滝口康彦
猿ケ辻風聞
目 次
萩の雨
小隼人と源八
折鶴さま
猿ケ辻風聞
松木騒動書留
琴の調べ
勝頼に責めありや
侍ばか
命のお槍
敬老の宴
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萩の雨
一
城下では知らぬ者もない、正法寺の萩が見ごろになった秋のはじめ、津田喜八郎と浅野勝弥がうちつれて、三の丸外の高槻家にやってきた。たまたま途中でいっしょになったわけではなく、あらかじめ申し合わせてのことである。
応対した高槻源左衛門の話では、座敷へ通された二人は、しばらくは、ひどくぎくしゃくした様子だったという。
「それで、すぐ察しがついたわ」
二人の用件は、
「三重どのを妻に申し受けとう存じます」
というにあった。不公平にならぬよう、つれだって伺った。どのような結果になっても、たがいに遺恨ははさまぬ。お聞き届け願えれば、早速にも父の名をもって、正式に藩庁に願い出るつもりである。
以上のようなことを、二人はかわるがわる述べた。汗まみれだった。
源左衛門は、多少変わったところがある。そのせいか、仲人も立てず、当人がじかに乗りこんできた非礼に腹を立てたふうもなく、かえって興がっている様子だった。というのも一つには、二人が娘三重の相手として、まず申し分がないからであろう。
喜八郎は、二百石をはむ津田家の跡取りだし、勝弥の方も、百八十石をいただく浅野家の長男、五万石そこそこの小藩では歴々のうちにはいる。それに二人とも、
「若いがなかなかの器量」と評判がよかった。
年は喜八郎が二十六、勝弥は二十五だが、実際には三月しか違わない。緊張のせいだろう。喜八郎がふうっと息をつき、右手の甲で額の汗をぬぐった。勝弥は、左手を額にやった。
「わかった。考えさせてもらおう。返事は後日あらためて」
笑いをこらえた源左衛門は、ひとまずそう答えて二人を引きとらせた。
「では勝弥」
「うん」
うなずき合って辞去する際は、さっきまでのかたさが、嘘のようにほぐれて、小気味よいくらいだった。
夜になって、三重は父に呼ばれた。母や兄の多聞《たもん》もいっしょである。
「多聞、そちはどう思うな」
「どちらを選ぶにしても、てまえに異存はございません」
多聞はかなり乗り気だった。三重にしても、唐突すぎる点をのぞけば、そう悪い気はしない。喜八郎と勝弥のどちらとも、行きずりに二、三度目礼をかわしたくらいだが、うわさはよく耳にしていたし、ひそかにこのもしさを覚えてもいた。
「ただ、喜八郎の場合……」
一つだけ難がある、と多聞は心もち眉をひそめた。
「妹さまのことですね」
「そのことよ」
多聞にかわって源左衛門が答えた。喜八郎の妹で、三重より一つ若いことし十八の小夜は、ここ数年来、労咳《ろうがい》(肺結核)をわずらって、寝たり起きたりだった。そう長くはあるまいとのうわさも聞く。
それを考えると、たしかに二の足ふみたい思いはする。けれど、一方では、
「だからこそ、お世話してあげなければ」
と逆な気持も動いた。
「どうする」
源左衛門が三重の目をのぞきこんだ。口出しこそしないが、母も気がかりらしい様子である。喜八郎も勝弥も、
「どんな結果になっても、たがいに遺恨ははさまぬ」
と誓ったとはいえ、やはり多少の気の重さはいなめない。
「なんとしたものか……」
迷っているうちに三重は、ふっといいことを思いついた。
「お二人に、わたしの目の前で立ち合っていただきましては」
「不公平ではないか。喜八郎が勝つにきまっている」
律義《りちぎ》な多聞は、三重のことばをもろに受けとったらしい。勝弥もいちおうの剣を使いはするが、藩内でも三つの指に折られる喜八郎には、はるかに及ばない。
「そうだろう」
三重は微笑を浮かべた。
「お勝ちになった方をえらぶなどとは、一言も申してはおりませんのに」
「そうか。そういうことか」
多聞より先に、三重の気持を読みとって、源左衛門がひざをたたいた。多聞はまだ気づかずにいる。
そこが、多聞のよさでもあった。
翌日、源左衛門は、使いに託して、意向を二人に伝えた。
「ご返事は別々にいただきたい」
書状の末尾にそう書き添えた。
どんな返事がもどってくるか、三重は、期待と不安が半々だった。三重の心はきまっていた。もし、腕の立つ喜八郎が、立ち合いを承知すれば、即座に喜八郎の申し出を断るつもりだし、勝弥の場合は、喜八郎の逆を考えればよかった。つまり、
「立ち合わぬ」
といえば、勝弥を見捨てるわけである。だが、三重のかけは、結果として、宙ぶらりんの形になってしまった。返事の届いた時刻こそ、いくらかずれがあったものの、双方、申し合わせたように見事な答えだったからである。喜八郎からは、
「承知できませぬ」
と答えてきたし、勝弥の方は、
「承知いたしました」
と、これまたいさぎよかった。
「さてもさても」
源左衛門は上きげんだった。
「しかし、喜んでばかりもおれんな」
これは困ったといいながら、その実、楽しんでさえいるふしが見えた。当の三重にとっても、うれしい困惑といえる。
「なんとするな、三重」
「はい……」
これという思いつきもない。二、三日、じっくり考えてみるつもりだった。ところが、それどころではなくなったのである。
二
双方のいさぎよい返事が届いて四日目だった。朝早く、浅野勝弥が一人でやってきた。玄関先に立った勝弥は、目を血走らせ、真っ青な顔をしていた。
座敷に茶を運んでいったあと、三重は次の間にさがって耳をすました。勝弥は、茶を口にする気配もない。
「お待たせ申した」
一足おくれて座敷にすわった源左衛門も、すでに異常を察したふうである。ややあって勝弥が口をひらいた。
「先日の申し出、はなはだ勝手ながら、お忘れ願いとう存じます」
「どうしてじゃ」
さすがに源左衛門の声がとがった。
「喜八郎が……」
そこで、勝弥の声がとぎれた。
「喜八郎がなんとした」
「気の毒に……」
そのあと、よく聞きとれず、つぎに、だるまのようなということばが、三重の耳に残った。その意味がわかるのにしばらくかかった。三重はふるえはじめた。
「両足を失うたと……」
源左衛門の声も変わっている。
「いったいなにがあったのじゃ」
「喜八郎は、上意討ちの討手を仰せつかりました」
一昨夜、家老屋敷に呼ばれて、申し渡されたのだという。
「相手は南坊隼人《なんぼうはやと》です」
南坊隼人の名は、女の三重でさえ知っている。年は四十前後と聞くが、狷介《けんかい》不屈、藩内でもきらわれ者だった。そのうえ、剣をとれば抜群なので、だれもがもてあましていた。
先年、主君の勘気《かんき》をこうむり、御前をしりぞけられてから、いよいよ言動がすさんで手がつけられず、果ては主君の悪口をまき散らす始末で、
「なんとかせねば」
という声が上がっていた。しかし、なまなかな者では、隼人は討てない。慎重な人選の結果、
「あの男なら」
と、喜八郎に白羽の矢が立ったのである。
「かしこまりました」
即座にお受けした喜八郎は、昨日の午後、門脇忠右衛門を副使として、南坊隼人の屋敷に乗りこんだ。
「上意」ということであれば、たいてい観念して手向かいしないものだし、たとえ手向かっても、形ばかりにすぎないのがふつうである。だが隼人は血で足がすべらぬよう、部屋という部屋の畳を裏返しにし、敵意をむき出しにして待ち受けていた。
すさまじい一騎討ちだった。といって、はげしく斬り結んだわけではない。たがいに白刃を構えたまま、双方、釘づけになったかのようで、副使の門脇忠右衛門は、助太刀にはいるすきもなかった。
それでも、最後には、気力体力ともまさる喜八郎の若さがものをいい、相討ち覚悟でふみこんだ一撃をかわしきれず、隼人は床柱のきわに倒れ伏した。
勝負がつくまでにほとんど一|刻《とき》(二時間)を要した。勝った喜八郎も精根つき、刀を杖に片ひざつきとなって、ぜいぜいあえぎつづけていたという。
「津田どの、とどめを」
忠右衛門の声にわれに返って、隼人のそばに近づいた喜八郎は、つぎの一瞬、絶叫とともに、頭を畳に突きこむような倒れかたをした。両足ともひざから下がなかった。
「覚えたか……」
一言残して、隼人はこと切れた。
「で、喜八郎は……」
「門脇どのの血どめの処置が早かったため、命だけはとりとめそうです……」
勝弥の声は悲痛だった。いっそ死んでくれた方が、本人のためにも幸いだったかもしれぬ――そういいたいひびきを、ふすま越しに三重は感じた。
命はとりとめても、両足を失ってはどうしようもない。奉公をつづけるなど、望むべくもなかった。当然津田家では、喜八郎については廃嫡《はいちやく》の措置をとり、弟の左京を跡目に直すことになろう。
「それを思えば、わたくしも、引きさがるほかございません」
「三重を妻にはできぬというのだな」
「人間なら……」
「ようわかった。先日の話、いかにもなかったことにしよう」
「かたじけのう存じます」
つかの間、沈黙がおとずれた。三重が、ふすまぎわにいることを、源左衛門は気づいていたらしい。
「三重……」
それだけで、父の思いが通じた。勝弥が辞去するおり、三重は父といっしょに玄関で見送った。
勝弥は一礼すると、まっすぐ門まで歩いていった。門の手前で、ほんの一瞬立ちどまったのは、振り返ろうとしたのかもしれない。が、とっさに思い直したらしく、そのまま門外へ去った。勝弥の姿が見えなくなるのを待って、源左衛門がぽつんともらした。
「三重、当分縁組みの話が出ても、すべて断る。よいな」
明らかに、喜八郎と勝弥への心づかいに違いなかった。
その後、喜八郎の身の上は、思っていたとおりになった。津田家では、喜八郎を廃嫡、かわって弟の左京を跡目に直し、藩庁でもそれをみとめたのである。
ただし、廃嫡されたとはいえ、上意討ちの討手を仰せつかった際の奇禍《きか》ということもあり、喜八郎には、永代三十石を賜わるとの恩命があった。そのうわさは、三重に喜びよりもいたましさをもたらせた。
いつどこにも、心ない者はいるらしい。喜八郎のことを、
「あのようになっても生きていたいものか」
とあざける者さえあると聞いて、三重はからだがふるえるほどの腹だちを覚えずにはいられなかった。
だるまのようになっても、なお生きようとした喜八郎のほんとうの気持が、はっきりとわかったのは後日のことである。
三
その後、お二人のご消息を聞くこともなくなりました。わたくし自身に、なるべくうわさが耳にはいってくるのをさけたい気持があったこともたしかです。
ところが、新しい年が明けて、松がとれたばかりのある日、わたくしは、みずぐきの跡うるわしい女文字の手紙をもらいました。そのふみには、
「一度お目にかかって、お話し申し上げたいことがございます。勝手ながら、おひまのおりに、お越し願えませんか」
という意味のことが、手短かにしたためてございました。差出人は、喜八郎さまの妹御小夜さまです。
小夜さまとわたくしは、わざわざおたずねするほどの仲ではありません。単なる顔見知り程度で、あの方がまだお元気だったころ、道で出会って、何度か目礼をかわしたことがあるくらいです。でも、だからといって、知らぬふりをするわけにもいきません。お手紙の文面には、なにかいうにいわれぬ必死なものがこもっておりました。
「行くがよい」
父もそういってくれました。
小夜さまのご病気のことも考えたわたくしは、あまり寒くない日をえらんで、津田さまのお屋敷をたずね、まず母御さまにお目にかかりました。あいさつをすませたあと、喜八郎さまへの見舞いの品を差し出して、一目お逢いしたい旨を告げますと、母御さまは悲しげに首をふり、
「見舞いのお品だけをいただかせてくださいまし」
とおっしゃいました。それ以上、たってもとは申しかねました。
「小夜がお待ちしております」
やがて母御さまは、廊下つづさのささやかな離れへ、わたくしをご案内されました。離れは、六畳と四畳半の二間で、入口の方が四畳半になっています。母御さまは、そこへわたくしをすわらせてから、間のふすまをおあけになりました。
青く透き通るような、小夜さまの細おもてが、目に飛びこんできました。無理をして、起きていてくださったらしいご様子が、一目でわかりました。背後の床の間には、青磁の花瓶が置かれ、無造作に白椿が投げこんでございます。
もともと武家では、椿をきらいます。ぽろりと落ちる花の散りようが、首が落ちるのを思わせるせいとか聞きました。その椿を、小夜さまが愛《め》でられているのは、長くは生きられぬご自分に見立ててのことでしょうか。
「日ごろ親しくもいたしておりませんのに、わがままを申しました」
かぼそい指をそろえ、両手をついてお礼を述べたあと、小夜さまは、
「どうぞ後ろ向きになってくださいまし」
とおっしゃいました。見れば、ひらいた水色の扇で、自分のお口をさえぎっておいでです。胸がいっぱいになったわたくしは、素直に小夜さまに背をむけました。すぐに声がかかりました。
「三重さま、わたくしの命は、あと一年とは持ちません」
「そんな……」
「いいえ、自分でわかっています。そのことで、今日はお願いがあります。わたくしが死ぬまでは、どなたから縁組みのお申し入れがあっても、決してご承諾なさらないでくださいまし……」
「なぜですの」
「わけは申し上げられません。黙ってご承知願いたいのです」
突っぱねるというほど強い調子でこそないものの、とりようしだいでは、ずいぶんと高飛車なことばです。けれど、わたくしには、ひたむきななにかが感ぜられて、格別腹は立ちませんでした。
「お聞き届け願えましょうか」
こんどは、すがりつくような響きでした。どのみち去年の秋、当分縁組みは断ると父にいわれてもいましたし、当のわたくしにしても、同じような気持でしたから、
「承知いたしました」
とためらわず答えました。
「それから、この先、わたくしの身になにがあっても、わたくしを信じていただきとうございます」
「はい、そういたしましょう」
「それをうかがって、安心いたしました」
小夜さまの口もとがわずかにほころびたらしいのが、気配でわかりました。
それにしても、いったいなんのために。わたくしには、見当もつきません。兄の喜八郎さまのためだろうかとも思いましたが、そうでもないようです。ともあれ、いつかはわかる日がくるだろうと、しいて納得し、ほどを見て、
「では、これでわたくし……」
と小夜さまの方に向き直りますと、そのときはもう、小夜さまの方が、こちらに背を見せておいででした。肩のあたりが、目に見えるか見えないかに波うっていました。
小夜さまの背中に、いま一度あいさつをしてから、わたくしは廊下に出ました。後ろできぬずれの音がしました。
「あ……」
と小さな声がもれ、同時に人の倒れるような物音がしたのは、わたくしが五、六歩去りかけたときです。わたくしがあわてて引き返そうとすると、
「お気づかいなく」
落ちついた小夜さまの声がしました。
四
寝耳に水のような話を耳にしたのは、それから半月ばかりたったころです。しばらくは信じられませんでした。
なんと浅野勝弥さまと、小夜さまとの縁組みがととのったというのです。勝弥さまのお父上、浅野善之介さまから、正式に書面をもって藩庁に願い出があり、さしたる故障もなくお許しがおりたということでした。
小夜さまのご病気が容易ならぬことは、先日、わたくしを見送りに立とうとして、くずれ伏してしまわれたのでも、十分察しがつきます。
「そんな小夜さまが……」
当然、いろんなうわさが立ちました。
「物好きにもほどがある」
「一年もせぬうちに死ぬとわかった娘を、わざわざ嫁に迎えるとはなあ」
「押しつける方も押しつける方じゃ」
父御の津田喜右衛門さまが、浅野家をたずねて懇願されたと聞きます。かと思うと、一方では、
「いいや、喜右衛門どのではない。だるまどのが、勝弥どのに頼んだそうな」
といった取沙汰もありました。だるまどのとは、いうまでもなく、両足を失われた喜八郎さまのことです。
そうしたうわさに、どこまで真実がふくまれているかは、この目でたしかめたわけではなし、わたくしには知りようもありません。ただ縁組みがととのったことだけは、まぎれもなく事実でした。
葉桜のころ、吉日をえらんで祝言《しゆうげん》が挙げられました。喜八郎さまも、祝言に列せられ、背後からどなたかに抱きささえられつつ、朗々たるお声で謡《うたい》をうたわれたということです。
「わたしの身になにがあっても」
とおっしゃった小夜さまのことばは、このことだったのか。わたくしは、あらためてあの日のことを思い浮かべました。小夜さまの真意は、なお汲みとりかねますが、気まぐれなどでないことだけは、疑いをはさむ余地もありません。
当の小夜さまからは、なんの知らせもありませんでした。そのことで、わずかな動揺もなかったといえば嘘になります。
「ともあれ、小夜さまとのお約束、守るほかはない」
そう自分の胸にいい聞かせました。
「小夜どのは思いのほかに元気らしい」
兄の多聞が小夜さまのご様子を伝えてくれたのは、祝言から一月もたったころでしたろうか。実家にいたころは、寝たり起きたりだったのに、いまでは床につくこともなく、かいがいしい若女房ぶりというのです。
けれど、それがやはり無理だったのでしょう。夏の初め、おびただしい血を喀《は》き、その後は寝たきりでした。そして、いくほどもなく明日をも知れぬほどになられたのです。
正法寺の萩の見ごろには、いくらか間のある、とある日、すぐきてほしいと、浅野家から使いが見えました。
父の許しもそこそこに、浅野家にかけつけると、すぐに小夜さまの枕もとに通されました。枕もとには、勝弥さまのご両親がおいででした。勝弥さまは、どこかへお出かけと見え、お姿がありません。
小夜さまは、以前にお逢いしたときより、もっと痩せ細って、一目見ただけで、胸がつまりそうでした。それでいて、表情は不思議なほどの明るさです。
「あと五、六日は持ちそうです。いまのうちにと思って、ご無理申しました」
意外にしっかりしたお声でした。そのときまでわたくしは、小夜さまのお気持が、十分にはわかりかねていました。
「なにかおっしゃりたいらしい」
察しがついたのはそれくらいのことです。どんな頼みがおありなのか、そこまでは見当もつきません。
「三重さま、死んでいく人間の頼みです。いやとはおっしゃらないでくださいまし」
「たいていのことなら……」
「いいえ、どんな無理でも……」
必死のまなざしでした。以前にお逢いしたときは、小夜さまは、わたくしに息を吐きかけまいとなさったものです。それがいまは、まともにわたくしを見つめて、顔をそむけもなさいません。
目がすこし動きました。
「ご両親さま」
「なんだな」
「思うとおりにいいなされ」
勝弥さまの父御と母御が、にじり出られました。小夜さまの唇が、かすかにふるえているようです。
「お願いがございます」
「聞こう。なんでもいうがよい」
そのあとの小夜さまのことばを耳にして、思わずわたくしはあっと叫びそうになりました。
「わたくしが死んだら、この方を、勝弥どのの後添《のちぞ》いに迎えてくださいまし、ほかのお人ではいやでございます……」
「小夜さま……」
そうか。そういうことだったのか。小夜さまの思いが、初めて胸におさまりました。喜八郎さまが奇禍にあわれると、勝弥さまは、即座にわたくしのことを断念されました。日ごろのご気性からして、勝弥さまはふたたび意をひるがえされることはない。それを小夜さまもご承知だったのです。
「けれど、死んでいく者の頼みなら……」
小夜さまはきっと、そう思いつかれたに違いありません。
「これは、兄喜八郎の願いでもございます。ご両親さま。三重さま……」
「わかった。わしにまかせておけ」
大声でおっしゃった父御の目がうるんでいます。かたわらで母御もうなずかれました。ややあって、お二人は席を立たれ、枕もとには、わたくし一人が残りました。
「三重さま、お礼をいいます……」
「でも、わたくし……」
まだ承知したわけではありませんのに、といいかけると、
「いいえ、そのことではないのです」
小夜さまは口もとをほころばせて、
「わたくしは、初めから、勝弥どのとあなたを結びつけることだけ考えていたわけではありません……」
自分の夢もかけました、とかぼそい声でおっしゃいました。
「ご自分の夢……」
「女に生まれながら、殿御に添いもせず死ぬなんて……」
こけた青白い頬に、みるみる紅がひろがりました。
「半分は、勝弥どのとあなたを、だしにしたのです……」
きっと、自分へのいいわけなのでしょう。寂しい笑いでした。思わずわたくしは、つめたい小夜さまのお手を、しっかと握りしめておりました。
五
小夜さまが息を引き取られたのは、それから七日後の夕方のことです。わたくしも、死顔を拝ませていただき、正法寺でいとなまれた葬儀にもつらなりました。小雨の降る日でした。
またたく間に一年が過ぎて、いまわたくしは、小夜さまの墓前にぬかずいています。祥月《しようつき》命日は昨日でした。ひとりで参るために、わざと一日ずらしました。
今日も小雨が降っています。
小夜さまの一周忌もすんだのに、わたくしは、いまだに決心をつけかねています。わたくしの気持さえかたまれば、勝弥さまの父御が、すぐにも藩庁に縁組みの許可を願い出られる運びですが、どうにもふみきることができません。
この一年、考えぬきました。
勝弥さまではなく、喜八郎さまのささえにこそなって差し上げるべきではないか。そうも思いました。けれど、申しわけないことながら、そこまで自分を殺す気にもなりかねます。
当の喜八郎さまは、わたくしたちの祝言を首を長くしてお待ちとか聞きました。多分喜八郎さまは、勝弥さまと小夜さまのご祝言のとき同様、こんども謡をうたわれるおつもりかと存じます。
わたくしには、それがとても堪えられそうにありません。きっと場所がらもわきまえず泣き伏してしまうでしょう。わたくしは、その旨、父を通じて勝弥さまに申し上げました。
数日して勝弥さまがお越しになりました。勝弥さまは、
「もっとつらいことを覚悟せねばならぬ」
とおっしゃいました。わたくしには、よくわかりませんでした。
「あいつ、よくもいままで生き抜いてくれたわ……」
語尾のふるえに気づいて、思わず見返すと、勝弥さまの目に、あふれるほど涙がたたえられています。
「これからも、ずっと生き抜いてくれ。そんなきれいごとはおれにはいえぬ」
一瞬、息をのみました。勝弥さまの言葉の裏にこもっている、おそろしい重さが、胸になだれこんできました。
喜八郎さまは死ぬ気でいらっしゃる。勝弥さまとわたくしの婚礼を見届けて……。
でも、それをはっきり、勝弥さまにたしかめたりはできません。そんな思いが通じたのでしょうか。勝弥さまは、わたくしから目をそらして、ひとりごとめいた言い方をなさりました。
「おれなら、とっくに気が狂ったろうよ。とっくに命を絶っていたろうよ……」
その声が、耳にこびりついています。
まだ決心はつきません。
絶望のなかで生きぬいてこられた喜八郎さまのご厚意を受けるのも重荷なら、しりぞけることもまた重荷です。
ここ正法寺は萩の名所といわれるだけあって、そこかしこに、萩が乱れ咲いています。小夜さまの墓の奥にも、紫がかった赤い小さな花を無数につけた一むらが見えます。
雨脚がはげしくなってきました。からかさから流れ落ちる雨水の勢いがまして、みるみるすそをぬらします。
小夜さまに別れを告げてくびすを返すと、その方角にも、萩の一むらが見えました。赤紫の色が、しぶきのなかに、白っぽくにじみはじめました。
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小隼人と源八
一
「あの二人、どうした」
座敷にもどってきた妻女のつねに、市左衛門はたずねた。
「肩をならべて、仲よう門から出ていかれました」
と、つねは答えた。つねは、まだなにも気づいてはいないらしい。
「おかしなやつらよ」
市左衛門は思い出し笑いをした。
「仲がよいにもほどがある」
「でも、仲がいいというのは、よいものでございます」
つねの返事は、市左衛門から見れば、たいそう間がぬけている。
桜もそろそろ散りかけた今日の昼すぎ、二人の若侍が、津川家にやってきた。幾野源八と朝倉|小隼人《こはやと》だった。源八は、馬回り組百五十石、幾野家の跡取り、小隼人も、同じ馬回り組百七十石、朝倉家の長子である。年はどちらも二十六歳。
顔は見知っているし、家中の評判も聞いてはいるが、わざわざたずねてくるような間がらではなかった。ともあれ、座敷に通し、市左衛門が応対した。二人は半刻《はんとき》(一時間)たらずで辞去した。
「おかしなやつらよ」
市左衛門はまたつぶやいた。
「なにがでございます」
「あきれて二の句がつげぬ」
そのくせ、腹を立てた顔ではない。むしろ喜んでいるふうにも見える。つねはやっと思いあたった。
「もしや……」
「そうよ」
「仲人も立てずにでございますか」
いいかけてつねは、二人の客が、同じ年ごろだったことを思い出した。
「それで、どちらがみちをお望みなのでございます」
「一人なら、こうはおどろかぬ」
「では、お二人とも……」
「さよう」
市左衛門は、ついさっきのことをゆっくりと思い浮かべた。初め源八が、
「みちどのを」
といい、小隼人が、
「妻に申し受けとう存じます」
といい添えた。市左衛門が、しばらく返事もできずにいると、こんどは小隼人が、
「みちどのを」
といい、源八が、
「嫁にいただきとう存じます」
としめくくった。一人の頼みを、いま一人があと押ししているのでなく、二人が同じことを同時に申し出ているのだ、とようやくわかった。
「おぬしら、ものいう順までしめし合わせてきたのか」
「こよりでくじを作りました」
二人いっしょの返事だった。
「ご承知いただければ」
「父の名義をもって、正式に藩庁に願い出ます」
また、二人がかりの申し入れである。実は三、四日前に源八のほうが、
「津川家のみちどのを嫁にもらいたいが、おぬし、どう思う」
と相談をもちかけたところ、
「いかん、そりゃあ困る。おれが困る」
小隼人がひどくあわてた。
「やはりか」
と源八はいった。
「そうとわかった以上、ぬけがけはできんな」
「おれもぬけがけはせぬ」
その結果が、二人打ちそろって、突然の今日の訪れだった。
「おかしなやつらよ」
「まことに」
つねもおかしかった。
ふつうなら、源八に先に打ち明けられた場合、たとえこっちも、心憎からずみちを思っていたにせよ、それは色にも見せず、黙って身を引くのが侍ごころである。それを小隼人は、あわてふためいて、
「それは困る。おれが困る」
と本音を吐いたという。
「けれど、考えようでは、いっそ小気味ようございますな」
夫の市左衛門にしても、つねと同じ思いに違いない。しきりにくり返す、
「おかしなやつらよ」
ということばには、はっきりと好意がこもっている。でなければ、
「仲人も立てず、当人がのこのこやってくるとは無礼であろう」
と、追い返しもしかねない津川市左衛門なのである。
「さて、なんとしたものか」
市左衛門は腕を組んだ。このような場合、武家のならいとして、いちいち家族の意向を聞いたりはしない。九分九厘までは、当主が一存で断をくだすのだが、市左衛門は、夜になってから家族を集めた。といっても、当のみちと、長子の弥十郎、それに、女房のつねだけである。
弥十郎は二十五。源八や小隼人と、じかにつき合いはないのだが、二人の評判にはかなり通じているらしく、
「あの二人なら、どっちにころんでも不足はございませんな」
といった。だから、こんどの話に賛成かと思うと、決してそうではなく、
「しかし、断るべきでございましょう」
と逆の意向を表明した。その理由は、市左衛門にも察しがつく。
「二人の仲に、ひびを生じさせてはならぬ。そうだな」
弥十郎は無言でうなずいた。
「そうとばかりはかぎりますまい」
つねが異をとなえた。
「今日のお二人のご様子からも、みちのことで、ひびがはいるなど考えられませぬ」
これにも理はある。
「いいえ、やはり断るべきと存じます」
二人に対して恨みはない。いや、みちの相手として、願ってもないとさえ思うが、承知すべきではないだろう、と弥十郎は主張した。
ずっとうつむいたきりのみちが、わずかに顔を上げ、すぐまた伏せた。ことばに出してこそなにもいわなかったものの、ほんの一瞬微妙なかげがかすめたのを、市左衛門は見のがさなかった。
「わしは、できれば承知したい」
「父上がご同意なら、わたくしは、あくまで反対とは申しませぬ」
まだ部屋|住《ずみ》の弥十郎としては、当主の市左衛門の意志に逆らうわけにはいかず、あっさり自説をひるがえした。
つねにしても、異存はない。仲人も立てず、しかも二人がいっしょに押しかけての直談判《じかだんぱん》はいささかとっぴすぎるが、公平に判断して悪い縁談ではなかった。問題は、二人のどちらをえらぶかにある。
「みち、そちはどう思う」
いよいようつむくみちにかわって、
「そんなこと、無理でございます」
つねが助け舟を出した。
「いささか迷うの」
とはいったものの市左衛門は、それほど当惑しているわけではない。ひそかに、楽しんでいる様子さえうかがわれた。
「父上、なにもこちらで選ばずともよろしゅうございましょう」
弥十郎が白い歯を見せた。
「なるほど」
市左衛門も気がついた。たしかに、かならずしも、こちらできめることはなかった。相手に下駄を預けることもできる。
「みち」
その先はいわなかったが、みちには、父がなにをいっているのか読みとれた。自分できめられることではなかった。
源八とも小隼人とも、何度か行きずりに顔を合わせたことはあっても、ことばをかわすなど思いもよらぬ。二人のどちらも、いやではなかった。
「父にまかせるか」
「はい」
蚊の鳴くような返事であった。
二
数日たった午後、源八と小隼人がやってきた。前日に、市左衛門が使いを出した。
「ご書状、同じ時刻にいただきました」
「お心づかい、いたみ入ります」
二人は、かわるがわる述べた。使いは、同時に両家へ行かせた。
「しばらく門の外で待ち、暮れ六つの鐘を合図に案内《あない》を請《こ》え」
と申しつけた。
「皮肉でしたわけではない」
「わかっております」
二人は心もちにじり出る。
「先ごろのお申し入れ、お受けする用意はある。ただし、当方できめるわけにはまいらぬ。お二人で話し合っていただこう」
市左衛門はそう切り出した。
「承知いたしました」
源八も小隼人も、異存はなかった。
「こういう手があったか」
津川家の門を出るとき、二人は顔を見合わせ、にこっと笑った。ちょうどそこへ、弥十郎が道場から帰ってきて、ばったり会った。二人の様子は、弥十郎の口から、市左衛門の耳にはいった。
「おかしなやつらよ」
市左衛門は、口ぐせになってしまった一言を、またもらした。
「楽しみだな」
あの二人が、どんな決着のつけかたをするか、見ものであった。ああかこうか、想像をめぐらせているうちに、市左衛門はひとりでに笑みがこぼれそうになった。
「不謹慎でございますよ」
つねがたしなめた。そのつねにしても、妙にうれしそうな表情を隠しきれずにいる。弥十郎も同様だった。ただ、当のみちは、いくぶん浮かぬ顔をしていた。
自分のことで、仲たがいだけはしてほしくない。きっとそれが、頭の隅にこびりついているのだろう。
「みち、気にすな。あいつら、きっとうまく話をつける」
弥十郎が横からいった。
また数日たった。すっかり花が散って、みずみずしい葉桜に変わったが、あの二人からは、その後なんの申し入れもない。
ときどき、みちがため息をもらした。
「待っているのだな」
かわいそうな気もするが、こればかりはどうしようもない。つねも、内心では、いらいらしているようだった。そ知らぬふうをしている弥十郎も、見かけほど冷静ではないらしい。その弥十郎が、ある夕方、道場から暗い顔でもどってきた。
「幾野権之丞どのが、人手《ひとで》にかかって果てられたそうです」
「なに、源八の父御が」
役目上の論争が原因で、いい負かされた工藤伝右衛門に斬られたという。
「昨夜のことと聞きました」
「待ち伏せか」
「いいえ。庭に忍びこんですきをうかがい、一刀のもとに斬り捨てて、そのまま行方をくらませました由」
「とすれば、縁談どころではないな」
近く源八に、家督《かとく》を譲ろうという矢先の思いがけない奇禍だった。こうなれば、仇討ちを果たすまでは、家督相続もお預けということになる。
翌日、小隼人がやってきた。
「とりこんでおりますゆえ、源八にかわっててまえがまいりました」
先般の申し入れは、勝手ながら、なかったものとしていただきたい、という源八の口上を、小隼人は伝えた。
仇討ちといえば、はなばなしいようだが、現実には、なみたいていなことではない。三年、五年のうちに、本懐《ほんかい》をとげるのは、めずらしい例で、運が悪ければ、十年、十五年たっても、仇にめぐり会えぬことさえある。
本懐をとげぬかぎり、帰参は許されなかった。あてどなく、さまよいつづけるか、帰参を断念して、別な人生を歩むか、それ以外に道はない。
「運よく五年で仇を討っても、みちどのは、二十三にもなられます」
そのようなことはできぬ。よって、先般の申し入れは白紙にもどしたい。
「以上が源八の口上でございます」
と小隼人はいった。
「おてまえはどうなさる」
「むろん、源八同様、引きさがらせていただきます」
「いさぎよいことだ。承知いたした」
理由が理由、惜しいが、市左衛門としても断念せざるを得ない。そのあと、小隼人は、しばらく黙っていた。まだ、なにかいいたいらしい。
市左衛門の勘はあたった。
「ついては」
小隼人は切り出した。
「なにごとかな」
「源八の申し出は申し出として」
向う三ヵ年のうちに、源八が首尾よく本懐をとげれば、みちどのを、源八にとつがせてはいただけまいか。
小隼人はそう告げた。
「このこと、当の源八には、内聞にて、お考えいただきとう存じます」
「さような約束はできかねる」
「そこをまげて」
「くどい」
市左衛門は突っぱねた。しかし、心にはとめた。
「出すぎたことを申し上げました」
小隼人は、一礼して去った。このときのことを、数日してみちは知った。
「源八さまを待とう」
と思った。
五月になって間もないある日、津川家の玄関先に、源八が立った。旅支度だった。市左衛門が顔を出した。
「まず上がられよ」
「いえ、このまま失礼いたします」
「仇討ちに出られるのか」
「四十九日もすませましたゆえ」
「めでたくご本懐をとげられるよう、心よりお祈りいたす」
「かたじけのう存じます」
ていねいに頭をさげた源八は、あらたまった顔になった。
「勝手ながらお願いがございます」
そのあと、いいよどんだ。
「申されよ」
市左衛門は、いいやすいように誘いをかけた。
「みちどのを、小隼人におつかわし願えませぬか」
「小隼人は辞退すると申した」
「そのことなら、わたくしも、当人から聞いております」
「ならばいまさら」
「いえ、ぜひともお聞き届けを」
「せっかくだが」
市左衛門はとり合わなかった。それ以上、押してもむだと思ったのか、
「ご無礼いたしました」
源八は一礼して、旅姿の背を見せた。
「おかしなやつらよ」
市左衛門はまたつぶやいた。
三
源八が仇討ちの旅に出て、二度正月を迎えた。そして、梅が散り、間もなく桜の季節が訪れる。
みちは二十歳である。この時代としては、すでに嫁《い》きおくれに近い。縁談は、三度ほど口がかかったが、そのつど、市左衛門が断った。
「断ったぞ」
父からそれを聞くと、
「ありがとうございます」
みちはうれしげに礼を述べた。
源八の消息はわからない。源八の留守宅に聞き合わせるわけにもいかぬ。そんな間がらではなかった。
「苦労なされておりましょうなあ」
ときどき、つねが、さりげなく口に出したりすると、みちははっと息をつめた。
「いつもどってこられるか」
市左衛門にしても気になる。見通しは暗かった。日ごろ懇意な、右筆《ゆうひつ》の瀬沼忠兵衛に頼んで、藩の記録にあたってもらったところ、ここ五十年あまりの間に、仇討ちの例が五件あった。
といっても、五件のうち、首尾よく本懐をとげたのは二件だけで、あとの三件は、決着がついていない。最後は朱筆で、
「絶家」
と書きこんである。
みちには告げなかった。告げるに忍びなかった。
「一度お出かけくださらぬか」
あるとき、思いきって市左衛門は、小隼人のもとへ使いをやった。源八の消息がわかるかもしれない、と思ったからだ。小隼人からは、ていねいな断り状がきた。そして、その末尾に、
「源八からは、今日まで、なんのたよりもございませぬ」
と書き添えてあった。たよりをすれば、泣きごとになるおそれがある。わざと書かないのに違いなかった。
「情のきつい男よ」
市左衛門は心をうたれた。
「小隼人が、家督を相続したそうでございます」
弥十郎が、そんなうわさを聞きこんできたのは、桜がほころびかけたころだった。父の主水《もんど》が致仕《ちし》したのである。小隼人は、名も父と同じ主水と改めたという。
「すると、女房ももらうのだな」
家督を相続する以上、いつまでも独身というわけにもいかぬはずだった。
「その話は聞いておりません」
「聞いてはおらぬと……」
「なんでも、家督相続と同時に、弟御を跡目に届け出ましたとか」
ということは、当分妻をめとる意志はないのではないか。
弥十郎はそういい添える。
影と形ほどにも仲のよかった源八が、あてもなくさまよい歩いているのに、自分だけが女房をもらったりはできぬ。それ以外に考えようはない。
「さても義理がたい」
市左衛門は、ついおかしくなった。
「権之丞どのがご無事だったら、どういうことになっていましたろうな」
とつねも微笑した。黙ってすわっていたみちが、急に立ち上がると、部屋から出ていった。ふすまをしめるとき、目に微妙な感情が宿っていた。
ささやかな抗議かもしれなかった。
権之丞が、工藤伝右衛門に斬られたりしていなかったら、源八は、あてもない仇討ちに出ることもなかった。
であれば、源八と小隼人、仲のよい者同士で、みちをめぐって、なんらかの決着をつけることになっただろう。どんな決着のつけかたをするか、市左衛門にしても、つねにしても、たいそう興味があった。
けれど、みちにしてみれば、たとえ自分の親であっても、野次馬めいた興味の抱きかたが許せないのである。
みちは、縁がわに立っている。
庭に一本だけ桜がある。いま五分咲きくらいであった。
「これが逆だったら……」
みちはふと、そう思った。つまり、仇討ちに出ていったのが、源八ではなく、小隼人のほうだったらと考えてみた。その場合、ちょうどいまの源八のように、小隼人が、みちの心を占めるに違いなかった。
これが、二年後、もしくは三年後、あるいは五年後にしても、かならず帰ってくるという保証があれば、みちの心は、こうも源八に傾きはしないはずだった。
みちはまた、源八と小隼人が入れかわっていた場合のことを、別な形で考えた。
「小隼人さまならどうなされただろう」
旅立ちのおりのことである。小隼人も、源八同様に、
「みちどのを源八に」
と申し出ただろうか。
いや、そんなはずはない。いくら影と形のようにむつまじいとはいっても、同じ人間ではない。源八は源八、小隼人は小隼人、違ってあたりまえである。
その違いを、無性に知りたかった。
四
四月の末に、主君越中守直方が、江戸から帰ってきた。国入りの暇《いとま》を賜うのが四月の初めで、ふたたび行列をととのえて、参覲の途につくのが、翌年の三月なかばという慣例だった。それまでは、国もとで過ごすことになる。
直方の帰国後、小隼人も、城中においてお目通りを許された。正式には、朝倉主水としてである。隠居した父の主水は、寛斎と号している。
「小隼人」
寛斎は、以前のなれで、いまでも小隼人と呼ぶことが多い。小隼人は、わざと返事をしなかった。
「ああ、そうか」
すぐ気づいて寛斎は、
「主水」
と呼び直す。
「そなた、いつになれば女房を迎えるつもりじゃ」
「あとしばらく」
「なにも源八に、そこまで義理を立てるにはあたるまい」
「父上もお耳にされたので」
「耳にはいらぬ方がおかしかろう」
寛斎はおだやかにいった。してみると、源八と小隼人のことは、城下でもかなりのうわさになっているらしい。
「そちも二十八だぞ」
「わかっております」
三年、せめて三年、源八を待っていてやりたかった。三年といっても、すでに二年はすぎた。
「残すところ、あと一年でございます」
「源八が、あと一年でもどらねば、身を固めるのか」
「そのつもりでおります」
しかし、津川家のみちをもらうわけにはいかぬ。小隼人は、そう自分にいい聞かせていた。源八の父が斬られたあと、みちの父市左衛門に、
「向う三ヵ年以内に、源八が本懐をとげてもどれば、みちどのを源八に」
と小隼人が申し入れたとき、
「そんな約束はできぬ」
市左衛門はあっさり断ってしまった。だが、それはことばのあやで、実際には待ってくれている。三度まで、他からの縁談を断ったとも聞いた。
「源八、あと一年だぞ」
小隼人は、心の中で呼びかけた。実をいえば、小隼人はとっくに、みちのことをあきらめている。
三年以内に、首尾よく仇を討って源八がもどってくれば、その三年の労苦に対しても、むくいてやりたかった。ただ問題は、三年以内に、源八がもどるかどうかの一つにかかっている。それ以上、みちを待たせるわけにはいかなかった。
源八の消息は、まったくわからない。一度もたよりはなかった。どこをどうまわっているのか、見当のつけようもなかった。
源八の母は、実家に身を寄せていた。実家とはいっても、両親はどちらも死に、いまは弟の代になっていた。おそらく、肩身せまく日々を過ごしているに違いない。
これまで小隼人は、三度か四度、源八の母をたずねて、
「源八からたよりはまいりますか」
と聞いたことがある。源八の母の返事は、判をおしたようにきまっていた。
「いいえ」
ただそれだけである。ほんとうにたよりがないのか、源八が、
「なにもおっしゃるな」
と釘をさしているのか、察しのつけようもない。いずれにしても、いかにも源八らしかった。
