サウダージ
盛田隆二
目 次
一九九〇年
八月二十五日(土)
八月二十六日(日)
八月二十七日(月)
八月二十九日(水)
八月三十日(木)
八月三十一日(金)
九月一日(土)
あとがき
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そこにいない人と暮らすことを彼はよく夢見たものだ
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一九九〇年八月二十五日(土)
ラジカセのスイッチを入れると、MCハマーがボリューム一杯の音量で唄《うた》いはじめた。
「ごきげんだろ?」とシカンデルが言った。「さっき、ビックカメラで買ってきたんだ」
「持って帰ったら喜ばれるだろうな」と風間裕一《かざまゆういち》は言った。
シカンデルは少しだけボリュームを下げた。
「なんだって?」
「故郷《くに》に持って帰ったら、みんな喜ぶだろうな」
裕一がくりかえすと、もちろんだよ、とシカンデルは指を鳴らした。
「ラジオなんて村長の家にしかなかったからな。雨が続くとみんな村長の家に集まって、ダムや貯水池や運河のニュースを聴くんだ」
裕一はうなずき、ハンカチで首筋の汗をぬぐった。窓は開け放たれているが、風はまったく入らない。六十階建ての高層ビルが目の前にそびえ立っている。まるで巨大な滝だ。いまにもこちらに倒れかかってくるように見える。
シカンデルはこの部屋を四人のパキスタン人と共同で借りている。だが、彼らと顔を合わせることはほとんどない。四人とも深夜の東京駅で新幹線のメンテナンス作業をしているからだ。彼らはシカンデルが仕事に出かけたあとに帰ってくるし、シカンデルが戻ってくるころにはすでに出かけている。アパートには中国人やタイ人も住んでいるという。
「ラマダンのことは知ってるよな」
シカンデルが洗面器に小麦粉を入れながら言った。
「いや」と裕一は首を振った。「詳しくは知らない」
「嘘だろ、兄貴」
シカンデルは振り向き、ひどく驚いた顔をしてみせた。
裕一は日本人の父とインド人の母の血を半分ずつ引いている。母親からは癖の強い髪と彫りの深い顔立ちを譲り受けたが、肌の色は一般の日本人とほとんど変わらない。ボンベイで生まれ、ロサンジェルスで育ち、日本の地を初めて踏んだのは十三歳のときだった。
「第九の月になると、日の出から日没まで断食をするんだ」
水道の蛇口を開き、小麦粉に少しずつ水を注ぎながら、シカンデルが話しはじめた。
「夜になって月が昇ったら中庭に出て、チャパティを少しだけ食べる。政府は新月が昇ったかどうかを調べるため、毎日飛行機を飛ばして観測するんだ。そして新月が昇ると爆竹を鳴らして、一晩じゅうお祝いをする」
パキスタン訛《なま》りの英語でそう言うと、シカンデルは自慢の口髭《くちひげ》をひくひくと動かした。少しでもおとなっぽく見せようとしているが、その顔はひどく幼い。履歴書では二十三歳になっていたが、十八か、せいぜい十九にしか見えない。
日本語はどれくらい話せるのか、と裕一は訊《き》いた。
一か月ほど前、面接をしたときのことだ。シカンデルは首を振り、黙ってうつむいた。履歴書には「日常会話レベル」と書いてあった。しかし、それはブローカーが書いたものだ。記入された内容などほとんど信用できない。パスポートも偽造の場合が多かったが、裕一は入国管理局の係官ではない。本人の働く意志を確認できればそれでよかった。
「まあ、これから少しずつ覚えていけばいい。それよりシカンデル、いい名前だね」
裕一がそう言うと、シカンデルはうつむけていた顔を上げ、うれしそうに片目を閉じてみせた。シカンデルとは、ウルドゥー語でアレクサンダーを意味する名前だった。
派遣手続きは簡単だった。シカンデルが入国管理局のブラックリストにあがっていない日本語学校の入学証明書を持っていたからだ。もっとも、彼が学校に通うような時間などありはしない。その費用は月々の給料から差し引かれ、ブローカーに振り込まれることになっている。派遣先は大手商社の社員食堂だった。
派遣一日目の朝、商社の担当者から連絡が入った。受話器の向こうでシカンデルの上ずった声が聞こえていた。裕一は状況を確認したあと、シカンデルに代わってもらった。
なぜだ! と裕一の耳にいきなりウルドゥー語が飛びこんできた。
「待ってくれ。できたら英語にしてくれないか」
「指紋をとるっていうんだ。それも十本とも全部」
「不安になる気持ちは判るけど」と裕一は答えた。「会社はきみに長く働いてもらいたいと思っているんだ。簡単に辞められては困るから、そうするんだ」
シカンデルは息を吸いこみ、ゆっくりと吐きだした。
「おれは就学ビザを持ってる」
「日本式のやり方なんだよ」
シカンデルはしばらく黙っていたが、「通報されると思ったんだ」と小声で言った。
期待に違《たが》わず、シカンデルはよく働いた。商社の担当者もその働きぶりには満足したようだった。そして派遣後一か月がすぎ、今日が初めての給料日だった。
「村のこと、もっと聞かせてくれないか」と裕一は言った。
村の話か、とシカンデルはうなずき、洗面器に油を注いだ。そして小麦粉を両手でゆっくりとこねながら、「人口は千人くらいだろうな」と言った。
「パキスタンにはそんな小さな村が五万も六万もあるっていう話、ラジオで聞いたことがある。どこの村も貧しいよ。小麦やとうもろこしやきびを作っているが、まともに収穫できる年なんて、ありはしない。雨はめったに降らないし、いったん降りはじめると止《や》まない。しまいには洪水だ。干ばつと洪水のくりかえし。なかなかうまく降ってくれないんだ。みんな雨のことばかり心配している。長雨が続くと家がくずれてしまう。村を囲んでいる塀もくずれる。雨が降って喜ぶのは、子どもたちと洗濯人夫と水牛だけ。あちこちに池ができるからな。日本に来るとき飛行機に乗って、生まれて初めて空からパキスタンを見たんだ。塩が白く固まって、黒と白のだんだら模様の荒地が果てしなく続いている。地面と家の区別もつかない。太陽が傾いて家の影ができて、あそこに家があるなって判る」
「家族はどうしてる?」と裕一は話題を変えた。
シカンデルは小麦粉を指ですくって舐《な》め、「おれは仕立屋なんだ、ほんとは」と言った。「親父が仕立屋だからな。床屋の息子は床屋、焼物師の息子は焼物師、決まってるんだ。家族はおふくろと、弟がふたり、妹が三人、水牛が四頭。ミルクをしぼってギーを作る。山羊《やぎ》も飼いたいんだがな。ギーっていうのはバターのことだよ。大切な食糧だ。弟たちにつまみ食いされないよう、容器に入れて天井からつるしてある」
シカンデルは小麦粉に塩をひとつまみ振り、うん、とうなずいてから話を続けた。
「上の弟に仕事をまかせて、カラチに出稼ぎに出たんだ。知ってるか、カラチ。パキスタンではいちばん大きな街だ。そのとき初めて汽車に乗った。一等はクーラーがきいていて朝と晩にボーイが熱いお茶を運んでくれるらしい。おれはもちろん四等だ。ひどく混んでいて床に座ったまま身動きもできない、何日もな。村で食えなくなって町に引っ越す連中もたくさんいた。布団や壺《つぼ》や釜《かま》や米や敷物を一切合切抱えて、そいつを盗まれないように家族が交替で眠って見張っている。おれは興奮して、ほとんど眠れなかった。村で汽車に乗ったことのあるのは、おれのほかには村長しかいないはずだよ」
裕一はうなずき、「それで?」と先をうながした
「カラチでは二年間働いた。最初はバナナ運びだ。子どもの仕事だよ。食っていくだけで精一杯。仕送りなんかできやしない。夜もリヤカーの上で眠っていた。村に帰りたかったが、汽車賃もない。それで空港に行って外国人の荷物を運んでチップをせびったりして、食いつないでいたんだ。あるとき、親切なおやじに拾われて、モーターリキシャの仕事にありついた。モーターリキシャ、運転手だよ。これで少し稼いだ。寝泊まりする家も見つけた。インドから逃げてきたイスラム教徒の連中といっしょに暮らしていたんだ。でも、仕送りなんかできやしない」
「日本に来る金はどうしたんだ?」
「そんなに急《せ》かすなよ」
シカンデルはこねあがった小麦粉を洗面器から取りだすと、それをまな板に叩《たた》きつけ、「運がよかったんだろうな」と言って、平らに延ばしはじめた。
「パターン人から商売のやり方を教わったんだ。やつらは秋になるとアフガニスタンから国境を越えてやってくる。山羊や羊を売りにくる。だが、金がほしいわけじゃない。武器や弾薬と交換したいんだ。カラチにはやつらを嫌う人間が多くて、おれは交換の仲立ちになって稼いだ。山羊や羊のほかにもアフガニスタン製の毛織物なんか、金持ちの家に持っていくとけっこう高く売れる。バザールでは銀細工や絨毯《じゆうたん》やスリッパやターバンも売ったが、パターン人の持ってきたものがいちばんよく売れたよ。これくらいでいいな」
シカンデルはガス台にフライパンをのせ、こねあがった小麦粉を流しこんだ。
裕一は紙袋から缶ビールを取りだし、どうだ? と差しだした。
シカンデルは首を横に振り、飲酒は禁止されている、と言った。裕一はパキスタン人をもうひとり知っているが、彼がそうとうの大酒飲みだったのを思いだし、イスラム教の戒律もいまではほとんど守られていないんじゃないかと言った。シカンデルは眉間《みけん》にしわを寄せ、その人は間違っている、ときっぱりと言った。
裕一はしかたなく、ひとりでビールを飲みはじめた。
シカンデルはタマネギをきざみ、ピーマンをきざみ、ニンニクをきざんだ。用意した材料がすべてきざみ終わるころ、小麦粉の焼ける匂いが部屋中に漂いはじめた。
「もうちょっとだ、待ってろよ」
シカンデルはきざんだ材料と油を鍋《なべ》に入れ、弱火で煮こみはじめた。マトンとヨーグルトとトマトを入れ、最後にカレー粉と何種類もの香辛料を加え、さらに煮こむ。料理が仕上がるまでにはまだ時間がかかりそうだった。裕一は香辛料で痛くなった目をこすりながら、三本目のビールを開けた。
裕一が人材派遣会社に雇われたのは、外国人の登録が急速に増えはじめた三年前のことだ。英語を話せれば、それだけで採用された時代だった。毎日何十人もの外国人がブローカーの手によって送りこまれてきた。彼らの多くは、日本語はもちろん、英語もほとんど話せず、ただひたすら頭を下げるばかりだった。それはばかばかしいほど根気のいる仕事だったが、裕一は文句ひとつ言わなかった。ひとり暮らしを始めたばかりで、とにかく金が必要だったのだ。違法を承知の仕事のため、給料も破格によかった。
シカンデルが料理をテーブルに運んできた。香辛料の強烈な匂いが鼻孔をついた。裕一はチャパティをちぎって料理に浸し、ひと口だけ食べてみた。燃えるような辛さが口腔《こうこう》に広がった。あわててビールを口に含み、舌の先を冷やした。
「たくさん食べてくれ」とシカンデルが言った。「いつもはネギをはさむだけなんだ」
「外ではいつもなにを食べているんだ」と裕一は訊いた。
「チキンバーガーだよ。ロッテリアのチキンバーガー」
裕一は額の汗をぬぐいながら、料理とビールを交互に口に運んだ。缶ビールはたちまち四本とも空になった。だが、皿の料理はまだ半分も減っていない。唇が乾いて燃えあがりそうだった。裕一は腰を上げ、台所に立った。そして水道の蛇口を開いて、ひりつく唇を冷やした。背後でシカンデルの笑い声が聞こえた。
☆
ルイーズは穴ぐらのようなこの店が好きだった。東京に来て初めて連れてきてもらったときから、すっかり気に入っていた。料理がとてもおいしかったし、フロアで踊れるのもよかった。そしてなによりも気に入ったのは、落ち着いた年ごろの客が多かったことだ。
だが、今夜はそろそろ退散しよう、と思った。助教授の藤波が延々とつまらぬ話を続けていたからだ。彼はテキーラを二杯飲んだだけで、すっかり酔っぱらっていた。
「外国人労働者の大量流入が日本に与える影響について、きみはどう思うかね」
ソファにもたれ、ルイーズの耳たぶに息を吹きかけるようにして、藤波が言った。
「きみも外国人労働者として海を渡った家系に育ったわけだが、そのきみにいまの日本はどう見えるかね」
店の客は若い女と中年男の組み合わせが目立つ。男たちはサンバのリズムにあわせて踊りながら、女の耳元に甘い言葉をささやきかけている。
「資料によれば、きみのグレイト・グランドファーザーが、広島からハワイに渡ったのは一九一二年、大正元年のことだ。第一次大戦の二年前だ。サトウキビ耕地で二年間働き、のちに認められて現場監督になる。一九二〇年、オアフ島六耕地で日本人とフィリピン人が共闘して五か月ストを起こしたとき、彼は砂糖会社の書記をしていたが、ストの指導者のひとりでもあったわけだ。そして逮捕され、入牢《にゆうろう》。彼が写真結婚したのは、五か月ストの前だったか、それとも後だったか、このあたりの事情を知っていれば、ぜひとも聞いておきたいと思ってね」
藤波はソファの背もたれに腕を伸ばし、さりげなくルイーズの髪に触れてくる。
「きみの家系もそうだが、ハワイ移民には広島出身者が多いだろう。いまでもホノルルでは広島弁が幅をきかせている。真珠湾と原爆の因縁を考えると、ホノルルと広島が姉妹都市だなんて、なんとも皮肉な話だよ」
ルイーズの両親はフィリピン人とともにハワイでも有数のコナ・コーヒー園を経営している。一族の成功物語はハワイの日本語新聞でもたびたび紹介され、ハワイ島で知らぬ者はいないほど有名だ。日本のテレビ局の取材を受けたこともある。移民のファミリー・トゥリーを調査している藤波のような学者も多い。
「サウダージという言葉を知ってるか」
藤波はルイーズの顔をのぞきこむようにして、灰皿に煙草の灰を落とした。
「ポルトガル語だ。日本では孤愁とか、思慕感覚と訳されてるが、ちょっとニュアンスが違う。失ったものを懐かしむ感情とでも訳したほうがいいかもしれない。アフリカ大陸から南米大陸に連行された黒人たちが大西洋の波打ち際に立ち、海の向こうの故郷に思いを馳《は》せる。サウダージとはそんな哀しい言葉だ」
ルイーズは立ちあがると、出口に向かって歩きだした。
「どうしたんだ。気分でも悪いのか」
藤波の声を無視して、ルイーズはドアを押し開け、そのまま外に出た。
振り返ると、追いかけてくる藤波の姿が見えた。ルイーズは舌打ちをし、車道に向かって手をあげた。タクシーが停まった。すばやく乗りこみ、行き先を告げる。
「ちょっと待ってくれ」
藤波がドアをノックした。運転手がルームミラー越しにルイーズの顔を見た。
「早く出して」とルイーズは言った。
外苑《がいえん》東通りは渋滞で、車はほとんど進まなかった。歩道に目をやると、藤波の姿があった。車の流れに合わせて、ゆっくりとついてくる。ルイーズは思わず目を閉じた。一度ぐらいベッドにつきあっただけでその気になる日本人の男が恐ろしかった。藤波はこちらに向かってさかんに手を振っている。
やがて信号が変わり、タクシーはスピードを上げた。ほっと息をついて目を開けると、ミラー越しに運転手の視線とぶつかった。
「どこの国の人だい」
運転手は歯のあいだに舌を浮かせている。
ルイーズは黙って、ミラーの中の運転手を見た。
「いや、別にどこの国でもいいんだけどさ、もし日本人だったらごめんな。最近いろんな客を乗せるもんだから」
「日本人じゃないわ」とルイーズは言った。
タクシーは青山一丁目を右折し、タワービルの前で停まった。ルイーズはタクシーを降りると、人通りの少ない一方通行路に足を踏み入れた。マンションはそこから数分のところにある。
背後から足音が追ってくるような気がした。振り向くとふたりの男が後をついてくる。ルイーズが早足になると、男たちも歩調を早めた。
☆
シカンデルのアパートを出たときはすでに十一時をまわっていた。
裕一はやや前屈《まえかが》みになり、池袋駅に向かって夜道を急いだ。大通りからはずれた路地の暗がりにはフィリピンやタイの女たちが立ち、行きすぎる男たちに声をかけている。
ひとりの女がすっと近づいてきた。だが、裕一の顔を見ると、口元に弱々しい笑みを浮かべただけで黙っている。声をかけたものかどうか、ためらっているようだった。
フィリピンと中国の混血だろう、と裕一は思った。ミニスカートから伸びた脚はほっそりとしていて、いかにも日本人に好まれそうだった。裕一は彼女に小さくうなずいてみせると、そのまま歩きすぎた。だが、駅に着くころにはすっかり憂鬱《ゆううつ》な気分になっていた。彼女の同胞であるかのように振舞った自分がひどく卑怯《ひきよう》に思えたからだ。
山手線のホームのベンチには中国人の女とブローカーが座っていた。女は小声で履歴書を読んでいた。わたしの父はタン・エンセンいいます。農業をやっています。わたしは、えー次、わからないよ。長女だ、男が教えると、女がうなずいた。わたしは、えー、長女です。長女です。女は同じ言葉を何度もくりかえした。
女は白いブラウスに紺色のスカートという恰好《かつこう》だった。化粧もしていないし、年も三十に届きそうだった。ブローカーもほとんど期待していないように見える。裕一にはそれがはっきりと判った。代々木で乗りかえ、信濃町《しなのまち》で降りた。セシルに向かって歩きながら、裕一はまだ中国女のことを考えていた。彼女はこれから日本でつらい経験をするにちがいない。でも、その経験に見合うだけの金を手に入れることはできないだろうと思った。
セシルの近くで女の悲鳴が聞こえた。店の脇の路地に目をやると、二十メートルほど先の暗がりで人影がもみあっている。
裕一はうんざりして、セシルの重い木の扉を押し開いた。
「いらっしゃい」とミルナの元気な声が言った。
裕一は軽く手をあげ、カウンターの止まり木に腰かけた。ドーラはボックス席で三人の客の相手をしている。ほかに客はいない。
「どうした、元気ないね」とミルナが言った。
「そう?」
「うん、元気ないよ」
ミルナはフィリピンとスペインの混血だった。メスティソには美人が多いが、彼女ほどの美人はめったにいない。
「パキスタン料理を食べてきたんだ」と裕一は言った。
「どうりで」
「匂いがする?」
「違うよ」ミルナが笑った。「元気がないのは、あなたが故郷《くに》を思いだしたから」
「そうかな」
「そうよ」とミルナは言い、カウンターにグラスを置いた。「わたしも、フィリピン料理を食べると、故郷を思いだす」
裕一はオン・ザ・ロックをひと口だけ飲むと、止まり木から降りた。
「どうしたの」とミルナが首をかしげた。
「すぐに戻ってくる」
裕一は店を出た。路地の暗がりから、女のまくし立てる早口の英語が聞こえてきた。
ふたりの男が振り返った。男たちは中国人だった。スーツを着て、こぎれいな恰好をしているが、おおかたソフトハウスの研修生にちがいない。ひとりが女をはがいじめにし、もうひとりが女のシャツのボタンを外しにかかっている。
「やめろよ」と裕一は言った。
「日本人ではないね」とひとりの男が言った。
裕一は数メートル離れたところから、その男の顔をじっと見つめた。
「邪魔をするな」ともうひとりの男が言った。
裕一は何も答えず、その場でじっとしていた。そうして時間を稼いだ。男たちはそうとう酒が入っているのだろう。女が身をよじり、首を振って抵抗すると、足がもつれそうになった。女は二十歳をすぎたばかりの年ごろに見えた。頬にかかった長い髪のすきまから、裕一を恨めしそうに見ている。
「もうすぐだ」と裕一は言った。
「なんだ、まだいたのか」と男が言った。
「もうすぐポリスが来る」
裕一はポケットから携帯電話を取りだした。
「四分経過した。日本のポリスは優秀だ。通報を受けてから必ず五分以内に到着する」
男たちはたがいの顔を見合わせ、次の瞬間、女を突き飛ばして走りだした。
女がよろけて尻餅《しりもち》をついた。裕一は女の手をとり、引っぱり起こしながら、「安心していいよ」と英語で言った。「通報なんかしてないから」
女はシャツの乱れを整え、黒いパンツの腰のあたりを手で払った。
「ありがとう。でも、わたしのアパート、すぐそこなの。あいつら、場所を覚えてしまった。いつまた待ち伏せされるか判らない」
女はネイティブの英語をしゃべった。裕一は首をすくめ、「なるほど」と言った。「そのときは角のバーに避難するといい。運がよけりゃ、ぼくがいる」
女の表情が少しやわらいだ。
「よかったら、もう少しいっしょにいてくれる? あいつら戻ってくるかもしれないし」
裕一はセシルの看板に目をやり、こくりとうなずいた。
カウンターに戻ると、ミルナが意味ありげに眉《まゆ》を動かした。
「なんだ、そういうこと。ねえ、紹介して」
裕一は困って、女の顔を見た。女はルイーズと名乗った。ルイーズ・アヤコ・マキノ。ハワイから来たばかりだという。
「日本人だと思ったよ」とミルナが言った。
「あなたもなの? 日系四世といったほうが、日本では判りやすいのよね」
ルイーズは眉をひそめ、オン・ザ・ロックのグラスを口に運んだ。そしてほとんど一息でそれを飲み干し、お代わりを注文した。ミルナはあわてて氷を砕いた。
日本に来てまだ三週間だが、もう三回も襲われそうになった、とルイーズが言った。日本は治安がいいと聞いていたが、とんでもないところだ、と。
裕一はあいづちを打ちながらも、そのときロサンジェルスの小学校で同じクラスだった少女のことを思い出していた。名前はドロシー。フルネームはたしかドロシー・ミチコ・トミタといった。彼女も日系四世だった。裕一が通っていた小学校は白人の学校で、肌の色が違うのは裕一とドロシーのふたりだけだった。ワンブロック先の小学校が黒人に開放されたとき、ドロシーは泣きながら、その小学校に転校したいと言った。
どっちでも同じだよ、と裕一は言った。なんにも変わりはしない。
「いいアルバイトないかな」とルイーズが言った。「日本って、とにかくなんでも高くて。下訳の仕事をもらったんだけど、お金にならないの」
「日本語はできるのか?」
裕一が訊《き》くと、「少しだけなら話せます」とルイーズは日本語で答えた。
「探してあげたら?」とミルナが言った。
「あてがあるの?」
ルイーズがこちらに向き直った。
裕一はそれに答えず、余計なことは言わないでくれ、とミルナに顔をしかめてみせた。そしてバーボンを飲み干すと、空になったグラスをカウンターに置いた。
ミルナはグラスに氷を放りこみ、「先週の日曜、上野公園に行ったの」と話題を変えた。「ほんとに驚いた。フィリピン人がものすごく多くて。中国やタイやパキスタンやイランやバングラデシュも多いけど、とにかくフィリピン人がいちばん多いの。いつのまにこんなに増えたの、まるで香港よ。日曜日になると、スターフェリー乗り場にフィリピーナのメイドがたくさん集まるの。おしゃべりをしたり、歌を唄《うた》ったり踊ったり。わたしもよく出かけていった。上野公園はスターフェリー乗り場にそっくり。宮野《みやの》にその話をしたら、怒られちゃった。彼ったら、妬《や》いてるの」
ミルナがメイドとしてマニラから香港に渡ったのは二十歳のときだった。裕一はミルナからそのころの話を聞いたことがある。
主人は中環《セントラル》のマンションでひとり暮らしの四十二歳の妻子持ちだった。香港でも指折りの貿易会社で管理職をしていた彼は、中国返還を前に家族を連れてカナダへ移住したが、不慣れな土地で家族を養うのは難しく、妻子をカナダに置いてふたたび香港に戻ってきたのだという。
ミルナの両親は心配して、たびたび手紙をよこしたが、主人はじつの父親のように優しかった。ミルナのために北《ノース》 角《ポイント》に借りてくれた家具つきの部屋はとても日当たりがよく、月給もメイド仲間の中ではいちばんだった。有給休暇をとっても嫌な顔ひとつしなかったし、一度ミルナが風邪をこじらせて寝こんだときなど、わざわざ見舞いにきてくれたほどだった。
彼は仕事熱心で、毎晩のように仕事を家に持ち帰った。ミルナはアシスタント役を買って出て、夜遅くまで顧客リストの整理やDMの宛名書きを手伝った。彼の世話をすることが楽しくてしかたなかった。そうして一年もたたないうちに彼の子を身ごもった。ミルナは出産のためにマニラに帰り、産まれたばかりの娘を母親に預けて、香港に戻った。
しかし、主人はミルナには会おうともしなかった。新しいメイドがミルナに解雇手当を手渡した。ミルナはその金で興行ビザを手に入れ、日本にやってきたのだった。
最初に送りこまれた甲府のクラブを逃げだすと、ミルナは都内の店を転々とした。歌舞伎町のフィリピンパブで働いていたとき、野口という名の日本人の男と知りあった。
うちの店に来ないか、と野口は言った。小さなバーだが、きみのような人に来てもらえると助かる。妻に子どもができて困ってるんだ。店の名はセシル、妻の名前なんだ。
日本で初めて信用のできる人間と出会った気がしたよ、とミルナは裕一に言った。
ビザの切れる直前、ミルナは宮野を紹介された。四十五歳になる個人タクシーの運転手だった。ミルナが子持ちと知った上で、宮野は結婚を申しこんできた。ミルナはその申し出を受けた。宮野は親類縁者とツアーを組み、マニラのホテルで豪華な結婚式をあげてくれた。娘はそのとき日本に連れて帰った。ジョシーという名で、いまはもう五歳になる。そして結婚二年後、宮野とのあいだにも待望の男の子が産まれた。
「ごめんなさい、そろそろ閉める」とミルナが言った。
すでに一時をまわっていた。ミルナは北池袋のベビーホテルにふたりの子どもを預けている。店を閉めたあと、迎えにいかなければならない。
裕一が腰を上げると、「来週の土曜日ね」とミルナが言った。
「そうだ、浩之《ひろゆき》くんの誕生日」
「そう、必ず来てよ」
ミルナがそう言って、ウィンクをしてみせた。
わたしに払わせて、とルイーズが言った。裕一はその厚意を受けた。店を出たらそこで右と左に別れるはずだった。だが、アパートに帰りたくない、とルイーズが言いだした。
「鍵《かぎ》をかけておけば、あいつらだって入れないよ」と裕一は言った。
「女じゃないから判らないのよ。男に襲われるということがどんなことなのか」
ルイーズはそう言って、腕時計にちらりと目をやった。
「今夜、わたしの部屋に泊まってくれない? ボディガードとして」
「やめといたほうがいい」
「あなた、なにか勘違いしてない? 今夜だけセックス抜きのルームメイトになってほしいの。こういう言い方なら、判ってもらえる?」
「ぼくは自分のベッドで寝る。きみは床で寝る。それでいいならかまわない」
裕一はそう言うと、足早に歩きはじめた。
ルイーズがあとを追いながら、「あなたっていつもそうなの?」と言った。
青山通りに戻り、渋谷方向へ歩いた。裕一は押し黙ったまま、表参道の交差点を渡り、紀ノ国屋の先を右に入った。道の右側に年代物のマンションがある。壁面にはツタが這《は》い、あちこちに黒い染みが浮いている。東京オリンピックの年に建った分譲マンションだが、住人のほとんどは賃貸で入っている。裕一もそのひとりだった。
裕一はクーラーのスイッチを入れると、黙ってバスルームへ入っていった。
ルイーズはダイニングの椅子に腰を下ろし、ぼんやりと部屋の中を眺めた。スチール製のベッド、スライド式の本棚、ライティングデスク兼用のチェスト。男のひとり暮らしにしてはきれいに片づいている。デスクの上に写真立てがあった。ルイーズは立ちあがり、それを手にとった。白いサリーを着て、額に小さな淡紅色の印をつけた女性がじっとこちらを見ている。年は二十五歳くらいに見える。
裕一がTシャツとコットンパンツに着替え、バスルームから出てきた。
「きれいな人ね」とルイーズは言った。「あなたの恋人?」
裕一は何も言わず、ルイーズの手から写真を奪った。
「どうしたの、そんなに怖い顔をして」
いや、と裕一は首を振り、バスタオルで濡《ぬ》れた髪をぬぐった。
「三十年前に撮った写真だよ」
「三十年前」とルイーズは言った。
「そう、ぼくを産む前のおふくろ」
裕一はそう言って、写真立てをデスクに戻した。
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八月二十六日(日)
電話の音で目をさましたとき、ルイーズの姿はすでになかった。
裕一は床に寝転んだまま、電話に手を伸ばした。
「誰からだと思ったあ?」
受話器の向こうから、衿子《えりこ》の舌足らずな声が聞こえてきた。
「ほんとに久しぶり。たまには会いたいよねえ。でも、あなた、せっかくの休みにわたしとデートなんてたまんないでしょ、判ってるわよ。でも、いちおう母と息子でしょ、わたしたち。たまには会ってもいいと思うんだけど、どうかな?」
「なにかあったんですか」と裕一は言い、ゆっくりと上半身を起こした。
後頭部が熱っぽく、唇がひりつくように乾き、唾《つば》を飲みこむだけで頭痛がする。昨夜のアルコールがまだ抜けていない。時計を見ると、まだ八時前だった。
「見つけちゃったのよ、手紙」
「手紙、ですか」
「そう、女からの手紙」
「それ、無断で開封しちゃったんですか?」
「違うわよ、書斎の本棚に隠してあったの」
「ああ、本棚ですか」
衿子はしばらく黙りこみ、それから突然はじけるように笑った。
「ねえ、あなた、裕一さん、どうしてそんなに落ち着いてるの」
「そんなこと、ありません」
裕一は電話を抱え、ダイニングの椅子に移動した。テーブルの上にメモがあった。子どもっぽい筆跡で、"See you again!"とある。
悪いけど床で寝てもらうよ。昨夜、裕一はそう言ってベッドに入ったが、容易に寝つけず、ルイーズにベッドを与えて自分が床で眠ることにした。だが、ルイーズは床のほうが気持ちいいと言って裕一に寄り添ったまま離れず、わたし、セックス好きだけど、初めて会った男と女が服を着たまま寝るのも素敵ね、と耳元でささやいた。手をつないで眠れたらもっといいんだけど、そうしたらあなた、我慢できなくなっちゃうでしょう。
相手にせずにいると、今度は仕事を探してほしい、とルイーズは言いだし、裕一は面倒になって月曜日に筆記試験があることをもらしてしまった。筆記で落とすことはないよ。あくまでも形式だから。ただし、きみが希望の仕事につけるかどうかは保証できない。
うれしい、とルイーズは言い、裕一の頬にキスをした。若くてエキセントリックな美人で、そのうえ資産家の娘だった。避ける理由などひとつもなかった。だが、裕一は知り合ったばかりの女の子と関係を持つことに対して、ひどく臆病《おくびよう》だった。欲望より拒絶反応が勝ってしまう。一晩限りならともかく、それ以上の関係を結ぶことは苦痛だった。裕一はルイーズに背を向け、彼女の誘惑にじっと耐えた。
「聞いてる?」と衿子が言った。
「ええ、聞いてます」
「相手はフィリピン人で、フェーって名前」
衿子はちょっと間を置き、「博《ひろし》さん、女のためにマンションまで買ったみたい」と続けた。「いろいろ書いてあるのよ、手紙に。賃貸かもしれない。判らないけど、とにかくお金は博さんが出してる。その女、新宿のフィリピンレストランで働いているらしいの。ねえ、どう思う。どうしたらいいと思う」
「息子に訊《き》くことじゃないな」と裕一は言った。
「だって、どうしたらいいか判らないから、訊いているんじゃない」
衿子の声が一段と大きくなった。裕一は受話器を耳から離し、そっとテーブルの上に置いた。それでも衿子の声ははっきりと聞こえてくる。
「わたしだって、博さん以外の男と寝ることくらいあるわよ。でも、そんなの遊びじゃない。結婚した女が遊んじゃいけないってこともないでしょ。でも、博さんのは遊びじゃないの。ゆうべも帰ってこなかった。きっとその女のところよ。ねえ、どうしたらいいの。こんなとき、どうしたらいいのよ。ねえ、聞いてるの?」
裕一はテーブルに頬をつけたまま、「聞いてます」と受話器に向かって言った。
「とにかくそっちに行くわ」
「ちょっと待って」
裕一は受話器をつかみ、あわてて起きあがった。
衿子にとって、この部屋は独身時代の懐かしい古巣だった。三年前、父と衿子の再婚が決まったとき、裕一は衿子からこの部屋を譲り受けた。つまり裕一と衿子は住みかを交換したのだ。衿子のことはけっして嫌いではないが、部屋に入れることにはやはり抵抗がある。十一時に京王プラザホテル二階のコーヒーハウスで待ち合わせる約束をして、裕一は電話を切った。そして布団とタオルケットをベランダに干し、ジョギングパンツとTシャツに着替えると、マンションを出た。
雲の切れ間から薄い日が差している。八時半ちょうどだった。裕一は時計をストップウォッチにして走りだした。一方通行路を抜け、青山通りにぶつかって左折、表参道の交差点をすぎて徐々にスピードを上げ、外苑青山口までの1000メートルを全力疾走した。ストライドはよく伸びている。
なぜ我慢してるの? わたしって魅力ない? ルイーズの声が耳の中で反響し、裕一はそれを振り払うように、別のことを考えた。走りながら思い出すのはいつもきまって母のゼリアとボンベイですごした十二歳の夏休みの日々。
早朝、母とふたりでボンベイの港を歩いた。船積みされる樽《たる》から漂ってくる、香辛料や香油の匂い。産まれたばかりのあなたを抱いて、よくこの波止場を歩いたわ。母がささやくように言う。おとうさんといっしょに暮らしたい。考えることはそればかり。あなたもわたしもとても泣き虫だった。
ピンク色のサリーをまとった母の美しさに嫉妬《しつと》さえ覚えながら、ホテルのように大きな母の実家に戻る。戸口のココヤシの木。鉄格子の窓。銀の食器でとる朝食。コック、ボーイ、洗濯人《ドビー》、掃除夫《スウイーパー》、庭師《スリ》、子守《アヤ》、門番《チヨキダール》、運転手。使用人たちの丁重な挨拶《あいさつ》に戸惑いながら歩きまわった広大な果樹園。オレンジ、ライム、マンゴー、バナナ、リーチ、パパイヤ、パイナップル、西瓜《すいか》。そして見渡す限りの綿花畑、馬鈴薯《ばれいしよ》畑。
神宮外苑に入り、イチョウ並木の道を走り抜け、ゆるやかに左にカーブしながら日本青年館の角を折れ、仙寿院をすぎ、|千駄ヶ谷《せんだがや》小学校を左折、明治通りに入る。人通りはまだ少ない。
独立記念日の朝、祖父母と母と母の姉夫婦と連れ立って、山の別荘に出かけた。ヴィクトリア・ターミナス駅からプーナ行きの列車に乗り、西ガーツ山脈を越える。列車が山腹の駅で停まり、裕一は車窓から顔を出した。レールは急坂を登り、空に向かってどこまでも延びている。とても登れそうにない。やがて最後尾の車両に機関車が連結された。列車はゆっくりと押しあげられていく。見てよ、すごいよ。裕一は叫んだが、母は姉夫婦と激しい口論をしていた。祖父が母をたしなめ、母は悔しそうにうなだれた。裕一はそのときようやく母の里帰りの意味を理解した。両親が別れたのは、それから半年後のことだ。
セントラルアパートを左折し、200メートルほどで表参道を横断、ビブレ21の脇の遊歩道に入り、裕一は少しだけスピードをゆるめる。渋谷女子高校を左折し、しばらく走ると、青山通りに戻る。青山学院正門前をすぎ、ラスト500メートル。一周5000メートルのコースだ。青山に越してきて三年、裕一はよほどの雨でも降らない限り、ほぼ毎日このコースを走りつづけている。
高校生のときは長距離ランナーだった。なかでも5000メートルを選んだのは、それがあまり人気のない種目で、競争率が低かったからだ。だが、実際5000メートルほど自分の速さをコントロールすることの難しい種目はない。
体力と気力とそのときのコンディションの描く限界線に沿って一気に走り抜ける。高校二年のときの都大会では、十五分十二秒で走って三位に入ったが、いまでは体調さえよければ十五分を切ることもある。体力はそのころに比べて、あきらかに落ちている。だが、そのかわり、自分の速さで走ることができる年齢になったのだと思う。
父も自分の速さで走っているのだろうか。部屋に戻ってシャワーを浴びながら、裕一はしばらく会っていない父のことを考えた。最後に会ったのは一年半ほど前のことだ。そのとき、裕一は父にフィリピンサイドの人材|斡旋《あつせん》ブローカーの監視を依頼したが、父は考えてみると言っただけで、話を打ち切った。それ以来、会っていない。
衿子との約束の時刻まで、時間はまだたっぷりある。裕一は冷蔵庫から缶ビールを取りだし、ジョイスの新譜をかけた。ランゲージ・アンド・ラヴ。ギターを弾きながら唄《うた》う彼女の透明な声色を聴いていると、ふしぎな懐かしさで胸がいっぱいになる。
そこは炎天下の街だ。裕一はビールをひと口飲み、濡《ぬ》れた髪をクーラーの風で乾かしながらまぶたを閉じる。そして行ったこともないリオ・デ・ジャネイロの街に思いをめぐらす。
街全体が白くぼんやりとかすんでいる。暑さを避けるため、人々はみな家の中に逃げこんでしまった。街路には人ひとり、犬一匹いない。ただ原色の花が咲き誇っている。
静まりかえった街に足音が近づいてくる。ひとりの少年が腕を振りあげ、こちらに向かって走ってくる。少年は飛ぶ鳥の影のように速い。手になにかを握りしめ、みるみるうちに近づいてくる。やがて少年の表情がはっきりと見える。子どものころの裕一に少しだけ似ているが、もちろん裕一ではない。いまにも泣きだしそうな顔をしている。握りしめているのはナイフだ。白いシャツには熟したトマトをぶつけたような血が飛び散っている。
☆
日曜の朝くらい、家にいたっていいんじゃない?
