時載りリンネ! 01 はじまりの本
著者 清野静/イラスト 古夏からす
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)時《とき》砕《くだ》き
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)時間|恐慌《きょうこう》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)ある特別な時載りの子[#「ある特別な時載りの子」に傍点]
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CONTENTS of RINNE
序章
1章
2章
3章
4章
5章
6章
7章
8章
9章
10章
終章
あとがき
[#ここで字下げ終わり]
[#改丁]
序章
僕が、夏に経験したあの出来事について書こうと決めたとき、その子は大いに賛同した。そして机に向かう僕に向かって、野球のボールをお手玉しながらこう言った。
「できるだけ、私をかっこよく書いてね。あと、お淑《しと》やかにもね!」
その子は自分の親指の爪《つめ》よりも小さな文字を読むと頭痛がしてくるというくらいの大の本|嫌《ぎら》いだったから、僕が何を書こうがそれを読まないことはもう確定ずみなんだけど、ことの顛末《てんまつ》を知る主役の一人として、一応|肖像権《しょうぞうけん》を主張してみたかったらしい。僕がうなずくと彼女は嬉《うれ》しそうにスキップしながら部屋を出て行ったが、つまりはその瞬間《しゅんかん》、この物語がフィクションになることは決定したわけだ。
とは言え、本当のことだってもちろんちゃんと書いてある。
『時《とき》載《の》り』についてはちょっと迷ったけど、結局ありのままに記すことにした。それを外したら大事なことを端折《はしょ》っちゃうことになるもんな。だから時には眉唾物《まゆつばもの》の、にわかに信じられないような出来事が出てくるかもしれないけれど、だいたいはみんな本当のことだ。話の筋を面白《おもしろ》くするために、多少|脚色《きゃくしょく》を加えたところもあるけど、基本的に嘘《うそ》は書いてない。
もっとも、ある特定の登場人物が妙《みょう》に魅力《みりょく》的に描《えが》かれていたり、かわいらしく描写《びょうしゃ》されているとしたら……そこにある種の作為《さくい》を感じてくれていい。
まあ、そうしないとうるさいからさ。
けっこー苦労してるんだよ。こっちも。
[#改ページ]
1章
夏の暑い日だった。
僕とリンネは日当たりのいい縁側《えんがわ》へ出て、リンネのママさんが切ってくれた西瓜《すいか》をほおばっていた。
陽《ひ》に温められ、西瓜は少しぬるかった。リンネはしゃりしゃりと小気味いい音を立てながら旬《しゅん》の味にかぶりついていたが、その顔つきがあんまり愉快《ゆかい》そうじゃないのを僕はもう少し気にかけておくべきだったのかもしれない。でもその時はリンネの食いっぷりに見とれてたし、リンネが口をすぼめては速射砲《そくしゃほう》みたいに吐《は》き出す種の行方《ゆくえ》を見守らなければならなかったから、ぼくの注意力も少し散漫《さんまん》になっていたのは致《いた》し方のないところだろう。
第一、金髪《きんぱつ》の女の子が胡座《あぐら》をかいて一心不乱に西瓜にかじりついている絵なんてそうそう見られるもんじゃない。おまけにリンネは並外れた(と臆面《おくめん》無く言ってもさしつかえないと思う)美少女なのだ。器用な子で、後で庭先に落ちた種の『着弾《ちゃくだん》地点』を確認《かくにん》してみたら、誤差±1センチとなかったから結構いい腕《うで》だ。大戦末期のアンデルヌにタイムスリップしても、戦車長は無理でも砲術長くらいにはなれるだろう。
風鈴《ふうりん》が揺《ゆ》れ、風が鳴った。
ふと西瓜を食べるのをやめ、リンネがぽつりと言った。
「わくわくする大冒険《だいぼうけん》がしてみたいな。物語みたいな。悪党に狙《ねら》われて困っている女の子を颯爽《さっそう》と救うような話が理想ね。日常の中のふとしたできごとから幕を開けて、しだいに謎《なぞ》が膨《ふく》らんでいく不思議な展開、中盤《ちゅうばん》はミステリーあり、活劇あり、友情ありの総天然色の大冒険よ。お待ちかねのクライマックスには悪党をやっつけて、もちろん最後は綺麗《きれい》な大団円を迎《むか》えるの。すべてが終わったあと、前よりも少しだけ世界が輝《かがや》いて見えたら素敵《すてき》よね!」
「はん? なんだそりゃ」
「未来よ。私の未来」
そこまで言ってから、リンネはふと僕を見た。
「相棒が必要ね」
やな予感がした。
箕作《みつくり》リンネ・メイエルホリドのこの決意が、この世の悩《なや》める女の子たちを勇気づけたかどうかはともかく、隣《となり》にいる僕にある種の事実をまざまざと実感させてくれたことだけは間違《まちが》いない。いったんこの世に生まれ落ちたら最後、妹と幼なじみを選ぶのは難しい。
そんな声にならぬ僕の嘆《なげ》きなど知りもせず、寝起《ねお》きに櫛《くし》など入れずともまっすぐに下へ垂れ落ちる見事なブロンドと血流が透《す》けるような白い肌《はだ》、それにこのところ磨《みが》きをかけてきた脳内|妄想《もうそう》を併《あわ》せ持つ隣んちの女の子は、その容姿に不|釣《つ》り合いな大胡座を解くと大いばりで言った。
「相棒を確保したとなると、あとは事件ね。いいわ。たとえ何が起こっても夏休みにベッドルームで燻《くすぶ》っているような私たちじゃあないわ。筋さえ通れば、お金|次第《しだい》で何だってやるんだから」
「お金取るのかよ」
「イヤなの?」
「払《はら》う奴《やつ》がいるか、それが問題だ」
「もっと本を読みなさい!」と、ことあるごとにママさんに叱《しか》られるリンネが今夢中になっているのはテレビで、僕らが生まれる十年も前に製造された粗悪品《そあくひん》の14インチの箱形のカラーテレビ――今時テレビの上にアンテナを立てなけりゃ映らない奴で、僕んちの物置でほこりを被《かぶ》っていたのを譲《ゆず》り受けた――を自分のベッドルームにしつらえては飽《あ》きもせずにひと昔前のドラマや映画ばかり見ている。
「あれは本当に栄養にならないわねー」
と笑って言うリンネのママさんの言葉はおそらく二重の意味で正しい。もっとも、べつにママさんは僕を皮肉っているわけでも教育上の配慮《はいりょ》に修辞学的|比喩《ひゆ》を塗《まぶ》しているわけでもなく、文字通りの事実を述べているにすぎないということがわかるだけに、僕としてはいささか心苦しさを感じずにはいられないのだが、そんなことなど知る由《よし》もないリンネは毎朝|一緒《いっしょ》に学校に行く際に、ゆうべ見た、仮面をつけて夜な夜な街の治安を守る謎の大富豪《だいふごう》だの、魔女《まじょ》であることをみんなに内緒《ないしょ》にしている若奥様だのの話を嬉《うれ》しそうにする。
「ね、久高《くだか》。私も鼻を動かしたら魔法使えるようにならないかな!」
「ならないよ」
「あら、そんなのわかんないわよ。すぐには無理でも、練習すればできるようになるかも」
「練習してるの?」
「そーよ。見てなさい。そのうちある日|突然《とつぜん》魔法を使って、久高をぎゃふんと言わせてやるんだから」
リンネはにやにやして言う。
「ちょっとやって見せてよ」
「そのうちね。まだ始めたばっかりだもの」
「ちょっとだけ」
リンネは一瞬《いっしゅん》真顔になると、右のほっぺを二度思いっきりゆがめて見せた。
「親知らずが痛いみたいだ」
グーで殴《なぐ》られた。
てゆーか、練習する方向性がすでに間違っている気がする。
ママさんがこの子の扱《あつか》いに手を焼くのも道理、弟のねはんが天使みたいにいい子なのとえらい違いだと、僕が、今おなかにタオルケットをかけてお昼寝中の、彼女の弟のあどけない顔を思い浮《う》かべて溜《た》め息をついていると、リンネは傍《かたわ》らで真剣《しんけん》な表情で指を折りだした。
「ええと、久高のおじい様がいらっしゃるのが八月の上旬《じょうじゅん》、キャンプに行くのがお盆《ぼん》……だったでしょう? 冒険をするとしたら、やっぱり今月中よね。ちょっと忙《いそが》しくなるけど、まあ、仕方ないわ」
自らが抱《いだ》く淡《あわ》い予感とスケジュール帳との乖離《かいり》に悩むその姿は、控《ひか》え目に言ってもかなりずうずうしい。だがそんなことは気にも留めず、箕作リンネ・メイエルホリドは虫も殺さぬ笑顔《えがお》で言うのだ。
「頼《たよ》りにしてるわよ。相棒」
笑うと、春先からリンネが填《は》めるようになった歯列|矯正《きょうせい》用のブリッジが顔を覗《のぞ》かせる。これに関しては……ま、神様は平等だとあえて言っておこう。美人だろうが、そうでなかろうが、年頃《としごろ》の女の子はブリッジを填めて歯を見せないほうがいいな、うん。
「頼りにされてもなあ」
「何言ってるの、久高。幼なじみでしょ。わしとお前は焼山かずら、うらは切れても根は切れぬ」
リンネ、君は一体いくつだ?
「じゃあ、そういうわけで、here we go!」
鮮《あざ》やかなウインクを決め、リンネは声高らかに宣言した。
翌日、僕とリンネは並んで大通《おおどおり》公園の前に立っていた。
時刻は正午で、北の夏特有の顔の間近で掌《てのひら》をかざすみたいな柔《やわ》らかな陽光があたりを包んでいた。公園の中央にある噴水《ふんすい》が緩《ゆる》い放物線を描《えが》きながら透明《とうめい》な水面《みなも》をうち、縁《ふち》に腰《こし》かけた人々がそれを眺《なが》めながらのんびり涼《りょう》を取っている。風が、陽《ひ》を受けて焦《じ》れた芝《しば》の匂《にお》いを運んでくる。
平和だ。
僕は自分の足下《あしもと》にできた影《かげ》を踏《ふ》み、遊歩道を行きかう人々の姿を眺め、なぜ自分がここにいるんだろうと考えていた。
「さ、ここから始めるのよ!」
リンネはすごく元気だった。
「いい? 悪者に狙《ねら》われて困ってそうな女の子を見つけるのよ」
いるか。そんな子が。
だがリンネは脚《あし》を開き腰に手を当て、まるで職務に忠実なプールの監視員《かんしいん》みたいに公園内の往来にじっと目を向けている。想像するに、自分が加担するに足る冒険《ぼうけん》の種を人混みの中から選別しようと本気で思っていたんだろう。リンネは「本気」でそういうことをする子なんだ。
やむなく僕は「まだ見ぬ女の子|探《さが》し」に精を出すことにした。試《ため》しに取りあえず手近にいた女の子を一人、こっそり指さしてみる。小学校三年生くらいの、背の高い、少し表情に陰《かげ》のある女の子だ。
「あの子は?」
リンネはその子を一瞥《いちべつ》するや否《いな》や素っ気なく首を横に振《ふ》った。
「違《ちが》うわ」
「じゃあ、あの子」
今度は花壇《かだん》の前にいた母親と手を繋《つな》いでいるお下げの女の子を指し示す。女の子は白い、よそ行きのワンピースを着ている。
「論外」
僕は溜め息をついた。どうやらリンネの頭の中にはあらかじめ「こういう女の子」という確たるイメージが鮮やかに息づいているらしい。こうなってはこの子はちょっとやそっとでは収まらない。
女の子って奥が深い。
空が高く、散歩にはうってつけの日だった。多分、犬の散歩か布団《ふとん》干しでもしていたのだろう。やっつけなければならないような悪党は姿を現さなかった。
初めのうちこそじきに目の前で繰《く》り広げられるであろう血|沸《わ》き肉|躍《おど》る大活劇に参戦しようと勇んでいたリンネも次第《しだい》に無口になり、陽が高く昇《のぼ》る頃になると肩《かた》を落とし声をかけてもろくに返事もしなくなった。
すごくわかりやすい子だ。
「……なにも起こらないわ」
「きっと何か用事があるんだよ。先方にも」
「こっちにだってあるもん」
僕はあえて何も言わなかった。もっとも、今日一日はリンネの企《たくら》みにまるまるつき合うつもりだったから、どのみち彼女の目論見《もくろみ》を潰《つぶ》すようなことを言う気はなかったけどさ。
「歩こうよ」
素敵《すてき》な陽気の中、ただ突《つ》っ立っているのに倦《う》んだ僕らは公園内を散策することにした。途中《とちゅう》、喉《のど》が渇《かわ》いたのでミルクシロップのかき氷を買い、それを食いながら一丁ごとに設けられた様々な形の噴水や花壇を眺める。元々防火線として街を貫《つらぬ》くようにして設けられ、冬には雪まつりが開かれるおなじみの場所だけに歩くには結構な距離《きょり》がある。
毎年イヴになると、リンネも僕も着ぐるみみたいに全身をもこもこさせてこの地へ繰り出す。リンネは毛糸のマフラーにミトンの手袋《てぶくろ》、うさぎの耳かけなんかをするが、それでもなお、肌《はだ》の色素の薄《うす》い彼女は凍《こご》える外気に頬《ほお》を真っ赤にさせる。そして、居並ぶ氷像の麓《ふもと》に何時間でも佇《たたず》みながらやがて木々の間に灯《とも》るであろうホワイト・イルミネーションの明かりを待つ。
でも今は雪はない。
新緑が迸《ほとばし》る七月。一年中で一番いい季節だ。
今日のリンネは黒のキャミンールの上に大きめの白いワイシャツといったラフな恰好《かっこう》で、胸元《むなもと》の一番上のボタンは留めずに着崩《きくず》し、臙脂色《えんじいろ》のネクタイを緩く結んでいる。肩には、昔パパさんが使っていたというごつい旅行カバンをベルト一本でぶら下げているが、たぶん中に何も入っていないのはいつもの通りだ。
浅く水が湛《たた》えられた遊水路で半ズボン姿の子供たちが無我夢中で遊んでいる脇《わき》を通りすぎ、欅《けやき》やハマナスの枝が描く影を踏んで公園の端《はし》にたどり着くと、時刻はもう二時をまわっていた。思わず欠伸《あくび》が出て、僕は大きく伸《の》びをした。喧噪《けんそう》にのって、数丁|離《はな》れた時計台から鐘《かね》の音が響《ひび》いてくる。
すごく平和だったね。
そのまま額に入れて飾《かざ》りたくなるような夏の日だった。
僕とリンネはライラックの脇の木製のベンチに腰を下ろし、時間が流れるままにまかせていた。リンネは形のいい脚を前後に揺《ゆ》らしながら小さく唄《うた》を口ずさみ、僕はその隣《となり》で、規則正しく揺れるぴかぴかの膝小僧《ひざこぞう》をぼんやり眺めていた。リンネはバレエをやってる女の子なら誰《だれ》もが憧《あこが》れるような綺麗《きれい》な膝の持ち主なんだ。
どれくらいそうしていただろう。
「……いたわ」
つとリンネは立ち上がった。
僕は慌《あわ》てて近くの屋台から漂《ただよ》ってくるトウモロコシの匂《にお》いを振り払《はら》い、リンネの視線の先を眼《め》で追った。
いた。
九歳くらいの女の子が車道を挟《はさ》んだ反対側の舗道《ほどう》を歩いている。白い、ぱりっとしたブラウスに私立校らしき紺《こん》の制服を着ていて、頭には同じく紺色のベレー帽《ぼう》。スカートのプリーツには規則正しく折り目がついていて、一目で良家のお嬢様《じょうさま》だと知れた。白いソックスとよく磨《みが》かれた黒のエナメル靴《ぐつ》のコントラストがすごく綺麗にはまっている。小さな革《かわ》製のバイオリンケースを左手に提《さ》げ、その子は僕らの視線の先をゆっくりと横切っていく。
お稽古《けいこ》の行きなのか帰りなのかはわからない。や、結構かわいい子だったよ。
「あの子なの?」
「間違いないわねっ」
リンネは目を輝《かがや》かせながら断言したが、べつにそこに根拠《こんきょ》なんてありはしないんだ。
「あんまり悪党には見えないな」
「馬鹿《ばか》ね! 違うわ。反対よ」
「あんまり困っているようにも見えない」
「これから困るんだもん」
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リンネは予言者じゃない。予言者っていうのは大体がうさんくさい顔をしてるからな。だからその不謹慎《ふきんしん》な言説もまあ、責めないでおくよ。でも、リンネの言葉が終わるか終わらないかのうちに、その子の頭上でちょうど改装中だったビルを覆《おお》う足場の一部が落っこちてきた時はさすがに目を疑った。
こんな時は当事者よりもかえって遠くにいる人間のほうがいろんなことに気づくんだと思う。改装中であることを示すビルの上部を覆っている青いシートの端で、ゆっくりと、それこそビデオのスロー再生みたいにスチール製の板とパイプが金具ごと外れてまっすぐに落下していくのを、僕とリンネは呆気《あっけ》にとられて見ていた。
女の子は気づいていない。
「あぶないっ!」
僕は慌てて生け垣《がき》を跨《また》ぎ、車道に飛び出した。
とたんに非難するようなクラクションがけたたましく鳴ったような気がするけど、よく覚えてない。でも反対側へ渡《わた》りきったということは多分|轢《ひ》かれはしなかったのだろう。僕は縁石《えんせき》に片脚《かたあし》をかけるなり、小さな背中を背後から思いきりどつき、その子ともつれ合って舗道をころころと転がった。落下地点から外れたことを確認《かくにん》しようと上を見上げたその僕の左のこめかみを貫くように、僕の手首の太さほどもあるスチールパイプが垂直に落っこちてくる。
やな死に方だ。
どすん。
金属がぶつかる不快な衝突音《しょうとつおん》と共に粉塵《ふんじん》が舞《ま》う。
路面に後頭部をつけ仰向《あおむ》けにひっくり返ったまま、僕は、危《あや》うく自分を串刺《くしざ》しにするところだったスチールパイプが未練がましく細かな蠕動《ぜんどう》を止めぬ様を見つめた。
やれやれ。
何とか上体を起こし、傍《かたわ》らに座りこんでいる女の子を眺《なが》める。
女の子はほっぺに泥《どろ》をつけたままきょとんとしたように僕と、そばで埃《ほこり》を巻き上げている落っこちたばかりのスチール板とパイプを見つめていた。
額のところでまっすぐに切り揃《そろ》えられた前髪《まえがみ》の下で、瑞々《みずみず》しい黒い瞳《ひとみ》がふと僕の眼を捉《とら》える。一瞬《いっしゅん》、その幼い双眸《そうぼう》が物問いたげに揺れたが、僕が何か言う前に慌てて立ち上がると、天敵を見つけた野ウサギみたいに急に駆《か》け出していってしまった。
「……」
呼び止めてなんか言おうと思ったけど、したたかに打った膝が涙《なみだ》が出るほど痛かったので、結局声はかけずじまいになった。
ようやく何が起こったのか気づき始めた大人たちが、ちらほらと集まってくる。
退散時だ。
僕が大怪我《おおけが》をしたと誤解したのか両手を口元にやったまま眼をまん丸にしている通りがかりの女の人に曖昧《あいまい》に笑いかけ、自分の頭に手をやった。なんだか血糊《ちのり》がべったり掌《てのひら》についているような気がしたんだ。でも、何ともなってなかった。ほっとしたよ。
リンネが肩《かた》にぶら下げたカバンをカタカタ揺らしながら駆けてきて、腰《こし》に手を当てて僕を見下ろす。
「見つめ合った時点で親指を立ててウインクしない点はまだまだね! 私なら優《やさ》しく抱《だ》き起こした後に『よそ見は危ないですよ。お嬢さん』と言ってから、歯を光らせるくらいのことはするのに」
「ブリッジ填《は》めたまま?」
「なによ。やな子ね! 久高が追いかけないから、あの子、行っちゃったじゃないの」
「べつにいいよ。善玉はいちいち感謝の言葉を待ったりしないから」
「女の子を後ろからどついたりもしないと思うわ」
「ううん。そうかも」
急に膝《ひざ》の痛みが激しくなってきたような気がして、僕は渋面《じゅうめん》を作った。リンネは急に心配そうな表情になって僕の顔をのぞきこんだ。
「痛い?」
「ちょっとね」
「後で見てあげるね。さ、早く行きましょ。人が集まってきたわ」
僕らは並んで歩き出した。
「リンネ、珍《めずら》しくストックがあったんだな」
「あら、なんのこと?」
「とぼけるなよ。今、時間止めただろ」
そう、リンネは時間を止めることができる。
このことを知っているのはリンネの身内をのぞけば僕を含《ふく》めて数人だけだけど、この子は何の因果か、生まれながらにそんな芸当を自然に――それこそ息をするみたいに当たり前にすることができるんだ。
ほっぺを引きつらせ……や、鼻先を動かすまでもなくね。
僕の問いにリンネは子猫《こねこ》のような笑《え》みを浮《う》かべたものの、何も言わなかった。そしてブロンドの髪をすっと翻《ひるがえ》して視線を落すと、つと立ち止まる。
「あの子の忘れ物ね」
リンネは足下《あしもと》に転がっていた小さなバイオリンのケースを拾い上げた。そして表面についた埃を丁寧《ていねい》に払《はら》い、それを僕に向かって軽く掲《かか》げて見せると、すまして言った。
「まあ、事の始まりとしては悪くないわ。ね、そう思わない?」
リンネにとって――というか、時《とき》載《の》りという種族にとって――僕らの言う食事が「本を読むことを意味している」と初めて知ったのは僕がまだ四つか五つの時だったから、もうずいぶん古い話になる。
あれは一緒《いっしょ》に遊ぶようになってから、しばらくたってのことだと思う。
その日、ママさんは朝から出かけていて、留守番をすることになった僕らはリンネの部屋で室内遊びをしていた。昼をまわった頃《ころ》、ふとリンネが「おなかがすいたからなにか食べよう」と言いだした。ドーナツでもあるのかと思った僕はうなずき、二人は階下にある食堂へ降りた。
僕は箕作家の食卓《しょくたく》に案内され、そこに腰かけて食べ物が出されるのを待った。リンネは皿を二枚テーブルの上に置くと隣室《りんしつ》へと消えたが、本を二冊|携《たずさ》えてすぐに戻《もど》ってくると、そのうちの一冊を僕の前の皿に、もう一冊を自分の皿の上へ、うやうやしい手つきで載せると、あっけに取られている僕をよそに、つんとすました表情で自分の本を読みだした。
ちなみに、その時の食事は、
僕 ヴェルヌの『神秘の島』
リンネ ウェブスターの『あしながおじさん』
だったと記憶《きおく》している。
これは、今でもリンネに大ダメージを与《あた》えられる必殺の笑い話で、僕がこの話をするたびにリンネは「だから知らなかったのっ!」と真っ赤になって怒《おこ》る。よーするに、あの日リンネは初めて、人間と時載りとの間に横たわる本質的な差違《さい》に触《ふ》れたというわけだ。
人間が生存するために水や食糧《しょくりょう》を必要とするように、時載りは認識《にんしき》や情報を毎日|摂取《せっしゅ》しなければ生きていくことはできない。彼らはそれを主に「活字で本を読むこと」によって補うが、もちろん書物なら何でもいいというわけではなく、高度に専門的な本であるほど滋養《じよう》があると考えられている。百科事典や歴史書、学術書などが彼らの食事の定番だけど、大の本|嫌《ぎら》いのリンネがそんな物を手に取るはずもなく、ママさんは食わず嫌いのリンネにいつも手を焼いている。
毎日決まった分量の書物を手に入れることだって、容易なことじゃない。人間としても破綻《はたん》なく生活していかなければならないわけで、限られた時間の中で必要な書籍《しょせき》を確保しなければならないっていうのは結構な苦労らしい。
そこで登場するのがスーパーマーケット並に食材が豊富で旬《しゅん》の物が並んでおり、いつでも気軽に行ける場所――。
すなわち本屋である。
「ゲーデル・パフェが食べたいなっ。大きくて甘くて、生クリームがこれ見よがしの螺旋《らせん》を描《えが》いている横に丸いアイスクリームがふたつ載っていて、溶《と》かしたチョコレートがかかっていている奴《やつ》。それを長いスプーンを使って少しずつ崩《くず》しながら食べていくのよ。この間、ママと初めて食べに行ったの。すごくおいしかったわ!」
駅前のショッピングモール内の大型書店。
広々としたフロアは本で埋《う》め尽《つ》くされている。冷房《れいぼう》が効いており、ひんやりとした空気が心地《ここち》いい。
僕はリンネが肩《かた》に提《さ》げていたカバンを降ろさせると、入り口|脇《わき》のベンチで蓋《ふた》を開けてみた。中には案の定、というべきか、薄《うす》い文庫本が一冊だけ入っている。
タイトルは夏目《なつめ》漱石《そうせき》の『夢十夜《ゆめじゅうや》』。
「……なんで本が一冊しか入ってないんだよ」
「だって重いんだもん」
リンネはあっさりと言った。
これはリンネが昔からよくやる手で、ママさんがせっかく詰《つ》めたお弁当[#「お弁当」に傍点]を、「重い」の一言で出かける前にこうして自分で中身を全部|抜《ぬ》いてしまう。
どうりでカバンがカタカタいってたはずだ。
やむなく僕はリンネの手首を掴《つか》むと、新書コーナーを抜け、同じフロアの奥まったところにある哲学《てつがく》・歴史・宗教といった学術関連の専門書が並んでいる棚《たな》へ引っぱりこんだ。せめて滋養のあるものを読ませてやりたいという老婆心《ろうばしん》だ。ま、つきあいが長いからね。
言うまでもないことだけど、時載りにとって人間と同じ食べ物を食べることにあまり意味はない。時載りの主食はあくまで読書だから、パフェだの西瓜《すいか》だのといった食べ物を食することは本来道楽の部類に入る。にもかかわらず、リンネがただの食いしん坊《ぼう》にしか見えない時があるのは、彼女が半分は人間の血を受け継《つ》いでいるということも多分関係している。そう、リンネのパパさんは生粋《きっすい》の人間だったし、リンネのふるまいを見ていれば、パパさんの方の血筋も色|濃《こ》く受け継いでいることがわかる……っていうか、余計なところだけ人間っぽいんだな、この子は。
「それだけ贔屓《ひいき》されりゃパフェも本望《ほんもう》だろうな……。つーかそのパフェ、そんなにおいしいの?」
「それはもう! あのパフェの螺旋具合と言ったらそれこそエッシャーの騙《だま》し絵級よ。久高なんて泣いて喜ぶわ」
僕はなんとかその遠近法を無視したゲーデル・パフェを脳裏《のうり》に描こうとがんばったがいっこうにうまくいかなかったので諦《あきら》めて首を振《ふ》り、分厚くて高価そうな専門書が並んでいる棚の一角を指で示した。
「それよりほら、たぶんあのへんだろ。早く済ませちゃえよ」
「イヤよ。今はあんまり読みたくない気分なの」
巨大《きょだい》な書棚を前にリンネはぷいと顔をそむけた。
「却下《きゃっか》。自主的に読みたい気分になることなんて未来永劫《みらいえいごう》ないだろ、リンネには」
「なによ! さっき助けてあげたのに」
「だからさ。命の恩人に飢《う》え死にしてほしくないもんな」
「うう」
リンネはがっくりと俯《うつむ》いた。
ったく。
やむを得ず、僕は交換《こうかん》条件を出すことにした。
「じゃあ、もし読んだら、今度そのパフェを食べにつれて行くから」
「ホント? なら読む。約束よ」
とたんに生気を回復させ、リンネはぴょんと跳《は》ねるとスカートのポケットから鼈甲《べっこう》の眼鏡《めがね》を取り出すとそれをかけた。現金なもんだ。
「リンネ、さっき何秒時間を止めたの?」
「一秒よ。へへん。ちっともばれなかったでしょ!」
形のいい鼻梁《びりょう》に眼鏡を載《の》せたままリンネは得意げにそう言うと、書棚から本を一冊抜き取り、ものすごい勢いで読みだした。
僕はフロアの端《はし》にあったソファーに腰《こし》を下ろすと、ギボンの『ローマ帝国《ていこく》衰亡史《すいぼうし》』を一巻から順に読み漁《あさ》っていくリンネの後ろ姿を眺《なが》めた。ま、字数の多そうな本だし、栄養|摂取《せっしゅ》効率から言えば無難な選択《せんたく》だろう。学術書コーナーの一隅《いちぐう》で、十二の女の子がブロンドを肩口に垂らしながら身じろぎもせずにページに視線を落としているのはかなり異様な光景には違《ちが》いないけど……。
リンネは時間を止めることができる。
さっき、リンネは時間を止めた。
あのやくざなスチールパイプが僕のこめかみを貫《つらぬ》く瞬間《しゅんかん》、僕が僅《わず》かに身をよじる猶予《ゆうよ》を与《あた》えたのは、人間ならざるリンネがおそらく唯一《ゆいいつ》持つと言っていいこの特殊《とくしゅ》能力に他《ほか》ならない。もちろん、すべての時間をリンネが意のままに操《あやつ》ることができるというわけじゃない。知識や認識《にんしき》を日々|蓄《たくわ》えることによって初めて「存在しうる」時載りのその特性|故《ゆえ》かはわからないけれど、リンネは時間の流れを一秒間止めるのに、およそ二百万字の字数を読破する必要があるのだ。
原稿《げんこう》用紙五千枚、ちょっとした本なら十冊に相当するこの分量を読破しない限り、このきわめて魔法《まほう》チックな能力は発動しない。
僕はこの、リンネが滞留させることが可能な時間の備蓄《びちく》量を「ストック」と呼んでる。リンネ自身は自分のこの特殊能力にさほど関心を持っていない。ママさんの薫陶《くんとう》が行き届いているせいだ。人前でうかつにこの力を使えば人々の好奇《こうき》や猜疑《さいぎ》を招きかねないし、何より街に住む時載りがその能力を使うことは御法度《ごはっと》だ。わざわざ母親に叱《しか》られる種を自分から蒔《ま》くこともあるまい、とリンネが考えるのも無理はない。
僕がぼんやりとそんなことを考えていたら、眼鏡をかけた、いかにも好学という感じの品のいいおじいさんがリンネに話しかけきた。
「ほう。そんな若さで歴史に興味を持つとは感心じゃな。だが、その本はお嬢《じょう》さんの年ではいささか難しすぎるようじゃな。もう少し平易なものを選んだほうがよかろうに」
どういうわけか、昔っからリンネは年寄りにすごくもてる。たぶん年寄りがつい声をかけたくなる横顔でもしてるんだろうな。僕のじいちゃんともすごく仲がいい。
「いえ。これでいいの。……ええと、今ちょうどこれを読みたい気分なの」
リンネは少しはにかんで答えた。
何も知らない親切なおじいさんは目を細めた。
「ほう。若いのにたいした勉強家じゃ。歴史は面白《おもしろ》いかね?」
「ええ。とっても面白いわ」
とっても面白いときた! これにはちょっと参ったね。
リンネは読むほうに関してはまったくの無《む》嗜好《しこう》だから、ほんとは極端《きょくたん》な話、それがオーブントースターの取り扱《あつか》い説明書でも集中して読むことができるんだ。腹が減ってりゃね。確か家では今、王《おう》陽明《ようめい》の『伝習禄《でんしゅうろく》』を読んでいるし、その前は一九七九年刊行の『現行《げんこう》ドイツ法《ほう》における農地《のうち》転用《てんよう》論《ろん》』を読んでいた。十日ほど前にリンネの部屋に入った時は『油圧系《ゆあつけい》パワーステアリングの構造《こうぞう》と特徴《とくちょう》』なる本がベッドの枕元《まくらもと》に転がっていた。もちろん内容は完全に理解はしてるんだろうけど、時載りが手にしている本の表題やジャンルからその時載りの嗜好を類推することにほとんど意味はない。
おじいさんと別れた後も、リンネはそのまま二時間ほどぶっ続けで立ち読みを続けた。僕がその日何度目かの欠伸《あくび》をかみ殺していると、リンネが近づいてきた。
「おまたせっ」
「もういいの?」
「ええ。全部読んだから」
リンネはあっけらかんと言った。
買わずに読んで、記憶《きおく》して去る。こんな客ばかりだったら本屋は商売あがったりだな、と思いつつ僕は大きく伸《の》びをした。時計を見るともう四時をまわっている。リンネの家の門限は五時半だからそろそろ帰る時間だ。
「いっけない。早く帰らなきゃママにまた叱られちゃう」
そう言うなり忽然《こつぜん》と僕の前から姿を消す。
僕がきょろきょろしていると、「早くしないと置いてっちゃうわよっ!」という声と共に、下りのエスカレーターのところでリンネが大きく手を振《ふ》っているのが見えた。
早速《さっそく》時間を止めたらしい。今度は、少し、長く。
僕は溜息《ためいき》をつくと、改めて膝元《ひざもと》にある黒いバイオリンケースを眺めた。ふと中身が傷ついていないか心配になり、留め金を外してケースの上蓋《うわぶた》を開けてみる。
赤いビロード張りのケースの中にバイオリンは入っていなかった。
そこには一冊の本が入っていた。
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じいちゃんからの手紙
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七月二十日
久高へ
わしは今、ヒースロー空港の狭《せま》いベンチの一角に腰《こし》を下ろしてこれを書いている。空港に来る途中《とちゅう》の電車の中で知り合ったベルギー人老夫妻が娘婿《むすめむこ》に電話をかけ終わるのを待ったのち、預かったトランクを引き渡《わた》してゲートを潜《くぐ》るつもりじゃ。天候不順がなければ明日の早朝にはキエフに着く。お前のところへはその後になるじゃろう。
ところで隣《となり》の魔女っ子は元気か? G――ジルベルトによると随分《ずいぶん》学問が進んだらしく嬉《うれ》しく思っていたが、よく考えれば時《とき》載《の》りが本を少々読んだとてどれ程《ほど》の意味があるのか、だな。先日、あの子はわしに写真付きの手紙をくれたよ。お前には絶対|内緒《ないしょ》なんだそうだ。読書に関しては自分ではまだ不十分に思っているらしく、もっと本を読まねばならないと殊勝《しゅしょう》なことを書いてあった。あれに心を配ってやれ、久高。できたら、あれの母親にもな。やり方がわからんと言うのであれば雪枝《ゆきえ》さんに訊《き》くといい。知らないことを訊くのは恥《はじ》でも何でもないぞ。
時載りには二種類あるのはお前も知っているじゃろう。人間界に一度も足を踏《ふ》み入れることなく『バベルの塔《とう》』に住み永遠に読書をして暮らす時載り、通称《つうしょう》『塔の住人』と、人間と親しく交わり、人間界に根を下ろすことを決意した『街の住人』……そう、今お前さんの横にいる女の子じゃ。前者は知ることにかけては貪欲《どんよく》だが、半面行動力に乏《とぼ》しく、ただ目の前を流れていく事象を傍観《ぼうかん》し続ける。が、後者はそうではない。彼らは「生きること」そのものに貪欲じゃ。そうして『街の住人』となることを選んだのじゃ。その差違《さい》を埋《う》めるために彼らが毎月末に給与袋《きゅうよぶくろ》とにらめっこしたり、朝、分別ゴミを出しに行った後、幼子の手を引いて保育園|送迎《そうげい》バスまで赴《おもむ》いたりしていることを笑うようなことが決してあってはならんよ。もしそうなら楠本《くすもと》久高の名は愚《おろ》か者の代名詞じゃ。「ご飯よ」と言われて、食堂に行くと食卓《しょくたく》に本が一冊載っているというあの馴染《なじ》みの風景もな。実際、あればいいもんじゃよ。自分がどれだけ空腹だったか思い出させてくれるしな。
ロンドンでは凪《なぎ》に土産《みやげ》を買っておいた。今度帰る時に渡すから、楽しみにしておくようにあれに伝えておいてくれ。お前にも何か買ってやりたいが、お前は何も欲しがらんからな。まあ、キエフで何か見繕《みつくろ》っておこう。
ベルギー人夫妻が帰ってきた。彼らの上に幸あれ! さてと、今度はわしが立ち上がる番じゃ。あの魔女《まじょ》っ子のこと、くれぐれも頼《たの》んだぞ。
皆《みな》に、ことに雪枝さんには、よろしくな。
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[#地付き]祖父より
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2章
その昔、リンネのパパさんは、ママさんと生まれたばかりの赤ん坊《ぼう》をともなって日本の地を踏んだ時、ある決意をしたらしい。
ひとつは妻の正体を誰《だれ》にも知られないよう深く秘匿《ひとく》すること。もうひとつは妻の懐《ふところ》に抱《だ》かれている娘を普通《ふつう》の人間として育てること。
十二年がたった。
後ろの方はあんまりうまくいっているとは思わない。
「まあ! それでは結局その子は見つからなかった、というわけですか」
僕らの前にティーカップとソーサーを配した後、銀のトレーをそっと胸に抱きこむような仕草を見せてGが言った。
薄《うす》いティーカップの縁《ふち》から柔《やわ》らかな香気《こうき》が湯気と共に立ちのぼり、使いこまれて木目の浮《う》いたウッドテーブルの上に温かな空気が立ちこめていく。出窓から差しこむ日差しを受けて佇《たたず》むGの背後に、彼女の長い影《かげ》が伸びていた。
「公園ではりこみを四日も続けられたのに?」
形のいい顎《あご》に指を添《そ》え、Gは小首を傾《かし》げた。
「……うん」
僕は仕方なくうなずく。
焼きトウモロコシ×4、かき氷×4、オレンジジュース×4。あの日を境に僕が大通公園で消費するようになったメニューリストだ。さらに午前九時から午後三時まで公園であの制服姿の女の子を捜《さが》したのち、「また何かあった時に備えて」本屋で立ち読みするリンネの付き添いを二時間。
「人身御供《ひとみごくう》だな」
やけに嬉しそうに司馬《しば》遊佐《ゆさ》が言う。
「きっと二人で何かやってるんだろうとは思ってたけど、まさかそんな新しい遊びを開発していたとはね。面白《おもしろ》い幼なじみが隣にいると毎日が新鮮《しんせん》でいいな。退屈《たいくつ》しない。俺の生活なんか、地味を絵に描《か》いたあげくアニメ化決定だもんな」
「そんなに退屈か?」
「そうじゃなきゃ、わざわざ毎日こんな所に読書しに来ないよ」
遊佐はそう言って柔らかなくせっ毛を払《はら》うと軽くウインクした。かなり失礼なことを言っている筈《はず》なのだが、聞く者にそうは思わせないのがこの遊佐の凄《すご》いところだ。
僕より三つ年上の十五歳の司馬遊佐はリンネの秘密を知っている数少ない人間の内の一人である。滅茶苦茶《めちゃくちゃ》頭がいいくせに何故《なぜ》か学校へは行かず、毎日ぶらぶらしているうちにほとんど本物の浮浪少年と変わらなくなってしまったという変わり種で、読書と釣《つ》りに人生の大半を捧《ささ》げている。この書庫にふらりと現れては本を読み、週末には近くの磯《いそ》で釣り糸を垂らすという毎日だ。「時《とき》載《の》り」に対して一切《いっさい》の偏見《へんけん》を持たない、リンネにとっては貴重な友人だが口の悪いのが玉に瑕《きず》だ。
「美人だし、明るいし。ま、ちょっとおしゃまだけど、時間まで止められるし。そんな幼なじみ、日本中探してもそうそういないぞ」
「……絶対からかってるだろ」
「まさか。俺はマジだよ。声が笑ってるのは気のせいだぞ」
「そう思うんなら代わってやるよ。一日くらい。いや、一ヶ月でもいいや」
思わず口を尖《とが》らせた僕の言葉に、
「や、遠慮《えんりょ》しとく。ブロンドで、ブリッジを填《は》めた、魔法使いの女の子の家の隣《となり》には決して住んではいけないという家訓があるんだ。司馬家には」
「そんなの初めて聞いたぞ」
「実は俺も昨日知ったんだ」
「やけに具体的な家訓だ」
「そうだろう。俺に似て几帳面《きちょうめん》な先祖だったんだな。きっと」
そう言うと遊佐は澄《す》まし顔でティーカップの縁に口を付けた。僕は深い溜息《ためいき》をつき、遊佐の言葉に訂正《ていせい》を加えた。
「……一つだけ誤解してるよ。リンネは『時載り』だ。魔法使いじゃない」
「いや、わからないぜ。Rの大将は今テレビに夢中なんだろ? そのうち女の子向けのアニメとか見るようになる。あの子がある日|突然《とつぜん》、変身用コンパクトを首にぶら下げて鏡の前で決めポーズの練習をするようになっても俺は驚《おどろ》かない」
「うーん」
その様を想像した僕が思わず俯《うつむ》いて腕組《うでぐ》みをすると、たまりかねたようにGが口を挟《はさ》んだ。
「もう! お二人とも、いい加減になさって下さい。リンネ様はただバイオリンケースを落とし主にきちんとお返ししたいとお思いになっているだけです。それもわざわざご自分のお休みを費《つい》やしてまで。他意はないと思います!」
背筋をまっすぐに伸《の》ばし、毅然《きぜん》としてGは言う。
膝《ひざ》までの丈《たけ》の黒いビスチェワンピースに黒いストッキング。額で綺麗《きれい》に切り揃《そろ》えられた漆黒《しっこく》の髪《かみ》と瞳《ひとみ》。小さなカメオを組みこんだチョーカーの他《ほか》は一切|装飾具《そうしょくぐ》を身に着けず、白いシャツと透《す》き通るような肌《はだ》以外は全身黒ずくめのその恰好《かっこう》は、どこか修道女を彷彿《ほうふつ》とさせる。「真摯《しんし》」と「誠実」を軸《じく》に、この世の美徳すべてで織りなしたようなその澄んだ容姿は、彼女の気質同様、どこまでもまっすぐで、見ていて気持ちがいい。
だが、
「他意はあるだろ?」と遊佐。
「普通にある」と僕。
僕らの応《こた》えを受け、Gは困ったように指先を胸元《むなもと》でもじもじ組み合わせていたが、やがて消え入りそうな声で、
「……わたくしも、そう思いますケド……」
と言った。
僕らは箕作家の本邸《ほんてい》から一丁ほど離《はな》れた離れにいる。
離れと言っても、平屋であることをのぞけばここは普通《ふつう》の一戸建てと変わらない。建坪《たてつぼ》は本邸の半分くらい。もともとは、本邸に収まりきらなくなった膨大《ぼうだい》な蔵書を保存・管理するためにリンネのママさんが数年前に買い取った箕作家専用の「書庫」だったが、リンネが長ずるにつれ、僕ら友人たちの待ち合わせ場所|兼《けん》談話室のような感じになっている。
建物自体は結構古い。
木造洋館でありながら平屋建てというこぢんまりとした外観が妙《みょう》な愛くるしさを漂《ただよ》わせており、どこか明治のころに建てられた官舎のような趣《おもむき》がある。本邸も古い洋館であることを考えれば、リンネのママさんの好みの一端《いったん》が知れる。
中も外観に劣《おと》らず古風な雰囲気《ふんいき》を湛《たた》えている。入るとまずホールがあり、そこを抜《ぬ》けると小さな階段が現れ、降りると床《ゆか》の位置が三段ほど低くなる。そして逆に天井《てんじょう》が一気に高くなり、梁《はり》が剥《む》き出しになった吹《ふ》き抜け構造の広い空間に至る。
ここは閲覧室《えつらんしつ》で、訪《おとず》れた人間がいつでもくつろいで読書できるように、南に面した出窓から差しこむ日差しを受けるような形で椅子《いす》とテーブルが置かれている。瀟洒《しょうしゃ》で落ち着いた雰囲気は本を読むのにぴったりだが、何より驚かされるのは四方の壁《かべ》を天井まで埋《う》め尽《つ》くす本棚《ほんだな》とそこに収蔵されている書物の量だ。
もともとは箕作家に収蔵されていた和・英・露《ロ》・独・伊《イ》語で記された芸術・文学・化学などに関するさまざまな本、かつてママさんの栄養源となり、これからリンネやねはんの栄養源となるに違《ちが》いないそれらが室内を圧するように犇《ひし》めき合いながら背を並べている様はちょっと壮観《そうかん》で、ちょうど尖塔《せんとう》を内側から眺《なが》めているような錯覚《さっかく》におちいる。
背伸《せの》びしても届かない位置にある書架《しょか》にも触《ふ》れられるように専用のはしごが置かれており、まさにうーん。象牙《ぞうげ》の塔《とう》と言った感じだ。
壁端《かべはし》にはおなかの出てきたサンタでも楽に出入りができそうな、えらく大きな旧式の暖炉《だんろ》があって、雪がちらつくころになるとパチパチという薪《まき》がはぜる音と共に、この部屋を柔《やわ》らかな暖気で包んでくれる。
ちなみにこの暖炉の前はリンネの特等席で、夜、一人|掛《が》けのソファーをずるずる火の側《そば》まで引っぱってきては、その上で胡座《あぐら》をかき、俯いて読書をするリンネの姿をよく見かける。
床はすべて板張りで、靴《くつ》を脱《ぬ》ぐ必要はない。他に部屋は大小二つの書庫と小さなキッチン、あとGの個室がある。
ここの呼称《こしょう》は人によって様々だ。リンネは普通に「書庫」と呼ぶけど、遊佐は「リンネんちの別荘《べっそう》」と呼び、ねはんに至っては、ここが「Gのおうち」だと信じて疑わない。もっとも、そう言われるたびにGは「この家はわたくしの所有ではありません」と生真面目《きまじめ》に否定するが……。
G――ことジルベルト・ヘイフィッツはここの蔵書の管理を一手に引き受けており、言わば司書としてこの「本の城」の門番をしている。
年齢《ねんれい》は十七歳。
すごく大人びてるけどね。
「で、これからどうするつもりだ?」
すました顔でティーカップを傾《かたむ》けると、自称《じしょう》「几帳面《きちょうめん》な先祖の末裔《まつえい》」は僕に訊《たず》ねた。その横顔は繊細《せんさい》さに満ち、いかにも書物に囲まれて優雅《ゆうが》に午後のひとときを楽しんでいる読書好きの青年、といった雰囲気を醸《かも》し出している。だが、そんな雰囲気に騙《だま》されてはいけない。外見《そとみ》の良さと中身が真逆に乖離《かいり》したあげく、反対側で背中合わせにくっついたような奴《やつ》がいるとしたら、たぶんこんな奴だ。遊佐の性格は典型的な不良少年のそれで、はっきり言って貴族の子息みたいな顔立ちにほとんど意味はない。
「警察に届けようと思ったけど、やめた」
「なぜ?」
「G」
「はい。ただいま」
Gは隣室《りんしつ》へ消えると、あの小さなバイオリンケースを片手に提《さ》げて戻《もど》ってきて、それをそっとテーブルの中央に置くと上蓋《うわぶた》を開いた。中に一冊の本が入っている。
それは不思議な本だった。
いかにも好事家《こうずか》が喜びそうな古めかしい本だ。大きさは僕らが学校で使っている教科書ぐらいで、結構分厚い。色はくすんだ茶色で、装丁はしっかりしているが既《すで》に四隅《よすみ》は潰《つぶ》れかけ、綻《ほころ》びが見えてきている。ページ自体はまだそれほど変色してはいないが、それでも長い時を経てきたことは一目で知れる。金箔《きんぱく》で表紙が四角く縁取《ふちど》りされている他《ほか》は余分な飾《かざ》りは一切《いっさい》ない。タイトルも作者名もない。
ただ一つ、本の表紙の中央に、これも金箔で直径十センチほどのサークル形の奇妙《きみょう》な紋章《もんしょう》が描《えが》かれている。西欧《せいおう》の紋章と言うよりは、どちらかと言えば日本の大名の家紋、といった印象を受ける。
「変わった本だな。小学生の女の子が読むにしては渋《しぶ》すぎるだろ、これ」
「ぼくもそう思う」
「んで、餅屋《もちゃ》の見解は?……つーかG、いい加減に座ってよ」
遊佐が言った。円卓《えんたく》を囲む僕と遊佐の傍《かたわ》らで、Gはずーっと立ち続けている。
「ですが」
「目線が高いと落ち着かない」
遊佐の言葉に長身のGは苦笑《くしょう》すると、「では、失礼いたします」と言って椅子を引き静かに腰《こし》を下ろす。顎《あご》を引いて背筋を伸ばし、お祈《いの》りする時みたいに指を組みあわせると、そっとテーブルの上に置く。
あいかわらず外国のトップモデルみたいに姿勢がいい。つーか、Gは日本人じゃなかったんだっけ。僕らと骨格のつくりが違ってて当然か。
「ずいぶん昔の書物であることは間違いないようです。ですが、何語で書かれてあるかについてはわかりません」
「? ……つまり」
「はい。わたくしにはこの本が読めませんでした[#「わたくしにはこの本が読めませんでした」に傍点]」
べつに気負うでもなく、Gは淡々《たんたん》と言った。
「……なるほどね。そういうことか」
遊佐はすぐに理解したようだった。
そう。僕らがこれを警察に届けない一番の理由――あの女の子はGですら読めない本を持っていた[#「あの女の子はGですら読めない本を持っていた」に傍点]。
これがどれくらいあり得ないことかは、彼女を少しでも知る人間なら誰《だれ》でもわかることだ。十五世紀半ばにグーテンベルグによって活版印刷術が発明されて以来、いったいどれだけの量の書物が印刷・出版されてきたかはわからないけれど、ことそれが活字で印刷されたものである限り、Gに読解できない言語はこの世にまず存在しないと言っていい。(わざわざ『活字で印刷された』と条件づけたのは、さしものGもBCの頃《ころ》に羊皮紙や粘土《ねんど》板に記された類《たぐい》の、既に失われてしまった言語を理解することはかなわないからだ)
誤解のないように言っておくと、Gは時《とき》載《の》りじゃない。僕と同じ人間だ。にもかかわらず、この紅茶を入れるのが上手な箕作家の司書は、ロマンス諸語やゲルマン諸語を初めとしてこの世のありとあらゆる文字を読み書きすることのできるという、もはや才能とは呼べない希有《けう》な体質の持ち主なのだ。Gのこの能力に辛《かろ》うじて比肩《ひけん》しうる人間がいるとすれば、それはリンネのパパさん、箕作《みつくり》剣介《けんすけ》ぐらいのものだろう。
「久高様、リンネ様はこの本に目を通されたのですか?」
「うん。Gに預ける前にちょっとだけね。手に負えないって」
「そうですか。リンネ様も……」
Gはそう呟《つぶや》き、テーブルの上に置かれた古びた本に目を向けた。遊佐が口を挟《はさ》む。
「俺は門外漢でよくわからないんだけどさ、それって、どれぐらいあり得ないことなの? つまり、Gやリンネが読めない本が存在するっていうことは?」
Gはかるく苦笑した。
「もちろん、私の知らない言語はこの世にまだ数多く存在するでしょうし、その意味では決してあり得ないことではありません。しかし、それが然《しか》るべき場所に保管されているのならともかく、軽々しく外に持ち出されていた、という点はいささか気になります」
「然るべき場所?」
「ビブリオテーク・ナショナル、ボードレアン図書館、大英博物館、アメリカ議会図書館、アメリカ公立図書館。その他いくつかの場所が考えられるでしょうが、あえてこのクラスの書物が保管されている可能性がある場所と言えば」
「バベルの塔《とう》」
僕は言った。Gは形のいい眉《まゆ》を上げた。
「ご存じだったのですか」
バベルの塔。
旧約聖書の創世記に出てくる、人が天に届く高さにまで礫《つぶて》を積み上げようとして神の怒《いか》りを買い、中途《ちゅうと》で崩《くず》れたとされる伝説上の巨塔《きょとう》。今では宗教上の暗喩《あんゆ》として原初史の中に埋没《まいぼつ》してはいるが、今なお現実に聳《そび》え、下界に降り、『街の住人』となった時載り以外の時載りが太古より住む尖塔《せんとう》。膨大《ぼうだい》な知識と認識《にんしき》の集積所であり、この世の森羅万象《しんらばんしょう》すべてを解き明かすに足る知性の化学工場。識域《しきいき》発電所。悟性《ごせい》の貯蔵庫。リアル象牙《ぞうげ》の塔にして傍観《ぼうかん》組織《そしき》委員会《いいんかい》。
そして、リンネのママさんのかつての故郷。
「うーん」
そんなすごい本だと思うと、見る目も変わってくる。僕と遊佐はたぶん似たような表情でテーブルの上の本を眺《なが》めた。
Gだけは冷静だ。
「おあずかりしている間、私なりにこの本を調べさせていただきましたが、この本に記されている言語は、文法的にはラテン語の形式に最も似ています。ラテン語は言うまでもなくローマ帝国《ていこく》の公用語ですから、最も考えられる可能性は、この本はバベルの塔の所有物だったのではないかということです。ですがバベルの塔の蔵書をただの人間が閲覧《えつらん》することなどできませんし、まして外の世界に持ち出すことなどできるはずもありません。にもかかわらずそれを外に持ち出すことができる者がいるとしたら……」
「わかったよ。Gはその子が時載りなんじゃないかって言いたいんだね」
僕は言った。
「その通りです」
「この街に? リンネやリンネのお袋《ふくろ》さん以外の時載りが?」
遊佐が腕組《うでぐ》みをする。