やがて秋がおとずれた。源八からは、相変わらず、なんのたよりもない。
「水くさいぞ」
つい、腹が立つこともある。源八の強情さに、あきれもし、感心もさせられた。
「殿様が、みちどのにご執心らしい」
という、聞き捨てならぬうわさを、小隼人が耳にしたのは、中秋の名月がすぎて間もなくだった。うわさは、妹の梢が聞きこんできた。
「お奥へ奉公せよ」
すでに越中守直方の内意が、津川家へ伝えられたという。
「それで津川どのは」
「たいそう、困惑なされているとのことでございます」
直方は、暗君《あんくん》というほどではないが、女好きな点では、あまり評判がよくなかった。これまでに、婚約のととのった娘が、お奥に召された例もある。
主君の仰せとあってはどうしようもなく、まわりは泣き寝入りに終わった。諫言《かんげん》する者もなかった。みちの場合も、そうなるおそれは十分だった。
「説得のお使者が、三度も津川家へおもむいたそうな」
「いくら津川どのでも、最後は承知せぬわけにもいくまい」
城下はうわさで持ちきりだった。
「父上」
小隼人は、父の居間にいった。寛斎は、すぐぴんときたらしい。
「聞いておる」
短くいって、眉をひそめた。
「わたくし……」
それだけで通じた。
「うん」
寛斎はうなずいた。思うとおりにせよ、という意味であった。
五
「ようお越しくだされた」
津川市左衛門は、うれしげに小隼人を迎えてくれた。このところ、ひどく気の重い日々がつづいていたのであろう。さすがに憔悴《しようすい》の色はいなめない。
「うわさはご存じだな」
「だからこそ、こうしてまいりました」
小隼人の目には、思いつめた色がある。
「去る月見の宴のおり、みちをふくめて、三人の娘が城中に召された」
あながちめずらしいことではない。だから市左衛門も、格別気にもとめず、みちを城中へ差し出した。ところが、それから数日後には早くも市左衛門に、
「みちどのをお奥へ」
という内意が伝えられた。むろん、初めからはっきり、
「ご側室に」
とは告げない。表むきはあくまで、
「御殿づとめを」
という名目である。それだけに、かえって断りにくかった。かといって、承知してお奥づとめをさせれば、九分九厘、側室にさせられる。
「いやでございます」
みちもきっぱりいいきった。だれと名はささないが、
「ごきげんとりがどこにもおる」
吐き捨てるように市左衛門はいった。月見の宴に出した以上、にわかに、病気などといい立てるわけにもいかぬ。それに、病気を理由にすれば、後日、縁組願いを出すとき、さしさわりが生じてくる。さりとて、源八の名も出せなかった。
以前ならともかく、いまの源八は、正式には藩士ではない。いったんは、禄を離れた形であった。
「津川さま」
小隼人はにじり出た。
「源八には申しわけないことなれど、みちどのを妻にもらい受けとう存じます」
いまの場合、それしかなかった。
「しかし、お父上は……」
「父はいなやは申しません」
当面、縁組を申し入れ、正式に藩庁へ縁組願いを提出する。家老、大目付のなかにも、幾人かは人物がいる。主君のいいなりになる者ばかりではなかった。
津川家へ、直方の内意が伝えられたのは、うわさになってはいるものの、さいわい、正式のお達しという体《てい》はとられていない。まだ内々の形であった。
したがって、縁組願いが出されれば、藩庁としても、ひとまず受理せざるを得ない。却下するには、相当の理由もいる。両家合意の上で、正式の縁組願いが出された場合、よくよくの事情がないかぎり、お許しがおりるならいである。
許しは、すぐおりなくてもよかった。ただ、みちの奥づとめを、さしとめることができればそれでよい。いや、小隼人にとって、許しは、おくれるほど好都合ともいえる。
「源八、はよう帰ってこい」
大声で叫びたかった。その思いが、市左衛門には読みとれる。
「みち」
市左衛門は、次の間に声をかけた。ほどなく、みちが姿を見せた。
「朝倉どのが、縁組願いを出してくださるそうじゃ」
かいつまんで、市左衛門が小隼人の策について語った。
「よしなにお願いいたします」
みちは両手をついた。これで、話はきまった。
「では、明日にでも」
小隼人は立ち上がった。
朝倉家の当主は、主水――すなわち小隼人自身である。小隼人は、あくる日、家督相続後の名前、朝倉主水名義をもって、正式に縁組願いを差し出した。津川家からも同様の手続きがとられる。
その後、なんの音沙汰もなかった。みちの御殿づとめについても、督促めいたこともない。
ごたついているに違いなかった。
みちをお奥にという下命については、越中守直方のお側頭《そばがしら》、榊式部がはからい、次席家老時津出羽が同調したと見られている。首席家老伊東三左衛門は病気であった。しかし、三席家老の大森内記が、三左衛門の意を受けて、榊式部や時津出羽の専断に楯《たて》をついていた。
三左衛門や内記は、以前から、直方の好色ぶりについて、にがにがしく感じていた。それだけに、こんどの津川家に対する下命についても、初めから乗気ではなかった。それやこれやで、朝倉、津川の両家から出された、縁組願いをどうするか、決着をつけるのに手間どっているらしい。
結論が出ぬまま、ずるずる日がたち、とうとう新しい年を迎えた。源八が旅立って、三年目の正月である。
源八からは、なんのたよりもない。久々に源八の母のもとへ出かけてみたが、その返事も相変わらずである。
六
松がとれて間もなく、小隼人のもとへ使いがきた。次席家老、時津出羽からの呼び出しであった。今夜、城中ではなく、屋敷で会いたいという。
「くさいな」
父の寛斎が眉をひそめた。まさか、身に危害の及ぶようなことはあるまいが、難題をもち出されるおそれはある。
「腹をくくっていくがよい」
「心得ました」
夜、時津出羽の屋敷をたずねた。出羽の屋敷は二の丸にある。
すぐ、奥座敷へ通された。
「ようきてくれた」
出羽はにこやかにことばをかけた。かたわらに、榊式部もいる。出羽は四十二か三、色白の柔和な顔だちだが、
「なかなかの切れ者」
と評判が高い。式部は、政治的手腕は人並程度ながら、主君のお気に入りで、必要以上に重んぜられている。
「主水」
「はっ」
小隼人は顔を上げた。燭台《しよくだい》の灯りが、小隼人の顔を照らし出した。さすがに、いくぶんか青ざめている。
「このたびの縁組願い、黙って取り下げてはくれまいか」
ずばっと出羽は切り出した。
「なぜでございます」
「理由はわかっているはず」
「は……」
小隼人はとぼけた。
「知らぬとはいわさぬ」
「いえ、なんのことやら」
「市左衛門から聞いてはおらんのか」
つかの間、返事に迷った。聞いたといってもまずい。聞かぬといっても悪い。しかし、どちらかをえらぶほかはない。
「市左はなにもいわなんだのじゃな」
出羽がたたみかけた。
「なに一つ、てまえには」
とっさに心をきめた。
「聞いておらぬとのう」
むろん、出羽ほどの男が、真に受けているはずはない。それでも、そ知らぬていに、一通りの事情を述べた。小隼人も、初耳のような顔で聞いた。汗が流れた。
「主水、もしこのこと、事前に承知していたらなんとしたな」
この問いもやっかいだった。だが、小隼人は切り抜けた。
「仮のことにはお答えいたしかねます」
一言もいわぬぞ、という気がまえをあらわにした。一瞬、出羽のこめかみに、青筋がふくれ上がったが、さすがに老獪《ろうかい》、いきり立つようなことはしない。
「どうあっても、取り下げてくれるわけにはまいらぬか」
おだやかに念を押した。取り下げるわけにはでなく、取り下げて|くれる《ヽヽヽ》わけにはというこまやかないいかたに、小隼人は、ひそかなおそれを感じた。
「ご家老」
榊式部が口をひらいた。出羽は、式部に目をやる。
「市左衛門がなにも申しておらぬとすれば、主水を責めるわけにはまいりませんな」
「さよう。責めはすべて市左にある」
明らかに、小隼人に聞かせることばであった。それ以上、なにもいわない。いわないことが、無言の威圧になった。
「困ったわ」
「殿様にどう申し上げましょう」
「ありのまま、申し上げるしかあるまい」
小隼人は、心の中で耳をふさいでいた。一言も口をきかなかった。なまじ口をひらいたりすれば、すきを与えるおそれがある。石のように黙って押し通した。
「さがってよろしい。ご足労をかけた。寛斎どのによろしゅうな」
出羽はさりげなくいった。
隠居後は、はやばやと床につくようになっていた父の寛斎が、今夜は寝ずに小隼人を待っていた。
「なかなかの男だの」
いきさつを聞いて、寛斎はしきりにうなずいた。
「しかし、そなたもようやった」
せがれを力づけることも忘れない。
「このあと、どうなりましょう」
「わからぬ。いずれにせよ、このままではすむまいな」
「わたくしの本心、出羽さまはお気づきでございましょうか」
源八のことであった。
「うわさぐらい聞いておろう」
と寛斎は答えた。
「ご心配をおかけしました」
一礼して、引きさがる小隼人の背中へ、寛斎が声をかけた。
「ここまできた以上、一歩もひくな。骨はわしが拾うてやる」
七
おそらく、朝倉、津川、両家の出かたを待っていたのであろう。しばらくは、なんの達しもなかった。
「威圧は十分きいたはず」
時津出羽も榊式部も、そう見ているに違いない。強引に、縁組願いの取り下げをせまるよりも、両家の自発的辞退を待つほうが上策であった。
小隼人は無視した。
「当家でも辞退はいたさぬ」
津川市左衛門からも、ひそかに知らせがあった。親類縁者のうちには、心配して取り下げをすすめる者もないではないが、寛斎が一喝して追い返した。
桜の蕾《つぼみ》が日ましにふくらんだ。
そんなある日、小隼人に、登城日でもないのに、登城の令が伝えられた。
「きたな」
と思った。津川家に使いを走らせると、津川家には、なんの達しもないという。
小隼人は、下着一切、真新しいものをつけて、達しの時刻に登城した。朝倉家は、家禄百七十石、五万石そこそこの小藩では歴々の家柄で、独礼のお目見《めみえ》も許される。しかし、こんどの場合は異例であった。
「こちらへ」
広間へみちびかれた。越中守直方の姿はないが、正面の御座から一段さがったところに、時津出羽と榊式部がひかえていた。
「ご上意を伝える」
出羽が、おもむろに口をひらいた。表情はにこやかでさえある。一瞬、小隼人はとまどった。
「その方、これより津川家へおもむき、市左衛門を説き伏せよ」
出羽の笑顔の意味が、はじめて読めた。市左衛門を説得して、みちを奥向きに奉公させよというのである。
「考えおった……」
見事にはかられた。上意ということであれば、いかなる無理であれ、家臣としては、お受けせざるを得ない。
「おたずねいたします」
「申してみよ」
「万が一、市左衛門が聞き入れませぬ場合、なんといたしましょうや」
「そのせつは、しかるべく処置せよ」
上意討ちにせよということである。だが、出羽は明言はしない。そのへん、いかにも老獪であった。むろん、小隼人にも、その裏が読みとれている。
小隼人はわざととぼけた。
「朝倉主水、生来不敏にしてことになれず、しかるべく処置せよとのみでは、判断つきかねます。はっきりご明示のほどを」
意表をつかれて、出羽はつまった。もっとも、つまったのもつかの間にすぎない。
「しかるべき処置とは、しかるべき処置である」
「上意討ちでございますな」
ずばっと小隼人はいってのけた。
「ことばを慎むがよい」
出羽もぬかりはない。
「かかる場合、明言せぬがならいである。しかるべき処置とだけしかいえぬ」
小隼人が、市左衛門を斬れば、
「しかるべく処置せよとはいったが、上意討ちにせよとは命じておらぬ」
といいのがれる腹らしい。それに、出羽にしても、実際に市左衛門を斬るつもりはなかった。真のねらいは、小隼人に、縁組願いを取り下げさせるにある。小隼人が、みちとの縁組を断念すれば、市左衛門としても、直方の内意にしたがわざるを得なくなる。そこを見こしたかけひきだった。
小隼人には、そこまではわからない。上意討ちをまともに受けとめた。
「卑怯な」
とはらわたがにえたぎった。
「主水、しかと申しつけたぞ」
出羽は立ち上がった。榊式部も、つづいて立ちかける。
「ご家老、このお役目、辞退いたします。ほかの者にお申しつけを」
小隼人は腹をくくった。
「ご上意だぞ」
出羽の声がとがった。
「たとえご上意でも、この儀ばかりはお受けできませぬ」
小隼人は譲らない。主命にそむいたかどにより、切腹を申し渡されてもぜひなしと思いきわめた。
両手がこぶしになった。
「待て、ご上意をおうかがいする」
出羽は次の間へ去った。榊式部もあとを追った。小隼人は一人になった。不意に、源八のことが頭をかすめた。
「おぬし、なにをしているのじゃ」
心の中で、ぐちをもらした。
それから、どのくらいたったろうか。右手のふすまがあいて、ふたたび時津出羽が顔を出した。
小隼人は平伏した。
「主水、おもてを上げよ」
出羽の声は、意外におだやかだった。小隼人は顔を上げた。
「その方の強情ぶり、見事じゃ。よって、格別のおぼしめしにより、縁組願い、お許しを賜わる」
「ご家老……」
小隼人は、あっけにとられた。信じられない思いである。いくら主君の命でも、これ以上の無理押しはできぬ。そう判断しての措置であろう。
「勝った……」
と思ったが、喜ぶのは早すぎた。
「その方も承知のごとく、殿様には、三月なかば、江戸参覲の途におつき遊ばす。されば、ご出府前に、祝言をすませるようにとの仰せである」
出羽はさりげなくいい渡した。
「おそれながら……」
「なにごとじゃ」
「幾野源八のこと、お聞き及びでございましょうか」
「仇討ちに出かけたことなら、むろん存じておる」
出羽はそれだけいった。表情はなごやかである。いやがらせをしているふうには、決して見えなかった。
小隼人は窮した。すべては、源八のためにと思ってしたことだった。祝言など、挙げるわけにはいかぬ。
「裏をかかれた……」
唇をかんだとき、
「困ったの、主水」
出羽が笑った。その笑いに、悪意はこもっていない。
「ご家老……」
とっさに、ひらめくことがあった。
「殿に申し上げて、五月三日まで待ってつかわす」
五月三日とは、源八が仇討ちに出て、まる三年目にあたる日だった。
八
「昨夜、市左がわしの屋敷に乗りこんできおった」
そして、初めてことのいきさつを、くわしく出羽に語ったのだという。
「殿には、わしから言上《ごんじよう》した。こころよく、おわかりくだされた」
「すると、先ほどは……」
「許せ。そちの性根のほど、たしかめてみたかったわ」
出羽はそのあと、
「市左も人さわがせよ。初めから、包まず申せばよいものを」
といい足した。
三月なかば、越中守直方は、参覲の途についた。さらに五月三日になった。源八は、ついに帰ってこなかった。
小隼人とみちの祝言は、五月なかばに行われた。みちは、
「源八さまをお待ちします」
といって、首をふらなかった。小隼人は小隼人で、
「みちどのしだい」
と、式をのばしたがった。みちを説き伏せたのは、ほかならぬ源八の母だった。源八の母は、出羽のおどしに、少しも屈しなかった小隼人の心意気を語って聞かせた。
「当の出羽さまがおっしゃったことです。つくりごとではありません」
その一言が、みちの気持を大きく動かしたものだった。源八の母は、
「お二人の祝言を、いちばん喜んでくれるのは源八ですよ」
ともいった。その証拠を、と源八の母は、置手紙まで見せた。
「わたくしには、ご筆蹟の見分けがつきませぬ」
みちはなおも逆らった。
「ならば、小隼人どのを呼びましょう」
源八の置手紙には、三年間、自分が帰ってこなければ、小隼人とみちどのを夫婦にしてやってくれと、たしかに書いてあった。
「この筆蹟、間違いございますまい」
答えのかわりに、
「源八……」
小隼人は一言、あとはまったく声にならなかった。
二人の祝言がすんで、七日後に、源八は城下へ帰ってきた。めでたく本懐をとげての帰国だった。
「一足おくれたわ」
朝倉家の玄関先で、源八は旅姿のままそういった。五月雨《さみだれ》どきだが、降ってはいなかった。
「おぬし、どこで本懐をとげたっ」
かみつくように、小隼人はきいた。
「越後じゃ」
打てばひびく答えが返った。
「越後だけではわからぬ」
「糸魚川《いといがわ》」
「何月何日のことぞ」
一瞬、源八はつまった。
「おぬし……」
小隼人の顔色が変わった。
「あとでゆっくり話してやる」
源八はくるっと背を向けた。そして、無造作に門の方へ歩いていった。小隼人は、はだしであとを追った。
気配を察して、源八がふり返った。
「おれの身になって考えろ」
なにごともなかったように、源八はまた歩き出した。小隼人は、なにもいえず立ちつくした。
源八の母の顔が、目の前に、大きく浮かび上がった。
[#地付き]〈了〉
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折鶴さま
一
七月なかば、城内のお奥で妙なうわさがひろまった。奥勤めのお女中衆の部屋がつらなっている長局《ながつぼね》のあたりに、夜な夜な怪しいものが現われるという。
たしかに見た、という女が何人もいた。といっても、そのいうところはかならずしも一致せず各人まちまちで、ある者は、
「般若《はんにや》のように口が裂けていた」
といい、ある者は、
「白い尾が見えた」
と唇をふるわせた。なかには、
「被衣《かずき》をかぶっていた」
という者もいる。また、怪物に出会ったとたん、気を失ってしまった者もいたらしい。怪物の正体については、女たちのいうことにくい違いがあったが、その現われる時刻は、子《ね》の刻(午前零時)前後と、ほぼ口がそろった。
女たちは、長い縁のはずれの用所に出かけるとき、その時刻をさけるようになった。どうでもこらえきれないときは、日ごろ親しくしている朋輩《ほうばい》に起きてもらった。一度など、三人そろって怪物を見たこともある。
用を足したあと、信夫《しのぶ》という女が雨戸をあけ、手を洗おうと手水鉢《ちようずばち》のひしゃくに手をかけたところ、庭先で白いものがゆらりと揺れた。信夫は悲鳴を上げて失神し、長局は大騒ぎになった。
「男じゃな」
長局をとりしきる老女は、報告を受けると即座にそう断じたが、むろん確たる証拠があるわけではない。老女は名を初花という。四十を二、三すぎた気丈な女で、あながち底意地が悪いわけでもないが、かねてから口やかましく、女たちにおそれられていた。歌や書のたしなみと合わせて、武芸にも並々ならぬ心得があり、
「薙刀《なぎなた》の名手」
と評判が高かった。その初花が、
「男じゃ。男にきまっている。それも、城中の夜詰めの者ではあるまい」
というのである。
「まさかそのような……」
女たちは信じかねた。男子禁制のきびしい長局、城中に詰めている者さえ、まず近づけない。まして、それ以外の者がどこからどう忍びこめるというのか。
福井城は、慶長年間、家康の第二子結城秀康によって六年がかりで築かれ、初めは北ノ庄城と呼ばれていた。
ところが、寛永元年、秀康の長子松平忠直が、乱行の故をもって豊後に配流されると、当時、越後高田二十五万石を領していた忠直の弟伊予守忠昌が、秀忠の命によりかわって入城、五十万石を与えられた。忠昌は、ほどなく北ノ庄を福井と改めた。北という字はにげるの意がある。改称は、それをきらってのことだった。
長局は本丸の東のはずれにあった。伊予守忠昌のお渡りのある奥寝所からだとちょうど真南にあたる。
本丸にはいるには、幅二十一間の南堀にかかった御本城橋を渡り、大手門をくぐらなければならないが、火急の公用以外、深夜の通行は禁じられている。本丸の西、御廊下橋を渡るにしても同様だし、本丸の北、二の丸からはいることもできなかった。
とすれば、あとは二十五間もある東の堀を泳ぎ渡り、石垣をよじ登るしかなかった。不可能ではないにしても、生易しいことではない。よしんば、無事石垣を登りおおせても、そのあとが大変である。万一見とがめられたら命はない。
「そのような命知らずがいるとは、とうてい考えられませぬ」
「いいや、そうともかぎるまい」
越前福井は五十万石の大藩、一人や二人は酔狂者がいても不思議はないと、初花は自信ありげである。
とやこうするうちに月がかわり、八月になった。陰暦八月といえば、北国福井では、朝夕は肌寒い。
この季節にはめずらしく、三日つづいた雨が、昼すぎにやっと上がったその夕方、初花は端女《はしため》に庭を調べさせた。
「あらかた乾いております」
お女中の一人がそう取り次いだ。
その夜、亥《い》の刻(午後十時)すぎ、老女初花は、鉢巻きたすきがけとなり、薙刀を小脇にして、縁から庭へおりた。
「今夜は番をする。だれか供をしや。一人でよい。多人数では気づかれる」
表使い、お右筆《ゆうひつ》、そのほか、もっと格の低い者もふくめて、二十名あまりの女が縁がわにいたが、だれもが尻ごみして、進み出ようとはしなかった。女たちは、うわさにおびえ切っている。
「なにをおそれやる。怪物などではない。忍んでくるのは人間じゃ」
「わたくしがお供いたします」
十八、九と見える若い女が、思いつめた顔で名乗り出た。お奥に奉公をはじめて、まだ三月ほどの新参者である。徒士《かち》、小西弥右衛門の娘で名は幸、お奥では、千草という名をもらっていた。
「般若のように口が裂けていた」
といったのは、この女だった。きわだって美しくはないが、色が白く、目にはりがあって、男好きのする顔だちをしている。古参の奥女中の受けも悪くはなかった。初花にも気に入られていた。
「どんな場合でも、わたしが指図をするまでは、決して声を立てやるな」
初花は釘をさした。
夜がふけた。そろそろ子《ね》の刻に近い。初花と千草は、長い土塀の一ところに目をつけ、そこの見張りに好都合な植込みのかげをえらんで身をひそめた。昼間のうちに、土塀の外をまわってたしかめたのか、初花は、
「忍びこむならここ」
と見当をつけているらしい。
九日の月が中天にかかっていて、目がなれると、樹木が影を落としていても、あたりはそう暗くはない。
塀の外に、かすかな気配があった。初花はすでに薙刀の鞘をはらっている。千草がごくっと息をのんだ。
塀の上に人影が現われた。とたんに、思わず千草が、上ずった声をあげた。
「曲者《くせもの》っ」
その一声で、すべてが無になった。
曲者は、千草の声と同時にすばやく身をひるがえした。初花は、土塀の一角にある非常口から追いかけた。千草もつづいた。
塀ぎわまで行ったが、曲者の姿はどこにもない。追い抜いたはずはなかった。してみれば、曲者はよほど通いなれているらしい。とまどうような逃げかたではなかった。
「うろたえ者が。声を立てるなと、あれほど念を押したものを」
「申しわけございません。つい度を失ってしまいました」
とにかく、声を出すのが早すぎた。曲者が足を庭にふみ入れてからなら、どうにでも取り押えられたものを、と初花はしきりにくやしがる。
小半刻《こはんとき》(三十分)ほどたった。初花は、水面のあちこちに目を走らせている。ときどきは、石垣にも目を向けた。石垣の高さは、二間はあろうか。ところどころ|つた《ヽヽ》がはっている。|つた《ヽヽ》をうまく利用すれば、石垣を登れぬことはない。
「千草、あれを見や」
不意に初花が、堀のなかほどを指さした。黒くまるいものが、水面に動いている。人間の頭に違いなかった。きわめて緩慢な動きに見えたが、曲者は意外に早く向う岸にたどりついた。向う岸の石垣はそう高くはない。曲者は苦もなくはい上がった。
「怪物などでないこと、これではっきりしたであろう」
「はい」
答えてから千草は、ほっと息をもらした。そして、
「先ほどは、まことに申しわけないことをいたしました」
とふたたび詫びた。
「もうよい。気にしやるな」
初花は平静にもどっていた。
二
「大胆なやつよな」
近習頭三杉平三郎から報告を受けて、松平伊予守忠昌の眉が動いた。
「曲者もさることなれど、初花どのの胆《きも》ふとさにもおどろきました」
平三郎はつくづく感服のていであった。平三郎は、先ほど、お錠口で、初花にくわしい事情を聞かされたのである。
「それにしても、惜しゅうございました」
「千草がうろたえたことか」
「さもなければ初花どの、見事曲者をとらえておりましたろうに」
「なんの、おかげで楽しみが残ったわ」
「は……」
平三郎は忠昌を見返した。
「その曲者、わしがひっとらえてやる」
忠昌は腕自慢であった。乱行をとがめられた兄忠直にかわって、この福井に移ってきた当座は、二十八という若さもあり、粗暴な振舞もしばしばだったが、その後、老臣杉田|壱岐《いき》の補佐よろしきを得て、四十近くなった昨今は、短慮も直り、別人のように重厚な人物になっている。
しかし、時としては、昔の性癖が頭をもたげてくるらしい。平三郎はあわてた。
「殿、さようなこと、なりませぬ」
「壱岐にはないしょじゃ」
「いいえ、あとでわたくしが、壱岐さまにしぼられます。それに、曲者は二度とは現われますまい」
「そうかな」
ふつうなら、だれしも平三郎と同じ考えをするに違いない。
「じゃが、余は逆じゃ。余が曲者なら、かならずまた忍びこむ」
いわれて見れば、それも一理ある。
「今夜、堀ぎわに行く。そちも供をせい」
頭ごなしに忠昌は命じた。平三郎は承服せざるを得ない。断れば、忠昌はおそらく、ほかの者に命じるであろう。ほかの者にまかせて、忠昌にもしものことがあれば、とり返しはつかない。
それとは別に、曲者がどのような男か、たしかめてみたい思いもあった。
その夜、忠昌は平三郎一人を供に、お忍びで、長局にいちばん近い堀ぎわへいった。艮櫓《うしとらやぐら》と巽《たつみ》櫓の、ほぼなかほどのあたりである。忠昌は薙刀をたずさえた。槍よりも、薙刀に覚えがある。
殿様芸ではなかった。
「今夜は起きていよ」
初花にだけは、ひそかに使いをやって告げてあった。
夜がふけた。間もなく子の刻になる。曲者は姿を見せなかった。中天には、十日の月がかかっている。
堀の水面には、月光がいきわたっていて、泳ぎ渡る人影を見のがすはずはない。
「昨夜《ゆうべ》の今夜ゆえ」
平三郎がいいかけるのを、
「いいや、昨夜の今夜だからこそ、間違いなくくる」
忠昌がいい切った。
石垣の上は松林だった。一もとの松のかげから、忠昌と平三郎は、なおも水面に目をこらした。
水面が急に暗くなった。月が雲に隠れたからである。雲はしかし、いくほどもなく月を離れた。水面に、微妙なゆれが生じた。目で追うと、目に見えるか見えないかの、波紋の中心に黒いものがある。
少しずつ、こっちに近づいていた。忠昌と平三郎は、曲者をななめから見る位置に移った。曲者は、抜き手を切らず、水鳥がすべるように、静かに堀を渡り切ると、石垣のすそにたどりついた。
しばらく呼吸をととのえているらしい。上半身がわずかに見えた。どうやらはだかのようである。
「なにやら背負っております」
衣服を包んだ油紙かもしれない。
「平三郎」
忠昌があごをしゃくった。二人は、うなずき合って、石垣から遠ざかった。松林の奥に姫垣がある。土塀より低いが、それでも、何かなくては越えられない。
忠昌は、薙刀を使って越えた。平三郎も、大刀を立てかけ、鍔《つば》を踏み台がわりに、たくみに乗り越える。そして、その大刀を無造作に引き上げた。
振り返ると、背後のやや離れたところに長局の土塀がある。
足音が近づき、人の気配がした。だれかが姫垣を越え、すとっとこっちへおりた。こっちは、地面が高くなっている。
男が深い息をした。
「何者ぞ」
植え込みのかげから飛び出して、忠昌が薙刀をふりかざした。一瞬、棒立ちになった男へ、平三郎が、
「殿様である。神妙にいたせ」
と鋭く浴びせた。男は平伏した。月光が届かず、暗くてよく顔がわからない。
「月のさしている方へ出よ」
薙刀をかざしたまま、忠昌が命じた。男はいわれるとおりにし、悪びれず、おもむろに面《おもて》を上げた。年は二十七か八、彫りが深く眉の濃い、男らしい顔だちだった。身には衣服をつけているが、髪のところどころがまだぬれていた。
忠昌も平三郎も、顔に見覚えはない。お目見《めみえ》以下の軽輩に違いなかった。
「夜な夜な長局を騒がしたはその方か」
「御意。ただし、怪物などにあらず、臣は徒士《かち》成田園右衛門にござる」
男は堂々と名乗った。
「それが、なにとてこの夜ふけに」
「おたずねまでもございますまい。女に逢いにまいりました」
「女の名はなんという」
「申し上げられませぬ。お情けには、なにとぞてまえのみご成敗《せいばい》を」
園右衛門はまっすぐに、忠昌の顔をふり仰いだ。忠昌は、園右衛門をじっと見おろしていたが、急に目がけわしくなった。園右衛門は無腰であった。
「両刀はなんとしたぞ」
「大刀は姫垣の外においております。小刀は殿様と気づいてすぐ投げ捨てました」
手向かいせず、ただちに成敗を受けるためであった。
「小刀はこれにございます」
平三郎が、拾い上げて忠昌に見せた。忠昌は、ふりかざした薙刀をおろした。
「それにしても、園右衛門とやら、その方も思い切ったことをしたものよの」
「おそれ入ります」
「見とがめられるとは思わざったか」
「初めから、命は捨てる覚悟にございました」
きらりと目が光った。
「てまえは、女が好きでござる。女には、男の命をかけるべきものと思うており申す」
「侍の命は戦場に捨てるものじゃ」
「いくさなどもはやござらぬ」
それだけいうと、園右衛門は、忠昌の前に首をさしのべた。うなずいた忠昌は、こんどは、別なことをたずねた。
「女とは何度|契《ちぎ》ったぞ」
「お奥に上がってからは、一度でござる」
「通うのは何夜通うたな」
「数え切れぬほどにございます」
園右衛門は胸をそらせた。
「殿」
どういたしましょうという風に、平三郎が見上げた。
「右手のみを自由にして、その松の木にしばっておけ」
その意味が、平三郎にはすぐ読めた。平三郎は、おのれの刀の下げ緒を、ゆっくりときにかかった。
三
長い廊下に、女たちが集められていた。どの顔も青ざめている。真夜中である。柱ごとにつるされた掛け灯籠の灯りが、女たちの顔を照らしていた。
ついさっき、女たちをといただせという忠昌の意向が、お錠口で達せられた。
初花がそれを告げた。
「殿様のお手により、曲者はとらえられ、松の木にしばられておる。覚えのある者は正直に名乗り出や」
答える者はなかった。
「では男の名を教えよう。つかまったのは、徒士の成田園右衛門。園右衛門は、殿様のお調べに対して、女の名は申し上げられぬ、てまえ一人をご成敗くだされというたそうな。殿様は、それにお感じなされ、女が名乗り出れば園右衛門を許すと仰せられた」
初花は、一人一人を見渡した。それでも、だれも名乗り出ない。
「男を見殺しにするつもりか。園右衛門は、右手は自由じゃ。おのれの小刀を与えられてもいる。腹を切ることもできる。園右衛門一人に腹を切らせては、契りを結んだ女として実《じつ》が立つまい」
初花がそこまでいったとき、女の一人が青いおもてを上げた。千草であった。
「園右衛門どのの相手は、この千草でございます」
「千草……」
初花は、目を疑い、耳を疑った。とても信じられなかった。
「そなた、だれかをかばっていやるな」
千草はおとなしいが、しんが強い。それくらいしかねなかった。
「いいえ、園右衛門の相手は、まぎれもなくわたくしでございます」
こんどは、園右衛門どのではなく、園右衛門と呼び捨てにした。そこに、真実が感じられた。
「証拠もございます」
千草は、たもとからなにやら取り出した。不器用に折った折鶴であった。
「わたくしの部屋には、このような折鶴が十五以上もございます」
男がくることがわかっていても、そのつど庭へ出られるとはかぎらない。逢えないとき、園右衛門は折鶴を残していった。
「それで……」
女たちは、千草が、朝になって、しばしば庭へ出たのを思い出した。
「すりゃあ千草」
昨夜のことが、初花の胸をかすめ去った。千草は昨夜、初花に念を押されていたのに、
「曲者っ」
と叫んだ。
「はい。あれは、うろたえたのではございません。わざと叫びました」
それを聞いても、初花の目に、いきどおりはなかった。初花は、
「今夜のこと、とやかくいいふらすではありませんぞ」
念を押して女たちをさがらせたあと、千草を、豪奢なおのれの部屋に招いた。
「そなた、お奥に上がってから、園右衛門と何度契ったかえ」
初花は、二人きりになるとそうたずねた。いやがらせなどではない。心のこもった聞きかただった。
千草はうつむいた。耳の端まで赤くなっていた。
「園右衛門は、一度きりと殿様にお答えしたそうな」
「いいえ、一度や二度ではございません」
思いつめた目であった。
「庭でばかりかえ」
「…………」
千草はまたうつむいた。
「大胆なことを……」
責めている口ぶりではなかった。
「ご老女さま、わたくし、このようにだいそれたことをしでかした以上、助かろうなどとは考えてもおりません。謹んでご成敗をお受けいたします」
「それも殿様の御意しだいじゃ」
若いころの忠昌なら、容赦はすまい。園右衛門にしても、即座に手討ちにされたはずだった。
忠昌は、なにか考えているらしい。忠昌の意中よりも、園右衛門自身のことがもっと気がかりだった。
四
夜明けには多少間がある。
「平三郎、ついてまいれ」
忠昌は立ち上がった。こんども、薙刀をたずさえた。
「どうなさるおつもりか」
平三郎にはよくわからない。
忠昌は、よかれ悪しかれ、感情の起伏がはげしかった。もう七、八年も前だが、鷹狩りに出かけたことがある。そのとき、家臣たちは必死に働いた。上きげんで帰城した忠昌は、翌日、得々として杉田壱岐に、
「彼らを戦陣に召しつれれば、かならず大功を立てることができよう」
といった。
「たわけたことを仰せられますな」
壱岐は直言した。激怒した忠昌は、刀のつかに手をかけた。壱岐はびくともしない。
「殿はこれまで狩場において、何人の家臣をお手討ちにされたかしれませぬ。家臣どもはそれをおそれて、命がけの働きをしただけのことでございます」
それをなんで誇りたもうのか。いまのような太平の世でなければ、殿の暴虐に腹を立て、家臣どもはとっくに叛逆をくわだてておりましょう、と壱岐はきめつけた。
「おのれ、許さぬぞ」
「お斬りなさいませ。諫言《かんげん》をもって死ぬこと臣の大願でございます」
壱岐は自若として顔色も変えなかった。忠昌は足音荒く立ち去った。夜になって、壱岐は忠昌のお召しを受けた。急ぎ伺候してみると、忠昌は膳部の前にすわったまま、箸もつけずうなだれていた。
「おお、壱岐か。ようきてくれた」
面がにわかに明るくなった。
「いかがなされました」
「余が悪かった。昼のこと、許せ」
目がうるんでいる。はっきり、悔いの色が浮かんでいた。
「殿、おわかりいただければ、それでよろしゅうございます」
「では、許してくれるか。すまぬ。これで、やっと食がのどを通るわ」
忠昌ははじめて箸をとり、壱岐が退出するおり、昼間おびていた刀を与えた。忠昌はそんな男であった。
忠昌と平三郎は、元の場所に行ってみた。十日の月は西に傾いて、長局の近くからはもう見えない。
平三郎は松明《たいまつ》をかざした。松の根かたに、園右衛門は突っ伏せている。
「やはり腹を切ったか」
と思ったが、よく見るとそうではない。園右衛門は、左手を後ろにまわして、松にしばりつけられたままだった。投げ与えた小刀も、元のままになっている。
「園右衛門、なぜ死ななかったぞ」
忠昌は鞘をはらって薙刀をふりかざした。園右衛門は顔を上げた。みれんで死ななかった顔ではない。
忠昌はそれを察した。
「なにがいいたい」
「臣はこの口から、みずから罪状を申し上げました。死は覚悟いたしております」
「ならばなんで腹を切らぬ」
「臣の所業、武士として、切腹はふさわしからず、お手討ちこそしかるべし」
ふつうなら、斬首、しばり首にあたる罪を犯してさえ、切腹を望むのが常である。切腹はいわば、武士の名誉を守る最後の手段でもあった。
園右衛門は重ねていった。
「堀を泳ぎ渡り、後房に忍ぶの罪をもって、殿様じきじきのご成敗をこうむれば、悪名ながらその名は朽ちませぬ」
「よし、わかった。いかにも望みをかなえてつかわす」
忠昌は呼吸をととのえ、間合をはかった。園右衛門はゆうゆうと首をさしのべる。息づまる一瞬、忠昌は、
「鞘を拾え」
と平三郎に命じた。そして、
「園右衛門、許しがたい大罪なれど、思うところあり、首は預けておく。以後、心を改めて奉公に励め」
といった。
一室に謹慎させられていた千草は、三日後に初花に呼び出され、園右衛門が助命されたことを聞いた。
「園右衛門がご助命になった以上、そなたを罰しては片手落ち、そなたの罪も不問ということになりました」
思いがけない申し渡しであった。
「なお、すぐにも、お暇《いとま》の願いを差し出しますように」
「お暇の願いを……」
「罰ではありませぬ。罰ならば、初花が暇を申し渡します」
千草は、よくのみこめなかった。初花の目には、やさしい光が宿っている。
「もしや……」
千草の胸に、あることがひらめいた。
「察しがついたかえ」
「あの……」
それには答えず、
「お暇願いを出しなされ」
と初花はまたいった。
「殿様の思召《おぼしめ》しでございましょうか」
「二人を添わせるようにはからえ。さような仰せじゃ」
いまごろは、園右衛門の部屋にも使者が立っているはずと初花はいい添えた。
「わかりましたな」
千草は返事をしない。喜びの色はどこにもなかった。
「なぜ喜ばぬ」
「ありがたいとは思うております。なれど、お受けできませぬ」
「わけをいいやれ」
「園右衛門どのが、命がけで忍んできてくだされた。それだけで、千草はもう十分でございます」
「わたしには解《げ》せぬ」
「園右衛門どのは、わたくしを妻にはなさいませぬ。あのお方は、そういうお人でございます」
責めている口ぶりではない。むしろ、誇らしげでさえあった。
「園右衛門どののお気持、千草にはようわかります」
千草は目をきらきらさせた。
成田園右衛門がしでかしたことは、だれがなんといおうと、許しがたい大罪であった。その罪を許された以上、それなりの罰を、みずからに課さなければならない。
自分にとってかけがえのないもの、この世でもっとも大切なものを捨て去ることがそれであった。
千草はそれを初花に告げた。
「男とはそういうものかの」
「いいえ、園右衛門どのがそうなのでございます」
「そなた、みれんはないかえ」
「ないといい切っては嘘になりましょう」
「では、どうしやる」
「このまま、お奥にとどまっていとうございます」
ひたむきなまなざしであった。
「そなたは、男と密会した女じゃ。お奥に置くわけにはいかぬ。それに、とどまっては、死ぬまで白い目で見られよう」
「どんな風にも耐えてみせます」
千草は両手をつき、いつまでも顔を上げなかった。
成田園右衛門は、生まれ変わったように職務に精励し、忠昌に引き立てられて、後年、老職をつとめるに至った。妻にだれをめとったかはわからない。
千草はお奥で生涯を終わった。
お奥にとどまった初めのうちは、さまざまないやがらせを受けたらしい。しかし、じっと耐え通した。後には、若いお女中衆の信望を一身に集め、敬愛をこめて、
「折鶴さま」
と呼ばれたという。
[#地付き]〈了〉
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猿ケ辻風聞
火急にお知らせ申し上げます。昨五月二十日夜、朔平《さくへい》門外|巽《たつみ》(東南)の角《かど》、俗に|猿ケ辻《さるがつじ》と呼ばれるあたりにて、異変が出来《しゆつたい》いたしました。少壮尖鋭の公家のなかで、三条|実美《さねとみ》卿とともに、急進尊攘派の双璧と目される国事参政|右近衛権少将《うこんえのごんのしようしよう》姉小路公知《あねがこうじきんとも》卿が、刺客に襲われ、二十五歳のお若さをもって落命されたもうたのでございます。
朝廷におかせられては、この不祥事を痛くご憂慮あらせられ、一夜明けた本二十一日、在京諸藩に対し九門(皇居の門)の警護を仰せつけられました。その割り振りは、左のごとくでございます。
清和院御門 土佐
蛤《はまぐり》御門 水戸
乾《いぬい》御門 薩摩
今出川御門 備前
堺町御門 長州
寺町御門 肥後
下立売御門 仙台
中立売御門 因州
石薬師御門 阿波
なお、姉小路卿|遭害《そうがい》のいきさつ、刺客の正体や人数、襲撃の正確な刻限等については、まだ詳細相わかっておりません。ただいま八方聞きこみにあたっております故、判明しだい追報申し上げる所存でございます。
五月二十一日
某藩京都藩邸留守居次席
[#地付き]波多野要
前便後判明しました概略につき、引きつづきご報告申し上げます。
姉小路卿は、一昨五月二十日、朝議に列席されました。朝議は、当日の昼前より夜に及びましたものの、いかなる議題が取り上げられたかはよくわかりません。ただ前日――十九日夜、江戸よりゆゆしい急使が届いております。といいますのは、朝廷と申しますより急進尊攘派の衝《つ》き上げにて、幕府は攘夷期日を五月十日と奉答し、例の生麦《なまむぎ》事件の賠償金は支払わず、かつは各国公使に対し、鎖港を通告すると約束しておりましたにもかかわらず、幕閣はこれを履行せざるのみか、去る五月九日、老中格小笠原|図書頭長行《ずしよのかみながみち》、将軍後見職一橋慶喜さまの帰府をも待たず、一存をもって、イギリス代理公使ジョン・ニールに、賠償金十万ポンド、すなわち邦貨にして二十六万九千六十六両余を支払いたりとの知らせでございます。
よって、二十日の朝議は、これに関する件と推量されます。なお、朝議に先だち、京都守護職松平|容保《かたもり》さま、老中水野|忠精《ただきよ》さま、同じく板倉|勝静《かつきよ》さまご参内《さんだい》あり、図書頭独断について恐懼《きようく》の情を奏せられるとともに、将軍家(家茂)に帰暇を賜わらんことを奏請《そうせい》しております。理由は、将軍みずからすみやかに東帰して図書頭を処断せんためというにありましたが、これはそのまま受け取るわけにはまいりません。
