津田に雇われた弁護士と名乗った。
相手の用件は、要するに、もう一度、治夫から塩見へ、告訴の代りに示談でけりをつけるように説いてくれ、という。
どうやら三津田の画策は逆効果で、塩見は財産も面子も、元も子も無くしてでも三津田を訴えて仕返しすると心に決めたようだ。
告訴を止めれば、返却する金額については尚もう一歩話し合う、と弁護士はいった。
「私が塩見さんに説得出来るのは、私が三津田にいった条件以上のものでないと話になりませんね」
「それは今確かに返事出来ませんが、とにかくまず、告訴をとり下げてもらうことが先でしてね。三津田本人の身柄が|勾留《こうりゅう》されてては、話し合いにもならんでしょう」
弁護士は都合のいい理屈をいった。
「それは自業自得ですよ。大体、相手がどんな人間か知っているのに、裏からわざわざ自分で塩見につげ口したのが悪いんだ。それに、なんであんな悪質な嘘までいう」
「なんです」
「塩見の奥さんの名誉にかかわることですよ」
「ああ、しかしそれは」
弁護士は手の内の何かをちらつかせながらも、わざとまた隠すように途中で口を閉じた。
「周りでどんな証人をでっち上げるつもりか知らないが、結局、未遂を既遂というのなら、三津田の破廉恥罪が重くなるだけのことじゃないですか。とにかく、私が最初に飛び込んだのですからね。他の人間はずっと後から来たんだ」
「しかし矢張り名誉は名誉でしょうからね。私がこんなことをいうのは変ですが、御当人や身内の人間の身になって上げませんと」
「だから私はそう説得したし、頼まれればまたそういいますよ。しかしその理由に、三津田のいっている出まかせの嘘の脅しは認めない」
「それはまあ、いざとなってしまえばわかって来ることですが。出来れば、両方のために、そういうことにならぬのが、おためと思いますので」
「しかし、塩見はそう決心したんでしょ、闇雲に三津田を叩くと。そうさせたのは、三津田自身じゃないですか、悪質な嘘で脅して」
「私は詳しい事情は存じませんが、当人は嘘ではないといっていますがね」
「何をいってるんだ」
大きな声でいった治夫を弁護士は薄く笑って窺うように見返した。
「それじゃ、あの人が、三津田に|盗《と》られたものを体で買い戻す気で行ったというんですか。この僕が、それをさせたというんですか」
「ま、そうおっしゃらずに。それは結局|些《さ》|細《さい》なことですよ」
「どうして些細なんです。そんなことをいうのなら、塩見に説いてでも裁判をさせ、三津田をぶち込んでやる。あんたらは、裁判が世間の眼にとまって、塩見一家が恥をかくとでも思っているのだろうが、塩見はそうすることでもっと大きな名誉を守ろうとしているのがわからないのですか。それは愚かなやり方かも知れないが、考えて見れば、あの男にはそれしかないともいえるんだ。土地も元も子も盗まれようと、その犯人を、三年間、監獄にぶち込めば、塩見は本望かも知れない。私もそんな気がしますがね」
話の途中から弁護士は顔色を変えたが、最後には微笑し直して、
「それは困ります。それじゃ私が来た|甲《か》|斐《い》もありません。こういうケースでは、互いにどれだけ実質をとるかということを考えないと、後で後悔しますからね」
「私がここで、塩見家に代って、六千万円を一億ということも出来るが、その前に、もう一度じかにあの男にいってやることがある。その上で返してもらうものの額もいいましょう」
「しかし急ぐのです。塩見さんは、もう手続きをとられたようなので」
「それじゃ、今夜三津田に会わして下さい」
|一寸《ちょっと》の間考えていたが、弁護士は頷いた。
三津田は弁護士と一緒に事務所で治夫を待っていた。
塩見が告訴の手続きをとったのは本当らしく、流石に三津田は今までより真剣な顔をしていた。それでも、入って来た治夫に、半分照れ半分ふて腐ったように笑いかけた。
治夫は弁護士を外させ、二人だけになってから腰を下ろした。
「あんたあの時奥さんをものにしたようなことを塩見にいったようだが、どういうつもりなんですか。そう認めて裁判にかかれば、たっぷり三年以上は確かだそうだ。|勿《もち》|論《ろん》、裁判になれば未遂といい変えるんだろうが、それでも二年の刑にはなる」
「そうでもないさ。結局、俺が|騙《だま》されたんだ」
「騙された」
「あんたらにな。そういうよ、はめられたのは俺だって」
誰がつけた知恵なのか、半分自信あり気に三津田は笑って見せた。
いおうとした声がつまり、体が震えて来るのを治夫は感じた。どうしてこんな怒りがこみ上げて来るのかわからない。
「嘘をつけ、嘘を。僕があの時、最初に飛び込んでいったんだ」
「なんだろうとな、本当だよ。その気で来たんだ、あの女も」
「馬鹿をいえ、なんで貴様みたいな奴に。俺たちが貴様にだまされたんだ」
「どっちでもいいじゃねえか」
居直ったように笑って治夫を見返すと三津田はいった。
「それより、なんであんたがそんなにそれを気にするのかね」
「僕の責任がある」
「それだけじゃないだろう。あんたが|焚《た》いて女が乗ったんだ。亭主じゃうんとはいわなかっただろうがな」
挑むように、声をたてて三津田は笑った。
「どういうつもりなんだ」
「手前に聞いてみなよ。ま、女は、本当でも、従弟のあんたには嘘だといったろうがな。いいじゃねえか、阿呆なのは亭主なんだ。しかしま[#「ま」に傍点]、そんなことを裁判でいい合ったってしようがないだろう。あんたにだって、飛ばっちりがいかないとも限らない。何しろ、塩見ってのはあんな男だからな。だから、こっちも金については、折れるから、それにあんたにも悪いようにはしないから、ひとつ」
「そんなことはどうでもいい。もう一度|訊《き》くけど、あんたは、あの時、あの人のことで塩見にいった嘘を、まだ取り消さないつもりですか」
「何でそればかり気にするね」
三津田は構えるようにまた笑った。
「どうでもいいじゃねえか。むしろ俺の方が訊いてみたいのさ」
なれなれしく、三津田は首を|傾《かし》げ彼を眺め直した。
「あんたとあの女の仲が何だか知らねえが、いい相談相手が塩見の家にいたもんだと思うね。だからさ、あの時のことが、嘘か本当かって、俺はあんたにそれで殴られたんじゃないのかね。あんたなら、女に訊かなくても、それがわかったろうによ」
わざと|下手《へ た》にとぼけた風に彼はいい、その後、わざとなれなれしく笑いかけた。
予期もしなかった熱いものがこみ上げ、次の瞬間、それが体を駆って、彼は低いテーブルを越えて飛びかかり、三津田を殴りつけていた。
もの音に弁護士が飛び込んで来た時、三津田は殴られた|顎《あご》を押え、真っ赤な顔をしながらも、|唖《あ》|然《ぜん》としたように治夫を見上げていた。
「これであんたが僕を訴える裁判をもうひとつ起してくれたら、喜んで出ていくよ」
訳がわからず昂ってしまった自分を抑えようもなく、声を震わせながらいい捨てると治夫は|踵《きびす》を返した。
彼が戸口を出る時もまだ、三津田も弁護士も声を出さずに見送っていた。
興奮は今の|狼《ろう》|藉《ぜき》では発散し切らず、体中に|溢《あふ》れ、何か次の激しい行為を促すように高く|動《どう》|悸《き》を打ちながら、三津田を打った手や肩を震わせていた。他人には理解出来ぬ衝動で突然前後を知らず|激《げっ》|昂《こう》してしまった子供のように、自分の興奮をもて余しながら、彼は突然、ひどく孤独な自分を感じた。
ずっと昔、子供の頃、大事にして机に飾っていた幼稚園でもらった聖画を、年上の|従兄《いとこ》が|悪戯《いたずら》で|髭《ひげ》を描きこんで汚した時、一瞬茫然としながら、力まかせに相手をつき飛ばし転がし|跨《また》がってその顔を打った時の、自分でも律し切れなかった突然の激情を彼は思い出した。あの時、叱られるのを|怖《おそ》れてではなく、誰か今自分を理解してくれる人間を間近に欲したように、治夫は事務所から駅までの|路《みち》を歩きながら、見知らぬ誰でもいい、今この昂った自分を許し理解してくれる人間を欲しいと思った。そして、初めて強く、彼は、菊江が自分の間近にいないことを感じたのだ。
二、三日し、英子から病院へ電話がかかった時、治夫はまたわずらわしさを予感した。どういう訳か、この前の日曜以来それまで、彼女からの何の連絡もなかった。
「治夫さんですか、英子です」
他人行儀に彼女は呼んだ。彼が答えると、一寸間を置き、用意していたものを示すように、
「私、何もかもわかったわ」
英子はいった。
「昨日、塩見さんに会ったんです」
「塩見に、どっちの」
「奥さんには会えなかったわ、会いたかったけど。奥さんはもう家にいないんでしょ」
初めて聞くことだった。
「なんでそんなことをしたんだ」
「確かめたかったのよ。本当は奥さんに会ってね」
英子が菊江に会うと聞いただけで、治夫は重苦しいような不快さを感じた。
が、
「でも、わかったわ。御主人からみんな聞いたわよ。あの人、あんたも訴えるといってたわ」
「俺を、馬鹿な、何でだ」
「しらばっくれないでよ。あんた、あの奥さんと関係があるんでしょ。奥さんが自分で白状したそうよ」
「何だって」
「慌てなくたっていいわ、今更」
英子はいったが、慌てたというより治夫には今彼女のいったことの意味がわからぬような気がした。
「あの人が家にいないってのはどういうことなんだ」
「知らないわよ、あんたの方が詳しいんじゃないの。あなたのところにでもいるのかと思ったわ」
「馬鹿なことをいうな。しかしどうして家を出たんだ」
「あなたのことがわかったからよ」
「妙ないいがかりは|止《や》めてくれ」
「いいがかり、じゃあんたは嘘だというの。奥さんは自分でそういったのよ」
「|何故《な ぜ》」
「知らないわよ」
嘘だ、とは簡単にいえたが、そういうことで今、何を何のためにどう|繋《つな》ぐのかが治夫にはわからなかった。菊江が自分でそんな告白をしたことは信じられないが、しかしもしそうだとしたなら、それはそれでいいような気がした。予想はしなかったが、しかし、何だかこんなことになるような気がしていたような気もする。
菊江とのことが塩見や英子に知れたことでこれから何が起って来るのかはわからぬが、英子からそう聞いても不思議に|狼《ろう》|狽《ばい》はしなかった。
受話器を手にしたまま、彼は黙っていた。結局彼女や塩見にどう説明しても彼らに何がわかるものでもない気がする。そして、どんないい訳のある筈もなかった。
受話器の沈黙の中に、何か大きく透明な虚空のようなものが在るのを彼は感じた。そして、その隔絶感に、彼はむしろほっとし、沈黙を快いものにさえ感じた。
「あの男がいった通りね。私、騙されていたのね」
言葉は聞えたが、その言葉の意味は、受話器の中の虚空に皆散って消えてしまうような気がした。
「あなた、私に、嘘ついたのね」
「嘘、じゃないな」
英子にではなし、彼は二人に介在した虚空の、こちら側にいる自分に向っていった。
「じゃ、私たちは何だったのよ。あれまでしたものが、何だったというのよ」
彼はその言葉だけを聞き取った。
彼女が|質《ただ》し求めたものは、結局、今、電話の中に感じられるものの筈だった。
「何かいったら」
「いや、落着いたら話そう。今は、あの人は大変なんだ」
しかし英子はなお待つように黙っていた。
沈黙の後、彼がまだ電話の向うにいるのかどうかを確かめるように、初めて高い声で、
「もっと何かいったら、女ったらし」
英子は叫んだ。
思わず心から治夫は微笑した。その言葉を、彼は懐かしいものに聞いた。
今までのある他人たちとの幾つかの|関《かか》わりは、結局、その言葉で終っていった。それは、そうした関係の本質の確認の|符牒《ふちょう》だった。それを口にすることで、彼女たちは結局すべてを納得したのだ。
