里見八犬伝 巻四

目次

第七巻 孝・野戦攻城の巻
第百三十四回 潮路(しおじ)はるか…苛子(いらこ)の将、隣尾伊近(となのおこれちか)
第百三十五回 花の御所(ごしょ)…八犬士、勅許(ちょっきょ)をうける
第百三十六回 徳は孤ならず……紀二六(きじろく)の忠節
第百三十七回 もち商人(あきんど)……徳用(とくよう)のざん言
第百三十八回 餅書(べいしょ)と酒書……親兵衛と紀二六(きじろく)の密書
第百三十九回 京都(みやこ)の五虎(こ)……親兵衛の武芸
第百四十回 もうしひらき…政元(まさもと)のこころ
第百四十一回 無瞳子(ひとみなし)のトラ…巨勢金岡(こせのかなおか) の絵
第百四十二回 名画をうる……絵師巽風(そんぷう)
第百四十三回 画中から出た妖虎(ようこ)…巽風の首
第百四十四回 トラ退治……直道の狼藉
第百四十五回 わるだくみ……雪吹姫(ふぶきひめ)の誘拐
第百四十六回 姫神伝授(ひめがみでんじゅ)の神薬(しんやく)……紀二六(きじろく)らのはたらき
第百四十七回 関所やぶり……親兵衛、脱出する
第百四十八回 同輩対座(どうはいたいざ)……政元とのわかれ
第百四十九回 勅賞(ちょくしょう)を辞す……親兵衛のこころざし
第百五十回 一日千秋のおもい……親兵衛をまつ義実(よしざね)
第百五十一回 水陸の調練……扇谷定正(おうぎがやつさだまさ)の討手
第百五十二回 間諜(しのび)の報告……定正のうごき
第百五十三回 風火のはかりごと……毛野(けの)の軍略
第百五十四回 いくさ占い…妙術(みょうじゅつ)、風外道人(ふうがいどうじん)
第百五十五回 秘密の使い……敵地にひそむ音音(おとね)ら
第百五十六回 糾明(きゅうめい)……千代丸豊俊(ちよまるとよとし)の真情
第百五十七回 全軍集結……義成(よしなり)の下知(げち)
第百五十八回 暗躍する間諜(しのび)……百中(ひゃくちゅう) 風外道人の正体
第百五十九回 管領(かんれい)の大軍……助友(すけとも)の進言
第百六十回 二枝(ふたえ)の花……信隆(のぶたか)の真意
第百六十一回 人魚の膏油(あぶら)……重時(しげとき)ら、水中をいく

第八巻 悌・盛花爛漫の巻
第百六十二回 船上の旗の緒(お)を射(い)る…荘助の弓技
第百六十三回 とびたつ群れ鳥……将衡(まさひら)の 夜襲
第百六十四回 うらぎり……自胤(よりたね)をやぶる
第百六十五回 駢馬三連車(へいばさんれんしゃ)……顕定(あきさだ)の戦車(いくさぐるま)
第百六十六回 勝敗のゆくえ……かけつける親兵衛
第百六十七回 馬上の戦い……親兵衛、五知己(ちき)にあう
第百六十八回 霊猪(れいちょ)の神力(しんりき)……信乃(しの)、房八のうらみをはらす
第百六十九回 松かげの談……信乃、君命をつたえる
第百七十回 敵をすくう……現八がひろった浮死骸(うきしがい)
第百七十一回 ふるい誤解をとく……とらわれた成氏(なりうじ)
第百七十二回 船をやく……音音(おとね)の奮戦
第百七十三回 水上のかけひき……大角がかりた戦船(いくさぶね)
第百七十四回 水戦(みないくさ)……軍師犬坂毛野(いぬさかけの)
第百七十五回 死骸をひきあげる……南弥六(なみろく)の霊
第百七十六回 禍福(かふく)反復……大角入城
第百七十七回 五十子(いさらご)落城……人質(ひとじち)妙真らのはたらき
第百七十八回 凱旋……仁君義成(よしなり)
第百七十九回上 東西和睦(わぼく)……かえってきた照文
第百七十九回中 詔勅(みことのり)……里見家の任官
第百七十九回下 村雨献上(むらさめけんじょう)……信乃、遺訓をはたす
第百八十回上 賛歌……信乃の霊夢
第百八十回中 論功行賞……八犬士、城主となる
第百八十回下 千秋万春……八犬士の結婚
第百八十勝回上 狐竜(こりゅう)の化石……政木(まさき)ギツネの末路
第百八十勝回中 消えた文字……丶大(ちゅだい)が彫った仏たち
第百八十勝回下 大団円…犬士、地仙(ちせん)となる

解説

第七巻 孝・野戦攻城の巻

第百三十四回 潮路(しおじ)はるか…苛子(いらこ)の将、隣尾伊近(となのおこれちか)

波の上にうかびでた代四郎は、ぬすまれた金箱(かなばこ)と、親兵衛(しんべえ)の大小の刀をもっている。親兵衛は、代四郎に感謝して、
「それにしても、毒にあてられた従者(ともびと)と水夫(かこ)らはどうしているか。船にまいろう」という。
代四郎は小舟をこいで親船につけ、金箱、頭領(かしら)の首などをうつした。従者、水夫らはたおれたままだ。親兵衛のうちたおした盗人(ぬすっと)どもが、くるしんでいる。
親兵衛はまもり袋を額(ひたい)におしあてて念じ、たおれているみかたの胸をなでてまわった。
従者らは吐(は)きつくしてすがすがしくなり、われにかえった。盗人らも息をふきかえし、頭領の首を見ておどろいた。この盗人どもをしばりあげ、船柱(ふなばしら)につないだ。それから問いただすと、今純友査勘太(いますみともさかんた)は、小盗人五、六十人をしたがえて、ひそかに陸にあがり、蜑崎(あまざき)十一郎照文(じゅういちろうてるふみ)をおびきだした、という。
親兵衛はおどろき、
「賊が、蜑崎おじらのゆくてにいるのに、そのことを蜑崎おじは知らない。どうする?」というと、代四郎はこれにこたえて、親兵衛とわかれてからのことをかたった。
奥郡(おくこおり)の家臣と称したのは、海賊の頭領、今純友査勘太の手下で、鋸鮫五鬼五郎(のこぎりざめごきごろう)という小頭領だ。したがうもの四、五人も、小盗人だ。照文も代四郎も、すこしも知らずに三十町ばかりきた。そこは木だちの深い山だ。水夫の一人が、これは道がちがう、といいだした。五鬼五郎はあざわらって、近道はこっちだ、という。
さらにいくと、五、六十人のものがあらわれ、それをさしずする今純友査勘太が、照文らに、路用のものといのちをおいていけ、とさけび、手下のものがどっとかかった。照文らは、刀をぬいて手下どもをきりはらい、たちまち乱戦となった。
そこへ、二、三百人の武者がおしよせてきた。この総大将は卯(う)の花縅(はなおどし)の鎧(よろい)ひたたれに、竜頭(たつがしら)の兜(かぶと)の緒(お)をしめ、鷲羽(わしのは)の矢を二十四本さしてせおい、重藤(しげどう)の弓を左手に脇ばさみ、黄金(こがね)づくりの太刀に虎皮(とらがわ)の尻鞘(しりざや)をかけ、聖柄(ひじりづか)の匕首(あいくち)をそえて、雲珠鞍(うずくら)をおいた桃花馬(つきげのうま)にのっている。ほかならぬ城主隣尾伊近(となおのこれちか)その人だ。
照文らも、伊近とともに海賊とたたかい、そのおおくをたおし、査勘太・五鬼五郎をとらえた。伊近は、五、六日まえから今純友らがこの蕃山(はやま)にしのびいったときき、城を出て山をとりかこんでいた、という。
代四郎は、海竜王(かいりゅうおう)らが謀略(ぼうりゃく)をもって船をおそおうとしていることをきき、苛子崎(いらこざき)(伊良湖岬)に走りもどった、というのである。
親兵衛はききおわると、
「きょうの危難は、海ではおじの助太刀、陸では伊近どのの捕手(とりて)との合体ですくわれた。これもわが伏姫神の冥助(めいじょ)であろう」と代四郎にいい、隣尾伊近のもとにはしらせた。親兵衛は、衣装をあらためて上陸した。そこへ隣尾判官伊近が、百余人の士卒を左右にしたがえ、馬をはやめてちかづいてきた。案内は、照文と代四郎である。親兵衛は判官のそばにいき、名のってから見参(げんざん)した。
伊近は床几(しょうぎ)に尻をかけ、
「安房の勇臣犬江どの、おもいがけない対面だ。そのほうらの武勇で、わが手のものがおおく労することもなく、水陸の巨盗老賊(きょとうろうぞく)その他をとらえることができた。ただ、蜑崎の従者、二十余人が手負いだ。予(よ)の手勢に医師(くすし)がくわわっているので、手当てをさせた。幸いどの傷も急所でないので、安心していい。もし逗留(とうりゅう)するなら、城内で治療するが……」ととうた。
親兵衛は、「旅をいそぎますので、手負いのものは船内で手当てをしましょう。きょうのいくさは蜑崎十一郎照文・姥雪代四郎与保(ともやす)らのはたらきで、わたしは小盗人を退治しただけです」とつつましくこたえた。
それから伊近は帰城し、隣尾の臣、田作岩四郎(たつくりいわしろう)という兵頭(ものがしら)が、手負いのものを雑兵五、六十人とともにはこんでくれた。
親兵衛は、伏姫伝授(でんじゅ)の神薬を、手負いのものの傷にふりかけ、布でかたくむすび、また薬を水にといてのませた。すると、たちまち快方にむかった。
親兵衛は、照文と代四郎に、
「代四郎おじは、ゆるしをえずに他郷に走ったことで、とがめがあるかもしれません。しかしきょう、水陸二つのところで武勇がありました。このことをわが伯父犬田と義兄弟犬山に知らせて、その罪のゆるしをこうたなら、恩免(おんめん)疑いがありません。それで、隣尾どのから船をかりうけてあります」といった。
代四郎はよろこぶばかりだ。照文・親兵衛が書簡を知るし、その使いを紀二六がつとめることになった。
ここで、安房へむかう紀二六の船と、京都にむかう親兵衛らの船はわかれた。八重(やえ)の潮路の青海原(あおうなばら)を風にまかせて走るが、ゆくてはなおはるかだ。

第百三十五回 花の御所(ごしょ)…八犬士、勅許(ちょっきょ)をうける

三日ほどで、紀二六(きじろく)の船は平郡(へぐり)の洲崎(すさき)についた。船をそのままにして、紀二六は滝田の城にはいり、七犬士に来意をつげ、照文・親兵衛の書簡をわたした。
小文吾らはそれを見て、代四郎(よしろう)のはたらきをよろこびあい、すぐさま音音(おとね)・妙真(みょうしん)をよび、そのむねをつげた。さらに、犬川荘助が老侯(おおとの)義実の近習(きんじゅう)小水門目(こみなとさかん)・東峰萌三(とうがねもえぞう)にも書簡をしめした。
近習二人はさっそく義実のところへ知らせにいき、もどってきて、犬川荘助に義実の心境をかたった。
荘助は犬士らに、
「老侯は三士の武功をおほめになり、代四郎の罪もこのたびの大功をもってつぐなわれた、とのおことばで、ゆるしを安房(あわ)どの(義成)にこうがよかろう、その使いは小文吾・道節、そして紀二六をともなうよう、予(よ)もまた使いをもって安房どのに話すことがある、とのおおせでした」という。犬士らは、
「いまにはじまらぬ老侯の慈恩(じおん)は、仏菩薩(ほとけぼさつ)にまさる」と声をそろえる。
つぎの日の明け方、道節・小文吾は出立(しゅったつ)のしたくをととのえ、紀二六をともなって稲村の城にむかった。稲村では、両家老辰相(ときすけ)・清澄(きよすみ)に対面し、照文・親兵衛の注進の書簡、そして直塚(ひたつか)紀二六をともなったわけをつげた。両家老も、三士の武功をほめたたえた。それよりさきに、近習小水門目によって、義実から義成への書状が、けさとどけられており、きょう七犬士からのうったえがあるはずだが、それには自分への斟酌(しんしゃく)は気にせず、よろしく沙汰するよう、とのことだった。
義成はいま親兵衛らの書簡で詳細を知り、
「まことに、姥雪(おばゆき)代四郎は、水陸の両所で倍のはたらきである」と感嘆した。そして、辰相・清澄から道節・小文吾につたえさせた。
「親兵衛・照文、ならびに姥雪代四郎の武功は比類がない。帰国ののちに、賞禄の沙汰をする。照文の若党直塚紀二六(ひたつかきじろく)が、今純友査勘太(いますみともさかんた)をとらえたことも賞すべきだ。奥郡(おくこおり)からの船には、道節らが応じるよう」とつげた。
道節らは、船頭らに二十五貫文(かんもん)をおくった。そして、ふたたび紀二六をのせて、稲村の港を出航。苛子崎(いらこざき)につき、そこから便船で、照文らを追って摂津国(せっつのくに)尼が崎についた。
いっぽう、犬江親兵衛・蜑崎(あまざき)照文らは、この秋八月の中旬に浪速(なにわ)にいたり、しばらく船にとどまった。代四郎が京都(みやこ)にさぐりに出た。
その話によるとこうだ。
東山どの(前将軍、義政)は、身をしりぞいても、その風流の奢侈(おごり)に、民の怨嗟(えんさ)の声がたかまっている。現(いまの)将軍義尚(よしひさ)は、弓馬はむろん、文学さえたしなみ、足利家の中興疑いない、との世評だ。義政の奢侈(しゃし)にくわえ、細川勝元(ほそかわかつもと)・山名宋全(やまなそうぜん)の兵乱が十一か年におよび、公家(くげ)・武家(ぶけ)ともおとろえて、京都はむかしの京都ではない。それゆえ朝廷(みかど)の御料が欠乏している。ねがいもうすなら勅許(ちょっきょ)は疑いない、という風聞だ。
親兵衛と照文は、代四郎の話をきき、
「それならば、ことは成就(じょうじゅ)するだろう。いま、管領(かんれい)でちからのあるものはだれだ」と親兵衛がとうた。
代四郎らは、
政元(まさもと)どのは、もとの管領細川勝元どのの子で、亡父の遺福によって、第一の権臣です。また畠山政長(はたけやままさなが)どのは勝元どのの女婿(むこ)で、応仁(おうにん)以来の兵乱で管領に補(ふ)されたものの、実力はない、とききます」とこたえた。
親兵衛はうなずき、
「そうか。それでは京都にいそごう」と、一千十数両の白銀(しろがね)と品物をおさめた七、八棹(さお)の長櫃(ながびつ)を、二十人ばかりの夫役(ぶえき)のものにかつがせて、その翌日、管領政元の屋敷に伺候(しこう)し、家令香西復六(こうさいまたろく)に来意をつげた。
そして、義成の呈書(たてまつりぶみ)と白銀五百両と品物を、目録とともにわたした。復六はそれをうけ、政元に披露(ひろう)して、親兵衛のもとにもどり、
「里見どののおん書、ならびに左京兆(さきょうちょう)(政元をいう)におくってこられた品々(しなじな)を披露いたしました。他日、将軍家に言上(ごんじょう)するので、宿でさがってまたれるように、とのことです。で、宿はどこですか?」ととう。
親兵衛は、まだ宿はとらずに船にいる、とこたえた。
復六は、それなら案内してやる、と木札をくれた。それから親兵衛・照文は、畠山政長の屋敷におもむき、来意をつげ、品物をおくった。
親兵衛らは、香西復六の紹介で、三条あたりに宿をさだめた。
つぎの朝、従者(ともびと)を浪速津の船にはしらせた。代四郎は、京都に用意の品物をはこびいれた。木札をかかげると、人びとは道をあけた。
管領左京大夫(だゆう)細川政元はつぎの日、室町の花の御所(ごしょ)に出仕(しゅっし)し、畠山政長に、里見の使者がきて、書を呈された、その文意はしかじか、とその書を見せ、ともに将軍義尚につげた。義尚は、東山どのにもうしあげ意向をきくように、とこたえた。で、義政の屋敷におもむき、そのむねをつたえた。義政はこれをゆるし、朝廷に奏上した。
やがて義尚に詔勅(みことのり)があって、宣旨(せんじ)がくだされた。


文明十五年(一四八三年)八月二十五日 宣旨。
前治部大輔(さきのじぶのだゆう)源義実朝臣外甥(とつおい)、安房守兼上総介(かずさのすけ)源義成朝臣家臣、犬江親兵衛仁(まさし)・犬塚信乃戌孝(もりたか)・犬山道節忠与(ただとも)・犬坂毛野胤智(たねとも)・犬川荘助義任(よしとう)・犬村大角礼儀(まさのり)・犬飼現八信道(のぶみち)・犬田小文吾悌順(やすより)、右八人の勇士、義成朝臣の乞(こ)い奉(たてまつ)るによって金碗氏(かなまりうじ)と為すべし。よって姓(かばね)を宿禰(すくね)と賜(たま)う。


このことが、藤原秋豊(ふじわらのあきとよ)から義尚に伝達された。
翌日、政元は、親兵衛と照文を屋敷にまねき、姓氏のこと、すでに勅許のご沙汰があり、あす、両営(室町・東山)に召される、とつげられた。
二十七日、親兵衛らは献上の品をかつがせて、代四郎以下の従者と花の御所にまかり出た。将軍義尚に対面する。遠くはなれた座である。ここで安房からの献上の目録が披露され、宣旨を親兵衛にたまわった。そして、「当今(とうこん)(後土御門(ごつちみかど)天皇)ならびに三宮(さんのみや)への貢物(みつぎもの)は、あす参内(さんだい)してたてまつるよう」と沙汰された。
翌日、親兵衛・照文は政元にしたがって参内し、すべての式がすんだ。
その帰路、管領家に帰国の暇(いとま)をこうと、政元はそれをゆるさない。なぜなのか。

第百三十六回 徳は孤ならず……紀二六(きじろく)の忠節

管領細川政元の家令(かれい)、香西復六(こうさいまたろく)は、蜑崎照文(あまざきてるふみ)とともに帰国の暇(いとま)をこいにまかりでた犬江親兵衛(いぬえしんべえ)に、
「犬江どの、あすご内意がある」という。
すべてがおわったはずだが、といぶかり、つぎの朝に、親兵衛はまた西陣(にしじん)の政元の屋敷におもむいた。
復六は、午(ひる)ちかくになると食膳(しょくぜん)をすすめた。
それから政元がたちもどったというので、政所(まんどころ)に案内された。政元は上座にすわり、左右に近習(きんじゅう)がつらなっていた。
政元は親兵衛らを間近にまねき、
「犬江親兵衛は、少年にして武芸勇力、関東の八か国に相手なし、と京都(みやこ)にもきこえている。当将軍家(足利義尚)も文武兼備のご盛徳(せいとく)、犬江の手並(てなみ)しかじか、と人のもうすのをおききになって、しからばその親兵衛をしばらくここにとめおき、予(よ)がひまなとき、その武芸をみよう。この儀をはからえ、とおおせなされた。御諚(ごじょう)は以上だ。それゆえ、蜑崎十一郎は、宣旨(せんじ)と御教書(みきょうしょ)をたずさえて東(あずま)にさがり、このおんむねを房州(ぼうしゅう)(義成)につたえるべし。親兵衛、このことはその身一つの面目(めんぼく)のみならず、里見の光をもますであろう」といった。
親兵衛は、それは伝聞のあやまりで、おおげさにつたえられただけのこと、と辞退したものの、ゆるされずにおわった。
旅篭(はたご)にもどると、親兵衛と照文は代四郎をよび、政元からつたえられた台命(たいめい)のおもむきを、しかじかとはなすと、代四郎は、
「それはこまったことです。といっても、親兵衛さんの武勇が京都にきこえたのは、《徳は孤(こ)ならず隣(となり)あり、のゆえからでしょう」という。
親兵衛はそれをおしとどめて、
「いや、わたしは素藤(もとふじ)征伐のほかに功はありません。将軍家にだれがつたえたのでしょう。近ごろ六角高頼(ろっかくたかより)がそむき、将軍家がみずから観音寺(かんのんじ)の城をせめるという。そんなときに、弓馬の技をごらんになるため、東の使いをとどめよ、とおおせられるのはこころえがたい。それにわたし一人を管領の屋敷に召して、従者はいっしょにつれてくるな、という。これは敵の降人か、罪ある武士の預人(あずけびと)に似ている。そうおもわれるでしょう」といった。
照文もその疑いをもった。代四郎は絶句する。
親兵衛は微笑をうかべて、
姥雪(おばゆき)おじよ。わたしはとどめられても、機会をうかがって道をひらくので、安心して安房へかえられるがいい。蜑崎さん。帰国の日には両主君にはむろんですが、義兄弟にも祖母(妙真)にもこのことをもうされ、わたしのかえる日をまってください、とおつたえねがいます」という。
そこへ、照文の若党があわただしくきた。照文は、
「なにか用か」ととうと、若党はひざまずいていう。
「さきに、苛子崎(いらこざき)から国もとへつかわされました、紀二六(きじろく)がもどりました」
「それは奇特だが、紀二六がきても、いまは役にたたない」と照文がつぶやくと、親兵衛は、
「いや、きょう紀二六がもどってきたのはなによりです。そのわけは、しかじか……」と密議をささやく。代四郎にもきかせた。
しばらくして、旅よそおいのまま、紀二六がしきいのきわに手をつき、
「おかわりございませんか。紀二六でございます」という。照文はそれをねぎらい、
「さっそくだが、まず両館(ふたやかた)のご安否(あんぴ)をうかがいたい。また話したいこともあるので、こちらにすすむがいい」といった。親兵衛・代四郎も、ともにいたわり、
「そのほうがきたのは、好都合だ。ここへ……」とさそう。
紀二六は座敷にはいり、姥雪代四郎のことは、里見義実・義成父子のいつくしみでとがめがなく、むしろ姥雪の水陸二か所の功に沙汰(さた)がある、とつげた。そして道節・小文吾ら犬士の返書をわたした。
代四郎は、主君の恩沢(おんたく)に感涙(かんるい)するばかりだ。
それから紀二六に、政元からの親兵衛への要請(ようせい)をきかせた。照文は、
「わたしも、京都にとどまることがのぞみだが、宣旨と御教書をささげて安房へたちかえり、両館に返命しなければならない。そのほうがきたことは幸いだ。そのほうが、わたしにかわってこの地にとどまり、宿を別にとり、商人(あきんど)などに姿をかえて、政元どのの屋敷に出入りするなら、手だてをもって、犬江さんとも連絡ができよう」といった。親兵衛は、
「このことは、わたしのことだが私ごとではない。両館への忠節は、あなたの主(あるじ)蜑崎どののこころざしでもあるので、あなたの主にたいしても忠義だ。あの屋敷に出入りするには、この木札を所持するがいい」と木札をわたした。
紀二六はそれをうけてふところにおさめ、照文と親兵衛に、「主人にかわってせよ、とのおおせは、かしこくも、かたじけないこととぞんじます」という。
代四郎もよろこんだ。が、紀二六は、そのままいそがしく照文・親兵衛・代四郎に暇ごいして、旅篭からそっとしりぞいた。
代四郎は従者らに、あしたのこと、照文が出立(しゅったつ)すること、親兵衛は将軍家の命(めい)で管領の屋敷にうつることなどをつげた。親兵衛は東(とう)・荒川(あらかわ)の両家老への呈書(たてまつりぶみ)一通と、七人の義兄弟への書簡、また祖母妙真への消息文、などをしたため、これを照文にわたした。
つぎの朝、照文は士卒五人だけをとどめ、他の従者とともに浪速(なにわ)にむけて出立していった。浪速の港から船にのるのである。

第百三十七回 もち商人(あきんど)……徳用(とくよう)のざん言

その朝、犬江親兵衛(いぬえしんべえ)主従のとまる宿に管領左京大夫(かんれいさきょうだゆう)政元の士卒十余人が、鞍(くら)をおいた馬をひき、親兵衛をむかえにきた、とつげた。
親兵衛は、代四郎らに柳箱(やなぎばこ)と旅づつみをもたせ、西陣の政元の屋敷にきた。屋敷の小役人二人が、親兵衛に名のり、
「わたしたちは、宿所のお世話をします」という。親兵衛は、代四郎らを三条(さんじょう)の旅篭(はたご)にかえした。
政元は親兵衛を屋敷内にうつしてから、三膳はもとより、酒肴(しゅこう)のもてなしもなおざりにはしない。だが、親兵衛はたのしむことなく、一人つれづれにたえた。
そのあと代四郎は政元の屋敷をたずねたが、当屋敷には家法があり、木札がなければ、出入りは禁止している、という。代四郎は、
「このうえは、紀二六をまつほかにない」と宿にもどった。
その紀二六は、五条あたりの旅篭におり、二、三日をへて、商人になりすます用意がととのった。で、二尺四、五寸ばかりの箱に《あんもち》をしいれて背おい、政元の屋敷の裏門にきて、門番に、
「てまえは、香西(こうさい)さまにゆかりのある小商人でございます。このたび鎌倉からうつってきました。おん屋敷へたちいって、あんもちをうらせていただきたくおもいます。いただきました木札はここにあります。きょうからよろしくおねがいします」とふところから木札をだし、また菓子盆にはもちをつみ、さらに酒代(さかしろ)としるした一分(ぶ)ほどの金づつみをだした。
門番のうち、歳かさのものが木札を見て、また金を見て、いった。
「おまえは香西どのにゆかりがあるというし、木札も所持しているので、出入りは自由だ。このような金などに用はないが、あずかっておこう。もちは背戸(せど)のものにわたすがいい。はやくいけ」
こうして紀二六は、足軽(あしがる)・雑食(ぞうしき)などの大部屋・小部屋をまわって、もちをやすくうった。
そのうち、人びととしたしくなった。紀二六が『太平記』のうち、高師直(こうのもろなお)が色をこのみ、塩谷高貞(えんやたかさだ)の奥方の湯浴(ゆあみ)しおわった立ち姿をかいまみるくだりなどをきかせた。好色ものは、人びとをいっそうしたしくする。この屋敷のひめごとも耳にするようになった。
政元が、将軍家の台命(たいめい)だ、といつわって、親兵衛を安房にかえさず、一人この屋敷にとどめたのにはわけがある。それはこうである。
さきに結城(ゆうき)を追放された逸匹寺(いっぴきじ)の悪僧徳用(とくよう)は、政元の乳母(めのと)の子で、父は香西復六だ。徳用は政元と乳兄弟(ちきょうだい)である。徳用は幼名を二六郎(にろくろう)といって、ちからがあり、武芸・酒をこのみ、人びとからおそれられた。十四歳のときに、藤原持通(もちみち)の従者(ともびと)とあらそい、一人を死なせた。入牢(じゅろう)の身となったが、いのちごいをして、結城の逸匹寺の住持、未徳(みとく)の弟子として、徳用の法名でのがれた。そののち香西復六の財宝の援助で、未得の退院でそのあとをつぎ、寺のぬしとなった。
このたび結城成朝(なりとも)の沙汰(さた)で死一等を減じられて、弟子堅削(けんさく)らと結城を追放された。これはすでにしるした。
徳用と堅削は、かろうじて京都(みやこ)にたどりついた。父香西復六の宿所にきて、対面した。復六は、突然の来意をたずねた。徳用は、
「わが寺の大檀那(おおだんな)、下総結城の新判官(はんがん)成朝は、傲慢(ごうまん)短慮の将です。しかも安房の里見としめしあわせて、謀反(むほん)の風聞があるのです。そのためか、ことしの春から、丶大(ちゅだい)という生臭坊主(なまぐさぼうず)が結城にきて、嘉吉(かきつ)の古戦場のほとりに庵(いおり)をむすび、先亡(せんぼう)の菩提ととなえ、百日の念仏をとりおこない、里見の士卒二、三百人が、結願(けちがん)の日から米銭(べいせん)を施行(せぎょう)しました。これは貧民をそそのかし、わが寺をうばいとって、丶大(ちゅだい)を住持にしようとする悪心からです」と都合のよいほうへと話をすすめた。
さらにいう。
「われらを殺すことはできないので追放したのです。むかしの法然(ほうねん)・親鸞(しんらん)・日蓮(にちれん)の三名僧すら、弘法(ぐほう)のために罪ならぬ罪人となりました。いまのわが身と似ているのです」
めいわくなのは、良将名僧である。

第百三十八回 餅書(べいしょ)と酒書……親兵衛と紀二六(きじろく)の密書

香西復六(こうさいまたろく)は、徳用(とくよう)の話をきき、つぎの日、主(あるじ)の政元(まさもと)にしかじかとつげた。政元はおどろき、徳用に対面してくわしくきこう、という。それで、日がくれて徳用は政元をたずねた。
徳用は父につげたように、いつわりをのべ、
「結城・里見の謀反(むほん)は伝聞で、まだ確証はありませんが、天に口なく、人をもっていわしめる、ということわざがありますように、まず相違はないでしょう。ちいさいうちに断たなければ、斧(おの)をつかわなければならなくなります。鎌倉の両管領に征伐(せいばつ)をお命じになるなら、ご後悔もありますまい」といった。
政元は思案し、
「その意見ももっともだが、応仁(おうにん)以来諸国がみだれ、京都も荒廃し、ようやく安堵(あんど)したばかりだ。風聞のみで結城、里見をうつならば、東国もまたみだれるだろう」といった。短夜(みじかよ)がふけた。
それから政元は、時おりひそかに徳用をよび、下総(しもふさ)・上総(かずさ)の人情・風情などをたずねた。
ある日、徳用は、堅削(けんさく)を政元に対面させた。堅削は、政元の男色の相手となった。
政元は女を遠ざけ、妻も子もない。今出川亜相入道(いまでがわあしょうにゅうどう)義視(よしみ)(義政の弟)の妾腹(しょうふく)に雪吹(ふぶき)という女児がうまれた。政元はこれを養女としたが、美少女のさだめか病弱である。徳用と堅削は、雪吹の病気の加持(かじ)にいった。とくに堅削は、ちまたのくだらない話をして、女房どもをわらわせた。雪吹もいっしょにわらい、それが保養のたすけとなった。政元は、堅削におおくの布施(ふせ)をとらせた。
秋八月に、安房の里見の使い、犬江親兵衛仁(まさし)・蜑崎十一郎照文が貢物(みつぎもの)の金銀と品物を持参し、里見義成の家中の勇臣、八人の犬士の氏(うじ)と姓(かばね)をこいたてまつろうとしている、と徳用らは耳にした。直接の敵は犬塚信乃だが、親兵衛が、丶大(ちゅだい)をすくった少年武士であることを承知している。徳用は竪削とかたらい、父にもうちあけ、政元にもつげた。
「このたび里見の使いとして参上した犬江親兵衛は、悪少年です。そもそも、犬をもって氏とするものが、八人おります。親兵衛は年少ですが、武術はすぐれています。もし親兵衛を罪におとしいれたなら、義成は片手をもがれた心地がして、いきおいをうしなうでしょう」
政元は首をふり、
「いや、いま見るところでは、忠臣にして上をうやまい、禁裏(きんり)ならびに将軍家や、われわれにいたるまで、貢進(こうしん)の礼をつくし、もれたものはない。それなのに八人が姓氏をこうのをゆるさず、この使いに罪をおわせ誅戮(ちゅうりく)したなら、東国の諸侯がさわぐだろう」といった。
徳用は嘆息して、
「そうおぼしめすならば、姓氏のことはおゆるしなされ、副使をかえし、親兵衛だけをとどめおかれてはどうでしょうか。それだけでも、里見には欠損になるはずです」と毒気をさかんにしていう。政元は、
「少年がそれほどの手並(てなみ)のものなら、将軍家の台命(たいめい)と称して、わが屋敷にとどめおき、名高い武人・力士とうちあわさせよう」といった。
この密談がもれて、紀二六(きじろく)の耳にもはいった。
徳用と堅削は、親兵衛の宿所をおそおうとしたが、政元が親兵衛の脱走をおそれ、十五、六人のものにきびしく見はらせているので、うかつにちかづけない。
紀二六はこのあらましを親兵衛につたえたい、とおもうがその手だてがない。紀二六はもち商人(あきんど)だが、軍書の暗誦(あんしょう)がすきだ、とのうわさがたっている。『太平記』を聞きたさに、もちを買うものもいるほどだ。紀二六は、どのあたりが親兵衛のとどめおかれている場所なのか、およその見当がついている。直接話ができなくても、自分のきたことを知らせようと、児島高徳(こじまたかのり)が自分の存在を後醍醐(ごだいご)天皇に知らせようと苦心するくだりを声高(こわだか)にかたった。
親兵衛は奥の部屋で紀二六のよむ『太平記』をきき、
「あの商人は紀二六ではないか」と身をおこしてかいま見ると、はたして紀二六だ。
親兵衛は世話をする小者をよび、
「いま来ているもち屋は、記憶がいいな。わたしも、つれづれがなぐさめられた。もちはうまいか」という。小者がうまいとこたえると、親兵衛は、
「最上のあんもちを五つ、六つもとめるから、あしたくるがいい、といってくれ」といった。
小者は紀二六につたえた。紀二六は帰途思案した。そして問屋(とんや)にいって大きなもちをたのんで旅篭(はたご)にもどり、ちいさな紙五枚に政元のはかりごとをしるした。
つぎの朝、問屋に走ってきのうたのんだもちをもとめ、人のいないところでかみそりでわり、あんを捨てて五枚の紙をひそませた。政元の屋敷にはいると、小者に注文のもちを持参した、といった。
これをききつけた親兵衛は、
「ほう、大きくつくったものよ。きょうはあまさずわたしが買い、みなにあげよう」といった。
小者はよろこび、他のものにもいう。
親兵衛はもちを手にとると、そっとおしてみた、はたして中はかたい。「紀二六はわたしのこころをさとり、もちのなかに密書をいれたのだ」と、親兵衛はこころのなかで感心した。
そこへ小者がきて、金(きん)にして二分という。親兵衛は鎧(よろい)の下敷の紙づつみをとって、それを封じ、価金二分としるして小者にわたし、
「折おり、わたしももちをほしいので、再三、日をへだててくるよういってほしい」といった。
小者はそのむねを紀二六につたえ、金づつみを手わたした。紀二六は、礼をいって屋敷を出た。
この日旅篭にかえると、そのつつみを見ようと箱のふたをとった。中はもちの湯気がこもってしめり、金づつみもぬれている。紀二六は、やぶれては、と火鉢(ひばち)の埋火(うずみび)をかきおこし、火にあぶった。それから紙をひらくと、一両ある。それのみか、紙に数行の文字がうかび出ている。紀二六にあてた、細心の注意をすべきことが、こまごましるされている。とくに姥雪代四郎(おばゆきよしろう)の旅篭をたずねてはならぬ、とある。さらに、この文字は酒でしるしたので、あぶるときにあらわれる、ともある。餅書(べいしょ)と酒書である。

第百三十九回 京都(みやこ)の五虎(こ)……親兵衛の武芸

旅篭で紀二六(きじろく)は、木枕(きまくら)に頭をのせてふしながら、
「徳用らの讒訴奸計(ざんそかんけい)を、どのようにして姥雪代四郎どのに知らせたらよいだろう。三条と五条は、ほど遠からぬおなじ河原にありながら、この宿を知らせる手だてはない」とおもう。
つぎの日も、はやくから政元(まさもと)の屋敷にいって、大部屋・小部屋をまわったが、もちを売っても、軍記よみはやめた。親兵衛の宿所には、三日に一度いった。買う日もあり、買わない日もあった。紀二六が軍記よみをあまりしなくなったのは、もち売りにふさわしくない、とのうわさになるからだ。これも、親兵衛のいう細心の注意の一つだ。
また三、四日をへて、紀二六はもちを売りつくして、宿にかえる途中、五条の橋のほとりで、代四郎と出あった。二人は、河原のヤナギのかげにたちよった。
代四郎は、
「わたしは親兵衛さんの安否(あんぴ)をとうためにあの屋敷にいったが、木札がない、とことわられたのだ。紀二六さんからその木札をかりよう、とおもったが宿がわからず、きょうもさがしていたのだ」とせわしくいう。
紀二六はあたりを見まわし、声をひそめて、
「姥雪どののうらみは、もっともです。きょうまでたずねなかったのは、秘密のわけがあったのです。てまえは、さきに犬江どのの指示で、その夜からこの川むかいの旅篭におり、もち売りの身なりで木札をもち、あの屋敷に出入りしていたのです。そのうちあそこの秘密を知り、犬江どのに、しかじかの方法でつげることができたのですよ」と、徳用・堅削(けんさく)のこと、讒訴(ざんそ)のこと、政元の奸計、試合のことなどの風聞と、親兵衛との餅書(べいしょ)・酒書のことをつげた。さらに、
「これらのことを姥雪どのにつげようとおもったが、勝手に宿にいってはあやしまれる、みかたであっても、小者どもからでも、もれやすい、と犬江どのの酒書にも、しるされているのです。いまこの木札をもってあなたが行かれては、あやしまれるだけです」と、いいそえた。
代四郎は嘆息して、
「このたびのもくろみは、徳用らのしわざか。親兵衛さんの身が危険だ」という。紀二六は、
「不幸中の幸いに、政元は試合をもくろみ、徳用の奸計はもちいないようです。犬江どのの人柄とその武勇をきいて、ひそかに愛しているからです。大害をくわえることはありますまい」
「それで、おもいあたることがある。わたしの船が浪速(なにわ)の津(つ)についたおり、この地にきて、風聞をさぐっていたが、京都(みやこ)でことに男色のおこなわれているのは、女色(にょしょく)にまさるということだ。政元は早くからひそかに男色をこのんでいて、正室・側女(そばめ)もおかないという。親兵衛さんをとどめて、若衆(わかしゅう)にしようというつもりで、安房に帰そうとしないのか。痛しかゆしだ」といった。
紀二六はわらって、
「それはわからないが、犬江どのにそなわる神威、臨機応変の才で、のがれることは容易でしょう。それよりなおあぶない試合のうわさもありますが、これとて、あの手並をもってするなら、あやまちもありますまい。このことは安心してください。きょうはおあいできて、長ものがたりをしてしまいました。日がくれましたので、宿にともなうべきですが、てまえの宿は合宿(あいやど)なので、はばかることがおおいのです。もし、てまえにあいたいとおもわれたなら、朝なり夕なり、この橋詰(はしづめ)で、てまえが商いに出るごとに、またはかえり道でまっていてください」
「それも承知した。おまえさんは、陪臣(ばいしん)の若党にはおしい才子だ。おまえさんがいなければ、こうまでくわしくは、あの屋敷の秘密はきくことができなかったよ。珍重(ちんちょう)、珍重」と代四郎はほめた。
紀二六は、頭をかきながらいう。
「てまえの父は常陸(ひたち)の鹿島(かしま)の郷士でしたが、はやくに両親(ふたおや)がなくなり、母方の伯父(おじ)蜑崎照文(あまざきてるふみ)に十二歳のときにひきとられました。そこで手習い・文芸も人並におしえられ、若党としてつかわれております。このたびの大役は、主(あるじ)にかわって沙汰されたのです。これは他言無用(たごんむよう)のことです」
「ほう、蜑崎どのの甥御(おいご)でしたか。無礼をした。ゆるしてくれ。では、またここで……」と二人は、五条のほとりの寒さに、袂(たもと)を左右にわかった。
犬江親兵衛は、かたわらに人のいないときにもちをわり、なかの細書をとりだした。皮だけをすこし食べて、他は犬にあたえた。夜ふけて、一人枕辺の行灯(あんどん)の光で、細書をひらき、徳用の讒訴(ざんそ)、政元のいつわりなどを知ると、それを焼きすて、
「結城の悪僧徳用が香西復六(こうさいまたろく)の子で、政元と乳兄弟(ちきょうだい)とは知らなかった。しかし、毒計(どっけい)をすすめてわたしをはかろうとしても、邪(じゃ)が正にかつことはない。わたしが帰るべき道は、やがてひらけよう。いまは、自然にまかせるだけだ」と、その夜をやすらかにねむった。
十日ほどして、香西復六の使いが、主君の、あす対面したい、という奉書(ほうしょ)を持参してきた。親兵衛は承知し、あすの見参(げんざん)とは試合のことであろう、とおもった。
その朝、親兵衛は衣装をととのえて両刀を腰にし、二人の若党を左右に、さらに草履(ぞうり)取り、柳箱(やなぎばこ)をもつものなどをしたがえ、政元の屋敷についた。
案内されて内玄関にのぼり、政所(まんどころ)にとおった。復六が出むかえ、襖(ふすま)をひらくと、政元が長袴(ながばかま)・小刀(ちいさがたな)のいでたちで上座にいる。近習(きんじゅう)が左右にいながれており、そのなかに五人の武士がいる。また、政元のうしろに一人の僧が座している。徳用である。親兵衛を見る眼光はすさまじい。
香西復六は政元にむかい、「犬江親兵衛、お召しにより参上」という。
政元は親兵衛にことばしずかに、
「犬江仁(まさし)、うけたまわれ。かねて伝達しておいたそのほうの武芸ご覧のことは、上(うえ)のご多忙のため、いまだその日をさだめがたい。まず試合をさせて、はやく雌雄(しゆう)を決し、結果をつげよ、ときのうおおせ出された。それゆえ、きょうわが屋敷で試合をおこなう。武芸の次第は、第一に拳法(やわら)、第二に剣術、第三に槍(やり)、第四に弓、第五に鉄砲、第六に棒(ぼう)である。相手は五、六人で、そのおおくは当家の勇士、あるいは将軍家の英臣、北面の武士だ。復六、それぞれのものをひきあわせよ」と命じた。
復六は、親兵衛に、
「犬江どの。これなるは、拳法・捕物(とりもの)の名人、二階(にかい)松山城介允司(まつやましろのすけゆるし)の弟子の無敵斎経緯(むてきさいたてぬき)。つぎは、剣術の師範の鞍馬海伝真賢(くらまかいでんさねかた)。またつぎは、槍の達人で将軍家の勇臣、澄月香車介直道(すづききょうしゃのすけなおみち)。またそのつぎは、騎馬(きば)砲自得至妙(ほうじとくしみょう)の名高い種子島中太正告(たねこじまちゅうたまさのり)。またそのつぎは、射術(しゃじゅつ)の名家で、むかし後醍醐(ごだいご)天皇の世に、南殿近くとんだ怪鳥を射(い)おとして名をあげた隠岐次郎左衛門(おきのじろうざえもんの)尉広有(じょうひろあり)の六世の孫、北面の武士である秋篠将曹広当(あきしのしょうそうひろまさ)だ」と、一人一人にひきあわせた。
五人の武士はそれぞれ名のって、親兵衛と対面した。政元は、親兵衛によびかけ、
予(よ)のうしろにいる法師は東国の旅の僧で、当家に俗縁がある。重さ六十余斤(きん)もある鉄(くろがね)の鹿杖(かせづえ)を、自由につかう手並(てなみ)である。これをもくわえて、その手並を見よう」というと、徳用は親兵衛に目礼した。
政元はさらに、
「試合は木刀。槍は穂先(ほさき)をとりさるが、落命した場合は自業自得で、たがいに遺恨(いこん)なし、という誓書(せいしょ)をしたためよ。また真剣をのぞむものがあるが、それはまた時と場合による。容易にゆるしがたいが、誓文(せいもん)にはよしとしるした。みな、このむねをこころえよ」といって、誓文をよみきかせた。
みなは、それぞれの名の下に花押(かおう)をかき、血判をおし、政元にわたした。政元は、
「まず別席にしりぞき、それぞれ用意をせよ。午(ひる)ごろから、予もまた出て勝負を見る。親兵衛はよいか」ととわれて、親兵衛は、
「用意をするだけです」とこたえた。
若侍は徳用と親兵衛とを別べつの座敷に案内し、他の武士は一つの席についた。
午近くになって、試合の太鼓の音がきこえてきた。親兵衛は、腹巻に肱盾(こて)・臑盾(すねあて)をして、袴を高くつまばさみ、伏姫神授(ふせひめしんじゅ)の短刀を腰におび、小月形(こつきがた)の名刀を右手にもち、若待に案内されて試合の庭に出てきた。すでに、相手の五人の武士は、それぞれ弟子に木刀・槍・棒・弓矢・鉄砲・弾丸(たま)などをもたせ、ひかえていた。
徳用は、南蛮鉄(なんばんてつ)の小鎖(こぐさり)に、白綾(しろあや)の小袖(こそで)をきくだし、黒紋紗(くろもんしゃ)の腰衣(こしごろも)を高くかかげて、組紐(くみひも)をもってむすび、聖柄(ひじりづか)の戒刀(かいとう)を腰におび、銀の鋲(びょう)をうった小鎖の肱盾、十王頭(じゅうおうがしら)の臑盾に身をかため、ねずみ色のしころ頭巾(ずきん)に金の鉢巻(はちまき)をまぶかにかぶり、ナツメの縮緬(ちりめん)をよりあわせた《たすき》をかけ、手には新しい鉄の六十斤もある鹿杖を脇ばさみ、足には白緒(しらお)の武者草鞋(むしゃわらじ)をはき、床几(しょうぎ)に尻をかけている。
五人の武者も、あるいは小鎖、あるいは腹巻を衣(きぬ)の下にすきまなくきこんでいるが、徳用は、つらだましいとともに一段とはなやかだ。
試合の庭は、五十間(けん)に八間の平地である。左右には芝生(しばふ)の小堤(こづつみ)があり、それに四目垣(よつめがき)をめぐらし、四方に折戸の小門(くぐり)がある。南の堤に高く桟敷(さじき)をもうけ、軒下(のきした)に紫の天幕をはりわたし、後方には金屏風(きんびょうぶ)をたててある。桟敷の堤の下には、むしろをしかせて、祐筆(ゆうひつ)が、二、三人、机の上の硯(すずり)の墨をすり、試合の番付帖にしるそうとしている。その他の近習、警護の士卒百人が、四方をまもっている。また鞍(くら)をおいた馬数十頭も、口取りと堤の下にひかえている。
政元は、太鼓をうちならすと試合がはじまり、鉦(かね)をもっておわる、死してもうらみなし、とふれさせた。すでに政元は華美な衣紋裃(えもんかみしも)で、小刀だけをおび、近習に太刀をとらせて、桟敷(さじき)中央にいる。
香西復六も近習二、三十人と袖をつらねている。
試合を知らせる太鼓がなった。東のほうの小門から犬江親兵衛仁が姿を見せ、政元にむかって頭をさげ、西にむかってまった。
第一番は、拳法の無敵斎ときまっていたが、それをおしのけて、剣術の鞍馬海伝真賢がすすみ出てきた。そして二人の立会人にむかって、
「わたしが、ごめんをこうむって第一番に相手になる」といい、親兵衛から五、六尺のところまできて、たがいに黙礼した。海伝の介添(かいぞえ)は、長さ三尺ばかりのアカガシの太刀を二人のあいだにおき、また親兵衛の介添も、木刀をおいた。親兵衛は、
「いや、わたしは手なれた鉄扇(てっせん)を所持している」といった。海伝はそれをききとがめて、
「われらを相手にたらぬとでもいうのか。それともまけたとき、武具が短いから、といいわけをするのか」となじった。親兵衛はわらって、戦いは武具の長短ではない、とこたえた。海伝は満面、火のごとくになり、親兵衛の眉間(みけん)をめがけてうつと、親兵衛はひらりと身をかわして、鉄扇でうけながす。
海伝は歳のころ四十ばかり、身の丈五尺八、九寸、胸毛(むなげ)赤く、色浅黒く、声は銅鑼(どら)をならすのに似ている。鞍馬八流(くらまはちりゅう)の奥儀(おうぎ)をえて、京都(みやこ)で知られている。親兵衛が少年で、《やさがた》なのを見て、相手にたらずとあなどり、一番に登場してきたのだ。
親兵衛は海伝の木刀をあしらって、相手の疲れをまった。やがて闘魂をうしなってきたらしく、海伝の太刀筋がみだれはじめた。親兵衛は、鉄扇で海伝の右のこぶしをうった。骨をくだいたかもしれない。海伝は木刀をおとした。親兵衛はけった。海伝は、とんぼがえりしてたおれた。弟子どもが走りよった。
親兵衛は介添のさしだす茶碗の水で、わずかに口をそそぎ、二番手をまった。
太鼓とともに、西の小門から、拳法・捕物(とりもの)の無敵斎経緯(たてぬき)が登場してきた。
立合人は黙礼してから、親兵衛に、「一棒(ひとぼう)お相手を」という。親兵衛は、相手が棒ゆえ、わたしも棒でお相手する、と介添からシラカシの六尺あまりの棒をうけとった。
無敵斎は棒をりゅう、りゅう、りゅう、とうちふった。まるで風車のようで、無敵斎の姿もわからないほどだ。それから棒をとりなおし、「しからばまいるぞ」と身をかまえたが、うって出ずに、「ああ!」とばかりに声をかけ、「まってほしい、犬江どの」と、とどめて、すこししりぞき、
「わたしは、近ごろ、ときどきしびれる持病があり、いまもまたその病いがにわかにおこり、筋がうごき、手足がしびれてたえがたい。残念だが他日にする。立合人、それではよしなに。痛い、痛い」と棒をすて、足をひきずり、しりぞいた。介添の弟子らはあきれて、棒をひろってあとを追った。笑い声がおこった。
つぎの槍の試合は騎馬(きば)である。澄月香車介直道は、立合人に、
「わたしはすでに犬江親兵衛の手並を知った。少年といえども、じつに一騎当千(いっきとうせん)だ。さればとて戦場では、あまたの敵を相手にし、首をうしなうこともあろう。で、わたしに助太刀を一人かしてほしい」といった。
政元はこれをきき、直道はおくれをとったか、たすけるものがいなければそれもならぬ、という。
そのとき、近習のなかから、「澄月どののたすけを、それがしにおおせつけくだされ。親兵衛をたおすのは、袋のなかのものをとるよりたやすいことだ」といった。近習の一人で紀内鬼平五景紀(きのうちきへいごかげとし)といい、つぶてでは百発百中の手並だ。
政元はそれをきき、つぶては飛道具だ。このことを親兵衛にただせ、という。親兵衛は、二人の相手ではのぞましくないが、戦場ならばそれもしかたがない。しかもつぶては難儀の敵だ、とこたえた。
第三戦の太鼓がなった。東門から親兵衛は馬にのり、穂のない槍を脇ばさんで、しずしずとはいってきた。
また、西の小門から香車介も馬上の人となり、黒づくめで出てきた。馬も黒い。双方、馬をよせ、槍をひねった。
そこへ紀内鬼平五景紀は馬にかくれ、走ってきた。つぶてをとばし、親兵衛をうちおとそうとかまえた。

第百四十回 もうしひらき…政元(まさもと)のこころ

馬上の香車介直道(きょうしゃのすけなおみち)は、馬上の親兵衛の槍先(やりさき)の袋でつかれ、勝負はきまったと誰の目にも見えた。
そこへ鬼平五(きへいご)が馬をはしらせてきて、親兵衛のうしろ十間(けん)ばかりのところで、用意の布の袋から小石をつかみだし、
「親兵衛、よくきけ。当管領家(かんれいけ)で、いま三町つぶてとあだなをとる、つぶての鬼平五がここにいる。海内(かいだい)無双(むそう)、自得(じとく)の一石、うけてみよ」とよばわり、なげつける。ねらいはたがわぬが、親兵衛は直道の槍をからげて、その身を左へ、ひらりとさける馬上の早技。
つぶては空をとぶ。そればかりか、とびすぎて、直道の眉間(みけん)のあたりをうちやぶった。直道はたまらず馬からおちた。鬼平五はおどろき、ふたたび小石をつかむ。
そのとき、親兵衛もまたふところから、用意の小石を手にすると、身をねじりかえして、ちょうとうった。鬼平五もまた額(ひたい)をうたれて、ほとばしる鮮血とともに、あっと一声をあげ、足を天にあげて馬上からおちた。介添(かいぞえ)・門弟などがおどろきあきれて、走りよってきた。老兵(ふるつわもの)どもは、
「犬江の早技に眼(まなこ)がくらみ、同士討(う)ちしたのみならず、鬼平五は犬江のつぶてにうたれて落馬するとは、直道にます不覚だ。あの少年は、神の化身(けしん)か、夜叉(やしゃ)・天狗(てんぐ)か」という。
第三番は弓矢・鉄砲である。
秋篠将曹広当(あきしのしょうそうひろまさ)・種子島中太正告(たねこじまちゅうたまさのり)、そして親兵衛が、弓矢・鉄砲をもって登場した。
そのとき、はるかな北の雲間から南へわたる雁(かり)の列を、桟敷(さじき)の政元(まさもと)が見つけた。近習(きんじゅう)をはしらせて、親兵衛ら三人に伝達させた。
「おりから雁の群れがくる。おのおのあの雁を射(い)よ。第一矢は親兵衛、第二、三は、将曹・中太いずれでもよい」
三人も中天を見あげた。そのはるか上空に雁がつらなる。親兵衛は、はなれてはいるが、とどかぬというわけではあるまい、と介添から鉄砲をうけとり、火ぶたをきった。雁がみだれておちてくると、鉄砲をすて、弓に矢をつがえて、ひょうと射た。一羽の雁が射られておちてきた。
広当と正告も、それぞれ矢を射、鉄砲をうった。二羽の雁がおちてきた。介添のものたちは三羽の雁をひろい、その足に射たものの名をしるした札をむすび、政元のもとに持参した。
政元は一羽一羽みた。正告が鉄砲でうった雁は、そのうなじをうちきられ、頭をうしなって鮮血がながれている。また広当の射た雁は、左の羽の下から右の背へつらぬかれ、血がにじみ、よごれている。親兵衛の雁は羽を射られただけで、まだ息がある。
政元は、雁をしらべおわると、立会人(たちあいにん)に、
「親兵衛にまさるものはいない。つぎに広当、つぎは正告、甲乙丙(こうおつへい)あきらかなので、的を射る勝負をおこなうまでもない。このことを三人につたえよ」といって、親兵衛の射た雁をはなした。
雁は、なきながら雲のかなたに消えた。
広当・正告は、西の小門(くぐり)から去った。親兵衛もさがろうとすると、立合人は、
「まだ騎馬(きば)の棒術(ぼうじゅつ)がのこっている。日がかたむきかけたので、いま馬をひかせよう」といった。
そこへ二人の小者が馬をひいてきた。さらに八、九人のものが、六尺ばかりの太い鉄の棒をかついできた。立合人は、
「犬江どの、こんどの相手は大力(たいりき)の荒法師(あらほうし)で、重さ六十余斤(よきん)ある鉄杖(てつじょう)をつかう。あなたも大力ときいているので、重さ八十三斤の鉄の棒をつくらせてある。これで雌雄(しゆう)をきめられるがいい、との君命だ」とつげた。
親兵衛はその用意に感謝して介添のものから組紐(くみひも)をたすきにしてもらい、馬上の人となった。鉄の棒を片手でだきあげ、脇(わき)にはさみ、悪僧徳用(とくよう)の登場をまった。
太鼓がなった。西の小門から徳用が馬をすすめてきた。六十斤の鉄の棒を脇にはさみ、堅削(けんさく)をしたがえている。桟敷の近くにくると、頭をさげた。
二度目の太鼓がなった。徳用は、親兵衛にむかって声高らかに、
「やい、若もの、覚悟をしているか。稚児(ちご)にでもすべきものなのに、相手にするのはおとなげがないが、これも和尚(おしょう)の役で、ひと撃(う)ちで往生(おうじょう)させてやろう。十万億土に走るがいい」とののしった。
親兵衛はわらって、「これはおかしい。さきに左右(まて)川(がわ)のほとりで、わたしの手並(てなみ)を見せたはずだぞ。まだこりないと見える」といった。
徳用は大喝(だいかつ)一声、鉄の棒をふりおろしてきた。それを、親兵衛も鉄の棒でうけ、うってははらう大力と大力の音が、高くひびいた。両馬の頭をすれちがえさせ、鉄の棒がよせてはわかれ、わかれてはまたよせた。親兵衛は徳用を一撃でくだくことができるが、香西復六(こうさいまたろく)の子で、政元とは乳兄弟(ちきょうだい)なので、あとでさわりがあっては、とあしらいながら、徳用の疲れをまった。
はたせるかな、徳用は鉄の棒の重さに腕がくるいはじめて、声をふりしぼっているばかりだ。
親兵衛は徳用の棒をうちおとした。徳用がひるむところを、馬をよせて、右のこぶしをかため、眉間をうった。うたれた徳用が、あっと鞍(くら)の前輪にふすと、親兵衛は手をのばし、その帯をつかみ、俵(たわら)のように肩より高くかかげた。
堅削は、親兵衛の馬の足をはらってはねおとそうと、警固のものの棒をとろうとした。警固のものはおどろき、くみついた。はずみで、堅削がとんぼがえりしたところを、徳用の馬にふみつけられた。へたばったらしい。親兵衛は、
「人びとよ、見たか。けだもの和尚をなげころそうか」と声高らかにいった。桟敷(さじき)の復六は、
「犬江どの、勝負はきまった。なげるな、なげるな」と扇(おうぎ)をたたきながらよびとめた。立合人もそれをとめた。親兵衛はわらいながら、そのまま徳用をおろし、立合人にわたした。立合人たちはそれをだきとり、まだたおれている竪削をひきおこして、去った。
政元は、近習に親兵衛を召させた。
政元は微笑して、「ききしにまさる剛力(ごうりき)、武芸精妙(ぶげいせいみょう)、じつに神出鬼没(しんしゅつきぼつ)のはたらき、今昔独歩(こんじゃくどっぽ)だ。このことを上(うえ)(足利義尚)にもうしあげたなら、およろこびなさるだろう。これは当座の気持ちぞ」と、若鮎(わかあゆ)と称する太刀をあたえた。親兵衛は、
「二、三人に、あやまって浅手・打身をつくってしまいました。もちろん御内(みうち)の医師(くすし)たちもおられるでしょうが、わたしは神授の奇薬を所持しております。それをもちいたなら、一晩でなおるでしょう。いかがです」ととうた。復六は、
「それならその神薬(しんやく)をこちらにいただこう」という。親兵衛は薬篭(やくろう)から伏姫神授の仙丹(せんたん)をとり、復六にわたした。二、三日すると、海伝(かいでん)・香車介・鬼平五・徳用・竪削の苦痛は去ったという。
犬江親兵衛の武芸は、はやくも洛中(らくちゅう)・洛外にひろまった。政元の屋敷に出入りする紀二六(きじろく)はむろんだが、代四郎(よしろう)もこのうわさをきき、安堵したものの、
「このために政元どのにおしまれて、かえされぬのではないか。いかにすべきか」と不安になる。
管領左京大夫(さきょうだゆう)政元は、親兵衛をまねき、
「このまえの良薬の返礼だ」と、時服・巻絹(まきぎぬ)・金銀などの引出物をあたえた。親兵衛が礼をつくして辞退するので、政元はその宿所にとどけさせた。
そのあとも政元はしばしば親兵衛をよび、庭の紅葉(もみじ)、茶の接待(せったい)、舶来(はくらい)の調度(ちょうど)・珍品(ちんぴん)、あるいは武具、金銀・衣装などをあたえた。
だが親兵衛はよろこばず、辞退しつづけた。政元はこれも宿所にとどけさせた。親兵衛は、あたえられた品物の目録・年月日時までをしるし、小役人にあずけた。小役人は櫃(ひつ)のなかにおさめて、小者にまもらせた。
ある日、政元が親兵衛にいった。
「さきに若鮎の名刀をとらせたが、一たびも腰におびているのを見たことがない。また、わが家紋(かもん)のある衣装を身につけているのも見ない。気にいらないのか」
「まことにごもっともなおおせでございます。おん佩刀(はかせ)も、重職有功(じゅうしょくゆうこう)の人びとでなければたまわることができませんのに、なんの功もないわたしがたまわりました。ご恩をおもわぬわけではありませんが、なにぶんにも、わたしのおびている短刀は神授で、太刀は安房(あわ)の老侯(おおとの)(義実)からたまわりましたので、なにものにもかえることができません。またこの衣装は、安房どの(義成)からたまわりましたもので、やぶれるまでも身につけ、余香(よこう)を拝し、旅路の憂(うさ)をなぐさめております。わたしの愚衷(ぐちゅう)をおさっしくだされるなら、おん疑いはとけるでございましょう。まことに不敬なことですが、胡馬(こば)が北風にいななくのも燕雀(えんじゃく)が南枝(なんし)に巣をつくるのも、みなその本(もと)をおもうからです。まして長旅遠客(ちょうりょえんかく)の身、たれか望郷(ぼうきょう)の情(こころ)のないものがございましょう。ねがわくば、はやく暇をたまわりたいとぞんじます」と、親兵衛はいった。
政元は、しばらく黙念(もくねん)したままだ。
「あっぱれ、忠義の若ものであるぞ。予も暇をあたえたいが、まだ上からのおゆるしがなので、どうにもならない。そのほうがもし上の御意(ぎょい)にかのうて、そのほうを安房のほうへ召しつかいたいとおおせになったなら、安房どのもいなむわけにはまいらん。いなめば君臣(くんしん)(義成・親兵衛)ともに、違諚(いじょう)の罪はまぬがれぬ。そこで、ひそかに問うべきことがある。近ごろ東国から、里見・結城に反逆の風聞があるとつげるものがいる。ことし四月のころ、そのほうのなかまの七犬士、ならびに里見の士卒数百人が結城の古戦場に来会して、逸匹寺(いっぴきじ)を破却(はきゃく)しようと乱暴したこと、予のきくところはしかじか……」と、徳用の讒訴(ざんそ)をかたった。
親兵衛はあきれはて、笑いをこらえながら、
「それはすべて伝聞のあやまりです。あの日、わたしもみかたの危急にいきあい、いささかのちからをつくしたので、知っております」と、丶大(ちゅだい)の宿願(しゅくがん)の大念仏供養のこと、徳用・竪削のねたみの乱暴、堅名経稜(かたくなつねかど)・根生野素頼(ねおいのもとより)・長城惴利(おさきはやとし)らのにせ捕手(とりて)のこと、かれらのはかりごとがやぶれたこと、地蔵菩薩の利益(りやく)、結城(ゆうき)成朝(なりとも)の賢良善政(けんりょうぜんせい)、そのあらましをのべ、またいう。
「あの日、結城の法莚(ほうえん)につどいましたのは、わが義兄弟七、八人と蜑崎照文(あまざきてるふみ)主従だけで、全部で三十人にすぎないのです。里見義実・義成が忠臣なのは世に知られるところで、また、結城成朝どのとは、したしくはありません。その成朝どのも賢良(けんりょう)のきこえのあるかたで、なんのうらみを将軍家にいだき、逆心などもたれるでしょうか。それでも、なおうたがわしくおぼしめされるなら、かの地に間諜(しのび)をつかわされて、その地方の民にきかれてはいかがですか」とこたえた。
政元はおどろき、嘆息(たんそく)して、
「それでは、これまできいた話とすべてちがっている。よしよし、予にかんがえがある。他言をするな」といった。
つぎの日、政元は二、三人の間諜を結城につかわした。往復三十日かぎりである。これは復六も知らない。
それはさておき、政元は、親兵衛をとどめておきたいこころはかわらない。親兵衛は京都(みやこ)になれない少年なので、田舎(いなか)がよい、とその故郷(ふるさと)をしたっているだけだ。年をへて京都の花の香によえば、したう故郷をわすれるのが人情であろう、と政元はおもう。しかも親兵衛は、その武勇とは反対に、女にしてみたいほどの美少年だ。
政元はおもう。もし親兵衛が、自分の臥房(ふしど)の友となるなら、恩愛はこれよりこまやかに、年をへずとも、股肱(ここう)の臣となるだろう。自分も愛宕(あたご)の行者なので女色(にょしょく)にしたしまず、男色にもそれほどこころがうごかされなかったが、親兵衛のためなら、多年の行法(ぎょうほう)がむだになっても悔(く)いはない、文(ふみ)をやろうか、人をかいして気持ちを知らせようか、とこころがはやるばかりだ。
政元はしばしば親兵衛をまねき、酒をすすめ、こころをあかし、そそのかそうとするが、親兵衛は盃(さかずき)をうけるだけだ。問うとこたえ、問わないとつつましく黙念としたままだ。礼儀はすこしもうしなわない。しかもねがうことといえば、身の暇(いとま)をこうだけだ。これでは、政元も手だしができない。
ようやくおもいをすて、行法によく精進(しょうじん)したが、それでもなお親兵衛をはなそうとはしない。親兵衛が暇をこうごとに、将軍家のおゆるしがない、といつわってこたえていた。
こうして、親兵衛が京都にきてから百日ばかりになった。庭も冬枯れて虫の声もたえ、朝の霜(しも)も白い。