すでにご承知のごとく、将軍家におかせられては、去る三月四日ご入洛、以来ご滞京二ヵ月に及びますのに、
「こととしだいでは将軍の行列に斬りこむまでじゃ」
と騒ぎ立てる急進尊攘派の画策にて、いまだに東帰のご勅許はおりず、人質同然にてずるずる日を送っておわす現状にございます。したがって、図書頭の独断による賠償金支払いは、いわば絶好の口実、図書頭処罰を理由に東帰を思い立たれたのでございますが、うかとその手に乗せられるほど急進尊攘派の面々、甘くはございません。願いは一応聞きおくとして、
「東帰に及ばず」
というにとどまりました。朝議はそのあとでございます。おそらく、賠償金支払いをめぐって論議沸騰、
「図書頭に腹を切らせよ」
との声も出たに違いありません。夜になっても、えんえん論争がつづきました。
当夜、姉小路邸には、卿に面談のため、土佐藩|土方《ひじかた》楠左衛門、肥後藩山田十郎らがきておりましたが、卿の帰邸の見通しがつきませず、
「明朝あらためて」
とて、辞去した由にございます。
結論が出ぬまま朝議が終わり、卿が御所を退出されたのは亥刻《いのこく》(午後十時)ごろであったと聞き及びます。慣例にしたがって、公卿門から出られました。公卿門は御所の西面、勧修寺《かしゆうじ》殿の隣りにあたる日野殿の屋敷に向かい合い、宜秋《ぎしゆう》門または唐門《からもん》と申します。
三条卿と姉小路卿は、前後してその公卿門から出られ、三条卿は左へ、姉小路卿は右へ曲られました。
姉小路卿のお供は中条右京、三条卿の推挙にて近ごろ雇われた、今弁慶なる異名の金輪勇《かなわいさむ》と申す太刀持ち、それに提灯《ちようちん》持ちの下人が一人でございましたとか。
中条右京は、当年二十一歳、出石《いずし》藩士吉村勇吉重国の長男にて、幼名熊太郎、元服して右京基好、早くより勤王の志に目覚め、十九歳のおり、一書を遺《のこ》して上洛、初め押小路家に仕え、ついで姉小路家に移りました。若年ながら文武ともによくし、姉小路卿の覚えもめでたく、
「これより中条右京と名乗れ」
との仰せにて名前を変え、中条右京の名に誇りを抱いていた由にございます。金輪勇については、今弁慶という異名のほかは、いずれの出かもはっきりせず、三条卿のご推挙により姉小路卿に仕えたこと、今弁慶の名にいかにもふさわしく、風貌|魁偉《かいい》、躯幹《くかん》長大ということぐらいしかわかりません。
当夜、姉小路卿は、提灯持ちを先に立てて歩かれ、今出川殿の屋敷の前を通り、左手に乾門を見ながら、御所の囲いの築地《ついじ》に沿って右へまわられました。塀のうちは、准后《じゆごう》御殿の一部になっております。
乾門を背にして左手が近衛殿の屋敷で、その右角と向かい合って御所の北の正面にあたる朔平門がありますが、そこを右に曲ると、すぐまた、いま一度|鉤《かぎ》の手に曲らねばなりません。ちょうどそのあたりが、俗称猿ケ辻でございまして、左手は、有栖川《ありすがわ》宮の屋敷になっております。
御所の築地塀沿いには、大きな樋《とい》がめぐらされ、水が流れて、絶えずそうそうたる水音がいたします。
姉小路卿が、その猿ケ辻へかかられたとき、樋のあたりから、三つの人影がばらばらと飛び出したそうでございました。
「お命頂戴つかまつる」
先頭の一人が、下人の提灯を真っ先に斬り落としました。折から、東の空には、遅い二十日の月が、ようやく顔を出しかけていたと申します。
「わあっ」
と叫んで下人は逃げ出し、地面の提灯がめらめら燃え上がりました。
「慮外な、まろは姉小路公知ぞ」
りんとした声が、小路にひびき渡りました。その声を聞いても、曲者《くせもの》たちは退きません。人違いなどではなく、初めから姉小路卿をねらってのことと思われます。
斬りこんでくる白刃《はくじん》を、姉小路卿は、中啓《ちゆうけい》(扇の一種)で防ぎながら、
「太刀を、太刀をよこせ、弁慶」
と叫ばれました。卿はふだん金輪勇のことを、弁慶と呼ばれていたそうですが、この危急の場でなおかつ弁慶と呼ばれたのは、少しも取り乱されていなかったと見えます。それなのに、当の今弁慶は、その場には影も形もなく、
「太刀を、太刀を」
と卿の声ばかりがむなしく流れ、お供のなかでは、中条右京のみが、二人の曲者と必死に渡り合っていたのでございます。
「卿が危い」
とは思いながらも、右京は目の前の敵と斬り結ぶのが手いっぱいで、卿をかばうどころではなく、ときどき、
「う、うっ」
という卿の呻き声を耳でとらえておりました。右京の手ごわさをもてあまし、二人の相手にひるみが見えました。わずかに右京に、卿を見るゆとりが生じました。
卿は何度か斬られながらも、屈強な曲者に武者ぶりつき、ついにその刀を奪い取られまして、とても長袖《ちようしゆう》の公家とは思われぬ、すさまじい気魄《きはく》だったそうでございます。
「引き揚げろ」
曲者たちは逃げ去り、卿の手に一振りの大刀、そして路上に、下駄が片方残されておりました。
猿ケ辻から姉小路家までは、五町ばかりでございましょうか。中条右京は、卿を助けてようやく屋敷にたどりつきました。その後、卿は一刻(二時間)ほど息があられ、後事をいろいろ指示して後絶命されました由。医師大町周防守、杉山出雲守ほかの届けによれば、卿の傷は、
面部鼻下一ケ所長さ二寸五分|許《ばか》り、
頭蓋骨|些《いささか》欠損し、斜に深さ四寸、
胸部左鎖骨部一ケ所、長さ六寸許り、
深さ三寸許り。
以上の通りで、合わせて二十八針縫ったといわれております。姉小路家からは、とりあえず、
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昨夜亥刻頃退出|掛《がけ》朔平門裏之辺ニテ武士体之者三人|計《ばかり》白刃ヲ以不慮ニ及狼藉《ろうぜきにおよび》手傷|為相帯《あいおわせ》逃去候ニ付直ニ帰宅療養仕候。但切付候刀奪取置候|仍此《よつて》段御届申入候。夫々急々御通達厳重御吟味之儀願入存候也
五月二十一日
[#地付き]公知
坊城大納言殿
野宮宰相中将殿
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右の趣きを届け出られました。これも、瀕死《ひんし》の床にありながら、姉小路卿が気丈にも文案を指示されたとうかがいますが、まことに武士も及ばぬ見事さと申し上げねばなりません。
同じこの夜、三条卿も刺客にねらわれております。ただしこちらは、お花畑と建礼門の間を過ぎ、清和院御門へさしかかったとき、異様の男数名が屯《たむ》ろしていたものの、卿がわのお供人数が多かったため、手を出さなかったのであろうということでございます。
いずれにしても、物騒この上もない世の中になりました。昨文久二年以来の天誅《てんちゆう》ばやりではございますが、斬られたのはせいぜい島田左近とか賀川|肇《はじめ》とか、いわば公家に仕える人びと、それがこんどは当の公卿衆、それも、国事参政右近衛権少将姉小路公知卿ほどのお人が犠牲になられたのでございます。
豆が二つ、一つは白豆、一つは黒豆。もちろん豆そのもののことではなく、人を豆に見立ててのことで、三条卿は小柄で色白、姉小路卿は小柄で色黒、それで京の人びとは、口さがなくも両卿のことを、
「白豆黒豆」
と呼んでいるのでございます。いや、京すずめとはかぎらず、尊攘運動に二人をもっとも利用している長州や土佐の志士たちが、おりにふれお二人を、
「白豆黒豆」
と称しました。その黒豆と白豆が、いったいだれに、なぜねらわれたのか。異変後、さまざまなうわさが乱れ飛びました。その第一は、
「幕府の仕業じゃ」
というにありました。
三条卿は堂上《とうしよう》公家|清華《せいか》家にて、父は正《しよう》一位右大臣三条|実万《さねつむ》卿、母は土佐山内家の出、安政元年兄君の死去により実万卿の嗣子《しし》となられ、昨年(文久二年)九月|従三位《じゆさんみ》権中納言《ごんのちゆうなごん》、十月には議奏となられ、急進尊攘派の錚々《そうそう》たるこというを待ちません。
一方姉小路卿は、家柄としては三条卿に譲りますが、堂上公家|羽林《うりん》家にて、左近衛権少将姉小路公前卿を父として、中院通繁卿の女寿子さまを母とし、幼名は靖麿《やすまろ》。先に述べましたごとく、三条卿と並ぶ尊攘派の雄でございまして、前関白《さきのかんぱく》近衛《このえ》卿、中川宮ほか、いわゆる公武合体派の親王、上層公卿衆ばかりでなく、もって生まれたもうた洋夷《ようい》ぎらいながら、皇妹和宮の婿君でもあらせられる将軍家茂君をこよなく愛し、どこまでも幕府を立てようとお考えの帝(孝明天皇)のご宸襟《しんきん》をさえ悩ませたてまつっていることは、だれ知らぬ者とてありません。
和宮ご降嫁にあたって、お力をつくされた岩倉卿以下を、
「四|奸《かん》二|嬪《ひん》斬るべし」
と息まかれたのも両卿でございますが、両卿が、幕府の恨みと憎しみを一身に集められるに至ったのは、昨年十一月、攘夷督促別勅使となられたことにございます。
二つの年齢差と家柄からして、三条卿が正使、姉小路卿が副使でございましたが、千代田城登城に際し、勅使の礼遇をめぐって悶着《もんちやく》が起こりました。
勅使の礼遇については、東照宮以来の慣例がございました。それを両卿は、
「これまでの礼遇は、勅使に対してあまりにも無礼ではないか」
と主張、礼遇改善を真っ向から要求されたのでございます。勅使下向登城について、一、二例をあげますと、
一 これまでは中雀門外で下乗したが、これからは書院大門内の玄関の下座敷前で下乗したい。
一 これまでは馳走役の大名だけが式台まで出迎える慣《なら》いだったが、これからは老中以下みな式台まで迎えられたい。
一 これまで殿上の間において目録など授けるに際しては、勅使と老中が同時に上段に上がった。これからは勅使がただちに上段に進み、老中は中段の間で一礼、勅使が許すの合図を目で送ってから上段の間に登ることにされたい。
といったことで、ほかにも七、八ヵ条の要求が出されました。以前とくらべると、力関係の逆転ということになり、絶対に承知すべきではありません。
が、三条、姉小路両勅使は、朝威をかさにねばりにねばり、ついにその要求をつらぬき通しました。一昔前なら、考えもされぬことでございます。要求を押し通して両卿は、鬼の首でも取ったごとくだったでございましょう。その反面、幕閣の人びとが、
「生意気な青公家め」
と切歯扼腕《せつしやくわん》したことは、まだ記憶に新しいことでございます。
また今年、将軍家ご上洛間もなく、幕威を失墜せしめんとのもくろみから、賀茂行幸の儀を申し立てて実現に漕ぎつけ、将軍家に供奉《ぐぶ》せしめるにあたっても、両卿の働きが多であったと聞いております。
さらに、将軍家東帰の阻止をはかってきたのも、中心はほかならぬ両卿でございましたゆえ、そのへんから、
「姉小路暗殺は、かげで幕府が糸を引いたのではないか」
との憶測が生じたことも考えられます。
「直接手を下したのは会津藩じゃ」
そういう声も聞かれますが、こればかりは信じられません。第一、純真|無垢《むく》の会津中将松平容保さまが、さような暴挙を許されるはずがございましょうか。
また帝の洋夷ぎらいは天下周知のこと、三条、姉小路両卿や、両卿をいただく急進派のはね上がりぶりに手を焼きたまいつつも、攘夷の一点においては、両卿と志を同じゅうされ、したがって、心から両卿を憎悪したもうとはゆめ思われませず、そのような帝のご信任|篤《あつ》い松平容保さまが、
「姉小路卿を斬れ」
と会津藩士にお命じたもうことなど、万が一にもあり得ませぬ。
ただ容保さまに対する帝のご信任を、こころよからずとする面々が、このたびの奇禍をもっけの幸いとして、
「会津藩士の仕業にまぎれなし」
とことさら騒ぎ立てているであろうことは十分想像されます。
では、幕府もしくは会津でないとすれば、姉小路卿暗殺の黒幕はだれか。目下、
「薩摩藩にあらずや」
という声も上がっております。
昨文久二年八月二十一日、薩摩藩は、勅使大原|重徳《しげとみ》卿を江戸まで護送して帰り、藩主島津茂久(後忠義)の父で、「国父」の称ある三郎久光の行列が、東海道生麦村において、供先を乱したイギリス人三名を殺傷するいわゆる生麦事件を引き起こして、
「攘夷のさきがけ」
などと世人はこれをもてはやしました。しかし、これは買いかぶりで、単に供先を乱されたから無礼討ちにしたまでのこと、先に寺田屋騒動で、上意討ちによる非業《ひごう》の死をとげた有馬新七、橋口壮助ら一部急進派をのぞけば、薩摩藩の藩論は公武合体の方針をとっております。したがって、三条卿、姉小路卿とは、主義主張においてたがいに相容《あいい》れません。であれば、攘夷一本に突っ走ろうとする長州藩の勢力を削《そ》ぐために、薩摩藩が、
「姉小路卿暗殺をはかる」
ということは、理屈としてなら一応は成り立ちます。
しかも、それを裏書きするようなことがございました。
「姉小路卿奇禍にあいたもう」
この報が伝わるや、三条卿やその公用人戸田|雅楽《うた》、土佐藩士土方楠左衛門ほか、かねて親近している人びとが姉小路邸に駆けつけましたが、そのなかに、土佐脱藩那須信吾がまじっておりました。
那須は土佐老侯山内容堂さまのご信任を受けていた執政吉田東洋を、同志とともに暗殺した人物として知られ、昨今は薩摩屋敷にかくまわれておりました。この那須が、
「これが姉小路卿が、曲者から奪い取られた刀でございます」
と一振りの刀を見せられるや、
「おお、これは……」
と一瞬絶句、色を変えたのでございます。その刀は、薩摩鍛冶奥和泉守忠重の作で、長さ二尺三寸、幅一寸一分、反り五分ばかり、柄《つか》は鮫皮《さめがわ》黒の平巻、目貫《めぬき》なし、柄頭は鉄にて藤原と高彫、縁鉄《ふちてつ》にて表に鎮守の文字、裏に英の文字、|切羽※[#「金+示+且」]滅金摺《せつぱはばきめつきすり》はげあり、鉄鐔《てつつば》鉄無地|木工瓜《もつこううり》という拵《こしら》えでございました。
「那須どの、見覚えおありか」
一息ほど置いて、
「田中新兵衛の刀でござる」
「すりゃあ、姉小路卿は新兵衛が」
「いや、新兵衛が下手人かどうかは知らぬ。ただ、この刀、新兵衛の差料《さしりよう》に違いないとてまえは申している」
那須信吾はそう断言しました由。
しかし、このことにも、いささか解《げ》しかねる点がございます。といいますのは、那須がかねて敬愛しておりました武市半平太は、土佐勤王党の領袖《りようしゆう》にして、姉小路卿が、三条卿ともども攘夷督促の別勅使として東下された際には、武市は柳川左門と名を変えて、姉小路卿の家臣となりすまし、卿のお供をしております。
その武市と、田中新兵衛は義兄弟の約を結んでおりました。それだけに新兵衛が、姉小路卿を斬るなどあり得ず、そうした事情は、那須も十分承知していたと思われます。そんな那須が、奥和泉守忠重の一刀が、まこと新兵衛の差料に違いないにしても、衆人のいるなかで、
「これは田中新兵衛の差料」
と明言するなど、不用意過ぎはしますまいか。げんに、那須の一語で、その場はにわかに色めき立ったということでございます。ともあれ、那須の一言、面倒なことになるかもしれません。
さらに続報つかまつります。先便にて、幕府、会津藩、薩摩藩に対する疑惑についてそれぞれふれましたが、このたび、それらとは正反対の立場にある長州藩についても疑惑が生じました。
姉小路卿は、長州藩にとっては最大の同志にして、悪くいえば、三条卿と並び操り人形の役をつとめております。長州の急進尊攘派の代弁者として、これまで朝議を自派の有利に動かしてまいられました。では、いまに至ってその姉小路卿を、なぜ長州藩が暗殺しなければならないか。その理由は一つしかございません。
「姉小路卿、同志を裏切りたもう」
昨今、そのようなうわさが、ひそひそとながら、もっぱら流れておりました。そもそもの起こりは、去る四月二十四日、卿が摂海(大坂湾)防備状況視察の朝命を受けたもうたことにあります。
大坂へ下られた卿は、西本願寺別院を旅館として、幕府軍艦奉行|並《なみ》勝麟太郎を召し、意見を聴《ちよう》されたのみか、勝みずからの案内により、幕艦順動丸にて、摂海沿岸をくまなく巡察されましたが、そのせつ勝は、情熱を傾けて攘夷の無謀を論じたと見られます。
単に机上の空論なら、姉小路卿は一蹴されたに違いありません。しかし、勝の所論には現実の裏付けがあり、しかも、順動丸に搭載された大砲そのほかの機器類、沿岸諸砲台の整備状況などを目前においての痛論でございます。初めのうちは、卿も二、三|弁駁《べんばく》なされましたが、やがて沈黙され、最後は勝の熱弁に聞き入られ、痛くご感服あり、
「彼はなかなかの人物である」
と称賛され、勝は勝で卿を、
「頭脳明敏、かつ見識抜群、凡常の長袖にあらず」
とまで感嘆、
「これからは、かの卿を通じて朝廷に働きかけることもできよう」
と述懐されたと聞きます。おそらく、そうしたことが誇大に、悪意をふくめて伝えられた結果、
「姉小路卿変節」
とひろまったのでございましょう。また朝議の席における弁舌に、微細な変化が生じたであろうことも想像できます。とはいえ、それがただちに、長州藩過激派による暗殺に結びつくとも考えられません。第一に卿が、摂海巡視から帰られたのが五月二日のこと、さすれば、わずかにそれより十八日後に難に遭われたことになります。たった十八日の間に、かつては最大の同志であった卿を、殺害に及ぶまで憎悪をつのらせるに至るとは、信じがたいことでございます。
よしんば百歩を譲って、卿の暗殺が長州系の志士によるとすれば、同じ五月二十日の夜、一味と覚しい者が、三条卿を狙ったことをどう解釈すべきか。
げんに五月二十一日早暁、学習院(三条邸説もあり)の門扉に墨くろぐろと、
[#地付き]転法輪三条中納言
[#1字下げ]右之者姉小路と同腹にて、公武一和を名として、実は天下之争乱を好候者に付、急速に辞職隠居不[#レ]致に於ては、不[#レ]出[#二]旬日[#一]代[#二]天誅[#一]可[#二]|誅戮《ちゆうりく》[#一]者也
右のごとく貼り出されていましたが、これとても、あやしめばあやしむに足ります。すなわち、三条、姉小路両卿とも、以前は知らず、いまは尊攘一筋にて、公武一和などとは、つゆも思ってはおられませず、したがって、目下のところ、貼紙の主の見当さえつけようがないのが実情でございます。
なお、五月二十日夜、卿をかばって必死の働きをしました、中条右京こと吉村右京については、
[#地付き]姉小路家家来
[#地付き]吉村右京
[#1字下げ]主人於路頭横難之節抛身命|尽忠節《ちゆうせつをつくす》之条《のじよう》神妙之至|被為在御感《ぎよかんあらせられ》候旨関白殿被命候事。
として、白銀五枚が下賜せられましたが、とやこうするうち、ことは意外な展開を見せることになりました。と申しますのは、田中新兵衛こと田中雄平が、姉小路卿殺しの嫌疑をこうむり、お召し捕りになったのでございます。これはおそらく、奥和泉守忠重の一刀を、那須信吾が姉小路邸において、
「田中新兵衛の差料」
ともらしたことが、まわりまわって、京都守護職、もしくは所司代の配下の耳にまで達したのに違いございません。那須の一言は、五月二十日夜半すぎ、新兵衛召し捕りは二十六日でございます。
那須が奥和泉守忠重を、田中新兵衛のものと断定したころ、当の新兵衛は薩摩藩邸にはいませんでしたが、これはかならずしも逃げていたことを意味しません。新兵衛の居所は、那須と同じ土佐藩の吉村寅太郎がつきとめました。
田中新兵衛はもともと町人(薬種商人の家に生まれた)の出ゆえ、そのままでは帯刀を許されません。それで、名目上、薩摩藩士|仁礼《にれ》源之丞の家来ということにしてもらい、彼とともに、京都藩邸が手狭なため、藩が典薬頭小森鉄之助から買い上げた、東洞院|蛸《たこ》薬師の買屋敷に住まいしていたのでございます。買屋敷とはいっても、藩邸に準ずるもので、町方などでは手が出せません。
京都守護職としても、同じ公武合体説をとっているせいばかりでなく、薩摩藩に対する遠慮があり、結局は、朝命によって手入れする形をとりました。新兵衛の呼び出しには、会津藩公用局|外島《とじま》機兵衛がおもむき、礼をつくして応接に当りましたため、当の新兵衛はもとより、名目上の主人である仁礼源之丞、同人の下人藤田太郎も、存外素直に連行に応じたそうでございます。
三名の身柄は、守護職には置くべき場所もなく、職掌がらも疑問の点があったりして、町奉行所に移すことになんとか落ち着きました。
ただいまの町奉行は、能吏の聞こえ高い永井|主水正《もんどのかみ》尚志《なおむね》さまでございます。
町奉行所にも、田中新兵衛のことはわかっております。土佐の岡田以蔵、肥後の河上|彦斎《げんさい》などと同じく人斬りの名を冠せられ、
「人斬り新兵衛」
と呼ばれていること、昨年――文久二年以来の天誅ばやりに、大いに刃《やいば》をふるい、九条家の島田左近、浪士本間精一郎、佐幕派の公卿|千種有文《ちぐさありふみ》の雑掌賀川肇を斬ったことなども調べずみでございました。
したがって、町奉行所でも、新兵衛を姉小路卿殺しの下手人と見ることに、逆に多少の疑いを抱いておりました。つまり人斬り新兵衛と異名をとるほどの男が、いかに剛気とはいえ、長袖にすぎぬ姉小路卿に差料を奪われ、下駄の片方まで残して逃げるような不手際を、果たしてするであろうかというわけでございます。しかし、結局のところ、
「奥和泉守忠重が、新兵衛の差料たることはまぎれもない」
この点のみは動かしようがなく、一応取り調べることに落ちつきました。
新兵衛の身分が身分、本来ならば、白州へ引きすえるのが当然なれど、薩摩藩に対する配慮もあってのことでございましょう。新兵衛は、白州ではなく、白州のそばの縁にすわらせられました。
取り調べには、吟味与力や同心数名をかたわらにひかえさせ、町奉行たる永井主水正さまがじきじきにあたられ、初めは刀のことにはふれず、
「姉小路卿を殺害せしはなにゆえじゃ。ありていに申せ」
真っ向から切り出されます。
「これは異なこと、暗殺などは存じもより申さず」
もちろん、新兵衛は強く否定し、こぶしを固め、おそれ入る気配も見えません。あげくは押問答となり、これではらち明かずといら立たれた永井さまが、
「この刀に存じ寄りはないか。当夜、姉小路卿が賊より奪い取られたものじゃ」
と、薩摩拵え、奥和泉守忠重二尺三寸を差し出されますと、さすがに一瞬、新兵衛はことばを失ったそうでございます。永井さまは得たりと、
「どうじゃ新兵衛、これでも覚えなしといい張るか」
とにじり出られます。
「お奉行に申し上げます。新兵衛は、姉小路卿ご最期の数日前、祇園のさる茶屋にて、差料を盗まれております」
仁礼源之丞が助け舟を出しますと、
「その方に聞いてはおらぬ」
永井さまは一喝、
「新兵衛、差料を盗まれたとはまことか。ならば、五月何日の何刻ごろぞ。また、その茶屋の名は」
とたたみかけられます。さらに、
「その夜、そちが刀を盗まれたこと、存じているはだれとだれじゃ」
ともただされました。新兵衛はぐっとつまりました。日ごろ仲のよい朋輩にでも、刀を盗まれたなどいえるものではありません。他藩の浪士にはなおさらです。
「届けは出したか」
とも永井さまはたずねられました。答えようのないことばかりです。
「新兵衛、なにゆえ返事をせぬ」
額に汗をにじませ、新兵衛は依然答えません。
「答えがなければ、その刀、その方が姉小路卿に奪い取られたと断ぜざるを得ぬ」
それにも答えず、
「その刀、しばらく拝見」
渡された奥和泉守忠重に、じっと見入ったあと、
「この刀、いかにもてまえの差料、なれど、姉小路卿殺害の儀、神明に誓って覚えございもはん」
いい切るや、永井さま以下のわずかなすきに、忠重の一刀、鞘《さや》にはおさめず、切っ先をぐっと左の腹に突き立て、ぎりぎりと右に引きまわすや、とっさに刃を持ちかえて、おのれの咽喉ぶえを右から刺し、そのまま一気に前に刎《は》ねました。
それこそ、あっという間もない早業で、与力たちが左右から飛びついたときには、新兵衛はすでにこと切れていたということでございます。
いずれにせよ、町奉行所としては、とり返しのつかぬ失態に違いございません。新兵衛が、奥和泉守忠重を、
「わが差料に相違なし」
といい切った以上、彼が姉小路卿暗殺の真の下手人にせよ、無実にせよ、彼を問いただすことによって、なんらかの手がかりが得られたはずでございますが、いまや彼の自決によって、その方策は失われました。
それにしても、新兵衛は、なぜ一語の申しひらきもせず自決したか。これは、一つには薩摩というお国ぶりがございます。由来薩摩|隼人《はやと》は、
「議を言《ゆ》な」
と申し、いいわけがましいことをもっともきらいます。とはいえ、それも時と場合、姉小路卿殺しの疑いが、薩摩藩にかかっているいま、いかに議を言なと申せ、黙って自決することは、嫌疑を容認することにもなりかねません。にもかかわらず、新兵衛は死を急ぎました。
もし新兵衛が武士、それも城下士の出でもあれば、これほど死を急ぐこともございますまいが、悲しいかな彼は、薬種商人のせがれでございます。
祇園の茶屋で刀を盗まれたことも、城下士ならば、酒の上の不覚とすませる手だてもありましょう。非難の声が上がれば、仲間がみんなでかばってくれます。新兵衛には、かばってくれる者もいませんでした。
新兵衛が島田左近を一刀に斬ったときですら、口先では、
「見事じゃ、ようやいやった」
と賞《ほ》めつつも、内心ひそかには、
「たかが薬種商のせがれ、島田一人を斬ったくらいで、大きな顔はさせんぞ」
とせせら笑ったとも聞いております。それだけに、こんどのことでも、
「茶屋で刀を盗まれるとは何事か。腕は立っても薬種商のせがれは薬種商のせがれよ」
という声が出ました。新兵衛と義兄弟の約を結んだ、土佐の武市半平太でも京にいてくれたら、新兵衛も少しは救われたに違いありますまいが、不幸にして武市は、土佐に帰っておりました。
「町人の出ゆえ、いいわけもでけんじゃったか……」
仁礼源之丞も、唇をかむのみでございました。
日ごろから絶えず、町人の出というひけ目があって、そのひけ目に、新兵衛ががんじがらめだったのでございましょう。それゆえ、新兵衛にとっては、藩に対する嫌疑を晴らすよりも、おのれ一身の名誉を守ることが先でございました。
ただ、それとは別に、町奉行内ばかりでなく、所司代内部、守護職関係の一部から、当の奉行や吟味与力まで立ち会っていながら、新兵衛の自決を許すとは何事かという声も出ております。
刃を腹に突き立てるまでなら、やむを得ぬ油断といえぬこともない。が、みずからの咽喉ぶえを刎ねるまで、みすみす見過ごしたのはどうしたことか。なんらかの仔細あって、わざととめず、新兵衛をこと切れさせたのではないかというのでございます。
ともあれ新兵衛は果て、彼の主人ということになっております仁礼源之丞は、芸州藩京都藩邸に、源之丞下僕藤田太郎は米沢藩京都藩邸へお預けとなりました。
なお、新兵衛自決の当日、夜になってから、町奉行所よりの呼び出しを受けて、姉小路家家臣跡見|重威《しげたけ》が、中条右京をともない出頭しました。そのとき、新兵衛の死骸は、すでに塩漬けにされていた由にございます。
「この男に覚えがあるか」
たずねられて右京は、
「少将さまを斬ったのは、たしかにこの男でございます」
はっきりいい切りましたとか。
「よく判断がついたな。その方は、二人を相手に斬り結んでいたのであろう」
「斬り結んでいても、人ひとり見分けるゆとりはございます」
右京は昂然と胸を反《そ》らします。
「月は出ていたか」
「出ておりました」
二十日の月は、亥《い》の上刻(午後九時すぎ)ごろ出る。右京の返事に、動揺はほとんどなかった。
「姉小路卿は、この男にご面識あったであろうか」
武市半平太と義兄弟の約を結んでいるほどの新兵衛なら、姉小路卿も、二度や三度は新兵衛を引見されたのではないか、と考えての問いでしたが、
「武市さま同然にはまいりませぬ。ご面識はない筈」
右京はそう申します。
「刺客たちの間から、卿の変節をなじる声は出なかったのだな」
「格別には」
問答は、この程度で打ち切られました。十分な証言とは申せませぬが、一応のきめ手にはなります。町奉行永井さまは、
「新兵衛は黒」
との心証を得られたもののようであったとは、立ち会った同心の声でございます。
この日から三日後、すなわち五月二十九日、薩摩藩は、二十一日以来の乾門警護の任をにわかにとかれ、かつは薩摩藩士の九門出入りが厳重禁止されました。これは、新兵衛を、姉小路卿暗殺の真の下手人、と断定されたことを意味しましょう。
ところが、それと同時に、奇妙なことが生じました。すなわち、新兵衛自決直後、芸州藩、米沢藩の京都藩邸にお預けとなっておりました仁礼源之丞ならびに、同人下僕藤田太郎が、前後して、両藩邸から逃走いたしたのでございます。藤田を預かった米沢藩からは、藩主上杉|斉憲《なりのり》名義をもって、翌日早々、
私家来へ|被[#二]預置《あずけおかれ》[#一]候囚人、松平修理大夫家来仁礼源之丞召遣太郎儀、先日二十九日暁、番人の油断を見透し、囲を抜出出奔致し申候云々。
という届書が出されました。しかも不思議千万にも、そのことにつき、芸州、米沢両藩に対するお叱りなど一切なく、逃亡者を探索せよとの命さえ出されておりません。それかあらぬか、両藩は、さる筋からの要請により、わざと監視をゆるめ、仁礼以下の逃亡を易からしめたにはあらずやとの巷説《こうせつ》さえささやかれているようでございます。
急ぎ追報つかまつります。このたび、京坂の動静、騒然として、姉小路卿暗殺事件の真相究明など二の次と相なりました。と申しますのは、去る五月九日、独断をもって生麦事件の賠償金を支払われました、老中格小笠原図書頭|長行《ながみち》さま、江戸町奉行兼外国奉行井上信濃守どの、神奈川奉行浅野伊賀守どの、隠居の身ながら外交通として重きをなされる水野|痴雲《ちうん》どのらをともない、騎兵奉行、歩兵奉行以下幕府の陸海正規軍千数百名を率いて、幕府艦隊及び英国より借用の商船にて、六月一日、大坂に上陸されたからでございます。
翌六月二日、図書頭さまご一行は、上洛をめざして、まず淀に至られました。ご上洛の理由は、表向き、
「賠償金支払いのやむを得ざりしこと弁明のため」
となっておりますが、事実はしからず、急進尊攘派が、上洛阻止に出るところを武力をもってたたきつぶし、攘夷の国是を一挙開国に転回させる腹だったと思われます。しかし、上洛決行寸前に、上洛差しとめの使者到着、いったんは押し返したものの、将軍家|直書《じきしよ》がつかわされましたため、六月五日に至って、図書頭さまは上洛をご断念、ついに将軍家の仰せにしたがい、ひとまず大坂城へ移られまして、賠償金支払いの顛末《てんまつ》につき、書面を提出されました。
おそらくその書面には、江戸を英国艦隊の砲火から救うため、独断支払いに至ったいきさつ、水戸慶篤さま、尾張|茂徳《もちなか》さまが、強硬に支払いを主張されたことなどがしるされていたと思われますが、それでは差しさわり多しとして却下され、
「賠償金を独断で支払いたる段は恐れ入りたてまつる」
とのみ書くようにとの命が伝えられ、図書頭さまは無念の涙にくれつつも仰せにしたがわれたと聞き及びますが、もれ聞きますに、図書頭さまは、大坂上陸の際、初めて姉小路卿のご遭難を耳にされ、
「大失望、大失望、わが計企、卿の横死にてついに成らざるか」
と長大息された由にございます。
一方は、若くして明山公子《めいざんこうし》と称されて開明ぶりを謳《うた》われ、長じては、世子の身のまま老中格となられた英才、一方は急進攘夷派の錚々、たがいに正反対の立場にありますが、詳細は存じませぬものの、両者は姻戚《いんせき》にあたられるとも聞いております。
姉小路卿が、摂海巡視の際、勝どのに攘夷の無謀につき説破されたころ、図書頭さまはすでに東帰されておりましたから、姉小路卿となんらかの申し合わせがあったとは考えられませんが、図書頭さまの、
「大失望、大失望」
との一語が真実であったとすれば、図書頭さまの率兵上洛については、姉小路卿との間にいささかの黙契がなかったとはいえないようでございますし、真偽は知らず、そういううわさの生まれる余地はあったのでございましょう。だとすれば、長州系の志士が、姉小路卿を襲うという根拠も考えられるわけでございますが、断定はいたしかねます。
話はさかのぼりますが、図書頭さまの賠償金独断支払いの知らせが京に届きましたのは、五月十九日でございます。と同時に、京は騒然となり、巷《ちまた》には、
「国賊誅すべし」
「図書頭斬るべし」
という声が高まり、途中阻止されたとはいえ、彼が率兵上洛の挙に出たことで、再度燃え上がりました。一時は、図書頭さまは朝命によりご切腹かの声も出たほどでございますが、結局は、
「老中格|罷免《ひめん》」
というのみでとどまり、将軍家は六月十三日東帰の途につかれ、図書頭さまもほどなく江戸へ帰られました。
ところが、将軍家東帰の二日前、すなわち六月十一日、乾門警護は免ぜられたままながら、薩摩藩に対して、
「九門への出入りは相許す」
という朝旨が伝えられました。では、田中新兵衛に関する嫌疑はとけたかといえばそうではありません。依然嫌疑は晴れていないのでございます。
なお、先に出されました、薩摩藩に対する乾門警護役の剥奪《はくだつ》についても、純然たる朝旨ではなく、長州を中心とする急進尊攘派の強請によるものとのうわさもあり、昨今の成行奇々怪々と申すほかありません。
しばらく報告を怠りました。姉小路卿一件については、このところさしたる動きはなく、当面は、帝、前関白近衛公、中川宮ら、薩摩藩を頼りとされる穏健な公武合体派と、三条卿以下の尖鋭公家衆や、長州勢力と、土佐藩士の一部を主軸とする急進尊攘派の対立確執という形をとって動いているかに見えたからでございますが、昨今、姉小路卿一件に関して、二つの動きが出てきました。
その一つは、姉小路家の中条右京が気鬱にかかっているとのうわさのあることでございます。右京は、身を挺して主を守ろうとしたことを奇特として、先の白銀五枚下賜に引きつづき、姉小路家の雑掌たることを申しつけられております。その右京のもとへ、近ごろ訪客がしきりでございますとか。
訪客は、長州、土佐、会津、薩摩の諸藩士などとりどりにて、長州藩士や土佐藩士の場合は、主人たる姉小路卿を守って刺客二人と渡り合った斬り合いぶりを、当人から聞こうとし、薩摩藩士、もしくはかねて新兵衛と親交あった他藩の士の場合は、
「たしかに田中新兵衛でござったか」
とか、
「二十日の月が出ていたとはいえ、他の二人と斬り結んでいながら、新兵衛を見きわめることがよくできましたな」
と、疑問をたたきつける例がほとんどだったそうでございます。右京は、
「神明に誓って相違ございません」
といい切っておりましたが、いつからか顔色が冴《さ》えなくなり、面談を断ることも多くなりました。また右京は、姉小路卿ご遭難の五月二十日以前には、新兵衛とは面識もなかったと思われます。もし面識があれば、
「おのれ新兵衛」
となり叫んでおりましょう。面識がなかったとすれば、あとから塩漬けの死骸を見せられて、
「この男に相違なかった」
と判別がつくものかどうか。
さて、もう一つは、今弁慶こと金輪勇が捕縛されたことでございます。金輪が用心棒をかねて、姉小路卿の太刀持ちとなったことが、三条卿の推挙によることは、先にも一度ふれました。
その金輪が、姉小路卿危急のとき、太刀を持ったまま逃げ去ったことには、やはり謎《なぞ》が感じられます。用心棒として雇われ、しかも今弁慶とさえあだ名される身が、
「太刀を、弁慶、太刀を」
という主人の叫びをよそに、雲を霞と逃げ去ったのは、にわかに臆病風に吹かれてのことか、刺客のなかに見覚えの者がいたか、あるいは、それ以外に都合の悪いことが生じたかの三つにつきましょう。たたけばきっと埃《ほこり》が出てくるに違いありません。だが、金輪の調べはろくに行われず、単に、
「主の危急に、踏みとどまりもせず、逃げ去るとは不義不忠きわまる」
として、あっさり斬首されました。これで新兵衛の自決についで、あと一つの重大な手がかりが失われたことになります。早すぎる金輪の斬首が手違いによるとは考えられず、理由はわからぬものの、きっと、意図あっての斬首急ぎではございますまいか。
そうそう、大事なことを書きもらすところでございました。去る五月二十六日、田中新兵衛こと田中雄平取り調べの際、数名立ち会っていながら新兵衛を自決せしめ、下手人探索の手掛りを失いたるは不覚なりとして、町奉行永井主水正さま、閉門謹慎を申し渡されました由にございますが、これとても、申し合わせの上でのはからいでございましょう。
ところで、奉行所与力のうち、一人だけ、姉小路卿殺しの黒幕は、もしかすれば三条卿にあらずやと、途方もないことをいい出した者がおります。
「そんなばかな」
「二人は同志中の同志だぞ」
たちまちその論は、袋だたきも同様になりました。なれど、一笑に付してしまえないものもございます。
男同士にもねたみはございます。三条卿は二十七、姉小路卿は二十五。公家としての格も、三条卿が上だし、表むきは急進尊攘派の双璧と称され、昨冬、攘夷督促別勅使として東下されたときも、三条卿が正使、姉小路卿が副使でございました。が、実際には逆でございまして、年下の姉小路卿の方が、常に主導権を握られておりました。志士たちもかねがね、
「白豆黒豆」
と陰口をききながら、白豆よりも黒豆を一段立てているむきがあります。もっとも、三条卿はお人柄がまことによく、人をそねんだりなさる方ではありません。ただ、取り巻きの面々になれば、そう虚心坦懐《きよしんたんかい》ともいかないのではございますまいか。
「あるいは三条卿が」
という見方の裏には、こういうことがございます。姉小路卿暗殺の翌朝、学習院の門扉に、三条卿への脅迫文が貼り出されました。もともと三条卿が、至って小心にあられることは、だれもがよく知っております。本来ならば、一度にふるえ上がられてもおかしくない。それが、あのときにかぎっては、別人のように意気軒昂として、激越なことばを吐かれました。
これはなぜか。
どのような激越なことばを吐こうと、命をねらわれるおそれはない。その安心感があってのことではないか、とも考えられるのでございます。
先般は、姉小路卿一件にこだわりすぎる。大局について知らせよとのお叱りをこうむりました。以後気をつける所存でございます。
さて、このたび、またしてもゆゆしいことが出来《しゆつたい》しました。いつぞやの便に、たしか時局は奇々怪々としたためた覚えがございますが、このたびの件も、まさしく奇々怪々というしかございません。
公武合体派と急進尊攘派の間に、連日虚々実々の駆け引きがなされていることは、とうにご承知でございましょうが、このたび、尊攘派が最大のねらいとしておりました攘夷御祈願大和行幸の儀が、八月十八日、にわかに中止となり、薩摩、会津を主体とする公武合体派の乾坤一擲《けんこんいつてき》の巻き返しによって、未曾有の政変が起こったのでございます。
すなわち長州藩は、堺御門警護の任をとかれて帰国を命ぜられ、三条実美卿、東久世|通禧《みちとみ》卿、沢|宣嘉《のぶよし》卿ほか親長州の諸公卿は、参内をも許されず、事実上、京より追放されたもうことになったのでございます。一夜にして迎える運命の転変でございました。
当然のことながら、薩摩藩の乾御門警護は旧に復されました。姉小路卿一件については、いつとなく探索の手もゆるみ、卿は死損とでもいうべき経過をたどりつつあり、せめてものはなむけは、帝のおはからいにて、遭難間なく、参議左近衛権中将を追贈されたもうたことでございます。
なお、三条卿以下七卿は、わずかな警護の士とともに、長州へ向かわせられました。警護の士の主なものは、筑後久留米の真木和泉守、淵上郁太郎、肥後の宮部|鼎蔵《ていぞう》、土佐の土方楠左衛門などであったと聞き及びます。申しおくれましたが、姉小路家の中条右京も、長州へ落ちました。
右京は弱年ながら、尊攘の心篤い者でございます。姉小路卿は亡くなられても、かつての同志である三条卿、沢卿以下の悲運を、よそに見すごせぬ思いもあったに違いございません。が、それと同時に、姉小路卿の横死とかかわることのわずらわしさから脱け出したい。いくぶんはそういう思いもあったのではございますまいか。
先の大和行幸中止、八月十八日の政変によって、大きな波紋がひろがりました。まず政変に先だって挙兵した天誅組の人びとが、義徒から一転暴徒と見なされるに至ったこともその一つでございます。
天誅組は、八月二十六日、大和高取城を攻めて利あらず、九月なかばには、天河辻《てんのかわつじ》に敗れて、九月二十六日、幹部の松本|奎堂《けいどう》、藤本鉄石が憤死し、翌二十七日には土佐の吉村寅太郎が自害、ここに天誅組は潰滅《かいめつ》いたしました。
しかし、天誅組以上に哀れだったのは、天誅組に呼応して、都落ちした七卿の一人、沢宣嘉卿を奉じて、生野《いくの》代官所を襲撃した人びとでございます。中心となったのは、河上弥一、美玉《みたま》三平、平野次郎などでございました。代官所襲撃の前に、政変の知らせも、天誅組潰滅の知らせもすでに伝わっており、決行か、いったん中止して再起をはかるかに論が分かれ、決行ときまったものの、頼みの農兵に裏切られ、銀山代官襲撃が十月十一日、その二日後には、盟主沢宣嘉卿は、同志を見捨てて脱走、残る河上弥一、美玉三平らは、追いつめられて自害という、惨澹たる末路を迎えるに至ったのでございます。
中条右京も、生野襲撃に加わりましたが、最後は、河上弥一らと別れて、脱走をはかり、長曾我部太七郎とともに、追上峠から姫路街道を落ちるところを、猪笹村で発見され、農民の鉄砲で命を落としたとかで、それ以上のことはわかりません。