「もういいだろう。今日は、これで切るぜ」
沈黙の中に、向うで身を凝らし耳を澄ましている彼女を確かめてから、治夫は電話を切った。
彼が椅子から立とうとした時、五日ほど前に医局に入ったばかりの若い看護婦が、何か回覧の書類を机の上に置いて行った。突然、その子の後姿をひどく新鮮なものに感じ彼は慌てて眼で彼女を追い直した。
思った通り、菊江母子は教会にいた。電話に出た声は辻だった。治夫は努めて、悪びれずに名乗った。が、辻の方は|寧《むし》ろ、彼の連絡を待っていたような口ぶりだった。
菊江を呼んでくれるように頼むと、
「今お呼びしますが、出来たら来て上げて頂けませんか」
「何かあったようですね」
「はあ、どうも御主人がいろいろ誤解というか。お気の毒で何とかして上げたいのですが、私らではどうも。御主人がこの御道に全く理解がないものでして」
当然のことだろうが、菊江はこの男に余計な告白はしてない様子だった。
病院が終り次第直行すると伝えてもらい、電話を切った。
帰りの電車の中で、英子がいったことが本当だとしたら、菊江は何で自分との関係を夫に話したのだろうかを治夫は考えた。
そんな告白が、塩見を傷つけることは間違いなく、彼女がそれを承知で打ち明けたのなら、塩見が彼女に余程|非《ひ》|道《ど》い仕打ちをしたに違いない。それにしても、そんな告白は、並の夫婦の間ではまず、決定的なものになるだろう。
その結果がどうなり、それが自分にどう関わり合って来るかを彼は考えようとしたが出来なかった。何故か楽観、というより一向に自分が慌てていないことに彼は安心した。
菊江はひどく|憔悴《しょうすい》して見えた。そんな用意もせずに家を出て来たせいか、化粧もせず、着のみ着のままの様子だ。この前に見た頬の横だけではなく、|顳ソ[#「ソ」は「需」+「頁」Unicode="#986C" DFパブリW5D外字="#F4BF"]《こめかみ》や首筋、それに左の手首の辺りにまで|痣《あざ》や|傷《きず》|痕《あと》が見える。治夫は英子が電話でいったことを|証《あか》されたような気がした。
彼女は和彦を側に置いて、広間ではなく、この前治夫も招じられた、布教師たちの居間に坐っていた。
入って来た治夫を見上げて、力なく曖昧に|微笑《ほほえ》んで見せる。笑顔はおびえて見え、おびえの中で何もかも投げ出した自分の最後の引きとり手を待っていたように見えた。
彼に微笑んだ後、彼女はしめやかに視線を巡らし、傍らの|聾《つんぼ》の幼い息子を見やった。総てを捨てて|喪《うしな》った後、今はこの息子一人しかないという、悟ったような居ずまいだった。治夫はふとその横顔に見覚えを感じた。その顔は、彼の遠い記憶に繋がっていた。幼い頃彼が大切にしていた子供向きの聖画の中にあった、一枚だけもの悲しい、息子を|喪《な》くした聖母の印象だったような気がした。
立ったまま、それを確かめるように彼は彼女を見つめ直した。視線に気づいて、菊江はもう一度彼へふり返り、気をとり直したように微笑んで見せた。その顔は確かに、ますます、彼の記憶に繋がって見えた。
彼女より、辻を含めて教会の住人たちの方が期待をこめた顔で治夫を出迎えた。
現実に、息子を連れて逃げ込んで来た母子の抱えた問題は、彼らのお祈りや心霊治療では当面すぐに眼に見えては|治《ち》|癒《ゆ》解決は出来そうになかった。菊江が抱えた問題には、どうやら今、別の専門家が要るということを彼らも悟ったようだ。
或いは、あの市原母子と同じように、彼らも、善意では片のつかぬ厄介をかかえた客にうんざりしたのではないか、と治夫は思った。|範疇《はんちゅう》が違うにしても、解決出来ぬ不幸を背負った人間を、至福を説く教会がいつまでも置いておく訳にはいくまい。どこかの交通惨事の被害者になった信者を、事故は信者の身には起り得ぬこととして家族にまで強いて|屍《し》|体《たい》を引きとることを拒ませた、どこぞの狂信的な宗教団体もあるくらいだから。
しかし、困惑はしていたが、教会の住人たちは少なくとも表は親切そうだった。或いは彼らは未だ本気で信じて、再度の|奇《き》|蹟《せき》を与えるものとして治夫を迎えたのかも知れない。
当然のことに、辻たちがいて菊江も治夫も話しづらかった。どこまで聞かされているのか知らぬが、彼女に代って家の女主人が、
「御主人の気持がもう少し冷静になってくれないと困るのだけれど、とにかく奥さんや私たちでは会ってももらえないし。何とかもう一度、手を挙げたりせずに一緒に話し合えるようにして上げて下さいませんか」
「しかし、私も余計なことをそそのかしたことになっているようですし」
「でも結局緋本さんでなけりゃ出来ないことだわ。そりゃ、御主人に黙ってしたことも悪いけれど、奥さんの心もわかってくれなきゃね。いきなり手を挙げるなんて」
彼女は女だけに、塩見の粗暴さだけで菊江の味方になり切ったようだ。それに、菊江は英子がいったようなことまでは彼女たちに告白していない筈だった。
「ここじゃ何ですし、外で食事でもとりながら相談しましょうか」
いった治夫に、
「それがいいわ、気が変って。家の車で送らせましょうか」
女主人はいい、菊江は預けたように|頷《うなず》いた。
誰に借りたか、菊江は奥で簡単に化粧し和彦の手を|曳《ひ》いて出て来た。
家の息子の運転する車で三人は、塩見や三津田との万一の出会いを避けて隣りの街まで出た。
車を降りても勝手がわからず、近くの空いている|寿《す》|司《し》屋に入った。食事する間も、菊江は疲れたように自分からは何もいわなかった。途中から、隣りのテーブルに客が坐り、治夫も話題をとりとめないものに避けた。和彦一人が、外出が久しぶりなのか、はしゃいだ様子で、母親の皿にまで手を伸ばした後、音の聞えぬテレビのショウに歌い手の身ぶりに合わせて体で拍子をとりながら見入っていた。
店から出て見ると午後に一度上がった雨が、また降り出していた。午後の雨と夜のと、その間に季節がひとつ移ったように、降り出した雨はうそ寒かった。
彼が持っていた一本の傘に三人が入った。どちらへ歩けばどこへ出るのかわからぬまま、尋ねるのも|億《おっ》|劫《くう》で歩くともなしに歩いた。
通りすがる車を避けたはずみに体が入れ換り、彼は真ん中で傘をかざし、脇の二人を前気味に傘の中に抱えながら促すようにして歩いた。和彦は時々、何かを尋ねるように母親を仰ぎ彼を仰いではその度得心し直したように、黙って歩きつづける。
治夫はふと、自分自身を含めて、今この傘の下にあるものだけが、自分にとっての総てなのだ、という気持に襲われた。彼は何故かまたひどく|昂《たかぶ》った気分になった。
そしてこの傘の下と、このすぐ外に降っている冷たい雨の下に暗く広くひそんでいるものの間に、隔絶感があった。いや、彼がそう求めた。
今この傘の下の、彼の腕の内にあるものと、それが自分に与えるこのいい知れぬ気持を、喪うまいと思った。
どれほど歩いてか、菊江が彼へふり返った。
「僕の部屋に行って話しましょう。あそこなら、全く誰も来ませんから」
問うように見返した後、彼女はうつ向くように頷いた。
次の角で、丁度やって来た空き車を拾って止めた。車の室内は暖かく、和彦は二人の間に坐ると安心したように治夫をふり仰ぐ。子供の顔にさした笑顔に、彼は満足だった。
寿司屋を出る時も車を降りる時も菊江はまかせ切ったように、治夫のする払いに礼も忘れていた。そしてそのことに、彼は何故か安らげた。
和彦は初めて来た部屋が珍しそうにはしゃいで、治夫が自分の机の上にあてがった紙と鉛筆で即席の遊びをし出した。初めの頃、二度三度母親に何かを確かめて尋ねたが、その内一人で夢中になった。一人だけの遊びにもう馴れたようにも見える。
部屋に来て気づいたが、和彦がものをいう時、|聾《ろう》|者《しゃ》のせいか、ある音程の発音が曖昧でもつれて聞える。菊江に確かめると、
「この頃、特にそうなんです。聞けずにちゃんと話すための訓練をさせていないせいだと思うのですが」
不安そうにいった。
「誰か医者がそういいましたか」
「はい。辻さんが」
辻も元は医者には違いなかった。
「どこかいい先生を捜して通わせなけりゃと思うんですが、いろいろ家にことが多くて」
菊江はあきらめたようにうつ向いた。
「実は、あなたが家を出たことを、妙な具合に聞いたのです」
菊江は眼を上げ、黙って頷いただけだった。その|報《しら》せの入手について、自分がしようとしているいい訳が、二人にとってはもう無意味なことを治夫は悟り直した。
「どうされたのですか、お|家《うち》で。随分非道い目にあったようですが」
さっき、教会で初めて会った時と同じ微笑を彼女は浮べ直した。彼女にとって、起ったことはもう、ただ起ったことだけでしかなさそうだった。
「しかし何でそんな」
治夫は机に向っている和彦を確かめて眺め、菊江もつられて視線を移した。しかし聾者の和彦に懸念はない筈だった。そう気づいたように菊江は微笑んだ。その微笑は、微笑ではあったが、笑顔の範疇の最後のものに思えた。
微笑の後、突然、それでもまだ和彦に気どられまいとするように菊江は静かに泣き出した。
治夫は黙ってそれを眺めていた。さっき傘の内で雨を聞きながら感じたように、|嗚《お》|咽《えつ》している彼女を眺めながら、彼の体の内に静かな快い昂りがあった。
|暫《しばら》くして、
「もうどうしていいかわかりません。でも、どうなってもいいんです」
つぶやくように菊江はいった。
何故かその時治夫は今この場にいない人間たちのことを思った。塩見、英子、そして母親、市原。彼らを思い出しながら彼が味わったのは、故の知れぬ勝利感だった。
とうとう俺は、何故か彼はそう感じた。
「どうしたらいいかを考えましょう」
|諭《さと》すように、自負に満ちた声で彼はいった。
和彦がふり返り、治夫が気づいた時よりももっと|呂《ろ》|律《れつ》の乱れた言葉で、睡くなったから寝たい、と訴えた。
彼がとり出して敷いた布団に菊江に寝かしつけられて、すぐに和彦は寝息をたてた。
「あなたは、僕たちの本当のことを、御主人におっしゃったそうですね。何故です」
「申し訳ありません」
菊江はうつ向き、更に低く頭を下げた。
「僕は|咎《とが》めて訊いたんじゃないんです。求められれば、僕も責任をとります。御主人は僕を訴えるとかいっていられるそうですが」
説くように、笑って見せた。
「しかし、御主人にそんなことをいえば、何もかも壊れてしまうのはわかっているじゃありませんか。それを考えられなかったのですか」
「でも、もうとっくに壊れて駄目になってしまっていたんです」
「何故」
眼元を拭い、彼女は正面から治夫を見直した。
「主人は、三津田がいったことを、どうしても本当にしようとしました。嘘なことはわかっているんです、それでも」
「どうして」
「自分を咎めるのが怖くて、代りに私を咎めたかったんです。私の恥で自分の恥の上塗りが出来ればと思ったんでしょう。でも、そんな夫婦ってありますか。結局、私一人に対するいい逃れのためですわ。そうやって何もかも喪くして、子供や私や自分がどうなるのかも考えずに。第一、それじゃ、いい逃れにもなりはしませんわ。あの人、本気で裁判する気だってありはしないんです。あの人にそんなこと、出来る訳がありません、強がりで気が弱くて子供みたいなんですから。それだけなら我慢出来ますけど、自分の妻を汚しておいて、それでいい訳をしようなんて、|卑怯《ひきょう》でしょう」
菊江のいったことが思いがけなく、治夫は彼女を|覗《のぞ》き込んだ。しかし菊江は自分でいった言葉に打ちのめされて見えた。