「あり得ないことではありません。確かに『塔の住人』と『街の住人』の比率はおよそ91対9。かつ、日本は世界的に見ても『街の住人』が極《きわ》めて少ない国ですが、かと言ってまったくゼロということもないでしょう。現にリンネ様ご一家はこうして住んでおられるわけですし」
「訊《き》いていい?……なんで、日本は世界的に見ても『街の住人』が少ない国なの?」
「物価が高いからでしょう。それに、英語|圏《けん》から最も遠いところにありますし」
僕の問いにGがあっさりとした口調で言う。
うーん。なるほど。俗世《ぞくせ》に生きる決心をした以上、時載りとてエンゲル係数を無視して生活を送ることは困難らしい。ていうか、ここで言うエンゲル係数って、もしかして書籍《しょせき》代か? だとしたら箕作家の家計って地味にすごいことになってるなあ。
遊佐は額に落ちかかったくせっ毛を払《はら》うと、確認するようにゆっくりと言った。
「つまり整理するとこうだな。リンネとお前は街中で事故にあいそうになった女の子を助けた。その子は何も言わずに立ち去り。バイオリンケースを落としていった。ところがその中にはバイオリンではなく、なぜか一冊の本が入っていた。しかもそれは時載りですら何語で書かれているかわからない曰《いわ》くありげな本であり、おまけに本来時載りの聖域に収蔵されていて然るべき代物《しろもの》だった」
「ま、ひらたく言えばそうなるかな」
ここまで聞くとこの本に関してはさすがに僕らの手に余ることがわかり、僕はぼりぼりと頭をかいていると、遊佐が改めて訊《たず》ねてきた。
「つーかさ、そもそもの始まりであるその女の子って、そんな曰くありげな子だったのか?」
「や、普通《ふつう》の女の子だったよ」
僕は、驚《おどろ》いたように僕を見上げるあの子の黒い瞳《ひとみ》を思い出していた。あの子が時《とき》載《の》りだったんだろうか? よくわからない。
「その子の着てた制服、憶《おぼ》えてるか? それがわかればその子がどこの小学校に通っているかぐらいは見当がつくだろ」
「うーん。憶えてることは憶えてるけど」
「説明してみろよ」
「なんかこー、スカート穿《は》いてて紺の上着着てて、ベレー帽《ぼう》みたいな奴《やつ》を頭に被《かぶ》ってたな。結構かわいかった」
「……それでわかる奴がいたら奇跡《きせき》だよ」
「……僕もそう思う」
「だめじゃん」
話が結局ひとまわりし、三人が三様の面持《おもも》ちで押し黙《だま》っていると、
「こんな感じだったんじゃない?」
と、聞き慣れた声がした。
振《ふ》り返ると、閲覧室の入り口の階段上でリンネがスカートの裾《すそ》を指で軽く引っぱり、生地《きじ》の柄《がら》を広げてみせるようにして立っていた。
華奢《きゃしゃ》ながら伸《の》び盛《ざか》りの身体《からだ》を包んでいるのは純白のブラウスとウエストを絞《しぼ》ったクレセント・ギンガムのベストに紺《こん》のボレロ。襟元《えりもと》でしっかりと結ばれたネイビーのリボン。
規則正しい襞《ひだ》を織りなして木目の床《ゆか》に影《かげ》を落とすプリーツの裾からは細い二つの太ももとぴかぴかの膝小僧《ひざこぞう》が顔を覗《のぞ》かせ、脚《あし》の線はそのままふくらはぎから三つ折りの白いソックスと黒のエナメルストラップシューズへと収まる。
頭の上に軽く載ったベレー帽は愛らしさよりは早熟さを演出するのに一役買っており、その縁《ふち》から零《こぼ》れた金髪《きんぱつ》は無造作に左右の肩口《かたぐち》へ流れ、リンネの繊細《せんさい》な顔立ちをより一層|際立《きわだ》たせている。
「Hi Gays!」
敬礼気味に指を二本立てて目の上に翳《かざ》すリンネが着ているのは、あの制服。
Gが立ち上がり、一礼してリンネを迎《むか》え入れる。
「いらっしゃいませ。リンネ様」
「うん。あ、お茶はいいわ、G。すぐに出かけるから」
リンネはそう言い、大股《おおまた》で僕らに近づいた。
「どう、似合うかしら? ……いえ、質問を変えるわね」
[#挿絵(img/mb671_053.jpg)入る]
両腰《りょうこし》に手を当てて挑《いど》むように。
「気に入った?」
「もちろん」
遊佐は軽くウインクをする。気障《きざ》な仕草だが、こいつがやるとなぜか様になる。僕がやったら多分新手のギャグにしかならないもんな。
「つうか、どうしたの。それ?」
「記憶《きおく》を頼《たよ》りに自分で作ったの。へへー。似合うでしょっ」
自分でも似合っているという自覚があるのだろう、僕と遊佐の視線をまんざらでもなさそうな表情で受け止めると、リンネはファッションモデルのようにその場でくるりとまわって見せた。スカートの裾が花のように翻《ひるがえ》る。
両腰に手を当て、リンネはずけりと言った。
「さ、行くわよ! 久高!」
「行くって、どこへ?」
「決まってるでしょ。あの子が時載りかどうかを確かめに行くの!」
「ど、どうやって?」
「この恰好《かっこう》で街中をしらみつぶしに歩いてればきっと見つかるわ。さっ」
僕の手を引いて、きびすを返すリンネに僕が抗《あらが》おうとした時だった。
「あ、久高様。お待ちを」
つとGに呼び止められ、僕は振り返った。
「なに?」
「久高様あてのお手紙がございます。けさ、ご自宅の方に届いたお手紙をお預かり致《いた》しておりました。少々お待ち下さいませ」
そう言うとGは丁寧《ていねい》に一礼し、長身を翻すと閲覧室《えつらんしつ》の隣室《りんしつ》に消えた。そして何となく間をそがれた僕とリンネの元に戻《もど》ってくると、微笑《びしょう》と共に手にした白い封筒《ふうとう》を差し出す。
「どうぞ。楠本先生からのエアメールですわ」
「じいちゃんから? この間もらったばっかりなのに」
僕はその場で封を破り、中に入っていた二つ折りの便箋《びんせん》を開いた。
前回の手紙に比べて著《いちじる》しく短い。
文面はこうだった。
[#ここから4字下げ]
久高。気が急《せ》いておるので簡潔に記す。お前にある女の子を捜《さが》して欲しい。詳《くわ》しいことは書けんが、その子は時載りである可能性がある。氏名等、手がかりは殆《ほとん》どないがその子はある古書を所有しており、歳《とし》は九つ位らしい。
今はこれしか書けん。時が惜《お》しいのでな。追ってまた詳細《しょうさい》を記す。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]楠本|南涯《なんがい》
エアメールをひっくり返し、差出|欄《らん》を見る。
クラクフ。消印はポーランドか。
キエフに行ったんじゃなかったのかよ。
前もって立てておいた様々な「夏休み計画」が、今や完全に宵《よい》に瞬《またた》くお星様のひとつになったのを自覚しつつ、さてどうしたもんかと紙面に視線を落としていると、
「古い本に女の子」
顔を寄せ、一緒《いっしょ》になって手紙を覗きこんでいた遊佐が呟《つぶや》いた。
「どっかで聞いた話だ」
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3章
翌日、リンネは朝から機嫌《きげん》がよかった。
遊佐|曰《いわ》く「どっかで聞いた話」が、じいちゃんからの手紙によって晴れて大義名分を得たせいで、これでそもそもの野望であった『夏休み中にわくわくするような冒険《ぼうけん》をすること』を大手を振って叶《かな》えられると得意満面である。しかも、自らが(かなり適当に)目星をつけた女の子までがどうやらこの一連の出来事に一枚|噛《か》んでいるらしいことがわかり、これで自分の勘《かん》の正しさが証明されたと、もう手がつけられないほど鼻高々だ。
「ほーら、やっぱりあの子には何かあったのよっ。私の目に狂《くる》いはなかったんだわ。久高はぶつぶつ言ってたけどね!」
「ぶつぶつなんて言ってないぞ」
「なあに、久高ったら、負けを認めないわけ?」
リンネはずずいと顔を寄せると、その勝ち誇《ほこ》った美少女|面《づら》を至近|距離《きょり》でさらす。そんなにいばるな、と言い返したいところだけど、何も言えないのがくやしいところだ。
ま、確かにじいちゃんから手紙があったことは事実だし、僕だって、リンネやGが判読できないような古書を持っていたあの女の子が気にならないと言えば嘘《うそ》になる。あの短い文面でじいちゃんの真意は測りかねるけど、乗りかかった船だ。もう少しリンネの気まぐれにつきあうことを決心しつつ、空を見上げる。
今日も絶好の探偵《たんてい》日和《びより》だ。
さて、リンネが手綱《たづな》を解かれた悍馬《かんば》みたいにはりきっているとは言え、ただ街中をしらみつぶしに歩いていても女の子が見つかるはずもない。そこで僕らはもう一つの手がかりから攻《せ》めてみることにした。もう一つの手がかり……無論、あの子の落としていった本のことだ。
「やみくもに捜《さが》し回ってみてもその子が見つかるとも思えないし。ここは要領よくやってこうよ」
目指す先は、ここ数日僕らが日課のように通っていた公園から少し離《はな》れた場所にある市立図書館である。
「……ここ、図書館じゃない」
煉瓦《れんが》造りの重厚な建物を見上げ、リンネはなぜか顔を曇《くも》らせた。
「うん。ここであの表紙についていた紋章《もんしょう》について調べるんだ」
「……ここに入るの?」
「リンネ、やなの?」
「べつにイヤってわけじゃないけど……」
そう言いつつもリンネは明らかに口をへの字に曲げている。おおかた、外で誰《だれ》かを追跡《ついせき》したり、聞きこみしたりと刑事《けいじ》物ドラマみたいなことを想像してたんだろう。やむなく僕は折衷《せっちゅう》案を出すことにした。
「調べ物が終わったら、あとで公園に行くから。だからいこ?」
リンネは正面の入り口前でしばらくぐずっていたが、やがて渋々《しぶしぶ》といった感じでうなずいた。
中は静かだった。午前ということもあって、利用客はそれほどでもない。
空いていた手頃《てごろ》なテーブルを見つけそこを本拠地《ほんきょち》とした僕らは、早速《さっそく》手分けして関係のありそうな本を持ち寄ってみることにした。
僕は試《ため》しに『紋章学』と名のついた本を一冊手に取ってみた。
それによると紋章とはそもそも戦場で個人を認識《にんしき》するために作られたものらしい。その起源は英国の中世にさかのぼり、やがて戦争が絶え平和な時代に入ると権威《けんい》や支配権の象徴《しょうちょう》として用いられるようになり、戦場に行かない女性や聖職者の紋章も存在するようになったという。
紋章と一言でいってもいわば雑多な記号の集合体であり、中でも特に目立つのは、「シールド」と呼ばれる、紋章図形が描《えが》かれている部分だ。この部分をベースに紋章は無数のバリエーションが存在するらしい。
僕とリンネは改めて本の表紙の中央に彫《ほ》られた紋章を眺《なが》めた。
「この紋章にシールドなんてあったっけ?」
「……ない、わね」
僕の握《にぎ》りこぶしほどの大きさのその丸い図形は西洋の紋章のシールドの部分、いわゆる地の部分がなく、ばっと見た印象は紋章と言うよりはやはり日本の大名などの家紋に近い。やむなく僕らは紋章にかかわらず『紋』や『花押《かおう》』、各国伝統の固有印など、いわゆるエンブレム全般《ぜんぱん》に調査|範囲《はんい》を広げてみることにした。
リンネは初めのうちこそ僕と一緒《いっしょ》に本探しや資料集めに精を出していたが、すぐに飽《あ》きてきたらしい。気が進まないなりにページをめくったり、立ち上がって書棚《しょだな》巡《めぐ》りをしたりしていたが、やがて「ちょっと探検してくるわね」などと言い残し、いなくなってしまった。
「あれ? リンネ?」
ふと本から顔を上げた僕がきょろきょろしていると、しばらくしてリンネは息を弾《はず》ませて戻《もど》ってきた。まるで盗賊《とうぞく》の残した秘宝の在処《ありか》を見つけたみたいにその紫色《むらさきいろ》の瞳《ひとみ》を輝《かがや》かせている。
「ここの別館に素敵《すてき》なミルクホールがあったわ! お茶やコーヒーを飲めるんだって。ね、あとで行ってみない?」
僕は低く溜息《ためいき》をついた。
「……リンネ、あのね。僕らは……」
「わ、わかってるわよっ。だから『あとで』って言ったでしょ!」
リンネは頬《ほお》を赤らめると、どすんと椅子《いす》に腰《こし》を下ろした。そして手にしていた本を広げ、顔を隠《かく》して読み始める。タイトルは『かさこじぞう』。
もはや調べものでもなんでもない。
リンネはいわゆる愛書|狂《きょう》・書籍蒐集狂《ビブリオマニア》ではない。純粋《じゅんすい》な読書量ならともかく、その種の欲望は淡泊《たんぱく》なほうだ。
単にビブリオマニアというのならむしろGや遊佐のほうが遥《はる》かに上だろう。Gは世界中どの図書館でも司書が完璧《かんぺき》に務まるほど書物全般に精通しているし、遊佐は本好きが嵩《こう》じたあまりほとんどまともな人生から転落しかかっているような奴《やつ》だ。両者とも、「淫《いん》する」という形容がぴったりするほど書物という対象に深い情熱を注いでおり、同じ年頃でも「活字の詰《つ》まった一口チョコとかあったら便利だと思わない?」などと、日々の読書と健康補助食品の摂取《せっしゅ》をごっちゃに考えているどっかの女の子とはそもそも書物に対する愛情の度合いが違《ちが》う。
もっとも、そんなすごい二人を以《もっ》てしても一行も読めなかった書物を僕は今目の前にしているわけで、それを思えばついぼやきのひとつも出る。
「……しかし、こんな本がごろごろしてるバベルの塔《とう》って、一体どーいう場所なんだよ」
思わず僕が愚痴《ぐち》めいた言葉を漏《も》らすと、ブロンドを肩口《かたぐち》に垂らし、絵本に視線を落としていたリンネがちらりと顔を上げた。
「そうねえ、一言で言うと巨大《きょだい》な図書館ってとこかしら。『塔の住人』がたくさんそこで暮らしていて、中にはこの世のありとあらゆる本が貯蔵されているの。過去に記された本から未来に記されるであろう本まで、ね」
「ホントに天に届くような高さなの? ブリューゲルの絵にあるみたいにさ」
僕の問いにリンネは首を横に振《ふ》った。
「ううん。あれは後世の人が考え出したフィクションよ。実際の高さはそれほどでもなくて、そのかわり横に長いの。百キロくらいあるらしいわ」
「なんでそんなこと知ってるの?」
「ママに聞いたもん」
そっか。ママさんはバベルの塔の出身だったっけ。母親の実家がバベルの塔なんて女の子、この街じゅう探してもリンネくらいのもんだろうな。
「あれ? でも確かバベルの塔って途中《とちゅう》で壊《こわ》されたんじゃなかったっけ?」
「神話ね。増長した人間に対して神が怒《いか》りの鉄槌《てっつい》を下したの。久高、くわしいのね」
「前に調べたことがあるから」
「へえ」
「旧約聖書にバベルの塔のことがちょっと書いてあるんだ。創世記だったかな? ノアの洪水《こうずい》後、いまだ世界の言語が一つだったころ、人々は集まって天まで届く塔を作り始めたんだけど、それを見て怒《おこ》った神さまは人間たちを懲《こ》らしめるため言葉を乱し、意思の疎通《そつう》を困難にしてしまった。そのため、塔の建設は途中で中止され、人間たちは各地に分散し、それぞれの土地の言語を操るようになった、って奴」
「久高はその神話を信じる?」
リンネはどこかからかうように訊《たず》ねた。僕は肩《かた》をすくめた。
「信じるも何も、ただの伝承だろ。どっちかって言うと宗教的な暗喩《あんゆ》っていうよりは教訓を含《ふく》んだ人間へのアイロニーって感じだな。よくできてるけど」
僕の言葉にリンネは短くうなずいた。
「そうね。ちなみにその話には続きがあるの。言葉を混乱《バラル》させられた彼らはその後、神に対する贖罪《しょくざい》の意として各地に散った言葉の欠片《かけら》を拾い集め、傲慢《ごうまん》さを捨て、謙虚《けんきょ》にただひたすら物事を認識《にんしき》するために本を読むようになったの。それが時《とき》載《の》りの起源と言われているわ」
「時載りの起源、かあ」
僕は感心してうなずいた。リンネは苦笑《くしょう》した。
「ま、久高の言う通り、半分おとぎ話みたいなものだけどね。そういうわけで本の蒐集《しゅうしゅう》は時載りの本能みたいなものなの。時載りは本と共に生き、本と共に死ぬのよ。彼らの遺言《ゆいごん》を知ってる?『我が墓石に献花《けんか》は要《い》らず。ただ書を欲《ほっ》す』、よ。墓碑《ぼひ》銘《めい》にはみんなそう記すの」
「つーか、そうじゃない子もいるみたいだけど」
「あら、おあいにく様」
僕のつっこみにリンネはつんと顎《あご》を上げると、胸に手を当てて言った。
「私、ママの子であると同時にパパの子でもあるんだから!」
僕らは午前中いっぱいを図書館で過ごした。
成果は大してあがらず、机の上に山のように資料を積み上げた末に僕がたどり着いた結論は、あの本に彫《ほ》られた紋章《もんしょう》はどんな紋章|図鑑《ずかん》にも載っていないユニークなデザインのものである、ということだけだった。どうやら相手は予想以上の難物らしい。
時刻は既《すで》に一時をまわっていたのでいったん休憩《きゅうけい》を取ることにして、僕はその旨《むね》をリンネに伝えた。その途端《とたん》、机の上につっ伏《ぶ》していたリンネはぴょこんと野うさぎのようにはね起きた。その言葉をずっと心待ちにしていたらしい。
つーか、調べてたのは僕だけかよ。
「じゃあ、ミルクホールでお茶にしましょ! Let's go for munching!」
先程《さきほど》とはうって変わってリンネは元気よく歩き出した。
ミルクホールは図書館とは別棟《べつむね》にあった。瀟洒《しょうしゃ》な雰囲気《ふんいき》を持った店で、僕とリンネが利用するには少し大人っぽいが構わず入ることにする。
二面がガラス張りで通りに面しており、店内は日当たりがよかった。窓際《まどぎわ》の座席に腰《こし》を下ろすと、ガラス越《ご》しに街路樹の枝葉が風にそよぎ、敷石《しきいし》に落ちた斑《まだら》のような影《かげ》が微《かす》かに揺《ゆ》らぐのが見えた。
椅子《いす》に腰を下ろすなりリンネは宣言した。
「いい? 私が注文するからね。久高は何も言っちゃダメよ」
「はいはい」
なんかはりきっているのでここは任せることにする。
やがてウェイターがやってきた。
「いらっしゃいませ。ご注文は?」
「何かおすすめはありますか?」
ブロンドの美少女にいきなり笑顔《えがお》でそう問われ、一瞬《いっしゅん》年配のウェイターさんはびっくりしたようだったが、そこはさすがに落ち着いたもので、メニューを示すと丁寧《ていねい》に教えてくれる。
「こちら、ハート形のガトー・ショコラなどはいかがでしょうか。スポンジは特製|蜂蜜《はちみつ》入りで、表面にはココアパウダーと粉砂糖をまぶした他《ほか》、ビターチョコレートもトッピングされており大人の味がお楽しみになれますよ」
「これはなあに?」
「こちらは抹茶《まっちゃ》ミルクでございます。そしてこちらは当店お薦《すす》めのデザート、ナチュラルチーズケーキでございます。オリジナルブルーベリーソースと一緒《いっしょ》に召《め》し上がると一層おいしくなります」
「そうねえ……うーん……うーん……なににしようかな?」
リンネは真剣《しんけん》な表情で悩《なや》んでいる。
一方、僕は簡単なものだ。オレンジジュースにトマトのサンドイッチ。十秒で決める。リンネはその二十倍の時間をかけてメニューとさんざんにらめっこした末、おすまし顔でミルクティーにチーズケーキを頼《たの》んだ。
しばらくして注文した品が運ばれてきた。食器がそれぞれの前に配された後、リンネはテーブルの下でそっと僕のシャツの裾《すそ》を摘《つま》むと、くいと引っぱった。
「久高」
僕は小声で囁《ささや》いた。
「……ええと、まずこのブルーベリーソースをスプーンでケーキに直接かける。それからフォークを使って食べる」
リンネは軽くうなずくと、真剣な表情でスプーンでソースをすくいチーズケーキの上にかけた。そしてフォークに持ち変えると慎重《しんちょう》な手つきでチーズケーキの一角をさくりと切り取る。ケーキをほおばったリンネはたちまち幸せそうな笑みを浮《う》かべた。
器用にフォークを使うリンネを眺《なが》めつつ、僕はふと昔のことを思い出す。
あれは確か僕らが小学校に上がったばかりのころのことだ。
ある日、給食が終わってすぐ、リンネがわんわん泣きながら僕のところにやってくるなりこう言った。
「くだか、しょうゆってなに?」
その時、僕は改めてリンネが食事に関する知識を欠いていることに気づかされたのだった。実はママさんもリンネが小学校に上がる際、みんなと一緒に給食を食べる時のことを考え、基本的な料理や食品の名を憶《おぼ》えさせてはいたのだが、さすがに調味料までには気がまわらなかったらしい。何も知らないリンネは、給食に出されたお寿司《すし》セットを一切《いっさい》醤油《しょうゆ》をつけることなくそのまま全部食べてしまい、クラスの子たちに笑われたらしい。
べそをかきながら家に帰ったリンネは、早速《さっそく》その日から料理の名を憶える猛勉強《もうべんきょう》を始めた。ママさんにねだって料理本を数百冊|揃《そろ》えてもらうと寝《ね》るのも忘れて読みふけった。いくら字数の少ない料理本とはいえ、大の本|嫌《ぎら》いのリンネが進んで読書をしようとしたのだからやはり相当|口惜《くや》しかったのだろう。
努力の甲斐《かい》あって、以来リンネは馬鹿《ばか》にされることはなくなったが、それでもふとした折、ボロが出そうになる時がある。例えばパーティや夕食会など、人前で料理、それも初めて目にするような料理を食べなければならない時だ。
そんな時、リンネはいきなり箸《はし》をつけたりせず、傍《かたわ》らにいる僕が食べるのを待っている。そして僕の食べかたを注意深く見守った末、それをそのまま真似《まね》るのだ。これは僕ら二人の中で半ば習慣となっているルールで、これで大抵《たいてい》のシチュエーションは凌《しの》いできた。
今でもリンネは毎日|律儀《りちぎ》に学校の給食を食べている。それが時《とき》載《の》りにとって何の意味もないのにもかかわらず、だ。健啖家《けんたんか》のリンネは好き嫌いもなく、何でもよく食べるが、やはり日常の中で食事を摂《と》る経験がない哀《かな》しさ、時々子供でも知っているような簡単な料理や野菜の名前がとっさに出てこない時がある。
「食」は今でもリンネのコンプレックスなのだ。
「ね、お外に行ってみない? すごくお天気もいいし!」
ケーキを食べ終えた後、リンネがそう言い出した。
食後の散歩がてら、といった感じで街の中心部までの道のりをのんびりと歩くと、やがて僕とリンネが一番初めに「冒険《ぼうけん》の種探し」をやった大通公園の広場にある噴水《ふんすい》が見えてきた。
噴水の周りでは今日も多くの人がその縁《ふち》に腰《こし》を下ろし、涼《りょう》を取っている。広い花壇《かだん》には原色|鮮《あざ》やかな花が咲《さ》き誇《ほこ》り、遠くから訪《おとず》れたらしい観光客の目を楽しませている。
穏《おだ》やかな夏の午後の風に髪をなぶられつつ、あたりを散策する。
リンネは嬉《うれ》しいのか、先程《さきほど》から跳《は》ねるように歩いている。その足取りに合わせ、リンネが手に提《さ》げているバイオリンケースも揺れる。
ふとリンネが言った。
「ね、あの現場に行ってみない?」
僕らは大通公園から車道を一本|挟《はさ》んだ舗道《ほどう》の一画に向かった。数日前、僕とあの女の子が落っこちてきたスチールパイプに激突《げさとつ》しそうになり、リンネが時間を止めた場所である。
僕らはちょうど現場のま下に立ってみた。
割れた敷石《しきいし》は取り替《か》えられたのか、事故の痕跡《こんせき》は既《すで》にない。僕は頭上を見上げた。工事中を示すビルの外装を覆《おお》う青いビニールシートはそのままになっていたが、工事がまだ続けられているのか、それとも中止になったのかは、外からはよくわからなかった。
「あの女の子はどっちに行ったんだっけ?」
「ええと、久高とぶつかった後、たしかこっちに走っていったのよね」
「やってきた方向は……こっちか」
僕は逆の方向に顔を向けた。よく考えたら、僕もリンネも公園近辺を見まわるばかりで、女の子が歩いてきた方角を調べてはいなかった。
「行ってみましょうか?」
わくわく顔でリンネが呟《つぶや》いた時、彼女のポケットの中の携帯《けいたい》が涼《すず》やかな音を立てた。メールの着信音だった。
リンネは携帯を開き、届いた文面を確かめるなり口をへの字に曲げた。僕はメールの文面をのぞきこんだ。
『リンネ様。もう五時ですよ。そろそろお戻《もど》りになられないと奥様が心配なさいます。G』
Gは今でもこうやって門限が近づくとリンネの携帯に連絡《れんらく》を入れてくる。彼女の生真面目《きまじめ》な性格からか、それともGから見ればリンネはまだまだ子供に見えるのか、箕作家の司書はこうしたまめな定時連絡を怠《おこた》らない。
「もう! Gったら、いちいちうるさいんだから」
液晶《えきしょう》画面とにらめっこをしつつリンネは恨《うら》めしそうに口を尖《とが》らせたが、門限とあっては仕方がない。この子の面白《おもしろ》いところは、こんな性格ながら決められた門限は毎日きちんと守っているところである。
「調べものにかなり時間をかけたし、もうお開きかな」
「くやしいけど仕方ないわね。続きはまた明日にしましょう」
「あ、明日もやるの?」
あっけに取られて僕は言った。
「とーぜんでしょ! 久高、ちゃんとお迎《むか》えに来てね。明日は朝からこの一帯を探索《たんさく》よ!」
リンネは腰に手を当てていばった。
だがそうは問屋が卸《おろ》さなかった。
どうやらここ連日外に出歩き、ちっとも読書をしなかったことがママさんの逆鱗《げきりん》に触《ふ》れたらしい。外では帝釈天《たいしゃくてん》みたいに大いばりのリンネも、家ではママさんに敵《かな》うべくもない。帰宅後、娘《むすめ》のここ最近の所業をただすべく待ち構えていたママさんからたっぷりとお説教をもらったリンネは、罰《ばつ》として明日の午前中いっぱい書庫で過ごすことを命じられた。
「もしもし、久高? あのね、やっぱり明日、二時にお迎えに来てくれる……?」
しょぼくれた声で隣家《りんか》の女の子が僕に連絡を入れてきたのは夜も遅《おそ》くなったころだ。というわけで、明日の散策は急きょ午後二時からとなった。
明けて翌日。
朝、いつも通りの時間に起きた僕が、今頃《いまごろ》、ヘーゲルの『精神《せいしん》現象学《げんしょうがく》』あたりを半べそをかきながら読んでいるリンネを想像しつつ、ぽっかり空いた二時までの時間を何してすごそうかと考えていると、妹の凪《なぎ》が算数の教科書とノートを持ってとことこと僕のところへやってきた。
凪は僕を見ると、黙《だま》って教科書とノートを差し出した。
「兄ちゃんに夏休みの宿題を見てもらいたいの?」
凪はこっくりうなずいた。
「別にいいけど……お昼までだぞ。それでもいいか?」
「いい」
凪は無表情にうなずくと、卓《たく》の前に座布団《ざぶとん》を二つ運んできて置き、その一方にちょこんと腰を下ろした。用意がいい。
「よし、やるか」
二人の肘《ひじ》の間に『新しい算数3・上』と書かれた教科書を置き、開く。解らないところはどうやらあまりのある割り算らしい。
凪は僕よりもずっと几帳面《きちょうめん》な性格《たち》で、完全に理解できない部分があるとそこではたと立ち止まってしまい、混乱を抱《かか》えたままなかなか先に進めない。僕は例題をよく説明し、解き方を実地で見せてやった。
やがて凪は文章問題をすらすらと解けるようになった。
凪は嬉《うれ》しくなってきたのか、時折白い歯を見せる。それに比例するように、次第《しだい》に口を開く回数が増えていく。
凪はふと足を崩《くず》すと、何か言いかけた。
「あのね、お兄ちゃん、」
「なにも言うな」
凪はすぐに黙った。
最後の問題を解き終えたところでちょうど昼過ぎになったので、出かける支度《したく》をする。凪はまた羨《うらや》ましそうな顔をしていたが放《ほう》っておき、僕は家を出た。
僕んちと箕作|邸《てい》とは互《たが》いに隣《とな》り合っており、垣根《かきね》を一つ隔《へだ》てただけだから行き来は簡単だ。十秒で箕作邸の前に着き玄関先《げんかんささ》で呼び鈴《りん》を鳴らすと、ややあってリンネがよろよろと這《は》い出てきた。
「酷《ひど》い目にあったわ」
靴《くつ》を履《は》いたリンネはうーん、と大きく伸《の》びをした。長く遊び呆《ほう》けていた身での久方ぶりの読書はどうやらかなりの苦行だったらしい。いい薬だ。
「まったく、ママったら十五冊も読ませることないのに」
「そんなに読んだの?」
「だって、読まないとお外に行っちゃダメって言うんだもの」
リンネはほっぺを膨《ふく》らませたが、たっぷり「栄養」を摂《と》ったばかりだけあって、その口調はともかく顔色自体は悪くない。
リンネは時《とき》載《の》りとしては小食の部類に入る。
これは決して褒《ほ》められたことではなく、リンネが生まれたその日から一貫《いっかん》して。ママさんの頭痛の種であり続けているのだが、何度|叱《しか》りつけようと、リンネは決められた分量の読書をすることを厭《いと》う。
手を焼いたママさんがリンネの首根っこを掴《つか》まえて箕作家の地下にある書庫に鍵《かぎ》をかけて押し込めるのも再三で、そんな日の翌日は、さすがのリンネも多少しおらしくなっている。その際、いつもよりも顔色が良くなっているのは愛嬌《あいきょう》だが、そうでもしないとリンネは自発的に本を開かない。
娘の健康管理に手を焼くママさんの苦労を察する僕を尻目《しりめ》に、リンネは軽《かろ》やかにスキップしながら表通りを歩き出した。
昨日の続きをするべく例の現場に向かう。あたりをのんびり散策しつつ、取りあえず僕らはあの女の子が歩いてきたとおぼしき方角へ歩いてみることにした。風に揺《ゆ》れるポプラ並木が落とす影《かげ》を踏《ふ》み踏み、遊歩道をゆっくりと進む。左右に視線を配りつつ歩くので自然と歩みは遅くなる。
「いないわねえ」
早くもリンネはぼやきだしたが、そう簡単に見つかるはずもない。
公園に沿ってひたすら歩くうちに、徐々《じょじょ》にあたりの緑が深くなってくる。近くの池の畔《ほとり》をぐるりと取り巻く散策路コースに出たらしい。
さらに歩いているうちに視界が開け、僕らは小ぶりな広場の前に出ていた。
そこは小さな遊園地だった。
「子供ランドね。私、ママと来たことがあるわ」
ぐるりと四囲を見渡《みわた》し、リンネが懐《なつ》かしそうに言った。
「ここ、まだあったんだな」
「ね、行ってみましょ? それっ」
そう言うなり、リンネは走り出した。やむなく僕は後に続いた。
実際、敷地《しきち》の規模は遊園地と呼ぶにはかなり小さく、アトラクションの数もそれほど多くはない。それでもメリーゴーラウンドやコーヒーカップなど幼児が喜びそうなアトラクションがいくつか稼働《かどう》しており、夏休み中だけあって僕らぐらいの年頃《としごろ》の子がたくさんいる。
にしてもやけに混んでいると思ったが、程《ほど》なくしてその理由が明らかになった。施設《しせつ》の入り口に掲《かか》げられた案内板によると、この遊園地は施設の老朽化《ろうきゅうか》が激しく、今月中にも閉鎖《へいさ》されるらしい。つまりこれが最後の開園なのだ。
それを知ったせいでもないだろうが、広場の中央のアーチが架《か》かった休憩所《きゅうけいじょ》を通ったとき、ふとリンネが何かアトラクションに乗りたいと言い出した。
「せっかく遊園地に来たんですもの。私、何か乗り物に乗りたいわ」
リンネは腰《こし》に手を当てていばった。どうやら華《はな》やかなアトラクションと楽しそうな家族連れを見ているうちに我慢《がまん》しきれなくなったらしい。
まったく予期しなかったことではないとは言え、案の定の展開に僕は頭をかいた。
てゆーか、女の子|捜《さが》しはどうなったんだ。
「リンネ、僕らは遊びに来たんじゃないぜ」
自分でも多少の後ろめたさがあるのだろう、僕の言葉にリンネは恥《は》ずかしそうにほっぺを紅潮させたが、あくまで頑固《がんこ》に言いはった。
「だってこんな機会、滅多《めった》にないもん。千載一遇《せんざいいちぐう》のチャンスだもん。見てるだけなんてイヤよ。一回くらい乗りたいわ」
「うーん」
リンネは必死にがんばる。このぶんじゃ絶対に退《ひ》きそうにもない。
「……で、リンネは何に乗りたいの?」
「メリーゴーラウンド!」
リンネは即答《そくとう》した。
「メリーゴーラウンド?」
「そ。遊園地に来たからには、やっぱりメリーゴーラウンドに乗らないと画竜点睛《がりょうてんせい》を欠くというものだわっ」
「そんなもんかな」
リンネの熱意に押されて……というよりも熱風に煽《あお》られるようにして僕はメリーゴラウンドに向かった。
メリーゴラウンドはコーヒーカップのアトラクションの隣《となり》にあった。円形の柵《さく》に囲われた中、色とりどりのお馬さんたちがどこかノスタルジックな電飾《でんしょく》が施《ほどこ》された大きな傘《かさ》の下、優美なポーズを取りながら音楽に合わせて回転している。
リンネは早速《さっそく》わくわく顔で切符《きっぷ》売り場の列に加わると、僕を手招きした。
「何してるの? 早く久高も並んで」
「ぼ、僕も?」
「決まってるでしょっ。さ、ここに立って。早くしないと順番を取られちゃうわ」
僕は思わず左右を見渡した。僕らを除けば周りはお母さんに手を引かれた幼児か、どう大きく見積もっても僕らより三学年は年下の子供たちばっかりだ。
「なんか恥ずかしいなあ」
「何言ってんのよっ。ほらほら、あのお馬さんの顔を見てご覧なさいよ。いかにも久高に乗ってもらいたそうな顔してるわ」
どんな顔だよ。プラスチックだろ。
リンネにしっかり手を繋《つな》がれ、やむなく僕はリンネの隣に並んだ。リンネはポケットから財布《さいふ》を取り出すと、その場でぴょんと伸《の》び上がって料金表を確認《かくにん》する。やがて僕とリンネの順番が回ってきた。
リンネはたたた……と駆《か》け寄ると、一番乗りとばかり手近な白馬にまたがった。その横の黒馬に僕もまたがる。
現役《げんえき》稼動《かどう》中だけあって、結構年季の入ったお馬さんである。鞍《くら》や鼻面《はなづら》はところどころ塗装《とそう》が剥《は》げており簡単な補修の跡《あと》が目立つ。馬のたてがみの左右に生えた取っ手を掴《つか》むと、ややあって音楽が鳴り、メリーゴラウンドが動き出した。
「わーい」
リンネの黄金の髪《かみ》が弾《はず》む。
僕は取っ手を掴んだまま、ぐるりと四囲に視線を巡《めぐ》らせた。思ったよりも回転が速い。天井《てんじょう》に瞬《またた》く電飾や飾《かざ》りつけを眺《なが》める僕の耳にバックミュージックに紛《まぎ》れてゴトゴトという回転音が震動《しんどう》と共に届いてくる。
ま、いっか。リンネも楽しんでいるみたいだし。
満足げな表情で上下する馬にまたがっているリンネの横で、そのままメリーゴラウンドのリズムに身をゆだねていた時だった。
「あら……?」
リンネがふと呟《つぶや》いた。怪訝《けげん》に思って僕がそっちを向くと、リンネは木馬にまたがったまま首をねじり、滅多に見たこともないような真剣《しんけん》な表情で、懸命《けんめい》にある方向を見ようとしている。僕はつられてリンネが顔を向けている方角に視線を向けた。
隣のコーヒーカップのアトラクションの脇《わき》で、遊び疲《つか》れたのか、口を開けたまま父親の背中でうたた寝《ね》している男の子がいる。その子が指に絡《から》めた紐《ひも》付きの赤い風船が風に揺《ゆ》れるその横を、ビュータワーの方へ歩いていく制服姿の小柄《こがら》な女の子が一人。
まさか。
と、僕が思うのとリンネが木馬からすべり降りるのとが同時だった。
リンネは木馬の据《す》えられた回転中の台座に立つと、呆《あき》れたことに一瞬《いっしゅん》時間を止めた。台座の上のすべてのものが凍《こお》りつく。その隙《すき》にリンネはメリーゴラウンドの外へ飛び出すと、ひらりと柵を飛び越《こ》え、一気に駆けだした。
「ち、ちょっと、リンネ!」
物も言わず駆けていくリンネを追おうと僕はあわてて木馬を降りた。だが既《すで》にメリーゴラウンドは動き出している。やむなく僕は助走をつけると、回転中の台座の端《はし》で思いっきり脚《あし》を踏《ふ》みこみ、飛び降りた。
「わっ」
「きゃあっ」
突然《とつぜん》運転中のメリーゴラウンドから子馬みたいに転がり出てきた僕を見て、見物客が悲鳴を上げる。だが気にしてなどいられない。僕は体勢を立て直すと、そのまま全速力でリンネを追いかけた。女の子ながらリンネは足が速い。
「待ってよ、リンネ!」
「あの子よ!」
振《ふ》り返りもせずにリンネが怒鳴《どな》る。
そう言われ、僕はもう一度リンネが追いかけている女の子を目で追った。年は凪と同じくらいだろうか。白い、糊《のり》のきいたブラウスに紺《こん》のボレロの制服には確かに見覚えがある。
その奇妙《きみょう》な追跡劇《ついせきげき》は二分ほど続いただろうか。ようやくリンネはビュータワーの下でその子に追いつき、後ろから声をかけた。
「こんにちはっ」
「……え?」
女の子は振り返ると、笑顔で息を弾ませているリンネと、少し遅《おく》れて駆けてきた僕を怪訝そうに見つめ返す。
僕は改めて間近からその子の容姿を確認した。額のところでまっすぐに切り揃《そろ》えられた前髪の形は記憶《きおく》通りだったが、髪の長さは思っていたよりも少し短かった。その髪の下で見覚えのある黒々とした瞳《ひとみ》が物問いたげに揺れている。
「あのう……どなた?」
女の子はベレー帽《ぼう》をちょこんと頭に載《の》せたまま可愛《かわい》らしく首を傾《かし》げた。僕らは初めてその子の声を聞いたのだった。小作りな顔立ちにふさわしい、柔《やわ》らかな声だった。
リンネはブリッジを覗《のぞ》かせつつ、笑顔で言った。
「あなた、この間の子でしょ。ほら、あの落下事故の時に会った……」
リンネがそこまで言いかけた時だった。その子ははっと息をのむと、一瞬僕の顔を認め、なぜか動揺《どうよう》したように一歩|後退《あとずさ》った。
「あの、私……ご、ごめんなさい!」
そう言うなり燕《つばめ》のように身を翻《ひるがえ》す。
「あ、待って! ど、どうしたの?」
リンネはあわててその子の後を追いかけようとした。だが、間の悪いことにその時ちょうど通りがかった大勢の家族連れが僕らとその子の間を遮《さえぎ》った。その僅《わず》かの間に、女の子はまるで煙《けむり》のように僕らの視界から消えていた。
僕らは人混みをかき分け、懸命にあたりを捜《さが》したがやはりあの子らしき人影《ひとかげ》はない。
ちぇっ。また見失ってしまった。
諦《あきら》めきれず、僕とリンネがビュータワーのまわりをうろうろしていた時だった。
ふと、あの制服を着た女の子が目の前を横切った。一瞬、あの子だと思い、身構えた僕らだったが、すぐに背恰好《せかっこう》から別人だと気づく。さらにその横を、今度はチェロの楽器ケースを肩《かた》に背負《しょ》った別の女の子が一人、中央の広場の方へ歩いていく。さらに続いて姿を現す女の子の群れ。たぶん、数にして一個小隊はいるに違《ちが》いない。
「え?」
年齢《ねんれい》は僕らと同じくらいだろうか。女の子たちは皆《みな》、手にそれぞれの楽器ケースを提《さ》げ、全員が全員、白い糊のきいたブラウスに紺のボレロの制服を身に着けている。単独では清楚《せいそ》に映る三つ折りの白いソックスに黒いエナメル靴《くつ》のコントラストも、こうもまとめて揃うと軍靴《ぐんか》並の迫力《はくりょく》だ。
あっけにとられる僕らの脇を彼女たちはぞろぞろと、あの、女の子特有の賑《にぎ》やかさを撒《ま》き散らしながらゆっくりと通り過ぎていく。それを見送る僕の目に、ふとある物が飛びこんできた。
「……リンネ」
「なに?」
「あれ」
僕は指さした。
それはビュータワーの入口に貼《は》られた一枚のポスターだった。市立国際音楽ホール公演予定、と銘《めい》打《う》たれたその紙にはこう書かれていた。
『トレンティーノ音楽院による弦楽《げんがく》四重奏・発表会』
日付は明日となっていた。
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4章
市立国際音楽ホールは緑に囲まれた森林公園の外れにある。
園内を貫《つらぬ》くように伸《の》びる並木道を気持ちいい風になぶられながら五分ほど歩くと、木々の向こうにガラス張りのロビーが特徴《とくちょう》的な瀟洒《しょうしゃ》な建物が見えてくる。近代的な造りながら白亜《はくあ》の柱と扇状《おうぎじょう》のバルコニーが印象的な建物で、週末にクラシックを聴《き》きに出かけるほど雅《みやび》な生活は送っていない僕でも、これが音楽ホールとしてはかなり上質なほうであることは何となくわかる。
「wow!」
手の平を目の上に翳《かざ》したリンネが思わず声を上げる。
公演プログラムによればトレンティーノ音楽院の生徒による発表会は午後から。僕らがあの子の制服を見間違えていない限り、あの子はそこにいるはずだ。
一時三十分。開場時刻に合わせて聴衆《ちょうしゅう》とおぼしき人々が徐々《じょじょ》に集まってくる。
「おそーい。もう! 遊佐くん、何してたのっ!」
「悪い」
と言うわりにはいっこうに悪びれた様子もなく、両手をポケットにつっこんだまま長身の司馬遊佐がゆっくりと近づいてきた。
よれよれのネルシャツに膝《ひざ》の抜《ぬ》けたズボン、完全に底の抜けたぺらぺらの短靴《たんぐつ》をじかに素足《すあし》で履《は》いている。「よく言って小綺麗《こぎれい》な浮浪《ふろう》少年」といったところだが、首から上の、どこの貴族の御曹司《おんぞうし》かと見間違うような高貴な顔立ちと柔らかなまなざし、ふわふわした淡《あわ》いくせっ毛といった諸要素が身なりの酷《ひど》さを中和しており、そのせいか、なんとか平民になりすまそうと衣裳《いしょう》を変《か》えてみたがあまりうまくいっていない世慣れぬ王子様、といった雰囲気《ふんいき》である。薄汚《うすざたな》いなりでも紛《まが》うことなき美貌《びぼう》の前に、すれ違った女の子たちが呆然《ぼうぜん》と歩みを止める。
容姿のいい奴《やつ》は得だ。
その遊佐はつくづくと僕を眺《なが》めて言った。
「……なんか、齢《よわい》十二にしていろいろ背負ってるなあ。お前」
「ほっといてくれ」
そういう僕の出《い》で立ちは、ワークパンツに普通《ふつう》のTシャツだからべつにおかしな恰好《かっこう》というわけじゃない。ただ、右手にはバイオリンケース、左手には凪の手、背中にはねはんの予備の着替《きが》えと水筒《すいとう》とおやつの本の入ったナップザック。そして足下《あしもと》では、まさにその当人がしゃがみこんで敷石《しきいし》の隙間《すきま》に穿《うが》たれた蟻《あり》の巣の穴を熱心に眺めている……といった諸要素がかみ合えば、自分がどんな風に見られているのか大体想像はつく。
あんまり想像したくないけどさ。
「ま、お前らしいっちゃらしーけど」
「そうかい」
遊佐の中にある「僕らしさ」は永遠に詮索《せんさく》しないことに決め、僕は自分の手を握《にげ》る凪の小さな手を眺めた。行きの電車内から今に至るまで、凪はずうっと僕の手を放さない。
「……だいたいさ。何でお前もいるの?」
「ひまだったから」
凪は言葉少なく言った。
「でも今日は、兄ちゃんについてきてもそんなに楽しいことはないと思うよ」
「いいもん。それでも」
なんかさっきから機嫌《きげん》が悪い。そのくせ手を放《はな》そうとしないけど。
「にしても、その子の着ていたのが学校の制服じゃなく、音楽院の制服だったとはね」
くせっ毛を風になぶらせて音楽ホールを仰《あお》ぎつつ、遊佐が言った。僕はうなずいた。
「確かにあの子が音楽院の生徒だったと考えれば、バイオリンケースを持っていたことも筋は通るんだよな」
「それでも、その中に本を入れていた、っていう謎《なぞ》は残るぜ」
「きっと隠《かく》していたのよ。それか、人目につかせたくなかった、とか」
リンネは顎《あご》の縁《ふち》に手を当て、シャーロック・ホームズよろしくいかにも名推理をしている、というポーズを拵《こしら》えると、一人うなずいて見せた。
「うーん。陰謀《いんぼう》の匂《にお》いがぶんぶんするわ。やっぱりあの子は謎の組織に狙《ねら》われていたのよ!」
リンネはどうしてもそっち方面に話を持っていきたいらしい。
「さ、今日こそあの子を見つけ出すわよ!」
リンネは元気よくそう言うと、「ねはん。いこ」と弟の手を取り、音楽ホールに向かって颯爽《さっそう》と歩き出した。遊佐、凪と僕の順に後に続く。
と、その時だった。
「お兄ちゃん、危ない」
と、凪の短い声に僕が後ろを振《ふ》り返るのと、たたた……という全速力で駆《か》けてくる足音が迫《せま》ってくるのとほとんど同時だった。
「きゃあっ!」
「わっ」
避《よ》ける暇《ひま》もなく、僕は鉄砲玉《てっぽうだま》みたいに勢いよくつっこんできた誰《だれ》かと思いっきり衝突《しょうとつ》し、敷石の上に転がっていた。
「いてて……」
こんな見通しのいいところでどうやったら人とぶつかることが可能なんだと思いつつ、僕は上体を起こした。
普通、正面からぶつかられたら勢いに押されてあお向けに倒《たお》れるものだけど、僕はうつぶせに近い状態で倒れていた。相手が小柄《こがら》だったのと、相手がぶつかった瞬間《しゅんかん》脚《あし》を滑《すべ》らせたせいで、立ち脚《あし》が両脚とも払《はら》われたような恰好になったらしい。
プレミアリーグの試合でも滅多《めった》にお目にかかれないような鮮《あざ》やかなスライディング・タックルだ。レッド・カード即刻《そっこく》退場は間違いない。
取りあえずそそっかしい追突者《ついとつしゃ》に文句の一つも言ってやろうと、僕は下を見た。
「あ……」
微《かす》かな吐息《といき》。
身体《からだ》の下でかわいい女の子が頬《ほお》を上気させて僕を見上げていた。
ふと妙《みょう》な既視《きし》感にとらわれ、僕は文句を言うのも忘れて両腕《りょううで》の中にあるその子をじっと見つめた。
年は僕やリンネと同じくらい。涼《すず》しげな丸い額と柔《やわ》らかな鼻梁《びりょう》。焦《こ》げ茶の瞳《ひとみ》は生気に富み、生き生きと輝《かがや》いている。
かわいい子だけれど見覚えはない。あるのは状況《じょうきょう》の方だ。その子とは落っこちてきた鉄パイプを避けようとしてもつれ合い、助け起こそうとしたら逃《に》げられて……とそこまで考えたところでようやく既視感の原因に思い至る。
そうか、この子はあの制服を着ているんだ。
クレセント・ギンガムのベストにプリーツ、紺《こん》のボレロと三つ折りの白いソックス。この子のほうがいくらか年上みたいだけど、ボレロの胸にあるエンブレムを見れば同じ音楽院に所属していることがわかる……。
ん? 胸?
ふとある予感に駆られて、僕はそろそろと自分の右手が載《の》っている敷石と思《おぼ》しき場所に目線を向けた。
胸。
「あ……」
「あ………」
今度は吐息じゃない。嘆詞《たんし》だ。
それもどっちにとってもかなり深刻な意味合いの。
僕はゆっくりと右手を二センチほど浮《う》かせ、続いて十センチほど右に横にずらしたが、それですべてを水に流すほどこの女の子は寛容《かんよう》ではなかった。どうやら僕はこの子の逆鱗《げきりん》に文字通り触《ふ》れてしまったらしい。
しかもかなり未発達の。
「……最っ低。人のむむ胸を……」
女の子は怒《いか》りに震《ふる》えた目で僕を睨《にら》みつけつつ、真っ赤になって両腕でさっと自分の胸を抱《かか》えこんだ。
「ご、ごめん。って、ちょっと待て。僕は悪くないぞ。そっちが急にぶつかってきたんだし」
「わざとでしょ! 絶対わざとだわ!」
「違《ちが》うよ! 敷石《しきいし》と間違えたんだよ。ホントに。だって硬《かた》かったし……」
望む望まないにかかわらず人は大人になっていく。率直《そっちょく》さとは時に美徳にはならないことを、僕はこの時学んだ。
「だ、誰が敷石よっ!」
かわいいのは顔だけで、性格はかなりの跳《は》ねっ返りらしい。今度こそ地面に突《つ》っ伏《ぷ》した僕を女の子はさらにぽかぽかと叩《たた》いてくる。
あのー、審判《しんぱん》どこですか?
僕らはどうにか起き上がった。女の子はようやく落ち着いてきたのか制服についた埃《ほこり》を手で払ったが、その間もずっと僕の顔を上目遣《うわめづか》いで睨みつけたままだ。僕が地面に落ちていたベレー帽《ぼう》を拾っておそるおそる差し出すと、奪《うば》い取るように引ったくる。
ほっぺについた髪《かみ》を一払いしてベレー帽を無造作に被《かぶ》ると、その子はダークブラウンの瞳で僕をまっすぐ見上げ、
「最低な子! おまけに無神経でがさつ! あなたみたいな子は三歳くらいから人生やり直して女性に対するマナーを一から身につけてくればいいんだわっ! 演奏聞きに来る前にねっ」
[#挿絵(img/mb671_089.jpg)入る]
一方的にそうまくし立てると、女の子は慌《あわ》てて駆《か》け出したが、建物のエントランスでもう一度こっちに向きなおり、あたりに響《ひび》きわたるような大声で、
「えっち!!」
そう怒鳴《どな》るとその子は髪を翻《ひるがえ》して消えた。
「なんだ、あれ?」遊佐が言う。
「わからん。てゆーか、わかりたくない」
ふとリンネと目が合う。リンネはほっぺたを膨《ふく》らますとぷいっと視線を逸《そ》らし、さっさと建物の中に入っていく。凪が僕の方を一瞥《いちべつ》し、後に続く。
「えっち」
すれ違いざまに凪が言った。
チケットを購入《こうにゅう》し、中に入る。入り口でもたついたせいで、既《すで》にコンサートは始まっていた。
「いい? ねはん。いい子にしてなきゃダメよ。うるさくしたら周りの人に迷惑《めいわく》になるから。わかった?」
ロビーでリンネがお姉さん風を吹《ふ》かせて弟に向かって言った。よくゆーよ、と僕は思ったが、ねはんは考え深そうな表情で姉の言うことをじっと聞いている。
「うん。ぼく、いいこにするよ」
ねはんはそう言うと短い手を振《ふ》り上げ、ばんざいをするとおなかを突き出す。シャツを入れろという合図らしい。リンネは腰《こし》をかがめると、ねはんのはみ出たシャツの裾《すそ》をズボンの中にたくし入れてやる。こういう所だけを見ていれば、時載りの姉弟《きょうだい》も人間の姉弟と何にも変わらないんだけどな。
何はともあれプログラムを片手にホールに向かう。
僕らがロビーからホールに通じる廊下《ろうか》の角を曲がった時だった。つと、リンネの前をとことこ歩いていたねはんが向こうから歩いてきた男の人に突き当たった。
「おっと」
それは背の高い外国人だった。よろけるねはんを優美な物腰で受け止めた際、ふわりと着ていたコートの裾が膨らむ。
年齢《ねんれい》は三十歳くらいだろうか。黒い髪を後ろに撫《な》でつけ、整えられた口髭《くちひげ》を生やしている。仕立ての良い黒の背広を纏《まと》い、白い手袋《てぶくろ》を填《は》めたその洗練された態度からは音楽を生業《なりわい》としている者特有の雰囲気《ふんいき》が薫《かお》っている。
「あ、ごめんなさい」
あわてて弟に走り寄ったリンネが頭を下げる。
「いや」
男の人は唇《くちびる》の端《はし》に笑《え》みを刻むと、そっとねはんを絨毯《じゅうたん》の上に降ろした。その顔立ちはすごく整っていたけれど、眉間《みけん》には芸術家らしい、深い皺《しわ》が数本|彫《ほ》りこまれている。
「あ、あのう、ありがとうございます」
「気をつけなさい」
男は犀利《さいり》な表情にさらに笑みを散らせると、すっと身を翻す。
誰《だれ》だろう。コンサートを聴《き》きに来た有名な作曲家か誰かかな?