以上はわたしが、某藩京都藩邸留守居次席をつとめていたころ、藩庁へ送った報告書の控えである。
すでに久しい歳月が流れた。姉小路卿のことも、田中新兵衛のことも、中条右京のことも、あらためて思い出すこともないであろうと感じていたのだが、ゆくりなくも中条右京の最期を知るはめになった。
実は、長く奉職していた某役所の中級職を退いたわたしは、昨日――明治二十一年五月二十六日、京都を訪れた機に、東福寺の塔頭《たつちゆう》即宗院の奥に、田中新兵衛の墓がある旨かねて耳にしていたので、偶然祥月命日でもあり、にわかに墓参を思い立ったものだった。
墓石に水をかけ、香華《こうげ》を手向《たむ》け、一面識もない相手と思いつつも、赤の他人とも割り切れず、心から手を合わせ、やがて立ち去ろうとしたとき、手桶をさげて近づいてきた朴直そうな四十二、三と見える男に、
「田中新兵衛どのにゆかりのお方ですか」
と問いかけられた。
「さようでございます」
元某藩士波多野要と名乗った。
「では、吉村右京という名にご記憶がございましょう」
「吉村右京どの……」
一瞬わたしはとまどったが、
「あるいは中条右京と申し上げたがよいかもしれません」
「おお、中条どの」
一気に垣根がとりはらわれた。男は、右京の従弟、吉村欽吾といった。
「しばらくお待ちを」
欽吾は、新兵衛の墓にお参りをすませてから、
「従兄右京の頼みにて、毎年命日には、かかさずお参りしております」
といった。
右京が命を落とした猪笹村は、出石の城下からそう遠くはない。欽吾は、右京の父に頼まれて、右京説得に出かけた。
文久三年十月十四日のことである。時刻はよく記憶していない。右京らを遠巻きにしている農民の頭立った者に、
「自分は出石藩士吉村欽吾である。ゆかりの者ゆえ、降伏をすすめてみたい」
といった。欽吾はやっと十八だった。
生野事件関係の記録では、このとき右京といっしょにいたのは、阿波の士長曾我部太七郎一人とされている。
「ところが、もう一人いました。藩名はわかりませぬ」
ただ、田中新兵衛とは、義兄弟同然の仲といった。
「不覚にも、名は失念しました」
その男が、農兵に遠巻きにされ、ときどき銃弾が飛んでくる状況のなかで、白刃を抜き放ち、
「真実をいえ。まこと田中新兵衛が姉小路卿を斬ったのか」
と強く右京に迫ったのである。
「隠していることがあろう。知っているならいえ」
右京はかたくなに答えなかった。
「いま一つ聞く。金輪勇が、ろくに取り調べも受けず斬られたのは何故だ」
「待て、待ってくれ、いまいおう」
男の顔に緊張が走った。かたわらの長曾我部太七郎も蒼白である。まだ十八の欽吾は、異様な雰囲気に包まれて、何もいうことができなかった。右京がいった。
「欽吾、頼みがある。毎年五月二十六日、田中新兵衛どのの墓に参ってくれ」
「わかった」
「右京、それは新兵衛が濡衣《ぬれぎぬ》だったということか」
男はいきり立った。
「そんなことはいってはおらぬ」
「いったい、だれをかばっているのだ」
「かばう者などいない」
右京は突っぱねた。
「申せ。真実を吐け、右京」
銃弾が二、三発、熊笹をゆるがせた。
「右京兄さん、降伏しろ」
「君は黙っていろ」
男が欽吾を突きのけて、
「これでは新兵衛が浮かばれぬ。右京、真相はどうなんだ」
それには答えず、右京が熊笹の茂みのなかから飛び出したかと思うと、そのからだは、まりのようにはね、ふたたび茂みのなかに落ちると、それっきりびちりとも動かなかった。
「もうこれ以上申しませぬ」
欽吾は口をとざした。わたしも、聞く気はなかった。
「今日は五月二十六日……」
奇しくも新兵衛の祥月命日だった。いや、正確には、明治五年、太陽暦に改められたので、正真正銘の命日ではない。
「中条右京どのは……」
その先が察しがついたのであろう。欽吾は答えた。
「従五位を贈位されております」
あたりは、墓地全体を埋めつくすような青葉であった。新兵衛の墓石は、青葉のかげにひっそりと立っている。
新兵衛が贈位されたとは、わたしは聞いていない。
「ご贈位はなかったはずです」
気の毒そうに欽吾がいった。わたしは、いわずにはおられなかった。
「いちばん苦しまれたお人は、中条右京どのでございましょうな」
姉小路公知卿横死の真相を胸に包んで、中条右京の霊は、いまも哭《こく》しつづけているに違いない。
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松木騒動書留
一
延宝四年(一六七六)八月なかば、日向《ひゆうが》佐土原《さどわら》藩主島津飛騨守|忠高《ただあきら》は、江戸屋敷で急死した。二十六の若さであった。
――毒殺ではないか。
そんなうわさが立った。
忠高には、この春佐土原で生まれた妾腹《しようふく》の男児万吉丸がいるが、あまりにも幼すぎる。そのため、忠高が重体におちいるや、
――万吉丸十五歳まで、忠高の叔父久富の一子又吉郎|久寿《ひさとし》をもって、番代をつとめさせたく。
と幕府に願い出ていたが、忠高の死後許しがおりた。久寿は十三歳だった。
――これでいちばん喜ばれるのは、家老の松木左門どのだろう。
人々はひそかにささやいた。
松木家は、主家と血つづきになる。初代|以久《ゆきひさ》の正室梅香院が、松木家の出だし、二代目忠興の正室竜泉院も、養女とはいえ松木家の者だった。その竜泉院は、死んだ忠高にとって祖母にあたり、松木左門高清から見れば、義理の大叔母であった。
十四歳にして藩主になった忠高は、二十一歳の夏、本藩の許しを得て、叔父の主膳久富を相談役とした。この久富も竜泉院の子だから、左門としても都合がよい。
久富には、八歳になる鶴千代という子がいたが、忠高にはまだ子がいない。左門は野心を抱いた。もし忠高が、鶴千代を養子に迎えて世継にしてくれたら、ゆくゆく鶴千代は藩主になれるし、そのときは、鶴千代の背後で自分が実権をふるうことができる。久富にしても、格別の望みはないにせよ、わが子が藩主となることに異存はないはずだった。
「鶴千代さまをお世継になさるよう、働きかけてみましょう」
左門に持ちかけられて、久富もその気になった。左門は、一族の山田半左衛門、叔父の村上三大夫に相談した。両名は、意見書をしたためると、
「これをご主君に差し上げていただきたい」
と米良《めら》掃部《かもん》に頼んだ。掃部は、小姓頭の中尾|造酒《みき》之允《のじよう》に渡した。
忠高は年若ながら英明で気性もはげしい。初めは一切を家老たちにゆだねていたが、昨今は家老まかせをきらい、みずからの意志を藩政に反映させたがっている。それだけに造酒之允は、その意見書を正面から取り次ぐことをおそれた。かといって、握りつぶすわけにもいかず、こっそり、忠高の煙草入れのなかに忍ばせた。
それが裏目に出た。激怒した忠高は、村上三大夫を即座に追放に処し、米良掃部の知行《ちぎよう》を没収した。どうした理由でか、山田半左衛門は罪を問われなかった。
中尾造酒之允は、疑いをかけられずにすんだ。米良掃部が、
「煙草入れのなかに意見書を忍ばせたのは、わたくしの仕業でございます」
と造酒之允をかばったからである。が、その数日後、造酒之允は逐電《ちくでん》してしまった。良心の呵責からでなく、いつかは事実が判明するに違いないというおそれからだった。
事実上の張本人である松木左門は、口をぬぐって知らぬ顔で通した。忠高もなにもいわなかった。
聡明な忠高が、気がついていないはずはない。
「ご存じかもしれぬ」
左門自身、それを感じたが、表むきは平然としていた。いわば腹の探りあいだった。
忠高は、その後も自分の意見を、前面に強く打ち出した。兵学に通じていることを鼻にかけて、ともすれば驕慢な言動の多かった伊集院忠尚を放逐したのもその一つだった。つづいては、伊集院八左衛門ならびに山口惣右衛門に切腹を命じた。これは両名が、
「家格違いの縁組を許さず」
という、忠高が定めた新規の掟にそむいたからである。
恐怖した左門は、鶴千代を世継にする策動を見合わせた。ところが、こんどはからずもその忠高が急死し、万吉丸幼少のため、十三歳になる鶴千代こと又吉郎久寿が、番代をつとめることになったのだ。
三大夫追放から五年ぶり、結果として、松木左門の野望は実現した。忠高の急死をめぐって、
――毒殺にあらずや。
とうわさが立ったのもそのためだった。
二
国もとにいた又吉郎久寿は、九月十六日、出府の途につき、十月二十四日着府、三田の上屋敷にはいり、翌二十五日登城、
「万吉丸成人まで番代をつとむべし」
とのご沙汰を正式に拝した。久寿が、従五位下|式部《しきぶの》少輔《しよう》に任ぜられたのは、それから二年後、延宝六年十二月のことである。
――第一の布石はすんだ。
左門は内心ほくそ笑んだものの、幼いとはいえ、忠高の子万吉丸がいる以上、はやばやと露骨な態度に出るわけにはいかない。こんどのことをこころよからず思う、反松木派も少なからずいる。
老臣の山口高直、宇宿《うしゆく》久明などがそうであった。ことに山口は剛直で通っている。油断はできなかった。
――万吉丸さまを失いまいらせねば。
とは思うが、万吉丸の身辺には、忠節一途の吉川局《よしかわのつぼね》や松木惣右衛門が目を光らせていたから、つけ入るすきがなかった。
左門はもっぱら、久寿の父、主膳久富のきげんをとり結んだ。根がはで好きで、人がいいばかりの久富は、左門のはからいで過分の手当てをもらい、事実上の藩主ともいうべき番代の父として、ぜいたくな明け暮れを楽しんでいる。
藩政など二の次だった。
いまのところ、松木派と反松木派の対立が表に出ることはないが、不気味な底流には、たいていの者が気づいていた。江戸からの知らせでは、本藩七十七万石の太守、島津光久の耳にも達しているらしい。
「青松院さまがお告げなされたな」
左門にはぴんときた。青松院というのは、忠高の後室のことである。先年、三田にある上屋敷から、麻布の別邸に移っていた。そのことで、
「ごきげんを損じたもうたのか」
と、式部少輔久寿が心を痛めているともいう。
「さりとはお気弱な」
そんな気弱さでは、手駒として使えぬ、と左門は舌打ちしたくなる。
その間にも歳月は流れて、万吉丸七歳の天和《てんな》二年(一六八二)春を迎えた。そのころ、本藩の上屋敷にいる島津光久から、
「万吉丸を出府させよ」
という急ぎの書状が届いた。前後して、佐土原藩の江戸屋敷から、
「お目の届くところで、万吉丸さまを守ろうご意向かと見受けられます」
と知らせてきた。四万石の支藩にすぎない佐土原島津家にとって、本藩主の命は絶対であった。
万吉丸の生母松寿院、乳母吉川局、お守役松木惣右衛門など、同行者がきまった。老臣では、松木左門、浅山高重。
四月二十日江戸着府。
数日後、左門は松木惣右衛門を自分の屋敷に呼び寄せた。惣右衛門は左門の一族で禄百石、万吉丸誕生の折、妖魔を払うひき目の役をつとめた人物である。重厚な人がらで、年齢は五十に近い。
「折入ってのお話とは」
「他言無用だぞ」
念を押してから、左門は声を落として秘密を明かした。
「なんと万吉丸さまのお命を」
「お家のためじゃ」
このままでは、佐土原島津家は、久寿と万吉丸をめぐって二つに割れる。左門はそう強調した。
「一族のよしみ、頼む」
「お断りいたす」
にべもなく突っぱねた。前日、惣右衛門は式部少輔久寿に呼ばれている。
――左門にかつがれるような男。
惣右衛門は初めから、反感を隠さなかったが、意外にも久寿は、
「そちが万吉丸さまに、真ごころをもって仕えてくれていること、風の便りに聞き知っている。礼を申す」
しみじみとした声音《こわね》でいった。十三で番代になった久寿は、すでに二十歳だった。
「安心せよ。左門のいいなりにはならぬ」
とも久寿はいった。
「父君を裏切られますのか」
「惣右、父は左門ほど悪人ではない」
ぜいたくに過ごせるのがうれしくて、左門のいいなりになっているだけだろうと久寿はいう。いわれて見ればそうかもしれない。惣右衛門は、出府前に、久富のところへ挨拶にいった。久富は、柔和な目をしていた。どう見ても悪人の目ではなかった。
「すると、悪人はこの左門ひとりとその方は申すのじゃな」
「なにとぞお思いとどまりを」
ひざを乗り出して、
「ただいまのお話、だれにも口外いたしませぬ。さればその儀はご安心を」
惣右衛門は金打《きんちよう》した。
「ようわかった。このたびのこと、わしの心得違い、忘れてくれるように」
左門は悔いを明らかにして、惣右衛門に詫びをいった。その後しばらくはなにごともなかったが、六月になって、ちょっとした騒ぎが起こった。
万吉丸の着府を機に、式部少輔久寿が公許を得て一時帰国することになり、そのお供人数が発表されたが、松木左門、浅山高重の両老臣もそのなかに加えられ、老臣としては、三角高治だけが江戸にとどまることになった。
「万吉丸さまをないがしろになさるのか」
「松木、浅山両名のうちどちらかは、江戸にとどまるべきであろう」
万吉丸の側近から、そんな声が上がり、吉川局が、その旨書面にしたため、侍女に命じて、万吉丸の祖父、久雄《ひさたか》の後室で、本藩主島津光久の養女でもある興正院にたてまつろうとした。
ところが、奥の事情をよくわきまえていなかったこともあって、侍女はその書面を、興正院ではなく、久寿の母である恵性院《えしよういん》に届けてしまった。立腹した恵性院は、吉川局に蟄居《ちつきよ》を申しつけた。
三
式部少輔久寿は、名目は番代とはいえ、事実上は藩主同然の存在だった。したがって、その母恵性院のきげんを損じては、どうしようもない。
――おいたわしや。
吉川局は、残される万吉丸に後髪引かれる思いをしつつも、お側から退くほかはなかった。頼みは、実母松寿院と、松木惣右衛門だけだった。
年が明けて間もない天和三年春、その惣右衛門も、思いも寄らぬ不義の汚名をこうむって、切腹を命ぜられた。
松木左門が、久寿の供に加わり、参府の途についたころである。切腹のいきさつは、吉川局も耳にした。
惣右衛門は、庭内の四阿《あずまや》で、恵性院の侍女楓と会っているところを、松木派の武士数名に見とがめられた。
もとより、抱き合ったりしていたわけではない。間をへだてて、礼儀正しく向かい合っていた。前日、
「万吉丸さまのことで、お知らせしたいことがございます」
という走り書きをもらった。差出人の名前は、恵性院さまおつき楓と、はっきりしるしてあった。それが、一種の盲点になった。初めからはかりごとにかけるつもりなら、ほかの名を使うはずだった。
つけられていないかどうか、背後や左右をたしかめつつ、指定された四阿までいってみると、若い女が顔青ざめて待っていた。
「楓どのか」
相手は無言でうなずいた。
「これはあなたのご手跡だな」
走り書きを見せると、それにもかすかにうなずいた。その直後、
「見つけたぞ、不義者ども」
わらわらと侍たちがあらわれた。
「不義だなどと……」
うわさを聞いて、吉川局は、あいた口がふさがらなかった。楓はまだ十八、惣右衛門はすでに五十に近く、しかも武骨一辺、垢ぬけしたところもない。
不義などであるはずがなかった。取調べを受けるにあたって、惣右衛門はしきりに、楓との対決を求めたという。が、一切拒否された。
「楓は恥じて自害した」
というのである。
「不義などではござらぬ」
惣右衛門はあくまでいいはった。
「ならば、そのいいぶんのみはみとめよう。ただし、四阿で楓と会うたことは、まぎれあるまい」
そのことについては、否定するわけにはいかない。
「会い申した」
というしかなかった。
「不義にあらざることは相わかった。とはいえ、人目を忍んで女と会うとは、武士として不心得千万」
不義ではないが不義同然の振舞、それが惣右衛門の罪状であった。申し渡しとして、巧妙この上もなかった。
おそらく、参府の途につく前に、左門が練り上げた企みに違いない。左門はいま、参府途上であった。その点、惣右衛門の切腹とは、無関係をよそおえる。
――腹黒な。
吉川局は唇をかんだ。
切腹当日、惣右衛門はいよいよ切腹の座に直るや、
「委細は書面にして、本藩の太守さまに申し上げておいた。おのれら、この惣右衛門の死後、万吉丸さまに指一本ふれてみよ」
とはげしくいい放って、短刀をふかぶかと腹に突き立てた。
その一言が、以後の万吉丸を守ったといえる。本藩の太守、島津光久の手前もあって、万吉丸にうかつに手は出せなかった。
――まだあせる必要はない。
島津光久はすでに六十八になる。このところ、病気がちとも聞いていた。光久が死んでからでもおそくはあるまい。左門はあわてなかった。
しかし、光久にもぬかりはなく、佐土原島津家の内情を、ことこまかに調べ上げつつあった。
お為方の山口高直が閉門を命ぜられたことが、探りの網にまずかかった。山口は、着府早々松木左門から、桜田の別邸在番を命ぜられたが、あくまで固辞した。そのため、抗命を理由に閉門を申し渡されたのだ。
それ以前に、吉川局が蟄居させられたことや、松木惣右衛門が切腹に追いこまれたこともわかっていた。
山口高直が桜田在番をこばんだのは、万吉丸の側から自分を遠ざけようとする、左門の魂胆を見ぬいたかららしい。
やがて、この年十一月、万吉丸は、母の松寿院ともども、上屋敷から桜田の別邸に移された。いずれ藩主の座につくべき万吉丸であれば、上屋敷に住むのが当然だった。それを別邸に移らせるというのは、底意があるとしか考えられない。
お為方はくやしがったが、真っ向から左門に抗議できる者はいなかった。剛直で鳴らした山口高直も、閉門中ではどうするすべもない。式部少輔久寿は、さすがに左門の専断を喜ばず、
「万吉丸どのをなぜ桜田へ移すぞ」
いったんはたしなめたが、
「お父君のご意向でございます」
と左門にいわれると、それ以上は押せなかった。それに、番代となるについては、左門の働きが大きかった。
「それをお忘れになっては困ります」
左門は釘をさした。
四
貞享《じようきよう》元年(一六八四)、万吉丸九歳。
この年三月四日、万吉丸は、高輪《たかなわ》の本藩上屋敷において、めでたく元服式を挙げた。七十七万石の太守島津光久が、烏帽子親をつとめたことはいうまでもない。
光久の命によって、佐土原藩の番代、島津式部少輔久寿をはじめ、家老の松木左門、宇宿伝左衛門らも列席した。
この日から万吉丸は、島津又次郎|忠充《ただみつ》と称した。
ほどなく、久寿は帰国したが、松木左門はそのまま江戸にとどまった。五月に、朱印改めがあった。前年、四代将軍家綱が薨《こう》じ、五代綱吉の代になっていたからである。
久寿帰国中のため、名代として左門から朱印を返上した。忠充の存在は無視された。本藩の光久にさえうかがいも立てない。
――左門|僭上《せんじよう》なり。
心ある者はひそかにいきどおったが、あとの報復がおそろしいのか、面と向かって難詰する者はいなかった。
本藩の光久は、左門に対してはなにもいわず、在国中の久寿の父久富ならびに、久富の異腹の弟で、家臣に信望のある久遐《ひさとお》に、
「老臣一致せず、藩政の乱れ目にあまる。すみやかに善処せよ」
と命じた。
番代の久寿には、なんの悪意もない。又次郎忠充が十五歳になれば、ただちに忠充へ藩政を譲る腹であった。だが、周囲がそれを許さない。
性順良だが、年も若く線の細い久寿では、父久富を諫《いさ》める力がなく、左門を押さえることも無理で、久寿は、久富や左門と、反松木派の間にあり、板ばさみに苦しむのみだった。だから光久は、じかに久富に善処を命じたのだ。
さすがに久富は動揺したが、左門が江戸から急使を出して、
「ご案じには及びませぬ」
と励ますと、気を取り直した。弟久遐の諫めも聞かなかった。そればかりか、
「よけいなことをなさると、おためになりませんぞ」
と、久富や左門の息のかかった者が、久遐におどしをかける。いや気がさした久遐は、とうとう隠居してしまった。
反松木派で、剛直で通った山口高直は、依然として蟄居中だし、宇宿伝左衛門も鳴りをひそめている。他の二老臣、浅山高重と三角高治は、左門のいいなりだった。そこへ、久遐までが隠居したとあって、松木派としてはだれはばかる者もない。
そんな情勢のなかで、故忠高の不興をこうむって追放されていた村上三大夫が、百三十石で帰参した。甥の左門がはからったことである。
松木派にとっては、わが世の春だった。
――松木派にあらざれば人にあらず。
という観さえある。いまや佐土原一藩の力では、藩政一新など望むべくもない。もちろん、こうした藩情は、いちいち島津光久の耳にもはいる。
――いよいよ捨ておきがたし。
光久は機をうかがった。
十一月なかばすぎ、将軍代替りにともなって、去る五月に返上していた朱印が、あらためて交付されることになった。
久寿は在国中である。この場合、まだ九歳とはいえ、つぎに藩主となることが約束されている又次郎忠充が、老臣をしたがえて登城し、朱印を頂戴すべきであった。久寿も、初めからそのつもりで、
「又次郎忠充さまを」
という書状が左門のもとへ届いていたが、左門は握りつぶした。久寿の意向どおりにすれば、忠充を、いやおうなくつぎの藩主として認めることになる。
それでは、この先不都合だった。かといって、朱印返上の際同様に、左門みずから名代となることもはばかられた。考えぬいた末、ようやく一計を案じた。
旗本のなかに、島津本家の出で、島津八郎右衛門という人物がいる。その八郎右衛門に白羽の矢を立てた。
「式部少輔さまご名代として、ご朱印拝領にあたっていただきたい」
「承知いたした」
八郎右衛門は無造作に引き受けた。ところが、朱印拝領を明日にひかえた十一月二十日の午後、左門のもとへ、八郎右衛門からにわかに辞退を申し入れてきた。おどろいて理由をただすと、
「中将(光久)さま、もってのほかのご立腹にござる」
八郎右衛門は唇をふるわせた。
「いったん引き受けたこと、いまさら辞退しては面目が立ちませぬ」
八郎右衛門はくいさがったが、
「ならば勝手にせよ。ご老中へは、このわしから、島津八郎右衛門は、式部少輔の名代にあらずと申し上げておく」
光久に頭ごなしにきめつけられた。これでは、どうしようもない。押して登城しては身の破滅であった。
左門は蒼白になった。明日の今日では、手の打ちようもない。途方にくれた左門は、意を決して、高輪の本藩上屋敷へおもむき、光久に目通りを願い出た。
一室に通されたあと、一|刻《とき》(二時間)近くも待たせられた。その間、茶も出ない。応対する者もなかった。
「どなたかおられぬか」
声はむなしく壁に吸われた。寒い日なのに、背中が汗でぬれた。
――詰め腹を迫られるかもしれぬ。
恐怖にかられたとき、光久が姿を見せて上座についた。にこりともせず、
「少しは頭が冷えたか」
光久は辛辣なことばを浴びせかけた。しばらくは、顔が上げられなかった。それでも、勇をふるって、
「明日の新ご朱印拝領の儀、いかがすべきか、お指図願わしゅう存じます」
と左門はたずねた。
「知らんな」
光久はとりつく島もなかった。
「その方一存にて、いかようにもせよ。一存ではからうこと、得意ではないか」
旧朱印返上の際、左門は独断で運び、光久にはうかがいも立てなかった。新朱印拝領にあたっても、光久に一言の相談もせず、島津八郎右衛門を名代にきめている。
光久はそれを逆手にとった。痛烈なしっぺ返しであった。
「なにとぞ、しかるべきお指図を」
いま一度、左門は押した。
「申すことはない。これまでどおり、心まかせにせよ」
いい捨てた光久は、平伏している左門を、見向きもせず立ち去った。左門は、汗まみれになっていた。
五
――すでに老中への根回しは、ぬかりなくすんでいる。
光久の態度でそれが読めた。さしもの左門も、こうなっては、手のほどこしようもなかった。
左門は自発的に謹慎した。
新しい朱印は、明くる十一月二十一日、光久が登城して頂戴し、三田の佐土原藩上屋敷へ届けた。
その二日後、光久は、松木左門に対し、あらためて帰国蟄居を命じた。
「執政の要職にありながら、我意にまかせて藩内に不和を生ぜしめ、加えて、新ご朱印受領にあたっての処置よろしからず」
というのである。左門の嫡子で、国もとにいる三郎五郎もまた、遠慮の仰せ渡しを受けた。左門にかえて、宇宿伝左衛門が江戸家老に起用された。
明けて貞享二年早々、主膳久富に、鹿児島の政庁から呼び出しがかかった。背後には、光久の意志があった。おそれた久富は、病気と称して出頭せず、かわりに家老の一人浅山高重と、用人和田義元を鹿児島へおもむかせた。両名は、藩情について、七ヵ条の詰問を受けた。その一つは、山口高直閉門の理由についてであった。
「桜田別邸在番の命を、お受けしなかったためでございます」
ともかくそう答えたが、深くつきこまれると返事に窮した。他の六ヵ条についてはよくわからないが、申しひらき困難なことだったらしい。
鹿児島からは、重ねて主膳久富の出頭を求めてきた。それを苦にしてであろうか、久富は、二月十日、佐土原で病死した。一説によれば、狩りに出たところを、本藩の侍たちに前後から迫られて、やむなく腹を切ったともいわれる。
それと前後して、山口高直の閉門がとかれた。むろん、島津光久の強硬な申し入れの結果である。
――松木一党も、もう長くはあるまい。
人々はそううわさした。
左門はなお屈しなかった。蟄居の身とあって、表だっては動かれないが、叔父の村上三大夫を背後からあやつった。嫡子の三郎五郎は、さすがに心を痛め、
「もうほどほどになされませ」
と諫めたが、左門は聞かなかった。左門のほかにも、一族の山田半左衛門や、弟の松木清兵衛、さらには伊東弥七郎らが、巻き返しをはかった。
江戸では、久寿の母恵性院が、松木派のためにいろいろ画策し、なるべく公正であろうとする久寿をかえって苦しめた。反松木派の人々は、恵性院への憎しみから、久寿の心情を解さず、久寿をも、
――しょせん一つ穴のむじなよ。
と見た。
やがて貞享三年を迎えたが、藩内の対立はまだ続いていた。この年三月、島津光久の意を体して、宇宿伝左衛門が帰国し、左門及び、その二男三四郎、三男長次郎の三名に、
「中将(光久)さまの仰せにより、鹿児島へ護送する」
と申し渡した。左門は一瞬、不服そうなまなざしになったが、すぐあきらめると、
「三郎五郎はいかが相なりましょう」
とたずねた。
「三郎五郎にはおとがめはない。これまでどおりご奉公に励むがよい。そのような中将さまの仰せである」
それを聞くと、ほっとしたように左門は平伏した。おそらく左門は、これ以上|抗《あらが》うことのむなしさを悟ったのに違いない。
以後も奉公を許された三郎五郎をのぞく左門父子は、本藩領高岡へまず送られ、そこで本藩からの護送役に引き渡された。左門の態度はきわめて従順だった。
本来ならば、これで決着がついたはずだが、実際はあとに尾を引くことになった。左門の叔父村上三大夫が、
――左門の意気地なしめ。おれはこのままではすまさんぞ。
と修羅を燃やしたのである。
――毒をくらわば皿までじゃ。
幸い、恵性院の後押しが期待できた。
貞享三年は、在国の年にあたり、式部少輔久寿は、宇宿伝左衛門より、二ヵ月ほどおくれて帰国した。このころ、すでに松木派を離れていた浅山高重が、早速目通りして、
「村上三大夫を処断なされませ」
と進言したが、久寿は首をふらなかった。母の恵性院の怒りを買うのをおそれたためである。
「それでは、老職はつとまりかねます」
浅山は引きこもってしまった。困惑した久寿は、宇宿伝左衛門、樺山久孝の両名に相談したが、両名とも、
「浅山の意見、もっともでござる」
と、これまた久寿に善処をうながし、久寿がとかくの答えをせぬと見るや、辞意を表明した。
つぎには、山口高直が呼ばれた。山口はさらに強硬だった。
「お家の乱れは、ほかならぬあなたさまに責めがございます」
とまで極言した。
「母上さまへのご孝養もことによりましょう」
痛いところを衝《つ》かれて、久寿は思わず目を伏せた。松木左門や、なき父久富にかつぎ出されたとはいえ、久寿には、万吉丸――又次郎忠充にとってかわるつもりはない。いまもって、
――忠充どの十五歳まで。
という考えに変りはなかった。が、自分の気弱さ、線の細さが、左門の専横、ひいては母恵性院の藩政への介入を助長させたことは否《いな》めない。
「中将さまのご英断によって、左門は本藩領内に幽せられました。いまこそ、残る村上三大夫を処断し、藩政の乱れを正されるべきでございます」
山口高直は、語気を強めてつめ寄った。
六
七月二十五日、鹿児島の本藩から、百余名の武装兵を率いた三名の使者が、佐土原の城下に乗りこんできた。その三名というのは、相良主税、村田伊左衛門、中上内蔵允であった、三名は登城して、式部少輔久寿に、中将さまの仰せであるとして、
「このたび、村上三大夫を薩国に召し寄せらる。急度《きつと》申し渡し高岡まで相送るべし」
と命じ、合わせて山田半左衛門、春成九郎右衛門の蟄居、松木がわについて、さまざまな流言をひろめた小姓三名の取調べを申し入れた。
久寿としては、否みようはない。山口高直にせまられて、善処を約束した矢先でもあった。
「山口高直の屋敷へ出頭せよ」
と伝える使者が、村上三大夫の屋敷へおもむいたが、三大夫はいなかった。このとき、早くも事態を悟った三大夫は、すでに松木三郎五郎の屋敷にかけつけていたのである。
三郎五郎はまだ二十歳、父左門が、鹿児島へ配流されたあと、
「父の非道はその方の与《あず》かり知らぬこと、以後忠勤を励め」
として、三百五十石をいただいていたが、三郎五郎はそれをいさぎよしとせず、先ごろ久寿までお暇《いとま》を願い出ていた。三郎五郎としては、主家に楯つくつもりなどなく、暇が出れば、こと荒立てず、穏便に佐土原から立ち去る気でいた。
だが、事情は一変した。父左門の叔父、自分にとって大叔父にあたる村上三大夫は、高岡押送を不服として、真っ向から主君久寿に楯つく覚悟をきめている。
それを知りつつ、三大夫を見捨てるわけにはいかなかった。
「式部少輔さまがふらふらなさるからよ」
三大夫は、久寿を憎んでいた。三大夫が、先代藩主忠高に追放されたのは、もとはといえば、左門の意を受けて、
「鶴千代(久寿)さまをご養子に」
と意見書をたてまつったことにある。
忠高の急死後、久寿は左門の後押しで番代となった。その左門を動かしたのは、浪人中の三大夫であった。
「それを忘れて、かばってもくだされず、中将さまの仰せごもっともと、本藩引き渡しをおきめ遊ばすとは」
その口惜しさは、若い三郎五郎にもよくわかる。三大夫がかけこむや、
「ともに討手を迎えて斬死つかまつるべし」
三郎五郎は即座に意をきめた。
久寿に対してもさることながら、老臣の浅山高重、宇宿伝左衛門久明にも、腹が立ってならなかった。
松木左門の勢力がさかんなころは、浅山高重は、なにごとによらず左門のいいなりだったにもかかわらず、いったん左門が失脚すると、にわかに正義づらを見せ、松木派の粛清を久寿にせまり、聞かれぬと、あてつけがましく引きこもった。
宇宿伝左衛門にしても、松木派排撃の裏には、藩の前途を思うよりも、どす黒い私怨が固まっている。すべて、筆頭家老としての権勢を奪われた恨みからきていた。
ただ、山口高直のみはそうではない。だから、山口高直が、松木派排撃の先頭に立つことには、腹は立たなかった。
夜が明けて、七月二十六日早朝、久寿の命で、使者が三郎五郎の屋敷に行ったが、門はとざされていた。
「上使でござるぞ。門を開けられよ」
呼びかけても答えはない。三大夫、三郎五郎以下、松木一族が立てこもっていることがはっきりした。
もっとも、一族ことごとくこもったわけではない。左門の従弟、三角作大夫、三郎五郎の母方の叔父吉賀半助、左門の妹婿和田与次兵衛、三大夫の弟狩野|隼人《はやと》らは、三大夫の誘いに応じなかった。彼らは、久寿に命じられて説得に出向いたが、応ずるどころか、三大夫らはいきなり鉄砲を浴びせかけた。ありのままに、復命するほかなかった。
「やむを得ぬ。討手を差し向けよ」
久寿は断を下した。
松木屋敷内には、年老いた知元《ちげん》尼がいた。三郎五郎の祖母である。鹿児島に配流された左門にとっては母、村上三大夫にとっては兄嫁にあたる。
「おろかな意地立てをなさるな」
知元尼はこんどの立てこもりには、初めから反対だった。彼女は、孫の三郎五郎を呼んで、
「三大夫どののなさること、どう考えても道理とはいいがたい。誤りなしと信ずるなら、天にまかせて、せめて子供の罪なと緩くせんとするこそ人の道、親の慈悲なるべきに、我意を先として仰せにそむかるる条わきまえがたし。よくよく思案なされよ」
と諫めたが、もはや騎虎の勢いだった。
「三大夫どの……」
知元尼は、三大夫にもすがったが、むろん聞き入れるはずもない。
「足手まといじゃ。先に待っておれ」
三大夫は、まず妻の胸を刺した。それを見て、知元尼も覚悟をきめ、
「三郎五郎、もはやなにもいわぬ。さ、ばばを斬りやれ」
と両手を合わせた。
七
欄干橋のそばにある松木屋敷に討手が押し寄せたのは、申《さる》の上刻(午後四時)であった。討手の中心となったのは、田原長左衛門、宇宿六郎兵衛、森伊左衛門、富田六兵衛、以上四名であった。
討手は、総勢百をこえていたという。松木がわは、女子供までふくめて、五十名に足りなかった。
それでも手ごわく抵抗した。斬り合いが終わるまで、およそ二刻(四時間)かかっている。それから推しても、その凄まじさは察しがつこう。
三郎五郎は、二十歳の若さながら、鉄砲の手練《てだ》れであった。築山からねらい撃ちする三郎五郎の鉄砲で、討手の大将格、旗奉行田原長左衛門と、部下の和田惣右衛門が即死し、数名が傷を負った。討手はひるみ、表門はなかなか破れなかった。
ようやく突破口がひらけたのは、中野九郎右衛門が、屋敷まわりの竹林から斬りこんだ結果だった。九郎右衛門は、三大夫を斬り、三郎五郎をも討ちとめたが、みずからも重傷をこうむり、後刻、自分の屋敷にかつぎこまれて絶命した。
立てこもった者は、女子供までことごとく斬られた。そのなかには、三大夫の子である僧の祖要もまじっている。
四時間後、松木屋敷は焼け落ち、討手は勝どきをあげた。ただし、討手がわの犠牲も大きかった。
討死八名、重傷十四名。甲冑をつけていながら、これだけの死傷者が出たことは、そのまま立てこもりがわが、いかによく戦ったかを物語っている。
この事件の顛末《てんまつ》については、後日、式部少輔久寿名義をもって、くわしく幕府に報告された。これほどの重大事件とあっては、十分におとがめに価する。それが、何事もなくすんだのは、七十七万石の太守、島津左中将光久の働きかけが功を奏したと見てよい。
三郎五郎の母は、数年前、左門に離別されて、事件のときは、弟吉賀半助のもとへ身を寄せていたが、騒ぎを知るや、一室にこもって自害した。
本藩領の加世田《かせだ》に幽されていた左門や、二男三四郎、三男長次郎については、罪は問われなかった。
――悔悛《かいしゆん》の情明らか。
と見られたためであろう。
四年後の元禄三年(一六九〇)五月、式部少輔久寿は、十五歳になった又次郎忠充に、約束どおり、佐土原四万石を譲り渡したき旨幕府に願い出て許された。幕府はまた、忠充に対して、
「これまでの労に報いて、式部少輔に三千石を分知せよ」
と達した。久寿は、その三千石をもって旗本に列せられたが、翌元禄四年八月、まだ三十五歳の若さで病死した。人々は、
――松木騒動でお命をちぢめたもうた。
とうわさした。臨終のとき、久寿は、
「気が弱いとは、罪深いことよのう……」
と、しみじみ述懐したという。
[#地付き]〈了〉
参考文献
日高徳太郎「佐土原藩史」
日高次吉校訂「原城記《げんじようき》」(日向郷土史料集所収)
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琴の調べ
一
首席家老である。だれ知らぬ者もないあだ名があった。人呼んで、
「さようかどの」
という。
ひどく無口であった。といって、いつも黙りこくっているわけではなく、いざというとき、たとえば大事な評定などでは、流れるような弁舌に人を酔わせる。
だから、評定がもつれることなどほとんどない。たいてい、この人物の主張するとおりになった。そんなときは、無口といううわさが信じられなくなるが、それ以外はとんとしゃべらなかった。どんなめずらしい話を持ちかけても、
「さようか」
と答えるだけだった。しかし、とっつきにくいかと思えばそうでもない。人に敬遠されるほどではなかった。いや、むしろだれにも好かれ、信頼されているほうだろう。
「さようかどのになら、どんな秘密を明かしても、他にもれる心配はない」
だれもが口をそろえる。
きらわれていない証拠に、よく人が碁を打ちにきたりする。ただし、碁を打つ間も、まず口をきくことはない。
さようかどの、名は松ケ枝左門、年は四十二。禄八百石、六万石の家中にあっては最高である。
これから物語ることがらがことがらゆえ、場所ははっきりさせにくい。ここではかりにさる城下としておく。
夏も終りに近い一夜、柘植《つげ》金吾は、二の丸の一角にある松ケ枝家をこっそりたずねた。左門から昼間、
「人目につかぬようにきてくれ」
という使いをもらった。金吾は二十石、本来なら、首席家老から呼ばれるような身分ではなかった。呼ばれるとすれば、理由は一つしかない。金吾は忍びである。太平の御世なので、二十八になる今日まで、忍びの技を実地に使うことはなかった。ただ、技が落ちないように、習練だけはつづけてきた。
「柘植金吾でございます」
松ケ枝家の奥座敷、ふすまぎわで呼びかけた。
「はいれ」
いくらさようかどのでも、この場合、ものをいわざるを得ない。音もなくふすまがあき、またしまった。すでに金吾は、左門の前にいる。
「むずかしいことを頼む。ただし、聞き返しは許さぬ」
「かしこまりました」
「ことは、人助けにかかわる」
「どうすればよろしいので」
「のぞき見じゃ」
それだけでは、金吾はのみこめなかった。左門がすぐ先をいった。
「ことによれば、耳だけ使えばいいかもしれぬ」
ますますわからない。
「一組の男女をさぐってもらう」
「はあ」
「男の年は三十五、六まで」
かならずしも美男でなくともよいが、なるべくりりしい顔だちがこのもしい。醜男《ぶおとこ》は絶対に困る。
「それに口が固いこと」
そこで、左門はまた思いついたように、
「女房が若い場合は、男は四十二、三まではかまわぬ」
といい添えた。
「一組とはそういう意味で……」
少しばかりわかった。
「女はせいぜい二十五、六まで」
夫婦になってからの期間は、できるだけ短いほうがいいとも左門はいった。
「つまり、あのことを探ってほしいのだ」
「あのこと……」
「秘めごとよ」
そこまでで、左門は口をつぐんだ。額が汗ばんでいる。根が無口なさようかどのにとっては、これだけしゃべるのでも、相当の難事だったらしい。
「察しがついたか」
「いいえ、まだ十分には」
「人助けにかかわると申したはずだ」
左門はあくまでも真顔で、興味半分でこんなことをいい出す男ではなかった。
「このような無理を申すのは、あるお方に頼まれてのこと、わしは、どうしても断ることができなかった」
首席家老の松ケ枝左門が、断ることのできない相手といえば、おのずとかぎられる。
「もしやその方は……」
「聞き返すなと申したはずだぞ」
叱りつけたあとで、
「わしは、あのことに長《た》けた男をさがしている」
と左門はいった。金吾はようやくぴんときた。そういうことか。
女は二十五、六まで。夫婦になってからの期間はできるだけ短いがいい。その理由もふに落ちた。
夫婦になって何年もたてば、あのことに長けるのは当然だった。それでは意味がない。
「ひとり言をもらします」
「うむ」
左門は腕を組み目をとじた。
「女は、とつぐ前、身持ちが固かったこと、とついで半年足らずの者」
そのあとをいおうとして、金吾は思いとどまった。
「よろしい。その方が、あと一つなにをいおうとしたかもわかった」
左門はおもむろに目をあけた。
「調べ上げるまで、半月ほどいただきとうございます」
「よかろう」
二
「ご家老のお申しつけにかなう者が見つかりました」
十二、三日たった夜、柘植金吾は、松ケ枝家の奥座敷で左門に報告した。報告するのに汗ばむ思いだった。
こまごまと、そのさまを告げたわけではない。ただ、名をあげただけだった。馬廻り役百石、那須半之丞、二十八歳。妻百合、朝井織部の二女で十九歳。祝言をすませて五ヵ月とちょっと。
それだけいって、金吾は深い吐息をもらした。吐息の意味がわかったらしい。
「五ヵ月くらいでそれほどか」
左門が、めずらしく興味ぶかそうな顔になった。
「はあ、しばらくは、足がふるえて動けませなんだ」
灯りに照らし出された金吾の目もとが、妙に赤らんでいる。
「半之丞は、江戸へ出たことがあったな」
「参覲《さんきん》のお供を二度いたしております」
「では吉原あたりへも」
「多分、いや、そこまではなんとも」
金吾はあわてていい直した。吉原で遊興したことが表沙汰になれば、切腹がきまりだからである。もっとも、めったなことで、あばき立てたりはしない。見て見ぬふりが多かった。
「それにしても、男と女のいとなみ、さまざまでございます」
金吾は年に似げない、述懐めいたいいかたをした。
「さようか」
左門が例の口ぐせを出した。
「たいそうな役得でございました」
金吾がまたおもてを赤らめる。左門の申しつけにこたえるため、金吾は、何軒もの侍屋敷に忍びこんだ。天井裏にもひそんだ。寝間の廊下で息をこらしもして、幾組もの夫婦のそれを見た。
どこでも有明《ありあけ》がともしてある。よしんば灯りを消してあっても、夜目のきく金吾にとっては、さしたる違いはない。声は、どのようなささやきでも、狂いなく聞きとれる。多少たかぶった声なら、耳がつぶれるほどのひびきになるし、あられもなく女が乱れたりすれば、耳をふさがねばならなかった。
「半之丞の女房がそうか」
答えるかわりに金吾は、右手の甲で、しきりに額をぬぐった。