耳元で衿子の声を聞き、風間博は目をさました。心臓の鼓動が病的に速い。
思わず身体を起こし、寝室の闇に目を凝らした。なにかを探す恰好《かつこう》になって、しばらく身体を硬くしていた。かたわらではフェーが寝息を立てている。
時計を見ると、午前四時すぎだった。庖丁《ほうちよう》を振りまわしながら、わめき散らす衿子の姿など見たくない。いますぐにベッドを抜けだし、家に帰るべきだ。博はそう思い、ベッドから降り、そっとカーテンを開けた。
新宿中央公園の鬱蒼《うつそう》とした樹々が雨にかすんで見える。常夜灯に降りそそぐ霧のような雨を見ているうちに、家に帰ることがたまらなく億劫《おつくう》になった。博はカーテンを引き、ふたたびベッドにもぐりこんだ。
知り合った当時、衿子はクライアントからロケバスの運転手まで、相手を選ばず寝ることで有名なモデルだった。その性癖はモデルクラブの役員に納まったいまでも変わらない。博が黙っているのをいいことに若い男と遊ぶことをやめない。そんな彼女が博を非難して、死ぬの死なないの、と泣きわめく。
博は衿子の父親に負い目があった。だが、そのような事情だけで彼女といっしょになったわけではない。おそらく同情したのだ、といまになって思う。同情という言葉が悪ければ、彼女の保護者になろうと思ったのだ。
子どもを産んだことのない衿子は年齢よりかなり若く見えた。だが、たび重なる堕胎のため、すでに子どもを産めない身体になっていた。子どもを産めないなら、せめて身体だけは若く保ちたい。彼女はそればかりを考えて毎日を送っていた。時間さえあればエステティックサロンに通い、スポーツクラブで汗を流した。自分とはまるでちがう人種だ、と博は思った。だが、彼女のそのような貪欲《どんよく》さに惹《ひ》かれたこともまた事実だった。
フェーが寝返りをうち、タガログ語でなにかつぶやいた。
「どうした?」と訊《き》くと、フェーの手が下腹にそっと伸びてきた。
博はあおむけになり、目を閉じた。だが、性器はなんの反応も示さない。唇と舌を使った愛撫《あいぶ》も役に立たず、ゆうべからのフェーの献身的な試みはことごとく失敗していた。
おれも来月には五十五になる。もう打ち止めなのかもしれない。博はフェーの腿《もも》をさすりながら嘆息し、気弱になったときいつもそうするように若き日々に思いを馳《は》せた。
それはいまからちょうど三十年前のことだ。博は帰りの旅費も持たずに、ロサンジェルスに飛んだ。特別な目的があったわけではない。日本からただひたすら遠く離れたいという青臭い衝動に突き動かされただけの旅だった。
ロサンジェルス郊外の中国人の経営するモーテルで半年ほど働いた。掃除、洗濯、買出し、ハネアリの駆除から、フリー売春婦のテリトリー調整、薬物の受渡しまで、あらゆることをやらされた。客もおおかたまともではなかった。先住民の幼女を連れた変態男、六十歳をとうにすぎた露出狂の売春婦、かさぶただらけの太腿に注射針を突き立てたまま歩きまわる黒人女、死に場所を求めて大陸をさまよう老夫婦、そんな連中が入れかわり立ちかわりモーテルを訪れた。頭のいかれた金髪女を引っぱりこんだ白人のカメラマンが、宇宙人の妨害波に苦しむメキシコ人青年に殺された夜、博はモーテルを辞めた。
三か月かけてニューヨークにたどり着き、ふたたび三か月かけてバークレイに戻ってきた。そこでゼリアと知りあった。サンドイッチハウスで働く日本の放浪青年と、図書館学専攻のインド人留学生は、たちまち不器用な恋に落ちた。ゼリアはそれまで男とふたりだけで話をしたことさえなかった。
半年後、そのゼリアが博の子を身ごもった。ゼリアにとっては子を堕《お》ろすことなど考えられないことだった。彼女はアパートに閉じこもったまま、口もきかず、食事もほとんどとらなくなった。極度の不眠が彼女の精神を少しずつ蝕《むしば》んでいった。彼女は虚《うつ》ろな目をしてベッドにもぐりこみ、額から冷たい汗を流して、一日中震えていた。博がゼリアの髪に手をやると、彼女は低く呻《うめ》いて、その手に噛《か》みついた。
博はゼリアをボンベイに帰すと、日本への強制送還の手続きを踏み、一旦《いつたん》日本に帰国してから、追いかけるようにボンベイに渡った。だが、ゼリアの家族は博を娘に会わせようとせず、家に入ることも許さなかった。博は英語を話せるボーイを見つけて、押し問答をくりかえした。根負けしたボーイが博を中庭に入れた。商人を相手に手織りの反物を広げていた母親が、博のために一杯のお茶をいれてくれたが、ゼリアに会わせてくれ、といくら懇願しても、彼女はいっさい口をつぐんだままだった。
博は日本に帰り、旅行代理店に職を見つけた。懸命に働きながらゼリアに宛てて手紙を書いた。返事はなかったが、手紙は書きつづけた。やがてゼリアの父の名前で手紙が届いた。男の子が産まれたという。
博は正式に結婚を申し入れ、ふたたびボンベイに渡った。そして息子に裕一という名をつけ、入籍の手続きをとった。だが、ゼリアの父は、娘が日本で暮らすことや孫が日本人として育てられることに断固として反対しつづけた。博にしてもボンベイの社会に入っていく自信はなかった。やむなくひとりで日本に戻った。
縁故を頼ってアメリカでの就職先を探したが、それらはことごとく失敗した。ロサンジェルスの移民局に残っていた強制送還の記録がすべてに災いしたのだった。
日本人観光客のガイドとして、ロサンジェルスで現地採用されることに決まったのは、それから二年後のことだ。博は半年かけてロサンジェルスでの生活の基盤を整えると、ボンベイに妻と息子を迎えにいった。そしてようやく念願の三人の暮らしが始まった。
だが、その暮らしも十年後には破綻《はたん》した。なにがその決定的な要因になったのか、博はすでに思い出せない。状況を理解できず、ひどく混乱したことだけを覚えている。
ゼリアは冷静だった。外れた歯車は元に戻らない、と彼女は言った。歯車ってなんのことだ、と博は言った。インドにそんな格言でもあるのか?
だが、長い年月を経た破綻は人を許容に満ちた現状肯定に導く。いったん決めてしまうと、別れることは簡単だった。ふたりのあいだにはすでにたがいを罵《ののし》りあう情熱さえ失われていた。博は裕一を引き取り、日本に戻った。ゼリアはボンベイに戻らず、インド系商社の資料室で働きつづけた。
それからの十年あまりは父と息子だけの暮らしが続く。博は無登録のまま、格安航空券の代売を始めた。人脈を頼って航空会社から流れた余剰チケットや、旅行会社から二次、三次の卸業者に流れた座席を入手し、さらにキックバック分以上の値引きをして売りさばいた。ロサンジェルスで知り合った中国人ガイドのコネで、香港のローカルオペレーターから輸入チケットを直接仕入れるルートも開発した。
そうして資金繰りが安定してきたころ、新橋の雑居ビルの一室を借り、正式な登録をすませた上で、フィリピン観光がメインの旅行代理店をおこした。旅行業は設備投資に金がかからず、客の予約金による歩留まりがあるため、運転資金をさほど必要としない。そのため、借入金依存度も少ない。だが、現地手配については現地の通貨建てで決済を行なうことが多く、商品の販売時期と決済時期のあいだの為替《かわせ》レートの変動により、大きなリスクがともなう。
大幅な円安に見舞われ、資金調達の目処《めど》がつかず、事業が挫折《ざせつ》しかけたことがあった。銀行にはことごとく融資を断られ、それならば正攻法でと国民金融公庫にかけあったが、そこでもやはり納税証明書や帳簿や決算書へのチェックが入り、絶望的になった。電話番を雇う余裕もなく、博がひとりで切り盛りしている会社だった。ダンボール箱に放りこんだままの納品伝票や売上伝票を整理し、返済計画書を作っているうちに所詮《しよせん》すべてをでっちあげるのは無理だと悟り、いさぎよく店をたたもうと思った。
取引先の旅行会社の営業マンを通して、衿子と知りあったのはそのころだった。衿子の父は銀座と赤坂にクラブをそれぞれ二軒ずつ持っていた。博は衿子に頭を下げ、援助を頼みこんだ。衿子の父は就労プロモーターを通さずにフィリピンから直接女を入れるルートを作ることを条件に、二千万円の無担保融資を承諾した。
博はさっそくフィリピンに飛び、つきあいのある旅行業者を通して、興行ビザ発行オーディション専門の芸能プロダクションに接触した。旅行業者の仲介が功を奏し、プロダクションはわずか二回の交渉で直接契約を結ぶことに応じた。
難局を切り抜けた博は大手旅行会社との提携を果たし、まもなく事業を軌道に乗せた。裕一はそのころすでに大学に入る年齢になっていた。
「あなた、パン食べるか」
フェーがベッドの脇に立ち、上から見下ろしていた。博は首を横に振った。
「コーヒー飲むか」
博はうなずき、身体を起こした。時計は九時をまわり、窓から薄曇りの空が見える。
煙草に火をつけ、キッチンのフェーを眺めた。白いジョギングパンツと白いタンクトップ。その恰好《かつこう》は彼女の褐色の肌によく似合っている。
新宿の路上にうずくまっていたフェーを車に乗せたのは半年前の冬のことだ。
明け方に仕事を終え、博は自宅に向かって車を走らせていた。ひどく疲れていた。一刻も早くベッドにもぐりこみたかった。何度か眠りに引きずりこまれそうになり、そのたびに拳《こぶし》で頬を殴った。フロントガラスの雨に気づいて、ワイパーに手をやったとき、路上で人影が動いた。徐行しながら近づくと女が顔を上げた。ふらふらと立ちあがり、力尽きてふたたびしゃがみこんだ。女の身体はすっかり冷え切っていた。博は女を車に乗せ、ホテルに運んだ。女はバスタブの熱い湯の中でも震えつづけていた。
「どうしたあなた、顔色悪いよ」
フェーがコーヒーを運んできた。
「うん、少し疲れてる」
フェーが眉《まゆ》をひそめた。
「あなた、働きすぎよ」
「それはきみだろう」
「わたしは若いから、大丈夫よ」
フェーは笑いながらベッドのふちに腰を下ろし、「ねえ、あなた」と続けた。「わたし、大事なこと言えないで困ってるよ」
「大事なこと?」
博はコーヒーカップをテーブルに置き、フェーの肩を抱き寄せた。
「そう、大事なこと」
フェーはそう言って、博の腕の内側に軽く唇をつけた。それからふいに立ちあがると、西向きに開かれた出窓に歩み寄った。出窓にはフェー手製の祭壇がある。聖母マリアの画《え》と金モールの衣裳《いしよう》を着せたキリスト像がクリスマスツリーの電飾コードで飾り立てられ、マンゴーとバナナとアボカドが供えられている。
「ベビーできたよ」
「ベビー」と博は言った。「ほんとうか?」
フェーはうなずき、舌の先で唇を舐《な》めた。
「きのう、病院に行ったよ」
「ほんとうなんだな」
「どうしたあなた。あなたに迷惑かけないよ」
フェーは長い髪に両手を入れ、背中に跳ねあげた。
「迷惑かけない。それはどういうことだ」
フェーは答えずにクローゼットを開け、着替えを選びはじめた。
「あなた疲れてるよ。安心して、もっと寝てなさい」
フェーはノースリーブの赤いブラウスに、膝丈《ひざたけ》のグレーのスカートを着けた。レストランには十時までに入らなければならない。
「ちょっと待ってくれ」と博は言った。「だから、それはどういう意味だ」
「あなたの戸籍汚さない、そういうことよ」
フェーはそう言って、大きく二度うなずいてみせた。
☆
「ちょっと見ないうちに、またいい男になったじゃない。もててしかたないでしょ」
衿子はそう言ってあたりを見まわし、それにしても、と声をひそめた。
「それにしてもこの時間帯、すごく卑猥《ひわい》じゃない? あなた、ここよく利用するの?」
日曜の午前中のコーヒーハウスの客は、そのほとんどがホテルに宿泊したふたりづれだった。若いカップルより、中年男女の組み合わせのほうが多い。彼らは憔悴《しようすい》しきった顔を突きあわせ、黙りこくっている。
ウェイターが注文をとりにきた。
「なににする」と衿子が言った。
「コーヒーにします。カフェイン抜きのにしてください」
「カフェイン抜きだって。わたしはフレッシュジュース」
衿子は笑いながら言って、ウェイターが立ち去るのを待ち、唇の両端をしぼりあげた。
「わたしたちもそれなりの関係に見られてるってわけね」
「そんなことはないと思います」
衿子は首をすくめ、ハンドバッグを開けて、分厚い封筒を取りだした。
裕一はそれを手に取った。手紙は英語で書かれているものと思っていたが、ローマ字にときおり英語のまじる不思議な文章だった。こんな書き出しで始まっていた。
"Hello! Anata Genki des ne. Nihong ni kite, Anata ni Aete, Watashi Hontony taksan Happy yo!"
