いい奴じゃん
清水義範
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)荒木鮎太《あらきあゆた》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)夫婦|揃《そろ》って
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から1字上げ]カバーイラスト 早乙女道春
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[#挿絵(img/01_000.jpg)入る]
〈帯〉
人生の勝ち組? 負け組? まとも組≠ナいこう!
清水流ロスジェネ応援小説
日本一アンラッキーな男・鮎太に襲いかかる不幸の連続! 25歳で人生が決まってたまるか。鮎太は、オネエ言葉の大道寺、ナマ脚自慢のナオたちとともに、幸せになることに図々しく生きていく。
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[#挿絵(img/01_001.jpg)入る]
いい奴じゃん
清水義範
講談社
いい奴じゃん 目次
第1章 運の悪い男
第2章 図太く生きる
第3章 幸か不幸か
第4章 チャンス到来
第5章 緊急事態
第6章 負けていく者たち
第7章 自分を嫌いにならないで
第8章 様々な分岐点
第9章 想像もしなかった不幸
第10章 新しい局面へ生還
第11章 とにかく生きようよ
第12章 ここはスタート地点
第13章 明日への旅立ち
あとがき
[#地から1字上げ]カバーイラスト 早乙女道春
[#地から1字上げ]装 丁 泉沢 光雄
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いい奴じゃん
第1章 運の悪い男
1
その日もまた、荒木鮎太《あらきあゆた》の身には運の悪いことばかりがおこった。もっとも、鮎太が遭遇する小さなアンラッキーを数えあげていったらキリがないので、本人も、まわりの人間もそう気にしなくなっているのだった。それに、鮎太自身は特に自分が運の悪い人間だとは思っていなくて、間の悪いことや、つまらない行き違いなどがあっても、ま、人生いろんなことがあるからね、ぐらいに受け止めて深刻には考えないのだった。
でも、傍目《はため》には鮎太ほど運の悪い人間は珍しかった。その日、派遣先である富士山《ふじさん》運送へ出社しようとして、歩いて四つ辻にさしかかったら鮎太の来るのを待っていたかのように信号が赤になった。信号を一回待つぐらいどうってことはない、と思っていたら、鮎太の進行方向とは九十度ずれた向きの横断歩道を渡っていた婆さんが、道路の中央部でころぶのが目に入ってしまった。ほうってはおけなくて婆さんのところへ駆けつけ、背負って道を横断させてやったら、やけにくどくどと礼を言われ、また信号の青を逃してしまった。
そんなわけで五分ほどロスして、地下鉄の駅に着いてみたら、自動改札を通っている時に、来ていた電車のドアが閉じた。間が悪いなあと、ため息をついてしまう。でもこの時間ならすぐ次の電車が来るんだからと、気を取り直して待ってみたが、なかなか来ない。次の電車の到着時刻が表示されているのだが、その時刻を五分も過ぎてもやってくる気配がなくて、ホームには電車を待つ客がひしめき合う状態になってしまった。
そこでようやく、ひとつ手前の駅で人身事故があり、只今電車は運行しておりません、というアナウンスがあった。ちょっと遅刻してしまうかもしれないな、と覚悟していたところだったので、マジに焦った。鮎太は地下鉄をあきらめ、地上に出てバスで会社の近くまで行くことにした。それを降りた時には、もう遅刻していたので、少しでも遅れを少なくしようと、会社まで全力で走った。
ようやく富士山運送に着き、開いていたドアから事務所に飛び込もうとしたら、ドアの角に右足の先っぽを思いきりぶつけてしまった。そしてなんと、鮎太のスニーカーは右足のつま先が破れていて、そこから小指が半分くらい出ていたのである。そこを、したたかに打った。
というわけで鮎太は、事務所の中へけんけんで突入すると、「くーっ!」とうめき声をあげてのたうち回ったのである。
事務所の中は、ほとんど人が出払っていて、このところ鮎太とチームを組んでいる三人がいただけだった。遅刻した鮎太を待っていたのだ。
そして、事務担当の派遣社員である大道寺薫《だいどうじかおる》がうめき続ける鮎太の前に立って言った。
「十五分の遅刻よ。またいろいろとドジなことをやってたんでしょう」
薫という名で、この言葉づかいなのだから女性だと思う人がいるかもしれないが、大道寺は鮎太と同じ人材派遣会社から回されている派遣社員で、男である。男なのに、この口調でしゃべる奴なのだ。
やっと足の痛みが薄れてきた鮎太は、待っていてくれたチームの人たちに頭を下げた。
「すみません。地下鉄が人身事故でストップしちゃいまして」
ベテランの運送マンたちは、あきれたように笑って許してくれた。
大道寺が書類を留めたバインダーをひょいと鮎太にさしだした。
「はい。これが今日のお仕事先よ。一軒家から一軒家への引っ越しだから」
鮎太は書類をのぞき込んだ。
「一軒家はラッキーだな。マンションだと、エレベーターを使うのが大変だから」
だが、大道寺は楽しそうに笑うと、悪魔のようなことを口にした。
「あなたがラッキーな目にあうなんてこと、あるわけないの。今日のお客の職業がなんなのか、書類をよく見て」
「えーと、音楽家って書いてあるぜ」
「ピアニストのご夫妻よ。わかる? 夫婦|揃《そろ》ってピアニストなのよ」
「それがなんだってんだ」
「バカね。ピアノが二台あるってことよ」
それこそが鮎太の運の悪さである。鮎太が引っ越しの仕事をすればピアノが二台あるのだ。道路工事をすればそこには巨大な岩が埋まっている。ピザの配達をすれば届け先がやくざの組事務所だ。
そもそも、同じ人材派遣会社からここへ回されているのに、鮎太が引っ越しの運搬担当になり、大道寺は事務担当になっているところにもう、運の差が出ている。なぜこれで賃金が同じなんだと文句のひとつも言いたくなるところだ。
もっとも、体格のいい鮎太と比べてみて、大道寺はいかにも非力って感じの華奢《きゃしゃ》な体形であり、顔つきだってなんか優しくて、おまけにオネエ言葉だ。事務にしか使えないよなあ、と誰だって考えてしまうわけである。そして、やらせてみるとその事務能力が優れていて、力自慢の社員にテキパキと指示を出していくところは、ベテランのお局《つぼね》OLみたいなのだった。だから鮎太も、大道寺のことで本当に不満を抱いているわけではなかった。
大学は違っていたが鮎太と大道寺は同い年の二十四歳だ。人材派遣会社で知り合った仲で、同じ会社に回されることもしばしばあった。
知り合った当初は、なんだこいつの言葉づかいは、と少し逃げ腰にもなったのだが、何度も顔を合わせているうちに言葉づかいのことは気にならなくなった。相手のことがわかってくるにつれ、案外、筋の通った男っぽいことを言う奴だと認めざるをえず、頭の冴えもなかなかの男だと評価してしまった。はたしてこいつは、男に恋心を抱いちゃう真性のあの傾向の人間なのかどうか、というのが気にはなるのだが、鮎太に迫ってくるわけではないので、それは考えないことにした。そして、なんだか波長の合う友達づき合いが始まったというわけである。
「あなたのことだから、ピアノ二台ではすまないかもよ。もっと運の悪いことがあるかもね」
大道寺はうれしそうにそう言って笑った。
2
ピアニストの夫妻は、路地の奥にある家に住んでいた。そしてその路地は狭くてトラックが入れないのである。鮎太たちのチームは二人ずつに分かれて二台のトラックで来たのだが、それを路地の入り口に停めなければならなかった。だから、その家の玄関からトラックまで、三十メートルぐらいを人の力で運ばなければならなかった。
もちろん、箱詰めされている主な荷物は台車に載せて運ぶわけだ。食器類だって、前日に手配された荷づくり班の女性アルバイトが、少々のことでは割れないように梱包《こんぽう》しているから、台車で運べる。
だが、ピアニストご用達の竪型のピアノを台車で運ぶってわけにはいかなかった。路地のアスファルトは粗《あら》いので、台車がガタガタとかなり揺れるのだ。
まず、毛布でピアノを養生する。養生というのは、病気が治るようにすることではなく、建築や運輸業界の専門用語で、破損防止の手当てのことである。毛布でぐるぐる巻きにして、どこかにぶつけて傷つけることがないようにするわけだ。
そして、四人がかりでピアノを四方から持ちあげた。ベテランの石原《いしはら》さんが、「ピアノは専門の運送屋があるのによ」と毒づく。でも、ピアニスト夫妻は費用を安くおさえるために普通の引っ越し業者に頼んだというわけだ。それも鮎太の運の悪さなのだろうか。
かけ声に合わせて、四人でピアノをゆっくりと運ぶ。鮎太が前方を担当したので、腰をかがめた姿勢のまま後ろ向きに進んでいくことになる。四人で持ってもピアノはクソ重かった。これがもう一台あるんだと思うと、腹が立ってくるぐらいのものだ。
大いに慎重に運んでいるつもりだったが、毛布をへだてているので、ピアノ本体を持っているっていう実感がなくて、妙に心もとない感じだった。
路地を半分くらい行ったところで、四人のコンビネーションが微妙に狂ってきた。進む方向を見ることができない鮎太と、他の三人の歩行速度にズレが生じたのだ。鮎太はついみんなより速く進もうとした。そのせいで、ピアノの下部から指がはなれてしまった。
それでも、残る三人で持っているのだからピアノを地面に落とすことはない。ただ、鮎太が手をはなしたことで、どうしたってそこが下へ落ちかかる。いけない! と鮎太は思った。ピアノの底面の角がアスファルトの路地にガツンと落ちたら、デリケートに調律してある高価な楽器が、かなりの衝撃を受けてしまう。
反射的に鮎太はピアノの下にスニーカーをはいた右足をさしだした。三人が持っていてくれるから、足の上にピアノが落ちることはなかった。もしそうなっていたら足の骨が折れていただろう。落下はしなかったが、ピアノの角は鮎太の右足をズシリと圧迫した。加重を受けたのは、今朝ドアの角にぶつけた、スニーカーの破れ目から出ている小指のところだった。
「ぎゃあああ」
ま、そういうことは鮎太の人生にはよくあることなのだったが。
なんとか二台めのピアノもトラックに積み込んで、引っ越し先にスタートした。車の助手席に座った鮎太は、スニーカーを脱いで右足の小指を調べてみた。そこは赤くはれて熱を持っていたが、幸い押してみても叫び声をあげるほど痛いということはなくて、骨には異常がないのだろうと自己診断をした。
引っ越し先は、川原の公園に面した新築の一戸建てだった。路地の奥ではないので、その点は助かる。
まず、車を公園の前に置いて、作業にかかる前に昼食をすませてしまおう、ということになり、ノロノロとバックして停車位置を決めていたら、トラックの後輪を排水溝に落としてしまった。そうしたら運転手が鮎太の顔を見て、もう……、どこまで運が悪いんだと言うので、冗談じゃないぞ、と思った。溝に落ちたのはあんたのせいじゃん、おれの責任みたいな顔しないでほしいなあ、というところだ。だが、れっきとした正社員さまに派遣社員の身でそうは言えないので、おれ、後ろから押します、と言ったのである。
やってみたところ、鮎太一人の力で押してもどうにもならなくて、後続のトラックの二人も加勢して三人で汗みずくになって押した。ピアノ二台を積んでいるトラックは、腹が立つほど重くて、なかなか動かなかった。でも、やっとのことでトラックの車輪が溝からはいあがる。
みんな、ヒーヒーと深く息をして、しばらくは身動きもできなかった。鮎太はその場所に突っ立って、首に巻いていた手ぬぐいで顔からしたたる汗をぬぐった。
公園の中には中学生ぐらいの子供が何人もいて、わあわあと喚声をあげていた。そしてその時、いきなり喚声がひときわ大きくなった。
少年たちはサッカーをしていて、子供にしては体の大きい子が、力まかせにボールを蹴ってシュートを試みたのである。しかし、ボールは思いもよらぬ方向へ大きく飛んだ。
顔の汗をふいて、鮎太が立ったまま息を整えるようにした時、飛んできたサッカーボールがその後頭部を直撃した。
ボカッ、と大きな音がして、ボールは大きく跳ね返った。
3
「ホントーに鮎太って運の悪いヒトよね。ちょっと信じられないくらいだわよ」
と大道寺は言って、焼き魚定食のカマスの塩焼きを口へ運んだ。
「そんなことないよ。大袈裟《おおげさ》だよ」
と鮎太は答えて、カツ丼についている味噌汁の椀を右手で持ちあげ、それをズズズと飲んだ。
二人で、住まいの近くの定食屋で夕めしを食べているのである。鮎太と大道寺はともにアパートを借りて独り暮らしをしており、二人のアパートは歩いて十五分くらいの距離にあった。そして、この、つるまる食堂という定食屋は、二人のアパートの中間地点にあるのだった。
そんなわけで、仕事のあと、二人でここで夕めしを食べることが多いのである。食事がすめば、じゃあまた明日、とすんなり別れるのがいつものことだった。つまり、自炊などほとんどしなくて、かといって高級レストランへ毎日行ける身分でもない二人が、安く食事をすますにはここで食べるのがいちばんだったのだ。薄汚れた感じの店だったが、つるまる食堂は何を注文してもまあまあうまいのである。
「そんなことないんだって。だってそうじゃない。朝、ドアにぶつけた足の指に、同じ日にピアノが落ちてくるなんてことそうないわよ」
「たまたまだよ」
言われたせいで鮎太は右足の小指の痛みを思いだした。それを追い払おうとするかのように、カツ丼のカツとめしの大きな塊《かたまり》を口の中にほうり込む。
本当は、二人とも酒が飲めるほうである。鮎太にしてみれば、カツ丼をアテにワインを飲もうとは思わないが、よく冷えたビールがあれば大変うれしいところだ。だが、生活に汲々《きゅうきゅう》としている派遣社員の身で、夕食のたびにビールを楽しむというのは贅沢《ぜいたく》がすぎるというものだった。だから飲むのはアパートで、風呂からあがったあとの缶ビール一本と決めていて、夕食時には我慢しているのだった。
二人が食べているこの時は、八時を回っていて、つるまる食堂の中にはほかに客がいなかった。
「そうじゃなくて鮎太は運の悪い人なの。だってそうじゃない、あなたが今、派遣社員をしていなきゃいけないのだって、ぜーんぶ運の悪さのせいなのよ。そうでしょう、大学生の時に就職活動をしていて、あなたはまずまずの一流企業から内定をもらってんのよ」
「やなことを思いださせるなあ」
「やなことっていうより、笑っちゃうようなことだわよ。電話で内定の通知をもらって、マヌケなあなたは、もうひとつ受けていた別の会社からの知らせだって勘違いしたのよ。だから指定された日にのこのこと、不採用だった別の会社へ行ったそうじゃないの。そんなドジな話って聞いたことがないわ」
「それはもう昔のことだよ。第一、ものは考えようだしな。あの時、内定をもらった会社に入社してればすべてうまくいってたかどうかはわからないんだよ。入ってはみたものの、自分には合わないところだな、と思って今頃はやめてたかもしれないだろ。それだったら結局、今の状態になっているわけだ」
「そういう鈍い思考力であなたは自分の運の悪さを乗り越えてきているのよね。それってちょっと涙を誘うほど感動的かもしんない。でも、実際のところを正当に評価してみれば、あなたは運が悪いの。ひょっとしたら、この世でいちばん運の悪い人間なのかもしれないわ」
鮎太は丼の底からめし粒をさらって口の中に運ぶと、丼をテーブルの上に戻して落ちついた声で言った。
「それは絶対に間違ってるな」
「どうしてよ」
「あのな、この世でいちばん運が悪くて、すべて何をやってもうまくいかない人間がもしいるとしたらだよ、その人間は生きてないだろうね」
「やめてよ、極論は」
「極論じゃないよ。すべてのことに運の悪い男だったら生きてられないって。だって、そいつが道を歩いてると必ず暴走した車がぶつかってくる、とかだろう、あらゆることに運が悪いっていうのは。歩いてると、たまたま工事中でマンホールのふたが開いてて、間の悪いことに工事中だってことを知らせる表示板が強風で飛ばされてたりしていて、落ちるんだぞ。そこへ近くの火山が噴火して、火砕流《かさいりゅう》が下水管の中を一気に流れてきて灼熱の土砂に埋まっちゃうわけだ。あっという間にポンペイの被災者だよ。家で寝ててもトラックが暴走して突っ込んでくるし、流れ星のでかいのが屋根をぶち抜いて落ちてくるかもしれないし、そういうことはないとしても、室内型の湯わかし器から一酸化炭素がもれてだんだんいい気持ちになってそれっきり、ということもある。すべてにおいて運が悪いってのはそういうことだよ。そもそも生まれた時にだな、ぬるぬるしてるからつい助産師さんが手から赤ん坊を落として、リノリウムの床に頭からゴチンと落ちたりするんだ。だからすべてに運の悪い人間は生きていない」
「やだ、どうしちゃったの、その迫力は」
「おれは運が悪くないってことだよ。こうやって元気に生きてるんだもんな。派遣でなんとか生活していけているし、帰って寝るアパートはあるし、胃が丈夫で食うもんはうまいし、すごく運がいいじゃないか」
「すごいわ。あなたって感動的に能天気かもしれない」
鮎太はカカカと笑った。大道寺もあきれてそれ以上の言葉が出てこず、夕食を平らげることに専念した。
そんなところへ、店の奥からここで働く女の子が出てきた。
4
その女の子は、紺のミニスカートに白いブラウスっていう、なんだか男性客の機嫌がよくなっちゃうような格好をしていた。白いナマ脚がまぶしくて、どうして大衆食堂にこんなサービスがあるのだ、と思ってしまう。
「お茶いるんじゃない」
と、その子は言った。二人の食事が終わりかけたのを見はからって、気をきかせたらしい。
「ありがとう。ナオちゃん気がきくね」
と鮎太は言った。その女の子はこの店でアルバイトをしているのだが、よく来るので名前を知っているのだ。
「私、すごく気がきくよ」
と言って、ナオは二人の湯呑みにやかんのお茶をついでくれた。
桜田《さくらだ》ナオ、という子で、年齢は十八歳だそうである。ミニスカート姿は別に店主に言われてのものではなくて、本人の趣味なのだった。そして、それが文句のつけようがないほど似合っていた。
顔だって、まあ可愛いほうだ。整った美人というわけではないが、黒目が大きいところと、歯並びがいいところはなかなか魅力的だった。あまり知性を感じさせる顔ではない、という点には目をつぶればいい。まあまあ若くて可愛い女の子である。
そして、脚のかたちは絶品だった。細すぎもせず、もちろん太くもなく、筋肉のない棒のような脚とも違う。特に身長が高いわけではないから、モデルのような長い脚というわけにはいかなかったが、街をこのミニスカートで歩いていれば、男なら誰でもつい見とれてしまうだろう、という脚だった。メイド喫茶からスカウトされても不思議はないな、と思ってしまう。それを知っていて、ミニを愛用しているのかもしれない。
鮎太と大道寺は、この店で食事をとるうちにナオの名前や年齢ぐらいは知るようになり、今日は遅いご飯だね、ぐらいの言葉は交わすようになっていたのである。
ナオは、二人にお茶をついだあと、大道寺の斜め後ろに立って鮎太の顔を見てこう言った。
「荒木さんさ、今夜なんか用とかあって忙しいの?」
つい脚に見惚れることがあるのは認めるとして、それ以外には鮎太は食堂のナオちゃんに特別な感情を持っているわけではなかった。
「別に。やることなんてないよ」
「だったらさあ、私のこと助けてくれないかなあ。私、困ってるの」
大道寺はそういう時、何かからかうようなことを言わないではいられない男だ。
「ほら来た。ふしだら娘の誘惑作戦よ」
「そんなんじゃねえって」
と言ってナオは、背後から大道寺のほうにイーッと、しかめっ面を向けた。
「何に困っているの。助けるってどういうことだい」
「あのね、私、ストーカーにつきまとわれているんだ」
「あらまあ、典型的な、おバカ・トラブル」
と言ったのは大道寺。
「それって、大変なことだよね。つきまとわれたりするの」
「今夜もさ、この店終わったらそいつが尾行してくんじゃないかと思うんだ。それってこわいじゃん」
「この店って九時までだよね」
「うん」
「終わって家へ帰る時に、男に尾行されるってことなの?」
「そうなの。それってマジこえーよ」
「ナオはアパートに独り暮らししているんだっけ?」
と大道寺が聞いた。
「お母さんと二人暮らし。だけどうちのお母さん、私立の保育園で働いてて、夜遅くなることが多いの」
「そうか。誰もいない家へ帰る時に、男につきまとわれるっていうのは危険だな」
「荒木さんてさ、ガタイがいいじゃん」
「ガタイって、漢字で書こうとしても字がないのよね」
その大道寺の言葉を無視してナオは言う。
「だから、そいつのことやっつけてほしいんだ。おれの女につきまとうんじゃねえ、って」
「ウサギぐらい頭の悪い少女が、筋肉バカに助けを求めちゃってるわけじゃない。ついていけない展開」
ナオは、両手の拳を握りしめて、後ろから大道寺の頭をポカポカと叩くというマネだけをした。
「相手の男に心当たりはあるの?」
と鮎太は聞いた。
「うん。なんとなくね。私、以前にメイド喫茶でバイトしてたことがあってさ」
本当にやっとったんかい!
「その時の客の一人のような気がすんだ。なんか、無口でジトーッとしてる奴でさ」
「すごい表現」
「そうか。そういう仕事していれば、いろいろと危険なこともあるかもしれないな」
「うん。私もなんかヤバイな、と思った。結局、そいつとは別の、ダイレクトにスケベな客に脚を触られてさ、グーで殴ったらクビになっちゃったんだけど」
なんだか思いもよらない珍事に巻き込まれたような気がしたが、そういうことだったら力になってやらないわけにはいかなかった。
「じゃあ、一度帰って、九時にここへもう一度来るよ」
と鮎太は言った。
本当に、今夜もナオがストーカーにつきまとわれるのかどうかは、かなり不確実だとは思った。だが、今夜もそういうことがおこりそうだと怯《おび》えている人間に、守ってと頼まれてしまったのだ。
そこまで聞いていた大道寺は、ウフフ、と笑って鮎太にこう言った。
「やっぱり鮎太って運の悪いヒトなのよ」
5
一度アパートに戻り、運送屋っぽい格好から、高校の体育教師の私服姿、みたいなものに着替えた。風呂をわかして入るだけの時間はなかった。
さて、これからどうなるのか、と考えてみる。とにかくナオを、彼女の住むアパートまで送ることになるわけだ。そしておそらく、怪しい男なんか出現しないだろう。その時は、今夜は何もなかったね、と言って帰ってくればいい。
もしストーカー男が出現したら、こんなことはするな、と力強く言い聞かせる。
ものすごく凶暴な奴で、ナイフでも振りかざして襲ってきたらどうしよう、ということを考えてみる。だがすぐに、そんなことはまずありえない、と判断した。
女性のあとをこそこそとつけ回すような男は、そういう乱暴なタイプとはちょっと違うような気がしたのだ。それよりはずっと陰湿で、あきらめの悪いひ弱な男だろうと思った。鮎太は度胸のある男で、ストーカー男などそうこわくはなかった。
九時に、つるまる食堂へ行った。ナオはニコッと笑って迎えてくれた。
食堂の店主が出てきて、鮎太にペコリと頭を下げた。
「世話かけて悪いけど、この子が本当にこわがっているんで、今日だけでも送ってやってよね」
店主もだいたいの事情は知っているってことらしい。
「多分、何もないと思うけど」
と鮎太は言って、ナオと店を出た。
「アパートは遠いの?」
と、聞いてみた。
「そんなことない。歩いて十五分くらい」
なるべく小さな声で会話をした。近くを人が歩けば、その靴音が聞こえるようにという考えからだ。
「相手に心当たりがあるって言ったよね。何をしてる人なの?」
「サラリーマンだと思う。なんか、学歴あるもんね系のサラリーマン」
「いくつぐらいの人?」
「うんと、二十五歳くらいかな」
「その人の名前は?」
「それは知らない。名前は聞かないっていうルールの店だったから」
話しながらも、鮎太は自分たちの後方に注意を払っていた。角を曲がる時に、それとなく振り返って人影があるかどうか確認する。
「荒木さん、優しいよね」
とナオが言った。
「そんなことないさ」
「優しいよ。わざわざ送ってくれる男なんて、そういねえよ」
どうもナオの言葉づかいは、普通と乱暴とめちゃくちゃの間でグラグラしている。
「あ、でもカン違いはしちゃダメだよ。私が荒木さんにホレちゃうとか、やらしてくれるかもしんねえとか、そういうことは思わないように」
「そんなこと思ってないよ」
鮎太は、後方を振り返った時、一度だけそこに人の姿を見た。チラリと見ただけだったが、男だったような気がした。
しかし、まだ夜の九時を少し回ったところであり、路上に人の姿があるのは少しも異常なことではなかった。男を見ればストーカー、と決めつけるわけにはいかないのだ。
しばらくして角を曲がる時に後ろを見てみたら、そこには人の影はなかった。
やがて、ナオの住むアパートの前まで来てしまった。
「あそこ。あの二階の一室なんだ」
「お母さんと二人で住んでるんだね」
「うん。私のお母さん、昔はヤンキーやってたんだけど、今はマジメに保育園で保育士してんの」
「その仕事って、いつもそんなに遅くなるの?」
「うん。キャリア・ママが夜中まで働いてっから、遅くまで子供を預かることになっちまうんだって」
「部屋の前までちゃんと送ろう」
アパートの鉄製の外階段を上がった。そして端から二部屋めの、明かりのともっていない部屋のドアの前に立つ。
ナオがドアノブの鍵穴に鍵をさした。
その時、階段の下からガリッと、小石を踏みつけるような音が聞こえた。
ナオも鮎太も、音のしたほうを見た。ナオが、ようやく喉からしぼりだしたような声で言った。
「いるよ。あそこ」
階段の下の暗がりに、黒っぽい服装の男が身をひそめるように立っていた。暗くて顔は見えない。だが、確かに隠れているという感じだった。
「あいつだよ」
鮎太はいきなり歩きだし、階段を下りていった。
男が暗がりから光の当たるところへ出た。若くて理知的なイメージの顔が、ほんの一瞬見えた。男は急ぎ足で立ち去ろうとする。
「ちょっと待ってください」
と鮎太は力強い声で言った。
6
階段の下の男は足を止め、チラリと鮎太のほうを見た。その顔に、憎しみのような色が浮かんでいることに鮎太は気がついた。
鮎太は鉄の階段をガンガンと踏み鳴らして下り、その男のすぐ前まで進んだ。こういう時に、怯《お》じ気《け》づいたり、気が引けたりする人間ではないのだ。勇気があるのか、想像力が鈍くておそろしい事態を予期できないのか、どちらとも言いかねるのだが。
鮎太は相手が自分とそう年の違わない二十代半ばの男だと見てとって、なるべく穏やかな口調で言った。
「ナオちゃんに何か用があるんですか?」
男は黒っぽいスーツを着て、ネクタイをしめていた。夜だから黒に見えるのであって、紺系かもしれなかった。
「なんの話だい。迷惑だけど」
と男は言った。
「あなたがおれたちを尾行してたことには気がついてたんです。それで、このアパートまで来て、あなたは物陰に身を隠した。それってストーカー行為だと思われてもしかたのないことですよ」
男の顔にほんの少しの動揺と、激しい苛立《いらだ》ちの色が表れた。
「くだらないね。どうしてぼくがストーカーなんてバカなマネをしなきゃいけないんだ。コソコソと隠れたなんて言われるのは心外だ。言いがかりだよ」
面倒になってきて、鮎太はニッと笑ってみせた。
「ストーカーじゃないなら問題はないんです。あなたがおれたちの背後を歩いてきたのは単なる偶然かもしれませんもんね。もしそうだったらあなたに対してなんの文句もありません」
「じゃあ、もういいな」
そう言って立ち去ろうとする男の服の袖を、鮎太は弱く引っぱった。
「ナオちゃんにつきまとっていたんじゃないなら、トラブルをおこす理由はないです。だけど、もしあなたが実はストーカーで、今後もナオちゃんの身辺をうろついたりするのだとしたら……」
鮎太は両目を大きく見開いた。そうするとかなり迫力のある顔になるのである。
「おれとしては黙っちゃいられません。彼女はおれにとって大切な人だから」
成りゆき上、そう言うしかないところだった。つまり、つきまとい男をビビらせるには、おれの女に手を出すなと、こわそうな男が出てくるってのがいちばんわかりやすいからである。
「あんたがもし、もう一回ナオちゃんにつきまとったら、おれ、殴りますよ」
「めちゃくちゃな話じゃないか」
男は視線をチラリとアパートの二階のほうに向けてから、少し上ずった声で言った。ナオにはこんな男がいたのか、と思ったのかもしれない。
「めちゃくちゃでもなんでも、おれの大事なナオちゃんに手を出しそうな相手だったら殴る。怒りがおさえきれずに、ボコボコにしちゃうかもしれない」
「わかったよ。ぼくは何もしないよ。もともとストーカーだなんて誤解なんだ。誤解されて殴られるなんてたまったものじゃない」
男が本気でビビッているのが鮎太にはわかった。とりあえずは、これで十分だろうという気がした。
「何もなきゃ殴りませんよ。こんなところで呼び止めて、すみませんでしたってぐらいのものです。もういいです。お引きとりください」
男は見るからにホッとしたような顔をした。そして、ズタズタにされかかった自分のプライドを修復するかのように、胸をそらし気味にした。無意識にネクタイを右手でいじっているのは、エリート・サラリーマンであるってことの誇示なのかもしれない。
「ひとつだけ聞いてもいいかい」
「どうぞ」
「ここに住んでいるっていう彼女はぼくにはどうでもいい存在だ。だが、きみから受けた無礼は忘れないでおくよ。ぼくは東昌之《あずままさゆき》というんだけど、きみは?」
「あ、ごめん。名を言わないのは礼儀知らずだった。おれは荒木鮎太っていう、運送会社で働いている男です」
男は鮎太の顔をしげしげと見つめ、やっとこう言った。
「二度と会いたいとは思わないけどね。では、失礼するよ」
そして、東という男は心なしか足速に去っていった。
あいつが本当にストーカーだったとしても、これでひとまず追い払えたってことだろうな、と鮎太は思った。
7
用もすんだし、帰ろうかなとナオの住むアパートのほうを振り返ると、ナオが外階段を下りてきた。
「すっげー格好いいじゃん。荒木さん、あいつのことソッコーしてたよ」
どういう言葉と間違えてソッコーなんて言っているのか見当もつかなかった。
「とりあえずは追っ払ったよ。もしかしたらまだあきらめてないかもしれないけど、また何かあったらおれに言って」
「頼もしいよう」
ナオは顔をくしゃくしゃにしてそう言った。その笑顔からは、乱暴なしゃべり方をしてはいても、実はストーカーのことがこわかったんだな、ということが読みとれた。
「あいつ、自分から名前を名のったよ。それは、もう軽はずみなことはしないっていう考えからだとも思える」
「聞いてて思いだしたの。あいつ、確かに東っていう人だった。なんか、いい会社で働いてるエリートだって、格好つけまくってたんだ」
「ナオちゃんがメイド喫茶で働いてたのは、いつ頃のことなの?」
「半年前に始めて、三ヵ月でやめたの。そん時にあいつがよくお客さんで来て」
「その頃からしつこくつきまとってきたの?」
「そん時はエバッてただけで、変なことはしなかったの。それが、あそこをやめてだいぶたった二週間ぐらい前に、私、誰かに尾行されてるような気がしたんだ。なんか、雰囲気で感じんのよ。そういうことが何回かあって、超こえーなあって思って」
最近、あの東という男はナオちゃんにどこか街中《まちなか》で出会ったのかもしれない、と鮎太は考えた。それ以来ストーカー行為が始まったのだ。
「それでね、実は今日の夕方頃だけど、あいつがつるまる食堂の前に立ってて、じーっと店の中を見ているのに、私、気がついたの。めっちゃヤバイじゃんと思ったよ」
なるほど、それで今夜いきなり、ストーカーを退治してと頼んだってわけか、と鮎太は納得した。
「今夜はもう安心だと思うよ」
鮎太はそう言って力づけるように笑った。それに対してナオは、瞳をキラリと光らせた。近くに外灯があって、その光がナオの瞳に映っている。
「でもさ、荒木さんて、おれの大事なナオちゃんに手を出すなって言ってくれたんだよね」
「え? それは……」
「嘘だー、って思っちゃったよ。そんなの知らなかったもん」
「嘘だよ。だから、嘘だー、と思って当然。あの場面ではそういうことにしとくのがいちばんわかりやすいだろ。あいつを追っ払う理由にもなるし」
「そんでも、ちょっとうれしかったよ。荒木さんてさ、なんか鈍感そうなとこがあって、指の細いイケメンじゃないじゃん。だから悪いけど私のタイプじゃないのね」
「別に構わないよ、それで。おれもナオちゃんのことはなんとも思ってないから」
「痩せ我慢してんだ。ちょっと可哀相かも。あのね、あんまし大きな夢を見ちゃいけないけどさ、ホッペにチューぐらいならさせてやってもいいよ」
「しないよ、そんなこと。おれはただ頼まれて、ほうってはおけないと思ったからストーカーを退治してあげただけなの。ナオちゃんにチューしたいとか、ほかのことをしたいとはまるで思ってないから」
「軽ーくチュッて感じなら口にしてもいいよ」
「しないからあ。もう、おれ帰るよ」
ナオはちょっと残念そうな顔をしてこう言った。
「わかったよ。でもその前に、ケータイの番号を教え合っとこうよ。メアドも」
「その必要あるかな?」
「お礼のメール入れたいんだよ。それから、何かの時に、助けてって電話かけられるじゃん」
その必要はあるかもしれないな、と鮎太は思った。今夜、こんなふうにナオのストーカー騒動に巻き込まれてしまった以上は、この先もあの東って男から守ってやる義務が生じたってことであり、何かあった時に連絡がとれるようにしておくのが当然だろう、と考えたのだ。
鮎太はポケットから携帯を出し、ナオと互いの番号を教え合い、メールアドレスも交換して登録した。
「これでいいな。じゃあ、おれはもう帰るよ」
「うん。あのさ、今日のことはマジ感謝してっから」
鮎太はニッと笑って、ナオに背を向けて歩き始めた。
しばらく手を振っていたナオも、やがて自分の部屋に帰るために階段を上っていった。鍵でロックを外して、母のまだ帰っていない部屋に入る。
その時、そのアパートから十五メートルほどはなれた飲み物の自動販売機の陰から、男がふらりと姿を現した。大道寺薫だった。
本当にストーカー退治なんてできるのかと心配で、つるまる食堂から二人をそれとなくつけてきたのだ。そして途中で、二人を追うストーカー男に気がつき、その背後を追ってきて、ここでの出来事を物陰から見ていたのだった。
大道寺はクールな表情でしばらくたたずんでいたが、やがてポツリとつぶやいた。
「ま、上出来かもね」
そして歩み始めた。
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第2章 図太く生きる
1
荒木鮎太の住んでいるアパートは築四十年以上という古いもので、二階建てモルタル塗装の壁面にはびっしりと蔦《つた》がからまっており、まるでお化け屋敷のように見える。だが、そのぶん、家賃が安くて助かるのだった。
鮎太の入っている部屋はもともと子供のいる家庭用のもので、台所のほかに八畳間がふたつもあった。それでいて家賃は普通の1K並みである。鮎太は新しさよりも広さのほうをとったのだ。
八畳間のひとつに、万年床があり、テレビがあり、デスクがあり、デスクの上にパソコンが置いてあった。普段はその部屋で生活しているのである。男の独り住まいで、もちろんのことかなり散らかっているが、何日も前に食べたインスタント麺のカップがころがっているようなところまではいっていなかった。そこまでのゴミタメ男ではなく、むしろ自分ではきれい好きだと思っているのだ。
もうひとつの八畳間は、最近は忙しくてあまり使っていない趣味用の部屋だった。そこには、ツーリング用の自転車が二台と、自転車のパーツが雑多に置いてある。そして壁という壁に、全国各地にロード・ツーリングで行って撮った写真が大きく引き伸ばして貼りつけてあった。
鮎太は大学四年の時に自転車で日本一周旅行をしたことがあった。この頃は、ツーリングを楽しむ時間がそうとれないのだが、趣味のためのこういう部屋が持てているのは精神的なゆとりになっているのだ。
鮎太がテレビをつけてその前にべたりと座り込むと、携帯がメール受信のコール音を鳴らした。見てみると、ナオからのメールだった。笑ってしまうような文面である。
今夜は助けてくれてありがとう。すごく頼もしかったよ。ちょっとこわかったんだけど、これでもうスカッとしちゃった。
というようなことが、主語と句読点のほとんどない文章になっていた。そして、句読点の代わりだとでもいうように、絵文字が目がチカチカするほどたくさん使われていた。ハートマークや、富士山からの日の出や、クラッカーがポンとはじけるのやらだ。
鮎太は考えて、この先またあいつにつきまとわれることがあったら、すぐに連絡をくれるように、という内容の短いメールを返した。それを送信して、一分後に、そうするよ、頼もしいニャー、という返信が来た。
これ以上かかずらっていてはエンドレスになる、と判断してもう返信しなかった。そして鮎太は三日ぶりに風呂をわかして、それに入ってから寝た。たとえば数週間にわたって、毎日睡眠時間が三時間しかとれない、なんてことがあっても、体を壊すでもなく、なんとか乗りきってしまう体力が鮎太にはあった。そして逆に、十時間以上寝てていい日には、さっさと寝て途中一度も目覚めないのだ。眠りについてもそうだし、食事についても似たところがあって、鮎太にはあるだけのぶんでなんとか生きていく、という生命力のようなものがそなわっていた。そして金についても同様である。ある時はどんどん使ってしまい、ない時は何か仕事にありついて働くのであった。
近頃はあまり金がなくて、富士山運送で真面目に働いている。派遣社員だからいつまで働けるものなのか保証はないのだが、引っ越しシーズンである三月、四月いっぱいくらいまでは多分、派遣先が替わることもないだろう。
そんなわけで、鮎太はその翌日も富士山運送に出社し、小さな引っ越しを二軒ぶんこなした。その日の仕事では、特に運の悪いこともおこらなかった。
ところが、一日の仕事を終えて夕刻、会社に戻ったところで思いがけない人物に話しかけられた。
「ねえ、荒木くん。今ちょっと時間いいかなあ」
経理部の水野《みずの》という、三十代半ばの男だった。顔も名前も知ってはいたが、一日中、事務所で経理事務をしているその人と言葉を交わしたことはほとんどなかった。
「いいですけど、なんですか」
「ちょっと相談にのってほしいんだ。ここじゃなんだから、お茶を飲みに出よう」
会社の近くの喫茶店で、向かい合って座ることになった。
「荒木くんは元気だよね。バイタリティーってものがあるよ。仕事を終えて荒木くんが事務所に帰ってくると、急に雰囲気が明るくなるからね」
水野はまずそんなことを言った。ほめられているのか、バカにされているのかよくわからない。だから、コーヒーがきて、それを一口飲んだところで鮎太はたずねた。
「あの、ぼくに相談ってどういうことでしょうか」
「あのさあ、力を貸してもらえないだろうか。ちょっと困っていることがあるんだ」
「はあ」
「請求書を出しているのに、引っ越し代金を払ってくれない会社があるんだ。もう二ヵ月も支払いを引きのばしているんだよ。それではうちが困っちゃうから、むこうの担当者に何度も電話して、なんとかしてほしいと交渉してきたんだけど、今は苦しくて払えない、の一点張りなんだよ」
「それ、会社なんですね」
「そう。アッカド興業っていう、興行関係の会社だよ。その、オフィスの移転費用百十五万円が未納になってるんだ」
「大金ですね」
「そうだよ。だから支払ってもらえないと、うちも大打撃なんだよ。だから、ここは直接出向いて交渉するところなんだけど、その、わかってほしいんだけど、少し心細くてね」
「水野さんがその会社に乗り込んで、かけ合うわけですね」
「この仕事を取ってきた営業部の中山《なかやま》さんが、一月に退職しちゃったんだよ。それで、仕事のほうはすんでいて支払いに関するゴタゴタなんだから、経理の私が担当しろと社長が言うんだ。でも、これまでの電話でのやりとりで、言うことが荒っぽい会社だとわかってきてるから、つい、二の足を踏んでしまうんだよ。やくざの事務所ってなんとか興業とか看板をかかげることがあるから、もしかしたらそうなのかと思ってしまって」
鮎太は大きくうなずいた。
「それで、ぼくに一緒に行ってほしいってわけですか」
「そう。誰かが一緒に行ってくれたら心強いなあと考えてて、荒木くんがいちばん頼もしいと思ったんだ。一緒に行ってくれるなら、引っ越しのほうの担当から外すように段取りをつけるから」
「わかりました。行きます。いつになりますか」
「明日訪ねるってことで話がつけてある」
「では、ぼくは明日、水野さんに同行します」
なんの迷いもなく鮎太は力強く言った。
2
それにしても水野は気の小さい男だった。経理事務一筋できた男で、交渉事はどちらかといえば苦手らしい。相手方に支払いを要求するくらいでドギマギしてしまい、むこうがちょっと大きな声を出したら縮みあがってしまうわけである。
アッカド興業という会社へ行く地下鉄の中で、水野は先方がこれまでどう言ってきたかを説明してくれた。要するに、今はちょっと資金繰りが苦しいので待ってくれと、それが当然のことのようにくり返すのだそうだ。そういう引きのばしを、いかにもやり慣れている感じなのだそうだ。
「そんなことばっかりやっている会社なんですかね」
と、鮎太は言った。とんでもない話だが、現実にはそういう会社ってあるのかもしれないな、という気がした。
その日の鮎太は背広を着ていた。そうしてくれと水野に言われたからだ。ちゃんとネクタイもしめている。おまけに水野は、鮎太のために、富士山運送経理部主任、という肩書のついた名刺を用意していた。きみはその名刺を出したまえ、というわけだ。なんか、そういう手配の細かさがみみっちい。
「ちょっと他社にも当たってみたんだけど、社長がやけに強引なやり方をするって噂になっているようなんだよ」
そう言って水野は怯えたような顔をした。
「オフィスの引っ越しでしたよね」
「そう。それはもう去年の十二月に行われているんだよ」
「仕事はしてるんですから、支払わずにすますなんてこと、できっこないですよ」
鮎太は大きく構えてそう言った。実は、どんな時にも大きく構えている男なのだが。
アッカド興業は都心部の三十六階建てのビルに、ワンフロアを占めるオフィスを持っていた。ここにこれだけのオフィスを持てるのは相当に業績のいい会社だろうと想像がつく。
受付で来意を告げると、すぐに若い女性が応対のために現れた。女は、水野と鮎太に名刺をくれた。社長室秘書|三澤《みさわ》はるか、と名刺にはあった。
自分も名刺を出しながら、鮎太はその女性の顔から目がはなせなくなってしまった。
年の頃は二十三、四、というところだろうか。秘書という仕事に似合いの紺のスーツを着ており、前にスリットの入ったスカートはタイトで、膝上丈だった。縦ロールの長い髪はブラウン系で、ゴージャスだ。
ものごしは丁寧だったが、その女性には言葉では表現しにくい艶《つや》があった。目の輝きにはわずかながら知性が感じられるのに、ぽってりとした赤い唇はこの上なくセクシーなのだ。そして、その艶っぽさが紺のスーツに閉じ込められているというのが、不思議になまめかしかった。
「うかがっておりますわ。どうぞ」
と、秘書の三澤はるかは言って、二人を社長室に案内してくれた。水野は緊張のあまりロボットのように歩き、鮎太は美人秘書に目を奪われっぱなしだった。
社長室に通されると、そこには五十年配の、頭髪の一本もない男がいて、大きな机を前にして座ったまま、面倒くさそうに顔を上げた。
「富士山運送の水野さんと荒木さんです」
三澤はるかがそう言うと、そうか、とその男は言った。
「引っ越し代金の件だったな」
そう言うと立ちあがり、大きな机の前に出てきて、接客用のソファとテーブルのセットのところまで来た。そこで、名刺交換をする。
その禿頭《はげあたま》の男が社長の大岩重夫《おおいわしげお》だった。
「まあ、掛けなさい」
というところから商談が始まる。水野はやけに恐縮して、お忙しいところ、お時間をとっていただき、まことに申し訳ありません、というところから話し始めた。この会社の立派さに圧倒されているのかもしれない。
確かに、金のかかった重厚な社長室ではあった。デスクがマホガニーの見事なものであり、椅子は背もたれの大きな革張りだった。応接セットのソファも、座ると体が沈み込むような高級感のあるもので、大理石の大きなテーブルの上には水槽があって、熱帯魚が泳いでいた。壁には、そう大きなものではないが、農夫が夕陽を浴び、鋤《すき》をかついで歩いている黒っぽい絵が飾られていた。
水野はなんだかまわりくどく、昨年十二月の貴社の移転につきまして、確かに作業を遂行し、見積もりのとおりに一月三十日付で請求書をお出ししているのですが、残念ながらまだお支払いをいただいておりません、というところから説明をした。
いったん姿を消していた三澤はるかがお盆の上に茶托《ちゃたく》と湯呑みをのせて運んできて、三人にお茶を出した。
その女性が出てきてしまうと、鮎太はどうしても見とれてしまう。前にスリットの入ったタイトスカートの秘書が身をかがめて茶を出すと、スリットが開いて真っ白な内腿があらわになって、鮎太はゴクンと唾を呑み込んだ。
と、そこで大岩が威圧的な大きな声で言った。
「すまんことだと思ってるんだよ。もちろんのこと、お宅には引っ越し代金を払わなきゃいかんところだ。だが、今はちょっと金策に苦しんでいて、払おうにも払えんのだよ」
それは、こんな言い逃れには慣れきっているという感じの、ふてぶてしい開き直りに聞こえた。
3
「こちらさまほどの立派なオフィスを構えておられて、この程度の支払いができないなんてことがあるとは、とても思えませんが」
水野は泣きそうな声でそう言った。鮎太は黙って聞いているだけだった。
秘書の三澤はるかは、お茶を出すと姿を消していた。
「それが、払えんのだよ。身の程知らずに、ちょっと豪華すぎるオフィスを構えたのかもしれんと思ってるんだ。ここに移って、機材などを揃えたらもう、すっからかんになってしまってね。もちろんのこと、永久に払わんと言ってるわけじゃない。金繰りがついたらすぐにでも払うつもりなんだが、今はそれができん。だから待ってもらうしかない」
水野は五秒くらい何も言わずにうつむいていた。そうですか、と引き下がるしかないのかと、悩みに悩んでいるらしい。しかし、ここで引き下がるわけにはいかないと、苦悩の末に決断をしたらしい。
