時載りリンネ!2 時のゆりかご
著者 清野静/イラスト 古夏からす
-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)時《とき》載《の》り
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)歯列|矯正用《きょうせいよう》ブリッジ
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)変身[#「変身」に傍点]の練習
-------------------------------------------------------
[#挿絵(img/mb874_001.jpg)入る]
[#挿絵(img/mb874_002.jpg)入る]
[#挿絵(img/mb874_003.jpg)入る]
[#挿絵(img/mb874_004.jpg)入る]
[#挿絵(img/mb874_005.jpg)入る]
[#挿絵(img/mb874_006.jpg)入る]
[#ここから2字下げ]
CONTENTS of RINNE
序章
1章
2章
3章
4章
5章
6章
7章
8章
9章
10章
終章
あとがき
[#ここで字下げ終わり]
[#改丁]
序章
僕とリンネが夏に経験したことは前作で粗方《あらかた》書いてしまったから、つけ加えることはそんなにない。書き漏《も》らしたことが二、三あるような気もするけど、誰《だれ》も気づかなかったし、文句も言わなかったからそれでよしとしよう。だいたい、僕以外の人間が一人でも読んでいるかどうかだって怪《あや》しいもんだ。たぶん遊佐《ゆさ》は読んでいるとは思うけど、前に離《はな》れで会ったとき奴《やつ》は何も言わなかった。Gもそうで、いつものようにただ紅茶を勧《すす》めるだけで特に変わったところはない。ルウは……読んでないことを願うよ。いろいろ書いちゃったし、あの子はおこりんぼですぐぷりぷりするからな。リンネは間違《まちが》いなく読んでない。これは賭《か》けてもいい。小さい頃《ころ》から大大大の本《ほん》嫌《ぎら》いのリンネが自分から進んで活字に向かうなんてことは天地がひっくり返ったってあり得ないし、それはたとえ幼なじみが書いた物であっても同様だろう。お陰《かげ》でこっちも好きなことが書けるってもんだ。
で、あの物語の最後では一応こういうことになっている。リンネは『時の旋法《せんぽう》』を手に入れて晴れて『時《とき》砕《くだ》き』となり、物語は大団円を迎《むか》える。正直、それ以上のことを書く気はなかったんだけど、あの後いろんなことがいっぺんにあって、けっこーややこしいことになった。そこで、リンネが『時砕き』としてバベルの塔《とう》に正式に承認《しょうにん》されたところぐらいまでは書くべきだろうと思った。誰も勧めたりはしない。ただ僕が勝手に思っただけだ。
さて、リンネは時砕きになったはいいものの何をしたらいいのかよくわからず、しばらくは普段《ふだん》通りに生活をしていた。たまっていた夏休みの宿題を片づけたり、自由研究の課題を仕上げたり、花火をしたり、神宮祭《じんぐうさい》に行ってリンゴ飴《あめ》を食べたり、そんなことだ。
で、そんなことをやっているうちに何も起こらないまま数週間が過ぎてしまった。リンネはだんだん焦《じ》れてきた。きっとあの子のことだ、時砕きになったからには何かこう、物語みたいなわくわくする出来事が毎日起こるもんだと思ってたんだろう。
そこでリンネは未到《みとう》ハルナに私時砕きとして何をしたらいいのと聞いた。未到ハルナっていうのは九百歳の時砕さで、凄《すご》い実力者だ。美人だけどおっかない。未到ハルナは呆《あき》れて「ばかかお前は。本でも読んでろ」と言った。知識や情報を主食とする時《とき》載《の》りや時砕きにとって日々の読書は大事だからこれは正論と言える。ところがリンネは大の活字嫌いだからこの種の正論が鬱陶《うっとう》しくてたまらない。
仕方なく気の進まないなりにヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの『ヴィルヘルム・マイスターの修業《しゅうぎょう》時代』なんかを書棚《しょだな》から引っぱりだしては、ぽつりぽつり読んでいたがすぐに飽《あ》きがきたらしい。眼鏡《めがね》を外しあっさり本を放《ほう》ると、遊佐の竿《さお》を借りて川磯《かわいそ》で釣《つ》り糸を垂らすようになった。
僕がもっと他《ほか》にすることはないのか、と聞いたらリンネは時砕きはいざというときのために力を蓄《たくわ》えておくので平時にはゆっくり過ごすものなんだと言った。ほんとかよ、と思うけど、時砕きの実態なんて僕は知らないもんな。しょうがないから大人しくうなずいておいたよ。
結局、リンネはその後も一冊の本も読了《どくりょう》することなく、毎日景気よく外で遊びまくり、肌《はだ》は日焼けしてすっかり小麦色になった。
そうこうしているうちに夏休みも終わり、やがて二学期が始まった。
[#改ページ]
1章
学校が始まってもリンネのマイペースぶりに変化はなかった。
新学期早々、僕はいきなり学校に遅刻《ちこく》したがこれはリンネが悪い。朝、僕が家に迎えに行くとリンネはまだぐうぐうと寝《ね》ていたからだ。リンネの部屋には大小合わせて十個の時計があるが、この子には眠《ねむ》っている間に部屋の時計の針をすべて止めるといういささか変わった癖《くせ》がある。この世で何が無意味だって、鳴らない目覚まし時計に己《おのれ》の起床《きしょう》時間を託《たく》すほど無意味なことはない。
僕が玄関先《げんかんさき》で「リンネちゃんがっこいこ」となじみの節をつけて大声で言うと、しばらくして吹《ふ》き抜《ぬ》けの向こうから、どたどたとまっ白い子供用ネグリジェを着たてるてる坊主《ぼうず》みたいなリンネが出てきたからどうやら例の癖が再発したらしかった。
「ちょっち待っててね」
実験に失敗した科学者みたいなぐしゃぐしゃ髪《がみ》のままそう言うと、リンネは奥に引っこんだ。続いてどたんばたんと何かが倒《たお》れる音やリンネの叫《さけ》び声が二階から聞こえてきた。
「もうっ。ママ! 何で起こしてくれないのよっ」
「何度も起こしたわよ。ママは」
「だって聞こえなかったもんっ」
「あなたまた時計の針を止めたでしょ。後で戻《もど》しておかなきゃダメよ」
「あーん。もう間に合わないっ! ママ、私のスカートどこっ?」
こんな時に交《か》わされる会話は人間の親子だろうが時載りの親子だろうが大して変わらない。てゆーか半泣きでしたくするリンネを見ていると、ああ新学期が始まったんだなーという気分がしみじみとしてくるから不思議だ。
僕はふと玄関ホールの壁《かべ》にかかった古い柱時計に目を向けた。
――四時二十二分。おそらく午前だろう。
リンネの奴《やつ》、また自分の部屋のみならず家中の時計を止めたらしい。
「いつもごめんなさいね、久高《くだか》くん」
階段の手すりに片手を添《そ》え、滑《すべ》るように下りてきたママさんが苦笑《くしょう》して言う。
「長くかかりそうだから、どうぞ先に行ってて頂戴《ちょうだい》」
「や、待ってます」
僕は言った。
リンネと同じ色のブロンドに同じく透《す》きとおるような白い素肌《すはだ》。正視するのもためらわれるような浮世離《うきょばな》れした美貌《びぼう》は僕が幼い頃《ころ》からちっとも変わらない。もっともそれだけなら単なる絶世の美女(妙《みょう》な表現だけど)でしかないけど、それに加えどこか楽天的な雰囲気《ふんいき》をたたえているのがママさんの特徴《とくちょう》だ。
顔立ちは親子だけあってよく似ている。違《ちが》うところと言えばリンネが薄《うす》い紫色《むらさきいろ》の瞳《ひとみ》の持ち主であるのに対して、ママさんの瞳は遥《はる》か雲の上の空の色をしているというところだろう。
活発で片時もじっとしていないおしゃまなリンネだけど、このママさんだけにはまったく頭が上がらない。目を三角にして怒《おこ》っているところなんて一度も見たことがないのに、どうやってこの腕白《わんぱく》娘《むすめ》の手綱《たづな》を握《にぎ》っているのかいつの日か伺《うかが》ってみたいものだ。もっともリンネに言わせれば「久高は本当のママを知らない」とのことだが。
ちなみにリンネはまだママさんに自分が『時の旋法《せんぽう》』を手に入れ、『時砕き』となったことを話していない。理由はいろいろあるような気もするけど、一番|妥当《だとう》なのはリンネが夏休み中遊び呆《ほう》けているうちに単に言う機会を逸《いっ》してしまった、というのが正解みたいだ。これもリンネの怠惰《たいだ》さが招いた種である。
むろんリンネも打ち明けようとチャレンジしたことはある。
あれは確か、お盆《ぼん》をすぎたあたりのことだ。
「ねえ、ママ」
「なあに」
「あのね、ちょっとお話があるんだけど」
「だからなあに」
「あのね、ママは時《とき》砕《くだ》きって知ってる?」
「時砕き? もちろん知ってるわよ。世界でわずか七人しかいないという、こわい伝説の時《とき》載《の》りでしょう? その姿を見た者はすべて死んでしまうという恐《おそ》ろしい存在よね。ママも小さい頃にあなたのおばあ様によく聞かされたわ。本を読まない悪い子のもとには時砕きが現れるわよって」
「ふ、ふうん。そうなんだ」
「それがどうかしたの?」
「あ、あのね、もしも、もしもよ? そんなおっかない存在が近くにいたら……ママはイヤよね?」
「時砕きが? うーん。そうねえ。今はもう大人になってしまったから別にイヤではないけれど、最初のうちはやっぱりちょっと驚《おどろ》いたりするかもしれないわね」
「ホントにイヤじゃない?」
「悪さをしないのならね」
「ホントにホント?」
「ああ、でもねはんはこわがるかもね。あの子はまだ小さいもの」
「ねはんには私から言うから大丈夫《だいじょうぶ》だもん」
「言うって何を?」
「う、ううん。なんでもない。こっちのこと」
「あなた何をそんなにそわそわしてるの?」
「そ、そわそわなんてしてないもん。……ええと、じゃあ、ママは時砕きがそばにいても平気なのね? 一緒《いっしょ》に住んでもいやになったりしないわね?」
「うーん。さすがに一緒に住むのはどうかしら。いろいろよくない噂《うわさ》も耳にするものねえ。そんな人と暮らして、うちの子たちに悪影響《あくえいきょう》が出ないか心配だわ」
「と、時砕きだって悪い人ばかりじゃないわ。いい人だっていると思うわ。そんなふうに先入観を持ったら可哀想《かわいそう》よ」
「ねえ、リンネ」
「なあに、ママ?」
「あなた何か隠《かく》してない?」
「な、何も隠してなんかないわ。ホントよ」
「じゃあ、どうしてそんなに時砕きの肩《かた》を持つの?」
「か、肩なんて持ってないもん」
「そう? ママの気のせいかしら。……いやねえ、そもそも何でこんな話になったの?」
「それは、ええと、その……久高が時砕きのことを私に聞いたのよ。久高が私に聞いて、でも私は知らないから、仕方なく私がママに聞いたってわけ。うん。そうなの。ほんとよ」
「……ふうん。じゃあママ、今度会ったときに久高くんに話してあげるわ。ママの知っていることをね」
「そうね。うん。それがいちばんいいわ。ふう、やれやれ」
何がふうやれやれだ。
「というわけだから久高あとはお願いね」と、リンネは僕に下駄《げた》をあずけるとさっさと撤退《てったい》してしまった。なんでそこで僕が出てくるのかさっぱりわからないが、取りあえずリンネはそれ以降、自分が時砕さであるとママさんに切り出すことは二度となかった。
鮮《あざ》やかな引き際《ぎわ》だ。
おかげで僕はリンネのでまかせを取り繕《つくろ》うのにえらい苦労をしたが、リンネはろくに感謝もせず、「やっぱりママに心配をかけるのはよくないわね、うん」などと言って二度と危険な橋を渡《わた》ろうとしない。
まあ、優《やさ》しいママさんのことである。たとえリンネが真実を告げたところで、驚くことこそあれ怒《おこ》ったりすることはないとは思うけど、今のところ内緒《ないしょ》にしていても問題はないし、時砕きの仕事なり役割なりが明らかになるまで、伏《ふ》せておいても特に差し支《つか》えはないだろう。
したがって現時点でリンネの正体を知っているのは、僕をのぞけば遊佐とルウ、G、それに凪《なぎ》の四人。よーするにいつもの顔ぶれだけということになる。ああ、あとじいちゃんも知っているけど、また外国へ行っちゃったしな。
まあ、正体を大人に内緒にしているのは魔法《まほう》少女の基本だし、その意味ではリンネもそうした伝統が持つ規範《きはん》に則《のっと》ったわけだ……などと考えていたら、ようやく支度《したく》を終えたらしいリンネが二階の踊《おど》り場《ば》に姿を現した。
「お待たせっ」
もうすっかり目が醒《さ》めたのか、ハイテンションで言うとリンネは階段を使わずに斜《なな》めになった階段の手すりにお尻《しり》をちょこんと載せ、膝《ひざ》を揃《そろ》えて横座りするとついーっと欄干《らんかん》をすべり降りてくる。「お行儀《ぎょうぎ》が悪い!」と以前ママさんにこっぴどく注意されたことのあるリンネお気に入りの技《わざ》である。
幸いママさんに見咎《みとが》められることなく無事|玄関《げんかん》ホールにすべり降りてきたリンネはとん、と軽《かろ》やかに着地すると、髪《かみ》を一閃《いっせん》させ、あざやかにウインクする。
「おはよう。久高っ」
輝《かがや》くブロンドに生気にとんだ紫《むらさき》の瞳《ひとみ》、薔薇色《ばらいろ》に上気したほっぺに笑うとちらりと覗《のぞ》く歯列|矯正用《きょうせいよう》ブリッジ(最低あと二年はしてなきゃならない)。『時を止める天衣無縫《てんいむほう》』こと、箕作《みつくり》リンネ・メイエルホリドが赤いランドセルを肩に僕の前に立っていた。
「おはよう」
僕は挨拶《あいさつ》を返した。
「さ、行きましょ! 気持ちのいい朝よ」
「気持ちのいい朝ならもっと早く起きろよな」
僕が口を尖《とが》らせて文句を言うと、リンネはちょっと赤くなった。
「仕方ないでしょっ。目覚まし時計がみーんな止まってたんだから。目覚ましが鳴らなきゃ目は醒めないもん。不可抗力《ふかこうりょく》よ。不可抗力」
自業《じごう》自得の間違《まちが》いじゃないのか。
「さあてと、走れば始業ベルにはまだ間にあうわね」
「……まさか時間を止めるんじゃないだろうな」
「ばかね、そんなことするわけないでしょっ。第一、そんなストック私にはないわ」
腰《こし》に手を当ててリンネはいばった。
いばれることか、と思ったけど気が急《せ》くのでつっこむのは後回しにする。
「いってきまーす」
靴《くつ》をはいたリンネが元気よく挨拶して玄関を飛び出そうとしたそのとき、後ろからママさんがリンネを呼び止めた。
「リンネ、ちゃんと朝ご飯は食べていきなさい」
「いい。そんな時間ないもん。遅刻《ちこく》するもん」
「ダメよ。時間がなくてもちゃんと摂《と》るの。はい、これ。それからこっちはお弁当ね」
「ちぇ」
リンネはママさんが差し出した、ウィリアム・フォークナーの『死の床《とこ》に横たわりて』と頼《らい》山陽《さんよう》の『日本外史』の二冊を恨《うら》めしそうに見つめたが、それでもしぶしぶといった体《てい》で受け取る。
時《とき》載《の》りは食事として情報を摂取《せっしゅ》しなければならないから一日必ず決まった量の読書をしなければならない。だが読書|嫌《ぎら》いのリンネは隙《すき》あらばその義務から逃《のが》れようとするから、ママさんはこうして娘《むすめ》が日々の食事を抜《ぬ》かないかどうか見はってなきゃならない。時載りの母親もなかなか大変なのだ。
ママさんは虫も殺さぬ笑顔《えがお》のまま、とどめの一撃《いちげき》を放つ。
「久高くん、リンネがお昼にちゃんと本を読んでいるかどうか、見はりをお願いね」
「安んじてお任せあれ」
僕は胸をはった。
僕とママさんの会話を横目に、リンネは剥《む》きたてのゆで卵みたいになめらかなほっぺをぷうと膨《ふく》らませている。世界最強の時《とき》砕《くだ》きもこうなっては形無しである。
「リンネ、おでかけするの?」
ふとママさんのうしろからねはんがちょろちょろと走り出てきた。
ねはんはリンネの弟で今年四つになる。姉と違って「もう活字とは縁《えん》を切ったでごさる」などと宣言して納戸《なんど》の中に籠城《ろうじょう》したり、「ごほんごほん。風邪《かぜ》を引いたみたいだわ。これでは読書は到底《とうてい》無理ね」などと言ってママさんに冷凍《れいとう》庫の中のアイスクリームをねだったりしない大変いい子である。
淡《あわ》い蜂蜜色《はちみついろ》の髪に瑞々《みずみず》しいブラウンの瞳。思わず頭の上に浮《う》かんだ光輪を探したくなるくらい、その雰囲気《ふんいき》は天使そっくりだ。
母親の腰にくっついている弟を眺《なが》め、リンネは溜息《ためいき》をついた。
「そーよ。今日から新学期なの。あーあ。ねはんはいいわね」
「なんでぼくはいいの?」
ねはんは小首をかしげる。
「あなたも大人になったらわかるわ」
お姉さん風を吹《ふ》かせるとリンネは身をかがめ、ねはんの丸いおでこに軽く接吻《せっぷん》する。
そして再度。
「いってきまーす」
「いってらっしゃい」
ママさんとねはんの声に送られ、今度こそ僕らは並んで走り出した。
もう完全に遅刻だな、これは。
「もうっ。本なんてこの世になければいいのに」
いつもの口癖《くちぐせ》をぶつぶつ言いながらもリンネは鼈甲《べっこう》の眼鏡《めがね》をかけると、信号待ちの間に分厚い本を広げ、もの凄《すご》いスピードで読み始めた。信号が青になっても本を閉じることなく、遂《つい》には歩きながら読み出す。
危なっかしいのでやむなくリンネの手を握《にぎ》って先導する。電柱に頭をぶつけてたんこぶでも拵《こしら》えたらママさんに申し訳が立たない。
赤いランドセルを背負ったまま本を開くリンネの姿が微笑《ほほえ》ましく映るのだろう、道行く高校生のおねーさんや背広を着たおじさんがすれ違いざまに笑顔を投げる。確かに歩きながら鼻先を本に埋《うず》める姿はほとんど二宮《にのみや》金次郎《きんじろう》だけど、リンネは単に食事を摂っているだけであって別に寸暇《すんか》を惜《お》しんで学問に励《はげ》んでいるわけではないから両者を比較《ひかく》するのは過去の偉人《いじん》に失礼というべきである。
結局リンネは校門にたどり着く前に「朝食」を摂り終えたが、始業ベルの開始には間に合わず、僕ら二人は新学期早々教室の後ろに立たされることになった。
やれやれ。
リンネと並んで突《つ》っ立ちつつ、いまだ夏の気配が衰《おとろ》えぬ陽気につられて僕が窓の外に広がるだだっ広い校庭に目を向けていると、
「くだか」
手にしていた『日本外史』をそっと閉じ、つとリンネが小声で囁《ささや》いた。
「うん?」
僕がリンネの方に顔を寄せると、リンネは先生に見つからぬよう、一瞬《いっしゅん》、軽く片目を瞑《つぶ》ってみせた。
「待っててくれて、ありがと」
たぶん、自分の巻きぞえを食って僕が遅刻してしまったことを謝したのだろう。正直ちょっとびっくりしたよ。まさかリンネがそんなこと言うなんて思ってなかったからさ。
「んん……」
とっさに何と言っていいかわからず、僕はただ口の中でむにゃむにゃ呟《つぶや》いた。きっとそんな僕の狼狽《ろうばい》ぶりがおかしかったのだろう、リンネは紫色《むらさきいろ》の瞳《ひとみ》の奥で微《かす》かに笑ったようだった。
夏は終わり――、
僕らはこんな感じで毎日を過ごしていた。
[#改ページ]
2章
その日、僕とリンネは例によって縁側《えんがわ》に出て、箕作家の鄙《ひな》びた庭を眺めつつウチの親戚《しんせき》から送られてきた桃《もも》を食べていた。
桃の色づきはまだ七分といったところで実は少し固かった。それでも瑞々しい白い果肉に歯を立てると香気《こうき》は口の中にむせるように広がる。
「おいしいね」
「うん」
僕らがさかんに旬《しゅん》の味を満喫《まんきつ》していると、表のほうでトラックの停《と》まる音がした。
「なにかしら?」
音を聞きつけたリンネがわくわく顔で素足《すあし》にサンダルをつっかけて表へ出ていくと、大型トラックが一台、家の前に横づけにされている。
一瞬、根拠《こんきょ》のない期待に胸を膨《ふく》らませたリンネだったが、すぐにそれは失望へとかわった。トラックから運び出された大量の段ボール箱の中身は、リンネの期待からは最も遠いもの……すなわち本だったからである。
「ちぇ。なあんだ。本か」
『マシューとマリラに初めて会った頃《ころ》のグリーンゲイブルスのアン状態のお下げ(※本人命名)』をさっと払《はら》うと、リンネはつまらなそうに口を尖《とが》らせた。
手には齧《かじ》りかけの桃。
「なあんだって、なんだと思ったの?」
「最近いい子にしてたから、サンタさんがクリスマス前倒《まえだお》しでプレゼントを在庫ごと持ってきてくれたかと思ったの」
もしそんな気前のいいサンタがいたら、たぶんとっくにサンタ・ライセンスを剥奪《はくだつ》されている。
……つーか、最近いい子にしてたって。
現金なもので、荷物が本だとわかったとたんリンネはさっさとひっこむ気配を見せたが、後から後からホールへと運びこまれる大量の書物を前に否応《いやおう》なくママさんの手伝いにかり出されることになった。何でも、ママさんの知り合いの蔵書家がいらなくなった大量の古書を箕作家に寄贈《きぞう》してくれることになったらしく、今|到着《とうちゃく》したのはその第一陣《だいいちじん》らしい。第一陣ってことは当然まだ続きがあるわけで、いずれにせよ箕作家の蔵書はさらにその規模を増すことになったようだ。
暇《ひま》だったし、特に予定もなかったので僕も本の運搬《うんぱん》を手伝うことにする。そのうちGも駆《か》けつけ、たちまち箕作|邸《てい》の内部は引っ越《こ》しと見間違《みまちが》うばかりの騒《さわ》ぎとなった。新学期が始まって最初に迎《むか》えた日曜日の朝のことである。
「残念だけど、これ以上ここには本は置けないわね。G、あなたのところはまだ空いてる場所はある?」
豊かなブロンドを邪魔《じゃま》にならぬように頭の高い位置できりりと結《ゆ》いあげ、腕《うで》まくりをしたママさんがGに訊《たず》ねた。愛用のピンクのエプロンもまとい、既《すで》に準備は万端《ばんたん》である。
「離《はな》れにはまだいくらか余裕《よゆう》がありますわ。取りあえず、奥様とリンネ様が既にお読みになった本はそこに運んでしまいましょう。それで多少は片づくかと」
「そうね、そうしましょう。じゃあ私は既《き》読本をのけておくから、あなたは目録の作成のほうをお願いね」
「承知いたしました」
「せっかくの日曜日なのに悪いわね、G」
「いえいえ。お気になさらずに。わたくしがいるからには奥様のお手をわずらわせはいたしません。本のことでしたらこのジルベルトに万事お任せを」
Gはむん、と力こぶを作る真似《まね》をし、ママさんを笑わせた。
Gこと、ジルベルト・ヘイフィッツは十七歳。専属司書として箕作家の膨大《ぼうだい》な蔵書の管理を一手に受けもつ長身の美女である。普段《ふだん》は本邸から少し離れた場所にある「離れ」と呼ばれる箕作家専用の書庫で暮らす彼女は、どの国立図書館の司書も完璧《かんぺき》に務《つと》まる類《たぐ》いまれなる事務能力を具《そな》え、かつ英・仏・蘭《らん》・独・露《ろ》・その他ありとあらゆる外国語に通じた語学の天才である。箕作家の面々が書籍《しょせき》の海に迷わずに済むのはこの人のおかげと言っても過言ではない。当然、ママさんの信頼《しんらい》も厚い。
そんな桁外《けたはず》れの人材が、時《とき》載《の》りとは言え、たかだか一介《いっかい》の市民にすぎない箕作家の専属司書をなぜやっているのかは定《さだ》かではないけれど、リンネもねはんもこの黒髪《くろかみ》の美女にはよく懐《なつ》いており、公私両面で箕作家を支える彼女はもはや家族同然と言っていい。
今日のGは均整の取れた長身に彼女の制服とも言える黒のビスチェワンピースの上に白いエプロンをつけ、頭にはヘッドドレスと埃《ほこり》よけの白スカーフを巻き、こちらも準備万端といった感じだ。
「……それにしても、このままいけば建て増ししなければならなくなるのも時間の問題ね。ううむ。これは深刻な問題だわ」
『聳《そび》える』という表現がまさにぴったりくるような状態にまで積みあげられた本の山を前に、ママさんは珍《めずら》しくむずかしい顔で腕組《うでぐ》みをした。
なにせ大型トラック一台分の書物がまるまる増えるのである。置ける分量は限られているため、当然既読本をのけて場所を確保することになるが、それでも新規に増えた書物を収納するだけのスペースはこの家にはない。
取りあえずママさんはいくつかの部屋に本を分けて置くことで当座は凌《しの》ぐことにしたが、二階にある二つの書庫の書棚《しょだな》はまだまったく棚卸《たなおろ》しされていない上に、廊下《ろうか》やホールには入植希望の古書の束が積み重なっているとあっては、いつもは楽天的なママさんも深刻にならざるを得ないらしい。
そんなママさんにGは笑顔《えがお》で応じた。
「育ち盛《ざか》りのお子様が二人もいらっしゃるのですもの。当然ですわ」
「そうね。ねはんが文字を憶《おぼ》えてから本が増える一方だし……。いつかは決断しなくてはならないわね。でも、頭が痛いのはそれだけじゃないわ」
ママさんの言葉にGは小首をかしげた。
「と、申しますと?」
「ねはんは案外手がかからないのよ。好き嫌《きら》いはないし、なんでも読んでくれるわ。問題なのは上のほうよ」
「まあ」
いつものんびりしたママさんには似合わぬ渋面《じゅうめん》が珍しかったのだろう、Gは口元をほころばせた。
ママさんはむきになって言った。
「あら、笑いごとじゃないのよ。あの子ったら最近、物を食べてばっかり。もちろん『街の住人』として様々なことを経験するのは大切なことだけど、少しは読書もしてくれないと。まったく、困ったことだわ」
僕が二階の書斎《しょさい》に入ったとき、その上のほう[#「上のほう」に傍点]は運び込まれた段ボール箱にちょこんと腰《こし》を下ろし、ほおづえをつきつつ我が家を侵食《しんしょく》する敵とにらめっこをしていた。
「……また読まなきゃいけない本が増えた。まったく、困ったことだわ」
「サボってていいのか?」
僕が声をかけるとリンネはほおづえをついたままちらりと面《おもて》を上げた。
「サボってないもん。考えごとしてたの」
「なにを?」
「時載りの生成|及《およ》びその限界について、よ」
リンネはぴょんと勢いよく立ちあがった。
「んで、結論は出たの?」
僕の問いにリンネは腕組みをすると並みいる群臣を威圧《いあつ》する皇帝《こうてい》のようにあたりを睥睨《へいげい》して言った。
「そーね。私に言わせればこれまでの時載りは怠惰《たいだ》だったんだわ。この本の山からのがれる方法が見つかったとき、時載りは今所属する審級《しんきゅう》を離れ新たな存在として止揚《しよう》するわね」
「取りあえず、時載りを止揚する前にこの本を棚へ上げちゃおうぜ」
「やな子ね!」
むくれるリンネを尻目《しりめ》に僕は作業を開始した。
段ボール箱を開け、中から埃くさい匂《にお》いのする本を取り出し、空いている棚へ順に並べていく。僕が働き出すと、やっとリンネも関節に油が回ったように動き出した。
本は古色|蒼然《そうぜん》とした物が多かった。Gの言葉によれば、純粋《じゅんすい》に学術的な価値という点からすると微妙《びみょう》な物がほとんどらしいが、箕作家の人間にしてみればどれも無謬《むびゅう》の価値を持つものばかりだ。なにせ時載りにとって、本はそれに記された内容ではなく、それが持つ活字の量こそが栄養分と等しいからである。ようするに字数が多ければ何でもいいのだ。
「ただで読める本が増えたんだろ? ありがたいことじゃないか。……よっと」
「そうだけど、どうせただで頂けるんなら果物《くだもの》のほうが嬉《うれ》しかったわ。ブドウとか、柿《かき》とか」
ぶつぶつ言いながらリンネは本を棚へと並べていく。だがこの部屋の本棚はどれもみんな背が高いので、次第《しだい》に小柄《こがら》なリンネは上のほうの棚に手が届かなくなる。リンネは本を手にしたまま、しきりに背伸《せの》びしたり、ぴょんぴょん飛び跳《は》ねたりしていたが、やがて苛立《いらだ》たしげに地団駄《じだんだ》を踏《ふ》んだ。
「もう! 届かないわ! 久高、肩車《かたぐるま》して」
「えーっ!? やだよ」
「いいから早くっ」
やむなく僕は床《ゆか》にひざまずいた。
リンネはスカートの裾《すそ》を軽く手で押さえると素早《すばや》く僕の肩にまたがった。
[#挿絵(img/mb874_033.jpg)入る]
「さ、いいわ」
リンネの長い脚《あし》が胸元《むなもと》で交差するのを確認《かくにん》して、ゆっくりと立ち上がる。華奢《きゃしゃ》とはいえ人一人の確かな重みを首の背に感じ、僕は改めてリンネが時《とき》載《の》りであると同時に生身の身体《からだ》を持つごく普通《ふつう》の女の子であることを実感する。
「久高、へいき?」
「……な、なんとか」
「じゃあ、そのまま前に行ってちょうだい」
そのまますり足で本棚の前へ移動し、棚に手をつく。リンネは気にせず頭上でおしゃべりを続けている。
「この間ママとスーパーにお買い物に行ったとき、果物売り場でおいしそうなブドウを見かけたわ。買ってって頼《たの》んだけどダメだった。ママったら、時載りには必要ないって言うのよ」
「ふうん」
リンネの尖《とが》った膝小僧《ひざこぞう》が目の前で揺《ゆ》れる。
「ひどいと思わない? 『街の住人』たるもの、果物くらい食べられて然《しか》るべきだと思うわっ」
「ブドウとか柿とか?」
「全部よ。ブドウも柿も苺《いちご》も西瓜《すいか》も梨《なし》も林檎《りんご》もメロンもサクランボもキウイもトマトもピーマンもぜーんぶ」
「トマトとピーマンは野菜だよ」
「し、知ってるわ。つい間違《まちが》えたのっ」
「……やっぱりママが正しいだろ」
右いけ左いけ回転しろと指示するリンネの言葉に従いつつ、僕は懸命《けんめい》に背筋を伸ばした。
リンネの食いしんぼうっぷりがあまりに板についているものだから僕もつい忘れがちになるけど、時載りが人間の食べ物を食することに本来意味はない。「意味がない」というのは、つまり食べても食べなくても時載りの生態には何ら変化を及ぼさないという文字通りの意味においてだ。
時載りの栄養源はあくまで情報であり、それは文字であり、活字である。間違っても果物やスイーツではない。だから時載り、ことに人間界で暮らす時載り、通称《つうしょう》『街の住人』は日々の読書を欠かすことはない。つまり、未読の書の山に囲まれたこの状況《じょうきょう》は時載りにとってはまさに天国のようなシチュエーションであるはずなのだが、どこにでも例外というものは存在するらしい。
どうにかリンネを床に落っことすことなく棚を一つ片づけたところで、僕らはママさんに呼び出された。
「リンネ、これは読んでしまった?」
そう言ってママさんが書斎でリンネに向かって掲《かか》げたのは古めかしい装丁《そうてい》の『十八史略《じゅうはっしりゃく》』だった。十二歳の女の子が読むにはこれほどふさわしくない本も珍《めずら》しいだろうが、時載りにとって読書は内容ではなく字数がすべてだから歴史書や戦史書は決して悪い選択肢《せんたくし》じゃない。
だがリンネはあっさり首を横に振《ふ》った。
「ううん。読んでない」
「じゃあこれは?」
続いて示されたのは『資治通鑑《しじつがん》』の抄訳《しょうやく》本。全二十巻の年代物だが、これまたリンネは首を振った。
「そっちも読んでないわ」
「困った子ねえ。これではちっとも片づかないわ」
「まったく読んでないってことはないの。少しは読んだわ」
「読んだって、どれくらい?」
「そのう……二巻の初めぐらいまで」
「まあ。ほとんど手をつけてないじゃないの」
「だって長いんだもん」
「だってじゃありません。……まったく、困った子ねえ。この活字|嫌《ぎら》いはいったい誰《だれ》に似たのかしら?」
ふうっと溜息《ためいき》をつくママさんにリンネは言った。
「たぶん遺伝だと思うわ。ほら、ええと、あれよ。きっとママのご先祖様にすごく本嫌いの人がいたのよ。活字を見ただけでジンマシンと悪寒《おかん》と引きつけをいっぺんに起こすようなアレルギー体質の人が。そーよ。そうに違いないわ」
そんな時載り、生きていけない。
「おあいにく様。あなたのおばあさまもおじいさまも本を読むのが大好きだったわ」
ママさんはつんと顎《あご》を上げた。二人の顔立ちがよく似ている上にママさんが若いので、端《はた》から見てると何だか姉妹《しまい》喧嘩《げんか》みたいである。
「もういいわ。あなたはここにある本を玄関《げんかん》へ運んでしまいなさい」
「はーい」
呆《あき》れたママさんにさじを投げられた格好のリンネは、とうとう書庫から追い出されてしまった。かわりに廊下《ろうか》にある既《き》読本を階下に運ぶ役割を与《あた》えられる。
「しめしめ。助かったわ」
渡《わた》りに船といった感じでリンネはホールで大きく伸《の》びをした。「親の心子知らず」とはまさにこの瞬間《しゅんかん》のために作られた諺《ことわざ》にちがいない。
僕は手すりに手をかけ、下を見下ろした。
ホールは吹《ふ》き抜《ぬ》け構造になっており、今僕が立っている踊《おど》り場《ば》は数日前、寝坊《ねぼう》したリンネがねぼけまなこで姿を現した場所だ。正面には上字型の大きな階段と、それに沿うように設《しつら》えられたリンネがすべり降りるのが大好きな木製の手すりがある。
この位置からは玄関と入り口付近の空間が一望できる。玄関の扉《とびら》は大きく開け放たれており、雑多に置かれた段ボール箱の向こうに色鮮《いろあざ》やかに生え揃《そろ》った庭先の芝《しば》が見えた。
ここでちょっとリンネんちの造りを説明しておくと、箕作|邸《てい》は木造洋風二階建て。玄関扉を開くと吹き抜け構造のホールがあり、正面には二階へと通じる大きな階段がある。一階は食堂|兼《けん》居間に応接間、客室、書庫、ママさんの書斎《しょさい》、キッチンと浴室があり、主に家族の生活空間。二階はママさんの寝室《しんしつ》にリンネの部屋、ねはんの部屋(実質はおもちゃ部屋)、パパさんの書斎それに二つの書庫がある。あとは物置代わりの屋根裏部屋と中二階に納戸《なんど》がひとつ。
住人は現在三人なので掃除《そうじ》が大変であるという面を除けば生活面で特に不都合はないが、次第《しだい》に増えていく本の置き場所が悩《なや》みの種である。
もともとは商館として使用されていたものを戦後間もない時期に解体し、この地まで運んできたものらしい。築八十年という歴史の古さで、戦時中の混迷期も潜《くぐ》り抜けたというどこか厳《おごそ》かな外観をした木造の洋館だ。幾度《いくど》となく改修や補修を繰《く》り返しているため、建築当時とはかなり装《よそお》いは変わってはいるが、それでも外観は当時の趣《おもむき》を色濃《いろこ》く残しており、個人が所有する建物としてはかなり珍しい部類にはいるだろう。
建物正面、左右|対《つい》になって前方へと張り出している出窓とその上の三角屋根が特徴《とくちょう》で、見ようによってはどこか人里|離《はな》れた丘《おか》の上に建っている|お化け屋敷《ホーンテッドマンション》のような風情《ふぜい》がある。事実、リンネの表現を借りれば、地下には膨大《ぼうだい》な蔵書が収められた『ダンジョンみたいな』空間が広がっているらしいが、残念なことに僕は一度も拝見したことがない。きっと凄《すご》い光景が広がっているのだろう。
一度見てみたいな。
僕らは本を階下へ降ろす作業を始めた。
初めのうちは階段を上り下りして本を降ろしていたリンネだったが、昼も過ぎた頃《ころ》になるといちいち自分の脚《あし》を使って本を降ろすのが面倒《めんどう》になってきたらしい。
するとまた例によって例のごとく何やら思いついたのか、突然《とつぜん》リンネはぱっと顔を明るくすると僕に声をかけた。
「ねえ久高、ちょっと下におりてくれない?」
「何で?」
「いいから早くっ」
ブリッジをちらりと覗《のぞ》かせつつなにやら企《たくら》んだ様子のリンネの表情に促《うなが》されて、やむなく僕は階下におりた。言われたとおりホールに佇《たたず》み、二階の踊り場を見上げるなり、欄干越《らんかんご》しにリンネの形の良い脚とスカートの中身がまともに飛びこんできた。
あわてて目をそらす。
そんなことなどいっこうに気に留めず、リンネはブロンドがまっすぐに垂れ落ちるほど手すりから身を乗り出すと、階下にいる僕に向かって機嫌《きげん》良《よ》く声をかけた。
「ね、久高。ここから本を降ろすから受け取ってね!」
「……ここからって、そこから?」
「そう。ここから降ろせば早く済むでしょ? まずは手始めにこの縛《しば》ってある奴《やつ》からね」
「ちょ、ちょっと待ってよ」
「大丈夫《だいじょうぶ》っ。ちゃんと受け止めやすいように止めてあげるからっ」
そう言うなりリンネは、一抱《ひとかか》えもあるような本の束を手すりの上から勢いよく落っことした。僕が構える間もなく本は重力に引かれて落下し、僕は思わず頭を抱えた。
「!」
が、いつまでたっても来るべき衝撃《しょうげき》は訪《おとず》れてこない。僕がおそるおそる上を見上げると、やや斜《なな》めに傾《かし》いだ本の束が僕のちょうど頭上でまるでショーウインドー・ケースに収まった靴《くつ》や腕時計《うでどけい》みたいにぴたりと静止している。
僕と目が合うとリンネはすましてウインクしてみせた。
そう、これが『時《とき》載《の》り』の血を引くリンネが持つ唯一《ゆいいつ》の得意技《とくいわざ》。
リンネは時間を止めることが出来るのだ。
もっとも、リンネが止められる時間は最長でもせいぜい一秒か二秒。それ以上は時間に関与《かんよ》することは出来ない。というのもリンネは時間を一秒止めるのに約二百万字の字数を読破しなければならず、大の活字|嫌《ぎら》いのリンネがそれだけのまとまった量の本を読むことは滅多《めった》にないからだ。
二百万字と言えば新書サイズの本で約十冊分に相当する。普通《ふつう》の人間なら余程《よほど》の読書家でもかなり読み応《ごた》えのある分量なんだろうけど、情報を栄養源とする時載りならばこれくらいの冊数は実際一日で消費してしまう。だが人間である父親の血を半分受け継《つ》いだせいかどうかは定《さだ》かではないが、リンネはママさんが悩むほど本嫌いであり、そのせいもあってリンネの止められる時間はいつもかつかつだ。
それを知っているだけに僕は慌《あわ》てて空中に停止した本の束を両手で掴《つか》んだ。その瞬間《しゅんかん》、僕の両手に一気に書物の重みがのしかかる。リンネが時留めを解いたのと同時に万有《ばんゆう》引力の法則が回復したのだ。
「わっ、と、と」
手首にかかる重みに耐《た》え、辛《かろ》うじて本の束を掴み直した僕は何とか体勢を整えると、慎重《しんちょう》に本を床《ゆか》に降ろした。リンネは会心の笑《え》みを漏《も》らした。
「久高うまいじゃないの!」
「ったく、ママさんに怒《おこ》られても知らないぞ」
僕は上に向かって言ったが、リンネはつんと鼻先を上げた。
「ママには内緒《ないしょ》にするもん。さ、どんどんいくわよ」
「ホントにいいのかなあ」
世界に僅《わず》か七人しかいないと言われる時《とき》砕《くだ》き――世界中の時載りを統《す》べ、畏怖《いふ》と恐怖《きょうふ》の対象となりつつもあくまで冷徹《れいてつ》に逸脱者《いつだつしゃ》を裁《さば》き、時間に均衡《きんこう》と安定をもたらす――の偉大《いだい》な力を、こんな日曜の昼間に二階の荷物降ろしに使っていいものなんだろうか。
だが当の本人と言えば少しでも荷を軽くしようとする沈没《ちんぼつ》寸前の船の乗員でもこんなに熱心にならないだろうというような甲斐甲斐《かいがい》しさで、次から次へと欄干から本を放《ほう》っていく。おかげでいくらも経《た》たないうちに二階の廊下《ろうか》にあった本の束は一階の玄関《げんかん》ホールに降ろされた。
「ずいぶんはかどったわね! このへんなんて、すっかり綺麗《きれい》になったもの」
リンネは腰《こし》に手を当てると満足そうにあたりを見渡《みわた》した。確かに廊下にひしめき合っていた古書の群れは階下に居を移し、今や数えるばかりとなっている。一方、僕の佇む周囲には新たに本の壁《かべ》が積み上がったわけだけど。
さてもうひとがんばりだと僕が作業に戻《もど》ろうとしたとき、子供用のハタキを手にしたねはんが僕の側《そば》に近づいてきた。
「くだかー」
「やあ、ねはん」
僕はリンネと同じ明るい色の髪《かみ》をした箕作家の長男に挨拶《あいさつ》した。
「ふたりでなにしてるの? じかんとめてるの?」
「ううん。違《ちが》うわ。おねーちゃんたちは能率的にお仕事をしてるんだからっ。ねはんはいい子だからどいてなさい」
「ふうん」
ねはんは考え深そうな瞳《ひとみ》で階上と階下にいる僕らを均等に眺《なが》めていたが、やがて姉を見上げた。
「あのね、いっしょにあそんでほしいの」
「いいわ。これが終わったらね。だからこのことはママには内緒よ。いい?」
「うん」
姉の言葉に素直《すなお》にうなずくと、ねはんは短い指で僕のズボンを引っぱった。
「くだかもあそぼうね」
「いいけど……何するの?」
「あのね、ダルタニアンごっこ」
「ダルタニアンごっこ?」
僕の問いにねはんは「こうやるの」とハタキを水平に持ちその先端《せんたん》で僕のお尻《しり》をつつく真似《まね》をした。どうやらフェンシングでの剣戟《けんげき》のつもりらしい。そういや最近、デュマの『三銃士《さんじゅうし》』を読んでたっけ。
「ぼくがダルタニアンね。くだかはアトス」
「リンネは?」
「ええとね、ポルトス」
「あははは。そりゃいい。ぴったりだ」
「もう! 聞こえたわよ!」
欄干《らんかん》越《ご》しにリンネはむくれた。
「美食家のポルトスは願ったりだろ」
「ふんだ」
リンネはぷいと頬《ほお》を膨《ふく》らますと、仕返しと言わんばかりに一度に四つの本の束を抱えて僕の頭上にぶら下げる。
「お、おい。危ないって」
「いいからさっさと済ませておやつにするわよっ。ねはん、下がってて」
ほら、やっぱり食いしん坊《ぼう》じゃないか、とやむなく僕が階段の麓《ふもと》で本の落下に備え、リンネが時間を止めたちょうどその時。
「こ、こんにちは」
背後に聞き覚えのある声を耳にし僕は振《ふ》り返った。見ると大きく開け放たれた玄関の扉《とびら》の向こうで、そのいくぶん緊張《きんちょう》気味の声の持ち主は足の踏《ふ》み場《ば》もないほど古書で埋《う》め尽《つ》くされたホールを前に入っていいのかためらう様子で、控《ひか》えめに顔を覗《のぞ》かせている。
そこにいたのは、
「あ、ルウ!」
リンネは喜びの声と共にぱっと顔を輝《かがや》かせ、新しくできたばかりの友達に大きく手を振った。その途端《とたん》、リンネの注意が一瞬|逸《そ》れたことで止まっていた時間は動きだし――
「あ、いっけない……」
リンネが慌《あわ》てて手すりの下をのぞきこんだ時はもう時|既《すで》に遅《おそ》し。
「うにゃ」
突然《とつぜん》落っこちてきた本の束の直撃《ちょくげき》を受け、
僕は物語の終盤《しゅうばん》、仲間をかばって岩に押しつぶされた好漢ポルトスのように本の土砂《どしゃ》の中に突《つ》っ伏《ぷ》していた。
「いたたた……」
「……もう。何度も謝ったでしょっ」
しばらくして。
本の奔流《ほんりゅう》に飲みこまれた箕作|邸《てい》にあって、ここだけは未《いま》だその浸潤《しんじゅん》を免《まぬか》れているリンネの部屋には何となく所在なさそうな表情の海保《かいほ》ルウとリンネ、そしておでこに水で濡《ぬ》らしたタオルを載《の》っけた僕の姿があった。
本の束の直撃を受けたわりには、たんこぶ以上の怪我《けが》がなかったのは幸いと言えた。が、念のため冷やしておくことにしたのは半分はリンネへの当てつけである。まさかこんな天気の良い日に本に降られるとは思わなかったし。
僕がそう言うとリンネは顔を赤くして金髪《きんぱつ》の毛先を指で弄《いじ》りながらその日何度目かの言い訳をする。
「だ、だからつい、気をそらしちゃったのよ。だってルウがいたから嬉《うれ》しくて。久高ったらしつこいわね」
「だからって本で押し潰《つぶ》すことないだろ」
首の背をさすりつつ僕がぼやくとルウは首をかしげた。
「大丈夫《だいじょうぶ》?」
「うん……」
僕は素《す》でうなずき、ふと顔を上げた。ルウと視線がかち合う。とたんにルウは今の態度は沽券《こけん》にかかわると思ったのか、「何で私があなたの心配をしなきゃならないのよっ」というように口をあひるみたいに尖《とが》らせると、ぷいとそっぽを向いた。
相変わらず忙《いそが》しい子である。
海保ルウは十二歳。僕らと同い年で、リンネと同じ『街の住人』だ。ショートカットと剥《む》き出しのおでこが特徴《とくちょう》的な澄《す》んだ容姿をした美少女だが、顔に似合わず気が強い。
もともとルウはすぐに帰るつもりだったらしく、玄関先《げんかんさき》で挨拶《あいさつ》をするとすぐに引っこむ気配を見せたが、古書の整理に倦《う》んでいたリンネが放すはずもない。取りこみ中に邪魔《じゃま》なのでは、と危惧《きぐ》するルウの手をぐいぐい引っぱって自宅に招き入れると、自分の友人を紹介《しょうかい》したい一心で大声でママさんを呼ぶ。
「あのねママ、この子、私のお友達なのっ。この間お友達になったのよ。遊びに来てくれたの!」
「まあまあ」
ピンクのエプロン姿のままのんびりと古書の間から姿を現したママさんは、意気ごむリンネとは対照的にいつもの優《やさ》しげな眼差《まなざ》しで娘《むすめ》の友人を眺《なが》めた。その様子を、僕の後ろに隠《かく》れたねはんが顔を半分だけ出して覗《うかが》っている。
「ごめんなさいね。散らかってて」
まさか来た早々いきなり親に紹介されると思っていなかったのだろう、まったく隔意《かくい》のないママさんの笑顔《えがお》の前に、ルウは表情を膠《にかわ》で固めたように硬直《こうちょく》させたまま真っ赤になっていたが、
「か、かか、海保ルウです。はじめまして」
と、とって付けたようなお辞儀《じぎ》をした。
「リンネのお友達になってくれて嬉しいわ。仲良くしてやってね」
ママさんはあの誰《だれ》も抵抗《ていこう》できなそうな笑顔を浮《う》かべると、是非《ぜひ》上がってくれるよう言ったのでさすがのルウもうなずかざるを得ない。結果的に、ルウの来訪によってリンネはお手伝いを免れることになったわけだ。
二階にあるリンネの部屋に通され、ようやく落ち着いたらしいルウは物珍《ものめずら》しそうにあたりに視線を向けた。やはり同じ『街の住人』として、どんなところに住んでいるか気になるらしい。
ちなみにルウがリンネんちにやってきたのはこれが初めてだが、リンネはルウの家に既に何度か遊びに行ったことがある。海保ルウはこの歳《とし》で市内にある瀟洒《しょうしゃ》なアンティークショップのオーナー(兼《けん》売り子)であり、特に時載りの職人が拵《こしら》えた時間に関するアイテムにはなかなかの鑑定眼《かんていがん》を持っている。このお店には僕もリンネと一緒《いっしょ》に行ったことがある。もっとも、あまり流行《はや》っているようには見えなかったけど……。
リンネの部屋は箕作家がこの屋敷《やしき》を手に入れた際に通常の洋室を子供部屋に改装したもので、あまり女の子の部屋という感じはしない。もともとお人形やぬいぐるみを枕元《まくらもと》に並べたりはしないリンネだけど、アンティークや家具の色調もあって、どこかクラシカルな雰囲気《ふんいき》が漂《ただよ》っている。
ばっと室内を見渡《みわた》して最初に目に付くのはやはり壁《かべ》一面を満たす大量の書籍《しょせき》だろうが、それ以外には天蓋《てんがい》付きのベッドと勉強机があり、部屋の突き当たりには衣装《いしょう》持ちのリンネのための大きなクローゼットがある。南側には二つの縦長の出窓があり、レースから漏《も》れた日差しが室内を柔《やわ》らかく包んでいる。
「ありがとう。わざわざ来てくれて」
ママさんが運んでくれたティーカップをルウに勧《すす》めつつ、リンネは少しはにかんで言った。もう仲良くなってからだいぶ経《た》つとは言え、こうして自室で向き合ってみるとまた雰囲気が異なるらしく、心なしか頬《ほお》を赤らめている。
「わ、わざわざ来るわけないでしょ。たまたま近くを通りかかったから寄ってみただけよ」
ルウはぶっきらぼうに応《こた》えた。なんかこっちも赤くなってるし。
何となくお見合いの相伴《しょうばん》にあずかったような気分を味わいつつ、僕は手持ちぶさたでお茶をすすると天井《てんじょう》を見上げた。てゆーか、近くを通りかかったって……ルウの住まいは街のど真ん中だろ。
こほん、と咳払《せきばら》いしてルウは口を開いた。
「いいお住まいね。おうちの中も広くて驚《おどろ》いちゃった」
「古いだけよ。そろそろ手を入れないと……って、これは誰かの言葉ね」
リンネが笑って言うとルウも苦笑《くしょう》する。ルウがその祖父から譲《ゆず》り受けたという古いアンティークショップにリンネが初めて訪《おとず》れたとき、今とまったく同じ言葉を返したのを思い出したのだ。
「いつもこんな大がかりな本の入れ替《か》えをしているの? お部屋から溢《あふ》れるくらい」
「ううん。今日は特別なの。さっき、本がいっぱいトラックで運ばれてきたから。ママの知り合いが古い蔵書を送ってくれたんだって。まったく、ただでさえ本が多いのに」
「ふ、ふうん……」
「それで朝から本を運び出していたってわけ。読み終わった本は離《はな》れに移動させるんだって。だから、普段《ふだん》はもうちょっとおうちの中は綺麗《きれい》なのよ」
「そ、そう。大変ね」
ルウは相槌《あいづち》を打った。でもどうしたんだろう? 心なしか元気がなくなったような。ふと僕はルウが綺麗な紙袋《かみぶくろ》を持っていることに気がついた。
そんなルウの様子に気づかず、リンネは訊《たず》ねた。
「今日はどうして来てくれたの?」
とたんにルウは落ち着かなげに視線を巡《めぐ》らせた。
「え、ええと、き、今日、たまたま本屋さんに行く用事があったのよ。で、最近本を買ってなかったものだからつい多めに買いすぎちゃって。でも、こんなにいっぺんに読めないし、それで、もしあなたが必要ならと思って……でも、最初はそんなつもりはなくて……だけど本はあったら便利だし……」
どこか言い訳めいた言葉をぶつぶつ呟《つぶや》きつつルウの頬は次第《しだい》に紅潮してくる。
「まあ」
何とも言えない表情でリンネはルウを見た。
「それでわざわざ来てくれたの?」
「か、勘違《かんちが》いしないで。調子に乗ってちょっと買いすぎちゃっただけよ。べ、別にあなたのために本を選んだわけじゃないんだから!」
