瀧澤美恵子
ネコババのいる町で
目 次
ネコババのいる町で
神の落とし子
リリスの長い髪
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ネコババのいる町で
今度はとうとう叔母が死んだ。わたしの身辺の死は、いつも思いがけないときに、突然訪れて、そのたびわたしは言葉を失い、隣のネコババを心配させるのだった。
その日、夜になってみんなが帰ったあと、わたしは病院の霊安室に一人残った。
「早く死にたいわ」
叔母の囁《ささや》く声が、耳もとで聞こえたような気のしたわたしは、慌《あわ》てて立ち上がり、顔の白布をとってみた。叔母の顔はほほ笑んでいた。確かめるように叔母の胸に手をあててみて、やっとわたしはほっとした。
生前の叔母は口癖のように、もう死にたいわ、といっていた。あれは本音だったのか、と叔母の穏やかな顔に見入りながら、わたしは急に叔母がかわいそうになり、嗚咽《おえつ》を堪えようとして、咳込んでしまった。
ネコババから電話で、叔母が倒れた、と聞いたとき、咄嗟《とつさ》にわたしは自殺かと思ったほどだから、叔母が死にたいというのを、冗談に聞き流してはいたのだが、どこかでいつも気にして暮らしていたのだと思う。
「みんな恵里子が来てからなのよ」
と感情にかられてわたしを罵《ののし》った叔母の言葉を、わたしはなにかにつけては思い出していたから、死にたい原因がわたしにあるのではないか、と恐れていたのかもしれない。
わたしは時々|呻《うめ》くような泣き声を漏らしながら、遺体のそばに立ったり坐ったりして、その日叔母はどういう予定だったのだろう、と考えてみた。二年前に祖母が亡くなってから、叔母は日当たりの悪い家に一人で住んでいた。夫と息子とわたしの一家は、近所の賃貸マンションに住んでいて、会おうと思えばいつでも会える距離だったが、まだ四十五歳で、会社勤めをやめていなかった叔母は、気ままがいいといって、あまり訪ねたり、訪ねられたりしなくなっていた。
倒れた日も、叔母は会社へ行くつもりで、いつも通り朝食をとっていたらしい。食べている最中に突然背中に激痛のきた叔母は、救急車を呼ぶのが精一杯だったらしく、救急車が到着したとき、玄関は鍵がかかったままだったそうだ。「縁側のガラス戸をはずして入ったのよ」と後でネコババがいっていた。
保育園で働いているわたしが、知らせを受けて病院へかけつけたときには、もう叔母の意識はなかった。心臓の付近の血管が破裂したのだ、という説明があった。叔母は、午後四時には息をひきとってしまったのだが、病院にかつぎこまれてから一日たっていないということで、検屍というのが必要だといわれ、その検屍官の来るのを待って、とうとう翌日まで、遺体を病院に安置することになってしまった。検屍というのは、事故死とか他殺の可能性を調べるのが目的であるらしく、検査が始まれば五、六分ですんでしまったほどの簡単なものだったが、その日はなぜか検屍官の都合がつかなかったらしい。
身寄りのないわたしは、祖母に引き続く叔母の死で、本当に声もでないほど動転していた。夫も息子もいるのに、これで天涯孤独になった、とひたすら思い込んでしまって、夫の顔を見ても、なんの感慨もわかなかった。夫や息子どころか、わたしには生みの母も実の父もいるのだったが、身寄りというと、祖母と叔母、と思って育ってきたのだ。
夫や夫の家族、ネコババや彼女の旦那さんが入れ替わり顔を出してくれたのに、わたしは呆然として言葉もなく、ただネコババの指示通りに、線香を絶やさず遺体のそばに付き添っているだけだった。時々意識が朦朧《もうろう》として、叔母の生死がわからなくなり、顔の白布をとりあげては、周りをはっとさせた。
翌日は、朝早くから来てくれた葬儀屋と、検屍官の来るのをひたすら待った。親切な葬儀屋で、──あるいはただ営業の都合上、時間を早く知りたかったのかもしれない──朝の七時頃から、検屍官は何時に来るかと看護婦にききまわってくれたが、要領を得なくて結局は九時まで待ち、検屍官が来たときにはもう九時半を過ぎていた。検屍があっというまにすむと、それからの葬儀屋の活躍はめざましくて、人間の一生がこんなに手早くけりをつけられるものなのか、とわたしは感心するばかりだった。
病院から家へ帰ったとき、たった一晩のことだったのに、わたしは違う時代から現在に連れ戻されたような感じを受けた。これがわたしの家、長い間留守にした家、と不思議なものでも見るように思い、もうじき五歳になろうとする息子が抱きついてきたのに、いとしいとも、かわいそうとも思わなかった。息子のほうは、わたしと一晩離れていたものだから、わたしにすがりついたまま離れようとしなかった。わたしは息子の柔らかい背を抱きしめながら、二十五年前の春、息子よりもまだ幼かったわたしを、空港に出迎えてくれたという若い叔母のことを考えていた。
あのときのまだ二十だった叔母のことは、ことあるごとに祖母や叔母から聞かされて、本当は後で合成された記憶かもしれないのだが、あまり繰り返し聞かされたものだから、今ではわたしの三歳のときの記憶のように思っている。三歳の日本語も話せないわたしを出迎えたときの、叔母の困惑した表情を、わたしはずっと心に抱いたまま生きてきたような気さえするのだ。
白い毛糸のワンピースを着て、スチュワーデスのおねえさんに手をひかれ、乗客の一番後からタラップを降りたというわたし。チョコレートやキャンディの入った籐のバスケットを提げて、短いワンピースの下からお揃《そろ》いの毛糸のパンツをのぞかせたわたしは、まるで人形のようだった、と叔母はいっていた。
母から、向こうには叔母さんが待ってるからね、といわれていたが、わたしはもちろん叔母の顔なんか知らなかった。
「ほら、あれがたぶんあなたの叔母さんよ」
とスチュワーデスが身をかがめて、わたしに囁いた。彼女は、わたしの当座の着替えの入ったバッグを持ってくれていた。彼女の指さした若い女は、わたしたちが近づくと表情をゆるめ、
「恵里子?」
とスチュワーデスにとも、わたしにともなくいった。わたしは母から、『叔母さん』とか『お祖母さん』とかいう単語は教えられていたが、それと実体とは結びつかず、母によく似たその人を、スチュワーデスの手を握ったまま、ぼんやりと見上げた。
「叔母さんよ。よく来たわねって」
スチュワーデスにいわれて、わたしは呟《つぶや》くように、「アーンティ」といった。
「この子、日本語は話せないみたいね」
「そのうち話すんじゃないですか」
当惑したような叔母に、スチュワーデスはもっと当惑した顔でそういうと、
「じゃあ、今度は叔母さんと行くのよ。気をつけてね、バイバイ」
とわたしに英語でいい、これ以上の面倒はみきれない、とでもいうように、叔母にバッグを渡して、そそくさと離れていった。
スチュワーデスに代わって手をとってくれた叔母を、わたしは今度はおずおずと見上げた。叔母は笑ってなにかいったが、わたしは意味がわからなかったから、黙っていた。叔母は困ったように首を傾げた。わたしは喉《のど》が渇いていたので、そういってみたが、叔母は顔を曇らせただけで、こたえなかった。わたしは本能的に、この人に気に入ってもらう必要がある、と悟ったので、言葉を変えていろいろいってみたが、叔母はますます黙り込んだだけだった。
構内のレストランの前に来たとき、ショーウィンドーの見本が珍しかったわたしは、バスケットを提げた手でそれをさし、喉が渇いて、おなかもすいた、とわめいてみた。叔母は立ち止まって、わたしの顔をみつめ、一人でうなずいてそこへ入っていった。
「どうしようかしら」
席を決めると、叔母は疲れたような顔をわたしに向けて、そう呟いた。わたしは、ウェイトレスの持ってきた水をすぐに飲み干して、辺りを見回し、隣のテーブルでチキンライスを食べている人の皿を指差して、あれを食べたい、といった。
「え? チキンライスが食べたいの?」
チキンという音を捕らえたわたしは、うなずいた。わたしの知っている言葉が初めて出た嬉《うれ》しさで、なにが来てもいいような気持ちだった。母によく似た若い叔母は、母よりもまめまめしく、わたしが食事をする世話をやいてくれた。
大森新地の祖母の家についたとき、そこでわたしは生後の一年近くを過ごしたのだが、薄暗くて、なんだか怖くて、なかなか中へ入れなかった。やっと中へ入って、祖母と対面したとき、わたしは、早くロスアンジェルスへ帰りたい、と叫んでしまった。祖母と叔母は黙って顔を見合わせた。二人とも、言葉の通じないわたしをどう扱ったらいいのかもてあましているようで、わたしがなにかいうたび、困ったように顔を見合わせた。
母は、「迎えに行くまで、お祖母さんの家にいるのよ」といって、わたしを送り出した。わたしはすぐに母が迎えに来るものと思い込んでいたから、「ママはまだ来ないの」と何度もきいた。
「もう帰りたいの。ママのところに帰るわ」
二人がいつまでも黙っているので、わたしは泣きじゃくり始め、帰る、帰ると繰り返した。
「しようがないわねえ」
「こんな子送ってくるほうが悪いのよ」
二人は当惑して、わたしの母、つまり祖母の娘、叔母の姉をこきおろし始め、わたしは二人の話すまったく通じない言葉を、魔女の呪文のように聞きながら、時々泣くのを止めては聞き耳を立てていた。
祖母はわたしの気をひこうと、お菓子を出してきた。その初めて見る海苔《のり》を巻いた煎餅《せんべい》は、後々までわたしの苦手なおやつになった。夜になってもわたしたちは伝達の方法を見出せず、ついにわたしはおしっこを漏らしてしまった。粗相をしたことで反対に逆上して癇癪《かんしやく》を起こしてしまったわたしに、若い叔母もヒステリーを起こし、わたしの口にその大きな煎餅を半分に割ってつっこんでくれた。息の詰まったわたしは目をむいて、祖母に煎餅をとってもらったのだが、海苔が上顎《うわあご》にくっついて、恐怖のあまり引き付けを起こしかけたほどだった。
その頃すでに会社に勤めていた叔母は、わたしが来るというので、二、三日休暇をとっていたのだが、翌日は早くから出掛けていった。やがて叔母はちょっと年配の男と一緒に戻ってきて、
「こちらは英語がお上手だから。いつも英語の手紙書いてらっしゃるし、なにかとお世話にもなってるのよ」
と祖母にいった。
「すみませんねえ。内輪のことですのに、会社の方にまでご迷惑をおかけして」
「いや、いや、お役に立てるかどうか……」
祖母は丁寧に頭を下げ、何度も礼の言葉を繰り返した。男もそのたび祖母にお辞儀をし、それからわたしのほうへ向いて、おもむろになにかいった。わたしは、それが英語だとは思わなかったから、知らん顔をしていた。その男はもう一度なにかいったが、わたしは、叔母たちの話を聞いているときと同じくらい無表情に、押し黙っていた。すると叔母がわたしの腕をひっぱり、怖い顔をしてなにかいった。わたしはその男の人に悪いことをしたのかと思って、救いを求めるように祖母の顔を見上げた。
「怒ったって、子供なのだから……」
と男は叔母にいうと、またわたしに向かってなにかいった。男の繰り返す音声を聞いているうちに、その緊張のない発音が、わたしにもだんだんと意味を持ってきた。急に嬉しくなったわたしは、早口で、うちへ帰るから飛行機に乗せて、とまくしたてた。
「もう帰るからね、ママに空港にお迎えに来てほしいの。わたし、もう帰るの。おうちに帰りたいの」
男は困ったような笑いを浮かべ、わたしを見つめたまま黙り込んでしまった。
「なんていってるんですか」
と祖母がきくと、男の顔が曇った。
「なんか、大変なことですか」
「うーん、それが……」
「いってください。いいにくいことでも、この際ですから、かまいませんから」
祖母が身を乗り出してそういうと、
「ええ、だけど、その……」
と男は口籠《くちご》もった。わたしは男の腕をつかんで、「早く飛行機に乗りたいの」とまた訴えた。叔母たちは、わたしのその動作でなおさら重大なことだと思ったらしく、
「どうしたんですか。なんなんですって?」
と男にせまった。
「いや、なにしろ幼児の言葉だもんで……。舌ったらずだし、その、なんというのか、聞き取りにくくて……」
「そうでしょうとも、そうでしょうとも。本当にお手数おかけして」
と祖母は頭を下げた。
「興奮してるんですよ、子供のことだから」
「そりゃ、そうですよ。こんな子一人をアメリカから送ってくるんですから。うちの恥さらすようで、なんなんですけど……」
「いや、いや」
「それで、つまり、どうなんですって」
と叔母がついに金切り声をあげた。
「ゆっくりいってごらん。ゆっくり、はっきり、ね」
男はわたしに、ゆっくりとそういった。わたしは彼のその英語ははっきりと理解したのだが、ゆっくりもはっきりもなく、ただ「早く飛行機に乗せて。ここにいたくないの。もう帰るんだから、ママにお迎えに来てほしいの」と、それこそ舌足らずの口でまくしたてた。そうして男と二人、押し問答のようなことを繰り返しているうちに、その男にもわたしのいうことがわかってきて、男は叔母たちに向かい、急に勿体《もつたい》をつけて重々しく、
「帰りたいんだそうですよ。一人で飛行機に乗って帰るそうです。お母さんに空港まで迎えに来てほしい、といってます」
といった。
「やっぱりねえ」
祖母は叔母と顔を見合わせて、しきりに感心していた。
「なにしろ書き言葉とはだいぶ違って省略が多いし……子供の言葉は、ちょっとねえ」
と男はいって、わたしにつまらない質問を幾つかした。
「まあ、腹は減ってないそうです。眠くもないっていってます」
祖母はまた感心したようにうなずき、
「そうですか。朝はそれでも食べましたし、夜も寝てましたからねえ」
といった。
「それじゃ、まあ、わたしはこれで。会社もあることだし……」
「ほんとにすみませんでした。わざわざこんな所までお呼び立てして」
「いやあ、お役に立ててよかったですよ。戦後二十年とはいっても、まだまだ日本には英語のできる人は少ないから」
男は出されたお茶を飲み、ちょっと照れた顔に得意そうな色を浮かべて、
「お祖母さんや叔母さんのいうことを、よくきくんだよ」
とわたしに英語でいった。わたしはその聞き慣れない発音を、一所懸命聞き取ろうと真剣になっていたが、男が、どうもわたしのいったことなど、取り上げてくれそうにないとわかると、恨みがましい目でその男を見つめ、帰りたいの、ともう一度呟いた。男はわたしから目をそらし、叔母たちに見送られて、帰っていった。
「ご面倒かけてしまったわねえ」
「ま、いいのよ。いつもはこっちがご面倒みてるんだから」
祖母は不満そうな顔を叔母に向けて、
「姉妹そろって、なんてことは御免ですよ」
といった。
「どういう意味よ」
「どういう意味か、自分の胸にきいてみりゃわかるでしょ。なんにもなけりゃ、それでいいのよ」
「あるわけないじゃない。なによ!」
ふくれ顔の叔母を無視して、祖母はわたしのほうへ振り向き、
「帰りたい、たってねえ。帰れるもんならこっちも助かるけど……。困ったねえ」
といった。
「時間がたてば、落ち着くわよ。子供のことだもの」
「そうならいいけど……。言葉のことがあるからさ」
「言葉は、ねえ」
「まあ、寝たり起きたりは、人間みな同じだけどね」
「それに、お母さんにとっては孫なんだし」
「孫たって、こんなふうになるなんて思わなかったわよ。あんたは昼間いないから、いいだろうけど……なにかあったら、どうしようね。電話して、あの人にまた聞いてもらおうか」
わたしは二人の会話を、耳をそばだてて、不安そうに聞いていた。わかるわけはなかったが、少しでもわかろうと、目を凝らして二人を見つめていた。
三日目に、ロスの母から電話がきた。祖母がまず先に話をし、「ママだよ」とわたしに受話器を渡してくれた。
「マミー!」
わたしは嬉しくて、狂ったように、早く帰りたい、お迎えに来て、と叫んだ。やっと意思が通じてほっとしたものだから、甲高い声でかみつくように叫んでいた。
「しばらくそっちで、お祖母さんたちと暮らすのだって、いったでしょ」
母の声が冷たく返ってきた。
「いやよ、もう帰りたいの。わたし、一人で飛行機に乗れるわ。お利口にして帰るから、空港に出ていて?」
「いいえ、まだ駄目なのよ。エリーはしばらくそっちで暮らすのよ。お祖母さんや叔母さんのいうことをよく聞いて、お利口にしてなきゃ、ね」
「いやよ。あの人たちのいうこと、ちっともわかんないの。早く帰りたいわ。どうして帰っちゃいけないの? いつだったら帰れるの?」
赤ちゃんが生まれるから、しばらくは駄目なのだ、と母はいった。赤ちゃんが生まれたら、面倒をみる、といったが、母は、
「赤ちゃんの面倒はパパがみるからいいのよ。エリーはもうしばらくそっちにいなさい」
とこたえた。わたしは、ピンクの肌をした背の高い大きいパパのことを思い出して、急に黙ってしまった。母は、叔母に電話をまわすように、といった。
五歳になったわたしは、日本語がうまくなっていた。たまに母から電話がきても、英語ではうまく話せず、日本語で話したりするくらいだった。
その年の夏、母は突然、私をロスへ帰すように、といってきた。
「犬や猫の子じゃあるまいし……。どうする?」
「だって、親なんだからさ、仕方ないんじゃないの」
祖母は悲しそうだったが、叔母にそういわれて、仕方なくわたしを帰すことにした。わたしはまたお菓子をいれたバスケットを持たされ、羽田から一人で飛行機に乗った。
ロスにつくと、母は目を真っ赤にして、公衆の面前でわたしを抱きしめ、涙をこぼした。懐かしいわたしの家には、わたしの父ではない、青い目の母の夫のほかに、わたしの異父妹がいて、わたしの居場所はあまり楽しいものではなくなっていた。いつでもなんでも、異父妹が中心だった。
わたしは、母の夫がわたしの父ではないということに、いつ気がついたのか覚えていない。祖母も叔母も、わたしの父に関しては、一言もいわなかったから、きっと小学校の高学年になってから、友達の噂《うわさ》で知ったのだと思う。
二年間も祖母たちと過ごしたわたしは、母の夫になにかいわれたり、母に英語でものをいわれたりすると、困ってしまった。母の助けを借りてこたえようとしても、吃るばかりで満足に返事もできなかった。母は夫の困惑した表情に気を遣い、わたしを怒ったりしてみたが、わたしはその分ますます言葉が怖くなっていった。わたしのいないほうが家庭は平和だ、と結論を出した母は、二か月足らずで、またわたしを日本へ送り返すことに決めた。
もう一度、籐のバスケットを持たされたわたしは、一人で飛行機に乗せられ、貨物のように羽田へ送られた。空港には、また叔母が出迎えに来ていたが、わたしは叔母に会っても、一言も話さなかった。今度は叔母のほうが、矢継ぎ早にあれこれと質問をあびせたが、わたしは黙ったまま叔母の手を握り、なにもいわなかった。
「どうしたの? 日本語忘れたの? そんなことないでしょ」
わたしはちゃんと日本語を覚えていた。叔母の話すことはわかったし、出迎えてもらって嬉しかったが、話そうとしても言葉が出てこなかったのだ。叔母を喜ばせたいという意識は前よりもっと強くなっていたが、日本語と英語が頭の中でどうにかなったのか、いかなる言葉も出てこなかった。祖母と会っても同じだった。かわいそうに、と呟く祖母に、なにかこたえて安心させてやろうとするのだが、言葉は、日本語だろうと英語だろうと、口もとまで出かかると、突然どこかへ消えていった。
それから半年以上も、わたしは口をきくことがなかった。もうロスへは戻れないこと、母がわたしを捨てたことを、今度はよくわかっていた。祖母の家で、祖母と叔母にかわいがってもらうしか、生きていく方法がないことを、五歳のわたしは完全に悟っていた。
「実の娘捨てても、男のほうがいいかねえ。そんな薄情な娘ではなかったけど、ねえ」
と祖母が叔母にいうのを、わたしは自分のことのように、身をすくめて聞いた。
「勝手なのよ、お姉さんは。いつもそうだったもの。いいわよね、あんなふうに好きなことができたらさ」
と叔母のいうのも、わたしの母を嫌っているのだな、とわたしは肩身の狭い思いで聞き、これからは二人の前で、絶対に母のことをいうまい、と自分にいいきかせていた。
叔母は勤めていたから、昼間は祖母とわたしだけになった。昔は大きい待合だった祖母の家は、次第に変貌しようとしている周りに先駆けて廃業していて、広い土地の半分は売ってしまい、残りの土地に、待合の名残をしめす建物が、半分取り壊されて、変な格好で残っていた。二階には幾つも部屋があまっていたが、祖母は、他人が入るのも面倒だから、そのうち建てかえたらアパートにでもするよ、といって、空いたままにしておいた。隣のネコババの家も待合だったが、祖母と同じ頃にやはり廃業して、蒲田のほうに料理店を出していた。ネコババの家は建てかえてあったから、まだ新しくて気持ちがよかった。
ネコババは、祖母よりは十歳くらい若かった。わたしとは仲よしだったが、祖母とはあまり口をきかなかった。祖母はネコババの旦那さんを、「政夫さん」と名前で呼んで話していた。
『ネコババ』といっても、いつも野良猫の面倒をみていたから、叔母が勝手にそう呼んでいただけだ。そのうちネコババは、野良猫の中から特別に二匹を選んで、家猫にした。外へ出ると病原菌をもってくるからといって、ネコババは二匹の猫の避妊だか去勢だかの手術をして、猫が外へ出ないようにした。そのかわり、ガラスの引き戸の付いた特別製の檻《おり》を作って、その中に猫を入れ、玄関の前の露地の日だまりで、午前中の一時間はかならず日光浴をさせていた。どんなに寒い日でも日光浴は欠かさず、ネコババもそばに付き添っているのだ、と叔母はいっていた。猫の番をしているから、ネコババなのだ、と叔母は解説をしていたが、午後になると猫の番をするおねえさんが来ることを、勤めている叔母は長いこと知らないでいたのだ。
ネコババとおじさんが、午後になって蒲田の店へ出掛けて行くと、猫の番をするおねえさんは、留守の家へ猫の面倒をみにくる。叔母はそれを知ってから、そのおねえさんをネコバンというようになった。ネコバンのおねえさんはまだ十代で、長い髪をポニーテールに結っていた。ネコババは働き者で、午前中に掃除も洗濯も猫の日光浴も、みんなやってしまうから、ネコバンのやることは、家猫と遊んでやったり、夕方になると猫に鯵《あじ》を焼いてやったりすることくらいのものだった。猫が淋しい思いをしなければいいのだ、とネコババはいっていたから、それで十分だったのだろう。
わたしは午前中はネコババに付き合って、一緒に猫の檻のそばに立ち、午後はネコバンと一緒に、ネコババの家で過ごした。祖母は朝の片付けが終わると、一服しながらかならずわたしの様子をじっと見つめ、夜になって叔母が帰ってくると、
「どこが悪い、ってこともなさそうなんだけどね」
と報告するのが習慣になっていた。
「そのうち話すとは思うんだけど……困ったもんよね」
祖母も叔母も毎日わたしの心配をしているわりには、病院へ連れていくわけでもなく、わたしはわたしで、薄暗い陰気な家で祖母に見つめられるのを避けて、ネコババの家に入り浸る、という奇妙な毎日を続けていた。
ネコババは、わたしが話さないということは知っていたが、そんなことを気にする人ではなかった。わたしが返事をするかどうかなどどうでもよくて、ただ自分のいいたいことだけを、歌うように口にする人だった。わたしは周りの話す日本語はほとんどわかっていたから、うなずいたり、首を横に振ったりはしたが、誰《だれ》に話しかけられても、決して口をきくことはなかった。不思議なことに、話さないのも習慣になってくると、不便なことなどなに一つなかった。
「恵里子ちゃんはいい子だねえ。絶対口答えしないんだから、かわいいったらないわ。チイちゃんと同じだね」
とネコババは、わたしにいっては、猫に話しかける。
「身振り手振り顔つきで、なんでも通じさせちゃうんだからさ、猫と同じだよ」
と笑うこともある。ネコババにとっては、わたしも猫も同格だったのだろう。
時々わたしは、ネコババの家で、ネコババとおじさんと三人でお昼を食べた。祖母と二人で食事をすると、祖母は、あれを食べろ、これを食べろ、と口うるさく、わたしが食べ残すと、それまで失語症と結び付けてしまうので、わたしは悲しくなることがあった。ネコババの家では、わたしがなにを食べようと、なにを残そうと、二人とも注意も払わなかった。わたしはいつになっても海苔が苦手で、どんなふうに食べても上顎にくっつかせては大騒ぎをしたが、祖母はそれすらわたしの異常体験のせいにして、長い間心を傷ませていた。ネコババの家では、ネコババもおじさんも、わたしが口をきかないのをいいことに、近所の悪口や噂話をして、しょっちゅう笑いころげていた。わたしはそれを、まるでなんでもわかっている年増の猫のように、黙って聞き耳を立てて聞いていた。
午後になってネコバンが来ると、わたしは絵本や母の送ってくれる塗り絵をもって、ネコババの家へ行った。ネコバンはアメリカの塗り絵をうらやましがって、かわいい女の子の絵などがあると、取り上げては夢中になって自分で塗った。猫のお守りをするはずなのに、猫にはかなり冷淡で、猫たちもあまりネコバンにはなついていなかった。駄菓子を食べながらテレビを見たり、雑誌に読みふけったりするネコバンのそばで、わたしは二匹の猫をひっくり返したり、くすぐったりして、猫の好みの隅々まで知り尽くしていた。一匹の猫は、脂ぎった下顎をくすぐられるのが好きだったが、あまり撫《な》で過ぎると、ぎゃっと小さく叫んでわたしの指をかむ。しっぽの先を押すと、二匹とも反射的に信号のような声を出すので、わたしは面白がって何度も押しては、そのたびネコバンに叱られた。
ネコバンは三時になると猫に牛乳をやるのだが、テレビに見とれていて、よく忘れた振りをした。忘れていれば、わたしが代わりにやることを、ちゃんと承知していたのだ。ネコバンはわたしが結構役に立つことを知ってから、あれやこれや用をいいつけるようになり、わたしはまた褒めてもらおうと、喜んでネコバンのいいなりになっていた。
夕方になってネコバンが猫の鯵を焼くと、──それはちゃんと魚市場で、猫のために買ってくるいい鯵だった──わたしは、猫が食べやすいように鯵の身をちぎる。ネコバンは、ちぎった鯵を自分の口に入れたり、わたしの口にほうりこんだりするので、わたしが家に帰ると、「なんだか生臭いね」と、祖母はよく鼻をうごめかした。
祖母は母の代わりに、一生わたしに負い目を感じていたらしく、わたしが遅くまでネコババの家で遊んでいても、なにもいわなかった。わたしを捨てるような娘を生んだことを恥じていて、どうにかして自分がその埋め合わせをしてやりたい、と願っているようだった。わたしが大きくなってからは、それは金銭にとってかわって、叔母に内緒だといっては、よく小遣いをくれた。
わたしに甘い分、祖母は叔母には辛くて、叔母は、ちょっと遅く帰る日が続くと、祖母に嫌味をいわれるのだった。叔母の帰りが遅くなったのは、わたしが祖母の生きがいになったと安心したからだろう、とわたしはかなり後まで思っていたが、叔母のはただ、恋人と付き合う日は遅くなる、というだけのことだったらしい。祖母はまた、その叔母の付き合っている男が、どうにも気に入らなかったようで、ことあるごとに嫌味をいっていた。叔母は男運の悪い人で、結局死ぬまで結婚できなかったのだが、付き合ったどの男も、祖母の好みにはかなわなかったようだ。
母と叔母とわたしの三人はよく似ていて、わたしと叔母といると、よく親子と間違われた。若い叔母はいつも怒ったが、あれはたぶん、似ているということが、わたしの母と同じ運命をたどるのではないか、と心配させたからだと思う。
わたしが突然口をきいた日の朝も、祖母と叔母は、叔母の恋人のことでいい争っていた。それは一月の終わりのことで、朝目がさめると、外は雪で覆われていた。
「わあ、大変。会社行けるかしら」
「行けるに決まってるじゃない。なにさ、これくらいの雪。なんだ、かだいって、最近は口実つくっちゃ、怠けようとばっかりするんだから。
夜が遅いから、そうなるんだよ。変な男にくっつくのもいい加減にしておくれよ。ほんとになにやってんだか……。みっともないことだけは御免だからね」
「いやあね。わたしがなにやってるっていうのよ。お母さんはなんでも変なふうにとるんだから。
行きゃあいいんでしょ。行きますよ。なにさ、こんなうち。会社のほうが、よっぽどましだわよ」
叔母は祖母にいわれるまでもなく、うまくいかない恋愛に自分で悩んでいたようで、それを傍からいわれたものだから逆上して、長靴も出さずに、家を飛び出していった。
「困った子だよ。よくない相手、よくない相手、とわざと選んでしまうようにできてる子かもしれない」
祖母は叔母の出ていったあとに、そう呟いていた。
わたしは縁側へ行き、ガラス戸を少しあけて、ネコババの家の裏庭へ目をやった。日があたって、雪が眩《まぶ》しかった。日陰の雪は色が沈んでいるのに、日に輝いている部分は、日だまりの中にいる白猫の毛のように美しかった。
「外へ行きたいんなら、今のうちに行っておいで。お昼になると、雪がとけて、恵里子はきっと転んで、泥んこになるからね」
と祖母が部屋の中から声をかけた。わたしはうなずいたが、朝早くから出掛ける気にはなれずに、ネコババの家の庭を見続けていた。雪が松の木から音を立てて落ちるのが珍しくて、わたしはあきもせずに、次はいつ落ちてくるかと待ち続けた。
働き者のネコババが、洗濯物を干しに庭へ出てきた。
「恵里子ちゃーん、おはよう」
ネコババはわたしに気づくと、低い垣根越しに大きい声を出した。わたしはうなずいて、笑ってみせた。
「いつまでそんなとこにつっ立ってるの。風邪引くから、こっちおいで」
祖母が呼んだ。わたしは戸をしめて、素直に部屋へ戻ると、祖母が一服している炬燵《こたつ》にもぐりこんだ。洋服が冷たくなっていた。
ネコババは、店へ出掛けるときのほかは洋服だったが、祖母はいつも着物を着ていた。裾《すそ》までとどくような長い前掛けをして、袖口《そでぐち》にゴムの入ったうわっぱりをつけていた。そんなに家事が好きではないらしくて、叔母が出掛けるとまず一服、食事の片付けが終わるとまた一服、掃除が終わるともう一服、というふうで、午前中はなんとなくいつまでも片付かなかった。たまに近所からマージャンの口がかかると、家事をしないですむいい口実ができた、とばかりに、祖母はうわっぱりをはずし、縮緬《ちりめん》のきれいな前掛けにしめかえて、鏡台の前で薄く白粉《おしろい》をはたいたりすることもあった。
「お昼になったら、食べるんだよ」
と、そんなときに用意してくれるのは、いつも味噌をつけただけのおにぎりで、それに甘い卵焼きと決まっていた。それなのに、そんな日にネコババがお昼に誘ってくれても、わたしはかならず断った。薄暗い家で、一人で冷たい味噌おにぎりを食べ、ネコバンのおねえさんの来るのを待ってから、やっとネコババの家へ出掛けていくのだった。
「アメリカも雪が降るのかねえ」
祖母が独り言なのか、わたしにいったのか、とても知りたそうにいった。わたしは肩まですっぽりと炬燵に入って、天井を見ながら、もう記憶の薄れた過去を一所懸命思い出そうとしてみた。母の記憶は曖昧《あいまい》になっていて、叔母の顔とだぶったりするのだが、背の高い母の夫の金色の毛の光る腕や、青くてどこまでいくと底なのかわからなかった瞳などは、昨日会った人のようにとてもよく覚えていた。
雪が降ったかどうか考えているうちに、わたしは炬燵の温かさで眠ってしまったらしく、目を覚ましたときには、祖母はいなかった。卓袱台《ちやぶだい》の上に味噌おにぎりがあったから、マージャンだなとすぐにわかった。
午後になって、ネコバンが来る頃には、雪はすっかりとけて、祖母のいった通り泥んこになった。わたしは叔母に買ってもらった絵本と縞馬《しまうま》の縫いぐるみをもって、ネコババの家へ行った。ネコバンは来る途中で買ってきたのか、紙袋から今川焼きを取り出して、わたしにくれた。湯気で湿った今川焼きはとても熱くて、わたしは持てずにテーブルの上へほうり出してしまった。
ネコバンはテレビのチャンネルをまわすと、今川焼きを食べながら見始めた。わたしはそのそばで絵本を開き、腹ばいになって、字を真似て書き始めた。わたしは叔母に教わって、もう自分の名前は漢字で書けたし、平仮名もほとんど、片仮名なら全部書けた。なんでもそばにあるものを、すぐに真似て書いてみる癖があって、
「口のきけない分、書くのはうまいわね」
と祖母や叔母を感心させていた。
わたしは、ようやく持てるようになった今川焼きを、ネコバンに寄りかかりながら、足を投げ出して食べ始めた。猫が擦《す》り寄ってきたので、口移しで猫に今川焼きをやると、ネコバンは、「汚いことしないの」とわたしを頭の上から睨《にら》んだ。夕方近く、そろそろ猫の鯵を焼いてもいい頃になってから、
「いけない。外猫に牛乳やるんだった」
とネコバンが叫んだ。玄関脇の狭い露地の八つ手の下で、いつのまにか野良猫が子供を生んでいた。その露地は隣の待合に接していて、そこの待合からはよく苦情が来ていた。野良猫がうろついていて汚い、というのが一番の理由で、餌をやる、やらないでいつも揉《も》めていた。近隣の海の埋め立てが始まってから、海辺の料亭も廃業し、その跡地にどこかの会社の社宅が建つ、とかいう噂の流れていた頃で、待合や料亭の並ぶ町は変わろうとしていた。早々と廃業したネコババの家と隣の待合とは、昔から張りあっていたこともあってか、なにかと衝突することが多かった。
ネコババは軒下に段ボールを用意して、親猫の留守の間に、子猫を移していた。突然の雪で、野良の子猫を心配したネコババは、出がけにネコバンに頼んでいったのだろう。頼まれたって、家猫にさえ注意を払わないネコバンのことだから、外猫になどまして注意の行くはずがなく、
「恵里子ちゃん、ちょっと子猫の様子見てきてよ。ああ、いいや。牛乳出してきて、牛乳。あっためたらもっていってね。そうか、恵里子ちゃんはまだガス使えないのか。しょうがないわね」
とそれでもまだテレビから目を離さずにわたしに命令していたが、やっとあきらめて立ち上がり、牛乳を鍋にかけると、カップを二つと猫用の皿を出してきた。
「これがわたしたちの牛乳でしょう、……はい、これはチイちゃんたちの。これは野良猫の。猫は猫舌だからね、あんまり熱いと、飲めないのよ」
とネコバンはいって、猫の皿には水をたした。
「恵里子ちゃん、これ、外へ持っていきなさい」
ネコバンは家猫の皿を下に置き、わたしに野良猫用の皿をよこした。わたしはこぼさないように気をつけながら、捧げるように皿をもって、そっと玄関へまわった。
軒下の段ボールは、前夜からの雪で濡れていた。親猫は餌でもさがしに行ったのか、姿が見えなかった。子猫が二匹寄り添って震えていたが、一匹だけ離れて背中を丸くしていた。まるでボールのように丸くなっていたので、わたしは牛乳の皿を下に置くと、ちょっと指先でつっついてみた。子猫はたわいもなく転がった。驚いたわたしは、立ち上がった拍子に牛乳の皿をひっくり返し、牛乳は軒下のコンクリートに染みをつくりながら流れてしまった。
子猫は転がったまま、動かなかった。わたしは夢中で走って家へ飛び込み、ネコバンの腕をひっぱった。
「なによ。今面白いのよ」
とネコバンはテレビから目を離さずに、うるさそうにいった。わたしがもう一度力んで手をひっぱると、
「なんだってきいてるのよ! 言葉でいいなさいよ、言葉で! うるさいんだから」
とネコバンは怒鳴った。
「猫が死んでるの。早く来て」