「祝言から五ヵ月くらいでのう」
左門はさっきと同じことを繰り返した。
「よい修業になりました」
金吾は、まぶしそうな目をした。むろん、拍子ぬけするほど、あっけない組も二つくらいあった。
数日後の夜、那須半之丞が松ケ枝家に呼ばれた。半之丞は、金吾と違って百石、六万石の小藩ではかなりの身分だが、首席家老の屋敷に招かれるのは異例といえる。
左門は、半之丞の顔だけは、早くから知っていた。しかし、こんな間近で見るのは初めてだった。
半之丞は、色浅黒く、きりりとしまった男らしい顔をしている。
「なかなかだ」
左門はひとり言をいった。
「は……」
「いや、こっちのことよ」
「ご用件はなんでございましょう」
「まあ、待て」
どう切り出したものか、左門は思案した。半之丞に使いを立てたときからきめていたのに、つい迷った。なにしろ、ことがことである。
最初の思案に落ち着いた。
「貢姫《こうひめ》さまのこと、存じておるか」
「存じております」
主君の母違いの妹だった。主君の名は、かりに紀伊守としておこう。貢姫は、紀伊守とは、父と娘ほども年が違う。
年は二十一、先代紀伊守を父として、国もとで生まれている。母は正室ではなく側室である。先代紀伊守は、この貢姫を、だれよりもかわいがった。
貢姫が十四になった春、先代紀伊守は、隠居して閑鴎と号し、下屋敷に移ると、国もとから貢姫を呼び寄せて、同じ屋敷内に住まわせた。
当主の間は、二年に一度は国に帰ることができるが、隠居になればそうもいかない。それで、当主紀伊守に頼んで、貢姫を江戸に招いたものだった。
だが、貢姫が江戸へ出てきて二年目に、閑鴎は世を去った。
「貢姫をよろしゅう頼む」
それが、ただ一つの遺言であった。閑鴎がおそくまで隠居をしなかったので、現紀伊守は、四十もなかばをすぎて、ようやく藩主になっている。ふつうなら、いくら親子でも、多少のしこりはあるはずだが、温厚でやさしい紀伊守は、
「ご安心くださいまし」
臨終の枕べで、閑鴎に約束した。その約束を、紀伊守はよく守った。なにくれとなく貢姫に心を配ったので、ほかの妹や紀伊守の姫から、
「殿様はえこひいきばかりなさる」
と苦情が出たくらいだった。
三
十八の春、貢姫は、さる大名にとついだ。差し障りがあるので、とりあえず能登守としておく。
「費用を惜しむな」
紀伊守は老臣に命じた。六万石に似合わしからぬ婚礼衣裳や諸道具の豪華さが、江戸中の評判になった。貢姫そのもののうわさも高まった。
「雪の精のような美しいお方にございます。あれほどのお方、これまで一度もお目にかかったことはございませぬ」
婚礼衣裳の調達にあたった、ご用達商人の口から出たことばが、尾ひれがついてひろまった。
「能登守どのがおうらやましい」
ひとしきりは殿中でも、そのうわさでにぎわったという。
だが、せっかくの紀伊守の心づかいにもかかわらず、結果は裏目に出た。ものの二ヵ月とはたたぬうちに、
「能登守さまは、貢姫さまを遠ざけなされたそうな」
といううわさが伝えられた。こんな場合、大名の家では、離別の運びになったりすることはめったにないのだが、紀伊守から内々に申し出て、去年の秋、ことを荒立てず貢姫を引きとった。いま貢姫は、国もとに戻ってきている。
入り鉄砲に出おんな。江戸にいる女が、国もとに戻るのは面倒だが、老中の一人が紀伊守の妹婿ということもあり、そのはからいで帰国の許しがおりた。
「病気療養」
という口実であった。貢姫は、ことし二十一になる。
貢姫のために、紀伊守は、西の丸の一隅をえらんで、ささやかな屋敷を建てさせた。藩士たちのうち、口の悪いのは、
「出戻り屋敷」
と呼んでいるらしい。半之丞が知っているのは、その程度にすぎない。
「その貢姫さまが、不縁になられたについては、厄介な理由がある」
「なんでございましょう」
「口外無用だぞ」
左門は声を落とした。
能登守へ輿入《こしい》れのとき、貢姫には、何人かの侍女とともに、紅梅という老女が付き添っていった。その紅梅の口から、仔細がわかった。聞き出したのは、紀伊守の奥方だった。貢姫が婚家から戻されて間もなくのことである。
奥方も、紀伊守同様に人がらがよい。心から、貢姫の不幸を悲しんで、ある日、紅梅を呼んで事情をただした。紅梅は、ありのまま答えたものかどうか、しばらく迷っているふうだったが、やがていくぶん固い表情になると、思い切って打ち明けた。
「姫君は、あのことがとてもつらいと仰せられておりました」
紅梅は、心もち頬を染めた。
「夜のことかえ」
「はい」
「前もって教えやったか」
「遺漏《いろう》なかったつもりでございます」
十三、四のころから、おりにふれ、それとなく教えをほどこしたし、いよいよ婚礼の日取りがきまってからは、人を遠ざけた静かな部屋で、ことこまかにその知識を与えた。
「よろしゅうございますか。こちらのおみ足はこのように」
ということまでさずけた。極彩色の枕絵も見せた。
「初めはおつらいかもしれませぬ。でも、ほんの一時の辛抱、じきにおなれになり、やがては、夜になるのが待ち遠しいような気持ちになられます」
紅梅は、一枚一枚枕絵を見せた。
「ほれ、この女性《によしよう》の足指をごらんなされませ。指の先が、このようになっておりましょう。これがとりも直さず……」
紅梅の説明に応じて、聞こえるか聞こえないかのかぼそい声で、いちいち返事をしていた貢姫が、急に黙りこんだ。見れば、ひどく顔が青ざめている。
「いかがなされました」
貢姫は返事をしない。唇をわななかせて、いまにも泣きそうな顔だった。そのわけがわかるのに、しばらくかかった。貢姫は、枕絵におびえていた。
「ご心配には及びませぬ。そこのところは、枕絵では、誇張してことさら大きく描くことになっております。――そう申し上げると、姫さまは得心なさいました」
その後はうきうきして、婚礼の日を、心から待ちわびる様子さえ見えたので、紅梅は安心しきっていたという。だが、いざとついでからの貢姫は、いつも暗い顔をして、ほとんど笑うことがなく、
「夜がこなければいいのに」
と、しばしば紅梅に訴えた。そして、とうとう破鏡の日を迎えたものだった。紅梅の話は、奥方から紀伊守に伝わり、左門は帰国した紀伊守から聞いた。
不憫《ふびん》に思った紀伊守が、参府前のある日、さりげなく再縁をにおわせたところ、貢姫はたちまち蒼白になって、
「いいえ、わたくし、二度と縁づいたりはいたしませぬ」
といいきり、大粒の涙をしたたらせた。
「じゃといって、いまのままでは貢姫が哀れよ。左門、なんとかなるまいか」
そう告げたときの紀伊守のまなざしには、わが娘ほどにも若い、母違いの妹に寄せるいたわりがあふれていた。
「わたくしにおまかせくださいまし」
左門は、そういわずにはおられなかった。
「半之丞、つまりそういうわけじゃ」
そこまでいい終わると、左門は口をつぐんで、いつものさようかどのに戻った。
「あとは察しよ」
目はそう訴えていた。
「はっきりおっしゃらねばわかりませぬ。わたくしに、どうせよと仰せられるのでございます」
その問いにじかには答えず、
「妻女の助けも借りなければなるまい」
と左門はいった。
言外の意が、だんだん読めてきた。
男と女とはこういうもの。不幸な貢姫さまに、それを教えて差し上げたい。どうやら、左門の思いはそのあたりにあるらしい。
半之丞の手がこぶしになった。
「ご家老、つまりはこの半之丞に、女房とともに生きた枕絵になれ。そう仰せられるのでございますな」
詰め寄られて、左門は無言のまま軽くうなずいた。
「無礼でございましょう」
半之丞の声がにわかにとがった。
「声が高い」
あわてて制した左門は、
「無礼か。やはり無礼か……」
しみじみとした声音になった。目に、深いものが宿っている。
「武士たる者にかような難題、たしかに無礼には違いない。が、それを承知の上で、このとおり頼む」
左門は両手をついた。
四
那須半之丞の屋敷は、椎小路にあった。名のとおり、ここら一帯の屋敷地には、椎の木が多い。
「そのように恥かしいこと、ご承知なされたのでございますか」
帰宅した夫の半之丞から委細を聞かせられて、百合は顔をこわばらせた。見る見る血の気が引いて、病人のような青さだった。
「初めから承知したわけではない。いろいろお話をうかがっているうちに、ご家老のお気持ちがわかってきた」
「ご家老さまのお人がらについては、わたくしも存じております」
父の朝井織部が、
「あれほどのお方はめずらしい」
とよく賞めていた。さようかどのというあだ名も、二、三度耳にしたことがある。
「なれど、それとこれとは、話が別でございます」
「やはり、承知できぬか」
「当たり前でございましょ」
夜もおそいせいか、押し殺していても声がかなりひびいた。
「いかになんでも、あまりではございませんか。生きた枕絵になれなどと……」
百合は唇をかんだ。半之丞はさりげなくこういった。
「百合、そなた、あのときのことを思い出してみよ」
「あのときのこと……」
「貢姫さまは、あの喜びをご存じない」
半之丞がなにをいおうとしているかが読みとれて、百合は耳まで赤くなった。自分が、人一倍喜びの深いからだに生まれついていることを、百合は知っていた。極《きわ》まりのとき、どんな乱れかたをするか、それもうすうす気づいている。
「母上はお耳が遠いゆえ」
などといっていながら半之丞は、いざそのときになると、はげしく乱れて、あられもないことを口走る百合の口を、あわてて手でふさいだりした。
「のう百合、貢姫さまを哀れとは思わぬか、そなた」
百合は答えなかった。思いなしか、さっきより、いくぶん目がなごんでいる。ややあって、百合はぽつんといった。
「ご家老さまの仰せにしたがったとして、万が一にもこのこと、うわさが立てばどうなりましょう」
「その場合、腹を切るしかなかろう」
松ケ枝左門の命の裏には、ほかならぬ紀伊守の意向がある。かといって、まさかのときに、それを明らかにすることなど思いもよらない。また、左門の名を出すわけにもいかないだろう。
「どう考えても、武士が命を賭けることではございませぬなあ」
語尾がため息のなかにとけた。
「いかにも」
うなずいて半之丞は、
「ただし、表沙汰になった場合、あくまでしらを切り通す手はある」
といい足した。
「ご家老さまへの返事は、いつまででございます」
「一応、両三日のうちということだが」
「もし百合が、どうしても承知せねば、なんとなされます」
「そのときは、妾を置いて、以後そなたを抱かぬ」
即座に答えを返した。あれほどの喜びを、いったん覚えこんでしまった百合が、とうていそれに耐えられるはずはあるまいと半之丞は思った。
「それにしても、なぜわたしどもに……」
「そのことよ」
えりにえって、どうして自分たちに白羽の矢が立ったのか、半之丞も百合も、まったく思いあたりがなかった。さっき、松ケ枝家の奥座敷で、それとなく半之丞がただしたところ、左門は、
「似合いの夫婦ゆえじゃ」
とだけ答えた。が、それが理由のすべてとは思われない。
「もしかすれば、あのとき……」
百合の目に、おびえがかすめた。二、三度またたきするほどの間をおいてから、
「かもしれぬ」
半之丞も、一つの記憶をよみがえらせた。
「きっと、そうでございます」
百合は断定した。
もう七、八日前になる。その夜、いつもどおり半之丞は、百合をいつくしんだ。緩慢な波の寄せ返しのなかで、覚えのある、頂きに登りつめるきっかけの微妙な反応を見せた百合が、
「だれか人が……」
といい、一瞬、動きをとめた。半之丞はかまわずつづけた。百合はすぐに高波に身をまかせたが、ことが果てて、死んだように波打ちぎわに横たわったあと、またしても、
「だれか廊下にいました……」
といった。
あとでたしかめたところ戸じまりも十分だったし、廊下にだれかひそんでいた形跡などなにもなかった。
「気のせいでしたのね」
二、三日すると、忘れてしまった。
「やはり、人がいたのか」
いまとなってはしかし、それを確かめるすべはない。どうでもよかった。
「ご家老は、切ない目をしてござった」
その思いが、なによりも真っ先に、半之丞の胸を満たした。しかし、百合は答えず、長い間黙っていた末に、
「やはりいやでございます。たとえ妾を置かれても……」
と顔をそむけてしまった。
五
その夜、いつも以上に百合は乱れた。口にはいえない悦楽の果て、満ち足りて、死んだようになっている百合の耳もとに、
「その喜びを、貢姫さまはご存じなさらぬのだぞ」
と半之丞はささやいたが、聞こえたのか聞こえないのか、百合はびちりとも動かなかった。百合がようやくわれに返ったとき、半之丞はすでに寝息を立てていた。
そのあと、何度か百合が寝返りを打ち、ため息をもらしたことを、半之丞は少しも知らない。
「あ……」
夜明けにはいくらか間のあるころ、軽く耳をかまれて半之丞は目を覚ました。ともしたままにしていた有明|行灯《あんどん》のほの明りに、百合の目がうるんでいる。
「わたくし……」
百合は、その先をいいよどんだ。
「承知してくれるのだな」
「ですからごほうびを……」
くるっと背を向けた百合の、白くてかぼそいうなじが、半之丞の心をそそった。つかの間に、百合は波にさらわれた。
半之丞が、松ケ枝左門のもとへおもむいたのは、それから三日目の夜である。
「ようやく説き伏せました」
そういいながら、わきの下に思わず汗をかいた。
「意外に早かったな」
皮肉か、と思ったが、あながちそうでもなかったらしい。
「いずれにしても重畳《ちようじよう》」
左門はきげんよく半之丞に目をやった。
「それにしても……」
承知はしたものの、これから先どうすればよいのか、半之丞には見当がつかない。百合と二人そろって、西の丸にある貢姫の住い、いわゆる出戻り屋敷へ、のこのこ出かけるわけにもいかないだろう。理由の作りようもなかった。内心、とやこう案じていると、
「わしにまかせておけ」
無造作に左門はそういった。
「百合どのは、たしか琴が堪能と聞いているが……」
「いささかたしなみます」
「それを使う手がある」
ひとり言のように、左門はいった。半之丞には、まだよくのみこめなかった。
数日たって、出戻り屋敷から、琴の音がもれるようになった。毎日ではなく、二日に一度か三日に一度であった。
曲はそのつど違った。春の海を思わせるおだやかな曲もあれば、激流のように急調子のこともあった。
ときどき、合奏されることもあるが、そのときは音色が落ちた。一方が、いま一人の技量に合わせるせいかもしれない。
琴の音が聞かれるようになって、一月ばかりたったある午後、松ケ枝左門の屋敷から、半之丞のもとへ、
「明夕刻、夫婦うちつれて、わしの屋敷まできてくれるように」
と使いがきた。一瞬、はっとして、
「ご用のおもむきは」
とたずねると、
「うかがってはおりませぬ」
使いはさりげなく答えた。その口ぶりや顔色から推して、悪いこととも思われない。ともあれ、翌日約束の時刻に二人で出かけてみると、左門は上きげんで待っていた。
「貢姫さまが、百合どのにかねての礼をいいたい、ついでに、半之丞の顔も見たいと仰せられてな」
かといって、百合だけならともかく、半之丞までいっしょに、姫自身の屋敷に招くわけにもいかず、左門の屋敷を使うことになったという。
「さては」
とっさに半之丞の胸にひらめくことがあったが、左門の表情は、思いのほか淡々としている。
「殿様の御酒《ごしゆ》下されはわかるが、姫さまからは初めてじゃ」
自分が書いた筋書のくせに、苦笑いしながら左門は、先に立って、二人を別室に案内した。そこは六畳ほどの小座敷で、ささやかな酒肴が用意してあり、そばに、貢姫と老女の紅梅が控えていた。
「姫君は、いまだにあの喜びをご存じない」
左門に聞かせられて想像はしていたが、貢姫は、血の気のとぼしい、透き通るような顔で、首筋も頼りなげにかぼそい。ただ、病的ながら、ぞくっとするような美しさの持主ではあった。
姫はなにやらいった。百合へのねぎらいらしいが、よく聞きとれない。かたわらから、老女の紅梅が、姫の意を伝えた。やがて、御酒下されになる。
半之丞も百合も、ありがたく頂戴した。姫のまなざしが、ときどき、半之丞に強くそそがれる。
「よい殿御じゃ。百合は幸せ者よな」
しみじみした声音であった。
「わたくしは不調法ゆえ」
紅梅は、たった一度、形ばかり杯に口をつけただけだが、貢姫はすすめられて、三度ほど杯を傾けた。見る間に、目もとがほんのり赤らんだ。百合も、同じくらい杯を口に運んだ。
燭台《しよくだい》の灯が明るさを増した。膳部は片づけられ、半之丞の前には、松ケ枝左門だけしかいなかった。
「百合を貸してたも」
酒のせいであろう。初めとは打って変わった大胆さで、ためらう百合の手をとった貢姫は、紅梅にみちびかれてどこかへ去った。姫に手をとられながら、救いを求めるように、百合は半之丞を振り返ったが、半之丞は黙って見送った。
それからもう小半刻《こはんとき》(三十分)近い。
「こういう手があったか」
半之丞は、すでに覚悟をきめている。松ケ枝左門は、さっきから平然と落ち着きはらっているようだが、内心はそうでもないらしい。その証拠に、かねての口ぐせ、
「さようか」
ということばが、まだ一度も口から出ていなかった。
「半之丞、まさかのときは、そち一人に腹を切らせはせぬ」
「かたじけのう存じます」
「ついてまいれ」
妻女が運んできた手燭を受け取ると、左門は立ち上がった。
「今夜は中秋であったな」
渡り廊下の途中で、左門は立ちどまった。
八月十五日の月が、数寄《すき》をこらした庭を照らしていた。その庭を、ゆるやかな曲線を描いて幅二尺ほどの浅い流れがめぐり、渡り廊下の真下をくぐっている。
「半之丞」
左門が、一言二言耳うちした。人には聞かせられぬことだった。半之丞はわずかに顔を赤らめた。
渡り廊下の先は、離れになっている。ふだんは使わない。何年に一度か、主君を迎えるために造られたものだった。
「その離れ座敷を、あのことに使う。おそれ多いことよ」
それだけでも切腹ものだろう。ただ、強いていいひらきをすれば、
「母違いの妹君を哀れみたもう、たっての殿の仰せを受けてのこと」
といっていえないことはない。が、藩中の信望厚い左門にも、やはり政敵はいる。彼らの耳にでもはいれば、そんな申しひらきは通りはしないであろう。まして、奇矯《ききよう》な企ての底にある左門の思いの深さまで汲み取ってくれるはずもなかった。
「命がけの綱渡りじゃわ」
そのことばは、自分よりも、半之丞へのいたわりだった。
「ご案じなされますな。万一のことがあっても、後悔はいたしませぬ」
「さようか」
初めて、いつもの口ぐせが出た。
六
奥の間と次の間をへだてる境のふすまが左右にひらかれ、そこに、淡い水色の薄絹がたらしてある。地質は紗《しや》らしい。
秋草模様の絹行灯の明りが、にじむようにひろがっている奥の間には、金屏風が立てられ、褥《しとね》がのべてある。その褥の色が、燃えるような真紅なのは、これから描かれる絵をきわ立たせる用意かもしれない。
半之丞も百合も、ともに白小袖に着替えていたが、薄絹を透かせば、水色がかって見える。百合は髪をとき、長くたらしていた。
貢姫と紅梅が、息をつめるようにしてひかえた次の間には、奥の間の明りがわずかに届くだけで、灯りはともされていない。
「殿様ご在国ならば、今夜は月見櫓で月見の宴が催されるところ……」
松ケ枝左門はそう思いながら、端然と縁側に坐し、半之丞たちの気配を背にしていた。
ひざに置いた手が、こぶしになったりとけたりする。
重ねすぎた杯のせいだけではなく、細い貢姫のおもてには、かすかに紅がさし、目もうるんでいた。紅梅も、さっきから落ち着きを失っているらしい。
紅梅はむろん、夜のいとなみについては知っている。といっても、夫と早く死別したため、深くわきまえているわけではなかった。貢姫が能登守にとつぐにあたっては、微細な点まで説き聞かせはしたが、耳学問で得た知識が大半で、紅梅みずからが、実感として体得しているわけではなかった。
したがって、今夜、半之丞と百合によって、緋の褥の上に、どんな絵模様が描かれるのか、まだ見当もつかずにいる。それでも、おびえたような顔を向ける貢姫に、
「松ケ枝左門どのと半之丞、男二人の、いいえ、場合によっては、百合を加えて三名の命がかかっていることでございます。されば、どのようなことがあっても、目をそむけたり遊ばしますな」
と念を押すだけのゆとりは、かろうじて残してた。
百合も青ざめている。半之丞にしても、平静では決してあり得なかった。渡り廊下での左門のささやきが耳によみがえる。
「半之丞、契りのさまが、はきと姫さまのお目にとまるようにな」
さっき、左門はそういった。契りのさまということばの、言外の意味が半之丞には通じている。百合にも伝えた。百合は、
「まあ……」
みるみる頬を染めた。けれど、いやとはいわなかった。
「最後にはそなたの小袖もはぎとる」
ともいい渡してある。
紅梅が、耐えかねるようなため息をもらした。それをしおに、奥の間で、水色の影がゆるやかに動いた。
褥のあざやかな緋色の部分が、水色の影で狭められる。
薄絹を透かして見る水色の二つの生き物は、かたずをのんだ貢姫の目には、ギヤマンの鉢の中で、小魚《こうお》がたわむれ合っているかに映った。半之丞も百合も、まださほどあらわな動きは見せない。ときどき、百合の白いはぎがすそからこぼれるくらいだった。
二人は、少しずつ位置を変えた。たれた薄絹の前に二人の髪がくることもあったし、すそが回ってくることもあった。緋の褥は動いていないのに、貢姫には、半之丞たちが、褥ごと回っているように見えた。
「見られている……」
という意識が、百合にはあった。その意識が、百合の火種にしめりを与える役をした。喜びの深いたちではあっても、見られているという意識で燃えたつほどには、百合はすれてはいない。
いつの間にか、男の髪と女の髪が、たがい違いになっていた。その意味がとれずにいる貢姫に、紅梅がなにか耳うちした。貢姫の面を、恥じらいがかすめた。やがてまた、元の形にもどる。
百合の唇から、かすかな声がもれた。その声が、呼び水になったように、つぎの声を引き出した。
魚のたわむれがはげしくなった。波をけるように跳ねる。それから、どのくらいたったろうか。
「もう止《や》めてたも」
と叫んで、貢姫が両手で面をおおった。
畳を鳴らしたり、宙をけったりする下肢の動きや、あられもない切れ切れな声や、苦悶に似た表情、狂い乱れる黒髪の波だちを貢姫は、百合の嫌悪のあらがいと受けとめたらしかった。
「姫さま、しかとごらんなされませ」
きびしく叱咤して、貢姫の面から両手をもぎ放した紅梅は、姫の耳に、すばやく一言二言ささやいた。
嵐のあとに、嘘のような凪《なぎ》がきた。
ほとんど全裸になった百合は、ぐったりと身を投げ出して身じろぎもしない。満ち足りた顔が、こっちに向けられている。
深い吐息をもらした貢姫は、敷居までたれた水色の薄絹を、片手で高く揚げ、百合の顔にしばらく見とれていた。あまりのことに、紅梅もことばを忘れている。
「姫さま」
ややあって、貢姫はわれに返った。ひざが敷居にふれている。紅梅の方へ目をやると、これまた敷居近くまでにじり出ていた。
ふっと目が合った。
紅梅の口もとに、笑みがたたえられている。笑みの意向が胸に落ちたとき、貢姫はたちまち火のような羞恥に身を包まれた。
初めのうち、敷居から三尺以上も離れてすわっていたことに気づいたからだった。
紅梅と二人きりになってから、
「左門はどうしていたでしょうね」
と貢姫が聞くと、
「多分、終わるまで、身じろぎ一つしなかったと思います」
紅梅はそう答えた。当っていた。さようかどのは、百合の断続するあの声に、
「聞きしにまさる……」
と思いながらも、ついに一度もふり返らなかったし、障子にすき間をつくろうともしなかった。
七
「またおりおりにお屋敷をおたずねして、姫さまに、琴をお聞かせ申すように」
という左門の意向が伝えられたのは、三日後であった。一日おくれて、紅梅からも同じような書状が届いた。
「もう、いやでございます」
百合は夫に訴えた。貢姫にも紅梅にも、顔が合わせられないと思った。しかし、結局したがわざるを得なかった。
以前のように、一日おきか二日おきに通った。恥かしい思いをしたのは、最初の日だけだった。その年の暮れのとある日、
「もうよい、ご苦労でした」
とやっと暇が出たときには、ほっとするよりも、心残りが強かった。
「ときにそなた、ややはまだかえ」
最後の日、貢姫に聞かれた。つらかった。まだなんのきざしも見えなかった。
「姫さまがとつがれるそうじゃ」
半之丞がそう聞いてきたのは、年が明けて松がとれたころである。相手はさる大名の一門にあたる人物で、年が二まわり近くも違うという。
祝言は無事すんだ。その後、貢姫のうわさを耳にすることはなかった。
あの夜の秘密は、幸いなことにどこにももれなかった。
「わたしは石女《うまずめ》かもしれない」
あきらめかけたころ、百合はみごもり、つぎの年の春、めでたく男の子を生んだ。あちこちから、祝いの品が届いた。
一月以上おくれて、思いがけないところから、祝いとして、見事な脇差が送られてきた。送り主は貢姫である。添え手紙があった。
「そなたの琴の調べが、貢を生き返らせてくれました」
という意味のことがしたためてある。百合は初め、そのままに受けとめて、貢姫の屋敷で、琴を弾じた日々を思い出していた。半之丞は何もいわなかったが、ある日、
「そなた、にぶいな」
と、妙に思わせぶりな笑い方をした。それでも百合は、まだ気がつかなかった。
「ばか、琴とはそなたのことよ」
とたんに、やっと思いあたって、百合は少女のように真っ赤になった。貢姫の文は、明らかに、いまの姫の幸せを物語っている。
「よかった……」
ぬぐい消してしまいたかった、あの夜の恥かしさが、なつかしく思い出された。
あくる夜、半之丞は、松ケ枝左門をたずねて、以上のことをかいつまんで報告した。例によって左門は、
「さようか」
とだけ答えたが、そのあとで、めずらしくにっこり笑った。なんとも明るい、それでいて、つーんと胸にくる笑いであった。
数日後、さようかどのから柘植金吾のもとへ、過分なほうびが届けられたことをだれも知らない。
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勝頼に責めありや
一
「馬と鉄砲のいくさじゃ。つまるところ、馬が鉄砲に負けたのよ」
いまでは、だれもがそういい、そう信じこんでいる。いわずと知れた、天正三年(一五七五)五月の長篠の戦いのことよ。いや正しくは設楽原《したらがはら》の戦いといわねばならぬ。その設楽原で、精強天下に鳴りひびいた甲州の騎馬隊は、織田、徳川方三千挺の鉄砲の餌食となって壊滅、それがもとで七年後武田家は滅亡した。
「勝頼さまのせいじゃ。勝頼さまが老将がたの諫《いさ》めも聞かず、無謀ないくさをなされたからじゃ」
これまた、口をそろえて人々はいう。だが果たしてそうだろうか。違う違う。勝頼さまのせいではないわ。
いかにも、馬と鉄砲のいくさだったことはまぎれもない。馬が鉄砲に負けたというも嘘ではない。三千挺の鉄砲を千挺ずつ、三段に備えて矢つぎばやに撃ちかけるという、途方もない戦法を案じ出した信長のおそろしさもみとめるし、このときの戦いがきっかけで、いくさのしぶりが天と地ほどにひっくりかえったこともたしかだが、それはいわば結果から見た話、敗戦の責めは勝頼さまお一人にはない。それどころか、
「戦ってはなりませぬ」
と、おもてをおかして諫言《かんげん》申し上げた、老将がたにこそ大半の責めがある。ほう、なにを証拠にといわれるか。わしが証拠よ。わしという男の存在がたしかな証拠よ。わしはあのいくさの折、まだ二十六の若さで、勝頼さまのおそばにあり、この目でしかとすべてを見たのじゃ。名を聞きたいと。ハハハ、名は申すまい。いまさら名乗ってもせんかたない。
あれから久しい歳月がたっていることゆえ、こまごましたことでは、多少の記憶違いはあるかもしれぬ。しかし、かんじんかなめのことは忘れはせぬ。忘れてなろうか。あの無念さ、口惜《くちお》しさ、老いのくりごとめくが、まずは聞いてもらいたい。
さて、どこから話をしたものか。そうじゃ。鳥居|強《すね》右衛門《えもん》のことなら、みな一応知っておろう。勝頼さまにそむいて、家康がたに寝返りおった奥平貞能のせがれ貞昌の守る長篠城は、わが武田の大軍に囲まれて孤立、いくつかの曲輪《くるわ》は武田の手に落ちた。
「余に命をくれい」
貞昌の命で、夜中ひそかに城を脱して、梅雨で水かさの増した滝川とも呼ばれる寒狭《かんさ》川をくぐりぬけ、長篠城の危急を家康と信長に告げたあと、ふたたびとって返した強右衛門は、武田方の人足に化けて城にはいろうとするところを見とがめられ、捕えられて勝頼さまの御前に引っ立てられた。強右衛門は悪びれず、ことのしだいを包まず白状した。
「敵ながらあっぱれじゃ」
強右衛門の大胆さに、深く感じたもうた勝頼さまは、
「信長は援軍を出さぬと城方に呼びかけよ。さすれば命は助けてとらす。恩賞も望みのままじゃ。場合によっては、重く取り立ててもよいぞ」
と仰せられた。強右衛門は、一も二もなく承知した。ところが、わが武田方の足軽に見張られて、寒狭川のほとりに立った強右衛門は、城壁に姿を見せた城兵たちに、
「間もなく織田の援軍がくる。力を落とさず城を守りぬけ」
と大音に呼ばわったのだ。むろん、その日のうちに強右衛門は、長篠城のやや西方、有海原《あるみばら》ではりつけにかけられたが、それが五月十六日のこと。
織田、徳川の主力は、十八日に設楽原に到着した。あくる五月十九日の早暁、勝頼さまは、長篠城の北にある大通寺に、諸将を召し寄せて軍議をお開き遊ばした。勝頼さまのご本陣は、さらに北の医王寺にあり、大通寺は馬場美濃守信春どのの陣所であった。ついでにいえば、軍議のあと、ご本陣は医王寺から清井田に移されたと覚えている。あるいは柳田であったろうか。決戦当日、二十一日のご本陣は清井田の西、才の神だったと思う。
大通寺には、勝頼さまのお召しによって諸将の顔がそろった。信玄公以来の老功の武将がたで、まずご一族の穴山梅雪さま、武田|信廉《のぶかど》さま、同じく信豊さま、前線には出ず、海津城を守っておられた高坂弾正《こうさかだんじよう》どのを加えて武田四臣に数えられるお三方、すなわち馬場美濃守信春どの、内藤|修理亮昌豊《しゆりのすけまさとよ》どの、山県《やまがた》三郎兵衛昌景どの、そのほかに、小山田《おやまだ》信茂どの、原|昌胤《まさたね》どの、小幡《おばた》信貞どのなど。顔ぶれがそろうと、
「織田、徳川の両軍は、いままさに設楽野の西に陣している。これは天が余に機会を与えたもうたのじゃ。長篠城への押さえには、鳶の巣山以下の諸塁の兵をあてておき、われらは全軍をあげて滝川を押し渡り、有無の決戦をこころみようぞ」
勝頼さまは眉を上げてこう仰せられた。とたんに諸将がたは、
「それはなりませぬ」
と口々に異を唱えられた。無理からぬことではある。味方はおよそ一万三千、それにひきかえ、織田、徳川勢は、三倍の大軍を擁していた。しかも味方の背後には長篠城がある。まともに戦いをいどんでは、武田軍がいかに精強とはいえ、万に一つの勝算もない。そのかぎりにおいては、諸将の意見まことにもっともだったといえる。
「では、どうせよと申すのじゃ」
「ここはひとまず、退《しりぞ》くべきでございましょう」
「しりぞけと……」
「御意」
「敵が追いすがればなんとする」
「それこそ望むところ、地の利を知りつくした信濃境い、伊那谷の険に待ち受けて、みな殺しにするまででございます」
作戦をめぐる主従のやりとり、そこまではそのとおりであった。がこのとき、跡部大炊助《あとべおおいのすけ》とともに、勝頼さまのお気に入りで、それゆえに諸将に憎まれた長坂|釣閑《ちようかん》が、
「わが武田家は、新羅三郎義光さま以来、二十七代の間、いまだかつて敵を目前にして、しりぞいたためしはござらぬ」
と主張、それを勝頼さまが強く支持されたという話が伝わっている。思うに、何事もどこかで、真実はゆがめられるものらしい。長坂のことは嘘も嘘、大嘘よ。第一に長坂は、勝頼さまのおそばにはいもせず、居城にあって戦いのなりゆきを案じていたのじゃ。げんに軍議の翌日、長坂あてに、勝頼さまが書面をおしたためなされたのを、わしはこの目でしかと見ておる。ほい、話が横にすべってしもうたわ。本題にもどるとしよう。
二
諸将の反対にあって、勝頼さまはしばし黙っておわした。
「やはりしりぞくべきか」
あるいは、そう考えはじめておいでだったかもしれぬ。それを、諸将の一人の、不用意にもらしたことばがくつがえした。
「信玄公は、決して無理をなさらぬお方でございました。信玄公がこの場におわしますならば、かならずわれわれと同様のことをなさると存じます」
一瞬、馬場信春どのの目の隅を、怒りがかすめた。多分、一切をぶちこわしかねない、不用意きわまることばへの腹だちであったろう。信春どのは、あわててなにかいおうとなされたが、もはや間に合わず、勝頼さまの形相はすでに一変しておった。
「戦う。父は父、勝頼は勝頼じゃ。一戦もまじえず引くことはならぬ」
まだ三十歳のお若さ、加えてはげしいご気性、父信玄に劣りはせぬとの気負い、おのれの武勇についての並々ならぬ誇りもおありであったろう。その勝頼さまを、親子ほども年が違う老功の諸将がたは、
「信玄公にははるかに及びたまわず」
と、かねがね一段も二段も低く見ていた。むろん面と向かっていったことはないが、時としては、面と向かっての悪口よりも、無言のまなざしが、かえって深く相手の心を傷つけることもある。
それにまた、勝頼さまの母君は、信玄公の宿敵、諏訪頼重の姫君でもあった。運命とはいいながら、父を殺した信玄公の寵を受け、諏訪御寮人と呼ばれた悲しいお人の腹から生まれたもうたのが勝頼さまなのよ。したがって勝頼さまには、諏訪の血が流れておわす。それをひそかな負い目ともなされたこともおありだったろう。だからこそ、信玄公の没後、わがからだに流れているのは武田の血よとばかり、必死のお働きもなされた。その悲しみは、やはり汲んで差し上げねばなるまい。だが、何人がそこまで思いをいたしたろうか。
「戦う」
勝頼さまは再度仰せられた。こうなれば、梃子《てこ》でも動くお方ではない。つかの間、悲しげなおももちをされた六十二歳の馬場信春どのは、おだやかに次善の策をあげられた。
「どうでもとの仰せならば、長篠城を攻め落とした上で甲斐へしりぞきましょう」
かりに長篠城内に五百挺の鉄砲があり、百発百中としても、最初の一発で五百名、つぎの一発で五百名、合わせて千名の犠牲を覚悟すれば、城を攻め落とすことができる。であれば甲州へ引き上げても、勝頼さまの面目は十分立とう。馬場信春どのは、そう考えられたにちがいない。
「いやじゃ。断じて引き揚げぬ」
勝頼さまは意地にかかっておわした。馬場どのは、また一歩譲られた。
「では長篠城を攻め落としたあと、殿はそのままお立てこもりください。わたくしどもは、城の前面に陣を張り、小ぜり合いをくり返して長いくさに持ちこみましょう。さすれば信長は、領国が気がかりで、やがて岐阜城へ引き揚げるに違いございません。信長が手を引けば、おのれの手勢のみでは戦えず、家康も旗を巻くと存じます。ただなんとしても、正面から戦うことはさけとうございます」
馬場信春どのは、情理をつくして説かれた。目には涙さえ光っていたが、勝頼さまは一顧だになさらぬ。
「たわけ。この勝頼に、そのような手ぬるいいくさができるか」
床几《しようぎ》から立ち上がるや勝頼さまは、
「評定はこれまで。御旗楯無《みはたたてなし》もご照覧あれ、明後二十一日を期して、勝頼は真っ向から織田、徳川と戦う。よいな」
と仰せられた。ことは終わった。御旗とは八幡太郎義家の旗、楯無とは、義家の弟新羅三郎義光の鎧、いずれも武田家に久しく伝えられた家宝であり、武田家の当主たる者が、ひとたび御旗楯無に誓うといえば、もはやくつがえしようはなかったのだ。
「殿……」
悲痛な声が馬場信春どのの口からほとばしった。他の諸将もいっせいに勝頼さまを見守った。その目を、わしはいまでも、はっきりと覚えている。どの目にも、勝頼さまに対する憎しみと見えるまでの、恨みと怒りが燃えていた。ただ、馬場信春どのの目にだけは、それがなかった。
「おいたわしや」
信春どのの目は、そう語っていた。見損じではない。誓って断言できる。ともあれ、こうして決戦ときまった。たしかに、ここまでは勝頼さまに責めがある。
「武田のお家が滅びたのは、ほかならぬ勝頼さまのせいじゃ」
と責めることばにも、無理からぬ面がありはする。が、決して、勝頼さまお一人のせいではなかった。わしは、声を強めてそれをいいたい。
一万三千の兵で、三倍の敵と真正面からぶっつかるなど、正気の沙汰とは思われぬ。狂気としかいいようがない。とはいえ、その狂気は受けとめようがあったはず。わしはそう思う。いうてかえらぬことながら、勝頼さまのご狂気、ご老臣がたが、正気で、いくらかなりともさめた目で受けとめておられたら、負けいくさはまぬがれなかったにせよ、お家を滅亡に追いこむほどのうきめは見ておるまい。だが、運のつきるときはぜひもない。ご老臣がたは、さめた目どころか、勝頼さまのご狂気を、勝頼さま以上の狂気で受けとめてしもうたのじゃ。
わしは切なかった。つらかった。
「御旗楯無に誓って戦う」
と宣して、勝頼さまが軍議を打ち切り遊ばすと、諸将は即座に立ち上がり、声をひそめるでもなく、
「武田のご運も末よ」
「この上は死ぬまでじゃ」
「おろかな大将をいただくが身の不運」
勝頼さまのお耳にはいるのを承知で、口々にいい散らし、思い思いにさがられた。勝頼さまは、その場に突っ立ったまま、両手をぶるぶるふるわせておいでであった。馬場信春どののみは、そこが自分の陣所でもあり、一言の捨てぜりふも申されず、ただ黙って目を伏せてござった。それだけにかえって、わしはなんともいえず、胸の奥がじいんとしめつけられたものよ。
三
決戦は五月二十一日じゃったが、それを語る前に、敵味方双方の陣備えにふれておかねばなるまい。さよう。武田方と、織田、徳川方のあいだには、北から南へ連子《れんご》川(現在は連吾川)が流れており、その流れの手前、つまり東に武田方、逆に川向こう、西には織田、徳川方が陣していた。
武田方は、流れに沿って北から馬場信春どの、土屋|昌続《まさつぐ》どの、一条信竜どのなど、以上が右翼軍ということになる。ついで武田信豊さま、小幡信貞どの、武田信廉さま、これが中央軍、そして左翼軍が、内藤昌豊どの、原昌胤どの、山県昌景どのといった面々で、それとは別に、右翼軍の後方ややさがったところに、穴山梅雪さまの陣があった。
一方、織田、徳川勢は、流れに沿って同じく北から、左翼に――ということは武田方の右翼と相対するわけだが、佐久間信盛、水野信元、中央に滝川一益、羽柴秀吉、丹羽長重、以上が織田軍で、右翼隊(武田からは左)が石川数正、本多忠勝、榊原康政、大久保忠世、忠佐《ただすけ》兄弟などの徳川勢、その後方に家康、信康父子の本陣、家康からさらに離れて総大将織田信長、こういった布陣であった。もっとも、はるかな昔のことゆえ、いくらかの記憶違いがないとはいえぬ。
ところで、敵の布陣は、左翼から右興まで全線にわたれば、十六、七町(一町は約一〇九メートル)はあったろうか。そこに、人馬の出入口がたがい違いになるようにして、丸太の柵を三段に結いめぐらせてあり、おのおのの柵内には、鉄砲隊千名ずつを配してあったらしい。いや、信長という大将、なんともどえらいことを思いつきおったものだが、その三段にかまえた柵が、武田の騎馬隊に備えた馬|塞《ふさ》ぎの柵だったのよ。
あとで聞けば信長は、鳥居強右衛門の知らせで、家康の部将奥平貞昌の守る長篠城の危急を聞き、岐阜城を発するとき、兵一人について、三寸三分丸の丸太一本に縄|一束《ひとたば》をたずさえさせたのだという。
武田家の運命を左右した設楽原の戦いの幕は、五月二十一日の朝、切って落とされた。この日まだ暗いうち、勝頼さまのご本陣、才の神の後方、一里とは離れぬあたりで、まずときの声があがった。長篠城への押さえとして、武田の一隊が守る鳶《とび》の巣山の砦を、徳川方の酒井忠次が攻めかけた。
そのあたりのことは、すでに勝頼さまの読みのうちにあり、おどろくには及ばぬ。敵の本隊さえたたきつぶせば、なんのこともないからだ。
「かかれ」
鳶の巣山の戦いにややおくれて、勝頼さまは采を振られた。ご本陣から最前線まで、さほどのへだたりはない。右翼隊から左翼隊まで、多少の遅速はあっても、ほぼ前後して真っ正面から攻め立てた。
前の日までに、柵の存在は一応わかっていたはずだが、三段の柵を打ち破るくらいなんの造作もあるまいとだれもが見た。だからこそ、まともに攻めこもうとしたのだ。鉄砲隊がいることも、承知していたに違いない。
おそろしいのは最初の一発だけじゃ。それさえはずせば、つぎの弾丸《たま》ごめにかかるところを、馬蹄にかけてふみつぶすまで。事実これまでの合戦では、鉄砲隊など、騎馬で一気に蹴散らした。こんどもそうだと思ったとしても無理はない。
そこに誤算があった。思いもよらぬわなが待っていた。信長という、けたはずれな男のこわさを、だれ一人知らなかったのだ。それにまた、梅雨の季節はまだ終わっておらず、前夜までは降りつづけていたのに朝になってぴたっとやんだのも、武田方にとっては不運だったといわねばならぬ。降れば火縄がしめって、鉄砲は無用の長物にすぎなかっただろう。
選りぬきの銃手をそろえた三千名の鉄砲隊は、千名ずつ三手にわかれて武田の騎馬隊を待ち受けていた。引き寄せておいて、まず第一隊が、千挺の鉄砲をぶっ放す。ついで第二隊。第三隊が鉄砲を撃ち終わったときには、すでに第一隊が弾丸ごめをすませている。切れ目がないのだ。くるまがまわるように、絶えず千挺の鉄砲が火をふいた。武田勢は、柵の手前で倒された。