ルウは慌《あわ》ててそう言うと、持っていた紙袋を身体《からだ》の後ろに隠《かく》した。
「でも、今の話を聞いていたら、あなたんちには本がたくさんあるみたいだし、いらないみたいだから持って帰るわ」
「ううん。そんなことないわ。欲しいわ」
リンネは真剣《しんけん》な表情で言った。
「べ、別に無理しなくてもいいわよ」
「無理なんかしてないわ。ルウの選んだ本、すごく読みたいもの」
リンネの熱心な様子をルウはちらりと上目《うわめ》遣《づか》いで見つめる。
「ほ、ほんと?」
「うん!」
「そ、そんなに言うんだったら、あげてもいいけど……」
ルウはいかにもしぶしぶといった体《てい》で紙袋の中から本を取り出すとリンネに手渡した。ルウが選んだのか、本はかわいらしい包装で綺麗にラッピングされ、リボンまでかかっている。リンネはほっぺを上気させてそれを受け取った。
「へへー。ありがとう」
リンネは包装を撫《な》でると相好《そうごう》を崩《くず》した。白い歯と共にブリッジがちらりと顔を覗《のぞ》かせる。リンネが本を貰《もら》って喜ぶなんて、たぶん有史以来初めてだろう。
「やあね。そんなににやにやしないでよ」
「だって嬉《うれ》しいんだもの」
「ふ、ふん。少しはそれで読書するといいわ」
思わず綻《ほころ》びそうになる表情を隠すように、ルウはそっぽをむくと憎《にく》まれ口を叩《たた》いたが、さすがにリンネもそれが照れ隠しだとわかるだけに腹は立てない。それに僕にはわかっていた。本をプレゼントに持ってきてくれたルウを前に、「ただでさえ本が多い」などと言ってしまったことに気づいたリンネがルウをがっかりさせまいと一生|懸命《けんめい》喜んでいるということが。
リンネとルウが出会ったのは一ヶ月前。リンネが古い本を拾ったことに端《たん》を発《はつ》した、ある事件がきっかけだった。『時の旋法《せんぽう》』と呼ばれ、のちにリンネが時《とき》砕《くだ》きになるきっかけを作ったその古書の落とし主を捜《さが》しているうちに僕らはルウと知り合ったのだ。
知り合った早々火花が出るような大喧嘩《おおげんか》をした二人は、ついには互《たが》いの面子《メンツ》を懸《か》けて勝負することになったが、逆にそれが良かったのかもしれない。意地っぱりで感情表現が下手なルウに対して、天真|爛漫《らんまん》であまり物事にこだわらないリンネと、性格はまるで正反対な二人だけど、今ではすっかりうち解けた様子である。ルウは同じ『街の住人』として、リンネが作った初めての友達なわけだけど、案外そのへんの事情はルウも同様なのかもしれなかった。
ちなみにのちにリンネに聞いたところ、プレゼントの中身はジョン・アーヴィングの『ホテル・ニューハンプシャー』の原書だったというから、いかにもアメリカ文学好みのルウらしい選択《せんたく》である。
「これで読む本がまた一冊増えたね。しばらくは読書|三昧《ざんまい》だな」
僕の言葉にリンネは一瞬《いっしゅん》詰《つ》まったが、何とか態勢を立て直しすまし顔で言った。
「そうね。これで少しはしのげそうね。まったく、近頃《ちかごろ》は読みごたえのない本ばかりだから困るわ」
つい先刻まで少しは本を読みなさいとママに叱《しか》られていたことなどおくびにも出さず、リンネはポーカーフェイスを粧《よそお》うと精一杯《せいいっぱい》の見栄《みえ》を張ったので、僕はついからかいたくなった。
「本《ほん》嫌《ぎら》いのご先祖様の血を引いている子とは思えない台詞《せりふ》だ。活字を見るとジンマシンと悪寒《おかん》と引きつけをいっぺんに起こすんじゃなかったっけ?」
「もうっ。久高ったら、よけいなことは言わなくてもいいのっ!」
リンネは真っ赤になってむくれる。さすがに僕は吹《ふ》き出し、ルウまで笑い出した。リンネは最初口を尖《とが》らせていたが、次第《しだい》におかしさがこみ上げてきたのか、しまいには自ら声をあげて笑った。
その後、僕らはおしゃべりしたり、Gの作ってくれたスコーンを食べながら借りてきた映画を見たりした。その楽しげな雰囲気《ふんいき》を聞きつけたのか、ねはんが仲間に入りたそうにドアの隙間《すきま》から顔を覗かせていたので部屋に入れてやり、最後は四人|一緒《いっしょ》に独逸《ドイツ》製のボードゲームをして遊んだ。
やがて夕刻になった。
ルウは折り目正しい挨拶《あいさつ》をして帰っていき、その後少し残っていた僕も夕飯の時間が近づいたのでおいとますることにした。
「あ、久高くん。ちょっと待って」
帰りがけ、僕は一階のソファーで編み物をしていたママさんに呼び止められ、本運びを手伝ってくれたお礼として重たいビニール袋《ぶくろ》を手渡《てわた》された。家に帰ってから開けてみると中には橙色《だいだいいろ》に輝《かがや》く柿《かき》がどっさり入っていた。
いい日だった。
[#改ページ]
3章
「リンネ、ちょっとここに座りなさい」
一般論《いっぱんろん》として、子供が母親から妙《みょう》に改まった態度で呼び出されるときは決まってろくなことがない。僕の経験から言ってもそれは揺《ゆ》るぎのない事実だ。叱られるか、勉強しなさいと言われるか、いずれにせよそれは長く暗鬱《あんうつ》な時間の到来《とうらい》を告げる鐘《かね》の音であって、子供なら誰《だれ》しも取りあえず聞かなかったことにしたい類《たぐい》のものであることは間違《まちが》いない。そして、そのへんの事情は人間の子も時《とき》載《の》りの子もさして変わりはない。
夕ご飯を通常の三倍のスピードで読み飛ばし、やれやれと食卓《しょくたく》を後にしかけたリンネを、ママさんがふと呼び止めたのは箕作家を浸潤《しんじゅん》していた本の整理もようやく一段落し、一家が再び落ち着きを取り戻《もど》した初秋のある晩のことである。
「なあに? ママ」
眼鏡《めがね》を外し、さあてこれから何をして遊ぼうかと、寝《ね》るまでの猶予《ゆうよ》を有効活用すべく、わくわく顔で部屋に向かいかけていたリンネは何となくぎくりとして立ち止まった。
「いいからそこに座って」
とっさにリンネは最近の自分の行いを脳裏《のうり》に思い浮《う》かべ、その中から小言の種になりそうな物をひとつひとつ検証していったが思い当たる節がなかったので、取りあえずその中でもいちばん叱られる確率の高そうな事柄《ことがら》について先回りして言い訳することにした。要するに叩かれる前に来《きた》るべき襲撃《しゅうげき》に備え防衛線を張ったわけである。
「ほ、本はちゃんと読んでるもん。『資治通鑑《しじつがん》』だって、ええと、三巻まで読んだし、ゆうべはねはんと遊んでて二ページしか読まずに寝ちゃったけど、でも、それまではちゃんと約束通り読んでたわ。最近はいい子にしてるわ」
「莫迦《ばか》ね。お説教じゃないわよ」
ママさんが笑ってリンネの頭の上にぽんと掌《てのひら》を載せたのでリンネはほっとして、言われたとおりソファーに腰《こし》を下ろした。そんな愛娘《まなむすめ》に向かってママさんは言った。
「リンネ、来週の日曜日にお使いを頼《たの》まれて欲しいの」
「どこ行くの?」
「ある方のところへご挨拶に伺《うかが》って欲しいの」
「誰のところ?」
「ママの古い知り合いで、昔からお世話になっている方よ。緒方《おがた》さんとおっしゃってね。たいへんな資産家の上に蔵書家でもいらして、ほら、この問うちに本を贈《おく》ってくださったのも緒方さんよ。そのお礼に伺いたいんだけど、ママはその日どうしてもはずせない用事があって、それで代わりにあなたに行ってきて欲しいの」
「ふうん」
リンネは脚《あし》を揺らしながら生返事をした。
「当日にお手紙の入った封筒《ふうとう》を渡すから緒方さんに直接お渡ししてね。失礼のないように、きちんとご挨拶するのよ。あと、あなたからもお礼を言ってね。『このたびはたくさんの御《ご》本を戴《いただ》き、どうもありがとうございました』ってね。この間買った青いワンピースを着ていくといいわ。上品だし、今の季節にちょうどいいだろうから」
「でもあれ、ちょっとおっきいよ」
「裾《すそ》と丈《たけ》はその日までにママが調節してあげるわ」
「私ひとりでいくの?」
「そうよ。しっかりね。場所はちょっと遠いけど、住所を書いたメモを渡すから大丈夫《だいじょうぶ》よね」
「えーっ。……ねはんは?」
「ねはんはママと一緒《いっしょ》に別の用事に行くわ」
「ママはついて来ないのね?」
「ええ。ついて行かないわ」
「……行くのは私だけ? ちょっと心細いなあ」
口を尖《とが》らせつつ思わずリンネが本音を漏《も》らすと、ママさんはにっこり笑った。
「そう言うと思って援軍《えんぐん》を呼んでおいたわ。久高くんに一緒に行ってもらうようにお願いしたから二人で行ってくるといいわ」
「久高と?」
「そ。ちゃんとお礼を言っておかなきゃダメよ。わざわざお休みの日についてきてくれるんだから」
「久高も行くんなら、まあいいけど……。でもなあ」
ちょっぴり不安そうな娘の髪《かみ》をママさんはくしゃくしゃと撫《な》でた。
「大丈夫よ。きっとできるわ。リンネももうお姉さんでしょ」
……という会話が箕作家で交《か》わされた翌週。
リンネのお使いに付き合うべく、僕は箕作|邸《てい》の門をくぐった。ある晴れた日曜の午後のことである。
先方がどんなお宅かはわからないけれど、一応お呼ばれした手前、あんまりむさくるしい格好もいけないだろうということで、母さんが選んだ服を着こんだ僕を見るなり、リンネは玄関先《げんかんさき》で笑い転げた。
「なあに久高、その格好っ」
「うるさいやい。着たくて着てるんじゃないやい」
僕は憮然《ぶぜん》として言った。
別に身体《からだ》をくの字にして腹を抱《かか》えるリンネの反応を見なくても自分の格好がせいぜい七五三の御祝《おいわ》い着みたいにしか見えないというのは百も承知だ。糊《のり》のきいたスラックスに同じく糊のきいた白いワイシャツ、ベージュのカーディガン。頭にはご丁寧《ていねい》に櫛《くし》まで入れてやがる。
ちぇ。だからやだったんだ。
「ご、ごめん。今日は来てくれてありがとね」
やっと笑いを収め、リンネは真面目《まじめ》な表情を拵《こしら》えようとして言った。
そう言うリンネの格好は胸元《むなもと》の丸いクルミのボタンが愛らしい、大人っぽいブルーのワンピース。膝丈《ひざたけ》からのぞく脚は素足《すあし》ではなく白のストッキングで、今日は完全に『おすまし』モードだ。いつもはざっくばらんに肩口《かたぐち》に流している金髪《きんぱつ》も今日は念入りにブラシで梳《す》いたのか、まるで光の奔流《ほんりゅう》のようにうなじから背中へとまっすぐに流れている。
「どう? 久高」
腰に手を当て、前髪の下で紫色《むらささいろ》の瞳《ひとみ》を悪戯《いたずら》っぽく輝《かがや》かせるとリンネは得意げに問うた。
「どうってなにが?」
「もうっ。だから感想よ!」
「すごくかわいいよ」
「ホント?」
「うん」
リンネはちょっぴりほっぺを染めると、黙《だま》って左右の肩を揺《ゆ》らした。それからちらっと瞳を上げると言った。
「ね、もっと言って」
僕は頭をかいた。こういう時って困るんだよな。
やむなく僕は言った。
「や……だから、すごくいいと思うよ。学習発表会みたいで」
「はっ」
僕の精一杯《せいいっぱい》の讃辞《さんじ》に、恥《は》ずかしそうに褒《ほ》め言葉を待っていたリンネはとたんに片眉《かたまゆ》をいっぱいに上げると、露骨《ろこつ》に哀《あわ》れむような視線を向けて小さく肩をすくめた。ちぇ、何だよその憫笑《びんしょう》は。だったら最初から僕に感想なんて求めなきゃいいんだ。
そこへママさんが姿を現した。
「わざわざごめんなさいね。久高くん」
いつものようにのんびりとした口調で言うと、自分の前にリンネを立たせ、両手で襟元《えりもと》を整えてやる。そしてエプロンのポケットから封筒《ふうとう》を取り出すと、顎《あご》を上げて佇《たたず》むリンネに手渡《てわた》した。
「いい? これがお手紙よ。忘れずにきちんとお渡ししてね。それからこっちが住所を書いたメモ。落としちゃダメよ。緒方さんにお会いしたら恥ずかしがらずにご挨拶《あいさつ》をしっかりすること。帰りはあまり遅《おそ》くならないようにね。ハンカチは持った?」
「ママ。あんまり子供|扱《あつか》いしないで頂戴《ちょうだい》」
そのいかにも幼子に噛《か》んで言い含《ふく》めるような物言いにうんざりしたようにリンネは口を尖らせた。ママさんは仕方なさそうに微笑《ほほえ》むと、ちらりと僕にまなざしを投げ、軽くうなずく。
「とにかく、しっかりね。あんまり久高くんに厄介《やっかい》かけちゃダメよ」
「やっかいなんてかけないもん。さ、行くわよ久高!」
元気よくそう言うとリンネは黒のローファーをつっかけ、燕《つばめ》のように身を翻《ひるがえ》して表へと飛び出した。
「それじゃあ、行ってまいります」
ママさんの笑顔《えがお》に見送られ、僕らは箕作邸を出発した。
メモに記された住所まではずいぶん距離《きょり》があった。
もう街外れに近い、郊外《こうがい》にある小さな駅で電車を降りた僕らは、坂と起伏《きふく》の多い道筋のせいで二度道に迷い、ようやく目指す家とおぼしき場所を見つけたのは改札をくぐってかれこれ三十分は経過しようかという頃《ころ》だった。
「わあ……」
そこは山《やま》の手《て》の閑静《かんせい》な住宅街の一画だった。宅地の狭間《はざま》を縫《ぬ》うように伸《の》びた勾配《こうばい》の中腹、長い坂道に面を合わせるように門を構えた洋館が建っている。箕作邸とはまた趣《おもむき》を異にした年代物の洋館である。蝶番《ちょうつがい》の錆《さ》びた格子扉《こうしとびら》を押し、煉瓦《れんが》製の門をくぐった僕らはそのまま目の前を見上げた。
「素敵ねえ」
リンネが呟《つぶや》いた。
箕作|邸《てい》が古いながらも瀟洒《しょうしゃ》で端正《たんせい》な佇まいを有しているとするなら、この邸宅はどこか親しげな、人懐《ひとなつ》かしい剽《ひょう》げた雰囲気《ふんいき》を醸《かも》し出している。決して仰々《ぎょうぎょう》しい豪邸《ごうてい》ではないけれど、なんだかとても住みやすそうな家屋だ。
ポーチには小さな鉢《はち》がいくつも並んでいた。左手には手入れが行き届いた中庭もあり、この館《やかた》の主《あるじ》がかなりの植物好きらしいことがうかがえる。
僕は縁石《えんせき》に足を載《の》せた。柘植《つげ》の植栽《しょくさい》が風に揺られ、さわさわと音を立てている。
「ちょっと待って」
エントランスに立った僕を押し止《とど》めるように、リンネが手で制する。そして掌《てのひら》を胸に当てると目を閉じ、ふっと息をつくとなにやら口の中でむにゃむにゃと呟く。きっと挨拶の練習をしていたのだろう。
「よし、いいわ」
それから意を決したようにリンネはインターホンを押した。
低いブザー音が鳴るとややあって扉が開き、中からエプロンを纏《まと》った女の人が現れた。どうやらお手伝いさんらしい。
その女の人は粛々《しゅくしゅく》と僕らを出迎《でむか》えると、奥の洋間へと案内してくれた。
「奥様、お客様がお見えになりました」
「そう」
そこは壁端《かべはし》にマントルピースが設《しつら》えられた小ぶりな部屋で、品の良さそうな老婦人が暖炉《だんろ》に面した椅子《いす》に腰《こし》を下ろし、本を読んでいた。この人が緒方夫人だろう。老婦人は栞《しおり》を挟《はさ》み、静かに本を閉じた。
リンネは緊張《きんちょう》の面持《おもも》ちを浮《う》かべつつも、淀《よど》みなく言った。
「ご招待にあずかりまして。私、箕作リンネと申します」
「まあ、かわいいお客様だこと」
緒方夫人は肘掛《ひじか》けに手を置いたままゆったりとした笑みを浮かべた。七十歳くらいの、貫禄《かんろく》のある、少し太めのおばあさんだった。
「緒方|澄香《すみか》です。今日はよく来てくれましたね」
そう言うと夫人は奥深い眼差《まなざ》しをリンネに向けた。
「遠いところご苦労だったわね。道には迷わなかった?」
「はい」
「そう。それは良かったわ」
緒方夫人はどうやら一目でリンネのことが気に入ったらしかった。人懐っこい性格のせいか、もともと小さい頃から年上の人間には妙《みょう》に好かれるたちのリンネだが、このときは第一印象からお互《たが》いが好印象を持ったらしい。リンネはほっぺを染め、その紫《むらさほ》の瞳《ひとみ》は恥ずかしそうに瞬《またた》いた。
[#挿絵(img/mb874_063.jpg)入る]
僕もぺこりと頭を下げた。
「楠本《くすもと》久高です」
老婦人は僕のほうに向きなおると僅《わず》かに目を細めた。
「楠本先生のお孫さんね。先生はお元気?」
「あ、はい」
意外な問いに、僕は戸惑《とまど》いつつも返事をした。
「さ、どうぞ座ってくださいな」
「はい。失礼します」
リンネは両膝《りょうひざ》をぴたりと揃《そろ》えると行儀《ぎょうぎ》良くソファーに腰を下ろした。僕もそれに倣《なら》う。
僕は無遠慮《ぶえんりょ》にならない程度に部屋の中を見渡《みわた》した。
そこは居心地《いごこち》のいい部屋で、部屋の主が過ごしやすいように長い時間をかけて少しずつ入用な品々を配置していった、というように、細々とした物がすぐ手の届くところに置かれていた。書架《しょか》があり、安楽椅子があり、新聞や老眼鏡《ろうがんきょう》の載ったサイドテーブルがあり、絵や写真の入った小さな額が壁の至る所に飾《かざ》ってあるといった様子からは応接室ではなくリビングのようでもある。だが見るからに雑多に物に溢《あふ》れているにもかかわらず、不思議と散らかった印象はない。
「先日はたくさんの御《ご》本を戴《いただ》き、どうもありがとうございました」
『おすまし』モード全開のリンネは膝を崩《くず》さぬまま丁寧《ていねい》に頭を下げた。緒方夫人は鷹揚《おうよう》に首を振《ふ》った。
「まあ。ご丁寧に。お役にたったのなら何よりだわ。かえってこちらからお礼を言わなければならないくらい。見ての通り、この家も手狭《てぜま》になってきていてね。本たちもこんなところで死蔵されているよりはあなたのようなお若い方の知識となり、骨肉となったほうがよほど本望《ほんもう》だと思ってお贈《おく》りしたの」
「あの、おばさまは、あ、ごめんなさい」
「いいわよ。おばさまで。もっとも、おばさまと言われる歳《とし》でもないけれど」
顔を赤くするリンネに向かって、緒方夫人は穏《おだ》やかに微笑《ほほえ》んだ。リンネはほっぺを上気させつつ訊《たず》ねた。
「おばさまは久高のおじいさまのことをなぜご存じなの?」
「楠本先生には昔、ひとかたならぬお世話になったことがあるの。話せば長くなってしまうような縁《えん》でね。そう、不思議な因縁《いんねん》」
「そうだったんですか……」
僕とリンネは顔を見合わせた。
僕のじいちゃん、楠本|南涯《なんがい》は現在|欧州《おうしゅう》にいる。リンネとは馬が合うのか、昔から仲がよく、その間柄《あいだがら》はほとんど肉親と変わらないが、教職にありながら年の大半を海外で過ごすその生活|故《ゆえ》に最近はなかなか会えずにいる。
つい先月も、久しぶりに日本に帰ってきたと思ったら三、四日ですぐに欧州に舞《ま》い戻《もど》ってしまっただけに、まさかこんなところで名を聞くとは思わなかった。昔っから得体の知れない人だったけれど、このぶんじゃ僕のあずかり知らぬところでまだいろいろと暗躍《あんやく》してそうだ。
「あ、いっけない」
ふとリンネが思い出したように呟《つぶや》いた。
「マ……母から手紙をあずかってきました」
「ありがとう」
緒方夫人はリンネから手紙を受け取ると、たぶん老眼鏡だろう、眼鏡《めがね》をかけその手紙を開いて目を通した。その間、僕らは大人しく待った。やがて一通り手紙を読み終えた緒方夫人は眼鏡を外し、改めて僕らの方に向きなおった。
「今日はゆっくりしてらしてね。何もないけれど、せっかく遊びに来てくれたのだから」
そう言うと手元にあったベルを鳴らしお手伝いさんを呼ぶ。
「お菓子《かし》を持ってきて頂戴《ちょうだい》。それと飲み物と」
「かしこまりました」
「あのう……」
「いいのよ。遠慮《えんりょ》しないで召《め》し上がっていって。ちょうど良かったわ。実は昨日、おいしいクッキーの詰《つ》め合わせが届いたの」
夫人の言葉にリンネの瞳は嬉《うれ》しそうに瞬いた。
やがて紅茶とクッキーとケーキがトレーに載《の》せて運ばれ、紅茶の芳《かんば》しい匂《にお》いがテーブルの上に薫《かお》るようになると、あたりにはくつろいだ雰囲気《ふんいき》が満ちた。
また緒方夫人はまるでリンネの好みを知っているかのように、ふんだんにあるお菓子を次々と運ばせ、間違《まちが》っても分厚い百科事典を勧《すす》めたりしなかったので、リンネとしてはそのもてなしに思わず「地が出そう」になるのを堪《こら》えるのがやっとだった。
それでもリンネはお行儀良くかしこまり、それら甘い物にまったく手を付けていなかったが、やがて夫人の勧めもあって、一つ二つ甘いチョコを口に放《ほう》り込んで思わずにんまりするくらいにはガードは下がったのである。
「どうしよう。こんなに食べたら太っちゃうわ」
思わず本音を漏《も》らしたリンネに夫人は頬《ほお》をほころばせた。
「あら。そんなこと気にしてるの? 駄目《だめ》よ。あなたぐらいの年頃《としごろ》の子がそんなことを気にしていては。お二人は何年生?」
「小学六年生です」
「だったらなおのことたくさん食べないと。今は身体《からだ》が作られていく時期なんですからね。ああ、そう言えばあなたは時載りだったわね。あなたにはお菓子のかわりに本が必要かしら?」
「いえ。結構ですっ」
リンネが雷光《らいこう》のような素早《すばや》さで即答《そくとう》したので僕と夫人は思わず吹《ふ》き出した。
緒方夫人は思っていたよりもずっと気さくな、気の若い人だったので、僕らはすっかりくつろぎ、時間が経《た》つのも忘れて楽しいひとときをすごした。夫人は箕作家のみならず時載り全般《ぜんぱん》の事情にも深く通じており、それが僕らには不思議だった。
ふと話題が途切《とぎ》れたとき、緒方夫人はリンネをつくづくと眺《なが》めて言った。
「それにしてもあなたは昔のお母様によく似ているわ。お母様はあいかわらずお若く、昔のままなのでしょうね」
リンネはちょっと困ったようだった。
「ええと、毎日会ってるのでよくわかりません」
「そうねえ。あなたにはわからないわね。この手の感慨《かんがい》をお若い人にわかってもらおうとしても無理な話だし、ましてやあなたは時載りの血を引いているのだから。でも私は、お綺麗《きれい》で、まるで花のようだったあなたのママを今でも思い出せるわ」
「おばさまは時載りのことをよくご存じなのね」
「ええ。あなたたち『街の住人』が常に本と寄り添《そ》って生きているということを知るくらいにはね。……そう。あれからいくらも経っていないような気がするのに、もう十二年も経ってしまったの」
緒方夫人は自らの言葉によってふと感慨を呼び起こされたというように、ふっと息をついた。
「さすがにこの歳になるといろんなことがあったわねえ。でも、その中でもあなたのお母様と初めてお会いしたときの印象は特別ね。今もよく憶《おぼ》えているわ。お若いお母様はいつも好奇心《こうきしん》いっぱいで、初めて目《ま》の当たりにする人間界の様子に目を輝《かがや》かせていた。わくわくしている気持ちがこちらにも伝わってくるようでね。そう、ちょうど今のあなたと同じように」
そう言うと緒方夫人は稚気《ちき》たっぷりに眉《まゆ》を上げ、意外な言葉をリンネに投げた。
「知ってる? 実はわたしたちは会うのは初めてではないのよ。あなたがまだお母様の膝《ひざ》にだっこされている時分、私はあなたのおうちに伺《うかが》ったことがあるの」
「本当ですか?」
リンネはびっくりして訊《たず》ねた。
「ええ。あの古いおうち。――ごめんなさいね。古いなんて言ったりして。でも当時、あばら屋で買い手が付かないまま長く放置されていたあの家……越《こ》してから間もなくて、まだろくに手も入れていなかった頃のあなたのおうちを訪ねた時、私はようやくハイハイできるようになったあなたと、あなたをだっこするお母様にお目にかかったの。『塔《とう》』を降り、日本に来たばかりのお母様はまるで妖精《ようせい》のようで……そう、その横にはあなたのお父様もいた」
「……お父さんが」
リンネは面《おもて》を上げ、小さくつぶやいた。
箕作|剣介《けんすけ》。
リンネの父親にしてじいちゃんの教え子。
学者であり時載りの研究に従事していた彼は、四年前、突如失踪《とつじょしっそう》した。現在に至るもその生死は不明。人間でありながら時載りの妻を娶《めと》った彼の研究は、時載りに「有限と生」及《およ》び「時間という概念《がいねん》」を与《あた》えるという時載りの生態の根幹を揺《ゆ》るがしかねないものであり、一説によれば彼の研究を脅威《きょうい》に感じた『塔』及び時載りによって裁かれたとも殺されたとも言われている。
じいちゃんはかつて鬼才《きさい》とまで称《しょう》されたこの教え子の行方《ゆくえ》を案じ、ここ数年その行方を追っているがいまだ消息は掴《つか》めていない。リンネもまた、生後間もない弟のねはんを残して自分たちの前から姿を消したパパさんを長いこと案じ続けている。
いつも天真|爛漫《らんまん》なリンネが唯一《ゆいいつ》胸に宿す瑕瑾《かきん》、それがパパさんの不在なのだ。
「それで、お父様の行方はまだわからないの?」
緒方夫人はかなりこちらの事情に通じているらしく、優《やさ》しく訊ねた。リンネは心もちしょんぼりしてうなずいた。
「ええ。おじい様が捜《さが》してくださってはいるんですけど……」
「そう」
夫人はそれ以上この話柄《わへい》に深入りすることなく、穏《おだ》やかに言った。
「でも、そのうちきっと会えるわ。こんなかわいい娘《むすめ》さんに会いたいと思わない親御《おやご》さんがいるはずないものね」
やがて夕刻が迫《せま》り、帰る時間になった。
夫人は立ち上がるとわざわざ玄関《げんかん》まで見送りに来てくれた。「ご挨拶《あいさつ》はきちんと」というママさんの言いつけを最後まで守り、リンネは夫人に向かってぴょこんと頭を下げた。
「どうもごちそうさまでした。失礼いたします」
「今日はとても楽しかったわ。また遊びにいらしてね。そうね、来週の日曜はどうかしら?」
「また来てもいいんですか!?」
年配者キラーぶりを遺憾《いかん》なく発揮してリンネが目を輝かせると、夫人は嬉《うれ》しそうにうなずいた。
「もちろんよ。今度は是非《ぜひ》お友達も連れてきてちょうだい。その時は私のとっておきの場所へ案内してあげるわ。もちろんお菓子《かし》をたっぷり用意してね」
夫人の言葉にリンネは破顔した。
帰り道、やや暮れかけた夕空のもと、下り坂を歩く僕らの影《かげ》が赤く染まった路面に長く伸《の》びていた。
「ああ、苦しかった」
慣れぬ拘束衣《こうそくい》にすっかり辟易《へきえき》し、僕がワイシャツの胸元《むなもと》を弛《ゆる》め首を左右に回すと、リンネは足下《あしもと》にあったマンホールの蓋《ふた》をぴょんと飛び越えてくすりと笑った。
「久高ったら借りてきた猫《ねこ》みたいだったわね」
「襟足《えりあし》に定規《じょうぎ》を挿《さ》してる気分だったよ。やっぱり着慣れたかっこが一番いいや」
「でも私は楽しかった。とても優《やさ》しいおばあさまだったもの」
坂の途上から眼下に広がる街並みを見下ろしつつリンネは言った。夕風に乗り、どこか遠くで列車が高架《こうか》の上を流れていく音が耳に届いた。
リンネの下へ緒方夫人より正式な招待状が送られてきたのはそれから間もなくのことだった。
「箕作さん、郵便ですよー」
「はーい」
ばたばたとスリッパの音を立てながら玄関に出てみたリンネはドア脇《わき》の古ぼけた郵便受けの中に夫人直筆の自分|宛《あて》の封筒《ふうとう》を発見したというわけだ。中を検《あらた》めたリンネは得意満面、招待状を前にすまし顔でベッドの上に大胡座《おおあぐら》をかくと、大いばりで言った。
「ふふん。またお呼ばれしちゃった」
「ふーん」
「お友達かあ。困ったな。いったい誰《だれ》にしようかしら?」
いかにも人選に思い悩《なや》むといった体《てい》で、リンネはすまし顔で頤《あご》にこぶしを当てている。
へん。
僕は努めて無表情をこしらえると、我ながらほれぼれするほどクールに言った。
「また首を締《し》めつけなくてもいいならついてってやってもいいぜ」
リンネは表情を崩《くず》すと、くすりと笑った。
「久高ったら、とっくに見透《みす》かされてるみたいよ。今度はかた苦しい格好をしてこなくてもいいってわざわざ書いてあるわ」
さすがにぐうの音も出ず、降参した僕を取りあえず頭数《あたまかず》に入れてくれたリンネは、早速《さっそく》大本命に電話することにした。むろん、海保ルウである。
『お屋敷《やしき》にご招待?』
電話口に出たルウは考えこむような口調で慎重《しんちょう》に言った。
『そりゃあ、お招きいただけるのなら、遠慮《えんりょ》なく伺《うかが》わせていただくけれど』
「よし。決まりね」
一番の仲よしを誘《さそ》い意気|揚々《ようよう》のリンネだったが、そこへ何とGがお目付役として加わることになった。子供たちが大勢で押しかけて何か粗相《そそう》があってはならないと、ママさんは年長者を一人つけておくべきだと判断したのだろう。どこか釈然《しゃくぜん》としないリンネはぶつぶつ言ったが、むろんGが来ることに異存があるわけではない。人選を終えたリンネは早速僕に連絡《れんらく》を入れてきた。
『というわけで、Gも入れて四人になったわ』
その電話を自分ちのリビングで受け、僕はソファーの上でごろりと横になった。ま、今回はラフな格好でいいとあらかじめ言われているだけに、また母さんが選んだあの地獄《じごく》のようなお仕着せを着ずにすむ。それだけでもかなり気楽ではある。
「ねはんは行くの?」
『ねはんはまだちっちゃいから、さすがに遠慮したほうがいいんじゃないかってママは言ってるの。だから私たちとルウとGの合わせて四人よ』
「ふむ」
僕は相槌《あいづち》を打ったが、ふとソファーの端《はし》っこで宿題のノートを広げている小柄《こがら》な姿に気づき、一瞬《いっしゅん》沈黙《ちんもく》した。それから身を起こして居ずまいを正すと、試《ため》しにリンネに訊《たず》ねてみる。
「あのさ、悪いんだけど、もう一人増えてもいいかな?」
ぴくん、と小さな肩《かた》がふるえるのがわかった。無関心を粧《よそお》いつつも黒いおかっぱ髪《がみ》の下で耳がダンボになっているのを察しつつ、僕は訊ねた。
「できれば凪も一緒《いっしょ》に連れて行きたいんだけど」
『凪ちゃん? もちろんよ。大勢で行ったほうが楽しいもの』
受話器の向こうでリンネは屈託《くったく》なく応じた。僕は礼を言い、その後一言二言話して電話を切った。
「……というわけだから、日曜は空けとけよ。お出かけするんだから」
いつの間にか横にちょこんと腰《こし》かけている凪に向かって僕は言った。凪はこくりとうなずいた。
僕の妹の凪は現在小学三年生。僕やリンネと同じ小学校に通っている。
考え深そうな黒い瞳《ひとみ》を持った、外見はどこにでもいそうなごく普通《ふつう》の女の子だけど、その身の内にある不思議な能力[#「ある不思議な能力」に傍点]を抱《かか》えているという点ではリンネと同様だ。いや、力の規模で言えば、むしろ凪の方が上かもしれない。
性格は大人しくて控《ひか》えめ。兄貴の僕でさえその声を日に一度も聞かぬことが珍《めずら》しくないほど無口な上に、鉄仮面《てっかめん》みたいに表情に乏《とぼ》しい子だけど、この時ばかりはまったく喜んでいないわけではないことはスキップを踏《ふ》んで部屋へと向かうその足取りの羽毛《うもう》のような軽《かろ》やかさでわかる。
ま、たまにはいいよな。
小さな足音が階段を上っていくのを耳にしつつ、僕はもういっぺんごろんとソファーに横になった。
で、翌週の日曜日。
涼《すず》やかな秋晴れの下、箕作|邸《てい》の前に集合した僕らを迎《むか》えたのはなめらかなボディの表面が蠱惑的《こわくてき》な輝《かがや》きを放つ、まっ黒なリムジンだった。
「箕作様。本日の送迎《そうげい》を承《たまわ》りました」
あっけにとられる僕らをよそに、車の横に立っていた運転手とおぼしき人は自分の肩ほどの背もない子供のリンネに向かって完璧《かんぺき》な礼儀《れいぎ》作法で一礼し、白い手袋《てぶくろ》を填《は》めた手で、これまたうやうやしい仕草でもって後部座席のドアを開ける。
「どうぞお乗り下さい」
「は、はあ」
一瞬の自失の後、リンネはおずおずと車に乗りこむ。僕ら五人をその体内に収めてしまうと、黒塗《くろぬ》りの車は音もなく走り出した。
「すごいお出迎《でむか》えね! いったい今日お伺いする方はどういう方なの?」
広々とした座席に身体《からだ》を落ち着けるなり、ルウは興奮した様子でリンネに囁《ささや》いた。
凪とGの間に腰を下ろした僕は改めて車内を見渡《みわた》した。車には全然|詳《くわ》しくない僕でも、取りあえずこの車がすごく立派だということはわかる。普通の車は向かい合わせに座ったりしないもんな。
「どういう方って、ええと……なんて言うべきかしら」
リンネは困って言った。
車はあっという間に住宅街を抜《ぬ》け、郊外《こうがい》へ出た。窓の外で景色は飛ぶように流れていき、次第《しだい》にあたりの緑が深くなる。緒方邸の方角はとうに過ぎたし、どこに向かうのだろうと訝《いぶか》しむ僕らを乗せて走ること三十分。目的地に着いたのか、車はようやく減速する気配を見せた。ふと日差しが途切《とぎ》れ、窓を覗《のぞ》くと鬱蒼《うっそう》と犇《ひし》めく木立が見えた。
「ここどこなんだろ?」
「さあ」
車は両脇《りょうわき》を緑樹に囲まれた車道をゆっくりと進んでいく。五百メートルほど行くと突然《とつぜん》視界が開け、広大な敷地《しきち》が現れた。
「わあ、広い!」
車を降りるなりリンネが叫《さけ》んだ。
冴《さ》えた秋空の下、絨毯《じゅうたん》を敷《し》き詰《つ》めたように短く刈《か》られた芝《しば》が遥《はる》か遠くまで続いている。そこは広大な庭園で、林の一部を切り取った一画にまるで童話の挿絵《さしえ》そのままの光景が現出している。なだらかな起伏《きふく》の丘《おか》を花畑が彩《いろど》り、樹木は自然《じねん》の姿そのままに枝葉をいっぱいに広げている。
僕らは足下《あしもと》に延びた畦《あぜ》のような小道をたどり、敷地内に入った。しばらく行くと背の高い果樹の向こうに白亜《はくあ》の洋館が現れ、その入り口に緒方夫人が待っていた。
「いらっしゃい」
「こんにちは。おばさま!」
ててて……と走りより、リンネは元気に挨拶《あいさつ》した。
「まあまあ。よく来てくれたこと」
緒方夫人は鷹揚《おうよう》にうなずき、リンネの後ろから現れた僕ら四人を眺《なが》めて目を細めた。リンネの紹介《しょうかい》のもと、順番に夫人に挨拶をする。夫人は笑顔《えがお》でいちいちそれにうなずいて応《こた》えた。
紹介が済むとリンネは急《せ》ぎこんで訊ねた。
「おばさま、ここ、どこなんですか?」
「この間お話ししたでしょう。ここが私のとっておきの場所よ」
「とっておきの場所?」
「そう。私の秘密基地。私の秘密の庭よ」
「まあ……」
夫人の庭と聞き、リンネはぽかんと口を開けた。
僕はその場に佇《たたず》んだまま、改めて四囲をぐるりと見渡した。
庭、と言うからには、今僕らが目にしている景色はすべて夫人の私有地であるということか。どうやらこの人は僕らが想像もつかないようなお金持ちだったらしい。
「すごいわ。私、こんな広いお庭は初めてっ」
「今日は楽しんでいって頂戴《ちょうだい》ね。取りあえず、お茶をどうぞ」
夫人はそう言うと、僕らを近くの木陰《こかげ》へと促《うなが》した。
そこには小さな東屋《あずまや》だった。脇には大きな山毛欅《ぶな》があり、まるで天蓋《てんがい》のように伸びた枝葉が芝の上に淡《あわ》い影《かげ》を落としている。その下では白いクロスのかけられたテーブルが置かれ、既《すで》に来客を迎える用意が出来ていた。
瀟洒《しょうしゃ》なティーセットと共にメイド服を着たお手伝いさんが控《ひか》え、さらには今日の日のためだけに派遣《はけん》されたという専属のパティシエさんが腕《うで》によりをかけたスイーツが後から後から運ばれてくる。
僅《わず》かに秋めく陽気と清爽《せいそう》な風があたりを包む中、屋外での贅沢《ぜいたく》なお茶会が始まった。
育ち盛《ざか》りの食欲を遺憾《いかん》なく発揮して色とりどりのケーキやムースを思う存分|頬張《ほおば》った後、僕らは庭園の中を散策することにした。
お茶を飲み干すや否《いな》や待ちかねたように真っ先に駆《か》けだしたリンネの後に続いて、ゆっくりと花壇《かだん》を見て回る。栽植《さいしょく》の労や丹精《たんせい》を凝《こ》らした花作りの妙《みょう》はわからないまでも、その色や形を見て楽しむことは出来る。僕はGやルウと一緒《いっしょ》に、じきに季節を終える芳花《ほうか》の最後の花盛りを眺めて回った。
ふと凪の姿が見えないことに気づき、僕は後ろを振《ふ》り返った。凪は最後尾《さいこうび》で花壇の端《はし》にしゃがみこみ、色鮮《いろあざ》やかに組み合わされた植えこみを無心で眺めている。
今日の凪はがんばっておめかししてきたのか、それとも何者かに対抗《たいこう》意識を燃やしているのか、青い、よそ行きのワンピースを着ている。そのワンピースが花壇の色に映《は》えている。
僕が引き返しかけた時、緒方夫人が穏《おだ》やかな口ぶりで凪に話しかけているのが聞こえた。
「お花が好きなの?」
凪はこっくりとうなずいた。膝元《ひざもと》で紫《むらさき》のノコンギクが微《かす》かに揺《ゆ》れている。
「そう。気に入ってくれて嬉《うれ》しいわ。この花壇の花はすべて私が自分で種をまいて土を入れて育てたものだから愛着があるの。そうそう。あっちにはとっておきの菜園があって、ビニールハウスではトマトや蕪《かぶ》も植えているのよ」
凪は目を丸くした。
「……お野菜も?」
「そうよ。野菜も果物《くだもの》も取れたてが一番おいしいの。他《ほか》にも大根や馬鈴薯《ばれいしょ》も植えているわ。お野菜だけで二十種類はあるかしら。将来、いつでも八百屋さんを開けるようにね」
「わあー」
おそらく夫人は冗談《じょうだん》で言ったのだろうが、凪は真に受けたのか口を開け、驚《おどろ》きの表情で夫人の言葉を聞いている。夫人は悪戯《いたずら》っぽく微笑《ほほえ》んだ。
「見てみる?」
「はい」
「じゃあ、一緒に行きましょう」
二人が手を繋《つな》いで菜園の方へと歩いていくのを僕は意外に思いつつ見送った。片言《かたこと》とはいえ、凪が知らない人と親しく話すなんて滅多《めった》にないことだからだ。
凪は不思議な力を持っている。
かつて『バラルの末裔《まつえい》』、または『言霊《ことだま》使い』と呼ばれた一族が有していたというその力は、早い話が口に出した言葉の一切《いっさい》がすべて現実のものとなってしまうという呪《のろ》われた能力である。旧約聖書の創世記にも記載《きさい》され、人間が神の怒《いか》りに触《ふ》れた際に崩壊《ほうかい》したという『バベルの塔《とう》』を起源に持つそのいわくつきの力が、何の因果か、自分の妹に具《そな》わっていることに気がついたその日から、僕は鏨《たがね》で締《し》めつけるようにして凪に口を利《き》くことを禁じてきた。言葉さえ発しなければ、それだけ凪がこの世の森羅万象《しんらばんしょう》に干渉《かんしょう》してしまう確率が下がるからだ。
その結果、もともと口数の少なかった凪はさらに無口になり、己《おのれ》の力をある程度飼い慣らした今でも、自ら口を開くことはほとんどない。
じいちゃんはそんな孫の行《ゆ》く末を案じ、凪が普通《ふつう》の女の子として暮らせるように絶えず心を砕《くだ》いている。例えば月に一度、凪が一切の掣肘《せいちゅう》を離《はな》れて思うままに振る舞《ま》える特別な一日、通称《つうしょう》『凪の日』を設《もう》けたこともそうだし、僕に向かって「お前は凪に厳しすぎる」と苦言を垂れることも再三だ。そのことについては僕も自覚がないわけでもないだけに、こうして凪が初対面の相手に心を開いているのを見るのは、驚きの気持ちがある反面、嬉しくもある。
ま、凪が楽しんでいるんなら、今日は来てよかったな。
緒方夫人と凪が菜園|巡《めぐ》りをしている様子を遠くにしばらく眺めた後、花壇を抜《ぬ》け、再びなめらかな芝《しば》の広がる敷地《しきち》に戻《もど》る。
芝の上にはみんながいた。
「凄《すご》いなあ。こんなところでサッカーしたら気持ちいいだろうな。サッカーボールを持ってくれば良かった」
陽《ひ》を浴び、足下《あしもと》から立ちこめる焦《じ》れた芝特有のむせ返るような草の匂《にお》いを胸一杯《むねいっぱい》に吸いこみつつ僕が呟《つぶや》くと、先を歩いていたルウが肩《かた》をすくめた。
「まったく。男の子って単純ね。広い場所を見たら走り回ることしか考えないんだから」
僕は口を尖《とが》らせた。
「じゃあ、ルウならどんなことをするんだよ?」
「そうね。私だったら木陰に座って優雅《ゆうが》に好きな本でも読むわ。風が梢《こずえ》を渡《わた》っていく音や木々の匂いに包まれながら、お気に入りの詩集の、お気に入りのページを開くの。きっと素敵《すてき》だわ」
ルウは胸に手を当て、うっとりと言った。
よくわかんない。
「詩集? そんなんでお腹《なか》がふくれるの?」
時《とき》載《の》りにとっての栄養源は本だが、読書からの栄養|摂取《せっしゅ》率はほぼ活字量に比例する。どんなに内容が高尚《こうしょう》な本でも字数が少なくては栄養にならないわけで、行数も乏《とぼ》しければ字数も少ない詩集はその中でも最たる物だ。つまり時載りの食事情において、活字「量」の重要性は「質」のそれを遥《はる》かに凌駕《りょうが》する。
長年リンネと付き合ってきてその辺のことを知っているだけに、僕としてはふと浮《う》かんだ疑問を口にしたにすぎなかったのだが、ルウにとっては明らかによけいな一言だったらしい。
「はん」
形のいい頤《あご》をつんと上げると、ルウはつけつけと言った。
「男の子って即物《そくぶつ》的でイヤね。いい? 私たち時載りは読む喜び、知る喜びをもって書物を開くのであって、自分の欲得だけで読書をしているわけではないわ。そりゃ私たちだって活字を情報として摂取することもあるけど、でもふだんは日々自分を新たにするためにページを開く。まだ見ぬ書物に巡り会い、読むことによって喜びを得るのはどんな人間も一緒《いっしょ》だと思うわっ。それとも久高くんはただお勉強のためだけに本を読み倒《たお》し、ただ骨格を伸《の》ばすためだけにパンを口にしてきたわけ?」
一気にまくし立てられて僕は閉口した。
「そんなに言わなくてもいいだろ。ちょっと聞いただけなんだから」
「だったらもう少し想像の翼《つばさ》を羽ばたかせることね。自分がそうだからって他人もそうだと考えるのは怠慢《たいまん》だし、想像力が枯渇《こかつ》している証《あかし》よ。まあ、青い芝生《しばふ》を見れば駆《か》け出さずにはいられないような単純な子には到底《とうてい》理解しかねる事柄《ことがら》かもしれないけど」
ルウがそう言ったとき。
「ほらほらルウ、そんなところで何してるのよっ。駆けっこしましょ。どっちが速いか、あそこの楡《にれ》の木まで競走よっ。それっ」
言うなり、僕らの遥か前方をブロンドを靡《なび》かせダッシュで駆けていく女の子が一人。
まるで鉄砲玉《てっぽうだま》みたいに一気に高く聳《そび》える楡の木まで突《つ》っ走ると、リンネはくるりと向きなおり、僕らに向かってぴょんぴょんと飛び跳《は》ねた。
「わーい。私の勝ちっ」
僕とルウは黙《だま》って顔を見合わせた。
ルウが低く溜息《ためいき》をついた。
午後になって少し風が出てきた。
日差しは依然|穏《おだ》やかだったけれど、木立の間を抜ける風に少し肌寒《はだざむ》さを覚えるようになってきたので僕らは館内に入った。
そこは緒方夫人の別邸《べってい》で、外壁《がいへき》は煉瓦《れんが》の赤と御影石《みかげいし》の白が美しい色調を織りなしている。明治《めいじ》華《はな》やかなりし頃《ころ》に迎賓館《げいひんかん》として建てられたものの戦争中は軍部に召《め》し上げられ、戦後は病院として使用されたこともあるらしい。そう言われてみれば、室内のアール・ヌーボー調の瀟洒《しょうしゃ》な趣《おもむき》の中にも、どこか「公」の匂いがするが、夫人が長い時をかけて蒐集《しゅうしゅう》した様々な美術品や絵画が巧《たく》みに配置されている現在の様はさながら博物館の様相を呈《てい》している。
「すごーい……」
膨大《ぼうだい》な美術品の列を目にし、リンネが思わず声を上げる。
屋敷《やしき》は三階建てで、一階と二階は主に美術品や絵画が展示され、どの部屋も自由に行き来できるように屋敷を貫《つらぬ》く長い廊下《ろうか》が渡されている。最上階である三階は間仕切りがなく、フロア全体が一つのホールのようになっていて、床《ゆか》に大理石を敷《し》き詰《つ》めた見事な空間が広がっている。あくまでこの屋敷の本務は書物や美術品の保存にあるらしく、人が住んでいる気配はない。
博物館を借り切ったような贅沢《ぜいたく》さを味わいつつ、僕らは夢中になって館内を見て回った。
壁《かべ》に掛《か》けられた絵画に気を取られて足を留《とど》めがちな凪を残し、一足先にリビングに戻《もど》ってみると、庭に面したテラスに夫人とリンネがいた。
夫人は僕に気づき、微《かす》かに目尻《めじり》をさげた。
「楽しんでいる?」
「はい」
椅子《いす》を勧《すす》められ、僕は二人の脇《わき》に腰《こし》を下ろした。
そこは大きな嵌《は》め殺《ごろ》しの窓で三方を覆《おお》ったテラスで、丈《たけ》の高い硝子《ガラス》越《ご》しにこの広い庭園が一望できる。近くには池があり、時折|水面《みなも》を風が渡《わた》っていくのが見える。刷毛《はけ》で撫《な》でられたようにその表面が僅《わず》かに凪《な》ぎ、風が過ぎると再び平らになる。
透明《とうめい》な水面は鏡のように澄《す》み、冴《さ》え冴《ざ》えとした高い秋空を映している。
「素敵《すてき》なお庭ですね」
もともと人懐《ひとなつ》っこい性格のリンネだが、もう生まれたときからの知り合いだったみたいな顔で夫人とおしゃべりをしている。傍目《はため》にも二人は年齢《ねんれい》の垣根《かきね》を越《こ》え、すっかり仲良しになったように見えた。
「そうね。ここで好きな草木を眺《なが》めながら本を読むのが長い間の念願だったのだけれど、最近はさっぱり来ないの。ダメね、歳《とし》を取るとだんだん出不精《でぶしょう》になってしまって」
夫人はころころと笑った。そしてリンネに向きなおるとふと口調を改めて言った。
「実は今日はあなたたちにお願いがあってお招きしたのよ」
「なんでしょう?」
「ちょっと、こちらに来てくれるかしら」
そう言うと夫人は立ち上がり、僕らは後に続いた。途中《とちゅう》、Gやルウも合流し一緒に廊下を渡る。やがて僕らは夫人が示したドアに通された。
そこはそれまでの部屋とは異なり、ややこぢんまりとした部屋だった。しかも仄《ほの》かに人が使っている気配がある。
「私の書斎《しょさい》よ」
「わあ。かわいいお部屋」
窓から斜《なな》めに差しこんだ陽《ひ》が夫人の書斎を静かに照らしている。本物の古書を収蔵したマホガニーの書棚《しょだな》が四方の壁に並び、書棚の上にはアンティークな調度品が飾《かざ》られている。僕らが全員入っただけでかなり手狭《てぜま》に感じられるほどの広さだったが、その分プライベートな匂《にお》いに満ちており、居心地《いごこち》がいい。
夫人は安楽椅子に腰を落ち着けると、つと部屋の隅《すみ》に置かれた書棚を指で示した。
「これを見て頂戴《ちょうだい》」
僕らはいっせいに視線を向けた。
それは僕の背より僅かに高い、古い書棚だった。堅牢《けんろう》そうな造りながら、丁寧《ていねい》な彫刻《ちょうこく》を生かした曲線美が、どこか上品な雰囲気《ふんいき》を醸《かも》し出している。書棚は上部と下部にそれぞれ分かれていて、上部は観音《かんのん》開きの硝子の引き戸がついたブックケース、下部は彫刻が施《ほどこ》された一枚板と引き出しになっている。
全体的にはシンプルな意匠《いしょう》ながら、長い時を潜《くぐ》り抜《ぬ》けてきた木製家具特有の存在感がある。いつ頃作られたのかはわからないけど、見たところ随分《ずいぶん》年代物のようだ。
「ライティングビューローと言ってね、開扉時《かいひじ》には扉《とびら》の部分が机になるのよ。こんなふうに」
夫人は立ち上がり、天板の上部に付いていた鍵穴《かぎあな》に小さな鍵を差しこんだ。かたんと天板部分が前方に九十度|倒《たお》れ、水平な机のようになった。今まで隠《かく》れていた部分に細かい木製の仕切りが現れ、手紙や書類などが挿《さ》せるようになっている。
「すごいや」
僕はその精巧《せいこう》なギミックに感心し、改めて書棚の細部を眺めた。仕切りの横には真ん中に丸いくぼみのある小さな板が、まるで写真立てのように備え付けられている。
「そこは、懐中《かいちゅう》時計を填《は》めこむ場所よ。当時のデザインの名残《なごり》ね」
僕の視線を受け、緒方夫人は言った。なるほど。書き物をしながら、いつでも時間を確認《かくにん》できるようになっていたというわけか。
様々な機能に魅入《みい》りつつ、僕はゆっくりと視線を上げた。上部のブックケースの中では、硝子越しに中の本の背表紙が覗《のぞ》ける。西洋の悪魔《あくま》を象《かたど》ったブックエンドが洋書を挟《はさ》みつつ鉛色《なまりいろ》の瞳《ひとみ》で僕を見返していた。
「ん?」
と、そこに酷《ひど》く場《ば》違《ちが》いな物を見つけ、僕は絶句した。
分厚い洋書の横に、お皿に載《の》った三角のケーキが当たり前のような顔つきで置かれている。おいしそうなチョコレートケーキだ。上にはローズチョコが載っかっている。
「…………」
何でこんな物があるんだろうという思いと、ひょっとしたらこれは見て見ぬふりをしたほうがいいのではないかという二つの思いが、一瞬《いっしゅん》頭の中を巡《めぐ》る。
たぶん、そんな戸惑《とまど》いがありありと表情に出ていたのだろう。夫人は悪戯《いたずら》っぽく微笑《ほほえ》むと僕に言った。
「あとで食べようと思って私が入れたの。でもせっかくだから、今いただいてしまいましょう」
そう言うと夫人は書棚からケーキの載った皿を取り出し、僕に手渡す。
「久高くん、どうぞ召《め》しあがれ」
「え……ぼ、僕ですか?」
「ええ。どうぞ」
「はあ。じゃあ、いただきます」