便箋《びんせん》十二枚にわたる手紙の中で、フェーはみずからの生い立ちを書きつづっていた。
わたしが育ったのは二十階建てのビルの高さに積みあげられたごみの中です。そこには数万の人たちが住んでいます。誰もがごみを拾い、再生業者に売って生活をしています。政府はたびたび立ち退き命令を出します。ブルドーザーがバラックの家を壊していきます。でも、みんなすぐに木片やダンボールや古トタンやゴザで家を作ります。誰も出ていきません。ほかに行くところがないのです。
わたしは九歳のとき、五年間の約束で中国人の食堂に奉公に出されました。首にワニの歯のお守りをつけたままです。約束どおり十四歳で年季が明けましたが、仕事がありません。市議会議員に少しばかりの金を与えられて、食堂のとなりの売春宿で市役所関係の客の相手をするように言われましたが、わたしはまだ子どもだったので逃げました。そしてサリサリストアの軒下で寝ていました。
揚げバナナやトウモロコシを売ったり、洗濯をしたり、闘鶏場で靴をみがいたりして、食べものを手に入れました。ようやく雇ってもらった煙草工場もすぐに倒産してしまい、十五歳のころから身体を売るようになりました。フェーといえば、マニラではなかなか有名でしたよ。何度か妊娠しました。ハンガーを子宮に入れたり、お腹をマッサージして、自分で堕《お》ろしたこともあります。出血が止まらず、気絶しました。
裕一は手紙をテーブルに置き、コーヒーをひと口飲んだ。
「すごいでしょ」と衿子が言った。
「なにがです?」と裕一は訊《き》いた。
衿子はバッグから煙草を取りだし、ライターで火をつけた。
「もっと先を読むと判るわよ」
裕一はうなずき、ふたたび手紙に目を落とした。
一本二本とセリにかけられました。外国に行くのは不安なので逃げましたが、すぐに連れ戻されました。飛行機には五十人以上のフィリピン女性が乗っていました。わたしたちを連れてきたマレーシアの男とは成田で別れ、迎えにきていたフィリピン人の女性と車に乗りました。トウモロコシ畑の見える宿に泊まり、翌朝早く、電車に乗りました。
わたしはキャバレーに売り飛ばされたのです。キャバレーのボスから、三百万円稼がないと、故郷《くに》には帰れないと言われました。マンションに閉じこめられ、パスポートと帰りの航空券を取りあげられました。そしてその日から働かされました。マネージャーから、もっと笑えと言われ、黙っているとビール瓶で頭を殴られました。タイから来ていた女の子は下着をつけずに客の膝《ひざ》の上にまたがります。そして客のズボンを下ろします。わたしは下着を脱ぎません。しつこくキスをしたがる客には、はっきりと嫌だと言いました。
裕一は手紙を読みながら、ときおりちらりと目を上げた。黒のニットを突きあげる胸が気になってしかたない。衿子はわざと胸を反らせているように見える。
わたしはボスに控え室に呼ばれました。ボスはいきなりわたしを押し倒し、下着をはぎとりました。身体を売ることは慣れています。でも、犯されることには慣れていません。深夜二時、日本人のホステスは帰ります。でも、わたしとタイの女の子は帰らせてもらえません。精液でべとべとのおしぼりの片づけやフロアの掃除をさせられます。月給は十万円の約束でしたが、食費として一週間に一万円渡されるだけです。あとは一円ももらえません。わたしはなるべくお金を使わないように食費を節約しました。そして東京に逃げるための電車賃を少しずつためたのです。
最後まで読み終えると、裕一は便箋を折りたたんで封筒に戻した。
「フェーって女、見に行かない?」
ふいに衿子が言った。
「どんな女か、見ておきたいのよ」
「いや」と裕一は首を振った。「やめといたほうがいいと思う」
「どうしてよ」
「きっとすごくきれいな女の子だと思うから」
衿子は裕一の手から封筒を奪い、ハンドバッグに入れた。
「どういうことなの。あなた、なにを言いたいわけ」
「親父とはうまくいってないの?」
衿子はため息をつき、肩を落とした。
「うん、もうだめかもしれない」
裕一は驚いて衿子を見つめた。彼女は想像していた以上に憔悴していた。
「ほんとに見るだけなら」
裕一はそう言って、伝票をつかんで席を立った。
フィリピンレストラン「マリール」は、テレクラやのぞき部屋やソープランドが入った雑居ビルの立ち並ぶ一角にある。裕一はマリールに入ったことはないが、店の前を通ったことなら何度かあった。その店は新宿で働くフィリピン人の溜《たま》り場になっていた。彼らは昼に夜に集まり、歌を唄《うた》い、酒を酌みかわしながら、故郷の話に花を咲かせるのだった。
店に近づくにつれて、豚肉とココナツオイルのまじった匂いが濃くなった。店の外ではフィリピン人の男が毛を剃《そ》り落とした小豚の尻《しり》の穴に鉄の棒を差しこみ、そのかたわらで子どもが刷毛《はけ》でタレをつけている。モルタルの壁は緑色のペンキで塗られ、軒下から豚の頭や足がぶらさがっていた。
ドアを押して店に入ると、魚やエビを醗酵《はつこう》させた調味料の匂いが鼻孔をついた。
客はフィリピン人ばかりだった。フィリピンの歌謡曲が流れ、陽気なタガログ語が飛びかっている。ふたりはウェイトレスに案内されて席についた。
「いちばんおいしいのはどれ?」と裕一は訊いた。
ウェイトレスは目元が涼しげで、額のきれいな女の子だった。
「みんなおいしいよ」と彼女は答えた。「アドボね、メチャドね、ディヌグアンね、そしてカレカレ。みんなおいしい、どれでもオーケーよ」
「ぼくにまかせてくれる?」と裕一は言った。
衿子は壁のメニューに顔を向けたまま、黙ってうなずいた。
「じゃ、カレカレ二人前」
彼女はにっこりと微笑み、「それ、いちばんおいしいね」と言った。
裕一は店内の客を見回した。男たちは衿子に好奇の視線を注いでいる。衿子はしきりにハンカチで額の汗をぬぐった。
ふいに歓声があがった。ウェイトレスが客の手拍子にあわせて唄いはじめたのだった。テーブルのあいだを歩きながら、彼女は細い声を震わせた。きれいな透き通った声だった。やがて手拍子が止《や》み、客はしんみりと聴き入った。サビのリフレインになると、客たちもいっしょに唄った。熱烈な拍手が巻き起こり、彼女は恥ずかしそうに頭を下げた。
「出ましょう」と衿子が言った。
「注文したばかりだよ」
裕一はそう言ったが、衿子は席を立ち、さっさと店を出ていった。
ウェイトレスが首をかしげ、近づいてきた。
「ごめん、気分が悪くなったみたいなんだ」
裕一はポケットから財布を出した。
「お金、いらないよ」
「ごめんね、きみの名前は?」
「どうして」
「フェー?」
彼女は驚いて、裕一を見た。
「料理を食べられなくて、ほんとうに残念だった」
裕一はそれだけ言って、店を出た。
衿子はずいぶん先を歩いていた。裕一はすぐに追いついたが、話しかけることはしなかった。しばらく押し黙ったまま、駅に向かって歩いた。
「変なものね」と衿子が口を開いた。「あの娘と張りあってもしかたないって思ったの」
裕一は何も言わず、話の続きを待った。
「ううん、あの娘になら、負けてもいいように思えたの」
「なんとなく判るよ」
衿子はふいに足を止め、裕一の顔を見た。
「あなたになにが判るの?」
「そうじゃないんだ」と裕一は言った。「親父があんたといっしょになったわけが、なんとなく判ったような気がしたんだ」
「そう?」と衿子は薄く笑った。「おっぱいが大きいからって?」
「冗談を言ってるわけじゃないよ」
「あなたが息子じゃなかったら、博さんに内緒でつきあってもいいのにね」
衿子はそう言って、裕一の腕に豊かな胸を押しつけてきた。
[#改ページ]
八月二十七日(月)
博は二日続けて帰ってこなかった。
衿子は一晩中、嫉妬《しつと》に苦しんだ。フェーが世間ずれした商売女だったら納得もしただろう。だが、彼女は若くてチャーミングで、そのうえ生い立ちの陰惨さを微塵《みじん》も感じさせなかった。そのことがひどくこたえた。衿子はシーツの冷たい部分を探して何度も寝返りを打ちながら、三十六年間の人生を思い起こした。
モデルになるきっかけは父親が作った。ファッション誌のモデル募集に、衿子の写真を送ったのだ。女子高ではほとんど目立たない生徒だった衿子がグランプリをとり、一年間にわたって雑誌の表紙を飾ることになると、学校中が大騒ぎになった。
おまえは世界中の人々に愛されるスターになるんだ、と父親は夢見るように言った。
母親は衿子が小学校に上がった年、若い愛人と家を出てそのまま帰らなかった。父親と衿子、ふたりだけの家族だった。父親の夢を壊すことなど衿子にはできない。学校は再三にわたってモデルをやめるよう申し入れてきたが、衿子は聞き入れなかった。
やがて毎日のようにモデルクラブやプロダクションの連中が校門で衿子を待ち伏せるようになり、それを理由に退学を迫られた。衿子は都内の高校に転校してモデルを続けたが、表紙の仕事が終わった途端、ほかの仕事の依頼もなくなった。
衿子がふたたび注目されたのは、服飾専門学校に入学してまもなくのことだ。専門学校の生徒募集広告のモデルに選ばれた衿子は、名のあるメイクアップアーティストと仕事ができる喜びですっかり興奮したが、いかにもパリ風の凝ったアイディアを彼から聞かされたとき、にわかに反発する気持ちが強くなり、延々と口論を続けたあげく彼をかんかんに怒らせてしまった。
この女の好きなようにやらせてみるんだな。スタッフは慰留につとめたが、彼は仕事を降りてしまった。衿子はみずからの考えで眉《まゆ》を剃《そ》り落とし、金粉を入れただけのシンプルなメイクでカメラの前に立った。その作品は、化粧品会社との契約のために来日していたパリのイメージメーカーに絶賛され、先方からテレックスを受け取った気の早いエージェントが、衿子あてに航空チケットを送ってきた。
ものになるまでは帰ってくるなよ。父親から百万円の資金を手渡され、十八歳の衿子は単身でパリに渡った。だが、着いてみると、事前の話とはまるで違い、通訳もつけてもらえず、たったひとりでメゾンをまわり、ひたすらオーディションを受ける日々が続いた。ターンの仕方はおろか、歩き方の基礎も知らぬ衿子を相手にするメゾンなどなかった。
金が底をつきそうになったころ、ひとりの新進カメラマンと知りあった。彼の手により「ヴォーグ」誌に発表された衿子の写真は信じられないほど大きな反響を呼んだ。相次いで三人のデザイナーから指名を受け、衿子の名はたちまちパリ中に知れ渡った。
半年後、日本に帰ったとき、衿子はスターと呼ばれる存在になっていた。あれからすでに倍の時間を生きてきたことになるが、衿子はまだ一度も負けたことはないと思う。現役は引退したが、経営に参画したモデルクラブは順調に売上を伸ばしている。男たちは誰もが衿子と寝たがったし、女たちはそんな衿子に羨望《せんぼう》の眼差《まなざ》しを向けてくる。
だが、博はいま、衿子のことなどすっかり忘れ、フィリピン女とひとつのベッドで深い眠りを貪《むさぼ》っている。あるいはいままさにセックスの最中かもしれない。そう思うと、胸がしめつけられ、眠るどころではなかった。
まんじりともせずに朝を迎えた。衿子はベッドに入ったまま冷たいおしぼりで手と首筋をぬぐうと、グレープフルーツ・ジュースを一杯とエスプレッソ・コーヒーを二杯飲み、ヘッドフォンをつけてエルヴィス・コステロの「マイティ・ライク・ア・ローズ」をボリューム一杯の音量で聴いた。エルヴィスの妻が書いたという十三曲目が気に入り、それをくりかえし聴くうちに、少しずつ落ち着いてきた。
朝食の支度を整えた家政婦が掃除機を引いて寝室に入ってきた。衿子はベッドから出ると、二時に出社する旨の連絡をオフィスに入れ、パジャマのままダイニングのテーブルに向かい、ツナをはさんだマフィンとセロリのサラダを食べながら、雑誌社やCF制作会社に送りつけるコンポジットをチェックした。
博のペニスに刺し貫かれ、悦《よろこ》びの声を上げるフェーの顔がくりかえし脳裏をよぎった。ふたりのことが片時も頭から離れなかった。
だが、衿子をもっとも苦しめたのは自分がすでに子を産めないことだった。博がフェーに夢中になるのは、そのことと関係があるのかもしれない。裕一はきのう、親父があんたといっしょになったわけが判ったような気がすると言ったが、それはいったいどういう意味なのか。まさか不妊の事実を指摘したわけではないだろう。仕事はなかなかはかどらず、衿子はうんざりして煙草に火をつけた。
オフィスに出ると、プレスの女が待っていた。すでに三十分以上も待たせていた。
「いったいどういう神経をしてるの」と彼女は興奮して言った。「モデル選びだけが仕事じゃないのよ。招待状の作成もあるし、舞台構成や演出の打ちあわせもある。音楽も決めなければならないし、衣裳《いしよう》チェックやサイズ合わせの時間なんかもうほとんどないのよ」
衿子はショーのためにあらかじめピックアップしておいたモデルのブックを差しだし、「ちょっと見てくださいね」と言って席を外した。
別室から博の会社に電話を入れた。
「ただいま出ております」と若い女の声が言った。「失礼ですが、どちらさまでしょう」
「家の者です。電話を入れるよう、伝言を願います」
衿子は電話を切り、応接室に戻った。
「黒人が足りないじゃないの」とプレスの女が言った。「今回は白人六割、黒人三割、オリエント一割で考えてるって、以前、話したでしょう」
当社はパリにオフィスを持つモデル・エージェンシーと提携している。一両日中には確実にそろえるので安心してほしい。衿子はそう言って、彼女を帰した。
頭痛薬をもらい、役員室のソファに横になった。背筋に悪寒が走り、腕には鳥肌が立っている。目を閉じると、めまいの渦に引きこまれそうになった。衿子は腕をさすりながら必死に天井を見つめた。胸が圧迫され、息を吸うこともつらい。冷たい汗が乳房の谷間を流れ、みぞおちにすべり落ちた。身体にすっかり変調を来していた。
電話が鳴った。横になったまま受話器を取ると、博からだった。
「ゆうべはどうしたの」と衿子は言った。
博は黙っていた。
「その前の夜はどうしたの」
博は押し黙ったままだった。
「手紙を読んだわ」
電話の向こうでため息がもれた。
「ねえ、あなたがゆうべ、どこの誰と寝たのか全部知ってるの。浮気を知ってもわたし、いままであなたを責めたことなど、なかったでしょう。ひどく傷ついたけど、それは単にプライドの問題。でもね、フェーって子はだめよ。なんかもうわたし、気が狂いそう」
「今夜は帰る」と博の低い声が言った。
「たぶんそれはね、彼女が日本人じゃないからよ。でも、なぜ日本人じゃないから許せないのか、それは判らない」
「電話では話せない」
「ねえ、わたしたち、これで終わり?」
博は答えようとしない。
「あなた、卑怯《ひきよう》よ」
「だから電話では何も話せない」
「真剣なの? フェーって子に」
「それも答えられない」
「どうしてよ」
「きみは若い男に抱かれるとき、おれを思いだすか?」
「思いだすこともあるし、そうでないこともある」
「そういうことだ」
「それって、どういうこと」
「話しても無駄だ」
「ねえ、これからどこかで会わない?」
「会ってどうする」
「セックスでもすれば?」
「なにを言いだすんだ」
「ばかね」
衿子は薄く笑い、受話器を置いた。
煙草に火をつけ、壁に掛かった一枚の写真を眺めた。衿子が初めてパリコレに出演したときの舞台写真だ。黒いビニールレザーの衣裳を着けた二十歳の衿子が、正面の客席に向かって初めの一歩を踏みだす、その瞬間をとらえている。
部分的に取り分けてブルーに染めた髪、歌舞伎の隈取《くまど》りをイメージした赤と黒のメイク、目の上からこめかみにかけて入れたオレンジ色のシャドー、頬骨の上にブラッシュした紅、黒いマニキュア。この写真にはいつも勇気づけられる、衿子はそう思い、ふたたび受話器を取りあげた。
電話はコール二回でつながった。
「わたし」と衿子は言った。
「衿子か」
マットの不機嫌な声が聞こえた。
「もしあなたが」と衿子はたどたどしい英語で言った。「わたしを愛しているなら、ちょっと助けてほしいの」
「やりたくなったのか?」
「ううん、黒人モデルを集めてほしいの」
マットはロンドンから出稼ぎにきた二十三歳のモデルだった。三人のモデル仲間と麻布のワンルームマンションに住んでいる。ロンドンでは三流モデルだが、日本にくれば一流半くらいにはなれる。日本で稼げるだけ稼ぎ、三か月後には帰国する予定だという。
仕事のない日は夕方まで狭い部屋でごろごろして暇をつぶし、夜になると六本木|界隈《かいわい》のディスコに出かける。おおかたのディスコは彼らを無料で入れる。そこでは思う存分飲み食いができ、おまけに日本人の女の子と寝るのも簡単だった。彼らはただ待っていればいい。女の子のほうから声をかけてくる。ホテル代も女の子が払うし、なかには金を渡そうとする女の子までいる。
「こっちへ来いよ」とマットが言った。「ひとりで退屈してたところなんだ」
「判ったわ」
衿子はこめかみを押さえながら立ちあがり、壁に立てかけた鏡に全身を映してみた。
☆
筆記試験の会場になった大会議室のドアを開けた途端、裕一は席を埋めつくす二百人の女たちの視線が、いっせいに自分に向けられるのを感じた。すでに試験の開始予定時刻を三十分ほどすぎている。
壇上にあがり、おそるおそる顔をあげた。いつもより主婦の数が多いようだ。女たちの服装や化粧や匂いからそう思った。
最前列にルイーズが座っていた。日に焼けた肌を強調するように肩の部分を丸くカットした真っ赤なTシャツを着ている。裕一と目が合うと、唇をすぼめ、目だけで笑った。
「制限時間は一時間です。時間内にできた方も席を立たず、そのままお待ちください」
試験用紙を配りはじめると、家事手伝い風が手をあげた。
「遅れた理由はなんですか? このあとわたし、予定が入っているんです」
「蕎麦《そば》屋でビールを飲んでいました。ほかに質問はありますか」
「ちょっとひどいんじゃない?」
女は周囲に同意を求めるように声高に言った。裕一は黙って用紙を配りつづけた。
裕一の主要業務は外国人の派遣登録だが、七月、八月はこれに日本人女性スタッフの登録も加わる。とりわけ八月の終わりのこの時期が一年でもっとも忙しい。六月にボーナスをもらって会社を辞めた女性が退職金でのんびり夏の休暇をすごしたあと、大挙して登録にくるからだ。逆に企業からの派遣申し込みは、そういう事情で七月、八月に集中する。だが、派遣する側も夏のあいだは登録スタッフが不足し、容易に対応できない。この時期、裕一の生活は彼女たちの優雅な勤労観に振りまわされ続けることになる。
試験中の一時間を使って、裕一は二百人分の履歴書を希望職種別に整理した。一般事務、タイピスト、ワープロオペレーター、テレックスオペレーター、メーリングサービス、受付・案内、電話交換手、経理・営業事務、貿易実務、秘書、通訳、商品企画、美容トレーナー、デモンストレーター、コンパニオン、ファッションアドバイザー……。ルイーズは通訳とコンパニオンに○をつけていた。
この三年間に裕一が登録した女性の数は、一度も派遣されずにスタッフリストから外されていった人数も含めれば、五千人近くになるはずだった。その中には印象に残っている女とそうでない女とがいる。
外国人管理職の秘書として登録した二十九歳の女は電話で初めて派遣連絡をとったとき、「誘われたときどう対応したらいいのか、悩んでいるんです」と口ごもりながら言った。「変な相談でごめんなさい。以前、そんなことがあって会社を辞めたものですから」
「そのときはどうされました?」と裕一は訊《き》いた。
「はっきりとお断りしました。それで気まずくなって」
裕一はファイルの履歴書を開き、彼女の顔写真を見た。
「誘われることが多いでしょう、あなたなら。軽くあしらっても男は怒りませんよ」
「あらお上手なこと」と女は言った。
あらお上手なこと。その台詞《せりふ》が彼女の口癖だということはじきに判った。
毎回必ず日払い給与を希望する三十四歳の展示会案内係は、経理で金を受けとったあと裕一のデスクに来て、「こんなに浮腫《むく》んじゃって、かわいそうでしょう」と言ってスカートをたくしあげ、ふくらはぎをさすってみせた。「一日中立ちっぱなしでね、若い男の子ならそれもいいけど。やだ、わたしったら下品ね」
キャンペーン会場で客に配るコーヒーカップやスカーフといった販促物をダンボールの梱包《こんぽう》ごと家に持ち帰ってしまうホステスあがりの四十二歳のデモンストレーター。とにかく率のいい仕事がほしくて会社の誰彼かまわず寝てしまう四十四歳の美容トレーナー。
実際、登録スタッフの稼働率は、四十パーセントにも満たない。企業サイドのニーズに応《こた》えられる人材が不足しているからだが、性産業への派遣もサービスに加えれば稼動率はたちまち百パーセントに達するのではないかと思う。
二百人分の履歴書を整理して時計を見ると、まもなく終了時刻だった。裕一は試験用紙を回収しながら、「明後日には電話で面接の日時等を個別にお知らせします。必ず連絡を取れるようにしておいてください」と言い、つまらない質問が出る前に大会議室を出た。
背後から名前を呼ばれて、振り向くとルイーズだった。裕一は軽くうなずいただけで、歩調をゆるめなかった。
「大変な仕事ね」と追いついたルイーズが言った。
「そう思う?」
「女を扱うのは大変よ。あなたがなぜ禁欲主義者《ストイツク》なのか、それが判ったわ」
「禁欲主義者《ストイツク》?」
「たぶんね」
「そうでもないと思うけど」
「でなかったら、ただの|意気地なし《ミルクソツプ》よ」
裕一は思わず足を止めた。エレベーターフロアは試験を終えた女たちでごった返している。ルイーズは肩をすくめ、電話待ってる、と言い、階段を下りていった。
デスクに戻り、二百人分の履歴書を眺めていると、ワープロオペレーターからトラブル処理依頼の電話が入った。この手の電話は午前中に入ってくるのが普通だった。
「約束のお仕事と違うの」と彼女は困り果てた声で言った。「どうしたらいいのか、判らなくなって」
「状況を説明してください」と裕一は言った。「落ち着いて、できるだけ詳しく」
「A4十枚のはずが実際は二十枚以上もあって、それにいままで使ったことのない機種だったから、操作に手間取って午前中はほとんど進まなかったの。それから、原稿にミスがあったらそれも直しておくようにって、そんなことまで言われてしまって」
すでに三時をまわっていた。
「午前中に電話をいただきたかったですね」と裕一が言うと、「なんとかできそうな気がしたんです、お仕事を渡されたときには」と彼女は弁解口調になった。
裕一は派遣先の責任者と電話を代わると、仕事の遅延について丁重に謝罪し、スタッフからの連絡が遅かったためにこちらの対応も満足にはできないが、と前置きをした上で、仕事の内容が契約時に比べて増えていないか確認した。先方は初めての取引先だった。
「まるで、うちのほうが悪いみたいな、おっしゃり方やな。この女性が一日でできる言うから頼んだんや。それがこの時間になっても、まだ半分も終わっておらへん。契約違反はそっちやないか?」
電話では埒《らち》があかぬと判断した裕一は、新宿の高層ビル内にある派遣先の商社まで出向くことにした。
話し合いは一時間に及んだが、裕一の提案が受け入れられ、事態は収拾した。オペレーターが御社の機種に不慣れであったのは弊社の教育不足と連絡ミスのためだが、仕事量が契約時より増えていることも事実である。その量は二日分に相当すると思われる。仕事は明日いっぱいかかると思うが、派遣料は半日分引かせていただき、一日半分としたい。
交渉がまとまり時計を見ると、まもなく五時半だった。片づけなければならない仕事がまだ山ほど残っていたが、会社に戻る気になれなかった。ここ一か月ほど、連日のように深夜残業が続いている。裕一はロビーの公衆電話から、直帰する旨の連絡を会社に入れ、さてこれからどうしよう、と受話器を置いて考えた。
煙草に火をつけ、目の前を次々と歩きすぎる定時退社のOLたちを眺めていると、小柄な女が足早に近づいてきた。ワープロオペレーターだった。
「ほんとうにご迷惑をおかけして」と彼女は深々と頭を下げた。「結婚してからブランクが長かったものですから不安で、不安で。でも、風間さんのお陰でどうにか」
「気になさらないでください」と裕一は言った。
「あの、ご迷惑でなかったら」と彼女はあたりを気にするように、ことさら声を低くした。「お礼をさせていただきたいの。お向かいのホテルに洒落《しやれ》たバーがあるでしょう?」
「ほんとに気にしないでください」
「デートの約束でもおあり?」
女は唇の両端をしぼりあげ、精一杯の笑みを作っている。裕一は断る理由を探すようにビルの外に目をやった。若いカップルが腕を組んで歩いていく。
「それじゃ、なにか冷たいものを一杯だけ」
「よかった」と彼女は声をはずませた。「じつはね、ここで働いているあいだに一度、あのバーに入ってみたかったの。いい年をして、って思うでしょう」
そのバーは裕一も初めてだったが、こざっぱりとした内装と、BGMのないことが気に入った。
「アルコールはこれしか飲めないの」
カウンターに並んで腰を下ろすと、彼女は申し訳なさそうに白ワインを注文し、それをミネラルウォーターのように飲みながら、派遣先の商社と、自分が結婚する前まで働いていた会社の違いをあげ、そのいちいちに時代の移り変わりを指摘して嘆息し、「でも毎日が充実していて、ほんとに風間さんのお陰」と同じ台詞をくりかえした。
裕一はあいづちも打たず、クアーズとピスタチオを交互に口に運んだ。
彼女からたびたびかかってくる脅迫めいた電話がうっとうしくて、仕事をまわしただけだった。もっと若くて、仕事のできるオペレーターはほかにいくらでもいる。
一日中、電話の前にいるのよ、わたし。風間さん、いつかけてきてくれるか判らないでしょ。だからずっと電話の前で待ってるの。ねえ、わたしの仕事、まだ見つからないの?
「結婚して十四年。いろいろあったけど、過ぎてみればあっという間。ほんとに、あっという間よ。ねえ、主人はまだ四十よ。でも、もうずっと夫婦のあれもないの。こんなこと平気で言うおばさんはうんざりでしょ。ああ、でも、こんなに楽しい夜は久しぶり」
しばらく沈黙が続いた。裕一はそれが苦痛になり、「夫婦生活のことは判りませんが」と口を開いた。「まだおばさんという年齢ではないと思います」
「お世辞でもうれしいわ」
「家の方が心配なさるでしょう」
彼女はうなずき、ふらつきながら電話に向かった。すでにひとりでワインを一本空けていた。戻ってきた彼女は愉快そうに言った。
「わたし、いま浮気してるの、って主人に言ったの。そしたらなんて言ったと思う? そんな奇特な男がいるなら、どんどん浮気しろだって。信じられる?」
彼女は三十六歳というその年齢より、かなり老けて見えた。それはきっと彼女があまり幸せな暮らしを送ってこなかったからだろう、と裕一は思った。痩《や》せぎすの身体、頭皮に張りついた細い黒髪、くたびれたベージュの麻のスーツ、およそ似合わない厚化粧、それらが彼女の印象をいっそう貧相なものにしていた。
「あなた、おいくつになるの」と彼女が訊《き》いた。
「二十七です」
「じゃ、そろそろ結婚とか考える?」
「しないつもりです」
「あら、どうして」
「向いてないように思うんです」
「そうよね、そんなふうに思う年ごろってあるのよね」
彼女はメニューに目を落とし、今度はワインベースのカクテルを注文した。
「ねえ、聞いてくれる? 主人が浮気しているのを知ったときのこと、もう十年も前のことだけど、電話するから番号教えなさいって言ったの。相手の女だって、わたしと同じだけ苦しまなけりゃ、不公平でしょ。そしたらあの人、泣いてあやまるの。それだけはやめてくれって、台所のテーブルに頭をこすりつけて、ほんとに震えてるの。いつからそういう関係なのよ、まさか結婚する前から続いてるわけじゃないでしょうね、その女のどこがいいのよ、いままで何回やったのよ、って言いながら、ああ、この男とはもう暮らせないって思った。もう二度と会わない、とか言って、あの人下を向いたまま、わたしの興奮が収まるのを待ってる。それが判ってわたしますます興奮して。でもね、三つになったばかりの娘のことを考えると、やっぱり父親は必要だし、親の勝手で産んで子どもに相談なしで別れるなんて、そんなことできないでしょう。計算したの、あと五年は我慢しようって。娘が小学校に上がれば働ける。そのあいだに手に職をつけて、生活の基盤を作ろうって。それでワープロ教室に通ったりね。でも、十年たったけど別れてない。うーんと、なんでこんな話、してるんだっけ」
「酔っているからです」と裕一は言った。
「ううん、違うの。あなたもやっぱり結婚したら浮気しそう? とか、なんかそんなこと訊こうと思ってたんだ」
時計に目をやると、まもなく七時だった。
「夕食の支度はいいんですか」と裕一は訊いた。
「その娘がもう中学一年生よ。大丈夫、しっかりした子だから。でもあなた、そんなこと言って、やっぱりわたしとなんかじゃ、つまんないんでしょ」
裕一は何も答えず、カウンターの上に置いた自分の手のひらを眺めた。
「男ってグラマーな女が好きでしょ。うちの人もそう。相手は単なるデブだったけど」
彼女はそう言って裕一の肘《ひじ》に軽く手を添え、「でもね」と耳元でささやいた。「痩せてる女のほうが、いろいろといいのよ。よく週刊誌なんかに書いてあるじゃない。あれほんとよ、ほんとの話。今夜は帰らせない、なんて一度言ってほしいな」
「酔ってますよ」と裕一は言った。
「冗談よ、もちろん。でもさ、でもね、奥さんと浮気がしたいなんて、一生に一度くらい言ってもらってもいいじゃない。そしたらわたし、おばさんを困らせるものじゃないわ、今夜はこれくらいにして帰りましょうって言うから。ね、試しに一度言ってみて」
「これくらいにして帰りましょう」
「いやよ」彼女は顔を伏せ、首を横に振った。
裕一はため息をつき、ピスタチオの殻をむいた。
押し黙ったまま、数分がすぎた。
「お部屋、空いているかしら」
彼女がしゃがれた声で言い、顔を近づけてきた。そして小鳥がついばむように、ふいに裕一の指先のピスタチオを口にふくんだ。裕一は驚いて彼女の顔を見た。
お・ね・が・い、と彼女は唇を動かした。
エレベーターにたどり着くまでに彼女は二度もつまずき、裕一の腕にしがみついた。
ドアが開き、彼女が先に乗りこんだ。エレベーターの中と外で向かい合う恰好《かつこう》になった。
ご馳走《ちそう》さまでしたと礼を言い、この場を立ち去ってしまえば、おたがいに傷つかない。彼女も酔った上での冗談だったと言い訳ができるだろう。
「あの、今夜は……」と裕一は口を開きかけた。
「恥をかかせないで」
彼女は裕一の手首をつかんで引き寄せた。そしてドアが閉まると同時にすがりついてきた。裕一は壁にもたれ、じっとしていた。腰には彼女の腕がからみつき、胸には頬が押しつけられていた。ワインとパウダーの入り混じった匂いが鼻孔をついた。
フロントでダブルとツインのどちらにするか、と訊かれた。彼女はうつむいたままだった。どちらにします、と裕一が言うと、おまかせする、と彼女は答えた。
部屋に入ると、彼女はすぐにバスルームをのぞき、洗面台に用意された化粧品や、有名デザイナーのバスローブに歓声を上げた。
裕一は窓辺に立った。そこからは東京の夜景が一望できた。明治神宮の森の向こうに、ライトアップされた東京タワーが見える。
「こういうところにはよく来るの?」と彼女が訊いた。
「こんな高い部屋は初めてです」と裕一は答えた。
彼女は満足したようにうなずき、バスルームに入っていった。まもなくバスタブに勢いよく湯の注がれる音が聞こえ、「先に入るわよ」と彼女の声が言った。
裕一はソファに腰を下ろし、煙草に火をつけた。大きなヘッドボードのついたベッド、飴色《あめいろ》のクローゼットとチェスト、年代物のシャンデリア、陶製のスタンド、グリーンのベルベットのカーテン。落ち着いた印象を与えるインテリアだった。
部屋の隅のミニバーを横目に見て、帰るならいまだな、と思った。煙草をもみ消し、腰を上げたとき、胸にバスタオルを巻きつけた彼女がバスルームから出てきた。
「あなたも浴びたら?」と彼女は言った。
「するんなら、早くしませんか」
裕一はネクタイを外し、ワイシャツを脱いだ。スーツのズボンを脱ぎ、トランクスだけになると、彼女が髪を振りながら、しがみついてきた。
「こんなこと二度とないのよ、これっきりよ、約束して」
裕一はうなずくと、彼女の腋《わき》の下と膝《ひざ》の裏に手を当て、両手でその身体を抱えあげた。彼女の口から悲鳴が上がった。
「どうかしましたか」と裕一は言った。
「なんでもない」
彼女は裕一の首に巻きつけた腕に力をこめた。
ベッドに運び、ゆっくりとバスタオルをはぎとった。
貧弱な胸、ペニスのように突起した黒い乳首、下腹のたるみ、へそのすぐ下まで密生している陰毛。裕一は思わず顔をそむけた。
彼女はあおむけになったまま両手で顔を隠していたが、ふいに身体を起こすと、裕一のトランクスに手をかけた。そしておずおずと引き下ろし、大きく息をついた。
裕一はあきらめて目を閉じた。彼女は指先で性器をつまみあげ、軽く引っぱり上げるようにして上下に動かした。だが、それはいつまでたっても軟らかいままだった。
「緊張してるの?」と彼女が言った。「もっと楽になさいな」
「すみませんが、お尻《しり》の穴、舐《な》めてもらえませんか」
裕一はそう言って、ベッドにうつぶせた。
彼女はためらっていたが、やがて決心したように尻の穴に舌を差し入れてきた。尻の穴から太腿《ふともも》へ、ふたたび尻の穴へと、彼女の舌は這《は》いまわった。性器が少しだけ硬くなった。
裕一があおむけになると、彼女は下腹にむしゃぶりついてきた。裕一は性器の快感だけに意識を集中した。彼女は初めのうちはゆっくりと、次第に激しく頭を上下させた。
「もういいよ」と裕一は言い、彼女の顔を上げさせた。
彼女は舌の先を指でさぐり、ちぢれた陰毛をつまみだすと、泣きだす寸前の子どものような顔になった。裕一は上半身を起こし、彼女と向かいあった。そして両手で彼女の尻をつかみ、硬くなった性器をねじこんだ。ああ、と彼女の口から声がもれた。裕一はつながっている部分をこすりつけるように腰を動かした。彼女は首を振り、大きく口を開けた。裕一はその口に二本の指をくわえさせ、ふたたびあおむけになった。
彼女は後ろ手で性器をつかみ、裕一の上にしゃがみこんだ。そして両手を後ろにつき、腰を動かしはじめた。すごい、すごい、と言って、上体をのけぞらせた。彼女の鼻の脇を涙が伝わり落ちた。裕一が少し腰を突き上げただけで、彼女は男のような声を出した。
終わったあと、彼女はずっと無言だった。シャワーも浴びずに下着をつけ、その上からバスローブを羽織って、化粧を直した。
マンションに戻ったときは、十一時半をまわっていた。裕一は冷蔵庫から缶ビールを取りだし、ベッドに倒れこんだ。彼女の自宅は埼玉の所沢だった。まだ帰宅の途上にちがいない。電車に揺られながら、彼女はいまなにを考えているのだろう。裕一はビールを口に含み、それを考えた。たった数時間つきあっただけで、彼女の人生に真正面から向き合わされた気がした。いきなり下半身に水を浴びせかけられたような嫌な気分だった。ビールは冷えすぎていて、頭が痛くなった。
ラジオのスイッチを入れたとき、電話が鳴った。裕一はワープロオペレーターの顔を思い浮かべ、呼び出し音を十回聞いてから、受話器を取った。
「いるんなら早く出なさいよ」と衿子が言った。
「眠ってたんです」
「わたしね、博さんとはぜったいに別れないから」
「なぜぼくにそんなことを言うんです」
「ほかに話す相手がいないからよ」
「今夜、衿子さんと同い年の女性にすごく嫌な思いをさせられたんです。だからそういう話はうんざりなんです、悪いけど」
「ふつう母親にそんな話はしないよ」
「そうですか」
「どうしてなの?」
「なにがです」
「わたしと同い年の女となにかあったなんて、なぜそんなつまらない話をするのよ」
「ほかに話す相手がいないから」
沈黙が続いた。裕一は受話器を耳に押し当てたままじっとしていた。
電話線を伝ってかすかに風の音が聞こえるような気がしたが、それは衿子のため息かもしれない。裕一は身じろぎもせず、衿子の言葉を待った。
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八月二十八日(火)
めっきり白くなった風間博の髪を、湿ったクーラーの風がゆっくりと撫《な》でている。包帯を巻いた右手親指のつけ根に鈍痛が走り、ときおり目がかすむ。
目薬を手にとり、天井に顔を向けた。液体がすっと頬を流れる。目をつむり、清涼感が消えるのを待った。だが、液体は頬を流れつづけ、いっこうに止まらない。博はあわててポケットのハンカチをさぐった。自分が泣いていることにそのときやっと気づいたのだ。
