[#表紙(表紙.jpg)]
ビジネスマンの精神病棟
浅野 誠
目 次
第一話 ビワの花
【精神分裂病】システムエンジニア 三十三歳[#「システムエンジニア 三十三歳」はゴシック体]
第二話 マノン
【うつ病】薬品販売会社営業部次長 四十三歳[#「薬品販売会社営業部次長 四十三歳」はゴシック体]
第三話 胴長おじさん
【うつ病】エンジニアリング会社部長代理 四十三歳[#「エンジニアリング会社部長代理 四十三歳」はゴシック体]
第四話 おいらん草
【心因性妄想精神病】新聞記者 四十一歳[#「新聞記者 四十一歳」はゴシック体]
第五話 赤とんぼ
【うつ病】食品会社製造課長 五十四歳[#「食品会社製造課長 五十四歳」はゴシック体]
第六話 セールスマンの死
【覚醒剤精神病】フリー・セールスマン 三十四歳[#「フリー・セールスマン 三十四歳」はゴシック体]
第七話 故郷の祭り
【アルコール精神病】ビル管理会社役員 四十五歳[#「ビル管理会社役員 四十五歳」はゴシック体]
第八話 春一番が吹く頃
【躁病】鉄鋼会社研究開発部課長 四十歳[#「鉄鋼会社研究開発部課長 四十歳」はゴシック体]
第九話 部長代理の秘められた悩み
【不安神経症】証券会社部長代理 四十二歳[#「証券会社部長代理 四十二歳」はゴシック体]
第十話 革命家の生涯
【精神分裂病】労働組合執行委員 三十九歳[#「労働組合執行委員 三十九歳」はゴシック体]
第十一話 二代目
【心因性妄想精神病】飲食店チェーン副社長 四十歳[#「飲食店チェーン副社長 四十歳」はゴシック体]
第十二話 文明の病い
【強迫神経症】不動産会社元社長 四十九歳[#「不動産会社元社長 四十九歳」はゴシック体]
あとがき
文庫版あとがき
[#改ページ]
第一話 ビワの花
[精神分裂病][#「 精神分裂病 」はゴシック体]システムエンジニア◆三十三歳[#「システムエンジニア◆三十三歳」はゴシック体]
土曜日の午後、彼から私の勤務している病院に電話があった。私に診察して欲しい、という内容だったという。その日、私は知人の結婚式に出ていたので、電話があったことを聞いたのは月曜日の朝だった。
そのときすでに、彼は死んでいた。警察からの問い合わせで彼の自殺を知ったのは、その日の昼頃だった。田舎の実家の納屋で首を吊ったという。
私がもし、土曜日の午後に彼を診察していたならば、彼は死ななかっただろうか。むろん、わからない。ただ、彼のことを少しでも理解しようとした人間が彼の周囲に一人もいなかったという、とても単純な事実があった。
彼は三十三歳で、高校を卒業したあとコンピュータ会社に就職し、十五年勤務していた。妻と二人の子供がいた。おとなしくて、真面目で、コツコツと仕事をするが、華々しいところはなく、冗談もめったに言えなかった。
中肉中背で、四角い顔に度の強い眼鏡をかけ、頭はいつも刈りあげていた。彼は小さい頃から頭を刈りあげていたし、まったく髪形を変えなかった。眼鏡も厚手の淡い色のフレームに決めていて、眼鏡屋がメタルフレームなどを勧めても頑固に変えようとしなかった。つまり、セルフイメージを簡単に変えられない質だったのだ。だが、彼が暮らしていたのは、戦後日本というめまぐるしく変化する社会であった。
彼は関東地方南部の出身だった。ほんの二十分も車を走らせると海に出るが、彼の生まれた村は、低いけれど険しい峰に囲まれた谷あいにあった。家の田畑は小さかったが、温暖な気候のもとで野菜や果物や茶などを栽培し、経済的には豊かだった。
彼には弟が二人いた。少し生意気な程度で行儀のよい連中だったから、小さい頃から兄弟喧嘩はあまりしなかった。父親は子供たちよりもっと律義で、無口で、目立たなかった。祖母だけが輪郭が太く、ボケもせず、働き者で、腰が曲がっても一家の経済を握っていた。祖父は、彼が生まれる前に死んでいる。
母は、彼が小学生の頃に焼死した。自殺であった。
彼は裏のビワ畑から、母が死ぬのを見ていた。
母は海沿いの町から嫁いできた。商家の娘で山の生活には馴染めなかったし、ビワや茶畑は山の斜面にあって、平地の仕事よりはるかにきつい。もともと農作業は嫌いだった。