むろん、いかに鉄砲が精妙であり、銃手の腕がさえていても、百発百中とはいかない。かなりな逸《そ》れ弾丸もあったはずだ。鉄砲にはそれぞれくせがあり、銃手には一人一人心の違いがある。戦場の狂乱の中で、平素と同様に、ねらいが保てるわけがなかった。わずかな心のおびえが、日ごろの腕を狂わせることもある。いや、狂う方があたりまえ、人間それほど強くはない。
それでも、これまでの合戦とは、くらべものにならぬほど、討死が出、手負いが出た。一の柵を破っても二の柵で倒される。二の柵を越えても三の柵ではばまれる。かろうじて三の柵を突破しても、前後左右からひっ包《くる》んで討ち取られた。
わなに落ちたことは、前線の将兵もすぐ気づいたはずじゃ。わしらのように、勝頼さまのおそば近くにいてさえ、異変に察しがついた。いくら生死の瀬戸ぎわにいたからとて、よもや気づかぬはずはない。気づいても、無二無三に攻め立てたものとわしは見る。
「どうせ武田のお家は滅ぶのじゃ」
「生きていても甲斐はない」
「みな死ねみな死ね」
われから鉄砲の餌食となったのよ。本多忠勝勢に向かった内藤昌豊どの、榊原の陣に迫った原昌胤どの、大久保忠世、忠佐兄弟と戦った山県昌景どの、いずれも一言も引けとはいわず、馬上にあって采をふり、
「進め進め、さがれば斬るぞ」
と呼ばわったことも十分考えられる。それが勝頼さまにも読みとれたらしい。
勝頼さまのお顔はいつしか蒼白に変じていた。
「引き鉦《がね》を打て。いったんしりぞいて態勢を立て直し、ねらいを一ヵ所に定めて錐《きり》もみに突っこむのじゃ」
武田勢は、左翼から右翼まで、残らず真正面から突っこんだ。いわば三千挺の鉄砲の前に、もろに身をさらした戦いかただ。これではいくら兵をつぎこんでもきりはない。まして味方の数がすくないときている。それゆえ、左翼か右翼の、それもただ一ヵ所の柵に的をしぼり、集中して攻めかければ、敵の鉄砲が生きて働くのはせいぜい五、六十挺、三段に使っても二百挺には達するまい。それに、柵のつきたところから外がわへ大きくまわり、横合から敵陣を衝《つ》けば、敵はあわてふためくに違いない。勝頼さまは、とっさにそうご判断遊ばしたのだ。
引き鉦が鳴らされ、と同時に、それぞれの隊へ伝令が走った。勝頼さまはじめ、わしらは息をのんで、前線に目をやった。だが、変化はほとんどあらわれぬ。いっそう、勝頼さまのお顔がけわしくなった。
四
もう正午《ひる》をすぎたらしい。前線の兵は、柵をめがけて、攻めてはさがり、攻めてはさがりをくり返すばかりで、作戦を立て直す気配はない。
ようやく、伝令の一人が戻ってきた。勝頼さまのお声が飛んだ。
「山県昌景はなんとした」
伝令の顔にためらいが浮かんでいる。それだけで、わしには察しがついた。
「なんとしたぞ」
鋭くたたみかけられて、伝令は答えた。
山県昌景どのは、
「真正面からかかれとは殿の仰せじゃ。だから仰せのとおりにしておるわ」
とにべもなく突っぱね、
「かかれかかれ。命を惜しむな」
と逆に兵を励まされたという。勝頼さまは、無念げに唇をおかみなされた。そこへ、また一人がはせもどった。内藤昌豊どのの陣へいった伝令じゃ。
「昌豊はいかがしたぞ」
「作戦|変改《へんがい》など、いまさら手おくれじゃわと申されました」
「昌豊もが……」
あとは絶句なされた。
「はや討死をお覚悟と見受けます」
それを聞かれて、勝頼さまのお眉がつりあがった。
「おのれが……。昌景といい、昌豊といい、武田のお家のためではなく、わが意地のみを通し、この勝頼へのつらあてに死のうといたすのか……」
勝頼さまの目に涙が光った。わしには、見ておれなんだ。
「まだおそくはない。打つ手はある」
思うところあって、わしはご前へ進んだ。
「殿」
「申せ」
「差出がましきことながら、いま一度使いをおつかわしなさいませ。そして、十九日の軍議のおりは余が悪かったとお一言……」
山県どのや内藤どのを動かすにはそれしかない。そのお一言で、かたくなな老将がたの心はとけるとわしは思うたのじゃ。だが、むなしかった。
「わしはあるじぞ。家臣に詫びるいわれはないわ」
悲しや勝頼さまは、けんもほろろに吐き捨て遊ばされた。それからほどなくよ。山県どの、内藤どのお討死の知らせが、相ついで前線から届いたのは。
勝頼さまは、しばし天を仰いでおわしたが、ややあって、
「これよ」
と、わしをお呼びなされた。
「その方、馬場信春がもとへいけ」
「かしこまりました」
ご用のおもむきうけたまわりもせず、わしはひらりと馬にまたがった。聞かずとも、お心のほどはわかっている。それをお察しなされたのであろう。勝頼さまは、はじめてにこっと、白い歯をこぼし遊ばした。とはいえ、胸にしみるさびしいおん笑《え》みだったわ。
わしはいっさんに、最右翼にある馬場どのの陣へはせつけた。うれしいことに、信春どの、まだ手傷も負うてはおられなんだ。
「なにごとだ」
「殿の仰せでございます。信春、そちは死んでくれるなと」
馬場どのは無言でうなずかれた。この日、武田方はいずれ劣らぬ戦いぶりではあったが、働きの随一には、やはり馬場信春どのをあげねばなるまい。後日のうわさでは、
「さすがは馬場美濃守よ」
と信長も舌を巻いたという。
この日、馬場どのは、七百の手勢を率い、佐久間信盛の陣をめがけて、攻めては引き、引いては攻めをくり返しつつ、一の柵、二の柵を切りくずして三の柵にせまり、三の柵ぎわの鉄砲隊は、勢いにおそれて、はるか後方に引きさがったそうじゃ。朝から戦いつづけることおよそ三刻(六時間)、それでも馬場どのは、かすり傷も負われなかった。そのかわり、七百の手勢は、わずか八十にへっていた。わしがはせつけたのはその時分よ。
同じ右翼軍の真田信綱どの、土屋昌続どのは、早や討死されたあとと見えた。勝頼さまのお胸のうちを告げてから、わしは馬場どのの方へ馬を寄せた。
「美濃守さま、今日のいくさ、どうお考えなされます」
「その方、なにがいいたい」
「負けいくさの責め、勝頼さまお一人にございましょうや」
そうではないということばを、馬場どのの口から聞きたかった。その気持を、すぐ見ぬかれたらしい。
「殿の責めは半分よ。いや三が一か。残る三が二までは……」
いいかけて、
「みな、狂うてしもうたわ」
あとはことばをにごされた。わずかに、わしは胸が晴れた。ほかならぬ馬場どののことばゆえ、なおうれしかったのかもしれぬ。そこへ、右翼の将の一人、一条右衛門大夫信竜どのがかけつけられた。
「内藤どの、山県どの、原どのはじめ、おもだった者ほとんど討死をとげ、味方の備え、しどろに乱れており申す。この上は戦うもむだ、引き揚げるべしと存ずるが」
「ほどなく、殿もお討死かと存じ、てまえはまだ命ながらえており申す。もしお討死なくば、お旗本勢のしりぞくを見届けた上、てまえも引き申そう」
馬場どのはそう答え、わしの方に向き直って、
「殿のおそばへもどっておれ」
とあごをしゃくられた。
「ご免」
一声かけて、わしは馬首を返した。
五
「放せ放せ。生きながらえてもせんもない。死なせてくれい」
「いいえ、お討死などもってのほか。ひとまずここをのがれて、再起をはかりたもうべきでございます」
「土屋の申すとおりでございます。さ、馬を召されませ」
「いやじゃ。放せ、放さぬか」
本陣にはせもどってみると、しきりに死に急ぎなさる勝頼さまを、近習の土屋惣三と初鹿野《はじかの》伝右衛門が必死に抱きとめていた。土屋も初鹿野も、勝頼さまが敵中に駆けこもうと遊ばすは、今日の負けいくさに責めを感じたもうてのことと見たらしいが、わしにはそうは思われなんだ。おそらくは、頼みの老将たちに背かれた腹だちまぎれに違いない。
ともあれ、ここはなんとしても、お逃がし申すことが第一と、
「殿、馬場信春どの、いまだ手傷も負うてはおられませんぞ」
「なに、信春は無事か」
「それに馬場どのは、今日の敗戦、殿の責めなどとは考えておられませぬ」
わしは手短かに、馬場どのとのやりとりを告げた。
「まことか。信春がまことにそう申したか」
みるみる勝頼さまのおもてに、血の色がよみがえった。
「その馬場どののためにも、ここで死に急ぎはなりません」
「わかった」
うなずかれる勝頼さまを、ご乗馬の背に押し上げた土屋と初鹿野は、それぞれ自分の馬に乗る。わしもまた、ふたたび馬にまたがった。ほかにも近習二、三人。
「信春は」
「お案じなさいますな。かならずおあとを慕うてこられます」
ようやく勝頼さまは、心をきめて駒に一むちあてなされた。そのそばを駆けぬけて土屋惣三が先頭に立つ。主従わずかに六、七騎、いっさんに北東の方角へ走った。馬場どののことが気がかりなのだろう。ときどき勝頼さまは後ろを振り返り遊ばした。
つられてわしも振り返った。はるか後方に、そう多くはない、一かたまりの騎馬武者が見えた。だれともまだわからぬ。
「馬場どのでございます」
わからぬまま、わしはそう申し上げた。
「ならば、ここで待ち受けよう」
勝頼さまは、すぐに馬をとめようと遊ばされた。
「ご無用になされませ」
土屋惣三がしかりつけた。勝頼さまは、つかの間、みれんげなお顔をなされたが、思い直してまた馬にむちうたれた。やがて寒狭川の上流にかかった猿橋を駆けぬける。
「殿、てまえはこのあたりで、馬場どのを待ち受けます」
猿橋から二、三町走ったところで、わしは馬をとめた。振り向いた勝頼さまが、無言でうなずかれた。
「土屋、殿を頼むぞ」
「心得た」
馬上にまるめた背をこっちに見せたまま、土屋惣三が大声で答えた。
ほどもなく、二十騎あまりの味方が追いついた。先頭には、うれしや馬場信春さまのお顔がある。
「お待ち申しておりました」
思わず声がうわずった。馬場どのは、それには答えず、馬上に伸び上がり伸び上がりしておられたが、勝頼さまの旗じるしが、見えがくれしながら、しだいに遠ざかるのをたしかめて、
「もう大丈夫じゃな」
と申された。織田、徳川勢に追いつかれるおそれのないことを見届けて、ほっとなされたに違いない。が、わしはかえって不安になった。勝頼さまのことではなく、馬場信春どののことがよ。
いま、勝頼さまが頼みの綱としておわすのは、馬場信春どのただ一人というても過言ではない。わしはそれを馬場どのにいった。どうでも馬場どのに、生きて甲府へ帰ってもらわねばならぬ。
「ここで待ち受けていましたのも、それゆえでございます」
「わかっておる」
「では、なにとぞ」
わしは馬場どのをうながした。馬場どのはかすかにかぶりを横にふり、もときた方へ馬首をもどされた。わしは馬から飛びおりると、馬場どのの前に大手をひろげた。
「なりませぬ」
「のいてくれ」
「なぜでございます」
「おぬしの心づかいには、信春、あらためて礼をいう」
「お礼ごころがおありなら、生きて甲州へおもどりくださいまし」
「そうはいかぬ」
「勝頼さまのおなげきご承知の上で、なおかつ帰らぬとおっしゃいますか」
「まず聞け。武田四臣とうたわれたうち、山県昌景、内藤昌豊の二人ははや死んだ。ほかにも、原、真田、土屋など、あまたの武将が討死した。わしのみ生きるわけにはいかぬ。ただし、はっきり殿に言上してくれい。このたびの殿のなされかた、信春は決して恨んでおらぬ。無理ないくさをなされずにはおれなんだ殿のお気持、殿のおつらさは、信春一人はようわかっておりますとな」
「…………」
答えるすべもなかった。馬場どのはさらに申された。
「わしはこれより最期のいくさをする。じゃが、勝頼さまへのつらあてに死ぬのでは決してないぞ。そのこと、しかとお伝え申してくれ……」
それでも、わしは動かなんだ。
「たって討死なさるのなら、まずてまえを殺してくださいませ」
「ええい、くどいわ」
馬場どのの手に槍がおどり、その石突きでしたたか胸を突かれて、わしのからだは道ばたの草むらにすっ飛んだ。しばらくは、気を失っていたらしい。われにかえったとき、馬場どのの姿はもうどこにもなかった。
その後のことは、くだくだしくいうまでもあるまい。七年後の天正十年三月、勝頼さまは天目山のふもとでご自害、武田家は滅亡した。くやしいのは長篠のいくさのおり、
「無謀ないくさをなさる」
お諫め申したうちの生き残りの面々が、勝頼さまを見かぎって、ぬけぬけと織田にくっついてしもうたことよ。穴山梅雪などがよい例じゃ。考えただけでも胸くそが悪くなる。いや、それよりももっと無念なのは、長篠の敗戦が、すべて勝頼さまの無謀のせいと、だれ一人疑いもせぬようになってしもうたことよ。わしは重ねていいたい。武田滅亡の真の原因は、お家の老臣がたが、心から勝頼さまを立てなかったことにある。戦場の場数をのみ誇っておのれの意地をつらぬき、勝頼さまのさびしさ、つらさを、察してやろうともせなんだことにあると。
それにつけても、世間もまたいいかげんなものよ。いまでは馬場信春どのさえ、ほかの老臣がたと同様、勝頼さまを見かぎって、無理に討死なされたと思うておる。なるほど、うわつらだけを見れば、無理な討死には違いない。が、信春どのは、勝頼さまのお心、ようわかってござった。そのことが、どれほど勝頼さまの支えになったことか。
なに、わしがなぜ、天目山で勝頼さまに殉じなかったかと。ばかな。わしの話、どう聞いておったのじゃ。馬場美濃守信春さまの真実のお心を、人に伝えたかったからにきまっている。じゃが、むだだったかもしれんのう。これまで、何十遍、何百回、あきもせずわしは語ったが、信じてくれる者はおらなんだ。いまでは、老いのくりごとと、鼻先でせせら笑う者ばかりよ。
そうそう。かんじんのことを忘れておった。ご老臣がたも憎い。世間も憎い。だが、もっと憎いやつがおる。ことの起こりのあやつが憎い。だれのことじゃと? わかりきったことではないか。尾張の化け物よ。あの信長めよ。なんのかんのというても、武田のお家が滅びたおおもとは、織田信長という男が、この世に生まれてきたことにある。あの化け物め、三千挺の鉄砲を、三段がまえでつるべ撃ちにするなど、途方もないことを考えつきおって。憎い憎い。せめてものなぐさめは、勝頼さまのご自害から、三月そこそこのうち、京都の本能寺で信長めがくたばりおったことよ。とはいうたものの、この世にめったにあらわれぬ、どえらい男には違いなかったわ。
いまのわしか。百姓じゃ。毎日土くれをいじっておる。いや、どうもいかんわい。長篠のことを語るとなると、ついつい、とっくに忘れているはずの、侍ことばが出てしもうてのう。ハハハ。
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侍ばか
一
恐れていた日がついにきた。およそ一ヵ月ぶりに出仕した、夫の一柳紋弥は間もなくもどってくる。ひた隠しに隠していた朝倉主馬の横死を、夫はすでに聞いただろう。待ち受けたように、だれかがきっと耳に入れたに違いない。覚悟の上ではあったが、さすがに千賀はしいんと心が冷えた。
主馬さまを死に追いやったのはわたしだろうか。わたし一人に責めがあるのだろうか。いいや、違う。このような不幸な悲惨な結果を招いてしまったのには、ほかならぬ主馬さま自身にもいくぶんの責めがある。あの方があまりにも依怙地《いこじ》に過ぎたから――千賀はそう信じたかった。
何度も自分の胸にいい聞かせ、強いて納得《なつとく》しようとつとめたが、それがどんなにそらぞらしいことか、だれよりも千賀自身わかり過ぎるほどわかっていた。
「この紋弥の命、ないものときっぱりあきらめてほしい」
強い言葉で紋弥にいい渡されたとき、顔青ざめながらも一度は素直に、そしてはっきりうなずいて見せたはずの千賀だった。だのに、どたん場になってつい迷ってしまった。みれんだったと思う。
そのために、夫の紋弥が日ごろから信頼し兄事している朝倉主馬というあたら侍一人、とうとう切腹させるはめとなった。ひいてはまたその妻|信夫《しのぶ》をも、日ならずして自らの命を絶つに至らしめたのである。
――でも、こうなっては仕方がない。どのような非難も甘んじて受けよう。わたしはただ、いとしい夫を、なんとしても失うに忍びなかった。それでいい。いまさらいいわけがましいことは口が裂けてもいうまい。千賀は一途《いちず》に思いつめた。しかし、それですむことではない。やはり苦しかった。錐《きり》にもまれるように胸が痛んだ。
あたりには春のたそがれが迫っていた。ほどなく紋弥は帰ってくる――。
紋弥が、はやりかぜにやられて寝こんだのは、二月の声を聞いたばかりのころである。少し頭が重いようだなとはすぐ気づきながら、たかをくくって無理に出仕を続けたのがいけなかったらしい。三、四日してかあっと急激に熱が出た。一度床につくとそのまま起きあがれず、ずるずると寝ついて、あっという間に半月あまりたった。
少し熱が引いたのだろう。その朝は気分がよかった。うつらうつら、快いまどろみをむさぼっていた紋弥が、ふっと目をあけると、枕もとに、去年の秋にめとった新妻の千賀の白い顔があった。
「いくらか楽になりまして」
「うん、だいぶいい。――たいそう心配をかけてすまなかったな」
夜の目もろくに寝なかった看護の疲れで、千賀はひどくやつれている。ふっくらとした頬が別人のように削げておしろいの気もなかったが、それがまたかえって、いつもの千賀とは違った美しさをたたえていた。熱っぽい目で紋弥はまじまじと見つめた。
「どうしてそんなに、わたしの顔ばかりごらんになりますの」
「そなた、けさはめっぽう美しい」
千賀はほんのりおもてを染めた。恥じらいというよりも喜びに似ていた。昨日まではぐったりと、死んだようになっていた紋弥が、急にそんな軽口をたたいてくれたことに、ほっと心が安らいだからである。
「主馬はどうしたのだろうな」
熱い粥《かゆ》をすすったあと、紋弥はぽつんともらした。熱に浮かされている最中に、何人か見舞客がやってきたのはかすかに覚えている。その中に朝倉主馬はいなかった。それとも、知らないうちにきてくれたのだろうかとも思ったが、
「いいえ、まだお見えになっておりません」
と千賀はいう。紋弥はかねてから朝倉主馬に心酔し兄事していた。主馬もまた何かと紋弥を引きたててくれたものである。元服前後のころなど、
「おぬしら、まるで影と形だな」
とよく笑われたくらいの仲だった。それぞれ一家を成した折目の正しさは別として、その親しさは、十年近くたったいまでもほとんど昔のままなのである。こんな仲だったから、紋弥が幾日も寝こんでいると知ったら、何はおいても、いの一番に駆けつけてくれるはずの主馬だった。それが、紋弥が床についてもうそろそろ半月になるというのに、いまだにちらとも姿を見せぬ。無性に会いたいし、少しは腹も立った。はては裏切られたような気さえしてくる。
「ほんとうに、どうなさったのでございましょうね」
千賀も眉をひそめた。
多少一本気なところがあり、朝倉主馬はときどきかっとなった。といって、別に人にきらわれるほどではない。むしろさっぱりしていると、その直情に好感を寄せる者も多かった。ちょっとしたことで、ついかんしゃくを起こしてしまったあとなど、
「どうもいかん。まだ充分腹の練れていないせいだな」
と、てれくさそうな表情を浮かべ、からからと笑うのが常だった。紋弥より二つ年かさの二十九、文武に秀れた若者である。ただ、だれかれの見境なく、ずけずけと遠慮のない口をたたくせいか、老臣重職たちの受けはあまり芳《かん》ばしくない。手におえぬ拗《す》ね者と見られているし、事実相当に拗ねもした。だが、紋弥にとってはこの上もないよき友なのである。
「何か悪いことでも起こったのではございませんか」
千賀の言葉がふっと気になった。千賀の危惧は不幸にして的中した。朝倉主馬は、このとき思わぬことから、のっぴきならぬ苦境に立たせられていたのである。
二
あくる日の夕方、こっそり見舞にきた鶴屋伊兵衛の口からそれがわかった。伊兵衛は城下で質屋をいとなんでいる。稼業に似げなく因業《いんごう》なところのない、ごく実直な男である。
紋弥ははじめ小首をかしげた。なるほど伊兵衛の顔は見知っている。千賀をめとる前、他の若者たちと一緒に、多少は遊興の味も覚えており、親にないしょで、小柄《こづか》だのなんだの何度か鶴屋に運びこみもした。だが、格別もうけさせたという覚えはないし、わざわざ見舞を受けるほどの義理はなかった。
果たせるかな、ほんとうの用件は別にあった。
「こんどのかぜは、|たち《ヽヽ》が悪いそうでございます。用心なさらぬといけません」
見舞の品をさし出したあと、伊兵衛はしきりにもみ手しながら、
「あなたは、朝倉さまとはかねて入魂《じつこん》の仲とうかがっておりますので」
と切り出したのである。
その語るところによると、紋弥が寝こんで三日目かの夕方だったという。下城の途中、朝倉主馬は暴漢に襲われた。山岸惣八郎の屋敷の塀に沿って、鷹匠町の辻にさしかかったとき、向うからまっしぐらに走ってきた男が、いきなり抜刀して主馬に躍りかかったのである。馬回り組の加賀儀太夫であった。
「何をする」
ひらりと身をかわした主馬をめがけて、儀太夫は白刃をふりかざし無二無三に迫った。とっさには事態がのみこめなかった。
「日ごろの遺恨覚えたか」
儀太夫ははっきりそう叫んだ。主馬に覚えはない。もともと儀太夫は、陰気なくらいおとなしい男である。それがどうして荒れ出したのか、かいもく見当がつかなかった。そのうちに主馬はあっと声をあげた。儀太夫の目がすさまじく血ばしり、異様な光を帯びているのに気がついたのである。明らかに狂気の目だった。
「日ごろの遺恨覚えたか」
儀太夫は何度も叫んだ。なんとか素手でとり押さえようとしたが、狂人の常で、信じられぬくらい凶暴な力をふるって荒れまわり、さしもの主馬ももてあました。やむなく刀を抜かざるを得なかった。ところが、どうしたことか、激しい打ち込みをがっきと受けとめたとたんその刀が、鍔《つば》もと三寸から、まるで嘘のようなもろさで、ぽっくと折れてしまったのである。
それでも危く脇差を抜き合わせて儀太夫の刀をたたき落とし、ようやくとり押さえることができた。そこへ、儀太夫の親類縁者があわてて駆けつけた。
「かたじけのうござった」
「なにぶん内々に」
「お頼み申す。なにとぞこの場かぎりに」
いわれるまでもない。主馬は一切を自分の胸におさめることにして、儀太夫の身柄を引き渡した。それで一応なにごともなかったのだが、数日後面倒なことになった。通り合わせただれかが、主馬の刀の折れたことを、ひそかに目付小野三左衛門の耳に入れたからである。三左衛門が、かねがね主馬に対して好意を抱いていなかったのも不運であった。
主馬はただちに呼びつけられ、厳重な取り調べを受けた。
「おてまえの差料《さしりよう》は、たしか兼光《かねみつ》のはずであったな」
三左衛門は苦い顔をして、ことさら意地悪くたずねた。主馬の差料が家重代の延文《えんぶん》兼光ということは、たいていのものが、かねて知るところであった。だが、儀太夫をとり押さえた折主馬が所持していたのは、こしらえこそよく似せてはあるものの、兼光とは似ても似つかぬものだったのである。
しかしながら、それほど鈍刀だったわけではない。折れたのはよくよくの不運といえよう。とはいえ、日ごろ文武ともによくする朝倉主馬にして、まことに似合わしからぬ不覚ではあった。
「油断千万な。さような心得では、まさかの折の御奉公はつとまるまい。兼光はいかがされた」
三左衛門はネチネチといった。何もかも承知の上でたずねているようなふしがある。主馬はしばらく無言だった。さすがに顔色も変わっている。
主馬は以前、公《おおやけ》の席で筆頭家老藤掛|大炊《おおい》に直言してその怒りを買ったことがある。それを大炊が深く含んでいるらしいことも主馬はつとに知っていた。目付小野三左衛門は、大炊の息のかかった男だった。主馬の顔色が変わったのは、畏怖《いふ》からではない。憤激がそうさせたことである。三左衛門はじろりと目をくれて、
「答えにくいなら、みどもがいうてやってもよい。兼光はどこぞやの土蔵の奥におさまっているらしいな」
と皮肉たっぷりに浴びせた。勝ち誇った色がある。単にかまをかけたのではないことを主馬は悟った。
「それはいかなる理由によるものか、ありていに返答さっしゃい」
いわせも果てず、主馬のこめかみにむらむらと青い血管がふくれあがった。
「申されぬ」
ずばりとたたきつけて、あとは一言ももらさぬ。ただかたくなに口をつぐんでいるばかりである。三左衛門はいきりたった。
「申されぬですむことか。さあ、しかと聞こう」
かさにかかった態度がこちんときた。
「いまさら返答には及ぶまい。とうに承知のことと見た。で、どうせいといわれる。これかな」
腹かっさばく手真似をした。恐縮するどころではない。てんで頭から無視して、拗ね者の本領を発揮してしまったのである。
「貴様っ」
三左衛門はかっとおもてに朱をそそぎ、席を蹴って立ちあがった。そして、委細は藤掛大炊の耳にも達したはずと伊兵衛はいう。
「そうか、兼光をおぬしが預かっていたとな」
これは紋弥にとっても初耳だった。いまがいままで、主馬はもともと通り兼光を帯びているものとばかり思いこんでいた紋弥である。
「刀が折れたと小耳にはさんだだけで、そこまで勘が働く。いやなやつだ。もっとも、そうでなければ目付などつとまるまいが……」
「まったくでございます。あいにく、わたくしが留守だったのも不運でございました」
辣腕《らつわん》を知られた、目付の小野と聞いただけで、番頭がふるえあがってしまったらしいと残念そうに伊兵衛はつけ足した。
三
「家重代の刀を質におく――なるほど、あまり賞められた図ではございません」
伊兵衛は先を続けた。
「でも、近年はお借りあげ続きで、どこも内証がひどく窮屈なこと、御家老やお目付がたもよっくご存じの筈でございます」
現に伊兵衛の店では、家中の人々からいろんなものを預かっている。中には、先祖が主君に拝領したという品さえ、こっそり持ちこんでくる始末である。こんどのことが、もし主馬以外の者の失態であったら、不問にすましてもらうこともさして困難ではなかっただろう。
だが、朝倉主馬は、藩中随一の権力者、筆頭家老藤掛大炊の怨みを買っていた。さらに取り調べを受けるにあたっての拗ねぶりが、いちじるしく目付小野三左衛門の心証を損ねてもいるのである。
しかも、その上になお不利な条件が加わった。というのが、兼光をかたにしてこしらえた金子が、実は長崎丸山の遊女を請け出す身代金の一部に使われていたのだといううわさが、日ならずして、ぱっと城下にひろまってしまったからであった。
――信夫どののことだな。
かならずしも根のないうわさではない。朝倉主馬の妻信夫は、いかにももとは丸山の遊女であった。が、これにはわけがある。信夫はまぎれもなく武士の娘なのである。そして、親同志によって、ゆくゆくは主馬の嫁にと定められた女であった。
父は相馬《そうま》藤十郎といい、以前は同じ家中の歴々であった。それがさる仔細《しさい》あって主君の勘気をこうむり浪々の身となった。主馬の父朝倉|主膳《しゆぜん》とは、かねてから親交があったが、相馬藤十郎はその主膳にさえ行方も告げず、まだあどけない少女であった信夫の手を引いて城下を立ち去ったのである。
主膳は数年後世を去ったが、死ぬが死ぬまで相馬藤十郎一家のことを心にかけていた。死期が迫ったのを悟ると、主膳は枕もとに主馬を呼び寄せ、具足櫃《ぐそくびつ》にかなりの金子をたくわえていることを告げて、
「わしは相馬には、少なからず恩義を受けている。こののちもし相馬の消息が知れ、万一にも困窮しているようであったら、父に代わってよしなに頼む」
といい残した。相馬藤十郎の消息が知れたのは、父の死後四年目であった。慶長、元和《げんな》の昔と違って、いまは一度主家を離れれば、よくよくの幸運に恵まれぬかぎりふたたび主取りはむずかしい。藤十郎も例にもれず、窮乏の末|陋巷《ろうこう》に死んだ。残された信夫は、病苦の母を養うために、余儀なく苦界《くがい》に身を沈めるに至ったのである。
オランダ医学をおさめるため、長崎に遊学している清水松之丞《しみずまつのじよう》からの便りでそれが知れた。主馬は亡き父のたくわえをほとんどをなげうって、母子を苦境から救い出した。一昨年秋のことだった。
それからいくばくもなく、主馬は、汚れたわが身を恥じてかたくなにこばむ信夫を説き伏せ、おのれの妻にむかえた。郭《くるわ》の垢にまみれても、心までは蝕ばまれていない信夫と知ったからだった。
物頭福富嘉右衛門の養女という形がとられた。嘉右衛門は、主膳と藤十郎共通の友人である。藩庁の許可を得るにあたっても、並々ならぬ嘉右衛門の骨折りがあったこというまでもない。信夫の母は、ほどなく安んじて目をつぶった。
主馬を非難する者はなかった。いや、むしろ、亡父に代わって義理をつくした主馬の振舞を、多くの人々は、見あげたことと賞《ほ》めそやしさえしたはずであった。だのに、いまはほとんどの者が、
「父のたくわえかどうかわかったものか」
「よしんばたくわえがあったとしても、とてもそれだけで足りるはずはない」
「見損うておったわ」
と、手のひらをかえすように、一斉に主馬に非難の矢を浴びせているという。もともと世間はそんなものと、承知はしていてもやはり腹だたしかった。
「おかしな話でございます」
伊兵衛も、腹の底から心外でならぬといいたげな表情であった。頼みの福富嘉右衛門は昨冬卒中で倒れてもはや世にない。いまは朝倉主馬のために弁じてくれる者は一人もなかった。だれにしても、わが身がかわいいからに違いない。藤掛大炊をはじめ家中の歴々に、かねがね拗ね者とにらまれていたことが、たたっていることは明らかだった。
「その金子、信夫さまの身請けに使われたのでないことはたしかでございます。わたしが兼光をお預かりしたのは、去年の春でございました故」
公正に取り調べれば、それはすぐ判明するであろう。が、目付小野三左衛門は、はじめから朝倉主馬を陥れる腹で動いている。内証の苦しさからということなら是非もないが、遊女を身請けするために、家重代の銘刀を質においたとなれば、武士にあるまじきこととして、厳罰に処する名分はりっぱに立つのである。
「朝倉さまが依怙地《いこじ》になって、その金子の使途をおっしゃらぬことが、相手にとってはもっけの幸いなのでございます」
いつとはなく、紋弥の顔色が変わっていた。青いのは病いのせいばかりではない。
――そうだったのか。
とっさに、胸にひらめくものがあった。
「伊兵衛、おぬしが兼光を預かったのは、去年の春だというたな」
「さようでございます」
そして、伊兵衛は次のようにつけ加えた。
「わたくしは、先代の朝倉さまにたいそうお世話になっております。それ故、品物などお預かりしなくともよいと申しましたが、それでは気がすまぬと、主馬さまは無理に兼光をお渡しなされたのでございます。はい、ときどきは手入れにこっそり見えておりました」
「そんな男なのだあいつは。で、そのときいかほど用だてた」
「三十五両でございました」
思いなしか、つかの間、伊兵衛の目がきらっと光ったような気がした。
――去年の春、そして三十五両。
紋弥は息をのんだ。
「不覚……」
四
「折入ってそなたに話がある」
暗くなって伊兵衛が辞去したあと、ふらふらするのをこらえ、紋弥は床の上に起きあがった。その顔には血の気がなく、灯影《ほかげ》も隠しようのない青さだった。ただごとではないのが、千賀にもすぐに読みとれた。
「この紋弥の命、もはやないものとあきらめてほしい」
苦境に陥った朝倉主馬を、このままほっておけることではない。三十五両は、主馬が紋弥のために用だててくれたものにまぎれもなかった。
「そなたをめとる以前のことだ」
紋弥はまだ若いが、算勘《さんかん》に長じている点を買われて、早くから勘定方の一員に加えられ上役からも信頼されて、公金を扱うこともしばしばだった。だが若い紋弥にとってはそれが仇となり、ついいつとなくその公金に手が出て、はっと気がついたときには、すでに八十両近い穴があいていた。
そこへ、ある事件のために、家中に大幅のお役替えが行われ、早急に穴を埋めねばならなくなった。あと始末が大変だった。割に裕福な暮しをしている母の実家に泣きついて、やっと四十五両だけこしらえたが、残りの工面がどうしてもできぬ。だれにでも頼めることではなかった。窮したあげく主馬に苦境を訴えると、ただちに三十五両ととのえてくれたのだった。
それが、朝倉家重代の兼光を、鶴屋に預けてこしらえた貴重な金子とは、夢にも知らずにいた紋弥である。
「父のたくわえの残りだ。あわてて戻すことはないぞ」
という主馬の言葉を真に受けて、一年近くなるいままだその金子は返済していなかった。
――なんという不覚。
紋弥は慚愧《ざんき》に耐えなかった。
しかも主馬は、小野三左衛門に意地悪く取り調べられた際も、あくまで紋弥をかばい通して、弁明しようとさえしなかったという。
この上は、公金を費消してその穴埋めに、主馬に金策を依頼したと、あからさまに申し立てるよりほかはない――紋弥はとっさに意を決した。
「単に内証が苦しかったくらいでは、おそらくとりあげもすまい。向うははじめから、主馬を陥れる気でかかっている」
それは千賀にもよくわかった。紋弥自身の命を賭する以外に、主馬の無実を晴らす方法は見当たらぬ。主馬の無実を晴らせば晴らしたでまた、相手方の憎しみは、当然紋弥の身に振りかかってくるものと見てよかった。
「わかってくれるか、千賀」
射るような紋弥の目を、千賀はひたと見かえした。すうっと暗いかげがかすめる。が、それもつかの間だった。
「わかりました」
千賀は静かにうなずいた。去年の秋、ここに嫁いでくる前の夜、
「情に溺れて、紋弥どのに、人のそしりを受けるような振舞をさせてはなりませんぞ」
と母にいわれたことを思い出した。
「出かける。着替えをとってくれ」
「でも、そのおからだで、ご無理をなさっては……」
「何をいう。一刻といえども猶予《ゆうよ》はならぬのだ」
おろおろする千賀を叱りつけ、ただちに衣服をあらためたが、気ばかりあせっても、衰弱しきったからだの方が承知しなかった。紋弥は玄関までいって、そこにうずくまってしまったのである。またからだ全体が、火のついたようになっていた。
「明日、わたくしが参ります……」
千賀の声をおぼろに聞いた。
あくる朝、いくらか熱のさがったところを見はからって、紋弥は二通の書状をしたためた。一通は目付小野三左衛門にあて、いま一通は同じく柴垣宮内にあてた。一通だけでは、三左衛門に握りつぶされるおそれがあったからである。
「では、届けて参ります」
「親類の年寄りどもに知られるな」
「かしこまりました」
このときまで千賀の心に迷いはなかった。下僕に託さず、みずから書状を届けることにしたのも、その決意のあらわれである。紋弥を死なせるはめとなってもやむを得ぬ。最悪の場合は、わたしもともに死ぬまでとけなげに思いつめていた。だが、その決意は、どたん場になって、積木細工のように崩れてしまった。
書状を届けにいく途中、ふっと、紋弥の伯父の稲葉作右衛門に会う気になった。それがいけなかった。迷ったのでもない。みれんからでもなかった。千賀にしてみれば、おのれの決意をたしかめるような気持からだったともいえようか。
もともと作右衛門は、理非に折目の正しい人物として知られている。それ故、この伯父がなんというか聞きたかった。
ところが、意外にも作右衛門はひどくとり乱した。色を変えた。
「いかん、そりゃあいかん。一柳の家名に傷がつく。朝倉がことは心配に及ばぬ。ほっておいても大丈夫じゃ。それしきのことで、腹を切らせるようなことがあってなるものか。紋弥はきまじめ過ぎる。それでは朝倉の好意をかえって無にするというものじゃ」
作右衛門からの知らせで、本家の一柳兵部もあたふたと飛んできて、
「ならん、そりゃあ絶対にならんぞ。紋弥のようなのをばか正直と申すのじゃ。うむ、紋弥には、たしかに届けたというておけ。あとのことはわれわれが引き受ける。どれどれ、その書状はこちらに預かっておこう」
と、いやもおうもなかった。仕方なく、千賀はいわれる通りにしたが、安堵の思いと同時に、一種の腹だたしさを覚えた。
「小野さま、柴垣さまに、書状はたしかに届けて参りました」
心ならずも、こうして千賀は紋弥をあざむいてしまったのである。病がぶりかえして、紋弥が再度の高熱に苦しめられていなかったら、その嘘は見破られたかもしれない。
「御苦労だった」
そういったつもりだろうか、大儀そうに、なかば無意識にうなずく紋弥をちらと見やって、千賀は胸をなでおろしたが、やはりなにやら、うしろめたさはぬぐえなかった。そのうしろめたさを振り切るように、千賀は必死に祈った。稲葉作右衛門や、一柳兵部の言葉が真実であれと祈った。
――それしきのことで、朝倉に腹を切らせるようなことがあってなるものか。
溺れる者がわらをもつかむように、千賀は作右衛門の言葉に死物狂いにとりすがった。が、むなしかった。それから七日とはせぬうちに、執拗《しつよう》な取り調べに憤激した朝倉主馬は、小野三左衛門を討ち果たし、その場を去らず自らも腹かっさばいて果てた。
時をおかず信夫もまた主馬のあとを追ったのである。
そのときの驚愕と悔恨が、いまもきりきりと千賀の胸をかんだ。千賀はわが胸にいい聞かせた。
――迷ったのではない。決してみれんからでもなかった。わたしは、わたし自身の決意をたしかめるつもりだった。
「たとえ一柳の家名に傷がつこうとも、朝倉主馬を見殺しにはできぬ」
そういって下さるものと、わたしは信じきっていた。だからこそ、稲葉の伯父上をおたずねしたのに……。
――違う。そらぞらしいことはいわぬがよい。もう一つの声が千賀を責めた。
――それがみれんでないことがあるものか。ていのいい口実はよすがいい。おまえは迷った。稲葉の伯父や、一柳兵部の言葉を、ほんとうはおまえは待っていた。そうではないのか。朝倉主馬を死に追いやったのは、なんといい逃がれしようと、おまえの罪――そうではないのか。
夫の一柳紋弥は、何も知らず今日久々に出仕した。千賀は一切を、ひた隠しに隠しおおせた。主馬の横死を知らせに、何人かが駆けつけてきたときも、
「紋弥はまだ熱がひどく、意識もはっきりしておりませぬ。あとで、わたしから知らせることにいたしますから」
と、口実をもうけて紋弥に会わせなかった。が、紋弥は今日、すべてを知っただろう。そして、間もなく戻ってくる。覚悟の上ではあったが、千賀のおもては真っ青になっていた。
五
夜になって千賀は居間に呼ばれた。夕方、帰宅したときには、紋弥の様子にそれほど変わったところはなかった。
――まだ何も聞かなかったのだろうか。
ふと、そう思ったくらいである。しかし、紋弥はやはり一切を知っていた。一見、冷静そのもののような挙措《きよそ》の中に、やり場のない激情がひそんでいることを、間もなく千賀は悟らねばならなかった。
「いまさらいうてもせんかたない。だが、ただ一言だけいうておく」
怒っているとはとれない。けれども、怒り以上のものをそこに千賀は見た。
「千賀、そなたが、この紋弥をいとしいと思うたであろうこと、失うに忍びなかったであろうこと、よくわかる。が、そなたがわたしをいとおしむ以上に、主馬は信夫どのにとって大切な男だった……」
あとは何もいわなかった。深い哀惜を宿したまなざしが千賀を射すくめた。言葉はげしく責められるよりも、口をきわめて罵《ののし》られるよりも、千賀にはなお切なかった。
燭台《しよくだい》の灯が大きくゆらいだ。
長い沈黙の中で、自責と悔恨がぎりぎりと千賀の胸をえぐった。
桜はとうに終わっていた。しとしとと卯《う》の花くたしが降り続き、雨があがると、みずみずしい樹々のうす緑が、日に日に深い濃緑の色を増した。暗い重苦しい明け暮れが、千賀と紋弥の心をとざした。このころ、不吉な運命が、すでに紋弥の足もとに忍び寄っていた。
禍日《まがつひ》は、あるうわさとなって、その黒い姿をあらわした。紋弥のからだが、ようやくもと通りに回復しかけたころ、彼が朝倉主馬を見殺しにしたという風評が、しきりに城下に流れはじめたのだ。
ある日紋弥は、一人ひそかに主馬の墓に詣でた。宗琳寺《そうりんじ》の墓地の片隅に、ささやかな白木の墓標が二つ立っている。それが、主馬と信夫のなきがらを埋めたあとである。朝倉家は断絶した。そのためであろうか、墓標一つにも、人目をはばかる心づかいがなされていた。
線香をあげ、花を手向けて帰りしなに、ばったり鶴屋伊兵衛と出会った。伊兵衛の目に憎悪が燃えた。
「見あげたお方でございます。自分で見殺しにしておきながら、墓参りだけは忘れずになさる」
言葉にははじめから棘《とげ》があった。
「わたしがなんのために、わざわざ見舞いにうかがったか、おわかりにならなかったと見えます。いや、わからぬふりをなさったのでございましょう。こんな卑劣な方とも知らず主馬さまは、あなたを、実の弟のように扱っておいでなされたのか……」
委細を主馬がもらしたわけではない。三十五両という金子、主馬自身が使ったものでないとすれば、彼が日ごろから影と形のようにしてきた、一柳紋弥のために用だてたのに違いないと――これは伊兵衛の勘だった。
「恥を知りなさるがよい」
目を伏せて去る紋弥の後姿に、伊兵衛はかっとつばを吐いた。それからいくばくもせぬうちに、紋弥はたちまち悪罵の渦の中に投げこまれた。冷たい目が、無数の針となって紋弥を刺した。
「都合のよいときに、はやりかぜにやられたものじゃ」
「仮病にきまっているわ」
しかし、紋弥は黙々として非難に耐えた。
「蛙の面《つら》に水じゃ」
「面の皮が千枚ばりと見える」
日、一日、火の手は盛んになるばかりである。そんなうわさを聞くにつけ、千賀はわが身を責め苛《さいな》んだ。身のおきどころもなく、死人のように日を送った。
「千賀、そなたを恨んではおらぬ。いまさら責めようとも思わぬ。耐えい。どこまでも忍ぶがよい。この紋弥に忍べることが、そなたに忍べぬはずはあるまい」
