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石丸元章
アフター・スピード 留置場→拘置所→裁判所
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はじめに
よく聞かれることなんで、最初っから断っておくけど、この本には、いろんな出版物で、元服役囚達が書いているような、人間模様の交錯するドラマや、想像を絶する過酷な拘禁者残酷物語≠ヘ一切出てこない。つまりこの本の著者は、留置場、拘置所といった牢屋《ろうや》の中であの事件≠フ関係者や、歴史に残る有名犯罪者といった、一風変わった大物には、一人として出くわさなかったってわけ。まあ、スタイリッシュさに欠けるので、タランティーノなら絶対に映画化しない、そういう2か月半だったのだけど、仕方ない。掛け値なしに正直に書くとこうなる。
でもまあやる気は充分だ。ヒマにまかせて、いやいや、ライター的志の高さに裏打ちされた執筆へのあくなき執念で、牢屋の中で過ごした2か月半のことを、イッキに書いてしまおう。
さて、デスクの上には拘置所の中で手に入れた一冊のノート。
ノートの中の文章はすべて拘置所の独居房の中で書いたものなので、純粋といえば純粋だが、そのかわり、職業ライターに不可欠な責任感とか正義感とか道徳だとか、その他いろいろの配慮が一切欠如したシロモノだ。ほとんどソイツをそのまま本にしちまおうかと思うのだがどうだろう?
もちろん
オレの文章ってのは平均的なノンフィクション以上に印象にたよっているし、偏見と思い込みに満ちている、
なぜって、
その偏見や思い込みに裏打ちされた、知覚と直感が生みだす妄想スレスレのメチャクチャな現実!!
それこそが、
この世の中にふさわしい真のノンフィクションだと信じているからさ。
警察署内では、フレンドリーなサギ師や、本国だったら当然死刑のマレーシア人や、殺人犯なんかにも出会ったが、なにせ、もう街《シヤバ》にもどってきて、一年半もたつので、編集者や、あと、どうでもいい連中にせがまれて、さんざん何度も同じことをベラベラ喋くってて、もうまるでひとつの|喋り《トーク》のネタ≠フように練り込まれちゃったエピソードも多い。なるべく、そういう練りあげられた≠ィ話は捨ててしまって、留置場や拘置所内で過ごした時間を、クロッキーみたいに描けたらいいとは思っているのだが、そこはそれ、やってみなくてはわからない。
まあいろいろあったんだ。
どのあたりから書いていこうか、とにかく書いていこう。
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目 次
はじめに
プロローグ
T留置場 THE POLICE CELL
STEP(1) パクられた夜─回想《フラツシユバツク》─
STEP(2) 留置場の朝
STEP(3) 刑事の取り調べ
STEP(4) 犯罪者との交流
STEP(5) 検事の取り調べ
STEP(6) 留置場暮らし
STEP(7) 「起訴」決定
U拘置所 THE PRISON
STEP(8) 拘置所の掟
STEP(9) 食う、寝る、運動する
STEP(10) 監獄生活極楽道
STEP(11) 国選弁護人との面会
V裁判所 THE COURT
STEP(12) 求刑公判
STEP(13) 自由へのカウントダウン
STEP(14) 判決公判
STEP(15) 夕暮れの街へ
あとがき
文庫版あとがき
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プロローグ
確かあの時は覚醒剤をキメていた。うん、い……いや……えって……うん……? そう、やっぱ、そう、覚醒剤《スピード》をキメキメにキメまくっていて頭ん中がガインガインにテンパっていたんだった。そうそう、逮捕されたあの日は、4日間連続でスピードをキメ続けてたせいで、もうメチャクチャ。自分の声とも幻聴とも誰かの怒鳴り声ともつかない恐ろしい声が、空洞になった頭の中をディレイ&ハーモナイザーをきかせて、うわんうわんまわり続け、NOOOOHHHHHHHHHHHH!!!!!! 最低で最高!!
よくわかんない絶望的NOOOHHOOHHOHHHHHHHHH!! な気分のまま、あれ、オレ、何をしようとしてたんだろう。よく思い出せない。
メモ──?
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※生きたヒヨコをダシに使った、世界一パンチの効かないヒヨコスープラーメンの作り方を、蘭蘭の実家のラーメン屋に教える
※猫のウンコを具にした、じか巻きおニギリを作り、ローソンに置いてくる
※ライム風味の洗剤を使って、おもいっきり濃いジンライムをつくり、女房に飲ませて口から泡をふかせてやる
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い、いったいなんだ、このメモは?
あ、そういえば、はい。そういえばあの時、覚醒剤をギンギンにきめて、絶望的なんだか至福なんだかわかんなくなっていたので、よくわからないうちに革新的な新しい料理のレシピを発見しようと必死になっていたんだった。
そうそう『赤い薔薇ソースの伝説』みたいな、カッコイイ料理の本をこの手でデッチあげようと4日間、一睡もせずに頭をフル回転させていたのだった。
う、ううう、な、なんてこった、思い出して力が抜けた。非常に思い出したくない、とてつもなくマヌケなシャブの活用法!!
スピードキメて食欲なんかまるっきりないっていうのに、なんで、なんでなの? どうでもいいような創作料理のレシピにこだわっていたなんて、それでテンパっちゃって気ィ狂っちゃうなんて、一年前の自分のこととはいえ情けなくてもう涙が出てくるよ。
そ、それで、
それで……、なんで逮捕されたんだっけ?
その料理モードに入ったまんま街に出かけ、あ、そうそう、本物の犬のウンコのパテを作ろうとして、犬のウンコを拾いにいって、……あ、それでパクられた。でもどうしてパクられたんだ。単に歩いてただけなのに。なんでシャブ中と間違われ、いや、バレてしまったのだろう。ああ、そうだった、そうそう、職務質問を受けたので、それで見破られてしまったのか。悔しい、実に悔しかった。
あー逮捕された時、その瞬間は──テレビの「警視庁潜入48時間」とか、「逮捕の瞬間200連発」とか、あんなもんとほとんど大差なかったんじゃないの。ただ、テレビの場合は、コケおどしのBGMとインチキくさい大げさなデカイ文字が画面の中に踊ってたりするけど、自分が逮捕される場合、当然テレビカメラも、テレビモニターもない。よって、ぜ〜んぜんシンミリと逮捕される。のかと思ったら、その時は覚醒剤を食っていたので、大ゲサな幻聴BGMが頭の中でグルグル勝手にまわり始めちゃいやがって大変驚いたね。しかもそのBGMというのが、今まで聴いたこともないデステクノ、それもものすごいBPMの曲だったので目がまわる寸前、いや、まわってた。
◇逮捕の瞬間ライブ◇
(1)向こうから、顔見知りの警官が自転車に乗ってやってくる。しかも2人。1人はじじい。
↓
(2)生きたヒヨコのスープのレシピが書いてあるメモを見ながら、ブツブツつぶやいて気持ちよくお散歩しているわたし。ヤバイかも──ねー。
↓
(3)や、やっぱり、思ったとおり声をかけられる。頭の中で、聴いたことのないデステクノのサウンドがスタート。ロケットカオスにアクセス。
↓
(4)街灯の下で、警官の影が化け物のようにおそいかかってくる。手に持っていた「ヒヨコスープ」他のレシピの紙を、「何それ?」と見られる。
↓
(5)得意気にメモを見せながら、ヒヨコスープの作り方を喋り始めたら、気づくと大声!!
↓
(6)交番に連れていかれ、警察官の妖術的ともいえる職質技術にまんまとのせられ、「ヒヨコスープの中に、隠し味として覚醒剤《スピード》を入れようと思ってるんすよ、と口ばしってしまい、とてもヤバイ状況にロックオン。頭のアンプがデステクノのあまりの音量にとんだ様子。
↓
(7)ついに観念し、まだ1gは残っていた隠し味(覚醒剤)≠フパケと、それとスピードののっていたアルミホイル、気化したスピードを吸い込むための、一万円札を丸めたロールなどを、ポケットの中から自主提出。
刑事《デカ》のセリフ
『いいか、これ、お前が持っていたパケだな。おい、今、この瞬間お前がポケットから出したモノだなこれは。いいな、認めるな、よーし。いいか、これを今、この試薬に反応させるぞ、いいか、よく見てろよ、試薬を2滴、たらすぞ、いいか、いち、に。ホレ、これで青から紺色に色の変化がおこったら、お前が持ってたこの粉状のものは、覚醒剤ということだ。いいな、見てろよ自分の目で確認しろ、ホレ、色、変わったな。何色だ? 青、青だな。よし青だ。自分で言ってみろ、何色だ? 青、そう、青だ。よ──し、……』ってクドイっての。
そりゃもう、ご近所じゅうに響きわたるような大声が交番内に炸裂してTHE END。その瞬間、オレは逮捕され、一般人→容疑者にまつりあげられちゃったわけ。カ──ッ、
とはいえ諸君!! 逮捕されたって頭の中はすっかりテンパったままだし、後頭部の方では12ウインチのウーハーからデステクノがビヨンビヨン聴こえてくるし、わずかに働いている脳みそのどっかの部分は、あいかわらず全力で『赤い薔薇ソースの伝説』のティタになりきって、オカマ口調でゴマとアーモンド入りの七面鳥のモーレ≠セのインゲン豆のテスココ風チリソース煮≠セのを元にした変形創作料理をぐるぐる考えている始末。
刑事がポッケのホルダーからとり出したツヤ消しブラックの最高にカッコイイ手錠をガチャリと両腕にかけても、それでもしつこく「ヒヨコスープが……」とつぶやきながら目玉をぐるぐるさせていたので、う、うわうわうわ、よ、よくわかんないけど最高! 最高に最高の、マヌケでバカ丸出しなとてもよい気分だったっけなあ。
逮捕された時の気分──。
ジム・キャロルの本からのパクリで悪いけど、これは言いえて妙だと思う。
「聖アウグスティヌスにはじまって
すべての告白作家は自分の罪にいつも少しだけ酔っている」
[#地付き]アナトール・フランス
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T 留 置 場
001
最初の日の朝……たぶん朝。
目が覚めたのは、留置場の独居房だった。
★監獄法★
第一条[監獄の種類]
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@監獄ハ之ヲ左ノ四種トス
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一 懲役監 懲役ニ処セラレタル者ヲ拘禁スル所トス
二 禁錮監 禁錮ニ処セラレタル者ヲ拘禁スル所トス
三 拘留場 拘留ニ処セラレタル者ヲ拘禁スル所トス
四 拘置監 刑事被告人、拘禁許可状、仮拘禁許可状又ハ拘禁状ニ依リ監獄ニ拘禁シタル者、引致状ニ依リ監獄ニ留置シタル者及ヒ死刑ノ言渡ヲ受ケタル者ヲ拘禁スル所トス
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A拘置監ニハ懲役、禁錮又ハ拘留ニ処セラレタル者ヲ一時拘禁スルコトヲ得
B警察官署ニ附属スル留置場ハ之ヲ監獄ニ代用スルコトヲ得但懲役又ハ禁錮ニ処セラレタル者ヲ一月以上継続シテ拘禁スルコトヲ得ス
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「目が覚めた」といっても、覚醒剤でテンパったままなので、一睡だってできてはいない。ただ、一晩じゅうなんとなく鉄格子の向こうの鉄線入り曇りガラスを見ていたら、鉄線《コイル》の埋め込まれたガラスの表面が徐々にうっすら白っぽくなってきたんで、ぼんやりと「たぶん朝だ」と推測しただけで、確信はなかった。
「朝だなあ。きっと、朝だ」頭の中に朝にふさわしい曖昧なモヤがかかった状態で、自分に言い聞かすように一人つぶやいていると、いきなり、
ガチャコン!!
驚くほど大きな音がした。ビクついてまわりを見回すと並んでいるほかの鉄格子の牢屋──たぶんこれがブタ箱って呼ばれてるものだと思う──のすべての電気が、突然のフラッシュバックみたいにビカビカビカッと一斉に点灯した。
「起しょ──────!!」間髪入れずに、軍隊の鬼軍曹みたいな声が聞こえてきて、それを合図に留置場内がイッキに活動し始めた。現行犯でとっ捕まって12時間経過ってところだ。当然のことながら、ヨレたままの頭は何がなんだかさっぱり自分の置かれている状況が理解できない。いや、理解はしていたが「現実」として把握するには、あまりに脳みその握力が低下していた。昨日の夜から深夜にかけていろんなことがありすぎて、しかも、やめときゃいいのにそのすべてを「記憶」として頭ん中へ詰め込んじまおうと懸命に努力して、その結果がこの体たらくだ。
002
おハヨッス! ───────────────おはよー!!
おう、おはよっす!
ういー、はよっすう!
まだねてんじゃねのかあ!
ハヨ! うあ───! おはようっす。
うっす。 ハヨッス!! おっす!
おハッス!!
おは─────っ!! うっす! おハヨウ!
犯罪者たちが信じられない元気さで口々に叫んであいさつしている。
鉄格子の間からまわりを見渡してみると、半円形にいくつも並んでるそれぞれの雑居房──何人かで入る集団房──の錠前を警察官が、ガチャン、ガチャコン開けている最中だった。警察官は、マンガに出てくるみたいなデッカイ|輪っか《キーホルダー》に通した大げさな錠前をジャラジャラといくつも持っている。すると、すごいんだ。錠前が解かれ扉が開くにつれ、わおっ!! いろんな犯罪者連中が、パンツ一丁でサンダルをつっかけ、布団を抱えて次から次へと出てきやがる。それは、夜の間自分で使ってた自分の布団を自分で布団倉庫まで持ってくという、考えてみれば極めて当たり前の光景なんだけれど、考えてみてほしい、朝のあいさつを大声で叫びながら布団を持って行進してる全員が全員犯罪者なんだぜ。そりゃちょっと、おもしろいのか怖いのか、感情をもてあましてしまうようなシュールで、ゾっとする光景。みんな歩きながら叫んでいる。
おハよーっす、 ういー。 元気そうだな。
うわあ──、ねむ。
おハっす。 おはようございまーす。
うーす、──おはよ。 はよい!!
おすっ! おはよ──、 うむ、
おっす! おす。
絶望的とも、希望に満ちたともいえない、まあ強いていえば単に元気≠ネ叫び声だ。オレはといえば、犯罪者の叫び声も、警察官の声もごっちゃになって全く区別がつかないまま、初めて聴く留置場スタイル・トリップホップ『朝のあいさつ』を立ちすくんだまま聴いてたわけだけど、意外なことにそれは、まんざらイヤな雰囲気《ムード》じゃなかった。シャブにハマりながら迎える朝としては最上の部類に入るだろう。街《シヤバ》にいる人なら誰でも、警官と犯罪者は、この世で考えうる最高に仲の悪い関係≠ニ思いがちだし、もちろんオレだってそう思い込んでたんだけど、連中たちのヤケクソな朝のトリップホップは、不協和音《デタラメ》で調子っぱずれなくせに、リズム感のみですべてを挽回していやがるんだ。
うっす、───おはよっす。
よ──、 おはよう、おはよう。
おはよ──────っす。 はよっス。
はよっす。
ずっと向こうの雑居房のほうから徐々にこっちに向かってリズミカルに錠前が開けられていくと、次から次へと、全身に刺青《いれずみ》の入った、もしくはスキンヘッドでグラデーションのメガネをかけた、もしくはジャンキーそのものの、もしくはいかにも人相の悪い、もしくは小指の欠損した、もしくは得体の知れない、もしくは頬に傷のあるフィリピン顔の、もしくはネクタイが似合いそうな、とにかく考えられる限りの悪そうな犯罪者たちが手に手に布団を持ってゾロゾロ出てきて、お互いあいさつし、まだ錠前の開いていない、オレのいる独房の前をジロリっとニラミつけながら通りすぎていく。
オレとしちゃ、そりゃ、確かに今朝からは連中の仲間入りだけど、逮捕されたのは初めてだし、根っからの犯罪者ってワケでもなし、それに、どっちかっていうと初対面の相手にパンツ一丁の姿であいさつする習慣には馴染みがないもんで、目の前の犯罪者たちの仲間に入りきれなかった。目の前で進行している出来事がまるっきり他人事のような気がする。オレはオレで勝手に鉄格子のこっち側につっ立ったまま、昨日の夜、手錠をかけられてからのことを思い出していたわけ。
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STEP(1)パクられた夜 ─回想《フラツシユバツク》─
003
「7時47分、現逮!!」
街角の派出所で逮捕され手錠をかけられるとすぐ、屋根の上に赤いパトランプをウィンウィンと輝かせながらパトカーがやってきた。ツートンカラーのスペシャルハイヤーは、主役のオレを乗せて街じゅうをぐるぐる走りまわる。それはもうお祭りみたいなニギヤかさで、街行く人たち全員に、「ホラ、こっちを見て見て!!」って具合に赤い照明を次々と投げかけた。否応なしに注目の的。容赦ない強引な法的パレードだ。サイレンの音は沿道から沸き起こる観衆たちのもの凄い大歓声にかき消されて、聞きとれないほどだった。「もっと大きな音にして」とリクエストすればよかったんだけど、オレの隣にはもの凄く寒々しくなるような、銀ぶちメガネをかけた銀行員みたいな警官が座ってて、信号が赤で止まる度に冷静沈着にニラミをきかせていやがるんで、「リクエスト」なんて申し出られる状況じゃなかったんだよ。
★犯罪捜査規範★
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第一二七条[手錠および捕じようの使用]逮捕した被疑者が逃亡し、自殺し、または暴行する等のおそれがある場合において必要があるときは、確実に手錠または捕じようを施さなければならない。
2前項の規定により、手錠または捕じようを使用する場合においても、か酷にわたらないように注意するとともに、つとめて衆目に触れないようにしなければならない。
第一二八条[連行及び護送]逮捕した被疑者を連行し、又は護送するに当たつては、被疑者が逃亡し、罪証を隠滅し、自殺し、又はこれを奪取されることのないように注意しなければならない。
2前項の場合において、必要があるときには、他の警察に対し、被疑者の仮の留置を依頼することができる。
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本当なら、職務質問なんかでとっ捕まっちゃった自分のマヌケさと不運にガックリと意気消沈しなくちゃいけない場面だ。実際手錠をかけられてからしばらくは、意識してそう振る舞おうかとも考えた。だけど、「現実」ってのは「リアリティー」とか「もっともらしさ」とは全く別の次元で、勝手に進行していく結構イイ加減なものだから困る。キミにだって、当事者だって呆れてしまうリアリティーのない現実に直面したことがあると思うけど、その時オレが直面した「現実《リアル》」がまさにそれ。揺れるパトカーの乗り心地とドラッグの作用で、犯罪捜査規範第一二七条と一二八条に身をゆだねながら最高におどけた、いい気持ちになってしまっていた。それがノンフィクションってもんだ。
004
NOHOOOOOOHHH!!
「そんなことはどうでもいい。お前は黙ってろ!!」頭の中で誰かが叫んで頭の中でめまぐるしく回っていた回想がブツッ!! とコンセントから引き抜いたようにブチ切れた。つまりどういうことかっていうと、オレは回想シーンからいきなり現実に引き戻され、目を開けたままよろめいて、留置場の床にブッ倒れちまったんだ。
005
昨夜は逮捕《パク》られるとすぐ管轄の警察署に連行《ラチ》された。そして刑事に引っ立てられて、ジャンキー捜査課つまり、生活安全部に行って、初めての軽い取り調べを受けた。
刑事は、クタビレた背広みたいな人で、逮捕された時の情況なんかを、歌いなれたカラオケを何十回も飽きずに歌うサラリーマンみたいな口調で尋ねてきたし……、鑑識係の気のいい警察官は両手の指紋、それに手のひらの紋をまるで力士の手形かなんかとるように大喜びしながら採取してくれて……、それで次にまた違う警官がやってきて、逮捕されてからずっとしてたツヤ消しブラックの手錠から、今度は使い古しのシルバーメタリックのにかえられ……階段をくねくね上って写真撮影の部屋に連れていかれ、そう、ここだけは映画みたいにカッコよかった。「真正面」「左向き」「右向き」と、さっき手のひらの紋をとってくれた気のいい鑑識の警官の指示どおり、ポーズをとって、「犯罪者御影《ポートレート》」を撮ると……今度は、「任意でいいな」とかなんとかいわれ、便所でプラスチック製のボトルに、おしっこをさせられた。それに自分でシールを貼り、ションベンの入ったボトルを自分で持ってるマヌケな姿をポラロイドで記念撮影され、それから留置場の警官に身柄を引き渡されて……、それで、すぐさま持ち物をすべて「書類」に記入するための何十枚もの見たこともない書式の紙が目の前に並べられた。
所持品──
「小さなクマのキーホルダー」「ストップウォッチ1個」「鍵」「銀の指輪5個」「ポケットティッシュ」「現金2000と……なんぼ(忘れた)」「レイトショーの前売りチケット1枚」「ケータイデンワ」
「このケータイ、充電しといてもらえますか?」一晩泊められて翌朝「説教」で釈放されると思ってたオレが言うと警官は笑いながら、「ハハ、ダメだって、お前これからこのケータイ使えないんだから。ホラ、袋に入れて封印しちゃうからな、いいな」
とまあ、こんなやりとりがあったあと、
「あああ、この前売りチケット、観に行けないぞ。もったいなかったなあ」
帽子をアミダかぶりした若い警察官に差し出された紙切れを見ると、期限まであと2日しかない、くしゃくしゃになった『レザボア・ドッグス』のレイトショーのチケットだった。行こう行こうと思って持ち歩いたまま、何週間もポケットの中に眠っていたチケットだった。
「あ、それ映画のチケット……、行こうと思ってたやつなんですよ」
「そりゃムリだなあ、おマエ……当分はここから出られないからなあ。何で捕まったの? シャブ? 初犯? うーん、だったら2、3か月ぐらいかかると思うよ。オレもよくはわかんないけどね、判事じゃないからさ。でも悪いけど、映画、レザボア? あさってが期限か……。諦めてくれや、これは」
「じゃあ、このチケットあげますよ、おもしろいっスよ、タランティーノ好きっスか?」
チケットをオレが差し出すと、警察官は残念そうにチケットを見ながら言った。
「わりーな、あ……、気持ちはうれしいんだけどさ、そういうわけにいかないんだな」
「おもしろいのに……」オレがつぶやくと、警官は、
「レザボア……ドッグ? いいよ、自分で観に行くよ」なんて言って、タイトルを暗唱していた。
ガックリだった。もしかしたら逮捕そのものよりチケットを無駄にしたことがガックリだった。
次にパンツ一丁のカッコになって身長、体重、病疾患の有無の査問があった。
若い警察官のほかにもう一人いた、赤いべっこう風の縁《ふち》のメガネをかけた年配の警察官は、ひとつひとつを指さし&口出しで確認しながら書類を仕上げている。
「くつ下、一足、灰色……と」
「上着、これは黒、いや紺か? どっちだ」
「黒じゃないですかねえ?」
「いや、格子柄じゃないか?」
「上着ってより、ジャンパーですよこれ」
「そうか」
「あ、ところで、ここの欄って、黒ペンで書くんじゃなかったですか」
「そうか。ま、どうするか、やり直すか」
「上からなぞっちゃえばいいですよ」
「そうかそうか」
2人の警察官とオレとの間で、ま、そんなやりとりがあったあと、一度、赤いボールペンで書いた字を、丁寧に丁寧に黒いボールペンでなぞってから、赤いべっこう風メガネの警察官は、ニッコリ笑いかけて尋ねてきた。
「ところで、あなた病気はあるの?」
「はい、自分は病気です」
えっ?
その時のオレの状態についてはクドイほど書いてるからよくわかってるだろ、とにかくヒヨコスープだったから、何の病気なのかよくわからないうちに、口が勝手に喋ってしまったってわけ。
「はい、自分は病気です」
言ったあとで言葉が続かない。と思ったらまたしても口が勝手に喋った。
「はい、自分は覚醒剤依存症という病気です」
一瞬2人の警察官はア然としてお互いの顔を見つめ、タメ息をつきながらつぶやいた。
「オマエねえ……」
「そんな病気があったら……」
「ここにいるヤツ……」
「全員病気だよ……」
あとで知ったことだけど、留置場にいる奴の7割以上は覚醒剤を中心とする薬物事犯の犯人なわけで、オレの言った「病気」ってのはもう支離滅裂にウケないギャグだったらしいんだな。それでもヒヨコ頭で強硬にそう主張するオレのメンツをたてて、一応赤いべっこう風メガネの警察官が「病気」のところに、赤いボールペンでこう書いてくれた。
「薬物依存症」
これが逮捕初日について……今思い出せることはすべてだ。
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STEP(2)留置場の朝
006
「!!!!!!!!!!!!!!」
誰かにラグビー部の夏合宿の朝みたいな大声をかけられ、突っ伏した姿勢のままゆっくりと脳が動きはじめた。3分も倒れていなかったかもしれない。
「そうそう、オレは今、留置場の中にいるんだった」そうだった、留置場にいるんだった……留置場に……。混乱している頭を整理するために、ゆっくりとつぶやいていると、何の前ぶれもなくいきなり、目の前の房の錠前がガチャリと音を立てて開けられた。幻聴とは違うはっきりとした本物の声が、断片的に耳の中へ飛び込んできて、ハッとする。
「ちょっと待ってろよ、順番に……片づけて、そのあと洗面と掃除………、そのあとメシで……。メシっつってもここは留置場だからたいしたもん出せないけどね、まあ、最初のうちは慣れないだろうけど、周りの人のことよく見て、最初はマネしながらなんとかやってってくれ、な」
初めて見る警察官にそう言われ、自分の置かれている「現実《リアル》」に頭の中が半日遅れで追いついてきた。
とはいうものの「なんとかやってってくれ」って、どうすりゃいいんだ? またその様子を、とんでもないずう体のデカイヤクザみたいな男が鉄格子の向こうからジロジロ見ている。もうまったく。「なんで、オレがこんな目にあわなきゃならないんだ!」現実に戻った途端、人生全くイヤになった。
007
意識がハッキリしてくるにしたがって、信じられないくらい正直に、全く消極的な意味でやる気≠ェなくなってきた。つまりそのやる気≠チていうのは昨日の夜、逮捕された時には確かに持っていたハズの、これからの生活に対して抱く、ライター的な「好奇心」とか「期待感」といったものなんだけど、それがもの凄いスピードで消え失せていくんだな。
理由はいくつもある。どいつもこいつもデタラメな元気さで「おハヨッス」なんてわめいているし、模範にしなくちゃならない先輩ってのは全員凄い人相の犯罪者だし、まあ、それは許せるとしてヤツらときたらイヤになるほど体育会系なんですよ。やたら元気がいいし、おっかねえし、人殺しかもしれないし、第一パンツ一丁で腕をフリフリ歩くインテリジェンスの欠如した感覚には、ライターという頭脳労働者の王道を歩んできたオレにはついていけませんよ。大学ではこんな教育は受けていない。こんな野蛮人とオレ様を同列に扱うってのはどういうことだ。日本の司法制度は間違っとる!! とかなんとかわめきたいところなんだけどまわりにいるのは乱暴な犯罪者たちなので決定的に黙っているしかない。もちろん、「わめきたい」ってのはビビってることの裏返しなんだけど、新入生にできることはボーと突っ立っているだけ。
でも、それは恥ずかしいことじゃない。初めて逮捕されて留置場にいれられた最初の朝は、誰だってこんなふうに迎えるんだ。
008
「自分、ゾーキンかけます!」
「便所は私がやりますよ」
「じゃ自分はホーキでいいですか?」
「うーっス、オレもホーキいきまーす」
「担当さーん、サンポールくださーい」
「うっしゃあー、待ってろー」
突然、あちこちの房でそれぞれの犯罪者たち5〜6人が一単位になって、一斉にもの凄い勢いで掃除を始めた。それぞれに分担があり、自分の仕事に対してもう真剣そのもの。たぶん全員が街《シヤバ》じゃ、ロクデモなくダラシなく生活をしてたに違いないのに、今まで見たどんな清掃会社の連中よりも真剣に、熱心に、手抜きせず、しかも手っとり早く掃除を始め、アッというまにすましてしまう。間髪をいれず「3房、そーじ終わりました!!」だの「4房終了!!」だの裂帛《れつぱく》のかけ声とともにゾーキンを干してバケツを片づけ、自分からすすんで自分の牢屋の中へ帰っていく犯罪者たちの勇ましい姿を見ながら「えらいところに来ちゃったんだ」と、もう一度心の底から後悔したよ。
オレも房の外に引っ張り出され、掃除をやらなくてはならないハメになった。
「そーじの手順を教えてください※[#ハート白、unicode2661]」なんて質問するスキなんかありゃしないので、犯罪者たちに交ざって見よう見まねでなんとかやりとげなきゃいけない展開だった。オレは、ちりとりとかサンポールとか……忘れたけどてきとーになんか片手に持って、その場をゴマかそうとあっちへウロウロ、こっちへウロウロ、結局、なんもしないまま、掃除をしてるフリだけして、これまた初めて見るおっかない警察官に「おら、オマエ、終わったら自分の房に入ってじっとしてろ」と怒られちゃったりして、ガクー! ま、まいった、心底クタビレはててしまうもの凄いテンションの空間だよ、留置場ってのは、本当に。
009
「起しょ─────────!!」
あの声を聞いてから、まだ5、6分しかたっていない。それを忘れないでくれよ。そのスピード感、行動への活力、集中力たるや、留置場の全員が『愛と青春の旅立ち』に出てくる鍛えぬかれた自衛官、じゃなかったアメリカ空軍の幹部候補生でもおかしくないってくらいの優秀さでね。まあ、本当のとこ、映画以外のアメリカ兵のことは何ひとつ知らないんだけど、そんなふうに見えたわけ。そのあともあともそしてあとも、もの凄いテンションの朝の日課はまだまださらにさらにさらに続くんだけど、ふーう……このほかのことは、あん時の気分になって思い出すだけでGIVE UP。疲れはててしまって、それらについては、また後日、生活について報告するゆとりが出てきてから書くことにしよう。
初めて留置場で迎える朝は、本当に目が回る。あんなにキビキビした立派な態度のヤツらなんてザラにはいないと感心する。
010
それから10分後──────。
錠前のおろされたままの房の扉の下のほうにある、マンションの郵便受けぐらいの小窓が、ガチャリと開くと、
「あいよっ!」
てな具合にホテル顔負けの|朝 食《ブレツクフアースト》が入ってきた。
タランティーノのチケットをあげそこねたアミダ帽の若い警察官が手渡しで中にいれてくれた朝食──。
【朝食メニュー】
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(1)ちっちゃい梅干しが2つのっかった、八分炊きのお米だけのお弁当、通称「警弁」。
(2)プラスティックの碗に入ったインスタントみそ汁。
(3)シャブでいうなら3Gぐらいのパケ、おっと失礼! ビニール袋に小分けされたのりのつくだ煮。
(4)プラスティック碗に入ったお湯。
(5)ドラえもんふりかけ(しゃけ味)。
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「わりーなあ、旅館と違ってさ、アジの開きとか生玉子とかないんだよ。毎日これだからさ、まあ、な、一生ってわけじゃないんだから我慢してくれよな。若いから、ちょっとたりないだろーけど、ま、自分のせいだからな」
もちろんそれは冗談で、オレの場合は昨夜の今朝で急だったから、おかずの注文が間に合わなかったんだ。で、本当は、メインのおかずがもう一品はつくんだろうなと思いつつ、4日ぶりの食事──その間ずっとシャブをやってたから何も食べていなかったため──を食べた。まあ、米がやわらかいだけであとはうまくもまずくもなかったな。
「舌の上で運命が溶けていく」そんな感じ。
011
その日の午後、アミダ帽の若い警察官のいったことは冗談ではなくて、本当であることを知った。毎日毎朝、今朝と同じ同じ同じおかずのないメニューが永遠に続くことを同じ房になったサギ師に聞いたからだ。一瞬、相手がサギ師であるので信用しなかったところ、やはり本当だった。
012
朝食をとったあとは目をつぶって横になり、ある種の妄想状態の中を何分、いや何時間か歩いて過ごした。
「おーい、起きてる?」
誰かがいるような気がして目を開けると、確かに誰かがいた。半身を起こすと、鉄格子の外から初めて見る保険の外交員みたいな警察官が、外国映画の吹き替えみたいなドラマチックな口調で喋りだした。
「よしいいか、これから取り調べだ。調べ≠nK? 用意して、下の取り調べ室行くぞ」
用意もなにも、持ち物なんて何もない。立ち上がってサンダルをつっかけるだけなんだから。逮捕されると、ほかの手荷物同様に靴も取り上げられてしまうので、裁判が終わるまではサンダルしかはけなくなる。
房の錠が開けられ、外に出る。
本物の刑事の「取り調べ」を受けるなんて滅多にあることじゃない。「合法」だけが売りのこれっぽっちも効いてこない退屈なドラッグより、ずっと刺激的でおもしろそうだ。サンダルをはくと、朝っぱらに見失っていたやる気≠ェもう一度よみがえってきた。
いよいよ!! 犯罪者生活の本格的スタート!!
すべてを記憶しちまおう!! ライターの好奇心が目覚める時!!