わたしはこのときのことを思い出すたび、わたしの声は鈴のようだったと思っている。けれどもそのときには、ネコバンもわたしも慌てていたから、わたしが突然口をきいたという事実には頭がまわらなかった。ネコバンは、牛乳を飲み終わって、手で顔を撫で回している家猫たちの上を飛び越えて、外へ走っていった。
「まだ死んではいないけどね、これは駄目だわ。鼻がふさがって、息できないもん。──どうしようかなあ。野良猫だから、医者呼ばなくてもいいか。呼んだって、間に合わないもんね。もう半分死んじゃってんだから」
ネコバンは、倒れている子猫を立たせようとしながら、そういった。立たせようとしても、子猫はまたすぐに倒れた。
「駄目なの?」
「うん、もう駄目。この寒さだしね。小さいから、抵抗力がないのよ」
「どうしてこれだけ駄目なの?」
「そういう運命なんでしょ。最初からきっと弱かったのよ」
「もう死んだ?」
「死んだと思う、きっと。──どうしようか? 捨てるしかないよね。あんた、新聞紙もってきてよ。それからなにか、袋みたいなもの……、中にいれて捨てるからね……あれ、恵里子ちゃん、今しゃべった?」
ネコバンは、それまで平気でつっついていた子猫を急に怖がって、手を出そうかどうしようかと迷っていたが、突然気がついたように、不思議そうな顔でわたしを見上げた。
「あんた、話せるの?」
わたしは黙ってうなずいた。
「言葉知らないのかと思ってたわ」
わたしは黙ったまま首を振った。
「どうして黙ってたの? いつから話せるようになったの? 前にも話してたの?──黙ってたら、わかんないでしょ。ちゃんとこたえなきゃ駄目じゃないの。──いってごらん。あんたの名前はなあに」
ネコバンは怖い顔をして、そういった。
「恵里子」
「幾つ?」
わたしは指で数を示した。
「言葉で、言葉でいうのよ!」
「六つ」
「うちはどこ?」
「となり」
「いえるんじゃない。馬鹿みたい。黙ってたら、みんなにおかしい子かと思われるのよ。変な子だわね、あんた。どうして今まで黙ってたのよ」
そういってネコバンはわたしを睨み、今度は簡単に手で死んだばかりの子猫の死骸をつかむと、箱の外へほうり出した。
「こっちの猫たちは、大丈夫そうね」
と二匹の震えている子猫を見下ろしながら、ネコバンは、ああ、寒い、といって家へ戻っていった。
「死んだ猫、新聞紙で包んでおくのよ。後で捨てるからね」
わたしはうなずいて、ネコバンの後から、まるで子分のように家の中へ入っていった。
その夜、わたしはいつものように黙って、祖母と叔母との会話を聞いていた。二人とも、わたしは話さないものと決め込んでいたから、わたしの存在など無視したまま、いつもと同じく脈絡のない話を、次から次へと発展させていた。
「今日もネコババのうちへ行ってたの?」
「そうでしょ。どこがいいんだか、毎日通ってるわよ」
「ネコババ、なんかいってくる?」
「ううん。まあ、あんまり顔合わせることもないけどね……。
あの人も変わったのかねえ。昔はほんとのネコババだったけど、本物の猫かわいがるようになってから、ネコババ廃業したみたいになって……。これが昔だったら、誰もあの人の座敷なんか、一緒に出たがらなかったもんだわよ」
「だって、結婚したんだから、それほどでもなかったんじゃないの?」
「いいえ、騙《だま》されたのよ、政夫さん。ひとがいいもの、優しいひとでさ」
「お母さんと大違いね」
「まっ! わたしは自分がひとがよかったのよ。ひとがいいから、騙されたほうだわよ」
「お母さんが騙されたお陰で、わたしとお姉さんは苦労したのよ」
「育ててあげたのに、なんていいぐさする子だろ」
「だって、お姉さんだって、逃げてったじゃない」
「逃げてったんじゃないわよ。追い掛けてったのよ、あの子は」
「ここから逃げたくて、追い掛けてったんでしょ」
「まさか! 逃げてったところへ、子供送ってくる馬鹿はいないわよ」
わたしは、二人が早口でしゃべりだすと、いつも動悸《どうき》が早くなった。いつ母の名やわたしの名が出るだろうと、気が気でなくなるのだった。
「恵里子、もう寝なさい」
と叔母は、突然わたしに気づいていった。わたしは塗り絵をしまって、素直に立った。口のきけなかった頃のわたしは、本当に素直だった。周りのいうことはすべてわかって、口答え一つしないのだから、よく訓練された犬のようなものだったと思う。
叔母はたまに、わたしに絵本や洋服を買ってくれることがあった。どういうときなのか、わたしにすっかり没頭して、着せかえ人形のようにわたしを扱っては、あれこれ着せたり脱がせたり、あきもせずに時間を過ごしていた。わたしは腹を押されても泣きもしない人形だったから、叔母は好き勝手にわたしを動かし、髪を結ったり、ときには唇に紅をさしたりして、ままごとでもするように遊んでいた。
翌朝もわたしは、いつもと変わらず口を閉ざしたままでいた。黙っているのが当たり前の毎日だったから、前の日にネコバンに口をきいたことなど、自分でもむしろ不思議で、信じられないくらいだった。
前日の雪は、日陰の部分を除いてすっかり消え、道は乾いて、空は晴れ上がり、風が冷たかった。ネコババの家では、もう洗濯物が干してあった。
「今日は遅いの?」
「うーん、早く帰ると思うけど……」
叔母が出ていってから、祖母は、
「どうして、ああ変なのとばっかりくっつくんだろうね。貧乏神しょっちゃってんのかしら、あの子」
とまた呟いた。
ネコババが猫を日光浴に出す時間になったとき、わたしはいつものように、外へ出ようと玄関をあけた。その音で、露地に出ていたネコババは、振り向くなり、
「恵里子ちゃん、しゃべったんだって? よかったねえ、また口きけて」
と大声で叫んだ。祖母がわたしの背後から、怪訝《けげん》な顔をのぞかせた。
わたしは後で、祖母からこっぴどく叱られた。祖母が怒ったのは、わたしが話せるようになったのを隠していたからではなく、どうもネコババの家で言葉を取り戻し、ネコババのほうが先にそれを知ったという事実に対してだったようだ。
「でも、まあ、よかったわ。これで学校も行けるし、まあ、まあ、助かったこと。一安心、一安心。……だけど、つまり、どういうことだったのかねえ」
祖母は、自身に問いただすように、首を傾げていた。それからわたしは自然と、誰とでも話すようになり、むしろおしゃべりな子になっていった。
高校生になったわたしは、閑《ひま》さえあれば、貯めている小遣いの額を数えていた。父を訪ねていこうと決心してから、わたしはさらに意識して小遣いを貯めていた。
周りの待合や料亭は、もうほとんど廃業していて、その跡にアパートだの民家だのが続々と建築されていた。祖母は相変わらず、半分壊したままの古い家を建てかえもせずにいたから、高校生のわたしは二階の空き部屋をみんな自分で使っていた。わたしはそのときの気分によって、好き勝手に部屋を替えたり、使い分けたりして、前のように毎日ネコババの家に入り浸るということはなくなっていたが、自由に気ままに暮らしていた。
中学二年のとき、母から祖母にきた手紙を盗み読んで、実の父が名古屋にいると知ってから、わたしはいつか父を訪ねようと計画していた。母は、わたしの父ではない男と、正式に結婚していた。青い目の父親そっくりのわたしの異父妹と、母たち三人の写った写真が同封されていて、もう日本へ帰ることもないと思う、恵里子をよろしく、と書いてあった。恵里子の父には、ついでがあったら、その旨伝えてください、とあって、たぶんこの住所だろうと思います、と名古屋の住所が書いてあった。祖母は、わたしがまだ学校から帰ってない、と思ったのか、読み終えた手紙を卓袱台の上にほうり投げ、
「あほらしい。自分が捨てた男が、そんなこと知りたがるとでも思ってんのかしら。まったく、どこまでおめでたい子なんだろ」
と呟いた。裏口から台所へ入っていたわたしは、その航空便がきっと母からだ、と思ったので、後でこっそり読んでやろうと、祖母に気づかれないように、また裏口からそっと姿を消した。
わたしは、垣根を飛び越えてネコババの家へ行き、縁側からネコババの家へ上がり込んだ。ネコバンは電話をかけまくっていた。わたしはネコバンに目で挨拶《あいさつ》をすると、年とった猫たちを撫でてやりながら、テーブルの上のネコバンのおやつをつまんだ。それから靴をもって表へ回り、祖母の家の玄関から、改めて、「ただいまあ」と帰っていった。
「お帰り。早かったね。クラブ、なかったの?」
「ない、ない。水曜日はないの。先生が研修だから」
「研修って、先生でも研修があるの?」
「さあ。組合とか、そういうのかな。授業も早く終わるよ」
そういいながら、わたしは、祖母が叔母に見せるはずの手紙をどこにしまったか、目でさがした。
祖母が夕食の支度をしている間に、その手紙を読んだわたしは、頭の中が名古屋でいっぱいになった。わたしは急いで父の住所を書きとめ、後で名古屋の地図を買おうと決心した。そのときには、父を訪ねようなどとは、思いもしなかったが、ことあるごとに名古屋の地図を眺め、父ってどんな人だろう、と想像するたびに、どうしても一度訪ねてみたくてたまらなくなったのだ。
祖母は、叔母さんには内緒だよ、といって、いつも余分に小遣いをくれたから、わたしはけっこうお金を持っていた。ボーナスのときなどには、叔母も幾らか小遣いをくれたので、わたしはそれもあまり使わずに貯めていた。千代紙を折ってつくった袋に大事に貯めていて、わたしは叔母にいわせると、金持ちなのだった。叔母は、わたしが祖母から十分に小遣いをもらっていることを知っていて、どうかすると、「恵里子、ちょっとお金貸して」ということがあった。
「返してね」
「返すけどさ、あんた、しっかりしてるわね。なにに遣うのよ、そんなに」
「叔母さんこそ、なんに遣うのよ。働いてるくせに」
「いいから、いいから。お祖母さんには内緒よ」
うちでは、祖母にも叔母にもわたしにも、それぞれ内緒のことがいっぱいあるのだった。
叔母の最初の恋愛は、初めて勤めた会社の上司だったらしいが、それはうまくいかずに、上司の転勤で別れてしまった。次には若い社員と恋仲になり、結婚の話にまで行ったのだが、話が決まりかけたときに、男が心変わりして、叔母を断る理由に、わたしの存在を問題にしてきた。わたしが、本当は叔母の子ではないか、というのだった。叔母は、なにも知らないわたしに当たり散らして、
「あんたの顔なんか、見たくもないわ! 頼んだわけでもないのに勝手に転がり込んできて、あのバスケットの中には、疫病神《やくびようがみ》でも入れてきたんでしょ! お姉さんもお姉さんなのよ。自分は好き勝手なことして、面倒は全部わたしに押しつけるんだから。わたしの縁談まで壊すことないと思うわよ!」
と目を三角にして怒った。それまで見たこともなかったような怒りようで、わたしがもう一度言葉を失いたくなるほどの罵りようだった。悪いことには、その頃祖母の具合があまりよくなくて、一時は寝込んだりしたものだから、叔母とその男との距離はますます離れていった。
「すべての不運のもとは、みんなあんたのお母さんよ」
と叔母は、あからさまにわたしに嫌味をいった。わたしをいじめることが少しでも救いになったのか、意地悪な言葉を無理矢理さがしだして怒っているように聞こえた。それからその男が地方へ転勤になると、
「よかったわ。あんなのと別れてさ。青森なんか、わたし行きたくなかったのよ。寒いとこなんていやだと思わない? あいつ、あんなつまんない子と付き合うから、ツキが落ちたのよ。だから飛ばされたのよ」
とその男をこきおろしていた。
母よりもずっときれいだった叔母は、別れたと思うと、またすぐに次の恋人ができるのだったが、祖母にいわせると、どれも、貧乏神みたいな男、ばかりだった。
「次から次へと、まあ……、尻の軽い子なのかしらねえ。恵里子のお母さんのほうが、まだましだったわ。筋は通してたもの……」
と祖母は、叔母の恋愛を褒めたことがなかった。
「恵里子ちゃんの叔母さんは、結婚するのかな?」
とネコババのおじさんにきかれたことがあって、
「ううん、わたしがいるから駄目なのですって」
とこたえると、おじさんは変な顔をしたことがある。
「そうお? この前、男の人と歩いていたよ。親しそうだったけど、違うのかな」
「そうだとしても、またきっと別れるわよ。わたしが、みんなそうするんですって。だから結婚できないんだって。──おじさんは、わたしのお祖父さん、知ってるの」
「恵里子ちゃんのお祖父さんか? うん、知ってるけど、……もう死んでるよ。きっと死んでるな、そんな年だもの」
そういって、おじさんは口をつぐんだ。それ以上きいてはいけないのかと思ったわたしは、どうして祖母とネコババはあまり付き合わないのか、と質問を変えた。
「恵里子ちゃんのお祖母さんは、欲のない人だったから、うちのばあさんとは気があわないんだろ」
とおじさんは言葉少なにこたえた。それから、祖母は若い頃とてもきれいだった、と遠くを見るような目でいった。
「町を歩くと、擦れ違う人がみんな振り向いたもんだよ。新地一番の美人でねえ……」
それで祖母は、今住んでいる、大きい待合だった家の養女になり、とても繁盛させていたのだと教えてくれた。
「いい女でねえ、ずいぶん憧《あこが》れたもんだったよ」
とおじさんは、笑いながらいった。養母だった待合のおかみさんが、思いがけなく若死にしてから、わたしの母と叔母が生まれ、若いネコババが新地に芸者で出てきて稼ぎ頭になった。きれいなだけにいつもちやほやされて、物質欲も金銭欲も、経済観念もなにもなかった祖母は、焼き餅も手伝ったのか、やり手のネコババを汚いといって、敬遠したらしい。ほかの芸者がいやがるから、と理屈をつけて、ネコババにはなるべく座敷をかけなかったそうだ。ネコババが料亭の三男坊のおじさんと結婚して、おじさんの家の親戚だった隣の待合を引き受けてからは、祖母はネコババと話もしなくなったらしい。祖母はきっと、負けることが嫌いだったのだろう。
「そういう気持ちを、顔に出すのもいやがった人だったから」
とおじさんはいっていた。
祖母が廃業を考えたのは、とても早い時期だったそうだ。
「廃業したのは、恵里子ちゃんの叔母さんが、ちょうど恵里子ちゃんくらいのときだなあ。決めると早いからね、あの人は。それに、そろそろ廃業しどきだって聞いたんだろうなあ、恵里子ちゃんのお祖父さんにさ。お祖父さんは、そういうことをよく知ってる人だったから」
「そう。……うちのお祖母さん、もしかして、おじさんのこと好きだったの?」
「それはないよ。そうだったらいいけどさ」
おじさんは笑ったが、嬉しそうに見えた。
「わたしのお父さんのことも知ってる?」
「恵里子ちゃんのお父さんか? いや、それは知らない」
「まるっきり? 会ったこともない?」
「うん、会ったこともない。噂には聞いたけど、噂は噂だから。──恵里子ちゃんのお母さんは、頭の切れる人で、ここらじゃ目立ってたよ」
ああいう人は、アメリカのほうが合うのかもしれない、とおじさんはいった。
「なにをしてたんだろう、わたしのお父さん。どんな人だったのかなあ」
「きっと格好のいい人だったと思うよ。お母さんが好きになったくらいだから」
「だって、お母さんは捨てたんでしょう?」
「もっといい人に出会ったからでしょう?」
いい人だったかなあ、とわたしは、わたしの頭の中で勝手にふくらんで、実際とは違ってしまっているかもしれない母の夫のことを考えた。思い出すたび、半袖のシャツから出た腕に、金色の毛が光っている、大きいアメリカ人だった。
わたしは、祖母にも叔母にも、生みの母にもきけないことを、おじさんにきいた。そしてそれをおじさんがネコババに話すものだから、わたしはまたさらにネコババの同情をかっていた。
高校二年の夏休み、わたしはついに父を訪ねることを決行した。母の書いてきた住所にまだ住んでいる、という保証はなかったが、とにかく訪ねてみることにした。訪ねてみれば、一応それで気持ちがすむと思った。
テニス部の合宿が四万温泉であったので、わたしはそれに参加するといい、祖母にプリントを見せた。祖母は疑いもせずに、参加費用をくれたから、わたしは貯めていた小遣いとあわせて、十分過ぎるほどのお金を持って家を出た。
東京駅で新幹線に乗ってから、わたしはもう何度も見て、暗記してしまったほどの名古屋の地図を、もう一度出してみた。地図を開くなりすぐに目が、父の住む辺りへ行くようになっていた。わたしの知っている親しい大人の男といえば、ネコババのおじさんくらいだったから、わたしは昼日中に訪ねていって、はたして父がいるものかどうか、なんてことは、考えてもみなかった。訪ねていけば父がいて、それを眺めてくればいい、と漠然と思っていたのだ。とにかくその番地を訪ねてみて、どういう人が住んでいるのか確かめてみたいだけの気持ちだったので、初めての土地へ、会ったこともない父を訪ねていく、などという不安は、少しも感じていなかった。
名古屋へついて、駅前に佇んだとき、初めてわたしは不安になった。わたしは駅からの距離をまったく計算してなかったので、訪ねる番地が近いのか遠いのか、まずそのことに当惑した。ラケットの飛び出た大きいバッグを提げて、突然わたしの頭から方向もなにも消えてしまった所番地に呆然としながら、わたしはあちこち歩いてみたり、立ち止まったりして、やっとタクシーに乗ることを思いついた。
母の書いてきた住所には、「平田」と表札が出ていた。わたしの父の名字だった。建て替えたばかりなのか、まだ新しい家だった。その家の小さい門前で、わたしは急にどうしていいか途方にくれて、人通りのない狭い道を行ったり来たりしてみた。東京へ戻ろうか、と気弱な考えまで出てきた。そこに父がいる、とわかったのだから、もういいかと思った。父に会うといっても、どうすればいいのかわからなかったし、突然知らない女の子が、娘です、といったところで、信じてくれるわけもなかった。やはり帰ろう、と決心して、その門前を去りかけたとき、玄関の戸があいた。
「あら、うち? ああ、たかちゃんね。どうぞー、たかちゃん、すぐ帰ってくるわ。入って待ってなさいよ」
幾つくらいなのだろう、叔母よりはずっと年上に見える女の人が、そういった。わたしは首を振りながら、後ずさりした。
「違うの? うち、なんでしょ? あんた、だあれ?」
その人の声が幾分強くなった。わたしは、昔のように言葉をなくして、黙っていた。
「たかちゃんに用なんじゃないのね? なにしてたの、うちの前で」
その人は、わたしの大きいバッグを見て、不審そうにきいた。わたしは舌が強ばり、体が硬直して、動きがとれなくなってきた。夏の日が、急に頭や肩やむきだしの腕に、焼きつくように暑く感じられた。わたしは日陰のない町並みを見渡し、中天の日を見上げた。ぎらついた、薄青い空があった。帽子をどうしたのだろう、と突然わたしは思った。朝は確かにかぶって出たはずの帽子だった。
その人は気味悪くなったのか、声を落として、
「どういう用なの? 誰に用?」
と呟くようにいった。わたしは泣きたくなってきて、ぺこりと頭を下げると、タクシーを降りたほうへ歩き出した。
「待ちなさい!」
その人はそう叫ぶと、走り寄ってきて、わたしの腕をつかんだ。細い人なのに、ずいぶん強い力だった。
「誰なの、あんた。名前をいいなさい」
わたしはためらったが、恵里子だと小さい声でいった。
「えりこ? どこのえりこさん?」
「田中恵里子です」
「田中さんって、どちらの?」
「東京の……」
「東京? あんた東京から来たの?」
わたしはうなずいた。
「一人で? 今? うち訪ねてきたんでしょう?」
とその人は、驚いたようにわたしを見て、どういう用か、ときいた。わたしはこたえられなかった。
「東京から一人で来たんでしょう、用のないわけがないわよね。……主人? 主人に用なの?」
その人は疑わしそうにそういった。今度はわたしは黙ったまま、うなずくこともできなかった。
「いらっしゃい。入るのよ。電話してみるから」
その人はわたしの腕をつかんだまま、ひっぱるように家の中へ連れていった。
わたしは父の家の居間に坐り、その人が電話をするのを聞いていた。電話の向こうに父がいる、と思ったが、どうという感情もわいてこなかった。わたしには関係のないことが、傍で行われているような感じだった。
「ちょっと待っててね。すぐに帰ってくるそうだから」
とその人は、受話器を置きながらわたしにいい、不審を通り越して不安そうな表情を浮かべて、
「どういう関係なの、主人と」
と遠慮がちにきいた。わたしは困ってしまって、黙ってうつむいたきり、紺のスカートの襞《ひだ》を重ねたり伸ばしたりしていた。その人はお菓子を出し、お茶を入れ、コーヒーをもってきたかと思うとジュースを運んできて、ひたすらわたしをもてなしてくれた。
父が入ってきたとき、わたしは立つことも忘れて、ぼんやり見つめていた。父は、照れたような当惑したような顔をして、
「大森の田中さん、ですね。──よくわかりましたね、ここが。──みなさん、お元気ですか」
といった。低い、よく通る声だった。わたしはやっと立ち上がって、不器用にお辞儀をした。
「大きくなったね」
と父はいった。わたしの目は、父の肩の高さにあった。父は、ずっと固唾《かたず》をのんで見ていたあの女の人に、
「昔知っていた人のお嬢さんだよ」
といった。それからわたしに、ちょっと出ますか、といったので、わたしはバッグを持って、立ち上がった。
「名古屋城でも案内してくるよ」
と父はその人にいった。玄関へ行くと、ほの暗い中に男の子が立っていた。
「ああ」
父の口から吐息のような声が漏れた。
「たかちゃん」
とあの女の人は救われたような声を出した。わたしは父を見たときよりもびっくりして、たかちゃんと呼ばれた男の子を見つめた。一瞥《いちべつ》しただけではわからない、わたしと父との相似性が、その子の顔にはっきりと出ていた。わたしは瞬間にその子が弟だと確信した。わたしの分身のようなその異母弟は、不審な顔つきをしてわたしを見ていた。わたしは頭が混乱してくるのを感じた。
「ちょっと出てくるから……」
と父は曖昧なことをいって、わたしの肩を押した。父の手の触った部分は、しばらく火のように熱くなっていた。外へ出ると、
「お母さんに行けっていわれたんですか」
と父がきいた。
「いいえ。母はアメリカにいるのです。もうずっと会ったことありません」
「アメリカに行ったんですか……。そう。……じゃあ、大森のうちには?」
「はい、祖母と叔母がいます」
「三人? じゃあ、お祖母さんにいわれたんですか?」
「いいえ。勝手に来ました。住所は知ってたから……」
父はうなずいた。わたしはそっと父の横顔を窺《うかが》ってみた。当惑しているのがよくわかった。なんだか父がかわいそうになって、ただ訪ねてみたかっただけだから、といおうとしたとき、父が、
「生まれるのは知ってたわけだけど……」
といったので、わたしは無言のまま、次の言葉を期待して待った。でも父は、それきり黙ってしまった。
広い道路に出ると、父はタクシーをとめた。名古屋城へ行くのかと思ったら、父は駅前でタクシーを下りて、
「おなかがすいたでしょう? 今朝出てきたんなら」
といい、わたしを鰻屋へ連れていった。店内の涼しさは、昂ぶったわたしの気持ちを少し鎮めてくれた。ちっとも空腹ではなかったが、鰻が出てきたら、途端におなかが鳴った。
「お母さんに似てるね。すぐわかったよ」
父はわたしを見て、かすかに笑った。二人でなにか秘密の、共通の悪いことをしているような、奇妙な親密感が流れた。わたしは嬉しくなって、活発に箸《はし》を動かした。
「泊まるつもりで来たの?」
父のその言葉で、箸が止まった。父はわたしの大きいバッグを見ていた。
「別に。合宿に行くっていって出てきたものだから」
とわたしも、バッグを見ながらこたえた。
「そう。で、どうする?」
わたしは箸をおいた。体がまた硬くなってきた。どうするか、なんてわたしは考えてもいなかった。どうするか、ということは、帰れ、ということだろうか。「たかちゃん」と呼ばれた異母弟の顔が、なぜか瞼《まぶた》に浮かんできた。わたしは箸をとると、いっぺんに食欲のおちた鰻をつっついた。それから、かたまっていた山椒の粉を、箸で平らに伸ばして、その箸を肝吸いの椀に入れて、かきまわした。
「お母さんも、機嫌を損ねると、よくそうやって、食べ物をぐちゃぐちゃにしてたよ」
と父がいった。顔を上げたわたしの目に、父の耳が入った。わたしと同じ、耳の中央で外輪がそっくり返って、中核が出っぱっている耳だった。
「わたし、もう帰ります」
父は黙ってうなずいたきり、しばらく顔を上げなかった。「きっと格好のいい人だったと思うよ」とネコババのおじさんのいった言葉が、突然頭の中でよみがえってきた。わたしは初めて父を、好奇心をもって見まわした。見つめるたびに不安な気持ちにさせられた青い瞳の母の夫のほうが、ずっと格好がいいのではないかと思った。それにネコババのおじさんのほうが、優しくて温かい感じだった。わたしがいつまでも見ているものだから、父は上げた目をまた伏せてしまった。
わたしは、食べ残した鰻の重箱に蓋《ふた》をすると、なにもいわずに立ち上がった。父も慌てて立ち上がった。それでわたしはかえって、もう帰るのだ、とはっきり決心がついた。
父は切符を買ってくれた。それから、封筒を出して、
「なにかのときに使いなさい」
といった。お金だな、と思ったわたしは、
「いりません」
といったが、父は、いいから、といって、二つに折った封筒を、わたしのブラウスのポケットに押し込んだ。これが最後なのだな、とそのときわたしは理解した。わたしは教室で先生に礼をするときのように、体を折って父にお辞儀をし、周りを見もせずに駅の構内を歩きだした。わたしが反対方向に歩き出したものだから、急いで後を追ってきた父は、新幹線のホームまで送る羽目になってしまった。
列車が来るまで時間があったが、わたしたちは、なにも話すことがなかった。父は学校のことなどを、ちょっときいた。母を訪ねていく予定はあるのか、ともきいたが、わたしが、母に会う気はない、とこたえると、黙ってしまった。列車がきたとき、わたしはほっとした。父はもっと解放されたのか、一瞬肩が下がった。それでもわたしが列車に乗るとき、父の目は赤くなっていた。
席に坐ってから、わたしは急に父が懐かしくなった。それなのに、わたしの求めていた父の顔も父の匂いも、遠いもののように思われた。父を訪ねていったこと自体が、疑わしくなってきた。父がどんな顔だったのかさえ、瞬時にもう思い出せないほどだった。
「落ちましたよ」
隣の客にゆり起こされて、わたしは封筒を渡された。それがなんだったかはっきり思い出せないまま、わたしは礼をいい、封筒をバッグに押し込んだ。家出の少女とでも思ったのか、隣の客は興味深そうにわたしを見たが、わたしはまたすぐに眠り込んでしまった。
東京駅で山手線に乗り換えてから、やっとわたしははっきりと覚めて、祖母になんといおうか、と急に心配になった。口実を考えつかないうちに、電車は品川につき、西日に照らされて暑そうな町並みを見ているうちに、下車駅についてしまった。
祖母の家の前まで来ると、ネコババの家から、ネコバンがバケツを提げて出てきた。年取った二匹の家猫が相次いで死んでから、ネコバンは代がかわっていた。家猫も、新たに野良猫の中から選ばれた、二代目の猫になっていた。
「恵里子ちゃん、練習だったの?」
前のネコバンよりずっと年上の今度のネコバンは、バケツの水を撒《ま》こうとして、わたしのバッグのラケットに気づき、そう訊ねた。わたしは曖昧にうなずいて、愛想もなく家へ入った。祖母は案の定びっくりして、どうしたのか、ときいた。
「具合悪くなったから、帰ってきた」
それ以上問い詰められるのがいやだったわたしは、そういうと急いで二階へ上がったが、祖母は後を追いかけてきて、
「具合悪いって、どうしたの? どこが悪いの。お医者さんは? 行かなくていいの?」
と立て続けにきいた。
「大丈夫。寝てれば直る」
祖母に背を向けてそうこたえながら、わたしは蒲団を敷き、寝たいから、と祖母を追い払った。祖母はわけのわからない顔をしていたが、
「暑気あたりかね。タオルくらいかけて寝なさいよ。寝冷えするよ」
といって、下りていった。わたしはそれから、なにも考えずにしばらくぐっすり眠り、目がさめたら、本当に具合が悪くなっていた。精神的なショックと新幹線の振動で、生理が二週間も早く始まっていた。
「具合悪いんだって? ご飯は? 食べられる?」
茶の間へ下りていったわたしに、いつのまに帰宅していたのか、叔母が声をかけた。
「いらない。食べたくないから。食べたくなったら、後で自分でやるわ」
わたしは用をたすと二階へ戻り、また蒲団の上に寝転んで、父のことを考え始めた。思い出そうとする父の顔は、ちっとも浮かばなかったが、不安そうだった女の人の顔は、大写しになって浮かび上がった。どこかわたしに似た異母弟の顔が、さらにわたしそっくりになってその上にかぶさった。
「大丈夫?」
突然すぐそばで叔母の声がした。
「びっくりした。黙って来ないでよ」
「階段上がる音が聞こえたでしょ? 心配して来てあげたんじゃない」
「大丈夫よ、あれになっただけだから」
「なんだ、そうだったの」
そういって叔母はわたしのバッグに手を伸ばし、
「洗濯物は?」
といいながら、バッグをあけた。
「ないわよ。今朝持ってったの、そのまま持って帰ったんだもの」
「これ、なあに」
「どれ?」
わたしは父からもらった封筒のことを、すっかり忘れていた。叔母は、ふくらんだ封筒をラブレターかなにかと思ったのか、笑いながら中をのぞいて、驚きの声を上げた。
「なに、このお金! なんなの?」
わたしは心臓が痛くなった。
「集金したお金、預かってるの? そんなわけないよね。どうしたのよ」
どうこたえようかと思いながら、わたしはしばらく天井を睨んでいた。
「ちょっと、起きなさい! どうしたのか、ちゃんといいなさい!」
「そんな大きな声、出さないでよ」
「大きな声ではいえないお金なの? どうしたのよ、早く帰ってきたのと関係あるの?」
「いくら入ってた?」
「え? 知りもしないで、持ってきたの?」
「持ってなんかこないわよ。もらったんだもん」
「馬鹿。こんな大金、あんたにくれる人がいるわけないじゃない。それとも……まさか……あんた、……」
叔母は探るようにわたしを見た。
「叔母さんにあげるわよ、そのお金。だからいいでしょ」
「なにいってんの。わけのわからないお金、いいも悪いもないでしょうが!」
「──お父さんにもらったんだもん」
「お父さん? お父さんって、誰。──恵里子のお父さん? あんた、どうして知ってるの、お父さんのこと」
叔母はひどく驚いて、わたしの腕をつかむなり、無理矢理ひっぱり起こした。
「お祖母さんにいわないで。約束よ」
そういって、わたしはその日の朝からのことを、叔母に語った。叔母は父の奥さんのことを根ほり葉ほりきいたが、わたしの異母弟がわたしに似ていたといっても、そうだろうねえ、といっただけで、あまり興味を示さなかった。
「叔母さんは、わたしのお父さんに会ったことあるの?」
「あるけどね、ちょうどあんたくらいの年だったし、ちょっとだったから、あんまり覚えてないわ。どんなだった?」
どんなだったか、ときかれても、わたしは困惑して、耳の形が似てた、としかいえなかった。
「耳?」
といって、叔母はわたしの耳を見た。
「それで……、これもらってきたの?」
と叔母は自分の耳をなでながらいった。
「断ったんだけど、ポケットに入れられちゃったから」
「縁切り金か。仕方ないよね、向こうにも生活があるし……。お姉さんが悪いんだもの。恵里子がおなかにいるのに、父親捨てちゃったんだから」
「どうして捨てたの?」
「だから、あのアメリカ人、好きになったからでしょ」
「わたしがいたのに?」
「まだ生まれる前だし……そういうこと気にする人でもなかったから、あんたのお母さんは」
父は、絶対に別れない、といって、うちへ談判に来たのだという。母が、胎内のわたしを、父の子ではない、といったことなどを、叔母は少しずつ思い出して話してくれた。
「本当? じゃあ、わたし、誰を訪ねたことになるの」
「お父さんよ。決まってるじゃない」
わたしによく似た「たかちゃん」が、また瞼に浮かんできたが、父は確かに、「お母さんに似てるね」といったのだ。父とは耳の形なんかも似てなかったのではないか、とわたしは次第に気分が重くなってきた。
「よかったじゃない、会えたんだから、実のお父さんにさ」
と叔母は慰めるようにいってくれたが、実の父かどうかもわからないし、実の父だって、一緒に暮らせないのなら、なんの意味もなかった。
「しまっておきなさい、このお金」
「いらないわ」
「いらないったって……もらってきたんだから」
「もらってなんかこないわよ」
わたしはむくれて、そんなお金、ほしければあげる、といった。叔母は怒ったが、叔母の表情には、ちょっと未練な気持ちが見えていた。またお金がいるのだな、と咄嗟にわたしは思い、
「あげる。わたしいらないし、もう返すわけにもいかないもの」
といった。叔母は困ったように封筒をいじくっていたが、
「じゃあ、借りておこうかな、ちょっと入り用があるから」
といって、冬のボーナスで返すわね、とわたしを上目遣いに見た。
「どうでもいいわよ。どうせ、わたしはいらないんだから。──あの人にあげるの?」
そうきいてから、わたしは、しまった、と思った。案の定、叔母はびっくりして、
「どうして? あの人って誰?」
と険しい顔をした。わたしはごまかそうとしたが、叔母の顔があまり真剣だったので、
「この前、電話してたでしょ。聞こえたの。お金の話みたいだったから……」
と小さい声でこたえた。
「やっぱり返すわ」
叔母は封筒を、わたしのほうへ押してよこした。
「いいったら。あげるわよ」
わたしも封筒を叔母のほうへ押し返した。封筒は、何度か叔母とわたしの間の畳を、滑って往復した。
「そう、じゃあ、借りとくわ。馬鹿みたいだけど、やっぱり送ってやろう」
と叔母は、笑って封筒をとりあげ、もう一度中をのぞいた。
「恋人?」
「そんな代物じゃないわよ。死んだ、なんていってたけど、奥さん生きてるし、……病気ではあるけどね、……しょっちゅうお金がいるんだもん。母親の面倒までみてるからさ」
「そんなの、別れちゃえば?」
「そう思っても、向こうが離れないのよ」
「お金あげるからでしょ」
「やっぱり返す」
「あげるっていったでしょう。どう遣おうと、そっちの勝手よ」
「軽蔑してるくせに」
「そんなことはないけど、ただ、そんな変なやつ、別れたほうがいいんじゃないかって……わかんないけどさ」
叔母は曖昧に笑って、うつむいた。
「恵里子のお母さん、あんなにひどいことしても、男で損をしたことないのに、わたしはどんなに尽くしても、いつも貧乏|籤《くじ》ひいてしまうわ」
「わたしが来たからなんでしょう? わたしが貧乏神なんでしょう?」
「そんなことないわよ。そんなふうに思ってたの?」
叔母はそういって、いとしそうな目でわたしを見た。きれいな人なのに、ネコババのおじさんにまで、まだ結婚しないの、などときかれる叔母だった。
「恵里子ちゃんの叔母さんは、鼻が淋しいのよ。鼻って高けりゃいいってもんでもないわねえ。叔母さんのはちょっと、翳《かげ》があるというのか、薄命って感じがするのよね」
とネコババにいわれたことがあった。
「結婚しないと、人間ってまずいの?」
とわたしがきくと、叔母は変な顔をした。
「まずいってこともないだろうけど……、なんで?」
