妖魔夜行 影と幻の宴
清松みゆき/柘植めぐみ/友野詳
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目 次
第一話 ナイトメアゲーム 清松みゆき
第二話 蹄《ひづめ》の守護者 柘植めぐみ
第三話 影と幻の宴 友野 詳
妖怪ファイル
あとがき 清松みゆき
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Take-1――――――――
テレビでは夜桜が雨に打たれている。
どこかの公園だろうかと思っていると、すうっとカメラが引かれた。湾曲した壁がそそり立っている。
ああ、野球場だ。
そういえば、春の高校野球はまだ続いていた。雨で順延が相次いで、新学期が始まってもなお応援に行かなくてはならない、とぼやく高校の記事が新聞に載っていた。なんとぜいたくな悩みだろう。勝つのはよいことだ。選手はそれだけ長く、好きな野球に打ちこめるのだから。
画面が切り換わる。
幻想的な景色が消えて、いつものプロ野球中継が始まった。
もう何十年も続けられてきたものと同じ。野球ファンを自負するアナウンサーに、淡々と言葉を返す解説者。
巨人の桑田が投げている。ごく当たり前のように。
アナウンサーだけがやけに盛り上がっていた。
「今日勝てば、二年ぶりの美酒を味わうことになります」
どんなに長く戦列を離れていても、桑田の人気が衰えることはなかったらしい。スタンドからも、彼に向けられた声援ばかりが大きく聞こえるような気がする。
うらやましいかぎりだ。
皮肉な言い方かもしれないが、それが素直な感想だ。
彼のような選手は希有《けう》だ。能力だけではない。だれからも忘れられないでいることが、だ。
彼はどうして帰ってきたのだろう。期待に応《こた》えるためだろうか。それとも純粋に、野球が好きだから?
アイ・ライク・ベースボール。
見るのが好き、するのが好き、選手が好き。
「好き」だけで世の中を渡っていけたら、どんなに幸せだろう。それだけですべての問題をクリアできたら。無敵になれたら。
人間を前へと進ませるものは、いつも「好き」という想《おも》いだ。スポーツを続けるのも、音楽に耳を傾けるのも、ふらりと旅に出たくなるのも。
妖怪《ようかい》を生み出すのも。
わたしたちが、この物語を書くに至ったのも。
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第一話 ナイトメア・ゲーム 清松みゆき
プロローグ
1.野島敏彦
2.スポーツニュース
3.小堀れい子
4.ナイトゲームへの招待
5.なげて
エピローグ
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プロローグ
カクテル光線がグラウンドを昼間のような明るさに照らしだしている。
そのただなかに男が一人。、ピッチャーズマウンドの上。
人間≠ヘ一人だけだ。
観客は一人もいない。
打者も、捕手も、審判もいない。
内野手も、外野手もいない。
投手だけがいる。
ぎりぎりぎり。
投手はボールを高く上げる。
「やめてくれ」
ポール≠ェ哀れな声をあげた。そこにいる、唯一の人間≠ェ。
「なぜ、やめる?」
人間≠ナはない投手≠ェ、人間≠ナあるポール≠ノ尋ねる。
「俺《おれ》はピッチャーだ。そして、あんたはピッチング・コーチだ。俺がどんな球を投げられるのか、お前は見たいだろう?」
「見、見なくていい」
長部《おさべ》は涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにして泣いていた。TVに出てくるときの貫禄《かんろく》は微塵《みじん》もない。
「なぜだ? 見てくれなきゃ困る。俺はピッチャーで、あんたはピッ一チング・コーチだろう?」
「横で……横で見るよ。お願いだ。下ろしてくれ」
襟首を持たれ、高く吊《つ》り上げられたまま、長部は懇願した。足は地面についていない。空しく宙を蹴《け》って暴れている。
「いいや、一番わかりやすいところで見ていてくれ。俺が、どれだけの球を投げられるのか」
投手≠ヘ、告げる。
「俺は投げられる。あんたが俺をいらないって言ったのは間違いなんだ。それを証明してやるよ」
「わかった。わかったから、お願いだ。下ろしてくれ。投げなくてもいい。わかったから」
「いいや、投げる。俺は投げられるんだ」
ぐるり。
長部の眼前の光景が回る。さっきまで見えていたバックスクリーンが視界から消え、代わりにバックネットが入ってくる。
自分が回されたのだ。ピッチャーが振りかぶったときのボールのように、投手≠フ身体《からだ》の前から後ろへ。
「は、離してくれ!」
長部は悲鳴を上げた。悲鳴を上げて、自分を掴《つか》む腕を両手で握りしめる。だが、いくら力を込めても引きはがすことはできない。
「ダメだよ。あんたも知っているだろう。一度モーションを起こしたら、止められないんだ。ボークになるじゃねえか」
身体が前に引っ張られる。
「助け……」
長部は言葉を続けられなかった。たっぷりとスナップを利かせ、投手≠ヘ長部の身体を投げ飛ばした。
ごうう。
風が長部の顔を叩《たた》き、歪《ゆが》ませる。
ピッチャーズマウンドからホームベースまで一八・四四メートル。
そこを長部の身体は〇・四四秒で通過した。
止めてくれっ!
迫りくるフェンスを見つめながら、長部になすすべはなかった。
青いフェンスが視界一杯に広がる。
ホームベースからバックフェンスまで、一八・三〇メートル。〇・四三秒。
ぐしゃり。
時速一五〇キロでコンクリートのフェンスに叩きつけられ、長部の身体は、水入り風船のよぅに破裂し、血を撒《ま》き散らした。
「どうだい、コーチ? 俺のストレートは?」
投手≠ェ尋ねる。
むろん、長部は答えられなかった。
カチャ……カチャ……カチャ。
無機質な音が続き、明かりが消えていく。
球場は再び、夜の闇《やみ》に閉ざされた。
1 野島敏彦
「やや、これはいけませんね」
やぼったいハーフコートの男は、そう呟《つぶや》くと、これまたやぼったい山高帽――そんなものを頭に載せているというだけでも、この街には不似合いだ。第一、とうに日は沈んでいる――を目深に被《かぶ》りなおした。
彼、土屋《つちや》野呂介《のろすけ》はくるりと踵《きびす》を返した。
前方から、自分のゼミの学生が歩小てきたのを見つけたからだ。夜の盛り場で教授が学生に姿を見られたからといって、ふつう、どうということはないのだが――昼の講義を体調不良を理由に休講にした日には、ちと具合が悪い。
どん。
いきなり後ろを向いて歩きだせば、人にぶつかってもしかたがない。まして、帽子を深く被り、頭を下げていれば前が見えないのも道理だ。
ふだんの彼ならば、目は見えなくとも問題ないのだが。鋭敏な聴覚が周囲の音を聞き分け、人間が目で見ているのと同様に、状況を把握する。
ところが、動転していて、それを忘れていた。
人間の姿に化けたモグラ妖怪《ようかい》は、地面にすってんと転がった。
「いや、すいません」
自分が倒れていながら、教授≠ヘ謝った。人間の世界では考古学者土屋野呂介、正体はモグラ妖怪、そして妖怪たちの間での通り名が教授だ。
「大丈夫かい?」
上から声が降ってくる。
見上げてみれば、薄い青のジャケットにジーンズの青年が手を差し出している。ジャケットの下には、十二月も近いというのに薄手の黄色いセーター。ゼミの学生と同年代のようだ。
「いきなり振り返るものだから」
「いや、大丈夫ですよ」
教授は下から右手を出す。手が違うことに気づいた。青年が差し出しているのは左手だ。
青年は、左手で教授の右手首を握った。
「悪《わり》い。右手は力が人らねえんだ」
ぐいと左腕で引っ張り上げる。大柄で筋肉質のその青年は、いともあっさりと、ずんぐりむっくりの教授の身体を引き起こした。
「や、これはどうもどうも。いや、すごい力だ」
「大したこっちゃないよ。怪我《けが》は?」
「いや、大丈夫」
教授は、ずり落ちかけた丸いサングラスを掛けなおし、コートをばんばんとはたきながら答える。
「あれえ? モグさんじゃないかな?」
ギクッ。
背後からの声に教授は、背筋を丸めた。
「モグさん?」
女の声が重なる。
教授の呼び名はもう一つあった。学生たちのつけた仇名《あだな》、モグさん。それが正しく彼の正体を言い表しているとは、学生の誰一人として夢想だにしていない。
「うちのゼミの教授だよ」
どうやら、夜のデートの真っ最中らしい。今日、冬の晴れ間の陽ざしがあれほどでなければ、講義を休むこともなかったのだが。
そうならば、バツの悪い顔をしてこそこそ逃げ隠れするはめになったのは学生のほうなのに。
「いや、まったく、ついてない」
思いを言葉に出して、教授はさらに頭を下げ、青年の横を通り過ぎようとした。
「ちょっと待ちなよ」
ジャケットの青年は、その肩を捕まえた。
「ぶつかったのはあんたのせいだぜ」
「あ、いや、それはそのとおり」
教授はさらに縮こまった。光もささず、友もいない地面の下に長いこともぐっていたモグラ妖怪は、会話の相手に自分自身を選んだ。そうやって身についた、思ったことをつい独り言にしてしまう癖は、どうにもなおらない。
「だったら、なんでそういうふうに言うんだ」
「いや、そういう意味ではなくてですね」
「……ほら、身体《からだ》が弱いって、いっつも講義をさぼってばかりの。今日も休みだったんだけど……」
「じゃあ、どういう意味だい?」
「ちょっと、急いでまして」
「はん? それで、人にぶつかったってか?」
「……やっぱりモグさんだよなあ……」
前からは、青年が厳しい顔で詰問してくる。後ろからは、聞こえよがしの学生の声。
「おい、何とか言ったらどうだ?」
「いいから! ちょっと黙ってください! そこの店にでも入りましょう!」
教授は突然、大声で怒鳴った。そして、青年の左腕をむんずと掴んで引っ張った。
「ちょちょちょっと、おっさん」
抗議する青年の声にかまわず、教授は近くのスナックに飛びこんだ。
「いったい、どうしたっての?」
丸テーブルをはさんで、青年がやれやれといった顔で問う。テーブルの上には、注文したばかりの国産ウィスキーの黒いボトル、アイスポットとラベルの汚れたミネラルウォーターの瓶がある。アイスポットに入っているのは、製氷皿で作りましたと言わんばかりのキューブアイス。つきだしはカキノタネだ。
カラオケで中年の男が「マイ・ウェイ」を歌っているのがBGM。
「ちょっと会いたくない人間がいたもので」
教授は小さな声で答える。我ながら、自分のかんしゃくにあきれている。
あれでは、かえって学生に妙に思われたに違いない。講義をさぼって遊び歩いているなどという噂《うわさ》をたてられてはかなわない。最近、教授会の覚えもよくない。いっそ、堂々と顔を見せたほうがマシだった。少しばかり採点に手加減してやると言えは、口をつぐんでくれただろう。
あげくに見も知らぬ青年を入ったこともない店に引っ張りこみ、あまり飲まないウィスキーをボトルで入れてしまった。店の名前を覚えておかないと。今度、八環《やたまき》でも連れてきて飲んでもらおう。
青年はロックグラスを左手で持ち上げた。袖口《そでぐち》から、金色の腕時計が覗《のぞ》く。
ダブルをぐいっと飲み干す。まるで水でも飲むかのようにあっさりしたものだ。
「おかわり、もらっていいかな?」
「あ、どうぞ」
青年は、グラスにウィスキーをざざっと注ぎ足した。マドラーで乱暴にかき混ぜる。シングルとか、ダブルとか、そういった世界ではない。′
「で、何? 会いたくない人間って? あんた、ひょっとして探偵か何かか?」
「えっ?」
「そのサングラスさ。夜もかけてるなんて変だぜ。変装かい?」
「まさか。目が弱いだけですよ」
教授は答える。嘘《うそ》ではない。もともとがモグラだけに光は苦手だ。今日の昼のように快晴のときなど、目がくらんで何も見えなくなる。肌を露出していれば、冬の弱い陽ざしでさえも、水ぶくれを作ってくれる。だから、今日の講義も休みにした。東京でなければ――ビルがところ狭しと立ち並び、地下鉄が縦横に走っているこの都会でなければ――人間のふりをして生きていくのは難しかっただろう。
「ふうん」
青年は頷《うなず》くと、グラスを口に持っていく。ごくごくと、喉《のど》を鳴らして半分ほど飲みこむ。
有月《ありつき》みたいな飲みかたをする。教授は仲間の一人を思いだした。うわばみと呼ばれる妖怪を。
教授は自分のグラスに口をつけてみた。こちらは水割り。
「確かにアルコールですね」
おっと、また独り言。
「当たり前だろ」
青年はカキノタネを一掴《ひとつか》み、口に放りこんだ。
「探偵じゃなきゃ、何なんだい?」
「大学で教授をやってます」
青年の問いに教授は答えた。どっちが年上だかわからない。
グラスとつまみを交互に口に運びながらしゃべる青年に、人を見下しているという雰囲気はない。誰とでも気安くしゃべりたがる性格らしい――教授の真の年齢を知ったら青年は目を回すだろうが、それでもしゃべりかたは変わらないかもしれない。
「へえ、大学の先生」
青年はじろじろと教授を見る。
「あんまり見えないね。白い服、着ないのかい?」
「わたしは考古学が専門です。それに、医学や化学の教授でも、飲みに出るのに白衣を着たりはしませんよ」
「そう……言われてみりゃそうかもね」
青年は頷き、チーズをクラッカーに載せて口に運ぶ。青年が次から次へと注文するため、いつの間にやら、さまざまなつまみが並んでいる。
「考古学ってのは、あれかい? ピラミッドとかを調べるんだろ?」
「ええ。でも、わたしは日本が専門でして」
「ふうん……なあ、ピラミッドには不思議なパワーがあるってのは本当なのかい?」
青年の問いに教授は言葉を詰まらせた。
「さて? さっきも言ったとおり、わたしは日本専門ですので」
「でも、あれだろ? ツタンカーメンの呪《のろ》いとか、あるんだろ?」
「ふつう、ファラオの呪いと言いますが」
「そうだっけ? でも、あるんだろ?」
「どうでしょうねえ」
教授は言葉を濁した。
人間の同業者には聞かせられない台詞《せりふ》だ。
だが、教授は知っている。それが、あるかもしれないことを。
むろん、あるとするなら、妖怪《ようかい》のしわざだ。
特定の場所を神聖視する人間は、そうした場所を守る存在を夢想する。そこを汚すことが禁忌であり、罰が与えられるべきと考える。そうした人間が多ければ、ついには妖怪が生まれる。その場所を守るために。
「大学の先生だろ? わかんないのかい?」
「教授なんて、専門外のことは全然わからないものですよ」
またまた、同業者に目を剥《む》かれそうな台詞を吐き、教授は隅っこに追いやられたつきだしの皿から、カキノタネを少しつまんで口に入れた。
「ところで、あなたは何をなさっておいでで? 学生さんかな?」
「俺《おれ》かい? 今のところ、無職」
「はあ」
教授はしまったと言う顔で、テーブルにところ狭しと並べられたつまみの皿と、半分以上中身が消えたウィスキーのボトルを見渡した。
「ああ、心配しなくてもいいよ。金はあるんだ。ワリカンでいこう」
「ワリカンですか……」
ちょっと割に合わないような気がする。教授はまだ水割り二杯はどしか飲んでいない。つまみもほとんど口にしていない。
「今は、何もする気が起きなくてね」
青年はぐいとグラスを呷《あお》った。
「学歴もないし、何か資格を持っているわけでもない。でも田舎には帰りたくなくてね」
人参《にんじん》のスティックを噛《か》みおりながら、口の中に詰めこむ。
「今は、コレのところに転がりこんでる」
青年は左手の小指を立てた。
「高校の後輩でね、新宿のお風呂屋さんで思わぬ再会ってやつ。高校のときはアイドルだったからね、俺。行くところがなければ、おいでよって誘われちまった」
バン。
教授は、テーブルを叩《たた》いた。
「そういうことなら!」
大声を張り上げる。
「ここの払いはあなたにはいっさいさせません。わたしが全部払います!」
「ちょっと、おっさん」
「何ですか! 女性をそんなところで働かせて自分は遊んで暮らしてるということですかっ! そんなお金は遣わせませんよ!」
「ちょいと待ってくれよ。金は俺んだって」
「何ですって!」
「頼むよ、そんなに怒鳴るなよ」
教授ははっと気がついて店内を見渡した。ほかの客や店員がじろじろとこちらを見ている。
マイクを握った男が歌うのをやめたため、カラオケが「津軽《つがる》海峡冬景色」をバックコーラスだけ流し続けている。
教授はぺこぺこと頭を下げながら一回転する。やがて、客はそれぞれの雑談に戻り、マイクも下手な歌声を拾い始める。
「俺、貯金があるんだよ。本当だって。女にも、俺の食いぶちぐらいは、毎月渡してるんだ」
「どうやって手に入れたお金ですか」
教授は必要以上に小さな声になって尋ねる。
「そんなの、先生には関係ねえだろう」
「いいや、あります。それもいかがわしいお金なら、遣わせるわけにはいきません」
「そんなんじゃねえよ」
青年はすっと横を向いて視線を逸《そ》らした。
「名前を聞いてなかったね、先生」
「土屋、土屋野呂介です」
「俺は野島《のじま》敏彦《としひこ》」
名乗ってから、青年は教授をじっと見つめた。
「聞いたことない?」
「さて……申し訳ありませんが」
「そうか。知ってる人間は知ってるんだがなあ。元プロ野球選手」
「はあ、そうですか。野茂《のも》とかイチローとかは聞いたことがあるんですが」
「そんな活躍はしなかったよ。一軍じゃ投げてない」
「う〜ん、野球はほとんど見ませんからねえ」
「じゃ、俺のことは知らなくてもしょうがねえか」
青年はグラスをからからと回す。
「高校三年のときさ。ドラフト一位でパンサーズに指名されてね」
野島は今シーズン、下から二番目に終わったパシフィック・リーグのチーム名を挙げた。
「契約金は七千万。今はオーナーが変わったからそうでもないが、あの頃は貧乏球団でね。それにしちゃ、はずんでくれたほうさ。だいぶ税金やらで持っていかれたが、まだ残っちゃいるんだ」
「それで、ですか」
「高三のときの俺は、すごかったんだぜ。甲子園には出られなかったがよ。一五〇キロ出てたんだ、高校生で。入ったときは、すぐにエースになれると評判さ。ところが、いきなり肩をやっちまった。結局、一軍には上がらずじまいさ。二軍でも、あんまり投げちゃいない。通算で〇勝二敗一セーブ。大した契約金泥棒だろ」
青年は淋《さみ》しそうに笑った。
「セーブをあげたのは一昨年さ。何とか肩も治ってね。これでいけると思ったんだ」
グラスを飲み干す。
「セーブ?」
「聞いたことないかい? ピッチャーの成績で何勝何敗何セーブって」
「ああ、あります。何勝何敗ってのはわかるような気がするんですが、そのセーブというのはよくわかりませんね」
「セーブってのは、味方が接戦でリードしているときにピッチャーに出てきて、そのまま相手を押さえて逃げ切ったときに、もらえるのさ」
「はあ」
教授は得心がいかずに、カキノタネを手でもてあそんでいる。
「えっとだな」
野島はぽりぽりと頭を掻《か》いた。
「プロ野球は九イニングやる。それはわかるな」
「ええ」
「先発ピッチャーが七回まで投げて、二対一でリードしているとするじゃねえか」
「ええ」
「ところが、七回にノーアウト満塁の大ピンチだ。ピッチャーはへばっちまって、もうふらふら。先生が監督ならどうする?」
「そうですね。別のピッチャーに代えますね」
「だろ? で、後から出てきたピッチャーが、そのピンチを〇点に押さえる。そのまま、八回、九回も〇点に押さえる。そうすると二対一のまま、チームは勝ちだ」
「そうなりますね」
「七回まで投げた先発は偉いよ。だから、そいつは勝利投手だ。『一勝』をもらえる。でも、七回から出てきた押さえのピッチャーも偉いだろ?」
「そうですね」
「だから、そいつは、セーブをもらうんだよ。押さえ投手の勲章ってわけよ」
「そういう意味だったんですか」
「ああ……と、話がすっかりそれちまったな。俺がセーブをあげたのは、四年目さ。三回をぴしゃりと投げきってね。ランナー一人も出さずに。これで一軍も間近だ、と思ったんだがよ」
野島は空になったグラスに自分で注ぎたす。
「ところが、今度は肘《ひじ》をやっちまった」
がらがらがら。左手でマドラーを回す音が、やけに教授の耳についた。
「結局、肘は治らなかった。何とか、投げられるぐらいにはなったが、スピードがなくなっちまってね。それに、ちょっと投げると痺《しび》れてくるんだ。結局、去年でお役ごめんというわけさ」
「その……手術とかは?」
「ダメダメ。一軍の実績もないピッチャーにそんな金を出してくれる球団じゃなかったんだよ」
「貯金があったのでしょう? 自費で、ということは考えなかったんですか?」
「許してもらえなかったよ。手術すりゃ、うまくいっても、一年以上リハビリだぜ。その間は給料泥棒になっちまう。投げながら治せってさ」
「はあ、そんなことができるんですか?」
「できなかったよ。言ったろ、スピードがなくなったって。治すどころか、投げるたびに肘は悪くなってった。それで去年、辞めたのさ。もう野球には見切りをつけて、新しい職を捜そうってな。何せ、気がついたら二十三になってたからな」
野島はまた、グラスを呷った。
「言いたくはないんですがね」
教授はテーブルの上で両手を組み合わせた。
「引退したのは去年なんでしょう? 一年もぶらぶらしていたんですか?」
「ああ。ダメなんだよ。俺《おれ》は、ずっと野球しかやってこなかった。高校にも野球で入ったんだ。体育科のある新設の私立に越境入学してね。高校でも朝から晩まで、ボールを追っかけてばかりだったよ。卒業証書はもらえたさ。野球で有名になりたい高校だったんだから。ドラフト一位指名された俺は、理事長からお祝いまでもらったよ。でも、中学からこっち、勉強なんかしたことはない」
「う〜ん」
「人づきあいも下手だろ? あんたみたいな大学の先生捕まえて、このしゃべりかただ」
「気にはなりませんよ」
「あんたみたいな、いい人ばかりじゃないよ。ダメなんだよなあ。野球だけやってて、ちやほやされていたときの癖が全然抜けない。それじゃいけねえとわかっちゃいるんだ。でも、就職して、上の人間にあれこれ言われると、我慢がきかねえんだ。何で、こんなやつに、と思っちまう。思っちまうと手が出る。このガタイで暴れた日には」
野島は、肩をすくめた。
「次の日から来てくれるなってことになるわけさ」
「喧嘩《けんか》はいけませんよ」
「わかってるよ。でも、いらいらしてばかりでね。どうしても野球が頭から離れねえんだ。何をしていても退屈さ。ときどき、キャッチボールがしたくてたまらなくなる。夜明け前に、いきなりランニングに出ちまったことも一度や二度じゃない。人のいねえ道路をだーつと走って、息が切れたら、何で、俺はこんな馬鹿なことをしてるんだって」
野島は、また淋しげな笑みを浮かべた。
2 スポーツニュース
古びたエレベーターは、がたんと音を立てて存在しないはずの′ワ階で止まった。
開いたエレベーターの前に、血のように赤い扉。そして、黒い文字のプレート。
<うさぎの穴>
教授は、その扉を押し開ける。ちりりんという鈴の音と、やわらかなどアノの音色が迎え入れる。
「やあ、教授。今日は遅いおいでだね」
カウンターから初老の男が声をかける。
「いや、別のところで飲むはめになっちゃいまして。すいませんが、マスター、今日の払いはツケにしといてもらえますか?」
「かまわないよ」
「いや、申し訳ない。まさか、ボトル二本空けられるとは思ってませんでした」
「二本? 教授が?」
「わたしは、いつもより少ないくらいで。一緒に飲んでた人間がです。強いんですよ、これがいや、参りました」
「有月さんですか?」
テーブルに座っていた小太りの青年が教授に声をかけた。
「違いますよ。人間と言ったでしょう。そうだ、大樹《だいき》くん、きみ、野島敏彦という男を知っでいるかね?」
「誰です、それ?」
「元プロ野球選手らしいんだが」
「プロ野球? それは専門外だなあ、流《りゅう》はどう?」
大樹は自分と向き合う形でテーブルに座っている青年に尋ねる。教授は、野島を思いだし、この半龍半人の青年と体格を重ねてみた。どちらも大したものだが、野島のほうが、やや肉厚だろう。
「いや、知らない。どこの選手っスか? 教授」
「パンサーズだそうですよ。まあ、ずっと二軍だったそうですから」
「あのお荷物球団の? それも二軍? そりゃわからないよ」
「ドラフト一位だったそうですよ」
「毎年十三人」
大樹が口を開く。
「日本にプロ野球チームは十三あるんですよ、教授。つまり、毎年それだけの人数が、ドラフ上位指名されるってことです。野球好きじゃないと覚えてられません」
「その人と飲んでいたのかね?」
カウンターからマスターが尋ねる。
「ええ。はずみで」
教授は野島との出会いをかいつまんで語った。
カチッ。
カウンターの片隅に置かれた一四インチのテレビが、突然画面を映しだした。誰もリモコンをいじった様子はない。
コンピュータ・グラフィックスで作られたタイトルが踊り、軽快な音楽が流れる。
<では、「ニュース・プロ野球」です。福江《ふくえ》さん、関目《せきめ》さん、どうぞ>
女性のニュースキャスターの台詞《せりふ》とともに、カメラが切り替わり、二人の男を映しだす。
<……今日の最初のニュースですが、ヒカリ工機が本拠地《フランチャイズ》を正式に仙台に移すことと、新しいニックネームが決定したことを発表しました>
眼鏡をかけたアナウンサーがカメラに向かってしゃべっている。
「あ、例のパンサーズっスよ、教授。そういや、去年買収されたんだっけ、この球団」
<新しいニックネームはレーザーズです。どうでしょう、関目さん、ヒカリ工機レーザーズという名前は?>
<いいですよね。わたしは気に入りましたよ>
初老の紳士然としたもう一人が、笑みを浮かべて答える。
教授はテレビの前で苦い顔をした。何て名前だ。
<未来的でいいじゃないですか>
「一九六〇年に開発されたレーザーのどこが未来だって」
大樹がしてやったりとばかりに、テレビに突っこみをいれる。算盤《そろばん》坊主としては、人の嫌がる音を出さずにいられないようだ。
<パンサーズという名前に愛着のある人も多いでしょうけれど、心機一転してやり直すという意味ではいいんじゃないですか。選手たちには長部コーチの分まで頑張ってほしいと思いますね>
「そういや、この間、自殺したピッチング・コーチって、ここの人間だったっスね」
「おや、そんなことがあったんですか?」
「何でも球場のそばのビルから飛び降りたって話っスよ。いろいろ大変なんでしょうね」
「その話は聞いたことがあるよ」
大樹が流の言葉を継いだ。
「変な噂《うわさ》が立ってる。死体から近くの球場まで、血の跡が点々とついていたとか」
「それ、本当かよ?」
流が身体を乗り出した。
「だとしたら、何かあるかもしれないぜ」
「ところが、やっぱりただの噂。『幽霊を乗せたタクシー』の変形だよ、.流。飛び降りて死んだ後、選手を指導するために球場まで歩いていったってオチがついてる」
「なんだ」
「へタな変形だね。死体が残ってるのと矛盾するっての」
<……それから、レーザーズはフランチャイズを来期から新仙台球場に完全に移行することになりました。来年以降は、すべての主催ゲームを新仙台球場で行ない、以前のフランチャイズだった隅田リバーサイド・スタジアムは、正式に閉鎖されるということです>
<それは少し残念ですねえ。下町の唯一の球場だったんですが。人情というか、味がありましたよ、あの球場は>
「ほら。ここもおかしい。球場移転はそのコーチはとうに知ってたはずだよ。だったら、古い球場に歩いていったのは、ますます矛盾だね。話を作るならもうちょっとマシに作ってもらいたいね」
「ただの噂にそう突っこみをいれてもしかたないでしょう」
教授は大樹をたしなめた。
<新しい球場と新しい名前で、頑張ってくレーザーと、いうところで>
<またまた>
TVでは、強引な駄酒落《だじゃれ》でアナウンサーがニュースを締めくくった。
「まいったっスね、こりゃ」
流は苦笑いを浮かべて教授を見る。
「いきなりスポーツニュースがかかっちゃった。教授のせいっスよ」
「野島くんのことがニュースになるとも思えませんけどね。引退は去年だったそうですから」
「気になるのかね? その野島くんとやらが」
カウンターの向こうから、マスターが尋ねる。
「断わりきれなかったんですよ」
教授は頭を掻《か》いた。
「まだ飲もうと絡むのを、もう遅いからとやっと振り切ってきたんですけどね、また会う約束をしてきてしまいました」
「それはそれは」
「そのときには、話を合わせてあげたいじゃないですか。はら、何勝何敗何セーブって言うでしょう。あのセーブがわからなくて」
「リリーフ投手のタイトルですね」
大樹が口をはさんできた。
「あれ? 野球は専門外では?」
「ルールぐらい、一通りは知ってます」
「ゲームだな」
流が笑いながら、サイコロを振る手つきをしてみせる。
「何で覚えようが、人の勝手だと思うけどね」
「知ってるなら、教えてくれませんか?」
「いいですよ。セーブがもらえるのは、最後に出てきて、リードを守りきったピッチャーです」
「二対一の七回から出てきて、九回まで押さえたとか、そういうことですね」
「ええ、そうです。ただし、いくつか条件があるんですよ。一つは、大差のリードじゃないこと。十対〇で勝ってる試合の九回だけ投げてもセーブはもらえません」
「まあ、そうだろうな」
流がぐるりと腕を回した。
「点差については、詳しい条件があるんだけどね。教授、聞きます?」
「ややこしそうだねえ。飛ばしてくれるかな」
教授は苦笑いを浮かべる。
「ちょっとだけなんですけどね。それから、勝利投手にならないことというのもありますね」
「はあ」
「リリーフに出てきて、逆転されて、もう一度味方が逆転して勝ったら、勝利投手になって、セーブにはなりません」
「なるほど」
「リードを保ったときでも、ロングリリーフのときはセーブじゃなくて、勝利投手になっちゃう場合があります。先発は五回まで投げないと勝利投手の権利がないなんてルールもありますからね」
「いろいろあるんだねえ」
「リードをきっちり押さえて、終盤に逆転を許さずに逃げきるのがいいリリーフピッチャーという立場で作られたルールでしょうからね」
「なるほど」
「さて、俺《おれ》は帰るよ」
流が立ち上がった。
「教授も引きあげたほうがいいんじゃないですか。大樹は、外泊OKだろうけど」
教授はちらりと腕時計を見た。確かに、十二時近くになろうとしている。
「そうですね。帰りましょう」
明日は雨だといいなと思いながら、教授は <うさぎの穴> を後にした。
3 小堀れい子
都会に夜はない。
太陽はとうに沈み、空に光はないというのに、地上は光に満ちている。
そして、人々の喧騒《けんそう》に。
教授は、ぞろぞろと動き回る人々の中に、頭半分から一つばかりを突き出して、のっそりと立っている男を見つけた。
手をあげて近づく。
「やあ」
野島は人なつっこい笑顔で出迎えた。
「れい子」
野島は、隣に立つ若い女を示しつつ、照れたような笑いを浮かべながら、それだけを言った。
まだ若い。薄く化粧をして、地味な茶色のコートを着ている。長めの髪はきれいになでつけられていた。
「土屋です。よろしく」
教授は山高帽を軽く持ち上げ、頭を下げた。
れい子と呼ばれた女は、ぎこちなく教授に笑みを返した。
「本当に来てくれるとは思わなかったな」
野島は教授のグラスにビールを注ぎながら、そう言った。
「約束ですから」
泡が溢《あふ》れそうになり、教授は慌ててグラスを引いて口で迎えにいった。
「この入ったら、何度も『いい人に会った。あの人はいい人だ』ってうるさいくらいに」
れい子が簡単なつまみの載った盆を運んできた。
かちゃかちゃとテーブルの上に皿を並べる。
「もう少し作りますね」
そういって、さっさと台所に戻る。
「ああ、あまりお気遣いなく」
「トシくんはよく食べるから、それじゃ足らないんですよ」
包丁をトントンと鳴らす音が、れい子の背中越しに聞こえてくる。
教授は、二人の住んでいる|富ヶ谷《とみがや》のワンルーム・マンションに招き入れられていた。
「適当に切り上げて、こっちに来いよ。休みにしたんだろ?」
野島がれい子に声をかける。
「いいよ、あたしは」
「何だ?」
野島は腰を上げた。台所に歩いていって、れい子に顔を近づける。
「何かあったのか?」
「何でも……」