「しかし、そちらさま以上に、当社のような弱小企業ですと、百万円以上の未払い金は重大なものでございまして、お待ちしている余裕がないのです」
「わからない人ですな。払えるものならすぐにでも払いたいんだと言っとるじゃないかね。だが、それができんのだから、待ってもらうしかない。ビジネスとはそういう、助け合いでしょう」
そう言いながら、まったく悪びれたところがないのである。とっとと帰れ、と言わんばかりの様子だった。
そこで、ついに鮎太が口を開いた。
「つまり、本当はお支払いになるお気持ちはあるのだ、ということですか?」
水野はすがるような目で鮎太を見た。
「そうですよ。払えるものなら払います。その気は大いにある。だが、気持ちはあっても現実には無理だというわけで……」
「支払いのためにご尽力されるお気持ちはあるということですね」
「そうだよ。現にいろいろと努力はしているんだから。ところがなかなかうまくいかんのだよ。それがビジネスというものだがね」
大岩は若い鮎太にものを教えるようにしゃべった。
「支払う方法があるなら、その方法を講じて払う気十分だということですね」
「そんな方法があればそうするさ。名案があるなら、必ずそうしているよ」
「はい」
と大きくうなずいてから、鮎太は社長室の中をぐるりと見まわした。そして、いきなりこう言った。
「それでは、こうしましょう」
鮎太は立ちあがり、つかつかと壁のほうに歩み寄った。そして、そこにかかっている農夫を描いた絵を指で示す。
「この絵をいただいていきます」
「な、何を言っとるんだね、きみは。その絵はいかんよ」
「お支払いいただけないんだから、こんな絵でももらうほかないじゃありませんか。これ、小さな絵だからそう高いとは思えませんが、立派な額に入っているところから判断して、数十万円にはなるでしょう。だから、とりあえず支払い額の一部として、いただいて帰ります」
鮎太は絵のほうに手をのばしかけた。
「触るな! その絵に触ってはいかん。バカなことをするんじゃない。なんという無茶な男だ」
「でも、できることはしたいんだとおっしゃったじゃないですか」
「それとこれとは話が違う。その絵を持っていけば、きみは泥棒したということになるんだぞ」
鮎太はゆっくり振り返って、大岩の顔を見て言った。
「そんなおかしな話はありませんよ。社長は私たちに、支払う方法があるならそうするつもりだと、今おっしゃったじゃないですか。だからこれはもらってもいいものだということになります」
「そんなことを言ってはおらん。いいか、その絵に手を触れたら警察に通報するぞ」
「言ったことを言っていないと主張されては、水かけ論になってしまいますよ。では、これをお見せするしかないですね」
そう言って鮎太は、背広のポケットから小さな四角いものを出し、相手に見せつけるようにした。シルバーの、小型メカといった感じのものである。横にいくつもボタンがついていた。
「社長のおっしゃったことは、ここに録音されています。ですから先程の、名案があるならそうして、なんとか支払いをする意志があるんだという発言が、ここには記録されているわけです」
鮎太が手にしているものは実はデジカメであった。最新のものだからビデオカメラ機能もついており、ポケットの中に入れたままボタンを押せば確かに音声の録音もできる。しかし、この時はそうやって録音していたわけではなかった。
カメラとして使用しない時はカバーがかかってレンズが見えない、そのシャープなデザインのメカを、相手が何か最新式の録音機だと誤解するだろうと読んで、一芝居打ったのだ。
「ここに社長の発言が記録されているんですから、絵をもらって帰っても泥棒ってことにはならないと思います。ですからこれを……」
また絵のほうに手をのばす。
「やめろ。わかった。わかったから、その絵には触るな」
「わかったとは、別の方法でお支払いいただけるということですか?」
「まず座れ。そうだよ。支払いはなんとかするよ。だからその絵からはなれなさい」
大岩は興奮で顔を真っ赤にしてそう言った。
4
大岩は机のところへ行くと電話を取りあげ、内線のボタンを押した。すぐに、女性の声が微《かす》かに、はい、と答えるのが聞こえて、鮎太はさっきの秘書だな、と思った。
「経理部の佐々木《ささき》くんを呼んでくれ」
大岩は怒ったようにそう言うと、机の前の肘かけつきの椅子にドカッと座った。それから、さっき交換した名刺を取りあげて一瞥《いちべつ》してから、鮎太のほうを見て言った。
「経理部主任の荒木さんだったね。ちょっと忘れられない名前になりそうだ」
この海千山千の禿社長に名前を記憶されるのかと思うとあまりいい気分ではなかったが、そういう顔をするわけにもいかなかった。
「今後とも、どうぞよろしくお願いします」
鮎太は涼しい顔でそう言った。
しばらくして、社長室のドアがノックされ、秘書の三澤はるかの先導で背広姿の男が入室した。経理部の佐々木という男なのだろう。
大岩はなんの説明もしないで、ただ佐々木に指示を出した。
「富士山運送から引っ越し代金の請求書が来ているだろ。あれをすぐに支払うように手配しろ」
鮎太の横で、水野が細くため息をついた。うまく話がついて心からホッとしているのだろう。
「ですが、あれはしばらく様子を見るということだったのでは」
と佐々木が不思議そうに言った。
「いいから、今日中にでも支払いの手続きをすませるんだ」
わかりました、と言って佐々木は部屋から出ていった。三澤はるかはなんとなく室内に残り、ドアの近くに立って鮎太のほうを見ていた。
大岩が椅子から立ちあがり、応接セットのほうに歩きながら鮎太に言った。
「これで文句はないだろう。代金は間違いなく振り込む」
「ありがとうございます」
と鮎太は言い、笑顔を見せた。
水野がいきなり立ちあがり、深々と頭を下げて上ずった声を出した。
「どうもありがとうございます」
「この若い人の強引さに負けたということだよ。どの道、いつか支払う気はあったんだがね」
そう言ってから大岩は、さりげなく鮎太に語りかけた。
「私の話を録音したというさっきの機械だが、どんなものかね」
鮎太は立ちあがり、一度上着のポケットにしまっていたシルバーのデジカメを取りだした。
「見せてくれないか」
と大岩が手を出したので、素直にそれを渡した。
「こんなもので簡単に録音ができてしまうんだ。いやな世の中になった」
そう言うと、大理石のテーブルのほうに歩み寄り、なんのためらいもなく大岩はそれを熱帯魚の泳いでいる水槽の中に落とした。
「わーっ!」
驚きのあまり奇声を発し、鮎太は駆け寄って水槽の中に手を突っ込んだ。上着やシャツの袖が濡れることにも構わず、スーッと落ちていくデジカメが水槽の底に着く前に掴んで水中から引っぱりあげた。
「うわー、びしょ濡れだ」
ハンカチを出してとりあえず水気をぬぐったが、今さらどうにもならなかった。メインのスイッチをオンにしてみたが、カバーがスライドしてレンズが出てくるといういつもの動作はおこらなかった。
「壊れてる……」
すると、大岩が言った。
「私は断りなく声を録音されるのが好きではないんだ。ましてや、その私の発言を誰かに保管されているなんて、まっぴらでね」
鮎太は言葉につまり、ただ壊れたデジカメをポケットにしまった。
くやしいのだが、鮎太には抗議ができないのだ。確かに、相手に無断で話を録音するのは非礼なことだからである。
あなたの言葉を録音した、という嘘が通ってしまったのだから、次は相手に、その録音を消去しろと要求する権利がある。壊すことはないじゃないか、という気がするのだが、こちらも少々後ろめたいやり方をしていて、文句が言えないのだ。
鮎太はギロリと目をむいて大岩を見つめると、おさえた口調でこう言った。
「ではこれで、文句はありませんね」
大岩はニヤリと笑って、余裕たっぷりにうなずいた。
5
「それだって、やっぱり鮎太の運の悪さだわよ」
大道寺はなんだかうれしそうにそう言った。
「そんなことないだろ。会社から与えられた任務を見事にはたしたっていう話だぜ。おれって、何をやらせてもちゃんとやってのけるなあ、と我ながら驚く」
二人でつるまる食堂で夕めしを食べているのだ。ただし、今夜は二人とも一本ずつビールの中瓶がついている。給料が出たうれしい日なのだ。
「会社としては集金ができたのはいいことよ。でもそれであなたが得をするわけじゃないのよ。あなたとしては、ただデジカメを壊されただけで大損じゃない」
「それは些細《ささい》なことだよ。百十五万円という集金がうまくいったんだぜ。めでたいじゃないか」
「ハッピーな考え方だこと。私には、そもそも経理の水野さんに助太刀《すけだち》を頼まれちゃうってことが、鮎太の運の悪さに思えるんだけど」
「そういうふうに、悪いほうにばっかり考えてはいけないよ。頼りになる人間だと思われてるからこそ声もかかるんだ」
そう言うと鮎太は肉野菜炒めをパクつき、コップのビールをうまそうに飲み干した。
「本人がそう思って大満足なら、私が気の毒がってやることはないんだけどね」
大道寺はあきれ顔でそう言った。
鮎太はビール瓶を手にしてコップの上で逆さにしてみるが、もう一滴も残っていなかった。
と、そこへ桜田ナオがお盆の上にビール瓶をのせて近寄ってきた。
「荒木さん、ビールのお代わりだよ」
「やめとくよ。給料が出た日だからって、調子にのりすぎはよくない」
「いいの。これは私のおごりだから」
そう言って、ビールの栓を抜いてテーブルの上に置く。
「悪いなあ」
「いいんだって。荒木さんって、私の味方だから」
「あらまあ。安いボディーガード代だこと」
プッとふくれっ面をしてナオは言った。
「荒木さんにおごるんだから、大道寺さんに飲ましちゃダメだよ」
苦笑しつつコップにビールをつぎ、うまそうに飲んでから鮎太はナオに言った。
「あれから、変な奴に尾行されたりはしてないんだね」
「うん。注意してるんだけど、あれからあいつの姿は見ない」
それはよかった、と大きくうなずいて、鮎太はついナオの脚を見てしまう。今日もナオはミニスカートで、形のいいナマ脚は何度見ても結構なものだった。
ただ、この時、鮎太はナオの脚から別の女性の脚を連想した。アッカド興業の社長秘書、三澤はるかのタイトスカートのスリットから見えていたあの脚だ。若々しくてピチピチしているのは断然ナオの脚だった。だが、あの秘書の脚には妙にきわどい色気があった。あれはあれで、捨てがたい味がある。
鮎太がそんなことを考えているのを見通したかのように大道寺が言った。
「そのナマ脚はサービスで見せてんの?」
「そんなわけねえじゃん。これはファッションだもん」
ナオはベーッと舌を出すと、店の奥に下がっていった。
そこで鮎太は、ナオのおごりのビールを大道寺のコップにもついでやる。
「鮎太もいろんな人に頼りにされちゃって大変よね。あなたのその、殴られても少しも痛がらないみたいな鈍い感じが頼もしそうに見えるのかも」
「冗談言うなよ。おれだって殴られたら痛いぞ」
「だったらちょっと心配よね」
「何が」
「強欲な禿社長のことよ。きっとそいつ、支払いについてさんざんゴネて、うやむやにしちゃうとか、値引きさせるとかいうやり方でいろんな業者を泣かせてきてる悪党だと思うの。どんな手を使ってでも自分の無茶を通してしまうような奴よ」
「そうかもな」
「そうかもな、じゃないわよ。そんな奴があなたのせいで支払いに応じるはめになっちゃって、怒り狂ってるんじゃないかしら。何かあなたに仕返しをしてくるんじゃないの」
「そんなめちゃくちゃな話があるもんか」
と鮎太は言ったが、頭の中にあの大岩という社長の顔を思い浮かべて、少し心細くなったのは確かな事実だった。
6
その、思いがけない電話がかかってきたのは、アッカド興業に引っ越し代金の回収に行った翌日のことだった。その日の引っ越し作業を終えて会社に戻ってきた夕方、大道寺に業務報告をしていたら、営業部の社員から声をかけられたのだ。
「荒木くん。きみに電話だ」
友達なら携帯にかけてくるはずで、派遣先の会社に電話をかけてくる人間には心当たりがなかった。
「ぼくですか」
と言いながら、その社員の近くへ行ってみると、保留にしてある電話機を指さしてその人は言った。
「そうだよ。アッカド興業の三澤さんからだ」
この時、まず思ったのは、まさか、ということだった。あの美人秘書がどうしておれに電話してくるんだと。とにかく鮎太は受話器を取って保留のボタンを押した。
「もしもし、荒木ですが」
「荒木鮎太さんですね」
「そうですが」
「昨日《さくじつ》お目にかかったアッカド興業の三澤ですけど、覚えていらっしゃいますか」
最初のとまどいが薄れてくると、鮎太は図々しく、こういうこともありかも、と思った。思いがけない相手からの電話なのに、やっぱりこうなるんだよな、という気がしたのだ。なぜそんな気がするのかは自分でもよくわからなかった。きのうから、その女性のことをなんとなく気にしていたのかもしれない。
「はい、もちろん覚えています。社長室の秘書の方でしたよね」
そうか、名刺交換をしたものな、と鮎太は考えていた。
「あの、どういうふうにお話しすればいいのかよくわからないんですけど」
きのう、ほんの少し言葉を交わした時にも感じたのだが、三澤はるかの声は低く落ちついていて、本人にその気はないのだろうがやけにセクシーだった。そしてその声が、少しためらっている様子だ。
「あの、仕事の用件ではありません。それとは別に、荒木さんにお目にかかってお話ししたいことがあるんです。こんな言い方では事情がわからないでしょうけど」
鮎太は腹を決めた。一目見て、色っぽくて気になる女性だな、と思っていたのだ。その人から電話をもらってたじろいでいてはいけない。
「何か事情があるんですね」
「そうです。それで、会ってお話をする必要があるんです」
「急いでるみたいですね」
「早いほうがいいんです。たとえば、今夜どこかでお目にかかれれば、それがいちばんいいんですけど」
「わかりました。別に予定は入ってないから時間はつくれます」
「では、こういうことにしましょう。六本木のセブンズ・ビルはわかりますか」
ランドマークのひとつとして有名なビルだった。知っていると答えると、今夜八時に、そのビルの四十階にあるティー・ルームで会おうと、三澤はるかは言った。
「わかりました。行きます」
「お話はそこでしますけど、不思議なお気持ちでしょうからこのことだけ言っておきますわ。荒木さんの安全のために、知っておいてほしいことがあるんです」
「安全のためですか」
鮎太はなぜかヒヤリとした。そして、だったらこれを聞いとかなきゃ、と思った。
「あの、お話を聞くのはぼく一人でいいんですか。うちの経理部の水野、えーと、きのうぼくと一緒にそちらにうかがった者ですが、彼は行かなくていいのですか」
「荒木さんだけでいいんです。そのわけも今夜お話ししますから」
「はい。ではとにかく、八時にそこへ行きますから」
では、よろしく、ということで通話は終わった。なんだかよくわからない話である。あなたの安全のためだなんて言われて、不安にもかられてしまう。
だが鮎太は、また三澤はるかに会えるということを喜ぶことにした。というか、今夜の再会のことを思うとついニヤニヤしてしまうのだ。
おれに一目惚れした、ということだってないとは言えないものな、なんて考えてうれしくなってくる。
つい、あれこれ考えてしまっていると、大道寺がこう声をかけてきた。
「どうしたのよ。顔のネジがゆるんじゃってるわよ」
「いや、いいんだ。うーん、いい調子だ!」
そう言って鮎太は両腕を左右に力強く突きだしてみる。
大道寺はそんな鮎太を見て、また何か悪いことに巻き込まれるのよ、と言いたそうな顔をした。
7
約束の時間に、指定されたティー・ルームへ行ってみると、三澤はるかはもう来ていて紅茶を飲んでいた。今夜は黒のパンツ・スーツ姿で、なまめかしい脚を見ることはできなかったが、いかにも仕事のできる女ふうに決まっていた。
「お呼びたてしてすみません」
と、はるかは言った。それはいいんですが、あなたから連絡を受けるとは正直言って意外でした、と答える。
「どうしようか迷ったんですけど、自分の気持ちに正直でいようと決めたんです」
どんな話をすればいいのかわからず、口ごもってしまう鮎太だった。注文したコーヒーがきたので、とりあえず口をつける。
「きのうの集金は、強引でしたけどお見事でしたわ」
はるかはまっすぐ鮎太の目を見てそう言った。
「それほどでもないですが、うまく話がついてよかったです」
「うちの社長が、あんなふうに押しきられるところを初めて見ました」
はるかはアッカド興業の社員であることからはなれてしゃべっているのだった。社員として発言するなら、うちの大岩が、になるはずだからである。
「しがない運送会社にとってあの請求額は大金で、必死だったんです」
鮎太がそう言うと、はるかは小さく首をひねった。
「荒木さんは本当に富士山運送の経理部の主任さんなのかしら」
「え?」
「あの名刺、もう一人の方のと違って社名のロゴが入っていませんでしたわ。それに、荒木さんは経理が似合うタイプとも思えませんし」
鮎太は堂々と頭をかいて、笑顔で言った。
「バレましたか。実は引っ越し業務をやらされている派遣社員なんです。きのうは、水野さんに頼まれて助っ人としてついていったというわけで」
「やっぱりね。サラリーマンの感じがしなくて、自由人のイメージだもの」
はるかの表情がゆるんで、口調もなれなれしいものになった。
「でも、そう思っているのは私だけで、社長はあなたを富士山運送の社員だと思っているわ。それで、ひとつ注意をしてほしいの」
鮎太は表情をひきしめてうなずいた。はるかの話が本題に入るとわかったからだ。
「うちの社長、なんだって自分の思いどおりにならないと気がすまない人で、やり方が強引なの。敵に回すと面倒な人よ」
「そんな感じですね」
「その社長があなたのことを、このまま見逃すわけにはいかないと言ってるの」
「どういう意味ですか」
「まんまと支払いをさせられて腹の虫が収まらないのよ。仕返しをしたがってるわ」
鮎太は思いきって聞いてみた。
「あの、アッカド興業って、裏で暴力団とつながっているというような会社なんですか」
「まさか。そんな会社ではなくて、ちゃんとした興行会社よ。だから暴力団の仕返しのようなことを心配することはないわ。でも、あの社長は執念深いから、必ずあなたに何か嫌がらせをすると思うの。このままではすまさんぞって、きのうから何度も言っているんだから」
暴力団がらみでないんなら、そうこわくはないな、と鮎太は思った。
「だから用心してくださいって、あなたに伝えておきたかったの」
「あの、三澤さんはあの会社の社員ですよね」
「ええ、そうよ」
「それなのに、どうしてそれをぼくに教えてくれるんですか。それって一応、社長や会社に対する裏切りですよね」
「だって、支払うべきものを支払わされただけなのに、あいつは許せん、なんて恨むのはおかしいでしょう。いくら勤めている会社の社長でも、そんなおかしなことは見過ごせないと思うの」
「それでぼくに忠告してくれるんですか」
はるかは、そう、と言ってうなずきかけ、それから急に、そうじゃない、というように首を横に振った。
「私、今度のことでようやく決心がついたの。この頃ずっと、会社をやめようかと迷っていたんだけど、支払いをうやむやにしてしまおうとするようなあの社長のやり方を見ていて、やっぱりこんな会社にはいられないと思ったの。それで、やめる決心をしたらすごくすっきりして、悩みもなくなっちゃったわ。そうしたら、あなたにだけは用心するように伝えなきゃ、という気がしたのよ」
三澤はるかはそう言うと、ようやくすっきりしたとでもいうように、軽やかな顔つきになった。
8
大岩の考えている仕返しがどの程度のことなのかよくわからないのが、不安と言えば不安だった。屈強な社員数名で襲いかからせ、ボコボコにのしてしまえ、というようなことなのか。それとも、腕の骨の一本もへし折れということなのか。
しかし、そういうのはどう考えても暴力団的なやり方だった。はるかの言うことを信用すれば、常識外れの豪腕社長ではあっても、暴力団がらみではなさそうだ。ならば、暴力に訴えるということはとりあえず考えなくてもいいのではないか。
そこまでは考えてみたが、ではどんな仕返しがあるんだろうと思うと、落ちついた気分ではいられなかった。
そのうちに鮎太には、どうにでもしやがれ、というような居直った気分がわきおこってきた。定職についていない派遣社員にこわいものなんかないんだ、である。そして、このことをわざわざ耳に入れてくれた三澤はるかに好感を抱いた。
「そういうことだと、あなたがぼくと会っているところを会社の人間に見られたら厄介なことになっちゃうんだよね? 社長が恨んでる人間に情報をもらしているように見えるわけだから」
「そうかもしれないけど、もうそんなのどうでもいい気分なの。あの会社をやめるって決めたんだから」
とにかく、ありがとう、と鮎太は礼を言った。それに対してはるかが言ったのは、少しお酒を飲まない? という誘いだった。
願ってもない展開である。この女性ともう少しお近づきになれたらと望んでいたところだった。
場所を、洒落たバーの夜景の見えるカウンター席に変えた。はるかはラム酒のソーダ割りを、鮎太はシングルモルトをロックで注文する。
ここはおれが払いを持つ、と決めている鮎太だった。さっきのティー・ルームでは、私が呼びだしたんだからと、はるかが支払いをしてしまったのだ。だから今度は鮎太が払う。給料が入ってすぐで、懐にゆとりはあった。
バーでは、主にはるかが鮎太のことを聞いた。どうして派遣社員をしているの、という答えにくい質問もあった。気楽な派遣が性《しょう》に合っているんだよ、と答える。単なる派遣なのに、声が大きいから水野さんみたいな気の弱い人には頼られちゃうんだよ、なんて話もした。
そんな会話の中から、はるかが大学を出てからあの会社で働くようになって二年だということがわかってきた。初めの半年は企画室勤務でそれなりに面白かったのだが、その後、秘書室に配属になって、大岩社長と接することが多くなったのだそうだ。こういう人なんだからと考え、言葉の上でのセクハラまがいには耐えてきたのだが、だんだんこの人のやり方にはついていけない、と感じるようになったのだとか。今年に入ってずっと、会社をやめようかと悩んでいたのだそうだ。
そして、やめると決心がついたので、はるかは肩の荷がおりたような表情だった。
「壁にかかっている絵のところへ行って、これをもらって帰ります、と言ったんですってね。あれには社長もなんてことを言いだす奴だとあきれていたわ」
「あれ、地味な絵だったけど、額が立派だったからさ、少しは値のつくものかもしれないと思ったんだよ。あのあわてぶりから考えると、図星だったみたいだね」
はるかが信じられないというような顔をした。
「あなた、あの絵のことがわかっていたわけじゃないの?」
「あの絵がどうしたの」
「あれ、ミレーの油絵よ」
「ミレーって誰だっけ」
「フランスの有名な画家じゃない。『種まく人』とか『落穂拾い』とか、すごくよく知られているわ」
「『落穂拾い』っていうのは知ってるよ。畑で女の人が何人か腰をかがめている絵だね」
「日本では特にミレーの人気が高いの。社長室にあったあの絵は、小品だけれど数千万円するのよ」
「それ、マジ?」
驚いて椅子から落ちそうになって、かろうじてカウンターにつかまって助かった。
「そのことを知ってて言ったわけじゃないのね」
「知らなかった。数千万円もの絵だなんて、考えもしなかったよ」
「信じられないわ。あなたがそんなことを言うから、社長はあわてて支払いをする気になったのよ」
鮎太は、えーっ、と言ったきり二の句がつげなかった。頭の中に浮かんでくる思いは、あの時あの絵に手をかけて、落としたり、傷をつけたりしなくてよかった、ということばかりだった。
9
一時間ばかりそのバーで時を過ごし、事実上は初対面に近い相手のことが少しはわかってきた。はるかは確かにテキパキと仕事のできる有能な女性であり、まっとうな倫理観を持った年頃の女性でもあるようだった。
そろそろお開きだろうと考えて、鮎太はもう一度はるかの心遣いに礼を言った。
「私に決断のきっかけをくれた人だから、今夜のことは当然なの」
と、はるかは言った。
バーを出て、さてどう帰ろうかということになる。相手がホロ酔い加減なのを見て、鮎太は車で送ろうか、と言った。
「いいえ。一人でタクシーで帰れるわ」
はるかがそう言うので、鮎太は歩道の端に立ってタクシーをつかまえた。まだそんなに夜はふけておらず、人通りだってあった。
タクシーが停まったので、はるかのほうを振り返る。少し酔っているはるかは目がトロンとしていて、やけにあどけなく、可愛らしく見えた。
タクシーのほうに歩いてくるはるかに鮎太は言った。
「本当に今日はありがとう。忠告を忘れずにいろいろ用心するよ」
はるかは鮎太の前に立って、うん、とうなずいた。そして、目に妖《あや》しい光を宿して小さな声で言った。
「今日はこれだけ」
いきなり上体を前に突きだして、背のびをしつつ、鮎太の唇に自分の唇をチョンと合わせた。
鮎太はブルッと身震いして声を発することもできなかった。
何事もなかったかのように、はるかは身をひるがえすと、タクシーに乗り込んだ。ドアが閉じて、走り去っていく。
鮎太は棒になったように立ちつくしてそのタクシーを目で追った。三十秒ほど、ずっと同じ姿勢でいた。
ようやく体の力を抜き、鮎太は歩道のほうに体の向きを変えた。そして、夢の中にいるかのようにぼんやりして、ふわふわと歩き始めた。頭の中にはるかの「今日はこれだけ」という言葉がまだ残っていた。
前方に人が立っている。かろうじてそれに気がついて、鮎太はその人をよけるように横にそれた。ところが、その人物が鮎太を通せんぼするように、横に動いて道をふさぐ。
その人の二メートル手前で、鮎太は足を止めて、意識をはっきり持って相手の顔を見た。
立っていたのは男だった。スーツ姿で、サラリーマンに見える。
鮎太が気がつく前に、その男のほうが声を出した。
「きみだったのか。なんなんだ、きみは。どうしてきみなんだ」
その声には聞き覚えがあった。
「荒木だったよな。どうしていつもきみがからんでくるんだ」
それは鮎太にだってわからない。どうしてここにこいつがいるんだと思うばかりである。
男は、ナオにストーカー行為をしていたあのサラリーマンだった。確か、東昌之という名前だった。
「あなたは……」
「なぜきみはいつもいつもぼくと女性の間に割り込んでくるんだ。何を考えてるんだ」
「東さん、だよね。なんの話なの?」
「なんの話じゃないよ。どうしてきみはぼくの彼女と路上で別れのキスをしてんだよ。ああ、はるかがいるじゃないかと見てたら、いきなりあれだぜ。ふざけんじゃないよ」
鮎太はあまりのことに口を大きく開けたまま言葉が出てこなくなってしまう。
三澤はるかが、こいつの彼女だって?
それでもって、偶然ここを通りかかって、鮎太とはるかの軽いキスを目撃してしまった。
なんでそんな変な話になるんだ!
おれ、どうにも言い訳のしようがないじゃんか。
鮎太は目を白黒させながら、この時ふと大道寺のことを思いだしていた。そして、この時ばかりはこう思った。
おれってすごく運の悪い男かもしれない。
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第3章 幸か不幸か
1
大道寺は不思議な男である。オネエ言葉をつかうところがヘン、というわけではない。近頃、テレビに登場する異色タレントの中にオネエ言葉人種というか、オネエマンというべきか、「いやだもう、どんだけー」などとわめきたてている一グループがあり、一般の人もすっかりあれに慣れてしまった。だから大道寺の言葉づかいがとりわけ異様に聞こえるということはないのだ。
大道寺の不思議さは、どこに本心があるのかうかがい知れない正体不明な感じからにじみでている。それなりの一流大学を出ているのに、オネエ言葉で、その上、派遣社員だというのが変わっている。そういう人間が、時々ハッとするほど鋭い意見を口にしてびっくりさせてくれる。そして、事務能力が高くて仕事はテキパキとこなし、時にはとんでもなく度胸の座った決断を見せたりするのだ。なのに、ふざけて笑いながら生きているような印象も、一方にはある。
要するに、何を考えているのかよくわからない人間なのだ。わからないといえば、はたして真性のゲイなのだろうか、ということだって実はよくわからないのだが。
とにかく、大道寺は時々びっくりするような洞察力を見せつけて鮎太を驚かす。
「ねえ、今日の鮎太ってちょっとヘンよ。ゆるんだパンツのゴムみたいな顔してる」
「なんだよ、それ。人のことをパンツのゴムにたとえるなよ」
「そんな感じなんだもん。その顔はどうも、また幸せな勘違いをしてるってとこね」
昼の休み時間に、セルフサービス方式のコーヒー・ショップでくつろいでいるところだった。
「何をどう勘違いしてるっていうんだ」
「あなたには才能があるのよ。なんだって自分の都合のいいように受け止めて幸せになっちゃうという、思い違いの幸福を手に入れる才能が。その様子だと、いい女にモテてるっていう勘違いですっかりいい気分になってるんじゃないの?」
「そんなマヌケじゃないよ、おれは」
と言いながら鮎太は、こいつには何でも見抜かれてるなあと、冷や汗をかいた。
確かに、ゆうべの三澤はるかとのことを思いだしていい気分だったのである。酔っていたからとはいえ、ああいういい女が、今日はここまで、と言ってキスしてきた。あれはまぎれもなくモテたってことだ。
それがおれの思い違いだなんて……。
「それはないよなあ」
「やだ。一人で妄想モードに入っちゃってるじゃないの。やめてほしいわ」
鮎太は大道寺のからかいの言葉を無視した。今はまだ、何も言うべきではないと思ったのだ。友人に対して、モテた話を隠す理由はない。大いに自慢して、うらやましがらせてもいいくらいだ。大道寺が女にモテる話をうらやましがるかどうかは別として。
だが、鮎太は自分が本当にモテたのかどうか、確信が持てなかった。あの女性は酔うと気安くあんなことをする人だというだけかもしれないのだ。お別れの軽いキスだ。それをあんまり重大に受け止めるのは間違いの入り口なのかもしれない。
鮎太はただ、予想外にいい気分のことがあったという事実だけを受け入れることにした。とにかくあれは、悪くなかったね、という気分だ。
そしてそのいい気分に寄りそって、もうひとつ別の、ヒヤリとする気分があった。
「なんか心配になっちゃうわね。目をつぶったままどんどん突進して大怪我しないでよ」
「心配いらないよ。おれは慎重に行動するんだから」
鮎太は真面目にそう言った。慎重になるしかないからだ。
三澤はるかが、あの東昌之の彼女だってことを知ったからである。きのうの、あの男のにらみつけてくる目つきはものすごかった。
知り合ったばかりだよ、と鮎太はなるべく落ちついた声で東に言った。そう言うしかないではないか。
ちょっと酒を飲んだだけなんだ、彼女がああいう陽気な酔い方をする人だとは知らなかったよ、なんてことを言い、だからつまり、なんでもないんだってことを伝えようとした。
いや、本当に誤解しないでくれよな、と笑顔で言ったりしてみたが、東の表情はこわばったままだった。
それ以上言うこともないので、じゃあ失礼するよ、とその場から立ち去った。
歩き去る鮎太の背後に、東が大きな声で言った。
「なんなんだよ、お前は!」
鮎太は振り返って大声で返事をした。
「なんでもないんだよ!」
ゆうべはとにかくそれですんだのだ。
2
それにしても、慎重に考えなきゃいかんぞ、と思う一方で、ついほおの肉がゆるんでしまうのもまた事実であった。
正直なところ、鮎太は三澤はるかのことをほとんど何も知らないのだ。大学を卒業後、父親のコネでアッカド興業に就職したんだということは、バーで飲んだ時に聞いた。秘書室に勤務するうち、社長の人柄に嫌気がさして会社をやめたいと考えるようになって、ようやくその決心がついた。鮎太が知っているのはただそれだけなのだ。
その女性が東昌之の彼女だったなんて、想像の範囲を超えている。そもそも東のことは、ナオにストーカー行為をした男、という以外にはほとんど何も知らないのだ。どうしてそういう二人の人間につながりがあるんだと、夢でも見てるような気分になる。
鮎太の動物的な勘が、あの女性に接近するのはヤバイぞ、と訴えかけてきた。あれは近寄る男を底なし沼に引きずり込む魔性の女なのかもしれない、という気がするのだ。
それなのに、少し酔いの回った色っぽい目つきで、「今日はこれだけ」と言ってキスをした三澤はるかのことが、甘い砂糖菓子のような印象で胸に残っているのも確かなのだった。ああいういい女がこのおれに、と思うだけで背筋がゾクリとするのだ。
そんなわけで、鮎太は思考停止のような状態にあって、表情がひきしまったりゆるんだり、どうも一定しなかった。
だから大道寺もついお節介な口出しをしてしまうのだろう。
「とにかく鮎太はね、自分が運の悪い人間だってことを忘れちゃダメよ。何をやっても、やらなくても、アンラッキーなことに巻き込まれちゃうんだから」
「やってもやらなくても結果が同じなら、注意したって意味ないだろう」
「屁理屈を言わないの。私はあなたの場当たり的な人生を心配してあげてんだから」
「おれだってちゃんと考えて生きてるぜ」
「そうかしら。ちゃんとした定職につかないで派遣先を転々としていく生き方の、どこにポリシーがあるわけ? あなたに、人生をどうしたいっていう目標があるのなら、教えてほしいわ」
鮎太は意外そうな顔をして大道寺を見た。そして、低い声でこう言う。
「派遣のことはしょうがないんだ」
「しょうがないって何よ」
「どうも、そういう時代らしいってことだよ。ちゃんと定職についたほうが安定した人生で、生涯賃金だって派遣社員の数倍だってことはおれも知ってる。会社に人生を縛られちゃうのが面白くないからって考えて、派遣のほうが気楽に自由に生きていけるからそっちを選ぶっていうのは、なんだっけ、大人になるまえの状態にとどまるっていう言葉……」
「モラトリアムのこと?」
「それだ。そういう生き方を選ぶのは大人になりたがらないモラトリアム人間だっていう分析があるじゃないか。でも、もうそういうことでもないんじゃないかと思うんだよ。日本の社会が変わってきてて、フリーターや派遣社員でいい、正社員はいらないってことになってきてるんだと思うよ。だから、定職につきたくないから派遣になってるんじゃなくて、それしか働きようがないからそうなってるんだよ」
「日本の企業体質の根本的な変化のことね。労働コストを下げるために正規雇用者を減らしていくわけよ。そして社会には階層の差が生まれていく」
「それだよ。やる気がないから派遣で食いつないでいるんじゃないんだよな。派遣でしか働けないってのが、日本の現状なんだよ。だからそれはしょうがないんだ。だからおれは、今、目の前にある仕事をバリバリやることにしているんだよ。そうやって、なんとか生活していけてるのがおれの生き方で、それは恥ずかしいものじゃないと思ってる」
「そうだったわね。あなたってそういうふうに前向きで逞《たくま》しいヒトなのよね。私ちょっと間違ってたみたい。なんで定職につかないのっていう質問は取り消すわ。それって今を知らないオヤジ世代の言い草だもんね」
「うん。そういうことなんだよ、どうも。そもそもお前だっておれとそう違わない生き方じゃないか。昔ふうに考えりゃ、お前も不安定な人生だぜ」
「わかったわ。自分のこと棚にあげて生き方のことを聞いたのは私の間違いでした。私も同じなんだものね。私のほうも、いろいろとややこしい事情があって、とりあえずこんな生き方をするしかないのよ。いつか、その事情を話す気になる時もあるかもしれないけど、今はごめん、まだ言いたくないの」
そう言って大道寺はうつむいた。思いがけなくも、話が大道寺の心の傷をかすめたっていう具合に見えた。
いつだって強烈な皮肉を口にして世の中を笑いのめしているようなこいつにも、口に出せない心の傷があるってことなのか、と鮎太は思った。それはとても人間らしいことなんだ、というのが鮎太の心に浮かんだ感想だった。
3
それから一週間は何事もなく過ぎた。何事もなく、というのは、いいことも悪いこともおこらなかったという意味だ。
鮎太が内心期待していたいいことは、三澤はるかが何か連絡をくれるかも、ということだった。バーで飲んだ時に、携帯の番号とメアドを交換したのだ。
だが、彼女からはなんの連絡もなかった。電話もメールもなし。そういう状況では、こちらから連絡をとることもためらわれた。
彼女は会社をやめたり、次の仕事を探したりでそれどころではないのかもしれない、と鮎太は考えた。
鮎太が心配していた悪いことのほうは、ふたつあった。ひとつは、東昌之が何か面倒なことを言ってくるんじゃないか、ということ。おれの彼女に手を出しやがって許せん、とかなんとか文句を言ってきたら厄介だな、と思ったのだ。あいつは、ナオの働いている、つるまる食堂の場所は知っているわけで、そこで張っていれば鮎太をつかまえることができる。
しかし、心配していたのがバカだったみたいに、東は鮎太の前に姿を見せなかった。あんなことはそう気にしなくていいのかもしれない。今のところ鮎太とはるかの間には何もないのだが、もし何かあったとして、はるかが二股かけたんだとしても、トラブるのは東とはるかの間でのことだろう。そのことで二人の男が憎み合うのはものすごく愚かである。だからそういう心配はいらないんだ、と鮎太は考えることにした。
もうひとつ鮎太が気になっていることは、アッカド興業の社長、大岩の仕返しだった。どんな嫌がらせをしてくるのか想像がつかないのだが、あの人は執念深いからきっと何かするわと、はるかに忠告されているのだ。だから鮎太は、夜道を歩いていても、誰かが襲いかかってくるんじゃないかと、少し身構えていたほどだ。
だが、一週間は何事もなかった。そして、だんだんにそういう不安を忘れかけていた時に、いきなり動きがあったというわけだ。
日曜日の夜で、鮎太はコインランドリーから洗濯物を抱えてアパートに戻ってきたところだった。携帯の着メロが鳴った。
発信者は河井茂《かわいしげる》と表示されていた。誰だっけ、これ、と思う。どこかで聞いたことのある名前だった。
「もしもし」
と鮎太は電話に出てみた。
「荒木鮎太さんですね。センランドの斡旋課《あっせんか》の河井ですが」
ああ、あの人か、と思いだす。センランドというのは鮎太が登録している人材派遣会社だった。これまでに何度も電話で派遣の情報を問い合わせしていて、この河井って人が担当のことが多かった。
「あ、どうも」
鮎太は力のない返事をした。そういう人から電話をもらう心当たりはなかったからだ。
それに対して、相手はやけに事務的な口調だった。
「今現在、荒木さんは富士山運送で勤務中ですよね」
「はい。そうです」
「それが、先方の都合で今日をもって終了となりましたのでお知らせします。未払いぶんの賃金は明日以降、取りに行けば支払われるようになっています」
「あそこへの派遣が終了ってことですか。そんなことぜんぜん聞いてませんが」
寝耳に水だった。富士山運送はこのところ引っ越しシーズンのせいもあり多忙を極めているのだ。人手が余っている状況ではない。そして、鮎太はそこで役に立つ戦力になっていたのだ。正社員たちとの折り合いもよかったと思う。どう考えてもいきなりクビになる理由はなかった。
それに第一、いかに派遣社員といえども、突然の一方的解雇は法に抵触するはずである。明日から来なくていい、なんてやめさせ方はまともではないのだ。
だが、河井の口ぶりはちょっと考えられないほど冷たかった。
「派遣社員ですから、派遣先の事情によっては打ちきりもあるわけです」
そんなの変ですよ、と言うべきところだった。そう言う権利は保障されているのだ。
しかし、鮎太は権利を主張する気になれなかった。それよりも、今後のことへの不安があって、そっちを口にした。
「わかりました。そういうことですと、生活のためにもなるべく早く次の仕事につきたいんですが、その斡旋をよろしくお願いします」
ところが、電話のむこうから返ってきたのは思いがけない言葉だった。
「もちろん、本来ならそうしたいところなんですが、残念ながらそれができないのです。荒木さんの登録は抹消されましたので」
鮎太は思わず声を張りあげた。
「それ、どういうことですか。私のほうは仕事の斡旋をお願いしたいと思っているのに」
「しかし、登録抹消となりますと、当社と荒木さんの関係もなくなるわけで、仲介業務が行えません」
河井という男はどことなく逃げ腰の口調で、一方的に宣告する感じだった。
やはりそういうことかと、鮎太は表情をこわばらせた。センランドという会社は法に反してでも、とにかく鮎太との関係を断ちたいのだ。かかわりになりたくないと言っているのである。
未払いぶんの賃金を富士山運送へ行って直接もらえ、というのが変だとは思ったのだ。通常ならば、それは富士山運送からセンランドに払い込まれ、そこから鮎太に支払われるものだからである。それなのに、富士山運送でもらえ、というのは、センランドにはもう来ないでほしい、ということなのだ。
もちろん、鮎太にはどうにも納得できない話だった。なぜいきなりおれの登録を抹消してしまうんだと、食い下がってもみた。だが、相手は要領を得ない返事をくり返すばかりで、とにかく鮎太との関係を切るというのだ。
とうとう鮎太は、もういいです、と言って電話を切った。頭にカッと血が昇って、壁にパンチを叩き込みたいような気分だった。実際にはやらないが。
「そんなバカな話があるもんか」
と口に出して言ってから、鮎太はふとある考えに襲われて硬直した。やがて口から出たのは次の言葉だった。
「あいつか……」
アッカド興業の大岩の仕返しがこれなんだ、そうに違いない、と鮎太は思った。
4
大岩にどうしてそんなことができるのかは想像もつかなかった。強欲で執念深い男なのかもしれないが、興行会社の社長にすぎないわけで、別に裏社会に通じているドンというわけではないのだ。それなのに、人材派遣会社に圧力をかけ、一人の人間から職を奪うということがどうしてできるのか、見当もつかない。
だが、それ以外には考えられないのだ。センランドの言い分にまるで筋が通っていなくて、外圧に屈したとしか考えられないからである。鮎太を恨んでそんな力を行使する可能性のある人物は、大岩以外にはいない。
月曜日、鮎太はいつもより少し遅く午前十一時に富士山運送へ顔を出した。未払いぶんの給料をもらうためである。
経理の水野がなんとも言えない複雑な顔をして袋に入った金をくれた。
「きみにはいい仕事をしてもらったんだけど」
と水野は言った。口ぶりから推測すると、センランドから派遣の人材を替えたいと申しでられて、何か事情がありそうだと感じつつも受け入れたんだろうと思われた。水野はどうも、そのことの背後にアッカド興業の影があるのではないかと感じているらしい。鮎太をアッカド興業につれていった本人なんだから、それぐらい察して当然だろう。
だが、一企業としてはことを荒立ててまで派遣社員を守ろうとするはずもなく、センランドとの関係のほうを優先させたのだ。水野には後ろめたいような気分もあるようで、鮎太の顔をまともに見ようとはしなかった。
そして、顔見知りの古参のトラック運転手は、裏のない残念そうな顔で鮎太に近寄ってこう言った。
「ようやっとったのにな。事情があるんだろうからしかたがないが」
鮎太は何も言わずペコリと頭を下げた。あれこれ言ってみても意味がないと思ったのだ。
つまり、その運転手は鮎太が個人的な都合で派遣をやめるんだと思っているのだろう。水野あたりが、周囲にはそう説明しているのかもしれない。しかし、ここで、ぼくは意にそわないままやめさせられるんです、と言ってみたところで何がどうなるものでもなかった。
鮎太はもう、心の中ではこの件に決着をつけていた。不本意なことではあるが、ここで働く時期が終わったのだ。生活費の観点からはもう少し続けたかったが、派遣なのだから、もう来なくていいと言われればそれまでである。次の仕事を早く見つけて、またバリバリ働こうと決意するばかりだった。
ところが、そんなふうにあっさりとケリをつけることのできない男がいた。大道寺薫である。
給料をもらって、鮎太が富士山運送をあとにしようとした時、大道寺が庶務課の部屋から出てきて、会社の入り口のところで追いついた。
「どういうことなのよ」
「なんだ、お前か」
「お前かじゃないわよ。あなた、いきなりクビなのよ。どうしてそんなことになるの?」
「知らないよ。おれのせいでそうなったわけじゃない。派遣だからな、もう来なくていいって言われたらそれまでだよ」
「そんなのめちゃくちゃよ、違法じゃない。もう少し事情を聞かせて」
大道寺は鮎太を押すようにして通りに出た。
「お前、仕事中なんだろ」
「そんなのどうだっていいの」
結局、いつものセルフサービス方式のコーヒー・ショップに入り、鮎太はきのうのセンランドからの電話のことを話した。
「こないだの、支払いごまかし社長の復讐なのね」
「そうかもしれないんだが、なんでそんなことができるのか見当もつかないんだ。あの大岩って社長、そこまでの実力者には見えなかったんだがな」
「何かあるのよ。センランドがあなたを切り捨てなきゃいけない裏事情か何かが。私、調べてみるわ。このままじゃ気持ちが収まらないもの」
大道寺は女性解放運動の闘士のようにキリリとした顔でそう言った。そんなに気にかけてくれるのかと、鮎太は少し胸にジンときた。
5
たった二日間で大道寺は真相を調べあげた。なかなかの調査能力だと認めるしかないだろう。
携帯に連絡をもらい、水曜日の夜、つるまる食堂で待ち合わせをした。そこで会うってことは、夕食を二人で食べるってことである。
「富士山運送のほうは、あなたに不満があるわけじゃないの。どちらかというと、力持ちで役に立つと思っていたぐらいよ」
「おれの取り柄は力だけなのかよ」
「なんだっていいじゃない、評価されてたんだから。でも、センランドから、その派遣社員にはいくつか問題があるので、別の人材と交替させますって言ってこられちゃうと、反対する理由もないのよ。そこがつまり、一過性の派遣さんよね」
「そうだろうな。その中で経理の水野さんだけはその話に裏があるように感じとって、おれが個人的理由でやめるんだってふうに話してくれているわけだ」
「そう。だから問題は、どうしてセンランドはあなたを登録抹消にしなきゃいけなかったのか、よ。普通に考えて、センランドがあなたを邪魔者扱いする理由はないんだものね」
「そこへ、アッカド興業の大岩がからんでくるわけか。しかし、なぜ大岩はセンランドにそれだけの影響力を持ってるのかなあ」
そう言っているところへ、桜田ナオが鮎太の麻婆豆腐定食を運んできて、話の断片が耳に入ったらしく、心配そうにこう言った。