第百四十一回 無瞳子(ひとみなし)のトラ…巨勢金岡(こせのかなおか)の絵

丹波国(たんばのくに)桑田郡(くわたのこおり)薬師院(やくしいん)という寒村に、竹林巽(たけばやしたつみ)という浪人ものがいた。女房の名は於兎子(おとこ)という。巽は、もと豊後(ぶんご)の大友の家臣であったが、同藩の士(さむらい)なにがしの妻と密通し、ともにのがれて、ここ薬師院村に身をひそめた。その妻が於兎子だ。於兎子は夫のたくわえをぬすみだし、路用とした。そのあまりが二、三十金あったので、ちいさな家を買いもとめた。一年で所持金もなくなり、巽は絵心があるので、それをいかそうと思案した。
巽のとなりの家の主人(あるじ)は、箕梨九里平(みなしくりへい)という六十ばかりの老人だ。女房をなくし、一人住まいだ。他人に田畑を耕作させ、自分は絵馬(えま)を売っていた。
この村の東に、瑠璃光山薬師院(るりこうさんやくしいん)という大寺があり、本尊薬師如来に絵馬をそなえるものがおおかった。九里平は秋ごろから病いにふし、となりの於兎子をやとって、水仕事をさせ、巽に絵馬を売らせた。これをいいことに、夫婦は酒手にと銭(ぜに)をぬすみ、米をぬすんだ。九里平はこれを知らない。
親類もいないので、巽を養子にいれた。年の暮れに九里平は死に、ぬれ手で粟(あわ)とばかりこの家を手にいれた。いままで絵馬を京都(みやこ)の問屋から買いもとめていたが、巽は絵馬の下地(したじ)を同村の山幸樵六(やまさちしょうろく)につくらせ、自分では絵をかいたので、運送に金がかからず、利益が三倍となった。しかし夫婦ともに酒ずきとあって、出る銭においつかない。
二、三年して、巽は年来の酒毒でか、頭に粟のような瘡(かさ)が出てきた。頭痛がして、夜もまたよくねむれず、医師(くすし)をよび、湯薬(くすり)をのみもしたが、そのききめはない。そのうち目も見えなくなり、筆をとることもできない。ついには絵馬を売る権利をうしない、相伝(そうでん)の田畑を売りはらった。巽は、於兎子(おとこ)にいう。
「おまえとのがれてきて、一時はよいこともあったが、いまは、にわかめくらとなった。前非(ぜんぴ)をくい、色と酒をたつ。こよいからおまえとの二人寝をやめ、それぞれ臥房(ふしど)を異(こと)にし、持戒不犯(じかいふぼん)の信士(しんし)・信女(しんじょ)ともなるなら、不忠・不孝・不義・淫奔(いんぽん)の罪障(ざいしょう)は、ついに滅却(めっきゃく)しよう。おまえはどうおもうか」
「わたしも前夫(ぜんぷ)にそむいた罰で、神仏にもにくまれてきましたから、おまえさんのいうようにしますよ」と於兎子はいった。
巽はよろこび、つぎの日から杖(つえ)にすがって薬師院へもうで、また九里平の墓参りもつづけた。
こうして四年がすぎて、急に目が見えるようになった。夫婦ともに、薬師如来の感応利益(かんのうりやく)とふしおがみ、またふしおがんだ。それから巽はもとのように絵筆をとり、また樵六(しょうろく)に絵馬の下地をつくらせた。
ある日、十二、三歳の少年が、巽に、薬師十二神のうち第三の寅童子(とらどうじ)に宿願があるので、トラの絵馬を献じたいのですが、トラの絵はありますか、ととうた。巽がトラの絵馬をだすと、童子はそれを見て、これはむかしの画工の絵を手本にしたもので、まちがったままだ、という。そして、《ふくさ》づつみからキリの箱の掛軸を出してみせた。その絵のトラのいきおいは、生きているようだが、白眼(しらまなこ)で瞳(ひとみ)がない。
童子はまたいう。
むかし宇多天皇(うだてんのう)の寛平(かんぴょう)二年(八九十年)に、呉国(ごのくに)の長(おさ)が商船でトラ一頭その他を貢物(みつぎもの)として献上したときに、従五位下(じゅごいのげ)采女正(うねめのかみ)巨勢金岡(こせのかなおか)という画生がいた。世の人は、金岡を称して神筆霊画(しんぴつれいが)といった。
それが百余日かかってトラをえがいたが、眼ははぶいた。それにはわけがある。まえにも金岡は詔勅(みことのり)で馬をえがいたが、それが夜な夜な紙からぬけでるので、鼻綱(はなづな)をかきくわえると、夜あるきがやんだという。もし百獣の王のトラがぬけ出たなら、人を害し、不測の事態ともなる、と眼をいれない。で、無瞳子(ひとみなし)のトラとよぶ。この掛軸の所有者は、転々として、いまはこの童子の寺にあるという。童子はつづけた。
「このトラの軸をしばらくかしましょう。これを手本にしてえがくように……」
巽は、童子からトラの軸をかりうけ、預り手形をわたした。童子は、
「わたしは、ときどきここにきて筆法をおしえます。ただどのような条件をだされても、トラの眼のなかに、瞳を点じてはなりません。もし瞳をくわえたなら、たちまち不測の事態がおこるだろうから……」と去っていった。
このとき於兎子は留守で、トラの軸については知らなかった。巽は、この絵を手本に筆をすすめた。三日に一度、童子がたずねてきて、筆法をおしえた。巽の腕(うで)はみるみるあがった。
ある日のこと、童子は巽に、絵はつつしみ、多くえがいてはならぬ、といましめて立ち去った。そのうしろ姿を於兎子が見て、
「おまえさんは前非をくいてざんげし、生涯(しょうがい)不犯と、臥房を異にするといってわたしをだまし、あのような少年をひきいれていたのかい。いつごろからなのか、どこの少年か」と涙をながしていう。
巽はこまりはて、童子の来歴(らいれき)、掛軸のことなどをかたったが、於兎子はそれを納得せず、刀をとり、のどをつこうとする。それをとめようとする巽と於兎子がもみあい、絵馬、にかわの土鍋、絵具皿などをふみくだく荒れようだ。
そとに人の影がある。その影が家にはいってきた。藁苞(わらづと)と樽(たる)をさげてきて、壁ぎわにおいた。あらそう夫婦のあいだにはいり、於兎子のもった刀をうばってうしろになげた。この男は樵夫(きこり)の山幸樵六だ。
「おまえたち、外聞がわるいぜ。どうしたのだい」といった。
於兎子は、あの童子のこと、うらみのわけをつげた。巽も、童子のことをありのままにかたった。
「わたしのおもうところでは、あの少年は凡夫(ぼんぷ)ではない。つたえきく薬師院の薬師十二神の第三の寅童子であられる。それゆえに、於兎子にはだまっていた」
樵六はあざわらって、それはしんじられぬ話だ、といった。
於兎子も、それはキツネか、幽霊(ゆうれい)か、おまえはまどわされて、わたしをあざむいている、とまたわめき、刀を手にとろうとする。樵六はそれをとどめて、
「年ごろの信心がすぎて、夫婦がともにねないので、疑いもおこるというものだ。こよいは仲なおりの盃(さかずき)としよう」というと、於兎子は、
「その仲裁(ちゅうさい)はいいけれど、わたしのいないときに、またあの童子をひきいれて、たのしむのではないかい」といった。
樵六は、於兎子にささやくように、しかじかこうするのさ、という。それから、
「ここに持参したのは、芋莖新田(いもがらしんでん)の江五右衛門(えごえもん)が嫁むかえをしたので、祝いをしようとの清酒二ます、塩魚三尾さ。これはおまえさんたちの仲なおりにまわし、江五右衛門の祝いは他日にしよう。いろりに火はあるかい。これをあぶってくれ」と樵六は藁苞(わらづと)をひらき、魚をだした。
巽も徳利(とくり)をだしたりなどした。茶碗をかわし、酒盛りがはじまった。みな酔いがまわった。しばらくして、樵六は足もとをふらつかせながらかえっていった。
この夜から、巽・於兎子はぬれながら快楽(けらく)にふけりはじめた。

第百四十二回 名画をうる……絵師巽風(そんぷう)

巽(たつみ)・於兎子(おとこ)は、たえてひさしい枕をともにし、こころはとろけ、魂はうかれ、明け方にようやくつかれてねむりについたので、夜のあけたことを知らない。
おきだしたときは、もう日が高い。巽はいそいで戸をひらいた。於兎子は、紅(べに)・白粉(おしろい)をいつもより色こくぬった。そこへ、酒屋の小僧がご用ききにきた。
於兎子は巽と相談をして、樵六(しょうろく)にお礼にいこうと、酒二、三升、鶏卵(たまご)二、三十個をたのんだ。
小僧は走ってかえり、ほどなく注文の品を持参してきた。於兎子が樵六の家にいくと、二日酔いでやすんでいた。於兎子は酒などをおくり、礼をいってから、美少年のことが不安だ、といった。
樵六は、それはキツネかタヌキだ、鉄砲をもっているのでねらいうちにしてやる、という。むろん、巽の知らないことだ。
その巽は、年ごろ修行したことは於兎子のすすめでやぶり、酒をのみ、肴(さかな)をもとめ、夜は夫婦で枕をならべ、淫酒(いんしゅ)の楽しみにふけるだけだ。あの童子からたのまれたトラの絵馬もなおざりになった。
於兎子も、村長(むらおさ)の家に手つだいにもいかなくなった。
ある日、村長の家の老婆が、綿入れにする衣(きぬ)がおおいので、手つだいにきてほしい、といってきた。
於兎子は前借があるので、しぶしぶ出むいた。
その途中、樵六の家にたちより、留守中に少年のくることのないように、といった。
樵六は、おまえさんの家のあたりの木かげか、柴垣(しばがき)の裏などにかくれてまっている、それが天狗(てんぐ)でも、目に見えるものならうちとる手だてはある、といった。於兎子はこころをのこしながら、村長の家にでかけた。
巽は、女房が留守で、することもなく、酒を買う銭(ぜに)もないので、十日あまりもなおざりしていた絵馬の筆をとった。そこへ足音がして、童子があらわれ、
「わたしのたのみましたトラの絵馬は、どうなっていますか」ととうた。巽は頭をかきながら、かぜできのうまでふしていた、とこたえた。
童子はとがめるようすもなく、仏界・魔界(まかい)、仏恩・仏罰をかたって、去った。巽は冷汗(ひやあせ)をながし、頭をたれ、だまったままだ。
童子が巽の家を出て、百歩ほどくると、木かげにかくれていた山幸(やまさち)樵六は、鉄砲のねらいをつけて、火ぶたをきった。童子は、せなかから胸までうちぬかれて、たおれた。樵六と、音をききつけた巽が走りよった。童子と見えたのは於兎子で、鼻からも、口からも鮮血がふきだし、襟(えり)や帯を朱(あけ)にぬらしていた。樵六は鉄砲をなげすて、胸をたたき、声をふるわせて、
「ああ、あやまってしまった。おかみさんを童子と見まちがえたのは、これも狐狸(こり)の妖術か。面目(めんぼく)ねえ」となきがらをだきおこしたものの、絶望と知り、ぼうぜんとした。
巽は怒りにまかせて、
「こいつ、女房の仇(あだ)、いいわけはきかん。覚悟しろ」と足でけった。樵六はけられてころんだ。
巽はおちている鉄砲を手にすると、樵六の頭をうった。樵六は、骨がくだけて息たえた。
巽は一瞬後悔したが、やがてあまりに罪が重いので不安になり、旅のしたくをすると、無瞳子(ひとみなし)のトラの軸をふろしきにつつみ、樵六の家にいって小櫃(こびつ)・大櫃・衣(きぬ)つづらをさぐり、金子(きんす)二両二、三分、永楽銭(えいらくせん)二貫(かん)あまりをふところにして、浪速(なにわ)をめざして逃げに逃げた。
夜があけ、村人らが於兎子・樵六のしかばねを見つけ、大さわぎとなった。巽の家におもむくと、巽の字で、樵六はわが女房於兎子の姦夫(かんぷ)なり、ともに逃げようとしたのでうちころしたものの、後悔し、菩提をとむらうため出家するうんぬん、とある。
やがて二つのしかばねは牛馬とともにすてられ、飢えた犬・カラスのえじきになった。
浪速にでた巽は、絵を渡世(とせい)にしようと、竹林巽風(たけばやしそんぷう)と名のり、絵筆を手にしたが、死んだ絵しかかけない。巽風はいらだって、絵をやぶり、思案した。
「おれの絵がにわかにすすんだのは、あれはまぼろしであったか、すると無瞳子(ひとみなし)のトラの絵も、金岡の筆ではないのか」と不安になった。
おなじ旅篭(はたご)に、たまたま京都(みやこ)の骨董屋(こっとうや)の主人、禄斎(ろくさい)屋余市(やよいち)がとまっていた。巽風が金岡のえがいたトラの掛軸を売りたがっているときき、旅篭の主人を仲介(なかだち)にして、巽風とあった。
余市は、トラの掛軸を見て、
「この無瞳子のトラの絵が真筆であるなら、世の宝でありましょう。てまえは、西陣の管領さま(政元)に出入りをゆるされてご用をうけたまわっており、このたびもご家老香西(こうさい)どのの内意によって、ここらの寺の什物(じゅうもつ)に名画があるなら買いあげたい、といわれました。浪速にきて、折よくあなたとあえました。この一軸にまさるものはありません。てまえと京にまいられ、てまえの手続きで上さまの御意(ぎょい)にかなったなら、おもいのままの価でもとめられるでしょう」といった。
巽風はよろこび、つぎの朝、早飯をすませて、掛軸をかかえて、余市とともに京におもむいた。
巽風は、美少年からきいた金岡の絵の来歴をつまびらかにしるし、掛軸にそえてわたした。余市は袴(はかま)をつけ、一刀を腰におび、政元の屋敷にいき、香西復六(またろく)をたずねた。
復六はその絵が気にいり、あずけよ、という。
政元はときどき犬江親兵衛を召した。その日もよび、
「このごろ東山どのが、古画をもとめられておられるので、巨勢(こせの)金岡の絵の一軸をもって、予(よ)に内覧(ないらん)をこうものがあった。その来歴をよむと、しんじがたいところがある。画中の馬がぬけだしたというが、紙中の墨跡(ぼくせき)に霊があるとはかんがえられない」といい、親兵衛のかんがえをとうた。
親兵衛は、中国の例をひき、
「名画に奇特が絶対ないとはいえないし、また絶対あるともいえません。それゆえに孔子(こうし)は、怪力乱神(かいりきらんしん)をかたらず、といっております。しかし、わたしには虚実はわかりません」とこたえた。

第百四十三回 画中から出た妖虎(ようこ)……巽風(そんぷう)

政元は、親兵衛が去るといそいで香西復六(こうさいまたろく)を召して、「竹林巽風(たけばやしそんぷう)を、あした公文庁(くもんちょう)に召しだすべし」と命じた。復六は禄斎屋余市(ろくさいやよいち)をよび、巽風をつれてまいれ、と沙汰した。
つぎの朝、余市と巽風は公文庁にまかり出た。きびしい警固に、二人は不安だ。
しばらくして、屏風(びょうぶ)の背後から、一人の近習に太刀をもたせた政元が出てきて、高座(たかくら)についた。近習が、金岡(かなおか)のトラの絵の掛軸を箱から出して、そばにおいた。巽風は、絵師の姿をしてひかえていた。政元が、
「巽風、さきにおまえが持参したトラの絵の伝来書を見た。さらに古筆鑑定者(かんていしゃ)にしめすと、金岡の真跡(しんせき)にまちがいなし、という。それで東山どののご用に達するが、眼(まなこ)がなければ一身不具で、貴人のおん物にはなしがたい。おまえも絵師ならば、そのくらいのことはこころえているだろう。いまこのトラの両眼を点じよ」といった。
二人の近習は、トラの掛軸と用意の筆・硯(すずり)を巽風のそばにおき、「はやくえがけ」とうながした。
巽風はこまって、おそるおそる、無瞳子(ひとみなし)のトラの眼(まなこ)に瞳(ひとみ)を点じることは禁じられている、と辞退した。
政元はあざわらって、
「おまえは、奇特と称して上をあざむくのか、その罪はかるくはないぞ。獄舎(ひとや)につないでこらしめよう」という。近習のものどもは、左右から、筆をとれ、とおしつけた。ほかの家臣たちも、
「巽風、なにをためらっている。いまそのトラの眼に瞳をいれ、さほどの奇特があらわれなくても、おまえの罪ではない。また、もしぬけ出したなら、未曽有(みぞう)の珍事だぞ」とすすめる。巽風は、辞退することができず、トラの眼に黒星を点じてさしだした。
政元は、その掛軸を柱にかけさせて、近習たちと見た。まるで生きているような猛虎(もうこ)のいきおいで、名筆疑いない。巽風は、おのれながらよくえがいた、と膝(ひざ)をすすめた。
すると、風がおこる音がして、掛軸にふきつけた。白額斑毛(はくがくまだらげ)の大トラが、突然あらわれ出て、巽風ののどをぐさっとかみ、ひとふりすると、鮮血がふきだし、首が縁側にころげおちた。
前代未聞(ぜんだいみもん)の一大奇怪に、主従がさわぎたてた。
復六は、「ものどもであえ、であえ!」と声をふりしぼる。帷幕(いばく)のうしろにひかえていた種子島中太正告(たねこじまちゅうたまさのり)・紀内鬼平五景紀(きのうちきへいごかげとし)が、ともに走り出て武士どもを叱咤(しった)しつづけたが、トラにむかうものは、かみたおされた。
トラはますますたけりくるい、人をきずつけ、巽風の首をくわえると、高塀(たかべい)をひらりとこえて姿を消した。
しばらくして、政元は復六に、
「未曽有の珍事だ。トラはどこへいったのか。中太・鬼平五らに、弓矢鉄砲にすぐれた士卒各三、四十人をしたがわせて八方に手わけし、トラをさがせ。洛内(らくない)市中に横行したなら、予のあやまり、と人がいうだろう」と、近習とともに奥にはいった。
奇行あるものは、かならず奇禍(きか)があるものだ。また鬼神(きしん)をあなどると、たたりがある。政元・巽風がそうだ。
洛中・洛外、トラのゆくえをさがしたが、その影さえ見たものはいない。つぎの日、正告の一手の士卒が洛外東の札(ふだ)の辻(つじ)をとおりかかると、人の群れだ。正告がみると、梟首台(きょうしゅだい)に男の生首がひとつのせてある。ほかならぬ竹林巽風の首だ。
数日たつと、洛中に風聞がたった。ゆうべ白川山(しらかわやま)でトラにおわれ、なにがしはからくものがれ、なにがしは食われた、という。さらに風聞はひろまった。
ゆうべはふもとにおりてきて、聖護院(しょうごいん)の森におり、あしたは日枝(ひえ)の山にうつるかと、東山の御所のあたりも不安だ。もしトラが、賀茂川(かもがわ)をわたって洛中を横行するなら、禁裏御所(きんりごしょ)・摂家宮方(せっけみやがた)・花の御所も、ふせぎようがあるまい、と。
このさわぎに、寺院の尼僧、町まちの婦童子(おんなわらし)らは、いまにもトラが出るかのようにおそれおののき、昼間から門戸をとじた。
それで神祇伯(しんぎはく)・陰陽家(おんようけ)は、悪獣退治(あくじゅうたいじ)の祈祷(きとう)をおこなったり、叡山(えいざん)の荒法師は、武具を用意し、トラがはいってきたら射とめてやろう、と猛虎調伏(もうこちょうぶく)の読経(どきょう)をとなえつづけた。
将軍家義尚は、管領(かんれい)畠山政長に東山どのの守護を命じた。政長は、二百余の兵を配置させた。その他、在京の武士に禁裏・花の御所の守護を命じ、管領政元に妖虎の由来をたずね、
「このたびのわざわいは、政元の奇をこのむ性情からことがおこったのだ。もし退治がおくれたなら、身のためによろしくない」とせめた。
政元は、もともとあやしげなトラの掛軸を余市がもちこんだことからおこったのだ、と余市をめしとり、斬首(ざんしゅ)の刑に処した。そして、余市の家財は没収された。

第百四十四回 トラ退治……直道の狼藉(ろうぜき)

政元は余市を誅(ちゅう)し、自分のあやまちを余市におわせようとしたが、室町どの(義尚)の機嫌もやすらかでなく、世の悪評もやまない。
政元は思案し、京都(みやこ)の五虎(こ)と称される秋篠将曹広当(あきしのしょうそうひろまさ)・澄月香車介(すづききょうしゃのすけ)・鞍馬海伝真賢(くらまかいでんさねかた)・無敵斎経緯(むてきさいたてぬき)・種(たね)子島中太正告(こじまちゅうたまさのり)とさらに紀内鬼平五景紀(きのうちきへいごかげとし)をトラ退治につかわそうとした。
だが、広当は朝廷(みかど)の守護でひまがない、とおうじず、また澄月直道は休養中、とこれもこもったままだ。真賢・経緯・正告・景紀だけが姿をみせた。
政元は対面して、
「白川山のトラのことは、そのほうらもきいているだろう。予(よ)はすでに洛外(らくがい)にある狩人(かりうど)らにかりとるよう命じたものの、すこしの功もない。そのほうらにいま命じるが、おのおの鉄砲にすぐれた士卒三十人をひきいて、トラをしとめたなら、まえの恥はそそがれよう」という。
真賢と経緯はしばらくして、
御諚(ごじょう)をうけたまわりましたが、あのトラはほんものではなく、ふるびた絵からばけたものなので、ちからをもっては征(せい)しがたいのです。山狩りをもって生業(なりわい)とする狩人すらしとめることができないものを、われらには手だてがございません。ここにおる種子島中太は鉄砲をもって禄をはむものなので、狩人よりまさる手並(てなに)を見せるでしょう」とこたえた。
当の中太正告は、
「そういわれるが、あのトラが絵からぬけ出てあばれたとき、われらは鬼平五とともにうちとろうとしたが、人力ではどうすることもできない。また、そのあと洛中洛外をさがしたが、所在は知れず、ただ巽風(そんぷう)の首だけを見た奇怪さよ。いま白川山にいるという風聞であるが、深くかくれて影さえ見せない。このたびもむだにおわるのではないか」といい、さらに政元に、
「おそれおおいことですが、かのトラは加茂川(かもがわ)をわたって洛中にはいるのではないかと、市人(いちびと)どもは不安でおります。それで悪評が立ったのです。われらが鉄砲組の精兵を各四、五十人もしたがえて、一条から三条までの河原を守護したなら、市人どもも安心するでしょう。トラが山を出て川をわたってくれば、あいずをきめてうちとるのに好都合です」と意見をのべた。
その意見に景紀も膝(ひざ)をすすめて、
「正告のもうすことは、わたしの意見とおなじです。トラは山にすみます。京の山は如意嶽(にょいのたけ)・比叡(ひえい)・比良の高峰がつらなっております。そのひろくけわしい山道をたどっても、労おおくして功はありません。河原でトラをまつなら、地の利はすでにわれにありです」といった。
真賢・経緯も、河原の守護役をこうた。
政元は不本意だが、これをゆるして、
「それでは、そのほうらの請(こ)いにまかせて、市人どもが安堵するかどうか見さだめよう。海伝・無敵斎・中太・鬼平五らに、それぞれ五十人をしたがわせ、河原の守護役の頭人(とうにん)を命ずる」といった。
正告らはうけて、さがった。
だが、数日をへても、京の人びとの不安はさらず、
「トラのすむ山を背にして、河原をまもるとはなにごとだ。河太郎(かわたろう)(カッパ)を水トラというので、トラも水にすむとでもおもっているのか」と悪評だ。
政元は徳用(とくよう)と堅削(けんさく)をよび、
「和尚の大力(だいりき)はみな人の知るところだ。それに堅削の法力をくわえたなら、かならず大功があるだろう。あのトラを退治して、まえの恥をそそぐことだ」といった。徳用は思案して、
「そのことは、おおせられなくてものぞむところですが、あのような妖怪(ようかい)は、人力をもって征するより、有験(うげん)の祈祷(きとう)によるほうがよいとおもいます。もし拙僧(せっそう)に調伏(ちょうぶく)をおまかせくださるなら、一七日(いちしちにち)にして小験があり、二七日(にしちにち)に大験があらわれ、三七(さんしち)・二十一日にして、あのトラは自然と消滅して、人びとは安堵されるでしょう」と得意顔でいった。
政元はもともと修法をこのんだので、すぐさま承知した。
屋敷うちに護摩壇(ごまだん)をもうけて、徳用・堅削が祈祷をおこなった。一七日をへたがすこしも効験(しるし)はなく、すでに二七日もすぎたが洛中の不安はさらない。北白川の山里の村長(むらおさ)らが、政元の屋敷にまかり出て、
「あのトラはいまなお山中を横行しております。これではすべての里人は、生業をうしなって餓死(がし)してしまいます」とトラ退治を請願(せいがん)した。それが二度三度となった。
将軍家の義政(よしまさ)・義尚も、ことあるごとに政元にトラの件をとうた。政元は赤面するばかりだ。種子島正告らはすこしの役にもたたない。
政元はため息をつき、思案し、犬江親兵衛に白羽の矢をたてた。「いままで親兵衛をかんがえなかったのは、京都に人なしとおもわれるからだ。われながらおそかった」と一人なげき、近習にいいつけて、秘蔵の名馬にはなやかな鞍・あぶみをおかせ、これを庭にひきいれ、そのうえで親兵衛をよばせた。
親兵衛は衣服をととのえて出仕した。
政元は微笑をうかべて、
「きょうまねいたのは、そのほうにとらすものがあるからだ。まずあれを見よ」と馬を指さした。
その馬は通常の馬より三、四寸は高い。たてがみと尾と四足は雪のように白く、ほかは全身真黒で青みがかっている。政元は、
「親兵衛。あの馬は、安房国美馬郡(あわのくにみまのこおり)剣峰(つるぎのみね)から手にいれた竜馬(りゅうま)だ。予はこれに走帆(はしりほ)と名づけて、愛(め)でている。これは千里も走る。いま、予はこれをそのほうにあたえよう」という。
親兵衛はぬかずき、
「これはかたじけなき御賜物(みたまもの)、この馬は千里の駿足(しゅんそく)であることはまちがいないとおもいます。この毛色はみごとで、海洋(うみ)を走る白帆(しらほ)に似ていることから、そう名づけられたのでしょうが、まことにふさわしい名とぞんじます。このようなりっぱなものをわたしにたまわるのは、かたじけなき幸せです」とよろこびうけた。
政元は、
「親兵衛、これまでも世にもめずらしい品をあたえたが、それほどよろこばぬ《てい》であったのに、この馬のみをかようによろこびうけるのは、いかなるわけか」ととうた。親兵衛は、
「そのお疑いはごもっともですが、わたしが安房(あわ)におりましたころ、老侯(おおとの)(義実)からたまわりました名馬に、青海波(せいかいは)というのがおります。これもまた千里の駿足で、よくこの馬と似ているのです。その青海波に走帆とは、なにやら縁起のよいとりあわせとおもわれます。名まえがよろしいのみならず、わたしは海路をまいりましたので、青海波はひいてきておりません。おもいがけない千里の名馬をたまわったよろこびは、ほかのことではなく、この身に暇(いとま)をたまわり、安房にかえる機会をえましたなら、走帆にのり、千里の遠い道程(みちのり)も、ただ一日で、稲村の城に到着できる、とおもったからです」とこたえた。
政元は苦笑して、
「このようなものが役にたてば、予もまたうれしくおもうぞ。ところで、まだ話がある。さきにそのほうにも聞いたあの金岡(かなおか)の無瞳子(ひとみなし)というトラの絵が、来歴(らいれき)に疑いがあり、その絵の持ちぬし竹休巽風に命じ、トラの両眼にあらたに瞳(ひとみ)を点じさせた。
ところが、あやしむべし。くだんのトラは掛軸(かけじく)からぬけだし、人を害し、世をおどろかし、いまもなお白川山を棲処(すみか)にして、あそこにいる。このことは世の風聞で知っていよう。それゆえ予はこころをいため、あるいは狩人、あるいは勇士をつのって、トラを退治しようとした。あるいはまた、神祇(じんぎ)・陰陽(おんよう)両家の修法、名僧知識の加持祈祷(かじきとう)、その功徳をもってしずめようともしたが、人力・法力、ともに効験はない。世の悪評は予一身にあつまり、面目(めんぼく)をうしなっている。
そのほうはまれにみる勇士で、学問は広く知恵も深く、管家(かんけ)(菅原道真の家系)・江家(ごうけ)(大江音人(おうえのおとんど)の家系)の学者にもまさってたのもしい。そのほうなら、どのような方法で妖虎(ようこ)をしずめるか」ととうた。親兵衛は、
弱冠(じゃっかん)のわたしがおこたえいたしますのは、おこがましいのですが、おもうことをもうしましょう。元弘(げんこう)・建武(けんむ)の戦乱(みだれ)から、世は戦国のいまにいたり、臣たるものが君を弑(しい)し、子が親を害し、夫婦はそむきあい、兄弟が仇(あだ)となるのもしばしばございます。それゆえに、天変地妖(てんぺんちよう)がしばしばあらわれて、上一人(かみいちにん)から下万民(しもばんみん)にいましめをしめしても、仁政(じんせい)はいまだおこなわれず、かえって奢侈(おごり)をほしいままにして、えがたい貨(たから)をもてあそばれる。上(かみ)にならう、ゆえに、これにならって大利をえようとする奸民(かんみん)もすくなくないのです。
このたびのトラの絵の妖怪も、もとはここから出たことです。『道徳経(どうとくきょう)』というものの本にも、道をもって天下にのぞめば、鬼は鬼でなくなり、鬼が鬼でなくなれば、神は人をくるしめない、といいます。ものが千歳(ちとせ)をへると霊(れい)をもつようになり、霊のあるときは、かならずたたりをなすことになります。かの金岡の絵の妖虎もこれです。しかし明君が上におり、賢相(けんしょう)がこれをたすけて、道をもって民にのぞむならば、鬼も鬼でなくなり、人を害する憂いはないのです。
唐国(からくに)で、徳行としてきこえる宋均(そうきん)が九江(きゅうこう)の太守(たいしゅ)であったころ、その郡にトラがおおかったが、宋均は民に下知して、その檻(おり)と落とし穴をこわし、トラをふせぐことをやめたところ、そのあとトラは江(こう)をわたって、いなくなった、と故実にみえています。その身がつねに正しければ、法でしばらなくても民はみなしたがい、国をおさめ、家をととのえることができるのです。天下がたいらかなのも、またたいらかでないのも、ただこれ政事(まつりごと)のよしあしにあります。賢相(政元をいう)はこのことをこころにとめて、明君をたすけなされたなら、白川山のトラのことなど心配なされることはありません」といましめるようにいう。政元は、
「いま政事のよしあしについてきくのは、仇(あだ)を見てから槍のこじりをみがき、飢えをまえにしてイネをうえるのに似ているというものだ。すぐに役だつ手だてはないか」ととうた。
親兵衛は、一善をここになせば、その機は天地にわたり、一悪をくずし、しかも機がうごかぬということはない。すぐさま徳の流行することは、水がながれ、火がのぼることとおなじだ。仁政も国をおさめる近道で、きょう実行すれば、きょうかならず実現するものだ。とはいえ、政元がトラ退治のことだけをいそぐのなら、それをなすのもまたむずかしいことではない、とこたえた。それが政元のききたいところだ。
「それには、どのような手だてがあるか」ととうた。
親兵衛はこたえた。
「あのトラは古画の妖怪といっても、すでに霊があり、人をきずつけたので、かたちがあるのです。かたちのあるものなのに、弓矢・鉄砲がおよばないということは、それをおそれてちからをつくさないからです。もしまた陰鬼(いんき)の類で、人の目には見えるが、じつはかたちのないものならば、蟇目鳴弦(ひくめめいげん)の法術をもって、はらいしずめることができましょう」
政元は微笑して、
「不安がとけた。予のために白川山におもむいて、トラを退治してほしい。もし大功があれば、請(こ)いにまかせてほうびをとらせよう」といった。親兵衛は、
「わたしは逗留(とうりゅう)してひさしくなり、そのうえ結構なものをたまわりましたが、一介の功もないのをこころぐるしくおもっております。トラ退治の沙汰(さた)はわたしの面目です。幸いにそれをはたしましたなら、恩賞(おんしょう)はねがいませんが、安房にかえる暇をたまわりますよう」といった。政元としては、トラ退治をなしとげたら、自分の家臣にして領地をあたえるかんがえだ。
親兵衛は、さらにことばをついだ。
「わたしがご命令にしたがうのは、名誉や利益をえたいからではなく、この功をもって、安房へかえるための暇(いとま)をたまわりたいからです。そのおゆるしがいただけないのならば、たとえ首をとられても、トラ退治などごめんをこうむります。わたし一人がトラをもとめて山にはいっても、もしトラにあわなければ、日をへるだけで、飢死するかもしれません。また幸いにトラにあっても、わたしのちからがおよばず、いのちをうしなったら、世の笑いものになります。
このようにあぶない目にあうことを知りながら、ねがいのある身なので、トラ退治をおひきうけするのです。わたしの苦衷(くちゅう)をおさっしください」
政元は、親兵衛の忠心の気高さにうたれたものの、親兵衛をかえすこともおしくてならない。しかし、思案のすえに、帰東のねがいをゆるすことにした。
「親兵衛、その主(あるじ)をおもう忠誠心にかんじいった。トラ退治の大功をとげたなら、予が将軍家にもうしあげて、その身の暇をとらせよう。はやく山狩りの用意をするがいい」と政元は沙汰した。
親兵衛は、はっとこたえて膝をすすめ、
「ただいまの暇の一言は、将軍家の台命(たいめい)とおなじことです。うたがうわけではありませんが、なお、おねがいがあります。わたしは、トラを退治したあと、ただちに近江路(おうみじ)におもむき、そのまま安房にかえります。唐崎(からさき)・坂本・逢坂(おうさか)・大津の四か所には関(せき)があるときいています。管領免許(かんれいめんきょ)の関手形(せきてがた)のない外藩の武士は出さない、ということです。いまその関手形をたまわりたいのです」とこうた。
政元はためらったが、親兵衛がさらにこうたので、近習に関手形をしたためさせた。トラ退治が成就(じょうじゅ)したときに関をとおす、とある。親兵衛は名馬走帆(はしりほ)にのり、屋敷を出た。そして、直塚紀二六(ひたつかきじろく)のとまっている旅篭(はたご)にむかった。その近くで紀二六の姿をみとめた。
親兵衛はわざと、もち売り、と声をかけ、腰の扇子(せんす)に矢立(やたて)の筆をとってしるし、これを三条の宿の客、姥雪代四郎(おばゆきよしろう)にわたしてほしい、といった。
話はかわる。
悪僧徳用は弟子竪削とともに、白川山の妖虎を調伏する祈祷をつづけたが、効験がなく疲労するばかりだ。そのとき、犬江親兵衛がトラ退治の沙汰をうけ、下賜(かし)された名馬走帆にのり、一人出立(しゅったつ)したと耳にした徳用らは、あわてた。
徳用は声をひそめていった。
「あの親兵衛は憎い。また、祈祷も失敗したらしい。これでは主君にうとまれて、他郷に追いやられるだろう。いっぽう、親兵衛がトラを退治したなら、郡をあたえられ、雪吹姫(ふぶきひめ)の女婿(むこ)となるかもしれない。そうなればおれたちが京にいても、あいつの下風(かふう)にたたされる。五人の勇士をさそって、あいつを闇討(やみう)ちにして、東国にはしろうか」
「いきがけの駄賃(だちん)ということもあります。いっそ雪吹姫をさらっていってたのしみ、そのあと遊女(あそびめ)に売れば両得でしょう」と堅削がわらいながらいう。徳用は、
「そこまでは、おもいつかなかった。雪吹姫がいなくなったら、親兵衛をしたって逐電した、と大爺(おやだま)(政元)はおもうだろうさ。おまえは、急病だといって宿所にもどって用意にかかり、それから加茂河原(かもがわら)にいき、正告・真賢・経緯の勇士らに、親兵衛をうちはたす今宵のはかりごとをつげるのだ。それから闇にまぎれてこの屋敷にちかづき、後門(からめて)の西のかた、赤松のある築(つい)垣(がき)のそとに出て、姫をさらってくるおれをまつのだ。こういうこともあろうかと親からぬすんだ百両が用意してある。親兵衛をうつ鉄砲をわすれるな」といった。竪削はうなずき、急病と称し、乗物で出ていった。
ここに、室町将軍(義尚)の外様(とざま)の家臣、澄月香車介直道がいる。親兵衛と槍をあわせてやぶれ、世の笑いものとなったばかりか、暇が出るとうわさされていた。直道はそのうらみがつのり、腹心(ふくしん)の六、七人の弟子をよび、
「親兵衛にまけたのは、おのれ一人ではない。それで深くはうらまないが、憎いのは景紀だ。かれがなまじっかわたしを助けようとしたので、同士討ちとなり、傷をおい、落馬もした。こうなれば遺恨(いこん)は景紀にある。それなのに、あいつはあやまらずに、正告・真賢・経緯らとともに荒(あれ)トラをふせぐためといい、兵数十人の頭人として賀茂河原の役を得たのは、口上手(くちじょうず)で得たのだ。あいつにも恥をかかせて、この腹だちをしずめようとおもう。それにははかりごとがあるのだ。それはしかじか……」といった。
さらにことばをつぎ、「いいか。あそこにいって、うわさをまいてみろ」と命じた。
このなかに順風耳九郎(おいかぜみみくろう)・千里眼八(ちさとがんぱち)という若ものがいる。それらが、ともにこたえた。
「いまおおせられた神出鬼没(しんしゅつきぼつ)のはかりごとは、かならずできるでしょう。われら七人も、もちろんお手つだいいたします。ご安心ください」という。
直道はよろこび、それではいそげ、と十両を耳九郎らにわたした。
順風耳九郎・千里眼八ら七人は、民家をたずねて流言をまいた。それが賀茂河原の正告・景紀・真賢・経緯らの陣屋につたわった。この四か所の兵どもはこのうわさをきき、おそれた。
「風聞で知ったが、北白川の村人の夢に、トラがあらわれてこういったそうだ。自分は、日の暮れに賀茂川をわたって、しばらく京であそびたい。河原を守護する紀内鬼平五景紀(きのうちきへいごかげとし)・種子島中太正告(たねこしまちゅうたまさのり)・鞍馬海伝(くらまかいでん)真賢(さねかた)・無敵斎経緯(むてきさいたてぬき)らは、年ごろ管領政元の恩顧(おんこ)をかさにきて不良の行いがきわめておおい。その手のものも、銭(ぜに)をほしがり、酒をのんでは市人(いちびと)をこまらせ、一人もよい人がいない。それで、自分が川をわたる日には、頭人・兵どもをみなごろしにしようとおもう。きょうの夕方、おまえらはあそこにいってみるがいい。
……そこで、目がさめた。これは一人だけでなく、二人も三人も、おなじ夜におなじ夢をみた、ということだ。トラがつげた日とは、きょうのことだ」と兵どもがいった。
種子島正告の配下の小頭人(こがしら)三田利吾師平(みたりあしへい)は、
「そうかといって、ここを立ち去ったなら、勤役(きんやく)をなおざりにした罪をうけるさ。こうなれば観音寺(かんのんじ)の城にいって、六角家(ろっかくけ)(高頼(たかより))に降参してしまおう。これより手はないぜ」といった。
兵どもは逃げじたくにかかった。比叡おろしがふき、河原の砂子(いさご)がまった。
「トラがうそぶけば風がおこる、というぞ。逃げろ、逃げろ」と近江路をさして走った。
まもなく日は西山にはいる。鞍馬真賢の手の小頭人、藻洲千重介(もずのちえすけ)も兵どもを見つめて、
「われわれがつれだって、観音寺の城におもむいても、首のないへビとおなじで、一手の長(おさ)が勇士でなければうけいれてはくれまい。それより、日ごろからわれわれをむごくののしりつかう四人の頭人を誅して、身を安全にしよう。それでは、二、三人が京都に走りかえり、館にうったえてこういうのだ。
『てまえらの頭人、種子島中太・紀内鬼平五・鞍馬海伝・無敵斎経緯は、河原の勤役の功がないので、罪になるとあやぶみ、おそれて、かえってともに逆心をおこし、ひそかに六角高頼としめしあわせて、大軍にさきがけて京都をせめようとしている。はやく討手(うって)のおん勢(ぜい)をもってからめとらなければ、一大事になる』とな。それで、かならず討手がむけられるだろう。
そのとき、われらはさきにすすみ、鉄砲をもって、頭人らを一人のこらずうちはたしたなら、われらのなかま二百人は、ほうびをたまわり、トラの心配もいらない」といった。
みな、これに同意した。京都に走るものがえらばれた。すでに、日は暮れはじめた。
流言のぬし、澄月香車介直道は、にわかに妻を離別し、三歳の子も妻につけた。五、七日をへて、耳九郎・眼八ら七人の弟子は、白川からもどってきて、流言の効果があらわれて、逐電(ちくでん)するものが出てきた、とつげた。直道はよろこび、若い弟子二人に酒樽(さかだる)をもたせて、その夕方に宿所を出た。

ここはふたたびトラをふせぐ陣屋のある賀茂河原。種子島中太正告・紀内鬼平五景紀・鞍馬海伝真賢・無敵斎経緯らのもとに話をもどす。
先刻、突風がたち、砂子がまい、天が暗くなった。しばらくして風がぴたりとやんだ。頭人らが河原を見ると、どうしたことか兵どもの姿がない。
頭人たちは、弟子たちに、「あいつらをおいかけて、つれてこい」と二、三人ずつ手わけしておわせた。
ところが、弟子たちも日が落ちても、もどらない。不安がつのるばかりだ。景紀・真賢・経緯は、ともに正告の陣屋にあつまって相談した。正告は、
「さきに徳用のはかりごとが堅削からつげられたのに、兵どもはトラのうわさで逃げだした」といった。
経緯は眉(まゆ)をひそめて、
「闇討ちのことはしばらくおくとして、風聞のようにトラが出てきたら、われわれだけでふせがなければならん」という。
真賢はわらって、わたしとあなたは臨時の役で、御(み)内人(うちびと)ではないので、兵どもがあなどっているのかもしれない、といった。それに景紀も、わたしも近習で、兵頭(ものがしら)ではないのであなどったのだろう、館(やかた)にうったえてやる、といきまく。
そこへ、澄月香車介直道が弟子二人をともなってきて、頭人たちに、
「さきの失敗で、営中の首尾がよろしからず、いまも出仕をとどめ、ひさしくこもっていたが、世上の風聞をきき、みなさんがたの安否(あんぴ)を知ろう、とひそかに出てきた」といった。景紀は、
「それはかたじけない。さきに親兵衛と試合したときの、つぶてのあやまちをもうしひらこうとおもっていたが、ご篭居(ろうきょ)ときき、遠慮していた。そのあとこの勤役で暇がなく……」とわびた。
正告・真腎・経緯もよろこびあった。それから兵どもの逐電をつげた。直道は、
「それは心配なことだ。夢ものがたりにおどろいて逃げたのだろう。夜があければ、もどってくるかもしれぬ。そうこころをいためるな。そうとは知らず、酒(さか)樽(だる)を持参した」という。
弟子二人が火をたき、酒をあたため、肴(さかな)とともにならべた。そして酌に立った。
正告・景紀、さらに真賢・経緯も、「これは憂いをはらう玉掃(たまばはき)だ」とたがいに盃(さかずき)をかさねた。
酔いがまわった。徳用・堅削のはかりごとなどわすれ、扇拍子で舌のまわらぬ歌をうたったが、酔いにたえきれず柱にもたれ、真賢は、ひじを枕に横になった。ただ直道だけは、はじめから多く盃をうけない。それでいて、景紀にはしきりにすすめた。景紀は、
「もうむりだ。この大杯(たいはい)で《どろ》のようになった。いのちをとられても飲めない」とこばんだ。
直道はあざわらって、
「それならのぞみどおりにいのちをとろうか。つぶてのうらみ、うけてみよ」と、ぬきうちに景紀の首をはねた。血煙(ちけむり)がたった。経緯らはおどろき、
「直道、狼藉(ろうぜき)するな」と、くみふせようとした。直道は刀をはらった。経緯は傷をおった。正告・真賢もおどろいて刀をとり、直道をうとうとする。これに、二人の弟子が刀をぬきあわせる。
正告・真賢はその二人をきりすて、経緯をたすけ、直道をうとうとした。直道は、三人の敵にきりたてられて、数か所に深手をおった。
そこへ直道の弟子五人と、千里眼八・順風耳九郎らが、手槍(てやり)を手にどっとせめいった。耳九郎は、経緯を一槍でさしころした。このいきおいにのった眼八らも、正告・真賢をせめたてた。正告・真賢とて勇者だ。ともに深手をおいながら、六人の敵をひきうけてたたかった。耳九郎らも傷をおった。
そこへさきに逐電した小頭人三田利吾師平(みたりあしへい)・藻洲(もずの)千重介(ちえすけ)は、兵二、三人を京へうったえに走らせてから、正告ら頭人はどうしているか、とようすをうかがいにきた。兵二十人に鉄砲・しのびたいまつを用意させて、ひそかにきたのだ。
正告の陣屋をのぞくと、正告・真賢・経緯が、鮮血にまみれて五、六人の敵とたたかっている。景紀は、すでにうたれている。吾師平・千重介は、この戦いの事情を知らないので、よい折だ、とあざわらって、兵らにささやき、陣屋の前後から二十挺(ちょう)の鉄砲を発砲させた。敵は直道以下六人。みかたの正告ら二人は、うたれて、たおれた。

第百四十五回 わるだくみ……雪吹姫(ふぶきひめ)の誘拐

藻洲千重介(もずのちえすけ)・三田利吾師平(みたりあしへい)は、二十人ばかりのなかまのたすけで、頭人(とうにん)ならびに澄月(すずき)の師弟を鉄砲でみなごろしにした。そこへ、これも逐電(ちくでん)した百七、八十人の兵が、不安なままもどってきた。千重介は、
「いましがた、頭人四人と香車介(きょうしゃのすけ)ら師弟六、七人がたたかっていたので、それを鉄砲で一度にしまつした」といい、さらに、
「四人の頭人と香車介らがなぜたたかったのか、わけは知らんが、この主客の首五つをもって館(やかた)にまいろう。すでにうったえ出たように、正告(まさのり)・景紀(かげとし)・真賢(さねかた)・経緯(たてぬき)の謀反にくみした澄月香車介直道も、弟子六、七人とともにこよいひそかに陣屋(じんや)にきて、ともに観音寺(かんのんじ)の城へ走ろう、とおれたちをさそったが、これをこばみ、鉄砲でうちとったともうせば、首尾がかなうだろう。問われたときに、口をあわせよ」といった。
みなこれをきいてよろこび、それでは首をはねよう、という。そこへ、四人の頭人の弟子が十人ばかりきた。突風がふいたとき、兵どもの姿が見えなくなったので、追いかけたものたちだ。このものたちは、まだ頭人の死を知らずに、
「おまえら、どこへいっていたのだ。われわれがさがしていたのを知らなかったのか。たわけものめ!」とどなりながら、ちかづいてきた。
千重介・吾師平は、なかまの兵に、鉄砲をうて、といった。二、三十挺の鉄砲が一度になった。頭人の弟子たちも、みなうたれて息たえた。
千重介はわらいながら、
「これで秘密を知るものはない。われらは五つの首をもって館にまいり、功をもうしあげよう。百人は三田利とともにここでまて、ほかはおれといっしょにいこう」という。吾師平が、
「いや、もしトラがきたらどうする。きょうの功はみな平等だ。いっしょにいこう」というと、みな、そうだとこたえた。で、千重介も同意し、正告・景紀・真賢・経緯・直道らの首をはね、それをもち、二百人のなかまと西陣(にしじん)にむかった。
その途中、政元の下知(げち)で正告らをとらえようとする一隊と出あった。これは千重介・吾師平らが、さきになかまをはしらせ、四人の頭人に逆心あり、と政元にうったえでたことによる出兵である。一隊の兵頭(ものがしら)は、野見鳥真名五郎(のみとりまなごろう)梭条(おさえだ)で、兵四、五百人をしたがえ、自分は馬上の人である。千重介・吾師平は、しかじかとつげ、四人の頭人の首と直道の首を実検にはいった。
真名五郎はよろこび、
「それなら、三田利吾師平はその隊の兵どもと西陣にまいり、うちとった逆徒五人の首をご覧にそなえよ。また藻洲千重介ら二、三十人は、ここからわたしにしたがって河原に案内せよ。逆徒を誅(ちゅう)したものの、観音寺の敵が気になる。わたしは、河原で非常のときにそなえよう」と命じた。吾師平は、その一隊とともに首をもって西陣にむかい、千重介らは、真名五郎の案内に立った。
野見鳥真名五郎梭条(おさえだ)は、賀茂河原(かもがわら)につくと、種子島中太正告の陣屋にはいって見た。逆徒三十人のしかばねをひきおこすと、みな鉄砲傷ではなく、刀傷らしい。真名五郎は疑いをもった。直道の弟子で、まだ息のあるものが一人いるのを見つけると、用意の薬をすすめたりした。また、正告ら頭人のしかばねは、鉄砲傷だ。
もう一人の弟子が股(また)をうたれていたが、われにかえり、詳細をかたった。真名五郎は、このものを陣屋にたすけいれて、さきの息のある弟子にたずねた。この弟子は品塚赤四郎(しなづかあかしろう)という。赤四郎はすべてをかたった。股をうたれていたのは、花下仇太郎(はなしたあだたろう)だ。
真名五郎は、赤四郎・仇太郎から聞きとると、ため息をはき、「千重介・吾師平らの悪知恵はゆるせん。一人のこらずからめとれ」と下知した。
千重介らはたちまち数珠(じゅず)つなぎとなった。真名五郎は、その兵たちをいためつけて、吾師平・千重介のはかりごとをききとり、これらを獄舎(ひとや)につながせた。
真名五郎は、主君政元にくだんのしまつをつたえた。政元はおどろき、つぎの日に将軍家(義尚)に言上(ごんじょう)した。さらに政元は、澄月直道の宿所に首実検使をつかわした。その使者は、
「直道は、さる日、妻に幼い女児をしたがわせて、離別しています」とこたえた。宿所には三人の下女がいる。家のなかをさがすと、直道の書き置きがみつかった。これには、紀内(きのうち)景紀にうらみをかえしたい、としるされており、品塚赤四郎のいうところと符合する。正告ら頭人は犬死とされ、その家族も洛外(らくがい)に追われた。頭人をうちころした兵どもは、首をはねられた。ほかは流罪(るざい)となった。ただ赤四郎・仇太郎はかたわになり死罪をまぬがれたが、出家して一人は北嵯峨(きたさが)の観音の堂守(どうもり)、一人は道ばたで写経をしながら一行一銭のほどこしをえて、半生をおくったそうだ。
いっぽう、悪僧徳用(とくよう)は、弟子堅削に秘密をさずけて、使いに出して時をすごした。夜がふけて、奥はしずかだ。雪吹姫の臥房(ふしど)には二人の女房が宿直(とのい)している。徳用がそれをうかがって、つぎの間(ま)からそっと、
「そこにおられるかたに、ものをもうす」といった。
女房らはその声が徳用とわかり、はい、とこたえた。そして一人の女房が、つぎの間に出てくると、徳用は身をひそませて、やりすごし、両手で背から首をしめた。女房は、声もたてずに息たえた。もう一人の女房も、よびだしてしめころした。
それから、徳用はわらいながら雪吹姫の臥房にはいった。雪吹姫はめざめて、声をたてようとしたが、手ばやくさるぐつわをかまされた。このまえ姫の平癒(へいゆ)の祈祷(きとう)にもちいた般若櫃(はんにゃびつ)が、目についた。徳用は、これに雪吹姫をおしこんでふたをした。人をよぶときの鈴の太緒(ふとお)が、たばねて柱にかけてある。徳用はこれをきりとって、櫃にからげて背負った。
徳用は、雨戸をはずして庭に出た。堅削と約束した築垣(ついがき)のほとりにいき、あいずの小石をなげた。堅削も小石をなげかえしてきた。徳用は櫃(ひつ)をおろし、太緒をなげて松の枝にかけ、こずえ近くひきあげてから、自分も松によじのぼり、しずかに櫃をむこうがわへたぐりおろした。そとでは堅削が鉄(くろがね)の鹿杖(かせづえ)を溝(みぞ)にわたしてちかづき、櫃をうけとった。
そこへ徳用がきた。二人は鉄の鹿杖を櫃にさしわたして、前とうしろで肩をいれてかついだ。
賀茂川の大橋をわたって、吉田の森のあたりをすぎると、しばらくやすんだ。徳用は、雪吹姫をぬすみだし、般若櫃(はんにゃびつ)におしこめた、と堅削につげた。堅削も、
拙僧(せっそう)は、さきに河原の陣屋におもむき、四人の頭人に、こよい犬江親兵衛をうちとるという密議をつたえますと、みなよろこびました。とくに種子島(たねこじま)は、『親兵衛をうちはたそうとおもっていたが、秋篠広当(あきしのひろまさ)が同意せず、それに君侯(との)もゆるされないので、くちおしかった。和尚のもくろみはいい。われら四人には、兵ども二百、それに和尚師弟の勇気がある。あいつをしまつして、しかばねをかくしておけば、トラにくわれたとおもわれるだろう』ともうされました。これをきいた鞍馬・紀内・無敵斎は、みなともにわらって、『それならこよいは犬江をかならずうちとろう。このことを師僧につたえ、山道でまってほしい』とかたく約束されました」とつげた。
徳用はうなずき、それではひと走りして陣屋にいき、出立したかどうか見てくるがいい、といった。堅削は河原に走った。しばらくしてもどってきて、
「頭人たちはすでに山道にはいったのでしょうか。人影もたえてさみしいようです」といった。
徳用・竪削も、千重介・吾師平が頭人の首をもって、なかまと西陣におもむいたあとだということを知らない。徳用は、
「それではわれらをまっているだろう。おいつこう」と鉄砲に火縄(ひなわ)をつける用意をし、櫃をかつぎながら白川の山道をのぼった。十町ばかりくると、荒れ堂が見えた。徳用は、
「竪削、まて。手足がつかれてはならぬ」と声をかけた。堅削も足をとめて、
「この櫃を堂内におき、頭人たちとともにうらみをかえして、そのあとではこんでいきましょう」といって、ともにこの小堂の板縁(いたべり)に櫃をすえた。
堂には青面堂(せいめんどう)の扁額(へんがく)がかかげてある。
堅削は月の光にそれを見て、
「ほう。この本尊(ほんぞん)は、青面金剛庚申殿(せいめんこんごうこうしんどの)か。庚申ならば盗物(とりもの)をあずかっても、おかしくはない。金比羅(こんぴら)でなくてよかったさ」という。徳用は、
「もうだいぶおそくなった。ちょっと空腹になってきた。その用意はしなかったか」ととうと、竪削は、
「ありますよ、ありますよ。拙僧も、もちろん空腹です」といいながら、旅づつみをとき、ふたつの割篭(わりご)をとりだした。徳用は手にせず、
「拙僧はともかく、病後の雪吹姫は、道すがら櫃におしこめられて苦しいだろう。しばらくここにたすけだして、割篭(わりご)をすすめよう」という。堅削はわらって、
「ここで時をとるのはいけません。顔をちょっと見るだけになされては……?」といって、櫃にかけた太緒(ふとお)をとき、ふたをあけた。徳用が雪吹姫を櫃から出すと、姫は悲しさとくちおしさに涙をながす。だが、さるぐつわでものをいうこともできない。屠所(としょ)にひかれるヒツジとおなじだ。背に手をしばられているので、額(ひたい)を膝(ひざ)にあてて泣きしずむばかりだ。
徳用はうしろからだきおこし、ひげでほおずりして、甘いことばでなぐさめる。堅削はいらだって、
「師よ。連歌(れんが)の付句(つけく)ではありませんが、恋も無常も折にぞよらん、ですぞ。はやく腹ごしらえをして、いそぎましょう」とうながした。
そのときだ。前方にしげる枯尾花(かれおばな)が、風でもあるのか、さやさやとそよぐ音がした。堅削はおどろき、そのほうを見た。トラがあらわれたのだ。金毛白額(きんもうはくがく)、鏡のような眼(まなこ)の光がすさまじい。爪(つめ)をはり、尾をたて、走りかかるいきおいだ。徳用も胆(きも)をつぶして、姫をうちすて、身をおこし、六十斤(きん)の鉄杖(てつじょう)をとり、身がまえた。竪削も鉄砲をむけ、二つ弾丸(だま)をうちかけた。
トラはものともせず、堅削の片足をふっとかみきった。徳用は逃げようとしても逃げられない。もった鉄杖をとりなおし、縁側からひらりとおどり出た。トラも、雷光(らいこう)がひらめくように徳用の頭のうえをとびこえ、いきなり右の腕を一口にかみとった。鮮血がながれた。
トラはたおれたものを二度と見かえらず、人の丈より高い枯草のなかに姿を消した。

話は京の町にうつる。
直塚紀二六(ひたつかきじろく)は、親兵衛から姥雪代四郎(おばゆきよしろう)に扇子をわたしてくれ、とたのまれ、三条の旅篭にきた。代四郎はその扇子をひらいた。その扇面(せんめん)に文字があった。
政元の請(こ)いで、白川山のトラを退治しに夕方出立する。姫神(ひめがみ)の冥助(めいじょ)によってことをなしたなら、ただちに坂本(さかもと)をくだり、木曽路(きそじ)をへて安房(あわ)にかえる。で、代四郎らは管領家の木札をもって、ともに唐崎(からさき)の関(せき)をすぎ、坂本のほうで親兵衛をまつように、との文意である。
代四郎はくりかえしよみ、紀二六に、
「トラの風聞は耳にしているが、腕におぼえのあるものも、いのちをうしなうという。犬江どのは凡夫(ぼんぷ)ではなく、それに仁(じん)の霊玉(れいぎょく)を所持されている。また姫神の冥助もあるので、トラがふしぎな妖怪でも、かならず退治なさるだろう。そうかといっても、われらがそれを知っていながら、坂本にまいり、ただまっていていいのだろうか」といった。紀二六は、
「そうですね。てまえの思案もおなじです。だが、犬江どののことばにしたがわなければ、かならずしかられるでしょう。で、犬江どのにもそむかずに、このことをなすには、その従者(ともびと)・若党らをいまから坂本にやり、またせるのです。また姥雪おじとてまえは、五人の兵とともに、この夕方から山道にわけいり、見えがくれに犬江どのの供をするのです。この思案はどうです?」という。代四郎は、
「それはいい。従者はいらないが、犬江どのの槍(やり)と鎧櫃(よろいびつ)は必要だろう。槍は用心のためにもっていこう。鎧櫃は若党一人にせおわせよう」といって、従者らをよび、しかじかとつげて、
「五人はわれらとともに白川山におもむき、見えがくれに供をするのだ。またほかのものは、この宿を立ち去って近江路(おうみじ)にまいり、坂本で犬江どのをまってほしい」と、木札のこと、槍・鎧櫃のこと、唐崎・坂本の関をとおるときの関守の問いにこたえるあらましなども、かたってきかせた。従者・若党らも、こころえました、という。
代四郎は、従者らに路用をとらせた。紀二六は木札をわたして、
「北白川から唐崎ごえをするのが近道でよいが、トラが出るおそれがあるので、膳所(ぜぜ)・瀬田(せた)から湖辺(うみべ)に出て、はやくあの関をこえるがいい。道中で日が暮れぬよう、いそげ」と追いたてる。従者たちは、紀二六がとどまるのをいぶかったが、暇(いとま)ごいしながら出立した。
代四郎・紀二六の、そのあとの物語はいかに。