いよいよ、オレ自身が引き起こした重大事件たる、覚醒剤取締法違反の取り調べのため、留置場から、階下の刑事部屋へ移送される瞬間がやってきた!! 犯罪者としてのこのオレの全貌が、極悪非道の限りをつくしたこの姿が明らかにされる運命の時が!! テンパっちゃってるせいもあってすべてを分裂病的真剣さで、大仰に意味づければ、よし、それで準備完了だ。
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STEP(3)刑事の取り調べ
013
30秒後──。
留置場にただ|ひとつだけ《ヽヽヽヽヽ》設けられた──もちろん逃亡防止と被疑者管理のため──出入り口まで、屈強な警官に両腕をひっ立てられながら歩かされる。
過去数十、いや数百人の殺人鬼やテロリスト、放火魔、幼児惨殺犯の両腕の自由を鉄の意志で拘束してきた、由緒ある古びた超合金製のシルバーメタリックの手錠がガッチリとオレの両手首にめり込んでいた。両手首にくい込むよう有無をいわさずにはめられた冷たい鉄の輪は、左腕に彫り込まれた「GONZO」という文字とナイフをモチーフにした青い刺青の上で、血を吸ったナイフのようにニブく曇った光を放っている。
さらに、犯罪者たるオレの自由を束縛する措置は続く。犯罪者連中が時おりみせる危険で獰猛な、狂気じみた闘争心を制御するために、冷酷なほど頑丈に編み込まれた、逃走阻止用のロープがオレの腰にいばらのように巻かれた。それは、実質的な肉体ではなく犯罪を犯す人間の精神に巻きつけるもののようで、締めあげられたとたん、胸の奥がとてつもなく窮屈になった。
警察官は腰に、木製の警棒よりはるかに軽量ながら、その暴徒鎮圧力においてははるかに獰猛な警察庁特選の特殊警棒をブラ下げ、オーケストラの指揮者《コンダクター》の指揮棒のようにそれを揺らしている。もしそれが一振りされれば管弦楽団の大太鼓が打ち鳴らされるような音で、オレの頭蓋骨は叩き割られ、ほかの犯罪者同様、このオレもシンバルのような悲鳴をあげるハメになるだろう。
留置場の出入り口となっている鉄製の分厚い扉の向こう側には、取り調べのためオレを引き取りに来ている生活安全部の刑事が待機している。留置場内の警察官は、その分厚い鉄扉を開鍵する前に、目の高さにある、扉の内側からだけ開けることのできる目視用の小窓を開け、外に待っているのがオレの担当の背広刑事であることを確認する。明治41年制定の「監獄法」に基づいて管理されている留置場という別世界へは、たとえ警察官とはいえ、特別の係官以外は自由に出入りすることは許されないのだ。
「調べ1名!!」
年かさの警察官がバッキンガム宮殿の近衛兵さながらの儀礼ばった声をはりあげて、敬礼する。
「調べ1名!!」
ほかの警官が復唱して最敬礼。アミダ帽の警官がカギ輪の中からやけに重そうな一番大きい錠をとり出し、慎重に鍵穴に差し込み、ひねりあげる。「カッチャン」とはじけるような乾いた音がして、ついに鉄の扉は開かれた。
外には、昨夜、オレのことを取り調べた、老練さが背広姿ににじみ出ている刑事が、青白い炎のように光る古代の海のように深い瞳で、オレを待ちかまえていた──。
014
階下の取り調べ室へ連れていかれる様子をこのように書けなくもないのだが、実際のところはガックリくるほど全く違う。手錠をハメたりロープを巻かれたりしながら、
「痛くない?」
「きつくない?」
「痛かったら言ってな、遠慮することはないからな」
と、手錠の締めつけ具合を心配してくれる年配の警察官に腕をさすられ、
「うわ、これシール? あ、刺青なの、こういうワンポイントって、今、流行ってんだってな」
と、腕のTATOOをスリスリさわられ、
「なに? キミって、仕事、文章かなんか書いてんだって?」
「雑誌とか?」
「スゲーなあ」
「有名なの?」
「結構もうかる?」
「こんなんで捕まっちゃってもったいないじゃんか、なあ」
「クビ?」
とかいろいろ……。錠が開くまでの間、少なくとも雑誌の取材記者よりはインタビューのうまい2、3人の同年代の警察官との世間話に興じていたのがリアルノンフィクション。
そこへ、キーホルダーを人さし指でぐるぐる回しながら、ドリフの仲本工事みたいな中堅の係長がやってきて、
「こういうとこ来るの初めてか、オマエ! そっかあ(笑)、そんなキンチョーしなくていいんだよう。これから、取り調べやったり地検に行ったりするけどさ、基本的には、しばらくは留《コ》置|場《コ》が、キミの住む家になるわけだから、ここで緊張してると肩こっちゃうぞ、気楽に気楽に」なんて言いながら「サービス、サービス」と肩をもんでくれたりする始末で、絶対的に五社英雄監督には報告できないチェリーボーイな状況だった。
これがオレの見た留置場の現実。冷酷でも厳格でもない、現実離れしたアットホーム感に満たされているおとぎ話のパーティー会場。だからいったろ、タランティーノが見向きもしないって! もちろん、ウォルター・ヒルでも映画化しない。第一、ライ・クーダーの音楽がハマんないもん。
デンジャラスでもスタイリッシュでもなく、『男たちの挽歌』にもほど遠い。でもね、諸君こういうことなんだ。
「これこそが、本物のノンフィクションってもんさ」
015
ここで読者に注意しときたいことがひとつ。
人の顔面ってのは、角度や表情、それにその顔を見るこっち側の心理状態によってもいろいろに見えるものだろ。顔の上にアンバランスに並んでいる様々な特徴がなぜかデフォルメされて急に目にとびこんできたりして、同じ人物なのに、さっきとはまるで違う人間に見えたり、またその逆もあるはずだ。だから、今までにいろんな呼び方で登場した警察官の何人かは同一人物だったり、違う人物なのに誰かと同じ呼び方で書いたりもしている。そのことに深い意味はない。見たままを書いているにすぎない。
016
取り調べ室に窓があるとしたら、そこには必ず鉄格子がはまっている。腰に回された青いロープの端を窓に入っている鉄棒にゆわえつけられ、容疑者たる自分は、くたびれた背広刑事の前に背すじをシャンと伸ばして座っていた。2畳ほどの取り調べ室には「ダメ! ゼッタイ!!」とかなんとか書かれたお笑い草の麻薬撲滅キャンペーンのポスターが、分度器で測ったように床に対して垂直に、なんの主張もなくただ単に物理的に貼られていた。隅のロッカーの上には古い新聞やよくわからない荷物の入ったダンボールが積み重ねられてあり、そこは取り調べ室というより倉庫のように見えたけど、そんなことはどうでもいい。
「どうだい、少しは眠れたか?」
くたびれた背広の刑事──いや、この言い方はあまりに失礼だ、「ヨレたネクタイの刑事」いや、「中年デカ」うーんどうもちがう。「背広|刑事《デカ》」……、まあいいか、……「背広刑事」と呼ぶことにしよう。背広刑事は眠そうな目で聞いてきたけど、眠るヒマがなかったのは、どうみても尋ねてきた本人のほうだろう。忙しいんだ。ざわついている刑事部屋のムードでわかる。大物が逮捕されたのかもしれないし、どっかの誰かの内偵捜査のハナシも断片的に聞こえてきた。
「どうだい、眠れたかい?」
「いえ、テンパっちゃって全然眠れませんでしたっスよ」
本物の刑事《デカ》に直接尋ねられているんだ。背広刑事は上級試験にパスしたキャリアではないし、警察学校を最優秀で卒業したエリート刑事でもないだろう。だって朝っぱらからチャチな犯罪者であるオレの相手をしてるんだから、そもそもエリートであるはずがない。かといって舘ひろしや柴田恭兵の演じるパロディの役者刑事《ダイコン》ではないんだ。オレは心の底から敬意を持って背広刑事の顔を見つめた。
★犯罪捜査規範★
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第一七八条[供述調書の記載事項]被疑者供述調書には、おおむね次の事項を明らかにしておかなければならない。
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一 本籍、住居、職業、氏名、生年月日、年齢及び出生地(被疑者が法人であるときは名称又は商号、主たる事務所又は本店の所在地並びに代表者の氏名及び住居、被疑者が法人でない団体であるときは名称、主たる事務所の所在地並びに代表者、管理人又は主幹者の氏名及び住居)
二 旧氏名、変名、偽名、通称及びあだ名
三 位記、勲章、褒賞、記章、恩給又は年金の有無(もしあるときは、その種類及び等級)
四 前科の有無(もしあるときは、その罪名、刑名、刑期、罰金又は科料の金額、刑の執行猶予の言渡し及び保護観察に付されたことの有無、犯罪事実の概要並びに裁判をした裁判所の名称及びその年月日)
五 刑の執行停止、仮出獄、仮出所、恩赦による刑の減免又は刑の消滅の有無
六 起訴猶予又は微罪処分の有無(もしあるときは、犯罪事実の概要、処分をした庁名及び処分年月日)
七 保護処分を受けたことの有無(もしあるときは、その処分の内容、処分をした庁名及び処分年月日)
八 現に他の警察署その他の捜査機関において捜査中の事件の有無(もしあるときは、その罪名、犯罪事実の概要及び当該捜査機関の名称)
九 現に裁判所に係属中の事件の有無(もしあるときは、その罪名、犯罪事実の概要、起訴の年月日及び当該裁判所の名称)
十 学歴、経歴、資産、家族、生活状態及び交友関係
十一 被害者との親族又は同居関係の有無(もし親族関係のあるときは、その続柄)
十二 犯罪の年月日時、場所、方法、動機又は原因並びに犯行の状況、被害の状況及び犯罪後の行動
十三 盗品等に関する罪の被疑者については、本犯と親族又は同居の関係の有無(もし親族関係があるときは、その続柄)
十四 犯行後、国外にいた場合には、その始期及び終期
十五 未成年者、禁治産者又は準禁治産者であるときは、その法定代理人又は保佐人の有無(もしあるときは、その氏名及び住居)
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2参考人供述調書については、捜査上必要な事項を明らかにするとともに、被疑者との関係をも記載しておかなければならない。
3刑訴法第六十条の勾留の原因たるべき事項又は同法第八十九条に規定する保釈に関し除外理由たるべき事項があるときは、被疑者供述調書又は参考人供述調書に、その状況を明らかにしておかなければならない。
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017
コーヒーやクッキーをすすめられながら、午前中いっぱいかけて取り調べを受けた。つまり、刑事が尋ねて、オレが答える。それを刑事が調書にする作業、ライターの仕事と同じようなもんだ。取材を受ける立場ってのは、普段からあっちこっちの記者《ライター》なんかから取材を受けているので慣れているんだ。
それで調子よく、刑事に尋ねられるままに、家で覚醒剤《スピード》をキメキメにキメたことや、ヒヨコスープの作り方を考えて&゚まっちゃった時までの様子を自分なりに必死に冷静に思い出して喋ったつもりだったのだが──。結局、やっぱり途中からテンパってきちゃったもんで、わけのわかんない創作料理のタワごとを叫ぶことの繰り返しになっちゃって、調書向けの話はロクにできなかったようだ。背広刑事には申し訳ないことをした。
★犯罪捜査規範★
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第一三四条[弁解録取上の注意]被疑者の弁解を録取するに当つて、その供述が犯罪事実の核心に触れる等弁解の範囲外にわたると認められるときは、弁解録取書に記載することなく、被疑者供述調書を作成しなければならない。
[#ここで字下げ終わり]
018
「調書」ってヤツは、テンパった末のタワごとを全く重要と認めていないらしい。ドラッグをめぐるヒヨコスープとか、ネコの糞《ウンコ》のおにぎりとかいった、本人にしかわからないハイテンションの産物について書くのは、刑事じゃなくて、ライターの仕事の領分になるんだな。
019
そこでオレたち──つまりオレと背広刑事の2人──は、ヒヨコスープ≠竍赤い薔薇ソース≠フくだりは「調書」からはしょってしまうことで合意した。オレの話の中から、常軌を逸してない正常な部分だけを抜粋しながら書き出して、背広刑事は調書を仕上げた。「これでOK?」書き終わったばかりの調書を声に出して読みあげると背広刑事が満足げに尋ねてきた。オレ本人が署名する前に、調書のすべてを読んできかせてくれる真摯な姿勢は「今日のインタビューのゲラ、送ります」なんていっといて、平気でスッポカしてそのまま記事にしちまう、ライターや編集者なんかより、ずっと信用できる。
★犯罪捜査規範★
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第一七九条[供述調書作成についての注意]供述調書を作成するに当たつては、次に掲げる事項に注意しなければならない。
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一 形式に流れることなく、推測又は誇張を排し、犯意、着手の方法、実行行為の態様、未遂既遂の別、共謀の事実等犯罪構成に関する事項については、特に明確に記載すること。
二 必要があるときは、問答の形式をとり、又は供述者の供述する際の態度を記入し、供述の内容のみならず供述したときの状況をも明らかにすること。
三 供述者が略語、方言、隠語等を用いた場合において、供述の真実性を確保するために必要があるときは、これをそのまま記載し、適当な注を付しておく等の方法を講ずること。
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2供述を録取したときは、これを供述者に閲覧させ、又は供述者が明らかにこれを聞き取り得るように読み聞かせるとともに、供述者に対して増減変更を申し立てる機会を十分に与えなければならない。
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020
昼メシの時間がきて、取り調べが終わった。刑事の私費なのか捜査費なのかはわからないけど、どっかのくだらないTVドラマの脚本みたいに、容疑者にカツ丼だの天丼をおごって、懐柔を図る、というやり方は現実には全くない。取り調べ中の暴力同様、食事《メシ》をおごることも、すべて禁止。「全犯罪者に対し平等に禁止」ってのが警察組織としてのキマリらしい。だけど、規則、規則で世の中動くかっつうの。だいたい、さっきオレが取り調べ中に食べてたクッキーだって、厳密にいうと、「食べさせた背広刑事の規則違反」ってことになる。以前『フォーカス』だか、『フライデー』で、そんなことを問題にした記事を読んだ気がする。そんなことをイチイチ「警察官の規則違反だ!」と騒ぎたてる記者連中にも困ったもんだ。
021
あとで知ったことだが、この、刑事たちから|お菓子《ケーキ》やドリンクの類を与えられる行為をさして「めんどう見」というらしい。逮捕されてから、東京拘置所へ身柄を移監されるまで、大麻や覚醒剤でパクられた平均的薬物事犯者なら約3週間かかる。その間、オレは取り調べの度に、その度その度、「めんどう見」でチョコレートやドーナツを食べさせてもらったし、コーヒーやコーラを飲ませてもらった。また、そのめんどう見で何を食ったかを留置場の仲間たちに報告するのが、ここで生活する容疑者同士にとって、その日最高のお喋りのネタになる。
その時のオレはまだ初日で全く感じていなかったんだけど、逮捕されて留置場暮らしを始めると、毎日同じようなどうでもいい弁当ばかりが支給され続けるんで、クッキーや缶コーヒーや、コーラなんかに取り調べ室でありつけるということは、それはもう留置場的には重大ニュースのひとつということになるんだから。
022
刑事たちにどんな「めんどう見」をしてもらったのか、それについての詳しい話は秘密だ。刑事たちの規則違反を売ることになりかねない。
023
留置場についてざっと説明しよう。
警察署によって細部は違うんだろうけど、オレが入った署では中央の見張り台──ここに看守の警察官が一晩中座っている──を中心に、半円形に第1房から第8房、そして少年房の9つの牢屋が並んでいた。見張り台のまわりには、コンクリート製の洗面台が半円形に作りつけになっている。房と房との間の通路には、お互いがお互いの房を覗けないように、ついたてがしつらえてある。留置場ってのは、犯罪者の仲良しクラブってわけじゃないので、お互いの顔を見ながら、日がな一日、ご歓談にいそしむ設計にはなってないってことだ。もちろん、8バズーカのスピーカーもパーフェクTVが見られる33インチのハイビジョンテレビもオートチェンジャーつきMDコンポも置いてない。
しかし、大声を出せば、1房と9房のヤツだって会話できるわけで、まあ、ほとんど毎日そうして皆楽しげに過ごしてはいる。が、留置されている連中全員が、いつも底ぬけに明るいロケットカオスにアクセスしちゃってるわけではない。
その時々の留置場内を覆っている雰囲気をきちんと察知しながら、全体のムードを読みとって生活することが大切なんだ。
024
留置場ってのは、デザインや設備を、映画のセットみたいにそっくりにつくったって再現できるシロモノじゃない。留置場のムードは何十年間にわたって、犯罪者や警察官たちが出入りしていくうちに自然に出来上がったものだってことは、留置場に足を踏みいれれば誰だってすぐわかるはずだ。
壁という壁には人工的には作り出せない、目に見えない不思議にくすんだオレンジ色のペンキの膜が張っているように見えるし、別のある時には窓から風もないのにヤケクソなため息みたいな空気が流れ込んでくる。その時々によって、全く違う印象をもたらす妙な場所だよ、留置場は。警察官や何度もパクられている本格的ワルの目にはどんな留置場≠ェ見えているのか、オレは知らない。
025
刑事部屋からメシの時間だってことで追い出されたオレは、背広刑事に連れられて、さっき降りてきたクネクネした階段を、今度は上って留置場へ帰る。腰に巻いたロープの片側を警察官に持たれ、まるでワン公の散歩だよ。もちろん犬コロのように、あちこちキョロついて、心の中でわんわん吠えながら歩くのが正しい歩き方だ。留置場のある階にたどり着くと、留置場の鉄の扉が開けられ、内側の警察官に引き渡された。
026
初めての昼食──。
お昼ごはんとして警察官から手渡されたのは、いやに風味の悪いマーガリンを適当にぬったくった、焼いていない食パンサンドと、いちごジャムがいい加減にぬったくってある焼いてない食パンサンド。もちろん、耳はついている。それと、5cmぐらいのプロセスチーズ。あと、お湯。以上、それだけ。
027
昼食を手に持って房に戻ろうとすると、昨夜から今朝まで過ごした一人用の独居房から、「雑居房の第6房へ移すから」と保険の外交員みたいな警察官に通告された。いよいよ本格的犯罪者たちが集団生活している雑居房《コミユーン》の中に押し込まれるわけだ。初犯の人間にとっちゃ、ちょっとした一大事だっていうのに警察官《ソイツ》ときたらまるっきり他人事で、平然と、
「いいー、キミは、今日からこの房でみんなと一緒に生活するんだからさー、わからないことはよくみんなに聞いて、仲良くやってくれ。え──あと、そうそう、キミ、今日から〈21番〉ってことになったから、留置場で〈21番〉って呼ばれたら自分だと思ってくれよな」
といったきり、さっさと雑居房の錠を開けようとしている。
手際よく錠を開けると、こっちの気持ちも知らず、「さあ、入った」とオレを押し込んで、アッというまにどっかに行ってしまいやがった。
いきなりそんなこと言われて先住民のいる雑居房に放り込まれても、目の前にいるのは見ず知らずの犯罪者なんですよ。そんな連中と同じ檻の中にいれられちゃって仲良くやれとは、どういうことなんだ。
NHOOOHHH!! 基本的人権の尊重はどうなった。オレを犯罪者扱いするのはやめてくれ。
思想・信条の自由! 集会・発言の自由! 食いたいもんを食いたいだけ食べる自由! カワイイ女の飲み物に覚醒剤を混ぜ込んで内臓までむき出しにしてしまう自由! LSDでラリって2階から飛びおりて骨折する自由! そういった、今までのオレが、当然のように享受していた「自由」を返してくれ!! 福祉、そう福祉的精神でオレを犯罪者のいないもっといい牢屋へ移してくれ。
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STEP(4)犯罪者との交流
028
房の入り口で一人パニクっていると、房の中にいた3人の犯罪者たちが一斉にこっちを向いて近寄ってきた。
にっこり笑う、犬の年齢に直したら40歳の男と、10代にしか見えない前歯の全部ない茶髪のロン毛の犯罪者、それとTシャツ一枚で身体じゅうにもの凄い刀傷のある、顔面に破防法が適用されているような50代の男に囲まれて、ま、まいった。どいつも、こいつも人殺しにしか見えない。
「まあまあまあ、そうカタくならないで、ね」
「みんな、ここでは平等なんだから」
「何やって捕まった、とか、言いたくなければ何も言わなくていいんですから」
「場所によっては房長とか序列とか決めてるとこもあるけど、うち、そういうのないから」
「あれ、初犯のヤツに限ってやるんだよね」
「そうそう」
3人がかわるがわる話しかけてくる。3人が3人とも、話している最中に凶悪な人相になったり、ニヤケたりしてとてもいい犯罪者の顔だった。それでだいぶ落ち着いてきた。
そうとも、オレは友達を顔で選ぶ。この連中とだったらうまくやっていけそうだ。
「オレも最初の時、おい新人≠ネんて便所そーじやらされて、そんなもんかと思ってたけど、今から考えれば、とべばよかったな、ホント」前歯のないロン毛の茶髪が誰にともなく叫んだ。
「とぶ?とぶ≠チて何?」
時々、業界用語が出てくるんで、その度に聞き返すと犬なら40歳って顔の男が、すべて、通常の日本語に翻訳してくれるのでたすかった。
「とぶ≠チていうのはブン殴ってやる≠フ意味なのよ」
「なるほど」
「まあ、お昼ごはん食べて、ゆっくりやりましょう」
「昨日、逮捕ですよね」
「ネタ(シャブの意)っスか? やっぱり」
「オレもっスよ、やっぱみんなそうなんだよな」
トークをリードしてるのはロン毛の茶髪だ。
「まあ、アンタの場合、譲渡(密売の意)もついてるけどね」
顔面破防法がそういうと、ロン毛が笑いだした。
「そりゃ自分大物ですから! なんてね。いやーオレなんかちっちゃいっスよ」
オレを除く犯罪者3人は犯罪者顔≠複雑にゆがめながら……つまり打ち解けた表情でオレに話しかけながら食事の仕度にかかる。こっちもだんだん落ち着いてきた。
仕度ったって、電子レンジやキッチンシンクどころか、箸も茶碗もない。水道の蛇口もない。水が出るのは便所の排水だけ。食事とともに小窓から手渡された、ピクニック用のレジャーシートを絨毯の床にベタに敷くのが食事の仕度なのだ。所要時間約0・8秒。
言うまでもないことだけど、留置場の房の中にはテーブルだの、ソファーだの、ランプだの、コンランショップで売ってそうなシャレた調度品といえば、そうだな、和式便器ぐらいしかないわけで、このレジャーシート1枚が、これから朝昼晩の食卓机になるわけだ。
「さあさあ、|テーブルを敷いてと《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》……」顔面破防法が話しかけてきた。「昨夜逮捕で、さっきまで下で調べ≠ナしょ、疲れた? 初めは、疲れるんだよ。大丈夫、忙しいのは最初の3日間だけで、あとは恐ろしくヒマになるからね」
「明日、新検調べで東京地検行くのよ。でも、今日はもう何もないからいいけど。明日はキツイわよー」犬の年なら40歳の男が、当たり前のようにプロフィール紹介をする。
「あのね、|あたし《ヽヽヽ》サギ師なの」
「今日は、のんびりしてください。シャブがキレちゃってちょっとツライでしょう、けど、ここを自分ちだと思ってくださいよ」
前歯のない密売人もとってもフレンドリー。
「本もあるし、マンガもありますから。寒かったら、何か上着を貸しましょうか?」
なんだか、久しぶりに泊まりがけで、遊びに行った親戚の家みたいなおもてなしだ。こんな気分、小学校の時以来、少しの緊張とウキウキ感で徐々に楽しくなってきた。
029
4秒後──
昼食の始まり。
「いただきます」
「いただきます」
「いただきます」
犯罪者とは思えぬ礼儀正しいあいさつをする3人。学校の給食みたい。ガッつきもせず、良家の子女のように箸を運ぶ先輩犯罪者に続き、オレもイっちょ、キメてみますか。
「いっっただきま──す!!」でっかい声で絶叫だ!!
留置場の生活様式ってのは万事体育会系が基本ってのは、すでに半日で学んでいるし、まあ、何だっていいんだ、おもしろければ。
3人の犯罪者は一瞬「うわ! キチガイ?」てな驚きの目でこっちを見たが、それも一瞬。ニッコリ笑って、食事の始まりだ。
ところが、オレの目の前にあるのは、さっきもらった、トーストしてすらない食パン4枚とチーズだってのに、ほかの皆さんの前にはオムレツや照焼き、揚げシューマイに、ドレッシングが別になってるミニサラダの入ったデリバリーランチボックスが並んでる。
どういうことだ?
実は、留置場の中では、これも署によって違うのだが、500円だか600円だかの範囲で金額を自弁──自費を出して購入すること──すれば街《シヤバ》の店から昼食の出前をとることができる。その店はたいがい指定されていて、ある署はラーメン屋の出前だったり、ある署はそば屋だったり、ある署は神戸ステーキの専門店の特別ヒレステーキ350gだったり、ある署は赤坂の料亭の5000円の懐石弁当だったり、ある署はレカン特製のフランス料理フルコース弁当だったり、それは豪勢にメシを食うことができる、って、そんなことねぇっつうの。留置場で食えるのは、たいがいの場合、近所からとっているどうでもいい弁当だ。しかも、販売相手は文句もいえない犯罪者だから、思いっきり手を抜いて作った、やる気のない死後硬直が始まっている弁当。
のわけねえっつうの。シャバの連中は、世間ってもんがてんでわかってないよ。考えてもみてくれよ、警察署におつとめする何百人の警察官たちも昼食は近所の食堂か、出前、ファストフード、とにかく必ず昼食をとるわけだ。となると、唯一の留置場指定店≠ニして、毎日必ず注文がくる弁当屋にとって、囚人たちに食わせる500円の弁当ってのは、その店にとって最高の商品サンプルになるんだよ。ま、全部がサギ師の受け売りだけど、そういうことらしい。
「どうです? うちのお弁当は、犯罪者相手の500円のでこんなにデラックスなんですよ。まして600円で、おまわりさん相手なら……ウフフ※[#ハート白、unicode2661]、おひとついかがかしらん」
なんて具合に、留置場の犯罪者が食う弁当には、弁当屋のそういう魂胆がトッピングされているってわけ。割烹弁当屋の主人がオカマかどうかは知らないけど、きっとそんな調子に違いない。実際はオレの知る限り、500円の料金で最もデリシャス&プレシャスな、まるごとおいしい弁当は、留置場で食べた弁当だ。『料理の鉄人』留置場弁当対決に出品されてもおかしくないクラスの逸品が、毎日、最高のバラエティーで犯罪者《オレたち》の元に届く。元犯罪者の流れ板が「留置場の中では食べることが最大の幸せだから」とボランティア精神を炸裂させて燃えたぎる創作意欲で弁当を作っていたりしたら、「ドラマ」なんだけど、世の中、そんなおもしろいもんじゃないだろう。
でも、まあ実際、警察官はしょっちゅう「うまいか?」と出来を気にして聞きにくるし、「今日、オレも同じ500円の弁当注文しちゃったよ」なんていう若い警察官だっている。それくらいのグレードの弁当ではある。留置場の犯罪者と警察官は、立場は違うけど、弁当を通して同じ釜のメシを食う関係でもあるところが新鮮に感じられた。
030
その日の昼食の続き。
その日、目の前にオレの弁当だけがないカラクリをサギ師が解き明かしてくれた。「逮捕が昨日の夜だったから、弁当屋の注文が、間に合わなかったのよ、もぐもぐ」そういうことで、オレには、官から毎日無料で配当される、パンとチーズしか用意されていなかったわけだが、うん、それでいい。当然だ。犯罪者の境遇でいちいちガックリしていられない。でも、もちろん、みんなが、それぞれのお弁当から当たり前のように、気前よくおかずを分けてくれて、本当に久しぶりに仲良し≠満喫する昼食をとれたってわけ。
031
本当のこといって、留置人同士の物のやりとり、貸し借り、特に、食べ物のやりとりは規律のかなり上位の順番で禁止されている。トラブルが起こる原因になるからだ。でも、時と場合によっちゃ、暗黙の了解もあるようなないようなわけで、その辺の呼吸を早くつかむことが、留置場にかかわって暮らすすべての人たちがお互い、楽しくやっていくコツだと思う。
032
昼食後──12時15分、逮捕後18時間経過。
昼の間、留置場内には枕がない。まだまだ頭が正常じゃなかったので、サギ師のすすめで、枕代わりになりそうな分厚い本を限度いっぱいの3冊、警察官に借りてそれを枕にして、その日の午後はとにかくゴロ寝した。午前中と違い、午後にはめまぐるしい日課は全くなにもない。
同房の3人は、それぞれ、手紙を書いたり、本を読んだり、寝たり、起きたり、話したり、勝手にやっている。悪くない、勝手な雰囲気。
033
[#ここから2字下げ]
ギョワワワン!! 信じられない大音響を頭の中に感じて目をあけると、急に頭の芯がギュルンと回って全身が硬直し、額に凄い汗をかいて何がなんだかわからない自分がそこにいた。強烈なフラッシュバックだった。
あれ、あれ死んだはずのサイコビリー(注:この本の前編にあたる本、『SPEED』の登場人物)じゃないのか、電車にとび込んだんだろう、運のいいやつだ、助かったんだな、あれれ、三枝のダンナ(注:同じく『SPEED』に登場するイカすビジネスマン)、今日もクラブですか、現実はどこ?
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034
覚醒剤をぬいて、最初の数日間は、フラッシュバックがしょっちゅうだ。だからもう慣れっこ。怖くもなんともない。見えてはいない風景が頭の中で映写されたようにクルクル回る。
身じろぎすらできずじっと天井を凝視していたら、なぜだか急に、突然理由のない悲しみに襲われて意味はないんだけど涙がわきだしてきた。覚醒剤《スピード》でテンパってしまっている時は、絶対的に悲しい現実に直面して涙が流れ出てしかるべき状況の時でも、きっと、どっかが壊れているんだろう、悲しさを感じないし、泣くこともできない。それで、「あな悲しやあな悲しや」と一人つぶやいてお茶をにごすんだけど、その時はおしっこがもれるみたいに突然目から涙がジャージャー流れてきた。本当はその時の境遇に感情が高ぶっただけなのかもしれないけど、よくわからない。本当に気持ちよく、さっぱりとした、クセになりそうないい涙だった。
その様子を、ほかの3人は、見て見ぬふりをしていた。
035
その日の夕方。
夕方5時。「夕食」って声をかけられて起き出した。赤いプラスチックに「※[#○に「警」]」と書かれた、いわゆる警察弁当が毎日の夕食だ。カワイそうなくらいベタベタに炊きあげられたお米に、餃子1個、あとなんかおかずがあった。ハムカツだったか、バタバタ(犯罪者用語でチキンのこと)の照焼きだったか、あと、お湯。
警察で配られる夕食の弁当ってのは、これはもう、うーん、これはもう、質、量ともに決定的に、書くほどのこともない、人生イヤになるどうでもいい内容なんだが、隅っこに申し訳程度に入っていた漬物は、デステクノのクレイジーなCDジャケットみたいな存在感を持っていた。漬物《ソイツ》はショッキングピンクの凄まじくスパルタンなシロモノで、知らない人が見たら、若者の間で流行ってる新しいドラッグだと思うことうけあい。恐ろしくって口にしないでいたけど、前歯のない若い密売人のコが「うわー、キクわ、これ」とすすめるもんで食べてみた。うわお!! うわお!!
そりゃもう!! 今日一日の疲れをふきとばすぐらい、LSDだってこうはいかないくらいの、支離滅裂にキューッとくるサイケデリックな幻覚の見える味だったね。
036
消灯──9時JUST
8時30分を回り、借りていた本や、自分のロッカーから出していたボールペン、便箋の類をすべて警察官に渡して片づけてもらうと、各房の錠前が、順ぐりにガチャコンと開けられて、犯罪者たちが廊下に出ていく。今度は、朝と逆に、倉庫から各自の布団を運んでくるわけだ。さてと、今朝は他人事のように思えた行列だったけど、今はもう自分もその仲間いりだ。
自分の房の錠前が開けられ、初めて見る若い警察官に「21番! 新人君、慣れた?」と聞かれた。
「うっス、自分は、同じ房のみなさんにすっかりお世話になって、この世界にも慣れてきました」
だいぶ正気を取り戻して犯罪者らしく答えたのだが、警察官は、
「おいおい、いやに慣れちゃってるな」と笑いだしやがった。前歯のない茶髪の密売人がソデをつっつかれ、
「おい!! オマエ、あんまり変なこと教えんなよ」警察官はなおも笑い続けている。
「キッチリ、男≠ノ育てます!」若い歯なしの密売人は自分のサンダルをつっかけておやすみっス! と大声をあげながら各房の前を歩きだして布団倉庫に向けて行進開始。オレもそのあとに続こうと思ったら、サギ師のサンダルと自分のを間違っちゃったもんで、
「それ違うわよ、別にいいけど」なんて出鼻をくじかれて、あまりカッコイイとはいえないタイミングで、犯罪者の行進に加わることになった。「うっス」「おやすみっ」「ス、うっス」と目に入ったすべての犯罪者、警察官にあいさつしながら、布団倉庫に行き、自分の布団を取って房に戻る。もちろん、その行進の最中ずっと、あちこちから、
「うっス」
「おやすみ」 「兄さんお休み」
「明日、新検?」 「シャブ? オレも! お休み!」
だの声をかけられて、少しだけ照れ臭い気がした。オレなんか、ホントに、少年院も行ってないし不良《ヤクザ》でもない、初めてパクられた単なるシャブ中なのに、あたたかく留置場仲間の一員に迎えてくれたりして、う、うれしいス。
「よーし、今度来る時は、みんなが仰天するようなデタラメだけどおもしろい、ショッキングでハッピーでロケットなスゲエ大事件の有名主犯になって、故郷に錦を飾ってやるぞ!」
オレはすっかり東京の相撲部屋へ上京した地方の中学3年生みたいなピュアな新人気分になっちゃって、布団を持ちながら、一人ニガ笑いしたが、「ここは故郷じゃないっての」と一人ボケ→突っ込みを頭の中でいれて……。さて、さて自分の房の入り口に戻ったのだが、さて、房の中の、どこに布団を敷いたらいいものなのか……? 布団は幅が60pしかないような、やけにコンパクトなシロモノで、背の高いヤツなら足の先が出てしまう長さ。房に4人しかいないので、どこにでも敷く余裕はあるのだが、いくらなんでも、一応、寝る場所くらいは序列っていうか、先住者たちの習慣とか占有権てのがあるハズだ。とりあえず自分の布団を持ったまま様子を見ていると、「あ、どこでもいいっスよ、好きなところに寝てください」と茶髪が言い、刀傷が「だいたい、いつもオレはこの辺なんですよ。あの人は、その辺」とそれぞれの所有地を教えてくれた。
「拘置所なんかに行くと、房によっては消灯後の水洗トイレの使用禁止とか、規則があるけれど、ここは自由ですから、夜中に大≠ナも小≠ナも中≠ナも自由にやってください」
犬の年齢なら40歳のサギ師がクウ〜ンクウ〜ンとなつくようにサジェストしてくれたんで、一応「中=H うわー中≠チて何ですか?中≠チて!?」なんつってギャグにウケたフリをして、房の真ん中あたりに布団を敷いてみる。
充分薄い布団だったけど、家にある自分のベッドときたら、猫がヒッカイて、スプリングがとび出しちゃってる壊滅的なヤツなんで、これはこれで、いい夢が見られそうに思う。
037
全員が布団に入り、いよいよ消灯カウントダウン、なんて状況になった時、年配らしい警察官が大音声《だいおんじよう》を張りあげた。
「明日の東京地検、区検裁判所の押送《おうそう》、東京拘置所への移監者の確認!!」
「6番、8番、19番、21番、25番、以上、押送、30番移監!!」
明日、留置場から出て、取り調べのために東京地検へ送られる連中、それから起訴が決まり、明日には東京拘置所へ移され、もう二度とここへは戻って来ない連中を発表したわけだ。もう二度と戻って来ないつったって、お父さんが外国へ転勤しちゃう小学生じゃあるまいし、早いとこ起訴されて、とにかく一歩でも先へ進むのが最高の幸せなんだから、涙ながらの別れってもんじゃない。けど、同じ房にいた人が、出て行ってしまうのは、それはそれで淋しいもんだ、と、隣でサギ師が教えてくれた。
「いつか、キミもわかると思うよ。たぶん」
「消灯───!! おやすみ───!!」
警察官の大声のすぐあとで、計ったように「う───す!!」と犯罪者たちが声を合わせてあいさつし、次の瞬間、ガチャコン、と電気がすべて消えた。
留置場内の一人一人の心の中を照らすような、黄色い電球がひとつだけ看守台の後ろで光っていたが、あたりはシーンと静まりかえっているだけだった。
038
やがて、その小さな電球の光もまぶたの裏から消えていった。
おやすみ。
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STEP(5)検事の取り調べ
039
翌日───逮捕後38時間経過。
★刑事訴訟法★
第二〇三条[司法警察員の手続、検察官送致の時間の制限]
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@司法警察員は、逮捕状により被疑者を逮捕したとき、又は逮捕状により逮捕された被疑者を受け取つたときは、直ちに犯罪事実の要旨及び弁護人を選任することができる旨を告げた上、弁解の機会を与え、留置の必要がないと思料するときは直ちにこれを釈放し、留置の必要があると思料するときは被疑者が身体を拘束された時から四十八時間以内に書類及び証拠物とともにこれを検察官に送致する手続をしなければならない。
A前項の場合において、被疑者に弁護人の有無を尋ね、弁護人があるときは、弁護人を選任することができる旨は、これを告げることを要しない。
B第一項の時間の制限内に送致の手続をしないときは、直ちに被疑者を釈放しなければならない。
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040
今日はこれから「新検調べ」として、自分を担当する検事の取り調べを受けに東京地検へ送られる。つまり身柄送検の日だ。
「とにかく、今日一日が、逮捕されてから街《シヤバ》に出るまで、肉体的に一番シンドイ日なのよ」と前科4犯のサギ師や、刀傷──前科3犯、前刑殺人青森刑務所7年──が言っていた。いったいどんな一日なのだろう。
自分のような小者の犯罪者は、テレビで見る有名犯罪者のように、刑事が運転する普通自動車では押送《おうそう》──地検、裁判所までの移動──をしてくれないので、ほかの押送者全員と一緒に、手錠をかけられて、6人なら6人、一本の長〜いロープで子供の電車ゴッコみたいに連結されちゃって大型バスに乗り込まされる。そのバスは、同じ地区にある警察署から警察署へと、次から次へ9も10も、ぐるぐるぐるぐる回りながら、ロープにつながれた犯罪者を拾っていく、考えうる限り最高に刺激的な路線バス。もちろん乗客は全員犯罪者でガイドは警察官だ。最終的には、法務省管轄下である東京地方検察庁へ「終点!!」と到着することになっているが、ぐるぐると都内中の署を巡るんで、時間がかかることおびただしいらしい。しかし、護送バスの中に犯罪者連中と一緒に押し込まれるなんて想像するだけでもワクワクする。少しぐらい時間がかかったって退屈なんかするものか。
041
朝食を食べ終え、もうすぐバスが来るってんで、房内から出され、昨夜消灯前に呼びあげられたメンバーと、一本のロープに連結されて、鉄の扉の前に立たされてる間、昨日房内で先輩御一同にレクチャーされた、今日を楽に乗り切る方法≠思い出していた。
042
──サギ師・密売人・殺人者にレクチャーされた同行室≠ナの諸注意──
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(1)東京地検に到着すると、地下2Fだか地下4Fだかにある、3畳ほどの犯罪者収容施設同行室≠ノ、毎日各署から送られてきた約300人の犯罪者たちが小分けして押し込まれる。その際、ひと言でも喋ると、留置場とは比べものにならない厳しさで怒鳴りつけられるので黙ってたほうがいい。
(2)同行室には、壁にそって椅子が作りつけられているが、背もたれはない。冷たいコンクリートの壁に寄りかかりながら8時間連続でそこに座り続けるわけで、まさに骨身に染みわたるほど身体が痛むらしい。もちろん座布団なんかないし、持ち込みもできない。そこで、トレーナーやセーターを何枚も着込んで、向こうに着いてすぐ脱ぎ、尻の下に敷いて座布団代わりにすること。
(3)同行室のせまい牢屋に押し込まれる際、両側《リヨウハジ》の角席位置に座れば、背中側のほかに、左右どちらかの壁にもたれかかれるので、絶対に!角席を確保すべし。前科者は、地検同行室で9時間ぶっ通しで座り続ける辛さを知っているので、同じように角席を狙う者《ライバル》も多い。よって、先人がいた時は、丁寧に、「オレ、腰悪いんで、ちょっと席、かわってくれませんか?」などと仮病を使って、角席を確保すること。もし、断られたら「テメー言うことをきけ!」と少しだけ脅してみるといい。抵抗してきたら、向こうは「不良《ヤクザ》」かもしれないので、すぐに謝ること。
(4)地検押送の日は、バスに乗る移動時間を含めると10時間以上、一切私語を厳しく禁止される。また座り続けのため、背中に鉄板が入ったように痛くなるが、実際の取り調べは、30分〜1時間しかない。その徒労感はもの凄いものなので、ハナっから、わかってたほうがいい。
(5)同行室の各部屋には、洋式便所が作りつけてあるが、もちろん犯罪者の行動を常に警察官が把握するために扉なんてシャレたもんで隠されてはいない。ムキ出しそのものの便器で大便をすると、同じ3畳の檻に押し込まれてる連中に「クサイ! クサイ!」などとイヤな顔をされるので、同行室ではギリギリまでウンコしてはいけない。
(6)同行室内では、私語、運動一切禁止だが、トイレに立つフリをして屈伸や前屈をするだけで身体はだいぶ楽になるから、警察官の見てないスキに絶対試してみるように。
[#ここで字下げ終わり]
043
今日、東京地方検察庁で行われる検事調べ≠ニいうのは、検事がちょこっと取り調べるために犯罪者をロープでつないでバスに押し込み、人を小バカにした広さしかない待合い用の牢屋に大の犯罪者《おとな》をきゅうきゅうに押し込んで、10時間以上も手錠しっぱなしでお喋りもさせず放ったらかし、いよいよクタクタになったところをもう一度バスに押し込んだうえ留置場まで渋滞の道を私語禁止でバス旅行させるという──そういうヒューマンな一日になるらしい。
「まあ、キツイ一日になりますよ」今日、同じ地検へ押送されるドンブリの──全身に彫りが入ってる──不良《ヤクザ》が、そう言ったあと、「刺青よりキツイすよ」とつぶやいた。その一日を、YES、今からオレが体験するわけで、
「よ──し、頑張るぞ!」
ジャンキーとは思えぬ健康的な闘志が心の中に燃えあがってくるってもんさ。
044
「いち! 2! 3! 4、5、6! 以上6名!!」
ピー、 ピー、 ピー、 ピー、 ライ、ライ、
ライ、ライ、ライ
ピー、 ピー、 ピー、
ライ ライ ライ シ─── シュ─────、
ピッピッピッ、シュ────ピッ、
シュ─────────プッ。
シュ────。
鉄の扉のこっち側で、ロープに連結されながら待っていると、すぐに|向こう《シヤバ》側の駐車場の方角から、バスが到着する音が聞こえてきた。
そいじゃ行きますかってんで儀式の開始だ。
045
「押送開始!!」今まで犯罪者の1人と冗談を言いあっていた年かさの警察官が、虚空《こくう》を見つめて叫んだ。
「地検4名! 区検1名! 移監1名! 計6名──!!」
「押送6名、もどり5名──────────!! 移監1名」
若い警察官が復唱する。一拍おいて大声でオレたちの点呼を始めた。
「移監30番!」「はい!」「地検押送○番」「はい!」「○番」「はい!」「○番」「はい!」「区検○番」「はい!」答える犯罪者も大声で返す。
次に、鉄の扉が開かれても、まだ儀式は続く。ロープの先端を警察官が持ってオレたちの引き回しの開始だ。1人、また1人と扉を出ていく度に、扉のこっち側と向こう側、1mも離れていないとこで2人の警察官が初めてキスするゲイのカップルみたいに顔をつき合わせながら、人数を声を出し指さし確認していく。
「いち! に! さん! し! ご! ろく! 以上6名」
「いち! に! さん! し! ご! ろく! 以上6名」
「以上6名!! 異常なし!!」
「以上6名!! 異常な───し!!」
「押送開始───!!」
「押送開始───!!」
警察ってとこは、職務の中にいくつもの儀式をかかえてる、儀式マニアの集団だ。日常生活の中に突如として現れるおそろしく形式的な敬礼と大音声の生まじめな儀式はたぶん街《シヤバ》にいる人間《キミ》が見たら、きっと大げさでマヌケな珍事に見えるだろう。もちろん笑ってしまうほど滑稽だったりするよ。だけど、留置場の中で生活しているとそんな儀式が、だんだんとスカっと気持ちがいいものに思えてくるんだな、驚くべきことに。
留置場における儀式ってのは、生活の句読点みたいなもんだからね。起床や、押送や、点呼……etc儀式の大声が張りあげられるたびに、いつもは、友達みたいに話してる警察官と犯罪者側の煮くずれ気味の生活関係が、ビリッとこう、山椒をドバっといれた本物の四川料理の麻婆豆腐を口の中にほうり込んだ時みたいに、頭の先から全身をひきしめるんだね。こうビリッと、ね。
加えて「不良《ヤクザ》」たちも襲名式とか親子の杯とかをしょっちゅうやってる儀式愛好家ぞろいだし、暴走族も「集会」とか「卒業」、基本的には儀式が好きだからね。早い話みんな好きなんだ。初級犯罪者のオレも、「どうせだったら、一緒にこう、ビリッといきましょうよ」ってなもんで、警察官たちに点呼≠ナ呼ばれる時など儀式≠ニいうことを意識して「ハイ!」と大げさに大声で叫んでみるわけ。
「21番!」「はいっ!!」
シビレるね─────っ!!!!!!
はいっっ!!
046
街《シヤバ》にいる時には、彼女の誕生日とかクリスマスとかサンジョルディの日とか正月とか猫命日とかの、一息でローソクを吹き消す式のクダラない儀式はやったことがない。まあ、ないっていうと嘘だけど、ほとんどめんどくさいし、馬鹿らしいしやらなかったよ。なのに、逮捕3日目にして、留置場では儀式のトリコになってこの体たらく。これを「向上」というのか、「堕落」というのか、今でもわかんない。どっち?
047
バスに乗って───。
「あー、このバスに乗っているみなさんはこれから、あと残り、3つの警察署から、諸君同様の押送者を乗せたのち、東京地方検察庁に向かうことになります」
バスに乗り込み、6人連結のロープをスルスルスルっとはずされると、すぐにもっと長いロープで先にバスに乗り込んでいたほかの署の犯罪者とも連結され、席に座らされた。バスガイド役の肝臓の悪そうな警察官が我々に向けて喋りだす。
「あー、この中にはね、もう何度も、こうしてバスに乗って説明を受けている者もいると思うので、えー、今から私が言う注意事項をすでに聞いたことがある人は窓の外を見たり、眠ったり、適当に聞き流してくれて結構です。ただし、初めての人は、よく聞いて、失敗や違反をしないように。その度に、私たちも注意しなければなりません。えー、私も、人に注意をするのが好きなほうではありません。みなさんも大人です。まあ、少年もいますけど」
現役犯罪者の護送バスに添乗する史上最悪のバスガイドは、はとバスのガイドなみにスラスラと車内案内をしてくれる。いつ「右手に見えますのはー」と言い出してもいいくらいに流暢な喋りだ。実際この警察官はこの義務《しごと》を毎日しているわけで、つまり彼の本業はガイドなわけだから、当然といえば当然なんだけど、なかなかの、ガイドっぷりだった。
「本日は皆さんにとって、えー、大変キツイ一日になりますが、えー、今日がガンバリどころです。特に今日初めての人は、とてもキツイと感じるでしょうが、今から私のいう注意をよく聞いて、バスの中を過ごしてください」
オレのような単純な覚醒剤《スピード》違反容疑者の場合、検察庁での取り調べは、のべ3〜4回になると昨日、サギ師にレクチャーされていた。ということはこのバスの中には、初めてのバス旅行の興奮はすでに過ぎ去り、すでにうんざりしている古株のヤツもいるわけだ。もちろん何回もパクられて慣れっこになっているヤツもいるだろうし、事実、総員たぶん50人ほどの1台のバスの中で、初めてってんで、物珍しそうにキョロキョロしているヤツは、数えるほどしかいなかった。みんな、いかにも、慣れてるような顔をして、わざとつまんなそうに警察官《ガイド》のトークを無視していやがった。
かくいうオレは、もう『クールクールLSD交換度アシッドテスト』に乗り込んだトム・ウルフってなもんで、バスの中の様子をすべて目に焼きつけちまおうとギラギラした好奇心を隠しながら、クールな観察者に徹していたんだけど、ま、それなりにバス旅行を楽しむことに余念がなかった。
「あー、時々、皆さんの中に、つまらない理由でトラブルを起こす人がいます。えー、眼《ガン》をつけた、とか、足を踏んだ踏まない、といった、ささいなことで、トラブルを起こしても、皆さんには何のプラスにもなりません。皆さんは立派な大人なんですから、そういった小さな意地の張り合いでトラブルを起こすことのないようにお願いします」
立派な大人? 心の中で爆笑。だってここにいる連中みんな犯罪者なんだぜ。しかし、どこにでもいるらしい。そう、「ガンつけた」とか、「足踏んだ」とかいちいち隣人相手にツッパっているアホタレが。あーあーあー、その日だってそうさ、後部座席のほうで、若いどうでもいいようなクズ野郎が、足を大きく開いて座ることこそが、勝者の特権《ステイタス》であるってな具合に、デカイ態度でふんぞり返ってやがって、その隣に座ってたヤツと何だかんだモメだしやがったよ。人がせっかく気持ちよく窓の外の風景をながめてるってのに、失礼なハナシだ。
しかし!! そういうモメごとは、絶対に許されないからね。「コラ!! お前ら、何やってんだ!! バカ野郎!!」ガイドっていっても本職は警察官だから、いつでも丁寧に語ってるわけじゃない。「この野郎! おとなしくしてろバカ!」警察官2人に同時に一喝されて、シュン……。バス内に失笑がもれた。
「あー、なお、このバスの中、それから地検に着いて、地下2階まで歩いて移動する間、さらに、検事の調べを待っている間、皆さんが待機する同行室内、そしてもちろん帰りのバスの中も、本日は、皆さん全員、すべて一切の私語を完全に禁止されています。これは、私の一存ではなくキマリです。あー、つまり今日は、夕方、またこのようにバスに乗って、それぞれ、皆さんの現在住んでいる警察署に帰るまでの間、検事の前で話す以外は、ひと言も口をきいてはいけません。長時間で苦しいのはわかりますが、ガマンして、乗り越えてください」
はいはい、わかりましたです。
バスに乗り込んでドキドキしたのは最初の数十分。それ以降は、退屈なんで窓とカーテンを全開させて外を見ていた。
朝、8時ぐらいだから、通勤のサラリーマンやOLが、半分はつまらなそうに、あとの半分はさわやか根性丸出しで街を歩いている。
「あー、窓から、手や足、首を出すのは禁止されています」とは言われてるけど、実際、単に街の様子を見るのまで禁止とは言ってなかったし、どうやら窓に手をかけて開閉するのも自由らしかった。外《シヤバ》の連中に見られたくない犯罪者はずっと曇りガラスの窓を閉めて、カーテンを閉じっ放しにしている。オレは、久しぶりにバスにも乗ったことだし率先して窓を開け、こっちをチラっと見た街《シヤバ》の皆さんに向かってウィンクしたり手を振ったり、相撲の優勝パレードのように振る舞っていたが、それもすぐに飽きてくる。それで……最終的に思いついたのは手錠をかけられている両手を窓にかざして街の連中に見せつけながら、パパ──ン!! なんて手で拳銃《ピストル》を撃つマネをして、通勤途中の連中を次々と射殺していく通り魔殺人<Vミュレーションゲーム。
それはおもしろい風景だったよ。屋根の上に赤いランプをクルクル回している満員の護送バスから、丸坊主の男《オレ》がニュっと顔を出して、手錠のかけられた両手を誇らしげに見せたかと思うと、いきなり通行人のほうに向かって照準を合わせ、バキューンと一発ブッ放す。もちろん手で撃つマネするだけのハナシなんだけど、信号待ちのサラリーマンをいやーな気分にするには充分だった。もう、ほとんどの連中は、心底ゾーっとする目で一瞬こっちを見たあと、すぐに目をそらして、下を向いたり、意味もなく空を見上げたり、腕時計を気にするフリをしたり、指輪を指先でいじったり、動揺を隠せない模様。とにかく、過緊張な状態で、突然でくわしちゃったイヤな出来事を、せいいっぱい、「自分に関係ない」ってこととしてやりすごそうとする。
そんな時は、もう一度、そいつがこっちを見た瞬間に徹底的にうちのめしてやるに限る。「指銃でヒットされたのは自分じゃなくて隣に立ってる別のヤツじゃないのか、だって、私、そんなことされる原因が全くないもの」とソイツが考え、確認のため、もう一度こっちを見た時がチャンス。声には出せないから口の動きだけで、相手が読みとれるように、ゆっくりと「殺すゾ」とつぶやき「パーン、パーン」無音の効果音とともに2発ほどソイツのド頭に弾《ギヨク》を撃ち込んでやればいい。『シャイニング』のジャック・ニコルソンみたいにニヤっと笑えれば最高だ。本当のオレは、たかがシャブでパクられ、集団で護送されるようなチンピラジャンキーなんだけど、通勤途中のビジネスマンからみると、護送バスに手錠ロープつきで乗ってるような人間は、全員、殺人犯や強盗犯とかいった、凶悪犯に見えるらしくて、「コ・ロ・ス・ゾ」という唇の形を読み取った時の連中の、アワテフタメキぶり!! 大笑い大笑い。相当な傑作だった。バスの中から殺せるハズなんてことは絶対ないのはわかってるし、少したてば、知能の低い犯罪者のあきれるほどバカバカしい行動と蔑《さげす》む余裕も出てくるんだろうけど、理屈とその瞬間の感覚は別のものだからね、死にそうなほどの狼狽っぷりを見せてくれる品のいいOLや、中には振り返りつつ、振り返りつつ走って逃げ出すハゲ頭までいて退屈しのぎにはちょうどいいってもんさ。
確かにオレのその行為は、ホメられたもんじゃない。とはいえ「声を出すな」「手や頭を窓から出すな」というバス乗車上の規則に違反してるわけじゃないので、警察官は「おいおい、やめてやれ、カワイそうだぞ」と注意するものの、強く叱りつける理由がない。街《シヤバ》の人間の反応が、珍プレー好プレーみたいにおもしろいので警察官もほかの犯罪者も見ているヤツはやっぱ全員無言で笑いだした。
バスは岩本町から神保町そして銀座を通り……、オレは手あたり次第に道行く人間を射殺《ヒツト》しまくった。オレの銃口(指先)からは最低に不愉快で非常識な「心理」ってやつが発射され、確実に何人かは、その日一日、なんともイヤな心持ちでそのことを思い出しつつ過ごしたに違いない。精神に作用する、何かしら見えない銃弾が本当に発射されてたってことだろう、これは、BAYBEE。
ヒットマン気取りのオレの姿はほとほと「アホウ」じみていたのは間違いない。
でもいい、とにかくオレは、何人も何人も、手あたり次第、道行くヤツを笑いながら射殺し続けた。
048
初めて護送バスに乗ったってこともあり、ハシャギすぎてしまったので、神保町で14人、銀座で2人、築地あたりで32人、霞が関で18人、善良な市民の皆様方の胸《ハート》を思う存分撃ち抜いて、いよいよバスはクールな終点地霞が関、東京地検へ到着した。
地検の入り口には、有名犯罪者の送検シーンをカメラにおさめようとするテレビのクルーや、新聞、雑誌のプレスたちが脚立や椅子持参で待機している。集団押送の護送バスに押し込まれるような犯罪者の中に、ネタになりそうな有名犯罪者がいるハズないのだが、カメラマンたちは病的な仕事への強迫観念を発揮して、バスの窓に鼻っつらをつきつけてくる。
警察官たちは、オレたち犯罪者の人権を守るつもりなのか、もしくは、強引なカメラマン連中がキライなのか、もしくはキマリで、
「よーし、カーテン閉めちゃえ。だってお前ら写真撮られるのやだろ」といいだした。
ところがどっこい犯罪者なんてのは、どうせ刑務所行くんだったら、有名人≠ニして行ってやるぜ、ぐらいのロクでもないズーズーしい連中がゴロゴロいるわけで、
「大丈夫っスよ、オレの写真撮ってくれないかな」と、わざとカメラマンに向かってポーズをとるヤツや、大物ぶってニラミをきかせるヤツ、記念撮影のようにニッコリ、カーテンを開けるヤツがわんさか出てくるわけ。しかし、悲しいかな、カメラマンもクルーも報道写真のプロなわけで、ガ、ガク──ッ。これみよがしにポーズをとってるヤツに、はたしてニュース性があるのか、ないのかは百も承知。バスの中はキョロキョロ探るくせに、撮られたがってる犯罪者のことは、まるで無視。シャッターを押すどころか、カメラをかまえるそぶりすらみせやしない。
「ちくしょう、わかってやがんな」誰かがつぶやいて、笑い声があがった。
「おい、兄さん、アンタ、オウムに似てるから、顔出せば撮ってもらえるぞ」同じ署から同行してるグラデーションメガネの若い不良《ヤクザ》がオレにささやいてきた。
「カンベンしてよ。オウムじゃないよオレ」とささやき返したが、確かに当時オレは丸坊主だし、日々のスピードのイニシエーションのせいで修行僧みたいにやせこけていたし、連日の妄想で目はイっちゃってるしで、ヘッドギアが似合いそうな風体だ。よって、「そんじゃま」ってなもんで、カーテンを全開にして、目をつぶり両手を怪しげに組んで、瞑想してるフリをして待ってたら、薄目を開けた瞬間、パシャパシャっと写真を撮られたりして、車内的には「うおー」なんて8番打者がホームランをかっとばしたようなどよめきが起きたりしてね。案の定、オレは面目を丸立てしたのだが、もちろん写真のほうはどこの新聞にも掲載されることはなかった。
あの時のオレの写真を持ってる雑誌、新聞のカメラマンがいたら、是非とも1枚焼いてほしいよ。
049
「5、6、7、8……」
地検の駐車場にバスが停車し、ロープに連結されたまま、順繰りに犯罪者が降りて行く。荷物を持っているヤツは、今日、留置場を卒業し、これからまた違うバスに乗って、東京拘置所に移監され、今日からはそこで不自由な生活を送る連中で、残りの手ブラのヤツらは、今日もまた留置場に戻って、そこで不自由な生活を送る連中。オレは、今日が初めての検事調べなので、モチロン手ブラブラブラ。
バスの昇降口の内と外で、警察官が、「2、3、4……」とロープにつながれている人数を指さしで確認していく。
警察官によると、「ここ地検の敷地内は法務省の管轄区域」ってことだ。警視庁とは管轄が違うので、留置場の中みたいな、アットホームな気安さはまるでない。警察官は笑いかけてこないし、オレたち犯罪者のこともまるっきり犯罪者扱い≠セ。
「8、9、10、11、12……」
050
東京地方検察庁──、ありゃ、未来永劫、日本に犯罪者がいる限り残しとくべきモニュメント。北朝鮮の思想塔なみに、カリスマ的な建築物だ。地上からはわからないが地下に入るとペンタゴン式の核シェルターのような堅牢なコンクリートの壁、壁、壁が四方八方から凄い重圧で迫ってくる。足音が重く響く廊下をロープにつながれて進むうちに、この建物の核シェルターとしての有効性を誰だって考えるハズだ。どこまでも続く廊下、もの凄い厚さのコンクリート。鉛色に塗られた壁のペンキの清潔な陰気さ。犯罪者に与えるその廊下の長さと厚い壁のプレッシャーが犯罪行為≠許さない日本国家の生真面目さを強烈に主張してきて、オレ、すっかり観念しちゃった。
「25、26、27、28……」曲がり角ごとに警官が立っていて、人数を指さし確認している。
我々は、もちろん堂々とした正面玄関からではなく、16、17、18、19、20、21、22……駐車場脇にひっそりと口を開けているチンピラ犯罪者専用の勝手口から、ゾロゾロつながったまま中に連行される。階段を降ろされて、地下4階だか2階の、例の同行室に連れていかれる。19、20、21、22、23、24、25……階段の始まりと終わり、31、32、33、34、35、36……短くてくねくねした廊下の真ん中、廊下の始まりと終わり、監視係の警察官が座っている電子ロックでしか開かない同行室扉の内と外とで、警察官がいちいち、31、32、33、34……、指さしで数えながら人数を確認していく。送られてきた書類と人数がもし合わなかったら、こりゃ、レジ打ちのバイトのコの「すいませーん、レジのお金とレシートの額が30円合いませーん。店長どうしましょう」なんてもんじゃすみませんよ。係の警察官全員クビだ、マジで。
だから、何度も何度もオレたちの人数を確認する。
46、47、48、49、50、51、よし!