「だって、ネコババのうちは、おじさんがいるから、豊かなんでしょ? うちは、男がいないから、駄目なんじゃないの? あの名古屋のうちもさ、豊かそうだったよ」
「ネコババのうちは、お店やってるから豊かなんでしょう。うちだって貧乏ではないし、名古屋は知らないけど、そこそこ金持ちなんじゃないの」
「そういうんじゃなくて、なんか豊かなのよ。わたし、ネコババのうちにいると、安心するもの」
「あんた、小さいときから、ネコババのうちに入り浸ってたからよ。──男とか結婚とかは関係ないと思うけど……、でも恵里子は早く結婚しなさいよ。そのほうがいいから」
「わたし、結婚なんかしないわよ」
叔母はわたしの顔を睨んで、
「してもらうわ。してもらわなきゃ、困るのよ」
といった。
「叔母さん、すればいいじゃない。わたしは、結婚はしない、って決めてるもの」
「結婚しないで、どうするの」
「働くの。それも、叔母さんみたいな仕事じゃなくてね、……ごめんなさい、あの、ちゃんとした資格のあるの」
「例えば?」
叔母は淋しそうな鼻を翳らせて、そうきいた。
「まだ決めてはいないけど……」
「お母さんみたいなのかな? やっぱり親子だわね。離れていても」
一年に一、二度便りをよこす母は、歯科技工士のような資格をとり、向こうで働いていると書いていた。
「いつまで、ぐちゃぐちゃ、しゃべってるのよ」
下で祖母の声がして、よいしょ、と祖母が階段をのぼってきた。叔母はさりげなく封筒をスカートの下に隠し、
「もう寝るわよ」
とこたえた。祖母がそばに坐り込もうとすると、叔母は、
「もう寝たほうがいいんじゃないの? また寝込まれたりしたら、こっちが大変なんだから」
と文句をいった。
「はい、はい、行きますよ。年取ると、娘にまで邪魔者扱いされるんだから」
と祖母は、せっかく下ろした腰をまた上げて、階段を下りていった。
「やっぱり返すわ。恵里子が持ってなさい。あんたのお父さんからもらったものなんだから」
叔母は今度はきっぱりとそういうと、スカートの下から封筒を出して、勢いをつけて、わたしのほうへ押してよこした。
「いいっていったでしょう。叔母さんがあげようと思う人だったら、あげればいいじゃない。あげないでいて、後で後悔するくらいなら、損してでもあげたほうがいいと思うわ」
叔母は、生意気なことをいったわたしに怒りもせず、わたしがまた押し返した封筒を、祖母がよくするように押し戴いて、
「……恵里子に説教されるようになっちゃ、おしまいだわね。でも、ありがとう。借りておくわ」
といった。叔母は結局そのお金を、男に渡したのだと思う。名も知れないバレー団の、振り付けをしている男だった。その後も叔母は文句をいいながら、ついに死ぬまでその男の面倒をみていた。
わたしは父から葉書でもくるか、と数日心待ちにしていたが、葉書もなにも来なかった。わたしも礼状も出さず、父の住所を書きとめておいた紙を、破って捨てた。祖母は、叔母からきいたのかもしれなかったが、わたしにはなにもいわなかった。
夏休みの最後の登校日に、わたしは駅前で、店へ出掛けるネコババのおじさんに出会った。
「今帰るの? 暑いねえ。アイスクリームでも食べようか?」
おじさんは、駅のそばの喫茶店へ連れていってくれた。わたしはクリームあんみつを頼みながら、おじさんにサービスのつもりで、
「わたし、お父さんに会ってきたのよ」
と秘密っぽく打ち明けた。
「へえ、本当かい?」
おじさんはよほど驚いたのか、訪ねていったいきさつをこと細かにきき、わたしが勝手に計画して一人で行ったのだというと、
「お父さん、喜んだかい?」
ときいた。
「どうだろう。迷惑、だったのかなあ、わかんない。でも、まあ、わたしはやっぱり訪ねていってよかったわ。わたしのお父さんって、ちゃんといたからさ」
といったら、おじさんは笑って、
「そうか、そうか。──ああ、恵里子ちゃんをうちの子にもらっておけばよかったな」
といった。
「今からなってもいいわよ」
「もうお祖母さんが離さないよ。それに恵里子ちゃんも、もうじきお嫁にいく年だもの」
「いかないのよ。わたし、結婚はしないんだから」
おじさんは声を出して笑って、
「そういう子に限って、早く結婚するよ」
といった。じゃあ、叔母さんも、若いうちから結婚はしないって、宣言しておけばよかったんだ、とわたしは思った。
「わたしのお父さんさあ、別に格好よくなかったわよ」
おじさんは、ぽかんとしていた。きっと、昔わたしにいった言葉など、忘れていたのだろう。
高校を出ると、わたしは短大の保育科へ進んだ。それを知るとネコババは、やっぱりねえ、といった。ネコババに限らず周りはみんな、わたしが小さいときからそう決心していたようにとったが、実際にはわたしは、みんなが思うほど、自分を不幸な子だと思ったことは一度もなかったのだ。保育科を選んだのも、そこなら受かるだろう、という単純な理由からで、本当はもっと時代の先端を行くような道へ進みたかったのだが、そういうような大学は、どこも受かる自信がなかっただけだ。わたしの英語の成績はかなりひどくて、「昔は英語しか話せなかったのにねえ」と祖母を嘆かせていたくらいだった。
叔母は相変わらず、どこだかのバレー団の振り付けの先生と付き合っていて、どうにもなりはしない男のために、ずっと一所懸命尽くしていた。叔母の男関係には、かならず反対の口をはさんでいた祖母も、いつのまにか文句をいうのをやめていた。昔|気質《かたぎ》の祖母は、ひたすら、とか一筋とかいうのが好きなのかもしれなかった。
叔母は四十を過ぎて、わたしがもう結婚してからも、会社をやめなかった。すでに古参になっていて、会社ではみじめな思いをすることもあったらしいが、あの男にみつぐ必要があったためか、「やめようかなあ」と口癖のようにいっていたわりには、とうとう死ぬまで会社をやめなかった。
結婚はしない、と宣言していたわたしだったが、ネコババのおじさんの予言通りに、短大を出て勤めると、三年もたたずに結婚してしまった。相手は小学校から高校まで同級だった男で、おじさんの甥《おい》の次男である。彼はおじさんの蒲田の店を継ぐことになっていて、高校を出るとすぐに調理師学校へ進んだ。ネコババから結婚の打診があったとき、わたしは、あいつならしてもいいかな、と思った。父も母もいないわたしは、本当は、学校で何度もいじめられたことがあって、そのたび彼に庇《かば》ってもらっていた。結婚してから、わたしが彼にそのことをいうと、
「だって、子供のときから親にいわれてたからさ。『新地はマリア様が多いんだから、父親のことなんかいうんじゃないよ』ってさ」
と彼はこたえて、
「それに、おまえ、小さいときかわいかったもの。なんにもいわない子でさ」
といって笑った。
わたしは、叔母に悪くて、なかなか結婚の話を切り出せなかった。ネコババに何度も催促されて、おそるおそる、まず祖母にいってみると、
「叔母さんが一番喜ぶよ。早くいっておやり。黙ってるなんて、馬鹿な子だね」
といわれた。叔母が自分のことのように喜んで、あれこれと結婚の支度を整えてくれるのを、わたしは、「そんなの、いらないったら」と口では怒りながら、心の中で手を合わせていた。
わたしの結婚衣装は、ウエディングドレス、白無垢の打掛け、振袖、と豪華なものだったが、それは全部、叔母が夢見たものだったに違いない。わたしはすべて叔母に任せて、昔叔母に着せ替え人形にされたときのように、手を上げたり下げたり、着付けの人のいうなりになっていた。
祖母が知らせたのだろうか。母はトルコ石のイアリングを送ってきた。結婚式には、なにか青いもの、身内の誰かが使っていた青いもの、を身につける習慣があるから、と手紙に書いてあったが、わたしはそれを身につけはしなかった。
「つければ?」
と叔母はいったが、
「ちょっと衣装に合わないから」
と断った。叔母はなんだか嬉しそうに見えた。わたしはそれからも、そのイアリングを一度も使ったことがない。大事にしまってはあるが、それは父のようなもので、あるとわかればいいのである。母も父もいつのまにか懐かしい存在になっていて、一緒に暮らしていたら、と考えることはあったが、一緒に暮らしたいと思ったことなど、一度もなかった。
わたしが息子を生んだとき、ネコババは、
「いっぱい生んで、一人ちょうだいよ」
と冗談を言ったが、わたしが、
「おばさん、子供なんか、自分の子だって、ひとの子だっておんなじよ。本当にほしいんだったら、施設の子、育ててあげてよ。自分の子だと思えば、どの子だって、自分の子になるわよ」
と真顔でいったものだから、ネコババは恥ずかしそうな顔をして黙ってしまった。
わたしは息子を生んでからも、仕事をやめなかった。今では息子は普通の幼稚園へ行っているが、それまでは、わたしの働くのとは別の保育園に預けていたのだ。ネコババが店へ出るのをやめてから、息子は幼稚園が終わるとネコババの家へ行き、わたしの帰りを待っている。ネコバンもやめて、二代目の家猫たちは、初代の猫たちより待遇がよくなったが、わたしと違って口も手も達者な息子が行くものだから、今度は息子から必死に逃げまくるという苦労ができてしまった。
祖母が、蒲団の上で転んで骨折をし、入院したとき、そのまま帰らぬ人になるとは、叔母もわたしも夢にも思わなかった。勝気な祖母は、骨折くらいで動けないのがたまらないらしくて、「ベッドで下《しも》の始末をしてもらうくらいなら、死んだほうがましだわよ」といっていたが、本当にその通りになった。
付き添いのおばさんの留守に、一人で用足しに行こうとした祖母は、ベッドから転落して、そのショックで心臓がとまったのだ。発見が遅かったから、祖母は助からなかった。
金銭欲も物質欲もなかった祖母は、しまりやでもなかったから、わたしたちは贅沢《ぜいたく》もしないかわりに、うるさいこともいわれず、適当に楽に暮らしていたが、祖母が亡くなってみると、叔母が驚いたほど財産が残してあった。
「へえ! お母さんは、恵里子もわたしみたいに結婚できないって思ってたのね。恵里子の保険がいっぱいあるわよ」
叔母はそういって、証券を何枚もわたしに見せてくれた。
「叔母さんのもある?」
「ある、ある。もうこれで会社やめても、楽に食べていけるわ」
「ここのうち、今度こそ本当に建てかえようよ。マンションにして、儲けようよ」
「いいわね。左|団扇《うちわ》で暮らすか」
と喜んでいた叔母だったが、それから二年後に、会社もやめないまま、家も建てかえないまま、財産も使わないまま、死んでしまった。叔母はいったいなんのために生きたのだろう。母に捨てられた三歳のわたしが、本当に叔母の運命を変えたのだろうか。
通夜の準備の整った祖母の家は、急に萎《しぼ》んで古びて感じられ、家が言葉を失ったようだった。それでも叔母が最後に朝食をとっていたという懐かしい茶の間に立つと、わたしが言葉を失っていた頃の三人の暮らしが、まざまざとよみがえってきた。わたしを呼ぶ祖母の声や、わたしを叱る叔母の声が、台所や襖《ふすま》の陰から、今にも聞こえてきそうだった。わたしは、祖母たちのところへ行きたい、と瞬間惹かれるように思った。
「ママ、おなかがすいたよう」
わたしを呼ぶ息子の声がしなかったら、わたしは無意識のうちに、ガス栓をひねっていたかもしれない。
ネコババの用意してくれた食べ物を息子に与えながら、わたしは時々自分の口にも運び、母にも知らせなければ、と気をとりなおして考えた。それまでわたしは、一度も母に手紙を書いたことがなかった。落ち着いたら、夫と息子と三人で、母を訪ねてみようか、とふと思った。
あの母の夫の腕には、本当に金色の毛がなびいていたのだろうか。どう見てもアメリカ人にしか見えない異父妹なのだが、会えばやはり、「たかちゃん」に会ったときのように、わたしの胸は高鳴るのだろうか。
わたしは、叔母の死を、あの男にも知らせようと思った。あの振り付け師が、花でも供えに来てくれたら、わたしは叔母の代わりに、信じられないほど沢山の香典返しをしてやってもいいと思いながら。
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神の落とし子
枯れ葉が音を立てて逃げていった。亥一郎は、掃いていた箒《ほうき》を休め、柄に身体をもたせるようにして、その行方をぼんやり追った。まだ半年ほど前には、まるで自分の人生のようだと思ったこともあるのだが、今では身体が弱って考える気力もない。ゴミ掃きの仕事を始めたときには、箒につかまって、掃いている振りをしていればいいのだ、とガンちゃんに冗談をいわれたものだったが、今では亥一郎は本当に弱ってしまって、時々箒につかまらなくては、身体が支えられないくらいなのである。
まさか冬の枯れ葉掃きで、飢えをしのぐことになるとは夢にも思わなかったから、夏にわくら葉を掃き、秋には色づいた木の葉を掃くのを、楽しいと思ったこともあったのだった。春の、散りつもって変色した桜の花びらを掃くときなどは、恨みもなにも忘れて掃いた。
亥一郎がタクシーの運転手をやめたのは、わずか五年前のことである。その五年の間に、白くなりかかっていた髪はすっかり褪《あ》せて、全体が汚い白髪になってしまった。顔も落ち窪んで、ガンちゃんが「じいさん」と呼んだのは、まだ髪が少しだけ白かったころに、からかって呼んだのだったが、今ではどの人もてっきり老人だと思って、「おじいさん」と呼びかけるのである。本当は亥一郎は、昭和二十二年の亥年の生まれで、まだ四十を少し出たばかりなのだけれども。
亥一郎と名付けられたのは、亥年の生まれの長男だったからだが、子供は亥一郎しか生まれなかった。もともと子種の少ない家系で、父も甲府の在から迎えられた婿養子だった。亥一郎の祖母は、うちでは男はみんな五十歳までに亡くなるんだよ、と事あるごとにこぼしていた。亥一郎が三歳のときに死んだ祖父も五十歳だったし、父が焼け死んだのも、五十歳だった。家付き娘だった母のたった一人の弟は、二十にもならずに死んでいた。だから亥一郎は、身体の具合が悪くなって欠勤が続き、会社から苦情をいわれだしたとき、もしかしたら自分の命も終わりに近いのかもしれない、と咄嗟《とつさ》に思ったほどであった。ちょっと疲れると胸や背中が痛くなり、横にならずにはいられなくなっていた。それからすぐに、しょっちゅう熱っぽくなり、不快な日が続くようになった。それでも変だと思って医者へ行ったのはほんの数回で、肺に影があるといわれてからは行かなくなった。家族のことをきかれるのがいやだったし、病院に入れられるのが怖かった。入院ときくだけで、亥一郎は怖気《おぞけ》がくる。病院とか入院という言葉は、思い出したくない昔に、亥一郎を連れ戻すだけだったから。
笛を吹くような咳が出始めると、亥一郎がいくら会社へ行きたくても、いくら会社に文句をいわれても、毎日ちゃんと出勤することができなくなった。とうとう一身上の都合といって辞表を出し、ガンちゃんにそう告げたとき、ガンちゃんは、
「休業補償ってものがあるんだぜ。病院で、診断書をもらってくればいいだけなんだからさ、やめないで、診断書をもらってきなよ。金なんて、じいさんの払ってた保険からもらえるんだからよう、大手を振って休めばいいんだよ。やめることはないよ。取り消しなよ。おれがかけあってやるよ」
といってくれたが、亥一郎は、いいよ、と断った。
「なんでよ。なんでじいさん、そんなに弱気なんだよ。ビクつくことなんか、なんにもねえじゃねえか」
とガンちゃんはいきまいたが、亥一郎には、相手が会社であってもなにであっても、迷惑をかけることができなかったのだ。そんな弱気なたちではなかったのだが、妻に去られてから変わったのかもしれない。去られてからではなくて、妻をめとったときからなのかもしれなかった。弓子が来てから、すべてがすっかり変わったのだったから。
亥一郎は、タクシー会社をやめてから、しばらくは働かずにごろごろしていた。寝ていれば、身体は楽だったが、金が減っていくにつれて、寝ているわけにもいかなくなった。思いあまって、会社をやめてからも時々連絡をしあっていたガンちゃんに、なにかいい仕事はないものか、と相談してみると、年下なのに会社では先輩だったガンちゃんは、まあ、なんか探してやっぺえ、といった。
「できれば、毎日違う仕事場で、あんまり誰《だれ》ともあわずにすんで、口もきかずにすむ仕事がいいんだけど」
「だからよう、診断書もらって、あわよくば労災ってのの適用受けて、楽して寝てればよかったんだよ。じいさん、なにそんなに慌《あわ》てて、逃げ腰になったんだよ。なんかヤバイことでもしてたのか?
それによ、具合が悪いって、どこがどう悪いのよ。医者へも行かずに寝てたって、よくなるわけあんめえよ」
とガンちゃんは、探るような、哀れむような目差しで亥一郎をみていった。ガンちゃんとは、三度目のタクシー会社で出会ったのだが、七つも年が違うのになぜかよく気があって、しょっちゅうつるんで遊んでいた。
ガンちゃんの探してきた仕事は、競艇場のゴミ掃きの仕事だった。ガンちゃんの競艇狂いは運転手仲間でも有名なのである。
「あれなら楽だよ。競艇場から大森だか平和島だかまでの道、ただ掃いてればいいんだからよ。口きくこともないし、箒につかまって掃いてる振りしてりゃいいのよ。必ず誰か本気で掃くやつがいっからよ、すぐ終わっちまうよ。ジサマバアサマが五万といてよ、みんな黙々と掃いてっからよう」
とガンちゃんはいったのだ。
「でも、競艇のあるときだけってことになると、それだけじゃ、ここにいると家賃も払えなくなるなあ」
というと、安いアパートまで探してきてくれて、
「おれんとこ来てもいいんだけどよ、時々なにを引っ張り込むからさ」
といった。競艇好きのガンちゃんは、まだ独身なのである。景気のいいときと悪いときの差が激しいから、稼ぎは悪くないのだが、昔風の古いアパートに住んでいる。結婚したら、都営か公団の賃貸住宅に申し込むのだといっているが、女がしょっちゅう替わるから、なかなか結婚ができないのである。
ガンちゃんの見つけてきてくれたアパートは、競艇場の近くの大森東にあって、今にも取り壊されそうなぼろアパートだった。本当に取り壊されることになっていたらしく、住人は次々と出ていって、五年たった今では亥一郎と長髪の若い男だけになっている。半年ほど前から亥一郎が家賃をためるようになってからも、あまり強く催促にも来ないのは、やはり取り壊す予定があるからだろう。もう一人の若い男も、家賃は払っていないといっていたが、なにをしている男なのか、たまにふらりとアパートへ帰ってくると、亥一郎にハンバーガーやフライドチキンなどをもってくる。競艇場のゴミ掃きなどは幾らにもならないから、食べ物の好き嫌いはいえないし、それをまた休んで寝ているときなどは、腹が減りきわまっているから、亥一郎は嫌いなものでもなんでも食べた。長い髪を後ろで一つに束ねたその若い男は、もともと無口なのか、亥一郎にあっても、「ああ」とか「うん」とか口を動かすだけで、まとまった言葉を話したことがない。それでも具合が悪くて寝ているときなど、その男がそばの部屋にいるだけで、亥一郎にはとても慰めになるのだった。
競艇場のゴミ掃きは、始め場内だったのが道路の掃除へと移り、交通量の多い第一京浜の空気が胸にこたえてからは、公園の掃除に替えてもらった。その広い公園は、競艇場の前の、葬祭場の隣にある。そこを通って平和島駅へ帰る客が、はずれた舟券や新聞を捨てていくから、いつもゴミが山のようになるのだった。そこで何年か働くうちに、亥一郎は仲間から、落ち葉掃きが金になることを教えてもらった。リヤカーを借りて、空き缶を拾ったり、落ち葉を掃いたりして、それを持っていくとわずかな金になるのである。近くの会社をまわって、使い古しのダンボールだけを集めている者もいたが、それは重くて亥一郎には取り扱えなかった。その男は、犬の散歩も請け負っていたが、亥一郎は、犬と同じ速度で歩くことさえできなくなっていた。
貯金をつかいはたした亥一郎が、空腹と苦痛で寝ているときに、ガンちゃんがアパートに寄ってくれたことがあったが、ガンちゃんはあまりのひどさに、
「いっちゃんじいさんよ、一度医者へ行かなくちゃだめだよ。死んじまうよ」
とあきれていた。うん、行くから大丈夫だ、と亥一郎はこたえたが、行くつもりも行く金もなかった。
「生活保護ってものがあっからよ」
とガンちゃんはいうのだが、亥一郎は引っ越してからも前のアパートに住所はおきっぱなしだし、突然そんなものをもらいに行くわけにはいかないのである。そういう手続きをするくらいなら、もう存在を消して生きていたいと思っていた。
「じいさん、いったい、どういう人ね」
とガンちゃんはきくが、亥一郎は笑ってこたえない。
「どういう人って、こっちのほうがききたいよ。ガンちゃん、いったいどういう人ね」
「おれ? おれはまともな人間さまよ。ご立派だからよ、身体こわしたら、会社にイチャモンつけて、とれるだけふんだくって、楽して寝てるよ」
とガンちゃんは笑っていた。
もうじき死ぬかな、と思ったことが何度もあった。それほど苦しんでも、少し時間がたって苦痛がおさまると、急に空腹がおそってくる。その空腹だけはいつになっても耐えられず、それだけは亥一郎はガンちゃんにもいえなかったのだが、ガンちゃんは察しがいいのか、来るたび幾らかおいていった。どうしてガンちゃんがそんなに親切にしてくれるのか、亥一郎は不思議に思ったことがあるが、ガンちゃんの親切は、なぜか素直に受け取ることができるのだ。ただガンちゃんの来るのは、懐の景気のいいときに限られていたので、いつとあてにすることのできないのがつらいのだった。
「今日は大損こいたからよ、唾も出ねえや」
などといって、寄ってくれたこともあったのだが、そんなときには煙草くらいしか出るものがないから、煙草の吸えなくなった亥一郎には断るしかなく、ガンちゃんは気の毒がって、金のないときには寄りつかなくなっていた。
その日、亥一郎は、本当は部屋で寝ていたかった。最近はまた病状が悪くなっているのか、ゆっくり歩いていても、突然胸を押さえてうずくまることがある。苦痛は全身に回ってきて、もうだめだと思うのだが、時間がたつと痛みはまた徐々に遠退いていき、するとまたなぜか腹が減ってくる。その空腹のつらさを思いだすと、なんとか公園の枯れ葉だけでも掃いておいて、パンくらいは買っておきたいと思ったのだ。それでまだ元気があったら、夕方から競艇場へ、ゴミ掃きに行けばいいのである。そう考えた亥一郎は、借りたリヤカーを、つかまっているのか押しているのかわからない格好で操りながら、午前中に無理をして公園へやってきた。いつ終わるとも知れぬ広い公園の枯れ葉掃きは、ちょっと元気のあるときには、亥一郎のお気に入りの仕事だったのだ。
「じいさんよ、一人で掃いてて、いつ終わるんだよ」
と競艇の客は通りがかりに冷やかしていくが、その果てのなさが好きなのである。疲れると、ゴミ箱の中の新聞を拾って読んだ。週刊誌を読むこともあった。ベンチにたむろして、競艇の予想や反省会をやっている男たちから、ビールをおごってもらうことだってあった。子供を遊ばせる、若い母親の声をきくのも好きだった。亥一郎を呼ぶ母の声にきこえたりして、思わず顔を上げたこともあった。散歩をしている老女が、祖母にみえたこともある。亥一郎を長生きさせようとして、むりやりなんでも食べさせようとした祖母だった。それに、葬祭場で葬式のある日は、花輪に下がった名札を読むのが好きだった。何年もの間、葬祭場の垣根越しに落ち葉を掃いているうちに、亥一郎は、死んだ人の解放された様がわかるようになっていた。たいていの死者は、楽になって笑っていたが、中には、つらそうで機嫌の悪い死者もいた。
疲れると、箒の柄に身体をもたせるようにして、亥一郎は全身の力で落ち葉を掃いた。まるで金か宝をかき集めてくるように、全身で落ち葉を押してくるのだ。死ぬ日のために生きてきた人間が、朽ちてしまった葉っぱを集めて食べている、と皮肉に思ったこともあったけれども、それは少しでも元気のあったときで、今は亥一郎は、なにも考えずにただ掃いている。考えるのは精力がいるから、なにも考えずに身体をそっとしておいてやるのである。空腹のときには、ことにそうだった。できるだけ力をつかわないですむように、箒もそっと動かすのがこつなのだった。
それにしてもその日は腹が減っていた。ガンちゃんにあえればいいけど、と亥一郎は何度も思いながら、せめて水でも飲もうか、と水道のほうへ向かいながら、落ち葉を掃き集めていった。
「あの、葬祭場はこっちですか」
と突然後ろで声がした。亥一郎は、思わず元気なときのように一度で振り向こうとして、身体がきかずに転げてしまった。
「あら、大丈夫ですか。──まあ、大丈夫かしら。具合が悪いの、おじいさん」
と女がいった。
「行こう、お母さん。そんなの、構わないほうがいいよ」
と女のそばにいた、高校か大学くらいの若い男がいった。
「だって、病気みたいよ」
「大丈夫だよ。誰かがなんとかしてくれるって」
亥一郎は起き上がりながら、大丈夫だといおうとして、また転げた。
「おじいさん、どうかしたんですか。誰か呼びましょうか?」
女の問いに亥一郎は首を振り、黙って葬祭場のほうを指差してやった。こっち、と女も手振りで右手のほうを指差した。亥一郎が坐り込んだままうなずくと、女はハンドバッグに手を入れ、
「これで、誰かに頼んでやってもらって……。供養だから」
と亥一郎の胸のポケットにその手をつっこんだ。
「お母さん!」
と先に行っていた若い男が、振り向いて呼んだ。
「じゃあ」
と女がいったとき、亥一郎と目があった。
「弓子!」
「え?」
と女は一瞬いぶかしそうな顔をして、行きかけた足をとめたが、軽く頭を下げるとすぐに若い男を追いかけていった。
「おじいさん」だなんて、同い年だったではないか。亥一郎は、ポケットの中の金を押さえ、そう呟《つぶや》きながら立ち上がろうとして、また転げた。あのとき転んだのは弓子だったのに、と笑っていた。
「弓子、これ赤ちゃんにしておぶいなよ」
そういって亥一郎が弓子の背に、虎屋の、ちょっとした看板のように大きい羊羹《ようかん》を背負わせたのは、五歳の夏であった。弓子はいわれたままに羊羹を背負ったが、身体が小さいものだから、二、三歩も行かないうちに転んでしまった。そばでみていた亥一郎の母が、目に涙をにじませて笑いだした。亥一郎の家の、母の座敷でのことである。
「だって、重いんだもん」
と弓子はべそをかいた。色白の顔に赤茶けた天然パーマの薄い髪が垂れている。弓子の父は、出入りの植木職人で、亥一郎のうちの家作の一つに住んでいた。
「弓子、その羊羹あげるから、もってっていいよ。そのかわり、おぶっていくんだぞ」
と亥一郎がいうと、弓子は転んだままの姿勢で、亥一郎を見上げてうなずいた。
「いいよね、あげても」
と母にきくと、母は、
「重いから、あとでお姉ちゃんにとりにきてもらったほうがいいわ」
といった。弓子には三歳年上の姉がいるのだが、その姉は亥一郎を嫌っているのか、屋敷へは滅多に来ないのである。亥一郎は弓子が好きで、毎日のように家によんでは遊ぶのだが、姉のほうとなると、これまた避けるように、なぜかさっぱり声もかけない。
「弓子、自分でおぶってお帰りよ。大丈夫だよな」
と亥一郎が重ねていうと、母は危ないからといって、手伝いの小母ちゃんに弓子の背の羊羹を持ち上げさせながら、弓子を帰した。あとで亥一郎は、
「ぼっちゃん、あんな物を弓ちゃんにあげたらいけません」
と小母ちゃんに叱られた。
「どうしていけないの?」
「分不相応だからですよ」
「ぶんふそうおうって?」
「余計だってこと」
「どうして余計なの?」
「どうしても。──弓ちゃんが好きなのだったら、切った羊羹あげればいいんです」
「弓子、喜んでなかったの?」
「弓ちゃんは喜んだでしょ。あの子、なんでも物もらうの好きだから」
「だったらいいじゃない」
「それでもだめなんです」
不服そうな亥一郎に、小母ちゃんはそういった。母に告げると、今度からはそうしなさい、と母もいった。
亥一郎の家は石屋で、庭石、墓石、門柱など、あらゆる種類の石を扱っている。屋敷は入谷にあって、母はそこの家付き娘だった。父は祖父が選んで連れてきた婿だったが、祖父は父が来てから四年後に、甲府へ石をみにいって事故で亡くなった。
「いっちゃんは、好き嫌いをいわずになんでも食べて、長生きしなさいよ。この家でも、男が長生きできるって例をつくらないといけないんだから」
と祖母はいつもいっていた。それで特別大事に育てられたのか、弓子が毎年行くというお酉《とり》さまに、小学校へ入るまで、一度も連れていってもらったことがない。寒くて凍えるよ、とか、遠すぎるよ、とか、祖母がいつも反対するのだった。
「面白いよお。いっちゃん、行ったことないの? いっちゃんちのおじさん、連れてってくれないの? うちなんか、お父ちゃんがいつも連れてってくれるのに。
帰りは、吉原通ってくるんだからね。きれいなのよお。吉原入ると、急にぱっと明るくなるんだから。
わたしもね、いつか吉原から迎えがくるんだって。近所の小母さんにそういわれたの。それだけかわいい顔してたら、きっと来るって。そしたら毎日きれいな着物着て、おいしいもの食べられて、天国だよって。
いつ来るのかなあ。早く来ればいいのに」
と弓子のいっていたお酉さまとか吉原へ、亥一郎は行ってみたくてたまらなかった。それは、豆電球の輝くクリスマスツリーよりももっときれいなものだろうか、と亥一郎はクリスマスになるたびに思っていた。小学校二年になって、やっと父が、今年はお酉さまに連れてってやろう、といったときには、歓声をあげた。
お酉さまは、入谷の朝顔市よりもさらに混んでいて、歩けないほどだった。祖母は寒いといったが、人で溢《あふ》れているから、少しも寒くなどなかった。出店には、クリスマスツリーにだってつるせないほど、沢山の物が溢れているし、人込みに揉《も》まれて歩くのは、亥一郎を酔ったような気分にさせた。亥一郎は、おもちゃの小物を売っている店で、弓子にガラスの指輪を買ってやりたくなり、そっと母にねだってみた。
「そんなものをどうするんだ。男の子がほしがるものではないだろう」
と父は笑った。
「弓ちゃんにあげるんですってよ」
と母がいうと、
「弓ちゃん?」
と父は亥一郎をみた。
「ほら、植政さんとこの」
「ああ。
おまえ、その年から女の子にそんなもの買ってやろうなんて、いったい誰に似たんだ」
と父はあきれながら、亥一郎の頭をこづいた。
「いっちゃんは、優しいんですよ。それに、誰に似たっていえば、お父さんじゃないんですか。旦那はもてるはずだって、誰かがいってましたよ。芸者衆の懐に、千円札何枚も突っ込んで歩くんですってねえ。そんな、女の子の月給分くらいも突っ込んでやったら、誰だってちやほやしますよ」
母は人込みで興奮しているのか、珍しく亥一郎の前でそんなことをいった。
「誰だ、いったい、そんな余計なことをいうのは。名取か? あの野郎、ろくでもないことばっかりいいやがって……。あいつ、やっぱりよそへ回すかなあ。おれの名つかって、なにやらかしてるんだか……」
名取というのは、父の秘書のようなことをしている男で、まだ若いのだが、父が重宝している男だった。なかなかのやり手と評判の男だったが、家では祖母も母も嫌っていた。給料を届けに来たり、出張や外出の多い父のかわりに、なにかと家へ出入りをしているのだが、祖母も母も愛想よく迎えたことは一度もなかった。亥一郎のことを、ぼっちゃん、ぼっちゃん、と呼んで、かわいがってくれてはいたが、亥一郎も名取は好きになれなかった。
亥一郎は、賑やかなお酉さまの境内を歩きながら、両親の話す大人の世界のことに耳を傾け、全身を緊張させてきいていた。雑踏の中で、自分の知らない世界をのぞく興奮が、気がつくと喉をからからにしていた。
大きな熊手は予約してあって、会社の名前が張り出してあった。父が祝儀を渡すと、若い衆が派手に手じめをしてくれて、
「ぼっちゃん、かついでいきますか?」
とわざとらしく一人がたずね、みんなが笑った。あとで届けてくれ、と父がいうと、
「へっ、ようがす!」
と威勢のいい声があがった。まくりあげた袖《そで》から、色のついた入墨をした腕の出ている男だった。
「吉原通って帰ろうか」
と父がいった。母があきれてなにかいいかけると、
「いいとこなんだぞう。いっちゃん、知らないだろう」
と父は得意そうにいった。
「ぼく、通って帰りたい!」
母の顔は曇っていたが、亥一郎はそのときばかりは、母を無視して感激してそういった。弓子が行きたがっていた吉原を、自分の目でしっかりとみてみたかったのだ。
「吉原なんて行かなくたって、ぼくのお嫁さんになればいいよ。そしたらいつでもきれいな着物着せてあげるからさ。おいしいものだって、うちへ来れば、いつだって食べられるんだから」
そういったら、弓子は、
「そうねえ。でもいっちゃんちは静かだし、少し暗いからねえ」
といった。茶色味を帯びた大きい目を亥一郎に据えて、色白の顔を傾けながら、弓子はいつも挑戦するように、唇を少し突き出し気味にいうのである。
「いっちゃん、寒くない?」
と母がきいた。寒くない、とこたえながら亥一郎は、お酉さまは寒くて、お父さんにおんぶされると温かくてほっとする、といった弓子の言葉を思い出していた。
「ここが吉原だぞ。きれいだろう。そんなガラスの指輪じゃ、女が喜ばないところだ」
と父がいった。母はいやな顔をしていた。
「明るいんだねえ、ここは」
と亥一郎が感嘆していうと、
「明るいだろう。中はもっといいところなんだぞう」
と父は笑った。母は黙って亥一郎の手を握りしめた。
吉原を出ると、急に辺りが暗くなった。ほてった頬に、風の冷たさが痛くなってくる。
「ずいぶん暗いんだね。もう真夜中なの?」
ときくと、父は笑って、
「明るいところから来たから、暗く感じるんだよ。まだ宵の口だ」
といい、お父さんはちょっと寄っていくところがあるから、お母さんと先に帰りなさい、といった。母はなにもいわずに、町角で父と別れた。
「お父さん、どこ行ったの?」
「さあ。会社の関係じゃない」
「名取さん?」
「さあね」
「また遅くなるの?」
「たぶんね。お仕事だから。お祖母さんには黙ってなさい」
「どうして?」
「どうしてでも」
母はそういって、亥一郎の肩にショールをかけてくれた。冷たい夜気が、ほてった身体の足元から這《は》い上がってきて、しだいに身体が冷えてくる。
「疲れたね」
というと、母はうなずいた。寺の角を曲がるとき、弓子らしい後ろ姿がみえた。
「弓子だよ、お母さん」
「そうかしら」
「そうだよ。あれ植政のおじさんだもの」
そういって亥一郎が母を見上げると、母はうなずいてほほ笑んだ。母と植政とは仲がよかった。母は、庭で植政と、植木の話をしているときが一番楽しそうなのだ。植政は祖母の受けもよくて、庭の手入れだけではなく、家うちの細かい仕事なども、いわなくてもいつでも手伝ってくれていた。
「呼んでみる? 指輪があるから」
「明日になさいよ。もう遅いから」
「そうだね」
その指輪は、日曜日まで、亥一郎の机の引き出しにしまってあった。違う小学校に進んでからは、弓子は前のように毎日は来ないのである。亥一郎は、学校から帰って植政にあったとき、
「植政さん、弓子に遊びに来るようにいってよ。ぼく、弓子にいいもの持ってるんだ。お酉さまで買ったのだけど」
と頼んでおいた。日曜日に弓子が来たときには、亥一郎の父も在宅していた。
「ほう、弓ちゃんか。大きくなったね。美人になった」