第百四十六回 姫神伝授(ひめがみでんじゅ)の神薬(しんやく)……紀二六(きじろく)らのはたらき

姥雪代四郎(おばゆきよしろう)は、直塚紀二六(ひたつかきじろく)と相談がすむと、親兵衛の若党らを坂本のほうへつかわした。そのとき代四郎は紀二六に、
「あの白川のトラは、狩人(かりうど)らの鉄砲でもおよひがたいというのに、われわれがそこへいっても、なにをもってふせごう。さきにわたしは犬江どのと、人跡(じんせき)のたえた富山の洞(ほら)に六年をおくったが、猛獣毒蛇(もうじゅうどくじゃ)の害がなかったのは、伏姫神の擁護(ようご)によるものだ。いまもなお、わが姫の冥助(めいじょ)によって、のがれることはできようが、それにしても用心は肝要(かんよう)だぞ」といった。紀二六は、
「もっともです。神のたすけをそらだのみにして、武具をもたないのは、あわてものに似ています。そうかといって、退治のためでなく、ただ身をまもるだけですから、手に手に用心棒(ようじんぼう)をもち、たいまつの用意をしましょう」という。
代四郎はうなずき、兵二、三人にも、しかじかとつげて、「おまえたちは、カシの棒を六本ばかりと、たいまつをおおく買いもとめてくるがいい」といいつけ、銭(ぜに)をあたえた。
そのあと旅篭(はたご)の主人をよび、代四郎は、
「われらの主人犬江どのは、この地でのご用がすんだので、身の暇(いとま)をたまわり、あすは帰路につかれる。で、われらは夕方からそこへまいって、主人の供をするので、夕膳(ゆうぜん)のほか割篭(わりご)を用意してくれ」といって、宿銭(やどせん)のしはらいをすませた。紀二六は、
「五条の旅篭にかえって、したくをして、またまいります」といそがしく出ていった。
七つさがり(午後四時)すぎになったころ、兵らがカシの棒、たいまつなどをもとめてもどった。ともに夕膳の箸(はし)をとり、さらに割篭をうけとった。
そこへ紀二六は、肱盾(こて)・臑盾(すねあて)に身をかため、両刀を腰にさしてきた。代四郎と兵五人も、身ごしらえをしてまっていた。
川風の寒い灯(ひ)ともしごろ、代四郎らは旅篭の主人に暇(いとま)ごいをして、出立した。二人の兵は、二つの具足櫃(ぐそくびつ)をわけてせおい、またほかの二人の兵も、たいまつ材と割篭をふろしきにつつんでせおった。紀二六は親兵衛の槍を肩にし、のこった兵は旅づつみをせおった。老人の代四郎は、なにもせおわない。
人びとは、ひそかに三条の大橋をわたり、白川の山道をのぼっていった。夜はふけた。みんなこころをくばり、手に手にたいまつをてらし、はやく親兵衛にあいたいとおもうが、不案内の深山路(みやまじ)は闇夜で、たれた木の枝にさえぎられ、つまれた石がじゃまをして、あゆみは遅々(ちち)としてはかどらない。
月が出てきた。もう丑(うし)三つの時刻かとおもうころ、宵(よい)に通ったふもとから十町ばかりいったところの荒れ堂のほとりで、さきに立った兵がすべってころび、さけび声をあげた。代四郎・紀二六らもおどろきながら、たいまつをあげてあたりを見た。鮮血がながれていて、地図の境のようだ。前方には、二人の僧(そう)がたおれている。一人は右の腕をうしない、一人は片足をちぎられて、生死(いきじに)はわからない。そのそばに、鮮血でしるされた獣(けもの)のおおきな足跡が三つ、四つある。
「この僧らは、かのトラにかまれたのではないか」とみんなおどろく。代四郎・紀二六は、またたいまつをあげて、僧の顔を見た。左右川(まてがわ)のほとりでみとめた、徳用と堅削だ。
「ああ、無残だ。この悪僧の天罰としても………」という。ひきおこすと、まだ息はあるようだったが、代四郎は、そのままにした。
代四郎は、紀二六らを見かえり、
「さぞつかれたろう。しばし休息するか」と、半分くちた荒れ堂の階(きざはし)に足をかけてのぼろうとすると、堂内に、いともあでやかな一人の娘が、さるぐつわをかまされ、両手をうしろにしばられている。気をうしない、髪がみだれて、ふしたままで息もつかない。
代四郎は紀二六らにつげて、堂内にはいった。一人がその娘をしずかにだきおこした。歳は十六ばかりの美女だ。長い黒髪がかぐわしい。その衣服も京都(みやこ)びており、市井(しせい)の娘ではない。紀二六は、
「姥雪おじよ、てまえは耳にしたことがあります。政元どのが、養女として雪吹姫(ふぶきひめ)という今出川どの(義(よし)視(み))の妾腹(しょうふく)の娘をむかえた、というのです。ことし十六歳ばかりといいます。てまえがおもうには、その姫をこの悪僧らがぬすみとり、ここまでやってきて、トラと出あったのではないでしょうか」という。
代四郎はうなずき、
「まず、この娘をよんでみよう」と、さるぐつわと縄(なわ)をとき、「みんな、よべ!」といって、右から左からよびかけた。だが、脈はたえ、全身が冷えたままだ。
代四郎は、
「よしよし、わたしに手だてがある。犬江どのとわかれるとき、万が一のためにと、姫神伝授の神薬をちょうだいしている。定命(じょうみょう)にかぎりはあるが、ひとたびはその死をかえして、かならず息をふきかえすという、世にえがたい仙丹(せんたん)だ」と、腰につけた薬篭(やくろう)をとりだし、仙丹をすこしばかり娘の口中にいれた。紀二六は清水(しみず)をくみ、ともにその口にそそぎいれた。また半刻(はんとき)ばかり、よびかけた。
やがて、娘の脈はうちはじめ、全身がぬくもり、目をひらき、息をつき、あたりを見て、
「これは、どなたですか」ととう。代四郎は、
「気がつかれたか。われらは、安房の里見の使者(つかいびと)、犬江親兵衛の従者(ともびと)だ。こよい主人にあおうと山にのぼってきたが、いまだ主人にはあえずに、おん身の死んだ姿に出あった。で、それを見るにしのびず、幸いもちあわせた起死回生の神薬で、息をふきかえされた」とつげた。
紀二六はことばをつぎ、
「さっするに、おん身は西陣(にしじん)の管領家のおん娘、雪(ふ)吹(ぶき)とよばれる姫ではないだろうか。そして、悪僧らにうばわれてきたのでは……?」ととうた。
娘は涙を袂(たもと)でぬぐい、
「おさっしのように、わたしは政元の養女雪吹です。こよい床についたあと、徳用がしのびこみ、むりやりこの櫃(ひつ)にいれられて、この荒れ堂にすえおかれました。そして、二人の荒法師らにはずかしめをうける難儀がせまったのですが、そこへ大トラがあらわれて、徳用・堅削の手足をかみ、血にまみれたので、わたしは胸がつぶれてそのまま息たえたのか、そのあとのことはわかりません。ここはどこなのか、また、わたしのいのちの恩人の、そなたの名まえをきかせてください。それから、屋敷につれてかえってほしいのです」といいながら、袖に涙をちらした。
それを代四郎はなぐさめて、
「やはり姫上でございましたか。てまえは姥雪代四郎与保(ともやす)、またこれなるは直塚紀二六、それに兵五人、みな、安房の稲村から主人犬江親兵衛にしたがってきた従者です。この月ごろから三条の旅篭におりましたが、きょう犬江親兵衛は、相公(との)(政元をいう)にたのまれ、こよい一人でトラを退治するため、この白川の深山路にはいれとつげられたが、供(とも)はゆるされず、しかじかのところでまて、というさしずでした。しかしわれら七人は、宵からこの山にのぼり、ひそかに主人をたずねてきて、悪僧らのたおれている姿を見つけ、さらにまた、おん身の息たえている姿を見るにしのびず、神薬をさしあげたのです。かならずおくりとどけますから、こころをつよくしてください」という。
それから紀二六に、
「姫上をおつれするには、そなたではさしさわりがあるだろう。わたしが、兵二人とともに西陣の屋敷へいこう。さて、あの徳用らの悪のかぎりは承知しているが、さらに責めたてたなら白状するだろう。だが、半死半生で口がきけない。また、このままでは死ぬだろう。これもおしい」といって、ふたたび薬篭から神薬をとりだし、「この神薬をあいつらにやるのはおしいが、ちょっとばかりならいいだろう」といってわたした。紀二六は、
「それでは、姥雪おじは、兵たち二人に姫上をかつがせ、もう一人にたいまつをもたせて、山道をいそぎなされ」という。代四郎は、
「いや、たいまつはわたしがもとう。ここはトラの出るおそれがあるので、一人でも多くとどめておこう」というと、紀二六は、
「あれをごらんなさい。重さ六十斤(きん)という徳用の鉄(くろがね)の杖(つえ)、堅削の鉄砲一挺(ちょう)が僧らのそばにころがっています。やつらも、はじめは用心したとおもわれます。われらは、命運を天にまかせて、おじらのかえるのをまつだけです。いまは、姫上を無事おつれするのが先決です。三人をともなって、いってくだされ」としきりにすすめた。
代四郎はこのすすめにおうじた。それから雪吹姫に、
「ふいのお供(とも)で、乗物の用意をしておりませんので、きゅうくつでしょうが、この般若櫃(はんにゃびつ)におのりになってください。お館(やかた)にかえりましょう。いざ、いざ」といそがせた。
雪吹姫はうなずき、
「おもいがけない情(なさけ)にうれしくおもいます。そなたがたの主人犬江とやらの忠信義勇のあらましは、人のうわさできいています。その人につかえるそなたたちなので、義侠(ぎきょう)もうなずけます。それにしてもにくむべきは徳用と堅削です。かれらは館(やかた)に俗縁があるので、清白持戒(せいはくじかい)の勇僧とおもっていたのですが、今宵の淫悪(いんあく)、破戒無慙(はかいむざん)の業報(ごうほう)はてきめんで、トラにかまれて手足をうしなったのは天罰でしょう。館にこれらのことをもうしあげれば、そなたらには、他日ほうびの沙汰がありましょう」という。
代四郎はそれにこたえ、
「いや、てまえどもは義をおもんじることが本性で、ごほうびなどは願わないのです。ただこの月ごろ、主人親兵衛が管領さまにたまわりました恩にむくいる一助ともなれば、よろこび、このうえはありません。はやくまいりましょう」とすすめた。
二人の兵は、般若櫃(はんにゃびつ)を一本の棒にゆわえつけ、これに両肩をいれ、雪吹姫をのせた。一人の兵はたいまつをもち、先頭に立った。代四郎は、雪吹姫にそい、西陣をさして出立した。あとにのこった紀二六は、二人の兵にしかじかとつげて、神薬を徳用・堅削の口にいれ、また水をそそぎ、のませた。
すると徳用・堅削は、われにかえり、紀二六を見て、「おぬしはどこの人か」といぶかってとうた。
紀二六は、
「長老ら、気持ちはいかがか。われわれは、西陣の館につかえる足軽で、なにがしというものです。おん身らの逐電(ちくでん)のことをきき、香西どのの密意(みつい)をうけて、われら二十余人が、八方へ手わけしておいかけましたが、そのうちの三人が、この白川ごえにさしむけられてきたのです。ここはトラの出るおそれがあるといわれているところで、難儀なお役をわりあてられたのです。おそるおそるこの山道を十町あまりのぼってきますと、この荒れ堂のほとりでおん身らが血にまみれてたおれているのを見つけました。おどろいてよびかけましたが、気息がなく、幸いふところに神薬があるのをおもいだし、これをもちいましたら、蘇生(そせい)なされたのです」という。徳用はうなずき、
「それは大儀だった。それで、わが親はなにかもうされたか」
「そのことですが、われわれは公(おおやけ)の追手(おって)ではありません。香西どのがもうされるには、徳用らは、急のかけおちなので、路用もすくないだろう。おまえたちはひそかにおいかけ、かれらにあったなら、この金をわたしてもどり、そっとわれにつげよ。時がきたら、おまえらにも職役(しょくやく)をさずけよう、とおおせられたのです。あうことはあいましたが、おん身らはトラに手足をかまれ、どこへ行くこともできません。もし館より、まことの追手がきたらどうなさいます」とあざむいて紀二六がいった。
堅削は徳用にそっと、
「長老よ、この人たちはこっちのみかたですから、かくすこともないでしょう。あの姫はどうしたでしょうか」というと、徳用は紀二六に、
「この堂内に一人の娘をとりこめておいたはずだが、知らないか」ととうた。
紀二六は首をふって、いや、そのような人はいない、とこたえた。二人の悪僧は、雪吹がトラにくわれた、と舌うちした。
それから徳用は、
「拙僧の薄幸(ふしあわせ)をきいてほしい。拙僧は里見の使者の犬江めにうらみがあるのだ。で、しばしば密訴(みっそ)したが、館(政元)はあいつをかわいがり、拙僧のことばをうけいれない。そこで、河原の頭人(とうにん)種子島中太正告(たねこじまちゅうたまさのり)らと、こよいひそかにしめしあわせ、ともに山道にはいり、犬江をうちはたしてから、弟子堅削と東国に走ろうとおもった。さらに竪削の意見で、雪吹をさらって櫃(ひつ)にかくし、ここまできた。ところが犬江にあわずにトラにあい、ともに手足をかまれ、拙僧の意中の人もトラにくわれたらしい。そこでおたのみしたいのだが、拙僧らを坂本までおくりとどけてほしい」といった。
竪削も、坂本までおくりとどけてくれたなら、金子(きんす)をあたえる、という。
紀二六はあざわらって、
「おれは香西復六の使いではない、じつは里見家の使者蜑崎十一郎照文(あまざきじゅういちろうてるふみ)の従者で、直塚紀二六(ひたつかきじろく)だ」といい、ひそかに犬江親兵衛の供をしようと、姥雪代四郎とともに山道にはいり、雪吹姫を救出し、これをとどけ、おまえらを蘇生させた、という。
徳用・竪削はおどろき、そしていかった。紀二六は、二人の僧を巨木にしばりつけ、
「犬江どのがいよいよあやうい。てまえはもときた山道をもどり、幸いに犬江どのにあうことができたなら、このことをつげよう。神出鬼没のトラがいる。夜もすがら火をたけ」といって、たいまつを手に、北白川のほうにいそいだ。

物語が二つにわかれる。
この日、犬江親兵衛は紀二六とわかれてから、そのまま馬をはやめて宿所にかえった。宿所の若党に走帆(はしりほ)に秣(まぐさ)をあたえるようにいい、座敷にすわり、そこへ二人の若党をよんだ。若党らは、すでに親兵衛がトラ退治の沙汰をうけたことを知っていて、
「トラ退治のための弓矢・鉄砲、その他必要なものがありましたら、用意してとらせるように、とも命じられております」という。親兵衛は、
「わたしは身一つでまいるので、ものは必要ではないが、ただ、よい弓を一張(ひとはり)と、十二本の矢がほしい。その矢にいささかこのみがある。十二本のうち十本の矢は、みなその鏃(やじり)をぬきとり、かたちをまるく木丸(きのたま)にしてほしい。それに秣(まぐさ)一袋と割篭(わりご)を用意してくれ」といった。若党は去った。
親兵衛は湯をあびて、そのあと夕膳の箸をとった。膳には酒肴(しゅこう)もそなえられた。
夕膳がすむと、身じたくにかかった。肌には南蛮鉄(なんばんてつ)のくさりをきくだし、おなじ生鉄(なまがね)の肱盾(こて)、筋金をうった臑盾(すねあて)のひもをむこうざまにむすび、上には綾小菱(あやこびし)の小袖に水色羽二重(はぶたえ)の小袖を下がさねにし、縹色(はなだいろ)の緞子(どんす)に笹縁(ささべり)のある野袴(のばかま)を裾短かにはき、姫神授与の短刀と小月形(こつきがた)の太刀を腰におび、左袖をからめて片だすきとした。弓を射るには好都合だ。
背には箙(えびら)に十二本の矢をななめにせおい、頭に銀(しろがね)の裏みがきの騎射笠(きしゃがさ)をいただき、足には麻織(あさおり)の草鞋(わらじ)をむすび、手には明製(みんせい)の半弓をにぎりしめている。
その姿は華美ではなく、気性凛然(きしょうりんぜん)としている、と人びとは感服した。割篭(わりご)を右の腰につけ、名馬走帆(はしりほ)にのる。秣(まぐさ)一袋は鞍下につるしてある。
親兵衛は屋敷の門を出た。若党らはわかれをおしみ、ささやいた。
「十万の敵をむかえて先頭にたち、槍をいれるのはかえってたやすく、いま、身一つでトラ退治の大功をあげるのはとてもむずかしい」
親兵衛は白川山に馬をすすめた。十町ばかりで日が暮れ、闇となった。しかしふところの仁の字の霊玉がゆくてをてらすので、山道にまようことはない。初更(しょこう)(午後七時)のころには白川のふもとまでき、まもなく白川の里もすぎた。道なき道の、九十九(つづら)折りの険阻(けんそ)をいとわずに走帆をすすめた。聞こえるのはながれる谷水の音だ。木の間からもれるのは星の光だ。
夜の山風は、面(おもて)をするどくよぎる。枝と枝のまじわるところでは、鞍に身をふせた。落葉をふむ音は、水のながれる音に似ている。夜半すぎごろだ。一行は、すでに山また山をめぐってきていた。ここは、むかし後白河天皇のために平家をうとうと密会した、法勝寺(ほうしょうじ)の執行(しゅうぎょう)、俊寛僧都(しゅんかんそうず)らの山荘のあとだ。人びとは、名づけて談合谷(だんごうだに)という。
そのときだ。風があるのか、前方にむらたつ枯草が、さやさやとそよいだ。馬がにわかにいななき狂うのを、親兵衛はしかとのりとどめて、箙から二本の矢をとり、左手に半弓をたばさみ、目をくばり、馬上で身がまえた。と、トラの一声がすさまじく峰をふるわせ、谷にひびき、牙(きば)をならし、爪をはり、眼(まなこ)をひからせて走りきた。走帆の後足をかみたおそうとおどりかかる。
親兵衛はすぐに馬をとばして、縦横にかけめぐった。馬も名におう走帆だ。トラのくるのを予知して、主人の意のままに走る。人馬の進退至妙(しみょう)だ。そこに老松の巨木がある。トラはその木に身をよせ、背を高くし、頭をたれて、すきができるのをまった。
親兵衛は、七、八間(けん)のところにきて、矢を弓につがえた。トラはたちまち頭をあげて、走りかかろうとした。親兵衛は、ひょうと射た。矢はたがわず、トラの左の眼をつらぬき、赤松の幹に四、五寸射こんだ。トラは一声高くたけり、その矢をぬこうともがく。親兵衛はすかさず二の矢を発し、右の眼を木の幹までつらぬいた。トラは両眼を射られてすくみ、尾をうごかすだけだ。
親兵衛は馬からおりて走っていき、右のこぶしをにぎりかためてトラの眉間(みけん)を三、四回《はた》とうった。トラは、骨がくだけて、なよなよとたおれた。

第百四十七回 関所やぶり……親兵衛、脱出する

犬江親兵衛は、トラの片耳をきりとり、ふところにおさめた。名馬走帆(はしりほ)は、もとのところにいる。親兵衛はちかづき、微笑しながら馬の額(ひたい)をなでて、つぶやく。
「この馬の足がすばやくなければ、わたしもたやすくトラ退治はできなかった。さきに老侯(おおとの)(義実)からたまわった青海波(せいかいは)におとらぬこよいのはたらき、功(いさお)のなかばは走帆だ」と、そのほとりの木の下につなぐ。
月の光で手ごろな石を見つけて、そのくぼみに秣(まぐさ)をいれ、また馬柄杓(ばひしゃく)で清水をくみ、走帆にあたえた。
しばらくすると、左の木の間から、光がはるかに見えた。直塚紀二六(ひたつかきじろく)である。紀二六は走ってきて、親兵衛に声をかけた。
「ごぶじでしたか。トラはどうしましたか」
「いや、特別のことはない。あとではなそう。それにしても、このような山道を夜中一人でよくこられたな。なにかあったのか」
「じつはしかじか……」と紀二六は、代四郎とかたりあい、老若(ろうにゃく)らをみな坂本にやったこと、紀二六・代四郎と兵五人は親兵衛にあおうとおもい、この山道にきたこと、また徳用・堅削のこと、雪吹姫(ふぶきひめ)のこと、それを救助したこと、徳用が種子島中太正告らとしめしあわせたことなどをかたり、
「姥雪おじは雪吹姫を屋敷におくりとどけようと、兵三人をしたがえて西陣におもむきました。てまえは、徳用・竪削を木の下にしばり、兵にまもらせ、正告らのことをはやくおつたえしようときたのです。幸いにも、ここでおあいできてうれしくおもいます」という。
親兵衛は、
「徳用らは天罰とでもいうべきだろう。京都(みやこ)の五虎(こ)とよばれる正告・真賢(さねかた)・経緯(たてぬき)らがねらいうってこようとも、おそれるにたらぬ。あれを見よ」といって、前面の木の下を指さした。紀二六が、いぶかりながらたいまつで照らすと、トラだ。金毛白額(きんもうはくがく)、一頭の猛獣が左右の眼(まなこ)を木の幹に射ぬかれてたおれていた。
紀二六は胆(きも)をつぶし、あわてた声をだし、これは、とよろこび、
「射られているのはトラです。くわしくおきかせください」という。親兵衛は、
「わたしは、今宵(こよい)から山道をあっちこっちとさがしもとめてきて、ここでトラを退治できた。しかしそれはわたしの武芸の功ではなく、義実・義成両館(りょうやかた)の威福(いふく)と、伏姫神の冥助によるものだ。この馬は走帆(はしりほ)といい、政元どのの愛(め)でものだったが、今朝わたしにたまわった。まだなれない馬だが、奔蹄神速(ほんていしんそく)、わたしの意にかなって、トラをちかづけなかったので、おもうままに矢を射ることができた。そのときのありさまはしかじか……」とくわしくのべ、さらにことばをつぎ、
「この馬を自由にあやつれたのも、伏姫神の冥助であろう。わたしには、はじめからかんがえがあった。トラはほんものではなく、巨勢金岡(こせのかなおか)の神筆でえがかれた絵だ。その絵のトラは、わざとその瞳(ひとみ)を点じなかったが、政元どのの気ままから、その絵の売主の巽風(そんぷう)に強制して、そのトラの瞳を点じさせた。このためトラが絵からたちまちぬけ出て、世をおどろかせた。狩人(かりゅうど)も京家の武士も、弓矢・鉄砲もむだにおわったのは、よく思案しなかったからだろう。そう早くも気がついたわたしは、トラの眼を射た。トラは両眼ともに深く射られて、その瞳をうしなったので、たちどころにたおれた。だが、その矢をぬけば、たちまちもとの掛軸(かけじく)にかけいることもあろうとおもって、矢をぬかず、人にみせたときの証(あかし)にしようとおもう。
このたびのトラが害をあたえたものは、巽風とやらをはじめとして、あるいは旅人・武士・狩人などだが、そのほとんどが悪人で、善人には害をあたえていない、といううわさを耳にしている。これは霊虎(れいこ)なので、おそうのはその人柄だけによっているのだ。かのトラは、わたしを見て逃げる気配もなく、害そうとしたのは、わたしもまた悪人だからか。わたしは、平常おこなうところ、仁義忠恕(じんぎちゅうじょ)をこころがけていたが、それに欠けるところがあるのか。また、わたしのたゆみないまごころをあわれみたまう神明仏陀(しんめいぶつだ)のちからをもって、トラに猛威(もうい)をふるわせてわたしに射させ、この功でふるさとにかえそうとなされたのか。こうさとると、それが疑いない。私が用意した矢は二本だけだ。その他の十本は鏃(やじり)をすて、木丸(きのたま)にかえた。このこころをさっしてほしい。トラに出あって矢を射たときに、一矢二矢があたらなければ、幾矢を射てもむだだ。もし時の運にかなったら、二矢でたりないことはない、と思案したからだ。また十本の鏃をぬきとり、木丸にしたのも、かんがえがあるからだ。
徳用・正告・真賢・直道・景紀らは、自分自身の未熟をおもわず、わたしをうらむこともあろう。わたしのこよいのトラ退治をきき知って、ねらいうとうとしようとするかもしれない。それなら、みな射てこらしめよう。しかし、あのものたちは、みんな政元どのとかかわりのある人たちだ。一人でも死なせては、またうらみをのこすことになり、わが君侯(くんこう)(義実・義成)のおんためによろしくない、とあえて殺さない用意をしておいた。はたしてかれらは、徳用のすすめで、ちからをあわせてわたしをうとうとしたのか。
だが、いまにも明け方になろうとしているのに、まだかれらにあわないのは、かれらの談合がまとまらないので、徳用と堅削は、はかなく虎害にあったのだろう」とかたった。
紀二六はききおわると、ほっと息をつき、
「まことに犬江どのの神機妙算(しんきみょうさん)の方策は、あたらないものはなく、至妙(しみょう)というほかはありません。すでに徳用・竪削は死人にひとしいので、心配はいりません。さらにあの五虎のものどもは、意見が一致せずにおわったのでしょう。二か所の関をこえるまで、てまえがおん供(とも)をつかまつります」という。
親兵衛は天をあおぎ、
「その必要はない。夜のあけるのも間近い。わたしは、唐崎(からさき)・坂本の新関(にいぜき)をすぎ、道をいそぎ、一日もはやく帰国したいのだ。そのほうは、ここで夜のあけるまでトラのしかばねをまもり、政元どのの使者がきたならわたしの本意をつたえ、トラをわたしてほしい。それから姥雪代四郎らと帰路につかれるがいい。わたしはトラを退治したので、政元どのがとどめようとしてもできない。そればかりか、姥雪ならびにそのほうも、雪吹姫を救出したことは、主従一致の功なので、わたしにつづいて暇(いとま)をとっても、なんらさわりはあるまい。わたしのいうとおりにしてほしい」といった。
紀二六は、
「それではそうしましょう。夜が長かったので空腹ではありませんか。てまえらが休息した荒れ堂には、もってきた割篭(わりご)があるのですが、いまは役にたちません」という。親兵衛は、
「いや、用意はしてあるが、わたしは万が一、用意がなくとも飢えはしない。伏姫神授与の神薬は、病いに効あるのみか、飢えにのぞむときこれを服するなら、幾日も飢えず千里の道も自由に走る馬とことならない、という。それをまだこころみていないので、このたびこそ、その神薬の奇効(きこう)をえようとおもっているからだ。わたしは、おん使いといっても敵中にいるようなものだ。それでさきに、姥雪にそっと神薬をわけてあたえておいた。それで雪吹姫のいのちをすくうことができた。こんどはわたしのためにも幸いし、その神薬のおかげで、飢えずに走ることができよう」といった。
紀二六は、
「数にもならぬてまえまで、犬江どののおん供にたちましたことで、いのらなくとも伏姫神の冥助をうけます」と、よろこぶことかぎりがない。
親兵衛は馬のそばにきた。紀二六は馬の手綱(たづな)をとる。親兵衛は弓の弦(つる)を口にくわえて、ひらりとうちのって、
「ここにしばらくいてくれ。姥雪おじとともに、あとからくるがいい」という。紀二六は、
「承知しました。てまえがもってきましたこの槍(やり)は、どうしましょうか?」ととうと、親兵衛はうしろをふりかえって、
「わたしには弓矢がある。そのほうがもっていて、身のまもりにするがいい。さらば、さらば」と、唐崎の関路をさして馬をすすめた。
親兵衛は鉢伏(はちふせ)・大県(おおがた)という山里をすぎて、山中村にくると、天(そら)があけようとしている。ぞくにいう山中ごえである。このふもとの南のほうに、新しい関がある。唐崎の関という。親兵衛はその関にちかづいた。
天はすっかりはれて、森をはなれるカラスの声があちこちできこえた。親兵衛は関のほとりで馬からおり、馬をヤナギの下につなぎ、門内にすすみ、関の番卒に、
「わたしは安房の里見の使者(つかいびと)犬江親兵衛仁(まさし)だ。このたび室町どののご用をはたしたので、暇をたまわった」という。
番卒にかわって、関守(せきもり)老松湖太夫惟一(おいまつこだゆうこれかず)が、烏帽子(えぼし)・素袍(すほう)をつけ、腰刀をさし、扇子(せんす)を手に出てきた。
親兵衛は、政元の関手形をふところから出してわたした。惟一は、トラは退治されたか、ときいた。
親兵衛は、そのときのありさまをかたり、証(あかし)として、トラの片耳を所持している、とこたえ、とりだそうとした。が、それがない。眉(まゆ)をひそめ、
「夜の山路でおとしたものか……? しかし、うちたおしたことは事実だ。うたがうなら、人を談合谷(だんごうだに)につかわされよ。トラのそばに、わが従者直塚紀二六をとどめてある」とこたえた。惟一は声をあらだて、
下知状(げちじょう)のご文面に、ころしたトラを見なければ関の戸をだすな、とある。実検使がもどるまで、門外でまて」といって、番卒二、三人を走らせた。
親兵衛は、ヤナギの下の石に尻をかけてまった。番卒どもは臆病もので、談合谷の途中からもどってきた。
親兵衛が二刻(ふたとき)ばかりまっていると、裏のほうで、馬に鞍をおく音、鎧(よろい)のくさりの音などがする。親兵衛は、異変があるとさっし、馬のつなぎをといてうちのり、矢をとって弓をかまえた。
関の戸がひらき、関守老松湖太夫惟一が、黒革縅(くろかわおどし)の腹巻に陣羽織(じんばおり)をつけ、腰に両刀をさして馬にのり、兵百二、三十人をひきいて、
「犬江親兵衛。番卒を談合谷につかわしてトラを検分させたが、ヤマネコもいない。おまえはいつわりをもって関をとおり、安房に逃げかえろうとするくせものだ。われはそのほうをからめとり、京都にまいらせる。すでに坂本・大津の両関にも通達した。鳥になる《すべ》でもこころえて湖水をわたらなければ、一歩ものがれる道はない。下馬して縄にかかるがいい」というと、親兵衛はからからとわらって、
「あのトラは名画から出たものなので、わたしに射られてもとの掛軸にかえったのかもしれないが、わたしの従者紀二六がいたはずだ。それに、わたしの射こめた矢二本が木の幹にあるのを見とどけなかったか。それとも、政元どのと約束したことをうたがい、仇(あだ)とするなら、是非(ぜひ)はない」と矢を射た。その矢には鏃(やじり)はないが、七、八人がたおれた。この弓勢(ゆんぜい)で後退しはじめたところへ、馬をのりいれた。
そこへ、坂本の関守、根古下厚四郎鳩宗(ねこじたあつしろうはとむね)が、手勢百人あまりをしたがえて、馬をはしらせてきた。親兵衛は、それをものともせず、馬を縦横にかけめぐらせ、敵を左右にたおした。生かさずころさずである。
そのとき、坂本の関のほうに火の手があがった。湖水の風で、煙がこっちにわたってきた。鳩宗は、
「さては、うらぎりものが出て、火をはなったのか。兵ども、半数が走っていって、消しとめよ」とよばわった。そこで関の兵どもはくずれ、鳩宗も惟一もあわてて大津のほうへ逃げだした。親兵衛が追うと、ゆくてに、大津の関守、大杖(おおつえ)意鬼入道稔物(いきのにゅうどうねんぶつ)が、兵百余人をしたがえてきたものの、これもともに逃げはじめた。親兵衛一人に、三関がやぶられたのだ。

第百四十八回 同輩対座(どうはいたいざ)……政元とのわかれ

坂本の関に火をはなったのは、犬江親兵衛の若党六、七人である。きのう、姥雪代四郎(おばゆきよしろう)の指示で、坂本の関あたりでまつべく、木札をもらって、三条の宿から出立したものたちである。
唐崎の関をぶじにすぎて、坂本の関にかかろうとしたら夕方となり、関の戸がしまった。で、そのほとりで野宿しているとき、犬江親兵衛をからめとる、とさわぎたてているのを耳にした。従者(ともびと)の一人漕地喜勘太(こぐちきかんた)という若党が、しかじかとつげた。
坂本の関守、根古下厚四郎鳩宗(ねこじたあつしろうはとむね)は、百余人の番卒をしたがえ、唐崎をさして走った。のこったものは、十数人だけだ。
親兵衛の若党喜勘太らは、関所の裏にしのびいって火をはなった。その火はたちまち日枝(ひえ)の山風にふきちらされて、猛火となった。旅人もやってきたが、それを敵とおもったのか、番卒たちはあわてるばかりだ。
犬江親兵衛は、捕手(とりて)たちを追って大津の関にきた。そのとき、うしろで蹄(ひづめ)の音がして、
「ものども、しずまれ。犬江どのも、しばらくとどまるよう。相公(との)(政元)が、みずからご出馬なされた」と近習(きんじゅう)のよぶ声がした。
関守らはおどろき、ふりかえった。そこに、京都の管領(かんれい)左京大夫源政元(みなもとのまさもと)の、紫の手綱(たづな)を左手にとった馬上の姿がある。前後左右に、十余人の従者がしたがっている。すべて山狩りの装束(しょうぞく)で、それぞれ弓をたずさえている。姥雪代四郎・直塚紀二六(ひたつかきじろく)と兵五人、それに坂本からきた漕地喜勘太ら親兵衛の若党七人も、政元にしたがってきている。
稔物(ねんぶつ)・惟一(これかず)・鳩宗は、馬からあわててとびおり、地面にひざまずいてむかえた。親兵衛も馬をとどめてむかえた。
政元は、三人の関守どもをしかりつけ、馬からおりた。大杖(おおつえ)稔物は兵をはしらせて、床几(しょうぎ)と敷皮をもたせてきた。政元は、
「きょうの旅は私ごとだ。いっしょに床几をつかいましょう」と親兵衛にいう。親兵衛は辞退したが、政元はそれをゆるさず、床几をすすめた。で、親兵衛はわずかに尻をかけた。そのうしろに、姥雪代四郎らはいそいでひかえた。政元は微笑して、
「安房の名臣が約束をたがえずトラを退治したありさまを、予(よ)はすでに目撃したので、そのよろこびをいおうと、ここまで追ってきた。しかし、三関の頭人(とうにん)どもがそれをうたぐってからめとろうとした、その罪はかるくはない。それは他日裁断(さいだん)しよう。予にめんじて、しばらくゆるしてほしい」という。親兵衛は面目(めんぼく)をほどこし、さらに、自分の射た矢は鏃(やじり)をとりさっており、一人もころしていない、ともこたえた。
政元は、雪吹姫(ふぶきひめ)が徳用らにうばわれ、もし邪淫(じゃいん)のはずかしめにあったならとおちつかず、みずから出立し、したがうものは近臣、波波伯部十郎(ははかべじゅうろう)ら夜勤の士卒だけだった。三条大橋のほとりまでくると、親兵衛の従者姥雪代四郎らが雪吹姫を救出して、政元の屋敷にむかうのに出あった。
ここで政元は、徳用・堅削の奸計(かんけい)、姫をぬすみだしたこと、白川山の荒れ堂付近で、徳用が片腕、堅削は片足をトラにかみきられたこと、雪吹姫も気絶していたこと、それを親兵衛の神薬で蘇生させたことなどをきいた。それから、雪吹姫は老党とともに屋敷にかえった。政元は近習にいいつけ、トラのぬけた掛軸(かけじく)を箱とともにもってくるように命じた。
政元は、代四郎の案内で白川山の荒れ堂にきた。徳用・堅削が片腕・片足をなくしてしばられており、代四郎らの若党二人が、それを見まもっていた。そのものたちは、紀二六が徳用らからききだして、親兵衛の身の危険を知り、一人で山路(やまじ)にはいった、とつげた。
政元は、徳用らを西陣にひき、獄舎(ひとや)につなげ、と命じた。
そこへ、西陣の屋敷から主従の割篭(わりご)・酒・茶などを五、六人のものが持参した。で、荒れ堂で夜食の箸(はし)をとった。政元は、徳用が正告・景紀・真賢・経緯らとしめしあわせて親兵衛をうとうとして、直道と同士討ちとなったので後難はなくなったが、親兵衛のトラ退治のありさまを見ようと荒れ堂を出立した。白川村で夜があけた。そこで、紀二六にたのまれたという里人が、談合谷(だんごうだに)でトラを射(い)とめた親兵衛はすでに東国に出立した、とつげた。
政元が談合谷についたころには、日が山峡(やまあい)にのぼっていた。姥雪代四郎が紀二六に詳細をかたり、政元がきたという。
紀二六は、親兵衛がトラを射たありさまを説明した。政元らはむろん、代四郎らも、感嘆するばかりだ。白川村からも、里人が三十人ばかりきて、親兵衛のみごとな弓術におどろき、かんじいった。
政元は、近習波波伯部(ははかべ)真忠(さねただ)に、トラの眼(まなこ)を射た二本の矢をぬくように命じた。大力(たいりき)の真忠が、力をふりしぼってやっとぬけた。里人五、六人が、トラの四足を一つにしばろうとちかづくと、トラの姿がたちまち煙のように消えた。人びとはあやしみ、おどろいた。
政元は、持参させた掛軸をひらくがいい、といった。掛軸には、はじめのようにトラがもどっているのだ。しかも、白眼(はくがん)で瞳(ひとみ)はなく、親兵衛のきりとった片耳もかえっている。政元は、親兵衛の武徳で人びとが安堵(あんど)したのに、恩賞(おんしょう)をとらせなければ世のそしりをうけるとおもい、あとを追ってきた、というのだ。政元は、
「あえて高下(こうげ)の礼をもちいず、同格で対座したのもほうびのつもりだ。まず掛軸を見よ」と近習にひらかせた。親兵衛がみると、トラの耳に切痕(きりきず)があり、眼は白眼だが、猛虎のありさまは霊がやどっているようだ。
近習は、掛軸をまいて箱におさめた。
親兵衛は政元にむかって、
「つまびらかなお話をうけたまわり、またトラの掛軸を拝見することができましたのは、わたしの生涯のよろびです。トラ退治は今上皇帝(きんじょうこうてい)、ならびに将軍家のご聖徳と、仁義忠信をむねとするわが主君義実・義成父子のめぐみで、また名馬走帆(はしりほ)の進退如意(かけひきにょい)のたすけによるものです。姥雪代四郎与保(ともやす)は、犬山道節の旧僕(きゅうぼく)でしたが、さきの功で、滝田の老侯(おおとの)(義実)のとりたてがあり、当君(とうくん)(義成)につかえましたので、わたしと同藩の士(さむらい)です。わたしにとっては乳母(うば)に似た縁のあるもので、このたびも後見(うしろみ)として京都にまいりました。
直塚紀二六は、この秋に安房にかえりました副使、蜑崎十一郎照文(あまざきじゅういちろうてるふみ)の若党です。ゆうべは姫上のおんためになり、面目がたちました」という。
政元は膝をうち、代四郎・紀二六をよぶよう近習に命じた。政元は代四郎らに、
「代四郎が里見の家臣で、親兵衛の後見とのこと、また紀二六は、蜑崎十一郎の命をうけて、よく親兵衛を補佐したことを、はじめて聞き知った。他日将軍家にもうしあげよう」といった。
代四郎らは、政元のことばをうけた。親兵衛は、
「まことに相公のご懇命(こんめい)を、かれらにおよばせたまうのは、故郷へかざる錦にまさるものです。なおこのうえにおねがいしたいのは、一日もはやく安房にかえり、使いの役をはたすことです。かえしてください」とこうた。政元は、
「なごりはつきないが、とどめておく理由もない」と、腰につるした錦の袋から鈴をとりだし、
「これは官府(かんぷ)の急用にもちいられる駅路(えきろ)の鈴だ。予は、そとに出るときはかならずこれを腰におびて、火急の公用(くよう)にする。親兵衛がこれをもって関守らにしめせば、通行がとどこおることはあるまい」とわたした。
親兵衛はこれをうけて、
「これはおもいがけない御賜物(みたまもの)。それでは、時がたちました。このままおわかれします。御馬(みうま)におのりになられますよう」と、鈴をふところにおさめた。
政元は床几に尻をかけたまま、
「親兵衛。きょうの見送りは、貴賎(きせん)の差別はない。親兵衛もともに馬にのらなければ、予ものらぬ」という。親兵衛はほとほとこまり、
「それでは御意(ぎょい)にしたがいます。なお、三関の頭人の失策はトラを見なかったからです。その使いのものがなおざりだったからです。ゆるしてやってほしいとおもいます」という。
政元はそのことも承知して、いざもろともに、と馬にのった。親兵衛もしずかに馬にのる。
代四郎・紀二六らも、政元を見おくった。西と東へのわかれである。

第百四十九回 勅賞(ちょくしょう)を辞す……親兵衛のこころざし

管領政元と別れた犬江親兵衛は、馬をはやめて道をいそいだ。七つさがり(午後四時すぎ)には、雁名山(かなさん)のふもとの高野林(こうやばやし)の名で知られる、大野の六地蔵堂(ろくじぞうどう)のほとりにきた。
親兵衛は馬をとめて、左右の代四郎・紀二六らに、
「わたしはともかく、そのほうたちは険阻(けんそ)の山路をへてここまできたので、さぞつかれたであろう。まして具足櫃(ぐそくびつ)を肩にし、旅づつみをせおう若党らの辛苦(しんく)は、おもうにあまりある。こよいはここらに人馬の足をやすめて、旅路の用意をしよう」という。
代四郎・紀二六は、それでは、とこたえて、おおきな旅篭(はたご)をさがし、そこをかりることにした。背戸(せど)には馬小屋もある。走帆(はしりほ)をひきいれて、秣(まぐさ)をあたえた。
主従はたがいに湯をあび、夕膳をすませた。親兵衛は、代四郎・紀二六と、五人の兵、七人の従者(ともびと)を身近によび、京都(みやこ)にいたあいだのこころづかれをなぐさめた。代四郎と兵らは、トラ退治のありさま、関守らをけちらしたようすなどの詳細をきいて、いよいよ奇特をかんじた。
また従者らは、紀二六がきのうまで京都にいた事情を、いぶかしくおもっていたが、これもまた親兵衛の先見で、政元の屋敷に商人(あきんど)として出入りさせていたことを知った。
親兵衛は紀二六に、
直塚(ひたつか)。おまえはあの屋敷に出入りしていたので、兵どものおおかたから顔を知られているだろう。さきの政元どのの従者のなかに、見知ったものはいなかったか」ととうた。紀二六は、
「管領にしたがって大津にきたのは七、八人にすぎなかったので、顔を知りません。そのまえに談合谷(だんごうだに)でもあいましたが、トラに胆をつぶしていたので、気づかなかったのです」という。
代四郎は声をひそめて、
「犬江どの。この直塚は、蜑崎(あまざき)さんの甥(おい)にあたる人とききました」といった。親兵衛はうなずき、
「そうであろう。その才略はよく理にかなっている。稲村にかえったなら、かならずもうしあげる。恩賞(おんしょう)は、おもいのままであろう」といった。
紀二六は、はずかしげに頭をたれて沈黙した。
そのとき一人の若党が、行灯(あんどん)のうしろから膝(ひざ)をすすめて、親兵衛に、
「まだおききになっておられませんか。きのうてまえどもは、姥雪(おばゆき)どののさしずによって三条の宿をたち去り、夕方、木札をもって唐崎(からさき)の関をとおりましたが、ほどなく日の暮れとなったので、坂本の関はとおることができずに、そこらのほとりに野宿して、夜をあかしました。つぎの朝、坂本の関の頭人・番卒が唐崎に加勢して、おん身をからめとろうと人馬をだすという……」といいながら、かたわらを見かえり、
「この漕地喜勘太(こぐちきかんた)のはかりごとにしたがって、関所のうしろに火をはなちましたので、たちまちこちらに利となり、番卒と旅人らの逃げるのを追ってきますと、姥雪・直塚さんと若党らが、政元どのにしたがって大津へいくのにであったので、政元どのの近習に犬江の従者とつげて、したがってきたのです」という。
喜勘太はことばをつぎ、
「あの関のありさまをおもいますと、はやくから唐崎の関としめしあわせていたのでしょう。坂本の関の戸があきませんので、それをまつ旅人、また土地の人たちが多くあつまりました。そこで人馬が出動するにおよんで混乱したことが、てまえどもに利となりました」とつげた。
親兵衛・代四郎・紀二六らはよろこび、親兵衛が喜勘太に、
「はじめて聞いたそのほうの良策(りょうさく)、それは直塚にもおとらない大功だぞ。またほかのものも、たちどころに密議(みつぎ)一致したのは賞すべきだ。このことも両館(ふたやかた)(義実・義成)にもうしあげたなら、恩賞の沙汰があろう。わたしはただ、この好機をえたのは伏姫神(ふせひめがみ)の冥助とおもうだけだ。直塚といい、漕地といい、話をしてくれなければ、その功を知る手だてはない。ああ、妙なることだ」と感嘆した。
紀二六・喜勘太らは面目(めんぼく)をほどこした。
しばらくして親兵衛は、胴巻の財布から一つつみの金百十数両をとりだし、代四郎に、
「この金は、さきにわたしが使いをおおせつかったときに、やがていることもあろうからと老侯(おおとの)からたまわったものの、政元どのにとどめおかれたのでもちいることがなく、そのままで今ももっている。京都はますます遠くなるので心配はあるまい。しかし、ゆくてにはなお新関(にいぜき)が多いときいている。わたしは幸いに政元どのからから貸していただいた駅鈴(えきれい)がある。これは道をひらき、関をとおるのにこのうえもないものだが、応仁(おうにん)以来諸国がみだれて、諸侯割拠(しょこうかっきょ)のいまの世なので、天子・将軍の命令もおこなわれなところがある。そうなれば、またゆくてに不測(ふそく)の事態がおこるかもしれない。そのようなことで、われら主従が四方にはなればなれとなることもあろう。そのとき、なにをもって食をもとめよう。たのむところは路用だけだ。それぞれも用意をしていようが、なおおおくはあるまい。で、この金を配分して路用としよう。これもまた館(やかた)(義実)のご恩である」といって、代四郎に二十金(きん)、紀二六に十五金、喜勘太に十金、五人の兵と一人の若党にそれぞれ七金、その他のものにもそれぞれ五金をわたし、のこった金は財布におさめた。代四郎は、
「しばらくおあずかりし、道中でもちいることがなければ、安房につきましてから、おかえしします」といって、ふところにおさめた。ほかのものも、礼をいってうけた。親兵衛は、
「こよいの旅篭はひろく、それに旅客はいない。主人・女中などもはなれているので、密談をしても、もれることはないだろう。そうかといって、これからは政元どののことはむろんだが、京都のうわさをしてはならない。これがつつしみの第一だ。みんなこれをこころえてほしい。わたしの帰心は矢のようだ。馬は千里の駿足(しゅんそく)なので、一日で安房にかえることも容易とおもうが、それぞれも、わたしのために、用のない京都に逗留して百日あまりとなった。いまさら途中でふりすて、わたし一人だけ帰国をいそぐのは、なすべきではない。それで、あしたから道程(みちのり)は、一日に大道(おおみち)(三十六町で一里)を十里いくこととするが、年のうちにはかえることができよう。このことも承知してほしい」といった。
鐘の音がかすかにきこえた。親兵衛は手をならし、旅篭の番頭に床(とこ)をしかせた。そして枕(まくら)についた。
つぎの朝、犬江主従ははやくからおきて、早膳(はやぜん)をすませ、宿銭(やどせん)をわたした。従者は走帆に秣(まぐさ)をあたえた。それから人びとは旅装束(たびしょうぞく)となった。腹巻などの武具をつけない道中姿である。喜勘太ら二人の若党は馬の左右にしたがい、紀二六はあとにつき、代四郎はさきに立った。他は、口取り・槍(やり)・具足櫃(ぐそくびつ)・柳箱(やなぎばこ)・行李(こうり)などの役をつとめた。
親兵衛一行は、ともに旅篭を出立した。
この日、伊勢の境にはいり、石薬師(いしやくし)という一村落にさしかかった。
親兵衛は馬をとめてさきにたち、代四郎に、
「まってほしい。おじは気がつかなかったか、あのトラの来歴は、丹波国桑田郡(たんばのくにくわたのこおり)の薬師院という村の仏寺、瑠璃光山(るりこうさん)薬師院の宝蔵から出してきた金岡の古画ではなかったか。トラ退治の功で、安房にかえる途中、ここにもまた石薬師堂がある。そしてこのあたりを石薬師と称するのも縁があるのか。わたしは、世の人並に仏菩薩(ほとけぼさつ)に媚(こ)びて、冥福をいのろうとはおもわないが、この堂には鳥居がある。これも《ゆえ》あることだ。このままのりすごしていくことはできない。しばらく、ここで休息しよう」といった。
はるか後方から、騎馬の武士がかけてきた。そのものは、
「犬江どの、しばらくまってほしい。勅使(ちょくし)、勅使」とよぶ。秋篠将曹広当(あきしのしょうそうひろまさ)だ。
親兵衛は勅使ときき、馬からおりてまった。
広当は、「わたしは火急のおん使いをうけ、追ってまいった。路上で詔勅(みことのり)をしめすことはできない。あの堂内で………」と、長袴(ながばかま)の裾くくりをゆるめて仏堂にはいり、上座につき、威儀(いぎ)をただして親兵衛につげた。政元からの進言で足利義尚(あしかがよしひさ)が奏聞(そうもん)し、ここに親兵衛は従六位上(じゅろくいのじょう)をさずけられた。で、宣旨(せんじ)ならびに足利将軍の御教書(みぎょうしょ)を奉じて、京都を出立してきたという。
親兵衛は、膝をすすめてそれをうけ、賽銭箱(さいせんばこ)の近くにある三方(さんぼう)をひきよせ、つつしんでのせ、拝見した。


上卿(しょうけい)万里小路亜相(まりのこうじあしょう)、文明十五年十一月二十六日、宣旨す。
里見安房守(さともあわのかみ)兼上総介(かずさのすけ)源朝臣之使臣(みなもとのあそんのつかいびと)、
犬江親兵衛金碗宿禰仁(かなまりすくねまさし)。
このたび、妖虎を退治した功で、従六位上に叙(じょ)す。


という意である。この宣旨に、足利将軍義尚の御教書がそえられている。
親兵衛は二通をもとのようにたたみ、三方にのせて、それをかえした。
「おもいがけない勅賞台命(ちょくしょうたいめい)、面目このうえもありませんが、トラ退治のことは、ただこれ左京兆(さきょうちょう)(政元)のためにして、知遇(ちぐう)のめぐみにこたえたのです。このことによって、東国へかえることをゆるされました。これで十二分の幸せです」といい、さらに、主君義成につげずにうけては義成を無視したことになり、また義兄弟七人にさきだっては不義となる、と辞退しつづけた。涙声だ。
「この栄爵(えいしゃく)をおうけすれば、不義これよりはなはだしいものはないとおもわれます。たとえ忠臣の犬となっても、不義の人にはなりたくないのです。もし、他日このおんむねを安房へおおせつけになり、義成がおうけし、叡慮(えいりょ)台命にしたがうように、といいつけられることがありましても、それもまた義兄弟らとともでなければ、なおご辞退します。まして中途のおん使いは、当惑のほかはございません」と親兵衛はこたえた。
広当は、ほとほと感嘆して沈黙した。
半刻(はんとき)ばかりして、
「たぐいまれなる忠誠。いまの世にもこの賢(けん)少年がいる。わたしは、はじめから、あなたの手並を見て、その武芸が万人(ばんにん)にすぐれているばかりか、こころざしもまた慈善(じぜん)をむねとし、仁(まさし)という名にはじないものとおもう。さらにいまの勅答も、道理至極(どうりしごく)とかんじました。京都にかえりましたら、その意のように言上いたします」と、宣旨と御教書をとり、ふところにおさめた。親兵衛は、
田舎(いなか)もののひとすじの愚直(ぐちょく)を、あなたの寛容によってとりおさめられたことは、わすれることができません」と礼をのべた。広当は、
「さて、あなたは、どうして信濃路をいかずに、東海道からかえられるのか」ととうた。親兵衛は、
「はじめは木曽路からとおもっていましたが、大津で政元どのに、東海道からかえれと、駅鈴をかしていただきました」とこたえると、広当は、
「しかし東海道は、伊勢・尾張(おわり)のほかは、みな京家の敵地だ。駅鈴でもって通ろうとしても、なおゆるされないところがある。その駅鈴は、朝廷(みかど)から室町どのにあずけたもので、十二あるうち、その一つとしてかけてはならない。あなたが、帰国後すぐにかえさないと、その罪があなたにかかることになる。ああ、あやうい、あやうい」といった。
親兵衛はおどろき、
「わたしはおろかでした。どうしたらよいでしょう」ととうた。広当は、
「その駅鈴をわたしがうけとって、政元どのにかえそう。あなたは、尾張から信濃・上野をへて、安房にかえられるがいい。いまわたしは官府の関手形を所持している。これをあなたにあたえよう」という。
親兵衛は感謝し、駅鈴を袋のままわたし、広当もまたふところから関手形をだして、親兵衛にあたえた。
広当は天をあおぎ見て、
「もうすぐ日が暮れる。ここでわかれよう」といい、仏堂を出て、馬のそばに立った。
親兵衛はおくりに出て、
「秋篠どのの従者は、おくれて、まだつきません。わたしの従者のうち十二、三人に、途中までおくらせましょう」といった。広当は、
「いや、わたしはこのあたりに宿をとり、人馬をやすませて、あしたは京都(みやこ)にかえろう。さらば、さらば」と馬にひらりとのり、一むちあてた。親兵衛らは見おくった。

ここで物語は京都にうつる。
犬江親兵衛とわかれた管領左京大夫政元は、京都にかえると、やがて花の御所に参上し、将軍義尚に、親兵衛仁のトラ退治の大功のこと、澄月直道(すづきなおみち)ら賀茂河原に勤役(きんやく)した頭人が、同士討ちをしたこと、また、兵どもの逆謀(ぎゃくぼう)のこと、悪僧徳用・堅削の凶暴(きょうぼう)のことまで進言した。とくに親兵衛の知勇をたたえて、トラのかえった掛軸を披露(ひろう)した。
義尚はおどろき、嘆じ、管領畠山左衛門督政長(はたけやまさえもんのかみまさなが)に、その掛軸を禁裏御所(きんりごしょ)へまいらせて、ご覧をこうた。朝廷は深くかんじられたので、公卿(くげ)らが詮議(せんぎ)し、親兵衛に、よろしく恩賞あるべし、と秋篠将曹広当をつかわした。このあとのことは、すでにしるした。
つぎの日、広当は京都にかえり、犬江親兵衛の官爵(かんしゃく)を辞退したいわけを、しかじかと言上し、宣旨をかえし、また将軍家にも御教書を返却した。朝廷・将軍家も親兵衛をとがめず、かえってその忠信のこころばえに、むしろ評価がたかまった、という。
広当は、この日、政元の屋敷にきて、対面して、
「きのう、それがしがおん使者をうけたまわり、犬江親兵衛を追って、石薬師堂で対面したときに、たのまれたことがあります。政元どのがかされた駅鈴をもって東海道をいき、安房にかえりついても、これをおかえしするのはむずかしい。そうかといって、この鈴をとどめておいては、自分の罪になり、相公(との)にもめいわくがかかるかもしれない。あやうい東海道より、信濃路をたどろうとおもうので、この駅鈴を相公にかえしてほしい、と取りだしてそれがしにわたしたのです。犬江の遠慮は、まことにもっともだとぞんじます。相公のおんためとそれがしがうけとり、かわって返上いたします。おおさめください」と親兵衛の意をつたえて、駅鈴をとりだしてかえした。
政元は苦笑して、
「それは、よくこころづいた」とうけとって、袋をひらき、おさめた。このとき政元は、親兵衛の辞勅(じちょく)のことをきき、そのまごころにうたれた。
広当は、政元の屋敷をさがった。
そのあと政元は、唐崎の関の頭人惟一、ならびに坂本・大津の関の頭人鳩宗(はとむね)・稔物(ねんぶつ)らの、粗忽(そこつ)の罪を裁断して、そのむねを足利将軍(義尚)にうかがった。惟一は、所領召しはなく、その身は親類にあずけられ、トラを見ずにいつわりの報告をした番卒三人は、投獄ののち、百たたきで追放された。
また、根古下(ねこじた)鳩宗・大杖(おおつえ)稔物は、閉門ののち、罪をゆるされた。これも、親兵衛の仁慈のなごりだ。さらに、三関もすてられることになった。徳用・堅削は、ついに首をはねられた。徳用の親、香西復六(こうさいまたろく)は主人をうらみ、出仕しないで、そのまま隠居(いんきょ)した。政元は、復六の二男の香西再六政景(さいろくまさかげ)を安房からよび、これに家督をつがせた。このたびの変事は、政元から出たことだからだ。
はじめに徳用の讒訴(ざんそ)をうけいれて、犬江親兵衛を逗留させようと、台命(たいめい)によるいつわりをなし、またトラの瞳を巽風(そんぷう)にえがかせ、それが大さわぎになったこと、あるいは悪僧をちかづけた罪を、雪吹姫がうばわれるまでさとらなかったことなどがそうだ。
政元は人の罪をせめてもおのれの罪をどうしようともしない、というものがおおく、それに、政事(まつりごと)の首尾もわるく、いつしか出仕することがなくなった。やがて管領職を辞し、政長が一人管領になった。もっとも三年後にふたたび管領職となるが……。
トラの掛軸は、あとで義尚から、父東山どの(義政)に献上(けんじょう)した。義政はこれを珍重して、つねに座右にかけさせていた。
ある日のこと、紫野(むらさきの)の大徳寺の一休(いっきゅう)老和尚が東山にきて、一人で銀閣寺に伺候(しこう)し、義政とかたった。一休は名は宋純(そうじゅん)、後小松天皇の御落胤(おとしだね)という。義政をたずねてきたのは、いかなる風のふきまわしか。

第百五十回 一日千秋のおもい……親兵衛をまつ義実(よしざね)

一休和尚が、前将軍足利義政をたずねてきた。義政はよろこび、みずから茶などをすすめた。
そのおり、一休は、トラの掛軸(かけじく)に目をとめた。義政は、絵師巽風(そんぷう)にこの掛軸をあたえた童子はどのようなものか、ととうた。
一休は、天地自然の理(ことわり)をとき、為政者(いせいしゃ)の華美・贅沢(ぜいたく)なくらしぶりにたいし、
「民のうらみと鬼神(きしん)の怒りがつもりにつもって、あのあやしい童子に化身し、また無瞳子(ひとみなし)のトラとなってあらわれ、世をいましめ、人をおどろかしたのではないだろうか。しかしなお、それをさとらず、かえって童子の出処(しゅっしょ)をいぶかり、さらにトラの瞳を点じた行為だけを不用心となじるのは、酔(よ)いのなかの酔いにして、まようが上のまよいぞ。それをおもいみると一切衆生(いっさいしゅじょう)に眼(まなこ)があるといっても、おおくは瞳がないようだ」と、禅(ぜん)の極致(きょくち)をとき、義政自身の行状を反省するようすすめて、立ち去った。

安房に話をうつす。
七月のころ、犬江親兵衛・蜑崎(あまざき)十一郎照文、それに姥雪(おばゆき)代四郎が京都に出立し、秋のおわりに、照文が兵五人、若党らとかえってきた。照文は、稲村の城に参上し、京都の首尾を言上(ごんじょう)して、親兵衛が管領政元にとどめおかれた、ともつげた。
それから三日ほどして、滝田の老侯(おおとの)(義実)が稲村の城にきた。東六郎辰相(とうのろくろうときすけ)・荒川兵庫助清澄(あらかわひょうごのすけきよすみ)の二家老、そして杉倉武者助直元(すぎくらむしゃのすけなおもと)らが饗応(きょうおう)の用意をした。
この日、稲村城には、犬塚信乃戌孝(もりたか)・犬山道節忠与(ただとも)・犬川荘助義任(よしとう)・犬村大角礼儀(まさのり)・犬田小文吾悌順(やすより)・犬飼現八信道(のぶみち)・犬坂毛野胤智(たねとも)、それに、丶大法師(ちゅだいほうし)もまねかれた。照文も、義実にしたがってきた。義実・義成は同席である。
義成は、八犬士の氏(うじ)を金碗(かなまり)とする勅許(ちょっきょ)があり、また宿禰(すくね)の姓(かばね)をたまわった、とつげた。
このあと、酒肴(しゅこう)の膳が出た。親兵衛の姿がないのがおしまれた。義実は義成に、
予(よ)は、親兵衛のかえりをまつこと、一日千秋のおもいだ。だが、手だてはない………」と、吐息(といき)した。

第百五十一回 水陸の調練……扇谷定正(おうぎがやつさだまさ)の討手

里見義成は、七犬士に、農民は十月から正月までひまになるので、水陸の戦いをおしえてみてはどうか、ととうた。
七犬士は賛成し、七人の総大将として嫡男太郎義通(ちゃくなんたろうよしみち)をむかえることにした。
日がおちると、七犬士・照文らは、義実の供をして滝田の城にかえった。それから安房四郡の村長(むらおさ)・村人に水陸演習の触(ふ)れを出した。舟で、あるいは馬をおよがせて、人びとがあつまってきた。
御曹子(おんぞうし)義通には、杉倉武者助直元・田税(たちから)戸賀九郎逸時・苫屋八郎景能(かげよし)ら勇士十数人と、雑兵五千余人がしたがい、浦辺にそろった。
七犬士も、若党を供に、馬にのって姿をみせた。とくに水練・水馬は、犬坂毛野・犬塚信乃・犬田小文吾・犬飼現八の水練術が人目をひいた。犬山道節・犬川荘助もまた、みごとだ。下野(しもつけ)そだちの犬村大角は水戦(みないくさ)にはうとかったものの、たちまち術を習得した。
十月も二十日となったころ、調練はおわり、山野で獣狩(けものが)りにうつった。義成は、
「無益な殺生(せっしょう)をしてはならない。いけどることを第一とせよ」と下知した。七犬士は、獣どもの足を射てころばせ、それを兵にとらえさせた。
義成は、「人を害するヤマイヌ・オオカミ、イネをあらすイノシシ・シカは、いかだにのせて遠い島にながせ」と、一頭もころさなかった。
伊豆・相模の漁夫も、義成の仁政(じんせい)に感動した。十一月中旬になったころ、義実は蜑崎照文をよびよせ、
「親兵衛をおもうためか、ゆうべ夢を見た。夢のなかで、親兵衛は、このたびの獣狩りで、この国ではとることのできないトラを射て、たおしたのを予(よ)に見せた。予はおどろき、さめた。夢といっても、こころよくはない。親兵衛の安否を知ろうと間諜(しのび)のものをつかわすこともうしろめたいし、あからさまに使いをもって、あるいは貢物(みつぎもの)を献上し、室町どの(足利義尚)にこうて、親兵衛をよびもどす手だてもあるが、おおくの財宝のいることで、予は、安房どの(義成)にしかじかせよ、とはいえない。そのほうは稲村におもむき、相談せよ」という。
で、照文は稲村の城におもむき、辰相(ときすけ)・清澄に、しかじかとつげた。そのことは、両家老によって、さらに義成に言上された。義成は、
「予も老侯(おおとの)(義実)のご賢慮(けんりょ)とおなじだ。忠信は予の面目(めんぼく)で、数千金もおしくはない。このたびも、五千金を京都(みやこ)へつかわそう。ただ、その使者には、十一郎照文のほかはない。帰国してから日があさく、大儀(たいぎ)にはおもうが、ことをよくはかってほしい」といった。
照文はそれをうけた。その補佐をだれがするか、と評定(ひょうじょう)となり、田税戸賀九郎逸時・苫屋八郎景能ときまった。
さらに、京都への貢物の黄金五千両、名刀五振、その他が用意された。こうして、百人にちかい使者一行が、洲崎(すさき)から船で出立した。おりよく追い風である。
それから三、四日をへて、武蔵・相模に出むいていた間諜(しのび)のものが、二、三人もどってきた。一大事だ、というので、義成は、そのものらを庭門から縁側の下に召した。両家老辰柑・清澄らも、つぎの間(ま)できいた。その報告はこうだ。
管領扇谷定正は、道節・信乃・毛野らの八犬士をひどくにくみ、武蔵・相模・、下総(しもふさ)・上野(こうずけ)・越後の五か国の大軍をもって、里見家をせめようとしている。
その原因(もと)をたずねると、定正の家臣根角谷中二(ねづのやちゅうじ)・穴栗専作(あなぐりせんさく)が、政木(まさき)ギツネにばかされて、無実の罪人河鯉孝嗣(かわこいたかつぐ)をにがしてしまったことにある。定正はいかり、ことしの十二月までに孝嗣をとらえよ、と下知した、という。谷中二・専作は、二手にわかれ、兵をともない、変装して、約三、四十里四方をさがしまわった。十一月のはじめに、谷中二らは、隅田川のほとりで一人のものをとらえた。そのものよると、武蔵野の穂北(ほきた)の落鮎余之七有種(おちあゆよのしちありたね)は、ことし四、五月ごろ八犬士とわかれ、義父、氷垣残三夏行(ひがきざんぞうなつゆき)の看病に、妻女重戸(おもと)とともにあけくれた。だが、九月の中旬に夏行はなくなった。夏行の死を八犬士につげようと、有種は書状をしたためて、世智介(せちすけ)・小才二(こさいじ)に使いを命じた。二人は穂北を出立し、隅田河原まできた。小才二はにわかに腹痛をおこした。そこで、二人は世智介の叔父で渡し守の蟻屋梨八(ありやなしはち)の家に仮寝した。梨八は世智介に酒をすすめて、安房への使いはどんなわけか、ととうた。世智介はよっていたので、八犬士のことをかたった。
そこへたまたま根角谷中二・穴栗専作が、十五、六人の兵をともなって梨八の家のあたりにきたのである。家のなかから八犬士の名がきこえてきた。谷中二は、このものは犬山道節・犬塚信乃らにゆかりのあるもの、とふみこんだ。
世智介・梨八、それにこの家の老婆がとらえられた。小才二はすばやく逃げた。世智介はせめられたが、口をわらない。が、二つの旅づつみが見つけられ、そこに有種が八犬士にあてた書状があり、ひらいてよむと、河鯉大全孝嗣(かわこいたいぜんたかつぐ)が石亀屋次団太(いしがめやじだんだ)・鮒三(ふなぞう)とともに結城の左右川(まてがわ)に入水(じゅすい)したことをいたむ、とある。
谷中二・専作らはよろこび、これを証拠にしよう、という。世智介らは、五十子(いさらご)の城へひきたてられた。
いっぽう、小才二は夜中に穂北にかえり、有種夫婦に世智介がとらえられたことをつげた。そこで有種は法螺貝(ほらがい)をふきならさせ、穂北一郷の村人をあつめた。百十数人のものたちが、手に手に竹槍・殻竿(からさお)などをもってきた。有種は、
「扇谷家の捕手(とりて)根角谷中二らがせめてくるだろう。わたしのなき母の弟である法印(ほういん)は、いま下総猿島(さしま)の山寺にいる。ひとまず、みかたをともなってそこへいこうとおもう」と、ことばせわしくいった。
里の古老二、三人は、異議なし、とこたえた。さらに里人らも供をするといい、出立の用意にかかった。有種も、必要な品じなを千住河原(せんじゅがわら)の大平駄(おおひらだ)(大型の運搬船)三艘(そう)につんだ。里人らもまた、水路・陸路をそれぞれ下総にむかった。
根角谷中二・穴栗専作は、世智介らをひきたてて、真夜中に五十子の城にかえった。そして美田馭蘭二(みたぎょらんじ)に詳細をつげた。馭蘭二は早朝から出仕(しゅっし)し、定正に書状を披露(ひろう)しながら、こまかに言上した。
定正はよろこび、豊島信盛(としまのぶもり)の残党で、八犬士に縁のある穂北の落鮎有種をうつべく、三百人をもって進発せよ、と命じた。
馭蘭二・谷中二が頭人(とうにん)となり、五十子の城を出た。坂東路(ばんどうじ)三、四十里のさきに穂北がある。千住川をわたると、穂北のほうから火煙(ひけむり)があがっている。馭蘭二は、
「さては、逆徒はみずから火をはなって逃亡するつもりだ。一人のこらずとらえよ」と馬をはやめた。
穂北はすっかりやけて一軒の家もない。そして一つの死骸(しがい)もない。