「もうっ。ねはんたらダメでしょ。前を見てないと」
僕が遠ざかる男の人の背を見送っていると、リンネがふんぞり返ってねはんをたしなめている。ねはんがしょぼんと俯《うつむ》いたので、やむなく僕は凪の手を放《はな》してねはんの腋《わき》に腕《うで》を差し入れて抱《だ》っこした。そのままホールの中に入る。
「いるか?」
適当な座席に腰を下ろすなり、ステージに目を向けて遊佐が言う。
ステージ上では既に演奏が始まっていた。歳《とし》はたぶん九歳から十二歳くらいの間だろう。例の制服を身に着けた女の子たちが四人、客席に向かって扇状《おうざじょう》に置かれた椅子《いす》に腰を下ろし、それぞれの楽器を演奏している。
「弦楽《げんがく》四重奏って、楽器が三種類だったんだね」
初めて実際の演奏を目《ま》の当たりにした僕の感想に、さすがに遊佐が呆《あき》れたような表情を浮《う》かべたが、リンネは笑わずに律儀《りちぎ》にうなずいた。
「ええ。弦楽四重奏は二本のバイオリン、一本ずつのビオラ、チェロによって構成されているの。その起源は十八世紀の音楽様式の大きな変化全体に関係しているため一概《いちがい》には特定できないけれど、一七五〇年代末のハイドンの作品がこのジャンルの先駆《せんく》とされているわ。一七七〇年代前後からはボッケリーニやモーツァルトの作品によって古典派様式の生成と共に曲種や様式は本格化され、特にモーツァルトがハイドン同様の楽章配列を取るようになって以降、最も作曲される機会が多い『室内楽の王者』としての地位を占《し》めるに到《いた》ったの。室内楽形態の中で、ピアノ三重奏は三者の競い合う性格が強いのに対し、弦楽四重奏は四人の奏者が音域の異なる同系統の楽器を用いながらも、四者が協調して一つの響きを形作っていく要素が強い、と言われているわ」
「……ふ、ふうん。くわしいね」
「うん。この間ママにお仕置きで書庫に入れられた時、『世界音楽辞典』を全巻読破したから」
弦楽四重奏の概要《がいよう》を十秒で完璧《かんぺき》に説明してみせたリンネは、あっさりと種明かしをしてみせた。この子と付き合っていると、まれにこうした衒学《げんがく》の嵐《あらし》に出くわすことがある。箕作家の蔵書はママさんの好みもあって学術書が中心だから、リンネの読書|傾向《けいこう》も必然的にそれに準ずることになる。
弦楽四重奏の歴史を学んだところで音楽|鑑賞《かんしょう》に戻《もど》る。しばらくして楽団の入れ替《か》えがあり、その間に僕とリンネは一旦《いったん》トイレに立った。戻ってみると照明は落ち、既《すで》に次の演奏が始まっていた。やむなく後方の壁《かべ》で演奏が終わるのを待っていると、ふと僕は横に先程《さきほど》廊下で会った男の人が佇立《ちょりつ》しているのに気がついた。
彼は壁に背を預けたまま、宙に漂《ただよ》う旋律《せんりつ》の行方《ゆくえ》を追うように目を瞑《つぶ》り、じっと音楽に耳を傾《かたむ》けている。まるで皮膚《ひふ》から音のすべてを吸い上げようとするように、その整った横顔は微動《びどう》だにしない。
僕らはしばらくの間、並んで演奏に聴き入った。
「惜《お》しいことだ」
ふとその人が声低く呟《つぶや》いた。
「え?」
「惜しいことだ、と言ったのだよ。あたら名曲を遺《のこ》しつつも彼ら自身はすでに今生にない。人の生の儚《はかな》く、なんと残酷《ざんこく》なことか。そうは思わないかね?」
「は、はあ……」
残酷もなにも、僕は今|弾《ひ》かれている楽曲が誰の手によるものかも知らないのだから彼らの業績を云々《うんぬん》できるはずもない。
何と言っていいかわからず僕が困っていると、僕らの会話を聞きとがめたリンネが隣《となり》から言葉を挟《はさ》んだ。
「あら、そんなことないわ。遺された曲はこんなに素敵《すてき》で、再現されるたびに私たちを楽しませてくれるんですもの。それって、じゅうぶん素敵なことだと思うわっ」
そう言うとリンネは再び明るくスポットライトに照らされたステージにまなざしを向ける。
ステージ上では女の子たちの手によって絡《から》み合うような追走曲《フーガ》が演奏されている。
「聞き手はそうだ。だが作り手はどうかな?」
「作り手?」
リンネは小首を傾《かし》げた。
「そう。彼らは暗い黄泉《よみ》の中、自分たちの名曲が聞き伝えられていることなど知る由《よし》もない。つまりはその短い一生は混迷《こんめい》と焦燥《しょうそう》、不遇《ふぐう》と失意の中に消えたわけだ。これが悲劇でなくて何かね?」
リンネみたいな性格の子からすれば、それは思いも寄らぬ考え方だったのだろう。リンネはその言葉を吟味《ぎんみ》するようにしばし口をへの字に曲げていたが、やがてきっぱりと言った。
「うーん。それでも私は作り手も幸せだと思うな。だって、演奏されずに人々を感動させる名曲なんてないもの」
「受くるより与《あた》うるが幸いなり、か」
その人は一瞬《いっしゅん》、どこか禍々《まがまが》しい笑みを暗闇《くらやみ》に放つと、つと長身を翻《ひるがえ》した。リンネが訊《たず》ねた。
「あら、最後まで聞いていかないんですか?」
「もう充分《じゅうぶん》楽しんだよ。失礼、お嬢《じょう》さん」
背中|越《ご》しにそう答えると、その男の人はゆっくりと歩み去っていく。僕らは無言で長身がドアの向こうに消えるのを見送った。
「変な人」
ややあってリンネがぽつりと呟いた。
その後、席に戻った僕らはコンサートの鑑賞を続けた。
や、上手な演奏だったよ。僕みたいな音楽に詳《くわ》しくない奴《やつ》でも、聞いているだけでどこか厳《おごそ》かな気持ちになるような、そんな音色だった。一組の演奏が終わると続いて次の一組が登場し、順に素敵な演奏を披露《ひろう》していく。僕らはしばらくの間、僕らとたいして歳の違《ちが》わない子たちが紡《つむ》ぐ演奏に身を委《ゆだ》ねていた。
「ん、あの子じゃないか?」
何組目かの演奏が始まった時だった。ふとステージ上に目を向けていた遊佐が小声で言った。
「え、いたの?! どこどこ?」
リンネがあわてて身を乗り出す。
「や、違う。敷石《しきいし》のほう」
「……男の子ってサイテー」
遊佐の言い草にリンネはじろりと白い目を向けたが、そもそも遊佐はあのバイオリンケースの子の顔を知らないのだから、これはリンネの早とちりというものである。
僕は遊佐が示した方向に目を凝《こ》らした。
遊佐の言う「敷石のほう」はカルテットの左から二番目にいた。一際《ひときわ》小柄《こがら》な身体《からだ》でありながら堂々とバイオリンを演奏している。頭を軽く傾け、真剣《しんけん》な面持《おもも》ちで楽譜《がくふ》を見つめている横顔に、先程のハード・タックラーの面影《おもかげ》はない。ステージからかなり離《はな》れている僕らの位置からでも、あの子が奏《かな》でるバイオリンの伸《の》びやかな音がはっきりと聞き取れた。
「……綺麗《きれい》な音色」
リンネがぽつりと言う。
その点に関しては同感だったが、正直、その綺麗な音色の紡ぎ手に思いっきりどつかれた身の上としては、心境はいささか複雑だ。スライディング・タックルと絶対音感と優美な容姿が鼎立《ていりつ》するなんて今まで知らなかったし。
やがて演奏は終わった。
一瞬の沈黙《ちんもく》の後、決しておざなりではないとわかる拍手《はくしゅ》が聴衆《ちょうしゅう》から鳴り響《ひび》き、立ち上がった生徒たちが丁寧《ていねい》な一礼をした時、僕らは一つの結論に辿《たど》りつかざるを得なかった。
結論。あの子はいなかった。
「待ち人来たらず、か」
音楽ホール外。
遊歩道|脇《わき》のベンチに腰《こし》を下ろし、高く澄《す》んだ空を見上げて遊佐が呟《つぶや》いた。その隣では凪の膝《ひざ》の上でねはんがリュックから出した本を読んでいる。
「さて、と。これからどうする、久高?」
「どうするったって、あとは控《ひか》え室に行って、直接聞いてみるくらいしかないけど……」
僕の呟きにリンネはうなずいた。
「仕方ないわね。じゃあ、それでいきましょ」
「簡単に言うなよ。関係者以外立入禁止だったぞ」
「なんとか隙《すき》を衝《つ》いて押し入るのよ。首実検すれば必ず見つかると思うわ」
首実検って。
「うーん」
あまりスマートな作戦とは言えないリンネのアイデアに、僕と遊佐が同時にうなった時だった。
ふと僕は音楽ホールのエントランス付近に見覚えのある人影を見つけた。前髪《まえがみ》をピン留めで固定し、おでこを剥《む》き出しにした小柄な女の子。公演前に僕にぶつかってきたあの女の子だ。
「あの子、もう帰るのか。やけに慌《あわ》ただしい帰宅だな」
遊佐が呟いた。
出口に向かうその子を僕は何となく見つめた。今思うと、妙《みょう》な予感があったのかもしれない。少なくともかなりドジな子だっていうのは知ってたしな。
小柄な子がよくそうであるように、襟足《えりあし》から定規を差したみたいに背筋をまっすぐに伸ばし、律動的な歩調で出口に向かう。そこまではよかったのだが、案の定と言うべきか、女の子は回転ドアの直前でまたこてんと転んだ。たぶん毛足の長い絨毯《じゅうたん》に靴《くつ》の爪先《つまさき》を取られたんだろう。
そそっかしい子だな、と思う暇《ひま》もない。彼女はうつぶせに倒《たお》れ、その頭を挟《はさ》むように回転ドアの扉《とびら》が迫《せま》ってくる。
だが次の瞬間《しゅんかん》だった。
回転ドアはまるで女の子がつまずくのを予見していたかのようにぴたりと動きを止め、女の子の身体に触《ふ》れることを拒《こば》んだ。ちょうど外から中に入ろうとサラリーマン風の男の人が一人、対面から回転ドアを押したが、扉は凍《こお》りついたようにびくともしない。
しきりに扉を押したり引いたりしている彼をよそに、女の子は少しも慌てることなく、回転ドアを「待たせた」ままゆっくりと立ち上がると、スカートについた埃《ほこり》を払《はら》う余裕《よゆう》すら見せたあと、ゆうゆうとガラス扉に封切《ふうき》られたスペースに身体を差し入れた。
とたんに回転ドアが動き出す。
呆然《ぼうぜん》とする僕らの目の前で女の子は回転ドアを潜《くぐ》ると、何食わぬ顔でエントランスを後にした。周囲に人の姿がなかったわけではないが、この出来事に気づいたものは誰《だれ》もいなかった。女の子と入れ違いに建物に入った男の人も、何となく訝《いぶか》しそうな表情を浮《う》かべつつも去っていく。女の子が倒れる寸前に、ドアに向かって微《かす》かに指を舞《ま》わしたのを見|逃《のが》していたら、たぶん僕らも不自然さを感じなかったに違いない。
「見た? 今の!」
ややあって、リンネが囁《ささや》くように言った。
「見た」
「俺も見た」
取りあえず、垂らした釣《つ》り糸に手応《てごた》えはあったらしい。
いささか見当|違《ちが》いの方向からではあるけれど。
「ターゲットの移動|確認《かくにん》」
昼下がり、買い物客で賑《にぎ》わう繁華街《はんかがい》の一画。
ブティックの外壁《がいへき》に背中をくっつけ、ガラスのショーウインドー越《ご》しに反対側の舗道《ほどう》を見つめていたリンネが僕に合図した。生き生きと輝《かがや》くその紫《むらさき》の視線の先で、女の子が通りを早足で横切っていく。
「ほら、久高、復唱はどうしたの?」
「……移動確認」
僕が復唱するなり、リンネはおもむろに壁《かべ》を離《はな》れた。そして電柱、ドーナツショップの看板、路上|駐車《ちゅうしゃ》中の車の陰《かげ》、と遮蔽《しゃへい》物の間を次々にわたりつつ獲物《えもの》との距離《きょり》を詰《つ》めては、その都度顔だけぴょこんと出して相手の様子をうかがう。最後にたたた……と十メートルばかりの距離を一気に駆《か》け抜《ぬ》け、中華《ちゅうか》料理店の黄色い看板の陰《かげ》に身をひそめる。前転しながら飛びこまなかったのは褒《ほ》めていいのかもしれない。
「ターゲット」の後ろ姿に変化がないのを確認してリンネは満足そうだったが、僕がねはんの手を引きつつ歩いて側《そば》に近寄ると、とたんに不服そうな表情を浮かべた。
「もう! 久高ったら、もっと緊迫《きんぱく》感持ちなさいよっ」
「……ていうか、全然気づかれてないし」
昼に家を出た時は音楽|鑑賞会《かんしょうかい》として始まったはずの僕らの集まりは、午後三時半現在、なぜか探偵《たんてい》映画の様相を呈《てい》している。
どうやらあの女の子は街中を散策するつもりだったらしく、バイオリンケース一つを肩《かた》に提《さ》げたまま、昼下がりの街角をのんびりと歩いている。まさか自分の後をぴたりとつける謎《なぞ》のあやしい五人組が背後に迫っているとは夢にも思っていまい。
もっとも、探偵になりきって悦《えつ》に入っているのはリンネだけで、他《ほか》の四人は物陰に潜《ひそ》んだり、壁に貼《は》りついたりするリンネの後をただぞろぞろとついていっているだけの話である。
「つーか、本人|捕《つか》まえて直接聞くのが一番手っ取り早くない? あなたは時《とき》載《の》りですか? って」
今まで黙《だま》ってついてきた遊佐があっさり禁句を口にした。あいかわらず何も塗《ぬ》ってないトースト並に淡泊《たんぱく》な奴《やつ》である。
だがリンネは即座《そくざ》にその案をはねのけた。
「ダメよ! そんなの」
「どうして?」
「だって面白《おもしろ》くないじゃない!」
リンネはきっぱりと言った。リンネにすれば真実とは靴底《くつぞこ》の厚みと引き替《か》えにもたらされるものであって、労力を厭《いと》うて代価だけを手にするのは、彼女の探偵|哲学《てつがく》に反するのだろう。
やれやれ。
ますます暴走ぎみのリンネのテンションにさすがに耐《た》えかね、僕は思わず肩を落とした。
「……なんでこんな羽目になったんだ、って……そもそも、じいちゃんの手紙がタイムリー過ぎたことが原因なんだよな」
妙《みょう》な紙切れ一枚寄こすだけで音信不通のじいちゃんに向かって僕が思わずぼやくと、遊佐が首を傾《かし》げて訊《き》いてきた。
「つーか、前から聞きたかったんだけどさ、久高のじいさんって一体何者なんだ? やけに時載りにくわしいみたいだし、リンネの一家が時載りだっていうことも知っているみたいだし」
「えーと、それは……」
僕がどう説明しようか考えていると、
「昔、私のパパは久高のおじい様の教え子だったの。おじい様が大学教授をなさっていた時に学生をしていた。だからパパにとって、久高のおじい様は師父にあたる人なの」
リンネが僕の後を引き継《つ》いで言った。僕らの会話をちゃんと聞いていたらしい。もっとも、女の子からは視線を外さずにいる。
「そっか、久高のじいさんって大学の先生だったな」
女の子が歩き出したので、移動。
「ええ。ドイツに留学中だったパパとママが出会って、恋《こい》に落ちて、そしていろんな問題が起こった時、親身になって力を貸してくれたのがおじい様。パパとママに日本行きを勧《すす》めてくれたのもやはりおじい様よ」
ママさんが人間世界にうまく適応できるように、じいちゃんはいろいろ便宜《べんぎ》を図《はか》ったらしい。そのへんの事情なら、僕も少しは知っている。
「いろいろな問題って?」
遊佐の問いにリンネは人差し指を頬《ほお》に当てると、ちょっと視線を上げた。考えこんだ時のりンネの癖《くせ》だ。
「うーん。一言で言うと、時載りは時載り同士で結婚《けっこん》するのが普通《ふつう》なの。特にママは当時バベルの塔《とう》の住人だったから、それ以外の選択肢《せんたくし》はなかった。彼らにとって、人間と結婚するなんてあり得ない話なの。でも、ママが好きになった人は人間だった」
「ふむ……」
「きっと、変わり者だったのね。パパもママも。でも大恋愛《だいれんあい》だったらしいから」
少し自慢《じまん》げにリンネは言った。そしてくすりと笑うとくるりと背中を向け、明るい口調で続ける。
「ちなみにパパに出会った当時、ママは十五歳だったんだって。人間の年齢に換算すれば、だけど」
「じゅうご!?」
僕と遊佐は同時に問い返した。初耳だった。
「十五……って、今のGより年下かあ」
「つーか、俺と同じだよ」
「ちょっと若すぎない?」
「ん? ちょっと待て。てことはリンネのママさんって、今いくつなんだ?」
僕は脳裏《のうり》でママさんの容姿を思い浮《う》かべた。滅茶苦茶《めちゃくちゃ》若く見える人だとは思っていたけど、そういや何歳なんだろう?
「うーん。知らないほうがいいかも。きっと驚《おどろ》くでしょうから」
リンネはすまして言った。
「それに、女の人の歳《とし》を知りたがるなんて失礼でしょ!」
女の子の足取りを辿《たど》るうちに、いつしか僕らは大通公園に来ていた。僕らは花壇《かだん》を一つ挟《はさ》み、遊歩道の陰《かげ》から女の子の様子を観察した。
近くの広場では駐輪《ちゅうりん》スペースを利用して小学生ぐらいの男の子が数人、スケートボードに興じている。カコーン……というデッキが路面を打つ音が、時折思い出したようにあたりに響《ひび》く。
歩き疲《つか》れたのか、あの女の子はベンチに腰《こし》を下ろしていた。どこかぼんやりと道行く人に視線を彷徨《さまよ》わせている。
「なんか、つまんなそう」
リンネがぽつりと言った。
「友達がいないのかな?」
「さあ……どうだろうな」
まあ、お世辞にも人当たりのいい子とは言えないだろうなと思いつつ、僕は改めて女の子を眺《なが》めた。
すごく可愛《かわい》い子であることは間違《まちが》いない。やや痩《や》せぎすだが小柄《こがら》で均整の取れた体つき。リンネ同様、ファッション誌のモデルとして表紙を飾《かざ》っていても、まったく違和《いわ》感のない無造作に整った顔立ち。つややかなショートカット。サイドで前髪《まえがみ》をピンで留めており、女の子らしい、形のいいおでこが剥《む》き出しになっている。
「いったいどういう子なのかしら。家族はいるのかな? やっぱり本を読まなくてママに怒《おこ》られたりするのかな」
「自分を基準に物を考えるなよ」
「いいわ。私、声をかけてみる」
決心を固めたリンネが一歩足を踏《ふ》み出した時、それは起こった。
女の子がつとベンチから離《はな》れ、こっちにやって来た。――たぶん、自動|販売機《はんばいき》で飲み物でも買おうとしたのだろう。だが、ちょうどその時、近くのスペースでスラッシュの練習をしていた男の子のうちの一人が、突然《とつぜん》スケートボードに載《の》ったまま駐輪スペースを外れ、舗道《ほどう》を歩く彼女の後ろから突《つ》っこんできた。技術不足で曲がりきれなかったらしい。
「あっ」
デッキの上で大きく体を傾《かし》がせながら男の子が声をあげた。だが勢いのついたスケートボードはそう簡単には止まらない。
女の子は後ろを振《ふ》り返り、――そして凍《こお》りついた。
そこからの僕らは素早《すばや》かった。
まっさきに駆《か》け出したリンネの瞳《ひとみ》が灰色に染まる。その視線の先で、デッキの下で四つのホイルが凍りついたように瞬時《しゅんじ》に滑走《かっそう》を止めた。当然、男の子は弾《はじ》かれたようにデッキの上から投げ出される。ほぼ同時に、僕は彼女に駆けより、背後から彼女を抱《かか》え上げた。その拍子《ひょうし》に彼女が提げていたバイオリンケースが宙を飛ぶ。羽毛のように軽い感触《かんしょく》を両腕《りょううで》の中に感じつつ身体《からだ》をひねる僕のすぐ脇《わき》を、弾かれたように前につんのめる男の子を遊佐がひょいと抱《だ》き留める。
最後に凪は、女の子の手を離れ宙を飛ぶバイオリンケースを無表情に眺めていたが、やがて小さく口の中で何かを呟《つぶや》くとバイオリンケースは緩《ゆる》やかな放物線を描《えが》いて落下した。――凪の胸元《むなもと》に。
その間、わずか二秒。
伊達《だて》に長くつるんでるわけじゃない。クアトロ・オーメン・ジ・オロに勝るとも劣《おと》らぬ見事な連携《れんけい》である。
女の子は一瞬なにが起こったのかわからなかったようだったが、ふと気づいたように自分を背後から抱きかかえている僕を見上げる。
僕はあわてて両腕をほどいた。
今度は胸に触《さわ》っていないぞ。うん。
「……あなた、さっきの」
彼女は僕が何故《なぜ》ここにいるのか訝《いぶか》しがるような表情を浮かべた。ま、それはそうだろうな。まさか音楽ホールからずっと跡《あと》をつけられてきたとは普通《ふつう》思わないだろうし。
「ふう。間一髪《かんいっぱつ》ね」
女の子に向かって軽くウインクするとリンネは指を鳴らし、「時留め」を解いた。その途端《とたん》、慣性の法則を取り戻《もど》した無人のデッキは、限界までゼンマイを巻いたブリキの玩具《おもちゃ》のようにすっ飛んでいく。僕らはデッキの航跡《こうせき》を見送ったが、ふとその先に目を向けるとそこに存在していたのは……
「げ」
リンネが慌《あわ》てて時を止めようとした時はもう遅《おそ》かった。
デッキは焼きトウモロコシの屋台へ一直線に進み、その中で作業をしていたおじさんのすねを直撃《ちょくげき》した。その拍子におじさんは手をすべらせ、持っていた瓶《びん》を落とす。油が流れ出し、狭いコンロの上でぼっと火の手が上がった。
「わあっ」
あわてふためくおじさん。唖然《あぜん》とする僕ら。
「ど、どうしよう!」
「リンネ、デッキの方向くらい変えとけよ!」
「そ、そんなにいっぺんにできるわけないでしょ! そっちこそ、時を止めてるうちにずらしといてよ!」
「僕はこの子で両手が塞《ふさ》がってたんだよ!」
「でも久高が一番近くにいたじゃない!」
「あー。唐黍《とうきび》がもったいねー」
「あ、あのねっ。そういう問題じゃないでしょっ」
さっきまでの鮮《あざ》やかな連携はどこへやら。
小火《ぼや》を前にただおたおたする僕らのやりとりを女の子はきょとんとした顔つきで聞いていたが、やがて呆《あき》れたように首を振ると、腕を伸《の》ばし、人差し指を素早く火に向けた。
それは――。
奇妙《きみょう》な光景だった。
あたかも、女の子の指先から目に見えない消火|剤《ざい》が吹《ふ》きつけられたように火の勢いは衰《おとろ》えていき、やがて一筋の煙《けむり》を残し凋《しぼ》むように消えた。
女の子は火が消えたことを確認《かくにん》し、素早く指を降ろす。屋台のおじさんですら気づかぬほどのさり気ない仕草。
呆気《あっけ》にとられる僕らの視線を、その女の子は平然と受け止めた。
「どうやって……」
リンネが呟く。
「火の周りの空気を『切り取った』だけよ。火が燃えるのに酸素が欠かせないのなら空気の流れを絶ってやればいい。まわりの酸素を使い果たした時点で火は消えるもの。五年生の時、理科の授業で習わなかった?」
「空気を切り取る……?」
「やっぱり時載りか」
遊佐の言葉に、はっと息をのむリンネ。
「だったら何?」
女の子はつんと顎《あご》を上げると、ぷいと横をむいた。なんか怒《おこ》ってるみたいだ。急速に不機嫌《ふきげん》バリアがこの子の周囲を覆《おお》い始めている。
「ああ。火にコップを被せたのか[#「火にコップを被せたのか」に傍点]」
僕にもようやく意味がわかってくる。
この女の子は今、時を止めた。正確に言うと、炎《ほのお》は止めずに、炎に接したまわりの空気だけに限定して時間を止めたのだ。他の空気は一切《いっさい》交わらないから、「切り取られた」空気を燃焼《ねんしょう》し尽《つ》くした時点で、火は消えざるを得ない。
「すごーい」
ようやく――たぶん僕らのうちで最後に――からくりを理解したリンネが目を丸くする。
だが女の子はつんと澄《す》まして、
「ホントは、人前で平気で時間を止めるような人と関《かか》わりたくなかったんだけど、ぼやになっても困るし」
「な、何ですってえ」
自分だって人前で時間を止めたくせに、とリンネが露骨《ろこつ》に不服そうな表情を浮《う》かべるのを尻目《しりめ》に、女の子は凪の手からバイオリンケースを受け取ると、くるりときびすを返した。
「じゃ、さよなら」
「あ、ちょっと待って」
僕はあわてて言ったが遅かった。
「え? きゃんっ」
勢いよく脚《あし》を一歩|踏《ふ》み出したその瞬間《しゅんかん》、女の子はちょうど計ったように今頃《いまごろ》になって戻ってきたスケートボードのデッキに左足を載《の》せ、
ずでん。
再度この子と折り重なるようにして地面に突《つ》っ伏《ぷ》す僕の鼻先に、焦《こ》げた焼きトウモロコシの匂《にお》いが漂《ただよ》ってきた。
これが、僕らともう一人の時載り、海保《かいほ》ルウとの出会いだった。
「知らないわね」
五分後、一通りリンネの説明を聞き終えた女の子の応《こた》えは酷《ひど》くそっけないものだった。
「そんな筈《はず》ないわ。だって私見たもの。その子、あなたが今着ているのと同じ制服を着てた」
リンネは納得《なっとく》できないというような口調で言った。
「見《み》間違《まちが》えだと思うわ。悪いけど、そんな子は見たこともない。まして時載りなんてここ数年会ったこともないし」
「でも」
「嘘《うそ》言っても仕方ないでしょ」
『海保ルウ』と名乗った女の子はそう言うと、破産した貴公子みたいな遊佐、リンネ、熟睡《じゅくすい》したねはんをおぶった僕、一番|端《はし》で郵便ポストのように無表情に立っている凪を順に眺《なが》めた。特に眷属《けんぞく》と認めたリンネとねはんに鋭《するど》い視線を向ける。
妙《みょう》に殺伐《さつばつ》とした空気が流れる中、ルウは腕を組むと、改めて口を開いた。
「話は大体わかったわ。あなたたちみたいに音楽に縁《えん》のなさそうな人たちが、なぜコンサートホールへやってきたのかも」
かなり失礼な言い草なんだろうが、本当のことだから大して腹は立たない。実際、こんなことでもなければ、少なくとも僕はここに来なかっただろうし。
「でもおあいにく様。徒労だったみたいね。私の知る限り、うちの音楽院にバイオリンケースを落とした子なんていないわ。だいたい楽器が無ければ演奏はもちろん、練習にだって参加できなくなるのよ。騒《さわ》ぎにならないわけないでしょ」
「で、でも、隠《かく》しているのかもしれない。だからあなたは知らないのかも」
リンネは食い下がる。
「隠す? 何のために?」
「それは……」
リンネは唇《くちびる》を噛《か》んだ。特に根拠《こんきょ》があって言ったわけではないから、真っ正面から切り返されると返事に詰《つ》まる。
ルウは小さく肩《かた》をすくめた。
「ま、その子が時載りかもしれないっていう、あなたたちの推理は面白《おもしろ》いけどね。で、それがその子が持っていた本?」
「ええ」
「へえ……。ちょっと貸して下さる?」
ルウはリンネが携《たずさ》えた本に視線を留めて言った。話の行きがかり上、リンネはしぶしぶ手に持っていた本をルウに差し出した。ルウはさも当然のような顔つきでそれを受け取ると、細い指先で本のページを繰り始めた。
「あなたはそれを読める?」
「もちろん。……と言いたいところだけど、残念ながらお手上げね。私も読めないわ。でも綺麗《きれい》な本ね」
さすがに時載りだけあって、本をあつかう手つきも堂に入っている。なにせここにいる全員がリンネ以外の時載りを見るのは初めてなので、ルウの一挙一動に自然と注目が集まる。が、この女の子は僕らの視線など気にした様子もなく、仔細《しさい》に本の検分を続ける。
「確かに曰《いわ》くありげな本ね。しかも並の古さじゃないわ。……その子は逃《に》げ出した、と言っていたわね?」
「ええ。すぐに駆《か》けだして行ってしまったの。それも二回も」
「ふうん」
ルウは本を閉じると、表紙に刻まれた紋章《もんしょう》にじっと視線を注いでいる。
ふと心配になってきたのかリンネが催促《さいそく》した。
「ちょっと、返してよ。その本」
「返すわよ」
我に返ったようにルウは視線を上げると、いささか乱暴にリンネの胸元《むなもと》に本を突き返した。そして髪《かみ》をさっと払《はら》う。
「とにかく、その子にはまったく心当たりがないわ。これでよろしくて?」
「……そう。ありがとう」
ここまではっきり言われた以上、リンネとしても引き下がるほかない。唇を噛みつつ一応礼を言う。ルウは小さく肩をすくめた。
「まったく。私、忙《いそが》しいのに。つまんないことに時間を取らせないで頂きたいわ」
「悪かったわね。もうお邪魔《じゃま》しないわよっ」
いくぶんむくれつつリンネが言うと、ルウは鼻を鳴らし、さらに嫌味《いやみ》を続けた。
「それとひとつ忠告だけど、さっきみたいに人前で時間を止めないほうがいいわよ。誰《だれ》かに時載りだってばれたら大変でしょ。ふつう、こういうことはお家《うち》で教わるはずなんだけど……ま、そうじゃない家庭もあるってことね」
ルウのこの言い草に、リンネはカチンときたようだった。
「あら。あなただって時を止めてるじゃないの。さっき、音楽ホールのエントランスで回転ドアを止めたの、私見てたんだから」
今度はルウがぎくりとした表情を浮《う》かべた。まさかそれを指摘《してき》されるとは思わなかったのだろう。
「あ、あれは……回転ドアに挟《はさ》まれそうになったからちょっと止めただけよ。あなたみたいに人前でほいほい時間を止める人と一緒《いうしょ》にしないで」
「ほ、ほいほいなんて止めてないもん! さっきだって、スケートボードにぶつかりそうだったあなたを助けようとしてやったことなんだからっ。逆に涙《なみだ》ながらに感謝されてもいいくらいだわ」
「おあいにく様。あんなの軽く避《よ》けられましたわ」
「嘘。前向いて歩いてたって、しょっちゅう何かにぶつかったり転んだりしてるくせに」
「な、なんですってー!」
まさに売り言葉に買い言葉。
呆然《ぼうぜん》とする僕と遊佐と凪とねはんを尻目《しりめ》に双方《そうほう》のテンションはどこまでも上がっていき……やがて沸点《ふってん》を越《こ》えた。
「あなたなんかにそんなことを言われる筋合いはないわ!」
「私だってよ! 私の家族のこと何も知らないで言いがかりはやめてよね!」
バチバチバチ。
火花を散らして美少女二人が噛みつかんばかりに睨《にら》み合っている図はなかなか壮観《そうかん》だ。
「そんなこと言うんなら勝負よ!」
「望むところよ! 目にもの見せてあげるわっ」
「ただ勝負するのでは面白くないわね。賭《かけ》をしない?」
「賭?」
「私が勝ったら……そうね、その本を頂戴《ちょうだい》。綺麗な本だし、装丁も気に入ったわ。どう?」
「そ、それは……」
リンネが急に口ごもったのは、この本が拾い物であって、自分の物ではないという思いがよぎったせいだろう。
「あら、自信がないの? 勝つ自信があれば、どんな賭をしても平気なはずでしょう?」
ルウはからかい混じりの挑発《ちょうはつ》をする。まずい。リンネの性格から言って、こんな風に煽《あお》られたら……。
「いいわ!」
あちゃー。
「その条件、のむわ。そのかわり、私が勝った時は――」
「その時は、あなたの言うことを何でもきいてあげるわ。無条件でね」
ルウはつんと鼻先を上げると不遜《ふそん》に笑った。なまじ顔立ちが整っているぶん、そんな表情を浮かべると生意気さが際立《きわだ》つ。
「時間と場所は?」
「一週間後の深夜。場所はこの先の子供ランドでどう?」
「結構」
「ちょ、ちょっと、リンネ」
たまらず僕は口をはさんだ。
「いいのかよ。そんな約束しちゃって」
リンネに顔を寄せ、小声で言う。
「か、かまわないもん! 私、やってやるんだからっ」
「でもさ……」
僕が耳打ちするのを見て、だいたい何を言っているのか察しをつけたのだろう。ルウは片眉《かたまゆ》を上げ、小馬鹿《こばか》にしたような表情を浮かべた。
「言っておくけど、逃《に》げ出すんなら今のうちよ。その子の忠告に従っておいたら?」
「地球最後の日になったって逃げ出すもんですかっ。久高! よけいなこと言わないで頂戴!」
「ふふん。楽しみにしてるわ。じゃあ失礼」
ルウはきびすを返すと颯爽《さっそう》と立ち去っていった。
あとには欅《けやき》の根元に呆然と佇《たたず》む僕らが残された。
帰り道。そろそろ傾《かたむ》きかけてきた西日にその長身に染めつつ、遊佐が傍《かたわ》らを歩くリンネを見やって言った。
「でもま、よかったじゃないか。結果的に時《とき》載《の》りと出会えたんだしさ」
「ちっともよくないっ」
リンネの機嫌《きげん》はよくならない。あの海保ルウとのやりとりがまだ胸の中で鎮《しず》まらぬのか、先刻からずっとぷりぷりしたままだ。
「まったく!! 生まれて初めて会った時載りが、あんなやな子だとは思わなかったわ!」
「確かにすげえ性格だったな」
「うん。僕なんか、最後まで睨まれっぱなしだったし」
「あれはお前が悪い」
遊佐があっさりと言った。その点だけは皆《みな》同意見らしく、凪どころかリンネまでうなずいたので、たちまち僕は劣勢《れっせい》に立たされた。
話題を変えよう。
「でもどうするんだよ。あんな約束して」
僕がそう言うと、相手の挑発に乗ってうっかり本を賭《か》けてしまったことを思い出したのだろう、たちまちリンネはママさんからトマス・アクィナスの全著作読破を命じられたような表情を浮かべた。
「仕方ないでしょっ。あんな風に言われたら受けて立つよりないじゃない」
「でも、はっきり言って、君よりあの子のほうが上だと思う。時間の止め方ひとつにしたって、あっちのほうがずっと慣れてるっぽいし」
僕はさっきの小火《ぼや》を素早《すばや》く消してみせたルウの手並みを思い浮《う》かべた。空気だけを限定して止めてみせるあの手腕《しゅわん》を見れば、時載りのくせに大の読書|嫌《ぎら》いで、時間を一秒止めるのにも四苦八苦しているリンネに勝ち目は薄《うす》そうだ。
「わかってるわよ!……だから今、作戦を考えてるところっ」
普通《ふつう》、そういうことは勝負を受ける前に考えるべきだと思う。
黄昏《たそがれ》迫《せま》る夕暮れ空の下、駅に向かって伸《の》びるアスファルトの上に長い影《かげ》ができている。五人いるのに影が四つしかないのは約一名が僕の背中に載っているせいだ。未来の大帝《たいてい》。最近ちょっと重くなったかな? 寝《ね》る子は育つって言うしな。
熟睡《じゅくすい》したねはんを支える両肘《りょうひじ》がそろそろ限界にさしかかっているのを自覚しつつ、何とか背負いなおす。
「で、考えついた?」
「全然」
「……どーすんだよ」
「あと一週間あるんだから、それまでに考えるもん」
リンネはお下げを一閃《いっせん》させると、ほとんど命令口調で言った。
「取りあえず久高、明日お家《うち》に来てね」
夏休みがますます遠ざかっていく確かな予感がした。
[#改ページ]
じいちゃんからの手紙
[#ここから4字下げ]
七月二十七日
久高へ。
六時五十二分発、ベルリン行きの寝台車《しんだいしゃ》の乗客となって一時間経過。いま食堂車でまずいコーヒーを飲みながらこれを書いている。まだカーテンは閉じられてはいないが、カルパートの尾根《おね》ももう見えないくらい車窓の外は薄暗《うすぐら》い。もう三十分もすればとっぷりと闇《やみ》が降りるじゃろう。寝台《しんだい》に潜《もぐ》り込むには少し早いし、また走り書きになったりせぬようにこの時間は孫に手紙を書くために充てることにしよう。
夕べホテルに戻《もど》るとフロントのトルコ人青年に呼び止められ、お前とジルベルトの手紙を手渡《てわた》された。逗留《とうりゅう》客の身の上でありながら、一日に二通、その日に届いた郵便物を読むのはなかなか乙《おつ》なもんじゃな。二通の手紙を突き合わせてみると、いろんな事が見えてくるのが面白《おもしろ》い。要するに、ジルベルトはお前がわしに手紙を書いたのを知っていたが、お前はジルベルトが手紙を書いたことを知らん。当てずっぽうじゃが、これは賭けてもいいくらいじゃよ。
お前たちが既《すで》に古書を手に入れたことはジルベルトの手紙にて確認《かくにん》した。
お前が前回のわしの手紙に困惑《こんわく》しているのは容易に想像はつくが、文面の短さはともかく、その内容を今改めるつもりはない。多少の時間の猶予《ゆうよ》を得てなお、お前に詳《くわ》しい説明をすることをしない理不尽《りふじん》さを承知の上であえて言うが、先の手紙に記した女の子を一刻も早く見つけて欲しい。
さて、先日のお前の手紙にあった凪の口数が最近増えてきたという話じゃが、べつに由々しき事柄《ことがら》だとは思わん。空港のパブで、これから十二時間の禁煙《きんえん》に果敢《かかん》に挑《いど》むスモーカーが最後にまき散らす煙《けむり》に身を浸《ひた》しつつ、お前がしたためた二十枚もの「書簡・凪の巻」を読んだが、お前は少し神経質になっていると思う。その話を聞いてわしはむしろ僥倖《ぎょうこう》さえ感じとる。凪助《なぎすけ》は聡《さと》い子じゃが、時に駄馬《だば》になることも知らねばならん。あのままではあの子は余生はフィレンツェの修道院で過ごすとでも言い出しかねんからな。口数が増えたのなら結構なことじゃ。凪がお前に対して何かを願った時[#「凪がお前に対して何かを願った時」に傍点]のみ、知らせてくれるがいい。
せっかくだから時《とき》載《の》りについて少し書こうか。いや、人間についてかな。より直截《ちょくせつ》に言えば、わしはお前があの嬢《じょう》ちゃんについてどの程度「高をくくっているのか」を知りたいのだ。
お前はあれと幼い頃《ころ》から一緒《いっしょ》にいる。あれは勝ち気だから何も言わんだろうが、昔のあれはお前と同じ事がしたくて、あれの母親を随分《ずいぶん》手こずらせたものだ。お前の話によれば、今でもさかんにケーキなぞ喰《く》っているそうだが、わしの見るところ、あれは祈《いの》りとしか思えん。一種の宗教じゃな。だからもしお前があれと共に過ごした時間を懐《なつ》かしさと共に思い出せるとすれば、それはお前があれの生態に慣れただけであって、本質は何も変わっていないことをもう一度理解しなければならんよ。
時載りは時間の中を漂《ただよ》う種族じゃ。だから連中は「歴史」というものを持たん。そもそも「比べる」ということをせんからな。彼らが人間と決定的に異なるのは、知識を蓄《たくわ》え、より「差違《さい》に自覚的になっていく」人間に比して、「変化というものが判《わか》らない」という点にある。その違《ちが》いに比べれば、あの魔女《まじょ》っこが時々寝ぼけて家じゅうの時計の針を止めてしまうことなど些事《さじ》でしかない。
久高、わしはかつて、ある年老いた時載りに「時系列」という概念《がいねん》を説明するのに三日かけたことがあるよ。そしてそれが徒労に終わったのち、その三日間がわしにとって何事かを意味しても、彼にとってなんの意味も有していないとわかった時、いっそ清々《すがすが》しい気持ちになったもんだ。
認識が時系列に沿って並ばぬ以上、経験が発生しないのは道理だ。時載りがほぼ例外なく実際の年齢《ねんれい》より若く見える理由はここにある。彼らの中で事物は事物のまま「出来事」となる機会を予《あらかじ》め奪《うば》われたまま絶えず流産を繰《く》り返す。それを実感するのに、わしは丸三日|費《つい》やした。
ベルリンでは都合をつけて箕作の消息を追ってみるつもりじゃ。可能性は薄《うす》いが何かわかることがあるかもしれん。このことは魔女っ子には内密にな。
さて、一服したくなってきたので寝台に戻ることにする。ここは禁煙なのでな。
凪の夏休みの宿題は忘れずにちゃんと見てやれよ。あれが口に出して頼《たの》む前にな。では一服するとしよう。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]楠本南涯
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5章
リンネは本の虫になった。
約束の日まで一週間。海保ルウとの勝負に向けてリンネが思いついた作戦はとにかくありったけの本を読むことだった。無論、少しでも長く時間を止めるための『貯金作り』であることは言うまでもない。
これが取っ組み合いの喧嘩《けんか》なら話は早いのだが、残念ながら相手も時載りだから顔をひっかいておしまい、というわけにもいかない。リンネにしてみれば何となく謀《はか》られたような心境だろうが、これも、うかうか挑発《ちょうはつ》に乗ったリンネが自ら撒《ま》いた種である。
明けて翌日、約束通り僕がリンネの家に行くとリンネはもう起き出して本を読んでいたから、一応決意は本物らしかった。珍《めずら》しく自室に籠《こ》もって本を読みふける娘《むすめ》の姿がよほど奇異《きい》に映ったのだろう、ママさんは玄関《げんかん》で僕を迎《むか》え入れるなり、娘の突然《とつぜん》の変化について僕にただした。
「夕べから急に本を読むのを嫌《いや》がらなくなったのよ。それどころか、もっと字数の多くてぶ厚い本はないかって言い出して、今日も朝から書庫に籠もりっきり。あんなに本が嫌《きら》いな子だったのに、いったいどういう心境の変化かしら?」
「……ええと、それは、リンネも時載りとしての自覚がだんだん出てきたからじゃないかな」
「まあ。そうかしら? そうだったらいいんだけど」
ママさんは嬉《うれ》しそうに両手を合わせた。
まさか、会ったばかりの時載りの女の子と喧嘩するための下ごしらえですとも言えず、僕はせいぜい謹直《きんちょく》な表情を拵《こしら》えてうなずいた。
「中学受験でもする気になったのかと思ったわ」
ママさんはのんきに笑って小首を傾《かし》げる。ピンクのエプロンがかわいい。
僕はその後の人生の中でも、リンネのママさん以上の美人を見たことがない。柔《やわ》らかなウェーブのかかったブロンドと成層圏《せいそうけん》の色の瞳《ひとみ》、北欧《ほくおう》圏の女性特有の透《す》き通るような肌《はだ》。全体の印象は、リンネから極限まで色素を抜《ぬ》いたような感じ……と言えばいいのかな。汗《あせ》なんて絶対にかきそうもない妖精《ようせい》みたいに浮《う》き世|離《ばな》れした容姿は、僕がリンネと手を繋《つな》いで幼稚園《ようちえん》に通っていた頃からちっとも変わらない。
性格は大らか……というかちょっとアナーキーなくらい天然が入ってるけど、綺麗《きれい》で優《やさ》しいママさんはリンネの自慢《じまん》だ。
その不肖《ふしょう》の娘は目下、慣れぬ苦行に悪戦|苦闘《くとう》中だった。身体《からだ》の左右にうずたかく積まれた大量の書物が、夕べからのリンネの健闘ぶりを物語っている。つーか、リンネが自発的にこれだけの本を読むのは有史以来初めてだろう。
「もう! なんでこの世に本なんてあるのかしら?」
リンネはベッドの上で胡座《あぐら》を解いてばやいた。
読書の最中なので鼈甲《べっこう》の眼鏡《めがね》をかけている。ろくに勉強もしないくせに、最近少し視力が落ちてきたリンネである。
「つーか、なきゃ死ぬだろ。君は」
「あっても死にそうよ」
リンネは手にしていた『アンチ・オイディプス』を閉じると、僕を上目遣《うわめづか》いで見た。
今日は髪《かみ》を結《ゆ》いも束ねもしていない。額の中央でわけられた金髪《きんぱつ》が頬《ほお》から肩口《かたぐち》へ無造作に垂れ落ち、眼鏡&ブリッジといった道具立てとあいまって、リンネをどこか毎日図書館通いをしてる女学生みたいに見せている。ま、こっちが元々のリンネの雰囲気《ふんいき》と言えばそう言えなくもない。
「で、どれくらい読んだの?」
「わかんない。もうエクサは読んだ気がするわ。来週にはゼタを突破してそう。あーあ」
大きな溜息《ためいき》をつくと、リンネは大の字になってひっくり返った。その拍子《ひょうし》に黒いニーソに包まれた形のいい脚《あし》が宙を蹴《け》る。
ゼタって十|垓《がい》だから、ええと、零《れい》が二十一個か。いくら何でも大袈裟《おおげさ》だ。その心意気は買うけど。
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「ゼタでもヨタでもいいけど」
僕はあえて常識的な忠告をした。
「普段《ふだん》から読んどきゃいいんだよ。そうすりゃいざという時、慌《あわ》てずにすむし。つまりは毎日の摂生《せっせい》が大事なんだと思う」
リンネはむくりと起き上がってじろりと僕を見た。
「あのね、久高。私、一つお願いがあるの」
「なに?」
「ママみたいなこと言わないで」
ふくれっ面《つら》をするとリンネは大胡座をかき、腿《もも》の上で本を開いて再び活字の世界に戻《もど》った。
「……僕はなにしてればいいの?」
「そこにいて」
リンネは顔も上げずに言った。
リンネはその後、十時間ぶっ通しで本を読み続けた。一度、ママさんが本を読んでいるご褒美《ほうび》にと、運んできてくれた苺《いちご》のタルトを二人でおやつ代わりに食べたのと、喉《のど》が渇《かわ》くのか、時折ベッド脇《わき》に置かれた水差しから水を飲み干すのをのぞいては、その姿勢にほとんど変化が生じることはなかった。彼女の左右で読了《どくりょう》した本はみるみる積まれていき、その間、僕はひたすらリンネの脚を眺《なが》めて過ごした。
日が暮れ、夕飯の時間となった。
外がまっ暗になったことを確認《かくにん》し、すっかり待ち疲《づか》れした僕が帰る旨《むね》を伝えると、リンネは我に返ったように面《おもて》を上げ素っ気なくうなずいた。
「そう。また明日ね」
僕は溜息をつき、リンネの部屋を後にした。
翌日も翌々日もリンネは終日読書をして過ごした。
朝、僕を自室に招き入れると、ベッドに腰《こし》を下ろして読書を始め、日が暮れるまでそれを続ける。僕はさすがに文句を言ったが、どうも一人で本を読んでいるのはイヤらしい。
暇《ひま》を持て余した僕が三十分も部屋を空けていると、読みかけの本を小脇に抱《かか》えたまま、たちまち連れ戻しにやって来る。
「久高、なんでいなくなるのよっ。ちゃんといなきゃダメじゃないの!」
「だって暇だし。僕はやることないしさ」
「やることがなくてもいいのっ。久高は私の側《そば》にいなきゃダメなの!」
そんな無体な。
やむなく僕はノートや鉛筆《えんぴつ》、計算ドリルなどの勉強道具を取りに一旦《いったん》家に戻り、リンネが本を読んでいる時間を有効活用すべく、夏休みの宿題を片づけることにした。
麦茶を運んできたママさんが、無言のままベッドの上で本を読み耽《ふけ》るリンネとその下で卓《たく》を広げて勉強している僕の姿を見て呆気《あっけ》にとられていたが、普段の僕らを顧《かえり》みればそれがかなり異様な光景であったことは想像にかたくない。
取りあえず僕は、夏休みを大部分残した時点ですべての宿題を終わらせるというかつてない壮挙《そうきょ》を成し遂《と》げた。平日の昼間から女の子の部屋でひたすら宿題のプリントと向き合うという不条理がもたらした恩恵《おんけい》だが、これを素直《すなお》に喜ぶべきかは大いに疑問がある。
最後に、この三日間リンネの部屋にいて気づいたことを三つ、箇条《かじょう》書《が》きに挙げてみる。
1 リンネの部屋には五千九百八十八冊の本がある。
2 リンネの部屋には大小|含《ふく》めて九つの時計がある。
3 リンネはお菓子《かし》の箱を切って、それをマイ栞《しおり》にして使っている。
取りあえず思ったのは、時《とき》載《の》りだろうと人間だろうと住む部屋の中身は大した違《ちが》いはないっていうことかな。本の量以外はね。部屋って言うのはよーするに二種類しかない。綺麗《きれい》な部屋ときたない部屋。それだけだ。
リンネの部屋がどっちだったのかは想像にお任せすることにしよう。
四日目。
この日、リンネは久しぶりに外に出た。「本を読むだけが特訓じゃあるまい」との遊佐の発案を受け、読書以外の特訓をすべく、近くの河原《かわら》で待ち合わせることになったのだ。さすがに単調な象牙《ぞうげ》の塔《とう》生活にも飽《あ》きていたのだろう、リンネは二つ返事で応じると朝から上機嫌《じょうきげん》で僕の家の呼《よ》び鈴《りん》を押した。
「久高くん、がっこいこっ!」
一瞬《いっしゅん》、今日の時間割を真剣《しんけん》に思い出そうとした僕だったが、なんとか五分で洗顔と着替《きが》えを済ませて靴《くつ》を履《は》くと、玄関《げんかん》に佇《たたず》むリンネに向かって文句を言った。
「何だよ、さっきの」
「う、うるさいわねっ。つい間違えたの」
リンネは顔を赤らめた。どうやら登校時のいつもの癖《くせ》が出たらしい。
赤いランドセルを背負うかわりに、すとんとしたネイビーのワンピースに白のデッキシューズという動きやすそうな恰好《かっこう》のリンネの今日の髪型《かみがた》は頭の両側で髪を結んだツインテールで、軽くスキップを踏《ふ》むたびに金色のしっぽがふりふり揺《ゆ》れる。久しぶりに外気に触《ふ》れたのが嬉《うれ》しいのか、妙《みょう》に機嫌がいい。
本人|曰《いわ》く、「昌平黌《しょうへいこう》の考試《こうし》を受けるお侍《さむらい》さん並に本を読んだ」と豪語《ごうご》するだけあって、この三日間でリンネが読破した冊数は二百冊を越《こ》える。いくら博覧強記の時載りと言っても、一日平均七十冊は尋常《じんじょう》な数字じゃない。ママさんも驚《おどろ》くハードな『山ごもり』を経て、今やリンネの華奢《きゃしゃ》な身体《からだ》の中には世界中の時計店を倒産に追いやるだけのストックが充《み》ち満ちていた。つーか、やることがいちいち極端《きょくたん》なんだよな、この子は。
「これで勝利は間違いなしねっ。矢でも鉄砲《てっぽう》でも持ってらっしゃい。全部止めてあげるから[#「全部止めてあげるから」に傍点]」
なにやら物騒《ぶっそう》なことを言いつつリンネは固く握《にぎ》りこぶしをつくってみせた。よほど自信があるのだろう。
とはいえ、それだけであの海保ルウに勝てるかどうかはまた別問題である。
それは遊佐も気づいていたのだろう。ピーナッツ袋《ぶくろ》を片手に飄々《ひょうひょう》と土手に姿を現した遊佐はリンネの『試験勉強』が持つ欠点を指摘《してき》した。こっちは相変わらずのハックルベリー・スタイルだから、動きやすい……というよりはそれしか取り柄《え》がなさそうな風体《ふうてい》である。
「べつに素潜《すもぐ》りの勝負をしようっていうわけじゃないからな。長く時間を止めさえすればいいってもんでもないだろ。要はいかに効果的に時間を止めるか、だと思う」