教授はそのれい子の態度に、居心地の悪さを感じた。どうも避けられているような気がする。
「嫌われるようなことをしましたっけ?」
二人に聞こえないように、そっと呟《つぶや》いた。
「それで、まだ仕事は決まりませんか?」
昨日の今日とわかっていながら、教授は野島に尋ねる。
「全然」
野島はビールを呷《あお》った。
「何とかしなきゃいけねえんだけどな。いつまでもれい子にあんな仕事はさせてられないし」
「あたしのことは気にしないでいいって」
「よかあねえよ!」
野島は台所に向かって怒鳴った。
「どうでしょうね。プロでなくても野球はやっているでしょう。ノンプロというのはダメなんですか? 肘《ひじ》を傷めて、ピッチャーとしてはもうダメかもしれませんが、バッターに転向すれば。それとも、高校野球のコーチとか」
「あんた、本当に野球のこと知らねえんだな」
野島は呆《あき》れ声をあげた。
「それができりゃ、とうにそうしてるよ。俺は野球しか取柄のない人間だが、野球なら人並み以上にできる自信はあるからな」
「だったら」
「できないってことになってんだよ」
野島は牛肉のタタキを二、三枚まとめて口に運びながら、答える。
「プロアマ協定ってのがあってね。一度プロになったら、アマチュアには戻れねえんだ」
「そうなんですか」
「それは承知の上で飛び込んだ世界だから、愚痴を言ってもしょうがないがね。もとよりバクチだとわかってのことだしよ」
野島は自嘲《じちょう》の笑みを浮かべた。
「……嘘《うそ》だな。十八、九のガキに人生の重みなんかわかるもんか。自分が転んだときのことなんか、考えられるもんか。転んでから初めてわかるんだ。自分がバクチを打っていたことによ。転んでから、起き上がろうとして気がつくんだ。自分の前に五十年って時間が残っていることに。起き上がる気力なんか、ぐちゃぐちゃに叩《たた》き潰《つぶ》されるぜ。野球抜きで五十年間どうやって生きろって?」
野島はビールを流しこみ、教授を見すえた。
「入団するときは、誰でもイチローや桑田《くわた》になれると思ってる。思わされるんだ。スカウトは口を揃《そろ》えて言うからな、『君は明日のプロ野球を担う人材だ』って。でも、なれなかったときのことなんか教えちゃくれねえ。なれなきゃ、ただの世間知らずの高卒が残るだけってことはよ。オール・オア・ナッシングって言葉は格好いいけど、誰も、ナッシングの怖さは教えちゃくれない」
教授は黙って野島のグラスにビールを注ぐ。
どんな言葉をかけてやるべきか、思いつかなかったからだ。
失敗を恐れないあくなき挑戦が人間を鍛えるのだと言えば格好はつくだろう。
しかし、そんな理想論で片づけられるものなら、目の前の青年は、一年間もぶらぶらとはしていなかっただろう。
「まったく、腹が立つぜ。そうかと思うと、まだ野球のことを持ち出して、人をからかうやつもいるんだ」
野島は教授にビール瓶を差し出す。
「この間のことさ、『あなたの投手としての力量を再度テストいたしたいと思います。まだやれるとの自信がおありなら、おいでください』なんて手紙が来やがった」
「あれは……気持ち悪かったわ」
れい子が新しいつまみの皿を持ってきた。
「茶色の封筒だぜ。べらべらの。しかも差出人がふざけてやがる。グラウンドキーパーの沼田《ぬまた》≠ニきたもんだ」
「ひどいイタズラですね」
「場所は隅田スタジアムだとよ。もう閉鎖されてるっての」
「そのニュースは見ましたよ」
「だろ? もうあの球場は使わねえんだ。じきに取り壊しさ。れい子、あの手紙を先生に見せてやりなよ」
「捨てたわ」
れい子はつまみの皿をテーブルに載せ、空になった皿を盆の上に片づけながら答えた。
「へっ?」
「だって、気持ち悪かったの。すごく。あの手紙があるだけで嫌な気分になって……だから」
「そりゃしょうがねえか。すまねえな、先生」
「まあ、別に。見ておもしろいものでもないでしょうし」
「……あたし、霊感が強いって言われるんですよ」
唐突にれい子は教授の顔を見ながら切り出した。
「古いお屋敷なんかへ行くと、ときどき感じるんです」
「は、はあ」
教授はぽかんとした顔を無理に作って応じた。
「長部コーチのときも」
「やめろよ、あんなやつの話」
野島は憮然《ぶぜん》とした顔でれい子に言う。
「トシくんがあの人を嫌っていたのは知ってるけど……あたし、見にいったんです。コーチが飛び降りたって場所に。そのときに感じたんですよ。背中がゾクゾクする感じ」
「やめろって。気のせいだよ」
「案外、本当なんじゃないの? まだ仕事をやり残しているんで球場まで歩いたって」
「馬鹿言え」
野島は空のグラスをれい子に向かって突き出した。れい子はビールをそれに注ぐ。
「あいつがそんな仕事熱心かよ。あいつが仕事してたのは監督とTVカメラが見ているときだけだったんだよ。みんな同じさ。二軍の豊竹《とよたけ》もな。そんな下らねえ話をしてんじゃねえよ、先生が困ってるじゃねえか」
「そうですか?」
「いやあ」
教授は言葉を濁した。れい子が突然、そんな話を始めた理由が推測できて、少し困ったからだ。
こりゃ、早めに切り上げたほうが無難ですかね。
言葉に出さないように意識して注意しながら、教授は心の中で呟いた。
4 ナイトゲームへの招待
トゥルルルルルル……。
電話が鳴っている。
教授は明かり一つない暗闇《くらやみ》の中で、迷うことなく受話器を取り上げた。
「はい、土屋ですが」
「……あの、小堀《こぼり》れい子です」
「小堀さん……? ああ、野島くんの」
昨夜会ったばかりの若い女を教授は思いだした。昨夜は、「まだ飲もう」と絡む野島を振り払うようにして部屋を出たのだ。
それは、小堀れい子というこの女と、あまり一緒にいたくなかったからだ。
「先生、トシくんを助けてください」
電話の向こうからせっば詰まった声で、れい子は訴えかけた。
「また、手紙が来たんです。茶色い事務用封筒の」
「グラウンドキーパーの沼田≠ウん?」
「そうなんです……」
ややあって、しゃくりあげる声。
「……トシくん、それを読んで。それで、ふらふら出かけちゃったんです」
「ふうむ」
「あたし、悪い予感がしてしかたがない。背中が寒くて寒くて……先生、先生もふつうじゃない人なんでしょう?」
やはり。
霊視の一種だ。妖怪《ようかい》や妖力の存在を感知していたのだ。人間たちの中に、この力を持つものは決して少なくはない。
小堀れい子が、初めて教授を見たときにぎこちない笑いしかできなかったのも、教授を部屋に入れたとき、どこかよそよそしい態度を取ったのも、教授が人外の生物であることを感じとったからだ。
確信できてはいなかった。れい子の感覚が、背中の寒気という曖昧《あいまい》で、しかもありふれたものでしかなかったからだ。かつて、 <うさぎの穴> の面々が出会った南の国の青年にいたっては、はっきりと妖怪の真の姿を見ることさえできた。
曖昧な感知は、思いこみが激しく、自分に暗示をかけているだけのケースのほうが圧倒的に多い。たとえば、有名になったオカルトスポットで、霊感があると騒ぎ立てるのは、ほとんどがこの思いこみだ。実際に感知している人間は一部なのだ。
「あたし、怖い。先生に言うのも怖い。でも、先生しか頼れないから。ねえ、先生、あなたはいい人なんでしょう? トシくんはそう言ってたんだから。だから……だから、お願い。トシくんを……あの人を助けて」
だが、ここまで言われては。間違えようがない。
「わかりました」
教授は受話器を叩きつけるように戻すと、愛用のくたびれたハーフコートを引っ掴《つか》み、夜の街に飛び出した。
近づいた途端、「道がわからない」と言い始めた運転手に一万円札を叩きつけ、交差点のたびに逆へ行こうとするのを訂正し、教授はタクシーをようやく隅田リバーサイド・スタジアムの専用駐車場に辿《たど》りつかせた。
隅田リバーサイド・スタジアムは、その名のとおり、隅田川のすぐそばに建てられている。球場には専用駐車場が隣接し、すぐそばの河川敷には――観客席はおろか、まともなダッグアウトすらないという代物ではあるが――第二グラウンドも作られている。
両翼は九一メートルとされているが、実測値はこれより下がって八八メートルという報告がある。センター最深部も一一七メートルしかない。両翼までの最短距離が九九メートル以上という野球規則をはなから無視した狭い球場だ。もっとも、地価の高い日本は、長らくこの規則を無視してきた。甲子園球場はもちろん、広いと言われていた横浜球場、西武球場でさえ規則違反だ。プロ野球のフランチャイズ球場でこれを満たして建設されたのは、東京ドームが最初である。
「人払いの結界があるということですね」
自分を下ろした途端、逃げるように走り去るタクシーを見送りながら、教授は呟《つぶや》いた。
球場の照明が煌々《こうこう》と点灯しているというのに、それをいぶかしんで調べに来る人間もいない。
教授は駐車場を突っ切って球場へ走った。正門の鋼鉄フェンスも、中に入る分厚い扉も固く閉ざされていたが、教授はわずかにスピードを落としただけでそこを走り抜けた。あらゆる物質を、何もないかのように素通りする。それが、彼の持つ最大の能力の一つである。
「野島くん、待ってなさいよ」
通路を走る。階段を駆け上がる。
教授は大事なことを知らなかった。球場の出入口には二つの種類があることを。一つは観客席へ通じ、もう一つがダッグアウトからフィールドへ通じる。そして、前者のほうが圧倒的に目立つものであることを。関係者出入口は、ファンの殺到を避けるために、ごく目立たない場所に置かれることを。
「どっから降りるんですかっ!? これ!?」
光の中に走り出て初めて、教授は自分がバックネット裏の二階席に出てしまったことに気づいた。
バックネットと、数メートルの高さが教授をグラウンドから隔てていた。むろん、バックネットは通過できる。教授を阻むものではない。
だが、高さのほうは問題だ。
教授は重度の高所恐怖症なのだ。
カクテル光線がグラウンドを昼間のような明るさに照らしだしていた。
教授はピッチャーズマウンドにそれを見た。
一本の太い腕だった。二メートルほどの高さで空中に浮かんでいる。右腕か、左腕か、遠目には判別できなかった。
そして、その腕は一人の人間の首を掴んでいた。捕らわれた人間はじたばたと暴れている。
その暴れる身体から、ときどきはみ出して見えるほどに腕は太く、大きい。
「やめてくれ」
その男は哀れな声をあげた。
「なぜ、やめる?」
どこからか声が聞こえる。否、その腕≠ェしゃべっているのだ。
「俺《おれ》はピッチャーだ。そして、あんたはピッチング・コーチだ。俺がどんな球を投げられるのか、見たくないか? 豊竹コーチ」
その名前は野島から聞いていた。パンサーズの二軍投手コーチ。野島が故障を起こしたときに、何の力にもなれなかったばかりか、無理に投げさせて回復不能にまで追いこんだ男だ。
「見んでもいい」
「いいや、見てくれよ。あんたの素晴らしいコーチで、俺がどれだけ投げられるのか。一〇キロのランニングと三百球の投げこみの成果をよ」
「悪かった」
「何を謝るんだ? あんたの理論の正しさを証明するんじゃねえか。肩や肘《ひじ》が痛いのは投げこみが不足しているからなんだろ? 腕の柔軟性を保つために、あんたの言いつけ通り、ウェイト・トレーニングもいっさいやらなかった。おかげで、俺は……みごとに故障できたよ」
豊竹に言葉はない。
「でも、俺は投げられる。なぜなら、俺はピッチャーだからだ。投げてえんだよ。見てくれよ」
「下ろしてくれ」
暴れる気力もなくし、豊竹はそれだけを言った。
「いやだ。これから、俺はお前を投げる。一五〇キロは出せるぜ」
ぐるり。
腕≠ェ豊竹をセンター側へ引いた。時速一五〇キロでフェンスに叩《たた》きつけるために。
「やめろ、馬鹿」
すぐ横で茫然《ぼうぜん》となりゆきを眺めていた野島が、我に返ったように腕≠ノむしゃぶりついた。
「離せ!」
腕≠ェわめく。
「離すかっ!」
野島が叫び返す。豊竹も助けが現われたことに勇気づけられ、また暴れ始める。
「俺は投げるんだ。お前は恨みがねえのか! お前は、こいつのせいでピッチャーができなくなったんだ!」
「そうだよ!」
「肘が治りきらないうちに、リハビリと称して無茶な投げこみをさせたのはこいつだぞ! 投げこみが終わったからといってアイシングさせて、肘が冷えきったときにまた打撃投手に狩り出したのもこいつだぞ! お前は、こいつの無茶な指導で壊されたんだ」
「だからってな」
「お前はマウンドを降りたくて降りたのか? そんなことはない。誰だって投げたいんだ。本当なら、お前は今ごろパンサーズのエースだったはずだ。なのに、この馬鹿はお前を故障させた。この馬鹿がお前を二度とマウンドに立てなくした」
腕≠ヘ、そこで今まで以上に声を張り上げた。
「俺は……、俺は……、お前なんだぞっ!」
その言葉に、野島は、はっと身体を離した。
「俺……だと?」
「そうだ。俺はお前なんだ」
腕≠ヘ、暴れる豊竹を高々と差し上げる。
「こいつやこいつの同類が、どれだけのピッチャーをダメにしてきたか。俺はよく知っている。こいつらさえいなければ、まだ投げられるはずのピッチャーが何人いたと思うんだ。だが、俺はこいつらには潰《つぶ》されない。お前も横で見ていろ。俺のピッチングを」
「やめろ!」
野島は再度、腕に組みつく。
「馬鹿野郎、そんなことしたって、今さら、何にもならねえじゃねえか!」
「野島くん!」
教授は叫びながら、バックネット伝いに走った。
ネット裏指定席と内野指定席、さらには自由席とのさかいのフェンスを教授は苦もなく透過する。
だが、どこまで走っても下に降りる道はない。二階席はどこまでも二階席だ。
教授は無理と思いつつも、グラウンドに意識を集中した。ダッグアウト前の地面に。
ぐっと地面が盛り上がる。
それが、幅一メートルほどの階段となる。
二段、三段、教授の意志とともに、それが積み上がっていく。
だが、四段目でぐずり、と崩れかける。
駄目か。
教授は思う。やはり、自分の力ではそこが限界だ。もともとが、モグラ≠ノとって、役に立つ程度の範囲にしかはたらかない力なのだ。
「何とかっ!」
声に出して叫んだ。グラウンドでは、まだ野島と腕≠フ取っ組みあいが続いている。
ぐぐっ。
その言葉に応《こた》えて、土の階段は強度を取り戻した。そして、四段、五段と積み上がった。
そして、二階席からグラウンドまで、一気に下りる階段ができあがった。
「やってみるものですね」
教授は呟き、その階段を下り始めた。
5 なげて
「ようし、そこまでです!」
階段を下りきり、教授は大声を張り上げた。そして、ふだんは丸めかげんの背筋を伸ばして、
ゆっくりとマウンドに向かって歩き始めた。
マウンドの妖怪《ようかい》と人間二人は動きをやめた。
「先生?」
野島が教授に気づいて怪訝《けげん》な顔をする。
「少し、ほっとしましたよ、野島くん」
教授は野島に声をかける。
「わたしのことを『いい人だ』って言ってくれてましたけど、わたしのほうこそ、きみを『いい人』だと言わせてもらいますよ。さあ、お退《の》きなさい。ここからは、わたしがそれの相手をします。妖怪のことは妖怪に任せておきなさい」
どすん。
豊竹が地面に落ちた。腕≠ェ離したのだ。這《は》うようにして、マウンドから逃げる。野島も教授と腕≠ちらちらと見ながら下がった。
「お前は、なんだ?」
腕≠ェ尋ねる。
「あなたの同類ですよ。世間では、妖怪と呼ぶことになっています」
「俺はピッチャーだ。妖怪なんかじゃない」
教授は首を振った。
「あなたは妖怪です。それも不幸な生まれかたをした。放っておけば、何人もの人を殺してしまうでしょう。立ち去りなさい」
「俺はピッチャーなんだっ! 絶対にこのマウンドは降りない」
「ここから去るのです。人と会わずにすむ場所へ」
「ここは俺のマウンドだ! 誰にも俺をここから降ろさせはしない。俺は、まだ投げられる。ここで投げ続ける」
「そうですか」
教授は悲しげに首を振った。
「やはり、説得は無理なようですね。ごめんなさい、死んでください」
教授は、さっと右手を振り上げた。その呼びかけに応え、鋼鉄をも切断する必殺の土の刃《やいば》が、地面を断ち割って吹き上がる。
……はずだった。
だが、グラウンドはぴくりとも動かなかった。
「困るねえ。大事なグラウンドを荒らそうなんて」
マウンド横の地面から、のっそりと人が浮かび上がってきた。まるで舞台の「せり上げ」に乗っていたかのようだが、もちろん、グラウンドにそんなものはない。地面から、直接出てきたのだ。
作業服を着た小柄な老人は、整備用のトンボでトントンと地面を叩《たた》いた。
「何ですか、あなたは?」
「グラウンドキーパーの沼田、だよ」
教授に向かってニヤリと笑う。
「あたしも、あんたや、こいつの同類だ。ただ、ちいとばかりあたしのほうが年季が上だけどね」
「そんなはずはないでしょう。この球場なんて戦後に作られたものです。だいたい、野球ができたのさえ、わたしが生まれたより後だ」
「いやいや、あたしゃあんたより年上だし、力も上だ」
言って、教授が下りてきた階段を見やった。
「おっとっと、いつまでもあんなものを置いておくのはよくないよねえ」
トンボでグラウンドを軽く叩く。
同時に、土の階段は地面に吸いこまれるように消えた。
「ほら、ね。あんた、あれを自分で作ったつもりだったのかい?」
老人は嘲《あざけ》りをたっぷりと乗せた笑いを教授に浴びせる。
「あれは、あなたがやったと?」
階段の消えたあたりを見ながら、教授は尋ねる。
確かに、自分の力であそこまでできたのはおかしかった。
「そうだよ」
「いったい、あなたは?」
「昔は、このあたりもたんぼだったんだよねえ。その頃からいたんだよ。自分の大事な田畑を粗末にする馬鹿が。そういうやつには、バチがあたって当然だろう? みんなそう考えるよね。だから、あたしが生まれたのさ」
「まさか? あなた、泥田坊《どろたぼう》か」
「ご名答」
泥田坊は、正体を現わした。痩《や》せこけた裸の老人の身体と、ぬるりとした入道頭が明らかになる。色はどす黒い泥の色。
「ひいっ」
半ば崩れた片目の顔を見た豊竹が泡を吹いて悶絶《もんぜつ》する。
「田を潰しただけじゃ飽きたらず、そうやって作った球場も、人間のかってな都合で、はいさようなら、取り壊し、かい。少しは、愛してくれないとねえ。大切な働き場所だろう?」
かつて田を大事にした働き者の老人がいたという。だが、その子供たちは怠け者であり、遊んで暮らすうちに大事な田をとうとう失ってしまった。
そのことを嘆いた老人が妖怪となり、夜な夜な「田を返せ」と叫び続けた。伝説はそう告げている。
実際には、妖怪泥田坊を産んだのは、生活を守る神聖なる働きの場を粗末にすることへの恐怖であり、そうした人間に罰が下されることへの欲求であった。
土地を守るもの。土地を捨てるものに罰を与えるもの。
それが泥田坊である。
「あなたが糸を引いていたんですね」
「そうだよ」
ひひ、と泥田坊は笑い、腕≠軽く叩いた。
「こいつは、投げるしか能がないからねえ。それに長部なんぞの死体でこのグラウンドが汚れたままってのも気にくわない。さっさと運び出したよ」
「まさか、関係者をみんな殺すつもりだったんじゃないでしょうね」
「今でもそのつもりだよ。順番に一人ずつ呼び出してね。球場移転なんて馬鹿な話がなくなるまでね。豊竹と野島くんは、こいつと浅からぬ因縁《いんねん》があったからね、気をきかせて再会させてあげたんだよ。豊竹みたいなやつが野島くんみたいな人間を作り出し、野島くんみたいな人間の未練が、こいつを作り出したのさ」
泥田坊は、腕≠見やった。
「いつまでも名無しの『こいつ』じゃかわいそうだね。あたしは、『なげて』って名前を考えてあげたんだよ。どうだい? ピッチャーだから、投げ手。『投げてえ』にもかけてある」
「そんなことはどうでもいい」
教授は泥田坊を睨《にら》みつけた。
「へえ、あたしとやるつもりかい? 無理無理、年季が違うんだよ」
ぐくうっ。
教授の横で、地面が盛り上がる。巨大な拳骨《げんこつ》を作って殴りかかった。教授は、とっさに足もとの地面を壁にして受けようとする。大地の形を自在に変えるのは教授の得意とする力だ。
だが、大地は応えてはくれなかった。
がつん。
木偶《でく》のように立ち尽くす教授を土の拳《こぶし》が地面に叩きつけた。
「年季が違うって言ったろう?」
「それがどうしました」
他に倒れながら、教授は泥田坊を睨みつけた。念を凝らし、大地に呼びかけた。土の刃を作りだそうと。
ミシッ。
一瞬、亀裂《きれつ》が走る。
……が、すぐに閉じる。立ち上がりかけた刃は、そのまま地面に引っこんでしまう。
「グラウンドを荒らすなって、言ってるだろ」
泥田坊の口調は子供を諭《さと》しているかのようだ。
再び、大地が拳を作るのを教授は見る。
もはや、地をあやつる能力は諦《あきら》め、もう一つの能力、すべての物質を透過する力に精神を集中する。
がつん。
透過できなかった。背中を叩かれ、グラウンドとサンドイッチにされて教授は血を吐く。泥田坊の操る土は、教授の透過を許さなかった。
「地面の下に潜って、地面に守られて生きてきたくせに、地面と喧嘩《けんか》しようってのかい? おこがましいんだよ、モグラふぜいが」
泥田坊は勝ち誇って笑った。
二度、三度、土の拳が教授を叩きのめす。教授は、身体を丸め、ただそれを受けるしかなかった。ずんぐりむっくりの身体が、一度ならず地面に叩きつけられる。
「いいかげんに死になよ。しぶといねえ」
泥田坊が笑う。
「あたしが守ってる場所の中じゃ、あんたは何にもできないんだからね」
泥田坊の言葉は正しい。
頼りにする妖術《ようじゅつ》、妖力はすべて封じられ、教授になすすべはない。
それでも、教授はよろよろと立ち上がった。
ちらり、と視線を泥田坊のすぐ後ろに向ける。
「みんな、殺す気なんですか?」
「そうだよ。ひひ」
泥田坊は耳まで裂けた口で笑う。
「みんな。野球に関係した人を」
「そうだよ」
「監督も、コーチも、選手も」
「そう。何人でもね」
「いなくなるまで?」
「そうだよ。クドイねえ」
「誰もいなくていいんですね?」
「そうさ。あたしは、グラウンドを粗末にしたやつにバチを当てたいのさ」
「じゃあ、ピッチャーもいなくていいんですね、一人も!」
「そうだよ!」
泥田坊が答えた瞬間、その首を後ろからなげて≠ェむんずと掴《つか》んだ。
「馬鹿、離すんだよ」
泥田坊がわめいた。
「俺は投げるんだ!」
なげて≠ェ叫ぶ。ぐいとバックスイングする。
今しかない!
泥田坊の精神集中がとぎれ、結界が破れたと見るや、教授は地面に指令を送った。
地面が盛り上がる。固い壁となってマウンドのすぐ前に立つ。
ぶん。
なげて≠ヘ、泥田坊をその壁に叩《たた》きつけた。
ぐしゃり。泥田坊の身体が糸の切れた人形のように壁をずるりと伝って地面に落ちる。
「もう一球!」
教授の声に答えて、なげて≠ェ泥田坊を再度掴む。振り回し、投げる。すぐに壁。
時速一五〇キロの衝突は、一〇〇メートルの落下に相当する。二度叩きつけられた後は、泥田坊はもはやぴくりとも動かなかった。
「一体全体、何がどうなってんだい?」
へたりこんでいた野島が、ようやく立ち上がり、教授に尋ねた。豊竹はまだ気絶したままだ。
「後で詳しく話してあげますよ。妖怪について。想い≠ェ生みだすものについて」
「想い=H」
「そうです。わたしも、泥田坊も、そうやって生まれたんです」
教授は、なげて≠見やった。
「そして、あれも。あなたのような人の想い≠ェ、あれを生んだ。悲しいことに、あれは生まれかたを間違えました」
教授は右手をゆっくりと上げた。
「殺すのかい、あいつを?」
野島の問いに教授は頷《うなず》いた。サングラスをそっとあげて、目尻《めじり》を拭《ぬぐ》う。
「わたしを『いい人』だなんて言うのは、もうナシにしてくださって結構ですよ」
そして、土の刃《やいば》が、マウンドから動こうとしない――動けないのだ――なげて≠フ身体を二つに割った。
エピローグ
一月のオフが終わり、各プロ野球チームのキャンプインが続々と告げられた二月、教授の元に、一通の手紙が配達された。
差出人は野島敏彦とあった。
お久しぶりです。
今度こそ、自分の新しい仕事を見つけたと思います。
今、僕は、トレーニング・ジムで見習いとして働きながら、トレーナーの勉強をしています。
ここでは、昔のパンサーズの同僚が何人かトレーニングをしています。ほかのチームの選手や、競輪やバレーボールの選手もいます。
ジムの会長は、体育大学の出身で、かつてプロ野球チームのトレーニング・コーチとして招かれたこともある人です。ですが、他のコーチとの折り合いが悪くて、退団されたそうです。
会長の言葉によると、プロ野球のコンディショニング、つまりトレーニングやケア(身体の手入れ)は、チームによっては十年以上、世界や他のスポーツに比べて遅れているということです。確かに、僕の知らなかったトレーニング方法を会長はよく知っています。それに、僕が間違って覚えていたこともいろいろと正してくれました。
何より、ウェイト・トレーニングを軽視する風潮を社長は危惧《きぐ》しておられます。きみは足でボールを投げるのかい? と笑われました。
ウェイト・トレーニングは筋肉を堅くするなんて言うのはどこのまぬけだ、とも。関節をフルレンジ(動かせるいっぱい)で動かすトレーニングは、ストレッチの効果もあり、筋肉の柔軟性を高め、関節周辺の筋肉、腱《けん》の鍛練に繋《つな》がり、故障を予防するのだと。
パンサーズでは、こんなこと、一度も教わったことはありませんでした。「走れ」「投げろ」とそればっかりでしたね。野球のボールより重いものは持たなくてもいいんだ。プロレスラーでもないのにバーベルを持ち上げてどうする、と。
会長のような人がコーチであったなら、僕も肩や肘《ひじ》を故障することはなかったかもしれません。
妖怪が、想い≠ゥら生まれるものであるなら、なげて≠ェいなくなることはないと思います。ピッチャーズマウンドには、野球を好きな人間たちの想い≠ェ、しみついています。まだ投げたい、という想い≠ェ。あのなげて≠ヘ、殺されてもマウンドから降りませんでした。
でも、コンディショニングが進歩するなら、僕のように故障でそこに想い≠残して去る人間は減るのではないでしょうか?
最近、思います。なげて≠ェ、投げ手≠ナも投げてえ≠ナもなく、投げてほしい≠ナあったならと。速いストレートを、鋭い変化球を投げて、バッターをきりきり舞いさせてはしいというファンの想い≠ゥら生まれるなげて≠ネら、あんな事件は起きなかったでしょう。
案外、いるのかもしれません。誰にも見えないけれど、マウンドの横に立ってピッチャーを励まし、奮い立たせてくれているなげて≠焉B
僕は、今までに二度、辛《つら》い思いをしました。一度は甲子園をかけた県予選の決勝、二度目はパンサーズを辞めたときです。応援してくれた人たちを二回裏切りました。〇勝二敗というわけです。
いつかは、プロ野球の世界に帰りたいと思います。今度はトレーナーとしてですが。そして、裏側からプロ野球の発展に貢献できれば、と思います。そうすれば、救援でセーブがもらえるんじゃないかな。ぴたり、〇勝二敗一セーブで、僕の成績通りです。
[#地付き]野島敏彦
教授は、手紙を読み終えると微笑《ほほえ》んだ。
「あれから、ちょっと野球のことも勉強したんですけどね、野島くん」
独り言を呟《つぶや》く。
「きみはまだ二十四歳だ。野球なら、二回か三回ってところですよ。そこから登板して九回まで投げきっちゃったら、セーブにはなりませんよ」
手紙を封筒に戻して、机の引きだしに丁寧にしまいこむ。
「だって、勝利投手になっちゃいますからね」
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Take-2――――――――
気づくと午前一時をまわっていた。テレビはすっかりおもしろくなくなっている。
思い出して短波ラジオのスイッチを入れた。アナウンサーのきびきびした声が聞こえてくる。昼間は雑音だらけだというのに、信じられないほどの鮮明さ。
「先週とは打って変わって、青空が広がっています」
窓の外は、漆黒の闇《やみ》。
ラジオの向こうは、遠い砂漠の地だ。日本の馬が、「世界進出」を果たしたことを知らせる番組。世界最高額の賞金がかけられたレースを、いま、彼女が走る。
しかし興奮は、すぐに悲鳴へと変わった。
「なんということでしょう……」
勝ち馬の名前も聞かず、わたしはラジオを切った。
翌々日のニュースで、老女優の死とともに彼女の計報《ふほう》が伝えられた。
またか、というあきらめにも似た感情。なぜか感じる自己嫌悪。
好きだからこそ、このような場面に出くわしてしまう。
好きでいるためには、耐えなくてはならないのだ。
これが彼女の運命だ、運命を止めることはできないと、思いつくかぎりの言い訳をくり返す。
そんな自分を、心のどこかで蔑《さげす》むわたしがいる。
いっそ嫌いになれたら、どんなに楽だろう。
「好き」はいつだって簡単に、「嫌い」へと姿を変えるではないか。ストーカー犯罪がいい例だ。過去の恋人に追いまわされて泣き言を口にするのは、好きだったものを嫌いになったからにほかならない。
おそらくは好きであり続けるために、つねに何かを犠牲《ぎせい》にしてきたのだろう。自分を守るために壁を作り、そのうち嘘《うそ》をつけなくなってしまうのだ。
わたしもいつか、好きであることに耐えられなくなったとき、嫌いになるのだろうか。競馬も、ものを書くことも、大切なだれかも。
そのとき、裏切られた想《おも》いはどこへ行くのか。
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第二話 蹄《ひづめ》の守護者 柘植めぐみ
プロローグ
1.九時 開門
2.一レース 三歳未勝利
3.昼休み
4.六レース 三歳新馬
5.中断
6.レース再開
7.「メインレース」
エピローグ
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プロローグ
がつんと押し上げられるような大きな揺れに、それは目を覚ました。
揺れはまだ続いている。左右ではなく、上下に。
いったいなにが起こったのだ?
冷静さを取り戻そうとしていると、そばでなにかがことりと落ちた。拾い上げたくても揺れがひどくて手を伸ばせない。ただじっとうずくまっているだけで精一杯だ。
ようやく、じわじわと揺れが引いていく。
それは深い安堵《あんど》のため息をついた。
そして次に、はっと息を飲んだ。
わたしはだれだ?
なんのためにここにいる?
思い出せない。ずっと眠っていたような気がする。どうしてなにも覚えていないのだろう。
それはあせった。
あせって、あせって、耳を傾けた。なにかを聞くことが、自分に課せられた仕事だったような気がした。
さまざまな音が聞こえてきた。どこかでパチパチと火のはぜる音。がらがらと重いものが崩れる音。寒さに震える人間の吐息。救急車のサイレン。
しかしいずれも、求める音ではなかった。
もっと違うものを聞かなくてはいけない。
それは待った。
待ち続けた。
長い時間が経った。それのそばには、ほとんどだれも近づかなかった。人間の気配は幾度も感じたが、それに触れて声をかけるものはなかった。
心の休まらない日々が続いた。
そして再び冬の季節が訪れるころ。
「助けて!」
突然、求めていた声がそれのもとに届いた。
心がいきりたつ。
行かなくてはならない。愛するものを守るために。
それは怒りに顔をゆがませ、猛々《たけだけ》しく立ち上がった。
1 九時 開門
しなやかな靴底が、芝生に横たわった物体のやわらかさを生々しく伝えてきた。
あわてて右足を引っこめようとしたが、小山を駆け降りてきた勢いは、そう簡単には止まらない。
「げふっ」
どうやら踏んだのは人間のようだ。
足がもつれそうになりながらも、松宮《まつみや》駿美《はやみ》は軽やかに着地した。くるりと振り返る。
「ご、ごめんなさい。痛かったですか……って、当たり前か」
立派に成長した女子高生に踏まれて――しかも狙《ねら》いすましたようにみぞおちを――痛くないわけがない。駿美はあせって別の言葉を探した。
芝生に寝転がっていた浮浪者風の男が、すこし身じろぎした。低い太陽をさえぎるようにかぶせていた帽子を、右手でちょっとずらす。隠れていた目がぎょろりとのぞき、駿美の顔をとらえた。視線がゆっくりと、なめるように下半身へと降りていく。
(……なに、見てるの?)