第百五十二回 間諜(しのび)の報告……定正のうごき

美田馭蘭二(みたぎょらんじ)・根角谷中二(ねづのやちゅうじ)・穴栗専作(あなぐりせんさく)らは、穂北の近村の人びとが火を消そうとしてきたのを、きってすてたり、とらえたりした。さらに五、六人の死骸を残り火になげこみ、その首をはねて、兵にもたせた。谷中二らは、五十子(いさらご)の城にかえり、
「穂北のものは、火をはなち、逃げたようです。しかし有種(ありたね)の家の焼跡(やけあと)に五、六人の死骸があり、そのなかの一人は腹をきったらしく、これは有種とおもわれます。そのかたわらに灰にうもれた太刀があることから推量できます。いざ、首実検を……」といつわって、上司に、首五つ六つとやけた刀をわたした。
つぎの日、谷中二らは主君定正(さだまさ)に見参(げんざん)をゆるされた。定正はその功をほめて、谷中二はもとのように忍岡(しのぶおか)の城の頭人(とうにん)を命じられた。専作もまた、おなじ城に配された。そして谷中二は、世智介・梨八らと、とらえてきた穂北近村の里人を、忍岡の城にひきたてた。
その途中の妻恋坂(つまこいざか)までくると、前から三十人ばかりがきた。無実でとらえられた近村のものたちの縁者(えんじゃ)である。谷中二はこの嘆願者もあわせてとらえた。そしてみな死囚牢(ししゅうろう)にいれた。谷中二は定正に、有種の同類をとらえた、とつげた。
扇谷定正は、支城の大塚の城主、大石石見守憲重(おおいしいわみのかみのりしげ)、その子源左衛門尉憲儀(げんざえもんのじょうのりかた)父子を、五十子の城にまねいた。当時扇谷・山内両管領は、長尾・大石・小幡(おばた)・白石の四家を家老としていた。
定正は大石父子に、
「ご承知のように、道節・信乃・毛野らの八犬士は、当家(扇谷家)の怨敵(おんてき)、刑余(けいよ)の乱賊(らんぞく)なのに、里見義成は扶持(ふち)をあたえてかかえ、隣国のよしみをおもわぬ」と、旧臣河鯉孝嗣(かわこいたかつぐ)は処刑されるべき身なのに、犬江親兵衛仁(まさし)の幻術(げんじゅつ)のたすけで上総(かずさ)に走り、結城の川におちて死んだということ、穂北の郷士、落鮎余之七(おちあゆよのしち)有種は八犬士の同類なので、これに捕手(とりて)をむけたが、有種らはみずから火をはなち、逃亡したのか死亡したのかあきらかでないことなどうらみをのべ、さらに、定正は、
「そもそも義成の父、里見義実は嘉吉(かきつ)の落人(おちうど)であったが、安房をさすらい、山下定包(さだかね)をほろぼし、神余(じんよ)のあとを横領し、麻呂(まろ)・安西をあざむきころして、四郡を併合(へいごう)した。義成も上総をおかし、下総(しもふさ)の半国まで自領とするなど、あくことを知らぬ。いまにしてこれをたたなければ、子孫のためにも憂(うれ)いとなる。予(よ)と山内顕定(あきさだ)両大将で、里見をほろぼし、憎い八犬士を一人ものこさずいけどりにして、八つざきにしたなら、こころよいではないか」とまくしたてた。
憲重・憲儀は、山内顕定との和睦(わぼく)が第一義であると同意し、両管領が連署(れんしょ)をもって八州の領主にふれたなら、さきをあらそって安房・上総の五十余城をせめるだろう、という。憲重・憲儀はまた、
「犬坂毛野は蟹目上(かなめのうえ)の怨敵だ。また犬山道節はわが君を射たばかりか、老党仁田山晋吾(にたやましんご)をころしたもの、さらに犬塚信乃は当城に乱入したもの……」とのべ、はやく鎌倉の顕定に使者をつかわされるように、とすすめた。定正らのみかたをする領主は、甲斐の武田、相模の三浦の両家、石浜の千葉自胤(ちばよりたね)、下総の千葉孝胤(ちばたかたね)、結城成朝、常陸(ひたち)の佐竹・高九(たかく)・鹿島(かしま)、また滸我(こが)の御所成氏(なりうじ)、白井の長尾景春などである。
憲重・憲儀は同意して、大塚の城にもどっていった。
つぎの日、定正の命をうけて、大塚の大石石見守憲重は、鎌倉の山内の管領顕定の屋敷におもむいた。山内家の近臣、斎藤左兵衛佐高実(さひょうえのすけたかざね)に対面し、里見家をうつための前提として、一族不和は家門の恥なので、山内顕定と和睦したい、ともうしいれた。
高実は、顕定に言上した。顕定は和睦をゆるし、憲重に見参し、酒肴をあたえて、
「高実からつげられた修理(しゅり)(定正)どのの来意は承知した。両家和睦のことは、予のねがうところだ。両家合体し、近国の諸侯をひきいて、ともに里見をうちほろぼせば、ついに北条長氏(ながうじ)も兜(かぶと)をぬいで、われらの軍門にくだるだろう。そうして、八州を平治(へいち)して、ながく縁戚(えんせき)の親しみをうしなうことがなければ、よろこびこれにますことはない。予はちかい日に六郷(ろくごう)まで出陣し、その川のほとりでともにちかい、異論がなければ、五十子の城にはいり、軍議をひらこう」といって刀一振をとらせた。
顕定は、里見をたおせば、扇谷家もおのれの掌中にはいることを、計算ずみだ。
憲重は五十子の城にきて、主君定正に、しかじか、と首尾をつたえた。定正はよろこび、その労をねぎらって、憲重を大塚の城にかえした。さらに定正は、石浜の千葉、下総の千葉、滸我の成氏、結城の成朝らへ、大石源左衛門尉憲儀を使者としておくり、定正・顕定両管領の連名をもって、里見征伐(せいばつ)の軍兵を出せ、とさいそくした。
滸我では、成氏の近臣、横堀史在村(よこぼりふひとありむら)に対面した。また常陸の佐竹・鹿島、白井の長尾、糟谷(かすや)の巨田(おおた)、片貝の箙(えびら)の大刀自(おおとじ)には、美田馭蘭二(みたぎょらんじ)らを使者とした。そのうち長尾・巨田・箙の大刀自、それに石浜の千葉自胤がおうじた。もっとも、甲斐の武田信昌、相模の三浦義同(よしあつ)も、顕定からの触れでおうじたが、北条長氏のおさえとして城を離れられないので、嫡子(ちゃくし)あるいは親族を大将とする、と沙汰(さた)された。
滸我の足利成氏は、扇谷・山内の両管領に古いうらみがある、と賛否両論となった。賛成論者は横堀史在村で、反対論者は、下河辺荘司行包(しもこうべそうじゆきかね)である。
行包は、扇谷定正・山内顕定らは当家の旧臣の子孫であったのに、職をうばい、地をおかした、滸我の足利家の累世(るいせ)の仇である、とといた。しかし、在村の弁舌にはちからがあり、賛成論にきまった。結城の成朝は、領内がおさめきれていない、との理由で、また千葉孝胤(たかたね)は、近ごろ老母が世を去り喪中なので出陣できない、とこたえた。常陸の佐竹・高久・鹿島は、同意すると返答はしたが、出兵はせずにおわった。定正は、用意にかかった。

第百五十三回 風火のはかりごと……毛野(けの)の軍略

武蔵の五十子(いさらご)に潜伏(せんぷく)させておいた間諜(しのび)のものの話はおわった。義成は、休息してからまた潜行するように、と命じた。義成が、つぎの間に侍(じ)した辰相(ときすけ)・清澄(きよすみ)をよび、かたらっているところへ、嫡子(ちゃくし)義通が山狩りからもどった。七犬士もいっしょである。義成は、狩装束(かりしょうぞく)のままでよい、みんなはやくまいれ、という。で、信乃・毛野・道節・荘助・大角・小文吾・現八、それに杉倉直元と、義通にしたがって見参した。
義成は、間諜(しのび)のものがもどってきたが敵地のようすをきいたか、ととうた。小文吾は、市川の犬江屋依介(いぬえやよりすけ)が注進してきたので、扇谷管領が里見家をうつというのを、六人の犬士ときいた、とこたえた。さらに、毛野にはかりごとがあるという。義成は、
「毛野にはどのようなはかりごとがあるのだ。きかせてほしい」といった。
毛野は、「はっ」とこたえて、一策(さく)をもうしのべた。管領がたが里見家をせめる手だてとして、多数の船を買いもとめるので、そのまえに、里見家で武蔵・下総の船を多く買いいれておいてはどうか。これは犬江屋依介に船代をあたえて、いそがせることだ、という。
義成は近臣に、
「それは良策だ。小文吾に船代をわたせ。さらに上総・下総の城主、諸頭人(とうにん)に、はやうちをもって、海浜のまもりをかたくせよ、とつたえよ」と下知した。
そこに道節が口をはさんだ。
「はかりごとを惟幕(いばく)のうちにめぐらして、勝ちを千里のそとに決するのは、知の人でなければよくしがたいといいます。また、たたかえばかならず勝ち、かつ、大敵をおそれず、士卒をトラのようにするのは、大勇(たいゆう)でなければおこないやすくはありません。いまのはかりごとは、毛野にきいてください。われら六人は、そのはかりごとをもって、敵をやぶりましょう」というと、荘助・大角・小文吾・現八も、毛野を軍師にしてほしい、といった。毛野は、他の犬士とも相談して、と辞退した。信乃はさらに、毛野が軍師として最適と言上(ごんじょう)する。義成は、毛野にその軍略をとうた。
毛野はそれにこたえて、
「敵は、かならず近い水路をとり、安房・上総にわたろうとするでしょう。陸は行徳(ぎょうとく)・国府台(こうのだい)の二か所に敵をよせつけて、奇兵をはなてばやぶりやすいのですが、水路は伏兵をもちいることができません。そこで必勝の軍略は、八百八人をよくもちいることです。それができるのは、犬村大角と丶大(ちゅだい)法師でしょう。いそぐのはこれです」という。義成はうなずき、
「丶大と大角のことは承知した。だが、八百八人とはどのようなことだ」と六犬士にとうたが、答えはかえらない。毛野は口をつぐんだままだ。
つぎの朝、義成は、両家老、東六郎辰相(ときすけ)・荒川兵庫助清澄らをしたがえて出座した。七犬士も、その席につらなった。小文吾・信乃・現八は、きのう命じられた船買いの手配をすませたと報告した。
そのあと、話題が八百八人のことにおよんだ。人びとが、その《なぞとき》をはじめた。道節・現八・小文吾は、《火》の字を知るした。義成・信乃・大角・荘助は、《風火》としるした。道節は、
「八人の文字をあわせますと《火》の字となります。《風》は、八にしたがい《虫》にしたがいます。《虫》は八日でその卵がかえる、といいます。しかし八百の風とは、どのようなわけなのかわかりません」と信乃にいう。それにたいして信乃は、
「風が八にしたがい、虫にしたがうのはもちろんですが、古字では、とかいて、八にしたがい百にしたがうものもあるのです」とこたえた。
義成は微笑しながら、毛野に、
「風火の二字はどうか。予(よ)はそれでさとったことがある。さきにあの妙椿(みょうちん)ダヌキが八百比丘尼(はっぴゃくびくに)と称した八百もまた風だ。あのものは《みかそ》の珠をもって風を自由におこしたので、風狸(ふうり)のことにおもいあたった」といった。毛野は、
「その《みかそ》の珠は八百八人のはかりごとで必要ですので、たまわりたいとおもっていました。丶大法師がみえられたなら、はかりごとをときしめします。そのおり、珠を師におわたしください」といった。
義成は、
「その珠をわたすのはたやすいことだが、丶大は来会しない。きのう使いを延命寺(えんめいじ)へつかわしたが、拙借は仏門にはいってから五戒(ごかい)をやぶらず、いまさら出家に似ない軍陣殺伐(ぐんじんさつばつ)の評定の席に召されて、うけたまわるべき耳はない、それにかぜがなおったばかりで、髪もひげもそっていないため、みぐるしいので、そのことはごめんをこうむりたい、といってきている。で、ほかの人ではどうか」ととうた。毛野は、そのことは丶大でなければならぬ、とこたえ、妙椿ダヌキの《みかそ》の珠をうけとると、大角とともに、直接延命寺の丶大のもとにおもむくことにした。
犬坂毛野胤智・犬村大角礼儀は、ともに野良着(のらぎ)に、編笠(あみがさ)を深くかぶり、若党二人をともなって、白浜の延命寺に丶大をたずねた。丶大は、
「出家人にふさわしくない軍陣のことならば、うけたまわりません」という。
毛野はそれをとどめて、
師父(しふ)。はばかりのおおいことですが、おん身は、その一を知られて、まだその二をお知りになられないのです。敵は水戦(みないくさ)を主として、数百艘(そう)の船をつらねてせめてきます。その敵船をはらうには、風と火をもってするのが良策です。それで、風をおこすのは師父のほかにおりません。馬にのり、太刀をもってほしいとはもうしておりません」とといた。
丶大は思案して、
「それでも、風をおこし、その風で船をやき、敵をほろぼしたならば、人ごろしとおなじではないか」と辞退しつづけた。大角は、
「師父の分別は矛盾(むじゅん)しています。その風をもって敵をやぶらなければ、大勝利を敵にわたし、城はおち、人びとは殺されます。それならば、師父のこころ一つで、みかたの士卒千人万人を、みずから殺したのとおなじことになるのです」
二人の才子の意見に、丶大もこまりはてた。半刻(はんとき)ばかり黙然(もくねん)としていたが、
「それでは是非(ぜひ)におよばず、拙僧(せっそう)もそのはかりごとにくわわろう。で、拙僧の法力で、どのようにして風をおこすのか」といぶかってとうた。
毛野は袋から《みかそ》の珠を出し、丶大にしめし、
「師父、これをごらんください。これは妙椿ダヌキが風をおこした珠で、東西南北、おもいのままに風をおこすことができるのです。これを師父がおもちになってください」と、毛野の軍略をしかじかとかたり、さらに、「師父は、こよい闇にまぎれて、大角さんとともに司馬浜(しばはま)にわたり、しばらくかくれていてください。他日、その軍略をおこないます」と《みかそ》の珠をわたした。
三人は額をあつめて密談にはいる。

第百五十四回 いくさ占い……妙術(みょうじゅつ)、風外道人(ふうがいどうじん)

五十子(いさらご)の城内には、十一月ものこり二、三日になったころから約束の諸侯が来会して、士卒は二の郭(くるわ)まであふれた。管領、兵部大輔(ひょうぶのだゆう)山内顕定(やまのうちあきさだ)は、家臣斎藤兵衛佐高実(ひょうえのすけたかざね)に山内の館をまもらせ、嫡男(ちゃくなん)上杉五郎憲房とともに、軍兵一万余騎をしたがえて、十二月朔日(ついたち)に鎌倉を出立、二日に五十子にきた。したがうのは、白石城介重勝(しらいしじょうのすけしげかつ)・小幡木工頭東良(おばたむくのかみはるよし)、その手勢それぞれ千五百余騎、総勢一万二千騎である。
六郷川のほとりで、定正と盟(めい)をむすび、五十子の城に入城した。三隊の軍兵はいっぱいで入ることができず、大森に陣をしいた。このほか足利左兵衛督成氏(あしかがさひょうえのかみなりうじ)二千余騎、千葉新介自胤(ちばしんすけよりたね)一千余騎、長尾判官景春(ながおはんがんかげはる)三千余騎、箙(えびら)の大刀自(おおとじ)の代軍、稲戸津衛由充(いなのとつもりよしみつ)千五百余騎、さらに総大将、扇谷修理大夫定正(おうぎがやつしゅりだゆうさだまさ)七千余騎、定正の庶長子(しょちょうし)式部少輔朝寧(しきぶしょうゆうともやす)一千余騎、嫡子五郎朝良(ともよし)千五百余騎、大石石見守憲重(おおいしいわみのかみのりしげ)千三百余騎、その子源左衛門尉(げんざえもんのじょう)憲儀(のりかた)五百余騎、そのほか近国近郡のまねかない野武士らもきて、したがった。総勢は五、六万騎にもおよんだが、さらにいつわって、十万余騎と称した。
このうち、長尾景春はまだ途中にとどまっていて、五十子の城にはいらない。また滸我(こが)の足利成氏は大石憲儀が総大将にあおぐといったのをしんじ、横堀在村(よこぼりありむら)のすすめできたものの、顕定・定正はそれを無視して、無礼なふるまいがめだった。それで、成氏は、すっかり腹をたててしまった。
十二月三日、定正・顕定は諸将をあつめ、水陸の軍評定(いくさひょうじょう)をひらいた。定正は、
予(よ)のおもうに、いま司馬浜から大小の戦船(いくさぶね)にのり、安房・上総(かずさ)へ一挙にわたるがいいだろう。また、陸は下総(しもふさ)の国府台(こうのだい)、あるいは中川・行徳(ぎょうとく)に出て、下総を侵略し、上総にいたり、水陸両軍をあわせて、敵の前後からせめたなら、ふせぐ手だてがなく、みな降伏するだろう」と論じた。顕定は首をふり、
「こちらが船でせめようとするなら、敵もまた船をうかべてむかえうつだろう。敵は水戦(みないくさ)になれたものだ。ましていまは厳寒の冬だ。士卒の手足がかじかんで、船の上のはたらきは不自由となるぞ」と難色をしめした。大石憲重も、風のはげしくなるのをまって、風上から火をはなち、敵をやくほうがいいという。顕定は、風のふく方角に不安があるという。
定正は思案して、
大輔(たゆう)(顕定)どのはかんがえすぎだ。みかたが武運にかなったなら、風もふくし、風向もかわりもしまい、あした司馬浦に出て敵地にわたる近道を土民にきいてみれば、かならず便宜(べんぎ)をえることができよう」と裁断した。一座の諸将はその裁断に賛同し、評定はおわった。
つぎの日、定正・顕定は、大石憲儀・白石重勝以下、士卒百余人をしたがえて城を出て、馬をすすめ、司馬浜・高畷(たかなわて)の岸から浦人の説明をききながら、安房の鋸(のこぎり)山(やま)を眺望(ちょうぼう)した。
浦人は、ここから上総の木更津(きさらづ)まで十六里で、一夜でわたることができ、鋸山のほとりまでは八、九里だが、危険で船はわたらない、という。洲崎までは十余里である。そのとき、高い咳(せき)ばらいをして、
当卦本卦(とうけほんけ)、吉凶(きっきょう)判断、方位宅相(ほういたくそう)、勝敗利害、わが占いは妙(みょう)みょう、百発百中。いざ、おききめされよ」と声高にいうものがいる。見ると、編笠(あみがさ)を深くかぶり、栗染(くりぞ)めの太絹(ふとぎぬ)の古い小袖をきて、朱鞘(しゅざや)の一振を腰にさした占い師が、松の木の下の石に尻をかけている。前においた小机には易経(えききょう)と算木(さんぎ)と筒にたてた筮竹(ぜいちく)がある。
定正はおどろき、顕定に、
「人が疑いをもつときは、惑(まど)いがある。惑いをとくには易にまさるものはないというから、試みに問うてみよう」といって近習に占い師をよばせた。占い師はおそれる気配もなくちかづき、編笠をとった。歳のころは三十にもならず、眉(まゆ)ひいで、色白く、目もとすずしく、鼻すじがとおり、唇(くちびる)は赤く歯ならびが美しい、品のある偉丈夫(いじょうぶ)だ。占い師は、定正らの前に膝(ひざ)をついた。憲儀がとうた。
「これ、占い師、そのほうの名はなんというか。このおん大将は関東の両管領で、いまおんみずからとわれる。くわしくこたえるがいい」
「おおせはうけたまわりました。わたしは赤岩百中(あかいわひゃくちゅう)ともうす浪人ものですが、生業(なりわい)のために、近ごろからここらに旅寝(たびね)しております。易はこのむところ、なにごとでもお問いください。判断つかまつります」と赤岩百中はこたえた。
定正は馬からおりて、床几(しょうぎ)にかけ、
「予の宿願は成就(じょうじゅ)するか」ととうた。
百中はしばらく眼(まなこ)をとじ、袖のなかでうらない、微笑をうかべて、
卦(け)は大吉にて巽為風(そんいふう)をえました。巽は順でまた入るもの、順をもって逆をうち、敵国にはいることです。またそのかたちは風です。これは八方では巽(たつみ)(南東)をさします。巽の字は、己(おのれ)が二人ならびたって共(とも)になすの意です。そもそも尊公ご両所が和睦合体のうえ、巽の方角、里見氏をうとうとするはかりごとは、巽の一卦(いちげ)で、いたれりつくせりとなっております。それに、海をわたり、水路をもって安房にはいろうとなされますのは、巽は方角の意味と、またはいるという意味の両方にかないます。まして風です。戦いのときにのぞみ、順風がおこり、船をはこぶことになりましょう。君子の徳たる風をもって、敵の小人(しょうじん)にくわえたもうときは、草木もかならずなびきます。これは疑いのないことです」とといた。
定正・顕定もよろこび、顕定は、易の判断がかない、幸いによくあたったなら、ほうびは請(こ)いにまかせる、で、その順風はいつふくか、ととうた。これに百中は、辰(たつ)の数は五つ、巳(み)の数は四つ、四五二十日(しごはつか)まつ必要があります、とこたえた。
顕定は、定正に不満げにいう、それでは兵糧(ひょうろう)がつき、そむくものも出てくる、労ばかりおおくて功がない、と。定正も百中に、
「そのほうは、風を自由におこすすべは知らぬか」という。百中は、「自分はできないが、師の風外道人(ふうがいどうじん)は、風をよび、雲をおこし、雨をふらすことができ、その妙術は、むかしの役小角(えんのしょうかく)と伯仲(はくちゅう)している。だが、道人は俗世(ぞくせ)をきらい、術をうらず、箱根(はこね)にすまいしていたが、たまたまいまは谷山(やつやま)にいる。この師について、順風をこうたらよかろう」といった。
定正・顕定はよろこび、
「風外道人をただちにたずねたい、なにを持参すればよいか」という。百中は、
「いや、師は欲などはないのです。紙一枚でも受けとりません。ただ、たずねるときは斎戒沐浴(さいかいもくよく)していかなければ、対面はゆるされません。しかし、にわかのことですので、従者に代垢離(だいごり)をとらせて、いそがれては……」といった。
両将は近習に名代(みょうだい)を命じ、百中を案内にたてた。
定正・顕定は馬にのり、重勝・憲儀以下をしたがえて、谷山にたどりついた。
この山の中腹に横穴が一つあり、その洞内に菰莚(こもむしろ)一枚をしき、端然(たんぜん)と結跏趺座(けっかふざ)する一人の老法師がいた。千歳の松のようにやせて、手足は竹の根に似て細い。ひげも髪ものび、身には墨染(すみぞ)めの麻の腰法衣(こしほうえ)をまとっている。眼(まなこ)をとじ、合掌(がっしょう)している老法師のそばに、灰を盛った《どくろ》があり、抹香(まっこう)の煙がしずかにただよっていた。
百中が一人洞内にはいって、ことの次第をつげると、風外道人は、人を害し、土地をうばうたすけはしない、という。百中は、定正・顕定をも洞内にいれた。
両管領は、
「道人、予らは関東の両管領だ。ねがいをかなえてほしい」とこいもとめた。両管領は、逆徒里見によってくるしめられている民をたすけるため、力をかしてほしい、と、ていねいにたのんだ。
道人は舌(した)うちをして、
「しかたがない、その風をおこしてやろう。欲する方角は、西か東か。何日に海をわたるのか」ととうた。
定正は、「風は乾(いぬい)(北西)を順風とする。はげしいほどよいが、あまりはげしければ、みかたの船もくつがえる」という。さらに顕定は、はやく出陣したい、吉日(きちじつ)はいつか、ととうた。
風外は指をおり、
「きょうは十二月四日。いまから四日ののち、八日は黄道大吉日(こうどうだいきちにち)、乾(いぬい)から巽(たつみ)にはいり、ことをはかると大利だ。本月八日の辰刻(たつのこく)(午前八時)から乾の風をおこし、その夜亥刻(いのこく)(午後十時)ごろでとめることにしよう。といっても疑いがあるだろうから、手並をみせよう。こっちにくるがいい」と身をおこして、洞穴から出て、山の頂(いただき)に案内した。
道人は乾(いぬい)にむかって、ふところからちいさな錦(にしき)の袋物をとりだし、額(ひたい)におしあて、眼(まなこ)をとじ、呪文(じゅもん)をとなえ、その袋物でまねくしぐさをした。
すると、乾(いぬい)のほうから突然風が音をたてておこった。砂をとばし、木をならした。定正らもふきとばされては、と岩にすがった。定正・顕定は、
「道人、手並はわかった。風をとどめよ」とさけぶ。風外が呪文をとなえて、袋物をふところにおさめると、風はやんだ。定正らは、
「師はまことに神仙(しんせん)だ。この風のたすけがあれば、火ぜめのはかりごとで義成父子をとりこにし、憎いとおもう八犬士の首をきることもできる。凱旋(がいせん)のおり、またここにきて法恩(ほうおん)にむくいたい」
「いや。わしは人のために術をほどこしても、むくいはいらぬ。風をおこしたなら、その翌日はもとの山にかえる。もう対面することもあるまい。ただ、わしの弟子百中をしばらく両公にしたがわせよう。百中の親は伊豆の堀越の御所(足利政知(まさとも))の旧臣で、先君(政知)の卒去(そっきょ)のおりに、伊勢新九郎長氏(いせしんくろうながうじ)(のちの北条早雲)におそわれて領地をうしなった。百中は奇才(きさい)で、易をまなばせたが、すでに奥義(おうぎ)をえている」という。
定正・顕定は沖のほうをながめた。
この前の浜の品革(しながわ)はむろんだが、上総・安房はななめにあたり、手にとるように見えた。
顕定は道人にとうた。
「船で安房におもむくには、どの浦が近いのか」
「安房は、洲崎が第一の港だ。というのも、稲村の城に近いからだ。諸国の海船も、すべて洲崎にはいる。洲崎に近いのは相模(さがみ)の三浦で、わずか六里にすぎない。両公の戦船(いくさぶね)は、八日の暁(あかつき)に高畷(たかなわて)の浦からこぎだして三浦のほうにまわり、乾の順風がおこったときにまっしぐらに洲崎によせるなら、陸戦に十倍してふせぎにくいだろう。また、安房の洲崎から尉(じょう)が崎(さき)までは、水路で八里だ。このほか、富士(ふじ)は酉(とり)と戌(いぬ)のあいだに見える。箱根もまた乾に見える。また江の島は戌のかた、金沢は亥子(いね)のかた、伊豆は酉(とり)、三浦は乾(いぬい)のかたにあたる。これはみな、安房の洲崎からながめた方角だ。それで、相模の三浦から洲崎に船をよせるときは、乾をもって順風とする。また大磯(おおいそ)は戌のかた、雨降山(あぶりやま)も戌のかた、三浦は乾のかた、と知ることだ。五十子(いさらご)の城から出て、船で里見をうとうとするなら、安房へまっすぐむかうのはかえって遠く、鹿山(かやま)を目標にして、上総の浦へよせることこそ便路(びんろ)だ。だが、稲村の城をせめおとしたいのなら、わざと遠いほうの水路をえらんでも、わしの風涛(ふうとう)のたすけで船はすみやかにすすむのでさわりはない」といった。
定正・顕定は感服するばかりだ。
風外が安房のかたをながめて、
「百中、おまえにはわかるか」ととう。百中は、
「はて、わたしにはなにも見えません」とこたえる。風外は指をさし、
「わからぬか。洲崎のかたに陰いんたる一道(ひとすじ)の黒気がある。あそこに反忠(かえりちゅう)のものがいて、両公の戦いをたすけるだろう。三日のうちに、その吉報をきくことになる。まことに珍重(ちんちょう)、珍重」といった。
それをきいた定正・顕定のよろこびは倍になった。
風外道人は、定正・顕定に、
「いまいったことは、みだりに人に知らせるな。刻(とき)がたった。なお長居しては、士卒にうたがうものがでよう。はやくかえられるがいい」といそがせた。
定正・顕定は、百中のことは承知しました、といい、従者をしたがえて、山をくだっていった。風外は洞(ほら)のほとりまで見おくった。
五十子の城にかえると、定正・顕定は、近臣や在城の諸将に風外道人・赤岩百中のことをかたった。日がおちると、定正・顕定同席で、憲重・憲儀・東良・重勝と、水戦の密議をひらき、百中もまねかれた。
この席で百中は、
「わたしは士卒をともなって、相摸の新井(あらい)の城におもむき、船二、三十艘(そう)をかりて、かならず八日のいくさのさきがけをつかまつります。そこで、あそこの城主三浦どの(義同(よしあつ))へ、船ごとに柴(しば)・煙硝(えんしょう)をつみいれて、この百中にわたされるようにおおせつかわしてください」という。
定正らには異議がなく、あす三浦義同あてに使者をおくると約し、船をうけとる割符(わりふ)と船じるしを百中にわたした。
明け方、百中は城を出て、谷山にいった。風外に割符と船じるしをみせた。この風外と百中は、虚(きょ)か実(じつ)か。

第百五十五回 秘密の使い……敵地にひそむ音音(おとね)ら

丶大法師(ちゅだいほうし)と犬村大角がひそかに武蔵の司馬浜へ去ると、犬坂毛野胤智(たねとも)は稲村の城にかえって、城主義成(よしなり)に見参(げんざん)し、大角が占(うらな)い師になって敵をあざむく手だてをつげ、
「知勇かねそなえました一人の兵頭(ものがしら)に、兵百五、六十人、みな舵(かじ)とりの技になれたものをしたがわせて、ひそかにかの地につかわしてください。大角がうまく敵をあざむくことができても、またこれらのたすけがなければむずかしいとおもいますので……」とこうた。
義成は、その兵頭(ものがしら)は堀内雑魚太郎(ほりうちざこたろう)貞住(さだすみ)が適任だ、といった。さらに義成は、素藤(もとふじ)の側近としてつかえ、いまは獄舎(ひとや)につながれている千代丸図書介(ちよまるずしょのすけ)豊俊(とよとし)は、深く改心してるので、これも間諜(しのび)にしてはどうか、という。むろん、毛野は義成の恩徳(おんとく)に賛同し、その千代丸の旧臣の縁者として、水辺育ちの音音(おとね)・曳手(ひくて)・単節(ひとよ)なども、敵地に潜行(せんこう)させては、と言上(ごんじょう)した。
大角は城内の仮居(かりい)の長屋にさがり、信乃・道節・荘助・小文吾・現八に、丶大・大角が武蔵の司馬浜へ潜行したこと、また千代丸豊俊のこと、毛野のはかりごとの一つとして、音音・曳手・単節を滝田の城からよび、敵地にひそませる、とつげた。
音音らを稲村の城によぶのも、秘密を要することだ。それは信乃・小文吾が担当することになった。
で、二人は滝田にいそいだ。宿所にはよらずに、義実に対面をこうた。信乃らは、毛野の軍略のうえで、音音らが必要になり、そのおん使いできた、という。義実は、音音と嫁二人は、まだかえらぬ代四郎(よしろう)をまって宿所にいる、といった。
信乃・小文吾はさがって、音音の宿所にいった。すでに、灯(ひ)ともしごろになっていた。音音ら三人が出むかえた。妙真(みょうしん)もきていた。そこで音音らに、われらは軍議の密使(みっし)でしかじか、とつげた。音音ら三人は、女の身でお役にたつことができる、とよろこびあった。だが、不満なのは妙真である。わたしにも一役がほしい、というのだ。
信乃らはこまったが、ともに稲村の城にまいり、毛野の同意をえてから、となぐさめた。それから信乃らは宿所にもどった。

第百五十六回 糾明(きゅうめい)……千代丸豊俊(ちよまるとよとし)の真情

犬塚信乃・犬田小文吾は、滝田の城から稲村の城にかえると、毛野・道節・荘助・現八に、音音(おとね)・曳手(ひくて)・単節(ひとよ)は異議(いぎ)がないものの、妙真(みょうしん)も一役ほしいといって音音らと乗物であとからくるとつげ、なにか良策(りょうさく)はないか、と毛野にとうた。毛野は、妙真もくわえようといい、小文吾と現八に、妙真らがきたなら、老臣堀内貞行(ほりのうちさだゆき)の宿所にともなってきてほしい、といって、荘助とともに堀内の宿所におもむいた。
貞行は、近ごろはふせっている日がおおい。嗣子(しし)貞住は上総の椎津(しいつ)にいき、まだもどらない。毛野らは、千代丸豊俊(ちよまるとよとし)に、敵にいつわりの降参をさせるべきこと、その密使(みっし)には妙真や四人の女をもってすることなどをかたった。豊俊の改心がまことなら、妙真らを豊俊に対面させたい、それで女たちが貴宅にまいる、といった。貞行は、
「千代丸豊俊は獄舎(ひとや)につながれてから、わしがあずかり、その人柄のあらたまったことを承知している。直接尋問(じんもん)されるがいい。なお妙真・音音・曳手・単節は、敵地におもむくまで拙宅(せったく)にとどめておき、豊俊に対面させよう。また曳手・単節の二人の幼児、力二郎(りきじろう)・尺八(しゃくはち)の世話も、貞住の妻にさせよう」とすべてをこころえていった。
そこへ嗣子堀内貞住がもどり、また犬山道節・犬飼現八もきた。しばらくして千代丸豊俊の糾明(きゅうめい)がおこなわれた。当役の毛野・荘助は書院の中央にすわり、貞住・貞行も二人の左右におり、道節・現八も列座した。そこへ、千代丸豊俊がひかれてきた。歳のころ三十ばかり、《さかやき》のあとが六、七分のびているが、やつれてはいない。貞住が、
「千代丸どの。このお二方は当家の賢臣(けんしん)犬坂毛野・犬川荘助、また列座しているのは犬山道節・犬飼現八だ。この四人は、館(義成)の御諚(ごじょう)によって問う」と、千代丸豊俊の糾明がはじめられた。
毛野は、その問答のさい、豊俊の瞳(ひとみ)を見ていた。荘助も豊俊の真情をみとめた。
毛野は、「千代丸どの。あなたが館のご仁政(じんせい)に感謝して、このたびの戦いにしたがうことがゆるされたなら、戦功をもってその罪をつぐなおうとする誠心がわかりました。わたしにいささかはかりごとがあるが、これにしたがわれるかどうか、それをきかせてください」と、とうた。
豊俊は、
「たとえ火のなか水のなかでも、ことわりはしません。なにごとでも、うけたまわりたいとおもいます」とこたえた。毛野は、八百八人のこと、豊俊が敵へいつわりの降参をすることをはかり、その密使には音音ら四人の女をもちいるので、対面してほしいなどとかたった。豊俊はよろこび、
「いま、ねがいをいれられて、軍旅にしたがうだけでなく、このような大役をあてられて、面目(めんぼく)このうえない。この身は、敵の士卒とともに火にやかれ、海にしずむとも、機にのぞみ、変におうじて、かならずなしとげたいとおもいます。わが身は不肖(ふしょう)ですが、父祖相伝(そうでん)の遺領(いりょう)をうけ、一郡一城の主(あるじ)でしたので、恩顧(おんこ)の士卒がおりましたが、おおくは討死(うちじに)してしまいました」という。
そこへ、貞住が妙真・音音・曳手・単節をともなってきた。ここで対面となる。

第百五十七回 全軍集結……義成(よしなり)の下知(げち)

十一月ものこりわずかになった。
武蔵に潜行(せんこう)した間諜(しのび)らが、夜ごとに快船(はやぶね)で敵の動静を注進してきた。間諜らが、五十子(いさらご)の城にぞくぞくとあつまってきた。遅参のものがいうには、敵はいつでも総勢十万余という。義成はすこしもさわがず、安房・下総のみかたの軍兵が三万五千余あつまると、士卒の手配をした。二十八日には、洲崎明神(すさきみょうじん)の社頭を本陣として、全軍をあつめた。
つらなるものは嫡男(ちゃくなん)里見義通、軍師犬坂毛野、水陸の防御使(ぼうぎょし)犬塚信乃・犬山道節・犬川荘助・犬田小文吾・犬飼現八、さらに当家の家老、東(とうの)六郎辰相(ときすけ)・荒川兵庫介清澄、兵頭(ものがしら)杉倉武者助直元・堀内貞住、上総の館山の城の頭人、小森但一郎高宗・田税(たちから)力助逸友、上総の庁南(ちょうなん)・榎本(えのもと)両城(ふたしろ)の頭人、浦安牛助友勝・登桐(のぼぎり)三八良于(よしゆき)らである。
老党の杉倉氏元・堀内貞行・小森篤宗・浦安乗勝らは、篭城(ろうじょう)を命じられた。
義成は、両家老・犬坂毛野らにつげた。
「いくさの得失は、総大将たるものにかかわらぬということはない。水戦(みないくさ)は予(よ)が総大将だ。また、陸戦は義通が総大将だ。しかし、水陸ともの進退(かけひき)は、軍師・防御使たる犬士にしたがうことだ。犬士らにもしあやまちがあったなら、まず予を罪(つみ)せよ。犬士らみなに軍功があったら、士卒とともにほうびをとらせよう。予は、もとより人を殺すことはこのまぬ。まして両管領(りょうかんれい)にうらみはない。しかるに定正は、非理をうらみとするのか、予をうとうとする。予はやむをえず、このそなえをしているのだ。ただ敵の大将をいけどったものを大功とする。首をはねたものは功とせぬ。おかすものは法で処する。そのほうたち、このように下知(げち)せよ」
義成は、毛野・信乃・道節・荘助・小文吾・現八に、それぞれ太刀一振を手ずからあたえた。さらに、
「士卒の軍法に違反(いはん)するものは、まずきってつげよ。親兵衛と大角にもこの太刀をとらせようとおもう。親兵衛の太刀は信乃に、大角の太刀は現八にあずけておく」といった。
そこへ滝田の城から、東峰萌三(とうがねもえぞう)・小水門目(こみなとさかん)・蛸船貝九郎(たこふねかいくろう)らが、義実の使いで、兵をともなってきた。

第百五十八回 暗躍する間諜(しのび)……百中(ひゃくちゅう)風外道人の正体

東峰萌三(とうがねもえぞう)らも、義成の軍にくわわることをゆるされた。萌三らは、滝田からここ稲村の城にくる途中、一人のくせものをとらえた。このものは、大石石見守(おおいしいわみのかみ)憲重(のりしげ)の間諜(しのび)で、朝時技太郎(あさときわざたろう)といって、扇谷定正(おうぎがやつさだまさ)の檄文(げきぶん)をふところにしていた。義成は、技太郎に、
「定正どのが怨欲(えんよく)の妄想(もうそう)からさめられ、善を徳となされば、自領・他領をとわず、民はよろこびにわくだろう。このことがわからずに、なお勝負を決せんとするなら、こちらにも防御(ぼうぎょ)の備えがある。そのほうはかえり、憲重にこのことをつげ、定正どのをいましめたなら、定正どのもかんじいり、おもいかえすこともあろう。それなら両家には幸いだ」といって、技太郎の縄(なわ)をときはなした。
この日、義成は水陸の手配りをさだめた。総太将は義成自身で、洲崎の浜に本陣をもうけた。軍師犬坂毛野、防御使犬山道節・犬村大角(目下、敵中にいる)をはじめ、小森高宗・浦安友勝らを主軸(しゅじく)として、兵一万六千がしたがう。下総(しもふさ)の行徳(ぎょうとく)には、防御使犬川荘助を大将とし、犬田小文吾を副将とした。登桐山八(のぼぎりさんぱち)もこの隊におり、士卒は八千五百だ。
下総の国府台(こうのだい)には、里見家嫡男(ちゃくなん)義通を総大将として、東六郎辰相(とうのろくろうたつすけ)が後見(うしろみ)をつとめる。杉倉直元らもこれにしたがい、篭城(ろうじょう)する。その城外に敵をまつのは、防御使犬塚信乃、副将犬飼現八、田税力助逸友(たちからりきのすけはやとも)がくわわり、城内外の士卒は九千五百である。
さらに稲村の城には、義成の二男次丸(つぐまる)を大将として、荒川清澄が後見(うしろみ)をつとめる。この士卒は千五百である。ここ洲崎の本陣には、東峰萌三などの遊軍もいる。刀傷がなおった麻呂復五郎重時(まろまたごろうしげとき)は、義成に召され、
「そのほうは犬川荘助らの隊にくわわり、行徳の敵をうて」と命じられた。
その宵(よい)、義成・義通父子は、洲崎明神に参篭(さんろう)した。起請文(きしょうもん)一通に、白羽の矢二本をそえ、神殿におさめた。神主らは、管絃(かんげん)を奏(そう)した。舞楽がはじまると、社前の松の枝から、シロバト二羽がとびたち、海洋(うみ)のかた乾(いぬい)をさして姿を消した。
ハトはとぶのがはやいので、和名を《はと》というのは、《はやびと》の略だ。
十二月五日、丶大法師(ちゅだいほうし)・犬村大角にしたがっていた若党が、二人でひそかに快船(はやぶね)でもどってきて、大角の密書を毛野にわたした。毛野は道節とともに披見(ひけん)し、それから本陣にまいり、義成にもこの密書を披露(ひろう)した。毛野は、
「丶大法師・大角の首尾は上じょうでございます。こよい堀内貞住(ほりのうちさだずみ)に兵百五十人をしたがわせて、敵地におつかわしください。八百八人の密策はこの一隊でたりますが、船は散在していますので、火をまぬがれる船もおおいとおもいます。そこで、音音(おとね)ら四人の女子(おなご)も、こよいつかわされますよう」といった。
義成はうなずいた。
毛野は、滝田の城からきている東峰萌三と、蛸船(たこふね)貝六郎に割符(わりふ)をわたし、しかじかと密策をつげた。それから毛野は、浦安友勝とひそかに稲村の城にはいり、堀内貞行の宿所で、千代丸豊俊に友勝をひきあわせ、こよい妙真(みょうしん)・曳手(ひくて)らを敵地におくるとつげた。さらに毛野は、音音・妙真・曳手・単節(ひとよ)を別室によび、友勝とともに出発せよ、といった。
そこへ堀内貞住が、にわかの腹痛といつわってもどってきた。毛野は、貞住とあって、いった。
「丶大法師・犬村大角のはかりごとはうまくいっており、敵はこの月の八日にせめてきます。そこで堀内さんは、その隊百五十人とともに、漁師の姿で、武具を船底にかくし、五、六艘(そう)の鯨船(くじらぶね)にのり、ひそかにこぎだしてほしい。案内は、犬村さんの密使がします。そこで犬村さんとあってください。犬村さんの名は赤岩百中(あかいわひゃくちゅう)、丶大法師の名は風外道人(ふうがいどうじん)です」
いっぽう音音(おとね)らは、千代丸豊俊の密使として、快船の手配りもすませた。音音らも海女(あま)の姿だ。音音・曳手と二手にわかれた。一方の友勝が、妙真らを案内して海辺にきた。
一艘の快船が用意されていた。そのほとりに一人の漁師が漁火(いさりび)をたいている。その漁師が、友勝に、
「おまえは浜県馬助(はまがたうますけ)ではないか。日が暮れてから、母御と妹をつれてどこへいくか」といった。
友勝はそれにあわせて、
「おまえも知っているように、わが主(あるじ)図書(ずしょ)どののために、扇谷家に降参をこおうと、おれのなかまがここから船を出そうとしたものの、たいせつな書状をわすれたので、それをわたそうとして追ってきたのさ」という。漁師は、
「ばかなやつだよ、馬助。むだなことはよせ、よせ」という。友勝は、
「ばかなやつとはなんのことだ。もう旗をあげる日もちかい。そのときに後悔するな」と、妙真・単節らと船にのろうとすると、漁師はいかり、
「待て!」といって身をおこし、すがりついてきた。
友勝は身をかわして、漁師をなげつけた。漁師はとんぼがえりし、血にまみれて息たえた。このとき、一人の男が磯松(いそまつ)のかげからとび出て、友勝に、
「おい、浜県さんとやら。おまえさんは上総(かずさ)の榎本の敗将、千代丸豊俊どのの残党だろう。このおれは、大石石見守憲重の間諜(しのび)、天岩餅九郎(あまいわもちくろう)というものだ。おまえさんらが五十子(いさらご)の城へまいりたいのなら、おれも同船して手引してやろう」という。
友勝はよろこび、妙真を母、単節を妹として餅九郎にあわせ、快船にのった。順風である。
友勝になげつけられた漁師がおきあがった。海水で顔をあらうと、血が消えた。紅(べに)のにせ血である。これも毛野の軍略のひとつで、狙岡猿八(さるおかさるはち)が漁師に変装したのである。

第百五十九回 管領(かんれい)の大軍……助友(すけとも)の進言

狙岡猿八(さるおかさるはち)が洲崎(すさき)の本陣にきて、友勝らが快船(はやぶね)で出航したありさまを、犬坂毛野にしかじかとつげた。
毛野はひそかに義成をたずね、言上(ごんじょう)した。冬の夜はながい。義成・毛野はおそくまでかたりあった。
この日十二月五日、五十子の城内では定正・顕定(あきさだ)が、安房(あわ)にはなった間諜(しのび)の注進をきき、手配りをおえた。洲崎をせめる水戦(みないくさ)の総大将は管領、扇谷修理大夫定正(おうぎがやつしゅりだゆうさだまさ)。定正の長男、式部少輔朝寧(しきぶしょうゆうともやす)、 小幡多木工頭東良(おばたむくのかみはるよし)・大石源左衛門尉憲儀(おおいしげんざえもんのじょうのりかた)・武田左京亮信隆(たけださきょうのすけのぶたか)、これらを大将として、軍兵三万、船三艘(そう)が準備されている。
また、下総の国府台(こうのだい)をせめるのは管領山内兵部大輔(やまのうちひょうぶのだゆう)顕定(あきさだ)・足利左兵衛督成氏(あしかがさひょうえのかみなりうじ)を両大将として、顕定の嫡子、上杉五郎憲房(のりふさ)、白石城介重勝(しらいしじょうのすけしげかつ)、成氏の家臣、横堀(よこぼり)史在村(ふひとありむら)・新織帆大夫素行(にいおりほだゆうもとゆき)らがこれにしたがい、軍兵三万八千人。
また、行徳をせめるのは、定正の嫡子、上杉五郎丸朝良(ともよし)・千葉介自胤(ちばのすけよりたね)を両大将として、大石石見守憲重(いわみのかみのりしげ)・原播磨介胤久(はらはりまのすけたねひさ)・相馬郡領将常(そうまのぐんりょうまさつね)・稲戸(いなのと)津衛由充(つもりよしみつ)らがこれにしたがい、軍兵二万余である。この一隊が、国府台ぜめに進発する。
そこへ、扇谷の内管領、持資入道道潅(もちすけにゅうどうどうかん)が、その子、薪六郎助友(しんろくろうすけとも)を名代(みょうだい)として、五十子の城におくってきた。助友の手勢は三百余人である。
助友は、定正に見参(げんざん)し、里見義成をせめることの不当と不利を、父道潅にかわってといた。
「この寒空に水戦(みないくさ)は無謀(むぼう)です。顕定どのはこのことを知っておられるので、定正どのとともに水路にむかわず、国府台へと進発したのでしょう」
定正は顔を朱(あけ)にそめていかり、
「だまれ、助友。里見をせめるのは不当不利というのか。予(よ)に仇(あだ)をなした犬山道節・犬塚信乃らをひきいれた里見の罪はおもい。そのほうの言はゆるしがたい」といきまく。これを武田信隆がなだめた。ため息をはき、助友は、そのまま五十子の城を去った。
武田信隆は、もとは庁南(ちょうなん)の城主で、蟇田素藤(ひきたもとふじ)と親交があったので、千代丸豊俊・万里谷信昭(まりやのぶあき)らにみかたしてやぶれ、豊俊はとらえられ、信昭は相模路(さがみじ)にのがれ、甲斐の武田信昌をたよった。武田家に出陣のさいそくがあったが、信昌は北条長氏(ながうじ)のおさえのために出陣できず、信隆を名代として三百余人の兵をあたえ、五十子の城におくった。その信隆のとりなしなので、定正も助友への怒りをおさめた。

第百六十回 二枝(ふたえ)の花……信隆(のぶたか)の真意

大石憲儀(のりかた)は、扇谷定正(おうぎがやつさだまさ)の命で、五十子(いさらご)の城に近い司馬浜(しばはま)から大森・六郷まで、海岸にうかぶ大小の戦船(いくさぶね)千百数十艘(そう)を点検した。このうち鯨船(くじらぶね)幾十艘かには柴(しば)・煙硝(えんしょう)のたぐいをつみこんだ。
このあたりは柴がおおく、その柴をたててノリをとって生業(なりわい)としていた。ノリをとる柴は、《ひび》という。日比谷(ひびや)の地名は、これから出たものか。
十二月六日の明け方に、音音(おとね)・曳手(ひくて)の船が司馬浜についた。音音は、大石憲儀の家来、仁田山晋六武佐(にたやましんろくたけすけ)にあい、
「わたしどもは、故主(こしゅ)のために、内応の密使としてまいりました」と千代丸豊俊のこと、戦いのさなかにうらぎって里見の船をやく策などを、まことしやかにつげた。さらに、
良人(おっと)も息子も、この春のいくさで戦没(せんぼつ)したので、嫁とともに大事の使いに立った。わたしは樋引(ひびき)、嫁は臥間(ふすま)といいますのじゃ。このことをご主君にもうしあげてほしい」ときりりといった。
晋六は、上総(かずさ)の敗将千代丸どのの残党であったか、それなら当家への内応の書状は、ととうた。
音音は、あわてて持参しなかった、という。晋六は、それはあやしい、里見のまわしものではないか、というと、そこへ一艘の快船(はやぶね)がついた。その船には、男女四人がのっていて、一人の男が大声で、
「まて、まて、おれだ。天岩餅九郎(あまいわもちくろう)だ」と晋六によびかけて、しかじかとかたった。むろん、ほかの三人は友勝・妙真・単節(ひとよ)の三人である。まもなく夜明けだ。
そこへ、大石憲儀が戦船の点検にきた。晋六・餅九郎はこれをむかえて、豊俊の密使のついたことをつげた。餅九郎は、まちがいなく豊俊の内応だ、という。
憲儀はよろこび、音音・曳手、それに友勝・妙真・単節らをよび、みずからたずねた。友勝は降人(こうじん)なので帯刀はゆるされない。妙真は友勝こと馬助(うますけ)の母の戸山、単節は馬助の妹の叫子(よぶこ)と名をかえている。憲儀は、
水戦(みないくさ)はあさってとさだめてある。そのとき、残党どもは豊俊の獄舎(ひとや)をやぶって救出し、里見の船をやけ。戸山・叫子(よぶこ)・臥間(ふすま)は人質(ひとじち)として城内にとどめておく。だが、豊俊を知っているものがないので、樋引(ひびき)は晋六にあずけておき、豊俊がきたときの証人とする。また、浜県馬助(友勝)は、ひそかに安房にたちかえり、残党ならびに故主豊俊に、うらぎりの用意をいそがせよ」といった。
晋六は友勝に両刀をかえした。友勝は、妙真らに目くばせして、船にのり、安房をめざした。手はずのとおりだ。
憲儀は、五十子の城にもどり、扇谷定正に千代丸豊俊のうらぎりの書状をだした。さらに、餅九郎がともなってきた馬助と四人の女の話をした。
定正は書状を披見し、
風外道人(ふうがいどうじん)が、安房に内応のものがある、といったのはこのことか。吉報だ。戸山らは美田馭蘭二(みたぎょらんじ)にあずけよ」という。音音らははなれにとじこめられた。その番卒の頭人(とうにん)が、朝時技太郎(あさときわざたろう)と天岩餅九郎だ。この男どもは、叫子(よぶこ)・臥間(ふすま)によからぬ欲情をいだいた。
この日、洲崎の里見の陣所で、三人のくせものをとらえた。そのものは、さきに蟇田素藤(ひきたもとふじ)にみかたした庁南の城主、武田左京亮信隆(たけださきょうのすけのぶたか)の使いで、里見の本陣にきたのだ。その一人は信隆の甥(おい)で、一条端四郎信有(いちじょうたんしろうのぶもり)という。信有は、
「管領から甲斐の国守、武田信昌に加勢のさいそくがありましたので、信隆が代軍として三百余人の軍兵をひきい、五十子にまいりました。信隆は先非(せんぴ)をくい、当家の仁義をしたってひさしゅうございます。このたび、信隆が管領をうらぎり、当家に大功をたてたら、庁南の城をかえしていただきたい。忠誠の証(あかし)に、わたしが人質にまいりました」といった。
義成は、道節・毛野の意見をきき、信隆の意中をたしかめることとし、信有を稲村城内の荒川清澄にあずけた。

第百六十一回 人魚の膏油(あぶら)……重時(しげとき)ら、水中をいく

犬川荘助・犬田小文吾は、登桐山八(のぼぎりさんぱち)・麻呂復五郎(まろまたごろう)らと七、八千の軍兵を、下総(しもふさ)の行徳口(ぎょうとくぐち)へといそがせた。このなかには市原の郷士(ごうし)、館持※杖朝経(たてもちけんじょうともつね)〔※は、にんべんに兼〕、夷隅(いしみ)の郷士、大樟村主俊故(おおくすすぐりとしふる)らを頭人とする加勢(かせい)士卒がいる。これらは両股(ふたまた)・原木(ばらき)のあいだにとどめて、千葉孝胤(たかたね)のおさえとした。
荘助らは塩浜に陣をもうけた。南には海洋(うみ)、西には大河がある。上流は利根川で、中流は矢切(やぎり)といい、真間(まま)・国府台(こうのだい)は、このほとりにある。そのつぎは市川、下流は今井(いまい)とよび、これより南は海にはいる。早瀬のなかに妙見島(みょうけんじま)とよぶ小島がある。
寄手は、すでに妙見島と今井の岸に柵(さく)をつくり、陣屋をかまえ、二、三千人を配している。
柵の頭人は扇谷の兵頭(ものがしら)小越小権太表練(こごしこごんたおもてねり)、千葉自胤(よりたね)の兵頭、猿島郡司将衡(さしまのぐんじまさひら)、また妙見島の頭人は大石憲重の老党、彦別夜叉吾数世(ひこわけやしゃごかずよ)で、五百人の兵を配している。
荘助はこのありさまを間諜(しのび)からきき、わらいながら小文吾に、
「寄手の先鋒(せんぽう)がまもりをかたくするのは、勇気がないからです」という。小文吾も同意見だ。
麻呂復五郎重時も手もちぶさたなので、湊村(みなとむら)にきた。刀鍛冶(かたなかじ)の音がするので、見ると、五十ばかりの主人(あるじ)と、十六、七のせがれがいる。つくりあげた出刃(でば)・小刀などの銘(めい)には藤原信之(のぶゆき)とある。また、白壁にあるおおきなタケの輪のなかに、《屋》の字がしるされている。屋号を《丸屋》とでもいうのか。復五郎は、
「そのほうがつくった新刀はないか」と主人に声をかけた。主人は、先代までは刀鍛冶(かたなかじ)で新刀をおおくつくったが、てまえは木瓜八(ぼけはち)といって、出刃・小刀をつくるだけです、とこたえた。復五郎は、
「それはそれとして、竹輪(たけのわ)は安房の麻呂の家紋(かもん)だ。おれは、むかしほろびた麻呂小五郎信時の親族の麻呂復五郎重時だ。もしや、そのほうは麻呂氏(うじ)とかかわりはないか」ときいた。
木瓜八は、
「おん身が里見どのにつかえる麻呂どのでしたか。てまえのもとの主(あるじ)も麻呂氏でしたが、民間にくだって、鍛冶(かじ)をもって生業(なりわい)としています。いまも麻呂氏で、藤原信之は家の通称です。この子は主筋で、丸屋太郎平(まるやたろへい)の一人子の再太郎(さいたろう)といいます」といい、再太郎は十八歳になるが、子どものころから寒中でも裏の荒川に身をひたし、水練(すいれん)に長じ、そればかりか槍(やり)・棒(ぼう)・撃剣(げっけん)をこのみ、刀鍛冶らしくない、という。
これをきき、復五郎は、再太郎を里見家につかえさせないか、とさそった。さらに、
「冬の日でも水にひたったというが、こごえることはないのか」ととうた。
木瓜八(ぼけはち)は、わが家五世の祖(おや)である麻呂太郎平信之からつたわる、人魚の膏油(あぶら)をからだにぬれば、川にはいってもこごえるということはない、だが、それも二合たらず秘蔵しているだけだ、とこたえた。
そのとき、鍛冶屋の門辺に旅姿の一人の少年が立っていて、復五郎・木瓜八の問答に耳をかたむけていた。復五郎らはそれに気づかない。復五郎はまた再太郎に、このたびの軍役(ぐんえき)にしたがうようすすめた。木瓜八は、
「それは再太郎の立身出世ともなるでしょうが、なにしろ、てまえの胤(たね)でなく、さきの主人の一人子ゆえ……」とためらった。その再太郎自身は、
「思いがけない幸いです。ともに麻呂氏の親族ですので、いまからあなたを親とあおぎましょう」といって、復五郎重時にていねいにおじぎをした。復五郎も礼をかえした。良縁奇遇(りょうえんきぐう)だ。木瓜八は再太郎に新しい綿入衣(わたいりぎぬ)をきせ、両刀をわたし、また復五郎には人魚の膏油をわたした。
復五郎・再太郎が鍛冶屋を出ようとすると、門辺に立っていた少年が、復五郎に声をかけた。
「おまちください。幼いころ幾たびかお目にかかった、安西出来介景次(あんざいできのすけかげつぐ)の一人子、安西成之介(なりのすけ)です。きょう塩浜の陣屋に、おん身をたずねようとしての道すがら、ふと耳にはいったので立ち聞きしました」
安西出来介は、蟇田素藤(ひきたもとふじ)をさし殺そうとしていのちをうしない、のこされた成之介は母の縁で、山中村の遠山寺(とおやまでら)にやしなわれていたという。
復五郎重時は、麻呂再太郎・安西成之介をともなって塩浜の陣所にかえり、犬川荘助・犬田小文吾に、しかじかとつげた。荘助・小文吾も感嘆し、ひとまず復五郎重時の隊に配することにした。ここで、成之介は就介景重(なりすけかげしげ)、再太郎は麻呂信重(のぶしげ)と名のることにした。
復五郎は、人魚の膏油(あぶら)のことにふれて、
「その膏油は、残念ながら一合あまりがあるだけです。信重・就介とわたしの三人がからだにぬり、こよいひそかに川をわたり、敵の柵に火をはなとう。そのとき犬川さん犬田さんは二艘(そう)の快船(はやぶね)にのり、前方と後方とからさしはさんで、すべてとらえられては……?」という。荘助は、
「いたずらに寄手をまっていては、ただ兵糧(ひょうろう)をついやすのみです。あの柵をやぶってしまえば、たたかわずして他のいきおいをくじいたのとおなじです。しかしあの二柵には、世にもまれな大砲(おおづつ)のそなえがあり、射手(いて)の達人もおおいときいています。それをせめようとすると、みかたに討死(うちじに)するものがおおく出るでしょう。人魚の膏油があるなら、まことに好都合です。わたしはこよい、唐(とう)の張巡(ちょうじゅん)の手だてにならって、おおくの藁(わら)人形を船にたて、闇にまかせて敵の二柵をせめ、矢をとり、弾丸(たま)をも取ろうとおもう」といった。このあと、復五郎らが火をはなつ、というのだ。
荘助・小文吾は、藁人形一千余をつくるように士卒らに下知(げち)した。その人形は、外はかたく、中は空洞(くうどう)だ。外は矢をうけ、中には敵の弾丸をいれるためである。夕方にはすべてできたので、黒衣(くろぎぬ)をきせ、船四、五十艘にわけてのせた。むろん、士卒をひそませた。この隊の頭人は、登桐山八良于(よしゆき)・麻呂復五郎重時で、それに麻呂再太郎信重・安西就介景重ら二十余人がしたがった。
この日は十二月の三日の真夜中である。妙見島と西河原の柵の近くにこぎよせて、ときの声をあげ、藁人形のかげから鉄砲・弓矢をはなった。まもる敵の頭人らもおどろき、さわぎ、きそって鉄砲をうち、矢をはなってきた。この朝、藁人形に立った矢は二、三万本、弾丸は二、三斗(と)もある。
十二月四日、荘助・小文吾は良于・重時・信重・景重らに、
「敵は、この月八日の明け方に、水陸ともにおしよせて、勝負を決しようとしているのです。さて、敵の二柵の頭人・士卒は、ゆうべ、はかられて矢弾丸(やだま)を多くついやしたので、こよいは船をよせても、そなえはできまい。だが、あの二柵の水ぎわの水中に、十間(けん)ばかり鉄(くろがね)のくさりをはりわたして、艫(ろ)をさえぎり、馬脚(ばきゃく)をかけとめようとしているという。そのくさりをこえなければ、柵にはちかづけない」といった。
麻呂復五郎重時は、「そのくさりをわれらがたちきりましょう。この人魚の膏油を全身にぬり……」と再太郎・就介に目くばせしていう。
そのあと軍議をすすめ、荘助は千五百の兵(つわもの)で、小文吾もまた千五百の兵をもって、妙見島の柵をやぶるはかりごとをたてる。
麻呂重時・再太郎・就介は、人魚の膏油をぬった。肌(はだ)はつややかになり、寒気はかんじない。それからウシ皮の腹巻をし、サメ皮の臑盾(すねあて)、肌にはくさりをきた。腰には両刀をおび、水にぬれないように皮袋に火打石(ひうちいし)をおさめた。
この夜、三人は、そろって荒川に身をうかせた。まったく地上とちがわないあたたかさだ。就介を重時・再太郎がたすけながら、妙見島と西河原のあいだの川の洲(す)におよぎついた。重時は、
「妙見島は小敵だ。西河原の柵を焼けば、そこは自然と混乱する。再太郎は、妙見島のあたりにはった水中のくさりをたて。おれは、西の柵にちかづく」とささやく。天には冷気がみち、星がきらめいていて、ときおり千鳥の声がするだけだ。
再太郎は妙見島の柵にちかづき、水中のくさりを腰の匕首(あいくち)できった。まるでツルクサのようにたつことができた。就介は洲でまっている。復五郎重時も、西の柵近くの水中のくさりをたちきった。
人魚の膏油(あぶら)の大奇大効だ、と、水門から柵内にしのびいろうとしたとき、柵内から大砲がはなたれた。洲の上の就介がおどろいて見ると、波ばかりが立っていて、重時の影はない。
「ああ、命運はうすい。とてもたすかるまい」と涙をながす。そこへ再太郎がおよいできた。就介が凶変(きょうへん)をつげた。丑三(うしみ)つ刻(どき)の鐘が、かすかにきこえた。
犬川荘助、犬田小文吾の二手の戦船(いくさぶね)数十艘が、藁人形を立てた五、六艘を先に立ててくるのが見える。
再太郎は、
「わたしの義父(ちち)がなくなったとしても、約束の火をはなたなければ、みかたがやぶれる。われらは死ぬべき身だ。柵内にはいり、火をはなとう」と、就介とともに、うきしずみの立ち泳ぎをしながら、柵にちかづいた。