と父はいい、ご褒美だと弓子のポケットに百円入れてやった。弓子は大喜びで、亥一郎が指輪を渡しても、そんな指輪などうわの空なのだった。
「嬉《うれ》しくないの? それ、お酉さまで買ったんだよ。弓子にあげようと思って買ったんだよ。きれいだろ?」
「きれいだわ。ありがとう」
弓子はそういって指にはめたが、あまり嬉しそうでもなく、指輪のほうも大き過ぎて、どの指にはめたらいいのかわからなかった。
「左手にしてごらんよ。お母さんは、左の薬指にしてるから」
「だって大きいんだもん」
「大きかった? じゃあ今度は、もっと小さいの買ってあげる」
でも弓子の白い手の中で、緑のガラス玉は光を受けて、きれいに輝いていた。
「なにかおいしいものでも食べに行こうか。弓ちゃんはなにが好きかな」
と父がたずねた。亥一郎は、母と弓子と家で一緒に遊んでいたかったので、弓子が咄嗟に、
「わたし、あんみつ! 上にアイスクリームののっかったの」
と叫んだときには、がっかりした。
「うちにいようよ。うちにもおいしいものはあるよ。ね、お母さん」
と亥一郎がいうと、父は、
「弓ちゃん、仲見世行こうか。仲見世で、おいしいあんみつ食べさせてやるよ」
といった。弓子は喜んで、無造作に指輪をポケットにいれてしまった。
「亥一郎も行くか?」
と父がたずねた。亥一郎は泣きたくなっていたが、うなずいた。
「弓ちゃんは、浅草から帰る道知ってるかなあ。無理だろうな。
光ちゃんに、一緒に来るようにいいなさい。お父さんはよそへ回るから、帰りは光ちゃんに連れて帰ってもらうから」
「ぼく、行きたくない」
亥一郎は考え直してそう叫んでみたが、
「わたし、行きたい!」
と弓子はいって、ねえ、連れてって、と亥一郎の父にしがみついた。
光ちゃんというのは、前にいた手伝いの小母ちゃんの後釜にすえた若い子なのだが、浅草へ行くというと、そうですか、と表情も変えずにうなずいた。
「お母さんは、行かないんでしょ?」
と亥一郎がきくと、母は、出歩くのはおっくうだから、家で待ってるわ、といった。母は弓子をみないようにしていたので、亥一郎は、母も本当は喜んでいないのだな、とすぐにわかった。
弓子は、まるで父のご機嫌をとっているように、おじさん、おじさん、と父の手にすがったり、腕にぶらさがったりしながら、仲見世までしゃべり通しにしゃべっていた。父は弓子の襟首から背中に手を入れて、
「男の子と違って、女の子の身体はほっそりと柔らかいなあ。亥一郎とはえらい違いだ」
といった。亥一郎はなんだか不機嫌になって、やっぱり来るのではなかった、と後悔し始めていた。光子もそうなのか、ぼっちゃん、こっちいらっしゃい、と亥一郎の手を強く引っ張ると、父と離れて歩きだした。
仲見世のあんみつ屋に入ると、父は三人にクリームあんみつを頼み、さらに土産のあんみつの箱を頼むと、先に金を払って、
「光ちゃん、食べたらこの子たち連れて、すぐに帰りなさい」
といった。それから弓子の髪を指先で弄びながら、
「またおいで。いつでもご馳走してやるよ」
といい、亥一郎には、
「遅くなるから、ご飯はいらない、とお母さんにいいなさい」
といった。
「まっすぐ帰るんだよ。変な道通っちゃだめだぞ」
と父はもう一度光子にいうと、じゃあね、と弓子の頭を撫《な》で回して、あんみつ屋を出ていった。父がいなくなると、光子は急に胸を張り、
「弓ちゃん、あんた吉原から迎え来た? 早く行かないと、吉原なくなるって噂だよ」
といった。
「もういいの。わたし、吉原へは行かないから」
と弓子は、一心不乱にクリームをなめていた顔をあげて、面倒くさそうにこたえた。
「へえ。きれいな着物着るんじゃなかったの?」
「着るけど、いっちゃんのおじさんに買ってもらうから、いいわ」
「ま、やな子。旦那様って呼ぶんだよ。
──弓ちゃん、あんた、ひとりで帰りなね。道知ってるんでしょ、いつだって吉原通って遊んでるんだからさあ」
光子が意地悪そうにそういうと、
「あら、おじさんが、一緒に連れて帰れっていったじゃない」
と弓子はきっとなって、負けずにいい返した。どちらが年上なのか一瞬迷うほど、弓子のほうが立派にみえた。
「さあ、ぼっちゃん、帰りましょ」
と光子は、わざと弓子を無視して亥一郎に声をかけ、あまりきれいではないハンカチを取り出すと、亥一郎の口を拭《ふ》いた。亥一郎は、先程からの不機嫌がまだ尾を引いていて、むっつりとしていたのだが、弓子はいつもと違い、亥一郎のご機嫌をとろうともせずに、知らん顔をしていた。
「ぼく、来るんじゃなかった。もう疲れて、歩きたくないよ」
と亥一郎がいうと、弓子は初めて亥一郎の手をとり、
「いっちゃん、手をつないで帰ろう。光ちゃんの背中見て、追いかけてけばいいのよ。そうすれば、すぐに着くわよ」
といった。弓子がそういって顔を傾けると、赤い、癖のある髪がいつでも頬に垂れてくる。すると弓子は舌を出して、なめるようにその髪を口に入れるのだった。
「うん、そうするよ」
亥一郎は、急に元気になって立ち上がり、やっぱり、来てよかったと思いながら、土産のあんみつの箱をとりにいった。
中学の終わるころに、祖母が亡くなった。
「いっちゃん、お祖母さんはもう死ぬわよ」
祖母は亥一郎の手をとって、病床で何度もそういった。病院をいやがって、週一度の定期的な往診は受けていたが、ずっと家で寝ていた静かな模範的な病人だった。
「死ぬって、もう死ぬの? そんなに簡単に死ぬものなの?」
と亥一郎がたずねると、
「そうよ。死ぬときは簡単なの。人間には、ちゃんと死ぬときがわかるのよ。死ぬのも生きるのも、紙一重のところにあるらしいわ。
お祖母さんは、どの瞬間に死ぬのか、その瞬間をみてみたいと思ってるんだけど、みたと気がつかないうちに死んでるのかもしれないわねえ」
と祖母はこたえた。あくる朝、いつものように母が病室へ洗面器をもっていくと、祖母は蒲団の中で、眠るように死んでいた。
寝ていたんじゃ、死ぬ瞬間はみられなかったんだな、と亥一郎は思った。いっちゃんは長生きをしなさい、このうちの例外になりなさい、といっていた祖母の死は、亥一郎の胸に深くあとを残した。祖母がみられなかった死の瞬間を、自分はきっとみてやろうと、そのとき亥一郎は心にきめた。そして同時に、みつめる暇もなく生を乗り越えていった死が、どうぞ自分にはまだまだ来ませんように、と祈った。
祖母が亡くなってから、母は急激に元気をなくしていった。父のほうはその反対に、やたら陽気になっていき、張り切っているのが目にみえて明らかになっていった。父は会社を三つに分け、どんどん事業を拡大していったようで、それに並行して遊びのほうも派手になっていったらしい。出張でもないのに父の帰らない夜が出てきて、そんな日には名取が、父の着替えをとりに家へやってきた。母が着替えを用意するのを待ちながら、名取はお茶を運んでくる光子に、
「光ちゃん、まだお嫁にいかないのかい? いいとこ世話してやろうか」
などとからかうことがある。たまに亥一郎がそばへ行ったりすると、
「ぼっちゃんは末は社長ですからね、そのときはこの名取を筆頭専務にしてくださいよ。身を粉にして働いて差し上げますからね」
などといった。名取が帰ると、母はため息をつき、光子は、
「塩まきましょうか」
と憤然とするのだった。名取の整髪料で光った頭は亥一郎も大嫌いで、その匂いがするだけで逃げることもあった。
「あんな人、やめさせたらいいのに」
「お父さんは、便利にしてつかってるから……。手足みたいなものだから、切るわけにはいかないのよ」
と母はいった。
祖母の三回忌が過ぎると、母は、今度のお正月は、うちで初釜をやる、といいだした。祖母は稽古事《けいこごと》の好きな人で、亥一郎の小さいときには三味線や踊りの師匠まで来ていたのだが、母はそういうものがあまり好きではなく、いつとはなしに稽古事は茶道だけになっていた。お茶の先生は、母が娘のころに来ていた先生の助手をしていた人で、前の先生が亡くなる五、六年前から、毎週一回教えにきていた。稽古のときは光子も加わり、月の最後の稽古日には、先生の自宅の弟子も亥一郎の家へ稽古に来ることがあった。
祖母は、人を集めることが大好きだったから、元気だったときには、稽古事の師匠や親しい人を招いて、季節や行事に因んだ茶事をやったこともあるのだが、母がなにかをやるというのはとても珍しいことで、お茶の先生はその知らせに大喜びだった。
「そうですよ。そういうことは、もっとおやりになるべきですよ。こちら様のように、ご立派なお道具がおありの方は、もっとお茶事でもお茶会でもやっていただかないと、わたしどもなんかは、目の保養もできませんのですよ」
と先生はうまいお世辞をいって、自宅のほうの弟子から仲間からみんな集めて、亥一郎の家で一緒に初釜をやることにきめてしまった。この先生は、先代の先生のときから家に出入りをして茶の手伝いをしていた人だから、母よりもよく亥一郎の家にある道具を知っていて、どこにどの茶入れをしまっておいたとか、茶碗はなにがあったはずだなどといいだすので、さすがの母もしまいには笑いだしてしまい、
「お初釜のお道具組は、先生に全部お任せしたほうがよさそうだわ」
と苦笑する始末だった。母は、よほど気分が鬱屈していたのか、
「うちには大したものはないのだけど、今度の初釜は、なにかこう、ぱあっとしたもので飾りたいの。気の晴れるような明るいお初釜にしたいのだけど」
と頼んでいた。
「結構でございますとも、お正月ですもの。こちらのお宅はお好みが重厚で、あまりきんきらしたものはないのですけど、お茶碗を少し派手めな乾山手のものでもつかって、お棗《なつめ》は、金蒔絵のにでもなさればねえ。
床の間は、植政さんに頼んで、結び柳をもってきてもらいましょうよ。ひきたちますわよう。お軸だけは、重いものがよろしいと思いますけど」
と先生は、自分の持ち物の中からあれこれ選ぶように、楽しそうにいった。さして知識もない家の、稽古に熱心というのでもない母のちょっとした道具などは、内心では先生は、自分が自由にするものと思っているようだった。
「こちら様は、お金はあってもお道具がわからない。わたしは目はあってもお金がない。お買いなさいとおすすめしても、奥様も旦那様も興味もない」
とお茶の先生は、いつも冗談のようにこぼしていたのだ。
「本当はね、うちでお茶会やると、先生のほうも助かるのよ。今時ご自分でなさったら、いくらお茶会の券出しても、お道具屋の払いは持ち出しになるからね。そうかといって、あんまり安物揃いでお茶会やったら、お仲間に馬鹿にされるし、いつも同じ道具組、というわけにもいかないしね。
うちでやれば、あの先生のことだから、お初釜の券売ったものは全部包んで持ってくると思うんだけど、わたしがまたお礼を包み返すのも、よくご存じなのよ。まあ、全部とりしきっていただくんだから、それ相当のお礼は当然だけどね。
なんにしてもお利口な先生だから、なにやったって損はなさらないわよ」
と母も、珍しく先生の内幕をばらしていた。あっさりした性格の先生のほうも、母とは長い付合いで遠慮がないのか、
「こちらと違ってうちあたりじゃ、お茶会やるったら大変なんでございますよ。この前買ったお茶入れを売って、炉縁のいいのを買いましょう、お茶杓買いましょう、ですからね。人様におほめいただくようなお茶会やろうと思ったら、お道具回しが大変なんでございますよ。喜ぶのは、お道具屋さんだけってことですわねえ。
それに、今のお若い方ときたら、うちでやるなんていったら、お手伝いにも来ないんでございますから。こちらくらいのお屋敷でないと、興味もわかないんでしょうかねえ」
とからりと本心をぶちまけるのである。
初釜は、成人式のあとの日曜日ときまった。先生の自宅のほうの弟子たちが全員集まると、くすんだ家の薄暗い座敷も、さすがに若い娘たちの振り袖姿で花が咲いたようになった。家にいるときには、たいてい仏頂面しかしていない父までが相好を崩して、
「お母さん、やっぱりお土産は、人形町の粕漬け用意してやればよかったんだよ。これじゃ、せっかく来てもらって、なにも愛想がなさすぎるよ」
といいだしたほどだった。母は本当はそのつもりだったのに、
「なにもそんなに気張らなくたって──。家付きお嬢さんばあさんは、それだから困るよ。いつまでお嬢さんのつもりでいるんだろうね。もう代も替わって、世の中も変わったんだぞ。いったい誰が稼いでると思ってるんだ……」
と父に嫌味をいわれ、仕方なく、
「わざわざうちへおよびして、これじゃ恥ずかしいようなものだけど、時代が時代なのだったら、しょうがないわ」
と予定していた点心や土産の質を落としたのだった。
実際には父は母よりも気前がよくて、機嫌さえよければ、見ず知らずの人にでも金や物をばらまくのが好きなたちだったが、人に先を越されることの大嫌いな人だったから、母がすべてを取り計らってきめたということが気に入らず、そんな嫌味をいってしまったのだろう。
その日は弓子も手伝いに来た。弓子の姉にも声はかけたのだが、姉のほうは相変わらず亥一郎の家は敬遠しているのか、弓子だけが一人で張り切ってやってきた。亥一郎の母は、セーター姿でやってきた弓子に、母の娘時代のひときわ派手な友禅の振り袖を着せた。弓子は母に着つけを任せながら、うっとりと姿見に見惚れていたが、
「いっちゃん、わたし、きれいだと思わない? ミスなんとかになれると思わない?」
と途中から入ってきた亥一郎にしなをつくってみせた。
「弓ちゃん、ずいぶんグラマーになったじゃないか」
と久しぶりにあう父が入ってきて、目を細めていうと、弓子はちょっと口を開けて父を眺め、唇をなめてから、はい、といって鼻の先をうごめかした。
「弓ちゃんたら、表と裏じゃまるで態度が違うんだからあ。
お水屋はひっくり返るほど忙しいっていうのにさ、弓ちゃんたら、足が痺《しび》れたとかいって、立ったままみているのよ、手伝いもしないでさ。それで、表へ運んでいくときときたら、なによ、どこのお嬢さんかという顔して、しおらしい振りなんかしちゃってんだから。あんなの、ほんとに吉原行って、お女郎になればよかったのよ」
と光子だけは、よほど馬があわないのか、息抜きに台所へくるたび、弓子の悪口をいっていた。そういっては光子は、大皿に盛ってある煮物をつまんだり、八寸に盛る海の物や山の物をポンポン口にいれる。料理人を頼んであって、そのほかにも下働きに、お茶の先生の年配の弟子が来ていたのだが、光子が文句をいうほど、いっときやたら忙しくなることがあるのだった。
客は、お茶の弟子だけではなく、知り合いや母の友達などもよんであって、夕方まで賑やかに続いた。亥一郎は、高校へ入ってからはほとんど弓子と接触がなかったから、母の着物を自分の着物のように着こなして、いっちゃん、いっちゃん、と呼ぶ弓子が、眩《まぶ》しくてたまらなかった。女で溢れた座敷も息がつまって、すぐに茶の間へ隠れてテレビをみてしまう。
薄茶がたつまでの休憩時間にも、亥一郎は茶の間でひっくり返ってテレビをみていた。すると弓子が、音も立てずに襖《ふすま》を開けて入ってきて、
「いっちゃん」
と寝そべっている亥一郎のそばに坐り込んできた。慌てて亥一郎が起き上がると、
「わたし、疲れたわ。帯、きついの」
と弓子は、亥一郎に身体をもたせかけるようにしていった。絹をまとった柔らかい身体が、亥一郎の脇腹に溶け込むように触れてくる。弓子は、膝《ひざ》で踏んでしまった袂《たもと》を無造作に引っ張り出すと、亥一郎の膝上に半分かかるようにして置きなおした。手に触れた絹の冷たい滑らかな感触を、亥一郎は一瞬弓子の手かと、思わず自分の手を引っ込めるところだった。
「よく似合うね、これ。お母さんの若いころのだよ」
と亥一郎が袂を持ち上げ、弓子の膝に返しながらいうと、
「わたしってさ、贅沢《ぜいたく》なものが似合うのよ」
と弓子は得意そうに、目を輝かしていった。そのとき突然音がして、襖が開いた。父だった。
「なんだ、二人でこんなところで、なにしてるんだ」
「いっちゃんが、呼んだんですものお」
弓子は鼻を鳴らして、そういった。
「呼ばないよ。自分が勝手に来たんじゃないか」
亥一郎が声を荒らげてそういうと、父は奇妙な笑いを口もとに浮かべた。亥一郎は馬鹿にされたのかと血が上り、首筋まで赤くなった。するとなおさら父は笑った。弓子まで父に声をあわせて笑った。亥一郎は立ち上がると、音を立てて襖を閉め、茶の間を出ていった。弓子が父と顔を見合わせているのが、出がけに目に入ってしまった。
二階へ行く途中の廊下で母と出会うと、
「どうしたの?」
と母はいった。
「どうもしないよ」
「そう。疲れたような顔してる。──もうすぐ、お薄が始まるわよ。
お父さんは?」
「知らない」
「弓ちゃん、どこかしら」
「知らないよ」
母は、不快そうな顔をした亥一郎が、二階へあがっていくのを気づかわしそうに見送っていた。亥一郎は、勉強部屋のベッドに弾みをつけて寝転がり、額に手をあてて目を覆ったが、多彩な友禅の花模様が、流れるように視界いっぱいに広がってきて、弓子と父の笑い声がいつまでも耳から離れないのだった。
光子が、お薄の席が始まる、と呼びにきて広間へ行くと、父はすでに坐っていて、若い弟子たちを笑わせていた。無意識に弓子の姿をさがしたが、水屋にでもいるのか、弓子の姿は見当たらなかった。
「おめでとうございます。ぶしつけではございますが、わたしもお仲間に入れていただきとうございます」
と突然聞き覚えのある声がして、振り向くと、敷居際に名取が手をついていた。
「なんだ、耳の早いやつだなあ。今日のは奥さんの会だぞ」
と父はあきれていったが、
「ええ、ええ。存じてますです。美人さんのお集まりは、すぐ耳に入りますので」
と名取はずうずうしく、よばれたわけでもないのに、若い子たちの間に勝手に割り込んでしまった。そして、
「今日は、弓ちゃんは?」
と父にきいた。
「お運びやらされてるよ。すぐに出てくるから、みてみなよ」
父は、なんだか自慢そうにそういった。
お茶の手前が始まって、正客に茶碗が出ると、弓子ともう一人の手伝いの若い弟子が、次客以下に水屋から茶碗を運んできた。亥一郎の番になったとき、順序からいえばお運びは弓子ではなかったのだが、弓子はわざと一つ飛ばして亥一郎の前に坐り、すました顔で、
「お茶をどうぞ」
といった。会釈をして顔をあげると、弓子の目には、狂った猫の目のように、炎のようなものがゆらめいていた。弓子が立ち上がろうとしたとき、腰の線がちょうど亥一郎の目の高さになった。パンティの線が、うっすらとわかった。亥一郎は、胸が凍るようなものを覚えて一瞬手が震え、その手を茶碗にしっかりと押しつけて震えを堪えた。
薄茶の席が終わると、座敷を替えて甘酒がでるというので、若い弟子たちはほっとしたのか、急に声高に話しだし、何人か先に帰る者が出ていってからは、かるた取りをしたい、などといいだす者まで出てきた。父はますます機嫌がよくなり、ゆっくり遊んで、遅くなったら蕎麦《そば》でも食べて帰ったらいい、などといいだした。そして気がついたときには庭は暗くなっていて、朝からどんよりしていた空からは、白いものが舞い降りていた。
「わあっ、雪だわ!」
と誰かが気づいて叫ぶと、
「どうしよう、帰れなくなる」
と興奮して、困っているのか喜んでいるのかわからないような声をあげるものもいた。父はますます喜んで、
「泊まっていきなさいよ。大歓迎だよ。うちの子になってもいいんだよ」
などといった。年配の客が、
「朝から曇っていたけど、まさかねえ。雪のお初釜なんて、何年ぶりかしら。いいご馳走ですこと」
というと、若い弟子は、
「着物、大丈夫かしら。わたし、歩くの下手だから」
と心配を始め、まわりがまたひとしきり賑やかになった。すると弓子が水屋のほうから走ってきて、
「雪よ。だんだん降ってくるみたい」
と煽《あお》り立てるようにいった。
「弓ちゃん、泊まってくか?」
と父がいうと、弓子は顔を輝かせて、
「泊まってくわ」
とすかさずこたえた。母は黙って笑っていた。豪華な振り袖姿の弓子のそばで、母の着物は、くすんだ色の、絞りの模様が裾《すそ》のほうにちょっとあるだけの地味なものだった。その色は、母が一番好きな、濃い藍色の朝顔の根元のような薄色をしていた。祖母が元気だったころには、三人で朝顔市へ行ったこともあったのだ。お酉さまのときには、風邪をひくから、といい顔をしなかった祖母も、夏の朝の早起きは健康にいいと思っていたのだろうか。
祖母が寝ついてからは、母はさっぱり出掛けなくなり、植政が母の好みの鉢を届けに来ていた。植政は、母の喜ぶものはなんでも好きだったようで、二人の喜ぶ様子をみるのが、また亥一郎はとても好きなのだった。
「弓ちゃん、卒業したら、どうするんだい、就職か?」
と名取がきいた。
「就職よ、もちろん。わたし、頭よくないもん」
と弓子は、父をみながらいった。口もとの辺りが、意味ありげに笑っている。
「そうか、もうきまってるのか。そりゃ、いいや」
と名取も笑った。母は他人事のように関係のない振りをしていたが、快く思っていないのがよくわかった。
外はいつのまにか、大きな牡丹雪に変わっていた。障子の間のはめ込みのガラスから、誰かがそれに気づいて大声をあげると、
「ああ、大変! ほんとに帰れなくなっちゃう」
と涙声を出す者もいた。お茶の先生は水屋で道具を片付けていたのだが、晴れやかな顔をして、手伝いの弟子と一緒に出てくると、
「さあ、もうお水屋も大体終わったから、お開きにしましょうね。これ以上雪がつもったら、それこそ跡見の茶事でも続いてやることになっちゃいますものね」
と自分の家の茶会を終えるように、すましていった。
「みなさん、傘はお持ちかしら」
と母が心配してたずねると、
「降らずとも、傘の用意、といつもいってますから」
とお茶の先生は胸を張っていった。何人かがうなずいた。
「お持ちでない方は、おっしゃってね。ボロ傘ですけど、ないよりはましだわ」
と母がいうと、父は、
「車代、出してあげなさい。うちの客を、濡《ぬ》れて帰すわけにはいかんだろう」
といった。そして父は、
「光ちゃん、ぽち袋あるか?」
と光子を呼び、
「弓ちゃん、ちょっと手伝えよ」
と弓子をうながすと、二人で奥へ消えていった。
「あら、そんなお気遣いはよろしいのに」
とお茶の先生は顔をほころばせ、ねえ、とそばの若い弟子に相槌《あいづち》を求めた。先生は、さあ、そろそろ帰りましょうか、と何度もいうのだが、父の間合いを計っているのか、いっこうに腰をあげない。ようやく父が、ぽち袋をのせた盆を弓子にもたせて出てくると、先生は丁重に挨拶《あいさつ》をして、
「明日また、伺わせていただきます。お道具は、今夜風通しをして、明日、お蔵に納めさせていただきます」
といった。父はうなずいて、千円ずつ入ったぽち袋を、若い弟子にはその着物の胸の合わせ目に、自分の手で押し込んでやった。
「ご主人様のご厚意だから」
と先生はいって、わたしにまで、とぽち袋を額の高さにおしいただいた。それまでためらっていた弟子たちは、それをみると喜んで急に元気づいたのか、声々に父に礼をいって玄関へ立っていった。
「弓ちゃん、そこまで一緒に帰ろうか」
と名取がいった。
「え?」
と弓子は気のない返事をして、父を見上げた。
「うん、そうしなさい」
と父がいうと、弓子の顔は咄嗟に曇った。
「だって、着物が……」
「ああ、そうか」
「いいのよ。そのまま着てお帰りなさいな。明日でもいつでもいいんだから。どうせうちでは誰も着ない着物なんだから」
母が横からそういった。
「こんなお高いお召し物、濡らしちゃもったいないわ。今じゃ、買おうたって、売ってもいないようなものですもの。売ってたって、うちあたりじゃ買えもしないけど」
と先生は、母におもねっているのか、弓子を軽蔑しているのか、どちらともとれるような言い方で、弓子をみながらいった。
「いいんですよ。娘がいるわけでもないし、わたしが今更着られるわけでもないんだから」
と母も、なにかすねているようなこたえ方をした。
「ここで脱いじゃおうかなあ」
と弓子が父をみていった。薄暗い座敷の中で、弓子の顔はひときわ白くみえる。いつもの癖で顔を傾け、弓子は皺《しわ》のない唇を何度もなめていた。
「いいから、そのまま着て帰れ。名取、一緒に行ってやって」
と父がいうと、弓子は顔色を変えた。弓子は唇をかみながら父を睨《にら》んでいたが、ふいと亥一郎を振り向くと、
「いっちゃん、おやすみ。さっき残念だったわね。おじさんたら、急に入ってくるんだもんさ、なにもできなかったわね。お話もできなかったし」
といった。父の顔にまた奇妙な笑いが浮かんだ。弓子は亥一郎の返事も待たず、
「行くわよ」
と名取にいうと、もう一度唾で唇を光らせた。玄関を出るとき、弓子は振り向いて父をみた。父の様子を確かめたように、亥一郎には思えた。
客が全部帰ると、父は、
「光ちゃん、風呂わいてるか」
と怒鳴った。母は台所へ行き、光子に、お願いね、と父のほうを顎《あご》でさしながら、
「これは明日、先生にやっていただくわ」
と風通しのために並べてある漆器をさして呟いた。それから袂で胸を抱くようにしながら、台所で残った食べ物をあさっていた亥一郎に、
「いっちゃんも、お風呂に入ったら早く寝なさいよ。明日は学校でしょう」
といった。母は疲れているのか、いつもより肩がいっそう薄くみえた。
その春、二人は高校を卒業し、弓子は父の会社へ、亥一郎は大学へと進んだ。亥一郎は、大学にいた間は、弓子にほとんどあっていない。社員旅行など会社の行事のときには、母や亥一郎も一緒に行くことがあるので、そんなときに話をすることはあったのだが、その四年間は弓子と一番遠く離れていた期間だった。母も、人間が煩わしくなった、といって、庭木や草花の手入ればかり楽しむようになっていた。茶の稽古だけは続いていたが、光子のほうがむしろ張り切っているという程度でしかなかった。月の最後の日曜日だけは、お茶の先生の頼みで、先生の自宅の弟子たちと一緒に、台子《だいす》手前の稽古をすることになったので、その日になるとふだんは静かな亥一郎の家も、若い声の笑いあうのがきこえて、華やいだ雰囲気になっていた。
「亥一郎さんもいらっしゃいな。お稽古がいやなら、お茶だけでもいかが? 花嫁候補がいっぱいいますわよ」
とお茶の先生は亥一郎をみるたび誘う。
「いやあ、ぼくは……」
と断ると、
「あら、もうおきまりなの? 弓子さん? まさかね。あの方じゃねえ」
といった。どういう意味なのか亥一郎はとりかねて、曖昧《あいまい》な顔をしていた。
大学最後の夏の朝顔市には、弓子が朝顔の鉢を届けにきた。その年は、植政の具合の悪くなった年で、植政は夏に二度目の入院をしていた。
「まあ、弓ちゃん、ご苦労さん。これから会社でしょ? 悪かったわね、朝早くから面倒かけて。
政さん、どうお? ──そう、やっぱりね。急に夏がきて、こたえたのかしらね」
と母は顔を翳《かげ》らせていった。植政は病院でも母の朝顔を気にしていて、弓子の姉に手配をさせていたのだそうだ。弓子の姉はとっくに勤めていたのだが、相変わらず亥一郎の家へは顔をみせたことがなかった。
いつもなら朝顔になど興味を示さない父が、弓子の声をききつけたからか、珍しく庭へ出てきて、
「やあ、ご苦労さん」
などといった。弓子は、白地に大きなひまわりの模様のワンピースを着ていたが、そのスカートをちょっとつまんで片足を一歩下げると、ふざけているのか西洋風の気障《きざ》なお辞儀をした。厚地のピケのような生地から出た腕がとてもかぼそい感じで、夏だというのに白く透けているのが、亥一郎には眩しくみえた。
「弓ちゃん、痩《や》せた?」
昔のように弓子とは呼べず、亥一郎は少し照れながら、そうきいた。すると父が、
「弓子は、会社でしごかれてるからな。太ってる暇はないよな」
といった。弓子はこたえずに口を曲げて笑い、それから舌を出して、ついでに唇をなめまわした。顔を傾ける癖は未だにとれないのか、長く伸ばした赤茶色の髪が垂れてくるのを、うるさそうに手で掻《か》き上げている。その指の先が、赤く染まっていた。白い小さな手をしていて、指先は細いのだが、指の根元はけっこう太い。その指に、真珠の指輪がはまっていた。亥一郎がみつめているのに気がついたのか、弓子は、
「昔いっちゃんに、ガラスの指輪買ってもらったわね」
といった。
「でも、これは本物よ」
「お給料で買ったの?」
と母がたずねた。弓子は笑って父をみた。
「学校、まだいいのか」
と父が亥一郎に向かっていった。
「弓ちゃん、ありがと。あなたもそろそろ会社でしょ。
わたしもそのうちお見舞いに伺うわ、病院のほうへ。政さんにそういっといてね」
母がそういうと、弓子はしらけた顔を父に向けた。父はそっぽを向いていた。
「いっちゃん、今度は本物の指輪ちょうだいね。エメラルドがいいわ」
と弓子は帰りがけに亥一郎の腕をとって、甘えるようにいった。亥一郎はその途端、父が冷笑を浮かべたような気がした。母の顔にも、嘲《あざけ》るようなものが一瞬浮かんで消えた。それは前に、お茶の先生の顔にみたものと同じ表情だった。
「いっちゃん、またね。バイバイ」
弓子はそういって、飛石伝いにかけていった。未だに少女のころのような、甘い感じの残る細い足をしている。父はくるりと背を向けると、庭下駄をはきづらそうにひきずって、大股で縁側へ歩いていき、
「光ちゃん、お茶! 熱いのだぞ」
と怒鳴った。
母は鉢のそばにしゃがみ込み、
「いっちゃん、今日は朝から出掛ける?」
とたずねた。
「いや、今日は別に、特に出掛けなくてもいいけど。なにか用?」
「ううん、別になんでもないんだけど」
「……お母さん、相変わらずそんな色の朝顔が好きなの? もっと派手な色にしたら? 淋しすぎるよ。お母さんのは、なんでも地味すぎてさ。着物だっていつもそうだよ」
と亥一郎は母の、細かい柄の藍染めの浴衣をみながらいってみた。
「だって、そんな派手なものなんて着られないじゃない、もうおばあさんだもの」
「そうかなあ。年は関係ないと思うけど。いっぱいあるじゃないか、きれいな着物が」
「あったって、着られないわよ。あんなもの、みんな昔のものだもの。いっちゃんのお嫁さんでも来たら、着てもらってよ」
「そんなの、いつのことかわかんないよ」
「そうなの? 早く孫でも抱かせてもらわないと、お母さん、いつまで生きてるかわからないわよ。
──いっちゃん昔、弓ちゃんをお嫁にするんだって夢中だったけど……」
母は、大輪の朝顔をみていた目を亥一郎に移しながら、
「今でもそう?」
ときいた。
「さあ。どうかな。──高校くらいから、ほとんど付き合ってないものね」
「それもそうだわね。
今は? 恋人はいるの?」
「そんなの、いないよ」
「本当? 淋しいのねえ」
「うん、淋しいんだよ。ちっとももてなくてさ」
「あら、お父さんの息子がなによ」
母は立ち上がって、亥一郎の背を押すと、そういって笑った。
大学を卒業すると、亥一郎は父の会社に入り、一年たつと、三つある会社の一つの、名目上の副社長になった。三つあるとはいっても事務所は一つで、全体でも社員は大した数ではないのである。弓子は形の上では一応別の会社に所属していたが、三つの会社の社員全員にお茶を配っていた。母も従来通り役員になっていて、亥一郎の給料と一緒に、相変わらず名取が毎月家へ金を届けにきていた。亥一郎は、必要なときに適当な額を母からもらっていたので、給料がいくらなのか、役員手当てが幾らなのか、知りもせず、知ろうともしないでいた。弓子と結婚することになったとき、そのことが弓子は一番気になったようで、あるとき、
「結婚したら、いっちゃんの分は別にしてもらえるんでしょ? おばさんから、いちいちもらうわけじゃないわよね」
と亥一郎に確かめた。
「どっちだって同じじゃないか。別に、お母さんからもらったって、困らないだろう」
「いやよ、わたし。そういうことは、はっきりさせておきたいのよ。
それに、結婚したら、わたしも役員になれるんでしょうね。なれるよね、身内になるんだから」
弓子の言葉は、亥一郎を当惑させた。弓子と結婚することになったときだって、一番驚いたのは亥一郎だったくらいで、亥一郎には、ことの成り行きも信じられないところがあったのだ。
二十四歳になろうとしていた年の二月、弓子は、会社がひけるころに亥一郎の席へやってきて、
「ねえ、今晩ちょっと付き合ってえ。お話があるのよ」
といった。
「いいよ。うちへくれば?」
「いやあね。どこか行きましょうよ。銀座かどこかへさ。お食事しないの?」
と弓子はいう。
「してもいいけど、うちへくれば、おふくろと一緒に食べられると思ったからさ。親父いつも遅いだろ、お母さん、ひとりで食べさすの、かわいそうだから」
「もう、いっちゃんたら、親孝行もいいかげんになさいよ。幾つだと思ってんのよ。たまにはいいでしょうが。気になるんだったら、社長に早く帰ってもらえばいいじゃない」
「いいよ。じゃ、電話しとくから」
そういって二人で出掛けたのだが、それは本当に珍しいことだった。同じ事務所の中で働き出してからは、幼いときと同じように、呼べばいつでも弓子は来るような気がして、亥一郎はとくに関心ももたないでいた。弓子のほうも近づきもしなかったのは、親しさをお互いに認めあっていたからだと思う。
その日になって、なぜ弓子が急に誘ってきたのか、亥一郎は後でちょっと怪訝《けげん》にも思ったが、不思議がるような仲でもなく、誘われて悪い気は当然しなかったのだ。それに弓子と二人になってみると、幼なじみはすぐに元へ戻っていけて、長い間離れていたぎごちなさは、たちまち消えていったのである。
「なにが食べたい? おいしいものが好きなんだろ?」
ときくと、
「なんでもいいわ。わたし、そんなに食べたくないもの」
と弓子はいった。
「なんだ、だったらうちへ来ればよかったのに」
「いっちゃんたらあ、たまには二人になろうよ」
と弓子は、亥一郎に身体をぶつけてきて、亥一郎の腕にからませた手を亥一郎のコートのポケットに入れ、もたれるように歩きながら、頬をふくらませた。体側は、ぴったり亥一郎にくっつけている。柔らかい、いつでも勝利を確信しているような身体が、ぐいぐいと亥一郎を押した。
「ねえ、ほんとになにを食べるのさ」
「そうねえ、お蕎麦なら入るかな」
「蕎麦? そんな軽いのでいいの? もうちょっと、ちゃんとしたものにしたら?」
「いいのよ。そのほうがいっちゃんだっていいでしょう? おうちへ帰ってから、またお母さんと食べられるじゃない」
と弓子はからかうようにいった。それで蕎麦屋へ行くことになったのだが、弓子は、亥一郎のとった天ざるを、やだわ、といい、ざるに盛ったほんの少量の蕎麦に形ばかり箸《はし》をつけて、つけ汁だけを、蕎麦湯をいれて全部飲みほした。
「変なんだねえ、弓子の食べ方は」
すらりと昔の呼び名が口をついて出た。弓子は少しだるそうな目で亥一郎を見上げ、
「もう出よう」
といった。
通りへ出ると、弓子はまた身体をすり寄せてきて、
「ねえ、どこか行く?」
と囁《ささや》いた。
「どこへ?」
「ばか。きまってるじゃない。行こうよ」
そういって弓子は、自分のほうからホテルへ誘った。それでいて弓子は、最後までは許さず、
「どうして? じゃあ、なんで誘ったの?」
と亥一郎がきくと、
「だって、どうせもうわたしは、いっちゃんのものだもの。慌てることもないじゃない。わたしたちって、小さいときからきまってたんだからさ。いっちゃん、いつもいってたでしょ。ぼくのお嫁さんになりなって。そのつもりでわたし、ずっと待ってたのよ。いついっちゃんと結婚するのかと思って、ずっと待ってたんだから。だから、いっちゃんも待ちなさいよ。そんなことは、結婚するまで待つものでしょ?