OK!! 計51名
押送完了51名─────────────!! 確認!!
電子ロックが解除され、オレたちは、灰色の鉄の扉の向こう側へさらに歩きだすことになる。
051
扉の内側に入ると、これまた間髪をいれず手首に包帯を巻いた警察官がホラ貝みたいな声で叫びだした。
「赤い線にそって並べ」だの、「ハンカチ、チリ紙を持っている者はそれをポケットからだし両腕を上げろ」だの、「ボディーチェックをする」だの、「呼ばれた順に、指定された番号の同行室(例の3畳ほどの部屋)へ入れ」だの、そりゃいろいろと細かい指示を、しかも、ホラ貝の音で次々に出すもんだから、初めてのヤツやグズ、ノロマ、知能の低いヤツなどはうまく聞き取れず、しょっちゅう「コラ、オマエ、グズグズすんな」なんて叱られてカッコ悪いことこのうえない。
自分は、精いっぱい精神を集中して、自分の名が呼ばれた時は、反射的に立ったり、移動したりするように心がけた。
「あ──、久松・青山 同行室3番
あ──、築地・石田 2番、浅草・鶴見は9番
上野・槙原 4番
小松川・高橋 12番の同行室へ行ってくれ」
「あ──、本所の石丸は同14番、
城東の田代、お前も14番!!」
ホラ貝が言ってるのはこういうこと。
久松警察署の留置場から来た青山は、3番同行室へ行け。
築地署から来た石田は2番へ。
浅草署の鶴見は9番同行室へ。
上野署の槙原は4番へ。
ちなみに、この時はまだ両手には手錠がかかっている。
このようにして、同じ署から来たもの同士や、共犯関係にある連中はそれぞれ違う番号の同行室へ隔離して、トラブルがないようにするわけだ。
こうして、300人から集まってくる犯罪者たち全員が狭い同行室に詰め込まれ、目の前に、「不良《ヤクザ》」や、人相の悪い犯罪者がズラリと座ると、いよいよ長くつらい一日の始まり始まり。
052
房に入ってしばらくすると、本来左右両手にはめるべき手錠の輪を、2つとも左手にはめて、手の動きを自由にしてもらう、「片手錠」の措置をとられた。
で、ホラ貝が説明する。
「あー、ここは法務省管轄なので、ささいなケンカや規則違反等もすべて、法的措置をとることになります。また、ここで起こしたトラブルはすべて担当検事に報告され、皆さんの反省の態度を測る目安としますので、充分にこれを心得たうえで今日一日にのぞんでください」とかなんとか──「薬はセイロガンしかないから、途中で頭が痛いとか腹が痛いとかいっても、何の対処もできない」とかなんとか──「どうしても調子の悪い者は、救急車を呼ぶから申し出ろ」とかなんとか──「昼メシ時のジャムを床に落としたら、サンダルの底で床になすりつけろ」とかなんとか──「便器などを蹴とばしてブッ壊すと自費で弁償してもらうから思いっきりやれ」とかなんとか──「検事にそでの下を渡して刑を安くしてもらえ」とかなんとか──。
053
この日は結局、午前8時40分から同行室でヅメカンにされ、担当の検事の取り調べを午後に30分間だけ受けることができたのだが、夕方5時半になってからもまだ同行室にヅメカンにされ続けていた。
昼食は、なんだっけな……コッペパン2個、チーズ、パケに入ったマーガリン、ハチミツ、お湯。
とにかく夕刻には同行室の中で疲れきっちゃって、その一日のことを思い出すのもイヤなくらい本当にヘトヘトだった。早く、留置場に帰って、密売人やサギ師と声を出して喋りたいし、横になって天井を見ながら背伸びがしたい。午後に行われた肝心の検事とのやりとりすら疲れすぎて、どうでもいいことのようだ。その日の検事とのやりとりの詳細は……今はもうどうでもいい。本当に疲れきってた。
054
逆送────留置場へBACK TO HOME
ホラ貝が現れて、在署名と名前が呼びあげられ、指さし確認≠ニいうハードな精神的愛撫を『クルージング』に出てくるゲイ連中のような警察官に繰り返し受けながら、順番にロープに連結されてバスに乗せられた。時刻は6時少し前。
055
帰りのバスの中は、もうすぐ留置場《ホーム》へ帰れる安心感で、乗り込んだ犯罪者全員、疲労をにじませてはいても、ホっとした顔をしている。
隣に座ってた、背中に見事な墨が入ってる同じ留置場の不良《ヤクザ》が、
「疲れましたね」
なんて話しかけてくる。
「疲れたよ」
オレも答える。
おっと、お喋りは厳禁だった。
「おい、もう少しの辛抱だ。喋ってくれるな」警察官に注意をされた不良《ヤクザ》は、警察官をキッと睨んだあとで、
「すいません」と、悠々と頭を下げた。その態度があまりにも堂にいったもんだったんで、警察官に、謝ったってより「仁義きった」みたいなことになっちゃって、車内の空気が一瞬ピンと張り詰めて、タメ息とともに、その不良に対する賞賛のまなざしが一斉に集中した。と同時に、その話し相手になったオレの株もちょっとは上がった、と思ったんだけど、そんなこと考えてるような奴は、まあチッポケな男なわけで、株価には変動なしってとこだろう。
056
バスが各停留所──警察署──に着くと、どこの警察署でも通り道の左右に大勢の出迎え警察官が待機している。我々罪人たちは、結婚式の時、友人たちに見守られながらバージンロードを歩く新郎新婦のような調子で、スター気分でその出迎え人たちのゲートの中をズラズラとロープにつながれて、建物の中へ入っていく。
朝@e疑者をバスに乗せて送り出し、夕方、バスからソイツらを受けとるのが、どこの警察署にとっても、その日の一番大切、重要な日課のようで、手があいてる刑事課、警務課の警察官が総出でお出迎えしてくれるわけだ。その際、「よ、お疲れさん」なんつって、担当刑事が、特定の犯罪者を特に個人的に出迎える場合もある。犯罪者が「大物」だったり──つってもバスで運ばれるクラス──個人的に刑事に同情されてる場合がそうだ。「おう、どうだった?」「検事はなんて言ってた?」「今日は人数多くて辛かっただろ」なんて、話しかけてくるのだが……。
ところがオレの担当の背広刑事は、出迎えに来てなくて、オレはマジでムッとしたよ。テメー、なんで出迎えないんだ! この野郎ー!! と思った瞬間、「オマエの保護者じゃねえつーの」ちゅう背広刑事のしわがれ声の幻聴《そらみみ》がきこえてきた。
057
留置場《マイホーム》、に入るためにくねくね階段を上っていると、本当にホッとしてきて、「やっと自分の家に帰れる」と、心底うれしくなってきた。
前科4犯のサギ師によると、そうなったらシメタもので、すぐに留置場を「我が家」と思えるようなヤツは、典型的な留置場暮らしが向いてるタイプらしい。
すでに夕食の時間は過ぎているので、普段いる房に関係なく、バスで帰ってきた連中《オレたち》だけがひとつの空房に集められ、冷えきった弁当を食わされた。
ハムカツ一枚、スパルタンな漬物、メシ、お湯。
みんな疲れきっているので、あまり喋りもせずもの凄い勢いで弁当をお湯で流し込むと、次に運動場につれて行かれた。
各警察署には、「運動場」とプレートが貼ってある、8畳ほどの洗濯物干し場──ベランダみたいなもの、ただし、飛び降りられないように、外へ向かう面にも壁がある──があって、署によっても違うが、一日1回10分か15分ぐらいそこへ行って2本までタバコを吸わせてくれる。
そこには電気カミソリや鏡、ツメ切りなんかも用意されていて自由に使うことができる。
つまり「運動場」ってのは、ジャンキーがいう「便所《パウダールーム》」──コカインやスピードなど粉末《パウダー》をキメる場所だから──みたいなもんで、誰一人として、本来辞書にのってるような運動の目的では使わない空間なわけ。
「運動」時間は、いつもは朝食のあとに設けられているのだが、押送のあった人間は、朝、その時間バスに乗っているから、帰って来てから、タバコ2本分だけ運動≠キることになる。
犯罪者ってのは喫煙率がもの凄く高くて、まず留置場に入ってる人間の10人中10人は大変な愛煙家だ。もう「わたしは、捨てない」ってなもんで、フィルターが燃えちゃう寸前まで1本を吸い、その最後の残り火で、もう1本をチェーンスモークする。
オレはタバコを吸わないので、単に人が吸っている隣で咳をしているだけなのだが、必ず、誰かが、「タバコ吸わないの?」と聞いてくる。
「マリファナを吸えば効くし、酒は飲めばキク。シャブだってコカインだって、効くけど、タバコって、それらに比べて、こう、ググ───ッと効いてこないじゃないですか。だから、おもしろくないから吸わないんスヨ」
その日は、そう答えたのだが、そばに立って見張り役をやっていた警察官が、「じゃ、いつか自由化したら、マリファナ吸わしてやるから、その時はまた来いよ」とタイムリーなドラッグジョークを返してきたので、皆その警察官を尊敬のまなざしで見上げた。
058
その日の行事はそれが最後で、あとは、自分の房《ルーム》に帰って、今日一日の出来事を同房の連中に話すだけ。明日、またバスに乗って東京地方裁判所に行くわけだが、そこで受ける「勾留尋問」の手順について、サギ師や顔面破防法からレクチャーを受けておかなくては。
059
疲れきって房内で横になっていると、新しく入ってきたばかりの覚醒剤密売人と警察官の間で一悶着あった。
その密売人は「不良《ヤクザ》」の看板持ち(組員)で地元ではそれなりに顔が売れてる大物らしい。当然、組事務所のある地元ではそこはそれ、四課(警察署の対暴力団課)ともつきあいがあって、一人前の「不良《ヤクザ》」として一目も二目も置かれる存在といったところなのだろうが、運悪く、「仕入れ」か「配達」かは知らないが、とにかく地元とまったく離れた、この街でとっ捕まっちゃったもんだから、知ってる警察官がいるわけもなく、つまり、彼はここじゃ「有名人」でも「大物」でもないただの密売人《チンピラ》=Bそれで、大物として、それなりの扱い≠受けられなかったことに腹を立ててしまったわけだ。
「それなりの扱い」ってのは、つまり、階下の覚醒剤担当部門の取り調べ室から、特別に、四課の取り調べ室に場所を移して、一人前の「不良《ヤクザ》」としての処遇を受けることである。処遇つったって、特別なサービスがあるわけじゃない。四課の刑事と、同じ業界人≠ニして、茶でも飲みながら、業界話に花を咲かせるって、ただそれだけのことらしいのだが、その、ほんの少しの特別扱いってのが、その業界のスジでもあるし、メンツでもあるらしい。
まあ「男の花道」ってもんなんだろう。
それを、モロに無視されちゃったもんで、留置場でブチ切れた。
「ふざけんじゃねえぞ、おいコラ!! テメエら!! オレは、こんな署の保安課あたりにナメられるような人間じゃねえんだよ!! オレが何年、この世界でメシ食ってると思ってんだ、この野郎!! 四課の刑事《デカ》を呼びやがれ!!」
もの凄い勢いでタンカをきるもんだから、わお──っ!! 留置場内シーンとなっちゃってんの。でも、とりあえず、平凡な毎日には珍しい事件≠セし、いい退屈しのぎになったし、うん、カッコよかったな。
不良《ヤクザ》の密売人は、留置場の警察官になだめられ、とり急ぎ、階下の四課にお呼ばれして業界人≠ニしてのステイタスにふさわしいそれなりの対応を受けに行ったけど、ヤツがいなくなってから、その事件≠めぐってみんながてんでバラバラに「気持ちはわかる」だの、「あの人おっかない」だの「四課の対応が悪い」だの、それぞれの経験とキャリアから、感想を口にしはじめた。
オレは、初めて生で聴いた「ヤクザ」のタンカってやつが結構カッコよくて気にいってしまって、タンカの文句を覚えようと、口の中で何度もモゴモゴ復唱していたんだけどね。
今度、機会があったらああいうタンカ≠是非一度きってみたいもんだ。
060
逮捕されて容疑者として留置場に入って本当によかったと思ってる。これが、「体当たり実録」だの「体験取材」だの、そういったくだらない種類の、出版的試みだったら、絶対に、犯罪者の視点で警察官や留置場内の人間を見られなかったからね。
と同時にこうも思う。
「これが仕事の体験≠セったら、今すぐここから逃げ出したい」
今日の地検でヘトヘトだったのに、
明日は、勾留尋問で、東京地裁──。
今日のような辛い一日をリプレイするために、もう一回、バスに乗り込んでおでかけしなくちゃならないなんてうんざりだ。
061
朝、起きたら疲れのためなのか、よく眠れたせいなのか、これからまたバスに乗せられるのがイヤなせいなのか、なんかこう、胸の奥がうずうずしていた。
それで、よーし、てなもんで、朝メシのみそ汁の湯がちょっとぬるかったのをいいことに、思いきってオレも昨日のおっかねえ不良同様、いっちょここでタンカをきってやることにした。
「ふざけんじゃねえぞ、テメエら。こんなぬるいみそ汁のませやがって、オレを誰だと思ってるんだー。オレは、こんなとこの留置場でナメられる人間じゃねえんだよー。オレが何年、この世界でメシを食ってると思うんだ、このやろう!!」
マジでこう叫んでやったのだが、入所4日目にしては上出来なタンカだったと自信がある。留置場中に響きわたる大音声で、ラジオ口調の見事な滑舌《ヽヽ》と歯切れのいいアクセント、正式な腹式呼吸で、叫んでやったからね。
すると!!
向こうから、やかんを持った警察官が、ニヤニヤ笑いながらゆっくりとやってきて、
「誰だと思ってるって? そりゃ21番、オマエ、石丸じゃねえか。この世界《ヽヽ》でメシ食って!? まだ2日か、3日か、そんなもんだろ」
余裕でいい返されちゃったもんで、もうメンツ丸つぶれ。といいたいとこだが、もちろん、あちこちの房から、ドッと笑い声が起きて、面目丸立ち。カーテンコールとアンコールの拍手をもらって、その瞬間だけはハハッ、留置場内のNo.1スターとして誰よりもまぶしく光ることができたわけ。
アンディ・ウォーホルは「人は一生のうち、15分だけは有名になれる」と言ったけど、もしかしたらあの時、その15分のうちの、2、3分を使ったかもしれない。
062
留置場暮らしも4日目の朝──。すっかり慣れて、まあ、もちろんここは日々の自由を満喫する、って別荘じゃないけど、そんなこと言ってても始まらない。大切なのは暮らしてる環境の中に、どれだけ「自由」や「楽しみ」を発見し、受け入れられるかってことだと思う。
063
さあ出発だ。錠前がガチャリとオープン。21番は、警察官につれられ、ほかの3人と一緒にクネクネ階段を降りてネズミ色の観光バスに乗り込んだ。
ここまではビデオデッキの〈リバース〉を押したように全く昨日と同じ繰り返し。
儀式があって、指さし確認、警察署中の警察官に見送られ、バスに乗り込む。
ガイドは昨日と違う警察官だったが、はとバス同様、どのバスのガイドも同じことを喋るらしい。
「あー」だの「うー」だのを間にハサミながら、昨日と全く同じ、驚くべきソックリさ加減で注意事項を喋っている。すべてがオートリバース。
それでこっちは、もう彼の言うところの、「すでに聞いたことのある人は、眠っていてもかまいません」に分類されるので、相変わらず路上の人間を射殺したりして退屈しのぎをしていた。
昨日と全く同じように、階段を降り、全く同じように同行室に押し込まれ、ようやくここから、本日のメニューに入る。裁判官による勾留尋問だ。
つまり、これから、10日間、この容疑者の身柄を勾留──留置場に留めておく──必要があるかないかについて、検事の書類と本人を見た裁判官が判断をする日である。
★刑事訴訟法★
[#ここから1字下げ]
第二〇四条[検察官の手続、勾留請求の時間の制限]
[#ここから1字下げ、折り返して2字下げ]
@検察官は、逮捕状により被疑者を逮捕したとき、又は逮捕状により逮捕された被疑者(前条の規定により送致された被疑者を除く。)を受け取つたときは、直ちに犯罪事実の要旨及び弁護人を選任することができる旨を告げた上、弁解の機会を与え、留置の必要がないと思料するときは直ちにこれを釈放し、留置の必要があると思料するときは被疑者が身体を拘束された時から四十八時間以内に裁判官に被疑者の勾留を請求しなければならない。但し、その時間の制限内に公訴を提起したときは、勾留の請求をすることを要しない。
A前項の時間の制限内に勾留の請求又は公訴の提起をしないときは、直ちに被疑者を釈放しなければならない。
B前条第二項の規定は、第一項の場合にこれを準用する。
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第二〇五条[司法警察員から送致を受けた検察官の手続、勾留請求の時間の制限]
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@検察官は、第二百三条の規定により送致された被疑者を受け取つたときは、弁解の機会を与え、留置の必要がないと思料するときは直ちにこれを釈放し、留置の必要があると思料するときは被疑者を受け取つた時から二十四時間以内に裁判官に被疑者の勾留を請求しなければならない。
A前項の時間の制限は、被疑者が身体を拘束された時から七十二時間を超えることができない。
B前二項の時間の制限内に公訴を提起したときは、勾留の請求をすることを要しない。
C第一項及び第二項の時間の制限内に勾留の請求又は公訴の提起をしないときは、直ちに被疑者を釈放しなければならない。
[#ここから1字下げ]
第二〇六条[制限時間の不遵守と免責]
[#ここから1字下げ、折り返して2字下げ]
@検察官又は司法警察員がやむを得ない事情によつて前三条の時間の制限に従うことができなかつたときは、検察官は、裁判官にその事由を疎明して、被疑者の勾留を請求することができる。
A前項の請求を受けた裁判官は、その遅延がやむを得ない事由に基く正当なものであると認める場合でなければ、勾留状を発することができない。
[#ここから1字下げ]
第二〇七条[被疑者の勾留]
[#ここから1字下げ、折り返して2字下げ]
@前三条の規定による勾留の請求を受けた裁判官は、その処分に関し裁判所又は裁判長と同一の権限を有する。但し、保釈については、この限りでない。
A裁判官は、前項の勾留の請求を受けたときは、速やかに勾留状を発しなければならない。但し、勾留の理由がないと認めるとき、及び前条第二項の規定により勾留状を発することができないときは、勾留状を発しないで、直ちに被疑者の釈放を命じなければならない。
[#ここで字下げ終わり]
犯罪者たちは一度、同行室に集められたあと、またバスに押し込まれ東京地方裁判所に運ばれて、裁判所地下の犯罪者専用の大部屋に集められる。そこで、中国語や日本語、それにペルシャ語の「本日の手順」だの、「あなた方の権利」だのというビデオを見せられ、名前が呼ばれたら、公判には絶対使われない、「裁判所」とはとても思えないような、ツカサのウィークリーマンションみたいな小部屋に呼びつけられるわけだが、そこには本物の判事が待っている。
部屋に入ると、昨日、検事から回っていったオレの調書を、厳選されたウリザネ顔の若い判事が、チラチラ見ていた。
「この調書はキミのものかね?」とか、「名前は?」とか、どうでもいいことを聞いてきて「あなたを10日間勾留します」って、それでおしまい。ものの3分。OH!! THATS’ AALL THANKYOOUU!!
勾留の必要がある者──といえば、逃亡や証拠|湮滅《いんめつ》の恐れのある連中のことですよ。オレなんか、最初っから事実関係を認めまくっちゃってんのに、それなのに、「10日勾留」、そりゃないでしょうマジで。
ま、それが「仕組み」ってもんなのだが、その「仕組み」を決定するウリザネ顔の裁判官ってヤツが、もの凄く生マジメなわけ。笑いながら「ま、これもルールのうちですから」とか「いちいち検察庁へ出頭するより、泊まりこみのほうが楽でしょ、バス送迎もついているし」とかいってくれるんなら、こっちもYES! お互い仕事ですから、とかなんとか思えるんだけど、クソマジメな顔でギョーギョーしく、しかもウリザネ顔で茶番を演じてくれるから、めったにないくらい気が滅入るハメになってしまった。ああいう、人を面くらわせるタイプのシラケ秀才と話したのは中学ん時以来だよ。
で、唯一うれしいのは、「自分が今、逮捕されている状況で、これからしばらくの間、シャバにはもどれません」ってことづけを司法書士だか書記官だかが一本だけ、電話代行で誰かにかけてくれるってことになっていたこと。もちろんこれもルールのうちなんだけど、誰に伝え使おうかとしばらくワクワクしながら考えた。
女房でファッションモデルのOKA−CHANGには、昨日の段階で、背広刑事が、連絡つけてくれてるので……誰にしよう。ギター男、いや、シャブ中の友人、いや、やっぱり編集者、密売人、うーんDJ仲間でもいいけど、どうせなら一番驚きそうなヤツがいい。あ、そうだ、てんで、友達の有名ミュージシャンへ電話させてしまうことにした。ミュージシャンってのは、その手の冗談が通じやすいし、しばらく会ってないとはいえ、仮にも同じレギュラー番組をやっていたんだから。こういうイタズラをして、全くの失礼にはならないだろう。それも、オレ本人じゃなくて、地裁の書記官からいきなりTELがあったら、きっとウケるだろうしね。
で、電話番号を教えて──オレは密売人のケータイや密売人たちのアジトや、友人、売人、ジャンキー仲間、知人の100以上の電話番号をすべて覚えている。ジャンキー時代からのクセで、警察にとっ捕まった時、手帳かなんかが押収されて友達に迷惑かけたくなかったからね。──ミュージシャンのTEL番を空で言って、それで尋問終了。あっけなく待合室に戻された。
064
裁判所の昼食。
メニューは、昨日と全く同じ。コッペパン2個、チーズ、ハチミツ、あとなんだっけ? ジャムはあったっけなあ? 忘れた。あ、マーガリン。あとお湯。
ところが昨日と違うところは、その不自然な昼食を今日は、両手首に手錠がかけられた不自然な姿のまま、ガツガツ食べなきゃいけないこと。
その食事を、前科前歴を持つ通人《ツウ》≠ヘ、両手に手錠をかけられて食う飯≠フ意味を込めて手錠《ワツパ》メシ≠ニ呼ぶ。
両手錠だから、さぞや不自由か、とも思ったけれど、慣れればそうでもなさそうだ。周りを見渡すと、いかにも「不良」ってかんじのイカしたヤツが、ハチミツをべッタべタに床などにこぼして、「アチャアチャ」なんてあわてふためいて、中腰になった拍子に今度はマーガリンの袋を強く握りすぎちゃって、ニュルルンなんて、ひざにとばして、せっかくのPIAA スポーツ<uランドのトレーナーがベッタベタ。そんなマヌケなのがいるかと思うと、ネクタイをはずした都市銀行の部次長みたいなヤツが、コッペパンの入っているビニール袋を丁寧に破り開いて、そのビニールをひざの上に広げハンカチ代わりにキレイに広げ、喫茶店のマスターでも、こうはいかんよ、てな具合に、上手にマーガリンなんかをパンに塗りたくり、もう最初《ハナ》っから、菓子パンとして売り出されたかのようなマーガリン&ハチミツドッグ≠おいしそうにパクパクやってる。
手錠《ワツパ》メシ≠食うのが、うまいやつと下手なやつ、メシの食い方ひとつとっても犯罪者には才能が必要だ。
065
一日中両手錠で過ごすわけだが、その間、室内の温度が暑いだの寒いだの、イチイチ注文をつけて、上着を脱いだり着たり、を繰り返した。これは、前歯のない密売人のレクチャーによる。服を脱いだり着たりすれば、その間、手錠をはずしてもらえるので、一瞬とはいえ背伸びをしたり、両手をぐるぐるブン回せる。まあ、ちょっとしたスポーツができるってわけだ。もちろん、一日中両手錠をしっぱなしなのとは、首や肩の痛み方がずいぶん違う。
ついでに、昨日と違うところを説明すると、トイレ。昨日の地検では、12人が押し込められた各「同行室」に、洋式便所がひとつずつあって、丸見えの状態で排泄行為を行わなくちゃならなかった。だから当然極力ガマンしたが、地裁の待合所には外から見ようと思えば丸見えではあるのだけれど、一応、ちゃんとした扉つきのトイレが設置してある。しかも洋式の。
留置場の便器は、各房に和式便所が備えつけてあるだけで、ついたても扉もなく、丸見え、ニオイこぼれ放題ってシロモノなので、ここ、裁判所の勾留尋問待合室のトイレは、ホント、素晴らしい、人権派のトイレにみえてくる。「大です!!」と挙手してトイレに向かえば、警察官が手錠をはずしてくれる。そうして、洋式便所の個室に入り、よっこらしょと、ゆっくり座り心地のいい洋式便器《ソフアートートー》に腰掛けながら、手をぐるぐる回したり、肩を叩いたり、ちょっとした体操《リラツクス》ができるってもんだ。もちろん、オレはワン公みたいに、
「大です!」
「大です!」
「大です!」
と両手をあげ(両手錠なので片手はあげられないため)わんわん吠えまくって一日を過ごしたさ。
最初のうちは、「腹こわしてんのか?」なんて言ってた警察官も、途中でオレの目的を察したらしく、「おまえ───(笑)、いい加減にしろ(笑)」ってな具合だった。
066
地裁の待合室に集められた両手錠の犯罪者全員の尋問が終わると、一度、昨日いた地検の同行室へバスで戻され、「検事調べ」の連中がすべて終了するのを待つ。その待ち時間、これまた2時間以上、もちろん口をきくとひどく怒鳴られる。
昨日、今日、そしてこれから先、さらにわかっていくことだけど、何がつらいって、逮捕されて一番つらいのは、「取り調べ」でも「儀式」でも「人間関係」でもなく、一番つらいこと、それは≪退屈≫。
せめて同行室の椅子が、JRの電車の椅子ぐらいやわらかい豪華ソファーだったらうたた寝でもできるんだろうけど、石より岩より鉄より硬い、何の愛想もない木の椅子なんで、ムリなんだな、これが。
067
結局、昨日に続き、今日も一日、クタビレはててからバスに乗せられて、留置場に帰った。
サギ師によると……、明日からは、せいぜい刑事部屋でめんどう見をしてもらいつつの気楽な取り調べがあるくらいで、しばらくの間、何もなくのんびりと過ごせる。つまり横になったり、房の中をウロウロしたり、誰かとどうでもいいことを話したり、お昼の自弁の弁当を楽しんだり、こっそりオナニーしたり、一日中留置場の房の中で自由に過ごしていい日々が続くということなのでホッとするよ。それに今日は接見(面会)禁止≠ェつかなかった。つまり、判事様が面談の結果「この者は全面自供で、共犯者の存在もなし=vってことにしてくれたんで、明日からは、誰かと面会することも出来るようになったってわけだ。
[#改ページ]
STEP(6)留置場暮らし
068
逮捕4日目──。
起しょ─────!!
さあ6時30分。
一日の始まり。
新入房の新人以外誰一人として寝ボケとるヤツはいない。どいつもこいつも最初《ハナ》っから目はパッチリ布団の中で醒めている。号令がかかり、電灯がバチッと点灯するまで、ダッシュを狙ってじっとなりをひそめてる猛獣だ。
起しょ─────!!
一斉にロケットスタート!!
2秒で布団をたたみ、持ちあげる。
錠前、ガチャガチャ、どんどん開け!
自分の錠が、鳴り、開き、ダッシュ!!
ウォッシャあああ!!
ハヨッす、 ハヨウ
はよっ おはようございます
おはよう おはよ
はよっす
うっす
おはよう おはようっす!!
もう、新人なんかじゃないぜ。一人前の犯罪者! ビクつくことはない。胸を張って腕をふって、前《ワ》科|1《ン》 前《ツ》科|2《ー》 前《ワ》科|1《ン》 前《ツ》科|2《ー》
新入房の新人野郎はビビっている。4日前のオレの目そっくり。ニラミをきかせて、
「うっす!!」
と挨拶。
掃除!! うーっす!
洗面!! おーっす!
終わったら自分の房へ直行!!
うーっす!! おりゃー!!
自分の房で、気合いを入れて意味もなく大声をあげよう。
朝だ! 気合いだ、ありゃ──!!
意味なんかいるもんか! だってオレは留置人!!
これが犯罪者ってもんさBaby!! 犯罪者のハイテンションのすばらしさ。
最高の朝だ!!
069
昨日の勾留尋問で「接見禁止」がつかなかったので、今日から接見(面会)≠ェ許される。逆にいうと、自分で気づかなかっただけで、昨日までのオレは、面会謝絶だったわけ。
「きっと今日は、奥さんが面会にくるわよん」
運動場でタバコの二服が終わり、房に戻ってくると、サギ師が話しかけてきた。着替えとか、本とか、お金とか、ボールペンとか、便箋とか、持ってくる必要のあるものは刑事部屋の刑事《デカ》が家にTELして指示してくれてるハズだから、心配しなくても大丈夫とのこと。サギ師の言うことであるが、もはや疑うことすら考えない。
「パクられたの初めてっスよねえ、女(奥さん)、こういうとこくるの初めてっスか? だったら泣きますよきっと」
顔面破防法は、今日は検事調べで押送されてるので、残るひとりの、前歯のないロン毛の密売人が話に乗ってきた。
「オレ、年少(少年院)ぬかすと、今回でパクられるの2回目なんですけど、必ず、女って初めての接見で泣くんですよ」
「そうなのよ、あの接見室のシチュエーションがね、あら、シチュエーションって言葉わかる、ムードがね、いかにも安っぽい2時間ドラマの、刑務所の面会のセット≠ンたいで、泣かせるのよ、女を」
前科4犯のサギ師は今回をいれて過去5人はいる初めて接見室にきた女≠フことを思い出しているらしく、宙をみながら喋っている。
「泣きますかね?」うちの女房はファッションモデルで毎シーズン東京コレクションに出てる美人ではあるのだが、完全に半分キチガイで、いっつもキイの狂った、ビョンビョンまのびした歌を歌いながら、気が狂ったように家の中をぐるぐる一人で行進してるような、オレじゃなかったらさっさと逃げ出してるようなウルトラテンションのヤツなので、そうカンタンに「泣く」とは思えなかった。
だけど、
「泣く、絶対泣く」
「泣くわよ、かけてもいい泣くわ」
2人が、絶対の自信で念を押すので、そっか、あのウルトラテンション女も泣くか……とうれしくなってきた。でも、どのように!? 興味がわいてきて、面会にくるのが待ちどおしくなってきたよ。
070
接見室では一応、警察官が同席して、プラスチックごしにやりとりされる、面会者同士の会話を記録することになっている。しかし実際のところは、同席こそするものの、メモることは、ほとんどない。そもそも、裁判所が、「どこの誰と面会させてもイイっスよ」という意見で接見許可を与えてるわけだからね。でまあ、警察官はまるでその場に存在しないかのように部屋の隅の椅子にじっと座っていてくれてるものなのだ。「こっちのことは気にせず、自由にどうぞ」ってな具合にね。
しかし!! サギ師が言う。「それでも恥ずかしくて、警察官のいる前で、『悪かったね、好きだよ』なんて甘いセリフ言えるもんじゃないわよう」
「普段、私たち囚人は、ウンコをする度に、すいませーん! 6房21番、大便の紙願いまーす! なんて、声を警察官に聞かせてるでしょ、だからなおさら、女に対しての改まったネコなで声をきかれるのはハズかしいのよ」そう言われて納得した。
前歯のない密売人が言うには、手のひらにペンで「愛してる」とかなんとか書いて、その手のひらを2人の間をへだてるプラスチックにピタリと押しあてて、目で合図すると、女は感動で泣きますよ。くうー、これが効くんすよ、だって。カ、カッコイイ…………………。
「カッコイイ………、でも、カッコよすぎてできそうもない!!」躊躇しているオレに向かってロン毛はドサリと異様なニオイのたち上る手紙の束を放り投げてきた。
「でも、そのおかげでホラ見てくださいよ」ヤツの彼女という17歳の女から送られてきたラブラブの手紙──しかも香水つき──だ。23歳の密売人は、東京での覚醒剤密売容疑のほか、他県からも銃刀法違反でパクられている2件持ちのため、すでにもう3か月もこの留置場暮らしをしている。そのため、そのラブレターたるや、ロッカーに置いてある分を合わせると楽に50を超えている。ほぼ、2日に1通の割でラブレターが届いていることになるってんだから仰天だ。
キミの女、異常者《ストーカー》なんじゃないの? 口先まで出かかった言葉を飲みこむと、密売人が言った。
「読んでいいスよ」
「えっ?」
「だから、読んでいいスよ、それ全部」
すると今度はサギ師が、自分の女《パシタ》からきたという、これまた小室哲哉の彼女トモちゃんもビックリってなスウィートでベッタベタの手紙の束を、警官にたのんでロッカーから取り寄せて、「わたしのも、見て見て※[#ハート白、unicode2661]」と手紙をこっちに持ってきた。サギ師は6件持ちですでに半年以上、この留置場で暮らしている。目の前の手紙の束がどんなにすごい量だったのか想像してほしい。
それでその日半日、それぞれ違う香水がしみ込まされた、頭がクラクラするニオイの中、溶けたバニラアイスみたいな、ベッタベタの他人のラブレターを、ずっと、ご当人たちの監視つきで読まされるハメになってしまった。うう、マジつらい。飛ばし読みすると、「本当に読んでる?」「いやだったらいいのよ、別に!」なんて珍しく怒られちゃうんだからね。真剣に読まなきゃならない他人あてのラブレターほど、どうでもいいものはない。
071
朝、運動が終わってから房の中で、家宅捜索で絶対みつからないシャブの隠し場所について≠ニいう議題《テーマ》で、ロン毛と顔面破防法と有意義な議論をしていると、下の刑事部屋から「取り調べ」のおよびがかかった。
ロープにつながれて、クネクネ階段を降りていくと、今日はやけに背広刑事がハリきっている。
──(背広を脱いで腕まくり)よーし!! 今日は調子がいいぞ! こういう日は、バリバリ調書が書けちゃうんだ。
「はあ」
──オマエもオレと同じような仕事だからわかるだろう?
「はあ」
──はあ。じゃなくてよお、こう、人から話を聞いて、それを上手に作文にしていくわけだ、な? ノンフィクション、だっけ? そういうことだろう、オマエの仕事も。だったらオレと同じじゃないか。オレもオマエの話聞いて、作文書くんだからよう。
もうこうなったら、同調したほうが話が盛り上がるってもんだ。
「そういえば、そうっスね」
──ほらみろ、同じ仕事じゃねえか。ま、もっとも、オレは、お前みたいに体験取材≠チてのを信じてないけどな。
「はあ」
──「はあ」じゃないよお。だってオマエ、体験して本にするためにシャブ始めたんだろう。
「うーん体験取材≠チてより、自分でも制御できないうちに巻き込まれ≠トしまったんですけどね」
──なな? な、オマエ、それが体験取材≠セろが。
「はーあ」
──でもよ、そんなこといって、何でも体験∞体験≠カゃ、オマエ人殺しのこと書こうと思ったら、人、殺すのか? 死んだあとのこと書こうと思ったら、オマエ死ぬのか?
「………」うう、カ、カッコイイほどすごい極論。
──死ねねえだろ、死んだら書けないもん。な、だからオレは、体験取材≠チてのは信じないんだよ。
「でもね、刑事さんオレ、『SPEED』にしても、もちろんこの本にしても、体験取材なんていうぬるい体験≠ニ取材≠フ中でみつけた真実≠ノ基づいて書いてるわけじゃないんスよ。自分でも何だかわからないロクでもない真実≠信じて、手探りで文章をデッチあげているんスよ。たぶん、刑事さんが使ってるところの、体験取材≠ニオレの取材≠チてのは全く違うと思うんスよね。オレだって、刑事さんが言うところの、いわゆる一般的な意味での『体験取材』は信じないってのには同意しますですけれども、自分に関しては、全く体験取材≠フ概念が違うのであります」
なんて言えるハズない。
「はい、そのとおりでありますです!」
もちろん、オレは、一も二もなく思いっきり同意した。
──そんだろ! 死んだ体験は自分で書けないだろ!
「そうっすね」
YES! 極論が痛快に取り調べ室に響きわたった。
072
でも、もし「死んだ体験」を一冊書こうと思ったら、本当に死んで大丈夫。あの世から誰かに乗り移って書けばいいし、夜風を原稿用紙に見たてて、線香のケムリで字を書いてもいい。もしかしたら、星の瞬《またた》きをモールス信号にして、キラキラ光る「死後の世界」のストーリーを夜空にバラまけるかもしれないが、まあ、そんなことはどうでもいいや。
073
でもって、今朝の背広刑事は、
「おーし、今日は調子がいいぞ」なわけだ。警察で決められた調書の用紙にカーボン紙をはさみ、被疑者、つまりオレの住所、氏名、本籍から書いていく。1冊目の調書でも2冊目の調書でも同じ手順だったが、そんなもん、そこんとこだけコピーするなりワープロ打ちしとけばいいではないか。3行目まで書いたところで、名前の表記の、石丸の「石」の字が、ちょっぴり「右」という字に近くなってしまったもんで、背広刑事は、「うーむ」なんてうなって用紙をくしゃくしゃにしてやり直し。
大変な作業だ。最初っからカーボン紙を使うってことは、消しゴムが使えないわけで、つまり、最初に書く第一稿≠完成原稿≠ノしなくちゃならないわけだからね。神経をすり減らす容易ではない大変さの中で「調書」を書いている刑事は、彼は彼として、「調書」という「文章」のプロなんだよ。
ちなみに、なぜカーボン紙なんて古くさくて使い勝手の悪い複写用具を、イチイチ薄い調書用紙に挟んで書かなきゃいけないかというと、「そういうふうにやること≠ニ警察組織のルールとして決まってるから」らしい。地検の検事は日記を記すごとくサラサラっと流れるような速さで書くか、速記タイプ者を下僕に使っているかだ。
なんで警察官ばかりが、大変な思いをしながら効率の悪い書類ばかり書かされてんだ? 気づいたことをその時言ったが、
背広刑事は、
「まあな、いろいろな」
と言ったきり、黙ったままカーボン紙がズレないように押さえる仕事に没頭していた。
074
──じゃいくぞ、今日はノッてるから、どんどん聞いて書いていくからな。まずはと、え──、で、スピードをやるとどういう気分になるんだ?
「享楽的というか、……はい、享楽的な気分になります」
──享楽的=H なんだそりゃ……普通はみんな胸がス──ッとしてウキウキと楽しい気分に≠ネったりするんだよ。そうはならんのか?
「う──ん、ス──ッと、というよりも、胸の底にすむ、得体の知れない享楽≠ニいう本心が鎌首をもたげる、というか……」
──う──ん、それじゃ、「調書」にならんなあ……で、胸はス──ッとしないのか?
「します」
──よし、「覚醒剤を使用すると、私は胸がス──ッとします」と。どうだ、これで間違いではないだろ。
「えっ? でも……、あ、はい、はい! 間違いではないです」
──よし。で、いつからシャブのトリコになったんだ?
「トリコ!? いや、トリコというよりも、覚醒剤の魅力に耽溺していったというか……」
──うーむ、「耽溺」……ね……。もうちょっとよ、お前、そういうのは自分の本で書けよ、もっと、オレにもわかりやすく説明しろや。
「はい。つまり、えー『耽溺』ってのは、『溺《おぼ》れていった』という意味なんですが……」
──バカやろう、わかるよそんぐらい。だから、いつからそうなったんだ、ってきいてんの!
「えーと、91年の、春、夏、あたりかなあ」
──どっちだ?
「春、…かな」
──よし、何月?
「うーむ……」
──ま、それはいいか。え──、「私は91年の春ごろより、覚醒剤の虜《とりこ》になり、やめられなくなってしまったのです」と。どうだ、これでいいか。間違いじゃないよな。
「ト、トリコ、ですか?」
──そうだ、そっだろ、トリコになったから、毎日やるようになったんだろうが?
「はあ……」
──じゃあ、それでいいじゃないかっ!
「はい。間違いありません」
──で、覚醒剤を吸うと、どんな味がするの?
「味というか、ニオイでもいいですか」
──おお、いいよ、鼻から気化させた煙を吸うんだもんな。ツーンとくるのか?