だが、なによりの脅威は姑であった。なりは小さいが骨は太く、声も大きい。朝の五時には起きて仕事を始める。母は朝早く起きることがまったくできず、夜はなかなか眠れない質であった。母は祖母を恐れ、ときどき寝込んでしまい、しばしば実家に戻された。
母は子供を産むたびに寝込んでいたから、彼の弟たちは祖母が育てたようなものだった。だが母は、少なくとも彼だけはよく育てた。邪険にしたりもしたが、特別にかわいがりもした。
末の弟を産んでから、母の寝込む頻度は増した。しかし母の両親もその頃にはすでに亡く、里にも戻れなくなっていた。母は寝込むばかりでなく、次第に苛立ちやすく、不機嫌で、夫や子供たちに当たり散らすようになった。夫も子供も彼女の前では折れていたが、姑とは激しい争いになった。
村にはときどき猿の群れがやってきた。エサをあさり、いろいろな悪さをする。家の中に侵入し、野菜をかすめ取っていくこともある。
母は、猿が家の周辺にいるというだけで怯えてしまう女である。まして、家の中に入ってくることなど我慢できなかった。太っ腹の祖母は平気で戸や窓を開け放っておくが、母は閉めねば気がすまなかった。しかし、それでも猿は、突然やってくる。こんなことも、祖母と母との対立をより深刻にしていった。
母はいつしか、奥まった寝室に閉じこもりがちになっていった。
彼が小学校三年生の初冬の頃であった。猿が納屋に入り、灯油の容器をひっくり返した。蓋がはずれ、あたりは油だらけになった。父が不在だったので、祖母が母に厳しく掃除を言いつけた。
母はそのときも腹痛を訴えて寝込んでいたが、戸を開けておいた姑を激しく罵った。むろん姑は、何もしねえくせに生意気言うな、と応じた。納屋の周囲や屋根の上で、猿が激しく騒いでいた。
彼はそのとき、ビワ畑でひとり遊んでいた。十一月。寒い季節だが、この頃にビワは、白い花をつける。とても地味な花だが、彼は好きだった。
納屋の方に火の手があがった。そのすぐあと、納屋から誰かが飛び出してきて倒れた。すでに身体は火に包まれている。母に違いない。彼には一瞬にして、それがわかった。
母は全身に火傷を負って死んだ。ただ、突っ伏した状態だったから、顔はあまり焼けずにすんだ。
彼は、母の死顔を美しいと思った。ビワの花のように、白く、淡く、ひそやかであった。
彼は小学校のときも中学校のときも、おとなしい男で通っていた。表情にも変化が乏しかったので、一見何も感じていないように思われていたが、かなり敏感な子供だった。教師が他の生徒を叱っているときでも、まるで自分が叱られているような気分になるのだ。そして、なおいっそう行儀よく振る舞おうと思うのである。彼は、叱られるのを恐れていた。傷つきやすい魂の持ち主だったのだ。
しかしその半面、彼は責任感の強い男でもあった。長男だからしっかりしていなくてはならない、周囲に混乱が生じたら身を挺してでも収めねばならない、と思っていた。
祖母と母が言い争っているとき、彼は持っている茶碗をわざと床に落としたりした。そうすることで、祖母の怒りを自分に向け、母をかばおうとしたのである。
長じても、彼はこのような振る舞いを時にしていた。しかし、はっきりと事態に介入し、自らの意見を主張してその場を収めてしまうような積極さはなかった。それは母鳥が雛をキツネから守るとき、自分に注意を引きつけるべくビッコをひくのに似ている。それは、弱い生き物の取る手段であった。
高校時代も、彼は目立たなかった。成績も中位で、可もなく不可もなかった。友人はかなりいたが、たいていは向こうからやってきて自分の言いたいことをさんざんしゃべり散らすような連中ばかりだった。彼は常に聞き役で、友人たちは、一人ではやりにくいようなことを試みるときにだけ、彼を誘った。たとえば、他の学校の女子生徒に声をかけるときなどである。
むろん、その女子生徒との交際が始まると、友人はすっかり彼のことを忘れてしまった。同級生たちは、卒業したあとほとんど彼のことを思い出さなかった。
彼は卒業すると、日本では最大手のコンピュータ会社に入社し、システムエンジニアリングの仕事に回された。