第八巻 悌・盛花爛漫の巻

第百六十二回 船上の旗の緒(お)を射(い)る…荘助の弓技

麻呂再太郎信重・安西就介景重(なりすけかげしげ)は、麻呂復五郎重時の討死(うちじに)をかなしんでばかりはいられず、西河原の今井の柵(さく)にちかづき、そのうしろのヤナギの枝のあたりにおよいでしのびよった。
すると、ヤナギの枝の上で手まねきするものがいる。討死したとおもった重時その人だ。
「あの大砲(おおづつ)は空砲で、みかたの士卒に、まもりをなおざりにしてはいない、というみせかけだけのものさ」と重時はひそかにいう。
再太郎・就介も、たれさがったヤナギの枝にすがって柵をこえ、うちがわにはいった。
柵内では、敵兵三人がかがり火を背に、膝(ひざ)をだいてねむっているだけである。重時らは、手に手にかがり火のもえ柴(しば)をぬきとり、陣屋ごとに火をはなった。
火は、またたく間にひろがった。そのあいだに、うばった鉄砲で混乱する敵兵をうった。なかでも信重のうった弾丸(たま)は、第二柵の頭人(とうにん)小越小権太表練(こごしこごんたおもてねり)をうちとめた。
そこへ、犬川荘助義任(よしとう)と、その隊の軍勢千五百余人が、船に分乗してこぎよせてきた。すでに第二柵の頭人がうちとられているので、みな浮き足だっている。そのなかに柵の頭人、猿島郡司将衡(さしまのぐんじまさひら)がいる。将衡は、千葉介自胤(ちばのすけよりたね)の親族相馬郡領将常(そうまのぐんりょうまさつね)の弟で、名をおしみそしりをはじる武士だ。すすまぬ馬にむちをうち、すすんできた。荘助は、これをおそれずにあたる。その上に、猛火がしきりにとびちる。将衡は後門(からめて)から馬をとばし、いのちをのがれた。荘助はそれをいけどろうと、追っていった。
いっぽう、犬田小文吾悌順(やすより)は、その隊の兵(つわもの)五百余人を戦船(いくさぶね)に分乗させて、真夜中に妙見島(みょうけんじま)の柵をおそった。先頭の船には藁人形をたて、ときの声をあげた。妙見島の頭人、彦別夜叉吾数世(ひこわけやしゃごかずよ)は、さわぐ士卒どもに、「ものども。敵はこよいもわが矢弾丸(やだま)をとろうと、藁人形を船に立ててきたのだ。二度とだまされるな」とたしなめて、備えをおこたったままだ。
小文吾は、船を西岸にこぎよせて、大砲で水ぎわの塀(へい)をやぶり、櫓(やぐら)をこわして、どっとせめたてた。このとき、今井の柵で猛火がおこり、炎(ほのお)は川水を昼のように照らしだした。敵かみかたか、ハチの群れのように混乱がおこった。数世(かずよ)も槍(やり)をうちおとして逃げようとするところを、小文吾にとらえられた。おいつめられた敵の士卒は、船にのがれたが、すでに小文吾が櫓(ろ)をのけていたので、風のはげしさに船は海にながされ、ゆくえ不明になったという。
その明け方、小文吾はとらえた百五、六十人の首実検をした。そのなかには柵の頭人彦別夜叉吾もいる。小文吾はこの彦別をはじめ、百五、六十人の兵どもの髻(たぶさ)をきり、着物一枚にし、兵糧(ひょうろう)・塩・味噌・薪(たきぎ)をつみ、船五、六艘(そう)に分乗させ、川におしながした。船は矢のように走り、これもゆくえ不明となった。
犬川荘助は逃げる猿島将衡(さるしまのまさひら)をとらえようと、復五郎・再太郎・就介をさきにたたせて、千五百人とともに追った。将衡の逃げ足ははやく、猿江(さるえ)の荘までくると正午(ひる)になった。すると前方に約千五、六百人の軍兵の姿が見えた。旗じるしには矢筈(やはず)の家紋の下に北越片貝(ほくえつかたがいの)一大女丈夫(いちだいじょじょうぶ)、箙(えびら)の大刀自(おおとじ)軍代、稲戸津衛由充(いなのとつもりよしみつ)とある。馬をとどめ、荘助は微笑をうかべて、
「その隊長(てのおさ)は、稲戸どのとお見うけいたす。わたしは、里見の防御使(ぼうぎょし)犬川荘助義任です」とよばわった。
由充も荘助をみとめ、
「一別以来だのう、犬川どの。かわりがなく、めでたい。それにしても、防御使が境をこえられたのは、どうしたのか」ととうた。
荘助は、小文吾とともに防御使をつとめており、ここまでは里見領で、むしろ管領がたが妙見島に陣をもうけたことこそとがめられるべきなので、二柵をやぶり、頭人を追ってきた、といい、
「稲戸どのは恩人だが、きょうのことはわが主君の命令です。私ごとの人情をさしはさむわけにはいきません」と、矢を一本ぬきとり、鏃(やじり)をとりさり、弓につがえて射た。
矢は、稲戸の背後にたてた旗の緒(お)をきった。旗は天にのぼった。敵もみかたも、荘助のみごとな技に、われをわすれ、どっと声をあげる。荘助は弓を小脇にたばさみ、「稲戸どの、これまでです。再会は他日に。さらば、さらば」と馬をかえした。
これを見おくる由充は、妻有復六(つまりのまたろく)に、
「犬川荘助は義士だ。わしはわが老夫人の軍代で、管領家のさいそくにしたがってきたまでのことだ。勝てないとわかったからには、おおくの討死をだすことはかえって不忠だ。しばらく病いにかこつけて、安危(あんき)を見ることにしよう」とつぶやき、荻野井三郎(おぎのいさぶろう)を、この地の寄手の総大将、上杉五郎丸朝良(ともよし)の後見人大石憲重の陣にいかせて、こうつげさせた。由充は近年多病であるが、にわかに持病がおこり、しばらく先鋒(さきて)を免除してほしい、と。
そして、もとのように両国川のほうにしりぞいた。
寄手の両大将上杉朝良・千葉介自胤は、船で両国川に着陣(ちゃくじん)し、さらに大石憲重の進言で、五本松に陣をもうけた。総軍二万五千余騎が陣屋をつらねた。そこへ猿島郡司将衡がのがれてきて、妙見島など、二柵が焼きうちされたことをつげた。
朝良・自胤は、将衡に敗戦の責めをせまり、
「将衡の首をはね、敗戦の罪を士卒に示せ」という。
将衡はおどろき、おそれて、兄将常(まさつね)に、
「わたしは、敗軍不覚の罪をいまさらつぐなうことはできないが、敵は一万の多勢、こちらは千五百、妙見島は士卒五百だけで、これではどうにもならない。しばらく首をかしておいてほしい。こよい四、五百人の兵とともに夜襲(やしゅう)をかけ、犬川・犬田の首をとってこよう。ただ、みかたのなかに敵に内応するものがいるので、はかりごとがもれやすい。そのものは別人ではなく、北越片貝どのの代軍の稲戸津衛由充です」と、猿江で犬川荘助と出あった由充が、矢を射られ、そのあと急病と称して立ち去ったことなどをかたった。
弟にこわれた将常は、大石憲重・原胤久(はらたねひさ)に、こよいの夜襲を命じてほしい、という。
憲重らは、朝良・自胤に進言した。
稲戸由充は両国川にしりぞくというが、まだ姿はない。

第百六十三回 とびたつ群れ鳥……将衡(まさひら)の夜襲

犬川荘助は、今井の柵にかえった。小文吾も妙見島(みょうけんじま)からもどってきていた。
荘助は将衡(まさひら)を追う途中、稲戸津衛由充(いなのとつもりよしみつ)と出あった、とつげた。小文吾も、とらえた百五、六十人の髻(たぶさ)をきり、船に分乗させ、数日分の米と薪をつみ、海へながしたという。荘助はそれをきき、敵を一人もころさない処置に感服し、小文吾を上座にすえた。
今井川の瀬(せ)には、おおくの水鳥があつまる。それが、にわかにぱっととび立った。荘助は、小文吾に、
故(ゆえ)なく群れ鳥がとび立ったぞ。こよい、敵の夜襲(やしゅう)があるかもしれません」という。小文吾も、
「そうでしょう。二柵をおとされた敵の頭人(とうにん)将衡は、からくもいのちをのがれたのですから、その恥をそそぎに夜襲をおこなうのは、かんがえられることです」とこたえた。
荘助は、登桐山八良于(のぼぎりさんぱちよしゆき)・館持朝経(たてもちともつね)・大樟俊故(おおくすとしふる)にもしかじかとつげた。備えはすすめられる。
猿島軍司(さしまのぐんじ)将衡は、その兄、相馬郡領将常(そうまのぐんりょうまさつね)とともに、その夜、一千余騎(よき)を二手にわけて、今井河原をおそった。だが、やけた柵のうちに、人影はない。
将衡は、すばやくさとり、
「敵には備えがあるぞ。ものども、はやくひけ」とよばわった。
このとき木だちのかげから銃声(じゅうせい)がひびき、それをあいずに、どっとときの声があがってせめてきた。指揮するのは登桐山八良于だ。将衡と良于は槍をまじえたが、良于に利があり、将衡はとらえられた。
将常はかろうじてきりぬけてきた。したがう兵百人ばかりである。将常は、
「わたしは弟をたすけようとしたが、夜討ちは失敗におわり、将衡はとらえられ、兵どもはおおくうたれた。このまま五本松にかえれば、首をはねられるであろう。ひそかに本国千葉におもむき、孝胤(たかたね)どののもとに身をよせよう」と、ここから姿を消した。のちに、将常は孝胤の家老になったという。
小文吾・荘助は、とらえた将衡らの縄をとき、里見の手勢にくわわるか、五本松にかえるか、おのおのの意にまかせた。将衡らは里見につくことをのぞんだので、良于の隊に配し、先鋒(さきて)の小頭人(こがしら)とした。ここで、寄手は二万五千余騎で、朝良・自胤が両大将とわかるなど、知らせがくわしくなった。
寄手の陣はそうぞうしい。ゆうべ、将常・将衡がやぶれ、将衡はとらえられ、犬川・犬田に降参したこと、また、将常は逐電(ちくでん)したらしい、というのだ。
両大将はいかり、自胤は、
「いま今井をおそい、将衡はむろんだが、二犬士らをみなごろしにして、はやく上総(かずさ)に攻めいらなければ、このはらわたがおさまらぬ」と、みずから先陣をつとめた。これに上水和四郎束三(うえみずわしろうつかみつ)・赤熊如牛太猛勢(しゃくまにょぎゅうたたけなり)・原胤久(はらたねひさ)らがしたがい、つぎに総大将朝良の中軍、後陣は大石憲重で、総軍約二万五千余騎である。斥候(ものみ)は、
「敵は今井から出て、野ずえに配しています。その勢五、六千です」という。
里見勢の小文吾は先陣、荘助は後陣である。寄手をまつばかりだ。
陣太鼓がなった。矢が走り、弾丸(たま)がとんだ。馬がかけ、手槍と刀が火花をちらした。将衡が、千葉の勇将、嵐剛四郎高成(あらしこわしろうたかなり)の首をとった。犬田小文吾は、寄手の先鋒の頭人上水和四郎(うえみずわしろう)束三(つかみつ)と、馬上で顔をあわせた。小文吾はカシの棒、和四郎は鉄棒である。

第百六十四回 うらぎり……自胤(よりたね)をやぶる

犬田小文吾は寄手(よせて)の猛者(もさ)上水和四郎束三(うえみずわしろうつかみつ)と馬をよせあい、束三の鉄棒(てつぼう)に、カシの棒でたたかっている。そこへ、大男が馬をすすめ、手に大まさかりをふりながら、「上水、赤熊如牛太猛勢(しゃくまにょぎゅうたたけなり)がかわろう」とさけび、小文吾をただ一うちにしようとする。
小文吾は左右の敵をうけながし、つかれさせて、束三の首筋を棒でうった。束三は落馬し、小文吾のカシの棒もおれた。小文吾は、束三の鉄棒をつかみとった。
赤熊は、「朋輩(ほうばい)の仇(あだ)」と大まさかりをふりおろすと、まさかりは小文吾の馬の首をきりおとした。小文吾はひらりと束三の馬にのりうつり、赤熊の肩をうった。骨がくだけ、赤熊は息たえた。寄手の兵どもは、戦闘の気力をうしなって、総敗軍となった。
翌十二月七日の朝、斥候(ものみ)がもどってきて、荘助・小文吾に、「寄手は両国川を背にして、南本所(みなみほんじょ)に陣をしきました。その軍勢は、二万四、五千とおもわれます」とつげた。荘助は、登桐山八(のぼぎりさんぱち)・麻呂復五郎(まろまたごろう)らをよび、敵は、きょう一日人馬を休息させ、あすはおしよせてくるだろう。まず自胤(よりたね)・朝良(ともよし)をとらえよ、という。
寄手の両大将朝良・自胤は、大石憲重(おおいしのりしげ)らをあつめ、再戦の意見をとうた。憲重は、
「きのうの敗戦は、上水・赤熊(しゃくま)にたよりすぎたためです。しかし、幸いに士卒の損傷がすくなかったので、もとの人数とあまりかわりません。あすの戦いでは、かならず当家を先鋒(さきて)に命じてください」という。
朝良は、「あすは十二月八日だ。わが老館(おおやかた)(定正)が、水路から安房の稲村の城をせめとるという約束の日だ。予(よ)はかならず先陣をつとめ、犬川・犬田の二犬士の首をとる」といきまく。
そこへ、里見の動静をさぐる間諜(しのび)がもどってきて知らせた。里見の二犬士小文吾・荘助は千葉どのの石浜の城をせめようとしている。一万余騎(よき)を二手にわけて、小文吾は柳島(やなぎしま)から隅田川をわたって石浜をせめる準備にかかっているし、荘助は五千の兵をもって五本松に陣をしいている、と。
石浜の城主、千葉介自胤は、
「石浜の城には予の一族がいる。予は柳島にむかい、あそこの敵をやぶろう。加勢の士卒をかしてほしい」という。そこで、扇谷の兵頭(ものがしら)、引船綱一郎師範(ひきふねつないちろうもろのり)を頭人として、七千人をさずけた。これに上水・赤熊の残兵もくわえた。これでおおよそ一万騎となる。
いっぽう、里見がたの隊長(てのおさ)、館持※杖朝経(たてもちけんじょうともつね)・大樟(おおくす)村主俊故(すぐりとしふる)は、きのう犬川荘助の軍略をうけ、この朝、二手の兵千四、五百人をしたがえ、隅田河原についた。
これをはるかに自胤が見て、
「あの里見のやつらは、隅田川をわたり、予の城をせめようとしているのだ。しかし、敵は小勢だ」と馬をすすめてきた。朝経・俊故は、
「あの旗じるしの月星の家紋は千葉だ。犬川どのの軍略は図にあたった」といい、朝経は矢を射(い)、鉄砲丸(てっぽうだま)をうたせた。いっぽう、自胤は、
先度(せんど)の恥をそそげ。すすめ、すすめ」とはげしく下知(げち)する。
朝経らはさらに矢を射させた。だが、敵は大勢なので、朝経勢は総くずれになろうとする。
そこへ、里見の伏兵(ふくへい)の頭人登桐山八良于(よしゆき)が、千葉介自胤のうしろから、どっとおそいかかった。さらに、枯れ草から猛火がおこり、その煙のなかを、犬田小文吾悌順(やすより)は、千余の手のものをもって敵をきりくずした。
猛火はひろがり、千葉の兵の逃げ道をたった。千葉勢はちりぢりになった。自胤は馬をすて、腹をきろうとした。その背に渋谷足脱(しぶやのたるぬき)がたち、家来にそっという。
「この敗将をとらえて、おれたちも里見に降参しよう」と自胤の短刀をもぎとり、おりかさなって自胤に縄をかけた。それを小文吾の前にひきたて、
「おれたちは相馬将常(そうままさつね)の残党、渋谷柿八郎足脱(たるぬき)です。自胤の乱政非法をうらんでいるので、反忠(かえりちゅう)をしました」という。小文吾は自胤を朝経にうけとらせた。そのうえで良于に、
「この足脱は逆賊(ぎゃくぞく)だ。とらえよ」と命じた。
足脱は声をあらげて、
「おれたちは大将をとらえてきたのだ。きょうの軍功の第一だ」という。小文吾は、
「おまえたちは、相馬郡領将常の手のものだろう。将常は自胤どのの親族、すなわち千葉の家臣だ。それゆえ、おまえらは自胤どのの陪臣(ばいしん)だ。いま敗軍となり、その君をとらえ、功をうろうとは、仁義をむねとする里見家ではゆるされぬことだ。みな首をはねよ」といった。この首を自胤にみせた。それから小文吾は自胤の縄をとき、上座にすえ、
「これからしばらく安房にご案内します。かならず賓客(ひんきゃく)の礼をもってむかえられるでしょう」といって、乗物にのせておくった。
この日、犬川荘助義任(よしとう)は、五千の兵を三手にわけ、五本松の陣にいた。荘助は、朝はやく麻呂重時(しげとき)をよび、
「左の森に殺気がある。伏兵がいるのだ。そのほうはその森をせめるがいい」という。重時は兵八、九百をもち、その用意にかかった。
寄手の総大将扇谷朝良は、この朝、副将千葉介自胤がせめて出たままもどらないので、いらだち、
「はやく犬士をうちとれ」と先鋒の頭人、入間九郎(いるまのくろう)佑啓(すけあき)・松山五六郎時永(まつやまごろくろうときなが)・万戸月(まごつき)十字七(つじしち)行益(ゆきます)らに下知した。麻呂再太郎・安西就介(なりすけ)らの少年が、荘助の指示をまもってよくたたかった。はかりごとをもつ憲重は、わざとやぶれて逃げた。荘助が、これをおわせる。重時はそれには目もくれずに、九百の兵をもって、どっと左の森をついた。伏兵はおどろきあわてて、みだれだした。
朝良・憲重らの軍は、やぶれるばかりだ。朝良は、かろうじて両国川をさして逃げた。荘助は、にがすものかと、麻呂・安西らを先鋒として、敵をうった。はじめに逃げた寄手の伏兵の頭人、宿尻城戸介建隆(しゅくじりきどすけたてたか)が、一千余人とともにとってかえしてきてくわわった。
大石憲重らは、朝良をのがそうとたたかった。だが、どうしたことだ。かけておいたはずの船橋がながされて、船は一艘(そう)もない。
そこへ浅草川のほうから、犬田小文吾の先鋒の両頭人、館持※杖朝経・大樟村主俊故ら一千四、五百人が、馬をはやめてきた。
館持らは、朝良主従八、九人の姿をみとめて、
「あれは敗軍の落武者(おちむしゃ)だ。とらえよ」とさけぶ。
朝良は、もう討死(うちじに)か、と不安におちいっていると、森のなかから一手の軍兵がきた。その数一千五百人ばかりか。この将は矢筈(やはず)の家紋の旗じるしから、北越片貝の軍代、稲戸津衛由充(いなのとつもりよしみつ)とわかる。朝良は、これでたすかったぞ、とほっとする。由充は馬上から、
「扇谷の人びとにものもうす。わたしは病いでひかえていたが、危急のお役にたちましょう。この下流に船がある。この敵はわれらにまかせて、御曹子(朝良)をおつれしてわたられるがいい」といった。
だが、乱戦となり、由充もどうすることもできない。
由充は、「わたしは、やがて敗戦のうきめを見るとおもってはおりましたが、こうしておそばにおりながら、ついにおすくいすることができなければ、他日、わが大刀自御前(おおとじごぜん)がなげかれるでしょう。はやくここをしりぞいてください」と朝良にいい、残兵に守備させ、朝良とともにわずか二騎で河原にそっておちていった。そこへ追ってくる一騎がいる。ほかならぬ犬田小文吾金碗(かなまり)悌順だ。由充ヘ、
「おう、たえてひさしい犬田どの、ここで討死することはのぞむところだが、この御曹子は、わが箙(えびら)の大刀自御前の外孫にあたられるので、この場はゆずってほしい」という。
小文吾は、わたしは防御使(ぼうぎょし)なので恩はあっても公私混同はできない、といって、二本の矢をとり、一矢は由充ののった馬に、二矢は朝良ののった馬に射た。
朝充主従の落馬したのを見とどけた小文吾は、兵どもに、「馬がつかれた。矢もなくなった。しばらく休息しよう」といってひかえさせた。
そこで朝良らは、かろうじてのがれ去った。犬川荘助・犬田小文吾は、恩義のために由充をにがそうとして、朝良・自胤までにがしてしまったものか。
朝良らはみかたのたすけ船がくるとおもったが、それが安房の洲崎(すさき)につき、はじめて捕虜(ほりょ)になったと知った。これは、犬坂毛野が犬江屋依介(いぬえやよりすけ)におこなわせた戦略の一つだ。
寄手の大石憲重は、近臣をはげましながら、犬川荘助とも槍(やり)をまじえた。荘助の独自の切っ先に、憲重は槍をはねとばされて落馬した。それを麻呂再太郎・安西就介がとりおさえて、縄をかけた。残兵はみな逃走した。憲重はひきたてられて、荘助の前にすえられた。
荘助は、
石州(せきしゅう)(大石憲重)よ。そのほうは鎌倉両管領の四家老の筆頭で、豊島大塚の城主だ。それなのに悪をたすけて、主君の非をただそうとしない。わたしはまだ幼いころ、旅の途中で母をなくし、当時大塚の村長(むらおさ)大塚蟇六(ひきろく)の下男にやとわれた。その蟇六夫婦の仇をうち、恩義にむくいたのに、大石家では、かえってわたしを罪人として、死刑にすると刑場にひかれた。そこへわたしの義兄弟、犬塚信乃・犬田小文吾・犬飼現八があらわれて救出してくれたのだ。そのうらみはあるものの、主君里見どのは仁君(じんくん)だ。他日、安房に凱旋(がいせん)の日には、いのちごいをしてやろう。なにかもうすことはないか」といった。憲重は頭をたれたままだ。
さらに問われると、とらわれの身になっていまさら何もはなすことなどはない、とこたえた。荘助は、麻呂再太郎に憲重を今井の柵(さく)にとどめるように命じた。もう日が暮れようとしている。
五本松の陣屋では、みかたの戦傷者の手当てが夜を徹(てっ)してなされた。朝はやく、荘助・小文吾はこの土地の村長(むらおさ)・古老をよび、敵みかたを問わず、討死したもののしかばねを寺院に埋葬(まいそう)するように下知した。十二月八日のことである。

第百六十五回 駢馬三連車(へいばさんれんしゃ)……顕定(あきさだ)の戦車(いくさぐるま)

十二月三日。下総国府台の城に、防御使、犬塚信乃戌孝(もりたか)・犬飼現八信道(のぶみち)は、東六郎辰相(とうのろくろうときすけ)・杉倉武者助直元(むしゃのすけなおもと)・田税力助逸友(たちからりきのすけはやとも)らとともに、御曹子(おんぞうし)義通にしたがって入城した。
この国府台の城をまもる頭人、真間井樅二郎秋季(ままのいもみじろうあきすえ)・継橋綿四郎喬梁(つぎはしわたしろうたかやな)が、義通をむかえた。総勢一万一、二千である。
間諜(しのび)がかえり、敵がたの動静を知らせた。この地をせめる管領がわは、大将山内顕定・足利成氏、副将は顕定の嫡子(ちゃくし)上杉五郎憲房だ。それに四家老の旗頭(はたがしら)、長尾判官景春・白石城介重勝、滸我(こが)(古河)の老党、横堀史在村(よこぼりふひとありむら)・新織帆太夫素行(にいおりほだゆうもとゆき)らである。このうち景春はまだ到着はしていない、というのだ。
信乃・現八はこれをきき、城にこもるより川をわたってこれをむかえうつべきだ、と戦略をねる。辰相は、
「二犬士の策に同意だ。軍兵五千人を二犬士の手に属させよう。杉倉・田税の両頭人も二犬士にしたがって、ともに一陣にすすむことだ。真間井・継橋両氏は、守城の頭人なので、しばらく御曹子にしたがって、あとで加勢してほしい」と結論する。
義通も、城を出てせめ手にくわわる、といいだしたが、敵はまだ当所にきておらず、それをかるがるしく城をはなれ、川をわたって、敵をむかえるにははやい、と信乃はいましめた。
いっぽう、鎌倉の管領山内顕定、前(さきの)関東管領足利成氏を総大将として、三万六千の軍兵が、十二月五日の朝に、五十子(いさらご)の城を進発した。千住川をさかのぼって、下総国葛飾郡(かつしかのこおり)の瓶蟻(かめあり)(亀有)のほとりに陣屋をもうけた。その途中、野武士らがくわわり、四万余となった。むろん管領がたも、間諜(しのび)を里見がたに潜行させ、総大将里見義通以下の動静をえている。防御使犬塚信乃・犬飼現八は、杉倉・田税らとともに矢切川をわたり、五十四田(いよた)のほとりに陣をしき、兵五、六千という。
顕定は、夏虫が火にはいるようなもので、わが大兵でひとたびせめたなら、一挙にうちやぶれるだろう、という。だが、二犬士らは奸雄(かんゆう)で、また知術があるときく。川を背にしたのには、はかりごとがあるかもしれない、といい、さらに、
予(よ)はかねてから大工に戦車(いくさぐるま)をつくらせることをかんがえ、斎藤高実(たかざね)にいいつけて、戦車を筏(いかだ)にくませ、川にうかばせてある」といって絵図をとりだしてひらいた。成氏・在村らはその図を見た。
車は高さ三、四尺で大八車に似ており、三両をつらねて一車とする。その上に屋台があり、これには前に六人、うしろに六人、あわせて武者十二人がたち、中央のものは弓手(ゆみのて)、左右は鉄砲組だ。この車を六頭の馬にひかせるのだ。車の左右には、二人の馭者(ぎょしゃ)がいる。馬もみな薄鉄(うすかね)の馬鎧(うまよろい)をつけてある。
成氏らは、「みごと、みごと」と賞賛した。顕定は、
「予はこの戦車を名づけて、駢馬三連車(へいばさんれんしゃ)とよぶ。これによって二犬士らをみなごろしにしよう。まず手わけをすることだ」といった。そして白石重勝を先陣とし、錐布五六郎(きりふのごろくろう)・鷹裂八九郎(たかさきはくろう)をその副将とする。成氏は後陣で、滸我の老党横堀在村・新織素行、近臣科革(しなかわ)七郎・望見(もちみの)一郎がこれにしたがう。総大将顕定、副将憲房は、一万五千の士卒をえて、その中央にある。また斎藤盛実(もりざね)は駢馬三連車の勇兵三千五百余騎をもってくわわる。総軍およそ四万余人である。
十二月六日早朝、瓶蟻(かめあり)からおしだし、新駅(にいじゅく)・仮名町(かなまち)(金町)のあいだの荒野に布陣した。人はいさみ、馬はいななく。
五十四田(いよた)の陣に敵をまつ犬塚信乃・犬飼現八は、斥候(ものみ)の注進で敵の動静を知る。寄手の先陣白石城介重勝は、里見の先陣杉倉直元の手勢を少数と見て、
「ものども、すすめ」と号令した。
数千の兵が槍をひねり、馬をはせた。杉倉直元らはひるむことなく、手勢をととのえてこの敵をむかえた。その切っ先はするどく、寄手はきりくずされ、一町ばかりしりぞいた。そこで直元は追撃をとめさせた。信乃のかねてからの示唆(しさ)である。士卒たちはひと息ついていた。
そのとき、鉄砲の音とともに顕定の用意の駢馬三連車があらわれ、弓矢・鉄砲が間断なくふってきた。直元らは、おどろきながらもこれをふせぐ。さらに寄手の先陣白石重勝が戦車をたすけようとせめてきた。
里見の遊軍田税逸友は、直元をたすけるために出ようとしたが、戦車にさえぎられて一歩もすすめない。直元勢は、傷をおうものが続出した。
寄手の戦車のいきおいにみかたのやぶれるのを案じた信乃は、現八をよんで、
「直元・逸友らをすくいたいが、道が一筋で横からせめられない。しかじかとはかってはどうでしょう」とすばやく馬上に槍をもち、一千余人の手勢をしたがえて、道には出ずにかたわらの森のなかにはいり、戦車のうしろに出ようと走る。うしろには現八らの手のもの一千百十数人がつづいた。斉藤盛実はこれをさっし、森の道をふせごうと、兵二、三千を配した。
信乃がこの群だつ敵に馬をいれると、槍の穂先(ほさき)は稲(いな)妻(ずま)のようで、岩にくだけるいきおいだ。盛実はおもわず道をひらいてしまった。
そこで、信乃の一手は走りぬけて、逸友らのかこまれている数十の戦車のうしろから、車上の敵をきりおとし、馬をたおして車をくだいた。一方がくずれた。ここでしりぞく道ができた。信乃は、
「杉倉・田税よ。無益のいくさはするな。わたしにつづけ」とよばわり、しりぞき去った。杉倉らもそのあとにしたがった。
盛実は、信乃におしやぶられて不覚をとり、これではいけないとそのあとを追おうとした。そこへ犬飼現八らが馬を進めてきて、盛実と槍をかわし、一上一下(いちじょういちげ)とたたかった。現八は盛実の槍をうちおとすと、馬をよせてとらえた。盛実がとらわれたとわかると寄手は手だしができない。里見勢が五十四田(いよた)にひきあげるのを、おめおめと見ているばかりだ。
山内顕定は、戦車のいきおいで一時は利があったものの、それが信乃の策にやぶれ、さらに斉藤盛実が現八にとらえられたと知り、怒りにたえないありさまだ。顕定は、白石重勝らに、戦車がなぜやぶれたか、と問うた。重勝は、
「信乃・現八は、杉倉直元・田税逸友の敗軍をたすけようと森のなかからあらわれ、戦車に横槍をいれたのです。道がせまいので、戦車の進退が自由にならず、そのうえ三連車の頭人盛実が現八にとらえられてしまいました。戦車に頭人がいなくなったばかりか、盛実がころされるのではないか、と不安になります。これからどうしたらよいのでしょうか」とのべた。
顕定は声をあらだて、
「それがいいわけになるものか。予がおいかけて犬士どもをうちとってくれよう」といきまく。
そこへ足利成氏が、在村・素行ら老党をしたがえてきて、ことの次第をきいた。
そこで成氏は顕定をなだめて、
「あの犬飼現八は、予の旧臣で、罪人であった。信乃をとらえよ、と獄舎(ひとや)からときはなしたが、そのままともに逐電(ちくでん)したものだ。また信乃は《村雨(むらさめ)》のにせものをもって予をあざむこうとしたばかりか、予の滸我の館をさわがせ、おおくの士卒に傷をおわせたわるものだ。予がすすんで、矢で射よう」とみずからすすもうとする。顕定は白石重勝らに、
「そのほうたちはさきにすすみ、滸我どの(成氏)をたすけて、まえの恥をそそげ」といって士卒をととのえさせた。総軍おおよそ四万余人は、五十四田をさしておいかけた。
いっぽう現八は十七、八町しりぞき、長坂川の橋のほとりまできて、馬をとどめた。小者頭(こものがしら)に、
「わたしがとらえた斉藤盛実は、はじめは顕定の小(こ)姓(しょう)だった。いまも重くもちいられているので、顕定がとりかえしにくるだろう。で、わたしはしばらくここで敵をまとう。三十人ほど残り、ほかは盛実をひきたて、犬塚さんに知らせてほしい」という。
兵(つわもの)どもは、盛実をひきたて五十四田にむかっていった。現八はそれを見おくってから、兵三十人に、
「あそこを見よ。一、二町さきの道にふるい稲塚(いなづか)と篠竹(しのたけ)がたくさんある。そこに手に手に鉄砲をもってかくれ、敵のくるのをまて。寄手は戦車を先頭にやってきて、わたしを見ればうたがってためらうだろう。そのときわたしのあいずで、いっせいに左右から大砲(おおづつ)をうて。敵がしりぞいても追うな」といった。
兵どもは指示にしたがってそれぞれ身をふせた。馬上の現八は、寒風のなかに一人立っていた。
そこへ管領家の両老党白石重勝・横堀史在村の命で、あらたに任じられた先鋒(さきて)三連車の頭人錐布(きりふの)五六郎・鷹裂(たかさき)八九郎・新織(にいおり)帆太夫が、幾千百の兵をひきいて、馬をおい、車をきしらせてやってきた。見ると、現八一人だ。士卒をとどめ、車をとめた。重勝は在村に、
「これにははかりごとがあるはずです。また失敗しては、罪をかさねるばかりです」という。
在村もうなずき、
「そうです。両大将におたずねしよう」と、顕定・成氏・憲房のもとに走り、現八をさししめして、どのようにするか問うた。大将らにもわからず、とまどうばかりだ。現八ははるかにこれを見て、声高く、
「わたしは一人だぞ。四万のなかに勇士はいないのか。猛将はいないか」とよばわった。成氏・憲房はいかり、「かかれ、かかれ」と下知した。
そのとき旧(ふる)稲塚のあたりから二、三十挺(ちょう)の大砲が火をふいた。寄手の戦車七、八台の兵も、馭者(ぎょしゃ)も、馬もうたれた。これで寄手はみだれちった。
現八はさっとひきあげた。そのとき、橋をきりおとした。途中までくると、信乃・杉倉直元らがまっていた。さきに現八がかえした兵どももいる。
現八は、信乃と対面して首尾をつげ、
「寄手をふせぐために、長坂橋をきりながしてきました」という。信乃は、
「犬飼さんの胆勇(たんゆう)は、今にはじまったことではないが、約四万の大敵を、ただ一騎、手勢三十人をもって、ひと呼吸(いき)のあいだにおどし、しりぞけたことは、じつにわが国の張飛(ちょうひ)というべきか。ただ、橋をきりすてたことは拙策(せっさく)ではなかったでしょうか。なぜなら、長坂川は小流で、寄手は四万の大兵です。その橋がなくても、木をきってなげわたし、あるいは埋草(うめくさ)で川をうめることもできるでしょう。あの橋をそのままにしておけば、寄手はかならずいぶかり、なおはかりごとがあるとおもうでしょう」といった。
現八は信乃のことばをすなおにみとめた。
その信乃にはすでに軍略がある。矢切川の岸に文明(ふめ)の岡とよばれる天然の城郭(じょうかく)がある。ここで戦車をむかえうつというのだ。さらに田税逸友を派遣している、ともいいそえた。現八は同意し、文明の岡に信乃とともにのぼった。
信乃は食糧がわずかに二百俵ばかりと見て、どうしたのか、と逸友にただした。逸友は、近国の野武士、高飛車和女九郎(たかびしゃわめくろう)・剣峰瘤四郎(けんのみねこぶしろう)らが手下百七、八十人とともに、横堀在村のいれ知恵で、すきをうかがって食糧をうばい、船につんで逃げた。それを知って、老兵と里人百十数人といっしょに追った。船四、五艘をしずめたものの、一千数百俵が川の底にしずみ、のこったのは二百七十五俵だけだ。和女九郎・瘤四郎を追ってきた逸友がとらえ、七十五俵をほうびとして里人にあたえた。で、のこったのは二百俵である、とかたった。二百俵の米では、三日のささえにしかならない。
いっぽう、寄手の大将顕定・成氏・憲房らは、仮名町までしりぞき、隊をととのえた。間諜(しのび)がかえり、長坂川のほとりの橋がきりながされたほか、一人も兵はいない、とつげた。顕定は、
「これは戦車をおそれてのことだ。はやく木をきって橋をわたし、あしたの朝、五十四田をせめよ」と下知した。
その翌朝、寄手は五十四田にすすんだが、里見勢の姿がない。そこで里見勢が文明(ふめ)の岡にうつったこと、食糧が川底にしずんだことを知った。
顕定はよろこび、駢馬三連車で岡の三方をかこめば、逃げ道なし、と判断した。
総軍四万余人、百十数台の三連車をもって岡にのぼろうとしたが、岡が高くて三連車がすすまないので、ときの声をあげ、矢を射て、鉄砲をはなった。信乃・現八は、たれ幕(まく)でこれをうけた。また、のぼってくるものは弓矢・鉄砲で射おとし、あるいは大石をなげた。
こうしてその日は暮れた。陣営にかがり火が真昼のようにたきつづけられた。顕定らは、朝がきたら、ふたたびせめる気配だ。
信乃・現八・直元・逸友らが評定(ひょうじょう)した。
信乃は、戦車を焼くことが良策とおもうが、という。現八らは、それでその手だては、ととうた。信乃は、故事をのべてからいった。
火牛(かぎゅう)をはなって戦車をやぶってはどうです。田税さんは、こよいのうちに十人ばかりをしたがえて、枯れ草のかげにかくしておいた二艘の快船(はやぶね)にのり、近村の百姓家から牛をあつめて、あしたの宵(よい)までにこの岡につれてきてください。きょうは十二月六日です。八日には扇谷定正どのが水路をへて洲崎(すさき)におしわたるというが、いまの急務は火牛です」
その夜半、逸友は十人ほどしたがえて近村の百姓家に快船でむかった。信乃・現八は士卒に下知して戦鼓(いくさつづみ)をうちならし、ときの声をあげさせた。寄手はあわてて戦車をつらね、太刀をぬいた。だが、すぐにその音はやんだ。寄手は、やつらは出おくれたらしい、とまた仮眠(かみん)にはいった。そこにまたときの声があがった。これではねむれぬ、とそのまま夜をあかした。そのあいだに、ひそかに逸友一行は船を出した。
つぎの日も、寄手は三連車を岡の下につらねてせめてきた。信乃・現八はきのうのように弓矢・鉄砲・投石でふせいだ。
冬の日はすぐに暮れた。その宵にまた、ときの声をあげた。寄手はゆうべにこりて、ただせめ口をまもるだけだ。そのあいだに田税逸友らがもどってきた。その報告によると、近村には飼い馬はいるが飼い牛はいない、というのだ。それは牛が馬より高価だからだ。逸友は落胆(らくたん)したが、ここに神助があらわれた。
ことし十月、安房の国の山狩りがあったとき、矢切の摩利支天河原(まりしてんがわら)に、四足をしばられたイノシシを六十五頭ものせた船が漂着(ひょうちゃく)した。これはまえに、里見がたが仁義のこころから、獲物(えもの)を一匹もころさず、船にのせてながしたものだった。みかけはおそろしい猛獣(もうじゅう)だが、その村人をしたうようすは豚の子が母にめぐりあったかのようだ。人びとは、人を害する気配がないのはひどく先度にこりたからだろうといい、村で飼うようになったという。
信乃は、このイノシシは両館(ふたやかた)の仁義の御余徳と伏姫神の冥助(めいじょ)であろうといい、現八は、
「イノシシに角はないが、牙(きば)が長いので、角にかわるだろう。そして傷をおったときは、奮勇(ふんゆう)十倍にかけまくるもので、牛にもまさる。珍重(ちんちょう)、珍重」とよろこんでいう。信乃もうなずき、問うた。
「犬飼さん、寄手は岡の三方に陣をしいています。正面は顕定どの、左右は滸我どのと憲房どのです。そのうち、もうすまでもなく滸我どのは犬飼さんの旧君、また、わたしにとっては、祖父大塚匠作(おおつかしょうさく)の主家筋です。いまは館(里見)の仇(あだ)といっても、あの軍にむかって、戦功をあらわすことは本意ではありません。このことをどうおもわれます」
「もっともです。犬塚さんは防御の正使ですから、山内の隊にむかわれ、わたしはその子憲房どのの備えをやぶりましょう。杉倉・田税の両氏に滸我どのの隊をせめさせたほうが、たがいに心がやすまるでしょう」と現八は、いう。
信乃は安堵(あんど)し、口取りをよび、
「わたしが安房からひかせた、犬江親兵衛の愛馬、青海波(せいかいは)をここへ……」といった。さらに現八に、青海波は老侯(おおとの)(義実)から親兵衛がたまわった、東国一の駿足(しゅんそく)だが、その親兵衛が京都(みやこ)からかえらず、このたびのいくさに間にあわないのは残念であろう。せめて馬だけでも戦場にだし、本意をとげさせようとおもう、といい、ことばをついで、
「親兵衛の親、山林房八(やまばやしふさはち)は、わたしの再生の恩人です。六年まえの夏、行徳(ぎょうとく)の古那屋(こなや)で死にかけたとき、わたしがしかじかとちかったことがある。房八の鮮血にそまった夏衣(なつぎぬ)を、わたしがもっていましたが、その夏衣で幌(ほろ)をぬわせて、今ここにあるのです。幌(母衣(ほろ))はすなわち母の衣(きぬ)、親にひとしい旧恩を、背におうて敵にあたるなら、身は一つにして、名は二人、それに親兵衛の馬にのるなら三役兼帯(けんたい)ともなるでしょう」といった。
かがり火でその幌を見ると、六年をへても房八の鮮血はかわらない。さらに幌には文字がしるされている。その大書は、
《里見八犬士随一人(ずいいちにん)犬江親兵衛、金碗宿禰(かなまりすくね)仁先人(まさしがちち)、義士(ぎし)山林房八之紀(やまばやしふさはちのかたみ)》
とある。現八は、
「行徳に投宿し、犬塚さんとともに艱苦(かんく)をなめたのは、犬田さんとわたしでした。山林の義侠(ぎきょう)の死をいたむ犬塚さんの忠信は、わたしのおよばぬところです」という。
そこへ口取りの男がきて、ひいてきていたはずの青海波の姿が見えない、という。
信乃らはおどろき、親兵衛をおもうあまりに青海波をこの陣中にひかせてこなければ、このような憂(うれ)いもなかったろうに、といい、
「いま悔いても、もう夜明けは間近い。わたしが自分の馬にのって敵にかてば、他日青海波をさがすこともできましょう。真間井・継橋の両頭人、このイノシシの牙ごとに、みなたいまつをつけさせるよう、命じてください」といった。
中央は犬塚信乃、副将は真間井秋季、したがうものは千五百余人、それにイノシシ二十五頭をひかせた。左右の二手は、犬飼現八、副将は継橋喬梁の隊と、杉倉直元・田税逸友を両将とする隊である。二手の兵は三千余人を千五百人にわけてしたがわせ、イノシシはそれぞれ二十頭をひかせた。すでに牙にはたいまつがつけてある。
ほかに、潤鷲手古内(うるわしてこない)・振照倶教二(ふるてらぐきょうじ)が、五百人の兵とともにこの文明の岡の陣営にいる。
信乃は血の幌をうちかけ、重藤(しげどう)の弓をもち、現八・直元・逸友・秋季・喬梁らとともに馬上の人である。
信乃・現八も、おのおの一千五百の兵をしたがえて、たいまつをつけたイノシシを先頭にひかせた。
星影さむく、まだ明けやらぬ木の間にはりわたしたたれ幕を一度にきりおとさせて、岡の下の敵陣へイノシシをはなった。

第百六十六回 勝敗のゆくえ……かけつける親兵衛

寄手の陣営は、かがり火の光を細くし、ねむりこんでいた。その夜があけようとしていたころ、敵陣ににわかに陣鼓(じんつづみ)がなり、天地をうごかすばかりにときの声があがり、矢が射られ、鉄砲がうたれて、三面から一度にせめくだってきた。それにくわえてイノシシ数十頭が、牙(きば)にたいまつをむすびつけてかけおり、戦車(いくさぐるま)の下をもぐって走り出たり、戦車をおどりこえて、人馬をけたおしたりした。
牙のたいまつが散乱して、戦車にもえうつった。そこへ、里見勢は用意の小石と火薬を袋にいれて、その火に投じた。火のいきおいはたちまちはげしくなり、車の上下の人馬も焼死した。
夜明けの風が立った。顕定・成氏・憲房、それにその隊長(てのおさ)の重勝・在村・素行らも、火をさけ、煙(けむり)にまかれるのをさけようとして混乱した。それを正面から信乃・真間井(ままのい)樅二郎(もみじろう)、左右からは犬飼現八・継橋綿四郎・杉倉直元らの手勢をすすめて、弓矢・鉄砲をはなった。イノシシも敵の雑兵を牙にひっかけた。敵は風下にいたため炎(ほのお)におわれ、煙にむせび、総くずれだ。信乃・現八はむろん、直元らも、逃がすものかと追った。そのうち、霜(しも)の凍るながい夜もあけてきた。
この日は十二月八日だ。扇谷定正が水路を安房(あわ)へおしわたる日である。国府台の城にこもる里見義通らにも、文明(ふめ)の岡のほうで兵火のおこったことがわかった。義通・東辰相(とうのときすけ)、近習五、六人は櫓(やぐら)にのぼってながめた。
義通は、
「ゆうべ田税逸友(たちからはやとも)がもうしていたように、信乃のはかった火猪(かちょ)のはかりごとがおこなわれて、戦車を焼いているのであろう。予もまた文明の岡に出陣する」と櫓(やぐら)をおり、すぐに文明の岡の陣営にむかった。
斥候(ものみ)が、寄手は仮名町で隊をととのえ、いま戦闘のさなかで、みかたもあぶないという。
義通はおどろき、
「このまま安座(あんざ)してはおれぬ。信乃らを援助し、雌(し)雄(ゆう)を決しよう」と、陣触(じんぶ)れをした。潤鷲手古内(うるわしてこない)・振照倶教二(ふるてらぐきょうじ)を先鋒(さきて)の頭人として、士卒四千余人をしたがえ、後陣は辰相である。白旗(しろはた)三流(みなが)れ、四流れが、寒風にふきなびく。十七、八町すすむと、おおよそ三、四千の兵(つわもの)どもの隊と出あった。双矢筈(もろやはず)の家紋の旗だ。上野国(こうずけのくに)白井の城主、長尾判官景春の先鋒の頭人、梶原(かじわら)後平二景澄(ごへいじかげすみ)、副将樋口小二郎維竜(これたつ)らである。梶原らは、文明の岡をうとうと出むいてきた。里見勢だ、とちかづくままに鉄砲をうち、開戦となった。
景春の後陣の隊長、直江荘司包道(なおえのしょうじかねみち)、宇佐見三郎職政(もとまさ)は一千余人をもって、ひそかに脇道からちかづいてきた。そして、義通を守護する東辰相の隊のうしろからおそった。義通の騎馬のあたりは、老党・近習、兵四、五百人である。そこへ、長尾景春が兵八百余人をもって、突然わかれ道からあらわれ出た。里見の兵らも、うちつ、うたれつ刀をきりむすんだ。
義通も馬をはしらせ、敵を射ころした。しかし、義通勢は敵におされぎみだ。義通あやうし、と人びとはたびたびおもった。
そこへ、百人ばかりの兵を指揮して、二十歳(はたち)ほどの青年武士が馬をはしらせてくる。その武士が大声で、
「景春、無礼だぞ。里見八犬士にゆかりの武蔵国(むさしのくに)の浮浪人(ふろうにん)、政木大全孝嗣(まさきだいぜんたかつぐ)ここにあり」とよばわった。
その左右にしたがう四人のものも、声をいかめしくして、
「われらもものの数にはいらぬが、八犬士ゆかりの石亀屋次団太(いしがめやじだんだ)・百堀鮒三(ひゃくぼりふなぞう)・向水五十三太(むこうみずいさんだ)・江独鈷(えどっこ)素手吉(すてきち)、里見どのに加勢つかまつる」と名のり、長尾勢にきりこむ。長尾勢はたちまちみだれ、浮き足だった。景春はいかり、
「敵に加勢があってもわずか百人だ。おそれるな」とさけぶ。勝敗はまったくわからぬ。

ここで話を犬江親兵衛にうつす。
親兵衛は、東海道をさけ、尾張をすぎ、信濃路から上野、武蔵、下総をへて、はやく安房にかえろうと、姥雪代四郎(おばゆきよしろう)以下従者(ともびと)をいそがせた。しかし、名馬走帆(はしりほ)は病み、おきようとしない。伏姫授与(じゅよ)の神薬をのませたものの、馬にはききめがないのか、死んでしまった。親兵衛は宿の主人にたのみ、なきがらをうめさせた。
十二月五日となった。この日親兵衛は、茶店で休息したとき、代四郎に、
「わたしは姫神の冥助(めいじょ)で、文学・武芸なにごともおさめることができましたが、ただ水練・水馬の術だけはおさめておりません。ゆうべわたしのみた夢は、わたしが富山の岩窟(いわむろ)におり、姫神があらわれて、水を知らなければいけません、と水練・水馬の術をおしえてくだされたのです。わたしはおどろいて目をさましました。いまごろどうしてこのような夢をみたのか、とふしぎにおもっています」とつげた。代四郎は、
「夢は五臓(ごぞう)の疲れによるといいますが、もしも水練ができるようになっていれば、姫神の霊夢(れいむ)でしょう」とこたえた。茶店の前を人びとが行き来し、そのなかで百姓たちがかたりあっている。
「おまえ、きいたろう。扇谷の管領家が、山内の管領家と和睦(わぼく)し、それに近国の諸侯をさそって安房の里見をうらみ、いくさがはじまっているそうだ」
「ああ、きいたとも。里見はいまの世にまれな仁君(じんくん)ということさ。それに八犬士という勇者がいるので、管領がたが大軍でも、そうやすやすとまけることもあるまい」
親兵衛は茶店に茶代をはらい、十町ばかりさきの山神のほこらにたちより、代四郎に、
「話をきかれたでしょう。これより上野をへて武蔵にまいり、千住川をわたって義通君(ぎみ)の城におもむくことにしましょう。いそいで長途を走ってもつかれないように、姫神伝授の神薬を、みんなにあたえることにします」といって、仙丹(せんたん)を紀二六(きじろく)・喜勘太(きかんた)ほかの従者にあたえた。
親兵衛らは奔馬(ほんば)のように走り、十二月八日の夜明けに、武蔵の石浜の城に近い千束村(せんぞくむら)のほとりにきた。ここで葛西(かさい)の仮名町の合戦(かっせん)、文明(ふめ)の岡の攻撃のことを耳にした。
それから千住川の岸にきて、川をわたろうとすると、前方からこちらに一頭の馬がわたってくるのが見えた。親兵衛は、
「夢か現(うつつ)か幻(まぼろし)か、わたしをむかえにきた青海波(せいかいは)だ」とさけび、青海波にうちのり、おもわず川にさっとのりいれた。代四郎・紀二六以下その手下も、身をおどらせ川にとびこむ。
すると、伏姫神の霊験(れいげん)・奇効か、川の水はあたたかで冬とはおもえず、水練を知らないものまでよく水にうく。親兵衛は、水練・水馬の術をよくこなすだけではなく、馬は名におう青海波の駿足で、走ることは陸よりたやすい。
いっぽう、この朝、里見太郎丸義通は、苦戦をしいられていた。なかでも、里見の先鋒の頭人、潤鷲手古内・振照倶教二は、戦いにつかれはてていた、寄手の長尾景春の子、 長尾太郎為影(ためかげ)は隊長梶原景澄(かじわらかげすみ)・樋口(ひぐち)維竜(これたつ)とともに手古内・倶教二をせめたてた。手古内は槍でつかれ、馬上からおち、倶教二は傷をおった。里見勢はみだれ、総くずれになろうとしている。
そこへ武者一騎(き)が驀進(ばくしん)してきた。まるで飛鳥(ひちょう)のようだ。それにしたがうものは七、八十人である。騎馬武者は声をふりたて、
「そこの敵は、旗の家紋から、白井の景春と知れる。こうもうすわたしは里見どのの御内(みうち)で、八犬士の一人、犬江親兵衛金碗仁(かなまりまさし)だ。同藩の老兵、姥雪代四郎与保(ともやす)、蜑崎(あまざき)の若党直塚(ひたつか)紀二六、新参の野武士の隊長、二四的(やつあたり)寄舎五郎(きしゃごろう)・須須利壇五郎(すすりだんごろう)らここにある」と名のった。
親兵衛の手勢が鉄砲をうつと、親兵衛は敵のまんなかに馬をのりいれ、槍をもって四方八方の敵をなぎたおし、たたきふせた。代四郎・紀二六・喜勘太、従者の二四的(やつあたり)・須須利とその手のものも奮戦(ふんせん)した。
里見の先陣・後陣の隊長、東六郎・義通の手のものの鳥山真人(とりやままひと)・朝夷三弥(あさひなさんや)らの太刀風に、さすがの長尾の強敵も三陣が一度にきりくずされた。それを、間をおかずに追う親兵衛の鉾先(ほこさき)は、ことにこわい。

第百六十七回 馬上の戦い……親兵衛、五知己(ちき)にあう

里見義通も、みずから敵を追って馬をすすめようとした。そこへ家老東辰相(とうのときすけ)がかけてきて馬からおり、義通の馬の口取りをして、
政木孝嗣(まさきたかつぐ)、それに京都(みやこ)から犬江親兵衛がもどり、強敵景春(かげはる)をやぶったことでじゅうぶんでございましょう。それより文明(ふめ)の岡にかえってください。もしあの岡がうばわれては、国府台(こうのだい)の城もまもりがたくなりますので……」と追うことをとどめた。
義通は、後見(うしろみ)のことばにすなおにしたがった。
犬江親兵衛は長尾勢(ながおぜい)をけちらし、為景(ためかげ)を追った。為景はすでにつかれはてているので、ひと槍でさしころすこともできたが、親兵衛はその仁慈(じんじ)の本性から、むしろ、なおつかれさせて、うごけなくしてやろうとおもった。槍を横にはらうと、為景は槍を手にしたまま、どっと馬からなぎおとされた。親兵衛は、そのへたばった背を馬上から槍でおさえた。為景は幾たびも身をおこそうとしたが槍はびくともせず、あえぐばかりだ。
そこへ紀二六などがかけてきたので、親兵衛は縄(なわ)をかけさせた。
またそこへ、東辰相のさしずで振照倶教二(ふるてらぐきょうじ)が、新参の野武士、二四的寄舎五郎(やつあたりきしゃごろう)・須須利壇五郎(すすりだんごろう)その他一千余の手のものと親兵衛をたすけようとしてやってきた。
親兵衛は倶教二に、
「この少年は長尾景春の子、太郎為景です。あなたがひきたてていってください」という。倶教二は、
「わたしはあなたとの対面ははじめてですが、その武略勇敢(ぶりゃくゆうかん)は古今独歩(ここんどっぽ)ときいています。まさにうわさにたがわぬと知りました」と為景をひいていった。
親兵衛はさらに政木孝嗣・次団太・鮒三(ふなぞう)・五十三太(いさんだ)・素手吉(すてきち)らと対面し、
「政木どの、石亀主従、向水(むこうみず)兄弟、つつがなくてめでたいことです。政木どのらは、ことしの四月に、結城の左右川橋(まてがわばし)の上で敵の鉄砲にうちおとされ、そのままゆくえ不明となられた。そのあとどうなさいましたか」ととうた。これに孝嗣・次団太・鮒三らは、
「水中におとされ、うきつしずみつ、おしながされました……」といい、そのあとをうけて、五十三太は微笑をうかべて、
「てまえと素手吉は、犬江さまを子分とともに水路を上総(かずさ)までおおくりしました。だが、結城の法要まで供(とも)をすることをゆるされず、金銭をあたえられてかえされました。しかし未練があり、そっと法要を見ようと素手吉と相談したのです……」という。素手吉は、
「それで、船をこぎもどそうとしましたが、日が暮れたので、夜のあけるのをまっていました……」といい、そのつぎの日、船を出したものの、流れがはやく、そこで素手吉が陸にのぼり船をひいた。結城まで二、三里というところで、三人の浮死骸(うきしがい)が目にとまった。見ると、政木孝嗣らなのでおどろき、ひきあげると鉄砲傷がある。しかし幸いに脈があったので、船にうつし、結城行きをあきらめて両国河原(りょうごくがわら)までもどり、孝嗣らをそこの宿所にはこび、医師をまねいて治療をこうた、という。親兵衛はよろこび、
「めでたく政木さんらと再会できて、わたしのみならず、犬坂・犬山・犬川・犬田の犬士もおよろこびなさるでしょう。きょうわたしどもにかわって、御曹子(おんぞうし)(義道)があぶなかったところをたすけていただき、強敵長尾景春をふせがれたおはたらきは、じつに一人当千です。また石亀主従、向水兄弟が、その配下の人びとと政木さんにしたがって、里見家のためにはたらいた戦いは、いつものことながらみごとでした。まだつかえていないとはいえ、みな、里見家の家臣とおなじです。このことをおききになったなら、両館(ふたやかた)(義実・義成)のおよろこびもおおきく、恩禄(おんろく)は後世につたえられるでしょう。まことにめでたいことです」としきりに感嘆した。
そこへ、長尾景春のゆくえをさぐっていた間諜(しのび)がもどってきて告げた。
「敵将長尾景春は葛西(かさい)のかなたへ逃げ、ようやく旗をたて、四散した士卒があつまるのをまって、やっと兵三千余人になりました。景春は、犬江親兵衛さまにとらえられた為景を、おめおめとこのままにしておいては、滸我(こが)・山内にわらわれよう。いまおしよせて犬江さまをころし、義通をとらえてうらみをかえさなければ、生きてふたたびかえるまい、はやくせよ、といきまき、軍扇(ぐんせん)をもって膝(ひざ)をうちならし、ひじをはり、眼(まなこ)をいからしています」
親兵衛は、さもあろう、とこたえた。

第百六十八回 霊猪(れいちょ)の神力(しんりき)……信乃(しの)、房八のうらみをはらす

長尾景春がふたたびおしよせてくる、と姥雪(おばゆき)代四郎以下の人びとはむろん承知だ。政木大全孝嗣(まさきだいぜんたかつぐ)は、親兵衛にむかって、
「敵はやぶれても、なお三千の雑兵がいます。みかたはわずか五、六百。しかもつかれた士卒をもって、怒気奮勇(どきふんゆう)の増した敵をむかえて合戦すれば、おそらく勝つことはむずかしいでしょう。しかし、その怒りをさそうのはたやすいことです。いま奇兵(きへい)をもって、敵を征すれば、一戦必勝疑いがありませぬ。手勢をわけて、わたしに二、三百人をさずけてほしい」という。
親兵衛は、うなずきながらも、おのれの思案を孝嗣ならびに頭人らに、
「いまここにいる手のものは、振照倶教二(ふるてらぐきょうじ)の隊五百人、五十三太(いさんだ)の従者(ともびと)六、七十人、二四的(やつあたり)・須須利(すすり)の従兵六十余人、全部で六百三、四十人です。いまこれを八十余人ずつ八つにわけて、八門をまもらせよう。
この一門ごとの隊長(てのおさ)は、政木どの、姥雪おじと直塚(ひたつか)・須須利・二四的・五十三太・素手吉とわたしの八人です。そのかけひきは、わたしがこの軍扇(ぐんせん)でします。
なお、わたしの兵五人と喜勘太の従者は、それぞれ鉄砲をもち、ここらの松並木の枝にかくれて敵の進退をうかがうのです。わたしがわざとやぶれて逃げるとみせかければ、景春が追ってこよう。そのとき敵の後陣の馬をうつのです。そうすれば景春はあわて、そこへわたしがひきかえして、そのみだれたところをうちましょう」といった。
孝嗣らはそのはかりごとに、このような少年は和漢(わかん)今昔(こんじゃく)ほかに例をみない、とほめそやしていう。
その長尾景春は、為景(ためかげ)をとりかえそうと真先に馬をすすめた。左に樋口小二郎維竜(これたつ)、右に梶原後平二景澄(かじわらごへいじかげすみ)、兵およそ三千余人、後陣には直江荘司包道(なおえのしょうじかねみち)・宇佐見職(うさみもと)政(まさ)がしたがった。
景春が眺望(ちょうぼう)すると、八方に八流(やなが)れの旗をたて、その下に軍兵が配されている。景春は樋口らに、
「そのほうたちはどうおもう。あれは八陣の軍法ではないか。いま予(よ)がたたかわずにしりぞけば、敵はかならず備えをみだして追ってきてうつだろう。そのせめてきたところをむかえうてば、かれは小勢、予は大勢だ。犬江めをとりこにするのは、枝の果実をもぎとるようなものだ。はやく後陣につたえよ」と下知(げち)し、しりぞきはじめた。親兵衛はわらって、
「景春は、わが陣をうたがってうってこない。それでは、ゆっくりと追うべし」と隊をみださず、しずしずと前にすすんできたが、せめようとはしない。間近くなったときに、五十三太・素手吉と子分らが、小石をひろってののしりながらなげつけた。景春は、
「あいつら、予をおそれて近くまでこれず、石をなげるだけだ。かけていってみなごろしにしてやる。ものどもひきかえせ」とよばわり、のっている馬をめぐらし、槍(やり)をもって敵にむかった。むろん景澄・維竜らもしたがった。
政木孝嗣らは、わざとやぶれてみだれちった。親兵衛・代四郎・紀二六(きじろく)らも、馬の足にまかせて逃げた。景春はのがすまいと手勢をすすめた。
すると、うしろに銃声(つつおと)がし、長尾の騎馬武者(きばむしゃ)五、六人がうたれて、人馬もろともたおれた。これで、みな胆(きも)をつぶして、みだれて逃げはじめた。
そこへ犬江の手のものが、とってかえしてうちいった。敵は度をうしなってたおれ、馬に踏まれていのちをおとすものも出た。樋口小二郎維竜はただ一騎、景春をのがそうとむかってきた。政木孝嗣はこれを見て槍をもち、馬をはしらせてきて、一上一下(いちじょういちげ)といどみたたかう。維竜はすでに疲労し、眼(まなこ)もくらんでいる。
孝嗣の槍は維竜の鎧(よろい)のすきまをさし、落馬させた。孝嗣は首をはねずに敵を追った。
長尾景春は、いのちからがら逃げてきて馬を休息させた。そこへ、梶原後平二景澄が二十余人の残兵とともにさがしにきて、
「君が討死(うちじに)なされては、長尾の家は断絶(だんぜつ)します。いざ、おん供(とも)つかまつります」といって、景春の馬の尻をむちでたたくと、馬は葛西(かさい)のかなたに走った。景澄らもしたがった。
そこへ、犬江親兵衛が向水(むこうみず)五十三太ら数人をしたがえて追ってきた。親兵衛は、雑兵を五十三太らにまかせて、景春・景澄の二騎を追った。
「景春かえせ。親兵衛だ」と槍をひねる。景澄は、主君あやうしと槍をまじえる。
そのとき景澄の親類の荻野五九郎泰儀(おぎのごくろうやすのり)がやってきて、親兵衛をせめた。親兵衛はおそれず、右に左にはらう。景澄らはおどろきおそれて逃げた。景春の姿はない。
いっぽうこの朝、犬塚信乃(いぬづかしの)・犬飼現八(いぬかいげんぱち)・杉倉武者助(すぎくらむしゃすけ)・田税力助(たちからりきすけ)らは、寄手の三将、顕定・成氏・憲房の総軍が逃げるのを追いかけて、葛西の仮名町から半里ばかりの林原(しもとはら)で再戦となった。これはすでにしるした。
三将には三万余の士卒、信乃らには二、三千の小兵だ。だが、信乃らはよくふせいでいる。
顕定はしきりにいらだち、三面一度に、信乃・現八のこもる森に火矢を射た。ところが、風の向きがかわり、火はかえって四方の枯れ草にうつった。そこに身をかくしていたイノシシが、ふたたびあばれだした。雑兵を牙(きば)にかけ、ふりとばした。隊長は、
「イノシシをころせ、火をけせ」とさけぶ。
いまこそと、信乃の手のものは敵の混乱のなかにつきいった。
敵の白石重勝は、先鋒(さきて)の頭人、錐布五六郎(きりふのごろくろう)とともに、主君をしりぞかせようとして、残兵四、五千をとどめて野火をさけ、信乃の一隊と血戦するが、うまくいかずに、傷をおって逃げた。寄手の副将、山内五郎憲房は総くずれとなり、あわてていた。そこへ野火とイノシシだ。ふせぐすべがなく、なおとまどった。頭人の闇蚊野(くらかの)※八(ぶんはち)〔※は、さんずいに文〕夏盛と鷹裂八九郎(たかさきはくろう)とともに長刀(なぎなた)をもち、寄手をたてなおした。ちかづく兵もない。
これを犬飼現八信道は、継橋綿四郎喬梁(つぎはしわたしろうたかやな)とともに、好敵なりと馬をよせ、槍をきらめかしてむかおうとすると、※八(ぶんはち)・八九郎の馬の足が二、三頭のイノシシにかけられたので、どっとおちた。そして、※八・八九郎はそのまま雑兵にまじって逃げた。現八は、「たわけものよ」とあざわらった。
山内憲房は、近習(きんじゅう)五、六人をしたがえて仮名町のほうへおちた。現八はただ一騎でそのあとを追った。近習がやむをえず現八にむかったが、ものの数にもならず、みな槍の下にたおれた。
憲房は女の手でそだち、艱苦(かんく)を知らず、民情(みんじょう)をさっしない弱々しい貴公子だ。すぐに槍をうちおとされ、現八につかみとらえられた。そこへ、継橋喬梁が五百人ばかりの士卒をしたがえてきた。現八は、
「このものは寄手の副将だ。手あらくはするな。このまま、義通君(よしみちぎみ)のご陣営にひきたてなさい」といった。喬梁は馬からおりて、よわっている憲房をだきとめて馬にのせ、義通の陣所にむかった。
また寄手の一将、足利成氏の一隊は、顕定・憲房父子の陣の敗走を耳にした。成氏はおどろき、横堀史(よこぼりふひと)在村(ありむら)と新織帆太夫素行(にいおりほだゆうもとゆき)に、「父子をたすけよ」と下知した。
しかし、この隊も敵のいきおいにむなしくおわった。成氏の隊は、旗下(きか)の五、六百人にすぎなくなったので、「いまはこれまでだ。討死しよう」と気をとりなおして、敵の隊長、杉倉武者助直元(なおもと)の隊をせめにかかった。
そのとき突風がふいて砂子(いさご)をとばし、木の枝をならして、天もくらくなった。すると一頭のイノシシがかけてきて、成氏ののった馬をかけたおし、おきようとする鎧の表帯(うわおび)を牙にひっかけ、背にのせて走り去った。敵もみかたの士卒らも、これを見ているものはない。
横堀史在村・新織帆太夫素行は、みかたが落ちていくうしろ姿を見た。在村は、素行に、
「これでは、わが陣もやぶれたとみるべきだろう。わが主君にかわりはないだろうか。このままでは、かならずとりこにされてしまう。滸我(こが)にかえり、再起をはかろう」という。素行は、同意した。千住(せんじゅ)のほうへおもむき、葛西の底不知野(そこしらずの)をすぎるときは、士卒は逃亡し、わずかに四人の若党だけになった。在村らは馬をはやめた。
犬塚信乃は、顕定をうちはたそうと兵五、六人とここらまできた。兵は、
「あの二騎のうち一人は、滸我の家老横堀史在村です。またもう一人は、その次職の新織帆太夫素行です」という。信乃は箙(えびら)から二本の矢をぬきだし、弓を手に馬をはしらせ、声高らかに、
「そこへいく騎馬武者は、滸我の臣、横堀在村・新織帆太夫素行ではないか。わたしは犬塚信乃金碗戌孝だ。さきにわたしをしいたげて、からめとろうとしたのみならず、新織素行を捕手の頭人として、行徳(ぎょうとく)の宿所までさぐった。わたしのかわりに死んだ義士、山林(やまばやし)房八(ふさはち)の血染めの衣(きぬ)でつくった幌(ほろ)は、わたしの背にある。そのうらみをかえすぞ」とよばわった。在村・素行はおどろき、見かえった。
まず信乃は素行を矢で射た。素行は左の耳からおとがいまで射られて、さけび声もあげずに落馬して死んだ。これにおそれた在村は馬をはやめて逃げようとした。信乃は弦音(つるおと)とともに矢を射た。在村はうなじを射られたが、落馬せずに逃げ去った。生死はわからない。信乃は兵から槍をうけとり、在村を追った。信乃は馬をはしらせた。茫々(ぼうぼう)たる荒野にくると、三騎の武者が目にとまった。二騎を一騎が追っているのだ。追っているのは犬江親兵衛だ。信乃が声をかけようとすると、親兵衛は人馬もろともに草むらの穴のなかにおちた。二騎のうち一騎が、親兵衛を穴の上から槍でつきさそうとした。信乃は馬をよせて、
「たわけもの、手をくだすな」と槍をかまえた。
その一騎は信乃に、「そのほうはだれだ」という。 信乃は名のった。「わたしは犬江親兵衛の義兄弟、里見どのの御内(みうち)、八犬士の一人犬塚信乃戌孝だ」
「ほう、さては好敵。われは白井の隊長(てのおさ)、梶原後平二景澄だ」と槍をふってきた。
そこへもう一騎の荻野五九郎泰儀が馬をよせ、信乃におそいかかった。信乃は左右の敵をうけながらこれをはらい、泰儀のうなじをさした。泰儀は馬からおちた。景澄もまたさされ、これも落馬した。
信乃は穴のほとりに馬をすすめて、声高くよばわり、
「いまあやまって穴へおちた武者は、犬江さんであろう。わたしは犬塚信乃だ。わたしの槍にすがって、はやく出られるといい」と三たびさけんで、槍を穴のなかにおろそうとすると、そのなかから、白気が煙のように天にのぼった。さらに、轟音(ごうおん)とともに猛風(もうふう)がふきだし、犬江親兵衛は馬といっしょに、せりだして穴のほとりに立った。信乃はおどろいていう。
「おお、犬江親兵衛、ぶじでしたか。ふしぎな面会よ」