何で僕だけ? という疑問を抱《いだ》きつつも皿を受け取り、添《そ》えてあったフォークを持つ。なんとなく紫色《むらさきいろ》の視線をほっぺに感じつつ、僕はフォークでクリームの載ったチョコレートケーキの先端《せんたん》をさくりと切り取ると、ゆっくりと口に運んだ。
甘いチョコホイップクリームの味が舌先に広がる。
うん。これは美味《うま》い。
「どう? お味は?」
「すごくおいしいです」
「そう。よかったわ。……八年前のケーキなのだけれど」
「!」
僕は仰《の》け反り、思わず口元を押さえた。みんなも驚《おどろ》きの表情を浮《う》かべる中、緒方夫人だけがすまし顔で微笑んでいる。よく見ると、その表情はまさに仕掛《しか》けた悪戯がまんまと成功しつつある様を目《ま》の当たりにしている子供のそれで、明らかに笑いの衝動《しょうどう》を堪《こら》えている。
「あのう、どういうことなんですか?」
ほとんど「時留め」を喰《く》らったみたいに硬直《こうちょく》する僕の横で、リンネがおそるおそる訊《たず》ねると、さすがにこれ以上真実を言わないでいるのは僕に気の毒と思ったのか、夫人は僕らのほうに向きなおると穏《おだ》やかに言った。
「今ケーキが入っていた書棚《しょだな》はね、魔法《まほう》の書棚なの。変わり者の時載りが作った、魔法の書棚」
「そうねえ、どこからお話ししようかしら」
夫人は安楽|椅子《いす》に深くもたれると、どこか楽しげに言葉を紡《つむ》いだ。
「その昔、ヨーロッパにある腕《うで》の良い職人がいたの。その職人が拵《こしら》えた品はどれも素晴《すば》らしい出来映《できば》えで人々の評判を生み、彼は瞬《またた》く間《ま》に一流職人の座に上り詰《つ》めていった。特に当時の人々を驚かせたのは、その職人が手がけた物はどれも堅牢で、いつまで経《た》っても買った当時の姿そのままを留《とど》め置くという点だったの。まるで『時間による劣化《れっか》を受けない』かのようにね」
作者の名はハゼル・ジュビュック――十九世紀中期から後期にかけて優《すぐ》れた作品を残した伝説的な家具職人である。名工の名をほしいままにした彼の作品はすべて彼の手によるハンドメイドで、高い芸術性と同時に実用性をも兼《か》ね備《そな》えており、今も好事家《こうずか》の間では高い評価を得ている。が、惜《お》しいことに欧州《おうしゅう》大戦の影響《えいきょう》もあってその作品は大半が消失し、現在ではほとんど存在していない……。
夫人はそこまで説明するとさらに言葉を続けた。
「彼は寡作家《かさくか》で知られていたけれど、多才な人でもあってね。その作品は単に家具だけに留まらず、機械や婦人用の装身具など多岐《たき》に亘《わた》ったそうよ。その作品には一貫《いっかん》してある共通点があるの。一つとして同じ物はないこと、そして、どれも耐時《たいじ》性に極《きわ》めて優れていること」
僕らの表情を楽しむかのように、夫人は肘《ひじ》かけに載せていた腕を持ち上げて頬杖《ほおづえ》をつくと、微笑した。
「ここまで言えばもうわかるわね。そう。彼は時載りだったの。そして、あなたたちと同じ『街の住人』だった。この書棚は現存する数少ない彼の作品のうちのひとつでね、この中に保存された物は時が経過しないの[#「この中に保存された物は時が経過しないの」に傍点]」
沈黙《ちんもく》が落ちた。
あっけにとられ、僕らはそのマホガニー製のライティングビューローを眺《なが》めた。テーブルクロックの時を刻む音が響《ひび》く中、夫人の書斎《しょさい》の一隅《いちぐう》にあって、その古びた家具は西日を浴び、琥珀色《こはくいろ》に染まりながら静かに佇《たたず》んでいる。
「でもそんなことが……」
リンネは呆然《ぼうぜん》と呟《つぶや》き、それからつと思いたったように急《せ》ぎこんで夫人に訊ねた。
「あのう、ということは、この棚《たな》に入っていたものはどんなものも変化しないってことですか?」
「ええ。この中に納められた物は、何年|経《へ》ようと当時の姿のまま留められるの。あまりにも現実|離《ばな》れしている力だし、容易に目に留まるような現象じゃないから長いこと誰《だれ》も気づかなかったけれどね」
「食べ物も?」
「ええ。食べ物も」
「じゃあ……じゃあ……今、久高が食べたケーキは作りたてと変わらない?」
僕がまさに一番知りたかったリンネの問いに、夫人はにっこりと笑ってうなずいた。
「ええ。うちのパティシエに作らせてからすぐにこの書棚に入れ、一度も戸を開けていないからケーキの鮮度《せんど》は作った当時のままよ。この書棚の中において、『八年』という時間はまったく経過していないの。だから久高君はお腹《なか》を壊《こわ》したりしないから安心して頂戴《ちょうだい》」
「なあんだ」
「ああ、びっくりしたー」
ほっと胸をなで下ろす僕に向かって、夫人は笑って頭を下げた。
「ごめんなさいね。驚かせてしまって」
つーか、お茶目というか、人が悪いなあ。
僕は手にしていたケーキの皿をテーブルに置き、そっとお腹を撫《な》でた。八年前のケーキを食べるっていうのは妙《みょう》な気分だ。八年前って言ったら、僕はまだ四つだもんな。
一方、Gやルウはライティングビューローに熱心に視線を注いでいる。僕はGに訊ねた。
「Gはこういうアンティークを見たことある?」
「いいえ。そうした物がこの世には存在するらしいと、噂《うわさ》には聞いていましたが、実際に目にするのは初めてです。凄《すご》い物ですね」
「ルウは?」
「もちろん知っているわ。ていうか、私たちのような仕事に携《たずさ》わっている時《とき》載《の》りの中でジュビュックの名を知らぬ者などないわ。でも、実物を見たのは私も初めてよ。まさに眼福ね」
ルウはちょっぴり頬《ほお》を紅潮させて言った。
アンティークショップのオーナーであるルウがそこまで言うのだからやはり相当なものなのだろう。門外漢のリンネまでもが、まるで惹《ひ》きつけられたようにこの不思議な書棚にじっと視線を向けている。
夫人が言った。
「なぜ時載りでもない私が、こうした品を持っているのか不思議に思うかもしれないわね。実はそれには理由がないわけでもないの。なまじ年を取らないが故《ゆえ》に、時載りは流れゆく時がもたらす変化や移《うつ》ろいに鈍感《どんかん》なところがあるわ。そのため、せっかくの優《すぐ》れた美術品や工芸品が失われていく……。それを見ているのは忍《しの》びなくてね。いつの頃《ころ》からか、少しずつ蒐集《しゅうしゅう》していくようになったの」
「でも、おばさま、どうしてこれを私たちに……? それにさっき、お願いっておっしゃっていたけれど」
驚《おどろ》きの時間が過ぎ、ようやくリンネは自分たちがここに招かれた最初の話題に立ち戻《もど》って訊《たず》ねた。夫人はうなずいた。
「そうね。これが私からのお願いなのよ」
そう言うと緒方夫人は年代物のサイドボードの上にあった新聞をリンネに手渡《てわた》した。
「この記事をご覧になって」
僕らは額を寄せると、二つ折りに畳《たた》まれたその新聞をのぞきこんだ。
そこには夫人がペンで記したとおぼしき赤枠《あかわく》の中に、
『大富豪《だいふごう》の遺産、競売へ』
という、短いキャプションが躍《おど》っている。
「実は近々、ある大きなオークションが開催《かいさい》されるんだけど、このライティングビューローと同じ職人の手によるアンティーク家具がその競売にかけられるの。それで、是非《ぜひ》あなたにそれに参加してもらいたいと思って」
「わ、私に、ですか?」
意外な申し出に面くらい、リンネはぱちぱちと瞬《まばた》きした。
「そう。あなたに」
そう言うと緒方夫人はすまし顔でウインクした。
「落札するためには時載りによる鑑定《かんてい》が必要でしょ」
[#改ページ]
4章
僕らは俄然《がぜん》忙《いそが》しくなった。
むろん、緒方夫人がリンネに参加を依頼《いらい》したオークションに向けての準備のためだが、今回の夫人の急な依頼にはそもそもわけがある。
その書棚《しょだな》がオークションに出品されることが決まったのはつい最近のこと。ある富豪が亡《な》くなりその遺産を相続した遺族が、財産のうち所謂《いわゆる》アンティークや骨董《こっとう》に含《ふく》まれる物をすべて競売にかけようとしたことが発端《ほったん》だった。
以前からその伝説的な家具職人――ハゼル・ジュビュックの作品に関心を寄せていた緒方夫人は、競売の知らせを聞くや、すぐに競売会社から詳細《しょうさい》なオークションリストを取り寄せた。そして今回競売にかけられるおよそ数千点にも及《およ》ぶ品目の中から、ジュビュックが製作したとおぼしき作品を数点発見したという。
しかし、夫人が落札を希望する書棚の特徴《とくちょう》は外観ではなく、あくまでその内部にある。だが「時間を無化する」という作用を外から眺《なが》めて確認《かくにん》するわけにはいかない。そこで餅《もち》は餅屋、時《とき》載《の》りに真贋《しんがん》を見定めてもらうべく『街の住人』であるリンネに白羽の矢が立った――というのが今回の経緯《けいい》らしい。
「任せておばさまっ。私が絶対に落札してみせるわっ」
などとリンネは握《にぎ》りこぶしを作ってはりきっているが、よく考えれば事態はそれほど単純ではない。
第一、夫人は落札及びその他の諸々《もろもろ》の実務は担当の者を派遣《はけん》する予定なので、リンネの役柄《やくがら》はあくまで出品された品の真贋の鑑定に限定される……てゆーか、リンネはまだ小さいので会場に立ち入り出来ないらしい。
「じゃあ私はオークションに参加できないの?」
「未成年者は会場には入れません」
「そんなあ」
Gの冷厳な言葉にリンネはしょぼくれたがこればっかりは仕方がない。取りあえず、当日の買い付け担当はGが行うことになった。外見が大人《おとな》びているGならお目こぼしも利《き》くというわけである。
そんなGのもとに競売会社から豪華《ごうか》なカタログが送られてきたのは、オークション参加を正式に申請《しんせい》してから数日後のことだった。
「凄《すご》いわねえ」
閲覧《えつらん》室にある安楽|椅子《いす》にもたれつつ、カタログを眺めていたリンネが声を漏《も》らした。
リンネが声を上げるのも無理はない。オールカラーのその豪華な小冊子にはありとあらゆる出品物が載っており、さながら博物館の写真集のようである。さらにはそれぞれ商品のコンディションやエスティメート(落札予想価格)を含め、あらゆる事前情報が満載《まんさい》で見ていて飽《あ》きない。
「これなんか素敵《すてき》ねえ、いやいや、こっちもなかなか捨てがたい。ふんふん」
Gの淹《い》れた紅茶を小指を立てて飲みつつ、リンネはすっかり富豪《ふごう》気分で商品の品定めに夢中になっている。
自分がお金を出すわけでもないのにのん気なもんだ……などと考えていたらリンネはとんでもないことを言い出した。
「このコモードなんかかわいいわね。私のおこづかいでなんとか買えないかしら?」
思わず僕はカタログに載った写真をのぞきこんだ。ルイ十五世様式のコモード。製作年は1780年。エスティメートは……2万2000ドル。
とっさにリンネの学習机の上に置かれた子ブタの貯金箱を思い浮《う》かべる。あの中に入っているのはせいぜい530円くらいだろう。
「よーし。こうなったら絶対この品を手に入れてやるんだからっ」
カタログを見ているうちにテンションが上がってきたのか、物騒《ぶっそう》なことを口走るリンネを僕は慌《あわ》てて押しとどめた。
「あのね、リンネ。別に僕らが落札するわけじゃないよ。僕らの役目はあくまで鑑定《かんてい》なんだから」
「もう。久高ったらテンション低いわねっ」
「僕が低いんじゃなくてリンネが高いんだ」
なかなか地に足が着かない様子のリンネをよそに、僕は書架《しょか》から古い『国際人名辞典』を抜《ぬ》き出すとそれをテーブルの上に広げた。取りあえずハゼル・ジュビュックというその変わり者の家具職人について、競売前に少しでも予備知識を得ておこうと思ったのである。
それによると、ジュビュックの来歴は以下のようなものだった。
ハゼル・ジュビュック
家具職人。1822年、オーストリア・ハンガリー帝国《ていこく》のモラヴィア(現代のチェコ)生まれ。成人後ウィーンに行き印刷|工房《こうぼう》で働きつつ夜間のデザイン学校に通う。二十六歳のときフランスに渡《わた》り、アカデミーで工芸を学んだのち、独立。威厳《いげん》に満ちた形状と繊細《せんさい》な装飾《そうしょく》を併《あわ》せ持つ独特の作風で、徐々《じょじょ》に頭角を現す。その反面、私生活においては奇矯《ききょう》な言行が目立ち、変人で知られていた。
個人展覧会を開いたパリにおいて好評を博し、工芸作家としての地位を不動にした後は自らの工房を構え、作品製作に没頭《ぼっとう》。デザイン性と耐久《たいきゅう》性、実用性に優《すぐ》れた作品を数多く残す傍《かたわ》ら、晩年は工芸品や装身具なども製作した。
1896年、故郷モラヴィアにて死去。生涯《しょうがい》独身だった。
「うーん」
僕は唸《うな》った。
この文章を書いたのは人間だから、当然のことながら彼が『時載り』だったという事実はまったく記されていない。その来歴もいたって散文的で、僕らが想像していた「伝説の家具職人」といったイメージからずいぶん遠い感じだ。
「これじゃあ、大事なことは何もわからないな。やっぱり人間界の人名辞典じゃ限界があるってことか」
独りごちた僕はふと、隣《となり》でカタログを眺《なが》めているリンネに向かって訊《たず》ねた。
「ねえリンネ、時載り界にはこういう人名辞典ってないの? たとえば、『時載り人名辞典』みたいな奴《やつ》」
「あるんじゃない?」
安楽椅子を背中でゆらゆら揺《ゆ》らしつつリンネはあっさり言った。
「ホント?」
「そりゃああるわよ。時載りは活字と名がつく物に関しては徹底《てってい》的に貪欲《どんよく》なんだから。誰《だれ》かが書かないはずないわ」
「ど、どこにあるの?」
「バベルの図書館」
「なあんだ」
僕はがっかりして言った。いくら本があったって肝心《かんじん》の所在がバベルの塔《とう》なのでは僕には手も足も出ない。人間相手の本の貸し出しなんて、たぶんやってないだろうし。
結局、僕はそれ以上ジュビュックの詳細《しょうさい》を調べることは諦《あきら》め、リンネと一緒《いっしょ》にカタログのチェックに励《はげ》むことにした。オークション参加者はこのエスティメートを参考に最終落札価格を予想するのだ。
問題はジュビュックの作品を見定める作業のほうである。通常、オークションに際して、下見期間として競売日の一週間くらい前から全部の品が展観される。参加者はその下見で実際のコンディションや状態を確認《かくにん》し、入札に備えるのだ。展観は誰でも参加できるので、出品物を鑑定するにはこの下見が一番いいのだが……。
「問題は、です」
いつものように箕作家の離《はな》れに顔を揃《そろ》えた僕らを前に、Gは下調べした資料の束を片手に口を開いた。ここ数日、夫人が手配した実務担当者と打ち合わせをする傍ら、オークションについて本を何冊も読みこなし、競売のシステムについて勉強しているGである。
「この下見期間に真贋《しんがん》を鑑定することです。出品者はむろん一般《いっぱん》の人間ですから、ジュビュック作品が持つ特異性については何も知りません。おそらく、通常のアンティーク家具と一緒に出品されることになるでしょう。今回の競売は元の所有者が富豪《ふごう》だったということもあり、出品は陶器《とうき》から家具まで数百種類を超《こ》えます。このような大規模な競売の場合、一つの出品物にかけられる時間はおよそ五分。あらかじめ鑑定作業を済ませきちんと商品を見定めておかないと、当目にあっという間に時間が過ぎてしまい、落札を逃《のが》してしまうという事態にもなりかねません」
「思ったより難しいんだね」
僕は呟《つぶや》き、それからふと傍らのルウに訊ねた。
「ひとつ訊《き》いていい? ジュビュックの作品って、そんなに人気があるもんなの? だって普通《ふつう》の人はGの言うように彼が時《とき》載《の》りだったって知らないわけだろ?」
「でも彼の作品は確かに人気があるわよ。実際、今も使用に耐《た》えうる堅牢《けんろう》さを持っているし、普通にデザインも良いしね。緒方夫人のように『時間の効果』に気づいている人以外にも、純粋《じゅんすい》にアンティークとして欲しがる人間は一定数いると思うわ」
「ふーん」
なるほど。今回はそうした好事家《こうずか》たちがライバルになるわけか。
Gが言った。
「とにかく、落札前に一度、実物を確認しなくては話になりません。ですがわたくしは時載りではありませんので、その作業は下見期間中に時載りであられるお二人にお願いすることになります」
Gの指名を受け、リンネとルウは顔を見合わせた。
「わたしたちがやるの? Gは?」
Gは苦笑《くしょう》した。
「希少本などならともかく、アンティークはわたくしの手に余りますわ。まったくの門外漢ですもの。その役目は務まりません」
「でも私、家具の鑑定《かんてい》なんてできないわ。ルウはどう?」
「私だって困るわ。そんな大役。まして大きなお金が動くのでしょう? 急に言われても……」
急に話を振《ふ》られ、ルウは戸惑《とまど》ったようだった。ルウの立場からすればこれは当然だろう。彼女の言うとおり、自分の判断ひとつで大金が動くことを考えれば、鑑定を引き受けることに対して慎重《しんちょう》にならざるをえないのは無理からぬところだ。
リンネは小首を傾《かし》げた。
「ルウには誰か心当たりがない?」
「他《ほか》に鑑定が出来そうな『街の住人』を知らないか、という意味?」
「うん」
「残念ながらないわね。私以上にアンティークに精通した時載りがこの界隈《かいわい》にいるとも思えないし」
ルウはきっぱりと言った。謙虚《けんきょ》なんだか傲慢《ごうまん》なんだかよくわからない口ぶりだが、たぶんそれは正当な自己評価なのだろう。
「困ったわねえ」
そのまましばらく沈黙《ちんもく》が流れた後、ふとルウが呟いた。
「……あれなら、ひょっとしたらなんとかなるかも」
「え? どういうこと?」
「今、ふと思い出したの。ようするに下見に行った人間がその家具が『時間を無化する』力を有したアンティークか否《いな》か鑑定できればいいのよね」
ルウは腕組《うでぐ》みをすると、どこか思い出すような口ぶりで言葉を続けた。
「確か、祖父の遺品の中にそんな品があったような気がするの。それを使えば真贋の鑑定はできるかもしれない」
「本当!?」
リンネはずずいと身を乗り出した。
「ええ。『オラムの眼鏡《めがね》』っていう古い眼鏡なんだけど、物品にかけられた時間の効能を見分ける珍《めずら》しい品なの。前に祖父が使っているのを見たことがあるわ。まだ幼い頃《ころ》だけど」
「……オラムの眼鏡」
リンネはその名称《めいしょう》を準《なぞら》えた。
「それを使えばジュビュックの作品かどうか見分けられるようになる?」
「たぶんね。効力は眼鏡をかけた者なら誰《だれ》でも適用されたはずだから」
「すごいわ! さっそくそれを持って下見に行きましょっ。そうすれば完璧《かんぺき》じゃないの」
意気ごむリンネにルウは慌《あわ》てて言った。
「待ってよ。忙《せわ》しない子ねえ。それは今、私の手元にはないのよ」
「ど、どこにあるの?」
「待って。今思い出すから。あれは……ええと確か……そうだわ!」
記憶野《きおくや》を探《さぐ》るようにこめかみに指を当て考えこんでいたルウはややあってぽんと手を打った。
「祖父の貸倉庫よ」
「貸倉庫?」
「ええ。うちの店に入りきらないアンティークの類《たぐい》はみんなそこにしまってあるの。もともとあれらは祖父の物だしね」
ルウの祖父はアンティークショップ『pale horse』の元オーナーである。亡《な》くなる際、孫のルウに膨大《ぼうだい》な量のアンティークを貸倉庫ごと委《ゆだ》ねたので、彼女は若くしてその管理にあたることになったが、なにせ尋常《じんじょう》一様の数ではないので、ルウは今もなおそのコレクションの大半を貸倉庫に預けっぱなしにしているのだ。
「貸倉庫の鍵《かぎ》は私が持っているし、私が行ってくるわ」
「私も行くっ」
リンネが元気よく言った。
「じゃあ、僕らがそれを取りに行くとして、これですべて問題はないかな?」
僕が確認《かくにん》するように顧《かえり》みると、Gは僅《わず》かに言いよどんだ。
「ええ。これで取りあえず不備はないのですが……」
「まだなんかあるの?」
「ええ。……そのう、ええと、わたくしの……」
途端《とたん》にGはなぜか頬《ほお》を赤らめ、落ち着かなげに視線を動かした。
「……? どうしたの?」
Gが言いよどむなんて滅多《めった》にないことだった。そんなGを見やり、リンネがくすりと笑った。
「パートナーよ。おばさまがおっしゃっていたんだけれど、レセブションでGをエスコートする男の人が必要なの」
「エスコート?」
「ええ。当日、Gは押し出しが利《き》くようにうんとおめかしして、大富豪《だいふごう》に見せかけるんですって。とうぜん、その横にはレディをエスコートする殿方《とのがた》が必要でしょ」
「殿方って、男?」
「当たり前でしょっ。女の子が女の子をエスコートしてどーすんのよ」
「ふうん」
僕はうなずいたが、いまいちぴんとこない。おめかしするってことはドレスかなんかを着るんだろうが、いつもの司書スタイルじゃない格好のGがそもそも想像しづらい上に、おまけにその横に立っていてもおかしくない大人の相手か。
そんな人いるかなあ。
「Gに心当たりはないの? 頼《たの》んだら来てくれそうな人」
「そ、そんな方、いませんわ……」
先程《さきほど》までの理路整然とした話しっぷりから一転、Gはうつむき、ほとんど消え入りそうな声で言った。
「うーん」
困った。
僕らが全員|揃《そろ》って天井《てんじょう》を見上げつつ腕組みをして考えこんでいた時だった。
カラン……とドアベルが鳴り、大あくびをしながら長身の青年が入ってきた。だらしなく、ネルシャツの襟元《えりもと》から手を突《つ》っこんでぽりぽりと胸元《むなもと》をかく。
「ああ。よく寝《ね》た」
入ってきたのは薄汚《うすぎたな》いなりでも紛《まご》うことなき美貌《びぼう》の青年。どこの貴族の子息かと見間違《みまちが》うような優美な肢体《したい》と顔立ちを有しながら、当人はその資源を有効利用する気はさらさらないようで、よれよれのシャツに膝《ひざ》の完全に抜《ぬ》けたズボンを纏《まと》い、しかめっ面《つら》のまましきりに首を回している。
「公園で本を枕《まくら》に寝てたら、なんか寝違えたらしくてさ。寒くなってきたし、そろそろ気をつけないと本気で凍死《とうし》するよな。G、熱いコーヒー淹《い》れてくれる?」
「は、はい。ただいま」
燕《つばめ》のように身を翻《ひるがえ》すGに一顧《いっこ》だにせず、そいつは閲覧《えつらん》室に足を踏《ふ》み入れると、テーブルに勢ぞろいした僕らに初めて気づいた。
「あれ、どうしたんだ? みんなそろって」
もう一度あくびをかみ殺し、椅子《いす》にだらしなく腰《こし》を下ろす浮浪《ふろう》少年の顔を僕らは物も言わずに注視した。
「……なんだよ」
愛書狂《ビブリオマニア》の浮浪少年こと司馬《しば》遊佐は僕らの視線を受け、鳥の巣みたいに盛大《せいだい》に寝ぐせのついたくせっ毛をかき回すと、うろんげな表情を浮《う》かべた。
役割が決まれば僕らの行動は素早《すばや》かった。
翌日の放課後、僕とリンネ、ルウの三人はその『オラムの眼鏡《めがね》』を取りに行くべく、ルウの祖父の遺品が預けてあるという貸倉庫にむかった。
めざす貸倉庫は僕らの住む街から列車で三十分ほどのところにあるらしい。列車に飛び乗るやいなや、僕は腕時計《うでどけい》を確認した。
「今から行って、遅《おそ》くならないかな? もう暗くなるし」
「なに言ってるの。善は急げでしょ。それに私、その魔法《まほう》の眼鏡を早く見てみたいんだもの!」
程なくして僕らは目的地に着いた。
そこは海にほど近い、鄙《ひな》びた小さな港街だった。海沿いには沖合《おきあい》を埋立《うめた》てて造られたという水路があり、その両岸を煉瓦《れんが》や軟石《なんせさ》造りの倉庫が立ち並んでいる。この運河をかつては何隻《なんせき》もの船が行きかったらしいが、今は静かに水を湛《たた》え、往時の面影《おもかげ》をとどめるばかりとなっている。
「ええと、確かこのあたりを曲がったような。いや、こっちだったかしら?」
なんとなく頼《たよ》りないルウを先頭に、僕らは運河沿いの散策路をてくてく歩いた。ルウの持つ貸倉庫はこのへんにあるらしい。
ようやく目的地を探しあてたのはもう陽《ひ》は大きく傾《かたむ》き、海から射《さ》す陽が僕らのほっぺを薄桃色《うすももいろ》に染める頃合《ころあ》いだった。
「ここだわ」
それは矩形《くけい》の煉瓦を積み立てて造られた巨大《きょだい》な倉庫だった。長い年月を経てきたことをしめすように、かつては渋《しぶ》い赤色だったであろう外壁《がいへき》は黒く煤《すす》け、無数のひびが浮いている。
感に堪《た》えかねたようにリンネが言った。
「ずいぶん古い倉庫だわ」
「確か、建てられたのが明治の終わりというからだいぶ前よね。私も来たのは久しぶりだけど」
[#挿絵(img/mb874_109.jpg)入る]
ルウは貸倉庫の鍵《かぎ》を取り出すと、巨大な門扉《もんぴ》にかかった錠《じょう》に鍵をさしこんだ。がちゃりと音がして錠が外れる。重い門扉をゆっくりと引き開けると、とたんにすえたような匂《にお》いが僕らを出迎《でむか》えた。
「なんかお化けでも出そうな感じ」
思わず呟《つぶや》くリンネの肩《かた》越《ご》しに、僕はそっと中を覗《のぞ》きこんだ。
そこにあったのは骨董《こっとう》品の山。
調度家具から始まって巨大な柱時計や絵画や彫刻《ちょうこく》、壺《つぼ》、陶器《とうき》、工具、刀剣《とうけん》、掛《か》け軸《じく》など、一見がらくたにしか思えないものから一目でその価値の無謬《むびゅう》性が知れるものまで、ありとあらゆるものが無秩序《むちつじょ》にこの仄暗《ほのぐら》い倉庫の中にひしめき合っている。どうやらこれが好事家《こうずか》であったルウの祖父が遺《のこ》したアンティークの数々らしい。
「すごい、な……」
僕は積まれた木箱の向こうに見える古めかしい四輪馬車――十九世紀の霧《きり》の倫敦《ロンドン》を馭者《ぎょしゃ》を乗せて疾走《しっそう》してそうな奴《やつ》だ――を眺《なが》め、思わず唸《うな》った。
「で、かんじんのその眼鏡はどこにあるの?」
僕の問いに、海保ルウはあっさりと言った。
「ここのどこかよ」
「……なんだって?」
「だから、ここの、どこか」
「……冗談《じょうだん》だろ」
僕は体育館の半分ほどの大きさもある倉庫の内部を見渡《みわた》し、絶句した。こん中からどこにしまってあるかわからない眼鏡ひとつを捜《さが》し出せっていうのか。
「その通りよ。さ、あなたたちも手伝って。早くしないと暗くなるわよ」
「なんか宝探しみたいね! よーし。がんばるぞ」
やれやれ。
なんか妙《みょう》にテンションの上がってきたリンネの横で、やむなく僕も探索《たんさく》に取りかかる。てゆうか、この子はむかしっからこういうことは好きなんだよな。本の整理とかは嫌《きら》いなくせに。
取りあえず僕ら三人は手分けして『オラムの眼鏡』を捜すことにした。
埃《ほこり》よけに持ってきた白いハンカチーフでショートヘアをすっぽりと覆《おお》ったルウが、入り口横に積まれた大量の木箱の中をひとつひとつ検《あらた》め始める。僕はその隣《となり》に山と積まれたがらくたを崩《くず》しにかかったが、十分もしないうちにガラパゴスペンギンの剥製《はくせい》と二ダース分のナチスドイツの軍用ヘルメットと籐《とう》の座椅子《ざいす》の狭間《はざま》でたちまち埃まみれになった。
……つうか、ルウのおじいさんってどんな趣味《しゅみ》の人だったんだ?
ふと横を見ると、リンネが自分の背丈《せたけ》よりも大きな方天戟《ほうてんげき》のレプリカを振《ふ》り回して遊んでいる。
いつしか陽は沈《しず》み、この倉庫群のある港周辺も鼻をつままれてもわからないくらいとっぷりと暮れ果てている。僕らはその後もまっ暗な倉庫の中を懐中《かいちゅう》電灯の明かりを頼りに眼鏡《めがね》を捜し続けた。貸倉庫に着いてから既《すで》に二時間が経過していた。
その日何度目かのお腹《なか》の虫が鳴り、僕がいったん探索を中断しないかと言い出そうとしたときだった。
「あったわ!!」
ふいに闇《やみ》の中、懐中電灯の明かりが揺《ゆ》れ、ルウが埃まみれの顔を上げた。僕とリンネはその場に駆《か》け寄った。
「これかあ」
僕らは電灯の明かりの下《もと》、ルウの手にしたその眼鏡をのぞきこんだ。
それは金のフレームで縁取《ふちど》られたクラシックなデザインの眼鏡で、レンズは玉型《たまがた》、その間を渡すブリッジには細かな象嵌《ぞうがん》が施《ほどこ》されている。見たところさほど傷《いた》んでいるようには見えないが、さすがにデザインが古くさいことは否めない。
「なんか……あんまり格好良くないね。ペテン師がかけてそうな眼鏡だ」
僕が率直《そっちょく》な感想をもらすと、自分のコレクションにケチをつけられたように感じたのか、ルウが口を尖《とが》らせた。
「大昔のデザインですもの。仕方ないでしょっ」
「これをかけたら、普通《ふつう》の人間も時《とき》載《の》りが作った作品を見分けることができるようになる?」
「ええ。それは大丈夫《だいじょうぶ》よ」
リンネの問いにルウはきっぱりとうなずいた。
「よーし。これで鑑定《かんてい》は問題なし。いよいよ準備は万端《ばんたん》ねっ!」
煤《すす》と埃にまみれた顔を上げ、リンネは晴れ晴れとした表情で握《にぎ》りこぶしを作った。
だが、何事もそう簡単にうまく運ばないのが世の常である。
明けて翌日、手に入れたばかりの眼鏡持参で意気|揚々《ようよう》と下見会場に向かおうとした僕らだったが、直前に問題がおきた。なんとかんじんの『オラムの眼鏡』が壊《こわ》れていることが判明したのだ。見た目に特に問題はないのだが、時留めの効能を見極《みきわ》める機能がうまく働いていないらしい。
「ダメね、完全に壊れてるわ」
自ら眼鏡をかけ、何度も機能をチェックしていたルウは溜息《ためいき》と共にフレームを鼻梁《びりょう》から外して言った。
「そんなあ」
「正常に働いているときは時留めの力が働いている部分が光って見えるんだけど……今、これはまったく反応していないみたいなの」
「なんとかならない?」
すがるようなリンネの視線を受け、やむなくルウは競売日までに間に合わせるべく徹夜《てつや》で眼鏡の修理に励《はげ》むことになったが、結局僕らは下見期間中にジュビュック作品をこの目で確認《かくにん》できぬまま、当日ぶっつけ本番で競売にのぞむこととなった。
「ったく。なんで私がこんなことしなくちゃならないのよ」
ぶつぶつ言いつつ修理用の小机に向かうルウに向かってリンネが声をかけた。
「ごめんね。今度、ぜったいぜったいケーキのおいしいお店に連れて行くからっ」
リンネにすればこれは精一杯《せいいっぱい》の埋《う》め合わせのつもりなのだろうが、あくまでルウは読書を主食とし、活字情報を栄養源とする一般的な[#「一般的な」に傍点]時載りの女の子である。同じ『街の住人』であっても、デパートのレストラン街に行ったら最後、ママさんに促《うなが》されるまでメニューの見本ケースの前にはりついて離《はな》れないどこぞの女の子とはわけが違《ちが》う。どう考えたってルウがケーキショップに行きたがる道理はないのだが、リンネは自分の好きなものはきっと友達も好きにちがいないと思いこんでいる。
ルウは横目でじろりとそんなリンネを見つめた。
「……あなた、私にかこつけてスイーツを食べたいだけでしょう?」
「へへー」
食いしん坊《ぼう》のリンネは照れ笑いを浮《う》かべたが、すぐにすまし顔を拵《こしら》えて言ったものだ。
「あら、でもルウと一緒《いっしょ》に食べたいのはホントよ。だって、どんなにおいしいものでも一人で食べるのは味気ないでしょ。どうせ食べるのなら私、ルウと二人でおいしいものを食べたいんですもの!」
さり気なく殺し文句を言い放ち、この気むずかし屋の女の子をまっ赤にさせておいて、リンネはそのことにいっこうに自覚がない。
一方、その他の準備も着々と進行している。
「おい遊佐、どうだ?」
僕はリンネんちの浴室のドアを開けると、もう一方の進捗《しんちょく》状況《じょうきょう》を確認した。
仄《ほの》かな湯気の中、当日のGのエスコート役に抜擢《ばってき》された青年は、生クリームみたいなまっ白い泡《あわ》に包まれたバスタブに顎《あご》まで身体《からだ》を沈《しず》めつつ僕を見上げた。
「どうもこうもあるかよ。いったい、これは何なんだ?」
「知らないのか? これはお風呂《ふろ》っていうんだ」
「……お前、だんだんやな奴《やつ》になってきたな」
遊佐は顔をしかめると濡《ぬ》れて頭皮にはりついた髪《かみ》を掻《か》き上げた。さすがの遊佐のくせっ毛も、濡れたときだけはまっすぐになるんだな、と僕は妙《みょう》なことに感心した。
「風呂はわかってる。……何の因果で俺がリンネんちの風呂に入る羽目になったんだ?」
「そりゃあ、汚《よご》れてるからだろう」
「汚れてて悪いか。俺の自由だ」
遊佐は湯船の中でふんぞり返っていばった。
「『殿方《とのがた》』はよくないらしいよ」
競売に参加するGの傍《かたわ》らに立つパートナーとして急遽《きゅうきょ》抜擢《ばってき》されはしたものの、なりの酷《ひど》さと汚《きたな》さでは本物の浮浪《ふろう》少年もかくや、という遊佐である。容姿は満点でもそれ以外は最低点、とばかりに女の子たちに身包《みぐる》み剥《は》がされた遊佐は、わけのわからぬまま取りあえず浴室に放《ほう》りこまれ、全身を石けんで磨《みが》き立てることになったわけだ。遊佐はその豊富な語彙《ごい》の許す限りの悪態をついたが、女の子たちの無償《むしょう》の情熱の前にはあらがうすべもない。
顔をしかめる遊佐に、僕は言った。
「詳《くわ》しい話はリンネに直接聞いてよ。あと、Gが耳の裏や首筋もよく洗えってさ」
「やれやれ。女の子連中がみんなお袋《ふくろ》になった感じだな。風呂に入れだの、耳を洗えだの」
「ごまかすと、リンネあたりが洗うのを手伝いにくるぞ」
「勘弁《かんべん》してくれ」
閉口したように遊佐は泡の中にもぐった。
風呂から上がった遊佐は髪を乾《かわ》かす間もなく、女の子たちの手によって箕作家の客間につれこまれた。これから当日着ていく服の衣装《いしょう》あわせが始まるらしい。バスローブ姿の遊佐は文句を言う間もない。
そんな子供たちの様子を、キッチンから出てきたママさんが首を傾《かし》げて見守る。
「あらあら。何だか楽しそうね。何が始まるの?」
「ないしょ」
リンネは含《ふく》み笑いを浮かべると「ママ、クローゼットの中のもの全部借りるね」と言いすて、一階の客間へいそいそと入っていく。
「あら、残念」
エプロン姿のママさんは腰《こし》に手をあてると、リビングのソファーに腰を下ろした僕を見やった。
「久高くんはあの子たちがなにをやっているのか知っているの?」
姉のやることなすことに興味しんしんで、しきりに仲間に入りたそうな顔つきのねはんを膝《ひざ》にだっこしつつ、僕は答えた。
「ええと、Gの隣《となり》に立つ紳士《しんし》をひとり、こしらえるらしいです」
「まあ。それが遊佐くん?」
「ちょっとかわいそうだけど」
「まあ」
ややあって。
仕立てのいいワイシャツとスーツに袖《そで》を通し、まるで別人と化した遊佐が姿を現した。もともと長身の上に俳優並みに端正《たんせい》な容姿の持ち主である。フォーマルな服装も何ら違和感《いわかん》はないが、年中ボロ着を纏《まと》うことが常態の遊佐にすれば今の格好は拷問《ごうもん》に等しいのだろう。忍耐《にんたい》と暴発をへだてる分水嶺《ぶんすいれい》はかなり危《あや》うくなっているらしく、あまり機嫌《きげん》がよくない。
「やれやれ。酷い茶番だぜ。見ろよ久高」
どんなに装《よそお》いをこらそうが中身は変わらないらしく、いつもの皮肉《ひにく》めいた口調で遊佐は言った。
「いいと思うよ。いいと思うけど……」
「けど?」
「なんか遊佐じゃないみたいだ」
僕は改めて遊佐の姿をつくづくと眺《なが》め、率直《そっちょく》に言った。
僕の膝の上でねはんがこくりとうなずく。
「ぼさぼさ髪で汚い服着てだらしない格好で腹出しながら本読んでるときの方がいつもの遊佐っぽくていいな」
「……ありがとよ」
遊佐は情けなさそうに口をへの字に曲げると、未練がましく自分の髪を元のくせっ毛に戻《もど》そうと指で引っぱった。柔《やわ》らかなくせっ毛は丁寧《ていねい》にブラシで伸《の》ばされ、いつになくまっすぐに流れ、その繊細《せんさい》な風貌《ふうぼう》をよりいっそう際《きわ》だたせている。
自分より年下の男の子を自分のエスコート役に育て上げようとしている格好のGは、なんとなく頬《ほお》を染めて言った。
「あら。そんなことはありませんわ。わたくし、その、とっても素敵《すてき》だと思います……」
そしてくすりとつけ足す。
「ただ、お背が高いわりには少し横が細い感じがいたしますが」
「こればっかりは仕方ないよ」
遊佐は肩《かた》をすくめる。
「それと、当日はネクタイをお締《し》めにならないと。後で選んでさしあげますわ」
「ネクタイだ?」
遊佐は露骨《ろこつ》に眉《まゆ》をひそめた。
「はん。やなこった。世をはかなんでるわけでもないのに、なんで素面《しらふ》で首を絞《し》めなきゃならない? 銃《じゅう》のほうがまだましだぜ」
「遊佐くんったらそんなこと言って! ダメよ。そんなことじゃあレディをエスコートなんてできないんだからっ」
とたんにリンネがこぶしを握《にぎ》って口をとがらす。
「おい久高、何とかしてくれ」
悲鳴をあげる遊佐に、僕は笑いの衝動《しょうどう》をかみ殺し、せいぜい謹直《きんちょく》な表情をこしらえて言った。
「諦《あきら》めろよ遊佐。僕だってやったんだ」
[#改ページ]
5章
いよいよ公開オークション当日。
会場となったホテルに向かうGと遊佐を送り出すべく、箕作家にはいつもの顔ぶれが揃《そろ》っていた。
控《ひか》えの間からリビングに姿を現したGを見るなり、皆《みな》が声を上げた。
「わあ」
美しく装った今日のGはいつもの司書スタイルから一変、シルクシフォンとレースをふんだんにあしらった、柔らかなフォルムの白いワンピースを身に纏《まと》っている。この日のために特別にオーダーしたそのワンピースを長身のGは完璧《かんぺき》に着こなし、まるで彼女のいる場所だけ光が射《さ》したような華《はな》やかさだ。
髪《かみ》はアップにしてなめらかなうなじをさらし、首には黒い短めのリボンを巻いている。銀の指輪と小さなイヤリングの他《ほか》には何ひとつ装飾具《そうしょくぐ》をつけていないのに、膝丈《ひざたけ》からすらりと伸びた形の良い脚《あし》と踝《くるぶし》を浅く留めるだけの黒のハイヒールと相まってすごく大人っぽい。
「G、ふわふわのひらひら」
「まあ、ねはん様ったら」
まわらぬ舌でそんなことを言うねはんに、Gは微《かす》かに頬を赤らめる。
リンネは羨《うらや》ましそうに盛装《せいそう》したGを見上げた。
「Gはいいなあ。背が高くて。私も大人になったらGみたいにおっきくなれるかしら?」
いかにもつくづくといったリンネの口調に、Gは表情を和《やわ》らげて言った。
「リンネ様のお母様もお背が高くいらっしゃるから、きっとリンネ様もすぐに大きくなりますわ」
そして後ろを振《ふ》り返る。
「遊佐様、準備のほうはお宜《よろ》しいですか?」
「やれやれ。俎上《そじょう》の魚、江海《こうかい》に移らず、か」
落ち着いた色合いのスーツに袖《そで》を通した遊佐が溜息《ためいき》と共に言った。
こっちも背が高い上にモデル並みにスタイルがいいので無造作にスーツを着崩《きくず》しても様になるところはさすがだが、当人の幸せは別銀河の彼方《かなた》にあることはその表情を見れば一目で知れる。「三時間だけ我慢《がまん》する」という条件でしぶしぶネクタイを締めた遊佐である。
リンネは口をとがらせた。
「もうっ。遊佐くんったら。こんな美人を隣《となり》に連れて歩けるのよ。もう少しうれしそうな顔をしたら?」
「もちろんGと歩くのはうれしいさ。俺の普段着《ふだんぎ》ならな」
遊佐は憎《にく》まれ口を叩《たた》いたが、さすがにこれ以上言うとGに失礼だと思ったのか、文句を言うのを控える。
リンネ、僕、ルウらの年少組はオークションに参加するには年齢《ねんれい》が足りないので、今回は家でお留守番である。リンネはしきりに残念がったが、こればっかりは仕方がない。
徹夜《てつや》明けのルウはいくぶん疲《つか》れた表情を浮《う》かべつつ、何とか修理を終えた『オラムの眼鏡《めがね》』をGに渡《わた》した。
「オークションが始まったらかけて。時《とき》載《の》りの魔力《まりょく》のかかった品物なら、それが淡《あわ》いオレンジ色に光って見えるはずだから」
「わかりました」
Gはうなずくとそれを慎重《しんちょう》にケースにしまい、肘《ひじ》にかけたハンドバッグの中に収めた。下見期間には間に合わなかったけれど、少なくともこれで出展物がジュビュックの作品か否《いな》かの鑑定《かんてい》を現場で行うことはできる。あとはそれを落札するだけだ。
Gは遊佐のほうに向きなおると、改めて最後の確認《かくにん》をした。
「ではもう一度オークションの流れについてご説明|致《いた》しますね。オークションはホテルの会場を借り切って行われます。まず会場に入りましたら番号札のパドルをもらいますので、それを受け取って席に着いてください。壇上《だんじょう》にはオークショニア……つまりハンマーを打つ人物がおりますので、そちらから見やすい場所がよいでしょう。オークションは目録の掲載《けいさい》順に行われます。落札すべき品かそうでないかはわたくしがこの眼鏡をかけて判断いたしますので、遊佐様はオークショニアに合図を送り、落札する意図があることを示していただく係をお願いしますね」
遊佐は小さく肩をすくめた。
「よーするに俺は、Gの横でひたすらふんぞり返っていればいいんだろ?」
「左様《きょう》です」
Gは悪戯《いたずら》っぽく笑った。
「今回の私どもは暇《ひま》と金を持てあました大富豪《だいふごう》の子息とその恋人《こいびと》、という役どころですわ。せいぜい派手に振る舞《ま》いましょう」
今回の競売に当たって、Gはジュビュック作品を落札するために緒方夫人からかなりの予算をあずかっているらしい。具体的な金額は教えてくれなかったが、内緒《ないしょ》にした理由をGはこっそり僕に「リンネ様に悪影響《あくえきょう》があっては困りますもの」と耳打ちしたから、きっとそうとうな金額なのだろう。
もっとも、これだけの美男美女カップルである。別に意識しなくても人々の注目を集めないはずはないけど。
ふと屋敷《やしき》の前で車が停《と》まる音がした。窓から外を覗《のぞ》くと、表門のところに先日僕らが乗った、緒方家の送迎《そうげい》用の黒いリムジンが停まっている。どうやら時間らしい。
「二人とも、お迎《むか》えが来たよ」
僕が告げると遊佐は首を振って立ち上がった。
「やれやれ。喜歌劇《オベレツタ》の始まりだな」
「さあ、遊佐様。ここまで来ましたら覚悟《かくご》を決めていただきますわよ」
Gが挑《いど》むように言う。
遊佐は苦笑《くしょう》するとうやうやしく一礼し、
「こんな美女の随行《ずいこう》を仰《おお》せつかるとは身に余る光栄」
そしてGに向かって軽く曲げた肘を出す。Gはつんと顎《あご》を引くと遊佐の腕《うで》にそっと自分の腕を絡《から》めた。そして背筋を伸《の》ばしたまま、リンネの方を見やる。
「それではリンネ様。行ってまいります」
「G、がんばってねっ。遊佐くんもよ!」
リンネの言葉に遊佐は軽くウインクをした。
「ま、滅多《めった》にない機会だからな。せいぜい楽しんでくるさ」
若き恋人達(演技)は腕を組み、仲むつまじそうに寄りそって箕作|邸《てい》を後にした。
「あーあ。行っちゃったわ」
二人の乗ったリムジンを玄関先《げんかんさき》で見送った後、リンネはほっと溜息をついた。僕は薄闇《うすやみ》に染まる空を見上げた。確かオークションの開始は夕刻だったから、二人が帰ってくるのはたぶん夜になるだろう。
スロープに立ったままのリンネを促《うなが》し、家の中に入る。リビングに戻《もど》った僕らにママさんが明るく声をかけた。
「お疲れさま。ミルクココアを作ってあるからお飲みなさい」
僕らはキッチンにあるテーブルを囲み、ママさんが作ってくれた温かいミルクココアを飲んだ。
どこかほっとしたような物憂《ものう》げな空気が漂《ただよ》う中、僕らはそれぞれ物思いにふけりつつココアを啜《すす》った。キッチンの中は静かだった。凪とねはんはテレビアニメを見ているらしく、リビングから声が聞こえてくる。
ルウは少し眠《ねむ》いのか、頤《おとがい》を上げて口元を押さえると可愛《かわい》らしい欠伸《あくび》をした。ふとマグカップを置き、リンネが小声で言った。
「ね、行ってみたいと思わない?」
「どこに?」
「だから、オークションによ」
「はあ?」
思わず素《す》っ頓狂《とんきょう》な声を出した僕をとがめるように紫《むらさき》の瞳《ひとみ》で睨《にら》みつけると、リンネはちらりとママさんのほうを振《ふ》り返り、声をひそめて続けた。
「わかってる? オークションなんてそうそう見られるものじゃないのよ! 素敵《すてき》な催《もよお》しに出られなくて久高はくやしくないの?」
「や、でもさ、」
一連の騒動《そうどう》も一段落したことだし、これから家に帰ってのんびり本でも読もうかと思っていた僕は、リンネにつられるように声をひそめた。
「僕らは会場には入れないんだぜ?」
「ふん。そんなの、行けばなんとかなるわよ」
あいかわらず根拠《こんきょ》ゼロの確信を満腔《まんこう》の自信を持って掲《かか》げると、傍《かたわ》らの女の子を見やる。
「ルウはどう?」
「私は……そりゃあ、行ってみたくないことはないけど」
徹夜《てつや》続きのルウはこれから休もうと思っていたのだろう、いつも自分の意思ははっきり言うこの子にしては珍《めずら》しく迷うそぶりを見せた。リンネはうなずいた。
「よし。決まりね。行くわよ」
決まったのかよ。
さっきまでのアンニュイな雰囲気《ふんいき》はどこへやら、リンネは「残りは私のお部屋で飲むね」とママさんに言いすてて立ち上がると、目顔《めがお》で僕らをうながす。僕は小声で囁《ささや》いた。
「今から? もうちょっと後でもよくない?」
「何言ってるの! そんなんで勝機を逃《のが》しちゃったらどうするの? 古来から兵は神速を尊《たっと》ぶのよっ」
用兵家としての資質に突如《とつじょ》目覚めたらしいリンネはカーディガンを羽織ると我に続けと言わんばかりに玄関《げんかん》へ赴《おもむ》く。結局、リンネに押し切られる形で僕らはホテルに行くことになった。
階段の手すりを支える親柱の上にマグカップを三つ置き、ママさんに見つからないようにこっそり靴《くつ》を履《は》く。なるべく静かにドアを開き、僕らはひんやりと暮れかけた空の下、表へと飛び出した。
夜気の中、ホテルは要塞《ようさい》のように燦然《さんぜん》と輝《かがや》いていた。
「立派ねえ」
下からライトアップされて聳《そび》えるその見事な外観を見上げ、リンネは感に堪《た》えかねたように声をあげた。
正面のエントランスにはガラスのドアが並び、その左右にはドアマンが衛兵のごとく立っている。僕らの背後をひっきりなしにタクシーや乗用車が停《と》まり、宿泊客《しゅくはくきゃく》や観光客を吐《は》き出しては去っていく。
「よし、行くわよ」
しばらく入り口の前に立っていたリンネはやがて好奇心《こうきしん》を満足させたのか、ずんずんドアの方に歩いていく。制服を着たハンサムなドアマンはちらりと僕らを見下ろしたものの、何も言わずうやうやしい仕草でドアを開けた。「メルシー」とすまし顔でリンネは言うと、胸をはって中に入った。
ロビーは駅のホームみたいに広々としていた。木の内装と控《ひか》えめな照明があたりに静謐《せいひつ》な印象を与《あた》えている。
床《ゆか》はジャクソン・ポロックの描画《びょうが》みたいな模様の入った黒い大理石が敷《し》き詰《つ》められており、僕の靴底《くつぞこ》まで映しそうなくらいぴかぴかに磨《みが》き立てられている。ラウンジには豪華《ごうか》な待合い用のソファーが置かれ、背広を着た外国人のおじさんがのんびり英字新聞を広げている。
物珍《ものめずら》しさにきょろきょろしていた僕は、あやうく近くの柱に頭をぶつけそうになった。ルウがあわてて僕の袖《そで》を引く。
「もう。久高くんったら、あんまりよそ見をしないで。恥《は》ずかしいわね!」
「だって珍しいんだもの」
「こっちよ!」
ロビーにあった案内板でオークションの会場を見つけたらしいリンネが僕らを呼ぶ。僕らはエレベーターに乗った。
「ホテルってなんかわくわくするわね」
ドアが閉じ僕らだけになったことを確認《かくにん》し、リンネが白い歯を見せた。
「でも、勝手に入って怒《おこ》られないかなあ」
「莫迦《ばか》ね。このホテルに泊《と》まってるみたいな顔をすればいーのよ」
ルウが言った。
やがてエレベーターのドアが音もなく開く。廊下《ろうか》に敷かれた毛足の長い絨毯《じゅうたん》を踏《ふ》みつつ、僕らはリンネを先頭に忍《しの》び足で歩を進めた。
角を曲がりかけたとき、ふとリンネが後ろを振《ふ》り返り、口元に人差し指を当てた。顔を半分だけ出して覗《のぞ》いて見ると、ホールに通じるらしいドア付近に厳《いか》めしい制服を着た警備員の姿がある。どうやらあそこがオークションの特設会場らしい。
さすがに高額な品がたくさん出品されるだけあって、警備もどこか物々しさがある。僕らはその場で人がいなくなるのを待ち、ドアに走り寄ったときだった。
「ここは関係者以外立ち入り禁止ですよ」
僕らの目の前に、身長百九十五センチはあろうかという巨漢《きょかん》の警備員が立っていた。巣穴から飛び出してきたうさぎの子を見るみたいな目つきで僕らを見ると、彼は太ったお腹《なか》をぐいとそらした。
「私たち、関係者よ。この中に用があるの」
リンネは負けじとつんと頤《あご》をあげた。
「オークションに参加するんだから!」
「ダメダメ。未成年は入れませんよ。いい子だからむこうで遊んでなさい」
僕らはあっさり追い払《はら》われてしまった。僕はその場で伸《の》び上がったが、両開きの扉《とびら》は既《すで》に閉じられており、中にGや遊佐がいるかどうかはわからなかった。
「くやしいな。私ももうちょっと大人だったら入れるのに」
未練がましくリンネはどこか他《ほか》に入れる場所がないかフロアをぐるぐる回ったが、どうやら入り口はあの一カ所しかないらしい。