高度化する一方のハードウエアを使い切るためのソフトをつくるシステムエンジニアリングは、まったくの手作業である。これに従事する者たちは資格を問われず、男女の別も問われないが、柔軟な発想と豊かな創造力を有していなくては仕事はできないという。そのためか、システムエンジニアは三十歳までの仕事ともいわれ、三十歳を過ぎた者たちのその後は、コンピュータ会社が抱える大きな人事問題にもなりつつあるという。彼はそんな中の一人として、仕事を始めたのだ。
ソフトの作製には期限がある。だから、期限が近づくと深夜までの作業が何日も続く。しかも、まったく孤独な作業だ。このような職場を、精神医学的にはどのように考えるべきだろうか。
たぶん、ある種の人々にとっては、そこはそれほど悪い場所ではないだろう。むしろ他者からの干渉がほとんどなく、自分一人だけで行なう手作業は、孤独で敏感な魂には生きやすい環境なのかもしれない。しかしその仕事から離れざるを得なくなったとき、孤独に慣れた者たちは、他者との協調を必要とする世界にすんなりとは戻り得ないのではないだろうか。
彼は順調に仕事をこなしていた。相変わらず彼女もいないし、これといった友人もなく、酒もめったに飲まず、麻雀もやらない。休みの日はほとんど寮で寝ていて、夕方、パチンコ屋に行くのが唯一の楽しみであった。もちろん彼女は欲しかったが、どうやって見つければよいのかわからなかった。
十年経った。その頃、会社はシステムエンジニアリング部門を地方に分散することを計画していた。一万人近いエンジニアを各地方につくった百くらいの小さな会社に配属しようというのである。東京周辺の地価の高い土地に人材を集めるより、若者たちの出身地で雇用する方が新たな人材確保にも有利だというのが、戦略的な理由でもあった。もちろん、会社が小さな方が管理が行き届き、小回りもきく。彼も、生家に近い町につくられた五十人くらいの子会社に配属になった。このとき彼は、カスタム・エンジニアリング部門に配置替えになっている。彼がつくるソフトがわかりにくいものになってきていたせいでもあったようだった。
会社が小さくなったことと部署が替わったことで、管理職からの監視もかなり厳しくなった。ハードウエアの勉強もしなくてはならない。彼は、自分の人生が少し困難になりつつあるのを感じはじめた。
四十歳くらいの課長がいた。もっとも入学するのが困難といわれる大学のひとつを卒業した男で、頭がよくやり手であった。しかし、人を食ったような態度を誰に対しても取るし、口が悪く、短気だった。そのために、本来ならエリートコースに乗るような男だったにもかかわらず、子会社の課長に回されていたのである。課長は自らの不遇を恨んでいた。だから、さらに短気で攻撃的になっていた。
頭が切れる攻撃的な人間は、批評家としてすぐれている。課長は、部下のミスを発見することにかけては天才的だった。
部下は絶えず、課長の前で緊張を強いられることになった。ただでさえ敏感な彼は、人の何倍も緊張していた。
課長は、「自分は毎日十のミスに気づいているが、一つのミスしか注意していない」と、部下の前でよく言った。だがこのとき、課長は自分が有している感情の量については気づいていない。課長は十のミスに気づき、十の怒りを感じていた。そして、十の怒りを合わせて一つのミスについて怒鳴るのだ。他の社員が怒鳴られているときでも、彼は怯えを感じるようになった。
彼は次第に人生が暗くなってゆくように感じていた。同時に、無性に結婚したくもなっていた。辛い境遇は人を結婚に駆り立てる。彼も、やさしい女に包まれたかったのだ。
彼がある会社のオフィスにコンピュータの点検に行ったとき、陽気な娘がいた。いつも女の前では緊張して黙りこくってしまう彼に、屈託なく話しかけてきた。小柄で、髪が長くて、グラマーだった。彼女の陽気でなれなれしく積極的な態度は、彼の緊張の壁をやすやすと崩してしまった。彼は今まで、女から声をかけられたことなど一度もなかったのだ。だから、彼はたちまち一途な恋に陥った。
彼は一流企業の社員である。真面目だし、熱心に求愛してくる。すこし尻軽で気まぐれで飽きやすい娘も、ついに結婚に同意した。