第百六十九回 松かげの談……信乃、君命をつたえる

穴のなかから、馬とともにせりでた犬江親兵衛に、犬塚信乃はとうた。
「犬江さん、いつのまに京からかえってきて合戦にくわわられたのです。それに二騎を追われる途中、あやまって穴のなかに落ちられたのに、雷(いかずち)の音とともにせりあがられた。これも、霊玉の奇特と伏姫神の冥助(めいじょ)でしょう。しかも、ゆくえ不明になった青海波(せいかいは)にのっておられるとは……」
それから信乃は、自分のかけた幌(ほろ)は、親兵衛の両親(ふたおや)の血染めの衣(きぬ)でつくったのだ、とつげた。
親兵衛は馬上でききながら感涙(かんるい)し、
「犬塚さんの孝順忠信(こうじゅんちゅうしん)は、人のおよばぬところです。ここにふしぎなたすけをえて、あうことができました。わたしが敵の槍にさされてこの穴でいのちをうしなったら、だれにも知られなかったことでしょう。この再生のお礼は、いくらもうしてもつきません」といい、けさ姥雪(おばゆき)代四郎らと、かえってきた青海波にあい、長尾景春勢をやぶってその子、為景(ためかげ)をとりこにしたこと、また河鯉佐太郎(かわこいすけたろう)の政木大全孝嗣・石亀屋次団太・百堀鮒三の三人は、死ななかったこと、などをかたった。
それから、信乃・親兵衛は下馬し、松かげの石に尻をかけた。
しばらくすると、犬飼現八・杉倉直元・田税逸友・真間井秋季らがきた。現八は信乃に、
「犬塚さんは顕定を追ってこられたとおもうが、わたしらは副将憲房をとらえました」といって、となりの親兵衛を見ておどろき、「おや、犬江さん、いつ京からもどられました」ととう。
親兵衛は微笑をただよわせて、
「けさ、この地につきました。敵を追ってきて、幸いに犬塚さんにすくわれたのです」とこたえた。
信乃が親兵衛にあらためて、
「犬江さん、ここは荒野で、君命をつたえるのにふさわしくないのですが、もうしましょう。つつしみてうけたまわるよう」という。
親兵衛はひざまずいた。信乃は、義成が洲崎で犬坂毛野を軍師に命じ、ほかの犬士を防御使(ぼうぎょし)とし、太刀(たち)をそれぞれにあたえた、という。そして腰におびた三刀(みたち)のうち、一振を親兵衛にわたした。
そこへ、姥雪代四郎・直塚(ひたつか)紀二六・漕地(こぐち)喜勘太らと、政木大全孝嗣・石亀屋次団太・百堀鮒三・向水五十三(むこうみずいさん)太(だ)・枝独鈷素手吉(えどっこすてきち)・二四的(やつあたり)・須須利(すすり)らとその手勢も、長尾景春の隊長(てのおさ)、直江包道(かねみち)・宇佐見職政(もとまさ)をやぶって、ここまできた。
親兵衛は孝嗣以下を、現八・直元・逸友・秋季らにひきあわせた。ともによろこびは深い。
そこへ、葛西二郷の村長らがたずねてきて、滸我(こが)の家老、横堀史在村と新織帆太夫素行の首をはねてきた、という。里見の仁政(じんせい)をしたい、滸我の悪政をうらんでのことである。

第百七十回 敵をすくう……現八がひろった浮死骸(うきしがい)

犬江親兵衛は、伏姫神授(ふせひめしんじゅ)の仙丹(せんたん)を敵みかたの手負い、討死の兵どもにあたえた。死をおこし、生をかえそうとする博愛仁恕(はくあいじんじょ)の心だ。
この神薬の奇効で再生した寄手の雑兵も里見にくだろうとねがうものがおおかった。これらはみな国府台(こうのだい)の城にいれて、軍役(ぐんえき)をあたえた。敵の士卒で薬の効験(しるし)がなく、よみがえらぬものは、定命(じょうみょう)か、その性不仁(ふじん)で積悪なものかである。在村・素行が村人に首をはねられて再生の機会をうしなったのは、天罰であろう。
犬飼現八は、手のものをともなって仮名町に陣をうつした。寄手の三将、顕定・成氏・景春のゆくえをさぐったものの、川をこしていったものかもしれない。
現八は「それでは、ここにいても用はない」と文明(ふめ)の岡にむかった。義通はすでに、国府台に帰城している。それに、ここには一千余人の士卒が配置されている。で、田税逸友(たちからはやとも)とともに、大河の岸にきて、まず、逸友らが戦船(いくさぶね)にのり、対岸にわたった。つぎに現八も、兵二、三十人とともに船にのった。
そこへ、一人の鎧武者の死骸が海からながれてきた。兜(かぶと)の鍬形(くわがた)は白銀で、立物(たてもの)は黄金(こがね)なのか、水すきとおって、きらきらときらめく。
現八は、その死骸をひきあげさせた。歳は二十(はたち)ばかり、色白く、眉あつく、品がある。胸を一本の矢で射られている。兜の立物をよくみると、純金でほってあるのは、篁(たかむら)に群雀(すずめ)の家紋である。現八は、
「この若ものは、かねてからきく、行徳への寄手の一将、扇谷定正の嫡子の上杉五郎丸朝良どのか、定正の庶子(しょし)の水軍の副将、上杉式部少輔朝寧(しきぶしょうゆうともやす)どのだろう」と思案して、その矢をぬきとった。矢には、犬山忠与(ただとも)としるされている。
現八は愕然として、
「きのう、水路の寄手と水戦(みないくさ)の勝負のあったとき、道節が射たのであったか。この人、甲胄(かっちゅう)の身なのに水底にしずまず、ながれてきたのもふしぎだ。なんとか、犬江の神薬ですくうことはできないものか」とつぶやき、兵を国府台の城にはしらせた。親兵衛が若党二、三人とともに、かけつけてきた。
親兵衛は、その死骸を見て現八に、
犬飼(いぬかい)さんがもうされるように、寄手水軍の副将、朝寧でしょう。この人はまだ命数がつきず、再生するかもしれません。これは、犬山道節の仇(あだ)の子ですが、これをいかさなければ、館(やかた)(義実・義成)の仁慈(じんじ)、天地にひとしいご盛徳(せいとく)にたがうことになります」といい、兵どもに、「この死人の武具をぬがせよ」と下知(げち)した。
二、三人の兵が武具をとくと、親兵衛は腰をさぐり、不死の神薬をとりだして、死人の口中へおしいれ、また矢の傷口にもいれた。それから、腹のなかの塩水をはかせようとおさえつけると、口から塩水があふれた。身の血色がよくなり、さらに、あたたかみが出た。
親兵衛はよろこび、
「この人はかならず生きるだろう。しずかに城内にはこぶことにしよう」といった。
乗物がはこびこまれた。現八・親兵衛は、その武者をのせた乗物の左右に立って、城にむかった。
現八・親兵衛は国府台の城にかえり、犬塚信乃(いぬづかしの)は、ことの次第を辰相(ときすけ)につげた。それから東辰相が義通に言上(ごんじょう)した。水死の若武者は、そのまま寝かせておいた。おおよそ二刻(ふたとき)ばかりして、若ものは蘇生(そせい)した。
若ものは頭(こうべ)をもたげておどろき、なぜここにいるか、と城の士卒にとうた。城の士卒は、そのことをつげた。若ものは、いよいよおどろき、
「とりこになったくやしさよ」という。
そのあと、この若ものを問注所(もんちゅうじょ)によび、おだやかに、礼を正しくして姓名・来歴(らいれき)をただした。若ものは管領(かんれい)定正の庶長子の、式部少輔朝寧で、きのう、洲崎の合戦でやぶれたことをつげた。

第百七十一回 ふるい誤解をとく……とらわれた成氏(なりうじ)

この宵(よい)、義通(よしみち)は、犬塚信乃・犬江親兵衛・杉倉直元・継橋綿四郎(つぎはしわたしろう)・政木大全を召し、両茶(もろちゃ)の礼をあたえた。
義通は、信乃・親兵衛・大全らの軍功をほめて、
「犬飼現八が、斎藤兵衛太郎をとらえ、当城にひいてきた軍功をはじめとして、きょうはまた寄手の副将、上杉五郎憲房をとらえてひいてきた。これも現八の軍功といえる。しかし、信乃の火猪(かちょ)のはかりごとをもって、寄手の戦車(いくさぐるま)を焼かなければ、きょうの全勝を得ることはなかったろう。で、その軍功は伯仲(はくちゅう)している。予(よ)は二犬士と、直元・逸友(はやとも)らを援助しようと、岡より出陣したものの、その途中、長尾景春の三手の強兵と出あい、たたかって難儀(なんぎ)したおり、おもいがけず政木大全、それに次団太(じだんだ)・鮒三(ふなぞう)・五十三太(いさんだ)・素手吉(すてきち)とかいうものが、六、七十人をともない、たすけてくれた。
さらにそこへ、親兵衛が京からかけつけて、一瞬の間に強敵をきりくずした。そして、景春の愛子(まなご)ときこえる長尾為景をとりこにして、当城にひきたてた大功は、信乃・現八といずれもくらべることはできない」とほめたたえた。さらに義通は東辰相(とうのときすけ)に、
「火猪は奇(く)しきことだが、まだあるぞ。そのほうからもうせ」という。
辰相は膝(ひざ)をすすめて、
「犬塚・犬江、他のものもきくがいい。岡から当城にかえられるときのことだ。一頭のイノシシが一人の武者を牙(きば)にひっかけ、背にのせて飛鳥(ひちょう)のように走ってきて、義通君(ぎみ)のおん馬前にくると、背の武者をふりおとして去った。その武者をたすけおこして、姓名・来歴をとうと、寄手の大将の滸我(こが)の左兵衛督成氏(さひょうえのかみなりうじ)どのであった。そこで、士卒にきびしく守護させて当城内に案内してまいり、一室にとじこめてある。さきに憲房どの、為景和子(わこ)、また斎藤盛実も、それぞれの部屋にとじこめてある。これも義通君の手がらである」といった。
これをきき、親兵衛・直元らはおどろいてよろこび、
「さては、あのおりに成氏どのもイノシシにはこばれてきたのですか」という。信乃は辰相に、
「いまはじめてうけたまわるイノシシのはたらきは、奇中の一大奇事で、人のなしうることではありません。わたしは矢切(やぎり)の川をわたり、寄手をむかえてたたかいましたが、成氏どのの一隊には、直元・逸友だけをむかわせて、わたしは一矢も射ておりません。そのわけはこうです。成氏どのは、わたしの祖父大塚匠作(しょうさく)の主筋。父番作も、はじめは、その余禄(よろく)をもって成長したのです。また義兄弟犬飼現八のためにはもとの主(あるじ)です。
きょうの再戦にも、わたしどもは真間井秋季(ままいのあきすえ)をえて顕定どのとたたかい、現八はまた継橋高梁(たかやな)をたすけとして憲房どのとたたかい、さらに成氏どのの一隊には杉倉と田税(たちから)をさしむけて、三面ともに戦いに勝ったのは、霊猪(れいちょ)のたすけによるものです。直元・逸友の二人をもって、成氏どのをとりこにしたなら、直接わたしどもが手をくださなくとも、防御(ぼうぎょ)の正使なので旧主をとらえたと悪名を得るでしょう。これは、伏姫神の神通が広大で、イノシシによってあらわされた冥助に疑いないとおもいます」といった。
これをきいて義通はかんじいった。辰相・直元・孝嗣らも、理義文明の高論と感嘆した。親兵衛も、
「もっとも、もっとも……」とうなずき、たたえた。
夜がふけはじめた。親兵衛は、政木孝嗣(たかつぐ)がつかれているのをおもい、休息所に案内させた。
信乃は、辰相に、
「あしたの朝はやく、飛脚をもって洲崎のご陣にきょうのことをもうしあげ、そして洲崎のご安危をうかがいたてまつるべきです。また、行徳口(ぎょうとくぐち)の防御使、荘助・小文吾はどうしているでしょうか」というと、親兵衛も、
「わたしは、京からおん使いをはたしてきて、まだ稲村(義実)へまいっておりませんが、さきに犬塚信乃さんから伝達されて防御使を命ぜられ、また太刀を下賜(かし)されました。寄手がこの地におりませんので、戦いをおたすけすることでしょう」という。
辰相はそれをきき、
「犬塚・犬江の意見ももっともだ。それでは、行徳には振照倶教二(ふるてらぐきょうじ)をつかわし、あそこの安危を問わしめ、また洲崎のご陣には、継橋綿四郎をまいらせて、この地の勝ちいくさを注進しよう。犬江どの、寄手がなければ、それから稲村へまいってもおそくはあるまい」といった。いそいでその手配りがなされた。
信乃・親兵衛は、とらえた敗将・隊長(てのおさ)をあなどり卑(いや)しめずに、そのもてなしもなおざりにすることがなかった。現八もともに、憲房・為景・盛実らをなぐさめた。この三人は恥じいり、頭をさげ衣をうちかぶり、ねむったふりをしている。また成氏は、灯火(ともしび)の下の《しとね》の上にすわって手をくみ、頭をたれている。
信乃・現八・親兵衛は、ともにすすみいってぬかずき、安否をとうた。
成氏はおどろき、「そのほうらはだれだ」という。
信乃は、
「わたしは、君(きみ)の兄にあたられます春王君・安王君につかえました武蔵国豊島群(としまのこおり)の住人、大塚匠作三戌(みつもり)の孫、大塚番作一戌(かずもり)の子、犬塚信乃金碗戌孝(かなまりもりたか)です。往時(おうじ)嘉吉の騒乱に、結城(ゆうき)の義兵は三年をへて、弓おれ、いきおいつきて、両公達(りょうきんだち)は敵のためにとらわれ、わたしの祖父三戌は討死(うちじに)したといわれます。そのとき父番作はかこみをきりぬけ、両公達の形見の名刀《村雨丸(むらさめまる)》を腰におびて、両公達のひかれるあとをおい、美濃(みの)の垂井(たるい)にきたものの、公達らは金蓮寺(きんれんじ)で殺害されることになりました。番作はおどり出て、介錯人(かいしゃくにん)を一刀のもとにきりたおし、両公達のおん首をうばいとり、信濃路にきて道ばたの寺に埋葬したのです。
その夜、番作は、宿をとった草庵(そうあん)で手束(たつか)という娘とあいました。それがのちに番作の妻となりました。番作の傷がおもく、筑摩(ちくま)におもむき、湯治(とうじ)の日々をおくり、かろうじて故郷の武蔵の大塚にきて犬塚と名のり、兵法武芸などを伝授しました。そのうち、わたしがうまれました。そしてわたしが六、七歳のころ、母は病死したのです」と信乃はかたりつづける。
この大塚には、番作の妹亀篠(かめざさ)と婿(むこ)の村長(むらおさ)大塚蟇六(ひきろく)がいた。この二人は、番作秘蔵の村雨丸をねらっていた。番作は信乃に、成長のおりには、滸我の御所へ参上し、この太刀を献上せよ、という。
いまから六年まえの文明十年(一四七八年)夏に、信乃は、番作の遺訓にしたがって御所に伺候(しこう)したが、村雨丸は蟇六らの奸計(かんけい)でにせものとすりかえられていた。それを横堀在村がみやぶり、一言半句のいいわけもきかずに間諜(しのび)ときめつけて捕手(とりて)に追わせた。信乃はこれをきりはらって、芳流閣(ほうりゅうかく)の屋根にのぼると、信乃をとらえにきた滸我の臣、犬飼現八とくみうちとなり、両足がすべり、閣の下の川辺の舟にころげおちた。舟は激流にのり行徳に漂着、そこで、犬田文五兵衛・小文吾親子に救出された。
信乃は刀傷から破傷風(はしょうふう)となり、ふす身となった。横堀在村は、配下、新織帆太夫素行(にいおりほだゆうもとゆき)らに命じ、信乃らの探索(たんさく)をはじめさせた。犬江親兵衛の父山林房八は、おのれとおのれの妻をころし、二人の鮮血を信乃の傷にそそいで、治療した。房八が信乃と似ていることから、房八の首をもって信乃の首と称して素行にとどけ、のがれることができた、と長ものがたりをおわった。
信乃にかわって、現八が成氏に膝をすすめて、
「わたしは、武蔵の豊島大塚の氓(たみ)(他郷からのさすらいの民をいう))糠助(ぬかすけ)の子でしたが、御所(成氏)御内の犬飼見兵衛(けんべえ)にやしなわれて、滸我の藩中でそだてられました」とかたり、いまは信乃とともに、里見義通の隊(て)の防御使、犬飼現八金碗(かなまり)信道だ。滸我で獄吏(ごくり)をつとめていたが、横堀史在村は能吏(のうり)をそねみ、不敬の罪として獄舎(ひとや)につなぎいれた。信乃を芳流閣の屋根に追ったものの、死者が多く、そこで在村は獄舎から現八をだし、信乃をとらえよと命じた。芳流閣からころげおち、ともに気絶したまま舟で行徳にながれついた。
信乃と話をしているうちに、現八の実父糠助は、信乃と同郷で、現八と信乃は異姓の義兄弟とわかった。そのしるしは、たがいに身のうちに、かたちがボタンの花に似た痣(あざ)があり、さらに霊玉を所持している。小文吾と親兵衛も、同因同果の痣があり珠(たま)がある。そのあとに八人の義兄弟のいることを知った。そして、六年の歳月がながれて、安房(あわ)に召された、といった。
さらに現八は霊猪のたすけのこと、在村・素行が悪政のうらみから村人に首をはねられたことをつげた。
成氏は、いよいよ恥じいり嘆息して、
「予は不明で、そのほうたちの賢良英才(けんりょうえいさい)なることを気づかなかった。カラスの頭が白くなるとも、生きて滸我にかえることはないだろう。覚悟はすでにしている」とつぶやく。
このとき犬江親兵衛が、
殿(との)、そのようになげかれますな。わたしは、里見の防御使の犬江親兵衛仁(まさし)です。里見は仁義の家風で、義成は殿を安房へむかえまつり、旧交をあたためなさるでしょう」といった。信乃、現八もともに、
「わたしどもは、殿をはずかしめようとして父祖(ふそ)のことまでもうしあげたのではありません。ただ、忠義のこころばえを知ってほしいとおもうだけです。また見参(げんざん)いたします」と、暇(いとま)ごいをしてしりぞいた。
親兵衛は、東辰相に意中をつげ、義通に暇をこうて、つぎの朝に姥雪(おばゆき)代四郎・直塚(ひたつか)紀二六(きじろく)・漕地(こぐち)喜勘太(きかんた)らとその若党、政木孝嗣(まさきたかつぐ)・石亀屋(いしがめや)次団太(じだんた)・百堀鮒三・二四的(やつあたり)寄舎五郎・須須利(すすり)壇五郎とともに、手のもの六十余人をひきいて、名馬青海波(せいかいは)にのり、洲崎の陣営へとおもむいた。
その途中、親兵衛は行徳にたちよった。今井河原の柵(さく)には、犬川荘助・犬田小文吾が親兵衛の席をもうけていた。麻呂(まろ)復五郎・再太郎・安西就介(なりすけ)・大樟村主(おおくすすぐり)もこの席につらなった。
荘助・小文吾は、次団太に、
「さきに稲戸津衛(いなのとつもり)の好意で、片貝の隠れ家をのがれるとき、人に知られることをおそれて、あなたの宿所によらずにかえったことを、おわびします」といった。
それにこたえて、次団太らは、安房へおもむくよろこびをのべた。親兵衛・荘助・小文吾ら主客の話はつきない。日影がかたむきかけた。親兵衛はわかれをつげて、上総路(かずさじ)にむかった。
洲崎の沖の水戦(みないくさ)のありさまはどうであったのか。

第百七十二回 船をやく……音音(おとね)の奮戦

ここ武蔵の五十子(いさらご)の城内。
十二月五日の未明に陸地の諸将、山内顕定(あきさだ)、その子憲房、足利成氏・扇谷朝良(ともよし)・千葉介自胤(よりたね)、四家の隊長(てのおさ)白石重勝・大石憲重・横堀在村・原胤久らは、それぞれ数万の軍兵をしたがえて、下総の真間(まま)・国府台(こうのだい)・行徳をさしてむかっていた。
で、いま城内にある士卒は三万余人にすぎなかったが、五、六日にいたって、甲斐(かい)の武田信昌の名代(みょうだい)、武田信隆以下二万余人が、五十子の城にはいった。そのうえ、上総のもとの榎本(えのもと)の城主、千代丸豊俊(とよとし)が、旧臣の浜県(はまがた)馬助(浦安牛助友勝の偽名)を密使として、降伏の書状を、四人の女に所持させてきた。人質(ひとじち)でもある。一方では、すでに海上の焼きうちの約束もなされている。
定正親子にしたがう水軍は、五万余という。そのなかに、南海道(なんかいどう)からきた、海賊の頭領の水禽隼四郎緑林(みなとりはやしろうはるしげ)・錦帆八四九郎近範(にしきほはしくろうちかのり)がいる。また、赤岩百中(あかいわひゃくちゅう)(犬村大角の偽名)の援助がある。この総勢五万、公称十万余騎の出陣は、十二月八日とさだめてある。
その日の早朝、洲崎(すさき)の港をせめやぶり、稲村の城をおとすのが軍略だ。
七日の早朝、大石源左衛門尉憲儀(げんざえもんのじょうのりかた)は、沐浴(もくよく)して、鎧(よろい)の上に浄衣(じょうい)をつけ、百余人の兵をともなって谷山(やつやま)にきた。中腹の洞穴をのぞいてみると、風外道人(ふうがいどうじん)(丶大法師)が、青石の上に結跏趺座(けっかふざ)して、香をたき、合掌して経文(きょうもん)をとなえていた。
憲儀はうやうやしくすすみ、
「大石憲儀でございます。水戦(みないくさ)の日はあしたとなりました。船出はいつごろがよろしいでしょうか」ととうた。風外道人は、
「あすは、こよいのうちからこぎだして、三浦の沖に碇(いかり)をおろすがいい。そのとき、わしは順風をもってはやく沖へおしだしてやろう。さらに敵を火ぜめにする便宜(べんぎ)をはかろう」といった。
憲儀はよろこび、山をおりて五十子の城にかえった。憲儀は、風外道人のことばを定正につげた。定正は、
「この夕方から兵どもを分乗させよ」と下知(げち)した。
冬の日は短い。夕日がしずみはじめた。軍兵たちは、準備にいそがしい。七日の月も出て、やがてしずむ。五十子の城内の兵は、船に分乗を開始し、陸をはなれる。司馬浦から大茂林(おおもり)までの海上に、千百の戦船(いくさぶね)がうかぶ。まるで、碁盤(ごばん)のようだ。五彩(さい)の旗、八色の指物(さしもの)が、夜半の浦風にはためく。
寄手の第一番は、先鋒(さきて)の頭人、大茂林小彦和仲(おおもりこひこよしなか)・浜川小渡銕久(はまかわこわたりかねひさ)に、新参の海賊の頭領、水禽隼四郎緑林(みどりはやしろうはるしげ)・錦帆八四九郎近範(にしきほはしくろうちかのり)を副将として五千余人、船四、五十艘(そう)に分乗した。
第二、三の隊は、小幡木工頭東良(おばたむくのかみはるとし)、士卒五千余人、大石憲儀にしたがう士卒八千余人。
第四番は、定正の長男、上杉式部少輔朝寧(しきぶしょうゆうともやす)を副将として武士百余人、雑兵一万二千余人。
第五の隊は、総大将扇谷修理大夫(おうぎがやつしゅりだゆう)定正、近臣の兵頭(ものがしら)、箕田源次兵衛后綱(みたげんじべえのちつな)・信城左伝達頼(しがらきさでんたつより)・九本仏九郎望洋(ここのもとぶつくろうもちうみ)・城峰麻生介広原(しろがねあそうのすけひろもと)らと二万五千余人が、千百十数艘にそれぞれ分乗する。
三浦の沖に船がすすむと、にわかに順風がおこった。風外道人が念じておこした風だろう。武田信隆の船だけはおくれているが、暗い波の上で、定正以下にはわからない。
戦船のすべては碇をおろして、さらに風外道人がふかせる夜明けの風をまった。里見の戦船を焼く火薬の頭人、仁田山晋六武佐(にたやましんろくたけすけ)は、この役目を命じられてから、酒の失敗をおそれて禁酒していた。が、十二月七日になると、手のものに、
「おれもそうだが、おまえたちもつかれたろう。こよいの真夜中には、大将の船も出る。そうなれば、おれもおまえも死活の境におもむく。せめて、酒でもおもいのままに飲むことにしよう」と船中の酒宴(しゅえん)となった。この船には千代丸豊俊の人質の音音(おとね)もいる。晋六は、音音にも酒をすすめた。音音はこれ幸いと、唄などをそえて、晋六以下に盃(さかずき)をかさねさせた。船中の兵は乱酔のていだ。
定正の船はすでに出帆(しゅっぱん)しているが、晋六の船のみはまだ司馬浦だ。むろん、音音はよわない。よいつぶれた晋六らを見て、音音は、
「この男は、六年まえに、わたしの子、十条力二郎・尺八をころした仁田山晋吾の弟だ。このものの配下の火薬の船は出航したが、頭人がいなくては火薬の船もとまどうだろう。だが、よってねむっているものをころすのは、武士の妻としてなすべきではない」とおもう。
夜がふけた。霜(しも)こおる夜の潮風に、晋六武佐(たけすけ)は酔(よ)いがさめかけ、
「これはどうしたことだ。このあたりには、一艘も船がなくなっているぞ。こっちの落度だ。さあ、はやく船を出せ」といい、小頭人(こがしら)を二、三人よび、「あの老女をころせ」という。
小頭人らは首をかしげて、
「それはまたどうして……?」ととうと、晋六は、
「おれの船がおくれたのは、あの千代丸豊俊の人質の女、じつは里見のまわしものをとらえるためだ。あの女の首をもっていけば、遅参の罪もゆるされるというものだ」という。
小頭人らは、「それはいい思案だ」とうしろを見た。そのときすでに音音は鉄砲を手にして、声高に、
「そのほうども、おどろきさわぐな。そのほうどものはかりごとは聞いたぞ。だが、晋六のもうすことは事実だ。わたしをだれとおもう。さきに戸田の川べりで、晋六武佐の兄、仁田山晋吾の手勢にうたれた十条力二郎・尺八の母、犬山道節のもとの家来で、いまは里見どのの家臣、姥雪代四郎の妻、音音ぞ」と鉄砲をはなった。晋六はのどをうたれてたおれた。さらに音音はつまれている火薬の袋をうち、ざんぶと、海に身をおどらせた。水音とともに、大音響(だいおんきょう)につつまれ、船はもえあがった。

第百七十三回 水上のかけひき……大角がかりた戦船(いくさぶね)

犬村大角礼儀(まさのり)は、谷山(やつやま)で丶大法師(ちゅだいほうし)と談合して、雑兵を安房(あわ)の洲崎の陣営につかわした。犬坂毛野に、はかりごとのすすんでいることをつげさせたのである。礼儀は赤岩百中(あかいわひゃくちゅう)、丶大は風外道人(ふうがいどうじん)と名のっている。
大角は、相模路の浦辺(うらべ)にきた。そこへ、里見義成の密諚(みつじょう)と毛野の意中をつたえようと、堀内雑魚太郎貞住(ほりうちざこたろうさだすみ)が、兵三百余人をともなって快船(はやぶね)でついた。義成から下賜(かし)された一振をあずかっていた毛野は、その太刀を貞住にわたし、大角につたえた。大角はよろこんでうけた。さらに、はかりごとを実行するため浦安友勝・音音(おとね)・曳手(ひくて)・単節(ひとよ)・妙真(みょうしん)が適地に潜入したことをつげた。大角は貞住に、
「音音・妙真の二人の媼(うば)と曳手・単節が千代丸豊俊(ちよまるとよとし)の密使といつわり、司馬浦にきたとき、定正は、人質(ひとじち)として四人を五十子(いさらご)の城にとどめておいた。もし定正がやぶれて城にかえったら、四人はころされるだろう。もっとも危険なはかりごとだ。わたしも、この一計にくわわっているが、矢敗したら、生きては安房にかえらない」といった。
十二月七日、大角は貞住とともに武具で身をかため、兵三百余人をともなって新井(あらい)の浜にきた。そこから、大角だけが兵十人ばかりをしたがえて新井の城におもむき、新参の赤岩百中が入城する、と門番につげた。
新井の城主三浦陸奥守義同(みうらむつのかみよしあつ)は、
「赤岩のことはきいている。対面しよう」と、油断なく大角と従者(ともびと)二人だけを城内に入れ、問うた。
「赤岩百中とは、そのほうか」
大角の百中はぬかずき、
顕定(あきさだ)どのからたまわった、借船(しゃくせん)の割符(わりふ)をもっております。戦船(いくさぶね)十艘(そう)と火薬・柴(しば)・薪(まき)をおかりしたいとおもいます」という。義同は、
「それは承知している。それで、そなたの手のものは幾人か」といった。大角は、
「近くの海辺に、三百余人をとどめております。いまは、十人ばかりをともなってきていますが……」といって割符をわたした。義同はこれをうけとり、自分の割符と見あわせて、相違ないとみとめた。きのうから船は用意してある、という。
大角は城を出て、貞住とともに、用意されている船にきた。十艘のうち一艘には、火薬そのほかがつまれている。万事はかりごとのとおりだ。やがて、船をこぎだす。
義同(よしあつ)の子の三浦暴二郎義武(みうらあらじろうよしたけ)は、病弱の身でふせっていたが、赤岩百中というものに船をとられたことを聞き、くやしくてならない。義武は水崎蜑人(みさきあまんど)らに命じ、船二十余艘に五十人ずつ分乗させ、自身は快船にのって、大角の百中を追った。
ころは十二月八日の明け方だ。十八歳の義武は、はげしい風をものともせずに、百中においつこうとしきりに水夫(かこ)をいそがせた。いっぽう、そのようなことなど知らずに、大角は船をいそがせない。やがて、うしろから快船がきて、声をかけた。
「その船は赤岩百中か。こうもうすわたしは、三浦陸奥守義同の嫡子三浦暴二郎(あらじろう)義武だ。しばらく船をとめよ」
大角はそれをきき、赤岩百中はここにいる、なにか用か、という。義武の快船がちかづき、
「わたしは、風寒(ふうかん)の病いで出船がおくれた。そのほうは新参の加勢、わが船にのるものは、わが隊(て)にしたがうことだ」とさけぶ。大角はあざわらって、
「それはいわれのないことだ。この船は三浦氏(うじ)から出されているが、これは私ごとでかりたのではなく、扇谷どのの所要でかりたものだ。それゆえ、扇谷どのの船とおなじではないか。管領家(かんれいけ)をおそれずに、隊にしたがえというのか」という。義武は、顔を真赤にし、船べりに足をかけたが、その隊の頭人(とうにん)水崎蜑人(みさきあまんど)らにだきとめられた。義武は、ののしるばかりだ。
おなじ十二月八日明け方、扇谷定正の諸軍船は、三浦の沖に碇(いかり)をおろし、風外道人の風術で追い風のおこるのをまった。かけわたした提灯(ちょうちん)は、波を照らし、水にうつっている。そこへ、洲崎のほうから、快船一艘がよってきた。そのものは、大石憲儀(おおいしのりかた)の船に、
「われは安房の降人(こうじん)、千代丸豊俊の密使の浜県馬助(はまがたうますけ)というものだ。火急の用なので、ご対面を……」と声高らかにいう。
憲儀は船幕をあげて、馬助と対面した。馬助とは、むろん、浦安牛助友勝である。その友勝は、
「きょうの朝の水戦(みないくさ)では、千代丸豊俊が、里見の船のうしろから火をはなってみなごろしにします。ただし、そのとき乾(いぬい)(北西)の追い風がもっともはげしくふいたなら、豊俊の火は、里見の船にかからず、かえって豊俊の船にかかります。で、豊俊は、里見の船をこぎぬいて、火をはなちます。それを見て船をすすめられ、ともに火をはなたれたなら、全勝は疑いありません」とまことしやかにいう。
憲儀はこれをきき、小舟で定正の船におもむいてそのむねをつげた。定正はよろこび、豊俊主従に大功があれば、他日ほうびをとらせよう、と下知(げち)した。そして、そのまま馬助は憲儀の隊についた。火ぜめの頭人の仁田山晋六(にたやましんろく)が、まだついていないからだ。
東の天(そら)がやや明けようとするころ、風外道人の約束にたがわず、乾のかなたから風がおこり、波が高くなって船がゆれうごいた。寄手の兵どもは、寒気をわすれてよろこびいさんだ。
「それ、追い風がふいてきたぞ。みんな碇をあげて船をこげ」と声がかかる。
定正らは、義成・義通父子のはね首をおもいうかべていた。

第百七十四回 水戦(みないくさ)……軍師犬坂毛野(いぬさかけの)

安房洲崎(あわすさき)の里見の陣営では、十二月七日になると、軍師犬坂毛野・防御使(ぼうぎょし)犬山道節・兵頭(ものがしら)小森但一郎高宗、それに諸兵頭・老兵(ろうひょう)らと恩赦(おんしゃ)の罪人、もとの上総(かずさ)の榎本の城主、千代丸豊俊らをあつめて、あしたの水戦(みないくさ)の手配りをさだめた。毛野は多忙だ。その脳裏(のうり)にあるのは、まだ京からもどらぬ犬江親兵衛仁(まさし)・姥雪代四郎らのことだ。毛野は、まだ親兵衛の帰国を知らない。
毛野と道節は、頭人・船長(ふなおさ)らに、
「あしたの水戦のかけひきについていう。夜明けのころから乾(いぬい)(北西)の風がおこると、敵は大艦隊(だいかんたい)をすすめてまっしぐらにおしよせてくるだろう。だが、わが船はみな岸からうごいてはならぬ。その風むきがかわって巽(たつみ)(南東)になったら敵をむかえて火をはなつのだ。館(やかた)(義成)のご軍令にしたがって、敵を殺すよりいけどりにすることだ。兵糧(ひょうろう)のことは、天津九三四(あまつくさし)がさしずする」と君命をつたえた。
明け方になったので、義成は高楼にのぼり、水戦を見ようとした。老党堀内貞行をはじめ士卒三千余人は、台上台下に高提灯(たかぢょうちん)をかけわたしてそなえた。軍兵一万余人が、一隊ごとに、みな船に分乗した。乾の風がふきだし、磯(いそ)うつ波がすさまじくなる。士卒は弓弦(ゆみづる)を水にしめし、鉄砲の弾丸(たま)をこめて、敵をまった。
扇谷の諸船は、順風をえて風のままにはしらせてきた。みなおおきな船なので、猛風にもあやうくはない。三浦の沖から洲崎まで、水路五、六里だ。あと一里ばかりというとき、たちまち風がとまり、波がしずかになり、ちっとも船ははしらなくなった。
「これはどうしたことだ?」と首をかしげていると、風が巽にかわった。そのとき、洲崎の岸から、快船(はやぶね)十余艘がこぎ出て、前の定正の船をよこぎり、武蔵のほうにこぎ去った。これは、里見勢の小水門目堅宗(こみなとさかんかたむね)のひきいる五百の兵で、敵地におくったものだ。
軍師犬坂毛野は、一万の軍兵を三隊にわけて、鼓(つづみ)をならさせ、幟(のぼり)をふらせた。先鋒(さきて)の小森高宗・千代丸豊俊の隊の兵三千人、船三、四百艘(そう)がこぎだした。第一番の幟に、降人(こうじん)千代丸豊俊としるしてある。この幟を、扇谷の先鋒の船の大茂林小彦(おおもりこひこ)らはむろん、その後方につづく大石憲儀、それに将帥(しょうすい)定正・副将朝寧(ともやす)らも見て、
「豊俊が、里見の船に火をはなつことなくすすんでくるのは、風がかわったからか。浜県馬助をよべ」とさけぶ。
そこへ、小森・千代丸の隊の船が矢のようにちかより、小柴(こしば)に火薬をはさんでなげこんだ。扇谷がたの船の柴薪(しばまき)に火がうつって、煙が立った。さらに、猛火となってひろがった。扇谷の柴薪をつんだ先鋒の船をあずかっている、馬助こと浦安牛助友勝は、火があがったと知ると、同船の軍兵四、五人をきり、左右の船の柴薪に火をはなった。
「おろかな定正・憲儀、寄手の兵ども、みな聞くがいい。豊俊が降人となるものか。わたしも、旧臣の浜県馬助ではない。軍師犬坂の密策にしたがって定正をだましたのは、じつは里見の頭人、浦安牛助友勝だ」と自身で舵(かじ)をとり、みかたの先鋒にくわわった。
風はいよいよさかんになり、寄手の船につぎつぎに飛火(とびひ)した。海にはいり、水におぼれるものも続出した。式部少輔朝寧(しきぶしょうゆうともやす)が三浦のほうにのがれようとすると、里見がたの印東明相(いんとうあけすけ)らは、「かえせ、かえせ」と追いかけてきた。朝寧の近習(きんじゅう)は、主人がうたれてはならぬと、ふせぎつつたたかい、こいだ。
そこへ、犬山道節が、定正をいけどろうとしきりに船をはやめてきた。逃げる船に朝寧がいるのを見て、いらだち、ひょうと矢を射(い)た。射られた朝寧は、身をのけぞらして大洋(わだつみ)におち、水底にしずんでいった。
道節は、「おいつめてとらえようとしたが、遠矢(とうや)にかけてしまったことがくやしい」とつぶやく。
このあと、現八によって朝寧の死骸がひきあげられ、蘇生(そせい)することは、すでにしるした。
いっぽう、この日、里見の先鋒の頭人、小森高宗・千代丸豊俊は、浦安友勝とともに、寄手の前後から火をはなって、おおくの敵の船を焼いた。扇谷の先鋒の頭人大茂林らは討死(うちじに)し、総大将の定正は大石憲儀らと小舟にのってはやく五十子(いさらご)の城へかえろうとしていた。第一の隊長(てのおさ)の小幡多木工頭東良(おばたむくのかみはるよし)も、友勝・木曽季元(きそすえもと)らにとらえられるなど、扇谷がたは敗れ去った。
軍師犬坂毛野は、高宗・豊俊・友勝・季元らのきょうのはたらきをほめて、
「それぞれの戦功には、甲乙つけがたいとおもいます。千代丸氏(うじ)は旧罪をつぐなったことになりましょう。また、木曽季元さんは、杉倉おじの末の子で、武者助直元の舎弟(しゃてい)だが、このたびの初陣(ういじん)はみごとです」といい、さらに毛野は、
「それにしても、このいくさに大角が出てこないのが、こころにかかります。また、人質となっている妙真・音音(おとね)・曳手(ひくて)・単節(ひとよ)も、つつがないだろうか。はやく司馬浦へ船をすすめよう」といった。
友勝らはうなずき、
「四人の女は、いまも五十子の城におりましょう。定正が逃げてかえったなら、四人をみなごろしにするでしょう」とこたえた。毛野は、
「いや、定正は五十子の城にのがれても、おびえて防戦の備えはするだろうが、すぐには殺さないでしょう」といった。

第百七十五回 死骸をひきあげる……南弥六(なみろく)の霊

この日。文明十五年十二月八日の明け方に、甲斐の武田信昌の代軍武田左京亮信隆(さきょうのすけのぶたか)は、わざと定正の船からおくれて、浦賀(うらが)の沖に碇(いかり)をおろしていた。追い風がおこると水夫(かこ)らに下知して上総の鋸山(のこぎりやま)近くの浦辺にこぎよせ、自分のもとの城地の庁南(ちょうなん)におもむいた。これは、土地のものも知らぬ。
いっぽう、この日、洲崎の陣中には、荒磯南弥六(あらいそなみろく)の養子の磯崎増松(いそざきましまつ)が、実父のすみれ野の阿弥七(あみしち)と椿村(つばきむら)の墜八(おちはち)とともに、のろし台の役をつとめていた。みかたの勝利で、扇谷の船は焼かれたまま漂流したり、またはしずんでいった。
そこへ、兵糧(ひょうろう)がたの天津九三四(あまつくさし)が、老僕(ろうぼく)詰茂佳橘(つめもかきつ)とともにやってきた。増松らが、
「敵の船、または、ながれる敵の死骸を、ひきあげてはどうでしょうか」ととうた。九三四は、
「それはいいことだが、館(やかた)のおゆるしを得てからでないと、軍令をやぶることになるぞ」といって、詰茂に、堀内定行をつうじて義成のゆるしをこうてくるようにいった。
それから九三四(くさし)は、のろし台の頭人の援助をえて、敵みかたの死骸をひきあげた。敵のなかには、先鋒(さきて)の小頭人(こがしら)、水禽隼四郎緑林(みどりはやしろうはるしげ)・錦帆(にしきほ)八四九郎近範(はしくろうちかのり)がいる。泳ぎが達者だった二人は、気をうしなっただけで、生きのこっていた。死人のふりをして逃げる機会をまっていたが、敵にたすけられたのを幸いに身をおこし、まわりのものをきりたおした。
近範が、磯崎増松をうとうとして、刃を稲妻のようにふりかざし、ちかづいた。すると、なき義父(ちち)南弥六の姿がうかび出て、近範をさえぎった。これで、増松はたちなおり、近範をきってすてた。さらに九三四らをたすけて緑林(はるしげ)をいけどった。
このときの、増松の眼光、声音(こわね)は、南弥六にそっくりだったそうだ。人びとは、
「あの南弥六が死んでも霊はほろびず、冥助(めいじょ)をその子にあらわしたのは、伏姫神(ふせひめがみ)につぐものだろう」とたたえた。のちに、緑林は傷がもとで死んだ。

ここで話を犬村大角礼儀(まさのり)にうつす。
大角の船は、三浦暴二郎義武(みうらあらじろうよしたけ)に新井の沖でとめられたままだ。もう洲崎の沖では水戦(みないくさ)がはじまり、猛火が天にのぼっている。風むきがかわり、巽(たつみ)(南東)にふきはじめた。大角は声高く、
「義武よくきけ。わたしは赤岩百中ではない。じつは里見の臣、八犬士の一人、犬村大角礼儀だ。なんじの父義同(よしあつ)に船をかりたのは、けさ、寄手のうしろから火をはなつ策(さく)であった。それを、なんじのためにとめられてしまった」という。
義武はおどろき、かかれ、と下知し、戦いとなった。
大角・堀内貞住は、船を風上にすすめた。その太刀風がはげしく、三浦勢は後退し、大角は義武の手をつかみ、なげとばした。これを、兵どもがおりかさなってとらえた。
夜があけ、カラスがなきわたった。

第百七十六回 禍福(かふく)反復……大角入城

犬村大角礼儀(まさのり)は、堀内貞住に三浦義武(よしたけ)をひかせて、新井の城の正門(おおて)にきた。大角は、
「当城の人びとにものもうす。里見の防御使(ぼうぎょし)、犬士の一人、犬村大角礼儀がきた。当城の主(あるじ)、三浦どのに対面したい」とよびかけた。
門番がつげると三浦義同(よしあつ)は、草占(くさうらない)八郎・勇無頭九郎(いさみむずくろう)らの小頭人(こがしら)をよび、
予(よ)は櫓(やぐら)にのぼり、大角と問答しよう。そのほうたちは新参ものだが、弓矢鉄砲は人よりすぐれているから、鉄砲をもち、予のうしろにしたがって、あいつをねらいうちせよ」と命じ、いそいで櫓にのぼった。
二人の小頭人がそっとしたがった。
義同は、櫓の窓をひらき、
「やい、くせもの犬村大角。はかりごとをもってわが子をとらえた上に、まだたらんのか」とののしった。
大角は、
「この城をおとそうなどとはおもわん。ただ、寄手の大兵を焼きうちし、扇谷定正をこらしめようとしただけだ。子息義武どのは、なまじわたしを追いかけてきたのでやむをえずとらえたのだ。あなたが先非(せんぴ)をくい、わたしをむかえてあやまるのなら、わたしも和睦(わぼく)して義武をかえそう。それができなければ、義武の首をはねる」という。義同はいかり、
「だまれ、無礼(ぶれい)もの。予は両管領の親族である。里見にしたがうものか」といって、八郎・無頭九郎に、はやくうてと命じた。そのときだ。八郎・無頭九郎は、左右から義同の腕をとらえて、
「犬村どの、みなよくきかれい。当城主三浦義同を、安房の藩臣(はんしん)田税戸賀九郎逸時(たちからとがくろうはやとき)・苫屋八郎景能(とまやはちろうかげよし)がとらえた。城内のものども、なまじ主をすくおうと手を出したなら、まず義同をしまつする。城門(きど)をひらき、犬村どのをむかえよ」といった。みなおどろき、あきれるばかりだ。城門がひらかれ、大角・貞住らが入城した。したがうのは七、八百人だ。
大角らは、逸時・景能が蜑崎十一郎照文(あまざきじゅういちろうてるふみ)とともに京都(みやこ)におもむいたものとおもっていた。で、ここにいるわけをきいた。逸時らは、船が遠江灘(とうとうみなだ)で漂流して照文とわかれ、相模灘でまた嵐にあい、新井の沖で三浦の番卒にとらえられた。里見の家臣を名のっては殺されると、偽名(ぎめい)をつかってこのまま城にとどまり、正門の小頭人としてはたらいていた、という。
ここで、話は扇谷定正にうつる。
犬坂毛野に火ぜめされた定正は、箕田源次兵衛后綱(みたげんじべえのちつな)・城峰麻生介広原(しろがねあそうのすけひろもと)らにたすけられて、かろうじて船にのり、武蔵をさしていそいだ。同乗しているのは、大石憲儀(のりかた)・后綱・広原・信城左伝達頼(しがらきさでんたつより)だけだ。ほかには、兵三百余人がしたがう。川崎で陸にあがったが、馬はない。ふと見ると、馬市(うまいち)がひらかれている。
憲儀は、あの馬をひいてこいと兵に命じた。兵は、
「馬主ども、守の御用だ。ひいていくぞ」と五、六頭の馬をひこうとした。馬方らはおどろき、その代金をもらいたいというと、憲儀は馬方をたたきふせた。定正は、馬をうばってた矢口(やぐち)をさしていそいだ。
たたきふせられた馬方どもは、くちおしさに竹槍(たけやり)などをもって、馬淵馬九郎(まぶちうまくろう)と、そのあとを追った。
さらにこれをおうものがいる。さきに妙見島(みょうけんじま)の柵(さく)で犬田小文吾にやぶれた、彦別夜叉吾数世(ひこわけやしゃごかずよ)とその兵どもだ。ここまでのがれてきて、定正らが矢口にかけていったと知ったのだ。
その定正は、馬方どもが追ってくるのをむかえて、たたかっていた。そこへ、彦別が加勢に出て、馬方をおいはらった。定正らはほっとした。
と、また定正の強敵があらわれた。犬山道節忠与(ただとも)と、荒川太郎一郎清英(たろういちろうきよひで)・印東小六明相(いんとうころくあけすけ)、それに兵千五、六百人だ。道節は、
「きたないぞ。定正、背を見せるな。かえせ、かえせ」とさけぶ。

第百七十七回 五十子(いさらご)落城……人質(ひとじち)妙真らのはたらき

犬山道節忠与は、印東小六明相(いんとうころくあけすけ)・荒川太郎一郎清英(きよひで)らに、兵千五、六百人をもって、寄手水軍の総大将、扇谷定正を追ってきた。これを扇谷の巨田薪六郎助友(おおたしんろくろうすけとも)が、わずか五百人の兵どもでむかえうった。犬山道節は、旧君先父のうらみをかえそうとするどく迫った。助友らは、かくしておいた船で岸をはなれた。道節らは船がなく、歯ぎしりするばかりだ。こころにかかるのは、妙真(みょうしん)ら四人の女の安否だ。
扇谷定正は助友の隊(て)にすくわれて、矢口(やぐち)にいそいだ。供をするのは、大石憲儀一人だ。それを、犬坂毛野にしたがう一隊の頭人、小水門目堅宗(こみなとさかんかたむね)が、空砲(からづつ)をうちながらとりこんだ。定正・憲儀はあわてて馬からおり、馬を盾(たて)とした。憲儀は声をふるわせて、
「まて。われは大石憲儀だ。わたしが自害して、この首をおまえにわたそう。主君をゆるしてほしい」という。小水門目(さかん)は、
「それは武士らしくもない。もし義成がやぶれたなら、管領はこれをゆるさないだろう。義成は仁君(じんくん)だ。おいのちはうばわぬ」という。
すでに、定正は腹をきる覚悟をしていた。これを憲儀がとどめて、小水門目に、
安房侯(あわこう)(義成)がほんとうに仁君ならば、人を殺しはしないだろう。主君がみずから頭髻(たぶさ)をきって首にかえたなら、ゆるされるか」とくどく。定正は、
「憲儀、予は管領だぞ。いのちがおしくて頭髻をきり、敵にわたせば、上(かみ)は先祖、下(しも)は子孫をはずかしめる。予は死ぬほうがいい」という。
憲儀は、これをひそかに説得し、小水門にしきりにたのんだ。小水門は、
「それほどまでにこわれるのなら……」と憲儀のねがいをいれた。
定正は兜(かぶと)をぬぎすて、匕首(あいくち)で頭髻をふっ、ときった。これを小水門がうけとった。憲儀はとらえられ、小水門は定正を鮠内葉四郎(はやうちはしろう)らにおくらせた。定正は、長い河原の寒い風のなかに立った。八日の月はしずみ、道が暗い。
すると、川下から快船(はやぶね)がのぼってきた。三、四艘(そう)だ。さきの船のものが、
「そこをいかれるのは、扇谷さまではありませんか。わたしは、巨田薪六郎助友です」と声をかけた。定正は助友のぶじをよろこび、憲儀のすすめで頭髻をきり、憲儀は定正にかわってとらえられた、とつげた。ここで、鮠内らがかえり、定正は、助友の案内で夜道をいそいだ。ゆくさきは五十子(いさらご)の城ではなく、河鮎(かわあゆ)だ。すでに、五十子の城はせめとられたという。

ここで大洋(わだつみ)に身を投じた音音(おとね)を追おう。
音音は、水練にすぐれた老女だ。おおよそ一里あまりの波をおよぎ、大茂林浜(おおもりはま)についた。身は冷え、手足がつかれはて、岩にすがったが、ころんでたおれた。それを漁師らが見つけ、介抱(かいほう)してくれた。漁師の女房が柴(しば)をたき、身をあたためてくれ、清心丹(きつけぐすり)をすすめてくれた。音音はわれにかえり、いのちの恩人と、礼をのべた。漁師と女房は、微笑して、老女はどこの人か、ととうた。音音は、
「わたしは浦賀の漁師の母ですが、きょう水戦(みないくさ)があるのを知らずに船を出し、にわかの風にここらまでながされましたが、若いころは海女(あま)でしたので、おぼれることもなく、およぎつきました。しかし、磯(いそ)とわかるとどっと疲れが出てしまい、そのまま気をうしなったのです」とうそをいった。
漁師夫婦はそれをうたがわずに、
「てまえはここの漁師で、浮屠家海苔七(ほとけののりしち)というものです。これを縁として、またたずねてきてほしい」といいながら、膳(ぜん)をすすめた。
音音はよろこび、ふところにしまっていた財布(さいふ)から小粒(こつぶ)一つを出して、
「すくないですが、酒手(さかて)にでもしてください」とさしだす。海苔七は、
「きょうは浦賀にかえられるのも、また上総へいかれるのも、むずかしいでしょう。こよいは、ここにおとまりなされ」という。音音は、
「それはありがたいことです。しかし、まだ日が暮れるほどでもありません。わたしとともに入水(じゅすい)した雇(やとい)水夫(かこ)はどうなりましたか。そのなきがらが岸辺にながれてくるのではないか。わたしは幸いに身があたたまりましたので、そこらを見てきます」と、女房に草履(ぞうり)をかりて出た。音音は、のこる夕陽に半分てらされた沖をながめて、
「きょうの水戦は、犬坂どのがはかったように火ぜめとなり、みなごろしになったが、敵の総大将定正どのが、もしのがれて城にかえったなら、怒りにまかせて、三人の人質、妙真刀自(とじ)と、曳手(ひくて)・単節(ひとよ)を殺すだろう。どのようにしたら救いだすことができようか……」とおもい、立ち去ることができない。
そこへ、洲崎のほうから寄手ののこり船一艘(そう)がながれてきて、岸についた。上杉朝寧(ともやす)の隊の従兵だ。おおよそ三、四十人いる。かれらは手を後手にしばられているので、身は自由ではない。犬山道節が、いのちをたすけてながしたものだ。音音の姿を見ると、そのなかの老兵が、
「やい、老婆よ。おまえはここのものだろう。われわれはきょうの戦いにやぶれ、敵にとらえられたが、からくものがれてきたのだ。だが、これでは五十子の城にはかえれない。この縄をといてくれ」という。
音音は船のほとりにたちよって、
「とくことはとくが、もしたたりがあったらどうする」としぶった。兵どもは、
「たたりとはなんだ。われわれの縄をとくことは忠節で、他日ほうびをたまわるだろう。さあ、うたがわずにといてくれ」といそがせた。
音音はわざとしたがわずに、
「他日のほうびはどうでもいい。それなら、わたしにねがいがある。一人娘を五十子の大奥(おおおく)につかえさせているので、心配だ。わたしをつれていってくれるなら、その縄をといてやろう」という。
老兵は、女はのせぬ、といったものの、結局、音音のねがいをいれた。音音が三人の縄をとくと、老兵はなかまの兵の縄をといていった。音音は男装をして、船にのった。船は、五十子をさして走った。