「荒木さん、仕事、クビになっちゃったんすか。大丈夫なの?」
そう言われて反射的に、ナオに笑顔を見せられるのが鮎太の只者ではないところだった。
「心配してくれてありがとう。でも、すぐにまた次の仕事を見つけて働くから大丈夫だよ。いつものことだから慣れてるんだ」
「そうだよね。荒木さん頼もしいもんね」
大道寺が右手の先をヒラヒラと左右に振って、猫でも追い払うようにナオを消えさせた。
「きのう私ね、センランドに行って河井って男に会ってきたの」
「富士山運送のほうはどうしたんだ」
「ちょっと抜けだしたのよ。やるべき仕事はちゃんとしてるから誰も文句なんか言わないわ。それよりセンランドのことよ。河井に事情を聞いてね、だんだんわかってきたの。私がカマかけたらあの人、会社の秘密をポロリと口にしちゃったりして、真相が見えたの」
「どういう真相があるんだ」
「あなたを憎んでる大岩が陰にいるってのは事実なの。つまり、大岩はあなたが富士山運送の社員じゃなくて、派遣くんだって知ったわけよ。そこから、センランドの派遣社員だってことを調べるのはわけないことよ」
おれが正社員じゃないってことは、三澤はるかだって見抜いたことだものな、と鮎太は思った。
「それでね、社員を使ってだと思うけど、センランドに苦情の電話をかけさせたのよ。おたくが派遣している荒木鮎太って男は無能な上にトラブルばかり引きおこす奴で、あんな人間は登録から外してどこへもやらないようにしてもらいたいってね」
「そんな嫌がらせぐらいで、センランドは言いなりになっちゃうのか」
「それだけじゃないのよ。それにこういう脅しをつけ加えるの。おたくが港湾へ労働者を回しているなんていう噂が立ってもまずいでしょう、って」
「どういう話なのかよくわからんな」
「脅迫しているのよ。あのね、労働者派遣法っていう法律があって、その法律で、港湾運送業務、つまり港で船から荷をおろしたりする仕事ね、そういう仕事に労働者を派遣することは禁じられているの」
「どうしてだ」
「危険性が高いからだと思う。ところが、人材派遣会社の中には、一日限りの〈スポット派遣〉くんにその仕事を回しているところが多いわけよ」
「そうか、違法派遣ってことだな。それでセンランドもそういうことをしていた」
「だと思うの。でもって、そのことが表沙汰になったらセンランドも大打撃なのよ。そのことを持ちだされちゃったら、一人の派遣社員のことなんか即座に切り捨てよ。そういうわけで、あなたはあっさり登録抹消」
「そんな卑怯なやり方で、おれは職を奪われたのか。腹立つなあ」
「そうよ、ひどいわよね。私も、許せないって思っちゃった。だからつい、こんなインチキな会社からは私も手を引かせてもらいますって言っちゃった。そういうわけで、私も登録抹消よ」
鮎太はびっくりして大道寺の顔を見た。
「お前もやめたのか。つまり、富士山運送の仕事を投げだしちゃったってこと?」
「あの会社に悪い感情を持ってるわけじゃないけど、センランドに対してケツまくっちゃったからには、もう富士山運送では働けないじゃない。だから私も職を失っちゃったの」
あっけらかんとそう言って大道寺はニッコリと笑った。
6
お前までやめることはないじゃないか、という気もした。大道寺は問題なく勤めを続けることができたのだから。
だが一方で、大道寺の行動に友情を感じて胸が熱くなったのも事実だった。あなたをやめさせるような会社にはいられないわよ、と言われたような気がしたのだ。
「大丈夫なのか?」
と聞いてみると、大道寺は笑って、
「あなた自身がさっきミニスカ・ナオちゃんに、すぐ別の仕事を見つけるから大丈夫だって、言ってたじゃないの。だから私だって大丈夫よ」
それから、二人で少し酒を飲むことにして焼酎の水割りをやりながら、あれこれ相談した。
センランドと縁が切れてしまったのだから、とりあえず別の人材派遣会社に登録するしかないだろうな、と鮎太は言った。すると大道寺は、妙に強気にこう言った。
「私がなんとかするわ」
「お前に何ができるんだよ」
「仕事を探すのよ。こうなったら奥の手を使っちゃうから」
「奥の手ってなんだよ」
「あんまり使いたくなかった手なんだけど、この際、小さなことに構っちゃいられないわ」
大道寺の言ってることはどうもよくわからなかった。ただ、不思議に自信ありげで、頼もしい感じだった。
そして、その三日後に大道寺からの思いがけない連絡が携帯に入ったのである。
「来週の月曜日だけど、朝の九時に大手町に来てほしいの」
「なんのためにだよ」
「お仕事のためよ。来週の月曜日って四月二日よ。日本中の会社が新年度を迎えるの」
「言ってることがわからないなあ。会社の新年度がおれたちにどう関係するんだ」
「いいから、朝の九時に来なさい。もちろんちゃんとスーツを着て、ネクタイをしめてくるのよ」
「大手町のどこへ行くんだ」
「株式会社|東門《とうもん》セキュリティーの本社ビルに来ればいいの。詳しい場所はインターネットで調べなさい」
「その会社なら知ってるぞ」
それもそのはずで、防犯・警備の分野ではよく知られており、テレビにCMだって流れている大会社だった。
「だったら好都合よ。ちゃんと遅刻しないで来てよね」
「行くと何があるんだ。アルバイト要員の面接か何かか?」
「そんなんじゃないの。四月二日だって言ってるじゃないの。その日は、その会社の新入社員の入社式があるの」
「言ってることがまるでわからないな。名のある会社の入社式になぜ行かなきゃいけないんだ。こういうところの正社員になる人間もいるんだなあ、ってうらやましがって、指くわえようっていうのか」
「指をくわえている余裕はないの。私たち二人で、その入社式に出席するのよ。もう、ぐずぐず言わずに来ればいいの。私が必殺の奥の手を使って段取りをつけたんですからね。来なかったら踏んづけちゃうから」
その迫力に圧倒されながらも、鮎太にはまだ事態が呑み込めず、大道寺は何をしでかしたんだろうと、頭の中が疑問符でいっぱいになるのであった。
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第4章 チャンス到来
1
東門セキュリティーの入社式が始まろうとしている。新調のスーツを着た若い男女が続々とそのビルの二階へやってきて、入社式会場へと入っていく。女性よりは圧倒的に男性が多かった。
「さあ、行くわよ」
と大道寺は言ったが、鮎太は思わずその袖を取って引き戻した。
「どう考えても無茶だって。おれたちこの会社の採用試験を受けてもいないんだぜ」
「いいからもう、黙ってついていらっしゃい」
大道寺は会場入り口の脇の受付のところまで鮎太を引っ張っていくと、そこにいた女性社員に声をかけた。
「特別仮採用の大道寺薫と荒木鮎太ですけれど」
するとその女性社員は、はっとしたように身をこわばらせて大道寺の顔を見ると、一息置いてからようやく声を出した。
「うかがっております。こちらへどうぞ」
そして、先に立って案内してくれた。会場内に入り、通路を前のほうへ進んで、最前列の席に座れと言う。
特別なのに仮採用ってどういうことかわからないし、なぜ最前列なのかも不思議だし、鮎太は大道寺を揺さぶりたててでもわけを聞きたい気分だった。だが、入社式が始まってしまい、とりあえずは大人しくしているしかなかった。
一流企業の、格式の感じられる入社式だった。社長の訓話などがあって少々退屈なものではあったが、若い新入社員たちは背筋をのばして神妙な態度でいた。
入社式が終わり、新人研修のガイダンスになって、ホッとした社員たちにざわめきが広がる。すると、そういう時を待っていたかのように、二人の男が大道寺の前に立った。年配で、どことなく貫禄がある。
「大道寺さんですね」
と、痩せた長身のほうが言った。
大道寺はとまどいの顔つきで椅子から立ちあがった。お偉いさん二人を立たせて、座っているわけにはいかない感じだったからだ。それで、鮎太もよくわからないまま立った。
すると、もう一人の中肉中背が言った。
「こちらは特別仮採用になった、もう一人の人ですな」
そう言われて、鮎太は自己紹介をする必要を感じた。
「はい。荒木です。どうぞよろしくお願いいたします」
二人のお偉いさんは大道寺と鮎太に名刺をくれた。驚いたことに、長身のほうが営業部長、中肉中背のほうが企画室長だとわかったのである。まだ名刺のない大道寺と鮎太は、やむなくあらためてフルネームを名のった。
「毎年四月に新入社員が入ると、企業に若い力が注入された気がして、いいものですよ」
と営業部長が言った。
「大道寺さんにもそういう若々しい新戦力として、大いにはばたいていただきたいですよ」
と企画室長は好意的な笑顔を見せて言った。
わけがわからないな、と鮎太は思うわけである。どうして仮採用の人間に、部長クラスの人がわざわざ声をかけ、どうかよろしく、みたいなことを笑顔で言うのか不思議でたまらなかった。正式の新入社員が百人くらいいるのに、そっちはどうでもいいとばかりに見向きもしないで、なぜ仮採用の二人に名刺をくれるのだろう。
「大道寺さんは大学で何を専攻されていたんですか」
と営業部長が聞くので、大道寺は地質学ですと答えた。すると企画室長が、
「理工系ですね。うちのような企業には理工系の人材がとても貴重なんですよ」
と、もみ手でもしかねない様子で言い、部長のほうも笑顔でうなずいた。
「とにかく、若い力で旋風を巻きおこしてくださいよ」
そこで、ついに大道寺はこう言った。
「私たち二人は、ここにいる新入社員の人たちより格下の仮採用の身ですから、大した働きができるはずもありません。ご期待をかけられる相手ではないと思います。でも、働くからには一生懸命やりますので、どうかよろしくお願いします」
オネエ言葉は出さずにそう言うと、ペコリと頭を下げた。あわてて鮎太も背筋ののびたおじぎをする。
部長と室長はとまどいの表情を見せ、でも笑顔は崩さずに、あくまで友好的な態度だった。
「まあ、頑張ってください」
と言って、ようやく去っていった。
2
「どういう奥の手を使ったんだよ。ありえないようなことばっかりおこったじゃないか」
鮎太は不思議そうな顔つきでそうたずねた。入社式がすんで、昼めしを食べようと入ったラーメン屋の中だった。
「あのお二人、態度おかしかったものねえ」
「それだけじゃないよ。そもそも、今日の入社式になぜ参加できたのかがわからないじゃないか。採用試験を受けた覚えもないのに。それに、仮採用なのにどうして特別扱いなんだ。わからないことばっかりだよ」
大道寺はちょっとムキになってこう言った。
「あなたはあの会社で働きたくないの?」
「そんなことはない。次の派遣先を探すのに苦労しそうだと思ってたところだから、あの一流企業に潜り込めるのはありがたいよ。ただ、どうしてそんなにことがうまくいったのか不思議でたまらんのさ」
二人とももうラーメンは食べ終わっていた。
「ねえ、お茶にしない?」
「よし」
場所を変えて、コーヒーを注文したところで、腹を決めた顔つきで大道寺は話し始めた。
「詳しいことは言いたくなかったんだけど、コネを使ったのよ。あなたがセンランドの登録を取り消されて、次の仕事を見つけるのがむずかしそうだと思ったから」
「コネって、どういう……」
「いっぺんしか言わないからよく聞いてよ」
そう言われて鮎太はなんだかゾクリとした。大道寺がこれまで秘密にしていたことをついに明かす、と感じとったのだ。考えてみれば、気が合って親しくしているとはいうものの、大道寺のプライベートなことはほとんど何も知らないのだ。
「一緒に暮らしているわけじゃないけど、私にだって両親がいるのよ。それで、父親とちょっとうまくいってないのね」
黙って聞くしかない話だった。鮎太は運ばれてきたコーヒーをブラックで飲みながら聞いた。
「だからもう一年以上も口をきいてなかったんだけど、今度ばかりはその人の力を借りたのよ。どこか働けるところを紹介してほしいって」
「それで、すんなりあの一流企業で特別仮採用ってことになっちゃうのか」
「そう。それだけのことなのよ。あんまり気にしないで」
「つまり、親父さんは財界の大物とか、大会社の社長とかの、かなり力を持っている人だってことだな」
「いいじゃない、それ以上のことは。とにかく私たちは、東門セキュリティーに採用されたのよ。まだ仮採用だから立場としてはバイトに近いけど、失業中よりはいいでしょ」
「もちろんだ。不満なんかないよ。すごくありがたいと思ってる」
それは鮎太の本心だった。度胸が座っていて派遣社員の不安定な立場にも動じないほうだとはいうものの、派遣がひとつ終了して次を探す期間は心もとない根なし草状態なのだ。安アパートを借りているから、すぐにネット・カフェで寝泊まりする生活になる心配はないのだが、そういう世界のすぐ横に自分がいることはわかっていないといけないのだ。
仮採用ではあっても、東門セキュリティーで働けるのは望外の幸せというものだった。「仮」とついているにしろ、採用されて入社式にも交ぜてもらえたのは、アルバイトよりは数段いい待遇である。
その喜びがあるからこそ、鮎太は大道寺の計らいに感謝していたが、同時に友人の秘密を暴いてしまったような罪悪感も持ってしまう。
大道寺の父親は財界で力を持っている人物なのだ。東門セキュリティーの、たとえば親会社の社長とか、はたまた重要取引先の社長とか、鮎太の空想力ではその辺がクリアにはわからないのだが、何か大きな影響力を持つ人物なのだろうとは想像がつく。その人が、若い人を二人使ってくれないか、と言うだけで特別仮採用なんていうワクができてしまうのだから。
そして、その会社の部長クラスの人間が、これがあの人のご子息かとばかりに、もみ手をする感じで接近してくる。新入りの社員に、どうぞよろしくと言いだしそうな感じなのだ。
そういう親の力を、本当は大道寺は使いたくなかったのだ。父と息子には、何か重大な行き違いがあるらしい。
大道寺が定職につかず派遣に甘んじ、親の家に住まず独り暮らしをしているのも、その辺の事情があってのことなのだろう。
なのに大道寺は鮎太の運の悪すぎる失職が見ていられなくなって、頭を下げたくない人に頭を下げたのだ。だいたいそういうことらしいと想像がついた。
「東門に入れたなんて願ってもないチャンスだからな。バリバリ働くぜ」
鮎太はなるべく意欲的にそう言った。
3
というわけで、大道寺と鮎太の研修期間が始まった。その生活は、その大会社に正式に入社した社員と何ひとつ変わらないものだった。仮採用にすぎない身だということは誰も言わなかったので、正社員と区別がつかなかったのだ。それどころか、入社式の時に営業部長と企画室長がわざわざ声をかけた二人だと気がついている者もいて、あの二人は何かわけありの特別待遇なんだと感じている様子さえあった。年齢的にも多くの新入社員より二歳上で、確かに変わり種ではあったのだ。
大道寺も鮎太もその辺のことは何も言わず、ひたすら研修に励んだ。とにかく真面目に働こうという気になっていたのだ。
東門セキュリティーの事業は大きく三つの部門に分かれていた。ひとつは、個々の家庭と契約して行うホーム・セキュリティーである。契約家庭を火事やガス漏れや、賊の侵入から守るという業務だ。
ふたつめは、企業と契約して行うオフィス・セキュリティー。ホーム・セキュリティーと似た活動もするのだが、そのほかに夜間警備員の派遣などもする。
三つめが、コンピュータ情報を守るという、ITセキュリティーだった。コンピュータ・ウイルスを撃退するプログラムを製作、販売したりするらしい。
それで、新入社員の中でもITセキュリティーを担当する人材は一般とは別ワクで採っているらしく、違う組になっていて、研修も別だった。そうではない鮎太たちは、ホーム・セキュリティーとオフィス・セキュリティーの「実際」を教え込まれた。
そのふたつのセキュリティー・システムは基本的には同じやり方で、要するに二十四時間体制でチェックしている東門のセキュリティー・センターへ、何か異常があると電話回線を使って信号が送信されてくるのだ。その信号が入ったら、こちらから契約家庭やオフィスに電話を入れて事情を確認する。その結果、異常が確かになったら、警備班を現地へ派遣すると同時に、一一〇番なり、一一九番なり、ガス会社なりに、必要に応じて通報する。
契約先には火災センサーや、ガス漏れセンサーが取りつけられている。さらに外出時や就寝時の侵入者を感知するために、すべてのドア、窓などに侵入センサーが取りつけてある。室内に動く者がいると感知するセンサーもある。そして、それらを操作するコントローラーを設備する。
勉強していって、うまくできているシステムだなあと感心しきりの鮎太ではあったが、実際に対応するとなると、いろいろややこしいことも多いのだ。それをすべてわかっていなければならない。
たとえば、ある家庭で、コントローラーは就寝モードになっていて、侵入センサーから異常があると信号が入った場合、まずその家に電話をかける。すると誰かが出て、就寝モードにしてあったのを忘れて、つい、雨が降っているのかどうか確かめるために窓を開けてしまったんです、と答えたとする。
そのような場合、ああそうですかと簡単に納得してはいけないのである。侵入者が嘘を言っているのかもしれないからだ。
その時は、ああそうでしたかと言いながらも、念のために協力をお願いしますという感じで、登録の暗証番号を聞くのだ。その番号はセキュリティー・センターのコンピュータ画面に出ている。その番号を正しく言えれば、侵入者ではなく、自分たちで番号を決めたその家の住人だとわかるわけである。
それだけに限らず、細かく気配りされたシステムが見事につくられていて鮎太はしきりにうなずくのだったが、それを全部頭に入れなきゃいけないので大変である。毎日がそういう勉強だった。
新しく契約した家庭へ、センサーを取りつけにいく仕事があって、研修生たちが四、五人ずつ作業工程を見学に行くこともあった。すべてのドアと窓に侵入センサーを取りつけ、ひとつずつ正しく作動するかどうかテストをしていくのだった。そして、顧客に使い方を正しく説明できるかどうかも大切な点だ。
しかし、その仕事は鮎太にとって、どちらかと言えば得意で、楽しくできるものだった。客の安全を守るためにつくせるだけの手はつくし、いざという時に適切に対応する、といういくらか緊迫した仕事なのが鮎太の性格には合っていたのだ。一日中、机に向かって事務をしているよりは、刺激があって面白い。無人のはずの家で侵入センサーが働いている、というようなケースならスリルをも味わえるのだ。鮎太は嬉々《きき》として研修に励んだ。
そして、たちまち一ヵ月の研修期間は終了した。
4
携帯にメールが入っているのに気がついたのは、東門セキュリティーの新人研修期間が終わる頃の夜のことだった。差出人名が三澤はるかなのを見て、鮎太は思わず、おーっと、と声をもらした。何がおーっとなのかわけがわからないが、あのセクシーな美女からメールが、と思ってゾクリとしたのだ。
「以前アッカド興業の秘書室にいた三澤はるかです。覚えていてくださったかしら。会社をやめて、次の仕事を探していたんですけど、ようやく勤め先が決まりました。ホッとしています。それで、荒木さんのほうは今どうしていらっしゃるのかしらと、考える余裕が生まれました。あれから、何か悪いことがあったんじゃないかと、気にはしていたんです。というわけで、一度どこかでお会いできませんか。私からお電話しても構わないでしょうか。構わないということならば、近日中にご連絡を入れたいのですが」
絵文字はなかった。だが、心のこもった文面だと鮎太は思った。
そこで、その夜のうちに鮎太は返事を送った。よく覚えています。いつでも電話してください。ぼくのほうにもいろいろと変化があって、話したいと思っていたところです。そういう内容のメールだ。
そのメールを送信して、さあ、すぐに電話がかかってくるかと待ち受けるような気分になった鮎太だが、携帯の着メロが鳴ったのは翌日のことだった。
ゴールデン・ウィークに入っていて、その日は休日だった。鮎太は一日、アパートでDVDを観てくつろいだのだが、腹が減って、いきつけのつるまる食堂で夕めしを食べた。安定した職につけているので、心おきなくビールを楽しむこともできた。
そこへ、携帯が鳴ったのである。
「はい。荒木です」
「三澤はるかです。今、お話しして大丈夫ですか」
つい、顔がほころんでしまう鮎太だった。
「はい、大丈夫です。メールありがとうございました」
「あの、ちょっとぶしつけかなと思ったんですけど、前の仕事をやめるきっかけをつくってくれた人に、次の仕事が決まったことをお伝えするのが普通かなと考えたんです」
「連絡をもらってうれしいですよ。それに、ぼくのほうにもあれからいろいろあって、お話ししておきたいと思ってました」
つるまる食堂のテーブルに面して座り、声を殺すでもなく普通に通話していた。携帯の使用がはばかられる状況とかではないわけだし。
「では、どこかでお会いできませんか」
望むところである。この時、鮎太の頭の中には、前回バーで飲んだあとの別れ際に、軽くキスしてきたはるかのとろけるようなまなざしが甦《よみがえ》っていた。
「会いましょう。いつがいいですか」
明日の夜、ということで話がついた。場所は、この前会ったティー・ルームで。
約束をして、通話は終了した。携帯をポケットに戻しながら、鮎太は、三澤はるかにはあのことも話さなきゃいけないだろうか、と考えた。あの時のあのキスを、目撃した男がいるってことをだ。
東昌之はあなたの恋人なんですか。その東に、あの時のキス・シーンを見られているのを知ってますか。
しかし、いきなりそんなことを聞くのも変だよな、という気もするのだった。プライバシーに立ち入りすぎているよね、どう考えたって。
あれは不思議な偶然だものなあと、つい首をかしげる鮎太に背中から声がかかった。
「荒木さん、ニヤけすぎだよ。デレデレの顔になってるじゃん」
少しムッとしたような顔でそう言ったのは桜田ナオだった。
「デレデレなんかしてないよ」
「してるよ。女から電話もらってめっちゃうれしそうなんだもん、バカみたい」
「女からの電話だなんて、どうしてわかるんだよ」
「わかるに決まってんじゃん、そのユルんだ顔見りゃあ。デートの約束ができて、思わず笑顔になっちゃってるんでしょ。全身から喜びがにじみでてるよ」
強くは否定もできず、頭をかく鮎太だった。するとナオは、こんなことを言った。
「これ、私の女の勘だけど、なんかその女、ヤバいと思うなあ」
「どうしてだよ」
「なんか不幸なことをもたらす女なんだよ。そんな気がすんの。荒木さん、もしかしたら大怪我するかもよ」
ナオはそう言って、心配そうに鮎太の顔を見た。
5
しかし実際に会ってみれば、三澤はるかは怪物でも化け物でもなくセクシーないい女だった。スカートの裾が斜めにカットされていて、膝から十センチほど上まで見えている。その上、黒の網タイツをはいていて大人の女性の色気がムンムン感じられた。
「荒木さんの顔を見て安心したわ。ちょっと心配していたの」
「どういう心配?」
「まだ二回しか会ったことのない人でしょう。本当に私が記憶しているような人なんだろうかって、こわいような気がしてたの。勝手にイメージをつくりあげてしまっているんじゃないのかなって。でも、やっぱり会えば、不思議に頼もしい感じの、明るい印象の人だった」
鮎太は返事に困り、ただ豪快に笑った。
「私、お仕事が決まったの」
と、はるかはうれしそうに言った。
「どんなところ?」
「アニメの制作をしている会社の、企画や制作をする部署なの。そんなに大きな会社ではないけど、テレビ放映されている番組もつくっているのよ」
はるかはその会社の名を言ったが、鮎太の知識の中にはない名だった。
その会社がどういうアニメを制作しているかとか、そんなところにどういう縁があってもぐり込めたのか、などをはるかは説明した。面白そうな会社じゃないの、と鮎太は本当にそう思って言った。
「私、すごくすっきりした気分なの。ずーっとやめたいなと思っていた会社をやめることができて、気が軽くなったのね」
「よかったね」
「そのきっかけをくれた荒木さんには感謝しているわ」
多分、そのきっかけはなんでもよかったんだよ、と鮎太は言った。そして、自分の身におこったことも言うべきだろうと判断した。
「ぼくのほうは、もう富士山運送では働いてないよ。アッカド興業の大岩社長が、裏で手を回したんだと思う」
はるかが声を落として、やっぱり……、と言うので、想像できるところを一通り説明するしかなかった。
大岩は、鮎太のことを調べて、富士山運送の社員ではなくて派遣社員にすぎないと知ったのだろう。それで、その派遣会社も突き止めた。そうしておいてから、派遣会社の弱みを握って、あの男の登録を抹消しろ、と圧力をかけたのだ。その結果、理由も聞かされず鮎太は職を失い、次の仕事を斡旋してもらうチャンスも失った。
「あのワンマン社長、確かにすごい実行力を持っているよね。気に入らない人間を本当に失職させちゃうんだから」
「そういう人なの。ガキ大将みたいな人間で、自分の思いどおりにしなきゃ気がすまないのよ。それで荒木さんは失業中というわけね」
「いや、違うんだ。たまにはぼくにもラッキーなことがあって、今はちゃんと一流企業で働いているんだよ」
友人のコネで、東門セキュリティーに仮採用になり、正社員と同様に働いているということを鮎太は説明した。
「だから今度のことは、ぼくにとってはかえって幸運だったんだよ。富士山運送では、引っ越しシーズンが終わったらいつクビになっても不思議はなかったのが、もっと大きな安定した会社に身を落ちつかせることができたんだから。今は仮採用だけど、正社員と待遇に差はないしね」
はるかは表情を明るくして、かえっていい結果になったのね、と言った。
「そう。ぼくたち二人とも、この春に新しくいいスタートが切れたんだよ」
「だったら本当によかったわ。私、荒木さんのこと本当に心配していたのよ」
そう言ってはるかは脚を組み替えた。網タイツの太腿がかなり上部まで妖しくさらけだされて、鮎太はドキリとした。
6
東昌之のことは、はるかのほうから話題に出した。
「荒木さん、東昌之って人とはどういう関係なの?」
その口ぶりから、今日はるかが話したいと思っているのは、その件だったらしいと想像がついた。
「特別な関係はないよ。最近、偶然に知り合ったんだけど、ちゃんと会話をしたこともないし……」
と言ってみてから、これでは説明になってないな、と思った。こっちの持っている情報を、さらけだすしかなさそうだ。
そこで、まずこう聞いてみた。
「立ち入ったことを聞いて悪いけど、彼とあなたとの仲は、どうなってるの」
はるかは、ためらいなく即答した。
「あの人は、私の元彼なの」
「元彼か……」
「少なくとも私にとっては元彼。でもむこうは、そこまで割りきれてないかもしれないわ。私にしつこく、どうして荒木さんとつき合いがあるのかを聞いてくるぐらいだから、まだつながりがあると思っているのね」
そういうことがあったわけだ、と了解する。あの、いたずらっぽいキス・シーンを見て、あの男ははるかを問いつめたのだろう。あいつとはどういう仲なんだ、とか、おれとの仲をどう思っているんだ、なんて。
そういう男に、あれを見られたのか。
鮎太は考えて、事実を言うしかあるまいと思った。
「ぼくが彼と知り合ったのは、とても奇妙ななりゆきなんだ。ぼくの知っている、妹みたいな女の子がいてね、その子は以前にメイド喫茶で働いていたことがあるんだ。それでその子が、メイド喫茶のお客だったらしき人にストーキングされているって相談してきたわけ。こわいから助けてって」
「彼がそのストーカーだったの?」
「うん。その女の子を送っていったら、彼が尾行してきたんだよ。そこでぼくとしては、こんな子供に近いような子が怯えるようなことはやめなさいと、忠告をしたんだよ。彼は一応紳士的で、ストーキングなんかしてない、疑われただけでも不快で、その女の子はぼくにとってなんでもないって言ったよ。それで、その後はストーカー行為もなくなっているらしい」
「そんな知り合い方なの」
「だから彼のことをよく知っているわけじゃないんだ。ただ、最初の時に名を教えあったから、東昌之というサラリーマンだってことだけは知っていたんだよ。そして、この前あなたと会った日のことだけど……」
どうしようか、とも思ったが、全部話したほうがさっぱりしていいって気がした。
「あなたがタクシーで帰ってから、彼がぼくにつめ寄って聞いたんだ。えっと、彼がそこを通りかかって偶然見たらしいんだけど。彼が言ったのは、きみはぼくの恋人と何をしていたんだ、ということ。ぼくとしては正直に、酔ってちょっとハメを外しただけで、深い意味はないと答えるしかなかったのだけど」
「おかしな出会い方ばかりしている二人なのね」
「まさしくそうだね。いつもなんとなく、おれの女に何をするんだ、みたいな状況で出会っちゃう二人だというわけで」
「不思議な縁がある二人なのかしら」
「そんな縁はなくていいんだけど」
はるかはうつむいてしばらく考え込み、それから顔を上げて言った。
「ちゃんと言っておくわね。私にとって彼はもう元彼なの。つき合っていた時期もあるけど、もう終わっているのよ。でも、彼がどう思っているかは別。今もよくメールをくれたりするし」
「そういうこと、あとを引くタイプの男なんだ」
「そうみたい。そこが少し面倒なの」
はるかは考え考えしゃべった。
「確かに、とても優秀な人ではあるの。東央《とうおう》大学をいい成績で卒業して、IT企業大手のアルカサルにすんなりと入ったエリートよ。彼は人生で挫折を味わったことがないかもしれないわ」
「だけど、女性関係ではすべて思うがままというわけではない?」
「そこが問題なのよ。あの人、どんな時でも自分がトップでなきゃ気がすまない人なの。絶対に自分の負けを認めなくて、負けるぐらいならどんなことをしてでも相手をつぶしにかかるのよね。そういう、狂犬みたいなところのある人なのよ。だから荒木さんを敵視しているかもしれない」
「ぼくは何も気にしていませんけどね」
と鮎太は言った。だが、それは本心だっただろうか。
一通りの話がすんだところで、三澤はるかは、このあとお酒を飲みましょうか、と誘ったのだ。なのに鮎太は、今夜遅くに母親がアパートに来るので、と嘘を言ってつき合いを断ったのである。内心ではグラリと誘惑されていたのに、それだからこそ、きわどいところで逃げた。
狂犬のような男がついている女性だってことに二の足を踏んだのかもしれない。
それとも、ナオの言った「その女、ヤバいと思うなあ」という言葉に影響されてしまったのか。
とにかく鮎太は誘惑の淵から身をかわし、その日は大人しく一人で帰ったのである。
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第5章 緊急事態
1
研修期間が過ぎて、鮎太はオフィス・セキュリティー課に配属された。より正確に言うと、まずは三ヵ月ばかりオフィス・セキュリティーのためのセキュリティー・センターで夜間勤務のほうが多いノルマをこなすように、ということになったのだ。週に五日間の勤務で、そのうちの三日間は深夜の労働だった。
しかし、鮎太には夜勤はそう苦痛ではなかった。彼の体内時計はとても柔軟性があり、いつでも必要な時に寝だめのできる体質だったから、働くのが昼でも夜でも構わなかったのである。
鮎太は前向きな好奇心を持って仕事に臨んだ。鮎太らしい言い方をするなら、どんな仕事でもやってみると面白いもんだよ、という気分でいて、こんな恵まれた職場はそうないんだからしっかりやろう、と思っていた。
一方、大道寺のほうは、研修期間が終わるとセキュリティー本部の総合企画室に配属になった。まだ何をするところなのかよくわからないの、と言っているが、要するに会社の進む方向性を決めていく統括部のようなところらしい。そこに回される社員のほうが、それ以外よりも優秀だと見なされているようだ。
「ちょっと複雑な気分なのよね」
と大道寺は、昼間の勤務だった鮎太が、就業時間を終えて帰宅しようとしているのを夕食に誘い、しゃぶしゃぶ屋でかいがいしく野菜や肉を鍋に入れながら言った。
「もちろん、働く以上はちゃんとやろうと思っているんだけれど」
「どう複雑な気分なんだよ」
「自分があの会社で真面目に働くっていうのが、とっても喜劇的なことで、笑っちゃうような、いまいましいような、妙な気分になるのよ」
どうもその辺に何か面倒な事情があるらしい、というところまでは鮎太にもわかっていた。
「おれに仕事を世話してくれようとして、お前も巻き込まれているわけだもんな」
と鮎太はしゃぶしゃぶ肉を胡麻《ごま》だれで食いながら言った。
「巻き込まれたとは思ってないわ。自分の意思で、キリのいい四月から勤め先を替えたっていうことだから」
「でも、この職につくために、頭を下げたくない人に頭を下げて、それがなんかくやしいっていうか、相手の力を認めるかたちになって面白くないという、その、やな気分になっているわけだろ」
大道寺は三つ葉をつまんでいた箸を止めて鮎太の顔をまじまじと見た。そして、うふふ、という感じに笑った。
「鮎太ってすっごく意外にも、そういうデリケートなしゃべり方のできる人なのよね」
「なんだよ、それ」
「だから、一見したところ鮎太ってガサツ系じゃない。気配りも何もなく思いついたことを口に出しちゃうタイプに見えるのよ。それなのに、あなたは私に気をつかって、父親という言葉をつかわないようにしゃべるのよ。気をつかわせてごめんなさいね」
「いや、べつにおれは……」
「でも、そんなに気をつかってくれなくてもいいわ。私としてはもうふっきれている話だから。だからあなたにも、ちゃんと説明するわよ。確かに、私と私の父親との間に、お互い顔も見たくないっていう衝突があったのよ」
大道寺はなんでもないことのようにさらりとそう言った。
「そういう親子関係って、珍しいもんじゃないよな」
と鮎太は妙に及び腰で言った。大道寺はうふふ、と笑った。
「私の父はね、わかりやーすく言うわよ。大会社の社長なの。ひとつの会社じゃなくて、ある大きな企業グループのトップに立っている、っていうほうが正確かしらね。そういう、自分が君臨する企業グループの繁栄しか考えられないという、日本経済界の大物なの」
そう言われても、経済界にうとい鮎太は大道寺という経済人に心当たりはなかった。
「その企業グループの中に、東門セキュリティーも含まれているんだな」
「そう思っていいわ。グループの中に入るのかどうか私も詳しいことはよく知らないんだけど、あの会社は私の父の言うことには逆らえないの」
「うん。そういうことらしいな」
つまり、そのおかげで鮎太と大道寺は名の通った企業に入社できたのだ。すぐに仕事を探さなきゃ、と考えた大道寺が、本当は頭を下げたくない父親に仕事の世話を頼み、その人の鶴の一声で、東門セキュリティーに特別仮採用されたってわけなのだ。
「そういう大物ではあるけれど、つまらない生き方をしている人なのよ」
大道寺は吐き捨てるようにそう言った。
2
「私も、小学生の頃には、うちのお父さんはすごい人だって尊敬してたわよ。だって子供ってバカだもん。お父さんは大会社の社長で、それってすごいことなんだ、なんて自分の手柄みたいに感じてたわ。でも、中学生になったらもう、そんな単純な尊敬はできないわよね。なんかこの人の人生って、会社を発展させるだけのためにさしだされていて、自分の生きる喜びってないんじゃないか、なんて気がしてくるものよ。家庭を顧みることがまったくなくて、これが尊敬できる生き方だろうか、というような批判を持つわけよ」
「そういうもんかな」
鮎太は弱い声でそう言った。郷里で畳屋をやっていた、もう亡くなっている父のことを思いだしてみても、会社社長の人生のことはよくわからなかったし、その息子の悩みも実感できなかったのだ。
「それでね、高校生の時にとうとう親子の仲が決裂しちゃったの。そうなった直接のきっかけは、父が私の人生を私の意思には関係なく全部決めているってわかったから」
「それは、私の会社に入って私の跡を継いでくれ、っていうことなのか」
「最終的にはそういうことよね。私が何をしたいと思っているかは全然考えないわけよ。まず、経済人としての帝王学を身につけるための前提として、商学部とか、経営学部とかの、ビジネスの基礎を身につける学部へ進め。一流大学のそういう学部に入れ、というわけよ」
「なるほど」
「そこを出たら、アメリカの大学に留学して、二年ばかりあっちで生活しろってわけ。そこではそう勉強しなくていいんだって。英語で会話できるようになって、アメリカの大学を出ているっていうキャリアがあるだけで、経済界でどれだけ有利かは計りしれないんだそうよ」
「ものすごく計算して人生を組み立てていくんだな」
「それが、ああいう世界の人の考え方なのよ。アメリカから帰ったら、父の持つグループの企業のどれかに入って、いきなり企画室長あたりからスタートするの。それで三十代でその企業の社長になって、四十代では父の会社の重役の地位につくわけよ。あ、言い忘れたけど、二十代で大手企業グループの総帥の孫娘かなんかと結婚する、というのも人生スケジュールの中に入っていたわ」
「そういう人生を送れって、高校生のお前に言うわけか」
「それがね、命令ですらないのよ。私の息子として生まれたんだから、それが当然の生き方で、それしか選べないっていう考え方なのね。でも、私はそんな人生はまっぴらだったの。そんなの、私にまるっきり似合ってないんだもの」
「親子の断絶だな」
「もう、顔を合わせれば衝突していたわ。あの人には私の、自由に生きさせてほしい、っていう言い草が信じられないわけね。何をバカなことを言いだすんだ、というふうにしか聞いてもらえなかったわ」
大道寺はそこまで言って、ふと、謎の微笑を浮かべた。ここからが肝腎なところよ、とでも言いたそうな顔だった。
「それで、高校三年生の時にね、その時もまた自由に生きたい、そんなことは許さん、の口論をしてたんだけど、ついに私、頭にきて大声で叫んじゃったのよ」
「なんて?」
「『私は私の好きなように生きたいんだもん、口をはさまないでよ!』って」
「うん。お前なら言いそうなセリフだな」
「違うのよ。私がそう叫んだら、父はギョッとしたような顔で黙っちゃったのよ。だってそれまでは私、父の前では普通のボクちゃんの言葉でしゃべっていたんだもん」
「あっ。つまりそれが初めての……」
「その時から私、こういうふうにしゃべるのを自分に許したの」
「うわあ……」
としか鮎太には言えなかった。つまり、そのようにして大道寺はオネエ言葉の人になったのだ。
「そして私は父の望まない大学の望まない学部に入って、家を出て独り住まいをするようになったの。親から学資の援助も受けないで、すべてアルバイトでまかなったのって言いたいところだけど、母親がね、学資だけは出してくれたわ。でも、必死でアルバイトをしたっていうのは本当のことよ」
ということは、大道寺のこのしゃべり方は父親と決別するための手段なんだろうか、と鮎太は考えた。こういうふうにしゃべってみたら、その父親もついにあきらめた、という事実があるわけだ。
それとも、父を切り捨てるためには、それまで隠していた本当の自分をさらけだすしかなかったということなのか。そういうきっかけでカミング・アウトしたってことになるのか。
その辺のことは、立ち入って聞くのもどうかと思われ、結局よくわからないままになるのだった。
3
「そんないきさつがあって、大学を出てもちゃんと就職しないで生きてきたのよ。なんだかね、ちゃんと就職するっていうのは父の生き方のほうへ接近しちゃうような気がしてたの」
「そうか。それなのに今度のことで一流企業に籍を置くことになっちゃって、自分らしさが失われたような気がするんだな」
「そういう感じかしらね。私ね、本当はあなたのことだけを頼みたかったのよ。私の友達を、どこか父の力の及ぶ会社に入れてもらえないでしょうか、というのが私の頼みだったわけ。なんとかしてくれたら、大道寺家の冠婚葬祭には顔を出すようにしますから、というのがこっちの譲歩でね。でも、そんなんじゃダメだって言うのよ。その友達とお前の二人がちゃんと職につくなら、勤め先をなんとかしてやる、ということになっちゃって」
「つまり、おれのせいだな。おれを人質に取られた格好になって、お前もあの会社に入社するしかなくなった」
「あ、誤解しないでね、それはそれでいいのよ。私も、何か仕事にはつきたいと思っていたんだから、入社できたことがいやだっていうわけじゃないの。ただね、そこが父の持っている企業グループの中の一社だというのがね、どうもすっきりしないわけ。総合企画室なんてところへ配属されちゃって、これは例の帝王学っていうのを学ばされるわけなのかしら、なんて思うのよ」
「かなり面倒臭いな」
と言って鮎太はしゃぶしゃぶ鍋から灰汁《あく》をすくった。そして、鍋に入っていた餅《もち》の硬さを調べる。
「お前としては、ちゃんと職について、真面目に働く気はあるわけだ。そこで評価されるのもいやなことじゃない。だけど、親父さんの力の及ぶ会社にいては、真面目に働くことが負けのような気がするわけだろ。もし評価されて出世したとしても、それは親父さんの敷いたレールの上を進んじゃうことのような気がするわけだ。いちばん嫌っていた生き方になっちゃうんじゃないかと、気が晴れないってわけだよな」
「そういうことよね。だから私、どうしていいのかわかんなくなっちゃってるのよ」
鮎太は考えながら、餅を箸で突《つつ》いた。
「餅、もういいぜ。食おうよ」
「私はいらないから、ふたつ食べて」
そこで、餅をもぐもぐと食べた。しばらくは大道寺も無言でいた。
餅を平らげてから鮎太は言った。
「そんなに心配することはないんだよ、多分」
「心配って?」
「親父さんに人生を決められちゃうんじゃないかっていう心配だよ。そんなこと考えないで、入った会社でバリバリ働きゃいいんだと思うな。それで、優秀だねえ、と評価されたら素直に喜んじゃえばいいんだ。出世させてくれるんなら出世すりゃいい」
「だけど……」
「だけど、じゃなくて、ただし、だよ。ただし、もしどっかで、御曹子コースが出てきちゃったら、それはご免だって言やいいんだよ。たとえば、この会社をまかせるからやってくれなんて話が出てくるかもしれないだろ。そういう時は、それをやる意欲も能力もないから受けられません、だよ。そうなったら会社をやめりゃいいんだ。それってすごいぞ。私に甘い顔を見せたらやめてやる、と思っていてさ、そうじゃないんなら真面目に働くっていうスタンスだよ。考えてみたら、そういう働き方って理想じゃないのかな。普通はみんな、会社に人生を振り回されて生きているもんだよ。出世のためには家庭を犠牲にもする、という具合さ。ところがお前は、ちゃんと働きはするけど、私の人生を左右したがるのならそこでやめるだけのこと、と思っていられるんだ。それは気分のいいことだぜ」
大道寺は初めあきれたような顔で聞いていたが、ついには笑いだしてしまった。
「ちょっとすごいじゃないの、鮎太ちゃん。その考え方はいいわね。企業なんて、入った以上は働いてあげるけど、社員の人生を左右しようとするんならそんなのとんでもないことだわって、拒否するのね。そうよ。それが本当のあり方だわよね。そう思って働いていれば、自分を見失うこともないんだわ」
「実際には、多くの人が生活のためにやめられない、という思いで働いていると思うよ。でも、やっぱり根底では、自由というものを仕事にさしだしちゃってはいけないんだよ。自分にとって自分より大切なものはないんだ」
言ってみて、そうだよなあ、という気が強くしてきた鮎太であった。
4
セキュリティー・センターでの仕事は単調だった。それは言ってみれば見張り番≠フ仕事であり、何かがおこるかもしれないのを待っているという、受動的な仕事なのだ。
たとえば、夜中の勤務の場合だと、二人がペアになって二組、合計四人がセンターで一晩中待機するのだ。四人のデスクの上ではパソコンが稼動している。
契約をしている企業に、何か異常があれば電話回線で通報が入るようになっているのだ。その異常とは、火災、ガス漏れ、賊の侵入などである。
通報が入ると、そう大きな音ではないのだが、アラーム音が鳴る。それで、何事かとパソコンを見れば、どの会社で何があったのかが表示されている。
煙探知、熱探知、ガス漏れ探知、侵入異常などの表示を見て、マニュアルどおりに対応しなければならない。
侵入異常の表示が出ている時は、その会社内に「侵入者がいます……。侵入者がいます……」という音声が流れているはずだ。
監視カメラ付きコースの契約会社の時には、そのカメラの捉えた映像をモニターに出してチェックする。そして、対応すべき異常が見られる場合は、すぐさま対応する。その対応は、ケースによっていろいろである。
すぐに一一九番に通報しなければならない場合もある。ガス会社への通知とか。
侵入異常の場合には、どのような対応をするかにいくつか選択肢があるのだ。監視カメラ付きコースで、モニターに怪しい侵入者が映しだされているのであれば、ただちに一一〇番通報をすると同時に、警備班に連絡をとってその会社へ直行させる。
監視カメラのない契約の場合は、まずその会社に電話をかける。そして、誰かが電話に出て、その誰かがその会社の人物であると確認でき、トラブルはないのに操作ミスで侵入異常の通報をしてしまっただけである、とわかれば、警戒を解除する。
そういう場合のチェック・システムはとても複雑にできていた。電話をしても誰も出ない時はどうするか、誰かが出たとして、その人物が本当のことを言っているとどのようにして判断するのかなど、細かく対応が決められているのだ。
センターの仕事は、その対応を間違いなく迅速にこなす、というものだった。判断ミスのないように、二人がペアになってひとつの通報に対処するシステムになっていた。
ただ通報を待っているだけの退屈な仕事だというのも一方の事実だが、ことがことだけに、常になんとなく緊張しているというのも本当であった。ことあれば、ミスなくテキパキと処理しなければと、身構えていなければならないのだ。
そして、通報のあったことを知らせるアラーム音は、想像していたよりははるかに頻繁に鳴った。夜半前だと、一時間なんの通報もないというのはごくまれだった。ただし、まあ、夜半を過ぎればあまり通報もなくなるのだが。
そして、通報があっても、その九割近くはそんなに緊急な事態ではないのだった。火災通報があって電話してみると、殺虫スプレーを天井のほうに向けて散布したら、センサーが反応してしまったんです、というような応答だったりするのだ。
侵入異常の通報では、まだ社内に人が残っているのに、これで無人になるのだと勘違いをして、終業モードにしてしまったのです、という事情であることが多かった。もしくは、忘れ物をして会社に戻ってきたら、この騒ぎになってしまったんです、とか。その場合は社内に入ったところで終業モードをオフにしなければならないのだが、そのためのキーをなくしてしまった、なんていう社員もいる。