やむなく少し時間を潰《つぶ》して待つことにして、十分ほど経《た》って僕らがもうよかろうと戻《もど》ってみると、やっぱりあの警備員がドアの前に立っている。
「何度来てもダメですよ。いくらかわいくてもダメ」
「ちぇっ」
リンネは自分の背丈《せたけ》の倍はありそうな警備員を見上げて腕組《うでぐ》みをしていたが、さしもの自分の魅力《みりょく》もこのふとっちょの警備員には通じないと悟《さと》ったのだろう。いったん引き上げることにした。
「どうしよう。あのおじさんがいるんじゃ入れないよ」
階段の隅《すみ》に集まり、僕らは額を寄せ合った。
「早くしないとオークションが終わっちゃうわ」
リンネが焦《じ》れたように言う。
何か良い方法がないかそれぞれが思案していると、廊下の端《はし》のリネン室からタオルやシーツの入ったカートを押しながらおばちゃんが出てきた。僕らは見つからないように一フロアぶん階段を上ってやり過ごした。ふと脇《わき》を見ると、階段の横に金属のプレートで作られたフロアの見取り図がある。
「ん?」
その階の見取り図を眺《なが》め、僕はあることに気がついた。この階の見取り図には下の階同様ホールが描《えが》かれている。つまり、今オークションが開かれている会場が宴会《えんかい》や大きな集会を行ったりできるような造りになっているとするなら、天井《てんじょう》の高い吹《ふ》き抜《ぬ》け構造になっているはずなのだ。
「ね、上から入れない?」
二人は変な顔をしていたが、やがて僕の言っている意味がわかったのだろう。リンネはぱちんと指を鳴らすと飛ぶように駆《か》けだした。
僕の勘《かん》は当たった。そのフロアにはホールの規模に沿うような長い廊下があり、そのコの字型の廊下のいちばん奥まった場所にそれぞれ左右一カ所ずつ木目の扉があった。警備員の姿はなかった。
僕らはまず右の扉を試《ため》したが、鍵《かぎ》がかかっていた。やむなく反対側にまわり、もう一方の扉についた瀟洒《しょうしゃ》なノブに手をかける。こっちは上手《うま》くいった。僕らはドアをほんの少し開け、中に素早《すばや》く身を滑《すべ》りこませた。
オークションは既に始まっていた。
僕らがいるのはいわゆるキャットウォークと言われる場所で、正面の壁《かべ》を除いた三方からホールの上部を取り囲んでいる。階下に落ちないように腰《こし》の高さくらいの低い欄干《らんかん》があり、その上を木製の丸い手すりがぐるりと渡《わた》されている。
僕らはドアを閉め、しばらくその場にじっとしていた。
やがてリンネが僕らに目顔で合図すると、四つんばいのままのそのそと動き出した。ルウが後に続く。最後列の僕は床《ゆか》に手と膝《ひざ》をついて女の子たちの後を追った。匍匐《ほふく》前進に近い格好で十メートルほど進んだところで、ふと目の前のルウのお尻《しり》が止まった。視線を上げると、リンネが身を起こし、手すりからほんのちょっぴり顔をのぞかせようとしているところだった。何となくお尻のあたりがむず痒《がゆ》くなるのを覚えつつ、僕はリンネに倣《なら》い、そうっと下を見下ろした。
そこにはまるで劇場のような光景が広がっていた。
オークション会場には既にたくさんの人間が集まっていた。六、七十人、いや、もっといたかもしれない。会場に設《しつら》えられた椅子《いす》に腰を下ろし、静かにオークショニアの進行に身を委《ゆだ》ねている。誰《だれ》も僕らに気づいた様子はなく、みんな僕らに後頭部を見せている。
前方の壁には大きなスクリーンがかけられており、ビデオプロジェクターによって投じられた映像が映し出されている。映像は現在入札中の商品に関する情報らしかった。正面には壇《だん》があり、現在オークションが行われている出品物が実際に置かれている。その右側、僕らと向かい合うような場所に演説台があり、髪《かみ》をオールバックにしたおじさんが参加者に向かって据《す》え付けのマイクで声を投げかけている。台の上にハンマーが置かれているから、たぶんこの人がオークショニアだろう。
視線を転じると、高い天井から僕とリンネが手を繋《つな》いだくらいの幅《はば》のある豪華《ごうか》なシャンデリアが吊《つる》されているのが見えた。シャンデリアには明かりが灯《とも》り、会場を眩《まばゆ》い光で包んでいる。
「……目録番号134番。琥珀《こはく》と水晶《すいしょう》をはめこんだオルゴール。1798年。箱はオーク素材、開くと音楽が流れるよう仕掛《しか》けが施《ほどこ》されており、この時期の物としては大変|珍《めずら》しい作品です。今も動作が確認《かくにん》されております。それでは……1600ドルから」
オークショニアが朗々と声を紡《つむ》いだ。たちまち声が上がる。
「1800ドル」
「1800ドル、1800ドルです」
「2000」
「菅野《かんの》様が2000ドル。他のお声は?」
「2250ドル」
「2300」
「2400」
「2400ドル。はい、2400ドル。皆様《みなさま》よろしいですか? では藤沢《ふじさわ》様へ」
会場に響《ひび》くハンマーの音。
「続きまして目録番号135番。鍵付き宝石箱。材質はローズウッドと黒檀《こくたん》。上部、並びに前面に花の象嵌《ぞうがん》が施されております。1831年、ロンドン上演の歌劇『ウインザーの陽気な女房《にょうぼう》たち』の小道具にも使用されたという由緒《ゆいしょ》ある一品です。皆様、値付けをどうぞ」
「4500」
「4500ドル。4500ドルです」
「5000」
「5500」
「7000」
「7000ドル。7000ドル。他《ほか》はないか?」
「8000」
「8000。8000ドルのお声がかかりました。他にお声は? 他にございませんか? 現在8000ドル。ではご落札」
再びハンマーの音。
「すごいわ」
眼下で品物が次々と高額な値を付けられ、落札されていく様子を眺《なが》めつつ、リンネが興奮を隠《かく》しきれぬようにかすれ声で言った。同時に自分の思いつきの正しさを主張することも忘れない。
「ね、ほら、二人とも来てよかったでしょっ!」
「……うん」
僕はうなずいた。ふと、ルウはあたりを見渡した。
「Gと遊佐くんはどこかしら?」
その言葉に僕らは上から二人の姿を捜《さが》した。
「あれじゃない?」
指を指し示しつつリンネが囁《ささや》いた。
「ホントだ。いるいる」
二人は向かって右側のやや前方の席に恋人《こいびと》らしく並んで腰を下ろしていた。Gは長い脚《あし》を優美に組み、背筋をぴんと伸《の》ばし、まるでファッションモデルのような姿勢で前を向き、その横で背広姿の遊佐がゆったりと椅子に背をあずけている。
僕らは笑いを堪《こら》えて二人を眺めた。
既《すで》に遊佐はいくつかの商品を落札に成功したらしく、Gの美貌《びぼう》と共にこの会場の耳目《じもく》をごく自然に集めていた。あれだけ正装するのを嫌《いや》がったくせに、しなやかな長身を椅子に沈《しず》め、言葉一つで高額な品を次々と落札していくその様はどう見ても生まれながらの富豪《ふごう》そのものである。
「遊佐くんったら、本物のお金持ちみたいね」
リンネが感心したように言った。僕はうなずいた。少なくとも、普段《ふだん》ボロ着のまま竿《さお》とペーパーバック片手に磯釣《いそづ》りしている浮浪《ふろう》少年には見えない。
つと僕らの視線の先で、Gが内緒話《ないしょばなし》をするように遊佐の耳元にその赤い唇《くちびる》を寄せた。それを受け、遊佐が軽く首を傾《かたむ》ける。二人はひそひそとなにか話し合っていたが、やがて仲むつまじそうに密《ひそ》やかに笑い合った。
「何を話しているのかしら」
リンネは首を傾《かし》げた。
「なんだか仲良さそうね」
どこか面白《おもしろ》くなさそうな口調でルウが呟《つぶや》いた。
競売はその後も順調に続いた。
初めのうちこそ、誰《だれ》かに見つかって怒《おこ》られるのではとびくびくしていた僕らだったが、キャットウォークという特等席で競売を眺めているうちに次第《しだい》に気が大きくなり、見咎《みとが》められないのをいいことに出展品をあれこれ品定めをしたり、批評したりするようになっていた。
やがてインテリア小物の競売が終わったときだった。
「……続きまして、装飾《そうしょく》家具の競売に移らせていただきます」
オークショニアがそう言うと、白い手袋《てぶくろ》をした係員の手によって、壇《だん》の上に様々な家具が運ばれてきた。マホガニー製のショーケースやサイドボード、ライティングテーブル、肘掛椅子《ひじかけいす》。どれもが、それが経てきたであろう時間の重みを感じさせるものばかりだ。
ふとGがハンドバッグから眼鏡《めがね》ケースを取り出すと、貸倉庫から見つけてきたオラムの眼鏡を、そっとその形のいい鼻梁《びりょう》に載《の》せた。
[#挿絵(img/mb874_137.jpg)入る]
ついにあれの出番らしい。
「お、眼鏡をかけると意地悪な女教師みたいだな、G」
「久高ったらそんなこと言って。後で告げ口してやるんだから」
さすがのGも、頭上で自分の行動を逐一《ちくいち》観察している目があるとは気づかないらしく、つんと行いすました表情で、眼鏡をかけたまま壇上のアンティークに視線を向けている。
果たしてどれがハゼル・ジュビュックの手による「魔法《まほう》の品」なのか、僕らが食い入るように見守る中、いよいよアンティーク家具の競売が始まった。
初めのうち、Gと遊佐の姿勢に変化はなかった。二人とも静かに椅子に腰《こし》を下ろし、オークショニアが紡《つむ》ぐ言葉を聞き流している。僕らが意味もなく焦《あせ》る中、ルイ十五世様式のベルジュール、アールヌーヴォー調の三面鏡、独逸《ドイツ》製の巨大《きょだい》なキャビネットと続いた後、
「それでは目録番号281番」
とオークショニアが言ったときだった。
Gの手がそっと遊佐の二の腕《うで》に触《ふ》れた。
「あれなんだわ」
リンネが低く囁いた。
いよいよ本命の登場に、キャットウォークの袖《そで》に齧《かじ》り付いている僕らにもさっと緊張《きんちょう》が走る。
それは、緒方家の書斎《しょさい》で見たライティングビューローと同じ材質で出来た、開き戸のついた書棚《しょだな》だった。開き戸は観音《かんのん》開きで、格子《こうし》のついた硝子《ガラス》張りになっている。高さは僕の背丈《せたけ》くらいだから、あのライティングビューローと同じくらいだろう。形はやや異なってはいたけれど、細部のデザインや色《いろ》遣《づか》いは確かに同じ作家の手によるものであることを感じさせる。
「よく似てるわね」
「うん」
オークショニアが手元の資料で、出展物の詳細《しょうさい》を読みあげた。
「書棚。1887年度製作。材質はマホガニーと真鍮《しんちゅう》。ループ模様の珍《めずら》しい素材に、ガラスの開き戸には真鍮で細やかなモチーフの象嵌《ぞうがん》が施《ほどこ》されているという高度な技術を要する一品です。……では、2万5000から」
「2万7000」
「2万8000」
「2万9000」
瞬《またた》く間《ま》に値が跳《は》ね上がる。遊佐が持っていたボールペンをオークショニアに向かって軽く振《ふ》って合図を送った。
「3万3000」
「3万3000ドル。3万3000ドルです。他《ほか》には?」
「3万5000」
と、遊佐たちのやや後方に座っていた太った中年の紳士《しんし》が声を上げた。その言葉を受け、オークショニアが確認《かくにん》するようにちらりと遊佐に目を向ける。遊佐は言った。
「3万7000」
「3万8000」
すかさず太った紳士が値を更新《こうしん》する。「4万」と遊佐は言い、ゆっくりと脚《あし》を組んだ。僕らは汗《あせ》をぬぐった。
「4万。現在4万ドルです」
オークショニアはそう言い、今度は太った紳士に視線を向ける。彼はちょっと黙《だま》り、それから鋭《するど》く言った。
「4万2000」
「4万3000」
遊佐がそう言ったときだった。
「4万5000」
別の場所から静かな声が上がった。僕はそっちを見た。正面から左側の席の最後列あたりに腰を下ろしていた男の人が手を上げている。声の感じからしてまだ青年らしい。髪《かみ》は薄《うす》い栗色《くりいろ》をしており、日本人ではないことは一目でわかったが、軽くウェーヴのかかったその髪が邪魔《じゃま》して僕らの位置からは顔がよく見えなかった。椅子からはみ出すように伸《の》びたすらりと長い脚が見えた。
「4万5000。現在4万5000ドルです。他にお声は?」
「4万6000」
素早く遊佐が言う。それに声を被《かぶ》せるように太った紳士が言う。
「4万7000」
「4万8000」
「5万」
最後列の青年が言った。
これで胸積《むなづ》もりを超《こ》えたのだろう、太った紳士が首を横に振った。遊佐は「5万1000」と言い、対して最後列の青年はそれを上回る値付けをした。競争は完全にこの二人の勝負となり、金額は瞬く間に5万9000にまで跳ね上がった。遊佐はさっと髪を払《はら》い、6万の値を付けた。これで遊佐が優位、と僕らが思ったときだった。
「7万」
突如《とつじょ》、まったく違《ちが》う場所から別の声が上がった。
かすかにほう……という溜息《ためいき》が会場内に洩《も》れる中、オークショニアの視線が声の主を求める。右側後列にいた口髭《くちひげ》をぴんと生やした長身の紳士が飄々《ひょうひょう》と手を挙げた。オークショニアがうやうやしく小声で確認する。
「7万でよろしいので?」
「左様《きよう》」
口髭の紳士は鷹揚《おうよう》にうなずいた。すらっと様子のいい、ダンディーなおじさんである。
「7万ドル。現在7万ドルです。他にいらっしゃいませんか? 現在7万」
「7万1000!」
すっかり自分もオークションに参加しているつもりのリンネがすかさず声を上げた。僕はあわててリンネの口を手で押さえ、頭を引っこませた。ここで大声を上げて隠《かく》れているのがばれたらとんでもないことになる。ふがふが言っているリンネに僕は懸命《けんめい》に囁《ささや》いた。
「リンネったら、だめだよ。静かにしてないと。見つかったらどーすんだよ!」
「だって負けちゃうもん!」
頭上でそんな寸劇が繰《く》り広げられているともしらず、遊佐が持っていたボールペンの先端《せんたん》を軽く揺《ゆ》らした。
「7万1000」
「7万2000」
すかさず栗色の髪をした青年が更新する。遊佐が7万3000、と言ったときだった。
「8万」
ずけりと口髭の紳士が言う。今度こそ会場がどよめく中、今まで余裕《よゆう》を見せていた遊佐が初めて動揺《どうよう》したようだった。わずかに身じろぎし、Gの方を向く。Gは眼鏡《めがね》をかけたまま、小さくうなずいた。
口の中がからからに渇《かわ》いているのを自覚しつつ、僕は十メートル下で繰り広げられる武器なき攻防《こうぼう》を見守った。
今や落札者候補は三人に絞《しぼ》られていた。遊佐、栗色の髪の西洋人青年、そして口髭の中年紳士である。
口火を切ったのは遊佐だった。
「8万2000」
やや間をおいた後、「8万2500」と栗色の髪の青年が言う。この青年もまたこのジュビュックの作品に執心《しゅうしん》しているのは間違いなかった。
「8万3000」
遊佐が値づけ、脚を組み替《か》える。
僕は祈《いの》るような気持ちで口髭を生やした中年の紳士《しんし》のほうを見た。どんなお金持ちだか知らないが、もうこれ以上、高値をつけないで欲しい。リンネも、まるで親の敵《かたき》でも見るような目つきで口髭紳士のことを睨《にら》みつけている。リンネにすれば側《そば》に飛んでいってその口にガムテープでも貼《は》り付けてやりたい心境なのだろう。
だが僕らの思いもむなしく、口髭の紳士は余裕綽々《よゆうしゃくしゃく》で二人の若者の値付けを見守ったあと、オークショニアに向けひょいと掌《てのひら》を返してみせると、さらりと金額を述べた。
それは当初のエスティメートでは考えられない金額だった。
「9万」
周囲のどよめきと共に即座《そくざ》にオークショニアが反応する。
「9万ドル。9万ドルのお声がかかりました。他《ほか》にどなたか? 現在9万」
彼は競争相手だった青年のほうに眼差《まなざ》しを向ける。栗色の髪の青年は微笑《びしょう》を浮《う》かべると、諦《あきら》めたようにゆっくりと首を横に振《ふ》った。オークショニアは続いて遊佐の方を見た。一拍《いっぱく》間をおいた後、遊佐は口をへの字に曲げ、小さく首を横に振った。Gがうつむき、眼鏡を外した。
それを確認《かくにん》し、オークショニアはすかさずハンマーを打った。
「9万ドル。ご落札は関《せき》様」
競売はその後も続けられたが、もう僕らの関心はそこにはなかった。
遊佐は緒方夫人の依頼《いらい》を果たすことに失敗し、ジュビュックの作品はもう他人の手にわたってしまった。それが僕らをいたく失望させたのだ。
当の落札者であるあの関とかいう口髭を生やした紳士は、まるで意中の品はあれだけだったとでもいうようにその後はオークションに一切《いっさい》参加することなく、静かに椅子《いす》に腰《こし》を下ろしていた。
もう一人の西洋人の青年もまた同様だった。一度、ジュビュック作品を落札できなかった腹いせをするかのように、さほど買い手の付かない銀製の懐中《かいちゅう》時計を高額で一発落札したほかは目立った動きをすることもなく、その他の参加者に交じってオークションの終了《しゅうりょう》を迎《むか》えた。
やがて競売の終了が告げられた。関係者らしい人間が挨拶《あいさつ》を述べたあと、入り口の扉《とびら》が開け放たれる。
緊迫《きんぱく》したひとときが終わり、参加者の間にくつろいだ空気が流れる中、会場の上部にはひとり、苦虫《にがむし》を噛《か》みつぶしたような表情を浮かべた女の子の姿があった。
「ああん。もうっ。遊佐くんったら何考えてるのよっ」
あの競売の後、憤懣《ふんまん》やるかたないといった面持《おもも》ちでひたすら焦《じ》れていたリンネだったが、会場のドアが開かれるや否《いな》や、脇目《わきめ》もふらずに駆《か》け出していく。僕とルウはあわてて後を追った。
「G! 遊佐くん!」
遊佐に伴《ともな》われ、オークション会場からちょうど出てきたところだったGは廊下《ろうか》を走ってくるリンネを見るや、ぎょっとしたようだった。
「リンネ様!? どうしてここに?」
「……お前ら、なんでここにいるの?」
信じられないといった面持ちのGと遊佐が問いかけるのも構わず、リンネは噛みついた。
「もうっ、遊佐くんったら! ジュビュックの作品をまんまと取られちゃったじゃないのっ」
「リンネ様ったら……」
Gは困ったようにあたりを見回していたが、「ちょっとこちらへ」と人目に付きにくい廊下の奥まった場所に僕らを連れて行くと、背筋を伸《の》ばして腰に手を当てた。
「もう! きちんとおうちでお留守番してないとだめじゃないですか。こんなところにまで来て!」
「だって、見たかったんだもの」
「めっ。ダメですよ、お三人とも。さ、見つからないうちに早くお出に」
「そんなことより、オークションのことよっ」
リンネは両こぶしを握《にぎ》ると、やっとお仕着せから解放されたと言わんばかりに早速《さっそく》人差し指でネクタイを弛《ゆる》めた遊佐に食ってかかった。
「あの書棚《しょだな》、取られちゃったわ! どうしてもっとがんばって落札しなかったの? お金がなかったの?」
「……おい久高。お前たち、もしかして全部見てたのか?」
せっかく弛めたネクタイを再び引っぱりかねないリンネの勢いに辟易《へきえき》しつつ、遊佐は僕に顔を向けた。僕はうなずいた。
「うん」
「どこで?」
「会場は吹《ふ》き抜《ぬ》けだったろ。上のほうにキャットウォークがあったからそこで。下の入り口には警備員がいたけど、上には誰《だれ》もいなかったから」
「ったく」
遊佐はいつものようにくせっ毛――この日は丁寧《ていねい》にブラシでまっすぐに伸ばされていたが――をかき回すとGと顔を見合わせた。
二人の表情の上に漂《ただよ》っていたのは、怒《おこ》るべきか笑うべきかを判じかねているような、それでいて、悪戯《いたずら》っ子《こ》がなにか企《たくら》んでいたのにそれが途中《とちゅう》で露見《ろけん》してしまったときに浮かべるような、そんな心の動きが入り混じったものだった。
「遊佐くんったらっ」
遊佐は苦笑《くしょう》すると、いきり立つリンネに向きなおって言った。
「あれでいいのさ」
「どこがいいのよっ。全然関係ないヘンなおじさんに落札されちゃったじゃないのっ!」
なぜかいっこうにくやしがる様子がない遊佐に、リンネが訝《いぶか》しさよりも苛立《いらだ》ちを募《つの》らせ、地団駄《じだんだ》を踏《ふ》んだときだった。
「失礼。それは私のことですかな?」
ふと口髭《くちひげ》を生やした中年の紳士《しんし》がリンネの背後から問いかけた。
その人物は……。
「あーっ」
目を丸くするリンネにむかって、遊佐はすまして言った。
「紹介《しょうかい》するよ。こちらは関さん。緒方さんのとこの執事《しつじ》さんだ」
「関と申します。どうぞ以後、お見知りおきを」
胸に手を当て、関氏――リンネが今まさに言った『全然関係ないヘンなおじさん』――は僕らに向かって丁寧に一礼した。
「……いったい。え? あのう、どういうことなの?」
わけがわからずぽかんとしているリンネに向かってその紳士は口髭を軽く引っぱると、茶目っ気たっぷりにウインクをひとつ。
先刻まで憎《にく》き敵役《かたきやく》とばかり思っていた競争相手に親しく声をかけられ、混乱するリンネより先に察しがついたらしいルウが溜息《ためいき》と共に言う。
「なるほどね。全然気づかなかったわ」
僕もうなずいた。
「そっか。遊佐たちはデコイだったんだね」
「ああ」
遊佐はワイシャツの一番上のボタンを外して本格的に喉元《のどもと》をくつろげると、やっと落ち着いたのか、僕らに詳《くわ》しい事情を説明してくれた。
それによると、遊佐とG、それに関氏の三人は前もって綿密な打ち合わせをしてこのオークションに臨《のぞ》んだらしく、それは僕らがこの目で見たようにあらかじめ複数人で入札を競《せ》り合い、競り負けるリスクを軽減するというものだった。確かにこの方法なら、たとえバイヤーなどの業者が競りに介入《かいにゅう》しても意中の品を失う可能性は低くなる。まさに、お金に糸目を付けない資産家の緒方夫人だからこそできる作戦である。
遊佐が肩《かた》をすくめて言った。
「まあ、用心に越《こ》したことはないからな。確実に落札したいのなら保険はうっておかないと」
「うっしっし。それにしても上手《うま》くいきましたなあ」
チェシャ猫《ねこ》のような含《ふく》み笑《わら》いを浮《う》かべると、関さんは遊佐を肘《ひじ》でつついた。どうも見かけよりもずっとひょうきんなおじさんらしく、そんな仕草をしていると古き良き時代の銀幕に出てきそうなロマンスグレーも台無しである。
遊佐は苦笑いして首を振《ふ》った。
「俺は別になにもしてませんよ。関さんの演技が上手かったからです」
「いえいえ。司馬様の演技もなかなかどうして。お若いのに堂々とした富豪《ふごう》っぷりで御座《ござ》いましたとも」
なんかお互《たが》いを讃《たた》えあってるし。
「まあ」
やっとからくりを理解したらしいリンネがようやく顔を綻《ほころ》ばせる。
「なあんだ。まんまと騙《だま》されちゃったわ」
「敵を騙すには味方から、と申しますから」
関さんはすまし顔でそう言うと、手の平を胸に当て、優雅《ゆうが》に一礼して見せた。リンネはちょっぴりほっぺを赤らめるとくすりと笑った。どうやらリンネは一目でこのおじさんが気に入ったらしい。
ったく、あいかわらず年上に弱いんだから。
「……それにしても」
さあこれでこっちの事情は説明したぞ、と言わんばかりにGはじろりと僕らを見やると腕組《うでぐ》みをした。どーやらこっちにお説教のターンが廻《まわ》ってきたらしい。
「まったく。リンネ様はともかく、久高様まで。お止めにならなかったんですか?」
「う、うん」
珍《めずら》しくGに叱《しか》られ、僕は頭をかいた。
あたりが多少|賑《にぎ》やかになってきたし、お説教は家でたっぷり聞くことにして、僕らは会場から引き上げることにした。
敵同士が仲良く連れだって歩いていてはまずいので、関さんが一足先にフロアを後にする。
一刻も早くお仕着せから解放されたいのか、化粧《けしょう》室に消えた遊佐を待ちつつ、僕らがホテルのフロントに車を回してもらう手配をしていたときだった。ふと僕らの前を一人の西洋人の青年が通りがかった。
「……これは」
その青年はGの姿を認めると、わずかに切れ長の目を細め、会釈《えしゃく》をした。それは、遊佐や関さんと最後まで落札を競っていたあの青年だった。
「先程《さきほど》、会場でご一緒《いっしょ》しましたね」
「まあ。ではあなたもあのオークションに?」
Gの言葉に彼はうなずいた。二十代半ばくらいの、貴公子然とした洗練された物腰《ものごし》を持つ美青年だった。ハイヒールを履《は》いたGよりも、さらに頭半分背が高い。
「ええ。珍しいオークションが催《もよお》されると聞いて。残念ながら意中の品は落札できませんでしたが、とても楽しめましたよ。興味深い物をいくつか見ることができましたし」
そこまで言うと青年は指先で栗色《くりいろ》の髪《かみ》を払《はら》い、端正《たんせい》な口元に皮肉《ひにく》そうな笑《え》みを刻んだ。
「……特にあの書棚《しょだな》は素晴《すば》らしかった。私もあれを狙《ねら》っていたのですが、他《ほか》の方に落札されてしまいました。あなたのようなお美しい方に落札されたのでしたらまだ諦《あきら》めもついたのですが」
「まあ。恐《おそ》れ入りますわ」
相手の麗句《れいく》を受け、Gは艶《つや》やかな微笑《びしょう》を浮かべたが、その瞳《ひとみ》は決して笑ってはいない。関さんと一緒じゃなくて正解だったなと僕は思った。
Gが小首を傾《かし》げて訊《たず》ねた。
「こちらのホテルにお泊《と》まりになっていらっしゃいますの?」
「ええ。でももう引き上げるつもりです。見る物は見たので」
そう言うと青年はつとリンネに視線を転じた。その冴《さ》え冴《ざ》えとした鳶色《とびいろ》の瞳が静かにリンネの上に注がれる。
「おや、かわいいレディですね」
「あら。どうもありがとうございます」
子供|扱《あつか》いするな、と言わんばかりにリンネはすまし顔で応《こた》えた。それを感じ取ったように青年は瞳の奥で微《かす》かに笑うと、礼儀《れいぎ》正《ただ》しく名乗った。
「私はソロー。リュシアン・ソローと申します。ミス……」
「リンネ・箕作・メイエルホリドです」
「初めまして。ミス箕作。お会いできて光栄です」
そう言うと、ソローと名乗った青年はうやうやしく腰《こし》をかがめてリンネの手を取り、その甲《こう》に軽く接吻《せっぷん》した。
そんなことをされたのは生まれて初めてだったのだろう、リンネはびっくりしたように赤くなったが、それでもつんと頤《あご》を上げると辛《かろ》うじて言った。
「こ、こちらこそ」
「いつかまたお目にかかりましょう。……では失礼」
長身を翻《ひるがえ》し、その謎《なぞ》めいた青年は去っていった。去り際《ぎわ》、彼はなぜか一瞬《いっしゅん》ちらりと僕の方を見たような気がした。青年の残した奇妙《きみょう》な余韻《よいん》に浸《ひた》りつつ、僕たちはぼんやりとその背中を見送った。
「かっこいい人ね……いったいだれなのかしら?」
ややあってぽつりとルウが言ったが、それに答える者はなかった。
オークションは終わり、僕らは家に戻《もど》った。
[#改ページ]
じいちゃんからの手紙
[#ここから4字下げ]
久高へ
イタリアはカンパニア州ナポリにて一筆。
思わぬ長逗留《ながとうりゅう》となって今日で四日目。わしは今、サンタ・ルチアの海岸沿いにあるレストランのテーブルにてこれを書いている。久高、お前は元気か? わしはどうやらお迎《むか》えが近いようじゃ。トマトとモッツァレッラとポートワインで胃はふくれ、気分までが少々|厭世《えんせい》的になっておる。こんな時に書く文章はおそらくろくなもんにはならんじゃろうが、夕刻まで特にすることもないのでな、ピッツァ・マルゲリータをもう一皿注文したのち、せめて孫に宛《あ》てて遺書を書く練習でもすることにしよう。
北部から列車で揺《ゆ》られてバチカン市国に立ち寄る為《ため》に一旦《いったん》下車した後、ナポリの地に着いたのが四日前。このレストランで昼食を摂《と》るのもこれで四度目となる。テラス越《ご》しにナポリ湾《わん》とその向こうにはヴェズーヴィオ火山が見えるが、紺碧《こんぺき》の海と輝《かがや》く陽光を眺《なが》めているうちにふと誰《だれ》が言ったか「ナポリを見て死ね」との言葉を思い出した次第《しだい》じゃ。
もっとも、こうして長旅を重ね巷塵《こうじん》の中を這《は》いずり回っている身の上としては、ここの風景はいささか日差しが陽気すぎてあまり言葉を飾《かざ》る修辞が湧《わ》いてくる眺めでもないな。ただ美しい場所には逮《ちが》いないよ。美味《うま》い物がありすぎて無闇《むやみ》に腹が減るのが欠点じゃがな。
さて、隣《となり》の一家は元気で暮らしておるかな――特にあの魔女《まじょ》っこは? 先月会った時はすっかり別嬪《べっぴん》になっていて見違えたよ。当人は「士《し》、別レテ三日、刮目《かつもく》シテ相待スベシ」などと嘯《うそぶ》いておったが、見た目だけでなく学のほうも進んでいるのならまことに結構な事じゃ。本読みを怠《おこた》ってあれの母親を泣かしたりせぬよう、お前も心を配ってやれ。普段《ふだん》の様子なども時々知らせてくれれば有り難《がた》い。ジルベルトも便りを寄こしてくれるが、あれはあの一家に対する情が深すぎる分、やや描写《びょうしゃ》に客観性を欠く嫌《きら》いがあるのでな。と言って、何も嘘《うそ》が書いてあるわけではないが、まあ、味も素っ気もないお前の筆のほうが、時にわしの判断の羅針《らしん》となるというわけじゃ。
味も素っ気もないと言えば、この夏のわしの態度について詫《わ》びねばならんな。お前だけでなく、嬢《じょう》ちゃんにもな。正直に言うが、わしはあの時点で秋口にはあれのもとに親父《おやじ》を伴《ともな》って帰れるという算段をつけておった。だから早々と日本を後にしたのだが、そうはならなかったのは、こうしてここで季節外れの逗留客を演じる境遇《きょうぐう》が示すとおりじゃ。まったく不甲斐《ふがい》ない。が、そもそもわしがそう思った理由はドイツで箕作のノートを入手したことにある。そのことについて少しばかり書かせてくれ。
箕作が時《とき》載《の》りに『人間と等しい有限の生』を与《あた》える研究をしていたことについてはお前も知っておろう。奴《やつ》の失踪《しっそう》が、その研究の完成を恐《おそ》れた時載りによって命を狙《ねら》われたことに端《たん》を発していることもな。奴のノートを手に入れた日から、わしの――そしておそらく嬢ちゃんの――最大の関心事は、奴の行方《ゆくえ》にあったことは改めて言うまでもない。だが結論から言えば、あのノートは研究の為の書き付け以上のものではなかった。(これはまだ嬢ちゃんに告げておらん事柄《ことがら》だ。まだ言うなよ。折を見てわしから伝えよう)
さて、その肝心《かんじん》の箕作の研究についてだが……ノートを読むにつけ、奴の研究は殆《ほとん》ど進んでいないと見るべきだろう。研究には拠点《きょてん》が欠かせん。が、奴がここ数年、姿をくらまし続けながら欧州《おうしゅう》を転々としてきたことを考えれば、その研究が失踪当時から凍結《とうけつ》したままであることは、ある意味当然なのかもしれん。だが奴が研究を記したノートを肌身《はだみ》離《はな》さず持っていたという事実は、同時に奴が自らの研究に執着《しゅうちゃく》し、それを完成させる意図を未《いま》だ捨てていなかったことを意味する。それを知った時、わしは若かりし頃《ころ》の彼を思い出したよ。そう、鬼才《きさい》と呼ばれたかつての奴をな。
箕作の流浪《るろう》の四年間は、同時にわしらにとって空白の四年間でもある。奴がこの四年、何をしてきたかわしらは知ることが出来ん。
昨年末、奴は死の間際《まぎわ》の蘆月《あしづき》長柄《ながら》を訪ねるために一度日本に帰国した。その際、奴はその目と鼻の先にある我が家に立ち寄ろうともしなかった。電車に乗れば一時間、そこには妻と、二人の子がいるにもかかわらず、な。
久高、奴はそういう男だ[#「奴はそういう男だ」に傍点]。賽《さい》は放《ほう》られ、事態は既《すで》に動き出している。あるいは嬢ちゃんにとっては辛《つら》い事実かもしれんがな。
今、ふと思い出したので書く。
あれはいつだったか。わしが日本にいた頃、あれの父親と会った後に一緒《いっしょ》に食事を摂《と》ったことがあった。確か麻疹《はしか》の二次|攻略《こうりゃく》を受けた凪がもはや虫の息で、雪枝《ゆきえ》さんに言われてお前がわしの所へ転がり込んできた年だから、たぶんお前が六つか七つくらいの時、今からだいぶ昔の話だ。
どこぞの定食屋にふらりと二人で入り、確か鰻重《うなじゅう》なんぞをつついたはずだが、随分《ずいぶん》長話をしたにもかかわらず、その場で何を話したのか今ではとんと憶《おぼ》えておらん。話の内容も交《か》わされた言葉も綺麗《きれい》に記憶《きおく》から失《う》せておる。ただどういうわけか、今、この青い地中海を前にしてしきりに思い出せるのは重箱に向かって無心に箸《はし》を使う箕作の表情じゃ。
わしはこの地でもう少し箕作の情報を探《さぐ》ってみる。時載りと人間の関係を揚棄《ようき》しようとする奴の理論が、奴の脳髄《のうずい》の中でどの程度固まっているのか、わしには判《わか》らん。だが、奴がこのノートを手放したということは、奴ももはや逃《に》げるのになりふり構っていられなくなったということじゃ。一刻の猶予《ゆうよ》もならん。お前の所に戻《もど》るのは予定より少し遅《おく》れることになるだろう。この旨《むね》、雪枝さんに伝えておいてくれ。
日本ではもう二学期が始まったな。凪助《なぎすけ》は元気か? 先日あれはコスモスを一輪押し花にして封筒《ふうとう》に入れて送ってくれたよ。あれも以前に比べ、顔つきが明るくなったようで結構な事じゃ。
お前は元気でやっておるか? あまり本は読むなよ。人間、霞《かすみ》を喰《く》って生きているわけにはいかんからな。女房《にょうぼう》に隠《かく》れて鰻重をつつくのは十年後にとっておけ。背丈《せたけ》はともかく、お前は少し痩《や》せすぎじゃぞ。
では達者でな。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]楠本南涯
[#改ページ]
6章
オークションより一週間が経過し、大役を果たした僕らのもとに、再びいつもの日常が戻っていた。
リンネと僕は普段《ふだん》通り学校に通ういっぽう、Gもまた優美で華《はな》やかなドレスからいつもの黒ずくめの衣装《いしょう》に着替《きが》え、箕作家の司書として雑務に追われる日々を過ごしている。「俺はもう一生分の忍耐《にんたい》を使い果たした」という遊佐は、愛用のボロ着に袖《そで》を通し、さっさと浮浪《ふろう》少年スタイルに戻ると、二度とスーツやネクタイを顧《かえり》みることはなかった。綺麗にくしで撫《な》でつけられていた髪《かみ》は、二、三日公園のベンチでごろ寝《ね》しているうちにすっかりいつものくせっ毛に逆戻りしてしまい、ようやくそれで人心地《ひとごこち》ついたのだろう、露骨《ろこつ》にほっとした表情を浮《う》かべた遊佐は相も変わらず難しい外国語の本を読みふけっている。
その遊佐と競《せ》り合う形で執事《しつじ》の関氏が落札した書棚《しょだな》は緒方|邸《てい》へ届けられ、同じくジュビュックの手になるライティングビューローの隣《となり》へと、まさに一世紀の時を経て鎮座《ちんざ》することとなった。
Gによればあの競売の際、『オラムの眼鏡《めがね》』をかけた彼女の目には、この書棚が強いオレンジ色の光を放っているのがはっきりと見えたそうだから、この書棚に「時留めの効能」が備わっていることは間違《まちが》いないらしい。
これにより、緒方夫人は名工ハゼル・ジュビュックの晩年の最高|傑作《けっさく》を二つながらに所有することとなったわけだが、後日、それについての直筆の感謝状がリンネのもとに届けられた。
リンネはその感謝状を鼻高々に受け取ったが、実際のところ、落札の労をとったのは関さんであり、そこに到《いた》るまで迫真《はくしん》の演技を続けたのはGと遊佐である。別にリンネが手柄顔《てがらがお》になる必要はないのだが、これはまあ言わぬが華、というものであろう。
ともあれ感謝状には近いうちにまたみんなで遊びに来て、落札した書棚を見て欲しいという内容がしたためてあったので、僕らはその機会を心待ちにしつつ、再び元の平凡《へいぼん》な生活を送っていた。
もっとも、なかなか元の生活に馴染《なじ》めない子もいる。
「はあ。素敵《すてき》だったわねえ」
箕作家の離《はな》れの一角。
いつもの暖炉《だんろ》脇《わき》の特等席に腰《こし》を下ろして本を広げつつ、リンネは吐息《といき》と共にうっとりと呟《つぶや》いた。
あの日オークション会場に行ったこと、そしてこっそり競売の一部始終を盗《ぬす》み見していたことについて、帰宅後ママさんからたっぷり大目玉を食《く》らったリンネは、罰《ばつ》としてここ数日、離れで読書をしてすごしていた。
幸いと言うべきか(むろんリンネにとっては不幸なことに)、最近この離れにディケンズの完訳本が届いたらしく、読ませる本には事欠かない様子である。書籍《しょせき》は山のように積まれ、ディケンズの他《ほか》にもスウィフトやデフォー、ジョン・ラスキン、ローレンス・スターンといった錚々《そうそう》たる面々がリンネの面前にずらりと控《ひか》えている。どうやらママさんはこの機会にリンネに英國《えいこく》文学の精髄《せいずい》を叩《たた》きこむつもりらしい。
もっとも、当の愛娘《まなむすめ》は踊《おど》り場《ば》から眺《なが》めたオークションの余韻《よいん》がいまだ冷めやらぬのか、お世辞にも読書に身が入っているとは言いがたい。
「Gのドレスもすごく素敵だったし、遊佐くんもかっこよかったけど、何よりあの会場の雰囲気《ふんいき》よねっ。まるで映画のワンシーンに紛《まぎ》れこんだみたいだったわ!」
そう言うとリンネは再びうっとりと胸の前で手を合わせた。キャットウォークの上で息を凝《こ》らして競売の攻防《こうぼう》を目《ま》の当たりにした体験は、リンネの心に余程《よほど》深く刻まれたらしい。
テーブルの上に広げた『大いなる遺産』にもはや一顧《いっこ》だにしようとしないリンネに向かって僕は言った。
「本読みをサボってるとまたママさんに叱《しか》られるぞ」
リンネは横目でじろりと僕を睨《にら》んだ。
「なによ。淡泊《たんばく》な子ねえ。ちょっとくらい余韻に浸《ひた》ったっていいでしょ」
「でもあれからもう一週間だぜ。余韻に浸りすぎだよ」
「だあって、素敵だったんですもの」
そう言うとリンネはくるりとGの方に向きなおった。
「Gだってそうよね? あの時のGなんて、まるで女優みたいに綺麗《きれい》だったし!」
「わ、わたくしはただ、お役目によりあの場にふさわしい装《よそお》いをしただけです。そんなに仰《おっしゃ》られては恥《は》ずかしいですわ」
急に我が事を持ち出され、Gは頬《ほお》を染める。
「あら。私、Gはもっと普段からおしゃれをするべきだと思うわっ。せっかく美人なんだから、もっとゴージャスな格好をするべきよ」
「リンネ様ったら……」
Gは何となく表情の選択《せんたく》に困ったような微笑《びしょう》を浮かべて言った。
「ありがとうございます。そんなに言っていただいて光栄ですわ。ですが、わたくしの本分はあくまで箕作家の蔵書を管理することにありますの。それ以外は余事ですわ。ですからおめかしはまたの機会に」
「ちぇ。つまんないの」
あくまで控えめなGの物言いに、リンネはぐいと背をそらすと天井《てんじょう》を見上げた。
「あーあ。私もいつかあんなお洋服が着たいなあ」
「この間着たじゃないか。ほら、緒方のおばさんのとこに行った時」
「あんなの、子供用の服だもん」
リンネは口を尖《とが》らせたが、それでも自分なりの楽しみはちゃっかり確保しているところがいかにもこの子らしい。
その週末、僕がリンネんちに遊びに行くと、リンネはお出かけの支度《したく》の真っ最中だった。聞けばこれからルウと一緒《いっしょ》においしいケーキ屋さんに行くという。この間、『オラムの眼鏡』を徹夜《てつや》で修理してもらったことに対するお礼らしいが、単に甘いものを食べたいというリンネの思惑《おもわく》が絡《から》んでいることは改めて言うまでもない。
だがリンネは意気|揚々《ようよう》と鏡の前でブロンドにリボンを着けると、すまして言った。
「やあね。そんなことあるわけないでしょ。あくまでこれはお礼よ。お礼」
「そうかなあ」
なくとなく手持ち無沙汰《ぶさた》で僕がリンネの学習机に腰を下ろし脚《あし》を揺《ゆ》らしていると、ふと鏡の中のリンネと目が合った。
リンネが心得顔でウインクする。
「いっとくけど、ついてきたくてもついてきちゃダメよ。今日は女の子だけのお出かけなんだから!」
「……べつに僕は行きたいなんて言ってないぞ」
「ふふん。ダメダメ。ちゃあんと久高の顔に書いてあるもの」
リンネは歯列|矯正用《きょうせいよう》のブリッジをのぞかせて笑顔《えがお》でそう嘯《うそぶ》くと、「あんみつとゲーデル・パフェ、どっちを先にしようかなあ」などと時《とき》載《の》りとは思えぬ発言をしている。そのうちおめかししたルウがやってきたので、リンネはいそいそと階下に下りていき、程なく二人の女の子は仲よく肩《かた》を並べて街へ繰《く》り出していった。
「リンネたち、どこいくの?」
その後ろ姿を玄関先《げんかんさき》で眺め、ねはんが不思議そうな表情で僕に訊《たず》ねる。
なんとなく、海保ルウがよからぬ道に引きこまれているような危惧《きぐ》を覚えつつ、僕はねはんと手を繋《つな》いで食べ盛《ざか》りの女の子たちの背を見送った。
翌日。
僕とリンネは動きやすい服装に着替《きが》えて家を出た。以前から遊佐と出かける約束をしていたのである。
と言っても、別に鮎《あゆ》釣《つ》りに行くわけではない。
これは今から少し前――正確には『時の旋法《せんぽう》』を手に入れて少し経《た》った頃《ころ》――から僕と遊佐、そしてリンネの三人で始めた集まりで、週に一、二度、野外で身体《からだ》を使ったトレーニングをするのである。その目的はリンネの時載り、及《およ》び時《とき》砕《くだ》きとしての実力を上げることにあった。
不思議な偶然《ぐうぜん》が重なり時砕きとなったリンネだが、その実態はいまだごく普通《ふつう》の小学六年生の女の子に過ぎない。技倆《ぎりょう》や知識、経験、いずれを取っても先任者の域には遠く及ばない。
もし長柄さんが生きていたら、先達として、あるいは師匠《ししょう》として、リンネを優《やさ》しく導いてくれたのかもしれないが、残念なことに亡《な》くなっているので、リンネは自分で自分を育てていかなくてはならない。よこしまな野心を抱《いだ》いて今後現れるであろう悪党たちと互《ご》していくためにも、時砕きとしてその実力を上げていくことは、目下最大の急務なのであった。
というわけで、いつものように集まった僕らだったが――。
「……遊佐の奴《やつ》、何だってこんなところで待ち合わせするのかな?」
「さあ」
そこは、僕らの家から少し離《はな》れた国道沿いにある、鄙《ひな》びたバッティング・センターだった。昼間ということもあって、客の姿はほとんどないのはいいけど、遊佐の姿までないのはいただけない。
「ったく」
やむなく僕らが入り口前で所在なく佇《たたず》んでいると、予定よりも三十分も遅《おく》れてその遊佐がふらりと姿を現した。
「もう! 遅《おそ》いぞ!」
「悪い悪い。どーいうわけか、駅前の時計が遅れててさ」
白々しい言い訳をしつつ、遊佐はのほほんと目の上で指を翳《かざ》す。
遊佐と会うのは一別以来だが、久方ぶりに姿を現したのは僕らがよく知る「あの」遊佐だった。
よれよれのシャツに膝《ひざ》の抜《ぬ》けたズボン、裸足《はだし》に草履《ぞうり》といういつもの出《い》で立ち。両手をポケットに突《つ》っこんだまま、その優美な長身をだらりとした姿勢で台無しにしている。綺麗《きれい》に整えられていたくせっ毛も、これが本来のあり方だ、と言わんばかりの見事な鳥の巣状態である。
その遊佐のなりの酷《ひど》さに気づくと、リンネはどこか名残《なごり》惜《お》しそうに口を尖らせた。
「遊佐くんったら、すっかり元に戻《もど》っちゃったのね」
「あん? 何が?」
「そのだらしない格好よ。この間はあんなにかっこよかったのに!」
「あんな格好、もう半日も続けたら即身成仏《そくしんじょうぶつ》間違《まちが》いないね。死んだ後でもネクタイ締《し》めたままうわごと言ってそうだ」
遊佐は口悪くそう言うと、不意ににやりと笑った。
「ところでちゃんと本は読んできたか? 今日はけっこーストックを使うぜ」
「へへん。ばっちりたっぷりよ」
リンネはぐいと胸を反らしたが、出掛《でが》けに読み飛ばしたO・ヘンリの短編一本が果たして「ばっちりたっぷり」という表現の範疇《はんちゅう》に含《ふく》まれるかどうかはかなり疑問である。
それを知ってか知らずか、遊佐は鮮《あざ》やかなウインクを決めて言った。
「上等。じゃあ早速《さっそく》始めるか」
「で、今日はどんなことするの?」
センター内に入るなり、わくわく顔でリンネが訊ねた。
あたりでは、ぱこんばこんという金属バットがボールを弾《はじ》く音が響《ひび》いていた。数人のおじさんが緑色のネットで仕切られた打席に入り、快調に白球を飛ばしている。
今日のリンネは白いプリントTシャツに腿《もも》まである黒のスパッツ、右手首にはリストバンドという出で立ちで、頭にはベースボールキャップを被《かぶ》っている。長いブロンドは後ろで束ね、いつにも増して活動的なスタイルだ。
「もちろんこれを使うのさ」
遊佐が手にしたのは貸し出された金属製のバット。
リンネが小首を傾《かし》げる。
「ボールを打つ練習?」
「そう。これで時留めのトレーニングを行う」
遊佐の説明によると、今日のトレーニングは実際に動いている物を正確に素早《すばや》く止められるよう、技術の向上を主眼に置いたものらしい。以前、リンネがルウと喧嘩《けんか》した時、時留めのトレーニングとしてピーナッツを使った特訓をしたことがあるが、基本はあれと同じと言っていい。ただし、前回は複数の動く物体を一瞬《いっしゅん》で選別し、個別に時間処理を施《ほどこ》すという訓練だったのに対し、今回は高速で動く一つの物体を任意の場所において停止させるという、より「速さ」に力点を置いている点が少し異なる。
「どうやるの?」
「まずバットを構えてバッターボックスに立つ。ボールが飛んできたら、ミートの瞬間に素早くボールの時間を止めてひっぱたく。簡単だろ?」
「……そんなんでホントに時留めの訓練になるの?」
飄々《ひょうひょう》とした遊佐の説明に若干《じゃっかん》のいかがわしさを感じ、僕は口をへの字に曲げた。だが遊佐はけろりとした表情でうなずく。
「なるさ。ボールをきちんと前に飛ばそうと思えば、必然的にどの位置で時間停止をかけるのが最適かを一瞬で判断しなきゃならなくなるだろ? その際必要なのは動体視力と空間|把握《はあく》力、そして時《とき》載《の》りとしての技倆だ。リンネの場合、動いている物を見定める動体視力は悪くないんだから、残るは二つ。空間のどのポイントにおいて物を停止させるかという判断力と、今[#「今」に傍点]、眼で見た物へ即座に力を及ぼす実効性[#「眼で見た物へ即座に力を及ぼす実効性」に傍点]、これがパワーアップの鍵《かぎ》を握《にぎ》っているのさ。これはそのための訓練なんだ。理屈《りくつ》でいやあ、物理法則に関与《かんよ》できるリンネはピストルの弾丸《だんがん》はおろか、光や音だって止められるはずなんだから」
「……にしても、別にバットまで振《ふ》る必要はなくない?」
「バットを持ったほうがなんとなく雰囲気《ふんいき》出るだろ。それに、身体《からだ》を動かしながら時を止める練習も無駄《むだ》ではないと思うぜ」
遊佐はすまして言うと、手にしていたバットのグリップをリンネに差し出す。
「んじゃま、能書きはこれくらいにして、やってみるか」
「う、うん」
遊佐に促《うなが》され、リンネはバットを持ってバッターボックスに立った。まずはボールに慣れる意味もこめて普通《ふつう》に打ってみることにする。
が、実のところ、リンネはこれまでほとんど野球をやったことがない。
案の定、ピッチングマシンが作動すると同時に、胸元《むなもと》をうなりをあげて通り過ぎていくスピードボールにリンネは小さく身をすくませる。
「きゃんっ」
あわてて一歩後ずさるリンネを見て、遊佐が笑った。
「大丈夫《だいじょうぶ》だって。そこにじっと立っている限り、ボールはぜったい当たらないから」
「ほ、ほんとね?」
「機械|制御《せいぎょ》だもん」
「でも、ちょっとこわいなあ」
気を取りなおして第二球目。
ホームベースから一番遠い、バッターボックスの端《はし》っこに立って、おそるおそるバットを構え直したリンネだったが、やはりスピードボールにまったく手が出ず見|逃《のが》し……と思ったら。
「えいっ」
ボールが完全に通過しきった後に、遅《おく》れてバットをゆっくり振っている。
……こりゃあそうとう時間がかかりそうだな。
読書よりも外遊びが大好きで運動神経は抜群《ばつぐん》、およそスポーツと名がつくものなら何でも得意なリンネだけど、バッティングなんていう職人的な技巧《ぎこう》を要する分野はやはりだいぶん勝手が違《ちが》うらしい。
などと、内心思っていた僕だったが。
二十分後。
「たあっ」
「とりゃあ」
「でやあっ」
バッターボックスの中には、少年|漫画《まんが》の主人公が必殺|技《わざ》を使う時のようなかけ声と共にバットをぶんぶん振り回し、快打の山を築いてゆく箕作リンネ・メイエルホリドの姿があった。
「結構楽しいわね、野球って!」
ブリッジも露《あら》わに笑顔《えがお》でそう言うなり、リンネは脇《わき》を締《し》めた見事なスイングで来たボールをすくい上げる。実際の球場なら楽々フェンス越《ご》えしてスタンド・インの当たりであることは間違いない。
さすがはリンネ。たった二十分でバッティングのコツを掴《つか》んだらしい。
「すげえなー」
僕の傍《かたわ》らで、さしもの遊佐も言葉をなくしている。
初めのうちは時速九十キロにスピードを設定していたリンネだったが、慣れるにつれ徐々《じょじょ》に球速を上げていき、今は時速百三十キロのスピードボールと向き合っている。それでも振り遅れずに、しっかりとボールの中心をミートしているところは、とても女の子とは思えない。