いっちゃん、いつ結婚するつもりでいたの? こうなったら、早くしようか。わたし、もうずいぶん待ったから、早くしてもらいたいんだけど。もう二十四だからね」
と弓子は頬を寄せて、亥一郎の手をはずしながら、わたしだって中途半端はいやなんだけど、と囁いた。それから急に亥一郎を突きのけると、
「だめだわ。おばさんが心配して待ってるんだ。早く帰してあげようっ」
といって起き上がり、さっさと身じまいを始めた。
次の日の朝、会社で顔をあわせたときには、弓子は知らん顔をしていたが、午後になると仕事の合間にそっと寄ってきて、
「昨日のこと、きめてくれた?」
といった。
「昨日のことって?」
「結婚よ。なにいってんのよ、もう、いっちゃんはぐずなんだから。早くきめてくれなきゃ困るでしょ。またあんなふうな晩過ごすなんてわたしやだわよ」
弓子はそう声を潜ませて、亥一郎の耳に唇がつくような近さで囁いた。椅子にかけている亥一郎の太股《ふともも》に、弓子は膝をのせるようにして脚をすりつけてくる。
「考えておくよ」
「考えるだなんて、約束じゃなかったの? あんなにいっておいてなによ。わたしなんか、ずっとその気でいたのよ。なにを今更考えるっていうの。いっちゃんたら、本当にのろまなんだから、昔から」
弓子はそういって、ハイヒールの先で亥一郎の脛《すね》を突いた。その夜亥一郎は、弓子と結婚しようかと思うんだけど、と母にいってみた。
「ええ? だって弓ちゃんとはなんともないっていってたじゃない」
「うん、だけど小さいときからの引っ掛かりがあるでしょう。弓子もずっと待ってたみたいなんで……」
「そんな、子供のときの他愛ない約束なんて、どうってことないでしょうに」
「でも、女の人がそれをあてにしていて、結婚もしないで待ってたってことは、大変なことなんでしょう?」
「じゃあ、いっちゃんは、そんな義理で結婚しようっての?」
「義理ってことはないよ。ぼくだって弓子嫌いじゃないもの。あれだけ長く付き合ってれば、気心も知れてるからさ。間違いないでしょ?」
「だけど、この家の跡取りでしょう、いっちゃんは……」
「だから? だから弓子じゃだめだっていうの? それはおかしいんじゃないの? なにを気にしてるのさ。お母さんは、家柄だなんて、馬鹿なことはいわない人でしょう?」
「そりゃ、そうだけど……。でも、はっきりいえば、あまり賛成はできないわよ。いっちゃんだって、弓ちゃんでないとだめってことはないんでしょ?」
「いや、そうでもないよ。もうぼくの心ではきめちゃってるからね。いまさら断りはしないと思う」
「それは、そういう事実があるってこと?」
と探るように母はたずねた。そうだといったほうが面倒がないと思った亥一郎は、
「そう思ってくれていいよ」
とこたえた。母はため息をついて、
「なんとかならないものなの? ほかに解決法はないの?」
と不満そうな顔をしてたずねた。亥一郎が黙りこくると、母はさらに顔を曇らせて、
「とにかくお父さんに相談してみるわ」
と気乗りのしない様子でいった。母が賛成でないと知ると、かえって亥一郎は、昔から弓子と結婚するつもりでいたような気になってきて、きめたことだからね、とむっつりしていた。
弓子がひいきと思っていた父は、喜ぶどころか青くなって怒り、弓子との結婚など問題外だと息を詰まらせた。
「そんなものは、許せるはずがないんだよ。亥一郎が断れないなら、おれがなんとしてでも断ってやる」
と額に筋まで立てて怒ったが、弓子とどういう話になったのか、その後はその話題から逃げるようになり、母や亥一郎と顔をあわせるのさえ避けるようになった。
母が結婚を承諾したのは、植政がまた何度目かの入院をして、今度はだめかもしれないときいてからで、
「どうせ結婚するなら、早いほうがいいわ。政さんも喜ぶでしょう」
と弓子の希望の四月の結婚式を承諾してくれた。父は、おれは賛成とはいえない、と口を濁したきり、あとはなにもいわなくなった。弓子は、
「婚約指輪は、エメラルドね。ガラスじゃだめよ」
とはしゃいでいたが、式の日取りがきまってからは、亥一郎を誘いもせず、そっけない態度をとっていた。
植政の亡くなったのは、結婚式の前夜だった。弓子の家からはなんの連絡もなかったから、式は予定通り行われて、弓子のほうも、弓子の姉が熱を出したといって欠席したほかは、弓子の母も何人かの親戚も、何事もないように列席していた。両家とも親戚の少ない家で、父は久しぶりに甲府の里の兄姉たちにあったのだが、結婚がきまってからの浮かない顔を変えもしないでいた。甲府の親戚たちはその夜は亥一郎の家に泊まることになっていて、父たちの用のすむのを、控え室の片隅で待っていた。そのとき弓子の母が、ちょっと、と母を呼んだ。母も、ちょっと、といって離れていったが、その顔がたちまち驚愕を示したかと思うと、あなた、と父を呼んだ。父は母となにやら話しながら弓子をみていたが、低い声で、
「いっちゃん」
と今度は亥一郎を呼んだ。亥一郎は父から話をきくと驚いて、弓子、と大声で呼んだ。弓子はすぐに親戚の輪から離れて走り寄ってきたが、
「なんで黙ってたんだよ、政さんが死んだなんてそんな大切なこと、どうして黙ってたんだ」
と亥一郎が声を潜めていうと、
「だってしょうがなかったんだもん。ほかに、どうすればよかったのよ」
と口をとがらせていった。
「とにかく旅行は中止して、すぐ行くんだ。弓子はおばさんと一緒に帰りな。ぼくたちはあとで行くから」
「ええっ。いいのよ、うちのほうはいいって、お母ちゃんいってたんだから」
「いいったって、そうはいかないよ」
「じゃあ、旅行も中止?」
「当たり前だよ。今夜はお通夜だろ」
弓子は黙って唇をかんだ。目がつりあがって、顔は蒼白になっている。
「電話しないといけないね、ホテルのほう」
と亥一郎が父にいうと、
「名取にやらせるよ」
と父はいって、ロビーへ出ていった。弓子が、言葉の通じないところはいやだ、といって、旅行を国内にしていたのがまだしもだった。亥一郎は壁際の椅子にどっかり腰をおろすと、頭を抱えてしまった。甲府の親戚の者たちは、母からどう話をきいたのか、取り込みのようだから、このまま甲府へ帰るといい、母に見送られて控え室を出ていった。
「ねえ、計画通りでいいのよ」
と弓子がまたいった。
「いいよ。とにかく弓子は帰れよ。おばさんはもう帰ったの?」
「帰ったと思う。でも、わたしは帰らないわ。わたし、もういっちゃんちのお嫁さんでしょ」
「葬式がすんでからでいいよ」
「そんなのないわ。いっちゃんちからお葬式に行くわよ」
「だめだ。終わってからだ」
「じゃ、社長に頼むわよ」
弓子はそういったが、父もそのときは亥一郎に味方をして、弓子に冷たく帰れといった。弓子は唇をかんで、血走った目で父を睨んでいたが、亥一郎の手をとり、
「じゃあ、いっちゃん、うちまで一緒に来てよ」
と目だけは父をみながらいった。
ロビーで名取に出会うと、
「ぼっちゃん、残念でしたね。せっかくの夜だったのに。でも、もう関係ないのかな」
と名取はにやりとした。名取は未だに、会社にいる時間をのぞいては、亥一郎を「ぼっちゃん」と呼ぶ。亥一郎がいやがるのを承知で、そう呼んでいるようだった。
弓子は葬式のすぐ翌日、昼間に亥一郎の家へやってきた。光子は表玄関へきた弓子に、
「お客さまならお取り次ぎいたします」
といったそうだ。すると弓子は憤然として裏口へ回り、案内も乞わずに家へあがりこむと、母の居間へ直行して、
「弓子です。ただいま参りました」
といったという。母は仰天して、
「まあ! 初七日はいてあげたらよかったのに」
といったきり、弓子のあとを追ってきた光子と目を見合わせて絶句した。亥一郎は、新婚旅行も中止して、いつものように会社へ出勤していたのだが、夕方父よりも一足先に家へ帰ると、弓子が玄関へ出迎えたので、びっくりしてしまった。
「もう来たの?」
「いやあね、わたしはここの人間でしょ。そんな、来たのが悪かったみたいな言い方はよしてよ」
弓子はそういったが、亥一郎は当惑して、靴を脱ぐのも忘れ、玄関に佇んだきりしばらく呆然としていた。初七日は向こうにいるものとばかり思い込んでいたから、どうしていいのかわからない。光子は当然のことながら仏頂面をしているし、母の様子も喜んでいるようにはみえないのだが、弓子にもう一度帰れとはいえないのだった。
祖母のつかっていた離れが亥一郎たちの部屋にあてられていたが、亥一郎は、弓子とそこで二人になってからも、どうすればいいのか戸惑って、ずっと黙り込んでいた。
「お食事はどうなさるんですか」
と光子が、怒ったようにききにきた。
「どうって?」
「お二人で召し上がるんですか? それとも奥様とご一緒ですか?」
「一緒にきまってるけど。──お母さんは、別がいいって?」
「さあ。ただ、おききするようにいわれただけですから」
「なら一緒だよ。
弓子も手伝ってくればいい。光ちゃんにきいて、なにをするのか教わるといいよ」
亥一郎がそういうと、光子は返事もせずに立ち去った。弓子は薄ら笑いを浮かべて、
「わたし、そういうの苦手なのよね。あんまし得意じゃないわ。光ちゃんいるんだから、わたしはいいんじゃないの?」
といった。
「そういうわけにはいかないさ。お母さんに相談して、明日からやることを教えてもらうんだね」
というと、頬をふくらませて亥一郎のほうへ唇をつきだしたが、ふいに立ってくると椅子にかけていた亥一郎の背に胸を押しつけ、
「わたし、外へ出てるほうが好きなのよ。ここでわたしのやることって、なんなの?」
といった。押しつけた胸を、揉みほぐすようにまわしている。亥一郎は、くすぐったい感触が身体に回ってくるのを堪えながら、
「今までお母さんがやってきたこと全部さ。早く覚えないと、ここの女主人にはなれないよ」
といった。
「お母さん、お母さんて、いっちゃんときたら、昔からそれしかいわないんだもんね。最初からそれじゃ、わたし、頭にきちゃうじゃないの」
「昔からききなれてるんなら、いいじゃないか」
「ああ、そんなこといってえ、いっちゃんたら、わたしのこと病気にでもする気? わたし、頭痛いわよ」
「じゃあ、薬でも飲んどけよ」
「やだ、やだ。だんだん頭痛くなってきた」
そういって、弓子はベッドに寝転がった。光子がもう一度催促に来たときにも、食欲がないといって、弓子は起き上がらなかった。
光子が、やめて田舎へ帰りたい、といいだしたのは、弓子が来てから十日もたたないころである。もう少しすれば、お互いになれるから、と母はなだめていたが、光子は頑としてきかなかった。弓子のほうは、それをきいても平然として悪びれたふうもなく、薄ら笑いを浮かべている。母はたまりかねたのか、父になにかいったようだったが、その父は、弓子が家に入ってから、ほとんど家では食事をしないようになっていた。朝はもともと早い人だったので、先に食事をすませて、さっさと会社へ出掛けるし、四人がそろって食事をしたのは、数えるほどしかなかった。たまに一緒にお茶を飲むようなことになると、父はぼんやり弓子をみつめていることがあり、そんなときに弓子が気がついて父を見返すときの目は、亥一郎をなぜか不愉快にさせた。
亥一郎よりも先に会社へ出る父を、母は弓子に見送らせることにしていたのだが、光子にはそれも気に入らなかったことだったらしくて、それまで通り玄関まで見送りに出てきても、弓子の姿を見ると隠れてしまう。玄関先で弓子の高い声や含み笑いのするのを、あるいはなにもきこえてこないのを、たぶん誰もが気にして、耳をすましてきいていたのかもしれなかった。
父は、光子がやめたいというのは、そろそろ嫁に行きたいからだろう、としごく簡単な考えを示した。光子も年ごろを過ぎているのだから、弓子に光子のかわりをさせて、早く光子をやめさせてやったらいい、というのである。
「そりゃ、弓ちゃんが全部できての話ですよ。弓ちゃんときたら、家事は苦手だっていうし、なにか頼むとすぐに機嫌を悪くするし、光ちゃんのかわりってわけには、なかなかいかないんですよ」
「まだなれないからだよ。ずっと外で働いていた子だし、急に環境が変わったんだもの、しょうがないさ。それに、具合だって悪そうだし……」
「あら、具合が悪いんですか?」
「いや、どうかわからないけど……。違うのかな」
と父は慌てて、
「まあ、家のことは、お母さんに任せてあるんだから」
といった。
「都合のいいときだけ、任せてもらったってねえ」
と母はむくれていた。
四月の終わりに、光子は千葉の田舎へ帰っていった。母が、若いころの着物やまだ手を通してない着物を何枚かだして、
「お嫁にいくときにでも持ってってね。お嫁入り支度は、うちでしてあげるつもりでいたんだけど、こんなことになってしまって」
というと、光子は、前に弓子が初釜のときに着た振り袖だけを、これは結構です、と取り除き、
「こんなにいただいて、いいんですか」
と涙ぐんだ。
「いつでもまた遊びにいらっしゃいね。光ちゃんの第二の実家だと思って」
と母がいうと、
「弓子さんのいないときに来ます」
と光子ははっきりとこたえた。弓子を若奥様と呼びなさいといわれたのも、光子には頭にきたことの一つだったようで、最後までついに一度も若奥様とは呼ばなかった。
光子が田舎へ帰ったあくる日、亥一郎が母の部屋の前を通ると、母は、
「いっちゃん」
と部屋の中から亥一郎を呼んだ。亥一郎が、なあに、と障子を開けると、
「まあ、お入んなさいよ」
と母は亥一郎に障子を閉めさせ、
「お茶でもいれる?」
ときいた。
「なにかあったの?」
「ううん。ただ、……ちょっとききたかったから」
「ききたいって?」
弓子のことに違いないと身構えながら、亥一郎はとぼけてそういった。母や光子が弓子を嫌っているのはよく承知していて、自分も弓子については感心はできないと思っているところがあるのだが、まわりから弓子の悪口をいわれると、我慢がならないのである。そう一遍になんでもできるものではない、とつい庇《かば》ってやりたくなってしまう。
母は、亥一郎の顔色が変わったのをみて、軽く吐息をもらしながら、何気なく視線をはずし、
「いっちゃん、赤ちゃん何か月?」
といった。
「何か月って?」
意味をつかめなかった亥一郎は、不審そうにそうきき返した。
「いつ生まれるのかってことよ」
「赤ん坊? そんなの、まだわかんないよ。ついこの前結婚したばかりじゃないか」
母は探るように亥一郎をみた。
「本当? なんだか結婚を急いでいたから、そういう事情があるのかと思っていたんだけど……」
「どういうこと? なにがいいたいのさ」
亥一郎は気を悪くしてそうききながら、亥一郎に向けた目を離さない母の厳しい顔に、ふと不安のわきあがってくるのを覚えた。すると母が、
「弓ちゃん、五か月くらいになってない? 別に怒ってるわけじゃないから、本当のこといってよ。
こっちだって準備のいることなのよ。いいのよ、何か月だって、おめでたいことなんだから。でも、そういうことは、先にちゃんと話しておくべきだったわよ」
と厳しい声でいった。
「五か月って、妊娠してるってこと? まさか。それはないよ」
と急に安心して、噴き出しそうになりながら亥一郎はいった。それなのに、しだいに目眩《めまい》のようなものがおそってきた。弓子のほっそりした身体に似合わない、堅い腹部のちょっと盛り上がった感触が浮かび上がってきた。女の下腹部は、出っぱっているものとばかり思っていたのに。
「そんなことは、考えられないけど」
と亥一郎が低く呟くと、
「失敗ってこともあるから……。まあ、でも、それはいいのよ。だけど、どうして弓ちゃんまで隠してるのかしら」
と母は不思議そうにいった。
「隠してるわけじゃなくて、そんな事実がないからだよ。失敗なんてことはないんだもの。そういう事実がまったくなかったんだからね、結婚前には」
と亥一郎がいうと、母は黙った。恐ろしく長い沈黙だった。部屋の温度がずいぶん高いようだ、と亥一郎は天井を仰ぎながら考え始めた。そういおうとすると、母が口を開いて、
「そうだとすると、どういうことになるの」
といった。
「だから、妊娠なんてしてないってことさ」
「いいえ、あれは絶対してるわよ」
「だったら、まだ一か月にもなってないよ」
「いいえ、あれは五か月ほどです」
「だったら、誰かの子ってことになるよ」
自分でそういってから、亥一郎は色を失った。
「本当に、何も知らないで結婚したの?」
と母が声を下げていった。亥一郎がうなずくと、母は肩を落として、大きく吐息をついた。
「きいてみなくちゃね、弓ちゃんに」
「ぼくがきくよ」
亥一郎は、突然吐き気のような貧血のような気分の悪さを感じながら、怒ったようにそういった。誰かの子を宿して、そのために亥一郎との結婚を望むなんて、弓子らしくないことだった。そのために亥一郎に近づいたなんて、弓子がそんなことをするはずはなかった。そんなにすぐにばれてしまうようなことを、あの幼なじみで利口な弓子がするはずがないのだった。
「間違いだよ。太ったんだよ、なにもしないで、ごろごろしてるから」
と亥一郎は、笑おうと努めながらいった。
「どういうことなのかしらねえ……。
とにかく、でも生まれるのよね。このうちの子が。もう何か月かすると、生まれてくるんだわ」
と母は自分にいいきかせるように、低い声で呟いていた。
「とにかく、ぼく、弓子にきいてみるよ。
──でも、お母さん、どうしてそう思ったの? 確かな証拠なんかないんでしょ?」
亥一郎は半信半疑でそうききながら、それほど目立ってもいない弓子の外形を思い浮かべて、わざと大声を出して笑ってみた。
「怒るよ、きっと弓子」
「わたしだって、違ってくれたら、と思ってるわよ」
母は不機嫌な声でそういった。
その日は日曜日だったが、父は留守だった。競走馬を持ち始めてから、父は休日も家にいないことが多く、千葉のほうに牧場まで買い込んで、会社組織にしてのめりこんでいる。夕食の時間になっても父は帰らず、光子のいない家では、母が弓子に指図をして、簡単な夕食を整えた。母は指図をしながら、なにげなさそうに弓子の様子をみつめている。
「おかあさん、光ちゃんのかわりは、いつ来るんです?」
と弓子が豆腐に包丁を入れながら、のんびりときいた。
「そうねえ、誰か頼まないといけないみたいねえ」
「そうですよ。わたし、こんなこと毎日するんじゃ、身体がもたないわ」
「あら、身体がもたないって、どこか悪いの?」
「悪いってことはないけど、きついんですもの」
「きついって、どんなふうに?」
母は珍しくしつこくきいている。
「どんなって、わたし、あんまりすきじゃないでしょ、うちのことするの。外で働くほうがずっと好きな人ですから」
「ああ、そういう意味ね」
「それ、どういう意味ですか」
弓子は、豆腐を鍋にいれると、険しい目をしてそうきいた。
「家内というでしょ。うちでは妻は、外では働かない、って意味よ」
「だったら、光ちゃんのかわり、早くお願いします。わたし一人じゃできません」
「弓ちゃん、あなた一日中うちにいるんだから、光ちゃんのかわりくらいできない? 政さんだって、きっとそうしろって思ってるわよ、草葉の陰で」
「それじゃわたし……」
「それじゃ、なあに」
弓子は唇をかんで、いっちゃん、と台所の白黒テレビをみていた亥一郎を呼んだ。亥一郎は、きこえない振りをした。
「いっちゃん、てば」
と弓子がまた呼んだ。
「弓子、妊娠してるって本当か」
亥一郎が突然振り向いてそういうと、弓子は棒立ちになった。母も、箸を並べていた手を一瞬とめた。
「本当か?」
ともう一度きくと、
「かもね」
と弓子は怒ったようにいい、エプロンをはずしながら台所を出ていった。亥一郎は、母をちょっとみてから、そのあとを追い、離れへ行くと、
「なぜ黙ってたの?」
と問い詰めた。弓子は、亥一郎の大きな椅子に腰掛けて、椅子を回転させながら、
「はっきりしてからいおうと思ってたのよ」
と少し沈んだ声でいった。
「そうだったのか。だったら早くいえばよかったのに。予定日はいつだって?」
「わからないわよ、そんなこと。まだお医者にも、行ってないんだもん」
「呑気《のんき》だなあ。早く行ってこいよ」
亥一郎がほっとしながらそういうと、
「よく気がついたわね。いっちゃん、自分で気がついた? それともおかあさん?」
と弓子はたずねた。
「お母さんにきまってるさ。ぼくなんか、全然わかんなかったもの」
「そうだよね。いっちゃんにわかるわけなんて、まずないもんね」
と弓子は鼻に皺を寄せ、
「で、おかあさん、なんていってた?」
といった。
「五か月くらいじゃないかって」
そのとき初めて弓子は顔色を変えた。
「そんな馬鹿なことはないって、いったんだけどさ。おふくろは頑固だから。──あとできいておくっていっておいたよ。
そんなこと、あるわけないよね」
弓子はこたえずに、口もとにかすかな笑いを浮かべた。
「行こうか。ご飯、もういいんじゃない」
「先に行っててよ。わたし、まだ食べたくないわ」
弓子はいやに静かにそういった。そういってから、机の上に顔を伏せた。
「だめだよ、食べなきゃ。妊娠してるのなら、なおさらだろ」
と亥一郎が弓子の肩に手をおくと、
「もう行ってよ、うるさいんだから。わたしは食べたくないのよ」
と弓子は両手を頭の上にあげ、亥一郎を追い払うように頭上でその手を振った。
目が覚めたとき、弓子はベッドにいなかった。何時なのだろう、と亥一郎はベッドのそばの時計をのぞき、しばらく待ってから起き上がることにした。カーテンを少し開けて外をみると、暗い中庭越しに、離れと直角になった母の部屋の明かりがみえる。廊下のガラス戸越しのぼんやりした明かりなのに、それはいやに明るくみえた。亥一郎はしばらくその明かりを窺《うかが》っていたが、母屋へ行ってみようと、廊下へ出ていった。自然に足音を忍ばせている。父は寝ているのか、あるいはまだ帰っていないのか、父の部屋の前は、暗くしんとしていた。母の部屋の手前で、亥一郎は身を堅くした。低い声が漏れてくる。意味のつかめなかった音が、なれてくると次第に意味をもって亥一郎の耳に入ってきた。
「……いえないって、なぜなの? いえないといわれても、はい、そうですか、ではすまされないことだと思うけど」
母の押さえつけたような声がする。それから低い息のようなものがきこえて、
「だから、黙って産ませてくだされば……」
と反抗しているときの癖の、突っ張ったような弓子の声がした。
「うちの跡取りになるかもしれない子を、誰の子かもわからずに、黙って産ませろっていうの?」
「じゃあ、きいてどうするんですか? おかあさんの気に入らない人の子だったら、いらないっていうんですか? わたしは、そんなこと今になっていうくらいなら、最初からいっちゃんとは結婚してませんけど」
弓子のきっぱりした声が少し震えている。それは亥一郎の身をも震えさせた。それから急に静かになったが、亥一郎は張りついたように廊下に裸足で立ったきり、動くことも忘れていた。部屋の中の立ち動く気配に、亥一郎が慌てて戻ろうとすると、熱気で汗ばんだ足は廊下にくっついたのか、離すときにかすかな音を立てた。
「誰かいるの?」
と母の声がした。そのとき玄関のチャイムが鳴った。亥一郎は咄嗟に父の部屋へ入り、障子の陰に身を隠した。父が玄関で怒鳴っている。母は飛び出していき、弓子はネグリジェのまま離れへ走っていった。亥一郎はトイレから戻ったような顔で、弓子が行くのを確かめてから、その後をなにげなく離れへ戻っていった。
弓子はすでにベッドの中で、蒲団をかぶって顔を隠していた。亥一郎が冷たくなった身体をその横に入れても、弓子はなにもいわず、身動きもしなかった。
「どこか行ってたの」
と亥一郎が、母屋の父たちの物音に耳をそばだてながらきくと、
「いっちゃんは?」
と弓子はくぐもった声でたずねた。父と母の抗うような声がきこえてきた。誰の子かは、きかないほうがいい、といった弓子の言葉が、亥一郎の頭の中でこだまのように反響し始めた。他人の子を宿していると知って、──知らなかったのかもしれないが──、どうして弓子は自分と結婚したがったのだろう。弓子の性格なら、弓子を捨てるような男とは付き合わないはずなのだ。その男とは別れたい理由が、弓子のほうにあったのだろうか。それで救いを求めてきたのだろうか。誰なのかなあ。亥一郎は、闇の中で目をこらし、会社の誰かれを思い浮かべては、また一人ずつ消していった。どうも会社の人間ではなさそうだった。名取であるわけはないし、──年が違いすぎるし、名取はすでに結婚していた──、父であるわけはないし、いったい誰なのだろう。
弓子が寝返った。亥一郎は思わずその肩に手を伸ばし、
「ねえ」
と肩をゆすった。
「もう寝るわ。明日にしてよ。疲れたわ」
「さっき」
と亥一郎がまたいうと、弓子は亥一郎の手をネグリジェの襟元から胸に引きいれて、
「寝るのよ」
といった。
「さっきさ、おふくろと……」
弓子は顔をあげると、今度は亥一郎の唇を唇でふさいだ。冷たい、ぬめっとした唇だった。堅い下腹部の出っぱりが、薄いネグリジェを通して触れてきた。
翌日から、家の中が変わった。母は光子のかわりに通いの家政婦を一日おきに頼み、家政婦の来ない日は、朝から弓子を働かせることにきめた。夜になると、弓子は必ず、今日は疲れたわよ、と亥一郎に文句をいう。
「住み込みの家政婦にしてもらえないの? わたし、こんなにこき使われるんじゃ、死んじゃいそうよ」
それを亥一郎が母に伝えると、母は、
「動くほうが、おなかの子にはいいのよ」
という。それをまた弓子に伝えると、
「わたしも子供も、死んでしまえばいいと思ってるんでしょ」
というのだった。
「子供、本当はいつ生まれるの?」
「もうじきよ」
「もうじきって、四月に結婚したばかりなのに?」
「おかしい? 早産ってことだってあるじゃない」
「いくら早産たって……」
「冗談よ。まだ先のこと」
と弓子は笑うが、弓子がはぐらかすようにそういうときは、いつも鼻の先がぴくりと動いた。
父は、亥一郎が立ち聞きをした夜から、なおさら家を留守にするようになり、たまに一緒に食事をするときなど、
「いっちゃんたちも、別居するんだな。そのほうがいいよ。今は、マンションが人気になってきてるし、こんな古い家にいないで、便利な生活に切り替えるほうがいいと思うよ」
というようになった。
「お母さんと弓ちゃんも、そのほうが、ぶつかることがなくていいだろ?」
弓子は面白そうに父の顔をみつめ、母はきこえない振りで、父を無視した。
「弓ちゃんは、秋にはお産だそうですから、別居するわけにはいかないんですよ」
と母のいったことがあった。
「秋にお産なの?」
と亥一郎がいうと、母は黙った。父は席を立っていき、弓子はおかしそうにうつむいて、唇をかんだ。
「秋に生まれるの?」
と離れへ行ってから、亥一郎がもう一度きくと、
「おかあさんがそうきめちゃったのよ。おかあさんがそうきめたのなら、そうなんじゃない」
と弓子は顔を傾け、天井を仰ぐようにしていった。垂れてきた髪を、弄ぶように弓子は歯でかんでいる。
「はっきりいえよ! どうなってるんだよ、いつでもこそこそしてさ。何か月だが知らないけど、それはいったい誰の子なんだよ」
「いっちゃんの子よ。そんなに怒鳴んないでよ。わたしはいっちゃんの妻なんだから」
ベッドに腰掛けていた弓子は、そういいながら足を伸ばして亥一郎の脚に引っ掛け、亥一郎がよろめくと、手を伸ばして亥一郎をベッドへ引っ張りこんだ。
「本当のことをいえよ! いわないと……」
「いわないと、なあに? いっちゃんでも怒るの? だめよ、怒っちゃ。いっちゃんの子よ。いっちゃんの子産みたかったから、結婚したんじゃない」
そういって弓子は、亥一郎の手をとると、腹部へもっていきながら、
「ほら、時々動くわよ」
といった。亥一郎は、かなり出ている腹部におそるおそる触りながら、
「本当はいつ生まれるの?」
とまたきいた。
「だからあ、いったでしょ。生まれるときには生まれてくるって」
弓子はそういうと、亥一郎の手を払いのけるように立ち上がった。
弓子が家を出たのは、七月の二十日だった。その日弓子が家を出たとは亥一郎はもちろん思いもしないから、
「弓子、あの身体で、こんな時間までどこ行ってるの」
と母にたずねた。母は、さあ、といったきりなにもこたえてくれなかった。深夜になっても弓子は帰らず、父もまだ帰ってこないようだなあ、と思った亥一郎が、
「お母さん、弓子はどうしたの」
とまたききにいくと、
「お父さんは、今日は帰らないかもしれないの」
と母はいった。
「弓子は? お父さんと一緒なの?」
「弓ちゃんはね……、まあ、ちょっと坐らない?」
と母は疲れのにじんだ顔で、亥一郎を見上げながら、
「悪いけど、弓ちゃんには、出てってもらったのよ」
といった。
「出てくって、どこへ? ぼく、そんなことなにもきいてないけど」
亥一郎はあっ気にとられてそういった。
「それが一番いいだろうってことになったのよ」
「どれがいったい誰に一番いいのさ。誰がそんなこと勝手にきめたの。お母さんが、出てけっていったの?」
「出ていけとはいわなかったけど、出てくって弓ちゃんはいったわよ」
「どうしてそういうことになったの? そんなこときめる権利がお母さんにあるの? 問題はぼくのことだよ」
「だって、いっちゃんだって、なにも知らずに結婚したんじゃない」
「そんなこといったって、もう過去のことじゃないか。弓子は、清算したから、ぼくと結婚したんでしょう。ぼくは、もう、それでいいと思ってるよ」
「許せないことだってあるんです」
「許せないって、今でも付き合ってるってこと?」
「それだけは、あってほしくないけどね」
「じゃあ、いいじゃないか。今はもう別れてるよ。弓子はそういう子だよ。弓子はそういうところは意外と冷たくて、あっさりしてるんだから。別れた相手となんか、いつまでも付き合う女じゃないよ」
「付き合っても、付き合わなくても、それだけで終わらないこともあるんです」
「相手が、なにかいってきたの?」
母はこたえなかった。庭からの夜風が入ってきて、急に部屋の空気が動いた。母の藍染めの浴衣のくった襟元に、風が入っていったようだ。その母は、浴衣に埋まっているように、とても小さく老けてみえて、亥一郎は一瞬、祖母かと思ったほどだった。
「弓ちゃんは、納得して出ていったのよ。これ以上もうごたごたいわないで、いっちゃんも諦《あきら》めてくれない?」
「わけもわからずに納得なんかできないよ。理由をいってくれない? ただ出ていったとか、諦めろじゃ、ぼくだって、どうしていいかわからないじゃないか。こんな大変なことをさ」
「知らないほうがいいことだって、いっぱいあるわよ」
「弓子がいいたくないといったことを、お母さんは無理にいわせたんでしょ。だったら、ぼくにだっていってもらいたいと思うよ。ぼくだって知りたいの当然だろ、当事者なんだから」
「そりゃ、もちろんそのうち、ね」
「そのうちって、いつ? すぐにいってくれないのなら、植政のおばさんにきくよ」
「あちらもご存じないことなのよ」
「知らせないで、弓子出ていったの?」
亥一郎が驚いてたずねると、母はうなずいた。
「それもお母さんの指図?」
「さあ、どうだったかしら。弓ちゃんがきめたのかもしれない。弓ちゃんは、ここにいることになってるから」
「じゃあ、また戻ってくるんだね?」
「ええ、産んだらね」
「なんだ、そうだったの。赤ん坊産むために出ていったのか。世間体を考えたってわけだね」
「ええ、みっともないことだからね」
「だったら、どこにいるのか、居場所くらい教えてくれたっていいじゃないか。当事者はぼくなんだからさ。ぼくは世間体なんか、どうでもいいんだから」
「ちょっとのことだから、待ってたら?」
「いつまで?」
「そのうち、よ」
「また、そのうち、か。いつだって、そのうちばっかりなんだからさ。いつのことなの、その、そのうちっていうのは」
「わたしが死んでからかしらね」
「冗談じゃないよ」
と亥一郎はふくれながらも、弓子がそとで赤ん坊を産んで、それから戻ってくると知ったことで、少し落ち着いてきた。それがたぶん一番いい方法なのだろう。世間を欺くためなら、入院してた、とかなんとか、どうとでも理由はつけられる。父や母のことだから、そういうことはうまく按配《あんばい》してあって、弓子の母も本当は承知の上なのかもしれない。案外また名取が、すべてをとりしきっているのだろうか。
「いつまでたってもぼくは子供扱いだね、幾つになってもさ。なんでもやってもらうのもありがたいけどね、これはやっぱりぼくの問題なんだから、真っ先にぼくにいうべきだったと思うんだけど」
「いっちゃんには、手に余ると思ったのよ。まんまと騙《だま》されたわけだから」
そういって母は、とりわけ暗い顔をすると、その顔を隠すようにうつむいた。少し気の晴れていた亥一郎は、それでまた気持ちが翳ってしまった。
「弓子が転んだの、この部屋だったよね。昔、ほら羊羹おぶって。今度は本物の赤ん坊背負うわけだから、いいじゃないか、誰の子だって」
「そうはいってもねえ、そうはいかないものなのよ。
──弓ちゃんなんて、ほんとに吉原へでもいってもらえばよかったわ」
と母はいった。亥一郎はその台詞《せりふ》をどこかできいたような気がしたが、思い出せずに、母の、毛が痩せて薄くなった頭をみつめていた。
「でも、弓子は待ったけど、迎えがこなかったんだよ。あいつ、本気で待ってたっていうんだから。おかしなやつでしょ」
と亥一郎がいうと、母は申し訳のように笑った。
「──そういえば、今年は朝顔買わなかったんだね」
「政さんも亡くなったしね、ごたごたしてたから……。それに弓ちゃんいないと、あのお姉ちゃんのほうは、うちへは寄りつかない子でしょう。頼めやしないわよ」
母の顔は疲れのせいか、ずいぶん乾いてみえた。亥一郎は立って廊下へ出ると、暗い中庭の植え込みをのぞき、いつのまにか庭が殺風景になっているのに驚いた。植政のあとは若い職人が入っていたのだが、いわなければ朝顔の鉢でもなんでも、届けもしない男だった。
庭の向こうで、離れの白いレースのカーテンがはためいている。ふと弓子が戻っているような気のした亥一郎は、そういおうとして振り向き、母の姿に声をのんだ。母はうちわを手にしたまま、眠っているのか考えごとをしているのか、目を閉じてかすかに身体をゆすっていた。
「いっちゃん、今度の土曜日、甲府のお祖母ちゃんとこ、行ってきてくれない?」
と母がいったのは、弓子が出ていってから一週間後のことだった。甲府は父の里で、祖父はもう亡くなっていたが、八十を過ぎた祖母が、一月ほど前から入院していると知らせがきていた。
「いいけど、ぼく一人?」
「そう。お父さんは、もうちょっと様子をみてからにするんですって」
「お母さんは?」
「わたしは、まだいいと思うわ」
家付き娘の母は、父の里とはあまり付き合いがない。三男坊の父もそんなに訪れもしなかったので、亥一郎だけが、祖母の頼みで、なにかあると甲府へ顔をみせにいくという、あまり行き来のない間柄なのだった。
「じゃあ、行ってこようか。お祖母ちゃん、結婚式にも来なかったからね、ぼくもずいぶんあってないし」
「うちじゃ、いっちゃんだけだもんね、甲府と仲がいいのは」
と母は笑った。そして土曜日の午後、亥一郎は、その日は珍しく早く家に帰ってきた父と、夏痩せなのか、急に目の辺りのくぼんできた母とに玄関まで見送られて、甲府へ祖母の見舞いに出掛けていった。
亥一郎が玄関を出るとき、母は、
「いっちゃん!」
と亥一郎を呼びとめた。
「なあに?」
「いいの。気をつけていってらっしゃい」
「うん。じゃあね」
そういって手をあげ、亥一郎はついでに父にももう一度会釈をして家を出たのだが、なにか忘れ物でもしたような気がして、途中で立ち止まってしまった。二、三歩戻りかけてみたのだが、やはり時間が気になって、亥一郎は、気を変えると急いで駅へ向かった。甲府はもっと暑いんだろうな、と思うと、途端に汗が噴き出てきた。
祖母は病院のベッドに、ちんまりと埋もれていた。少し遅いかな、と気になったのだが、伯母が大丈夫だというので、できればその日のうちに帰ろうか、と亥一郎は荷物を置くなり出掛けてきたのだ。祖母は意外と元気で、またいっちゃんにあえてから死ねて、本当によかった、と入れ歯をはずした口をすぼめ、目に涙をにじませていった。明日ももう一度来てくれるね、というので、列車の中ではその夜のうちに東京へ帰ろうと思っていた亥一郎だったが、断るわけにはいかなくなった。
「そうだね、じゃあ、伯母さんちに泊まって、明日もう一度来るよ」
というと、祖母の目やにのたまった目に、また涙が浮かんだ。
翌朝、病院から直接駅へ行くつもりで伯母の家を出た亥一郎は、今度はお父さんと来るからね、と名残惜しそうな祖母を残して病室を出た。階段を降りて、出入り口へ向かっていると、身体をドアにぶつけるようにして伯母が入ってきた。伯母さん、と亥一郎が呼びかけると、
「いっちゃん、よかった、間に合って」
と伯母は飛びついてきた。
「すぐ帰って。大変だわ」
「どうしたの?」
伯母は目をむくばかりで、口がきけない。
「伯母さん」
と亥一郎が呼ぶと、伯母はうなずいて、とにかく、と亥一郎の腕をとり、駅へ急いで、といった。
「なにかあったの?」
「火事だって」
「どこが?」
「入谷のおうち」
「うちって、ぼくの? まさかね」
伯母は慌て過ぎて、自転車を転がしてしまった。それを慌ててまた立てようとするので、懸命になればなるほど自転車は持ち上がらない。亥一郎が手を貸そうとすると、伯母は手を振って、いいから、いっちゃんは、早く、早くといった。
「本当にうちが火事なの? なにかの間違いじゃない?」
伯母は顔をかたくしてこたえなかった。亥一郎は急に足が震えてきて、やっと伯母が立て起こした自転車のハンドルに、しがみついてしまった。
「名取さんという人が、弓子さんの家にいるそうだから」
と伯母が思い出したようにいった。
「名取が電話してきたの? お母さんたち、怪我したんだろうか」
伯母は、とにかく早く駅へ行け、と亥一郎の背を押した。亥一郎が歩こうとしてよろめくと、伯母は亥一郎の身体を抱えて、二、三歩一緒に歩いてくれた。夏だというのに、亥一郎は身体が冷たくなっていた。