「子供の見ている前で私をぶって、|折《せっ》|檻《かん》して、私にどうしてもそうだといわせようとしました。私だけじゃなく、それを見て、泣いた子供までぶったんです。主人のいうことが、たとえあの子に聞えなくても、私がどうしてそうだといわなけりゃならないんです。その内に、あなたのことまでいい出しました。あなたが、三津田のいったことで怒って、事務所まで来てあの男を殴ったって、そんなにこだわるのは一体何故だって。あの人はどっちでもよかったんです、三津田でもあなたでも、私の相手は。本当にそんなことがなくてでも、私が許して下さいと悲鳴を挙げて頼めば、結局全部、私のせいに出来たんですから。私その時、突然、思ったんです。本当のことならいってやれるって。それをいってあの人や、私が何を喪くしても、許される筈だって。私たち夫婦の間の嘘が、何もかもそれで漂白されるような気がしました。そう思った時、塩見の妻としての私は終ったんです。でも、あんな嘘に汚されて惨めに耐えているよりもずっとましだと思いました」
「なるほど。それでいったんですね」
「あの人、仰天してましたわ。そんな女じゃないと思ったって。そんなことをする女というより、あの人のための嘘なら叩かれればついても、自分のそんな本当を自分からはっきり口にしていえるような女じゃないと思っていたんでしょう。私にそうさせたのは結局、あの人なんですから。でも、許して下さい。あなたにはとんでもない御迷惑をおかけすることになってしまいましたわ」
「そんな心配はいりませんよ。その結果、あなたが喪くされるものはあっても、僕には何もないんだから。むしろそれより、自分でも妙ですが、ほっとしてるんです、僕は」
菊江は問うように見返した。
「本当に、辻さんのいう因縁なんでしょうかね。何だか、こんなことになるような気がしてた、そんな気がする。随分思いがけない出会い方だけど、それが無理なく納得出来るような、それこそ不思議な具合にことが起って、進んで来た。そしてこの前、ここで、ああなった時、僕は、あなたにはまだわかっていただけないかも知れないが、満足し、安心したんだ。言葉でじゃなし、やっと我々二人のことの意味が、あなただけが他の誰とも違って感じられた訳が、わかったような気がしました。
少し行き会うのが遅すぎたのかも知れないけれど、あなたが僕のために誰かから与えられた人なんだということがわかった。今度も、その話を聞いて、またそう信じた。そして、それだけを互いにわかっていれば、これからのことは、どうにでもなる。何も怖れることはないという気がするんです。そう思いませんか」
菊江は懸命に理解し、|収《しま》い込もうとするように彼を見つめていた。
「たとえば、僕らの結婚だって」
彼は自分を試すようにいって見た。しかしその言葉の意味は何故か、急に確かで、簡単なものに感じられた。
菊江はただまじまじと見つめていた。
「わかりますか、僕のいうこと。そう思いませんか」
頷いて見せた彼に、倣うように、彼女も頷いた。突然、彼女は涙を浮べかけ、気づいたように慌てて微笑み直した。
治夫が手をのべ捉えても、菊江は初めての何かを怖れるように、微笑もうとしながら身を凝らしてうつ向いたままだった。
なお強く引き寄せると、彼女は身を固くしたまま倒れるようにもたれて来た。接吻にも彼女はぎこちなく応えた。
強いるように頬に手を添えて接吻し直そうとした時、彼女は一瞬のけぞるようにして後ろの隅に寝ている和彦をふり返った。
二人にとってこれからの、総てを治夫にまかして預けたように、彼女は彼の手のなすがままになり、今が二人にとって初めての時のように、ぎこちなく|羞《は》じらってさえ見えた。
|晒《さら》し終えられ、彼を待ち、無意識に姿勢を整えながら、その寸前彼女はふと気づいたように閉じていた眼を開き、
「この前、ここにいらした方は」
|囁《ささや》くように尋ねた。
彼は驚かず、自分もそれをいい忘れていたことに気がついた。そして、そんな菊江の仕草を可愛いと思った。
「あなたが御主人に話されたことを僕に教えてくれたのは、あの女です。彼女は自分と僕のことを勘違いしている。しかし、それももうどうでもいい。本当にどうでもいいんだ」
いい聞かすように彼はいった。菊江はそれだけで納得したと自分で信じたようだった。そして初めて誘うように眼を閉じ、彼女は彼を待った。その納得が彼女を駆ったのか、まかせて身を凝らしながらも彼の手のひとつひとつに彼女ははっきりと応えた。
行為のひだのひと重ひと重を、彼は儀式のようにすすめて行った。この前と違って、自分に与えられ、自分自身の部分として所有したものを、治夫は初めて女として感じることが出来た。それが彼を、二人して初めて開拓する新しい快楽に向って駆りたてた。
彼は初めて、菊江の肉体の全体の部分を、長所と欠点を、手にし確かめ、味わうことが出来た。
快楽への確かな道程は、それをようやくあるゆとりで味わうことの出来たものに、その行為以外のいかなることがらも、それと同じように、やがて間違いなく充ち足りるような予感を与えてくれた。まだ何も、具体的に想い定めることの出来ぬ二人の将来について、高まっていくものの中で、彼はそれが多分すべて可能であることを信じられた。
彼に預け、それに応えるだけでありながら、菊江は矢張り、その年齢なりの、女の経験の幅を感じさせた。それはつつましくひそやかでいながら、彼女が隠し求めていたものを感じさせた。羞じらいながらも、彼女は恐らく自分では知らずに、手際よく彼を待ち、迎えては応えた。努めながらそれが粗相なく彼女の内に収われ蓄え高められていく手応えは、結婚を知らぬ治夫にとって、当り前のことだが、初めてのものだった。そしてその中で彼が味わう快感は、そのまま安らぎに通じていた。
いきつき、満たし合い、一つに溶け合った行為が実は自分ともう一人の人間によって成されたことにやっと気づいたように二人が間近に見つめ合った時、突然菊江が小さな悲鳴で彼を押しのけた。
部屋の隅に敷いた布団の上に、いつの間に|眼《め》|醒《ざ》めたのか、和彦が半身を起し二人を眺めていた。
慌てて身を繕い、彼女が思わずその名を呼んだ途端、夢にうなされて今気がついたように、和彦は声を挙げて泣き出した。
菊江はひどくおびえて、何かを尋ねるような眼で治夫へふり返った。
「僕たち、矢張り結婚しよう」
和彦にも聞かせるように、治夫はいった。何かに操られたように、彼にはそういい切るのに|躊躇《ちゅうちょ》を感じる暇もなかった。
それは丁度、彼が今までに何度か想像して見たと同じ|邂《かい》|逅《こう》だった。どこかにぎやかな街の通りの曲り角の代りに、場所は街に似た病院のロビーだった。
来馴れぬ人間のように、彼女はロビーの真ん中で行方を決めかねて立ち尽していた。相談するにもそれらしい窓口が周囲にいくつもあり、そこら中に人間がいたが誰も我がことに手一杯の様子で辺りは忙しすぎ、皆互いににべない感じだった。
彼女が話しかけようとした白衣の看護婦たちは、彼女等だけが選ばれたもののように眼の前の他人を意に介せず皆足早で通りすぎた。
それを母親と認めた時、治夫は声をかけるべきかどうかに迷った。彼女の方から不意に声をかけたのなら、逃れもせずに答えたろうし、彼女がもしただ道に迷っているのなら教えもしたが、この建物に突然現われた彼女の訪ねる先が、自分であることに間違いなかった。そして、その用件も想像出来た。
いずれにしろ、彼女とこの建物の中で会うことは、彼女に禁じてでもしたくなかった。彼女が自分の部屋にやって来て見廻すのと同じように、この中で仕事している自分を彼女に眺められ、それで自分について何かを納得されたり理解されたつもりになられることは、わずらわしい限りだ。
しかし、彼は今彼女が立っている場所を通って医局に戻るところだった。
何故俺がここでまで、|踵《きびす》を返して廻り道をしなくてはならぬというのか、彼は思った。
その時、彼女が彼を認めたのだ。
彼は当惑したような微笑を浮べたが、彼女は救われた顔になった。そして、自分をわざわざ迎えに来た彼に恐縮するような表情を彼女はして見せた。
仕方なし、彼は近づき、彼女をこの建物で迎える自分の姿勢を示すように、
「市原さんのとこへ来たんですか」
しかし彼女はそれを皮肉にとらず、
「いいえ、今日はあなたに会いに」
|媚《こ》びるように微笑して見せる。
「市原さんに話さなくていいんですか」
「いいえ、あなたにじかに話した方がいいと思って」
彼女は促すようにはっきりと頷いて見せた。この前会った時よりも自分の立場は悪い筈なのに、何故か彼女は悪びれず、自信さえありそうに見える。
「しかし突然、こんなところへ来てもらって困るな」
「どこででもいいですわ。急いだ方がいいと思って」
妙に押しつけがましく、彼女はいった。
見知らぬ看護婦が彼に向って意味のない微笑を浮べながら過ぎた。ここで大きい声を出す訳にいかず、治夫は彼女を促すと、医局とは別の方角に向って歩いた。
病棟と病棟の間の芝生の陽だまりまで来てふり返った彼を、上眼で見つめると従順そうに彼女は立ち止った。
「急ぐ用だといっても、みんなあなたの勝手じゃないんですか。勤め先であったことを僕は咎めたりする資格もないが、しかし同情しなくちゃならない立場でもないんじゃないですか」
彼女はうつ向いたまま頷く。そんな様子は、ここまでただ叱られに来たようにも見えるが、それでいて、また何か筋の通らぬ頼みを突然持ち出しかねない。それにしても、彼女は今日は泣きそうな気配もなく、立場がいき詰ったせいか、腹を決めたようにも見えた。
「僕は、僕として、気持の上ででも、出来る限りのことはした筈です。しかしこの前のことが、精一杯です。あなたということじゃなし、誰とも一緒に住む気はないんだ。あなたが本気でそんなことを考えるんだとしたら、全くどうかしてるんじゃないかってことですね」
彼女はなお、黙ってうつ向いたままでいる。
「駄目なことは駄目だと、はっきり断わっといた方がいいでしょう。それにもうひとつ、どんなつもりでいるのか知りませんが、あの井沢英子、彼女に僕とあなたのことを持ちかけるのは止めにして下さい。この前もいった筈です。彼女は関係ない」
彼女はちらと彼を見上げた。
「彼女は僕にとってあなたが考えているような女じゃない。当人がどんないい方をしたか知りませんが、あなたにしろ当人にしろ、そんなつもりでいられると僕は、迷惑なんだ。いいですね」
「でも」
窺うように彼女はいった。
「なんですか。とにかくあなたが市原を通じていわれたことは、不可能ですよ。僕にそんな気はないんだから、他のことで、出来ることならします」
「はい、わかりました」
多津子は殊勝に深く頭を下げた。が、その顔を上げると、彼女はもう一度ゆっくり微笑し直した。そして、口を切ろうとする前に、彼女は何故か確かめるように背後へふり返った。
「でも、今日私が来たのは違うんですよ。もっと、大事なことなの。治夫さん、あなたのことで」
「僕のこと、何です」
「ええ、英子さんとのことでね」
「僕たちのことは、あなたとは関係ない筈だ」
「いいえ」
強く首をふると、身構えるように彼女は治夫を覗き込んだ。
「英子さんから聞いたのよ。一昨日、もう一度会った時に」
「何を」
「あなたのことを」
「何て」
「あなたが今いったような。でも、その|他《ほか》に、もっと大事なことをあの人は私に打ち明けたんです。あの人、誰かのことであなたを怒って恨んでいたわ。それで、私にも同情したつもりで、いったんでしょうけど、信じていいのかどうかわからないけど」
声を落し、多津子は更に窺うように彼を見上げた。治夫は一瞬彼女がそのまま身をすり寄せて来るのではないか、と思った。それを避けようとした彼の気配に多津子は気づいて少し身を|退《ひ》くように、微笑して見せた。
「何ですか、一体」