結婚後しばらくして、彼は妻に聞いた。実家に住んで農業をしてもいいかと。妻はにべもなく反対した。実家に住むなら離婚するとわめいた。彼はそれきり、この話題を妻には持ち出さなくなった。
課長は相変わらず機嫌が悪い。とくに朝は悪く、必ず出勤直後に文句を言う。午後には機嫌が直り、夕方はおどけたりする。一日のうちに気分が変動するのだ。また、いったん思いつくと、ただちにそれを実行しないと気がすまない質であった。実行力があるというより、短気で待てない性格なのである。
彼はストレスを飲み込んでしまうことで、平静を保つタイプの男である。課長はストレスをスピットアウト(吐き出す)して平静を保つ人間だった。課長から吐き出されたストレスを、彼が飲み込んでいたのである。しかし、飲み込んだストレスはどこへ行くのだろうか。
娘が生まれた。
彼は普通の父親と同じように、特別な感情を持って娘を愛した。陽気だと思っていた妻は、実は気分にむらがあり、子供が夜泣きなどするとはなはだ邪険になった。彼は妻の代わりに飛び起きて、娘を抱いてあやした。
妻はかなりの浪費家でもあった。人はいいのだが外聞を気にし、派手好みなのだ。高いアパートを借りていたから、彼の給料では、ときどき赤字になるのを避けられなかった。
そんなとき、妻はさしたる相談もなく、彼の実家の父親に経済的援助を要求した。子供の出産の費用や車を買い替えるときなどにすでにかなりの額の援助を受けていたのだが、日常の生活費の定期的補填となると、さすがに父親も難色を示しはじめた。まだ頭がはっきりしていて、実家の経済を握っている祖母はなおさらであった。実家があまり金を出さないとなると、妻は彼にもっと稼ぐように言うのだった。
彼は、そんなわがままな妻を愛していた。だから、妻のいいなりであった。もともといやとは言えない質だったし、妻はどこか邪険だが、彼を愛してくれた母にも似ていた。
彼は率先して残業をやり、他の社員のやりたがらない遠くの事業所のコンピュータの点検に朝早く出かけたりするようになった。銀行などのコンピュータの点検は、開店前に行なうのが普通である。だから四時起きということも珍しくはなかった。睡眠時間は次第に短くなっていった。ほとんど四時間程度であったろう。
必要睡眠時間には個人差がある。短くても平気な人もいるといわれているが、彼のような敏感で内向的な人々は、睡眠を長く必要とするのだ。結婚して以来彼は、慢性的な睡眠不足が続いていた。
結婚して四年経った。妻は二人目の子供を身ごもっていた。
夏から秋にかけて、長い雨が降っていた。関東南部の雨量は少なくない。とくにその年は、梅雨時からずっと雨が多かった。
三日に及ぶ長い雨ののち、実家の裏山が崩れた。死んだ者はいなかったが、ビワ畑が土砂のためにほとんど潰れてしまった。
片付けを手伝いに実家に戻ったとき、ビワ山の惨状を見て、彼は茫然となってしまった。
子供の頃、彼はビワ畑でひとり遊ぶ孤独な少年だった。ビワ畑からは谷あいが一望できたし、畑の上まで行けば、遠くに光る海を見ることもできた。町で暮らすようになってからも、疲れ果てた夕暮、不意にビワ山の懐かしい思い出がよみがえってくることがあった。初夏の強い日差しの下で祖母に隠れながらビワを食べた思い出。そして初冬、白いビワの花が咲く頃……。
ビワはバラ科の植物である。花は淡い芳香を放つ。彼は、ビワの花の香に似た匂いを嗅ぐと不快な胸騒ぎがした。しかし、まったくといっていいほど、母の死に際を思い出すことはなかった。
ビワ山でひとり泣いている夢をよく見た。だが、その夢にも母は出てこなかった。だがビワ山が崩れたと聞いたとき、彼の脳裏に、母の死にゆく様がまるで昨日の出来事のように、ありありと浮かんできたのである。
彼は疲れていた。そんなときに、ビワ山が崩れた。それは彼の気持ちを支えてきた大きな柱の一本が折れたような、そんな絶望感をもたらした。実際、その崩壊は壊滅的で、実家のいちばん大きな現金収入の手段が消えてしまったのである。これからは実家の経済的援助も期待できなくなった。
彼は焦りはじめた。