とにかく、警備班を出動させなければいけないケースはそんなに多くはなかった。
半月ほどその任務についていて、鮎太が体験したいくらか事件性のあるケースは、実際に外部から賊が侵入したのだが、「侵入者がいます」の大音声であわてて退散したらしきことが二回と、酒に酔ったその会社の社員が応接ブースのソファで寝込んでいたケースが一回だけだった。
そういうわけで、なんやかや対応しなければならないことが多いとはいうものの、大事件はそんなにはおきないのだった。
でも、鮎太はその仕事を面白がってやった。いろいろなオフィスの見張り番をしていて、一瞬たりとも気が抜けない、という感じがいい緊張感をもたらすのだ。それはどことなく子供っぽい気分を刺激する仕事だった。
5
五月も下旬になっていた。その日も鮎太はセキュリティー・センターで夜間勤務をしていた。その夜、鮎太とペアを組んでいたのは、二年先輩の原田圭助《はらだけいすけ》という男だった。二年先輩とはいうものの、原田のほうは大学卒業後すぐにここに入社しているので、鮎太と同い年だった。それもあって、二人のコンビネーションは悪くなかった。
午後十一時を少し回った時、通報のあったことを知らせるアラーム音が鳴った。二人ともパソコンのモニターをあわてて見る。
港区にあるコメテックCPという会社に、侵入異常があったことが表示されていた。
「IT企業だったよな」
と原田は言い、パソコンのマウスを操作して監視カメラの映像を表示した。それをしながら鮎太に指示を出す。
「荒木は会社に電話して」
電話番号はデータとして出ているからそこへ電話をかけてみた。しかし、呼び出し音を二十回鳴らしても誰も出なかった。
「オフィスに誰かいる」
と原田が言ったので、鮎太は原田の見ている監視カメラの映像をのぞき込んだ。机がずらりと並んでいるオフィスの光景があり、そのいちばん奥の机で、誰かがパソコンを操作しているのが見えた。ただし、机がカメラのほうに面していて、机の上のパソコンのモニターの陰になっているから男の顔を見ることはできなかった。
「賊でしょうか」
「まだわからない。社員の一人が残業をしているのかもしれないから」
それはないだろう、と鮎太は思った。
会社のセキュリティー・システムは終業モードになっているのだ。それを解除することなく侵入して(賊ならば、解除する方法がない)、侵入者がいます、という音声が流れ続けているのに、それを無視して何かゴソゴソやっているのだから。
「電話に出る気がないというのもおかしいですよ」
「そうだけど、自分の仕事上のミスに気がついて、それを修正するってことで頭がいっぱいの気の小さい社員、なんていうおかしなケースも実際にはあるからな」
「ではどうします」
「もちろん、警備班に行ってもらう」
なるほど、と鮎太は納得した。まだこの段階では、警察に通報するまでの事件性があるとは判断しないわけだ。まず、警備班の者を現地へ行かせ、事情を調査させるのだ。事件だとわかればそこで一一〇番通報をする。
原田が警備班に連絡をとった。だが、その声が急に大きくなる。
「なんだって。どうしてそんなことになってるんだ」
しばらく大声でやりとりをして、ついには何かをあきらめたようだ。
「ありえないことがおこってる」
と鮎太のほうを見て言った。
「警備班のメンバーが全員出払ってるんだそうだ」
「どうしてそんなことが」
その会話に、もう一組のペアの土屋《つちや》というベテランが加わってきた。
「偶然が重なったんだ。オフィス侵入が二件あったところへ、練馬区のオフィス・ビルで火事が発生したんだよ。そこにうちの顧客が三社入っていた」
「みんな、出払っちゃったんですか」
「無線で連絡をとって、回ってもらおう」
すぐさまそうすべきであろう。火事の現場にセキュリティー会社の人間がいたって、なんの役にも立たないのだ。
しかし、鮎太はそこでこう言った。
「それより、ぼくがコメテックCPへ行きます」
「どうしてそのほうがいいと思うんだ」
原田も困惑の顔つきだった。
「車は、予備のものがあるでしょう。それに、ここからのほうが港区のコメテックCPに近いです。何がおこっているのかも、ぼくならよく承知していますし。原田さんはここに残って警備班なんかと連絡をとったほうがいいと思います」
原田はパソコンのモニターをチラリと見て、決断した。
「じゃあ荒木に行ってもらおう。マニュアルは頭に入っているな」
「大丈夫です」
「無線で連絡を入れてくれよ」
「そうします」
こんなケースもあろうと想定して、二人でペアを組んでいるのだ。センターで様子をチェックするのは一人でもできることである。
鮎太は行き先の住所と、地図を確認してからセンターを出た。入社以来、実際に異常のある現場へ行くのは初めてのことだった。
6
車の中から原田に無線で連絡をとった。そして、状況に変化はないことを聞く。つまり、侵入異常あり、の状態は続いていて、不審な男はずっとパソコンの前で何か操作をしているというわけだ。
青山一丁目にある十六階建てのオフィス・ビルに鮎太は到着した。エレベーターで十二階へ上がる。そこが、コメテックCPのオフィスだった。
エレベーターの中で、こういう場合のマニュアルを思いだし、それを頭の中でくり返し確認した。すぐさま侵入者に飛びかかって、取り押さえればいいというような荒っぽくて単純なやり方はできないのである。
あなたは何者で、何をやっているのか、ということをまず聞くのだ。この会社の社員だ、という答えだった場合には、そのことを証明するために、社員証を見せてもらうかまたは名刺を二枚もらう。名刺が一枚では、賊が何かしらの方法で手に入れたものかもしれないので、二枚もらうのだ。
そして、なぜ終業モードを解除しないのかについて、合理的で納得できる説明ができるかどうかを確かめる。
そこまで考えたところでエレベーターが十二階に着いた。降りると、コメテックCPの社名がデザインされた金属パネルがあって、その横がガラス扉になっていた。
その扉には鍵がかかっていた。それは重要なことだった。侵入者がこの扉から入ったのだとしたら、そいつが自分の手でロックしたことになるのだから。鮎太は賊はエレベーター前の扉から入ったのだろうと考えていた。屋上からロープをつたい下りて窓を割って入る可能性がゼロではないが、それなら窓ガラス破損センサーが働いているはずだからだ。
鮎太は、社を出る時に原田が渡してくれた鍵で、扉のロックを外した。セキュリティー契約を結んだ時に、鍵を一本預っているのだ。言うまでもないことながら、預った鍵は常に厳重に管理されている。
会社内に入ると、例の声がかなり大きくはっきりと聞こえた。
「侵入者がいます……。侵入者がいます……」
鮎太は昼間は受付嬢がいる席の横の壁面のほうへ進んだ。その壁に、セキュリティー装置が取りつけてあるのだ。
特殊キーを使って、終業モードをオフにする。ふいに、うるさい女性の声が止んだ。女性の声で吹き込んであるアラーム音声が消えた、ということである。
コメテックCPの社内は、ビルのワンフロアを使っているので広い。パーティションでいくつもの部屋に仕切られていて、どこが何をする部屋なのか見当もつかなかった。
だが、とりあえずめざすところははっきりとわかっていた。監視カメラの映像で、ひとつだけ、明かりのついていた部屋があったのだ。謎の侵入者は、その部屋でパソコンをいじっていた。
社内に、光のあるところは一ヵ所だけだった。だからまず、そこへ行く。
いきなり賊に襲いかかられることが絶対にない、とは言えないケースだった。だから、四方に注意を払って慎重に進む。東門セキュリティーでは新人の研修期間中に、一通りの護身術を習練してくれていたが、それで確実に身を守ることができるかどうかは、ちょっと心もとなかった。
だが、鮎太はいざとなると糞度胸の出る男である。しっかりとした足取りで、明かりのもれている部屋まで進んだ。
部屋の扉に、UPO室、と書かれたプレートが取りつけてあった。鮎太にはその意味はわからない。ただ、いかにもこの会社の心臓部だというような雰囲気があった。
そのドアを、慎重に開ける。
モニターで見たあの部屋だということは一目見てわかった。机がずらりと並んでいて、どの机の上にもパソコンがある。そして、監視カメラが映していたのは部屋の入り口の上部からの映像だと見当がついた。つまり、この部屋のいちばん奥の机のところに侵入者はいる。
鮎太はゆっくりと進んだ。
そして、いちばん奥の机に人影があるのを見た。
「失礼します。東門セキュリティーの、セキュリティー・センターの者です。侵入者異常の通報がありましたので、安全確認のためにうかがいました」
すると、モニターの陰から男がゆっくりと立ちあがった。そしてその男は、魂が抜けたような奇妙な声を出してこう言った。
「なんなんだ、きみは」
そう言う男の顔が、鮎太にははっきりと見えた。
「どうしていつもきみが出てくるんだ」
そう言った男は、鮎太が奇妙ななりゆきで知っている男、東昌之であった。
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第6章 負けていく者たち
1
鮎太のほうもこれが現実の出来事だとは信じられないような気がした。セキュリティー会社の社員として侵入異常のあった会社へ駆けつけて、知っている人間に出くわすというのはありえないような偶然である。しかもその相手が、最近知り合って、どういうわけか不思議な場所でばかり顔を合わせる人物だったというのは、神のいたずらなのかという気がしてしまう。
しかし、とりあえずその驚きよりも、ここは仕事を優先させるべき場合であった。
「東さんはなぜここにいるのですか」
机をはさんで二人は対面していた。
「それはこっちがきみに聞きたいぐらいだよ」
東は少し落ちつきを取り戻した声でそう言った。
「そのわけは、私がこの四月から東門セキュリティーで働いているからですよ。そして、契約している会社に侵入異常ありという通報が入ったので、安全確認をしに来たんです。ですから答えてください。こんな夜中にここで何をしていたんですか」
「仕事だよ。どうしてもしなくちゃいけないことがあるのを思いだして、明日まで待てずに会社に戻ったんだ」
「東さんはコメテックCPの社員なんですね」
「もちろんだよ」
「社員であることを証明できますか」
東は社員証と名刺を出して鮎太に見せた。ここの社員であることに疑いの余地はないようである。東がIT関連の会社に勤めていることは、三澤はるかからも聞いているのだ。
「社員だから鍵を持っていて、会社に入ることができたのですね」
「そうだよ」
「では、どうしてセキュリティー・システムの終業モードを解除しなかったのですか。侵入者がいます、というアラーム音声がうるさかったはずですが、なぜそれを消さなかったんです」
「どこでどういう操作をするんだったのか、忘れてしまったんだよ。それを教わったのは一年以上前のことで、ぼくが夜中に会社に来たのは初めてだからさ」
「うるさいのを無視して仕事を片づけようとしたわけですか」
「そう。やらなきゃいけないことは、パソコンを操作して三十分でできることだったからね。もたもたしているより、片づけたほうが早いと思ったんだ。現に、その操作をやり終えたところだよ」
「そこへ私が来たということですか」
「そうですよ。実を言うと、警備会社がこんなに素速く対応するとは思っていなかったから、ちょっと驚いているんだ」
とりあえず事件性はないようだな、と鮎太は考えた。この会社の社員が、しなければならない仕事を思いだして出社しただけのことである。侵入異常の通報及びアラーム音声を止めなかったのは、操作法を忘れたから。
かろうじて説明はつくのである。もちろん疑ってみれば、東が自分の勤める会社に対して犯罪行為をしていた可能性は否定できない。会社の情報を盗むとか、資金をどこかに流すとか、想像はいろいろできる。
しかしそのケースならば、セキュリティー会社が関与する必要はないのだ。会社側に今夜のこの事態を正確に報告すれば、それで責任ははたしたことになる。
「セキュリティー・センターに報告を入れますので、そのままお待ちください」
そう言って鮎太はポケットから無線を出して操作した。
センターにいる原田に、事情を伝えた。もらった名刺を見て、東の所属部署とフルネームを伝える。そういう社員が、急いでしなければならない仕事を思いだして会社に入ったのだと。
警察へ通報するケースではなさそうだな、と原田は言った。そして、そのまましばらくそこで待て、と指示を出した。
通話を終えて、鮎太は東のほうを見て言った。
「センターから、登録されているこの会社の保安責任者に連絡を入れたそうです。それで、その人が今ここへ向かっているので到着を待てということです」
「誰が来るんだろう」
「小柴《こしば》さんという人だそうです」
「ああ、総務部長だ。そうか、そんな人の手をわずらわせてしまうのか」
さすがに東も神妙な顔をした。それほどの騒ぎになってしまうとは思っていなかったのだろう。
「うちが出動してしまう事態になったんですから、事情の説明はちゃんとしないといけないわけです」
鮎太は事務的にそう言った。
2
小柴という総務部長は自宅が会社に近いそうで、ものの十分ぐらいで駆けつけてきた。原田の連絡が迅速だったということもあるのだが。
だが、その十分間は鮎太と東だけが、無人のオフィスの中で対面していたのだった。
「で、結局のところ、今日ここにきみが現れたのは偶然だったというわけか」
東は納得がいかないという顔をしてそんなことを言った。
「ぼくが来たのは偶然です。東門セキュリティーのほかの担当者でもよかったんだから」
鮎太は、業務上の会話はもう終わったな、という思いから、「私」ではなく「ぼく」と言った。おれ、と言うほどには親しい相手ではないと思ったのだ。
「たまたま四月からこの会社に仮採用になっていて、今日はセキュリティー・センターの夜勤の日だったんです。そうしたら侵入異常の通報があって、たまたま警備班の人間が出払っていたから、ぼくがここへ様子を見に来た。そういうことのすべてが偶然ですよ」
「すべてまったくの偶然というわけだ。でも、実はそうじゃないんだろうな」
「そうじゃないって、どういう意味ですか」
「どうもきみは、ぼくにとってそういう節目の時に現れる人間なんだよ。きみはぼくが軌道からズレそうになると出てくるんだ。そうとしか思えない」
おかしな考え方だったが、鮎太にもそんな気がしなくはなかった。
「東さんに会うのは今日が三度めですよね」
「そう。一度めは、あの脚にしか価値のない女の子に、心の迷いがあったぼくがふらふらとついていったらきみが出てきた。こんなことはよせ、と言うためにね。そして二度めは、こんなふうに迷っているより、忘れられない彼女とよりを戻すべきだ、と考えていたところにきみが現れた。その彼女とキスする姿を見せてくれたよ」
「あれは酒の上での小さなハプニングなんですよ。わかってもらえないかもしれないけど」
「それはどうでもいいんだ。それよりも重大なのは、ぼくにとってきみはそういう時に出てくる人間だってことだよ。どうもそういう宿命の相手なんだな」
東の言いたいこともわからなくはなかった。三度も偶然が重なって、迷いのせいで行動が変になった時に必ず会うのだから、そこには意味があるのだと考えるのも無理はなかった。
「きみはぼくにとっての何かなんだよ。悪魔なのか、守護天使なのかはまだわからないが」
守護天使なんていう言葉が、IT企業で働くエリートの口から出て、鮎太は少し意表を衝《つ》かれた。
「ぼくは天使じゃないし、もちろん悪魔でもありませんよ。東さんと同世代で、この東京でうろうろしているんだから偶然出くわすこともあるっていうだけのことです」
「いや、それだけではないような気がする。きみはなんか、ムカつく男なんだ」
東は自分に言い聞かせるように、そう言った。
「ムカつかれるのは悲しいけど」
「でもそうなんだよ。きみはどういうわけか、いつもなんとなく余裕のある態度で出てくる。何を迷っているんだ、人生は素晴らしいじゃないか、なんて言いそうな顔でね。きみのその余裕の顔つきを見るとイライラするよ」
「余裕なんかないですよ。ただ、能天気な男なだけで」
そんな話をしているうちに、十分が経過した。小柴という総務部長がタクシーで駆けつけて、UPO室に姿を現した。まもなく十二時になろうかという時刻だった。
「どうしたんだ。こんな時間に何をしているんだ」
鮎太はその部長に事情を説明した。侵入異常の通報があったので安全確認のために来たところ、こちらの東さんがここで仕事をしていたんです、と。
「どういうことなの」
と部長は東に言った。
「お騒がせして申し訳ありません。こんなことになるとは思ってませんでした」
東は、鮎太にしたのと同じ説明を会社の上司にもした。どうしてもすぐに片づけておきたい仕事があったのを思いだして、終業後のオフィスに入ったのだということ。アラーム音声は気になっていたが、それを止める方法を忘れていたので、どうせ三十分ほどで終わるからと無視していたんだということも。
それは、この会社の人間同士のやりとりであって、東門セキュリティーがかかわる必要のないことだった。だから鮎太は二人から数歩はなれて、聞いていないような態度をとった。
部長は東の説明を受け入れたようだった。非常識なことをしないでくれよ、深夜に出社したくないよ、と愚痴をこぼし、東はもう一度、申し訳ありませんでした、と頭を下げた。
そして、三人はオフィスに鍵をかけて退社した。鮎太は部長に挨拶してから、東門セキュリティーに戻った。
3
その二日後、夕食のあと、鮎太はアパートから三澤はるかに携帯で電話をかけた。二日間考え抜いて、そうすべきだと決心したのである。
鮎太からの電話に、はるかはなんだかすねたような声を出した。
「ちょっと意外だわ。もう連絡をくださることはないのかな、と思っていたから」
「連絡していいものかどうか、迷っていたんです。いつだったかのことはもうお礼を言ったわけだし、今は二人とも新しい会社で働いていて、縁はないのかな、なんて気がして」
「冷たいのね。男と女って、メールアドレスを教え合っているだけで縁があるってことじゃないかしら」
やっぱりはるかは色っぽかった。その言葉を聞いただけで、鮎太の脳裏にはるかのタイトスカートのスリットから見える太腿が浮かびあがった。
「冷たいわけではなくて、用件もないのに連絡をとっていいものかどうか、ためらっていたんですよ。それであの、今日はちょっと聞きたいことがあったので、思いきってかけてみたんです」
「聞きたいことってなんですか」
「あの、東さんのことなんです。東昌之さんの携帯の番号を知っていたら教えてもらいたいんですが」
当然のことながら、はるかはどうしてそれを知りたいのだとたずねた。
「最近、東さんにまた会ったんですよ。それで、ひとつふたつ彼に聞きたいことが出てきちゃって」
どこで、どんなふうに会ったのか、と聞かれる。鮎太は、コメテックCPという会社で東がセキュリティー・チェックにひっかかったということを簡単に説明した。
「そうか、彼は今コメテックCPっていう会社にいるんだったわ。彼が最初に入社したアルカサルっていう大手企業の、情報コントロールをまかされている関連会社がコメテックCPなの。そっちに回されて主任に取りたてられたって聞かされたのに、私、そのことを忘れていたわ」
「彼がセキュリティーにひっかかった件はその会社内の問題だからぼくには関係ないんだけど、個人的に聞きたいことが出てきちゃって、もう一度、彼に会いたいんです。だから電話したいんですよ」
「それは、あなたと彼との問題ね?」
とはるかは聞いた。そうであって、三澤さんには関係ありません、と言うとはるかは自分の携帯を調べて、東の携帯番号を教えてくれた。
教えてから、荒木さんって、自分からトラブルに首を突っ込んでいくところがある人じゃないの、と言う。そうかもしれない、と鮎太は答えた。
「ところで、せっかく連絡をくれたんですもの、またどこかで会えませんか」
とはるかは、急に甘えるような口調になって言った。そういう人だとわかっていても、なんだかゾクリとしてしまう。
そうですねえ、と鮎太は答えた。いいですねえ、ではなくて、考えるように答えてしまったのは、あの女性に近づくのはとても危なっかしいことかもしれない、という動物的な勘がまた働いたからだ。はるかはほとんど無意識に誘惑的にふるまってしまう女性なのだ。その誘惑にうかうかと乗ってしまっていいのか、とつい慎重になる。
「荒木さんにお話ししたいことがあるの。それで、相談にも乗っていただきたいわ」
そう言われては、尻ごみするのも変であった。
「では、次の日曜日にどこかで会いましょう」
と鮎太は答えた。そして、日時の約束をした。
「では、お話はその時にね。私の生き方について、いろいろと聞いていただきたいの」
ではそれは会った時に、ということになって、通話は終了した。
三澤はるかに会うことは何か面倒なことにつながるのだろうか、と鮎太はぼんやりと考えた。この前会った時は、母親がアパートに来ると嘘を言って、二人で酒を飲むことから逃げたのだ。そんなふうに、鮎太ははるかを少し恐れている。大いに魅惑されながら、その反面、逃げ腰になってしまうのだ。
ま、会った時のことはその時に考えよう、と鮎太は結論にならない結論を出した。
そして、今、はるかに教わった番号に電話をかける。東昌之に確かめたいことがあるからだった。
4
「落ちついて話のできるシチュエーションで会うのは初めてだよね」
と東昌之は言った。青山通りに面したビルの地下一階にあるバーのカウンターに並んで座ってのことだった。そのバーを指定したのは東だった。金曜日の午後八時のことである。
「時間をとらせてすみません。少し気になることがあって、東さんの話を聞きたいと思ったものですから」
電話をかけ、どこかで会えないかと持ちかけたのは鮎太のほうだった。
「はっきりさせておこうよ。きみは今日は、東門セキュリティーの社員としてぼくに会っているわけじゃないんだよね」
「そうじゃありません。うちの会社としては、コメテックCPであった侵入異常の件について、そこの保安責任者に事情を説明したところで業務は終了しているんです。だからぼくが東さんにお目にかかってお話ししたいと申しでたのは、ぼくの個人的な関心によるものです」
「だったらもっと楽にしゃべろうよ。きみがぼくと同い年だということは、はるかに聞いているんだ。だからタメ口でいいよ」
「なるほど。です・ます口調は変ですかね」
「偶然にとはいえ三度も会ってるんだ。まだ友人とは言えそうもないが、まるっきり知らない仲ではない」
いきなりタメ口になるわけにもいかないが、もう少し心を開くべきか、と鮎太は思った。
「では、楽にしゃべりましょう」
「まだ丁寧だけど、まあいいか」
そう言って東はニヤリと笑い、モルト・ウイスキーの水割りを一口飲んだ。
「それで、聞きたいことってなんなの」
鮎太は洋酒には詳しくない男なので、東と同じものを頼んでいた。それを一口飲んで、悪くないな、と思った。
「さしでがましいのはわかっているんだけど、どうしても気になって」
「はっきり言ってみてよ」
「あの日、終業後の会社で何をしてたんですか」
「それか」
東は手の中のグラスを見つめた。鮎太は地金の図々しさを出すことにした。
「急いでやらなきゃいけない仕事を思いだして、夜中の会社に乗り込んだという説明はどう考えても不自然だよね。三十分ぐらいでできることなら翌日朝一番にやったっていいはずだよ。あのアラーム音声を無視してパソコンをいじっていたのは、まともなことだとは思えない」
東は鮎太の横顔を見つめた。目が細く、眼光が鋭くなっていた。
「会社はぼくの、社内中のパソコンが暴走する可能性があったんで、光ケーブルへの接続プログラムを修正していたんだという説明でとりあえず納得してくれたんだけどね」
「でも、それは嘘でしょう。これ、まったくの勘で言っているんだけど」
鮎太は声を落としてそう言った。
「どうしてそう思うのかなあ」
「東さんはぼくに、軌道からズレそうになるときみが出てくる、と言いましたよ。つまり、あの時あなたはしてはならないことをしていたんです」
二人は互いの顔を見て、目と目を合わせた。しばらく見つめ合って、ついに東は口元をゆがめた。
「きみは守護天使なのか、それとも悪魔なのか」
「そのどちらでもなくて、知り合いです。そこまでは言ってもいいでしょう」
東は酒を一口飲み、グラスをカウンターに置いてから言った。
「会社の、顧客に関する全データを自宅にある自分のパソコンに送ったんだよ。もちろんその中には極秘データも含まれている」
「顧客情報の窃盗ですか」
「そのコピーをぼくのパソコンに入れた、ということだよ」
「しかし、その情報は高い値のつくものなんでしょう。そういう方面にはあまり強くないからどうやってそういう情報を売るのかはわからないんだけど、あなたは高く売れるものを会社から盗んだというわけだ」
東は首を小さく横に振った。
「ぼくにはそれをどこかへ売る気はない。金が目的でやったわけじゃないんだ」
「じゃあ、どうしてそんなことを」
「大切なものを自分の手に握っているという満足感を得るために、だよ。会社が青ざめるような情報を密かに手にするのだから、実にスリリングで面白い。このデータをもし公開したら大変な騒ぎになる、と考えているだけで楽しいじゃないか」
「つまり、遊びのような気持ちで、楽しいからやっただけ、ということなのか」
鮎太は首をひねってそう言った。
5
「しかし、会社にバレたら大変なことになるんだろう」
「就業規則に違反しているわけだから何ヵ月かの減給処分、最悪の場合、クビだろうね」
「それなのに遊びでやったのか」
東は自分のグラスのほうを見て、ふと、まったく別の話を切りだした。
「きみの生まれ月は何月だい」
質問の意図がよくわからなかった。星座占いの話を始めるというのも、あまりに唐突で変だ。
「十一月だけど」
「まだしばらく先だね。ぼくの生まれ月は七月だよ」
「それがどうしたんだい」
「もうじき二十五歳になってしまうということさ」
それがどうした、という顔で鮎太は東を見た。
「とうとう二十五歳になってしまうんだよ」
「言いたいことがわからないな」
「二十五歳はもう、勤め人としても新人ではないぜ。この人物にはどれだけの価値があるかというのが見えてきて、それにふさわしい人生のコースに乗せられていくんだよ。こういう能力を持った男だから、こういう人生が割り振られる、というのが決定するんだ」
それは鮎太が一度も考えたことのない思考法だった。あまりにも意外で反論の言葉も浮かばない。
「そういう二十五歳を、ぼくは迎えるんだ。こんなところでね」
「こんなところって?」
「自分が今、置かれている位置だよ。きみは、ぼくが最初に入った会社がアルカサルってところだったのを知っているかい」
「なんか、そんなとこらしいとは知っていたけど、詳しいことはわかってない」
「アルカサルはIT事業を総合的に進める企業グループの中心となる本体だ。そこがすべての企画を出してリードしていく。そしてその周辺に、コンテンツを開発する会社や、情報管理をしていく会社などがあって、グループをなしている。コメテックCPはそういう周辺会社のひとつだよ」
「その関係はわかった」
「ぼくはアルカサルに入社したんだ。当然そこに自分の人生があるんだろうと思っていたよ。ところが、入社二年めに、コメテックCPに出向させられたのさ。情報コントロールという、雑務をしてるところにね」
「それが面白くないというわけか」
「面白くないね。ぼくをなだめるためのように主任ってことにしてくれたが、大きな仕事をさせてくれるわけじゃないんだ。情報産業の端っこの歯車のひとつでしかない。ぼくはそういうところにいて二十五歳を迎えるんだよ」
そういう不満があるのか、と鮎太にはわかった。他人からはエリート・コースに乗っているように見えるこの男にも、焦りと不満があるのだ。自分に、そうパッとしない人生が割り振られそうな気がして、面白くなくてたまらないのだ。
ナオにストーカー行為をしたり、別れた恋人に近づいたりしたのも、そういう焦りでおかしくなっていたからかもしれない。
そこまでは鮎太にもなんとなくわかった。
しかし、そんなふうに考えて破滅的な行動に出るこの男の焦りには、まったく同感できなかった。鮎太には、なんてつまらないことで焦っているんだよ、という気しかしないのだった。まだまだおれたちの人生なんか、全然決まってないぜ、と思うのだ。そう簡単に人生が決まるものか。この先、やる気にさえなればどのようにだって生き方は変えていけるのだ。今はその進むべき道を探している最中じゃないか、というのが鮎太の実感だった。
しかし、東の横顔を静かに見つめて、鮎太は今この男と論争しても無意味だな、と思った。こいつは今、変に追いつめられていて大きな思考ができなくなっている。
言うべきはこういうことだろう、と鮎太は考えた。
「会社の貴重なデータを握っているのは、気持ちが大きくなっていいや、ということだね。だから、それを外部に出す気はないんだと」
「そうだ」
「しかし、そうはいかないと思うよ。そういう、持ってはいけないものを持つと、人間って必ずそれを使ってしまうものなんだよ。マッチを持てば必ず何かに火をつけてしまう。ナイフを持てば必ず何かを切るのさ。持っているだけ、なんてことではすまないんだよ。だからぼくとしてはきみに、盗んだものをすぐに消去して、すべてなかったことにするほうがいいとアドバイスする。なんか、そういうきわどいところにきみがいるって気がしたんで、お節介にも口を出したんだ」
そして鮎太は酒を飲み干し、椅子からおりて立ちあがった。それ以上、言うことはないと思ったのだ。
6
東門セキュリティーは仕事の性質上、年中無休で二十四時間体制だったが、ゆとりのある交替制をとっているので労働環境はそうハードではなかった。鮎太は一般的なサラリーマンと同じ、土、日の二日間が休みになっていた。
土曜日、遅めに起床した鮎太は顔を洗ったあと、朝めしをつくって食べた。めしをつくるといっても、電子レンジで温めためしに、湯煎《ゆせん》したレトルトのカレーをぶっかけるだけである。カレーは大盛り用のものだった。そしてそのカレーライスの上に、きのうつるまる食堂で買っておいたコロッケを二個のっけるのだ。満足度の大きい、いい朝食だった。
食べながら鮎太は、ゆうべ会った東昌之のことを考えた。仕事上の悩みを抱えて、うさ晴らしに貴重な極秘情報を盗んだあのエリートのことを。
しかし、エリートでもなんでもなかったわけだ。自分が陽の当たる出世コースに乗っていないのが面白くなくて、無意味な暴走をしてしまう愚か者にすぎない。
あいつ、ダメかもしれないな、と鮎太は思った。ひょんなことから巻き込まれてしまった縁があると考えて、一度だけアドバイスをしたのだが、東がアドバイスに従うことはないような気がした。あいつは思いどおりにならなくて駄々をこねる子供のように、ただ、してはならない危険な行為をしたのだ。そして実はそれによって最も傷つくのは自分なのだ。
二十五歳になってしまうんだ、という東の言葉を鮎太は頭の中で反芻《はんすう》していた。二十五歳は、その人間の持っている能力が定まり、人生が決定してしまう年齢だという思い込みに東は捉われている。というか、怯えているわけだ。二十五歳になろうというのに自分はまだ何者でもない、という焦りなのだ。
鮎太は、最近新聞に載っていたあるアンケートのことを思いだした。それは、近頃話題の学業を終えても働かないニートや、フリーターとか派遣社員という立場にいて定職についてない若者を対象としたアンケートだった。そしてその中に、あなたは何歳ぐらいにはちゃんと定職につきたいですか、という設問があった。
アンケートでいちばん多かった回答、それが二十五歳だった。つまり、ニートもフリーターも派遣くんも、二十五歳までには定職につきたいと願っているのだ。その歳になってもまだ不安定な身でいては、そのまま一生定職につくことができず、不安定な人生を送ることになってしまう、と怯えているのだろう。
そんなふうに、年齢で人生を制限しなくてもいいのにな、と鮎太は思うのだった。あんまり自分を追いつめては、苦しいばかりなんだから。その歳までに自分にできることを発見しなきゃ負け組の生き方になる、というのは生きるってことを狭く考えすぎている。
二十代なんて、まだまだ人生始まったばかりではないか。生き方はどんなふうにだって変えていけるんだよ。自分の人生はゆっくり築いていけばいいのだ。
それに、勝ち組か負け組かと、人間をふたつに分けてどっちに自分が組み込まれるのかとビクビクしてるのもおかしな話だ。そんなんじゃなく、まとも組として生きればいいじゃないか。
おれだって十一月には二十五歳になる。だが、そんなのは重く考えるようなことじゃない。日々を充実させて生きているかどうかこそ、肝腎なところなのだ。
大道寺ももうすぐ二十五歳。考えてみれば三澤はるかも同い年で今年で二十五歳だ。
みんな、まだまだ正体不明のヒヨコとして、手さぐりでとまどいながら歩いているのだ。それが普通のことで、勝った負けたと焦るのは十年早いのだ。
鮎太はそういう焦りとは無縁の男だった。
携帯電話が鳴ったのでポケットから出し、桜田ナオからだと知って、ちょっと驚いた。最近ナオからはメールも電話もとんとご無沙汰だったのだ。
「はい、荒木です」
「荒木さん……」
ナオの声はひどく弱々しかった。
「ナオちゃんだね。どうしたんだ」
「荒木さん……、助けて。私、壊れちゃいそうなの」
そういえば、きのう彼女はバイトを休んでいるってことで、つるまる食堂にいなかった。
「ナオちゃん、どういうことなのか、ちゃんと言って」
「私、頭がおかしくなったの。助けて」
ナオの声は半泣きだった。
「ナオちゃん、今どこにいるの」
「家に、一人でいるの。どこへも出られないの」
「わかった。今すぐそこへ行くよ。行くから、何もしないで待っているんだよ」
この時、鮎太はなんのためらいもなくそう決意したのだ。頼られたのだから、それに応えるしかない。それが鮎太の生き方だった。
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第7章 自分を嫌いにならないで
1
鮎太はなんの迷いもなく、ナオの住んでいるアパートへ直行した。例のストーカー騒ぎの時に、アパートまで送っているから場所はわかっていた。鮎太のアパートから歩いていける距離だ。
歩きながら、どうしておれに助けを求めてきたんだろう、と考えた。ストーカーを追い払ってやって以来、つるまる食堂で顔を合わせると、ナオは親しげに笑顔を見せるようにはなっていたが、それ以上の仲ではない。
それなのに、いきなり助けてほしいというのは、何があったのか。自分が壊れそうで、家から出られないとはどういうことなのか。
考えても何もわからなかった。そこで、考えるのはやめだ、と思考を切り替えた。
鮎太は考えに考えて行動するタイプの人間ではないのだ。考える前に行動してしまう男だった。
ナオが母親と二人で住むというアパートに着いた。鉄製の外階段を上って、二階にあるその部屋の前に立つ。チラリと腕時計を見ると、午前十一時半だった。ドア・チャイムを鳴らす。一回めはなんの応答もなかった。いやな予感がして、次は三度たて続けにボタンを押してみた。
ドアが開いて、そのすき間からナオが顔を見せた。ひどい顔をしていた。つまり、ノーメイクであり、なおかつひどく疲れた様子だったのだ。
「荒木さんじゃん。あー、荒木さんのこと考えてたんだ」
しゃべり方が少し変だった。舌がうまく回ってなくて、心の中がからっぽみたいな感じがあったのだ。
「大丈夫なの、ナオちゃん」
そう言いながら鮎太は、ナオがスウェットの上下を着ていることを観察した。パジャマなのかもしれなかった。
「あんまし大丈夫じゃない。荒木さん何をしに来たの」
電話をかけたことを記憶していないのだ。これは緊急事態だと鮎太は判断した。
「入っていいだろ」
と言ってドアを大きく開け、靴脱ぎのところに入ってしまう。靴を脱いで部屋に上がった。勝手にどんどん奥へ進む。ナオは不思議そうについてきた。
リビングルームは盛大にちらかっていたが、ソファの上のものをテーブルにのせて、座れる場所をつくった。そしてそこにまずナオを座らせた。顔を正面から見合わせるように、ナオの前に鮎太は膝をついて立った。ナオの両肩に手を置いて、優しい声で聞いてみた。
「おれに携帯で連絡を入れたこと、覚えてないんだね」
言いながら、ナオが少し痩せていることに気がついた。ラウンド・ネックのスウェットの衿元から鎖骨が見えていたが、それはくっきりと浮きでていた。そして、ひどく顔色が悪い。
「私、荒木さんに携帯かけたの?」
「うん。自分が壊れてしまいそうで不安だから助けてほしいって言ってきた」
「私、ホントにかけたんだ。番号は教え合ってるもんね」
「うん。まだそんなに時間がたってないよ。ついさっきのことだ」
「荒木さんなら助けてくれるかもしれないって考えてたのはわかってんの。荒木さんって、助けてくれる人じゃん。あの、ストーカー男の時も、私を助けてくれたもん。だから、荒木さんに助けてもらいたいと思ってた。そんで、自分でもよくわかんないうちに携帯かけたんだ」
「よし。そこまではわかったね。連絡を受けたから、おれがここに来たんだよ」
鮎太はナオの肩から手をはなし、ナオのすぐ前にあぐらをかいた。
「でも、ダメだと思う」
ナオがうなだれて、ポツンとそう言った。
「どうしてさ」
「私がバカだから、何もかもぐしゃぐしゃになってんだもん。私がバカだから、どうしようもないんだよ」
鮎太は腹を決めた。苦悩しているらしいナオに、全面的にかかわるしかないと。
「そんなことはないよ」
子供に言い聞かせるように、静かだが力強い声で言った。
「ナオちゃんはバカじゃないし、どうしようもないなんてこともないんだ。ナオちゃんを助けられるかどうか、やってみなきゃわからないけど、なんとか力になるよ。だからおれに、助けてほしいと思うんだよ。そう思わなきゃ、そのまんまだからね」
ナオがうつろな目で鮎太を見た。ニカッと笑ってこう言ってやる。
「なんとか助けてあげるから」
2
まずは、今の状況をちゃんと把握しておこう、と鮎太は思った。
「きのう、つるまる食堂にナオちゃんいなかったよね。バイト休んだの?」
「きのうと、おととい休んだ」
「それで、ずっとここにいたの?」
「うん」
「お母さんはナオちゃんにどう言ってるの。お母さんと二人暮らしだったよね」
「お母さんは、おとといから出かけてていないんだ。今夜帰ってくる予定」
「そうか。ナオちゃん一人でここにいたんだ」
それが何か心のトラブルの原因になっているんだろうか、と鮎太は思った。
「お母さん、勤めてる保育園の慰安旅行ってのに行ってんの」
「なるほど。それで一人で留守番か」
ナオが、両腕で自分の胴をぎゅっと抱えるように丸まって、心細そうに言った。
「私、ものが食べられないの」
「どうして?」
「食べると、ものすごく気持ちが悪くなるの。胸がムカムカして、そんでも無理して食べてると、吐いちゃうの」
「ということは、ずーっと食べてないの?」
「何度か食べようとはしたの。でも食べてると、オエッとなって、トイレで全部吐いちゃうの。自動的に出ちゃうんだもん」
「それは、おとといからなの。お母さんが出かけてからのこと?」
「うん。全部吐いちゃったほうがスッキリするの。だから喉に指突っ込んで、胃の中空っぽにすんの」
拒食症ってやつなんだろうか、と考えたが、鮎太も拒食症のことをよく知ってるわけではなかった。女性で、そんなことになってしまう人がいると、テレビのドキュメント番組で見たことがあるだけだ。
「ナオちゃん、ダイエットしてる?」
過激なダイエットがきっかけでそうなることがあると、聞いたことがあるような気がしたのだ。
「何度かダイエットしたことあるけど、この頃は、やってなかった」
「太っちゃう恐怖心があるわけじゃないんだね」
「それより、食べられない恐怖心のほうがこえーよ。でも、食べるとどうしても気持ち悪くなるんだもん」
「三日間、何も食べてないのか」
「水は飲んだ」
「今も食べられない感じなの?」
もしそうなら、医者に診てもらうしかないだろう、と考えて鮎太はそう言った。何科で診てもらえばいいのかはよくわからない。内科なのか、心療内科なのか、それともそれ以外のどこかなのか。
とにかく、三日間も食事がとれないというのを、そのままにしておいては命にかかわるだろう。ここは救急車を呼ぶべきところかもしれない。
「もしかしたら食べられるかもしれない」
と、ナオは鮎太の目をすがるように見て言った。
「荒木さんが来てくれて、すごく心強いから、今なら大丈夫かもしれない」
「じゃあ、食べてみることにしよう」
まずは救急車より、そっちを試すべきだろう、と判断した。
ここに食べものはあるのか、ということを聞く。インスタント・ラーメンとかあるけど、あんまりそういうのは食べたくない、という答えだった。
「なんなら食べたいの?」
「プリンとメロンパン」
コンビニに買いに行こう、ということになった。考えて鮎太は、一緒に行けるかい、と聞いた。ナオを一人で残しておくことは避けたほうがいいという気がしたのだ。行けると思う、という答えだった。行くなら着替える、と言う。
ちゃんと外出着に着替えることは、生活にメリハリがつく、いいことのような気がした。
ナオは洋服ダンスの陰で着替えた。こんな時にもそれなのか、というミニスカート姿になった。
二人でコンビニへ行き、プリンとフルーツゼリーと牛乳とメロンパンとカステラとツナマヨネーズのおにぎりを買った。
それから部屋に戻って、メロンパンとプリンを食べさせた。牛乳も飲ませた。
「あわてないで、ゆっくり食べりゃいいんだよ」
「お願いがあるの」
「何?」
「背中に手を当てていてほしいの」
ナオの隣に座ってそうしてやった。ナオはおそるおそるメロンパンとプリンを食べ、牛乳を飲んだ。戻すことはなかった。
3
量は多くなかったが、とりあえずナオは食べ、吐かずにいた。すぐさま病院へ、という緊急事態ではなくなったかな、と鮎太は思った。
しかし、ふと気がつくとまたおかしなことが始まっていた。鮎太はナオの背中に掌《てのひら》を押し当ててやっている。その手が、震動を感じていた。よく見ると、メロンパンを食べ終わったナオは上体を小きざみに震わせていた。
「寒い」
とナオは言った。
「もっとなんか着ようか」
と鮎太は言った。ミニスカートで、ナマ脚なのがいけないんじゃないか、と思いながら。
「いい。どんだけ着ても寒いんだから」
その日は少し汗ばむくらいの陽気だった。
「嘘言ってんだよ」
と、ふいにナオが言った。
「誰が嘘を言ってんだい」
「お母さん……」
思いがけない発言だった。
「お母さんがどんな嘘を言ってるの」
「慰安旅行っていうの、嘘なんだよ。保育園はそんな長い休みとれねえもん」
「ちゃんと確かめたのかい」
「確かめてないけど、嘘だと思う。行く前の何日間か、お母さんいつもと様子が違ってたもん」
「どういうふうに?」
「声が若返ってたの。それで、目もウルウルしてた」
「どういうことなんだい」
「お母さんに、好きな人ができたんだと思う」
そう言ってナオは、上体をビクンと揺さぶった。意思の力ではおさえられない震えらしい。
「それで、悩んでるのか」
ナオはうなだれて力なく言った。
「やっぱ私のこと、バカだと思うよね」
「思わないよ。ナオちゃんはバカじゃない」
「私、ちゃんとわかってんの」
「うん?」
「お母さんに恋人ができるっていうこと、あたり前だし、なんにも悪いことじゃないよね。それどころか、いいことだよね。お母さんはまだ三十八歳なんだよ」
そんなに若いのかと少し驚いた。しかし、考えてみれば少しも変ではない。昔ヤンキーだったお母さんだと聞いたことがある。そういう女性が二十歳《はたち》でナオを産んで、離婚して一人でナオを育ててきたのだ。今は保育園に勤めて厳しい労働に耐えているということも聞いている。
「だからお母さんに恋人ができるのはいいことなんだよ。そんなことわかってんだけど、何も考えられなくなっちゃうんだ」
鮎太は何も言えなくなってしまう。ふいに、この子はものすごく心細いんだ、とわかった。そして、ナオの背中に当てている手から、おれのぬくもりが伝わってほしいと願った。
「お母さんに恋人ができるのって、普通のことじゃん。てゆうか、幸せでいいことじゃん。なのに私、そのこと考えると体が震えてくんの。自分が悲鳴をあげそうなのに気がつくの。そんで、自分のことが大嫌いになんの」
なんて面倒な悩みなんだ、と鮎太は思った。ナオは、母に恋人ができて、自分からはなれていくことを恐れているのだ。それはお母さんにとってはいいことだと思いながら、寂しくてたまらないのだ。心のどこかがおかしくなるくらいに。
「いっぺんに全部考えなくていいんだよ」
と鮎太は言った。
「いっぺんに考えると、わけがわからなくなっておかしくなるから」
「でも、一人でここにいたらどうしても考えちゃうよ」
「一人で考えてるのがよくないんだ。そういうふうに考えてくと、つまんないことばっかり考えるから。お母さんに何か言われたわけじゃないんだろう」
「うん。お母さんは、慰安旅行があるんだけど行ってもいい、って聞いただけ」
「だったらそう思っていよう。それでこの先、もしお母さんが、好きな人ができたって言ったら、その時に考えよう。ただそのことだけを考えるんだ」
「私、お母さんが幸せになる邪魔はしたくないんだよ」
「ほら、それが先まで考えすぎってことだよ。まだそんな話は始まってもいないじゃんか。考えすぎるからおかしくなるんだ」
「でも私、自分のことがいやになってくるんだもん」
鮎太はナオの背中に当てていた手をはなした。そして、ナオの頭の上に軽くのせた。
「とんでもないことだよ。ナオちゃんはすごくいい子なのに。ナオちゃんはいい子なんだよ。それだけはわかってなくちゃ」
ナオは横に座っている鮎太に顔を向けて見つめた。目の中に潤いがあった。
いきなり、ナオが鮎太の上体にしなだれかかってきた。つい鮎太の右腕はナオを抱きかかえた。
「私はいい子?」
とナオは聞いた。
「うん。いい子だよ」
と答えるしかなかった。腕の中のナオの体を、ものすごく熱く感じていた。
ナオは鮎太の目を見て、子供のようにあどけなくこう言った。
「だったらチューして」
そうするしかなかった。
4
ナオとのキスは生々しかった。もちろんそうなのだ。成熟した男と女が、唇を重ねることは、童話の中の口づけのようなあどけないものではない。激しく肉感的で、むせるほど動物的なことなのだ。
ナオは情熱的に舌を使った。同じように返すしかなかった。
ナオはそのことに熱中することで、何かを忘れようとしているみたいだった。ナオの両手は鮎太の胴に回され、背中にしがみついている。鮎太も両手でナオの上体を抱きしめた。
これはなんなんだ、という考えが鮎太の頭をチラリとかすめた。