「で、具体的にはどうすんの?」
「それを今から説明する」
「久しぶりのお外なんだから、私、楽しいことがしたい」
当事者感覚ゼロのリンネはいばって言った。
「まあ、聞きたまえ。不肖《ふしょう》の弟子よ」
飄々とした姿勢を崩《くず》さず遊佐の語ったところによるとこうである。
時載りが言う、「時を止める」とは、物を一時的に静止させることである。エントロピーの法則を持ち出すまでもなく、この世の森羅万象《しんらばんしょう》に動いていない物は存在しないから、当然「時を止める」ということは物理現象を止めることを意味する。だが、一口に「時を止める」と言っても、何を何処《どこ》で何秒間止めるかという判断は個々の時載りによってずいぶん変わってくる。
その一例が海保ルウだ。
先日、海保ルウは僕らの前で火を消し止めてみせた。彼女には「燃えている炎《ほのお》」という一つの現象を「炎」と「空気」の二つに分化させることが可能だったわけであり、しかも「炎」の時間はそのまま流す一方、「空気」は静止させるという、二つの現象をそれぞれ個別に時間的処理を行うだけの技量を有していた。この点においてリンネはルウに及《およ》ばない。彼女に比べて認識《にんしき》の目が「粗《あら》い」からだ。
以上の事柄《ことがら》を踏まえた上で、少なくとも二つのことが言える。
一つ、「時を止める」という行為《こうい》は自然現象並びに物理法則と複合させることにより様々な二次的な余波をもたらす。
二つ、上記に関連して、事物を認識・知覚する力が高ければ高いほど、現象のより多くの差異化が可能になる。
「よーするに遊佐くんは、私ががさつで不注意だって言いたいんでしょ」
リンネがむくれて言った。若干《じゃっかん》ひがみが入っているような気がするが、まあ、論旨《ろんし》としては当たらずとも遠からずという感じもしないでもない。
「違《ちが》うよ。もっと賢《かしこ》くなれって言いたかったのさ」
遊佐は苦笑《くしょう》すると、手のひらでぼんぽんとリンネの頭を叩《たた》いた。
「それはわかったけどさ……知覚だの認識だのを一体どうやって鍛《きた》える?」
「これさ」
僕の問いに遊佐はピーナッツの袋《ふくろ》に手を突《つ》っこむと、リンネの顔に向かっていきなりピーナッツを放《ほう》った。避《さ》ける間もなくおでこにピーナッツを当てられ、リンネは顔をしかめた。
「いたっ。もう、なにすんのよっ!」
だが遊佐は動じず、
「駄目《だめ》だよ、止めなきゃ。ほら」
江戸《えど》昌平黌だか科挙《かきょ》だか知らないが、三日で二百冊は伊達《だて》じゃない。続けて遊佐が放ったもう一粒《ひとつぶ》はリンネのひと睨《にら》みでたちまち空中に停止する。エクサの視線の前に凍《こお》りついたピーナッツを口の中に放りこみ、お世辞にも上機嫌とは言えない表情で噛《か》み砕《くだ》くと、リンネは胸の前で腕組《うでぐ》みをしてみせた。
「……なるほどね。だいたい趣旨《しゅし》はわかったわ」
「上等。じゃあ、早速《さっそく》やってみよう」
それからしばらく僕と遊佐はかわりばんこにリンネの前に立ち、仏頂面《ぶっちょうづら》で佇《たたず》むリンネに向かってピーナッツをせっせと放り続けた。端《はた》から見ればかなり異様な光景だろうが、幸いこのへんの子供らは皆《みな》、家族とバカンスへでも行っているのか、僕らの奇怪《さかい》な行動を見咎《みとが》める者は誰《だれ》もいなかった。
てゆーか、せっかくの夏休みに女の子の顔にピーナツぶつけて何してるんだ? 僕らは。
練習の方法は至って簡単である。「時を止める」という感覚をより精密にするために、無数に放られるピーナッツのうち、ただ一粒の時間だけを停止させる。だが、これがなかなかうまくいかない。
ピーナッツが一粒の時は確実に止められるリンネだが、三粒四粒と同時に放られると、遊佐の言う認識の「荒《あら》さ」が出るのか、ついついまとめて止めてしまう。「時を止める」という力の作用を、空間の一点に集中させることができず、全体に波及《はきゅう》させてしまうのだ。
「もーっ。なんで上手《うま》くいかないのよっ」
もともとスポーツは得意で、学校ではチアリーディング部に所属しているくらいだし、書斎《しょさい》で本を読んでいるよりはコートでフットサルでもしているほうが遥《はる》かに好み、というリンネである。ポンポンを振《ふ》る姿は威勢《いせい》が良すぎるし、一度ボールを持ったら絶対|離《はな》さない、典型的なワガママ・ドリブラーであることには目を瞑《つぶ》っても、運動神経が抜群《ばつぐん》なことは確かだし、動体視力だって悪いはずがない。にもかかわらずうまくいかないのは、やはり動く物を捉《とら》える「目の良さ」と力を行使する際の技量との間に大きな乖離《かいり》が存在するせいだろう。
……三十分後、僕らの前には河原《かわら》に散乱したピーナッツとそのまん中で不機嫌《ふきげん》の度合いを強くしたリンネの姿があった。
「リンネ、時《とき》載《の》りとして実力が上がった感じがする?」
「ぜんぜん」
リンネは地獄《じごく》のような声色《こわいろ》で答えた。
これは思ったよりハードルが高いらしい。
ふと僕はあることに気づいた。
「もしかしたら、対象物が小さすぎるのが問題なんじゃないか? 時を止める判断が視線に依存《いぞん》する以上、小さなものを識別するほうが難易度が高いのは当然だし」
「だな。じゃあ、もっと大きいものでやってみるか」
妙《みょう》に用意のいい遊佐が、次に取り出したのはゴムボールだった。
遊佐は五メートルほど後ろに下がると大きく振りかぶり、山なりのボールをリンネに向かって放った。ボールはリンネの胸元《むなもと》二十センチ手前でぴたりと停止した。リンネはそれを掴《つか》むと、逆に遊佐の胸元に向かって鮮《あざ》やかなコントロールで投げ返してよこした。
成功だ。
「よし。今度は二つでやってみよう」
続いて僕と遊佐が横に並び、同時にリンネに向かってボールを投げた。これもうまくいった。リンネは僕のボールを空中で停止させる一方で、遊佐のボールの時間を止めることなく素手《すで》でキャッチしてみせたのだ。
「すごいや。リンネ」
「やるなあ」
「こんなのお茶の子さいさいよ」
僕らの賛辞にリンネは意気揚々《いきょうよう》とボールを投げ返したが、これが失敗だったかもしれない。
リンネはその後も調子よく止めるべきボールとそうでないボールを識別していたが、次第《しだい》に僕らが投げるボールのスピードは増していき、それに反するようにリンネが胸やおでこにボールを当てる回数が多くなっていった。それでも何とか体勢を整えてがんばっていたリンネだったが、やがて雨あられのように降り注ぐボールの弾丸《だんがん》を前になすすべがなくなり、
「ちょ、ちょっと、ストップ!」
と、言った時にはもう遅《おそ》かった。僕らが全力に近いモーションで連投した六つのボールはりンネの鼻先を直撃《ちょくきむ》し、「きゃん!」という悲鳴と共に、彼女は仰向《あおむ》けにひっくり返った。
「わ、悪い」
「ごめん」
僕らはあわてて駆《か》けより、謝ったが時|既《すで》に遅し。
「もうイヤ! やめたわ!」
むくりと起き上がったリンネはとうとう癇癪《かんしゃく》を起こした。かわいそうに、鼻の先端《せんたん》が真っ赤になっている。
「なによもうっ。二人して私にいじわるして!」
「いじわるじゃないよ。これはあくまで特訓で……」
遊佐の言い訳も火に油を注ぐ結果にしかならない。
「もういい。こんな特訓やらないもん! 男の子なんて大っ嫌《きら》い!」
そう言い捨てるなり、リンネはワンピースについた泥《どろ》を払《はら》い、肩《かた》を怒《いか》らせて帰ってしまった。
後に残された僕らは顔を見合わせた。
「おい、遊佐。どーすんだよ」
「うまい考えだと思ったんだけどなあ……。女の子は気が短くていけない」
くせっ毛をかき回して遊佐が呟《つぶや》いた。
帰り道、僕は少し遠回りして箕作家の書庫に寄った。
「いらっしゃいませ。ようこそお越《こ》し下さいました」
黒を基調としたビスチェワンピースに黒のストッキングといういつもの恰好《かっこう》で僕を迎《むか》えたGは丁寧《ていねい》に一礼した。あいかわらずの黒ずくめの恰好だが、匂《にお》い立つような美しさは隠《かく》せない。
「その後、何かわかった?」
僕らが探偵《たんてい》ごっこを続けている間も、Gは地道にこの本の調査を続けていたのだ。
「いえ。特には。ずいぶん古い本であることは間違《まちが》いないのですが、それについていささか奇妙《きみょう》な点が」
「奇妙な点?」
「ええ。書物というものはその装丁によって大体どの時代に作られたのかがわかるものなんです。私たちが知る、また世間|一般《いっぱん》でもよく知られているこうした装丁、いわゆる『洋《よう》綴《と》じ』と呼ばれる書物は十世紀から十二世紀にかけて作られ、やがてカトリックの発展と共に広くヨーロッパに普及《ふきゅう》していった物です。そしてこの本もまた、そうした装丁によって作られています。ほら、このように」
Gは本の背の部分をしなやかな指で指し示してみせた。
「うん」
僕は改めて本を眺《なが》めた。確かにその装丁はいささか古風とはいえ、僕らがよく見慣れたデザインであることは間違いない。
「ところが、この本の紙質は明らかにその時期よりも遥《はる》かに前のものなのです。その時点で、この本は明らかに『バベルの塔《とう》』出自のもの、言い換《か》えれば、通常の歴史の外部にあるものと考えられるのです」
「歴史の外部、か」
僕は腕組《うでぐ》みをして書庫の天井《てんじょう》を見上げた。Gは続けて言った。
「これは私の手でもう少し調べてみることにします。何だか気になりますので。何かわかったことがありましたら、その都度ご連絡《れんらく》を差し上げますわ」
「うん。リンネには僕が伝えておくよ。……つっても、今は喧嘩《けんか》の準備に忙《いそが》しそうだけど」
「喧嘩?」
Gが眉《まゆ》をひそめる。
「ああ、いや」
口をすべらせてしまった僕は、やむなくGに海保ルウとのいきさつについて説明した。とたんにGの表情が曇《くも》る。
「まあ! リンネ様ったら、そんなことばっかり。後でうんと叱《しか》ってあげなくっちゃ」
「ママさんにはぜったい内緒《ないしょ》だよ」
Gは口をへの字に曲げると、溜息《ためいき》をついた。
「……わかりました。他に何か、わたくしがお役に立てることはありますか?」
「じゃあ、一つだけ聞きたいことかあるんだけど」
「なんなりと」
「Gはバベルの塔についてどこまで知っているの?」
「バベルの塔」
Gは目をぱちくりさせた。
「そうですね。久高様よりほんの少しだけ、といったところでしょうか。でもなぜそんなことをお知りになりたいんですの?」
「しいて言えば個人的な事情、かな」
その言葉にGは何かを察したようだった。Gは珍《めずら》しく脚《あし》を組むと、挑《いど》むように僕に視線を投げた。腰《こし》を締《し》めるコルセットが微《かす》かにしなる。
「……それは構いませんが、しかし、お話しするには少々お時間がかかりますよ。それでも?」
「じゃあ、今度じっくりと聞くよ。日を改めて」
「かしこまりました。ではその時を楽しみに」
Gはくすりと笑うと僕を扉《とびら》の前まで見送ってくれた。玄関《げんかん》の扉を開いた時、彼女はふと訊《たず》ねた。
「そう言えば、先生から何かご連絡は?」
「じいちゃんから? うーん。なんか昔のことを書いた手紙をもらったけど……それだけかな。あの人はあいかわらずの秘密主義だから」
「それだけ久高様を信頼《しんらい》なさっているのですよ」
Gは笑顔《えがお》で言った。
翌日、僕はリンネとプールに行くことにした。つむじを曲げたリンネの機嫌《きげん》を直すためだったけれど、それを聞きつけた凪が無言でビニールバッグに水着と着替《きが》えをつめ始めたので、結局三人で行くことになった。
リンネはまだむくれていたが、さすがに快晴の続く夏休みに部屋に籠《こ》もって読書を続ける気にはなれなかったのだろう。しぶしぶという形で誘《さそ》いに応じたが、当日の朝を迎《むか》えたとたん、俄然《がぜん》、攻《せ》めに転じる気配を見せた。
「こうなったら、おもいっきり楽しんでやるんだからっ」
なにも握《にぎ》りこぶしを作らなくても。
リンネん家《ち》の前で合流した僕ら三人が向かったのは、歩いて十分ぐらいのところにある市民プールだった。
一旦《いったん》更衣室《こういしつ》の前でリンネや凪と別れ、着替えを済ませてプールサイドへと通じる磨《す》りガラスのドアを開いたとたん、透明《とうめい》なガラスのドームを透過《とうか》して極限まで温められた熱気がむっと僕の身体《からだ》を包みこんだ。
これは……外より暑いくらいだな。
じわりと汗《あせ》ばんでくる肌《はだ》を自覚しつつ額をぬぐっていると、少し遅《おく》れてリンネと凪がプールサイドに姿を現した。
「わー、あっつーい」
レモンイエローのビキニを着たリンネはかわいらしいおへそ全開で、早くも失われた休日を取り戻《もど》すかのように周囲の男の子たちの視線を集めている。一方の凪は味も素っ気もない紺《こん》のスクール水着だが、華《はな》やかなリンネと並んでも臆《おく》することなくあたりを見渡《みわた》し、僕を見つけると軽く手を挙げた。その凪の背をリンネは勢いよく押した。
「さ、凪ちゃん、泳ぎましょ! ほら、久高も来なさいよ!」
「……来てって、二人とも泳げないだろ」
リンネも凪もなぜか泳げないところは共通している。だからリンネの言う「泳ごう」はあくまで口だけなのだが、それでも水と戯《たわむ》れているのは面白《おもしろ》いのか、追いかけっこしたり、もぐりっこしたり、水飛沫《みずしぶき》を飛ばして両手で水をかけ合ったりと、二人は思いつく限りの方法で遊び始めた。
ま、楽しそうだからいいや。リンネの機嫌も直ったみたいだし。
ということで、僕も水の中に入る。
やがてリンネはビーチチェアーに優美な脚を投げ出して横になり、僕はプールの端《はし》で凪の手を引いて息継《いきつ》ぎの練習につき合った。
「お兄ちゃん、そんなにお勉強が好きなの?」
ちゃぷちゃぷと水を掻《か》いていた足をとめ、ふと凪が言った。
なんのことかと一瞬《いっしゅん》考えたが、凪は僕が毎朝|隣家《りんか》に勉強道具を抱《かか》えていく姿を見ていたことに気がついた。
「違《ちが》うよ。あれは……ええと、暇《ひま》つぶし。リンネが本を読みまくってるからさ」
「……いっしょに水着を選ぶ約束、した」
凪は珍しくむくれて見せた。
自然、僕の視線は凪の着ている水着にむいた。
「う。悪い。確か、夏休みに入る前だったな。何色がいいんだっけ?」
「んー。オレンジか白」
「凪が宿題を全部終わらせたら連れてってやるよ」
「宿題なんて、とっくに終わってるもん。それより、お兄ちゃん」
凪は切れ長の瞳《ひとみ》を瞬《しばたた》かせると、珍しく僕の目をまっすぐに見つめた。
「もうすぐわたしの日だよ」
「あ、もうそんな時期か」
凪の言う「わたしの日」とは、楠本《くすもと》家において毎月|恒例《こうれい》となったある特殊《とくしゅ》な一日のことである。日付は毎月九日。通称《つうしょう》「凪の日」。この日だけは、凪は何でも願いを口に出すことができるのだ。
これは、凪にあるささやかな問題が持ち上がったころにじいちゃんが設けたルールで、その日一日は凪が我が家の王様となる。つまり、年に十二回だけ凪は一切《いっさい》の掣肘《せいちゅう》を受けない無欠の存在となるのだ。
日頃《ひごろ》言葉数が少なく、放《ほう》っておけば終日|誰《だれ》とも口をきかない凪を救済するべく、じいちゃんはこの日を作った……はずだったが、なぜか凪は僕にばっかりして欲しいことを願うので、最近はほとんど「久高が凪の言いなりになる日」と化している。
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ちなみに、なぜ九日かというと凪が今年九歳だからで、来年は十日が「凪の日」となる予定である。
「今度は何してくれる?」
「んー。ま、お前も考えておけよ。兄ちゃんに何をしてもらいたいか」
「もう決まってるよ」
「なに?」
「ないしょだよ」
凪はそう言うとウォータージャグジーの方へ走っていった。
「なによ、凪ちゃんばっかりかまって」
僕がビーチチェアーに腰《こし》を下ろすなり、隣《となり》で寝《ね》そべったままリンネがほっぺを膨《ふく》らませて言った。
今度はこっちかよ。
「たぶん来年の夏は泳げない子は一人だけだな」
「ふんだ。いいもん。私、時間を止められるもん」
「……泳ぎと何の関係があるんだ」
「ふんだ」
リンネはうつ伏《ぶ》せの状態からごろんとあお向けになると、ドーム状のガラスの天井《てんじょう》に形のいい鼻先を向けた。陽《ひ》の光をいっぱいに浴びて肌《はだ》はもうすっかり乾《かわ》いたようで、リンネの健康そうな身体《からだ》が日差しに白く輝《かがや》いている。レモンイエローの水着がわずかに水気を残した髪《かみ》の色に映えている。
「……ねー。久高。おじい様はいつ日本に帰って来るの?」
しばらく経《た》ったころ、ふとリンネが軽く身を起こして訊《たず》ねた。
「じいちゃん? うーん……来る時はいつも気まぐれだからなあ。僕らの夏休み中に一度は帰ってくるとは思うけど」
僕は曖昧《あいまい》に答えた。
「なんで?」
「んー、それまでにちょっと練習しておきたいことができたから」
水着の肩紐《かたひも》を親指で直すと、リンネは思わせぶりなことを言った。
「ピーナッツ止めか」
「やな子ね。そんなんじゃないわよ」
「じゃあ何だよ」
「変身ポーズの練習」
ぎょっとする僕を尻目《しりめ》に、リンネはすまし顔で引き締《し》まったお腹を見せつけるように両腕《りょううで》を頭の後ろで組んだ。
「魔女《まじょ》っ子リンネになってみせる時に必要でしょ」
プールから上がり、着替《きが》えを終えた僕らがまだ水気の残る髪を夏の陽気にさらしつつ、近くの鄙《ひな》びた駄菓子《だがし》屋さんの軒《のき》の前でビー玉入りの瓶《びん》のラムネを飲んでいた時だった。ふとリンネの携帯《けいたい》が鳴った。
リンネは携帯を開き、届いたメールを確認《かくにん》した。陽の照り返しで画面が眩《まぶ》しいのがリンネが目を眇《すが》める。そこにはこう書かれてあった。
『お話ししたき件あり。至急|連絡《れんらく》を請《こ》う G』
サンダル履《ば》きのままリンネはすっ飛んで駆《か》けだした。
「お呼び立てして大変申し訳ありません」
凪には先に戻《もど》るように伝え、離《はな》れに着いた僕とリンネをGはいつものように落ち着いた風情《ふぜい》で出迎《でむか》えた。その様子からはメールの文面を想像させるような切迫《せっぱく》さは感じられない。僕らはいささか拍子抜《ひょうしぬ》けしつつ閲覧室《えつらんしつ》のテーブルの前に腰を下ろした。僕にとっては昨日に引き続いての離れである。
「あの本についてなにかわかったのねっ?」
椅子《いす》に座るなり、リンネは元気よく訊ねた。髪が生乾《なまがわ》きのまま真夏の陽気の中を突《つ》っ走ってきたので、風を受けたリンネのブロンドの幾《いく》筋かがぴょこんと逆立っている。
リンネの言葉にGはうなずいた。
「はい。この本の名、及《およ》びその正体が判明しましたので、そのことをお伝えしたく連絡を差し上げました。未《いま》だ不明な点も多くありますが、取りあえずわたくしが知り得た範囲《はんい》内の情報を述べさせていただきます」
Gは淀《よど》みなくそう言うと、テーブルの上にバイオリンケースごと『例の本』をそっと置いた。
「文字が判読できず出自を辿《たど》るのに苦労しましたが、複数の資料と照合してみた結果、本の形状、経年、及び紋章《もんしょう》から判断して該当《がいとう》する書物の名は……『時の旋法《せんぽう》』。間違《まちが》いなく、かつてバベルの塔《とう》に収蔵されていたものです」
「時の旋法」
僕は呟《つぶや》いてみた。不思議なタイトルだった。
「いったいどういう本なの?」
リンネの何気ない問いを受け、Gは挑《いど》むような視線を僕ら二人に向けた。
「これは正確には本ではありません。このような外観こそしておりますが、その意義も存在も本とは似て非なる物。時《とき》載《の》りの上位種族、『時《とき》砕《くだ》き』によって記され、武器として使用された品、通称《つうしょう》『紋章入り』と呼ばれるものです」
「と申しましても、わたくしも伝聞をお伝えしているだけなのですが。ここをご覧ください」
Gはそのしなやかな指で表紙を指してみせた。そこに描《えが》かれているのはサークル形の、あの奇妙《きみょう》な印。
「これは『時砕き』の紋章です。この刻印が入った物はすべて時砕きの所有物であることを意味します。たとえ本文を一字として読むことがかなわなくとも、これは畏怖《いふ》するに足る存在であることを証明する、まさに『死の証《あかし》』です」
「時砕きの所有物……」
リンネが呆然《ぼうぜん》と呟くのを受け、たまらず僕《ぼく》は口を挟《はさ》んだ。
「ごめん、その『時砕き』ってなんなの?」
「時載りの中でも最高位の力と技術を持つに至った者たちの称号よ。時載り種族全体の中で僅《わず》か七人しかいないと言われているわ」
リンネの説明に、Gはうなずいた。
「ええ。『時砕き』は時載り種族全体の保護を司《つかさど》ると同時に、『禁制』を破った時載りの抹殺《まっさつ》を行う両義的な存在でもあります。時載りの間ですらその存在は伝説とされ、実物を見た者はほとんどいません。その力は圧倒《あっとう》的で、自意識の起源を絶つことによって、あらゆる存在を文字通り消滅《しょうめつ》させることが可能とされています。バベルの塔ですら、もはや彼らに一定以上の拘束《こうそく》力を有してはいません。時間を自由に跨《また》ぐことのできる彼らは、普段《ふだん》は歴史の中に住むと言われています」
Gの語ったことによるとこうだった。
もともと時載りは不完全な種族である。
彼らは認識を主食として存在しており、摂取《せっしゅ》すべき情報がなければ消滅してしまう。そのため、時載りは通常の人間よりも情報の摂取に遥《はる》かに貪欲《どんよく》であり、彼らはそれを人間が作り出す事物に触《ふ》れることによって補ってきた。
伝統的に、彼らは情報や記憶《きおく》の集積地・結節地点である場所を好む。主に図書館や博物館、大学、さらには証券取引所なども彼らが好む場所であるが、これは彼らの生態上、極《きわ》めて当然のことであった。余談だが、人間界に降りた時載り、通称『街の住人』は、高度な技術や広範な知識を必要とするような教職・専門職に従事していることが多いが、これも上記の理由による。
その一方で、時載り種族全体の人間世界へのアプローチは「無干渉《むかんしょう》」が原則である。情報は摂取しても、人間界に何が起ころうが一切《いっさい》関与《かんよ》しないというのが彼らの変わらぬスタンスだ。時載りの実存はあくまで「知ること」にあり、「行うこと」にはないからだ。
だが、人間界に降りてきた『街の住人』の中には、時折自分たちの能力を悪用する者たちがいる。人間社会に多大な影響《えいきょう》を及ぼしてしまうがため、バベルの塔が定めた『四禁制《しきんせい》』と呼ばれる四つの制約、「人間社会への積極的な関与」「時間操作の恣意《しい》的な使用及び悪用」「塔に関するあらゆる情報の漏洩《ろうえい》」「歴史の改変」を個人的欲望から行う者たちの存在である。
彼らは「逸脱者《いつだつしゃ》」と呼ばれ、抹殺・粛清《しゅくせい》の対象となる。
そうした逸脱者の「時」を砕き、無に返すのが七人の『時砕き』である。
時載りより遥か高位にある彼らはもはや時間を時系列に沿って並べることすらせず、気ままに時間の狭間《はざま》をたゆたうため、彼らが正確にどの時代に属しているのか知る者はない。彼らが出現するのはただ逸脱者を裁く時。
しかもまったくの恣意で。
「ということは、時砕きっていうのは時載りにとっての司法警察みたいなものなの?」
僕の問いにGは首を横に振《ふ》った。
「いいえ。厳密に言うと、彼らは『バベルの塔』の命すら受けてはいません。彼らは時の狭間にたゆたいつつ、あくまで自分自身の意志で動きます。彼らも元はバベルの塔より派生した時載りだったはずなのですが、いつごろから彼らが今の『形態』になったのか知る者はいません。と申しますか、『過去から未来へ』というリニアな時間の流れを絶えず無化するのが彼ら時砕きなわけですから、いつごろから、という考え方で彼らを見ること自体、そもそもナンセンスなのかもしれません」
「ふーん。時《とき》載《の》りの国にもいろいろあるんだな」
僕は感心して言った。
「しかも彼らは不死だと言われています」
「不死? 時《とき》砕《くだ》きって死なないの?」
「ええ。例えば、リンネ様がどうやって毎日のお食事を摂《と》っているか久高様はご存じですよね?」
「そりゃあ、ええと、本を読んで……」
僕はリンネと顔を合わせつつ、何となくもごもごと言った。まさかここでパフェとも言えまい。
「ええ。一般《いっぱん》に時載りは読書、言い換《か》えれば活字情報を摂取することによって生きる力を得ます。それに対し、時砕きはもはや本や文字すら必要とせず、『認識《にんしき》そのもの』を滋養《じよう》とし、力を得ると言われています。彼らは因と果、二つの事象の間の差異を貪《むさぼ》り、差異そのものとしてこの世に顕《あらわ》れ、そして在り続ける……。時砕きが不死と呼ばれる由縁《ゆえん》です」
「ふうん」
僕は手元に置かれた本を改めて眺《なが》め、ふとあることに気がついた。
「ん? ちょっと待てよ……じゃあ、あの子は時砕きだったってこと?」
今の話から推測すれば、数日前、僕が偶然《ぐうぜん》助けたあの女の子は『時砕き』ということになる。でも、僕にはあの子がそんな凄《すご》い存在とは思えなかった。神をも凌《しの》ぎそうなそんな凄い存在が、うっかり大事な本を落っことすとも思えないし、第一、あの子が本当に時載りの親分なら、リンネがわざわざ時間を止めずとも、落っこちてくる鉄パイプの五百本や千本、簡単に止めてみせるだろう。
リンネも頬杖《ほおづえ》をつきつつうなずく。
「そうよねえ。でもあの子に何か秘密があることは確かなのよ」
「どうしてそう思う?」
「私たちを見て逃《に》げたわ」
リンネはきっぱりと言った。僕はGを顧《かえり》みた。
「Gはどう思う?」
Gは苦笑《くしょう》した。
「わたくしにはわかりかねますわ。わたくしはその少女に会っていませんもの。ですが、伝説によれば、時砕きはもはや時間|軸《じく》に沿って時を流さずに、好きな時好きな時代に姿を現す、つまり時系列をも跨《また》ぐ存在であると言われています。リンネ様がお会いになったその少女が時砕きなのだとしたら、もしかしたらそうした力を使ったのかもしれませんね」
「時を跨ぐ?」
リンネがふっと目線を上げた。
「それって、時砕きは未来や過去にも行けるってこと?」
「リンネ、どうしたの?」
「う、ううん……」
リンネはなぜか言いよどんだ。
Gは黒髪《くろかみ》をわずかに揺《ゆ》らし一礼するときっぱりと言った。
「わたくしが知り得た事柄《ことがら》は以上です。これがどのような経緯《いきさつ》で人間界に出回ったのかはわたくしにはわかりかねます。ですが、古くから時砕きが持つ『紋章《もんしょう》入り』には強い力が内包されていると言われています。これはお返しいたしますが、リンネ様。取り扱《あつか》いにはくれぐれもご注意を」
「ええ。ありがとう、G」
リンネは礼を言うと、本をそっとバイオリンケースの中にしまいこんだ。それを潮に僕らは立ち上がった。
帰り道、既《すで》に薄暗《うすぐら》くなった通りを僕らは連れだって歩いた。バイオリンケースを手に提《さ》げたまま、リンネはどこかぼんやりと考え事をしているように見えた。僕らは背中や二の腕《うで》にプール焼けのにぶい疼《うず》きを覚えつつ、互《たが》いの家の門の前で手を振って別れた。
翌日、僕は海保ルウに出くわした。
夕べじいちゃんに手紙を書こうとして便箋《びんせん》を切らしていたのを思い出し、最寄《もよ》りのデパートに買いに出た時だった。文房具《ぶんぼうぐ》売り場で便箋をワンセット買い、上のフロアにある本屋に行こうと上りのエスカレーターに乗った際、前方にどこか見覚えのある後ろ姿を発見したのだ。
小柄《こがら》ながらまっすぐに伸《の》びた背中に、涼《すず》しげな首筋。ボレロが特徴《とくちょう》的な上品な制服と肩《かた》に背負われたバイオリンケース。
……間違《まちが》いない。海保ルウだ。
彼女はそのままゆっくりとした足取りで本屋へと入っていく。
僕は少し迷ったが、結局リンネに電話することにした。その日もリンネは家で読書をしているはずだった。まずママさんがいつものようにのんびりした口調で電話口に出、ややあって聞き慣れたリンネの声がした。
『もしもし。久高? どうしたの?』
「今、駅前の本屋に海保ルウがいる」
『な、なんですってーっ!』
「今すぐ来られる?」
『おうとも』
電話は切れた。五分後、息を切らしたリンネがホントに僕の前にいた。信じられないスピードだ。時間止めてきたんじゃないだろうな。
「そ、そんなもったいない、こと、するわけ、ないでしょっ」
呼吸を整えようとしつつリンネは言った。
海保ルウは本屋の一画で立ち読みを続けていた。僕らは彼女に見つからぬよう書棚《しょだな》から書棚へと注意深く移動し、物陰《ものかげ》からそっと彼女の様子をうかがった。「敵を知れば百戦|危《あや》うからずよ」と有名な古代の兵法家の言葉を用いて己《おのれ》の正当性を主張するリンネだが、遺憾《いかん》ながら挙動のいかがわしさは否定できない。
てゆーか、自分の行動に妙《みょう》な既視《きし》感を感じるのは気のせいか?
「いい? どんな変化も見|逃《のが》しちゃダメよっ」
にわか探偵《たんてい》にクラスチェンジしたリンネが勇んでいることなど知る由《よし》もない海保ルウは、ややうつむき加減になって静かに本を開いている。
「……あれ、刺繍《ししゅう》の本だわ」
ややあってリンネが意外そうに言った。
「刺繍? 何で刺繍の本なんて読んでるの?」
「私に聞かないでよ」
ルウはそのまま立ち読みを続けた。やがて本を閉じるとひっくり返し、ちらりと値段を確認《かくにん》したが、その本を棚に戻《もど》す。続いて文芸コーナーに行くと、手近な本を一冊手に取って黙々《もくもく》と読み始める。さすがに時《とき》載《の》りだけあって読むスピードはリンネと遜色《そんしょく》ない。
タイトルはナボコフの『ロリータ』。
一時間ほどでそれを読み終えた彼女は本を棚に戻し、書店を出ていく。
「追うわよ」
リンネが短く言う。
ルウは階下にある手芸店に入っていき店内の物色を始めた。ボタンやレース、毛糸、キルト……明るい店内に色とりどりに並べられた商品をルウは真剣《しんけん》な表情で眺《なが》め、時に立ち止まっては手に取る。
なんか普通《ふつう》だ。
敵の一面をうかがい知る絶好のチャンスと意気ごんだ僕らだったが、今のところ、ルウの行動はいたって淡々《たんたん》としている。拍子抜《ひょうしぬ》けする僕らが見守る中、ルウは麻布《あさぬの》と刺繍糸を買うと手芸店を出た。そのまま売場をひとめぐりし、次は花屋に入りコチョウランの種を一|袋《ふくろ》購入《こうにゅう》する。
彼女が移動する都度、僕らは用心深く跡《あと》をつけたが、そのうちいやでもある事実に気づかざるを得なくなった。
つーか、これただの買い物じゃないのか?
何だか不当に人の私生活を盗《ぬす》み見ているような気|恥《は》ずかしさにかられ、僕は頭をかきつつりンネを見た。僕の視線に気づくとリンネは口を尖《とが》らせた。
「なによっ」
「や、ああしてると、普通の子に見えるなーと思ってさ」
「……うん」
リンネはしぶしぶそれを認めた。
そのうち、ルウの脚《あし》は駅へと向く。あたりは既《すで》に夕闇《ゆうやみ》が迫《せま》っている。
「どーしよう? もうやめる?」
「イヤよ!」
「でも僕、おなかがすいてきたよ」
「ま、まだわからないわよっ。何気ない日常をよそおって私たちを油断させてから秘密基地に向かうのかも」
秘密基地って。
結局僕らは海保ルウの尾行《びこう》を続行することにした。ルウは二つほど駅をやり過ごし、街の中心部で電車を降り、やがて繁華街《はんかがい》のビルの谷間にある小さな店に入った。そこは煉瓦《れんが》作りのどこか古風な感じのする店だった。どうやらアンティークショップらしい。僕らは物陰からそっと様子をうかがった。
ルウはしばらく店の奥に姿を消していたが、やがて現れた時には制服からハイネックが特徴的な黒のワンピースに着替《きが》えていた。ルウの私服姿を見るのは初めてだけど、やや堅《かた》めのスタイルながら、背中のラインの綺麗《きれい》な彼女はそんな洋服を上品に着こなしている。
彼女は入り口のシェードを引き上げると、看板らしきボードを店の中から運んできて舗道《ほどう》の脇《わき》に立てかけ、再び中に引っこんだ。やがて店の内部に明かりが灯《とも》る。
看板の文字は英字で『pale horse』と読めた。
「あの子、あのお店で働いているんだわ」
ぴょこんと顔だけ出し、アンティークショップを見守りつつリンネは言った。
「一人でやってるのかな?」
「まさか。……でも、中には彼女しかいないわね」
僕らの視線の先でルウはカウンターの中の椅子《いす》に腰《こし》を下ろしている。だが冷やかしにも店に入っていこうとする客の姿はなく、夕刻を過ぎ、徐々《じょじょ》に猥雑《わいざつ》な活気を帯びていく繁華街の一角にあって、ルウの店はまるで周囲の時間から取り残されたようにひっそりと佇《たたず》んでいる。
ふとルウが動いた。椅子から立ち上がると、通りに面した窓に近づき、窓枠《まどわく》に手を添《そ》えて外を眺める。整った横顔を引き締《し》めたまま、無表情に表通りを行き交《か》う人の流れをじっと見つめている。
やがてルウはカウンターに戻った。
先程《さきほど》買い物をした紙袋《かみぶくろ》を開けて中から刺繍糸と麻布を取り出すと、うつむいて黙々と手を動かし始める。どうやら刺繍をしているらしい。
その時になって初めて僕は店の扉《とびら》のガラスに白いレースのタペストリーが架《か》かっているのに気がついた。
「とても上手ね」
たぶん同じ物を見ていたのだろう。リンネがぽつりと呟《つぶや》いた。
決戦は、明日。
当日の深夜。
「ちゃんと来たのね。感心だわ」
待ち合わせ場所である子供ランドに姿を現した海保ルウは、腰に手を当て挑《いど》むように言った。立っている場所が鼻の先の塗装《とそう》の剥《は》げたゾウのすべり台の上であることに目を瞑《つぶ》れば、絵に描《か》いたような敵役の姿である。
なめらかな肩《かた》を剥《む》き出しにしたビスチェタイプの黒のドレスを纏《まと》い、喉元《のどもと》には細い首をすっぽりと包むレースのチョーカー。太ももを覆《おお》う黒いニーソが愛らしい。
一分の隙《すき》もないゴシックで固めたその姿からは、昨夜の刺繍《ししゅう》好きの女の子の面影《おもかげ》は微塵《みじん》も窺《うかが》うことはできない。
「お部屋で眠《ねむ》っていれば痛い目に遭《あ》わなくてすんだのに」
「ふんだ。私、生まれつき宵《よい》っ張《ぱ》りなの。運動したらさっさと寝《ね》るわよ」
腕組《うでぐ》みをしてリンネは言葉を返した。
こちらはフリルを重ねた白いミニのワンピースに純白のストッキング、靴《くつ》は黒のエナメル・ローヒールという恰好《かっこう》で、珍《めずら》しくロリーに決めている。ストレートのブロンドをカチューシャで留め、足首にはお気に入りの銀のアンクレット、手には例の革《かわ》製のバイオリンケースを携《たずさ》えている。
申し合わせたかのように丈《たけ》の短いスカートを穿《は》いてきたのは、たぶん両者とも脚の形に自信があるせいだろうが、残念なことにギャラリーは僕しかいない。
「結構。じゃあ、早速《さっそく》始めましょ」
そう言うなりルウはすべり台を勢いよくすべり降りた。
待ち合わせ場所の子供ランドは老巧化により閉鎖され、現在立入禁止となっている。前に来た時は賑《にぎ》やかな場所だったけど、今は人の気配もなく、ひっそりとしている。時《とき》載《の》り同士の対決場所としてはうってつけと言っていい。
「ルールは簡単よ。お互《たが》いが一冊ずつ本を持ち、相手の持つ本を先に奪《うば》ったほうが勝ち」
「本を奪い合うの?」
「そ。殴《なぐ》ったり蹴《け》ったりし合うより、よほどスマートでしょ」
ルウの説明によるとルールはこうだ。両者は互いに一冊の本を持ち、最終的に相手の本を奪ったほうが勝者となる。対決の最中、いつ、どこで、どのように時間を止めるのも可。ただし範囲《はんい》はこの園内とする。制限時間はなし。
相手に勝っ方法は簡単だ。要は時間を止めて相手の動きを封《ふう》じてから本を引ったくればいいだけの話である。だが、相手の時間を止めるためには、「止める時間」をうまく相手に当てなければならず、それがリンネにとって言うほど簡単な作業ではないことは確かだ。負けても怪我《けが》をしたりすることは無さそうだけど、よく考えてみると、こちら側に圧倒《あっとう》的に不利なルール設定であることは明らかだ。
「この施設《しせつ》の配電はまだ生きてるの。あなたが来る前に、施設全体の電源スイッチをオンにした瞬間《しゅんかん》に配電室全体の時間を止めてきたわ。私が時間の停止を解除すると同時に電気が流れ、ここのアトラクションすべてが動き出すわ。それを開始の合図としましょう。どう?」
「いいわ」
リンネはあっさり応じた。って、いくらなんでも淡泊《たんぱく》すぎないか? と思ったら、リンネは先を続けた。
「ただし、ふたつ注文があるんだけど」
「なに?」
「私、今、手許《てもと》に本がないの」
「は?」
ルウは目をぱちぱちと瞬《しばたた》かせた。まさか、本を常備していない時載りがこの世にいるとは思ってもみなかったのだろう。
「本を持ってきてないの。だから貸してくれない? これがひとつめ」
「しょ、しょうがないわね。じゃあ、そのケースに入ってる本でも持ちなさいよっ」
ルウはリンネの持ってきたバイオリンケースを指さした。リンネは首を傾《かし》げた。
「でもこれって、一応|賭《かけ》の対象なんでしょ?」
「仕方ないでしょっ。私だって一冊しか持ってないんだから」
リンネはバイオリンケースを地面に置いて開くと、中から本を取り出した。『時の旋法《せんぽう》』と呼ばれるらしいその本を携えると、リンネは満足そうにうなずいた。
「これでいいわ」
「……で、もうひとつの注文はなに?」
「私が勝った時のことを言っておこうと思って」
「なによそれ?」
「賭のことよ。確か私が勝てば、あなたに何でも言うことを聞かせられるんでしょ?」
「ああ」
ルウはようやく思い出したようだった。初めて会った時、二人は賭をしたのだ。どちらが『街の住人』として優《すぐ》れているかを勝負し、ルウが勝てばリンネは本を差し出すかわりに、もしリンネが勝てばルウはリンネの言うことを無条件で聞かなくてはならないという賭である。
「……で、あなたが勝ったら私は何をすればいいの? いい加減、早く始めたいんだけど」
「私と友達になって」
リンネはきっぱりと言った。
「は?」
ルウは絶句した。
しばらくしてようやく言葉の意味を理解し得たのだろう、まるで恋《こい》の告白を受けた少女のようにみるみる頬《ほお》を染め、まっ赤になった。
「ば、ば、ばっかじゃないのっ? な、なんで私たちが友達にならなくっちゃならないのよっ」
「これが賭の条件よ。もう決めたから」
「か、勝手に決めないでっ。これから私とあなたは勝負するんでしょ!」
照れ隠《かく》しなのか、ルウはさかんに大声を出す。
「べつに今すぐ仲良くしようとは言ってないわ。終わった後でいいのよ。私、あなたと友達になりたいの」
リンネはまっすぐにルウを見つめて言った。
「……」
ルウは何か他意があるのではないかと探《さぐ》るようなまなざしをリンネに向けていたが、やがてリンネが本気だとわかったのだろう。口を尖《とが》らせたままいかにもしぶしぶといった体でうなずいた。
「……い、いいわ。あなたが勝った時には友達になってあげる。どーせ、あなたが勝つなんてあり得ないしっ」
「そんなこと、やってみないとわからないわ」
リンネはにっこり笑った。
「あいかわらず面白い子だな」
いつの間にか遊佐が僕の隣《となり》に立っていた。
「なんだ。来てたんだ?」
「何だとは失礼だな。師匠《ししょう》としては、不肖《ふしょう》の弟子《でし》の闘《たたか》いぶりを見|逃《のが》すわけにはいかないだろ」
長めのくせっ毛をかき回すと、遊佐は軽くウインクした。
「で、どうだ? お前の相棒は勝ちそうか?」
「勝つさ。……言っとくけど、手は出すなよ」
「出さないよ」
「お前に言ったんじゃない」
僕は長身の遊佐の背後に隠れるようにして立つ、小柄《こがら》な姿をいくぶんの非難をこめつつ、じろりと睨《にら》んで念を押した。こいつが手を出せばリンネもルウも勝負どころではなくなる。
まったく。
本来ならパジャマに着替《きが》えて自分の部屋で眠《ねむ》っているはずの凪が無表情にうなずいたその瞬間、
すべての施設《しせつ》に一斉《いっせい》に明かりが灯《とも》り、遊園地が目覚めた。
合図と同時にリンネはさっと後ろに飛びすさると、そのまま駆《か》け出した。相手の射程に入らぬよう、少しでも距離《きょり》を稼《かせ》ごうという作戦である。だが十メートルも進まぬうちに、リンネは敷石《しきいし》の上で派手に転んだ。
「きゃんっ!」
慣れぬ革靴《かわぐつ》なんかを履《は》いたせいだと、やきもきする僕を尻目《しりめ》にリンネはきょとんとしている。なぜか急に靴の片方が脱《ぬ》げたらしい。だがよく見ると、黒のエナメル・ローヒールは地面から十センチほど上のところで、まるでショーウインドーにディスプレイされた商品のように斜《なな》めになって停止している。
ルウがおそらく、靴に的を絞《しぼ》って時間を止めたのだろう。わざと狙《ねら》いを外したのか、ルウは自信たっぷりに言った。
「あーら。その靴、サイズが合ってないんじゃない?」
「やったわねっ!」
リンネは起き上がると、空中停止したエナメル靴を慌《あわ》てて引ったくり、やむなく片足|裸足《はだし》のままコーヒーカップのアトラクションのほうへと駆け出した。すかさずルウがその後を追う。
「もうっ。ストッキングが伝線しちゃったじゃないの!」
リンネは四人|掛《が》けのカップの背後に身を潜《ひそ》めると、靴を履き直しつつルウに向かって怒鳴《どな》った。九つのコーヒーカップはすでに盤《ばん》ごと回り始めている。
「慣れない物を履くからよ」
どこからか、ルウの声がした。
「失礼なこと言わないでよ。それはあなたのことでしょっ」
「残念でした。わたし、コンサートのときには必ず盛装するの」
「馬子《まご》にも衣装《いしょう》ね」
そう言うなりリンネは顔を上げ、腕《うで》と指をまっすぐに伸《の》ばすとそれを的にルウへ灰色の視線を投げたが、ぴたりと止まったのはなぜかルウが潜むコーヒーカップだった。
外れだ。
「もうっ。このっ」
リンネが再度ルウに照準を合わせようとした瞬間《しゅんかん》、今度はリンネのカップが慣性の法則を無視したように凍《こお》りつく。あわてて頭を引っこめるリンネ。
「えいやあっ」
「たあーっ」
その後、しばらく二人は互《たが》いの動きを封《ふう》じようとカップを遮蔽《しゃへい》物にせっせと時間を止め合った。どちらも相手の隙《すき》を狙って視線を投げる。二人の間で、盤上のコーヒーカップは次々と動きを止めていく。
やがて、盤上のすべてのカップが停止したときには、二人の時《とき》載《の》りはカップの描《えが》くサイクロイド曲線にすっかり乗り物|酔《よ》いになっていた。いくぶんへこたれつつ駆け出すリンネを、同じく千鳥足のルウが追う。
何とか遮蔽物となるアトラクションを見つけようと園内を駆けるリンネに向かって、ルウは容赦《ようしゃ》なく「時留め」をぶつける。リンネの周囲では噴水《ふんすい》の飛沫《ひまつ》が凍りつき、機械|仕掛《じか》けの人形が動きを止め、ネオンが明滅《めいめつ》を止めるが、その都度リンネは紙一重《かみひとえ》でルウの攻撃《こうげき》を避《よ》けている。
見たところ、序盤から優位に闘いを進めているのはルウだ。抜群《ばつぐん》の運動神経で辛《かろ》うじてルウの攻撃を避けているリンネだけど、今のところ、逃《に》げるのに精一杯《せいいっぱい》で反撃《はんげき》する暇《ひま》も与《あた》えられていない。
だが見方を変えれば攻撃するためにストックを消費し続けるルウに比して、リンネのストックはまだほとんど手つかずである。もしリンネが「相手のストックを消費させること」を狙っているのだとすれば、その行動は決して理にかなっていないわけではない。
後は反撃に転じるタイミングだ。
「もうっ。おとなしく止まりなさい! どのみちあなたに勝ち目はないんだからっ」
子鹿《こじか》のように跳《は》ね回っては自分の攻撃を避けるリンネに業《ごう》を煮《に》やしたのか、ルウは広範囲《こうはんい》に亘《わた》って一気に時間を止めた。駆けるリンネの背後で観覧車がぴたりと回転を停止させる。
「その言葉、そっくりそのままリボンつきで返してあげるわっ」
振《ふ》り向きざまにリンネは言った。
「じゃあ、なんで逃げてるのよっ」
「これはエクササイズよっ。かけっこをして身体《からだ》を鍛《きた》えてるのっ」
妙《みょう》な理屈《りくつ》を言いはると、リンネはひらりとスカートをなびかせ、窓からファファ・ランドに飛びこんだ。
ファファ・ランドは建物全体が空気を膨《ふく》らませたトランポリンみたいになっている、あの幼児に人気のアトラクションである。勢いあまったリンネは自分の部屋のベッドでよくやるように、うつ伏《ぶ》せのままぽわんと二度三度バウンドした。続いてルウが勇んで飛びこんできたが、こちらもマシュマロのような床《ゆか》に尻餅《しりもち》をつくと同時に大きく弾《はず》み、くるりと前に一回転したあげく、四つん這《ば》いになる。
「うにゃんっ」
「やんっ」
なまじ勢いよく飛びこんだのだからたまらない。身体の軽いリンネとルウはしばらくの間マットの上で手足を舞《ま》わせて弾み続けた。なんか、どちらもスカートの裾《すそ》を押さえるのに精一杯で、戦いどころではなくなっている。
服の色は正反対な二人だけど下着の色はおんなじなんだなあ、などと女の子の神秘に触《ふ》れて考えこむ僕をよそに、当人たちはスキップの要領でどうにかトランポリンの間を通り抜《ぬ》けると隣接《りんせつ》したボールプールに飛びこんだ。床に大量に敷《し》き詰《つ》められたゴムボールに脚《あし》を取られ、リンネとルウはスライディング姿勢のまま一気にプール中央まで運ばれる。
ジェリービーンズのように色とりどりのゴムボールの海に脚を浸《ひた》しつつ、二人は改めてまっ正面から向き合った。
駆《か》け通しでだいぶ消耗《しょうもう》したのか、ルウは肩《かた》で息をしながら言った。
「取りあえず、反射神経がいいのは認めてあげるわ」
「それは、ありがと」
さすがのリンネも多少息が切れている。
「でも残念だけど、ここまでよ。できれば出さずに済ませたかったんだけど」
そう言うとルウはスカートの裾の下から長さ三十センチほどの小さな杖《つえ》を取り出すなり、さっと振ってみせた。途端《とたん》に、杖の先端からまるで稲光《いなびかり》のような青白い光がリンネに向かって放たれた。慌《あわ》てて飛びすさるリンネの足許《あしもと》のボールが凍りつくように時間を止める。
「な、なによそれっ?!」
「私の私物よ。通称《つうしょう》『クロドゥスの杖』」
「ず、ずるい! 武器なんて反則だわっ。ずるっこよ!」
リンネは口を尖《とが》らせたが、ルウは動じなかった。
「ずるくないわ。どのように時を止めるのも可、と私は言ったはずよ。道具を使用してもルールには抵触《ていしょく》しないわ……きゃんっ」
その言葉が言い終わらないうちにルウは仰向《あおむ》けにひっくり返った。
「なら、これもルール違反《いはん》にはならないわよね?」
床に敷き詰められたボールの一つをお手玉しつつ、不敵にリンネは笑った。
「いったーいっ。やったわねーっ!」
当たるを幸いとばかりにルウはボールをリンネに投げつける。リンネも負けじとボールを放り、ボールプールの中はたちまち十字|砲火《ほうか》区域と見|間違《まちが》うばかりの修羅場《しゅらば》と化した。
「もうーっ。このこのっ」
「えいっ、えいっ、えいっ」
「痛っ。ちょっとー、今、歯に当てたでしょっ」
「そんなこと知らないわよっ。ださいブリッジしてるんだから平気でしょっ」
「ひ、人が気にしてること言わないでよっ!」
「あなただってさっき私のおでこに当てたでしょっ!」
口喧嘩《くちげんか》のたびに砲火は激しさを増し、テンションを孕《はら》んだゴムボールは右へ左へと乱れ飛ぶ。
……つーか、これはもはや戦い以外の何かだろう。
唖然《あぜん》とする僕ら観戦組をよそに、二人の乙女《おとめ》は戦略も戦術もへったくれもなく、己《おのれ》の激情に任せてひたすらボールをぶつけ合っている。
「努力や特訓って、意外なところで役立つもんだな」
リンネの戦いっぷりを見る限り、ボールを使ったあの特訓は大いに役立っていると言っていい。こんな形で生きるとは僕も遊佐も夢にも思っていなかったけど。
[#挿絵(img/mb671_173.jpg)入る]
「……お前、時々やな奴《やつ》になるな」
遊佐はくすりと笑うと、ふとあたりを見渡《みわた》した。
薄《うす》い部屋着一枚の凪は少し寒そうにしながらも、僕の隣《となり》でリンネとルウの戦いの様子を静かに見つめている。感心なことに戦いが始まった当初から口を閉《と》ざしたままだ。
「ところで、いつ声をかけるんだ?」
遊佐が僕にそっと耳打ちした。
「なんだ。気がついてたのか」