いらいらし、|遮《さえぎ》るように治夫は|訊《き》いた。
間を置き、
「あなたが、英子さんと一緒に、誰か人を殺したって」
多津子はいった。そして、自分の誠意を伝え相手を安心さすように彼女はゆっくり微笑して見せた。
軽い吐き気のようなものを感じながら彼は立っていた。今体の内に感じているものを確かめるように、彼は眼の前にいる相手を見つめ直した。
多津子は努めたように微笑しつづけていた。
全く予想していなかったことが、今眼の前に確かに起ってあるのを彼は感じた。それをどう受けとめていいのかわからず、それがどうして起ったかをもう一度考え直そうとしたが、無駄なことに思えた。
自分が|迂《う》|闊《かつ》に全く気づかなかったゲームの手があったのを知らされたように、いかなる感情の前にも、ただ|呆《あ》っ|気《け》ない気持だった。
自分が遅ればせながら微笑し返すのを彼は感じた。彼女も応えるように、まだ微笑を崩さずにいた。
「それで」
促すように彼は訊いた。
彼女は瞬きし、考えた挙句のように、話しかけてから浮べたままでいた微笑を収い込んだ。
「嘘か本当かは知らないけど、あの人とのことが、それで心配で。あなたには悪かったけど、私も困り切ってあの人のところへ相談にいったら、そんなことを聞かされて。あの人も、私を味方と思ってたんでしょうが」
彼女はもう一度確かめるように頷いて見せた。
それじゃ、あんたは俺の味方なんだな、ひとこと確かめたいのを彼はこらえた。そうすることで、この相手に、何かとり返しのつかぬものを与えてしまうような気がした。
代りに、何かいおうとしたが、何をいっていいかまだわからなかった。
「なんでそんな馬鹿なことをいったんだろう」
いいながら、そう訊くことを相手がどうとるか、と思った。
「あの人は、あなたが好きなのね。本当に。でも、向うばかりがそういっても仕方ないことでしょうけれど」
その時の多津子の口調には、彼女の体験に照らした真実味が妙にあった。
「それで彼女は何だといっているんです」
「すっかり取り乱しちゃってね、あなたともう一人の人のことをどうしても邪魔してやるって」
「邪魔だって。そんなことするしないの仲じゃないんだ」
治夫は初めて多津子にいい訳の嘘をついた。
「どっかの、奥さんなんですって」
巧みに眼をそらしたまま彼女は訊いた。彼女はこのことでの会話を、彼と英子との間で、それぞれ楽しんでいるようにも見えた。
「この病院で僕が診た子供の患者の母親ですよ」
しかし、そのいい訳は、ついこの間、勤め先であんな事件を起したこの女にはどう響きもしないようだった。
「そんなことはどうでもいいが」
いいかけた彼を|塞《ふさ》ぐように、
「あの人が馬鹿をしないでくれりゃいいんだけどね。女ってのはね」
彼女はいった。
「何をするといったんです」
「そのことを警察に話すといったのよ」
頷きながら治夫は母親を見直した。英子がどう話したかは知らぬが、多津子は、治夫がやったことを信じているようだった。信じた方が、このことでの彼女の役割は何かある筈だ。
「警察にだって」
治夫は微笑し直してつぶやいた。
が、多津子はとって置きの|台詞《せりふ》のために、微笑を収め、懸命な眼つきで彼を見つめながらいった。
「ええ。自分も同罪になるんだってね。私には、証拠だって、あなたからもらったっていう、何とかいう薬を見せてくれたのよ。あなたのような研究をしている人にしか手に入らぬものなんだって」
彼女の口調は、彼女が実際にそれを見、すでに話を信じていることを|証《あか》すように、にわかに第三者の報告調になった。
とり敢えず、さっき感じたように、多津子を自分の側に確保しておくことに努める必要を彼は感じた。
「お母さん、あなたが彼女のその話を信じる信じないは別にしても、僕のためにそれを伝えに来て下さったことには感謝します。どうもその話は、井沢君の誇張があったり、第一、誤解があるんです」
「そうでしょうね」
へつらうように多津子は頷いて見せた。
「今ここで弁解はしませんが、僕が彼女とじかに会って話してから、もう一度僕の話を聞いて下さい。僕はあなたにまで誤解されたくない。それまで、とにかく、黙っていて下さい」
「ええ、当り前よ」
考えた挙句、自分に眼をつむれといい聞かせ、|流石《さすが》、口ごもりながら彼はつけ足していった。
「僕は、あなたにいろいろ誤解していたような気がします。あなたが、矢っ張り僕のことを考えていて下さったことがよくわかりました。ありがとう、本当に」
多津子は測るように彼を見つめながら聞いていた。そして、彼がいい終った時、その時を|捉《とら》えたように彼女はわざとらしく何度も頷いた。しかし彼女はどうやら、この会話の終りに余り満足しては見えなかった。仕方なし、彼はもう一度つけ加えた。
「このことが片づいたら、一度ゆっくり他のこともお話しましょう」
それこそ彼女が待っていたものかも知れぬが、それはまた後でどうにでもなることだと彼は思った。
取引を、馴れ合いのかけ引きでするように、彼女は殊勝げに眼を伏せ、また頷いた。
「早くなんとかしないと、あの人は、半分以上本気だったから。女ってものはね」
世知にたけた母親らしく、声をひそめながら彼女は説いた。
さっき出会ったロビーを抜け、表の正門まで母親を案内して帰した。四、五十メートル離れ、彼女は当然彼がまだ見送っていると知ってのようにふり返ると、もう一度深く頭を下げて見せた。帰って行く彼女の後姿はようやく、半分得心したように見えた。
一人になった時、妙な虚脱感が彼を捉えた。虚脱の底に、恐怖があるのだということを自分に悟らせようとしたが何故か出来ない。あの秘密を守るという二人の黙約を一方的に破った英子に、怒りの前に、まだ今は呆っ気ないような気持の方が強かった。
しかしこの先に、英子が何を考えているのかが見当つかない。彼女が多津子に告げた言葉は言葉としてわかるが、それがどういうことなのか彼にはにわかに想像も出来なかった。
多津子に、とにかく英子と会って片をつけるとはいったが、英子に会って何といったらいいのか。
彼女が秘密を他人にもらしたことは確かだし、彼女がそうしてしまった限り、よほどの覚悟があることも確かだが、それをどんな理由で思い切らせたらいいのか、治夫にはまだ考えつかなかった。
そうする内にも、自分が今ただここにこうして立っているだけではすまぬということだけはわかった。
自分に強いるようにして医局へ引き返しながら、治夫は英子がこんなことをした動機を考えた。それが菊江であることは疑いもない。
その動機を自分のために除くことを彼は考えて見た。しかし、そうしなければやって来る|破《は》|綻《たん》を前に考えても、自分が菊江を捨てる、自分にとって菊江が無くなる、ということを今は考えられなかった。第一、決してそれを自分に許せぬ気がする。
自分と英子が、並んで、しかし背中合せのまま首を|吊《つ》られるのを彼は想像して見た。しかしそれもあり得ぬことに思えた。第一、そうやって誰にも、何の得にもならないことではないか。
一体何のために。彼女は間違っている、彼は思った。
英子に向ってまだ、いって聞かせる言葉があるような気がする。英子はただ、自分でそれに気づかぬだけではないのか。彼はまず自身でそれを探すことを自分に命じた。
病院外の電話ボックスで英子の店を呼んだ。男の子が出、英子を呼びにいった。気配だけで、彼女は何もいわず電話に出た。それだけで、彼女の心の|雰《ふん》|囲《い》|気《き》が感じられる。
「もしもし、僕だ、治夫だ」
自分をせくように彼はいった。
「ああ」
とだけ英子はいった。
「会って話したいことがあるんだ」
「私は何もないわよ」
遮っていうと、彼女はいきなり電話を切った。
もう一度同じ番号を廻して見た。違う男が出、彼女の名をいうと、間もなく、
「いませんがね、|一寸《ちょっと》用で出て」
笑いを含んだ男の声が答え電話は切れた。
初めて怒りがこみ上げて来た。と同時、治夫はまさかと思った何かが間違いなく自分に迫って来るのを悟った。切った電話に手をかけたまま、ようやく|狼《ろう》|狽《ばい》しかかる自分を抑え、自分が今この次、何をすべきかを必死に考えようとした。それが出来ずに今この|孤《ひと》り切りの小箱から出て行くことで、その途端、自分が四方から|狙《そ》|撃《げき》されるような気がした。
歩道を電話ボックスに向って歩いて来る通行人の後ろに、彼は思わず塩見菊江の顔を探していた。
中で何もせずにいる先客に、後から来た電話の客が扉を叩き、治夫は慌てて出た。
間近にすれ違い入れ換った見知らぬ相手に、慌てたままの表情を見られたことを、何かとり返しのつかぬ過ちを残したのではないかと彼は|怖《おそ》れた。
アパートの路地の入口で、英子はすぐに治夫を認めた。
「来るだろうと思ったわ」
無表情にいったが、かえって捨て鉢に見える。
曲り角の門燈の明りで見た英子は、青ざめ疲れて見えた。その印象が、これから二人でしなくてはならぬ会話の悪い予感を与えた。
「話したいことがあるんだ」
黙って英子は歩き出す。治夫はその後に従ったが、彼女は何もいわなかった。
|鍵《かぎ》を外した扉を、どうにでもしろというように英子は開け放したまま、中へ入る。後手にそれを閉めて入ると、治夫はいつもするように、壁によりかかって坐った。
彼を無視したまま、英子は部屋中に|灯《あか》りをつけ、着ていたコートを脱いでカーディガンに着換えると、レンジの火を|点《とも》して湯を沸かしかけたが、すぐに面倒気に途中で火を消すと、水で手を洗いようやくふり返った。
そのまま黙って斜め前に坐りかけたが、思い出しガスストーブに火をつける。勢いよく燃え上がる青い火を、一寸救われたような気持で治夫は眺めた。
「ずっと立ってて冷えたよ」
しかし英子は何もいわず、彼を眺めもしなかった。
ここまで来ても、どう話していいかわからず、治夫は彼女を眺めたままでいた。
暫くし、
「お母さん行ったの、あなたのところへ。やっぱりね」
横を向いたまま彼女は頬の辺りだけで薄く笑った。
「あの人がいいに行かなかったら、私、手紙を書くつもりでいたわ」
「初めからそうすればいいじゃないか。なんであんな人間に話したりしたんだ」
「別に困りゃしないわよ。あの人|饒舌《しゃべ》りゃしないから」
「どうしてわかる」
「馬鹿ね、自分の息子の弱味じゃないの。あの人、あんたの母親よ」
治夫は奇異な気持でそれを聞いた。あの女が、自分の母親であるが故に、あの秘密を守るだろうなどということを、彼は今まで考えたことはなかった。
いわれたことをそのまま納得していいのかどうかわからず、|尚《なお》待つように彼は英子を見た。
英子は何か思いつめたように、斜め横に向いたまま黙ったままでいる。話が互いにいき交う気合いは全くなかった。
「なんで君は、あんなことをいったんだ。もしもということがあったら、どうするつもりなんだ」
「いいじゃない」
初めて英子は彼へ向き直ると、突っかかるようにいった。
「いいったって、君も同じことだぞ」
「私はいいわよ」
「|何故《な ぜ》いいんだ」
「いいのよ、もう」
「馬鹿なこというな。じゃなんであの時、あんなことをしたんだ」
「私が訊きたいわ、何であなたあんなことをしたのよ」
「君がいい出したんだろ」
「そうよ。でもあんたが方法を考えたんでしょ」
挑むようにいった。
「そんなこといい合うのは|止《や》めよう、意味がない」
声をひそめて彼はいった。
「そうよ、意味ないわよ。こうなれば二人とも同罪よ、人殺しの死刑よ」
「そんないい方は|止《よ》せ」
「命乞いするの、あなたが」
英子は笑って見せた。しかしかえって、その眼に露骨な敵意が浮んでいた。
「おい、いい加減にしろよ」