「いや、ツーンと、というか、……いつも一万円札を細く巻いてストローにして吸ってたんで、なんというか……資本主義のニオイがしました」
──あちゃー、あちゃちゃちゃ(笑)、そうきたか(笑)。ほんと文章書くヤツってマイっちゃうよなあ(笑)。でも、うーん、ちょっとマズイなあ、それは。オマエねえ、そのとおり書いたら、特殊な思想の持ち主だと思われて、検事の心証悪くなっちゃうよ。
「すいません」
──いや、謝らなくてもいいんだけどさ、オマエの不利になったらもったいないからな。よし、「ツーン」とでいいな。で、「手近にあったので、いつも紙幣をストローにしていました」と書くよ、いい? 「紙幣を使ったことには、特に理由はありません」と、一文いれとくわ、な。
「はい」
──オマエ、今みたいな発言は危険だぞ。特別な思想を持った犯罪者だと思われちゃうとこだぞ、危ないぞ、おマエ気をつけなくちゃ。
「はい、今後ともよろしく指導してください」
──指導ってほどじゃなくてさ。ただ、おまえがおまえの犯した罪以上に、検事の心証だけで罪を不利にもってかれたらカワイそうだからよ。おまえ、突然変なこと言うから危なっかしくて見てらんねえ、つうの。
「はい。ありがとうございます」
ありがたいことだ。パクって手錠かけといて、次は親身にかばってくれるわけ。これこそが、現在の世の中で考えられる「最高のおもてなし」ってもんだろう。
まあ、こんな調子で、その日の午前中、おせんべいをいただきながら2人の共同作業たる調書作りは進んでいった。
075
その日は、背広刑事が「絶好調」だったってのと、午後からほかの事件《ヤマ》で忙しいってんで、早いうちに調書作りが終わり、留置場の房にもどされた。すると、まもなく新入りさんが入ってきた。24〜25歳に見える華奢で小柄な、パリっとしたスーツを着てる、オールバックに頭をサッパリとまとめた一見して水商売《クラブ》勤めの仕事とわかるヤツだった。
ようやくこれで、同房にも後輩ができるってんでオレはすっかりウカレてしまった。で、そいつを連れてきた警察官は例《いつも》の調子で、
「ま、よろしくやってくれ」と、新人を当然のように房の入り口においてけぼりにしていなくなっちゃったので、オレは房の入り口でとまどっている新人さんの目の前にすかさず、あぐらをかいた姿で、ずずずいっとシャシャリ出て、両手の親指を内側に隠すように握りこぶしをつくって、前に手をつき、半分頭を下げて、
「おつとめごくろうさんです!!」と、一喝!! キマったーてなもんで、ご満悦してたところへ、やっぱり違う房から、「おうおう、またあの人、なんか芝居うってるよ」なんて笑い声が聞こえてきた。
前歯のない密売人がオレのほうを見て頭を下げ、「この方が、この房をしめてる長老さんです」と芝居にのってきたので、新人さんはどうしていいかわからず、とりあえず、「よろしくお願いします」なんて同じようにあぐらをかいて頭を下げてきた。
初めてパクられ留置場に放り込まれると、そこに暮らすすべての奴らが皆、とんでもない性格異常者か、連続殺人犯かホモの強姦魔に思えるので、最初は誰だってビビってしまう。オレだってその口だった。でも、お芝居もここまで。
「うそっすよ──」なんてことになって、それぞれ自己紹介。オレが初めてこの房に放り込まれた時みたいに、ファミリーでアットホームないいムードだった。
なんたって、サギ師に密売人、殺人犯とひと通り代表的な犯罪をとりそろえているこの房は、オレが思うに、ここの留置場のほかのどの房よりも、居心地がよさそうだ。
かしこまっている新人さんに対して、実はオレも、たかだか5日前に入ったばかりの初犯(新人)であること、罪もごく微罪の小者であることを説明して、
「ささ、お楽にしてください。ここには上も下もありません。皆、平等の犯罪者ですから」と、せいいっぱいのおもてなしをした。
076
「洗濯─────ッ!」
て声がかかって、アミダ帽とアゴの警察官、それに定年寸前の警部補がカゴを持ってまわってきた。
留置場の中にいても、洗濯は必要。といっても、自分でやる必要はないのでR。そういう雑事は、全部警察官がやってくれるのでとても楽ちん。干すのと、取り込むのだけが自分で、あとは警察官《メイド》の仕事。
077
ようやっとキチガイモデル女房が、面会にきた。一目見てタマげた、なんという爆発アタマだ。爆発アタマ≠チてのは、その中身もそうなんだけど、身長174cmでスタイルバツグンの彼女の髪形《アタマ》のテッペンがこれまた東京コレクションのどっかのショーに出たまんまきたっつんで、文字どおり爆発してたわけ。すごいご登場だよ。
「面会人!」呼ばれて接見室に入るとニッカニッカにごきげんの女房がいた。
「わ──い、すごい映画のセットみたい」
これが第一声! カメラの位置、わたしだったら絶対ココ!! てなもんで、右手と左手で四角いアングルをつくって、あっちこっちをフラフラ歩きながら、オレと警察官のことを、アタマの中の72ミリキャメラで写し続けてる。気分は、『パーマネント・バケーション』、いや、『眺めのいい部屋』、いや、『蜘蛛女のキス』? それとも『カイロの紫のバラ』? もうなんでもいいや。それで席に座ったと思ったら、いきなり、
「イエーイ! わたし今、絶好調なの※[#ハート白、unicode2661]」ってな具合に、今週から来週にかけて4つのコレクションに出ること、さらに2つのモード雑誌に出ること、三宅一生の家でごちそうになったけど、おかかえコックの料理が超ウス味で、何の味もしなかったこと、オレがいないもんで、猫が自分ばっかりになついてうれしいこと、モデル友達の女の子が、やなせたかしと根本敬の区別がついてなくて大笑いしたこと、TVCMの撮影があったこと、新しい古着のコートを買ったけど、それの色が白いので「白くん」と名づけたことなんかを木の回転椅子に座ってくるくる回りながら話してたかと思うと、突然!!
「あ、もう行かなくちゃ。今日フィッティングなの、バイバ───イ※[#ハート白、unicode2661] そっちも楽しそうでよかったわ──!!」
帰ってしまった。帰っちゃった……。
078
夕方すぎから頭が痛くなってきた。警察官に申し出ると、都費で購入しているというルルを3錠くれたのでしゃぶっていたら、少しだけM&M’Sの夢を見た。甘くやさしいスウィートな夢。
もちろんすぐにクスリの味がして、ハッと目が醒めた。ま、まいった。生まれて初めての短編の白日夢に酔った。
079
1週間に一度入浴の日がある。一度に3人ほどが入れる留置温泉は、単純カルキ水道泉質だが、入りごこちは最高だ。カナダの保養地の水着で入る混浴ジャグジーってわけにはいかないけど、周りには、水着よりずっとド派手なモンモン──彫物──を背負ったヤツばっかりなので、壁に富士山の絵が描いてなくたって、あっちに昇龍、こっちに鯉、ちょっと横には鬼まで泳いでたりして風光明媚なことこのうえない。
早メシ、早グソが信条の体育会系のここだけど、風呂だけはみんなゆっくり入る。最高のリラクゼイション。チョーさーん!! ぬるいっス!! だの、湯の出がイマイチっすよー!! なんて湯加減を見てくれる警察官に勝手に叫びつつ、いつまでもいつまでもゆっくり入る。
入り始めてすぐに、下の刑事部屋から、取り調べの申し出が上の留置場にあがってきても、そん時ばかりは、「そんなあわてんで、人並みにゆっくりしてていいぞ、週に一度なんだからな」なんて係の警察官も声かけてくれて──もちろん、のぞき窓から時々監視されながら──ゆっくりと湯船に身を沈めることができるってわけ。
080
今日は日曜日で外は雨。
房内から街《シヤバ》の様子は見ることができないので、アスファルトを走る車のタイヤの音で、その日の天気がわかる。
081
茶髪のロン毛の密売人が、ロクデもないキチガイ野郎だということが、本日わかってゾッとしているところだ。
ヤツは、先輩からもらった日本刀、もちろん美術品じゃなくて、単に木のサヤに入った暴力的なシロモノのカタナ、ま、とにかく日本刀を持っているのだが、ヤツが言うには、日本刀ってのは、片手に持ってじっと眺めながら、タンポでポンッポンッ、なんて手入れをしてると、どうしても何かを斬ってみたくなるものらしい。
それで、とにかく生き物ならなんでもいいってんで夜中に上野の不忍池に日本刀を隠し持って行き、パンくずをバラまきクオークオーなんてガチョウの鳴きマネをして、集まってきたカワイそうなアヒルやカモを、横殴りにブッ叩くように斬りつけていたってんだけど、とんでもない反動物愛護精神!! で、本人いわく、「日本刀を見てる時は何でも斬れそうだけど、実際やるとムズかしいわ」。
とのことで、実際は、アヒルの首筋めがけて、横殴りに、エリャリャ!! と斬りつけても、スパ──ッと首が飛び血が飛沫となって噴き上がるなんてことはないらしい。なんとなく、木刀で殴ったように、ガク──ッと首が折れるとこまでがせいいっぱい。
それで、自分の中で「これじゃダメだ」ってことになったものの、猫は逃げるし、犬はカワイそう。かといって人間を斬りつけたら、すぐに事件≠ノなってパクられてしまうっつんで、考えに考え抜いたあげく、上野あたりの街角でテレカを売っているイラン人とか通りがかりのパキスタン人とか、どっちにしろ日本の警察があまり保護しない人種を待ちぶせして、「いきなり後ろから袈裟懸けに切り倒していた」っていうから、ま、負けた。
もちろん、真剣はおろか剣道もやってないので、斬り倒そうにも、刀の歯筋が立たず、肩にめり込むのがせいいっぱい。
「イターイ!! アンタ、ナニスンノ!!」と大声で追いかけられるくらいの辻斬り≠セったらしいが、いくらなんでも、そりゃヒドイってもんでしょう。
斬ってみたいから、人を斬りました。じゃ、誰だろうと斬られたほうがたまんないっての。
彼に限らず、留置場にいる人間ってのは、共同生活をするうえで本当にイイヤツで好感が持て、一般市民以上によくできた性格をしてるのに、なぜだか性格の一箇所だけが何か本質的に欠けてるというか、考え方の一箇所だけ本当に欠損しているというか、そういう類の欠陥人間が多い。しかも、それぞれ自分自身では、性格上のどこが壊れてるかはわからないから始末が悪い。
082
サギ師──。マンションマージャン店やノーパン床屋でタメ込んだ金があるのに、その金をつぎ込んで「趣味と実益をかねて」サギをする。ここまではわかるんだ。おもしろそうだし、楽しく金をもうけたいヤツはゴマンといる。
話によると、そのサギってのは、彼が開発した次は、絶対に捕まらない%チ殊な銀行サギで半年もあれば、4、5000万円の金は引き出せるらしい。その金は、過去、4回パクられた時はすべて、クラブホステスへのチップや高級ボトル、競馬のノミ屋への払いでスっちゃったそうだが、これもわかる。手にしたアブク銭をアっというまに大金を使いきってしまうのは実に気持ちのいいもんだ。
でもなんで? なんで、16年前、まだサギをやる前のカタギ時代に使いこみをした彼の借金をカタがわりしてくれた神様のような恩人≠ノは「ホントにやさしい、いい人でした」と目をウルウルさせて思い出を語るくせに、いまだに、貸してもらった50万円を返していないわけ?
だって、サギで稼いだ何千万って金をノミ屋やホステスにバラまいてんだよ。その金をちょっと節約すれば神様のような恩人≠ノ50万ぽっち返せるはずじゃないか。だって目をウルませるくらい感謝している神様のような恩人≠ネんだから。
「返さないの?」と聞くと、サギ師は「そりゃ返しませんよ。向こうも返ってくると思って貸してないですもの」と平然と言ってから、「ああ、あの人にはお世話になったわ。本当に今でも感謝してるの」と本気で目頭を赤くさせてやがる。おいおい、お前の良心はどういう構造をしているんだ。そりゃヒドイ、人じゃない、壊れている! とみんなで非難したら、それじゃあアナタはどうなのよ! と、ホコ先が今度はコッチに向いてきた。
「たぶん、自分もこうして留置場で暮らしているんだから、どっか一箇所だけ、ヒドく壊れているんだろうけど、自分ではわからないっスよ」
そんな展開で、新しく房に入ってきた新人さんを含め、刀傷の元殺人者や、サギ師、密売人と、オレとでワイワイいいながら、オレのどこが壊れているかをディスカッションした結果、結局、「頭がコワレている、だってヒヨコスープでしょ」と密売人に指摘され、サギ師と顔面破防法が大きくうなずいて、そういうことになってしまった。ガ、ガク──────ッ!!
密売人が言うには、もし、自分がシャブでヒヨコスープ状態になったら、家でじっとして一歩も外には出ないし、1か月か2か月、覚醒剤をぬいて養生してから、またシャブをやるハズだ……。
毎日がヒヨコスープ状態で、しかも、そういうガイキチ状態を、おもしろがってる、ってのは、「壊れているとしたら、そのアタマですよ」だって。
083
柴田錬三郎の『浪人列伝』という短編集を読んでいるのだが、クレイジーで素晴らしい。
出てくるのは、どもり浪人∞片腕浪人∞乞食浪人≠ニいった方々。そういった方々が、ハンデを背負ってそれぞれ短編の中で懸命に活躍する、というヒドイお話だ。ゲラゲラ笑いながら読んでたら、顔面破防法の人殺しとロン毛で茶髪のアヒル殺しの2人が寄ってきた。本の内容をアレコレ説明すると、2人とも笑いだした。犯罪者というのは、人権意識の低いヤツが多いので、おかしく感じれば、どんなことでも笑いつくす。
「そういえば、もう少したつと留《こ》置|場《こ》にもコジキが増えてきますね」
アヒル殺しが言った。寒くなってくると、普段はボール紙の家に住んでいる、メシの食えない連中が、無銭飲食とかカッパらいとか、下らない罪でやってくるらしい。オレは人権意識のカタマリなので、シャバでは「ホームレス」と丁寧語で呼んでいたのだが、「人の弁当に手を出してくるし」「風呂の水はドブのように臭うし」「同房になると、本当に毛ジラミがうつったりする」と、それはそれは留置場の中では迷惑らしい。
「人権意識≠ネんてのはシャバの理屈だ。実際に、コジキと一緒に暮らさせられるほうの身にもなってくれ」と、人殺しとアヒル殺しにさんざん説教された。「街《シヤバ》のコジキ連中には、メシとあったかい毛布、それに、酒と、希望者には金も与えて、決して『留置場に行こう』なんて気がおきないように満ち足りたいい暮らしをさせなくてはならない」
最後には、人権派なんだか非道派なんだかわからない話の展開になった。
084
「牧場にいた者のほとんどは
あんたたちがはじき出した人間だ。
道の脇に打ち棄てられた連中だ」
───チャールズ・マンソン
「オレは打ち捨てられたことなんかない。
そういうヤツは叩っ斬ってきた」
───ロン毛の密売人
「私ははじき出されたことはない。
そうしようとしたヤツは、
すべてダマしてやった」
───前科4犯サギ師
085
留置場の中で、マスターベーションすることは一応禁止になっている、んだったか、いないんだったか忘れたが、確か壁の「規律表」の禁止事項に「みだらな行為」はいけない、とあった気がする。
留置場の中へ女の子の裸のグラビア雑誌を差し入れるのはOKだ。危険思想も特殊な信条もない、単なる女の子の陰毛だとか、乳首だとか、オシッコしてるシーンだとか、ゲロを吐いちゃってる写真だとか、まあ多少マニアックなものでもフリーパスだ。ホモのことはわからない。たぶん大丈夫なんだろう。
エロ本編集者の中には、女の子の陰毛や肛門といった世の中的にまあインモラルといわれるような写真を、雑誌、つまりマスメディアにさらけ出す自分の編集行為こそが、現体制に挑戦する政《テ》治的革命行|為《ロ》である、なんてのん気なことを言ってるヤツもいる。だけど実際は、彼の「革命」は警察官も大喜びの「革命」で、少なくとも留置場の中じゃ、犯罪者のチンポを立たせる、という割とこぢんまりした革命≠オか起こせていない。
泣きベソをかいたような必死の笑顔で、エロ本革命の話をしていたエロ編集者を思い出してエロ本を見ながら大笑いしていたら、「大丈夫か? フラッシュバックか?」なんて若い警察官がやってきた。
「いや! 大丈夫、あんまりこの写真がおもしろかったもので」
と女の子が大股おっぴろげているグラビアをしめすと、「………大丈夫?」と心配された。
大丈夫ですとも。いや、大丈夫じゃない。だってこれは笑い話ではないもの。きっとその編集者はいろんなことに裏切られながらも今もそう信じているハズだ。信じることを持つってことは本当に素敵なことだ。だからそれを笑い話にするのはあんまりいい趣味じゃない。留置場にいると、何の関係もない時にフト、ステキな人のことを思い出してしまうことがある。
話からズレちゃったが、密売人なんかはしょっちゅう、
「みなさん、オナニーやりたくなったら、お互いそっぽ向いて、プライバシー守ればいいじゃないですか」
と、やけにプライベートオナニーを主張していた。
「便所にしゃがみながら、手でコスるやり方も、慣れればいいですよ!!」
いつもサギ師にニガ笑いするような同意を求めていたが、そうしている密売人の姿を見たことはない。
実際のところ、みんな「どうぞ、どうぞ、お互い、こういう所ですから、そういう時は鉄格子の外を見てますから」なんて言い合ってたけど、あからさまに自分のチンポコをしごいてるところを見せる変態野郎はまずいない。多分、夜中に毛布を引っ被ってオナニーしてるってことなんだろう。
オレ、かい? オレはしょっちゅうさ。オレはいつも夜中になると、こっそり隠し持っていたボールペンの芯を、ちんぽこの先から尿道の中にそーっと根元まで入れちまって、ついでに夕メシで出た鶏の照焼きについていた、鶏の骨を肛門の中にグッと入れ込んで前立腺に直接あたるようにして「OH! OH! OH!」気ちがいの寝言を装って、ウンコとションベンとザーメンとゲロを同時に噴射していたよ。イク瞬間の声なんか、
「ギャオ───!! 見て見て見て───!!」なんつって叫んでて、そりゃ凄まじいものだった。諸君、これこそがノンフィクションってもんさ(笑)。
086
留置場にいる人種は大ざっぱにいって3つに分類できる。ギャンブルで身を持ち崩した連中か、ドラッグで身を持ち崩した連中か、暴力で身を持ち崩した連中かだ。まあ、「持ち崩した」っていったって、当人たちはまったくそんな自覚はないんだけどね。
犬の年齢でいうと40代に見えた詐欺師は、ギャンブルで身を持ち崩した側だ。職業がらおしゃべりが上手でね、次から次へと、なぞなぞだのクイズだのを出しては同房の連中をケムにまいていたし、なにせ前科4犯だから、今後、オレがどういう手順と段取りで起訴され裁判になるのか、詐欺の手口同様に詳しく説明してくれた。
顔面破防法は、もう全身傷だらけでね。それをあいさつがわりにひとつひとつ傷のエピソードを紹介してくれた。これは20代のころ新宿で喧嘩して斬られたやつ、この足のはドスで刺されたの、こっちの肩のは抗争で、この首のも抗争中、背中のは人違い。日本刀でいきなり斬りつけられちゃった時のホラ、頭の中も斬られてんの、これ喧嘩。指をカットしてんの、これは自分でやったの組長《オヤジ》に怒られて……。で、腹のド真ン中にもひときわでかい傷が走ってて、ヘソのまわりなんか、ニワトリのトサカみたいになってるのに、なぜかそこには触れないまま。むこうずねから、ふくらはぎから、髪の毛の中に埋もれている傷から、カットされた小指から、とにかく全身の傷を紹介したあとで、ようやっと、これも気がついてた? てな具合に腹の傷を指さしてから、彼はこう言った。
「これ? これはねえ……、これは凄いわよ、聞くう? これはねえ、浮気がバレてカアちゃんに刺されちゃったキズ! テヘッ※[#ハート白、unicode2661]」
ギャフン。テヘッ※[#ハート白、unicode2661]じゃないよ、まったくもう。なんてオチャメな人殺しなんだろう。今回はチャカの家宅捜索でシャブが出てパクられちゃって、「冗談じゃないよ、まったく」と嘆いていたけど、ちっともヘコタレちゃいない様子だ。
前歯のないロン毛の密売人《プツシヤー》は、年少(少年院)1回、前科1犯で、今回は前刑の執行猶予中にパクられた。23になったばかりだか、もうすぐなるのか、確かそのぐらいの年齢で「オレ、こん中にもう3か月もいるからわかんないんですけど、今、シャバじゃどんな曲がヒットしてるんすか?」と、やけにヒットチャートを気にしている。オレは毎週のカウントダウンに詳しいタイプじゃないので、適当に、オアシスとかブラーとかマツモトキヨシとかが流行ってんじゃないの? と言ったら、まるっきり信じて「歌ってくださいよ」とせがまれた。
密売人曰く、パクられてしばらく刑務所の中で暮らしてたりすると、シャバに出て一番困るのは、「カラオケの曲にまったくついていけなくなること」らしい。仲間たちと一緒にカラオケに行って流行の曲が歌えないたびに、自分が牢屋の中で過ごしている間に流れ去っていった貴重な「青春という時間」を想い哀しくなるという。こいつら、オレがパクられてる間に勝手におもしろおかしく遊んでやがって コノヤロ!!!! 警察にそいつらのドラッグ使用を密告《チンコロ》してやろうかとも考えるほどだが「そこはぐっとガマンするのが男」だそうだ。「ま、その分、オレはシャブを使って太く生き急いでいますから」胸をはってヤツは言った。
オレは、自分はライターで文章を書いているということは黙っていた。説明するのが面倒くさいし、どんなに崇高に説明したところで、大抵の人はライターの仕事ってのがどんなものか理解できないからね。で、「無職なんスヨ」と自己申告したら、サギ師と刀傷、密売人が一斉に「えっ!?」という顔をした。
「えっ!! 30歳ですよねえ、いやあ、それで『無職』てのは、女房に食わしてもらってるってことですか?(笑)うわー、奥さんかわいそうだわあ(笑)」
「ヒモ? ……いえいえ失礼、そういう意味じゃないですけど……」
サギ師、人殺しに続いて、今度は密売人からも「仕事しないんスか。うわー、なまけものだねー、オレだって額に汗してシャブ売って稼いでるんスから。シャバに出たら奥さん孝行のために働きましょうよ、で、さんざん働いて休暇は刑務所でとればいいじゃないですか」と説教される始末。
オレの暮らしている、出版界ってところは、「無職」と同類の負け犬や飲んだくれのライターがゴマンと棲息している場所なので、全体的に「無職」に対して理解があるのだが、どうやら、サギ師や密売人や不良《ヤクザ》ってのは、我々出版界の人間よりも「無職」に理解がないらしい。
よりによってこんなところで「働け」と言われるとは、それもサギ師や密売人に言われるとは思わなかった。
087
今さっき、連載している雑誌の編集長と担当編集者が面会に来て、3万円、差し入れてくれた。留置場の中で使う金といったら、切手代、タバコ代ぐらいのものだが、毎日、500円の弁当をとってるので週に4000円ぐらいはかかる。大変たすかった。
留置場の中では、実際には現金のやりとりはしない。留置場警察官が、ホテルのフロントの料金係みたいに金勘定をやってくれる。昼食のお弁当をとると、犯罪者《オレたち》は、左指一本の指印を押して、代金を払ったことになる。まるっきりホテルのレストランで、鍵に書いてある部屋番号で会計《チエツク》できるのと同じシステムと考えてくれたまえ。
088
「原稿のほうはこっちで何とかしますので、とにかく外のことは心配しないでください」
面会室に入るやいなや、プラスチックのガラス板に仕切られた向こう側で担当編集者が言った。
シャブでもコカインでもLSDでも、とにかく何キメてもいいっスから、とにかく原稿を書き上げてください! と、そりゃ密売人がドラッグのツケを取りたてる以上に厳しく原稿を取りたてるヤツなのだが、なんたって、プラスチックのついたてのこっち側には警察官、という今となっちゃオレの味方もいるわけで、さすがにそうも言えなかったらしい。
「でも、手紙だけはくださいね。心配ですから、中の様子と近況を書いた手紙だけでもねっ、よろしくおねがいします」5分ほど世間話をして面会は終了した。
PS 2か月半後、街《シヤバ》に出てみたら、その編集者あてに個人的に郵送した手紙が、すべて、原稿≠ニして雑誌に掲載されていた!! イヤ、ホント、編集者根性ってのは殺人犯より冷酷で、サギ師より合理的で、密売人より秘密主義で利己的なもんだ。
089
ここ2日ばかり、夜になると、鉄製の非常口の向こうから、もの悲しい猫の鳴き声が聴こえてくる。
それに合わせて留置場の中では誰かのイビキが10月のひんやりとしたコンクリートの壁に反響している。まるで、シャバとここ、どっちのほうが悲しい場所なのかを競いあうように2つの音が響きあっている。
090
今日もまた地検で調べだっつんで、都内の犯罪者を総ざらいしつつ迷走する、朝イチの護送バスで、同行室へ押し込まれた。
検事の取り調べ、ってのは、警察官の調書を読んだ検事が、自分の興味を引くことについてさらに詳しいことを聞いてくることが多い。それと、今日のように何の意味があるのかわからない質問。
091
──ところで、キミのその腕と指に入っているのは、それ刺青だね。何のマークだね。
「はい。これ、『GONZO』(ゴンゾ)と入っているんです。読めますでしょうか。これはイタリア語でチンピラ≠ニか不良≠ニかいう意味らしいです。アメリカのゴンゾジャーナリズムという、ニュージャーナリズムのマークです」
──左指の、「HATE」という文字も刺青だね。
「はい」
──なんという意味なのか?
「憎しみ、という意味です」
──キミはいったい何を憎んでいるのかね。
「えっ? と、言われても……、その、『狩人の夜』という本に、右手にLOVE=A左手にHATE≠チて刺青が入ってるサイコキラーが出てくるんですけど、最高カッコよかったんで自分でいれました。ところが、自分は右ききなもんで、左指にはうまくHATE≠フ文字が入ったんですが……左手でいれなくちゃならない右指の刺青は失敗しちゃってL≠フ字がL〜≠ニひんまがっちゃったんでそこだけでやめてしまったんです。
だから「憎しみ」だけじゃなくて、本当は「愛」もあるんですよ、右手に。右手はペンを握る手、なんですけど」
──ムムム……ム……まあ、キミの身体であるから、私は何も言わないけれども、せっかく両親からもらった立派な身体は、もっと大切にすべきだと思うがね。
「はい」
ってな調子なわけだが、その検事ってのも、昔、柔道だかラグビーだか知らないが、体育会系でバリバリやってたらしく両耳がぶっつぶれた餃子みたいに変形しちゃってるわけ。
わかるかい? 耳たぶが、殴られすぎだか、コスれすぎで、原形をとどめてないわけですよ。オレは心の中で──そういうお前も、柔道だかラグビーだか知らないが、そういうお遊びみたいなもので耳をぶっつぶしてしまって、せっかく両親からもらった身体を大切にしたまえ──といい放ってやったよ。
もちろん、口がさけても、声には出さない。検事の胸先三寸で求刑が決まるんで、態度や口のきき方には細心の注意を払わなくっちゃと思っていたから、つまり、まあ、ビビっていたんだなオレは。
092
警察調書──アフタースピード
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初めて覚醒剤によって気が狂った92年夏からは、分裂症状がなかなかおさまらず、3か月以上、神奈川県の精神科の病院へ通院しました。
通院をやめてからも、胸が苦しく、手が震え、強迫観念、妄想に悩まされる毎日が続き、うつ状態もひどく長引きました。
あれほどの「絶望感」を感じたことは、生涯を通して初めてです。
通院しても、その状況はなおらず、時たまフラッシュバックに襲われ、自分が自分でなくなったような感覚におそわれるようになりました。
そこで、違う病院へ通うことにしたのですが、そこでは、アナフラニール、ヒルナミン、ソラナックス、レンドルミン、レスリンなど、多種多様な錠剤を処方してもらうことになりました。3日間に3回から4回にわけて抗不安剤や、向精神薬を15錠以上飲んでいたことになります。
そのせいか、妄想、不安といった自覚症状はなくなったのですが、すると、また、覚醒剤が強烈に欲しくなってきました。
しかし、覚醒剤を使用し、一度、気が狂ってしまうと、次からはすぐに狂った状態に逆もどりしてしまうようで、早い時で、吸引で吸い始めて2日目には、また、一番恐ろしかった、妄想と不安に苦しめられるようになりました。
そこで私は、不安や妄想をおさえるために処方されている医者からもらった抗不安剤や向精神薬を規定量以上にガブ飲みしながら、覚醒剤を、以前以上に著しく使用するようになったのです。
朝起きて、まず覚醒剤を使用し、すると、すぐに誰かに監視されているような妄想と不安感が出てきますので、医者からもらった薬を3日分ぐらい、同時に飲み干します。すると、頭の中が真っ白になり、なにがなんだかわからない自分が自分でないような心地よい状態になり、身動きひとつせず、私は数時間をすごすのです。
精神科の医者からもらった薬をあいにく切らしてしまっている時は、薬局で売っている、アタラックスPなどの薬を買い、一箱を全部同時に飲んだりするのですが、それさえ売ってない時は、酔い止めの薬や頭痛薬などを、ジンやテキーラといった強い酒と、すべて同時に飲み干してしまいます。
しばらくすると、猛烈な吐き気に襲われ、飲んだものの大半は吐いてしまうこともあるのですが、同時に使用している覚醒剤のせいで、それはあまり苦しいことには感じられないのです。
以前、初めて覚醒剤で狂い、もう二度と覚醒剤をやめようと思ってから、1年後には、以前よりも強烈で信じ難い中毒者に私はなってしまいました。
民間で運営されている、薬物依存者のための自助組織にも二、三度行きましたが、行く時というのは、まさに薬物で酩酊している時でしたので、集まった人たちが何を言っているのかも理解できず、集会の始まる直前に飲み下した薬物のせいで、ロレツのまわらないままヨダレを流して楽しんでいただけでした。
逮捕された今、その状況を思い出すと、ヒドく不幸だった、とも思えるし、とても幸せだった、とも思えてきます。それは、今の私の頭の中がまだ混乱しているせいなのか、私の性格に問題があるのかはよくわかりません。
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093
担当検事は、机の上に日の丸の国旗を飾ってるような右翼傾向のある若いヤツだが、取り調べの最後に「文章書きみたいな仕事は、特別な才能を必要とするんだから、そういうつもりでガンバレよ」みたいなこといってきたので驚いた。もしかして、起訴猶予の前ぶれではないのか。正直いって、オレもパクられて、『SPEED』が出版されるかどうか不明になったりしちゃったもんで精神的に弱気になってたと思う。そんな、ちっぽけな「ガンバレ」ってささやきが、すごくうれしかったのを覚えている。なのに起訴しやがって、あのシャブ検にダマされた。
ところで、いったいあの検事は刺青のことについて何を知りたかったのだろう。
094
編集者へ手紙を書いて一日過ごした。
留置場の中からでも、接見禁止≠ェついていなければ、一日何通でも手紙が書ける。
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STEP(7)「起訴」決定
095
刑事《デカ》部屋に呼ばれて、最後のめんどう見をしてもらった。
まあ今日はよ、調べは全部終わってるけどさ、起訴も決まったし、オマエも、あと2日で拘置所に行ってしまうからな、拘置所は留《こ》置|場《こ》と比べられないくらい厳しいから大変だと思うぞ、だから、まあ、今日はちょっとくつろいでいけや、な。タバコ吸う?
あ、おマエは吸わねえんだよな。おお、じゃ、コーヒーいれてやるよ。砂糖なしで、ミルクだけ? ハイハイわかりましたよ、まったくここはオマエらの喫茶店じゃねえっつんだよなあ。あ、いいいい、砂糖なしの、ミルクだけ……と。ホラ、インスタントだよ、いっとくけど。熱いぞ。
あと、これ食うか? カップメン。ま、こんなもんしか食わしてやれないけどよ、まあ、ハナムケだと思ってくれよ。おマエが、これでシャブやめてくれたら安いもんだよ、ホントに。でも、今はそんなこと神妙な顔して言ってるけど、このあと留《う》置|場《え》に戻るとみんなで相談してんじゃないのか、今度はパクられねえようにやる、どこに隠せば見つかんねえ、とか。みんなしょうがねえよなあ(笑)、ここで悪いこと勉強してっちゃうんだからよお(笑)、でも、やれば絶対捕まるからな、警察が甘くないの、よくわかったろ。
そうだな、捕まったヤツの7割いや8割ぐらいが、また捕まるんだから。
そうだよ、執行猶予中にだよ。出てからが大変だぞ、気を引きしめないと。
どうだった、留置場暮らしは、少しバテたか? 結構楽しかった? あーダメだこりゃ(笑)。
オマエ、美人のカアちゃんにも言ったけど、まるっきり懲りてねえもんな(笑)。普通、留置場初めてのヤツなんか、ツライ、イヤダって死にそうな顔するもんなのに、ヘッチャラだもんな。たまにいるんだよ、留置場がへっちゃらなヤツが(笑)、お前もそうだよ、ムイてるんだな、まったくまいっちゃうよこっちも(笑)。
普通、一日じゅう部屋に閉じこめられたら、外に出たくなるものなのよ、お前、字書くのが仕事だから、部屋に閉じこもってるの、全然コタエねえしさ、タバコも吸わねえからそういう欲求不満もねえだろ、おまけに本さえあれば退屈しねえってんだから、ったくダメだこりゃ。
文章書いてたりするヤツって、変わったヤツ多いだろ。なんでも自分の「お勉強」にしちゃうから、「逮捕」もお勉強で、留置場も「お勉強」のつもりで、「いいネタ」だ、とか思ってんだろ。まあいいまあいい、それが仕事だかんな。でもお前、今回の事の顛末は、オレをいい人として書けよ。
その、来年の春出るシャブの本の次はよ、ここの留置場のこと書けよ、なあ。で、オレのこともちゃんと出してさ、こう、安部譲二の本みたいにさ。「T刑事」とかな、「刑事のMさん」もいいや、とにかくいい刑事さんに担当してもらったとかよ。
留置場の中にもいろいろいたろ、ヘンなのが、それを書けよ、オマエ。
あ、カップメン、もう食えるぞ、これ。
いいなあ、パクられたことが、ネタになって、カップメンおごってもらって仕事になっちゃうんだもんなあ。こっちがおごってもらう立場だよ、まったく。でも、次は実刑だからな。今回は、ま、大丈夫だよ。執行猶予もらえるよ。
でも、次は、もう猶予ないからな。そうなったら大損だぞ、何のプラスにもならないぞ、3年は行くからな。もったいないぞ、やめないと。
おう、本出たら持ってこいよ。
拘置所はキビシイから大変だぞ、ま、オマエなら大丈夫か。
096
「起訴」が決定すると、留置場に住んでいるのも、もうわずかだ。「自動移監」になれば、起訴日から2日目で、拘置所に移される。
「起訴決定おめでとう」サギ師が手をたたいて喜んだ。「よかったね」
「満期より一日早いじゃないですか、こりゃ速攻で裁判、釈放コースですよ」
密売人も近寄ってきた。
まあ、起訴猶予なんて甘っちょろい奇跡は当然のごとく起こっちゃくれなかったけど、「起訴」ってのは「留置場卒業」という意味《ワケ》なので、街《シヤバ》への道のりが近づいた分、そりゃ、留置場暮らしの人間には「起訴決定」はおめでたいことなのさ。お祝い事なんでみんな集まってきた。
「あー、この度、わたくし、東京地裁のシャブ検より正式に通知がきまして、昨日付起訴で、いよいよあさってには東京拘置所へ移監されることが決定しました。あー、同房の皆々様方のおかげで、この二十数日間大変楽しく過ごしました」とかなんとか、オレは大仰に挨拶した。
「卒業」を祝福されるなんて何年ぶりだ。後輩にあたる水商売の男もすでに留置場生活に慣れているので、「あー、オレも早く起訴されたいっすよ。今されれば、2日後移監で、裁判まで1か月半、判決まで2週間みて……クリスマスには余裕で出れますもんね」と、カレンダーを見ながら、自分の予定を立てている。「自分の場合は、えーとクリスマス前、ギリギリ……」とかなんとか。
前刑青森刑務所7年の殺人犯はいよいよ顔面に破防法が適用されて、5日ほど前に東京拘置所へ移監されちゃってたので、房の中は4人だけ。これでオレがいなくなって、その後、すぐに水商売の新人君も移監されることになるから、房の中は淋しくなるだろう。
「淋しくなるわ」サギ師が言う。「わたしなんかもう、6か月もここに住んでるでしょ、もう何人の皆さんが、この房を通りすぎていったか……」
サギ師は、4件の容疑を同時に持っているので、そう単純に自動移監コースを歩めない。すでに、そのうちの1件は起訴されているが、残り3件が取り調べ途中のため、ずっとここに留めおかれて追起訴されるのを待っている状態だ。
「これがシャバだったら、お祝いにシャブでも一発、冷蔵庫で冷やした注射器を使って、キューっと、こう、ズケちゃうとこなんですがね」
密売人が片袖をめくって、注射ダコのできてる腕をピシャピシャたたいた。左腕? 右腕? どっちでもいい、どっちの腕の血管も、注射の打ち込みすぎでへこんでいるんだから。
「カ────ッ、最高だねえ!! オレもいつか、注射器《ポンプ》でこう、うんと濃いの、静脈にブッツリ打ち込んでみたいよ」
オレはいつも焙りでキメているので、注射器《ポンプ》は自分でやったことがない。
「いいっスよ。うんと濃いヤツを、もう、カレースプーンの上に山盛りにして、ドロドロに濃く溶かして死んじゃう寸前までハードにいれちゃいましょうよ」
密売人は、知らない人が見たら、今現在効いちゃってんじゃないか、というギンギンの笑顔で、くうーだのうめきながら喋り続ける。
「1回目! やっぱ1回目に注射器《ポンプ》で打ち込んだ時の頭の、こう、テッペンが、ゾゾ──ッと逆立つカンジが最高なんすよね───」
「だってねぇ、みんなそう言うわよね」サギ師ものってきた。いささか他人調なのは、サギ師は稼いだ金を全部ギャンブルと女に使うタイプで、留置場の人間には珍しく、今までに一度もドラッグをキメたことがないからだ。もったいないったらない。
「わたしも今まで、4回もパクられて全部実刑でしょ。いろんな人に会ったけど、みんな『シャバに出たら一発』って言うもんねぇ」
「最高っスよ!」密売人とオレが同時に叫んだ。
一瞬遅れて隣の房からも、「最高!」という声が。誰か聞いていたらしい。
「実は、オレもシャブ、やったことないんすよ」新人の大麻の犯罪者が言うと、密売人が大げさにのけぞって叫ぶ。
「マジ? マジ? うわ、そりゃいいや、とにかく、生まれて初めて打つ時が一番ク───ッとくるんだから、その楽しみがこの先の人生にあるってことは、うー、これからの人生がすごい幸せってことですよ」
そうか、なるほど! こういう「人生」の楽しみ方がオレは大好きだ! YES、そうでなくちゃこんな世の中やっていけない。
「オレ、焙りでもう5年で、何十回も気イ狂ってるけど、やっぱ初めて打った時ってのはいいんだろ? 最初のポンプは!?」オレがワクワクしながらきくと密売人は「うー、どうかな、いや、絶対いいですよ。でも、一発でテンパっちゃうかもしれないからやめたほうがいいかな」不安なことを言いやがる。
「気が狂うクセ≠ェついてるから、打つのはマズイかも」だと。
ガ、ガク───ッ、そ、それはないじゃないか。それでもオレは打ち込みたいんだ。
「でもいい、気が狂っても狂わなくてもどっちでもいい、ガツンとキマればそれでいい」オレが言うと、「そうすよ! ジャンキーはそうでなくちゃ!!」と大麻をスパスパと空想大麻《エアマリフアナ》をキメた。話だけじゃもう、ガマンできなくなってきたらしい。それでこそジャンキー。「空想マリファナ」ってのは、つまり、吸ったつもりになって、ないマリファナを吸うマネをすること。留置場の中で吸える唯一のマリファナ、それが空想マリファナだ。それを見た密売人は、「あー、ズルイな自分だけ。オレも打っちゃお」といいながら、手品師のように両手のひらの上に空想注射器《エアポンプ》をヒョイと出し、なんと、両足の静脈に2本同時に打ち込んだ。もちろんオレは、空想《エア》アルミの上のシャブを、エアライターでカチカチ焙る。アルミをたたむところから、じっくり楽しみながらキメさせてもらった。クゥ─────!!
それぞれの空想の中でオレたちはさんざんっぱらキマりまくる。
そうとも、オレたちはジャンキーだ。いつでもどこでも、たとえ留置場の中でも仮にシャブやマリファナが絶対手にいれられない状態でも絶対にあきらめはしない。ジャンキー特有の耐久心《ガツツ》で空想《エア》トリップしてみせる。手錠をかけられたジャンキーが手のひらで握りしめているのは、エアスピード、そしてガッツだ。「ガッツ」のほうはエアじゃない。うかつにさわることができないほど熱いガッツの塊さ。護送バスの中でも同行室の中でもいつでもどこでもドラッグをキメられないところではオレたちジャンキーは、恥じることなく堂々とガッツをガツンと胸の奥でキメてやるってもんだ。空想でもなんでも、やりたくなったら意地でもキメてやるんだよ。YES、これぞガッツ&トリップ!!
「ねえねえ」サギ師が参加する。「あたし、シャブはちょっとコワイから、大麻やってみたいの、どう? どう? どうやるわけ?」
一度もドラッグをキメたことのないサギ師だが、オレたちの楽しげな空想《エア》トリップを見て、ついに初めて「ドラッグなるもの」を試してみようってことらしい。ドラッグ初体験が留置場のエアトリップの大麻とは、きっと近い将来、ロクデモないジャンキーになるんだろう。
「こうやって、こう、で、胸の奥いっぱいに吸い込んで、30秒も40秒も息止めるんですよ」
水商売が指先でつまんでいた空想マリファナのジョイントを回し、空想のライターで火をつけてやった。
「こう?」
サギ師は目には見えない大麻を持って、胸いっぱいに留置場の空気を吸い込む。
「うまく吸えてる? こう?」
「大丈夫っスよ。そう、そうやって2、3服もすれば、もう、グーッと効いてきますから」
「うう、……ううっ」目をまん丸くしながら、サギ師はもちろん本当に息を止める。
きっと、サギ師は、この先、「サギをする自由」に加えて新たに「大麻を吸う自由」も人生のアイテムに加えて人生を楽しむってことになるんだろう。そうこなくちゃ。それこそ、人生ってもんさ。よくわかんないけど、きっとそうさ。オレは信じた。留置場の檻の内でそれを信じた。
「ううっうっうっ。ぷは────っ」
気持ちよさそうに、うん、本当に気持ちよさそうにサギ師は目に見えない紫色の煙を吐きだした。
それからしばらく、オレたちは、それぞれのアルミやガンジャやポンプを交換しつつキメまくり、留置場史上最高のパーティーを開いた。
空想ドラッグパーティー!!
別にドラッグが自由と抵抗のシンボルだなんて考えてるわけじゃない。共感できないよね、それ。ただ、そう「やりたいからやるだけ」。
バカバカしいかい?
そんなことはわかってる。でも、そのばかばかしいことに夢中になるのがオレたちジャンキーってもんじゃないか。
オレと密売人、大麻はともかく、NOドラッグのサギ師までジャンキーになって、その日オレたちは11gの大麻と15sの覚醒剤、それにヘロインとLSDとコカインも空想《エア》でキメまくって、そして本当にハイになった。
これがオレの「卒業謝恩会」だ。ガンジャにスピード、ヘロイン、コーク!! 今までで最高の卒業祝いの会だったさ。
これが起訴状。2・3枚目は「公訴事実」、4・5枚目は「弁護士選任に関する通知及び照会」
(起訴状省略)
[#改ページ]
U 拘 置 所
これで、オレが起訴猶予になって釈放されてればこの本は終わるとこだし、万が一脱走でもすれば、とんでもなくおもしろい後半に突き進むのだが……。
残念ながら諸君、オレはごく普通の小者として起訴され、ごく普通の裁判待ちの「未決囚」として東京拘置所に送られてしまったのだよ。
しかもそこでは独居房、つまり、一人部屋に押し込められてしまったんで、前歯のない密売人や前科4犯のサギ師みたいな、愉快な仲間も出てこないし、すでに起訴されてしまったんで、もう、取り調べ≠烽ネい。
さて、もしそんな、どうしようもない一人部屋でよかったら、これから残りのページも、つきあってもらおうじゃないか。
独居房の一人暮らしは、うんざりするほど、退屈だったんだ。
097
今日で、東京拘置所に来てから11日目だ。ここに来てから最初《はじめ》のころのことはよく覚えているが、今となってはつまらない話だ。
本当はおもしろかったのかもしれないけど、覚えているのは、つまらないことしかない。
バスから手錠つきで降ろされたあと、カラスにカアカア馬鹿にされながら狭い入り口を通り、だだっ広い、引っ越し荷物の集積場みたいな殺風景な大広間に一列に並ばされた。あたりを拘置所内の雑務(ほとんどの仕事)をする灰色の囚人服を着た服役囚が、何人もウロウロしていた。そこで、不意打ちを食らったように、手錠をはずされた。
留置場生活で、移動のたびに手錠かロープをつけられていたから、こんなだだっ広い場所で、手錠もロープもしてない囚人を放し飼いにしているのは妙な気がしたが、その場所から街《シャバ》に向かって、何mもある高い塀が何重にもめぐらせてあるし、道にはいくつもの検問所があって、脱走するのはほぼ絶望的だからおかまいなしなのだ。
ここは脱走不可能な囚人牧場なのだと気づくと、看守たちの声が牧羊犬の吠える鳴き声にきこえてきた。
列が曲がっている!