衿子のことが気がかりだった。一日ゆっくり休めば、精神状態も安定するだろうと思ったが、彼女はいつ発作的な行動に出るか判らない。博はかつて一度、衿子の自殺未遂に出くわしている。
それはまだ知り合って間もないころのことだ。所用があって衿子のマンションを訪れると、彼女は不在だった。だが、ドアの鍵《かぎ》はかかっていなかった。不用心だと思いながら、博は衿子の帰りを待った。小一時間ほどして、用を足そうと浴室のドアを開けた。そこに衿子がいた。膝を両腕で抱え、タイルの床にうずくまっていた。足元にはちぎれた煙草と白い錠剤が散乱している。スリップの下にはなにも着けていない。太腿のつけ根に濡《ぬ》れた陰毛が見えた。抱き起こし髪をかきあげると、すでに血の気が失せていた。
博は台所に取って返し、冷蔵庫からスプライトを取りだした。コップに空け、大量の塩を入れた。指でかきまわすと泡が立ち、半分ほどこぼれた。衿子の口をこじ開け、コップの中身を流しこんだ。衿子はすでに抵抗する力を失っていた。激しくむせながらも、それを飲み干した。洗面台に立たせ背中をさすると、口から胃の中のものが次々とあふれ出た。錠剤はほとんど出てこなかったが、粘ついた煙草の滓《かす》は際限なく流れ出てきた。
博はハンカチでそっと目頭をぬぐい、煙草に火をつけた。三人の男子社員はすべて出払っている。オフィスにはカウンター業務のふたりの女の子がいるだけだ。
八月の終わりのこの時期、客足が鈍るのは当然としても、きょうはまだひとりの来客もない。女の子たちは大手旅行会社の営業マンが置いていった新商品のパンフレットを眺め、おしゃべりに花を咲かせている。それは三年から五年の計画でハネムーン費用を積み立てると、満期にはエンゲージリングや旅行|鞄《かばん》の割引特典を受けられるという、若い男向けに作られたなんとも夢のない商品だったが、客の反応は予想以上に良いらしい。
夕方には戻ると言い残し、博はオフィスを出た。そしてタクシーを拾い、運転手に行き先を告げると、シートにもたれて目を閉じた。
昨夜、博は午前二時すぎに帰宅したが、衿子は起きて待っていた。
「よく帰ってきたじゃないの」
ソファに横になり、ワイングラスを手にした衿子が声をかけてきた。
博はネクタイをゆるめただけで着替えもせず、向かいのソファに腰を下ろした。
「さあ、なにから話してくれるの」と衿子が言った。
博は口をつぐんだまま、テーブルの上の煙草に手を伸ばした。
「じゃ、わたしから話す。きょうの相手はイギリス人の若い子よ。初めてじゃない。三度目か、四度目。いつもすごいの。続けて三回やったわ、三回よ」
「やめろよ」と博は言った。
「なぜよ。あなたは黙ってわたしの話を聞くべきよ」
「なんの意味がある」
「意味なんかない。でも、そんなことでしか、もうわたしたちつながれないのよ。おたがいの浮気を報告しあうの。それって唯一のコミュニケーションじゃない」
「きみは酔ってる。あとで後悔する。やめたほうがいい」
「なによ、偉そうに」
「きみが男に抱かれた話なんて聞きたくない」
「嫉妬《しつと》するの、あなたでも」
「当たり前だ」
「じゃあ、なぜフィリピン女と寝るのよ」
博は黙って衿子を見た。背中に広がる長い髪、薄紫色のルージュ、ガラス玉と天然水晶を組み合わせたネックレス、乳首の透けて見える身体にぴったりとした麻のボディウェア、むきだしの白い太腿《ふともも》。
「ねえ」衿子は身体を起こし、博のとなりに移った。そして博の胸に手を当て、「わたしね」と言った。「あなたとするセックスがいちばんしっくりくるの。どうしてかしら、落ち着くの。それでいて、すごく熱くなる」
博は衿子の手を払い、灰皿に煙草の灰を落とした。
「そんなことしか考えられないのか、きみは。もうそんな年でもないだろう」
「失礼ね、まだ三十六よ。あなたは若い娘のほうがお好きでしょうけど」
「こんな話をしても不毛だ」
「不毛? なによ、それ。別れてよ、フィリピン女と」
「そのフィリピン女という言い方、やめてくれないか」
「いい加減にしてよ!」と衿子は大声を出した。「名前で呼べって言うの、わたしに」
「いや、そういうわけじゃない」
「いつもそうなのよ、あなたは。インドの次はフィリピンで、次はどこよ。タイ? マレーシア? 外人女がそんなにいいわけ」
「くだらない」
「なによ、事実じゃないの。あなた、なぜわたしと結婚なんかしたの、答えてよ」
「以前にも言ったことがあるが、きみとなら、わずらわしい家庭を作らなくても、うまくやっていけそうな気がした」
「きみとなら?」と衿子は語尾を上げた。「家庭を作らなくても、うまくやっていける? それって子どもを産めない女だから、好都合だってこと? 子どもを作るのが面倒だから、わたしと結婚したってこと?」
「そんなことは言ってない。彼女とはいつかきっと別れるときがくる。きみともいつか別れるかもしれない。でも、いまはどちらとも別れるつもりはない。いずれにしても、おれの人生だ。たいした人生じゃないが、思っていたより長い。なかなか終わらない」
「卑怯《ひきよう》な男」と衿子はつぶやき、キッチンに走った。そして庖丁《ほうちよう》をつかんで戻ってきた。
博はソファから腰を上げた。
「なにをしてる」
「わたしが終わらせてあげる、あなたの人生」
衿子は片手で庖丁を振りあげ、それから両手で握りなおして腰を屈《かが》めた。
「いっしょに死んであげる。だから安心して」
衿子は庖丁を腰に固定するように押し当て、にじり寄ってきた。
博は首を振り、いつもと違う、衿子は本気だ、と思った。本気でおれを殺そうとしている。おれを殺したあと、ほんとうにひとりで死ねるのだろうか。フェーはおれが死んでも子どもを産むだろうか。でも彼女はおれが死んだことをどうやって知るんだ。会社に電話して誰かから聞くことになるのか、それともテレビのニュースで知るのか。裕一には苦労をかけることになる。こんな父親でほんとうに申し訳ない。時間が停止したわずかなあいだにそれらの思いが博の脳裏をよぎり、次の瞬間、衿子が前のめりに倒れかかってきた。博は尻餅《しりもち》をつき、とっさに庖丁の刃をつかんだ。
「動かないで」と衿子が言い、首筋に庖丁の刃を当てた。
込み上げてきた吐き気をこらえながら、「ここでいい」と博は運転手に声をかけた。
タクシーを降りて、ゆっくりと歩くうちに、体調は少しずつ回復してきた。大通りから一本裏の道に入り、小学校の体育館の脇をすぎると、グレーのタイル張りのマンションが見えてくる。博はエレベーターで十二階まで上り、新宿中央公園を見下ろしながら、開放廊下を歩いた。ドアの前に立ち、ブザーを三回短く鳴らす。
細く開けたドアのすきまから、フェーが顔をのぞかせた。すばやくチェーンが外され、ドアが開かれる。
「どうした、あなた」
手の包帯を見て、フェーは顔色を変えた。
「いや、たいしたケガじゃない」
「でも、それ、いつケガしましたか」
「ゆうべ、ここを出たの、かなり遅かっただろ? タクシーがなかなかつかまらなくて、裏通りをうろうろしていたら、怖いお兄さんに声をかけられて、ちょっとね」
つまらない作り話と気づいたはずだが、フェーは眉《まゆ》をひそめただけで包帯のことはそれ以上訊かず、「あー、こんな昼間、会社は大丈夫ですか」と言った。
「少し時間が空いたから、店の定休日にきみがなにをしているか、偵察に来た」
「いま、あなたに手紙、書いてたところよ」
「読みたいな、どこにある?」
博が部屋の中を見回すと、フェーはダイニングテーブルに走っていき、書きかけの手紙を調理台の引き出しに隠してしまった。
博は苦笑して、ダイニングの椅子に腰を下ろした。
「じゃあ、そのかわり、フィリピンの話、なにか聞かせてくれないか?」
フェーはうなずき、冷蔵庫からビールを取りだした。
「そうですか、どんな話、しましょう」
「うん、どんな話でも」と博は答えた。
半年前の冬の明け方、新宿の路上で震えるフェーを車に乗せてホテルに運んだあの日、湯船に三十分以上浸かってやっと震えのおさまった彼女は毛布にくるまると、助けてもらった礼にと、英語まじりのたどたどしい日本語でフィリピンの民話を語りはじめた。
博は彼女のよく通る声にじっと耳を傾けた。それはこんな話だった。
昔、あるところにたいそう金持ちの男がいた。男は毎日のように宴会を開き、にぎやかに遊び暮らしていたが、ある日、無性に淋《さび》しくなった。友だちは酒を飲んで騒ぐばかり。女たちはおしゃれのことしか考えない。おれもそろそろ優しくておとなしい女を嫁にもらって、落ち着いた家庭を作ろう。そう考えた男は国中に使いを出し、望みどおりの女を見つけた。女の名前はダマ。貧しい村の娘だった。ダマは心をこめて男に尽くした。
だが、二、三年もするうちに男は静かな暮らしに飽きてきた。にぎやかに暮らしていたころが懐かしくてたまらない。ダマは派手に着飾ることもなければ、冗談を言ってふざけることもない。そんなダマがひどくつまらない女に思え、男はふたたび元の仲間と遊ぶようになった。ダマは神様に祈った。どうかわたしに力をお授けください。あの人をいつまでも引き止めておける力を。
明け方、男が帰ってくると、ダマの姿が見えない。いったいどこへいったのか、男はすっかり不機嫌になり、ひとりで寝床に入ろうとした。そのときかすかに甘い匂いがした。男は引きつけられるように窓辺に近づいた。
外には見たこともない木が茂り、枝には小さな白い花が咲いている。うっとりするような匂いを撒《ま》き散らしているのは、その星くずのような花だった。
ダマ、これがおまえなのかい、と男は言った。お願いだ、帰ってきておくれ。
男は後悔した。いまさらのようにダマの優しさ、美しさを思い出した。小さな白い花は青白い月の光を浴びて、いつまでも甘い匂いを漂わせていた。
ダマデノーチェの花の話だと、フェーは言った。昼間は匂いもなく目立たないが、人の寝静まる夜になると、あたり一面にすばらしい匂いを撒き散らすという。
フェーの話を聞きながら、博は夢を見ているようだと思った。目の前の女が民話の中の花の精に思われた。
そのことがあってから博はフェーと会うたびにフィリピンの民話をひとつだけ聞かせてくれ、とリクエストするようになった。話の内容はどれも他愛《たわい》のないものだった。世界ができたばかりのころ、空はいまのように高くなく、天井のように手を伸ばせば届くところにあったとか、そのころ子どもは男のふくらはぎから生まれたとか、太陽と月は仲の良い夫婦でいつもいっしょに動いていたが、赤ん坊のことで大喧嘩《おおげんか》をしてから、代わる代わる空に現れるようになり、それ以来、昼と夜が始まったとか、そんな類《たぐ》いの話だった。
フェーは窓の外に目をやり、しばらく考えてから口を開いた。
「若くてきれいな奥さんを持つオス鳥が、あるとき仲間に奥さんを見せました」
「それはなんという鳥?」
「あー、カラオという鳥です。全身真っ黒で、くちばしと冠が赤くて、とても大きな鳥。日本にいますか?」
博は首をひねり、たぶんいないと思う、と言った。フェーはうなずき、話を続けた。
仲間は口々に奥さんの美しさを褒めました。奥さんはすっかり有頂天。次の日から仲間のところへ行って、遊びまわるようになりました。奥さんが遊んでいるあいだ、オス鳥は餌を探したり、木の幹の穴に巣を作ったりで、とても忙しいです。でも、日が暮れて奥さんが帰ってくると、遊べるのもいまのうちだよ、と優しく声をかけます。卵を産んだあとはもう出かけられないからね、いまのうち遊ぶといいよ。
ところが、奥さんは卵を産んだあともなかなか遊び癖が抜けません。オス鳥がちょっと目を離したすきに、どこかに出かけてしまいます。卵を温めるのは大変な仕事だけど、それが母親の仕事だよ。オス鳥にそう言われて、奥さんは素直にあやまりますが、翌日にはまた卵を放りだして、遊びに行ってしまいます。オス鳥は思案したあげく、巣の出口を泥でふさいで奥さんを中に閉じこめてしまいました。オス鳥と同じように遊び好きな奥さんを持った鳥はみんなさっそくそれを真似したという、そういうお話。
博はうなずき、フェーの顔をのぞきこんだ。
「ダマみたいな奥さんと、オス鳥の奥さんと、きみはどっちが好き?」
「あなたは?」とフェーは言った。「どっちの旦那《だんな》さんになりたいですか? 女はどっちにでもなれるよ」
博はテーブルを離れ、ビールのコップを持って、窓辺に立った。
フィリピンには金さえ出せば、独身証明書なしで結婚できるルートがある。フィリピンサイドで結婚しても日本の戸籍には記載されない。昨夜、フェーはそう言った。博はそのときうつむいて、ただフェーの腹をさすっていた。子どもを産んでもかまわないし、フィリピンの結婚をしてもいい。ただ衿子のことが気になった。
「でも、大丈夫。わたし、ベビー産んだら、ちゃんと卵温めるよ」
博は目尻《めじり》だけで笑い、そのときふとフェーが教えてくれたフィリピンのまじないを思い出した。どんなにひどい傷でもシブシブと唱《うた》えればたちどころに治ってしまうという。
「シブシブ」と博は小声で言ってみた。フェーが笑いながら、胸に飛びこんできた。
☆
梶井多恵子《かじいたえこ》は台所のテーブルで冷や酒を飲んでいた。酒に手を出すのは一年半ぶりのことだった。つけっぱなしのテレビは、連続ドラマからゴルフ中継に、そしてクイズ番組に変わったが、彼女はそのあいだずっと飲みつづけていた。
今朝、中学二年生の娘が家出をした。多恵子が七時すぎに起きたとき、娘はすでにいなかった。机の上にメモがあった。さようなら。それだけのメモだった。
多恵子はクイズ番組の司会者のネクタイが別居中の夫のものによく似ていると思い、娘は彼のところへ行ったのか、とも考えたが、すでに新しい女と暮らしている父親のところに、十四歳の娘が出かけていくだろうかと考え直し、万一そんなことがあったとしても、電話がかかってくるにちがいないと思った。
行き先についてはまったく見当がつかなかった。クラスには仲のいい友だちが何人かいるらしいが、多恵子はその子たちの名前を知らない。娘は小学生に間違われるほどの童顔だ。親しいボーイフレンドがいるようにも思えない。
多恵子には相談する相手がいなかった。精神病院に入院してからというもの、親兄弟とは音信が絶えたままだったし、娘の担任とも会ったことがない。まさか神経科の担当医に相談するわけにもいかない。
二年前、多恵子は次女の流産が原因で不眠症にかかった。精神安定剤を飲みつづけ、その副作用で腰が立たなくなった。医者は薬のかわりにアルコールをすすめた。初めはコップ半分のビールで熟睡したが、やがて夜中に目覚めては飲み足すようになった。熟睡できないため身体がだるく、朝から料理用の酒に手を出すようになった。
夫と娘を送りだすと、さっそく床下収納庫から紙パック入りの二級酒を取りだす。コップに二杯ほど飲むと気分もよくなり、掃除にとりかかる気力もわいてくる。夕方の買物のとき、翌朝の酒を買うのが習慣になった。夜は夫と晩酌をするが、夫のペースではまにあわない。台所に氷を取りにいくすきに一升瓶の冷や酒をあおった。
飲んでおいしいわけではない。ただ飲まずにはいられない。最初の一杯はひと息に飲み干す。二杯目からはゆっくりと味わって飲む。飲みながらでも洗濯はできるが、物干しにかける気力はない。買物に行かなければと思いながら、つい酒に手が伸びてしまう。買い置きの酒が切れると、いてもたってもいられない。つかのま記憶が途切れ、気づくと酒の自動販売機の前に立っている。
そんなある日、台所で倒れた。学校から帰った娘が救急車を呼んだ。運ばれた病院で、突発性アルコール癲癇《てんかん》症と診断された。入院の必要はないという。病院に駆けつけた夫は多恵子を一瞥《いちべつ》すると、内科医に向かって、精神科を紹介してくれ、と言った。二度と酒は飲まないと、多恵子は泣きながら夫と娘に誓った。
だが、その誓いも翌日には破られた。酒量は減るどころか、ますます増えた。多恵子は胃液を吐きながらも飲みつづけ、くりかえし前後不覚《ブラツクアウト》に陥った。そのたびに酒をやめようと心に誓ったが、病院で点滴を受けて家に帰る道すがら、気づくと自動販売機の酒に手を伸ばしていた。
夫はひそかに精神病院の入院手続きをとった。多恵子はそれを夫の精一杯の気づかいと思い、入院に応じた。一週間ほどで閉鎖病棟から開放病棟へ移された。花の世話や石けんの外箱折り、ラジオ体操や瞑想《めいそう》、ソフトボールや卓球。薄氷を踏むように絶望や苛立《いらだ》ちや空虚感と闘いつづけ、一か月後には退院できるようになった。
だが、退院の日に迎えにきたのは娘だけだった。夫はここしばらく家に帰っていないという。まもなく夫は多恵子に別居を申し入れてきた。
退院後一年半たつが、多恵子は今日まで一滴も飲まなかった。入院中に知った断酒会に熱心に顔を出し、なるべくひとりにならないように、と言われてレザークラフトの教室にも通った。夫は月々きちんと生活費を振り込んでくる。正式な離婚となれば、娘の親権は間違いなく夫のものになるだろう。多恵子は顔をあおむけて、声を殺して泣いた。すでに四合ほど飲んでいたが、頭はふしぎに冴《さ》え渡っている。
いったい娘はどこにいってしまったのか。やはり夫のところへ行ったのか。これで判っただろう、おまえは母親として失格だ、と夫が勝ち誇ったように言う。これからの人生をわたしはたったひとりで生きていくのか。犯した罪はたしかに重い。しかし、これからの人生が、その償いだけに費やされるのだとしたら、それはあまりにもつらいではないか。生きていくに値する人生とはとても言えないではないか。
つまずきのすべての原因は次女の流産にある。高齢出産で気弱になったわたしを、夫はあたたかく励ましてくれた。一回りも違う妹の誕生を知り、反発した娘も最後には応援してくれた。流産さえしなければ、こんなことにはならなかったのだ。
多恵子は目を閉じ、コップの底に残った最後の一滴を舌の先で味わった。涙があふれ、頬を伝わり落ちた。そのときふと、風間裕一の顔が思い浮かんだ。
いまごろなぜ、彼のことを思い出したのか判らない。コップを持つ手が止まった瞬間、浅黒く彫りの深い彼の顔が浮かんだのだ。
次女の妊娠後、それまで勤めていた会社を辞めた多恵子は、わずか三か月ばかりの期間だが人材派遣会社に登録し、経理の仕事に就いていたことがある。そのときの派遣担当者が風間裕一だった。
裕一は黒目がちな大きな目でじっと相手を見つめて話す。必要以外のことはしゃべらない、無口な青年だった。多恵子は裕一と会うたびに、その淋《さび》しげな表情や、長い睫《まつげ》や、癖のある髪や、浅黒く引きしまった身体を見て、高校生のように胸をときめかせたものだ。両親はどこの国の人なのか、いつか訊《き》こうと思っていたのに、訊きそびれてしまった。
もう三年も前になるが、一度だけ表参道のカフェで、裕一とお茶を飲んだことがある。日曜日、娘にせがまれてブティックを何軒かまわり、原宿駅に戻る途中だった。多恵子が先に気づき、裕一に声をかけた。今日もお仕事? と多恵子は言った。いや、この近くに住んでいるんです、と裕一ははにかむように答えた。娘を紹介すると、ずいぶん大きな娘さんがいらっしゃるんですね、と裕一は驚いた顔になった。喉《のど》が乾いたでしょう? と多恵子は娘に言い、娘の返事も待たずに裕一をお茶に誘った。裕一と娘は困ったように顔を見合わせ、多恵子はそれを見て、自分の積極さに驚いた。
テラスのあるカフェに入ると、裕一は多恵子の顔を見つめ、何度か小さくうなずいた。どうかしたの、と多恵子が訊くと、すみません、と裕一は頭を下げた。つい最近、親父が再婚したんですが、あなたを見てその相手の女性のことを思い出したんです。気になさらないでください、こんなことを言うなんて、とても失礼なことだと思いますが。
にわかにテラスの日が陰って肌寒くなり、娘が帰ろうと言いだした。店を出ると一礼して、右と左に別れた。たったそれだけの思い出だった。娘の家出を相談する相手として、裕一がふさわしいはずもない。でも、久しぶりに電話を入れても、それほど唐突ではないように思われた。多恵子の名はまだ登録リストから抹消されていないはずだった。
多恵子は電話をテーブルに運び、コップに新しい酒を注いだ。
番号はうろ覚えだったが、指が自然に動いた。電話はすぐに裕一につながった。
「梶井と申します」と多恵子は言った。「三年ほど前にお世話になりました」
「そうですか、三年前ですか」
風間裕一はうまく思い出せないようだった。
「たった三か月ですが、経理のお仕事をさせていただきました。たしか表参道で一度、娘と三人でお茶をごいっしょさせていただいたことがあって」
「ああ、梶井さん」
受話器からはずんだ声が聞こえてきた。
「よかった」と多恵子は言った。「少しお話ししても、よろしいですか」
「ええ、どうぞ」
「じつはね、娘が家出したんです」
「なんですって?」
「すみません、こんな話、ご迷惑でしょうが、あのときの娘がもう中学二年生なんです。今朝、家出してしまったんです」
「そうなんですか、今朝ですか」
「娘には三十万ほど貯金があって、キャッシュカードを持って出たようですから、とりあえずお金に困ることはないと思うんです。でも、女の子でしょう。まだ十四歳でしょう。そんな小さい子をホテルは何も言わずに泊めるんでしょうか。フロントの方は娘から自宅の電話を聞きだして、連絡を入れてくれるんでしょうか。ごめんなさい、相談する相手がいなくて困っていたんです。そうしたら突然、風間さんのことを思い出して。ご迷惑だとは思います。でも、もう少しだけ聞いてください。ほんとうにごめんなさい」
多恵子は相手に言葉をはさむ余裕を与えずに話しつづけた。
「風間さん、家出をした中学二年生の女の子は、ふつうどんなところに行くんでしょう。娘は友だちの少ない子でした。おそらく行く当てもないと思います。さようなら、とだけ書いてあった置手紙を見ると、もう二度と戻らないような気もします。もし娘の居場所が判ったとしても、それはなんの解決にもならない、そんな気もしてきました。きっと娘はもうわたしとは暮らしたくないんです。娘の気持ちはよく判ります。痛いほど判ります。わたしも、これから先、ひとりで生きていく覚悟はできています。でも、いま、娘の身になにか起きているかもしれない。そう思うと、いてもたってもいられなくて」
「あの、すみません、わたしもなにかお役に立ちたいとは思うんですが……」
裕一の申し訳なさそうな声が聞こえてきた。
「ほんとうにごめんなさい」
多恵子は受話器を耳に当てたまま、深々と頭を下げた。
「いえ、それはいいんですが」
「ほんとうにごめんなさい」
多恵子はもう一度言って、電話を切った。
☆
裕一は受話器を置くと、梶井多恵子のことを懐かしく思い出した。彼女は裕一が初めて派遣を担当したスタッフのひとりだった。ひかえめな性格で、あまり目立たなかったが、とても仕事熱心で派遣先の評判もよかった。
だが、電話の彼女は少し酒に酔っているようだった。そうでなければ、少し心を病んでいるように思えた。裕一はふっと息をつき、きのうの筆記試験の採点に戻った。
試験は新聞を読める者なら誰にでもできる読み書きと、新聞を読まない女性でもなんとかなる一般常識の二科目だが、それでも落ちてしまう女性が二百人のうち少なくとも五十人はいる。以前は面接だけですませていたが、スタッフ登録希望者が増えるにつれ、こうして面倒な筆記試験までやらなければならなくなった。
採点の作業を終えて時計を見ると、まもなく五時だった。裕一は首の筋を伸ばすように頭を左右に曲げ、それからワープロに向かい、「外国人労働者の教育研修に関する報告書」を呼び出した。役所のチェックを逃れるための工作文書だ。あすまでに仕上げなければならない。だが、まだほとんど手つかずの状態だった。
そのでっちあげの文書作りに没頭していると、ルイーズから電話が入った。
マンションには帰らず、日曜からずっと芝のホテルに泊まっているという。
「想像以上に金持ちだな」と裕一は言った。
「はっきり言って、両親は金持ちよ。でも、わたしはしがないコンパニオン」
「コンパニオン?」
「大学の掲示板で見つけたの。それより試験の結果は? わたしは合格?」
ルイーズの答案はほとんど冗談で埋まっていた。
ふりがなをつけ、その意味を説明しなさい。
有名無実《アリナミン》
「どうしようかと思っている」と裕一は言った。
「たぶん、ぎりぎりで合格ね」
「そうなんだ。ぎりぎりのラインなんだ」
「難しいところね。こっちに来ない? 退屈してるの」
「当分まだ仕事が終わりそうもない」
「待ってるから」
電話は切れた。裕一は夕食をとる暇もなく、仕事を続けた。だが、九時をまわっても、報告書はいっこうに仕上がりそうになかった。
完全に誤算だったな、と裕一は思った。昨夜のツケがまわってきたのだ。フロアに何人か残った同僚も、一様にうんざりした顔でデスクに向かっている。
裕一はスーツの上着を置いたまま、トイレに行くふりをしてオフィスを出た。
タクシーを拾い、芝のホテルに向かった。六本木の喧騒《けんそう》を抜け、ソ連大使館をすぎると、あたりはにわかに静寂につつまれた。ホテルは公園の緑の中にある。
タクシーを降りると虫の声が聞こえた。昨夜、新宿のホテルの窓から見た東京タワーがいまは目の前にそびえ立っている。緊張してるの? もっと楽になさいな。そう言ったときのワープロオペレーターの顔を思い出し、裕一はフロントを通りすぎた。
「案外、早かったね」とルイーズは言った。
彼女はバスローブ姿でシャンパンを飲んでいた。
テーブルには食べ散らかしたフライドチキンや、サンドイッチや、キウィのサラダや、チーズが転がっている。グラスにシャンパンを注ぎ、グラスをカチッと合わせて乾杯した。裕一は冷たくなったフライドチキンをかじり、シャンパンを飲んだ。
「きょう、パーティ会場で、おじいさんに誘われたの」
ルイーズは欠伸《あくび》をひとつして、話しはじめた。
「いきなり財布を出して、おつきあいしていただけませんかって。日本語が判らないふりをしてたら、おじいさん、いつでも電話をくださいって、名刺といっしょに十万円くれたの。引っ込みがつかなかったのよ。でも、すごいと思った。それでわたし、おじいさんの名刺持ちをしてた若い男を誘ったの。このお金でどこかに遊びに行かないかって。そしたらその人、あなた、プロですかって。なんだろうね、ほんとに」
「ねえ、変なことを訊《き》くけど」と裕一は言った。「家出をした十四歳の女の子は、最初の夜はどこに行くんだ?」
「なによ、それ」
「たぶんその子に行く当てはないんだ。たったひとりで、十四歳の女の子はどこに行くんだろう」
「難しい質問だけど、答えは意外と簡単」
ルイーズはそう言って、裕一を焦《じ》らすようにゆっくりとシャンパンを飲んだ。
「ほんとうに判るのか?」
「最初の夜は、その子がいちばん行ってみたかった場所」
「それで?」
「次の夜は、声をかけてきた男の部屋」
裕一はルイーズをにらみつけたが、「わたしは、十六歳のときだった」と彼女は続けた。「最初の夜はロック・クラブ、次の夜は声をかけてきた男の部屋。男の年は二十五、六だったかな。でも、どうして?」
「いや、いいんだ」
ルイーズが首をかしげ、顔をのぞきこんできた。
「なんでもないんだ」と裕一は言った。
ルイーズは首をすくめ、「いまの話の続きだけど」と言った。「わたし、あの十六歳の日から、もうずっと旅の途上。上の姉はイタリア系の銀行屋と結婚してサンフランシスコにいるの。下の姉はユダヤ系の作家とフロリダで暮らしている。でも、わたしみたいに、いつも旅の途上じゃ、結婚なんかできないでしょう? せいぜい声をかけてきた男の部屋に泊まるくらい。わたし、日本で少し暇をつぶしたら、ニューヨークに行こうと思ってる。でも、その前にちょっと香港で暮らしてみたい。あなたは日本が好きなの?」
「そういうふうには考えないな」
「インドには行きたくないの? 部屋にママの写真を飾る男ってぞっとしないけど、あなたの場合、なんとなく判る気がする。ママとは会ってみたい?」
「生きているかどうかも判らない」
「そんなの、簡単に調べれられることだわ」
「いいんだ、いつもは忘れている」
「そうよね。だいたい人間ってまぬけな生活に熱中して大切なことを忘れてしまうのよ」
「まぬけな生活?」
「そう、うすのろな生活」
ルイーズはそう言って、声を上げて笑った。
「でも、それも悪くないと思う。うすのろな生活をいつまでも拒んでいると、しまいにはつまらない夢を追いかけることしかできない人間になってしまうから」
「なんとなく判るよ」と裕一は言った。
ルイーズはウィングチェアから腰を上げると、ベッドに身体を放り投げた。
「あなた、わたしのこと、なにも訊かないでしょう。ほかの日本人はみんないろいろ訊いてくるよ。きみは日本人なのか、アメリカ人なのか。両親はなにをしているのか。ハワイで日系人は尊敬されているのか。パールハーバー五十周年で対日感情はどうか。日本人にとって、日系人ってすごく興味をそそるみたいね。あなた、ほんとうにわたしのこと抱きたくないの」
「どうかしてるよ」
「どうして?」
「そんなに簡単なものじゃない」
「どうしてよ」
「おれはただの|意気地なし《ミルクソツプ》だよ」
「遠慮しなくていいのに。どうせ旅の途上なんだから」
ルイーズはベッドに肘《ひじ》をついて話していたが、全身の力をふっと抜いてあおむけになると、両手を身体の脇に置き、静かに目を閉じた。
裕一はボトルに残ったシャンパンをグラスに注ぎ、そのグラス越しにルイーズの端整な顔をしばらく観察した。バスローブから伸びた足は小麦色に日焼けして、呼吸に合わせて胸がかすかに上下している。裕一はグラスをテーブルに戻すと、彼女の毛先だけ軽くカールした短い髪にそっと手を伸ばした。
彼女の口からかすかに吐息がもれた。その薄く紅を引いた唇に指を当てると、彼女は目を閉じたまま、クスッと笑い、舌の先で裕一の指を舐《な》めた。
裕一はバスローブの襟をゆっくりと左右に開いた。きれいに日焼けした肌にビキニの跡がくっきりと残り、まるでシールをはがしたようにそこだけ白い乳房がまぶしかった。
会社に戻ると、午前一時をすぎていた。三人の同僚はまだデスクにしがみついている。彼らはシャワーで濡《ぬ》れたままの裕一の髪を蔑《さげす》むように見た。ワープロの文書は四時すぎにようやく仕上がった。三人はこのまま徹夜するつもりらしい。九時に出社することを考えると、家に帰る気になれないのだ。裕一は三人を残して、会社を出た。
[#改ページ]
八月二十九日(水)
インクを流したような空がみるみるうちに白んでいく。裕一は山手線沿いの道をゆっくりと歩いた。まもなく夜明けだった。
――遠慮しなくていいのに。どうせ旅の途上なんだから。
ルイーズの声がまだ耳の底に残っている。ひと足ごとに路面が沈みこむような不安に駆られ、裕一はふと足を止めた。
――あなた、すごく上手だわ。
ルイーズはそう言って、ベッドの中でしきりに額の汗をぬぐった。
その言葉に裕一は愕然《がくぜん》とした。ルイーズは次々と体位を変え、快感の変化を楽しんだ。その積極さに圧倒され、裕一は何度も不能状態に陥りかけた。
ルイーズはそのことに気づかなかったのだろうか。裕一はそれを訝《いぶか》ったが、彼女の満ち足りた顔を見たとき、ひとつの事実に思いあたった。自分は二十七歳にして、すでに若い女の欲望を十分に満たすことができるのだ。裕一はうら悲しい気分で、足元に脱ぎ捨てられた金色の光沢のあるショーツを見た。ルームライトが彼女の白い尻《しり》を照らしだし、尻の割れ目から彼女の秘密がはみだして見えた。
裕一は息を吸いこみ、ゆっくりと吐きだすと、ふたたび歩きはじめた。
カフェバーの裏口では蝶《ちよう》ネクタイの男が空のビール瓶を積み上げ、サンドイッチハウスに横づけされたトラックからは焼きたてのパンの匂いがした。新聞配達のバイクが後ろから裕一を追い抜いていく。原宿駅竹下口を通りすぎ、表参道を横切った。
コープオリンピア脇の路地に、数人の女の子たちがたむろしていた。何人かがビルの外階段に腰を下ろし、別の何人かは路上にしゃがみこんでいる。どの顔もひどく幼い。小学生か、せいぜい中学生にしか見えない。両手で膝《ひざ》を抱え、ぼんやりと明け方の空を眺めている。
裕一が前を通りかかると、ノースリーブの黒いワンピースを着た女の子がゆっくりと顔を上げ、眠そうな目を裕一に向けた。足元には漫画雑誌やクレープの包みやポテトチップスの空袋が散乱している。家出娘には見えなかった。コンサートチケットを手に入れるための徹夜の列にも思えない。女の子たちは一様に疲れきった青白い顔をして、ただひたすらなにかを待ちつづけているように見えた。
マンションに帰ると、裕一は窓を開け放ち、服を脱いで全裸になり、ベッドに倒れこんだ。かすかにレースのカーテンが揺れている。部屋にこもっていた熱気が窓から逃げていく。あおむけになり、性器を握りしめた。痛いほど勃起《ぼつき》していた。目を閉じ、ゆっくりと手を動かしているうちに、眠りの斜面をすべり落ちていった。
寝返りを打つと、女の背中があった。裕一は息を飲んだ。ウェイヴのかかった長い髪、ベージュのキャミソール、ジャスミンをベースにしたコロンの匂い。そうか衿子さんか、裕一は安心して目を閉じた。
夢の中では、義母の衿子とふたりで寝ていることも、さほど不自然には感じられない。衿子のうなじは汗で濡れている。ほんとうの母親なら、こうして同じベッドで寝るなんて変でしょ、と衿子が言う。たしかにそうですね、裕一はうなずく。でも、どうして背中を向けているんですか。顔を見せてほしいな。わたしの髪、とてもいい匂いがするでしょう? でも、正面から向き合うと、あなたきっとわたしにほかのものを求めるわ。ほかのもの? そう、もっといい匂いのするもの。衿子はそう言って身体をよじり、こちらに顔を向けた。だが、その顔は衿子ではなく、ワープロオペレーターだった。喉《のど》の奥で小さな叫び声を上げ、裕一は目をさました。
女の顔がまだはっきりと残っている。憂いを含んだ色白の小さい顔だった。眉《まゆ》と眉のあいだがずいぶん離れているな、と裕一はぼんやりと考え、そのとき夢の女がワープロオペレーターではなく、梶井多恵子だったように思われてきた。頭を軽く叩《たた》くと、夢はたちまち現実感を失った。
時計を見ると、六時半をまわっている。ベッドから起きあがり、ラジオをNHK‐FMに合わせた。「朝のバロック」の時間だ。リヒター指揮によるブランデンブルク協奏曲第5番ニ長調を聴きながら、裕一はジョギングパンツとTシャツに着替えた。
洗面所で顔を洗い、歯をみがいているうちに、ラジオは天気予報に変わった。沖縄本島を通過した台風は北上を続け、九州南部に接近しているという。裕一は米を研ぎ、炊飯ジャーのスイッチを入れると、ラジオをつけたまま部屋を出た。
空は分厚い雲におおわれていた。生ぬるい風が眉のあたりをくすぐっていく。腕をまわし、肩をさすりながら青山通りに出た。寝不足と煙草の吸いすぎで吐き気がする。最悪のコンディションだった。
いつものコースを二十分十五秒かけて走り終え、裕一はうんざりした気分でシャワーを浴びた。CDデッキにカルロス・サンタナの「フリーダム」を入れ、冷たい牛乳を飲みながら朝刊を拾い読んだ。懐かしいファンクロックを聴かせるラストの曲が終わると、ダイアー・ストレイツの「コミュニケ」に替え、朝食の用意に取りかかった。マーク・ノップラーのギターは炊事のBGMにぴったりだった。鰺《あじ》の干物、納豆、生卵、ネギの味噌《みそ》汁。ネギは硬いほどいい。
朝食を終えると、ちょうど八時。出かけるまでにはまだ少し間がある。コーヒーをわかし直し、読みさしの小説をめくりながら、少しうとうとした。
八時四十五分、裕一はマンションを出た。クレヨンハウスの前を通り、ハナエモリビルの角を曲がる。外はすでにむっとするような暑さだった。表参道を原宿駅に向かって歩いた。コープオリンピア脇の路地には、あいかわらず女の子たちがしゃがみこんでいる。
髪をメッシュに脱色した若い男たちが会社の前をうろついていた。デザイン学校の生徒たちだった。裕一の会社はデザイン学校と同じビルにある。
裕一がデスクにつくと、冷たい麦茶を運んできた美雪が「変な噂、聞いたけど」と小声で言った。
「そう?」と裕一は言って、彼女を見た。
「気をつけたほうがいいわよ」
裕一は彼女の言いたいことがすぐに判った。徹夜組の同僚たちはいま、喫茶店に出かけているという。モーニングサービスのゆで卵でも食べながら、昨夜の裕一についていろんな噂話をでっちあげているにちがいない。
裕一は煙草に火をつけ、デスクに積みあげた二百人分の履歴書を眺めた。
――もっと楽しんだら? あなた、すごく上手なんだし。
ふいにルイーズの声が蘇《よみがえ》った。
――いいこと? ゲームの規則はこうよ。他人に対しておおらかであれ、基準は好きか嫌いか、そして、好きなことを好きなようにやれ。ね、そうでしょ?