「脅かしたって駄目よ」
ふり切るように英子はいった。
「駄目よ、私もう決心したんだから」
「何を、何故」
「もっと他の人にも饒舌るわ、警察にも直接いってやるわ」
|昂《たかぶ》る声を、英子は懸命に抑えていた。
「そんなこといって、信じる奴がいると思うか」
「証拠があるわよ、あの薬が」
「君はあれを捨てなかったんだな」
「そうよ」
「何故だ」
英子は答えなかった。
「また使うことがあるとでも思ったのか。多分、この俺にだろ。とにかく、君は俺に嘘をついてたんだ」
唇を|噛《か》んだまま横を向いていたが、突然思いついたように向き直ると、
「あんただって嘘ついたじゃないの。もっと大きな嘘を」
「俺は嘘なんぞついていないよ。たとえ嘘だろうと本当だろうと、君にいう必要のないことだからな」
「何故よ」
「それがわからないか」
「わからないわよ」
「わからなきゃいい。それより、あの薬を見せて見ろ、本当にあるのなら」
「あるわよ。でも、見せる必要なんぞないでしょ」
「嘘なんだな」
英子はただ|蔑《さげす》んだように笑って見せた。
彼女が薬をまだ持っているに違いない、と彼は思った。
間を置き、
「あなたのお母さんにもちゃんと見せて上げたわよ。嘘だと思うなら家探ししてごらん、私が騒いで上げるから。隣りに聞えて、後からのいい証拠になるわ」
坐り直していう彼女からは敵意しか感じられない。
自分の胸の内のものが抑え切れなくなったように、彼女は突然立ち上がって、押入れの中の小箱から、白い封筒をとり出し、立ったままつき出して見せた。
「これわかる。私の遺書よ。私あんたに殺されるかも知れないから、後でわかるように書いておいたの。|経緯《いきさつ》を皆」
上の端をつまむようにして彼女はふって見せた。中身を入れて封をしたらしい。宛書きのない封筒を、治夫はまぶしいものを見るように眺めた。封筒は彼女の熱した敵意を象徴するように、うそ寒い部屋に馴染まず、真っ白に輝いて見えた。
その白さは、今見聞きしていることが有り得ないようでも現実であることを彼に証していた。今日の午後感じた、軽い吐き気と、|眩暈《めまい》が|蘇《よみがえ》って感じられた。
「私を殺したらいいわ、そうしたら、間違いなく死刑になるわ」
彼女がいう、死刑という言葉だけが子供っぽく聞えたが、自分が今深い|罠《わな》に落ちたという実感は段々に強く感じられた。落ちた罠の深さと幅を測り直すように、ようやく治夫は沈黙した。
見すかすような懸命な眼ざしで彼女は治夫を見つめていた。その顔はつきつめた怒りにかえって表情を|喪《うしな》い、凝ったように白く、眼だけが全く別につくられたように|強《こわ》い光をおびて彼を刺そうとしている。何か|憑《つ》きもののした|巫女《み こ》みたいに、随分長い間、彼女は身動きをせず彼に向い合っていた。
が、|暫《しばら》くし、憑きものが落ちるように彼女の顔にかろうじて生色が蘇り、喪くしていた自分を探して拾い求めるように、彼女は視線を落し瞬きながら小さく唇をなめた。
「君の決心はわかったが、しかし、そうやって実際に何になるんだ。君は僕をどうさせたいんだ」
ゆっくり、|諭《さと》すように治夫は尋ねた。
つい今しがたまでの自分をとり戻そうとするように彼女は下唇を噛み直したが、あの巫女のような表情は蘇らなかった。あきらめたように瞬きし、自分の胸の内にあるものを探り直すように、
「私にも、どうしていいかわからないわ」
英子はつぶやいた。
「でも、あなたが憎いわ」
「何故」
「あなたは私を|欺《だま》したじゃないの。あなた、私と会う前からあの人を知っていたの」
「覚えてない。多分、同じ頃だ。しかし最初は知ってただけだ。それがこんなになったのは、最近だ。君が、あの人のことを必要以上に意識していい出してからのことだ」
「私のせいにしようというの」
叫ぶように英子はいった。
「わからない」
「わからないですって」
「ああ、そうかも知れない。俺自身、どうしてこんなことになったのか今でもよくわからない。初めはあの人の方だけが俺を必要としていると思えた。それが俺には、なんてのかな、快かった」
「情が移ったの、私に|倦《あ》きたって訳」
他人事のように、|直截《ちょくせつ》に英子はいった。そんな時、英子は英子らしく見えた。
「そうじゃない。気移りしたなんてんじゃない。初めから、君と、あの人がいたんだ」
「じゃ、初めから私を欺してた訳ね」
「だからそれは違う」
「じゃ何よ」
勝ち誇ったように英子はいった。治夫は結局この会話に絶望的なものを感じた。それは初めからわかっていたことでもあった。
「俺は、君を傷つけたのか」
「何をいっているの。傷ついてたら、あの薬でもつけろというの」
彼女の顔にまた先刻の無表情がきざしかけた。
「俺は、君は、君だけはそんな人間じゃないと思ってた」
いうことが全く無駄とわかっていながら、治夫は念のためにいった。それが相手にどうとられようと、もう同じことだった。
「どういうことよ」
「俺とああなっても、他の奴らは違うが、君はそれでも、なんていうか、自分一人でいられるような」
「どういうことよ」
彼女は拒むようにくり返した。
「つまり、俺と同じ人間だと思っていた」
「そのあんたは、私より先に、|旨《うま》くいい相手を見つけたって訳じゃない。同情したりされたり出来る。それはあんたの勝手で|贅《ぜい》|沢《たく》よ」
そして、思い直したように、彼女は逆に説くようにいった。
「私たちが、マスターを殺したのは、一体何のためだったというの」
「何のため」
「ええ、人を一人殺したわ、私たち」
「君は、どんなつもりでそういういい方をするんだ。君がもし今急に俗な道徳を持ち込んでそれを後悔するなら、そいつは勝手だぞ。なら、最初からいい出さなけりゃよかったんだ。君は何のためにやったんだ」
英子は黙ったまま怒ったような眼で彼を見返した。
「教えてやろうか。俺は、俺のためにやったのさ。俺は、あいつが嫌いだった。俺が、俺の周りで腹がたち、嫌いなものを、あいつは皆持っているように見えた。俺は、君があの店にいなくても、あの男が、俺にこの店から出て行けといっただけでも、あいつを|殺《や》っただろう。少なくとも、殺ってやろうと本気で考えたろう。俺は俺のためにやったんだ。それは君だって同じだ。同じ筈だ。そんな君だから、俺は君が欲しかった。好きだった。嫌な奴を、まともに嫌になって憎んで、本気に殺してやろうと思い、自分のために殺してやることを、君が教えてくれたんだ。俺は責任をなすりつけるつもりでいってるんじゃない、そんな君に、そうさ、感謝してるよ。あの時、それを教わって俺は眼が醒めたような気がした。わかるか、わからなきゃわからないでいい。しかし君はそんな人間なんだ。今君には、本当は、俺がいなくたっていい、大丈夫なんだよ」
「あんたのいうこと勝手だわよ。じゃ、今のあなたは何よ、自分はあの女のところへ鼻鳴らして行って、私には一人でいろ、いられるっていうの。あんたは私と一緒の人間だっていったって、実際そうじゃないじゃない。一人で生きて来たみたいなことをいっても、昔の出来事に今でもひっかかって、お母さんがあんなに落ちぶれても、まだそれを憎んでさ、一番いじめ易い相手じゃないの。それで気持が|咎《とが》めるのを、あの女や子供に、実際には何の役にもたちはしないのにおためごかしの親切でさ。それに感謝されて一人で感動してるんじゃないか。私を誤魔化したみたいに、あんたは自分を誤魔化してるのよ。あの女をだって誤魔化しているんだわ。見ててごらんなさいよ、あの子供だってその内に死ぬわよ、その時あんたはどうするのさ」
突然、知らぬ間に彼は飛びかかり英子を殴りつけていた。彼女は嘘のように軽く引繰り返り、そして嘘のようにまた素早く身を起して後へすさった。
感情の爆発は行為の後に来た。たった今の行為を説明し、何かいおうと思ったが、体の内が激して胸元の言葉が出て来ない。
その一方、彼の頭のある部分はひどく冷静に自分を眺めていった。|憤《おこ》りながらも、どうして俺はこんなに憤るのか、と彼は思った。
「ぶちなさいよ。殺してもいいわよ。あんただって死刑になるわよ。あの人は驚くだろうけどさ」
打たれた頬を抑えながら英子はいった。彼女の声は急にしわがれ、ぞっとするように陰気に響いた。そして、英子が最後にいったひとことが、治夫の胸を刺した。彼は突然、落ちた罠の底での恐怖を感じ、叫び出したくなるのをこらえた。
彼の心の内を見すかしたように、英子はもう一度薄笑いでいった。
「あんたが死刑にならずにすむ方法を、今思いついたわ。あの人に、あのことを教えてやるわよ。どういってあるのか知らないけど。私とあんたの仲が、本当はどんなものなのか、じかに教えてやるわ」
「止めろ、馬鹿なことをするな」
「何で馬鹿よ」
「そんなことして見ろ、本当に殺すぞ」
「それでもいいわよ。あんたの命は助けて上げようかと思ったけど。|尤《もっと》も、あの人が人に話すかどうかは知らないけどさ」
彼より先に、自分を鎮めたように、わざとゆっくりと英子はいった。
「君は要するに」
「そうよ、あんたがただ憎いのよ。あの時のマスターと同じように、憎いのよ」
彼を見据えながら、|誦《そら》んじるように英子はいった。
項を移したことで、絶対値は変らず、正負だけを違えた人間の感情を、彼はようやく理解した。それは感情というより、正負の転じた人間の関係そのままだった。そして彼はようやく、眼の前にいる女を、他人として、生れて初めて心から怖れた。
英子のアパートを出、治夫は近くの電話を捜した。自分にせまっているものを防ぐために、一刻も早く菊江に話さなくてはならぬと思った。
が、考えて見ると、彼は何についてどう話していいかを知れずにいた。しかし、それよりも何よりも、彼女に会わなくてはならぬ気がした。この罠に落ちた治夫を、彼女がどう救える筈はなかった。しかしとにかく彼女と会うことで、彼女を喪うことだけは食い止めなくてはならぬと思った。
だが、菊江は教会にはいなかった。母子して、一昨日そこを出たそうな。電話に出た辻ではない、もう一人の若い布教師の話では、教会の外で塩見と会って話していたようで、家へ戻ったのではないか、という。
あり得ぬことに思えた。彼女が教会を出るならば、治夫に相談するなり、|報《しら》せて来る筈だ。彼女が教会を出て他に行くところといえば、彼の部屋しかない筈だった。治夫は不安に襲われて電話を切った。
そうするのが怖ろしいような気がしたが思い切って、塩見の家に電話をし直して見た。が電話は鳴っているだけで、いくら待っても誰も出はしなかった。|束《つか》の|間《ま》の|安《あん》|堵《ど》と新しい不安が同時にあった。家へ戻らぬとしたら、彼女たちは一体どこにいるのか。
或いは、どこかを廻って、今夜辺り自分の部屋に、と思ったが、電話で呼んで見たアパートの管理人は、誰も来客はない、といった。
一昨日教会を出て行ったという菊江が、少なくとも、彼と|関《かか》わりなしに何か自分の行動を決めようとしていることは確かだ。そのことに、夫の塩見がどう関わりあるのかは知らぬが、彼女が何故自分に黙っているのか、彼女を何がそう変えたのか。
英子はさっきああいったが、実はもうすでに、あの秘密を彼女に何かで伝えたのではないか。しかし、それが一体どういう決心を菊江にさせたのか。あのことは、結局、菊江には全く関わりないことではないか。
治夫は自分がこれから菊江にしなくてはならぬ釈明を考えかけた。しかしそれはひどくわずらわしい、そして意味ないことにしか思えなかった。がとにかく、どうしても菊江に会わなくてはならぬ、と彼は思った。