駿美は思わず身体《からだ》を硬くした。男は、自分を踏みつけたスニーカーまで視線を落とすと、ふぅと小さな息を吐き出した。
いまのため息はどういう意味? むかむかと腹が立ってくる。
「ほんとにごめんなさい。じゃっ」
「まあ、待てや」
なによ、ちゃんと謝ったじゃないの。駿美はそう思いながらも、すまなそうな顔を作って振り返った。
男がゆっくりと上半身を起こした。もとの色がわからないほど褪《あ》せたコートの下は、同じように薄汚れたよれよれのシャツとズボン。顔の半分は墨を塗ったように髭《ひげ》に覆われている。そういえば市立図書館の近くのベンチに、よくこんなひとが寝転がってるっけ。通りがかりの若いサラリーマンが、『なにじろじろ見てんだよ』と因縁《いんねん》をつけられているのを見たことがある。
怒らせると怖いかもしれないな。
「……ほんとにすみませんでした。ここ、ちょっと山になってて、向こうからじゃ見えなくて」
早口でまくしたてる。
「いいって。かわいい女の子だけん、許したろ。それよかあんた、一人かい?」
「は?」
いきなりナンパだろうか。まあ、街中ならわからないでもない。女友だちと連れだって神戸《こうべ》の繁華街である三宮《さんのみや》を歩いていると、それなりに声をかけられることはある。駿美よりかわいい子はいくらもいるが、自分もそう捨てたもんじゃない。
でもここは阪神競馬場。それに相手は口やかましい中年のオヤジだ。とくれば、この先に続くのは説教と相場は決まっている。『高校生が一人でこんなところに来ちゃダメじゃないか』
しかし駿美は慣れていた。だてに子供のときから競馬場通いを続けているわけではない。
堂々と胸を張る。
「ええ、一人です。保護者はいません。でもいいじゃないですか、馬券を買うわけじゃありませんし。あたしは写真を撮りに来てるだけです」
落とさないようにしっかり首にぶら下げたカメラを、ひょいと持ち上げて見せる。自然カメラマンだった父の形見だ。
「なるほど。競馬っちゅうんは、そげな楽しみ方もあるんか」
なに、マジに感心してるの?
冷たい風がびゅうと吹きつけてきて、男は寒そうにコートの襟もとをぎゅっと合わせた。
「……どうして芝生なんかにいるんですか?」
余計なことかもしれない。でも十二月の冬空にこんなところにいるから、うっかり踏んでしまったのだ。すこしくらい責任を感じさせてやろう。
「煙草が嫌いでよ。建物のなかは煙だらけだけん、もうちょいで死ぬところだった」
「はあ」
大げさなことを言うものだ。とはいえ駿美も嫌煙派。スタンド内の空気は胸がつまるので、こうして場内の行き来は外をまわることにしている。気持ちはわからないでもない。
「それなら禁煙席に行かれたらどうですか? まだ早い時間だし、空いてると思いますよ」
「禁煙席? ほほう、最近の競馬場にゃそげなもんもあるんか」
男は帽子の下の丸い目を、さらに丸くした。どうやら阪神競馬場に来るのは初めてらしい。そういえば言葉にも妙ななまりがある。
「よけりゃあ、そこまで連れてってくれんか」
「あ、あたしが?」
駿美はぽかんと口を開けた。入場門のところに、場内の地図を描いたパンフレットがあっただろうに。
しかし男はすでに立ち上がっていた。乾いた草を払うためぱんぱんとコートをはたくと、ぷうんと酒の臭いが鼻をついた。駿美が顔をしかめた、そのとき。
「どこ行くのよう、有月《ありつき》のおじさん!」
いつの間にか、一人の女性がすぐそばに立っていた。黒い革の丈の短いジャケットをはおり、膝上《ひざうえ》のスカートからすらりと細い足をのぞかせたショートカットの美人だ。歳は二十代半ばといったところだろうか。小脇《こわき》に日本酒の小瓶を抱えているのが、どうにも似合わない。
「ひとにお酒買いに行かせといて、自分は若い子とデート? ひどいわねえ」
「すまん、忘れちょった」
「どうせわたしなんか、その子に比べりゃ、おバアさんですよーだっ」
女はイッと舌を出してみせた。色の薄い唇とは不釣り合いなほど赤い舌だ。いきなり駿美のほうを向く。
「中学生……じゃなさそうね。高校生?」
またか。
「松宮駿美、高校二年です!」
「怒んなくてもいいじゃない。若く見られたくないなら、それなりの格好してくれば? そんな元気のいいのじゃなくってさ」
駿美は自分の姿を見下ろした。
ふだん街を歩くときは、髪を下ろして、アクセサリーにだって気を遣っている。大学生に間違えられることだってあるのに。
ところがいまは。長い髪は邪魔なので二つのお下げにしている。フードつきのだぼっとしたダッフルコートは冬の競馬場に欠かせない。ジーパンとスニーカーは、場内を走りまわるための必需品だ。
それに。なによりもここには、飾り立てた自分で来たくなかった。
「……」
駿美はむっつりするしかなかった。
女がくすりと笑って肩に手を置く。
「ま、いいじゃないの。自分ってのを持ってるのはいいことよ。わたしはころころ自分を変えるのが好きだけどね」
「まったくよう。ミイちゃんは会うたび雰囲気が違っちょうもんな。脱皮そのもんだ」
中年のオヤジが、日本酒の小瓶の蓋《ふた》をねじ開けながら口をはさんだ。いつの間に女の手から奪っていたのだろう。
「わたしは大岩《おおいわ》三衣《みい》。ミイでいいわ。こっちの有月のおじさんが、競馬をしたことがないって言うから連れてきたの。よろしく」
「あ、あたしはべつに……」
ずっとこの有月というオヤジの面倒をみろと言うのか。馬を見るときは、動きやすいから一人と決めているのに。
「駿美ちゃん、だったな。まあ、仲よくいこうや」
有月が握りしめた酒瓶は、すでに中身が半分になっている。
「で、ミイちゃんや。レースってのはいつから始まるんだ?」
「一レースは十時五分。あと三十分ほどね」
駿美ははっと左腕の時計を見た。
そろそろ一レースのパドックが始まる時間だ。応援しているあの馬が、今日こそは未勝利を脱出すると信じている。
「あ、あたし、パドックに行かなきゃ」
「パドック?」
有月が首をかしげた。
「レース前に、客が馬の状態をチェックする場所のことよ」
答えたのは三衣だ。有月の腕をさっと取る。
「行けばわかるわ。百聞は一見にしかず……だっけ? 人間ってなかなか粋《いき》な言いまわしが好きよねえ」
有月と三衣はすでに歩き始めている。駿美は聞こえないようため息をついてから、二人を追いかけた。
2 一レース 三歳未勝利
関西には中央競馬場が二つある。一つは京都競馬場、もう一つはここ、西宮《にしのみや》にある阪神競馬場だ。駅名で言うなら阪急宝塚線|仁川《にがわ》駅から徒歩五分。六甲山《ろっこうさん》のふもとの閑静な住宅街のなかにある。
五年前に全面改修が行われ、ここは日本でもっとも美しい競馬場となった。六階建てのスタンドからは、一周一七〇〇メートルほどのコース全体が見下ろせる。スタンドの西は、弁当持参の家族が楽しめるよう広い公園になっている。
そして、入場門をくぐると見える巨大なスクリーンの裏に、パドック、またの名を下見所があった。
「きれいに直ったものねえ。一時はどうなることかと思ったけど」
パドックの高い屋根を支える柱を見上げて、三衣がそうつぶやいた。
駿美は今年一月に起こった悪夢を思い出した。兵庫県南部地震。五五〇〇人を越える犠牲者を出した地震の、駿美も被災者の一人だった。幸い家は六甲の高台にあり、食器が割れたり生け垣が崩れたりした程度の被害ですんだ。とはいえあの早朝の揺れを思い出すと、いまでもぶるっと震えがくる。
活断層の真上にありながら、阪神競馬場が無事であるはずがなかった。支柱は折れ曲がり、場内に置かれたディスプレイは転げ落ちた。コースは陥没した。二階建ての駐車場はつぶれた。
本来なら、桜の季節には四歳の乙女たちが舞い、秋には夏を越してたくましくなった若駒《わかこま》たちが競い合うはずの阪神競馬場だった。
しかし修復工事には、予想をはるかに越える時間と費用がかかった。沈んだ気持ちから立ち直りつつある人々は、一日も早い競馬場の再開を求めた。なにより活気が欲しかったのである。かくいう駿美も、いつになったら馬たちの姿を見られるのかとやきもきしていた。
十二月。一九九五年も終わろうというときになって、ようやく工事は終了した。
駿美は開催初日から毎週訪れている。
競馬の一開催とは、土日の四週ぶん、すなわち計八日間にわたる。大きなレース――重賞と呼ばれるものは、たいてい日曜日に行われる。
今日は開催七日め。駿美は人波にもまれないですむ土曜日が好きだった。
それにしても……。
「っにしても、人間が多いわねえ。いつもなら土曜日はもっとすいてるくせに」
馬を見やすいよう階段状になった下見所に立ちながら、三衣がこぼした。隣の有月は、左手に競馬新聞、右手に売店で買った百円の赤ペンを握りしめている。その姿を見て三衣は、「やっぱり似合うわあ」と手を叩《たた》いて喜んだ。
たしかに今日は、いつもの土曜日よりひとが多かった。じゅうぶん写真は撮れるまばらさだが、この時間にしてみると異様に多い。これではメインレースのころには、どれだけふくれ上がっていることか。
「みんな、阪神の開催を待ってたんだろうけど……もう一つは、あれのせいかしらねえ」
駿美は両手でカメラを抱えたまま、三衣を見上げた。
「それって、ミイちゃんが気にしちょった、あれのことだな」
有月のなまりは島根県のものだとわかった。いまは東京に住んでいるが、年末は帰省することにしているらしい。今回はその途中で、三衣が住む西宮に立ち寄ったということだった。二人の関係を尋ねると、「親戚《しんせき》みたいなものね」と曖昧《あいまい》な答えが返ってきた。
パドックでは、向かって右手の馬道のほうから、白い誘導馬がゆっくりと姿を現していた。駿美はあわててレンズのキャップを外した。
「今日もそげに荒れるんかねえ……」
有月の一言で、駿美は思い出した。ふだんから馬券やら配当やらは気にしないたちなのだ。
今回の阪神開催は大荒れに荒れている。とことん人気薄の馬が一着に飛びこんだり、本命の馬がまったくダメだったり。
もちろん競馬は、なにが起こるかわからない。百円で買った紙切れが、一万円以上の価値を持つようになることくらい、日常茶飯事だ。
しかし、この開催はすこしひどすぎるのではないかと言われていた。史上最高配当額というのも飛び出している。百円が、三十万円に化けたのだ。
駿美のまわりでガサガサッと音が響き、人々がいっせいに新聞を取り出した。真剣な顔、顔、顔。だれもが宝のありかを探しているのだ。たしか福島競馬場でも以前、同じようなことがあったっけ。二十万以上の配当が出た翌日、ものすごいひとでごった返したのだ。ただ期待むなしく、二度と同じような奇跡は起こらなかったが。
あのときに比べて、やっぱりこの開催はおかしい。あまりにも奇跡が続きすぎている。
「そげに金がほしいんかねえ。わしは酒さえありゃ、なんもいらんが」
有月がおざなりに新聞を広げながら言った。こんな風体のオヤジの言葉とはとても思えない。三衣もあきれてみせた。
「人間の世界じゃねえ、お金がなくちゃなにも買えないの。さっきのお酒だって、わたしが買ってきてあげたんじゃないの」
「べつによう、酒なんかそのへんに転がっちょうのでじゅうぶんだ。島に帰ったら、供えもんの酒が待っちょうし。へへへ、いまから楽しみだわ」
有月がぺろりと舌なめずりした。
供えものだなんて、まさか神主じゃあるまいし。駿美はきゅっと眉をひそめた。
馬道からほ、ゼッケンをつけた馬たちが次々と現れていた。競走馬を世話する厩務《きゅうむ》員に手綱を引かれ、パドックの小さな円を周回している。駿美もコートのポケットに突っこんでいた新聞を取り出した。『一R 三歳未勝利』と書かれた欄を見る。お目当てのカントリーヒーローは七番。そろそろ登場だ。
駿美はカメラのスイッチを入れると、フラッシュがオフになっているのを確認してから、ファインダーをのぞいた。
毎度のことながら馬を見るとドキドキする。北海道で小さな牧場を経営する祖父のところで、当歳の――生まれたばかりの――仔馬《こうま》に触ったことはある。しかしこうして競馬場で見るサラブレッドは、あのころのやんちゃな面影は残していない。りりしく、崇高な雰囲気さえ漂わせている。
ゼッケン七番が姿を現した。人々の視線が集まる。断トツの一番人気。単勝一・六倍。
ファインダー越しのカントリーヒーローは、駿美の目にも状態はよさそうに見えた。冬毛に生えかわり始めているようだが、毛ヅヤはそれほど悪くない。馬体の張りも申し分ない。
「さすがに外せねえなあ」
「やっぱここから流すか」
人々のつぶやきが聞こえた。駿美はなんだかいい気分だった。
カントリーヒーローの母は、三歳のときに快速馬と評判だったスターマリアだ。小柄でやさしい目をした彼女の写真は、いまも父のアルバムのなかに残っている。
まだ小学生だった駿美が、父に連れられてきた競馬場で、「あの馬かわいい」と指差したのがスターマリアだった。父は馬券を当て、駿美は自転車を買ってもらった。
そんな彼女が母親になって初めて産んだのが、カントリーヒーローだ。今年の秋にデビューして以来、つねに人気を背負っているが、出遅れたり前をふさがれたりと不運なレースが続き、いまだ一勝も上げていない。でも今日は大丈夫。相手に手ごわそうな馬は見当たらないし、きっと勝ってくれるだろう。
カントリーヒーローの栗毛の馬体に焦点を合わせて、駿美はシャッターを切った。
どこかから、光が飛んだ。
だれか非常識なファンが、カメラのフラッシュをたいたにちがいない。たしかにここは薄暗いが、そんなことをすれば馬が怖がってしまう。
またぴかっと光った。
ファインダー越しのカントリーヒーローが、ちょっと頭をもたげた。ほかの馬たちも、きょろきょろとあたりを見まわしている。厩務員が馬を落ち着かせようと、首筋をぽんぽんと叩いてやるのが見えた。
馬は臆病《おくびょう》な生き物だ。フラッシュどころか、カメラのズームを動かすかすかな音にさえ、目をむいて驚くことがある。
駿美はファインダーをのぞきこんだまま、フラッシュをたいた人物を探した。
また光った。
左斜め前のほうだ。どうやらパドックの柵《さく》から身を乗り出している、あの青年らしい。駿美は心を決めた。カントリーヒーローにとっての大切なレースだ。素直に聞いてもらえるかわからないが、注意することにしよう。
駿美はカメラを構えたまま、一歩踏み出した。ファインダーから目を離すと、青年を見失いそうだったのだ。
「どした、駿美ちゃん」
背後から有月ののんびりした声が聞こえた。これだから競馬を知らないひとは。
そのとき。
ファインダーの向こうで、なにかがぼやっと揺らいだような気がした。
駿美は目を凝らした。
焦点は青年に合わせてある。その向こうの栗毛の馬体はカントリーヒーローだ。背中に騎手がまたがっている。
騎手?
いつの間に騎乗命令がかかったんだろう。
駿美はカメラをずらしてみた。パドックを歩く馬たちの背中には、空っぽの鞍《くら》しか見えない。
(だ……れ?)
駿美はじわじわとファインダーに目を戻した。
手綱を引く厩務員の頭より数十センチ高いところに、人間の顔のようなものが見えた。怒りに震えるその顔は、どこかの寺で見た不動明王像のようだと思った。
「ヒヒヒン」
馬のいななく声が聞こえた。カントリーヒーローが歯をむいている。目を血走らせているのが、ここからでもわかった。
背中の人物が、ゆっくりと観客のほうを指差した。
「だめ!」
駿美は声に出して叫んだ。カメラを構えたまま飛び出そうとして、ずるっと階段を踏み外す。
だれかの手が、腰をぎゅっとつかんで支えてくれた。
「だいじょうぶか、駿美ちゃん」
有月か。しかし礼を言っている暇はない。
顔を上げると、栗毛のたくましい馬が、いきなり向きを変えるのが見えた。あまりの勢いに、厩務員がはじき飛ばされる。
次の瞬間、カントリーヒーローは青年に躍りかかっていた。インスタントカメラが宙に舞い、続いて悲鳴が起こった。
3 昼休み
時刻は、正午をまわっていた。
駿美はスタンド前の広場で風に吹かれながら、じっと緑の馬場を見つめていた。いちおう昼食用にと、駅そばのコンビニでおにぎりを買って来ていたのだが、手をつける気にはなれなかった。
昼休みを迎えて、馬場は静かなものだ。ピンク色の作業服を着たおばさんたちが横一列に並び、おしゃべりをしながら芝をならしている。
駿美の隣には有月が座っていた。三衣は「ちょっと電話をかけてくる」と言ったきり戻ってこない。
一レースはさんざんな結果に終わっていた。幸い、インスタントカメラの青年にたいした怪我《けが》はなかった。カントリーヒーローの振り上げた前足は、パドックの柵に引っかかり、青年をかすめただけだったのだ。
すぐにカントリーヒーローは取り押さえられた。しかし一度暴れた馬がそのままレースに出られるわけもなく、出走は取り消された。人気馬がいなくなり、人々はますます高い配当に期待を寄せた。
けっきょくレースは四番人気と九番人気で決まり、いきなり朝から万馬券が飛び出していた。
「ふわあ」
有月が大きく伸びをした。外の空気を吸って満足そうだ。右手には、赤ペンに替わって缶ビールが握りしめられている。
二時間が経ったいま、駿美の心配はカントリーヒーローへと移っていた。ひとを襲った馬が、競走馬としてやっていけるだろうか。そんな危ない馬は処分しろ、と命令が下されてもおかしくない。
カントリーヒーローはどうなるのだろう?
考えれば考えるほど、暗い未来ばかりが浮かんでくる。駿美はぶるぶると頭を振って、いやな想像を追い払った。
ふいに有月が顔をのぞきこんだ。酒くさい息がかかり、思わずのけぞる。
「あ、すまん」
「いえ……なにか?」
「まだ怖がっちょうかと思って。元気出しな、わしらがついちょうけん」
「あ、ありがとうございます」
こんなオヤジが頼りになるんだろうか。そう思いながらも、駿美の心はすこしだけなごんだ。
どうして話してしまったのかわからない。駿美は事件の直後、二人に訊《き》かれるまま、パドックで見たものについてすべて語った。カントリーヒーローの背中にだれかがまたがっていたこと。それはカメラをのぞかないと見えなかったこと。青年が襲われたあと、もう一度ファインダーをのぞいたときには、すでにその姿は消えていたこと。
夢のような話を聞いても、二人は笑わなかった。
信じているのだろうか。なにも言わず、お互いの顔を見てうなずいていたようだけど。
「そういやカメラにゃ、不思議なもんが写ることがあるって話だな」
有月が駿美のほうを見ずに言った。息がかからないよう気を遣っているのだろう。
「わしの仲間に、カメラマンやっちょうやつがおるんだけどよ。よう言っちょうわ。カメラにはひとの想いがこもりやすい、ってな。大切にされたカメラを通すと、ひとの目には見えんもんが見えることがある、って」
「じゃあ、フィルムを現像したら、なにか写ってるでしょうか。あたしが見たあの顔とか」
「いやあ、無理だろ。ファインダー越しには見えても、ああいうやつらは写真には写ろうとせんけん」
「ああいうやつら?」
「んっ、ああ、そうだな。幽霊みたいなもんかなあ」
有月はもごもごとごまかした。
「そう言やあ、あのあとはべつになんも起こらんかったな」
たしかに見ているかぎり――というか、ほとんど場内の放送で聞いていただけだが――おかしなことは起こっていない。レースもそれなりに人気どころでおさまっている。人々の不満の声が聞こえてきそうだ。
「そろそろ、かもしれんな」
「えっ?」
有月の横顔を見やったとき、隣にだれかが座る気配を感じた。いつの間にか、三衣が戻ってきている。
「なんかわかったか?」
有月がぐいと缶ビールを飲みほした。三衣がじろりとにらみつける。
「おじさんの仲間なんだから、自分で電話してくれればよかったのよ。自己紹介しなきゃいけなかったから手間どったわ」
「いやあ、電話代がなくってよ」
有月が手をひらひらと振ってみせた。
「ま、いいわ。そのぶん、おじさんにはいずれわたしの役に立ってもらうから。とにかく、大樹《だいき》くんだっけ、彼に最近の配当を調べてもらったんだけど、最初におかしかったのは阪神の開催二日め、つまり三週間前の日曜日みたいね」
「それまではなんも問題なかったってわけだな」
「ええ。駿美はその日、ここに来てた?」
いきなり訊かれて――しかも呼び捨てにされて、ドキッとする。駿美の気持ちを察したのか、三衣がぺろりと赤い舌をのぞかせた。
「あら、駿美でいいでしょ。子供扱いしてほしくないんだから」
駿美はうなずいた。知っている女性のだれとも似ていないが、悪いひとではないとわかっている。ギャンブル好きらしいところは、すこし気になるが。
「ええっと。土曜日は来たけど、日曜日は来てません。ここでG1もあったし、きっとひとが多いと思ったから」
「じーわん?」
有月がなんだそりゃ、という顔をする。三衣がいらいらと説明した。
「G1っていうのは、とっても大きなレースのことよ。GはグレードのG。ダービーや有馬記念って言ったらわかるかしら」
「ダービー?」
三衣は額に人差し指を押しあてて、はあとため息をついた。
「いいからおじさんは、もう口をはさまないで。ねえ駿美、その日、昼までのレースでなにか変わったことがなかったか知らないかしら」
「午前中に、ですか」
駿美は十九日前の月曜日の新聞記事を思い出そうとした。とくに応援している馬もいなかったので、成績はざっと確認しただけだった。でも、なにかあったような……。
そうだ。あの記事のせいで、一日じゅう学校でも暗い気分だったんだ。
「三頭がまとめて競走を中止した新馬戦がありました」
「ほほう」
有月にはそれがどういうことかわからないようだ。駿美はうつむいて言葉を続けた。
「一頭が骨折してバランスを崩したところに、後ろの二頭が巻きこまれたんです」
けっきょく三頭が落馬、競走中止となったレースだった。巻きこまれた二頭に怪我はなかったが、骨折した一頭はその場で薬殺処分された。苦しみを、すこしでも早くやわらげるために。
涙がこみ上げてきた。
まったく知らない馬だった。レースも見ていないし、そのときの状況も知らない。でもどんな馬だって、牧場で大切に育てられ、期待をこめて送り出されたはずだ。つらい調教に耐えて、晴れの舞台に立った途端の、死。
巻きこまれた二頭の馬も、さぞかし怖い思いをしたことだろう。
「泣いちょうのか?」
有月がびっくりしたように言った。
「いえ、そういうわけじゃ……」
「人間ってのはおかしなもんだな。自分たちの楽しみのために馬を育てて走らせちょいて、なんかあると悲しむんだけん」
「ちょっと、有月のおじさん」
三衣がたしなめた。
「なんじゃ、べつに駿美ちゃんを責めちょうわけじゃねえぞ」
たしかにそうは聞こえなかった。なんというか、心底、不思議に思っているというか。
駿美は目をごしごしとこすって、顔を上げた。
「あたしは特別なのかもしれません。祖父が牧場をやってて、馬が生まれるときの苦労を知ってるから。でもそんなこと知らなくても、馬が死んで悲しむひとはいっぱいいます。だって……」
「だって?」
首をかしげたのは三衣のほうだった。駿美はすこしとまどった。が、思っていることをそのまま口にする。
「馬って、せっかく走るために生まれてきたんですから。馬は走ってるときがいちばん素敵です。きれいです。きっと馬だって、走るのが大好きなんですよ。それが見られなくなったら、ひとだって悲しいじゃないですか」
有月と三衣はぽかんと口を開けている。
「あたし、変なこと言いました?」
駿美はとたんに恥ずかしくなった。
「よう、わからんな。人間の考えちょうことは」
有月は缶ビールを傾けかけて、中身がないことを思い出した。
「悪いがミイちゃん、もう一本」
「あ、あたしが行きます」
なんとなくその場にいづらくて、駿美は名乗りを上げた。
しかしいち早く三衣が立ち上がっていた。
「駿美はダメ。見つかったら怒られるわよ、高校生が酒なんか買うんじゃないって」
歩きかけて、振り返る。
「……人間の想いって、なんだかすごいのね。いつかわたしたちにもわかるといいんだけど」
今度は駿美が首をひねる番だった。
どういう意味か尋ねようと有月を見ると、髭面《ひげづら》の男は帽子を深く下ろし、すでにいびきをかいていた。
4 六レース 三歳新馬
馬場のはるか遠くで、スタートを待つ馬たちが軽く輪乗りを行っていた。
三衣はとっくに戻ってきている。
彼女は有月を揺り起こすと、缶ビールを手渡して言った。
「とにかくさ、話は戻るけど。三週間前の日曜日からみたいなのよ、万馬券が続くようになったのは。それとも、馬が言うことを聞かなくなったって言ったほうがいいかしら」
「どういうことですか」
駿美は思わず口をはさんだ。
「大樹くんにね――あ、大樹くんっていうのは、東京にいる有月のおじさんの仲間でパソコンオタクなんだけど――近ごろのレースに関する騎手のコメントも調べてもらったのよ。そしたら、レースが荒れたときにかぎって、人気の馬が『まったく走ろうとしなかった』って言ってるの」
「まあ、そげなこともあるだろ。馬だっていつも機嫌がいいとはかぎらんし」
有月がさっそく缶ビールを開けながら言った。
「でもそういう理由ばかりなのよ、気にならない? おとなしくて素直だった馬が、急に騎手に逆らうようになったり、根性があってぜったいに抜かせようとしなかった馬が、『はい、どうぞ』ってふうに先頭をゆずったり」
「ふうむ」
有月はいちおう三衣の見解を受け入れてみることにしたようだ。
「もしかすると、レースが荒れてるのはおまけにすぎないんじゃないかしら。変わったのは、馬のほうじゃないかとわたしは思ってるの」
「でもどうして、いきなり?」
駿美には見当もつかなかった。馬が人間の言うことを間かなくなった、という意見には反対できない。いつも人間の思うままに動かされて、馬にも不満は山ほどあるだろう。でも、いままでこんなことはなかったはずだ。
「よくはわからないわ。ただその日曜日から――もしかすると駿美が言ってた落馬事件がきっかけで、妙な力がこの競馬場に働くようになったんじゃないかしら」
「とすりゃ、死んだ馬の恨み、とか?」
言ったのは有月だ。
「さあねえ。それなら、もっと違う方向にエネルギーが向きそうな気もするんだけど。ほかの馬を道連れにするとか、乗ってた騎手に呪《のろ》いをかけるとかね」
駿美はあっけにとられた。
「恨みとか、呪いとか、そんなこと本気で言ってるんですか?」
「あら、変かしら。駿美だって見たんでしょう、わたしたちさえ気づかなかったものを」
駿美は言葉につまった。たしかにあたしが見たあの憤怒《ふんぬ》の顔、カントリーヒーローに乗っていたあれは、だれだったんだろう。
「駿美ちゃんが見たそいつは、カメラで馬を驚かせた人間を襲おうとしちょったんだな」
駿美はうなずいた。
あのときあたしと馬に乗ってた人物は、同じものを見ていた。あの青年を、おそらくは同じ気持ちで。馬を驚かせるなんて許せない。馬を怖がらせるなんて、ぜったいに許せないと。
高らかにファンファーレが鳴った。
「おっと、レースか」
有月が身を乗り出した。三衣がつぶやく。
「二レースからあと、おとなしかったからね。なにかあるかもしれないわ。おそらくはきっかけが必要なんでしょうけど」
きっかけ? さっきは、青年がフラッシュをたいて馬を驚かせた。今度も、馬の身になにかがあったとき、それは起こるのだろうか。
ゲートに向かって、馬たちが集まりつつあった。駿美はばさばさと競馬新聞を広げた。『六R 三歳新馬』。
有月と三衣は立ち上がった。馬場を見つめるでもなく、視線をあたりにさまよわせている。
『次々とゲートにおさまっていきます』
場内の放送が聞こえる。
駿美は出走馬を順番に見ていった。人気になってるのは一番のサンデーサイレンス産駒《さんく》だ。今年のダービー馬やオークス馬を生み出した、いまもっとも話題の父馬である。
しかし駿美の目は、別の馬に釘《くぎ》づけだった。八枠十番、ウメノクリーク、芦毛《あしげ》。今日がまだ二走めだ。人気はまったくと言っていいほどない。
「有月さん、ミイさん! この仔《こ》……」
二人が振り返った。
ウメノクリークを指差す。
「三週間前の新馬戦で、落馬に巻きこまれた馬です」
それがどうした、とは訊《き》かれなかった。
「駿美はここで、ファインダーをのぞいていて」
三衣はそう言って、すでに数歩前を行く有月を追いかけた。二人は、あっという間に人ごみに消えた。
『各馬ゲートにおさまりました』
ゲートが開くガチャンという音が響いた。向こう正面を、十頭の馬が駆け抜けていく。
駿美は急いでカメラを取り出した。カメラは望遠鏡がわりにもなる。駿美はズームを最大にして、馬たちの姿を追いかけた。
芦毛の馬が見えた。まだ幼く、白というよりは黒に近い。二、三年も経てばもっと色が薄くなって、きれいな芦毛になるだろう。
ウメノクリークはしんがりを走っていた。ときどき首をいやいやをするように振っている。
騎手がいくら手綱をしごいても、けっしてほかの馬に近づこうとしない。
怖いのだ。
あんな事故に巻きこまれたばかりだから当然だ。駿美は胸が痛んだ。事故のときに負った心の傷は、きっと時間とともに忘れていくしかないのだろう。だからと言って、レースをいやがる馬をいつまでもそっとしておいてやるほど、馬主も厩舎《きゅうしゃ》も余裕があるわけではないのだ。
駿美はカメラを先頭の馬へと移した。
レースを引っ張っているのほ、ゼッケン一番をつけた鹿毛の馬だった。人気になっているサンデーサイレンス産駒だ。楽そうな手ごたえからすると、このまま逃げ切れるだろう――なにごともなければ。
先頭からしんがりまで約十馬身、ばらばらの展開のまま、馬たちは三コーナーのカーブを曲がりつつあった。
こんなときでも、駿美は馬たちの姿に見とれずにおられなかった。やっぱりきれいだ。人馬一体というのだろうか。牧場を自由に駆けまわる姿も美しいが、こうして背中に騎手を乗せて躍動する姿は、どこまでも――天までも昇っていってしまいそうだ。
(……?)
ファインダーに、なにかが飛びこんできた。あわててカメラをずらす。周囲の大人たちは、だれ一人気づいていない。
駿美は震える手で、焦点を合わせた。
四角いファインダーに映った人間のなかに、騎手ではない人物がいた。勝負服ではなく、鎧《よろい》武者のような姿をしている。
顔は怒りにゆがんでいた。
今度も馬にまたがっている。だが、サラブレッドではない。吸いこまれるように黒く、ひときわ大きな馬だ。ここからでも、目がらんらんと赤く輝いているのがわかった。
黒馬は最後方に現れたかと思うと、またたく間にウメノクリークに並びかけた。芦毛の馬の目が、なにかを訴えるように黒馬に向けられる。
馬上の人物は深くうなずいた。みるみるうちに数頭を抜き去る。そして直線を向くころには、完全に先頭にたっていた。
黒馬が、ゆっくりと速度を落とした。後ろを走っていた競争馬たちが、合わせるかのように勢いをゆるめる。
普通なら、ここから最後の追い比べが始まるはずだった。
場内がざわつく。騎手たちもあせっているようだった。鞭《むち》をいくら振り上げても、速度は落ちていくばかり。
そして、ついに十頭の馬は立ち止まった。いや、十一頭と言うべきか。
ちょうど、駿美の目の前のあたりだった。人々はわけがわからず怒鳴りまくっている。
「なんだ、なんだ!」
「まじめに走れ!」
芝のコースに向かって、新聞が飛んだ。中身の入ったジュースの缶や靴も投げられた。
黒馬が、赤く輝く目をスタンドに向けた。
同時に、馬たちもスタンドを向いた。
駿美はさとった。こっちへ来るつもりだ――あたしたちに向かって。カントリーヒーローが、あの青年を襲ったときのように。
逃げられない。今度はじゅうぶん助走もつけられる。あんな柵《さく》なんか、馬が本気になれば簡単に飛び越えてしまうだろう。だれにも止めることはできない。後足で蹴り上げられ、体当たりを食らって、いったい何人の犠牲者が出るだろうか。
ふいに、黒馬に乗った人物の視線が地面に落ちた。驚いた顔つきになる。
視線の先に、二本の紐《ひも》のようなものが落ちていた。と、一本の紐が動いた。片端を持ち上げるように揺れる――くねくねと風に吹かれるように。
黒馬の後ろにいた馬たちが、ばたばたと崩れ落ちた。背中の騎手も「ぎゃっ」と声をあげて転がり落ちる。
見ていた人々が静まり返った。小さな悲鳴がもれた。馬たちは死んだように動かない。
紐が動きを止めた。もう一本の紐が、身をよじるようにして近づいていく。
(蛇……?)