おれは、この子を力づけたいんだ。理由はなんであれ、この子はこのままどんどんしぼんでなくなっちゃいそうに心細がっている。その姿を見た以上、元気を出してほしいと願ってしまう。おれにできることはないかと、純粋にそればっかりを思う。
力づけられるなら、キスするしかないじゃないか。ここにいるのはおれだけなんだから。ナオはおれに助けを求めているんだから。
ナオが唇をはなして、顔を少し引いた。顔に赤みが少し戻ってきていた。
鮎太の右手を掴《つか》むと、ナオはそれを自分の胸に押し当てた。ゴムまりのような感触に、鮎太は手を引きそうになる。しかしそこで、ナオは言った。
「お願い。エッチして」
鮎太は息を呑んだ。だが、もう手を引こうとはしなかった。
決して、ナオへの同情だけで行動したわけではない。こうなったらこの子を力づけるために、するしかないと思った、という言い方はそれはやっぱり嘘だ。鮎太もしたくなっていた。
ただ、鮎太にはこういう思いもあった。ナオが今、頭の芯がボーッとして何も考えられなくなるぐらいセックスをしたいというなら、その望みをかなえたい、と。
二人は、大あわてでそれぞれ自分の着ているものを脱いだ。そして抱き合った。
ナオのほうに、体験は十分にあると思えた。なのにどこか未成熟な感じもあった。技巧は大人のものなのに、そのことの受け止め方がまだ淡いのだ。
しかし鮎太だって偉そうなことは言えない。熱心さと体力で押しまくるだけのようなセックスだった。
ナオが声をあげると、鮎太は、そうだ、そのまま何もかも忘れてしまえ、と考えて馬力をあげた。そういう、若いセックスだった。
続けて二回した。一回ではまだ不十分だ、という気がしたのだ。ただし、二回ともちゃんとコンドームはした。その段になったら、ナオが机の抽き出しから出して渡してくれたのだ。
ナオの裸身が美しいことに気がついたのは終わってからだった。やはりこの子の脚の美しさは本物だ、と思ったのは、ナオがのろのろと立ちあがった時だった。
ナオが先に、バスルームへ行ってシャワーを浴びた。
「恥ずかしいからのぞいちゃダメだよ」
と言うので、つい笑ってしまった。どうしてそれが今さら恥ずかしいのか、まったくわからない。いろんなこと、一通りしたじゃないか。
ナオの次に鮎太もシャワーを浴びた。それから服を着て、同じく服を着たナオとソファに並んで座った。
鮎太は自分のしたことを後悔してはいなかった。しようよと誘われ、こっちもしたくなってしたのだから。
それよりも鮎太は、ナオの様子に変化があるかどうかを気にかけていた。
「気持ち悪くない?」
と鮎太は聞いた。
「なんで?」
「その、吐き気がしたりしてない?」
「荒木さんの言ってることめちゃ変だよ。気持ち悪くなるようなことしたんじゃないじゃん」
「そうだけど、今日は体調が悪かったんだからさ」
「食べておかしくなったのと、このこととは別だよ」
とナオは言って薄く笑った。それでもだいぶ心が落ちついているように見えた。
5
ポツリポツリと会話した。話すことで、何か光が見えてこないかと、ナオ自身も期待しているみたいだった。
「でも、やっぱ私、バカだよね。自分でもつくづくそう思うもん」
「そんなことはないって言ったじゃないか。ナオちゃんはバカじゃないよ」
「荒木さんだけだよ、そんなふうに言ってくれんのは。自分で考えても、私バカだなあって思うもん。考えの足りないことしてから、マジー、って思ってばっかだよ」
「そんなこと誰にだってあるよ」
「荒木さんてさ、優しい人なの?」
「特にそうでもない」
それは鮎太の実感だった。
「でも、私を助けようとしてくれるじゃん」
「助けてって言われたら、誰だって同じように行動するよ。おれはその時、ついのめり込んじゃうおっちょこちょいなだけ」
「そんないい人なおっちょこちょいは、そういないよ」
いい人なおっちょこちょいとは、かなりのマヌケってことだなあ、と鮎太は考えた。
「私、自分のことがいやんなってくる時があんのよね」
「今は心が弱ってるからそんなふうに思っちゃうだけだよ」
「でも、一年も二股かけられてたことだってあるんだよ。そのことがわかった時、ホント私ってマヌケだと思った」
「誰にだってありそうな話だよ」
「その二股かけてた男に貢ぐために、メイド喫茶でバイトしちゃって、せっせと金渡してたんだよ。あん時も自分が嫌いになったなあ」
「みんなそういう失敗をしているんだって」
「そう言ってくれるのは優しいからで、うれしいけど、やっぱ私ってダメなんだよ。今度のことで私にはわかったの。私って、つまんない人間で、いいとこなんかひとつもないの」
その言葉を聞いて、鮎太の中で何かに火がついて、メラメラと燃えだした。
そんなふうに考えさせてはいけない、と思ったのだ。人間はまず第一に、自分が好きでなきゃいけないのだ。根本にそれがなければ、ものすごく生きにくい人生になってしまう。
「そんなことないよ。ナオちゃんにはいいところがいっぱいある」
「ないよ。私、自分のことがいやだもん」
「今は悩んで苦しんでる時だから、そんな気がしちゃうだけなんだよ。そうじゃない気分になったら、自分のいいところに気がつくんだから」
「私にどういういいところがあんのよ」
「だからいっぱいあるんだって。おれから見ても、ナオちゃんのいいところが、そうだな、三十六ぐらい見えるよ」
三十六という数字は口から出まかせだった。そういう奇妙な数字を出して人を煙《けむ》に巻くところが、鮎太にはあった。
「めちゃくちゃだよ」
「そうじゃないって。ナオちゃんにはそれぐらい、いいところがあるんだよ」
「じゃあ教えてよ。私のいいとこってなんなの。三十六のいいとこを言ってみてよ」
ナオはそう言ってしまったのである。
鮎太はヒヤリとした。私のいいところを本当に三十六並べてみてよ、と言われてしまったのだから。
しかし、こうなったらもう引くことはできなかった。ここで、三十六というのは言葉の綾《あや》ってやつで、実際に三十六あるってことじゃないよ、と言っては台なしである。やっぱり私にいいところなんかないんじゃん、とナオが思うことは目に見えていた。だから、三十六を並べてみるしかないのである。
「いいよ。それを言うのはちっともむずかしいことじゃないから」
と鮎太は言った。
6
「ナオちゃんにはさ、感じのいい笑顔があるじゃない。あの笑顔を見るだけで、誰だってほんわかといい気分になるんだよね。あれはナオちゃんのいいところだと思うよ」
「私、機嫌悪くてムスッとしている時だってあるもん」
「そりゃそうだろうけど、そうじゃない時はいい感じにニコッとしてるじゃん。その笑顔に値打ちがあるの」
「そうかなあ」
とナオも一応納得した。だが、それでようやくナオのいいところをひとつ言っただけである。あと三十五も考えなければならないのだ。鮎太の胸がザワザワと騒いだ。あと三十五も、いいところを考えつけるだろうか。
しかし、鮎太は必死で考えるのだった。
「それからさ、ナオちゃんって基本的に、人の言うことを素直に聞くよね。聞いて、そうなんだあ、とか言うじゃん。その素直さがいいよね」
と言ってから、鮎太はしまった、と思った。性格が素直、というのはいいところなんだから、それだけで一項目にすればよかった、と考えたのだ。人の話をよく聞く、というのと、性格が素直、というふたつをひとつにまとめてしまったのは大損だった。
「それって、私が単純ですぐ騙《だま》されるっていうことじゃないの」
「そういうふうに、裏からわざと悪いふうに考えることはないじゃない。そういうところがナオちゃんの感じがいいところなんだ、と言ってるんだから、そう受け止めようよ」
「そっか。じゃあそう考える」
「それからさ、ナオちゃんて正直だよね。そりゃ人間だから嘘をつくことがないとは言わないけど、だいたいにおいて、変に隠しごとをしたりしないで、正直に生きてるだろう。それが気持ちいいんだよね」
「それってバカってことじゃないの、と悪く考えちゃいけないんだよね」
「そう。正直っていいことだよ」
ナオは小さくうなずいた。それから、頭を上げてこう言う。
「でも、そこまででまだ、私のいいとこ三つだよ。あと三十三もあるわけないじゃん」
「あるんだって。たとえばナオちゃんはさ」
と言ってから鮎太は頭の中で大あわてで考える。いくつもの要素をひとつにまとめて言っちゃうと損だから、なるべく小分けにしようとするのだ。
「老人とか、ちっちゃい子とか、困っているような人を見ると、自然に助けてあげようと思うところがあるよね。そういうところ、優しいんだよ」
これはこれでいいだろう、と判断した。これを、老人に優しい、子供に優しい、困っている人に優しい、と三つに分けるのはちょっとおかしいもんな、と。
「私、このクソバカ野郎、とか思うこともあるよ」
「それは、腹の立つことをしてきた相手に対してだろう。そうじゃなきゃ、基本的には弱い人間に優しいんだから、いいところだよ」
「そっか」
「それからね、ナオちゃんって字がきれいだよね」
これは、ふと思いだしたのだ。ナオがつるまる食堂で注文伝票に、カツ丼、などと書いているところを見たことがあって、こういう場合でも丁寧な字を書く子だな、と思ったことがあるのだ。
「そんなことないよ。私、あんまり漢字知らないし」
「それは別のことだよ。それから、ナオちゃんが名のある書道家みたいに達筆だって言ってるわけでもない。ただ、字をちゃんと書く子で、それは偉いな、と思うんだよ。あの字は感じのいい字だよ」
「そんなこと初めて言われた」
「でも本当だよ。つるまる食堂の親父さんだって、ナオちゃんの書いたカツ丼という字を見て、いい気分でそれをつくってるんじゃないかなあ」
「それはなんかうれしいけど」
「そしてナオちゃんには、そのきれいな脚があるじゃないか。その脚はやっぱり、大変な値打ちだよね。男なら誰だって、つい見ちゃうもの。そのことは自分でもわかっているだろ」
そう言ってから、鮎太は、ここでもうそれを出してしまうのか、苦しいなあ、と思った。ナオの価値の真打ちをもう出してしまった、という後悔である。こんな調子で、どこまでいけるだろうか。
「でも私の脚、長くないよ。モデルのような脚とはまるで違うもん」
「そういうふうに考えることはないじゃん。日本一の脚だと言ってるわけじゃないんだから。ピチッとしてて、スラッとしてて、肌がきれいで、つい男が見ちゃう価値があるよねって言ってるわけだから、それは認めていいじゃん」
「うん。ありがとう。それは喜ぶことにする。でも、ここまででまだ六つ言っただけだよ」
そうなのだ。それが実に苦しいところなのである。ものすごく苦しいのだが、鮎太はなんとしてでもあと三十、ナオのいいところを並べるつもりだった。
そうしなきゃいけないんだ。
7
鮎太は自分がとんでもなく無理な努力をしていると知っていた。一人の、特に優れたところがあるわけでもない凡人について、三十六もの美点を探そうというのは無茶すぎるってものだ。そもそも、三十六という出鱈目《でたらめ》の数字を出してしまったのが致命的なしくじりだった。きみにはいいところが七つある、にしておけばなんということもなかったのに。
だがそう思う一方で鮎太は、でもこの場合は三十六でなきゃいけなかったんだ、と自分に言い聞かせる。おれが言いたかったことは、きみにはいいところがいっぱいあるんだ、ということだから。そして確かに、どんな人間にだってその人のよさが三十六くらいはあるんだ。ただ、それを並べてみせるのは大変な仕事ではあるのだが。
鮎太は、ナオちゃんはいつもハツラツとしていて印象が明るい、という美点をあげた。
「それって、笑顔の感じがいいというのと同じじゃないの」
「ちょっと違うよ。若々しくって見てて気持ちがいいってことだから」
「じゃ、それが七つめ」
次に鮎太はしばらく考えて、こう言った。
「ナオちゃんは色が白いよね。それはいいことだろ。色の白いは七難隠す、と言うぐらいだよ」
その八つめが出たところで、ナオは、ちゃんと書いとこうよ、と言い出し、ノートを持ってきた。いちばん初めがなんだったっけ、とか言いながら、ひとつひとつを箇条書きにしていく。
もう数をごまかすことはできないぞ、と鮎太は思った。
だんだん細かいことを言うしかなくなる。
「きれいな二重まぶたじゃん」
「小鼻が張ってないから、素直そうに見える」
「シミやソバカスのないのがいい」
そんなことでいいのだ。女性をいい気持ちにさせるには、見たままをためらいなくほめればいいのだ。
「髪の毛が多い」
「でも、ずーっと染めてるからかなり傷んでるよ」
「傷んでてそのボリュームがあるんだから、いいじゃない」
それから、鮎太はこういうことも言った。
「キスが上手だね」
ナオは少し顔を赤らめ、小さな声で探るように聞いた。
「それ、ホント?」
「うん。そう思った」
しかし、鮎太も少し照れてしまい、その方面のことはそれ以上触れないことにした。そういうことを生々しく語るのもどうかと思ったのだ。
そして、ふいに精神性のことが出てきたりする。
「ナオちゃんは知ったかぶりをしないで、知らないことを、へえそうなんだあって聞くじゃない。あれはすごく感じがいいんだよね」
「それ、もう言ったよ。人の話を素直に聞くってやつじゃん」
「違うよ。知ったかぶりをしない、というよさなんだから」
そんな、ギリギリ・セーフのようなこともあった。そのようにして、鮎太はナオのいいところをひとつずつ足していった。その作業は、なんと一時間もかかった。
「手の指が細くて長くてきれいだよ」
なんてものもあった。
「爪がきれいだね」
「これはネイルアートしてるからじゃん」
ということで、次のように修正した。
「ネイルアートのやりがいのある爪をしてる」
ナオは鮎太の言うひとつひとつを、ノートに書きつけていった。そうしながら、少しずつ表情が明るくなり、目の力が戻ってきた。
「ナオちゃんは今回こういうふうにおかしくなりかけて、無意識のうちにおれの携帯にかけてきたじゃん。それって、助かりたいっていう意思があるってことだよね。つまり、生きていく上での基本の力じゃない。そういう力があるのはとても大事なことだと思う」
一時間後にしぼり出したその美点が三十五番めだった。
「すごいよ。こんで三十五個。あとひとつ、私にはどういういいところがあるの?」
ナオはすごく満足そうにそう言った。
鮎太は、最後のひとつはなんだろう、と考えた。すると、思い浮かぶことがあった。
「ナオちゃんはお母さんが好きだよね。それはとてもいいことだと思うな」
ナオはその言葉が電気を帯びていたかのように、上体をビクンと震わせた。そして、弱々しく聞いた。
「それ、いいことなの?」
「いいことじゃないか。親を愛せないのは悲しいことだよ。でも、ナオちゃんは元ヤンキーだったお母さんが好きだ。すごく心があったかくなるいいことだよ」
「うん。そうだよね」
ナオは目を輝かせた。
「そうなんだ。私、お母さんのこと好きなんだよね。そんで、それはいいことなんだ」
ナオはそれをノートに書いた。そして、ノートを両手で持って目の高さにさしあげ、夢見るように言った。
「すごいね。私のいいところが本当に三十六もあった」
「もちろんだよ。ナオちゃんはいい子なんだから」
ナオはノートを床に置き、首を小さく横に振った。
「そうじゃないよ。ホントにすごいのは荒木さんなんだよね。荒木さんは私のいいところを三十六も考えてくれた。それって、めっちゃ大変だよね。ムカムカしてくるぐらいにめんどくさいことだと思う。それなのに、荒木さんはバカ力を出して考えてくれた。そんな人いないよね。ありがとう」
ナオは瞳から涙をあふれさせた。
「泣くことないじゃない」
「違うよ。悲しくて泣いてるんじゃないもん。荒木さんが私にこんなに優しくしてくれて、うれしくて泣けてきちゃったんだもん」
「ナオちゃんに元気が出たのなら、それでいいんだよ」
「元気出すしかないよ。私のために、こんなことしてくれた人がいんだもん」
ナオはノートを取りあげ、それを胸に抱いた。
「これ、私の宝物にする」
鮎太は使いすぎてボーッとしびれたようになっている頭を両手でかかえ、後ろのソファにぐったりと寄りかかった。
ナオの表情はすっかり明るくなっていた。
8
ナオの精神状態はかなり落ちついてきたように見えた。このあと、今日の夕食をちゃんと食べられるかどうかが大きなポイントだな、と鮎太は思った。ナオの母親は今夜遅くに帰ってくる予定なのだそうで、そうすればナオも心が安定するだろう。
「晩ご飯に何を食べたいの」
と鮎太は聞いた。
「荒木さん、まだ帰んなくていいの?」
「ナオちゃんが晩ご飯を食べられるかどうか見極めるよ。ちゃんと食べられるのを見たら、今日は帰る」
「じゃあ二人で何かつくるの?」
「おれがつくってやるよ。カレーライスなら食べられるかな」
「荒木さんにつくれんの?」
「それぐらいならなんとかね。それとも、もうひとつつくれるハンバーグのほうがいいかい」
「カレーがいい。荒木さんがつくってくれたカレーなら、私、食べられるような気がする」
「よし。じゃあ材料の買い出しに行こう。一緒に行ったほうがいいな」
二人で、近くのスーパーへ行き、食材を買った。鮎太がニンジンに手をのばすと、ナオは、私ニンジン食べられないよ、と言ったが、カレーにニンジンを入れないでどうするんだと、有無を言わせず買ってしまう。玉ねぎとじゃが芋と牛肉とカレールウも。
「私、カレーには、らっきょうがないと悲しい」
とナオが言うのでそれも買った。
買い物から帰ってみると午後四時で、まだちょっと早いかという気がしたが、ほかにすることがないのでカレーづくりにとりかかった。材料を切るのに手間どったし、肉が柔らかくなるまで時間をかけて煮たので、カレーは五時半に完成した。めしは炊飯器でもう炊けていた。
ナオはそのカレーライスを、マジうまいよ、と言って食べた。ヤバイほどうまいわけではないが、フツーにうまいというのよりはうまいという意味だ。
ナオの食欲に問題はなさそうだった。
「食べて、気分悪くはならないんだね」
と鮎太は聞いた。
「うん。私、おなかすいてて、おいしく食べられる」
「よかった」
摂食障害はとりあえず収まったと考えていいのだろう。鮎太も、自分でつくったカレーをバクバク食べた。
「荒木さんがつくってくれたものだから食べられるんだと思う」
とナオは言った。
「そういうものはやっぱおいしいんだよね。私のためにつくってくれたんだもん」
「実は今朝、レトルトのカレーを食べて、それもいいけど久しぶりに自分の手づくりのカレーを食べたいなって思ってたところなんだよ」
「そうだったのか。でも、一人で食べるより、二人で食べるほうがなんだってうまいよね。こうやって二人で食べてると、新婚さんみたいじゃん」
鮎太は黙ってヘラヘラと笑った。そして内心では、これは笑いごとではないぞ、と感じていた。
確かに、今日一日をナオとまるで恋人同士のように過ごしてしまったのだ。まるで恋人同士というのは逃げ腰な言い方で、まさにそのように行動したのだ。キスをして、二回もセックスをした。そして二人でスーパーへ食材を買いに行き、協力して料理をして、向かい合って座って食べている。
そのことから逃げる気はない、と自分に言い聞かせるように思った。あれは、心が病みかけていたナオを力づけるためにしたことで、愛情からのこととはちょっと違う、という言い逃れはしたくない。
とにかく、二人でこんな時を過ごした、というのは事実なので、そのことは受け入れよう。
この先、ナオとどうかかわっていくことになるのかちょっと想像がつかないのだが、とにかく、自分のしたことに責任は持とう。
おれは、あの壊れそうだったナオを見て、できることはすべてしてやろう、と思ったんだ。助けを求められ、助けたいと思った。そう思ってしたことを、ひとつも後悔していない。
自分のしたことの結果から、逃げるようなマネだけはしたくない。あれをしたのは、ちゃんと意思のあるおれなんだから。
食事をすませて、鮎太は皿を洗った。ナオは洗ったものを布巾《ふきん》でふいて、しまう役をした。
今日のようなナオには、段取りよくテキパキと生きる姿を見せるのがいいんじゃないか、と思ったからだった。台所の流しに洗い物がだんだんたまっていく、というような生活は人間をゆっくりと蝕《むしば》んでいくからだ。
ナオは食べてもおかしくはならなかった。
この様子なら、帰ってもいいだろう、と鮎太は見極めた。今夜には母親が旅行から帰ってくるのだそうだから、一人にしても心配はない。
「さてと、今日は帰ろうかな」
と言ったそのタイミングで、ポケットの中の携帯が鳴った。
「ちょっとごめん」
と言って携帯を見てみる。電話がかかっていた。発信者は大道寺薫。
「もしもし」
と言って出た。
「ああ、つかまったわ。大道寺だけど、今ちょっといい?」
「いいよ。どうかしたのか」
ナオが、誰からだろう、と問うような顔をして、黙って見ていた。
「そうなのよ。私ちょっと頭が混乱してて、まともにものが考えられないの。だから鮎太の声を聞いて落ちつこうと思って」
珍しいな、と思った。大道寺はどんな時でもクールに、思考を鈍らせずに考えられる男なのだから。
「何があったんだ。お前らしくないな」
そこでナオが、ああわかった、という顔でニッコリした。相手が大道寺だと想像がついたのだろう。
「あのね、あなたにも少し関係あることから言うわ。私、東門セキュリティーのお仕事やめることになるかもしれない」
「なんでだよ」
「どうも情勢が変わってきて、それどころじゃない感じなのよ。自分がどうなっていくのか、自分でもわからないの」
「よくわからない話だな。何か大きな事件にでも巻き込まれたのか」
「事件じゃないけど、突然の運命的事態になったのよ。私の人生がもう私の手では動かせなくなるような」
「わかるように言ってくれよ。人生がどうなってしまったんだ」
「そうね。ちゃんと言う。そのためにあなたの声が聞きたくなったんだから。あのね、私はもう身勝手に生きていけなくなったのかもしれないの」
「どうしてだ」
「私の父親よ。父親がね、今朝早くに、心臓の発作で倒れて、そのまま亡くなっちゃったのよ」
大道寺の言ったことの意味が脳の中でしっかりと認識されたとたんに、鮎太は相手の声の中に苦悩がこもっていることに気がついた。
あの大道寺が、うろたえきっているのだ。友人のそんな声の調子を聞くのは初めてのことだった。
「お葬式のこととか、ようやく段取りを決めたところなのよ。それでなんだか、あなたの声が聞きたくなって」
「お前の実家へ行こうか」
と鮎太は言った。しばらくは親戚でごった返しているだろうから、来てもらっても意味ないと思う、という返事だった。
「それなら、いつでもいいから電話をくれ。どうなっているのか教えてくれよ。話を聞くことしかできないけど」
「ありがとう」
と大道寺は言った。初めて聞くような力のない声だった。
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第8章 様々な分岐点
1
大道寺のことも気がかりだったが、それより先にまず会わなければならない人がいた。日曜日の夕刻、鮎太は六本木で三澤はるかと会った。まず喫茶店で会い、そこでは東昌之のことが話題に出た。
「私にとってもう彼のことはどうでもいいんだけど、会社でセキュリティー・チェックにひっかかったなんて聞くと、あの人何をしているのかしらと気になるの。彼、最近なんだか様子がおかしいでしょう」
「仕事上のことで、いろいろと迷いがあるらしいね。わかりやすく言うと、自分の理想とする出世コースに乗っていないと感じて焦っているみたいだ」
「あの人、自分が一番じゃないと我慢できないようなところがあるのよ。ずっと秀才で、誰にも負けたことがないと思って育ってきたからでしょうね」
「秀才には秀才の苦悩があるってことだ」
鮎太はそう言うにとどめて、東の会社への背信行為を詳しく説明するのはやめた。はるかは東と一時は恋愛関係だったとはいえ、今は別れた仲なのだ。そういう相手について話せば、どうしたってさめた冷たいもの言いになるだろう。人の悪口にしかならない話題とわかっていて、続けるのは意地が悪いだけだ。
「アニメ制作の会社は面白いの?」
と鮎太は話題を変えてみた。
「雑用が多くてすごく忙しいわ。段取りの調整ばかりやらされているって感じよ」
「大勢で寄ってたかってひとつのものをつくっていくっていう仕事だろうからね」
「アニメ作品の企画を立てたりする知的な仕事かと思っていたのに、雑事の進行係だったのね、実情は」
「そうだろうなあ」
と鮎太が言うと、はるかは秘めごとを打ち明けるような顔で言った。
「それでね、私、会社をやめようかなと思っているの」
意外であった。転職してまだ二ヵ月もたっていないはずなのに。
「やめちゃっていいの?」
ついそんな言い方になってしまった。
「やめてどうするかっていうのを、聞いてほしかったの。このあと、食事をご一緒できるでしょう?」
断る理由もなくて、イタリアン・レストランにつき合った。その日のはるかのスカートには、後ろにスリットが入っていた。横だったり前だったり、とにかくはるかのスカートにはスリットが入っていることが多い。そこから太腿が見えるわけだが、その日のストッキングは豹柄だった。
温かいオードブルでシチリア産のワインを楽しみながら、はるかはこう言った。
「私が家でね、どうも思っていたような会社とは違うような気がするって愚痴を言ってたらね、父がこう言ったの」
「お父さんって、何をしてる人?」
「ドクターなの。会員制の医療クリニックを経営しているわ」
そういうクリニックには、ちょっとした会社の社長たちが会員になっているのかもしれないな、と鮎太は思った。それで、コネで就職できるというわけか。
「そのお父さんがなんて言ったの?」
「そもそもお前には会社勤めは似合っていないよ、ですって。働いて自分の生活を成り立たせる必要はないのに、思い込みで働いているのがおかしいんだって言われてしまったの」
つまり、金持ちの家の令嬢だから働く必要などないということか、と考えて鮎太は少し気持ちが引いた。まるで別世界の人なんじゃないか、と思ったのだ。
「それで、父といろいろ話をしているうちに、私、結婚してみようかという気になったの」
はるかは鮎太の顔を見つめて、甘くささやくようにそう言った。
2
「結婚したい相手がいたんだ」
と鮎太は聞いた。なんだか、面白い手品のつまらない種あかしを聞いてしまったような気がしていた。
「相手がいたって感じではなくて、結婚っていうことをしてみれば生き方が大きく変わるんだって気がついたのよ」
「そりゃあ確かに変わるだろうね」
「相手はね、父がすすめてくれた心臓外科のドクターなの。お見合いという古い形式じゃなくて、父の紹介で会ってみたわ。そして、この人の妻になるという人生も確かにあると思ったの」
この話はなんなんだろう、と鮎太は思った。なぜこの人はそのことをおれに聞いてほしいと思ったんだろう。
「その話はもう決まったの?」
「そうなの」
「それは、おめでとう」
常識ある人間として、祝いの言葉は口から出てくる。だが、なんでおれがこの人におめでとうと言ってるのか、考えてみれば変だよなあ、という気もした。
「おめでたいのかどうか、自分でもよくわからないの。だけど私もそろそろ二十五歳で、そういう選択肢について真面目に考えてもいいでしょう」
この人もそれか、と鮎太は思った。東も似たようなことを言っていたではないか。そろそろ二十五歳になるんだから、人生になんらかの結果を出したい、というような考え方だ。
なぜ焦るんだろう、というのが鮎太の実感だった。二十五歳だろうが三十歳だろうが、自分らしく好きなように生きていればそれでいいじゃないか。このあたりで何か格好をつけなきゃいけないみたいに考えるのは、自分の意思に自信が持てていない考え方である。
「未婚の若い女性って、なんとなくずっといつか結婚したいと考えていて、自分はちゃんとそれができるだろうかと不安を抱いているものなのよ。だから、結婚するって決めてみると、すごく安心感があるの」
安心感のための結婚でいいのだろうか、と鮎太は口に出さずに思った。
結婚というものは、したい相手ができた時にするものだろうと、鮎太はなんとなく感じている。この人と結婚したい、という思いがわいて、相手が同意してくれた時に、幸せに結婚できるのだ。
まず先に、二十五歳だからそろそろするかという判断があって、次に相手はこれでよかろう、と考えが進むのはすごく変だという気がした。それは、したいからする、というのとは別ではないだろうか。してないと負けだから、という理由で、そこへ逃げ込んでいるのではないだろうか。
「でも、結婚するからって、女性であることをやめちゃうわけじゃないのよ」
はるかは、妙に意味ありげにそう言って、鮎太を上目づかいに見た。
「どういう意味?」
「結婚したところで女性としての人生は終わりで、その先は妻っていうものになるんだっていう考え方があるじゃない。私、そういうふうに考えるのは嫌いなの。女はどういう立場になったって女なのよ。自分の中の女の部分を私は殺したくないの」
要するに、結婚をしようが何をしようが、女性としてのフェロモンは出し続けたいっていうことなのか。私は結婚することにしたけど、女としての魅力を失ってはいないのよ、と。
そう考えて鮎太はやっぱり、この女性に近づくのはヤバイ、と思った。この身勝手な人はこういうことを言っているのだ。
私は結婚することに決めた。でも、女をやめたわけじゃないんだから、これまでどおりクドいていいのよ。
そういう思いでこの人は、男を豹柄のストッキングで誘惑するのだ。もうじき人妻になっちゃうから、今のうちに男と女のいい仲になっていいのよ、と言っているのか。いや、人妻になってしまったあとだって、そういう誘いはうれしいわ、とまで言っているのか。
つまりこの人は、どういう立場になろうとも今持っているものを捨てるのはいやだ、と言っているわけだ。私は両方持っていたいのよ、と。
正直なところ、ますます気持ちが引いた。大潮の時の引き潮ぐらい、はるか沖のほうまで引いた。
わかっちゃったな、と思った。知的でありながらセクシーな、いい女だと思っていたのだが、それは買いかぶりだったようだ。
自分が男の注目を浴びているってことだけを愛している、自分に酔いしれている女性なのだ。この人のスカートのスリットは、私だけを見て、というサインだったのだ。
「結婚は立場の決定よね。でも生き方を縛られることはないと思うの」
「どんなふうに生きようが、それはその人の自由だと思うよ」
と鮎太は言った。そして、その自由は男のほうにもあるんだけど、と思った。
それからしばらく、はるかはドクターという種族がどのくらい自分にプライドを持っているかという話をした。鮎太は適当に相槌を打った。
ディナーが終わって、食後酒にレモンチェッロを飲んだ。はるかはゾクリとするほど色っぽい目つきになって、決めつけるようにこう言った。
「もう少しお酒を飲みたいわ。つき合ってくれるわね」
今日はあの最初の日のキスより先までいくわよ、とほのめかしていた。
鮎太は静かにこう言った。
「いや、明日は仕事が早番なので、ぼくはもう帰ります。それに、ぼくは運が悪い男なので、あなたと一緒にいると、婚約者に目撃されてしまうような気がしてビビッちゃうんですよ」
もうこの人に会うことはないだろう、と鮎太は思った。はるかは、憎しみのこもった目で鮎太をにらみつけた。
3
夜の街をフラフラと歩きながら、鮎太は携帯を取りだした。午後八時四十分だった。
桜田ナオにかけてみた。ナオはすぐに出た。
「荒木さん、かけてくれたんだ」
ナオの声にはちゃんと力があった。
「ナオちゃん、今日はどうだったの。ちゃんと元気でいた?」
「うん。昼間なんべんも、きのう荒木さんが言ってくれた三十六のいいところのメモを見直してた」
「ご飯はちゃんと食べたの?」
「うん。お母さんがつくってくれたものだから、うまかった」
「もう気持ち悪くはならないんだね」
「大丈夫。もう吐きたい気持ちにはならないよ」
「そいつはよかった」
もよりの駅からアパートへ、歩きながらの通話だった。
「あのね、きのう旅行から帰ってきたお母さんと、二時間ぐらい話をしたの。旅先で見たもののことやなんかだけど」
「そうか」
「そんでね、お母さんすごく楽しそうだったの。こんないい感じのお母さんを見るのは久しぶりだっていうくらい」
「それを見てナオちゃんはどう思ったの?」
「お母さんが楽しそうだと、私もうれしいなと思った。こっちまで幸せになってくるような気がした」
「それはとてもいいことだな」
「あのね、私、お母さんに誰と旅行に行ったのかなんて、聞かないよ。そんなこと聞かなくていいと思えてきたの」
「うん」
「そんなことわかんないままでも、お母さんが幸せそうならそんでいいの。でも、教えてくれたら聞くけど」
「聞いたとしても、もう変な気分にはならないような気がしてるの?」
「だと思う。私、お母さんのことが好きで、ハッピーでいてくれたらうれしいんだもん。きのう荒木さんに、私はお母さんのことが好きで、それはいいことなんだって言われて、ホントそうだよなあ、と思えたの。そしたら、いやなことはなくなっちゃった」
「声も元気そうだよ」
「うん、もう元気だよ。だから私、明日からはまた、つるまる食堂でちゃんとバイトする」
「いいねえ」
「だから荒木さん、ご飯を食べに来てよ」
「うん。明日は早番だから夕食を食べに行けるよ。必ず行く」
ナオと話していて、鮎太の胸の内にあったざらついた気分が収まってきた。セクシーなはるかより、この情緒不安定な少女のほうがはるかに魅力的だ、と思えた。
「うぉい、待ってるよー」
「じゃあ、明日会おう」
「うん。約束破ったらグーで殴っちゃうからね」
「グーはよせ。せめてパーにしてくれ」
「やだ。絶対会いたいもん」
「必ず行くよ」
通話を終えて、携帯をポケットにしまう。
そして、十五歩も歩かないうちに、メールを着信した音が鳴った。
もちろん、ナオからのメールだった。こういう文面だった。
「明日、つるまる食堂では、もれなくビールをサービスいたします」
そして、ビールジョッキや、日の丸の旗が二本|交叉《こうさ》している絵文字などが五つばかり並んでいた。
「もれなくって、どういうことだよ」
そうつぶやいて鮎太はニヤニヤと笑った。
4
仕事を終えて、帰りにつるまる食堂へ寄ると、ナオがうれしそうな顔で迎えてくれた。
「お仕事、お疲れさま」
「元気みたいだね」
「元気だよ。今日一日ちゃんとここで働けたもん」
「ちゃんと食べてる?」
「今日のお昼はここの玉子丼を食べたよ。うまかった」
豚肉の生姜《しょうが》焼き定食を注文すると、約束どおりビールがついてきた。ありがとう、と言って喜んで飲んだ。
客が一組帰って、ナオはテーブルの上を片づけて台布巾でぬぐうと、思いだしたようにこう聞いた。
「大道寺さんとは会ったの?」
ナオのアパートにいる時に大道寺から携帯に連絡をもらったのだから、ごく自然に大道寺に何があったのかを話したのだ。大道寺のお父さんが急に亡くなったんだそうだ、って。それで、そのお父さんは大きな企業グループのトップに君臨してた経済界の大物だってことも言った。ナオは目をまん丸に見開いて驚いた。
そういうことがあったので、大道寺のことを聞くのだ。
「まだ会ってない。ゆうべ遅くにも電話がかかってきて、あいつがいろいろと迷ってるのはわかったけど、バタバタしてて会う時間がつくれないんだ」
「大道寺さんて長男なの?」
「うん。姉さんがいるんだけど、息子はあいつだけなんだ。明日が親父さんの葬式で、おれも参列するつもりだけど、大道寺と話をするチャンスはないだろうな。あいつと話せるのは、ちょっと時間がたってからになると思う」
そうなんだあ、とナオがうなずいているところへ、店の奥から店主が、ちょっと手が空《す》いたから、という感じで出てきて、鮎太の前の椅子に座った。
「荒木さん、ナオちゃんのこといろいろありがとう」
と店主は言った。
「え?」
「突然バイトを休むからさ、何があったんだろうとこっちも気にしてたんだよ。そうしたら、ちょっと悩むことがあって、体調までおかしくなってたんだって言うじゃない。何事かと心配しちゃうよね。そしたら、荒木さんに相談に乗ってもらって、いっぱい力づけてもらったからもうよくなったって話でさ。荒木さんにはそういうところがあるんだよねえ」
「おれはただ、ナオちゃんは自分に自信を持っていいんだよってことを言っただけです」
「そんななんでもない言葉で元気が出てくることもあるんだよね」
店主はそう言ってうなずいた。
鮎太はナオを見て、問いつめるような顔をした。おじさんにどこまで話したんだよ。まさかエッチしちゃったなんて言ってないだろうな、というところだ。
ナオは何も言ってないよ、というように首をブンブンと横に振った。
「ビール、もう一本どう? これは店からのおごりだから」
店主は機嫌よくそう言って、店の奥へ戻っていった。この店でナオが愛されていることがわかって、温かい気持ちになった。
喜んでビールをもう一本もらって飲み、いい気分になって鮎太は支払いをすませた。店を出ようとすると、ナオがついてきた。
「仕事はまだあるんだろう」
「うん。約束どおりに来てくれてありがとうって、お礼だけ言いたかったの」
「そうか。じゃあね」
「あのさ、私、自分のこと好きになるように努力するよ」
「いいねえ。そうしなさい」
ニカッと笑って鮎太はそう言った。ナオもうれしそうな笑顔になった。
この子はどう思っているんだろう、という疑問が鮎太の脳裏をかすめた。人には言ってないようだが、鮎太とセックスをしてしまったのだ。そのことを、なかったことにする気は、鮎太にはない。ああいうことをしたという事実はきっちりと受け入れようと思っている。
ただ、それがナオにとってどのような意味を持つことなのかがよくわからないのだ。あれをもって、ナオは鮎太のことを彼氏だと思っているのだろうか。私たち、つき合ってるんだよね、と思っているのか。もしそうならば少し面倒ではあるが、かと言って逃げだすこともしたくない。
鮎太にはナオの心の中が読めなかった。
そのナオが、笑顔でいたのに、ふいにびっくりしたような表情を浮かべた。
「あーっ!」
と言って鮎太の背後を指で示す。
「また、あのストーカー野郎!」
鮎太は振り返ってそこに人影を見た。東昌之が困ったような顔をして立っていた。
5
東はまずこう言った。
「その、無駄に脚のきれいな女性に用があるわけじゃないんだ」
ナオは口を尖《とが》らせて言った。
「そんなの信じられないよ。ストーカーをしたんじゃん」
「そのことはあやまるよ。そして、もう二度としないって約束する」
東はそう言ってから鮎太のほうを見た。
「今日は、荒木くんに話したいことがあって来たんだ。ここへ来れば会えると思って」
鮎太はこう答えた。
「この前、ぼくから携帯で電話したじゃないか。それに名刺も渡したよ。あそこに、会社の電話番号とメールアドレスが書いてあっただろ」
「そういう手段で連絡していいかどうか迷ったんだよ。それに、会って直接話したいと思ったし」
鮎太は東のほうに一歩進みでた。ナオは鮎太の後ろに立って、何か不審な動きがあったら石でもぶつけてやろうと思っているかのように、東のほうをにらみつけている。
「きみにはちゃんと言っておくべきだと考えたんだ。一度、無関係なぼくのためにきみは時間をさいてくれたんだから」
鮎太は悩めるエリートに優しい視線を向けた。東はこう言おうと決めてあったらしく、よどみなく言った。
「ぼくのパソコンの中にあった、会社の顧客に関する全データは消去したよ」
「例のあの、会社から盗んだ情報だね」
「そうだ。きみが、持っていれば必ず使いたくなるだろう、と言ったあのデータだよ。あれは消してしまったから、もう使えない」
「あの夜きみがやったことを、なかったことにしたんだね。さすがに、それを外部に流すことには気がとがめたってわけか」
「そうじゃなくて、そういうものをぼくが密かに持っているだけじゃ、なんにも面白くないって気がついたからだよ」
「面白くないのか」
「うん。ぼくは、もし外部に漏れたら会社が青ざめるような情報を盗めば、優越的な喜びが味わえると思ってあれをやったんだ。相手の生命線をこのぼくが握っているんだ、という満足感があると思ってね。ところが、会社のほうはぼくを微塵《みじん》も疑っていないのさ。ひょっとして重大なトラブルがあるのではないかと、空想する力さえないんだよね。ぼくがプログラムのミスを直すために夜中のオフィスに侵入したんだという話を、なんの疑問も持たずに信じてくれているんだ。まったく拍子抜けするよ」
「誰にもなんの不安も与えられないというのがつまらないってことか」
「そうだよ。会社を青ざめさせるには、あのデータをどこかに流出させるしかないんだ。でも、ぼくにはそこまでやる気はなかったからね。さてそうなってみると、ぼくのパソコンにそのデータが入っているだけでは、何もないのと同じことなんだよ。だからバカバカしくなって消したのさ」
それはつまり、鮎太のアドバイスに従ったということだった。売って金を儲けるつもりがないのなら、盗んだものは消してしまえ、と鮎太は忠告したのだから。
だからこそ、鮎太には自分のしたことを話しておく義務があると考えたのかもしれない。
「それがいちばんよかったと思うよ」
東は鮎太をにらみつけるようにして、挑戦的に言った。
「要するに、きみを巻き込んだあの夜の行動は無意味だったんだ。くやしいがそのことは認めるよ。だが、ぼくは自分が何者であるかということの証明をあきらめたわけではない。ぼくにある無上の値打ちを必ず探り当てて、それを示すことで社会をぼくに平伏《ひれふ》させてやるのさ」
なんでそんなに焦り狂ってるんだよ、というのが鮎太の胸にわく思いだった。自分の価値を人に認めさせ、それなりの扱いをされてみたいと、そんなふうにばかり考えている男だと思った。二十五歳になってしまう前に、この勝負に答えを出してみせようと、一人で空回りしている。
しかし、鮎太はその思いを口にはしなかった。そういうのはとてもエリートらしい焦りなんだろうな、という気もしたからだ。
「この前の夜の事件のことは、他人事《ひとごと》ながら気になっていたんだ。あれが落着したと聞いて、気がかりが消えたよ。話してくれてありがとう」
「きみはぼくの人生の分岐点に出てくる悪魔だからね。だから言っておくのさ」
「ぼくは自分のことを悪魔というより、ピエロのようなものだと思っているんだけどな」
「どっちでもいいのさ。そのふたつは同じもののような気がする」
そう言うと東はふいに踵《きびす》を返し、夜の街を歩き去っていった。
「あいつ、なんなんだよー」
とナオが言った。
6
大道寺の父親の葬儀に出たいので休みたいと会社に申しでたところ、想像していたのとはまるで違う反応が返ってきた。どうして会社を休んでまで、友人の父親の葬儀に出なくちゃいけないんだ、と文句を言われるかな、と思っていたのに。
それは当然のことだろう、と直属の上司が認めてくれたのだ。そして思いがけなく、こんなことも言った。
「我が社からも社長と、重役陣が全員参列するよ。だからきみもその一員として行きなさい」
言われてみて、普段は忘れていたこの会社への入社のいきさつをあらためて思いだした。大道寺の父の名は、今回新聞の死亡記事で読んで初めて知ったのだが、大道寺|謙三《けんぞう》という。その大道寺謙三は、東門セキュリティーもそのうちのひとつである参星《さんせい》グループの総帥《そうすい》で、いくつもの会社の会長職にあったのだ。大道寺薫はその人の息子だから、東門セキュリティーに入社できたのであり、鮎太だってその友人だから同じように特別仮採用になったのだった。
そんなわけで、大道寺謙三の急死は東門セキュリティーにとっても大事件なのだ。上層部の人間が右往左往してしまっている。
そして、大道寺薫は御曹司さまであり、この会社にとって超重要人物だということになってしまったのだ。そして、薫の友人だからってことで、自分まで少し丁重に扱われるようになったと鮎太は感じとった。きみはもちろん、重役陣と同格で葬儀に参列しなさい、という感じなのだ。
つまり、そういう現実の何もかもが、今の大道寺にいっぺんに押し寄せているわけだ。何をどう考えればいいのかわからなくなって、自分を見失っちゃうのも無理はないのだ。
そんなわけで鮎太は、火曜日、都内の大きな葬儀場で行われた大道寺謙三の告別式に参列した。大物財界人の現役中の急死なのだから、サラリーマンふうの人間がびっくりするほど大勢参列していた。それどころか、マスコミ各社から記者とカメラマンが来ていて、特に経済紙の記者は我が物顔で取材をしていた。参列者の中には政財界の大物が何人もいたのだろうが、その方面にうとい鮎太には、あの人が誰、というふうにはわからなかった。ただ、鮎太にもわかったのは、かなりの大物男優や大物女優と、名高いニュースキャスターが参列していたことだ。大物財界人は顔が広かったということであろう。
大道寺はちゃんと黒い喪服を着て、親族の中心にいた。顔色は心なしか青白かったが、神経はピンと張りつめているように見えた。近くへ行って声をかけられる雰囲気ではなかった。
読経が流れる中、焼香をするために、鮎太は人の列に並んだ。じりじりと前進していって、ようやく最前列に出る。そこで、横長の台の上に十基も並んでいる香炉《こうろ》のひとつの前に進んだ。
まさにそのタイミングで、背中をドンと突かれた。鮎太には何がおこったのかまったくわからなかったが、かなり年配の紳士が鮎太のすぐ後ろで絨毯《じゅうたん》に足を取られてよろけたのだった。そしてその老人は、鮎太の背中を両手で突いて倒れることからまぬがれた。
しかし、突然背中を押された鮎太は前へつんのめるしかない。頭の中で、この台を倒して十基の香炉を床に落としたら葬式がめちゃめちゃになってしまう、と考えた。だから鮎太は両手を顔の高さに挙げ、手を台に突かないようにした。だが、上体はどうしたって前に倒れていくのだ。
鮎太は両足を踏んばって、なんとか倒れることだけは食い止めた。ただし、頭は前へ頭突きをかましていく。
額を、香炉の中へ突っ込んだ。全身で踏んばって、そこまでで体を停止させる。
次の瞬間、鮎太は大声で叫んだ。
「熱ーっ!」
額に、焼香の灰がついていて、その中心が黒くすすけていた。
だが、どう考えても今は、熱いと騒いでいる時ではなかった。鮎太は右手で額についた灰を払い落とすだけにして、なんとか型どおりに焼香をしたのである。それを終えて、一礼して横へ移動しようとした時、親族一同の中にいる大道寺の顔を見てしまった。大道寺は楽しそうに笑っていた。
7
「あれがまさしくあなたの運の悪さなのよ。あんなこと普通じゃちょっとありえないわよ。おでこで焼香した人なんて見たことないわ」
大道寺は何かうれしいことがあったみたいなはずんだ声でそう言った。
「参列者が多かったから、押し合いになってたまたまああなっただけだよ」
「たまたまああなっちゃうところが、あなたの持っている運なのよ。あなたがつまずいて転んだのなら運が悪いとは言わないわ。それはドジな人ってことだから。でもそうじゃなくて、あなたのすぐ後ろにいた人がつまずいてつんのめるのよ。そして焼香しようとしてたあなたを押す。どう考えてもあなたが悪いわけじゃないのよ。なのに、ああなっちゃうんだから運が悪いとしか言いようがないでしょう」