それから三日間、教会と塩見家に電話しつづけて見たが依然として菊江の所在はわからなかった。三日目の休日に、彼は塩見の家まで出向いて行って見た。表は閉められたまま、確かに、人の気配はなかった。
帰り道、教会に寄って見た。そこで報されたことも、先日、電話で聞いたことと変りなかった。
「変ったといえば、和彦さんの様子が一寸変でしたがね」
辻はいった。
「様子が」
「とても、疲れているようでしたね。それは、疲れますよ、子供の身でも。いや、子供だけに、周りの様子がおかしいことを強く感じるでしょうし。とにかく、私らのいない間に、一寸出て行ったっ切りなんです。もともと、何も持って来てもいなかったし。とにかくそれ切りです」
「向うの家には御主人の姿もないようですが」
「御一緒なんでしょうかね。それならそれで安心ですが。なんといったって、御夫婦なんだし」
安直にいう辻へ、何かいいたい気持をこらえて、治夫は黙って|頷《うなず》いた。
「向うにも長く帰られないとすると、困ったな。二日前奥さん宛に来た速達を、向うへ廻させたんだが。大事な用事でなきゃいいが」
辻は一人でいった。
彼のいった、菊江宛の速達が何か、治夫は察した。もしそうなら、あの件に関しては、菊江が家にも不在ということで、まだ間に合ったことにはなる。
「しかし、こんなことを申すと何ですが、何か悪いことじゃなけりゃと思いますが」
突然、打ち明けるように辻はいった。
「どういうことです」
「奥さんは思慮がおありでも、御主人の方が取り乱されて、無理に何か」
「心中でもということですか」
辻は後ろめたそうな顔で頷いた。
「そんな馬鹿な」
英子の手紙を受けとらぬ前に、菊江にとって残された|術《すべ》がそんなことだけでしかない、ということは信じられない。
それなら、この前俺の部屋であったことは何なんだ、治夫は思った。
「一度、出来たら、例の問題の相手の不動産屋に、様子を訊いてはいただけませんか」
辻はいった。
三津田にまた会う気はせず、アパートに帰ってから治夫は彼の事務所に電話した。三津田は古い方の事務所に行っている、と若い男の声がいった。
裁判がすすんで、彼が勾留されている様子はなさそうだ。
かけ直した電話に、三津田が直接に出た。彼が出た後で、治夫はにわかに、彼に何と話しかけていいかに困った。
名乗った治夫を、三津田はすぐにわからず、塩見の名前をいうと、
「ああ、あんたか、何だね、今頃」
思い切って塩見がどこにいるか知らぬかと訊いて見た。
「知らねえな。俺も向うももう互いに用はないからな」
「裁判はどうなったんです」
「裁判、何のだ。ああ、あれか。なんだ、あんたは何も聞いていないのか」
「僕は、一寸他の用事でいなかったものですから」
「なるほど、そうかね」
軽んじたように三津田はいった。
「裁判はな、止めたよ。塩見の方でとり下げたよ」
「いつです」
「何日前かな」
「それで」
「話はついたさ。その方が利口だってことに奴もやっと気がついたんだろ」
三津田の口ぶりは、話のつき方に満足して聞えた。
「話がついたって、どんな風についたんです」
「あんたには関係ないだろ。聞きたけりゃ、塩見に訊いたらどうだ」
|揶《や》|揄《ゆ》をこめて相手はいった。
「その塩見さんがどこにいるか、一家でどこへ行ったか知りませんか」
「知る筈ねえな。しかし家出じゃないことだけは確かだよ。そうしなくてすむようになったんだからな」
|儲《もう》けた取引の報告をするように三津田は電話の向うで笑って見せた。
何とかして、菊江の消息不明の意味を知りたいと思った。彼女と夫との間の何か新しい事態で、彼女が彼に相談する暇がなかったほど困ったことが起ったのか。それで彼女の行方が知れぬ、というのは不吉な予感さえする。彼女が夫と一緒らしいということは、何故か彼女がこのまま自分の手に戻らぬような気がする。自分のためにも菊江のためにも、それは許せぬことに思えた。
教会は彼女と連絡とれ次第、治夫のアパートか病院へ電話してくれることになっていた。
その間、治夫は病院へ出る前と、昼と、夕方、時間を決めて塩見の家に電話しつづけた。電話はその度に同じように鳴りつづけるだけだった。彼女を捜すのに、結局そこしか電話するところがないということに、次第に治夫は焦った。焦るにつれ、訳は何であれ彼女が、間違いなくあの夫と一緒にいるに違いない気がして来た。そう想うことで、治夫はふと菊江の背信すら想像しかけた。自分が結局、彼女の生活のほんの僅かな部分をしか知らずにいたことを悟らされたような気持になった。
が、電話をかけ出してから三日目の朝、ここ十年の間もかけているような気がしながらかけ直した電話に、突然相手が出た。
鳴りつづけていた電話に、彼があきらめて切ろうとした時、ベルが鳴り|止《や》み、向うで誰かが受話器をとり上げたのだ。相手を呼ぶ前に、受話器の中の気配で治夫は相手を探ろうとして見た。彼は何故か、小広く薄暗い塩見家の内庭に一人で立っている菊江を想像した。
「もしもし」
向うが呼んだ。細いが確かに、菊江の声だった。
「塩見さんですね、僕です、緋本です」
声はなく、沈黙の向うに、彼に呼び出された菊江の、何故か|躊躇《ちゅうちょ》を彼ははっきりと感じとった。
「どうしたんですか。どこにいらしてたのです。何も連絡がないし、教会で聞いてもわからず、心配していたんです。行方が全くわからなくて、あの三津田にまで尋ねたんですよ」
「すみません」
低い、遠い声で菊江は|詫《わ》びた。その声の気配の内に、治夫は何故かわからぬが、彼女と自分の間にある新しい隔たりを感じたような気がした。
英子のことで、性急にいい訳したい自分をとどめて、
「どうかされたのですか」
「はい、いいえ」
菊江は|曖《あい》|昧《まい》に、つぶやくようにいった。その声は、はっきりおびえて怖れていた。
「お目にかかりたいのです。今日はそちらのお宅においでになるのですか」
「いいえ」
「どこに今いるんです。御主人も一緒なんですか」
菊江が答える気配はあったが、言葉は聞きとれなかった。
「今日はそちらにおいでになるのですか。それなら、夕方、伺うなり、どこかででもお目にかかりたいのです。夕方、もう一度連絡しますが、そこにいますか」
「はい」
菊江は|肯《がえ》んじた。
「今、御主人はそこにおいでなのですか」
「いいえ」
すくんだような声で、彼女はいった。
「何かあったのなら会った時、何でもおっしゃって下さい。いいですね」
念を押して電話を切った。
しかしその後すぐ、彼はある不安で決心を変えた。今から夕方までの間に、菊江が、心を変えてまたどこかへ姿を消すのではないか、と思った。
病院に電話し、急用で遅刻すると断わって治夫は菊江の家を訪ねて行った。
門を入って眺めた塩見の家は、玄関も横の廊下も、表側の雨戸はみな閉ったままで、相変らず人の気配がない。
何故か声をかけるのをためらって、|母《おも》|屋《や》の棟に添って勝手口に廻って見た。
勝手口の戸は、外された鍵がついたまま開いていた。|覗《のぞ》いた|三和土《た た き》に、さっき上がったばかりのように、菊江のらしい女のはきものが乱れて脱いであった。
戸を引き三和土まで入って、中へ声をかけた。声に応えて、人の気配があった。もう一度声をかけて彼は名乗った。
奥で動きかけた人の気配が静まり、沈黙があった。沈黙の中で菊江が治夫の不意の来訪に驚き、おびえているのが離れた彼にまではっきりと感じられた。
「奥さん、どうしたんですか」
治夫はわざと大きな声で奥へ問うた。
|暫《しばら》くし、足音があり、小広い|厨《くりや》の廊下口の、色|褪《あ》せた|暖《の》|簾《れん》の下に菊江が立った。
厨の採光のせいだけではなく、彼女は青ざめ疲れ切って見えた。
量は乏しくとも活気のある朝の明りの下で、彼女のそげた頬の線と、眼の下の|隈《くま》がはっきりと見えた。よろめきそうな自分を支えるように、斜め後手に、柱に手を添えて、今にも絶え入りそうに肩を落し、治夫を認めた後、何といっていいかわからぬように、彼女は呆けたように立っている。会わぬ間に、またすっかり、彼女は変り果てていた。
「あなたがあれっ切りまたどこかへ行ってしまいそうな気がしたんで、今来て見たんです」
何かいおうとしたが、それもあきらめたように、彼女は小さくいやいやをしただけだった。
「どうしたんです、一体」
近づいて上がろうとした彼から逃れるように、彼女は一歩すさって小さく|喘《あえ》いだ。
「どこか体が悪いんですか」
その時だけ、彼女ははっきりと首を横にふった。
「どうしたんです」
靴を脱ごうとする彼を、
「待って、そこにいらして」
願うように手で制した。
「誰かいるのですか」
「いいえ」
「じゃ、どうしたんです」
まじまじ彼を見返すと、何か呑み込むように、
「|罰《ばち》が当ったんです、私たち、やっぱり」
菊江はいった。
「罰、何があったんです」
「和彦の病気が、また」
「和彦君の。どんな風に」
「こないだ、お目にかかった次の日から、急に様子が、はっきり変になって」
忘れたい何かを自分に強いて思い出させるように、区切り区切り彼女はいった。
「目まいがして、吐いたり」
「吐いた」
「それに頭を痛がって」
「医者には見せたのですか」
「はい、教会ではとても御迷惑になりますので。辻先生もその方がいいといわれて。前にかかったお医者さまに」
「そこの医者でわかるのですか」
「ええ、そこから病院を紹介して頂いて入れました」
話しながら舌が乾くのか、知らずに、飲みこめぬものを何度も飲みこむように|喉《のど》を動かしながら、彼女は子供のようにおびえた顔になった。
条件は知らぬが、塩見が三津田の告訴をとり下げ急な話し合いで片をつけた訳がわかったような気がした。
「どこです、病院は」
彼女は近郊のもう少し北方にある、ある大学の附属病院の名をいった。
「なんで、元の病院へ入れられないんですか」
菊江はぶたれるのを怖れた子供のように、思わず身をすさらせながら頷いた。
「それはいい。で、容態は」
「手術をしなくては、危ないそうです。切って|膿《うみ》を出さないと」
「新しい病巣が拡がってるのですか」
いわれたことを理解出来なかったように、彼女はただ機械的に頷いた。
「手術はいつなんです」
「わかりません。今、何か新しい治療をして頂いて」
「どんな」
「腕に注射して、頭にガスを入れて」
「マスタードガスですか」
菊江はまた同じように頷いた。そんな仕草は、もうそうしたことに関心を持つ気力もなくなったように見える。
「そんな、子供に可哀相な。それだけでも苦しんでいるでしょう。吐いたりして」
躊躇したように頷くと、彼女は願うように彼を見つめた。突然、こらえていたものを吐き出すように、
「眼が、眼が見えないんです」
うめくように口走ると、そのまま精尽きたように廊下へ坐り込んだ。
治夫は高野教授の部屋で宮地が話していた会話を思い出して見た。思い出さなくとも、彼一人でも和彦の病気の行方は見当がついた。あの|奇《き》|蹟《せき》に近く手際良かった宮地の手術の後、病気が再発すれば誰の眼にも結果は知れていた。辻がいっていた通り、小児の頭部の悪性の|腫《しゅ》|瘍《よう》の|治《ち》|癒《ゆ》率は、その病気が進行する速度の違いだけで、要するに絶望的なものでしかないのだ。
「大丈夫ですよ、手術がすめば。むしろ早く手術して上げた方がいいんだ」
いつかの時と同じ印象を与えるように、注意深く、言葉の隅々まで気を配ったつもりで彼はいった。
が突然、その言葉をふり払うように、菊江は荒々しいほど激しくかぶりをふった。
「駄目ですわ。もう駄目ですわ。私にはわかっているんです。和彦が治るわけはないんです」
しぼるような声で彼女は叫んだ。
「馬鹿な、何故」
「わかっているんです。もう駄目、駄目なんです。主人は知らなくとも、私にはわかるんです、私たち、間違っていました。いえ、私が間違っていたんです」