線をまたげ!
踏め!
線に沿って一列に並んでいると、細かい注意が、もの凄い怒鳴り声でなされた。映画の『愛と青春の旅立ち』のオープニング、新兵を鬼軍曹が怒鳴っているシーンに近いが、活気がまるで違う。そりゃそうさ、ここにいるのは、新兵を演じるアクターズスタジオかなんかを卒業した役者連中じゃない。
看守と囚人。
そう、オレたちは本物の囚人だ。もちろんまだ裁判は受けていないが、判決の出ていない、「未決囚」という囚人。すでにもう、権利も人権もない。だって、「普通人」じゃないんだもの。「囚人」なんだから。
キチンと並べ!
グズグズすんな!
怒鳴っている看守たちは、オタク連中がコスプレで着るような、未来ナチスのようなくすんだ青い制服を着ていた。街では滑稽に見える未来軍の制服が、ここでは空恐ろしいものに思えた。
しばらくすると、将校らしき看守がやってきて、
「私の目を見ろ」
と命令してきた。今から訓示をタレるので、目を見ろ、というわけだ。
我々囚人のなかには、手首までビッシリ刺青を入れた不良《ヤクザ》も、身長2m近い大男の黒人もいたが、全員少しおびえているように見えた。誰一人、軽口も、冗談もたたかなかった。
拘置所の看守は、警察官とは比べものにならないほど厳しく罰に対して貪欲で、囚人に対して冷酷で残酷であることを、経験者は経験として知っているし、新人は、すでに誰かから教えてもらって知っているのだ。
「目を見ろ」そのあとで、注意事項の訓示を受けた。ここは、起訴され判決が決まるまでの間、被告人をあずかる特別な施設で、すでに、今までいた一般の社会と我々は完全に隔絶されているということ。何事につけあきらめなければならない、ということ。当然、キミたちのことを「未決囚」としてふさわしい扱いをするので早く慣れろ、ということ。規則の違反者には、厳しい罰則もあるし、すぐに法的な対応もする、ということ。また、この施設での生活の様子は、裁判官に報告され、裁判決定にも影響すること、などが告げられた。
途中、どっかのマヌケが、心細さからかくだらない冗談をつぶやいたが、笑う者はいなかった。
未来将校は、ドイツ語かと思うような日本語で、
「な、に、い、っ、て、ん、の」
と妙なアクセントで注意した、と同時に、その男の横っ面を、持っていた細くしなる馬の尻を打つようなムチでビュン! っとひっぱたいていた。どこかのマヌケの横っ面にミミズ脹れができ、みるみる赤く腫れ上がり、血がしたたってきた───ように見えた。実際は、看守はムチは持っていないし、基本的には囚人を殴らない。
そのあと我々は、本籍だとか住所だとかを、何人もの係官に順次尋問された。
「氏名! 住所! 本籍! 逮捕された日は!」
「氏名は! 今までいた署の名は! 本籍!」
「氏名! 罪状は! 過去にここに来たことは!」
「氏名! 逮捕日! 罪状! 住所! 家族は!」
次々と、もの凄い早さで尋ねられるので、頭がこんがらがってくる。こんがらがると、その度に怒鳴られる。
順番に指定された窓口に並んで血圧、色覚が調べられ、宗教が尋ねられ、ヒゲをそるかどうかを尋ねられる。
服役囚は、髪は丸ぼうずで、ヒゲは許されない。未決囚の場合、それは勝手だ。
写真を撮られ、荷物を調べられる。警察署の検査とは違う。命令に従い、その係の服役囚が、服を1枚1枚、裏返したり、エリ首のあたりを探ったり、ポケットに手を入れ裏返し、そでをめくり返したりと、1枚の服に関してでも徹底的に調べあげる。
言っとくが、まだ、イラン人が脱走する前の話だ。今はもっと厳しいだろう。ゾッとする話だ。
着ている服のすべて、パンツ一枚に至るまですべて、看守の見守る中、服役囚に脱いで渡す。彼らがそれを調べている間、我々は、全裸で気をつけ!
刺青も老人も黒人もイラン人もホモもチビも皮膚病も、全員すっぱだかのまま一列になって、身体検査場に向かう。そこでパンツを支給されて、体重、身長、レントゲン──。レントゲン技師の入れ歯は檸檬色だった。
視力を測り、何の検査かわからないが、八の字に開いた足形どおりに足を開いて中腰になると、いきなり尻の穴にガラスの棒を突っ込まれた。検査官は、白衣を着た老人で、毎日、到着する何十人という新未決囚の尻にガラス棒を突き立てまくるのが仕事だ。アルバイトとしては最高だろう。
廊下へ出ると、用意してある服役囚用の囚人服を着せられた。さっきまで着ていた服は、検査のためさんざんいじくられ、裏返しにされたりして、ぐちゃぐちゃになって、囚人服と同じ色のズダ袋の中に放り込まれていた。
囚人服を着て、そのズダ袋を持って、看守に「こっちだ」といわれついていこうとしたが、先導はしてくれない。
「まっすぐ」
「右」
「そこで止まれ」
後ろから声をかけられながら、コンクリートの廊下を支給されたサンダルをはいて歩く。看守の一歩前を、看守のペースに合わせて歩かなくてはならない。オレは犬だ。緊張しているせいか、つい早足になってしまい、「もっとゆっくり」何度も注意された。
途中、女区の女囚人とすれ違ったが、「壁を向け!」と言われ、廊下の壁に鼻っつらをくっつけて「気をつけ!」の姿勢をとらされたので、顔は見れなかった。
長い廊下を右に曲がり、左に、そしてまた右に曲がり、扉の度に、「そこで待て」と言われた。扉という扉は、看守がすべて開錠する必要があった。あらゆる場所に、いやというほど扉があり、それらすべてが、施錠されているのだ。
建物の中へ入り、階段を上る前に、足形がペンキで示してある所に立ち、ズダ袋をコンクリートの地面に置き、両手を開いて何も持ってないことを証明しながら、前、後ろを向かされた。
「よし」
その後、荷物を持って階段を上がった。
ある階に来ると、「よし」と声をかけられ、違う看守に引き渡された。
看守が廊下の内側、囚人は窓側を歩くことが規則だと言ったので、そのとおりに歩いた。看守の歩く側の床には、ラバーがしいてあって足音がしないようになっている。足音がしては、それに気づいた囚人たちが、何かの企みを隠してしまうので、看守の足音は消す必要があるのだ、と、以前、サギ師が言っていたのを思い出した。
「そこで止まれ」
斜め後ろから声をかけられ、ある部屋の前で止まった。後ろから看守が出てきて、錠と扉を開けた。
独居房だった。
それから11日間、オレは、誰とも会わず会話もせず、ココでひとりで過ごした。
やっぱり、つまらない話だ。
★監獄法★
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第一五条[独居拘禁]在監者ハ心身ノ状況ニ因リ不適当ト認ムルモノヲ除ク外之ヲ独居拘禁ニ付スルコトヲ得
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STEP(8)拘置所の掟
098
留置場と拘置所は、あたたかいオレンジ色と、乾ききった群青色の違い。ここに来てから、あまりに緊張だとか精神的な苦痛だとかに出くわしすぎて、個人的な意味のない空想に興じるようになってしまった。
なにしろ楽しいことがひとつもないもんで、留置場にいた時より、今のほうがずっと皮肉屋だし、臆病だし、不満家だし、ついでに利己的だし欺瞞《ぎまん》家だし、奴隷根性も身についてしまった。
しかも、悔しいことに、そういった精神的|鬱屈《うつくつ》が生む卑しい空想物語を原稿用紙の上に空回りさせて発散《ちら》してしまうことができない。
まるで頭の中に盲腸を抱え込んでいるみたい。いつまでも散らせず、かといって手術《オペ》することもできない盲腸を、痛むまんま頭の中にいやらしいフィクションとして抱え込んでいるような状態で、実に日々、不愉快極まりない。
そこで、許可をえて、入所11日目の今日、一冊のノートを手に入れた。それがこれ、このノートだ。このノートにいろいろ書き散らしていくつもりだ。
拘置所の中の未決囚は、ある一定の規範の中で、(かなり限られた)自由をフルに使えば、買い物だってできる。ねり歯磨き、石鹸、歯ブラシ、ボールペン、クシ。宗教上の理由があれば十字架のペンダントも買えるらしい。
食べ物も買える。十数種類の缶詰類、ドーナツ、ピーナツ。以前、密造ワインをつくろうとした囚人がいるとかで、「干しぶどう」は数年前に発売中止になったときいた。コーヒー牛乳や、オレンジジュース、大福、チョコレートも買える。今日まではずっと、食べ物を買ってきた。
GIVE ME!!
GIVE ME!!
GIVE ME!! チョッコレイト!!
何十年前の、物資に乏しかった日本人の気持ちが少しわかった。ノートよりチョコレートが欲しかったから。意識した理由は全く何もなく、オートマチックに思いつくまま手あたり次第買っていたら、買う順番が、食料→日用品→文具の順番になっていた。それでこうして11日目に、初めて、シャープペンシルと消しゴム、ノートを手に入れることができたわけだ。
文章書き≠ネんだから、一番最初に「ノート」を手に入れとけば、1日目からのことが書けるじゃないか、と、編集者みたいなことを言うヤツもいるだろうが、そういう、「将来のこと」とか、「しとけばいい」ことを考えられる場所じゃないんだな、ここは。
ヒゲをはやしていたのが原因なのか、逮捕直前に分裂症状を引き起こしていたからなのか、おそらくその両方が原因で、独房にいれられてしまったため、留置場で培った、ヤケクソに元気な脳みそと、集団生活に慣れ親しんだ自分自身を持てあましてしまい、この11日間、本当に、気が狂いそうだった。
[#ここから1字下げ]
…………………
10月30日 "Liberty" Note
独居房的
革命的紙ヒコーキのつくり方
そういえば、入所して3日間、ボールペンもシャーペンも、本もなにもない状態で、ヒマをもてあまして困ったものだった。それで便せんを正方形に切って、1日じゅう折り紙をしていたのだが、なにせ1日じゅうである。一枚の紙を、折ったり広げたりして何回も使っているうちに、革命的によく飛ぶ紙飛行機の折り方を偶然発見した。2枚の紙を石けんではりつけて強度を高めたりして、いろいろ実験したが、寝食を忘れて熱中したものだった。もちろん、よく飛ぶとはいっても、窓から外へ飛ばすとおこられるので、そんな大それた実験はできない。3畳一間の部屋の、隅から隅まで、ス──ッと飛んでいったら、それはもう、記録更新が不可能な最長飛行距離なのである。いろんなモデルチェンジや、マイナーチェンジをして、主に3タイプ、50機以上を作った。うち、トイレの中へ墜落した悲運の機は5機を下るまい。
合掌
…………………
[#ここで字下げ終わり]
099
毎日毎日ずっとこれ。
この11日間、朝夕の点検以外、口をきいていない。
◇◇拘置所の日課◇◇
起床 7:00(平日) 7:30(休日)
点検 7:15(平日) 7:50(休日)
朝食 7:25(平日) 8:00(休日)
体操 10:00(平日) 10:00(休日)
昼食 11:50(平日) 11:50(休日)
体操 3:00(平日) 3:00(休日)
夕食 4:20(平日) 4:20(休日)
点検 4:40(平日) 4:40(休日)
安息時間 5:00(平日) 5:00(休日)
就寝 9:00(平日) 9:00(休日)
100
気が狂いそうだ。「気が狂う」ということを例として言っているのではない。実際に何度もドラッグで、「気が狂う」ハメに陥ってるし、ドラッグを使用しない時だって、突然、なんかの拍子でフラッシュバックして、平気で気が狂ってしまうオレが、自信を持って断言する「気が狂う」だ。
たとえ≠ニしてではなく、病理的な意味あいで、本当に気が狂ってしまいそう。
で、しかも今、オレの脳みそは1か月前にシャブで覚醒剤精神分裂病に陥ったばかりなので、狂いやすくなっているし、まあ、なれているから、それほど怖くはないんだけど、こういうところで狂っちゃって、どっかへ運ばれてくのは「イイ気分」ってもんでもないからね。
101
この11日間「先のことを考えて」とか「シャバに出てからいいように」なんて理由で、ノートだの、シャーペンだのくだらないものを買って、将来のことを考えるより先に、ビスケットだのチョコレートだのを、本能のおもむくままに買って、むさぼり食うことで自分の心を平静に保ってきた。
と、思っていたのだが……、今わかったよ。結局、オレを癒し始めているのは、ビスケットでも、チョコレートでも、大福でもない。結局、この、ノートとシャープペンシルだってことがね。大分、さっきより気が楽になってきた。文章を書いている時は、|文章書き《ライター》は一人じゃない。文を書いていると、独居房にいながら誰かと話をしている気がする。それが気のふれた感覚なのかどうかはおいといて、入所以来、初めてリラックスした気分になってきた。一人っきりの部屋で夜中にインターネットに接続している安心感と同じ心地よさ。
ノートとシャーペン──。もの凄いローテックな、サイコキネシス・インターネットだ。
ノートとシャーペン──。ローテック・サイコキネシス・インターネット。
まだ多分、思考方向がオカルトへ向かっているようだ。
102
通 知
貴殿のために、左記国選弁護人を選任したから通知します。
記
事務所又は住所 港区新橋*─**─*××ビル*階
国選弁護人氏名 佐藤××
電話三***局****番
平成七年一〇月二七日
東京地方裁判所刑事 一一部
裁判所書記官 赤星英夫
「おい、どうでもいい犯罪者、おマエが自費で弁護士つけねえっつんで、オレッチのほうで適当にみつくろってやったからよ、有難く思えよ───」
東京地方裁判所から国選弁護人選任通知が来た。オレにとっちゃ一大事だっていうのに、何の相談もなしにたった数行でお知らせしてくれるとはいい気なもんだ。
どんな男か知らないが、任命された弁護人の佐藤某、おマエにまかせたぜBaby。
103
イエ──────ッ!! ボィ─────ッ!!
[#地付き]フレイバー・フレイブ
最近、得体の知れない半神性の化け物に襲われそうになった時に心の中で叫ぶ、オレの好きな言葉。本当は、声に出して叫びたいのだが、おこられるので心の中で叫ぶ。
イエ─────ッ!! ボィ─────ッ!!
104
ノートを買えるのは1人2冊まで。訴訟用≠ニ自由筆記用=B
訴訟では、全面的に全敗するつもりなので、作戦をたてるためのノートは必要ない。必要なのは、ヒマつぶしに使う、「自由筆記用」のノート。時どき検閲されるのが逆にうれしい。最低でも1人、検閲官という読者がいる、ということだから。
留置場時代は、仲間がいたし、またその仲間が、
「拘置所はいいよ、甘シャリ──チョコレートとかビスケットとか、甘いお菓子の総称──なんて房の片隅に、食べきれないほど積んであるのよ。同じ房に不良《ヤクザ》がいたりすると、毎日5000円、1万円分と、甘シャリの差し入れが入るじゃないのー、だから、どの房にもお菓子があまってるのよう」
「5時になるとラジオが鳴って、仮就寝の時間になって、布団だって敷けるのよう」
「東京拘置所には3000人から人がいるから、運動場も、留《こ》置|場《こ》みたいな洗濯物干し場じゃなくて、ちゃんと|土の地面《クレイコート》の本格的な運動場だし、その時だけは、ほかの房の人とも話せるんだから、楽しいわよ──!!」
「雑居房は8人部屋だけど、元章ちゃんなら絶対うまくやっていけるって。むしろ、元章ちゃんの場合、留《こ》置|場《こ》で前科の多いアタシたちからいっぱい勉強してるから、向こういったら番長になれるかもよ※[#ハート白、unicode2661]」
「でも、番長ぶっちゃダメよ、相手は不良《ヤクザ》≠ネんだから」
「でも不良ぶってても、半分は、ニセ者なんだけどね」
なんてさんざん、拘置所はよいところ≠ニ教育され、刷り込まれ、期待して来たのだが、
イエ───────ッ!! ボィ───────ッ!!
サ、サギ師にダマされた。
なんのことはない、いざ来てみたら、カクーッ! 独居房になってしまったため、部屋には甘シャリもなし、運動もひとり、番長にはなるにはなったが、「一人番長」といった具合。
105
物品を買うのは、購入曜日が決まっている。そのためローテーションのせいで、入所12日目になって、オレ、まだコーヒー牛乳飲めていない。って、いったいもう、誰がどう責任とってくれるっていうんだ!!
そりゃオマエ、自分しかないじゃないか。くそ、だからよけいにムカつくんだよ。
106
移民の子が大統領になれる────。
アメリカンドリームとほぼ同じ意味あいで、拘置所に行ったらコーヒー牛乳が飲める、と信じていたのに、来週《ヽヽ》にならないと手にはいらない。
アメリカンドリームの終焉≠ェ体感でわかった。
107
入所以来12日、朝夕の点検、点呼の時に叫ぶ、自分の4ケタの囚人番号以外、ひとことも口きいていない。
108
PS 結局、誰とも口をきかない独居房の一人きりの状況は、1か月続いた。
109
今日、朝の「願いごと」の時に、うっかり食器洗剤《クレンザー》を「お願い」し忘れたので、一日三食とも洗剤なしのまま、水でプラスチックの食器を洗うハメになった。
「願いごと」これは、俗に「モーニングリクエスト」とも呼ばれ、看守先生様に「石鹸がなくなりましたですので、1個支給お願いしますです」とか、「歯みがき粉を使ってしまったですので、歯みがき粉──粉末の歯みがき粉──の給与をお願いしますです」と申し出る時間。当然、ラジオのリクエストではない。
タダでもらえるちり紙や、石鹸のほか、自費で購入する日用品や文具、牛乳も、定められた曜日ごとの「願いごと」の時間に用紙に記入して申し込むのだが、なにせ朝しか受けつけてくれない「モーニングリクエスト」なので、ド忘れしてると、不便な生活に甘んじなければならなくなる。
入所してすぐのころ、よくわからなくて、昼ころに、「ちり紙くれ」と言ったら、「バカ野郎、朝の『願いごと』の時に言わんか!」と怒鳴られた。初めてなんだから、そんなことわかるかっちゅーの、とも思ったが、まあ、看守様の仕事のペースを乱したことは事実だし、ひどく不機嫌に怒っておられたので、まあ、納得したことがある。
110
隣の房のイラン人が、夕食に出たザーサイを、何か得体の知れない肉の類だと思って騒ぎだした。イラン人にはイスラム教徒食≠ニして、豚肉を使っていない食事が用意されている。隣の房のことなのでよくわからないが、先日、自分の房の昼食に、ポーク生姜焼きが出た時には、代わりに、チキン胸肉のソテーのようなものを配られていたようだ。
「これは何の肉だ!」と騒ぎ出したところで幸いなことに、ヤツを割とよくめんどう見てやっている若い、夜担当の看守がやってきて、これは肉じゃない、中国の野菜の一種だ、と説明しだした。
「野菜? ウソでしょ」
「いや本当、ザーサイっていうの、ザーサイ! ザーサイ? 食べてみた?」
「うん、肉」
「ちがうってば、だから野菜なの」
「あ、そうなの、すいませんでした」
よかった。今、イラン人とやりとりした担当は、本当にいいヤツで、いつもイラン人のことを気にかけてやっている。もし、意地の悪い看守が来たら「大丈夫だから黙って食ってろ! いやなら残せ! 文句があるなら懲罰房だ」なんてなりかねない。
本当によかった。
111
隣のイラン人は、日本語はできるのだが、長い独房生活のためか、少し分裂症気味で、夜になると星に向かって何か手で合図、もしくは字を送っている。夕方以降廊下の照明が落ちると廊下の窓が、光と闇のため鏡状になるので、そこに映る姿を観察しているのだが、星に向かって交信しているなんて宗教儀式じゃなきゃ、気が狂っている。
112
拘置所の看守は、留置場の警察官と比べて格段に激しく厳しいので、「敵」として憎しみを感じると、留置場の前科持ち連中がさんざん言い放っていたが、そうは感じられない。
それが彼らの仕事ってもんさ。Baby! 看守は看守が仕事≠ネので、見張って、怒鳴って、違反者をつまみだす。もちろん中には、品性下劣な野郎もいて、個人的なフラストレーションから、囚人を見下しイビる看守もいるだろう。でも、そんな下劣なタヌ公野郎を憎んでも始まらない。それに、憎んだところで何もできない。
本当に嫌いなら、ここで憎まず、冷静にその男を観察し、シャバに出てから殺せばいい。
たぶん、殺人罪で8〜10年の懲役をかけられるだろう。
殺したってOK。ローンの後払いだ。憎いヤツを殺した代金を、10年ローンで返すようなもの。銀行員の理論で資本主義的殺人計画。
113
留置場にも、そこでしか使わない業界用語があった。が、より厳しく閉ざされた世界である拘置所は、その比ではない。日常用語がすべて業界用語。辞典でもなきゃ日常会話も通じない。
「あー願いごと。本日は官本交換。舎下げ宅下げも今、申し出ろよ。郵便下げなら郵券あるか?」
「ハイト───────!! 食器3枚、バッカンイチ!」
「白イチ」
「コ──────────ヒ──────────」
最初のセリフは、看守先生のものなので、威圧的な調子で読んでほしいが、その意味は、というと───つまり、
「あー、何か申し出はあるか? 今日は、拘置所で貸し出している本の交換日なので用意しとくように。部屋にある私物を倉庫のお前のロッカーにとっておく場合、もしくは、自宅へ荷物をもどす場合は、今、申し出ろよ。自宅へもどすのは、郵送か? だったら、切手あるか?」の意である。
「舎下げ」「宅下げ」といった言葉は、いまだにどっちがどういう意味かはっきりわからず、今も各部屋に置かれている『拘置所暮らしの手引き』を見い見い調べながら書いている次第。
「舎下げ」とは、部屋に置いておけない規定数量以上の下着やら本やらを拘置所内倉庫に置いてもらっとく措置で、「宅下げ」とは、シャバの自宅に戻す措置。あれ、それは「舎下げ」じゃなくて「領置」か、わかんなくなっちゃったけど、まあ、いいや。
「ハイト───」というのは、「食事を配当──くばりはじめます、準備してください」と、服役囚が叫ぶ言葉。「食器3枚!」とは今日は「食器を3枚用意してください」ということ。「バッカン」は、独房では使わない大きな四角い洗面器のような容器で、おかず8人分を、まとめてそこに、ごそっとよそってもらう特殊な器のこと。雑居用語だ。
「白イチ」=「牛乳ひとつ」。2日前に自費で注文しとくと午後の3時ぐらいに、服役囚によって配達される牛乳をそう呼ぶ。ただしコーヒー牛乳は「茶イチ」とはいわない。
「コーヒー」。これは、午前10時と、午後3時に、自費で購入したカップコーヒーやカップ紅茶に、ポットから熱々の湯を注いでくれる時の合図の言葉。長く、引くように服役囚が叫ぶ。基本的に、看守様は命令だけして実際には働かない。いや、失礼。というか、命令することが、「仕事」なのでそういった日常の身のまわりの世話は、すべて服役囚の掃夫《そうふ》がやってくれる。
ほとんどの拘置所用語は、長い廊下の端で一声で叫んで「使用」される。つまり、一部の例外を除いて看守様や、掃夫の服役囚たちは一房一房訪問して尋ねてくれるわけではないので、遠くで叫んでコダマしても全房に言葉が伝わるように、超短縮系の言葉が多用されるわけだ。たとえていえば、うーん、そうだな、陸上競技のスタートの号砲≠ンたいなもの。イチイチ説明しなくても、ヨーイ、ドン!! で全員一斉に走り出さなくてはならない、すべてがその要領。運動会と違うのは出遅れれば怒られるとこ。
114
一番傑作なのは、
「カイカ─────────ン、ホ─────────チキ───────」
というヤツ。最初、なにが「快感」なんだかわからなかった。とにかく気持ちよくなんなきゃおこられると思ってアタフタしていると、もう一度、しかも、
「カ──────ン、ホ─────キ───────」だって。
これの意味、知りたい? 答えはまたあとで、なぜなら今、そのカイカン、ホーチキの叫びが聴こえたから。「報知」しなければ。
115
今、缶からプラスティックの皿に移したサバの水煮を食いながら書いている。この「自由筆記」のノートに、サバ缶の生臭い汁がついてロールシャッハテストみたいなシミが広がっていく。リアルって、こういうことかな。
あー、「カイカン、ホーチキ」とは、
「缶詰のフタを開けてもらいたい人は、各部屋についている報知機のボタンを押してくださーい」
という意味。「快感」じゃなくて「開缶」でありました。
「缶切り」などという凶器にも、武器にも、自殺用具にもなる危険でおっかない刃物ものは、もちろん我々は持たせてもらえないので、いつも看守先生立ち会いのもと、服役囚の方に開けてもらっている。当然、空き缶はその場で回収される。これは、拘置所の所長が、分別ゴミとかリサイクルとか地球環境とかに興味を持ってる生ぬるい市民運動家、だからではなく、空き缶が凶器や武器になって危険だから、という理由が1000000%。実に単純で明快な理由じゃないか。
で、缶詰を開けてもらいたい人は各部屋についている、「報知機」を押すのだが、「機」つったって、電気仕掛けじゃないよ。ゼンマイもバネもモーターもICもついてないんだから。
ボタンを文字どおり、人力でグッと押すと、その力で壁の隙間にはめこんであったちっちゃなプラスティックの板が、カターンッ! てな具合に廊下側に倒れる、って、それだけの「機械」ですよ。想像を絶する簡単な仕掛けなので、最初「あー、この報知機≠ヘ、何か特別の時に押すように」と看守様に説明を受けた時はさすがにアキレたが、今は、慣れた。ラジオのスイッチ以外では、部屋のなかにある唯一のいじって動かせるスイッチでもあるし愛着がわいてきたのかもしれない。え、あ、もち蛍光灯のスイッチはないですよ。
116
一日3度の食事の度に使う食器は、日陰で咲く向日葵《ひまわり》みたいなくすんだ悲しい黄色。初めてこの房にブチ込まれた時から、すでに食器たちはホコリをかぶりつつ房内の片隅に放置されていた。プラスティック製の大皿1枚、小皿1枚、お椀2個、箸1膳。それが自分専用としての一式だ。拘置所に暮らしている期間、ずっと使い続けることになるらしい。
箸は、木製で、エンピツみたいな安い塗りがほどこされている。まあ、これは、いつか折れるとして、食器は、もう、何年、いや、10年以上使われているのではないだろうか。
いったい何人の犯罪者が、この皿と椀に唇をつけて通りすぎていっただろう。死刑囚もいるかもしれない。間接キス。数多くの因業犯罪者たちが、怨念を抱きながら使い続けてきた食器というのは、まるで、斬られた人の怨霊が日本刀に宿り、持ち主を狂わせていく、という昔話の呪いの日本刀≠ンたいで味わい深い。どうだ、恐ろしいか!! ううん、全然。だって、目の前のくすんだ黄色の食器に、全く迫力が感じられないんだもの。
そういうわけなので、呪いの日本刀というよりは、「使い込んで、ほどよくボロくなった犬のエサ皿」のようで、今ではすっかり愛着がわいてしまった。
117
夕食後───。
限られた予算と人員、数多い制限のなかで作られている尊いお食事に文句を言うつもりはさらさらないが、あの、焼きうどんについては、ちょっとひとこと言わせてもらいたい。
と思ったが、それはやめてきゅうりの手づくり浅漬けについてにしよう。なぜなら、焼きうどん、について書き始めると、あの味に対しての叫びたくなるような不満がペン先からあふれだし、そんなものを残さず食べて腹を満たしている今の自分自身に腹が立ってきそうだから。現にそれは今、腹の中に入っているのだ。
そ、そうだ、浅漬けのきゅうりについて書こう。浅漬けのきゅうり! あれほど種が立派に成長したきゅうりを初めて見た。米粒よりも大きな種がいくつも入っている。収穫が遅れたのか、得体の知れない成長ホルモンを注射したのか、奇形なのか、だから安かったのか知らないが、どっちにしろ巨人症のきゅうりであることは間違いない。身がスカスカするのはいいとして、水っぽさと種の大きさが少し不気味なきゅうりであった。しかし、なるほど、きゅうりというのは、メロンやスイカやうりの仲間だったのだなと、大きく成長した種を見て改めて思い知らされた。すごくためになった夕食だった。
118
朝、起きて掃除をすませると、独房が50室並んでいる長い廊下の端のほうから、
「ンカアアアアア────────────────────イ」
[#この行1字下げ]「テケヨ────────────────────────!!」
「ンカアアアア──────────────────────イ」
[#湖の行1字下げ]「ケエエエエエ───────────────────ン!!」
という叫び声がこだまのように聞こえてくる。もちろん、我々未決囚ならびに、掃夫──我々にメシを配ったり、庭木を切ったりする、東京拘置所に服役する囚人──が朝っぱらから叫び声をあげたら、ブッとばされるので、叫んでいるのは看守様である。
何と言っているか、一応日本語だが、翻訳すると、
「3階、点検用意!」
「3階、点検」
意味は「3階の拘留者!! コラ、テメエら、点呼をとるぞおら、バカ者!!」である。
と、これだけのことなのだが、最初はとにかく聞きとりにくい。担当看守様、もしくは少しエライ警務官が、一日に朝夕2回、長い廊下にずらっと並ぶ房を一房一房のぞきながら巡視するので、囚人|側《サイド》は、正座してそれを待ち、順番がきたら自分の番号を叫ぶのだ。
「1703番!!」大声で叫ぶ。
もちろん、見張り窓の前に整然と正座し背すじを伸ばしてである。服装も、ある程度整えないと、「バカ野郎!! パンツ一丁とは何ごとか! この野郎 バカ野郎!!」と、すごい見幕でマジで怒鳴られるので、おっかないったらないのだが、自分の番号の数字を大声で叫べるので、気持ちがいい。大声を出す機会っていったら、一日でコレっきりしかないからだ。
「ケ─────ン」と叫ぶ看守様の声も、なるたけ、張りがあってよく通ると、こっちもやりがいがあるってもんだ。本来、あくまで「点検用意」と「点検」という言葉なのだが、リズム&ビートが大切だ。8バズーカのデカイ音で、すべての房の鉄格子がミシミシ震えるまで、ヤケクソに声を響かせてほしい。
「点検」の「点」を省略して、「ケ────ン」と叫ぶ看守様もいるが、律義に「テンケーン」と、小さく「テン」をつける看守様もいる。そのへんは流儀の問題だろう。どっちかっていうと、「テン」がついてないほうが、リズムがあって好きだ。
今でこそこんなこと言ってられるが、入所してすぐのころは、夕方になっていきなり、「ケ────」なんて聞こえてきたものの、何を意味しているのか全くわからず、フラフラしててひどく怒鳴られた。それでとりあえず、「ケ────」という声が聞こえたら「正座して座る」と犬のように号令の音質に従うことにしていたのだが、入所2週間目を迎え、やっと、ああ「点検」と言っていたのか、と理解した。ヒヤリングも上達した模様。
119
日曜日は、ほぼ一日じゅうラジオがタレ流しだ。
9時から11時までは15分間の体操をはさんでTBSラジオ『源さんの日曜日』、昼食中は一時中断して、ニュースのあとにやってくるのは昼の『NHKのど自慢』。なんですか、あれは。不愉快である。いかにもNHKが仕込みました、という田舎の素人衆の演芸がカンにさわるのはもちろんだし、その演芸に、これみよがしに手拍子で喜ぶ会場の客の反応もさらにムカつかされる。しかしなにより、それ以上に立腹するのは、そんな低レベルの大衆娯楽番組を、ムカつきながらもヒマにまかせて、じっと聞き入っている自分自身の今の状況だ。気づくと、今日などは、おきまりで登場した、元気と明るさがとりえの、慎みと歌唱力が大いに欠落した若者、つまり明るくてヘタでバカな若者の調子っパズれな歌を聴いて、はからずも笑ってしまった。しかも、声に出して。
これはゆゆしき問題である。
そのマヌケな笑い声を誰にも聞かれない独居でよかったよ。いや、雑居の場合、それぐらいで笑ったほうが、協調性がある者として生活しやすいのだけど。それに、独居とはいえ、あの笑い声、一番聞かれたくない自分に聞かれてるではないか?
こういうひとり問答はやめよう。毎日やってると気が狂うぞ。
120
朝、目が覚めたら、腰が無茶苦茶痛かった。入所以来、ほぼ連日連日、弾力も何もない薄いスポンジの座布団一枚の上に一日じゅう座ることを強いられて、昨日あたりから、少し腰が痛かったのだが、今朝からは激痛だ。だからといって、起床から夕方5時までは、許可なく横になったり、用もなく立ち上がっていると怒鳴られるって仕組み。ちなみに横になる許可なんて、絶望的にもらえない。
起きてから、しばらく動けないほど腰骨のあたりがキシんで、布団をたたむのも手間取った。10秒で上げ終わらなくては、そのあと続く、掃除─洗面─点検に間に合わない過密スケジュールだというのに。
それでも、規則どおり、一日、座り通さなくてはならない。
午前と午後の一日2回ある「体操」の時間には立ち上がってもいいので、その時間、体操は無理でもせめて腰を伸ばそう、と単に起立して腰を伸ばして窓の外を見ながらリハビリを図っていたら、巡回してきたデブの看守に「体操しないなら座ってろ」と怒られた。
くたびれるよ。
121
朝、掃夫が回ってきて「布団乾燥です」と言った。「布団乾燥」ってことは、布団をどうにかするんだろうが、いったい、何をどう準備すればいいのか。
掃夫の連中は、もちろん表向きはすっかり看守の下僕化しているので、労働に対してテキパキ従順によく動いているのだが、元々が違法行為でパクられるような悪党なので、こう、サービス業のなんたるかを全く心得ていない。中国に行ったことはないけど、きっと国営人民ホテル的サービスってのは、こんなんじゃないのかね。
仕方ないので、何もせず待っていると、もう一回掃夫が回ってきて、
「初めて? 布団乾燥?」
と聞いてきた。
「うス」と答えると、
「布団を乾かすから、2つ折りにして、廊下に面した食器口から出しといて」だって。
廊下側の窓のところに、食事を盛りつけてもらう時のためのちょっとしたカウンターと窓口がついているのだが、そこから布団を出せっていうのか。
窓口つったって、15×40pの細長いイイ加減な窓口なんだぜ。
ところがだ! 布団を2つに折って食器口に差し込むと、ピタリとサイズが合うってわけ。この設計を考えたヤツは、建物だけじゃなく、食器のサイズ、布団のサイズに至るまで、生活全般をトータルにcm単位でデザインしたのか? だとしたら天才だ。
[#ここから1字下げ]
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11月4日 "Liberty" Note
字あまり俳句会
みのもんた
の
ラジオを聴いて
人生いやになる
土曜かな
おまけにBGMは「17歳の地図」
尾崎豊ときた
ラジオなんつうもんは、往年の名番組、『ビートきよしの元気が出るラジオ』に象徴されるように、残念ながらあってもなくてもどうでもいい、まあ、出てるヤツもテレビ不適合者か、もしくは圧倒的に手を抜いてやってるテレビ適合者か、ラジオでしか才能を発揮できない不憫な天才のいずれかであるが、「みの」ほど露骨に手を抜いてる者もめずらしい。元々、ラジオ出身者だから、ラジオなんて楽勝であるというあなどりがある。それがこの驚嘆すべきいいかげんな番組づくりに直結しているのはいうまでもない。
それでも、手を抜いて抜いて抜きまくっても、そこそこ番組の体裁をつくってしまう腕前に、みのの人間性を見た。
みのもんた万ざーい。
…………………
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
STEP(9)食う、寝る、運動する
122
シャバにいた時には気づきもしなかったいろんな自由が毎日見つかる。この5分間で、気づいただけでこれだけある。
電話をする自由
のどが渇いたら炭酸水を飲む自由
ソファーに横になる自由
背伸びをする自由
全力で走る自由
女のコにウインクする自由
地下鉄に乗る自由
誰かと一緒に笑う自由
立って歩く自由
ケンカをする自由
鼻歌を唄う自由
友達をつくる自由
シャワーを浴びる自由
口ごたえをする自由
料理を作る自由
夕焼けをボーっとながめる自由
カレーライスをおかわりする自由
猫をナデる自由
星を見る自由
カゼ薬を飲む自由
昼寝の自由
ギネスを飲む自由 しかも酔っぱらうまで
飲んで寝込んじゃう自由!
自由を叫ぶ自由!!
もっともっともっと、ここには書ききれないほどほかにもたくさんあるあるある、あるとも!! こんなにもたくさんあるかってくらい、シャバには自由があふれてたのか、クソッ、どうして気がつかなかったんだろう。ま、たぶんその有難みも今だけで、シャバに出れば忘れちまうんだろうけどね。
123
先週から申し込んでいた新聞が毎朝夕、届くようになった。新聞は、月単位で、「読売」か「朝日」のどっちかを有料で取れるのだが、改めてよく読むと、新聞ってのは一見大切そうで、その実どうでもいいような記事の集まりだ。どうでもいいトピックスに、どうでもいいエッセイ、そのとどめはもちろんどうでもいい1コママンガにつきるが、結局、残りのほとんども、やっぱりどうでもいい。
新聞を見てるとわかるよ。
世の中って、あきれるくらいどうでもいいことだらけなんだな。
124
週3回、大雨や台風の日を除いて、屋外運動場≠ナ、「運動」が行われる。
雑居房の拘留者は、四角い広い運動場に、何十人も同時に解き放たれ、「勝手に運動せえ!」と広い空間を動きまわるすばらしい自由を与えられるらしいが、独居房の囚人の「運動」の基本は、あくまでひとりである。
しかし、15日間に一度、グループ編成があって、特殊な思想信条を持っていない者同士は4〜6人ほどのグループを組むことになる。特殊な思想、信条とは、つまり左翼、右翼、またはオウムといった人たちだ。
オレは特殊な思想信条の持ち主ではないが、なんか知らないけど、いまだにグループ運動に編入させてもらえず、いつもひとりで運動の時間を過ごしている。
運動場は、めったにお目にかかれないかなり、特殊な「運動場」だね。
大きさは、タテ15歩、最大横幅5歩、入り口地点の開口部1歩弱といったかなりのミニサイズ。1人あたりの総面積4畳半ぐらいだと思うけど、そんなに広くないかもしれない。
最初見た時は、
「こ、これが運動場!? いったい何をどう運動≠キればいいのか……」と自失した。
「運動」の時間はキッチリ30分間あるのだが、確かに、初めのころは何をすればいいのか困った。もちろん、ボール、縄とびなどないし、アメリカの刑務所のように、アスレチックジムなど夢のまた夢だ。
でも今は、とても満足している。
午前中が「運動」になった日は、太陽の光を浴びて、15歩も連続してまっすぐ歩くことがなによりうれしい。
ただ、あまりうれしすぎて、狭い個人運動場をくるくる歩きまわったりすると、狭すぎるもんで、目が回ってしまう。比喩ではなく、本当にだ。
だから、退屈な時は、自分一人でバスケをやる。相手チームもボードもボールも全部|空想《エア》だ。パスをもらいステップを踏みジャンプ!! YEESS!! 空想《エア》ジョーダンの信じられない超低空ダンクシュート!!