てゆーか、普通の女の子は「でやあっ」なんてかけ声はあんまりあげないとは思うけど。
「嬢《じょう》ちゃん、やるねえ!」
「うむ。けっこう筋が良い」
「あの肘《ひじ》のたたみ方はなかなかできんもんじゃて」
いつの間にか、周りのおじさんたちまでもがリンネのゲージの後ろに集まってきて、一席ぶっている。
「……なんか、妙《みょう》なことになったなあ」
遊佐はくせっ毛を掻《か》きつつ、リンネに訊《たず》ねた。
「おい、リンネ。ちょっと休まなくて大丈夫か?」
「ぜーんぜん。さ、もう一ゲームいきましょ。久高、コインを入れて!」
「う、うん」
やむなく僕はポケットから小銭入れを取り出すと機械に百円玉を投入したが、よく考えたらリンネはボールを打つばっかりで、まだ一度も時間を止めてない。たまらず僕は小声で言った。
「あのねえリンネ、今日はバッティング練習をしに来たわけじゃないよ。時間を止める練習をしに来たんだぜ。そろそろ始めないと」
「わかってるわよっ。でも、当たると気持ちいいんだもの」
結局、この日のリンネはろくに時間を止める練習をせぬまま、ライナー性の当たりをいいだけ連発し、意気|揚々《ようよう》とバッティングセンターを後にした。
「ああ、楽しかった。またみんなで来ましょうね」
夕焼け空の下、リンネは元気よくそう言うと、スキップしながら先頭に立つ。まあ、今日初めてバットを握った女の子にしては上出来なのだろうが、なんとなく当初の特訓の主旨《しゅし》と違ってきているような気がしないでもない。
既《すで》に日は落ちかけ、鰯雲《いわしぐも》はまるで囲炉裏火《いろりび》に炙《あぶ》られたように仄《ほの》かに色づいている。背を紅色に染めつつ、僕らは路面に長く伸《の》びた自分たちの陰《かげ》を踏《ふ》み踏み、ゆっくり家路に就《つ》いた。
こうして時《とき》砕《くだ》きにふさわしい実力を身につけるべく、時を止める練習を始めたリンネだったが、一方で、いま一つの練習についても決して怠《おこた》っていたわけではない。それはある意味リンネにとって――というか女の子にとって――時を止めること以上に矜恃《きょうじ》に関《かか》わる事柄《ことがら》であるらしく、リンネは並々ならぬ熱意でもってその練習に取り組んでいた。もう一方の練習……要するに変身[#「変身」に傍点]の練習である。
リンネはこれまで数回時砕きに変身したことがあるが、当人がその出来映《できば》えに必ずしも満足していないことは明らかだった。
時砕きになった際のリンネの格好と言えば白とピンクのヘチマみたいなミニドレスという出で立ちが定番だが、変身のへたっぴなリンネはたいてい衣装《いしょう》のどこかに穴を開けたり、綻《ほころ》ばせてしまっている。が、リンネにとっての不満はむしろ服装のパターンが一種類しかないことにあるらしい。
「うーむ」
バッティング練習の翌日。
僕がリンネの部屋に入った時、リンネとルウは大きな卓《たく》を挟《はさ》んで画用紙を広げ、お絵かきをしているまっ最中だった。
左右にカラフルな色えんぴつやクレヨンが転がる中、リンネは黒の色えんぴつを鼻の下に挟み、腕組《うでぐ》みをしたまま煩悶《はんもん》しつつ天井《てんじょう》を見上げている。
僕は訊ねた。
「あれ、なに描《か》いてるの?」
「あ、見ちゃダメよ!」
リンネはあわてて自分の絵の上に覆《おお》いかぶさると、覗《のぞ》きこもうとした僕を邪険《じゃけん》に手で追い払《はら》った。ルウも口を尖《とが》らせる。
「そうよそうよ。男の子はあっち行っててっ」
「……どうして?」
「リンネの新しいコスチュームのデザインをしてるんだから!」
聞けば二人はリンネの時砕きの衣装を一からデザインし直している最中だという。
そもそも「変身[#「変身」に傍点]」とは、普通《ふつう》の時《とき》載《の》りに比して認識力《にんしきりょく》が飛躍《ひやく》的に向上するという時砕きの特性|故《ゆえ》に生じた、リンネ特有の現象である。つまり、変身後のリンネの姿はリンネが脳裏に思い浮《う》かべた時砕きのイメージがそのまま具象化したものだという経緯《けいい》がある。それならあらかじめ着たい衣装のイメージを絵に描くことによって、イメージそのものを膨《ふく》らませれば、もっと可愛《かわい》い格好に変身できるのでは……というのが女の子二人の考えであるらしい。
「私は、やっぱりフリルがいっぱいついているのが好きだわ」
リンネはうっとりとして言った。ルウは大いにうなずいた。
「フリルは絶対いいわよね。でも、私、ウェディングドレス風のデザインもいいと思うの」
「素敵《すてき》ねえ! ね、どうせなら何パターンか描いてみましょうか?」
「そうね。後でいっぱいイメージを憶《おぼ》えればいいだけだもの」
二人の時載りは何やら楽しそうに話しこんでいる。
僕は唸《うな》った。
「そんなに上手《うま》くいくかなあ」
「いくもん」
リンネは頑強《がんきょう》に言いはると、何やらせわしなく色えんぴつを取り替《か》えては自分の絵に色を付け始めた。その様子を僕は遠くに見やった。……コスチュームのイメージを膨らませるのはいいけど、素敵なイメージを紙の上に再現する絵心があるかどうかはまた別問題であるような気がする。
「……僕も手伝おうか?」
「あーダメダメ。久高はファッションセンスないから」
リンネは顔も上げずに言う。
じゃあそっちにはあるのかよ、と言い返したいところだけど、妙《みょう》に真剣《しんけん》な女の子たちの圧力の前に、ここは大人しく引っこむことにする。
部屋を追い出された僕が仕方なく階段の隅《すみ》っこに座っていると、ねはんがとことこやってきて、胸に抱《だ》きしめた一冊の本を僕に差し出した。
「……どうしたの、これ?」
「よんで」
やむなく僕はねはんを傍《かたわ》らに置くと、石井《いしい》桃子《ももこ》の『ノンちゃん雲に乗る』を一ページ目から順に声に出して読んでやった。
一時間ほどして、いい加減僕の喉《のど》がからからになった頃《ころ》。
「久高、もういいわよっ」
女の子のお呼びがかかり、僕は再びリンネの部屋に招き入れられた。どうやらデザインが完成したらしい。部屋中に散らかった丸められた紙が、二人の奮闘《ふんとう》ぶりを物語っている。
僕は言った。
「絵を見せてよ」
「ダメよ! 恥《は》ずかしいもの。見せるのは変身したあとよ」
リンネはすまし顔で言うと、僕の角度から見えないように画用紙を掲《かか》げ、しばらくの間、真剣な表情でそれを眺《なが》めた。
やがて。
「ようし。がんばるぞ」
自分の描いたデザインを覚え、いよいよ準備を整えたリンネは『時の旋法《せんぽう》』を片手に部屋の中央に進み出たが、ここで厄介《やっかい》なのは、時を止める練習とは異なり、変身することはそれ自体がリンネにとって極《きわ》めて難儀《なんぎ》であることである。
故蘆月長柄から時砕きの称号《しょうごう》を引き継《つ》いだとは言え、常時時砕さでいられるほどリンネの力は強くない。そこでリンネは『時の旋法』から一時的に力を貸与《たいよ》されて変身するわけだが、その力を自在に引き出すことはリンネにはまだ難しい……というか、有事の時を除けばほとんどやったことがないというのが実情だ。
「ホントに変身できるの?」
「や、やってみるわよ」
そう言うと、リンネは「Set up!」のかけ声も凛々《りり》しく右手を高々と掲げたが、案の定というべきか、本の表紙に刻まれた紋章《もんしょう》はぴくりとも反応しない。この紋章が輝《かがや》かない限り、この本の奇跡《きせき》は発動しないというのが、ここ数ヶ月で僕らが得た認識である。
「……ダメだわ」
「……ダメね」
「もういっぺんやってご覧よ」
その後もリンネは何とか変身しようと、何度もかけ声を繰《く》り返したがなかなか上手くいかない。しまいには様々なポーズも加えて試みたがはかばかしい結果は出ない。
てゆーか、確か以前にもこんな光景を目にしたことがあるような……。
妙な既視感《きしかん》に駆《か》られて、ふと僕が首をひねった時だった。
その日何十度かのかけ声をリンネが発した拍子《ひょうし》に、その腕《うで》の中にある『時の旋法』が明るい輝きを帯びた。
「え」
思わず僕がそれに視線を向けた次の瞬間《しゅんかん》。
リンネが掲げた手の平の上、ほとんど天井《てんじょう》に等しい位置に、ぽわんと巨大《きょだい》な紋章が浮《う》かび上がった。
「で、出た……」
直径一メートルほどの丸い時《とき》砕《くだ》きの紋章が、まるでシャンデリアのように眩《まばゆ》い光を放ち、回転しながら宙に浮かんでいる。
僕とルウが思わず目を丸くする中、当のリンネが紋章の真下で一番|驚《おどろ》いている様子だったが、ふと我に返ると、リンネは僕とルウを顧《かえり》みて得意満面でふんぞり返った。
「どう? 見て見てっ。私やったわ!」
僕はあわてて言った。
[#挿絵(img/mb874_177.jpg)入る]
「わかったから早く変身しちゃえよ。消えちゃうぞ」
「そうよ。早く変身してっ」
「よーし! 凄《すご》いかっこを見せてやるんだからっ」
そう言うなりリンネは膝《ひざ》をぐっと曲げると勢いよくジャンプして、頭上の紋章に手を触《ふ》れた。
「それっ」
途端《とたん》にリンネの小柄《こがら》な身体《からだ》は溢《あふ》れんばかりの光に包まれ――
僕とルウはあまりの眩さに思わず目を瞑《つぶ》った。
やがて光の奔流《ほんりゅう》が収まり……そこに立っていたのは。
「あ、あれえ」
ウエストサイドに紋章が刻まれた、よく実ったヘチマみたいな白のミニドレスに黒のニーソックス。腰《こし》には大工か左官が吊《つる》すみたいなごついホルダーで大小様々な本をぶら下げ、頭には修道女が被《かぶ》るような黒いベール――。
そこに立っていたのはお馴染《なじ》みの時砕きの衣装《いしょう》を纏《まと》ったリンネの姿。ご丁寧《ていねい》にベールの端《はじ》っこが虫でも喰《く》ったように穴だらけになっていることまでが、いつもの通りだ。
失敗、みたいだ。
「……ど、どうして?」
自分の格好をしげしげと眺め、リンネは呆然《ぼうぜん》と呟《つぶや》いた。僕とルウはしばらく放心していたが、やがて顔を見合わせた後、どちらからともなく溜息《ためいき》をついた。
肩《かた》をすくめて僕は言った。
「一度イメージが決まっちゃったら、そう簡単に変えられないってことじゃない?」
「そんなあ」
リンネは時砕きのコスチュームを纏ったまましょんぼりと肩を落としたが、こればっかりは仕方がない。やむなく僕は慰《なぐさ》めにかかった。
「まあ、何度か変身していたらそのうち変わることもあるかもしれないよ。それに僕、そのドレス悪くないと思うよ」
「こっちのほうが気に入ってるのに」
リンネは恨《うら》めしそうに自分の画用紙を眺めた。僕はその紙に描《えが》かれたファッションをちらりと覗《のぞ》き……そしてなんとなく思った。
これはぜったい具現化しなくて正解だろう。
そんな感じで僕らの日々は過ぎていった。
朝起きる。学校に行く。学校が終わる。放課後、離《はな》れに集まって遊んだりお喋《しゃべ》りしたりする。リンネはちょっとだけ本を読む。
退屈《たいくつ》と言えば退屈な日常かもしれないけど、毎日それこそ物語みたいに『わくわくするような大冒険《だいぼうけん》』をするわけにもいくまい。第一、毎日のようにそんな日々を送っていたのでは生傷が絶えないし、気だって休まる暇《ひま》がない。華《はな》やかとは言えなくても、人生の在り方としてはむしろこっちのほうが本道というものである。
もっともリンネはそうは思わないようで、判で押したような日々に露骨《ろこつ》に退屈そうな表情を浮かべているが、さしものこの子もまさか自分から騒《さわ》ぎを起こすわけにもいかず、普通《ふつう》の小学六年生の女の子としての分を守り、ランドセルを背負っては大人しく学校に通っている。
感心なことに、ここ最近は読書の方も日に三度三度きちんと摂っている[#「摂っている」に傍点]ほか、放課後には必ず離れで二時間、Gの愛情溢れるセレクトによる、滋養《じよう》が滴《したた》るほどたっぷりと含《ふく》まれたぶ厚い良書――それも文化人類学だの比較《ひかく》言語学だのといったテクスト内漢字比率のやけに高そうな本ばかり――をあてがわれ、頬杖《ほおづえ》をついて読むのを日課としている。
バッティングによる時留めの訓練のほうも順調で、週末にはまるでリトルリーグに所属している男の子のような熱心さであのバッティングセンターに通っては、ストレス発散とばかり白球を叩《たた》いている。近ごろはバットを振《ふ》りながらボールをある程度任意の位置で止めることも出来るようになり、「ボールが止まって見える」などと嘯《うそぶ》いている。遊佐発案の特訓の効果は徐々《じょじょ》に出始めたようだった。
そんなある日のこと。
その日、リンネ、僕、凪の三人は学校帰りに駅前にあるショッピングモールに立ち寄った。日記帳を使い切った凪が新しい日記帳を欲しがったので、モール内の文房具《ぶんぼうぐ》店に付き合ったのである。
学者であるじいちゃんの影響《えいきょう》かどうかはわからないけれど、楠本家の人間には一概《いちがい》に筆まめな傾向《けいこう》が確かにある。かく言う僕もそうだが、まだ小さいながら凪にも確実にその血は受け継《つ》がれているらしく、毎日、愛用の日記帳を学習机の上に広げては黙々《もくもく》となにかを書いている。もちろん中を覗いたことはないので、どんなことが書かれているのか想像もつかないけれど、こうして頻繁《ひんぱん》に買い替《か》えるところをみると、凪がなかなかの健筆家であることは間違《まちが》いない。
というわけで、リンネにも付き合ってもらい、僕ら三人は少し遠回りして駅前まで足を延ばしたというわけだ。普段あまり寄り道をしない僕らにしては珍《めずら》しいことである。
明るく広い店内を見渡《みわた》し、僕は凪に訊《たず》ねた。
「で、凪が欲しいのはどれなの?」
「こっち」
久しぶりに一緒《いっしょ》の買い物とあって、凪は珍しく積極的だ。僕の手を取ると、赤いランドセルを背負ったまま、とことことダイアリー・コーナーへ自ら先頭に立って導く。
「これ」
「これかあ。うん。いいんじゃないかな」
「でもこっちも好き」
「う、うん。それもいいなあ」
おかっぱ頭を傾《かたむ》け、左右の手に一冊ずつ違う日記帳を持ち悩《なや》んでいる風情《ふぜい》の凪の横で、僕は取りあえずうなずく。
その身に宿る強大な力|故《ゆえ》に、思ったことの一割も口に出すことの出来ないこの無口な妹にとって、文章を書くという行為《こうい》は僕らが単に覚え書きを記すことなどとは必然的に異なる意味を持つ。それは、じいちゃんに言われるまでもなく僕が骨身に叩きこんできたことだけに、こういった凪の要求にはなるべく応《こた》えてやりたいと思うのだが……さすがに女の子の使う日記帳を選んでやることは僕の能力の埒外《らちがい》にある。
つーか、正直よくわかんない。
結局、ブルーの表紙が愛らしい少し大きめのタイプの日記帳を買った凪は大切そうにそれを店の袋《ふくろ》ごと胸に抱《かか》えた。
「よかったね」
「ん」
微《かす》かにはにかんで凪はうなずくと僕のシャツの裾《すそ》をそっと摘《つま》む。そんな凪の仕草に何事かを感じ取ったのか、ふとリンネが腕組《うでぐ》みをした。
「日記、かあ」
そして唇《くちびる》を結び、考えこむように低く唸《うな》る。
「ううむ」
すばやく僕は言った。
「やめたほうがいいと思うよ」
「ま、ま、まだ何も言ってないでしょっ。久高ったら、やな子ね!」
リンネはまっ赤になってぷいっとむくれたが、まだ互《たが》いに互いが何を食べて生きているのかも知らなかった頃《ころ》からの長い付き合いである。リンネがふと何を思ったかぐらい、すぐに想像がつく。飽《あ》きっぽいリンネには日記は向かない。日記なんていうのはもっと忠実《まめ》な奴《やつ》が書くもんだ。これは能力の問題ではなく、単に気質の問題である。
のっしのっしと大股《おおまた》で歩き出すリンネの後に続き、店を出る。エスカレーターで一階のロビーにおりた時、ふとホールの中央に聳《そび》え立つ支柱の上に掲《かか》げられた丸い時計が目に留まった。
時計は二時半を指している。
「あら? ヘンね。二時半だって」
同じ方向を向いていたのだろう、見咎《みとが》めたリンネが言った。
「故障してるんだろ。だってもう夕方だもの」
僕は自分の腕時計を確認《かくにん》した。デジタル時計は四時四十分を示している。改めてロビーの時計を見てみると、支柱に「故障中」という手書きのはり紙が貼《は》られていた。
「ちぇっ。なあんだ。一瞬《いっしゅん》、まだいっぱい遊べると思ったのに」
リンネがつまらなそうに口を尖《とが》らせる。門限の一分前まで力を尽《つ》くして遊びまくるというのがリンネのポリシーである。
僕ら三人がそのままショッピングモールを出て、通りを歩きかけた時だった。
ふと僕は奇妙《きみょう》な感覚を憶《おぼ》えて立ち止まった。
僕はあたりを見渡した。見慣れた駅前の風景だ。最寄《もよ》りのJR駅とその界隈《かいわい》に形作られた商店街の前にある賑《にぎ》やかな交差点。やや日が傾きかけた、夕暮れ時のいつもの馴染《なじ》みの光景である。
高架《こうか》の上を特急列車が通過していく音がした。事故でもあったのか、駅のアナウンスが次の列車の定刻|遅《おく》れを告げている。車のクラクションが鳴り、往来を喧噪《けんそう》と共に買い物袋を提《さ》げた女の人や背広姿の男の人が忙《せわ》しなく行き交《か》う。その中に、ふと、見覚えのある人の姿を見かけたような気がしたのだ。
「お兄ちゃん?」
つられて凪も脚《あし》を止める。
「いや……」
なんでもない、と、僕が言いかけた時。
目の前で明滅《めいめつ》中だった横断歩道用の青の信号機の光が消える。赤に変わるわけでもなく、まるでコンセントを引っこ抜《ぬ》いたみたいに明かりが途絶《とだ》えたのだ。
「……え?」
それを訝《いぶか》しがる間もなかった。さあっとまるで潮が退《ひ》くように周囲の音が遠ざかる。鼓膜《こまく》が聾《ろう》したようにあたりは死の静寂《せいじゃく》に包まれ、さっきまで僕らの四囲を賑々《にぎにぎ》しく彩《いろど》っていた様々な音――人々の会話や足音、駅のアナウンス、乗用車のエンジン音、騒音《そうおん》、喧噪、ざわめき、そういったものが消滅する。動く物が存在しなくなったのだ[#「動く物が存在しなくなったのだ」に傍点]。
この感じは、経験がある。
時留めだ。
それも尋常《じんじょう》な範囲《はんい》じゃない。
音の消滅と同時にぴたりと凍《こお》りついたあたり一帯の人々の姿に、僕はとっさに凪の肩《かた》を抱え寄せた。そして叫《さけ》ぶ。
「……リンネ!」
「う、うん!」
リンネの反応は素早《すばや》かった。別にバッティングセンター通いによって反射神経に磨《みが》きがかけられたわけでもないだろうが、さっと背負っていたランドセルを降ろし、中に入れておいた『時の旋法《せんぽう》』を取り出すと、いつでも変身できるように手に携《たずさ》える。
「二人は下がっててっ!」
頼《たの》もしくそう言うと、リンネは勇敢《ゆうかん》にも僕と凪を謎《なぞ》の敵から守るように一歩前へ出、油断なく周囲を見渡《みわた》す。
とっさに僕の視線はリンネが固く握《にぎ》りしめている『時の旋法』に向かった。表紙に刻まれたあの不思議な形の紋章《もんしょう》、通称《つうしょう》『時《とき》砕《くだ》き』の紋章は、少しも輝《かがや》きを帯びることなく元のままだ。
おかしい。
リンネの危機には必ず反応するこの紋章がなぜ反応しないのだろう。この状況《じょうきょう》が、リンネにとって危険ではないと紋章が判断したというのか。
当のリンネは紋章が輝きを放っていないことに気づいていない。両脚を肩幅《かたはば》に開いて腰《こし》を沈《しず》め、即座《そくざ》に状況に対応できるような姿勢を取りつつ、紫色《むらさきいろ》の瞳《ひとみ》であたりを見据《みす》えている。
何者も動く気配はない。
動いているのは僕ら三人だけ。
「凪、何があっても口を利くなよ[#「何があっても口を利くなよ」に傍点]」
僕は小声で囁《ささや》いた。凪が小さく頤《あご》を引く。
針が一本落ちただけでもその均衡《きんこう》が破れてしまうような静止した世界の中で、ぴったりと身体《からだ》を押しつけてくる凪の華奢《きゃしゃ》な肢体《したい》から伝わってくる仄《ほの》かな体温だけが、僕がじかに感じる知覚のすべてだった。
と、その時。
ふいに赤い袖《そで》に包まれたしなやかな腕《うで》が、背後からひょいと僕の首を抱《かか》えこんだ。
「§☆※◆○!」
今思い返しても顔から火が出るようなあられのない悲鳴が僕の喉《のど》から迸《ほとばし》る。や、いちおう自分の名誉《めいよ》のために弁護しておくと、誰《だれ》だって声を上げると思うよ。あんなこわい目に遭《あ》ったのは、僕だって生まれて初めてだったんだから。
僕の今際《いまわ》の際《きわ》のような断末魔《だんまつま》の声に、驚《おどろ》きと共に振《ふ》り返ったリンネの表情が、今度はゆっくりと呆《あき》れたような表情に変わっていくその様を、僕は鼻先にふわりと立ち薫《かお》る大人の女の人の匂《にお》いと共に見て取った。
と同時に、首だけ巡《めぐ》らして僕を背後からホールドしている人物をおそるおそる見上げる。
そこにいたのは。
「未到ハルナ……さん?」
「よっ」
『時砕き』七人衆のひとり、未到ハルナがそこに立っていた。
意志の強そうな瞳と眉《まゆ》、赤い唇《くちびる》、そして齢《よわい》九百歳という巨樹《きょじゅ》のような生き様を片鱗《へんりん》も示さぬ、若く瑞々《みずみず》しい艶《つや》やかな肌《はだ》。そんな輪郭《りんかく》のはっきりした完璧《かんぺき》な美貌《びぼう》にふさわしく、手足が優雅《ゆうが》に伸《の》びたファッションモデル体型の上に、まるで男物のような無骨なデザインをした深紅《しんく》のコートを無造作に羽織り、左手をポケットに突《つ》っこんだまま、右手でがっちり僕の首をホールドしている。
彼女の腕に強く抱えこまれた僕のほおを、肩口からこぼれた長い黒髪《くろかみ》がそっと撫《な》でる。くすぐったさと恥《は》ずかしさに僕はまっ赤になりつつ、やっとの思いでハルナさんの腕の中から逃《のが》れた。
いつの間にか、時は動き出していた。僕らの周りで雑踏《ざっとう》は賑々しさを取り戻《もど》し、この界隈《かいわい》に音と動きが甦《よみがえ》っている。
小学生三人に妙齢《みょうれい》の美女一人という、いくぶん変わった取り合わせで路上に佇《たたず》む僕らに、買《か》い物《もの》袋《ぶくろ》をぶら下げた太ったおばさんが一人、すれ違《ちが》いざまにじろりと厭《いと》わしげな視線を向ける。歩くのに邪魔《じゃま》だったのかもしれない。
まだろくに口の利《き》けない僕と、同じく無言のまま僕にしがみついている凪に代わって、リンネは辛《かろ》うじて言葉を紡《つむ》いだ。
「あ、あの……さっきの、ハルナさんの仕業《しわざ》?」
「ああ」
「ど、どうして時を……?」
「面白《おもしろ》いから」
ハルナさんはあっけらかんと言った。
「お、お、脅《おど》かさないでくださいっ!」
「いやあ、登場シーンは派手な方がいいだろ」
僕らの反応を楽しむように未到ハルナはにやりと笑ったが、それも長いことではなかった。すぐに真顔になるとリンネの瞳を見据え、形の良い頤を軽く動かす。
「嬢《じょう》ちゃんに話がある。顔を貸せ」
「え?」
リンネはきょとんとした。だが傍若無人《ぼうじゃくぶじん》にそう言い捨てると、ハルナさんは早くも踵《きびす》を返している。赤いコートの裾《すそ》が翻《ひるがえ》る。
「早くしろ。そこの坊《ぼう》やたちもだ」
「え? で、でも」
どこへ、と言う暇《ひま》もなかった。ハルナさんが細く形の良い指をパチンと鳴らした時、
僕らは既《すで》に光に飲みこまれていた。
潮の匂いがした。
ざざざ……という荒《あら》い波の音。髪をなぶる潮風。崖《がけ》に打ち付けては砕ける白い波濤《はとう》は飛沫《しぶき》となって下から吹《ふ》く風に高く舞《ま》い上がり、時折僕らの足下《あしもと》を黒く濡《ぬ》らす。
僕らは切り立った崖の上にいた。
「ここは……」
呆然《ぼうぜん》とリンネが呟《つぶや》く。
「……海?」
ピィピィ……という海鳥の声、渡《わた》っていく風の中に含《ふく》まれる強烈《きょうれつ》な潮の匂い、そして何より、僕らの視界を蒼《あお》く染める見渡す限りの海を前に僕らは呆然と立ち竦《すく》んだ。黄昏時《たそがれどき》の駅前の交差点にいたはずの僕らを包むのは、紛《まぎ》れもなく僕らがそれと知る海の姿。いや、むしろこんな見事な水平線を見るのは生まれて初めてと言っていい。
ふと僕の胴《どう》に手を回している凪に気づく。
硬《かた》い表情のまま、離《はな》れるもんかとばかりにくっついている妹の頭に手を載《の》せてそっと引き離すと、僕同様、まだ狐《きつね》につままれた様子のリンネといっしょに、改めてあたりを眺《なが》め渡す。
そこは吹きっさらしの断崖《だんがい》の上にある一軒《いっけん》の瀟洒《しょうしゃ》な建物だった。
ささくれ立った岩肌《いわはだ》が荒削《あらけず》りで容赦《ようしゃ》のない自然の力を感じさせる岬《みさき》の突端《とったん》に、今まさに水面から羽ばたこうとする白鳥のように白亜《はくあ》の館《やかた》が建っている。その一階の部分、手の平を差し出すように海に向かって迫《せ》り出した白いテラスの真ん中に僕らはいた。
ハルナさんはまるで先程《さきほど》からずっとそうして午餐《ごさん》を過ごしていたようにテラスに置かれた椅子《いす》に腰《こし》を下ろしていた。優美で長い脚《あし》を豪快《ごうかい》に組み、手の甲《こう》で軽く頤《あご》を支えて頬杖《ほおづえ》をつき、その不思議な光を放つ瞳《ひとみ》を僕ら三人に向けている。
「座れよ」
そう言われ、僕らはおずおずと手近にあった椅子に腰を下ろす。
椅子の背もたれのしっかりとした質感に、僕はこれが夢の中の出来事ではないことを改めて認識《にんしき》する。
「あ、あのう……ここはどこなんですか?」
リンネがおずおずと訊《たず》ねた。
「時の狭間《はざま》にある私の別荘《べっそう》さ。どこでも良かったんだが、あまり妙《みょう》なところに連れこんでお前たちが目を回しても困るしな」
「時の狭間?」
リンネが首を傾《かし》げる。
「時系列から外れた時間世界のひとつだ。別に取って喰《く》うつもりはない。話が終わったらちゃんと帰してやるから、ま、楽にしな」
そう言うと未到ハルナは妖艶《ようえん》に微笑《ほほえ》んだ。
僕らがハルナさんとこうして向き合うのはあの波瀾万丈《はらんばんじょう》だった夏休み――リンネが『時の旋法《せんぽう》』を手に入れ、蘆月長柄の後継者《こうけいしゃ》として新たな時《とき》砕《くだ》きとなった、あの冒険《ぼうけん》の日々以来である。リンネはあの後、ほんの少しばかりハルナさんと話したはずだが、僕に限って言えば、未到ハルナさんと口を利いたのはさらにそれより前、ルウの店『pale horse』で店番をしていた時、客としてふらりと現れた彼女がリンネとルウに『時の旋法』を差し出すように忠告し、彼女が属する世界の一端《いったん》を示して見せた、あの血も凍《こお》るような怖《おそ》ろしい一瞥《いちべつ》以来である。別に取って喰われるとまでは思ってはいないが、こわいと言えばこわい。
ふとハルナさんと目があう。ハルナさんは急にニンマリと人の悪い笑《え》みを浮《う》かべた。
「もう脅《おど》かしたりしないから、安心しな。坊や」
「別に心配してません」
さっきの自分の醜態《しゅうたい》を思い出し、僕は憮然《ぶぜん》として言う。
正直、僕はこの人の人物像をいまだ掴《つか》みかねている。時の調停者にして裁断者たる史上最強の『死の集団』、時砕き。その七人衆の一人……。おそろしい人だと認識するのは当然だとしても、時々そのへんにいる、ただの軽いお姉さんみたいにしか見えない時があって、どうにも落ち着かないのだ。しかもじいちゃんと知り合いだというのだから、よけいにヘンな感じだ。苦手だが恩誼《おんぎ》のある遠縁《とおえん》を前にしたような窮屈《きゅうくつ》さ、と言えば外れているだろうか。
「…………」
ふと横を見ると、凪が精一杯《せいいっぱい》こわい顔を作ってハルナさんを睨《にら》んでいる。僕がからかわれているのが面白《おもしろ》くないのだろう。
その時、テラスと屋内を結ぶドアが開き、一人の背の高いハンサムな男の人が入ってきた。うやうやしく銀製のコーヒーセットを僕らの前に供えると、完璧《かんぺき》な礼と共に去っていく。一言も口を利《き》かない。どうやらこの屋敷《やしき》の執事《しつじ》らしい。
香《かぐわ》しいコーヒーの薫《かお》りがあたりに満ちる。だが僕らがカップを取り上げる間もなく、ハルナさんの言葉がふいに空気を引き裂《さ》いた。
「本題に入ろう。逸脱者《いつだつしゃ》が一人、嬢ちゃんの存在する時間世界に侵入《しんにゅう》した形跡《けいせき》がある」
「!」
たちまち、リンネの表情が引き締《し》まる。
「その侵入の痕跡《こんせき》から言って、かなりの手練《てだ》れだ。近いうちに何かしでかすかもしれん。ま、お前が死のうがどうしようがなんの興味もないが、長柄の手前、何も告げずにお前がその首をさらすようになっては寝覚《ねざ》めが悪いんでね。一応、忠告しておく」
『逸脱者』とは時載りの中で、自分たちの能力を悪事のために利用しようとする者たちのことである。リンネは以前、ユース・パイロフという逸脱者と、その野心を阻《はば》むべく戦ったことがあり、それだけにそのこわさはよく知っている。
「また逸脱者が? いったい何のために……?」
「さあな。実はそのことにも関連にして、もうひとつお前に告げておくことがあってな」
ハルナさんはそこで初めてカップを手に取ると、静かに口を付けた。流麗《りゅうれい》な仕草でそれを置き、再び僕らを見据《みす》える。
「近いうちにお前は私と共に『塔《とう》』へ赴《おもむ》き、故蘆月長柄の跡《あと》を継《つ》ぎ正式に『時砕き』の称号《しょうごう》を得ることとなる。任命は塔の最高機関の名にて行われるが、それに先だって、遺《のこ》された我ら六人の時砕きによる承認会議が行われる。もっともこれは、単に形式的なものにすぎない。問題はだ。時砕きの称号を実際に拝命するその瞬間《しゅんかん》まで、一時的にお前の危険は飛躍《ひやく》的に高まるだろう。これを覚悟《かくご》しておけ」
「私が、危険? それに『塔』に赴くって……」
リンネが絶句する。ハルナさんはうなずき、そのまま言葉を紡《つむ》いだ。
「長柄が死去したことで時砕きのバランスが崩《くず》れたことは知っているな。塔は今、「時砕きの代《だい》替《が》わり」という不測の事態に揺《ゆ》れている。が、これは程なく収まろう。我らは承認会議を開き、その決議を時砕きの意思として塔の最高機関に伝えるが、塔はそれを受け新たな時砕きを「任命」するという形を取る。多分に儀礼《ぎれい》的なものとはいえ、これは必要な手続きではある。だが、そこに登場するのがこの混乱に乗じて笛を吹《ふ》く連中だ」
「笛を吹く?」
「嬢ちゃんが時砕きになることを望まない輩さ[#「嬢ちゃんが時砕きになることを望まない輩さ」に傍点]」
未到ハルナは長い脚を組み替え、挑発《ちょうはつ》的な視線を僕らに向けた。
「かつて存在していた大きな力が欠け、その空隙《くうげき》は未《いま》だ埋《う》まってはいない……。この力の不均衡《ふきんこう》がもたらした歪《ゆが》みは現在も確実に波及《はきゅう》している。今回|湧《わ》いてきた虫も、おそらくはその波及現象のひとつにすぎん。だが、今回の件は『塔』の外部のみならず、その内部にまで余波をもたらした」
見事な黒髪《くろかみ》は潮風に軽く煽《あお》られ、時折その形の良い額が露《あら》わになる。ハルナさんは髪をなぶるに任せたまま言葉を紡ぐ。僕らは声もなく、ハルナさんが語る話の内容に聞き入った。
「つまり、手っ取り早く言うとこういうことだ。私としてはさっさと『塔』に対して嬢《じょう》ちゃんを長柄の後釜《あとがま》として承認《しょうにん》させてしまいたい。そうすれば今騒《さわ》いでいる有象無象《うぞうむぞう》どもも塔の決定を知り大人しくなるし、嬢ちゃんに対する攻撃《こうげき》は即《すなわ》ち塔の公的機関への攻撃を意味するため、嬢ちゃんの危険度は数段下がることになる。嬢ちゃんの安全を考えれば、これは自明だ。が、ここに嬢ちゃんが塔の承認を受けることを快く思っていない奴《やつ》らがいるとする。だが塔の決定は既《すで》に時間の問題。では奴らはどうする?」
「私を事前にやっつけようとする……?」
「ご名答」
リンネの答えに、ハルナさんは鮮《あざ》やかなウインクを決めた。たまらず僕は口を挟《はさ》んだ。
「『バベルの塔』の一部がリンネが正式な時砕きになることを望んでいない、ということですか?」
「そうは言わん。が、『塔』の秩序《ちつじょ》は堅牢《けんろう》とは言え、はねっ返りはどの世にもいるということさ。我らはおのが活動に対する圧倒《あっとう》的な至上権を持つ。だがそれ故《ゆえ》にこそ奴らは『芽《め》むしり仔《こ》撃《う》ち』、つまり嬢ちゃんがまだ本物[#「本物」に傍点]でないうちにその可能性を除こうとするだろう」
[#挿絵(img/mb874_195.jpg)入る]
「……時《とき》載《の》りの世界も人間の世界と変わらないんだな」
僕がつい本音を洩《も》らすと、ハルナさんは酷薄《こくはく》な笑《え》みを浮《う》かべた。
「長柄が人間界に行くなどという莫迦《ばか》な考えをおこさなければ、そもそもこんな事態にはなってないさ。だが長柄は人間になったあげくに死に、後任の新米はまだ半人前のヒヨコ。いや、ヒヨコどころか卵のまま、まだ孵《かえ》ってすらいない状態とくる。アホもつけあがるさ」
「……うう」
リンネはしょぼんとうなだれたが、実力不足は本当だけに反論もできない。経験も年齢《ねんれい》も隔絶《かくぜつ》しているだけに、形の上では一応|同僚《どうりょう》であっても、この美女の舌鋒《ぜっぽう》はリンネに対して斟酌《しんしゃく》もなければ容赦《ようしゃ》もない。
と、同時にこの人はかつて蘆月長柄と友達だったことを思い出し、僕は時載りたちが紡ぐ不思議な縁《えん》に改めて思いを馳《は》せた。
長柄さん、ハルナさん、そしてリンネ。
三人の時《とき》砕《くだ》き。
僕は眼下に広がる海を眺《なが》めた。
海はどこまでも青く、圧倒的な力を湛《たた》えるように静かにうねっている。ヨットやクルーザー、ブイ、灯台――僕らが海の畔《ほとり》で見かける、人の営みを感じさせるようなものは先程《さきほど》から何一つ見当たらない。
ふと凪を見る。凪は、僕の隣《となり》でハルナさんの言葉にじっと耳を傾《かたむ》けていた。どこまで話を理解しているのかはわからないけれど、その考え深そうな瞳《ひとみ》に並々ならぬ関心の色を湛えたまま、それでも口を閉《と》ざし、静かに僕の傍《かたわ》らに腰《こし》を下ろしている。
沈黙《ちんもく》が落ちた。
「ええと……ひとつ、聞いてもいいですか?」
いっぺんにいろんな話を聞かされ、じっと考えこむ素振《そぶ》りを見せていたリンネだったが、頭を整理するようにふと切り出した。
「いーよ」
「そのう……私が時砕きになるのをよく思っていない人たちがいることはわかったんですけど、その人たちの目的はいったい何なのかしら? 自分が新しい時砕きになることなのか、それとも何か別に目的があるのか」
「知らん」
ハルナさんは即答《そくとう》した。
「し、知らんって……」
さすがにリンネは呆《あき》れたように目の前の先達を見つめたが、ハルナさんはまったく痛痒《つうよう》を感じた様子もなく、あっけらかんと言った。
「我ら時砕きは恣意《しい》によって動く。奴らの思惑《おもわく》など知ったことか」
「で、でも」
リンネの表情に、ハルナさんはいくぶん口調を弛《ゆる》めて言った。
「ま、今お前に言ってもおそらくわかるまい。時載りにも様々な奴がいるということがな。塔《とう》に籠《こ》もる者、街へ出る者、帰る者……。時代が変われば時にたゆたう顔ぶれも変わる。その意味では塔は今、過渡期《かとき》を迎《むか》えているのだろう。だが、今のお前はただの『街の住人』。まして、それはお前がもたらしたのと同時に、「永遠の命を捨て有限の生を選んだ」お前の先任者がもたらしたものでもある。人が人であるが故に艱難《かんなん》を味わうように、時載りもまた、時載りであるが故に労苦を味わう」
「……ううむ」
何とかハルナさんの言葉を理解しようとするようにリンネはうなったが、ハルナさんはそれを潮に椅子《いす》から立ち上がった。
どうやら話は終わりらしい。
「さてと、話は以上だ。先程の逸脱者《いつだつしゃ》の件に関してはお前に任せる。仮にも禁制を破り、我らを敵に回してまで人間界に好んで干渉《かんしょう》しようとする輩《やから》だ。『塔』に詰《つ》め、飽《あ》きもせず本を読みふけっているような人畜無害《じんちくむがい》な連中とはひと味|違《ちが》う。せいぜい気をつけな」
「は、はい」
「私は忙《いそが》しい。正直、瑣事《さじ》にかかずらっている暇《ひま》はない。この件はお前が何とかしろ」
「わ、わかりました。がんばるぞ」
握《にぎ》りこぶしを作って気合いを入れるリンネが健気《けなげ》にも微笑《ほほえ》ましくも思えたのか、時砕きのおねーさんは僅《わず》かに表情を崩《くず》した。
「ああ、それからな。お前たちがやっている妙《みょう》な訓練、あれは続けておけ。お前の友人の賢《さか》しげな少年が考えたあの方法だが」
「……遊佐くんの考えた、あのボールを打つ練習ですか?」
ハルナさんのような存在にかかれば、あの遊佐でさえ「賢しげな少年」になってしまうということか。
「ああ。やらぬよりましだ。今のお前にとってはな」
「は、はあ」
僕はテラスの柵《さく》越《ご》しにもう一度海を眺めた。いつの間にか、靄気《あいき》が垂れ籠め、海は茫《ぼう》とした白さに包まれている。
「あ、あの、ハルナさん。もうひとつ聞いていいですか?」
羽織ったコートのポケットに両手を突《つ》っこみ、飄々《ひょうひょう》と歩きだしたハルナさんにふとリンネは首を傾《かし》げて訊《たず》ねた。
「なんだ?」
「ハルナさんはどうして私にこんなに良くしてくれるの?」
その問いが思いがけないものだったのだろう、ハルナさんは一瞬《いっしゅん》脚《あし》を止めると、しばらく呆れたようにリンネの顔を見つめていたが、ふと果物《くだもの》屋の軒先《のきさき》で笊《ざる》に載った林檎《りんご》でも見るように腰をかがめてリンネの顔をじっとのぞきこむと、人差し指でそのなめらかなほっぺをぷにぷにとつついた。
「ひゃんっ」
リンネは悲鳴を上げた。ハルナさんは言った。
「そりゃあ、もちろん見返りを期待しているからさ」
「み、見返り?」
思わずぎくりと身をすくませるリンネを見てハルナさんは笑った。その笑いがあんまり人が悪かったので、リンネはさらに怯《おび》えて一歩あとずさる。
ハルナさんはもう一度笑うと、今度は僕と凪に視線を向けた。そしてふと顎《あご》に手を当てると全然関係ないことを言った。
「坊《ぼう》や、どういう去り方をして欲しい?」
「へ……ど、どういうって?」
僕は首をかしげた。凪がいそいで僕の手を握る。
「だからさ。たとえば派手な閃光《せんこう》と共に消え失《う》せるとか、煙《けむり》のようにいなくなるとか、空間をねじ曲げるエフェクトをあたり一面にかけるとか。今回は出血大サービスで、特別に坊やのリクエストに応《こた》えてやるよ」
そう言うとすまし顔でウインクする。
完全にからかわれていることがわかり、僕はむくれて言った。
「結構です。普通《ふつう》に足を使ってください」
「ちぇっ。面白味《おもしろみ》のない奴《やつ》だな」
そう言うとハルナさんは今度こそ身を翻《ひるがえ》す。
「じゃあ、後は頼《たの》むよ。アル」
「かしこまりました。いってらっしゃいませ」
先程《さきほど》の執事《しつじ》らしき男の人が現れ、丁寧《ていねい》に一礼する。彼が再び頭を上げたときには、ハルナさんは既《すで》に僕らの前から消えていた。
僕らはただ呆然《ぼうぜん》としていた。
ややあって、テラスに取り残された格好の僕らにむかって、執事さんが言った。
「ああいう方ですから、どうぞお気になさらないでください」
「で、でも……私たち、どうやって帰ればいいの?」
リンネは情けなさそうに言った。ハルナさんに強引《ごういん》にここに連れこまれた僕たちには、この妙な世界から帰る手段などわかるはずもない。
「ご心配には及《およ》びません。どうぞこちらへ」
アル、と呼ばれた執事さんは穏《おだ》やかにそう言うと、テラスから屋内の奥まった場所にある扉《とびら》の前に僕らを案内した。
のちに知ったことだが、この人の名はアルトゥール・レンナルツ。ハルナさんの使用人で、この『時の狭間《はざま》』にあるハルナさんの館《やかた》の管理をしているらしい。慇懃《いんぎん》で礼儀《れいぎ》正しい、黒髪《くろかみ》の美青年である。たぶん時《とき》載《の》りだとは思うけど、詳《くわ》しいことはわからない。
彼は扉を手の平で示し、微笑《びしょう》と共に言った。
「こちらの扉をご利用下さい。お客様の時間世界まで通じております」
「……ここが?」
僕とリンネは思わず顔を見合わせた。
見たところ、なんの変哲《へんてつ》もない木製の扉である。部屋の間取りから言っても、廊下《ろうか》かベッドルームに通じているとしか思えない。こんな扉をくぐって、ホントに元の世界に帰れるのだろうか。
が、そうだと言われるのなら仕方がない。やむなく僕たちはランドセルを背負ったまま執事さんに頭を下げた。
「あ、あのう、お邪魔《じゃま》しました」
「またのおこしを心よりお待ちしております」
アルトゥールさんは完璧《かんぺき》に答礼するとにっこり微笑《ほほえ》んだ。
リンネは瀟洒《しょうしゃ》な造りのノブに手をかけた。
それから深呼吸をひとつし――、
扉を開けた。
扉を閉めた。
僕らは箕作|邸《てい》の玄関《げんかん》にいた。
「……え」
鼻先に漂《ただよ》う、どこか懐《なつ》かしい、古い書籍《しょせき》の据《す》えた匂《にお》い。
目の前にはいつも見慣れた階段と、吹《ふ》き抜《ぬ》け構造のホールがある。飴色《あめいろ》の欄干《らんかん》。手すり。毎朝、遅刻《ちこく》寸前のリンネはここから高速ダッシュで学校へ向かうのだ。
「あら、おかえりなさい。ずいぶん早かったのねえ。久高くん、凪ちゃん、いらっしゃい」
玄関先で呆然と佇《たたず》むリンネに、リビングから現れたエプロン姿のママさんがにこにこしながら声をかける。
「……ただいま」
「リンネー」
続いて勢いよく抱《だ》きついてくるねはんを、リンネは狐《きつね》につままれたような表情で抱き留める。
僕はあわてて扉のノブを掴《つか》むと、もう一度玄関扉を押し開けてみた。
箕作家の庭の緑の芝《しば》が見えた。その上を、スプリンクラーが緩《ゆる》やかな放物線を描《えが》きながら水を打っている。
ふと、凪が新しい日記帳に今日のこの出来事をどんな風に記すのか、見てみたい気がした。
[#改ページ]
7章
僕らが緒方夫人から遊びに来てほしいという連絡《れんらく》を受けたのは、その週末のことだった。
今回お呼ばれした客はオークションに参加及び参画した者たち全員。僕やリンネはもちろんのこと、ルウ、凪、Gのほか、遊佐までお邪魔するという以前|伺《うかが》ったときの人数をさらに凌《しの》ぐ大所帯である。
リンネは先日、未到ハルナさんから逸脱者《いつだつしゃ》の一件を聞かされたばかりだっただけに、少し迷った節もあったようだったが、やはり夫人のお呼ばれの魅力《みりょく》には抗《あらが》いがたいらしく、結局は招待にあずかることになった。
というわけで、当日。
定番の黒塗《くろぬ》りの高級車で出迎《でむか》えられた僕らは、緒方夫人の広大な敷地《しきち》、別名「緒方夫人の庭」へと運ばれた。目指すは緑の深く豊かな、あの森閑《しんかん》とした緑園の入り口である。
庭園に着くと、あの白亜《はくあ》の洋館の前で長身の執事《しつじ》が僕らを迎《むか》えてくれた。美髭《びぜん》を蓄《たくわ》え、すらりとした容姿をしたロマンスグレー。オークションの時、リンネと仲良しになった緒方家の執事、関さんである。
ててて……と駆《か》け寄るなり、リンネは元気よく挨拶《あいさつ》した。
「こんにちはっ」
「いらっしゃいませ。ようこそお越《こ》しくださいました。箕作様」
うやうやしく一礼しつつも、関さんの表情は柔《やわ》らかい。
「今日ははではでの背広じゃないのね。関さん」
「あれはあくまで世を偽《いつわ》る仮の姿。こちらが真の関でございます。以後お見知りおきを」
いかにも執事らしい黒の背広を纏《まと》った関さんはすまして答えた。リンネは笑った。
「まあ、こちらこそ」
「いかがですかな? この衣装《いしょう》は?」
「とってもかっこいいわ。素敵《すてき》な人はどんなお洋服を着ても似合うと思うもの。ねえ遊佐くん」
「……なんで俺に振《ふ》るんだ?」
「べーつに」
リンネがすまして答えると、まわりでどっと笑いが湧《わ》く。遊佐は仕方なさそうに苦笑していたが、ふと関さんと目が合うなり、両者は無言のまま口の端《はし》に笑みを刻んだ。
その関さんの案内のもと、僕らは応接室に通された。緒方夫人はいつものようにゆったりと安楽|椅子《いす》に腰《こし》を下ろしていた。僕らは全員で横一列に並ぶなり、せーので、声を揃《そろ》えて挨拶した。
「こんにちは!」
「まあまあ。いらっしゃい。よく来てくれたわね」
夫人は目を細めた。
前に一度お邪魔《じゃま》したことのある顔ぶれが大半だけに、僕らもあまり遠慮《えんりょ》はない。テーブルの上に置かれたたくさんのお菓子《かし》や飲み物もあいまって、歓談《かんだん》はすぐに賑《にぎ》やかなものとなった。
僕らは順に今回のオークションでおのが果たした役割を紹介《しょうかい》(自慢《じまん》とも言う)する一方、リンネは当日、こっそり忍《しの》びこんだ二階から眺《なが》めた会場がどんなに優雅《ゆうが》に見え、またどんな緊迫《きんぱく》した雰囲気《ふんいき》の中で書棚《しょだな》が落札されたか、その際Gや遊佐、それに関さんがどんな具合に振る舞《ま》ったかをこと細かく描写《びょうしゃ》し、夫人を大いに笑わせた。
だがふと、僕は夫人が肝心《かんじん》の書棚について少しも言及《げんきゅう》しないことに気がついた。普通《ふつう》なら、一言くらいその使い勝手や印象について言葉があってもよさそうなものなのに、緒方夫人は先程《さきほど》からまったくそのことについて触《ふ》れようとしない。
それは微《かす》かな違和感《いわかん》として僕の中にあったのだが、歓談の半ばを過ぎリンネがふと口を開いたとき、僕はそれがただの錯覚《さっかく》ではなかったことを知った。
「ね、おばさまっ。あの落札した書棚はもう使っていらっしゃる?」
リンネの弾《はず》むような問いかけに、夫人は少し困ったような微笑《びしょう》を浮《う》かべた。
「ええ」
「どんな感じ? やっぱりあのライティングビューローと同じく、中にしまった本はいつも新品同様なの?」
「そうね……。実はそのことでお話があるのだけれど」
「?」
小首をかしげるリンネを前に緒方夫人は立ち上がり、サイドボードの引き出しを開けると、中から取り出したものをテーブルの上にそっと置いた。
「これを見て欲しいの」
それは、無惨《むざん》に劣化《れっか》した本だった。
「――考えられるのは、この二つの家具の中で時間は止めるのを止《や》めた、ということ、そして、現在は大嵐《おおあらし》が吹《ふ》き荒《あ》れている、ということかしら」
緒方夫人の書斎《しょさい》。
所を移した僕らの目の前に、先日、あのホテルの会場で溜息《ためいき》と共に眺めたハゼル・ジュビュック晩年の最高|傑作《けっさく》があった。
『時の書棚』と呼ばれる二つの家具、『書棚』と『ライティングビューロー』が、今長い時を経て番《つがい》としての姿を僕たちの前に顕示《けんじ》している。
並べてみれば、この二つが一人の作家の手によるものであることは一目で知れた。使われている木材や装飾具《そうしょくぐ》を含《ふく》め、優美な曲線で構成された意匠《いしょう》と重厚ながら上品な造りは紛《まご》うことなき同じ魂《たましい》を感じさせる。
だが……。
「中にしまっておいた本が、たった数日で、ここまで劣化していた」
僕は夫人が見せてくれたボロボロになったホイットマンの詩集『草の葉』を手に取った。奥付を開く。発行は1979年。原書とはいえ、そこまで古い本ではない。だが、それはまるで千年にわたる時の変遷《へんせん》を潜《くぐ》り抜《ぬ》けたかのように干涸《ひか》らび、ページはうかつに触れれば崩《くず》れてしまうかのように水気を失っている。
緒方夫人はどこか哀《かな》しげなまなざしを空っぽの書棚に投じてうなずいた。開き戸式の硝子《ガラス》扉《とびら》の向こうには、現在何も入っていない。
「そう。この二つの家具の中で、突然《とつぜん》時間の進み方が変わってしまったの。以前はこの内部で、時は少しも経過することなく滞留《たいりゅう》し続けていた。けれど、今では時間は信じられない速度で流れている。まるで[#「まるで」に傍点]、書棚の気が変わってしまったかのように[#「書棚の気が変わってしまったかのように」に傍点]」
事務的な手続きもすべて終了《しゅうりょう》し、緒方|邸《てい》にこの書棚が届けられたのは、今から一週間ほど前のこと。
夫人は早速《さっそく》それをこの書斎に置き、ライティングビューローと共に大切な蔵書のいくつかを中に保管することにした。夫人は折を見てはその姿を眺めて楽しんでいたが、特に変わったこともなくそのまま数日が過ぎた。しかし今週、ふと硝子|越《ご》しに書棚の中を見た夫人は、収蔵してあった書物がすべて見るも無惨な状態に変質しているのを発見したのだという。
「でも、いったいどうして……」
リンネが唇《くちびる》を噛《か》む。思いもかけぬ状況《じょうきょう》にひたすら沈黙《ちんもく》する僕らをよそに、夫人は言葉を続けた。
「わからないわ。不思議なことに、これら書棚自体は少しも傷《いた》んではいないの。古びたりしてもいないし、外観もこの手のアンティークとしては今時|珍《めずら》しいくらい当時のままよ。ただ、その中に収蔵した物は、すべてこんな風に一気に古びてしまう」
「……玉手箱」
ふとルウが言った。
「え?」
「いえ、その、浦島太郎《うらしまたろう》のお話に出てくる玉手箱みたいだなと思って」
ルウが洩《も》らした呟《つぶや》きに緒方夫人はうなずいた。
「本当にそうね。まるで書棚の扉を閉めたとたん、白い煙《けむり》がもくもく湧《わ》き出して、一瞬《いっしゅん》にして中の物を年取らせてしまったかのよう」
それまでずっと控《ひか》えめに沈黙を守っていたGが口を開いた。