「何を間違っていたんです」
「何もかも。神さままで欺して」
苦しみの挙句、何かを絞り出すような声で菊江はいった。乱れた髪のまま、薄暗い板の間にうずくまり彼女は両手で顔を覆いながら、うめき喘いでいた。その居ずまいには、治夫が手を触れそれ以上声をかけるのをためらうものがあった。
「あなたが、そんなに苦しんではいけない、何故あなたが」
「私が苦しむなら簡単だわ。私が和彦を殺したんです。教会の先生たちがいった通りなんです。|救《たす》かったかも知れない和彦を、私が殺したんだわ。もう何もないんです。私には何も。私が自分でそうしたんです。何をやっても、あの子は救かりはしません。私にはわかるの。私がした間違いのせいです。でもあなたには責任はありません」
「あなたが一体何をしたんです」
「私たちは矢張り間違っていたんです。あの晩、あの部屋で、和彦は私たちを見たんです」
「それが何故。奥さん、僕たちは間違ってなんぞいない。僕があの時いったことは本当です。それだけは信じて下さい。僕にとって、生れて初めての、本当のことだ。僕は辻さんのいったことを信じられました」
が、菊江は乱れた髪を一層ふり乱すように、覆った手の中で叩きつけるように激しくかぶりをふった。
「奥さん」
上がって手をかけようとした彼から逃れるように身を|退《ひ》くと、彼女はうめきながら、帯の間に入れていた封筒を取り出して投げた。
封筒は二人を隔てる境のように彼と彼女の間に落ちた。教会から転送されて来た英子の手紙だった。菊江は多分、入院先から何か要る品をとりに戻って今朝それを読んだのだ。
「それは違う。あの女のいっていることは違うんだ。この手紙には悪意がある。僕はこのことについては、あなたに釈明出来る」
言葉は、借りたもののように、手応えなく唇から出た。いいながら、彼は菊江が顔を上げ、問い返して来ることを怖れた。
そんないい訳ではなし、彼女が今うめきながらいった言葉にかなう言葉を、何かひとことだけでも彼女に伝えたいと思ったが、彼は出来ずにいた。
あせりや|焦《いら》だちでは追いつかぬ、何か大きないき違いが仕組まれてあったことに、自分が、今やっと気づいたのを彼は感じた。
「そうじゃない、そうじゃないんだ」
彼はただくり返した。
そして、それすらを拒むように菊江は激しくかぶりをふっていた。
「あなたは、この手紙を信じるんですか、信じたんですか」
菊江は首を横にふった。
「それじゃ」
「どうでもいいんです。その手紙を読む前から、私にはわかっていました。あなたも、私と同じように間違いをしているんです。絶対に、間違いを。私たちは間違っていたんです、神様に甘えて、欺して」
「何で」
菊江は答えなかった。
「僕は、或いは、その手紙にあるように、人を殺したのかも知れない」
彼女はまた激しくいやいやをした。
「しかし、そんな僕と、全く、違う自分があるということを、僕はあなたで初めて知れたんだ。あなたが、僕にそれを見つけてくれたんだ」
菊江は聞くまいとするように両手で顔を覆っていた。
彼女にそれを伝えようと、いえばいうほど、さっき感じた大きないき違いが段々深いものになって行くのを彼は悟っていた。何かにいつの間にか裏切られたような気がした。
自分を裏切ったものが、自分と菊江の巡り会いを仕組んだものであり、それが仕組んだものが、実は、こんな結末であったのだということを、治夫は決して信じまいと思った。
それを、そのものに示してやるためにも、今は沈黙するのだ、と彼は自分に説いた。
板の間に崩れたまま、喘ぎながら|痙《けい》|攣《れん》している菊江を、治夫は身をすさらせて、黙って眺めていた。そんな姿勢の菊江は、ますます小さく見えた。
今眼の前にあるものが、自分に|嘗《かつ》て何を感じさせ、どんな意味を与えようとしたかを彼は思い出そうとして見た。彼女を決して喪い得ぬものに感じた、というのはどういうことだったのかを。そのよすがに彼は、自分が腕にし、|晒《さら》し出し、味わった彼女の肉体を思い出そうとして見た。
すべてが混乱、というより|錯《さく》|綜《そう》して感じられた。
自分が今、どこからやって来、これからどこへ行こうとしているのだろうか、と彼は思った。この何か大きないき違いの更に底にある、自分が忘れていたような気がする、もっと根源的な何かを彼は想い出そうとして見たが、出来なかった。
そのままどれほどの時が過ぎてか、奥で、時計が鈍く時を打った。
気づいたように身じろぎし、同じ姿勢のまま、
「お帰りになって、どうぞ、お願いですから」
菊江はいった。
その声だけが何故か、蘇ったように、初めて菊江らしい声に聞えた。
何か今、ひとことだけいい置いていかなくてはならぬ、と思った。しかし彼は逆に、自分を陥れたものに向って挑むように黙ったままでいた。
頷いただけで出て行こうとする彼へ、
「そのお手紙を」
感情をそぎ落し、少し震えて、小さいが澄んだ声で菊江はいった。
いわれるまま手紙をとり上げると、顔を伏せたままの彼女に目礼し、治夫は裏口を出た。
途中、破いて捨てようと思ったが、手にした手紙を、電車の中で読んだ。
驚くほど詳細な記憶で、英子は彼との出会いからあの協同作業の終るまでを記していた。記された記憶は、ただ、その量だけでも彼女のいうなりの意味がありそうに思えた。
治夫にいったと同じように、人を殺してまで結ばれた二人の関係に、どんな意味があるのかを、英子は真似してか、因縁などという言葉で書いていた。
そして、自分がその関係を、たとえ彼が背を向けようとも|喪《うしな》うことは出来ない、それは自分に許せない。そのためには、二人が同じ罪にとわれてもいいとまで。
手紙の終りに、英子は端的に、菊江と治夫との間の偶然にどれほどの意味があるとしても、自分の方が先で、人まで殺したのだから|関《かか》わりは深いのだ、といって菊江をなじり退けようとしていた。
それは結局、英子が書いたと思えぬほど、一人勝手に取り乱して、いかにも俗な|嫉《しっ》|妬《と》の手紙でしかなかった。しかしそれがかえって、記されたことの事実としての重みだけを感じさせた。手紙が、菊江にどんなものを与えたかは、彼にも測れなかった。
ただ、あの菊江に、英子がこの手紙を書いたということだけを、治夫は許せないものに思った。
自分と英子との間にもあった、大きないき違いに、気づこうとしない彼女の愚かさに自分がおびやかされているということで、彼は英子を憎んだ。
そしてまたこの愚かな長い手紙を、今、あの立場にある菊江が、あの薄暗い家の中で、一人読まされたということに、治夫はより激しい怒りを感じた。
さっき、板の間に崩れて動かなかった菊江を眺めながら考えたと同じように、手の内にある部厚い封筒を眺めながら、ともかく、確かに一人の人間を殺してまで手に入れ関係を持った女が、果してそれ以上に、自分にとって何かであったのか、それをよすがに、もっと大きな何かを思い出そうとしながら彼は考え直した。
英子の手紙の最後には、店の電話番号まで添え、押しつけがましく、必ず返事をくれるように記されてあった。何であろうと、菊江がこの手紙に返事をすることは許されぬことに思えた。
そして、代りに自分が何かを伝えることも彼には考えられなかった。返事がとどかぬことで英子がこの先何を考え、何をするかはわからぬが、彼にはもうそれはどうでもいいことに思えた。
降りた駅の外で、近くを流れる汚れた川に、治夫は小さく引き裂いた手紙を捨てた。
その日一日、虚脱があった。朝あった出来事から自分を引き離すために、まずそれを忘れようとしたが、それについて考えまいとすることで、結局他の何も考える気がしなかった。
仕方なし世馴れた大人の世知に真似て、彼は自分にまず時を置かせようとした。そしてそれは結局、すべての時間を呆けたものにしかさせなかった。
虚脱は次の日も同じようにつづいた。
その中で、彼は自分に禁じながらも時々、二人の女のことを考えた。
今になって見ると、再び発病した息子をかかえた菊江には、|憐《れん》|憫《びん》と、故のない責任を感じるような気がする。執着などの前に、自分がそんな気持を彼女に抱くようになったということに、彼はせつなさを感じた。
英子は、ただうとましかった。そのうとましさは|怖《おそ》れだった。どうにでもなれと思いながらも、彼は確かに、英子がその先、月並に起すかも知れぬことを怖れていた。いや、何が起るか、ということへの怖れではなく、それはただ彼女のような女までがそれを起す、ということへの怖れだった。そして、自分が彼女をやはり怖れているということで、彼は英子を憎んだ。
二人の女を考えまいとすることで、治夫は精神的にも全く無為になった。その結果、彼は病院での仕事に、はた目から見れば、多分急に情熱を感じたように積極的になった。
日頃になく、それが二日三日つづくと、知らぬ間に彼は肉体的にも疲れて来た。疲れて見ると、今までそれをまぎらわさせたセクスも一緒に酒を飲む相手もなく、久しぶりに、自分|孤《ひと》りを感じることが出来た。
改めて感じる孤りは、どんな他人といる時よりも、かえって|億《おっ》|劫《くう》だった。
その夜遅く、外で酒を飲んでアパートに帰ると、管理人が後ろから声をひそめて治夫を呼び止めた。管理人の部屋に、彼を訪ねて来て待っている客がいるという。相手はどうしても、彼が帰るまで待つといっていた。
一瞬、刑事かと思った。が、
「あなたの|親《しん》|戚《せき》の人だというんですがね」
管理人は|胡《う》|乱《ろん》気に声をひそめていった。
意外に、管理人の部屋から出て来たのは母親だった。
それがわかった時、彼は訪問者を刑事とおびえた自分と、こんな時間に突然ここまでやって来てしまった母親に共に腹がたった。
互いが見知りなのを確かめた管理人の前で、いきなり帰れともいえず、仕方なし先にたって階段を上がった。
促されるままおずおず上がり込む母親を眺め直しながら、腹だたしさの上にどうしようもない不快さがあった。
しまいとしても|尚《なお》、彼の意識を二人の女が占めてしまっている時に、突然、忘れていた、彼にとっては全くのこの他人が割り込んで来るゆとりはどこにもありはしなかった。
酔いにまかせて、しつっこいくらい彼は黙って何もいわずにいた。
彼のために何かしたそうな彼女を無視して着換え、水を飲み、床までとって、彼はようやく、母親である客に向って坐り直した。
臆した自分をせくように、彼女は瞬きし、それでも後ろめたそうに微笑して見せる。
「なんですか、急に」
たまりかね、最後にもう一人残った外来の患者に向い合う医師みたいに、相手にどんな事情があろうと、相手がそれを告げる前に、露骨に不本意そうに、治夫は|訊《き》いた。
「あなたに、|報《しら》せておいた方がいいと思って。早い方が、と思ってね」
ゆっくり、説くように彼女はいった。そんな彼女は、彼にとってはただ|僭《せん》|越《えつ》でしかなかった。
「なんですか、一体」
「この頃、英子さん、どうしていました」
|窺《うかが》うように多津子はいった。
その名を、この客がいきなりいうことの無神経さに、彼は怒鳴りたいのをやっとこらえて問いを無視した。
不意の来訪と、何か知らぬが英子の|噂《うわさ》と二つ重ねて、彼には眼の前の相手が、関わりないではすまぬ、どうにも許せぬものになった。
が、彼の胸の内を察したように、
「どうもね、大事なことだから、とても」
「この前の話のつづきですか、何かまた聞き出したんですか」
「ええ、私は心配でね。あの人とあれから何度か会いました。今夜も実は会って来たんです」
|何故《な ぜ》か、急に声を落して彼女はいった。