「当然だろ……つーか、ばればれじゃないか。お前、呼んでこいよ」
遊佐に促《うなが》され、やむなく僕は入り口正面の「立入禁止」と書かれた柵《さく》を迂回《うかい》すると、窓口のシャッターが降りた入場券売場に近づいた。ぴんと背筋の伸《の》びた長身の影《かげ》が、壁際《かべぎわ》から顔だけ出してリンネの様子をそっと見守っている。
「G」
「きゃああっ!」
僕が後ろから声をかけると、箕作家の司書はあられもない悲鳴をあげた。
「く、久高様。驚《おどろ》かせないで下さいっ」
「何も隠《かく》れて見に来ることないのに」
「はあ」
Gはしょぼんと身を縮ませた。
「来るつもりは無かったのですが、やはりリンネ様のことが心配になりまして……」
Gは頬《ほお》を赤らめて言った。黒のビスチェワンピースに白いシャツ、喉元《のどもと》にカメオといういつもの清楚《せいそ》な司書スタイルは夜目にも変わらない。
「万が一お怪我《けが》などがあっては困りますし……」
長身をちぢこませるGを安心させるように僕は言った。
「もし怪我をしたとしても泣いたりするような子じゃないよ。リンネは」
「それは、よく存じておりますとも」
僕の言葉にGは小さく溜息《ためいき》をついた。
「だから余計に心配なんです」
ようやくリンネは攻《せ》めに転じた。
アトラクションの中でも一際《ひときわ》高く聳《そび》える塔《とう》の中に二人はいた。元々はこのあたりの景色を一望できるビュータワーだったらしいが、今は解体も進み、一部の壁《かべ》を残して建物の骨格が剥《む》き出しの状態となっている。
リンネはこの塔にルウを誘《さそ》いこむと一旦《いったん》入口付近で彼女をやり過ごし、素早《すばや》くバックを取ると一気に急襲《きゅうしゅう》した。絵に描《か》いたようなカウンター・アタックである。
「よーし。反撃《はんげき》開始よっ」
ここが決め時だという意図があるのだろう、リンネはこれまで貯めに貯めてきたストックを一気に使い果たそうとするようにルウに次々と時留めをぶつける。ふいをつかれたルウも負けじと応戦するが、元気なリンネに比べて疲労《ひろう》感があるのは否《いな》めない。
スペンサー、ランケ、ミシュレ、ベンサム、ミル、ブルクハルト、キルケゴール……リンネがこの一週間、水の他《ほか》には何も摂《と》らず、ベッドの上で胡座《あぐら》をかいてひたすら乱読した西洋知性の粋《すい》が暴風雨のように彼女の四囲を舞《ま》い、塔内で時間は流れるのを止める。
形勢は逆転した。
堪《こら》えかねたようにルウは上の階へと逃《のが》れる。リンネは即座《そくざ》にその後を追い、やがて二人は塔の最上階で向き合った。
もうルウに逃《に》げ場はない。
だがリンネの粘《ねば》り勝ちと僕らが信じたその矢先、リンネは突如《とつじょ》として奇妙《ニみょう》な行動に出た。柱の陰《かげ》、解体の最中《さなか》にもまだ割れずに残っていた鏡の前でふと立ち止まると急に無防備になり、その場でしきりにきょろきょろし始めたのだ。端《はた》から見ればそれは戦いを放棄《ほうき》したとしか思えぬ動きだった。
そんなリンネの背後を取るのはたやすいことだった。
「リンネ、後ろっ」
と僕が言ったときにはもう遅《おそ》かった。時を完璧《かんぺき》に編み終えたルウが杖《つえ》先を舞わせた瞬間《しゅんかん》、光の花が四囲で咲《さ》き、振《ふ》り返る間もなくリンネは凍《こお》りついた。
「ふうっ。惜《お》しかったわね。もうちょっとだったのに」
おでこに落ちかかった髪《かみ》を指でさっと払《はら》うと、ルウは動きを止めたリンネにすたすたと歩み寄った。
「いい勝負だったけど、最後はやはり経験がモノを言ったわね。でもま、ろくに時間も止められないわりに、あなたもよくやったと思うわ」
「ど、どうして……」
辛《かろ》うじて口だけ動かしてリンネは言う。
「鏡の中に動きを止めた私の姿を見たんでしょ? 箕作リンネ・メイエルホリド」
ルウは初めてリンネの名を呼ぶと、正面の姿見をまるでリンネと共に眺《なが》めるようにその背中|越《ご》しに立った。
だが奇妙なことに二人の視線の先、姿見の中にはルウ一人しか映っていない。
「鏡っていうのはガラスの片側に塗《ぬ》られた硝酸銀《しょうさんぎん》が光を受けて跳《は》ね返すメカニズムを利用して作られた物よ。物が映った状態、つまり硝酸銀の表面に光が当たっている状態で時を止めれば、光の入射角度が変わった後も鏡は元の虚像《きょぞう》を映し続けるわ。つまり……」
その瞬間、鏡の中のルウの姿は消え、変わって、凍りついたリンネとその真後ろに立つルウが映し出された。
「あなたは数秒前のわたしを見ていたというわけ」
どうやらルウは鏡に自分の姿を映した状態で「鏡の時間」を止め、それを囮《おとり》に使ったらしい。遅《おく》れてそれを見たリンネは無意識に鏡に映る本体を探《さが》したのだろう。そしてそれは、ルウが時留めを当てるには十分な隙《すき》だったわけだ。
「さてと。じゃあ、約束通りこの本はもらっていくわね。中身は私がじっくりと調べてあげる。何が書いてあったかは気が向いたら教えてあげるわ」
「……教えてもらう必要はないわ。その本の名前は『時の旋法《せんぽう》』。世界に七人しかいないと言われる時《とき》砕《くだ》きの所有物、通称《つうしょう》『紋章《もんしょう》入り』よ」
「時砕きの?!」
その答えはさすがに予想を遥《はる》かに超《こ》えていたのだろう、ルウは目を丸くする。そして嘲《あざけ》るように言った。
「へえ。すごい本じゃないの。ますます気に入ったわ。ありがたく頂戴《ちょうだい》していくわね。実を言うと、私も古い物にはまんざら縁《えん》がないわけじゃないの」
「……」
リンネは唇《くちびる》を噛《か》んだ。
ルウが背後から抱《だ》きしめるようにリンネが持つ本に手を伸《の》ばした時、リンネは低く呟《つぶや》いた。
「……この本は渡《わた》さないわ」
「はあ? なに言ってるのよ。勝負はもうついたでしょ」
「まだよ。まだ決着はついてないわ」
リンネは自分に言い聞かせるように言った。
「私、元の持ち主にもう一度会う。会って、この本を返す。その子が時砕きなら、時系列だって乗り越《こ》えることができるはず。そしたら、私、時間を跨《また》いでお父さんに会えるんだから!」
「お父さん?」
突然飛び出した場違《ばちが》いな言葉にルウが訝《いぶか》しげな表情を浮《う》かべた時だった。リンネの腕《うで》の中で『時の旋法』が眩《まばゆ》い光を放った。
古びた本の表紙に記されたあの奇妙な紋章が、異様な光芒《こうぼう》と共にくっきりと浮かび上がる。
白く――、
白く――、
何かに応《こた》えるように。
と同時に、リンネの身体《からだ》もまた光を纏《まと》うように白さに包まれていく。
一瞬、ルウがたじろぐ。
リンネはそれを見|逃《のが》さなかった。リンネは凍りついた状態で唯一《ゆいいつ》視線が向く場所、すなわち塔《とう》の床《ゆか》を睨《にら》みつけ、残るすべての力を解放した。灰色の「エクサの視線」は瞬《またた》く間に床を砂へと変える。のちにわかったことだが、この時リンネはフロアすべての床の時間を一気に数百万年進め、コンクリートから砂にまで風化させたらしい。
足場を失ったリンネとルウはもつれ合うように下の階へ落下した。
舞い上がる粉塵《ふんじん》に激しく咳《せ》きこみつつ、ルウはリンネにしがみついた。
「ちょ、ちょっとーっ。あなた何をしたのよ」
「たぶん、床の材質の時間を進めただけだと思うけど……」
「進めすぎよっ。崩《くず》れてきたじゃないの」
どうやらリンネの力は塔全体にまで波及《はきゅう》したらしい。二人の頭上で鉄骨が軋《きし》み始め、強度を失った塔が急速に傾《かたむ》きだす。事態の深刻さに気づきリンネも青ざめた。
「そ、そーみたい。逃《に》げましょう」
「う、うん」
リンネとルウは肩《かた》を並べて全速力で階段を駆《か》け下り始めた。
もはや勝敗どころの話ではない。早く脱出《だっしゅつ》しないと命がない。
建物がゆらりと不気味に傾《かし》ぐのは、真下にいる僕らにもわかった。
「久高逃げろ! 潰《つぶ》されるぞ!」
凪をお姫様《ひめさま》抱っこしてすっ飛んで駆けていく遊佐が振《ふ》り向きざまに僕に怒鳴《どな》った。
「もう逃げてるよ!」
Gの手を引いて懸命《けんめい》に駆ける僕らの背後で、力場と安定を失った塔が一気に崩れ落ちた。凄《すさ》まじい勢いで瓦礫《がれき》が後から後から雪崩《なだれ》落ち、あたりはたちまちもうもうとした粉塵に包まれた。破片《はへん》と土砂《どしゃ》は四方に飛び散り、煙《けむり》が大気に載《の》って絶え間なくわき出してくる。
やがて視界が晴れ、倒壊《とうかい》が収まった頃《ころ》、僕らは厄災《やくさい》の現場を前に呆然《ぼうぜん》と立ちつくしていた。
「これは……崩れたな」
遊佐の何とも間の抜《ぬ》けた独り言に僕が取りあえず何か応えようとした時だった。
と。
瓦礫の一部がのそりと動き、続いてげほげほと咳《せき》をしつつ、泥《どろ》と粉塵にまみれたリンネとルウが這《は》い出てきた。
胸をなで下ろしつつ、あわてて僕らは二人の許《もと》へ駆け寄った。
「リンネ、大丈夫《だいじょうぶ》?!」
「取りあえず、死なない程度に生きてるわ」
思いっきり顔をしかめてリンネは言った。それから二度三度咳きこむと「さいあく」と口をへの字に曲げて自分の恰好《かっこう》を眺《なが》める。
「どうやって脱出できたの?」
「落ちてくる瓦礫を片っ端《ばし》から止めただけよ。それでも最後の五メートルは匍匐《ほふく》前進だったけど」
「……リンネ。いい加減、その場の思いつきで行動するのやめろよ。いつかママさんを泣かせるようなことになっても知らないぞ」
安心した反動で、思わず口を突《つ》いて出た僕の小言にもリンネはしれっと答えた。
「あれは思いつきじゃないわ。作戦よ。最初から塔に誘《さそ》いこむつもりだったんだから。ええと、チタデレ大作戦」
「……作戦ですって」
登場時のゴシック美少女の出《い》で立ちはどこへやら、リンネに劣《おと》らず酷《ひど》い格好のルウは、リンネにのしかからん勢いで怒鳴った。
「あ、あなたねーっ。ちょっとは状況《じょうきょう》を考えて力を使いなさいよっ。危《あや》うくぺちゃんこになるところだったじゃないっ!」
「う……でもほら、普通《ふつう》、塔が倒《たお》れるなんて誰《だれ》も思わないでしょ?」
ルウの剣幕《けんまく》に圧倒《あっとう》され、さすがのリンネもたじたじになる。ルウはおでこににかかった髪《かみ》をさっと払《はら》うと、納得《なっとく》がいかないのかさらに問いつめる。
「……だいたい、どうやって私の時留めから逃《のが》れたのよ。それにさっきのあれ、『時間|恐慌《きょうこう》』でしょ。それも、時《とき》砕《くだ》き並のロング・スパンの」
「時間恐慌?」
きょとんとするリンネにかわってGが冷静な口調で説明した。
「時間の流れを急激に進めることによってあらゆる事象に一度に決済を迫《せま》り、その『過程』の内に生成された筈《はず》の力を現在にぶつけて現象を内側から破綻《はたん》に追い込む技《わざ》です。この規模の時間支配は時砕きにしかできないはずなのですが……」
Gの言葉を受け、僕らはまじまじと煤《すす》だらけのリンネを見つめた。輝《かがや》くブロンドは埃《ほこり》まみれ、フリルがふんだんにあしらわれた白いワンピースは……哀《あわ》れ、二度と袖《そで》を通されることはないだろう。ストッキングに至っては裂《さ》けまくり、ほとんど網《あみ》タイツと化している。
だが当の本人はあっさり否定した。
「それはたぶん、この本の力よ。私は夢中でやっただけだし」
リンネは座りこんだまま『時の旋法《せんぽう》』の表紙にそっと手を触《ふ》れた。だが別に光が溢《あふ》れるわけでも紋章《もんしょう》が輝くわけでもない。そこにあるのは何の変哲《へんてつ》もない、ただの古書だった。
「もう、なんにもなってないみたい」
「おそらく、先程《さきほど》はこの本に封《ふう》じこめられていた力が一時的に解放されたのでしょう。それが、リンネ様の意志に反応したせいなのか、ただの偶然《ぐうぜん》なのかはわかりませんが」
Gが言った。そして心底ほっとしたようにため息をつく。
「とにかく、怪我《けが》がなくて本当に良かったですわ」
「ホントね」
「ホントね、じゃありませんっ。さ、奥様に見つかる前にお家《うち》にお戻《もど》りにならないと。それにお風呂《ふろ》にも入らなくては。……まったく、こんなによごされて」
ぶつぶつ小言を言うGに促《うなが》されて立ち上がりつつ、
「あ、そうだ、忘れるところだったわ。はい、これ」
リンネは『時の旋法』とは別に、胸に抱《かか》えていた物をルウに向かって差し出した。
それはルウの本だった。
「私、読むのは大嫌《だいきら》いだけど、でもやっぱり、本は大切にしたいと思うから」
粉塵《ふんじん》にまみれたその本の表紙のタイトルはこう読めた。
『大工よ、屋根の梁《はり》を高く上げよ』
僕は一瞬《いっしゅん》、空を見上げた。
屋根はもう、無い。かわりに蒼白《あおじろ》い光を帯びた月が夜空に浮《う》かんでいる。
ルウは一瞬苦虫を噛《か》み潰したような表情を浮《う》かべたが、一つ溜息《ためいき》をつくと小さく肩をすくめて言った。
「……いいわ。負けを認めるわ。なーんか釈然《しゃくぜん》としないけど、一応助けてもらったみたいだし」
「じゃあ、約束通り、私たちは友達ね」
屈託《くったく》なく差し出されたリンネの手を見てルウは怒《おこ》ったように頬《ほお》を赤らめたものの、やがておずおずとその手を握《にぎ》り返した。
ま、まずはめでたしめでたし、かな。
リンネは煤まみれの顔をふと改め、早速《さっそく》ルウに向かってこう訊《たず》ねたものだった。
「ね、あなた、ゲーデル・パフェって食べたことある?」
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6章
それはリンネと海保ルウが瓦礫《がれき》の山の上で友情の契《ちぎ》りを結んだ日より数日が過ぎた八月のある日のことだった。
リンネはあの騒動《そうどう》の最中《さなか》、ちょっぴり左の足首をくじいてしまい(塔《とう》から駆《か》け下りた時に痛めたらしい)、治るまでの間ママさんから外出禁止令を言い渡《わた》されていた。リンネは不満たらたらだったが、僕からすればこんな喜ばしいことはない。慌《あわ》ただしかった夏休みはここにきてようやく落ち着きを取り戻し、僕は餓《う》えるほど長らく待ち望んでいたのんびりとした日々をひたすら謳歌《おうか》して過ごしていた。
平穏《へいおん》な日々が破られるきっかけはやっぱりリンネだった。
その日、僕らは縁側《えんがわ》へ出て、ママさんが笊《ざる》に載《の》せて運んできてくれたサクランボをほおばっていた。
サクランボは実が締《し》まっていて甘かった。リンネは包帯を巻いた左脚《ひだりあし》を崩《くず》して無造作にサクランボを口に放《ほう》りこむ一方、取り外した茎《くき》を口の中で舌先だけで結ぶ作業に熱中していた。後で見てみると、リンネが座っていた場所の膝元《ひざもと》に綺麗《きれい》な輪を描《えが》いて結ばれた十二本の茎が一列に並んでいたから、どうやら舌先まで器用な子らしい。
風鈴《ふうりん》が揺《ゆ》れ、風が鳴った。
枝振《えだぶ》りのいい欅《けやき》の落とす影《かげ》が僕たちの前で微《かす》かに揺れていた。
ふとサクランボを食べるのをやめ、リンネはぽつりと言った。
「お料理をしてみたいな。お買い物に行って、お肉やお野菜を選ぶの。お家に帰ったらエプロンをして台所に立って献立《こんだて》を考えて。レシピを見ながら味つけを試《ため》してみたり、お皿に綺麗に盛りつけてみたり。できあがったらみんなで食卓《しょくたく》を囲んで食べるのよ! そういうのって、凄《すご》く楽しいと思わない?」
普通《ふつう》、献立を考えてから買い物に行くものなんじゃないかと僕は思ったが、取りあえずまっさきに口を突《つ》いて出たのは一番初めに頭に浮かんだ疑問だった。人間の身体《からだ》って結構正直にできている。
「リンネ。今までに料理をしたことあるの?」
「ううん。ない」
またやな予感がした。
もちろん、リンネが料理なんてしたことがないことはわかっていた。時載りの栄養源が活字情報、すなわち読書である以上、リンネやママさんが普通の人間が食べるような料理を作る必然性は無いからだ。時載りが本質的な意味での『料理』をしようと思い立った時、おそらくその時載りはキッチンではなく書斎《しょさい》へと向かう。そういう意味ではリンネは小説を書くべきなんだろう。きっと、僕よりずっと面白《おもしろ》い物語を書くに違《ちが》いない。
だがこの廃塔《はいとう》崩《くず》しの得意な女の子はあくまで人間と同じことがしてみたいらしい。痛めた脚を気にもせずその日のうちにリンネは近くのスーパーに食材を買いに行ったから決意は本物のようだった。
むろん、僕に異存があるわけではない。それがじいちゃんの言うようにリンネにとっての「祈《いの》り」だとするなら、祭壇《さいだん》の前で共に脆《ひざまず》くくらいのことなんでもない。
ただ祈りと料理とでは決定的に違う点がひとつある。
祈りは個人的な作業だけど、料理には食べる奴《やつ》が必要だ。
翌日、リンネは買い物|袋《ぶくろ》持参でうちのキッチンにやって来るなり、意気揚々《いきようよう》と準備に取りかかった。どっから手に入れたのかまっ白な割烹着《かっぽうぎ》に袖《そで》を通し、ヒヨコの雌雄《しゆう》判別師が被《かぶ》るみたいな白い頭巾《ずきん》ですっぽりとブロンドを覆《おお》うと、くるりと振り返る。
「どう、似合うかしらっ?」
「……うん」
「ふふん。コックさんみたいでしょ」
どっちかと言えば、その出《い》で立ちはコックというよりは「今週の給食当番」という感じだったけど、当人がその恰好《かっこう》をいたく気に入っているようなのであえて論評は避《さ》ける。
「本当にごめんなさいね。リンネがどうしてもって、きかないものだから」
はりきるリンネの傍《かたわ》らで、ママさんは困り果てたような表情を浮《う》かべて僕と母さんと凪に向かって頭を下げた。
「ほとんど使う機会がないから、うちのキッチンは名ばかりで何の設備もないの」
母さんは笑って首を振った。
「いーのよ。そんな気にしなくても。それに、リンネちゃんもそろそろお料理のお勉強をしてもおかしくない年頃《としごろ》だし」
リンネがうちの隣《となり》に引っ越《こ》してきた日以来のつきあいだから、母さんとリンネのママさんの関係も丸八年になる。だからもう、互《たが》いの家に何があって何が無いのかぐらいわかっている。「楠本《くすもと》家にあって箕作家にないもの」リストの筆頭と言えば、文句無しに「調理器具」及《およ》び「食器」が挙げられる。反対に「箕作家にあって楠本家にないもの」といえば何だろう? 少なくともうちには閉鎖《へいさ》中の遊園地で謎《なぞ》の倒壊《とうかい》事故を引き起こして朝刊の一面を賑《にぎ》わす女の子はいないけど。
母さんの言葉に、リンネはぱっと顔を輝《かがや》かせた。
「おばさまもやっぱりそう思うでしょ?! ほらほらほらママ、私の言った通りじゃないの」
母さんの言葉の尻馬《しりうま》に乗って、しきりにリンネは自分の思いつきの正しさを主張する。
「それにママだって、パパがいたころはパパのためにお料理してたんでしょ? だったら、私にやってできないことはないと思うわ」
そう言ってママさんの背中をぐいぐい押してキッチンから追い出してしまうと、早速《さっそく》リンネは持ってきた食材をテーブルの上に並べ始めた。そして握《にぎ》りこぶしを振り上げると、気合いを入れる。
「よーし。がんばるぞ」
「で、一体何作るつもりなの?」
僕はおそるおそる訊《たず》ねた。
「カレーよ」
割烹着姿のリンネはブリッジを剥《む》き出しにして笑《え》みを浮かべるとはりきって料理を開始した。手始めに包丁を手に取るとまったく皮を剥いてないタマネギをまっ二つ。凪が手で口を押さえて目を丸くする。
「……あのさ、何で急に料理なんてする気になったの? べつに時《とき》載《の》りに必要ないだろ」
ほとんど途方《とほう》に暮れて僕は訊ねた。
リンネは僕の方を見向きもせずに言った。
「だって、ふつうの男の子のおよめさんになる時に必要でしょ」
その後、僕はリンネのお手製カレーを最初に賞味するという栄に浴したわけだが、その感想をこの場で語ることは慎《つつし》んで差し控《ひか》える次第《しだい》である。
『pale horse』は客を選ぶ店らしかった。
実際にそうするだけの余裕《よゆう》があるのかどうかはともかく、今のところ僕ら以外の客の姿を店内で一度も見たことがない点からして、このアンティーク・ショップの敷居《しきい》が一般人《いっぱんじん》の背丈《せたけ》より高く設定されていることは間違いない。そもそも黙示録《もくしろく》で言う『蒼《あお》ざめた馬』、すなわち『死』を意味する文字が堂々と屋号に掲《かか》げられている時点で、敷居が大方の人間の目線の高さを越えている……てゆーか、はっきり言って、客に「入るな」と言っているようなもんだな、これは。
もっとも、世の中にはそんな敷居の高さに気づかずにそれをやすやすと跨《また》いでみせる女の子もいる。
「What's up? Luu!」
オーク材の扉《とびら》を開けるなり、リンネは琥珀色《こはくいろ》の店内に飛びこんで挨拶《あいさつ》をする。脚《あし》もすっかり治って最初のお出かけである。
そこにあるのは圧倒《あっとう》的な「時間」の匂《にお》いだ。あるいは「歴史」と言い換《か》えてもいいかもしれない。子供の背丈の三倍もありそうな柱時計から手の平にすっぽり収まる侯爵紋《こうしゃくもん》入りのレターオープナーまで、様々なアンティークが、それぞれが抱《いだ》く時と共に僕らを穏《おだ》やかに迎《むか》える。
「ごめんね。お邪魔《じゃま》だった?」
「邪魔だった、っていってもどーせ来るんでしょ」
カウンターの前に腰《こし》を下ろして静かに本を読んでいた海保ルウは顔を上げて憎《にく》まれ口を叩《たた》いた。照れ隠《かく》しで言っているのが明らかだから、リンネは腹を立てず、かわりに胸に抱《だ》いた『時の旋法《せんぽう》』をルウに差し出した。
「あら、今日はお客としてきたのよ。これを見てもらうために。ほら」
「今日は建物を壊《こわ》さないで欲しいわ」
「やあね。そんなことするはずないでしょ。たまたまよ、あれは」
「どーだか」
気の強さと無愛想な口振《くちぶ》りはあいかわらずだけど、初めて会ったころに比べて、この子の表情が少し柔《やわ》らかくなった気がするのは気のせいかな。
だがリンネの横に僕がいるのを認めた瞬間《しゅんかん》、その表情はたちまち一変する。ルウはなめらかなミルク色の頬《ほお》を赤らめると、ぷいとそっぽを向いた。やれやれ。まだ胸を触《さわ》ったことを根に持ってるらしい。
「あなたもきたのね」
「まー、暇《ひま》だったから」
「みたいね。いかにもそんな顔してるもの」
「どんな顔だよ」
僕らがいがみ合っていると、リンネがサイドボードに置かれた六分儀《ろくぶんぎ》を物珍《ものめずら》しそうに眺《なが》めながら訊ねた。
「でも、一体どうやってこんなにたくさんのアンティークを集めたの?」
「大半は好事家《こうずか》だった祖父の所有物よ。私が譲《ゆず》り受けたの」
「まるで宝の山みたい」
「まさか、そんなことを言う人がこの店に現れる日がくるなんてね」
何の屈託《くったく》もないリンネの言葉にルウは軽く溜息《ためいき》をつくと立ちあがった。
「どうぞ上がって。飲み物くらいは出すから」
「でも、お店は?」
「いいのよ。平日はめったに人は来ないから」
ルウはあっさりと開店休業を宣言すると僕らを二階へと通じる階段へ案内した。そう。海保ルウは齢《よわい》十二にしてこの店|唯一《ゆいいつ》の店員|兼《けん》オーナーでもあるのだ。
二階には落ち着いた装《よそお》いの空間が広がっていた。
瀟洒《しょうしゃ》な階段を上がったそこは広いリビングになっており、床《ゆか》一面のフローリングと木目の浮《う》いた明るい室内はちょっとしたログハウスのような趣《おもむき》がある。一階同様、アンティークが趣味《しゅみ》よく配置されているが、何よりも目を引くのは壁《かべ》一面を埋《う》め尽《つ》くしている膨大《ぼうだい》な量の書物だ。
ルウの几帳面《きちょうめん》な性格を示すように本はきちんとジャンルごとに区分けされ、背を向けて整然と並んでいる。ポール・オースター、スチュアート・ダイベック、レイモンド・カーヴァー、リチャード・ブローティガン、カート・ヴォネガット Jr. ……。タイトルを見ているだけでこの子の好きな作家の一端《いったん》が知れる。
高い天井《てんじょう》を見上げるとロフトがあり、その横の採光窓からこぼれた日差しが室内を光で満たしている。
「素敵《すてき》なお家ね」
「古いだけよ。そろそろ手を入れないと」
リンネの賛辞にも気をとめた様子もなく、ルウは僕らに椅子《いす》をすすめた。
「でも素敵だと思うわ。こんなに古い物に囲まれて」
「祖父が私に残した物は三つあるわ。このお店、貸倉庫六つ分のアンティーク、そして時《とき》載《の》りの血」
そう言うとルウはログカウンターに頬杖《ほおづえ》をつき、溜息をついた。
「どれにも共通するのは古さと饐《す》えた匂いね」
そしてショートカットを揺《ゆ》らすとまっすぐにリンネを見つめる。
「あなたはどう?」
「私?」
ふいに問われてリンネはぱちぱちと紫色《むらさきいろ》の瞳《ひとみ》を瞬《しばたた》かせた。
「私は先祖から受け継《つ》いだものなんてなんにもないみたい。取りあえず本はたくさんあるけど、それだけかな」
「そうかしら? 塔《とう》の最上階での現象を見る限り、あなたには何か不思議な力があるとしか思えないんだけど。そう、この本を発動させるような力がね」
ルウはカウンターに置かれた『時の旋法』に視線を向けて言った。
「これって時《とき》砕《くだ》きの本なのでしょう? そんなものがなぜ人間界に流れているのかはともかくとして、あなたは一時的とはいえこの本を使いこなしたわ」
「うーん。そうなのかなあ。私にはよくわからないわ」
リンネの淡泊《たんぱく》ないらえは到底《とうてい》ルウの探求心を満たすものではなかったらしく、彼女は不満そうに口を尖《とが》らせる。僕は頭の後ろに手を回し、高いロフトの天井を見上げた。
「結局、あの女の子を捜《さが》し出して聞くしかないんだろうな。でも、あれっきり捜す手だては途切《とぎ》れちゃったし」
「手がかりはまだ途切れたわけじゃないわっ。この本の正体やあの子の着ていた制服の出所だってわかったんですもの。まだまだこれからよ」
リンネは元気よく言った。
ふとルウは人形のように頤《おとがい》を傾《かたむ》けると、リンネに訊《たず》ねた。
「ね、もし仮にその子が時砕きだったとして、あなたはその子に会ってどうしたいの?」
「本を返すわ。それから……」
リンネはそこまで言うと、ちょっとほっぺを赤らめた。
「……それから、そのう、もしその子が時砕きなのなら、その子に頼《たの》んで、私をお父さんのいる未来や過去に連れて行ってもらいたいの。そうすればお父さんに会えるもの」
「あなたのお父様って……?」
「ふつうの人間よ。数年前に家を出てしまって、それっきり会ってないの。だから会いたいの」
リンネは恥《は》ずかしそうに、だがきっぱりと言った。
そう。学者だったリンネの父、箕作|剣介《けんすけ》が突如《とつじょ》姿を消したのは今から四年前。以来、彼の消息は今もなお明らかになっていない。消息どころか、その生死さえも。当時、リンネは八歳だった。
リンネと、そして生後間もないねはんを残してパパさんが何故《なぜ》失踪《しっそう》したのか、その理由を僕は知らない。多分、リンネも同じだろう。父親が取った行動は、今もリンネにとって最大の謎《なぞ》なのだ。
ルウは腑《ふ》に落ちたようにうなずいた。
「……そうだったの。じゃあ、あなたのところはお母様が時載りなのね?」
「ええ。ママが『街の住人』よ。ママはパパと出会って人間界で暮らすようになったの。私も弟もこの街で育ったわ」
「へえ。じゃああなたも昨日今日、街中で暮らすようになった、というわけでもないのね」
意外そうなルウの言葉にリンネはこくりとうなずいた。
「うん。でもしょっちゅうママに叱《しか》られてるけどね。『そんなんじゃ一人前の街の住人になれないわよ』って」
「私も小さいころ、時間を止めるたびに父によくそう言われたわ。父も祖父によく同じことを言われたって」
「お父様は?」
「元気よ。父は医師なの。今はニューヨークで開業医をやっているわ」
「え? じゃあ、このお店は?」
「言ったでしょ。祖父に譲《ゆず》られた私がオーナー。だから私が一番えらいの。だって私が一番アンティークに詳《くわ》しいんだもの。ま、とーぜんよね」
ルウはそう言うと形のいい脚《あし》を組んでふんぞり返った。
うーん。小学生のワンマンオーナーか。
もともと商売を念頭に置いて経営をしてるような店だとは思ってなかったけど、この子が一人で仕切っているとは想像の遥《はる》か斜《なな》め上を行っている。この子を見てると端《はな》から客商売を放棄《ほうき》してるとしか思えないし。
「なあに、久高くん? 何か言いたげね」
「なんだよ。別になにも言ってないだろ」
「何か言いそうなのよ。これから」
僕は何か言い返してやろうと口を開きかけたが、ルウは僕など無視することに決めたらしい。肩《かた》をすくめると気を取り直したように言った。
「まあいいわ。時砕きについては少しずつ調べていきましょう。幸い、私んちにも多少は文献《ぶんけん》が揃《そろ》っているから、何かわかることもあるかもしれない」
「ありがとう! ね、また明日もここに来ていいっ?」
リンネは目を輝《かがや》かせると幼い子供みたいに身を乗り出して訊ねる。
「……べ、べつにいいけど。来たって何もないわよ」
屈託《くったく》のないリンネの言葉に何となくほっぺを染めつつ、精一杯《せいいっぱい》つっけんどんな態度を装《よそお》うルウだった。
というわけで、僕らは翌日から「pale horse」に通うようになった。
無論、名目は時砕きについて書かれた文献を漁《あさ》ったり調べたりするためだが、リンネにすれば新しく作った友達と会うための大っぴらな口実ができたようなものである。リンネは日をおかずに通いつめ、それにはさすがのルウもポーカーフェイスを維持《いじ》できなくなったらしい。堅《かた》いつぼみが春の陽《ひ》を受け微《かす》かに綻《ほころ》びるように、その表情は時折|柔《やわ》らかさを見《み》せる。
「時砕きについては諸説があって、わかっていないことも多いのよね」
ルウは書棚《しょだな》から大量の本を取り出すと、どすんとそれらをカウンターの上に積み重ねて言った。
「ほら見て。ここに時《とき》砕《くだ》きのことについて少し書いてあるわ。この本は第二|帝政《ていせい》末期に実際にパリで時砕きに会ったという日本人の回想録。『其《そ》ノ姿《すがた》、恰《あたか》モ時ヲ砕《くだ》クガ如《ごと》シ」……何だかよくわからないわね。それからこっちは十七世紀|頃《ごろ》の文献ね。なになに、『後期スコラ神学派内における時砕きの影響《えいきょう》及《およ》びその存在形式に対する形而上《けいじじょう》学的考察』だって。こっちはあくまで時砕きをテクストとして捉《とら》え、聖書間の矛盾《むじゅん》点や論点を形而上学的視座から止揚《しよう》しようとする試みらしいわ」
改めて言うまでもないことだけど、この世でリンネが最も苦手とするのは読書である。目の前にうずたかく積まれた古書を前に、リンネは情けなそうに言った。
「……これ、全部読まなきゃダメ?」
「そんなことはないけど」
ルウはリンネの表情に気づき、軽く苦笑《くしょう》した。
「ただ、時砕きは評価一つにしても未《いま》だ定まっていないの。まして、その能力についてはわかってないことが多い。なにせ、『その姿を見た時は死ぬ時』と言われるくらいの存在ですもんね」
「ふーむ」
古書の間に挟《はさ》んであった栞《しおり》を団扇《うちわ》のように揺《ゆ》らしつつ、リンネは精一杯考えこむそぶりを見せた。
「時砕きって、そもそもどんな感じなのかしら?」
「そりゃあ、やっぱり黒いマントを着てるんじゃないかしら。目深にフードを被《かぶ》って顔を見せない。一言で言えば、昔話に出てくる魔法《まほう》使《つか》いのイメージね」
「そうかしら? 私は、時砕きはすごい力を持っているぶん、ふだんはその力を蓄《たくわ》えていると思うわ。そしていざという時に変身するの。普段《ふだん》は一般人《いっぱんじん》なんだけど、悪い奴《やつ》を見つけたらいそいで物陰《ものかげ》を探すのよ。電話ボックスとか」
……なんかどっかで見たことあるぞ。そういうの。
「あなたねえ、テレビの見過ぎよ」
ルウは呆《あき》れたように言うと、かわいらしく口を尖《とが》らせた。
「そんなこと言うなら、あなたも変身できるかどうか試《ため》してみればいいのよ」
「わ、私が?」
突然《とつぜん》そんなことを言われ、リンネはぱちぱちと瞬《まばた》きした。
「そ。私、あなたが時砕きなんじゃないかって、まだ疑っているんだから。あの時、本と一緒《いっしょ》にあなたの身体《からだ》も光ったでしょう? きっと、あれは何かの契機《けいき》だったのよ」
「Gは時砕きはもはや本を必要とせず、『認識《にんしき》』を糧《かて》とするって言ってたな。リンネがあんなことができたのもそれが原因かな?」
「ふつうに考えるのなら、キーはやっぱりこの本よね」
自然と僕らの視線はテーブルの上に置かれた『時の旋法《せんぽう》』に注がれる。
「リンネ、やってみてよ」
「簡単に言わないでよっ。そんなのどうやってやるのよ。やり方もわからないのに」
リンネはむくれた。
「や、試しにさ。なにか起こるかも」
僕に促《うなが》され、やむなくリンネは『時の旋法』を片手にリビングの中央に立った。僕とルウが見守る中、リンネは困ったように棒立ちになっていたが、試しに、
「たあっ」
と、『時の旋法』を右手で高々と掲《かか》げてかけ声をあげる。
だが。
しーん。
「……何も起きないわ」
ややあって、リンネは情けなそうに呟《つぶや》いた。表紙に刻まれた紋章《もんしょう》を改めて確認し、ルウが言った。
「全然ダメね。表紙が光ってない。紋章も」
「リンネ、光らせろよ」
「だから、どーやってすんのよっ」
無理な注文ばかりつけられ、リンネはむすっとアヒルの子みたいに口を尖らせる。
「……変身はともかく、やっぱり謎《なぞ》はこの本だな。変化がないところを見ると、持ち主の危機に反応するんだろうか?」
ルウが首を傾《かし》げた。
「じゃあリンネが本当の危機を迎《むか》えなきゃダメってこと?」
「そう考えれば筋は通るけど……難しいなあ」
その後も僕らはあれこれリンネにポーズを要求してはリンネと『時の旋法』との間の因果関係を探《さぐ》ったが、はかばかしい結果は出なかった。リンネも「やあっ」とか「とうっ」とか様々なかけ声を張り上げていたがそのうち疲《つか》れてきたのだろう、「もうイヤ!」とむくれて『時の旋法』を放《ほう》り出したので、結局検証はそれっきりとなった。
やむなく一旦《いったん》休憩《きゅうけい》することして、ルウが来客用に用意してあったレモネードの瓶《びん》を空けたりンネがようやく機嫌《さげん》をなおしたころ。
「あら? なにかしら、これ?」
ふとリンネが壁際《かべぎわ》にあったロココ調のサイドボードの上に何かを見つけて立ち上がった。
それは猫《ねこ》の耳らしき飾《かざ》りがついた細いヘアバンドだった。
「やーん。ねこみみだわっ」
「ああ。それをすると、時留めの軌跡《きせき》を目で見ることができるようになるの。ほら、こんな風に」
ルウはそのヘアバンドを手に取るとリンネの輝《かがや》くブロンドの、ちょうど両耳の間を渡《わた》すようにそっと載《の》せた。細いバンドの部分が癖《くせ》のないまっすぐなブロンドの中に埋《う》もれると、まるでリンネの頭に本物の猫の耳が生えたみたいになった。
「売り物じゃないからここに置いてあるだけなんだけどね。あくまで私の私物だから」
ルウの言葉にリンネはねこみみを生やしたまま、改めてこの部屋に飾られたアンティークを見渡した。
「じゃあ、ここにあるアンティークってもしかして……」
「そう。どれもかつて時載りが作った物よ。ついでに言うと、私の祖父が半生かけて集めた不思議な効果がある物ばかりが揃《そろ》っているわ」
「わあ。見ていい?!」
「どうぞ。ただし取り扱《あつか》いには気をつけてね」
リンネにすれば同じ変身でも、謎の本片手にポーズを取るよりは自分好みのファッションでおしゃれをするほうがずっと楽しいらしい。さっきよりずっと表情が生き生きしている。
「ルウ、このしっぽはなに?」
「それは時の滞留《たいりゅう》を防ぐプロテクトがかかっているアクセサリー。効果は微弱《びじゃく》だけどね。本物のコリンスキーの毛を使っているの」
「わあ。これもつけてみていい?」
「いいわ」
「でも、これは黒っぽいミニのほうが合うのかも」
「ゴシックっぽい奴《やつ》ならあるわよ。合わせてみる?」
「うん。あれ、うまくつかないわ」
「あ、待って。スカートにつけるよりショーツに直接つけたほうがいいかもしれない」
「えー。パンツ下がっちゃわない?」
「たぶん大丈夫《だいじょうぶ》よ」
アンティークを肴《さかな》に話しているうちにルウもリンネも僕が部屋にいることを忘れたらしい。次第《しだい》に会話が容赦《ようしゃ》なくなってくる。
ううん。
「あのさ。僕、下に降りてるよ」
リンネが後ろからスカートの中に両手を入れ、裾《すそ》をたくし上げようとした時点で、たまらず僕は申し出た。
「あ……」
ようやく僕がいることを思い出したのか、二人は微《かす》かに頬《ほお》を赤くした。リンネはちらりと悪戯《いたずら》っぽい視線を僕に投げた。
「あら、私たちはべつに気にしないのに」
そう言うと二|匹《ひき》の子猫は顔を見合わせ、文字通りチェシャ猫のような笑《え》みを浮《う》かべる。
な、なんかくやしいな。
すごく負けた気分になりつつ僕は階段を降り、カウンターの前に座ると、誰《だれ》もいない店内をぼけっと眺《なが》めた。午後の陽気が窓辺から店の中を優《やさ》しく照らし、柱時計の針が時を刻む音だけが、このセピア色に染まったアンティークの群れを寝《ね》かしつけるように静かに響《ひび》いている。
しばらくして。
「見て見てっ、久高! かわいいでしょっ」
階段を降りてくるなり、リンネはぴょんと僕の前に立った。その後に続いてルウが音もなく滑《すべ》るように降りてくる。
身に着けたアクセサリーに合わせて衣裳《いしょう》も変えたらしく、リンネは黒のゴシックドレスに黒いニーソという恰好《かっこう》だった。後ろを向いて軽くお尻《しり》を突《つ》き出すと、短い裾の中からふりふりと揺《ゆ》れるしっぽが顔を覗《のぞ》かせる。
一方ルウはグレーのサマードレスだ。細い肩紐《かたひも》が鎖骨《さこつ》の上を這《は》い、ほとんど剥《む》き出しの背中で十字に交叉《こうさ》している。下着が見えないくらいのぎりぎりのラインに設定された短めの裾は重力に抗《あらが》うようにふわりと広がり、その下から長い脚《あし》がすらりと伸《の》びている。そしてリンネとお揃いのみみとしっぽ。毛色は濃《こ》い灰色だ。
リンネが瀟洒《しょうしゃ》な黒猫《くろねこ》だとしたらルウは謎《なぞ》めいたロシアンブルーといったところかな。二人が動くたびに、二人の喉元《のどもと》に巻かれた鈴《すず》付きのチョーカーが可愛《かわい》い音を鳴らし、それがどこか本物の猫を連想させた。
リンネはルウを引き寄せるとそのミルク色のほっぺに自分の頬を寄せ、華奢《きゃしゃ》な身体《からだ》をぎゅっと抱《だ》きしめた。
「きゃんっ」
「ほらほら、そんな端《はし》っこにいないでルウも見せてあげて!」
「……もう」
ルウが羞《は》じらうのも構わずにリンネは彼女をぐいぐいと僕の前に引っぱってくる。ルウは少し抗ったが、やがて観念したのか恥《は》ずかしそうにそっぽを向くと僕の前に立った。
「どう? 久高。感想は?」
「……うん」
双子《ふなご》のようにぴたりと寄り添《そ》うリンネとルウの姿に少々毒気を抜《ぬ》かれて僕は間の抜けた返事をした。
リンネはそのまま悦《えつ》に人《い》っていたが、ふとがらんとした店内を眺めた。
「……そうだ。いいこと考えたわ」
リンネのお尻に生えた黒いしっぽがぴょこんと揺れた。
その日の夕方、僕が閲覧室《えつらんしつ》を訪《おとず》れた時、Gは書架《しょか》の整理をしていた。
移動式の脚立《きゃたつ》の上に立ち、長身をやや傾《かたむ》けて書架の上部から本を降ろしている。Gは脚を肩幅《かたはば》に開いたまま入ってきた僕を見下ろした。
「あら。久高様。いらっしゃいまし」
「あ、うん……」
僕はちょっと赤くなった。僕の頭の位置がちょうどGの履《は》いた黒いヒールの高さにあったので、Gを見上げた瞬間《しゅんかん》、ちょうどランプのシェードのように広がったスカートの裾からすらりと伸びたGの黒いストッキングに包まれた脚が見えたのだ。
「ただいま紅茶をお滝《い》れいたしますね。どうぞおかけになってお待ち下さい」
僕は椅子《いす》を引き、腰《こし》を下ろした。埃《ほこり》がたつのを嫌《きら》ってか出窓は大きく開かれ、室内に柔《やわ》らかな風が流れてくる。レースが扇《おうぎ》のように膨《ふく》らみ、やがて鎮《しず》まった。いつにも増して離《はな》れの中は静かだった。
ややあってGが銀のトレーに紅茶を載《の》せて戻《もど》ってきた。香気《こうき》が薫《かお》るティーカップをそっと僕の前に置くと、自らも椅子に腰を下ろす。
「何してたの?」
「書架の整理です。定期的に行ってはいるんですが、すぐに本が増えてしまって……箕作家には育ち盛《ざか》りのお子様が二人もいらっしゃるので大変です」
Gは屈託《くったく》なく笑う。
ふと疑問に思い、僕は訊《たず》ねた。
「Gってさ、ずうっと司書をやってたの?」
「いいえ。本格的に司書のお仕事を始めたのは日本に来てから、と申しますか、奥様にお会いしてからです」
「とてもそうは思えないや」
「似たようなことは以前もやっていましたから」
「日本に来る前はどこにいたの?」
「あら」
Gは僕を見咎《みとが》めたようにいたずらっぽくウインクした。
「わたくしのプライベートがそんなに気になります? いけませんよ。久高様」
「ああ、や、ううん」
僕は照れた。
「この間の話の続きを聞きにきたんだ」
「だと思いましたわ」
Gは指を組むとその手をウッドテーブルの上に静かに置いた。
「そうですね。どこからお話しするべきか……。久高様は旧約聖書の創世記にバベルの塔《とう》について書かれているのはご存じですね?」
「いまだ地上のすべての人間が同じ一つの言葉を話していたころ、人々はシナルの地に集まり天まで届くほど高い塔を作り始めた、って奴《やつ》だろ?」
「ええ。しかし神はこれを人間の自己神化の試みと見て、人間の言葉を乱してしまいました。塔の建設は頓挫《とんざ》し、人間たちは各地に分散しそれぞれの土地の言語を話すようになった。……これがバベルの塔の伝説です。無論、これはフィクションですが」
「うん。そうして言葉を混乱させられた彼らは、各地に散った言葉の欠片《かけら》を拾い集め、傲慢《ごうまん》さを捨て、謙虚《けんきょ》にただひたすら物事を認識《にんしき》するために本を読むようになった……。それが時載りの起源だ、ってリンネは言ってた」
前に図書館で紋章《もんしょう》を調べていた時、リンネはそう教えてくれた。Gはうなずいた。
「ええ。ですがバベルの塔にはもう一つ、べつの伝説があるのです」
「べつの伝説?」
「はい。『バラルの末裔《まつえい》』と呼ばれるもう一つの伝説です。今、久高様はおっしゃいましたね。言葉を混乱《バラル》させられた、と」
「うん」
「その増長|故《ゆえ》に神によって言葉を混乱《バラル》させられた人間たちの中には、神から最も罪深き存在として永遠に逃《のが》れられぬ咎を受けた種族がいました」
「永遠の咎って?」
「言葉が現実のものとなるというものです[#「言葉が現実のものとなるというものです」に傍点]」
ふいにGの言葉が重く響《ひび》き渡《わた》った。
Gは一旦《いったん》口をつぐむと、その黒曜石のような瞳《ひとみ》でじっと僕を見つめた。
「伝説にはこう記されています。彼らが口にした言葉は即座《そくざ》に現実のものとなり、その力はまるで神の力に等しかった、と。彼らは一族ことごとく権勢の座につき、一時|栄華《えいが》は絶頂を極《きわ》めたそうです。しかし、それこそが神の咎であることに彼らは気づきませんでした。やがて彼らは自らの力に耐《た》えることができなくなり、疑心の果てに同族殺しを繰《く》り返し、神に対する呪詛《じゅそ》を撒《ま》き散らしながら歴史の表舞台《おもてぶたい》から去りました。後に残されたのは言霊《ことだま》を力に換《か》えるという異能をその理由もわからぬまま授かった僅《わず》かな子孫のみ……。彼らは『言葉を使えぬ』という咎を受けたまま、時載りの手によってバベルの塔|中枢《ちゅうすう》のさらに奥深くに閉じこめられました。そして『原罪』の名の下《もと》、言葉を封印《ふういん》し、永遠の沈黙《ちんもく》に入ったと言われています」
[#挿絵(img/mb671_209.jpg)入る]
「……」
視線だけは窓の外に向けつつ、僕は息を詰《つ》めてGの言葉に聞き入っていた。
「彼らはいつしかこう呼ばれるようになったと言われています。……『バラルの末裔《まつえい》』または『言霊《ことだま》使い』、と」
「……」
僕は何も言わなかった。
ややあってGは軽く肩《かた》をすくめた。
「以上がわたくしの知る『バベルの塔』にまつわる伝説、それも概略《がいりゃく》のみです。これ以上のことはわたくしの乏《とぼ》しき知識に余りますわ」
「一つ教えて。時載りと言霊使いの因果関係はそれだけなの?」
「互《たが》いに神話目体を起源に持つほど古い存在である、という以上のことはわかりかねます。何度も申し上げますが、わたくしは一介《いっかい》の司書にすぎませんもの」
僕は立ち上がった。
「ありがとう。いろいろ楽しかったよ」
「とんでもありません。お役に立てましたでしょうか」
「うん。すごく」
気がつくと窓の外はすっかり闇《やみ》が降りていた。ずいぶん長く話しこんでいたらしい。帰りがけ、玄関《げんかん》先まで僕を送りにきたGはふと微笑《びしょう》して言った。
「リンネ様と凪《なぎ》様……。お二人は久高様のような方が身近におられてお幸せですね」
「よせやい。気持ち悪い」
「あら、本当ですよ。いつまでもそのお心を大事になさってくださいね」
とまどう僕《ぼく》に向かって完璧《かんぺき》な笑顔《えがお》を見せつつ……
なぜかGはそんな予見めいたことを言ったのだった。
[#改ページ]
7章
翌日から、ルウとリンネはねこみみ&しっぽという出《い》で立ちで店番に立ち始めた。むろん、言いだしたのはリンネである。
「こうしたらお店の雰囲気《ふんいき》も変わって、今までここに縁《えん》のなかったお客さんもやってくる上に、おしゃれまでできて一石二鳥だと思うわっ」などとしきりに主張していたけど、単にかわいい恰好《かっこう》をして一度お店に立ってみたかっただけだろう。ルウはその姿で店に立つことにはかなり抵抗《ていこう》があるようだったが、「試《ため》しに一日だけ」というリンネの説得に押し切られる形で再びお尻《しり》にしっぽをつける羽目になった。店の敷居《しきい》が低くなったと言えば聞こえはいいけど、何も落とし穴を掘《ほ》って客を引きこむこともなかろうに。
そんなある日のことだった。
僕とリンネはいつものように『pale horse』へ赴《おもむ》き、ロフトの上にて午後の陽気に身を委《ゆだ》ねていた。一応店には立つものの、ここ数日は客足も伸《の》びず、それをいいことに女の子たちは二階のリビングで朝からおしゃべりに花を咲《さ》かせている。
その日、二人が選んだのはワンピースタイプのメイド服だった。
色はパステルカラー、ワンピースの上に白いエプロンをつけるタイプのもので、ふわふわのペチコートが裾《すそ》から覗《のぞ》き、レースをふんだんにあしらったカチューシャが前髪《まえがみ》の上で躍《おど》っている。外見はまさに絵に描《か》いたようなメイド姿だが、両者とも働くつもりはてんでなさそうだ。
「本を読むのにルウはいつもどこを利用してるの?」
「そうね、行くのならやっぱり市立図書館が一番多いかしら。ここから近いし。静かだし。駅前の本屋もたまに利用するけど。あなたは?」
どうやら今日のトピックは時《とき》載《の》りたちの栄養源についてらしかった。
「家の離《はな》れにある書庫かな。でも私、あんまり読書は好きじゃないの」
「好きじゃないのって……好き嫌《きら》いの問題じゃないでしょ。あなたねえ、それってほとんど自己否定よ」
「う、うん……」
ルウの容赦《ようしゃ》ない言葉に珍《めずら》しくリンネは素直《すなお》にうなずいた。どうやら本人にも多少の自覚はあるらしい。
メイドさんがメイドさんに向かって読書の有用性を説くという不思議な構図を前に僕が時載りの生態に思いを巡《めぐ》らせていると、話は次第《しだい》に奇妙《きみょう》な方向へと流れていく。
「そういうルウはどうなの? ちゃんと読書してるの?」
「もちろんよ。一日決まった量は必ず読んでるわ。じゃないと大きくなれないもの」
「でも、私のほうがルウより背が高いもん」
「ほ、ほんの二、三センチでしょっ。私だって伸びてるわよっ」
「それにこのワンピースも胸元《むなもと》がちょっときついんだけど……」
「な、な」
ルウは真っ赤になると、あわててリンネに顔をよせ、小声になる。
「だ、だって、あなた、私と同じぐらいでしょ?」
あのー。何の話してるの?