裕一は煙草をもみ消すと、履歴書の上から順に電話をかけはじめた。合格者への面接の連絡は美雪にまかせてある。裕一の仕事は不合格者への通知だ。
単なる電話連絡なら半日で終わる。だが、女たちは容易に電話を切ってくれない。どうしてわたしが落ちるの。なにかの間違いじゃないの。六年間のキャリアがあるのよ、わたしには。学校を出たてのお嬢さん方とは違うの。あんなペーパーテストでなにが判るっていうの。
「あなたはどうなの?」と受話器越しに、女の穏やかな声が言った。「仕事と引き換えに、身体を要求する人がいるっていうじゃない」
「中にはそんな者もいるかもしれませんが、わたしは違います」
裕一は答えながら、履歴書を見た。伊藤葉子、二十九歳、独身、短大卒、趣味ゴルフ、生け花、経理事務希望、筆記試験三十五点。
「やっぱりいるのね、そんな男が。人の弱みにつけこんで」
「うちの会社にはいないと思います」
「断言できるの?」
「どういうことでしょうか」
「そういう話を聞いたのよ、ある人から」
「当社にはそのような者はおりません。選考基準は試験の結果だけです」
「でもわたし」と女はちょっと声を低くした。「ほんとは、そういうことがあってもしかたないって思うの。人間って弱いでしょ、だから責めてもしょうがないって。もしあなたさえ、その気ならね」
「あの、失礼ですが、もう一度、受け直していただいてもけっこうですから、つまらない想像はしないことです」
女はじっと押し黙っていたが、裕一が受話器を置こうとすると、「覚えておきなさいよ、このインポ野郎!」と叫び、電話を切った。
裕一は電話連絡を取りつづけた。昼も美雪の買ってきたホットドッグを食べながら電話をかけつづけ、五時近くになってようやく六十五人全員への連絡を終えた。裕一は椅子の背にもたれ、目を閉じた。耳の中ではまだ女たちの声がさざめいている。
前の会社は人間関係に疲れて辞めたんです。つまらないことに気をつかいすぎるって、母はまるでわたしが悪いみたいに言うけど、でも、そういうのって仕方ないですよね。性格なんて簡単に変えられるものじゃないし。でも、このまま両親といっしょに年老いていくなんて、たまらないんです。きちんとした仕事に就いて、一日でも早くひとり暮らしを始めないと、わたし、ほんとうにだめになってしまう。もう二度と社会に出られなくなってしまうんです。近所の人も陰で散々わたしの悪口言ってるし、もうこれ以上、両親といっしょにいられないんです。今回は残念でしたって、あなたはそう言って、この電話を切るんでしょうけど、ただ黙って年老いていけと、あなたはわたしに命令するんですか! そんなこと、納得できません。あなたにそんな権利があるんですか!
電話が入り、美雪が受けた。
「ごめん、名前を聞き取れなかった」
裕一は首をかしげ、美雪から受話器を取った。電話はシカンデルからだった。
「どうしたんだ、元気か?」
裕一はホッとして声をかけたが、シカンデルはあいづちを打つ間も与えず、パキスタン訛《なま》りの英語でまくし立てた。アパートを共同で借りている仲間のひとりが池袋のデパートでズボンを万引きして捕まった。今夜アパートに帰ればきっと自分も取調べを受けることになる。いったいどうしたらいいのか。
「言っていることは判った」と裕一は答えた。「でも、おれにはどうすることもできない」
「友だちだろ? おれたち。ユーイチ、なにもしてくれないのか?」
裕一は言葉につまり、向かいのデスクの美雪を見た。彼女は目を丸くしている。
「じゃ、七時でいいか? セントラルアパート前のロッテリア」
「判った、七時だな」
シカンデルはすぐに電話を切った。
友だちだろ、おれたち。裕一は胸の内でつぶやいてみた。
☆
まもなく五時だった。トシキはこの時間に姿を見せることが多いという。あずさは階段から腰を上げると、組んだ両手を裏返し、思いきり伸びをした。
「ほんとに、来るのかなあ」とおかっぱ頭にチェックのリボンをつけた女の子が言った。「来ないんじゃないのお?」
「かもしんない」とジーンズにポロシャツの女の子が答えた。「けど、もうちょっと待ってみようよ」
ふたりは大宮から来た小学生だった。昨夜からずっとあずさといっしょにいる。親には友だちの家で泊まりがけで夏休みの宿題をやると言ってきた。まだ五年生だという。
「おねーさんさ」とポロシャツが言った。「トシキ、来るよね、ぜったい来るよね」
「たぶんね」とあずさは言った。
「それにしてもさ」とおかっぱ頭が言った。「おなか減ったよねえ」
あずさはコープオリンピアの外階段にしゃがみこみ、トシキを待ちつづけていた。きょうで三日目だった。そのあいだに、あきらめて帰っていった女の子と、新しくやってきた女の子が次々と入れかわり、三日前から残っているのはついにあずさだけになった。
「写真見る? 去年の夏、京都のライブハウスで撮ったやつ」
あずさがバッグからアルバムを取りだすと、ポロシャツとおかっぱ頭は息を飲んだ。
「すっごーい。ほんとにおねーさんが撮ったのお?」
ポロシャツが食い入るように写真を見て訊《き》いた。
「京都なんて遠くて行けないよお」
おかっぱ頭がため息まじりに言った。
写真はステージの真正面から撮ったものばかりだった。ピンク色の髪にラメ入りのヘアバンドをつけ、シルバーニットのミニのワンピースを着たトシキ。蛇の形をしたメタリックベルトで細い腰をしめつけ、シースルーの手袋とエナメルのブーツで決めている。ときおり胸元から薔薇《ばら》の刺青《タトウー》がのぞいて見える。
ぼくは男でも女でもない、シーメールなんだ、とトシキは言う。だが、初めて見た人は誰でもトシキを女と信じて疑わない。
「なによこれ!」とおかっぱ頭が叫んだ。「信じらんなーい」
アルバムの最後のページに、トシキとあずさがふたり並んで撮った写真がある。
「やだあ」ポロシャツが泣きそうな声を出した。
それにしても、わたし、どうしてこんなに美少年タイプに弱いんだ? あずさはそれをふしぎに思う。最近までつきあっていた相手も、近くの高校に通う噂の美少年だった。
「きみの性格、よく判らないよ」と彼は言って、あずさから去っていった。
彼がつきあった女は二十四歳のOLから十四歳のあずさまで三十人を下らない。その中でセックスの回数がいちばん多いのがあずさだという。彼がそう言った。
「きみは自分でブスだって言うけど、ほんとにそう思ってるの」
「うん、そう思う。激しくそう思う」
「ぼくはすごくかわいいと思うけど」
「そういうの、ほかの女にも言うんでしょ」
「そんなことないよ」
「嘘だよ」
「やっぱり別れなくちゃいけないのかな」
「そういう言い方っていけないんじゃない?」
「きみの性格、よく判らないよ」
別れるならいまだな、とあずさは思った。
彼はわたしを捨てる頃合を考えはじめている。あずさにはそれが判った。きれいな思い出として残すためにも、いまのうちに別れるべきだった。
バイバイ、口の形だけで言って歩きだすと、後ろから抱きすくめられた。
「最後にもう一度だけ」と彼は言った。「もう一度だけ抱きたい」
「あんたも悪い女に引っかかったよねー」
あずさはそう言って、彼の腕を振りほどいた。
彼の頭の中にはセックスのことしかない。あずさはあらためてそのことに気づき、自分のほうが彼よりひと足先におとなになったな、と思った。
「きみたち、なにしてるの?」と男の声が言った。
顔を上げると、ニキビ面の渋カジ男が笑っている。あずさは思わず顔をしかめた。
「そんな怖い顔するなよ。なにしてるのって、訊いただけなんだから」
「別になにもしてない」とあずさは答えた。「なにか用なの」
「暇してるみたいだからさ、お茶でもどうかなって」
「わたしなんか誘っても、ちっともおもしろくないよ」
「そうかな」
「生意気なだけのガキんちょだからね」
「そうなんだ?」
あずさはうなずき、「悪いけどさ」と男に言った。「わたしたち、ここ離れるわけにいかないんだ。なんか食べるもの買ってきてくれないかな」
うん? と男がポケットに手を入れたまま首をかしげた。
「えーっとね、フィレオフィッシュとポテトとコーラ」
あずさがそう言うと、「それ、わたしたちも」とふたりの女の子が声をそろえた。
「お金渡して逃げられちゃかなわないからね、とりあえず払っといてくれない?」
男は肩をすぼめ、ハンバーガーショップへ向かった。
「あんた、ここでなにしてるのよ」
長い髪にパーマをかけた女があずさに声をかけてきた。
「ナンパされたいんなら、別のところに行ってくれない?」
女は色白の肌を見せつけるように、ノースリーブの黒いワンピースを着ている。一日中化粧を直し、ボスのように振舞っている。あずさは黙って女の顔を見た。同じ中学二年生らしいが、とてもそうは見えない。
女はバッグからヴァージニアスリム・ライトを取りだすと、ライターで火をつけながら、「わたし、トシキと寝たことがあるのよね」と言った。マネージャーからトシキの宿泊先のホテルを聞きだし、事前にとなりの部屋を予約しておいたのだという。
「だから?」とあずさは言った。
「あんまりでかい顔するなってこと」
ぜったいに嘘だ。女が寝たのはトシキではなく、マネージャーのほうだ。あずさはそう思った。
☆
裕一は窓辺の席に座り、ぼんやりと外を眺めていた。
薄暮れの表参道を人々があわただしく行きかっている。若いふたりづれが抱きあうようにしてゆっくりと通りすぎ、スーツ姿の男が足早に続く。路上でアクセサリーを広げていた白人が商売道具を片づけはじめ、その脇をスケートボードに乗った子どもたちが大声で叫びながら滑っていく。果物屋の店先からもれた明かりがケヤキの葉を金色にふちどり、その下をブティックの袋を抱えた少女が夢見るように歩いていく。
アイスティーをテーブルに置き、裕一は店内に視線を戻した。この時刻のハンバーガーショップは外国人客でいっぱいだった。白人の姿が目立つが、アジアや南米系も多い。耳をすますと、さまざまな国の言葉が聞こえてくる。
裕一が生まれ故郷のボンベイからロサンジェルスに渡ったのは三歳のときだった。そのころのボンベイの記憶が残っているはずもないが、はっきりと思い出せる光景がひとつだけある。
広大な芝生の庭で、裕一は子守の娘とクリケット遊びをしている。オレンジ色のサリーを着た娘は白い歯を見せ、けらけらとよく笑った。裕一の打った球がココヤシの繁《しげ》みに飛びこみ、娘があわてて走っていく。裕一は遠くの高層ビルをまぶしそうに眺めている。
たったそれだけの光景だが、一枚の絵のように脳裏に焼きついている。子守の名はマネカといい、美しい英語を話せる頭のいい娘だった。
シカンデルはまだ来ない。裕一はテーブルに両|肘《ひじ》をつき、ぼんやりと衿子のことを考えた。会社で帰り支度を始めたとき、衿子から電話が入った。
「何度電話しても、あなた電話中だって言われて。居留守使ってたんじゃないの? もうずっと電話かけつづけていたのよ」
「こっちもです」と裕一は言った。「一日中、電話をかけ通しで、もうくたくたです」
「なによ、いい若い男が。久しぶりにうちに来ない?」
「すみません、約束があるんです」
「それ、キャンセルできないの」
「ちょっと無理だと思う」
「女の子?」
「いや、パキスタン人」
衿子はふふっと笑った。
「おもしろそうじゃない」
「それがおもしろい話じゃないんです」
「ねえ、お願い。助けてほしいの」
裕一は受話器を耳に当てたまま、じっとしていた。
「そばにいてほしいの。それだけでいい」
となりのデスクの同僚が聞き耳を立てているのが判った。
「判りました」と裕一は言った。「少し遅くなると思いますが」
「ありがとう。よかったら、そのお友だち、連れてきなさいな」
「ソーリー!」
シカンデルの声が聞こえ、裕一は顔を上げた。
「アパートに電話を入れてみたが、やっぱり警察が来ていた」
シカンデルはそう言って、手のひらで自分の頭を二度|叩《たた》いた。
「まあ、座って」と裕一は言った。
シカンデルはうなずき、椅子を引きながら、「金は持っている」と続けた。「荷物も誰かに取ってきてもらえばいい。問題は住むところだ。また苦労して探さなければならないと思うと、うんざりする。それに見つかるまで、寝るところもない」
裕一は窓の外に目をやり、そうだな、とつぶやいた。
「ところでユーイチ、仲間はどうなる?」
「万引きの現行犯逮捕は実害がないから、日本人ならだいたい起訴猶予ですむ。だけど、きみの仲間はきっと強制退去だと思う」
シカンデルは首を振り、大きく息をついた。
「当座、寝る場所なら、カプセルホテルかサウナがいいんじゃないか」
「そんな金がどこにあるんだ?」
シカンデルは語気を荒らげた。
裕一は取りなすように、これから両親の家に行くが、いっしょに来るか、と訊《き》いた。
「どこにでも行くよ」とシカンデルは答えた。
店を出て、タクシーを拾った。目黒の実家に足を向けるのは三年ぶりだった。父が衿子と再婚してから、立ち寄ることもなかった。
十三歳で日本の地を踏んだ裕一は、そのころまだ健在だった父の両親に預けられ、目黒の家から中学に通った。父はほとんど家に帰ることがなかった。旅行代理店の開業準備のため、あちこち飛びまわっていたらしいが、裕一はそのころの父をよく知らない。
山手通りから一本入ると、ひっそりとした住宅街になる。タクシーは石垣に囲まれた旧家の前で停まった。
表門をくぐると、きれいに刈りこまれた芝生の庭が続く。衿子は誘蛾灯《ゆうがとう》の下に籐《とう》椅子を出し、庭を見ていた。大柄な花模様を染めた浴衣《ゆかた》を着ている。
「あら、ずいぶんかわいい子、連れてきたじゃない」
衿子は籐椅子に座ったまま、シカンデルに微笑みかけた。
シカンデルは緊張して、背筋を伸ばしたまま身じろぎもしない。
裕一は腰を屈《かが》めて衿子の耳元に顔を寄せ、事情を手短に説明した。
「大変なことね」と衿子が言った。「でも、なんとかしてあげられると思うわ」
「どういうこと?」と裕一は訊いた。
「この子さえよければ、しばらくうちに泊まってもらってもいいわよ」
裕一は衿子の言葉をシカンデルに伝えた。シカンデルは目を輝かせ、「ママさん、とてもきれい」と日本語で言った。
「あら、あら」衿子は目を細めた。
「ほんとにいいのか?」とシカンデルが小声で訊いた。
裕一はうなずき、シカンデルを応接間に案内した。
夕食の支度ができるまでにはずいぶん時間がかかったが、裕一はテーブルに並べられた食事を見て、これだけのものを用意すればそれも当然だ、と思った。クラムチャウダー、トマトとナスとカボチャのカレー煮、帆立て貝のムニエル、牛のステーキ。
パキスタン人の好みが判らないので、家政婦と相談しながら作ったという。
シカンデルは裕一の顔を見て、かすかに眉《まゆ》をひそめた。
「どうしたの?」と衿子が訊いた。
「日本の料理は食べられないんだ」と裕一は言った。
衿子はがっかりしたように首を振り、それぞれのグラスに赤ワインを注いだ。
シカンデルはカレー煮にはなんとか手をつけたが、牛のステーキには目も向けない。
「まったくだめなの?」と衿子が言った。
シカンデルは申し訳なさそうにうなずいた。
「気にしないで。でも、まさかワインもだめ?」
シカンデルはおそるおそるグラスに口をつけ、ひと口飲んでテーブルに戻した。
「パキスタンでは、酒を飲むと死刑になる」
「ほんとに?」
衿子が大げさに眉を上げた。
「昔はね。いまはこうなる」
シカンデルは手首をあわせ、手錠をかけられる仕草をした。
「おもしろい人。でも、ここは日本だから、大丈夫」
衿子はそう言って、シカンデルにしきりにワインを勧めた。
シカンデルはグラス三杯で完全に酔ってしまい、興奮気味にしゃべりはじめた。衿子が聞き取れなくなると、裕一が通訳をした。
池袋はとにかく人が多くて、驚いた。でも、みんな暗い顔をしている。なぜあんなに暗いんだ? 怖くなるほどだ。デパートには欲しいものがたくさんあって、頭がクラクラする。誰も見ていない。盗め盗め、と言っているみたいだ。仲間もただ頭がクラクラしただけなんだ。それだけで捕まってしまう。彼のせいじゃない。
アパートには風呂《ふろ》がない。それがいちばんつらい。銭湯はだめだ。恥ずかしくて入れない。アパートの近くにコインシャワーがある。知らないのか? コインシャワー。三分で百円だ。コインランドリーもあって、とても便利だ。おれは池袋より新宿や上野のほうが好きだな。休みの日は、アルバイトがあればアルバイトに行くし、なければ新宿か上野に行く。川口のディスコにも行ったが、日本人の女の子が親切で、とても楽しかった。ガールフレンドができたら、一度ディズニーランドにも行ってみたい。
「仕事でね」と衿子が言った。「ラワルピンジに行ったことがあるわ」
「ラーワルピンディ」とシカンデルは言い、身を乗りだした。
「とにかく暑くて、夜中になっても気温が下がらないの。四十度くらいあったかな。ホテルの窓から、ずらっと並んだ兵舎が見えた。白いヨーロッパ風のバンガローもたくさん。でもホテルから一歩外に出ただけで、もうだめ。車で町をロケハンすると、ラクダの隊商が車の脇を歩いていくの。背中に綿花を積んで、足首の鈴をジャラジャラ鳴らしながら、ラクダが大通りを歩いていく。荷物を積んだロバや羊も群れをなして次々と」
衿子はなにかを思い出したように口をつぐみ、ふと腰を上げると、オーディオラックを開けてレコードを一枚一枚、選びはじめた。そして長い時間をかけて一枚を選びだすと、ターンテーブルにのせた。裕一はじっと耳を傾けた。デクスター・ゴードンの「黒いオルフェ」だった。
「旦那《だんな》さん、まだ帰ってこないのか?」とシカンデルが言った。
「ううん」と衿子は首を振った。「もうずっとフィリピン女のところ。今夜も帰らない」
シカンデルは顔をしかめた。
「パキスタンでは奥さん以外の女と寝るのは絶対禁止だ」
「そう、きびしいのね」
「結婚する前は、キスもだめだよ」
「それじゃ、あなたも、キスをしたことがないの?」
シカンデルは顔を赤らめ、「でも、金持ちは奥さんを四人までもらえる」と言った。
食事を終えると、それぞれワイングラスを持って、居間のソファに移動した。
シカンデルは衿子に注がれるままに赤ワインを飲みながら、故郷《くに》の家族への送金の苦労や、日本人のガールフレンドができないさみしさや、大家に何度注意されても平気でアパートの出入口に自転車を停めておく中国人のことや、派遣先の社員食堂に仲のいいタイ人がいて、たがいに「おまえ」と日本語で呼び合っているといった話を延々と続け、しまいにはソファにごろんと横になり、鼾《いびき》をかきはじめた。
「あなた、恋人は?」と衿子が言った。
「いや、残念ながら」
裕一はそう言って、ちらりと時計に目をやった。まもなく午前零時になる。
「どうして?」
衿子は首をかしげ、ソファから腰を上げた。そして寝室からタオルケットを抱えて戻ると、それをシカンデルの身体にかけ、煙草に火をつけた。
「あの、そろそろぼくは」と裕一は言った。
衿子はそれを無視して、「わたしね」と口を開いた。「ほんとうに殺したいと思ったの。それで自分も死のうと思った。こんな気持ち、あなたに判る?」
「ちょっと待って」と裕一は言った。「言ってることがまったく判らない」
「あなたのお父さんを庖丁で刺し殺そうとしたのよ、わたし。それで自分も死のうとしたの。博さん、震えてたわ。あの人、なにを怖がっているの? あの人が守ろうとしているものって、なに。あなたにはそれが判る? わたしにはまったく判らない。あの人はね、自分の人生にしか興味がないのよ」
「それで」と裕一は口をはさんだ。「親父はどうなったんですか」
「わたしがこうして生きているんだから、安心していいわ」
それはいつのことか、と訊こうとして裕一はその言葉を飲みこんだ。衿子は頬を伝わる涙をぬぐおうともせず、唇の隅の小さな動きを必死にこらえている。家の中はしんと静まりかえり、聞こえるのはシカンデルの鼾だけだった。
裕一は暗い庭に目をやり、衿子にかける言葉を探した。衿子は煙草を消すと、裕一の横に移動してきた。そして小さくうなずき、しがみついてきた。裕一のあごの下に頭を押しつけ、両手を腰にまわし、声を殺して嗚咽《おえつ》した。
裕一はじっと動けずにいた。衿子が身をよじり、浴衣《ゆかた》の襟元がはだけて乳房が見えた。裕一は思わず目を閉じた。衿子は下着をつけていなかった。
衿子の身体が少しずつ頽《くずお》れて、裕一の腰に顔を埋《うず》める恰好《かつこう》になった。裕一は衿子の腕を振りほどき、ソファから立ちあがった。
「帰らないで」と衿子が言った。
「ぼくは息子だよ」と裕一は答えた。
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八月三十日(木)
セントラルアパートを左折すると、裕一は少しだけスピードをゆるめた。
ケヤキの葉に朝の薄い日が当たり、澄んだ空気が光って見える。人通りのない表参道に裕一の足音だけが響く。
交番の手前で表参道を横切り、ビブレ21の角を右に折れ、緑の多い遊歩道に入った。ここで残りの距離がちょうど1000メートルになる。いつもならラストスパートをかける地点だが、裕一はふしぎな光景を見て、思わず足を止めた。
ひとりの少女がレストランの店先に置かれたポリバケツに手を入れ、中をのぞきこんでいた。少女は裕一に気づかない。ポリバケツの中身を必死にかきまわしている。ようやく食べ残しのサンドイッチを見つけた少女は、それをいきなり口の中に押しこんだ。
裕一はゆっくりと近づいていった。
少女が顔を上げ、「なに、笑ってんのよ」と言った。
白いワンピースに臙脂《えんじ》色のベルト。ベルトと同じ色でそろえたポシェットと靴。ポニーテールの髪を束ねた白いリボン。どう見てもごくふつうの中学生だった。
「ねえ、寝てあげるから」と少女が言った。「お金くれない?」
「なんだって?」と裕一は訊《き》きかえした。
「寝てあげるから、お金くれないかって言ったの」
「返してくれるなら、貸してあげてもいいよ」
眠たそうだった少女の目が大きく見開かれた。
「貸してくれるの?」
「でも、いまは持ってないから、うちに取りにいかなくちゃ。いっしょに来る? それとも、ここで待ってる?」
「なんだ、結局連れてくんじゃん」
「じゃあ、ここで待ってるんだな」
裕一が走りだすと、背後で悲鳴が上がった。
「来るんなら来いよ」
少女は首を振り、その場にしゃがみこんだ。
「おい、どうしたんだ」と裕一は少しうんざりして言った。「こんなところに座ってると、人さらいに連れてかれるよ」
「おなかが空いて歩けない」と少女が言った。
裕一は苦笑しながらも、少女に背中を向けて、腰を落とした。
「ありがとう」と少女は小声で言い、背中におぶさってきた。
裕一は少しうろたえた。少女はティッシュペーパーのように軽かった。
どこから来たの? 友だちはいっしょじゃないのか? お金を盗まれたのか? いくら訊いても少女は何も答えない。
「黙秘権でも使ってるつもり? ぼくは警官じゃないよ。それとも交番に行く?」
小枝のような少女の腕が、ふいに裕一の首をしめつけた。
「判ったよ、いまのは冗談だよ。でも、黙ってるだけじゃ判らない。そうか、腹が減ってしゃべることもできないんだ?」
「うん」と少女がうなずいた。
「でも、名前くらいは言えるだろう」
裕一がそう言うと、「ひらがなであずさ」と少女はようやく答えた。
マンションに着いても、あずさは背中から降りようとしなかった。エレベーターを待ちながら、裕一は自分がほんとうに人さらいになった気がした。
あずさは靴を脱ぐと、台所の床にへたりこんだ。
「ベッドを使ってもいいよ」
声をかけたが、あずさはその場から動こうとしない。裕一は冷蔵庫のドアを開け、中をのぞいた。ニンジンが三本、たまねぎが一個、芯《しん》のまわりに葉っぱが少しついているだけのキャベツ、ハムが数枚、パックに入れたご飯、それだけだった。
焼き飯を作るのが精一杯だな、と裕一は思った。コンソメが切れているので、スープのだしはキャベツを芯ごと煮こんで取るしかない。
材料をすべて使った結果、ニンジンがやたらに目立つ朝食になった。あずさはテーブルに向かうと、ものすごい勢いで焼き飯を口に運び、ミルク鍋《なべ》一杯のスープを飲み干した。
「わたしね、ほんとうはニンジンとたまねぎ大嫌いなの」
あずさは皿を舐《な》めるように平らげ、それでもまだ足りない顔をしている。
「コーヒー飲む? それとも少し眠るか」
「コーヒーがいい」
裕一は薬罐《やかん》に水を入れながら、彼女の保護者になったように細々としたことを考えた。
ワンピースの裾《すそ》が土埃《つちぼこり》でひどく汚れている。まずはシャワーを浴びさせ、ワンピースを洗濯させよう。彼女が嫌がらなければ、下着も洗濯させたほうがいい。とにかくこういう場合、清潔にすることがいちばんだ。汚れたものを身に着けていると、それだけで気が滅入るし、ろくなことを考えない。彼女が落ち着いてシャワーを浴びられるように、自分はもう一度ジョギングに出ればいい。そしてジョギングから戻ったら、親に電話を入れるよう、彼女を説得しなければならない。
「わたし、お金ないから……」とあずさが言った。
裕一は水道の蛇口を閉め、「聞こえない」と言った。
「抱いていいよって言ったの、お礼のしるしに」
「悪いけど、そんな気になれない」
「遠慮なんか、しなくていいのに」
「滅多にないチャンスだとは思うけどね」
「余裕あんのね。わたしが抱いていいよって言えば、ほんとにいいのか? とか言って、みんなすっごいマジんなるよ」
「もてるんだな」
「わたしはヘビ、そっちは?」
「うん? 干支《えと》の話か? だったらタツ」
「じゃあ、一回りプラス一歳、違うわけね」
「そうか、おじさんだな」
「まだ若いよ、わたし、三十八の人、知ってるもん」
「まいったな」
「ばかにしてんだ、子どもだと思って」
「ばかになんかしてないけど、いや、ただまいったなって」
「ばかにしてる」
「かわいいと思うよ、とっても」
「ほんとにそう思う?」
「自信、あるんだろ」
「そういう言い方って、いかにも、お・じ・さ・ん」
「元気出てきたじゃないか。もうつまらないことは言わないことだな」
「子どもじゃないよ、わたし」
「殴るぞ。その気になったら、抱いてやるよ」
「うぬぼれないで、もうとっくにその気もなくなった」
あずさは白いリボンをほどき、頭を軽く揺すった。長い髪が背中に広がった。
「それで」と裕一はサイフォンに湯を注ぎながら言った。「あそこでなにをしていた?」
「うん、月曜日に来たんだけど、コープオリンピアの前で待っていればトシキに会えるって。同じ目的の子、いっぱいいたよ。でも、一日待ってもトシキ来ないの。ホテル代持ってきた子と友だちになって、その日は代々木のビジネスホテルに泊まったの。次の日も朝早くからずっと待ってたけど来なくて。お金あんまり持ってないし、おなか空くし、寝るとこもないし。その友だち、あきらめて帰っちゃった。だから二日目はコープオリンピアの階段のとこでずっと座ってたの」