空想のなかですべての得点をオレがキメ、すべての失点もオレのもの。看守は単なるキチガイを見るような目でオレを見ているけど、かまうもんか。
しかし、なにしろオフェンスもディフェンスも全部一人でこなさなくてはならないので、30分もやるともうヘトヘト。
で、結局、それで最近はバスケの試合は中止にして、
右に15歩、
左に15歩、
と、行ったり来たり、単に歩くことを繰り返す、という日課になっている。
「右に15歩、左に15歩」×30分。ここに来てから「運動」という概念を改めて考え直してしまったよ。
|街の《シヤバ》感覚では、「エアバスケに15歩往復散歩、そんなことして、何が楽しいの」と思うだろうよ、きっと。でも、本当に、気分は最高なんだって。地面は本格的な土《クレイ》だし、空は見えるし、今、紅葉ってほど大袈裟《おおげさ》なもんじゃないけど、葉っぱが茶色になって空中をヒラヒラしたりしてるんだぜ。
ま、最近はちょっと、それを見るのにもアキてきて、実のところ、自分でも、「何が楽しいのか」よくわかんないんだけど、それでもやっぱり気分がいいな。
125
拘置所では、いろいろな缶詰が買える。シャバではのら猫も手を出さないような、どうでもいい保存食缶詰≠アそが、拘置所内の食文化を鮮やかに彩る素敵なアイテムなんでね。
◇◇メニュー◇◇
ソーセージ缶 389円
サケ缶 340円
サバ缶 180円
イワシ缶 130円
ミカン缶 195円
焼鳥缶 130円
肉大和煮缶 323円
小豆缶 154円
桃缶 350円
パイン缶 278円
貝柱缶 710円
イカ缶 275円
福神漬缶 240円
赤貝缶 143円
「缶詰は缶詰、拘置所で食おうと、シャバで食おうと同じもの」などと無粋なことを言ってはならない。拘置所内の缶詰はガンジャをキメてるわけでもないのにやけにうまい。また高い。400円なんて、シャバでは、はした金もいいとこなのに、ここでは一回の食事のメインディッシュになる。その400円のソーセージ缶を「開けよう」と決心した前日の夜などは、もう、うれしくてうれしくて眠れないほどである。モモ缶など、我々庶民には高嶺の花で、買うのも恐れ多い。
ザ・キング・オブ缶詰、特にグレードが高いとされているのが、魚系ではサケ缶。
値段も340円と、サバ缶の180円に大きく差をつけている。このサケ缶、使っている魚は、もちろん紅鮭など本物の鮭ではなく下級魚のカラフトマスではあるが、カラフトマスといっても、サケ属サケ科に属するもので血統は確かだ。缶のデザインにも、大きくサケの絵が描かれなかなかの風格。
≪貝柱缶≫710円というのもあるが、生ぐさいホタテの水煮のために710円はいかにも贅沢なので購入しない。雑居房では、金持ちの不良《ヤクザ》は貝柱缶、一般人はサケ缶などと、自分で購入した缶を出しあって、配給された夕食とアレンジして、貝柱シーフードサラダ雑居風≠ニか麦米《バクシヤリ》とホテイのやき鳥缶を混ぜた囚人のきまぐれやきとりごはん釜めし風=Aサケ缶とのりを使った手巻きずし獄中風≠ネどとさまざまなオリジナル料理を作って楽しむらしい。
ミカン缶やモモ缶、パイン缶を持ち寄ってMIXして、フルーツポンチ拘置所風≠作るのは、もう何十年来の東京拘置所の風習である、と留置場時代、前科4犯のサギ師が言っていた。そういう、「男の食菜」的なクリエイティブな楽しみがないのが独居の淋しさであるが、その気になれば、同時に3つでも4つでも缶を開けてもらい、全部ひとり占めして本を読みながらつっつけるってのも、独房ならではだ。
もっとも、拘置所的な質素な暮らしをしていると、3つも4つもの缶詰を同時に開けちゃうなんて、そんな大胆な贅沢はおそれ多くてできない臆病者になってしまうのだ。
今、4つの缶詰を同時に開けて一人でつついている自分の様子を思い浮かべてみたら、それだけで怖じ気づいた。
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深夜、遠くで海猫の鳴き声がした。もしあれが海猫だとしたら。
ミュ──ッ、ミュ──ッ。
127
≪手紙≫ 拘置所における石鹸の考察と2、3の事柄
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前略、山本某君。君は元気か、こっちは元気だ。
あー、先月半ばに、収容されていた施設から引っ越しがあって、現在自分は、以前キミと会った時よりもさらに専門的に様々な機能を持つ、特殊強制収容施設に在監しているわけだが、あー、現在は、独居房で、一人寝起きをしていると、そういう具合である。
あー、独居房というのは、3畳ほどのスペースに、もう、ツカサのウィークリーマンション以上のあらゆる機能がコンパクトにまとめられた、まさに収納革命の牙城ともいうべき部屋で、入所以来20日間を過ぎ、すでに、この3畳間に、愛着まで抱いている次第。ただし、電話、FAXといったものはない。
こちらの生活は、はじめこそ独房ということで、ガクーッ、と面食らい、話す相手がいないので、仕方なく、右手にくつ下をかぶせてヘビ≠ニして、そのヘビと腹話術で会話などしていたが、今はもう慣れきって平和そのもの、もうこのまま誰とも喋らないで一生やってけるんじゃなかろうかと思うくらい、強い精神力を手にいれた。
隣近所もみんな一人暮らしだが、あー、大久保の時住んでたマンションのように、外国人が多く、夕暮れ時になると、隣のイラン人のコーランの声なぞ聞こえてきて、それが情緒というもので、ここは、「秋」という季節がふさわしい別荘だよ。
こちらの生活で特筆すべき点といえば、そりゃまあ、すべてが特筆すべきことだらけでうれしくなっちゃうんだが、今さっき、一人きりの「運動」を終えてきたので、そのことでも報告しようか、と思ったがやっぱやめて、石けんについて語ろう、友よ。
ここで無料《タダ》でくれる石けんは、HAMAローズ≠ニいう、横浜刑務所内で昔ながらの製法で作られているものだが、一般には市販されていないのがおしまれる逸品である。
普通、花王でもライオンでも、石けんというものは、清潔感とかマイルドさを演出するために、白とかピンク色をしているもんだが、HAMAローズ≠ヘねずみ色。見事な灰色ですよ。香りは、こう、ロウというか、なんかの油脂の臭いがたちのぼる微香性で、とてもよくぬめるのも、やはり特徴といえるであろう。
泡立ちは、もちろん全然よくなく、手の中で、こすればこするほどぬめり続ける。そして、水切れはもちろんすばらしく、いつまでもぬめって流れない。だけでなく、石けんが流れおちた後は、手からほのかな異臭が立ちのぼるという、これは、もう銘品ですよ。まさに、戦前の手づくり石けんの味。
こんなところに、小さな「戦前」を見つけて、なにか、ふと、うれしくなって、朝日新聞の「声」に投書しちゃおかなと、そんな気分になったほどだよ、山本君。土産に1個持って帰りたいが、無理だろうな。キミも、近い将来、こちらの施設の中に入った際(面会じゃダメだと思う)には、この昔ながらの石けんの感じを味わってもらおう。
味わう、といえば食事だが、これは、うまいものがあるよ、けっこう。
先週の日曜日に出たもつ煮、本日昼のにしん塩焼き、昨日夕食のけんちん汁などは、「ほーう」と舌つづみを打つうまさ。また、日曜日の昼食は、いつもより一品多くて、しかも心もちごちそうなのでうれしいのだが、昨日の日曜日、コーヒーが出た。いつもみそ汁をついでる椀に、香りもないぬるい、甘いだけのコーヒーが1杯出ただけなのだが、この、なんと甘美なおいしさよ。正直言って、シャバの人間が、単にここのメシを物理的に食っても、その味覚の本質まで到達できないであろう。ここに住み、ここで暮らす者のみに、ここでの食事の是否はいえると思うし、ここでの基準をそのままシャバに持っていって正しいかというと、どうもちがう気がする。しかし、まあ、おいしい。
ちなみに、同じなべで作ったものを、三浦和義氏や、宮崎勤氏らも食ってるわけで、まさに同じ釜のめしを食った関係。以前、シャバで、単なる他人事の事件としか思えなかったあの事件の主人公たちと、こうして同じ住所に住み、同じなべのみそ汁を飲んでると思うと、不思議な縁を感じるわけだ。といっても不思議でも何でもない。単《ヽ》に犯罪者になったというわけだがね。
あー、時に山本君、今、自分は、しるこサンド≠ニいう自費で購入したビスケットを食べているのだが、君は、しるこサンド≠ニいうビスケットを知っているかね。
しるこサンド≠ヘ、我々未決拘禁者が自費で購入できる(これを自弁購入という)唯一のビスケットなわけだが、コレは市販されてるようなので、食べてみればいかが? オレはしるこサンド≠、ここに来て初めて知ったが、ホント、石けんひとつ、ビスケット一枚といったものにまで、ここにはシャバではお目にかかれない違う世界があるってことさ。
住みにくいわけでも、住みやすいわけでもない、まあ、住んでるんだからそれはそれで住めるってことだ、という、まるっきりシャバにいる時に世間とか世の中に感じる感想と同じような住みごこちだよ。
それでは。ばーい。 Adios!
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]石丸元章
128
今日は一日じゅうやけに気分がよかったので、十数時間というもの、懸命にノートに向かって文を書き続けた。その字数は相当なものになるのだが、次第に手の動きがせわしくなり、字が乱れ、最後の数時間は、単に神経の痙攣《けいれん》の勢いを文章にして転写していたにすぎないことが、そのノートを満足げに読み返した今わかった。気分は「いい」んじゃなくて「最悪」だったんだ。
ほとんど何を書いているか判別がつかない。吸い込んでいる拘置所の空気が、神経組織を麻痺させてしまう。この部屋の空気には、苦痛とか苦悩とか喜びとか、あらゆる感情を殺して、いや、仮死させてしまう、薄い薄い麻酔薬が微粒子となって混入している。
今、最高に、低いテンションで気分が高ぶって手が震えている。クソッ!! 今オレの目の前に原稿用紙と1gのスピードがあったら、思いっきりメロウなリズムで、ロクデモない妄想に沈み込む姿を、デタラメを生かした高度な技術でうんとビシっとハイに書くことができるのに。なのに、ちくしょう! 沈みもせずに現実のドロの中で、どうしようもない現実に直面してしまっているよ。
もうすぐ消灯だ。電気が消えたら、何をすればいいっていうんだ、クソったれ。独居房で暮らしていると、「あきらめ」と「ヤケクソ」が3分おきにもの凄い勢いで襲いかかってくる。ニュートラルな自分ってのがほとんど持てないんだ。
129
≪手紙≫ 拘置所で発見したたらこふりかけ≠フ味わい、その衝撃について。
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また、食いもんのこと書くけど、いいかな?
たまに食事に出る、たらこふりかけ、もちろん、1人分ずつ小袋に入ってるとか、ビンに入ってるとかいう気のきいたもんではない。プラスチックの皿の上に、しゃもじ1杯分をザザーッ、とバラまかれるだけのシロモノだ。よって、皿がぬれていたりすると、麦シャリにかける前に水に反応して溶解してしまう。別にそれでいい。ふりかけ≠ネんざ、まがい物だ。本当のたらこ、焙ったばかりの香ばしいたらこの代用品それがたらこふりかけ。ニセ物、インチキ、サギ。シャバ時代より、とかくふりかけを軽んずる傾向のある私は、初期のころ、これを頭から小馬鹿にしてかかっていた。だから、ここでもほとんど捨てていた。
東京拘置所に来て、残して捨ててたのは、かぼちゃの煮つけとふりかけだけである。
しかし、捨てていたその瞬間も、残飯として回収されていくふりかけがやけに香ばしい、いい香りを放っていて心の中で「おや?」とは思っていたのだ。しかし、「所詮、ふりかけなんざ」という、私の慢心と事の本質を見抜けぬ人間性の弱さが、自分の味覚を鈍らせていた。
あれは確か3回目、イヤ、4回目にたらこふりかけが出た時であろうか。理屈では否定しながらも、その香ばしさの記憶が鼻孔の奥の奥に残っていた私は、麦シャリにタップリとのせ、ゆとりを持って吟味しながら咀嚼《そしやく》してみた。うまい。焼きあげたばかりのたらこの風味が生きてくる、私は無我夢中でたらこふりかけをメシにかけ、食べた。3口目、4口目。うまい。本当にうまいのだ。
そして私は、ある思いつきをし、箸を置いて目の前の、たらこふりかけのかかった麦めしを凝視した。せつな私は、残りすべてのたらこふりかけを麦シャリの上にのせ、配当でもらえる番茶を注いで、たらこ茶づけを作りいっきにのどに流し込んだ。案の定だった。焙ったたらこを大量にのせたかのような、実に香ばしく、しかも力強い味の、本物のたらこ茶づけ≠ェそこにあった。
うまかった。
たらこふりかけは美味だ。丸美屋か? シャバに出ても食うつもりだ。
もしもオレが死んだら、墓前にたらこふりかけを供えてくれ。
[#ここで字下げ終わり]
130
毎日、夕方になると部屋のスピーカーから吹き出してくるラジオ番組、NHK『夕べの広場』はいい。
いかにもNHKのアナウンサーというパーソナリティーが、せいいっぱいラフなギャグらしきトークを、正確な発音と見事な滑舌《ヽヽ》で聴かせてくれる心温まる番組だ。大半はリスナーのハガキで成り立っているのだが、関東ローカルなのだろう、港区や新宿区や世田谷区からのハガキが続々読み上げられる。「道端のしゃくとり虫を30分も見入ってしまった」とか、「25年前、主人と初めて観に行った映画の主題歌をリクエストします」といった内容なのだが、毎日、毎週聴いていると、そのほとんどが常連投稿者であることに気がついた。
『夕べの広場』。
すごい広場があったものだ。電波の上にしか存在しない、しかし確実に「東京」に存在する幻の広場だ。地上げしようとするヤツもいない発見されない広場。
131
東京拘置所には、1000以上の独房がある。夕方になると、囚人の入っている房の窓がいっせいに灯りだすので、窓明かりの数だけ収監されているだろう見知らぬ悪党どものことに思いがめぐる。いったいヤツら、何を考えて今、この時を過ごしているんだろう。今日みたいに風の強い日はなおさら窓明かりが光って見える。
1000より多くの窓明かりの下で、自分の運命を呪う連中が、群青色のため息を洩らす。ぶっ──と、喉に開いた穴からガスを洩らすみたいな音で。
風の強い日の夕方、拘置所の敷地のなかでは、行き場のないため息と持ち主から見放されたひとりぼっちの運命≠ェ、忍び込む独居房をさがして窓のすきまをガタガタ鳴らす。
132
いまだに裁判日が決まらない。「国選弁護人が決定した」というハガキが来てからだいぶたつのに弁護士の野郎は接見(面会)にやって来ないし、手紙もない。先が見えなくてイヤになる。
拘置所の独居房で、一日じゅう座り続けて、本を読むかノートを書くか、空想に耽《ふけ》るかという空白の毎日が、もう1か月近く続く。これが、もう、死ぬほどめちゃくちゃ、疲れる。「ボーッと」なんてそう何時間もしてられるもんじゃない。ボーッとしていると、つい、このまま、気が狂うんじゃないか、というものすごい恐怖心に襲われてしまい、ロクでもない心配事ばかりをいろいろ考えてしまうのだ。それがイヤで、本を読み文を書く。つまり逃避だ。これは、オレが、覚醒剤で神経と精神をやられているせいなのか、独房の拘禁者特有のある種の症状なのかはわからない。
はっきりしているのは、日々、夕方になると猛烈に、疲れきってしまうこと。
最大の努力が「じっとしていること」。これは本当につらい。
[#改ページ]
STEP(10)監獄生活極楽道
133
隣の房の精神をやられちゃってるイラン人が、窓に、
(図省略)
と書いている。
最初は、日本語かと思い、次に、ペルシャ語かと思ったが、ここ数日観察して、やはり何か矢印のような文字を書いていることがわかった。窓鏡≠ナ、うっすらとしか見ることができないのだが、確かに矢印文字だ。表情も、うすら笑っている。気が狂っている。
いや、そんなものを毎夜何時間も観察しているオレのほうが変なのか。
ううん、2人とも、キチガイなのかもしれない。うわ、出た、一人ボケつっ込み。
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今日、藤沢周平の『蝉しぐれ』を読んでいた。一人の武家の成長物語と、秘剣≠めぐるミステリーがからみあったいい|お話(物語)だ。文のリズム、言葉のシンフォニーもたまらないのだが、その本の途中に誰かがいきなりエンピツ書きで、
「秘剣≠フハズなのに、なぜその内容が敵にバレていたのか、何の説明もない。それは納得できない」と書いていたのでビックリした。
全くそのとおり。ホントにそのとおりなので、思わず声を出して笑ってしまった。拘置所の連中は、ヒマにまかせてみんなよく本を読むので──しかも真剣に──その書評能力はバカにしたもんじゃない。
この間読んだ、ぴいぷる社というところから出てる『シャブ屋』という本に「覚醒剤の呼び方」みたいな項があって、「シャブ、ブツ、ヒロポン…」などと活字で記されている隣に、あきらかに複数の人間が、エンピツで、「ネタ」「モノ」「S」「スピード」など、それぞれの筆跡で書き加えて、本を、よりリアルなものにしていた点も見逃せない。今書いているこの文章が本になるとして、官本として拘置所の中を巡ったら、何を書き加えてもらえるだろう。
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ここに移ってきてから随分とたって、やっと爆発頭の女房が面会にやってきた。場所がらをわきまえて、今度は観光気分のモデル友達と一緒だ。面会人は一度に3人まで許されることになっている。
「うわー、留置場よりも、もっと本格的だねー。『土曜ワイド劇場』みたい」
女房は白いファーのエリのついた革のコート──見たことのないヤツ。オレのいぬ間に買ったのだ──を着てハシャイでいる。相変わらずだ、新しい場所を見物することがうれしくて仕方ないという様子。
「キャ──! すごーい、こんなの初めて──」モデル友達の女が嬌声をあげた。
「こっちも初めてだっつーの」と言いたいのをガマンした。
女房は、友達のモデル女とふたりして目を丸くして大喜びだ。やっぱりモデル連中は無邪気でカワイイ。こういうシンキ臭い場所ではモード系モデルが時おりみせるフラクタル理論もまっ青のどうでもいい笑い顔が抗鬱剤の用をなす。それにしても女房のやつ、留置場から拘置所に移って、すぐに面会に来てもよさそうなのに、30日以上もたって、ようやく1回目の面会とはどうなってんだ、いったい。
「ねえねえ、中の生活ってどんなですか?」
バカそうなモデル友達が、うれしそうに聞いてきたが、規則によって拘置所のことは、部外者に喋れないことになっているのだよ、大バカ。理由はわからないがだんだんムカついてきた。
オレは最高に笑いたくない時にわざとしてみせる、こまったような最悪の笑顔をバカモデルに見せてやったが、たいがいのバカモデル同様、その女も、笑顔の意味がわからずキョトンとしている。人の顔の変化ぐらい読みとれ。すぐ隣で、本格的に会話を記録している看守様のほうを見ると、ジロリとこっちをニラミ返してきた。「中のことは喋んなよ」という意味だ。人の顔ってのは、こう読みとらなくちゃ。バカ。
「いやー、辛いことは辛いけど、でも大丈夫」どうでもいい返事でお茶をにごす。
隣でニコニコしていた爆発女房──今日は髪形は爆発していない──が言った。
「いそがしくて来れなかったの、ごめんね、さびしかった?※[#ハート白、unicode2661]」
本当は、ここに移って2週間たっても、面会どころか手紙一通来なかったので、それ以来、10日以上、毎日毎日、「お前を殺してやる」という手紙を女房あてに書き続けていたのだが、それを投函すると検閲の看守様に、「それは脅迫罪だ」と怒鳴られるハメになるので、投函はしていない。
そんなことは知らない女房に、ニッコリとうんとスウィートに、
「ううん、大丈夫」
とひとことだけ答えておいた。ムカついていたので、これ以上話すと、30日間誰とも喋らずに溜め込んできた「殺してやる」といった熱い想いが、言葉のゲロとなってイッキに口元から噴き出しそうだったからガマンしたのだ。
「本当にさびしくなかった?」
ニッコリ問いかける女房の顔を見て、街《シヤバ》に出たら本当にブッ殺してやるぞ、と心に誓う。
もちろん、女房は気づかない。
「あのね、今日、お金、1万円差し入れておいたから使ってね」
女房が言うと、間髪をいれず友達のほうが、しゃしゃり出てきた。「あとね、アタシ、差し入れの売店で、いろいろ選んで食べ物、差し入れときましたから」うるさいバカ女。そのくらいするのは当然だ。マズイものでも差し入れたらブッ殺すぞ。
腹の底では、煮えたぎったいろんな言葉が、怒りにまかせて蒸気を発していたが、口から出たのは、
「本当? ありがとう」
せっかく来てくれたのに怒り出すのも悪いからね。そのぐらいの自制心はある。
136
アタマの中では「差し入れ」と「1万円」のことばかり考えていた。
拘置所の近くに2軒、中に1軒「差し入れ屋」と呼ばれる売店があって、そこで売ってる物は、中に直接差し入れ品として届くようになっている──と、留置場で聞いてはいたが、なにせ、差し入れてくれる人≠ェ面会に来なかったので、今までオレは一度もその恩恵にあずかっていなかった。差し入れ屋には、中で買えるものとは全く別の、いろんな種類のチョコレートや、缶詰や、シャンプーや、クッキーや、ペン類がそろえられていると聞いている。ドーナツや、ビスケット、大福といったものも、中で購入できる品とは一味違うものらしい。ラッキーだ。
ついでに、所持金──領置金という──も、実はすでになくなっていて、先週「願いごと」で購入願い≠出した、今月号の『投稿写真』が金不足で買えなかった。房に雑誌が届かないのでオレはてっきり担当係官の手違いだと思って、もったいぶってクレーム申し出たのだが、理由は金欠だとわかって、「自分の領置金の残金ぐらい覚えておけ」と逆に看守様に怒鳴られた。
137
「1万円」と「差し入れ」への想いが徐々に怒りをしずめ、ようやく気分がよくなってきた。1万円あれば、いろんな望みがかなうだろう。10日間、いや、大切に使えば2週間は、チョコや大福を買えるはずだ。
「ありがとう、マジでたすかるわ」
言い終わったと同時に、看守様が、
「よし、もういいな」と宣告し、5分弱の面会時間は完ペキに終わってしまった。本当は10分ぐらいあったかもしれないが、なにせ、久しぶりに人と話すことになったので、テンパっちゃって、のぼせちゃって、よくわからなかったのだ。
女房はウィンクついでに投げキッスをカマしながら、白いコートを着て出ていった。友達のほうは、両手をパタパタふりながら、ミニスカートでジャンプするように去っていった。
わお、2人とも、最高に幸せそうに見えた。バカっぽくて。
138
面会が終わったあと、看守に連れられたまま、手品に出てくるような、50×50pの箱の中──この箱が一人用の時間待ち部屋──に放り込まれて、20分ほど待ち、それから房に連れて帰ってもらい、今、これを書いている。
明日午後には、差し入れ品が届くだろう。最高にウキウキする。
やはり面会はいい。今となっては女房やモデル友達に対する怒りもない。ごめんね、「バカ」なんて心の中でののしって。
うん、いい、面会はいい。なにがいいって、人と話せるのがいい、歩けるのがいい、房の外に出るのがいい。人と話す、というのは最高に、非日常的な大事件だ!! 誰とも話さない日々が続くと、世の中じゅう全員に対して憎しみがわいてくる。よくない傾向だ。
139
翌日───。
女房の友達のモデルの差し入れが届いた。ソーセージのヅメカンと、ウナギのヅメカンであった。ガーン!! ソーセージはいいとして、ウ、ウナギの缶詰とは!! 彼女には申し訳ないが、怒りがブリ返してきた。
「アイツ気が狂ってるんじゃないのか」一人で声に出して怒鳴ってしまった。
何たるセンスのなさ、食の何たるかをわかっていない。モデル女のインテリジェンスのかけらもない食生活の貧しさっぷりが垣間見える、実にリアルでマヌケなナイスチョイスだ。
開缶してもらってひと口食べたが、案の定だった。ひと口口の中に入れただけで、超二流のバッドテイストの特色であるベットリとしたまず味が充分堪能できた。ウナギの味も風味もないベトベトの生臭い魚が、タンカーから流出した|C《タ》重|油《レ》の中に沈んでいるだけの救いようのないウナギの蒲焼き≠ニ称する化学廃棄物、それがウナギのヅメカン≠セ。
すぐ便所に全部流した。本当は、食い残しは、すべて残飯回収の時に出さなければならないんだが、アレを出すと「食い物以外は出すな。これは産業廃棄物だろう」と怒られそうなシロモノだったからだ。
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食事の度に食べているのは、米ではなく、バクシャリ≠ナある。バクシャリとは、「麦シャリ」という説と、「馬喰シャリ」という説がある。「麦めし」「馬が喰うようなもの」という意味らしいが、結局のところ、どちらもあたっている。麦の入った米飯の、とびきりうまくないヤツ、それが、バクシャリ≠セ。
バクシャリは、まずい、とは言わないが、うまくない。本当に、うまくない。ちゃんとした炊飯器で炊いたら、また別かもしれないが、ここで食うメシは、炊飯器で炊かれていない。なにしろ、東京拘置所の収容人数は、総勢3000人だ。とてもじゃないが釜では炊けず、1人分ずつの麦&米&水≠、アルマイトの弁当箱に入れて、そのまま蒸しあげてしまう。これが、うまくない理由のひとつ。
もうひとつの理由は、麦と米、その黄金の比率であろう。ちょっと、その、どっちかっていうと、麦のほうが多量にもの凄い量すぎる。どのくらいだろう。詳しくはわからないが、半分ぐらい入ってんじゃないの。しかも、麦のほか、もみがら、わらのクズが入ってるのはしょっちゅう。小石が入っているときもある。
まあ、もみがらや、わらのクズ、小石といったものは、味には関係ないし、量も少ないので気にならないが、麦は気になる。以前、家で炊く米に、麦をひとつまみ入れたりして健康にいいのよねーなどとのたまいながら、「なんで、これが臭いメシ≠ネのかねえ? 麦なしの銀シャリが食いてえ≠ネどと刑務所で言われているのかよくわかんなーい」などと思っていたが、今、初めて本当の麦めし≠フ味を噛みしめている。
今日、編集者から手紙が来たので読んでみたら、「麦めしは身体にいいですよ」などとフザケたことが書いてあった。その件について返事は書かないつもりだから、このノートに、今の気持ちを書く。バクシャリ≠ヘ街《シヤバ》の「麦めし」ではない。バクシャリ≠ネのである。
身体に悪くても、鳥目になってもいい。
釜でおいしく炊き上げられた、銀シャリが食いたい!!
ここに一生涯暮らすヤツだっているんだ。「一生」ってのは、たぶん、街《シヤバ》でこれを読んでいるアンタの考えてる「一生」とは意味が違う。
噂では、オレの棟の2階には、死刑囚が収容されているってことだ。独房で誰から噂を聞くかというと、そりゃ、官本の交換や開缶にくる服役囚の掃夫から聞き出すのさ。
死刑囚は、「死刑」の執行が、すなわち刑なわけで、それまでの間、生きながらえている間は生涯ずっと独居房で「未決囚」として暮らしている。オレと全く同じ日課を送り、オレと全く同じものを食べているわけだ。考えうる限り、最低の一生だな。絶対にゴメンだ。
一生、この麦シャリを食い続けるヤツもいる。この麦シャリは、そういう麦シャリなんだ。
…………………
11月9日 "Liberty" Note
◇◇配当 11月1日〜9日◇◇
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11月1日(水)
(朝)めし/もやし・大根みそ汁/山菜つけもの
(昼)めし/ハンバーグ/にんじんたまねぎコンソメスープ/チーズ入コールスロー
(晩)めし/五目卵とじ(親子煮風)/しなちく・油あげにしめ/甘いみどりの豆
11月2日(木)
(朝)めし/ほうれん草みそ汁/のり/なっとう
(昼)めし/いんげん白菜スープ/ケチャップ味マカロニ/白身魚フライ/カット野菜ソテー
(晩)めし/肉入きゃべついためカレー風味/ツナフレーク味付/ちくわスープ和風だし
11月3日 文化の日(金)
(朝)めし/なす・もやし・きゃべつみそ汁/わさび漬/のりたま
(昼)めし/きゃべつ、やさいいためイカ入中華風/野菜スープ/小豆しるこ/おしんこ
(晩)めし/しなちくとじゃがいもとり肉の肉じゃが/のざわな/うどん
11月4日(土)
(朝)めし/ふ・もやし・きゃべつみそ汁/うめぼし1個、小魚つくだ煮
(昼)パン/ホワイトシチュー/マーガリン、MIXジャム/うずらまめしるこ
(晩)めし/きゅうりキムチ/牛肉しなちく炒め/そうめんインゲンスープ
11月5日(日)
(朝)めし/玉ねぎ、さつまいもみそ汁/貝つくだ煮/のり
(昼)めし/やきうどん風スパゲティ/牛肉卵とじすきやき風/きゅーりのキューちゃん/コーヒー
(晩)めし/けんちん汁/ちくわ、じゃがいも煮/キャベツ浅漬け
11月6日(月)
(朝)めし/なすみそ汁/山菜つけもの・たらこふりかけ
(昼)めし/にしん塩焼き・大根おろし/大根・こぶ・ちくわ煮しめ/キャベツわかめいかみそ汁
(晩)めし/八宝菜/そーめんカレー炒め/ザーサイ
11月7日(火)
(朝)めし/大根みそ汁/味付カツオフレーク、たくあん
(昼)めし/ハムカツ/ほうれん草、白菜、干エビスープ/マヨネーズサラダ
(晩)めし/さやいんげん入肉じゃが/やきそば/缶パイン
11月8日(水)
(朝)めし/いんげんさといもみそ汁/のりたま・うめぼし
(昼)めし/わかめあぶらげみそ汁/根やさい炒め/いわしたつたあげ、大根おろし
(晩)めし/カレー/人参、白菜、きゅうり、ハムのサラダ/福神漬け
11月9日(木)
(朝)めし/白菜もやしみそ汁/なっとう
(昼)めし/ホワイトシチュー/やさい炒め卵入り/塩ザケソテー
(晩)めし/おでん/きゅうりわかめシーチキン酢のもの/こぶ辛いつくだ煮
[#ここで字下げ終わり]
◇◇11月1日〜11月9日までの総括◇◇
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寒くなってきた。朝、手早く部屋を掃除して、「点検」を済ませたあとの、熱いみそ汁はうまい。朝食は、内容的にいまひとつ物足りない気もするが、それでも昼や晩のこん立てとはまた別格の満足感がある。個人的には、(昼)に多い揚げ物が好きだ。8日の、いわしのたつたあげなど印象深い。
しかし、なんといっても6日(昼)のにしん塩焼き、(晩)の八宝菜が、11月上旬の三ツ星メニューだろう。八宝菜には、様々な根野菜が入っていた他、イカが入っていて、ゴマ油の風味も豊かに、トロミのあるアンでとじてあった。そのまま食ってよし、めしにかけてよし、腹にも充足感を与えてくれた逸品である。8日(晩)のカレーも三ツ星だ。入所以来、カレーは2度目、と記憶しているが、前回よりも、ルーの風味がよく、カレーシチューではない、カレーの風格があった。いや、まさしくカレーそのもので、それ以外のものではない。もちろん、弁当箱の中のメシにかけて食った。ただしハシでだが。カレーに、肉を求めはしない。ルーのとろみとじゃがいもがここちよい和音をかなでればそれでいいではないか。副食として、福神漬けがついたが、(福神漬けが食物としてうまいかどうかは別として)カレーの風情を側面から演出した格好になり、評価できる。
マイナス面で気になったのは、これはこの期間に限ったことではないけれど、毎土曜日の(昼)のパン《コッペパン》が、いかにもマズい。モソモソして飲み下せないし、パンの風味も舌ざわりも感じられない。しかも、バターがない。4日には、マーガリンがついたが、しょせんマーガリン。うまいものではない。なんとかパンをおいしく食べるため、シチューにひたしてもみたが、逆に、シチューの味を落とす結果となった。今後、パンをおいしく食べる方策を見つけられなければ、毎土曜の昼はつらいことになる。努力せねばなるまい。9日(晩)のおでんは、意外とめしのおかずになってよかった。
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…………………
11月19日 "Liberty" Note
◇◇配当 11月10日〜19日◇◇
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11月10日(金)
(朝)めし/きゃべつじゃがいもみそ汁/こぶおきあみ佃煮
(昼)めし/さつまいも、あぶらげみそ汁/里いもいんげん煮/ちくわいそべあげ大根おろし
(晩)めし/とり肉入中華炒めとろみ付/やさいそば/みかんゼリー
11月11日(土)
(朝)めし/ほうれん草大根みそ汁/たらこふりかけ、たくあん
(昼)パン/ホワイトシチュー/小豆しるこ
(晩)めし/ちくわ入ひじき/厚あげとごぼう煮/白菜浅漬
11月12日(日)
(朝)めし/わかめみそ汁/のり、味つきフレーク
(昼)めし/とり肉さといも、ごぼうのみそ煮/大根きゅうり人参酢物/さやえんどうはんぺンつゆ/アイスクレープ
(晩)めし/ぶた卵とじ/焼きそーめん/山菜づけ
11月13日(月)
(朝)めし/きゃべつなすみそ汁/赤くてすっぱいしんこ/じゃこ、おきあみ佃煮
(昼)めし/ほうれん草ホワイトシチュー/コーンベーコンジャーマンポテト/ツナ入ミニオムレツ2コ
(晩)めし/あげぎょうざ2コ/干しエビ入り中華スープ/しいたけ白菜、肉などの中華風とろみ炒め
11月14日(火)
(朝)めし/大根あぶらげみそ汁/のりたま/のり佃煮
(昼)めし/じゃがいもスープ/アジフライ大根おろし/ナポリターン
(晩)めし/とり肉のすき焼きのようなもの/ほうれん草もやし・人参ゴマ油あえ/豆
11月15日(水)
(朝)めし/具なしみそ汁/こぶかつぶし佃煮/うめぼし1個
(昼)めし/豚汁/いろんなやさいおひたし/サバ塩焼き・大根おろし
(晩)めし/カレー/らっきょ10コ/マカロニチーズ入サラダ
11月16日(木)
(朝)めし/たまねぎみそ汁/納豆
(昼)めし/とんかつ・きゃべつ/いんげんじゃがいもわかめみそ汁/切干大根
(晩)めし/大根とイカゲソ煮/やさいうどん/黄桃3切れ
11月17日(金)
(朝)めし/ふ、きゃべつみそ汁/たらこふりかけ・たくあん
(昼)めし/サバ塩焼き・大根おろし/はるさめ入和風サラダ/さといもやさいつゆ
(晩)めし/じゃがいも入すぶた/山菜つけもの/野菜スープ
11月18日(土)
(朝)めし/きゃべつもやしみそ汁/のり/なめこ
(昼)パン/トリ肉のホワイトシチュー/うずらまめのしるこ/チーズ/チョコペースト
(晩)めし/あつあげしなちく肉すきやき風/なめこあぶらげみそ汁、きゅうりきゃべつ浅漬
11月19日(日)
(朝)めし/なすさやえんどうみそ汁/野沢菜/のりたま
(昼)めし/もつ煮/野菜スープ/こぶ佃煮/コーヒー
(晩)めし/ボルシチ風シチュー/春雨マヨネーズサラダ/パインゼリー
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◇◇11月10〜19日までの総括◇◇
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強烈な印象で脳裏に焼きついているのは、16日(木)のトンカツである。しかもそれは、予想外のとんかつであった。以前、ハムカツが出た際、そのあまりの衣の厚さに、予想通りとはいえ、ひどい落胆を覚えていたので、16日以前の私は、とんかつが仮に出てもたいしたことはないだろうと、期待を全く抱いていなかった。しかし、16日のトンカツは、衣ではなく、肉がどっかりと主役の座に君臨する見事なものだった。ただ、16日はひどく寒い日で、いつもなら微かにぬくもりがあるはずの揚げ物なのに、すっかり冷えきってしまっていた。せっかく本格的なとんかつなのに気温≠ニいう外的要素によってカチカチに固くなっていた無念さを誰にぶつければいいのだろうか。比較的暖かい日に、もう一度トンカツが出ることに期待したい。つけあわせのキャベツの千切りも気分をひき立てていた。15日(水)のもやし、ほうれん草を中心とした野菜のおひたしは、もうひとつ味つけに物足りなさを感じたものの、薄味好きの私には、楽しめた。その味は、「野菜の味」というよりも「農作物の味」といった風情で、まるで、水上勉の名著、『土を喰ふ日々』の中に登場する精進料理のようなストイックさと、自己主張の強さを持っていた。もし、春菊などを入れ、備前焼きの器に盛れば、気取った新日本料理屋の品書きにも加えられるというのは、きどった日本料理店に対する皮肉がすぎるだろうか。洋食では、13日、月曜日昼食の、ジャーマンポテト風の一品は、文句なくうまかった。コーン、ベーコン、じゃが。なんという絶妙のコンビネーションだろう。ベーコンからしみ出した油がジャガイモにしみこんだ、あの味、口いっぱいにほおばると、プチっとくるコーンの食感と甘み。単純な料理であるだけに、そのコンビネーションの妙と薄口の味つけが、素材にすべてをゆだねる形となり、功を奏したといえよう。最低だったのは、17日のふときゃべつのみそ汁。あのふ≠ニいうのはいったい何だ。みそ汁を吸ってはいるが、吸うだけで出すものがない、情けない食いものだ。食感も気にいらない。15日の具なしみそ汁は、いんげんの味がした。具がなくとも、風味があるみそ汁はうまい。しかし、視て楽しむという意味でも、やはり具があった方がうまく感じる。19日晩のボルシチも格別にうまかった。もっといっぱいくれ。
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…………………
141
溝口敦の『五代目山口組』を官本で借りて読んでいたら、本のカバーの裏に、
〈今、この場所で感じているこのつらさ、悲しみをのりこえれば、きっと楽しいことがあるよ。
ここにいるきみ、きみは今、つらいだろうけど、きみのせいでここにいるんだ。
このつらさがあってこそ、シャバの楽しみがある。耐えろ〉
と、誰かがボールペンで書いていて、よけいなお世話だ、と思った。
本を読み終わって、社名や印刷所名の書かれている奥付≠見ると、今度は、
〈馬鹿じゃなれず 利口じゃなれず 中途半端じゃなおなれず
検事、判事のいる前で 一度は強情張ったけど 重ねた悪事もこれまでか〉
と書かれていた。
142
3連休だったから、誰にも手紙を発信できなくて、退屈だった。拘置所では、手紙は一日1通まで、土、日を除き発送できることになっている。土、日、祝祭日はいやなんだ。「日課」は何もないし、手紙も出せない。こうして、なんのあてもなくノートにどうでもいいことを書いていると、気がヘンになる。相手がいれば、やる気がダイナミックに出るのに。留置場の時は、誰かにあてた手紙も、来た手紙も、同房の諸君と皆で鑑賞しあったので楽しかった。誰かの手紙の中に、数行だけ参加させてもらったりね。
で、房のなかで皆高揚しすぎて、ふざけた文章を書いて、検閲にひっかかってもどってきたりすると、それでまたウケる。どうにかして、同じ内容で検閲をクリアしようって相談してね。
留置場の場合は、看守してる警察官ももう慣れっこてなもんでそのうち、「おもしろいけど、仕事上送れないよ、こんなの」とか、
「おもしろすぎてダメ」とか、
笑いながら手紙をもどしてきたりしたっけ。
来週は、誰と誰と誰に手紙書こうか。月火水木金、5人まで。と、そんなことを楽しみにしてるなんて、シャバじゃ文通マニアの変態だよ、これじゃ。
143
初公判の日程が決定した。これさえ決まれば、先が見えてくる。
今朝、看守から渡された薄い紙にそっけない文で記された通知によると、
「11月28日、東京地裁の805号法廷で行われる」───とのこと。
11月28日初公判か……最速でことが進んでうまくいけば、16、17日前後に初公判が行われ、27、28日ごろには判決公判があって、当然執行猶予を受け取って、その日のうちにシャバに出られると思っていたのに、クソッ! 予定より10日ほど、日程がずれ込んでいる。クソ!
弁護士の野郎の都合にあわせて遅れてんだったら、野郎を呪い殺してやる。いまだに面会にも来やしねえやつだ。
もちろん、9月26日現行犯逮捕、9月28日送検、10月14日起訴、10月16日東京拘置所へ移監、11月28日初公判、おそらく12月10日前後に判決公判、即日釈放。という足跡は、単純覚醒剤事犯の最速のスケジュールには違いない。といっても、なんでオレがこんな目にあわなきゃいけないんだ。だからって「文句は言えない」なんて言わない。
オレは今すぐ出たいし。明日裁判をしてほしいくらいだ。もう少しだ。絶対うまいことスリぬけてやる。
144
寒いなあ、と思っていたら今、「来週から、日中、座っている時に、就寝用の毛布を1枚4つ折りにして、膝掛けとして使用してもいい」とアナウンスがあった。
東京拘置所で暮らす者としては、その放送の意味を理解する必要がある。「ひざに掛けてもいい」ということは、腰に巻いたり、腰の下に敷いたりしては、「絶対にいけない」という意味である。「ひざに掛ける用途に|のみ《ヽヽ》許可する」という、厳密な許可である。「2つ折りや、8つ折り、にすることは絶対に許しません」というミーニングであるのももちろんだ。
その辺の解釈を、街《シヤバ》感覚でちょっぴり拡大して考えていると、イチイチ、看守様に怒鳴られる、ということになる。
145
≪夕食≫
レタスと、スカスカのきゅうりが入ったグリーンオンリーサラダと一緒に、小袋に入った、キユーピーのマヨネーズが配られた。
うまいよ、本当に。
ほんとに大好きだよ、マヨネーズ。皮肉や反語じゃなくて、心底LOVEだよマヨネーズ。
とかく、ひと味もふた味も、味つけに物たりなさが残るおかずが多い食事のなかで、単に、マヨネーズを混ぜるだけのレタスサラダは、最高にうまい。舌が覚えているシャバの味がする。
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今日、爆発女房が今度は男モデルの友人2人を連れて、見学ツアーにやってきた。もう、一人前のガイド気取りで、「この人が看守さんで、この人が私の夫、現在未決囚状態=vなどと、オレを指さして説明しやがった。ガクッ。黙って見逃しているけど、シャバに出たらブン殴ってやる。
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弁護士はいったい何をやっているんだ。いまだに面会に来やしない。国選だからって、怠慢は許しませんよ。「アンタの国選弁護士は佐藤某という弁護士にこっちで勝手に決定しました」って、いい加減なハガキが東京地裁から来て、随分たつじゃないか。人権派の若くてやる気のある弁護士なら、息せき切ってオレを救いにやってくるハズだ、ということはオレの弁護士ってのは、ハナっから国選でシャブ中の弁護をするなんてことにサラサラヤル気を感じない、財布の中をブタのように太らせたリッチな弁護士か、それか、シャブ中のことなんかどうでもいいと思いながら、今までにも数多くのシャブ中を国選でやってきたごく普通のルーティンワーカー弁護士のどっちかだ。
裁判にあたって、国選弁護士を熱心に働かせたかったら、両親をバットで殴り殺すとか、行きずりの女を殺して埋めるとか、キョーレツ&オゲレツな要リハビリ的大事件を引き起こしたほうがいい。覚醒剤使用所持のシャブ中相手じゃ、ありきたりすぎて弁護士だってやる気が出ないってもんだろう。
でも、オレは、国選で無料《タダ》だから、なんてことで遠慮はしないぜ。尊い国民の血税を使い、国の方針でオレを弁護するんだから、徹底的にオレのために働け、弁護士。それがテメエの生きる道なんだよ、弁護士!! お前がその脳なしの頭をヒネクって司法試験にチャレンジした時のパラノイアックな熱心さで、オレのために心底奉仕しろ。お前が国から特別に与えられた大きな権利は、すべて罪人を弁護するために使うもんなんだ。クラブでブランデーをなめつつ女にバッヂを見せびらかすためにお前、弁護士になったのか!! 合格した時に見せたあの涙は誰のためのものなんだ、今日、この時、オレを弁護することを運命づけられてキサマは合格したんだよ。それを忘れて万が一、オレに対して手を抜いたら、ハードゲイみたいにテメエのケツを犯してやる。
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食器洗い用の粉クレンザーが使いにくいので、ぬめり石けんHAMAローズを水で溶かし、クレンザーと一緒に練り上げて、ほどよい硬さの練り石けんを作ることにした。
作り方は、留置場時代に、サギ師から教わっている。
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(1)まず、HAMAローズを、水に浸し、手で揉んでやわらかくする。
(2)そこに、クレンザーを大量に入れる。
(3)さらに水を加え、好みのやわらかさで練り上げる。
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これで出来上がり。
上手にできた。本当は、このように官に内緒の秘密工作行為はいけないのだが、まあ、このくらいは、許してくれるものらしい。もちろん見つかったら怒られるが。バレなきゃセーフ!
この間購入した、石けん箱のフタを、練り石けんの器として使用することにした。
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眠っている時は、夢の中でいろんな人と会えるし、誰かと話せるし、もちろんシャバにいる時みたいに酒を飲んで、もうメチャクチャにドラッグをキメまくっちゃうことだって自由だ。だけど、夢の中のドラッグはあまり効いた気がしない。キメるのは現実に限る。
それさえ除けば、眠っている時は本当に自由なので、消灯時間になって電気が消えると、その瞬間、
「ああ、これから自由になれるぞ、誰にも文句を言わさず、夢の中でオレだけの時間になる」
と、すごく興奮してしまう。
おかげで、今夜も寝つけない。
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夜中に、うつらうつらしていると食器口から光が差し込んできた。フラッシュバックなのか?
驚いて、ハッと目をさますと、いきなり食器口の中から、●●●●がニュルンと房の中に入り込んできた。
「あれ、大臣? いつのまに?」
オレが尋ねると、●●●●はズボンとステテコを脱いで、布団の中にもぐり込んできたかと思うと、オレを後ろから抱いて、ケツの中に発射しやがった。
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(文庫化する前のこの部分には政治家の実名が書かれていたのだが「誹謗中傷で名誉毀損になる恐れがある」ため、文庫化にあたりフセ字にした、んだけど、おーい、このくらいいいじゃねえか)
151
いよいよ明日から、待望の「グループ運動」に編入されることとなった。看守様も、ようやくオレがキチガイではないと認めてくれたらしい。入所以来、1か月以上かかったよ、たのむぜ。とにかく、これから週3日は運動場で、毎回30分間、同じグループの人間とお喋りしてもいいんだよ。カ───ッ、最高の娯楽!! レジャー!! ゴージャスな会見!! スーパーリラクゼイションタイム!!