「大丈夫なんだろうか、お母さん」
伯母はこたえずに、亥一郎の背を撫でて、自転車つかうか、とたずねた。
「名取さん、よくわかったね、ぼくがここにいるの。お父さんにきいたのかな」
そういいながら亥一郎は、父が逃げたのなら、母も大丈夫だろう、とやっと少し安心した。
「困ったら、うちへ来ればいいからね」
と伯母がいった。
列車に乗ってから亥一郎は、なにかの間違いではないかとまた思い、そう思うとそうに違いないとおかしくなった。名取からの電話ということは、事務所が火事だということなのではないか。伯母さん、慌てて勘違いしたのだな、と思うと、やっと亥一郎は落ち着いてきた。
でもなぜ名取は弓子の家にいるのだろう。事務所が火事なら、うちへくるのではないか。そう考えた途端、昨日の午後出掛けるときに、いっちゃん、と呼びとめた母の顔が、大写しになって浮かんできた。なんてのろい列車だろう。亥一郎は、震え始めた歯の音が、そとへ漏れないようにと、しっかり歯をかみしめた。
新宿へ着くと、亥一郎は身体を斜めにして構内の雑踏をくぐり抜けた。山手線のホームへと夢中で階段をかけのぼり、ちょうど出ていこうとする電車に飛び乗ろうとして、亥一郎は突然その足をとめた。祖母の具合は、それほど悪くなかったのだ。どうして母はそんなに急いで、けっこう元気そうだった祖母のところへ、わざわざ亥一郎だけを送ったのだろう。祖母の具合は、今すぐどうこういうほどのものではなかったし、手がかかるから、伯母が入院させていたということを、母は知っていたはずなのだった。とんでもない疑惑が、ちらりと亥一郎の胸に浮かんだ。それは脈絡を持たない途切れ途切れの映像のように、亥一郎の頭の中で、ただあちこちでちらつくだけなのだが、そのたび亥一郎を不安にさせた。弓子はどうしているだろう、と亥一郎は思い、浴衣に埋もれていたような母の顔を思って、汗ばんで震える手をしっかりと胸に押しつけた。
山手線に乗ってからは、亥一郎は電車がとまるたびにいらついて、乾いた唇を何度もなめたが、鶯谷についてみるとかえって足がすくんで、気持ちとは裏腹に足がもつれて思うように歩けなかった。無意識のうちに上がりきっていた肩を下げて息を吐くと、頭上には、いつもと同じ暑い夏の空があった。火事があったなんて、どうしたって信じられないような空だった。
道の途中で、見知った顔に出会った。するとその人は顔色を変え、窺うように亥一郎をみた。不安がまた亥一郎をおそってきた。亥一郎が声をかけようとすると、その人は一目散に逃げていった。胸の鼓動が、うるさいほど大きくきこえた。亥一郎はやにわに、ふだんは走れないほどの速度で走りだした。角を曲がると、亥一郎の家である。門のところにロープが張ってあって、制服の人が立っている。曲がり角へ近づいただけで、焼け跡の匂いが鼻をついてきた。
ロープの前で亥一郎は、混乱しそうになる頭を抱えながら、中をのぞいた。家は跡形もなくなっていた。焼けただれた小さい蔵だけが、変なかたちで残っていた。ロープをくぐろうとすると、男が亥一郎を止め、名前をきいた。亥一郎が名乗ると、その男の顔色が変わった。
気がついたとき、亥一郎は病院のベッドに寝ていた。どこにいるのか、どういう状態でいるのか、さっぱりわからなかった。病院らしいとわかったときも、祖母の病院なのだとばかり思っていた。どうして祖母の病院で自分が寝ているのだろう、と不思議に思いながら、亥一郎は目を開けたり、つぶったりして、ぼんやりしていた。なにかを思い出そうとすると、吐き気がくる。何日の何時なのだろう、と思いながら、亥一郎はまた眠っていった。目覚めたときには名取が来ていた。
「ぼっちゃん、わかりますか」
亥一郎がうなずくと、
「気がついたのか」
と名取は呟いた。その途端、一枚の絵でも見るように、すべてが明瞭になってきた。両親が焼け死んだ、と警察で誰かがいったのだ。警察ではなくて、その前に名取がそういったのだったかもしれない。亥一郎は毛布を引っ張ると、頭まで隠して、両足を縮め、胎児のように丸まった。
「ご両親と思われる焼死体が二体みつかったんですが、昨夜はどこにおられましたか」
と誰かがいった。
「火事は、何時ごろ、どうして起きたんですか」
と亥一郎はきいたのだ。
「発生は午前一時ごろ、放火のようですが、まだ調べはついていません。
昨夜はどこに?」
「甲府ですが、それは本当に両親でしょうか?」
「ほかにどなたか、おうちにいらっしゃいましたか」
「発見が遅かったんですか?」
「深夜でしたし、お宅は庭が広くて、まわりの気づくのが遅れたようです。
どなたかほかに、おうちにいらっしゃいましたか、昨日は」
「ぼくが出掛けたときには、両親だけでしたけど」
まさか弓子が、と思いながら、亥一郎はこたえた。昨日の午後に見送られて、まだ一日しかたっていない。昨日、笑っていってらっしゃいと母はいったのに、焼け死んだ、だなんて嘘にきまってる、と亥一郎は思った。生死の境目が、そんなに唐突であるはずはないではないか。それに、放火だなんて、誰がなんの目的でそんなことをする必要があるのだろうか。
「放火って、犯人はわかったんですか」
「まだ放火と断定してはいないのですよ。自殺の可能性もあるし……」
「自殺だなんて」
と亥一郎がいうと、
「甲府へは、昨日どうしても行かなければならない理由がありましたか」
ときかれた。たぶんそのとき、亥一郎は気が遠くなったのだ。
「今日は何日?」
と亥一郎が毛布から顔を出してきくと、名取は日にちをこたえて、
「二十時間も、寝続けだったんですよ」
といった。
「わたしも、ぼっちゃんも、弓ちゃんまで疑われて、大変でしたよ」
「弓子は元気なの?」
「元気ですよ」
「あいたいんだけど……」
「今は無理です。おなかも大きいし、ショックが強かったから」
「そうだね。……犯人はわかったの?」
「犯人ですか。犯人がいるといいですね。──犯人が本人だったりしたら、困りますものね」
「なんで本人が犯人なんだよ。そんな馬鹿なこと、あるはずないじゃないか」
「そうですよね。でも、お母さん最近、悩んでらしたんじゃないんですか?」
「お母さんが、どうして、なにを悩むの?」
「例えば、……弓ちゃんの子、誰の子なんでしょうね」
「……それは、そんなことは関係ないよ。ぼくの子だもの。弓子は、産んだら戻ってくるんだよ。なんでそんなことでお母さんが放火したり、自分まで死ぬ必要があるのさ」
「そりゃ、死ぬ必要のある人の子だったら、お母さんとしたら死ぬんじゃないんですか」
「どういう……」
といって亥一郎は、名取のからんでくるような視線に口籠《くちご》もった。
「そうでしょう? 困る人の子だったら、ぼっちゃんだったらどうします? 二人で死にませんか? お母さんの気性なら、生きてはいられないなあ……」
「帰って。頭が痛いよ」
亥一郎はそういうと、また毛布の中にもぐりこんだ。
「そうですか。じゃあ、また来ます。後始末のほうは、全部ちゃんとうまくやってあげますからね。ぼっちゃんは安心して、しばらくここで安静にしていてください」
そういって名取は帰った。名取の手配なのかどうか、誰もそこへは訪れてこなかった。名取だけが毎日顔をみせ、そのたびいろんな書類をもってきては、はんこがいります、というのだった。
「ご覧になりますか? 印鑑はもってきましたから、こことここにお願いします」
そういっては、警察はまだ疑っているようだけど、本人の屋敷だけで類焼がないのだから、失火ということで納めてもらえると思うとか、ぼっちゃんも疑われているようだから、行動はしばらく慎んだほうがいい、とかといった。
「適当にやっといてよ。こんなの読んだって、今は頭に入らないよ」
そういうと、名取の鼻の穴が大きくふくらんだ。
「弓子はどうしてるの?」
「元気を取り戻しているそうです」
「そう。あえるかな、明日でも」
「まだ、そのうちですね。お互いに疑惑をもたれている身ですから」
そういわれると、亥一郎はなにもいえない。一週間たつと、
「ぼっちゃんも、そろそろ退院してくださいな、一応手は全部打ちましたから。あとはここにいたって、なんの解決にもなりませんからね。さしあたりの住まいも、用意しましたから」
と名取がいった。
名取の用意してくれたという住まいは、井の頭線にあった。
「ちょっと遠くない? ここから会社へはけっこうかかるよ」
と亥一郎が驚いていうと、会社へはもう来る必要がないのだと、名取はいった。
「ご存じのように、会社は社長のワンマン経営でしたからね、ふたを開けたら、ひどかったんですよ。お屋敷からなにから、みんな抵当に入ってました。借金の金利だけだって、会社をつぶさなければならないほどなんですよ。もうここでぼっちゃんには勇退していただいて、会社をなんとか立て直さないことには、みんなが困ってしまう。
社員にも生活がありますからね。簡単に、はい倒産、というわけにはいかないんですよ。かといって、ぼっちゃんに出てこられたって、ぼっちゃん、陣頭指揮なんかできないでしょう。それどころか社員の反感買っちゃって、内緒にしておきたい事実まで暴露されかねませんよね。ここはやっぱり身を隠すのが一番ですよ」
「そんなこと突然いわれたって、そんなこと……」
「だって、ぼっちゃんだって書類みたんだから、大体のことはわかってたんじゃありませんか。
社長個人の信用でやってきた会社が、あんな事件でひっくり返されたら、どうなると思います? 営業なんか、やってられるわけありませんよね」
「………」
「ぼっちゃんも、身内の恥なんか曝《さら》したくないでしょう。スキャンダルもいいとこですからね。お母さんが死をかけて清算したんですよ。ぼっちゃん、そこんとこ、わかってるのかなあ。お母さんの死、無駄にしちゃいけませんよ。
ここに金を用意してきましたからね。今はこれが精一杯ですけど、これだって、大急ぎで付近の地所を売って、やっとつくったんですよ。これで葬式、といっても、ひっそりやるしかありませんが、お寺のほうをちゃんとして、ぼっちゃんもなんとか生活を考えて……。
まあ、一年以上は充分もつはずですけど、なにかあったら、こっそりわたしに相談してください。おおっぴらになさると、社員のほうがうるさいから、こっそりね」
名取は、脅しているような同情しているようなことをいって、金の包みを亥一郎の前へ置いた。
「弓子の居場所、教えてくれる? ぼく、どうしてもあいたいんだけど」
「それはわたしも知らないんですよ。弓ちゃんは、いつも向こうから連絡してくるんで、わたしのほうからはできないんです。それはあなたのお父さんがそうなさったことだから。知りたければ、亡くなった社長にでもきくしかないですな」
「父が手配したことなの?」
「そうでしょう? わたしは知りませんもの。お母さん、それで亡くなったんじゃないんですか?」
と名取は嘲るようにいった。
「弓子のおばさんなら、居場所知ってるよね?」
「さあ、どうかなあ。それに、あそこはもう立ち退いてもらったんですよ。そこ売った金ですよ、それは。下手にあったりしたら、恨まれると思うけどなあ」
これからはなんでもひっそり、目立たないように生きなければならないのだ、と名取は念を押した。
名取がほのめかしたような父と弓子の醜聞も、もちろん表へは出したくなかったが、亥一郎はそれ以上に、母を殺人者に仕立てたくなかった。そのために姿を消せといわれれば、従わざるを得ないと思った。
「お屋敷のことは、諦めてください。始末だけは、わたしがちゃんとつけますから」
亥一郎はうなずいて、
「弓子から連絡があったら、ここを教えてやってくれる? どうしてもあって、確かめたいことがあるんだから」
といった。名取は、わかりました、といって帰っていった。
母が父を殺して自殺したとすれば、それは弓子が殺したようなものではないか。どうしても弓子の口から真相をはっきりときかなければ、亥一郎は生きていくことはできないと思った。母にそんなことをさせるなんて、父も弓子も許せなかった。亥一郎は毎日、ただそれだけを考えて日を送ったが、名取からはちっとも連絡が来なかった。電話をすると、留守だといわれた。毎日がひたすら、弓子を恨み、父を恨み、母の無念を思うだけの日々になっていった。両親を焼き殺した炎の熱さを思っているうちに、日は過ぎていき、一年以上もつはずだと名取のいった金は、半年もたたずになくなった。電話をすると名取は出ないから、亥一郎はある日、前触れもなく会社へ訪ねていくことにした。
名取は不意をつかれて逃げもできなかったのか、亥一郎に待ち合わせの喫茶店を指定すると、しゃれた背広を着て出向いてきた。
「ぼっちゃん、困るといったでしょ。まだ事件は、片付いたというわけではないんですからね。こんなふうに表へ出てきちゃ、だめですよ。これだから困るんだなあ、ぼっちゃん育ちは。
これは、わたしのポケットマネーです。ぼっちゃんの会社はもうないんですからね。社名も違ってたでしょう。新しい会社にして、みんな懸命に頑張ってるんですよ。いまさら亡霊に現れてもらっちゃ、困るなあ」
と名取は整髪料で光らせた頭を振り、額の青筋をぴくつかせて怒った。
「弓子、もう赤ちゃん生まれたんだろうね。どうなってるの? ちっとも連絡してくれなくて」
というと、
「弓ちゃんだって、身を隠してるんですよ、まだ。日当たりへ出るわけにはいかないでしょう、あんなことの後では」
と名取は亥一郎を睨んだ。
「……あの蔵はどうしたかなあ。がらくたしか入れてなかったんだけど、あの中にちょっとお茶の道具があったんだよね。あれ売れば、幾らかまとまったものになると思うんだけど」
と亥一郎が、名取の出した封筒を胸にしまいながらいうと、
「あれは、さっさとお茶の先生がもっていきましたよ。熱気で道具がいたむとかいって、運びだしたまではよかったんですがね、これはお祖母さまからわたしが保管を委託されてるって、先生がいいだしたんですよ。昔からの約束だったんですって。
そんなもの、はっきりさせてみたところで、どうせ財産の一部となれば、借金の返済にあてられるだけですしね、わたしは目をつぶって、先生のいいなりになったんですけど、ぼっちゃん、気になるんでしたら、ご自分でお茶の先生のところへ行ってみたらどうです? まあ、向こうも海千の相当なばあさんみたいだから、結果はどうなるかわかりませんけどね。おうちの表へ出したくない事情なんか、ばらまかれるの、覚悟の上で行くんですね」
名取は、じっと亥一郎の顔色を窺いながら、そういって煙草に火をつけ、その火を亥一郎のほうへ近づけた。亥一郎は慌ててその火から目を離しながら、
「会社、景気よさそうだね」
と名取の背広をみていった。
「冗談じゃない。火の車ですよ。これは、格好つけのため。せめて金回りでもよさそうにみせないと、誰も信用してくれませんからね、社長が焼き殺されるような会社のあとなんて」
と名取は笑い、ライターの火を消して、
「奥様はしかし、お気の毒でしたよね」
といった。亥一郎は黙って席を立った。名取の口から、母のことをききたくなかった。それに、もう名取の顔などみたくもなかった。死ねばよかったのは、自分だったのかもしれなかった。
その帰り道で、はり紙をみた。タクシー会社の運転手募集のはり紙だった。亥一郎はその前で、ずいぶん長い間佇んでいた。
ガンちゃんにあったのは、三つ目のタクシー会社でだった。それまでずっとアルバイトでやっていたのを、そこでガンちゃんにいわれて、正社員にしてもらった。そのときにはすでに、名取の世話で住んでいたアパートは引き払っていたのだが、初めて住所を移す手続きをとり、同時に弓子が入籍されていなかったことも知った。戸籍をとってみると、弓子は結婚の最初から、本当に入籍されていないのだった。父がやってくれていたものとばかり亥一郎は思っていたのだが、父は名取に任せていたのだろうか。それとも父は、わざと手続きをとらなかったのだろうか。名取が手続きを忘れたのかとも思ったが、名取はそんな抜かりをするような男ではなかった。あんな事件もなくて、弓子に子供が生まれていたら、父は子供をどうするつもりだったのだろう。名取の話から、あの火事は母の起こしたもの、と亥一郎はきめていたのだが、案外父の発案だったのかもしれない。いつもは家にいない土曜日の午後に、その日だけ父のいたことも、そう考えればうなずけるのだった。
弓子の姉にめぐりあったのは、それから十年もたってからのことである。父への恨みはもう消えていて、弓子への憎しみも消えかかっていたころだった。運転手生活が身について、ガンちゃんと競艇へ行ったり、競馬へ行ったり、ろくな生活はしていなかったが、けっこう楽しくやっていた。財産をなくし、交際を絶って、存在を消したような生活だったが、いつのまにかなれて、昔を思い出さない習慣が身についていた。両親の位牌も、いつごろからか、押し入れにしまい込んだまま、拝んだこともなかった。
名取にはあれから一度もあっていない。あうまい、と心に深くきめたのだ。名取にあうたび心が苛立つくらいなら、あわないほうが身のためだった。入谷の屋敷の辺りへは、何度かタクシーを走らせてみたが、大きいマンションが建っていて、昔の面影はすでになかった。会社のあったビルにも行ってみたが、すでに引っ越しているのか、見慣れない看板が出ていただけだった。
弓子の姉は、京橋から乗ってきた。
「新大橋ね」
といわれて、客席の顔をみたが、弓子の姉とはわからなかった。しばらく行くと、
「いっちゃんじゃない?」
と後ろから呼びかけられた。バックミラーをのぞいたが、誰だかわからない。
「ええ、そうですが、どなたさんでしょ?」
「わたしよ。弓子の姉よ」
亥一郎は驚いて、赤信号の横断歩道を急ブレーキでようやく間に合わせた。
「いやあね、気をつけてよ」
「すみません。あんまり驚いたんで」
「わたしだって驚いたわよ。名札見て、同姓同名かって、しばらく考えてたもの。いっちゃん、すっかり変わったわねえ」
「年ですから」
「それはこっちだってそうだけど」
「ずっとこっちですか?」
「そう、もうだいぶ前から。京橋に勤めてるから」
「そうですか。京橋にね」
「電話局よ、相変わらず。交替勤務だから、遅くなるのよ。今日は疲れちゃって、タクシーおごったの」
「向こうに帰ることはないんですか?」
「向こうたって、もう、母は弓子のとこだし、行ってもね……」
「弓子、どうしてます?」
「名取とうまくやってるんじゃない」
「名取と?」
「そうよ」
「名取とって、名取と弓子がどうして……」
「名取の奥さんに納まったのよ。ずいぶん払ったらしいわよ、慰謝料。前の奥さんと別れるときに」
「名取は離婚して、弓子と一緒になったんですかあ?」
「そりゃ、そうよ。子供までいて、ほうり出されて承知するような弓子じゃないじゃないの」
「子供って? いつ……」
「ほら、あのときの……」
「あのときって、あの、うちの火事のとき?」
「そうよ。あのときだから、もう十三年? もっと?」
「それ、本当なの? あれは名取の子だったわけ? 弓子は、それ知ってたのかなあ。弓子が名取のことを好きだったっての? 本当? 信じられないけどねえ。それで、どうしてぼくと結婚したんだろう」
亥一郎がそういうと、弓子の姉は笑いだして、質問は一つずつにしろといった。
「弓子はなんだって知ってたわよ。そういう子じゃない、あの子は。知ってたから、名取を離婚させたんでしょ。
あんなことがなければ、名取でないほうがよかったんだろうけど……。あんなことさえなければ、弓子は名取のことなんか忘れてたでしょうからね。誰か特定の人を、いつまでも好きになってる子ではないもの。あの子にとっては、相手は誰だっていいんだから。自分を楽な状態にしてくれる人だったら、あの子は昔から、誰だってよかったんだもの。
小さいとき、弓子はお宅に入り浸っていたでしょう。あれは、お宅の居心地がよかったからなのよ、贅沢だし、広いし。いっちゃんが好きだったわけではなかったと思う。いっちゃんのこと好きだったのは、むしろわたしだったのよ。知らなかったでしょう。わたしは、身分が違うと思って、寄りつかなかったから……、そういう差のあるの、いやだったから。
ああ、そこでいいわ。そこでとめて」
弓子の姉はそういって車をとめさせた。亥一郎は、いわれて反射的に車はとめたが、ドアも開けずに呆然としていた。すると弓子の姉は、
「降りて、お茶でも飲んでいく? どうせ、わたししかいないから」
といった。亥一郎はやっとドアを開けながら、勤務中だからとお茶は断り、
「名取は、今どこにいるんです?」
ときいた。
「駒込だけど、でも、もうあわないほうがいいと思うわ。わたしでさえ、行ったこともないのよ。あの人たちとは、いっちゃんじゃ、とても無理だわよ。行けば、不愉快になるだけだから。もう忘れたら? なにがあったのか知らないけど……。
じゃあね、わたしももうあうこともないと思うけど、元気でね、いっちゃん」
そういって弓子の姉は降りていった。
亥一郎は、しばらく気を鎮めるようにじっとしていたが、やがて車をすこし走らせると、邪魔にならない脇道に駐車させ、帽子で顔を隠して、倒したシートに身を落としていった。
名取の子だったなんて、誰が想像しただろう。弓子はそれを承知で最初に父を騙し、次には亥一郎を騙したのだろうか。いったい名取とは、いつから、どうして、そんなふうになっていったのだろう。騙されたとも知らずに、恐ろしい手段をとった母の無念を思うと、亥一郎は我慢ができなくなってきた。
もしもこれが、名取の仕組んだ罠だったとしたら……。あの弓子が、名取の指図通りに動く理由はなんだったのだろう。もしも母が、あんな事件を起こさなかったら、名取はどうするつもりだったのだろう。母なら必ずやるとふんで、名取はわざと弓子を仕向けたのだろうか。
弓子が名取を選んだ理由は、おそらく名取の持つ、潜在的なわる賢さのためだったかもしれない。弓子は、姉のいうように、本当に相手など選ばない女なのだろうが、それを意識してやるような女でもなかった。名取に計画をさせ、それがうまくいけば名取を、失敗すれば亥一郎を、と罪もなく、簡単に考えることのできる女なのだ。
あれだけ長く付き合ってきて、父母も亥一郎も、ついに弓子の正体に気づかなかったのかと思うと、なにも知らずに踊らされていた亥一郎の一家が、馬鹿で頓馬《とんま》でどうしようもなく思えてくる。忘れろ、と弓子の姉はいったが、亥一郎の胸には、忘れていた恨みと憎しみが、かえって反対に蘇ってきてしまった。名取の家を探しだして、弓子も名取の子も弓子の母も、一家まるごと焼き殺してやりたい、と亥一郎は思った。
何年ぶりかで名取に電話をしてみると、名取は会社の電話番号まで変えたのか、まるで違うところが、はい、と出た。社名まで変えてしまったのか、番号案内で調べてもらっても、さっぱり要領を得なかった。京橋の電話局へ電話をして、弓子の姉を呼び出してもみたが、やめろとはっきり断られ、迷惑だから、と電話をきられた。暇をみては駒込辺りをタクシーで流したこともあったが、雲をつかむようなものだから、気晴らしにもならなかった。公衆電話の電話番号簿で「名取」の欄を探しても、駒込には名取という名はみつからないのだった。
そのころから、とても疲れやすくなって、
「いっちゃんよ、最近ちょっと変だぞ。なんか、背中に憑《つ》き物がいるみたいだぞ。猫でも轢《ひ》いたんじゃねえの」
などとガンちゃんにいわれるようになった。会社を休んで、熱っぽい身体をアパートの部屋に横たえるようになってから、亥一郎は、名取なんか本当はどうでもよかったのではないか、と気がついた。名取を探している振りをして、探したかったのは弓子の行方だけだったような気がする。殺してやりたいほど憎いはずなのに、その実弓子にあえば、なにもいわずに連れ帰るような気がしてならない。弓子もきっと、ちょっと実家へ戻っていたというような顔をして、悪びれもせず亥一郎についてくるのだろう。そして恐らく亥一郎は、何事もなかったように弓子とその子供と一緒に暮らすに違いなかった。弓子がいったように、それは小さいときからきまっていたことだったから。
弓子は、どうして亥一郎をおいて出ていったのだろう。どうしていつまでも戻ってこないのだろう。亥一郎は、赤茶けた、弓子の薄い髪の手ざわりを思って、恍惚とした。弓子の唾で濡れた唇が突き出て、いっちゃん、と呼んでいるような気がするのだ。
昔の取引先を調べれば、名取の行方はわかるのではないか、と思ったとき、亥一郎は今度こそ弓子にあえると小躍りした。しかしその取引先の電話番号も正式な社名も、亥一郎にはもう、いくら考えても思い出せもしなかった。
熱に浮かされた身体を、ただ芋虫のように転がすようになってからは、亥一郎は名取のことなど思い出しもしなかった。羊羹をおぶった幼い弓子の転んだ姿ばかりが、いつも亥一郎を見上げているのだった。そしてそれは時々、もしかしたら亥一郎も、弓子と一緒になって両親を焼き殺したのではないか、と思わせ、そう思うたびにもっと身体の具合が悪くなればいいと思った。苦痛がきわまって意識の薄れていくときが、亥一郎には一番楽なときなのだった。
雪になったな、と思いながら、亥一郎は立ち上がろうとして箒の柄につかまった。公園の向こうの食糧会社で焼くゴミが、灰となって雪のように舞っている。亥一郎はてっきり雪だと思い、混濁した頭の中で、遠い昔を今のように思い始めていた。
弓子が急いで帰ったのは、雪だったからか、と亥一郎はさきほどの女の去っていった方をみやりながら、どうして自分まで弓子と一緒に行ってしまったのだろうと、不思議に思った。あの一緒にいた若い男は、名取だったのだろうか、自分のようにみえたのだけれども……。
亥一郎は、胸が苦しくなって、やっと立ち上がった身体をまた倒した。それから、ガンちゃんに金を渡さなければと思い、もう一度立ち上がろうと試みた。
ガンちゃん、弓子が指輪を売ってつくってくれた金だよ、これで一山あててきな。
じいさん、そんなことしてたら、死んじまうよ、といったガンちゃんの声が、亥一郎を呼び始めた。亥一郎は懸命に立ち上がろうとしながら、ガンちゃん、あんたいったい、どういう人ね、と胸のポケットを押さえ、ぶつぶつと口を動かした。灰の雪が眉にかかって、亥一郎はますますじいさんのようにみえた。
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リリスの長い髪
車の安全祈祷は本門寺でやりたい、というのは、そもそも昌子のいいだしたことだった。それが十年も前に別れた直美を、もう一度蘇らせるきっかけになろうとは、亘はもちろん夢にも思わなかった。直美が、やはり安藤のいうように、魔力を持ったリリスだったのか、あるいは魔力が昌子に乗り移っていたのかと、あとで亘は何度も考えた。
いつの年だったか桜をみにいったときに、亘たちは本門寺の境内で、車の安全祈祷に出会《でくわ》したことがある。昌子は日蓮宗の賑やかな祈祷が気にいったのか、うちも車を買いかえたら、ここでやりましょうね、といった。そのときには車を買いかえる予定はなかったから亘は笑ってうなずきはしたが、それっきり忘れていた。
春がくると池上の本門寺へ桜をみにいくようになって、それからいったい何年たつのだろう。亘は、昌子と一緒になってから、年月を数えるのをやめたような気がしている。朝がくると、九時からの診療が待っている、昼になり、三時から始まる午後の診療が終わるともう夕方も遅くなっていて、夜がきたと思うとまた朝になっている、そんなふうに感じて毎日を暮らしてきた。長い年月が確実にたったのを悟ったのは、あるとき鏡を見て、老けた自分に驚いたときであった。亘の脳裏にあった彼自身の姿は、三十過ぎたころのまだ若さの残るひきしまったものだったから、鏡に映る、弛《ゆる》んでふくれた顔の、白髪のまざるぱさついた髪をした男の姿は、いったい誰《だれ》だろうと一瞬亘を当惑させた。この辺でどうにかしないと、際限もなく衰えていくなあ、と鏡をみつめながら考えたが、亘は昌子と一緒になってから、なにかにかりたてるものをなくしたような気がするのである。車を買いかえたくなったのは、ひょっとするとそのとき潜在意識の底で、なにか行動を起こして、事態を前進させたいと願うものがあったからかもしれなかった。
四月になると、少し遅いかな、といいながら、亘たちはその年も本門寺の桜をみにでかけた。寺の裏手にようやく駐車ができて境内に入ると、しきりと花の降る境内は人でごったがえしていた。
「花祭りなんだわ、今日は」
と昌子がいった。
「らしいね。先週にすればよかった。そしたら少しはすいてただろうし、花もちょうど見頃だったかもしれない」
「今日のほうがよかったわ。甘茶もいただけるし、花も、先週じゃちょっと早過ぎでしょう」
「甘茶なんて、冗談じゃないよ。この行列だよ」
亘がそう反対したのに、昌子はどうしても甘茶を飲むのだと、釈迦像の前の行列についてしまった。急ぐ理由もなかったから、亘も付き合って列には並んだが、行列ののろい歩みに耐えかねて、花びらの流れてくるのを眺めながら、なんということもなしに、車を買いかえようかなどと考えていた。
五月になって、昌子は車のディーラーからの電話で初めてそれを知ったものだから、
「車、買いかえるんですか?」
と診察室へカルテを持ってきたついでに、ちょっと不服そうにいった。なにも知らされていなかったことに、腹を立てているようだった。
「うん。電話あった?」
「明後日、納車しますって」
「そう」
夜になってから、昌子は突然、祈祷は本門寺でやるでしょう、といった。亘は一瞬なんのことかわからなかった。昌子に、車ですよと変な顔をされて、やっと、ああと思ったが、昌子が一日中ずっと車のことばかり考えていたのかと、おかしくなった。
「そういえば、そんなこと前にもいってたっけ」
「なにをですか?」
「車の祈祷は、本門寺でやりたいってさ」
「そうでした?」
昌子は今度は、とぼけているのか本当に忘れていたのか、感情のなさそうな声でそういった。それでも亘の選んだ車種には満足しているようで、
「買いかえるの、まだ早かったんじゃないかしら。もったいないみたいね」
といいながら、浮き立つように、なにかのメロディを口ずさんでいた。
もう一月待ってもらえると、ボーナスセールで、割引がもっと大きくなるんですが、というセールスマンに、もう一月待つと、きっと買う気がなくなるよ、と亘は冗談のようにこたえて、急ぐわけでもない車を早々と買いかえたのだったが、車が届いてから最初の日曜日に本門寺へ行き、そこで直美をみかけたときには、なにかの暗示があったような気がして、久しぶりに胸がおどった。
本堂の脇の砂利庭で安全祈祷が始まると、昌子は自分からいいだしたことなのに、ハンカチを口にあてて笑いを堪えだした。日蓮宗の若い僧が二人、白衣の袖《そで》をたくし上げて、派手に数珠を揉《も》んでは全身を駆使し、汗だくになって賑やかにお経を唱えている。まるで豪快なディスコダンスでもみているようで、亘も思わず唇をかんだ。これだけやってもらったら、祈祷料も高くはないわ、と昌子はきっというだろうなと思うと、それもおかしいのだった。それから亘は、なぜか唐突に振り返ったのだ。本堂の脇を歩いている女の姿が、そこだけ浮いているように亘の目に入ってきた。直美、と思わずかけだしそうになったとき、
「どうかしたんですか?」
と昌子がいった。
「いや、なんでもない」
亘はからまったような声でそうこたえたが、自然と目が、またその女のほうへ走っていた。女の姿は人込みに消えたのか、一瞬のことだったのに、もう影もなかった。
「どうしたんですか」
と昌子がまだきいた。
「なんでもないよ。人違いだ」
そういってから亘は後悔した。人違いだなどと、余計なことまでいってしまった。昌子はちらりと、亘の横顔に視線を走らせたようだった。
祈祷が終わってから、形ばかり本堂へお参りにいったが、亘はうわの空で、直美の姿ばかり探していた。きっとまだどこかにいるはずだと、わざと本堂の前の雑踏の中でぐずぐずしてみたが、直美らしい女の姿はどこにもなかった。直美にあいたいという気持ちが、昌子と一緒のところをみられたらいやだという気持ちに変わったとき、昌子が甘酒を飲みたいといった。
「そんなもの、いいよ。この混雑だよ。いつになるかわからないよ」
いっときも早くその場を離れたくなっていた亘はそういうと、不服そうな昌子をせきたてて、車へ戻ってしまった。
「人違いって、どなたと間違ったんですか」
昌子はずっと黙りこくっていたが、亘が車を本堂の裏手の道へ出すと、それを待ちかねていたようにそういった。亘は、そら来た、と思ったが、人波をよけるのに専心している振りをして、
「え? なにが?」
ととぼけた。
「さっきですよ。人違いだっていったでしょ。誰と思ったんですか」
「ああ、あれ。──あれは、ばあさんだよ、新橋のバーのばあさんママ。この辺に住んでるから、そうかと思ったんだ」
「そう。人違いだったんですか」
「うん」
細い道は、ゆるやかな下りになっている。亘は左へカーブをきりながら、自分にいいきかせるようにそういった。昌子は黙り、それから家まで、ずっとおし黙っていた。今度の車は出足がいいね、と亘がいっても、返事をしなかった。「ばあさんだ」などと、すぐに出た嘘《うそ》に亘は自分でも驚いていたから、なんだか昌子に阿《おもね》るようにそんなことをいったのを、簡単に見透かされたようでいやな気分になった。
池上通りへ出ると、その日も道は混んでいた。道幅が狭いのに、商店街は軒並に車がとまっていて、その上バスまで頻繁に通るから、大井町の亘の家まで距離はいくらでもないのに、時間は結構かかってしまう。せっかく新車を買ったというのに、その日もバスの尻についてしまった亘は舌打ちをしながら、変に黙り込んでいる昌子にまで腹を立てていた。昌子が直美のことをどれほど知っているのか、亘は未だにきいたことがない。だから直美と間違えたとはいいにくかったのだが、本当はやはり、直美に未練な気持ちが残っていて、それが咄嗟《とつさ》に昌子に嘘をつくことになったのだろう。昌子に腹を立てているのは、その後ろめたい気持ちの裏返しのような気がして、亘はなおさら腹が立つのだった。
あれは、しかし人違いだった。第一、若過ぎた。髪の毛も短かったし、細くくびれた腰の線は若い女のもので、別れてから十年もたつ直美であるはずがなかった。女の長い脚を見て、瞬間に直美だと思ってしまったのだろうか。直美は亘と同じ四十三、昌子よりは七つも年上なのである。助手席に黙って坐っている小太りの昌子のほうが、先程の女よりはよほど年上にみえる。
それにしてもよく似ていたなあ、と亘は鹿島神社の信号でとまりながら、未練がましくもう一度思った。しばらくぶりに興奮して、胸が切なくなっていた。
その夜昌子は、テレビをみている亘のそばでアイロンかけをしていたが、突然亘に、
「あらあ、こんな疵《きず》、前からあったかしら」
といった。亘は振り向いて、それが居間の壁につくりつけになっている戸棚の疵だと知ると、どきりとした。その疵は直美がつけたものなのだ。あれはやはり直美だったのだ。
テレビが気になる振りをして、亘がこたえないでいると、昌子は、
「椅子でもぶつけたのかしら」
とひとりでぶつぶついっていた。亘はきこえない振りを続けた。
直美がその疵をつけたのは、夫婦喧嘩のときである。直美との暮らしは、喧嘩をしているか睦まじくしているかのどちらかで、昌子との暮らしのように、波風のない生活ではなかったのだ。
喧嘩はいつも唐突で、いま会話を楽しんでいたかと思うと、次の瞬間には直美の激昂をよんでいる。直美は怒ると言葉が出なくなり、そのかわりに物を投げるのだったが、どこか冷静な部分はかならず残しているとみえて、投げるにもいつも物を選んで投げた。その疵をつけたときは、テーブルの上にあった塗り物の盆を投げたのだったが、安物の盆だったのか、盆はすっぱりと欠けて、とがった端が戸棚につきささった。直美は驚いたのか、欠けた盆を拾いあげると、呆然とみつめていた。盆がわれるとは、思ってもいなかったらしい。それから直美は、急にしゃっくりのような嗚咽《おえつ》を漏らして泣きだした。涙も出さずに、白目を子どものように真っ青にして、ただ声だけで泣いていた。
喧嘩になると、物をこわすのは直美なのに、後始末はいつも亘の仕事になった。
「片付けろよ、自分で。誰がやったと思ってるんだよ」
と怒ったことも何度かあったが、そのたび直美は、
「いやよ。わたしに無駄なエネルギーつかわせといて、なにいってるのよ。あなたがいなければ、喧嘩になんかならなかったんじゃないの」
と変な理屈をいうのである。細い直美の身体は、感情が激しくなると、ついていけずに具合が悪くなる。亘は、鎮静剤を飲ませようとしてかえって直美を怒らせ、ますます具合を悪くさせたことがあった。それからは、後片付けですむものならば、と亘は、心の中ではぶつくさいいながら、自分で片付けることにしていた。
直美はソファに横になって、亘の片付けるのをいつも眺めていた。亘が片付け終わると直美は気が鎮まるのか、
「もう寝るから着替えさせて」
という。そうやって命令することが、直美の謝り方のようなのだった。それがいつでも休戦の合図となって、亘は文句をいいながら直美にパジャマを着せているうちに、直美の頭を顎《あご》の下に抱え込んでいて、そのまま二人で喧嘩の興奮を欲望に変えてしまったりすることがあった。
一度だけ直美は、パジャマを着せて、といってから、
「いえ、いいわ、触られたくない。そばへ来ないで。わたしやっぱり、あなたのこと嫌いみたい。そうね、たぶん大嫌いなんだわ」
といった。亘は当惑して直美をみつめ、大嫌い、といわれた言葉の意味を考えた。
「今度投げるときは、卵にしようかな。卵に亭主の顔描いて、握り潰《つぶ》したらいい、って友達が教えてくれたの」
といったりする直美の真意をはかりかねていたから、大嫌いという言葉をどうとっていいのかわからなかった。