「ええ。でもウエストはちょうどいいんだけど、このへんはちょっと……」
「い、言っておくけど、このワンピース、オーダーしたのは去年なんですからねっ。だからきついのは当然なのっ」
「そ、それはわかってるけど……」
二人の少女は顔を見あわせた。
「……着替《きが》えましょうか」
「そうね」
立ち上がったルウとふと目があう。
「なーによ、えっち」
そう言い捨てたルウがリンネの手を引っぱってクローゼットのほうへずんずん歩いていくのを見送ったあと、僕は溜息《ためいき》をついて階段を降りた。
女の子ってめんどくさい生き物だな。
一階のカウンターに腰《こし》を下ろし、がらんとした店内を眺《なが》めていた時だった。
僕はふと店の中に人が立っていることに気がついた。
長身の女の人が店の入口付近で壁《かべ》にかかったタペストリーを眺めている。年齢《ねんれい》は二十五歳くらい。漆黒《しっこく》の長い髪を無造作に垂らし、真っ赤なコートを羽織り、ポケットに両手を突《つ》っこんでいる。完璧なモデル体形で手足は容赦なくすらりと伸び、その横顔は大理石の彫刻《ちょうこく》のように整っていた。
いつの間に入ってきたのだろう。全然気がつかなかったけど。ドアのベルが鳴った感じもしなかったし。
僕の視線を受け、その女性は僕に視線を返すとゆっくりとした足取りでこっちにやってきた。
「坊《ぼう》や。すまないが店主に会いたいんだが」
近くで見るとさらにとんでもない美人であることがわかった。
「はい。え、ええと」
店主ってルウのことだよな。僕がどぎまぎしているとその女の人はくすりと笑い、つと手を伸ばして僕のおでこを軽く撫《な》でた。
「かわいそうに。後で戻《もど》してやるよ」
「?」
何のことだかさっぱりわからず、僕は額にしなやかな指先の感触《かんしょく》を感じながらただぼうっとその女の人の顔を見上げていた。それからふと我に返り、照れ隠《かく》しにカウンターを出て階段を上がる。たぶん気が動転してたんだろう。じゃなかったら二階にまでルウを呼びに行こうなんて馬鹿《ばか》な考えは起こさなかっただろうから。
僕は勢いよく二階に上がりきり――、
馬鹿なことに、自分がさっき何で下に降りたのかを思い出していた。
僕の目の前で、下着姿のまま純白のガーターを取りつけるのに悪戦苦闘《あくせんくとう》しているリンネとルウがこっちを向いて凍《こお》りついている。
「……あ」
そういや着替えてたんだっけ。などとのん気に言う間もなく、二人の華奢《きゃしゃ》な身体《からだ》を申し訳程度に覆《おお》っている装飾《そうしょく》性|溢《あふ》れるぱんつの鮮《あざ》やかな白さを網膜《もうまく》に焼きつける前に、僕はオルゴール型の化粧箱《けしょうばこ》を顔面に受けて仰《の》け反ってふっとんでいた。
ったく。乱暴な子たちだ。
階段の下まで落っこちた僕は女の人の足下《あしもと》に転がった。女の人は仰向《あおむ》けに倒《たお》れた僕の上にふと屈《かが》みこむと、しなやかな手の平で僕の頬《ほお》を包みこんだ。
「どれ、坊や。お姉さんに見せてみな」
女の人は僕の腫《は》れたおでこに軽く指で触《ふ》れた。
そのとたん、嘘《うそ》みたいに痛みがすーっと消える。僕があわてて患部《かんぶ》を触《さわ》るとすっかり腫れがひいていた。まるで「そんな腫れなど最初から存在しなかった」ように。
「かわいそうに。後で戻してやるよ[#「かわいそうに。後で戻してやるよ」に傍点]」
ふとある予感をおぼえ、僕ははっとその女の人の顔を見た。女の人は僕の凝視《ぎょうし》を受け、妖艶《ようえん》な笑《え》みを浮《う》かべた。
そのとき着替えを終えたルウとリンネが二階から降りてきた。
「もう! 男の子って最低ねっ……あら?」
ルウは僕の傍《かたわ》らに見知らぬ女性が立っているのに気づき、丁寧《ていねい》に頭を下げた。
「いらっしゃいませ」
「おやおや。かわいい嬢《じょう》ちゃんが揃《そろ》った店だな」
その女の人はルウの方に向きなおると、まるでショーケースに収まった商品を品定めするような無遠慮《ぶえんりょ》な視線を向けた。
「君がオーナーか? 少し若すぎるようだが、大丈夫《だいじょうぶ》かな?」
ルウはむっとしたのか、オーナーとしての威厳《いげん》を取り繕《つくろ》うと、つんと鼻先を上げてみせた。
「ご用件は?」
「なに、大したことじゃない」
その謎《なぞ》めいた来客はこともなげに言った。
「ここにある『時の旋法《せんぽう》』を譲《ゆず》ってもらいにきたのさ」
空気が凍りついた。
「それとも時《とき》砕《くだ》きの紋章《もんしょう》の入った本、と言ったほうがわかりやすいかな?」
立ちつくす僕らをよそにその女の人はコートのポケットに両手を隠したまま静かに言葉を紡《つむ》いだ。
「時砕き――時の煉獄《れんごく》を操《あやつ》りし調停者にして裁きの座。時《とき》載《の》りなら誰《だれ》もが一度は耳にしたことがあるだろう? その内の一人が所有する通称《つうしょう》『紋章入り』、『時の旋法』。……本来深く秘匿《ひとく》されていて然《しか》るべきそれが如何《いか》なる理由で表の世界に出回っているのかはわからない。だが、それが人目に触れたとわかった以上、黙《だま》っているわけにもいかなくてね。時の狭間《はざま》からはるばるやってきたというわけだ」
女の人はヒールでコツコツと床《ゆか》を鳴らしてテーブルに近づくと、その上にあった白亜《はくあ》の聖マリア像を指で弾《はじ》いた。
「奴《やつ》が既《すで》に鬼籍《きせき》に入った今、あれを使える者は少なくともこの時間の中に存在しないと思っていたが、封印《ふういん》が解かれているどころか『時の再《さい》装填《そうてん》』まで成されているところを見るとどうやら新たな後継者《こうけいしゃ》が現れたらしいな。……ふん。長柄《ながら》め、迂遠《うえん》な真似《まね》を」
ルウは一歩前へ進み出た。
[#挿絵(img/mb671_219.jpg)入る]
「せっかくですけれど、何かの間違《まちが》いでしょう。当店にはそのような本は置いておりません」
内心|動揺《どうよう》していたにせよ、少なくとも表面上はルウは落ち着いて答えた。意地っぱりでわがままな女の子だと思っていたけど、この子に度胸があるのは認めなくっちゃならない。この時、ルウがリンネを庇《かば》っているのは明らかだったから。
「そいつは困った」
そんなルウの義侠心《ぎきょうしん》を舌先で転がし味わうかのように女性は楽しそうに笑ったが、それも一瞬《いっしゅん》だった。長い黒髪《くろかみ》を一閃《いっせん》させると冷厳なまなざしをルウに向ける。
「だが君に心当たりがないのなら、君が数日前に『時の旋法』の余波を受けている理由がつかないな。あれは私にとっても馴染《なじ》みのものでね。見間違えるはずもない。大体、あの時君は死の淵《ふち》にいたんだぜ? 『時の旋法』が無機物の時間に限定して時間の決算を行ったからいいようなものの、一歩間違えれば、礫《つぶて》と化していたのは君もあの廃塔《はいとう》と同様だ。お気に入りのドレスが台無しになったくらいですんだのは僥倖《ぎょうこう》と言っていい」
「あなた……だれなの?」
ルウはさすがに青ざめた。あの場に居合わせた人間でない限り、知りようのないことをこの女の人は完璧《かんぺき》に把握《はあく》している。
女の人は薄《うす》く笑った。
「私が何者か知りたいか? 海保ルウ。だが世の中には知らずにいた方が良いこともあるぜ。お前が書物の不在を主張するのならそれもいい。だがその時、お前はまだ見ぬ世界の一端《いったん》に触れることになるだろう」
脅《おど》しではなかった。それだけははっきりとわかった。
「ルウは持ってないわ。その本は私が持っているんだから」
「リンネ」
「いいの」
自分を庇うように立つルウをそっと手で制すると、リンネはいくぶん硬《かた》い表情を浮かべて女の人と向きあった。女の人は言った。
「いい子だ。ブロンドのお嬢ちゃん。私に本を譲ってくれるんだね?」
「できません」
「なぜ?」
「この本、私のものじゃないもの。だからあなたには渡《わた》せないわ」
「ただとは言わない。謝礼は出すよ。……そうだな。この国の通貨と引き替《か》えということでどうだ? 欲しいものが買える」
「いらないわ」
リンネが青い顔をして断ると女はにやりと笑い、つとリンネに顔を寄せた。
「いっそ、金なんかよりもっと素晴《すば》らしいものを与《あた》えてやろうか? 女としての至福の歓《よろこ》び、世界中のすべての男たちから崇拝《すうはい》と奉仕《ほうし》を受ける存在にお前を変えてやる。……いや、世界中の男などとは言わない。ただ一人、今、お前が会いたがっている男に生涯《しょうがい》抱《だ》きしめられる歓びを与えてやろう。お前がつねにそうであればと願い、そして同じ回数だけ届かぬと諦《あきら》めてきたあの願い。私ならそれを叶《かな》えてやれる」
その言葉がリンネのどの部分を刺《さ》したのかは僕にはわからない。
僕にわかったのは、女の言葉を聞いてリンネの顔色が真っ青になったこと、そして珍《めずら》しくリンネが本気で怒《おこ》っているということだけだった。
リンネは辛《かろ》うじて自分を押さえたようだった。
「まるで悪魔《あくま》みたいな物言いね」
「悪魔か。ま、似たようなものかな」
女はあっさりと肯定《こうてい》した。
「……私、本の持ち主に直接会って聞いてみたいことがあるの。だから、それまでは誰にも渡せない」
「どうしても欲しいと言ったら……?」
リンネの紫色《むらさきいろ》の瞳《ひとみ》が灰色に変わるのと、女の黒い瞳が深紅《しんく》に染まるのとどちらが早かったのだろうか。いずれにせよ、音のない視線の勝負は一瞬にしてついていた。かわいいメイド服を纏《まと》ったリンネの身体《からだ》がニーソックスに包まれた足首から膝《ひざ》、腿《もも》、そして腰《こし》へとみるみる「固められていく」様を僕とルウはなすすべもなく見守った。やがて首から下の動きを完全に止められたリンネが等身大の人形のように棒立ちになった時、女はようやくリンネを魔の視線から解放した。
「やれやれ。見かけによらず凶暴《きょうぼう》な子猫《こねこ》ちゃんだ」
女はリンネの前に立つと、まるでビスク・ドールに触《ふ》れるように人差し指でリンネの顎《あご》を軽く持ち上げた。
「さてと。どうしたものかな? 悪い子にはお仕置きしないと」
顎に手をかけられたまま、リンネは屈辱《くつじょく》に耐《た》えて女を睨《にら》み返した。
あまりに隔絶《かくぜつ》した二人の力量差を目《ま》の当たりにしつつ、僕は必死に思考を巡《めぐ》らせた。
どうしよう。何ができる?
そのときルウが微《かす》かに身じろぎをした。さり気ない動きだったが、女を誤魔化《ごまか》すことはできなかった。女はリンネの顎に手をかけたまま言った。
「友達|想《おも》いのいい子だ。そのおもちゃの杖《つえ》で私をやっつけるか?」
ルウの動きがぴたりと止まる。その右手にはペチコートの裾《すそ》から半分|抜《ぬ》き出されたクロドゥスの杖が握《にぎ》られていた。
「命懸《いのちが》けで掴《つか》んだ初めての友達だものな。失いたくはない気持ちはわかるが分別を維持《いじ》する冷静さは必要だ」
女は余裕《よゆう》に満ちた口調でそう言うと、その美貌《びぼう》をリンネの顔にそっと寄せた。
まるでキスするように。
「……離《はな》して」
「今から八ヶ月前、一人の老人が息を引き取った。蘆月《あしづき》長柄《ながら》。彼女は時《とき》載《の》りでありながら人間界で暮らすことを選んだすなわち『街の住人』にして七人衆の一人、史上最年少の時《とき》砕《くだ》きだった」
「……何を言ってるの?」
リンネは怯《おび》えたように女の顔を見上げた。女は深紅に染まった瞳でリンネを見下ろすと、口《くち》の端《はし》を微かに吊《つ》り上げて笑った。
「そこまで意地をはるのなら教えてやろうと思ってさ。何も知らない子猫ちゃんに自分がいかに危険な立場にいるのかを」
時砕き。
バベルの塔《とう》ですら支配権が及《およ》ばないとされる最高位の存在にして死の集団。時載り種族全体の保護を司《つかさど》ると同時に「禁制」を破った時載りの抹殺《まっさつ》を行う両義的な存在。その構成員はわずか七人。
そのいずれもが最高位の技術と力を持った時載りである。彼らは単独行動を好み、さほど連携《れんけい》を取らないが、この「七」という数字は長い間不変とされてきた。
普段は歴史の中に留まり、揺《ゆ》らぎや歪《ゆが》みとして存在する彼らは「個性」や「人格」をもはや有せず、恣意《しい》の名の下《もと》、冷徹《れいてつ》に時載りを裁き、その存在は死神のように恐《おそ》れられてきた。
だがそんな死の集団の中にあって、ただ一人『街の住人』となることを選んだ時砕きがいた。彼女は下界に降りたばかりか、永遠の命を捨て、こともあろうに人間の妻として暮らし始めた。当然、他《ほか》の時砕きは彼女の選択《せんたく》を奇異《きい》とした。もはや歴史の一部となった時砕きにとって彼女の行動は無意味に思えたからだ。
その時砕きの名は蘆月長柄。
幼少より天稟《てんびん》あり、と賞され、開闢《かいびゃく》以来《いらい》最高とまで讃《たた》えられた時載りである。
奇妙《きみょう》なことに『街の住人』になった後も、蘆月長柄は時砕きの席次を失うことはなかった。彼女の力は依然《いぜん》七人の中にあって群を抜いていたのである。その後も蘆月長柄は時砕きと街の住人を兼務《けんむ》するという極《なわ》めて珍しい「形態」を維持し続けた。
そして数十年が過ぎた。たぶん、他の時砕きにとっては一瞬《いっしゅん》の。そして彼女にとっても……やはり一瞬の。
永遠の命を捨て、人間になることを選んだ彼女の余命が予想通り定まったとき、残された六人は彼女の席次を永久に空白にすることを決定した。歴史を行き来する彼らは、既《すで》に彼女にかわる後継《こうけい》など現れぬことを「知っていた」からだ。
ほどなくして蘆月長柄は息を引き取った。
その遺品の中に、刻印が刻まれた古ぼけた一冊の本があった。
『時の旋法《せんぽう》』
時砕きとして長柄が使用し続けた愛用の品である。
通称《つうしょう》『紋章《もんしょう》入り』と称《しょう》されるこうした時砕きの所有物は、通常、主《あるじ》を亡《な》くした時点で力を失い、ただの物に還るとされている。紋章が甦《よみがえ》るのは、先の主を越《こ》える力の所有者が現れたと紋章自体が判断したときのみ。既に彼女の後継が現れぬという現実がある以上、『時の旋法』がただの古書に帰るのは時間の問題と思われた。
だがそうはならなかった。
長柄の死より八ヶ月後。
葬《ほうむ》り去《さ》られたはずの紋章が突如《とつじょ》反応した。故人が墓から甦ったのでなければ、考えられる理由はただ一つ。紋章が新たな後継者《こうけいしゃ》を見出《みいだ》したのだ。
故蘆月長柄が後続を託《たく》すに足ると信じた新たな時砕きを。
「そして物好きな時砕きが一人、はるばる日本までそいつのご尊顔を拝しにやってきたというわけだ。だが一体何の冗談《じょうだん》だ? 今、私が目にしているのは紫《むらさき》と灰色の瞳《ひとみ》を併《あわ》せ持つ、まだつぼみにすらなっていないやせっぽっちな小娘《こむすめ》とくる。一体人類最強の種族の末裔《まつえい》はどこにいる? 殺戮《さつりく》の王、恣意の化身《けしん》、気紛《きまぐ》れの悪魔《あくま》となるべき我らが同胞《どうほう》、七人目の時砕きはどこに消えた?」
女は嘲《あざけ》るように言った。その口調の中に僅《わず》かな苛立《いらだ》ちを感じたのは気のせいだろうか?
女の舌鋒《ぜっぽう》に抗《こう》しきれずにリンネは身動きできぬままただ唇《くちびる》を噛《か》んだ。沈黙《ちんもく》が落ち、女は小さく肩《かた》をすくめた。
「さあ、ここまで言えばわかるだろう? 子猫《こねこ》ちゃん。君はその本にまったくふさわしくない。君が持っていても役立つことも何もない。これが最後だ。『時の旋法』を渡《わた》してもらおう」
女は穏《おだ》やかに言った。
「………」
高圧|一辺倒《いっぺんとう》だった女の態度の中に、わずかに譲歩《じょうほ》と説得の匂《にお》いを嗅《か》いだせいだろう。それまでひたすらかたくなだったリンネが視線を落とし、初めて迷う素振《そぶ》りを見せた。
時間にすれば僅か数秒だっただろう。その数秒間、リンネがどのような葛藤《かっとう》を胸の中で描《えが》いたのかはわからない。が、リンネが視線を上げた時、僕はその表情にリンネが選んだ道筋を確かに見て取った。
「やはり渡せません」
「なぜだ?」
さして意外でもなさそうに、女は表情を変えずに問うた。
リンネは唇を噛んだ後、自分の考えを整理するようにゆっくりと言葉を紡《つむ》いだ。
「だってこれ、私のものじゃないもの。いくら元の所有者が亡くなっていても、人にあげていいってことにはならないわ。それに、私、イヤなの。私、確かにこの本を拾っただけだけど……でも、何か物事を決めるのなら自分の目で確かめてからにしたい。そうじゃないと、きっと後悔《こうかい》するもの」
「死んだら後悔もできないぜ?」
「ま、まだ負けたわけじゃないわ」
持ち前の負けん気を発揮してリンネは女を睨《にら》み据《す》えた。
「自分の置かれている立場がわかっているのか? この状況下《じょうきょうか》でよくそんな大口が叩《たた》ける」
「まだ口と目が利《き》くもの。きっと元の持ち主だって同じことを言うに決まってるわっ」
きっとリンネは無我夢中でそんなことを口走ったに過ぎなかったろう。だが、リンネのその言葉は思わぬ角度から女の心を揺《ゆ》り動かしたらしい。
「……そうか」
ややあって女はうなずいた。
その瞬間、リンネの身体《からだ》を縛《しば》っていた時留めが解けた。突然自由を回復したリンネは、身体のバランスを失って床《ゆか》に膝《ひざ》をついた。
「……?」
「頑固《がんこ》な子だな。長柄そっくりだ。だから奴《やつ》の眼鏡《めがね》にかなったのか、それとも紋章が奴の匂いを嗅いだのか……。ふん。どうも私は『時の旋法』の所有者にいらん縁《えん》があるらしい」
そう言う女の手にはいつの間にか『時の旋法』が握《にぎ》られていた。女は一瞬、どこか玄妙《げんみょう》な面持《おもも》ちでその古表紙に刻まれた紋章に目を落としていたが、苦笑《くしょう》するとあっさり『時の旋法』をリンネに向かって放《ほう》った。
「いいだろう。嬢《じょう》ちゃん。当分の間好きにするがいい。だがな、あらかじめ言っておくぞ。あいつら五人が私と同じように物好きかつ寛容《かんよう》かつ寛大かつ穏健《おんけん》で親切で後進の育成に熱心だと思うな。それに、『紋章入り」を欲しがる奴などいくらでもいる。その首を欲しがる奴もな。 若く美しい処女の首ならなおさらだ。『時の旋法』が新たな後継《こうけい》を見出《みいだ》したらしいという情報は既《すで》にバベルの塔《とう》も掴《つか》んでいる。せいぜい用心するがいい」
「あなたはいったい……?」
「私の名は未到《みとう》ハルナ。故蘆月長柄の友人にして残された六人の時《とき》砕《くだ》きのうちの一人……。逸脱者《いつだつしゃ》を裁き続けて九百年のお姉さんさ。私に裁かれぬように気をつけな」
そう言うと未到ハルナは二つに折りたたんだ紙片《しへん》をそっとリンネの髪《かみ》に差しこんだ。
「長柄の住所だ。何かわかることもあるだろうよ。もっとも奴が死んだのは八ヶ月前だが」
「あ、ありがとう」
リンネは礼を言った。未到ハルナは僅かに苦笑したようだった。
「……人からそんなことを言われたのは何十年ぶりかな。よーし、じゃあお姉さん、ついでにもう一つ教えちゃおう」
冗談めかして言うと、未到ハルナはふいにリンネの耳元に口を近づけた。
「箕作剣介が死の間際の長柄に会っている[#「箕作剣介が死の間際の長柄に会っている」に傍点]」
「!」
リンネの瞳が見開かれる。未到ハルナは薄《うす》く笑った。
「いい目だ。まだ何一つ汚《けが》れを知らない紫の水晶《すいしょう》だな。これからいっぱい汚濁《おだく》にまみれる余地がある。楽しみだよ」
彼女は鮮《あざ》やかなウインクを一つすると、海軍式の敬礼をするように人差し指と中指を軽く目の上にかざした。
「じゃあな。子猫ちゃんたち」
僕らが気がついたとき、
琥珀色《こはくいろ》の店内に人影《ひとかげ》はなかった。
あの日、あの未到ハルナという時砕きがリンネの未来に何を見たのか、僕にはよくわからない。時を跨《また》ぐことのできない僕には、時間とは今のこの瞬間《しゅんかん》がすべてだからだ。僕にわかっていることはただ一つ、未到ハルナはリンネの中に長く消えることのない火を灯《とも》したということだ。
それが良いことだったのか悪いことだったのか、僕は未《いま》だにその判断がつきかねている。でもこれだけは言える。
リンネはそれを受け入れた。
「わくわくする大冒険《だいぼうけん》がしてみたいな。物語みたいな。悪党に狙《ねら》われて困っている女の子を颯爽《さっそう》と救うような話が理想ね。日常の中のふとしたできごとから幕を開けて、しだいに謎《なぞ》が膨《ふく》らんでいく不思議な展開、中盤《ちゅうばん》はミステリーあり、活劇あり、友情ありの総天然色の大冒険よ。お待ちかねのクライマックスには悪党をやっつけて、もちろん最後は綺麗《きれい》な大団円を迎《むか》えるの。すべてが終わったあと、前よりも少しだけ世界が輝《かがや》いて見えたら素敵《すてき》よね!」
あの日、リンネが言った言葉だ。
女の子は時々予言者になる。
[#改ページ]
8章
窓の外には遠い尾根《おね》から続くなだらかな馬鈴薯《ばれいしょ》畑が広がっている。僕は緩《ゆる》やかに流れていく畝《うね》の数を数え、それが五十を越《こ》えたところで諦《あきら》めてお茶に口をつけた。通路の反対側の座席には列車が動き出してからずっと窓辺に貼《は》りついている金髪《きんぱつ》の後ろ姿が見える。
蘆月長柄の住所を訪ねるべく、僕らが列車の乗客になってから一時間が経過していた。
未到ハルナという時砕きからもらった紙片に記されていた住所は僕らの街の中心から遥《はる》か郊外《こうがい》。とは言え乗り換《か》えの必要はないし、シートに座って列車の震動《しんどう》を感じていると、心地《ここち》よい眠気《ねむけ》が忍《しの》び寄ってくる。
一見、のんびりとした道中である。だが、ここに至るまでには一波乱があったのだった。特に、僕の隣《となり》でさも当然のような顔つきで座っているルウは、リンネが蘆月長柄の住所を訪ねてみることに最後まで猛反対《もうはんたい》したのだ。
「あ、あなたねーっ。人のこと信用し過ぎよっ。そんなにほいほい人のこと信用していたら命がいくつあっても足りないわよ。いーい? 世の中にはね、いい人ばかりじゃないの。悪い人だってたっくさんいるんだから!」
「でもあの人、そんな悪い人には見えなかったわ」
身支度《みじたく》をすでに終え、最後に麦わら帽子《ぼうし》を慎重《しんちょう》に頭に載《の》せたリンネは『時の旋法《せんぽう》』の入ったバイオリンケースと本の入ったカバンを(いやいや)携《たずさ》えて言った。
「見えたわよ! どっからどーみても悪党だったじゃないの。全身悪の化身《けしん》。ああっ、思い出すだけでも身震《みぶる》いするわ! 本物の時《とき》砕《くだ》きが私の店にやってきたなんて」
ルウは握《にぎ》りこぶしを作って憎々《にくにく》しげに言った。よほど未到ハルナが恐《こわ》かったらしい。
「そうかしら」
だがリンネは首を傾《かし》げた。
「もちろん時砕きだし、危険な人には違《ちが》いないんでしょうけど、でもあの人、単に悪い人っていうだけじゃないような気がするの。私のこと試《ため》しているような……。うまく言えないけど」
ルウは溜息《ためいき》をつくと首を横に振《ふ》った。どうもシビアな彼女の目にはリンネが無防備すぎるように映るらしい。
「あのね、いーい? 悪い人に見えなくても悪い人も、世の中にはたくさんいるの。そんな人の言葉を信用して知らない場所にのこのこと出向くなんて危険すぎるわ。もうっ。こんなあたりまえのこといちいち言わせないでよ」
「だって私、お父さんの行方《ゆくえ》が知りたいんだもの」
「む……」
むしろ淡々《たんたん》としたリンネの表情にルウは怯《ひる》んだ。前に決闘《けっとう》をしたとき、敗北|間際《まぎわ》まで追い詰《つ》められながらも断固として屈服《くっぷく》しなかったリンネを思い出したのだろう。父親が絡《から》んだとたん、文字通りリンネの目の色が変わることを身をもって知るルウである。
「あの人は言ったわ。『箕作剣介が死の間際の長柄に会っている』って。あの人の言ったことが本当だと仮定したら、この本の元の所有者、蘆月長柄が死んだのは八ヶ月前。それほど遠い話じゃないわ。お父さんの行方の手がかりが何か掴《つか》めるかもしれない。だからどうしても行ってみたいの」
「どうしても?」
「うん」
ルウは小さく溜息をついた。
「わかったわ。私も行く」
「え?」
ルウの言葉に、リンネはぱちぱちと瞬《まばた》きした。
「え、じゃないわ。あなたみたいな子を一人で遠出させられるわけないでしょっ。私もついていくわよ。ちょっと待ってて。すぐに支度するから」
かくしてルウは僕らと共に車中の人となったのだが……。
お茶のペットボトルに蓋《ふた》をしつつ、僕は改めて窓の外を眺《なが》めた。どこまでも続いている畑の背に伸《の》びやかな日差しが当たっている。さらにその向こうに連なるのは山の尾根。
ふと自分たちが酷《ひど》く遠くに来てしまったような気がして、ちらりとリンネを見る。その横顔に変化はない。
絵はがきにおあつらえ向きなやけに眺めのいい丘《おか》で列車を降りて歩くこと十分、いかにも避暑地《ひしょち》といった感じののどかな田舎道《いなかみち》をつっきるうちに僕《ぼく》らは一本の小道につき当たった。
「一応、この道の先みたいだけど……」
リンネからあずかった未到ハルナの紙片《しへん》を見ながら僕は呟《つぶや》いた。目の前には鬱蒼《うっそう》とした緑のトンネルが広がっている。道幅《みちはば》はやや狭《せま》くなっており、二人が並んで通るのがやっとという感じの自然の隘路《あいろ》だ。足元に下草が掠《かす》れたような車の轍《わだち》があるということは、人の行き来がまったくないわけではないらしい。
「ホントにこんなところなの? 道、間違ってない?」
「こんな何もないところ、間違いようがないよ」
僕は頭上を見上げ、もういっぺんそのトンネルを覗《のぞ》きこんだ。どの木の梢《こずえ》に止まっているのか、ジジジ……という蝉《せみ》の鳴き声が鼓膜《こまく》を打つ。
「ま、取りあえず、行ってみるしかなさそうね」
リンネの言葉に促《うなが》されるように緑のトンネルに入る。
ふと、懐《なつ》かしい夏の匂《にお》いがした。
途中《とちゅう》、ルウがリンネに声をかけた。
「ね、リンネ。教えて。あなたのお父様について」
「お父さん?」
リンネは紫色《むらさきいろ》の瞳《ひとみ》を上げてちらりとルウの方を見た。
「そうね。背の高い人だったわ。日本人だから黒い髪《かみ》と黒い瞳を持ってて……そして、すごく優《やさ》しかった。そーね、思い出せるのは本を読んでいる姿。あのころはGもまだいなかったし、離《はな》れの書庫もなかったから、置き場所がなくて未整理のまま部屋にうずたかく積まれた本をお父さんが毎日読んでいたのを憶《おぼ》えてる。今、考えるときっとお仕事してたのよね。でも、そのころの私はちっちゃかったからあまりお父さんに本を読んでもらいたくなかった。だって、一緒《いっしょ》に遊ぶ時間が減るんだもん」
リンネは口を尖《とが》らせた。そして靴底《くつぞこ》で下草を踏《ふ》みしめながら言葉を紡《つむ》ぐ。
「お父さんがいなくなったのは私が八つの時よ。ちょうど弟のねはんが生まれた年。ある日|突然《とつぜん》いなくなったの」
箕作剣介。
リンネのママさんの夫。そしてじいちゃんの教え子。
たぶん僕はこの人をじかに見たことのある数少ない人間のうちの一人だ。
正直、顔はよく憶えてはいない。何度か会ったことがあるはずだけど、その声も、その姿も、すべては霧《きり》に溶《と》けこむように淡《あわ》い印象になってしまっている。憶えているのはただ、リンネ同様、本を読んでいる姿だ。
うつむきかげんに静かにページをめくっている若い男の人。
「そのう……連絡《れんらく》は?」
僅《わず》かにためらった後、ルウが訊《たず》ねた。
「二年前、私が十歳の誕生日を迎《むか》えた日に手紙をもらったわ。すごく嬉《うれ》しかった。だって、お父さんが生きているとわかったから。そのころはお父さんはもう、とっくに私の知らないどこか遠い土地で死んでしまったんだって思っていたから。……でも、それっきり。あれは一度きりのプレゼントだったみたい。去年の誕生日は何も連絡はなかった。以来、音信不通なの」
「酷い人ね!」
思わず義憤《ぎふん》に駆《か》られたようにルウは叫《さけ》び、それからすぐに悔《く》いたような表情を浮《う》かべた。自分が人の父を非難したことに気づいたのだろう。リンネは微笑《びしょう》し、首を横に振《ふ》った。
透《す》けるような白い肌《はだ》に木洩《こも》れ日が落ちている。
「でも、本当はすごく優しい人なのよ。私にはわかるの。ママも優しいけど、もしかしたらそれ以上に優しい……。普通《ふつう》の人間なのにママを好きになった人だから。ただ、私、知りたいの。何で私たちの前からいなくなったのか。何でねはんの顔を一度も見にきてくれないのかを」
その言葉を最後にリンネは口を閉《と》ざした。
誰《だれ》も何も言わなかった。
それぞれがそれぞれの表情で物思いにふける中、木洩れ日が柔《やわ》らかく僕らの足下《あしもと》に光を落としていた。
しばらく行くと次第《しだい》に緑は濃《こ》くなり、ともすればタイヤで擦《こす》ったような轍の跡《あと》さえも生い茂《しげ》る下草に紛《まぎ》れるようになった。道幅は心細くなり、甘い草の香《かお》りが鼻先に満ちた時だった。ふと僕は、森のトンネルの脇《わき》に小さな祠《ほこら》を見つけた。
それはいつ誰が祀《まつ》ったのかもわからない、枯《か》れ苔《ごけ》のついた古びた石の祠だった。日《ひ》詣《まい》りも絶えて久しいらしく、渾々《こんこん》と溢《あふ》れる自然の緑の繁殖《はんしょく》を前に、今や辛《かろ》うじてその一部を覗かせるだけとなっている。
「近くにお社《やしろ》があるのかしら?」
ルウが呟いた。
祠を過ぎ、さらに歩を進める。
次第に嵩《かさ》が深くなる草を踏み分け、僕らはひたすら先を目指した。
時折、頭上でざあっと風が渦《うず》を巻いた。ぎしぎしと骨が軋《きし》むように幹が鳴り、やがて静かになると、代わって、渡《わた》っていく風の伴奏《ばんそう》のように、目の届かぬ森の奥のほうで葉と葉が擦《す》れあう音が密《ひそ》やかなざわめきとなって僕らを取り囲んだ。トンネルは永遠に終わらず、スニーカーの縁《ふち》は下草に擦れ、そのまま脚《あし》全体が緑色に滲《にじ》んでしまうのではないかと思われた。
つと、傍《かたわ》らのリンネのスカートの裾《すそ》がはためき、枝からちぎれた葉が頭上で舞《ま》った。リンネが僕の手を握《にぎ》った。僕がその手をしっかり握り返した時、風がやみ、長かったトンネルがとだえ、一気に視界が開けた。
僕らは田舎道《いなかみち》を歩いていた。
視線を上げると伸《の》びやかな空は哀《かな》しくなるほど青い。
きつい日差しがびっくりするくらい近く、やけに空気が暑く感じられた。
緩《ゆる》やかなカーヴを描《えが》く畦《あぜ》を僕らはてくてく歩いていた。やがて前方に小さな建物が見え、僕らは一気に駆けだした。
そこは学校付きの木造の小さな図書館だった。
リンネが引き戸の扉《とびら》を開けた時、貸し出し口の机の前に座っていた女の人がふと面《おもて》を上げた。髪の長い、綺麗《きれい》な人だった。
目が合い、リンネは元気に挨拶《あいさつ》した。
「こんにちはっ」
「こんにちは。よく来たわね」
その女の人は僕らの姿を認めるとうっすらと微笑《ほほえ》んで言った。「よく来たわね」と言われ、僕はそうか、僕らはここに来ることになっていたんだっけと思った。どこか懐《なつ》かしい感じのする人だった。そして、そう思う自分を不思議に思った。
その女の人は言った。
「この時期に人が来るなんて珍《めずら》しいわね。それも二人も」
「そうなの?」
リンネが首を傾《かし》げる。
「そうよ。とても珍しいの」
「ふうん」
何か大切なことを忘れてしまったような気分のまま、僕らは明るい光の差しこむ館内をぼんやりと眺《なが》めた。丈《たけ》の低い書架《しょか》の中には児童書や童話や絵本、それに低学年向けの紙芝居《かみしばい》なんかが並んでおり、閲覧《えつらん》用の四人|掛《が》けの小さなテーブルがいくつか置かれている。
まだ読んでない面白《おもしろ》そうな本が結構あるなと僕は思い、それからふと、ウチの学校にこんな別棟《べつむね》の図書館があったっけ、と改めて思った。
あたりは静かだった。この古ぼけた図書館の中には僕らしかいないみたいだった。
「でもへんねえ。私、大冒険《だいぼうけん》をしに来たはずなのに。わくわくするような素敵な出来事を探しにきたはずなのに」
訝《いぶか》しがるリンネに、女の人は謎《なぞ》めいた笑《え》みを浮かべた。
「本は持ってきた?」
「ほん?」
「そうよ。あなたはここに本を持ってきたのでしょう?」
女の人の言葉に、一瞬《いっしゅん》訝《いぶか》しげな表情を浮《う》かべたあと、リンネは思い出したように叫《さけ》んだ。
「あ、そうだったわ! 私、本を返しに来たんだっけ!」
そして、手にしていた『時の旋法《せんぽう》』をあわててカウンターの上に置く。女の人は『時の旋法』を受け取るとひっくり返し、奥付《おくづけ》に貼《は》られたスリーブから貸出カードを取り出すとリンネに渡した。リンネはカードの記入|欄《らん》に「六年一組箕作リンネ」とえんぴつで書き、その横に今日の日付を記した。
「あのう、これでいい……?」
「ええ。これで済んだわ」
女の人はにっこり笑った。
「ああ、よかった」
リンネは期限通りに本を返せ、ほっとしたように言った。
「これはとてもいい本ね。ぜんぶ読んだ?」
ふと、女の人が『時の旋法』の表紙を眺めて言った。リンネは口を尖《とが》らせ、いそいで首を横に振《ふ》った。
「ううん。読んでないわ。だってこれ、難しい字で書いてあるんですもの」
それからつけ足す。
「それに、この本を読んだらきっと私、時《とき》砕《くだ》きになっちゃうわ。私、悪い子じゃないもん。時砕きになるのは悪い人なんだもん」
「あら。そんなことないわ。時砕きは悪者じゃないわ。いい者よ」
女の人の言葉にリンネはびっくりしたようだった。
「本当?」
「ええ。心正しき人が力を持てば、その人は正しいことのために力を用いようとするでしょう? 時砕きだってそれと同じよ」
「うーん。でもなあ……」
「なあに? やらなきゃいけないことがたくさんありそうなのが不安?」
女の人はカウンターの上に肘《ひじ》をつくと、手の甲《こう》で頤《おとがい》を支えてリンネの顔を優《やさ》しく覗《のぞ》きこんだ。リンネはちょっと困った表情を浮かべたが、結局正直に言うことにしたらしい。
「これ以上、本を読まなくっちゃならなくなるのはイヤだわ。本はちょっとだけでいいわ」
「まあ」
女の人は笑ったが、リンネにすればこの点は絶対に譲《ゆず》れぬところである。だがこの目の前の女の人が顔をしかめたり小言を言ったりしなかったので、リンネはほっとしたように言葉を続けた。
「だってママもGも本を読め読めの大合唱なんだもの。あれじゃあ、お外で遊んだり、冒険したりするひまもないわ」
「お勉強は嫌《きら》い?」
いつの間にか……
僕らは古ぼけた教室にいた。目の前にはさっきの綺麗《きれい》な女の人が立っている。だが、少し様子が違《ちが》う。灰色のスカートにまっ白い半袖《はんそで》のブラウスを着ており、豊かな黒髪《くろかみ》を引っ詰《つ》め、形のいいおでこをむき出しにしている。そして、さっきよりも少し年を取っていた。
何だか先生みたいだ、と僕は思い、そうか、この人は先生だったんだ、と腑《ふ》に落ちた。僕らは学校で授業を受けているのだ。
女の人は教壇《きょうだん》に立つと言った。
「あなたたちは時砕きについてはどれくらい知っているの?」
「あんまりよく知りません」
僕と机を並べたリンネがしょぼんとして言った。
「知ることはとても大切よ。少なくとも自分が何を知らないかを知っているだけでも大違いなんだから」
そう言うとその女の人は黒板に白いチョークで『時《とき》載《の》りと時砕きについて』と綺麗な字で書いた。僕らは木の椅子《いす》に腰《こし》を下ろしたまま前を向いた。黒板が古いせいか、光って見にくい。机がやけに小さく感じられた。
「時載りと時砕きの違いを知っている?」
「時載りは本を読むけど、時砕きは認識《にんしき》を糧《かて》とします。本はもう必要としません」
リンネはすまして言った。だが女の人は首を横に振った。
「それは違うわ。時砕きも本を読みますよ。時砕きは認識力が飛躍《ひやく》的に高まるが故《ゆえ》に活字情報に頼《たよ》る必然がないだけ。彼らも時載り同様、本とは深い関《かか》わりを持ち続けるし、その形態に高低はないのよ」
「は、はい」
リンネはちょっとがっかりしたようだった。万一時砕きになった時は、もう読書しなくてもいいのだと思っていたのかもしれない。
そんなリンネに女の人は優しく訊《たず》ねた。
「時を止めたことは?」
「あります」
「どんな気分だった?」
どう、と問われ、リンネは困ったようだった。
「……あんまり深く考えたことないわ。だってちょっとの範囲《はんい》だけだもの。ほんの何秒かだけだもの」
「木も草も風も水も、そして人間も、この世のありとあらゆるものは動いている。それを止めるということは世界に干渉《かんしょう》するということ。当然、その反作用は歪《ゆが》みとなって立ち現れるわ……。そのことは知っていなきゃダメよ」
「小石ひとつでも?」
ちょっぴり不服そうにリンネは訊《き》いた。
「そう。小石ひとつでも、ビー玉一個でも」
女の人はうなずき、それから悪戯《いたずら》っぽく言った。
「でも、もしかしたら世界を全部止めてしまえば、そうした反作用も起こらないかもね。だって、すべてが止まっているんですもの。いかなる齟齬《そご》も起きようがないわ」
リンネはその大風呂敷《おおぶろしき》にびっくりしたようだった。
「世界を全部止める? そんなことが……」
「できないと思う?」
女の人は教壇の上に置かれた『時の旋法《せんぽう》』を開いた。
紋章《もんしょう》が鮮《あざ》やかな光を放った。
緑に囲まれた湖の畔《ほとり》に僕らは立っていた。
青い湖面には今まさに飛びたとうとする水鳥が水面《みなも》にいくつもの波紋を広げたまま浮《う》いている。くの字型に広げた羽も、水を掻《か》く弁足も、宙を跳《は》ねた飛沫《ひまつ》さえも、動きを止めたまま宙で凍《こお》りついている。
足下《あしもと》には粒《つぶ》の細かな砂。打ち寄せる波に浸《ひた》されて黒く湿《しめ》った砂と乾《かわ》いた砂は境界線となって互《たが》いに交わることなく、くっきりと隔《へだ》てられたままどこまでも続いている。
いや、水のほとりだけじゃない。
雲も。風も。
遠い森や山も。
目に映るあらゆるものが。
さっきまでの古ぼけた校舎から一変、すべてが静止した湖畔《こはん》に僕らはいつの間にか佇《たたず》んでいるのだった。
「……止まってる」
リンネは呆然《ぼうぜん》とつぶやき、改めて目の前に広がる写真のような世界に視線を向けた。
そこにあるのは圧倒《あっとう》的な沈黙《ちんもく》。
僕はあたりが無音であることに気がついた。耳の機能が停止したのではないかと思われるような死の静寂《せいじゃく》があたりを包んでいる。
動くものがなければ音は発生しないのだという単純な事実に僕は今更《いまさら》のように衝撃《しょうげき》を受けていた。たぶんリンネも同様なのだろう。僕の傍《かたわ》らで、こわばった表情のままじっとあたりに視線を注いでいる。
「……すべてが止まっているのね?」
「そうよ。動いているのは世界で私たちだけ。作用も反作用もない、完全無欠な世界。すべてが調和した完璧《かんぺき》な世界」
女の人の服装はまた替《か》わっていた。真っ白い服に、丈《たけ》の長い白いコートを纏《まと》っている。その姿はまるで白い妖精《ようせい》のようだが、すべてが純白な衣《ころも》の中で、黒い瞳《ひとみ》と同じく長く艶《つや》やかな髪《かみ》だけがたとえようもなく闇《やみ》の色を帯びている。
「すごく静かだわ」
「動くものがないからよ」
リンネのつぶやきに、彼女は事も無げに言った。
「……なんか恐《こわ》い」
静止画のような景色を眺《なが》めていたリンネが、ふと恐《おそ》れおののいたようにぶるっと身体《からだ》を震《ふる》わせた。そして、まるで幼子が母親を追い求めるような仕草で女の人にぴたりと身を寄せる。
自分の腰《こし》にしがみつくリンネに、女の人は微《かす》かに笑ったようだった。軽くリンネの肩《かた》に手を回す。
「少し刺激《しげき》が強すぎたかしら?」
そう言うと、彼女はパチンと綺麗《きれい》に指を鳴らした。
その途端《とたん》。
時間の流れは回復し、僕らのよく見慣れた世界が姿を現した。
水鳥は空へと羽ばたき、波紋は水面に溶《と》けいり、木々はざわめきを取り戻《もど》す。そよ風が僕とリンネの前髪を揺《ゆ》らし、湖面は青い空を映しながら細波《さざなみ》をたて始める。渡《わた》っていく風、それと知らず鼻先を掠《かす》める風の中にも、遠い森の緑の馥郁《ふくいく》とした匂《にお》いが宿っている。
世界が動き出したのを全身の肌《はだ》で感じとり、僕らはほっと息をついた。
女の人が軽く片目を瞑《つぶ》ってリンネに訊ねた。コートの裾《すそ》が微かに風に撓《たわ》む。
「どう?」
「やっぱりこっちがいいわ」
さっきまで息を詰《つ》めるようにしていたリンネがつくづくといった口調で言った。僕も心底うなずいた。女の人はからかうように言った。
「いかが? 時の狭間《はざま》の住人になった気分は?」
「すっごくイヤ!」
リンネは顔をしかめて言った。
「すごく不自然だわ。すごい力を使っても自分がたったひとりぼっちになってしまうなんて。自分から進んで孤独《こどく》になっているようなものだもの。誰《だれ》かと一緒《いっしょ》に過ごせない時間なんて、意味ないと思うわ」
「そうね。人は一人では単にそこに「ある」というだけに過ぎない……。時間や記憶《きおく》、過去をわかち合う者がいて初めて人は人たり得るわ。だからこそ、時をあつかう手つきは繊細《せんさい》でなければならない」
[#挿絵(img/mb671_249.jpg)入る]
「はい」
リンネはこっくりうなずいた。
「誰かと一緒に過ごす時間[#「誰かと一緒に過ごす時間」に傍点]。……そう言えば、あなたにもお友達ができたのよね」
女の人の言葉にリンネはばっと目を輝《かがや》かせた。
「そうなの。時《とき》載《の》りのお友達よ! とっても素敵《すてき》な子なの! お姉さん、よく知ってるわね!」
思わず身を乗り出して訴《うった》えるリンネを、女の人は瞳の奥で慈《いつく》しむように見つめた。
「その子といることは楽しい?」
「ええ、とってもっ。でもその子だけじゃないの。私の回りにはたくさんの人がいるわ。私のことをわかってくれる、とっても大事な人たち……」
リンネはふと僕を見た。
水鳥が一羽、湖面の上を羽ばたいた。
水面《みなも》が弾《はじ》けた。
飛沫《ひまつ》が跳《は》ね、鮎《あゆ》がするすると流れに逆らって、僕の繰《く》り出した網《あみ》をすり抜《ぬ》けていく。
「あーあ」
リンネが口を尖《とが》らせ、逃《に》げていく鮎に未練ありげな視線を送った。
「久高ったら下手くそねえ」
「ほら、見て」
僕らと同じ年頃《としごろ》の、おかっぱ頭の黒髪の美少女が細い指で水面を指した。若鹿《わかじか》のように伸《の》びやかな手足は健康そうに、日差しを受け白く輝いている。
僕らは山あいを流れる小川で水遊びをしているのだ。
「これは川よ。もっとよく見て」
彼女の言葉に、リンネは首を傾《かし》げた。
「お水が流れてるわ」
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀《よど》みに浮《う》かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例《ためし》なし」
その子は節をつけて唄《うた》うように言った。
「ゆくかわのながれは……ええと……なんだっけ?」
リンネは眉《まゆ》を寄せ、少女が諳《そら》んじた言葉をたどたどしくなぞらえる。その子はくすりと笑った。
「私たちは刻々と変化している、ということ。変化していることのほうが基本なの。私たちは畔《ほとり》に立ち止まっているわけじゃない、行く川の流れこそが私たちなの。ほら、そこに私たちがゆく」
ぽちゃん、と飛沫が跳ね、一瞬《いっしゅん》波紋《はもん》が広がる。波紋はすぐに流れの中に絶え、音もなく溶けていく。僕らは川のせせらぎにじっと耳を澄《す》ませた。
いつまでも続く、さらさらという川のせせらぎ。
やがてリンネが言った。
「何だかよくわからないわ」
「きっとあなたは変わる。元の自分が思い出せないくらいに」
リンネはちょっと押し黙《だま》っていたが、やがて口をへの字に曲げて訊《たず》ねた。
「それって、私が悪者になっちゃうってこと?」
「いいえ。変わっていくことは悪いことではないわ。真に恐《おそ》るべきは倦《う》むということ。生に慣れ、知る喜びはいつか果てる……。でも、あなたならきっと自分の道を見出《みいだ》せることでしょう」
「自分の道?」
「そうよ。ほかの誰でもない、あなただけの道」
その女の子は勝ち気そうな黒い瞳《ひとみ》を煌《きら》めかせ、まっすぐにリンネを、そして次に僕を見つめた。
「やれやれ。ずいぶん話しこんでしまったわ」
老婦人は安楽|椅子《いす》にゆったりと身を沈《しず》めたまま、うっすらと微笑《ほほえ》んだ。
膨大《ぼうだい》な本の山に囲まれた書斎《しょさい》の一隅《いちぐう》。窓から射《さ》しこんだ西日が、膝掛《ひざか》けにくるまり安楽椅子に深く腰《こし》を下ろした彼女の横顔を照らしている。その顔は皺《しわ》深く、その一筋一筋にこの人の歩んできた足跡《そくせき》が深く刻みこまれていたが、その瞳はあくまで穏《おだ》やかで、優《やさ》しかった。
いつの間にか僕らは彼女に寄り添《そ》ってその足許《あしもと》に腰を下ろし、その言葉に耳を傾《かたむ》けていた。
「さあ。これでこのお話はおしまい」
老婦人は膝の上で開いていた『時の旋法《せんぽう》』をそっと閉じると、そこに刻まれた紋章を軽く指でなぞった。そしてそれをリンネに渡《わた》した。
「はい。これはあげるわ。続きは自分で読むのよ」
「でも、何で私なんかに……」
リンネは本を受け取ったあと、不思議そうに訊ねた。老婦人はリンネを安心させるようにゆったりとうなずいて見せた。
「それは、あなたがこれを受け取るべくして受け取ったから。『なぜ』はないの。安心して、堂々と胸をはっていなさい」
「胸をはるの?」
「そう。いつも心の中に風を吹《ふ》かせるの。何か素敵なことが起こった時、心を響《ひび》かせられるようにね。女の子はいつも颯爽《さっそう》としてなくっちゃ。それから、ときめきを忘れちゃダメよ。わくわくしたり、うきうきしたりする気持ちを大事にね」
「それならまかせて! そういうのは得意だわっ」
リンネが勢いこんで言うと、老婦人は目尻《めじり》に皺を溜《た》めて微笑んだ。それからふと、いたずらっぽい表情を浮かべると、あたりをはばかるようにそっと声をひそめた。
「実はね、その本には秘密があるの」
「ひみつ?」
「そう、とっておきの秘密。その本には魔法《まほう》がかかっているの。その本には紋章が刻まれていたでしょう? あれは、ふつうの子が触《ふ》れても何も起きないけれど、ある特別な時載りの子[#「ある特別な時載りの子」に傍点]が持った時だけ応《こた》えてくれるの」
「それはどんな子?」
思わずリンネが身を乗り出すと、老婦人はユーモラスな仕草でちょいちょいとリンネを手招きした。怪訝《けげん》そうな顔つきでリンネが近づくと、彼女はリンネにそっと小声で耳打ちした。
「ええーっ」
リンネの顔がみるみる顔が赤くなる。リンネはなぜか僕の顔を見ると、急にもじもじし始めた。
「?……どうしたの?」
「な、なんでもないわよっ」
僕がきょとんとして訊ねると、リンネは怒《おこ》ったようにほっぺを赤らめてつっけんどんに言った。
何で赤くなってるんだ?
老婦人はおかしそうに笑うと僕に向きなおり、片目を瞑《つぶ》って見せた。
「あなたも結構な苦労をするわね。でも、負けちゃダメよ」
「は、はい」
何だかよくわからなかったが、取りあえず僕はうなずいて見せた。
「もう時間ね。もう少し時間があれば、もっと本を読み聞かせたりしてあげられるんだけれど」
肘掛《ひじか》けに手を置き、しんみりと老婦人は言った。
時間? 時間って何の時間だろう?