大道寺とようやく会って話せたのは、その週の土曜日のことだった。携帯のメールで話をまとめて、鮎太のアパートに来てもらったのだ。
「ちょっと、おでこが熱かっただけだよ。あんなの大したことじゃない。おれの運が悪い話はどうでもよくて、それよりお前だよ。お前、まだ東門セキュリティーに出社してないよな」
「それどころじゃないのよ。誰も予想してなかった突然の父親の死だったから、参星グループ全体が、あれはどうしたらいいだろう、これは中止にするべきかどうか、みたいな騒ぎの中にあって、まさにパニックなのよ。それでね、その騒ぎの中でリーダーシップをとって対処を決めていくのは、父親の右腕と言われていた参星重工業の社長の藤崎《ふじさき》という人なんだけどさ」
「爺さんか」
「六十五歳だけど、もちろんまだ老け込む歳じゃないわ。その藤崎氏がね、会社の方針は私が決めていきますが、私がどう対処していくかというのは二代目さまにちゃんと見ていただき、知っておいてもらわねばなりません、と言うのよ」
「二代目さまってのはお前のことなんだな」
「そうなのよ、気がついたらなんとなくそういうことになってんの。そんなわけで、会社関係のいろんな人が毎日家に押しかけてきて、私にもわかるようにいろんなことを説明するわけよ。私、ずっと実家にいるのよ。ほとんど監禁されてるのに近いわ」
「そうか。自分のアパートに帰れないんだ。というか、もう実家を出て独り暮らしなんかしてちゃいけないって空気になってるわけだな」
「一回だけ、夜、パソコンを取りに行ったけど、すっごく懐かしくて涙が出そうになっちゃった」
「そういう事情になってくると、東門セキュリティーの社員である、なんて立場ではいられないのかもしれんなあ」
大道寺がこの先どうなってしまうのかについて、正直なところ想像がつかない鮎太であった。父親と絶縁状態だったとはいうものの、その人が突然に亡くなれば、たった一人の息子であることの意味が大きくのしかかってくるわけだ。私は関係ない、ということではすまないだろう。
だが、二代目はオネエ言葉の男なのだ。どう考えても財界のトップに君臨する姿が似合うとは思えない。
「自分でもこの先どうなっちゃうのかわかんないのよ。ただね、一連の大騒動が収まるまでは、巻き込まれているしかないのかな、と思ってんの。遺産相続のことだとか、誰を後継者にするだとか、ややこしいことがいっぱいあるんだもん」
「そうだろうなあ」
「たとえばね、父にはよその女に産ませた息子なんてものがいるのよ。私より五歳年上で参星生命って会社の取締役をしてるんだけど」
「そんな人物がいるのか」
「父は婚外子のその息子を認知して、参星グループに受け入れていたってわけよ。だけど、父の本当の望みは私に跡を継がせることだったから、その息子をナンバー2だと認めていたわけじゃないの」
「『華麗なる一族』みたいな話になってくるなあ」
「そうなのよ、あまりにも類型的で笑っちゃうでしょう。参星グループの上層部にはね、その別邸のご子息をトップにかつぎあげればいいじゃないかと思っている一派がいるの。ところがね、それには断固反対する一派もあって、藤崎氏がその中心人物なのよ。別邸のほうをかつぎだそうというのは、事実上の会社乗っとりであって断じて許せない、という考えらしいの」
「まさにドラマだな」
「そんなこんながあって、私もう、どうすればいいのかわかんなくなってるのよ。だから今はただ巻き込まれているしかないの」
大道寺には珍しく、苦悩しきった口調だった。
8
「私に姉がいることは知ってるでしょう」
静かな声で大道寺はそう言った。
「うん。葬式の時にチラリと見た」
「もう結婚してて姓は変わっているんだけど、光子《みつこ》って名前なの。その夫も参星グループの中の一社で社長をやってるんだけど」
「そこにもう一派あるのか」
「そうじゃないわ。姉の夫はただ人がいいだけの人物で、あんまり重視されてないの。その姉にね、説教されたのよ。父が急死したその夜に」
鮎太は今日はとことん大道寺の話の聞き役になろう、と思っていた。それぐらいしか鮎太にできることはないのだ。
「お姉さんはいくつなんだ」
「私より七つ年上で三十一歳。別邸の人よりも年上なの。その姉がね、騒動に巻き込まれて右往左往してる私に言ったの。もう親子喧嘩は終わったのよ、って」
「へえ」
「私、父親の葬式に巻き込まれたことを、とんだ迷惑だと思っているみたいな顔をしてたのよね。自分はもうこの家を出た人間だからって。その様子を見て姉が怒ったの。あんたは、お父さんと対立して、従うのがいやで家を出てたんでしょう。でも、その対立相手は死んだのよ。死んでしまえば、もう対立関係はないのよ。そこにあるのは父と子という関係じゃないの。子として、父親の葬式がちゃんと出せないなんて最低でしょう、って言われたの。私、つい納得しちゃったわ」
「なるほど、お姉さんが正しいかもな」
「結局、親子喧嘩はここで終わったんだ、と言われたのが大きかったわ。相手がいなくなったらもう、反抗する理由もないのよね。そう感じたせいで、ついずるずると巻き込まれているわけ」
「よくわかるよ」
「それで、父の築きあげた参星グループへの考え方もちょっと変わってきちゃったの。ああいう思想の父が、生涯かけて築きあげてきた何より大切なものが、参星グループだったのよ。だから今まではね、私としては近寄りたくもないいやなものに思えてたの」
「でも、おれのせいでグループの一角の東門セキュリティーにかかわってしまったよな」
「やだ、やめてよ、鮎太ちゃん、おれのせいでなんて言うのは。あの時はそれが名案だと思ったんだから。でも今になってみると、あの時、東門セキュリティーに入社したのは、こういう事態になることの伏線だったような気がしちゃうわね。知らないうちに私は家に戻る方向に踏みだしていたんだわ」
「戻る気になっているのか」
「それはまだ自分でもわかんないの。でもとにかく当面は、親族としてお葬式に背を向けるわけにはいかないのと同じ理屈で、会社のすったもんだを私には関係ないって切り捨てることはできないのよね。父親に死なれてみて、いやでもはっきりとわかったことがあるわ。とにもかくにも私はそういう家に生まれたっていうことよ。それは、気に入らないからリセットする、というわけにはいかないのよね」
「いいじゃないか。考え方の違う親父さんは亡くなったんだから、この先はお前の考えで事業をころがしていけば」
「軽く言わないでよ、そう簡単なことじゃないんだから。参星グループに本気でかかわっていこうとしても、私にはなんの力もないのよ。能力も知識も、おまけに意欲もなくて、どうやって巨大企業グループを運営していけるのよ。今度のことがあってつくづくわかったんだけど、私はまだ子供なのよ。私には、父親のような人間にはなりたくないっていう思いだけがあって、私ならではの人生観はまだできてないの。そういう思想がないまんま、企業をころがしていくことなんかできないのよ。私が今、いちばん悩んでいることはそれなのね。まだ私には力が足りないの。急に二代目と持ちあげられても、何もできないのよ」
大道寺の言葉には、ここ数日迷い抜いてきた人間の真実味があった。
「お前は何もできない人間じゃないよ」
鮎太はいつだってそういうふうに言ってしまう男だった。疲れきって膝をついてしまっている人間を見ると、手を貸して立ちあがらせずにはいられないのだ。
「お前には、度胸があるから」
「やめてよ、いい加減なこと言うのは」
「いや、本気だよ。お前が何かを決断する時の度胸のよさには何度も驚かされているんだ。ある意味、すげえ男らしいなあと感心してるんだよ」
「悪かったわね、男らしくて」
「えーっ、お前を男らしいってほめると、悪口言ったってことになるのかよ」
そこでついに大道寺は笑った。
「あなたって天然に太陽みたいな人なのよね」
「天然ってのは、悪い意味だよな」
「そんなのどっちでもいいのよ。とにかく私はあなたに力づけてもらったから、もう少し巻き込まれたままでいるわ」
大道寺は自分に言い聞かせるようにそう言った。
9
大道寺の話が一区切りついたところで、鮎太はピーナッツをつまみに缶ビールを出した。
飲み進むうちに、ようやく大道寺にいつもの毒舌が出始めた。
「ところで、つるまる食堂のミニスカおバカちゃんに、あなた何かしたの」
この男、鋭すぎる、と冷や汗が出た。どうしていきなりその話になるのだ。
「なんの話だよ」
「あの子に会ったのよ。パソコンを取りにアパートに行った時、時間が中途半端になったので、つるまる食堂で夕食を食べたの。あなたは夜勤だとわかっていたから一人で」
「じゃあ、木曜日のことだ」
「そしたらナオがさ、私におくやみを言うのよ。大道寺さん、お父さんが亡くなったんですねって。そんなことをあの子に教えるのはあなたしかいないじゃない」
「へえ。そんなことが言えたんだ」
「言葉はめちゃめちゃよ。ごチューショーさまです、なんて言ってた。でもまあ、偉い偉い、そういうこと言えたのね、とは思ったわ」
「お前がおれに電話かけてきたじゃないか。父親が亡くなったって。あの時、近くにナオちゃんがいたんだよ。だから、とんでもないことがあったんだって、話すのが自然じゃないか」
あれは隠す必要のないことだよな、と鮎太は思った。セックスしたことまで言う必要はないが、それ以外は別に秘密ではない。
「どうしてあなたとナオが一緒にいたのかしらね。あの日は土曜日だから、あなたはつるまる食堂にいたの?」
「そうじゃない。ナオちゃんはあの日バイトを休んでたんだ」
「休んでここに来てたの?」
「違う、おれがナオちゃんのアパートへ行ったんだ」
「まあ、ぬけぬけと言ってくれるわねえ」
「何を考えているのかしらないが、そうじゃないよ。ナオちゃんの精神状態がおかしくなって、おれに救いを求めてきたから、行って力づけてやったんだよ」
鮎太は本当のことを言うことにした。セックスのこと以外はすべて。
ナオは母と二人暮らしである。その母に恋人ができたような様子を感じとった。それであの子は不安になり、体の具合までおかしくなって、ものが食べられなくなった。おれに携帯で救いを求めてきたので、行って、なんとか力づけるような話をした。そうしたら少し元気を出し、夕食を食べることができたので安心して帰った。
「そんなことがあったの」
「ストーカー騒ぎがあったりして、なんかおれを頼りにしてくれるんだよね」
「太陽みたいなあなたには、自然と人が寄ってくるのよ。いいじゃない。それはあなたの人徳よ」
「目の前に、何を食べても吐いちゃう、という人間がいたら、力づけようとするのが人情じゃないか」
「摂食障害ね。典型的な例だわ。あれって、若い女性に多いのよ。そして、母親の愛情について不安な心理になった時におこるケースが多いの」
「そうなのか。知らなかった」
「それで優しいお兄ちゃんのあなたは、力づけてやったのね」
「ナオちゃんはいい子なんだから、自分に自信を持っていいんだよ、なんて言ったんだ」
「それでナオは食事をとることができたのね。お見事な働きじゃない」
「その後、なんとか元気でいるようで、よかったな、と思っているんだ」
「でも、それだけですむはずないわよね」
「どうしてだ」
「自分を力づけてくれる人には、恋愛感情がわいてくるのが自然というものでしょう。確かにあの子、あなたを好きになりかけてるわよ」
「いい加減なことを言うな」
「私、あの子を見てて確かに感じとったんだもの。そう、正確に言うと、恋愛感情にまではいってないかもしれない。その手前の、本当に好きになっていいんだろうかという気持ちでとまどっている感じね。そんなの相手にとって迷惑かなあと悩んでいて、その悩みがあの子のちっちゃな脳ミソの中いっぱいに広がっているのよ。きっとそう」
大道寺はそう言って、さあどうするの、というような顔をした。
鮎太の頭の中は、誰かが大声で「解散!」って号令をかけたみたいに、思考がバラバラになってしまっていた。
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第9章 想像もしなかった不幸
1
荒木鮎太は東門セキュリティーで真面目に勤務を続けていた。入社から三ヵ月たった時点で、特別仮採用という立場ではなくなり、正式採用となった。晴れて社員になれたのだと気分がよかった。オフィス・セキュリティー課にあらためて配属され、夜勤の多い日々である。
そうなってみて鮎太は、この仕事は自分に合っていてやりがいもある、と充実感の中で思うのだった。
そこが、この男の並ではない楽天家ぶりである。運送会社で働いても、セキュリティー会社で働いても、鮎太はこの仕事は自分に合っているな、と思うのだ。この仕事はおれにピッタリだ、という気がして、実際にかなりの能力を発揮してしまう。もし仮に、銀行員になったとしても彼は、おれに向いた仕事だよなあ、と思うであろう。パティシエになってケーキをつくっても、そうそう、おれはこういうことが好きなのよ、と思うに違いない。
その能天気な積極性こそが、鮎太の人間としての財産だった。
日々は流れ、その年の十一月も残すところわずか、という頃になっていた。日曜日の午後、鮎太は渋谷のファッションビルの上層階にあるティー・ルームで、女性と会った。もうその人と会うことは二度とないだろうと思っていたのに。
名前も忘れかけていたのに、三澤はるかが電話をかけてきたのだった。そしてまず、今は結婚して堀内《ほりうち》という姓になっているのだと言った。そうですか、と応じるしかなかった。
ぜひともお目にかかって相談にのってもらいたいのだと言われて、気がすすまないのに時間の約束をしてしまったのが鮎太の甘さだ。
はるかは、変に生々しく妖艶な印象になっていた。コートを脱げば、スカートにはやっぱりスリットが入っていた。男だからついそこに目がいってしまうのだが、スリットからこぼれるはるかの太腿は、セクシーというより妙にあからさまで猥褻《わいせつ》な感じがした。
はるかは左手の薬指に結婚指輪をしていた。
「迷ったんですけど、このことを相談できるのは荒木さんしかいないと気がついたの」
はるかはそれが当然のことであるかのように媚《こび》を含んだ口調で言った。鮎太にはその理由がわからなかった。
「どういう話ですか」
「東さんのことなの。彼がね、何かバカなことをしそうなの」
反射的に、その話は聞きたくないですね、と言ってしまいそうになった。そんなことばかり何度言うつもりなのか、という気がしたのだ。ぼくはあの妙に焦っているエリートの人生には関心がないんです、と言いたかった。
だが、そうは言わないのが鮎太だった。こう言った。
「東昌之さんのことですか」
「そう」
「彼はあなたの元彼で、一時的にあなたにまとわりついた時期もあったけど、あなたはもう結婚した。そうですよね」
もう関係ない人間じゃないですか、という意味の発言である。はるかはちょっと困ったような顔をした。
「そうなんだけど、最近またちょっと会うようになっているの」
なんでまた、という鮎太の思いが顔に出たのかもしれない。はるかは秘密めいた顔をして、なるべくさらりと言おうとしているのが見抜ける口調で言った。
「結婚したからって、ただ家の中に閉じこもって生きなきゃいけないとは思わないの。私は家の外の生活も持っていたいし、夫はそのことを認めてくれる人なの」
はるかの言おうとしていることが瞬間的にわかって、鮎太はなぜこの女性に会おうと思ったんだろう、と自分を責めた。
つまり、はるかは結婚したからこそ、東昌之と、よりを戻したのだ。結婚したって私は自由を大切にしたいの、私の魅力を一人の男性にささげるわけじゃないのよ、という考えから、鮎太に色目を使ったこともある女なのだ。
確かドクターである堀内というはるかの夫が、妻のそういう一面をどう思っているのかはわからない。妻のそういう自由を広い心で認められる人なのかもしれないし、もしかすると、妻の身勝手には気がついていない鈍い人なのかもしれない。
とにかく、はるかは、私は結婚していたってこれまでどおりに恋は楽しむの、という考えから、昔つき合ったことのある東昌之とふたたびいい仲になったのだ。
そんな人間がどうなろうが、知ったことじゃないよな、と鮎太は思った。
2
「彼が自分のプライドをすごく大事にする人だってことは知っているでしょう。自分という選ばれた存在が、ちゃんとそれにふさわしく輝いているかということをいつも気にしているのよ」
「彼はもう二十五歳になったんですよね」
東がもうすぐ二十五歳になってしまうのをすごく意識していたのを思いだして、鮎太はそう言った。もっとも、この時点では鮎太も二十五歳になっていたのだが。
「年齢のせいもあるのかしら。ともかく、彼はすごく焦っていて、何をやりだすかわからないような危うさがあるような気がするの。こういう言い方は嫌味なんでしょうけど、あの人、私を感心させたいんだと思う。私に、すごい男性だって尊敬されたいのよ。そのために無茶な生き方をしそうなの」
「そうだとしても、ぼくから彼にするアドバイスなんてありませんよ。東さんとそう親しいわけでもないし、彼は自分の考えで好きなように生きればいいわけだし」
「でも彼はこう言ってるのよ。荒木という男は、ぼくの人生の節目に現れて道を示してくれるエンジェルのような気がするって」
「それは彼の勝手な思い込みにすぎません。ぼくは彼の天使でも悪魔でもないし、彼の人生を決定したいとも思っていません。彼だってもう子供じゃないんだから、どのようにでも好きに生きればいいんです」
「彼、会社をやめようとしているのよ」
はるかはさも重大なことのように言った。
「いい大学を出て、名の通ったIT企業の関連会社で働いていて、傍から見れば表舞台の人生じゃない。それなのにそこから飛びだして、夢のために大きなことに挑戦してみるだなんて言っているの。それってまともな考え方じゃないでしょう」
この人は、自分のつき合う男がエリートじゃないのは我慢できないのだろうか、という思いがわいた。だがそれを口に出すのはやめておいた。
「まともじゃない生き方を選ぶのも本人の自由ですよ。むしろぼくは、人間がそんなふうに自由に生きるのを見るほうが好きです。二十五歳なんて、全然人生が決定しちゃってるわけじゃなくて、いくらだって変われる時だと思うんです。がむしゃらな気分になって、あきれたことを始めるっていうの、いいじゃないですか。ぼくはそんな考えの持ち主です。だから、東さんに忠告したいことはありません。あなたのお役には立てないようです」
はるかはあきれたような目で鮎太を見た。
「でも、私は、私のせいで誰かがバカな生き方をするのは見ていられないの」
この人は自慢をしているのかもしれない、と鮎太は思った。私の魅力のせいで、男たちは人生を狂わせていくんだと。その自慢がしたいだけで、東のことはどうでもいいのかもしれない。
「彼はあなたのせいで会社をやめるんじゃなく、自ら望んで人生を決めているのかもしれませんよ。そういう人に、ああしろこうしろなんて口出しできる人間はいないんです。だからぼくには出番はない。それどころか、あなたがあれこれ気をもむのも無用のことだと思いますね」
そう言うと鮎太は、テーブルの上の伝票に手をのばした。
「ぼくはこのあと人と会う約束がありますので、これで失礼します」
はるかは立ちあがる鮎太をにらみあげた。私から逃げるなんて許せない、とでもいう顔をして。
「確かにあなたはエンジェルではないわ」
吐き捨てるように言った。
鮎太はニッと笑ってこう言う。
「もちろんそうですよ。自分の人生を生きるのに必死の、少々運の悪い男にすぎません」
そしてはるかを残してそのティー・ルームを出た。
3
渋谷で人と会う約束があったのは本当だったが、それは夕方のことなので、鮎太は映画を観て時間をつぶした。ようやく五時になったのでハチ公の前に立つ。すぐに待ち合わせの相手が、おかしな男につきまとわれながら姿を見せた。
「だから、いやなんだって」
桜田ナオはつきまとう男にそう言った。
「きみは自分の持ってる宝物に気がついてないんだよ」
と、鮎太と同年ぐらいの若い男が言った。
「どうしたの?」
と鮎太はナオの前に立った。
「あっ、荒木さん。こいつが、うるさくつきまとうの」
「あなたは?」
と男に聞いてみた。男は、鮎太の出現にとまどった顔で言った。
「タレントのスカウトマンです」
「タレントなんて言ってるけど、AVに決まってんだよ」
「そういうのではなくて、ちゃんとした芸能プロダクションです」
鮎太はナオを背後に隠すようにして言った。
「なんであっても、この子にやる気はないようですから」
連れがあってはどうにもならないと思ったのか、スカウトマンは舌打ちをしてはなれていった。
「助かった。しつこい男だったの」
とナオは笑顔を見せて言った。
「あんなのによく声をかけられるの?」
「渋谷じゃ、しょっちゅうよ。うまいこと言うんだけど、みんなAV女優のスカウトなの」
そう言うナオのファッションを見て、なるほどと思ってしまう。その日もナオはミニスカートで、膝上までのニーソックスからスカートまでの間は、ナマ脚がむきだしだった。
「これまでに、ああいう奴についてったことあるの」
「うん。ストッキングのCMに出ないかっていう話だったからついてったら、事務所でいきなり、カメラの前でエッチしたらギャラはその十倍って言われて逃げてきた」
「そんなことが本当にあるのか」
「でも、荒木さんが追っ払ってくれたからもういいよ。さあ、ご飯食べよ」
ナオは最近、心模様も落ちついているようで元気だった。つるまる食堂で顔を合わせるだけだが、鮎太の顔を見るとうれしそうにじゃれついてくる。
それで、今日のデートのようなものに誘ったのはナオのほうだった。バイト代が入ったから、荒木さんにご飯おごりたい、と言ったのだ。
まずはナオに案内されて、スパゲティ・ハウスに入った。わたり蟹のスパゲティと生ビールをご馳走《ちそう》になる。ナオは、おいしいね、と言って楽しそうに食べた。
スパゲティを平らげたところで、鮎太は言った。
「もうちょっと飲みたいね」
「私もつき合うよ」
「ナオちゃんは未成年だから飲んじゃダメだよ」
「私、よくビール飲むよ」
「でもいけないよ。おれが一緒にいて、飲むのを認めることはできない」
「じゃあ、ウーロン茶でつき合う」
ということで居酒屋に入った。つまみをとって、鮎太は焼酎の水割りを飲む。ここは鮎太がおごるつもりだ。
うまいうまいと山芋サラダをぱくついていたナオが、ふっと真面目な顔になって言った。
「あのね、私のお母さん、男と別れたんだって」
「どうしてわかったの」
「お母さんが話してくれたの。三十代のクリーニングの会社の外回りの社員なんだって。でも、そいつには奥さんがいて、離婚するつもりだっていうのが見え見えの嘘なんで腹が立ってきちゃって別れたんだって」
「ちゃんと話してくれたのか」
「うん。女同士だからわかるでしょう、って感じに」
「聞いてナオちゃんはどう思ったの?」
「その相手はインチキ野郎だなって思ったから、よかったじゃん、って言った」
ナオに悩んでいる様子は見えなかった。むしろ明るかった。
「あのね、その時お母さんが私に言ったの。お母さんだってまだ若いんだから、いい男がいたらつき合うわよ、って」
「うん」
「だけど、どんなことがあってもナオのことは捨てないから、その心配をすることはないんだよ、って言ってくれたの。親子の絆《きずな》は絶対に切れないものなんだからって」
「よかったね」
鮎太は心からそう言った。
「うん、よかった。だからね、私、もう大丈夫だよ。もうあんなふうにはならないから」
それを言うための誘いだったのか、とわかった。鮎太にはそれを報告しておく必要がある、と思ったのだろう。
「ナオちゃんはお母さんに彼氏ができても平気でいられる?」
「もう平気だと思う。それが当然のことなんだもん。お母さんが幸せなのは、私にもうれしいことだから」
「じゃあ問題はひとつもないね」
「うん、ない。私、ちょっとだけ大人になったんだもん」
「いいな。カッコいいよ」
「うそ。私がカッコいいの?」
「すごくカッコいいよ。見直しちゃうよ」
「うでしー」
ナオはパッと瞳を輝かせて喜びに顔をほころばせた。この単純さがこの子のよさだと、つくづく思う。鮎太も幸せな気分になってきた。
4
あれこれ話をしているうちに、大道寺の話題も出た。今、大道寺さんは何をしてるの、とナオに聞かれたのだ。
「結局あいつは、亡くなった親父さんの跡を継ぐしかなくなったんだよ。参星重工業という会社の社長をやってる」
「あの大道寺さんが社長なの」
「形式的にはね。でも、実際にはそこの前社長って人が、相談役としてついててくれて、会社を動かしてるんだよ。それを見て修業して早く一人前の企業人になるように、教育を受けてるわけだ」
「でも、なんか変だね」
「どこが変なの」
「だって、大道寺さんってあのオネエ言葉だよ。あの言葉でしゃべる社長っておかしくない?」
「それがね、あいつ言葉づかいをちょっと変えたんだよ。この前会ってみたら、語尾が『ですね』になってるんだ。昔は『そうじゃないのよ』と言ってたところを、『そうじゃないですね』ってふうに。丁寧でソフトな言い方だけど、オネエ言葉ではないんだよね」
「へー。大道寺さんがそんなふうにしゃべるなんて信じられない。それってなんか、ちょっと寂しい気がする」
「あいつもいろいろ考えて、悩んでいるんだよ。今はただ流されているだけで、自分が何をしたいんだかまるでわからないと言ってた。その辺のことがちゃんと見えてくるまでには、まだまだ時間がかかるんじゃないかな」
「荒木さん、友達なんだから相談にのってやってよ」
「そのつもりだよ」
鮎太は迷いなくそう言った。友人の力になりたいと心から思っているのだ。
酒が回って、体がポカポカしてきた。鮎太がこんなことを聞いてしまったのは、酒のせいだった。
「おれってナオちゃんの彼氏なのかな」
それは、心の底でずっと気にしていることだった。ナオがどう感じているのか、よくわからないからである。
鮎太はナオとセックスしたことを気にしている。そういうことがあったんだから、私たちはつき合ってるんだよね、とナオが考えているのだとしたら、その事実から逃げてはいけないと思うのだ。自分のしたことには責任を持ちたい。
しかし、セックスは一日限りのことで、その後はそんなムードにもならない。ナオは鮎太に心を開いてしゃべるようになり、親しげに笑顔で接するようになったが、それ以上のことはなかった。今日の、ご飯をおごるよ、というのは珍しい例外なのだ。
「それはないよ」
とナオは言った。力のない声だった。
「ないのかな」
「だって違うじゃん」
「でも、あの日ナオちゃんと……」
「あれは、そういうことじゃないもん」
ナオは鮎太に最後まで言わせず否定した。
「あれはさ、私が変になっちゃってて、力づけてくれたんじゃん。心細かった私に、おれがついてるよって言ってくれたみたいなことで、あれは荒木さんの親切だよ。あれで、二人は恋人同士だなんて思ったらバカだもん」
そう言うナオの口ぶりに、強がりのようなものを感じとったのは鮎太の錯覚だろうか。なんだか自分に言い聞かせているような気がしたのだ。
「あれで荒木さんのこと彼氏だなんて思っちゃうのは、ずーずーしいじゃん」
鮎太は返す言葉につまった。なんだかナオに悪いような気もしたが、一方では、ホッとしたのも事実なのだ。あんなことに責任取んなくていいのよ、ということをナオは言っているのだった。
「でもさ、そーゆーこととは別に、荒木さんは頼りになる相談相手だよ。私、頼ってもいい?」
「いいよ。なんでも相談して」
「うれひーにゃー。あのさ、私って母ひとり子ひとりの女所帯じゃん。だからずっと、お兄ちゃんとかほしいなあと思ってたの。荒木さんのこと、お兄ちゃんみたいに思ってもいい?」
「いいよ。お兄ちゃんでも、お父さんでもなんでもいいよ」
「お父さんはジジイすぎて悪いじゃん。妹のこと可愛がってくれるお兄ちゃんでいいよ」
そう言ってナオはうれしそうな笑顔を見せた。胸のつかえが下りたような気がして、鮎太も優しい気持ちになることができた。
5
ナオを相手に飲んだ次の日は、夜勤だった。夜の八時から翌朝の八時までの勤務だ。
鮎太は夜勤を苦にしないたちで、仕事にももう慣れていた。つまり、何事もないいつもの一日だったのだ。
それなのに、思いもかけない不幸な出来事が発生するのである。ふってわいたような災難というやつだ。
鮎太は運が悪かったのだろうか。確かにそうだったかもしれない。いつものように、いろんなことでちょっとずつ運が悪かったのだ。
まず、出社のための身仕度をしていた夕方に、東昌之から携帯に連絡が入ったのが、微妙な間の悪さだった。関係したくもないことが、むこうから押しかけてくるというのがなんだかわずらわしかった。
「はるかに会ったんだろう」
と東は言った。隠すことでもないので、会ったと答える。会いたいと言ってきたのは彼女のほうだということを、さりげなく言い添えて。
「彼女が何を言ったのか知らないが、それは全部忘れてくれないか」
東はためらいのない口調でそう言った。
「わかった。そうするよ。言われなくてもそんな気になっていたんだ」
「彼女にぼくのことを語られた、というのがいやなんだ。あれこれ説明されたと思うと耐えられない」
「気にしなくていいよ。もう忘れかけているから」
「自分のことは自分の口で言うよ。ぼくは会社をやめることにしたよ。もちろん、会社の情報を盗んだりはしないでね」
「そうなのか」
「それで、報道カメラマンになる」
「カメラマン?」
「大学では写真部に在籍していたんだよ。カメラの腕前には自信があるんだ」
変に飛躍しているなあと思ったが、異論をはさむのはよした。
「戦争やテロのおこってる国へ行って、スクープ写真を撮ってくるんだよ。絶対に名をなしてみせる」
「成功を祈るよ」
鮎太はそう言うだけにした。あんまり危険なところへは行くなよ、という言葉が口から出かかったのだが、自分のそういうお節介が、他人に振り回される原因なんだと思って圧《お》し殺したのだ。
通話はそれだけで、あっさり終わった。だから特別に大きく心を乱されたわけではない。むしろ、はるかの言動で少し乱れた心が、平穏を取り戻すきっかけになったと言ってもいいほどだ。あの女の言ったことは無視してくれ、という東の言葉には、毅然《きぜん》としたものを感じたくらいだ。
報道カメラマンになる、という話には驚いたが、うじうじ考えているより立ちあがって行動する、という宣言のようにも思えて、そうだよ、まずはなんであれやってみろよ、と応援する気持ちになった。
だから東からの連絡はいやなものではなかったのだが、平穏な日常に割り込まれた、という心のざわめきはあった。そこで、少し意識が乱れ、注意力が散漫になったのかもしれない。
会社に着いてみると、原田という同僚が休みだった。それで、土屋というベテランとペアを組んだのだが、そんなことが自分の運命を左右するとは思いもしなかった。
いつもどおり、パソコンのモニターをチェックして、契約している会社に異常のないことを確認していた。すると、九時半頃に一度、侵入異常を知らせるアラーム音が鳴った。
その会社に電話をしてみたところ、すぐに、少しあわてた声の男が出た。
「侵入異常の通報がありましたが、どんな状況ですか」
と鮎太は聞いた。
「すみません。一度出た会社に戻ってしまって、侵入者ってことになってしまったんです。仕事を終えて、終業モードにして会社を出たんですが、一階まで下りたところで忘れ物をしたことに気づいて戻ったんです。そしたら侵入者がいます、って大きな音が響いて、ちょっとあわててしまい、終業モードを解除するのに手間どってしまったというわけで」
「所属の部署とお名前を教えていただけますか」
男はすんなりと名のった。
「そちらさまの三桁の暗証番号を言っていただけますか」
それにも答え、その番号は正しかった。
問題なしである。その種の、トラブル以前の通報は日常的によくあった。
それから数時間はさしたることもなく過ぎた。煙センサーがアラーム通報をしてきた会社が一社あっただけ。電話をしても誰も出ないので、警備班の者を現地に行かせた。
そして、夜中の二時に、侵入異常の通報をしてきた会社があったのである。消費者金融の会社の支店だった。
「今日は多いな」
と言って、土屋がその会社に電話をかけたが、誰も出なかった。その会社には監視カメラは設置していないので、映像は見られない。
「面倒だな。行って様子を見てくるべきだが、今、警備班の車が出払っているんだ」
最後の一台が煙センサーの反応があった会社へ行って、まだ戻っていなかった。
「じゃあ、ぼくが予備の車で行って見てきます」
と鮎太は言った。ベテランの土屋がここに残ったほうがいいのだ。
「そうか。じゃあ頼む」
と土屋は言った。どうせつまらない操作ミスか何かだろう、と思っているような軽い口調だった。
6
実はそういう事態になってみて、東昌之とその日、携帯で話したことが微妙に鮎太の心に影響したのだった。あの時と似ている、という思いに支配されてしまったのだ。
東昌之が、コメテックCPという会社に夜中に侵入して、パソコンの操作をしていたあの時だ。実際のところ東は会社の情報を盗んでいたのだが、気になるプログラム・ミスを夢中で直していた、ということで落着したあの夜。あれと同じようなケースだろうと、つい思い込んでしまったのだ。
その会社の社員が、忘れ物を取りに来たのか、終電がなくなったので会社に泊まろうと思ってやってきたのか、とにかく侵入したわけだ。そして侵入アラームの止め方もわからずにまごまごしている。酔いつぶれて寝ているのかもしれない。
いちいち対応しなきゃいけないこっちの身にもなってほしいよ、と鮎太は思っていた。そんな、軽い気持ちでその会社に行ったのだ。
その会社の入っているビルの前に着き、鮎太は無線で土屋にこれから会社に入ってみると伝えてから、車を降りた。エレベーターで四階のオフィスへ行く。
その会社のドアはロックされていなかった。合い鍵を持っていたのだが、使う必要がなかった。
中に入ってみるとアラーム音声が大きく聞こえた。
「侵入者がいます……。侵入者がいます……」
ドアのすぐ横にあるセキュリティー装置に特殊キーを差し込んで、終業モードをオフにする。するとアラーム音声が消えた。
会社内に明かりはなかった。懐中電灯をつけて、人の姿を捜してみる。
この期《ご》に及んでも鮎太は、これはもう完全に泥酔して寝ているパターンだな、と思っていた。
「どなたか、いらっしゃるんですか」
と言いながら、懐中電灯の光を動かして人の姿を捜した。だが、それは見つからなかった。
パソコンのプログラムを必死で直している気の小さい社員というのを、鮎太はなんとなく想定した。そういう真面目すぎて迷惑な人もいるからなあ、と考えて。
だがそこで、鮎太は自分の思い込みが間違っていることに気がついた。違ってるよ。ここはIT企業じゃなかったんだ。東みたいな社員はここにはいない。
ここは、消費者金融のオフィスで、ということはつまり金庫とかがあって、現金がしまわれているかもしれない。
そこまで考えた時、いきなり机の陰から人が飛びだした。暗くて顔は見えなかったが、男のようだった。
体当たりをくらって、鮎太はひっくり返り、懐中電灯を手から落とした。
賊は鮎太の体をまたいでドアのほうへ進もうとした。
鮎太はそいつの足を掴み、引きずり倒した。何も考えることができず、ただこいつを逃がしてはいけないと、がむしゃらに行動したのだった。
賊がころんだ。鮎太はそいつの体にのしかかっていった。
賊が鮎太の腹を蹴った。興奮しているせいで痛みはまったく感じなかった。こいつを捕まえるのがおれの仕事なんだ、という思いが頭の中をぐるぐる回っていた。
鮎太は賊の顔を手で床に押さえつけ、なんとか相手の自由を奪おうと渾身の力をふりしぼっていた。
賊が右手を振り回して自由が利くようにした。そしてそいつは、どこからか何かを取りだした。黒い小さなものを、右手に握っている。
鮎太は賊の右手を押さえつけようとした。
その時、鋭い発光を見た。
パンという、そう大きくない音がして、鮎太は額《ひたい》に焼け火箸を当てられたような熱を感じた。熱と同時に、打撃もくらったような感じだった。
右目が見えなくなり、血が目に入ったのだと思った。だが、思考はそこまでだった。
すーっと鮎太の意識は薄れていって、すべてが混沌《こんとん》の中に呑み込まれていった。
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第10章 新しい局面へ生還
1
荒木鮎太が本当に運の悪い男なのかどうかを判定するのは、意外にむずかしい。
オフィス・セキュリティーの仕事をしていて、ある会社に侵入異常があったので安全確認のためにそこへ行ってみた、というのは当然の職務であろう。本来そういう安全確認をするための警備班の人間が出払っていたために、鮎太にその役が回ってきたのは不運ではあるが、そういう会社で働いていればままあることだ。
ただしその時、鮎太が過去の一度の体験のせいで、また困り者の社員が傍迷惑なことをしているのかなと、独断的に考えすぎてしまったのが取り返しのつかないしくじりであった。賊が侵入して犯行に及んでいるかもしれない、ということをほとんど考えていなかったので、警戒心が欠けていたのだ。
鮎太が駆けつけたのは消費者金融のオフィスで、そこには金目当ての侵入者がいた。いきなり出現した賊を鮎太は取りおさえようとし、拳銃で額を撃たれた。
鮎太が意識を取り戻したのは、撃たれてから五日めのことだった。深い眠りから覚めるように目を開けると、そこは大病院の集中治療室だった。
ところが鮎太には、自分がどこのベッドで横になっているのかわからなかった。だから寒々しい色の病室の天井をじっと見ながら、ここはどこだ、おれはどうしてここにいるのだ、ということを考えた。それはとても心細い精神状態だった。
考えているうちに鮎太は、体を自由に動かせないことに気がついた。右目を動かすと、右腕がベッドの右の柵に固定されていて、その腕には針が刺され、点滴薬を入れられていた。それから、下半身も何かわずらわしいもので固定されているような感じがあった。実は、尿道カテーテルを入れられていたのだ。
そして、鮎太は自分の頭部も右腕と同じように何かで固定されているように感じた。何かが巻かれている。それは、眉のあたりまですっぽりと頭全体を包んでいたので、見ることはできないのだが感じることができたのだ。
とはいえ、この時の鮎太はまだ、自分の頭がすっかり剃《そ》られていることには気がついていなかった。
体のあちこちをベッドにくくりつけられているから動けないのだ、と鮎太は考えた。だが実はその考えが正しくないことをなんとなく感じとっていた。何かで固定されているから動けないというよりは、自分の手足の動かし方を忘れてしまったような不思議な感覚があったのだ。そのため、動けるような気がしなかった。
ためしに鮎太は、点滴を入れられていない左腕を動かしてみようと思った。だが、力の入れ方がわからなかった。眼球を動かして視野の隅に自分の左腕を捉えてはいるのだが、そこと自分の意識との連絡がついていないような感じだった。
鮎太は左手の指を動かしてみようとした。だが、指はピクリとも動かなかった。
足のほうに意識を集中させてみる。だが、自分の体にちゃんと足がついているという実感すら持てなかった。あなたの足は切断されていて、もうないのです、と言われたら、納得してそれを信じてしまうかもしれないほど、下半身の存在がうつろなものになっていた。
おれはどうなってしまったんだろう、と考えているうちに不安が込みあげてきた。なぜこんなところにいるのだ。ここはどこだ。
そう考えていた時、ベッドを囲むように張られていた白いカーテンを引き開ける、シャッという音がして、鮎太は音のほうへ眼球を動かした。
ベージュ色のカーディガンを着た背の低い女性が、まずピッピッと音を発しながら何かの数値や図形を表示している装置を確認するように見た。それから、コインランドリーで洗濯してきたらしきタオルをビニール袋から出してたたみ、小テーブルの上に置いた。
そうしてから、ふと鮎太の顔のほうを見た。万が一の奇跡を期待するかのような様子で。
その女性の顔に、あふれ返る感情が劇的に浮かびあがった。
鮎太はその顔を見分けた。記憶の中にあるその人の顔よりも、数歳も老けて見えることに衝撃を受けながら。
その人は、顔を近づけて鮎太の目を見た。そして、興奮をつとめておさえるように、ささやくような声で言った。
「気がついたの? わかってるの?」
それは郷里に暮らしているはずの鮎太の母の声だった。鮎太は答えた。
「来てくれたの?」
不自由さを感じながらも、言葉を発することはできた。
2
鮎太は開頭手術を受けていたのだった。頭を剃られていたのはそのせいだ。
賊は逃げようとして必死で、拳銃を発砲した。その弾丸は鮎太の額と頭頂の真ん中あたりをかすめた。
弾丸が脳に撃ち込まれたのであれば、即死していただろう。そうではなくて、頭をかすめて頭蓋骨を一部砕いただけですんだのだから、ある意味、運がよかったのだと言えなくもない。
しかし、決して軽傷ではなかった。砕けた骨の破片が、脳にいくつか傷をつけ、圧迫していた。かなりの出血があり、凝固した血の塊も脳を圧迫した。
病院に運び込まれるまでに長時間放置されていたら、鮎太は死んでいたかもしれなかった。会社に残っていた土屋が、なかなか無線の連絡が入らないのを心配してくれたおかげで助かったのだった。出先から戻ってきた警備班の者に、念のためにこの会社へ行って様子を見てきてくれと命じたのだ。警備班の男は血を流して倒れている鮎太を発見し、すぐに一一九番通報をした。
救急車でこの病院に運ばれた時、鮎太は意識を失っていて、ただちに開頭手術が行われたのだ。砕けた骨片が取り除かれ、血の塊も可能な限り除去された。人工骨が小さなボルトでとめられ、傷口はふさがれた。
そして丸四日間、意識を失っていたのである。脳の損傷はゼロだったわけではなかった。
医者が、状況を説明してくれた。鮎太はその話を理解することができ、質問をはさむこともできた。
「手足が動かせないんですが、これはもう治りませんか」
と鮎太は聞いた。さすがに表情が暗かった。
「頭頂に近い大脳の前頭葉の、運動の統合を司《つかさど》る運動前野という部分を傷つけたのですから、いくらか運動障害が出ることは避けられません。荒木さんの事故のケースで、それだけですんだのは幸運だったと言っていいぐらいですよ」
「そうですか。しかしもう、歩くことはできなくなったわけですね」
「いや、そうじゃありません。今は脳の一部分が傷ついているせいで運動障害があるわけですが、リハビリによって機能を取り戻すことが可能であろうと思います。つまり、脳の傷ついていない部分が、学習と訓練をすることによって、新たに運動制御能力を身につけるんです。人間の脳というのは、そんな素晴らしい回復力を持っていることが、医学の目覚ましい進歩によってわかってきているんですよ」
それを聞いた鮎太は目にバキバキと音を発しそうなくらい力を込めた。
リハビリをすればまた歩けるようになる、というのが鮎太には、天のさしだしてくれた希望のように思えたのだ。希望があることほどうれしいことはなかった。
脳の一部分が傷つき、運動をうまくコントロールできなくなっている。しかし、それでも意欲を持って体を動かしていれば、脳の機能は少しずつ回復するのだ。そして、回復不能な場合でも、脳のほかの部分が学習によって新しい制御能力を持つようになり、代替えの働きをするようになるのだ。
ならば、やろう、と鮎太は思った。前向きな思考の男である。リハビリでまた歩けるようになるでしょうと医者に言われたその瞬間に、もう歩けるようになった自分を想像することができた。
医者の説明を聞いた日の午後、病院に桜田ナオが来た。ナオは鮎太の母から携帯で鮎太の意識が戻ったことを知らされていて、躍り跳ねるように病室に入ってきた。そして目覚めている鮎太を見て、本当だ、意識がある、と叫んだ。
ナオは鮎太の左手をさすりながら、生きてる、生きてる、と言って泣いた。
「なんで泣くんだよ」
と鮎太は言った。
「だって、うれしいんだもん。もしかしたら荒木さん死んじゃうんじゃないかって、何度も吐いちゃうほど心配だったんだもん」
さすがに胸につまるものがあった。だからこう言った。
「心配かけてごめんね」
「私は、荒木さんがちゃんと戻ってくるように祈ってただけ。だって、私がおかしくなった時には荒木さんが治してくれたんだもん。今度は私が、荒木さんのために祈る番だと思ったんだよ」
鮎太が完全に意識を取り戻していると確認してから、ナオはつるまる食堂のバイトのために帰っていった。
ナオが帰ってから、鮎太の母はこういうことを教えてくれた。
「あんたが入院した夜が明けて、その日の一番の新幹線で私はここへ駆けつけたの」
「誰が報せたの?」
「会社から私に電話がかかってきたのよ。もうびっくりしちゃって飛んできたの」
鮎太には父親も兄弟もいなくて、保険の外交員をしている母を一人、郷里の新潟に残してきているのだった。
「それでお昼すぎになってからね、ふとあんたの携帯を見たのよ。そうしたらあのナオちゃんっていう子から、メールが何通も届いてるじゃない。悪いけどそのうちの一通を見てみたら、どうしちゃったの、なんで返事くれないの、というようなことが書いてあったから、返信したの。私は荒木鮎太の母ですが、鮎太は事故にあって入院していますって。そうしたらすぐに、どこの病院ですか、という返事がきて、ここのことを教えたの」
「そうか」
「それからあの子、毎日来てくれてね、食堂のアルバイトはお客の多い夕方から夜にかけてだけにしてもらって、昼間はここで、ずっと眠ったままのあんたのことを見ていたんだよ」
「邪魔だったんじゃないの」
「そんなことないよ。コインランドリーで洗濯してきてくれたり、私が食事に出る間、代わりにあんたを見ててくれたりして、助かったんだから」
「そうか」
と言って鮎太は目を閉じた。鮎太には、おれは生きているんだ、という喜びがうずうずと体内にあった。その喜びが、ナオのことをこの上なく温かいものとして受け入れていた。
鮎太の母はふとこんなことを言った。
「でもあの子、意識のないあんたを見てて、一度も泣いたことなんてなかったんだよ。それなのに、今日はあんなに大泣きしちゃって」
そのナオの涙はおれにとって、何よりもうれしいものなのかもしれない、と鮎太は思った。
3
聞かされて、あまりに意外なのですぐには信じられないような気がしたのが、鮎太を撃った犯人のことだった。犯人は、消費者金融のオフィスで鮎太を撃って逃走した後、すぐその翌日には逮捕されたのだそうだ。街中で警察官に職務質問をされ、挙動が不審なので交番へ同行させられ、拳銃を所持していることがわかって緊急逮捕された。調べていくうちに、鮎太の爪にひっかかっていた繊維が、その男のズボンの繊維と一致し、さらに現場に残された銃弾がその拳銃から発射されたものと特定され、犯行を認めたそうだ。