緑と黒の二匹の蛇だった。まるで相談でもしているかのように、頭と頭を近づける。
数メートル離れたところでは、黒馬がウメノクリークの脇腹《わきばら》に鼻面をすり寄せていた。倒れていた芦毛の馬がよろよろと起き上がる。そしておぼつかない足どりで、蛇たちのほうに向かって歩き始めた。
「危ない!」
駿美は思わず叫んだ。二匹の蛇がぱっと頭をもたげる。
その背後に、ウメノクリークの前足が迫りつつあった。片方の蛇――身体を揺らしていた緑の蛇が、小さめの黒蛇に尻尾《しっぽ》を巻きつけ、引きずるように動き出す。振り上げたウメノクリークの前足は、なにもない草地に叩《たた》きつけられた。
馬場とスタンドのあいだには、小さな溝が走っている。
二匹の蛇は、溝のなかに飛びこんだ。小さな水しぶきがあがった。
5 中断
コースに倒れた馬たちは、騎手や係員が手を触れると、ヒヒンといなないて起き上がった。
どうやら眠っていただけのようで、駿美はまずは胸をなで下ろした。
場内にはくり返し放送が流れていた。
『馬たちはなにかに驚いて立ち止まったようです。六レースは全額払い戻しいたします』
すぐに残りのレースはすべて中止になるかと思われた。しかし人々の怒りようはすさまじく、だれ一人帰ろうとしない。
「中途半端なレースを見せるんじゃねえ」
「儲《もう》けもしないうちに帰れるか!」
そんな罵声《ばせい》が、あちこちで聞かれた。
中央競馬会のほうも、怪我人《けがにん》が出なかったこともあり、このままレースを続ける方向で話し合いが行われているようだった。
だれ一人、馬が自分たちを襲おうとしていたとは思っていない。
助けてくれたのは、あの二匹の蛇だ。
駿美は不思議な気持ちで、有月と初めて出会ったスタンド東の芝生を歩いていた。
「肝心なときにいてくれないんだから……。ついててくれるって言ったくせに」
小さな声でつぶやく。もちろん有月と三衣のことだ。あれからしばらくはスタンドの前で待っていたのだが、二人はいっこうに戻ってこなかった。駿美は周囲のオヤジどもの怒鳴り声に耐え切れず、ここまで逃げるようにしてきたのだった。
最初は有月のことも、迷惑としか思えなかった。が、いまは会いたくてたまらない。さっき見たもの――再び現れたあの人物と黒馬、そして二匹の蛇――の話は、彼らにしかできそうもないのに。
(どこ行っちゃったんだろう)
芝生の隣には、コンクリートの公園が広がっていた。中央には巨大な噴水が二つ並んでいる
が、寒さのためか水は噴き出していない。周囲に置かれたベンチにも、じゃれ合う恋人たちの姿はなかった。
(一人は、いやだな)
とはいえ、帰るわけにもいかなかった。
駿美はただの高校生だ。ひとよりちょっと馬が好きで、友だちにはオタクと言われることもあるが、それを除くと普通の女子高生のつもりだ。おしゃれにも恋愛にも興味がある。
怖いものは、もちろん嫌いだ。
それでもいまは、自分が見たものの正体を知りたいと思っていた。ほかでもない、大好きな馬たちに関わることだ。有月と三衣の二人なら、協力してくれると思ったのに。
「有月さあん、ミイさあん」
まわりにだれもいないのをいいことに、駿美は大声を張り上げた。
「……駿美ちゃん」
聞き慣れた声だった。
「有月……さん?」
駿美の顔がぱっと輝く。
声は公園を取り巻く林のなかから聞こえてきた。たぶん、あっち――子供のための遊具が置かれた小さな遊園地のほうからだ。
駿美はほっとして、走り出した。どうして向こうから姿を現さないんだろうと、疑問に思うことすらなかった。
足もとが土の地面に変わる。
すべり台のかげでは、二匹の蛇が待っていた。それが有月と三衣だとわかったとき、駿美は生まれて初めて腰を抜かした。
6 レース再開
「いやあ、よかった。駿美ちゃんがわしらの姿、苦手じゃなくってよ」
「べつに得意というわけじゃ……。いまだってフワフワ浮いてるような気分なんですから」
蛇に話しかけられるのには永遠に慣れそうもない。そう思いながら駿美は答えた。
すでに有月から、およその事情は聞き終えていた。とても信じられない話だったが、こうして蛇の有月を目の前にしては、疑う余地すらなかった。
有月と三衣は、「妖怪《ようかい》」と呼ばれる存在だった。その生まれを、二人は人間の強い想いによるものだと教えてくれた。有月は日本海に浮かぶ小島の蛇神として、三衣は崇《たた》りを取り除くために作られた蛇石として、生まれたということだった。
さっき馬たちを止めたのはもちろん二人、というより二匹だった。緑蛇の有月が上体を揺らすと、相手を眠らせることができるのだそうだ。
「あの黒馬も、乗ってたひとも……妖怪ですか?」
駿美は訊《き》いた。あれも、人間の想いが生み出したのだろうか?
「おそらくはね。すこし性格がひん曲がってるようだけど。まったく競馬場まで来て、あんなものに出くわすとはねえ。かと言ってこのまま引き下がるわけにもいかないし……」
黒くて細い蛇が答えた。こちらが三衣だ。人間の姿のときと同じで、どことなく色っぽく、ときどきのぞく舌は異様に赤い。近くで見て初めて気づいたが、蛇のくせに小さな耳が二つあった。
有月のほうは、人間の姿とは似ても似つかなかった。全身がきらきら輝く深緑色で、どことなくおごそかな感じすらする。三衣よりすこし大きめで、同じように真紅の舌がちろちろとのぞいていた。本当はもっと巨大になれるのだが、いまは目立たないように小さくなっているらしい。
「やつの姿はわしらにも見えんかった。さっきは注意してくれてありがとな、駿美ちゃん」
「いえ、そんな」
蛇に礼を言われるのも、複雑な気分だ。
「でもどうしてこのカメラをのぞくと、あの――妖怪が見えるんでしょう?」
駿美はカメラをひっくり返した。三年前に交通事故で死んだ父が、本格的な撮影用ではなく、家族や身のまわりを撮るために使っていた、ごく普通のカメラだ。
「わたしにはうっすらと見えるわ」
三衣が言った。
「そのカメラ、よほどお父さんに愛されていたのね。完全な生命を持つにはまだずいぶんかかるでしょうけど、すこしずつ生き始めている。あなたがそうやって大切にしていけば、いつか新しい妖怪が生まれるかもしれないわ」
「カメラの……妖怪?」
「そうさな。わしの知り合いの知り合いにも、戦場カメラマンのカメラから生まれた妖怪がおる。それがまたかわいい女の子でよ」
「へええ」
有月はかなりの女の子びいきのようだ。それも妖怪としての生まれに関係あるんだろうか。
三衣が小さな目をじろりと有月に向けた。
「とにかく急いであの妖怪を見つけ出して、始末するなりしないと。姿は見えなかったけど、ものすごい殺気を感じたもの。人間なんか、どんな手段を使ってでもここから追い払ってやるってね」
駿美はうなずいた。
「あたしにもそう思えました。ひとの想いから生まれた妖怪でも、ひとのことを憎むんですね」
自らが生み出したものに、逆に滅ぼされようとするなんて。なんだかおかしな話だ。
「よくあることさ。人間の想いは、いいもんばっかじゃねえけんな。恐怖、嫉妬《しっと》、欲望。そげなもんからも、妖怪は生まれてくる」
「……なんだかもう、深く考えたり悩んだりできなくなっちゃうな。悪い妖怪を生み出しそうで、怖くて」
駿美の正直な気持ちだった。
黒蛇が首を横に振るかわりに、上体を左右に揺らした。
「あら、妖怪にとっていちばん怖いのも人間なのよ。人間がいなくなって、想いがなくなれば、わたしたちの存在も消えてしまうから」
駿美にはよくわからない。
「だからほかの妖怪をやっつけようとするんですか? 想いがなくなると困るから、人間を助けようとするんですか?」
「さあなあ、わしにもわからん」
有月がため息をついた。蛇の姿をしていても、息が酒くさい。「うわばみ」って、大酒飲みのひとをたとえて呼ぶ言葉だったっけ。
「妖怪のわしらも、人間みたいになにかを生み出したいんかもな。邪悪な心から生まれた妖怪は、なんでもかんでも破壊しようとするけん」
しばらく、だれもなにも言わなかった。
駿美は迷っていた。
あの黒馬にまたがった妖怪は、はたして邪悪な心から生まれたのだろうか。駿美の目には、ウメノクリークが彼になにかを訴えかけていたように見えた。破壊だけを求める妖怪が、あんなふうに馬と心を通わせることができるだろうか。
それに、きっかけとなった数々の事件。いずれも馬好きの駿美にとって辛《つら》いものばかりだった。あの妖怪も、同じ気持ちで馬たちを見ていたとしたら?
「どした、駿美ちゃん?」
有月が鼻先でつんつんとスニーカーをつついた。
「いや、その……あたしには、あんまりあの妖怪が悪いひとに思えなくって」
三衣が小さな耳をぴくりと動かす。
「どうして? あれだけ人間を嫌ってるのよ」
「でも、気持ちはわかりますから。馬のことをいちばんに考えるなら、人間ほど邪魔なものはないでしょう?」
「まあな。でも俊美ちゃんはそれでもいいんか?」
なにを訊かれているのかわからず、駿美は首をかしげた。有月が念を押すようにくり返す。
「馬のために、自分たちが滅ぼされてもいいんか?」
「それは……困ります」
駿美はうつむいた。
どうしてこんなことになってしまったんだろう。人間だって、馬のことを大切に思っているはずなのに。馬を守りたい。無事に走らせてやりたい。痛い思いや辛い思いはさせたくない。駿美はずっとそう思ってきた。
「駿美ちゃんがいくら馬が好きでも、馬にはわかんねえのかもしれんな」
「そうね。すくなくともこの競馬場に来てるほとんどのひとはお金が目当てだわ。レースで馬が怪我したって、かわいそうだと思うかわりに、『なんだ、ばかやろう』って思うひとばっかりなのよ」
「そんな、あたしだけじゃありませんよ!」
駿美はすこしだけ腹が立った。
「馬のためになにかしてあげたいと思ってるひとは、世の中には大勢います。馬の幸せをお祈りするためのお寺だってあるくらいですから」
「そげか?」
有月にさほど感心したようすはない。
「神戸に、妙光院《みょうこういん》っていうお寺があるんです。そこには競走馬の供養塔があって、いつお参りに行っても、お花や人参《にんじん》が山のようにお供えしてあるんです。それを見るたびに思います。わたしのほかにも、馬が大好きなひとはいっぱいいるんだなあって」
有月と三衣は顔を見合わせた。
二人にはわからないのか。人間がどれほど馬のことを好きなのか。この阪神競馬場にも、死んだ馬たちを慰めようと……。
(まさか!)
駿美は愕然《がくぜん》とした。
すっかり忘れていた。でも、ここを走る馬たちを守るのは、あれの役目のはずだ。
そうだ。姿も同じ。怒りに満ちた、あの顔。
たしか、このすぐ東に……。
「駿美ちゃん?」
有月の声を背中で受け止めて、駿美は走り出した。
『まもなくレースを再開いたします』
場内放送が聞こえた。
(待って。まだレースを始めないで)
駿美は祈りながら、遊園地から続く小道をたどった。聞こえるのは自分の足音だけだ。有月と三衣はついてきてくれているだろうか。
薄暗い林を抜ける。目の前がぱっと広くなった。
あった。
十メートル四方の空き地に、折れた木や崩れた灯籠《とうろう》が放ったらかしになっていた。地震の影響は、ここにもあったのだ。
中央に小さなほこらが建っている。駿美が探していたものだ。
「これは……?」
背後から有月のいぶかしむ声が聞こえた。こそりとも音をたてずに近づいてくる。
「阪神競馬場の馬頭観音です」
ほこらは、あちこち新しい板でつぎはぎされていた。これもまた地震で壊れたのだろう。いちおう修理されたらしいが、それにしても寂しいかぎりだ。供えものはなにもない。だれかが参った形跡もまったくない。
いったいどれだけのあいだ、放置されていたのか。
『パドックを開始いたします』
またも放送が聞こえた。
「見てください!」
駿美は息を飲んだ。
場内放送にこたえるかのように、ほこらからもやもやと煙のようなものが吹き出した。
そして一瞬のちには、雄々しい黒馬といかめしい鎧《よろい》武者の姿が現れていた。
7 「メインレース」
駿美は記憶をたどった。
馬頭観音――ときには馬頭明王とも呼ばれる。馬を守護する観音で、つねに顔を憤怒にゆがませ、馬に危害が及ぶとただちに駆けつける。
馬が助けを呼んだのか? だから明王は現れたのか? なぜ、突然に。
「……」
明王はゆったりとした動作で空を仰ぎ見た。まるで耳をすませるように。
「駿美ちゃんにも見えちょるんだな」
有月が低い声でささやいた。
そう言えばカメラのファインダーをのぞいているわけでもないのに、明王の姿ははっきり見えている。
「これが実体みたいね。いつもは馬にしか見えないよう、姿を消しているんでしょう」
三衣の言葉に、有月がうなずく。
「いまならやっつけられる。駿美ちゃんは退《さ》がってな」
明王がぎろりとこちらをにらんだ。息を飲むほど恐ろしい顔。
(すべては馬を守るため?)
そう思うと、駿美は退がることができなかった。
二匹の蛇はたまりかねて、するすると前に飛び出した。黒蛇のほうは小さなままだが、緑蛇のほうはいつの間にか二メートル以上の大きさになっている。それでも鱗《うろこ》はあいかわらず宝石のように美しく、駿美は不思議と怖くなかった。
二匹の蛇が、駿美を守るように鎌首《かまくび》をもたげた。
そのとき初めて、明王が口を開いた。
「邪魔をするでない。あの馬たちの叫びが聞こえぬのか」
「ああ、聞こえんよ」
あっさり答えたのは有月だ。
「なんて言っちょうんだ?」
「『まだ走るのか』と。『傷つくのは怖い』と」
駿美はいたたまれなかった。馬はいつもそう思っていたのだ。でも人間に馬の言葉はわからない。わからないのをいいことに、自分の欲求を押しつけてきたのだ。
「だけんって騒ぎを起こされちゃ、同じ妖怪《ようかい》として困るんだよ」
緑色の蛇がシャアッと口を開いた。
黒馬が首をしなやかに振り、カッカッと前足をかく。もうもうと土煙があがった。
「お前たちにはわかるまい、わたしの苦悩は。馬たちはわたしに助けを求める。怖い、痛い、苦しい、と。すべては人間のためだ。人間が馬を怖がらせ、痛めつけ、苦しめているのだ」
「でも……」
駿美はとまどいながら口をはさんだ。
「あなたはもともと、馬を守りたいっていう人間の想いから生まれたはずでしょう? なのにどうして……」
明王が嘲笑《あざわら》うような顔で駿美を見下ろした。
「わたしが人間の想いから生まれたと? そのようなことはありえぬ。わたしは長い長いあいだ、闇《やみ》のなかにおった。だれもわたしに教えてくれなかった。自分がなんのために存在するのか、わからなかった。それが……」
黒馬が真っ赤な瞳をかっと見開いた。
「あの馬の悲鳴が、わたしの目を覚まさせた。『痛い、殺される』と死に物狂いで訴えてきた。……かわいそうに、わたしは救ってやれなかった」
駿美の頭に、三週間前の落馬事件で薬殺された馬のことが思い出された。
「わたしは自分の役目に気づいたのだ。馬を守らなくてはならないと。すこし驚かせば、人間は去っていくと思っていた。ところが人間ときたら増えるいっぽうではないか。こうなれば、力づくで追い出すしかない」
手綱も使わず、明王は黒馬の向きを変えようとした。
ひとのあふれる、スタンドのほうへと。
「行っちゃだめ!」
駿美は黒馬の前に立ちふさがった。明王の言うことはもっともだ。でも本当に、馬は人間を恨んでいるだけなのだろうか。
明王が動きを止めた。目を細めて、駿美をじっと見つめる。
「人間……お前にも、消えてもらわねばな」
「わしの駿美ちゃんに、そげなことはさせねえ。おい、こっちを見んかい!」
明王は言われるまま、有月に視線を動かした。
緑蛇がぎょろりとした目でにらみつける。
(蛇ににらまれる蛙、って言葉があったっけ)
しかし明王は萎縮《いしゅく》するどころか、有月をぎりっとにらみ返している。
「ちっ、そう簡単には効かねえか」
有月は首をぷいと振った。なにをしようとしたかはわからないが、あきらめたようだ。
「こうなりゃ、いったんばらばらになってもらうしかねえな」
緑蛇の目が、供えもののないほこらに向けられる。
「それは困る。わたしがいなくなれば、だれが馬たちを守るというのだ?」
「あんたのかわりなんざ、いくらでもおるさ!」
有月が吐き捨てるように言った。
駿美にはわからなかった。明王のかわりは、本当にいるのだろうか。ほこらを壊してしまえば、これまでにこめられたひとの想いはどこへ行くのだろう。
有月の言葉にこたえるように、三衣の黒くしなやかな身体《からだ》がとぐろを巻き始めた。
と、ぐらりと地面が揺れた。
ほこらのまわり数メートルの範囲の地面が、ゆっくりと宙に浮かび始めた。ぼろぼろと、土くれが滝のように落ちる。
なにが起こっているのかわからない。が、三衣の力であることは間違いない。
「仕方あるまい」
明王がさっと手を振り上げた。
(あっ……)
駿美はまたも飛び出した。
「来たれ、人間の悪業に苦しむ馬たち……」
「待って! 呼ばないで!」
盛り上がった地面につまずいて、勢いよく転ぶ。手のひらの皮がずるりと擦りむけた。
明王の言葉が止まる。
「駿美、どいて!」
三衣の怒る声が聞こえた。
駿美はがばっと顔を上げた。こちらを見下ろす明王の顔を、真正面でとらえる。
「馬たちをここに呼んで、戦わせるんですか? そんなことしたら、傷つくのは馬です。あなたは馬を守るために、ここにいるんでしょう?」
「人間がなにを言う」
地面の揺れがおさまった。三衣のやりきれないため息が聞こえた。
「ならばお前はなにもしていないと言うのか? 馬を無理やり走らせて、苦しめて、喜んでいるわけではないのか?」
「……たしかに喜んでるかもしれません」
駿美は唇を噛《か》んだ。
「だってあたし、馬が走るのを見ると、すごく幸せですから。それがいけないことですか? 馬だって、なでてあげたら甘えるじゃないですか。人参《にんじん》をあげたら、目を細めて喜ぶじゃないですか」
そうだ。人間と馬は長い長い年月をかけて、深い絆《きずな》を結んできたはずだ。
「人間だってそうです。仔馬《こうま》が生まれるのを心待ちにしてます。眠いのも忘れて、ずっと見守ってます。骨折した馬の痛みをわかってやれないって、泣いた騎手の話、知ってますか?」
返事はない。かわりに黒馬は、駿美に一歩近づいた。
駿美は負けまいと叫んだ。
「馬が悲しいと、ひとだって悲しいんです。あなたは知ってるはずなのに。知ってなきゃいけないのに!」
立ち上がろうとする。と、地面についた手に、なにか固いものが触れた。地割れの隙間《すきま》に、白っぽい箱のようなものが見える。
(あれは……?)
気を取られた瞬間、黒馬の前足が振り下ろされた。
ばしっ。駿美は一メートルほど跳ね飛ばされた。
「駿美ちゃん!」
二匹の蛇がさっと駿美の前に出る。駿美はすぐに身体を起こした。馬に蹴《け》られると、もっともっと痛いと思っていた。だが衝撃はたいしたことはない。
「そのようなことは知らぬ!」
明王は、緑蛇を狙《ねら》って次の一撃をくり出した。蛇とは思えない俊敏さで、有月がそれを避ける。しかし黒馬は身体をひねり、即座に後足を蹴り上げた。
三衣の細い身体が、ほこらよりも高く跳ね上がった。
「ミイさん!」
「来るんじゃねえ。ミイちゃんなら大丈夫だ」
有月が叫んだ。
見ると三衣はもぞもぞと動いていた。元気がなさそうなところを見ると、どこか強く打ったのかもしれない。
(ごめんなさい、ミイさん)
駿美は心のなかでつぶやいた。
(あたしが……人間がどうにかしなきゃいけないことなのに)
歯を食いしばる。
涙で曇りそうになる目で、明王を見上げた。
「競馬場から人間がいなくなったら、いっしょに馬もいなくなってしまいます」
明王はこちらに目もくれない。それでも駿美の言うことを、一句たりとも聞き逃していないはずだ。
「あなたが人間を追い出したりしたら、守らなきゃいけない馬もどこかに行ってしまうんです。あなたが人間を襲わせた馬――カントリーヒーローがどうなるかなんて、すこしでも考えましたか? 殺されてしまうかもしれないんですよ」
「それもまた……人間の罪ではないか」
苦しそうに、明王が答えた。
「駿美ちゃん、説得は無理だ。こいつは、わしらがやっつける」
「やめて!」
駿美の訴えに、緑蛇がためらった。
その隙に、黒馬は標的を変えた。駿美に向かって突進してくる。
今度こそ、踏みつぶされる。駿美の頭に、レース中に落馬して内臓破裂のすえに死んだ騎手のことが思い浮かんだ。
それでも駿美は動かなかった。
ガッ。前足が振り下ろされる。
「きゃっ」
駿美はそのまま横倒しに倒れた。口のなかが切れて、苦い血の味が広がる。しかしそれ以外に怪我《けが》はなかった。骨も折れていなければ、内臓もぴんぴんしている。
黒馬の一撃は、またも頬《ほお》をかすめただけだったのだ。
狙いを誤ったのか。それとも。
「なぜだ……」
背後から明王の声が聞こえた。とまどっている。
「なぜわたしは、お前を傷つけられぬ」
駿美はそろそろと地面に手を伸ばした。さっき見えた、白い箱のようなものをかき出す。
それは小さな桐の箱だった。蓋《ふた》をずらすようにして開けると、髪の毛のようなものが一房、丁寧におさめられていた。
(……たてがみ?)
そうだ、間違いない。馬頭観音には、不慮の事故で亡くなった馬のたてがみが祭られていると聞いたことがある。
駿美は木箱をきゅっと抱きしめた。
「駿美ちゃん、そこをどきな」
有月のいらいらした声が聞こえてきた。
駿美はそれを無視して、ゆっくりと立ち上がり、明王と向き合った。
「お前は……なに者だ?」
顔から憤怒の表情は薄れている。いまは困惑に満ちている、と言っていい。
「なぜお前を消すことができぬ?」
「わかりません。あたしはただの人間です」
駿美はきっぱり答えた。
「そしてあなたと同じように、馬が好きなだけです。馬を守りたいって思ってるだけです」
明王が、疑うような目つきになる。
「ばかげたことを」
「いいえ、あなたにはわかってるはずです。人間が、本当は馬を憎んでいるわけじゃないってことを」
駿美はくるりと明王に背を向けた。今度はつまずかないように気をつけながら、ほこらに歩み寄る。
「思い出してください。人間が、どういう想いであなたを生み出したのか。死んでいった馬たちの声に、耳を傾けてください」
信じたかった。
馬たちも、けっして人間を憎んでいるわけではないと。
「いまでも『苦しい、悲しい』って言ってるなら、あたしもあきらめます。馬と人間が仲よくなれるだなんて偉そうに言ったこと、謝りますから」
駿美はほこらにそっと木箱を置いた。どきどきする胸を押さえて振り向く。
明王はじっと動かない。
「駿美ちゃん、もういいな。こいつはほこらごとぶっつぶすぜ」
有月がもう待ち切れない、というふうにぎろりとにらんだ。
駿美は祈る気持ちで明王を見つめた。
(お願い、思い出して)
両手を握り合わせる。
(思い出して。あなたは、あたしのような人間から生まれたことを!)