僕はぼんやり考え、ふと自分が何か大事なことを忘れているような気がした。それが何か思い出せぬまま、僕はリンネと共に立ち上がった。そして老婦人と順番に握手《あくしゅ》した。
その人の手は温かく、乾《かわ》いていた。
「あ、あの……また会いに来ていいですか?」
ドアの前で、リンネが名残惜《なごりお》しそうに老婦人の方を振《ふ》り返った。
返事はなかった。
書架《しょか》に照り返した光がずいぶん遠く感じられた。
「さようなら。お若いお人。お行きなさい。大好きなお友達と共に」
ふと背後で、そんな声を聞いたような気がした。
風が、やんだ。
枝からちぎれた葉が一枚、ふわりと僕の足許に落ちた。僕とリンネは緑のトンネルの中に立ちつくしていた。
「……」
僕《ぼく》とリンネは黙《だま》って顔を見合わせた。頭上には枝々があり、足許には地面がある。前を向くと少し前方に日差しが見えた。頭上を遮《さえぎ》る枝葉は絶え、トンネルはそこで終わっているのだった。ふと僕らは自分たちが固く手を繋《つな》いでいることに気がついた。僕らは手を離《はな》した。
頭と身体《からだ》が上手く繋がらないような奇妙《きみょう》な静けさの中、そのまま馬鹿《ばか》みたいに突《つ》っ立っていた時、後ろでさくさくと下草を踏《ふ》み分ける音がした。
「もうっ。二人してどんどん先に行っちゃって!」
振り返ると、ルウがふくれっ面《つら》で近づいてくる。
僕はやっと自分がどこにいるのかを思い出した。
「……今の、夢?」
リンネがぽつりと言った。
「わからない」
僕は応え、近づいてくるルウの顔を穴の開くほど見つめた。ルウは機嫌《きげん》を悪くしたのか、ほっぺを膨《ふく》らませると僕に噛《か》みつく。
「なによっ。待って、って大声で言ったのに」
「あ……や、ごめん」
僕はぎこちなく答えた。ようやく現実感が戻《もど》ってくる。どうやら今のを見たのは僕とリンネだけらしい。
そのまま三人並んでトンネルの出口へと歩き出す。急に無口になった僕らを見て、ルウは訝《いぶか》しげな表情を浮《う》かべた。
「ここ……だな」
トンネルを抜《ぬ》けて数分後。
思いの外あっさりと目的地が見つかったことに拍子《ひょうし》抜けしつつ、僕らは『蘆月』という古びた表札のかかった古風な屋敷《やしき》を見上げた。四囲を巡《めぐ》らした板目の浮いた塀《へい》と平屋建ての家屋が鄙《ひな》びた雰囲気《ふんいき》を醸《かも》し出しており、どこか社《やしろ》のような風情《ふぜい》がある。表門から玄関《げんかん》にかけて、白い玉石が敷《し》き詰《つ》められているのが涼《すず》しげだ。
リンネは背筋を伸《の》ばし、呼び鈴《りん》を押した。澄《す》んだチャイムが二度鳴り、ややあって奥で人が出てくる気配がした。どんな人が姿を現すかと思いきや、引き戸を開けたのはどこか品の良さそうな中年のおばさんだった。
「はい」
「こんにちは。ええと、僕たちは……」
「ああ、杏奈《あんな》さんのお友達ですか。ようこそいらっしゃいました」
「え?」
きょとんとする僕を尻目《しりめ》に、使用人らしいそのおばさんはにこにこして僕らを出迎《でむか》えた。
「折角《せっかく》いらしていただいたのにあいすいませんねえ。杏奈さんはちょっと前に出かけられて留守でございます。もうじき戻られると思いますけれど」
「……あの、こちら、蘆月さんのお宅ですよね?」
「はい。左様でございますよ」
「蘆名《あしな》家の蘆にお月さまの月と書いて蘆月さん?」
「はい。左様でございます」
誰《だれ》かと人違《ひとちが》いをしているのではないかと、僕とリンネは思わず土間先で顔を見合わせた。そもそも杏奈って誰なんだろう? 頭の周りに無数の疑問符《ぎもんふ》が浮かんだその時、ふと僕の目にリンネが手に提《さ》げている例のバイオリンケースが映った。
その瞬間《しゅんかん》、僕の脳裏《のうり》で何かが繋がったような気がした。同時にリンネが息をのみ、紫色《むらさきいろ》の瞳《ひとみ》をさっと僕に向ける。
どうやら僕らは同じ結論にたどり着いたらしかった。
「で、杏奈さんはどちらに……?」
表情を引き締《し》めつつリンネが問う。
「この先の丘《おか》にある展望台です。取りあえず、中に入ってお待ちになって下さいまし」
リンネはぴんと背筋を伸ばすと、バイオリンケースを両手で携《たずさ》えたまま丁寧《ていねい》に一礼して言った。
「いいえ。結構です。突然《とつぜん》お邪魔《じゃま》して申しわけありませんでした。私、箕作といいます。杏奈さんからおあずかりしたものをお返しするためにこちらにお伺《うかが》いしたのですが、一刻も早くご本人に直接お渡《わた》ししたいのでこれで失礼します」
「まあ、そうでしたか。それはわざわざご苦労様でしたねえ」
おばさんは鷹揚《おうよう》にうなずく。事態がよく飲みこめずに、怪訝《けげん》そうな顔つきをしているルウを尻目に僕らは引き上げることにした。
だが事態はそれだけでは終わらなかった。僕がお辞儀《じぎ》をしてきびすを返した時、ふとそのおばさんが呟《つぶや》いたのだ。
「それにしても今日は来客の多い日ですこと。つい先程《さきほど》も外国の方が一人、わざわざみえられたんですよ。こんな田舎《いなか》に珍《めずら》しいことですねえ」
「外国人?」
僕は聞き返した。おばさんは大きくうなずいた。
「ええ。そうですの。すらっとした様子のいい方で、何でも杏奈さんから古い本を譲《ゆず》り受けにきたとか何とか……」
「それって、いつですか?」
振《ふ》り返ったリンネの問いは短かった。
「ええ、ですからつい先程……そうですねえ、二十分ほど前でしょうか」
物も言わずリンネは駆《か》け出した。
僕らはその子が向かったらしい緑の丘陵《きゅうりょう》へと出た。いつの間にか日は傾《かたむ》き、西から射《さ》す光が夕刻の到来《とうらい》を告げ始めている。
全速力で駆けるリンネに、僕とルウが散策路の中程で辛《かろ》うじて追いついた時だった。僕らは丘の頂上付近で人の声を耳にして立ち止まった。頂きを見上げると、木製の手すりに囲われた高台に一人の女の子が立っている。
年はたぶん凪と同じぐらいだろう。前髪《まえがみ》を額の上でまっすぐに切り落としたおかっぱ頭の良家のお嬢様《じょうさま》風のかわいらしい顔立ち。あのベレー帽《ぼう》は被《かぶ》ってなかったし、ボレロも着ていなかったけれど、何よりその大きな黒い瞳にははっきりと見覚えがあった。
蘆月《あしづき》杏奈《あんな》。
「やっぱり……」
ようやく念願の再会を果たし、僕は改めて西日を浴びて佇《たたず》む彼女を眺《なが》めた。
だが感慨《かんがい》にふける間はなかった。杏奈は突然手すりの端《はし》に駆け寄ると、そこにぴたりと張りつくような仕草を見せたのだ。
そして、その背後から近づいてくる痩身《そうしん》の男の姿。男の纏《まと》った黒いコートの裾《すそ》が高台を抜《ぬ》ける風にまるで生き物のようにはためいている。
頭の後ろに撫《な》でつけた黒い長髪《ちょうはつ》と、よく整えられた口髭《くちひげ》。ハンサムな風貌《ふうぼう》と相まって一目で芸術家と知れるタイプだが、表情には険があり、その印象には仄暗《ほのぐら》さが付きまとっている。
あれ? この人、どこかで見たような……。
僕はふと、その横顔に見覚えがあるような気がした。
男が口を開いた。
「さあ、追いかけっこはお仕舞《しま》いだよ。お嬢さん。本をどこにやったか話してもらおう」
「こ、こっちにこないで……」
蘆月杏奈は身をすくませ、柵《さく》ぎりぎりまで身を寄せる。
「やれやれ。ずいぶん嫌《きら》われたものだ」
コートに両手を隠《かく》したまま、男は小さく肩《かた》をすくめた。
「……蘆月長柄。史上最強の時《とき》砕《くだ》きにして七人衆の一人。圧倒《あっとう》的な力を持ちながら何故《なぜ》かその力を封印《ふういん》し、有限と制約の中に自らを押し込めて生を終えた時砕き随一《ずいいち》の変わり種。彼女が時の流れの彼方《かなた》に姿を消したことにより『紋章《もんしょう》入り』がどこに消えたのかはその死後も長らく謎《なぞ》とされていたが……ようやくその在処《ありか》を突《つ》き止めたよ。捜《さが》し求めた甲斐《かい》はあった、というべきかな」
男の言葉を杏奈がすべて理解したとは思えなかった。だが、何よりもその不穏《ふおん》な気配を感じ取ったように、杏奈は身をすくませた。
「私、なんにも知りません……。ほんとよ」
「うそはいけないね。お嬢さん。君が蘆月長柄の義理の孫だということは既《すで》に調べてある。その遺品のすべてを譲り受けたこともね。私はただ、その中のたった一つの物が欲しいだけ……。君も見覚えがあるだろう? 無地の表紙に奇妙《きみょう》な紋章が刻まれた古い本のことを」
びくん、と杏奈の肩が震《ふる》える。
僕らははっとリンネが抱《かか》えた『時の旋法《せんぽう》』を見た。あの男はこれを捜しているのだ。
杏奈の反応を見て男は満足そうにうなずいた。
「そう。その本だ。いい加減、あれをどこにやったのかを話してくれないか? 女の子に手荒《てあら》な真似《まね》をするつもりはないが、それも君が従順な場合のみに限る。抗《あらが》うのは自由だが、その担保には自分の身がかかっていることを忘れぬことだ」
そう言って男はさらに一歩杏奈に近づく。高台の上、既に彼女に逃《に》げ場所はない。杏奈の窮地《きゅうち》にいても立ってもいられなくなったリンネが叫《さけ》んだ。
「あの子を助けなきゃ!」
止める間もありはしない。リンネは本を片手に一気に坂を駆け上がると、ひらりと柵を飛び越《こ》え、男に向かって凛《りん》とした声をはり上げた。
「そこまでよ!」
威勢《いせい》よく啖呵《たんか》を切り、リンネはきっとその紫《むらさき》のまなざしを男に向けた。
「『時の旋法』は私が持っているわっ。その子は持ってない。その子に手を出すのは止《や》めなさい!」
ふいに現れた奇妙な闖入者《ちんにゅうしゃ》を、男と少女はそれぞれの表情で見つめる。
「あれ?」
ふと、男の顔を認めたリンネが小首を傾《かし》げた。
「あなた、どこかで……」
「ほう」
男もまた、リンネに気がついたようにまなざしを返す。
「あ、あなた、確か音楽ホールにいた……」
リンネがそう言った時、僕はようやく思い出していた。そうだ。この男の人は杏奈を捜し求めてトレンティーノ音楽院のコンサートに出向いた時、ねはんとぶつかった人だ。その後、僕とリンネはこの人と壁《かべ》にもたれたまま立ち話までした。
「おやおや。誰かと思えばあの時のお嬢さんか。奇遇《きぐう》、というべきかな」
男は酷薄《こくはく》な笑《え》みを浮《う》かべた。同時にその瞳《ひとみ》にあやしい光が宿る。リンネの言葉と、その手にある本の双方《そうほう》が、この男にはっきりと状況《じょうきょう》を悟《さと》らせたのだ。
男は完全にこちらに向きなおるとリンネと対峙《たいじ》する姿勢を見せた。
「『時の旋法[#「時の旋法」に傍点]』は私が持っている[#「は私が持っている」に傍点]。その子は持ってない[#「その子は持ってない」に傍点]。」
男はリンネの言葉をゆっくりとなぞらえた。
「……今、そう言ったね。ブロンドのお嬢さん」
「え?」
「何故、君がそれを持っている?」
「そ、それは、ええと……」
勢いで飛び出したはいいものの、後のことはよく考えていなかったのだろう。リンネはしどろもどろになった。
男はそんなリンネの混乱に気を止めた様子はなく無表情に片手を上げると、リンネを攻撃《こうげき》する意志を見せる。さすがにリンネはあわてた。
「ちょっ、ちょっとタンマ」
「時《とき》載《の》りか」
そう言うなり、男は白い手袋《てぶくろ》に包まれた手を横に薙《な》いだ。
瞬間《しゅんかん》、すさまじい速度の時留めがリンネを襲《おそ》う。リンネは辛《かろ》うじて後ろに飛び退《の》き形なき斬撃《ざんげき》を避《さ》けたが、男は間髪《かんぱつ》入れずさらなる時留めをぶつけてくる。リンネは身体《からだ》をひねり、ほとんど生まれついた反射神経のみでかわしてみせたが、さすがにそれが限界だった。
「きゃ……」
完全に身体のバランスを崩《くず》し、高台の柵に背中を押し当てたリンネに三度《みたび》男の時留めが降り注ぎ、今度こそ避けそこねたリンネが思わず身をすくめた、
その時――。
リンネのかいなに抱《だ》かれていた『時の旋法』が突如《とつじょ》眩《まばゆ》い閃光《せんこう》を放った。
光の奔流《ほんりゅう》が迸《ほとばし》り、高台の上はまるで目がくらむような明るさとなる。その中心にあるのは『時の旋法』。
そして表紙に浮かび上がる、あの紋章《もんしょう》。
「あ、あれは……」
僕と共に高台にたどり着いたルウが呟《つぶや》く。
ルウとビュータワーで戦った時とまったく同じ現象に、リンネは一瞬|呆然《ぼうぜん》としていたが、ふと意を決したように唇《くちびる》を結ぶと、本を胸に抱いたまま、空に向かって右の手の平を高々と掲《かか》げた。
その途端《とたん》、リンネの掲げた手の平の上に、本に刻まれたのと同じ円状の紋章が直径一メートルほどの大きさで浮かび上がる。リンネは頭上に出現したその紋章を見上げると、とっさに手を伸《の》ばした。だが紋章は微妙《びみょう》な高さに浮かんでおり、小柄《こがら》なリンネの背では届かない。
「もうっ」
リンネはその場でぴょんとジャンプすると、その紋章に指先で触《ふ》れた。
「Touch!」
瞬間、リンネの身体が光の奔流に飲みこまれる。リンネは目を閉じ、光を身体に纏《まと》わせたまま踊《おど》るようにくるりと一回転する。
「時《とき》砕《くだ》き・ゲーデルリンネ!!」
そこに出現したのは、誰《だれ》も見たこともない不思議な衣装《いしょう》に身を包んだ女の子の姿。
カボチャぱんつも露《あら》わな、ヘチマみたいなシルエットの白いミニドレスに、すらりとした脚《あし》を覆《おお》う黒いニーソックス。ブロンドの上にちょこんと黒いベールを載せ、腰《こし》のまわりにはまるで大工さんが大工道具を吊《つる》すが如《ごと》くホルダーでいっぱい本をぶら下げている。
風変わりと言えば風変わりだが、リンネらしいと言えばこれ以上ふさわしい恰好《かっこう》もないという衣装を満足げに着こなしたリンネは、髪《かみ》を一閃《いっせん》、人差し指をぴんと伸ばして勢いよくその男を指さした。
「いたいけな女の子を苛《いじ》めるいけない人。悪さばっかりしてないで、少しは本でも読みなさい!」
「……リンネ、変身したわ」
僕の傍《かたわ》らでルウが口をぽかんと開けて呟く。
「……あれが、時砕き?」
「や」
そうじゃない、と言おうとして僕は口をつぐんだ。あれはたぶん、認識力が向上するという時砕きの特性故に生じた[#「認識力が向上するという時砕きの特性故に生じた」に傍点]、リンネのイメージの中の時砕きなのだ[#「リンネのイメージの中の時砕きなのだ」に傍点]。いわば「時砕きっていうのはこんな感じにちがいない!」という、リンネの願望なり理想なりが具現化した姿があの姿なのに違いない。
その証拠《しょうこ》に、リンネの被《かぶ》っているベールの端《はし》は虫でも喰《く》ったみたいにぼろぼろに解《ほつ》れている。リンネが衣装の細部をイメージをし損《そこ》ねた(よーするにリンネの変身がへたっぴだった)せいだ。
……にしても、日頃《ひごろ》見ている女の子向けのアニメの影響《えいきょう》か、リンネの中の「正義の味方像」がいささか偏向《へんこう》している感は否《いな》めないけれど。
変身したリンネを見て、男は一瞬|呆気《あっけ》にとられていた様子だったが、やがて高らかに笑い出した。
「なるほど。確かに君が蘆月長柄の後継者《こうけいしゃ》であることは間違《まちが》いないようだ。その本、そしてその紋章……。時は常に巡《めぐ》っているというべきか」
男は笑いをおさめると、優雅《ゆうが》な仕草でリンネに向かって一礼して見せた。気障《きざ》な仕草だが、それがいかにも様になっている。
「私の名はユース・パイロフ。ご覧の通り、音楽家だ。はじめまして、いや、久しぶりと言うべきかな。ミス・シンデレラ」
「あなたはどうしてこの本のことを知っているの?」
リンネの問いに、パイロフと名乗った男は事も無げに言った。
「『紋章入り』の封印《ふういん》が解かれたことは既《すで》にバベルの塔《とう》の一部で噂《うわさ》になっているよ。少しでも目端《めはし》の利《き》く者であれば、ここ最近の激変する未来の流れを見過ごすはずもない。蘆月長柄が死して数ヶ月。新たな時砕きの出現に、今、塔の内部は蜂《はち》の巣をつついたような騒《さわ》ぎとなっていることだろう。もっとも、さすがに肝心《かんじん》の後継者がこんな少女だと予見した者はなさそうだが」
そう言うと男は改めて目の前に立つリンネを値踏《ねぶ》みするように眺《なが》めた。その視線はリンネが携えた『時の旋法《せんぽう》』の上でとまる。
「……だが実際にこの目で見た以上、信じないわけにはいかないようだ。どうやってそれを手に入れたかは後で聞くことにして、今はその手にある本を渡《わた》していただこうか」
「あなた、音楽家なのでしょう? なぜこの本を欲しがるの?」
「優《すぐ》れた真理を目の前にして素知らぬ振《ふ》りができるほど、私は傲慢《ごうまん》な人間ではないよ。ましてや時という名の真理をね。その本にはその名の通り、時から力を引き出す秘密の一端が記されている。蘆月長柄、いや、時砕きだけが使いこなせるという、いわば時の謎《なぞ》のすべてがね。それを手に入れたい」
「つまりは、己《おのれ》の野心のため?」
「野心?」
リンネの言葉をパイロフは鼻で笑った。
「野心など持ってはいないさ。私はただ時《とき》載《の》りの在りようを回復したいだけ。時を操《あやつ》る眷属《けんぞく》として生まれ、人に優れた力を持ちえたからには、時を跨《また》ぎ、時を操り、時間を支配して何が悪い。どこがいけない。塔の支配に屈《くっ》した者の倫理《りんり》は私には既に遠い」
「あなた……逸脱者《いつだつしゃ》ね」
男の正体を見て取ったリンネの言葉に、パイロフは氷点下を思わせる笑《え》みを浮《う》かべた。
「懐《なつ》かしい呼び名だ。そう呼ぶ者もいるね。大昔、私と出会った時砕きもそう言ったっけ。もっとも彼女は、今はこの世の時間のどこにもいないが」
「まさか、それって、」
息をのむリンネに、パイロフは表情を改めた。
「……少しお喋《しゃべ》りが過ぎたようだ。さあ、お嬢《じょう》さん、話は終わりだ。その本を渡してもらおう」
パイロフの言葉に、リンネはきっぱりと首を振った。
「おあいにくですけど、パイロフさん。私、この本を元の持ち主に返すって決めているの。だからあなたには渡せないわ。まして、小さな女の子を苛めるような人にはね」
「……そうか。では、実力で奪《うば》い取ることにしよう」
パイロフは懐《ふところ》からすっと木製のタクトを取り出した。そしてそのまましばらく佇立《ちょりつ》していたが、ふと、剣《けん》にも杖《つえ》にも見えるその切っ先をリンネに向かって軽く跳《は》ね上げた。
瞬間《しゅんかん》、凄《すさ》まじい『圧力』が、リンネに襲《おそ》いかかる。
「!」
以前、深夜の子供ランドでリンネとルウが繰《く》り広げた戦いなど児戯《じぎ》に思えるほどの、圧倒《あっとう》的な威力《いりょく》と射程|範囲《はんい》を伴《ともな》った攻撃《こうげき》の後、ふいに四囲の音がかき消える。別に耳が聾《ろう》したわけじゃない。頭上を巻いていた風や雲、空気も含《ふく》め、高台の上の一切《いっさい》の時間が止まったのだ。
当然、リンネも為《な》すすべなく凍《こお》りついた……と思いきや、身軽にもリンネは高台の上を駆《か》けだしている。
「こっちよ!」
黒ベールを靡《なび》かせて駆けつつ、リンネは男に向かって思いっきり舌を出す。パイロフは苦笑《くしょう》し、再度リンネにタクトの先を向けた。
そこからが圧巻だった。
リンネは助走をつけた勢いそのままに、ぴょんと高台の手すりの上に飛び乗り、まるで平均台の上にでもいるように身体《からだ》をひねると、ミニドレスの裾《すそ》が翻《ひるがえ》るのも構わず空中で一回転をしてパイロフの時留めをかわした。そして多少よろけたものの着地に成功するや否《いな》や、一転|攻勢《こうせい》に転じる。
「やあっ」
紫色《むらさきいろ》の瞳《ひとみ》が灰色に染まり、このところ久しく使われていなかった「エクサの視線」が男を射貫《いぬ》く。
パイロフは軽く後退《あとずさ》りしつつリンネの視線をいなしていたが、かわしきれなくなったのか、逆に一歩前に出ると、まるで不出来な演奏の韻《リズム》を変えるようにタクトを一閃《いっせん》させる。リンネの視線は彼に当たる寸前、見えない障壁《しょうへき》に弾《はじ》かれて四散したが、見ると、彼の立っていた周辺の敷石《しきいし》に無数の罅《ひび》が入り、明らかに劣化《れっか》している。
「時間|恐慌《きょうこう》……」
パイロフの端整《たんせい》な顔立ちに微《かす》かに意外そうな色が浮かぶ。思いのほかリンネの力が強いことに驚《おどろ》いたのだろう。
一方、僕はリンネの動きをはらはらしながら見守っていた。互角《ごかく》に戦っているように見えても、例によってここ一週間読書をサボりまくっていたリンネにろくなストックが用意されているはずもない。時間を止められなくなった時点でリンネはただの女の子に戻《もど》るのだ。
僕の危惧《きぐ》はすぐに現実のものとなった。
タクトを縦横に振りつつ、パイロフは容赦《ようしゃ》なくリンネに時留めをぶつける。それに対してリンネは時《とき》砕《くだ》きの衣装《いしょう》も軽《かろ》やかに対等に渡り合っていたが、程《ほど》なくしてその攻撃に翳《かげ》りが見えた。紫色の視線に、いっこうに力が宿らなくなったのだ。
「あ、あれ? おかしいな」
駆けつつ、リンネはもう一度黒衣に向かって時留めをぶつける。だがリンネの視線はパイロフに届くことなく、途中《とちゅう》で力なく宙に溶《と》けいる。
ガス欠だ。
「もうっ」
変身できたことに得意げだったリンネも、すぐに思うままに力を使いこなせていない自分に気がついたのだろう。下唇《したくちびる》を噛《か》むと、「えいえいっ」とさかんに人差し指を振るが、寸秒も時が乱れる様子はない。遊園地と異なり、何も遮蔽物《しゃへいぶつ》のない高台という場所が二人の実力差にさらに拍車《はくしゃ》をかける。
視線を示そうとも指を手繰《たぐ》ろうともいっこうに止まらぬ時に苛立《いらだ》ちを募《つの》らせてリンネは叫《さけ》んだ。
「な、なんで時間が止まってくれないのっ?!」
『時の旋法《せんぽう》』を片手に焦《あせ》るリンネにパイロフは僅《わず》かに眉《まゆ》を上げた。
「そんなこともわからないでその本を持っていたのかね?」
「だ、だって、時砕きは認識《にんしき》を糧《かて》に時を意のままに操《あやつ》れるんじゃ……」
「甚《はなは》だしい勘違《かんちが》いだね。シンデレラ。『時砕き』になった途端《とたん》、あらゆる時が一方的に君に媚態《びたい》を送るなどと一体|誰《だれ》が言ったのだ? 蘆月長柄のような七人衆ならともかく、『時の旋法』を得て日の浅い未熟な君に、そのすべてを使いこなすことなどできるはずもなかろう」
「そ、そんなあ」
パイロフの操る完璧《かんぺき》な時のタクトに、リンネは文字通り手も足も出ない。いいようにあしらわれ、リンネは高台の上をただ逃《に》げ回るだけとなった。
「力は[#「力は」に傍点]、それを使いこなすだけの技倆がなければ意味はない[#「それを使いこなすだけの技倆がなければ意味はない」に傍点]。その程度のこともわからずして蘆月長柄の後継者《こうけいしゃ》とはおこがましい」
[#挿絵(img/mb671_273.jpg)入る]
「わ、私はべつに、長柄さんの後継者ってわけじゃ……」
一方的に評価を下され、思わず口を尖《とが》らせるリンネをパイロフは容赦なく断じた。
「その本を持っている以上同じことだ。君には時のマエストロたる資格はない」
その言葉を最後に、浅く握《にぎ》ったタクトのグリップをさっと振る。時留めは正確にリンネの両足の甲《こう》を射貫《いぬ》いた。履《は》いていた靴《くつ》を左右とも凍らされ、受け身も取れぬまま、リンネは派手に転がった。
「リンネ!」
加勢しようと飛び出そうとするルウを、僕は必死で押し留《とど》めた。
「どうかね。降参かね?」
何もできず石畳《いしだたみ》の上に尻餅《しりもち》をついたリンネを冷ややかに見つめ、パイロフは訊《たず》ねた。
「……こ、降参なんてしないわっ。まだ負けてないもんっ」
生来の負けん気のままに、片手で何とか本だけは構え、リンネはお尻をさすりながら辛《かろ》うじて起きあがった。そんなリンネを、パイロフはどこか値踏《ねぶ》みするように見つめていたが、ふと、その視線がリンネの手にある『時の旋法』の上に止まる。
その本の表紙には、まるで幼い主《あるじ》を守ろうとするかのように、光の紋章《もんしょう》がはっきりと浮《う》かび上がっている。
それをみとめた時、パイロフは何を思ったのかふと唇を歪《ゆが》めると、持っていたタクトを降ろした。
そして言った。
「……いいだろう。君に僅かばかりの猶予《ゆうよ》をあげよう。お嬢《じょう》さん」
「へ?」
今ややっと立っているだけのリンネは、きょとんとした表情を浮かべた。パイロフはタクトを懐《ふところ》に収め、そんなリンネに向かって昂然《こうぜん》と言い放った。
「不慣れな新米時砕きに、せめてものハンデをあげようというのだよ。せっかくの『紋章入り』の力、一度として示すことができぬまま主が死したのではその『世界最強』の称号《しょうごう》を冠《かん》されてきた矜持《きょうじ》にも傷が付くだろう。そうだな。小さなシンデレラに敬意を表する意味で、再戦は今日の深夜|零《れい》時ということでどうかな?」
「今日の……零時」
「そうだ。そのほうが君にもいろいろ都合がいいのではないか?」
「ふ、ふん。いつ来たって、あなたなんかに負けるもんですか」
リンネは虚勢《きょせい》をはって見せたが、隔絶《かくぜつ》した実力差を前にパイロフが絶対の自信を持っていることは間違いなかった。
「ふふふ。まあそういうことにしておくか。いずれにせよ再会は零時に。その時、君には時の持つ残酷《ざんこく》な振幅《しんぷく》をとくと味わってもらおう。……ああ、言っておくが逃げても無駄《むだ》だよ。君の時間はもう憶《おぼ》えた」
「……憶えた?」
怪訝《けげん》そうな表情を浮かべるリンネに、パイロフは典雅《てんが》な仕草で一礼した。
「お会いできて楽しかった。十五分前には迎《むか》えに行くよ。レディに失礼がないようにね。魔法《まほう》が解けるまでのつかの間の自由をせいぜい楽しむといい。ブリッジを填《は》めたシンデレラ」
むっとしたリンネに向かってにやりと笑い、ユース・パイロフは姿を消した。後にはリンネと僕とルウ、そして蘆月杏奈だけが残された。
取りあえず、助かった、のか?
つとリンネの時砕きの衣装《いしょう》が光を帯び、淡《あわ》い光の粒《つぶ》となって夕風に散っていく。危機が去ったのと同時に、変身がとけたのだ。
リンネはほっと肩《かた》の力を抜《ぬ》くと、手すりの端《はし》でまだ呆然《ぼうぜん》と座りこんでいた杏奈の側《そば》にゆっくりと近づいた。
そして片膝《かたひざ》をつき、笑顔《えがお》で持っていた『時の旋法《せんぽう》』をさし出す。
「Hiya, Anna! 忘れ物よ」
ようやく落ち着いた蘆月杏奈が訥々《とつとつ》とした語り口で語り始めたのはそれから少ししてからだった。それは、いかにも不思議な話だった。
「おばあちゃんは不思議な力を持っていました。だれも持っていない、とても奇妙《きみょう》な力を。人に気づかれないようにいつも用心深くしていて、めったに使わなかったけど、それでも時々おばあちゃんの不思議な力を感じることがありました。だれにも見つけられなかった落とし物の場所を言いあてたり、とつぜんの来客を見通していたり、火事や地震《じしん》を予知したり……。まるで未来が読めるような。ママは口癖《くちぐせ》のように言っていました。『おばあ様には不思議な力があるのよ』って」
杏奈の言葉にリンネとルウが素早《すばや》く視線を交叉《こうさ》させる。落ちかけた西日を浴びつつ、僕らは年端《としは》の行かない少女の紡《つむ》ぐ言葉に耳をすませた。
「私、おばあちゃんのことが大好きでした。血は繋《つな》がっていなかったけど、いつも優《やさ》しくて、面白《おもしろ》いお話をたくさんしてくれたから。おばあちゃんはものすごい読書家で、たくさんの本を持っていました。それこそ大きな図書館に負けないくらいの。おばあちゃんが亡《な》くなった時、遺言《ゆいごん》によってそれらは全部私が譲《ゆず》り受けました。私にはおばあちゃんがなぜそんなことをしたのか理解できませんでした。ある日、おばあちゃんがいつも手元に置いていた、あの古い本を開くまでは」
「もしかして、それがこの本?」
リンネの問いに杏奈は小さくうなずいた。
「はい。この本に手紙が挟《はさ》まっているのに気がついたのは、おばあちゃんが亡くなってしばらくたってからのことです。書斎《しょさい》のお掃除《そうじ》をしているときに気づきました。その本が凄《すご》く大事なものであることはなんとなくわかっていました。だって、おばあちゃんはいつも書斎の手に届くところにそれを置いていたから。……手紙は私に宛《あ》てたもので、そこにはこう書かれてありました」
『杏奈へ
本の管理をごくろうさま。とても助かっているわ。そこであなたにもうひとつだけお願いがあるのだけれど、お天気のいい日を選んで、この本を持ってどこでも好きなところへ散歩に行ってほしいの。そして、その日最初に出会った人にこの本を譲ってほしいの。もし誰《だれ》とも出会えなければ、その時はこの本を暖炉《だんろ》にくべてしまって頂戴《ちょうだい》。それですべて済むから。お願いね。
[#地付き]祖母より』
意外な手紙の内容に、僕らは改めて杏奈の手にある『時の旋法』に目を向けた。「最強」を謳《うた》われた時《とき》砕《くだ》きが所持していたという紋章《もんしょう》入り。だがそれは、本来は火にくべられてもおかしくはなかったというわけだ。蘆月杏奈は言葉を続けた。
「あの日、私は言われた通り、本を持ってお散歩に出かけました。特にどこかへ赴《おもむ》こうというつもりはありませんでした。ただ、以前所属していた楽団には行きたいと思っていましたけれど」
「楽団?」
「……ああ。私、小さい頃《ころ》からずっとバイオリンを習っているんです。半年前にドイツにある音楽院へ留学が決まって、それ以来家族と向こうにいるんです。でもこっちにもずうっと所属していた楽団があって。今、向こうは夏休み中なので、久しぶりに日本に帰ってきたから先生にご挨拶《あいさつ》したくて」
「ああ。それであの時、制服を着ていたのか」
「それがトレンティーノ音楽院?」
「はい。留学前まで三年間|在籍《ざいせき》していました」
「半年前。どうりで私があなたを知らないはずだわ」
ルウは溜息《ためいき》をついた。
「私は本を持ったままお散歩していましたが、ホントは凄く悩《なや》んでいました。おばあちゃんの手紙の中にあった『出会う』という意味がよくわからなかったし、何より、おばあちゃんがずっと大切にしていた本を誰かにあげてしまうということに戸惑《とまど》いがありました。そして、悩んでいるうちに公園の前を通りがかって……事故にあったんです」
「で、あやうく鉄パイプと激突《げきとつ》するところを久高に助けられ……」
「落とした本はリンネの手に渡《わた》った、っていう寸法か」
何とも不思議な因縁《いんねん》に僕は声もなく唸《うな》ったが、改めてわき上がった疑問を口にする。
「でも、なんでわざわざバイオリンケースの中に本を入れるような真似《まね》をしたの?」
「え? ああ、あれは元々ああいう形なんです。おばあちゃんは生前からあの本をバイオリンケースに入れて保管していました。私は書斎にあったそれをそのまま持ち出しただけ」
「ふうん……」
僕は納得《なっとく》してうなずいたが、ふと思い出して訊《たず》ねた。
「ね、なんであの時|逃《に》げ出したの? ほら、あの遊園地で僕らに会った時さ」
僕の問いに杏奈はみるみる顔を赤らめると、恥《は》ずかしそうに俯《うつむ》いた。
「……ごめんなさい。そのう、自分のしたことが何だか急に恥ずかしくなって。でも、急に声をかけられてまだ心の準備ができてなくて……。その、ごめんなさい」
「や、いいよ。別に気にしてないから」
僕は照れて頭をかいたが、杏奈は首を横に振《ふ》った。
「いいえ! 私、あなたたちにこの本を押しつけるような形になってしまったのかもしれない。……さっきの男の人だって、あなたが本を持っていることを知ってしまったし」
「ええと、それは気にしないで。私たちがここに来たのもいろいろ事情があってのことだから」
ブロンドを揺《ゆ》らし、リンネは苦笑《くしょう》した。蘆月杏奈はまっすぐにリンネを見つめた。そして核心《かくしん》をつく質問をした。
「あなたは[#「あなたは」に傍点]、おばあちゃんと同じなのね[#「おばあちゃんと同じなのね」に傍点]?」
リンネはうなずいた。
「……どうやら、そうみたい。そんなつもりは全然なかったんだけど、私、誰かに自分の力を証明しなくてはならないみたいなの。それが誰なのかは、まだわからないけれど」
リンネは表情を改めると杏奈に訊ねた。
「そうだ。ね、教えて。たぶん去年だと思うんだけど、あなたのおばあ様が生きてらしたころ、箕作剣介っていう人が訪ねてない? その人、私のお父さんなの」
「箕作剣介……」
杏奈は思いだそうとするように首を傾《かし》げた。
「私はよくわかりません。でも、おばあちゃんは毎日目記をつけていたから、調べれば何かわかるかもしれません」
「……そう」
リンネは残念そうに唇《くちびる》を噛《か》んだ。
「いずれにせよ、あのコウモリ男をやっつけてからということになりそうね」
ルウは背筋をしゃんと伸《の》ばして言った。既《すで》に日は沈《しず》みかけ、夕陽《ゆうひ》の最後の残滓《ざんし》が丘《おか》の稜線《りょうせん》を照らすばかりになっている。
「でもリンネのストックはほぼゼロだよ。今から本を読もうにも……」
「時間はとても足りないわね」
「それにしても……ったく、こんな肝腎《かんじん》なときに、じいちゃんは一体どこをほっつき歩いてんだ」
腹立ちまぎれに僕は手紙を送ってくるばかりでいっこうに現れぬじいちゃんに向かって愚痴《ぐち》をこぼした。リンネが首を振った。
「お仕事ですもの。仕方ないわ」
「仕方ないもんか。じいちゃんは君の父さんの行方《ゆくえ》を追ってるんだから」
「まあ」
リンネはぽかんと口を開けてあっけに取られていたが、やがて僕をじろりと睨《ね》めつけた。
「久高、黙《だま》ってたわね? そんなこと、私に一言も言わなかったじゃない」
「ずっと口止めされてた。でも今はもう、そんなことを内緒《ないしょ》にしているような状況《じょうきょう》じゃなさそうだ」
「確かにね」
リンネはにやりと笑った。どうやら腹をくくったらしい。
「で、どうするの久高くん? あいつの言った時間まで四時間を切ったわ」
ルウが手首を返し、腕時計《うでどけい》を見て言う。
僕は言った。
「考えは、ある」
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じいちゃんからの手紙
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八月七日
久高へ。
ザールブリュッケンの食堂より一筆。
じきに盆《ぼん》になろうというのに暦《こよみ》を忘れたように姿を現さんわしにお前や凪はとうに愛想《あいそ》を尽《つ》かしているかもしれん。実際、迂闊《うかつ》ながら今朝、マリア昇天祭《しょうてんさい》の準備に追われる街並みを見て初めて今日の日付に気づいた次第《しだい》じゃ。そのうちにふと自分が妙《みょう》に記憶《きおく》をくすぐられる場所に座っていることに気づいてな、これはいささかお前にも関係ある話だからこのまま書き進めてみようと思う。
もう十年以上前の話だ。当時客員教授としてドイツにいたわしはこの食堂の端《はし》のテーブルである男と向き合っていた。その男はわしの教え子で、喩《たと》えて言うなら「神童の成れの果て」とでも称《しょう》すべき青年だった。
その男の名は箕作剣介。当時、物理学界で一際《ひときわ》異彩《いさい》を放ち、鬼才《きさい》とまで言われた男だ。
彼はその前年、結婚《けっこん》したばかりだった。彼の新妻《にいづま》には「あるささやかな」秘密があったのだが、彼はまったく気に留めた様子もなく、いずれ娘《むすめ》と共に母親の国に行くつもりだと淡々《たんたん》と語った。わしは頷《うなず》いたが、のちになってささやかな疑問が湧《わ》いた。何故《なぜ》奴《やつ》はまだ生まれてもいない自分の子供が娘だと知っていたのかと。
今思えば、箕作は既に「時《とき》載《の》り」の生態に気がついていたのだろう。そしてそれがもたらすであろう重大な問題についてもな。
それは何か?
端的《たんてき》に言えば、このまま行けば時載りは末永く若さを保つ一方、人間は老い、やがては愛する者同士の死期は際限なくずれていくであろうという問題だ。時載りは不死ではないとはいえ、その寿命《じゅみょう》は人間のそれに比べれば永遠《とわ》に等しい。程《ほど》なくして箕作は「彼らを老いらせる方法」、言い換《か》えれば時載りに死を与える[#「時載りに死を与える」に傍点]研究に没頭《ぼっとう》し始めた。
仮に時載りに時間を与えようとするなら、彼らの認識《にんしき》形態を弄《いじ》るよりない。だがそもそも時系列という概念《がいねん》を持たぬ種族にどうやって時間を自覚させるか? このテーゼに奴が苦しんだことは想像に難《かた》くない。「これはもはや科学ではなく倫理《りんり》の問題です」奴が苦笑《くしょう》しつつそう言ったのを憶《おぼ》えとるよ。
既に彼らの間には一子が誕生していた。彼の言葉通り、その子は女の子だった。そう、これが後の嬢《じょう》ちゃんじゃ。
文字を糧《かて》に日々大きくなっていく愛娘《まなむすめ》を眺《なが》めつつ奴がどのような感慨《かんがい》を抱《いだ》いたのかはわからん。だがかつて鬼才とまで称された箕作の力は伊達《だて》ではなかった。奴は研究の末、独力で時載りに死を与《あた》える可能性に辿《たど》り着いた。
そしてその翌年、箕作は失踪《しっそう》した。
詳《くわ》しい経緯《いきさつ》をわしは知らん。一説によれば時載りに死を与える研究の完成を恐《おそ》れた時載りによって殺されたとも、報復を避《さ》けるために姿を隠《かく》したともいわれている。
以上が箕作についてわしが知る全《すべて》てじゃ。
嬢ちゃんが地団駄《じだんだ》を踏《ふ》むほど父親の消息を知りたがっていることは知っておる。だが考えてもみろ。奴が生きているとすれば自分の居場所を告げぬのは家族の安全を思えば道理じゃろうし、奴が既にこの世にいなければ連絡《れんらく》が来る筈《はず》もない。いずれにせよ嬢ちゃんの側に選択肢《せんたくし》は無い。だからこそわしはこれまであの子に旅の目的を告げることをしないできた。
だがそれも過去の物となった。
今わしの手許《てもと》には、この長旅の果てに見つけた奴の物と思《おぼ》しき数冊のノートがある。これに記された最も新しい日付は去年の暮れだ。
奴は生きていた。内容はまだ確認していない。だが、このノートが奴の行方《ゆくえ》を捜《さが》す一助となってくれることは間違《まちが》いない。
さて、本と言えば嬢ちゃんが拾ったその古書についても話しておくべきだろう。もう承知しているかもしれんがそれはかつて時《とき》砕《くだ》きの所有物であったもので、大きな力を秘めている。取りあえず今回の出来事はお前の手にも余るだろう。
いいか。今から記すことを必ず守れ。
これから数日以内にお前たちの身に何か厄介《やっかい》な出来事が降りかかる可能性がある。万が一何か起こった時はお前が知っていることすべてをジルベルトに告げ、その判断を仰《あお》げ。いいか? 決して自分たちだけで判断したり、行動してはならんぞ。このことはくれぐれも言っておく。
それではな。近いうちに会えるのを楽しみにしておるよ。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]祖父より
[#改ページ]
9章
蘆月杏奈を蘆月|邸《てい》まで送った後、一旦《いったん》僕らは列車で街まで戻《もど》った。とは言え、とうに日は沈《しず》み、家に帰って戦いの準備をするまでの時間の猶予《ゆうよ》はない。
「あのユース・パイロフって男は『リンネの時間を憶えた』と言っていたわ。察するにあの言葉は『時間の制覇《せいは》』というよりは『距離《きょり》の制覇』を意味していると思うの。つまり、あの男はリンネが今後いつ、どこにいようとピンポイントにその場所に現れることができるのではないかしら。だから、どこへ逃《に》げても無駄《むだ》なのは確かよ。あいつの言っていたようにね」
ルウの言葉に僕らは腕組《うでぐ》みしつつうなずいた。車窓の外では既《すで》に深い闇《やみ》に落ちた田園景色が飛ぶように後方へと流れていく。四人がけの座席で膝《ひざ》をつき合わせて始まった僕らの会話はいつしか対ユース・パイロフ戦略会議の様相を呈《てい》している。
「ま、その程度のことはしそうな奴ではあったわよね。で、その対抗策《たいこうさく》だけど……」
「それを逆手に取ればいい」
リンネの言葉尻《ことばじり》を捉《とら》え、僕は言った。
「あの男は必ずリンネのいる場所に現れる。逆に言えばその場所以外に現れることはできない。ということは戦う場所の選択《せんたく》権はリンネにある」
「なるほど。先に地の利を得ておく、ってわけね」
ルウの言葉にうなずきつつ、
「で、あとは戦い方だけど……」
そこまで言って僕は俯《うつむ》いた。ここまでの状況《じょうきょう》を整理する。
リンネは『時の旋法《せんぽう》』の力で変身することができる。
これはさっき見た通りだ。ただし、たとえ変身したとしても、『時の旋法』をうまく使いこなせない今のリンネに勝ち目はない。新米時砕さであるリンネには経験や訓練も含《ふく》め、あらゆるものが不足しているからだ。
ただ、この紋章《もんしょう》が示すように、リンネには本人ですら気がついていない何か不思議な力があるらしい。これまでの戦いで時折見せたような、本人もコントロール不能な圧倒《あっとう》的な力。それを発動できるのはほんの一瞬《いっしゅん》。
ならその一瞬で決着をつけるより他にない[#「ならその一瞬で決着をつけるより他にない」に傍点]。
作戦を胸の内で固め、ふと僕は腕時計の文字盤《ばん》を確認《かくにん》した。
「あと二時間ってとこか。他《ほか》に何ができるかな?」
「決まってるわ。『補給』よ」
ルウは言った。
「とにかく、戦いを前に少しでもストックを稼《かせ》いでおかないことには勝負にならないわ。幸い、ここには本があることだし」
「そうだね。いくらスペックが高くても、とりあえず動かないと」
僕が応じると、自然と僕らの視線は一|箇所《かしょ》に集まった……。
「なんか、騙《だま》されているような気がしてきたわ」
と、読書用の眼鏡《めがね》を掛《か》けメルヴィルの『白鯨《はくげい》』を読みつつリンネがぼやいた。当然のことながら、リンネのカバンの中にストックを補充《ほじゅう》するに足る本が入っているはずもなく、リンネはルウの持ってきた本をそっくりそのまま借り受けることになったのだ。目の前にルウ好みのアメリカ文学を大量に積み上げられ、リンネはしきりに文句を言ったが、背に腹は換《か》えられない。
やがて終着駅|到着《とうちゃく》のアナウンスが流れる。
ホームに列車が滑《すべ》り込むや否《いな》や、僕らは改札口を飛び出した。目指す先は「戦いやすくて、なるべく一般人《いっぱんじん》の迷惑《めいわく》にならない場所」。まずはパイロフに先んじて布陣《ふじん》しないことには僕らに勝ち目はない。
さらに。
「ったく。あいつ、捕《つか》まればいいけど」
公衆電話から「作戦」を実行段階に移すべく某所《ぼうしょ》に連絡《れんらく》を入れる。これで然《しか》るべき手はすべて打った。
僕ら三人が向かったのは街中にほど近い、時《とき》載《の》りにとってもっとも馴染《なじ》み深い場所だった。
「なるほど、深夜の市立図書館なら人もいないってわけね」
ひんやりとした夜気の向こうに聳《そび》える煉瓦《れんが》造りの外壁《がいへき》を見上げつつ、ルウが言った。建物の裏手にまわり、書籍《しょせき》搬入《はんにゅう》用の勝手口から中に入る。
館内はひっそりとしていた。
天窓から射《さ》す月明かりを頼《たよ》りに、石柱のように列を成して整然と連なる本棚《ほんだな》の間を潜《くぐ》る。ふと書籍が放つどこか懐《なつ》かしい匂《にお》いが鼻先に立ちこめる。無数の本が背表紙を見せる中、僕は正面にあった大きな柱時計の針に目をこらした。時刻は既に十一時半をまわっている。
「あと十五分、か」
ほっとした僕は闇の中で腰《こし》を下ろし、本棚に背をあずけた。少し離《はな》れた場所でルウがそれに倣《なら》う。リンネだけはまだ読書を続けているのか、携帯《けいたい》用のペンライトの明かりが読書用のテーブルの上から仄《ほの》かに洩《も》れている。
僕らはしばらくそのままの姿勢で時間が流れるのに任せていた。
ふとペンライトの明かりが揺《ゆ》らぎ、リンネの声がした。
「私、お父さんとここに来たことがあるわ」
「へえ」
闇の中、ルウが応じた。
「でもすごく退屈《たいくつ》だったのを憶《おぼ》えてる。お父さんはいつも本ばかり読んでいたから」
「当たり前でしょ。図書館なんだから。図書館は本を読むところよ」
「でも、私は本にお父さんが盗《と》られるみたいでイヤだった。初めは嬉《うれ》しいのよ、お父さんとお出かけできるっていう理由ではしゃいでついていったわ。でも、何度かそうしてい。るうちにそんなに楽しいわけじゃないって気づく……。別に一緒《いっしょ》にお出かけしてもお父さんと話ができるわけじゃないって。だから図書館にはいい思い出がないの。昔からね」
「それがあなたの本|嫌《ぎら》いの理由?」
「そうね。そうかも」
女の子二人は顔を合わせることなく言葉を交《か》わしている。
「なーんかそれって、言いわけっぽくない? 単にあなたが怠《なま》け者なだけで、あなたのお父様は関係ないわ。公平に言ってね」
「ばれたか」
リンネは苦笑《くしょう》したようだった。そして呟《つぶや》く。
「……ふと思ったの。私はお父さんの手がかりを得るために『時の旋法』を持っているし、今もこうして本を読んでる。でも、それは小さかったころと表裏《ひょうり》一体なんだわ。お父さんを独り占《じ》めしたくて本を嫌い、お父さんと会いたくて本を開く。結局、私は本と折り合うしかない。……お父さんを求めるのなら」
リンネがどこまで知っていてこの言葉を吐《は》いたのかはわからない。ただこの時、僕の耳にはそれが予言のように聞こえたのを憶えている。
僕は何か言いたくなって……時計を見た。
「時間だ」
僕がそう言った時、こつこつという靴底《くつぞこ》がリノリウムの床《ゆか》を打つ音がした。
途端《とたん》にペンライトの明かりが消える。僕らはその場で息を潜《ひそ》めたまま次第《しだい》に近づいてくる人の気配に耳をすませた。
間違《まちが》いない。
実際、待ち合わせたわけじゃない。僕ら自身、あの高台にいる時点で自分たちが深夜に市立図書館にいるなどとは考えてもいなかったのだから。にもかかわらず、僕らがここにいることを確信しているかのように足音は確実に近づいてくる。僕は緊張《きんちょう》で汗《あせ》ばんだ手の平をズボンでぬぐった。
やがて足音がやんだ。
沈黙《ちんもく》が落ちた。
「図書館を戦いの舞台《ぶたい》に選ぶとは時載りらしい選択《せんたく》、というべきかな」
男の声がした。
既《すで》に僕たちがここにいると確信しているのだろう。ユース・パイロフの声が館内に響《ひび》く。僕は声の方向を頼りに男の気配を必死に探《さぐ》った。館内が無闇《むやみ》に広く、反響《はんきょう》してわかりづらいが、僕らと彼の間はまだかなりの距離《きょり》があるようだった。
沈黙が続いた後、声に揶揄《やゆ》するような響きが混じった。
「おやおや。さっきはずいぶん威勢《いせい》が良かったのに、急に怖《お》じ気《け》づいたのか姿を現してくれないね。シンデレラ? それとも何か考えがあるのか」
「そーよ。こっちには作戦があるんだからっ」
館内のどこかでルウが叫《さけ》んだ。思っていたよりもずっと遠くだった。
「それを知らずにのこのこやってきたあなたの負けよっ」
「おや。その声は一緒にいた時載りの女の子だね。深夜にかくれんぼとは可愛《かわい》らしい」
「ふんだ。口惜《くや》しかったら捕《つか》まえてごらんなさい」
そう。僕らの狙《ねら》いはこれだった。遮蔽物《しゃへいぶつ》だらけの図書館なら隠《かく》れる場所に苦労しないし、暗ければ視界も十分には取れないはずだ。ストックの量で圧倒《あっとう》的に劣《おと》るリンネとしては地形を可能な限り利用しつつ、少しでも時間を稼《かせ》ぐ以外にない。
パイロフの後ろにまわりこもうと、足音を立てぬように四つん這《ば》いで移動する。書棚《しょだな》の陰《かげ》を伝って貸し出しカウンターの端《はし》まで来たとき、僕は入口近くのロビーに立つ黒い長身の影《かげ》を発見した。よし。このまま時間が過ぎれば……。
だがそんな僕の甘い予測はあっさり裏切られた。
「なるほど。よく考えた、と言いたいところだが……君たちは『私が肉眼で君たちを追いかけてきたわけではない』というのがまだわかっていないらしい」
そう言うなりユース・パイロフは忽然《こつぜん》と僕の視界から姿を消した。呆然《ぼうぜん》とする間もなく図鑑《ずかん》コーナーの一画で悲鳴が上がる。
リンネだ。
慌《あわ》てて悲鳴のあった方向へ駆《か》ける。書棚の角を曲がったところで呆然と座りこんだリンネが黒いマントを纏《まと》ったパイロフと対峙《たいじ》しているのが見えた。
「瞬間《しゅんかん》移動……」
「時間移動と言ったほうがより正確かな。『君が存在している時間』に限り、私は君を座標として秒単位で移動することができる。今、十一時四十七分四十一秒。君のいる時間はまさにここだ」
「えいっ!」
その瞬間、パイロフの背後に閃光《せんこう》が走り、弾《はじ》け飛んだ数冊の本が空中で停止する。反対側から回りこんでいたルウがクロドゥスの杖《つえ》を伸《の》ばし、攻撃《こうげき》をしかけたのだ。さらに二度続けざま雷《かみなり》にも似た轟音《ごうおん》が走り、パイロフがそれを避《さ》ける。その一瞬の隙《すき》をついてリンネは通路に走り出た。素早《すばや》い動作だったが、十メートルも行かないうちにその行く手を遮《さえざ》るように時間移動をしたパイロフが現れる。避ける間もなくリンネはパイロフの胸にぶつかった。
「うにゃんっ」
「やれやれ。王子様にボディプレスとはおてんばなシンデレラだ」
「だ、誰《だれ》が王子様よっ」
リンネの瞳《ひとみ》が一瞬にして灰色に変わるのが闇の中でもはっきりとわかった。だがパイロフはその視線を大人しく待ってはいなかった。素早く背後を取り、リンネを羽交《はが》い締《じ》めにする。リンネは何とか逃《のが》れようと手足をばたつかせるが、文字通り大人と子供の身長差である。
とっさに僕は一番手近にあった書棚に思いっきり体当たりした。書棚が微《かす》かに揺《ゆ》れるのを確認《かくにん》してさらにもう一度。書棚はゆっくりと傾《かし》ぐと次々に周囲の書棚を倒《たお》して、一気にもみ合う二人のところへと到達《とうたつ》する。
本を大事にしなきゃならないのはわかっているけど、この場合は仕方ないよな。
轟音が収まった後、僕はドミノのように将棋倒しになった書棚の山を眺《なが》めた。ふと棚の狭間《はざま》でうんうん唸《うな》っている金髪《きんぱつ》の頭を見つけ、どうにかそれを引っぱり出すことに成功する。
「久高! 私をハムサンドにする気?」
棚の隙間《すきま》から這《は》い出てくるなりリンネは僕に拳《こぶし》を振《ふ》りあげた。
「あいつは?」
「知らないわよっ。本棚が倒れてくる瞬間に消えたけど……」
「今のうちにいったん外に出よう」
僕はリンネの手を取ると出口に向かって走り出した。少し遅《おく》れて後を追いかけてきたルウが僕を激しく面罵《めんば》する。
「もうっ。何が『考えはある』よ! 全然通用しないじゃないのっ。あなたの作戦っ」
「まだ終わりじゃないよ」
「で、このあと一体どうなるわけ?」
「私も知りたいものだ」
館内を出たところでふいに言葉をかけられ、僕らの足は凍《こお》りついた。エントランス付近、扇状《おうぎじょう》に広がるなだらかな階段の麓《ふもと》に、僕らを待ち受けて佇《たたず》む一つの影。
逃れようがないというのは確かに本当らしかった。
これだけ実力差が隔絶《かくぜつ》していればリンネの時を止めることなどたやすいはずなのに、このパイロフという男は先程《さきほど》からそれをしようとしない。それだけの余裕《よゆう》があるのか、それとも根っからのサディストなのか。恐《おそ》らくその双方《そうほう》だろう。
パイロフは片手を背にまわし、長身を折るように優雅《ゆうが》に一礼した。
「やっと姿を見せてくれたね。シンデレラ」
「時間がなくてドレス・アップまでは致《いた》しかねましたけれど」
「かまわんよ。そのままでも君は充分《じゅうぶん》美しい」
歯の浮力《ふりょく》で飛べそうなセリフをパイロフはさらりと言ってみせた。
「よくよくこの本にご執心《しゅうしん》のようね」
何とか呼吸を整えようとしつつ、リンネは言った。その横でルウがさっとクロドゥスの杖を構える。僕は腕時計《うでどけい》を見た。十一時五十一分。
「まだ? リンネはまだ変身しちゃダメなの?!」
杖を構えたまま、ルウが小声で訊《たず》ねる。僕は首を振った。
「まだだ。もう少し。もう少しだけ……」
「君はその本が一体何か知っているのかね?」
既《すで》に獲物《えもの》を捉《とら》えたという余裕からか、パイロフは両手をコートのポケットに入れたまま静かに訊ねる。リンネはちらりと自分の手の中にある本の背表紙を眺め、そっけなく言った。
「先の時《とき》砕《くだ》き、蘆月長柄が所有していた『時の旋法《せんぽう》』。通称《つうしょう》紋章《もんしょう》入り」