「あの女には会うなといったでしょう。|尤《もっと》も、それはあなたの勝手だけれど」
「ええ、あの人は、私をますます味方だと思っていたからね。あの人、もう一人の女の人に、手紙を出したってね」
|膝《ひざ》に両手を|揃《そろ》えて置き、背を丸め、下から覗き込むようにして彼女はいった。彼が許せば、彼女はそのままにじり寄って来そうだ。
治夫には、何故彼女が勝手にそんな真似をするのかわからなかった。わからぬまま、我慢出来ぬほど彼は不愉快になった。
「いい加減にしたらどうです。それがあんたに何だってんだ」
が、
「大きい声を出しちゃ駄目よ」
|塞《ふさ》いで叱るように多津子はいった。
「その返事がないのと、あなたがそれ切り何もいってやらないから、あの人、本当にその気でいたのよ」
「その気って、何です」
「本当に、自分からいい出して警察に行くつもりだったわ」
「そうさせたらいい」
「馬鹿をおいい」
低いが強い声で彼女はいった。いった後、彼女は自分の口調に気づき、面映ゆさを隠すように慌てて微笑して見せた。しかし何故か、彼女は、いつものようには、後ろめたそうではなかった。
何か訳がわからぬが、ふとある異常なものを治夫は相手の内に感じた。
「馬鹿をいわないで」
彼女は自制しながら、|諭《さと》すようにいい直した。
「そんなことをされて、いい訳がないじゃないの」
「しかし、しようがないでしょ、相手がそういうなら」
「しようがないで済みはしないわ」
彼の眼だけを覗きながら、決心したようにきっぱりと多津子はいった。
「私も、あれだけのことをいわれ、あれだけのものを見せられたんだからね。お客の爪の手入れをする道具だのね」
英子がそんな道具まで出して見せ、何をいったかは想像出来た。彼女は英子にとって恰好の聞き手だったに違いない。
「しようがないではすまないからね」
くり返し、念を押し、更に、彼に向って確かめるように多津子はいった。
その後、ちらと、薄く彼女は微笑し直すと、ゆっくりわざとらしく眼を伏せながら、
「あの人は死にましたよ、さっき」
突然、いった。
治夫は一瞬、相手のいったことがわからずにいた。
すぐ、それを察したように、眼を上げ彼を見直すと、
「私がしたんだよ。殺したのさ」
低いがはっきりした声でいい、言葉の意味を|証《あか》すように多津子は荘重な仕草でそのままゆっくり後ろから辺りを見廻すと、正面に顔を戻し、にっと歯を見せて笑いかけた。
それでも尚彼は、いわれたことを理解出来ずにいた。
「なんですって」
彼女に操られたように、彼女に倣った低い声で彼は訊き返した。
「嘘じゃないよ。だから、後は、彼女が出したという手紙、でも、向うの人はお前のために|饒舌《しゃべ》りゃしまい。だからもうこれで大丈夫なのよ」
多津子は|頷《うなず》いて見せた。彼女は満足そうに見えた。
「しかし、一体どうして」
「あの薬を使ってやったのさ」
いい聞かすように彼女は少し緊張して微笑した。何故か突然、彼は彼女のいったこと、いや、確かに彼女がやったことを理解出来た気がしたのだ。彼女のその微笑には、すべてを可能にしてしまうような自信と、彼が戸惑いするほどの勇気が感じられた。
「だけどお前、あれは矢っ張り、本当の毒なんだね」
同じ微笑のまま彼女はいい、微笑の中に、もうひとつかぶせて押しつけるような表情の影がさした。
突然、彼はまた錯綜を感じた。自分が今また、どこか遠く巡って帰って来たような感慨があった。そしてその内に、思いがけずに、また安らぎをさえ彼は感じた。
「だけど、一体」
戸惑いながら自分の声が喘ぐのを彼は感じた。
「あの人が、私を信用しすぎたんだよ。あれが、どこにあるかまで教えて見せたんだからね。結局、あの人には|他《ほか》に打ち明ける誰もいなかったんだね」
一応そこまでは同情したように彼女はいった。
今日の宵の口、早番明けの英子は、多津子を自分の部屋に連れて行き、一緒に食事をつくった。その途中、煮ものが仕上がるまで、多津子は彼女に近くの風呂に行って来るようにすすめたのだ。英子はいわれるまま出て行き、多津子は風邪気味だといって部屋に残った。
実際に、彼女は話しながら鼻声だった。
英子の留守中、多津子は、先日見せられた押入れの奥の道具箱の中から薬の入った乳液の|小《こ》|瓶《びん》をとり出し、考えていた通り、透明の中身の半分を英子の湯のみ茶碗に入れ、残りを空けて捨てると、ゆすいで水を入れ元に戻した。英子が前に話してとり出し見せた書置も捜し出し懐ろに入れた。
やがて英子は風呂から戻り、多津子にかしずかれて、留守中出来上がった夕飯を食べた。そして食後の茶も、多津子が立って行き彼女のために入れて出したのだ。
英子は全く気づかずにそれを飲んで空けた。
「匂いも、味もしないんだね」
念を押すように多津子はいった。
どう答えていいかわからず、治夫はただ彼女を見返し、知らずに頷いただけだった。
「五分、いや、もう|一寸《ちょっと》してかね、なんだか苦しいからといってね。吐きそうな気がするって、手洗いにいったけど、吐かずに戻って、今度は胸が苦しいようだって。私が床をとって寝かしてやった。私はいやだから、夢中で片づけものをして帰って来たんだけど、出る時、声をかけたら」
一寸|固《かた》|唾《ず》を呑むと、
「睡っているように見えたけど、もう動かずに、返事はしなかった」
つくったように、急に無表情になって多津子はいった。
「もし、苦しがるようだったら、誰か人を呼ぼうと思ったけれど。私は誰にも見られなかったが、見られていても、何ともないよ」
「しかし、何でそんなことを」
思わず治夫は訊いた。
「何でって、お前、あのまますむことじゃないでしょう」
|咎《とが》めるように彼女はいった。
「私が、それを黙って見ている訳にはいかないわ。だって私はあなたの」
彼女はごく自然に話しかけるように、晴れ晴れと笑って見せた。その笑顔の中には、見事なほどいつもの卑屈さはなかった。
「しかし、薬を捨てるだけでもよかったんだ」
「そんなことでどうなるの」
たしなめて、叱るように多津子はいった。
「あれは、後でどう調べてもわからないんだろ。お前がそういったといってたよ、あの女が」
彼女の口調が、いつの間にかすっかり変っているのに彼は気づいた。それを彼は何故か、不自然にも、そしてそう不愉快にも感じなかった。
この出来事を、自分にどう|収《しま》っていいのかわからぬまま、彼はどうやら確かに起ってしまったらしい出来事の必要な詳細を確かめようとして訊き直した。
「薬はどれくらいの瓶に、どれくらい残っていたんですか」
多津子は指で大きさをつくって示した。それは大体、彼が与えたものの、過半の量だった。その半分でも十人分以上の致死量だった。死因の障害がどこに現われようと、並の|検《けん》|屍《し》では突然の強いショックによるものとしか判じられない筈だった。
「間違いないな、それじゃ」
自分に確かめ、いい聞かすように彼はいった。それでも尚、|呆《あ》っ|気《け》ないというより、彼には、あの部屋で、あの井沢英子が、突然、一人で死んでいるという実感が全く|湧《わ》いて来なかった。
しかし彼は、それを自分に納得させようとした。あの英子が自分に向って、もう何も饒舌らぬということを。自分がこれで喪ったのでなく、何かを得たのだということを。
それを納得した、と彼は思った。するとこの思いがけぬ出来事から想起し直して、突然自分の前に現われ、また突然消えてしまった井沢英子は、結局、遠い以前の記憶の限りだけの女で、実はそれきり自分にとって存在しなかったような気がした。
確かに今、眼の前の母親を眺めながら、意識の下に見えがくれしてあった英子へのあの怖れがなくなっているのを彼は悟った。
そして自分が、英子とこんなことになる以前の、彼女と再会するもっと以前の、或いは、高校で彼女を知ったもっとはるか以前のどこかへまた帰って来て在るような感慨が強くあった。
黙っている彼を、じっと窺うように、いつでもまた、さっきの微笑で応えようとするように多津子は見つめていた。
とうに、わかった気がしたが、一番肝心な問いをもう一度確かめておかなければならぬ気がした。
自分のために、というより、むしろ眼の前にいる彼女のために、きちんと坐り直しながら彼は尋ねた。
「でも、お母さん、どうしてこんなことをやったんです。どうしてそんな気になったの」
彼女はすぐに待っていたように、あの微笑を浮べて見せた。
「それはお前、私はあなたの」
いいかけ、彼女はもう一度説いて確かめるように頷いて見せた。
「だって、これでやっと私もあなたと同罪になれたんでしょ」
彼女はいった。
突然彼は笑い出した。
自分が今何故笑うのかがよくわからぬまま、彼は声をたてて笑った。
その息子を、彼女は微笑を収め、不安気な、真剣な顔で見守っていた。
眼の前の、不安そうな母親の表情に気づかいながらも、押えようとしても出来ずに、彼は笑い続けた。笑いながら、何故か自分に小気味いいような気がした。
彼女はそんな息子を、今までのいつよりも、いかにも母親らしく思いやるように微笑して、待ちながらじっと見つめていた。
なんだか故の知れぬその笑いは、儀式の|祝詞《のりと》のように、彼の心の内のある部分を清めていくような気がした。
これは回帰だ、堂々巡りだ、結局、俺は帰って来た。彼は思った。
それを確かめるように彼は笑いながら眼の前の母親ににじりより、彼女が膝に揃えて置いた片手を取った。
その感触には、確かに覚えがあった。
後記
この作品に手を染めてから五年余の時間が過ぎた。私は今まで、一つの作品にこのように時をかけた経験がない。その間、政治への直接参加等、身の廻りにいろいろな出来事があり、そうした体験をふるいにして、それまでかかえていたいろいろな素材が色|褪《あ》せたり無意味に感じられたりしたが、政治という、努めて、強引にでも他人との|繋《つな》がりを求めなくてはならぬ新しい別の方法に|於《お》ける体験の中ででも、かえって一層、作家である側の私にとっては「|嫌《けん》|悪《お》」と「他者」という命題は、私自身のものになって来た。
そしてこの仕事をつづけながら同時に、私の内に、初めて、本当に私自身の文学の主題の自覚があったような気がする。
焦りながら長かったこの一つの「時間」の終りに、私は丁度十数年前、処女作を書き終えた時のような気持でいる。
いずれ記すべきことかも知れぬが、しかし矢張り今、理由は付せず、そうとだけ記しておくべきと思うので記すが、この作品は、私自身にとっての一つの鎮魂歌である。
最後に、この作品に関し、長きに渡って絶えず私を励まし|倦《あ》かずに督促しつづけてくれた担当編集者の梅沢英樹氏に、心からお礼を申し上げたい。彼なくしては、私はこの仕事を途中で|放《ほう》り出していたかも知れない。それは仕事への責務以上の、私が味わった最も友情らしい友情の一つであった。
|尚《なお》、題をつけた後になって、同名の戯曲がアメリカに在ることを知ったが、題名以外は全く|関《かか》わりはない。
[#地から2字上げ](昭和四十五年夏)
この作品は昭和四十五年九月『化石の森』上巻、十月同下巻として新潮社より刊行され、昭和五十七年六月全一冊の新潮文庫版が刊行された。
Shincho Online Books for T-Time
化石の森
発行  2002年1月4日
著者  石原 慎太郎
発行者 佐藤隆信
発行所 株式会社新潮社
〒162-8711 東京都新宿区矢来町71
e-mail: old-info@shinchosha.co.jp
URL: http://www.webshincho.com
ISBN4-10-861152-7 C0893
(C)Shintar Ishihara 1970, Coded in Japan