そして。
「なぜだ……」
迷うような声が響いた。
「なぜこの馬たちは、苦しみを語ろうとしない。人間のせいで死んだというのに」
明王の顔が、苦しそうにゆがんだ。
「ただあるのは、生きている馬をうらやむ心だけだ。それも……ねたみではない。無事であれと祈る心だ。疲れたときには温かく迎えてやる。だからいまは走れ、と……」
有月が、動きを止めた。
「わたしは……」
明王が茫然《ぼうぜん》と駿美を見つめた。
「わたしは人間の手で作られたのか。ああ、そうだ。馬のために、人間が作ったのだ。馬と人間が、いつまでもともにあるようにと……」
駿美はうなずいた。目から涙がこぼれる。
ようやく明王は、本来の姿を取り戻したのだ。
「明王のオーラが……」
三衣がつぶやいた。
駿美に、明王を包む霊気は見えなかった。ただ明王がまたがった黒馬の目が、すうっと赤い輝きを失っていくのだけはわかった。
(あたしは、あの目を知っている)
母親が、いつか競馬場へと旅立っていく仔馬《こうま》をやさしく見守る目だ。
「ありがとう……」
駿美はつぶやいた。
明王と黒馬は振り向きもせず、ほこらのなかへと消えていった。
エピローグ
三人は、すっかり傾いた夕日に向かって歩いていた。有月と三衣は人間の姿に戻っている。
二人が服を脱ぎ捨てたという場所――馬場とスタンドのあいだの溝のそば――まで、取りに行ったのは駿美だ。
有月が帽子をかぶり直しながら言った。
「地震でほこらが壊れたとき、あの木箱といっしょに肝心な記憶が抜け落ちちょったんだな」
「ええ。人間に愛されていたという記憶がね」
三衣がうなずく。
それだけじゃない、と駿美は思った。人間も忘れていた。馬頭観音を大切にすることを。馬たちの安全を祈り続けることを。
「あたし、明日も来ます。お供えの人参《にんじん》を持って」
「そういや駿美ちゃん、今日はろくに写真も撮れんかったけんな」
「あら、それを言うなら、わたしだって一円も儲《もう》けてないわ。だれかさんの酒代を払ったばっかりで」
三衣が唇をとがらせた。有月が目をそらし、ついでに話題も変える。
「で、駿美ちゃん、これからどうする?」
「電車に乗って帰りますけど……」
「いや、そうじゃなくって」
三衣がくすっと笑った。
「わたしたちのこと、どうするつもりかってこと。べつにだれかに話されたところで、信じてもらえないだろうから心配してないけどね」
「あっ、ええと」
駿美は困った。
だれかに話したいとは思わない。こうして人間の姿の二人を見ていると、あれはすべて幻覚だったのだろうかという気にさえなってくる。
「わかりません。よく考えてから決めます」
言ってから、はたと気づいた。
「どうしてこんな重要なこと――あなたたちが妖怪《ようかい》だってこと、あたしに教えたんですか」
有月と三衣が顔を見合わせた。
「簡単さ。駿美ちゃんにしか、やつの姿は見えちょらんかったけんな」
「それならカメラだけ借りれば……」
言いかけた駿美を、三衣がさえぎった。
「もちろん、それだけじゃないわ。駿美が妖怪というものの存在を知ったらどうするか、興味があったの」
三衣はいたずらっぽく笑った。有月は照れたように耳たぶを掻《か》いている。
駿美は二人の信頼に、こたえたいと思った。
「……妖怪がひとの想いから生まれるものなら、あたしはひととして、見守っていきたいと思います。とくに、このカメラ」
駿美は父の形見をそっとなでた。父がどれだけ家族を愛していてくれたかの証拠だ。
「ずっと大切にします。いつか、お父さんの思い出をいっしょに語れる日がくるまで」
「なら、見守っちょってもらおうか。駿美ちゃんにはいろいろ教わることもあった」
有月がさりげなく感謝した。と、視線が道ばたの自動販売機に止まる。
「はよ島に帰ろ。酒が待っちょうわ」
三衣がむっとした。
「あら、競馬でひと山当てて、それを電車代にするって言ってなかったっけ? 言っとくけどわたしは貸さないからね」
「そう言わんと。お礼にちゃんとおみやげ買ってくるけん」
「どうやって買うつもり? どうせあの松屋とかいう旅館のおばさんに、ただでわけてもらうんでしょう」
「……なんでわかる?」
「同じ蛇どうし、おじさんの考えてることなんか、全部お見通しよ」
有月はがっくりと肩を落とした。
二人のやりとりを微笑《ほほえ》ましくながめていると、ふいに三衣が撮り向いた。
「ねえ、駿美。今度、いいところに連れてってあげるわ。わたしが出入りしてるアンティーク・ショップなんだけどさ、ちょっとカッコいい高校生の男の子がいるわよ。ただしシスコンだけど」
駿美はドキッとした。馬を見るときとは、また違ったときめきだ。
すでに駿美の頭のなかでは、そのとき着ていく服のシミュレーションが始まっていた。
三か月後。カントリーヒーローは同じ阪神競馬場で、念願の初勝利をあげた。
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Take-3――――――――
相変わらず、テレビはつけっ放しだ。
CMが入り、近日公開の映画の宣伝が流れた。「史上最大のヒット作!」の文字を見るたび、いったいこの世に歴史はいくつあるのだろうと思う。
宣伝文句に踊らされているわけではたかろうが、人間は飽きることなく映画館に足を運ぶ。ジュースをすする音、ポップコーンを手探りする音に気を遣いながら、新しい映画、旧《ふる》い映画をその目で見ようとする。
なぜか映画を「嫌い」と評する人間の話は、聞いたことがない。野球も、競馬も、「嫌い」と言う人間はかならずいるというのに。
ホラー映画はいやだとか、SFはつまらないとかいうレベルの話ではない。映画そのものを疎《うと》ましく思うひとはいない、ということだ。わざわざ外に出かけるのが面倒なら、ビデオを借りればいい。14インチの四角い画面の中でも、映画は間違いなく楽しむことができる。
手軽な娯楽だから、というだけではないだろう。ただそれだけの理由なら、あれほど映画に情熱を傾ける人間はいないはずだ。
彼らのような映画好きに言わせれば、映画は胸をわくわくさせてくれるそうだ。技巧を凝らした映像は、ため息が出るほど美しい。忘れていた感動を思い出させてくれることもある。
それは、小説だって同じだ。
現実には味わえないようなスリルを体験させてくれる。知らなかった世界を、教えてくれる。そこに、新たな「好き」を見つけることだってできる。
わたしだって知らなかった。教えてもらって、初めて知ったのだ。
この世に潜むように暮らしている、妖怪《ようかい》の存在を。
あなたには想像できるだろうか。
思い当たる経験があるだろうか。
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第三話 影と幻の宴 友野 詳
1.ロケハン
2.シナリオ
3.フィルム・スタート
4.アクシデントにより撮影中断
5.キャスティング・チェック
6.ビジュアル・エフェクト
7.零号試写
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1 ロケハン
「ふわああああ」
ミケは、大きくあくびをした。とりすまして笑うよりも、そういう表情のほうが、彼女は可愛く見える。
まあ、映画上映中の名画座の売店なんてのは、暇なものである。しかも、午後遅くの回で、入場者数は十人を切っているとなれば、あくびに遠慮する必要も感じない。
白いタイルがしきつめられた小さなロビーは、閑散としていた。
『今月の給料、この調子でほんとに出るのかしらん。いっそ、一階の立ち喰い蕎麦《そば》に雇われたほうがいいかもしんないよねぇ』
ここは、その名も <幻燈《げんとう》館> という名画座だ。映画ファンのあいだでは、マニアックなラインナップで知られていた。ただし、そういう傾ったプログラムでは、客の量も知れているわけで。
ああ、とミケはため息をつく。先週にやった『ニキータ』と『レオン・完全版』のときは、けっこうお客も入ったんだけどな。やっぱり派手なアクションつきが受けるんだよね……などと、ぼんやり考えこんでいると。
「悪いんだけど、ミケちゃん。ちょっと手伝ってもらえないかしら」
髪をきっちりとオールバックに撫《な》でつけた青年が、妙にクネクネとした口調で言った。
「さぼって客席にいたわね、孝太郎《こうたろう》さん」
青年の名は朧《おぼろ》孝太郎という。ミケこと、三池《みいけ》陽子《ようこ》がアルバイトをしている、この名画座 <幻燈館> のオーナーにして支配人だ。今日もいつもと同じ、白いワイシャツに黒のチョッキ、サスペンダにぴしっと折目のついた黒のスラックスだ。とどめは、のどもとの蝶《ちょう》ネクタイ。
この孝太郎、見ていた映画によって、ふるまい方に影響を受けるという、おかしな癖を持っている。今月の特集は、女性が主人公の映画、だ。しかも、シリーズ最終の今週は、『心は女』というテーマで、『プリシラ』と『バードケージ』という、女装した男性が登場する作品を上映している。
それはさておき。
「お手伝いって、残業手当は出るのかにゃ?」
ミケは、まずそれを訊《たず》ねた。時給計算なのであるが。
「ええと……お仕事じゃないのよね」
とシナを作って言ったところで、孝太郎はミケの視線に気づいた。いやぁなものを見る目つきだ。視線をたどってみると、孝太郎自身の口に向かっている。自分が人差し指をぴんと立てて、口もとにそえていることに、彼はようやく気がついた。
あわてておろす。ひねっていた腰もまっすぐ伸ばす。
「そうしたほうがいいよ」
ミケは、無遠慮な口調で言った。一介のアルバイトが、いかに暇で給料の払いも危うそうだからといえ、オーナーに対する態度ではない。
彼女と孝太郎は、単純な雇用者と労働者の関係ではないのだ。血族だとか、色っぽい関係などでもない。ある意味では、それらよりもよほど強い結びつきが彼女たちにはある。『同類』なのだ。その意味は、おいおい解説することとして、今は二人の会話に戻ろう。
「あのですね」
サスペンダをぴしっとはじいて、彼は口調をあらためた。
「ミケさんも御存知ですよね、F――大学の映画研究会のみなさんのこと」
「ま、まあね」
ミケが、少し狼狽《ろうばい》したような口調で言った。孝太郎は、気づいたようすもない。
「信男《のぶお》くんたちが、今度の新作映画で、うちをロケに使いたいと言ってきましてね。ついでにエキストラとしての出演もしてくれと頼まれてまして」
孝太郎は妙に嬉《うれ》しそうである。
「でミケさんにも出ていただきたいんですよ。いや、このまま売店に座っててもらうだけでいいっていうんですけど」
「はあ、それなら置物でいいんじゃないの」
ミケは、不機嫌そうな口調だ。
「……あの、もしかして、お嫌いですか、彼らのこと?」
ミケの表情と口調にやっと気づいた孝太郎が、いぶかしげに言った。彼にしてみれば、映画ファンはみんな『いいひと』なのだ。
「いや、その、ええと。まあ、嫌いじゃないけどね」
ミケは、視線をきょろきょろと宙に泳がせている。
「大蔵《おおくら》さんって人と、ゲマくんは、ちょっと女に好かれるタイプじゃないわよ。悪い人じゃないんだろうけど」
彼らF――大学映画研究会は、この <幻燈館> の常連だ。もう何世代も前の部員たちから、ずっとそうである。見るだけでなく、作るほうにも熱心だ。
ここ数年は、八ミリ映画そのものが下火になっていて新人もビデオ研に奪われることが多いらしいが、彼らは熱心に映画製作を続けていた。年一回の大学祭では、必ず新作を上映することになっている。
十年以上前の先輩には、プロの脚本家になったり監督になった人物もいる。以前に、彼らの自主制作映画の上映会を、この <幻燈館> で行なったこともある。そのとき以来、特別なイベントのときには無料で手伝いに来てくれたりもする、貴重な人材になっていた。
ミケは、ずっと <幻燈館> でアルバイトをしているわけではないが、他にめぼしい仕事がなくなると、雇ってくれと孝太郎に頼むことになる。だから、彼らにも何度か出会っていた。
だからこそ映画の手伝いは彼女に頼もうと、孝太郎は考えていたのだが、世の中、知っている相手だから助けてやろうとするとは限らないのである。
「まあ、その二人はどうでもいいんだ。変人なんて馴《な》れてるし。けど、ちょっとね……」
ミケは、言葉を濁した。いっそ言ってしまいたいんだけど、きっかけがないので躊躇《ちゅうちょ》してます、という感じだ。要するに、訊ねてくれよというサイン。無理に言わされた、という形が作りたいわけで。
「はあ」
不得要領な顔で、孝太郎があいまいにうなずいた。ミケの心情が読み取り切れず、無理につっこんで訊ねるのも悪いかなと考え、かといって撮影の手伝いを断られると都合が悪いし、どうしよう、といったところ。
ミケのほうは、孝太郎の考えていることが理解できたので、心の中でため息をつきつつ、思いきって口にしてしまうことにした。
「あとねぇ」
ミケは、ややもったいをつけて間を置いた。
「あそこに肇《はじめ》……佐東《さとう》くんっているでしょ? ほら、珍しく体育会系の、ちょっと流《りゅう》くんに似た感じの子」
流というのは、彼らの共通の友人だ。いきつけのバー、 <うさぎの穴> の常連である。
そして、ミケや孝太郎と、同じ種類の『存在』なのだ。彼は、たくましい体格とそれなりに整った顔だち、そして軽い性格と三拍子そろった遊び人でもある。
「佐東くんに誘われてデートしたことあって……まあ、結局、あたしがふったんだけど」
あたしが、を強調するミケである。彼女は、確かに魅力的な容姿の持ち主だから、男の子から声をかけられることは少なくない。
「ただね、最後のデートで、見られちゃったのよ」
その言葉を言ってから、ミケはやはり言うんじゃなかったと思った。聞いてもらえば、すっきりするかと思ったんだが、胸の中のもやもやがまた重くなったようだ。もう三カ月も前のことだっていうのに。
「それはその、下着かなんかですか?」
しごく真面目《まじめ》な顔で、孝太郎が言った。
「上司のセクハラで慰謝料取るわよ」
ミケの冷たい声に、しゅんとなる。反応からして、冗談のつもりだったらしい。
「もっと、よくないとこ」
だが、ミケの言葉を聞いて、緊張した顔つきが戻ってきた。
「まさか、正体を?」
声をひそれて言った。
「そのものズバリじゃないんだけど。ちょっと人間らしくないところを」
さっきまでのミケのしかめ面が、今度は孝太郎に伝染する。
「まずいかもしれませんね。あの人たちは、想像力|旺盛《おうせい》ですから。まさか、本当のことにまで気がつきはしないでしょうけど」
本当のこと。
それは、孝太郎たちが人間ではないということだ。
彼らは、妖怪《ようかい》と呼ばれる存在だった。人間の、ときにはそれ以外のものの、さまざまな強い『想《おも》い』が形を持ち、生命となって存在しはじめたもの。それが、彼ら妖怪である。
伝説でも神話でもなく、今の現実の中に彼らは生きていた。ひそやかに、隙間《すきま》にひそみ、影にいきづいて、人間社会にまぎれこんでいるのだ。縁を切り、人から隠れるよりも、その中でともに暮らすほうが、現代という時代はよほどやりやすい。
ミケの正体は、猫女。化け猫でも猫又でもなく、古来から続く、半獣半人の系譜につらなるものだ、と自称している。男の妄想から生まれた猫耳女じゃないのか、という説も根強い。ミケ本人に言わせれば、それこそが妄想で、あたしの御先祖はエジプトで神さまやってたのよ、ということになる。バステトという猫頭の女神は確かに存在するのだが。
もっとも、何世代も経るうちに、人間の思いこみが作用して――妖怪というのは人間の想いから生まれるのだから――、世間一般に流布している化け猫や猫又のような行動もついとるようになってしまった。ミケは、油を舐《な》めないと力が出ないし、またたびで酔っ払う。
一方の孝太郎も、かなり古い一族の出身である。彼は、蜃気楼《しんきろう》を作る巨大な貝、蜃の一族だった。その彼が都会で暮らしているのは、人間が作りだす幻、映画に魅せられたからだ。
彼が、見ている映画によって行動に影響を受けてしまうのは、いまだ自我が不安定なせいなのかもしれなかった。
「そういう事情であれば、追及されないように、ミケさんはいないほうがいいかもしれませんね。ただ、あなたがふったというだけなら、佐東くんにも新しい彼女ができたそうですから、どうってことないでしょうが」
「いたほうがいいと思うな、あたし」
唐突に態度を変えて、ミケが言った。
「ここで変に逃げ隠れすると、かえって相手の妄想をかきたてるわよ。だから、ここでちゃんと再会して、ただのちょっと変わった美女ってことにしておいたほうがいいと思うのよね」
口では、そう言いつつ、ミケの瞳にはいろんな表情が浮かんでいる。いちばんメインになっているのは、もちろん野次馬根性。ふった男の新しい彼女、見てみたくないはずがない。絶対に見たくもないという気分だってあるのだが、そのへん、ミケも複雑な性格をしている。
「は、はあ」
ミケの急変についてゆけず、孝太郎は目を白黒させている。何百本、何千本の映画を見ていても、うまく自分で消化していないと、人間の心理を洞察する力はつかないということだ。
「まあ、出ていただけるなら一安心ということで」
なんだかわからないままに、自分の都合のいいところだけ呑《の》みこんだようである。
「じゃあ、今日は後片付けの後も残っておいてくださいね。私、役作りに必要なんで、ビデオ見てますから」
「うん」
ミケがうなずくのを確認せずに、孝太郎はくるりと背を向けると、せかせかと階段に向かって歩みきってゆく。彼の私室兼事務所が、二階にあるのだ。
この幻燈《げんとう》館は、上野の中でも、かつてはにぎやかな表通りだったんだろうな、という一角にある。立ち並ぶのは、古惚《ふるぼ》けた店にすすけたビル。うらぶれた通りの、その中でも、ひときわガタがきているように見えるのが、この幻燈館だ。
一階の表に接する部分は、さっきも言ったとおり、小さな立ち喰い蕎麦《そば》に貸してある。その横にある階段をおりていくとロビーだ。劇場は、地下と一階のなかばをしめている。映写室は、立ち喰い蕎麦と背中を接していた。横の階段をあがれば、二階と三階に通じている。三階には、からっぽの貸し事務所もいくつか。孝太郎の望みは、そこを貧乏な探偵に貸すことだ。やっぱり、何かの映画の影響らしい。最近は、ダンス教室もいい、などとのたまっている。
影響を受けやすいオーナーの後ろ姿を見ながら、ミケは声をかけた。
「ねえ、孝太郎さんも出るの? どんな役で?」
彼が、出演の前に映画を見るのは、わざと影響を受けようとしているからに違いない。
孝太郎は、足を止めずに答えた。
「名画座の支配人です」
なにをどう役作りするんだ、と、ミケは思った。彼がいつも演じている役じゃないか。妖怪たちは、つねに人間の仮面をかぶって演技しているようなものだ……。
2 シナリオ
|黄昏の境界《トワイライト・ゾーン》もはるかにすぎた時刻になって、若者たちはあらわれた。
夢を見るために。
人工的に作られた闇《やみ》の中に、人の想像した影が揺らめく。ひとたび扉が閉じられれば、映画館はまぶたを開けたままで見る夢の住《す》み処《か》に変わる。
「考えたことはない? 今ここにいるのは、本当の自分ではないのじゃないかって? 自分が信じている自分は、本物なのかしらね」
白い、何も上映されていないスクリーン。横五メートル、縦三メートルの白い布をバックにすっくと立った女性が、誰もいない虚空に向かって語りかけている。いや、もしかしたら、彼女はただの映像かもしれない。
総数百の観客席から見ていた孝太郎は、ふとそんな想いにとらわれた。
「あなたが知っていると思っていることが事実なのかどうか。まったく客観的に証明できる? すべては、あなたの妄想かもしれないわ。あたしだって、あなたの中にいるだけかもしれないの……そうでしょう?」
短い茶色の髪、前髪だけは青だ。死人のように真っ白に塗りこめられた肌、黒く塗ったくちびるは血をすべてしぼりだされた後に似ている。表情のないこわばった瞳をいろどっているのは、アイシャドーというより隈《くま》どりのようだった。
ぎりぎりまで短くした革のスカートに、破れたメッシュとTシャツの重ね着。まるっきりでたらめのファッションセンスだ。しかし、プロポーションの良さのおかげでカバーできている。
「あなたが追いかけてるあの子は、本当に存在しているのかしらね。もしかして、あなたの妄想が作りあげただけなんじゃないの?」
女は、べらべらとまくしたてる。アクセントが、少しおかしい。顎《あご》がぎごちなくしか動かないように。
「あたしだって、そうよ。ここにいるんじゃなくて、あなたの心の中だけにいるのかもしれないわ。そもそも……あなた、ほんとうに、そこにいるの?」
「カット!」
観客席のあいだに三脚で固定した八ミリカメラ――八ミリビデオではなく、あくまでフィルムを使うカメラだ――をのぞいていた、痩《や》せて青白い顔色の青年が、そう叫んだ。
かたわらの丸顔の娘が、あわててストップウォッチを止める。そして、手もとのサブノートに何かこまごまと打ちこんだ。
丸顔の娘の隣に立っていた、童顔で色白の青年が、広げていた模造紙をおろして、肩を揉《も》んだ。奇天烈《きてれつ》なファッションの女性は、そのカンニングペーパーに書かれた科白《せりふ》を読み上げていたのだ。
撮影は、最終上映が終わってしばらくして、午後十時をすぎてからはじまった。スタッフである学生たちは、あわせて七人。三々五々集まってきたのだ。
「ようし、テイク2行くぞ、也実《なりみ》。もうちょっと、小悪魔的な雰囲気だせないか。今のだと色っぽすぎるんだよ」
痩せた青年が、ぶっきらぼうな声でそう言った。
閉ざされた劇場の暗闇の中で、彼の表情は影に取りこまれている。
「はぁい、でも、難しいなぁ」
少し甘えたところのある声で、スクリーンの前にいる女性が答えた。彼女の名前が也実というのだろう。
天井の明かりが点《つ》いた。
「やってもらわなきゃ、だめだ。それから、いい加減に科白は覚えろ。もう、カンペはなしだ。今度は、カメラ目線でやれ」
「ええ〜っ」
痩せた青年の言葉に、也実と呼ばれた女性は、拗《す》ねるというより、哀《かな》しそうに口をとがらせた。豊富な表情を武器にする女性のようだ。しかし、あいにく、青年には彼女の手管は通用しないらしい。娘は、シュンとした顔になった。これは作り物ではない本物だ。
「カメラ目線だよ。このシーンは、観客と主人公を同化させなきゃいけない。だから、カメラの目は主人公の目なんだ。そいつをまっすぐに見つめろ」
痩せた青年は、きっぱりとした口調で言った。なんだか、あせったような、余裕のない口調だった。性格なのかもしれない。
「お前だけが頼りなんだから。できるよ、大丈夫」
早口で、おまけのように言う。それだけで、也実の顔がぱっと明るくなった。
「監督の言うことだから、その通り頑張って。大学祭まで時間もないし、それにフィルムだって、そうそう無駄遣いできないのよ、也実」
丸顔の女の子が、笑みを含んだ声でたしなめる。
「わかってるよ、悟絵《さとえ》」
悟絵と呼ばれた丸顔の女の子と也実という娘は、かわす口調からして、かなり親しい友人同士に違いない。温和そうで年下に見える悟絵のほうが、派手な也実をリードしているという印象だ。
「ゲマ先輩、替わりましょうか?」
カンペをおろした童顔の青年が、小柄な髭《ひげ》だらけの若者に声をかけた。彼は、ライトを持って直立不動でいる。ライトスタンドが足りないので、人間がその替わりをつとめているのだ。
「いや、ええよ。いっぺん姿勢崩すと、またややこしいからな。信男のやつ、こういうとこは神経質やし」
少し、関西のなまりがまじっている声で、彼は答えた。髭ばかりのせいで、見た目は年寄りくさいのだが、声はまるで中学生のようだ。
「大変ですね、ゲマくん」
孝太郎は、観客席に座ったままで声をかけた。頭の片隅で、彼もこの顔と声のギャップのせいで、ミケさんに『なにか変』と言われるんですかね、などと考えながら。
「いやあ、馴《な》れてますから。人間ライトスタンドの不動の極意、まだまだ後輩には伝わってませんしね」
ゲマと呼ばれた若者は、うひゃうひゃと笑った。ごくふつうの日本人である。ゲマはあだ名で、本名は山本《やまもと》柚夫《ゆずお》というはずだ。ゲマというのは、ヒゲダルマの略だと、孝太郎は聞いている。ゲーマーの省略だという説もあった。
「今回の映画。『ふぁた・もるがーな』って脚本は、またゲマくんですって?」
孝太郎に話しかけられて、ゲマこと山本柚夫がうなずきを返す。
「はあ、すいませんね。肝心の脚本、誰も持ってきてへんてな、大ポカで」
柚夫の声は、見た目に似合わず甲高い。
「いや、私はいいんですがね」
そう言って、孝太郎は、頭に手を乗せた。なんだか、かきむしろうとしていたようだが、自分の髪型のセットにかかる時間を考えて、躊躇《ちゅうちょ》したようだ。
「撮影のほうは問題ないんですか?」
「科白は、あらためて書きました。どうせ、ほとんどは信男が書いたようなもんで、わしはむしろ口述筆記に近いんです。テーマもなにも、あいつから出てきたんで。絵コンテも、例によって直前書きですからね」
絵コンテというのは、映画などの撮影のさいに、どういった映像を創《つく》るかを、演出家が、あらかじめラフな――人によっては精密な――絵で描いておいたものだ。
「さすがに、中川くんですね」
中川信男。それが監督、つまりあの痩せた青年の名前なのである。
「まあ、パクリみたいなネタなんですけどね。『ビューティフル・ドリーマー』と、メインは『ふくろう河』てすわ」
孝太郎の問いに、小柄な若者はそう言って、でへへと笑った。
「それ、どういう話なの、ゲマさん? 『ビューティフル・ドリーマー』は見たことある。『うる星やつら』の映画版だよね。でも、もう一方はわかんないな」
孝太郎の頭越しに、ミケのそんな言葉が聞こえてきた。
「おや、ミケさん。何か御用ですか?」
孝太郎が、彼女をふりかえりもしないで言う。
「すいません、オーナー。待ってるのも退屈にゃもんですから。後片付けも終わりましたんで」
孝太郎の頭上で、ふわりと空気が動いた。ミケが、彼の背後の背もたれによりかかったのだ。
外部の人の前では、いちおう少しは気を遣って敬語くらいは使ってみせるミケである。もっとも、仕草がこれではほとんど意味がないけれど。
「ええとですね。モトネタを見てない人にどう説明したらええんかな。幻を追っかける話ですよ。なんで幻を見たんかっちゅうのがオチで」
ゲマこと柚夫が首を傾けた。彼の手首から先の位置は、微動だにしない。いいかげん疲れているだろうに、まるで生身のものではないかのように。
「しなくていいです。そのうち、ウチで上映しましょう。それに、この映画の内容だって、できたものを見ればいいんです。役者は監督の指示通りにしてればいい。ちなみに、彼が主役ですよ」
代わりに、孝太郎がこう言った。彼と言われたのは、孝太郎の四列前、五つ左の席に腰をおろして、手もとのメモをペンライトで照らしている、体格のいい若者だ。なかなかのハンサムである。ずいぶんな集中力で、動きもせずにメモを見ている。たぶん、自分の科白が書いてあるのだろう。ミケの、かつてのデート相手、佐東肇である。
「へえ、肇くん……彼が主役なんだ」
ミケの声に、表情がない。孝太郎は、意に介さずに続けた。
「主人公が、交通事故に会う寸前に見かけた、幻のような美少女を追いかけていくという物語なんだそうです。幻の少女役は、あちらの女性です」
孝太郎の声に、そこはかとない熱っぽさが宿った。
肇から、一つあいだを置いた座席に腰をおろしている娘がいる。腰まである髪の彼女は、熱心な視線で撮影を見つめていた。
猫の視力を持つミケには、薄暗さの中でも、その女性の姿がはっきり見て取れた。
華奢《きゃしゃ》な体格の、はかなげな零囲気の娘だった。白い夏物のワンピースがよく似合っている。
ミケは、影の薄い子だなと感じた。顔だちは整っている。確かに美少女だ。グラマーではないが、決して痩せすぎてはいない。ただ、どうしてか印象に残らない。幻という役柄には、似合っているかと、ミケはいささか皮肉めいた思いを抱いた。
「なかなかですね」
孝太郎が、唸《うな》るように言った。
「ああいう人が、オーナーのお好みにゃんですか?」
彼の声に含まれた響きを、敏感に聞き取って、ミケが囁《ささや》いた。妙に色っぽい、からかうような声音だ。柚夫が、ちらりと二人のほうに視線を走らせる。
「そうですね」
淡々とした、生まじめな声で孝太郎が応じる。
「彼女は女優の匂《にお》いがしますよ。天性の演技者の匂いが。才能、あるんじゃないかな」
「孝太郎さんも、そう思います?」
柚夫が、嬉《うれ》しそうな口調で言った。
「オーナー、見たんですか、彼女の演技?」
ミケが訊《たず》ねる。たぶん、あの女性が、肇の新しい恋人だとわかるだけに、やや辛い口調になってしまう。
「今日は、出番、まだですね。勘というやつですか。長年映画を見てますから。そういう人はわかるんです」
孝太郎が言う。ミケは、内心で首をかしげた。
『女優さんだったら、目立つような子が普通じゃないのかな』
ミケは、そう思った。肇の好みも、そういうのだと思っていたが。
「映子《えいこ》ちゃんは、芝居とかは、やったことないらしいんです。確かに演技はまだまだ全然下手なんですけど。けど、なんていうか、雰囲気があるんですよ」
柚夫が、その娘を見つめたままで言った。
「映子さん、とおっしゃるんですか?」
孝太郎が問い返す。
「ああ、そうか。彼女、こないだウチに入ったばっかりやから、孝太郎さんはじめてでしたっけ。面衣《おもい》映子っていうんです。新入生やなくて二回生なんですけど、こないだの学内上映会でウチの映画を見て」
柚夫が、うきうきした口調でつけくわえる。映子について話せるのが嬉しくてしかたないといった感じだ。
「何、上映したんです?」
「先輩の『赤パジャマ黄パジャマ茶パジャマ』と、『地球に落ちてきたチチュウカイモンクアザラシ』。それに、わしの脚本、信男が監督の第一作『ラプンツェル』ですわ。最後の一本がよかったって言うてくれまして」
髭だらけの顔が、照れたように笑った。
彼が名をあげた前の二作は、どちらも有名なアマチュア・フィルムコンテストで優勝したことのある、十年ほど前の作品だ。監督は、プロの映像作家になった。
『ラプンツェエル』は、信男と柚夫たちが昨年作った。自我を持ったコンピューターを扱った映画だ。先輩たちと同じコンテストに応募して、最終選考までは残ったものの、残念ながら入賞は逃した。
「ちなみに、今日のスタッフは、これで全部なんです?」
ミケが、オールバックの中から一本だけはねている、孝太郎の髪にじゃれつきながら言った。
その仕草は、まるっきり猫である。
「ええ。ちゃんとやる気のある人間は、これだけですわ。あとのは鑑賞会にだけ来る幽霊部員ばっかりですから」
映子以外の面々は、今までにも何度か、 <幻燈《げんとう》館> に顔を見せており、ミケも顔と名前くらいは知っていた。
監督をつとめている痩《や》せた青年、彼の名は中川信男。三回生で、映画研究会の部長でもある。脚本を描いたゲマこと山本柚夫も同期だが、二浪しているので年は上だった。
主演の佐東肇は、中川と、中学時代からの同級生だという。もっとも友人になったのは大学に入ってかららしい。高校生時代はバスケット部にいた、というのは、デートのときに彼の腕のたくましさを褒めてミケが聞いた話である。
手持ち無沙汰《ぶさた》で、申し訳なさそうに監督の横に、ちょこんと――まるで御主人さま待ちの犬のように――しゃがんでいる童顔の青年が黒井《くろい》義之《よしゆき》。二回生だ。彼が撮った『路傍のハイキング』という、森ばかり映った映画は、ミケと孝太郎の共通の知人である山岳カメラマン八環《やたまき》秀志《ひでし》――じつは鴉天狗《からすてんぐ》――に、かなりの好評を得た。ミケには、変化のない退屈な映画にしか思えなかったが。
記録を取っている、同じ二回生の小林悟絵は、その義之とつきあっている。今日も、なかよく二人いっしょにあらわれた。
そして、今、カメラにおさまっているのが、小川也実。悟絵とは、高校時代からの親友で、映研に入ったのも、彼女につきあってのことだという。
「ところで、也実ちゃんって、中川くんのこと落としたの?」
唐突に何か思いだしたらしく、ミケは孝太郎からついっと離れると、柚夫にはりつくようにして囁いた。
「うひょひょ」
耳もとで囁かれたのがくすぐったかったのか、柚夫がおかしな声をあげた。それでも、手もとのライトは、やはり動かない。
「どうでしょうかね。こないだも、モーションはかけてたみたいやけど、最近、信男もますます景気悪い顔してますからねぇ」
柚夫は、ミケにくっつかれてなんとなく嬉しそうだった。そのことに気がついて、からかうにしてもやりすぎたなと思って、ミケは彼から離れようとした。
そのとき、何かの匂いがつんと鼻を刺した。悪臭……血か、それとも死の匂いに似た……。なんだろうと考えた、そのとき。
「やあ、どうもどうも」
いきなり肩を叩《たた》かれて、ミケの思考は中断され、それっきり忘れてしまった。
ミケの後ろに立っていたのは、長い髪を馬の尻尾《しっぽ》みたいに束ねた、若いんだか年をくっているのだか、よくわからない男だった。必要以上に距離が近い。
「あ、こんちわ」
あからさまにそっけなく、ミケが挨拶する。ついでに、大股《おおまた》に二歩離れる。
「はい、これ、さしいれ」
男は、気にしたようすもなく二歩近づくと、さげていたコンビニの袋から、ビールとウーロン茶をとりだした。
「どっち?」
にこにことして、男が訊ねた。息が臭い。たぶん歯槽膿漏《しそうのうろう》だろう。
「ええと、あの……オーナー、どうします?」
「私はけっこ……あ、ウーロン茶を」
言い掛けた言葉を、ミケの無言のサインを受けてあわてて切り替え、孝太郎が答えた。
「へいへい。じゃあ、あたしはビールってことで」
アルミ缶二つをひょいとつまみあげ、ミケは顔をしかめそうになった。冷えたビールと、温かいウーロン茶をいっしょくたにしてあったのだ。これでは、どっちもだいなしだろう。
『まったく無神経なひとだなぁ』
心の中でぼやくが、さすがにそれを口に出すほど、ミケも非常識ではない。
「ありがとうございます」
小さくぺこりと長髪男に頭をさげて、ミケはそそくさと孝太郎の隣の席に戻った。さすがに、今度は長髪の男もついてこない。
「ああ、どうも。今回は、ややこしいお願いを聞いていただきまして」
ミケの態度をまったく気にしたようすもなく、長髪男はにこにこして、孝太郎に片手をあげてみせた。
「それにしても朧さんって変わらないですよね。俺《おれ》たちが現役のころから、年取ってないみたいだ」
「そんなことないですよ、大蔵さん。髭《ひげ》をそるたびに、目尻《めじり》の皺《しわ》が増えていくのがわかります」
孝太郎の言葉に、大蔵さんと呼ばれた長髪男がはっはっはと作りもののような笑い声をあげた。いかにも、営業マンのお追従的《ついしょうてき》な笑いである。
「またまた。だいいち、朧さんが髭をそるってのが驚きですけどね。つるっとしてて、女の子みたいな肌じゃないですか。同じ童顔でも、黒井くんとはずいぶんな違いだ」
そう言ったときの、微妙な流し目が、ミケの背筋をぞくぞくさせるのだが、孝太郎のほうは一向に気にならないようである。
「それにしても、今回の映画、大蔵さんが資金援助してるんですって?」
「せいぜいがカンパですけどね。特殊メイクなんてのは望むべくもない」
首をかしげたミケに、幻の少女を追いかける主人公の前にあらわれた人々が不思議な死にざまをとげていくシーンがあるのだと、柚夫が説明した。ただし、彼らの技術では、血のりをまくくらいがせいぜいで、監督はかなり不満なのだそうだ。
「とりあえず後回しにさせてるけど。あれがうまくいかないと止めだって言いだしかねないからな、信男は」
大蔵は、ふところから煙草をとりだした。くわえただけで火はつけない。
「ま、いまどきビデオじゃなくてフィルムにこだわるってのもね。もっとも、半分は俺が押しつけてるみたいなもんだけど」
そう言って笑った顔を見て、ミケはさっきの行動を少し後悔した。彼の顔は、ずいぶんとさわやかだったから。
「あとの半分は、やっぱり中川くんのこだわりでしょう」
孝太郎は言った。今は、ビデオのほうがよほど手軽だし、費用もかからない。八ミリフィルムは、カメラはもちろんフィルムも手に入りにくいし現像してくれるところも限られている。
けれど、ビデオにない魅力が、暗闇《くらやみ》に踊る影には確かにあるのだと、ここに集まった若者たちは信じていた。
「みんなで夢を見てるんですよ、あいつに。どこまでもひっぱってってくれるんじゃないか。俺たちの夢の国に、連れていってくれるんじゃないか、先輩たちを越えてくれるかもって。俺もねぇ、親父《おやじ》さえ元気でいてくれれば目指してみたんですけど」
だが、途中から、彼の顔つきは生臭くなってしまった。少なからぬ嫉妬《しっと》も含めて。言い訳をするとき、特に自分に対して行なうとき、人間の顔は美しくはなれないものだ。
彼のフルネームは、大蔵|貢一《こういち》。この映画研究会のOBである。信男たちより、六年上。在学中に亡くなった父親の後を継いで、三軒のスーパーチェーンのあるじだ。どれも、片隅にレンタルビデオショップを開いている。
「夢への航海に乗り出して、破滅しちゃしょうがないですからね。この映画じゃないけど」
「そういうの北欧の伝説にありませんでしたかね……」
大蔵の言葉で、孝太郎はふと連想した。
「氷河の彼方《かなた》から招く女。北極地帯にあるという、幻の理想国家を求めて、雪と氷の海を渡ろうとした男たちを捕えるっていう」
「へへ、女っていうのは、いつも男を捕まえるもんでしょ。俺も、嫁さんもらっちゃったら道楽できないから、いまだに独身ですよ」
道楽できないから独身なんじゃなくて、独身でしかいられないから道楽するんじゃないのかと、ちょっと意地悪なことを考えるミケである。だいたい、女が男に依存しないと生きてけないなんて考える男に……。
「ようし、カット!」
信男の声が聞こえた。也実のやり直しが終わったらしい。科白《せりふ》は、撮影の後で録音するアフレコ式でやっているので、撮影中の会話もそうそう目くじらを立てられることはないのだ。あまりやかましいと、集中力に欠けるので怒られるが。
「おい、ちょっと休めよ」
大蔵は、そう声をかけながら、前に歩きはじめた。がちゃがちゃと、コンビニの袋の中のアルミ缶が鳴った。信男に、出来についてあれこれ話しかけている也実の横に立つ。
柚夫が、ライトを消して、それをやれやれと撫《な》でる。義之と悟絵、肇と映子も何か言葉をかわしていた。それぞれの演技なり、仕事なりについてだろう。
学生たちが、自分たちの夢を作りだそうとしている。心地好い時間。
「ほんと、いつまでもこうしていたいっちゃ」
信男たちが参考にしたというアニメ映画の科白《せりふ》を、孝太郎は呟《つぶや》いた。
3 フィルム・スタート
「それじゃあ、次のカットに行こう」
信男が、張りがあるとは言い難い声で言った。
「監督、もうちょっとしゃきっとしてくれよ、気合いが入んないぜ」
主人公役の肇が、腕をぐるぐると回しながら言った。ぶつかりそうになって、かたわらに立っていた映子が体をそらせる。
「意味もなく動くから、あいつは」
ミケが、少し口を尖《とが》らせた。ビールを呑《の》もうとして、もうからっぽなことに気がつく。
映子が、肇をなだめているようだった。中川の作る映像がどうしたと、話している声がかすかに聞こえてくる。肇に比べれば、ずいぶんか細い声だった。
「三池さん」
その彼女のところに、小林悟絵がとことこと駆けてきた。平均よりやや太目の体躯《たいく》に、愛敬《あいきょう》のある丸顔。たぶん、誰からも積極的に嫌われることなどないだろう娘だ。
「次は、売店のところを撮るんで、よろしくお願いしますね」
「あ、はいはい、こちらこそ」
ミケも頭をさげた。
「まずは、映子ちゃんとのからみになります」
手もとのサブノートを見て、悟絵が言った。
「こんにちわ」
頭をさげられて、ミケは彼女もいたことに気がついた。さっきまで、肇と話していたと思ってたのだが。
「ああ、どうも」
ちょこんと、そっけなく頭をさげる。