イラン人とかパキスタン人と一緒になるのもおもしろそうだ。
ちなみに、この間、同じ階の独居房に最高に黒光ってるドレッドの黒人を発見した。
いつもわけのわかんない、パトゥワ語を口ずさんでいる。アイツと一緒だとおもしろそうだ。明日が楽しみだが、あまり期待するのはやめとこう。ここに来て、あまりに期待はずれが多かったんで、何かに「期待」するのがおっかなくなってしまった。
…………………
11月15日 "Liberty" Note
◇◇拘禁生活、楽しいことランキング◇◇
1位 面会
[#この行2字下げ] これはもう、別格的にうれしい。なんたって、人と喋れるし、面会場まで歩くことができる。それだけで、退屈してる日々の中では最高の散歩となる。差し入れを頼めるのもいい。最高に楽しい。
2位 自弁や差し入れの食べものや雑誌をうけとること
[#この行2字下げ] これはもう、文句なしにうれしい。そもそも、注文書とニラめっこして、何を購入しようかと考えるときだって最高に楽しいんだから。午前中にある自弁購入品の配布、特に食べものと雑誌を受けとることは、最高のよろこび。まるで、サンタさんがプレゼントを届けてくれるのを待つ子供のように、予定日になるとそわそわしてしまう。差し入れはなにが来るかわからないので、さらにうれしい。
3位 日曜日の昼めし
[#この行2字下げ] これはもう、週に一度のプレゼントだ。いつも昼ごはんは、その日のメインともいうべき内容でうれしいのだが、日曜日は心もちごちそうなのと、クレープやグーパイなど、予想もしなかった甘シャリがついてくるので、ワクワクしてしまう。
4位 風呂
[#この行2字下げ] これはもう、最高だ。最初のうちこそ、湯が汚ねえ、などと思ったが、なんのことはない、スチームを全開にして、水をジャージャー出してるうちに、すぐ湯はキレイになってしまう。時間が正味10分と短いためなるったけ熱い湯にして、全身をまっ赤にさせて、なるべく身体のほてりが持続するようにしているがほんとに気持ちいい。風呂の湯にひとりつかると、自然と鼻うたも出てくる。が、もちろん放歌すればおこられるので、軽いハミングにとどめておく。この風呂だけは、ああ個人でよかったわ、と思う。
5位 官本交換(官が週に2回、2冊の本を貸してくれる)
[#この行2字下げ] これはもう、週に2回の大変な楽しみのひとつだ。どの本を選ぼうか迷ってしまうが、この、自分で選べる、というのからしてうれしい。2段組みのブ厚いのを借りても1日半、通常どんな本でも1日で読み終ってしまうので、とにかく待ち遠しくてしかたない。本を選ぶ時、服役してる掃夫の人と話すのもたのしい。
この他、ノミネートされた楽しいこと(なんとなく楽しい順)
[#ここから1字下げ、折り返して2字下げ]
運動:グループに編入されたので、今後きっとベスト5に入ると思われる。
手紙到着:これは、瞬間的な楽しさとしては2位に匹敵する。
開缶:缶詰めを開けてもらうこと。何を開けようか、考えるのからして楽しい。
洗たく:何もやらないよりは、何か仕事があった方が楽しい。
コーヒー:1日2回のコーヒーにお湯を注いでもらう時間。土、日はなぜか平日よりうれしい。
新聞:午前中に持ってきてくれる。うれしいが新聞自体はつまらない。
牛乳:午後2時頃持ってきてくれる。来週からは、コーヒー牛乳にするつもり。
朝の掃除:起きてすぐ。いそがないと終らない、そのあわただしさで活力がわく。
点検:朝、夕の点呼。これによってメリハリができて、好きな行事のひとつ。
トイレの消毒:週一回。キレイになった気がする。これがあると「ああ一週間たった」と思う。掃夫の人が、一瞬、部屋に入ってくるのも、お客さんみたいでうれしい。
食器の消毒:消毒に出した後、また同じ、自分の食器がもどってくるのがいい。
昼の仮安息:昼寝タイム。眠れないので時間を持て余す。かといって、起きてるともったいない気がする。毛布をかぶっていいのがいい。
日曜日の若山源三のラジオ:ぼんやり聴いていると、リラックスできるBGM。日曜の楽しみ。
ほぼ毎日流れる「夕べの広場」:喋りがうるさくないのと、選曲がおとなしくていい。
朝のストレッチング:どうでもいいと思っている割には、必ず励行している。
午後の体操:体そうではなく、ストレッチングをやっている。身体にはかなりいいようだ。
午前10:00〜10:30のラジオ:NHKの番組で、沢田研二や研ナオコを特集する。曲中心なのがいい。
昼めし:1日のうちでは、昼めしが一番楽しみ。夕食は、すぐ後に点検があるので、なんか落ちついて食べられない。
願いごと:モーニングリクエスト。ちり紙くれとか、クレンザーくれとかたのむ。飲食品や日用品の購入も、指定された曜日の「願いごと」で申し出る。ちなみに、ちり紙などの申し出を、この時言い忘れて後で言うと、「朝、言えよなあ」と言われる。
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STEP(11)国選弁護人との面会
152
いきなり弁護士が面会に来た。弁護士の面会には時間制限もないし、看守もつかない。弁護士はここじゃ特権階級だ。
面会室に入るとオレの弁護士は、クソ、とんでもないショボクレたじじいじゃないか。やる気どころか生気が感じられない。
「よろしくお願いしますです、先生様」
とにかく、今のオレが頼れる人間ってのは弁護士の先生様しかいないので、機嫌を害さぬよう深々と頭を下げる。
お願いしますもなにも、ヤツだって国から弁護料をかっぱらうわけだから、つまり商売なんだから今さら「お願い」する必要なんかないんだけどね。でも、金を払うのがオレ本人じゃないからって、エラそうなボランティア気取りで「やってやる」なんて考えてるかもしれないし、だとしたら、とりあえず頭下げるとこを見せとかないと、ヘソをヒン曲げちゃうかもしれないからさ。オレの知ってる限り、じじいってのは、職業にかかわらず、頭を下げないと、スネるヤツが多い。
「よろしくお願いします。先生様」
弁護士に声をかけられるまで、頭を下げ続けてやろうと思ったら、野郎なかなか声をかけてこないんだ。オレを侮辱するかのごとく、永久に頭を下げさせるつもりらしい。フザケンな!! と思って頭を上げたら、ヤツ、ギョロギョロと狼狽した目でオレを見つめ、必死になって口をパクパク動かしてやがった。
「座って」と言おうとしたけど、言葉がすぐに出なくて、気持ちだけ先に口から飛び出してやがったんだ。大丈夫か、こいつ、オレの弁護士なんだぜ。
「すわ、すわ、座ってください」
難儀の末、その言葉だけ言うと、ふう、とため息をついて弁護士はガラスの向こうの椅子に座った。
手袋をはずすのにまたひと苦労している。
オレも、自分のパイプ椅子を引いて座り、ヤツの次の言葉を待ったが、何も言ってこない。
1秒、2秒、3秒……。
「あー、こんにちわ。わたすが、キミの弁護をやります佐藤です、よろすく」
ゆっくりゆっくり老眼鏡を取り出しながら、やっと口を開いた。スローなヤツだ。もしかして、これはクール、ということなのか。
それでも、調書には、ひとしきり読まれた形跡があり、付箋が貼られたり、印がつけられている。その風体どおりの、しょぼくれたメモ帳に、じじい特有の卒中でブルブル震えたような筆跡でビッシリ細かくメモもとってある。野郎、生気はなくてもやる気があるようだ。
「よろしくお願いします」
もう一度、深々と頭を下げるオレ様。
「あー」
弁護士の声が頭上でした。
「もうちょっと、近くで話してくれませんか」
耳が少し遠いらしい。
「先生!! よ・ろ・し・く・お願いします」
大声で言うと、
「あー、いえいえ」ヒツジのいびきみたいなヨレたセリフが返ってきた。
老眼鏡のフレームを指先で持ち上げながら老弁護士が話し出した。
「調書、読ませてもらいました。少々不明なところがありまして、そこを尋ねますけど、いいですか?」
「はい先生!!」
こんな調子で、忘れちゃったけど、どうでもいいやりとりが終わったが、実は、それからが本番だった。
「あー、キミは取り調べに、随分正直にいろいろ話しとるね」
「はい先生!!」
「正直なのは大変よろちい。でもね、ちょっとちみには、正直すぎるきらいがある」
「はい?」
「あー、たとえばここ、『私は今までに500回以上にわたって覚醒剤を使用してきました』ってとこね」
「はい」
「ここまで正直に言わなくとも、よかったかもしれないな、これ」
弁護士は、調書をペラリとめくりながら、ここも、と指でさしていく。
「5年間、覚醒剤をやってきまちた──というのも、ここまで言わなくても、いかったな。こういう場合、2、3回使用したことがあるというのが、まあ常道であるからねえ」
「はい…」
「なに、いや、チミが正直に反省しとるのはよくわかる。そういう意味では、反省の色がよく出てる調書ではあるのだがね、もし、私が最初からチミの弁護を担当しておったら、そこまで言うことはなかった、と進言しておった」
「はい…」
し、しまった!! 背広刑事の野郎の口車に乗せられて、ついベラベラ喋りすぎてしまったのか。クソー、油断させておいて、こういうことだってのか!! ハメられた。って、実は、調書をとってる初期のころって、オレ、テンパッちゃってて誰に聞かれても「ペラペラ」っていうマヌケな状態だったんで、ハメるも何もないのだが。
…………………
11月18日 "Liberty" Note
※[#「!」の逆さ文字]入所32日目!
[#ここから2字下げ]
11月18日(土)はれ 今日は、みのもんたの午後だよ、ウヘッ。
●本日、18日。第一回公判まで、10日ジャストとなった。判決公判は早くて12月8日。ということは、うわあ、それでもあと20日もある、などとは考えない。あくまで、求刑公判まで、あと10日、あと10日、である。28日が10日目ということはですよ、9日間退屈な日を過せば、もう公判日。あと、たった9日、ですよ、9日。まあ、よっぽどのことがなければ、まーず執行猶予ですよ。あとちょっとだなあ。あとちょっとだ。月よう日になったら、早いぞきっと、1日1日の過ぎるのが。少し、うれしい予感がしてきた、退屈でイヤになっている土曜の午後3時であることよ。
[#ここで字下げ終わり]
11月18日 お手紙着信状況 HOT LINE
1位 OKA−CHANG 6通
2位 川さん 3通
3位 加藤さん 2通
4位 山本くん 1通
杏子 1通
藤代さん 1通
柄沢さん 1通
計15通 やっぱりOKAーCHANGが一等賞だ!!
…………………
153
「あー、そういうことなんでね、常習性の点を検事に突かれると、ちょっと痛いのね」
「はい…」
だんだん不安になってきた。
「ここまで言うこと、なかったのにね」
「………」
どうすればいいというのだ。
「正直なのはいいんだけどね」
「………」
コイツ、オレを攻撃しているのか。
「500回、じゃなくて、その時、覚えてる3、4回とかね、そういうのでいかったのにね」
「………」
ひょっとして、オレ、バカにされてんのかな。弁護士は、老眼鏡をはずすと、鼻のつけ根をつまんで、目をつぶってうなりやがった。
「う──、どうしようかね」
うーじゃなくて、解決策を喋れよ、お前!!
「とにかくね」
「はい!」
「執行猶予を狙っていきます」
ガクーッ!!
当たり前だっちゅうの!! 所持している量も微量だし、密売もやってないのに初犯実刑なんてフザけた話があるかっていうの。狙うもなにも、そんなもんは当然の権利として、当たり前だと思ってるの、オレは。
狙うまでもなく、当然「執行猶予」と確信していたオレは、弁護士の「狙っていく」発言でウンザリしてきた。初犯で実刑なんて、そんな喜劇は絶対に避けなければならない。
「う───」今のうなり声は気の高ぶったオレの。
「う───」困った弁護士のうなり声。
「う───」オレ。
「う───」弁護士。
「う───」オレ。
オレと弁護士が交互にうなり始めた。
最高に気が高ぶった時を見計ったように、いきなり弁護士がいい放った。
「まあ、大丈夫だと思いますよ」
ガク──ッ、イッキに気がぬけた。
そのあと、「覚醒剤はよくない」とか、「キミはもっと社会で活躍できるはずだ」とか、「私は信用金庫の顧問をやっている」とか、「昔、ヒロポンでたくさんの人が廃人になった」とか、なんちゅうか、その、結局、弁護士に、おどされ、スカされ、持ちあげられ、昔話につきあわされ、つまり手玉にとられたままで面会は終わってしまったのだが、まあ、ちょっと、有能か無能か、評価にコマるちょっとシ、シビレるダウナー系のすごいじじいであった。
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街《シヤバ》にいる時、ボールペンは使い捨てで使っていた。もちろん、1本を使いきっての「使い捨て」という意味ではないよ。1回か2回使ったら、まあ、適当にほっぽらかしといた、という意味。もちろん、インクが出なくなるまで使いきったことなんか一度もない。当たり前だ、オレは、ケチな会社に勤める事務職員じゃない、資本主義の申し子なんだぜ。大量生産、大量消費! これをモットーに生きてるわけ。
だのに、なぜ?
当所において、手紙を書くのに唯一使えるのは、ボールペン、それのみ。よって、OH! 今日気づいたのだが、1本のボールペンのインクを、もう使いきろうとしている。気づかず使っていたのだが、手にとってしみじみとながめてみる。入所時に新品で購入したボールペンのインクが、今、なくなりつつあることで、時の流れを感じてみたりした。
拘置所の生活はあんまり退屈なんで、ちえっ、こんなことに「感じてみたり」してしまうんだ。じじいになったみたい。
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初公判では、もちろん罪を全体的に認めまくるつもりだが、情状面で証人を立てて、オレの人品骨柄卑しからぬところを訴え出る法廷戦術でいく、と弁護士が言っていた。
もっとも、このぐらいの作戦は「法廷戦術」なんて呼べるほど立派なもんじゃない。覚醒剤でパクられたヤツなら、誰だってそうやる。不良《ヤクザ》だって15年来のシャブ中だって、18歳の時から密売で生計をたてている生粋の密売人《プツシヤー》だって、もう適当に職場の上司やら、兄やら、親やらデッチあげて、
「本当はやさしい、いい子で、仕事熱心で、クスリさえやらなければ完璧な人格者なんですよ」
法廷のセオリーどおりにドラマを演じるわけだ。
いや、そこまで大ゲサに偽悪家ぶって書くほどもないかな。
犯罪者《ソイツ》が日ごろ世話になっている、あるいは、今後、犯罪者《ソイツ》を世話しようっていう奇特で親切な人を呼んで、本心だかどうだかわからないが、とにかく犯罪者《ソイツ》をどう思うかについて、弁護士の誘導尋問に基づいて、あるいは検事、判事の尋問に答える形で、なるべく被告人の有利になることを証言する、それが情状証人という役割。
公判では、3人まで情状証人を立てられるらしい。弁護士の言うには、「ぜったいに誰かに頼んだほうがいい。3人、フルに呼んだほうがいいです」ということだが、思いあたるところ、爆発してる女房と、そうだな、『投稿写真』の編集長しか証人席に立ちそうな人はいない。編集長は、日本じゅうのパンチラ少年≠スちの生みの親というか、四谷にパンチラビル≠ニ呼ばれる白亜の本社|建物《ビル》をおったてるぐらい、日本じゅうにパンチラを流行させた極めて優秀な編集者だ。すなわちどっちかというと裁判向きではないんだけど、本人はシビレるような人格者だし、まあ仕方ない。それしかいないんだから。
裁判の証人になってくれそうな人がいないって、これは、特にオレの人徳が乏しいってわけじゃなくて、長年ドラッグにハマッたヤツならわかると思う。ジャンキーになって数年もたてば、裁判の証人席で味方になってくれるような頼れるヤツなんて、もうそんなに身のまわりに残っちゃいないだろう。
弁護士の話じゃ、裁判の情状証人を頼んでも断ってくる「恩人」なんかゴマンといるらしい。悲しい話だ。
156
「情状証人が立たないと執行猶予がとれないかもしれませんよ、みんな立ててるんだから」───という囚人仲間や弁護士の言葉をそのまま鵜呑みにして、さらに誇張して女房と編集長にだけ情状証人≠依頼する手紙を発信した。女房はともかく、普段、原稿だって締切りどおり書いちゃいない最悪ライターのオレが、編集長に、改まってクソ真面目な私信を出すのは、エラク気恥ずかしく気の重い作業だ、と思ったのだが、とりかかってみると、何の気がねも苦労もなく気楽に楽しんで書いてしまった。
ライターなんてそんなもんだ。どんな内容の文章だってスラスラ書けるんだ。編集長には、
「証人を引き受けてくれなければ、オレは刑務所行きです」ということを、いろんな言いまわしでクドクドと何十回も繰り返し書いてみたりした。便箋6枚、同じ用件を何度も何度も。ライターとしては最悪の文章だが、困りはてた末の未決囚の書いた手紙≠ニしては最高の一文がデッチあげられたと思う。
157
2日後、拘置所に来るのが初めてっていう若い編集者が目を白黒させながらかけつけて来て、「情状証人≠フ件、編集長が全力でうけたまわりましたとのことです」とことづけに来た。そうこなくちゃ。
よっしゃ、これでほとんど準備は整った。あとは、残された日数さえクリアすればもうシャバに戻るだけだ。
158
運動の時、同じグループになった連中とはもうかれこれ2、3週間のつきあいになる。で、結局、週3日会う度にドラッグのことを話している。結局みんなそれが原因でパクられた連中だからそれしか話がないんだ。
「エクスタシーはいい」だの、「グアムのチョモロ族は酋長を筆頭にみんなヤクザにシャブ中にされてしまっているので、日本から持ってけば、3倍の値でシャブが捌《さば》ける」だの、話しているのはいつも、そんなことばっかりだ。
チョモロ族の話は、パクられてから今までに、アチコチの不良《ヤクザ》からもう何度も聞いている。どっかの組織が、すでにグアムのシャブ売買を「しのぎ(公式の仕事)」としてやっている──という話で、その組のヤツのとこへシャブをまとめて持っていけば買いとってくれるし、バラで持ってけば、それをエサにチョモロの連中を下僕にして豪遊することができる、って話だ。不良の中じゃ、一応シャブは、「ご法度」ってことになってるので、公には、シャブに関しての縄《シ》張|り《マ》はない。だから、アチコチでフリーの売人《プツシヤー》が勝手気ままに活動できているわけで、グアムのスピード市場《マーケツト》へも、ま、一応は参入自由ってことらしい。
30代の不良──覚醒剤使用所持、譲渡──が小声マジ顔で近づいてきた。
「オレなんかこれから3年ぐらい刑務所に落ちちゃうけど、兄さんなんかすぐ出れるんやから、シャバに出たら、シャブ引いてグアム持ってけばすぐに1000、2000の金たまるで。割ええで、その仕事は」
早い話が、「運び屋やるかい? なんなら、シャブを大きく引っぱるとこの電話番号教えましょうか」ということなのだが、おいおい、オレ、確かにもうすぐ執行猶予の判決もらってシャバには戻れるだろうけど、猶予期間中は、ほとんどの国が入国を認めてくれないんだよ。アメリカ国内はすべてダメだ。
そう言うと、すすめてきた相手は「そうでっか、残念やなあ、もったいないわあ」と、本当に残念そうに言ってたけど、|運び屋《スマツグラー》なんてやんないっての。
来週裁判だ、ってヤツにこんなことススめてくるなんて、アンタ、世の中ナメてるね。シ、シビレるう。そう言うと、不良は、「そりゃナメとりますわ、ヤクザやもん」と言い放った。が、「でも、実刑落ちることでマジに最近シビレが来とるんですわ、4年も部屋住みやって真面目にヤクザやってきたのに、3年刑務所行ってるうちに仲間においてかれそうで心配ですわ。マジで」と下を向いて黙ってしまった。
運動場では、もうすぐシャバへ戻れる執行猶予待ちの連中と、もうすぐ刑務所落ち確実な連中が日々すれ違っているので、お互いのテンションが、一瞬交錯して、すれ違っていく時がある。
もう、強盗犯もいない。
大麻所持の不良もいない。
次はオレがいなくなる───。
…………………
11月4日 "Liberty" Note
その道悟り一筋
今考える、シャバに出たらこうしたい
という希望
≪indoor≫
1.69に行っていいポジションで酒飲みたい
2.4628のおぼろ豆腐がたべたい
3.CAVA CAVAで、ギネスビールが飲みたい
4.はじめていくクラブで朝までグズグズしていたい
≪outdoor≫
1.深夜釣り行
2.終日バーベキュー
3.スケート
4.スノーボード
つまるところ、具体的になにしたい、とか、こうしたい、というわけではなくて、どっか適当ないい店で、グズグズ酒が飲みたいよ、つまりそういうことである。シャバに出たら、早起きはやめて、必ず10時までは眠り、午後はダラダラ過ごし、夕食を食ったら、必ず夜は街にフラフラ出かけることにする。つまるところ、生きる至上の喜びとはダラダラしていて、しかもそれが楽しいならばそれに越したことはない、と、つまりそういうことである。
人生に結論なしただ創造の一途あるのみ
意味は発見しうる者のみに輝く
生きること、すなわち藝術である
…………………
159
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サイコビリーが死んでいく光景を夕暮れの窓《スクリーン》に見た。
飛び込んだ列車に飛ばされても、リーゼントの髪型をまったく乱れさせず、イカの輪切りになった胴体をライダース・ジャケットに包み込み、寸断された小腸のかたまりを落っことされないように必死で抱きかかえていた。
身をよじったら、いきなり口から噴き出した血潮が、噴水みたいに虹を描いたので、もう死んじまったほうがいいよ、と忠告すると、ヤツは半ベソをかいた顔をして血管を引きずりながら、自分を轢死させた車両に乗り込んでいった。
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160
初公判が近づいてきた。
最近は、毎朝起きあがると、昨日より着実に一歩シャバに向かって前進していると実感できる。だから、毎日、朝起きると、明日の朝が待ち遠しくなる。昼だの夕方だのは、朝目が醒めた瞬間の惰性でしかない。
朝食のみそ汁がやけにうまい。
拘置所のみそ汁は、犯罪者だけが味わえる水っぽくてスカスカの朝のごちそうだ。
シャバでは、朝7時にみそ汁をいただいて、サワヤカな充実感を味わうなんて、そうそうあるもんじゃない。
シャバで味わってよく覚えているみそ汁は、フラッシュバックで頭がトンじゃった時に飲んだ、洗剤風味の納豆汁。
どっちがいい? って、そりゃきまってるさ、どっちともいい。
161
初めて裁判を受ける2日前の生涯一度っきりの心境──。
何の不安も心配もない。ソラナックスの1錠も、アナフラニールもいらないってくらい明るい気持ち。
執行猶予は確実。検事はたぶん、「求刑1年6か月」といってくるハズだ。求刑に「半年きざみ」が入ってる場合、それは暗に裁判官に対して「検察サイドとしましては、当公判被告に対し、執行猶予をくれてやってしかるべきと思ってます」という意味。身のまわりの世話をしてくれる服役囚の掃夫にチョコレートをくれてやって聞きだした裁判のカラクリだ。
「求刑2年」は実刑1年6か月がつきかねないヤバイ求刑なのだが、この世の正義と常識が非常識に勝る限り、オレに実刑がついて刑務所に落ちるなんて喜劇は起こらない。
ま、仮に落ちたとしてもたかが1年6か月、満期上等のションベン刑ってもんで、微笑みながら男の修業をしてきますよ!! と書くのはカンタンだが、NOOOOOHHH!!
逮捕されてから2か月ですでに、魂抜きとられる寸前まできてるってのに冗談じゃない。
とはいえ、「自分の裁判」の開廷2日前の心境ってのは、思ってたよりずっとちっぽけで、これぽっちも劇的でもドラマチックでも刺激的でもない。ローカルラジオの生放送2日前のほうが、まだ緊張するってもんさ。
誇張や強がりなんかじゃなくて、こんなんで本当にいいのかと思うほどだけど、これでいいんだろう。
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V 裁 判 所
162
初公判当日、11月下旬、晴れ。
いつものとおり起床し、いつものとおり掃除をし、いつものとおり点検を受け、いつものとおり朝食をとり、いつものとおり………。
おっと呼び出しがかかった。靴下をはかず、ハンカチをポケットに入れず、その両方を、ピラピラと手に持ちながら上着のポケットを裏がえして着て、廊下に出た。ここまでは留置場でサギ師に教わったとおりのダンどり。
廊下の端までまっすぐ進み、同じ階の、今日出廷する連中4人と一列に並ぶ。台湾人、パキスタン人、不良、そしてオレ。
ポケットの中を調べられ、手に持った靴下と、ハンカチを調べられ、体じゅうぺタペタ調べられた。「イヤ〜ン※[#ハート白、unicode2661]、クスグッタイ」隣のパキスタン人が身をよじってジャレたので、「バカ野郎!!」笑ったオレまで凄え勢いで看守様に怒鳴られた。
手錠をかけられる。拘置所の中は、ずっと素手だったので久しぶりだ。ずっしりした重量感が、ローレックスのオイスターのようだ。これを身につけると一層正確に自分の立場がわかってくる。
階段を下りて階の大きい廊下に出るとほかの棟からも続々と出廷する囚人が集められている最中だった。全部で……、そう50人か60人か、そんぐらいの人数だったけど、看守様も同じ数だけいたから100人以上、ちょっとした大芝居だった。
囚人連中を、拘置所じゅうから集まってきた制服を着た老若|男男《ヽヽ》の看守たちが、張りつめた表情で口々に無茶苦茶ののしっている光景は、人権問題に敏感な運動家だったら失禁《ブルつ》ちゃうほど、男っぽくてハードな世界。そうね、まるで潜入なんかしたくもないハードゲイSMパーティーてな具合。
「おらららっ!! まっすぐ並べ!!」
「バカ野郎、まっすぐだ!!」
「そこ、一歩さがれ!」
「バカ野郎、おまえだ! おら! おまえ!!」
「おまえじゃねえ!! その横の!!」
「そうだ!! このバカ野郎、ボケっとすんな!」
「そこも、おら、まっすぐ前見ろ!」
「他人《ヒト》のこと見てんじゃない!!」
「何、看守にガンとばしてんだ、この野郎!!」
「おら、フザけてんじゃねえぞ!!」
「そこ!! ナメてるヤツがいるぞ!!」
「フザケンなバカ野郎!!」
「下向くんじゃねえ」
「まっすぐ前見ろ!! この野郎!! バカ野郎!!」
罵りまくられて、ようやく一列になった囚人の手錠にロープを通し、1ミリたがわずに一直線に整列させられ、そのあとで、袖に金色の線が何本も入った、きっとエライであろう年くった看守様が我々の前にお立ちになった。
点呼!!
廊下の先のほうから、1、2、3、4、5………。
左のずっと端のほう、首をひねって見ようとしても、はるかかなた先で見えないような位置から、徐々にどなり声が波《ウエーブ》のように押し寄せてくる。本物の津波よりもおっかねえ、罪人のどなり声による音波津波だ。いつ自分の番がくるのか不安になって、キョロリと左を見ると、そこ!! キョロキョロすんな!! と、最初からやり直し。
1、2、3、4、5…………。
一発で自分の番(数字)をクリアしないヤツがいるとやり直し。
1、2、3、4、5、6、7………。
「7」は「しち」だとやり直し。「7」は「なな」。「17」は「じゅうしち」じゃダメ、「じゅうなな」だ。
「おらーっ!! テレテレやってんじゃねえぞ!!」
「今日はバカが多いな、この野郎!!」
!!………!!!!………!!…………!!……!!
!!……!!……………!!!!……!!………
!!!!…………!!……!!…………!!………
以上!! 総員!! 点呼終了!!
ようやくの思いで点呼終了。
「まったく今日はバカが多いな! コラ!」
またもや怒鳴られて、今度はズルズルとロープに引っ張られるように廊下を進み、いくつもの厚い壁の下のトンネル扉をくぐって護送バスに乗り込む。それだけでくたびれた。
待ちに待ったおめでたい初公判《カドデ》の日だってのに、幸先の悪いスタートだ。
163
バスは、大きな川の見える高速道路の上を、特殊な緊張感をただよわせ、ゆっくりと、時には渋滞に巻き込まれながらテレテレ走りやがった。
テレテレ走ってんじゃねえバカ野郎! 前の車!! このグズ!!
看守様がバスの窓を大きく開けて、車線変更に手まどっている、ド田舎のグズが運転する自家用車に怒鳴ったのであれば少しは気も晴れるのだが、やはり看守様は我々犯罪者連中と違って、立派なカタギの方々であられるので、シャバの人間に対して怒鳴ったりはしない。怒鳴られるのは、いつも我々だ。
「喋ってんじゃねえぞテメエ!!」
また怒鳴られた。
164
裁判所の裏玄関から中に入ると、傍聴者には想像もつかないような狭くて陰気な、清潔さと蛍光灯のライティングのまぶしさだけが取りえの通路を、あっちこっち通らされた。
東《こ》京地方裁判|所《こ》には、何度も傍聴に来たことがあるけど、こんなにも建物の表面と裏側の差が激しいんだとは知らなかった。表向きの「裁判所」は立派な石の看板を掲げた、オープンで整然とした現代建築。ところが、裁判官の座っている席の壁の裏側は、くねくねとわかりにくいこんがらがった迷路になっている。
正面から見た権威ある建物、それと犯罪者が裏口から見たこんがらがった不愉快な迷宮。どっちが本当の裁判所の姿なのか? たぶんどっちも本物なんだろう、すごいハナシさ。
清濁併せのむ、ってことを、建築物として具体化するとこういう両面ハリボテみたいな建物になるんだろう。
おっと、こんなこと言ってると、「自己中心的で身勝手な発想」に基づく「法と秩序への挑戦」とかなんとか、そういうふうに怒鳴られてしまうか。まあいい。
本当のことなんだから。本当なだけなんだ。
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STEP(12)求刑公判
165
開廷前の法廷に向かう時も、両手錠で腰にロープつきだ。
「右に曲がれ! 左へ! 階段を上れ! もっとゆっくり!」後でロープを引く看守に怒られながら、法廷に近づくと看守の一人が前に出て、扉を開く。傍聴者は使えない法廷一番奥の専用の入り口、そこから法廷内に一歩足を踏み入れると、突然視界がパッと明るく開け、久しぶりに熱狂的な気分がよみがえってきた。
満席ではないけど、8割がたお客さんはそろっていた。
編集者、ライター、女房が友達を連れてきている。『投稿写真』の編集長もいるし、あと、知らない連中もいた。午前中、同じ法廷で『噂の真相』の裁判があったので、そのついでに、ちょこっと見物していく連中だろう。
入ってすぐ左には検事席。中堅の公判検事がチェルシーをなめながらのんびり調書をめくっている。左奥の弁護人席には、アナどれない老弁護士がやたらとムズかしいしかめっ面で入れ歯の噛み合わせを調整している。
検事の前を通り、右へ曲がりながら傍聴席のほうを見回し、懐かしい顔にウインク。
どう? みんな? 両手錠に腰ロープをつけて看守に引き回されるオレの姿、ちょっとした見物だろ! うん、その姿は絶対に傑作な見せ物に間違いない。けれど、みんなニコリともしてくれなかった。みんなが緊張してどうするの、どうせ裁かれるのはオレなんだからさ。傍聴席のみなさん、もっとこう、気楽にやりましょうよ。
手錠、腰ロープで引っ張られてるオレの姿は、街《シヤバ》にいるみなさんにはショックだったようだけど、本人《オレ》としちゃ、パクられてから2か月半、しょっちゅう手錠だの、ロープだのを身につけて引きずり回されてきたので、その姿には何の抵抗もない。逆に、手錠なしで歩くと、何か腕が寂しいくらいだ。とはいえ友達や知り合いには、とてつもなく不遇な、落ちぶれた姿に見えるようで、誰も無駄口ひとつたたいていない。
弁護士の席のまん前の、背もたれのない黒いソファーが被《オ》告|人《レ》の席だ。座る前に手錠とロープをはずされる。
席につくと、左右に看守が座った。裁判官席より一段低い位置にある椅子に司法書士が座った。あとは裁判官の到着を待つばかり。
傍聴席の女房にウインクすると、笑いながら手を振ってきた。ギロリと看守がニラム。
166
裁判ってのはノンフィクションを演じるライブだ。「ノンフィクションを演じる」って、言葉としては矛盾しているように聞こえるけど、法廷に入ってすぐにそう思った。
逃げも暴れもしない被告人を手錠とロープで入廷させるのも、検事や弁護士の椅子がやけに立派なのも。司法書士、ついでに遅れて入ってきた裁判官が大仰な黒のドレープドレスみたいな珍妙な衣装を着ているのも、裁判というノンフィクションをもっともらしく見せるための、どうでもよくて重要なアイテムだ。ひとつオレもしょぼくれた犯罪者役を演じるとしようか。
「遅れました」
裁判官が入ってきた。
全員起立。
裁判官は、ここでは文字どおり、人の運命どころか、命まで左右できる絶対的権力者だ。今書いてて空恐ろしくなった。ごく真面目そうな銀ブチメガネの裁判官だけど、アイツの胸先三寸で、オレの人生なんかいくらでもモテあそぶことができる。もし、オレが強盗殺人でもやらかしたとして、アイツが「極刑をもって」とかなんとか言ったら、アナタ、殺されちゃうのよ。あーおっかない、おっかない。
それでは、当法廷を開廷します。
被告人、前へ。
★刑事訴訟法★
第二八二条[公判廷]
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@公判期日における取調は、公判廷でこれを行う。
A公判廷は、裁判官及び裁判所書記が列席し、且つ検察官が出席してこれを開く。
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167
30分後、裁判は終了。
本当はもっと長かったかもしれないけど、逮捕されて2か月半、さんざん待たされ、いじくられ、打ちのめされての大イベントだったんで、うれしすぎちゃって、舞い上がっちゃって、時間の感覚が全くわかんなくなってしまったみたい。
1時間ぐらいあったのかな、本当は。
書きたいことはいっぱいある。だけど、ああなって、こうなって、あそこはこうで、あそこの場面ではこうなって……etc。
書きたいことがいっぱいありすぎて、どう書いたらいいかわからない。
えーと、うーんと……、ああ、最初は確か……。
裁判の概要はこんなところだ。
まず最初、裁判官に呼びつけられ、座っていた被告人席から数歩のところにある証言台の前に立たされた。証言台の前に椅子があったので、座ろうとすると、看守に小声で「こ、こら、座っちゃダメ」と注意された。
名前だとか住所だとか本籍をいわされて、とりあえずそれが人定《じんてい》尋問とかいうらしい。適当に応じて被告人席に戻ると、検事が起訴状を読みあげる。その後冒頭陳述があったんだっけな。
オレがどこの小学校を出て、中学へ進み、父親がどこに勤めているとか、仕事は何をやっているとか、どこの大学を中退したとか、オレの半生をどうでもいい調子でひとくさり読みあげたあと、覚醒剤を500回以上使用して気が狂ったとか、妄想が出て病院に通ってたとか、現行犯でパクられた時は、こんな状況だったとか、取り調べで喋ってきた内容をかいつまんで検事が読みあげる。半生を調書のカタチで読みあげられると、これまでの人生が急にしなびてくるような気がした。
弁護士が立ち上がって、「同意します」と言って、その時、オレは被告人席にいたんだっけ、それとも証言台の前に立たされてたんだっけ? 忘れてしまったけど、オレも「同意します」とか、「そのとおりです」とか「間違いありません」とか、なんかそんなことを言いまくった。
そのあと、一回、被告人席へ戻されたのかな。で、またすぐ呼ばれて証言台に立った。証拠物件の確認があって、逮捕された時以来とりあげられてしまっていた3包のアルミホイルに包まれたオレのスピードが目の前に出され、それを検事がひとつひとつ袋を開いて「これはあなたの持っていた覚醒剤ですか」と尋ねてきた。「はいそうです」「間違いありません」「はい、それもです」「はい、それも私のものです」
一袋につき1回、計3回「はい、そうです」と答えて被告人席へ戻された。
テレビかなんかで役者たちが演じてるみたいに芝居がかっているヤツは一人もいない。検事はうつむき加減にボソボソと、弁護士はしかめっ面でヒッソリと、裁判官は塩化ビニール製の顔をピクリとも動かさず、両隣に座っている看守たちは、うなだれてスースーと寝息のような呼吸法で、被告は心の中にライター的好奇心を煮えたぎらせて、それぞれが法廷の空気を胸いっぱいに吸い込んでいた。
168
傍聴人席最前列に弁護側情状証人として控えていた女房と編集長が突然呼び出され、主役になった。
「情状証人として2人の証人を用意しています」
弁護士がそう言うと、裁判官が「1人10分ぐらいずつでいいですか?」と尋ね、弁護人が「はい」と答える。
「それでは情状証人は、宣誓を行ってください」
裁判官にうながされ、編集長と女房の2人が、傍聴席と法廷を隔てる低い木製の扉を、ビヨンと開けて証言台の前に立った。
編集長はパリっとしたスーツを着ている。覚醒剤犯の弁護側情状証人としては悪くない。
2人は、そろって証言台の前へ立つ。書記官が1枚の紙を渡し、この紙に書かれているとおりに宣誓をしてください。とひと言。2人は紙を見ながら、声を合わせて宣誓を始めた。
「宣誓! わたしたちは、自らの良心に誓って本当のことを証言することを誓います!!」とかなんとかいう内容。日本の裁判での「宣誓」ってのは、アメリカの法廷みたいに、「神様」相手に誓うんではないらしい。自分の「良心」に誓うんだ。大概の日本人は本物の「良心」なんて持ちあわせちゃいないってのにどうしてそうするのか不思議に思った。
パリっとした編集長と女房は、まるで芸能人運動会で宣誓してるみたいなゴキゲンな調子で、ニッコニッコ笑いながらスウィートな声で宣誓する。心の中から「良心」があふれているのがよくわかる、元気で明るい宣誓だった。まるで、今日、この日、この瞬間のために2人で「宣誓」の特訓をしてきたみたいに息が合ってる。今にも片手を天井に届く勢いであげそうな調子だ。
「赤組代表! OKA−CHANG!!」
「白組代表! 編集長!」
169
編集長が裁判官にうながされ証人席へつく。被告人は証言台の前に立たされるが、証人は椅子に座ってもいいらしい。裁判官がおごそかな調子で一語一語しゃベりだした。
[#ここから1字下げ、折り返して2字下げ]
裁判官 被告人は、証人が編集長となっている雑誌に契約し、文筆業をしていることに相違はありませんか。
編集長 はい。そのとおりです。
裁判官 その雑誌は何という雑誌ですか。
編集長 『投稿写真』という雑誌です。
裁判官 どのような記事を扱う雑誌ですか。
[#ここで字下げ終わり]
一瞬ヒヤリ。
あちゃちゃ、まさか、パンチラとニャンニャン写真をメインに、鬼畜だの女子高生のヘアヌードを扱っている雑誌だということ、この裁判官は知ってるのではなかろうか。
[#ここから1字下げ、折り返して2字下げ]
編集長 えー、アイドルや青少年の間の流行を社会的な背景をおいかけつつエンターテイメントとして読ませていく雑誌です。
裁判官 被告人は、そこで、どんな仕事に従事していたのですか。
編集長 青少年たちの現場へ自分の足で踏み込み、リアリティーあふれる現実をノンフィクションで書きあげる連載をやっておりました。
裁判官 被告人が逮捕されたことで、その連載ページは、今はどうなっておるのですか。
編集長 一時休載≠ニいうことにしています。一日も早く、被告人が社会へ復帰し、ページが再開されることを、読者も待ち望んでいる、その最中です。
裁判官 被告人が、社会へ復帰した時の契約関係には支障がない、ということですね。
編集長 はい。読者同様、私個人も、彼の復帰を強く願っている一人であります。被告人は、いつも締切りを守り、原稿が遅れたことなども一度もない、とても誠実で正直な若手ライターであります。
[#ここで字下げ終わり]
ここで、傍聴席に失笑とどよめき。や、やりすぎっすよ編集長。とってつけたような、「締切りを守り、遅れたことなど一度もない」発言に、締切りなんか一度だって守ったことのないオレを知ってる傍聴人たちが笑い出したじゃないですか。人の裁判でウケねらうなんて、ずうずうしいにもほどがある。まあ、いいか。
[#ここから1字下げ、折り返して2字下げ]
裁判官 あー、オッホン。ということは、証人は、編集長として、被告人の更生に力を貸す用意がある、ということですね。
編集長 はい。編集者として仕事上ではもちろん、個人的にも、彼のよき相談役として、公私ともに力になるつもりです。彼を待ち望む読者のためにも、一日も早く、彼がライターという職に戻れることを切に願います。
裁判官 ありがとうございました。検察側の質問はありますか。
検察官 ありません。
[#ここで字下げ終わり]
170
編集長の証言が終わると弁護士が立ちあがり、続いて女房が証言席へ座った。
東京コレクションのシーズンが終わったばかりで、のんびり物見遊山気分でモデル仲間の友達と夫の裁判《ライブ》に来ていた女房は、何がそんなにうれしいのか、ニッカニッカに笑っている。裁判《ライブ》に参加できるのがうれしくて仕方ない模様。
[#ここから1字下げ、折り返して2字下げ]
弁護士 夫である被告人が逮捕された日、自宅で覚醒剤を使用していることを、あなたは知っていたのですか?
女 房 いいえ知りません※[#ハート白、unicode2661] 昔はジャンキーだったみたいですけど、最近は立派に生活していると思ってたもん。
[#ここで字下げ終わり]
おい! 語尾の「もん」ってのはなんだ、「もん」ってのは。ちゃんとデス、マス調で喋れ。
それに「ジャンキー」って言葉を法廷で使うんじゃない。
[#ここから1字下げ、折り返して2字下げ]
弁護士 それを知ってて結婚したのですかね。
女 房 はい。出会ったころは、うつ病でしたけど。
弁護士 結婚したあとに、覚醒剤をやっていたことを知っていましたか。
女 房 はい。
弁護士 現場を見たことはありますか。
女 房 いいえ※[#ハート白、unicode2661] いつも自分の部屋にこもって、「入ってくんなよ」とかいって、自分一人で、アルミを焙るライターの音をカチカチならして使用しているからわからないんです。
[#ここで字下げ終わり]
お、おいこら、もっとオレに有利なことをいってくれ、そのために呼んでるんだから。
[#ここから1字下げ、折り返して2字下げ]
女 房 やめろ、って言ってもやめないんです。
弁護士 妻であるあなたが、やめるように言っても、被告人は覚醒剤をやめなかったわけですね。
女 房 そうですね。何度も注意したんですけど、いうことをききません。自分の部屋で「見るなあ〜」とか言いながら出てこないんです。
弁護士 見ていないのなら、それは、覚醒剤を使用している、といいきれないのではないですか。
女 房 それが……、だって、そのあと部屋から出てくると、普通じゃないんですよ。
弁護士 普通じゃない?
女 房 あの、その……、サボテンのとげを抜いて、アイスクリームに刺して、「サボテンアイス」とかいって、ポラロイドで写真とってるし。しかも、それを食べちゃったことあるんです。口の中血だらけにして。
[#ここで字下げ終わり]
ちょ、ちょ、ちょっと待った。お前の証言、どんどんオレを不利に導いてるじゃないか。もっとこう、「普段の被告人は真面目でイイ人だとか、この数か月、面会で何度か会ったけど、充分に反省してるようだ」とか、そういうことを証言してくれ。
弁護士も弁護士だ。おマエは検事じゃないんだから、オレの女房から、オレが不利になる証言引き出してどうするっていうんだ、バカじじい!
[#ここから1字下げ、折り返して2字下げ]
弁護士 あなたは、幾度となく、被告人に対し覚醒剤の使用をやめるように言ったのに、被告人は聞き入れなかったのですね。
女 房 はい※[#ハート白、unicode2661]
弁護士 今後も、被告人が覚醒剤を使用すると思いますか。
女 房 うーん……? どうでしょうか……。
[#ここで字下げ終わり]
バ、バカもの!! ウソでもいいから、「そんなことない」というのが、オマエの役割なんだって!
[#ここから1字下げ、折り返して2字下げ]
女 房 う──ん、自分のことではないのでわかりません。
弁護士 あなたは、被告人が覚醒剤を使用することを、妻としていいと思っているのですか。
女 房 それは、思わないです。
弁護士 それでも今までは、同じ家の中で、被告人が覚醒剤を使用してたわけですよね。
女 房 う──、はい。
弁護士 だとしたら、今後、被告人がまたあなたの前で、覚醒剤を使用しても、それを止めることはできないのじゃありませんか。
女 房 う──、そんなことないです。
弁護士 あなたが、「いや」だと思っても、被告人がまた覚醒剤の使用を再開することがあるのではありませんか。
女 房 う──、う──、う──。
[#ここで字下げ終わり]
お、おいこの|バ《じ》カ弁《じ》護|士《い》! オマエ、それは検事のセリフだろ。オマエが問いつめてどうするんだ。もっと、被告人を弁護するような質問をしろ、女房、困ってテンパってるじゃないか。
[#ここから1字下げ、折り返して2字下げ]
女 房 でも、もう覚醒剤はやらないと思います。
弁護士 なぜ、そういいきれるのですか。今まで、やめるように何度も言ったのでしょ。
女 房 う───。
弁護士 どうしてわかるのですか?
女 房 う───う──、そ、それは、う、う──────。
[#ここで字下げ終わり]
ウソでもいいから、「『反省した』という手紙が拘置所から届きました」とか「面会の時に涙を流しながらそう言ってました」とペテンを働かせればいいのに、OKA−CHANG(女房)も正直なもんだから、黙ってしまったが、それもしかたない高卒だから。
[#ここから1字下げ、折り返して2字下げ]
女 房 う──、う──、もう!
[#ここで字下げ終わり]
えっ!? ヤバイ!! この「もう!」というのはいつも女房が頭にきて、キレる寸前に必ず出る言葉。ということは、まさかここで、キレてしまうんじゃないだろうか。おい、たのむ、やめてくれ、ここでキレないでくれ。
[#ここから1字下げ、折り返して2字下げ]
弁護士 被告人の妻として、被告人がどうすれば覚醒剤をやめられると考えているのですか?
女 房 う──、う──。
[#ここで字下げ終わり]
ちょっと、なんというか、これでは、弁護側の証人というよりは、検事の追及だよ、まったく。弁護士は何を考えているってんだ。
女房は、困りはててしまって、首をひねって、考え込むばかり。ヤ、ヤバイ、女房が考え込むとロクなことがない、というのに。弁護士はそれに対して、「どうだ!! どうだ!! 女房から見て、被告人は覚醒剤を二度とやらないと思うか! その理由はなんだ!!」と、問いつめる。
オレをはじめ、法廷じゅうの全員が「この弁護士の弁護≠チて、全然弁護≠ノなってないじゃないの、バカじじい」とアングリしている時、ついに女房が爆発した。
[#ここから1字下げ、折り返して2字下げ]
女 房 もうっ!! うっ──る──ざあ─────────いっっ!!!!!!!!