昌子と再婚したのは、直美と別れてから二年後である。医学部の同期だった安藤の紹介で、昌子は安藤の妻と同じ里の娘だった。直美も医学部の同期だったから、昌子が安藤からなにもきいていないはずはなかったのだが、昌子は最初から、直美については一言も触れなかった。昌子が七つも年下だということを、亘は始め不憫《ふびん》な子供のように思っていたから、直美については自分からも触れないように気を配っていた。
昌子は、直美とはことごとく違っていた。昌子のやることは、直美のやらなかったことであり、昌子のやらないことは、直美のやったことであった。ことに昌子が違ったのは、感情を隠すということだった。夫婦喧嘩のように、感情をむきだしにするものは、極力避けるように昌子は努めているようだった。亘のほうは、いくらか動作ののろい昌子に癇癪《かんしやく》をおこすことが時々あって、よく怒鳴ることがあるのだが、昌子はただ黙って、亘の癇癪のおさまるのを待っている。たまに亘が腹を立てて、雑誌や新聞を投げつけても、昌子は表情も変えずにそれを拾う。そうされると亘はますますむやみと腹が立って、昌子の拾いあげたものを奪いとり、また踏み躙《にじ》りたくなることがあった。それを堪えようと煙草を出すと、手が小刻みに震えたりした。
あるとき、なにが原因だったのか、亘は昌子を本当にいやだと思ったことがあって、手もとにあった本を力いっぱい床に投げつけた。投げた瞬間に、昌子の本だったと気づいたのだが、悪いことに本はまっ二つに裂け、裂けた片方が亘の足元へ飛んできた。昌子は黙って、遠くの片割れを先に拾い、それから亘の足もとの本を拾おうと近づいてきた。
「来るんじゃない! そばへ寄るな」
亘は、思わずそう叫んでいた。おまえなんか大嫌いだ、という言葉が、喉もとまでこみあげていた。そのときだけは、いつも表情を変えない昌子が、怯《おび》えたように亘を見上げた。怒られた飼い犬のような目をしていた。
「はい、米倉でございます。──あらあ。お久しぶりでございます。はい、元気でやっております。──ええ、あ、ちょっとお待ちくださいませ」
亘は、安藤からだなと思いながら、昌子の受けこたえをきいていた。案の定、昌子は、
「安藤さんです」
と亘をよんだ。安藤は、白金で三代続く医者の息子である。亘は小諸のそこそこの医院の次男坊で、直美には、ぐずなんだから、とよく文句をいわれたのだが、安藤には、おっとりしているところがいいといわれて、学生時代から一番親しく付き合っていた。
亘の父親は、息子三人がそれぞれ医学部へ進むと、小諸に大きな総合病院を建てるのだと張り切っていたが、小諸へ帰ったのは長男だけで、亘は東京で開業し、弟は大学に残ってしまった。妹がやはり医者と結婚したから、父親は総合病院とまではいかなかったが、とにかく身内三人で役職を固める病院に建てかえている。
「もしもし、ご無沙汰」
と亘が電話に出ると、
「全く……。どうしてる? ちょっとあわないか、近々に」
と安藤はいった。
「いいよ。どこにする?」
「そうだなあ、うちでもいいんだけど……」
「新橋行こうか? 久しぶりに一緒に」
「老人倶楽部かい? あそこは早く終わり過ぎるよ」
「おれたちが行けば、延長してくれるよ。あそこがいいよ、すぐに誰もいなくなるんだから」
「それもそうだな。あそこなら、おまえ、後で、ばあさん送ってやれるもんな」
そこのママはもういい年で、大森海岸に住んでいる。亘の家からは、一キロほどの所である。亘の住む土地は安藤の紹介だったが、その出所は、案外ママだったのかもしれない。学生時代に安藤に連れていってもらって、それからずっとつかっている店である。いつだったかママが、今では常連がみんな年になって早く帰りたがるから、九時にはお店閉めてしまうわ、といってから、安藤は老人倶楽部とよんでいた。九時に閉めるかわりにその店は、三時になるともう開いていた。
「じゃあ、どこかで飯でも食ってから行こうか?」
と安藤はいった。
「ばあさんとこで、寿司でもとってもらえば、それでいいよ」
亘がいうと、そうするか、と安藤はいって、
「じゃあ、今度の木曜、適当な時間に行ってるよ」
と電話をきった。木曜の午後は、安藤も亘も休診にしている。話はきっと直美のことだな、と亘はぴんときた。
「安藤さん、お久しぶりね」
と昌子がいった。うん、とこたえながら亘は、その日一日、みんながリリスの魔力に振り回されていたのを感じた。
専門課程へ進んだとき、亘のクラスには、女は二人しかいなかった。一人は何年か浪人をしていて、亘より年上だった。もう一人が直美だったが、直美は成績もたぶん十番以内で亘よりもよかったし、そのころ直美の父親が、ある国立大学の医学部の教授をしていたから、とてもまぶしい存在だった。直美などは遠い存在だと片付けていて、亘は近づこうとしたことも近づこうと思ったこともなかった。亘たちが卒業した年に、直美の父親は国立大学を定年退職し、亘たちの大学へ移ってきた。胸部外科が専門だった。
亘が直美と親しくなったのは、医局に勤めてからである。
ある日、勤務が終わって病院を出ると、亘の前を直美が歩いていた。
「疲れませんか?」
とすぐに追いついた亘が、直美と並んだときに声をかけると、直美は不意をつかれて驚いたようだったが、
「疲れます。わたし、もう毎日いやになりつつあるんです」
とこたえた。亘を見上げた顔が青かった。川端の街路樹が映っているのか、と亘は最初思っていた。
「いやって、システムがですか? それとも人間関係?」
ときくと、
「いえ、病気がです」
とこたえた。面白いことをいう人だ、と亘は思った。一緒に歩いて表通りへ出ると、直美はふいに亘の腕をつかみ、
「気持ち悪い……」
と呟《つぶや》いた。
「えっ? 大丈夫ですか。病院へ戻りましょうか」
と亘が直美の腕を支えながらいうと、
「いいえ、あそこはいやなの。喫茶店でいいから、どこか休めるところへ連れていってください。大丈夫だから」
と直美はいった。
「喫茶店といっても……」
駅前の喫茶店はいつも混雑していたし、煙草の煙はひどかったし、直美はしだいに強く亘に体重をもたせてきたから、亘はためらいながら、
「ぼくのマンションでいいですか? すぐ近くだから」
といって、直美の返事も待たずに、折から通りかかったタクシーに手をあげた。
直美はタクシーに乗り込むと、すぐに亘の膝の上に顔を伏せてきた。運転手の顔に、好奇の色が浮かんだ。
「小石川、水道町ね。急いで、吐くかもしれないから」
と亘がいうと、運転手は慌てて発車した。亘は無意識に直美の背を撫でながら、直美の体重のかかっている脚部を緊張させていた。顔まで緊張で目がすわっていた。その頭で亘は、必死に症状を考えあわせては、あれこれ応急処置を考えていたのだ。
小石川のマンションは、亘の父の買ったものだった。最初は両親が上京するときの宿にしていたのだが、長男が大学に入ったときに住み始め、次には亘が同居し、妹も女子大に入ると一緒に住み込み、それから弟も出てきて、一時は四人が寮のようにして暮らしていた。マンションというものが初めて売り出されたころの古いもので、直美を連れていった時には、亘と弟の二人が住んでいた。
「弟が一緒なんですけど、二人とも掃除なんかしたこともないから……」
と亘が恐縮しながら、前夜弟と飲んだ跡のそのまま残る、雑然とした居間に直美を抱え込むと、直美は、ごめんなさい、といって自分からソファに倒れ込んでいった。
「しばらくそっとしといてください。すぐになおりますから」
心配そうな顔でその実張り切っていた亘に、直美はそういうと目を閉じた。そして直美はすぐに十五分くらい眠ってしまったのである。
直美の長い髪がソファからこぼれて、床に垂れている。亘はしばらくそれをみていたが、垂れている髪をそっとソファの上にあげてやった。さらっとした髪は、またすぐに下へ滑り落ち、亘はもう一度その髪を手にとらなければならなくなった。亘はすくった髪を、今度は直美の胸の上に、斜めに広げてのせてやった。それから、胸のボタンをはずしたほうがいいのではないか、と考え、それともウエストを緩めるべきだろうか、と思って、身を熱くした。
直美の細い腕をとって脈をみると、脈は正常だった。亘の脈のほうが、音をたててきこえた。脈をとった腕を、亘はしばらく握っていた。すると直美がその腕をひっぱるように動かした。亘はつられて立ち上がり、腕を離した手で直美の前髪をかきあげてやった。そしてその手を額に下げて、熱をはかった。
直美の目覚めるまでの十五分は、亘には永遠のように長く感じられた。早く弟が帰ってくるようにと願ったり、弟の戻らないことを祈ったりした。亘が女の眠っている姿を、そんなに深く真剣にみつめたのは、そのときが最初で最後だった。息詰まるような十五分が過ぎると、直美は突然目を開けた。初めて目の開いた瞬間の犬の子のように、瞬きもせず、不思議なものでもみるように直美はじっと亘をみつめた。
「大丈夫ですか?」
亘が唾をのみこみながらそうきくと、直美はうなずいた。それから直美はゆっくり起き上がり、亘のかけてやった毛布をとると、衣服を改めるように目を落とした。亘は触らなかったことにほっとした。
「なにか飲みますか?」
ときくと、直美は、コーヒー、とこたえてソファに背をもたせた。
「ブランデーかなんか入れて?」
「なにも入れないで。薄めのブラックがいいの」
直美はそういってから、点検するように部屋の中を見回した。
「お母様が整えてくださったの?」
「部屋? うん、最初はね。後で妹がごちゃごちゃ変えたけど……。ぼくも弟も関心がないから、妹のやったまま」
亘の母親は、月に一度は上京して、掃除や洗濯をし、冷蔵庫に食料品を詰めていく。ひたすらかわいがっている末の弟がいるから、なにかと理由をつけては、上京せずにいられないのである。
「そうでしょうね。女の手のかかった部屋だわ」
直美は部屋の中を興味深そうに見回しながら、そういった。気分がよくなったのか、亘のいれたインスタントコーヒーをおいしそうに飲み、なにかいいたそうな顔で、楽しそうに亘をみつめている。直美のほうが、その部屋の古くからの住人であるように、落ち着いて、くつろいでいるようにさえみえた。
「貧血だったのかなあ」
ときくと、
「まあね。いつもこうなのよ。ちょっと休むと、すぐによくなるんだけど……。これが度重なるのは、やはり貧血なのかしらね」
と直美はこたえた。
「調べたことないの?」
「ないわ。いやですもの」
「だって、どこか悪いんでしょう?」
「悪いのかしら。そうかもね」
直美はこともなげにそうこたえて、亘の気遣わしそうな表情に笑いかけた。それからドアのそばの電話機に目をとめると、
「今度、お電話しようかな。いい?」
といった。
「いいですよ、いつでも」
亘は命令されたロボットのように、すぐに電話番号を書き、その紙を直美に渡した。直美も自宅の番号を書いてくれたが、直美からの電話はなかったし、亘も電話はできなかった。電話のかわりに、直美は半月ほどたつと、また亘の部屋にやってきた。そのときも直美は気分が悪くなって、小金井の自宅までまっすぐ帰ることができなかったのだ。
直美は最初のときと同様にソファに横になったが、眠ることができないのか、眠るほどでもなかったのか、目を開けたり閉じたりして、落ち着かない様子をしていた。
「わたしね、やめるかもしれないの」
と直美は、テーブルをはさんだ椅子に坐り、緊張して直美をみつめている亘に、訴えるようにいった。
「やめるって、なにを?」
「医者を」
「まさか。冗談でしょう?」
「本気なんだけど……」
「どうして! もったいないじゃないですか、せっかく頑張ってきたのに」
「ええ、でも、わたし駄目だから。やっぱり医者には向いてないみたいなの。自分が病気になりそうで、もういやなのよ。毎日、病気の人しかいない世界なんて、おかしいと思わない? 一日中病院にいると、ぐったりするでしょう」
「それはそうだけど、なにもやめなくたって……。そのうち慣れるんじゃないですか」
「いいえ、ひどくなるだけだと思うわ。わたしがちょっと異常なのかもしれないけど……。わたし、痛みに少し敏感過ぎるのよね。自分の痛みじゃなくて、ひとの痛みよ。どこが痛いとかって訴えられると、わたしもすぐにそこが痛くなってしまうの。病院にいると、一日中痛くなりっぱなしで、だんだん病人になっていってしまうわ」
「最初はみんな、そんなものじゃないのかなあ。そんなことでやめるなんて、もったいないですよ。少し疲れてるんじゃないの? 毎日緊張の連続だものね。──それに、やめてどうするつもり?」
「それはまだ考えてないけど……。やめることばかり考えてたから」
「軽いんだなあ。──結婚でもするんですか?」
「結婚? まさか」
と直美は笑った。
「結婚しない主義なの?」
「主義ってことはないけど、たぶんしないと思うわ」
「どうして?」
「どうしてって……、あなたはしたいの?」
「ぼくは、どうだろう……。ぼくは、とにかく、とりあえず相手がいないからね」
亘は生真面目にそうこたえた。
「相手がいれば、結婚するの?」
と直美は笑ってたずねた。
「そりゃ、するでしょう」
というと、
「今いないってことかな、相手が……。いたわけね? 昔は」
と直美はまたきいた。亘は返事ができなかった。相手は、たぶんずっといなかったのだ。高校は男子校だったし、女の子と恋人として付き合ったことは一度もなかった。これが恋だと思ったことはあったが、それは安藤の姉で、向こうはなんとも思っていなかったのだ。
四歳年上の安藤の姉とは、亘が白金の安藤の家に遊びに行くたび、顔をあわせた。優しいお姉さんがほしい、と思って育ってきた亘は、その人にあいたいばかりに、なにかと安藤の家に入り浸っていた。それでいて、安藤の家に泊まり込んだ翌朝など、彼女が一緒だと、ご飯が喉を通らなかった。彼女が花柄の刺繍のついたブラウスなどを着ていると、一日中その花が頭の中を飛び回ったりするのだった。
夏になると、安藤の家族は軽井沢へやってきて、旧軽のゴルフ場のそばのホテルに泊まる。そのついでに安藤は、小諸の亘の家に泊まりにくることになっていたから、亘は車で、軽井沢まで安藤を迎えにいったり、送っていったりしていた。その都度もちろん亘は彼女にあえるのが嬉しくて、テラスで一緒にお茶を飲むことになったりすると、安藤がどこかへ消えればいいと思ったりした。
「昨日はリスが出たのよ」
と彼女のいったことがあった。目を丸くして、ホテルの森をさしながら、彼女は、行ってみましょうよ、と誘った。安藤は、そんなの興味ないよ、と席を立っていってしまった。亘は彼女と二人で、リスが出たという辺りへ降りていきながら、胸を弾ませていた。庭を流れるせせらぎの向こうに深い森があって、本当にリスがいそうな気がしたが、リスはその日は出なかった。花の香りのような彼女の香水が、亘を夢見心地にさせただけだった。
亘たちが専門課程へ進んだ年、彼女は結婚をして、亘の恋はたちどころに破れた。相手も医者だよ、と安藤はいったが、亘は胸がいたくて、それ以上なにもきけなかった。しばらくの間は食欲不振が続いて、頬がげっそりとこけた。安藤は、おまえ、このごろなにやってんだ、と簡単に片付けてくれたが。
「わたしと結婚しませんか?」
と直美が突然いった。
「えっ!」
「困る?」
直美は笑っていた。なんだ、からかわれたのか、と亘は苦笑したが、胸が騒いだ。直美は長い髪を手で背中のほうへ払いながら、やっぱり駄目だった、手答えなしか、と亘をみてまた笑った。直美の長い髪は、火の鳥のしっぽのように、直美の背中で直美が笑うたび揺れた。亘は、もう一度いってくれないかな、と思いながら、胸がときめくのを必死に堪えていた。
「恋人なんて、いっぱいいるんでしょう?」
と馬鹿な質問をすると、
「恋人? そんなものいないわよ。そんなふうにみえる?」
と直美は不思議そうにいった。そんなふうにもどんなふうにも、亘は彼自身と直美とを、同じ線上で考えたことがないのだった。恋人が何人いるといわれても、驚きもしなかったほど、それまでの直美は亘から遠い存在だったのだ。直美は戸惑った表情の亘を、面白そうにみつめていた。
それから二か月もたたずに、直美は本当に医局をやめてしまった。やめた翌日に初めて電話があって、
「昨日でやめました」
と澄んだ声でいわれた。
「思いっきりがいいんだなあ」
といったきり亘が絶句すると、直美は、面白いひとね、と笑った。
「わたしのことなのに、あなたのほうが驚いてる」
「だって、誰だって驚きますよ。どうするんです? これから」
「先《ま》ず、あなたにあうわ」
亘はまた驚いて、咄嗟にこたえることもできなかった。
直美との付合いはそうして始まり、一年もたたずに結婚することになった。生活はすべて親がかりだったが、教授の娘と結婚するということで、亘の両親は大喜びし、東京と小諸とで二回も披露宴をやってくれた。母親が亘を見直してくれたのは、後にも先にもそのときだけで、亘はしばらくはいい気分を味わえた。
亘の家は長男を大切にする家だったが、母親はとくにその傾向が強くて、子どものときから亘は、なにをやっても母親の注意をひくことができなかった。褒めてもらおうといいことをしても、あら、そうだったの、ですまされ、怒られてみようかと悪いことをすれば、馬鹿な子だわね、なんてことをするのよ、といわれて終わるのだった。
妹が生まれたとき、父は初めての女の子で大喜びをした。母は同性の子を仲間と思うのか、長男とはまた違った意味で特別に育てた。弟が生まれると、母親は末の子は無責任でいいといって、やたらかわいがり、大切にかしずかれる子と甘やかされる子との間で、亘だけがひたすら無視されて育ったのである。
長男が一年浪人をしてから入った大学に、亘が現役で入ると、母親は、
「最近は、あそこの大学も易しくなったのかね」
といったものだ。弟が現役で国立の大学へ入ったときなどは、亘が春休みで帰省していた間中、ずっとその自慢話でもちきりだった。長男が見合いで結婚したときは、出来のいい子は、お嫁さんの話もいいのがくる、と母親は嫁の出身校や家柄をとくとくと亘に語ってきかせたほどである。
亘が直美と結婚したいといったとき、母親は、直美が教授の娘だというので、ちょっと驚いたようだった。それから思いをめぐらしたのか、身持ちの悪い娘を教授に押しつけられたのだろう、と亘を睨《にら》んだ。直美を連れてきたら、どんなことになるのだろうと心配だったが、母親は直美にあうと気にいって、亘そっちのけで直美だけを連れては、毎日あちこちへ出向いていた。父親は何を誤解したのか、
「うちも一人くらい、大学教授が出るといいなあ」
などといったが、誤解をしたのは亘のほうで、父親が直美の父を頼りにそう望んだのは、弟に対してだった。けれども直美が大学教授の娘だったお陰で、小諸へ帰るのが前提だった長男には、結婚後も賃貸マンションだったのに、亘は新居として都内にマンションを買ってもらえた。そのマンションは、大井の土地を買うときに、直美と別れることになるとも知らずに、売ってしまった。
安藤は、亘が直美との結婚を告げたとき、戸惑った表情を浮かべた。なにもいわずに黙りこくっているので、きこえなかったのかと亘は二度も繰り返していった。すると安藤は低い声で、そんな、と呟《つぶや》いた。それはききとれないほど小さな呟きだったのに、亘にはなぜかはっきりときこえて、どういう意味だったのだろうと、いつまでも心に残った。安藤がすぐにいつもの表情に戻って、おめでとう、といわなかったら、亘はそれを問い質していただろうし、そうしていたら、直美と別れることにはならなかったかもしれない。というよりも、直美と結婚することには、ならなかったのではないか。
直美は末っ子で、すでに結婚している兄姉がいたが、二人とも医者ではなかった。直美まで医学を捨てたのだから、直美の父親はさぞかし落胆しているだろうと思っていたのだが、父親の口から、そのような言葉は一度も出なかった。直美の家族は誰もみな静かで穏やかな人たちで、その中で直美だけが、いかにも末っ子らしく、気ままに勝手に生きていたようだった。
結婚してから直美は、家でできる仕事をやりたいといって、点字を習いに行き始めた。それは覚えてもボランティアでやるしかないことのようだったが、亘は直美になるべく家の中にだけいてほしかったので、まあ、いい仕事なのではないか、と賛成していた。
「うちの父はね、指先の訓練とかいって、よく玉葱《たまねぎ》をスライスしてたわ。とっても薄く切るから、父のオニオンスライスは人気があったの。わたしだけかな、食べられなかったのは。これ肝臓かな、とか、心臓かな、とか思うでしょ、それが駄目なのよ。そう思うともう食べられないのね。わかるでしょ、その気持ち。──わたしが子供のときにはね、父は、よく紙切りをやってくれたの。兎とか鳥とか注文出すと、器用に鋏《はさみ》で切ってくれるのよ。そんなの、箱にいっぱいためて、大切にしてたわ。そういう父が大好きで尊敬してたから、大きくなったら、わたしも医者になるんだと決め込んでいたんでしょうね。うちじゃ、兄も姉もどっちも医者にはならなかったから、きっと本当は、医者嫌いのうちなのかもしれないんだけど」
直美がそんな打ち明け話をすることもあって、新婚の生活は静かで楽しかった。孔雀《くじやく》と思っていた鳥が、田んぼにでも生息する白鷺《しらさぎ》だったようなもので、亘は満ち足りた思いを味わっていた。そんな中へ安藤が加わったらどんなに楽しいかと思って、安藤よぼうよ、と何度かいったことがあるのだが、直美はそのたび、
「あの人は、来たければ勝手に来る人よ。来ないのは都合が悪いんだわ。勤務が忙しいんじゃないの」
と、さりげなく断るのだった。安藤も、亘が誘うたび、
「うーん、駄目だな、その日は予定が入ってるよ。また今度にしよう」
と残念そうに断り、ついに一度も亘たちを訪ねなかった。
「いったい安藤なんか、どんな女と結婚するのかなあ。一番先に結婚しそうなやつだったのに。あれだけ女が多いと、トラブルも多いのかな」
と亘がいったとき、直美は笑ってこたえなかった。
安藤が結婚したのは、亘より二年ほど後だったが、結婚式の招待状は亘だけにあててあり、直美は出席しなかった。安藤は見合いだといっていたが、やはり医者の娘で、きれいな人だった。安藤の結婚式で何年ぶりかに出会った彼の姉は、夫と一緒で、二人の子供を連れていた。ご結婚なさったんですってね、といわれたが、直美のことについてはなにもきかれなかった。
直美がひょっとして安藤の恋人だったのではないか、と思ったのは、安藤の結婚式の後である。亘の持ち帰った引出物を、直美は触りもせずに、亘の置いた場所に何日もそのままにしておいた。亘が不審に思って、
「これどうするの? 開けてみようか」
というと、直美は、後でいいわよ、といった。
「片付けないの? 珍しいね、いつまでも出しっぱなしで」
「そのうち……ね」
と直美の返事は歯切れが悪い。
「今ごろあいつら、なにしてるかなあ」
と亘がいったら、直美は顔を背けた。
「安藤みたいなのに限って、かえって見合いで結婚するんだね」
というと、直美は立ち上がり、棚の上の、ふだんはみもしない医学雑誌を手にとって、ページをめくりながら、あら、誰さんがお書きになってるわ、といった。
「安藤はさ、……」
と亘がまた話しかけると、
「いけない。わたし約束してたんだ。今度から図書館で、目の不自由な人に、本を読んであげるサービスをやるんですって。わたしもそれ、登録しておこうと思ってたのよ。ボランティアのね」
といって、腰の線のよくわかる、ニットのスカートのフレアの裾《すそ》を翻し、部屋を出ていった。また、おいてきぼりをくってしまった。直美は突如として話を変えたり亘の話をさえぎったりして、わざと亘を突き放すことがある。そのたび亘は、口にしていた言葉をのみこむことができなくて、聞き手のいないむなしい言葉を、終わらないラジオのように、最後まで続けてしまう。そしてその後はいつでも興醒めがして、直美にとも自分にともつかず、悪態をつくのだった。
安藤からは、直美と付き合っている、などときいたこともなかった。それらしい気配を感じたこともなかったのに、疑いだすと不審な点は幾つも出てきて、どこかに二人の接点があるような気がして落ち着かなくなる。
「子供はいらないわ」
と直美は結婚する前からいっていて、いいよ、と亘も簡単に同意していたのだが、直美が中絶をしていたことは、結婚してから知ったのだ。それが安藤の子であるとは思いたくなかったが、そうではないかと思わせる事実はいっぱいあった。あまりアクセサリーをつけない直美の、百合の花のペンダントもそうだった。
あの日は、亘のほうが意地悪な気持ちになっていて、直美がいやがるのを知っていながら、なぜかしつこくからんでしまった。あれは休みの日の昼食の後で、直美は新聞をみていた。直美が身体を動かしたときに、首筋がきらっと光ったから、亘は何気なく、
「そんなの付けることもあるんだね」
といった。直美はちょっと怯《ひる》んだような顔をして、ペンダントをブラウスの中に押し込んだ。
「誰にもらったの?」
と亘がそのペンダントをわざわざ引っ張りだしながらきくと、直美は機嫌を悪くして、
「自分で買ったのよ」
といった。
「まさか」
「あら、本当よ。なんで? 誰にもらったっていうの」
と直美は開きなおった。
「安藤にもらったんじゃないの?」
「どうして? もらうわけなんかないでしょう。変な人ね」
「あいつのお姉さんの学校、こんなマークだったよ」
「まあ、詳しいのねえ。やっぱり好きだったのか、お姉さんのこと」
亘は、どうして知ってるの、ときくところだった。話が変なほうへまわったので亘が黙ると、直美も、いつもならそんなときには、怒ってとことんまで誤解をただすのに、そのときには避けるように話題を変えてしまった。亘も坐り心地が悪くて、直美の持ち出した話題にどうでもいいような相槌《あいづち》をうちながら、二人がまたどうでもいいことを話しているのに驚いていた。いつもならそんなことは手厳しく指摘する直美が、まるでなにかを恐れているように、気づかない振りで優しい態度をとっている。二人の間で、安藤は鬼門なのだと、そのとき亘は悟っていた。
女が遊びであるか憧れであるか、そのどちらかで終わってしまった学生時代の、安藤はその両方にかかわった親友だったのに、安藤の恋愛に関する部分だけは、考えてみると、なにも知らないのである。安藤とはいつも一緒だったという思いが、安藤のことならなんでも知っているように、亘を錯覚させていただけのようだった。
直美と喧嘩をするようになったのは、そのころからのようだ。喧嘩をすることで、お互いの気持ちを確かめあわないと、安心して暮らせないような毎日だった。
「おれたち、このごろはさ、ただ傷つけあうためにだけ暮らしてるみたいだよ」
とついうっかり安藤にこぼしたことがあったが、そのとき安藤は笑うかと思ったら、
「それは、本当に愛しあってるってことだな」
と真面目にこたえた。直美と昔なにかあったんじゃないのか、と口まで出かかったが、きくのが怖くて亘は黙った。
父親が、小諸に病院を建てかえるから、帰ってこないか、といってきたのもそのころで、亘はふと帰ろうかと思った。安藤と離れて、直美と田舎で暮らしてみたかった。東京で開業するのも難しそうだったから、それとなく直美に意向をきいてみると、
「母がちょっと具合を悪くしてるから、行ってもいいけど、しばらくはあなたが一人で行っててよ」
といわれた。
「時々行って様子をみないと、父のことも、なに食べてるのかと心配だから」
というのである。
「別にどうしても行くってこともないんだけどさ。急ぐ話でもないし、こっちで開業するのも大変みたいだから……」
「いいのよ。どっちでも、あなたのいいほうにきめてよ。わたしは、すぐには行けない、ってだけのことで、どっちだっていいわ」
いやに素直に直美はそういった。それはきっと反対の気持ちに違いない、と亘はとって、小諸へはしばらく帰れないと思う、と父に伝えた。そのとき安藤が、大井の土地の話を持ってきたのだ。
「どうする? ここ売って、大井で開業しようか?」
と直美に相談すると、
「どっちだっていいわよ。あなたはどっちがいいの?」
と直美は同じようなことをいった。
「ぼくは、どっちでもいいんだけど、どうしようか……」
「とにかく今すぐ決めるとしたら、わたしは動けないわ。田舎へ行くのなら、あなただけ先に行っててね」
直美の返事で、答えがきまった。まわりが全部知り合いの小さな田舎の町で暮らすよりも、都会の谷間で、こぢんまりした医院を開いて、直美とひっそり生活を楽しむほうが、悪くはないな、と亘は思った。直美も、そうね、微力ながら、現代の赤髭《あかひげ》になるのも悪くはないわね、などといったから、父親の話ははっきり断って、安藤に土地の話を進めてもらった。それなのに、マンションが売れて、新しい家の建つまでアパート暮らしをしている間に、直美の気持ちはすっかり変わっていったのだ。
直美は、新しい家に引っ越して、開業の準備に忙しくなってから、亘の顔をみるたび急にぶつくさいうようになった。せっかく病気から離れたのに、また病気と直面するのは我慢ができないなどと、開業して亘の手伝いをするのを、婉曲《えんきよく》に拒否するようなことをいうのである。病気が怖い、といっていた娘時代とは違い、妻になった直美に亘はすっかり安心していたから、そんなものはまたいつもの我儘だろうと、深く考えもせずに、いい加減にこたえていた。
開業の準備は、大学病院の勤務の合間をぬっての、慌しい、忙しいものだったから、直美のことで煩わされるのがいやだった。直美を煩わせたくもなくて、なにもかも一人で動き回っていたのだが、それが直美をかえって孤立へと追いやったのか、気がついたときには、二人の間に遠慮という大きな溝ができていた。
夜中に目覚めたとき、直美の姿のないことがあった。驚いて起き出してみると、直美は台所でコップ酒を飲んでいた。
「なにやってんの。真夜中にひとりでそんなことしてたんじゃ、まるで化け猫だよ」
というと、
「あなたもいかが? おいしいわよ」
と直美は笑った。それも休戦の合図になるかと思い、亘も一緒に湯呑みに酒をついだが、会話は口から出る陽気な言葉ほどには弾まず、二人の気持ちが空回りをしているのがよくわかった。気をつけて話さないと、それぞれが違うことを考えているのが丸出しになる。それをごまかすために、二人はまたピッチをあげて酒を飲んだ。
直美は、亘が疲れているのではないか、と気遣ってくれて、とても優しいことをいった。気持ちの離れているのを、優しい言葉で目立たなくしていたのかもしれない。直美と安藤とはよく似ていて、二人ともなにかを決めるときには、まず最初に、相手に警戒を与えない優しい態度をとるのである。相手が安心しているその隙に、足をすくうようにさっさと勝手に物事を決めてしまい、決めた後の相手の気持ちなどは、考えようともしないのだった。
あと半年ほどで開業できる、というときになって、直美が別れたいといい出したのには、亘はひたすら当惑してしまった。
「どうして? おれ、なにかまずいことしたかなあ。一緒に暮らすの、そんなにいやになった?」
「そうじゃないけど、ちょっと疲れたから。わたしの我儘だと思ってよ」
「だったら、ちょっと実家へ行くとか、旅行でもするとか、なにも別れなくたってさ、気分転換すればいいんじゃないの? 脅かさないでほしいよ、こんな時期に」
そのときは直美も、そうね、と笑ってくれた。亘は、忙しさに紛れて直美をなおざりにしたせいかと心配して、開業を遅らせて、海外旅行してもいいよ、と直美にいったが、妻になった女が、なんの不都合もないのに離婚をいいだすなんて、なんて女は勝手なのだろう、と心の中では忿懣《ふんまん》やるかたない思いがしていた。
新しい家に移ってからは、直美とは喧嘩もあまりしなかった。喧嘩をするエネルギーが、なくなっていたのかもしれない。喧嘩は、盆の壊れたときと、直美が怒ってグラスを投げたときくらいのものだった。直美がグラスを投げるなんて、珍しいことだった。そんな危ないものを投げるような女ではなかったが、そのときは、ためらいもせずに投げたのだ。グラスが割れたとき、直美は顔を歪めた。泣くかな、と亘は息をひそめたが、直美は必死に堪えているのか、表情をとめて、飛び散った破片を眺めていた。
亘は破片を拾おうとして、指先を少し傷つけた。すると直美はすぐに飛んできて、
「切っちゃった? ごめんなさい」
と素直にあやまった。
「あんなもの投げるからだよ。投げるときは、壊れないものにするんじゃなかったの?」
「これが最後だから。もう投げることはないわ」
と直美はいった。そして、消毒してまだ血の滲《にじ》む指先をまっすぐに立てさせ、亘の手首を握って、じっとみつめた。亘は空いているほうの手で直美を引き寄せると、顎で直美の頭を抱え込み、冷たい直美の身体を抱いた。そのときが二人の、一番熱くて優しい抱擁だった、と亘は思っている。
直美は、彼女が望まないときには、決して許さない女だった。女のいやだはいいことだと思っていた亘は、無理に進めて噛《か》みつかれたことがある。本気で噛みつかれたから驚いて、一瞬怒鳴り声をあげて直美をはなすと、直美の目には憎悪と蔑《さげす》みが出ていた。殺しかねない女なのだ、とそのとき知った。そのときの傷は今も消えず、腕の内側に薄い痕を残している。
離婚が動かせなくなったとき、田舎の両親は、理由はなんだ、といった。亘はしばらく考えてから、直美が別れたがったからだとこたえた。両親は無言で亘をみつめていたが、やがて母親が、
「そうだろうねえ。そんなことだと思うわ。あんたじゃ、そうなるがね」
といった。
直美の実家へ、亘が両親と挨拶に出向いたとき、亘の弟も直美の父親の世話になっていたものだから、亘の父親は困り果てて、なんだか意味をなさないようなことばかり繰り返しいっていた。直美の父も、はあ、はあ、と意味のとれないような返事ばかりしていた。直美の母がハンカチを目にあてたとき、亘は初めて、とんでもない間違いをしたのではないかと思い、取り返しのつかない後悔で胸がいっぱいになった。直美がどういおうと、直美から離れるべきではなかったのだ。
直美は、なんでもないような顔をして、お茶を運んできた。そして、誰の離婚が話題なのかというような顔をして、亘の母とつまらない世間話を始めた。なにがおかしいのか、二人は声まで出して笑った。すると二階から、まるで調子をあわせるように、子供の澄んだ高い声の、やはり笑うのがきこえてきた。直美の姪や甥たちが来ているようだった。階下では離婚の話をしているのに、それが嘘のように思えるほど、楽しそうなほがらかな笑い声だった。
別れ際に亘の母が、
「これはこれとして、直美さん、小諸へはまたお遊びにいらっしゃるでしょう?」
というと、直美は、伺わせていただきます、と返事をした。亘は本気にしてそれを待ったが、直美は離婚してから、小諸へも大井の家へも、一度も顔をみせなかった。
安藤は、亘が直美と別れたといったとき、あまり驚かなかった。そのときも安藤はしばらく黙っていたから、亘は、きこえなかったのかと、二度繰り返していったのだ。安藤はこっくりとうなずいたが、やはりなにもいわなかった。離婚の後で、亘は直美と別れた理由がさっぱりわからなくなっていたから、安藤に分析をしてもらいたいような気分になっていて、安藤がいつまでも黙りこくっているのがもどかしかった。安藤はしばらく黙り込んでいてから、
「リリスのことは忘れるんだな」
といった。
「リリス?」
「アダムの最初の妻だよ」
直美のことか、と亘は思ったが、聖書のアダムなら、妻はイブだとばかり思っていたから、
「最初の妻って、アダムに先妻なんかいたのか?」
ときいた。
「いたんだ。リリスっていう、すごい美人がさ」
と安藤は真面目な顔をしていったので、亘は笑いだしてしまった。なんだか実在の人物の話をしているようで、おかしかったのだ。
「リリスってのは、本当は蛇が化けてるんだけど、アダムは気がつかないわけ。リリスの髪の毛は、黄金のように見事な金髪なんだけど、これも本当は手下の蛇が化けてるんだよな。何万匹もの蛇が金髪に化けてて、夜になると蛇に戻るんだったと思うよ。詳しいことは忘れたけど、とにかく、だから後でリリスが追い出されて、イブが後妻に来ると、リリスは怒って、手下の蛇をイブに送るんだよ。林檎を食べるように唆《そそのか》す蛇がいるだろ? あれがそうなのさ」
「ほんとかあ? そんな話、初めてきいたけどな。アダムといえば、相手はイブと決まってるじゃないか」
「本当の話だよ。本当って、そりゃ、伝説は伝説だけどさ……。それで林檎を食べたイブが、自分だけ死ぬのはいやなものだから、アダムにも食べろって誘うんだから……。女って、そのころから怖いんだぞ」
「リリスねえ……、そんなの、知らなかったなあ……。でも、蛇だっていいよ。独りでいるくらいなら、蛇に巻かれてるほうがまだましだもの」
亘は思わず本音をこぼした。安藤は窺《うかが》うように、上目遣いに亘をみていた。
直美と別れてから、亘は本当にそう思っていたのだ。なんでも直美のいう通りにして、一緒にいればよかったと後悔していた。一人でいたって、いろいろと我慢をすることには変わりがないのだ。
一緒にいたときには、滅多に二人では出掛けなかったのに、別れてからのほうが、亘は何度も用をこじつけて、直美を電話で呼び出していた。用はいつも口実で、飲んで食事をしたり、ときには抱きあったりすることもあるのだった。いつもそうしたように、二人は直美の長い髪を亘の首に巻きつけて、寝転がってふざけあった。
「もう一度やり直そうよ。今度は絶対うまくいくからさ」
「駄目よ。もう終わったのよ」
と直美は甘くこたえた。
「だって、こうしているのは、いやじゃないんでしょう?」
「どうかしら。今日だけかもよ。早く再婚すればいいのに。そうすれば、すぐに忘れるわよ、わたしのことなんか」
「ぼくと別れたことが、ちっとも辛くはなさそうだね」
「そうでもないわよ。やっぱり早まったかなって思うときだってあるもの。──でも、わたしたちって、きっと別れたほうがいいお友達になれると思ったの」
「夫婦でいるより、友達のほうがよかったの?」