悟絵が、ぎくりとした顔になっている。彼女は、肇がミケをさそったことまで知っている。というか、最初に肇とお酒を呑んだときは、義之と彼女も一緒だったのだ。真夜中に終電もなくなった時間に別れて……記憶がはっきりしないのだが、肇を泊めると彼女たちに宣言したような記憶もある。結局、その時は何もなかったのだが。
「ええと、也実もちょっと映るんですけど。あの子ってば」
気まずいのか、悟絵はもう一人増やそうとした。しかし、肝心の彼女は、信男のかたわらで熱心に何か話しかけている。聞こえてくる断片からして、さっきの演技の感想を求めているようだ。けれど、信男のほうからは、生返事しか戻ってこないようすである。
「へえ、也実ちゃんって、あいかわらず中川くん一途《いちず》なんだ。遊んでそうに見えるのに、意外だよねぇ」
悟絵が可哀そうになって、ミケは助け船を出すことにした。肇のことだから、映子に自分とのいきさつなんて話していないだろう。
「あいかわらず、也実ちゃんの一方通行?」
「最近少しは愛想よくしてもらってるみたいですけど。信男先輩って、相手が逃げないとだめみたいですから」
「それは、映画見ててもわかるわ」
ミケが見た信男の映画は二本。さっき名前の出た『ラプンツェル』でも、ヒロインは逃げる女だった。主人公は、人工知能の女性人格とともにそれを追う。
「どこがいいのかね、あの暗い映画オタクの」
「夢を見せてくれるひとだから、じゃないでしょうか」
少しふざけたミケの言葉に、真面目《まじめ》な調子で答えを返したのは、意外なことに映子だった。
「それは……映画を作るからってだけのこと? それとも、大監督になりそうとか、自分を女優にしてくれそうだとか」
なんとなく、自分の言葉がとげとげしいなと思うミケである。
「いろいろひっくるめて、でしょうか」
映子が首を小さく傾ける。
「夢とか幻っていうのは、追いかけると逃げるものですから。ただ、本当にまれに、生まれつき夢のほうから、その人の中に住み着くような人がいるんです。本当に、まれに」
「少なくとも、それは中川くんだけでしょ、この中じゃ」
肇は、夢の住人ではなかった。もしもそうだったならとミケは思い、思ってしまった自分が少し悔しかった。そんな気持ちは、もうとっくに割り切ったつもりだったのに。
「ああ、わたしもわかる気がする」
悟絵が、二人が論争でもはじめないようにと気遣ってか、言葉をはさんでくる。
「あれで、信男先輩ってけっこうカリスマ性があるんですよ。みんなをぐいぐい引っ張っていく。映画を作るのって、みんなで同じ夢を見るみたいなものなんです。こんな八ミリでも」
「幻の国の住人たち、か」
以前に、孝太郎に無理やり貸し付けられた評論集のタイトルを、呟く。
「そういうの聞くと、あたしも大学だのサークルだの、やってみたくなるな」
悟絵が、申し訳なさそうな顔で鼻の頭を掻《か》く。
「でもまあ、いつかは就職して、楽しい夢の中にも住んでいられなくなるんでしょうけど」
「そうなれば、悟絵ちゃんは、義之のボーヤと楽しい夢の家庭を築けばいいじゃない」
酒盛りのときに、義之が『俺《おれ》は小市民でいいです。こいつとのあいだに子供の二人も作って、ささやかな幸せ守りますよ』と言った言葉を思いだして、ミケはからかった。
「もう少し、覇気のあること言ってくれてもいいんですけどね、まだ二十歳なんだから。みんな、いつまでも夢の国に住んでみせるつもりですよ。信男先輩は監督、ゲマ先輩は脚本家、佐東先輩も……」
余計な名前を口にしてしまったかと、悟絵があわてて、口を閉じる。
『そういう風に気を遣われるのがいちばん困るんだけどな〜』
「私も、そうしたいです」
悟絵のそぶりをどう感じているのか、映子が、なにもなかったかのように微笑《ほほえ》んで言った。
「彼を幻の国に住まわせてあげたい……」
『女優にでもなって、男をひっぱりあげようってかね。才能あるとか言われて……あ、いやだな。こんな感情、持ちたくないのに』
ミケが、内心の葛藤のおかげで、まったく無表情になってしまい、奇妙な沈黙がおりてきてしまった、その一瞬。
「私の出番は、ミケさんの次なんでしょうか」
「わっ」
横から、孝太郎がにゅっと顔を出して、ミケを驚かせる。
「は、はい。ええと、ちょっと待ってくださいね」
悟絵が、パソコンの画面を送ろうとして、慌てたせいでバランスを崩す。いちはやく手を伸ばして、それを支えたのが映子だった。
「何してんの。あいかわらずおっちょこちょいねえ」
絵コンテを書きはじめた信男から離れて、也実がやってきた。
「チョコレートのひとつもちゃんと作れないぶきっちょが、そういうこと言っていいのかなぁ」
「あ、ごめん。いやですわ、悟絵さま。ちょっとした冗談じゃございませんの」
オホホと笑って、也実が悟絵にすりよる。
「ありがちな光景ですね」
にこにこと笑いながら、孝太郎が言った。映画なんかに描かれるようなパターンが日常で行なわれると、彼は喜ぶ。自分の憧《あこが》れたものの中に入りこんだような気分になれるのだろう。
「すいません、このシーンで、背景のポスター、違うのにしたいんですけど……」
信男が、いきなり孝太郎へ声をかけてきた。ミケたちのことは、眼中にないらしい。
『なるほど、夢の住人、か』
ミケは、あらためて納得する。つむぎあげる夢のことだけしか見えていない。
「確かこのあいだ、『ジェイコブズ・ラダー』を上映しましたよね。 <死と幻影> 特集のときに、『フラットライナーズ』と併映で」
「よく覚えてますねぇ」
嬉《うれ》しそうに孝太郎が言った。
「ロビーでオリジナルポスター展示しましたからね、あるはずですよ、倉庫に」
「俺が取ってこようか。勝手知ったるナントカだ」
大蔵も、顔をのぞかせた。気がつけば、いつのまにか全員が集まってきている。義之も、悟絵の背後に立っているし、肇もいた。彼は、ミケのほうを居心地《いごこち》が悪そうな顔でちらっと見た。
映子と距離を置いたところに立っている。
肇とは、ここにやってきたときに『やあ』と言ったきりで、それから一言もかわしていない。
ミケは、自分では可能なかぎりさりげないつもりで、目をそらした。
そのせいで、孝太郎と大蔵のやりとりに割って入るタイミングを逃した。
「じゃあ、お願いしますね」
孝太郎が、スラックスのポケットから取りだした鍵《かぎ》を、大蔵に渡す。
「おう、まかせといてくれ」
ミケが止める暇もなく、大蔵はドアを押し開き、階段のほうに消えていった。彼も、かつてここでアルバイトや、イベントの手伝いをしたことがあるから、倉庫の場所も、そこの扱い方だって知ってはいるのだが、映画マニアを名画座の倉庫に入れるなんぞ、魚屋に飢えた野良猫をはなすようなもんではなかろうか。
ミケはそう思ったが、肝心の孝太郎はのほほんとしたようすだ。まあ、彼は作品そのものにだけ価値を見いだすタイプで、周辺のアイテムのコレクターではないのだが。
『いいや、自業自得だし』
頭を、撮影に切り替えることにする。
次に撮影されたのは、ミケがいる売店で、映子が扮《ふん》する幻の女がポップコーンを買うというシーンだった。ミケの科白《せりふ》はない。
一度簡単なリハーサルを行なってから、本番。ミケの鼻の頭が、ライトでテカるというので一度NGが出て、也実があわてて化粧道具を取りだす。アマチュアの撮影では、スタッフの私物がせいぜいで、ドーランすら滅多に使われたりはしない。
「これ」
そう言って、映子がポップコーンを指さす。ミケがさしだす。ただそれだけのシーンだ。也実が通行人として背後を通りすぎる。
それなのにNGを一度出して、あれやこれやで三十分ほどかかった。
「お前は幻なんだ、面衣。幻っていうのは、伸ばしても伸ばしても手が届かない。だから魅力的なんだ。お前は、いつも逃げてくみたいな女だ。そう信じて、キャストをふった」
信男は、最初のリハーサルを終えた映子に向かって、そう言った。
「カメラは俺の目で、俺の目は観客の目だ。映画ってのは、夢をいっしょに見てもらうことだ。俺の目から、お前が逃げてくように見えるまで、繰り返せ」
そして、映子は言われた通りにやってのけた。
「なるほどねー」
終わった後で、ミケは孝太郎のそばに来て、そう言った。
「何を納得してるんです?」
「あの子、映子ちゃんですよ」
映研部員たちの前では、いちおう敬語を忘れないミケである。
「なんで、山本さんとかオーナーがああいうこと言ったのか、わかっちゃった」
リハーサルのときは、それまでと同じだった。カメラが回った途端、いきなり変わった。目の運び、ほんのちょっとした仕草、演技を越えた天性。
「なんかこう、腰に来るっていうか。吸いつけられちゃう。ふつうに色っぽいっていうなら也実ちゃんのほうが圧倒的だと思うけど」
孝太郎がうむうむとうなずいた。もっとも、ミケとしては、彼にスクリーンを通さない色っぽさが理解できるのかは疑問なのであるが。
「カリスマっていうのかな、あれ?」
「だから、彼女がヒロインなんでしょう。小川さんではなく」
コケティッシュな雰囲気の也実には、じつのところ自主制作映画マニアのあいだにファンクラブもあるくらいなのだが。
「ところで、次、オーナーの出番でしょ」
「はあ、そうなんです……けどね」
といっても、映子が演じる『夢の女』が歩いてゆく背景に立っているだけのことだが。まあ、大道具に近い。ただそれだけのシーンだが、一応リハーサルもする。カメラの位置や、照明の具合もみなくてはならない。昼間に撮影できれば、ライトはかなり楽なのだが、営業中の名画座ではそうもいかないのだ。
「シーンが全部なにかを象徴しなきゃいけないってことはない。でも、流れは見なきゃだめだ。どんなシーンでも、流れからはずれちゃだめだ。そのために神経を使え。ほんとの夢は、完璧《かんぺき》な流れの向こうにある。完璧は不可能でも、それを追いかけることはできるんだ」
スタッフに説明するように信男が声をはりあげる。けれど、じっさいには自分自身に言い聞かせているのだろう。
二度ほど、立ち位置を変えてようやく決まり、さて本番というところで、進行できなくなった。本物の大道具、孝太郎の横に貼《は》られるポスターをとりにいった、大蔵が戻ってこない。
「大蔵さん、倉庫をあさってるうちに時間忘れちゃってるんですかね」
義之が言った。あれこれと他のポスターが出てきて、ついそれに見とれて時間を忘れているというのは、ありそうな話ではあった。
「見てきますよ」
フットワークの軽い義之の言葉に、肇が笑いながら首をふった。
「お前が行っても、ミイラ取りがミイラになる可能性もあるぞ」
「そりゃあ、誰が行っても同じじゃないですか」
義之が言い返す。これも当たっている。 <幻燈《げんとう》館> のこれまでのラインナップを考えれば、映研部員の誰でも似たようなことになる可能性はある。
「じゃあ、私が行きましょう」
孝太郎が、笑みを浮かべて言った。
「オーナーが、いちばん危ないでしょうが!」
言ってから、ミケはしまったと思った。名画座の従業員とはいえ、映画ファンとは言い難い彼女が呼びにいくのがいちばんいいのだろうが、大蔵と密室に閉じこもるのはぞっとしない。
ミケが露骨に顔をしかめるのを見て、悟絵と也実がひそかにうなずきあった。どうも彼は、後輩の女性部員からも嫌われているらしかった。男性部員たちからも抗議の声は出ない。
「僕も行きますんで、はまっちゃいそうになったら止めてください」
義之が、人畜無害な笑顔を浮かべて言った。
「あ、はあ」
そういうことならと、ミケもうなずく。
二人が階段を上っていくと、しばらくのあいだ、 <幻燈館> のロビーに沈黙がおりた。
孝太郎は、あたりを見回して、ぎょっとした。
じっとどこかを見つめている也実の眼球に、蝿がとまっているのだ。黒い瞳の、その上に。
「コンタクトでしたっけ」
口の中で呟《つぶや》いた。そうだとしても、目玉の上に虫がいて気にもしないなどということは……。
孝太郎は、まばたきをした。
蝿は、もういなくなっている。見間違いだったのだろうと、孝太郎は思った。
也実が見ているのは、信男の横顔だ。彼は、むっつりとした表情で、何かメモをしながら考えこんでいる。
柚夫と肇、それに悟絵は、来週から公開される新作映画のうち、どれを真っ先に見にいくべきか議論をかわしはじめた。
肇の背後に、映子がひっそりと立っている。
彼女を見たとき、孝太郎はさきほどのおかしな光景を、もう忘れていた。
「どうも、こんばんわ」
孝太郎は、にっこりと笑って声をかけた。映子は、ぺこりとお辞儀をした。お互いになにも言わず、ぼうっと顔を見合わせている。
何も起きずに、しばらく時間がすぎた。
「あの、朧さん」
なにか用なのかと見守っていた肇が、なにもないのだとみきわめて、映子の肩に手をかけで引き寄せた。
「彼女に何か、用事なんでしょうか」
声は柔らかいが、目は笑っていない。
「いえ、とてもいい女優さんだなぁと思いまして」
孝太郎は、いっこうに悪びれずにそう言った。なにせ、心底からの本音だから問題はない。
「あの、面衣さんも映画はお好きなんですか?」
ようやく訊《たず》ねるべきことを思いついたかのように、孝太郎は言った。
「はい」
映子の長い黒髪が、さらりと揺れる。
「とても好きです」
まばたきすると、長いまつ毛が舞う。
「光が綺麗ですから。ビデオとかはだめなんです。一度、電気に、なってしまうでしょう? 儚《はかな》いはずの影をとどめているから、フィルムは、好きです。光を使って、影を踊らせるから」
ゆっくりと一言一言、区切るように話す。白い歯が輝く。
映子がぺこりとお辞儀をして、肇のほうに向き直る。
視界から消えてしまった途端、孝太郎は、彼女がどんな顔だちをしていたのか忘れてしまった。髪やくちびるは覚えているのに、それらがくみあわさってできていた顔がわからない。そういえば、彼女の瞳はどんなだったろう。
映子は、肇と言葉をかわしている。媚《こ》びるように笑っているのじゃないかと、孝太郎は思った。もう一度、彼女の顔をのぞきこみたいという衝動に、孝太郎は駆られる。そのときだ。がらがらという派手な音が、階段のほうから聞こえた。
みんなが一斉にそちらを見た。もちろん肇もだ。あんまり勢いよくふりむいたので、顔の動きに眼球がついてゆかず、一瞬白目をむいてしまったように孝太郎には見えた。
もちろん、そんなはずはない、見間違いだと自分に言い聞かせて、彼もワンテンポ遅れて音のほうを見た。
ごみ箱がひっくり返っている。階段の踊り場にあったはずのものだ。その踊り場には、ミケがぺたんと座りこんでいた。どうも、よろけた拍子にころがしてしまったらしい。
「あの……」
悟絵が、呼びかけようとした声を途中で呑《の》みこんでしまった。ミケの顔が、あまりにも蒼《あお》ざめていたからだ。ただころんだだけにしては、あまりにも血の気がひきすぎている。
「死んでるの」
と彼女が言った。
みんな、何のことだかわからなかったのか、しばらくは誰も返事をしなかった。
たっぷり三十秒ほどもかかったろうか。
「なんですって?」
ようやく、孝太郎が言った。静かな声で、まるで子供をなだめているような調子に聞こえた。
「死んでるのよ、大蔵さんが。倉庫で、とんでもないようすで」
みんなが顔を見合わせて、そして糸にひきずられる人形のように、一斉に同じ方向に走りだした。まだ、誰も、事態を呑みこめた顔つきはしていなかった。
ただ一人をのぞいて。
どやどやと、階段を駆け上がる。やはり、男たちのほうが一足先にたどりついた。三階にあがると正面と左右に扉がある。左は孝太郎の私室であり、正面が倉庫だった。
なかば開いていた扉を、さらに大きく押し開けて。
入った次の瞬間には、肇が、追いついてきた女の子たちを押し戻していた。
「見るなっ、見るんじゃないっ」
動けるだけ、彼はましなほうだ。死体を見た残りの者たちは、言葉を発するどころではないようすだった。
「見るな。中を見るなって。おい」
肇がミケを押し返そうとする。睨《にら》みつけられて、触れるのを躊躇《ちゅうちょ》した。
「あたしは、もう見た」
彼女の言葉に、荒々しい動作で道を開けた。そして、外に怒鳴る。
「早く警察に電話だ。百十番だ」
百十九番じゃないの、と誰かが言った。悟絵の声だ。『ねえ、義之くん』と、続けて呼んだ。
「救急車は……いらへん」
必要ないと答えたのは、呼びかけられた義之ではなく、こわばっている柚夫で、その声はとても苦いものだった。
大蔵は死んでいた。素人が見ても、完膚《かんぷ》なきまでに死んでいると確信できる。
彼の横に、義之が茫然《ぼうぜん》としたようすで立っていた。おそらくは、ミケがこの場を離れたときと同じ姿勢のままで。
死体は、無残なありさまだった。奇怪な出来ごとに遭遇してきた経験のあるミケだから、衝撃から立ち直るのも早かったのだろう。ふつうの人間なら、いきなりこんなものを見れば、義之のようになるのが当然だ。
死体には、頭が、ない。切り取られたのではなく、ほぼ完全に潰《つぶ》されている。プレス機か何かでも使ったように、ぺちゃんこになっていた。
もちろん、ここにそんなものはない。ポスターや古いパンフレットを詰めたダンボール箱だって、それなりには重いが、人間をこんな風に潰せるほどじゃない。
異様な死にざまであった。
しかも、大蔵の頭があったはずの場所には、一枚のレコードが置かれている。古風にもLPレコード。ある意味では、彼にふさわしいかもしれない。時代から、取り残されつつあるものにこだわっていた男には。
「おい、まさか、お前じゃ……」
肇が、義之の腕を荒々しく掴《つか》んだ。怒ることで、かろうじて正気を保っているかのようなようすだった。
「そんなわけないでしょう」
ミケが言った。もう、顔色は戻っている。おそらく、他の誰よりも、彼女は死体を見慣れているはずだった。世界の影と闇《やみ》のはざまで生きていた彼女だから。
孝太郎も、まったく動揺していないように見えた。彼には、なんだか奇妙に現実感に乏しく感じられたのだ。映画のワンシーンか何かであるように。
「あたしたちが来たときには、もうこうだったわよ。そうでしょう」
ミケがそう言っても、義之は動かなかった。
「そうでしょうが」
どんと背中を叩《たた》かれて、その途端に彼はひざまづいて嘔吐《おうと》をはじめた。つられたように、柚夫もひざまづく。もっとも、彼は喉と口もとを押さえて、なんとかこらえたようすだったが。
肇は、怒りのやり場も失って、壁をどんと殴りつけた。
そして、信男は。
「ちょっと! いくらなんでも、何してるのよ!」
ミケが金切り声をあげた。
彼は、骨ばった指でカメラをかまえている。フィルムの回る音がしていた。八ミリカメラだった。死体の足もとから、舐《な》めるような動きでカメラを動かしている。
「あんた、正気なのっ!」
掴みかかろうとしたミケを制止したのは、孝太郎だ。
「正気をたもつために、こうしているのかもしれませんから。映りませんよ、暗すぎて」
レンズでも通じなければ、フィルムを通じてワンクッション置かなければ、こんな状況、認められない。そういう意味だ。納得できたわけではないが、ミケは不承不承|鉾《ほこ》をおさめた。
「撮らなきゃいけないんですよ」
熱に浮かされでもしているような口調で、信男が言った。
「大蔵さんは、誰よりもこの映画の完成を望んでくれてた。僕の見る夢を共有したがってくれてました。これはね……大蔵さんなりの映画への協力なんです……こんな迫力のあるシーン、どんな特殊メイクでも無理ですよ」
まわりの者たちが、柚夫や肇が、無意識のうちにうなずいている。
「エフェクトだからこそ、夢をつむげるんじゃないでしょうかね。現実をそのまま撮っても、幻想にはなれません」
孝太郎が呟《つぶや》いたが、それは信男の耳に届いていないようだ。
信男のカメラが、死体の頭部に達した。LPのレーベルがアップになる。
「ファントム・オブ・パラダイス」
大蔵の頭の替わりに置かれているのは、顔をつぶされた作曲家を主人公にした、愛と憎悪の物語。ロック・ミュージカルのサウンド・トラックだった。
そこで、信男はファインダーから目を離した。フィルムが切れたのだ。ビデオなどと違って、八ミリのフィルムは短時間しか連続撮影ができない。
「朧さん!」
部屋の外から、呼びかける声がしたのはそのときである。ひどく、あせっているように聞こえた。吐くもののなくなっていた義之が、汚れた顔をあげる。悟絵の呼ぶ声だったからだ。
呼びかけられた当の孝太郎は、死体のまわりをあちこち調べて、埃《ほこり》をつまみあげたりしている。
「電話! 事務所にあるやつだけなんですか? 通じないんですけど」
ミケは、その声を聞いて孝太郎の顔を見た。彼はいぶかしげに首を傾けている。
「ああ、ロビーに公衆電話があるはずです。それから、私の部屋にも」
電話が、どれも通じなくなっていることがわかったのは、それから三分後のことだった。
4 アクシデントにより撮影中断
外に通じる階段をあがりきると。
風が、轟《ごう》と吹いて、とげとげしい闇を揺らした。
一瞬、見えたと思った、静かな夜の街はどこにもない。そこにあるはずの、見慣れた建物たちは消失していた。
「どうなってるんや」
柚夫の声は、彼の精神が、すでに崩壊寸前であることを感じさせた。彼だけではない。この光景を見ている、ほぼ全員の神経が、焼き切れる寸前だ。
目の前に広がっているのは、暗い森だった。
この <幻燈《げんとう》館> の住所は、上野であるにもかかわらずだ。
どう見ても、眼前の光景は深い山中のそれだった。強い風に、幾重にもかさなった枝葉が揺れる。傾いた幹。びっしりと生えた下生えに、苔《こけ》におおわれて、ねじくれた根っこは、ほとんど隠されている。
ロビーから伸びる階段を上がって、要するに出口。そこから見えているのは、そんな光景だ。
電話が通じないなら、直接交番に駆けこむしかないと、ミケがまずみんなを叱咤《しった》した。妖怪《ようかい》たちとしては、官憲というのはなるべくかかわりあいたくない相手なのだが、そうも言っていられない。
誰が呼びに行くかという話になって、全員が立ちあがった。死体と一緒に残りたいものは、いなかったわけだ。いちおう、孝太郎が留守番をすると申し出て、残りの者は、ぞろぞろと階段をあがった。
待ち構えていたのはこれだ。
ここは、上野のはずなのに。東京の、ど真ん中であるはずなのに。
目の前に広がっているのは、深い森だ。樹は、低いものでも、 <幻燈館> の二階くらいはある。高いものなら二十メートル近い。人の手が入っているとも思えない密集ぶりだ。
日本のそれというより、アメリカかヨーロッパか、大陸の森に見えた。
空は暗い。月も、厚い雲に覆われている。明かりは、 <幻燈館> の看板を照らすそれだけだ。
すでに、立ち喰い蕎麦《そば》のほうも火を落として久しい時間がすぎているようだった。
時刻は、午前零時二十分。
どこからか、遠吠《とおぼ》えが聞こえたような気がした。
「なんなのよう」
泣きだしそうな声で、也実が言った。いや、実際に泣きだしている。彼女に抱きつかれながら、信男がカメラをかまえていた。光量が足りないし、映るはずもないのだが。
「逃げられない……悪夢が終わらない」
信男が呟く。ほんとうに、夢を見ているような表情で。
「それ……俺の科白《せりふ》じゃないか」
肇が、苦笑いする。そして、表情を一変させ、怒気とともに拳《こぶし》をかたわらの壁に叩《たた》きつけた。
「いやあ」
也実が、信男にすがりついたまま、ずるずるとくずおれてしゃがみこむ。信男からの反応はない。彼女の涙に呼応するように、激しい雨がふりはじめた。しのつく水のベールが、彼らの視界を閉ざしてゆく。
悟絵と義之が、互いの手を握りしめる。
「こんなの……こんなことあるはずがないだろう!」
肇が怒鳴る。雨の中に一歩足を踏みだした。決意の色が、目にある。
「どうするつもりよ」
彼の肘《ひじ》を、ミケが掴《つか》んだ。
「山をおりるんだ。低いほうに歩いてきゃ、どこかにつくだろう。助けを呼ばないと」
肇はふりはらおうとしたが、ミケの指は彼の袖《そで》をしっかり握りしめて離れない。
「無茶言うんじゃないわよ。冷静に考えなさい」
と叫ぶミケの声だって、とても冷静なものには聞こえなかった。
「こんな天気で、地図も装備もなしで山歩きなんて、遭難するに決まってるわよ」
「だからって、手をこまねいてられるか」
肇が、ミケを強引にふりはらう。
「なんでやっ? なんで、山なんや」
叫びながら、柚夫が飛びだした。止める暇もない。手も空いていなかった。
「嘘《うそ》やろっ! なあ、嘘なんやろ? 変やで、おかしいで! 建物ごと山ン中? そんなことあるわけないがな!」
激しい雨が、わめく彼の横顔を殴りつける。顎《あご》をつたってしたたり落ちる水は、雨だけではなかったのかもしれない。
「もう、いやああああああっ」
悲鳴をあげて、也実がころげるように階段を駆け降りていった。
「待って!」
悟絵が叫んで、信男を見た。彼は動かない。悟絵は、奥歯をかみ締めて、義之の手を離すと、也実を追いかけて走った。彼女は、辛抱しなくちゃいけない時を知っている女の子だった。
「落ち着け、ゲマ! お前も来いよ。とにかく、ここがどこか確かめようじゃないか。なんか。なんかトリックがあんだよ。俺たちが、瞬間的に眠らされて運ばれたとか」
雨の中に飛びだした肇が、柚夫をゆさぶる。
「あ? ああ、そうやな。こんなことあるはずない。大蔵さんが死んだんかて、あるはずないけどな」
ひっひっひと、痙攣《けいれん》するように柚夫が喉を震わせて、うなずく。
「落ち着け。無茶はしてくれるなよ」
信男が、カメラをのぞきながら、心の底から友を案じる声で言った。
「お前たちがいないと……俺は映画が作れない」
彼の言葉に、映子がしっかりとうなずいた。その彼女を見ていた者は、誰もいない。
「あたしも行く」
ミケが、雨の中に進みでる。彼女は、ずっと肇を見ていた。
「おい……」
何か言いかけた肇に、てのひらをつきつけて黙らせた。
「知らないだろうけど、あたし、けっこう山には馴《な》れてるのよ」
嘘である。だが、身の軽さと闇を見通す視力、強靭《きょうじん》な肉体のことを考えれば、若者たち二人よりも彼女が行くほうが安全だというのは真実になる。
何よりも。
誰がどんな風にして行なったのかは知らないが、これは人間に可能なことではない。
ならば、考えなければならない、ミケたちと『同類』の存在、妖怪がかかわっていることを。
そうでない可能性は低い。
ときどき囁《ささや》かれる噂《うわさ》がある。妖怪同士は知らず知らずのうちに呼び合うと言う。
嫌な話だと、ミケは思っている。
どんな悪どい妖怪であれ、自分にかかわりさえしなければ、ほうっておいたって、どうということはないというのが、ふだんのミケの思考法だ。しかし、さすがに目の前の知り合いをむざむざ犠牲《ぎせい》にするわけにはいかない。
妖怪に立ち向かえるのは、同じ妖怪だけだ。
もっとも、大蔵の死にざまを思いだすと、やる気も萎《な》える。あれも人間わざではなかった。
人体のうちでもっとも強固な頭蓋骨《ずがいこつ》を、完膚《かんぷ》なきまでに叩き潰《つぶ》している。
ああいうことのできるやつだとしたら、直接対決になっても、ミケにはどうしようもない。
「あなたたちは、下に戻ってて」
ミケは映子と義之に言った。こうなっていることを、孝太郎に知らせてもらわなければならない。孝太郎なら、こんなことのできる妖怪に心当たりがあるかもしれないからだ。敵の正体と目的を知ること。妖怪同士の戦いでは、それがもっとも重要なことである。
「でも……僕も行ったほうがいいんじゃ」
義之が、歯をカタカタと鳴らしながら言った。
「男手が、オーナーだけじゃ頼りないから」
ミケが、わざとらしく肩をすくめて答える。映子が、義之をうながしておりていった。信男も、彼女たちの去っていく背中をカメラにおさめると、続いておりる。肇が、複雑な表情でそれを見ていた。
ミケは、動きはじめた想像力をぐっと押さえこんだ。今は、眼前の事態に集中しなければ。
「とりあえず、ここがどこかわかればいいんだけど……灯《あか》りか道路を探してみようよ」
雨に濡《ぬ》れながら、ミケが歩きはじめる。肇と柚夫が、ああててついてきた。すぐに横に並ぶ。 <幻燈館> を背にすると、風のせいで、雨が左からぶつかってくる。そちらに、肇が立っているおかげで、ミケは多少かばわれていた。
『うまくいかなかった相手、おかしなとこのある変り者でも、女っていうことだけで神経はつかってくれるのね、あんたって』
ちらりと肇を見た。闇《やみ》の中でも彼女の目は、はっきりとものを捉《と》らえる。まばたきもせずに、彼はまっすぐに前を見つめている。緊張しすぎているのか、いっさいの表情がない。
『偶然か……。それにしても、あんなに目を開いて。暗いからだろうけど、雨が目に入ったら痛くないのかな』
こいつは何を見てるんだろうと、ミケは思った。押さえたはずの妄想が、一瞬の隙《すき》をついて彼女の心にふくれあがる。
彼女たちは、妖怪たちは、人間よりもたくさんのものを見ている。自分が見てきたものと、同じものを見せたら、彼も同じ心を持ってくれるだろうか。それとも、耐え切れなくておかしくなってしまうのだろうか。
あの夜、夜中に腹をすかせたミケは、いつも金属のミニボトルに入れてあるサラダ油を、てのひらにあけて、舐《な》めていた。
『化け猫か、お前は』
その光景だけなら、笑い話ですませることもできたかもしれない。だが、喉《のど》が乾いていた肇は、そのミニボトルを手にして、ぐいっと傾けた。
中身を吐き出した彼は、そそくさと身支度をととのえ、夜の街に逃げ出していった。それから二度と連絡はなく……。
自分が見ていたあたしが、本当のあたしでなく、幻を見せられていたのだと知って、どう思ったのだろう。あたしも同じ人間だという幻を破られて、恐れたのか、怒ったのか。
一緒に住んでいた幻の国。時間を共有できると信じた、あの世界から、あたしが彼を追いだしたのだろうか、それとも彼から出ていったのか。もう一度、あらためて幻の国を作ることだってできたはず。何もなかったことにして、あれは変わった癖だと言い訳して、あたしは人間なのだと思わせて。
でも、あたしは現実を選んだ。
間違っていただろうか。
それとも、選んだはずの現実は、もう一つの幻だったのだろうか。
あたしたちは、妖怪《ようかい》は本当に存在するのか。誰かの想《おも》いから生まれたなんて言っているあたしたち。映画の中の虚像と、たいしてかわりがないかもしれない。
ミケの思考は、どこか深い彼女の内側にと落ちこんでいた、そのときである。
いきなり、鼓膜をつんざくような雷鳴とともに稲妻《いなずま》が閃《ひらめ》いた。
「あっ!」
あわてた拍子に、ミケは足を滑らせていた。彼女の視覚にとらえられないはずはなかったのに、すぐ前が崖《がけ》になっていることに気づかなかったのだ。
『そんな馬鹿な……これも……妖怪のしわざなの?!』
その頃。
<幻燈《げんとう》館> のロビーでは、残された者たちが、落ち着かない思いで、けれど何もできずに座りこんでいた。
也実は泣きじゃくり、義之と悟絵が、それをなだめている。中川は、自分が描いた絵コンテを熱心にチェックしている。気をまぎらわせているのだろう。
そして、孝太郎は、腕組みをして考えこんでいた。
『妖怪のしわざ……なんでしょうが。どこの誰がなんのためにというのが、わからないんですよねぇ』
これほどの距離を、建物ごと瞬間移動させる。そんな力を持った妖怪は、いただろうか。しかも、目的もわからない。単純に考えれば、自分たちを逃がさないことだろう。そして、もう一つの理由は、助けを呼ばせないことだ。連絡がとれなければ、たよりになる友人たちにも介入してもらうことができない。ここを孤立させたいのだ。
しかし、どうしてだ? 殺すつもりなら、一気に襲いかかってくればいいものを。孝太郎とミケが妖怪だとわかっているから、警戒しているのか? それにしても、こうしてほうっておくのは変だろう。
さっぱりわからない。
『主人公に謎《なぞ》解きをしてあげる役だから、金田一耕助映画を見ておいたのに、役に立ちませんね。ホームズかポワロにしておくべきでしたか。いや、そういう問題じゃない』
それてしまう思考を、本線に引き戻しつつ、孝太郎は考えた。
動機としてありうるとしたら、こちらを怯《おび》えさせながらじわじわと殺したい、殺人を楽しみたいというあたりだろうが、ならば、何故《なぜ》ターゲットとして自分たちが選ばれたのか。
わからないことだらけだった。何もわからないということは、対処もできないということで、それは何よりも不安と恐怖を高める。何かを忘れているようで、いらだちも増す。
也実のように、泣いて思考停止してしまえば楽だろうに。
孝太郎は、腕組みを解いて顔をあげた。
泣き声は、かなり小さなものになっている。悟絵が背中を撫《な》でてやり、義之がそれを見つめていた。
自分と同じように、也実を見つめている視線に孝太郎は気づいた。
映子だ。
彼女の姿を見ると、不思議と胸が躍る。なにか温かいものがつまって呼吸が苦しくなるようで、心臓がダンスをはじめる。好きな女優はたくさんいるが、こんな気持ちになったことはない。どうしてだろうと、孝太郎は考えてみた。
映子を見ていると、何故か懐かしいような気分になる。
さきほどの会話を想いだす。自分と似ているからだろうかと、孝太郎は漠然と思った。では、どこが似ているのかと考える。
映画が好きなところ、という答えしか出てこなかった。
「怖くないですか?」
我知らず、孝太郎は、映子に向かって、そんな問いを発していた。
「まるで、映画の中みたい」
ふりかえって、彼女は言った。気がつくと、映子が孝太郎の隣に腰をおろしていた。いや、もちろん、立ち上がり、歩き、そして孝太郎のかたわらにやってきたのである。
しかし、その一連の動作があまりにもさりげなくて、直前の彼女の言葉を孝太郎が吟味しているうちに行なわれたために、孝太郎の意識に届かなかったのだ。
「私、昔からそうだったんです。いつもいつもお芝居をしてきましたから。望まれた自分でいてあげようと思って。朧さんは、こう考えたことありません? ここにいる自分は、じつは本当の自分じゃないのかもしれないって」
「ないわけでも、ないです」
孝太郎は、居心地《いごこち》の悪さを感じながら答えた。彼女の問いは、人間のあいだにまじって暮らす妖怪たちの誰もが、多かれ少なかれ持っている感情だろう。
「本当の自分ってなんだろうと思うと、わからなくなるの。だから求められる姿を、私はずっと演じてきたような気がするんです。まわりも、そうすると喜ぶの。まわりまで含めて、誰かの望む世界にしてあげて……そのうち、なんだか現実感なんてなくなってしまった。虚像でも、安心できればいいと思えて、そのうちに、あの人に出会って、映画作りにひっぱりこまれた」
肇のことだろうか。つきあっているという噂だからと、孝太郎は思った。とげのような何かが、肺にひっかかった気分になる。これは、もしかして嫉妬《しっと》というものだろうか。
「映像の中にいると、自分が本物になったような気がするんです。求められるままの自分でいることに疑問がなくなる。そうであってと望まれる自分を演じていることが正当なんだもの。だから、とても安心します。小さな小さな、自分の国を作っているみたいで。だから、映画は好き。とても好き」
映子の言葉に、孝太郎もうなずきを返した。
「そういう気持ちはわからなくもありません。私も、まわりの光景が本物なのかどうか、ふっと疑ってしまうときがあります」
本当の自分を見せることなく、人と接する日々。
「だから、映画が好きなのかもしれません。はじめから幻影だとわかっているからこそ、安心できるのでしょう。映画の中では、幻こそが真実だから」
孝太郎の言葉を聞いているのか、いないのか、映子はどこか遠くを見つめるような瞳をしていた。まるで、周囲のすべてが彼女にとっては影であるかのような。
「自分が、ここにいることって、どうすれば確かめられるんでしょう。今、他人が見ている自分と、自分が考えている自分が同じだって、どうすれば確かめられます?」
彼女の言葉に、孝太郎は絶句する。どうして彼に答えられるだろう。どうすれば、妖怪たちにそれが答えられるはずがある。つねに、仮面をかぶっている妖怪たちに。
彼らは、想いの中から、望まれるものとして生まれて、そして、そのままでいられずに生きていかねばならないのだから。
「わたしは、だから、そのために誰かの望むままの自分でいることが好き。その人が望んでいる自分が、本当のわたしだって安心していられる」
映子が、にっこりと笑った。その途端に彼女は、はなやかな輝きにいろどられたかのようだった。孝太郎の心が揺さぶられる。
「そうですね。そうして、小さな夢の国にとじこもっていられれば、どれほど幸せでしょう」
故郷の蜃《しん》たちのことを思いだす。みずから作り上げた幻の世界に住む彼らと、他者がつむぎあげた夢を求めている自分。どちらが楽か。そして、自分はどこにあるのか。
映子もまた、こうありたいと願っている自分を、現実としてかなえるのではなく、幻想としてつむぎあげて安心しようとしている。
孝太郎は、それを考えるほどに、映子に抱いていた思いが色|褪《あ》せていくのを感じていた。
自分は、映画の何に魅せられて、ここにいるのだろう。映画は、安心するための、守るための幻ではない。何かを伝えるための夢、他人のための夢だからか。夢でありながら、現実を変えることができうると、信じているからだ。
孝太郎は、自分を落ち着かせようと咳払《せきばら》いをすると、話題を変えるために、その材料を探してこうべをめぐらせた。彼の眉《まゆ》がいぶかしげによせられる。
「ああ……おや、みなさん、どこに行ったんでしょう」
気がつくと、信男以外の三人の姿が見えない。信男は、座りこんで絵コンテ用のノートに何かを書きつけている。こんなときだからこそ、幻想をつむぐことに投入して、現実から逃げているのだろうか。
「お手洗いかな?」
孝太郎が呟《つぶや》いた。肇が、濡《ぬ》れねずみになって外から戻ってきたのは、ちょうどそのときだ。
「おい、来てくれ! 大変なんだ……ミケが……」
肇が、ミケが崖《がけ》から落ちたこと、柚夫ともはぐれてしまい、助けを求めるために戻ってきたことを早口で説明した、そのとき。
奥の女子トイレの方角から、魂を切り裂かれるような悲鳴が聞こえた。
少し、時間を遡《さかのぼ》る。
落ちる、落ちる。どれくらい、斜面をすべり落ちただろう。なみの人間なら、首の骨くらいは折っていてもふしぎではない、でこぼこした急斜面だった。
だが、ミケは猫娘だ。
瞬間、彼女の目がきらめいて、瞳が三日月型に変わる。顔が猫のそれになり、鉤爪《かぎづめ》が伸びた。衣服が邪魔になるので尻尾《しっぽ》はのばせない。
いつのまにか、ミケはころがり落ちるのではなく、崖を駈け降りていた。猫のバランス感覚のおかげで、立ち直ったのだ。
なんとか無事に、谷底までたどりつく。
「まいったな」
ミケは、頭上を見上げた。雨のせいで、視界が効かない。肇と柚夫がどうなったのか、さっぱりわからなかった。これなら、変身したのも見られずにすんだだろうというのが、不幸中の幸いである。
『見られたほうが、いっそすっきりしたかな……』
投げやりな気分を、ミケは頭をふって追い払った。たとえ、幻のようにもろいつながりでも、自分から振り捨てることはない。ゆっくり努力すれば、それは夢でなくなるかもしれない。
ミケは、しばらく迷ったが、思いきって半人半猫の姿のままで登ることにした。多少の、社会的危険よりも、今遅れることで肇たちに肉体的な危険がふりかかることのほうが重要だと判断したのだ。
「それにしても、これじゃ何もわかんないな。雨がやむか、夜が明けるのを待つっきゃないか」
登りながら、背後をふりかえっても、見えるのは、ただぼやけた闇《やみ》だけだ。人工の灯《あか》りは、どこにも見えない。
なんとか、上に戻ると、二人の姿はなかった。登ってくるあいだにも見つけなかったから。
『助けを呼びに戻ったかな』
それは賢明な判断なんだろうが、少し寂しかった。
しかし、感傷的になっている場合ではないと、自分を叱咤《しった》する。
そもそも、二人が無事に <幻燈《げんとう》館> まで戻れたかどうかのほうが心配だ。この崖に、自分が直前まで気づかなかったことが、不安を招く。ただのドジならいいが、もしも何者かの意図が働いていたとするなら?