かえってそれが辛かった。いっそ責めて貰いたかった。するうち、一度家断絶となった朝倉家を、主馬の弟|主殿《とのも》に継がせる旨御沙汰があった。しかもそれが、うわさによると、筆頭家老藤掛大炊のはからいという。そのことを聞いても、紋弥の立場のみじめさが察せられた。伯父の稲葉作右衛門が、一門の長老たる一柳兵部とともに、紋弥のもとへやってきたのはそれから間もなかった。
「即刻、千賀を離別いたせ」
「そなたにあらぬ汚名をきせた責めは、千賀にある」
二人はこもごも紋弥に迫った。次の間にあって、千賀は蒼白になった。紋弥はしばし無言である。作右衛門の声がした。
「たとえ一柳の家名に傷をつけるとも、朝倉主馬を見殺しにしては相ならぬ。われわれの腹ははじめからきまっておった。しかし、千賀には無理強いもなりかねた。それ故、小野、柴垣、両目付にあてた書状は、ひとまずわれらが預かったのだ。まこと武士の妻としての心得があれば、その夜のうちにも、ふたたび思い直して、書状を受けとりに参るものと、われらは心待ちにしておった」
かたわらの、一柳兵部と目を見かわし、作右衛門はなおも語を継いだ。
「しかるに、われらがひとまず思いとどまらせたをよいことに、千賀はこれ幸いとおぬしをあざむきおったのだ。そのようなあさはかさが、おぬしを今日の苦境に陥れるに至ったのではないか」
――ひどいことをおっしゃる。
千賀は腸《はらわた》がにえた。どの顔でそんなことがいえるのかと、あまりの情なさにからだがふるえた。
――これが、日ごろから理非に対して折目正しいといわれている、稲葉作右衛門というお人の正体だった。
いまさらのように悔しかった。しかし、それもよい。甘んじて、一切の責めをわたしが負おう。そしたら、夫の紋弥に対する非難の声を、いくぶんなりとも柔らげることができるだろう。千賀は覚悟をきめて、静かにふすまに手をかけたが、その手がつと釘づけにされた。紋弥の声がしたからである。千賀は全身を耳にした。
「せっかくながらお受けいたしかねます。何もおっしゃらず今日のところはお引きとり願いましょう」
きっぱりと紋弥はいった。
「なにっ」
「それはどういうことじゃ」
作右衛門と兵部の声がとがった。
「てまえは、書状を千賀に持たせた覚えはございませぬ」
「なにをいう。その書状、われらがちゃんと預かっておる」
「夢でもごらんになったと見えます」
紋弥は皮肉な笑いを浮かべた。
「朝倉主馬を見殺しにしたのはほかならぬこの一柳紋弥、千賀は何ひとつ存じませぬ。――そうでなければ方々がお困りになりましょう。いや、まわりくどいことは申しますまい。お二方が千賀になんとおっしゃったか、およその見当は紋弥についております」
ひとりでに舌鋒《ぜつぽう》が鋭くなった。作右衛門と兵部の顔色が変わった。
「歯に衣着《きぬき》せず申します。方々をてまえは見損うておりました。千賀に対してさようなことを申される義理はどこにもございますまい。てまえが千賀を離別すると申しても、お二人は当然かぼうて下さるが道理、それを逆に、一切の責めを千賀に負わせて、即刻暇を出せとはあまりのなされかた――」
「黙れ」
二人とも見る間に真っ赤になった。あとの言葉に詰ったらしく、なんとも間の悪そうな顔になったが、すぐまたいきりたって、高飛車な捨てぜりふを残し、足音もあらあらしく立ち去っていった。
千賀は転ぶように座敷に駆けこむと、紋弥の膝に突っ伏し、肩を波うたせてむせびあげた。
「もうよい、泣くな。卑怯者でもよいではないか。主馬はきっとわかってくれる」
千賀は泣きながら何度もうなずいた。どんな辛さにも耐えよう。なんとそしられてもよい。あくまでも忍ぼうと胸に誓った。
だが、この日から三日目に、千賀はひそかに紋弥のもとを去った。
六
千賀は縁の障子をあけ、雨に煙る庭にうつろな目を投げていた。緑をとかしたような青葉の雨である。夜の明けるころまでは、まだどんより重い雲がたれているだけだったが、いつの間にか降り出していた。
落合の実家に帰って、今日でもう七日になる。千賀の胸には、ある安らぎと、とりかえしのつかぬことをしたかもしれないという、あわい悔いがあった。
――いいや、これでよかった。
千賀は自分の胸にいい聞かせた。
好きこのんで去ったのではない。ほんとうをいえば、なんといわれても紋弥のもとを去りたくはなかった。が、その日、千賀は紋弥の留守の間に、おそろしいことを聞かされたのである。話してくれたのは、隣家の妻女だった。
その語るところによると、主馬の弟朝倉主殿が、紋弥に深く恨みを含み、いつかは意趣を晴らそうと志しているという。
「紋弥さまが、あなたをかばっていらっしゃることがいけないのです」
朝倉家の再興を棒にふってもとまで、主殿は思いこんでいるらしい。主殿は、兄の主馬にも勝る使い手として知られている。千賀は血が引く思いだった。
「わたしが、一柳の家を去れば、恨みは消えるとでもいうのでしょうか」
「紋弥さまをあやまらせたのはあなた――やはり世間はそう信じています」
千賀は、このときほど世間がのろわしかったことはない。考えてみれば、主馬を死にまで追いやったのも、なかばは世間の罪ともいえるのではなかろうか。苦界に一度身を沈めた信夫を主馬が妻にむかえたとき、人々は賞めそやしさえした。同じその人々が、加賀儀太夫をとり押さえようとして、不運にも差料が折れるという不測のできごとから、手のひらをかえすように憶測をたくましくして、主馬にはげしく非難を浴びせたのである。
朝倉主殿が、そうした無責任な世間の声に動かされていないとは思えない。動かされなければ、主殿その人が、非難の渦中に投げこまれかねなかった。
けれど、わたしへの風当たりが、それほど強いということは、世間が前ほどは、夫の紋弥を責めていないからではなかろうか。
――やはり、わたしは一柳の家を去ろう。
千賀はとっさに思案した。
――わたしは、どこまでも責めを負おう。情に溺れて、夫に道を誤まらせた不覚なみれんな女。それでよい。どこまでもわたし一人の罪として、一生重荷を背負っていこう。
千賀は紋弥に置手紙をして、その日のうちに一柳の家を出た。それからもう、今日で七日になる。
人のうわさも七十五日、いつかは紋弥を責める声も聞かれなくなるだろう。やはり、わたしは一柳の家を去るべきだった。その意味からは、稲葉作右衛門や、一柳兵部の厚顔も責めるまい、恨むまいと――千賀はあらためておのれにいい聞かせた。
青葉を濡らすしとどな雨に、千賀はさっきからうつろな目を投げている。あきらめのかげに、満足に似たものが動いていた。千賀は夢にも知らなかった。この日の夜明けに何事が起こったかを。
早暁――、宗琳寺の墓地で、紋弥は朝倉主殿と斬り結んだのである。果たし状をかけたのは紋弥であった。
頭上に重い雲がたれていた。あたりは、まだ眠りから覚めきっていない。ひっそりと静まりかえっていた。
「主殿、おぬしもおれを卑怯者と思うか」
朝倉主殿は、はげしい眸《ひとみ》で紋弥を見た。明らかにはっとしたようである。一切のいきさつが、おぼろげながら読めたのかもしれなかった。しかし主殿は何もいわず、すらりと白刃をぬき放った。紋弥も抜き合わせた。唇に微笑が浮かんだ。
「討たれてやるつもりはない。存分にかかってこい」
主殿は目をみはった。
――できる。
紋弥が巌のように見えた。
いつの間にか、雨が降り出していた。どのくらい刻がたっただろう。青葉の雨の中に白刃をたがいに正眼につけて、紋弥も主殿も、塑像《そぞう》のように動かなかった。呼吸が最初に荒くなりはじめたのは、主殿の方であった。
くらくらと、大地が傾いたと見えたとき、
「とう」
と紋弥の唇が裂けた。同時に、のめるように主殿は片膝を地につけ、恨みも闘志も失っていた。紋弥の刀のきっ先は、ただ主殿の鉢巻のみを切り落としていたのである。
「一柳どの」
片膝ついたままの姿勢で主殿は叫んだ。
「あなたを、わたしは信じたい。兄は、決して、あなたを見損ってはいなかった――わたしはそう思う。今日以後はこの朝倉主殿、あなたに、二度とうしろ指はささせることでない。誓って」
残心に構えていた紋弥の顔に、一瞬、泣き笑いに似た表情がただよった。力ががくんと抜けた。
「主馬……」
雨にうたれながら、いつの間にか、紋弥はだらんと抜身をさげて、主馬の墓標の前に立っていた。その後姿を、じっと主殿は見守っていた。
おぼろげではあったが、いろんな事情が読みとれたような気がした。そして、紋弥の方から逆に果たし状をかけてきたこと、討たれてやる気はないぞと叫んだその腹の中がおのずととけた。
――そうだ、兄が死んだのは、決してこの人のせいではなかった。これほどのお人が、兄を裏切るはずはない。
素直に、そう信ずることができた。この人を責め、この人をそしる人々を、おれは一人も残らず説得しよう。そして、その次におれがなさねばならないのは、千賀どのをいま一度、この一柳どののもとへ帰すことだ。兄もきっとそれを喜んでくれるだろう。
そうしたさまざまの思いに、朝倉主殿はしばらくおのれを忘れていた。酔っていた。そのとき、異様な声が耳をうった。あっと主殿は色を失った。
「主馬、主殿はわかってくれた……。おぬしも、わかってくれるな……」
生ける人にものいう如く、主馬の墓標に向かっていた一柳紋弥が、不意に、崩れるようにのめり伏したのである。
雨がひとしきりはげしくなった。その雨にたたかれながら、朝倉主殿は、ほうけたように立ちつくしていた。
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命のお槍
一
おそろしかったそのときのことを、お糸はいまも覚えている。まだ六つだったから、こまごましたことはもちろん忘れてしまったが、肝心《かんじん》なところはいまでもはっきり思い出すことができた。
夏の終りか、秋のはじめの、ひどく暑い夕暮れだったと思う。
お糸は父親の権八《ごんぱち》に手をとられ、どこかを歩いていた。ときどきダダをこねて、地べたにしゃがみこんだりしたが、そこがこの江戸のどのあたりだったかは、うまく思い出せない。ずいぶん遠いところだった気もするけれど、子供の足だったから、いくらもないのを遠いと感じたのかもしれなかった。
とある路地に入りこんだとき、まるで天から降ってきたように、どやどやと十二、三人の男があらわれ、目の前に、大きく立ちふさがった。見るからに人相の悪い、渡り中間《ちゆうげん》風のあらくれ男ばかりだった。
前の年に母親をなくしたお糸は、槍持奴として松平家に奉公している父の権八と、二人きりで上屋敷内の長屋に住んでいた。長屋にはよくほかの中間たちがやってきたが、肩ぐるまに乗せたり、飴を買ってくれたりして、みんなお糸にはやさしかった。だが、同じ中間でも今日の相手は違っている。それが、子供ごころにもすぐ読みとれた。
男たちは肩をいからせ、口々になにやらわめきたてた。おびえるお糸をうしろにかばいながら、権八も負けずに、まっかになってどなりかえした。そのときの押し問答はほとんど覚えていないが、相手の一人が投げかけた次の一言だけは、不思議にいまも耳に残っている。
「お槍が大事か人間が大事か」
そんな意味の言葉だった。どういうことだろう。幼いお糸にわかったのは、相手が父親に、なにかしきりにあやまらせようとしているらしいということだけだった。
権八はびくともしなかった。いつまでたっても|ラチ《ヽヽ》があきそうもないと見て、男たちはたがいに目くばせした。一人がやにわにうしろからお糸をひったくり、小脇にかかえると一散に走り出した。
なんどか道をまがって、間もなくつれこまれたのは、広い火よけ地のようなところだった。手入れがおろそかになっているのか、堀に面した、ずっと先の方まで雑草が生い茂っていた。
あたりはうす暗かった。
血相を変えて、あとを追ってきた権八を、男たちは左右から押し包む形になって、かしらだった一人が念を押すように、また同じことを詰問した。
「お槍が大事か人間が大事か」
返答しだいでは、人質にとったお糸を、ひねりつぶしもしかねぬ語気である。が、権八はひるまずずばりといった。
「お槍が大事だ」
次の瞬間、悲鳴をあげてころがったお糸の目に、すさまじい形相で、父親めがけていちどきに襲いかかるあらくれ男たちが映った。そのあとどうなったかお糸は知らない。
気を失ったようでもあるし、ちょうど雷がこわいときみたいに、耳をふさぎ目をつぶって、草の中にじっと突っ伏していたようにも思える。あるいは、泣きわめきながら、そこら中駆けまわっていたかもしれなかった。それとも、わなわなふるえながら、さんざんにうちのめされる父親の姿を、ほうけたように見守っていたのだろうか。
ふっと気がついたとき、権八の大きなからだは、丸太《まるた》のように草の上に転がっていた。相手の方も何人かは伸びていたし、あとの者も顔を血みどろにして、はげしく肩を波うたせていた。
「――坊、ちゃんの敵をたたきのめしたぞ」
だれかが大きな声でいった。仙坊だか金坊だか、たしか名前を呼んだはずだが、動転しているお糸にはよく聞きとれなかった。そこへ、声に応じて顔を出したのは、十二、三になる男の子だった。その男の子は、夕闇の中でもそれとわかるほど色白でかわいいが、いかにもきかぬ気らしい顔だちをしていた。
「ちゃんの敵だ、好きなようにしな」
死んだものと思った権八が、そのとき、う、うッとうめいた。わあっと、わけのわからぬ声を出して、鉄砲玉のようにとびつこうとしたお糸を、男の子は、いきなりどしんと突きとばすと、おもてにせいいっぱいの怒りを燃やし、苦しげにうめいている権八の、顔といわず胸といわず、
「こいつが、こいつが」
と、メチャメチャに踏みにじった。
果てしもなく泣きつづけるうち、泣きつかれて、いつか寝入ってしまったお糸が、強くゆり起されたのは、熱した昼の空気がようやくさめて、夜の風が息づきはじめ、月が高くのぼったころだった。すぐそばに、化け物のようにはれあがった父親の顔があった。
十二年前のことである。
二
新助が、赤坂御門内に屋敷のある松平家に、槍持奴として奉公するようになったのは、ことしの春からだった。年老いた権八のかわりに召し抱えられたのである。
目だつほど柄は大きくないが、新助は、がっしりとしまったいいからだをしている。男前だしきっぷもよかった。
「見どころのある野郎だ」
めったに人を賞《ほ》めたことのない権八が、めずらしく一目で惚れこみ、なにくれとなく目をかけて、わが子のようにかわいがった。
「まごまごしてねえで、早いとこ口説《くど》いてしまいな」
男手一つで育てあげた娘のお糸に、冗談めかしてそういうのも、半分は本音らしく、なにかと口実をもうけて、ちょいちょい新助を長屋に呼んでは、
「おっといけねえ、大事な用を忘れっちまうところだった」
などと、あたふた立ちあがって、不器用な粋《すい》のきかせかたをするのも、むしろほおえましかった。お糸は権八の三十七の子、女房に早く死なれた権八が、後添ももらわず過ごしてきたことからも、どんなにお糸をいとしんでいるかうかがわれた。
松平越後守のお槍を預かって、かれこれ三十年になる権八は、無学文盲だが、日本一の槍持奴という誇りを持って生きていた。事実江戸では、権八の名を知らぬ者はほとんどなかった。大力無双、牡牛のようにたくましい権八が、大鳥毛《おおとりげ》のお槍をかるがると振る見事さは比類がなく、
「ああ、あれは松平越後さまのお行列か」
と、一目で見わけがついた。
槍はお道具と呼ばれる。五、六万石以上はたいてい二本道具を用いたが、対《つい》の槍を許される例は、薩摩の島津家と、甲府綱豊卿《こうふつなとよきよう》くらいで、他は、大鳥毛と十文字|鞘《ざや》、あるいは、笠鉾《かさぼこ》鞘に菖蒲皮《しようぶがわ》の袋鞘という風に、飾鞘《かざりざや》もおのおの異なるのがふつうだった。
それに太平の世では、槍は大名行列第一の飾りとなるものだけに、戦場で使うのとは違って、とてつもなく重いのが常である。穂先や中子《なかご》(柄《え》の中に入っている部分)だけならともかく、鞘受けはじめ、柄の金具や、千段巻き、石突、飾鞘内部に仕掛けた重みなど全重量では、三貫、四貫はざらで、実用には使おうにも使えぬものであった。いきおい槍持奴は、非力な者にはつとまらず、屈強な男が選ばれた。
松平家の二本道具も例外ではない。ことに権八の預かったお槍は、諸大名の立道具中随一で、越後さまのお槍といえばだれ知らぬ者もなく、奴殺しの異名があった。この槍のため、何人が命を落としたかしれなかった。権八の代になってからは、ただ一度をのぞき、そうしたことも絶えてなかったが、奴殺しのお槍の名は、いまもなお生きていた。二間柄、穂先三尺五寸のその大槍を、権八はいともかるがると振ってのけた。
手替《てがわ》りの奴はもちろんいるが、名目だけで実際の役には立たず、結局は権八一人がつとめるも同じことである。越後さまのお槍といえば、すぐ権八の名が出された。
だが、その権八も、さすがに寄る年波には勝てず、四十代の終りから、五十の坂にかかると、いままでのようにはいかなくなった。体力も気力もとみにおとろえて、しばしば息ぎれを覚え、はては渾身《こんしん》の力をふりしぼって、死物ぐるいでようやくつとめを果たす始末であった。
「おとっつぁん、いいかげんでおよしなさいよ。無理をして、大事のお槍に粗相でもしたらどうするの」
折にふれ、お糸は泣いて責めたが、
「なあに、まだまだやれる」
と、権八は耳をかそうともしなかった。だが、否《いな》みようのないそのからだのおとろえは、供頭《ともがしら》の片桐左太夫にも察しがついた。見かねた左太夫は、二、三年前からそれとなくかわりの者をさがしたが、なにしろ松平家名物の大槍とあって、おそれをなして、なかなかあとを引き受ける者もない。あぶれ者ぞろいの、渡り中間どもでさえ、越後さまのお槍と聞いただけでおぞけをふるった。
「ことしもまた、権八に無理をいわねばならぬか」
お国入りの六月を、百日あまりあとにひかえて、片桐左太夫は思わず重い吐息をもらした。むろん権八はいやとはいうまい。死ぬまでつとめる気でいるのはよくわかる。が、左太夫にしてみれば、千代田城登城の際はともかくとして、重い大槍を、参覲《さんきん》またはお国入りの長い道中でまで、老い疲れた権八に振らせるには忍びなかった。
「あっしにやらせておくんなさい」
花川戸《はなかわど》の口入れ稼業森田屋の周旋《しゆうせん》で、新助という若い男が、松平家の上屋敷にやってきたのは、そんなある日であった。
新助は、片桐左太夫のめがねにかなった。これまで権八以外には、ただ一人も満足に扱えなかった、松平家名物奴殺しの大槍を、目もさめるばかりあざやかに振ってみせたのである。
「これで重荷がおろせる」
左太夫ははじめて眉をひらいた。
ところが、六月はじめ、国もとへ向けて、明日はいよいよ行列が江戸を発つという前の晩になって、その新助が、右の利腕をへし折られてしまった。
三
「新さん……」
男は黙っている。もう四つ(午後十時)をとうに過ぎていた。塀の向うには山王《さんのう》さまの森が黒ぐろと横たわっている。
夜の闇がおりているとはいっても、すぐそこには、新助がぬけてきた中間部屋があるし、右手の少し離れたあたりには、御台所、御広敷、長局《ながつぼね》がつづいていた。だが、お糸はこわいとも、人目についたらどうしようとも考えなかった。
――新さんと会えるのは、今夜とあすの晩だけ、あさっての朝早くには、お国入りの行列がこのお屋敷を出ていって、この次に会えるのは来年の今時分。
そんな思いが、十八娘のお糸をひどく大胆にさせていた。
男と女の仲は、たいていこんなものと思っていても、考えてみると不思議な気がしないでもない。冗談めかして、早いとこ口説いてしまいなと、父親にいわれたことが、三月もたたないうちにほんとうになって、新助とはもう他人でないお糸だった。
新助はまだ黙っている。どうしたのと聞いても答えなかった。急に心細くなって、
「後悔しているの、新さん」
「なにをだよ」
「あたしとこんなになったことを」
「おめえはどうなんだ」
「そんなことないわ」
「だったらよけいなこと聞くな」
「おこったの」
それには答えず、
「気がついてるのか、おとっつぁん」
他人でなくなっていることを、という意味である。お糸はこくりとうなずいた。
「よく腹をたてないな」
「新さんだからよ。――ねえ、お願いがあるんだけど」
お糸は、もつれるように寄り添って、新助の手をとった。
「おとっつぁんを喜ばせて欲しいのよ。あすの晩、別れにあんたを呼ぶっていってたから、そのときはっきりいって、あたしを欲しいって……。おとっつぁん待ってるの、あんたの口から切り出してもらうのを」
新助は黙ってお糸の手をほどき、腕を組んだ。
「ね、いってくれる……」
仕方なしにうなずいた。まだわからねえよとは、さすがにいいそびれた。
「なんだか変よ、今夜の新さん」
「変じゃないさ、なにも」
「きっと約束してくれる、さっきのこと」
「ああ」
気のない返事だった。物足りなげにお糸が去っていったあと、新助は唇をかんだ。
――おれはいけねえ男だ。
あくる晩、新助は権八の長屋へいった。
「新助、今夜かぎりで当分の別れだな。道中、水には気をつけることだぜ」
その晩、権八は上きげんで、こまごました旅先での心得などいいふくめながら、しきりに杯を傾けた。
「お糸、おれがこの男に、ぞっこん惚れこんだのはなぜだと思う。いよいよお召し抱えときまったときな、片桐左太夫さまが、御奉公は命がけじゃぞ、よいな新助と申された。するとこいつ……」
「ホホホ、またおとっつぁんの口ぐせがはじまったわ。このお槍が、奴殺しと呼ばれること承知いたしておりまする、こう答えたっていうんでしょ。――はい、新さん」
膝がふれ合うほどにじり寄って、杯を満たしてやりながら、早くいってよと、お糸は流し目をくれた。新助は、その杯を一気に干すと、すわり直した。あら、そんなにかしこまらなくてもと、ほおえみかけたお糸の顔がすうっとかげった。新助が切り出したのは、ほかのことだったからである。
「とっつぁん、いつかは聞きたいと思ってたことだが、今夜、はっきりとあっしに腹を割っておくんなさい」
「なんのことだ」
権八は杯を置いた。
「お槍が大事か、人間が大事かということでさ」
たたみかけるように、新助はぐっと膝を乗り出した。目の色が変わっている。権八はすぐ一切を悟ったらしい。お糸にも読めた。十二年前に、
「こいつが、こいつが」
と、権八の顔といわず胸といわず、狂気のように踏みにじったあの男の子は、新助だったのである。
「一度は聞いた。人間よりお槍が大事と。おれが十二の時だった。それをもう一度聞きたい。とっつぁんは、いまでも人間よりお槍が大事と思っていなさるか」
「それを聞いてどうしようてんだ」
権八の声も少しとがった。
「おまえさんを、親の敵呼ばわりは、ちと筋違いかもしれねえ。だが、いわずにはおれねえんだ」
二十四の春からこの年まで、松平家名物奴殺しのお槍とともに生きてきた権八にも、たった一度だけ、どうしてもお役をつとめかねたことがある。からだの調子がおかしいのを無理に押して国もとを発ち、参覲の行列が長い道中を遠州掛川まできたとき、高熱のため倒れてしまった。
「人にはまかせられねえ。あのお槍は、たとえ死んでもおれが振る」
狂気のようにいい張ったが、とても無理だった。急使が江戸へ飛んだ。途中はほかの人足によって、なんとか運ぶだけのことはできた。まさしくそれは、槍を運ぶとしかいいようがなかった。力自慢の人足が、かわるがわる、目まぐるしく交代して、かろうじて運ぶことができたのである。わずか三、四町と、一人でその槍を立てたまま持てる者はなかった。
が、江戸へ入るときだけは、なんとしてでも槍を振らねばならぬ。江戸の藩邸では八方手をつくした。しかし、おいそれと権八にかわる者が見つかるはずもない。日数のゆとりもほとんどなかった。行列が江戸に入る直前までには、どうしても手替りの奴を見つけ出さねばならぬ。一時は、
「かわりの槍で」
と、いうことまで真剣に講ぜられた。こうして、奔走《ほんそう》の末、渡り者の中から、ともかく一人の屈強な奴が見つけ出された。行列が大木戸口へ着く二刻前であった。それが新助の父の新蔵だったのである。
大名行列は、道中をはじめから終りまで、整然と通過するわけではなかった。隊伍をととのえ、槍持奴が、肩をいからせ胸をはり、手拍子足拍子そろえて槍を振るのは、江戸市中、領地境、宿場町や城下町を通る場合にかぎられ、あとは行列を崩すのが普通であった。
参覲の供づれは、江戸の入口の大木戸前で隊伍をととのえた。
新蔵は、上屋敷到着後、ただちに首をはねられた。口ほどにもなく、槍の重さに振りまわされて、手足の運びもしどろもどろ、あげくは、二度までも、松平家伝来の大槍を、往来にとり落とす大失態をしでかしてしまったのである。
四
「それだけでなら、とっつぁんを親の敵だとはいいやしない」
火のついたような目になって、新助は権八に迫った。
「そのときおれは十二だった。おふくろは病気で寝ていた。おやじはきっと、死ぬにも死ねなかったに違いない。うわべは、申しわけのため、自分でりっぱに死んだことになっているが、そうじゃなかった。あとで聞けば、気ちがいのようにわめきながら逃げまわった末、お庭の隅に追いつめられて斬られたそうだ。だのにおまえさんは、ふんとせせら笑って、お手討ちにあうなああたりめえだとうそぶいた。渡り者とお抱えの違いはあっても、同じ槍持奴のおまえさんがだよ」
お糸は真っ青になっていた。十二年前のできごとが、あらためてはっきりと思い出された。あのときのあらくれ男たちは、新蔵のなかまの渡り者だった。
「仕返しはすんだはずだぜ」
権八は落ちつきはらっていった。
「すんじゃあいねえ。おれの胸にほんとうの悔しさがこみあげてきたのは、三、四年たってからだ。その悔しさを、一日だって忘れることはなかった」
「もう一度仕返しするというのか」
「そうじゃねえ。おれはただ、あらためて、とっつぁんの胸のうちをはっきり聞きたいんだ。おれのおやじが死んだとき、かわいそうだとは思ってくれなかったのか。いまでもお手討ちにあうなああたりまえだと思っているのか。とっつぁん、いっておくんなさい、お槍が大事か人間が大事か」
悪かった。すまなかったと、一言いわせたかった。
新助は、十七の秋から槍持奴に志願した。転々と奉公先をかえたのも、一つには修業の意味からである。そして、二十四になったことしの春、恨《うら》みの松平家に奉公した。
槍は見事に打ち負かした。
あとは権八に、申しわけなかったとあやまらせることだけである。松平家に奉公した第一の目的がそれだった。わざわざ槍持奴になったというのも一つの意地である。
が、思わぬ落とし穴があった。だらしがないぞと自分を責めながら、ずるずるとお糸にひかれた。権八の気性にも、いつの間にか魅せられて、昔のことは忘れようと、心にきめたことも二度三度ではなかった。
「が、どうしても忘れることができねえんだ。とっつぁん、いっておくんなさい。この新助の父親だったとわかっても、人間よりもお槍が大事だといいなさるか」
――おとっつぁん、悪かったといって。あたしのためにも。
いまにも泣き出しそうになって、お糸は目で訴えたが、権八はつめたく突きはなした。
「その答えもすんでるぜ」
「なにっ」
「新助、おれはおめえに一目で惚れた。さっきもいったように、御奉公は命がけじゃぞと片桐左太夫さまに念を押されたときの、返答のしっぷりが気に入ったからだ。そんなおめえが、いまさら泣きごというのは、ちとおかしくはないかい」
「おかしくはねえ。命がけでもかまわぬといったのは、奴殺しのお槍に、絶対に負けねえだけの覚えがあったからだ」
「おれはおめえが好きだ。それに、お糸がおめえに惚れてることも、おめえがお糸を憎くは思っていないのも、いや、どうやらもう他人じゃなさそうなことも、おれはちゃんと知っている。が、それはそれ、これはこれだ。三十年このかたの、自分の考えを器用にまげるこたあできないよ」
「じゃあ、あくまで人間よりもお槍が大事というんだな。おれのおやじは死損というのか、とっつぁん」
「そうともよ。満足に振れねえ槍なら、はじめから手を出さなけりゃよかっただろう。バカな野郎だ」
「くそっ」
銚子や杯や、肴の皿が、膳ごとひっくりかえされたのと、お糸の悲鳴が同時だった。
「かんにんして新さん。おとっつぁんもよして」
すがりつくお糸を突きとばして、新助と権八は、力まかせになぐり合い、とっくみ合いするうちに、障子もろともぶっ倒れた。そのあとも、上になり下になり、ごろごろ転がりまわったが、間もなく、ガクッと鈍い音がした。
「生意気なことぬかしやがって」
起きあがったのは権八である。
「殺せ、殺しやがれ」
真っ青な顔を苦痛にゆがめながら、左手だけでのたうちまわる新助に、冷たい目を投げて権八はいった。
「お槍はおれのものだ」
その夜遅く、委細を耳にして、片桐左太夫は唖然となった。
――依怙地者《いこじもの》めが。
あきれながらも、うなずけないではなかった。十二年前、なにものとも替えがたいお糸を、人質にとられながら、それでも、
「お槍が大事だ」
と、ずばりといった権八だった。
五
明くる朝、お国入りの行列は予定通りに江戸を発った。
奴殺しのお槍を振ったのは、いうまでもなく権八である。
それから一年たった。
長い梅雨《つゆ》があけて、暦《こよみ》はもう六月にかわっている。二、三日うちには、松平越後守の参覲の行列が、赤坂御門内の上屋敷に着くはずであった。
お糸にとっては、耐えがたい苦しみともだえのこの一年だった。
「これまでの縁だ。恨むなら権八の野郎を恨みな」
冷酷にいいきって、新助はお糸を寄せつけようともしなかった。とっつぁんではなく、権八の野郎といわれたことが無性に悲しく、またつらい。
右の腕だから、立居にもなにかと不自由だろうと、いたわってやろうにも、新助はあくまでかたくなで、とりつく島もなかった。ごはんをたべるのだって、あれではどんなにか難儀だろうのに。そっと、相部屋の中間にたずねてみると、
「五層倍も時間をかけて、左手で食ってるよ。それでも、このごろはちっとなれたようだな」
ぶすっとして答えた。
――ひどいおとっつぁん。
あれが性分だからとはいっても、つくづく父親がうらめしかった。といって、単なる意地っぱりというのでもなさそうである。心底から、人間よりお槍が大事と信じこんでいるに違いない権八だった。
年久しく松平家に奉公して、いまではなにもせずお扶持《ふち》をいただいてのんきに過ごしている、
源太というじいさんがいる。もう七十を越しているが、権八の長屋には、気がるにちょいちょい出入りした。その源太じいさんがいつだったか、
「お糸坊、おまえのおじいもな、この松平家の槍持奴だったよ。名を権平といった。だが権平じいは、いや、じいといってはおかしいな。権平どんは、おまえのとっつぁんが十一の年に死んじまった。まだ四十をいくらも出ない働きざかりによ。まったく、あのお槍ときたら――」
と、話してくれた。
権平もやはり、奴殺しのお槍のために命を落す仕儀となったのである。運悪く雨あがりの、ぬかるみに足をとられて、よろよろとのめったはずみに、大事のお槍を水たまりの中に倒してしまったという。
長らくわずらったあとで、まだ充分体力が回復してもいないのに、無理押ししたのがいけなかった。が、権平はりっぱだった。後刻庭先に引きずり出されたとき、
「お手討ちはいやでござんす。申しわけに腹を切らせておくんなさい」
と、きっぱりいった。
「よく申した。せめてものはなむけ、わしが介錯《かいしやく》してつかわすぞ」
供頭の船山大学がみずから介錯を買って出た。
「そのときおれは、まだ十一の権八をその場につれていった。権平どんのたっての頼みを聞き届けてもらったのだ」
源太じいさんは、しきりにまばたきしながら、先を続けた。
「――権八、泣くんじゃないぞ。このお槍は大切な松平家のお宝、槍持奴の命などとはひきかえにできないものだ。その大事のお槍に粗相したとっつぁんは、お詫びにここで腹を切る。目をつぶらずに見ていろよ。そして、大きくなったら、おまえもかならず、槍持奴になってくれ。――権平どんは、いうより早くぐーっと見事な十文字腹、ひとかどの侍でもああはいくまいと、たいそうな評判だったものよ」
下郎《げろう》ながらあっぱれと、残された女房のお仲とせがれの権八には、過分のお扶持が下されたが、いくほどもなく、お仲は権八をつれて長屋から消えた。
――だれが権八を、槍持などにするものか。
権八が十五の秋にお仲は死んだ。命が燃えつきる寸前まで、
「権八、どんなことがあっても、槍持だけにはおなりでないよ」
と、いいつづけた。が、権八は、一年もせぬうちに、母親の言葉にそむいて松平家に舞いもどったのである。そして、
「死んだおやじの、あとをつがせておくんなさい」
と、父親の命を奪った、奴殺しの大槍を預かるようになったのが、二十四の春のことだった。
そんな権八だけに、非業《ひごう》に果てた新蔵のことを、大バカ野郎ときめつけるのもうなずけぬことではない。が、なぜ口先なりと、かわいそうなことをしたと、新助にいってくれなかったのだろう。ただその一言で、一切はすんだはずだった。
――バカ、おとっつぁんのバカ。
わが親ながら憎かった。しかし新助が、
「いまに覚えていろ」
と、日夜|憎悪《ぞうお》の念を燃えたぎらせていると思えば、やはり案ぜずにはいられぬお糸でもあった。
白い布で右腕をつるし、お作事部屋《さくじべや》近くの生垣にそって、日かげを歩いている新助と、ある日お糸はばったり会った。
「新さん、おとっつぁんをかんにんして」
すがるように訴えるお糸の目を、にべもなく突っぱねて、新助はくるっときびすをかえした。
「待って……」
夢中で追いかけ左の袖をとらえた。
「放しな」
氷のような目だった。お糸はひるまず、
「放さないわ。ね、新さん、おとっつぁんは昔からあんな性分なのよ。でも、いまごろはきっと後悔してると思うわ。あたし、知っている。根はいい人間なの……」
「ああ、いい人間だろう。おれの腕をへし折ってくれたんだからな」
「よして、そんないい方は。後生……」
「拝んだってムダだ。帰《けえ》ってきやがったらただではおかねえ。人間の命を、ちりあくたとしか思わぬ野郎は」
言葉のかえしようもないお糸だった。
新助の腕が、もと通りになるには、まるまる三月かかった。時がたてば、いつかは、いくらかなりと憎しみも消えようと、お糸はひたすら念じたが、それも空頼みに終わった。
いっそ死のうかとさえ思う。あたしが死んでも、新さんは、おとっつぁんを許してはくれないかしら。六月のくるのがおそろしかった。お糸のなげきやもだえをよそに、月日は一歩も歩みをとどめない。
梅雨があけて、暦はもう六月だった。参覲の行列は、すでに箱根を越えている。
夜となく昼となく、お糸の前には、新助の怒りのまなざしがちらちらした。
六
五月十日、山陽道沿いの城下を発した松平越後守の参覲の行列は、六月はじめのある日、長い道中をつつがなく終えて、供ぞろい美々しく上屋敷に到着した。例の奴殺しの大槍を振ったのはもちろん権八だった。
――あのお槍は、おれが振るはずのものだった。
そう思うと、新助の胸は、あらためてぐらぐらにえた。この日新助は、迎えの人数の端に加えられて、権八が大鳥毛の槍を振るさまを目のあたりにしたのである。
さすがに年はあらそえぬ。疲れきっているのがはっきり見てとれた。ここ一年の間に、しらがもおびただしくふえている。目は彫ったようになっていた。
それを見ても、権八を許そうとは新助は考えなかった。老いのいちじるしさを哀れむよりも、むしろ、こんな老ぼれに、逆に腕をへし折られてしまったかと、わが身のふがいなさが情けなかった。
――こんどこそ覚えていろ。
新助はきっと唇をかんで復讐を誓った。しかし、それは果たせなかった。権八はみずから死を選んだのである。
行列が表御門前について、越後守の乗物が門内に入り、お供の面々が列をといて、それぞれ、汗をぬぐい、ほこりをはらい、ほっと一息ついたとき、思いがけないさわぎがおこった。
式台の右手にある、お供方休息所の隅で、玉のような汗をふいていた権八が、何を思ったか、ついいましがた立てかけたばかりの大槍をひっつかむと、いきなり馬つなぎから幕番所を越えて、お庭の中へ走り去ったからである。
「うおーッ」
と、けもののように咆哮した権八は、大鳥毛の飾鞘《かざりざや》を投げ捨てると、槍もろとも、庭のなかほどにある楓《かえで》の大樹めがけてぶっつかっていった。穂先は五寸あまりも、かたい幹にくいこんだ。
「なにをする」
「血迷ったか権八」
あとを追ってきた供侍や中間たちの、さわぎたてる声を耳にも入れず、権八は槍の柄のなかほどを下腹のあたりにあてがうと、満面を朱にして力まかせに横に押した。穂先は、幹にくいこんだ五寸余を残して、ガックと折れた。一瞬の出来事だった。
供頭の片桐左太夫が、色を失って駆けつけたとき、権八は、槍を握り直して、折れ残った槍先に、われとわがからだを、ぐいとばかりのしかけていた。そのおもてには、泣き笑いに似たものが浮かんでいた。
「このお槍は、だれにも渡さぬ」
苦しい息の下から、権八はやっとそれだけいうと、助からぬよう舌をかんだ。
――それほどこの槍に執着《しゆうじやく》があったのか。
左太夫は暗然となった。新助がいよいよ召し抱えときまったとき、
「これでどうやら、安心してお役御免が願えまする」
と、いかにも嬉しげに、笑ってみせた権八だったが、三十年このかた、ともに暮してきたお槍との別れが、死ぬよりも耐えがたい寂しさだったものに違いない。といって、老い朽ちた身には、ことしまではなんとかつとめを果たせたものの、もはや満足に槍を振ることもかなわぬと、思いつめたあげくが今日の仕儀《しぎ》かと、哀れであった。
「――不憫《ふびん》な奴、手あつく葬ってつかわせ」
片桐左太夫から委細を聞いた越後守は、そのように命じた。
死を賭けた権八の願いはかなえられた。奴殺しのお槍は、穂先の折れたまま、いつまでも松平家に伝えられることになった。かわりに用いられたのは、飾鞘は同じ大鳥毛ながら、きわめて軽いお槍であった。ふたたび重い槍を用いては、死んだ権八が安んじて目をつぶれまいというところから、その扱いがなされたのである。
「張り合いがなくなっちまった」
新助はぼやいた。
「執念ぶかい老いぼれだ」
そんな新助が、ある夕方、しょんぼりとしてお糸のもとへやってきた。なにかいおうとして、言葉にならず、新助はぼたぼたと大粒の涙を落とした。
「どうしたのよ、新さん」
「源太じいさんに聞いたんだ……」
今日、源太が中間部屋にぶらりとやってきて、新助を外へ呼び出した。
「まだ生きていたのかい、じいさん」
「そんなあいさつはねえだろう」
「用事てのはいったいなんだ。てっとり早くいってくんな」
「おめえ、お糸坊の面倒をみてやんな。仲人《なこうど》には、おれがなってやる」
「なにをいいやがる。張り倒すぞ」
「そうかい」
源太は、新助の顔をまじまじと見つめていたが、やがてぽつんといった。
「血のめぐりの悪い野郎だ」
「なんだと」
「権八あ、これまで一度だって、人間よりお槍が大事だなどと思ったことあないはずだ」
「笑わせるねえ」
「まあ黙って聞きな」
ふだんはしょぼしょぼしている源太が、びしりといった。
「芝の青松寺《せいしようじ》にいってみたらわかるだろう。おめえのとっつぁんの墓がある……」
源太じいさんは、涙をぽとぽと落としながらいった。新助は口をつぐんでしまった。源太は先をつづけた。
「おれには、わかっているよ」
――槍持にだけはおなりでないよ。
死ぬが死ぬまで、そういい続けた母親の言葉に背いて、父親権平の命を奪った、奴殺しのお槍に一生を賭けたのも、
「人間の命が、お槍より大事だと思っていたからだよ。権八の代になって、お槍のために命を落としたのは、新助、おめえのとっつぁんがただ一人だ。権八は、そいつをひどく気にしていた。だが、あいつは、それを口には出せねえ男なんだ」
娘のお糸さえ知らないことだった。今日が今日まで、
――おとっつぁんは、娘のあたしより、お槍の方がかわいかったのだねえ。
そんなことを考えていたのである。
――おとっつぁん、あたし、いいおかみさんになるわ。
口の中でつぶやいたとき、急に胸が切なくなって、つーんと目がしらが熱くなり、お糸はなにも見えなくなった。
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敬老の宴
一
昨日の元日から、今日の昼ごろにかけて、まわりに人がいないと不覚斎《ふかくさい》は、
「わしももう九十九か……」
ぶつぶつひとり言をもらしてばかりいた。その顔は喜びとはほど遠く、どこか暗いかげりが見える。長寿のため、家族たちからつらくあたられることなど一切なく、むしろ老人仲間のだれからも、
「不覚斎どのは幸せなお人じゃ」
心からうらやましがられていた。当主のころの名は、和泉《いずみ》半蔵成忠、隠居して無庵、さらに古稀《こき》(七十歳)を迎えたのを機に不覚斎と改めた。その理由を人に聞かれると、不覚斎は、
「ただなんとなくな」
と答えるのが常で、どちらかといえば、当人は気に入っているふしがある。
当主は和泉半蔵成友、三十八歳。不覚斎はすでに嫡男《ちやくなん》成豊、嫡孫《ちやくそん》成遠に先立たれ、いまは曾孫《そうそん》半蔵成友の養いを受けている。
今日――正月二日は、家老、中老、物頭《ものがしら》、馬回り組など、いわゆるお目見《めみえ》以上の初登城日にあたり御酒《ごしゆ》下されがある。半蔵は馬回り組で四百石、文武に秀れ、なかなかの人物、と周囲の評判もよかった。
半蔵の主家は、故《ゆえ》あって明らかにしがたいが、西国筋の大名で所領は八万余石、当代の主は甲斐守《かいのかみ》重勝で、まずまず名君の部類といえた。西国といえば、狭義には九州のみをさすが、広義には、山陽、山陰の両道、さらには四国まで加える場合もある。