「奥様。この書棚がハゼル・ジュビュックの作によるものであることは確かなのでしょうか? 贋作《がんさく》という可能性は?」
自分が落札に携《たずさ》わったという経緯《けいい》があるだけに、Gもその点に関しては無関心ではいられなかったのだろう。だが、緒方夫人はきっぱりと否定した。
「いいえ。その点は疑いないわ。これは間違《まちが》いなく本物のハゼル・ジュビュックの作品よ。第一、こんな現象が、彼以外の作品に出来るとも思えないしね」
「そうですか……」
Gはうなずく。
「ごめんなさい。おばさま。私のせいで……」
思いがけぬ事実にショックを受けたのだろう、しょぼんとうつむいてリンネは夫人に謝った。
「せっかくのご本が台無しになっちゃったわ」
「まあ」
夫人はリンネの言葉に驚《おどろ》いたのか、リンネに向きなおると穏《おだ》やかに言った。
「あなたが謝る必要なんてないのよ。誤解しないで頂戴《ちょうだい》。あなたの、いえ、あなたたちの責任では少しもないのだから」
そう言うと、居並ぶ僕たちの方を眺《なが》め、ゆっくりとうなずく。
「それどころか、当日のお話を聞かせてもらえてとっても面白《おもしろ》かったわ。話を聞いているだけで私も何だか若返ったみたいで……それにこの人もね。この人ったらあれ以来、それこそ毎日のようにあのオークションでの出来事を話すのよ。よっぽど楽しかったんでしょうね」
緒方夫人は傍《かたわ》らに寄り添《そ》うようにして佇《たたず》む長身の老紳士《ろうしんし》を見やって言った。僕らの視線を受け、関さんはすまし顔で口髭《くちひげ》を引っぱった。
「その意味ではあなたたちにお願いしてよかったと思っているくらい。だから私が気分を悪くしているなんて思わないでね。ただ、事が事だけに、あなたたち時《とき》載《の》りにお知らせするべきだと思っただけ。……それに」
緒方夫人はふと言葉を句切ると、ちょっぴりはにかんだような表情を浮《う》かべた。
「私がこれを手に入れたいと思ったのは、この書棚《しょだな》の貴重さを知り、その価値を惜《お》しんだからだけど、実は今回の出来事を通じて、何より、思いもかけないものも一緒《いっしょ》に手に入れたわ。それはね、とっても心の優《やさ》しいお友達ができたこと」
リンネははっと顔を上げた。その視線を受け、緒方夫人は目尻《めじり》に皺《しわ》を溜《た》めて悪戯《いたずら》っぽく微笑《ほほえ》んだ。
「そのお友達はね、まだとっても若いのに、どういうわけだか気が合うの。元気いっぱいの子でね、その子といると、何だかとっても心の中がぽかぽかしてくるのよ。その子のお友達もみんな輝《かがや》いていて、遊びに来てくれるたびにこの屋敷《やしき》がまるで春みたいに華《はな》やいで……。この歳《とし》で新しくお友達が出来るなんて、なかなかめでたいことではなくって? それもみんな、私がこの書棚を落札しようと考えたおかげですもの」
リンネは一瞬、その紫《むらさき》の瞳《ひとみ》を瞬《またた》かせて緒方夫人を見つめた。が、リンネの負けん気は、この奇妙《きみょう》な謎《なぞ》をそのままにしておくことを拒《こば》んだ。
「ね、おばさま。私たち、この原因を調べてみます」
僕らは緒方|邸《てい》を辞した。
「問題は、なんで急にあの二つの家具、『書棚』と『ライティングビューロー』の中で時の進み方がおかしくなったのか? という点よね。これが解明されない限り、あれを使用することは不可能だわ」
離《はな》れの閲覧《えつらん》室。
壁《かべ》一面に犇《ひし》めく膨大《ぼうだい》な量の書籍《しょせき》が収蔵された書架《しょか》の一隅《いちぐう》、閲覧用に置かれたソファーに深く腰《こし》を沈《しず》めて、ルウは言った。
まだ陽《ひ》の高いうちに緒方邸より帰宅した僕らだったが、夫人から伝えられた思いがけない事実を前にそのまま解散する気にもなれず、消化不良の気分のまま何となく集まったのは、やはりこの通い慣れた離れの一室であった。
「もっとも、それがわかったとしても、私があの書棚を修理できるとは思えないけどね」
しばらくして、自らの言葉を打ち消すようにルウが言葉を紡《つむ》ぐ。閲覧用のテーブルを挟《はさ》み、向かい側に腰を下ろしたリンネが口を尖《とが》らせて訊《き》いた。
「どうして? ルウは『オラムの眼鏡《めがね》』をちゃんと使えるように修理したじゃないの。あの眼鏡だって、壊《こわ》れていたんでしょう?」
リンネの言葉に、ルウは小さく肩《かた》をすくめた。
「あんな眼鏡とジュビュック作品を一緒にしないでよ。あの書棚の中に通常とは異なる時間の流れを生み出す原理や仕組みは、私にはさっぱりわからないわ。それくらい高度な技術が使われているの。それに第一、私はアンティークの修理を本職としているわけじゃないわ。鑑定《かんてい》はやってもね」
「そう……」
リンネはがっかりしたように、吐息《といき》を洩《も》らした。
あたりには隣《となり》のキッチンでGが紅茶を淹《い》れるこぽこぽという音だけが、この閲覧室の空気をそよがせるように優しく響《ひび》いている。
「……おばさまはもうあの書棚を使わないつもりかしら?」
「と思うよ。少なくとも当分の間は」
「もったいないわね。落札するのにあんなに手間をかけたのに」
僕の言葉に、ルウもまたテーブルの上に両肘《りょうひじ》をついたままほっと溜息《ためいき》をつく。
緒方夫人は気にしないで欲しいと再三言ってくれてはいるが、実際にこの企画《きかく》に深く携《たずさ》わった僕らとしては、あの書棚が家具として使用不可能だというのは、何となく画竜点睛《がりょうてんせい》を欠いた観があるのは否《いな》めない。僕らにとっても、あれはもはや単なる落札物ではない。あの書棚が緒方夫人の下《もと》で立派に使われている姿が見たいというのは、ここにいる誰《だれ》にも共通する想《おも》いである。
「せっかく買ったのに物を入れられないんじゃあ、意味ないわ」
リンネはしょぼんと肩を落とした。いつもは元気よく跳《は》ね回っているブロンドも、今はうなじから耳元へと力なく垂れ落ちている。
「それにしましても……書棚はともかく、今まで正常だったライティングビューローの方までおかしくなるというのは少しヘンですわね。いくら番《つがい》の作品とはいえ、二つがまったく同じタイミングでおかしくなるなんて」
湯気の立ち上る紅茶のカップを僕らの前に一通り配し終えたGが、銀製のトレーを胸に抱《かか》えたまま、首をかしげて言った。
「それは……技術的な問題なんじゃない? 互《たが》いを側《そば》に寄せると時間の進み方がおかしくなる、とか」
「マイナス極とマイナス極を近づけたみたいに? 磁石じゃないのよ」
僕の思いつきにルウが呆《あさ》れたようにつっこむ。
「や、わからないよ。時留めの力が相互《そうご》に干渉《かんしょう》しあって、何か別な現象が起こった結果、力が暴走して中の時間が進むスピードが速まってしまったということも考えられる」
僕は適当な仮説をでっち上げてみたが、自分でもあまり説得力があるとは思えなかった。案の定、即座《そくざ》に遊佐が否定する。
「そうかな。俺はよく知らんけど、そのジュビュックっていうのは天才的な名工なんだろ? そんな人物がそんな安い欠陥《けっかん》商品を作るとも思えないけどなあ」
「うーん」
もっともな遊佐の意見に、僕は頭をかいた。確かにその通りだ。あの二つの書棚《しょだな》はもともとセットで使うことを前提とされていた作品である。その二つがくっついたからと言って故障していたのでは、そもそも使用に耐《た》えないし、ジュビュックとしても工芸作家としての沽券《こけん》に関《かか》わるだろう。
「時間の流れを操《あやつ》る名工、か」
僕は吐息をついた。
沈黙《ちんもく》が落ちた。遊佐は手近にあった新聞を広げ、僕は紅茶を啜《すす》り、リンネは椅子《いす》にもたれたまま、閲覧室の高い天井《てんじょう》にぼんやりと視線を彷徨《さまよ》わせる。
そのまま誰もが口を閉《と》ざし、時間が流れるに任せていた時だった。
ふと、離れの入り口の扉《とびら》が開き、小さな影《かげ》が走り出てきた。
「リンネー」
「ねはん?」
リンネが驚《おどろ》いて椅子から身を起こす。リンネの弟、ねはんは覚束《おぼつか》ない足取りで姉の側に駆《か》けよると、その膝《ひざ》にぴょんとしがみついた。
「ねはん、あなた一人で来たの?」
「うん。あのね、ママがはやくかえっておいでって」
「……あ、そ」
驚きから一転、リンネは白けた表情でうなずいた。どうやらママさんはねはんに姉への言づけを頼《たの》んだらしい。
僕は腕時計《うでどけい》を見た。五時二十分。気がつけば、出窓から覗《のぞ》く空は既《すで》に薄闇《うすやみ》に染まりつつある。
僕は立ち上がった。
「じゃあ、そろそろお開きにしようか」
「そうですわね。今日はいろんなことがありましたもの。続きはまた今度ということで」
Gが笑顔《えがお》で言った。その言葉を潮に皆《みな》がいっせいに立ち上がる。リンネだけはまだどこか名残《なごり》惜《お》しげだったが、門限とあらば仕方がない。
そんな脱力《だつりょく》した姉の様子をよそに、ねはんはさらに得意そうに続けた。
「あとね、とけいのはり[#「とけいのはり」に傍点]ももとどおりにしておけって」
「ちぇっ。ママったら、そんなことおうちで言えばいいのに」
リンネはむくれる。僕はねはんに訊《き》いた。
「時計って何のこと?」
「あのねえ、げんかんにあるやつ」
「ああ」
腑《ふ》に落ちて僕は苦笑《くしょう》した。
小さい頃《ころ》から、リンネには寝《ね》ている間につい寝ぼけて家の時計の針を止めてしまうという困った癖《くせ》がある。最近は治まっていたのだが、今朝方リンネはいつもの段でそれをやってしまったのだろう。
「時計か……。そういやこの前、お前らと待ち合わせした時も駅前の時計が止まってたっけ」
一人だけまだ腰《こし》を上げず、休日のお父さんみたいに新聞の紙面に深々と鼻先をつっこんでいた遊佐が視線を上げて呟《つぶや》いた。
「あれ? 遊佐、あれって遅刻《ちこく》の言い訳じゃなかったの?」
「ばか言うな。ホントに止まってたんだよ。じゃなかったら俺みたいな時間の権化《ごんげ》が待ち合わせ時刻に遅《おく》れるはずないだろ」
遊佐が時間の権化ならナマケモノだってパンクチュアルな生き物だ。およそ自分の性向と相反《あいはん》する美徳をぬけぬけと主張する遊佐に呆れつつ、ふと僕はある出来事を思い出していた。
「そう言えば、凪の日記帳を買いに行った時も時計が止まってたことがあったっけ。ほら、あのショッピングモールの中でさ」
あの直後に出現した未到ハルナさんのインパクトが大きすぎたせいもあってすっかり忘れていたけれど、そういや似たようなことは僕も経験していたわけだ。
遊佐が軽口を叩《たた》いた。
「やれやれ。おかしくなったのは何も緒方さんの書棚だけじゃないな。急に俺たちの周りで時間の進み方がおかしくなったみたいだ」
みんなはひとしきり笑ったが、次第《しだい》にその笑いは絶え、どこか気詰《きづ》まりな空気が閲覧《えつらん》室に満ちた。
ルウがぽつりと言った。
「……偶然《ぐうぜん》よね」
僕らは何となく押し黙《だま》り、互《たが》いに視線を巡《めぐ》らせた。
その時、ふとリンネが何かを見とがめたように勢いよく視線を上げた。そして身動《みじろ》ぎもせずに前方を見据《みす》えていたが、不意に遊佐が広げていた今日の朝刊に手を伸《の》ばすと、遊佐が眺《なが》めていた紙面の逆、つまり一面を表にしてテーブルの上に広げた。
「これも偶然かしら?」
どこか確信に満ちたリンネの声に僕らはいっせいに紙面を覗きこんだ。
一面には、太い見出しでこう記されていた。
『乱れるダイヤ列車の運休相次ぐ』
それは、ここ数日間JRの運行ダイヤに原因不明の乱れが生じていることを告げる記事だった。
[#改ページ]
8章
だが、それは偶然ではなかった。僕らが緒方|邸《てい》へお邪魔《じゃま》した日とほぼ前後して、この街の至る所で「時計が止まる」という事件が多発するようになったのである。
初めのうち、さしてそのことに気を留めていなかった人々も、生活に差し障《さわ》りが出始めると次第に騒《さわ》ぎ始めた。なにせデジタル、アナログを問わず、柱時計、置き時計、腕時計や携帯《けいたい》といった時を知るための道具[#「時を知るための道具」に傍点]が急に働かなくなってしまうのである。原因がわからないだけに対処のしようもなく、人々は戸惑《とまど》い、やがて苛立《いらだ》ちの声を上げるようになった。
この騒動《そうどう》で特に影響《えいきょう》を被《こうむ》ったのは、駅や病院、学校といった所謂《いわゆる》公的な施設《しせつ》である。駅の場合はさらに事態は深刻で、案内板やダイヤが慢性《まんせい》的に乱れるようになってから人々の足に大きな影響が出始め、それに伴《ともな》い、人々の不満も日に日に高まっていった。
この奇妙《きみょう》な現象についてメディアも徐々《じょじょ》に取り上げるようになり、夕方のローカルニュースなどでもしばしば大きなトピックとして扱《あつか》うようになっていった。今のところ時計の不具合や偶然の故障、という線で報道しているところがほとんどだったが、中には人為《じんい》的なイタズラ、もしくは犯罪ではないかという穿《うが》った見方をするニュース番組もあった。
もっとも、在野にはまだまだ埋《う》もれた人材があるらしい。
「えー、こほん」
愛用の鼈甲《べっこう》の眼鏡《めがね》をずり上げると、その女の子は閲覧室のテーブルに揃《そろ》った僕らを前に、咳払《せきばら》いを一つして言った。
「さて、ここで事件の概要《がいよう》を説明しましょう。最初にこの騒動の発端《ほったん》らしき事件が起こったのはほぼ一週間前。市内の、ある老舗《しにせ》の時計専門店で売り物の時計がすべて止まるという奇妙な出来事が起きています。ここのご主人がある朝お店を開けてみると、店中の時計が一つ残らず停止していたそうです。そしてこの日以降、「時間」や「時計」に関連する事件がこの街で頻発《ひんぱつ》しています。街中にある大きな時計……特に人目に触《ふ》れやすい場所にある時計が止まり、たくさんの人たちが正確な時間がわからず困っていますが、奇妙なことに時計が故障する範囲《はんい》は、何故《なぜ》かこの街の中だけに限定されています。一方、列車のダイヤの遅れは深刻で、駅構内の時刻案内板は今やあってなきが如《ごと》しといった状況《じょうきょう》であり、運行の乱れは現在もなお続いています。えへん」
テーブルの上には過去一週間の内に発行された新聞――朝刊、夕刊、全国紙から地方紙に到《いた》るまでありとあらゆる報道紙が広げられている。それにとんと手を突《つ》き、リンネは胸をはって言った。
「これらの事件に共通するのは、どれも遅延[#「遅延」に傍点]あるいは遅滞[#「遅滞」に傍点]です。本来スムーズに流れるはずの時間がなぜか上手《うま》く進まない。あるいは滞《とどこお》る。緒方のおばさまのところの二つの書棚《しょだな》が、浦島太郎のお話に出てくる玉手箱になってしまったのとほぼ時を同じくして、時間にまつわる奇妙な事件がこの街に多発する。……これはいったい何を意味しているのでしょうか?」
そこでリンネは一旦《いったん》言葉を句切ると、得意そうにぐるりと聴衆《ちょうしゅう》を眺め渡《わた》した。その視線の先には苦笑《くしょう》するGや遊佐、呆《あき》れたような表情のルウがいる。
誰《だれ》もなんにも言わないので、やむなく僕は口を開くことにした。
「まどろっこしいよ。よーするにリンネは、これらの現象すべてに何か因果関係がある、と言いたいんだろ?」
「そこの男の子、大正解」
僕の言葉にリンネはすましてウインクした。
あの日、遊佐が広げた記事に事件の匂《にお》い(本人談)を嗅《か》ぎ取ったリンネがありとあらゆる活字|媒体《ばいたい》を総きらいする勢いで調べ始めて今日で三日。既存《きぞん》のメディアが未《いま》だ後手を踏《ふ》んでいる間に、この子はあっという間に事件の本質を総括《そうかつ》してしまったわけだ。いつものことながら、自分が関心を抱《いだ》いた事柄《ことがら》に関しては骨惜《ほねお》しみしないリンネである。
もっとも、これだけ状況が整理されてしまえば話も早い。ここはリンネの推論に乗っかった形で僕は話を進めることにした。
「まあ、この騒動が人為的なものであることはまず間違《まちが》いないところだろう。問題は、誰が、どうやってこんなことをしたかということだけど……」
僕の言葉に、ルウもうなずく。
「ただの人間にこんなことが出来るとは思わないわ。街中にある時計の針を一個一個止めて回るなんていうこと、普通《ふつう》の人に出来るはずないもの」
「まして列車のダイヤを乱すなんて大がかりなこと、一般人《いっぱんじん》には到底《とうてい》不可能だろうし」
「とすれば、考えられる線はやっぱり……」
リンネが思わず身を乗り出し、そう言いかけた時だった。
「お待ち下さいリンネ様。その結論を出すのはいささか時期尚早《じきしょうそう》では? もう少し確かなことがわかりませんと、現状では何を言っても推測になりますわ」
さすがに最年長者らしく、Gが一直線に結論に向かおうとするみんなの姿勢を穏《おだ》やかに掣肘《せいちゅう》する。その意見はもっともに思えたので、僕らはもう一度手分けして新聞の記事や報道を検《あらた》め、事件の起こった時期や場所をより綿密に調べてみることにした。
その結果、いくつか確認《かくにん》できたことがあった。一つはこれらの騒動のうちもっとも初期に起こったと思われる時計店での出来事が、あのオークションの二日後、つまり緒方夫人があの書棚を手に入れた直後であること。そしてもう一つは時間や時計に関する不具合が起こっている箇所《かしょ》が、あくまで僕らが住む街中だけに限定されることである。
「時」と「場所」。二つの要素が奇妙な形で寄り添《そ》いながら僕らの視界に幾度《いくど》となく浮《う》かび上がってくる。
「うーん」
腕組《うでぐ》みをしつつ、遊佐が唸《うな》った。
「やっぱ、これはどう考えたって、俺らの周りで何かが起こっているとしか思えないよなあ」
一方で、この一連の出来事には『逸脱者《いつだつしゃ》』が関係しているのではという疑問が、僕にはある。『逸脱者が一人、リンネの時間世界に侵入《しんにゅう》した形跡《けいせき》がある』とハルナさんが指摘《してき》してまだ日を経ずしてこうした事件が起きている以上、やはり単なる偶然《ぐうぜん》とは思えない。
それはリンネも同じ思いなのだろう。一通り調べものを終えた僕らが、どこか判じ物めいた事件の様相に考えこんでいると、一人すくっと立ち上がり、確信に満ちた顔つきで言った。
「私、この件はお巡《まわ》りさんに謎《なぞ》を解くのは無理だと思うの。だって、私の予感ではこの一件には間違いなく時《とき》載《の》りが絡《から》んでいる。その人はどういう手段かで街中の時計を止め、運行ダイヤを乱し、一方でおばさまの書棚を不調に陥《おとしい》れているんだわ」
「でも……仮にそうだとして、そんなことをする目的は?」
「そんなの、捕《つか》まえてみればわかるわよ」
僕の問いをあっさり受け流すと、リンネはぐいと胸を反らした。
「とにかく、何者かがこの一連の騒動《そうどう》を引き起こしていることは間違いないんだからその犯人を捕まえればこの騒動は収まり、おばさまの書棚もまた使えるようになると思うの。ねっ、私たちの手でこの事件を解決して、この街に正しい時間と平和な時を取り戻《もど》しましょうよ!」
いつものように紫色《むらささいろ》の瞳《ひとみ》を輝《かがや》かせるリンネを見やり、Gは困ったような微笑《びしょう》を口元に湛《たた》えた。ルウは小さく肩《かた》をすくめ、遊佐はすまして額に落ちかかったくせっ毛を払《はら》う。
やれやれ。
いったんリンネが「わくわくの種」を見つけてしまった以上、こうなったら好きにやらせる他《ほか》ないと半分|諦《あきら》めつつも、僕は一応|訊《たず》ねてみた。
「でもリンネ。実際その犯人とやらをどうやって捕まえる? 街は広いよ」
「うーん。そうねえ」
リンネはちょっと考える素振《そぶ》りをみせたが、特に良い方法も思いつかなかったのだろう。やがてあっけらかんと言った。
「ま、捜査《そうさ》の基本は脚《あし》、よね」
というわけで、明けて翌日。
街頭にはまるで本職の刑事《けいじ》のように張り込みをする箕作リンネ・メイエルホリドの姿があった。
張り込み場所はおもに衆目につきやすい大きな時計がある駅や公園、繁華街《はんかがい》の中心部。これまでに何度も時計が止まったことのある地点である。
どっから手に入れてきたのか赤いハンチング帽《ぼう》を目深《まぶか》に被《かぶ》り、路肩や建物の陰《かげ》であたりを窺《うかが》う様子は怪《あや》しさ満点だが、本人はあくまで真剣《しんけん》らしい。日中は学校があるのでさすがに諦めたリンネだったが、放課後から夕方、そして夜半にかけて「お出かけパトロール」などと称《しょう》して、その格好で毎日街を俳徊《はいかい》するようになった。僕らは止めたが、それで翻意《ほんい》するようなリンネではない。
むろん、その行動の中にはこの出来事に『逸脱者』が関《かか》わっている可能性も考慮《こうりょ》に入ってはいるのだろうし、時《とき》砕《くだ》きとしての責任感も含《ふく》まれているのだろうが、わくわく顔で毎晩『時の旋法《せんぽう》』と懐中《かいちゅう》電灯を片手に、ママさんやGに内緒《ないしょ》でこっそり街に繰《く》り出していくリンネを見ていると、単に別の思惑《おもわく》があるだけのような気がしないでもない。
さすがに放《ほう》っておくわけにもいかず、やむなく僕はリンネに「一日一時間だけ」という約束をさせた上で、毎晩いっしょに見回りすることにした。もっとも「見回り」と言えば聞こえはいいが、よーするにただ夜の街を二人で散策するだけである。一歩|間違《まちが》えば素行不良でお巡りさんに補導されるのはこっちだけに、僕も気が気ではない。
それでもリンネは毎夜結構楽しそうに張り込みを続け――、
さらに数日が過ぎた。
そんなある夜のこと。
その日、僕はここ最近の習慣となりつつある夜の見回りをするために家を出た。
時刻は八時三十分。ウチはそんなに厳しい家ではないけれど、この時間に外に行くと言うとさすがにあまりいい顔はされないので、母さんには黙《だま》って出かけることにする。
暗い玄関《げんかん》で音を忍《しの》ばせてそうっと靴《くつ》を履《は》いていると、二階からとことこと凪が下りてきたので、これ幸いとしっかり言い含める。
「いいか? なるべく早く帰ってくるから、母さんには内緒にしてるんだぞ。兄ちゃんは部屋で勉強してることにして上手《うま》くごまかせ」
一緒についてきたいのか、少し寂《さび》しげな表情を浮かべる凪に構わず、僕は玄関を出ると隣家《りんか》に向かった。
闇《やみ》の中、箕作|邸《てい》はどっしりとした偉容《いよう》を留《とど》めていた。北国の風雪に耐《た》えてきたその歴史の重みは、夜目にも見る者を粛然《しゅくぜん》とさせる気配を漂《ただよ》わせている。てゆーか、シルエットがシルエットだけに、夜のリンネんちはちょっとこわい。
僕は待ち合わせ場所である表門の前でしゃがんで待っていたが、約束の時間が過ぎてもリンネは現れない。まさか呼び鈴《りん》を押すわけにもいかず、僕がやきもきしていると、ややあって裏の勝手口の方からリンネがこそこそと出てきた。
「もうっ。遅《おそ》いよ」
「ごめん。だって、ママったらリビングから全然動かないんだもの!」
リンネは言い訳をすると、肩にかけていたカバンを改めて背負いなおし、ブロンドを一閃《いっせん》させて元気よく言った。
「ふう。さ、行きましょ!」
いつものように電車でいったん街へ出た後、僕らは見回りを開始した。まずは公園一帯を歩きつつ、何か異常がないか確認《かくにん》する。特に時計や時間に関する物には目を光らせる。どんな変化も見|逃《のが》さないという心積もりが、いざ有事の際の臨機さに繋《つな》がるはず……なのだが、傍《かたわ》らの女の子は『時の旋法』入りのカバンを揺《ゆ》らしつつ、スキップしながら歩いている。
僕は気が抜《ぬ》けて、テレビタワーを仰《あお》いだ。
テレビタワーは築五十年というこの街のシンボルである。僕らの頭上で、赤い鉄骨と緑の外壁《がいへき》を併《あわ》せ持つ三角錐《さんかくすい》形の電波|塔《とう》が眼下に伸《の》びる大通公園を見下ろすように聳《そび》えている。鉄骨で支えられた塔の中程《なかほど》には巨大《きょだい》なデジタル表示の電光時計が設《しつら》えられ、四囲に向かって現在の時刻を示している。
現在、九時七分。
夜気の中に徐々《じょじょ》に高まりつつある街の喧噪《けんそう》の匂《にお》いを嗅《か》ぎながらあたりを巡《めぐ》る。僕らは噴水《ふんすい》の前に差しかかった。
円い噴水池の中央で水はいったん上に向かって激しく噴《ふ》き上げられ、その後|飛沫《ひまつ》となって柔《やわ》らかな放物線を描《えが》きながら落ち、闇の色を湛えた水面を微《かす》かに揺らしている。
「きれいねえ」
魅入《みい》られたようにリンネが脚を止める。
噴水は時間によって花が開いたり、湧《わ》き出る泉のようになったり、扇《おうぎ》のように広がったりと多彩《たさい》な表情を見せては道行く人の目を愉《たの》しませている。
青やオレンジのバックライトに照らされ、夜気の中|鮮《あざ》やかに咲《さ》いた水の花を噴水の縁《ふち》に腰《こし》かけ涼《りょう》を取る人々に交じって眺《なが》めていた時だった。帰りの電車の時間が気になり、ふと僕は噴水|越《ご》しに塔の電光時計を見あげた。
九時三分。
「ん……?」
微かな違和感《いわかん》が胸の内で頭をもたげる。
何かがおかしい。
その違和感が何であるかをまだ掴《つか》まえきらぬうちに、僕は反射的に手首に巻いた腕時計《うでどけい》に目を向けた。僕のデジタル腕時計は九時十一分を示している。
時間が……ずれてる。
見間違いかと思い、もう一度塔の電光時計を仰ぐが、やはりその時刻に間違いはない。
僕はあたりを眺め渡《わた》した。電光時計の異変に気づいている人は一人もいない。道行く誰《だれ》もが、いつも頭上で千年一日の如《ごと》く変わらず時を刻む、この馴染《なじ》みの時計が誤った時を刻んでいることなど少しも気にかけぬまま忙《せわ》しげに往来を過ぎてゆく。
突然《とつぜん》落ち着きをなくした僕に、リンネが訝《いぶか》しげに訊《たず》ねる。
「久高、どうしたの?」
「……時計が変だ」
「は?」
[#挿絵(img/mb874_229.jpg)入る]
一瞬《いっしゅん》、きょとんとしたリンネだったが、僕の表情と身体《からだ》の向きで、僕の言葉が何を意味しているのかを悟《さと》ったのだろう。はっと息を呑《の》むと同時に、あわてて自らも塔の方向に紫《むらさき》のまなざしを向ける。次の瞬間、僕とリンネの視線の先で、再び時刻の表示が変わった。
九時二分。
腕時計を確認する。九時十二分。
間違《まちが》いない。時間が逆に進んでいる[#「時間が逆に進んでいる」に傍点]。
「リンネ!」
「行くわよっ」
僕が呼びかけた時にはリンネは既《すで》に走り出している。僕はすぐに後を追った。突然|駆《か》け出した僕らに、すれ違う人たちが怪訝《けげん》そうな視線を向ける。
やがて僕らは塔の麓《ふもと》にたどり着いた。
真下からテレビタワーを仰ぐような形となったため、逆に時計が死角となって見えなくなる。
焦《あせ》りと苛立《いらだ》ちの中、僕は意味もなくあたりを見渡した。でも、いったい何を見つければいいのだろう。塔の時計の時刻表示がおかしくなったからといって、その麓に犯人がいるとは限らない。
このままでは埒《らち》があかないと、僕がいったん電光時計の誤差を確認するためにリンネと二手に分かれようか考えた時だった。リンネが塔の中に駆けこんだ。
「上よ!」
そう言うなり、リンネはエレベーターの乗降口に向かい、昇《のぼ》りのボタンを押す。目指すは塔の最上部にある展望台。上に誰かがいると決まったわけではないけれど、下でうろうろしているよりはいい。
エレベーターがゆっくりと上昇《じょうしょう》していく。
荒《あら》い息づかいが響《ひび》く中、僕とリンネは顔を見合わせた。
「誰かのしわざかな?」
「まだわからないわ」
そう言いつつも、蛍光灯《けいこうとう》の明かりの下でリンネの瞳《ひとみ》はまさに待ち望んでいた展開にきらきらと輝《かがや》いている。リンネはカバンを開くと中から『時の旋法《せんぽう》』を取り出し、しっかりと手に携《たずさ》えた。
やがてチン、という涼《すず》やかな音と共にエレベーターは最上階に着く。
僕らが身構える中――、
音もなくドアが開いた。
街の夜景が広がっていた。
絵はがきか、さもなければ観光案内用のパンフレットの見開きに載《の》るような見事な眺望《ちょうぼう》が、硝子《ガラス》越しに僕らの目の前に開けてる。
連なるビルの群れと、その窓一つ一つに灯《とも》る明かりが、遠い街の稜線《りょうせん》の果てまで続いている。ビルの狭間《はざま》にはまるで深い渓谷《けいこく》のように無尽《むじん》に車道が走り、その上を、車のヘッドライトが光の粒《つぶ》を零《こぼ》したように数珠《じゅず》となってゆっくりと流れていく。
人の営みが意図せずして織りなす、光の綾《あや》。
そして、その街明かりを背に逆行気味に佇《たたず》む一つのシルエット。
照明の落ちた展望台には、僕とリンネのほかはその人しかいない。
僕らが意を決して一歩|踏《ふ》み出した時、その影《かげ》が身動《みじろ》ぎした。その拍子《ひょうし》に影が拭《ぬぐ》われ、顔立ちが露《あら》わになる。
リンネがはっと驚《おどろ》きの声を上げた。
「あなたは……」
そこに立っていたのは若い男だった。
人目に立つほどの優《すぐ》れた美貌《びぼう》と長身。二十代半ばくらいの、貴公子然とした洗練された容姿を持つ外国人の青年。
「リュシアン・ソロー……さん?」
先日のオークションで帰り間際《まぎわ》にGやリンネと言葉を交《か》わし、その前には遊佐や関さんと書棚《しょだな》を巡《めぐ》って激しい鍔迫《つばぜ》り合いを繰《く》り広げたあの青年が、人気の絶えたこの展望台、街の夜景を背後に佇んでいる。
栗色《くりいろ》の髪《かみ》を指で払《はら》い、端正《たんせい》な口元にどこか謎《なぞ》めいた微笑《びしょう》を浮《う》かべると、その青年はリンネに向かって久闊《きゅうかつ》を叙《じょ》するように一礼する。
「これは。あなたとこんなところで会えるとは。先日のオークション以来ですね。ミス箕作」
「……これは、あなたの仕業《しわざ》ね?」
意外な人物との再会に一瞬《いっしゅん》戸惑《とまど》った様子のリンネだったが、すぐに警戒心《けいかいしん》を取り戻《もど》すと、硬《かた》い表情のまま訊《たず》ねた。
「これ[#「これ」に傍点]、とは?」
青年はあくまで穏《おだ》やかな笑《え》みを湛《たた》えて訊ね返す。しらばっくれるつもりかと、リンネは強く唇《くちびる》を噛《か》んだ。
「わかっているでしょ?」
「さあ。何のことでしょうか? この塔《とう》の電光時計が逆に時を刻むようになったことか、それとも列車の運行ダイヤが狂《くる》ったことか、時計店の時計が狂ったことか。……それとも」
うたうようにそう続けると、青年は微笑を収め、挑《いど》むようなまなざしを僕らに向けた。
「それとも、名工ハゼル・ジュビュックの作品の内部で、突然《とつぜん》大嵐《おおあらし》が吹《ふ》き荒《あ》れるようになったことか」
今度こそリンネがはっと息を呑《の》む。
青年は、いや、リュシアン・ソローと名乗る謎の怪人物《かいじんぶつ》は、僕らの動揺《どうよう》に押し被《かぶ》せるように言葉を続けた。
「そう言えば、彼の作品が先日のオークションに出品されていましたね。あれは実に素晴《すば》らしい作品でした。できれば私が落札したかったのですが、残念ながら私以外にもあれに執心《しゅうしん》だった方がいたようです。あれだけの値を付けられては、おいそれと手は出せない。もっとも、そのへんの事情はあなたもよくご存じでしょうが。ミス箕作」
そう言うと、ソローはどこか皮肉《ひにく》めいたまなざしをリンネに投げる。リンネはあわてて言った。
「わ、私、そんなの、知らないわ」
リンネの精一杯《せいいっぱい》の嘘《うそ》を見抜《みぬ》いたようにソローは微笑を浮かべたが、言葉にしては何も言わなかった。リンネは逆襲《ぎゃくしゅう》した。
「あ、あなたこそ、なぜジュビュックの名を知っているのよっ?」
「なに、私も古い物を集める蒐集家《しゅうしゅうか》でしてね。それであのオークションに参加したまでです。結局あの品は落札できませんでしたが、手ぶらで帰るのも味気のない話だと思いましてね。私もあの競売であるものを落札しました」
僕ははっとした。
ふと会場の一隅《いちぐう》からオークションの様子を覗《のぞ》いていた記憶《きおく》が甦《よみがえ》る。そうだ。この青年は最終的に関さんとの競合に敗れて書棚の入札から降りた後、まるで腹いせのようにそれ[#「それ」に傍点]を落札したのだ。
僕の表情が動くのを見透《みす》かしたように、ソローは胸の内ポケットからそれ[#「それ」に傍点]を取り出した。じゃら……という音と共に手の平の上で重たげな輝《かがや》きを見せる丸い物体。
あの銀製の懐中《かいちゅう》時計が、今、ソローの手元で鈍《にぶ》く輝いている。
何となくイヤな予感を憶《おぼ》える僕をよそに、ソローはその懐中時計の鎖《くさり》の端《はし》を人差し指と中指の間に挟《はさ》み、吊《つ》り下げて見せた。
「そう。私はこれを落札した。他《ほか》に競合する相手もなく、簡単でしたよ。見かけは地味だが品物自体は決して悪くない。上蓋《うわぶた》の裏には刻印があり、制作者の名も刻まれている。磨《す》り減《へ》っていて読みにくいが確かにこう読めるようです。Dziubuk 1887 と」
「……え?」
きょとんとするリンネと青ざめる僕に視線を向けたまま、ソローは初めて嘲笑《あざわら》うかのようなまなざしを浮かべると、小さく肩《かた》をすくめてみせた。
敵は、遂《つい》にその本性《ほんしょう》を見せたのだった。
「やれやれ。君のボーイフレンドの方がよほど勘《かん》と理解に恵《めぐ》まれているようですね。つまりはこういうことです。あの書棚の中の時間が急速に進むようになったことを含《ふく》め、この一連の出来事はすべてこの時計によってコントロールされていたということ。そして、それは今私の掌中《しょうちゅう》にあるということ。ミス箕作。この二点こそが私があなたに申し上げたいことなのです」
沈黙《ちんもく》が流れた。
言葉を失い、呆然《ぼうぜん》とするリンネと僕を前に、リュシアン・ソローは展望台の四囲を覆《おお》う硝子《ガラス》にその優美な長身を預けると、夜景を背に静かに言葉を紡《つむ》いだ。
「時《とき》載《の》りハゼル・ジュビュックは多才で知られ、その作品は家具に留《とど》まらず、装飾具《そうしょくぐ》・工芸品と多岐《たき》に亘《わた》る。しかし、そのジュビュックにしても時計を製作したという記録はない。にもかかわらずここに彼の名が銘打《めいう》たれた時計が存在し、しかもその刻印された年代は晩年の傑作《けっさく》と評判の高い『時の書斎《しょさい》』を製作した年と同じ1887年。これは何を意味するのか?」
ソローは時計を弄《もてあそ》びながら言葉を続ける。
まるで、僕らの揺《ゆ》れる心と相重なるように、銀製の懐中時計は彼の指の動きに合わせて振《ふ》り子《こ》のように揺れている。
「ジュビュック作品の特徴《とくちょう》はその際立《きわだ》った耐時《たいじ》性にある。これは多くの鑑定士《かんていし》や批評家も認める彼の作品だけが持つ優《すぐ》れた特性だ。それは何故《なぜ》だと思いますか? 久高くん」
不意に、しかも名指しで問われて僕は一瞬むっとしたが、ここは大人しく答えることにする。
「それは、彼が時載りだったからだろ。きっと彼は時に関する技法をその作品製作に用いたんだ」
「その通りです。特にあの書棚《しょだな》、そして君の知己《ちき》である老婦人のもとにあるライティングビューローには優れた時への耐性能力がある。だが、どれだけ彼が天才であっても、時を操《あやつ》りそれを運用していくにはそれを正確に計測するための装置が必要となる。言い換《か》えれば端末《たんまつ》の存在がね」
ようやく動揺を示したリンネの表情に彼の言葉への理解を酌《く》み取ったのだろう、ソローはほとんど優《やさ》しげと言っていいほどの微笑《びしょう》を浮《う》かべると静かに言った。
「そう。この時計の名は『時の揺籃《ようらん》』。あの二つの書棚の中の時間を操る外部装置にして、その名の通り、揺りかごのようにあらゆる空間をこの時計が刻む時の中にたゆたわせることを可能にする名工の技《わざ》の結晶《けっしょう》。……つまり言い換えればこういうことです。この街は現在、この懐中時計の制御下《せいぎょか》にある。いつ、どこで、どれだけ時間を動かすことも私には自由だということです」
「なるほど、ね」
リンネは少々お行儀《ぎょうぎ》悪く鼻を鳴らすと、腕組《うでぐ》みをした。
「ようするに、その時計があれば何をするのもあなたの意思一つ、ということでしょ。ソローさん」
「ご理解いただけて恐縮《きょうしゅく》です。ミス箕作」
ソローは恭《うやうや》しく頭を下げたが、リンネはもう動じなかった。これだけの事実を知らされ、かえってすっきりしたのだろう。リンネはずけりと訊《たず》ねた。
「緒方のおばさまの書棚が突然《とつぜん》おかしくなったのもあなたの仕業《しわざ》ね?」
「そう。私がこれを使ってあの書棚の中の時間を急速に進めた」
「あなた、逸脱者《いつだつしゃ》ね」
「そして君は故蘆月長柄に代わる新たな時《とき》砕《くだ》き、というわけですね。互《たが》いに相知り会えたところで、改めてもう一度ご挨拶《あいさつ》するべきでしょうか。はじめまして。小さなレディ」
リンネはそんな戯《ざ》れ言《ごと》を無視して詰問《きつもん》した。
「あなたは、その時計でいったい何をするつもりなの?」
「別になにも」
「嘘《うそ》」
「では逆に聞きますが、君はその手にある『時の旋法《せんぽう》』で何をするつもりなのですか?」
リンネは虚《きょ》を突《つ》かれたように押し黙《だま》った。ソローは淡々《たんたん》と言った。
「答えられないでしょう? あなたがそれを持ったのはほんの偶然《ぐうぜん》だから。私の場合は少し事情が異なるが、それでも物を持つこと自体に理由などいらない。欲しいから。価値があるから。必要だから……。欲望の形とは、時と場合によってどのようにも変化する。この素晴《すば》らしい時計が、あのオークションの際、誰《だれ》の歯牙《しが》にもかけられなかった存在だったことを考えればわかることです」
そのどこか詭弁《きべん》めいた物言いにリンネは一瞬《いっしゅん》口をへの字に曲げたが、言いくるめられるもんかと、精一杯《せいいっぱい》表情を改めると、さらに問いを重ねた。
「じゃあ、質問を変えるわ。あなたはここ数日、その時計を使って何を目論《もくろ》んでいたの?」
「目論んでいたかどうかはともかく、達成したことに関しては取りあえず一つだけ言える。若く、美しいレディを私の前に再び招き寄せることができた」
ぬけぬけと言うと、ソローはすまし顔でウインクしてみせた。こんな場合ながら、リンネはちょっぴり頬《ほお》を赤らめた。
「た、たったそれだけのために、こんなことを……」
言葉に詰《つ》まるリンネをソローは笑顔《えがお》で見つめたが、ふとその笑顔に底知れぬ闇《やみ》の兆《きざ》しが過《よ》ぎった。
「実はもう一つ、目論見《もくろみ》がないでもありません。それは、この『時の揺籃』の力の一端《いったん》を衆目の前に示すこと」
「?……どういうこと?」
「デモンストレーションですよ。あなたもこの数日でよくわかったはずだ。この時計に何が出来るのか、そして、この時計がどんな可能性を持っているかを」
「可能性ですって? こんなに沢山《たくさん》の人に迷惑《めいわく》をかけておいてよく言えるわねっ」
リンネはかんかんに怒《おこ》って言った。が、ソローは静かに言葉を紡いだ。
「私はもっと酷《ひど》いことにこの時計を使うことも出来たのですよ。ミス箕作。例えば『時の揺籃』で現在|稼働《かどう》している原子炉《げんしろ》の計器類を止めたら? どこかの空港の管制塔《かんせいとう》を機能不全に追いこんだら? 証券取引所のデータがすべて停止したとしたら? その社会的混乱と厄災《やくさい》を君一人で食い止めることができますか?」
リンネは絶句した。僕もまた言葉を失っていた。この一連の事件はあくまで『時の揺籃』を使った示威《じい》だったということか。
くやしそうに唇《くちびる》を噛《か》んで沈黙《ちんもく》するリンネを見やり、不敵に言った。
「この時計があればあらゆる騒乱《そうらん》を引き起こすことが可能だ。にもかかわらず、私はそうしなかった。その理由はただ一つ。そう、新たに時砕きになったという若く美しい少女に会うため」
リンネははっと息を飲み、思わず身構えた。『時の旋法』を掴《つか》むその指に力がこもる。
僕は素早くあたりに視線を投げた。四囲が硝子《ガラス》張りになった見晴らしのいい展望台。照明が落とされ、僕らの他《ほか》に人がいないのはいいけど、遮蔽物《しゃへいぶつ》のないだだっ広い空間はリンネにとってお世辞にも戦いに適した場所とは言えない。
が、ソローはそんなリンネの鋭気《えいき》をいなすようにそっと額に落ちかかった髪《かみ》をかきあげて言った。
「今夜はあなたと戦う気はない。ご覧なさい。素晴らしい夜景だ。あなたも、あまり好戦的な態度を見せると男性に嫌《きら》われますよ」
「な……」
ソローの言い草に、思わずかちんときたリンネだったが、ソローに少なくとも今夜は戦う意志がないことを認めたのだろう、一つ息をつくと、ふと真剣《しんけん》な面持《おもも》ちを浮かべて言った。
「ね、ソローさん。ひとつ約束してくれない? あなたが望んだように確かに私はここに来たわ。だからもう、街で騒《さわ》ぎを起こしたりする必要はないはずよ。その時計で時間を操作するのは止《や》めてほしいの」
「ほう?」
その申し出が意外なものだったのか、ソローは面白《おもしろ》そうに眉《まゆ》を上げてリンネを見つめた。その美貌《びぼう》に初めて興味深げな表情が過ぎり、鳶色《とびいろ》の瞳《ひとみ》が改めて目の前の少女を捉《とら》えた。
ソローは言った。
「あなたの頼《たの》みを聞かなければならない理由はありませんが……その頼みを聞いたとして、私への見返りは何ですか?」
「そ、それは……」
真正面から問われ、リンネはちょっと困ったようだった。ふとソローが言った。
「では今度、私とデートしていただくということでどうですか? 日を改め、招待状を送りますよ」
「ええっ」
予想だにしない申し出に思わず顔を赤くするリンネと、同じく驚《おどろ》きの表情を浮《う》かべる僕に等しく視線を向けると、ソローは一瞬、表情の奥で笑ったようだった。
「まあいいでしょう。麗《うるわ》しい女性の頼みです。少しの間、『時の揺籃《ようらん》』の使用はひかえましょう。ただし、いつまでそれを続けるかは私の意思一つであることをお忘れなく」
ソローは自信に満ちた表情でそう言うと、コツコツという靴音《くつおと》を立てて僕らの方に歩み寄った。
間近に迫《せま》られ、思わず表情を硬《かた》くするリンネの手を不意に先日と同じように取ると、彼は優雅《ゆうが》にその甲《こう》に唇を軽く押し当てた。
ソローが視線を上げる。
一瞬《いっしゅん》、紫《むらさき》の瞳と鳶色の瞳がかち合った。
手を男にあずけたまま、リンネは精一杯《せいいっぱい》背筋を伸《の》ばすと声低く、囁《ささや》くように言った。
「あ、あなたが悪いことを続けるなら、今度は私が相手よ」
ソローはにこりと笑った。
「いずれまたお会いしましょう。箕作リンネ・メイエルホリド」
「まあ。では、リンネ様は久高様とたったお二人で、あの人物とお会いになったということですか?」
「ええ」
Gの問いかけに、リンネはこっくりうなずいた。
一夜明けた、離《はな》れの一室。
僕らはゆうべ経験した出来事の一部始終、夜の公園の張り込みから始まって電光時計の異変、そしてリュシアン・ソローとの再会に至るまでをみんなに詳《くわ》しく話した。一同はみな真剣な表情で聞いてくれたが、中でもリュシアン・ソローがはっきりと『逸脱者《いつだつしゃ》』を名乗ったこと、そして彼の有する『時の揺籃《ようらん》』と呼ばれる懐中《かいちゅう》時計が今回の事件の発端《ほったん》であったことは、やはり全員の心を強く揺《ゆ》さぶらずにはいなかった。
特にソローに関してはここにいる全員が面識があるだけに、みんなも無関心ではいられない。
ルウが言った。
「ソローって、オークションの帰りに私たちに挨拶《あいさつ》をした、あのちょっと素敵《すてき》な男の人でしょう? 本当にあの人が犯人だったの?」
「そうよ。その懐中時計を自慢《じまん》げに見せびらかしていたわ」
「なんかあやしいわね。それ、ホントにそんな力があるのかしら?」
「少なくとも本人はそう言ってたわ。あのオークションで、誰《だれ》もこれの価値に気づきもしなかったって」
「でもあの人、会場では遊佐くんと張りあって書棚《しょだな》にせっせと入札していたのに」
「その行為自体がフェイクだったってことだろ」
遊佐の言葉にルウが首をかしげる。
「どーいうこと?」
「そいつの狙《ねら》いは端《はな》っからその懐中時計にあって、書棚への入札は本気じゃなかったってことさ。つまり、はめられたのは向こうではなくてこっちだったということになるな。とんだ策士だ」
遊佐の声には苦い自嘲《じちょう》と共に相手に対するいくばくかの賛嘆《さんたん》の色がある。『策士策に溺《おぼ》れる』との言葉通り、裏をかいたつもりが、その逆を取られたという想《おも》いが敵への評価を複雑なものにしているのだろう。もっとも、この計画の立案には緒方のおばさんたちも関《かか》わっているわけで、必ずしも遊佐の責任というわけではないのだけれど。
彼の正体に気づかず、書棚の入札額に一喜一憂《いっきいちゆう》していたという点では、上から覗《のぞ》き見していた僕らも同様である。改めてソローに対する憤《いきどお》りがよみがえってきたのだろう、リンネがほっぺを膨《ふく》らませた。
「やな奴《やつ》ねっ」
「くやしいけど、向こうが一枚上手だったってことか。で、これからどうするかだけど……」
頭の後ろで腕《うで》を組んだ僕がそう切り出した時、遊佐があっさりと口を開いた。
「つーか、どうしようもないんじゃない?」
淡泊《たんばく》すぎる遊佐に、さすがにルウが呆《あき》れたように小さく口を尖《とが》らす。
「もうっ。そんな簡単に言わないで少しは考えたらどうなの? 頼《たよ》りないわね」
「じゃあ、君には何か具体的な考えがあるのかい?」
遊佐に穏《おだ》やかにそう問い返され、逆にルウは詰《つ》まった。
「そ、それは、ない……けど」
遊佐はくせっ毛をかくと、淡々《たんたん》とした口調で彼我《ひが》の形勢の差を指摘《してき》した。
「この件に関しては、公開オークションで後手に回った時点で、実際打つ手はほとんど封《ふう》じられていると言っていいんだぜ。それを見越《みこ》しているからこそ、奴も堂々と名乗り出たんだろ」
「じゃあ、当面はむこうの出方を窺《うかが》うしかないってこと?」
「その時計を握《にぎ》られている限り、結局こっちは手出しができないよ。いくら敵の正体がわかってもな」
聞きようによっては投げやりともとれる遊佐の発言にルウは露骨《ろこつ》に不服そうな表情を浮《う》かべたが、その言葉に一理あるのは僕も認めざるを得ない。リュシアン・ソローが既《すで》に時計という絶対的なカードを有している以上、行動の選択権《せんたくけん》は常にあちらが握っていると言っていい。
一応リンネは昨夜ソローに対して、少なくとも当面の間『時の揺籃《ようらん》』を使って街に混乱を起こさないことを約束させたが、それもいつまで続くかわかったものではない。ソローは『逸脱者』なのであり、彼がいつその気持ちを変えても不思議はない。
その時、Gが冷静に口を開いた。
「とは申しましても、座してこのまま時が過ぎるのに任せておくわけにもいきません。せめてハゼル・ジュビュックの詳しい経歴やその懐中時計が本当に彼の作品なのかどうかだけでも私どもの手で調べてみてはいかがでしょうか?」
Gの提案に僕らは救われたようにうなずいた。
今のところ、知識と情報量では僕らはリュシアン・ソローに完全に後《おく》れをとっていることは事実である。奪《うば》われたイニシアチヴを再び取り返すためにも、ここはジュビュックと、そしてかの懐中時計に関する情報を徹底《てってい》して集め、少しでも形勢を挽回《ばんかい》せねばならない。幸い、こっちは大人数である。
「よーし。みんなでがんばるわよっ。おーっ!」
リンネの気合い充分《じゅうぶん》のかけ声の下《もと》、僕らはジュビュックの作品|及《およ》びその生涯《しょうがい》に関する文献《ぶんけん》や資料を見つけるべく渉猟《しょうりょう》を開始した。
もっとも、その作業は言うほど容易ではなかった。
ジュビュックは奇行《きこう》で知られる上に極端《きょくたん》な人嫌《ひとぎら》いで、その生涯を窺わせるような歴史的資料は現在ほとんど残っていない。まして彼は時《とき》載《の》りだったという経緯《けいい》もあり、自分の足跡《そくせき》を巧妙《こうみょう》に消している形跡《けいせき》がある。
「やれやれ。どんな変人だったか知らないが、せめて死ぬ前に詳細《しょうさい》な自伝でも遺《のこ》してくれりゃよかったんだ」
箕作|本邸《ほんてい》の屋根裏にある書庫の一角。書架《しょか》から本を抜《ぬ》くたびに派手《はで》に舞《ま》い散る埃《ほこり》に顔をしかめつつ遊佐はぼやいた。
取りあえず原書に関しては本のタイトルが読めなければ話にならないので、そっちは僕らの中で一番外国語に通じているこの口の悪い奴とGに任せ、僕ら年少組は翻訳《ほんやく》本を調べることにする。
ジュビュックの詳《くわ》しい経歴も重要ながら、やはり僕らが気になるのは、あの懐中《かいちゅう》時計がソローが言ったように本当にジュビュック作品なのか、という点である。ジュビュックが時計製作をしたという事実の裏付けさえ取れればそれが判明するのだが、信じるに足る資料はなかなか見つからない。
リンネんちの屋根裏の書庫にて無数の古書を繙《ひもと》いて半日、ようやく僕らが真実の一端《いったん》に触《ふ》れる本にたどり着いたのは、既に陽《ひ》も傾《かたむ》きかけた夕刻の頃《ころ》だった。
「……これは」
「見つけたの!? G!?」
埃まみれの顔をリンネがぴょこんと上げる。