木々をかきわけて、急いで戻る。 <幻燈館> がまたゆっくり姿をあらわした。
深い山中に、ひっそりとたたずむ幻の館《やかた》。ミケは、ぶるりと体を震わせた。見慣れた、なんの変哲もない古いビルが、背景が変わっただけで、こんなに不気味に感じられるなんて。
ミケは、 <幻燈館> の出口まで戻ってきた。肇が見当たらなかったことで、複雑な気分だ。
灯りは、煌々《こうこう》と古びた階段を照らしている。
水滴をしたたらせ、ぐっしょりと体に張りついた服を気持ち悪く感じながら、ミケは階段をおりていこうとした。
だだだという足音が聞こえてきたのは、そのときだ。ミケは、壁によりかかって、足音のあるじたちがあらわれるのをまつことにした。もうクタクタなのだ。
「ミケ!?」
叫んだのは、下から駆けあがってきて、ちょうど踊り場に姿をあらわした肇だ。後ろに孝太郎と映子が続いている。
ミケは目をこすってみた。間違いなく肇だ。泥だらけである。自分を助けるために急いでたんだろうか。『無事だったのか』という驚きの一言を、彼女は期待した。
だが、続いたのはそんな科白《せりふ》ではなかった。
「殺人鬼だ! 誰か来たろう!?」
だだっと走りよってきた肇が、彼女の両肩を掴《つか》んで怒鳴った。仕草は怒りのものだが、肇の顔色は恐怖に蒼《あお》ざめている。
「え? なに?」
ミケはただ、戸惑うことしかできない。
「こっちに来ただろう。ホッケーマスクの大男が! 隠すなよっ」
肇は噛《か》みつきそうないきおいで言った。
「するかっ! いったい何なのよ」
憤然としてミケは彼をふりはらった。
「来てない……ってのか」
肇が、茫然《ぼうぜん》とした顔つきになる。救いを求めるように映子を見た。彼女は、ただ孝太郎たちの後ろにいるだけだ。
「私には、別の姿に見えましたけど。とにかく誰も見かけなかったんですね、ミケさん?」
孝太郎の問いに、ミケはうなずいた。
どうやら、彼女がいないあいだに、何かあやしい人物が <幻燈館> にあらわれたらしい。それを追いかけてきたら、消えてしまったということか。
ミケは、孝太郎と目をみかわした。
人間ならともかく、相手が妖怪《ようかい》であるなら、この程度のことは謎《なぞ》にもならない。
「おお、二人とも無事かぁ」
ミケの背後から、嬉《うれ》しげな柚夫の声が聞こえてきたのはそのときだった。ふりむくと、びしょ濡れになった彼がいた。顔を汚しているのほ、雨だけでなく、彼の瞳から流れ落ちたものもあるのだろう。
ふりかえったみんなの顔つきを見て、彼の声が、みるみるうちに不安そうにこわばる。
「なんか……あったんか?」
「小川さんが」
孝太郎が、沈痛な声で言った。
「亡くなられました」
5 キャスティング・チェック
もう吐くものは、何も残っていない。胃液を吐き、それすらも尽きて、義之は便座をかかえこむようにひざまづいて、体を痙攣《けいれん》させていた。悟絵が、彼の背中をさすっている。彼の心配をすることで、悟絵は現実から目をそむけようとしているのだ。
そして、彼女らの背後には、大蔵のときよりもさらに凄惨《せいさん》な光景が広がっていた。
白い壁に、真っ赤な絵の具で、人間のシルエットが描かれていた。
「なんやねんな、なんやねんな、これ」
泣きだしそうな声で、柚夫が言った。
絵画、なのかもしれない。
也実の血を絵の具に、ちぎれた腕を筆に、そして壁をキャンバスとして描かれた、奇怪な絵画だ。白々とした女子トイレの蛍光|燈《とう》の灯りのせいか、それは奇妙なくらいに現実味に欠ける光景だった。
「也実さんは、あそこです」
孝太郎が、トイレの外から個室の一つを示した。女性用に入るわけにいかないという、変なこだわりだ。
「あんた……まだ……」
ミケが絶句したのは、也実の死体がある個室をカメラで撮影している、信男を見たせいだった。
その信男が、小さな声で何か呟いた。
「何?」
眉をひそめたミケの耳もとで、孝太郎が囁《ささや》く。
「映画のタイトルですよ。『カラー・ミー・ブラッドレッド』。……狂った芸術家が、殺した女の血で絵を描くっていう、超低予算の殺人鬼|血まみれ《スプラッター》映画」
もう一つ聞き取れたことは、孝太郎は口にしなかった。信男は『よくやった。完璧《かんぺき》だ。完璧な演技だぞ。也実。それでこそ……俺《おれ》のスタッフだ。お前がいなくなると、もう映画撮れないよ。お前は、俺をまるごと肯定してくれたのにな』と、そう彼女を褒めていたのだ。
「何でこの状況でそういう言葉が出てくるわけよ!?」
後半はともかく、前半はミケをいっそう怒らせそうだと孝太郎は伝えるのをはばかったのだが、けれど、映画のスプラッターシーンを連想しただけでも充分なようだ。
「見ないほうがいいですよ、ひどいものですから。右手と右足がひきちぎられたようになってました。ほんの一瞬のあいだに、どうやってこんなことができたのか……」
「もういいっ」
肇が怒鳴る。怒鳴った自分に驚いたか、二、三度まばたきをする。彼の背後には、白い影のように映子がたたずんでいた。
「もう、いいです。朧さん」
ゆっくりと言い直した。孝太郎は、申し訳なさそうに頭を掻《か》いた。
「ほんの一瞬って、どういうことよ、孝太郎っ」
ミケは、もう敬語を忘れているようだ。さんづけすらしない。
「小林さんの証言によると、小川さんはお手洗いに行って顔を洗いたいと言われました。小林さんと黒井くんがついていかれたんです。黒井くんは、もちろん外で待っていた。タオルがないかと言われて、小林さんが探しに出た。そのすぐ後に、悲鳴です。せいぜいがところ、一分も経っていません」
二人がトイレに入ってみたら、この絵があった。悲鳴を聞きつけた肇と孝太郎が駆けつけ、肇が思いきって個室を開き、死体を見つけた。
そして、犯人らしき影も。
「黒井くんが悲鳴をあげてしまったとき、隣の個室から人影が飛びだしてきたのです」
みんなが、トイレの中とすぐ前にいたはずだ。しかし、その時点から、全員の記憶と証言が曖昧《あいまい》になる。
共通しているのは、女性用トイレから何かが飛びだしてきたことだけだ。
義之には、火傷した大男に見え、悟絵は大きなかみそりを持った女に見えた。孝太郎には、人間ですらなく、ぼんやりした白い影にしか思えなかったらしい。
「これ以上、ここを調べても無駄でしょう」
孝太郎が宣言した。
死体と一緒にいる気にもなれない。かわいそうだが、大蔵と同様、警察が来るまではこのままにしておくしかないだろう。
「もう、わしにはわからへん」
そろってロビーに戻ってきたとき、柚夫が床に座りこんで言った。
「どうしたらええねん」
答えはない。助けを求めることもできず、戦うにも敵は見えない。
誰もが、落ち着きなく視線を動かし、いらいらとしたようすを見せているけれど、何をするでもなく、思いつきを口にすることもなかった。
けれど、事態の進行は止まっているわけではない。緊張という名の風船が、不安と恐怖という吐息を吹きこまれて、大きく大きく、音も立てずにふくれあがっている。誰もが、柔らかな、けれど抗しがたい圧力に押し潰《つぶ》されようとしているのだ。
それから逃れるために、誰かが針をふるいえば、破裂する。
ほんの数分に満たないあいだしか、沈黙はたもたれなかった。
「何がどうなってるんや? こんなこと、起こるはずない……せやろ!」
柚夫が、両手を床について、まわりにわめき散らした。信男がカメラを持ち上げる。柚夫の目がレンズを捉《と》らえた。
彼が怒りはじめるだろうと、ミケは思った。
「なあ、誰か、わしをつねってくれや。これ、悪い夢なんやろ。なあ、なあってっ」
柚夫の動きと声が、さらに派手になった。まるで、パフォーマンスだ。
信男が腰をあげる。カメラが近づく。
「助けてくれぇ」
柚夫が、ひときわ大きな声をあげる。ミケは、何か大きくて固いものでも呑《の》みこんでいるかのように、喉《のど》をこわばらせていた。やめろと言ってやりたいのに、できない。
他の誰もが、続くことを期待しているかのようだ。
撮影を続ければ、これが現実ではなくて、夢物語だったことになるとでもいうのか。それはありえない。あの死体はトリックじゃない。 <幻燈《げんとう》館> が森の中に移動したことも、ミケは疑わなかった。大掛かりなイタズラ映画なんかじゃないのだ。
「夢やろ……夢やて言うてや。誰か助けてくれや……」
柚夫は、カメラに追われながら、頭を抱えこんだ。
「夢と言うのは、もっと美しいものですよ」
孝太郎が、静かに言った。
「こんなに醜《みにく》いのは、現実だけです」
幻影を生きる道具としてきた妖怪は、しかし、その言葉ほど現実を嫌っているわけでもなさそうな口調だった。
「何、くだらないこと言って、カッコつけてんの」
ミケが、孝太郎の頭をゴンと殴りつけた。
それを見ていた悟絵が笑った。明らかに、無理をして笑っている。けれど、彼女の笑いで、その場の雰囲気がやわらいだのも確かだった。賢い、そして強い娘だ。
少し、風船の圧力がゆるんで、みながそれぞれに動きだそうとする。信男が、カメラをおろした。
「ねえ、誰かラジオ持ってない?」
ミケが、唐突にそんなことを言った。
「テレビだったら、私の部屋にありますよ、いちおう」
孝太郎が口をはさんだ。
「そうだったわね。ビデオ三台とLDにDVD、ケーブルTVまでつないであるやつね」
ミケが、にやにやと笑いながら言った。不謹慎だとは思っているが、なんでも冗談にして、とにかく気分を切り替えなければと思っているのだ。
「しょうがなでしょう。フィルムが手に入らないものは、そういうのでも我慢しないと」
生まじめな顔で、孝太郎が言った。
「で、あったらどうしようって言うんです。暇つぶしですか?」
嫌味でなく、本気でこういうことを言うあたり、孝太郎の天然ボケもたいしたものである。
「違うわよ。入ってくる番組をチェックすれば、ここがどのへんかくらいわかるでしょ」
どこか、とんでもなく遠くに移動させられたのか、そうでないのかくらいはわかるはずだ。
「ぼ、僕持ってます!」
義之が、飛び上がりそうないきおいで言った。あわてて、客席の中に走る。悟絵が急いで追いかけ、ミケも続いた。一人にしておくのは危険だと思ったからだ。
「お互い同士、目を離さないほうがいい」
孝太郎が、念を押すように言った。映子、肇、柚夫、そして信男を順繰りに見つめる。
「ホラー映画やと、一人ずつになってしまうんやけどな。これは……現実やもんな」
柚夫が、自分に言い聞かせるように言った。
信男が、黙ってカメラを撫《な》でている。
三人が戻ってきたときは、かなり大型のCDラジカセを手にしていた。
「なんかこう、録音が必要になることもあるかと思って」
説明しながら、義之が電源を入れた。そのまわりに、みんなが集まってくる。
「東京じゃないか、ここ……」
肇が呟《つぶや》いた。流れてきたのは、彼が聞いたことのある番組だったのだ。
「この周波数って、たぶんそう」
ミケが、ネット局でないことを確かめて、みんなの顔にほっとした表情が浮かぶ。
「だとしたら、奥多摩かどこかですかね」
義之が、音量を大きくしながら言った。会話を続けるには邪魔だが、パーソナリティの陽気なおしゃべりが、日常とのつながりを保証してくれるような気がして、しばらくひたっていたかったのだ。
「なんで、こんなことになったのかってのは考えてもしょうがないと思う。考える材料が少なすぎるから」
肇が、みんなの顔を見回した。ミケが、反論しかけたものの、その言葉の正当性に気づいて口を閉じる。
「確かなのは、誰かが俺たちを殺そうとしてるってことだ。やられてたまるか」
義之と悟絵が、ぎゅっと手を握りしめあった。映子は、奥歯をかみしめてうなずく。柚夫は、まだ惚《ほう》けたような顔つきで、信男は手もとのカメラを見つめていた。
ミケは、ふと何かを感じた。
映画……映画を完成させたい。完璧《かんぺき》な死体シーンが作れないで、信男が悩んでいると、誰かが言っていなかっただろうか。
「でも、相手は人間ばなれしたやつみたいだし。反撃よりは、逃げることを考えたほうがいいと思うな」
ミケは、そう言った。妖怪《ようかい》のことは口にできないからだ。
「逃げるにしたって、相手が化物みたいなやつなら方法を考えなくちゃいかんだろ」
肇の言葉に、ミケはうわのそらで答えを返す。
「まあね。追いかけてこれないようにするとか……さ」
ミケは、信男のカメラを睨《にら》みつけた。
みんなが、彼女の言葉に考えこんでいる。しかし、信男だけは、じっとカメラを見つめたままだ。
ふと、ミケの胸に湧《わ》いてきた疑惑。映画を完璧なものにしたいという望みにつけこんで、願いをかなえてやろうとしたやつがいたとしたら? たとえば、持ち主の望む映像を撮影させるために、なんでもするカメラなんてのがいたとしたら?
今まで、映研部員たちを疑ってもみなかったからチェックしていなかったが、妖怪はときには器物や動植物の姿を借りていることもある。
ミケは、鼻をひくつかせた。妖怪の匂《にお》いはしない。人間に変身しても、隠しきれないものもある。ミケの感覚は、妖怪独特の生命エネルギーをとらえることができるのだ。もっとも、それを隠すすべを持つ妖怪もいるのだが。
だが、そのとき。
さっきから聞こえていたラジオのニュースが読み上げたのは、その場にいる誰にとっても予想外の言葉だった。それが彼らの耳に届いたのは、現実なればこその偶然なのか、それともこの状態を作った者によって計算された、作意のなせるわざだったのか。
「午後……時ごろ、都内の……で、小型のバンがガードレールを突き破って転落……」
明日の朝刊というタイトルのニュース。もはや、午前二時すぎだ。
「……乗っていた男女複数が死亡しました。亡くなったのはF――大学映画研究会のメンバーと思われますが、奇怪なことに死体が消失……」
アナウンサーの言葉が、理解できるまで、ミケにはしばらくかかった。
え、と思って、顔をあげた。映子と目があう。彼女は救いを求めるようにみんなの顔を順番に見つめた。
彼女が全員の目を見終わったとき、ラジオの声が聞こえなくなった。耳に届かない。
「おい、どうなってんだよ。まだ終わっちゃいないだろうが」
肇が、ボリュームを回した。何も聞こえない。電源を消したり点《つ》けたり、意味もなくあれこれいじってみる。反応は、まったくない。
「なんだ、こら。なんで、聞こえないんだ」
肇が、ラジカセをがんがんと殴りつけた。だんだん、怯《おび》えがたかぶってくる。動きが大きくなっていった。
「い、今、何か妙なこと言ってましたよね、このラジオ。なんか、馬鹿なこと言ってました。今日ってエイプリルフールでしたっけ」
義之がひきつった笑いを浮かべる。その表情は、自分のラジカセの運命を気にしているからではないだろう。悟絵は、ぶらさがるようにして、義之にしがみついていた。肩に両手をかけて、彼を地面に押しつけようとしている。
「どこかで、あなたたちのサークルの、他の部員さんが事故にあったっていうことじゃない? 他に考えられないでしょ。だって、あなたたちは……ここにいるんだから」
ミケは、笑おうとしても笑えない。
「そうですね……、幽霊部員じゃないんですから」
孝太郎の冗談にも、誰も笑うものはない。彼の胸にこだまする台詞がひとつ。
『ここにいる自分は本当の自分だって、どうすれば証明できます?』
長い間があって、柚夫が、こわばったくちびるを、ようやくこじ開けた。
「映研で小型のバンていうたら、大蔵さんのやつだけや」
そのことは、孝太郎も知っている。そして、ロケとなれば、いつも彼らがそれで移動していることも。それなのに、今日に限ってみんな徒歩であらわれたことも。
「……それに乗ってたんは、映画撮ってる人間だけ。わしらに決まってるやないか」
柚夫が、涙をにじませながら立ち上がる。じりじりと後ろにさがる。滑稽《こっけい》なほどに、彼の顔つきは歪《ゆが》み、ひきつっている。震える指が、肇を、信男を、映子を、義之を、悟絵を指差す。
「お前ら、みんな、死んでるんや!」
彼らは、息をしていない。
「じゃあ、映画はもう撮れないのか?」
困惑して、子供のような顔つきになって、信男が呟いた。
6 ビジュアル・エフェクト
明々としたロビーの照明が、急に暗くなったように思えた。
「それとも、わしか?……わしが、死んどんのか?」
わななく指が、柚夫自身をさし示した。
「ねえ、ゲマさん。落ち着こうよ、ね?」
ミケは、ゆっくりと一歩踏み出した。
他の者たちは動かない。動けないと言うべきか。
「あなたは生きてるよ。心臓も動いてるし、息もしてるじゃない」
両手を前に伸ばして、なだめるようにゆっくりと進みでる。
「わしは生きてる? 生きてるんやな? わしが生きてるんやったら……」
じりり、じりりとさがっていた彼の動きが、止まる。
「ほな! お前が死人かァ!」
叫び声をあげて、ぐわぁっと拳《こぶし》をふりあげて、柚夫がミケに殴りかかってきた。彼は、身長こそミケに及ばない程度だが、腕はずいぶんと太い。力は強いほうだ。重い機材も軽々と扱っていた。
その柚夫が、本気でくりだしてくる拳をかろうじて避けて、ミケが足をひっかける。だが、ずんぐりした体格に似合わず、柚夫は意外と機敏だった。
ミケの足をひょいと避けると、そのまま突進した。その目は、狂気の色をたたえて、血の赤色に染まっている。
彼の行く先には、肇がしゃがみこんでいた。直れ、直れとぶつぶつ言いながら、ラジカセを何度も床に叩《たた》きつけている。周囲のことに、まるで注意をはらっていない。彼も、とうとう限界を越えてしまった。それまで、最も平静をたもってみせていただけに、いざ向う側に突き抜けてしまうと、転落する勢いも早かった。
狂乱状態の柚夫が、自失している肇に体当りした。肇にとっては不意討ちだった。バランスを崩して、転倒する。ラジカセが手から離れて、ごろんところがった。
そして柚夫は、それを拾ってくるりとふりむいた。
ミケが、とっさに立ち止まって、腕を交差して自分をかばう。
柚夫は、思いきりラジカセを投げつけた。
義之と、悟絵に向かって。
彼の、歪んだ論理にしたがえば、この場にいる全員が死者なのだ。
この攻撃を、まったく予想していなかった二人は、逃げることもできなかった。ぎりぎりの一瞬で、義之が悟絵をかばうように抱きこむ。
がつん、という派手な音がした。重いものが、固い場所にぶつかる音だ。
義之の身体から、力が抜ける。悟絵では、長身の彼の体重を支えきれなかった。二人がずるずると倒れる。彼の額からしたたり落ちる血を、自分の顔に受けて、悟絵が悲鳴をあげた。
いつまでも続く、悲鳴。
白い、泥の汚れひとつない床の上に血がゆっくりと広がってゆく。
大きく開かれた彼女の口を、信男のカメラがアップにしている。そう、彼はカメラを回していた。柚夫が叫んだ、その瞬間に。それからずっと、彼は満足そうな表情を口もとに浮かべながら回し続けていた。
だが、柚夫がラジカセを投げたときは違った。何か、間違ったことが行なわれているとでもいいたげに、怒気をあらわにする。
それでも、カメラは止めない。
信男のかたわらには、ぺたんと座りこんでいる肇。
茫然《ぼうぜん》と立ち尽くしたままの、孝太郎と映子。いや、孝太郎の顔には、何かを理解したような表情が徐々に広がりつつある。彼は、広がっていく血と、そして泥の足跡が残る床を見つめていた。
孝太郎が顔をあげて、順番に映研部員たちを見る。最後に見たのは、隣にいる映子だ。
なぜかしら、親しげに感じられた娘。恋ではなく、懐かしさだったことに思いが至る。
「なにしてんのっ。早く助けないと」
ミケに怒鳴られて、その映子が倒れた二人に近よった。ミケは、柚夫をなんとか押さえようと近づいている。ほうってはおけないから、孝太郎も近づく。妖怪としての力をふるうことができれば、ずいぶんと楽なのだが。しかし、柚夫は、すでに誰かを傷つける気はなくしているようだった。
「うわわわっ……殺した……殺してしもた……」
手を震わせている。さきほどとは別種の恐怖で、彼の顔面は蒼白《そうはく》だった。
彼の視線は、広がる血に釘付《くぎづ》けになったようにはがれない。
「殺して……わし……人殺しや」
目を、強引にひきはがして、彼は身をひるがえした。どうしようというのか、自分から逃げるのは、もっとも難しい逃亡なのに。
「あちゃっ、あたしら間抜けっ」
ミケが声をあげる。取り囲んだつもりだったが、柚夫が背にしていた壁には、客席内へ通じる扉があったのだ。彼は、そちらへ逃げ出してしまった。
「とにかく、落ち着かせないと。生きてるねっ?」
ミケが、すぐに我に返った。ふりかえって、叫ぶ。映子がうなずきを返した。義之の胸は、かすかながらも、規則正しく上下を繰り返していた。
それを確かめて、ミケが柚夫を追いかける。
「孝太郎さんも来てよっ」
怒鳴られて、ようやく彼も動いた。なにか、考えこんでいたようすだ。孝太郎は、動きだす直前まで、床を見ていた。
孝太郎がミケを追いかけたときには、ドアが閉まりかかっていた。鼻をぶつけそうになる。
柚夫の姿が、彼らの視界から隠れていたのは、ほんの十秒くらいのものだったろう。
そのわずかな時間で、彼は死んでいた。
逃げきれずに、自分に捕まえられたかのように。
孝太郎たちが、客席内に入ったとき、彼らが見たのは、ずらりと並んだ椅子の背もたれ越しに、天井に向かって、まっすぐに突き上げられている二本の足だ。一見しただけなら、それはとても滑稽な姿勢で、こんな場合なのにミケは思わず声を立てて笑いそうになった。
そして、泣き出しそうになる。
柚夫が――彼だというのはジーンズの色でわかった――、ふざけてそんな格好《かっこう》をしているはずがないからだ。
「これじゃ……だ」
孝太郎が、映画のタイトルを口にした。『犬神家の一族』。彼が今日の夕方に見た、連続殺人を扱ったミステリ映画。
そして、孝太郎の顔に、理解の表情がふたたび広がってゆく。さきほどよりも、さらに深い理解が。
「そういうことなのか……まさか……そういうことだなんて」
孝太郎が、ぶつぶつと呟《つぶや》きながらミケを追い越して、大股《おおまた》で柚夫に近づいた。そして、髪をくしゃくしゃとかきまわす。きれいに整えていたオールバックがむちゃくちゃになった。
「死んでるの?」
「ひどいものです」
止められなかったので、ミケは前に回ってみた。止めてくれればよかったのにと思った。
まるで、逆立ちをしているような姿勢で、柚夫は死んでいた。上半身が、ぐしゃぐしゃにつぶされている。
「人間の力じゃないみたい……」
「ええ」
ミケの呟きに、孝太郎がうなずきを返した。
「まるで、交通事故ですね」
彼の言葉に、ミケは何かひっかかるものを感じた。けれど、孝太郎を問い詰める前に、別の何かが彼女の神経をさらに激しく刺激した。
それは、ほんのささいな音だった。
「あんた!」
信男が、またカメラを回している。フィルムを巻き取るかすかなモーター音が、ミケの感情を逆なでした。これ以上は、もう我慢できない。
「ゲマがいないと、脚本がない。映画には、脚本が重要だ。俺《おれ》のわがままを聞いてくれるのは、お前だけのくせに……なんで死んじゃうんだよ」
その呟きを、ミケは聞いた。さきほどの、もしかしたらという推測を、ミケは根拠もなく確信に変えた。
「あんたがやらせてるのっ?!」
ミケは、だんっと床を蹴った。ぶんとふるった手は、拳を握ってはいなかった。軽く曲げられた指の先には、十センチもの鉤爪《かぎづめ》が伸びている。
ざぎゅっという耳ざわりな音とともに、信男がかまえていたカメラは、ただの残骸《ざんがい》と化して、彼の手の中から取り落とされていた。
「あ……」
信男が、全身から力を奪われて座りこむ。完全に、虚脱した顔つきだ。まるで、自分の魂をまるごと叩き落とされたかのようだった。
「ああああ、なんてことを」
彼のかわりに、盛大な嘆きの声を上げたのは孝太郎だった。
「ミケさん、このカメラはねぇ、今はもう製造中止になった品で、とっても貴重なんですよ。性能もとても良くて……ああ?」
駆け寄ってきて、残骸のかたわらにひざまずく。
「そういう思い入れ! そのせいで、ただのカメラが妖怪《ようかい》になっちゃって、映画を完璧《かんぺき》にするために殺人を起こしたりするのよ」
ミケが、憤然としたようすで言ってのけ、それから慌てて信男のようすを確かめる。つい夢中になって猫の爪など使ってしまったが、やはり正体がばれるのはまずい。
不幸中の幸いで、信男は周囲に注意を払うどころではない。まるっきりふぬけだ。
「まあ、これでなんとか、事件も終わり……」
「何を言ってるんですか。これは妖怪なんかじゃありませんよ」
孝太郎の言葉で、ミケは背中に氷をほうりこまれたような気分になった。
「だ、だけどっ」
「これはただのカメラですよ。ミケさんともあろう人が、それくらいはわかるでしょ。いや、確かに彼女ほど巧妙に隠れられたら、なんでも疑わしくもなるか」
孝太郎は、さらに頭をかきむしった。
「もっとも、これを壊したのもミケさんじゃありませんけどね。この破壊のされかたをよく見てください。あなたの爪《つめ》のせいじゃ、ないでしょう?」
孝太郎がしめす。確かに、カメラは切り裂かれているのではなく、何か大きなハンマーで叩《たた》き潰《つぶ》されたようになっていた。
「それじゃあ……」
いったい誰のしわざなのかと、ミケがさらに問いただそうとしたとき、彼女の首が背後からいきなり締めあげられた。
「えっ! なにっ!」
太い指が、ミケの喉《のど》に喰いこむ。持ちあげられて、足が宙ぶらりんになる。
背後はふりかえれないが、その手が誰のものかはわかっていた。感触に覚えがある。
「肇……なんで? まさか、あんたが?」
手の甲に爪を立ててやろうとして躊躇《ちゅうちょ》した。やはり彼が妖怪だとは思えない。単にあやつられているのなら、あまりひどい傷はつけられない。
そうでないとして、人間への変身を解いたあたしの姿を見た恐怖のせいだとして……。
やはり、傷つけられない。人間の姿こそが、本当のあたしだと思ってもらわなくてはならない。幻影のほうを、信じて欲しいから。
彼に何を信じてもらうにしても、本当のあたしは妖怪なんだ、とミケは自分に言った。生命力もタフさ、なみの人間に比べれば、窒息状態にも長く耐えられるんだもの。
『ぎりぎりまで……』
もがいてみようかと決めた。
そのとき。
急に、肇の力がゆるんだ。彼が、よろめいている。
とんと地面におりて、片膝《かたひざ》をつく。喉をさすりながら、ミケはふりかえった。
同時に、肇も床に倒れていた。
背後にいたのはバットマンだ。黒い蝙蝠《こうもり》マントの、アメコミヒーローだ。肇のうなじにふりおろした腕は、まだそのままのポーズでいる。
夜のクライムファイターは、ミケにうなずいてみせると、ふっと姿を消した。
「趣味が悪いよ、孝太郎さん」
これが、孝太郎の妖怪としての力だ。彼は蜃《しん》の一族だ。望むままの幻を作りだすことができる。妖怪として充分な修行を積まないままに人間の世界にやってきた孝太郎には、映画で見た光景しか作りだせないという、欠点がある。
しかし、その幻影は触覚にまでおよび、幻の衝撃は、相手を傷つけることなく、ただ傷ついたと思わせ、ショックで気絶させることも可能なのだ。
そう。幻のバットマンの一撃は、殴られたという感覚だけを与えたはずだった。
「ど、どうして……」
肇を抱き起こそうとして、ミケは、おそらくさきほどの彼より強烈な打撃を受けた。
倒れている肇は、どう見ても死んでいる。胴体はあばら骨が皮膚を突き破って飛び出し、腹部が破れて内臓がこぼれ出ていた。うなじへの打撃で、こんなになるはずがない。
そもそも、彼の顔には傷がなかった。血がすべて流れ出してしまったように、真っ白だ。
「孝太郎さんのせい……そんなわけない。じゃあ、あいつ。この事件の犯人? でも……でも、でも、でも!」
どうして肇だ。彼くらいは残してくれてもいいのに、どうして殺す。とうとう、とうとう最期まで……。
ミケは、泣くこともできなかった。
そして、倒れている肇の口もとから、ムカデが一匹|這《は》い出してくる。
ミケは、救いを求めるように、あたりをぐるりと見回した。
「ナイトメア・オン・エルム・ストリート」
孝太郎が呟く。奇妙に、何か、納得したような響き。
「性別が違いますが、しかたないでしょう」
彼のかたわらでは、信男が、ぐしゃぐしゃに壊れているカメラを拾いあげた。倒れている肇の身体を、ひびの入ったレンズ越しに捉《と》らえている。彼は、何か呟いている。それを、聞き取ろうとする必要を、もはや孝太郎は感じなかった。
「そう、確か、『ふぁた・もるがーな』では、殺人シーンは全部何かの映画の見立てにするはずでしたね。見てのお楽しみだと、何の映画かは教えてもらえませんでしたが」
唐突に、世界が暗くなった。
7 零号試写
スクリーンに、映像が映しだされる。
刻みつけられた人工の夢が、電気の明かりによって甦《よみがえ》る。
けれど、ここに映っているのは、かつて存在した、時が戻らぬかぎりは帰ってくるはずのない光景。
現像もされぬフィルムが、上映できるはずもない。
映写室から届く光もなく、スクリーンが明るくなるはずもない。
けれど、孝太郎とミケは、その映画を見せられていた。
こうなるべきだった、こうしようとしていた幻像。
信男が監督して、大蔵がプロデュースして、柚夫が脚本を書いて、肇と也実が出演して、みんながともに夢見た映画。