この日、午後二時を過ぎると、不覚斎は、渡り廊下つづきの隠居座敷でそわそわしはじめ、礼装に着替えた。ほどなく廊下に足音がして、これも礼装の曾孫半蔵成友が静かにはいってきた。下座にすわって、
「ただいま下城いたしました。本日、殿様におかれましては」
半蔵がそこまでいいかけると、不覚斎はあわてて、
「待たれよ待たれよ」
ととめ、半蔵を正面の上座にすわらせ、みずからは下座にかわった。主君のことが出たからだけではない。不覚斎は、曾孫である半蔵を、当主として立て、いつもこういう態度をとる。半蔵が当惑すると、
「わしはそなたに養われている」
皮肉ではなく、真顔でそういった。
「さきほどの殿様のこと、おうかがい申しましょう」
不覚斎は曾孫の前に平伏した。半蔵は頬をにわかに紅潮させて、
「馬回り組の者、十名ずつ拝賀の折、殿様はわたくしにお目をとめられ、半蔵、不覚斎はことしは白寿《はくじゆ》じゃな。甲斐守心よりますますの長寿を祈るぞ、と仰せられました」
と報告した。
「かたじけなき仰せ」
しばらくして、不覚斎は顔を上げた。
白寿とは、九十九歳のことをいう。九十九は百より一つ少ない、つまり「百」という文字から「一」を引きされば、すなわち「白」となるからである。
人生五十年がふつうであり、四十歳をもって不惑《ふわく》、五十歳を知命《ちめい》(天命を知る)、六十歳を耳順《じじゆん》(何を聞いても素直に受け入れる)というなど、中国の古典「論語」中の語句や、盛唐の詩聖杜甫の「曲江二首」中の、
「人生七十古来稀なり」
に由来して、七十歳を古稀と呼ぶことが、なんの違和感も覚えさせなかった時代ではあり、白寿は信じがたいほどの長命と受け取られたであろう。
「半蔵どの」
「それは困ります。曾祖父《ひいじい》さま、なにとぞ半蔵とお呼び捨てを」
「そうはいかぬ」
不覚斎は目をうるませ、声までしめらせながら、
「殿様のおことばなれど、長命がそれほどめでたいことであろうか」
と思いがけないことを口にした。半蔵はうろたえた。
「わたくしどもの日ごろのお世話に、不行届きでもございましょうや」
それが不満での述懐では、と善良な半蔵は受け取ったらしい。
「めっそうな。そなたや、そなたの妻女の心づかい、わしは毎夜、ありがたさに枕をぬらしているわ」
「では、なにがお気に召されぬのでございましょう」
「ほかでもない。三月十日のことよ」
不覚斎は、悲しみとも怒りともつかぬ表情をした。つかの間、なんのことかわかりかねた半蔵は、ややあってから、心のなかで小膝をたたいた。
「恒例の敬老の宴《うたげ》でございますな」
その一言で、不覚斎の表情がわずかにゆるんだ。
「よく察してくれた。わしはあの日がいちばんつらい」
半蔵は無言でうなずいた。半蔵自身にも、同じ感懐があった。これまで、
「むなしい」
と何度思ったことか。ただ藩内では、ゆかしい年中行事の一つになって久しいので、声を高くすることはできない。
二
敬老の宴は、毎年三月十日夕刻近くに催されていたが、五年前、参覲《さんきん》交代の制が定められてから、藩主の在国は二年に一度になったので、藩主出府中は行事も略式となる。略式の場合についてはふれない。
在国中の正規の宴には、大書院が使われ、家老、中老が、上段から一段さがった二の間の両側に陪席《ばいせき》し、中央のあたりに、六十歳以上の者が、左右二列に分かれ、正面に向かって居流れる。この場合、すべて年齢順で、列席者中、もっとも高禄の者が末席になることもめずらしくない。
藩主の出座を待って、筆頭家老の挨拶、藩主のおことば、ついで御酒下されがすんでから、最長寿者の謝辞があり、そのあと膳部が運ばれて本格的な祝宴が始まる。まあそういったもので、最長寿者が万一病いのとき、もしくは出席に耐ええぬときは、当日の朝、供をしたがえて藩主じきじきに見舞うならわしだった。
藩主みずからの見舞いとあれば、家の者にとっては、たしかに光栄の至りではあるが、前々日くらいからてんてこ舞いで、気骨の折れることはなはだしい。ときとしては、
「ありがた迷惑」
とする向きもないではなかった。
「生涯の光栄」
と近所近辺にふれまわる者さえ、その本音はわかったものではない。
「ことしはわしが最長寿じゃの」
不覚斎のことばは愚痴っぽい。不覚斎より年長としては、百一歳の井上|無言《むごん》がいる。人はよいが、号に反するおしゃべりで、
「ありゃあ多言《たげん》どのじゃ」
と、好意のこもった陰口をいわれることもたびたびだった。その井上無言が、旧臘《きゆうろう》中に倒れて、立居振舞はもとより、言語も不自由だという。
「したがって、このたびの出席、まず無理と思わねばならぬ」
といった不覚斎は、
「しばらく、ここへだれも顔を出さぬようにはからってくれ」
と半蔵に頼んだ。半蔵はいわれるとおりにした。ふっと気がつくと、双方ともまだ礼装のままだった。
「三月になってからでもいいのじゃが」
不覚斎が多少ためらった。
「いえ、やはりただいまうかがっておきましょう」
半蔵は、すでに何やら気づいている。具体的には読み取れないが、不覚斎が何か考えていることはたしかだった。
「半蔵」
不覚斎は初めて呼び捨てにした。
「二年前の半三郎成宗の死、さぞ悲しかったであろうの」
答えず、半蔵はうつむいた。
元和《げんな》元年五月、大坂夏の陣によって豊臣家は滅亡し、名実ともに徳川の世となると、今後は戦いとてもあるまいと見られていたが、二十二年後――寛永十四年十月、キリシタン信徒を中心とする肥前島原や、肥後天草の農民が、あまりの苛政や、キリシタン信仰への弾圧に抗して起《た》ち上がった。島原の乱、あるいは天草四郎の乱と呼ばれる一揆で、彼らは廃城の原城を強化して立てこもった。
総勢は三万を越えた。こうなっては、島原の松倉、天草を支配下におく唐津の寺沢、両大名では手に負えず、幕府が西国筋の諸大名に命じて十二万の大軍をくり出したが、原城の守りは固くゆらぎもしない。
そのため、責めを痛感した総大将板倉重昌は、翌寛永十五年元旦、みずから先頭に立って城壁をよじ登り、無数の銃弾を浴びて討死するありさまだった。結局、二月の末に至って籠城がわは糧食が尽き、ついに落城、指揮にあたった浪人衆をふくむ三万以上の農民は全滅した。その総攻めの日、半蔵の長子半三郎成宗は、まだ春秋に富む十九の命を散らした。
「ここにいるのはわし一人じゃ。本心を偽ること無用ぞ」
「たしかに悲しゅうございました」
「よう申してくれた」
不覚斎の目は、いまにも涙があふれ落ちそうになっている。
「そこで頼みじゃ。半蔵、わしに命をくれまいか」
不覚斎は身を乗り出した。
「場合によっては喜んで」
そういわざるを得ない、不覚斎の思いつめたまなざしだった。両名とも、さすがに面から血の色が失せている。
「いまのままのごとき敬老の宴なら、わしはたたき潰《つぶ》してやりたい」
半蔵を、親の敵ででもあるかのようににらみすえて、激越なことばを吐いた不覚斎は、すぐ先をつづけた。
「承知のとおりの老齢ゆえ、わし一人の手には負えぬ」
さらに、声をひそめて、自分の考えていることを、一方的に半蔵に語り聞かせた。途中で制したりはとてもできない。
「いま口でもはさめば斬られかねぬ」
それほどの不覚斎の気魄《きはく》だった。
「まかり間違えば、曾祖父さまもわたくしも、これでございますな」
半蔵は両手を使って、腹を切る形をしてみせた。
「まずそういうことじゃ。そうなれば、わが和泉の家もつぶれる」
無数のちりめんじわに囲まれた不覚斎の細い目が、きらきらしている。
「伸《の》るか反《そ》るか、こうなれば、やってみるまででございます」
このころは、家が絶えることは一大事だったが、半蔵はきっぱり覚悟をきめた。
「そなたが支えてくれれば百人力、老木《おいき》に花を咲かせてみしょう」
そのあと、不覚斎は半蔵に、
「ただし、念のために申しておく、当分このことは忘れよ。いまから思いつめては、命がいくつあっても足りんぞ」
と釘をさした。
「曾祖父さまこそご用心なさいまし」
半蔵も微苦笑で応じた。
三
松がとれて数日後、井上無言が百一年の生涯を終わった。うわさによれば、旧臘中に倒れて以来、言語ももつれ、身動きもならず、赤ん坊同様、おむつをつけたまま毎日寝たきりだったという。面倒を見たのは、当主である曾孫七之助の妻女で、とても見るに忍びぬ酷な扱いをしたらしい。
「七之助も意気地のない。わたくしなら、即刻離別してやりますものを」
半蔵が息まいた。
「これでいよいよわしが、藩内でいちばんの高齢者じゃな」
不覚斎も、いささか感慨複雑だった。
二月なかばのとある午後、半蔵は非番の右筆《ゆうひつ》久松三平をたずねた。青少年時代、二人はいちばん気の合う剣友だった。和泉家は、戦陣においては主君の親衛隊をつとめる馬回り組で四百石、久松家は五十石の右筆にすぎないが、公式の場以外では、
「三平」
「半蔵」
と平気で呼びかわした仲である。おたがい妻帯してからは、家格の違いもあって、いつからとなく往来《いきき》が間遠になっていただけに、三平も女房も心から喜んだ。
とりとめもない世間話を二、三したあと、女房が茶を持ってきて引きさがると、半蔵は急に真剣なまなざしになった。
「例の敬老の宴な。お記録役としてことしはだれが出る」
「なんでそんなことを」
「思うところあって。それだけで、当分何も聞かずにいてくれ」
半蔵には、なにやら心中深く期すものがあるらしい。
「おれにも明かせぬか」
三平は多少寂しげな表情になったが、すぐ元に戻って、
「一人はおれじゃ」
と答えた。
「それは願ってもない」
半蔵は喜びをあらわにした。不覚斎からこれまで聞いたところでは、いつも右筆役は二人いて、宴の様子を書き留め、藩の記録として残すことになっている。
「だが、ありのままの記録とは、とうてい思われぬ」
不覚斎はいつかそうもらした。あまりにも美談仕立てになっている。そうも不満をぶちまけた。藩主在国の年に催される敬老の宴のあとでは、公的記録が決定すれば、右筆衆はもとより、右筆外でも、能筆と見られている者はほとんど狩り出されて、同種類の文章を何十枚も書かせられる。高札《こうさつ》もその例にもれない。
そして、高札は城内城外の目だつところに立てられるし、書面のものは、上士、下士を問わず、五軒ないしは十軒に一枚の割で配付し、回覧されるのがきまりであった。半蔵も一度それを見て、ふき出したことがある。その文章には、他藩と比べてわが藩では、老人がいかに大切に扱われているかを、得々と書き立ててあるのだ。半蔵は、そのことにちくりとふれた。
「痛いことをいうわ」
三平も、たびたび一役買った記憶がある。ただ、彼の場合は、ほかの者ほどあっさり割り切れず、自責めいた思いが、後日まで胸の底に沈殿した。
「本音を明かせば、おれもあれがいちばん心が重い」
「三平、それとも知らず、隠し立てしてすまなんだ」
半蔵はにじり寄って、三平の前に両手をつき、頭を下げた。
「水くさいまねはよせ」
「わかった。詫びるかわりに、こっちも本心を明かす」
半蔵の声がわずかにふるえた。
「どういうことじゃ」
「実はな、うちの曾祖父さまが、ことしの敬老の宴にて死ぬ気のようでな」
半蔵のその一言が、決定的に三平の心を動かした。
「承知した。記録については、すべておれにまかせておけ」
たのもしく胸をたたいたあと、
「ときに半蔵、おぬしまで死ぬはめになりはせぬか」
三平は心細げに念を押した。
「そのときは是非もない」
半蔵には、曾祖父の悲しみがよくわかる。不覚斎の決意を聞かせられて以来非番の折の半蔵は、暇さえあれば和泉家の系図に目を通した。系図には二種ある。一つは、不覚斎より二十数代も前からの、きわめて古いもので、不覚斎の父成正以後のことは、不覚斎が追記したと見られるが、これは本流を中心としており、傍系についての記述は簡略にすぎてよくわからない。
いま一つは、父成正以後のことを、不覚斎自身が初めから書きしるしたもので、精細詳密をきわめており、死者には二歳、三歳の童児に至るまで朱線をほどこし、生年月日、没年月日、享年、さらには戦場における討死か病死か、不慮の横死かなど、死因までいちいち書き添えてある。
また、不覚斎の次子以下の男のみならず、娘たちの縁づき先の系図についても、一通りのことは書いてあった。不覚斎の悲しみが、多少なりとも実感として半蔵にわかってきたのも、それらの系図に目を通してからのように思われる。
「おれもそれらを残らず書き写した。いまはいちいち系図によらずとも、およそのことはまず諳《そら》んじている」
半蔵には十分自信があった。
「おぬしは若いころから、飛びっ切り物覚えがよかったからの」
三平は、元服前ごろの半蔵のすばらしい記憶力に、舌を巻いたことが何度もある。ややあって三平は、
「そうかそうか」
とつぶやきながらうなずいた。どうやら、半蔵が諳んじた系図にかかわりがありそうだが、それ以上のことは判断がつかない。多少の不安をおぼえた半蔵が、口を開こうとする寸前に、
「何もいうな」
おだやかにさえぎった三平の目は、半蔵への友情を深くたたえていた。
四
二月二十五日、不覚斎のもとへ、城中からわざわざ使者がきて、敬老の宴の招き状が届けられた。
「ありがたき仕合せ、喜んでお招きに応じさせていただきます」
はっきりしたことばでお礼を述べ、その招き状を押しいただいた不覚斎は、翌日書面をもって、
「老齢にして、いかなる不調法あるかも相知れず、当主曾孫半蔵成友を介添として召しつれますこと、お許しを賜りたく」
右のようなおもむきの願書を、藩庁まで差出したが、五日たち、七日すぎてもなんの音沙汰もない。敬老の宴の三月十日は、日に日に迫ってくる。いらいらしていると、やっと三月七日になって、
「願いのおもむき相許す」
と御沙汰があった。
さて、当日午後。家士に手伝ってもらいながら、久々に熨斗目《のしめ》の小袖に上下の礼装をととのえた不覚斎は、
「年寄をいたわるべき日に、かように窮屈ななりをさせるとはのう」
とぼやいた。
「まあ、そのようなことを申されては、罰があたりますよ」
隅につつましくひかえていた半蔵の妻が、微笑をたたえてたしなめた。そのあと、いくばくもせず、城中から迎えの駕籠《かご》が門前に到着した。このはからいは、和風に呼ぶ傘寿《さんじゆ》(八十歳)以上にかぎられて、七十九歳以下は、歩いての登城であった。
「御首尾よろしきように、心よりお祈り申し上げます」
見送り人を代表して玄関式台で、半蔵の妻が落着いて挨拶した。昨夜遅く、不覚斎と半蔵が水杯をかわしたのを、家人はだれ一人として気がついていない。
門前の駕籠は動き出した。大手門、三の丸、二の丸など、途中の諸門すべて特に駕籠による通行が許されているが、本丸御門からは、歩かなければならない。左右から支えられて、不覚斎はとぼとぼと歩いた。はたからは、よほど弱っていると見えたのであろう。
「なにせ白寿じゃからの」
そんなささやきも、半蔵の耳にはいった。笑いをかみ殺すのが苦しかった。不覚斎は少しも弱ってなどいない。耳もさほど遠くはなかった。
本丸御殿の、長寿玄関と名づけられたところから上がって、廊下を何度もまわり、大書院へ向かう途中、弱っているはずの不覚斎の足どりが、ともすれば勢いよくなりかけて、半蔵は再三はらはらさせられた。一方、
「決死の覚悟を秘めながら、色にも出されぬ見事さよ」
と感心もさせられる。幸い、だれにも気づかれず、やがて大書院に案内された。
一の間とも呼ばれる上段から、一段さがった二の間の左右に、すでに家老三名、中老五名が威儀を正して着している。不覚斎は、紙切れを手にした若侍に、左側の最上席にみちびかれた。
「ご家老やご中老がたへは、お席よりの目礼でよろしゅうございます」
いつもと同じことを小声でいわれて、そのとおりにした。右側最上席には米寿《べいじゆ》(八十八歳)の小沼《おぬま》久庵、不覚斎の次席には傘寿の木崎如幻。出席者三十二名のうち、九十代は白寿の不覚斎ただ一人、八十代は久庵、如幻の両名、七十代は六名で、残りはすべて六十代であった。半蔵は許しを得て、不覚斎の斜め後ろにひかえた。
半蔵から見て左手の目立たぬ場所に、記録席らしい小机が二つすえられ、右筆二名がひっそりとすわっていた。その一人が久松三平だったことはいうまでもない。
大書院上段の間は、およそ二十畳はあろうか、床柱は正面のやや右寄りで、その左の壁面には、狩野派らしい筆勢で、壮大な松が描かれている。床柱の右は違い棚、また主君|出御《しゆつぎよ》の折の出入口になる右側は、敷居《しきい》をわずかに高くし、鴨居《かもい》は逆に低く、杉戸の引手に緋房をさげた帳台構えであった。
帳台構えは、本来の起りは寝所の入口であり、物を置いたりもするところから、納戸《なんど》構えとも呼ばれ、時としては武者隠しにも使われる。杉戸には、正面とはおもむきを違えて花鳥の図。頭上は格天井《ごうてんじよう》である。
下段の間は四十畳近く、左右とも唐紙は、正面同様松の図だが、その幹や根は、正面のものよりはるかに大きく、地上には巨大な根がはいまわり、なかば緑におおわれた柱は四方にひろがって、その枝の一つにとまった大鷹が、らんらんと目を光らせている。欄間には、鳥獣花鳥さまざまな彫物、格天井には極彩色の図柄を配してあった。
「そろうたようじゃな」
筆頭家老の江波|図書《ずしよ》が横柄にあごをしゃくった。若侍の一人がそそくさと姿を消して間もなく、右側の杉戸がひらかれ、藩主甲斐守重勝が太刀持ちの小姓をしたがえてはいってきた。家臣一同は、重勝の出座直前すでに平伏しており、合図のしわぶきによって顔を上げる。
図書がまず、主君の温情をたたえる、きまり文句の挨拶を述べると、中老の大浦源大夫がいったん末座にさがってから、左右にいならぶ老人たちの間を通り、最前列の少し手前に着座し、奏者の役をつとめ、上段の重勝から見た形で、
「右一番和泉不覚斎九十九歳、左一番小沼久庵八十八歳……」
という風に披露した。披露された者は、一礼してそのまま平伏をつづけなければならない。でないと、次の者の顔が主君に見えないからであり、結局、長寿者ほど長く平伏するはめになった。披露がすむと、これまたきまり文句の主君のおことばとなる。
五
「いよいよ御酒下されか」
半蔵の胸は波うちはじめた。祝宴の手順については、不覚斎からも三平からも、念には念を入れて聞きただしている。間もなく命がけの正念場であった。
「万一の節は、家の者にはおぬしから詳細に伝えてくれ」
前もって三平に頼んである。
下戸《げこ》の重勝は、差渡し三寸足らずの朱杯にほんの一滴酒を受け、形ばかり唇をつけた。下段にひかえていた若侍が、重勝の酌にあたった者から、三方ごと朱杯をいただくと、いま一人の同輩とともに、不覚斎、久庵、如幻と長寿の順に酌をしてまわり、最後はまた不覚斎のもとへ。ただし、今回は空の杯を押しいただき、若侍の持つ三方へ戻すと、それがまた重勝のもとへ返される。
とにかく、当家独特らしい奇妙なしきたりではあった。そのあと、しばらくして不覚斎は、自分の席から心持ち右寄りににじり出た。代表として謝辞を述べるためである。謝辞の中味は初めからきまっており、一言半句変えてはならない。不覚斎が、気持を落ちつかせる体《てい》に振り返ると、
「思い通りにおやんなされ」
半蔵の目がけしかけている。不覚斎の謝辞は、すらすらとよどみなくならわしどおり進んだが、途中から急に変わった。
「かぎりなきご高恩のおかげにて、敬老の宴の翌日から、そこかしこより祝いのお使者が訪れられ、あるいは長命を寿《ことほ》ぐ品が届けられるなど、嬉しさきわまる思いでございます。なれど、なれど……」
驚愕した江波図書が、
「ひかえよ不覚斎」
と怒号した。不覚斎はひるまない。
「なにゆえお腹立ちなさる」
「祝宴の手順が狂う。それがわからぬか、たわけもの」
「黙らっしゃい。かりにも九十九歳のそれがしに、たわけものとは聞き捨てならぬ。そもそも今日という日は、ほかならぬ敬老の宴でござろう。その敬老の日にいまのごとき暴言を、筆頭家老みずから吐かれるとは、敬老の宴は形ばかりと相わかった。切腹も斬首も覚悟の上、それがし即刻ただいま下城つかまつる」
白寿の老体のどこから出るか、と信じられぬような大声であった。図書は蒼白になり、返答に窮したが、すぐさま、
「わしは場所柄をわきまえよと申しておる。意見があれば、後日あらためて建白書を出すがよい」
と逆襲した。図書はわれからわなにはまったことに気づいていない。不覚斎は得たりとばかり、
「建白書はこれまで五度《いつたび》出し申した。そのつど、年月日、文章の一語一句、宛名はどなたにしたか、受け取られたのはどなたか、いちいち記録しており申す。おそらくお殿様は、ただの一通とてご高覧なされてはおわさぬはず。それとも、ご家老ご中老のかたがた、さようなこと、一切藩の記録になし、としらを切られるや」
図書はぐっとつまった。中老のなかにも、明らかに狼狽《ろうばい》した者がいる。
「不覚斎、いま申したことまことか」
「神かけて誓言つかまつる」
それを聞いて、
「膳部の用意はしばしおくらせよ」
と近習に命じた重勝は、
「不覚斎、半刻《はんとき》(一時間)、いいや一刻かかってもかまわぬ。胸につかえていること残らず申せ」
とうながした。不覚斎はさきほどの謝辞の後半、祝いの使者のこと、長命を寿ぐ品々到来のことなどを繰り返したあと、
「なれど、なれど、だれ一人として、高齢者の悲しみにふれ、それをいたわってくれる者はございませぬ。長寿のかげに、いかほどの悲しさつらさが隠されているか……」
招かれた老人たちのなかに、うなずく者が何名もいた。
「わたくしとて、戦国乱世を生き抜いてきた男、親兄弟、あるいはわが子の戦場における討死にはおのずと覚悟あり、その悲しみには耐えることもできまする」
不覚斎は一息つくと、巻物仕立てのものを懐《ふところ》から、おもむろに取り出した。和泉家の系図、と半蔵には察しがついた。ところが、たったいままで落着きはらっていた不覚斎が、にわかに懐を探ったり、小袖のたもとに手をやったりしたあげく、ついにはおろおろしはじめた。
五、六年前、半蔵は公用で長崎まで出かけたことがあるが、暇の折、町並をぶらぶら歩いていると、眼鏡屋が目についた。
実物を見るのは初めてだが、うわさには聞いている。半蔵が興味を示したのに気がつくと、眼鏡屋は身を乗り出し、
「南蛮渡来の品を手本として、さまざまに工夫をこらし、この町ではもう二十年も昔から眼鏡をこしらえております。昨今は江戸や、京、大坂でも出まわりはじめましたが、元祖は長崎でございまして」
一席ぶちながら、いろんな種類の眼鏡を並べた。半蔵は、老眼鏡のこともだれかに聞いた覚えがある。九十をすぎた不覚斎のことを口にしたところ、
「これならよろしいかと存じます」
眼鏡屋は、ほかの眼鏡同様、ひもを両耳にかけるようになった老人用の一つを選んでくれた。半蔵がかけてみたところ、目がくらくらする。
「あたり前でございます。でも曾祖父さまにはぴったりかと」
結局銀三百匁(およそ五両)の大金をはたくはめになった。
「わしに土産をか。かたじけない、かたじけない」
帰国して真っ先に眼鏡を差出すと、不覚斎は涙を流して喜んだが、数日して、
「どうも目が痛む」
とこぼした。
「目がなれるまで、しばらくかかると眼鏡屋は申しておりました」
果たして、さらに数日すぎると、
「いやあ、さすかに眼鏡屋は眼鏡屋、もう少しも痛まず、系図の小さな書きこみまでよう読めるわい」
と顔をゆるめっ放しにした。不覚斎は、どうやらその老眼鏡を、屋敷に置き忘れてきたらしい。半蔵は、指図《さしず》も仰がず、するすると不覚斎のそばに進み出た。
「曾祖父不覚斎儀老齢にして、つぎに申し上ぐべきこと、ど忘れしたかと覚えます故、曾孫たるわたくし、かわって申し述べますこと、なにとぞお許し賜りますよう、心より願い上げ奉ります」
図書が何かいおうとしたが、
「願いの儀相許す」
重勝がすばやく機先を制した。
六
「半蔵、系図系図」
「無用でございます。早くお収めを」
いわれて、不安気に系図書を懐に入れた不覚斎は、半蔵と席をかわった。これからどうなるのか、期待と興味からであろう、大書院は静まり返っている。やがて半蔵の朗々たる声が流れだした。
「わが曾祖父不覚斎は、天文十一年、尾張の織田信秀(信長の父)さまに仕える和泉半蔵成正の第三子として生まれました。幼名は松若、元服して八弥成忠と称し、長兄は半三郎成親、次兄は久之丞成澄、他に弟一名、姉妹が四名、二人の兄のうち久之丞は、つてありて足利将軍義輝卿のご近習をつとめておりましたが、永禄八年五月の夜、三好、松永党の謀反《むほん》により、卿はみずから太刀をとられてお斬死、次兄久之丞もおそばにあって最期をとげました」
久之丞二十六歳、翌永禄九年には長兄半三郎が病死、両名とも子がなかったことから、二十五歳にして八弥が本家を相続、名も半三郎と改めた。和泉家では、本家を継ぐべき者は、元服以後は半三郎、当主となれば半蔵と称するのがならわしであった。
不覚斎――半蔵成忠は、長子成豊以下、男五名、女四名をもうけた。成豊にも、男女合わせて七名の子がある。成豊の長子成遠が、不覚斎にかわって事情を述べている半蔵成友の父だった。成友の嫡子は、前述したとおり、二年前の原城総攻めで、あたら十九の命を散らしている。
「ご退屈とは存じますれど、肝腎のこと故いましばらく」
半蔵は和泉本家の系図を、不覚斎の父以後はすべて諳んじているらしく、一瞬のよどみもなく、一人ひとりについて、生年月日と年齢、死亡した者の場合は、没年月日から享年何歳ということまでを述べたが、さほど時間は要しなかった。
本家の系譜以外、不覚斎の次子成久、三子成康、四子成直、五子成次、また女子四人の嫁ぎ先の系譜に関しても、およそのことは覚えている。
「しかし、それをいちいち披露してはきりがございませぬ」
ひざを乗り出した半蔵は、
「ご存じのごとく不覚斎は白寿ゆえ、兄弟姉妹一人も世になきことは理の当然、なれど、運よければ、子は一人や二人は、生きていても不思議はございません。なれど、不覚斎の子九名は、ただ一人の例外もなくすべて父に先立ちました」
長子成豊三十八、慶長六年に大坂において病死、次子成久三十二、これは慶長二年朝鮮にて病死、三子成康二十六、文禄二年朝鮮にて戦傷後死去。比較的長く生きたのが、四子成直の五十一、五子成次の四十九。また四名の娘のうち、もっとも長く生きたのが六十四であった。
「若きころは、たとえわが子を失うたとて、悲しみに打克《うちか》つことも、できぬではございませぬ。なれど年老いてより子に先立たれる悲しみは……」
老人席のそこここで、鼻水をすする音が高くなった。半蔵はここぞとばかり声をふりしぼって、
「ましてやわが曾祖父不覚斎は、老いて戦場に屍《しかばね》をさらす折もなく、いつか太平の世となりまして、その間、外孫を加えれば、孫十六名、曾孫《ひまご》五名、玄孫《やしやご》も、原城総攻めに討死いたせしてまえ長子半三郎成宗、二歳にて夭折《ようせつ》せし三女八重をふくめ、三名を先立たせているのでございます」
と一気にいってのけた。
「しかるに、世の人びとは、不覚斎の長寿の裏に秘められた深い心の傷に思いを寄せることもなく、ただ形ばかり、おめでとうござる、おめでとうござるの一点ばり、敬老の宴のあとには、城中城外の各所に高札を立て、あるいは書きものを配り、当藩のみの美風として自画自賛、さらに、高齢者よりうかがいし長寿の秘訣として、やれ腹八分目、やれ腹を立てぬこと、楽しみを持つ、そのほか麗々しく書き並べてあるのみ」
半蔵のことばは痛烈をきわめた。
「曾祖父が申し上げたきこと、およそ以上かと存じます。これより先までつづけては、せっかくお催し下さる祝宴のさまたげ、なお、本日の曾祖父ならびにてまえの無礼の数々につきましては、後日いかようにもご処分をお申しつけ下さいませ」
酒宴の開始は、二時間近く遅くなった。あたりはすでにかなり暗く、おびただしい燭台《しよくだい》が持ちこまれて、百匁|蝋燭《ろうそく》がともされる。つぎつぎに膳部が運びこまれた。老人たちは、右列と左列、たがいに向かい合う形にすわり直した。
半蔵にも膳部が出された。記録役である久松三平と、もう一人の右筆は、役目がら膳部の用意はなされず、たくわん数切れを添えた、小さなむすびがいくつか、小机の下に置かれただけだった。
上段の甲斐守重勝は、ときたま膳部に箸《はし》を伸ばしつつ、老人たちの杯のやりとりや、歓談ぶりに目を細めている。重勝は、半蔵に関しては、
「小気味よいあの物のいいぶりよ」
かえって好感さえ覚えていた。
筆頭家老江波図書以下、家老や中老は、重勝の心の動きに気がついてか、膳部に形ばかり手をつけると、老人席にきて、長寿の順に酌をしてまわった。真っ先に、不覚斎の前にきた図書は、
「本日のお叱り、身にしみてありがたく、胸の奥底にずんとこたえました。ご意見、今後の藩政に、ぜひ生かしとう存じます」
ときげんをとりつつ、不覚斎の杯に酒を満たした。なにしろ、建白書にぎりつぶしの弱味がある。不覚斎も心得たもの、
「もったいなきおことば痛み入ります。本日の無礼、年に免じて平にご容赦を」
「それにしてもご曾孫半蔵どの、あれほどの系図を宙に諳んじていられるとは、図書、ほとほと感服つかまつった」
「いや、いつ諳んじていたものか、てまえも驚いております。てまえ実は、大事な老眼鏡を忘れましてな、半蔵がいなければ、進退きわまるところでござった」
まるで狐と狸のやりとり、半蔵はうつむいてくすりと笑った。やがて二の膳、三の膳がきて、酒宴はたけなわとなった。
「今宵は無礼講じゃぞ」
重勝のことばで、六十代の老人のうち、かなり酔ったらしい三名が、にわかに踊り出したりして、一見酒宴はなごやかだが、どこかしらけた雰囲気がただようのは、やはり否めなかった。
宴はようやく終わった。
「一同、百歳までも、百二十歳までも長命してくれるように」
重勝のことばを受けて、閉宴の辞を述べた図書が、
「そうそう、大事なことを忘れておった。不覚斎どの、後学のため、長寿の秘奥とでもいうべきもの、ご披露願えまいか」
とおだやかに申し出た。図書には、手ずから酌もしてもらったし、半蔵のことも賞《ほ》められた。
「ここはひとまず、あたりさわりのない答えをすべきではないか」
つかの間、不覚斎は迷った。そのとき、斜め後ろに控えていた半蔵が、
「曾祖父どの、常日ごろのお考えどおりを申されませ」
と鋭い声を浴びせた。とっさに気をとり直した不覚斎は、ずばっといい切った。
「長寿の要諦は、底なし沼のごとき悲しみの淵底深く、いくたびものたうちまわることでございます」
七
三日後、甲斐守重勝は、八万石の格式通りの行列をととのえて参府の途についた。遅くとも、四月五日ごろまでには、江戸に到着しなければならない。
定府《じようふ》(常に江戸にいること)の大名のほかは、きわめて少い例外をのぞき四月参府、翌年四月お暇《いとま》と、六月参府、翌年六月お暇の二つに大別されるが、外様《とざま》は四月、譜代《ふだい》は六月だった。
また同じ四月でも、子年《ねどし》参府、丑年《うしどし》お暇、子年お暇、丑年参府の二つがある。つまり子の年参府の大名は、子、寅《とら》、辰《たつ》、午《うま》、申《さる》、戌《いぬ》、そしてふたたび子年参府となり、丑年参府はその逆となる。
さて、不覚斎は、半月近く寝こんだ。大半は半蔵に助けられてとはいえ、例の敬老の宴当日、心魂を傾けたことが、白寿の高齢には身心ともにこたえたのであろう。
その間、出立前に重勝が命じていたのか、典医岩瀬幸庵が病いの見立てに訪れ、江波図書以下、家老中老一同からは、結構な見舞いの品が贈られてきた。それとは別に、例年どおり、長命を寿ぐ品々もつぎつぎに届き、合わせて五十を越えたが、なかに一つだけ、心を打つ品がまじっていた。
なんのこともない一枚の質素な胴着にすぎないが、贈主は敬老の宴にも出ていた当年六十二歳の川口一白で、
「先ごろは、あなたさまならびにご曾孫半蔵どのの、歯に衣着せぬ真実のおことば、感銘深く承りました。失礼ながら気持ばかりの贈物、老妻手縫いの胴着、なにとぞご受納下さいますように」
との添書があった。
ほどなく不覚斎は回復した。
「やっとお迎えがくるかと思うたが、この分では、半蔵、まだまだそなたに面倒をかけそうだの」
「なにをおっしゃいます。曾祖父さまと半蔵は一心同体ということ、もうお忘れでございますか」
「許せ許せ。眼鏡を持参せず、進退きわまったところを助けてもろうたこと、つい失念しておったわ」
その後、藩庁からはなんの沙汰もない。
「三平に聞けば、あるいは事情の一端がわかりましょうが」
その久松三平も、いっこう姿を見せなかった。久松家に使いをやってみると、このところ連日の出仕で、非番もとれない忙しさという。理由の一つは、三平とともに、敬老の宴の記録役だったいま一人の右筆が、突然病気して直らぬためだった。
手づるを求めて、それとなく二、三人にあたってみると、どうやら上層部では、和泉家に対する処分は考えていないらしい。ほっとする一方、妙な拍子抜けを覚えもした。
ところが、四月早々のある夜、久松三平がひそかにたずねてきた。夜間、届けなしに外へ出かけることは、表向きは固く禁止されている。
半蔵は、三平を隠居座敷に案内し、不覚斎といっしょに会った、三平は病人のように痩せ細り、目もくぼんで、まるで別人かと思われた。
「このたびは申しわけございませぬ」
三平は両手をついて、
「口惜しゅうございます……」
と唇をかんだ。先ごろの敬老の宴の記録に関することに違いない。その推測は図星であった。敬老の宴の記録の草稿は、当日立会った右筆にまかせられる。したがって、同役の病気は好都合だった。
「とはいえ城中の右筆部屋にては、思うとおりのことが書けませぬ」
三平はそのため、右筆部屋ではあまり差障りのないことを書き、下城してから真実の記録をしたためた。午前二時、三時に及ぶことも再三だった。そのような苦心の末に三平は、命じられていた提出日に、自宅でしたためた記録を、右筆頭へ差し出した。
右筆頭は目をむいた。途中途中で目を通した上、加筆、あるいは削除、字句の修正を命じた点はみな無視され、枚数もおよそ倍以上に増えている。
「三平、どういう気じゃ」
「感銘を受けたこと、ありのままに記したまででございます」
「かようなもの、差し出せぬ。これまでに書いたものはいかがした」
「すでに破棄いたしました」
「慮外な」
「何が慮外でございましょうや。これに記しました和泉不覚斎どの、半蔵どの両名の発言は、殿様お許しの上でのこと、よってかくの通りにしたためました」
「ならば、これまで毎日わしに見せ、わしの意見を仰いだのはなんのためじゃ」
「それを基に、いま一度深く考え、よりよき記録とするためでございます」
激しい押問答になった。いつにない三平の気魄に圧《お》されたものか、最後には右筆頭が折れて、
「相わかった。その方の申すこと、いかにも道理、連日の執筆にて疲れたであろう故、五日間の休息を与える」
といい、いちおう三平の記録を丁重に受け取った。
「勝手に変えたりはなさいませんな」
三平が念を押すと、右筆頭は無言でうなずいたという。
「ならば上々ではないか」
それがそうではなかった。六日目に登城すると、右筆頭が、
「参府なされた殿様のお手もとには、これが差し出されることとなった。そちにも控えを渡しておく。そちの趣意も十分に取入れてあるはずじゃ」
と書面を渡した。三平の記録とは似ても似つかぬものになっている。二、三枚目を通してすぐわかった。
「勝手に変えぬとの約束、どうなされた」
「約束だと……。わしがいつそのような約束をしたな」
はかられた。とっさにそれがわかった。あのとき右筆頭は、無言のままうなずいたにすぎない。
「ぬかり申した」
三平が五日間休んだうちに、右筆頭は、見事に裏をかいたのである。
「おぬしが渡された控えは」
三平の手からそれを受け取った半蔵は、不覚斎にも聞かせるため、声に出して読んだ。三平は、途中で口をはさんだ。
「おそらく、ご家老やご中老がたのご意見も加えてございましょう。もとの文章はずたずたでございます」
半蔵が読み終わると、不覚斎は、
「さすがは古狸ぞろいよのう」
なかばあきれ、なかばは感心の体だった。
「曾祖父さま、さように感心なさる場合ではございませぬ」
「なれどその通りではないか。わしのこと、そなたのこと、ちゃんと書いてある」
不覚斎は自嘲気味に答えた。主君甲斐守重勝に差し出されたものの控えという、その書面には、敬老の宴について、主君の温情、藩の美風であること、招かれた高齢者の感激ぶりが強調され、不覚斎と半蔵の発言に関しては、具体性を一切けずり、
「白寿の和泉不覚斎とその曾孫半蔵成友による謝辞は、内容においても長さにおいても、きわめて異例であったが、殿様は絶えず笑みをたたえたまい、いたくご満悦のご様子にあらせられた」
きわめて簡略ながら、右のような趣意が一通り書かれてはいるのである。
「たしかに、おっしゃる通りではございますな」
半蔵も三平も苦笑した。やがて三平は、
「これはわたくしのささやかな志《こころざし》、ご受納願わしゅう存じます」
と、分厚い和紙綴を差し出した。
「わが家でしたためましたものと、同文の控えでございます」
「それはかたじけない」
心から押しいただいた不覚斎が、ほどなく小用に立つと三平が、
「しばらく二人になりたいが」
と半蔵にささやいた。半蔵自身もそう思っていた矢先だし、小用から戻ってきた不覚斎に申出て、別室へ移った。
八
二人差向いになると、灯りで見る三平の顔が、なんとなくさっきより暗すぎる。たずねる前に三平が先に切り出した。
「実はお役替えになってな」
「なにっ、いったいどこにじゃ」
「二の丸の土蔵番よ。禄高も十石削られることになった」
半蔵は驚き、かつ腹が立った。
「せめてご宝蔵番ならともかく、ただの土蔵番とは理不尽きわまる」
三平には老母があり、出戻りの妹もいた。子供の数も多く、五十石でもかなり苦しい暮しぶりと聞いている。それが十石も減らされてはどうなるか。
「おぬしにはすまぬことをした」
「なんの、いっそせいせいしているわ」
「十石減のこと、いずれお内儀にも告げねばなるまい」
「もう打ち明けた。そのくらいのやりくり、何とでもいたします、とわが女房ながらあっぱれな返事、いささかほっとした」
いくらか明るさをよみがえらせて、
「このこと、くれぐれも不覚斎さまには申し上げるなよ」
三平は念を押した。三平が辞去するときには、もう床についたかと思っていた不覚斎が、玄関まで送って出た。
「ご老体、これはおそれ入ります」
「いやいや、今夜は不覚斎、涙が出るほど嬉しかった。そうそう、念を押すのを忘れていたわい。おてまえ、いまは上からにらまれているとき、夜の外出をとがめられたら、不覚斎に無理に呼ばれたと答えられよ」
三平は、ふかぶかと一礼して背を向けた。その目じりは、おそらくしっとりとうるんでいたに違いない。
一度に疲れが出たのであろう。不覚斎はその場にすわりこんだ。半蔵は家士を呼び、二人がかりで不覚斎を寝所までつれていき、やっと寝かせた。
「半蔵はしばし待て」
やむなく枕もとにすわると、
「命がけでかかったこと、軽くいなされてしもうたな」
「まことに」
「それにしても、お役替えの上十石減とは、三平には気の毒なことをした」
不覚斎の方は三日も前に、それを聞きこんでいたという。
「ときに、各所の高札は読んだか」
「二つ三つは。曾祖父さまはいかがなさいました」
「そなたの嫁女が、あちこち見てきてくれたわい」
高札の文言は、主君の温情と藩風をたたえる冒頭をのぞけば、あとは思い思いに、高齢者たちが語ったという長生きのコツなるものが記されていた。いわく腹八分目、いわく食物《たべもの》をよくかむこと、好ききらいをせぬこと、腹を立てず、いつもゆったりした気分で日を過ごすなどである。
「わしの答えたことも、ちゃんと書いてあるそうじゃぞ」
「まさか」
「それが、事実なのじゃ。わしのことばは、曾孫半蔵夫妻の孝養に負うところがもっとも大きいとあるそうな」
「おっしゃりもなさらぬことを」
「しかし、事実ではある。とはいえ、肝腎要めの、長寿の裏に秘められた悲しみについては、見事に無視されたのう」
急に不覚斎は、床の上に起きあがった。目がらんとして気魄に満ち、白寿の老躯《ろうく》とは思われなかった。
「高齢者の真実をひた隠して、藩庁の発表どおり、もしくは型通りのことですますとは、興ざめなことよ」
「いかにも。ところで、この敬老の宴、いつまで続きましょう」
「この藩がつぶれぬかぎり、お取りやめとなることはまずあるまい。その年その年の高札を、十年分も集めて見くらべれば、さぞおもしろかろう。いつの年も、きまりきった文言ばかりじゃろうから」
不覚斎は皮肉っぽく笑って、
「二十代や三十代初めの若侍にとっては、敬老の宴、まことに好評じゃと聞く。というても本心は、敬老の宴当日は、特別な役職にある者をのぞけば、総非番ということが、第一の理由であろうがの」
それだけいうと、不覚斎はふたたび床に身を横たえ、間もなく眠りに落ちた。その不覚斎が、床の中で息絶えていたのは翌朝のことであった。体温から察して、死亡時刻は真夜中ごろと考えられた。いまでいう心臓麻痺であろうか。苦しんださまのまったくない、安らかな死顔だった。
その夜、引きも切らぬ弔問客が辞去したあと、半蔵は、
「ほんのしばらく、曾祖父さまと二人切りにさせて下さいませ」
と親類たちに申し出た。これまでの、半蔵の孝養ぶりはみな知っている。こころよく、半蔵の望みにまかせてくれた。
「曾祖父さま、これで楽になられましたな」
半蔵は、不覚斎の遺骸のそばで、涙を流しつづけながら、一方では、
「やっと重荷がおろせたか……」
と、だれにも聞かせられぬつぶやきをもらしたあと、深い深いため息をついた。
そのころ、江戸に着いたばかりの藩主甲斐守重勝は、先の敬老の宴で感動させられた、不覚斎とその曾孫半蔵のことばなど、きれいさっぱりと忘れていた。
[#地付き]〈了〉
本書単行本は、一九八五年一一月、東京文藝社より刊行されました。
底本 講談社文庫版(一九九〇年一〇月刊)。