裕一は黙ってうなずき、あずさの前にコーヒーカップを置いた。
あずさはそれをひと口飲み、「ちょっとこれ、すごくおいしい」と感心したように言い、「それでね」と続けた。「きのうは大学生がナンパしてきて、ハンバーガーおごらせたんだけど、ハンバーガーのほかにもクッキーとかたくさん買ってきてくれて、ずっといっしょにトシキが来るの待っててくれて。でも、夜になっても来ないから、アパートに来いって言われて、中野までついてったんだけど、いい人はいい人なんだけどね、かっこよくなかったし、でも、おごらせちゃったからにはお礼しなくちゃって思って。でも朝までずっとって嫌だから、それで終わってからすぐに原宿に戻って、コープオリンピアの前にいたんだけど、おまわりが来ていろいろうるさいから逃げてね、あそこにいたの」
あずさは話し終えると、ポシェットからティシュペーパーを出して鼻をかんだ。
「ちょっと走ってくる。そのあいだにシャワー浴びて、洗濯もすませておけよ」
裕一はそう言って、クローゼットを開け、Tシャツとコットンパンツを指さした。
「着替えはここにある、好きなもの選んでいいからな」
「げっ、また走るの?」
あずさは目を丸くして、髪を両手でたくし上げた。
マンションを出ると、裕一はふたたび走りはじめた。コンディションはきわめてよかった。アスファルトを蹴《け》るとき、つまさきに体重がバランスよく乗るのが判った。ほとんど疲れを感じない。裕一は前傾姿勢をとったまま走りつづけた。
十四分五十二秒。新記録が出た。裕一は部屋に戻ろうとして、十四分五十二秒でシャワーと洗濯が終わるだろうかと考え、ちょっと笑った。笑うなんてずいぶん久しぶりのことだと思った。少し考えてから、いつもと違うコースを走ってみることにした。
CIプラザをすぎて青山通りを左折し、イチョウ並木の道に入った。時計を見ると、まもなく六時だった。その時刻の神宮外苑には散歩をする老人、一輪車の練習をする少年、壁に向かってテニスボールを打ちつづける男、ベンチで眠る浮浪者、あずさと同じ年|恰好《かつこう》の家出娘……、さまざまな人間が集まり、けっこうにぎわっていた。裕一は東京体育館の脇を抜け、外苑西通りを走り、ベルコモンズを右折、ふたたび青山通りに出た。
マンションに戻ると、あずさはすっかり黄ばんで肩口の破れかけたTシャツを着て、腰にバスタオルを巻きつけたまま、ベッドにもたれかかるようにして眠っていた。濡《ぬ》れた髪が顔の半分を覆い隠し、わずかに開いた口から、ときおり苦しそうな息がもれる。ベランダのロープには洗濯物が干してあった。白いワンピース、白いブラジャー、白いショーツ、白いリボン。裕一は軽く咳払《せきばら》いをして、シャワールームに入った。
あずさの選んだTシャツは、裕一が十二歳のとき、ニール・ヤングのコンサート会場で母のゼリアに買ってもらったものだった。母はいったいどんな気持ちでそのTシャツを息子に買い与えたのだろう。裕一はときおりそのことを考える。母とふたりでダウンタウンのコンサート・ホールに出かけたのは、後にも先にもその一度きりだが、母は息子の手を握りしめ、ニール・ヤングのしぼりあげるような声に聴き入っていた。
十五年たったいまでも、そのときの母のうるんだ瞳《ひとみ》と汗ばんだ手を、裕一ははっきりと覚えている。父とふたりだけで日本で暮らすことになったのは、その三週間後のことだ。Tシャツはロサンジェルスと母をめぐる最後の思い出になった。
シャワールームを出ると、裕一はターンテーブルにニール・ヤングの「ハーヴェスト」をのせ、デスクの上の母の写真を眺めた。ゴールデン・ゲート・ブリッジを背に、静かに微笑んでいる母。後ろで束ねた長い黒髪、額の中央の淡紅色のクムクム、太い眉《まゆ》、黒目がちな目、褐色の肌、白いサリー、銀色の首飾り、赤い腕輪。写真の隅に、父の字で日付が書きこんである。1962年3月。そのとき、裕一はまだ生まれていない。この世に生を受けるのは、それから十五か月後のことだ。
しばらく重苦しい曲が続き、やがて軽いテンポの曲になった。「ハーヴェスト」はニール・ヤングが離婚の直後に書いたアルバムだ。コンサート会場で母が涙を流した曲がこの中に入っているかどうかはわからない。母はそのとき三十六歳だった。いまの衿子と同じ年齢だ。父はそのことに気づいているはずだ、と裕一は思う。
ニール・ヤングは唄《うた》う。"Did I see you down in a young girl's town with your mother in so much pain?"
会社に出かけるまでの二時間あまり、裕一はくりかえしニール・ヤングを聴きながら、十五年前の思い出をたぐり寄せた。
☆
シカンデルはソファの上で目をさました。向かいのソファでは衿子が眠っている。裕一の姿はない。壁の時計を見ると、六時を少しまわっていた。
喉《のど》がひどく渇いていた。洗面所の水道の蛇口に口をつけて水を飲み、居間に戻ると、目をさました衿子がソファに起きあがり、ぼんやりとこちらを見ている。
「知らないうちに眠っちゃった」と衿子が言った。
シカンデルは息を飲み、一点を食い入るように見つめた。浴衣《ゆかた》の襟がはだけ、白い乳房が半分ほど見えている。
「こっちへ来たら?」
衿子は腰をずらし、ソファを指さした。
シカンデルは泳ぐように歩いていき、衿子の横に腰を下ろした。浴衣の襟元はすでにきちんと合わされていたが、薄い布地を通してなんともいえない匂いが漂ってくる。
「キスしてみようか」
衿子がそう言って、顔をのぞきこんできた。シカンデルは思わず顔をそむけたが、衿子は両手でシカンデルの頬をはさむと、首をかしげるようにして唇を重ね合わせてきた。
シカンデルは身じろぎもせず、衿子の匂いと軟らかな唇の感触にうっとりしていたが、ふいに舌を差しこまれ、ビクッと身体を震わせた。顔を離そうとしても、両手で頬を押さえられて動けない。衿子の舌はシカンデルの舌に絡みつき、歯茎の裏側を舐《な》め、小魚のように動きまわった。
シカンデルがやっとその舌の感触に慣れ、自分の舌を差し入れようとしたとき、衿子は顔を離した。そして今度はシカンデルの手を取り、自分の襟の合わせの中に導き入れた。
シカンデルは乳房に手を当て、そっと下から持ちあげてみた。それは信じられないほど軟らかい。思わず両手で襟を開き、むきだしになった乳房に顔を押しつけた。
「痛い」と衿子が言った。シカンデルは驚いて顔を離した。
衿子は目尻《めじり》だけで笑いながら、シカンデルの口髭《くちひげ》を指先で撫《な》で、ズボンのベルトを外した。そしてトランクスの中に手を差し入れ、「えっ」と声を上げた。おそるおそるトランクスを下げると、陰毛がきれいに剃《そ》り落とされている。衿子は大声で笑いだした。
シカンデルにとっては、陰毛を剃らない日本人のほうが不気味だった。一度だけ銭湯に行ったことがあるが、日本人の黒々とした陰毛を見て吐きそうになった。
ひとしきり続いた笑いがおさまると、衿子はシカンデルのシャツを脱がしにかかった。シカンデルは黙ってされるままになった。衿子はその引きしまった褐色の身体をうっとりと眺め、それから急いで浴衣を脱ぎ、ショーツを足から引き抜いた。
シカンデルは顔を伏せた。衿子はシカンデルをソファにあおむけにさせ、陰毛の剃り落とされた下腹に顔を埋《うず》めた。性器を喉の奥までくわえこみ、ゆっくりと顔を上下させた。だが、なかなか硬くならない。衿子は丹念に舌を使いつづけ、ようやく硬くなった性器をヴァギナに押しあて、シカンデルの上にしゃがみこんだ。
しばらくのあいだ、衿子はそのままの恰好《かつこう》でじっとしていた。やがて腰をまわすように動かし、次第にその動きを速めていった。シカンデルの手が乳房に伸びると、衿子はそれを振り払った。衿子は自分が望むとき以外に身体を触られるのを嫌がった。
衿子の上体が大きく反りかえり、シカンデルの口から呻《うめ》き声がもれた。その瞬間、衿子はすばやく腰を浮かせて、シカンデルの性器を口にくわえこんだ。シカンデルはこらえきれず、口の中に射精した。精液はいつまでも放たれつづけ、口からあふれ出そうになったが、衿子はスープをすするようにそれを飲み干した。
シカンデルはめまいのような眠りに落ち、つかのま息苦しい夢を見た。衿子のヴァギナが自分の性器を掃除機のように吸いこんでいく夢だったが、目をさますと夢の続きのように衿子が顔の上にしゃがみこんでいた。
「ねえ、もう一回、やろう」と衿子が言った。
シカンデルはびっくりして口もきけなかった。
「ねえ、もう一回よ」
シカンデルはうなずくと、衿子の腕を取り、背中にねじりあげた。
衿子は悲鳴を上げ、ソファから転げ落ちた。
「なにするのよ!」
「ソーリー」とシカンデルは申し訳なさそうに言った。
衿子はシカンデルの手を取り、そっと乳房に導いた。
「お願い、乱暴はやめて。あなた日本語判らないでしょう。わたしとはまるで関係のない人でしょう。だから安心するの。心が落ち着くの。怖がることなんてないわ。ねえ、どうだった? 捨てたもんでもないでしょ? これでもわたし、パリコレでデビューしたモデルなんだから。もう十五年も前のことだけどね。お願い、動かないで。じっとしていて。あなたから見ると、わたしなんかひどい浮気女で、夫に愛想をつかされても当然だと思うでしょう? 実際、ひどい女よ。痛いわよ、ちょっとやめてよ」
シカンデルは汗の噴きだした乳房を両手でつかみ、指先を白い肉に食いこませた。
「やめてよ、なんなのよ」
衿子は叫び、必死にもがいた。シカンデルはぐすっと鼻で笑い、乳房から手を離した。
「冗談じゃないわよ。わたしのこと、いったいなんだと思ってるの」
衿子は両手で胸を押さえ、床にうずくまった。乳房には爪の痕《あと》が残っている。
シカンデルは衿子の髪をつかみ、柔らかいままの性器を衿子の口に強引にねじこんだ。衿子は両手でシカンデルの尻の肉をつかみ、喉の奥までくわえこんだ。そしてそれが硬くふくらむまで愛撫《あいぶ》を続けた。
「いいわよ、来て」
衿子はソファに両手をつき、尻を突きだした。
シカンデルは両手で衿子の腰をつかみ、性器をねじこんだ。そしてつけ根まで埋めこむと、結合している部分に目をやり、長い息をついた。衿子が焦《じ》れて尻を振った。シカンデルはいきなり腰を動かしはじめた。衿子はソファの背もたれに手をかけ、伸び上がるように息をした。シカンデルは大きな手で乳房をもみしだき、腰を動かしつづける。
「すごい」と衿子は呻くように言った。「続けて、もっと続けて」
シカンデルの額から汗が噴きだし、動きがやがて緩慢になった。
「やめないで、続けて」
衿子は首をねじって、シカンデルの唇を吸った。ねっとりとした舌が動きまわり、シカンデルはこらえきれずに衿子の腰を強く引きよせた。
廊下を近づいてくる足音が聞こえた。衿子は肘《ひじ》でシカンデルの身体を突き放した。性器が外れ、その瞬間、シカンデルは射精した。衿子は床に飛び散った精液を浴衣でぬぐい、居間から飛びだした。シカンデルは服をつかみ、衿子のあとを追った。衿子は階段を駆けあがり、寝室に飛びこんだ。寝室のベッドにもぐりこみ、ふたりはじっと息をひそめた。
足音が階段を上ってきて、寝室の前で止まった。
「おはようございます」と家政婦の声が言った。
「具合が悪いの」と衿子は言った。「だから会社はきょうもお休み」
「あの……」と家政婦はなにか言いかけたが、「はい、それでは失礼します」とドア越しに声をかけ、階段を降りていった。
☆
裕一は出社するなり社長に呼ばれ、報告書の作り直しを命じられた。
おい、こんな子ども騙《だま》しの報告書が通るはずがないだろう。当局のチェックもそうとうきびしくなっている。それはきみも十分知ってるはずだ。期限は八月いっぱい。あすまでだ。先方は待ってくれない。いいか、気合を入れてやってくれ。頼んだからな。
裕一は黙って頭を下げ、デスクに戻った。
だが、報告書を作り直す時間などまったくなかった。南米出身者専門の人材|斡旋《あつせん》ブローカーとの契約更新交渉、派遣先の建設会社からのクレーム処理、日本語学校の十月入学生の最終手続き、それにともなう保証人の調整、採用試験に落ちた女性からの脅迫電話への応対、加えてシカンデルの無断欠勤。派遣先から連絡があり、派遣契約の解除を通告された。
長時間にわたる交渉の末、解除だけはなんとか免れたが、ようやくワープロに向かったときには、すでに退社時刻になっていた。
裕一は煙草に火をつけ、シカンデルのやつ、どこでなにをしてるんだ、と思った。
無断欠勤が二日続けば、契約解除は決定的になる。衿子に電話を入れて確かめればいいのだが、それはひどく億劫《おつくう》なことだった。
仕事はまるで手につかない。裕一は鞄《かばん》にフロッピーを放りこみ、会社を出た。
そのまま、まっすぐにマンションに戻った。
「ずいぶん早いじゃない」
あずさがベッドの上から声をかけてきた。
例のニール・ヤングのTシャツに、裕一のコットンパンツをはいている。パンツは見るからにブカブカだが、それがけっこう似合っている。
「きみのことが心配でね」と裕一は言った。
「ほんとに? じゃ、どっか遊びに行こうよ。ねえ、どこ行く?」
「それが、ゆっくりしてられないんだ。明朝までに仕上げなけりゃならない仕事がある」
裕一はネクタイをゆるめ、机の上に鞄を放り投げた。
「かなり疲れてるみたいだね。でもさ、ご飯食べれば、元気出るよ」
「それより、そろそろ家に電話しないとな」
「うちの人は家にいないわ」
あずさはすました顔で言った。
「どういうことだ?」
「いないから、いないのよ。それより、おなか減っちゃった」
「じゃ、夕飯食べてから電話しよう。いいな?」
裕一はスーツを脱ぎ、ポロシャツとジーンズに着替えた。
「好きなようにすれば」
あずさはそう言って、ベッドから下りた。
「おい、そんな恰好で外を歩くつもりなのか? スカウトが寄ってきてうるさいぞ」
「そんなにセクシー?」
あずさは目を輝かせた。
「まあね、でも、ノーブラはあまり好きじゃない」
「それじゃあ、しかたないな」
あずさはポニーテールの髪を両手で持ち上げ、小さな胸を反らせてみせた。Tシャツ越しにとがった乳房が透けて見える。裕一は思わず顔をそむけた。
「かわいいとこあるじゃん」
あずさはそう言って、Tシャツを肩だけ外すと、器用な仕草でブラジャーをつけた。
夕食はあずさの希望でスパゲティにした。
店内はあずさと同じ年恰好《としかつこう》の少女たちでいっぱいだった。少女たちは十五年前の黄ばんだTシャツとブカブカのパンツ姿のあずさに遠慮のない視線を注ぎ、それから裕一に目を移してクスクスと笑った。
大きすぎるTシャツは肩からすぐにすべり落ちてしまう。あずさはたらこスパゲティを食べながら、初めのうちは袖《そで》をつまみあげていたが、やがて面倒になってずり落ちるのにまかせた。
裕一が二杯目のビールを注文し、スパゲティに手をつけないでいると、あずさは黙って裕一の皿を引き寄せ、二皿目に取りかかった。
「それだけ食べて、よく太らないもんだな」
「太った女は嫌いよ」
あずさはそう言って、スパゲティをくるくるとフォークに巻きつけた。
店を出ると、あずさが腕にしがみついてきた。雑貨屋のロゴマークの入ったビニール袋を抱えた女の子たちの大群とすれちがい、にぎやかなおしゃべりが耳元を通りすぎた。
「ねえ、そう言えば」と裕一は言った「トシキは待っていなくていいの?」
「あした、渋公で会えるからいいの」
「コンサートなんだ?」
「うん、いちばん前の席、おさえてある」
アイスクリーム屋の前を通りかかると、あずさは裕一の腕をつかんで、カウンターまで引っぱっていき、「わたしといっしょにいるの、楽しい?」と言った。
まあね、と裕一はうなずき、あずさが注文したアイスクリームの代金を支払った。
「よかった」とあずさは声をはずませた。「でも、ベッドの中ではもっと楽しいよ? わたし、こういうの、すごくうまいんだから」
あずさは口を開けて紫色に染まった舌を見せ、ラズベリー・アイスをゆっくりと舐《な》めながら、横目で裕一を見た。裕一はにわかに気分が悪くなった。
「やめろよ、なんの真似だ?」
「どうして? どうしてそんな変な顔するの? 楽しくないの?」
「うるさいな」と裕一は声を荒らげた。「ガキといっしょで楽しいわけがないだろう」
あずさは息を飲んだ。そしてアイスクリームを裕一の手に押しつけると、マンションとは逆の方向に走りだした。彼女は人波にまぎれ、すぐに見えなくなった。
裕一は電話ボックスに入り、衿子の家の番号を押した。
電話はすぐにつながり、「わたし、殺されそうになったの」と衿子が叫んだ。
「いきなり押し倒されたの。抵抗したけど、だめだった。ねえ、わたしが言っていることの意味、判るでしょう。それはわたしだって酔っていたわよ。なにかされてもしかたないようなことをしたかもしれない。それは認めるわ」
「シカンデルはそこにいないんだな」と裕一は言った。
「ゆうべはなぜ帰っちゃったのよ、あれだけ引き止めたのに。若い男を連れてきて、先に帰っちゃうなんて、ずいぶんじゃない。わたしの身になにが起きても平気だっていうの。あなた冷たいわよ、博さんと同じよ」
「誘ったのはどっちなんだ?」
「そんなことを言うわけ?」
裕一は黙って電話を切った。
強風に身悶《みもだ》えする吹き流しのように、湧きあがってくる欲望に下半身が煽《あお》られていた。抑えようのない性欲が腰をだるくさせていた。裕一はマンションに向かって足早に歩きながら、あずさの幼い身体を思い浮かべ、ますます気が滅入っていくのを感じた。
あずさは部屋の前で待っていた。
裕一はドアにキーを差しこみ、「今夜はどこに泊まるつもりなんだ」と訊《き》いた。
あずさはうつむけていた顔を上げ、「どうして、そんな意地悪言うのよ」と言った。
「わたし、そんなに気にさわること言った?」
裕一はドアを開け、あずさに背中を向けたまま言った。
「あしたのコンサートが終わったら家に帰るんだ。約束できるか?」
あずさは背中に顔を押しつけてきた。
「あずさのこと、そんなに嫌い? そんなに嫌われてるんなら、どっかに行くよ」
「金も持ってないのにか?」
裕一がそう言って振り向むくと、あずさが抱きついてきた。
「お金なんかなくても、なんとかなるもん。わたし、もてるんだから」
「きみのような女の子を見てると、ぼくは自分がたまらなく嫌になる。でも、それはきみのせいじゃない」
「判らないよ」とあずさが言った。
裕一はあずさの腕を振りほどき、部屋に上がった。そしてワープロのスイッチを入れ、持ち帰ったフロッピーを挿入した。
あずさはラックからレコードを取りだすと、ベッドの上にずらりと並べ、しばらく眺めていた。そして呆《あき》れかえったように言った。
「最近のものなんて一枚もないじゃない」
「中学と高校のころに買ったものばかりだからね。でもそのサンタナは新しいやつだよ」
「サンタナに新しいとか古いとかあるの」
あずさはそう言って笑いながらも、レオン・ラッセルを気に入ったらしく、くりかえしターンテーブルにのせた。
裕一はひっきりなしに煙草に火をつけながら、ワープロのキーを叩《たた》いた。「外国人労働者の教育研修に関する報告書」は予想以上に手間取った。睡眠不足も手伝い、ときおりうつらうつらしては、あずさに起こされた。ようやく終わって時計を見ると、すでに午前三時をまわっていた。
だが、ベッドに入った途端、裕一はいっぺんに目がさめてしまった。ブラジャーを外し、ショーツ一枚になったあずさが毛布にもぐりこんできたのだ。
裕一はベッドで眠るのをあきらめ、床に毛布を敷いて横になった。
「好きな人とするなら、セックスって素晴らしいものだと思うんだ」
ベッドの上からあずさが言った。裕一は床にうつぶせ、目を閉じた。
「わたし、好きじゃない人とはセックスしないよ。あとで、嫌な思いをするだけだから。でも、あなたとなら後悔しないと思う。トシキに会いにきた夏の記念に、とっても素敵な思い出になると思うんだ」
裕一はふいに泣きだしたい衝動に駆られ、それになんとか耐えた。三十六歳の衿子にとってセックスは性欲を満たすためだけのものと思っていたが、その考えが間違っていたことに、そのとき気づいた。
「セックスに憧《あこが》れているだけの年ごろだなんて、あなたそんなこと言わないでしょ。すぐにそんなことを言う、嫌らしい女教師が中学にいるのよ」
突然、湧き起こった自分の気持ちについて考えてみる余裕はなかった。だが、できる限り冷静になる必要がある、と裕一は思った。衿子の苦しみが痛いほど判った。彼女はいまごろたったひとりで、長い夜と闘っているにちがいない。そして裕一にもあずさにも長い夜は等しく襲いかかる。
「聞いてるの? あなた、もしかしてインポじゃないの?」
あずさは声を殺して笑い、しばらくしてから、「ほんとだったらごめん」と言った。
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八月三十一日(金)
裕一が床の上で目をさますと、あずさはひとりでコーヒーをいれて飲んでいた。すでに白いワンピースに着替え、ポニーテールの髪を白いリボンできちんと束ねている。裕一は冷たい床に頬をつけ、ぼんやりとあずさを眺めた。
あずさはテーブルに両|肘《ひじ》をつき、コーヒーカップを口につけたまま、じっと窓の外を見ている。裕一は起きあがり、窓を開け放した。ビルのあいだにわずかに見える空は季節が変わったように青い。時計を見ると八時十五分。ジョギングをする余裕はない。
「コーヒー飲む?」とあずさが言った。
ううん、と裕一は首を振り、シャワールームに入った。
冷たい水を浴びながら、勃起《ぼつき》した性器を見た。質《たち》の悪い冗談のように、それはときおりひくひくと動く。長いこと浴びているうちに身体が芯《しん》まで冷え、腕や胸に鳥肌が立った。だが、性器は相変わらず硬くふくらんだままだ。
ふいにシャワールームのドアが開き、あずさが顔をのぞかせた。あずさが息を飲むのが判った。あずさの目は性器に釘《くぎ》づけになっている。裕一がシャワーを止めると、あずさはようやく顔を上げ、「すごいのね、いつもそうなの?」と言った。裕一は蛇口を全開にして、シャワーのノズルをあずさに向けた。あずさは悲鳴を上げて逃げだした。
裕一が部屋に戻ると、あずさは缶ビールを差しだし、「怒ってる?」と言った。
「どうして?」
「どうしても」
裕一はプルトップを開け、「怒る理由なんかないよ」と言った。
「でも、ベッドで寝ないのって、ふつうじゃないよ」
「よくあるんだ、ぼくの場合」
裕一はルイーズが泊まった夜のことを思い浮かべ、ビールをひと口飲んだ。
「酔っぱらって帰ってきて、朝起きてみるとシャワーの下で転がってたりする」
「よく溺《おぼ》れないね」
裕一はビールを目の高さにかかげ、缶の表面をゆっくりと滑り落ちる水滴を見た。
「でも、ベッドで寝なかったことより、今朝走らなかったことのほうが問題だな」
「なんで? おとなの男って判らないよ」
「こどもの女ってのも理解しがたいね」
「そんなの言葉の遊びだよ」
あずさは口をとがらせた。裕一は時計に目をやり、チッと舌打ちをした。
「もう時間がない。喫茶店でモーニングサービスを食べるのがやっとだな。いつもはきちんとした食事を作るんだけどね、きょうは寝坊したからしかたがない」
「あなたっていつもそうなの? 自分の決めた通りに事が運ばないと落ち着かない」
「だいたい人生ってやつはね」
裕一はそう言って、ワイシャツに腕を通しながらあずさに笑いかけた。
「人生ってやつは?」とあずさが先をうながした。
「世間知らずの女の子といっしょで、これからどうするつもりなんだ? って訊《き》いても、なにも教えてくれない。だから慎重につきあっていかないと、とんでもないことになる」
「朝早く起きて、ジョギングして、朝ご飯ちゃんと食べて?」
「そう、そうしていれば、大抵なんとかやっていける」
「ほんとにそう思ってる?」
「まあね」
「嘘だよ、そんなの」
「きみは男がズボンをはいているところを、そうやって眺めるのが趣味なのか」
「嫌いじゃないわ」
裕一は首をすくめ、玄関に腰を下ろした。
「きのうみたいにおぶって」
後ろからあずさが抱きついてきた。裕一はあずさを背負うと、人通りの少ない裏通りを進んだ。すれちがう人たちが一様に好奇の眼差《まなざ》しを向けてくる。
「人さらいだよー、人さらいは怖いよー」
あずさは彼らに聞こえるようにすすり泣き、裕一の背中ではしゃいだ。
青山通りに面した喫茶店に入った。裕一は厚切りトーストと熱いコーヒーを、あずさはエッグマフィンと冷たい紅茶を注文した。トシキのコンサートは六時からだが、もうそろそろ並んでいる子もいるはずだ、とあずさは目を輝かせて言った。
「コンサートが終わったら、家に帰るんだろうな」
「うん、もう夏も終わりだからね」
そうか、きょうで夏休みも終わりか、と裕一は思った。
「会社休んで、ふたりで夏の最後の一日をすごすのも悪くないだろうね」
「できないことは言わないの」
裕一はうなずき、ポケットから財布を出すと、千円札を五枚数えてあずさに渡した。
「これぐらいで足りる?」
「うん、十分」とあずさは言った。「家に帰ったら、郵便で送るね」
「三年ぐらいしたら、また会いたいね。きっとすごい美人になってるだろうな」
あずさは裕一をにらみつけた。
「おとなはずるいよね。会おうと思えば、いつだって会えるじゃない」
裕一は原宿へ、あずさは渋谷へ向かう。店を出ると、そのまま右と左に別れた。
あずさは臙脂《えんじ》色のポシェットをくるくる回しながら、みるみるうちに遠ざかっていく。
裕一はその後ろ姿を眺め、何年か後にどこかで偶然あずさと再会することを思い浮かべた。空はどこまでも青く晴れ渡っている。うつむいて歩きだすとため息がもれた。
朝から面接だった。だが、その前にシカンデルの件を処理しなければならない。裕一は社長に報告書を提出すると、デスクに戻ってシカンデルのアパートに電話を入れた。
アパートの玄関を上がってすぐ、階段の下にピンク電話があり、電話が鳴ると住人の誰かが出ることになっている。呼び出し音を十回聞き、あきらめて受話器を置こうとしたとき、電話がつながった。
「シカンデル? ああ、パキちゃんね。誰もいないよ。みんな夜逃げよ。あなた誰。大家さん怒ってる。警察来て、いろいろ訊かれて、わたしもたくさん迷惑よ」
裕一は黙って、受話器を置いた。シカンデルと連絡がとれなければ、至急、代替要員を手配する必要がある。コンピュータでスタッフリストを呼び出し、稼働状況のチェックを始めたとき、電話が入った。