あんたは知らないだろうけど、どんだけ、アタシが大変だったと思ってんのっ! やめろっつっても、アタシが仕事行ってるあいだに、勝手にやってんだよ。何度も、家ん中がめちゃくちゃになるような発狂して、うちのフスマなんか、ぜえ──んぶ、やぶれちゃってんだよ。シャブで気ィ狂ったダンナの取り扱いがどんだけムズかしいかアンタにはわかってないでしょ! 本所の刑事さんだってやさしくて、同情してくれたんだよ……。なんであんたに責められなきゃいけないのよっ! もう! もう! もう!! OKAだって、がんばってたのにぃ……。あんたなんかに、シャブ中のダンナと暮らさなきゃなんない大変さ、わかるっていうのっ! 打ち合わせもしないくせに、いい気になって、質問なんかしないでよっ! 逮捕されて、着替えの差し入れしたり、何度も面会に行ったり、仕事先の人にあやまりに行ったり、面倒くさくても、離婚しないでがんばったってことは、一生面倒みるってことなのっ!!
もうっ!! え─────ん!! え───ん。
[#ここで字下げ終わり]
ついに女房は、怒ってんだか、悲しんでんだか、イバってんだか、たぶん、その全部の感情が高ぶって、涙の火花を散らしながら泣き出してしまった、今度は弁護士が困惑して、「う──、う──、う──」とうなるばかり。どうしてくれんだジジイ、オレの女房を壊しやがって。
その時、その状況を救ってくれたのは、誰かと思えば、裁判長だった。
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裁判官 被告人と覚醒剤とを、ある一定期間距離をおかせるために、被告人を刑務所に入れたほうがいいと思いますか?
[#ここで字下げ終わり]
ドキリ。
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女 房 えっ? う、いえ、ううん。いやです。いいえ、そんなことありません。
裁判官 では、被告人とともに生活する妻として、力を合わせて覚醒剤を使用させないため、努力をおしまない、ということですね。
女 房 はい。これからは……いろんなことを自分のこと、夫のこと、と別々に考えず……夫婦のこと≠ニして……考えて2人で頑張ります。本当にそう思います。ひっく、ひっく。
[#ここで字下げ終わり]
女房の発言を聞いて、弁護士も含めて、法廷じゅうの全員が胸をなで下ろした。オレ、書記官、看守たち、それに傍聴人に検事に裁判長、法廷の隅で研修中だった司法研修生たちも、フ──ッとタメ息をついた。
まさに、THANK YOU 裁判長閣下殿! だ。「もう!」が始まってパニクっちゃうと、口の中に無理矢理、精神安定剤でも放り込まないとなおらない女房の大爆発を、諭す言葉で一発で鎮静化させ、しかも、「執行猶予」を与える口実となる情状証人としての「模範解答」を女房の口から導きだすなんて、さ、さすが裁判長! 執行猶予なんてものは、なんでもかんでも与えればいいってもんじゃない。「改悛《かいしゆん》の情」だったり、「被告人の更生に力を貸す知人や妻」の存在、「社会的制裁をすでに受けている」だのの理由があって、初めて裁判官だって、声を大にして、「執行猶予」を宣言できるってものだろう。
オレは今までに、東京地裁の傍聴席で、いくつもの他人の裁判を見てきたけど、今回の自分のが一番面白い裁判だった。
「裁判」ってのは、罪そのもの≠カゃなくて、あくまで罪を犯した人物≠裁判官が見るためのライブ、だとは知ってはいた。だけど、弁護士が検事のセリフを喋り、裁判官が弁護士の役割をし、弁護士は入れ歯をパカパカ鳴らす役に徹する裁判《ライブ》というのは、初めてだ。
アンコール!! アンコール!!
171
これにて閉廷します。
「次回、判決公判は、12月7日でいかがですか?」裁判長が、弁護士と検事の両者に仕事のスケジュールを尋ねて、OKってことで閉廷。
本当なら、やっとこさこぎつけた第1回|公判《ライブ》が終わったってことで、傍聴席にいた連中や途中でパニクッたキチガイ女房に、それに入れ歯弁護士もさそって、これから霞が関界隈の飲み屋で、パーッと派手に打ち上げでもしたいところだが、ガ、ガクーッ、オレはといえば、閉廷の掛け声と同時に2人の看守様にまた手錠をかけられ、腰ロープつきで、傍聴席にいる友達や編集者、女房たちみんなとは逆方向の出口から、1人だけつまみ出されてしまった。
判決公判の日までは、オレはまだまだ「未決囚」なのだ。
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STEP(13)自由へのカウントダウン
172
次回公判まであと9日あるのか。まあ順調なほうだろう。一般的には、求刑公判から判決公判までの間は1週間から2週間といわれている。
さて、あと9日間のこと、いったいどう書いたらいいだろうか。
9日後には「執行猶予」で街《シヤバ》にもどされることは、もうわかっていた。かといって、9日間のうち、一日たりとも、「ホッ」とした気持ちでは過ごすことはできなかった。
判決が心配なのではない。
「残り9日」とわかっていても、「あと少しだ」とわかっていても、拘置所の生活は、抱えきれないほど重くて、うんざりするような精神的パンチを一秒ごとに、繰り返してきやがるので、気が休まったり、ホっとしたり、安心したりするヒマがないのだ。
残り9日になっても、残り8日になっても。残り7日になっても、残り6日になっても、「もうすぐシャバに出れちゃうんだ」というウキウキした実感も喜びもなく、とにかく、その日、一日、一日を拘置所の空気にKOパンチをくらわないように、クロスワードパズルをしたりして気をまぎらわすしかない。
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判決まであと7日 感想
シャバに出てから何をしようか。別に何もしたくない。ギネスが飲みたい、それぐらいだ。ただ出たい。何することなく、ただ出たい。
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判決まであと6日 感想
来週の今ごろは、もうシャバに出ている。何をしているのだろう。不思議な気がする。
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判決まであと5日 その日の想い
夜、電灯が小さくなってシーツの中にもぐると、煩わしいことはもう終わりだ。枕に足をのせ、早いとこ寝入っちまおう。夜になると、頭の中では凄いことばっか起こる。
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判決4日前──
朝食/麦シャリ、なすとキャベツのみそ汁、おきあみこんぶ佃煮
昼食/麦シャリ、チンジャオ細肉風の炒め物、白菜、わかめとにんじんほかのスープ、ザーサイ、コーヒー
夕食/麦シャリ、いんげんと鶏肉の肉じゃが、カレーうどん、なます
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判決3日前──
朝食/麦シャリ、じゃがいものみそ汁、たらこふりかけ、おしんこ
昼食/麦シャリ、キャベツとソーセージ炒め、白菜スープ、白身魚のフライ、カット野菜
夕食/麦シャリ、そうめん炒め、鶏肉とほうれん草の卵とじ、なめこおろし
今日は朝から、ここに入ってからずっと雑誌から切り抜いていた犬や猫や金魚やカメの切り抜きを整理していた。笑っている犬、ねそべっている猫、それにらんちゅうや出目金、縁日の子供の金魚、砂漠にいるゾウガメなどを、机の上に、逆さにしたり、ナナメにしたり配置してみる。動物たちのサーカスが、テーブルの上に出現した。切手の収集をしたことはないけど、切手マニアのヤツらってのは、毎日、こんなふうに紙切れをいじくって暮らしているのか。カッコイイ。
178
判決日まであと2日を迎えた朝。
朝食の、アルマイトに入った麦シャリに今朝も小石がひとつ入っていた。おみくじの当たりハズレみたいに、毎朝、麦シャリの中に石が混入しているか、ワラクズが入っているかで、その日の運勢を占うことにしている。小石が入っている時は小吉。ワラクズと一緒なら大吉だ。ただし、ワラクズだけなら凶。みそ汁の具は、|ふ《ヽ》とキャベツ。|ふ《ヽ》とキャベツ……。考えられる限り、みそ汁の具としては最低の組み合わせ。それに味つきのネコのエサ≠ニ呼んでいる生臭いしょう油味のツナフレーク。のりの佃煮もついた。
判決2日前の昼食──
麦シャリは凶。マグロの塩焼き風のものに、大根おろしがたっぷり。ほうれん草と里いも、それに大根のつゆ。ツナ、きゅうり、ワカメの酢のもの。
同じ日の夕食──
麦シャリ、みそラーメン、じゃがいも入りの酢ブタ、みかん。
179
判決日、前日。日没まであと1時間だ。今日、書くこと、といったらこれくらいしかない。
朝は、麦シャリ、さやえんどうと大根のみそ汁、貝の佃煮、うめぼし1個を食べ、
昼に麦シャリ、ホワイトシチュー、ハムカツとキャベツ、レタス、きゅうり、玉ねぎのマヨネーズサラダを食べ、
夕食は、麦シャリ、いんげん入り肉じゃが、なめこ汁、キムチを食べました。
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STEP(14)判決公判
180
判決公判当日──。
朝食として麦シャリとナスのみそ汁、たくあんを摂ったあと、出廷の呼び出しが来る前に、アセって今、これを書いている。
今日、あと数時間でこのマイ・ルームとはおさらば。10000%執行猶予の判決を受けるので、この部屋には今日はもどらない。子供ん時から数えて、8回、いや9回目の引っ越しということになる。部屋に残していく私物は、正式に執行猶予の判決が出た段階で、服役囚の掃夫がひとまとめにして、帰り支度をするどっかへ運んでおいてくれるんだろう。
次はいつこの部屋に来るんだろうか。
次は人殺し? 猫殺し?
それともひき逃げ、強盗、サギ、かっぱらい、親殺し?
なんだか今はわからないけど、また来るその日まで、この部屋よ、さようなら。
家賃はいくらだったのか知らないけど、それにみあうぐらいの金ぐらい、いつでも即金で払ってやるさ。
頭の中で今日という日を祝福するカノン砲が鳴り響いている。なにかのスピリッツがはじけている音。ドカン、ドカン。聞こえるかい、兄弟、今日、オレはシャバに出るのさ。
シャバに出たら、真面目な連中の神経を逆撫でするようなことをたくさんしよう。裏表なく全身で逆撫で。世の中じゅうをザラザラと、街の連中の肺の中に赤や黄色のピーマンの花を咲かせてみよう、数多くの逆撫での種をまき散らして。
街に出たら、そう、だから今日、街に出たらやりたいことNo.1はそれ。開廷時間は、10時15分。そこまでシャバがやってきている。
181
求刑公判の時と全く同じように、手錠とロープにつながれて法廷内に入った。傍聴席はガラガラだった。前回の公判でみんな裁判《ライブ》ってもんを堪能したのだろうし、どうせ執行猶予≠ニ決まっている判決には興味がないらしい。そう、そうこなくっちゃ。裁判の傍聴ってのは、おもしろ半分に見に来るに限る。
傍聴席にいたのは、編集長、それに初めて見るモデルの友達を3人も連れている女房、あと、見ず知らずの人間がチラホラ。誰かれかまわずあちこちの裁判を見物して歩く品のいい趣味をもつ裁判マニアかなんかだろう。オレの判決公判を見ようなんて、なかなか見る目があるってもんだ。
法廷内の検事席にはすでに、こないだと同じ検事が座っていた。頭を下げながらその前を通過すると、もうひとり、女の検事があわてて入ってきた。わおう。2人も検事が来るなんて大物みたいじゃないか。女検事は、裁判官と被告人、それに看守へのサービスとして、赤いタイトなミニスカートをはいていた、といったらセクハラか、で、いよいよ開廷時間だ。
全員が席について、一服するまもなく、裏の入り口が開いて裁判長が入廷してきた。全員が起立してお出迎え。
と、その時だ。傍聴側の扉がバタンと大きな音をたてて開いたと思うと、大慌てで1人の若い男が入ってきた。キョロキョロとあたりを見回している、知ってるヤツの裁判と間違って乱入してきたのだろう。なにかアタフタとアセっている。
振り返って見ていると、その男は駆け足で入ってきたまま、まだ半開きになっている扉へもどっていき、どっかへ消えてしまった。
廊下のほうから「こっちこっち! こっちです!」場をわきまえたせいいっぱい遠慮した大声が聞こえてきた、と思うと男は法廷の入り口で、手をぐるぐる回し、大ゲサなジェスチャアで誰かを呼び込んでいる。
何? 何? なんなわけ? 誰が、そんなに大アワテでオレの法廷に呼び込んでるわけって、心あたりはまるでない。裁判に来そうなロクデモない知人の顔を、2人、3人と思い浮かべたが、どうも違う気がする。
ドカドカドカ!! 2、3人が駆け込んできた。茶髪の若い男と、女だ。たぶんティーンエイジャーだろう、さらに続いて、もう2、3人、5人、10人。どの連中も、裁判見物で犯罪者の悪人づらをあざわらうのがストレス解消法っていう根性のヒン曲がった顔には見えなかった。さらにもう5人、6人。さらにもっと、もっと。全員手に同じパンフレットを持っている。何かのグループ?
なんだ、社会科見学のグループだったのか。意外に当たり前のヤツらの正体に、少し拍子抜けした。
こっちです、こっちです。
喋くっているのは最初の1人だけで、あとの連中はあわてて順繰りに席に座り、お互い身ぶり手ぶりで何か、かわしている。
しええっ? それって手話ですか?
YEEESSSSS、ヤッタ!!
なんと法廷内が満席になるまで、ゾロゾロ入ってきた連中は、聾唖《ろうあ》者グループの社会見学だったのだ。
お、お、お、大いに結構、社会見学大いに結構。そういうことなら、バッチリ見てくれってもんさBAYBEEE。
裁判長も、突然の成り行きに少々驚いている様子。しかし、裁判官ってのは、ポーカーフェイスが仕事だから、およそ顔面《スクリーン》に心のなかを映写することはない。
それでは始めましょうか。
全員起立!!
書記官がそう言い、検事や弁護士、それと同じように聾唖者の連中も立ち上がった。
傍聴席の最前列で、手話通訳が、法廷内の言葉を一字一句通訳している。
それでは判決を言い渡します。
裁判官にうながされ、被告人席へ進んでいき、立ち止まってまっすぐ、裁判官の目を見る。裁判官は、判決文を読み上げるため、銀色の縁の眼鏡を指先でつまむ。
≪主文≫
──被告人を懲役1年6か月に処する。
チラリと後ろを向くと、今の言葉ももちろん両手で通訳されている。
──ただし、この裁判の確定した日から、4年間、刑の執行を猶予します。
「当然だ」心の中で、何度もうなずいたが、その気持ちまで後ろで手話にされているような気がした。
──なお、押収してある覚醒剤は没収し、訴訟費用は被告人の負担とします。
えっ!? ち、ちょっと待った。スピードを押収されるのはいいとして、「訴訟費用は被告人の負担とします」ってどういうことよ? 国選弁護士費用って国がオゴってくれるんじゃないわけ?
「えっ!? どういうことですか?」裁判長を遮って尋ねると、「つまり、弁護人の費用は被告人の負担とする、ということです」とニベもなくいわれてしまった。不本意ながら、「はい」と言わざるを得ない。裁判所で勝手に選んで勝手に押しつけた国選弁護士≠ナも、執行猶予者は、分割でもいいから自分で費用を払わなくてはならないらしい。
そんだったら、もっと優秀なヤツに頼めばよかったけど、どうでもいいや、今となっては。
≪量刑の理由≫
──本件は、覚醒剤の自己使用及び、自己使用目的所持の事案である。
「覚醒剤」と「覚醒剤自己使用」という言葉が、手話でどうなるのかが見たくて後ろを振り返ったが、よくわからなかった。きっと、静脈に注射するジェスチャアかなんかなんだろう。
──被告人の覚醒剤の使用期間が長期間にわたっていること、その使用頻度も著しく、覚醒剤の使用による幻覚妄想状態も出現していることなどの事情を総合すると……、
チラリ、チラリと後ろを振り返ると、聾唖者の連中が、マユをしかめてムチャクチャ難しい顔をしている。おいおい、通訳、ちゃんと正しくやってくれてるんだろうな。
──その犯情は悪く、被告人の刑事責任を軽視することは許されない。
まあ、そら、許すわけにはいかないだろう。
──しかしながら他方、被告人の所持していた覚醒剤が比較的少なく、被告人がいまだ自己費消者の域を出ていないこと、被告人に前科がないこと……。
これは手話にするの難しいんじゃないかなあ。専門用語も多いし、「自己費消者」なんて口語だって説明しないとわからない言葉だよ。
──被告人が本件を反省し、当公判廷において今後は覚醒剤とのかかわりを断つ旨を誓約していること……、
しなきゃ実刑だから当然だ、といっても、それはまんざらウソってわけでもない。
──……情状証人として出廷した被告人の妻及び、契約先の編集長が、被告人の今後の更生のために尽力する旨述べていることなど、被告人に有利に酌むべき事情もある。
よかったあ、情状証人2人立てといて。
──以上の諸事情を総合的に勘案すると、被告人に対しては、今回に限りその刑の執行を猶予するのが相当である。
ハイ、そのとおりでございます! 私もそう思います。
──よって、主文のとおり判決する。
終わった。
182
被告人席に戻ると看守が、オレの腰に手をのばしてきて、ロープをほどいた。腰縄から解放されて本格的に自由の身になった。
解放。
そのとおり、その場で囚人扱いから解放されたのだ。これから、荷物などを受け取りに、一度拘置所に戻ることになるが、執行猶予なわけだから、すでに街《シヤバ》の人間も同じこと。
看守に行動を制限されることもなく、後ろを振り返り弁護士と握手。裁判費用なんて、ないものは払えない。アメリカ映画で見たみたいに、両手できつく弁護士の手を握ったら、老人の右手が、ボンギィッ≠ニ奇妙な音で鳴った。先生、有難うございました。とかなんとか。
傍聴席にいる編集長と女房に手を振る、バーイ! 今から一度拘置所に戻るから、完全解放は2時か3時ぐらいかな。そう言うと、女房は「今日、夕方からフィッティングなんで迎えに行けない」と笑っていた。
「若い衆を出迎えに行かせますから」編集長が大声で言った。OK、OK! 待ってますよ。
「もうすぐいくらでも会って話せるんだから、な」とか看守にせかされて2人の検事の前を通って法廷におさらば。ありがとう。
看守たちも、今は囚人≠ノ対する態度ではオレに接しない。
「なに、文章なんか書いてんの?」
「そうなんですよ」
「どーいうこと書いてんの?」
「ドラッグのこと。それでパクられたんすよ」
「そうか、わっははは、仕事のうちだな、これも。中の生活はキビシく感じられただろ」
「そりゃもう、看守様たちのせいでつらかったですよ」
ワハハ、ハハ、ハ、ハハハ。
エレベーターを待つ間、そしてエレベーターに乗ってる間、今まで私語を交わせなかった看守とお喋りし、執行猶予者が集められる、控室に通された。
「もう二度とやるなよ」式のどうでもいい小言なんか誰も言わないし、オレだって、「もう二度と看守の方々にご迷惑おかけしません」なんて、ドラマのセリフみたいなことを言う気はサラサラない。クールにいかなくっちゃ。
お互い、仕事≠はたしてきただけで、その関係をシャバにまで持ち込まれてたまるかってもんだ。
執行猶予者の控室に入ると、地検の同行室や、地裁の待合室とは比べられないような、立派なビニールのソファーやパイプ椅子があり、そこに2、3人、誰かが先に入っていた。マンガ本、文庫本、単行本、雑誌、外国雑誌が無造作に置いてあり、それぞれ勝手にページをめくっている。
適当に1冊とると、佐木隆三の法廷ものの小説だったんで、やめて、ほかのを手にすると森村桂のエッセイだった。こんな時に、小言の連続みたいなエッセイはご免だったので、何も読まず壁の張り紙や、ポスターをながめていた。
そうしている間にも次から次へと、執行猶予が決定した連中が部屋の中へ入ってくる。ひとりの頭のヒドく悪そうな少年が、「オレはヤクザで看板料を高くとられた」とか話しかけてきてうっとうしかったのだが、本物のヤクザが入ってきたら、ソイツは黙ってしまった。最初のうちはお互い自己紹介しあってたが、人数が増えるにつれそれもなくなった。
国外強制退去のイラン人も入ってきた。オレの知っているイラン人密売人と友人だという。オレの知ってるヤツは、今、日本で8年の懲役を受けて服役中だとわかった。大笑いだ。
昼めし時になると、サービスで昼めしが出た。もちろん、執行猶予者用に特に用意された築地の料亭の特別弁当、のわけない。いつも拘置所で食ってたのと同じもの。
ヤクザたちは、オレたちは今日、シャバに出てから祝宴が開かれるのでいらないんだ、といって、弁当をすべてゴミ箱に捨てていた。頭の悪そうな少年も、「オレもいらないっス」とゴミ箱に捨て始めたが、ヤクザたちに「おいおい、オレたちのマネしなくてもいいんだよ、おい」とからかわれていた。
オレ? もちろんオレは、すべてゴチになったさ。これが最後の拘置所の食事になるんだから、味わわなきゃ損だってもんさ。
麦シャリに、サンマの竜田揚げ、じゃがいもといんげんの煮物、ねぎのみそ汁。
最後の麦シャリだと自分自身に言いきかせなくたって、充分においしく感じられた。
183
それで………。
昼が過ぎ、1時ごろにバスに乗って裁判所を出て拘置所に戻り、入所した時に集められた部屋に皆でズラズラ入っていくと、そこには朝までオレの部屋にあったものが、すべて運び込まれていた。
ノート、キャンディーの類、ボールペンやコーヒー、切手、便箋。土産にしようと思っていた一般では売っていない横浜刑務所特製の石けんHAMAローズ≠ヘ、取りあげられていた。まあ、買ったものではなく、支給されてたものなので仕方ない。
雑多な品々を片づけて、入所時に預けてあった指輪や靴を返してもらった。靴にヒモを通し、リングをありったけ指にズラリ。2か月半使ってなかったせいで、携帯電話の電源は切れていたが、2時間も充電すればまた使えるはずだ。パクられてから失っていたシャバの感覚も、携帯電話の充電みたいにすぐに取り戻せるんだろう。
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STEP(15)夕暮れの街へ
184
すべての私物を受け取り、指印を押し、返却されたばかりのベルトをパンツに通す。入所時にとりあげられたゴツいバックルのついたベルトをガチャリとハメて腰のあたりを力まかせに締めあげると、ボクシングのチャンピオンになったような誇らしい気がしてきて、いよいよ人間の尊厳を取り戻したことを実感した。
185
それで、夕方……、5時になるかならないかってころ、東京拘置所の正門だか裏門だか両門だか、よくわかんないが、そんなことはどうでもいい、とにかく、オレは、街《シヤバ》へ出ることができたってわけ。
そうとも2か月半ぶりに、街《シヤバ》の空気を吸い込んだってわけだ。
186
拘置所を出て夕暮れてうす暗くなったアスファルトの上をちょっとテレながら歩く。シャバの空気はやっぱりうまくて、それが当たり前すぎて少しテレくさいよ。
お疲れさまでした。どうですか、気分は?
出迎えの編集者の声が耳に入らない。
さっきまで拘置所の中で一緒だった連中も、みんなそれぞれ、出迎えの人たちと話している。門を出たらもう赤の他人だ、お互い見向きもしない。
釈放されたそれぞれが、浮かれ、大げさに喜び、それをかみ殺しておとなしくしている。
「さて行きますか」
オレが向かっているのは、とてつもなくうまいギネスビールの飲めるアイリッシュ料理店。
拘禁生活中、気が狂いそうなほど絶望した時に、その店のギネスのことを思い出して耐えてきた。そういう特別な特別なギネスを飲みに急ぎ足で街を歩くのは、うん、実に充実している。
アイリッシュ料理店の中には、温かみのあるアンティークの木のテーブルとチェアが並んでいた。店の扉を開けると用意でもしてあったかのように、一番居心地のよさそうな場所が空席になっていた。
サーモンクリーム、キッシュ、アイリッシュポテト。ギネスに合いそうなものをオーダーしなくちゃ。
「まずは、おめでとう≠ナいいのかな」編集者が聞いてきた。
「もちろんですよ。ついに解放されたんだからね」
昨日と今日、オレは全く同じ人間なのに、まるっきり別人になったような気がする。リラックスした最高のハイテンションをノードラッグで味わっている。
「ギネスを1パイント、それを飲んだらもう1パイント、もしかして何も食わずに、もう1パイント」ウェイトレスに最悪のオーダー。結局あの子は何パイントのギネスを持ってくるだろう。どうでもいい冗談がころがるように出てくる。3つも4つも、どうでもいい冗談を言った。
ここのギネスは最高なんだ。
店じゅうの客がオレのほうを見た。
あちこちで内緒話をし、こっちに向かってニッコリほほえんでくる。
「よかったよかった、またギネスが飲めてよかった」と編集者が言った。オレは編集者に『リバティーノーツ』つまり、このノートを渡して「中の様子はこんなんでしたよ」と口を封じた。
最初の1杯を飲んでいる最中は、誰にも話しかけてほしくない。この、つかの間の高揚感を自分一人で独占したいから。
ギネスが到着。
乾杯 カチャリ グラスが触れあう音
飲む───────、──────
────、──────、────
──────、──、────
おや? まいった。まいったよ。このギネスは、単なる普通のギネスじゃないか。いや、もちろんそれでいいのだけれど、その……、2か月半もの間、牢屋の中で酒を飲まずに過ごしてきたし、ずっと、ずっと楽しみにしてきたもんだから、何か「特別なギネス」が飲めると、つまり、今までにないくらいにおいしく感じられるんじゃないかと思ったんだが……ギネスビールはオレの知ってるごく普通のおいしいギネスにすぎなかった。
「あ──、うまい! やっぱりシャバに戻って1杯目のビールはうまいですか?」
編集者が口の端にブラウンの泡をつけながら、満足そうに聞いてくる。
「うん、そりゃ最高さ」戸惑いながら口先でそう言った。もちろんウソじゃない。本当においしかったさ。1パイントをイッキに飲みほしてしまったのがその証拠。だけど、ムムムム、思い描いていた空想《エア》のギネスとは……拘置所の中でエアで飲んでいたギネスとは味が違うんだ。うーむ、これが現実のギネスってもんか。エアとは味が違う。妙な感じ方だが、まあ、悪くはない。続けてもう1パイント飲んでみる。
うん、こうでなくちゃ。もう1パイント。やっとわかってきた。そうとも、これが本物、リアル、現実、そう、これこそノンフィクションってもんじゃないか。現実は空想とは違う!!
そもそも、牢獄からシャバに戻ってきたといっても、それで本当に「解放」されたわけじゃない。拘置所よりは多少自由な世界ではあるけれど、シャバにはシャバの法律やモラルといった、身体をしばりつけるルールがたくさんある。つまり、オレが味わっているのは、つかの間の「解放感」ではあるけど、「解放」そのものではなかったんだな。
生きている限り、世の中、全くすべてのことから解放されることなんてないかも、完全な自由なんて、手にいれることはできないかもしれない。
でもいい、それでも
YYYYYEEEEEEEEEEEEEEESSS!!!!!!!!!!!!!!
街《シヤバ》はすばらしい。こうしてギネスを飲み、サーモンディップをつまんでるだけで最高に!!
シャバに出ることを手紙で知らせといた連中が、入り口の扉をブッ壊しそうな勢いで開け放ち女房と一緒にドカドカと店に入ってきた。
「よう、おつとめごくろーさん」
「太ったねー」
「逮捕されたんだって」
「ウソ」
「知らなかった」
「誰だ知らないヤツ連れて来たのは」
おっとと、お前らとつきあってちゃ、この先ロクなことにならない。あっというまにまた牢屋に逆戻りだよ。オレがそう言うと、みんながゲラゲラ大笑いした。
そうとも、この先も、おもしろおかしく生きていかなくちゃ。オレが逮捕されてから2か月半で学んだのは、そういうことだった。
何もかもうまくいかない時、最悪のトラブルの連続でクタバリかけた時こそが、ガッツの見せどころ、大声でわめき散らして腕を振り回し人生をうんとうんと楽しむんだ。人生を楽しむ──オレが言うと殴られそうな言葉だ。だからもう言わない。でも本当さ。
ギネスをもう1パイント。
シャブでパクられるなんて、落ちるところまで落ちたねえ、なんて言うヤツはわかっちゃいない。ガッツのあるヤツは落ちた≠ニ見せかけて、しゃがんでるだけなんだよ。
ギネスをもう1パイント! それとアイリッシュシチューも!
ロクデモない生活を、おもしろおかしく続けるには、気分、体力が充分でなくちゃ。
ギネスをもう1パイント。あちこちから声があがっている。
もう1パイント! こっちももう1パイント!
飲みすぎは身体に悪いよ。オレはいつだって健康に気を使うんだ。
スイマセーン、ギネスもう1パイント!
スピードなしのパーティーがこんなに楽しいなんて、生まれ変わったみたいだ。
久しぶりのアルコールはメチャクチャに効いた。天井を見上げたら、胴上げされてるみたいな気がして夜空にワルツを踊る星を見た。大丈夫。気分は最高だもん。
ZZZZ、ZZZ、ZZZ………………
おやすみZZ…………………ZZZ
ZZZZZ………
ZZZ
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あとがき──シャバに出てから、1年がたった
シャバに出てからいろいろあった。東京拘置所は、高層ビルに建て直すってんで、現在、取り壊し作業中。オレの入っていたあの部屋も、もうすぐあとかたもなく壊されてしまうだろう。
うん、この1年けっこう楽しかったね。でも、いささかうんざりするような出来事だって、そりゃあったさ。
たとえば、そうね、おせっかいな連中が、何を考えてんだか、たまにどっかのクラブやバーで出くわすと、ピッタリ寄り添ってきては、「はい、これどうぞ※[#ハート白、unicode2661]」だの、「最高級品なんですよ!」だの、耳打ちしながら、ドラッグを手の中に押し込んできやがるんだよ。
ヤツらのその|プレゼント《ヽヽヽヽヽ》には、心からの親近感と本物の友情がタップリと含まれているのはよくわかる。その気持ちは「もちろん、うれしい」。
だけど、「絶対相手が喜ぶに違いない」という自信満々の思い込みはやめてくれ。オレなら執行猶予中の人間の手の中に、ドラッグをいきなり押し込むなんてヤバイことは絶対にやらないね。
「元気? その後、あのビョーキの具合、いかが?」なんて、ただ単に声をかけるだけだって、親しみは充分に伝えられるし、第一、あいさつだけならパクられる心配が全くない。
だから、この1年、手の中に「S」やら「X」やら「チョコ」を押し込まれる度にオレは、ちょっと失礼なんて席を立って、便所に直行して全部ジャーと流してきた。どうだい、たまげただろうアミーゴたち。
とにかくオレは、刑務所行きはご免なんだ。危なっかしいヤツらからはタバコ1本だってもらうつもりはない。
まあ、そういうわけで、ドラッグに関してオレに対していらぬおせっかいをやくのはやめてくれ。欲しけりゃ自分でなんとかするさ。
ところで、
今、オレはエル・セカンドの前のベンチに座って自分でなんとかしたジョイント≠吸っている。
エル・セカンドってのは正式の地名や店の名前じゃなくて、ジャンキーの仲間うちでそう呼んでいる場所だ。薬中は偏執狂的に警戒心が強いところがあって、電話はもちろん、直接会って話す時でさえ、いろんな固有名詞をスラング化するからね。
ここは、以前、ここに座っていた時、すぐ目の前で財布を落としたマヌケがいて、それをいただいちゃったことのある、縁起のいい場所なんでね、「あとがき」を書くのはピッタリだと思ってやってきたところだ。
おっと、もっと、もっともらしいことを書かなくては「あとがき」にならないや。現在《いま》の著者は、もうすぐ執行猶予を1年消化するところだ。日ごろ気をつけているのは執行猶予中につき……、日々逮捕されたことを反省しつつ、社会へ貢献する更生の大志を胸に抱いて、奉仕の精神で世の中に尽くす努力をすること。
──まあ、そういうふうに性根を入れ換えてこの本を書きましたですと、「あとがき」としてはそういうところか。あとはその、またパクられないように、とか、テンパってる時の職質には気をつけろ、とかム、ムニャ、ムニャ、ムニャ、あとは内緒だ。それに、「もっともらしいこと」はすでにもう本の中に織り込んであるじゃないか。
そもそも執行猶予中ってのは、どう過ごせばいいんだろう。テレビや放送の世界では、執行猶予中のタレントは、ドラマやなんかで起用しちゃいけない自主規制ってのがあるらしいのだが、そりゃとんだおカド違いの規制ですよBaby。執行猶予中だからこそ、パクられる以前よりも、さらに本腰をいれてビシビシと仕事をやりまくることが、世のため人のためってわけで、そうとも、オレは、ノンフィクションを書くのが仕事なんでね、今も本当のことを書かなくちゃ。
オレがシャバに出て、1か月もしないうちに、東京拘置所を脱走した連中が現れた。覚えているかい。
世の中はすばらしい。本当にすばらしい。実際に、拘《あ》置|所《ん》中に入ってたオレは、そのニュースを聞いた時、心の底からそう思った。いや、なにも脱走されてざまあみろ、とか、そういうことじゃないんだ。ただ、あの中にいたオレは、あそこから脱走するなんて、絶対に不可能だと信じてたからさ。脱走のニュースを知った時、本当に、その、たとえばジークフリード&ロイのショーで見た空中に吊るされた箱の中で白い虎が美女に変わっちゃうマジック、あれを見た時よりももっと驚いて感動しちゃったってわけ。世の中、まだまだ奇跡《ミラクル》が起きるんだ、なんてね。
「脱走」を知った時の興奮は、今はもうだいぶ醒めちゃってきてるけど、でも、このつまんない世の中でも、ワクワクする奇跡《ミラクル》が現実に誰かの手で成しとげられるんだ、ということは、この先もずっと覚えていると思うな。そんなふうに思えるのも、拘置所に入っていたからなんだと思うね。今のオレにはとても不思議な喜びに満ちている。
世の中のほとんどの人には、別にどうってことのない、ちょっとした大事件≠ノすぎなかった、東京拘置所からの脱走囚騒動≠ェ、拘置所で暮らしていた人間には本物の奇跡《ミラクル》≠ノ感じられる──。
これって、素晴らしいことだと思うんだけど、間違っているのかな? いや、本当にすばらしいんだって。
いや、これは、うん、ジョイントがグッと効いてきたから、そう感じられるのかもしれない。
わおっ!
ジョイン卜の先っぽが花束《ブーケ》みたいだ。
目の前を歩いている人が、全員、今この場所で、この「あとがき」を書いているオレを祝福しているように感じられる。
一|片《かけ》の板チョコを、口の中に入れたら、うああああ、最高のチョコレートムースの味がするよう。
BAYBEEEEEEEEEE!!!!
ジョイントを一服。
うーん、街中の女のコが全員が全員すごく可愛い。
ジョイントを一服。
「世の中が少し見えたね」うんうんとオレ。
ついでにジョッポも一服。
これこそが、そう、ノンフィクションってもんさ。
まだまだこれからおもしろいことがたくさんありそうだねって、みんなが言ってくれている。ああそうかもね、最近、これからがオレにとって、正真正銘のおもしろいことの始まりって気がしてきているんだ。
[#改ページ]
文庫版あとがき
[#この行2字下げ](「あとがき」から5年たった現在書いている最終的あとがき、あるいは文庫向け著者近況的「あとがき」)
我々の過去は一連の夢でしかなく、夢を思い出すとは過去を思い出すことにほかならない。そして、これが書物の果たす役割なのである。
───────ホルヘ・ルイス・ボルヘス
[#地付き]『ボルヘス、オラル』
所詮「体験」なんて気ばってみても過ぎてしまえば、それは昨夜見た一片の夢と同じくらい儚《はかな》くもろい。
逮捕されたとか、ドラッグで頭が狂ったとかにかかわらず、あらゆる過去の出来事なんてものは、ボルヘスが言っている通り、たとえそれがなんであったにしろ一連の夢のようなものに過ぎないんだと思う。ある時のそれは、あったかなかったかすらはっきりしないあやふやな幻想。そしてある時は、確かにあったと実感できる強固で確実な……しかしどっちにしろやはり幻想。「体験」を根拠に正論を振りかざして何かを主張している連中はそろいもそろってみんな大馬鹿だな。「体験」なんて昨夜のシュールな夢の続きだ。
この本を書き終えて5年がたった今、オレは「体験」をそんな風に考えている。5年前は思いもよらなかった考え方の変化だけど、どうしてそう思うようになったのかは、自分でもわからない。
この本を文庫化するにあたって希望することはたったひとつだ。売れて欲しいとか、多くの人から「おもしろかった」という賞賛の言葉をもらいたいとか、そういう望みもあるにはあるけれど、本当に叶えられたい祈りに比べたらそんなことはちっぽけなことだ。
オレが願うのは、この本を開くたびに、読者と、そして自分自身がこの本の中で「過去の夢」ではなく、「現実の時間」を生きることができればいい、ということ。この本の中に現実を生きるオレがいれば、それ以上なにも望むことはない。これは自分にとってそういう本だ。
本なんてのは、手に取ったって本棚に並べておいたって、読まなきゃ紙とインクでできた単なる「もの」でしかないんだけど、というか、基本的には単なる「もの」なんだけど、ときどきごくごく希に、いったん人がそれを手にとって読み始めると、仮にそれが何度目かの再読であるにもかかわらず、あたかもそこに書かれていることがその瞬間進行している新しい出来事のように感じられる神聖な力を持った書物があったりするわけで、そういう力がこの本に宿っていればどんなにすばらしいことか!
そのすばらしさを確認するため……
現在自分は、文庫化されたばかりの本『アフター・スピード』の状況を偵察するために書店に来ている。売り出されたばかりの本が置かれている場所から斜め後ろに約6歩。これが本屋を偵察する時のオレの定位置で、現在自分はいつもと同じようにその場所で適当な本や雑誌を立ち読みするフリをしながら、いったいどんなヤツが自分の本を手に取るのか、息を止めてじっと観察している。
以前、新宿の紀伊國屋の棚の前で自分の本の売れ行きを定点観測していたとき、その姿を知り合いに見られて、後日追及され随分バツの悪い思いをしたことがあった。よって、それ以来、偵察の際には必ずオレが著者本人とバレないように変装をしているのだが、今日もしかり。が、どんな服装をしているかはバレるので言わない。
さて、本日午前中に吉祥寺のパルコブックセンターとブックスルーエをのぞいて、現在3軒目、高円寺文庫センターに潜入しているわけだが、この書店、小さく地味だが油断ならないニクイ店だ。他の書店じゃ手に入らない根本敬や山野一の本の他、まぎれもない傑作なのにマーケットでは引き取り手の見つからなかった不憫な書籍がこっそり生き延びていたりする異次元空間。四方の書棚には戦災孤児のスリみたいな顔つきの見たことのない本が客の財布を狙ってニヤリと手ぐすね引いていて、うっかり手を出すといつのまにかレジで金を払わされていたりするので、気を抜くのは厳禁だな。
あ、さっきから立ち読みしていた男が本を持ってレジへ。20代半ばくらいか。なんでこの本を買ったんだろう、ジャンキーには見えないけど。でも、ありがとう。それから、あ、制服のOLが手に取った……、買えよ、買え買え! ガク──っ、戻しやがった。しかも、違う本の上に適当に、まったくしょうがねえなあ。うわ、すごくカワイイ子が店に入ってきた、で、オレの本のある場所へ。買ってくれないかなあ? というか、もし買わなかったら「ほーら。これがオレの物語だぞ〜〜!」とかなんとか言いながら、ズボンのチャックを開けて憂さ晴らしにチカンしてやろうか。
と、思ったら、あ、レジの店員がオレに注目している。万引き犯とまちがわれているのかも知れない。いや、変態とまちがわれているのかも。店員から見えない位置にそっと身体を移動させて、目をくらまそう。は! ヤバイ、ますます疑われるかも知れない。でも大丈夫。万引きしたら逃げればいいのだ。そんな心配はよそう。
さてと、そいじゃあってんでオレも、この本を手に取り、チラリ、立ち読みしてみる……。
自分の書いた本を立ち読みするのは、本の神様が著者だけにあたえられた喜びだ。祝福といってもいい。しかも、どうやらオレのような、未だ成功していない物書きは、売れてる作家よりもよりその喜びが多く分配されるらしい。だって今すごくうれしいもの。
自分の本だからしてどのページにどんなことが書いてあるかなんて、全部|諳《そら》んじているが、ゆっくりと立ち読み開始。いつもなら気にしないが、自分の本だから指の汚れがページにつかないよう激しく気を使う。本に挟まれているスリップは落としてはいけない。スリップを集めると書店は出版社から報奨金がもらえるのだ。いい客は、本屋のことも考える。
cool!!! おもしろいじゃないの、自分で言うのもなんだけど、自分の本だから、誰よりも大きな声で言う。うん、いいね、「はじめに」は少し気取ってやがるけど、あとに続く「プロローグ」は傑作だ。それから、「I留置場」STEP(7)あたりもスキだなあ。「……共感できないよね、それ。ただ、そう『やりたいからやるだけ』」ってくだり、最高にイケテル。まるでオレが本の中にいるみたい。というか、オレのことなんだから、オレは本の中にいるんだって!
そうだろ? と言ったら、うんうん、誰かに肩をたたかれたみたいに本の中の自分がアンサーした。そして読み進めるうちに吸い込まれるように物語の世界へ……。
う、気づくと随分時間がたっている。夕方、というよりは夜に近い時間。外はすっかり暗くなっていてガラスの向こうに半透明な自分が見える。ガラスの中で、自分が自分を見ている自分を見ている。
そのさらに向こう、はっきりとした輪郭の街の中を半透明ではない誰かが歩いている。どいつもこいつもオレのことなんかこれっぽっちも気づいてはいない。なんて気持ちがいいんだろう。この瞬間、自分は自分の中だけにしか存在しないので、現実そのものも夢であると言えるだろう。
ねえ……
わっ! いきなり前から声をかけられてオレは驚いた。
なにやってんの?
なにって? わっ、爆笑! 女房がここまで追いかけて来やがったんだ。
あれから6年たった今もオレと女房はとても仲がよい。まわりのたくさんの友達が別れたり、大喧嘩の末離婚したりしたがオレ達はまだ愛し合っている。
一人でどこ行っちゃったかと思って追いかけてきたの!
いやね……オレは今日ここで考えていたことを説明する。
そういうワケだからさあ、オレがパクられたドラッグにまつわる不祥事というか災難というか、まあ、一連の出来事は今となっては全部夢なのよ、夢。現実のオレにはもはや、パクられた過去は、現在とはまーったく関係ない単なる夢なワケ!!! って、痛ってえなあ、いきなり足を踏んづけやがった、なにしやがんでぇ!!
冗談じゃないっつーの! アタシは今でも苦労してるんだからね。
はいはい失礼しました。
最初、この文庫版のあとがきには『アメリカン・グラフィティ』のエンディングみたいな「登場人物のその後」を書いてみようかと思っていた。
ロン毛の密売人…3年半の服役後また密売人の仕事に戻り、売り出し中の若手覚醒剤密売人として現在神奈川県下で裕福な生活を送っている。
犬の年齢なら40歳のサギ師…4年4ヶ月の実刑のあと出所。出てすぐに同じ手口の銀行詐欺を働くが、彼が服役している間に公的資金導入や金融不安などあって、銀行のセキュリティーが強化されていたため敢えなく御用。現在懲役6年の実刑を受け青森刑務所に服役中。
オレに判決を言い渡した裁判官…その後、千葉地裁に移り角川春樹に実刑4年の厳しい判決を言い渡す。
国選弁護士佐藤某…一昨年、タンをのどにからませ永眠。明大前の本願寺別院でこぢんまりとした葬儀が営まれる。
……なんつー具合に。が、やめた。フィクションならともかく、ノンフィクションで昔の知り合いの現在を暴き立てるのって趣味悪くねえ? 久しぶりに会ったこの本の登場人物の一人にそう指摘されたからだ。言われてみればその通り。でもまあ、一応全部調べたので書いておくが、この本に登場した連中は、どいつもコイツもそれぞれのツラにふさわしいろくでもない人生を現在も歩んでいる。伝えられないのは残念だけど、ほんとに笑っちゃうような「彼らの現実」がいま、実際の世の中にあるんだよ。
しかし、パクられるような悪党って、どうしてときどきハッとするような正しいことをいうんだろうね、そればっかりは今も謎だ。
さて、こうしている間にも時間は刻々と過ぎ、未来は現在に、現在は過去にそして、一瞬一瞬の過去はすべて夢になっていく。そういえば腹が減ってきた。文庫センターの向かいの「ニューバーグ」で激安のハンバーグでも食おうか? うん食べる食べる!
女房は大喜びしているが、安売りハンバーグがそんなにうれしいか? オレは心の中でhaahaha、苦笑。
6年前に見た夢を、オレはきっと生涯忘れないだろう。
2001年12月
[#地付き]石丸元章
単行本 一九九七年六月 飛鳥新社刊
〈底 本〉文春文庫 平成十四年二月十日刊