犬坂毛野胤智(たねとも)は、洲崎の沖の戦いに勝利したので、なお、五十子の城をおとし、妙真・曳手・単節らをすくいだそうと、その隊の頭人、小森高宗・千代丸豊俊・浦安友勝・木曽季元(すえもと)らと三千の兵を百余の船に分乗させ、順風にまかせてこぎ、大茂林(おおもり)の浦についた。すると、その磯松に一艘(そう)の船がつながれていた。そして、四十人の武者どもが五十子のほうにむかっていった。
毛野はひそかに高宗・豊俊に、
「かれらは、やぶれたことを城中につげるだろう」と策(さく)をさずけた。
高宗・豊俊はこころえて、その隊の兵二十人とともに、船にすておかれた敵の笠じるしと幟(のぼり)を手にとり、敗兵のあとを追っていった。敗兵たちは、正門(おおて)のくぐり門から城にはいった。高宗らもはいった。夕方なのでだれも気づかない。門番の頭(かしら)の韮見利金太(にらみりきんだ)に敗兵の一人が、
「みかたの船は、敵に焼きうちにされてしまった。副将は、犬山道節に射られて水底にしずまれた。みかたの勇士らも火に焼かれ、水におぼれたり、いけどられたりした。そのなかにあって、おれたちはからくものがれてきて、敗戦のありさまを留守のものたちに知らせようとかえってきた。老侯(おおやかた)(定正)はどうなされたのかわからない」という。利金太は胆(きも)をつぶし、
「それはたいへんだ。はやく美田どのに知らせよ。それから諸門の手配りが必要だ」と士卒に下知した。この城をあずかる美田馭蘭二円通(みたぎょらんじまるみち)は、敗報をきき、手配りをいそがせた。そのうちに城内に火がおこり、櫓(やぐら)にももえうつった。城兵のなかに、きり殺されるものが出た。敵兵がはいったらしいが、煙でわからない。
煙のなかから、
「われらは里見の軍師犬坂毛野の先鋒(さきて)の頭人、小森高宗・千代丸豊俊だ」と名のりをあげる声がひびいた。城内はたちまち大騒動となった。城兵どもは、正門の橋をわたって逃げ去った。
そこへ犬坂毛野が、浦安友勝・木曽季元とともに、三千有余の手勢(てぜい)をひきいて入城してきた。そのすこしまえ、敗走兵にまぎれて、音音も城にはいった。音音は、妙真・曳手・単節の姿を、ここかしことさがしもとめた。そのうち、城内がさわがしくなり、
「正門が、安房の軍師犬坂にせめとられた。こうなっては、城はもたぬ。逃げろ」と、みんな東西に走り去った。音音は奥の間にすすみ、すててある長刀(なぎなた)をとりあげた。奥で男女のあらそう声がする。
この城内には、河堀(かわほり)どのとよばれる、六十ばかりになる定正の継母(ままはは)と、朝寧の妻貌姑姫(はこひめ)がいる。姫は京の中納言(ちゅうなごん)の娘で、十八歳になる。二人は、落城がちかく、のがれることができないとさとり、
「いざ、死出(しで)の旅路をともにしよう」と手に手に短刀をとりあげて、念仏をとなえた。その声もほそる。
妙真・曳手(ひくて)・単節(ひとよ)の三人は、城内のさわぎを知った。そしてみかたの勝利をさっした。妙真は、
「この城内には、定正どのの母君の河堀どのと、朝寧どのの奥方の貌姑(はこ)姫がおられるとききます。お二人をおつれして犬坂どのにわたせば、わたしたちも人質にとられたかいがあるというものです」とささやいた。
曳手・単節も、「そのかけひきは、よいとおもいます」と身をおこした。
それから、妙真とともに、奥座敷をそこかここかとたずねると、奥の一室で、二人の女がたがいに短刀をかまえ、自害しようとしている。妙真らは、やや、と声をかけてとりすがり、おしとどめた。
河堀も貌姑姫もおどろき、
「おもいがけないこと。そもそも何びとぞ」ととう。
妙真らは、「わたしどもは、里見の家臣、犬江親兵衛の祖母妙真、また、のちの十条力二郎(りきじろう)・尺八(しゃくはち)の母、曳手・単節です」と名のり、千代丸豊俊の旧臣といつわって城内にはいり、人質となっている、とつげ、河堀らの短刀をとりあげた。河堀らはすすり泣き、
「さてはそのほうたちは、敵がたのまわしものであったのか」という。
空砲があたりをゆるがせた。襖(ふすま)がひらいて、二人の武士が姿を見せた。扇谷がたの朝時技太郎(わざたろう)・天岩餅九郎だ。かれらは、だみ声で、
「里見の軍師にせめられて落城もちかい。いっそ里見に降参し、河堀どのと姫上を献上したなら、われら二人は一城の主(あるじ)ともなるだろうさ。人質のばばあはころし、若い女二人はそれぞれ嫁にしようではないか」と手にした鉄砲の筒先を妙真にむけた。
妙真らは、その身を盾に河堀と姫上をかばい、
「まて。おまえらの手をかりて、このおふたかたをともなっていくものか」というと、技太郎・餅九郎は足をふみならし、
「女にも似ぬ大胆不敵(だいたんふてき)、覚悟するがいい」と火ぶたをきろうとした。
そのとき、一人の雑兵(ぞうひょう)が、
「くせもの、まて!」と声をあらげていう。
技太郎がおどろき、ふりかえると、長刀がその首をはねた。餅九郎も右の腕をばらりとおとされた。
妙真らは、おもわぬ助太刀に、「危急の助太刀、おん身はどなたか?」ととう。雑兵は陣笠(じんがさ)をぬぎすてた。ほかならぬ音音だ。妙真・曳手・単節はよろこび、
「おう、これはこれは、どうぞこちらに……」とすすめた。音音は膝をつき、
「わたしがこのような身なりで城内にはいったことには、わけがあるのです。それはあとではなしましょう。すでにみかたは全勝で、水軍のみならず、犬坂どのの一隊(ひとて)の雄兵が当城におしよせ、正門はやぶられました」とつげた。
妙真らは安心して、
「ここにおられるのは、定正どのの母君と新嫁君(よめぎみ)です。落城したときき、自害されようとしたところへ、わたしたちがまいり、おしとどめていたのに、あのものたちが鉄砲でおどしにかかったのです。音音さんのいまのはたらき、すばらしくおもいます」という。
音音は、河堀・貌姑姫(はこひめ)にぬかずき、
「わたしは里見の一家臣、姥雪代四郎(おばゆきよしろう)の妻音音(おとね)というものです。いま、軍師犬坂毛野が当城をせめておりますが、これは君のかたわらの佞人(ねいじん)をのぞこうとするもので、あなたがたをくるしめようとするものではありません。ここにおられては、不測の事態がおこるかもしれませんので、庭へお出なされ」とすすめる。
河堀は目がしらをぬぐい、
「年ごろつかえる女房どもはみんな逃げてしまい、かえって、敵の妻娘(つまむすめ)にともなわれる悲しさよ」とつぶやくと、貌姑姫もさめざめと泣きしずむ。
音音・妙真らが、庭の茶亭に案内した。
犬坂毛野胤智は、五十子の城をせめおとし、馬を本城にのりいれた。小森高宗・千代丸豊俊をよび、
「当城には、定正どのの継母の河堀どの、朝寧の奥(おく)方(がた)貌姑姫がいるときいている。また、妙真・曳手・単節のこともこころもとない。はやくそのありかをたずねることだ」と命じた。
高宗・豊俊は士卒に手配りして、城中のすみずみまでさがさせた。初更(午後七時ごろ)のころに、音音・妙真らの所在が知れた。毛野は、
「ほう、妙真刀自・曳手・単節はかわりはないか。音音媼御(うばご)は、船のなかとおもっておったのに……」ととうた。妙真は、ここにいること、技太郎・餅九郎のことなどをかたり、
「そこへ、音音刀自のたすけによって悪ものどもをうちはたすことができ、河堀どの、貌姑姫のおふたかたとともに、庭の茶亭にさがっていました」とのべた。
ついで、音音は、大茂林の浜辺で仁田山晋六の船を焼きすてたこと、自分は海にはいり、火をまぬがれて、浜で漁師夫婦にたすけられたこと、そして、敗走者にまぎれて城にはいったこと、さらに、妙真らとの出会いをかたった。
毛野はうなずき、おもわず手をうちならして、
「みごとな勇婦よ。河堀どのと貌姑姫君が自害したら、わが両館(ふたやかた)(義実・義成)のご慈悲(じひ)もむなしくなります。その死をすくったことは抜群の功です。わしも見参(げんざん)しますが、女のことゆえ、夜分ははばかります、見参はあすにしましょう」という。それから高宗に、わが兵は百人ばかりしかじかと、守備の指示をした。
そこへ、豊俊が、逃げおくれた綱坂(つなさか)四郎と料理人ら、それに奥仕えの女十人ばかりをひきたててきた。
綱坂四郎は毛野に、
「わたしは、この城門(きど)をせめおとされたときき、河堀どのと貌姑姫をたすけだそうとかくれていたのだが、見つけだされた」という。また女どもも、
「さわぎがきこえたとき、あわてて走り出たのですが、御母君と姫上をおつれしようと、奥にかえったのです」とおそるおそるのべた。毛野は、
「この男女には、すこしは忠心がある。妙真・音音・曳手・単節とともに、二人の女君(おんなぎみ)につかえさせよ。綱坂と料理人は、そのままとめおくように」と命じた。
その夜、小水門目(こみなとさかん)堅宗らが、とらえた大石憲儀をひかせて、五十子の城にきた。毛野は、ただちに対面した。小水門は、川崎・矢口のあいだの河原に、定正主従がのがれてきたとき、憲儀の請(こ)いをいれて、定正みずからきった頭髻(たぶさ)をうけとっていのちをゆるし、その証(あかし)のために、憲儀をひいてきた、とつげた。
毛野は憲儀にむかって、
「大石どの。あなたがた親子は、管領家の元老(げんろう)ゆえ、その主君を補佐し、賢良な政事(まつりごと)をおこなうべきなのに、かえって悪政をなし、無謀非理(むぼうひり)の兵をおこして、罪のない隣国まで侵略しようとした。で、十万の衆(しゅう)をあつめても、小敵にやぶられ、ついに、その君ははずかしめられ、その身はとりことなった。だが、わが君里見どのは、仁義礼智(じんぎれいち)のこころをもって、ただその無謀をふせぐのみ。いま、全勝のいきおいにまかせて人の地をおかし、人の城をとろうとしたりはなさらない。わたしが当城に人城したのは、その悪をこらしめるためだ。それゆえに、伏兵(ふくへい)をもって矢口河原にとりこめたものの、わざとゆるしてとりこにはしない。これは、わが君の仁義の本意で、大職の人をとりこにはしない考えからだ。あなたはこの理(ことわり)をごぞんじか」といった。
憲儀は、しばらくためらっていたが、声を細やかに、
「すべて、わたしに罪がある。放免(ゆるし)をねがうのみだ」とわびた。のち憲儀は獄舎(ひとや)につながれた。
毛野は、小森高宗に、
「大石憲儀が城主である大塚の城では、憲儀がとらえられたと知れば、その留守兵どもは城を捨て去るだろう。その空城(あきしろ)には、野武士・山賊がよってくる。そこであなたは、木曽季元とともに、一千の兵で大塚の城を守護してほしい」といった。高宗が、
「それは承知しました。しかし大塚の城より、忍岡(しのぶおか)こそ緊急を要するのでは……」ととうと、毛野は微笑し、「忍岡の城は、犬山道節さんが守護するだろう」という。
夜があけはじめた。毛野は戦中での朝食の箸(はし)をとった。そこへ、谷山(やつやま)から、丶大法師(ちゅだいほうし)が出てきた。
毛野は丶大を上座にすえ、順風の大功を称賛した。だが、丶大は嘆息しているだけだ。しばらくして、
「軍師の勝ちいくさはめでたいが、拙僧(せっそう)は地獄におちた。きのうの火ぜめで、敵兵で焼け死んだものは幾千百ともなった。これも風をおこした拙僧の罪だ」という。毛野はそれをなぐさめ、
「師父の自責はもっともですが、さきにももうしあげたように、悪をこらすも仏の方便。時によっては、殺生(せっしょう)もかえって仏意にそむかないものとしんじます。師父を洲崎におおくりしましょう。連日の山ごもりの疲れをいやしてください」といった。そして、丶大にも朝食をすすめた。
毛野は書状一通と定正の頭髻を箱におさめ、鮠内葉四郎にわたして、丶大を洲崎におくるよう命じた。快船が用意された。丶大はその快船にのり、司馬浦を出帆(しゅっぱん)していった。
その朝、毛野は河堀・貌姑姫と対面した。毛野は、
「わたしは両家の和睦(わぼく)をはかりたいとおもいます。そのあいだ、おふたかたを安房におうつしもうしたいのですが、水路は波風のおそれがありますので、なおこのままにします。ここにいる妙真・音音・曳手・単節は、みな忠信貞実(ちゅうしんていじつ)な女ですので、安心してください」といい、とらえた料理人に台所をまかせた。また城の四門は、千代丸豊俊・浦安友勝・小水門目・狙岡猿八(さるおかさるはち)らに守護させた。
隣村の人びとが、里見の仁政をしたってきた。毛野は馬にのり、城外をめぐった。ちいさな荒れ寺が目についた。読経(どきょう)の声がする。村人が、
「ここは日比(ひび)の宝伝寺(ほうでんじ)で、ここには扇谷の忠臣河鯉(かわこい)守如(もりゆき)の墓があります」という。
毛野は、それに回向(えこう)しようと、老兵をしたがえて門内にはいった。一人の僧が、守如の墓へ案内した。毛野は合掌(がっしょう)し、無実の忠臣の亡魂(なきたま)をなぐさめた。そしてその子孝嗣(たかつぐ)のことをおもいうかべた。

第百七十八回 凱旋……仁君義成(じんくんよしなり)

十二月八日の夕方、犬山道節忠与(ただとも)は、川崎・矢口の間河原(あいがわら)で定正の援兵、巨田助友(おおたすけとも)をにがし、もとの海辺で休息していた。
そこへ、犬坂毛野が五十子(いさらご)の城を掌中(しょうちゅう)にしたときき、自分は大塚・忍岡の城を手にいれようと、三千余の兵とともに九日の明け方に大塚の城にきた。だが、すでにこの城も小森高宗・木曽季元(きそすえもと)がとりしきっていた。
道節は、「知恵袋(ちえぶくろ)よ」と毛野に驚嘆(きょうたん)した。道節は、高宗らに対面してから、忍岡の城にむかった。
道節は、老兵たちに、
「犬坂さんは、忍岡ぜめをわたしにゆずろうとしているが、あの城には五十子・大塚の落武者(おちむしゃ)らがくわわり、大軍がこもっている。わたしは一時にふみつぶす。おのおの粉骨砕身(ふんこつさいしん)して、わたしをたすけて大功をあげよ」といそがせた。
湯島(ゆしま)をすぎようとしたとき、道節は、急に先鋒(さきて)の士卒をとどめて、「前面の森に殺気がある。敵の仇兵(ふくへい)があるのだ」という。
そのとき、森のなかから鉄砲がひびいた。敵兵、おおよそ一千余人である。
先頭の馬の武者が声高らかに、
「里見の木葉武者(こっぱむしゃ)ら、胆(きも)をつぶすな。われは扇谷どのの御内(みうち)、忍岡の城の頭人、根角谷中二麗廉(ねづのやちゅうじうらかど)だ。先途(せんど)の恥をそそごう。手並を見よ」とよばわった。
左右にしたがう二人の頭人は、小頭人(こがしら)赤耳九二郎(あかみみくじろう)・当場阿太郎(あてばあたろう)だ。これに道節がたの印東明相(いんとうあけすけ)・荒川清英(きよひで)らも馬をすすめた。道節もまたいどみたたかった。
そのとき左右の森のなかから二手の兵がおこり、美田馭蘭二(みたぎょらんじ)・韮見利金太(にらみりきんだ)・布留川浅市(ふるかわあさいち)ら、おおよそ一千ばかりがせめてきた。道節は、士卒らを手足のようにつかい、たたかった。
そこへ、また後陣に敵がおこった。大塚の城の頭人、反橋雑記(そりばしざっき)・丁田畔四郎(よぼろだくろしろう)と、その手の四、五百人である。
これには、道節の老兵・雑兵がおどろき、せめたてられた。だが、道節はものともせず、馬をかけて、槍をもって敵をさしたおした。一騎当千(いっきとうせん)、犬士にまさるものはいない。美田らも、ともに深手をおった。美田はとらえられ、韮見らは逃亡した。明相は谷中二を馬からおとして、これをとらえた。
道節は、明相・清英らをほめて、
「美田馭蘭二は、五十子の城の留守居(るすい)だ。また、反橋雑記・丁田畔四郎は、大石の兵頭(ものがしら)で、大塚から逃げてきたのだろう。さらに、根角谷中二・赤耳九二郎・当場阿太郎らは、忍岡の頭人だ。これらが一隊になり、われらをせめてきたのは、間諜(しのび)をもって、わたしの行動を聞き知ったからだろう」という。
そして半死半生の谷中二と馭蘭二らをひきたてて、忍岡の城にちかづいた。正門口(おおてぐち)の櫓(やぐら)の下に中黒に揚羽(あげは)の蝶(ちょう)の家紋の幟(のぼり)が幾流れも立ててある。これはみかたの家紋だ。道節は、これは敵のはかりごとか、と明相らにその虚実をさぐらせた。
明相は馬を正門にすすめて、声高らかに、
「この城の頭人は、敵かみかたか。わたしは里見の防御小頭人、印東小六明相・荒川太郎一郎清英だ。防御使犬山道節どのの武勇をもって、当城の頭人根角谷中二、五十子の城の頭人、美田馭蘭二とたたかい、これをとらえた。門をひらき、むかえよ」とよんだ。
城内から、おう、と声がして、城門(きど)がひらき、頭人らしい武者が、「犬山どのはどこにおられる。わたしは、落鮎余之七有種(おちあゆよのしちありたね)です」と名のった。
道節は馬からひらりとおり、
「これは落鮎どの、一別以来です。いつのまに当城をせめおとされたのです」とおどろき、とうた。
有種は道節らを城内に案内した。落鮎の家の老僕(ろうぼく)小才二(こさいじ)も出むかえた。有種は、これまでのことをかたった。
はじめ有種は、扇谷の討手の頭人美田らが大軍でせめてくるときき、穂北(ほきた)の家に火をはなち、村人と下総の猿島郡(さしまのこおり)誼夾院村(ぎきょういんむら)におもむき、ここにしばらくしのんでいた。六月になると、定正が里見をせめるといううわさを耳にした。これに山内顕定がくわわり、水陸からむかうというのだ。
有種は、この村の誼夾院の寺僧豪荊(ごうけい)に、
「里見どのには、わたしの義父、氷垣夏行(ひがきなつゆき)がふしたおり、ものをたまわった恩があります。その臣の八犬士には、幸いに一面識がございます。そのうちの犬山道節どのはもと練馬の残党ゆえ、わたしの旧君豊島どのとおなじ家臣です。で、わたしにも、里見の家臣になるようすすめられましたが、そのころは氷垣の父の老病をみはなすこともできず、また、父が開発し、うけついだ田畑をすてて他郷にうつることは本意ではなく、そのままおわったのです。それからわざわいがおき、穂北をすてましたが、そのときも、安房におもむき犬士について里見どのにつかえよ、という人もおりました。しかし、一つの功(いさお)もないので、この地にきたのです。いま里見どのに大敵があり、危急存亡(そんぼう)の時と聞き、これをたすけて軍功をたて、その功をもって里見どのにつかえ、ふたたび家をおこそうとおもいますが……」ととうた。豪荊は、
「それはいいが、末寺(まつじ)、穂北の人びとにも意見をきくがいい」という。
で、人びとをあつめ、準備にかかった。豪荊の間諜(しのび)ももどり、管領勢・里見勢のありさまをつげた。
有種はそれをきき、豪荊に、
「われらの軍は、地理的にいっても、義通君(よしみちぎみ)を総大将とし、犬塚・犬飼の両氏(うじ)が防御使の国府台(こうのだい)の手にくわわるのがよいようにおもわれます」といった。
十二月八日の明け方、有種・豪荊を頭人として、山(やま)伏(ぶし)、穂北の郷士ら二百五、六十人は国府台にむかった。その近村で聞くと、寄手はやぶれ、敵は一人もいず、また里見の防御使も当城にかえらぬ、という。
そこで、有種らは、豊島の忍岡の城は、うらみある根角谷中二ゆえ、このわるものをこらしめよう、とかたり、忍岡の城の正門にきた。城門をたたき、
「やい、城内の人びと、だれかいないか。きょうの戦いに利あらず、行徳・国府台まで総くずれとなったが、御曹子(おんぞうし)(朝良)は幸いに、一方をきりひらき、当城におかえりになられた。はやくむかえぬか」という。
忍岡の城兵のなかには、すでにやぶれてのがれきているものもいる。朝良が両国河原(りょうごくがわら)のほうにのがれたらしい、とは頭人の谷中二もきいている。その谷中二は、兵頭(ものがしら)当場阿太郎・赤耳九二郎らとはかり、城内の女子どもをそとに出してやった。そこへ、定正の嫡子(ちゃくし)朝良の来城の知らせだ。
当城の小頭人穴栗専作(あなぐりせんさく)は、まず、御曹子と一、二の近習(きんじゅう)をくぐり門からいれよう、と用心した。門番は、
「まずわが君、おはいりください」とくぐり門をひらいた。
はいってきたのは、ほかならぬ落鮎余之七有種、誼夾院の住持法印豪荊(ほういんごうけい)、それに二人の僧、突面坊豪的(とつめんぼうごうてき)・師椀坊豪菁(しわんぼうごうせい)だ。四人は抜刀し、雑兵四、五人をきりたおし、かえす刀で専作の片腕をきった。それをあいずに、くぐり門から僧ら二百五、六十人がきりこみ、
「里見の防御使犬川・犬田の先鋒の頭人落鮎有種だ」
新参(しんざん)の修験者(しゅげんじゃ)誼夾院豪荊だ」
と名のりをあげた。
根角谷中二はふたたびおどろき、あわてて、ふせぎきれずに、後門(からめて)からなだれのように逃げはじめた。
とらえたのは、穴栗専作ら七、八十人である。さらにとらえられていた世智介(せちすけ)・梨八(なしはち)夫婦を救出した。
忍岡の城からのがれた根角谷中二・赤耳九二郎・当場阿太郎らが五十子の城にいそぐと、その途中で、これも五十子の城をせめおとされた美田馭蘭二・韮見利金太・布留川浅市らが雑兵らとともにくるのに出あった。それのみか、大塚の城の頭人反橋雑記(そりはしざっき)・丁田畔四(よぼろたくろし)郎(ろう)らとも出あった。谷中二はよろこび、この二手の援助をえて、忍岡の城をとりもどそうと、馭蘭二・雑記らと相談した。そこで、ともなってきた憲重(のりしげ)・憲儀(のりかた)の妻女と自分たちの家疾を、五十八月(いわつき)の城へおくることにして、老兵八、九人をしたがえさせた。
ほどなく乾(いぬい)(北西)のほうから、武者の一群が見えた。この頭人が犬山道節忠与であることを馭蘭二らは知らず、落武者と見ておそいかかり、かえってとらえられた。利金太・雑記・畔四郎らは逃げたものか、うたれたものかわからない……と、有種の話はおわった。
落鮎有種の話をきき、道節は、
「あなたの武略、豪荊法師の義侠胆勇(ぎきょうたんゆう)、すぐれた武者だ。とらえた馭蘭二・谷中二・専作らは、年ごろその君をまどわし、栄利をのぞみ、民をしいたげて、罪なきものを害することもすくなくない、ときいています。このたびのいくさも、定正にすすめておこさせたのだろう。しばらく獄舎(ひとや)につなぎましょう」という。
それから道節は、この地のこと、有種のことなどを洲崎(すさき)の陣へ知らせるため書状をしたため、兵にわたし、
「まず五十子の城にたちより、犬坂さんにかわりがなければ洲崎にはしれ」と命じた。
つぎの日、豊島郡の村人百数十人が、忍岡の城にきた。道節にうったえて、
「このたびとらえられた、美田馭蘭二・根角谷中二・穴栗専作は、わたしどもの親兄弟の仇(あだ)です。このものたちをわたしどもの手できりさいなみ、なき人のうらみをはらそうとおもいます」という。
道節はこの請(こ)いをゆるした。村人らは、この三人の手足をきり、胸をつんざき、首をはねた。
法師豪荊らは、ここで有種、道節らにわかれをつげて去った。なごりおしい人だ。
有種は道節に、
「この城には、犬山さん、また印東・荒川の勇士がおられるので、わたしは用がありません。わたしの穂北の荘(しょう)には根角谷中二の一族が家をつらねております。いま、これをとりかえさなければなりません。あしたは、故郷にうちいろうとおもいます」といった。
道節は、
「もっともなことです。敵をあなどれば、かならずあやまりがおこります。わたしの兵五百人をもって、あなたをおくります。兵糧(ひょうろう)、軍用の銭(ぜに)は、当城内におおくあります。ご自由におもちになってください」とこたえた。
有種は、小才二・世智介・梨八ら、それに穂北の人百四、五十人、道節の加勢の軍兵五百人を前後にたてて出立した。穂北では忍岡の城がおち、おもなものが首をはねられると知れわたり、みな、おそれて逃げた。ここに、穂北は有種の手にかえり、人びとももどってきた。

ここ、下総葛飾(しもふさかつしか)の国府台の城には、里見安房太郎(あわたろう)義通(よしみち)、従軍の執事(しつじ)東六郎辰相(とうのろくろうときすけ)、杉倉武者助直元(すぎくらむしゃのすけなおもと)・田税力助(たちからりきのすけ)逸友(はやとも)・継橋綿四郎(つぎはしわたしろう)高梁(たかやな)・真間井樅二郎(ままいもみじろう)秋季(あきすえ)・潤鷲手古内美容(うるわしてこないよしかた)・振照倶教二広経(ふるてらぐきょうじひろつね)がいる。また、この手の防御使は犬塚信乃戌孝(もりたか)・犬飼現八信道だ。
行徳口(ぎょうとくぐち)の今井の柵(さく)には、両防御使犬川荘助義任(よしとう)・犬田小文吾悌順(やすより)の二犬士、その隊の頭人には、麻呂復五郎重時・館持※杖朝経・大樟村主俊故(おおくすすぐりとしふる)・麻呂再太郎信重・安西就介景重がいる。
武蔵石浜の城には、登桐山八良于(のぼぎりさんぱちよしゆき)、さらに同国五十子の城には、軍師犬坂毛野胤智(たねとも)、その隊の頭人、浦安牛助友勝・千代丸図書介(ずしょすけ)豊俊・小水門目堅宗(こみなとさかんかたむね)、そして音音・妙真・曳手・単節・鮠内(はやうち)葉四郎・狙岡(さるおか)猿八もこの隊にいる。
大塚の城には、小森但一郎高宗・木曽三助季元、忍岡の城には、防御使犬山道節忠与、その隊の頭人、印東小六明相・荒川太郎一郎清英らがこもる。
また穂北の荘には、落鮎余之七有種、道節の加勢五百人がいる。
相模の新井の城には、防御使犬村大角礼儀、追加の頭人田税戸賀九郎逸時・苫屋八郎景能がいる。
鎌倉には、堀内雑魚太郎貞住、そして、安房の洲崎の本陣には、防御使犬江親兵衛仁、したがうものは政木大全孝嗣・姥雪代四郎与保・東峰萌三春高・蛸船貝六郎繁足(しげたる)・須須利壇五郎有数(ありかず)・二四的(やつあたり)寄舎五郎団平・天津九三四員明(くさしかずあき)・磯崎増松・直塚紀二六・漕地喜勘太らである。この隊には、石亀屋次団太・百堀鮒三、すみれ野の阿弥七、椿村の墜八(おちはち)もいる。
東峰春高・蛸船繁足が、犬坂毛野の密策によって、とらえてきた行徳口への寄手の敵将扇谷朝良と、箙(えびら)の大刀自の軍代、稲戸津衛由充もいる。また、犬村大角がとりこにした敵将の三浦義同・義武を、義成は稲村の城にうつしてある。
いっぽう、敗軍の山内頭定は上野(こうずけ)の沼田の城、長尾景春は白井の城、扇谷定正は武蔵国入間郡河鯉の城にいるが、三人とも再度の戦意をうしなっていた。それのみか、諸侯はそむき、うらむものがおおいという。
里見義成は、
「いまは、領内に在陣の要はない」と国府台・行徳口の諸将をよびかえした。で、義通は、犬塚信乃・犬飼現八・東(とうの)六郎・杉倉武者助・田税力助らとともに、とらえた敵将成氏・憲房・朝寧・為景、それに斎藤盛実をひきたてて、稲村の城に凱旋(がいせん)した。留守の城は、真間井縦二郎らが守護している。
また、今井の柵は、犬川荘助・犬田小文吾らが、これをやぶり、麻呂復五郎父子らととらえた自胤・憲重・胤久をひき、これも稲村の城に凱旋してきた。義成は、とりこのものをあつくもてなしたという。
つぎの日、義成は、義通以下と政所(まんどころ)で対面し、両茶(もろちゃ)片茶(かたちゃ)の礼をおこない、軍功を賞した。
この席には、荒川清澄・堀内貞行の二家老と、犬江親兵衛・犬塚信乃・犬川荘助・犬飼現八・犬田小文吾の五犬士がつらなった。義成は、
「いけどった人びとはみな貴人で、城主だ。むかし源平の戦いに、平三位重衡(たいらのさんみしげひら)がとらえられて鎌倉にとどめおかれたとき、頼朝が対面し、その不幸を慰問(いもん)したそうだ。そのあと宗盛がとりこになり、鎌倉におくられたときには、頼朝は対面はしなかった。宗盛はすでに官がとかれた罪人の身で、逆に頼朝が冠位昇進したからだ。そもそも、平家も源氏もたがいに累世(るいせ)の仇で、上一人(かみいちにん)(後白河天皇)のおんためには、ただの乱賊(らんぞく)だ。いまこれをもって、例(ためし)とはできない。予(よ)はいま、主客のことで、対面すべきか、どうか……」ととうた。みな、だまったままだ。
しばらくして信乃は、おこがましいことだが、とことわり、
「まだ和を講ぜずして、かるがるしく対面しては、敵将がはずかしくおもうのではないでしょうか。人を愛するこころをもって、かえって人をはずかしめるのは、よいことではありません」といった。これに親兵衛は、「わたしも信乃の意見とおなじです」という。二家老、ほかの犬士も同意だ。義成は、
「信乃の意見にしたがって、しばらく対面をとどめよう。朝夕のおきふし、三たびの食膳、なにくれとなくこころをもちいるように。とくに稲戸由充は、そのこころは賢良(けんりょう)だそうだ。荘助・小文吾は旧恩があるという。そのことを、こころえることだ」といった。
また、ある日のこと、義成は、犬川荘助・犬田小文吾、そして麻呂復五郎・再太郎・安西就介・磯崎増松らを召して、復五郎の養子として再太郎をみとめ、また就介・増松を、なき親をなぐさめるためにも、里見家譜代(ふだい)の家臣とする、といった。とくに、増松は幼名なので、有親(ありちか)と名づけた。
そのあと義成はまた、犬江親兵衛・犬川荘助・麻呂復五郎・石亀屋次団太・百堀鮒三・二四的寄舎五郎・須須利壇五郎を召しだし、さらに館持※杖・大樟村主・天津九三四らもよび、
「そのほうたちの戦功には感服した。それぞれの禄(ろく)は他日にさだめよう。さて、復五郎は、しばらく行徳をおさめるがいい。その次役に次団太・鮒三を命じる。また国府台の小頭人には、寄舎五郎・壇五郎を命じる。さらに館持※杖・大樟村主には暇(いとま)をとらせ、太刀おのおの一振と、時服一領(ひとかさね)をさずける。天津九三四もおなじだ」という。このほか、阿弥七・墜八は、すみれ野、椿村の村長(むらおさ)を命じられた。
こうして文明十六年の新年をむかえ、祝寿(ことほぎ)の盃をかさねた。そして、二月になった。
ある日のこと、五十子の城から犬坂毛野の書簡をもって、使者が洲崎についた。義成は、犬江・犬塚・犬川・犬飼・犬田の五犬士を召して、毛野の書簡を親兵衛によませた。
「毛野はこうもうしています。八百八人のはかりごとをもって、水には数千の敵船を焼き、また、陸では数万の敵をきって、房総(ぼうそう)三州を泰山(たいざん)のやすきにおいたのは、これ仁君(じんくん)の本意ではなく、じつにやむをえぬことだ。ときはいま仲春(ちゅうしゅん)、また、時正(じせい)にむかおうとしている。時正とは昼夜等分のことで、仏説では彼岸(ひがん)とする。彼岸は西方浄土(さいほうじょうど)だ。この岸は娑婆(しゃば)で、中流は煩悩(ぼんのう)だ。で、この日に冥福をいのるときは、死人も成仏(じょうぶつ)する。ふしてこう、丶大師父(ちゅだいしふ)にたのみ、自他討死(うちじに)数万の士卒のために、水陸の施餓鬼(せがき)を修行せしめ、さらに、年ごろの軍役(ぐんえき)につかれた地方の窮民乞食(きゅうみんこじき)らにも、米銭(べいせん)をおおくほどこしたなら、仁政は死者もおよぶだろう。武蔵・相模の、新井・五十子・大塚・忍岡の城には、軍用のために敵のたくわえた米銭がおおい。これは、民からしぼりとったものだ。これをもって、施行(せぎょう)にあてるがいい。時をうしなってはならぬ……」と親兵衛は、毛野の文意をつたえた。
義成は、これをきいて、
「そのほうたちはどうおもうか」ととうた。信乃は、
「そのことは、わたしどもも、かねてからこころづいておりました」とこたえた。
荘助・小文吾・現八・親兵衛もともに、
「毛野の意見は、はじめからおもっていたことです。丶大法師を召されますよう」とこうた。
義成はうなずき、
「予の意中もおなじだ。丶大は去年の十二月、奇風(くしかぜ)の功をなすと、毛野の使いとともに洲崎にかえり、延命寺にこもり、人にあわぬという。この好事をつげれば、よろこんでまいるだろう。予がいま手書(しゅしょ)をつかわしてよびよせよう」と使者をはしらせた。
つぎの日、丶大は供(とも)一人と、稲村の城にきた。義成は五犬士も召した。
丶大は聞きおわると、
「人をころすことを不仁と知るなら、はじめからころさずに好事をすればよいのです。しかし、いまとなっては、経典供養(きょうてんくよう)のちからをかりなければなりません。すみやかにご沙汰(さた)をなさいますように……」とこたえた。信乃は、
「師父、このたび施餓飢の導師(どうし)になられましたなら、伏姫上(ふせひめうえ)の形見の、水晶の数珠(じゅず)をもちいなさいますよう。八つの珠は、わたしどもが感得してから、まだかえさずにおります。義兄弟があつまって、当家につかえるうえは、もとにかえすべきでしょう」というと、親兵衛・荘助・小文吾・現八もともに、
「その数珠は、役行者(えんのぎょうじゃ)が伏姫上にさずけられました霊宝物(くしみたから)でございましょう。そうならば、このたびの大好事に、百八玉(ぎょく)を具足(ぐそく)したなら、この功徳をもって、霊息(れいそく)をしずめることになりましょう」という。
丶大は、
「いや、このたびはその感得の珠をかりるにはおよばない。さきに拙僧が谷山(やつやま)で奇風をおこした《みかそ》の珠を袋におさめ、ふところにしまい、寺にかえり、とりだしてみると、その珠の毛皮が自然とやぶれており、なかには八つの白珠(しらたま)があった。おどろいて見ると、その珠ごとに八つの文字があらわれているではないか。その文字は、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)とある。三の字のある珠は一つで、まず多羅の下、藐(みゃく)の上におき、これを三貌(さんみゃく)とよみ、また菩提の上におきかえて三菩提とよむ。そうすれば一字両用で、九言(くげん)ではあるが、八珠でたりる。その意味は、みなひとしく菩提にはいるということで、これこそ法会(ほうえ)にふさわしいものだ。
八犬士の感得した八つの珠は、人間所要の至宝(しほう)で、死をとむらい、ほろぶをすくう、仏会(ぶつえ)にはふさわしくない。それゆえに、この《みかそ》の珠をもってかえ、このたびの所用に役だてよう。これもまた、役行者の善功方便(ぜんこうほうべん)かもしれぬ。仏法不可思議(ぶっぽうふかしぎ)、広大無量(こうだいむりょう)、奇奇(きき)玄妙(げんみょう)ではないか」と水晶の珠をしめした。
義成をはじめ、信乃・親兵衛・荘助・小文吾・現八も、そのふしぎに感嘆した。
義成は、丶大にむかい、
「その《みかそ》の珠は、邪物(じゃぶつ)の手から出たといっても、あの奇風をおこし、予をたすけて、大敵をしりぞけた大功がある。そのあと八つの珠に変じて、このような奇特をしめすこと、このたびの施餓飢の発願(ほつがん)は、仏意にかなうであろう。このことを老臣につげ、施行をいそぐよう」といい、同席に、辰相・清澄、それに直元・逸友・孝嗣が召され、ふしぎな珠、施行のことが披露された。義成は、
「毛野の意見によると、このたびの施行の米銭は、みな、敵城におおくある。敵のものをその所用にあて善をおこなっては、他人(ひと)の財(たから)をもって人にほどこし、おのれの徳をなすのに似ている。予にも軍用にたくわえた米銭がある。これをもって施行の所用とすべきだ。水には船をうかべて衆徒(しゅうと)に読経(どきょう)させ、両敵の霊鬼(れいき)をすくい、陸には施行して窮民をすくうことだ。法会は、丶大をもって導師とすることはいうまでもない。施行を毛野・大角・道節・高宗・季元・良于らに命じ、おおよそ鎌倉から石浜まで、武蔵・相模の海辺で、彼岸七か日、これをおこなう。また下総は、麻呂復五郎・真間井縦二郎らに命じ、葛西・行徳・国府台で施行をさせる。この行徳には、施行の頭人として小文吾、国府台・葛西には現八をつかわして、重時・秋季らをさしずせよ。施餓飢船の頭人は、親兵衛・信乃・荘助、それをたすけるのは政木大全・杉倉武者助・田税力助とする。このことは、はやく毛野・大角・道節らにつたえよ。安房・上総・下総の寺僧にもふれよ。丶大はしかじか……」といった。
この日の評定(ひょうじょう)はおわった。

当日、房総の諸山諸寺の寺僧らは、法会をたすけようと、それぞれの徒弟をしたがえて延命寺に来会した。このほか、武蔵・相模の老僧・知識もこのことをきき、安房にわたってきた。
丶大はその僧たちにも役をまかせた。信乃・親兵衛・荘助は、孝嗣・直元・逸友らとともに、洲崎の浦に施餓飢船を、百八艘うかべ、参会者たちを分乗させた。その中央の船には、香染(こうぞ)めの法衣に、黒綸子(くろりんず)の袈裟(けさ)をかけて、手に白毛の払子(ほっす)をもった丶大がすわり、読経百人が左右にいながれる。
船ごとに幔幕(まんまく)・船引(ふなひき)をひきわたし、へさきには餓鬼(がき)棚(だな)がある。また信乃・親兵衛・荘助ならびに政木孝嗣・杉倉直元・田税逸友らも、士卒百人をしたがえて、海上にいる。
その船は、隅田川(すみだがわ)にのぼった。第一日は、隅田川から両国川まで、第二日は、両国川から品革沖(しながわおき)まで、そして七日には、新井の沖から洲崎にいたって結願(けちがん)した。施行は、人別に米一斗(と)、銭五百文、女・子どもはその半分であるという。
「この乱世のなかに、ここに活阿弥陀(いきあみだ)もあったか!」と、よろこびの声がみちあふれた。
この日、洲崎の浦にもうけられた物見台には、里見義通・舎弟次麿(つぎまろ)、それに両家老東辰相・荒川清澄、また、姥雪代四郎・白浜十郎・朝夷三弥(あさひなさんや)・七浦二郎・麻呂再太郎・安西就介・磯崎増松らがしたがった。さらに、敵の敗将たちもみなゆるされて、左右の仮小屋につらなった。船からかえった信乃・親兵衛・荘助・孝嗣らは、この日の接待役をつとめた。
夕日が西にかたむいて、法会の読経がおわった。
丶大はへさきの餓飢棚にむかって香をたき、水をたむけ、目をとじて合掌した。去年の十二月八日、水陸三か所で討死した自他の万霊(ばんれい)、施主里見どのの所願によって、経典読誦(どくじゅ)の利益(りやく)たがわず、往生得脱(おうじょうとくだつ)、一蓮(いちれん)托生(たくしょう)、等見菩提(とうけんぼだい)、と念じた。その声はきよらかに、天にも海にも陸にもひびいた。
丶大は阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)の数珠をとりだし、また偈(げ)をとなえ、章を誦(じゅ)し、念仏十遍をとなえた。数珠をうちはらうと、八つ珠をつらぬく数珠の緒(お)が、ふっときれて、海にとびちった。そのとき、うずまく潮(うしお)は、波がさかだち、百千万の白い小粒となった珠は、白気とともに、中天にのぼって、まるで星がきらめくようだ。それが、日没とともに西になびき、かき消えたように見えた。
天にのこる瑞雲(ずいうん)のなかに音楽がきこえてきた。
これを見る義通主従、犬士たち、稲戸由充、敵の敗将成氏・憲房・朝良・朝寧・自胤はむろん、義同親子、憲重・胤久・為景・盛実にいたるまで、
「両敵討死数万の亡魂(なきたま)、抜苦与楽(ばつくよらく)の利益にあえるのは、まさに里見の仁義と、丶大法師の大功徳であろう」と感嘆敬服した。

第百七十九回上 東西和睦(わぼく)……かえってきた照文

里見安房守義成は、施餓鬼(せがき)がすむと、丶大法師(ちゅだいほうし)をはじめ、来会の僧たち数百人を、稲村の城にまねき、対面した。そのときの接待も手あつい。やがて、僧たちはそれぞれの寺にかえっていった。
犬江親兵衛も、姥雪代四郎らと滝田の城にかえり、里見義実に見参した。義実は、親兵衛の京都(みやこ)でのこと、代四郎の三河(みかわ)の苛子崎(いらこざき)(伊良湖岬)の賊退治、京都での親兵衛への援助のことなどをきいた。そして茶菓子をあたえた。
直塚紀二六は、主人蜑崎(あまざき)十一郎照文の家にきて、照文の妻女に京都でのことをつげ、照文は、親兵衛をむかえに二度めの京都への旅をしたものの、そのあとの安否がわからないと、ともになげく。
その照文がつつがなく京都からかえったのは、三月二十八日だった。義成はよろこび、両家老辰相(ときすけ)・清澄(きよすみ)、そして信乃・親兵衛・荘助・現八・小文吾・政木孝嗣・杉倉直元らをあつめて、照文をまった。
照文は、祐筆大岸法六郎(ゆうひつおおぎしほうろくろう)とともに、従者をしたがえて、洲崎の港につき、稲村の城にはいった。義成は法六郎もともに召し、照文に対面した。
そのとき、親兵衛は義成の命(めい)で、照文に、
「蜑崎さん、帰東のことはあとでおききしますが、さきに遠江灘(とおとうみなだ)で、あなたの船にあやしいものがついたこともきいています」という。そして田税戸賀九郎・苫屋八郎らが、新井の浦に漂着(ひょうちゃく)したことをかたり、「蜑崎さんは、なぜ、京都からの帰りがおそくなったのですか」ととうた。照文は、
逸時(はやとき)・景能(かげよし)のことは、わたしもきいています。あのあやしい厄(やく)がとけたあと、船は西にむかって走り、一日一夜たって津(つ)の海の近くにくると、にわかに風がおこり、帆柱がおれ、舵(かじ)もくだけ、船がくつがえるとさえおもえて、われらは生きた心地もなく、波と風とにまかせて、神風の伊勢(いせ)に漂着したのです。
この地は、伊勢の国司(こくし)、北畠どのの領内です。陣代網曳平大夫周魚(あびきへいだゆうのぶお)というものが、国司の沙汰で、われら主従を浦の守屋(もりや)にたすけいれてくれ、医師(くすし)・漁師に命じて、一人一人に薬をすすめて、いたわってくれました。しかし、周魚は、わが船に金品のおおいのをいぶかり、安房の里見の使者といっているが、まことは海賊だろうと、われわれを獄舎につないだのです。その詮議(せんぎ)がすすまないまま年が暮れようとしているころ、扇谷・山内の両管領(りょうかんれい)、諸侯がつらなって、館(やかた)(里見)をせめるとの風聞に、胸をいためていました。
そこでやむなく館のご印章のある修善寺紙(しゅぜんじがみ)をとりだして、周魚(のぶお)に見せ、事実安房の里見の使臣(つかいびと)だとあかしたものの、一度も北畠家と書状の往来のないことから、周魚はそれをしんじず、われらをとじこめたままです。
そのうち北畠どのも、東国の船戦(ふないくさ)がこちらにおよんではならないと、海辺の守護をかたくし、間諜(しのび)を、武蔵と安房につかわしました。間諜は山内顕定どのと扇谷朝良どのがとりこになったこと、千葉・長尾の敗北のことまで注進しました。その間諜が、われらが去年の初冬に京都に使いを命じられて、船を西にすすめたことも、聞きおよんできたのです。
北畠どのもわれらへの疑いをとき、里見は南朝(なんちょう)の忠臣で、わが先祖とはともにたたかったよしみがある。いまは海山千里にわかれてすんではいるが、その家臣がわが領内阿漕(あこぎ)の浦によったことをうたがって、ひさしく禁獄(きんごく)し、とどめおいたのは無残であった。はやく船をもってのぞむほうにおくりつかわすように、と下知されました。
安房にかえるべきか、京にのぼるべきか、と思案しましたが、いくさのしまつを室町どのにつげ、朝廷(みかど)に奏聞(そうもん)し、貢(みつぎ)の金子(きんす)と品物を、公武二家にたてまつるなら、わが君の孝順なる年ごろのご仁心(じんしん)は、このときにあらわれるでしょうし、室町どのにも朝廷にも、その私心のないまごころを知られれば、のちのちまでも首尾はよかろうとおもい、北畠どのの恩義を謝し、われら主従数十人は、西に走ったのです。
こうして二月のはじめ、浪速津(なにわづ)につき、その地に宿をとりました。わが従者のうち二、三人をひそかに京都につかわして、公武二家のようすをさぐらせました。
この春、京都の管領政元どのが、故(ゆえ)あってやめられました。畠山政長どのが一人管領で、こちらにも好都合でした。で、大岸法六郎に、しかじかといいきかせ、ご印章のある紙をもって、貢の金品を目録にあわせて京まではこばせ、衣服をととのえて、室町どのに参上しました。このとき法六郎を副使としました。
田税・苫屋の両人が、あのあやしいもののために、遠江灘でわかれたので、使者に人がたりなかったからです。そして政長どのに言上しました。
……義成は、年ごろ仁政(じんせい)をほどこし、民をたいせつにし、国をおさめて、隣国をおかすことなく、つねに上(かみ)をうやまい、貢物の礼をおこたっていません。しかるに関東の両管領、定正・顕定は、その政事(まつりごと)は、公(おおやけ)ではなく、みだりに私怨(しえん)をもって諸侯をつらね、兵をあわせて、義成をうとうとしました。義成にはもとより罪はありません。しかものがれる道はなく、房総(ぼうそう)のすくない兵をもって三路の大敵をふせいでたたかい、一日で勝つことができました。水には数千の戦船(いくさぶね)を焼きしずめ、陸には数万の大敵を敗走せしめたのです。
これは里見の八犬士、犬坂・犬塚・犬村・犬江・犬山・犬飼・犬川・犬田などという、知計武勇のすぐれたものたちによるものです。
大敵はすでに退去しましたので、使臣蜑崎十一郎照文・大岸法六郎澄妙(すみたえ)をもって微功をうったえ出て、金銀宝物を献上します。ねがうのは、はやくご沙汰なされて、両管領の悪政を禁止してくださいますことです。
東国の大小名が和平して、国民が塗炭(とたん)の苦しみからのがれることができるなら、一人義成のよろこびではなく、八か国の善男善女(ぜんなんぜんにょ)、みな柳営(りゅうえい)のご武徳をあおぎ、泰平(たいへい)をたのしむでしょう。
このことをもって、穏便(おんびん)な御下知(おんげち)をねがいます。それから室町どの(足利義尚)へ一千金、東山どの(義政)へ一千金、管領政長どのおよび権家(けんか)、伊勢氏をはじめとして、金銀の贈物(おくりもの)をいたしました、……と。
政長どのは、東国の兵乱におどろかれ、房州(ぼうしゅう)(義成)の愁訴(しゅうそ)はじつに道理をえている。いまさらなにをうたがおう。このことをつぶさにもうしあげよう。宿にさがりご沙汰をまつようにと、われらをかえしたのです」
と蜑崎照文はかたった。
さらに朝廷は、使いをもって定正・顕定をとがめ、房州と和睦(わぼく)せよ、と下知があったという。
義成は、照文のその功をたたえた。
その日から、稲村の城内は、朝廷の使者を接待する準備でいそがしくなった。
十日ほどして、五十子の城の犬坂毛野が、使者をもって、両家老・五犬士に知らせてきた。
「このたびこられた勅使代(ちょくしだい)秋篠広当(あきしのひろまさ)どの、室町どのの使者、熊谷二郎左衛門尉直親(くまがいじろうざえもんのじょうなおちか)どのは、両管領のおとがめのことをすまされ、近日渡海されるとのよし、その用意をいそぎなさいますように。毛野胤智が案内をいたします」との意である。
義成はそれをきき、両家老辰相・清澄、および信乃・親兵衛・荘助・現八・小文吾らを召し、
「使者がたちよるといっても、五十子は敵城、また、船はみな戦船でしかもけがれがあるゆえ、親兵衛と照文は、洲崎の浦の船五、六艘と士卒百五、六十人をもって、使者をむかえよ。信乃・荘助・現八・小文吾は、このたびの饗応使(きょうおうし)とする。六郎辰相・兵庫助清澄もこのことを照文につたえ、また、毛野の使者には返事をもたせて、この意をつたえさせるように」と命じた。
つぎの日の早朝に、親兵衛と照文は、士卒をともない、司馬浦にむかった。
四月十五日、京の使者秋篠将曹(しょうそう)広当・熊谷二郎左衛門尉直親らは、用意の船で洲崎の浦についた。したがう船五、六艘。犬江親兵衛・蜑崎照文はべつの船でさきにすすみ、犬坂毛野があとにしたがう。
使者は稲村の城にはいった。饗応使犬塚信乃・犬川荘助・犬飼現八・犬田小文吾、助役(たすけやく)の政木大全も両使者に拝謁(はいえつ)して、接待の礼をつくした。
毛野・親兵衛・照文に、義成は、
「対面はあしたであろう。そして、とどめおく滸我どの(成氏)以下の敵将に対面し、予(よ)の意をつたえよう」という。
成氏・憲房・朝良・朝寧(ともやす)・自胤・為景・義同・義武・憲重・胤久・盛実、それに由充まで、それぞれ沐浴(もくよく)させて、新しい衣装をすすめ、食膳ののちに、広書院(ひろしょいん)にうつった。信乃らは、みな礼服で出て、とらわれてきたひとたちに、うやうやしく、
「滸我どの以下のかたがたにもうしあげます。義成がこよい見参いたします」とつげた。
すると金屏風(きんびょうぶ)のうしろから、里見義成がその子義通とともにあらわれて主座についた。立烏帽子(たてえぼし)に長袴(ながばかま)で、小刀をおびている。親兵衛と荘助は、義成にむかって諸敗将の姓名をつたえた。義成はすすみ出て、
「対面はきょうまでのびのびとなっていますが、ちかく京都からおん使いがあり、それは和睦のこととこの義成にもさっせられます。いながらに詔勅(みことのり)と台命(たいめい)をうけたまわることは武門の面目(めんぼく)、冥加(みょうが)にあまるよろこびです。この機会に意中をつげようと、見参しました」といった。
恥じた成氏・憲房以下の敗将たちは、こたえかねた。
で、大石憲重・原胤久は、
「われら主僕(しゅぼく)十二人、ともにとりこでありながら、座して食らい、あたたかに着て、朝夕にやすらかなるのは、君の博愛の恩です」といった。成氏以下もおなじ気持ちで、ともに義成の慈恩(じおん)に感謝した。義成は、
「滸我どのとは、わが祖父季基(すえもと)のときから旧交があります。また両管領の賢息(けんそく)たちも、このようなことがなければ、ここにおいでになることもないものを……。ついては朝良・朝寧どの、ならびに千葉どのにおねがいしたいことがあるのです」といって、うしろを見た。屏風のかげには犬坂毛野・政木大全がひかえている。
義成は、千葉自胤に、
「千葉どの、この若ものをごぞんじですか。これは、軍師犬坂毛野金碗(かなまり)胤智です。このものは貴藩の忠臣ときこえた粟飯原首(あいはらおとど)の落胤(おとしだね)です。毛野、すすんで見参せよ」という。
毛野はすすみ出て、自胤に、
「わたしの父、粟飯原首は、もとは千葉の親族でしたが、佞臣(ねいしん) 馬加常武(まくわりつねたけ)にざん訴され、さらに篭山縁連(こみやまよりつら)にうたれました。そのうえにわたしの嫡母(ちゃくぼ)と兄嫁さえも殺されました。わたしの母は、父の側女(そばめ)で、みごもった身でからくも相模国足柄山麓(さがみのくにあしがらさんろく)の犬坂村にのがれて、わたしがうまれそだったのです。そののち、わたしは女性に変装し、舞姫旦開野(あさけの)と名のりました……」
やがて馬加常武の酒席にまねかれたのを幸いと、常武らを殺し、のがれた。ここで、常武にとどめられていた犬田小文吾に出あったこと、仇(あだ)篭山逸東太縁連は扇谷家につかえて五十子の城にいたこと、去年の正月、縁連が相模北条氏に使者となって城を出たところを、鈴の森でおそって、その首をはね、親兄弟の仇をうったこと、などをかたった。
さらに小文吾も馬加常武の悪業をかたった。
千葉自胤は、ききおわると、
「犬坂といい、犬田といい、予にゆかりがあったのに、予はおろかで、それをもちいることを知らず、かえって常武らの奸訴逆謀(かんそぎゃくぼう)をさとることなく、あまつさえこのたび両管領のさいそくにしたがって、ともに敗軍のはずかしめにあった。ここに和睦がなり、帰ることができ、使者の往来をゆるされるなら、長くおしえをねがうのみ」と毛野・小文吾にいった。義成もきき、
「千葉どの、その意中は毛野・小文吾のよろこびのみならず、わたしもいったかいがあるというものです。ついては、扇谷の両公子(りょうこうし)にこいたいことがあります。御家の忠臣河鯉守如(かわこいもりゆき)の一人子の河鯉佐太郎孝嗣はいま、姓名をあらためて政木大全と称し、いまこの席におります。これは無実の罪にとわれているのです」という。
孝嗣はすすみ出て、朝良と朝寧にむかい、ざん訴されて処刑されるところを、霊狐(れいこ)の冥助(めいじょ)ですくわれ、さらに犬江親兵衛と出あったことなどをかたった。
親兵衛がそれに口をそえた。朝良・朝寧も、
「孝嗣の罪科のことは、親の決断で、わたしの知るところではないが、そのとき、もし死刑していたなら、のちの世まで不明のそしりをのこすだろう。霊狐の冥助でいま賢君につかえるのは、自他ともに幸いです」という。
義成は微笑して感謝し、三浦義同父子に、
「三浦どの父子は坂東一の勇士です。犬村大角礼儀(まさのり)が、わずか三百の兵をもって城をおとし、主(あるじ)を当所にうつしたのは、勝敗が時の運によるだけのことです」となぐさめた。
義同は、「わたしのちからは、山をもぬくでしょうが、ただ仁と義にはかなわないと知りました」というと、その子義武も、「仁義の微妙(びみょう)を知りました。雲と水のように、きってもきれず、はらっても去ることはありません。それなのに武勇だけをたのんだ身は、おろかでした」という。義成はそれをとどめて、
「おん父子の意中はわかりました。これからは、まじわりをむすばれたなら幸いです」といった。それから、「稲戸(いなのと)おじ、そのほうは荘助・小文吾と旧交があり、このたびの行徳口の戦いに、報恩(ほうおん)したことは予もほぼきいている。そのほうを負いつめた麻呂復五郎もここにいる。それをひそかに船をもって朝良どのとともにむかえとったのは、討死をさせないためです。その軍師はここにいる」といって、毛野をさす。
稲戸由充は、「まことに賢君のもとには、八行(はっこう)の臣がおおい。わが身はいまさら面目もありません」としめやかにこたえた。
毛野は、「いや、当城にむかえとりましたのは、とりこにするためではありません。ただ、荘助・小文吾にかわっての恩がえしです」という。
荘助・小文吾もなぐさめて、
「稲戸どの、身を敵城におくといえども、忠義にかけるところはありません。かえられるときをまたれ、のちによしみをおおさめくだされ」というと、由充はうなずいた。
義成は、憲房にむかってなぐさめると、憲房は、「盛実がとらえられ、身もとりことなりました。そのうえ親の安否を知らずにいます」とこたえた。
義成は、「まことに孝行なことだ。このような人こそ、すえたのもしいのです」といった。
成氏は、そうです、といって「これは親にしたがうあやまちに似て、あやまちではありません」とわびた。
義成はそれをとどめて、
「あなたは貴人にして旧好があります。憂苦(ゆうく)を転じて、よろこびとする日も遠くはありません」となぐさめた。時はすでに初更(しょこう)になった。
憲重はこれをきき、胤久・盛実らに目くばせして、義成に、こよいの対面を感謝して、
「ありがたいまでのご懇命(こんめい)です。すでに初更ですので、暇(いとま)をたまわりたく……」というと、為景は一人あざわらって、
「敗戦の将はかたるべからずだ。わたしに言のないのはこのゆえだ」とほこるのを、成氏がたしなめて、憲房・朝良・自胤とともに、礼をいい、義成に退座をこうた。義成は、
「こよいは初対面です。また、見参しましょう」と、義通とともにしりぞいた。それから、成氏以下もそれぞれ臥床(ふしど)におくられた。

第百七十九回中 詔勅(みことのり)……里見家の任官

つぎの日の四月十六日。この朝に、犬江親兵衛・蜑崎照文は、旅宿に伺候し、勅使代広当、諚使(じょうし)直親の案内に立った。国守(くにもり)安房守義成は、嫡子義通とともに、身をととのえて出むかえ、政所(まんどころ)の上座に招待した。
この席には、犬坂毛野・犬塚信乃・犬山道節・犬村大角・犬川荘助・犬飼現八・犬田小文吾・犬江親兵衛の犬士に、蜑崎(あまざき)照文・東(とうの)六郎・荒川兵庫助・杉倉武者助・政木大全・田税(たちから)力助・姥雪(おばゆき)代四郎・麻呂復五郎・麻呂再太郎・安西就介(なりすけ)・磯崎増松・朝夷(あさひな)三弥・白浜十郎・七浦二郎・東峰萌三(とうがねもえぞう)・蛸船(たこふね)貝六郎・大岸法六郎らが、みな、礼服の袖(そで)をつらねた。また義実の名代として堀内蔵人が出席した。
熊谷直親(なおちか)は、義成に、将軍家の御諚として、扇谷定正・山内顕定・長尾景春らも、その非を後悔している。ここに里見義成と和睦(わぼく)して、東国太平の功を奏(そう)すべし、とつげた。義成は、これをうけるむねを、言上した。直親は、すでに扇谷・山内・滸我(こが)の老将、巨田薪六郎(おおたしんろくろう)助友・斉藤左兵衛佐(さひょうえのすけ)高実・下河辺(しもこうべ)荘司行包(ゆきかね)をともなってきており、和睦の誓いをした。白羽の矢二本を義成におくったのである。
さらに、秋篠将曹広当から、昇進の宣下(せんげ)あり、とつげた。義成・義通とともにそれをうけた。
「義成朝臣に正四位上(しょうしいのじょう)、左少将(さしょうしょう)とす。安房守兼上(かず)総介(さのすけ)はそのまま。嫡子太郎義通を従五位下(じゅごいのげ)、右衛門佐(うえもんのすけ)とす」
父義実は治部卿(じぶきょう)、そして八犬士を従六位下(じゅろくいのげ)に叙(じょ)され、親兵衛を兵衛尉(ひょうえのじょう)に、毛野を下野介(しもつけのすけ)に、信乃を信濃介(しなののすけ)に、道節を帯刀先生(たてわきせんじょう)に、大角を大学頭(だいがくのかみ)に、荘助を長狭介(ながさのすけ)に、現八を兵衛権佐(ひょうえごんのすけ)に、小文吾を豊後介(ぶんごのすけ)に叙す、とふれた。
みな、平伏してこれをうけた。
義成がつつしんで勅答した。だが、八犬士らはのちも謙遜(けんそん)して、官名を称することはなく、六位も人に秘したという。
両家老、諸兵頭(しょものがしら)も両御使に拝謁(はいえつ)をゆるされ、山海の珍味をすすめ、太刀馬代(たちばしろ)として両御使におのおの白銀(しろがね)百枚をおくった。
日がかたむいたので、両御使は、照文らにおくられて旅宿にかえった。巨田助友・斉藤高実・下河辺行包らも、客の間で招待をうけた。
その席に犬塚信乃・犬坂毛野らが出て、扇谷・山内・長尾らの使人に、義成の命をつたえた。
「和議ここになるからには、五つの城をかえし、敗将らをおくることに異議はない。それぞれ対面し、日時をさだめるがよかろう」

第百七十九回下 村雨献上(むらさめけんじょう)……信乃、遺訓をはたす

扇谷・山内・滸我の三将の老党、巨田助友・斉藤高実・下河辺行包、それに千葉の老党原胤久(はらたねひさ)の弟胤介、長尾の老党直江荘司(なおえのしょうじ)、三浦の兵頭(ものがしら)水崎蜑人(みさきあまんど)らも、犬坂・犬塚・犬村・犬川らの犬士に案内されて、奥の座敷にきた。そこで、成氏・憲房・朝良(ともよし)・朝寧(ともやす)・自胤(よりたね)らの諸敗将と対面した。
そのあと、稲村の城内では、諸敗将とのわかれの宴がもうけられた。宴がなかばのとき、義成・義通が出て、わかれのことばをのべた。そうするうちに、諸敗将のむかえの船が、洲崎の浦にきた。
第一番は、憲房のむかえとして山内の家臣、建柴浦(たてしばうら)之介広望(のすけひろもち)以下三百余人。第二は、朝良・朝寧のむかえに、万戸月十字七(まごつきつじしち)らと大石憲重の兵頭、菅菰三弥七(すがもみやしち)以下二百余人。第三は、自胤のむかえの士卒百五、六余人、これに原胤久がそう。第四は、為景のむかえの頭人、宇佐見三郎以下三百余人。第五は、義同(よしあつ)・義武のむかえに、小磯真砂(こいそまさご)以下二百余人。第六は、稲戸由充のむかえに、妻有復六(つまりまたろく)以下士卒二百余人である。
ただ、成氏のむかえの従者がすくないのは、滸我が遠く、河鯉の城からいまだつかないからだ。
義成は、諸敗将に、それぞれ良馬一頭を引出物(ひきでもの)としておくった。船は洲崎の浦を去ったが、成氏だけはおくれている。で、義成はまた対面して、
「御所(成氏)は、春王・安王君(ぎみ)の弟君であられるので、わが祖父里見季基とも旧縁があります。これからは旧交をむすびたくおもいます。上総(かずさ)の御弓(おゆみ)の荘(しょう)を、馬の飼料(かいりょう)に献じます」という。
成氏は、それより帰郷の念でいっぱいである。すこし従者をかしてほしい、当国より上総をへて、陸路を滸我にかえりたい、と成氏は義成にこうた。義成は、それはたやすいこと、旧縁のあることゆえ、犬塚信乃戌孝(もりたか)をもっておくらせよう、とこたえた。
成氏には、滸我の科革(しなかわ)七郎・望見(もちみの)一郎以下五十人、犬塚信乃以下二百人がしたがった。成氏の一行は、日をかさねて、国府台の城にとまった。
この夜、信乃は成氏に、
「父犬塚番作の遺訓をはたすため、こよい村雨丸を献じたくぞんじます」と刀箱から太刀をとりだし、「まことの村雨丸か、そうでないか、まのあたりにおめにかけます」といって、刀をひきぬくと、三尺の氷、夏なお寒い稀世(きせい)の名刀、あたりにかがやく。それをうちふると、切っ先から、さっと水気がほとばしる。露(つゆ)か、しずくか、この席にふりそそぐ。
成氏主従はおもわず袖をはらうと、灯(ともしび)が消えようとする。そのとき、驟雨(しゅうう)の音がすさまじく、風もはげしく、雷(いかずち)がなった。
成氏は、「信乃、疑いはとけた。まず、その刃をおさめよ」といった。
信乃は、これをぬぐい、鞘(さや)におさめて、成氏に献じた。雷の音もたえ、ただ軒(のき)からのたまり雨が、ぽとりぽとりとおちている。
成氏は近習(きんじゅう)に墨をすらせて、一首したためた。


枕香(まくらか)の滸我の旅人村雨の
たち(立ち・太刀)かえりきてぬらす袖かな


またもう一首、おなじこころを、とそえ書きがあり、


天(そら)に著(しる)き 人の誠は雲ならで
ひとふり(一降り・一振)おくる村雨の太刀


とある。信乃はこれをうけて、自詠(じえい)でかえした。
その一首は、


今ぞほす 身のぬれぎぬは村雨に
親ののこせし言(こと)の葉の露


短夜(みじかよ)はすでにふけそめた。
つぎの日、滸我からむかえの船がつき、ここ荒川から成氏以下が乗船した。信乃らもここでわかれた。そして、稲村の城にかえってきた。
いっぽう、滝田の城の義成は、勅使代秋篠広当(ひろまさ)と、諚使(じょうし)熊谷直親をまねいた。八犬士も同席した。
ここで東西の乱れはおさまり、房総は平和をとりもどした。

第百八十回上 賛歌……信乃の霊夢(れいむ)