Gが行李《こうり》の中から見つけたその本には時載りとしてのジュビュックの足跡が詳細に記されていた。著者はローラン・フォンテーヌ。彼もまた時載りらしい。『揺籃の誕生』とフランス語で記されたその表題にはリンネも見覚えがないということだから、おそらくリンネの生まれる以前から箕作家に収蔵されていた本だろう。
Gは早速《さっそく》その本の判読を開始し、その結果、僕らはようやくジュビュックの全生涯、そして意外なその最晩年を知ったのだった。
ハゼル・ジュビュックは1822年、オーストリア・ハンガリー帝国《ていこく》に生まれた。両親はどうやら『街の住人』だったらしく、彼もまた市井《しせい》に生き『街の住人』としての生を歩むようになったという。
工芸職人として徐々《じょじょ》に頭角を現して以降の経歴は、前に僕が調べたのとほぼ同じだが、彼がその晩年に時計製作に没頭《ぼっとう》し始めたという文章を発見するに至って、ようやく僕らの苦労は報《むく》われたわけだった。
その本によると、当時、名工の名をほしいままにしていたジュビュックが突如《とつじょ》時計製作に関心を寄せ始めたのは、ちょうど彼の技倆《ぎりょう》が円熟期《えんじゅくき》に差しかかった1860年頃。彼は一から時計製作技術を習得すると、三年後には専門家も唸《うな》らせる見事な試作品を作り上げたというからやはり尋常《じんじょう》な才の持ち主ではなかったのだろう。その後も彼は独力で研究を続け、時計、それも懐中時計の製作に熱中するようになった。
一方、同時期に彼はのちに彼の最高|傑作《けっさく》とも言われる家具の製作にも取り組んでいる。それは書棚《しょだな》とライティングビューローという二つの家具で、当時の家具職人としての彼が持ちうる技術の粋《すい》を集めた物だったという。
が、その作品は長く日の目を見ることはなかった。この時期を境にジュビュックの製作ペースは著《いちじる》しく落ちてゆく。元来|寡作《かさく》家で知られた彼だったが、十九世紀後半にはほとんど作品を発表しなくなり、やがて完全に隠遁《いんとん》に等しい生活を送るようになる。性|狷介《けんかい》、変人との噂《うわさ》が立ち始めたのもこの頃である。当時のオーストリア・ハンガリー帝国は民族|紛争《ふんそう》の渦中《かちゅう》にあり国内は騒然《そうぜん》としていたが、その中にあってジュビュックは時を忘れたように時計、そして二つの書棚の狭間《はざま》で沈黙《ちんもく》し続けた。
長年の沈黙を破り、彼が遂《つい》に作品を発表したのはその最晩年に当たる1887年。『時の書棚』と命名されたその番《つがい》の作品は噂に違《たが》わぬ傑作と激賞され、当時の王族に上納されたのち、1918年のハプスブルク帝国《ていこく》崩壊《ほうかい》後は新政府によって接収、その後フランスの豪商《ごうしょう》の手に渡《わた》り現在に至るという。
ジュビュックは作品完成後、程《ほど》なくして故郷にて病死したが、数十年という歳月をかけて彼が作り上げたはずの懐中時計はその後発見されることはなく、彼の野心は幻《まぼろし》に終わったと言われている。ただ、生前彼が洩《も》らしていた『時の揺籃《ようらん》』という言葉だけが、僅《わず》かに彼の描《えが》いた着想を物語るのみである……。
「……ふうむ」
屋根裏に置かれた行李の上に膝《ひざ》を揃《そろ》えて腰《こし》を下ろしたGが意訳したその本の内容にすっかり聞き入っていた僕らは、ふと我に返って身動《みじろ》ぎした。
いつしか夜は更《ふ》けて窓の外は闇《やみ》に包まれ、屋根裏の梁《はり》に吊《つる》された裸電球《はだかでんきゅう》が、僕らの頭上で黄色い光を投げかけるばかりとなっている。
しばしの沈黙の後、遊佐が口を開いた。
「だが時計は完成していた……。人知れず、そして、強大な能力を秘《ひ》めたまま、な」
遊佐の言葉にルウが小首を傾《かし》げた。
「でも、何故《なぜ》彼は生前、完成した懐中時計を公表しなかったのかしら?」
「さあな。ま、取りあえず今聞いた内容から判断した限りでは、彼が同じ時期に二つの書棚と時計を作っていたのは明らかだな」
「じゃあやっぱり、おばさまの書棚とあの時計には最初から因果関係があったのね」
「その後|辿《たど》った変遷《へんせん》はずいぶん違《ちが》うけどな。二つの書棚が名工の傑作の誉《ほま》れを担《にな》ったまま好事家《こうずか》の関心を浴びる一方で、懐中時計の方はジュビュック作品であることすら知られぬまま、長い間目の目を見ることなく打ち棄《す》てられていた」
「……そして、その力に気づいた者がいた」
僕の言葉に皆《みな》が沈黙する。
リュシアン・ソロー。
もしこの逸脱者《いつだつしゃ》が現れなければ今でも書棚やライティングビューローは「魔法《まほう》の家具」として時留めの効力を発する一方、『時の揺籃』はその存在を誰《だれ》にも知られぬまま、古ぼけた懐中時計としてどこか小さなアンティークショップのウインドーケースの片隅《かたすみ》でひっそりと眠《ねむ》り続けていたに違いない。
僕らは改めてジュビュックの三つの作品が辿ることになった、この数奇《すうき》な変遷に思いを馳《は》せた。
しばらくして、ふと疑問に駆《か》られたようにルウが口を開いた。
「それにしても……なぜジュビュックは隠遁同然になるほど長い時間をかけてまでその時計を作ったのかしら?」
「そりゃあ、ソローの言ったように書棚の中の時間をコントロールするためだろ。端末《たんまつ》として」
ルウの問いに僕は答えた。だがルウは納得《なっとく》できないというように首を横に振《ふ》った。
「でも、それならわざわざ時計の形にしなくたってよさそうなものじゃない? 彼は家具職人だったのよ? わざわざ自分の専門外の分野に手を染めてまで、ジュビュックが時計を作らなければならなかった理由は〜」
「うーん……変人だったから、とか」
僕は適当に理由をつけたが、我ながらいい加減な答えだと思った。
「あのねえ。それ、理由になってないわよ」
「じゃあ、自分の才能を試《ため》したかった、っていうのは? 彼は天才だったんでしょ?」
代わってリンネが言ったが、ルウは首をひねる。
「それもなーんかイマイチ根拠《こんきょ》が薄《うす》いわね」
「ま、どっちにしろ、このじいさんがそんな物騒《ぶっそう》な物を作ったおかげで後世の俺たちが苦労するわけだ」
いかにも遊佐らしいその身も蓋《ふた》もない物言いにみんなが苦笑《くしょう》する。
Gはきっぱりと断言した。
「この著者についてこれからわたくしが全力で調べてみます。他《ほか》にも何かわかることがあるかもしれませんので」
そして行李《こうり》から腰を上げると、僕らをぐるりと見渡す。
「さ、それはそうと、お四方ともお風呂《ふろ》に入られた方が良さそうですわね。煤《すす》と埃《ほこり》でお顔がまっくろですよ」
「おい、風呂は勘弁《かんべん》して欲しいな」
思わず声を上げた遊佐にみんなが笑った。
数日が過ぎた。
その後も僕らは調べものを続けたが、ジュビュックや『時の揺籃』に関《かか》わる新たな資料を見つけることはできなかった。工芸作家としての彼の足跡《そくせき》を記した物はないでもなかったが、やはりジュビュックが時《とき》載《の》りであったという事実を知らぬ限り、どんな記述も通り一遍《いっぺん》の物にならざるを得ないのだろう。その意味で著者も時載りであるあの『揺籃の誕生』という本に巡《めぐ》り会えたのは僥倖《ぎょうこう》だったわけだ。
あのローラン・フォンテーヌという著者はその後、『揺籃の誕生』の続きにあたるジュビュックに関する短い研究論文を発表しているらしい。Gは司書としての知識と記憶《きおく》を総動員しつつ、懸命《けんめい》にその論文の行方《ゆくえ》を追っているが、いまだその所在は掴《つか》めていない。これが見つかれば、あるいは何か新たな発見があるかもしれない。
一方、あれ以来、時計や時間に関する事件はぱたりとなくなっていた。
列車のダイヤは再び平常通り運行されるようになり、新聞やテレビを見てもその手の報道を目にすることはなくなっていた。どうやらリュシアン・ソローはリンネとの約束通り、『時の揺籃』を使うことを控《ひか》えているらしい。
彼が恣意《しい》的に『時の揺籃』を使わなくなったことにより、緒方家に収蔵されている書棚《しょだな》とライティングビューローもまた平常に戻《もど》っていた。だが僕らは、緒方夫人にこれはあくまで一時的な現象であり、再びおかしくなる可能性もあるため、安全のためにも書棚の中に本をしまったりすることのないようお願いしていた。またリュシアン・ソローの存在に関しても夫人に告げることはせず、家具の復調は偶然《ぐうぜん》、という説明をするに留《とど》めておいた。
夫人はリンネに対してあまり無茶をしないように、それとなく言い添《そ》えたが、リンネはあくまで自力でこの事件を解決するつもりらしく、笑顔《えがお》でうなずきつつもその決意を変えた様子はない。
もっとも、僕の見たところ最近のリンネはその内面はともかく、表面的にはとても落ち着いているように見えた。
調べものをする一方、遊佐とのバッティングトレーニングも休まずに続けているし、読書の方も、Gの選定した良書を文句を言うことなく読んでいる。初めのうちは、単に戦いに備えて本を読んでいるのかとも思ったが、どうもそれだけでもないらしい。
愛用の鼈甲《べっこう》の眼鏡《めがね》をかけてベッドの上に胡座《あぐら》をかき、手持ちの本を開いては黙々《もくもく》とページに視線を落とすリンネが少し意外に思え、二人っきりの時を見計らって僕はリンネに訊《き》いてみた。
「ねえリンネ」
「なあに」
「最近、よく本読んでるね」
「そう?」
「うん。そんな感じがする」
「まあ、ママやGがうるさいしね。仕方ないわよ」
リンネは小さく肩《かた》をすくめあっさりと言うと、広げていたエドワード・サイードの『文化と帝国《ていこく》主義」に再び視線を落とした。何となく物足りなさを感じつつも、僕はやむなく引き下がった。
ま、読書をすればストックは着実に増えるし、考えようによってはいいことなのかもしれないが、いつもハイテンションなリンネに慣れっこになっているだけに、最近の少し大人っぽいリンネには若干《じゃっかん》の戸惑《とまど》いもある。
未到ハルナさんとはあれ以来|接触《せっしょく》はないが、あるいはリンネが変わったのは、あの『時の狭間《はざま》』からだったのかもしれない。あの日、ハルナさんはリンネにきっぱりと「『逸脱者《いつだつしゃ》』の件はお前に任せる」と言ったのであり、もしかしたらその言葉がリンネにとって大きな励《はげ》みになっているのかもしれなかった。根ががんばり屋のリンネにとって、そうした言葉ほど嬉《うれ》しいものはない。もっとも、そこまで見抜《みぬ》いてハルナさんがあの言葉をかけたとも思わないけれど。
ともあれ、一件以来僕らは比較的|穏《おだ》やかな時を過ごしていたが、今考えてみるとそれも嵐《あらし》の前の静けさとも言える日々だったのかもしれない。
ある平日の日の午後。リンネのもとに一通の手紙が届けられた。
差出人の署名はリュシアン・ソロー。
文面は以下の通りだった。
[#改ページ]
「親愛なるミス箕作へ
先日君と交《か》わした約束は、残念ながら今週末|零時《れいじ》をもって破棄《はき》させてもらう。代わって、私は以下のことを君に要求する。
一つ、君の所有する紋章《もんしょう》付き、『時の旋法《せんぽう》』を私に引き渡《わた》すこと
二つ、期日行われるであろう承認《しょうにん》会議の決定を拒否《きょひ》し、『時《とき》砕《くだ》き』への就任を辞退すること
上記の事柄《ことがら》が守られない場合、私、リュシアン・ソローは人間界に対し『時の揺籃《ようらん》』を使って時間による無差別|攻撃《こうげき》を開始する。標的は原子力発電所、航空|管制塔《かんせいとう》、証券取引所の三カ所。
私の申し出に応じる場合は日曜日の深夜、緒方家|別邸《べってい》の最上階まで来られたし。
ただし[#「ただし」に傍点]、君一人で[#「君一人で」に傍点]。
小さなレディがよき思案を得られることを祈《いの》って。
[#地付き]リュシアン・ソロー」
[#改ページ]
「とうとう来たな」
離《はな》れの閲覧《えつらん》室でその文面のすべてに目を通した後、遊佐が厳しい表情で言った。その手紙を囲うようにして集《つど》う、Gと僕、それにルウの姿。
一瞬《いっしゅん》、沈黙《ちんもく》が流れる。まさに宣戦布告とも言えるこの文面を受け、僕は思わずリンネを見た。
「どうする?」
「取りあえず行くわ。それしかないもの」
「そうだな。でも、これにはご丁寧《ていねい》に一人でと書いてある」
「危険よ! 一人でなんて危険すぎるわ」
「大丈夫《だいじょうぶ》よ」
どこか心配げな僕らをよそに、リンネは元気に言った。
「私がなんとかするわ」
[#改ページ]
9章
翌日。
僕が朝起きると、リンネが玄関《げんかん》に立っていた。
「……どうしたの?」
「おはよ、久高。ちょっと付き合ってほしいの」
「…………?」
後ろ手に組んだまま、リンネはやや素っ気なく言った。僕は戸惑ったものの、取りあえずうなずき、急いで出かける用意をして外に出た。
今日のリンネはデニムのミニスカートにピンクのパーカーという年相応の格好で、ブロンドを風に揺《ゆ》らしながら背筋を伸《の》ばし黙々《もくもく》と歩いている。隣家《りんか》の女の子の意図がよく見えぬまま取りあえずついていくと、その脚《あし》が向かった先は僕らの街の駅だった。
駅の入り口ではGがその美しい立ち姿を見せて僕らを待っていた。
僕らを見かけるなり、Gは長身を折り曲げて一礼した。額の線で綺麗《きれい》に切りそろえた黒髪《くろかみ》が僅《わず》かに揺れる。
「お早うございます。久高様」
「あれ? 今日はGも一緒《いっしょ》なの?」
「はい。わたくしもお供いたします。よろしくお願いしますね」
「でも……どこ行くの?」
「あら。リンネ様は何もおっしゃいませんでしたか?」
Gは悪戯《いたずら》っぽく笑うと、あらかじめ買っておいてくれたらしい切符《きっぷ》を僕らに手渡した。僕は切符を見た。長距離《ちょうきょり》用の切符である。
怪訝《けげん》そうな表情を浮《う》かべる僕に向かってGは言った。
「昨夜、ローラン・フォンテーヌの著作の所在を遂《つい》につきとめましたので」
「え!? それってこの間読んだ本の後に書かれた、例の研究論文っていう奴《やつ》?」
「はい。収蔵されている場所までこれから電車で参ります」
Gの引率《いんそつ》の下《もと》、列車に乗る。四人|掛《が》けの座席に三人で腰《こし》を下ろす。リンネは僕の向かいに座ると、そのまま窓|硝子《ガラス》におでこを張りつけ、流れゆく外の景色を眺《なが》め始めた。小さい頃《ころ》からどんなときも窓側は絶対に譲《ゆず》らないリンネである。
最近はずっと屋根裏だの書庫だのに籠《こ》もって本の背ばかり追っかけていたので、こうして列車に揺られるのも久しぶりである。車両が刻むゆったりとしたリズムに身を委《ゆだ》ねつつ、僕は車窓の外に広がる景色に目を向けた。住宅地を離れ、あたりは徐々《じょじょ》に緑の気配が濃《こ》くなっていく。
Gは道中、その本にまつわる話をしてくれた。
それによるとフォンテーヌの論文の持ち主は図書館ではなく、あくまで個人であるらしい。電話で問い合わせてみたところ、残念なことに持ち主は既《すで》に亡《な》くなっていたが、閲覧の許可はもらえたという。
「へえー。そんな凄《すご》い本を持っている人がこの近くにいたんだね」
「ええ」
Gは小さくうなずいた。リンネは先程《さきほど》から何も言わず、じっと窓の外を見ている。その視線の先には遠い山の尾根《おね》から続く馬鈴薯《ばれいしょ》畑が広がっている。
一時間ほど揺られた後、僕らは列車を降りた。
そこは鄙《ひな》びた小さな駅だった。
妙《みょう》な懐《なつ》かしさを憶《おぼ》え、僕はふとあたりを見渡《みわた》した。ここは、見覚えがある。Gとリンネはそのまま駅の改札を抜《ぬ》け、荒《あ》れた舗道《ほどう》を歩き出す。僕はあわてて後を追った。
なだらかな丘《おか》をくだり、一本の田舎道《いなかみち》を突《つ》っきるうちに見覚えはますます強くなる。淡《あわ》い予感は急速に現実のものとなっていき、僕は自分がどこに向かっているのかをはっきりと悟《さと》り、思わず脚を止めた。
「ここは……」
「そ。長柄さんのおうち」
リンネは静かに言った。
鬱蒼《うっそう》とした森のトンネルの向こう、
懐かしい平屋造りの日本家屋が建っていた。
蘆月|邸《てい》はあの時と変わらぬ姿でそこにあった。
僕とリンネにとっては長柄さんのお孫、蘆月|杏奈《あんな》から招待を受けて以来、久方ぶりの蘆月邸である。使用人のおばさんの案内の下《もと》、僕とリンネ、Gの三人は中に通された。
書斎《しょさい》に入ると、以前|訪《おとず》れたままの懐かしい光景が広がっていた。大量の書架《しょか》とそこに犇《ひし》めく無数の本、文机《ふみづくえ》、安楽|椅子《いす》、そして壊《こわ》れたバイオリン……。見覚えのある故人の遺品の数々が当時のままの姿で留め置かれている。
先の時《とき》砕《くだ》き、リンネの先任者にして『街の住人』――蘆月長柄さんが生前使用していた書斎を改めて眺め、僕は吐息《といき》と共に言った。
「そうかあ。その本の所有者っていうのは長柄さんだったんだね」
「ええ。でも、考えてみれば当然だったのかもしれないわね。長柄さんなら、時《とき》載《の》りのいろんな事情に通じていても不思議はないもの」
リンネはそう言うと、まるで故人の気配を辿《たど》ろうとするかのように書斎の真ん中に佇《たたず》み、微動《びどう》だにしない。
Gが声をかけた。
「リンネ様、時が移りますわ。暗くなる前に、調べてしまわないと」
「うん。そうね」
Gが広げたその本は今にも崩《くず》れそうな古い本だった。ごく尋常《じんじょう》に装幀《そうてい》されているものの、表紙は黄ばみ、これ以上|傷《いた》まぬように透明《とうめい》のセロファンに包まれている。
Gは慎重《しんちょう》にその本を手に取ると判読を始め、その後二時間に亘《わた》ってそれを続けた。その間、僕とリンネはその横でじっとGが読み終わるのを待った。
やがて彼女が本を閉じたのを見計らって、僕は訊《たず》ねた。
「ねえ、何が書かれていたの? 『時の揺籃《ようらん》』について何か新しいことがわかった?」
Gはなぜか深い溜息《ためいき》を一つついた。そして本を閉じて言った。
「ええ。ですが、詳《くわ》しい内容に関しましてはのちほど」
「どうして? 今じゃ駄目《だめ》なの?」
僕の問いかけに、Gは困ったように微笑《ほほえ》んだ。
「明日のこともございますもの。詳しい話は今夜お話しするとして、今は一旦《いったん》、ご自宅に戻《もど》られたほうがよろしいかと」
僕は渋々《しぶしぶ》うなずき、踵《きびす》を返した。そしてリンネに声をかける。
「リンネ、帰ろ」
「…………」
リンネは部屋の中央に留《とど》まったまま答えない。僕はもう一度呼びかけた。
「……リンネ?」
「久高、G、あのね、」
リンネは何か言いかけ、珍《めずら》しく言い淀《よど》んだ。見ると、微《かす》かに耳朶《じだ》が赤くなっている。
「あのね、ちょっとだけ一人きりにしてくれない?」
リンネはどこか照れくさそうに言った。
ふと陽《ひ》が溢《あふ》れ、この古風な造りの書斎に光が満ちた。畳《たたみ》に陽が落ちた部分が日溜《ひだ》まりとなって白く輝《かがや》いている。その書斎の中央、かつて故人が蒐集《しゅうしゅう》し、手に取ったであろう様々な書物に彩《いろど》られた部屋の真ん中で、まるでリンネはその囁《ささや》きに耳をすますように佇んでいるのだった。
何事かを察したようにGは表情を和《やわ》らげた。
「かしこまりました。ではわたくしどもは、先に表で待っておりますので。……久高様」
僕は黙《だま》ってリンネを見た。一瞬《いっしゅん》、リンネの紫色《むらささいろ》の瞳《ひとみ》と視線が合う。
「うん」
小さくうなずき、僕はGと共に長柄さんの書斎を後にした。
そのまま蘆月邸を辞す。暖かい陽気が、僕らの頭上に降り注ぐ。
僕らは屋敷《やしき》の前に佇み、その場で少し待った。表門から玄関《げんかん》にかけて敷《し》かれた白い玉石が午後の日差しを受け、乳色に輝いている。
僕もGも何も言わなかった。言う必要もなかった。ただ伸《の》びやかな陽をほおに感じつつ、どこか穏《おだ》やかな気持ちで時がゆっくりと過ぎるのに任せていた。
どれくらいそうしていただろう。
ふと玄関の引き戸が開き、リンネが姿を現した。
「お待たせ」
「もう、済んだの?」
「ん」
リンネはとんとんと靴《くつ》のつま先を地に打ちつけ、元気よくうなずいた。
僕はそんなリンネを見つめた。
リンネはちょっぴりはにかんで僕を見返したが、すぐにそれを隠《かく》すようにほっぺを膨《ふく》らませる。
「なーによ」
「や、別に」
「ふんだ。やな子ね」
そう言うなりリンネは威勢《いせい》良《よ》く歩き出す。
「さ、二人とも、早く行くわよっ」
その律動的な歩調に僕とGは一瞬顔を見合わせたが、どちらともなく苦笑《くしょう》すると後を追いかけた。
森のトンネルを潜《くぐ》る。
僕がリンネに並んだ時、ふと、リンネが僕の手を握《にぎ》った。
僕はびっくりしてリンネを見つめた。リンネは鼻先を上げ、そっぽを向いている。木漏《こも》れ日《び》を受け、リンネの髪《かみ》はまるで黄金の滝《たき》のように光をこぼしている。
手の平の中で微かにリンネの握力《あくりょく》が強まる。絡《から》めた指を通してリンネの温かい体温を感じ、僕はその手をそっと握り返した。
Gが横目でちらっと僕らの様子に目を向ける。彼女は何も言わなかった。
風が立ち騒《さわ》いでいた。
止《や》むと思えば新たなうねりがまた興《おこ》り、木々を激しくはためかせ、その勢いは馬蹄《ばてい》の如《ごと》くあたりの森を蹂躙《じゅうりん》しさっていく。
いつまでも耳の奥に残る木々のざわめきに倦《う》み、僕はふと夜空を仰《あお》いだ。
雲が、怖ろしい速さで流れていく。
夜。
「今、何時だ?」
ふと傍《かたわ》らで遊佐が言った。僕は腕時計《うでどけい》を見た。
「十一時四十分」
僕は遠くにその輪郭《りんかく》だけが見える緒方家の別邸《べってい》を眺《なが》めた。何度か訪《おとず》れ、既《すで》に馴染《なじ》みとなったその白亜《はくあ》のような佇《たたず》まいも、今は窓明かり一つ灯《とも》っておらず、闇《やみ》の中、どこか不気味なシルエットを放っている。その最上階、舞台袖《ぶたいそで》のように大きく張り出したテラスに面した窓に目を向ける。今、リンネはそこにいるはずだった。
日曜日の深夜。緒方家別邸の最上階。
リュシアン・ソローがあの手紙の中で来るように指定したのは、あくまでリンネ一人だけ。そこで僕たちが考えたのは、出来るだけ近い位置でリンネをサポートすることだった。
僕と遊佐は緒方夫人の庭園を横切り、森林の中に入った。その茂《しげ》みの陰《かげ》、闇に身をやつすように黒いリムジンがひっそりと停《と》め置かれ、車内にはルウやGといったお馴染みの顔ぶれが待機していた。
そして、もう一人。
「関さん、このモニターが最上階のカメラと繋《つな》がっているんですね?」
「はい。そしてこちらの画面がホールに通じる階段に設置されたカメラでございます」
シートの一画に身を置き、機材の説明をしている渋《しぶ》い中年男性の姿。
緒方家に仕えるこの長身の執事《しつじ》さんは、この夜の一件を僕らが打ち明けるや否《いな》や即座《そくざ》に全面的な協力を約束してくれ、緒方夫人の宰領《さいりょう》のもと、僕らのためにこのリムジンを用意する一方、内部にノートパソコンや機材を運び入れてあの屋敷のセキュリティ・システムと繋ぎ、車内にいながらにして屋敷《やしき》の様子をモニターできるよう、この短時間で考え得《う》る限りの便宜《べんぎ》を図《はか》ってくれたのだった。
「本当に感謝しておりますわ。リンネ様のためにこんなにしていただいて」
「いえいえ。詳《くわ》しいことは存じませんが、世を騒がす悪党は懲《こ》らしめなければなりませんからな。よろこんで協力させていただきますとも」
Gの謝辞に関さんは莞爾《かんじ》として微笑《ほほえ》む。
「でも、本当にすごい設備ですね」
ルウが感服したように言った。確かにこれならソローがどこから侵入《しんにゅう》してきたとしても、僕らは事前に察知することができる。
関さんはよく整えられた灰色の口髭《くちひげ》の下でにやりと笑《え》みを洩《も》らした。
「いつの世にも不心得者《ふこころえもの》がいますからな。収蔵品や展示物を狙《ねら》う賊《ぞく》が入りこめないように、もともとこの屋敷の防犯設備は最新のものが施《ほどこ》されてあります。ですから現在、あの屋敷には蟻《あり》一|匹《ぴき》這《は》い入る隙間《すきま》もありません」
「とは言っても、相手はこっちの常識が通用するような相手でもなさそうだしな。どんな手段で忍《しの》びこまれても不思議はない」
そう独りごちると、遊佐は手元にあるマイクに向かって言った。
「リンネ、どうだ?」
『ぜーんぜん。変化なしよ』
スピーカー越《ご》しにリンネの声が聞こえる。リンネの胸元《むなもと》には小さな集音マイクが取りつけられており、車内の中にいる僕らと相互《そうご》に会話ができるようになっていた。
ノートパソコンのモニターの中では、屋敷の最上階、仄暗《ほのぐら》いホールの一画に片足で立ち、大理石の床《ゆか》の碁盤《ごばん》模様に合わせてケンケンしているリンネの小柄《こがら》な姿が映っている。手には『時の旋法《せんぽう》』をを携《たずさ》え、あまり緊張《きんちょう》している様子はない。
「こっちもだ。何かあったら知らせるよ」
『うん。お願いね』
あと十五分。
いつもと変わらぬリンネにほっとしつつも、僕は苛立《いらだ》ちを抑《おさ》えきれずにいた。何か変事が起こればすぐにわかるようになっているとはいえ、待ち合わせ相手はあの『逸脱者《いつだつしゃ》』である。
てゆーか、僕はいつだってリンネの側《そば》にいるのが当たり前なのに。
たぶん、僕と同じような気持ちなのだろう。Gも何となくそわそわした感じで先程《さきほど》から胸の前で何度となく指を組み合わせる。
そんな僕らを見かねたのか、遊佐が苦笑《くしょう》しつつ声をかける。
「二人とも落ち着けよ。何かあったって、ここならすっ飛んで駆《か》けつけられるさ」
「左様《きよう》ですとも。いざという時は我々が突入《とつにゅう》しますのでどうぞご安心を」
関さんは力強くそう言ったが、僕は彼ほど楽天的にはなれなかった。僕らが約束を違《たが》えたと彼が判断した時、ソローはあの手紙に記したように『時の揺籃《ようらん》』を破壊《はかい》のために使用することをためらうとは思えない。とすれば、たとえ側にいたとしても僕らがリンネに加勢するのは難しいわけで、どっちにしろリンネは「独力で」ソローと対峙《たいじ》しなければならないのだ。
何分経過しただろう。
閉《と》ざされた車内で無為《むい》に時が過ぎてゆくのに耐《た》えかね、僕がもういっぺん外の空気を吸いにいこうと車のドアに手をかけたときだった。
『あ、あなたどうやって……』
ふと、リンネの声がした。
「リンネ?」
僕らは愕然《がくぜん》とした。僕らの視線があわててモニターに注がれる。
が、そこにはリンネしか映っていない。
時計を見る。二つの時針は一つに重なり合い、十二時ちょうどを示している。
『こんばんは。今宵《こよい》のご機嫌《きげん》はいかがですか? ミス箕作』
スピーカー越しにはっきりとリュシアン・ソローの声が響《ひび》いた。
『約束通り、一人で来るとは感心ですね。小さなレディ』
紛《まぎ》れもないソローの声がスピーカーを通して車中に響く。車内灯の下、僕らは信じられない想《おも》いで顔を見合わせ、ノートパソコンの画面に視線を向けた。
が、その声にもかかわらず画面にソローの姿はない。映っているのはリンネのみ。モニターの中で、リンネは大理石の床の上で模様に合わせてケンケンしている。
音声と映像がまったく合っていない[#「音声と映像がまったく合っていない」に傍点]。
「これって……さっきの」
「……時間が戻《もど》されたんだわ」
ようやく事態を飲みこんだ僕らの鼓膜《こまく》に、まるでその鈍《にぶ》さを揶揄《やゆ》するようなソローの声が響く。
『私がどうやって監視《かんし》カメラの網《あみ》を潜《くぐ》り抜《ぬ》けてここに来たのか知りたいですか? ミス箕作』
「わたくし、行きます!」
厳しい表情でGが言う。だが、いまだ冷静さを失わずに遊佐は制した。
「や、待て。まだ戦いが始まったわけじゃない」
スピーカーからは途切《とぎ》れることなくリンネとソローの会話が聞こえてくる。
『時の揺籃を使って鍵《かぎ》や警報装置がオンにされてない状態の時まで時間を戻したのね』
『左様。あなたのお友達は私がこの時計を所持していることをお忘れのようですね』
『な、なんのことだかわからないわ』
『君は女の子のわりに嘘《うそ》が下手ですね。すぐに表情に出る』
「……ダメです。やはり最上階の様子だけがモニターできません」
「やはり行った方がいいですね」
関さんが屋敷《やしき》の鍵を懐《ふところ》から取り出し、おそらくもどかしさに居ても立ってもいられなかったのであろうGがそれに手を伸《の》ばしかけた時だった。
「ダメだよ、G。それは僕の役目だ」
「久高様?」
とっさに関さんの手の平から鍵を掴《つか》み取り、
僕は転がるように全速力で駆け出した。
屋敷の中は静まりかえっていた。
僕の荒《あら》い呼気だけが響く中、美術品や絵画で飾《かざ》られた見覚えのある廊下《ろうか》を突《つ》っきり、階段へ向かう。
胃から絶えずこみ上げてくるような焦燥感《しょうそうかん》に全身を包まれながら、僕はコの字型に折れ曲がる階段を一段飛ばしで最上階まで駆け上がった。
ホールは屋敷の最上階の大半を占《し》める巨大《きょだい》な空間である。その入り口にたどり着いた時、耳にソローとリンネの声がした。
僕は立ち止まり、懸命《けんめい》に息を整えて気持ちを落ち着かせた。
そしてソローに見つからないように入り口|脇《わき》の壁端《かべはし》にぴたりと身を寄せると、そのまま背中越しに二人の現況《げんきょう》を探《さぐ》った。
ふと、ソローの声がした。
「この館《やかた》の主《あるじ》は緒方夫人とおっしゃったかな? なかなかの審美眼《しんびがん》をお持ちのようですね。ここにある品々は我ら時《とき》載《の》りから見ても決して凡庸《ぼんよう》なものではない」
「あなたもコレクターらしいけど、あなたとおばさまとでは同じ蒐集家《しゅうしゅうか》でもだいぶん違《ちが》うわね」
今度はリンネの声がした。一時《いっとき》の動揺《どうよう》を乗り越《こ》え、リンネも平静さを取り戻したようだった。両者とも、いまだ戦いを始める気配はない。僕は意を決して、そっと顔を出してホールの内部を覗《のぞ》きこんだ。
「ほう、どのへんがですか?」
「物を集めるという、その際の動機よ」
徐々《じょじょ》に闇《やみ》に目が慣れてくる。リンネの声を頼《たよ》りに、僕は懸命にホール全体に目をこらした。
「緒方のおばさまは物を大切にしたいっていうお気持ちから物を集めてるし、あの書棚《しょだな》も落札したわ。でも、あなたは違う。あなたは自分のことしか考えてないわ。その懐中《かいちゅう》時計だって、結局自分の目的のためにしか使ってないじゃないの」
「しかし、この時計の新たな価値と可能性を見出《みいだ》したのは私ですよ。現に君や君の仲間たちを含《ふく》め、あの場にいる全員が私が落札するまで、これに見向きもしなかったではないですか」
「で、でも、たとえそうでも、その時計はもっと良いことのために使うべきよ」
「たとえば?」
即座《そくざ》に問い返され、リンネは詰《つ》まったようだった。しかし何とか言葉を探し、敢然《かんぜん》と反論する。
「た、たとえば交通事故を未然に防いだりとか、難病の進行を遅《おく》らせたりとか……そういうことによ。そんなすごい能力なんですもの。困っている人の役に立つことに使えたら、それって素敵《すてき》だとは思わない? あなたがその時計を持つのは自由だけど、もし使うのなら、誰《だれ》に対しても堂々と胸を張れる立派なことのために使うべきよ。私はそう思うわ」
リンネはきっぱりと言った。
別にリンネは正義の体現者というわけじゃない。肝腎《かんじん》の正義にしたって、わざわざ十二歳になったばかりの女の子に自らの体現を頼《たの》まなくたって、他《ほか》を捜《さが》せば適任者はいくらでもいるに違いない。
ただ、目の前で明らかに悪いことが行われているのにそれを黙《だま》って見過ごすことはリンネには出来ない。だからこそ、リンネはこうして今|精一杯《せいいっぱい》の勇気を振《ふ》り絞《しぼ》ってソローと対峙《たいじ》している。
が、ソローはそんなリンネの言葉にも特に感銘《かんめい》を受けた様子もなく肩《かた》をすくめた。
「まさか『時《とき》砕《くだ》き』に人間の道徳を教わる日が来ようとは思いませんでした。そうした人間の精神性や観念から最も遠いところにいるのが我ら時載りであるはずなのに」
一時、風に雲が払《はら》われ、窓辺から月明かりが射《さ》した。
ホールに人影《ひとかげ》が二つ佇《たたず》んでいるのが見えた。一つは大きく、一つは小さい。
大きい方の影が言った。
「さて、既《すで》に夜も更《ふ》け、約束の刻限も過ぎた。そろそろ本題に入りましょうか。君がここに来た以上、私の申し出通り、『時の旋法《せんぽう》』を私に譲《ゆず》ってくれると考えていいのかな?」
[#挿絵(img/mb874_273.jpg)入る]
ソローの脅迫《きょうはく》に、リンネはぐっと唇《くちびる》を噛《か》んだ。そして紫色《むらさきいろ》の瞳《ひとみ》をきっと見据《みす》えるとソローに向かって言った。
「あなたは一つ勘違《かんちが》いをしているわ。この本はこの紋章《もんしょう》に選ばれた者でないと使えないのよ。だから、その資格がないあなたにはこの本は使えない。たとえこの本を手に入れてもね」
「使う気などない」
ソローは素っ気なく言った。
「つ、使う気がないって……」
言葉の接《つ》ぎ穂《ほ》をなくし、リンネは絶句した。
ソローの、そのまるで作り物めいた美貌《びぼう》に、初めて情熱のようなものが浮《う》かんだ。
「以前言ったはずです。欲望は時に応じて様々な在り方を持つと。今の私の欲望と目的は、その本を手に入れることただ一点にある。私は既に『時の揺籃《ようらん》』を手に入れた。そして今度は『時の旋法』を手に入れようとしている。私はこの時間世界にたゆたう至高の品を、二つながらにこの手に収めることになるというわけだ」
「あ、あなたはどうしてそこまで時載りの所有物にこだわるの?」
「……さあ。強《し》いて言えば蒐集家の性《さが》でしょうか。さあ、『時の旋法』を持ってここまで来たまえ。ミス箕作」
リンネの問いにソローはあくまで冷徹《れいてつ》に答えた。
リンネは口惜《くちお》しそうに唇を噛んだ。が、やがて意を決したように背筋をぴんと伸《の》ばすと一歩前へ足を踏《ふ》み出した。
僕は固唾《かたず》を呑《の》んだ。
一歩、また一歩と両者の距離《きょり》は縮まっていく。
あと数歩というところまで二人の距離が近づいた時だった。
ふとソローが言った。
「何故《なぜ》、表紙の紋章が輝《かがや》いているのですか?」
リンネの脚《あし》が止まった。
僕はとっさにリンネの手の中の『時の旋法』を眺《なが》めた。その表紙に刻まれた紋章は、確かに白く輝いている。
リンネは素っ気ない口調で言った。
「この本、悪い人が嫌《きら》いなの。きっとそれで光ってるんだわ」
「それだけではないでしょう」
ソローは薄《うす》く笑った。その瞳が青白く光る。
「大方、主《あるじ》の危機に反応するようにできている。そんなところではないかな?」
「!」
ふいにリンネの瞳が灰色に染まる。
同時にリンネはこのところ溜《た》めに溜めておいたありったけのストックを目の前の男に向かって叩《たた》き付けた。さらに手にしていた『時の旋法』を左手一本で素早《すばや》く開き、右の手の平を頭上高く掲《かか》げ、変身しようとする。
「Set……」
が、リンネは最後まで言い切ることが出来なかった。
至近距離で放たれたリンネの時留めを視線のみで跳《は》ね返したソローが『時の揺籃』を起動させた瞬間《しゅんかん》、突如《とつじょ》リンネの足下《あしもと》で大理石の床《ゆか》が消失したのだ。リンネはまるで落とし坑《あな》に嵌《はま》ったように垂直に落下し、とっさに坑の縁《ふち》にしがみつく。手にしていた『時の旋法』を落とさなかったのは奇跡《きせき》と言っていい。
半瞬というタイミングでリンネの攻撃《こうげき》を防ぎきったソローは、その美貌を崩《くず》すことなく、片手で乱れた髪《かみ》を撫《な》でつけた。
「……君が、大人しく『時の旋法』を渡《わた》すような少女ではないと思ってはいた。だが、さすがに今のは見えすいた作戦だったね」
あらかじめ大理石の床の時間を『時の揺籃』で極限まで進めておいたのだろう、ソローは自ら仕掛《しか》けたトラップの威力《いりょく》を確かめるかのように坑の縁に近づくと、足下で懸命《けんめい》に床の端《はし》にしがみついているリンネを冷たく見下ろした。
リンネは言葉もなく、右手一本で身体《からだ》を支えつつソローを見上げた。
ソローの頭上には、リンネが辛《かろ》うじて出現させた時砕きの円い紋章が、まるで主《あるじ》に抱《だ》かれるのを待つように宙に輝きながら浮いている。が、坑の縁にしがみつくのが精一杯《せいいっぱい》のリンネに、それに触《ふ》れられるはずもない。
「……人んちの床にこんなに大きな穴を開けて。修理しなきゃ怒《おこ》られるんだからっ」
リンネはこの期《ご》に及《およ》んでも減らず口をたたいた。
「君を倒《たお》した後、そうさせてもらいましょう」
ソローがそう言って、静かに『時の揺籃』をリンネに向けた時だった。たまらず僕はホールの中に飛びこんだ。
「リンネ!」
「久高?」
鉄砲玉《てっぽうだま》の如《ごと》く飛び出してきた僕の姿を認めるなり、リンネはモグラの子のように床の上に辛うじて顔だけ出しつつも、顔を上げて驚《おどろ》き呆《あき》れたように叫《さけ》んだ。
「あ、あなた、何でこんなところにいるのよっ」
「心配だから来たんだよっ」
「か、隠《かく》れてなさいよ! 危ないじゃないのっ!」
「人のこと言える立場かよっ」
床の上と下に分かれてなぜか言い合いを始めた僕らを見てソローは肩《かた》をすくめた。
「やれやれ。誰《だれ》かと思えば君のボーイフレンドか。麗《うるわ》しの姫《ひめ》を救うにしては少々間の悪い騎士《きし》だ」
ソローはそう言うなり、さっと『時の揺籃』を起動させた。瞬間、今度は僕の靴《くつ》の下で大理石の床が時の劣化《れっか》を受けて粉塵《ふんじん》と化す。
「わあっ」
まるで火薬の爆破《ばくは》によって足場がパージされるような感覚と共に、僕の身体は宙を舞《ま》った。とっさに手を伸ばし大理石の縁に掴《つか》まり、下に落ちるのを防ぐ。僕の左右でパラパラと落ちていく破片《はへん》や礫《つぶて》。
下を向くと階下のフロアが完全に丸見えになっている。
ったく、人んちを滅茶苦茶《めちゃくちゃ》にしやがって。
僕が必死に身体を持ち上げ、どうにか首から上を坑の上へ這《は》いだした時だった。向こうの床の裂《さ》け目《め》からリンネが勢いをつけてぴょこんと飛び出すのが見えた。
「リンネ! 上!」
縁にしがみついたまま思わず僕は叫んだ。リンネはとっさに頭上で輝いている時《とき》砕《くだ》きの紋章《もんしょう》を見上げたが、その真下には『時の揺籃《ようらん》』によって巨大《きょだい》な坑が穿《うが》たれており、到底《とうてい》手を伸ばすことなど出来ない。
突然《とつぜん》、リンネはソローにくるりと背を向けると脱兎《だっと》の如《ごと》く走り出した。そのあまりの逃《に》げっぷりの良さに、僕は呆気《あっけ》にとられた。
「どうしたのですか、ミス箕作。私はここですよ」
そう言うなりソローは走るリンネに向かって時留めを放った。閃光《せんこう》が鋭《するど》い矢となって闇《やみ》を切り裂く。が、リンネは小刻みにステップを踏《ふ》んでその時留めをかわすと、何故かぐるりとホールを一周し、もの凄《すご》い勢いで戻《もど》ってきた。僕にはリンネの意図がわかった。リンネは助走をつけてあの坑を飛び越《こ》え、紋章に触れる気なのだ。
「Hop……」
リンネはソローの放つ時留めを無視し、ブロンドを靡《なび》かせ全速力で穿たれた坑に向かって疾走《しっそう》する。
「Step」
次第《しだい》に前傾《ぜんけい》姿勢を取ると、坑に飛びこむ寸前にに膝《ひざ》を曲げ、リンネはまるで新記録に賭《か》ける陸上選手のように坑の縁を思いっきり蹴《け》り上げた。
「Jump!」
リンネは走り幅跳《はばと》びの要領で宙を舞い――、
その伸《の》ばした指の先が、微《かす》かに頭上高く輝《かがや》く紋章に触れる。
瞬間、小柄《こがら》な身体が光に包まれた。
ウエストサイドに奇妙《きみょう》な紋章が刻まれた、よく実ったヘチマみたいな白のミニドレス。華奢《きゃしゃ》な太ももを半ば覆《おお》う黒いニーソックス。腰《こし》にはごついホルダーで大小様々な本をぶら下げ、頭には修道女が被《かぶ》るような黒いベール――。
お馴染《なじ》みの時砕きの衣装《いしょう》を身に纏《まと》ったリンネはカボチャぱんつも鮮《あざ》やかに着地する。
リンネはブロンドを一閃《いっせん》し、腰に手を当てると勢いよく言った。
「時砕き、ゲーデルリンネ!」
日頃《ひごろ》、自分の部屋にある姿見《すがたみ》の前で練習している成果かどうかはわからないけれど、自分で考えた決めポーズを何とか決めると、リンネは『時の旋法《せんぽう》』を手にソローと改めて対峙《たいじ》した。
ソローはにやりと笑った。
「なるほど。あの紋章が君の守護神、というわけですか。箕作リンネ・メイエルホリド」
「そうよ。私が困ったときには必ず現れてくれるんだからっ」
リンネは頬《ほお》を上気させてそう言うと、久しぶりの変身が上手《うま》くいったかどうかコスチュームのあちこちを検《あらた》めた。変身するたび、いつも綻《ほころ》びているベールの端《はじ》っこが上手くいっているのに気をよくしたリンネだったが、ふとその華奢な脚《あし》を包むニーソックスが左と右とで十五センチも長さが違《ちが》っているのに気づくと、くやしそうに口をへの字に曲げる。
が、そんな場合ではないことを思い返したのだろう。リンネはきっとソローを見据《みす》えた。
「さあ。お仕置きの時間よっ。リュシアン・ソロー!」
「やれやれ。どうするおつもりですか? 私は逮捕《たいほ》されるのですか?」
ソローは苦笑《くしょう》すると胸に手を当て、幾分《いくぶん》からかい気味にリンネに訊《たず》ねる。
だがリンネは胸の前で腕《うで》を組むと、つんと頤《あご》を上げて言った。
「いいえ。そんなことはしないわ」
「ほほう?」
「だって、あなたがこの街でしたことを罪に問うのは警察のお仕事だもの。私の役目じゃないわ。ですから、私はあくまで『時《とき》載《の》りとしてのあなたがやった悪いこと』を懲《こ》らしめます。それなら筋も通るでしょ?」
被疑者《ひぎしゃ》に向かって同意を求めるのもおかしな話だが、リンネはあくまで真剣《しんけん》なようだった。
「でも、私は時砕きだからあくまで恣意《しい》によってあなたを裁きます。リュシアン・ソロー、あなたは名工ハゼル・ジュビュックの作った懐中《かいちゅう》時計を人間界において、しかも自分の欲望のために使いました。それはとってもいけない行いです。よって――その時計はただちに私が没収《ぼっしゅう》します」
「没収!?」
それは確かに思いもかけぬ言葉だったのだろう。ソローは高らかに笑い出した。
「それは大変だ。この時計を取られては私は何も出来なくなる」
だがリンネは生真面目《きまじめ》に言った。
「ね、ソローさん。ジュビュックはどうしてそんなすごい時計を発明したにもかかわらず、生前それを公表しなかったのだと思う? きっと彼は、時を無作為《むさくい》に操《あやつ》ることがいい結果を生まないことを予期していたのよ。『時の揺籃』は決して時間を操るための道具であってはいけない。それが彼の出した結論だったの。だからこそ彼は、書棚《しょだな》なんていう本をただ保存するためだけの地味な家具の内部に、その機能が働くように仕立て上げたんだわ」
そう。ジュビュックが時計製作の際、数十年にわたって沈黙《ちんもく》した本当の理由。おそらく彼は時計製作をしているうちに、次第に自らの作品が人間界にとってのっぴきならないものであることを悟《さと》ったのだろう。結局彼は、それを時載りにとって生命の源である『本』を収蔵する書棚に組みこみ、極《きわ》めて限定された用途《ようと》においてのみその能力が発露《はつろ》するように設計した……。
すべては推測の域を出ない。しかし、それが昨日《きのう》蘆月|邸《てい》で発見したフォンテーヌの論文を読んだ末に僕らがたどり着いた結論だった。人は[#「人は」に傍点]、時の前では謙虚でなければならない[#「時の前では謙虚でなければならない」に傍点]。時載りにして「変人」と称《しょう》され続けたハゼル・ジュビュックは、その最晩年に『街の住人』として生きた自らの生涯《しょうがい》に己《おのれ》の作品の未来を重ねたのだろう。
「その時計の名は『時の揺籃《ようらん》』。……揺籃って、揺《ゆ》りかごっていう意味よね。いつまでも時を寝《ね》かしつける時計。それこそが『時の揺りかご』と名付けられた、その懐中時計の本来の在り方よ。その彼の遺志を酌《く》めず、自らの欲望のために用いるあなたにそれを持つ資格はないわ」
目の前に立つ美貌《びぼう》の逸脱者《いつだつしゃ》に向かい、リンネは凛《りん》として言った。
だがソローの表情に変化はなかった。その冷たい白皙《はくせき》は内面を完璧《かんぺき》に覆い隠《かく》したまま、最後まではころびを見せることはなかった。
しばしの沈黙の後、彼は髪《かみ》を払《はら》うと静かに言った。
「ご高説《こうせつ》はつつしんで承《うけたまわ》っておきましょう。しかし、君の忠告は少し遅《おそ》かったようですね。先程《さきほど》私は、この屋敷《やしき》の周辺を『時の揺籃』の範囲《はんい》に指定した。今からこの時計を中心に半径一キロ以内のものは急速に時間が進んでいく。いわば機械|擬似《ぎじ》的な時間|恐慌《きょうこう》といっていい」
「なんてことを……」
リンネは青ざめた。
ある一定の空間を占《し》める時間の流れを未来に向け無作為に解放すれば、当然、事物はその時間内に生成した因果を律儀《りちぎ》にこなそうとするだろう。それも、極めて凝縮《ぎょうしゅく》された短時間の内に。
その結果もたらされるのは、完全なる破綻《はたん》。
「保険の一種だよ。あと五分もすればこの一帯は完全に崩壊《ほうかい》するだろう。それを望まぬのなら『時の旋法』を渡《わた》したまえ。これが、最後の忠告だ」
「お断りだわ。では五分であなたを降参させ、その時計を停止させるまでよっ」
その言葉が終わらぬうちにリンネは床《ゆか》を蹴《け》った。
そのブロンドを飾《かざ》るベールが靡《なび》く隙《すき》も与《あた》えず、ソローが時留めを放つ。辛《かろ》うじてそれを避《よ》けたリンネの瞳《ひとみ》が灰色に染まり、その視線がソローの長身を捉《とら》えるや否《いな》やホールに光芒《こうぼう》が起こり、逆にリンネの身体《からだ》が激しく吹《ふ》き飛ばされている。
「きゃんっ」
ソローが自分の時留めを弾《はじ》いた衝撃《しょうげき》をまともに受け、鞠《まり》のように大理石の上を転がるリンネに追い打ちをかけるようにソローは『時の揺籃』を作動させた。たちまち、足下《あしもと》の床が砂塵《さじん》と化して消滅《しょうめつ》するのを間髪《かんはつ》の差で飛び退《の》くリンネと、その姿を追うように次々と床上に穿《うが》たれていく黒い坑《あな》。
「一分」
執拗《しつよう》に背後に迫《せま》る陥穽《かんせい》から必死に走って逃《のが》れようとするリンネに向かって、ソローが低く声を投げる。物言う余裕《よゆう》もなく駆《か》けるリンネの前方に不意に巨大《きょだい》な坑が出現する。逃《に》げ場《ば》を失ったリンネは、とっさに横っ飛びに跳《は》ねるところころと転がり、どうにか片膝《かたひざ》をついてソローと正対した。
「どうです? 降参しますか? ミス箕作」
「す、するもんですかっ」
リンネはきっと面《おもて》を上げると時留めを投げる。軽くそれを手で弾くソローに向かってリンネは脇目《わきめ》もふらずに駆け出した。
「やれやれ。聞き分けのないレディだ」
そう言うとソローは『時の揺籃』を作動させ、二人の間にある床の時間を一気に進めた。が、それこそがリンネの狙《ねら》いだった。
『時の揺籃』と同時に、今、まさに大理石から石灰岩《せっかいがん》の結晶《けっしょう》となって崩《くず》れゆこうとする床の時間に時留めの上書きを施した[#「時留めの上書きを施した」に傍点]リンネは、自ら架《か》けた「時の橋」を一気に駆け通すと、その勢いのままに至近|距離《きょり》からソローに時留めを叩《たた》き付けた。
「えいっ!」
一瞬《いっしゅん》、ソローの反応が遅《おく》れる。
だが――。
吹き飛ばされたのはまたもリンネの方だった。奇襲《きしゅう》も通じず、直前で自らの攻撃《こうげき》を防いだソローの時留めの余波を受け、リンネは激しくしりもちをついた。単独で戦うリンネに対して、自らの力と『時の揺籃』という時を操《あやつ》る術《すべ》を二つ有しているソローの方が、やはり攻撃・防御《ぼうぎょ》共に遥《はる》かにリンネを凌《しの》いでいる。
「……いったあ」
今度はさすがにすぐには起き上がれず、微《かす》かに呻《うめ》くリンネにゆっくりと近づくと、ソローは穏《おだ》やかに言った。
「二分」
リンネは壁《かべ》に背をあずけたまま、つとソローを見上げた。
瞬間、緒方|邸《てい》の壁と屋根の一部が吹き飛んだ。長らく封印《ふういん》していた『エクサの視線』をリンネが初めて使ったのだ。
凄《すさ》まじい衝撃と共に、数百万年という時間圧縮を一気に受けた建物の一部が跡形《あとかた》もなく消し飛ぶ。時間恐慌は何も、『時の揺籃』だけの専売特許ではない。
夜風がホールにどっと雪崩《なだ》れこみ、あたりの粉塵《ふんじん》を激しく巻き上げた。突風《とっぷう》を受けてテラスの扉《とびら》は大きく開け放たれ、レースのカーテンがまるで生き物のようにはためく。
塵《ちり》を大量に含《ふく》んで巻き起こる風に激しくむせつつ、僕は必死に薄目《うすめ》を開けた。時の劣化《れっか》の直撃を受けたホールに人影《ひとかげ》はない。
……やった、のか?