「その通りだ。百点満点の回答だね」
パイロフは新米オーケストラを前にした指揮者の表情でうなずいた。
「それを知りつつ、なおも所有権を主張すると……?」
「……所有権」
ふと呟《つぶや》き、リンネは首を振った。
「私、最初からこの本を自分のものにしようなんて気持ちは持ってないわ。そもそも、私がこの本を手に入れたのはほんの偶然《ぐうぜん》からだし」
「だからこそ、君にはそれを持つ理由も必然性もない」
「理由は、あるわ」
「強気なシンデレラだ。それは何かね?」
パイロフは小馬鹿《こばか》にしたように訊ねた。
「それは……この本は大事な本だから。人の想《おも》いを受け継《つ》いできた本だから」
リンネはふっと息を一つ吐《は》いた。そして面《おもて》を上げた。
「ねえパイロフさん。さっきあなたは高台にいて、そして時間を飛び越《こ》えてここにいるわ。でも、私は違《ちが》う。私はいつだって[#「私はいつだって」に傍点]、『今ここ[#「今ここ」に傍点]』にい続けてきたわ[#「にい続けてきたわ」に傍点]。過去と未来とを結ぶ今まさに時の結節点に私はいる。いや、違う、私自身が過去と未来を結ぶ結節点なの[#「私自身が過去と未来を結ぶ結節点なの」に傍点]」
リンネは沈黙《ちんもく》した。
「……私、前は何も知らなかった。この本のことも、蘆月長柄さんのことも、時砕きのことも。私、本が嫌《きら》いだった。本なんか読まずに過ごせたらって、毎日思ってた。けど、もしこの本が私をお父さんの元へ連れて行ってくれるのなら誰《だれ》にも渡《わた》したくないなって思った……。でも、」
そこでリンネはいったん言葉を止めた。
「でも、この本はそういう本じゃない。長柄さんのことを知って、それが少しわかったの。この本は、もっと大きなもののために使われてきたの。それが何かはまだわからないけど、でも私、長柄さんの見てきたものを見てみたい。だから、私はこの本を手放すわけにはいかない。あなたにはあげられないわ」
リンネはきっぱりと言った。
それは徐々《じょじょ》に変化したリンネの思いだったのだろう。蘆月杏奈や未到ハルナ、いや、その前にルウに出会ったことや、彼女と喧嘩《けんか》したこと、決闘《けっとう》のために無我夢中で本を読んだりしたこと、そもそもの始まりであった女の子|捜《さが》しも含《ふく》めて、この夏に過ごし、この夏に経験したすべての出来事がリンネを少しずつ変えていったんだろう。
だがそんなリンネの言葉にもパイロフは感銘《かんめい》を受けた様子はなかった。パイロフは表情を変えず、冷たいまなざしをリンネに向けて言った。
「君は何か勘違《かんちが》いしているようだ。シンデレラ」
そして薄《うす》く笑う。
「時砕きの役目は世のために尽《つ》くすことではない。彼らにはあくまで力としての意義しかない。彼らは恣意《しい》と示威《じい》でもって時《とき》載《の》りを治める。その本を手にすることは即《すなわ》ち時砕きになるということ。君は逸脱者《いつだつしゃ》を裁き、抹殺《まっさつ》することができるのか?」
「そ、それは……」
「蘆月長柄は紛《まぎ》れもなく『時砕き』だった。それを忘れてはいないかね? 時をたゆたう種族は人間と同じ時を生きられない。同じ倫理《りんり》もまた、生きない」
パイロフは昂然《こうぜん》と面を上げた。そして声低く言った。
「……話は面白《おもしろ》かったよ。シンデレラ。だがそれは人間の理屈《りくつ》だ。そして、『時の旋法』は君のような少女が扱《あつか》える代物《しろもの》ではない。蘆月長柄が消えた瞬間《しゅんかん》から、『バベルの塔《とう》』のバランスは崩《くず》れた。最強と称《しょう》された時砕きが去った以上、今後『禁制』を破り、人間界に現れる者が出てくるだろう。そう、この私のようにね。君はそれを裁くことができるのかね?」
「で、できるわ」
「君が?」
初めてパイロフは嘲笑《あざわら》った。
「たかだか人間の幼なじみと同じ生、同じ時を生きるだけで四苦八苦している君が? 時間をろくに止めることさえできぬ落ちこぼれの君が?」
リンネは唇《くちびる》を噛《か》んで黙《だま》った。
リンネの時載りとしての資質にここまではっきりと批評が加えられたのは、たぶんこの時が最初だったろう。リンネは一言も言い返さなかった。いや、言い返せなかったんだと思う。表情こそ変わらなかったが、リンネが内心|口惜《くや》しさでいっぱいになっているのが僕にはわかった。
「リンネ、表通りまで走って。そして、なんとかして後九分|稼《かせ》ぐんだ」
僕は小声でリンネに耳打ちした。
リンネはちらっと僕を見てうなずき、ふっと一呼吸置くと、若鹿《わかじか》のように身を翻《ひるがえ》し舗道《ほどう》へと駆《か》け出した。
パイロフは反応しない。その行動が意外なものだったのか、それともリンネが赴《おもむ》く場所を予見しているせいか。だがこちらも躊躇《ちゅうちょ》はしていられない。僕とルウはパイロフの左右をすり抜《ぬ》けるとリンネの後に続いた。
生け垣《がき》を走り幅跳《はばと》びの要領で飛び越え、つんのめるようにして舗道へ出た時、緩《ゆる》いスクーター音と共におんぼろカブがゆっくりと徐行《じょこう》してくる。
闇《やみ》の中、年季の入った愛車に跨《またが》り意気揚々《いきようよう》と現れたのはよれよれのネルシャツに膝《ひざ》の抜けたズボンをはいた貴公子、司馬遊佐。ノーヘルの上に無免許《むめんきょ》なのは内緒《ないしょ》だ。
「よお、待たせたな」
「僕じゃないよっ。リンネは前だよっ」
遊佐のあまりの緊張《きんちょう》感のなさに僕は怒鳴《どな》った。そう。遊佐はリンネがピンチだという僕の必死の連絡《れんらく》を受け、自慢《じまん》の愛車を駆ってかけつけてくれたのだ。
遊佐は軽く僕にウインクすると速度を上げ、前方を走っていたリンネに併走《へいそう》する。
「司馬遊佐、カボチャの馬車にて華麗《かれい》に参上」
「遊佐くん!」
素早《すばや》くカブに飛び乗るリンネ。彼女が自分の胴《どう》に腕《うで》を回すのを確認《かくにん》するや否《いな》や、遊佐はおんぼろカブに出せるだけのスピードで発進した。それを舗道で見送る僕らの前に、突如《とつじょ》としてパイロフが姿を現す。パイロフは佇《たたず》む僕らに目もくれず、広い背を向けたまま、遠ざかっていく遊佐のカブのテールランプにまなざしを向けている。
「やれやれ……すばしっこい野うさぎだ」
「もうっ。しつこいわね。このこのこのっ」
「おや。ここにもまだ二|匹《ひき》いたな」
げんこつでぽかぽか叩《たた》いてくるルウをパイロフは片手でいなすと何をどうやったのか、気がつくと僕とルウは木槿《むくげ》の生け垣の上で大の字になってひっくり返っていた。
「あれ? いったい……」
「馬鹿《ばか》ねっ。時間を止められたのよっ」
既《すで》にパイロフの姿は舗道にない。遊佐が言うように、ここまできたら時載りも魔法《まほう》使《つか》いも変わらない。
「さ、追うわよ!」
僕らは慌《あわ》てて走り出した。幸い、遊佐の行き先はわかっている。僕とルウは近道するためにマンションの敷地《しきち》を斜《なな》めにつっきり、さらに足を速めた。時計を見ると既に針は五十六分を指している。コンクリートの塀《へい》を跨ぎ、ポプラ並木を横切り、歩道橋を潜《くぐ》った時、遊佐のスクーターが左の角から滑《すべ》るように近づいて来るのが見えた。
その先にあるのは……闇の中に白く浮《う》かぶ古風な建物、時計台。
高いビルの狭間《はざま》にあって、前方に突《つ》き出すようにして聳《そび》える時計塔が赤の屋根の上で三面の文字|盤《ばん》を辺りに等しく示している。
あと数十メートル。
だがその時、カブの行く手を遮《さえぎ》るように車道の真ん中に突如|人影《ひとかげ》が出現する。それをかわそうとし、とっさに大きくハンドルを切った遊佐がバランスを崩す。いや、バランスが崩れたのはかわしたせいだけじゃない。よく見るとスクーターの後輪がまったく回転していない。おそらく、すれ違いざまにパイロフがタイヤの時間を止めたのだ。
遊佐はハンドル操作のみで器用にカブの速度を殺そうと試みていたが、やがて堪《こら》えきれずに派手な火花を散らして車体は横転した。
二人は車道に投げ出された。
僕の傍《かたわ》らでルウが口を押さえて悲鳴を上げる。
転がったカブとむなしく空転するタイヤをちらりと一瞥《いちべつ》し、パイロフは静かに口を開いた。
「言ったはずだ。君の時間はもう憶《おぼ》えた、と」
「……っ」
しばらくして横転したカブの脇《わき》でリンネが上体を起こした。投げ出された際にぶつけたのか、肩《かた》を押さえ渋面《じゅうめん》をつくっている。
「無事だったかね? だが、それ以上無茶するなら……」
パイロフはひどく酷薄《こくはく》な表情を浮かべた。
「死ぬよ」
穏和《おんわ》な紳士《しんし》面《づら》が剥《は》がれた瞬間《しゅんかん》だった。たぶん、こっちがこの男の本当の姿なのだろう。
リンネは立ち上がるとそのままひょこひょこと歩き出した。
くじいたのか、微《かす》かに足を引きずりつつも車道を横切り、辛抱《しんぼう》強く、ゆっくりと時計台に近づく。パイロフはろくに歩けないリンネに向かって容赦《ようしゃ》なく時留めを投げた。リンネは振《ふ》り返りざまに残るすべてのストックを振り絞《しぼ》り、辛《かろ》うじてパイロフの時留めを弾《はじ》く。だが左のスニーカーが地に生えたまま凍《こお》りついたのを見て、やむなく靴《くつ》を脱《ぬ》ぐと裸足《はだし》のまま縁石《えんせき》を踏《ふ》み越《こ》えた。
リンネは時計台に到着《とうちゃく》した。
その時、鐘楼《しょうろう》が十二時の鐘《かね》を鳴らした。朗々と響《ひび》きわたるその鐘の音に耳を澄《す》ませるようにパイロフは顎《あご》を上げた。
「長い追いかけっこもおしまいだね、シンデレラ。変身の魔法が解ける時間だ。十二時の鐘が鳴り……君もまたただの女の子に返る」
「そうみたいね」
リンネはブロンドを翻して振り返ると、改めてパイロフの正面に立った。
「でも、最後に一つだけ訂正《ていせい》させてもらうわ。あなたは追いかけっこと言ったけど、私は別に逃《に》げていたわけじゃない。『私は零《れい》時にただここにいたかっただけ』」
「何?」
「私の勝ちよ」
リンネは歯列|矯正用《きょうせいよう》のブリッジを覗《のぞ》かせ、笑《え》みを浮かべた。
パイロフも苦笑し、そしてそのまなざしを一気にリンネに向けた。だが何故《なぜ》かパイロフの放った時留めはリンネに触《ふ》れる直前、透明《とうめい》な皮膜《ひまく》の様なものにすべて弾かれた。それを見たパイロフの表情に初めて動揺《どうよう》が走る。
「……何が起こっているの?」
ルウが囁《ささや》く。僕は腕時計の針を確認した。どうやら勝ったらしい。
「一分前に日付が変わっただけさ。今日は八月九日。凪の日だ」
時計台の入り口の端《はし》に凪が立っていた。
「馬鹿《ばか》な……」
時留めの閃光《せんこう》がリンネに触れなかったことに驚愕《きょうがく》の表情を浮かべつつ、パイロフは再度リンネに攻撃《こうげき》をしかけた。だが立っているのがやっとなはずのリンネに寸毫《すんごう》の傷も与《あた》えられぬままパイロフの攻撃はむなしく乱反射し、やがて闇《やみ》の中に溶《と》けていく。
リンネが何かしたわけではない。働いているのは、もっと大きな意志。
ようやく身体《からだ》の痛みが甦《よみがえ》ってきたのか、リンネはふとしかめっ面《つら》を拵《こしら》えると口を尖《とが》らせた。
「手持ち三秒で十五分間の時間を稼《かせ》ぐのって結構大変ね! 久高にはたっぷり文句を言いたいところだけど、一応うまくいったし、ま、ゲーデル・パフェ食べ放題ってとこで手を打つわ」
「なぜ……」
パイロフの視線が宙を泳ぎ、ようやく時計台の入り口にひっそりと佇《たたず》む凪を認める。凪の黒い双眸《そうぼう》が静かにパイロフを見返す。
「……そうか……お前か!」
パイロフは瞳《ひとみ》を蒼《あお》く染めると一転リンネから凪に向きなおり、大量の時留めを放つ。蛇《へび》のような無数の光の航跡《こうせき》が凪に向かって集束していく。
だが。
「逸《そ》れろ」
潜伏《せんぷく》期の明けた凪の言葉はもはや指示語を必要としないほど強い。一旦《いったん》、言葉が紡《つむ》がれた途端《とたん》、凪の意志は音声を触媒《しょくばい》として目の前の事象を紡いでいく。森羅万象《しんらばんしょう》は凪の意志を定点とし、その言葉に倣《なら》い、従い、糧《かて》となるしかない。どんな強大な時《とき》載《の》りであったにせよ、凪のこの能力の前ではその力は児戯《じぎ》に等しい。
そう。この能力こそ僕の妹に沈黙《ちんもく》の冠《かんむり》を与え、年中|鬱《ふさ》ぎの王たらしめている本当の力。
ま、ほとんど忘れかけていた「凪の日」の効用がこんな時に役に立つとは思わなかったけど。
凪に触れる直前で透過光《とうかこう》は目に見えない意志を受けたように跳《は》ね返されていく。凪は逸れていく光の航跡を顎を上げて見送っていたが、ふと呟《つぶや》く。
「行け」
途端、その一言で生命を帯びたように透過光群は輝《かがや》きを取り戻《もど》し旧主《きゅうしゅ》の許《もと》へと殺到《さっとう》する。我が身に集中するそれらをパイロフは辛うじて弾いてみせたが、その表情に、もはや一《ひと》欠片《かけら》の余裕《よゆう》もありしなかった。
「どうやら決まったな」
いつの間にか遊佐が僕らの後ろに立っていた。頬《ほお》に煤《すす》がついている他《ほか》は特に変わった様子はない。僕の連絡《れんらく》を受けた遊佐は一旦《いったん》僕んちまで行き、眠《ねむ》っていた凪をはるばる時計台の前まで運んでくれたのだ。ルウが急《せ》きこんで訊《たず》ねる。
「遊佐君! 怪我《けが》は?!」
「あんなんで不慮《ふりょ》の死を遂《と》げるほど、俺は悪いことはしてないよ。しかし……」
遊佐は目を細め、戦いの推移を見守る。その視線の先で、何の変哲《へんてつ》もない小柄《こがら》な少女が堕《お》ちた時載りの攻撃を完璧《かんぺき》に封《ふう》じこめている。
「普段《ふだん》は無口なぶん、言葉を発するとすごい威力《いりょく》だな」
「普段は森羅万象に干渉《かんしょう》させるわけにはいかないからな。これだけ好き勝手に物理法則に関与《かんよ》する凪は久しぶりだ」
「それだけ鬱屈《うっくつ》も溜《た》まってたんだろ。お前、少しは妹もかわいがってやれよ」
「うるさい」
僕らが見守る中、パイロフは攻撃を止《や》めふと凄惨《せいさん》な笑みを見せた。
「ふふふ……そうか。お前が『バラルの末裔《まつえい》』か。時《とき》砕《くだ》きだけでなく、言霊《ことだま》使いにまでお目にかかれるとはな。その力があればこの世のすべてを支配出来ようものの」
「……?」
凪は首を傾《かし》げて黙《だま》った。たぶん、パイロフの言っていることの意味がよく理解できなかったのだろう。
と、その時。
「その子はそんな力を欲しいと願ったことは一度もありはせんよ。『欲無ければ一切《いっさい》足り、求むる有れば万事《ばんじ》窮《きゅう》す』……古人はよく言ったものとは思わんか?」
ふと、懐《なつ》かしい声がした。
慌《あわ》てて視線を向けると舗道《ほどう》の端に一人の小柄な老人が立っている。
長旅でかなりくたびれてきた背広に袖《そで》を通したどこか飄々《ひょうひょう》とした風体《ふうてい》。ふわふわした白髪《はくはつ》と同じ色の口髭、皺《しわ》深いまなじりの奥でどこかユーモラスな輝きを湛《たた》えた黒い瞳。
その老人はゆっくりと時計台の前までやって来ると口をへの字に曲げ、唖然《あぜん》としている僕らを見渡《みわた》した。
「やれやれ、揃《そろ》いも揃って人の忠告を聞けん奴《やつ》らばかりだわい。特に久高、お前がその最《さい》右翼《うよく》じゃ。まったく、客観性の権化《ごんげ》みたいな顔をしているくせに、やることと言えば身銭のすべてを賭《か》けての大博打《おおばくち》とくる。お前そっくりな奴をわしは一人知っておるよ。可愛《かわい》い娘《むすめ》をほっぽりだして、どこぞで見果てぬ夢を追っている男をな」
まさか。
「じ、じいちゃん!」
「や、遅《おく》れてすまん」
僕の祖父、楠本南涯がそこに立っていた。
「おじい様!」
足を痛めていたのは誰《だれ》だったのかというような勢いでリンネはじいちゃんに飛びついた。リンネに力一杯《ちからいっぱい》抱《だ》きつかれ、じいちゃんは他愛《たわい》もなく相好を崩《くず》す。
「おお、よくがんばったな。嬢《じょう》ちゃん。よしよし。それから凪助、お前もな。久高、お前には後でたっぷり説教じゃ」
「つーか遅《おそ》いよ!」
僕は思わず怒鳴《どな》った。きつくしがみついてくるリンネの背中を、まるで幼子でもあやすように軽く叩《たた》くと、じいちゃんは苦笑《くしょう》した。
「まあ、そう言うな。やってみると、あしながおじさんの役目も結構楽しかったのでな。それに、真打ちは最後に登場しなければ盛りあがらんじゃろう」
ったく。この人は。
「とは言うものの、お前たちが拾った古書が紛《まぎ》れもない『紋章《もんしょう》入り』だと知った時は肝《きも》を潰《つぶ》したぞ。ジルベルトからの手紙を受け取ったのが二日前。急遽《きゅうきょ》すべての予定を切り上げて戻ってきてみればお前たち全員揃って雲隠《くもがく》れしているとくる。同時期に日本に逸脱者《いつだつしゃ》が出現したことを考えればもう一刻の猶予《ゆうよ》もならん。もっとも、これはまさか実力行使に及《およ》ぶ奴がいるとは考えなかったわしの落ち度じゃが」
そう言うとじいちゃんはパイロフに向きなおる。
「孫らが拾った本にたいそう執心《しゅうしん》のようじゃが……所詮《しょせん》、本は本でしかないよ。繰《く》り返し読み、理解し、骨肉にしてこそ初めて力となる。一度読めば事足りるお前さんがたには難しいことかもしれんがな。人間は確かに日々忘れていく存在だが、だからこそ知る喜びを持ち、長く時を超《こ》えて伝わりゆく存在に思いを託《たく》す。察するに、この本の元の主《あるじ》の想《おも》いもそうだったのではないか?」
「……何者だ」
パイロフは追い詰《つ》められた表情で言った。じいちゃんは首を振《ふ》った。
「わしはただの老いぼれ爺《じい》じゃよ。まあ、お前さんよりいささか物は知っとるがな。さてと、早速《さっそく》で気の毒だがお前さんは自分によりふさわしい居場所に戻るべきじゃろうな。終劇も近いようじゃて」
そして、リンネに顎《あご》をしゃくる。
「ほれ、嬢ちゃん」
「でも……」
一瞬《いっしゅん》『時の旋法《せんぽう》』に視線を落とし、リンネは僅《わず》かに躊躇《ちゅうちょ》した。時砕きとしての一歩を踏《ふ》み出せば最後、もう後戻《あともど》りはできない。
そのためらいを見抜《みぬ》いたようにじいちゃんは目尻《めじり》を下げた。
「心配はいらん。たとえ嬢ちゃんが何者になろうと親父《おやじ》との縁《えん》は切れんよ。それは箕作とてわかっていたさ。娘が生まれたその日から……生まれてきた子供たちに『輪廻《りんね》』と『涅槃《ねはん》』という名をつけたその日からな」
一瞬、リンネの睫毛《まつげ》が震《ふる》えた。じいちゃんは片目を瞑《つぶ》った。
「臆《おく》することはない。親父さんはいつだって嬢ちゃんを見とるわい」
「はいっ」
リンネは一歩前へ踏み出した。夜風にブロンドが舞《ま》い上がる。一つ深呼吸すると、リンネはまっすぐに左の掌《てのひら》を天に掲《かか》げた。
「Set up!」
その途端《とたん》、リンネの掲げた手の平の上に、あの紋章が夜空を照らすように浮《う》かび上がる。リンネは懸命《けんめい》に伸《の》び上がったが、やはり前と同じように背が足りなくて届かない。リンネは膝《ひざ》を曲げると、垂直跳《すいちょくと》びの要領でぴょんとジャンプして中指の先で頭上で輝《かがや》く紋章に触《ふ》れた。
小柄《こがら》な身体《からだ》が光に包まれていき――、リンネが時《とき》砕《くだ》きに変身する。
ウエストサイドに紋章が刻まれた、よく実ったヘチマみたいな白のミニドレス。華奢《きゃしゃ》な太ももを半ば覆《おお》う黒いニーソックス。腰《こし》にはごついホルダーで大小様々な本をぶら下げ、頭には修道女が被《かぶ》るような黒いベール――。
お世辞にもスマートとは言えない恰好《かっこう》だし、黒いベールの端《はし》っこはあいかわらず綻《ほころ》びているけれど、でも、リンネが思い描《えが》いた、リンネだけの、この世でたったひとつの時砕きの姿。
リンネは胸の前で『時の旋法』を開いた。
同時に白いページから溢《あふ》れる光の粒《つぶ》。
その中から浮かび上がる無数の文字。
リンネは夜の闇《やみ》を切り裂《さ》くように声を紡《つむ》いだ。
「陽《ひ》の下《もと》に人の労して為《な》すところ、万事《ばんじ》益無し。
代は去り、代は来る。陽は昇《のぼ》り、陽は沈《しず》む。喘《あえ》ぎ戻《もど》り、また昇る。
南へ行き、北へ巡《めぐ》り、巡り行くのは風、巡り戻りしは風。
川は皆《みな》海に注ぎしも海満つること無し。川が注ぐその所、そこへ川は帰らん。
先に有りしものまた後に有るべし。先に為《な》されしことまた後に為されし。
陽の下に新たなるものなし」
光が集《つど》う。
朗々と紡がれるその言葉に呼応するように『時の旋法』は徐々《じょじょ》に輝きを増していく。闇に落ちた時計台は明るく照らされ、それを掲げたリンネもまた光の奔流《ほんりゅう》に包まれていく。
僕はその様子をじっと見守った。
これが『時の旋法』の、いや、『時砕き』としてのリンネの本当の力。
「我わが心に言いけり、
来たれ我試みに汝《なんじ》をよろこばさんとす。汝|逸楽《いつらく》を極《きわ》めよと。
見よ、是《これ》もまた空なりき。
笑を論ず是《これ》狂《きょう》なり、快楽《けらく》を論ず是何の為すところあらんや」
リンネの瞳《ひとみ》が灰色に染まる。
彼女の中に流れるもう一つの血脈、時の一族としての血が目を醒《さ》ます。それに身を委《ゆだ》ねるようにリンネは光と時間が織りなす輪舞《りんぶ》の中にたゆたう。
「殺すに時あり、医《いや》すに時あり
毀《こぼ》つに時あり、建てるに時あり
泣くに時あり、笑うに時あり
嘆《なげ》くに時あり、踊《おど》るに時あり
捜《さが》すに時あり、失うに時あり
守るに時あり、棄《す》てるに時あり
裂くに時あり、縫《ぬ》うに時あり
黙《もく》すに時あり、語るに時あり
愛するに時あり、憎《にく》むに時あり
戦いに時あり、平和に時あり」
リンネは『時の旋法』を閉じ、そしてそれをそっと胸に抱《かか》えこんだ。
「而今《にこん》、此処《ここ》にあり」
次の瞬間《しゅんかん》、あたり一面にまばゆい光が溢れた。
無数の光の粒が舞《ま》い降りた時、パイロフの姿はなかった。
――この時、何故《なぜ》リンネがコヘレトの『伝道の書』を暗唱したのかはよくわからない。後に僕はリンネに訊《たず》ねてみたが、彼女はこの時のことをよく憶《おぼ》えていなかった。どうもひとりでに口を突《つ》いて出てきたらしいが、それらの言葉がそのまま『時の旋法《せんぽう》』に記されていた可能性もあり、この点からGは『時の旋法』の正体はイクリージアスティーズ(七十人訳の旧約聖書)ではないかという推論を立てている。
[#挿絵(img/mb671_315.jpg)入る]
「終わった、な」
風に載《の》り散っていく光の粒を見送るじいちゃんの背後で、ふと女の声がした。振《ふ》り返ると未到ハルナが立っていた。その美貌《びぼう》や輝《かがや》くような肌《はだ》、長く艶《つや》やかな髪《かみ》、いずれもが春を迎《むか》えたばかりの瑞々《みずみず》しさに満ちているのと相反するように、その瞳は重く深く闇《やみ》の色を湛《たた》えている。
「なんじゃ、見ておったのか」
「抹殺《まっさつ》せぬとは甘いな。自意識の起源を絶ち存在自体を消さぬ限り、あの手合いは時間がたてば甦《よみがえ》るだけだと言うのに」
じいちゃんは黙《だま》って首を振り未到ハルナの舌鋒《ぜっぽう》をかわすと、まるで別のことを口にした。
「今回は世話になったようじゃな。一応、礼を言っておこう」
「なーに、私はただあの娘《むすめ》の力を見たかっただけだよ。あんな雑魚《ざこ》に手こずるようなら、到底《とうてい》長柄の後継《こうけい》たる資格はない。あの姿のまま古代王朝の後宮にでも放《ほう》りこんでやろうと思っていたが……」
「当てが外れたか?」
「予見という点では長柄の死後、当ては外れっぱなしさ。我ら時《とき》砕《くだ》きは本来、未来を読みちがえたりしないにもかかわらず、な。どうやらあの娘は当初考えていた以上に可能性の選択肢《せんたくし》を持っていたらしい。ま、期待していた以上のものは見られた。帰るよ」
「もう行くのか?」
「これでも結構|忙《いそが》しいのさ」
そう言うと未到ハルナは長身を翻《ひるがえ》す。が、ふと足を止めると、リンネを中心に歓喜《かんき》の輪を作る子供たちに目を向けた。輪の中で、リンネは駆《か》けつけたGの腕《うで》の中に固く抱《だ》きしめられている。彼女はそのうちの一人にじっとまなざしを向けた。
「あの少年……お前の孫か?」
じいちゃんは微《かす》かに眉《まゆ》をあげた。
「なんじゃ? 言っておくがあれの嫁《よめ》はもう決まっておるぞ」
「いや……人間にしては面白《おもしろ》い坊《ぼう》やだと思ってさ」
賞賛とも揶揄《やゆ》ともつかぬ言葉を漏《も》らすと、含《ふく》み笑いを残し未到ハルナは闇の中に消えた。じいちゃんは視線を戻《もど》し、そのままの姿勢でリンネの横顔をしばらく見つめていた。
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10章
一週間が経過した。
結局――。
僕らはリンネの父、箕作剣介の消息をつかむことはできなかった。
あの後、じいちゃんが蘆月長柄の膨大《ぼうだい》な量の日記帳を仔細《しさい》に亘《わた》って調べたにもかかわらず、その中に箕作剣介の痕跡《こんせき》を窺《うかが》わせるようなものは何もなかった。ただ、彼が蘆月長柄を訪《おとず》れたことはほぼ間違《まちが》いないらしい。昨年、リンネの父は二日続けて病中の蘆月長柄を見舞《みま》い、長い時間話しこんでいたという。が、そこで両者の間で何が話されたのか、僕らに知る由《よし》はない。父親の消息を辿《たど》る糸口が途絶《とだ》えたことを知り、リンネはしばらくの間しょぼくれていたが、やっと立ちなおったみたいだ。
宿先で発見された数冊のノートについて言えば、途中でじいちゃんが放り出してきたこともあり、調査はまだ緒《しょ》についたばかりだ。ま、これについてはじいちゃんがそのうち教えてくれるだろう。
そのじいちゃんも三日間ほど僕の家に滞在《たいざい》していたけれど、すぐにまたドイツへ舞い戻ることとなった。箕作剣介を追う旅を続けるためだ。
「そもそも何で『九歳の女の子を捜《さが》せ』なんていう手紙をよこしたんだよ」
出発前の空港のロビーで、僕はずっと疑問に思っていたことを訊ねてみた。僕の傍《かたわ》らには凪《なぎ》がじいちゃんの手荷物を持ち佇《たたず》んでいる。リンネは見送りには来なかった。当人|曰《いわ》く「行くと絶対泣いちゃうから」だそうで、別れの挨拶《あいさつ》は先程《さきほど》僕の家の前で済ませてきた。
じいちゃんは白い髭《ひげ》を引っぱると僕の問いにすまして答えた。
「箕作の足跡《そくせき》をたどっているうちにある時砕きの存在にぶち当たってな。奴《やつ》は時載りに死を与《あた》える研究のために数多くの時載りと接触《せっしょく》し、その中には蘆月長柄の名も含まれていた。蘆月長柄は極《きわ》めて特異な存在だったため人間として死ぬことができたが、その死はあくまで長柄個人のものであって、時砕き以外の存在からしてみれば到底《とうてい》一般《いっぱん》化しえないものじゃ。想像するに、箕作は『万人《ばんにん》が共有できる時載りの死』の手がかりを求めて彼女を訪ねたのだろう。だが彼女は既《すで》に死去し、現在は義理の孫が一人残されているという。本籍地《ほんせきち》はお前たちの街に近いし、どうせお前も夏休みで暇《ひま》を持てあましていると思ってな。手紙を送ってみたというわけじゃよ」
「おかげでえらい目にあったけどな。おまけにどういうわけか僕らはもう蘆月杏奈に会っていたし」
「うむ。それは確かに奇遇《きぐう》としか言えんな。その時点ではわしもお前たちが『紋章《もんしょう》入り』を拾った張本人だとは知らなんだ。ジルベルトから詳《くわ》しい手紙を受け取り、事情を知るにつけ、こいつはまずいと思ったよ。蘆月長柄が親父《おやじ》と関《かか》わりのあることを知ればあの嬢《じょう》ちゃんの性格からして奔馬《ほんに》のようにいきり立つことは間違いない。取りあえず手紙をしたためた直後に、今度はさる筋から『お前たちが逸脱者《いつだつしゃ》と接触する』という知らせを受けてな」
「未到ハルナ」
僕は言った。じいちゃんは口髭の下でにやりと笑った。
「急遽《きゅうきょ》日本行きの便を探しておったら思いの外早く航空券が取れてな。肝腎《かんじん》の手紙よりもわしのほうが先に着いてしまったという次第じゃ。ま、結果的にはグッドタイミングじゃったな」
僕は肩《かた》をすくめた。何がグッドタイミングだ。我田引水《がでんいんすい》も甚《はなは》だしい。
「じいちゃんは本気で僕らがあの女の子を捜し出せると信じていたの?」
「時《とき》載《の》りは互《たが》いに引き合う力を持っている。わしはそう信じているよ。時載りの力はたとえ隠《かく》したくてもいつまでも隠し通せる物ではない。そう考えれば今回のことで三人、いや、四人の時載りが引き合わされたことも決して偶然《ぐうぜん》ではあるまい」
四人の時載り。リンネ、ルウ、蘆月長柄、……そして未到ハルナ。確かに偶然にしては出来過ぎている。
引かれ合う力、か。
いや、時載りはもう一人いた。
「あのパイロフって奴は何者?」
「もともと、ユース・パイロフは優《すぐ》れた音楽家だったらしい。歴史上の高名な音楽家に多数師事し、その技倆《ぎりょう》を研鑽《けんさん》していったが、野心的な性格であったことと時載りとしても傑出《けっしゅつ》した力を持っていたことが逆に仇《あだ》となったんじゃろう。次第《しだい》に人間界に執心を抱《いだ》くようになり、ついには『逸脱者』となり果てた。人は長く生きれば生きるほどより深くより豊かになれるが、半面、人格の陶冶《とうや》を怠《おこた》り自己愛に傾斜《けいしゃ》すればより欲深にも陰惨《いんさん》にもなれる。まさに時の残酷《ざんこく》さ、不思議さ、じゃな」
搭乗《とうじょう》便のアナウンスが流れる。
ゲートに向かうじいちゃんと並んで歩きつつ、僕は口を尖《とが》らせた。
「せっかく来たんだから、もうちょっとゆっくりしていけばいいのに」
「そうしたいがそうもいかなくてな。今回はあくまで一時的な帰国じゃ。ま、また冬には戻れるじゃろう」
「冬って、半年も先じゃないか。ろくに話もできやしない」
「そう言うな。今回来たのはあくまでお前たちの無事を見届けるため。わしの頼《たの》み事でお前たちが怪我《けが》でもしようなら雪枝さんに申しわけが立たんからな。それに、嬢ちゃんにも会わねばならぬ個人的な事情もあったしな」
「リンネに?」
「うむ。確かに時《とき》砕《くだ》きや『時の旋法《せんぽう》』の力を使えば時間を跨《また》ぐことも可能なのかもしれん。だが、そんなものを使わんでも嬢ちゃんは必ず父親に会える日が来る。それを誰《だれ》かがあの子に伝えてやらねばなるまい。そう思ってな。わし以外の一体誰にそれができる?」
じいちゃんはすまし顔でウインクした。
僕はため息をついた。この二人の絆《きずな》にいまさらヤキモチを焼くまでもない。
窓の外を眺《なが》める。長く伸《の》びる滑走路《かっそうろ》の上には静かに離陸《りりく》を待つ航空機の姿がある。
「でも、リンネはこれからどうなるんだろう」
「心配はいらんよ。あれは強い子だしな。だが跳《は》ねっ返りの性分《しょうぶん》というものはそうそう改まるものでもないじゃろ。孔子《こうし》様も仰《おっしゃ》っている。勇好めども学好まざれば其《そ》の蔽《へい》や乱なり、とな。あの子が母親の血を受け継《つ》いでいるのも事実。ならば、誰かがあれの側《そば》であれを見守り、繋《つな》ぎ止めおく碇《いかり》の役割を果たさなくてはならん。取りあえず、怠《なま》け者の嬢ちゃんには本を読ませることが肝要《かんよう》じゃろうな。久高よ、お前の名《めい》馭者《ぎょしゃ》ぶりに期待しておるよ」
あいかわらず、じいちゃんの言葉は飄々《ひょうひょう》としており、そのぶん、ちょっと重い。
「こっちのちび助《すけ》のほうも頼むぞ」
凪の頭に手の平を載せると、搭乗口の前で僕らに手を振《ふ》り、じいちゃんは日本を去った。
僕と凪は肩を並べて空港のエントランスを出た。
ふとそのまま上を見上げる。空が高かった。視界の端《はし》に浮《う》かぶ雲を掠《かす》めるように次第に遠ざかっていく小さな機影《きえい》が見える。あれにじいちゃんが乗っているのだろうか。
僕は言った。
「凪」
「ん?」
「このままどっか行こうか?」
凪がびっくりしたように僕を見た。まっすぐに見返す、その歳《とし》に似合わぬ切れ長の瞳《ひとみ》に驚《おどろ》きの色が浮かぶのを僕は間近で見て取った。
凪は何も言わなかった。
僕もまた黙《だま》っていた。や、なんか妹をデートに誘《さそ》うみたいで照れくさかったからさ。
僕らは互いに呆《あき》れるくらい長い間黙っていた。
時計の針が二回りぐらいした後、僕はもう一度|訊《たず》ねてみた。
「……凪はどこに行きたい?」
凪はなおも黙っていたが、やがて小さく、しかしはっきりと言った。
「遊園地」
黒いおかっぱ髪《がみ》が風に揺《ゆ》れた。
「わたしは、お兄ちゃんと、遊園地に行きたい」
僕はうなずいた。
じいちゃんを見送った翌日、僕らは再び蘆月|邸《てい》を訪ねた。
新学期を迎《むか》え、留学先の音楽院へ戻《もど》ることになっていた蘆月杏奈が出発前に僕らを蘆月邸に招待してくれたのである。僕とリンネ、それにおまけでついてきたねはんの三人はそろって駅のホームに降り立った。
改札を潜《くぐ》り、以前歩いた草道をさくさくと踏《ふ》み分ける。今日のリンネはミニスカートにハイソックスというごく普通《ふつう》の女の子らしい出《い》で立ちで、手には例のバイオリンケースを提《さ》げている。穏《おだ》やかな陽気が僅《わず》かに秋めいてきた空気にのって僕らの頬《ほお》をかすめる。
「……ここ」
「うん」
ふとリンネが洩《も》らした呟《つぶや》きの意味を、僕は聞かないでもわかった。あの日、ここで突然吹《とつぜんふ》きつけた一陣《いちじん》の風と共に、僕らは不思議な出会いを果たしたのだ。
笑顔《えがお》の柔《やわ》らかな司書、厳格ながらどこか優《やさ》しげな女の先生。怜悧《れいり》さと繊細《せんさい》さを兼《か》ね備えた時《とき》載《の》りの美女。リンネと同じ年頃《としごろ》の、元気いっぱいの女の子。そしてすべてを包むようなまなざしで僕らを見つめていたおばあさん……。
場所を越《こ》えて、
時を越えて、
胸苦《むなぐる》しくなるような懐《なつ》かしさを湛《たた》えたその女の人と、リンネは出会った。
だからこそ、僕は何も言わなかった。
きっと、また会える。
今日はその日なのだ。
蘆月邸は以前|訪《おとず》れた時と変わらぬ佇《たたず》まいでそこにあった。森のトンネルを潜ると古風な平屋建ての日本家屋が見えてくる。目をこらすと涼《すず》しげに敷《し》き詰《つ》められた白い玉石の向こう、日差しを受けた瓦《かわら》の庇《ひさし》が形作る濃《こ》い影《かげ》の下で蘆月杏奈が僕らを待っていた。
「いらっしゃい」
杏奈の案内で僕らは初めて蘆月邸の中に足を踏み入れた。
長柄の書斎《しょさい》に入るなりリンネはたたた……と走り出し、両手をいっぱいに広げた。
「わあ、本がいっぱい!」
窓から西日が柔らかく降り注ぎ、膨大《ぼうだい》な古書の群れを静かに照らしている。
おそらく蔵書の数では箕作家の書庫もこの書斎には及《およ》ばないだろう。蘆月長柄がその生涯《しょうがい》をかけて蒐集《しゅうしゅう》した書籍《しょせき》の数々が趣味《しゅみ》のよさそうな調度家具と合わせて、古風な書斎の四囲を豊かに彩《いろど》っている。使いこんで表面が飴色《あめいろ》に輝《かがや》いている書き物机とその上に載った手ずれした辞書。ペン立ての中の万年筆や鉛筆《えんびつ》といった文具、文鎮《ぶんちん》、手紙入れ……。蘆月長柄が長年使い続けた愛用の品々が、まるで時を止めたかのように当時のままの姿で保存されている。
僕とリンネは声もなくこの空間を見渡《みわた》した。
そこに漂《ただよ》っているのは紛《まぎ》れもない「時載り」の匂《にお》い。
たとえ蘆月長柄と面識のない者であっても、時載りであればこの部屋を一瞥《いちべつ》しただけで、彼女が眷属《けんぞく》であると即座《そくざ》に見抜《みぬ》くだろう。先任者であり、先輩《せんばい》でもある人物の圧倒《あっとう》的な質感を持つ部屋を前に、珍《めずら》しくリンネは頬を上気させている。
僕らはそのまましばらくの間、由緒《ゆいしょ》ある博物館に入ったような面持《おもも》ちで室内を見渡した。なんとなく直接|触《ふ》れるのは故人にはばかられるようで、僕もリンネも置かれたものに触れることなくただ視線だけを向ける。
「あら、これ……」
つとリンネがサイドテーブルの上に置かれていたバイオリンに目を留めた。それは一目で年代物とわかるものだったが、残念なことに中央でまっ二つに割れていた。
杏奈は微笑《びしょう》した。
「ああ。バイオリニストだったおじいちゃんがかつて使っていたものです。戦争に行く際、おじいちゃんは形見としてこれを残していったそうです。でも空襲《くうしゅう》のときに壊《こわ》れてしまったらしくて……でも、おばあちゃんはその後もずっとこれを大切にしていました。思い出の品だから、って」
「まさか」
はっとしたようにリンネは杏奈を見、それから手にしていたバイオリンケースに視線を落とした。杏奈はうなずいた。
「そう。そのケースは元々、このバイオリンを収めるためのものでした」
杏奈はリンネの手から。ハイオリンケースを受け取るとそれを開き、『時の旋法《せんぽう》』を取りだし、かわりに壊れたバイオリンをそっとしまいこんだ。
ケースの大きさはバイオリンのサイズとぴったり符合《ふごう》していた。
「おじいちゃんが亡《な》くなった後もこのバイオリンとバイオリンケースはおばあちゃんの宝物であり続けました。だからおばあちゃんがこの本をケースに入れるようになったとき、私は思いました。この本はおばあちゃんにとって、とても大切なものなんだ、って」
僕は棚《たな》にあった一枚の古い白黒写真を眺《なが》めた。そこには髪《かみ》を結《ゆ》い上げ、和服で盛装した蘆月長柄が椅子《いす》に腰《こし》を下ろした姿勢で写っている。若々しく清楚《せいそ》なその姿の横には海軍の軍服を着た背の高い男の人が控《ひか》え目な微笑を浮《う》かべて立っている。これが蘆月長柄の夫、盧月|清馬《せいま》だろう。
「………」
リンネは一言も発することなくその写真を見つめている。そんな姉の横顔をねはんは丸い顎《あご》を上げ、不思議そうに見上げる。
「下界に降り、『街の住人』として生きることを選んだ希有《けう》な時《とき》砕《くだ》き」
かつて未到ハルナは蘆月長柄のことをそう称《しょう》した。恐《おそ》らく彼女はこの男の人と出会うことによって不死の命を捨て、市井《しせい》に生きることを決心したのだろう。だが……。
その後の人生を彼女がどのような気持ちで生きたのか僕にはわからない。その蹉跌《さてつ》に抗《あらが》うようにただ生きたのか、それとも一瞬《いっしゅん》でも「人間」となったことを悔《く》やんだことがあったのか。余慶《よけい》には恵《めぐ》まれたのか、後悔《こうかい》は無かったのか。
写真の中で、彼女はその時代に応じて図書館の司書をしていたり、まっ白いブラウス姿で小学校の教壇《きょうだん》に立っていたり、手|拭《ぬぐ》いを頭に畑で鍬《くわ》を振《ふ》るっていたりする。
陽《ひ》が、彼女の残した懐かしい空気を湛えた書斎に優《やさ》しい光を投げている。
蘆月杏奈は訥々《とつとつ》と言葉を紡《つむ》いだ。
「おばあちゃんは普通《ふつう》の人なんです。少なくとも、私にとっては。私が思い出せるのは、遊びにくるたびにここでにこにこして迎《むか》えてくれる物知りで優しいおばあちゃん。ポケットの中から突然《とつぜん》チョコレートを出したり、絵本を読んでくれたり、膝《ひざ》に乗せて誰も聞いたことのないような不思議なお話を聞かせてくれたりするおばあちゃん。だから……」
蘆月杏奈は『時の旋法』をリンネに差し出した。
「これはリンネさんにあげます。私にはもう必要ないから。それに、あなたがもらってくれたらきっとおばあちゃんも喜ぶと思うから。それから、この部屋の鍵《かぎ》も開けておきますね。私がいなくてもリンネさんが来たい時にいつでも来られるように」
「……ありがとう」
リンネは杏奈の手からためらいがちに『時の旋法』を受け取ると、表紙に描《えが》かれた紋章《もんしょう》を指でそっと撫《な》でた。まだどんな力がこめられているとも知れぬ奇妙《きみょう》な本。でもその本は流浪《るろう》の果てにリンネを新たな主《あるじ》に選んだのだった。
時砕きとして。
そして、かつての主の足跡《そくせき》を受け継《つ》ぐものとして。
帰り道、リンネはほとんど口をきかなかった。ねはんはしばしば欠伸《あくび》を漏《も》らしていたが、今は僕の背にほっぺをくっつけてぐっすりと寝入《ねい》っている。
遠回りを繰《く》り返したあげく、いつの間にか僕らは大通公園にいた。
始まりの場所。この場所からすべては始まったのだった。
いつものように遊歩道をしばらく歩いた後、ふとリンネはくるりと振り返った。
「ね、久高、時間って流れてるのね」
「何だよ、いきなり」
「ううん。ただ思ったの。時間って音を立てて流れているんだって。こうして今この場所、この公園に立っているだけで、時間はどんどん流れていく」
リンネはとんとんと敷石《しきいし》の繋《つな》ぎ目を避《さ》けるように踏《ふ》む。
「私、今ここにいる。隣《となり》に久高がいて、ねはんがいてママがいて、Gや遊佐君、ルウがいて……おじい様が時々遊びに来てくれて……毎日を過ごす。お外で遊んだり、暖炉《だんろ》の前で本を読んだり、ねはんのおもりをしたり」
リンネは夜空の星を受け止めるように両手をいっぱいに広げた。
「私、お父さんが帰ってくるのを指折り数えて待ってた。でも、そうしている間にも季節は流れていたのね。前はそれが辛《つら》かったんだけど、でもそれはちっとも悲しいことじゃなかった」
リンネの紫色《むらさきいろ》の瞳《ひとみ》が次第《しだい》に生き生きとした輝《かがや》きを帯びるのを僕はただ黙《だぼ》って見ていた。街明かりのしたで、懸命《けんめい》に自分自身の言葉を探すリンネは滅茶苦茶《めちゃくちゃ》綺麗《きれい》だった。
「私、時間を止めることができる。一秒か二秒……うんと頑張《がんば》れば十秒くらいは。でもね、私、もっと凄《すご》いことができるって気づいたの。私は時間と共に生きることができるの!」
リンネは僕を見つめた。強く、強く。
「季節が巡《めぐ》るっていうのは凄いことなの。今は夏だけど、秋が来て落ち葉が舞《ま》って、冬になる。雪が降り、根雪になり、そして春が巡る。気がついたら背が伸《の》びていたり、かけっこが速くなっていたり、知らない言葉を覚えていたり……。うまく言えないけど、そういうのって、すごくすごく、素敵《すてき》なことだと思わない?」
「思うよ」
僕は心から言った。
「だから……」
そこまで言いかけ、胸がいっぱいになったようにリンネは溜息《ためいき》をつくと、そっと胸に手を当てた。その先の言葉を僕は待ったが、リンネは何も言わない。時《とき》砕《くだ》きの称号《しょうごう》を得た女の子はただじっと夜空を見上げている。
「ね、久高、私、もうちょっと本を読んでみる」
ふとリンネは顔を上げると、全然|違《ちが》うことを言った。
僕は耳を疑った。まさかリンネの口からそんな言葉を聞く日がくるとは思ってなかったから。
「例えば?」
「ううん」
僕の問いにリンネは深く腕組《うでぐ》みをすると、すました表情を拵《こしら》えて言った。
「そうね、今まで学術書ばっかりだったから何か違う本を読んでみようかしら。ファンタジーかとSFとかミステリとか。いえ、それだけじゃない。古典や伝記や物語もね。原書だろうが翻訳《ほんやく》だろうが構いはしないわ。私、もっといろんなことを知ってみたいの!」
僕が知る限り、リンネが本のジャンルに言及《げんきゅう》したのはこの日が初めてだったろう。僕はこの凄《すさ》まじい怪気炎《かいきえん》に辛《かろ》うじて言葉を紡いだ。
「Gやパパさんみたいに?」
「いいえ。Gやお父さんよりももっと。長柄さんよりも……世界中の誰《だれ》よりも!」
そう宣言するとリンネは夜気を振り払《はら》うようにブロンドを翻《ひるがえ》した。生気に富んだ紫色の瞳がいたずらっぽく輝く。その瞳はいつかまた灰色に染まる時があるのかもしれない。
だが、たとえそうであっても。
「さあ。そうと決まったら、早くお家に帰りましょ。すっかり遅《おそ》くなっちゃったわ」
リンネは急に僕の手を引くと、並木の間を駆《か》け出した。縁石《えんせき》の角に躓《つまず》きかけ、僕はあわてて言った。こっちはねはんを背負ってるんだ。
「危ないって。そんなにあわてなくても本は逃《に》げないよ」
「なにいってるの。善は急げでしょっ」
リンネはすまして言った。
「それに、悪者と戦うときストックがなかったら困るじゃない!」
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終章
やれやれ。やっとここまで書き上げたよ。長かったこの物語もようやく終わる。この物語は僕らがある夏に実際に経験した出来事をそのまま記したものだけど、ただ冒頭《ぼうとう》でも断っておいたように多少の脚色《きゃくしょく》は混じっている。ま、ある女の子が実際よりもちょっとかわいく描《えが》かれているとか、ある女の子が実際よりちょっとおしとやかに描写《びょうしゃ》されているとか、その程度の違いでしかないけれど。
最後に、登場人物たちの近況《きんきょう》を報告をして終わることにしよう。
本嫌《ぎら》いの『時砕き』、箕作リンネ・メイエルホリドは現在も日本に在住、元気に暮らしている。蘆月長柄の後継者《こうけいしゃ》としての自覚も芽生え、自ら活字を求め書斎《しょさい》に向かう……ことは滅多《めった》になく、あいかわらず読書をサボってはママさんから「もっと本を読みなさい!」と小言を浴びる毎日である。ま、以前よりはちょっぴり本を開く機会は増えたかな。
そんなリンネの今一番の関心事はおしゃれで、『時砕き』にふさわしいコスチュームとポーズを求めては鏡の前でイメージを練る日々だが、残念なことにいまだそれを披露《ひろう》する機会は得ていない。本人も忸怩《じくじ》たる思いがあるのだろう。「あーあ。はやく悪者が出てこないかしら」などと、近頃《ちかごろ》物騒《ぶっそう》なことをうそぶきだし始めた。
リンネの弟、箕作ねはんもとても元気だ。リンネんちに遊びに行くと、決まって今読んでいる本を声に出して読んでくれる。ちなみに今読んでいるのは、オルコットの『若草物語《わかくさものがたり》』だ。
リンネが初めて作った『街の住人』の友人、海保ルウはアンティークショップ『pale horse』のオーナー兼《けん》売り子として今日もカウンターの前で編み物をしている。店に行っても客の姿を見かけることはあまりないので、流行《はや》っているとは言いがたいようだ。またコスプレでもしたらお客もくるかもしれないけど、今のところその予定はない……と思う。てゆーか、ないよね?
司馬遊佐はあいかわらず磯《いそ》で釣《つ》り糸を垂らしたり野歩きしたりと閑雲《かんうん》野鶴《やかく》を友とするような生活を送っている。遊佐を見ていると、時々、一番時間を支配しているのはこいつなんじゃないかと思うことがある。たまにふらりと箕作家の書庫にやってきては、終日本を読んでいたりしているらしい。たぶんこいつはずっとこんな風に時を流していくんだろう。今までも、そしてこれからも。
そんな遊佐が来る都度、律儀《りちぎ》に紅茶を淹《い》れ続けるGことジルベルト・ヘイフィッツは司書として今日も箕作家の書庫で蔵書の管理にあたっている。彼女がいる限り、箕作家がその日の食事に不自由したり、流出した蔵書の行方《ゆくえ》に困る心配はなさそうだ。
リンネの思いつきがきっかけで僕らが一夏を潰《つぶ》して捜《さが》し出す羽目になった女の子、蘆月杏奈はドイツで音楽の勉強を続けている。一度絵はがきをもらったけど、どうやら元気でやってるみたいだ。きっと素敵《すてき》なバイオリニストになるだろう。機会があれば一度みんなで遊びに行ってみたいものだ。たぶん僕らの顔ぶれから言って、さぞかし賑《にぎ》やかな旅行になると思うけど。
僕の妹、楠本凪は普通《ふつう》の女の子として学校に通う毎日だ。最近、ちょっぴり口数が増えたような気がする。たぶんこれはいい傾向《けいこう》なんだろうが、兄としては嬉《うれ》しい半面ちょっと恐《こわ》くもある。そうそう、忘れないうちに一緒にプレゼントを買わないと。オレンジの水着でいいのかな?
じいちゃんこと僕の祖父、楠本南涯はあいかわらず世界中を飛び回っている。たまにエアメールが届くけど、その都度消印は違《ちが》っており、ヘルシンキであったり、チェリャビンスクだったり、アンカラだったりする。僕らの冬休みまでには戻《もど》るとは言っているけど、この種の予定が守られたためしはないので、ま、あまり当てにせず待つことにしよう。「最初から来ると思っていなかったら、いらっしゃった時の喜びが倍になるでしょう?」とはリンネの言葉だ。
箕作剣介の消息はいまだ不明のままである。
[#地付き]了
[#改ページ]
あとがき
「わくわくするような冒険《ぼうけん》がしてみたい!」
とはこの物語の主人公である女の子の言葉ですが、「わくわくするような物語を書いてみたい!」とは僕の長年の願いでもありました。どこまでそれが実現できたかはわかりませんが、この『時《とき》載《の》りリンネ!』という作品を慎《つつし》んで読者のご高覧に供します。
もともとこの作品を書いたのはある描写《シーン》が思《おも》い浮《う》かんだのがきっかけでした。女の子と男の子が暑い夏の日、縁側《えんがわ》に出て冒険に出る相談をしている。二人ともまだ十二歳くらい。女の子は楽天的で元気いっぱいな一方、男の子は冷静でそこまで自分たちの未来を信じ切っているわけではない。やがて二人は手を取り合って冒険の旅に出る……。ふと頭に浮かんだそんなシーンを書き出した後、物語を紡《つむ》ぐ作業が始まりました。結末は特に考えていなかったのですから、勢いというのは恐《おそ》ろしいものです。
それでもどうにか物語を書き進め、こうして一応の完結を見たわけですが、まがりなりにも「了《りょう》」の一字にたどり着くことができたのは、子供の頃《ころ》に夢中になって読んだ豊かな本の記憶《きおく》のおかげかもしれません。その意味で、この作品はかつて僕が読み親しんだたくさんの物語に支えられています。
幸いなことにこの作品は賞をいただき、多くの方のご助力の下《もと》、このたび本として出版される運びとなりました。お世話になった方々に感謝申し上げると共に、この本をお手に取っていただいた読者の方々にもお礼申し上げます。少しでも楽しんでもらえたら、作者としてこれに勝《まさ》るよろこびはありません。
望外な幸運に恵《めぐ》まれると共に、様々な変化が生じたこの一年でしたが、『本を書く』という作業を通して僕が変わったことの一つに、『本を読むのが面白《おもしろ》くてたまらなくなった』ことが挙げられます。
僕はこの物語に出てくる、ある女の子と同じようにわりと雑駁《ざっぱく》な読み手でして、ジャンルに拘《こだわ》ることなく、自分が興味を持った本は何でもすぐに手を出してみるたちなのですが、賞をいただいてしばらくの間は、たとえそれが無味《むみ》乾燥《かんそう》な資料本であってもページすべてが文字通り光《ひか》り輝《かがや》いて見えたものでした。僕は手当たり次第にあらゆる本を読みまくり、そのたびに、何故《なぜ》自分は今までこれほどまでに活字を追う歓《よろこ》びに対して無自覚だったのかと訝《いぶか》しく思うほどでした。頭の中に、これまでに存在しなかった扉《とびら》がひとつ開いたような感覚、と言えばわかりやすいでしょうか。
その驚《おどろ》きを自分なりに分析《ぶんせき》しますと、たぶん僕の中で、本の『読み手』から『書き手』へとはっきりと自意識の配置《はいち》換《が》えが起こったことや『印刷物』そのものに対する畏敬《いけい》の念、言《い》い換《か》えればそれを成り立たせている多くの人たちの労に改めて気づかされたことによるものなのでしょう。実際、それは瞠目《どうもく》すべき経験であり、これまで単に物を食《は》むように読んできた『本』その一冊一冊にどれだけの労力が込められているかに僕は今更《いまさら》のように思い至ったのでした。
ちなみに、そんな活字を眺《なが》める際のめくるめく感覚は三ヶ月ほど続いた後あっさりなくなり、代わって原稿《げんこう》に向かう荒涼《こうりょう》とした日々が始まったわけですが(いいことは長くは続かない)、その時に得た認識は今も僕の胸に息づいております。その思いを新たに、改めて関係者の方々に深甚《しんじん》の謝意を哀します。ありがとうございました。
それではこの作品の続編でお会いできることを楽しみにしつつ、失礼いたします。
[#地付き]清野 静
本書は、第十一回スニーカー大賞(選考委員:冲方《うぶかた》丁《とう》、安井《やすい》健太郎《けんたろう》、杉崎《すぜさき》ゆきる、でじたろう/二〇〇六年六月発表)の奨励賞受賞作「時載りリンネの冒険」を改題し、加筆・修正したものです。
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底本:「時載りリンネ! 1 始まりの本」角川スニーカー文庫、角川書店
2007(平成19)年8月1日初版発行
入力:iW
校正:iW
2007年10月20日作成