激しく車が往来する大きな通りの歩道を行く映子を、反対側から撮影した映像。
そして、頭のない大蔵。じわりと広がる、首からの血。死んでいるはずの彼の指が、ゆっくりと動いて描く。
メッセージを。
都心にある、巨大なショッピングモールに入ってゆく映子を、向かいがわのビルの二階にある喫茶店で見つける。
也実の血で描かれた絵。それはでたらめに見えたけれど、やはり意味がある。
メッセージだ。
荒れる冬の海の向こうに、ぽつんと浮かんだボートに乗って、岸から遠ざかってゆく映子。
波があれて、彼女の姿を隠し、また浮きあがるようにあらわれる。
観客席の湖で逆立つ、柚夫の足。ひくりひくりと動いて、何か意味ありげ。
伝えたいことがあるのか。
フラッシュライトの閃《ひらめ》くクラブ、人込みの向こうへ、カメラに背を向けて去っていく映子。
追いかけて走るカメラ。意図せずに邪魔する人々。揺れる映像。振り向く映子。口が開いて。
暗転。
そして、ミケたちの足もとで倒れている肇が映る。
スクリーンの外で倒れている肇は動かず、スクリーンの中の肇は顔をあげて言った。
『さあ、俺《おれ》たちと行こう』
「どうなってるの?」
ミケは、怒っていた。
これは死者への冒涜《ぼうとく》だと。
何者かが、自分の目的のために、こんな映像を作り、死んだものたちを辱《はずかし》めているのだと。
他の人間たちであれば、ミケは無関心でいられたかもしれない。でも、肇は……。
「許さないから! 誰なの! 出てきなさいよっ」
確かに、彼らの姿は、信男がかまえたカメラによって、撮影はされていた。
だが、録画したものをすぐに再生できるビデオではないのだ。これはフィルムだ。現像しなければ、上映などできるはずはない。編集する時間だってなかった。
この面倒臭さも、あるいは衰退の原因なのかもしれない。フィルムに幻想ではなく、現実の記録を求めた人々にとっては、不要な手間だったのだろうから。
「ダビング前で、編集も粗い……零号《ぜろごう》試写というところですか」
次々に転換してゆく場面を見ながら、孝太郎が呟《つぶや》いた。
「ええ、そうです」
返事があった。
画面一杯に大写しになった、映子から。真っ黒なドレス。夜と死を象徴する色。大胆に胸もとの開いた、異性を誘うようなデザイン。
「え? 何?」
ミケは戸惑いの声をあげた。映像が、自分たちと会話していることがピンとこなかった。
「あんた……あんただったの?」
だが、ミケも妖怪《ようかい》だ。非常識な事態には馴《な》れている。すぐに自分を取り戻した。
「誰かだとしたら、あなただと思っていました」
孝太郎が、静かな声で言った。
「他のひとたちは全員知っていますからね。あなたしかいないんです。正体不明の人が。わからなかったのは、目的でした」
孝太郎が、すらすらと言葉をつむぐ。探偵のように。
「殺人鬼の幻覚で惑わしても、あなたへの疑いが深まっただけでしたよ」
孝太郎の言葉に、スクリーンの映子が苦笑いを浮かべる。
「やっとわかりました。目的は、中川くんの映画を完成させること、ですか?」
孝太郎は、画面を正面から睨《にら》みつけている。映子も目をそらさない。
ミケは、そちらを彼にまかせて周囲を探った。すでになりふりをかまってはいられない。本当の姿――半人半猫に戻って、映子がいたはずのロビーに戻ってみた。映像が作りだされたもので、本体が他にいるなら、理由なんてなんでもいい、叩きのめしてやるつもりで。
ロビーでは、義之の頭を膝に乗せて、悟絵が包帯を巻きつけていた。二人きりで、他の人影は見えない。義之は気絶したままだ。悟絵のほうは、ドアが開く気配を察して顔をあげた。
ミケの顔を見る。声もあげずに、気絶してしまった。
「ああっ、もうっ」
ミケは、あわてて二人に駆け寄った。しばらく躊躇《ちゅうちょ》していたが、やはり二人とも観客席のほうにひきずりこむことにした。自分たちの目の届くところに置いておくのが、安全だろう。
そして、ミケは、幻が踊り、影が支配する空間に戻ってきた。
スクリーンの中には、あいかわらず映子がいる。ただの映像なのかもしれないし、あるいは.それが本当の彼女なのかもしれない。
それに対峙《たいじ》している孝太郎。わずかに背を丸め、頭は自分でかきむしったせいでくしゃくしゃ。お世辞にも、さっそうとした格好《かっこう》とはいえない。
けれど、彼の眼光は、それだけは、何もかもを見抜く鋭さをたたえているようだった。
そして、二人のちょうど中間に、座りこんでいる信男。画面を熱心に見つめている。すっかり、幻の世界に入りこんでいるようだ。スクリーンの映子が口を開くと、照り返しが彼の顔む赤く染める。白い映子の顔。大きな赤いくちびる。
「ええ、わたしが仕組んだんです。この一連の騒ぎは。あなたが考えた通り、映画を完成させるために」
「そして、信男くんを手もとに招くため、ですか。 <|夢の女《ファタ・モルガーナ》> さん」
彼女のことならば、ミケも聞いたことがある。他にもさまざまな名で呼ばれている、いにしえからの妖怪。その一族は、つねに男たちを惑わしてきた。リリス、あるいはパンドラこそが先祖であるともいう。ある男は北極海の氷山の向こうに、別の男は戦雲うずまく砂漠に、彼女を追いかけて消えていった。
「男たちの抱く夢とおのれを一体化し、夢となることで彼らを招き、そして滅びへと導く……。逃げ水のごとき、幻の国の住人。ああ、懐かしかったはずです。御同類」
孝太郎は淡々とした声で言った。
「彼は夢見るひとだった。わたしの世界にふさわしい。ほんとうにまれなんです、今では。わたしを追い求めて来てくれるひとは。どこまでも、夢と幻を追いかけてくれるひとは。彼を見つけて、近づくために身元を作って……」
映子は、それこそ夢を見ているような表情で言った。
「こいつの夢をかなえるためにだけ、まさか四人もの人間を殺したのっ」
ミケが叫ぶ。鉤爪《かぎづめ》は、二十センチくらいに伸びている。スクリーンに斬《き》りかかるのを、ぎりぎりで我慢しているのだ。
「もちろん、そんなことはしません。そのくらいなら、直接、わたしが彼の恋人になっています。也実さんにも、肇さんにも、それぞれの役割があるはずでした。この人には、もっともっと後になってから、わたしの世界に来てもらうつもりだった。幻を追って消える人には伝説になってもらわねばならないのです。そうでなければ、誰も後に続いてくれない。わたしを、安心させてくれるひとがいなくなる。わたしは、こんな女だと教えてくれるひと。わたしが、こうであって欲しいと望むひとが絶えたら、幻は消えてしまうのですもの」
映子が答えた。彼女の声には、さきほどまでとうってかわって自信があふれている。映像の世界にいる映子は、虚像となった <夢の女> は、まさに自分がそこにいるのがふさわしいのだという自信にあふれている。
「本当なら、こんなに急いだりしません。彼は、もっとじっくりと時間をかけてあげたい相手でしたもの。もっともっと、さまざまな人生を味わわせてから、わたしは彼を手に入れるつもりだったのです、それなのに」
「肇のことは、最初から利用するつもりだったのね……」
映子が語った『彼』は、肇でなく信男のことだったというわけか。ミケは、怒りをあらわに、スクリーンに向かって歩を進めた。孝太郎が、彼女の肘《ひじ》を掴《つか》んで止める。彼がひごろ見せたことのない、強い力で。
「あなたがことを急いだのは、事故でみんなが死んでしまったせいなんですね」
「そうです」
映子が、孝太郎の言葉にうなずきを返す。
「この作品は、いつまでも続く夢への最初のステップになるはずだった映画なのです。私にはわかっていました。彼が、これをきっかけに栄光を掴むことが。それが、単純なミスのためにすべて無に帰そうとしていました。今、彼らが死んで、この作品が中断したなら、彼は立ち直れないとわたしは感じました」
交通事故。それによって、大蔵たちはすでに死んでしまっていたのだ。彼らがいなくては、信男が撮影しようとしていた映画、彼がつむごうとした夢は完成しない。
「偶然の事故。でも、信男はそれで絶望してしまいそうになった。私は <夢の女> 。失った夢のかわりになり、幻の国に男たちを安楽に住まわせてやるのが役目」
「ようするに、あんたのペットにしようって言うんでしょうが」
ミケが、体中の毛を逆立てながら怒鳴る。
「そうじゃないんです。主体はあくまで、彼。わたしは、彼の望むままの幻の世界を作るだけ。わたしを支えてもらうために、こういうわたしでいいのだと言ってもらうために、信男さんが必要だった。彼のような夢見る力のあるひとが必要だった」
では、肇の価値は! ミケは、その叫びをぐっと呑《の》みこんだ。あまりにも、彼をおとしめてしまいそうだったから。
「だから、死体に暗示をかけたわけですか。強烈な暗示。死体にすら、自分が生きていると勘違いさせるほどの。それこそが、あなたの力だ。違いますか? 私たち蜃《しん》のように幻を作るのではない。それぞれの心の中で、勝手に幻を生じさせる」
孝太郎の解説を、映子は黙って聞いている。
「それに気がついたのは、森からミケさんたちが戻ってきた後で、ロビーの床を見たときでした。綺麗でした。泥のついた靴で汚れているはずなのにといぶかしく思ったら、そしたら汚れが見えたんです。で、わかりました。外は何も変わっていない。嵐《あらし》の森だと、思いこまされただけなんだと」
ミケは愕然《がくぜん》とした。転落もなにもかも、あれが全部、自分の心の中のできごとだというのか。
それでは……それでは、こいつには勝てない。
まさか、この映像も、ほんとうは真っ暗なスクリーンを見つめているだけなのか。
もしかして、この孝太郎も? 今日のいつからが本物だったのだ? この信男だって、もう死んでいるんじゃないか? 死人のために……戦う?
恐怖が、ミケの心を圧倒する。彼女の中から、怒りと戦意が抜き取られていった。
「大蔵さんも、小川さんも、みんな殺されたわけではない。あなたによって、暗示を解かれただけなんです。そして、もう一度死んだ。死にきる前に、自分が死ぬところを小道具で演出させた。中川くんのコンテに忠実に。ここで、完璧《かんぺき》なシーンが撮影できれば、中川くんのイマジネーションがふくらんで、映画を完成させようとすると考えたのでしょう?」
人間わざでない死に方も当たり前、彼らは、ぶつかった車にはさまれてつぶされ、事故の衝撃ではらわたを飛びださせていたのだ。ちょっとばかり自分のたおれざまを工夫させ、暗示を解除すれば、凄惨《せいさん》な殺害シーンのできあがり。
「ひとつだけ訊《たず》ねます」
孝太郎の言葉に、誘うように映子がうなずきを返す。
「本当に偶然ですね? この人を幻の国にひきずりこむために、あなたが事故を起こしたんじゃないんですか?」
孝太郎が、平静な声で、衝撃的な言葉を口にする。ミケの体が、びくんと跳ねる。まさか、そんなこと。
「こんな不完全な形で、この人の国を作りたくはなかったのです」
映子の返答は、そういうものだった。
「でも、彼は、こちらの世界に住むべき人間。夢をどこまでも追いかけることのできる、わたしたちの国に」
映子の、孝太郎に答えているとも、自分に言い聞かせるともつかない口調の声が、スピーカーから響く。
「幻の国にふさわしい、その彼のために入り口を作ってあげた。さあ、もうこれでいいでしょう。わかってもらえたなら、彼の邪魔はしないであげてくださいね」
カメラが、ぐっとひいて、映子がアップからロングショットになる。カメラがさがったというより、彼女が離れたように見えた。
信男が、ひっぱりこまれるように立ちあがった。スクリーンに向かって、彼はふらふらと歩きはじめる。
「もうひとつ確かめさせてください。中川くんは、死んでいないのですね」
孝太郎が、声をしぼりだすようにして言った。
「死んでない、死んでない。死んでないなら……駄目よっ」
ミケが生気を取り戻した。ばねじかけのように立ち上がって、信男を捕まえようとする。しかし、彼の体は微妙にゆらいで、彼女の手をするりとくぐりぬけた。
「彼が死んでいないなら、まだあなたの手にはゆだねられません。行ってはいけません」
孝太郎が、信男の背後から声をかける。
「こちらに住むべきなのです、彼は。自分が作った夢の世界。この映画はその入り口。お願い、わたしのところに来て」
映子が呼びかける。
「さあ、夢をつむいで。わたしに言って。こんな自分であれと指図して」
映子は、飢え、乾ききった醜い顔つきで信男を招いた。
「お願い、わたしを満たして」
そのとき、もう一人の彼女があらわれた。スクリーンの横に、もう一人の映子。
信男の動きが止まる。
忙しく、首を左右に動かす。
スクリーンの中にいる黒いドレスの映子は、何が起こったのかとあわてている。スクリーンの横にいる映子は、白いスカートをふわりとふくらませながら、ゆっくり舞台から飛び降りた。
重力を無視したような動き。
それは、確かに、さきほどスクリーンで見せられたものだ。
「信男……それは、わたしじゃない。あなたが追いかけてきた夢じゃない。わたしはこっちにいるわ。わたしが、ここにいるわ」
スクリーンの映子が、あわてて言う。けれど、信男の視線はかたわらを駆け抜けて行く、もう一人の真っ白な映子を追いかけている。
「おい、こっちだ!」
映像の中から、大蔵が呼びかけた。信男の目は、白い映子の姿を追いかけている。
「ねえ、先輩。いつまでも、いっしょにいようよ」
スピーカーから、也実の声が聞こえる。白い映子は、ゆっくりとスローモーション映像のように駆けてゆく。
「わしらと映画作ろう。幻の名作をって約束したやないか」
柚夫が、手をさしのべる。立体映像のようにスクリーンから飛びだしている。白い映子は、信男のほうを見ようともしない。
「なあ、終わらない祭だぜ」
肇が、にやりと笑う。
白い映子が立ち止まる。そして信男は、ゆっくりと白い映子に向かって手を伸ばす。もう少しで触れる。そこで止まって、スクリーンをふりむく。
そこにも映子がいて、赤いくちびるをほころばせ、さそいかけるように笑っている。
白い映子は、彼に背を向けたまま。
「どちらにします」
孝太郎が静かに語りかけた。
「手の届かない夢と、あなたを捕えようとしている幻と。たった一つの『夢』という言葉にもたくさんの意味があります。幻は、現実でないということは、良くもあり悪くもあります。あなたは、どちらを選ぶのです、中川くん」
信男は、スクリーンを見ている。迷っている。
「あなたは、どんな夢をつむぐのです。彼らための、いつまでも繰り返される同じ夢ですか。楽しく映画を作って。それとも、映子さんのための、彼女がこうあればいいことを保証してあげるための夢ですか。それとも、自分のための…まだ出会わない誰かのためにつむぐ夢ですか?」
孝太郎は、答えを待った。
そして、信男が決断をくだすには、たいして時間はかからなかった。
泣きだしそうな顔で、信男は、ゆっくりとこうべをめぐらせる。
白い映子の後ろ姿に、手を伸ばす。
けれど、触れることができない。
彼女が逃げる。
信男の足が動いた。彼は追う。追いかける。どこまでも、いつまでも、どこまでも、いつまでも、いつまでも、どこまでも。
そして、スクリーンの中から黒いドレスの映子が抜けだして、信男に手をさしのべようとする……。
「あんたは嫌いよっ。あたしの男までっ!」
ミケが、それまでの自分をふりはらうために大きく叫び、そして逆立った彼女の毛が宙を貫いて飛んだ。必殺の毛針だ。他の妖怪《ようかい》たちの妖術に比べればたいした威力ではないが、ふつうの人間なら、致命傷を与えられるくらいの威力はある。
黒い服の映子が消えたのは、ミケの針が到達する前だったか同時だったか、それとも後だったか。どうにも見分けのつかないタイミングだった。
そして、白い映子も消えて。
信男が倒れた。
「生きてる……」
信男のかたわらにひざまづいていたミケが、顔をあげて言った。
「みんなに電話をかけないといけませんね。後始末が大変だ」
孝太郎が言った。
「そうだね」
ミケが答える。彼女は、魂をなくしたかのように、膝《ひざ》をかかえて座りこんでいる。
「死体をなんとかして、誰かに事故現場に戻してもらわなければいけませんし、黒井くんと小林さんにも、思いださないようにしていただかないと」
孝太郎が、平然とした声で言った。彼の後方、観客席に埋もれるようにして、一組の恋人たちが眠りこんでいる。
「ねえ、孝太郎さん?」
ミケが囁《ささや》くような声で言った。
「この人、本当にここにいたほうがよかったのかな。映画を撮る才能がもしなかったとしたら、あいつの創《つく》った幻の国で楽しく暮らせてたほうが、幸せだったかもしれないよ」
信男の額を撫《な》でながら、疲れきった表情でミケは言った。
「そんなこと知りませんよ、私は。私は観客ですから、わがままなんです」
孝太郎は、小さく肩をすくめた。
「私は、彼の映画をもういくつか、見てみたかったんです。だから、こっちにいてもらったんですよ」
そして、孝太郎は、こうつけくわえた。
「夢も幻も、影が生きてゆくためには必要なものなのです。忘れたのですか、ミケさん。夢だって幻だって、信じていればいつか命を持つのです……私たちのように」
「忘れてない。忘れない」
ミケは、最後に一度だけ肇のことを思いだしてやり、そして封じこんだ。後悔しても、幻を追いかけるだけだ。信男はともかく、ミケには似合わない。
現実は幻を求め、幻は現実に焦がれるものだから。
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妖怪ファイル
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[泥田坊]
人間の姿:老人。現在は職業に合わせて作業服を着、グラウンド整備用のトンボを持っている。
本来の姿:真っ黒で頭髪のない、顔の崩れた片目の老人。衣服は着ていない。
特殊能力:自分の守護する土地を自在に操る。
職業:現在はグラウンド整備員。
経歴:人々が、生活を守る神聖なる働きの場を粗末にすることを恐れ、そして、そうした人間に罰が下されることを願ったために生まれた。主に、田畑を粗末にした者のところに現われていたが、球団移転で取り壊されることになった隅田スタジアムを守るため、東京にやってきた。
好きなもの:働き者、仕事場への感謝を忘れない人。
弱点:特になし。
[なげて]
人間の姿:なし。
本来の姿:二メートルほどの太い腕。
特殊能力:何でもかんでも時速一五〇キロで投げることができる。
職業:なし。
経歴:やむなくマウンドを降りた投手たちの「まだ投げたい」という想いが作り出した。
好きなもの:野球のボール、「ストライク」のコール。
弱点:投げる以外、能がない。ホームプレートに向かってしか投げられない。ピッチャーズマウンドから決して降りられない。
[大岩三衣(蛇右《へびいし》)]
人間の姿:二十代半ばのショートカットの女性。
本来の姿:小さな耳のある細い黒蛇。
特殊能力:妖怪のオーラを感知する。とぐろを巻いて地面から土の塊りを呼び起こす。ひとを謎の病気にかからせる。
職業:看護婦。
経歴:西宮で昔、蛇を殺した祟りを取り除くために彫られた蛇石。
好きなもの:ギャンブル。イメチェン。
弱点:なめくじ。
[馬頭明王]
人間の婆:なし。
本来の姿:たくましい黒馬にまたがった憤怒の顔の武者。
特殊能力:馬と会話する。馬に憑依する。馬を呼び寄せたりコントロールしたりする。
職業:なし。
経歴:阪神競馬場で馬の安全祈願のために祭られていた。
好きなもの:馬。
弱点:ほこらから遠く離れることができない。
[|夢の女《ファタ・モルガーナ》]
人間の姿:目標の心に秘められた理想の女性の姿。
本来の姿:なし。
特殊能力:強烈な暗示能力。存在しないはずのものを見せたり、生死まで勘違いさせるが、もともと無生物である対象には効果がない。
職業:そのときどきで違う。
経歴:ヨーロッパ北部の、海上に浮かぶ蜃気楼にまつわる伝説から生まれた。
好きなもの:見果てぬ夢を抱いた男。
弱点:肉体的には脆弱。
[三池陽子(猫女)]
人間の姿:二十そこそこの、つりあがった目の、キュートな美人。愛称はミケ。
本来の姿:綺麗な三毛猫の毛皮に覆われた、半猫半人。
特殊能力:匂いで妖怪を嗅ぎ分ける。さかだった毛を飛ばして攻撃。影になれる。動物と会話できる。
職業:フリーター。
経歴:古代から連綿と続く獣人一族の末裔だが、人間の考える化け猫像にかなり影響を受けている。
好きなもの:面白いできごと。不思議なもの。
弱点:油を舐めないと力が出ない。またたびに酔っ払う。水に濡れると動きがにぶくなる。
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あとがき
こんばんは。
この『妖魔夜行』シリーズでは初めての登場になります。清松みゆきです。本当は、この企画の最初から参加が決まっていたのですが、『ソード・ワールド』やら『央華封神』やらにスケジュールをごりごり取られ、ずいぶん遅い登坂になってしまいました。
野球が好きです。幼い頃は、プロ野球選手を夢見ていました。まあ、小学生の時点で諦《あきら》めたんですが、それでも中学校までは野球部に籍を置き、ボールを追いかけてました。スライディングをミスって、足首折ったりもしたっけか。
ちなみに、公式戦成績は1打席1打数1三振。見事に、思い出の空振りの三振が一つってやつですな(笑)。でも、非公式戦なら左中間突破のツーベースで1打点ってのがあるんだい。
今でも、押し入れには野球のグローブがあります。ときどき、ひっぱり出してワックスを塗ったりしてね。もし、男の子が生まれたら一緒にキャッチボールを、などと思いつつ。えへへ。軟式ボールもちゃんと一つ。バットは……ありません。
実は、守備のほうが好きなんですよ。バッティングはどうもいけない。この間、久しぶりにバッティング・センターに行ってみたんですが、すっかりフォームを崩してまして。初めてバットを持ったド素人なみに、上体突っこみの手打ちになっちゃってました。何で、腰から回らないんだろう? おっかしいなあ。でもまあ、守備のほうなら、華麗とは言わずとも、一動作でゴロを捌《さば》いて送球する、ぐらいのことは今でもできるでしょう(身体《からだ》の左のゴロだけね。逆シングルは苦手なの)。現役時代(=中学生のころ)とは、立位体前屈が三〇センチ以上違うので、低めのゴロは少々不安ですが。
ピッチングは――まともに投手なんてやった経験はないですが――今でも、一〇〇キロなら出せるはず。三球で肩がいかれますが。
酒飲んで野球の話を始めると、こんな調子で止まらないのが、清松みゆきという人間です(別に今は酒は入ってないよ)。
好きなんですよねえ、野球。本棚には野球漫画がごろごろ並んでます。プロ野球の選手名鑑やレコード(=記録)ブックも毎年買っちゃうし。ホークスがふがいない負けかたすれば、一日不機嫌。
……と、何でこんな話をしているかと言いますと、今回収められた三編の物語は、いずれもこれに似た思い入れを持つ題材を作者が選んで持ってきたからです。
一編目は僕の作品、『ナイトメア・ゲーム』です。プロ野球を題材に、それが持ついろいろな問題点に絡めつつ語ってみました。コンディショニングを中心としたコーチの不備。理不尽なプロアマ協定。ときにファンの意向を無視して親会社どうしでかってに行なわれる球団売買と移転。球団の一部地域への集中。契約金の高騰。それから、これはプロ野球ではありませんが、勝てばよしとばかりに選手をかきあつめる一部の野球名門校の姿勢。
こうした、多くの人が修復を望みながら、あまりに複雑に入り組んでいるために遅々として解決が進まない混沌《こんとん》。その中で、純粋に野球を好きな人間たちが――選手に限らず、僕らのようなファンも――もがいている。この話に登場する野島敏彦というキャラクターは、そうした人間たちの代表です。
二編目『蹄《ひづめ》の守護者』は、グループSNEの才媛《さいえん》、拓植《つげ》めぐみの作品。彼女も『妖魔夜行』シリーズでは初登場ですね。実は、グループSNEには「競馬同好会」などというものがありまして、彼女はそこの主幹を務めています。わたしなぞ、「競馬のお姉さん」と呼んでおります(僕のほうがだいぶ年上だから、お姉さん呼ばわりは心外だろうな)。その彼女だからこその作品と言えましょう。
競馬というのも、思えば業の深い娯楽です。古くはテンポイント、最近ではライスシャワーやホクトベガ。幾多の名馬たちが、競走中の怪我《けが》で世を去っています。これは必然です。速く走る、そのためだけに血の淘汰《とうた》を行なってきたのがサラブレッドです。競馬を取り巻く人間たちは、わずかな血脈だけをより選んで子孫を残させ、ときには、インブリードという名前で故意に強い近親交配を行ない、種族としての強さよりも速さだけを追い求め、そして、それを肯定してきました。
結果として、全力で走っただけで脚を折ることがあり、それがそのまま死に繋がる。野生ではありえない生物を作ってしまいました。機会があれば、一度重種馬と呼ばれる大型の馬たち(荷馬や馬車を引く馬です)と、彼らサラブレッドの脚を見比べてみてください。どれほどの違いがあるかを。サラブレッドの脚がどれだけ不自然に細いものかを。
にもかかわらず、速く走るためだけに健康面で犠牲を強いられた彼らに、 thorough-bred' 「完全なる品種」などという名前をつけているのです、これほど傲慢な話もありません。
それでも、彼女は競馬が好きです(僕もですが)。走るときの筋肉の躍動。ビロードのごとき毛皮。涼やかな優しい目(ときどき、血走ってたり、三白眼なやつもいますが)。競馬に関わる者すべてが背負った原罪を束の間忘れさせてくれる彼らのひたむきさ。そうした彼らへの想い≠ェこの作品を形作っています。
トリを飾る三編目、もっともホラー色の強い『影と幻の宴』は、このシリーズの中心作家、友野詳のものです。
特撮マニアとして有名な彼ですが(笑)、中でも、B級(あるいはもっと下の)ホラー映画の話は、本当に嬉《うれ》しそうにしてくれます。「こんな馬鹿な映画がありましてん。何と、透明人間の殴りあい。ボコッ、ボコッゆうて、音が出るだけ。ときどき、クッション飛んだりしますけどな」「そんな、誰もが思いついて、誰もせんようなことを」「それを誰かやるのが映画ですやん」
むろん、彼が好きなのはB級ホラーだけではありません。ホラー映画もSF映画も、ファンタスティック・ムービーと呼ばれるジャンルは何でも無差別に好きなんですね。だから、B級(あるいは、それ以下)ホラーに出くわす量も半端じゃないわけで。『影と幻の宴』は、そうした幾多の映画への彼のオマージュであり、そして彼自身が演出するホラー作品でもあります。影、幻、夢といったものが持つあやふやさを、作品を作る人間を語るという手法が、さらに際立たせています。慄然《りつぜん》とするホラーでありながら、カタカタという映写機の音とともに、心のいろんな隙間《すきま》に何かが染み入ってくる。そんな不思議さを全編に漂わせた作品です。
そしてまた、彼自身が大学時代は8ミリ(フィルム)カメラを回し、自主映画を作っていたことも最後に教えておきましょう。
このように、今回の作品群は各作者のとっておきが表に出てきたものたちです。「これがおもしろくないとは言わせない」とばかりの、野球でいうなら、真っ向ど真ん中のストライク三つです。まあ、ストレートを投げているのは柘植だけで、友野のは大きなカーブかかってますが。
僕? 僕のはナチュラルにシュートしてます(笑)。
このへん、シェアード・ワールドならではの楽しさ、各作家の個性も満喫できる一冊になっています。
『妖魔夜行』において、妖怪《ようかい》は想い≠ェ実体を持ったものとされます。ですから、僕たちは小説という名の妖怪を、これからもどんどんと作り上げていくことになるでしょう。そうした想い≠ェ、みなさんにも伝われば幸いです。
そして、もし、みなさんがこうした想い≠自分も語りたいと思うのなら、是非RPG『ガーブス・妖魔夜行』を遊んでください。GMとプレイヤーの共同作業の中で(これ、忘れちゃだめよ。一人語りなら、小説なり漫画なり、そうした手法のほうが適切だからね)、あなたの想い≠ェ一つの形を持って成立するはずです。
一九九七年四月
[#地付き]投球予告:次の球は、フォークボールだぜ=@清松みゆき
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<初出>
第一話 ナイトメア・ゲーム 清松みゆき
「コンプRPG」95年12月号
第二話 蹄《ひづめ》の守護者 柘植めぐみ
「コンプRPG」96年2月号
第三話 影と幻の宴 友野 詳
書き下ろし
ブリッジ 柘植めぐみ
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底本
角川スニーカー文庫
シェアード・ワールド・ノベルズ
妖魔夜行《ようまやこう》 影《かげ》と幻《まぼろし》の宴《うたげ》
平成九年六月一日 初版発行
著者――清松《きよまつ》みゆき・柘植《つげ》めぐみ・友野《ともの》詳《しょう》