そういうわけで、鮎太を撃った犯人はもう留置場にいて警察の取り調べを受けている。事件は既に解決していると言えるのだ。
警察から人が来て、鮎太の話を聞くということがあった。あの夜のことを、詳しく説明した。
だが、そうしながら鮎太は不思議な気分を味わった。あの夜のことは、本当にあったことなのか、それとも夢の中のことだったのか、自分にもよくわからないような気がするのだ。
なぜそのオフィスへ行き、逃げようとする侵入者を捕まえようとし、どう撃たれたのかを話すことはできる。ほかに目撃者がいないのだから、それは貴重な証言であろう。
しかし、鮎太の頭の中では、その夜の事件と、今ベッドに横たわっている自分とがつながっている実感がないのだった。あの時、頭を撃たれたことと、こうして立ちあがれない体になってベッドに寝ているというのは、まるで別の事態であって関係していないような気がするのだった。それは不合理な感じ方だとわかってはいたが、それが実感なのだ。あのように撃たれたせいでこうなった、というよりは、ひょんなことから自分の人生が次のステップへ進んだのだ、というような感じがしてならなかった。
鮎太は自分を撃った犯人についてほとんど興味を持たなかった。
東門セキュリティーからも見舞い客は来た。土屋と営業部長が顔を揃えてやってきて、鮎太の意識が正常なことを喜んでくれた。
「時間は少しかかるかもしれないが、おそらく回復できるだろうという病院側の説明を聞いて、心から喜んでいるんだよ」
と営業部長は言った。土屋も、
「とにかく、よかった」
と笑顔で言った。
鮎太は少し考えてこう言った。
「あの日、私がとった行動は、少し不用意で間違っていたような気がします」
「そんなことはない。きみは任務を正しくはたしたんだ」
部長は断定的にそう言った。
「だから何も心配することはないんだよ。これは労災であり、会社がきみの世話を全面的に見る」
あの事件を大袈裟なものにせず、無事に収束したということにして会社の信用を守りたいのだろうか、と鮎太は思った。
それとも、企業グループの総帥の友人だから、特別待遇にしてくれるのか。
しかし、ベッドからおきあがれない鮎太にはそのあたりのことを考えていくのがひどく重荷で、つきつめて考えられなかった。
会社はおれが死ななかったことを喜んでいて、労災ということで治療費などは持つし、給与も出すと言っているのだ。そいつはありがたい、とのみ考えよう。
「リハビリを頑張ります」
と鮎太は言った。
「うん、そうしてくれ。そして完全によくなって、必ず職場に復帰してくれたまえ」
部長は本気でそれを願っている顔で熱っぽくそう言った。
そうしよう、と鮎太は思う。会社もそれを願っているようだし、おれも心からそうありたいと思っている。おれは生きているのだ。生きているのなら、回復を願わなければならない。
会社からの見舞いがあった次の日に、鮎太がいちばん会いたかった男が見舞いに来てくれた。まだ鮎太の意識がない時に、二度も足を運んでくれたということは母親から聞いていたが、意識が戻ってからは初めてだ。大道寺薫だった。
病室に入ってきた大道寺を見て、懐かしさに顔がほころぶと同時に、鮎太はふと心配にもなった。大道寺がかなり痩せてしまって、顔色も悪いことに気がついたのだ。
4
「あなたのことだもの、絶対に生きのびてケロリと治ってみせるだろうとは思っていたんだけどね。でも、心がスッキリと晴れることはずっとなかったわ」
大道寺は強いて乱暴な口調でそう言った。
鮎太はその口調の中に、むしろこの上ない友情を感じた。本当に心配をかけてしまったのだ、ということを痛いほど感じた。
だが鮎太が言ったのはこういうことだった。
「お前、またそのしゃべり方にしたのか」
大道寺はプンとむくれた顔をした。
「いいじゃない、ここにはあなたしかいないんだもの。私、ふたつの言葉をつかい分けることにしたの。会社では少し優しいかもしれないけど紳士的な言葉でしゃべるようにしているわ。でもそれだけだと肩が凝ってしょうがないの。だから気を許してもいいところでは、以前のしゃべり方をするようにしてるの」
「うん。そのほうが本当のお前だって気がして、落ちつくよ」
「本当の私ってどういうものなのかしらね。この頃、私、それがわかんなくなっちゃっているんだけど」
「本当のお前は、親父さんが亡くなる前の、自由に生きてたお前だよ。そこから、あまりにも大きく状況が変わっちゃって、お前はまだ自分本来のペースを取り戻せてないんだよ」
「やだ。何よ、そのわかったような口ぶりは。鮎太ちゃんは頭に大怪我をして、人が変わっちゃったの? それともそれも怪我の後遺症なの?」
「後遺症は手足の運動障害だけで、頭の中はすっかり元どおりだぜ」
大道寺は自分の傷口に触れられたかのように、ピクンと眉を動かした。
「その後遺症だけど、どんな見通しなの? どのくらい希望が持てるの? ごめんなさい、私、気配りのないことを聞いているのかもしれないんだけど」
そう、これが大道寺のしゃべり方なんだよな、と鮎太は思った。友人の後遺症についてものすごく心配しているのに、そのことをズケズケと聞いては相手が傷つくかもしれない、と考えてしまい、もの言いが逃げ腰になるのだ。なんという細かな神経だろう、と思ってしまう。
「運動障害はリハビリによって改善されるだろう、というのが医者の見解だよ。つまり、つらいリハビリを真面目にやれば、また歩けるようになるし、手も動くようになるだろうと言われているんだ」
「それ、信じていいのね」
「信じさせてもらうよ。おれはリハビリをちゃんとやって、必ずカムバックするぜ。そう心に決めてるんだ」
「うん。私、ちゃんと見てるわ」
そう言った大道寺は、ほんの一瞬だが、顔をくしゃくしゃにして泣きそうになった。
「見ててくれよ。おれ、かなりやる気になっているんだ」
大道寺はニッと笑い、それからこう言った。
「私が紹介したせいで、あなたはあの会社に入ったわけじゃない。だからこんなことになったんだって、私、責任を感じてんの」
「お前は関係ないよ。そんなのめちゃめちゃな考え方じゃないか。おれは職を失って困ってた。そこでお前が就職の道を見つけてくれた。それは大いに感謝すべきことだよ。その会社でおれがドジやって怪我したのはまったく別の話だ。それは絶対にお前のせいじゃない」
「そう思ってくれる?」
「そうなんだから、そう思うよ。今度のことは、いつものおれの運の悪さなんだよ」
大道寺は、違うんだと言うように首を横に振った。
「それはもうやめましょう。私、あなたのことを運が悪い人だって言うのをやめる。これまではそうだったかもしれないけど、今度の怪我でそれはもうピークに達したのよ。あなたはこの先もう、運の悪いことには絶対に巻き込まれないのよ。その悪運はもう出つくしてしまったの」
「うん。おれの運の悪さなんて大したものじゃないんだよな。だって至近距離からピストルで撃たれたって生きてるんだぜ。とんでもない強運だとも言えるんだよ」
大道寺は素直にうなずいた。そして急に口調を変えて言った。
「前回、私がここへお見舞いに来た時、あのミニスカうさちゃんが来てたけど、あの子は今も来るの?」
「うん。毎日顔を出して、いろいろと力になってくれる。ベッドから上体をおこしてくれたり、プリンを買ってきてくれたり、いろいろだ」
「あの子、あなたのことを頼っているのよね。だからどうしてもあなたには立ち直ってほしいのよ。そうでないと自分が心細いから。だからあなたは、あの子のためにも元どおり元気にならなきゃいけないのよ」
「頑張るよ」
鮎太は心の底からそう願って言った。そして、話題を変える。
「ところで、お前のほうはどうなっているんだよ。いろいろと、悩んじゃうようなことがあるんじゃないのか」
大道寺は鮎太の顔をほんの数秒間じっと見つめたが、ふいにニッと笑って言った。
「バカねえ」
「なんでだよ」
「どう考えても、今のあなたには私の心配をしてる余裕はないはずよ。まず自分が立ち直ることだけを考えなさい。あなたが完全に元に戻ったら、その時はいろいろ相談にものってもらうから」
「そうか。そうだな。まず自分のことをちゃんとやれってわけだ。そのとおりだろうな」
二人は目と目を合わせてうなずき合った。
5
鮎太の運動障害は、まず、手のほうから回復していった。だんだんに、手が自分の体についているという実感を取り戻してきたのだ。少しずつ、指を動かせるようになってきた。腕も折り曲げられるようになってきた。
頭を包んでいる包帯がだんだん小さくなり、ガーゼを、ネット製のキャップのようなものでとめておけばいいようになった頃には、鮎太は手にスプーンを持って、自分で食事がとれるようになった。初めのうちは、食事の半分くらいをボロボロこぼしたが、それがスープをこぼさずに飲むことができるようになってくる。まだ指の曲げ方が変で、チンパンジーがスプーンを使っているようなおかしなかたちにはなるのだが、自分で食べられることはうれしかった。
そこまでくると、尿道カテーテルは外されて、トイレに行けるようになる。まだ足の動きは不完全なので、母親や、看護師や、時にはナオの手を借りて車椅子に移され、それを押してもらってトイレに行くのだ。リハビリのために、自分でも車椅子をころがして進めるように努力してみた。リハビリを始めるのは早ければ早いほど効果が期待できるのだ。
年が変わって、鮎太は病棟を移された。それはつまり、頭部の治療は完了したということであった。交通事故にあった人が多く集まっている病棟に移って、本格的なリハビリのための入院生活になったのだ。
鮎太の頭に髪が生えてきて、スポーツマンふうのショートヘアになってきた。額と頭頂の真ん中あたりに、直径四センチ大の禿があるのだったが。
鮎太はリハビリに全力で取り組んだ。それはうめき声がもれるほど厳しいものではあったが。
車椅子から、脇の下に手を添えられて立ちあがらせてもらう。だが、その姿勢になってはみたものの、足と脳に連絡がついていないのだ。自分の足がどこにあるのかもわからないような気がするのだから、足に力が入るわけもない。体を支えてくれているインストラクターが手をはなしたら、ストンと尻をついてしまいそうになる。場合によっては前に倒れそうになり、インストラクターに抱きかかえられる。
だが、とりあえず立ってみることを、そして一歩でも前に出ようとすることを、何度でも試してみるしかないのだ。
最初の一週間は支えなしで立てるようになるだけで精一杯だった。だが、次の週の初日に鮎太は、とりあえずヨロッと一歩だけ足を前に出して、倒れずにすんだ。倒れそうになったのだが横木に掴まって耐えたのだ。
それが、歩けるようになるための最初の一歩だった。
赤ん坊が立ちあがれるようになり、ついに歩けるようになるのととてもよく似ている、と鮎太は思った。つまり、学習によって脳の中に、歩く能力を育てていく、という感じなのだ。倒れそうになったとしても、そのことが経験になって、歩く能力が育っていく。
歩くためのリハビリをしていくうちに、まるでそのことの副次的効果のように、手のほうの運動能力が戻っていった。倒れないですむように横木に掴まって体を支える必要があり、それがどんどんうまくできるようになっていったのだ。やがて鮎太は箸を使って食事がとれるようになった。
リハビリは、忍耐力との勝負だった。足を一歩前へ出そうとしても、なぜすっと出ないんだと頭の中ではじれったくてたまらないのである。でもとにかく、集中して足を前に出す。それがうまくいったと思った瞬間、バランスを失って倒れかかる。必死で横木に掴まって倒れないようにするが、たまには膝からくずれてしまうこともあった。
三十分もリハビリのための運動を続けていると、全身が汗みずくとなり、鼻の頭や顎《あご》から汗がしたたり落ちる。でもそこで終わってしまってはいけない。あと三十分は同じことを頑張るしかないのだ。
二月の半ばまで、鮎太は入院していた。そしてついに、よろよろと十歩ばかり歩けるようになり、杖《つえ》をついてならその数倍は自分の力だけで進めるようになったのである。
二月の十八日に、鮎太は退院した。まだリハビリを続ける必要はあるのだが、もう入院している必要はない、ということになったのである。この先は、週に二回リハビリに通えばいいのだ。
車椅子と杖の力を借りてだが、鮎太はなんとか自分の力で移動のできる体になって、あのアパートに戻った。まだしばらくは母親が一緒に住んでくれる。母親が家に帰る必要がある時は、その妹の叔母が顔を出してくれるのだった。
懐かしいアパートに帰った時、鮎太は心の底から、おれは生還したのだ、と実感した。
6
三月に入った頃には、杖なしで歩けるようになった。だが、まだ走ることはできない。走れなくてはセキュリティー会社の仕事に復帰できるはずもなく、まだ数ヵ月は、リハビリのために病院へ通うことになるのだ。そうやってじりじりと、元の体に戻すしかない。
日曜日のことだった。鮎太はアパートの近くの道を歩いていた。その鮎太を見守るようにしながら、ナオが自転車を手で押してついてきた。
「あと二十メートルぐらいだけど、行ける?」
とナオは聞いた。
「大丈夫だよ。今日は調子がいい」
アパートの近くの、そう大きくない公園を目指しているのだった。そこへ行きたいんだけど、ついてきてくれるかい、と鮎太は頼んだのだ。
ナオは鮎太の退院後も、しばしば様子を見にきてくれるのだ。そのほかに、メールのやりとりも頻繁になった。ナオからのメールに力づけられることが多かった。そして、返信のメールを作成することは、鮎太の指の機能のリハビリにもなっていた。
やがて二人は目当ての公園に着いた。
「よし、ここだよ」
と鮎太は言った。
「ここなら通行人とかいなくて危なくないもんね」
とナオは言って、あらためて鮎太の全身を見た。
「でも、その格好、チョー決まってんね」
とうれしそうにナオは言う。
鮎太はツーリング用の、体にぴったりと張りついたウエアを着ていた。光沢のある化学繊維製のジャージで、パンツは七分丈だった。上下とも黒が基調で、そこにブルーとイエローの矢印がついていた。そして頭にはロードレーサー用のヘルメットをかぶっていた。
「じゃ、とにかく試してみよう」
そう言って、鮎太はナオが押してきてくれた自転車のハンドルに手をかけた。それは、ツーリング用の自転車だった。
「大丈夫かなあ」
「初めはうまくいかないかもしれない。でも、これは絶対にいいリハビリになると思うんだ」
鮎太は自転車を趣味にしてきた男である。学生の頃には、全国各地をツーリングで回ったものだ。この何年間かは、自転車を楽しんでいるゆとりもなくて、アパートの趣味の部屋に置いてあるだけだったが、それを久しぶりに持ちだしたのである。
鮎太は自転車のサドルに尻を乗っけた。ナオが後方で自転車の後部を支えてくれる。子供が親に自転車の後部を支えてもらって練習するようなかたちだ。
「じゃ、行くよ」と鮎太は号令をかけるように言った。
「うん」
ペダルにかけている足に力を入れ、ゆっくりと漕《こ》いでみた。足がとまどっているのが、ビンビンと伝わってきた。この頃ようやく歩き方を思いだした足が、自転車の漕ぎ方はまだわからなくて、動きたがらないという感じだ。
ハンドル部分がグラグラと左右に動いてしまう。つまり、大いによろけて進むということだ。鮎太はペダルを漕ぐ足に力を入れた。そうしたら、足先がペダルから外れてしまい、クランクが勢いよく空回りした。
「あ、あ、あー」
ナオが悲鳴のような声をあげた。自転車が大きく傾くのを、手の力では支えきれなくなったのだ。
あっ、と思った時には自転車が横倒しになり、ナオまで巻き込んで二人で地面に倒れた。ナオはそれほどダメージを受けていなかったが、鮎太は顔から地面に打ちつけられ、おまけに体の上に自転車がのしかかっていた。
「わーっ!」
とナオが叫んだ。
鮎太は自分の脚の上に倒れている自転車を手で押しのけ、顔をあげた。頭はヘルメットで守られていたが、そのほおには傷ができて、血が流れだしていた。
「うわっ、痛そー」
とナオは泣きそうな声で言った。
だが、鮎太はうれしそうに笑っていた。自転車の楽しさが、大いなる感激とともに思いだされたのだ。
「ころぶのも自転車の面白さのうちだよ。やっぱりこれ、ものすごくいいリハビリになるよ」
ひたすら楽観的にそう言って、笑っている鮎太だった。
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第11章 とにかく生きようよ
1
時は流れ、もう五月になっていた。鮎太が消費者金融の会社に侵入した賊に拳銃で撃たれてから、半年がたったのだ。
鮎太はとっくに車椅子も杖も使わずに歩くことができていたが、歩くとどうしても頭が左右に揺れてしまうのだった。右脚と左脚の力のバランスが狂っているからである。そして、左手の握力が右手の半分くらいしかないのだ。そんな状態なので、まだ週に二回リハビリのために病院へ通っていた。そして、それ以外の日も自分でいろいろ工夫してリハビリのための運動をしていた。
プールに入ってクロールで泳いでみると、どうしてもまっすぐ進めず、左へ曲がってしまうのだった。何度も何度もトライして、この頃ようやく曲がる角度が小さくなってきた。左腕が筋力を取り戻してきたということだ。だがまだ事故前の肉体には戻っていない。焦らずにリハビリを続けるしかなかった。
毎日、公園を自転車で走っている。一日に三十分は走るようにしていた。自転車でころぶことはもうなくなっていた。
その日の夕方、鮎太はリハビリのための走行を終えて、アパートに戻ってきた。途中の持ち帰り寿司店で上寿司をふたつ買ってきている。インスタントの澄まし汁をつくって夕食にするつもりだった。
鮎太の母は三月いっぱいまでいてくれたが、四月早々に新潟へ帰っていった。仕事もあるから、それからは日曜日ごとに来て掃除や洗濯をする、というやり方にしたのだ。もともと独り暮らしをしていた鮎太だから、歩けるようになれば簡単な食事くらいはつくって食べることができた。つくるのが面倒なら、コンビニの弁当という手もある。つるまる食堂まで歩いていくのもリハビリになるってものだった。
つるまる食堂へ行けばナオと会うことになるが、このひと月ばかり、ナオの様子が少し変わってきていた。顔を合わせれば、体調はどうだとか、何か不便で困っていることはないかなどと聞いてくるのだが、その様子がなんだか遠慮がちなのである。
鮎太が意識不明で病院のベッドに寝たきりだった時にはナオは毎日、病院に顔を出した。意識が戻ってからも、手足が満足に動かない頃は、顔を出しては何くれとなく手伝いをしてくれた。退院しても、リハビリの手助けをしてくれたりした。
それが、人の手を借りなくても鮎太が歩けるようになり、精力的に自転車でリハビリをするようになった頃から、週に一度くらいしか顔を見せなくなった。
「荒木さん、もう大丈夫だよね」
とナオが言ったことがある。鮎太の母が新潟へ帰った頃のことだ。そう言ってから、もう私のやることはなくなったとでもいうように、あまりかかわってこなくなった。つるまる食堂でのアルバイトもフルタイムに戻したようである。
そのことを鮎太は少し心寂しく思ったが、次第になんでも自分の手でできるようになってきて、もう誰かに助けてもらう必要もないわけか、と考えた。そうなってもナオに優しくしてほしいのは甘えというものだ、と思った。力になってもらったことには感謝し、これ以上甘えてはいけない、と心を整理した。
リハビリを頑張って、体を元に戻そうとすることのとりあえずの目標は、会社に復帰することである。今現在も会社は給料をくれているわけであり、それは、復帰して働かなければならないということだった。
アパートの前に自転車を停めていたら、鮎太の横に無言で人が立った。いぶかるように首をひねって、立っている男の顔を見た。
知らない人間だ、と一度は思った。異様にやつれた感じの男が、なんだかすがるような目つきで鮎太を見つめていた。
「あの……」
と男が言った。思いきって声をかけてみたという感じだった。
「久しぶり……」
その瞬間に、男が誰なのかわかった。以前とは印象が大きく変わってしまっていたが、声の調子が確かに知っている男のものだったのだ。
「きみは、東か?」
「そうだ。見違えたかい」
見違えるのも無理はなかった。十キロぐらいは痩せて見えた。そして、ほおから顎、そして口のまわりに無精髭《ぶしょうひげ》を生やしていた。
エリート・サラリーマンだった自信家の東昌之とは、まるで感じが違ってしまっていた。
「どうしたんだ。報道カメラマンになって外国へ行ってたんじゃないのか」
「一週間前に帰国したんだよ。そして、無性にきみに会いたくなってやってきた」
東は救いを求めるような顔で鮎太を見た。
2
「事件に巻き込まれて怪我をしたんだそうだね。もう大丈夫なのかい」
誰から聞いたのか、東はそう言った。発砲事件のことは新聞でも報道されたから、知っていても不思議ではないのだが。
「まだちょっと運動障害があるんで、リハビリを頑張ってるところだよ。でも、だいぶよくなってきた」
鮎太はこのところただリハビリだけの日々を送っていて、少し人恋しくなっていた。そこで、こういう言葉が口から出た。
「どこかでめしでも食うかい」
買ってきた寿司は冷蔵庫に入れておけば、夜食とか明日の朝食になるだろう、と考えたのだ。
だが東はこう言った。
「それよりも、きみの部屋で話せないかな。いろいろあって、人ごみの中だと落ちつかない精神状態なんだよ」
それならばと、東を自室へ招待した。この男はなんだか以前とは別人のようになっているという気がして、好奇心を刺激されたのだ。
上寿司をふたつ買ってきていたのが好都合だった。鮎太はお茶をいれ、寿司折りをひとつ東に出した。
「食いながら話そうぜ」
「ありがとう」
とは言ったが、東はあまり食欲のなさそうな様子で、玉子やガリをちびちびとつまむだけだった。鮎太は自分のぶんをうまそうに平らげた。
「どこへ行っていたんだい。報道写真を撮るためには、危ないところへ行かなきゃいけないんだろう」
「アフガニスタンに行ってたんだ。パキスタンから入って、北部のマザリシャリフあたりにいた」
「アフガニスタンか。あそこはまだ紛争が続いているのかい」
「表面上はアメリカ軍が制圧していて、タリバンなどのゲリラ活動は収まっている。だけど、反政府組織はあって、あちこちで小さな事件が頻発しているんだ。警察署が襲撃されたりね」
「なるほど。そういう写真を撮るわけか」
「なかなか臨場感のある写真は撮れないよ。三日前に爆破された小学校の写真を撮る、というようなことしかできない。ホームレスの子供の写真を撮るとか」
「それでも、緊張感のある生活だろうな」
「うん。全身の神経がピリピリしてるような毎日だった。それで、ものがあんまり食べられないんだ」
そう言って東は、寿司の中のまぐろを箸で示した。
「まぐろは食べられないんだ。食べてくれないかい」
「アフガニスタンにいたんなら、刺身が恋しくなりそうなものなのに」
と言って、鮎太はまぐろの握りを食べた。
「以前はまぐろは好物だったんだよ。でも、今はその赤い色がダメなんだ。血を流している肉に見えてしまって」
つまり、そういう流血のシーンを目撃したってことなのか、と鮎太は思った。それでこの男はなんだか印象が重苦しくなっているのか。
「写真には自信があるって言っただろ。絶対にいいスクープ写真を撮ってみせるって」
「うん。やる気まんまんだったよ」
「ところが、ダメなんだよね。どうしてもいい写真が撮れないんだ。通信社に、いくら画像データを送っても採用されないんだよ。こんなのどかな写真じゃ使いものにならないって言われて」
「のどか?」
「砲撃されて天井がなくなっている小学校での授業風景を撮った写真を送ったらそう言われた。そこが砲撃されてる時の写真でなきゃしょうがないってわけだよ」
「そんな写真はそう簡単には撮れないだろう」
「ところが、撮れる奴がいるんだよ。現地でいろんな国の戦場カメラマンと知り合ったんだけど、すごい写真を撮る奴が確かにいるんだ。そういう奴は人間というよりも、戦場の機材みたいな印象だったよ。考える前に、危険の匂いみたいなものに体が反応して撮影ポイントへ行っているんだ。これが一流だってことかと思った」
「そうか。そういういろんな人との出会いもあったんだ」
「そういう奴の真似をして毎晩酒を飲んだりしてみたよ。マリファナも吸ったし、覚醒剤もやった。そうやってなるべく自分をむちゃくちゃな状況に追い込むんだ」
「そういうのも、いい写真のためか?」
「あの時はそう思ってたんだ。自分を一流のカメラマンにするんだって、がむしゃらな気分だった。だけど、おれは一流のカメラマンにはなれないってことがわかってしまったんだよ」
東はうなだれて、泣きそうな声でそう言った。
3
「その日、反政府組織の本拠地があるっていう小さな村へ行ったんだ。親しくなったフランス人のカメラマンと二人で。反政府組織には話がつけてあって、代表者を英語でインタビューしたよ。それからその代表者の写真や銃なんかの武器の写真を撮った。彼らの反政府ビラなんかも撮影して、迫真の写真が撮れたと思ったよ。今度こそ通信社に採用してもらえるかもしれない、と思ったね」
東は何かに衝《つ》き動かされるように熱っぽく語った。今日ここへ来たのは、その話をするためのようだった。
「それで取材が終わったんだけど、リュカというそのカメラマンは、まだこれだけでは不十分だと言うんだよ。このあたりに隠れてこのあとの様子をうかがおうと言うんだ。そうすれば反政府組織に動きがあって、いい写真が撮れるかもしれないってわけだよ。その時、このねばりがおれにはなかった、というショックを受けたね。一流の人間はそこまでやるんだ、と感じて、もちろん彼の言うとおりにしたよ。一度、車に乗って帰ったように見せかけておいて、十分後にそこに戻ったんだ。そして、アジトのある場所の、脇にあった林の中に入っていった」
「誰にも見つからなかったのかい」
「人の目が多いところではなかったからね。林の中に車を隠して、二人でアジトの小屋を側面から見張れるところへ進んだよ。そこから武装した兵士たちがどこかへ行くために出てきたりしたら、ばっちり撮影しようという考えだった。だけど、その前に爆発があったんだ」
「爆発?」
「リュカが、地雷を踏んだんだよ。右脚の膝から下が血だらけになって倒れていた」
「そうか。あの国にはまだ地雷がいっぱい埋まっているんだ」
東はそれには答えず、両手で顔をおおっていた。
「恐怖で体を動かすことができなかった。もちろん、倒れているリュカの写真を撮ろうという考えもおきない」
「そういう時に写真なんか撮っていられるものじゃないだろう」
「いや、真のカメラマンなら撮るんだと思う。でもおれは、カメラのことなんかすっかり忘れてた。それよりも、恐怖で一歩も動けないんだ。心臓が口から飛びだしそうな気がして、全身がガタガタ震えたよ。自分がそこにいるってことをただひたすら後悔した」
「そういうものかもしれないな」
「違うんだよ。本当の戦場カメラマンなら、あんなふうに震えはしないんだ。つまりおれはカメラマンじゃなかったってことだ」
「それが普通の人間だよ」
「動けないんだ。どこかに地雷が埋まっているかもしれなくて、一歩を踏みだせない。自分たちが歩いてきたコースはだいたいわかっているから、そこを戻ればいいんだと思うんだが、最初の一歩がこわいんだよ。踏みだしたら、ドカンと音がして足がなくなるんだっていう気がした」
「そうだろうな」
「それで、おれはついに、倒れているリュカの背中に足をのっけたんだよ。リュカの体の上を踏んで、安全そうなところへ跳んだんだ。重傷を負って倒れている人間を足で踏みつけたんだ」
東は今まさに同じ体験をしているかのように小さく震えていた。鮎太にはかける言葉が思い浮かばなかった。
「爆発音を聞いてアジトから出てきた人間に何があったかを話して、リュカは助けられたよ。右脚のくるぶしから下を失ったけど、命は助かった。だけど、おれはもうカメラマンじゃなくなってたんだ。もう報道写真を撮るどころじゃなかった。こんなところにはいられないと、怯じ気づいてしまったんだよ。日本へ帰りたいということしか考えられなくなってしまった」
「それで、帰ってきたのか」
「そうだ。一流の報道カメラマンになるという夢は、現実の前で消えてしまったのさ。おれはそういう能力を持った人間ではなかった。才能を人に認められることなんか、絶対にないんだってわかったんだ。もう、あんな国にいる理由はなくなってた」
東は顔から手をはなし、首をもたげて言った。
「おれには何もできないって、証明されてしまったんだよ」
「そんなふうに考えるのはおかしいよ」
と鮎太は言った。それは友人に対する時の口調だった。
4
寿司を片づけて、焼酎のボトルを出した。それを水割りでゆっくり飲む。東にも同じものをすすめた。
話をたたみ込まないように注意した。まずは東にしゃべらせた。フランス人のカメラマンがどうなったかを聞き、その後も会話をしたのかどうか聞いた。そのカメラマンはあの時、自分が踏みつけられたことは知らず、義足になってもカメラマンを続けると意欲的に言ったそうだ。
どうやって帰国したのかも聞いた。あの日以来、マリファナも覚醒剤も一度もやってない、ということも聞いた。
「ダメだったんだ。おれにはカメラマンになる能力なんてなかったんだ」
同じことを何度も言う東に、鮎太は静かな口調で語りかけた。
「どうしてそんなに一番になりたいんだろうな」
「おれがか?」
「そうだよ。きみは一番になることだけを望んで生きてるじゃないか。何がやりたいか、じゃなくて、何をやれば他人に認められ、賞賛されるか、という理由で生き方を選んでいるだろう。写真が好きだから報道カメラマンになる、という考え方じゃなくて、それなら一流だと認められるかもしれないから、そっちへ進んだんだ。そういうふうに、いつも、それなら勝てる、一番になれる、ということを追い求めて生きてる。IT企業にいたのだって、コンピュータが好きだったからではなくて、そこなら時流に合った人気業種で、人も賞賛するという理由からだったんじゃないのかい。そして、そこでうまく出世できないと、もういたくなくなってしまうんだ。どうしてエリートでなきゃ生きてても意味がないなんて思うんだよ」
「おれはずっと勝ってきた」
「そんなの、学生の時のことだろう。その結末はいい大学に入れた、ぐらいのことだ。人生で、あらゆることに全部勝つなんてことはないんだよ。一番になりたいと願うのはいいことかもしれないが、一番じゃなきゃ受け入れられないというのは、生きにくくなるだけだよ。そんなふうに思うんじゃなくて、自分らしく生きてそれで満足だっていう生き方もあると思うよ」
話はそんなふうに、スムーズに流れたわけではなかった。酒を飲みながら、行きつ戻りつしながら、時には酔って少しくどくなったりして、一時間ぐらいしゃべったのだ。東がムキになって反論する場面もあった。
だが、鮎太がじっくりと主張したのは、ありのままに生きることにも価値はあるんじゃないか、ということだった。本来の自分をありのままに認めればいい、という考え方だ。
「きみはひとつ間違ったら死んでしまうようなところへ行って、幸いにも生きて帰ってきたんだよ。死ななくてよかったじゃないか。足をふっ飛ばされることがなくて、本当によかったよ」
「しかし、何も得られなかった」
「そうじゃなくて、生き抜いたんだよ。それがすごいことなんだ。おれも、実は死にそうになったんだよ。強盗に、頭をピストルで撃たれたんだ。銃弾が頭蓋骨をかすめただけだったので、運動障害が少し残ったけど死なずにすんだ。だけど、もしあの時ピストルの角度がもう少し頭の中心のほうに向いてたら」
鮎太は右手を頭にのばして、ピストルの角度を示してみせた。
「その時は死んでたんだよ。こうやってきみと話すことはできなかった。おれはね、今、自分が生きてることがうれしいよ。よくぞ死なずにいてくれたと、自分に感謝したい気分だ。だからこの先も生きたいと思ってる。おれが、おれとして生きてることが何よりの値打ちだっていう気がするんだ。だって、おれ以外のすべての人間が、あたり前だけど、おれじゃないんだもんな。おれにとっては、おれが生きてることが何よりなんだ。別に勝利の人生でなくたっていい。一番じゃなくたって、生きてりゃそれで満足なんだよ」
だんだん酒が回って、同じことを何度も言いすぎたかもしれない。だが、鮎太はなんとかわかってほしいと思って、真面目に話した。
「確かに、まずは生きてなくちゃ話にならないがね」
「まず生きてりゃ、それだけでも御の字なんだよ。生きてることに価値がある」
東もだんだんに反論をしなくなった。酔って考えがまとまらなくなったのかもしれないが。
十一時頃に、東は帰っていった。少なくともその時には、少し気が晴れたよ、という言葉を残した。鮎太はあらためて、とにかく無事でよかったよ、と言葉をかけた。
5
その数日後、鮎太はナオに携帯のメールを送り、つるまる食堂のバイトのあとアパートへ来てもらった。見せたいものがあると伝えてあった。
ナオはいつものミニスカート姿で、ナマ脚もまぶしくやってきた。
「見せたいものって何?」
とナオは少しとまどった声を出した。
「これだよ。見て」
そう言って鮎太は、机の上に置いてあるダンベルを指さした。それからそのダンベルを左手で持ち、下げていた腕を、ダンベルを持ったままゆっくりと持ちあげた。少し手が震えたが、ダンベルは肩の高さまで持ちあがった。
「すごいじゃん」
とナオは言ったが、まだことの意味には気がついていない。
「すごいんだよ。三日前には、このダンベルを左手で持ちあげることはできなかったんだよ。こうやって持ちあげられるところまで、左腕の力が戻ったんだ」
「あっ、そうか。リハビリやったから、そんで……」
「そう。左腕にも力が入るようになったんだ。いろいろ力になってくれたナオちゃんには、ちゃんと見せてお礼を言いたいと思ってね」
「すげーよ。お礼なんかいいよ。荒木さんが力を取り戻したのがすげーことだよ」
ナオはそう言って、手の甲で目をこすった。
「まだ完全な体に戻ったわけじゃないけど、確実に回復の方向へ向かっているよ。あと一、二ヵ月で仕事にも復帰できると思う」
「頑張ったもんね」
「みんなが支えてくれたからだよ。会社も面倒みてくれたし、おふくろにも助けられたし、ナオちゃんにもいろんなこといっぱいしてもらった」
「でも、やっぱ荒木さんは自分の力で立ち直ったんだと思う。リハビリってものすごくつらいんだって、お医者さんも言ってたもん」
「くじけて逃げだすところをナオちゃんに見られたら恥だぞ、と思ってやってきたんだよ。そういうふうに、ナオちゃんには助けてもらったんだと思う」
鮎太はダンベルを机の上に戻した。
「よかったね。本当によかったよ」
ナオは涙声でそう言った。
「だからさ、まだ全快ってわけじゃないけど、一区切りってことで、ちょっとしたお礼をしたいんだよ。今度の日曜日につき合ってくれない? ちゃんとしたレストランのフルコースでもご馳走したくてさ」
ふっ、とナオの表情が曇った。
「あっ、今度の日曜日はちょっとマジーんだ」
「そうなのか。じゃあ、いつならいいのかな」
「あのさ、その日は先に約束が入っててさ。そう大したことじゃないんだけど、約束だから守らなきゃ、って、なんか私言ってることが変だよね」
ナオはまるで何かつらいことがあるような顔になっていた。初めて見るナオの表情で、鮎太も気になった。
「てゆーか、普通にちゃんと言えばいいんだよね。隠しとくようなことじゃないんだもん」
「どういう約束があるの?」
「男と会うの。つまり、デートってわけ」
「どういう男なの?」
「どういうって、彼氏じゃん」
「彼氏がいたの?」
「最近できたのよ。彼氏ぐらいできるよ、私だって」
「それはそうかもしれないけど」
鮎太は自分がショックを受けていないことに驚いていた。心のどこかに、そんなことになるような予感があったのかもしれない。
そして鮎太は、ナオがころぶのを見ているような気持ちになった。
「彼氏って、どんな男なの?」
鮎太の頭の中で、高速度で思考が回転し始めた。ここで判断を誤ってはいけない、という気がしきりにした。
「気になるの?」
「ナオちゃんの彼氏なら、どんな奴なのかすごく気になるよ」
ナオは泣きそうな顔になった。
「だいたい想像つくでしょう。まあ、つまんない男よ」
「つまんない男なのに彼氏にしたの?」
「うん。そういうことだってよくあるじゃん。バカにはバカが寄ってくる、みたいな」
「バカな彼氏なの?」
「バカっていうか、ちょっと身勝手なタイプかな。女に金を借りるような奴よ」
「ナオちゃんはそういう相手がいいわけなの?」
「あのさ、そんな男しか寄ってこないって事情もあるわけ」
「どうもその話には賛成できないな」
と鮎太は落ちついた声で言った。
6
「なんでよー。私、これまでだってそんなような男とつき合ってきてるよ。話してて言い負けると女を叩くような男とだって、つき合ってたことあるぐらいだよ」
「その彼氏はナオちゃんを叩くの?」
「そいつはまだ叩いてこない。でも、叩くタイプかもしれないという気はする」
「ナオちゃんは、女を叩く男が好きなのかな」
「本当はそんなのいやだよ。叩かれるなんて、ゲゲゲじゃん。でも、そういう男って多いのよね。そんでまた、そんなのばっかり近づいてくるの。パチンコするのが職業だとか、仕事のないストリート・ミュージシャンとか」
「今度の彼氏もストリート・ミュージシャンなの?」
「そいつはちゃんと働いてるよ。テキ屋さんで、あちこちのお祭りで金魚すくい屋をやるんだって」
「ナオちゃんはその人が好きなの?」
「う〜ん、わかんない。彼氏がいるのはうれしいことで、いないよりいいもん。これまでだって私、いろいろと彼氏ができてつき合ってきたよ」
「いないよりはいいからという理由で、つき合うんだ」
「そうだけど、文句あるの?」
そう言うナオの目から、突然ポロリと涙がこぼれ落ちた。
鮎太は手をのばして、ナオの頭頂の髪に触った。
「ナオちゃんに文句なんか言わないよ。ナオちゃんはいい子だから」
そう言った瞬間に鮎太の心の中で、あるひとつの結論が出た。このところずっと、心の底でもやもやと考えていたことに、いきなり解答が授けられたのだ。
そうか、そういうことか、と鮎太は思った。そして、喜びが体中を駆け回った。
「私、いい子なんかじゃないよ」
「そんなことないよ。ナオちゃんはいい子だ。そのことはぼくがいちばんよく知ってる」
そう言ってから、鮎太は両手でナオの肩を掴んだ。そして、力を込めて引き寄せる。
えっ、という顔をしたナオに、鮎太はキスをした。唇で相手をしっかりと確かめる濃厚なキスだった。ナオの胴に両腕を回して、しっかりと抱きとめていた。
唇がようやくはなれた時、ナオは小さく肩を震わせていた。
「いけないよ」
とナオは言った。
「どうして?」
「いけないもん」
「いけないはずがないよ。ぼくはナオちゃんのことが好きなんだから」
「そんなこと、ありえないもん」
「あるんだよ。事故にあってよかったなと思えることのひとつがこれだったんだ。ナオちゃんのことが好きだってことがわかった」
ナオの表情に驚きが広がった。そしてふたたび、瞳がうるみだした。
「そんなこと、ないと思ってた」
「それでナオちゃんは苦しくなって、女を叩きそうな男にすがりついていこうとしたんだ。でも、そんなのやめようよ。いや、ナオちゃんが好きなんだから、こう言わなきゃいけないな。そんな奴のことは忘れてほしい」
「これ、マジにホントのこと?」
鮎太はうなずいて、もう一度キスをした。それはもう、セックスの前哨戦としてのキスだった。
キスを終えて、鮎太はこう言った。
「今度の日曜日のデートの約束は、何か嘘をついてでも取り消して。その日はぼくとデートするんだから」
「私、そういうのありえないと思ってたから、そんで何かにすがりたくなって……」
「言わなくていいよ。何も言わなくてもいいんだ。二人が同じ気持ちになったことがうれしいだけなんだよ」
鮎太はナオの肩を抱き、静かに床に座らせた。
おかしな二人だと言うべきかもしれない。セックスをするのはこの日が初めてではないのだ。だが、あれとこれとでは、意味がまったく違っていた。
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第12章 ここはスタート地点
1
ナオと愛を確認した日の翌朝、鮎太は顔を洗おうとして洗面所へ行き、落ちていた石鹸《せっけん》を踏んでしまいひっくり返った。それだけならどうということもなかったのだが、本能的に何かにすがって倒れまいとし、鏡の横の洗面道具入れの棚を掴んでしまったのが失敗だった。ネジ釘にひっかけてとめてあっただけの棚はあっけなく壁からはなれて、鮎太の顔の上に落ちてきた。歯ブラシやプラスチックのコップが額に当たったのはそう痛くもないが、その棚にシャンプーがのっていて、そのキャップをきちんと閉めていなかったのが不運だった。シャンプー液が流れだし、目に入ったのである。
「痛い!」
思わず叫んで、夢中で立ちあがろうとした。そのために、陶製の洗面シンクに掴まって体重をかけた。それは愚かなふるまいだった。
古いボロアパートである。掴まって体重をかけたらシンクがその加重に耐えられなかったのだ。
ゴゴッ、という音がしてシンクが壁から十センチほどはなれた。そこでびっくりして手をはなしたので、完全に落ちてしまうことからはまぬがれたが、壁紙がはがれ、モルタルをバラバラと落としながら、不安定にひっかかっている。
鮎太はうめき声をあげ、自力でゆっくりと立ちあがった。壁についている水道の蛇口をひねり、とりあえず水で目のまわりを洗った。しかし、シンクの位置がズレているので、水の多くが床に跳ね散った。
水を止め、シンクの前の床にへたり込むように座る。しばらく声を出す気もしなかった。壁からシンクが落ちそうで、床は水びたしで、倒れた時に打った腰が痛い。歯ブラシやコップが散乱している。
十秒ほど放心していた鮎太は、やっと目の焦点が合ってくると、いきなりガハハと大声で笑った。久しぶりの踏んだり蹴ったりの運の悪さがおかしくなってきたのだ。
鮎太は座り込んだまま声に出してこう言った。
「本調子に戻ってきたなあ」
おれのことを運の悪い男だと人は言う。だが、この程度の運の悪さは不運だと言うほどのものではない。むしろ、いかにもおれらしいという気がしておかしくなってくるくらいだ。
こういう小さな不運の重なりは、少しも苦痛なことではないのだ。むしろ、生きているからこそ、この不運を味わえると、うれしくなってくるようなことだった。
拳銃で撃たれて少し運動障害が残る、という体験をして、鮎太は以前にも増して楽天的な人間になっていた。少々いやなことがあっても、この気分を味わえるのは生きているからこそだ、と思えて、なんだって受け入れられるのである。
この半年ばかり、傷ついた鮎太に遠慮するかのように、運命は鮎太にそうひどいことをしなかった。だから、運の悪いことがあって、かえって、これでめでたく元に戻ったんだ、というような気がしたのである。
鮎太は立ちあがり、洗面所の惨状を見てきっぱりと言った。
「ここを片づけるのは明日!」
そこをあとにし、居間に戻って敷いてあった蒲団をたたんでしまった。
そこへ、携帯が着メロを流した。大道寺薫からのコールだとわかって、つい表情が優しくなる。
「はい、荒木です」
「あたし、大道寺よ。今いいかしら?」
「構わないよ。おきて蒲団をたたんだところだ。これからリハビリで自転車に乗ろうかと思ってた」
「リハビリの具合はどうなの?」
「順調だよ。もう、運動障害はほとんどなくなっている」
「よかったわ。もうじき仕事にもカムバックね」
「そうだ。それを楽しみにしているんだよ」
「じゃあ、一度、私の相談にのってくれないかしら」
「うん、いいぜ」
「なるべく早く、会って話を聞いてもらいたいんだけど」
ようやく大道寺が相談を持ちかける気になったんだ、と鮎太は思った。これまで、事故の後遺症と闘っているおれに遠慮して、ややこしい話を持ちださなかったのだ。だが、もういいだろうと判断したのだろう。
「いつでも会えるぜ。これからお前の会社へ行こうか」
「今夜でいいわ。七時につるまる食堂で夕食を食べましょう。相談はそのあと、場所を変えて」
「よし。今夜は徹底的にお前の話を聞くぜ」
鮎太の口調の力強さは、完全に体調を取り戻した男のものだった。
2
大道寺と二人で、つるまる食堂で食事をとるのは久しぶりのことだった。いちばんなじめるホーム・グラウンドに戻ってきたような気がした。
つるまる食堂ではナオが働いているわけで、二人に料理を運んだ。大道寺さん、こんにちは、ぐらいは言ったが、ナオは二人にあまり話しかけないで、なんとなく見守るような様子だった。親友の二人が大事な話をするんだと感じとって、遠慮したのかもしれない。
食べながら話したのは、主に鮎太の体調のことだった。リハビリによって、どのくらい運動障害が改善されたかを聞いて、大道寺は自分のことのように喜んでくれた。
「あなたならきっと怪我なんか乗りこえるだろうって信じてたけど、想像してたより早く元に戻ったわね」
「うん。今はもう早く仕事に復帰したくてうずうずしてるよ」
「あそこの仕事がそんなに気に入ってるの?」
「それもあるけど、健康なら働きたいもんなんだよ、人間って」
食事を終えて、どこでじっくり話そうかということになり、鮎太はこう言った。
「おれのアパートへ行くか。散らかってるけど」
洗面所は特にひどい様子になっているのだが。
「そうしましょうか。私が以前に住んでたアパートはもう解約しちゃってるから」
というわけで、鮎太の部屋へ大道寺を誘った。
そこでいよいよ大道寺の悩みの相談に乗ろうとしたら、その前に大道寺は思いがけないことを口にした。
「あなた、今度はあの子に何をしたの?」
「あの子って?」
「とぼけないでよ、ナマ脚のナオよ」
「別に何も……」
「いやねえ、しらばくれちゃって。今日、ナオの顔を見た瞬間にピンときたわよ。あの子、すっかり悩みの淵から立ち直って、目がキラキラしちゃってるじゃないの。私は幸せでーす、って顔に書いてあったわよ。あなたがあの子の心の迷いを消してあげたんでしょう」
なんと鋭い直感力なんだ、と舌を巻いた。そして、事実を隠さなきゃいけない理由はひとつもないんだと思った。
「ナオちゃんと、前より親密な関係になったのは事実だ」
「ま、なんて言い方なのよ。いい仲になったってことでしょう」
「とりあえず、ちょっとな」
「あなた、私がそのことにケチをつけるとでも思ってるの? そんなに逃げ腰で言うことないじゃない。おつむは弱いけど、あの子は悪い子じゃないわよ」
「そうだよな。事件に巻き込まれて怪我したおれのことを親身になって心配してくれて、おれも心を動かされた」
「何か約束をしたの?」
「そうじゃない。よくある、つき合っているって関係になっただけで」
「いいじゃない。いつまで続くかは別にして、彼と彼女の仲になったのね。ハッピーで結構ですこと」