だが粉塵が鎮《しず》まり、壁に手を伝ったリンネがどうにか立ち上がった時だった。僕は彼女の前方にあり得ないものを見た。
半壊《はんかい》したホールの中央に佇《たたず》む一つの影。
信じがたいことにこの男はあの距離からの時間|恐慌《きょうこう》をも防ぎきったらしい。
さすがに無傷とはいかなかったのか、その長身を包むスーツはあちこち破れている。ソローは人差し指でネクタイを弛《ゆる》めると、僅《わず》かに襟元《えりもと》をくつろげて言った。
「……なるほど。『塔《とう》』が言うように、確かに君は危険な存在のようだ」
「危険なのはあなたでしょう。リュシアン・ソロー。言ったはずよ。これ以上悪さをするなら私が相手だって」
「……そうですか。では仕方ないな」
その言葉が終わるや否《いな》や、闇《やみ》の中、再び閃光《せんこう》が乱れ飛ぶ。
時留めの応酬《おうしゅう》がホールの内部に吹き荒《あ》れ、僕は頭も上げられぬようになった。リンネに加勢しようにも、もはやそんな次元の問題ではなくなっている。僕は声もなく、眼前で苛烈《かれつ》さを増す戦いの推移を見守った。
リンネは持ち前のすばしっこさでソローの攻撃を巧《たく》みにかわしつつ、その間隙《かんげき》を縫《ぬ》って時留めを放つ。ソローはリンネの動きを牽制《けんせい》するべく『時の揺籃《ようらん》』を用い大理石の床を次々に抜《ぬ》いていくが、そのことで足場が狭《せば》まっていくのはソローも同様である。戦況《せんきょう》は互角《ごかく》に思えた。
だが、時は残酷《ざんこく》にも過ぎていく。
床に手を突《つ》いた際、ふと僕は手の平にざらりとした感触《かんしょく》を感じた。見ると指先が真っ白に染まっている。僕はあわててあたりを眺《なが》めた。床だけではない。壁や天井《てんじょう》にも亀裂《きれつ》が縦横に走り、建物全体が急速に劣化を始めている。
もう、時間がない。
「リンネ!」
僕が叫《さけ》んだ時だった。
リンネの独楽鼠《こまねずみ》のようなすばしっこさと、何よりその剽悍《ひょうかん》さがソローの計算し尽《つ》くされた時の配置を上回ったのだろう。一瞬、自らの足場が崩れるのを恐《おそ》れ、ソローが床を抜くのを躊躇《ためら》うのをリンネは見|逃《のが》さなかった。
「えいっ!」
まっすぐに伸《の》びた人差し指と共に向けられたリンネの狙点《そてん》は、正確にソローの手の平を射貫《いぬ》いた。
リンネの時の箭《や》にソローの握《にぎ》っていた『時の揺籃』が宙に弾《はじ》き飛ばされる。それは涼《すず》やかな音を立てながら転々と大理石の床を転がり、開け放たれたテラスの向こうへと消えた。
一拍《いっぱく》の間の後、ソローが長身を翻《ひるがえ》す。少し遅れてリンネも後を追う。二人は互《たが》いにもつれ合うようにテラスに雪崩れこみ、床に転がった『時の揺籃』に手を伸ばした。
間髪《かんはつ》の差で『時の揺籃』を手の中に収めたのはソローだった。再度、銀色に輝《かがや》くその匠《たくみ》の技《わざ》の結晶を握ったソローは、凄惨《せいさん》な笑《え》みを浮《う》かべると、間近で倒《たお》れ伏《ふ》すリンネに向かって短く言った。
「残念ですよ。ミス箕作」
そしてリンネに向け、『時の揺籃』のスイッチを押す。
が、なぜか『時の揺籃』は反応しない。
ソローは訝《いぶか》しみ、焦《あせ》って二度三度立て続けにスイッチを連打する。しかし彼の手の平の中で『時の揺籃』は時を刻むのを止《や》め、まるで眠《ねむ》りに落ちてしまったかのように主《あるじ》の呼びかけに応《こた》えようとしない。
「何故《なぜ》だ……」
夜風にその髪《かみ》を激しく舞《ま》わせつつ、ソローが忘我《ぼうが》の表情で呟《つぶや》いたその瞬間《しゅんかん》だった。
リンネは残された力を振《ふ》り絞《しぼ》って、ゼロ距離《きょり》から最後の一撃《いちげき》を放った。
「時の世界に帰りなさい。リュシアン・ソロー!」
とっさにソローがそれを迎《むか》え撃《う》つ。
二つの時留めが激突《げきとつ》し、時空がひずんだ。
漆黒《しっこく》の闇を払《はら》うかのような光が収まり――、
あたりに静寂《せいじゃく》が戻《もど》った。
僕は伏せていた顔を僅かに上げた。テラスを見る。その僕の頬《ほお》を掠《かす》めるように、ふわりと光の粒《つぶ》が一粒、風に載《の》って流れていく。
ふと、急速に薄《うす》れていく淡《あわ》い光の中に人影《ひとかげ》を見たような気がして僕は目を凝《こ》らした。が、それも幻《まぼろし》だったのかもしれない。光はやがて月明かりの中に絶え、後にはひっそりとしたテラスだけが残された。
そこに倒れ伏す、一人の女の子の姿。
力《ちから》尽《つ》きたようにその双眸《そうぼう》は閉じられ、その小柄《こがら》な身体《からだ》は身動《みじろ》ぎひとつしない。
「リンネ!」
僕がリンネに駆《か》け寄ろうとした時だった。ふと、テラスが不吉《ふきつ》な音を立て、手すりの一部が落剥《らくはく》する。
まさか。
時の過干渉《かかんしょう》を受け続けたテラスに、もはや自身の重量を支えるだけの強度は残されていなかったらしい。僕の目の前で、テラスはまるで粘土《ねんど》細工のように崩《くず》れていく。その中にあって、リンネは倒れたままだ。
僕は必死にテラスに向かった。が、『時の揺籃』によって蚕食《さんしょく》し尽くされたホールは巨大《きょだい》なクレーターと化しており、容易に近づくことが出来ない。
「リンネ!」
ふと、僕のものではない切迫《せっぱく》した呼び声が屋敷《やしき》の外から響《ひび》いた。視線を巡《めぐ》らすと、庭園をGや遊佐、ルウが必死の形相で駆けてくるのが見えた。僕が彼らに向かって何か叫ぼうとした時、遂《つい》にテラスが崩れた。
無数の瓦礫《がれき》もろとも、リンネの小柄な身体が地面に落下する。
Gやルウ、そして僕の悲鳴に、致命《ちめい》的な事態を告げる物音が被《かぶ》さると思われた瞬間――。
落ちゆくリンネの身体が、白い球形状の光に包まれた。
その丸い光は、まるで胎児《たいじ》を抱《だ》くような優《やさ》しさでリンネをそっと地上へと降ろしていく。その落下速度は地面に近づいて行くにつれゆっくりになり、ついには宙に静止しているのと変わらないような状態となった。
そして、水平になったリンネの身体を地上に佇《たたず》んでいた一人の男性がそっと抱き止める。
「…………!」
正直、誰《だれ》だろうとは思わなかった。リンネが無事に地面に着いたことをテラスの切れっ端《ぱし》から確認《かくにん》するなり、僕はホールを転がり出て、全速力で階下に向かっていた。
僕が屋敷を廻《めぐ》ってリンネのもとにたどり着いた時、その男の人に抱かれたリンネがちょうど目を開けたところだった。
「う……ううん」
紫色《むらさきいろ》の瞳《ひとみ》がゆっくりと開き、二、三度|瞬《まばた》きを繰《く》り返した後、まどろみから醒《さ》めたようにあたりを不思議そうに見渡《みわた》す。
「あ、あれ……私……?」
リンネはしばらく何が起こったのかわからない様子できょとんとしていたが、やがて自分が見知らぬ男の人の腕《うで》に抱《かか》えられていることに気がついたのだろう、びっくりしたように男の人を見上げる。
「あ、あなたは?」
「やあ、気づかれましたか?」
[#挿絵(img/mb874_291.jpg)入る]
リンネをお姫様《ひめさま》だっこしたまま、その男の人はにっこりと微笑《ほほえ》んだ。
「リンネ! 大丈夫《だいじょうぶ》?」
「く、久高?」
リンネが首をもたげる。僕はリンネとその男の人、どちらに話しかけようか迷ったが、取りあえずリンネに端的《たんてき》に事情を説明した。
「その人がテラスから落っこちた君を助けてくれたんだよ」
僕の言葉にリンネは多少|記憶《きおく》が戻ってきたのだろう、はっと息をのむとあわててあたりに散乱した瓦礫を見渡す。
「ソ、ソローは!? あの人は!?」
「安心なさい。もう当分悪さはできないでしょう」
その男の人はあっさりと言った。
「と、時の揺籃《ようらん》は?」
「この世界にはもう存在しません。時空の歪《ひず》みに落ちていくのを見ましたから」
僕はその男の人を改めて眺《なが》めた。
まるで春の微風《びふう》のように捉《とら》えどころのない人だった。東洋系らしい黒い瞳と同じく漆黒の長い髪《かみ》。おそらく二十七、八歳だろう。すらりと背は高いが、身体全体を隠《かく》すようにゆったりとした濃紺《のうこん》のローブを羽織っている。
全体的に温厚《おんこう》で優しそうには見えるが、少し鈍感《どんかん》なところがあるらしい。あまりに長くだっこされているうちに恥《は》ずかしくなったのだろう。リンネは頬《ほお》を染めると、その人の服の端《はし》を親指と人差し指で摘《つま》むとおずおずと引っぱった。
「あ、あのう、そろそろ降ろして……」
「ああ。これは失礼」
男の人はそっとリンネを地面に降ろした。リンネは多少ふらついたが、何とか自力で立つと、男の人に向かって礼を言った。
「あの、どうもありがとう」
「どういたしまして」
男の人は律儀《りちぎ》に応《こた》えた。笑うと目が細くなる。
「あのう、あなたは……?」
「私の名はロー・ハウロン・ルックエッグ。今夜はがんばりましたね。帰ってよくお休みなさい」
ロー・ハウロンと名乗った男の人はそう言って微笑《びしょう》すると、くるりと踵《きびす》を返しかけたが、ふと思い出したように立ち止まった。
「あ、そうそう。忘れるところだった。あなたに言づけがあるのですが」
そう言うと彼はリンネの方に改めて向きなおった。いきなり間近で見つめられ、リンネは少し困ったようにその謎《なぞ》の青年を見上げた。
「言づけ?」
「ええ。ある人から、この時間世界のあなた[#「この時間世界のあなた」に傍点]に伝えるように頼《たの》まれました。『とってもえらかったわね』」
「…………?」
リンネは訝《いぶか》ったように首を傾《かし》げた。それから何となく僕と顔を見合わせていたが、ふと何事かに気づいたようにはっと息をのんだ。その紫色の瞳が大きく見開かれる。
「そ、それって……もしかして」
だが、向きなおった時、
僕らの前に彼の姿はなかった。
呆然《ぼうぜん》とする僕らの下《もと》に、Gや遊佐、ルウたちが駆《か》け寄ってくる。
「リンネ、大丈夫!?」
「リンネ様、お怪我《けが》は!?」
「あ、ルウ、G。ううん。大丈夫よ」
口々に何かを言いかけるみんなの勢いに若干《じゃっかん》閉口しつつも、取りあえず安心させようとするリンネの横で、僕はふと空を見上げた。
高速で流れていく雲の向こうに、ふと朧月《おぼろづき》が覗《のぞ》く。
月明かりは、何事もなかったかのように銀色の光をあたりに投げかけていた。
[#改ページ]
10章
数日が過ぎた。
『時の揺籃』がその活動を停止したことにより、僕らの街にはいつもの平穏《へいおん》な時の流れが戻《もど》っていた。
人々は少し前に新聞の紙面を騒《さわ》がせた奇妙《きみょう》な事件……街中の時計が止まったり、JRのダイヤが乱れたり、テレビタワーの電光時計が逆向きに進んだりした件などとうに忘れ、あいかわらず時計の針に全幅《ぜんぷく》の信頼《しんらい》を寄せては分刻みで進んでいく時間とスケジュールの狭間《はざま》で毎日を過ごしている。
そんな忙《せわ》しなさと活気が入り交じる繁華街《はんかがい》の一画。
「ふう」
大通公園のベンチに腰《こし》を下ろし、足早に行き交《か》う人の群れをぼんやりと眺《なが》めていた僕の横で、ふとリンネが溜息《ためいき》をついた。それを見咎《みとが》め、Gが訊《たず》ねた。
「どうなさいました? リンネ様」
「ううん。ただ、すごく平和だなあって思って」
リンネにそぐわぬどこか詠嘆《えいたん》調の台詞《せりふ》に、Gがやや心配そうにその顔を覗きこむ。
「やはり少しお疲《つか》れなのでは? そろそろお家にお戻りになりますか?」
「ううん。そんなことないわ。とっても楽しいもの」
リンネは気を取り直したように背もたれから身を起こすと、手にしていたイチゴ味のシェイクをストローで啜《すす》った。事件の翌日はさすがにベッドに伏《ふ》せっていたリンネだったが、それが二、三日続くと途端《とたん》に飽《あ》きがきたのだろう。しきりに表に出たがるようになり、やむなく「二時間だけ」という約束で、Gの同伴《どうはん》のもと公園の散歩に出てきたのだ。
「ね、それよりも続きを聞かせて」
ベンチに腰かけたまま脚《あし》をぶらぶら揺《ゆ》らすと、リンネはGに話の続きをねだった。Gは一つうなずくとそのまま話を続けた。
「そうですね……『時の書棚《しょだな》』の完成後、ジュビュックは故郷に戻りそこで余生を過ごしたと言われています。隠遁《いんとん》した後は作品を発表することもなく、世間から忘れ去られたその晩年は孤独《こどく》だったそうです。もっとも隠遁後のジュビュックについてはわかっていないことも多く、著者のフォンテーヌもこの行《くだり》に関しては資料不足に苦しんだ形跡《けいせき》がありますが」
「『時の揺籃《ようらん》』は隠遁後も彼の手元にあったのかしら?」
「今となってはそれを知る手だてはありませんが……彼が手放さなかったことは充分《じゅうぶん》に考えられます。ですが彼の死後、どういった経緯《けいい》かで発見された『時の揺籃』は既《すで》に貴重な物とは見なされなかったのでしょう。二つの書棚との因果もまた誰《だれ》に知られることもなく、名もないただの懐中《かいちゅう》時計として長く放置されてきたのではないでしょうか」
「そう……」
リンネはうなずいた。
その膝頭《ひざがしら》やほっぺには真新しい絆創膏《ばんそうこう》が貼《は》られている。むろん、あの戦いの際に拵《こしら》えたもので、その一つ一つがリンネにとっては輝《かがや》かしい武勲《ぶくん》の証《あかし》だが、ママさんにはせいぜい愛娘《まなむすめ》が自転車でウイリーを試みて転んだ程度にしか思われていないところが残念なところである。
僕は訊ねた。
「ジュビュックはいつ亡《な》くなったの?」
「1896年です。1912年には第一次バルカン戦争が起こり、二年後にはサラエボ事件を発端《ほったん》に第一次世界大戦が始まっていますから、まさに二十世紀の直前、動乱の世紀末を身を以《もっ》て生きた人物ということになりますね」
「1822年生まれの1896年死去ってことは、ええと……享年《きょうねん》74[#「74」は縦中横]か。当時としては長生きだとは思うけど、時《とき》載《の》りとしてはどうかなあ?」
僕は首をひねった時だった。ふとリンネが言った。
「それ、当てにならないかもしれないわよ」
「え? どういうこと?」
「だから、そもそも大前提として彼の生没年《せいぼつねん》が当てにならないかもしれないってこと。だって、彼は『街の住人』だったんですもの。うんと長生きしててもおかしくないわ」
「……じゃあ、この生没年は彼が『街の住人』であることを秘匿《ひとく》するための、偽装《ぎそう》した経歴かもしれないってこと?」
「うん」
僕は思わず腕組《うでぐ》みをした。リンネの言葉に因《よ》るなら、これまで調べてきたジュビュックの経歴……少なくともその後半生に関する伝聞がすべて覆《くつがえ》るということになるのだ。Gが考えこみながら言った。
「そう考えればジュビュックの最晩年に具体的な資料が欠けていることにもうなずけますが……」
「じゃあ、つまりジュビュックは死を装《よそお》うためにあらかじめ故郷に隠遁したということ?」
「人間の寿命《じゅみょう》に差しかかる時期を見計らって人前から姿を消した、と考えれば筋は通ります。その晩年が妙《みょう》に謎《なぞ》に包まれていることにも」
「その場合、彼は人知れずどこかで生きていたということになるけど……でもそんなことが……」
僕の視線の先には緑に囲まれた庭日時計がある。日時計の周りには紫色《むらさきいろ》の葉牡丹《はぼたん》が植えられており、その中央に立つ日陰棒《ひかげぼう》が、地面に長く伸《の》びた影《かげ》を落としている。
ふとGが苦笑《くしょう》して言った。
「今となっては真相は藪《やぶ》の中、でしょうか」
日が満ちる。
僕らは何となく押し黙《だま》り、そのままポプラ並木が影を落とす伸びやかな街路を見晴《みは》るかした。
日差しの中に、急速に秋の気配が忍《しの》び寄ってきている。
ふとある疑問が湧《わ》き、僕は口を曲げた。その事に関連して、どうしてもわからないことがあったのだ。
「でもさ、一つわからないことがあるんだよな。なぜあの時『時の揺籃』は反応しなかったんだろう? ほらリンネ、テラスの上で君とソローが間近で向き合ったあの時さ」
僕の言葉に、リンネもブロンドを傾《かたむ》けた。
「そうね。あの時、ソローは確かに私に向けて『時の揺籃』を作動させたわ。でも、時計は働かなかった」
「まあ、そんなことが?」
Gは驚《おどろ》いたように訊ねた。僕はGに向かって、あの夜ソローとの戦いの最中《さなか》に起こった出来事について一部始終を伝えた。
Gは熱心に話を聞いていたが、やがて考えこみながら言った。
「それは、わたくしにもわかりかねますわ。ですが、推察するにその時には既に『時の揺籃』は壊《こわ》れていたのではないでしょうか? リンネ様も仰《おっしゃ》ったように、『時の揺籃』は決して時間を無作為《むさくい》に動かすためのものではありません。しかしソローはその機能的限界をわきまえず、『時の揺籃《ようらん》』を酷使《こくし》し続けました。もしかしたら、それが原因で壊れてしまったのかもしれません」
「なるほどね」
あの広大な緒方家の庭園をその支配下に置くことは、さしもの『時の揺籃』の力を以てしても難しかったということか。僕はふと、戦慄《せんりつ》と焦燥《しょうそう》の連続だったあの夜のことを思い出し、ほっと吐息《といき》をついた。
「でも、そのお陰で助かったけどね。だってリンネが危《あや》うくおばあさんになっちゃうところだったもの」
僕はそう言って暢気《のんき》に笑ったが、その時の僕は自分でも呆《あき》れるほど何もわかっていなかったのだろう。
そう。『時の揺籃』の真の威力《いりょく》を僕らが思い知らされたのは緒方夫人のところへ改めて挨拶《あいさつ》しに行った翌日のことだった。
その日、僕らは緒方|邸《てい》にお邪魔《じゃま》することになっていた。緒方夫人に事件の解決を報告をするためである。
僕とリンネ、ルウ、遊佐、Gそして凪の六人は、いつものように送迎《そうげい》に用意された車に乗りこみ、深緑も鮮《あざ》やかな森の風景を堪能《たんのう》しつつ、あの夜、リンネとソローが激闘《げきとう》を繰《く》り広げた地に向かった。
だが……。
車を降りるなり、僕らは絶句した。
そう。もたらされたのは決して大団円だけではなかったことを、何よりも僕らの目の前の光景が、はっきりと告げていた。
そこにあったのは、完全なる厄災《やくさい》の痕《あと》。
見渡《みわた》す限りの広大な庭園は完全に死滅《しめつ》していた。暴走した『時の揺籃』の威力を前に、僕らが午餐《ごさん》を取った湖畔《こはん》も、リンネが駆《か》けっこした青い芝《しば》も、すべてが煤《すす》と灰と化している。
僕は見覚えのある花壇《かだん》に足を向けた。
緒方夫人が丹精《たんせい》をこめて栽培《さいばい》し、慈《いつく》しんで育て上げた芳花《ほうか》は、一本の、一輪の、一弁の例外もなく完全に枯《か》れ果て、その無惨《むざん》に朽《く》ちた姿を陽《ひ》の下《もと》にさらしている。
それはまるで、死の光景だった。夜目にはわからなかった惨状《さんじょう》に僕らはただ言葉を失った。凱旋《がいせん》気分など、跡形《あとかた》もなく吹《ふ》き飛んでいた。
「こんな……酷《ひど》い……」
リンネが絶句する。
ソローが仕掛《しか》けた『時の揺籃』は、最後まできっちりとその機能を果たしたのだった。主《あるじ》が消えた後も、時計に組みこまれた彼の意志は、この光景を現出させるべく動作し続けたのだろう。
「――すっかり枯れてしまったの」
僕らを迎《むか》えるべく佇《たたず》んでいた緒方夫人が静かに呟《つぶや》いた。
夫人もまた一度に十も歳《とし》を取ってしまったかのように見えた。ほつれた白い鬢《びん》を風になぶらせつつ、夫人はじっと庭園を眺《なが》めた。
穏《おだ》やかな空と伸びやかな陽気が、かえって目の前の世界の終わりのような凍《い》てつく光景を際立《きわだ》たせてしまっている。
夫人は脳裏《のうり》に宿る在りし日の庭園を思い起こすようにしばらくの間黙っていたが、やがて吐息と共に言った。
「でも、考えてみれば感謝しなければならないのかもね。あなたや私も含《ふく》め、怪我人《けがにん》は一人も出なかったのだから」
「おばさま……」
「いいのよ。時が経《た》てばやがて緑も芽吹《めぶ》くでしょう。ほら、いつだって、時は巡《めぐ》り、季節は巡っていくのだから」
緒方夫人はそう言って微笑《ほほえ》んだ。ひどく透明《とうめい》な笑顔《えがお》だった。
だが、ここに再び緑が芽吹くのはいったいいつのことだろう。時の狂奔《きょうほん》に蹂躙《じゅうりん》しつくされたこの地に、新芽がその息吹《いぶき》を取り戻《もど》すのは。緑が勢威《せいい》を取り戻し、以前のように鳥が木々に遊び、蝶《ちょう》が葉にその羽を休めるのは。それを思えば、僕らの頭は自然と垂れるのだった。
「うう」
申し訳なさとくやしさでほとんど半べそをかいているリンネの横で、僕は崩壊《ほうかい》した庭園に改めて目を向けた。
ふとその時、僕の脳裏にある考えが過《よ》ぎった。雷光《らいこう》のように閃《ひらめ》いたアイデアを掴《つか》まえるように、思わずその場から二、三歩前へ進み出る。
そんな事が可能だろうか。いや……でも、やってみる価値はあるかもしれない。
僕は傍《かたわ》らに佇む凪を見た。
凪は無言のまま、目の前の光景にじっと視線を注いでいた。無表情に。いや、表情こそいつもと変わらなくても、その瞳《ひとみ》の奥には紛《まぎ》れもない強い怒《いか》りが宿っている。
「凪」
僕は凪に声を掛《か》けると少し離《はな》れたところまで連れて行き、そっと耳打ちした。
僕がそれ[#「それ」に傍点]を告げるなり、凪は目を丸くした。おかっぱ頭を擡《もた》げ、間近で僕を仰《あお》ぎ見る。その黒々とした瞳が物問いたげに揺《ゆ》れた後、やがて凪はおずおずと訊《たず》ねた。
「でも、お兄ちゃん、いいの……?」
凪に改めて問われ、僕は脚下《きゃっか》に視線を落とした。もはや枯れ草とも言えぬ黒ずんだ煤が、僕の履《は》いた靴《くつ》のふちを汚《よご》している。
それを眺めた時、僕の腹は決まった。
僕は傲然《ごうぜん》と胸を張り、きっぱりと言った。
「構わない。思う存分にやれ」
凪は一瞬《いっしゅん》、荒廃《こうはい》した庭園に目を向けた。
そしてうなずいた。
「うん」
僕は凪の手を引いてみんなの下《もと》に戻った。
みんなが訝《いぶか》しげな視線を僕たち二人に向ける。
僕は凪に軽くうなずきかけた。凪はいくぶん緊張《きんちょう》気味に僕の顔を見上げたが、やがて僕の手を離すと、そのまま数歩、前へ進み出る。
凪は立ち止まると、その場で一つ深呼吸をした。そして、背すじをまっすぐに伸《の》ばして目の前の光景と向き合う。
まるで世界と対峙《たいじ》するように。
そして凪は言った。
短く、だがきっぱりと声に出して。
「甦《よみがえ》れ」
その瞬間――。
眼前の荒涼《こうりょう》とした光景に変化が現れた。
初めは目に留まらぬほど微《かす》かに。だが、次第《しだい》に水が滲《にじ》むようにゆっくりと。
まるで凪の一言に勇気づけられたかの如《ごと》く、小さな新芽が乾《かわ》ききった土や煤《すす》の下から仄《ほの》かに顔を覗《のぞ》かせる。
だが、変化はそれだけに留《とど》まらなかった。
あとから、あとから。
荒廃した敷地《しきち》の至る所から、目に見えぬ手によって種子《たね》を蒔《ま》かれたかのように新芽は芽生え、それまで煤と枯死《こし》に塗《まみ》れていたあたりの景観をうっすらと新緑へと変えていく。
僕の左右で、皆《みな》が呆然《ぼうぜん》とした表情を浮《う》かべる。
だが、目の錯覚《さっかく》ではない。
僕らの目の前で、荒廃した庭に本格的に緑が甦っていく。倒《たお》れ伏《ふ》した花は頭を擡げ、干涸《ひか》らびた木々は再び大地に根を張り、葉は生《お》い茂《しげ》り――。
芝《しば》はまるで緑の刷毛《はけ》で撫《な》でたように瑞々《みずみず》しく甦ってなだらかな起伏《きふく》の丘《おか》を覆《おお》い、樹木は枝葉をいっぱいに広げたその姿を取り戻していく。水気を失った表土の上に枯蔦《かれつた》が這《は》うように遺《のこ》されているだけだった菜園や果樹園では青々と花菜が色を付け、緒方夫人が愛《いと》しんだ花畑や僕らが駆《か》けた小径《こみち》の左右でも蕾《つぼみ》は綻《ほころ》び、うてなは張り、花が青空に向けて咲《さ》き誇《ほこ》っていく。
いつしか深緑特有の、あの馥郁《ふくいく》たる香《かお》りが風に乗ってあたりに漂《ただよ》い始め、鳥や虫たちの囀《さえず》りや囁《ささや》きが耳に届く。
今や、僕らは紛《まぎ》れもない緑の裾野《すその》に立っていた。
「――まあ」
再び、あの懐《なつ》かしい庭園がその姿を取り戻したのを眺《なが》める夫人の目から、涙《なみだ》がふき溢《こぼ》れた。
凪はふっと肩《かた》の力を抜《ぬ》くと僕の方を振《ふ》り返る。
僕は凪の目を見て笑ってうなずいた。
凪はふと、煙《けむ》るような笑《え》みを見せた。
「やあ。壮観《そうかん》ですね」
完全に緑の景観を取り戻した敷地の一角、小高い丘の上からその美しい眺めを見下ろすように佇《たたず》んでいた長身の青年が言った。一見、女性と見紛《みまが》うばかりの美貌《びぼう》と長く艶《つや》やかな黒髪《くろかみ》。ロー・ハウロンである。
その傍らにいた女性が溜息《ためいき》混じりに嘯《うそぶ》いた。同じく漆黒《しっこく》の髪と、吸い込まれそうな闇《やみ》の色を瞳の奥に湛《たた》えた妙齢《みょうれい》の美女。
「やれやれ。とんでもない奴《やつ》らだ。加減ってものを知らない」
「きっと若いのでしょう」
「若い? はん。それ以前の問題だよ」
未到ハルナの視線の先には、老齢《ろうれい》の婦人と彼女を取り巻く子供たちの姿があった。歓喜《かんき》の輪にあって一際《ひときわ》華《はな》やぐ金色の頭髪《とうはつ》が、秋の日差しを受け、弾《はず》むように揺《ゆ》れている。
[#挿絵(img/mb874_307.jpg)入る]
それに等しく視線を向け、ロー・ハウロンはからかうように言った。
「彼女はいい時《とき》砕《くだ》きになれそうですか?」
「さあな」
いかにも素っ気ない応《こた》えに青年は苦笑《くしょう》した。だがふと、玄妙《げんみょう》な面持《おもも》ちになって口を開いた。
「……紀元前の中国のある書物にこのような言葉が記されているそうです。『以《もつ》て六尺の弧《こ》を託《たく》すべし』と。おそらく語意はこうでしょう。漢《おとこ》は何を以て漢《おとこ》というのか。親友が死ぬとき己《おの》が遺児を託すに足る男のことをそう言うのだ、と。箕作リンネは蘆月長柄の血を引いているわけではありませんが、彼女自らがその後継《こうけい》と定めた以上、実質上の遺児と言っても過言ではない。あなたは亡友に代わってその養育を引き受け、彼女の成長を見届ける義務があるはず」
「冗談《じょうだん》じゃない。何で私が。そんな面倒《めんどう》なことはご免《めん》だよ。ただでさえ頭が痛いことが多いのに」
「とは言え、彼女に後事を託された事は事実でしょう」
「ふん。知らんね。私が見たいのはあの無垢《むく》が時の変遷《へんせん》を経てどう変容し、どう堕落《だらく》していくか、その有様《ありよう》さ。それ以外の興味はない」
「あなたは彼女の誕生に手を貸した。それは言わば、産婆《さんば》としての役割を担《にな》ったも同然。せめて、今後の推移と成り行きを見守ってはいかがです」
未到ハルナは小さく肩をすくめた。
「……やれやれ。死んだ後にまで迷惑《めいわく》をかける奴さ。今度会ったら文句を言っておこう」
「――幸甚《こうじん》」
甚《はなは》だ幸い、の意である語を口にするとロー・ハウロンはにこりと笑った。
ふと機嫌《きげん》を損《そこ》ねたようにその美しい眉《まゆ》をひそめると、未到ハルナはじろりと傍《かたわ》らの同輩《どうはい》を睨《にら》み付けた。
「婆《ばばあ》だの漢《おとこ》だのいちいち失礼な奴だな。少しは口を慎《つつし》めよ。小僧《こぞう》」
ロー・ハウロンは苦笑した。
「はは。これは失礼を。ところで実際のところどうなのです? 尊敬すべき我が先達、他のお歴々のお考えは?」
「さーな。なにせ会議にろくに人数が揃《そろ》ったことすらない連中だ。ま、時砕き全員の意見の一致《いっち》を見た、なんてことが未《いま》だかつてない以上、こっちは形式通りにやるだけさ。『塔《とう》』の動向も気になるしな」
そう言うと未到ハルナはさっと深紅《しんく》のコートを翻《ひるがえ》した。そして肩《かた》越《ご》しに遥《はる》かに広がる緑園と、さらにその向こうにひっそりと建つ緒方|邸《てい》を見やった。
その瀟洒《しょうしゃ》な外容は陽《ひ》を浴び、白く燦然《さんぜん》と輝《かがや》いている。
「だが、今度の件は少し不自然だったな。案外、裏で手を引いている奴がいるのかもしれん。それも、かなりの大物がな」
「……それにしても、時砕きに言霊《ことだま》使いですか。両者が同時期に一つ処《ところ》にいるとは、あなたの往《ゆ》くところ、常に様々な事件が起こるようですね」
青年が心底|呆《あき》れたように言った。その黒い瞳《ひとみ》がふと、子供たちの中でも一際|小柄《こがら》な女の子に向けられる。
「言ったろ。だから頭が痛いのさ」
にやりとそう言うと、未到ハルナは去った。
丘《おか》の上に一人残されたロー・ハウロンはしばらくそのままローブの裾《すそ》を風が拍《う》つに任せ、伸《の》びやかな緑園をじっと見つめていた。その姿は甦《よみがえ》った深緑を楽しむかのようでもあった。
「というわけで、万事《ばんじ》めでたしめでたしの大団円だったのっ!」
紫色《むらさきいろ》の瞳を輝かせ、歯列|矯正用《きょうせいよう》ブリッジも露《あら》わにリンネは得意満面で言った。
事件から数日が過ぎたある日の午後。
ふいに僕らの前に現れた未到ハルナさんに伴《ともな》われて腰《こし》を下ろした表通りに面したオープンカフェの一角。周囲には石畳《いしだたみ》の上にテーブルと籐《とう》の椅子《いす》が置かれ、秋晴れの空の下、軽い午餐《ごさん》を楽しむ人々の姿がある。
「ほう。そいつはなによりだ」
椅子からぴょこんと立ち上がり、まるでテーブルにのしかからんばかりのリンネの勢いに、ハルナさんはこぶしを頤《あご》に当て、口元に柔《やわ》らかな笑みを刻んだ。
男であれば誰《だれ》もが虜《とりこ》になるようなその表情に、だが若干《じゃっかん》の苦笑の成分が混じっていることに気づくほど、僕もリンネもまだ大人ではない。
とは言え、大団円であることには違《ちが》いない。
リンネは見事にハルナさんの期待に応《こた》えてこの一件を解決し、街には再び平和が戻《もど》っていた。緒方夫人の庭園はすっかり元の姿を取り戻し、さらにはリンネとソローの死闘《しとう》で半壊《はんかい》していた緒方邸(三階の壁《かべ》と天井《てんじょう》はリンネが壊《こわ》しちゃったものだけど)までもがいつの間にか謎《なぞ》の復元を果たしていた。……もっともこれは、「思う存分にやれ」という僕の言葉を受けた凪がはりきりすぎた結果ではあるけれど。
一方で、元に戻らない物も存在する。
あの二つの家具、書棚《しょだな》とライティングビューローは、『時の揺籃《ようらん》』が消滅《しょうめつ》したことにより、二度と以前の力を取り戻すことはなかった。時が無作為《むさくい》に進むことがなくなったかわりに、時間を留め置く機能も失われてしまっていたのである。だが緒方夫人はただの家具に戻ったそれを大切に保管し、二つの書棚は今も彼女の書斎《しょさい》に置かれている。
その緒方夫人とリンネの間柄《あいだがら》は今や莫逆《ばくげき》と言えるものになり、その仲《なか》はその後、長く変わることがなかった。あの日、箕作家に大量の本が届けられたことに端《たん》を発した今回の冒険《ぼうけん》は、リンネに年長者の友人という思わぬ贈《おく》り物《もの》を与《あた》えてくれたわけだ。
もっとも、年長者と言えばこの人を凌《しの》ぐ者もいないだろう。
齢《よわい》九百歳を超《こ》えるこの美貌《びぼう》のお姉さんに向かって事件の報告を終えた後、リンネはふと、気になっていたことを改めて訊《たず》ねた。
「ね、ハルナさん。結局、あのリュシアン・ソローという人は何者だったんですか?」
片肘《かたひじ》で頬杖《ほおづえ》をついた姿勢のまま、ハルナさんは静かに応えた。
「お前たちの時間世界に侵入《しんにゅう》した『逸脱者《いつだつしゃ》』であったことは間違いないな。コレクターを自称《じしょう》していたらしいが、それもおそらく事実だろう。『時の揺籃』のような傑出《けっしゅつ》したアイテムは一時代に一つあるかないかだが、そうした作品を渉猟《しょうりょう》するために時を跨《また》ぐ奴《やつ》らがいるということは私も聞いたことがある」
「じゃあ、彼は、『塔』の命を受けてはいなかった?」
「今となっては知る由《よし》はないが、嬢《じょう》ちゃんが承認《しょうにん》会議を受けるこの時期を狙《ねら》ってこの時間世界に現れたという事実は単に偶然《ぐうぜん》とも思えん。なんらかの『塔』の意志がそこに働いていると見るべきだろう。……奴が送りこまれるにふさわしい存在だったかはともかくな」
「あの人……『時の揺籃』以外は何も目に入らないような感じだったわ」
ソローの為人《ひととなり》を思い起こすように、リンネはぽつりと呟《つぶや》いた。
「だからお前にも勝機があった。そうでなければ今頃《いまごろ》首を晒《さら》していたのは嬢ちゃん、お前の方だぜ」
長くしなやかな脚《あし》を優美に組み換《か》え、ふとハルナさんはにやりと笑った。
「ともあれ、これで跳《は》ねっ返りの連中も少しは大人しくなるだろう。後任の時《とき》砕《くだ》きが容易ならぬ手練《てだ》れであることが判明したからな」
からかわれているのがわかったのだろう。リンネはぷくっとほっぺを膨《ふく》らませた。先日、ようやく絆創膏《ばんそうこう》の取れたリンネである。
ふと、僕は前から疑問に思っていたことを訊ねてみた。
「でも……何であの夜、僕たちは『時の揺籃』の影響《えいきょう》を受けなかったんですか? あの庭園にいた人間なら、全員『時の揺籃』の力の余波を受けて当然なのに」
「あ……ホントだわ。そう言えばそうよね」
遅《おく》れてそれに気づいたのか、リンネが目を丸くする。
そう。現にあの庭園に群生していたの植物は一本の例外もなく全滅《ぜんめつ》している。にもかかわらず、あの夜現場にいた僕やリンネ、ルウ、遊佐、G、関さんはなぜ無事でいられるのだろう。
だがハルナさんはあっさりと言った。
「結局、あの時計に人を傷つける力はなかったってことだろ」
「えっ」
僕らは絶句した。ハルナさんは鼻を鳴らして続けた。
「当然だろ。書棚に連動させるのに、何も人間の時間を支配する機能は必要ない。ハゼル・ジュビュックはあくまで人を対象外にして時間を操作するよう、あの時計を設計したんだろう。皮肉《ひにく》なことに、『時の揺籃』は人を揺《ゆ》らすようには出来ていなかった、というわけだ」
「じ、じゃあ……あの時、ソローは私たちを傷つけることは出来なかった?」
リンネの問いに、ハルナさんはふと肉食獣《にくしょくじゅう》の笑《え》みで応えた。
「使い方|次第《しだい》でいくらでも悪用できるのが時《とき》載《の》りの所有物だぜ。お前のその本が、何億人殺傷する力があるか考えてみたことはあるか?」
そしてその黒髪《くろかみ》を勢いよく揺らして言う。
「案外、ハゼル・ジュビュックもそれを知りつつ後世の人間がそれをどう扱《あつか》うのか、あえて投げ出してみせたのかもしれん。自分が拵《こしら》えた『時の揺籃』を巡《めぐ》って、その魔力《まりょく》に魅入《みい》られた者たちがどう惑《まど》い、どう争うのか……それを天上で見守ろうという算段だったのかもしれない」
「……じゃあ、私たちってジュビュックさんにいいように弄《もてあそ》ばれていただけ?」
リンネは口を尖《とが》らせた。ハルナさんは小さく肩《かた》をすくめた。
「さーな。君子|怪力《かいりき》乱心を語らず、さ」
よく言うよ。怪力乱心の卸問屋《おろしどんや》たるハルナさんがそんなこと言っても全然説得力がない。特にこの人の場合、語る前にふるいそうだし。
僕の心の中のつっこみを受けたように、ハルナさんは微《かす》かに眉《まゆ》を上げると、穏《おだ》やかに言った。
「ま、それを知っているのは当人だけだろうな」
「ふうむ」
何となくはぐらかされたような面持《おもも》ちで、リンネはハルナさんに訊《たず》ねた。
「ハルナさんはどう思うの? そんな彼の作品について」
「悪くはないが……他《ほか》の連中のように奴の作品を血眼《ちまなこ》になって蒐集《しゅうしゅう》する気にはなれんね。蒐集|癖《へき》とはつまるところナルシシズムさ。自己愛を対象に投影《とうえい》し、跳ね返ってきたところで愛の再投資を果たす脇道《わきみち》なき往復運動だ。私はもっと生きのいいのが好みでね。自分にとって、思いもよらぬ反応が返ってくるほうが余程《よほど》楽しい。たとえば嬢ちゃんみたいな」
「わ、私みたいな?」
思わずぎくりとするリンネを眺《なが》め、未到ハルナはにやりと笑った。が、突然《とつぜん》感情のチャンネルが切り替《か》わったようにふいに表情を改めると、無造作に言った。
「今回はよくやった。新米にしてはな。近日中に塔《とう》に行く。せいぜい心の準備をしておけ」
リンネが必死にうなずいた時には、既《すで》にハルナさんは立ち上がっている。コートに両手を突《つ》っこみ、自らの容姿に注がれる衆目に一顧《いっこ》だにすることなく通りを悠々《ゆうゆう》と去っていくハルナさんの背に向かって、リンネはあわてて声をかけた。
「あ、あのう、」
「なんだ?」
「着替《きが》えも持って行ったほうがいいですか?」
ハルナさんは肩《かた》越《ご》しに鮮《あざ》やかなウインクを投げて言った。
「たっぷりな」
[#改ページ]
終章
さて、そろそろこのお話も終わる。
後日、リンネはハルナさんに伴《ともな》われてバベルの塔に赴《おもむ》き、正式に七人目の時《とき》砕《くだ》きに就任した。齢《よわい》十二歳。史上最年少の時砕きの誕生である。
あとでハルナさんに聞いたところによると、認証式《にんしょうしき》で儀仗《ぎじょう》を受け取る際、リンネは緊張《きんちょう》のあまり自分のローブの裾《すそ》につまずいてすてんと転んだりしたらしい。他にも派手な失敗をいくつかやらかしたそうだけど、まあ何とか無事に戻《もど》ってきた。
「ね、久高。聞いて聞いて!」
というわけで帰宅後、興奮冷めやらぬリンネは僕にいろいろ面白《おもしろ》い土産話《みやげばなし》をしてくれたけど、その全部を紹介《しょうかい》するには長さも長しというわけで、それらを披瀝《ひれき》するのは今回は見送ったほうがよさそうだ。ま、そのうち後述する機会もあるだろう。
リンネは僕に一通りすべてを話してしまうと今度は「そうだわ! おじい様にもお知らせしなくっちゃ」と言ってせっせと便せんに向かい始めたから、やがてじいちゃんのところにも長文の手紙が届くだろう。果たしてそれを読んだじいちゃんがどういう反応を示すか、楽しみなところだ。
ともあれ、これでリンネは名実共に長柄さんに代わって時砕きの重責を担《にな》うことになったわけだけど、それをリンネがどう立派に務め上げたか、ということはまた別の話となる。
それは波瀾万丈《はらんばんじょう》にして空前絶後、さらには疾風怒濤《しっぷうどとう》の展開を見せる文字通りの「物語みたいなわくわくする大冒険《だいぼうけん》」の始まりだったんだけど……その詳細《しょうさい》をここで書き記すのは難しそうだ。ていうか、本当のことを言うと、朝から書斎《しょさい》に籠《こ》もりっぱなしでお尻《しり》が痛くなってるんだよな。だから今日はここで筆を措《お》くことにする。
午後から遊佐と釣《つ》りにも行きたいしさ。
まったく、登場人物のモデルの機嫌《きげん》を損《そこ》なうことなく真実を書くっていうのは大変だよ。毎度のことだけど。
そうそう。最後に後日談をひとつ。
『塔』から帰ってきたのち、リンネは時計店に行き、自分のお小遣《こづか》いで目覚まし時計を一個買った。子ブタのおなかに文字|盤《ばん》がくっついている奴《やつ》で、リンネはこれを毎朝七時に鳴るようにして、枕元《まくらもと》に置いて寝《ね》るようになった。『時砕き』が毎日、朝寝坊《あさねぼう》してママさんに叱《しか》られていたのではさすがに格好がつかないと思ったのだろう。
これで時砕きにふさわしい品位と振《ふ》る舞《ま》いを保つことが出来ると満足げなリンネだったが、さて、それにどの程度の効果があったかは皆《みな》さんのご想像にお任せしつつ――
今回はこのへんで物語の幕を降ろすことにしよう。
[#地付き]了
[#改ページ]
あとがき
僕がこの夏に書いた文章はすべて本文の方に記載《きさい》されているから、つけ加えることはそんなにない。あとがきを書けと言われているような気もするけど、一人称《いちにんしょう》文体だし、終章をあとがきの代わりにすることにしてそれでよしとしよう。
……というわけにもまさかいかず、こうして締《し》め切り直前にまっ白なワープロ画面を前に頭を悩《なや》ませているわけなのですが、冗談《じょうだん》(?)はともかく、本文の方は無事完成いたしましたので、この『時《とき》載《の》りリンネ!』第二作、『時のゆりかご』をつつしんで読者のご高覧に供します。前作に引き続き、少しでも楽しんで読んでいただければ幸いです。
冒頭《ぼうとう》で「夏に」と書きましたが、僕がこの作品を書いたのはまさに一巻が発売された直後、夏の盛《さか》りから初秋にかけての時期でした。今作において、物語は小学校の夏休みが終わる直前に始まり、秋口にさしかかったところで終わりますので、その意味で本作は作中で流れている季節と同じ時期に書かれたということになります。だからどうしたということもないのですが、何となく書きやすかったのは事実です。僕が触《ふ》れ、登場人物たちが触れたであろう季節や自然の移ろいが少しでも表現できているとうれしいのですが。
季節に関連して申し上げると、僕は縦に長い日本列島の中でもかなり緯度《いど》が高い場所に暮らしているのですが、それでも今年の夏はずいぶん暑かったような記憶《きおく》があります。と言いますか、実際暑かったです。焦《こ》げた芝《しば》の匂《にお》いや高く青い空を見上げるのは大好きなので夏自体は大|歓迎《かんげい》なのですが、それでもこれまでに経験したことがないような気温に、思わず別の意味で天を仰《あお》ぐ日々でした。いつもならきつい日差しを程《ほど》よく中和してくれる風も、今年はなぜか凪《な》ぐことが多かったですし。より南の方角にお住まいの方は、もっと暑さが厳しかったのでしょうか。
そうそう、「凪ぐ」と言えばこの動詞の漢字を冠《かん》したキャラクターが一人、本作にひっそりと登場しますが、作者の不遇《ふぐう》の扱《あつか》いに抗《あらが》うかのように一部で根強い人気があるようです。可愛《かわい》がっていただいて恐縮《きょうしゅく》です。寡黙《かもく》な当人に代わってお礼申し上げます。だったらもっと出番を増やしてやれと言われそうですが。
さて、原稿《げんこう》と向きあっているうちに暑かった夏もすぎ、秋からいよいよ冬に差しかかる頃合《ころあ》いになりました。現実世界では落ち葉が舞《ま》い、空っ風がほおを掠《かす》める時節ですが(マフラーと手袋《てぶくろ》が手放せません!)、登場人物たちは元気いっぱいのようで今作でもお家《うち》の内・外問わず威勢《いせい》よく跳《は》ね回っています。もともと子供たちの生き生きとした姿や、わくわくするような大冒険を描《えが》きたいという想《おも》いからこの物語を紡《つむ》ぎ始めたわけですから、彼らの行動力に負けないようがんばっていきたいと思います。才|乏《とぼ》しき身ですが、奔放《ほんぽう》なキャラクターともども応援《おうえん》していただければ幸いです。
最後になりましたが、前作に続き今作でもたくさんの方にお世話になりました。この場を借りてお礼申し上げます。どうもありがとうございました。
それでは次巻でまたお会いできるのを楽しみにしつつ、失礼いたします。
[#地付き]清野 静
[#改ページ]
底本:「時載りリンネ!2 時のゆりかご」角川スニーカー文庫、角川書店
2007(平成19)年12月1日初版発行
入力:---
校正:---
2008年2月10日作成