「おれはクビか?」とシカンデルの神妙な声が言った。
電話の向こうはしんと静まりかえっている。
「いま、どこにいる」
かすかに女の声が聞こえ、あわてて受話器を手で覆う気配がした。
「答えたくなければ、別にいい」
「銀座だ」とシカンデルは言った。「銀座のホテル」
衿子といっしょにいるにちがいない、と裕一は思った。
「先方へはこちらから電話を入れておく」
「判った」とシカンデルは答え、電話を切った。
裕一は履歴書の束を抱え、面接会場に向かった。
面接は希望職種ごとに一度に四人ずつ、十五分のスケジュールで進めていく。おそらく三分ですませても結果は変わらない。自己紹介をさせるだけで相手のレベルは判断できる。だが、最低でも十五分くらい時間をかけないと、落ちた女が後々うるさく言ってくる。
午前の部が終わり、デスクに戻って、ひと息入れていると、例のワープロオペレーターから電話が入った。
「なにか問題が生じましたか」と裕一は訊いた。
「相談したいことがあるの」と彼女は言った。「夕方にでも、会っていただけない?」
「それは電話ではすまないことですか」
「このあいだのバーで待ってる。時間はとらせないから」
「ああ、それはちょっと無理ですね」
裕一は受話器を持ち替え、少しだけ声を落とした。となりの同僚がワープロを打つ手を休め、じっと耳をすましている。
「相談はできる限り電話でお願いします」
「あなたね、落ち着いてる場合じゃないの。主人にあの日のことを訊かれて、それも根掘り葉掘りしつこく訊かれて、わたしついしゃべってしまったの。もちろん最後まで話したわけじゃない。でも、主人はあなたに嫌がらせをするにきまってる。わたしはどうなってもいい。でも、あなたに迷惑がかかるかと思うと、どうしたらいいか判らなくなって」
「それでは申し訳ございませんが、先方の指示に従ってお仕事を続けてください」
裕一はそう言って電話を切った。
椅子を引いて腰を上げたとき、ふたたび電話が鳴った。同僚が先に電話を取った。
彼は受話器を手で押さえ、「ちょっと変だよ」と言った。「なんかまずいんじゃないの」
裕一はうなずき、電話を代わった。
「あなたは主人の恐ろしさを知らないのよ。とにかく今夜のうちに、対策を立てておくべきだわ。あなたに迷惑がかかることだけは避けたいの、いまはそれだけ。あなた、怒ってるでしょうね、わたしの電話が一方的だって。わたしもそう思うわ。でも、わたしはどうなってもいいって、ほんとうにそう思っているの。誘ったのはわたしのほうだし。でもね、なにもなかったことにしましょうと言っても、それはもう無理な話なのよ」
彼女はそこで一旦《いつたん》言葉を切った。裕一は同僚の唇に冷ややかな笑みが浮かぶのを見た。だが、ここで電話を切ってしまうわけにはいかない。そんなことをしたら、彼女は会社に押しかけてくるにちがいない。
「じつはわたし、娘にもしゃべってしまったの、あなたのこと。でも、安心していいわ。娘は理解を示してくれてるの、わたしとあなたの関係に。嘘じゃないわ。娘は主人を憎んでいるの。わたしたちの味方なのよ。とにかくこうして電話で話していても埒《らち》があかないわ。何時になってもいい、このあいだのバーで待ってるから。ごめんなさいね、仕事中にこんな電話をかけて、あなたには迷惑だと思う。わたしもほんとうは電話なんかしたくない。でも、とにかく今夜中にお会いして、わたしたちの今後について、はっきりとした答えを出さないといけないの。何時になってもいいから。ずっと待ってるから」
電話はそこで切れた。こちらから切らずにすんだだけ、まだましかもしれない。だが、今夜、バーに行かざるを得なくなってしまったことも事実だった。
裕一は会社を出ると、山手線に沿った道を代々木方向へ歩いた。五分ほど歩いたところに行きつけのスナックがある。昼休みにその店に行く会社の人間はまずいない。
カウンターに腰を下ろし、十分もたたないうちにビールの小瓶を二本空けた。マスターはなにか言おうとして口を開きかけたが、裕一の顔を見ると、三本目の栓を抜いてカウンターに置いた。ビールは冷えすぎていて泡も立たない。
ビールを口に含み、目を閉じると、ワープロオペレーターの黒ずんだ乳首が思い浮かんだ。腫《は》れぼったいまぶた、鼻の下の産毛、首筋の吹き出物、毛穴のひとつひとつから針のような毛が生えはじめている腋《わき》の下、痩《や》せてとがった背骨、シミだらけの尻《しり》、羽を毟《むし》られた鳥のようにてらてらと光る太腿《ふともも》……。ぼんやりしているうちに、昼休みはたちまちすぎた。裕一は吐き気をこらえて会社に戻った。
午後の面接を誰かに代わってもらいたかったが、調整は不可能だった。裕一はほとんど放心状態のまま、残りの七十二人の面接を続けた。午後の部はこれといった特技を持たない一般事務の登録希望者が中心になっている。面接はそれだけ慎重に行なわなければならない。だが、すでになにも考えられない状態だった。裕一はほとんど質問もせず、女たちが懸命に自己アピールしている姿を呆然《ぼうぜん》と見守っていた。
面接会場を出たところで、ひとりの女に呼びとめられた。女はそこでずっと待ち構えていたらしい。
「わたし、すっかりあがってしまって、たぶんこのままでは落ちてしまうと思うんです。でも、困るんです。お仕事をいただけないと、ほんとうに困ってしまうんです」
裕一は女の言葉を聞いていなかった。ただサーモンピンクのスーツ姿を見て、どこかで一度会っているな、と思った。
「どんなご用件ですか」と裕一は言った。
「ですからわたし、面接ですっかりあがってしまって、でも仕事の自信はあります。職歴は履歴書に書いた通りですが、それなりの経験もありますし、もちろんやる気もあります。いっしょに受けた方たちがあんまり熱心だったので、わたし、ほとんどなにも言えずに終わってしまって。もう一度面接のチャンスをいただけないでしょうか」
裕一は何も言わずに、まっすぐに女の顔を見た。すると女は裕一の視線から逃れるように目を伏せ、じっと唇を噛《か》んだ。裕一は女のそうした仕草の意味をはかりかねた。まるで裕一が無言のうちに女に重大な決断を迫っているようだった。
女は紅潮した顔を上げ、「失礼なことを言いますが、どうか許してください」と言った。
「もしお仕事をいただけるのでしたら、わたしのこと、好きなようにしていただいてもかまわないんです」
好きなように、と裕一はくりかえし、女の言っていることをようやく理解した。
女はワープロオペレーターと同じくらいの年齢に見えた。小学生か中学生の子どもがいるにちがいない。顔立ちはワープロオペレーターよりはるかに上品だったし、なによりも清潔感があった。そんなことを言いだす女にはとても見えない。
「面接の結果はまだ出ていません」と裕一は言った。「ですから、申し訳ございませんが、はっきりとしたことはなにも申しあげられないんです」
「わたし、ほんとうに恥ずかしいことを言って、すっかり気が動転してしまって、失礼なことを言いました。どうか許してください」
女は早口でそう言い、逃げるように立ち去った。
☆
膝《ひざ》からふっと力が抜け、裕一はあわてて吊《つ》り革を握り直した。口の脇を冷たい汗が流れていく。ワープロオペレーターに対して、自分がなぜこれほど怯《おび》えているのか判らない。裕一は目を閉じ、めまいと吐き気に耐えた。
電車が新宿駅にすべりこんだ。突き飛ばされるようにホームに吐きだされ、時計を見ると、ちょうど六時だった。トシキのコンサートの始まる時刻だ。警備員の制止に合いながらも、少しでもステージに近づこうと身を乗りだすあずさの姿を思い浮かべ、裕一は目のふちが熱くなるのを感じた。
バーに入っていくと、ワープロオペレーターが肩の高さで手を振った。
「来ないんじゃないかと思ってた。でも、こんなに早く来てくれるなんて幸せ」
彼女はすでにかなり酔っていた。裕一はバーテンダーにどれくらい飲んでいるのか、と訊《き》いた。ここではまだそれほど、と彼は控え目な口調で言った。
裕一は彼女に向き直り、「そんなに酔っていては話もできないじゃないですか」と言った。「あなたがそのつもりなら、ぼくは帰ります」
なによ、と彼女は口をとがらせた。
「なに言ってるのよ。帰りたいなら初めから来なければいいじゃない。淋《さび》しかったのよ、わたし。亭主にも娘にも裏切られて、ひとりぼっちよ。あなたが帰ったら、わたし死んじゃうから。脅しじゃないの、本気よ。死ぬつもりなら、なんだってできるんだから。なによ、怖い顔して。あなたも飲みなさいよ」
裕一はポケットから煙草を取りだし、バーテンダーにペリエを注文した。
「なによ、その哀れむような顔。そんなにわたし、惨めに見える? そうよね、この年で若い男に狂って、どうかしてるよね。でもね、安心していいわよ。いまちょっとお芝居をしているだけだから。わたし、そんなに嫌な女じゃないし、しつこくないから。大丈夫、少し落ち着いてきた。わたしが死んだりするわけないでしょ」
「ご主人はなんと言っているんですか」
裕一はそう言って、煙草に火をつけた。
「あいつ、また浮気してるの。わたしが気づいてないと思って、ばかじゃない。わたしには全部判るの。娘があんまりかわいそうでね、こんなばかな親を持って」
バーテンダーが裕一の前にそっとペリエを置いた。裕一はそれをひと口飲んだ。
「電話であなたが言ったことは、あれは全部作り話だと思っていいんですね」
彼女はうつむき、しばらく黙っていたが、ふいに裕一の手首をつかむと、「抱いてよ」と耳元でささやいた。「嫌だと言ったら、わたし大声を出す」
「手を離してください。それから大声を出すのもやめてください」
彼女は表情を変えずに、つかんだ手首に爪を立てた。
「部屋はとってあるわ。ここよりも話しやすいでしょう? 少しぐらい大声を出しても、あなた安心でしょう」
裕一はうなずき、つけたばかりの煙草を消した。
彼女はまともに歩くこともできなかった。裕一は頽《くずお》れそうになる彼女を抱きかかえ、エレベーターに乗せ、フロントを通った。
部屋に入るなり、彼女はウェストをしめつけていた革のベルトを外し、グレーの細身の服を脱いだ。そして、どう? というように裕一を見た。上下とも黒い下着をつけている。貧弱な身体がよけい哀れに見えた。
「こんなことはしたくないんだ」と裕一は言った。「あなたにはご主人がいるし、中学生の娘さんもいる。あなたは悪い夢を見ているんだ。きっと後悔するよ。酔いがさめるまで、いっしょにいてあげるから、家に帰りましょう」
彼女は首を振りながら、裕一の足にしがみついてきた。
「ねえ、お願いだから。今夜限りで終わりにするから。ほんとうに今夜で終わりにするから。淋しいの、たまらなく淋しいの。あなたがそんなに嫌なら、もう会ってくれなくていい。だからお願い、最後にもう一度だけ、やろう?」
裕一はじっと口をつぐんでいた。彼女は裕一の下腹に頬を寄せ、しゃくりあげるように泣きはじめた。なぜよ、なぜ亭主がいちゃいけないのよ、なぜ娘がいちゃいけないのよ、そう言いながら、ファスナーを下ろし、性器をつかみだした。そしてハーモニカを吹くように軟らかいままの性器を両手で支え持ち、しばらく舌を左右に這《は》わせていたが、裕一の顔を見上げると、喉《のど》の奥までくわえこんだ。そして頭を上下に動かしはじめた。
性器が硬くふくらんだ。裕一はしゃがみこんだ彼女の肩に両手を置き、少しだけ前屈《まえかが》みになった。ふいに呻《うめ》き声が上がり、彼女は背中を大きく波打たせると、くわえていた性器を吐きだした。
裕一が飛《と》び退《の》く間もなく、彼女は喉元に突きあげてきたものを、とがらせた口から勢いよく吐き飛ばした。汚物が放物線を描いて、裕一のズボンに飛び散った。彼女はその場にうずくまり身体をよじって吐きつづけた。裕一は彼女の背中をさすりながら、そのすえたような匂いに耐えた。
胃の中のものを吐きつくすと、彼女は口のまわりを汚したまま、充血した目で裕一を見た。裕一はバスルームに行き、タオルを濡《ぬ》らして戻ると、彼女の顔や胸に飛び散った汚物をぬぐった。彼女はふらふらとベッドに身体を横たえた。
裕一は絨毯《じゆうたん》の汚物をバスタオルでくるみ、トイレに流した。それからズボンに付着した汚物をタオルで注意深く拭《ふ》き取り、熱いシャワーを浴びた。濡れたズボンをドライヤーで乾かし、バスルームから戻ると、汚物の匂いの充満する部屋の中で彼女は寝息を立てていた。チェックインしてから一時間もたっていない。フロントの前を通るとき、係の男が訝《いぶか》しげな目でちらりとこちらを見た。
マンションに戻ると、裕一はTシャツとジョギングパンツに着替え、冷蔵庫から缶ビールを取りだし、ベッドに横になった。
九時十五分。夜はまだ始まったばかりだった。なにかをせずにはいられなかった。ベッドから下りて窓を開け放ち、腕立て伏せを五十回した。それから腹筋を五十回した。性器が痛いほど勃起《ぼつき》していた。裕一はビールを飲み干し、シャワールームのドアに缶を投げつけた。そのときドアをノックする音が聞こえた。
「開いてる」と裕一は怒鳴った。
ドアが開き、あずさが顔をのぞかせた。
「こんな時間にひとりでなにしてるの? まさかオナニーしてたんじゃないでしょうね」
「なんだ、まだいたのか」
「お願いがあるんだけど、部屋に入れてもらえる?」
裕一は黙って、あごをしゃくった。
あずさはビールの空缶を拾ってクズ入れに投げ入れ、「お願いはふたつあるの」と言った。「ひとつ目は、わたしもビールが飲みたい」
「まあ、きょうのところは目をつぶってやる」
裕一はそう言って目を閉じた。あずさは冷蔵庫から缶ビールを取りだし、プルトップを開けて、ひと口飲み、「ああ、おいしい」と言った。
「たぶん」と裕一は目を閉じたまま言った。「ふたつ目は聞いてあげられないからね」
「簡単なことよ」
あずさがそう言って、裕一の頬にキスをした。驚いて目を開けると、あずさはポシェットから千円札を五枚取りだし、「これで家まで送ってほしいの」と言った。
「なるほど」と裕一は言った。
「なにがなるほどよ」
「考えてきたようなこと言うからさ」
「まあ、いろいろ考えたけどね。結論から言うと、終電がないの。車で送ってもらわないと、家には帰れない」
「まだこんな時間だよ」
裕一は腕時計をあずさの目の前にかざした。
「悪いけど、ほんとうにもう終電がないのよ」
「ずいぶん遠くから来たんだな」
「うん、すごくいいとこよ。でも、あと二時間とちょっとで夏休みも終わり。早くしないと新学期にまにあわない」
「新学期か」
「そう、あしたからうんざりする新学期」
「家はどこなんだ?」
裕一はベッドから起きあがり、トラベルバッグにワイシャツとスーツを入れはじめた。
「車に乗ったら教えてあげる。それよりあなた、なにしてるのよ」
「あした、このまま会社に出ることも、十分に考えられるからね」
「たいしたものだわ」とあずさは言った。
マンションから数分のところに二十四時間営業のレンタカーショップがある。あずさはMR2がいいと言ってきかなかった。
裕一は車に乗りこみ、あずさの顔をのぞきこんだ。
「とりあえずは、どっちの方向に走ればいいんだ」
「東名に乗るといいわ」とあずさは言った。
裕一はうなずき、MR2を発進させた。高樹町から首都高に乗った。あずさはビールを口に運びながら、ぼんやりと窓の外を眺めている。
やがて東名に入り、横浜インターに近づいた。裕一は眠ってしまったあずさの肩を揺すり、どこで降りたらいいのかと訊《き》いた。あずさはぼんやりと目を開け、シモダ、と言った。
「シモダって、伊豆の下田か」
あずさは黙ってうなずき、ふたたび目を閉じた。
厚木で東名を降り、小田原・厚木線に入った。十一時をまわったところだった。
夏休みの最後の夜を眠ったまますごしたらきっと後悔する。十二時になる前に起こしてあげよう。裕一はあずさの寝顔に目をやり、そう思った。
小田原で降り、135号線に入った。上り車線はこの時刻でもひどい渋滞だったが、下りを走る車はほとんどなかった。裕一はカーステレオにニール・ヤングのテープを入れ、少しだけボリュームを上げた。
「眠っちゃったの? わたし」とあずさが寝ぼけた声で言った。「いま何時?」
「もうすぐ十二時」
あずさは両|肘《ひじ》を折り曲げ、胸を反らせて伸びをしながら、窓の外に目を移した。
「吉佐美《きさみ》って知ってる?」
「一度だけ行ったことがあるよ。サーフィンのできるとてもきれいな海だ」
「民宿やってるの、そこで」
「そうなんだ? ぼくが泊まったのは、ホテルシーサイドって、自炊専用のハウスがあるだろう? そこに二泊した」
「あそこはね、地元の人じゃないから、あんまりよく思われてないの」
「まあ、いろいろ事情はあるだろうね」
「うん、事情はいろいろ。うちのパパね、ママに捨てられたのよ。パパってとっても気の弱い人なのにお水の人に入れあげちゃって、うちのお金たくさん持ちだして、それでママに追いだされたの、っていうのは嘘。信じた?」
「もちろん」と裕一は言った。「ぼくはきみを信じてる」
「じゃあ、ぜったいに嘘みたいで、嘘じゃない話、してあげるね。三年前、わたし初めて生理になったの。そんなの別にどうってことないでしょ。でもママったら喜んじゃって、夕飯のときわざわざパパに話すのよ。そのときのパパがすごかった。真っ青になって席を立って、そのまま書斎に閉じこもって出てこないの。どうしたのよ、あなた! なんて、ママはヒステリックになるし、なにがなんだか判らなくて。わたし、いつもパパとお風呂《ふろ》に入っていたから、夕飯食べ終わって、お風呂入ろうってパパに言ったの。ママもいっしょになって、あなたお願いだからあずさといっしょに入ってあげて! なんて、またまた叫んじゃったりするわけ。パパ、ようやく書斎から出てきて、わたしといっしょにお風呂に入ったの。で、問題はこれからよ。パパ、パンツ脱がないの。パンツはいたままお風呂に入るのよ。でもわたし、たいして驚かなかった、ただどうしてなのかなあって思ってた。それが原因でパパはママに追い出されたの。信じる?」
「それはちょっとなあ」
「やっぱり信じないよね。でも悲しいことに、ほんとの話なのよ、これって」
裕一は横目でちらりとあずさを見た。
「ほんとよ。それが原因でパパと別れたって、ママははっきりそう言ったもの」
あずさはそう言ってから、「でもね、わたし知ってるの」と前方を見つめたまま続けた。「ママには男がいたのよ、それもすっごく若いやつ。たぶんあなたと同じくらい。そいつときどき来るの。わたしの手前、泊まっていかないけどさ、遠慮しなくていいのにね」
「もしぼくがきみのママの相手だったら、きみはどう思う?」
「そうねえ、あなただったら、わたしが奪ってやる」
「そうか、それはうれしいけど、修羅場だな」
裕一はそう言って、しばらく考えてから、ワープロオペレーターとの出来事をあずさに話して聞かせた。その女の人にもきみと同じ年ごろの娘がいるんだ、とまるであずさに許しを乞《こ》うように話しつづけた。
あずさは黙って聞いていたが、裕一の話が終わると、「どうしてわたしを無視して、そんな女とやるのよ!」と悲鳴のような声を上げ、二度と口をきいてくれなかった。
吉佐美に着いたのは三時すぎだった。海に向かって車を停め、カーステレオを消した。
波の音が怖いほど大きく聞こえ、潮の香りが懐かしかった。あずさは黙って車から降りると、砂浜をゆっくりと歩きはじめた。裕一は運転席からじっと見つめていたが、やがて闇の中にその姿を見失ってしまい、あわてて車のライトをつけた。
ほっそりとした影が浮かびあがった。あずさはゆっくりと海の中に入っていく。裕一は車から飛びだし、あずさの名を叫んだ。あずさはまぶしそうにこちらを振り向いた。
裕一は駆け寄ってあずさの手首をつかみ、車に戻ろう、と言った。
「どうしたの、怖い顔して。わたしが死ぬとでも思った?」
裕一がうなずくと、あずさが抱きついてきた。裕一はしばらくその場で棒のように立ちつくしていたが、あずさの頬を伝わる涙を見ているうちにこらえきれなくなり、指であごをつまんで、そっと唇を重ね合わせた。
「うれしかった。本気で心配してくれて」
車に戻ると、あずさはワンピースのボタンを外しはじめた。裕一はそれを制した。
「なぜなの?」とあずさが言った。裕一は首を振り、「判らない」と答えた。
「あなたのこと、ほんとに好きになったかもしれない」
あずさは夜の海を見つめ、裕一の肩にもたれた。
「ぼくはね」と裕一は言った。「女の人とつきあっていく自信がないんだ。きみにこんなことを言うなんて、恥ずかしいと思うけど」
あずさが顔を上げ、「嘘つき」と言った。「つきあってる女のこと、さっき話したばかりじゃない」
「たぶんきみには判らない」
「ずるいよ、そんな言い方」
「うん、ずるいかもしれない」
「ガキだからでしょ、わたしが」
「きみのパパと同じかもしれない」
「パンツの話?」
「うん。公園のトイレにひとりで入ったんだ。たぶん三つぐらいのとき。トイレは暗くて、その上ひどく臭くてね、泣きそうになりながらパンツを下ろした。トイレの上のほうに小さな窓がついていて、そこから差しこむ光がちょうど便器の中を照らしだして、そのときぼくは初めて他人のうんちを見た。嫌だ、嫌だって思いながら、いつまでもじっとのぞきこんでいたんだ。そのときの嫌悪感をいまでもはっきり覚えてる」
「なにを言ってるのか判らないよ」
「セックスをするときも、ぼくは同じ嫌悪感を味わうんだ」
「それってさ」とあずさが笑いながら言った。「女はうんちのほうなの、便器のほうなの」
「うんちのほう」と答えて、裕一も少し笑った。
「あなたはさ、いい年をして、まだ他人と関わるのを怖がってる子どもなのか、わたしのことを子ども扱いしてるのか、どっちかよ」
「いろいろと知ってるみたいだな、きみは」
「一回やっただけで、すぐに判ったよ」
「どんなこと」
「こんなガキに訊きたいの。それじゃ教えてあげるけど、あれはね、同じ相手とくりかえしやらないと、気持ちよくならないのよ」
あずさはそういって、裕一の顔をじっと見つめた。
水平線のあたりがわずかに明るくなり、空が少しずつ青みを増してきた。
背後で人の声が聞こえた。あずさは振り返ってその姿を認めると、手を伸ばしてクラクションを鳴らし、車から降りた。ミラー越しに、サーフボードを抱えた少年とアロハシャツを着た少女が近づいてくるのが見えた。
「MR2かよ」と少年が言った。「まいったな」
「彼氏?」少女が言った。
あずさはうなずき、裕一の顔を見た。
「降りない? いっしょにサーフィン見ようよ」
「もう会社に行かなけりゃならないんだ。残念だけどね」
「そうか、そうだよね」とあずさは言った。「道が混む前に帰ったほうがいいよ」
「家まで送っていかなくていいのか」
「だって、そこだよ」
あずさは笑いながら、目の前の民宿を指さした。
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九月一日(土)
裕一はレンタカーショップのシャワールームを出ると、更衣室の洗面台の前に立ち、鏡に映る自分の顔をじっとのぞきこんだ。
落ち窪《くぼ》んだ目、目のまわりの青黒い隈《くま》、まばらに生えたあごの鬚《ひげ》。まるで麻薬常習者のような顔をしている。ここしばらく睡眠不足が続き、そのうえ昨夜は一睡もしていない。天井に埋めこまれた蛍光灯の光がひどくまぶしい。裕一は水道の蛇口に口をつけ、喉《のど》を鳴らして水を飲んだ。そして額にかかった髪を指先でかきあげ、"Yuichi Kazama"とつぶやいてみた。"Do it! And Cheer up!"
スツールに腰かけ、目を閉じると、あずさの顔が思い浮かんだ。癖のないストレートの髪、挑むような眼差《まなざ》し、鼻の脇のそばかす、頬の産毛。裕一はしばらく腰を上げる気力も失せ、長年つきあった恋人と別れたような空しさを味わった。
会社に着いたのは十一時を少しまわったころだった。土曜日のため、出社する者はほとんどいない。裕一は給湯室で湯をわかし、コーヒーをいれると、デスクに向かい、履歴書の上から順に電話をかけはじめた。百二十八人の女に面接結果を連絡しなければならない。
百二十八人のうち不合格者は十九人だけだった。落とした理由はその十九人が少なからず心を病んでいるように思われたからだ。彼女たちはぼんやりしているか、あるいは異様なまでに緊張しているかのどちらかで、筆記試験では及第点だが、ごくふつうの日常会話をかわすことさえつらそうに見えた。面接ではおよそ二割の者がそのような傾向を示す。今回は少ないほうだった。
だが、彼女たちは自分が落ちたことに関して容易に納得しない。よほど丁寧に対応しないと、いつまでも恨みを買いつづけることになる。それが原因で会社を辞めた社員もいるほどだ。
そんな女たちへの対し方を、裕一は最近になってようやく理解した。連絡すべき用件だけを伝えることだ。そのほかのことはしゃべってはいけない。なぜ落ちたのかとの女の質問には、いっさい答えてはいけない。すべて事務的に処理することだ。なにを言っても恨みを買うことになる。相手が黙るまでじっと待つ。それしかない。女たちはある程度自分が落ちた理由を自覚しているので、この原則を守れば大事にはいたらない。だが、中にはまったく動じない女もいる。今回、そんな女がひとりだけいた。
「それでわたし、いつから働くことになるのかしら」
受話器越しに金属的な声が響いた。
「申し訳ございませんが」と裕一が言いかけると、「そうなの、ほんとはちょっと怖い気もするの」と女はひとりでしゃべりつづけた。「前の会社を辞めてから三年のブランクがあるでしょう? でも、一生懸命やらせていただくわ」
自分が落ちたことを認めたくない。その気持ちが強すぎて、女は裕一の言葉を受けつけない。裕一は時計を見た。女はすでに三十分もしゃべりつづけている。
「仕事を手に入れたら、わたしが次に欲しいものってなんだと思う?」
「申し訳ございませんが、あなたは不合格なんです」
「まず、第一に日当たりのいい部屋へお引っ越しね。それからかわいい子猫。黒いシャムかビルマ。それでお金がたまったら次は車。軽自動車でいいの、色は赤。えーと、ちょっと待って。仕事、部屋、猫、車までいったわよね、次はなんだと思う。あなたに判る?」
裕一は息をひそめ、女の言葉を待った。
「やっぱり男よね」
受話器の向こうから乱れた息づかいが聞こえ、それはやがて呻《うめ》き声に変わった。
「どうかされましたか」と裕一が言ったとき、ぷつんと電話が切れた。
裕一は窓辺に寄り、東郷神社を眺めながら煙草を一本吸い、それからデスクに戻って、受話器をとった。電話は呼び出し音二回でつながった。
「風間ですが」と言いかけると、留守番電話のテープが流れはじめた。
"Pardon me. I'm away on a journey."