扇谷(おおぎがやつ)・山内(やまのうち)の両管領(定正・顕定)と里見の和睦がととのったので、諚使熊谷直親(くまがいなおちか)が、帰京するとふれた。直親は、勅使代秋篠広当(ひろまさ)にもつげたが、広当は、いそがないとこたえ、犬江親兵衛・蜑崎照文に、
「熊谷が帰京するといってきたが、わたしは道づれにはならない。なぜなら、かれは両管領の使者とともにいくという。わたしは勅使代で、いっしょになれば、下風にはたたない。で、四、五日をへて帰路につく。そのことを、安房どのにもうしたまえ」といった。
親兵衛・照文は、両家老と犬士らにつげ、それから義成に言上した。義成はうなずき、
「それでは、予と義通の名代(みょうだい)は照文にかねさせるか。犬士らも、受領(ずりょう)の拝礼(はいれい)に上洛(じょうらく)しなければならない。また、老侯(義実)のご名代は、だれにすべきか」ととうた。親兵衛・照文は、
「そのことは、すでに老侯から丶大(ちゅだい)こそふさわしいとの御意をうけたまわっております。丶大は、二十余年行脚(あんぎゃ)しましたが、東の八か国だけで、まだ皇城(こうじょう)の地をふんでいないので、よい機会ではないか、とのおおせです」という。
義成は、城にきている丶大をすぐよびよせた。
親兵衛・照文が、「師父(しふ)、ただいましかじか……」とさきのことをつげた。丶大は、
「それは難儀(なんぎ)な御諚(ごじょう)です。出家人が、各位とともに、はれがましい御名代にたって京都(みやこ)へまいるのはどうかとおもわれますが、必死の罪をゆるされましたこの身、いま、辞しては不義不忠です。御諚をうけたまわります。まいります、まいります」とくりかえしていう。義成はよろこび、
「照文は、あした丶大とともに滝田の城へまいり、老侯にこのことをもうしあげよ。親兵衛・信乃ら他の犬士も、旅路の用意をいそぐことだ。六郎・兵庫助(ひょうごのすけ)は、朝廷(みかど)ならびに室町どの(足利義尚)へ献上すべき品を調達するように……」と命じた。
暑さのます六月五日の朝、秋篠広当は、あすの朝に帰京する、とつげた。
義成は、また親兵衛と照文をもって贈物(おくりもの)をした。出発は洲崎の港口から、相模の大磯にわたり、そこから、東海道をのぼっていく予定である。
犬江親兵衛・犬塚信乃・犬坂毛野・犬山道節・犬村大角・犬川荘助・犬田小文吾・犬飼現八らは、蜑崎照文・丶大法師(ちゅだいほうし)と、広当とともにおもむくことになっている。さらに鮠内(はやうち)葉四郎・狙岡猿八(さるおかさるはち)・直塚紀二六(ひたつかきじろく)・漕地喜勘太(こぐちきかんた)をはじめ、百五、六十人の従者となる。
六月六日の朝、広当らは、大磯をさして海を走った。
涼しい追い風で、午(ひる)ごろには、大磯の浦についた。ここから、陸路を西にむかうのだ。箱根の足柄は毛野のふるさとで、伊豆は荘助の故国だ。なつかしい情はある。日にあゆみ、夜にやどって、十余日でさわりなく京都についた。
秋篠広当は、朝廷、室町どのに、返命を奏するといって去った。で、丶大(ちゅだい)・照文・八犬士らは、三条あたりに宿をとった。しばらくして熊谷直親の屋敷におもむき、義実・義成・義通の名代として、丶大・照文、それに八犬士も上洛したことをつげた。
直親は対面し、その上洛のすみやかであることをねぎらって、
「あした、室町・東山(義政)の両御所へ参上されるがよい」といい、さらに、「扇谷・山内の使者、白石重勝・斉藤高実は、拝礼がすみ、一昨日帰国がゆるされ、木曽路を東へくだった。こうなると、おのおのも遅参(ちさん)してはならない」ともいった。
つぎの日、丶大・照文・八犬士らは、礼服をととのえ、従者をともなって、室町どのに参上し、里見義実・義成親子の名代の使者、ならびに家臣八犬士らが謝恩のために上洛したむねをつげ、義成の奉書(ほうしょ)と、拝任(はいにん)の礼の品じなを献上した。管領畠山政長が政所(まんどころ)で対面した。熊谷直親もつらなった。政長は、
「きょうにでも、そのほうたちは将軍家(義尚)に拝謁(はいえつ)をゆるされるはずだが、きのうからさしさわりがあり参内(さんだい)は他日にせよ。宿所にさがってまて」という。
丶大・照文・八犬士らは、これは妙なことだ、とおもったが、それをうけてさがった。
それから東山どのに品物を献上し、つづいて、ふたたび管領政長および評定衆(ひょうじょうしゅう)にも品物をとどけた。そのあと、三条の宿所にかえって、沙汰をまったものの、日をかさねても音沙汰がない。
丶大法師は、炎暑(えんしょ)のなかを日枝(ひえ)・鞍馬(くらま)・愛宕(あたご)の山、あるいは紫野(むらさきの)の大徳寺に参禅(さんぜん)した。一休和尚(いっきゅうおしょう)のあとをしたって、霊山霊地名所旧跡をめぐっている。犬塚信乃・犬坂毛野その他の犬士、そして照文も、たがいに京都の名所に杖(つえ)をひいた。だが、犬江親兵衛は、宿所にこもったままだ。なぜなら、京童(きょうわらべ)らが、
霊虎(れいこ)を射とめた少年が、またきているそうだ。それを見よう」と、宿所の前でまちかまえているからだ。また、親兵衛自身も、京の町はすでになじみの土地だ。
十日ほどすぎた。朝廷は、秋篠広当の奏聞(そうもん)によって、里見義成の仁義善政、ならびに八犬士の忠孝知勇の源(みなもと)は、伏姫(ふせひめ)の孝烈神霊(こうれつしんれい)のなすところで、それに、丶大法師の二十余年の行脚勤求(あんぎゃごんぐ)の利益(りやく)をもって八犬士をたずね、里見の家臣にしたこと、丶大は出家堅固(けんご)の功徳で、すべて仏意(ぶつい)にかなうであろうこと、また蜑崎照文が、年ごろ招賢(しょうけん)の使いをして功のおおいことまでも、きき知っておられた。
広当が、安房の稲村で人のうわさから知ったことも奏聞したのだ。で、帝(みかど)をはじめ、関白(かんぱく)・殿上人(てんじょうびと)・地下(じげ)にいたるまで、その十人の人びとを見たいとおもっている。しばしば室町どのに、かれらの参内をさいそくした。義尚の病いがおこったので、まず里見の使者を参内させて、のちに、当御所に召そう、と管領政長は判断し、そのむねを丶大らにつたえた。
つぎの日、丶大・照文・犬士らは、礼服をととのえ、従者に臨時(りんじ)の貢物(みつぎもの)をささげさせて、南大門(なんだいもん)から参内した。秋篠広当が案内にたって、階(はし)の下にまいらせた。そのとき、丶大・照文は、義実・義成の奉献(ほうけん)の上書を呈(てい)すると、執奏(しっそう)の公卿(くぎょう)がうけとって、
「照文・丶大は、左少将(さしょうしょう)と、治部卿(じぶきょう)の名代なので、昇殿(しょうでん)をゆるされる。また八犬士らは陪臣(ばいしん)で、さらに自分のための拝礼だが、国のために乱れをおさめ、あるいは霊虎(れいこ)を退治して、宸襟(しんきん)をやすめたてまつるその功(いさお)、ともにすくなくはない。これはさきに持資入道道潅(もちすけにゅうどうどうかん)の上洛参内の例によるものだ」という。
それから、ともに天盃(てんぱい)を下賜(かし)された。そのあと、
「ついては左少将の姉伏姫が、孝烈な死後にもしばしば神霊(しんれい)をあらわし、その国に大功があったこと、また丶大の多年の行脚のこと、ことしはまた水陸施餓鬼(せがき)をおこなったことは秋篠広当の奏聞で、叡感(えいかん)ことにあさからず、それゆえに、伏姫を富山の神とし、丶大法師をのぼらして、大禅師(だいぜんじ)としたい」と宣下(せんげ)があった。それのみか、帝の宸翰(しんかん)をそめられた富山姫神社(とやまひめかみやしろ)という五大字の勅額(ちょくがく)をたまわった。
さらに丶大には、位記(いき)と法衣(のりころも)を下賜された。八犬士と照文には、巻絹(まきぎぬ)おのおの二巻をくだされた。丶大らは、まるで天(あま)の浮橋(うきはし)をわたる心地だ。
このありさまは、関白はじめ百官束帯(そくたい)が、袖をつらねて見ている。帝も、すだれのうちから、ごらんになって、微笑されたという。
つぎの日に、丶大・照文・八犬士らは、室町どのをたずね、義尚に見参(げんざん)した。管領政長、評定衆に諸侍(しょざむらい)、熊谷直親もみな、政所に出仕(しゅっし)した。室町どのの着座のとき管領政長が、丶大・照文・犬士らに台命(たいめい)をつたえ、
房州(ぼうしゅう)、朝武(ちょうぶ)の恩命にしたがって、定正・顕定と和睦したことはまことに神妙である。いよいよ善政をほどこし、隣国と和順し、東国の泰平(たいへい)の功をあやまってはならぬ」とおおせだされ、さらに御教書(みぎょうしょ)をわたし、帰国の暇(いとま)をゆるされた。
つぎの日に、三条の宿所を出立した。一人の僧と九人の武士、それに百十数人の従者が、東にむかっていった。木曽路を安房へといそぎ、日をあゆみ、夜にやどって、美濃(みの)の垂井(たるい)をすぎるときに、犬塚信乃は、
「ここの金蓮寺は、むかし、嘉吉元年(一四四一年)五月十六日、春王・安王君がこの世にあったとき、わたしの祖父大塚匠作三戌(おおつかしょうさくみつもり)が、そのご最期(さいご)を見るにしのびずに、多勢の兵を相手にたたかって、ついに討死したところです。わたしの父番作一戌(ばんさくかずもり)は、親をたすけようとおどり出て、両公達(りょうきんだち)の首をはねた牡礪崎(かきざき)なにがしをうちとり、春王・安王君の御首級(みしるし)と、父匠作の首をうばって信濃路に走り、御嶽(みたけ)・大井のあいだの小寺の墓所に三つの首をひそかにうめた、とわたしは幼いころに親からききました。いま、この地をとおりかかったので、そのあとを見ていこうとおもいます」という。
人びとは、それはいい、と同意し、三町ほどきてみると、小寺がある。その山門の扁額(へんがく)には、金蓮寺としるされている。
信乃らが寺うちにはいろうとしたとき、としのころ四十(よそじ)あまりの旅の男が、二つの小瓶(こがめ)を肩にふりわけて、
「おそれながらお聞きします。このなかに、安房の里見どののご家臣の、犬塚信乃どのはおられませんか」ととうた。信乃は、「そのほうの問う、犬塚信乃はわたしだ」と名のった。
その旅の男はひざまずき、自分は、大井の宿に近い小篠村(おざさむら)のもので、息部局平(むすぶつぼへい)という。親は、息部是非六(むすぶぜひろく)といい、井丹三直秀(いのたんぞうなおひで)の老僕で、嘉吉の乱に殉死(じゅんし)し、人にほめられた。そのとき、自分は幼年で、母とともに、ふるさとにいた。
ある夜、霊夢(れいむ)のおつげがあった。一人の老武者が枕辺に立って、われは、大塚匠作三戌だ。わが子番作一戌の忠義のはたらきで、両公達の首級とわが首を、しかじかのところにうめた。だが、美濃の金蓮寺は、両公達ご最期の地ゆえ、そこにかえしてほしい。そのほうが三つの首をほりとって、垂井(たるい)の寺にはこぶなら、その日、かならずわが孫の、里見の家臣犬士の一人、犬塚信乃というものとあうであろう。そのとき、このことを信乃につげたなら、信乃はよろしくはからうだろう。うたがうな、としめされた。
しかもそれが一度だけでなく、霊夢は三夜(さんや)におよんだ。それで、ここであなたにおあいできた、といった。
信乃はそれをきき、おどろいて、
「わたしもまた、ゆうべ、あなたとおなじような霊夢を見た。いまさら疑いはしない。まことにふしぎなことだ」とこたえて丶大(ちゅだい)・照文・犬士らをみかえって、
「おききでしょう。わたしは、当寺の住持につげて、両公達と祖父の《どくろ》をあらためて埋葬(まいそう)したいとおもいます。しかし、律令(りつりょう)に、改葬は子孫に三日の忌(いみ)あり、とあります。伏姫神の勅額にさわりがあってはなりません。さきにおいでになってください。わたしはあとからまいります」という。
これに七犬士は、
「いや、犬塚さんの祖父は、わたしたちにも、祖父にあたる人ではありませんか。その埋葬を手つだわせてください」というと、丶大も、
「仏事は出家の役めだ。見すててはいけない」といった。だまっていた照文は、
「それよりみんな、この宿に逗留(とうりゅう)しよう。すでにご名代の役をすませたのだから、なまけものとはいわれまい。わたしが勅額をまもって旅篭(はたご)にいよう」といった。そこで、ひとまず旅篭におもむくことにした。紀二六・喜勘太は旅篭さがしに走った。
信乃は、局平と金蓮寺の住持に面談し、局平の霊夢のことから話をはじめた。住持は、改葬のことは、すでに年をへたので京都将軍家にはばかりはあるまい、という。そこで、局平の持参した小瓶をひらいた。
一つの小瓶にはちいさな二つの《どくろ》、また一つの小瓶にはおとなの《どくろ》がおさめられている。むろん、春王・安王、そして匠作である。
信乃は涙が胸にあふれた。この二つの瓶が、本堂の仏の前にそなえられた。
犬坂・犬江・犬山・犬村・犬田・犬飼、そして丶大も本堂にとおった。住持は、二つの瓶にむかって眼(まなこ)をとじ、念誦(ねんじゅ)した。さらに香をたいて仏足(ぶっそく)をいただき、念じおわってしりぞき、小瓶のどくろに回向(えこう)し水をたむけ、しきみの葉をとってちらして、合掌した。春王・安王と大塚匠作の法号をよび、そして、菩提(ぼだい)をとなえ、施主(せしゅ)の功徳を評価し、さらに風誦文(ふうじゅもん)を暗誦(あんしょう)し、しりぞいた。
法師が、鉦(かね)をうちならして、声高く六字の名号(みょうごう)をとなえると、一座の人びとは声をあわせて、しきりに念仏した。一僧が、施主に焼香(しょうこう)をすすめた。信乃をはじめ、犬士たちもすすみ出て、焼香をすませた。さいごに丶大である。これで法事はおわった。
住持は丶大に、
「師僧は、大禅師の高僧とうけたまわっております。導師をおたのみせず、無礼をおゆるしくだされ」という。丶大は、
「いや、三つのどくろは、貴僧の徳に縁(えん)のあるものです。まず追葬(ついそう)をいそがせたまえ」とこたえた。
それから、改葬がおこなわれた。この導師は、丶大がつとめた。日が暮れたので薪(まき)をたき、かがり火とした。
改葬がすみ、客殿にもどると、夏の夜はみじかく、寺男がつきだす初更(しょこう)(午後九時ごろ)の鐘の音がひびきわたった。夜食が出された。
信乃は、改葬は三日の忌があるので、きょうから三日間この寺にやどって、追善(ついぜん)したい、とこうた。住持は承知した。さらに信乃は、この宿の石工(いしく)にたのみ、三つの墓石(ぼせき)をたてたいという。
住持は寺に出入りの宇賀地野見六(うがちのみろく)なる名工がいるので、あす、まいるよう手配りするといった。
犬山道節の発案で、犬士たちは金子(きんす)を出しあい、逗留代、追葬三日の法事料、祠堂金(しどうきん)、三つの墓名料として、二百十両を信乃におくった。
信乃はその友情をうけた。
つぎの日、石工野見六が車に石をつんでやってきた。野見六は、犬塚信乃に対面したい、といった。そして信乃に名をつげて、
「いまから三十日あまりまえに、歳のころ五十八、九の一人の武士が、てまえの店にきまして、三座の墓石をあつらえたい、と命じられました。おおきな石を注文され、これは、当宿内の金蓮寺にたてる墓石で、七月のその日までにつくれといわれました。そのとき安房の家臣犬塚信乃戌孝(もりたか)という武士がくるので、代価はそのものがわたすといわれました」といい、さらにその武士は、内金として純金の小鍔(こつば)二枚と目貫(めぬき)二つをおいていった、という。
信乃はそれをあやしみ、小鍔・目貫を手にすると、桐葉(きりは)に一の字がほってある。祖父匠作からつたえられている太刀、桐一文字(きりいちもんじ)と知れる。信乃は、
「そのほうに墓石を注文したのは、わたしの祖父の霊であろう」という。
で、墓石はすみやかに建碑(けんぴ)できた。
一行は住持にわかれをつげ、金蓮寺を去った。二日をへて小篠村についた。局平の案内で、井丹三(いのたんぞう)夫婦の墓にもうでた。
ここで、犬士たちは自詠(じえい)の賛歌をのこした。


壮士(ますらお)が千曳(ちびき)の石をおきかえて
すみよき庵(いお)の苔清水(こけしみず)かな…………犬村礼儀
埋(うも)れ井(い)の石蓋(いわふた)ひらきわく水に
多力(おおしちから)の名をやながさん……………犬坂胤智
信濃なる戸隠山(とがくしやま)にます神も
あにまさらめや神ならぬ神………犬飼信道
山をぬくちからもあるに健雄(たけお)らが
うつすに石のかたきものかな……犬田悌順
井はなりぬ ひさごもてくめ雲近く
水遠かりし山もとの庵……………犬山忠与
たらちねのすみにし里にきてみれば
山ふところの宿もなつかし………犬塚戌孝
剣太刀(つるぎたち)三世奇事(みよくしこと)の本末(もとすえ)を
むすぶはのちの庵主(いおあるじ)かな…………犬川義任
小篠原(おざさはら)わけつつ木曽の山の井に
こころくみみよ のこす言(こと)の葉(は)……犬江仁
糸芳宜(いとはぎ)にまじる山辺のしのすすき
そよげばにおう秋の初風…………蜑崎照文
峰(みね)の松うろ(雨露・有漏)に生出(なりいで)て風さそう
声を麓(ふもと)のむろ(室・無漏)にいるめり……大禅師丶大


信乃は、庵主(あんしゅ)に局平を施主にするといい、庵主・局平にそれぞれ五両をおくり、この地を去った。さらに数日の旅をかさねて、武蔵国豊島の司馬浦にきた。
水陸のどちらが便利か、と相談していると、照文は、
「ここから水路を洲崎にかえると、はやくて便利だが、勅額・御教書がある。で、下総(しもふさ)をへて、上総(かずさ)にいたる陸路こそよいだろう」という。丶大は、
「いや、犬塚の改葬で、美濃路で三日をついやしたので、日をちぢめてはやくかえろう。いま秋暑のときなので、海はおだやかなはずだ。さらに犬士らは、身を守護する霊玉(れいぎょく)をもっている。まして、勅額には、伏姫神の加護もあるだろう」という。犬士も、
「師父の決断は、勇があり、理があります。水路をとりましょう」と、この浦で一艘(そう)のおおきな船をやとって、七月二十二日の月の出るころに出帆(しゅっぱん)した。

第百八十回中 論功行賞……八犬士、城主となる

八犬士・丶大・照文ら、主従百十数名をのせて、船は洲崎(すさき)についた。稲村の城にはいり、その翌日、勅額(ちょくがく)と御教書(みぎょうしょ)を奉じて義成に対面して、京の首尾、伏姫神(ふせひめがみ)に勅額をたまわったこと、丶大が大禅師(だいぜんじ)になったこと、などをつげた。義成はよろこび、
「このことを滝田の城の老侯(おおとの)(義実)にもうしあげるがいい。勅額のことは、他日に沙汰(さた)する」と人びとに休暇をあたえた。で、丶大ら十人は、滝田の城に義実をたずね、京以来のできごとをつげた。
一日おいて、義成も滝田の城にきて、義実と評定(ひょうじょう)をもった。里見の家臣たちが、国府台・行徳口・両国河原、それに穂北の落鮎有種(おちあゆありたね)までよびだされた。
八月十五日は、黄道上吉(こうどうじょうきち)である。里見左少将義成は、政所(まんどころ)に着座した。両家老、八犬士その他家臣一同、みな、熨斗目(のしめ)衣長裃(きぬながかみしも)の姿だ。
第一番に八犬士を召しだし、それぞれ一城の主(あるじ)を命じた。その目録はこうだ。


安房国館山城主 釆邑(さいゆう)一万貫文 上大夫(おもかろう) 犬江親兵衛尉(ひょうえのじょう)金碗仁(かなまりまさし)
同  東条城主 釆邑一万貫文 上大夫(おもかろう) 犬塚信濃介(しなののすけ)金碗戌孝(もりたか)
同  犬懸(いぬかけ)城主 釆邑一万貫文 上大夫 犬坂下野介金碗胤智(たねとも)
同  御厨(みくりや)城主 釆邑一万貫文 上大夫 犬村大学頭(だいがくのかみ)金碗礼儀(まさのり)
同  朝夷(あさひな)城主 釆邑一万貫文 上大夫 犬山道節帯刀先生(たてわきせんじょう)金碗忠与(とだとも)
同  小長狭(こながさ)城主 釆邑一万貫文 上大夫 犬川長狭荘介(ながさのしょうすけ)金碗義任(よしとう)
同  神余(かんあまり)城主 釆邑一万貫文 上大夫 犬飼現八兵衛権佐(ひょうえごんのすけ)金碗信道(のぶみち)
同  那古(なこ)城主 釆邑一万貫文 上大夫 犬田豊後介(ぶんごのすけ)金碗悌順(やすより)


その他、東六郎辰相・荒川兵庫助清澄に加増して、それぞれ五千貫とし、杉倉武者助直元・堀内雑魚太郎貞住にそれぞれ三千貫、政木大膳孝嗣には四家老次席として五千貫をあたえ、千代丸図書介豊俊は榎本の城主とした。
つぎに、姥雪代四郎与保、その孫十条力二郎・十条尺八、麻呂復五郎重時・麻呂再太郎信重・安西就介景重・磯崎増松有親・館持※杖朝経・大樟村主俊故(すぐりとしふる)らを召しだして、
「与保は苛子崎(いらこざき)の賊難(ぞくなん)以来、しばしば犬江をたすけて大功がある。よってここに兵頭(ものがしら)とする。十条力二郎・尺八は幼少だが、祖母音音(おとね)、また両母(ふたはは)、曳手(ひくて)・単節(ひとよ)らにおのおの三十人扶持をあたえる。また、重時は兵頭とする」
それに、信重・景重・有親は義通の近習、朝経・俊故はその地の長(おさ)を沙汰された。
そのあと、落鮎余之七有種・誼夾院豪荊(ぎきょういんごうけい)らを召しだし、有種は穂北に新領五百貫文をくわえ、豪荊の寺は里見家の祈願所とし、年米百俵を給する。
さらに、石亀屋次団太(いしがめやじだんだ)・百堀鮒三・向水五十三太(むこうみずいさんだ)・枝独鈷素手吉(えどっこ・すてきち)・犬江屋依介(よりすけ)も謁見(えっけん)をゆるされ、思賞をうけ、名字帯刀をゆるされた。
さいごに、譜代の家臣に恩賞がなされた。蜑崎十一郎照文は滝田の城の大兵頭で二千貫文、若党直塚紀二六は照文の娘山鳩(やまばと)の婿養子とした。また、紀二六は蜑崎十二郎照章(じゅうじろうてるあき)と改名した。
ほかの小森但一郎高宗・印東小六明相(いんとうころくあけすけ)・荒川太郎一郎清秀・鳥山真人由世(とりやままひとよしよ)は兵頭の上席、また、浦安牛助友勝・田税力助逸友・登桐山八良于・木曽三助季元・田税戸賀九郎逸時・苫屋八郎景能は稲村の兵頭に、小水門目堅宗(こみなとさかんかたむね)・蛸船貝六郎繁足(たこふねかいろくろうしげたる)・東峰萌三春高(とうがねもえぞうはるたか)は滝田の城の兵頭に、白浜十郎・七浦二郎・朝夷三弥(あさひなさんや)は義成の近習の上席、真間井樅二郎秋季(ままいのもみじろうあきすえ)・継橋綿四郎(つぎはしわたしろう)高梁(たかやな)・潤鷲手古内美容(うるわしてこないよしかた)・振照倶教二広経(ふるてらぐきょうじひろつね)らに加増、その他、下級のものにいたるまで細心のくばりがなされた。
義成は、また丶大禅師と八犬士らをよび、
朝廷(みかど)から、予の姉君を神になされて、たまわった勅額は、富山の岩窟(いわむろ)に石のほこらをつくり、そこにおさめて神体(しんたい)になそうとおもう。岩窟の前に石鳥居(いしとりい)をたて、勅額のうつしをかかげよ。このことは、禅師と八犬士らの奉行(ぶぎょう)とする」と沙汰した。
丶人・犬士らは、つぎの日から作業をはじめ、約三十日ほどで落成(らくせい)した。勅額を神体として、洲崎明神(みょうじん)の神官らが祝詞(のりと)をよみ、法楽(ほうらく)を献じた。開師(かいし)は、丶大禅師である。
上総のもとの椎津(しいつ)の城主万里谷信昭(まりやのぶあき)の嫡子柳丸(やなぎまる)は、十一歳で、はじめて稲村に参勤(さんきん)した。老党鞠谷毛大夫(まりやけだゆう)綺妙(あやたえ)らがしたがった。去年、父信明の死後、家臣らの内紛(ないふん)で参勤がおくれたという。万里谷は里見の縁家(えんか)なので、しばらく稲村の城内にとどめられた。
このころ、八犬士の結婚の話が出た。

第百八十回下 千秋万春……八犬士の結婚

義成は、八犬士、四家老(辰相(ときすけ)・清澄・直元・貞住)に、万里谷信昭(まりやのぶあき)の嫡子柳丸の姉、葛羅(かつら)姫の婚姻(こんいん)の相談があった、とつげ、
「それはそれとして、予(よ)がいそぎたいとおもうのはそれだけではない。予には八人の女(むすめ)がいる。そのなかには妾腹(わきばら)なるものがおおいが、その母は産後になくなり、あるいは短命であったので、みな予の妻がやしなってきたもので、本腹(ほんばら)とことならない。で、予の八人の女(むすめ)を、八犬士にめあわせたいとおもう。いうまでもなく、犬士の賢才(けんさい)、その忠、その孝、八人ながら予の女婿(むこ)になるにたる」といった。
家老も同意し、八犬士もうけた。
その日の夕方、信乃・荘助・道節・現八・小文吾・大角・毛野・親兵衛は、東辰相・荒川清澄に案内されて、奥(おく)と表のあいだの、山鶏(やまどり)の間に伺候(しこう)した。左右には銀燭(ぎんしょく)がつらねられて、真昼のように明るい。
夜の桜のこずえによる犬士は、人柄はおなじではないが、いずれも二十(はたち)前後で威風(いふう)凛々(りんりん)として、それでいて猛(たけ)だけしくなく、微笑をうかべると三歳の童子(わらべ)もなつく。面(おもて)の白いもの、浅黒いものもいる。身の丈は高いものもあり、高くないものもある。人相は似ているものの、すべておなじではない。これは、仁義八行(じんぎはっこう)の珠(たま)をつらねている男子に優劣ないからだ。
このとき、前面の座敷には錦(にしき)のふちどりのある御簾(みす)がすきまもなくかけわたされて、その裏側に姫たちが着座した。錦の上に花をそなえる温柔妖艶(おんじゅうようえん)の妙(たえ)も、みな珠簾(たますだれ)のうちなので、犬士らの目には見えない。
しばらくして、宮仕えの老女が出て、二家老と八犬士に、こよいの祝寿(ことほぎ)をのべた。そして、御簾のうちから八本の太緒(ふとお)が出され、それを八犬士が手に手にひいた。その緒のはしに姫たちの名札がつけられている。それが妻女となる女(むすめ)だ。
辰相が名札をよみあげ、
「第一、静峰(しずお)姫上は犬江親兵衛仁、第二、城乃戸(きのと)姫上は犬川荘助義任、第三、鄙木(ひなき)姫上は犬村大角礼儀、第四、竹野(たけの)姫上は犬山道節忠与、第五、浜路(はまじ)姫上は犬塚信乃戌孝、第六、栞(しおり)姫上は犬飼現八信道、第七、小波(おなみ)姫上は犬坂毛野胤智、第八、弟(いろと)姫上は犬田小文吾悌順、とそれぞれこれをひきおえた。天縁のいたすところ、ご配偶(はいぐう)が、みなさだまった。千秋千秋、万春万春」と祝した。
この縁組は、義成につたえられた。
義成はいう。これは、みな名詮自性(みょうせんじしょう)だ。静峰(しずお)の夫が仁であるのは、仁(じん)は静かで、仁者は峰(やま)をたのしむという。城之戸(きのと)と義任は、古語に、義(ぎ)をまもることは城のごとしとある。鄙木(ひなき)は雛衣(ひなぎぬ)と文字がことなるが、となえは似ている。また鄙は犬村の村だ。竹野(たけの)と道節忠与は、忠は苦節にあらわれ、節は道節の節、すなわち竹の節で、野は犬山の山と対になる。浜路は、甲斐(かい)にいたころ、信乃のたすけをえて道節にすくわれた。また信乃の妻となるべき少女(おとめ)の名も浜路という。この少女は、苦節に身をころしたが、いままた浜路がいる。これは蘇生(そせい)である。
栞(しおり)と信道は、道の信をなすものを栞といい、栞によらなければ、道にとまどうことになる。小波(おなみ)と毛野胤智は、知はうごき、知者は水にたのしむというが、水のうごくときは波となる。波はすなわち水の皮だ。これをもって、その字は水にしたがい、皮にしたがう。知もまたうごかなければもちいるところはない。知者の水をたのしむゆえんだ。弟(いろと)と小文吾悌順は、悌(てい)は兄につかえる道だ。悌順は仁の母方の叔父(おじ)だが、かえって悌玉(ていぎょく)をえた。その八行のよるときは、仁義の弟(おとうと)となることになる。それゆえに弟(いろと)をもって妻とする。
それをきいて、人びとは、自然の妙契(みょうけい)を知った。さらに万里谷柳丸の姉、葛羅(かつら)姫は、政木大全孝嗣(まさきだいぜんたかつぐ)に嫁(か)すことになった。これですべての勇者に美女が配された。
四境は、義成の君恩がくまなくひろまったが、まだおさまらないのが降人(こうじん)武田信隆(たけだのぶたか)だ。信隆は、定正の水路の寄手からはなれて上総(かずさ)の浦辺にわたり、ひそかに庁南(ちょうなん)の城にはいり、城の頭人江田九一郎宗盈(えたくいちろうむねみつ)に、この城は里見からかえされた、とわがまま勝手をいったが、これにも、義成は、寛大なこころで、庁南の城地をかえした。

第百八十勝回上 狐竜(こりゅう)の化石……政木(まさき)ギツネの末路

つぎの年の春二月、義成の八人の女(むすめ)が、八犬士のもとに嫁(か)した。この晩、犬江親兵衛と静峰(しずお)姫だけは、盃(さかずき)をかわしただけで、閨房(けいぼう)はともにしない。親兵衛はひそかにいう。
「わたしは身体はおとなびてはいるが、歳は十五にたりないものだ。そのことは十七歳までまってほしい」
これに十九歳の静峰は、「夫婦は一世の恩愛です。なぜ、そいふすことをいそぎましょう。おん身の意のままに」とこたえたという。
政木大全孝嗣(まさきだいぜんたかつぐ)も、葛羅(かつら)姫を妻女にむかえた。孝嗣は、大田木(おおたき)の城主となったが、房総の地理を知らないので、義成のゆるしをえて、国中をめぐった。普善村(ふせむら)にさしかかったとき、老兵が、この村はむかしの上総介広常(かずさのすけひろつね)の館(やかた)あとで、その近くに雑色村(ぞうしきむら)があり、その古江(ふるえ)というところに、医王山金光寺(いおうさんきんこうじ)がある。そこに広常の墓と称される五輪塔(ごりんのとう)がある。この塔の青苔(あおごけ)を水でのむと難病がなおるという。
広常は、源頼朝(みなもとのよりとも)にうたがわれて、罪なく誅(ちゅう)された武将である。孝嗣は、その墓を見ようと、山門にさしかかると、にわかに天がかきくもり、雷光が走り、雷鳴とともに雨がはげしくふってきた。
と、天から落下するものがあって、大地をゆるがした。孝嗣主従は、松の木の下に身をさけた。雨があがると、落下物のそばにきて見た。おおきな白い石だ。そのかたちは、わだかまる竜(たつ)のようで、頭はヘビに似てヘビではなく、キツネにも似ている。尾らしいものは九つあり、たてよこ三尺ばかりだ。
孝嗣は、これは狐竜(こりゅう)の化石で、政木ギツネのいのちがつきはてた《しるし》かもしれない、とおもう。
すると、門内から、僧とともに三人の武士が出てきた。兵が十四、五人いる。一人の武士が、孝嗣に声をかけた。武田信隆(のぶたか)である。信隆は、難病になやまされているので、広常の墓にもうでたという。
孝嗣は広常の墓に合掌したあと、狐竜の化石のことをかたった。信隆は、そのあやしい物語に戦慄(せんりつ)した。

第百八十勝回中 消えた文字……丶大(ちゅだい)が彫った仏たち

孝嗣は、狐竜(こりゅう)の奇談(きだん)を、義成、そして八犬士にかたった。人びとは、みな感嘆(かんたん)した。義成は、キツネが石に化した例(ためし)として、那須野(なすの)の殺生石(せっしょうせき)などをあげた。
この年、老臣杉倉木曽介氏元(すぎくらきそのすけうじもと)・小森衛門 篤宗(こもりえもんあつたね)・浦安兵馬乗勝(うらやすひょうまのりかつ)が、また長享(ちょうきょう)二年(一四八八年)に堀内蔵人貞行(ほりうちくらんどさだゆき)も故人となった。杉倉武者助直元(すぎくらむしゃすけなおもと)・堀内雑魚太郎貞住(ざこたろうさだずみ)は、父の職をついで家老についている。小森但一郎高宗(ただいちろうたかむね)・浦安牛助友勝(うしのすけともかつ)も、つとめをはたしている。
さらに、四月十六日には、義実がなくなった。義成父子、親族、家臣らの悲しみは深い。
文明も十八年でおわり、長享も二年で延徳(えんとく)と改元(かいげん)され、さらに明応(めいおう)とあらたまった。嘉吉(かきつ)元年から明応九年(一五〇〇年)まで星霜(せいそう)六十年をへた。
この年四月十六日は、季基(すえもと)の六十年忌、義実の十三年忌なので、義成は稲村の城を出て、延命寺にもうでた。両家老杉倉・堀内に、八犬士も参会した。墓参のあと、客殿に座した。その庭に、ボタンがさかりである。丶大が義成に、この寺僧として十七、八年をつかえたので、弟子の念戌(ねんじゅつ)に法脈をつがせたい、とこうた。義成はそれをうけいれぬわけにはいかないが、といい、
予(よ)に疑問がある。禅師(ぜんじ)はひまさえあれば、寺を留守にしているそうだが、ただ、念戌らが用のあるときに、本尊(ほんぞん)を念じ、しきりに鉦(かね)をうちならすと、禅師はたちまち寺にかえるという。あるいは、富山に入るものの話によると、禅師の経をよむ声がし、あるいは木をほる《のみ》の音がするが、その姿は見えぬ、というが……」ととうた。
ヽ大は、
「いまは、青菜・木の実を生食(もくじき)して、水をのむだけです。神仙に似て、仏をたたえたことから、金仙(きんせん)とよびます。仏も雲にのり、波をふむ、法術無量(ほうじゅつむりょう)なることからおこったのです。拙僧(せっそう)も、出没(しゅつぼつ)自由をえて、うたがわしいことがあればたちどころにさとり、人がよぶときは遠くからでもきこえます。そこで、念戌がよび、鉦(かね)をならすときは、富山にいても耳にはいります。これは、念戌も師につかえるのに、まごころをもってうちならすので、幽冥(ゆうめい)につうじるのです。世に神仏をいのるものの利益(りやく)は、その人の至誠深信(しせいしんしん)にあります。
さて、さる文明十六年の冬、この白浜に、木材が波にうちあげられたのです。その木材の周囲は十抱(とかか)えもあり、長きは一丈(じょう)五、六尺ばかり、その色は黒く、香気がありました。これは沈(じん)とわかりました。これを五十五材(ざい)にきり、富山の岩窟(いわむろ)におさめました。これを、人は知りませぬ。
これからのち、拙僧はひまあるごとに姫神(ひめがみ)のために読経(どきょう)し、昼は、その木材をきざみ、須弥(しゅみ)の四天神王(してんじんおう)をつくり、また二十五の菩薩(ぼさつ)と、二十五の古仏をつくり、さらに余材をもって数珠(じゅず)一連をきざみました。おおよそ十余年でほぼ落成しました。古仏諸菩薩五十体は、開眼しましたが、四天神王は、まだ開眼しておりませぬ。数珠はここにあります」と義成に、数珠をわたし、犬士らにもまわされた。香がただよう。
丶大は、犬士らに、
「犬士たちよ。四天神王の玉眼(ぎょくがん)に、それぞれ所持している八つの珠(たま)をほしいのだ。富山の四天神王を当国安房(あわ)の四すみに安置し、十世のすえまでゆるがぬよう、当家ご子孫のために守護神としたいとおもいます。さらに五十体の仏は、鋸山(のこぎりやま)に安置します。ここは房総(ぼうそう)第一番の仏地です。これから二、三百年ののちには、五十体の十倍の五百の石仏をつくるものがあるでしょう」という。義成、八犬士、二家老にも、むろん、異議はない。犬士は、丶大に珠をかえした。ふしぎにその珠の文字はきえ、白珠となっている。そればかりか、八人のボタンの花に似た痣(あざ)もあとかたもなくなった。
義成は、犬士らに、
「ものには本末(ほんまつ)があり、ことには始終がある。予(よ)は今日この牡丹亭(ぼたんてい)にきて、そのほうたちの身にあるボタンに似た痣がみな消えたことを知った。その痣が散ってこの花がある。これを感応(かんのう)というべきだ」といった。
日も暮れはじめたので、義成らは、稲村の城にかえった。
そののち、四天をおさめる素木(しらき)の厨子(ずし)と、石の唐櫃(からびつ)、仏像をおさめる小瓶(こがめ)などを石陶(いしすえもの)の工匠(たくみ)らに命じ、おおよそ三十日ばかりでしあげたので、丶大禅師は、念戌(ねんじゅ)をともない、八犬士とともに、人夫をしたがえて、富山の岩窟におもむいた。開眼した四天神王と、五十体仏をとりだした。五十体は車にのせて、延命寺にかえり、つぎの日に鋸山(のこぎりやま)にはこんでいった。
四天神王は、東方へは、犬塚信乃・犬江親兵衛、西方へは、犬川荘助・犬飼現八、南方へは、犬村大角・犬田小文吾、北方へは、犬坂毛野・犬山道節が奉じていった。丶大は、八犬士らに、
「念戌が鋸山におもむけば、あすから寺に留守居はいない。拙僧は祈祷(きとう)して、ここから白浜にかえる。八犬士も、それぞれつとめるがよい。その四天の玉眼は、そのほうたちの感得(かんとく)した霊珠(れいぎょく)をもってつくったものなので、おのおのの分身の善神(ぜんしん)とおなじだ。これをうめるところには、かねて拙僧がしるしをたてておいた。その地をほるのは一丈二尺とし、塚(つか)をきずくのは、十尺とすることだ。塚のしるしは、東にヤナギ、西にカエデ、南にヒノキ、北にモチノキをうえるがいい」といった。
このすべてがすむと、丶大禅師は、延命寺二世を念戌とし、退寺した。
その礼に、稲村の城にきたおり、八犬士らに、
「拙僧は、多年の宿願をとげて富山にかえるので、見参(げんざん)はきょうかぎりだ。岩窟に伏姫神のほこらをおき、人びとに参拝(さんぱい)されるのは、姫神のご本意ではない。なぜなら、姫神はこれ、富山の観世音(かんぜおん)の化現(けげん)だ。で、姫神をおがみたい人びとは、富山の観世音にもうでることだ。拙僧は、この神慮(しんりょ)を知るゆえに、宸筆(しんぴつ)の勅額(ちょくがく)を、峰のうしろの手づくりの石室(いわむろ)におさめた。いまからのち、伏姫神を、大悲(だいひ)の奥の院としておがませたなら、利益はご子孫におよぶであろう。拙僧は、岩窟をふさぎ、ながく定(じょう)にはいろうとおもう」といい、さらに、
「そのほうらも聞くがいい。功なり名をとげて身をしりぞくのは、謙(けん)の上吉(じょうきち)というものだ。子息に職をゆずり、隠逸(いんいつ)をたのしむがいい」と身をおこし、庭から走り出たと見えたが、たちまち姿が消えた。
のち、富山の岩窟が、大石でふさがれ、そこに古歌が一首しるされていたという。


ここもまた浮世(うきよ)の人の訪(と)いくれば
空ゆく雲に身をまかせてん

第百八十勝回下 大団円…犬士、地仙(ちせん)となる

八犬士らは、丶大(ちゅだい)とわかれたとき、ともに退隠(たいいん)する意思をもっていた。東(とうの)六郎辰相・荒川兵庫助清澄もなくなり、その子明相(あけすけ)・清秀(きよひで)が職をついだ。
犬江親兵衛は、十八歳のとき子をもうけ、二男一女がいる。妙真(みょうしん)は七十七、八歳、妻静峰(しずお)姫は三十九歳の短命でおわった。
犬山道節は、三男二女である。
犬飼現八も、二男一女の父だ。
犬坂毛野には、二男があるが、女の子がいない。
犬塚信乃は、二男二女だ。嫡子の妻女は、親兵衛の女(むすめ)である。また一女は犬川荘助の子の妻となり、ほかの一女は犬田小文吾の嫡子の妻女となった。
小文吾は、二男二女の父だ。
荘助は、一男二女、犬村大角は二男二女の父である。
義成も世を去り、義通は賢良(けんりょう)の君であったが、不幸にして短命でおわった。まだ嫡子竹若丸(たけわかまる)が幼いので、義通の遺命(いめい)で舎弟次磨(しゃていつぎまろ)がついだ。竹若丸が成人するまでの暫定(ざんてい)である。
だが、次磨あらため二郎実尭(さねたか)は、万事にきびしく、罪なくしりぞけられるものも出た。そのとき、八犬士は歳は六十あまり、後輩(こうはい)の道をふさいではならぬ、と隠居(いんきょ)をもうし出た。実尭はこのねがいをゆるし、暇(いとま)をあたえた。さらにその子は、それぞれ五千貫をあたえられ、その城地をかえし、あらためてそれぞれの守城の頭人(とうにん)となった。
それから八犬士らは、富山の頂上の観音堂のそばに庵(いおり)をむすんで同居した。妻女たちには、富山にのぼることは女人(にょにん)はゆるされぬ、と夫婦・父子のわかれをして、ふたたび山からおりることがなかった。こうして二十年をへた。城之戸(きのと)姫・竹野姫ら七人の妻も、静峰姫のもとに去った。だが、良人の八犬士の顔色はおとろえず、飛鳥(ひちょう)のように峰(みね)をのぼり、谷をくだった。
ある日のこと、八人の子がきた。八犬士らは、なぜ子らが庵をたずねてきたのか、すでにさっしていた。実尭と竹若丸あらため義豊(よしとよ)との不和で、内乱がおこる気配がある。
毛野は、
「実尭君と義豊君をいましめても、きかれぬことは承知している。それをわかっていながらそれをして身をころすのは益がない。みだれる国にはおらぬことだ。それゆえに、われら八人は、ここを去る。おまえたちも、ともに他郷に去るがいい」といった。
八犬士の子、犬坂胤才(たねかど)・犬山中心(なかむね)・犬塚戌子(もりたね)・犬江如心(ゆきむね)・犬村儀正(のりまさ)・犬川則任(のりとう)・犬飼言人(のりと)・犬田理順(まさより)らも同意し、それぞれ暇をこい、五千貫は召しはなされた。
里見実尭と義豊とがいくさをおこし、実尭が討死し、義豊もうたれた。ここに義尭(よしたか)の世となり、八犬士二世をまねこうとしたが、彼らは老いを理由にことわり、かわって、三世が大兵頭(おおものがしら)としてつかえた。
政木大全孝嗣は二男一女の父となり、代々大田木(おおたき)の城主だったが、のちに子がなく、廃絶(はいぜつ)となったという。
そのほか、十条力二郎、尺八にも子孫があって、義尭につかえた。石亀屋次団太の養子百堀鮒三にも子孫がある。姥雪代四郎・音音・曳手・単節は長寿をえた。蜑崎・麻呂・安西・磯崎・金碗・天津も、子孫代々相続した。
だが、初世八犬士らのそのごのことはわからない。みな地仙(ちせん)になって、富山にあるというが、目撃したものはない。で、二世八犬士は、わかれた日を忌日(きにち)として、延命寺に八つの墓石をたてた。
文明十八年、京都(みやこ)の管領(かんれい)細川政元は、将軍義政の死後、政事(まつりごと)をほしいままにし、永正(えいしょう)四年(一五〇七年)六月二十三日の夜に、戸倉鶉四郎(とくらきょうしろう)に暗殺された。そののち、三好氏(みよしし)の台頭(たいとう)となった。
いっぽう、扇谷定正は、山内顕定の奸計(かんけい)にかかり、大石憲儀(のりかた)に命じ、巨田道潅(おおたどうかん)を誅(ちゅう)した。さらに、顕定に五十子(いさらご)の城をおとされ、河鯉の城に去った。憲儀らは顕定に降参した。そこへ、北条早雲(そううん)とその子氏綱(うじつな)がせめいった。顕定は、武蔵にのがれた。
定正は、明応(めいおう)二年十月五日に、河鯉の城で死んだ。このとき定正は、五十二歳であった。顕定も、その五年後、北条氏にやぶれて討死した。顕定は、五十七歳であった。
三浦義同(よしあつ)も北条氏にせめられて、落城とともに自害(じがい)してはてた。千葉自胤(よりたね)は北条氏の傘下(さんか)にはいり、信濃(しなの)にうつった。滸我(こが)の成氏は、明応六年九月晦日(みそか)、六十四歳でなくなり、それから子孫が相続し、基氏(もとうじ)から九世におよぶという。長尾景春・結城成朝の子孫もつづいた。
里見義尭は、天文(てんもん)十一年(一五四二年)七月、足利義明(よしあき)とともに、下総の国府台で、北条氏綱とたたかったものの、義明が討死、義尭は上総(かずさ)にかえった。ここで、葛飾(かつしか)半郡、葛西領(かさいりょう)をうしなった。この義尭も天文二十年に死に、その子義弘(よしひろ)がついだ。
義弘はいくさをこのみ、のちに上総の佐貫(さぬき)を居とした。だが、北条氏と合戦(かっせん)をくりかえし、天正(てんしょう)六年(一五七八年)義弘は死に、義頼(よしより)がついだ。義頼は、安房の侍従(じじゅう)とよばれるまでになった。
義頼の子、義康(よしやす)の代に、安房の館山(たてやま)を居城とした。その子忠義にいたって十世である。子孫十世までつたえてきたのは、義実・義成の仁義善政(じんぎぜんせい)の流れである。

馬琴病眼(ばきんびょうがん)、筆硯(ひっけん)不自由となり、代筆もさせた。

(『八犬伝』完成にいたるまでの馬琴の苦闘については、巻末の「解説」にのべた)


あわれとは見る人おもえ 八重(やえ)すだれ
かかるやみ目に あみはたす書(ふみ)
曲亭(きょくてい)主人

解説

滝沢馬琴と『八犬伝』の世界

〔馬琴の人と生涯〕
滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』は文化(ぶんか)十一年(一八一四年)十一月、第一輯五巻が出版された。馬琴四十八歳のときである。それ以後、一年から二年おきに続刊され、最終巻は、天保(てんぽう)十三年(一八四二年)正月に刊行された。その間二十八年の歳月をついやし、馬琴は七十六歳になっていた。
それ以前の文化三年、漢籍『水滸伝』『三国志演義(さんごくしえんぎ)』などを参考とし、源為朝(みなもとのたねとも)を主人公にした『椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)』前編六巻を刊行、翌四年後編六巻、さらに同六年拾遺(しゅうい)五巻を刊行した。馬琴四十三歳である。
この『弓張月』の執筆で、馬琴は長編伝奇小説に自信をえて、構想をひろげ、『南総里見八犬伝』の筆をとったのである。
はじめ馬琴は、伝説・説話を素材としていたが、史書に興味をもち、その収集と研究をすすめた。その史実をふまえて、自由な人物を創造した。木曽義仲(きそよしなか)の子冠者義高(かんじゃよしたか)に光をあてた『頼豪阿闍梨(らいごうあじゃり)恠鼠伝(かいそでん)』なども、その時期の作である。
この前後から中国の小説本の空想力にひかれ、馬琴もそれにおとらぬ著作を長編伝奇小説として構想にかかり、前記『弓張月』、さらに日本、いや世界における最長編の一つである『八犬伝』の稿をおこした。
脱稿まで二十八年間にわたる馬琴の身辺には、さまざまな事件がおきた。
馬琴は、明和四年(一七六七年)六月九日、江戸深川の禄高(ろくだか)千石の松平信成(まつだいらのぶしげ)の屋敷内にうまれた。父親の滝沢興義(おきよし)が松平家の筆頭家臣だったからである。馬琴の幼名は倉蔵(くらぞう)といい、のち左七(さしち)、二十歳前後に左五郎(さごろう)と名のった。父は馬琴九歳のときに病死し、長兄興旨(おきむね)が十七歳で家督をついだ。弱年のため禄高をけずられ、一家は貧しかった。
そのご、興旨は松平家を去り、戸田大学忠諏(とだだいがくただもと)につかえた。幸い、馬琴は松平家の孫八十五郎(やそごろう)のもり役となったが、十四歳の冬、主家をとびでた。そのとき障子(しょうじ)に、つぎの句をしるした。

木がらしに思いたちたり神の供(とも)

馬琴は長兄興旨の長屋に世話になり、のち戸田家の徒士(かち)としてつかえた。このころから和漢の書を濫読(らんどく)し、かたわら俳諧(はいかい)をたしなんだ。この前後に元服(げんぷく)、興邦(おきくに)を名のった。
天明四年(一七八四年)戸田家を辞し、家族からもはなれ、自由な身となった。いわば放浪生活である。同年、母お門(もん)は流浪(るろう)の馬琴をあんじながら病没した。
そののち、馬琴は赤坂の水谷信濃守(みずたにしなののかみ)につかえ、さらには雉子橋(きじばし)外(一ツ橋)の小笠原家にうつり、また桜田の有馬家へと転々とした。そして、ついには病いにふし、兄のいそうろうとなった。
病床の馬琴は医書にしたしみ、医師で生計をたてるべく、全快ののち、医師の山本宗洪(そうこう)の内弟子となった。医師名を宋仙といった。それもながつづきせず、儒者・狂歌師をこころざしたが、それも糧(かて)をうるまでにはならず挫折(ざせつ)した。
寛政二年(一七九〇年)、当時、戯作(げさく)者として高名な山東京伝(さんとうきょうでん)に弟子いりをこうたが、ことわられた。ただ、出入りだけはゆるされた。翌年、きわものの『廿日余四十両尽用而二分狂言(つかいはたしてにぶきょうげん)』を出版した。馬琴二十五歳のときである。しかし、まだ筆だけでは生活できなかった。
そののち、京伝の家にすみこみ、京伝の代作をした。この習作時代で、馬琴は構成力をやしなった。この好機はさらにつづいた。地本(じほん)問屋の耕書堂(こうしょどう)に、手代としてすみこむ紹介の労を、京伝がとってくれたからである。この版元は、蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)がいとなんでいた。蔦屋は、馬琴をたんなる手代あつかいはしないで、戯作者としてあつかってくれた。『御茶漬(おちゃづけ)十二因縁(いんねん)』(寛政五年刊)などをかき、この著書から馬琴の筆名をつかった。
寛政五年、馬琴は生涯の転機をむかえた。蔦屋の世話で、飯田町中坂で下駄(げた)屋をいとなむ、会田(あいだ)家の入婿になったからである。あいてはお百といい、馬琴より三つ年うえの女であった。馬琴は、はじめ気がすすまなかったが、生活の安定をえて著述に没頭したいと念じ、入婿となった。だが、会田姓は名のらず、滝沢姓をそのままつかった。武家の出であるという誇りをたもったのである。のち、下駄屋の主人をきらい、習字の塾をひらいた。これも、ながつづきはしなかった。前記の読本(よみほん)『弓張月』の執筆にかかったからだ。その間、長女幸(さき)・次女祐(ゆう)・長男鎮五郎(ちんごろう)がうまれた。馬琴は、鎮五郎を医師にしたてようとし、医学をおさめさせた。
文政二年(一八一九年)、宗伯(そうはく)と名のる鎮五郎は、医師として一人前となり、神田明神下同朋町に家をかまえた。妻女お百と次女が宗伯の家にうつり、馬琴は長女とともに飯田町の家にのこった。
馬琴は、家族の束縛から解放されたかったのである。
馬琴の書斎は二階で、ここで書籍にうずもれて執筆に没頭した。食事の箸(はし)も机にむかったままとり、深夜までやすむことがなかった。それから読書をし、ひとねむりするとまた机にむかったのである。つかれると井戸で顔をあらったという。
こうした生活が数年つづいたが、長女幸の結婚とともに、馬琴は飯田町の家を去り、宗伯の家にうつった。文政七年五月のことである。馬琴は隣家をかいとった。
麻生磯次氏の推定によると、敷地八十坪、客間八畳、書斎六畳、中の間五畳、納戸(なんど)五畳半、ほかに畳の間二室、茶の間、そして物置である。さらに、庭には泉水・築山(つきやま)・花壇などももうけられた。花壇といっても、宗伯は医師なので、薬草を主としたものらしい。玄関の門にヤナギがあり、これが馬琴の家の目標ともなった。この家に、馬琴夫妻・宗伯夫婦(妻女をおみちという)、それに孫三人の七人がすんだ。すでに次女は、渥美(あつみ)家にとついでいた。馬琴がむすこの宗伯を医師としたのは、不安定なくらしからのがれるためであったが、生来の病弱で、医師としてはわずか数年で廃業した。それでも『八犬伝』の原稿の下読み、あやまりの訂正、校正などに協力した。
天保五年あたりから、馬琴は右の目の光をうしなっていた。むろん、筆力もおちた。それだけ収入もへりつつあった。その手だすけを病床の宗伯がしてくれていた。しかし、その宗伯は翌年五月八日、三十八歳で病没した。馬琴六十九歳である。ここに馬琴は、著作の幇助(ほうじょ)者をうしなったのである。
馬琴は、経済的理由から、悲運にないてばかりはいられなかった。幼い孫たちの将来も、馬琴の筆一本にかかっていた。太郎八歳、ほかに六歳、三歳の幼女である。滝沢家では、収入の不安定な潤筆(じゅんひつ)(稿料)をおぎなうため、奇応丸(きおうがん)・黒丸子(こくがんし)など、幾種類もの薬をうっていた。しかし、大半の収入は、やはり潤筆にたよらねばならなかった。
馬琴の全盛じぶんには、年間百両をえたこともある。読本一冊一両、合巻(ごうかん)一冊十枚がほぼ一両ていどである。読本はいわば、当時の知識ある人びとを対象とし、合巻は絵を主とする女性むきの著述である。合巻は、かきながして短日数でかきあげ、書肆(ふみや)(出版社)でも発行部数のおおい合巻を歓迎した。読本は執筆に準備を要し、文章にも工夫をもちい、日数もおおくかかった。
物書きとしては読本著述に専念したいが、合巻をすてるわけにはいかなかった。読本約四十種、黄表紙約百種、合巻約六十種が馬琴の生涯の執筆量である。ほかに随筆・紀行など約二百種、それに日記類があり、質・量とも馬琴におよぶ著述者はみあたらない。作家生活をするには、ぼう大な執筆量を必要としたのである。
ここで、宗伯の妻女おみちにふれたい。『八犬伝』完成の功労者のひとりであるからだ。
おみちは医師上岐村元立(ときむらげんりゅう)の娘で、宗伯に嫁したのは文政十年の春である。宗伯は病弱からくる癇症(かんしょう)の発作で、しばしば爆発した。おみちが癪(しゃく)で床についていても、宗伯は癇癪(かんしゃく)をおこした。馬琴は、かろうじて宗伯をとりしずめ、水天宮の神符をのませ、寝床にいれるなどした。宗伯夫婦の不仲には、馬琴もすっかりこまっていた。滝沢家の「内乱」(馬琴のことば)である。下女も、この暗い主家をきらい、ながくはいつかなかった。天保二年の一年間に、七人の下女がいれかわっているありさまである。
宗伯の死後、滝沢一家は神田同朋町から四谷信濃坂に居をうつした。孫の太郎の将来をあんじ、鉄砲同心の株付の古屋敷を購入したからである。この費用のねん出のために、馬琴は蔵書をうりはらった。『八犬伝』の貴重な資料である『房総志料(ぼうそうしりょう)』までうった。
宗伯の死についで、長女の女婿(じょせい)、清右衛門(せいえもん)が死んだ。馬琴は、すでに右目の視力をうしない、筆をとることを医師からきんじられていたが、一家の経済を負担する馬琴は、休養することはできなかった。未完成の『八犬伝』の執筆は、左目だけでつづけた。
天保十一年正月、馬琴は左目もかすみ、細字での執筆が不可能になった。十行の細字から五、六行の大字でかいた。厚いめがねを大金を出して買いもとめたが、効果はなかった。冬十一月にはいると、雲霧のなかにたたずむか、おぼろ月夜を見ているようなありさまであった。わずかに、昼夜の判別ができるだけである。
馬琴は、筆をすてるほかなくなった。『八犬伝』の脱稿もあきらめざるをえないのだ。しかし、馬琴には、物書きとしての執念があった。
宗伯の死後、おみちはいきかえった人のようだった。売薬の調合、家計の収支の仕切りなど、いっさいを引き受けたのである。さらに、馬琴はおみちに自分の目になるようにのぞんだ。視力がうしなわれつつあるころから、文盲(もんもう)のおみちに口述し、かかせることにした。『八犬伝』は難解な文字の羅列(られつ)である。馬琴は一字ごとに字をおしえ、一句ごとにかなづかいをおしえはじめた。このようすをみたお百は、年がいもなく、やきもちをやき、うらみごとをいいつづけた。そのお百も、天保十二年になくなった。
おみちの文字にたいする精進(しょうじん)はめざましかった。じゅうぶんに役にたちはじめた。そののちも、おみちは、失明の馬琴の代筆をつづけた。ほかに日記・画賛(がさん)・短冊(たんざく)類も、おみちが揮毫(きごう)したという。
嘉永(かえい)元年(一八四八年)十一月六日、馬琴は八十二歳でその生涯をとじた。
墓所は東京文京区の茗荷谷深光寺(みょうがだにしんこうじ)、法号を「著作堂隠誉蓑笠居士」という。
孤独と理想に終始した作家である。

〔『里見八犬伝』の成立〕
文化十一年正月、馬琴は読本の着想を机にむかって思案していた。そこへひとりの回国の僧がたずねてきた。僧は、貴殿の読本はかならず勧善懲悪(かんぜんちょうあく)をむねとし、よく蒙昧(もうまい)の人をさますようなものだ。これは方便(ほうべん)であろう。拙僧(せっそう)もそうだ、といった。
馬琴はわらって、用件はなにかときいた。
僧は、各地をめぐっているが、安房(あわ)・上総(かずさ)で、国守里見氏の史実をたずねたがわからず、ある日つかれて松の木の下でねむると、夢のなかに人があらわれ、いま江戸に戯作者の馬琴という人がいるが、博識奇才で、書肆(しょし)のもとめにおうじて、年々おおくの児戯(じぎ)の草紙をつづっている。それがことし、『南総里見八犬伝』の構想をたてている。これは里見氏の史実にくわしいからであろう。馬琴にきくといい、といってきえた。
僧はよろこび、木更津(きさらず)から舟にのり、訪問したといった。これにたいして馬琴は、『八犬伝』は架空のものであり、まだ安房・上総の地図も刊行されず、じぶんの知っているのは、『里見記』『里見九代記』『房総治乱記』『里見軍記』、そのほか、中村国香の『房総志料』五巻などであるとこたえた。

里見氏の史実は、こうである。上野国新田荘(こうずけのくににったのしょう)をひらいた新田義重の子に義俊(よしとし)がいる。この義俊は、同国碓氷郡(うすいのこおり)里見郷にすみ、里見氏を名のった。十二世紀初頭のことである。
義俊の子孫家基(いえもと)(季基(すえもと))は、関東公方(かんとうくぼう)の足利持氏につかえていた。この持氏が室町将軍義教(よしのり)と不和になり、いくさにおよんだがやぶれ、持氏とその嫡男義成は切腹してはてた。二男春王・三男安王は下総にのがれ、結城氏朝(ゆうきうじとも)をたよった。宝町将軍は、これをもせめ、ここに結城合戦となった。
たたかいは里見氏に利なく、家基は討死、家基の嫡子義実(よしざね)はのがれて、相州(そうしゅう)三浦をへて、房州白浜についた。嘉吉(かきつ)元年(一四四一年)のことである。義実二十五歳という。
当時、房州には、長狭郡(ながさのこおり)の東条氏、朝夷郡(あさひなのこおり)の麻呂氏、安房郡の神余(じんよ)氏、そして平郡郡(へぐりのこおり)の安西氏らがたがいに勢力をあらそっていた。義実は安西氏に身をよせていたが、その間隙をぬって房総の南部を所領し、房総里見氏の祖となった。
その後、義成・義通・実尭(さねたか)・義豊と九十余年つづき、六代義尭、七代義弘の時代には相州小田原北条氏とならぶ関東武士となった。とくに上杉謙信(けんしん)とむすび、永禄三年(一五六〇年)北条氏ぜめで軍功をしめした。しかし、九代義康の時代、豊臣秀吉の小田原ぜめにおくれた罪によって、秀吉により安房一国だけをのこして没収された。
関ヶ原の戦いには徳川家康の東軍につき、常陸国(ひたちのくに)鹿島郡(かしまのこおり)をあたえられ、本領とあわせて十二万石となった。ここに戦国大名から近世大名に変身したのである。
十代忠義(ただよし)の代に、幕府の命で伯耆国倉吉(ほうきのくにくらよし)に国がえとなり、そののちあとつぎがなく、断絶するにいたった。

馬琴は、『八犬伝』を里見義実が安房におちのびるときから書きはじめ、八犬士の暗示は、玉梓(たまずさ)の死からはじまる。
老党ふたりとともに安房にのがれた里見義実は、その地で滅亡した神余光弘の家来、金碗(かなまり)八郎孝吉とあい、小湊の里びとの協力をえて、神余の逆臣である滝田城主山下定包をせめた。光弘には愛妾玉梓がいたが、この女は定包の妻女となった。義実は、玉梓のいのちをいったんゆるしたが、孝吉の諌言(かんげん)で彼女の首をはねた。このときの玉梓の呪いが『八犬伝』の底流となる。馬琴の小説の設定は勧善懲悪だが、その悪玉は玉梓の呪いを発端としているといってもいい。善玉の底流は、伏姫の法華経(ほけきょう)信仰とかんがえられる。
伏姫にふれる。
山下定包をほろぼした義実は妻女をむかえ、伏姫と義成の二児をもうけた。義実は、タヌキの乳でそだてられたという子ウシほどの犬をかい、八房(やつふさ)と名づけた。伏姫は、八房をかわいがっていた。
いっぽう、安房・朝夷の領主安西景連(かげつら)は、里見領内の不作に乗じ、義実がこもる滝田城をせめた。飢えには勝てず、滝田は落城の日をむかえることになった。
義実は、八房にむかって、景連の首をとったなら伏姫をあたえると、たわむれにつぶやいた。しばらくして八房は景連の首をくわえてきた。これで合戦は逆転し、里見勢の勝利となり、義実は安房国の領主となった。伏姫は八房との約束をはたし、八房とともに富山の奥の岩屋にすむことになった。伏姫は、人間と畜生とのまじわりは地獄道と、八房にさとし、法華経の読経につとめた。
伏姫は、八房とのまじわりはなかったが、八房の気をうけて懐胎(かいたい)する。物類相感(ぶつるいそうかん)、これが『八犬伝』の世界でもある。伏姫は八房とともに谷川に身をとうじようと決心し、法華経巻の五提婆品(だいばぼん)をよみつづける。
そこへ金碗孝吉の遺児孝徳が、八房から伏姫をすくおうとして鉄砲をうった。八房に命中したものの、伏姫をもあやまってうってしまう。ちょうど義実も、伏姫の身をあんじて富山にきていた。伏姫は、畜生道におちぬ身の潔白をあかすため、まもり刀を腹につきたて、真一文字にかききる。すると、その傷口から白気がひらめきでた。襟(えり)にかけた水晶の数珠(じゅず)をつかみ、空になげあげる。数珠は、きれておちるが、その百八のうち、八つの珠が流星のように消えさった。この八つの珠には、仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌と、一字ずつうかびでていた。
金碗孝徳は、丶大(ちゅだい)と名のって出家し、その八つの珠のゆくえをもとめて回国の旅にでる。いわば、『八犬伝』の狂言まわしの役である。
八犬士は、それぞれ一字のあらわれた珠をもち、またそれぞれにボタンの花の痣(あざ)がある。それが、義兄弟のしるしともなり、たがいに名のりあうきっかけともなる。
ここから、犬塚信乃戌孝・犬川荘助義任・犬山道節忠与・犬飼現八信道・犬田小文吾悌順・犬江親兵衛仁・犬坂毛野胤智・犬村大角礼儀の八犬士のさまざまな人生模様が展開されていくのである。
ともあれ、この大長編伝奇小説『南総里見八犬伝』は、中国の古典からのヒントがあったにせよ、武家的な理想社会を憧憬し、自己格闘をしつづけた馬琴によって、東洋的な完璧な作品としてつくりあげられた。いまなお『八犬伝』は、馬琴の詩魂とともに、ふつふつとして生きつづけているのである。(訳者)

訳者紹介
山田野理夫(やまだのりお)
一九二二年、仙台生まれ。東北大学で吉田良一教授につき日本史専攻。東北大学農学研究所農業経済研究室をへて、宮城県史編さん委員として、キリシタンと養蚕史を調査・執筆。長谷川伸主宰の新鷹会に属し、作品を発表。日本文芸家協会・日本ペンクラブ・日本現代詩人会・日本詩人クラブ・神奈県詩人の会などの会員。おもな著書に「おばけ文庫」(全12巻)「お笑い文庫」(全12巻)『天にかえったジュリア』(以上太平出版社刊)、『南部牛追唄』(第六回農民文学賞)、『歴史家喜田貞吉』『東京きりしたん巡礼』『東北戦争』『柳田国男の光と影』『東北怪談の旅』『みちのく伝説集』『山田野理夫詩集』など多数ある。
◆里見八犬伝◆ 巻四
滝沢馬琴作/山田野理夫訳

二〇〇五年七月十五日