「夫婦でいるのって、ちょっとしんどいじゃない」
「そうかなあ。おれ、そんなに面倒くさい男だったかなあ」
「そんなことはないけど……。いい人だったわよ、平均点以上」
「じゃあ、なんで別れたの?」
「うーん……、成り行きよ。いつも二人でいるのって、重くなってくるものね。それに、やっぱりまずかったわよね、わたしたち……恋をしたわけでもなかったし……」
「ぼくはしたけど……」
「錯覚よ」
「そうは思わないけど、仮にそうだとしたって、ぼくは今でも一緒にいたいと思ってる。それが恋でないといわれれば、愛だよっていいたいけど、そういうのは駄目かなあ?」
「駄目よ。だって、第一にもう別れちゃったし、なにしろ終わったことですもの」
「終わってなんかいないよ。そっちが勝手に終わらせただけじゃないか。もう一度、考えなおせないの?」
「駄目っていったでしょう。もう、決めたんだもの。そんなこというと、もう帰るわよ」
直美のつかまえどころのなさは、別れてからも少しも変わらなかった。
忘れろよ、早く、と安藤がいったとき、亘は、直美がいったのかと思ってぎょっとした。たぶん同じ女と別れた男が、二人で飲んでいるのだったが、亘はしだいに話をするのがいやになっていた。自分から誘っておきながら、亘は早く家へ帰って、一人になりたいと思っていた。
リリスの住んでいた家へ帰ってから、亘はリリスの跡を探して、広くもない家の中をさ迷った。リリスのつけた戸棚の疵跡の前に坐り込み、瓶からじかに喉にウィスキーを垂らし込んだのもその夜だった。苦しいほど咳込んで、無様に涎《よだれ》まで垂らした。早朝の出勤を考えては、早く寝なければと焦るのだが、目はいつまでも冴え続けて、眠れそうにないのだった。亘は言葉にならない呻《うめ》き声を出しながら、ベッドを転がっているうちに、明け方やっと眠りに入っていった。
安藤が昌子との縁談を持ってきたとき、亘にはもう再婚する気も、開業する気もなくなっていた。開業はしばらく延期ということにしてしまったが、小諸へ帰る気にもなれず、相変わらず親元からの援助を受けて、大学病院で働いていた。束縛を喜ぶかのように、わざと分の悪い勤務ばかり選んでいた。
「早く諦めなよ。いくら待ったって、リリスはもう戻らないんだから」
と安藤は、昌子の写真をさし出しながらいった。
「あったのか? 彼女に」
「あいはしないけどさ。そういう女だもの。一度決めたら、リリスは心を変えないんだよ。それが損になろうと、間違いだろうとね、そういうことはお構いなしなんだから」
安藤がリリスのことをいいだした。亘は緊張して次を待ったが、安藤はすぐに話題を変えて、また昌子との縁談に話を戻してしまった。
「あうだけあってみろよ。七つも年下なんだぜ。おまえ再婚なのに、相手は七つも下なんだぞ。文句ないだろうが。大げさにしたくなければ、うちであってもいいんだからさ」
昌子の話は、安藤の妻の里から来た、といわれた。安藤の妻は、下諏訪の医者の娘だったが、昌子も同じ下諏訪の和菓子屋の娘だった。昌子は大学を出てから、安藤の妻の実家の紹介で、二、三回見合いをしていたらしい。断ったのかどうか、どれもまとまらなくて、それからはずっと店へ出ている母親にかわって家事をみていたらしい。もう再婚する気はないよ、と亘は断ったのだったが、ある晩安藤によばれて白金へ行ってみると、昌子が食卓の用意をしていた。七つも年下と聞いていたので、無口であまり機敏ではなさそうな昌子を、まだ子供なのかと思いながら亘は眺めた。
「明日、おまえ休みだろ? 二人でどこかへでかけてこいよ」
と安藤がいった。亘は困ったが、そうよ、そうなさいよ、と安藤の妻までいうものだから、どう断ったらいいのか迷ってしまった。昌子を目の前にして、いやだというのもかわいそうだった。
「明日は……」
というと、
「よし、決まり、決まり。明日の朝、おまえんちまで昌子ちゃん送ってってやる」
と安藤は勝手に決めて、明くる朝昌子は、安藤の妻と車で亘の家へやってきた。
「汚くって、ごめんなさいね。ひとり者だから、ね」
と安藤の妻は、亘のかわりに昌子にあやまっていた。そして台所を見回し、コーヒーをいれてもってくると、
「わたしは、お先に失礼したほうがよさそうだから」
とさっさと帰ってしまった。
二人になると、昌子はきいたことにはちゃんとこたえた。自分から話しかけることはないのだが、亘に注意を払っているのがよくわかった。いつも機先を制するように話す直美とは、まるっきり正反対のようなのが亘を楽にさせた。見合いは全部断られて、と淡々と昌子がいったとき、亘はおかしくなった。
「今度は、帰ったらなんていうんですか、ご両親に」
ときくと、
「……同じ県の人だから、いいんじゃないかって」
と昌子は考えながらこたえた。
「同じ県か。そういえば、そうですね」
亘は笑いを噛み殺しながら、断るとどういうことになるのかな、と考えていた。直美のことをどう思っているのだろう、とそれが一番気になったが、昌子がきかないものを亘のほうからいう必要はないし、どうせ安藤が話しているのだろう、と無視することにしてしまった。安藤の妻の実家は、向こうでは旧家だというから、そこからの話に、再婚だからと懸念を持つようなことはないのかもしれなかった。
「どこかへ行ってみますか?」
と亘は、自分からはなにもいわない昌子をもて余して、きいてみた。昌子は、どっちでも、といった。
「どっちって、でかけても、ここにいても、どっちでもいいってこと?」
ときくと、昌子は、
「はい」
とこたえた。
はっきりしない女なのかなと思ったが、亘も安藤に、どっちでもいいよ、と返事をし、安藤は勝手に承知ととって、話を進めてしまった。
昌子がリリスの住んでいた家に来たときには、亘が直美と別れてから、すでに二年もたっていた。昌子との披露宴は、小諸で簡単にやっただけだったが、昌子の実家の希望で、諏訪の神社で結婚式だけは一応あげた。小諸での披露宴の翌日、東京へ帰る前に、亘は昌子と懐古園へいった。
「前に来たことあるから……」
と昌子は曖昧《あいまい》なことをいって、黙って亘のあとをついて歩いた。直美と来たときには、
「千曲川が光ってるわあ」
と直美が歓声をあげたものだったが、その日は千曲川も光を失っていた。
昌子との暮らしは、文句も出ないほど穏やかだったが、手ごたえがなさ過ぎて、昌子を抱くときなど、強姦しているようで白けることがあった。そう思うと亘のほうがかえって怯んだりして、いやなときには噛みついてでも拒否した直美が懐かしかった。直美の長い髪を亘の首に巻きつけて、直美が痛いと叫ぶまで、わざと引っ張っては意地悪をしたのが、昨日のことのように思い出された。
「どんな人だったの、昔の恋人」
と昌子にきいてみると、
「どう、って……。大学出ると、田舎へ帰って、教師になった人だから……。それっきりで、別に」
と昌子はわるびれもせず、真剣に思い出しながらこたえてくれた。
病後の回復をしているような昌子との半年は、それでも亘に徐々に力を与えてくれて、亘はまた開業をする気になっていった。いつまでも親元からの送金に頼っているのが、いやになっていたころだった。
そろそろ開業するよ、と昌子にいうと、昌子は嬉しそうな顔をした。
「受付け、やれるかなあ」
ときくと、昌子はうなずいた。
「保険の点数なんかも計算してほしいんだけど、やれるかな」
「教えてくだされば」
「できる?」
「はい」
開業したときには、亘は三十七歳になっていた。点数計算などは、暇をみては昌子に教えていたのだが、昌子は不安だからといって、通信教育で勉強を始めていた。開業してからは、家事のほかに受付けもあり、昌子はよく頑張っていたが、素早いというたちではないのか、大変なのが亘にもよくわかった。いってくれれば手伝ってやるのに、昌子にはのろいくせに頑固なところがあって、なんでも最後までやってみないと、質問もしない。それがときには亘を怒らせ、どうせわかりはしないものを、と昌子のやり方に癇癪《かんしやく》を起こすのだった。
「わからなかったら、さっさとききなさいよ。下手の考え休むに似たりっていうだろ。時間の無駄なんだよ、あんたのは」
と癇にさわって怒鳴るのだが、そうすると昌子は貝のようにおし黙ってしまう。直美は向かってきたが、昌子は退くのである。喧嘩にはならなかったが、面白くはなかった。直美とは、お互いに同化しようとして、しきれずに喧嘩になるのだったが、昌子とは、喧嘩にならないかわりに、併立して生きるしか道がないことを知らされてしまうのだった。それでも昌子との暮らしは、直美と暮らしたよりも長くなって、一緒になってから、もう八年にもなるのである。
「安藤さんとは、やっぱり外でおあいになるの?」
と昌子がきいた。
「うん」
「安藤さんは、一度もここにいらしたことがないわね」
「あいつは来たことがないんだ、昔から」
そういってから亘は、昌子が直美のことをいいだすのではないか、と不安になった。
「うちへは、どなたもいらっしゃらないのね、安藤さんもおかあさまも」
昌子はそういった。
「来ないほうがいいんじゃないの? 面倒くさいだろ、おふくろなんか来たら」
と亘がいうと、昌子はこたえずにうつむいた。
「変なこと気にしてるんだね」
「だってわたしは、ただ若いだけでもらわれたってきいてたから。それだけだったのなら、今はもう若くもないし……」
亘は笑いだした。そんなに若くて、よく来る気になったなと思ったのは、亘のほうだったのだ。そういうと、昌子は和んだ目で亘を見上げた。
新橋の老人倶楽部へついたのは、亘のほうが先だった。
「早過ぎたかなあ」
時計をみると、まだ五時前である。
「何時のお約束?」
と年とったママがきいた。
「それは決めてないんだけど。どうせすいてるからって」
「それはないでしょう。あんまりだわよ。いくら本当のこととはいってもさ」
とママは亘を睨んだ。
「お宅はどうなの? 繁盛してる?」
「いやあ、ぼちぼちってところかな」
「待合室、きれいにしてる? きれいなスリッパそろえて、明るく清潔にしておくのよ。それでジジババ大切にしてれば、繁盛間違いなしなんだから」
「はいはい、心掛けます」
「奥様は、お元気?」
「うん、そんなみたい」
「お子さんはまだなの?」
「まだ、っていうか、いらないんだ」
昌子と再婚したとき、亘は、子供はほしくない、といった。昌子は理由もきかずにうなずいた。
「つくっておけばいいのに」
とママはいった。そこへ安藤が入ってきた。スーツを着ている。
「おでかけだったの?」
とママがたずねた。
「うん、ちょっと人にあってた」
「へえ、長い髪の人?」
ママの言葉に、亘は顔色を変えた。亘に隠れて、安藤が直美とあっていたのかと思ったのだ。
「禿《は》げ頭だよ。仕事、仕事」
安藤はそうこたえてから、久しぶりだな、と亘を眺め回した。
「老けたと思ってるんだろう? おれ、白髪が増えたから」
「闘争心がなくなったからだよ。安穏と暮らしてるんだろう。おれなんかみてみろよ。苦労だらけで、老けてる暇もない」
そういう安藤も、昔の面影はなくなって、腹の出た体形などは亘よりひどかった。
「リリスが再婚したの、知ってたか?」
安藤は、おしぼりをつかいながら、そういった。
「ええっ! 本当か?」
直美が再婚をしていても、ちっとも不思議ではないのに、亘はその可能性を考えてもいなかった。いつ、ときくと、安藤は、
「もう三年も前だってさ。誰だと思う? 再婚の相手」
とじらすようにいった。
「おれの知ってるやつ?」
「おれたちの知ってるやつ」
安藤の目が光っている。亘は急に不安になった。
「いえよ。誰さ」
「合田」
「ええっ! 合田って、あの合田? 本当か?」
安藤はうなずいている。亘はあっけにとられて、先日みたばかりの、若い女と見間違った直美の後ろ姿と、学生時代のくそ真面目にしかみえなかった合田の姿を並べてみた。
合田は、安藤とはまた違った意味で、目立った男だった。専門課程へ進んでから卒業するまで、合田はいつでも一番だったのだ。
「なにかの間違いじゃないか。そんなはずはないもの」
と亘が疑わしそうにいうと、
「そう思うだろ。ところが本当なんだ。大岩が、あいつの家であってきたっていうんだから」
と安藤は、怒っているのか面白がっているのか、どちらともとれるような口調でいった。大岩というのも医学部の同期なのだが、亘は卒業以来あったことがなく、安藤が彼と付き合っていたことも知らなかった。
「大岩は、たまたま合田の家へ行ったんだってさ。まさかリリスがいるなんて思いもしないから、びっくりしたっていってたよ。あの合田とだからな。驚いて当然だよな。──おまえんちの近くだろ、合田の病院。おまえ、本当になにも知らなかったの?」
「知らないよ。近くったって、合田のところは大田区だもの。医師会も違うし、あったことなんかないよ」
合田の病院は環七沿いにあって、距離だけをいえば、亘の家からは大森山王坂をおりるとすぐなのである。『岸本病院』といって、合田はそこの婿になったのだ。
「でも、おれ、この前おまえから電話のあった日な、彼女をみかけてるんだよ、本門寺で。だからその話は、もしかしたら本当かもしれない」
と亘がいうと、
「本当なんだよ、それはもう。大岩が実際みてきた話なんだから」
と安藤はあきれたようにいった。
大岩はその日、九州の実家へ帰る奥さんを送って、羽田へ行ったのだそうだ。大岩の家は常盤台だから、帰りはのんびりと環七を走っていこうと思って、第一京浜へ出たのだという。そしてふと、合田の病院が環七沿いにあったことを思い出した。
合田の病院の看板は、大森春日橋を越えるとすぐにみえてきた。その手前でガソリンスタンドが営業していたから、大岩は、ガソリンの補給でもするか、と車をスタンドにつけたのだそうだ。若い店員が給油をしている間、大岩は歩道へ出て、その病院のたたずまいをみていた。看護婦が、胸に買い物の包みを抱えて小走りに病院に入っていく。大岩は突然、合田の所在をたずねてみる気になったそうだ。
「二、三分いいかなあ、車」
ときくと、車を拭《ふ》いていた店員が、いぶかしそうな顔をあげた。
「ちょっと、そこの病院へ行ってきたいんだ。きいてくるだけだから、二、三分ですむんだけど」
「いいすよ」
すいているガソリンスタンドに車を預けたまま、大岩は、日曜で外来は休みのひっそりと薄暗い病院に入っていった。カーテンの下がった受付けの前に佇んでいると、看護婦が階段をおりてきた。
「合田……じゃなくて、岸本先生はいるかしら。大学で一緒だった大岩という者ですが」
「今日は自宅なんですけど、お電話してみましょうか?」
「いや、それならいいです。別に用があるわけじゃないから」
「でも、すぐそこなんです、おうち」
「そう……。じゃあ、そうしてもらおうかなあ」
電話に出た合田は非常に喜んで、ぜひ寄っていけ、と大岩をひきとめた。
「奥さん留守なのなら、夕飯食べてけよ。久しぶりじゃないか。初めてだろう? 卒業してから」
と合田にいわれて、大岩は病院の裏手に建つ、岸本の屋敷に車を向けた。
表通りを曲がると、門の前に女の立っているのがみえた。近づいたとき、大岩は仰天したそうだ。そんなところに直美がいるということは、その日はなにか特別なことでもあるのかと、急いであれこれ考えをめぐらしたそうだ。
「へえ、あなたも来てたの? 奇遇だなあ、こんなところで。今日は同窓会かなにかあるわけ?」
といったら、直美は、
「わたしは毎日ここで同窓会なのよ」
と笑ったそうだ。大岩は直美のいった意味がわからなかったが、曖昧に笑ってごまかし、直美の指示した場所に車をとめた。広い庭をみながら、直美について歩いていくと、玄関に合田と年とった婦人が二人立っていて、合田が手をあげて歩みよってきた。
「しばらく!」
と合田がその手を出した。
「しばらく! 何年ぶりだろう。元気そうだなあ……」
と大岩は合田の手を握り、玄関の老婦人にどう挨拶したものかと目を向けた。合田はすかさず、
「こっちは岸本の母。こっちがおれの」
と二人の婦人を紹介し、
「こっちは知ってるよね。でも、今は岸本直美だけど」
と直美をみていった。大岩はつられてうなずきはしたものの、合田のいった意味が理解できずに、慌ててきき直した。
「誰も知らないことなのよ」
と直美が笑った。大岩が戸惑った表情を浮かべると、合田は岸本の母という人をみやりながら、
「直美は二番目の妻。つまりおれたちは夫婦養子ということ」
といって微笑したそうだ。大岩はそのとき初めて、合田の先妻が亡くなったことを知ったのだという。
「それから部屋へ通されると、今度は車椅子の女の子が挨拶にきたんだって。娘だっていわれて、大岩は絶句したそうだ。あいつはなんにも知らなかったんだな。リリスはけろっとして、『もうじき十三になるのよ』といったってよ。大岩の野郎、遅すぎるからどうしようかと思ったけど、あんまり驚いたんで電話したとかいって、電話のきたのは十二時過ぎだぜ。でも、まあ、おれだって驚いたよ。岸本の娘の死んだことくらいは知ってたけど、合田とリリスが再婚したなんて、誰からもきいてなかったもんなあ」
安藤の話は、亘の度胆も抜いた。直美が合田と一緒になったのも驚きだったが、三年も前から、直美がそんなに近くに住んでいたことが、信じられないのだった。
「この前みかけたときは、あんまり若かったんで、違うかなと思ったんだけど……。それに昌子も一緒だったから、声もかけられなかったし……」
というと、
「若いんだって。学生時代とちっとも変わってないってさ」
と安藤はいった。
「そうか……、じゃあ、あれはやっぱり直美だったんだ。──でも、変だよな。直美がなんでそんなところへわざわざいったのかなあ。針の莚《むしろ》だろ、そんなとこ。姑が二人いるだけだってさ……。それでも、あの合田と一緒になったっていうの? 本当かなあ。おれは信じられないけどなあ。──学生の頃から親しかったんだろうか、あの二人は」
「それはないと思うけど……。親しくなったとしたら、おまえと別れてからだろうな」
合田は在学中ただ一人、ずっと特待生だったのだが、もう一つの理由で、亘たちとは全く違っていた。それは合田が、決して誰とも遊ばなかったことである。亘は誘ったこともなかったが、なんとなく付合いの悪いやつと敬遠していて、そのわけを知ってからは、今度はなにか照れくさくて、やはりそばへも寄らずに学生時代を過ごしてしまった。
合田の父は、どこだかの田舎で医者をしていたのだが、中学校の校医も兼ねていて、その中学の数学の先生の親を診察に行った帰り、事故を起こして死んだのだ。カーブを曲がり損ねた車は対向車にぶつかり、その車の運転者は頭を強く打って、植物人間になった。合田の父は往診先で酒を飲んでいて、アルコールが残っていたから、全面過失になったという。その田舎では、往診に行けば酒の出るのが普通で、合田の父も、いつもなら、車をおいて歩いて帰ってきたのだそうだ。
車は保険に入っていたが、その頃の賠償保険金額はまだ設定の少なかった頃だから、それほど多額のものではなく、いつまで生きるかわからない植物人間の補償をするには足りなかったのだ。合田は一人息子で、学校の成績は抜群によかったのだが、財産を整理して親戚の家へ移ってからは、高校を出たら働こうと思っていたそうだ、するとその数学の先生が申し訳ながって、銀行から金を借り、合田を大学へ入れてくれたのだという。合田は、だから、どんなことをしてでも医者にならなければいけなかったわけだ。
合田というと、勉強ばかりしていて、付合いの悪いやつ、という印象しか亘は持っていなかったが、合田は、そのずばぬけた成績と真面目さを買われて、環七沿いで大きな病院を経営していた岸本家の一人娘と婚約した。やはり婿養子だったとかいう院長の岸本が亘たちの先輩で、娘の婿を教授に依頼していたという噂だった。教授の推薦で婿になったやつ、と口の悪い仲間内では、やっかみ半分軽蔑もこめて、しばらくはもっぱらの噂になっていた。
合田は岸本のほうの希望で、卒業するとすぐに大学院へ進み、そのうち進路がそれぞれ別になると、消息もきかなくなった。次に亘が、合田はどうしたかな、と思ったのは、合田の妻になっていた岸本病院の一人娘が自殺をし、病院の薬品管理の杜撰《ずさん》さ云々という記事が新聞に出たときだった。たまたま安藤と飲んだときに、
「娘を病気にしてしまって、それを苦に自殺したらしいよ」
と安藤が話題にしたことがあった。
「そういうとき、婿の立場はどうなるのかなあ」
と亘が興味をもってきくと、
「うん、養子縁組はしてたわけだからさ、解消してなければ、そのまま権利は残るんじゃないの? おやじさんも婿だっていってたから、どうなんだろう、微妙なのかなあ」
などといいあった記憶はある。
「じゃあ、合田はあのとき、あのうちを出なかったんだね」
と亘は思い出したようにいった。
「嫁さんが死んでから、今度は半年もたたずにおやじさんが死んだっていうからね。病院のことがあるんで、岸本のおっかさんが合田を離さなかったらしいよ」
「岸本の娘と合田は、うまくいってたんだろうか」
「さあな。合田はああいうやつだからさ、好きとか嫌いとかなんて、あんまり考えないと思うんだよな。でも、娘のほうはどうなんだろう。馬あてがわれただけみたいなものだから……」
「金持ちの我儘娘だったんだろうしな」
「と思うよ。それまで威張ってた我儘娘が、自分の娘病気にしたら、悲観するよな。娘は死ぬわ、病院は検査が入るわで、院長も大変だったんだろうね、半年で死ぬくらいだから」
「合田にしたら、よかったわけだ」
「そうだよな。結局リリスまでいったんだから」
「なんでそんなとこいったのかなあ。おれなんか絶対信じられないけど」
「合田のおっかさんが同居するようになったのは、リリスの希望だったそうだよ」
「へえ! わざわざ自分で面倒買ってるの? どういうことなんだろ」
「リリスって、そういうとこあるよ。けっこう面倒が好きだもの。わざわざ面倒にするの、好きなんじゃないかなあ。──からまった糸みると、ちょんぎって捨てるか、いつまでもほぐしてるか、どっちかだったものな」
安藤のその言葉は、亘を驚かせた。亘は直美のそんな性格に、一度も触れたことがないのだった。
「よく知ってるな。おれなんか、一緒に暮らしてて、そんな性格があるなんて、気がつきもしなかった。おまえ、直美と怪しかったんじゃないの」
と長い間いいたくていえなかったことが、思わず亘の口をついて出た。
「怪しいほどの付合いなんか、あるわけないじゃないか」
と安藤は笑った。
「でもなんだか、合田と結婚したのも、やいてるみたいにきこえるぞ」
というと、
「馬鹿。おまえに知らせてやろうと思って、わざわざ出向いてきたんだ」
と安藤は怒った。
「まあ、いいよ。でも、なんかおまえは、おれが彼女と結婚しててもなんともなくて、合田と結婚したとなると、気にしてるみたいにとれるんだよな。おれはそれほど軽くみられていたのかと、少し気になる……」
「じゃあ、黙ってればよかったのか?」
安藤はいやな顔をして、そういった。気まずい雰囲気になって、亘がグラスに氷を入れようとすると、氷まで入り損ねて、テーブルの上を滑っていった。二人はしばらく黙って氷の行方を目で追った。それから亘は、
「おまえ、女がい過ぎたからな」
とぽつんといった。
「え?」
と安藤は不審そうな目をあげた。
「あんなにいつも周りに女をおいてたら、直美でなくてもいやがるよ。直美なんか、ことにプライド高いもの」
というと
「女なんか、一人もいなかったよ。恋人って意味だけど……。そうみえたとすれば、みせかけてたのかな。だいたい女は、どれもおれから離れていったよ」
と安藤はむきになっていった。
「どっちにしたって、おまえは天国へは行けないよ」
「なんで?」
罪が深いからさ、と亘がいうと、安藤は声をのんで笑った。そして、
「リリスは幸せなんだろうか? なんだかボランティアみたいな気がするんだけど……。身体もあんまり丈夫ではなかったのに」
と心配そうにいった。
「大丈夫だよ。直美は自分でできないことは、絶対選んだりしないもの。──それに、あそこの家なら、手伝いだの付き添いだのがいっぱいいるだろうからさ。直美は管理してればいいだけなんじゃないの」
「心配はないか」
「ないよ」
「大岩って、ふざけた野郎だな。おまえがリリスと結婚してたこと、忘れてたぞ。おれにいわれてやっと思い出してた」
「おれって目立たなかったんだ」
「おまえ、特徴ないもんな。合田みたいに優等生とか、なんか特徴がないとなあ」
「おまえみたいに遊び人とか、な」
「遊び人が一番天国に近いんだから」
「どうして?」
「年中、悔い改めてばっかりいるからさ」
と安藤はすましていった。
「なにを悔い改めてるって?」
とママがカウンターの中からいった。
「診断と治療が正確だったかどうかだよ」
安藤がそういうと、ママは笑って、
「殺し屋にはならないでよ。葬儀屋と結託されてたんじゃ、医者なんか行けやしない」
といった。
「おばちゃん、氷ないよ」
と安藤はアイスペールを叩いて叫んだ。
「もう終わりにしなさいよ。そろそろお店しめないと、こっちは骨がぎしぎしいって、立っていられないのよ、もう」
ママはそういって断った。リリスのことは終わったのだ、と亘も思った。突然舞い込んできた火の鳥と暮らして、疑念を払いのけるためのようだった喧嘩を続けて、お互いがたぶん相手の傷とプライドを思いやって、別れたのかもしれなかった。学生のころのぼっちゃんじみた顔に、年輪の出始めた安藤の横顔を盗み見しながら、亘はそう思ってグラスを口に運んだ。
「今日は亘が送ってくからね」
と安藤がいった。学生のころ、ここで安藤と飲んでは、──その勘定はどうなっていたのだろう。亘は一度も払った覚えがなかった──そのまま安藤の家に転がり込み、翌朝は安藤の家から大学へいった。ママもまだ若くて、もしかしたら、安藤の父の恋人だったのかもしれない。
安藤とあってから、亘はなんだか無口になった。
「安藤さんのお話は、心配事でした?」
と昌子にいわれたほどだった。そんなふうに昌子が亘に関心を示したのは、珍しいことだった。
「なんで? そんなことはないよ」
「だってあれから、なんだかいつでも考え事してるみたいだから。難しい顔して」
昌子はそういったが、亘はむしろ、そんなことをいう昌子のほうに興味を持った。亘が安藤とあったのを契機に、昌子のほうこそ変わったのではないか。昌子がそんなふうにはっきりとものをいうのは、それまでにはなかったことだった。
日曜がきて、亘が本門寺へ行こうかと昌子を誘うと、昌子は、
「本門寺? 桜が終わればなんにもないところですよ。なにしに行くんです?」
と咎《とが》めるようにいった。
「いやならいいんだけど……」
というと、
「いやとはいってないわ。お団子でも食べて、甘酒飲んできますから」
と昌子はつっかかるようにいった。亘はちょっとむっとしたが、黙って車を出し、昌子の乗り込んでくるのを待っていた。勝手に一人ででかければいいのに、それとなく岸本家の墓を探したい気持ちが、昌子に対して後ろめたくて、つい誘ってしまうのだ。
亘は、直美が本門寺に来たのは、先妻の墓参りだったのではないか、と思っていた。亘が直美をみかけた日は、おそらく命日だったのではないかと思い、その日に行けば、また直美にあえるような気がしていた。その日が日曜にあたるのは、まだ先のことなのだが、その前に亘は、墓の所在を確かめておきたかった。
昌子は、亘が熱心に本門寺の墓地を歩くのを、最初はただの散歩かと思ったらしいが、次の日曜になると、本門寺へ行くよ、とまた亘がいうものだから、変な顔をした。
「またですか。おかしな人ね。お墓ばっかり」
「別に来なくていいんだよ。おれは行く、といってるだけなんだから」
「わたしだって別に構わないわ、お墓だって、どこだって……」
昔は昌子は、亘のやることに、なぜときいたことなどなかったものだ。でかけるよ、といえば、そうですか、といい、やめた、といえば、はい、といった。それも気詰まりで、少し遠慮が過ぎるのでは、と面白くなく思ったこともあったが、正面きってからまれるのは、やはり面白くないものだった。次回は黙ってひとりででかけよう、と思っていたら、
「今度の日曜は、また本門寺ですか?」
と昌子のほうから先にいわれた。図星をさされて鼻白みながら、どうして、と亘がとぼけると、
「行きたいんでしょう? どなたかのお墓、探してらっしゃるんじゃないの?」
と昌子はいった。
「まさか、お墓なんて。牡丹灯籠じゃないんだから」
と亘は苦笑してごまかしたが、いつのまに昌子の勘がそんなに鋭くなったのだろう、と驚いた。あまり会話もせずに暮らした八年の間に、黙って亘を観察していたのかと思うと、不気味になった。それは、亘にも悟らせずに、黙って離婚を考えていた直美と、大して変わらないことのようである。女は有史以前から怖かったのだ、といった安藤の言葉が、亘の脳裏に浮かんできた。
その日曜がきたとき、亘は昌子のせいにして本門寺へでかけた。牡丹灯籠のお墓を探しにいくよ、というと、昌子はついてきた。
「本当は、どなたのお墓、探してらっしゃるの?」
「誰のでもないよ。こんなところで死ぬような親戚、いないじゃないか。ただみてるだけだけどさ、どういう有名人のお墓があるかって……」
昌子は頭から疑ってかかっているのか、にやにやしていた。直美のことをどの程度まで知っているのか、亘はふときいてみたい気がして、足をとめた。
「なあに?」
と昌子も足をとめると、亘を見上げていった。
「ああ、いや……」
「お墓があったの?」
亘がためらったのをみて、昌子はそういいながら、近くの墓石をのぞいた。
「甘酒でも飲む?」
と亘がいうと、
「えっ? 珍しい。──どうしたの? 今日は優しいわね」
と昌子は不思議そうにいった。簡単には騙されない女になっているようだった。
「いつもだって、優しいつもりだけど」
「だって、いつもは、甘酒なんかいやがってたでしょう」
「そりゃ、甘くない酒のほうがいいけどさ、運転するんだから、そうはいかないじゃないか」
「まあ、いいわ。じゃあ、ご馳走になりましょう」
昌子は笑って、そんなふうに素直でない言い方をした。それでも目には、嬉しそうな色が浮かんでいた。
その夜、亘がテレビをみていると、
「野球みるのに、難しい顔してみるのねえ」
と昌子はいった。
「いやに最近は、観察してくれるんだね」
というと、
「ええ、やっと余裕ができましたからね」
とこたえた。
「余裕か。──あんたはほんとは、子供がほしかったんじゃないの?」
そう訊ねてから、そんなことを考えてみたこともなかったのに、と亘は自分で驚いた。
「子供? いえ、そうでもないわ。前はそう思ったこともあったけど、子供なんかつくっても、面倒なだけでしょう? 五体満足で生まれてくるとも限らないし、丈夫に育てても、まっすぐ育つとも限らないし、いないほうが、面倒がなくていいじゃないんですか」
昌子はためらいもせず、いやにはっきりとそうこたえた。亘は一瞬、昌子が安藤から全てをきいているのではないか、と疑ったほどだった。車椅子を押している直美の姿が、昌子の姿に重なってみえた。
「あなたは、ほしいんですか?」
と昌子は逆にきいてきた。
「いや、そんなことはないけど。──そういったでしょ、前に」
本当は、昌子がほしいといったら、考えようかと思っていた亘だったが、昌子につられてそうこたえた。昌子はまた無表情の昔の顔に戻ると、黙り込んでレース編みに目を落とした。そうしてもらっているほうが、亘は奇妙に落ち着いた。昌子とは、併立して暮らすほうがいいのだった。
七月になると、亘が直美をみかけた日が、また日曜に重なった。あいにくその日は朝から雨で、亘が出そびれているうちに、夕方になってしまった。
「今日はおでかけの予定だったんでしょうに、残念でした」
と昌子がいった。そんな予定はなかったけど、というと、
「そうですかあ。朝からそわそわしてらしたわよお」
と昌子はなぶるようにいった。昔の鈍感な昌子のほうがずっとよかった。あまり関心を持たれるのも、居心地の悪いものである。
「朝から雨で、退屈してたから、そうみえたんだろ。でかける予定なんかなかったよ」
というと、
「前のように、黙ってでかけたらいいんですよ。最近は、わたしに気をつかうのね」
と昌子は静かにいった。その言葉は、亘の胸に突きささった。いつのまに立場が逆転したのか、亘のほうが、昌子の掌の範囲で動いているような気がした。
「やめなさいよ。そういう、なにからなにまで見通しのような言い方をするのは……」
というと、昌子は黙った。
「怒ってるわけじゃないけどさ。なにもないんだよ、そんな当て推量をされるようなことは。昔のほうがよかったな。無関心でいてくれて……、そのほうが、かわいかった」
「あなただって、そうだわ。最近は、なんだかみえみえで……」
「なにがどうみえみえなの? それに、昔はみえみえでも、黙ってたじゃないか」
「昔はなんにもみえなかったんですもの」
亘は思わず声を出して笑った。みえないほうがいいもんだね、というと、昌子も笑ってうなずいた。
その年の七月は雨が多くて、夏がどこへ行ったのかと思うほど肌寒かったが、八月になると途端に暑くなり、九月になっても毎日暑い日が続いた。診察室では、身体の変調を訴える老人が多く、亘も昌子も、同じような台詞を患者にいい続けていた。
「そうねえ、夏ばてを二回やったようなものだからね、身体が参ってるのよ。みんなそうだから、心配するほどのことはありませんけどね。やっぱりねえ、しんどいわねえ。お薬はちゃんと飲んでくださいね……。早く治さないと、体力がなおさら落ちますからね。
じゃあ、次は明後日。お大事にね」
九月の異常な暑さの合間に、何回か台風がきた。敬老の日の朝も、亘はなにか騒いでいる昌子の声に目を覚まされた。なにを騒いでいるのだろうと、亘がパジャマのままで声のする庭先へ出てみると、
「ほら、看板が吹き飛んできたんですよ。薬局のだわね、栄養剤のだから」
と昌子が興奮しているようにいった。鉢植えが幾つか転がり、どこから吹き寄せてきたのか、灌木の根元にごみが吹き溜っていた。
「すごいねえ」
「すごいでしょう。──やっぱり知らせてあげるべきかしら」
「看板? そんなのもういらないよ……。それに、どこのかわかんないじゃないか」
「どっちかのお薬屋さんよ。両方きいてみないとわからないけど。黙って捨てるのは悪いでしょう、やっぱり」
「いいと思うよ」
「こっちで捨てるより、向こうで捨ててもらったほうがね」
「ご苦労な話だね、朝早くから」
「ほんと。現代の野分の後の朝は、趣がないわ」
昌子は偉そうにそういった。
「野分の後、か……」
と亘は呟いた。昌子は、その年の四月から、診療が休みの木曜の午後に、源氏物語だかなんだかの講義をききに、カルチャーセンターへ行っていた。亘は煙草をとりに部屋にいきながら、昌子が活発になっていったのは、その後からだったような気がしてきた。そしてふと、昌子は国文科出だったかな、と思い、どこの大学を出たのだったかも覚えていないことに気がついた。
「すぐご飯にしますから」
と、亘の後を追って部屋に入ってきた昌子が、興奮の残る高い声でいった。
「いいよ、まだ腹減ってないから」
そうですか、といいながら、昌子は嬉しそうにみえた。
朝食が終わるころには、空は晴れ上がり、また暑くなりそうな気配がした。
「台風一過だわねえ」
と昌子が感嘆したようにいった。
「今日はでかけるよ」
と亘がいうと、
「どこですか?」
と昌子はきいた。
「ゴルフ」
亘は嘘をいった。でかけるときに昌子は、
「春日橋?」
ときいた。春日橋に小さなゴルフの練習場があるのを、いつのまに昌子は知ったのだろうと、亘は驚いた。
「すいてればね。混んでたらほかへ行く」
亘はまた嘘をいった。そして池上通りへ車を出すと、まっすぐ本門寺へ走らせた。最初からそのつもりなのだった。亘は昌子に気をつかわずに、あてどもなく、心ゆくまで墓地をうろついてみたかった。
本堂の前の石畳を墓地のほうへ曲がると、すぐに道が二股にわかれる。どっちへ先に行こうかな、と亘は立ち止まって考えた。もう秋になるというのに、日差しはけっこう強くて、樹木が道にくっきりと影を落としている。亘が歩きだそうとしたとき、背後で女の話す声がした。振り返った亘は、慌ててそばの墓石に身を隠してしまった。亘のほうをみたようだった直美が、気がついていなければいいけど、と思っていた。
直美は年配の女性と話し込みながら、車椅子を押してくる。亘には気がつかなかったのか、何事もないように通り抜けていく。車椅子の少女が、しきりと直美のほうへ顔を仰向けていた。
「冷凍庫、タンバリン。冷凍庫、タンバリン」
少女は直美のほうへ腕をのばそうとしながら、そういっていた。
直美たちが通り過ぎるころに、亘が墓石のかげからちょっと顔を出すと、のけぞった少女の顔が、瞬間亘をみたように静止した。
直美は白いパンタロンをはいて、少年のように髪を短く刈り上げていた。ボランティアのつもりかな、と安藤はいったが、直美の様子からは、そんな感じはみえなかった。年配の婦人に気をつかっているようにもみえず、自然に無理なく暮らしているのがよくわかるようだった。それは確かに、リリスのいるべき場所だった。
後で亘は、少女もひとりで歩いていたような気がしてきた。リリスが魔法でもつかったのか、何事もない三人連れが、ごく普通に散歩を楽しんでいたように思えたのだ。
三人が『力道山の墓』と表示のあるほうへ曲がるのを待ってから、亘は墓石のかげから姿をあらわし、直美の後ろ姿に目をこらした。短い髪から出ている首筋が、初めてみる人のようだった。
車椅子が桜の木の下に入ると、木洩れ日が、直美の背中に揺れる模様をつくりだした。白いブラウスの背中で、影が光をいちだんと強く、明るくみせている。
「冷凍庫、タンバリン、か」
亘はそう呟きながら、やっとリリスの長い髪から解放されたような気がしてきた。
初 出 ネコババのいる町で(「文學界」平成元年十一月号)
神の落とし子(「文學界」平成二年三月号)
リリスの長い髪(書下し)
単行本 平成二年三月文藝春秋刊
〈底 本〉文春文庫 平成五年三月十日刊