裕一は留守電にメッセージを吹きこんだ。
「スタッフ登録の手続きをします。来週の月曜と火曜、十時から五時までの、都合のいい時間にお越しください」
それだけ言って切ろうとすると、受話器が外れ、「でも、あなたとは、きょう会えるわ」とルイーズの声が言った。
「きょう?」と裕一は言った。
「わたしもミルナの家に呼ばれてるの」
「ミルナの家?」
「浩之くんのバースデーパーティよ」
「そうか、忘れていた」
「なによ、忘れてたの? 友だちみんな来るって、ミルナ張りきってるんだから」
「きみもその友だちのひとりなんだ?」
「そう、あれからセシルの常連なの。それにしてもあなた、毎晩どこをほっつき歩いてるのよ。いつ電話しても部屋にいないじゃない。ちょっとこの一週間を振り返ってみて」
「芝のホテルは何曜日だ?」
「たしか、火曜ね」
「そうか、すると月曜は新宿、火曜は芝、水曜は目黒、木曜は部屋にいた、金曜は下田、そして土曜はミルナの家だ。これでいいか」
「冗談のつもり?」
「なにが」
「たった一度ベッドにつきあってあげただけなのに、しつこく追いかけてくる男がいるのよ。彼に比べれば、あなたはたしかにまともよ。でも彼と同じくらい、もしかしたらそれ以上に鈍感だわ」
「悪いけど、いまちょっと疲れているんだ。議論はしたくない」
「|議 論《デイスカツシヨン》!」とルイーズは言って噴きだした。「わたしだって、そんなのごめんだわ」
受話器を置いて時計を見ると、すでに四時をまわっていた。朝の八時すぎに熱海《あたみ》のマクドナルドでハンバーガーを食べたきりだが、食欲はほとんどない。ときおり胃が痛むのはコーヒーと煙草が原因だった。裕一は会社を出ると、近くの蕎麦《そば》屋に向かった。蕎麦をつまみに、よく冷えたビールでも飲もうと思った。
来週の水曜から二週間、裕一は夏休みをとって旅行に出かける予定でいた。だが、忙しさにまぎれ、なにひとつ準備をしていない。行き先はボンベイと決めている。いまは雨季の盛りだが、五月ごろの暑さを考えれば、まだしもしのぎやすい。
実家を訪ねるつもりはなかった。十五年前、母のゼリアと散歩したボンベイの港を歩いてみたい。船積みされる樽《たる》から漂う香辛料や香油の匂いの中に、もう一度立ってみたい。ボンベイ行きの目的はそれだけだった。高い石垣に囲まれた実家を遠目に眺めてみるくらいのことはあるかもしれない。だが、母に会うことは考えていなかった。万一、街角ですれちがっても、彼女はけっして息子に気づかないだろう。
運ばれてきたビールをグラスに注ぎながら、いや、そうじゃない、と裕一は思った。
記憶をたどりながらボンベイの街を歩けば、蘇《よみがえ》る思い出もあるにちがいないが、旅の目的は別にある。少なくとも失われた記憶を懐かしむことではない。ボンベイ行きを思い立ってからすでに一年たつが、それを決心させたのはルイーズの言葉だった。
「だいたい人間ってまぬけな生活に熱中して大切なことを忘れてしまうのよ」
そのひとことに押しだされるように、ボンベイ行きを決めたのだった。
会社に戻ると、裕一は百九人分の登録シートに派遣先の候補を記入しはじめた。この作業を終えれば夏の仕事も一段落つく。派遣先との調整は同僚に引きつがれる。
電話が鳴り、裕一が受けた。だが、電話の相手は押し黙ったまま、なにも言わない。
「どちらさまでしょう」
受話器の向こうから、かすかにテレビの音が聞こえる。裕一は電話を切った。
それが二度続き、三度目に受話器を上げたとき、「風間さんを」と女の声が言った。
「はい、わたしですが」と裕一は答えた。
すると女は小さく息をつき、ふたたび黙りこんでしまった。不合格になった十九人のうちのひとりにちがいない。裕一は女の次の言葉を待った。
「娘が帰ってこないんです」
消え入りそうな声が言った。
「梶井さんですね」と裕一は言った。
「風間さん、わたし、この先、たったひとりで生きていくと思うと、苦しくて苦しくて。生きていく意味がなくなっても、やっぱり人って生きていくの?」
「警察には届けたんですか」
「風間さん。娘はもう帰ってこないんです。娘はわたしとふたりだけの、息のつまるような暮らしから逃げたかった。よく判るの、わたしだって毎日逃げたいと思っていたもの。他人はどう思うか判らないけど、そういうことってどうしようもないことなのよ」
「でも、なぜ娘さんがもう帰ってこないと?」
「娘はもう、わたしの娘じゃないの。わたし、主人と結婚するまで男性を知らなかった。娘はね、わたしより十年も早く女になってしまったのよ。娘の同級生から聞いたの、いろいろと、信じられないほどすごい話をたくさん。だから、もし娘が帰ってきても、わたしはもう娘とは暮らせない。ケダモノのような真似をする娘なんかと、もう二度といっしょに暮らせないのよ」
「ぼくはもう、十五年も母と会っていませんが、でも、自分の中に母の血を感じます。いっしょに暮らさなくても、いつも母を感じています」
「混血って言い方をしていいのかしら」
「かまいません」
「混血の風間さんの身体には、日本人と外国人の血が混じっているわけでしょう。だからふつうの人より、よけいお母さまの血を意識するんでしょう」
「混血って」と裕一は少し考えてから言った。「血が混じることではないんです。血は混じらないんです。ぼくはあるときは日本人ですが、別のあるときはインド人なんです。混血ってそういうことなんです」
「ごめんなさい、わたしには判らない」
「娘さんも、あるときはあなたそのものなんです。つらいでしょうけど、そういうことだと思うんです。娘さんはあなたから逃げられないし、あなたも娘さんから逃げられない」
「風間さん」
「なんですか」
「ありがとう。でもね、わたしほんとうに疲れたの。もうすべて終わりにしたい」
電話はそこで切れた。裕一は受話器を耳に押し当てたまま、しばらくじっとしていた。それから急いで登録リストを取りだし、梶井多恵子の連絡先を調べた。
受話器を取り、その番号を押した。呼び出し音を十回聞いたが、彼女は出ない。裕一はさらに五回聞いてから、受話器を置いた。
☆
カウンターでは女子社員がふたりのOLを相手に旅行の日程を組んでいる。彼女たちはバルセロナを希望しているが、女子社員は熱心にロンドンを勧めている。
「ここはバルセロナのツアー、扱ってないんですか?」とOLが興奮気味に言った。
「いいえ、もちろん扱っております」と女子社員は答えた。「でも、日程と予算から考えると、やっぱりロンドンのほうがお勧めかと思いまして」
彼女がなぜそれほどまでロンドンにこだわっているのか、博には判らない。このままでは客は帰ってしまうだろう。そう思ったが、彼女に注意を与えるような気にもなれない。博は彼女たちのやりとりに耳を傾けながら、昨夜のフェーの言葉を思い出した。
フィリピンサイドの結婚をするためには一度マニラに帰らなければならない。できればお腹が目立たないうちにあなたもいっしょに来てほしい。昨夜、西新宿のマンションからマリールに向かう道すがら、彼女はそう言った。
不法滞在はすでに一年におよび、しかもパスポートはブローカーに奪われたままだった。イミグレの取調べもそうとうきびしいだろうな、と博が言うと、妊娠証明書と航空券を見せれば大丈夫よ、すぐ帰国できるよ。ファイト、ファイトよ、それ、大事でしょう、とフェーは笑顔で言った。
代理店をおこした当時、博は月の半分をマニラですごした。フィリピーナと結婚して、地元でプロダクションや飲食店を経営する日本人と顔をつなぐため、毎晩のようにマビニ通りに繰りだしたものだった。夜になっても熱風の吹く街角、残飯をあさる犬、シケモクを回しのみする男たち、虚《うつ》ろな目をしたポン引き、ニキビ面の若いアメリカ兵、ディスコミュージックを鳴らしながら走る極彩色のジプニー、信号無視の車が鳴らしあうクラクション。そして造花や色とりどりの紙テープで飾り立てられた薄暗いビアハウス。赤や紫のライトが壁にかかったマルコスの肖像画を照らしだし、ステージでは紐《ひも》のようなビキニの水着をつけた女たちが踊る……。
腹が目立たないうちとすれば、あと三か月が限度だった。博はマニラ湾に沿うロハス大通りの旅行代理店と現地オペレーションの契約をしている。ホテルや劇場の押さえに強いばかりでなく、大使館や市役所の担当窓口とも太いパイプを持つことで有名な代理店だ。フェーとの結婚手続きも、そこを通して進めればスムーズにいくにちがいない。
「おれのこと、思う存分利用してくれよ」と博は言った。
「なに言うか、あなた。わたし子ども産む、それあなたのためでしょう」
フェーはそう言って、博の手をぎゅっと握りしめた。
マリールまでフェーを送って、三日ぶりに家に帰ると、衿子の姿がなかった。家政婦に訊《き》くと、きのうも帰っていないという。
「お仕事の都合で、二、三日銀座のホテルにお泊まりになるとおっしゃっていました」と家政婦は言い、上着とネクタイを受けとると、「ご夕食はどうなさいます」と訊いた。
家政婦は博より四、五歳年上で、まもなく還暦を迎えるはずだが、服も化粧も若作りで独り身のせいか、まだ五十歳前後に見える。ときおり初めての客に博の妻と間違われることさえある。二日続けて衿子が家を空けていることで、彼女はまるでこの家の主婦のように振舞っていた。
「ビールと軽いつまみだけでいい」と博は言った。家政婦は軽くうなずき、「すぐにお風呂《ふろ》の用意をいたします」と言った。だが、なかなかその場を去ろうとしない。
博はワイシャツを脱ぐ手を休め、「ほかになにか伝言でもあるのか?」と言った。
「特にございませんが、裕一さんがいらっしゃったんです、お友だちをお連れして。一昨昨日《さきおととい》の夜です。裕一さん、ご立派になりましたよ。旦那《だんな》さまにほんとうに似てきました」
「そうか、めずらしいな」
「ええ、そのお友だちがパキスタンの方で、夕食にどんなものをお出しすればいいのか、それは苦心したんですよ」
「パキスタン?」と博は言った。
「そうなんです。裕一さんは帰られましたが、パキスタンの方は泊まっていかれました」
家政婦は一礼して、部屋を出ていった。
博が風呂に入っていると、「失礼します」という声とともにガラス戸が開き、ショートパンツに着替えた家政婦が入ってきた。博はあわてて下腹をタオルで隠した。
「奥さまのお背中はいつも流してさしあげているんですが」
家政婦は博の後ろにまわると両|膝《ひざ》をつき、「旦那さまは初めてですよね」と言った。
「こんなところ、衿子が見たら、勘違いするぞ」と博は冗談めかして言った。
「あら、それは光栄です、旦那さま」
家政婦はそう言って、ヘチマに石けんをつけ、背中をこすりはじめた。
「奥さまのお身体、女のわたしから見ても、それはもう惚《ほ》れぼれするほどおきれいでしょう。色白できめ細やかな肌で、あの、どう言えばいいんですか、旦那さまにしても、奥さまがあれほどお美しい方だと、なにかとご苦労がおありでしょう」
家政婦は衿子の秘密をしゃべりたくてうずうずしているのだろう。博はそう思い、「裕一が連れてきたパキスタン人というのは?」と水を向けてみた。
「はいはい、立派なお髭《ひげ》を生やしていらっしゃいましたが、まだお若くて、少年のような感じの方でした。奥さまと裕一さんと三人で、ずいぶん遅くまでお酒を召しあがっていたようです。御髪《おぐし》も洗って差しあげましょう」
家政婦はそう言って、後ろから博の顔をのぞきこんできた。
「ありがとう。もういい」と博は言った。
「わたしのシャンプーマッサージ、奥さまには褒めていただけるんですけどね」
家政婦は残念そうに言って、桶《おけ》の湯を博の背中にかけた。
「お先に失礼します」
その声に博が顔を上げると、私服に着替えた女子社員が出ていくところだった。
いつのまにか客の姿もなく、時計を見ると、ちょうど五時半だった。今日中に片づけなければならない仕事もないし、人と会う予定もない。フェーは遅番で深夜三時まで帰らない。だが、明るいうちに帰宅して、家政婦と顔を合わせるのも気づまりだった。
電話が鳴り、受話器を取ると、裕一からだった。
「どうした、元気か」と博は言った。
「まあ、なんとか」と裕一は答えた。
「しばらく会っていないな」
「一年半くらい」
「そんなになるか」
「そのくらいになると思う」
そうか、と博はうなずきながら、息子の他人行儀な口のききかたを懐かしんだ。
「このあいだ、来たんだってな」
「父さん、このところ帰ってないだろう?」
「それが、きのう、久しぶりに帰ると、今度は衿子がいない」
「そうらしいね」
「そうか、いろいろ知ってるんだな」
「いちおう家族だから」
「で、きょうはなんの用だ」
「エアの手配を頼もうと思って。できれば、来週水曜のボンベイ直行便」
「ボンベイか」
「直行便でなくてもかまわないけど」
「先方には連絡したのか」
「してない。なぜいまごろ行くのかって、訊かないの?」
「なぜ行く」
「それが自分でもよく判らないんだ」
「そうか、おれも判らないことだらけだ」
「父さん、衿子さんはひどく苦しんでいるよ」
「息子に言われるとつらいな」
「もしぼくが父さんだったら」
「もしおれだったら?」
「たぶん、やっぱりとてもつらいと思う」
「そうか」と博は言った。「チケットはなんとかしておく。月曜に電話を入れてみてくれ」
「判った、ありがとう」
「ところでおまえ、いくつになる」
「二十七だよ」
「そうか、もうそんな年か」
「まだ若いよ、情けなくなるほど子どもだよ」
裕一はそう言ってめずらしく少し笑い、それからもう一度、「ありがとう」と言って電話を切った。
博はウィスキーとグラスを抱え、ソファに腰を下ろした。週末の新橋|界隈《かいわい》は昼のうちはにぎやかだが、日が落ちると人通りもめっきり少なくなる。ブラインドを下ろし、グラスにウィスキーを注いだ。
裕一が生まれたのは、おれが二十七のときだった。ボンベイ行きは、そのことと少し関係があるのかもしれない。博はそう思った。
☆
帰り支度を始めた裕一に、衿子から電話が入った。
「きょうはパーティに呼ばれていて、すみませんが、いま出かけるところなんです」
「楽しそうじゃない」
「パーティといっても、子どものバースデーパーティだけど」
「子どもの?」
「ええ、知りあいの」
「そう、つきあいが広いのね。それで、わたしは何時まで待っていればいいかな」
「ちょっと待って。親父が電話で言ってました。三日ぶりに家に帰ったら、今度は衿子さんがいなかったと」
「父と息子はそうやって連絡し合ってるわけね? 仲が良くてうらやましいわ」
「ほんとうにそう思ってるんですか」
「面倒臭いこと言わないで。わたしはただお酒の相手を探してるだけなんだから。子どものお誕生会って、夜中までやるわけ?」
「あの、ゆうべ、眠ってないんです」
「わたしはね、あなたにひどく失礼なことを言われて、まだ怒っているの」
「ぼくもあまりいい気分じゃない」
「わたしのせいだっていうの?」
「シカンデルはまだ子どもですよ」
「九時ごろには来れるかな?」
裕一が返す言葉を探していると、衿子は待ち合わせ場所に銀座のホテルのバーを指定して、一方的に電話を切った。
時計を見ると、まもなく六時だった。裕一は会社を出ると、キッズ・ショップで玩具《がんぐ》の電車を買い、原宿駅に急いだ。池袋から私鉄電車に乗換えて十五分、駅前のアーケードを抜けて数分歩くと、小さな児童公園の裏手にミルナの家がある。
チャイムを押すと、はーい、とミルナの明るい声が答え、玄関ドアが開かれた。
ミルナはポニーテールの髪を黄色い紐《ひも》で結び、袖《そで》が蝶《ちよう》のようにふくらんだ黄色いワンピースを着ている。プレゼントの箱を差しだすと、「ありがとう、うれしい」と彼女は言い、裕一の頬にキスをした。
十畳ほどのリビングはすでに先客でにぎわい、英語とタガログ語と日本語が飛びかっていた。ミルナが夫の宮野に裕一を紹介すると、パイナップルの繊維で織った白いバロン・タガログを着た宮野は禿《は》げあがった頭を撫《な》でながら、「我が家の国際交流もなかなかのものでしょう?」と言い、裕一に握手を求めてきた。
宮野の膝《ひざ》の上には、赤い蝶ネクタイをした浩之くんが座っている。
「この子はメイド・イン・フィリピン・スペイン・アンド日本です」
宮野はそう言って、大きな声で笑った。
「それならわたしはメイド・イン・フィリピン・スペイン・アンド香港ね」
ジョシーがそう言って、客たちがどっと沸いた。ジョシーは五歳になるミルナの連れ子だった。白いフリルのついたドレスを着て、小さな耳たぶには赤い珊瑚《さんご》のピアスをして、まるでミルナをそのまま小さくしたような、愛くるしい顔立ちをしている。
ルイーズが首をかしげ、こちらに手を振った。裕一は宮野に礼を言い、ルイーズのとなりに腰を下ろした。
ルイーズは胸と腕がシースルーになった緑色のワンピースを着て、金色の大きなイヤリングをつけていた。だが、フィリピーナに比べるとむしろ地味なくらいに見える。
「ルイーズ、とてもきれい」とドーラが言った。
「ううん」とルイーズは首を振った。「あなたのほうがずっときれいよ」
ふたりはたがいに褒めあい、手をとりあって笑った。浅黒い肌に浮き立つような目鼻立ちをしたドーラは、胸に真紅のブーゲンビリアの造花をつけている。
ミルナは裕一に客のひとりひとりを紹介した。
オレンジシャーベットのような鮮やかな色のドレスを着て、髪に大きな白いサテンのリボンをつけているのがメルバ。彼女は半年ほど前、ドーラを頼って日本に来た。となりに座っているのはメルバの恋人のロナルド。フィリピンに帰り、ふたりで美容院とサリサリストアを経営するのが夢だという。
派手なアロハシャツを着た男は宮野の運転手仲間の大島。彼もフィリピーナのセリーナと同棲《どうせい》している。更紗《サラサ》模様の落ち着いたワンピースを着たセリーナは、ミルナよりいくつか年上に見える。
そしてそのとなりは、セリーナと同じ赤坂のカラオケバーで働くリリベス。お椀《わん》のように広がったピンク色のスカートがよく似合う彼女は、まだ十八歳だという。
テーブルにはフィリピン料理と日本料理がたくさん並んでいる。フィリピン風のチキンの煮込み、海老《えび》のから揚げ、マグロの刺身、スパゲティ、春雨の炒《いた》め物、豚肉とホウレン草とトマトを煮込んだ甘酸っぱいスープ、チキンとパイン入りのマカロニサラダ、ニンニクとオニオンとローリエで何時間も煮込んだ豚の耳。そして浩之くんの前にはバタークリームの大きなデコレーションケーキが置いてある。
「セリーナはね、マニラに大きな家を建てたのよ」とミルナが言った。「二階建てで、部屋が七つもあって、プールもついてるの」
「日本じゃ、一億あっても無理だな」と大島が言った。
「三百万円ね」とセリーナが言った。「日本に来て一年で百五十万円ためたでしょう。残りは三年間、毎月五万ずつローン送るね、まだまだ先は長いよっ!」
「ニッポンの男、頭おかしいか」
十八歳のリリベスがそう言って、頭の上で指をくるくる回した。
「みんな、好き好き、言うでしょう。奥さんとセパレートする、だから結婚しよう、言うでしょう。お金、あげるあげるでしょう。わたしもらう。悪くない。ノウプロブレムよ。わたしも三百万円ためるよ」
「リリベス」とセリーナが言った。「あなたには怖いものがないの?」
「あー、リリベス、ヤクザはだめよ。でも、テメエ、コンチクショウでしょう」
「こいつはな、日本語学校にもきちんと通ってるんだ」
大島がそう言って、横目でセリーナを見た。
「卒業したら専門学校で日本料理を勉強して、マニラで日本食レストランを経営するって、立派なもんだろ。でもおれのほうは日本食レストランって柄じゃないから、マニラに行っても、やっぱりタクシーの運転してるんだろうな」
「結婚する気になったのか」
宮野に訊《き》かれ、大島が照れたように首をすくめてみせた。
「だからわたし、日本語勉強してるよ」とセリーナが言った。
リリベスが立ちあがり、日本の演歌を唄《うた》いはじめた。全員が手拍子を打ち、声援を送った。三曲立てつづけに唄うと、今度は宮野が立ち、タガログ語の歌を唄った。しみじみとしたメロディの歌だった。リリベスは大きな目を潤ませ、じっと宮野を見ている。セリーナがそっとリリベスの肩を抱いた。
「ほんとにいい人たちばかり」とルイーズがため息まじりに言った。「この人たちといると、すごく落ち着いた気分になれる」
ミルナが子どもたちをとなりの部屋に寝かせつけに行った。裕一は時計を見た。そろそろ八時半になる。ルイーズがハワイの民謡を唄いはじめた。ロナルドがルイーズのことをうっとりと眺め、それに気づいたメルバがロナルドの膝をピシャリと叩《たた》いた。
「申し訳ないけど」と裕一はミルナの耳元でささやいた。「きょうはこれで帰ります」
「うん、あなた疲れてるね」とミルナが言った。「でも、ルイーズはいいの?」
「ええ、あやまっていたと伝えてください」
裕一はそう言って、急いでミルナの家を出た。
☆
一時間近く遅れたが、衿子はさして不機嫌でなかった。そのかわりすでに酔っぱらっていた。ホテルのバーを出ると、ふたりで連れ立って夜の街を歩いた。
すれちがう男たちは衿子に視線を注ぎ、振り返りながら、連れの裕一の顔を確かめるように見た。衿子は襟元の大きく開いた紫色のドレスを着ている。
ビルの階段を上り、MEMBERS ONLYのプレートのかかった扉を押し開いた。
奥のテーブル席から歓声が上がった。衿子は軽く手をあげると、裕一の肩にそっと手を置き、「すぐに戻るからね」と言って、呼ばれたテーブルに加わった。
裕一はカウンターに腰を下ろすと、ポーランド製のウォッカを注文した。立てつづけにストレートで三杯飲み、お代わりを頼むと、首をねじって衿子のほうを見た。
五十がらみの男が三人、怒鳴るようにしゃべっている。衿子の手は右側の男の太腿《ふともも》に置かれ、その太腿は店に流れるジャズに合わせてリズムをとっている。裕一は四杯目のウォッカを飲み干すと、カウンターにうつぶせた。
「いくらなんでも下品よ」
衿子の声が聞こえてくる。
「もちろん、それは前提条件にすぎない。いや、必要条件と言うべきかな」
「でも、そんなことで女はあなたを愛してしまうわけ?」
「それは誤解だ。テクニックの話じゃないんだがね」
「ううん、テクニックこそ必要条件でしょう、すべてに先立つ」
男たちは衿子の話にいちいち馬鹿笑いをしている。裕一は顔を上げる自分の動作をくりかえし思い浮かべた。だが、それは夢からさめる夢を見ている状態に近い。カウンターにうつぶせた顔をどうしても上げることができない。
「あなた、初めてよね」
舌足らずな甘い声が聞こえた。
うん、とつぶやき、裕一はゆっくりと顔を上げた。目の焦点があわず、二度、三度まばたきをした。女はそれをウィンクと勘違いしたようだ。
「なにかごちそうになろうかしら」
にわかに声が華やいだ。女は金魚のひれのようなフリルのついた赤いドレスを着ている。
裕一は身体をねじり、フロアに目をやった。
衿子が五十男と踊っていた。男は衿子の腰に手をまわし、下腹を押しつけている。衿子は耳たぶにキスをされ、首を振っているが、腕は男の首に巻きついたままだ。
「風間さんとごいっしょよね」と女が言った。「お名前、お聞かせいただけます?」
「ぼくも風間だよ」
「嘘ばっかり」
女は裕一の肩に手を置き、「わたしと踊らない?」と言った。
「いや」と裕一は言った。
女は唇の両端をしぼりあげ、「いや?」と言った。
裕一は氷をひとかけらつかみ、それを女のドレスの胸元に落とした。女が小さな悲鳴を上げ、裕一はふたたびカウンターにうつぶせた。
ひどいじゃない。女が耳元でささやいた。意地悪ねえ。女はそう言いながら裕一の髪をそっと撫《な》でている。その手を払いたいが、裕一の手は動かない。意識が近づいたり、遠ざかったりしていた。真っ暗な井戸の底に向かって落下していくような不安に胸がしめつけられ、悲鳴を上げようにも、喉《のど》がつまって息をすることもできない。低く呻《うめ》くと、ふいに目の中に原色の青空が広がった。
青空の中央に全裸のあずさがピンで固定されている。裕一はあずさに近づこうと、平泳ぎで空を泳いでいく。
「こんなところでなにをしてるの」とあずさが訊いた。
「よく判らないんだ」
「よく判らない? もう聞き飽きたよ」
小枝のように細いあずさがみるみるうちに太っていく。あずさは両手で恥ずかしそうに下腹部を押さえ、へそを中心点にして時計の針のようにくるくると回りはじめる。
ウォッカが喉元に突きあげてきた。裕一は止まり木から下り、支えようとする女の手を払い、カウンターの端にある電話機に向かった。目を伏せると床が傾いた。上着の内ポケットから手帳を取りだし、梶井多恵子の家の番号を押した。わたしほんとうに疲れたの。もうすべて終わりにしたい。耳の底にまだ彼女の声が残っている。裕一は受話器を耳に押し当て、目をつむったまま、呼びだし音を聞きつづけた。
「なにしてるの」と衿子が言った。
裕一はぼんやりと目を開け、手の中にあった受話器を置いた。
「死ぬかもしれない女の人がいるんだ」
「その人とどんな関係があるの?」
衿子は裕一の額にハンカチを当て、汗をぬぐった。
「なんの関係もない」
「あなたになにができるの」
「たぶんなにもできない」
「死にたい人は死ぬのよ。黙って見守ってあげるしかないの。それが優しさというものよ」
「でも、それはできない」
「博さんと同じよ、おせっかいなのよ。女と真正面から向きあうこともできないくせに、つらそうにしてる女を見ると放っておけない。あなたたち親子っていったいなんなの」
「判らない。でも、衿子さん、死ぬかもしれない人を放ってはおけないよ」
「わたしだって死ぬかもしれない。あなたはわたしになにをしてくれるの」
裕一は天井を見上げ、大きく息をついた。衿子はドアを押し開け、黙って店を出ていった。裕一はその後を追い、足をもつれさせながら狭い階段を下りた。
ふたりで押し黙ったまま、銀座の裏通りを歩きつづけた。裕一が衿子の肩に手をまわすと、衿子は裕一の腰に手をまわしてきた。
「ほんとうに幸せね」と衿子が言った。「こんな母と息子がいたら」
シャッターの下りたビルの前で、初老の男が若い娘を抱きしめていた。娘は身体をよじって、男を突き放そうともがいている。
裕一は歩きながら、ときおり衿子の顔に目をやった。衿子はじっと路面を見ている。裕一はそのときなにか大切なことを考えかけた。だが、衿子の身体から匂い立つジャスミンのコロンが邪魔をして、それがなんなのか、すぐに判らなくなった。
ふたりは黙って歩きつづけ、いつのまにか父親の旅行代理店が入っている雑居ビルの前に出ていた。窓のブラインドから幾条《いくすじ》もの光がもれ、舗道に縞《しま》模様を作っている。
「親父、まだいるみたいだな」と裕一が言った。
衿子は小さくうなずき、裕一から身体を離すと、ビルの入口に向かって歩いていった。
裕一は息を深く吸いこみ、それからゆっくりと吐きだした。衿子は扉の前で一度振り返った。泣きだしそうに歪《ゆが》んだ裕一の顔を見て、衿子は目尻《めじり》にかすかな笑みを浮かべた。
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あとがき
この小説はタイトルが先にあった。
SAUDADE
ブラジル人の会話で日常的に使われる言葉だが、これに正確に対応する言語は英語にも日本語にもない。日本では「孤愁」「追慕」「思慕感覚」などと訳されているが、ヒトの感情を表わす言葉を、モノを指し示す言葉のように翻訳することは不可能だ。
「失われたものを懐かしむ、さみしい、やるせない想い」
こんなふうに書くと、サウダージの意味に少しだけ近づいた気もする。
アフリカ大陸から南米大陸へと奴隷として連行された人々が大西洋の果ての故郷に思いを馳《は》せる。何代にもわたる連行と入植と越境の歴史の中で、ブラジル人の心に刻みこまれた感情をポルトガル語ではSAUDADE≠ニいう一言で表わし、ブラジル音楽の歌詞でもしばしばキーワードのように使われている。
この小説は一九九一年から九二年にかけて月刊誌「マリ・クレール」に連載したものだが、執筆時に決まってくりかえし聴いていたCDがある。ニック・ケイヴのアルバム『ザ・グッド・サン』(一九九〇年)だ。ヘロインのしつこい中毒から抜けだし、十年間暮らしたロンドンに決別したケイヴがSAUDADE≠ニいう言葉に導かれるようにして書いたものだと、ライナーノーツにある。そしてブラジルからもっとも遠い国ニッポンで暮らすぼくも、この言葉に導かれて小説を書いた。
これは一九九二年に刊行されたぼくのデビュー二作目の小説だ。拙著『夜の果てまで』が存外の好評を得たため、その勢いを買って十二年ぶりに文庫に収められることになった。
『夜の果てまで』は札幌と東京を舞台にした一九九〇年三月から一年間にわたるラヴストーリーだが、本作は一九九〇年晩夏の東京を舞台に描いた八日間のドラマだ。
一九九〇年――。日本では翌年のバブル経済崩壊を誰も予想せず、ちびまる子ちゃんの「おどるポンポコリン」が大ヒットしていたが、海外では東西ドイツが統一を果たし、翌年のソビエト連邦崩壊に拍車をかけた。そんな時代を背景にぼくは二つの小説を書いた。一年、そして八日間。物語も時間の長さもまったく違うが、書きたかったことは同じだ。サウージ・サウダージ。
二〇〇四年晩夏
[#地付き]盛 田 隆 二
本書は一九九二年五月に、中央公論社より刊行された単行本『サウダージ』を文庫化したものです。
角川文庫『サウダージ』平成16年9月25日初版発行