からかうような口調だったが、大道寺の目は案外真剣だった。
「この先どうなるのかはおれにもわからないんだが」
「そんなのわかんないままに、彼女がいるとか、彼ができちゃった、ってつき合っていくのが今の普通よ。それでいいの」
言われてみて、そうだよな、と思った。女性と出会い、波長が合っていい感じだなと思えばつき合うわけだ。とりあえず男女の仲はそこから始まる。そういう普通のことをしているだけなのだ。
「だから、その話はもういいだろう。それよりも、お前の相談ってのを聞くよ」
と鮎太は言った。
大道寺は無言でコクンとうなずいた。なんだか、思いだすだけでも疲れる、というような様子だ。
「それなんだけど、私もう、どう考えればいいのかわからなくなっちゃったのよ」
「それは、参星重工業という会社のことで、参星グループ全体のことでもあるんだな」
「そうよ。とりあえず私は、参星重工業の社長で、参星グループのトップでもあるわけね。別邸のご子息をかつぎだそうと考えてた一派は力を失って、もう波瀾をおこそうと考える勢力はなくなったの」
「それはよかったじゃないか。その辺のことでモメにモメてるのかと思ったのに」
「お家騒動にはならなかったのよ。それはよかったんだけど、私、自分が情けなくなってきちゃって、立ち直れないくらいに落ち込んでいるの」
大道寺の声には力がなかった。
3
「お前がそこまで落ち込むのは珍しいな。お前って思考が超越的っていうか、どんなことに対しても、これが現実なのよね、とか言って軽く受け流しちゃうようなところがあるじゃないか。何があろうが自分を見失わないっていうか」
「でも今は、自分がわからなくなっちゃったのよ」
「つまり、よほど性に合わないことをやらされているんだな。巨大産業グループの総帥なんて、あまりに柄にもないことなんで、その立場にいるだけで苦しいんだ」
お前のことはよく知っているから、とてもよくわかるよ、とでも言いそうな顔で鮎太は親友を見た。ところが、大道寺は力なく首を横に振ったのだ。
「確かに、私は今、参星グループのトップにいるわ。実際にはグループ全体や、参星重工業の経営を動かしているのは父の片腕だった藤崎氏なんだけど、私はその人に帝王学を仕込まれているわけよ。それで、そういうことのすべてが苦痛でたまらないのなら、それなりにスッキリするんだけど」
「どういうことだ。それが必ずしも苦痛じゃないってのか」
「なんだかくやしいんだけど、そうなのよ」
思いがけない話になってきた。突然に亡くなった父親の跡を継がされて、そんな生き方は自分に合っておらず、いやでいやでたまらない、という相談だとばかり思っていたのに、そう苦痛じゃないからくやしい、という話なのだ。
「面倒な話になりそうだな」
と言って鮎太は立ちあがり、冷蔵庫から缶ビールを二本取ってきた。長い話になりそうだと思ったのである。
プシュッとプルタブを開けて一口飲んでから、大道寺は続けた。
「私が、父から生き方を押しつけられるのをいやがって、ほとんど親と絶縁状態になって気ままに生きてたことは知ってるでしょう。私、父みたいな、仕事で成功していくだけが生きがいの人間を軽蔑していたし、あんなふうには生きたくないって本気で思ってたの」
「それは聞いてる」
「ところがね、だんだん気がついてくるのよ。そんなふうに嫌っていた父親と同じ血が自分の中にも流れているってことに。事業拡大計画とか、海外進出プロジェクトなんてものが、だんだん面白そうに思えてきちゃう自分がいるのよ」
「それはお前、思いもかけなかったドンデン返しだな」
「そうよねえ。財界の一大企業グループのトップとして、日本経済を動かしていくことが、やりがいのある仕事だって気がしてきちゃうんだもの。自分でもこの心境の変化にはびっくりよ」
「さすがは、そういう親の子だったということかな。二代目になる資質がちゃんとあったんだ」
そう言って、鮎太は大きくうなずいた。
「つまり、もう悩むことはないんじゃないか。お前は、いやなことをやらされているわけじゃないんだから」
「ところがそういう話にはならないのよ。私には資質なんてないの。面白そうだって思うことと、資質があるのとは大違いよ。むしろ興味がわいてきちゃったからこそ、自分には能力が足りないってことがわかるの。わかりすぎて、足を一歩踏みだすこともできないのよ。自分には何もできないって思い知らされちゃうの」
「そうか。面白そうな気がしたとたんに、自分の能力不足に気がつくわけだな。ありそうなことかもしれないな」
「自分のその力のなさがくやしいの」
「しかし、それは当然のことだと思うなあ。二十五歳の若さで、いきなり日本経済の動向にも影響力があるような巨大企業グループのトップになって、経営をしてみようとしたって、手も足も出なくてうろたえるばかりだよ。そんなことがいきなりできる人間なんていないぞ」
「父はね、それを一代でやった人なの。いろいろ勉強させられているんだけど、参星グループの企業史にも目を通しているわけ。そうすると、まだ若い時からバリバリと事業を推進してきた父のすごさがわかるわけよ。あんなに反抗して、バカにしていた父にとてもかなわないって気がしてくるの。家庭人としてはどうしようもない父だったけれど、経済人としては超一流だったことを認めるしかないのね。そして、自分がいやになってくるの。自分が何もできないヒヨッコだって事実を突きつけられるんだもん、情けない気分よ」
そんなふうにかたちを変えて、父と息子の闘いはまだ続いているわけか、と鮎太は思った。
4
「とりあえずは、何をやってもまだ未熟なわけさ。それはあたり前のことだと思うな」
と鮎太は言った。
「でも私は大会社の社長なのよ。まだ未熟なんです、なんて言ってられないでしょう」
「社長ったって、見習い社長じゃないかよ。藤崎って人がいろいろと教えてくれるんだろう。てことは、研修期間中の社長だ。まだ何もできなくて当然だ」
「見習い社長って、とんでもない言葉ね」
「でもお前はそれなんだよ。考えてみれば、まだ社会に出てほんの数年の、二十五歳なんだよ。二十五歳って、普通の会社じゃまだ新米社員だぜ。人間として、まだ個性が確立する前だって言ってもいいくらいだよ。大人と呼ぶにはほど遠いものなんだ」
言いながら鮎太は、二十五歳という年齢にまるで違う期待を持っていた奴がいるな、ということを思いだした。あの、エリートの人生でなければ生きていてもつまらないという考え方の東昌之だ。二十五歳になって、まだ他人が賞賛する人生を手に入れてないのは負け組で、自分がそんなものであるなんて耐えがたいし許せないと、あの東は考えている。そのせいで、焦り狂って人生がドタバタ劇のようになっている。
「だからもちろん未熟なんだよ。だけど、そこはスタート地点なんだ。そこから出発して、成長していくから面白いんじゃないか。おれたちが今忘れちゃいけないのは、ちゃんと育っていこう、ということなんだ」
「あなた以外の人が言ったら、よくまあそんなに前向きでいられるもんだと、ムカムカしちゃうような意見ね」
「おれにムカムカしてもいいよ。でも、自分がまだ成長するってことを、頭から否定することはないじゃないか。おれたちなんて、まだぜんぜんダメなんだよ、どう考えたって。まだ人間のことがわかってないし、世界のことがわかってないし、自分がなんだってことすら掴めてない。そういうことを、だんだんわかっていきたいと思おうよ。そう思ってとりあえず前だと思う方向へ進んでいくのが、生きてくってことじゃないか」
「私たちには成長の可能性があると言うのね」
「結果のことはわからないよ。誰にだって素晴らしい能力があるんだ、なんて甘いことはおれも言わない。ダメな人間はやっぱりダメなのかもしれない。でも、有能な人間になりたいという望みは持ってていいものじゃないのかな。とりあえずその方向を探って、足を踏みだしてみるべきだろう。ヒヨッコだっていうことは、鶏《にわとり》になれる可能性があるっていうことなんだ、ひょっとしたら鶏じゃなくて鳳凰《ほうおう》かもしれない」
「焦らないで、自分を磨けと言ってるのね」
「それしかないだろう。こんな中途半端な人間をやってる以上」
「あなたは自分という人間を、未来に継続していくものだって考えられるのね」
「考えられるようになったんだよ。拳銃で撃たれて、ひとつ間違えば死んでるところだったという体験をしたせいで。その体験をする前は、おれも能天気に今だけを考えて生きてたんだよ。我が人生だいたい順調、というような気分で生きてた。ところが、ひょっとしたらあの事件の夜に死んでたかもしれないんだと思うと、死んでなくて、今の自分には未来があるんだということがうれしいんだ。生きているってのは、今後も生きていけるんだという見通しが立てられるってことなんだよね。そんなふうに思うようになって、自分を発展の可能性のあるもののように考えちゃうんだ」
「自分を、可能性を秘めたものだと思え、ってことね」
「そう言っちゃうと格好がよすぎるけどね。要するに、まだ二十五歳の自分なんかダメなところだらけの未熟者だけど、希望を捨てなきゃ年とともに少しはマシなものになっていくかもって、期待ぐらいはしようぜっていう話だよ」
「いきなり何もかもうまくできるってことはないのが当然で、焦るなということを言ってんのね」
「うん。焦るのはとにかくよくない。結果のことは考えないで、じわじわと成長していきたいなということだけ望めばいいんだ」
大道寺は黙って考え込んだ。思いがけないほど男っぽい表情だった。やがて、頭をもたげて言った。
「ありがとう。少し元気が出たわ」
「うん」
「あなたと話せば、きっと元気がもらえるだろうと予想してたんだけど」
「元気が出たんならいいよ。缶ビール、もっと出そうか」
「もういいわ」
と言ってから、大道寺はふと思いついたようにこんなことを言った。
「私たち、確かに流されて、変わったわね」
「流されたかな」
「二人で、派遣社員として富士山運送で働いてた時のことを思いだしてみると、人生が変わったじゃない。私は父が死んでいきなり参星グループの二代目になって、あなたは死ぬかもしれなかった体験をして、ますます逞しく生きるようになったわ。そしてそのことを、あなたは受け入れようと言ってるのよ」
カッカッカッ、と鮎太は笑った。
「何よ、その笑いは」
そう聞かれて、鮎太はこう言った。
「生きてる間はゲームは続いているんだ。自分で、勝ち組だとか負け組だとか、結論を出しちゃうのはどう考えたって早とちりなんだよ」
5
日曜日の夜、レストランでナオに夕食をご馳走した。高級レストランというわけではなかったが、ナオはすごく幸せそうな顔をし、はずんだ声を出した。
そして鮎太にとっても、もうナオは特別な人だった。その顔を見ているだけで幸せになり、何を話しても心がはずんだ。そんなことをあらためて確認したりはしないが、二人はつき合っている恋人同士なのだ。
特別なことを話すわけではない。今日、何をしていた、きのう、こんなことがあったと話し合うだけで、満ち足りた気分になれるのだ。知り合いのナオちゃんが、恋人のナオになったというのは、そういうことなのだ。
大道寺が悩んでいて、相談にのったよ、という話はもちろん出た。慣れない社長業にとまどっているんだよ、と説明した。
「大道寺さんてさ、ものすごく頭のいい人だよね」
とナオは言った。
「そうだよ」
「だから悩むんだよ。いろいろ考えちゃうから」
「うん」
「でも、頭のいい人はいつか自分の力で悩みから立ち直んの。きっとそうだよ」
「うん、きっとそうだよな」
そんな会話で、いつの間にか自分も力づけられているのを鮎太は感じとった。
鮎太の母のことも話題に出た。すごく優しいお母さんだね、とナオは言う。鮎太が意識不明で入院中だった時に、どんな様子だったかを教えてくれた。息子の回復を心から祈る様子に感動したそうだ。
ごく自然に、鮎太は亡くなった父親の話をした。高校生の時に亡くなった父は、ずっと畳屋をやっていたんだということ。無口な父親だったが、実は情愛の深い人だった。鮎太の高校受験の発表の時には、こっそりと鮎太より先にその結果を見に行ったと、死んでから母親に教えられた。
「いいお父さんじゃん」
とナオが言って、父親を知らないナオにその話はマズかったかとあわてたが、ナオは心からそういう父親ってうれしいね、と思っているだけのようだった。
夜の道を二人で歩いていて、明かりのないところで抱き合ってキスをした。この時期の二人に、そうするなと言うほうが無理というものだ。
鮎太のアパートに二人で戻って、愛を交わした。それがまた二人を強く結びつける。
ナオが身じまいをしているのを見ているうちに、鮎太はふと不安になった。この女性は、どこまでおれを頼りに生きているんだろう、と考えてしまったのだ。おれにはもう責任というものが生じてしまって、身勝手なことは何ひとつ許されないのか。ナオが寂しがることは絶対にしちゃいけないのか。
「ナオちゃんさあ」
と鮎太は言った。
「何?」
「もしおれが、長期出張しなくちゃいけなくなってさ、しばらく会えないなんてことになったら、悲しむのかなあ」
「出張に行くの?」
「いや、行くとしたら、いやなのかい、って聞いてるの」
「そりゃ、会えないのは寂しいよ。でも、出張だったらしかたないじゃん。待ってるよ。なんかお土産買ってきてね」
「かなり長い出張なんだとしても、待っててくれる」
「長いって、三十年くらいなの?」
鮎太はむせて、ひーひー言ってのたうちまわった。やっとのことで息を整え、目尻の涙をぬぐって言う。
「そんな長い出張があるわけないでしょが。たとえば一年ぐらいの出張とかだよ」
ナオはふいに真面目な顔になった。睫毛《まつげ》を整えていたビューラーを化粧ポーチにしまってから、鮎太のほうをちゃんと見て言った。
「それ、絶対に帰ってくる出張?」
「もちろんだよ。本当はナオちゃんと会えなくなるのはつらいんだけど、仕事でどうしても行かなきゃいけないとか、そういう場合なんだよ。そんなの耐えられないかい」
ナオはちょっとだけ考えて、それからニコッと笑った。
「そういうことなら待ってる。必ず帰ってきてくれるんなら」
「大丈夫なの?」
「大丈夫に決まってんじゃん。私が浮気するとか心配してんの?」
「そんなんじゃないよ。いやがるのかなあと思っただけ」
「私、そんなフワフワした女じゃないよ。好きな人いる時は、そのことに真面目」
「そうなのか。それはなんかうれしいな」
「でも、メールはほしい。メールは毎日くれないと、グレちゃうぞ」
鮎太はニヤニヤと笑いだした。うれしかったからだ。
6
鮎太は考え始めた。今、自分は考えなきゃいけないところにいる、と思ったのだ。
二十五歳で、死んでいても不思議ではない体験をして、そこからいよいよ復帰しようとしている。生きていることへの喜びを、本能的に噛みしめている。だから、ここからどう生きるかを考えるべきだと思うのだった。
それは東昌之の、もう二十五歳なのに何もやりとげていない、という焦りからの思考とは違う。この先をこれまで以上に充実させて生きるには、どう歩みを進めていくのがいいだろうと考えるのだ。
体のほうは完全に元に戻りましたので、仕事に復帰しますと、東門セキュリティーに戻ればいいのかどうかだ。それが普通だろうなあと思うものの、ここはひとつ自分の意思で選択するところではないのか、という気もする。
セキュリティー会社の仕事は自分に合っているが、ここはもう少し幅広く考えてもいいところだと思うのだった。
この先の自分の人生のために、何をどう積みあげられるか。
そして、大道寺のことも考えていた。とまどいの中にいる彼に、何かしてやれることはないのか。あいつに、どうやって自信を持たせるか。
そういう、成長のためのチャンスが今、目の前にあるのだと鮎太は考えた。体のほうが本調子になるにつれて、そういう意欲がむずむずと生まれてきたということだった。
一週間そのことばかりを考えて、ついに鮎太はある決心をした。自分と大道寺をここで大きく成長させようと考えたのだ。
鮎太は参星重工業に電話をかけた。大道寺には何も言わないでおいて。
代表電話にかけ、交換手に、相談役の藤崎さんとお話ししたいのですが、と告げた。一度は、藤崎は本日出社いたしません、ということで取りついでもらえなかったのだが、いつならばお話しできるでしょうかとたずねて、翌日、その人と話すことができた。
「私、大道寺社長の友人で、荒木鮎太という者ですが」
と名のったら、先方は知っていてくれた。
「ああ。社長からいろいろとお噂を聞いております。確か、東門セキュリティーに在籍されていて……」
「はい、そうです」
「それで、事故にあわれて、ずっと休職されていたのでは……」
「そのとおりです。おかげさまで体調のほうもかなりよくなり、そろそろ復職できそうな状態になってきまして、ついては、今後のことをいろいろ考えたんです」
「はい。よくわかります」
「それで、藤崎さまにお目にかかって、ご相談をしたいことがあるのですが、お時間をとってはいただけないでしょうか」
図々しい電話だということは鮎太も承知の上だった。東門セキュリティーは参星グループの末端にある会社で、参星重工業と比べたら横綱と序二段くらいの差があるのだ。そんな会社の一介《いっかい》の社員が、本体の相談役にいきなり面会を申し込むのだ。まともな話とは思いにくいところだ。
だが、相手は話を聞き入れてくれたのだ。
「わかりました。お目にかかりましょう。いつがよろしいですかな」
この瞬間、希望への扉がほんの少し開きかけたのだった。
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第13章 明日への旅立ち
1
参星重工業の重役陣が使っている応接室のひとつに通されて、荒木鮎太は藤崎相談役と面会した。その日の鮎太は久しぶりに背広を着ていた。
藤崎相談役はやや小柄だが背筋のピンとのびた紳士で、六十六歳になっていた。染めているのかもしれないがまだたっぷりとある髪が黒々としていて、現役のビジネスマンという感じである。物腰の柔らかさが、かえって大物の風格をかもしだしていた。
「いつかはお目にかかりたいと思っていました。社長からいろいろと噂は聞いていますので」
名刺を交換して顔を見合わせたところで藤崎はそう言った。
「大道寺社長は、今日はこちらには?」
と鮎太は聞いた。
「社長は今日はお台場にできた、二十一世紀産業会館のオープニング・セレモニーに出席なさっています」
「そういう仕事もあるわけですか」
「なかなかにご多忙でいらっしゃいます」
その話はそこで終わって、藤崎は鮎太にこう聞いた。
「事故で負われた怪我のほうの回復具合はいかがですか」
「もう九分どおり元の体力を回復したというところです。ですから、そろそろ職場に復帰したいと思っているのですが」
「それはよかった。我がグループ企業の中から事故にあった社員が出たのですから、回復してくれることを願っていました」
「あの、ひとつお願いがあるのですが」
鮎太は自分をふるい立たせるようにして、そう切りだした。今から、自分はかなり非常識なことを口にしようとしているのだと、ひるむような気持ちもあったが、それを言うためにこの人に会ってもらったのである。ここはとことん図々しくなるしかない場面だった。
「なんですか」
「いよいよ仕事に復帰できるのはうれしいのですが、私、東門セキュリティーに戻るのではなく、違う会社に入りたいのです」
「それは……、強盗犯に銃で撃たれるような危険な仕事にはもう戻れない、ということですか」
「いえ、そういうことではありません。あの会社の仕事は私に合っていて、嫌いではありません。そして、あの会社が私にちょっとないくらいの厚遇をしてくれたこともよくわかっています。私が撃たれた事故については、私に慎重さが欠けていたという自己責任も大きいのですが、会社は事故を労災と認めてくれ、給料や治療費を払ってくれました。そのことについては非常に感謝しています」
「なのに、その会社に戻りたくはないのですか」
藤崎は声の調子を変えず、淡々と言った。
「そうです。そのわけは、私は参星重工業に入りたいからです」
「当社へですか……」
「言っていることがむちゃくちゃなのは自分でもよくわかっています。東門セキュリティーも参星グループ内の一社ですが、子会社にすぎません。参星重工業といえば参星グループの中心になっている会社で、城にたとえれば本丸のようなところです。子会社の東門セキュリティーに復帰させてもらえるだけでもありがたいところなのに、そこではなく本丸に入りたいと言うのですから、どうしてそんなバカな願いが持てるものか、というぐらいのものです」
「しかし、考えがあってそうしたいんですね」
「そうです。私は、参星重工業の社長秘書室というか、とにかくそういうところに入って、大道寺社長のために働きたいのです」
「大道寺社長のために、ですか」
「はい。ご承知のとおり、大道寺社長と私とは以前からの友人です。そして、友人として大道寺社長から悩んでいることを相談されるうちに、どんなことをしてでも彼を力づけたいと思うようになったのです。今の、自分に自信の持てない大道寺社長を、大きく変えたいのです」
「社長を変えるために、参星重工業で働きたいと言うのですね」
「とてもおかしな発言に思われるかもしれません。でも、今、必要なのはそういうことじゃないのかと考えたんです。参星グループにとってもそれは同じはずで、今やるべきことは、大道寺社長を一流の、大人の経営者に育てることじゃないでしょうか。まだ世間のことも、世界のことも、それどころか自分のこともよくわかっていない二十五歳の社長を、一流の男に育てるんです。私はそのことに巻き込まれるために、参星重工業に入りたいのです」
鮎太の口ぶりには、そうすれば必ずうまくいくんです、というような確信が込められていて、不思議な貫禄すら漂っていた。
2
二週間後、鮎太は大道寺を自分のアパートへ呼びつけた。まず相手の着ているものを見て、こう言う。
「服装はそれで、まあいいか。では、これをかぶってもらう」
さしだしたのはロードレーサー用のヘルメットだった。
「こんなものをかぶらせて私にどうしろっていうの?」
「考えたことがあるんだよ。かぶったらおれについてきてくれ」
アパートの前へ出た。そこに、ツーリング用の自転車が二台並んでいた。
「自転車には乗れるんだろ?」
「乗れるけど、最後に乗ったのはもう十年以上前よ」
「昔、乗れたんなら今も乗れるよ。お前はこっちの一台に乗ることにしよう。このほうが少し初心者向きだから」
鮎太は大道寺を自転車にまたがらせ、サドルの高さを調節した。
「こんなスポーツ・タイプの自転車は初めてよ。体が自然に前傾姿勢になっちゃって、こわい」
「でも、案外乗りやすくできてるんだよ。とりあえず、ためしにちょっと走ってみようぜ」
大道寺を前にし、すぐ後ろに鮎太がピタリと追尾してアドバイスをするというやり方で、二台の自転車は走りだした。
止まれ、もう少しスピードをあげて、ギア・チェンジしろ、左に注意して、坂はブレーキをかけてゆっくり下れ、そういう時は止まってしまえ。鮎太は細かく指示を出した。
それでも、初めのうちはぎこちなく、ヒヤリとするような場面もあった。止まった時に立って自転車を支えているのが、サドルの位置が高いので大変そうだ。
だが、三十分も乗り回しているうちに、大道寺の走りもだいぶ安定してきた。そこでとりあえず、アパートに戻ってくる。
「まあまあだな。もう少し練習すれば危なっかしさもなくなるだろう」
「ちょっとこわいんだけど、こういう自転車って走りを最優先してつくられてるのね。だから案外スイスイ走るの」
でも、そう言う大道寺は少し息があがっていた。
「どうしても無理なら、ママ・チャリに近いようなものに替えなきゃいけないかもと思っていたんだけど、それでいけそうだな」
「それでいけるって、何をしようとしてるのよ」
大道寺はとまどいの声を出した。
「ツーリングだよ。二人で自転車旅行をするんだ」
「私とあなたが?」
「そうだよ」
「あなた、何を言ってるのよ。そんな暇があるわけないじゃない。私には仕事があるのよ。それに、あなただってうちの会社に入るんでしょう。のんびり旅行してるゆとりはないんじゃないの」
鮎太は不敵に笑ってこう言った。
「部屋に入ろうぜ。詳しく説明するから」
部屋に入ってヘルメットを脱いで、鮎太はこう言った。
「ツーリングをするのは遊びじゃないんだ。仕事として、社命を受けてやることだ」
「どういう意味なのよ」
「つまり、参星重工業の社長の、海外研修なんだよ。一流の経済人になってもらうために、世界を知り、自分を磨いてもらう修業期間を設けるってわけだ。そしておれは、社長のお世話係として研修旅行に同行する」
「それって、外国を自転車で旅行するっていう意味なの?」
「外国だからこそ、身につくものも多いわけさ」
「ねえ、まさか二人で世界一周するとか言ってるんじゃないでしょうね、自転車で」
「場合によってはそうなってもいいと思うんだが、別に体力の増進を目的にしてるわけじゃないんだから、とりあえずあんまりワイルドなコースじゃなくてもいいと思うんだ。だからまず、ヨーロッパの周遊コースにしようと思う。東ヨーロッパから始めて、ドイツ、フランス、イタリア、スペインなんてところを回って、イギリスにまで行くのが当面の目的だ」
「それだけでも、ものすごい大旅行よ。時間もかかるわ」
「社長の研修にかかる時間を惜しんじゃいけないんだよ。だからこれも仕事だと思って、じっくりと取り組むんだ。ヨーロッパのいちばん東からスタートしたいから、出発点はイスタンブールだよ。そこへは飛行機で行って、そこからツーリングをスタートさせる」
鮎太はなんの迷いもなく、そう言いきった。
3
「実は藤崎相談役と何度も会って、この話を進めたんだよ」
種あかしをするように鮎太はそう言った。
「藤崎氏も知ってる話なの?」
「うん。まずおれは、頼んで参星重工業に入れてもらうことにした。そこに入って、社長の特別秘書ってことにしてもらうんだ。そうでなきゃ、社長のお世話ができないから」
「お世話って、私と自転車旅行をするってことなんでしょう」
「そうだけど、これは遊びじゃないんだぜ。社長に成長してもらうための研修旅行だ。お前はまだ二十五歳で、社会を知らない、世界を知らない、自分がどういう人間なのかもわかっていない。そういう人が自分の目で世界を見れば、感じることはきっと多いはずだと思う」
「世界経済の実態をいやでも肌で感じるだろうということかしら」
「そういうこともある。だけど、別に経済や経営学の勉強でなくてもいいと思うんだ。人間たちの生活ぶりを見ていきゃいいんだよ。無銭旅行をするわけじゃなくて、必要なだけの金は持ってく。でも、コーディネーターがすべて手配してくれるような殿さま旅行ではなくて、自分たちですべてプランを立てて、なんとか目的地へたどりつこうって旅行だよ。かなり大変だとは思うよ」
「自転車で行くんだものねえ。お尻が痛くなって、泣きたくなっちゃうこともあるかもね」
「そういう体験の中で、人間として逞しくなっていけばいいんだよ。とにかく、いやでも世界が見えてくるだろうと思う。それから、自分がわかってくる。たとえばの話、十時間以上何も食べてなくて腹ペコだったりすりゃ、おれとお前は喧嘩を始めるかもしれん。だけどそれがいいんだよ。そんな時こそ人間の底力ってものが出てくるんだと思う」
「長い旅になるわよ。どう考えたって一年近くかかるんじゃない」
「かかるだろうな。でも、ここでその時間をかける必要性を、藤崎相談役はわかってくれたよ。会社のほうは、もうしばらく私が責任を持って運営していくってさ。だから社長から、迷いやおそれがなくなるように、この際、成長していただきましょうって」
「でも、あなたもそれに巻き込まれちゃうのよ。あなたには、恋人になったナマ脚ちゃんがいるじゃないの。一年も会えないでいいの?」
「ナオちゃんは待っててくれるって言ってる。メールさえくれれば、ちゃんと待ってるって」
「でも、一年は長いわよ。ナオを疑うわけじゃないけど、心配だわ」
「あのな、別におれたちは体力の限界に挑戦して、冒険や探検をしようってわけじゃないんだ。だから二ヵ月か三ヵ月ごとに、一週間ぐらいの休みをとろうと考えてる。その時、日本に帰って息抜きをするよ。ナオちゃんにも会える」
「休みが終わったら、旅が中断してたところへ戻って、また自転車旅行を続けるっていうやり方なのね」
「そうだよ。旅を急ぐわけじゃないからそれでいいんだ。でもって、実はその旅行はおれのリハビリの総仕上げにもなってるってわけだ。一石二鳥の名案だろう」
「名案っていうより、これは乱暴な思いつき旅行よ。楽じゃない旅をして、初めての国で初めての人たちに接してとまどって、心細い思いをしていけば少しは逞しくなるだろうっていう、体育会系のむちゃくちゃな思いつきよ。どうしてそれが社長としての研修になるのかとても理解できないわ」
「わからないかなあ」
「自転車でヨーロッパを回るっていうのがそもそも、野蛮じゃない。きっと、脚が疲れて歩くこともできなくなって、熱が出てうわ言を言うくらいになるのよ。お尻だって皮が破れて血が出て、座ることもできなくなるの。だって初心者がツール・ド・フランスよりも長い距離を走らなくちゃいけないのよ」
「スピードを競うわけじゃないから、そんなにハードなツーリングにはしないよ」
「あなたにちょうどいいくらいの旅が、私にはハードなのよ。こういうことに私は向いてないの。それは自分でわかってるの」
大道寺は決めつけるようにそう言った。
「そんなにいやなのか」
鮎太は力なくそう言った。この計画は無理なのか、と思ったのだ。
「そうは言ってないわ」
大道寺は困ったような笑顔を見せてそう言った。
「むしろその逆よ。その、どう考えても私向きじゃない旅行の計画が、ため息が出ちゃいそうなぐらいに魅力的なの。何もわからないで無能な社長をやっているより、千倍も楽しそうに思えて、どうなってもいいからそこへ飛び込んでみたいの」
鮎太はガハハと笑い、目を細めて言った。
「じゃあ、決まりだ。二人で珍道中をしようぜ」
その先に未来はあるんだから、と鮎太は思った。
4
参星重工業は、社長が研修旅行に出てしまうことを受け入れてくれた。藤崎相談役以外の重役陣も、社長を鍛え直す必要を感じていたのだ。
まず鮎太と大道寺は、出発前に基礎トレーニングを積んだ。ツーリング用自転車に体を慣れさせるのだ。
毎日二十キロぐらい走るトレーニングを始めたが、そのトレーニングを三日やったところで大道寺は熱を出し、二日休まなければならなかった。だがトレーニングを再開してしばらくたつと、一日五十キロが目標となった。
鮎太はいろいろな下準備をした。自転車にかなり大きなバッグを取りつけられるように、部品を買ってきて改造もした。
下調べをし、現実的な計画も立てなければならない。イスタンブールを出発し、最初に国境を越えたらどの国に入るのか、なんてことを知らないまま旅行するわけにはいかないのだから。トルコを出たら、入る国はブルガリアかギリシャだった。東ヨーロッパに進みたいのだから、行くのはブルガリアだな、と決める。その首都のソフィアまで行くのに何日ぐらいかかるのか。ブルガリアの次にはどの国へ行くべきなのか。そういうことを、とりあえず計画した。実際に旅が始まってしまえば予定どおりには進まず、その都度プランを変更していくことになるかもしれないのだが、基本プランを立てておくことは大切だろうと思うのだ。
安宿でいくらぐらいするものなのか、なんてことも一応知っておきたいことだ。紛争状態が続いていて、治安が悪い国へは近づかないようにしたいし、そのためには最低限の下調べをしなければならない。
そんな準備をしているうちに七月に入っていた。
鮎太の携帯電話に思いがけない人から連絡が入った。
「三澤はるかです。覚えていてくださったかしら」
とその相手は言った。
「結婚して、姓が変わっているんでしょう」
と鮎太は応じたが、それに対する返事は思いがけないものだった。
「私ね、離婚したんです。だから元の三澤はるか」
これには驚いた。結婚してまだ一年もたっていないはずである。
「そうなんですか」
「だから、また自由な立場に戻ったの。いろいろとたまった愚痴やなんか、聞いていただけないかな、と思って」
正直なところ、いい加減にしろ、と思った。この女の身勝手さはなんなんだ。スリットから見える太腿の魅力だけで、すべての男が寄ってくるとでも思っているのか。
鮎太に、はるかへの思いはなかった。今の鮎太にはナオという恋人もいる。
鮎太はなるべく事務的にこう言った。
「実は私、近くヨーロッパへ視察旅行に行かなくちゃいけなくて、今はその準備でてんてこまいなんです。そして、旅行が始まってしまえば一年は日本に帰ってきません」
「そうなの」
はるかの声のトーンが明らかに落ちた。
「そういうことなので、お会いする時間がとれないんです。お役に立てなくて残念なんですが」
それだけ言って話を終えてもよかったのである。ところが、ふとこんなことを言ってしまったのは、やっぱり鮎太の人のよさというものである。
「東昌之さんには話を聞いてもらいましたか」
「彼は今、日本にいないんじゃないの?」
「いや、日本にいますよ。長らくアフガニスタンへ行ってたんだそうですが、今は帰国しています」
「びっくりするようなところへ行ってたのね」
「いろいろとハードな体験をして、考えるところがあったそうですよ」
あなたたち二人は、ある意味いい組み合わせじゃないかな、というような思いが鮎太に少しあったのは事実だ。不思議にむこうから接近してくるところもよく似ている。変に焦ってギクシャク生きているところも共通する。
「わかりました。忙しいところをお邪魔してごめんなさい」
通話はそれで終わった。これでもう、あの人から電話がかかってくることもなくなるだろう、と鮎太は思った。
5
「ねえ、これって外国へ行った時もきくのかな」
とナオが言って、紐のついたぺちゃんこの小袋のようなものを指でつまんで見せた。土曜日の夜のことで、この頃、ナオは週に一回土曜日には鮎太のアパートに泊まることが多かった。
「それは、お守りだね」
「そう。旅行の厄除《やくよ》けにきくやつ」
「おれのためにもらってきてくれたの?」
「そーなんだけど、外国じゃダメなのかな。これって、日本の神さまのやつだから」
「そんなことないよ。日本の神さまのお守りは世界中できくんだ。そうでなきゃ旅行のお守りの意味がないだろ」
「そーだよね。絶対きくよね」
ナオはうれしそうに言って、お守りをさしだした。
「ありがとう。わざわざ神社へ行ってくれたんだろう。感激だな」
そう言って鮎太はナオの唇に軽くキスをした。
「そんでさ」
「ん?」
「私は荒木さんが安全でいることを祈ってるんだけど、もう一人はどうなってもいいですってのは、冷たいじゃん。だから、もう一個……」
「大道寺のぶんか。偉いな、ナオちゃんよく気が回ったよ。あいつも喜ぶよ」
鮎太はふたつのお守りを旅行中に使うベルトポーチの中にしまった。
「荒木さん運が悪いから、怪我とかしないようにと思って」
鮎太は苦笑した。
「確かに、タイミングの悪いことや、トラブルに巻き込まれるようなことがよくあって、運の悪い男だってことは認めるよ。だけど、決定的についてなくて、何をやっても不幸になるみたいなひどい人生ではないんだ」
「わかってるよ。私、知ってんだ。荒木さんは小さなことでは運が悪いんだけど、大きいことではちっとも運が悪くないんだよ。それどころか、人生がどうなっちゃうか、みたいなことでは運がいいんだよね」
「そうかな。運がいい人間だという気はしないんだけど」
「いいじゃん。人生がどんどんいいほうへころがってるもん。一年ちょっと前には荒木さん、派遣社員だったんだよ。いきなり、明日からは来なくていいって言われても、文句言えねえ立場だったの。それが、警備会社に仮採用になって、そっから正社員になったんだもん。トントン拍子じゃん」
「でもそこで強盗犯にピストルで撃たれたよ」
「死ななかったんだから運がいいじゃん。そんで、リハビリして体が元に戻ったら、参星重工業っていう一流企業に入っちゃってるんだもん、ありえねえぐらいラッキーじゃん」
「なるほど。そう考えるのか。それというのは結局、大道寺と友人だったおかげなんだけどな」
「そこが運のよさだよ。友達になった人が、参星グループのトップの息子で、その親父さんがコロリと死んじゃって。こうゆうこと言うのはバチが当たるけど、不幸を幸運に変えることができるってことじゃん」
「そうか。おれは運のいい男なのか」
鮎太はそんなふうには考えたことがなかったので、意外そうな声を出した。
「物事を悪いほうには考えないからだと思うな。荒木さんて、何があっても笑ってて、へこたれないじゃん。だから、自然にうまくいっちゃうんだよ」
「能天気だからな」
「図々しいんだよ」
「そうも言えるわけか」
「あ、違うんだよ。これ、悪口じゃないんだから。荒木さんって、幸せになることに図々しいんだよ。だからなんとなくうまくいっちゃうの」
「それ、いいなあ」
と言って鮎太は笑った。幸せになることに図々しい、という表現が気に入ったのだ。そのように生きようじゃないか、と思った。
ナオは座っている鮎太に体を押しつけてきた。背中にもたれかかる姿勢になってこう言う。
「その上、私が彼女になったんだよ。それってめちゃめちゃ運がいいことだと思わなきゃ」
「そう! それはまったくそのとおりだよ」
鮎太はびっくりするほど大きな声でそう言った。
「ナオちゃんと恋人になれるなんて、この世でいちばん運のいい男だよな」
ここはそう言うべきところだと思ったのだ。しかしナオはさめた声でこう言った。
「もう少しマジっぽく、しみじみと言ってくんなきゃダメだよ」
それから三十分ぐらい、鮎太は同じことをいろいろな語調で言わされた。それはまことに幸せなことだった。
6
もうじき小学生の夏休みが終わってしまうという頃、荒木鮎太と大道寺薫の旅立ちの日が来た。
成田空港へ、藤崎相談役は見送りに来た。今さら教訓めいたことを言ったりはせず、大道寺に、お体には気をつけて、とだけ言った。連絡は入れるようにするから、と大道寺は答えた。
藤崎は鮎太には、
「社長のことをくれぐれもよろしく」
と言った。
「全力をつくします」
と鮎太は答えた。
鮎太は人を捜すように周囲をキョロキョロと見た。ナオが見送りに来てくれるはずで、心待ちにしているのだ。
ナオはやってきた。男が思わず振り返って見るようなミニスカート姿で。そして、ナオの後ろから男が一人ついてきた。
「ナオちゃん、ここ」
「あっ、間に合ったあ!」
ナオはうれしそうに笑った。でもすぐに、困ったような顔をした。
「あのね、元ストーカーがついてきちゃったの」
ナオの後ろにいたのは東昌之だった。前回会った時より太っていて、髭はさっぱりと剃っていた。
「きのう、つるまる食堂へ来て、荒木さんはどこへ行くんだ、いつ行くんだってしつこく聞いてきたの。だからつい教えちゃったら、同じ成田エクスプレスに乗ってやがんの」
東は一歩前へ出て言った。
「ヨーロッパ一周の研修旅行なんだってね」
「その前に聞きたいことがある。おれが旅に出ることを誰から聞いたんだ」
「はるかが電話で教えてくれたんだ」
「やっぱり、そういうことになってるのか」
「いや、誤解しないでくれ。ぼくはもう彼女とはなんでもない。ただ、久しぶりに電話がかかってきて、面白くなさそうに、きみが外国へ行くと教えてくれたんだよ。ぼくはきみが何を始めるのか気になって、きみの携帯にかけたんだが通じなかったんで、食堂の看板娘を訪ねたんだ」
ゆうべは一人で旅への心構えを固めたくて、携帯をオフにしていたのだった。
「聞いてみたら、すごく面白そうな旅じゃないか。だから見送りたくなってね」
「面白いと言うより、大変な旅だよ」
「自転車でヨーロッパを回るんだってね。社長と平社員の珍道中だ」
「どうなるのか予想がつかないんだけど、とにかく始めてしまえばなんとかなるだろう、という行きあたりばったりの旅行だよ」
うん、とうなずいてから、東は上着の胸ポケットに手をやった。
「実はね、ぼくは最近また職についたんだよ。今はこういうところにいる」
そう言って、名刺を出した。そこには、出版社の社名があった。
「そこでお願いなんだけど、きみたちの旅行を記録にまとめてくれないかい。メモを取っておいて、あとで旅行記にするのさ」
「旅の記録はちゃんと取っておくつもりだけどね」
「それを本にまとめさせてほしいんだ。ぼくが担当して、うちの会社で出版したいんだよ」
鮎太は一歩引いて考えて、それからニヤリと笑った。こいつがそんなふうに仕事に意欲を見せるのは、悪いことではないな、と思ったのだ。
「もし旅行記が書けたら、必ずきみに見せると約束しよう。でも、書けるか書けないかはまだわからないぜ」
「書けたら、でいいよ。その時は、ぼくのことを思いだしてくれ」
二人は目を交わし、それから握手をした。
「無事を祈ってる」
と東は言った。
「ありがとう」
それから、ナオとの別れだった。鮎太はナオを軽くハグした。
「気をつけてね」
とナオは言った。
「うん」
「こわい国は行っちゃいけないよ」
「うん」
「外国人の不良と喧嘩しちゃダメだよ」
「うん」
「絶対にメールくんなきゃやだよ」
「わかった」
そうして、笑顔で見つめ合った。
「じゃあ、行ってくる」
大道寺と二人で、手荷物検査の入り口に向かった。見送る三人は、その姿を目で追う。ナオは最後まで涙を見せなかった。
パスポートと搭乗券を右手に持ち、手荷物をベルトコンベアにのせる体勢になって、大道寺と目が合った。
「さあ、行くぜ」
と鮎太は力強く言った。この先におれたちの未来があるんだ、という気分だった。
だが大道寺が言ったのはこの言葉だった。
「すっごいドタバタの珍道中になるような気がして、逃げだしたいような気分よ」
ガハハハと鮎太は笑った。そういう旅行がいちばん楽しいぜ、と思ったのだ。おれは運がいいんだから、安心して何もかもまかせろ、という気分であった。
自分たちを鍛える。二人の男がそういう旅に出た。
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あとがき
この小説を普通に分類するならば、明朗青春小説、ということになるだろう。不思議に運が悪くて災難に巻き込まれることの多い主人公が、楽天的でエネルギッシュな性格から、すべてを肯定的に受けとめて前向きに生きていく、という物語なのだから。広告コピー的に言うなら私はこの小説を、さくさく読めて元気の出る小説≠ノしたかったのだ。
しかし、実のところ、二十一世紀初頭の現代において、明朗青春小説を書くのは 楽なことではなかった。この厳しい時代に、そんな暢気《のんき》な小説が成立するだろうか、という問題があるのだ。
私はこの小説の主人公や、その周辺の友人や知人たちを、二十四歳から二十五歳を迎える年まわりに設定した。それは、今二十五歳くらいの若い人はとても生きにくい大変さの中にいるんじゃないだろうか、と思うからだ。
まず、日本社会は未曾有の老齢社会に突入しようとしている。この先、人口構成においてどんどん老齢者が増加し、反対に若い人の層が減少していくのだ。日本の人口は既に減少しつつあり、それは少子化傾向が進んでいるということだ。人口が減っていき、老人の比率ばかりが大きくなっていく社会は、必ず経済的活力を失っていく。
だからこそ、私を含めるところの団塊の世代は、年金制度は崩壊するのではないかと戦々恐々としているのだが、そういうことのツケは必ず若い人のところへも回っていくのだ。
というわけで、この先の苦しい時代を乗りきるために、経済界が無慈悲なまでの合理化をはかっていくことになる。日本の雇用制度が崩れ、正社員が少なくなるわけだ。その結果、不本意であっても派遣社員やフリーターに甘んじなければならないとか、場合によっては勤労意欲がないわけではないのに失業状態に追いやられている人まで出てくる。そういう人々が多数出現して、下級階層が形成されると警鐘を鳴らす人もいる。そこから、勝ち組、負け組なんていう流行語ができ、自分ははたしてそのどちらなんだろうと若い人が気に病むのである。まことに厳しい時代で、そういう時代の二十五歳くらいの若い人はつい暗い表情で悩んでしまうよなあ、と思う。
しかし、だからこそ私は、前向きな明るい青春小説を書きたいと思ったのだ。厳しい時代の中に生きていても、暗いほうにばかり考えてはいけないと思うからだ。
自分は負け組ではないだろうか、なんて考えてはいけない。そんなふうに思うだけで、人生が暗くなり、幸せから遠のくのだ。
大切なことは自分を好きになり、前向きに自信を持って生きることだ。まっとうに生きていれば、人生なんてそうこわくはないのである。
そういう私の考えから、この小説の主人公荒木鮎太は生みだされた。天才でも英雄でもないが、フツーに明るい男である。ちゃんと生きていれば、どうにかなるものさ、という考えの楽天家であり、生きることに真面目だ。
鮎太が運の悪い男だというのはある種の小説的トリックであり、どんなに運の悪いことがおこっても屁とも思わない男なのだから、違った意味で強運を呼び寄せるのである。そしてその運のよさによって、仕事のこともうまくころがってしまう。
つまり、運は自分でいい方向へところがせるものなんだ、と私は言っているのである。元気で、明るく、ちょっと図々しく生きれば、そんなに困ったことにはならないものだよ、と私はこの小説で、若い人に語りかけているわけだ。そういう、読者にエールを送る小説になっていれば、こんなにうれしいことはない。
二〇〇八年十月
[#地から1字上げ]清水義範
本書はWebサイト『MouRa』(http://moura.jp/)において、2007年6月15日から2008年9月1日まで30回にわたって連載されました(毎月1日、15日更新)。
清水義範(しみず・よしのり)
1947年愛知県生まれ。小説家。愛知教育大学国語科卒業。1981年『昭和御前試合』で文壇デビュー後、1986年『蕎麦ときしめん』でパスティーシュ文学を確立し、1988年『国語入試問題必勝法』で第9回吉川英治文学新人賞を受賞。著書に『雑学のすすめ』『おもしろくても理科』(ともに絵・西原理恵子)、『世にも珍妙な物語集』など多数。
公式HP 清水家のお茶の間ページ
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底本
講談社 単行本
いい奴《やつ》じゃん
著 者――清水義範《しみずよしのり》
2008年10月23日 第1刷発行
発行者――野間佐和子
発行所――株式会社 講談社
[#地付き]2008年11月1日作成 hj
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置き換え文字
噛《※》 ※[#「口+齒」、第3水準1-15-26]「口+齒」、第3水準1-15-26
鹸《※》 ※[#「鹵+僉」、第3水準1-94-74]「鹵+僉」、第3水準1-94-74
掴《※》 ※[#「てへん+國」、第3水準1-84-89]「てへん+國」、第3水準1-84-89