ときどき悪夢を見るようになった。具体的な内容はわからなかったが、夢の中で時に彼は激しく怒り、時に恐怖に怯えていた。それは、夢の中だけではなかった。
しばしば昔のことが思い出されるようになった。それもほんのごく些細な失敗で恥ずかしい思いをしたことや、教師や友人が彼を非難したり、馬鹿にするような態度を取ったりしたことなどであった。そんなとき、突き上げてくるような怒りや不安が彼の心に広がった。そして、自分の精神がまさに解体せんとしているような、いい知れぬ恐怖がわき起こってきた。
彼の心の奥底には、怒りや悲しみが澱のように厚く沈んでいる。外部から加わるさまざまな刺激は、彼の心をかき乱し、澱を心の表面へ舞い上げるのだ。
会社は管理職試験を行なっていた。彼はこれまで二度試験を受けたが、落ちていた。試験には、マーケティングや経営や金融などについての幅広い問題が出題された。そもそも彼はそういったことについての基礎的な教育を受けたことがなかったから、合格の見込みはとうていなかったのだ。しかし、合格しなければ永久にヒラである。
妻は、早く課長になるように彼を叱咤する。二人目の子供が生まれたら、もっと金がかかることになる。彼の焦りは少しずつ加速していった。疲れていても、寝つきは悪くなるばかりだった。
彼はときどき、コンピュータの複雑な命令手順書の理解に手間取るようになった。命令手順書はつくった本人以外にはなかなかわからないことがあるというが、機械の点検をするときには、どうしても理解しておかなければならないことも当然ある。彼は少し集中力が落ちていた。仕事をせかされたときなど、なおのことわけがわからなくなってしまうのだ。頭の中が真っ白になって、何ひとつ思い浮かばない状態になってしまうのである。五年越しで居座っている課長は、そんな彼に激しい叱責を向けるようになった。
課長の叱責は反論の余地がなかった。その場面では、確かに正しい指摘を含んでいるからだ。しかしこちらのミスを過たず突いてくる叱責ほど、自尊心を傷つけるものはない。
課長は、頭の回転速度、知識、気力のすべてにおいて彼に勝っていた。そして五年も彼の上に君臨し、彼を脅かし続けてきた。課長が何を言っても、彼にとっては叱責と感じられるようになっていた。課長の前で、彼は怯えたうさぎのようになっていた。
男の子が生まれた。いろいろと物入りだったので、会社から借金せざるを得なくなった。
妻は子供が生まれると、さらに不機嫌になった。しかし彼はまだ妻を愛していたし、生まれたばかりの子供を夜中にあやしてもいた。だが、彼の頭の中は大きく混乱しはじめていたのだ。
このとき、故郷の猿のいる谷あいに戻り、ビワ畑の上から海でも眺めて暮らせたら、たぶん彼は、病気にならずにすんだかもしれない。しかし、どうして故郷に戻れようか。しかも、あの懐かしい海の見えるビワ畑は、もはやないのだ。
彼のアパートの前に新築マンションができた。すでに建築の途中から、妻はマンションを買いたいと漏らしていた。瀟洒でメルヘンチックなマンションができあがり、モデルルームが公開されると、さっそく見にいった。そしてますますマンションに住みたいと言いだした。彼のことを、甲斐性がないと言って罵るのである。
そろそろ管理職昇進試験が近づいていた。眠れぬ夜を過ごした朝、彼はふたたび試験にチャレンジすることを決めた。
思えば、課長は自分を馬鹿扱いである。もうこの先、課長に馬鹿にされ続けるのは耐えられない。試験に合格して自分が課長になるしかない。そうすれば給料も上がるしマンションも買えるだろう。妻も、もう少し自分を尊敬してくれるに違いない。
だがそのとき、試験まであと一カ月ほどしかなかった。いったいいつ勉強するのだ。
ナポレオンが一日三時間しか寝なかったのなら、自分も三時間の睡眠で頑張れないわけはない。彼はそう考えた。そして夜眠らずに勉強を始めたとき、すでに彼の現実的判断力は失われつつあったのだ。
試験の三日くらい前から、ときどき彼は独り言を言うようになった。同僚たちはいぶかしげに、また薄気味悪げに彼を見るようになった。仕事はこのところ、著しく遅くなっている。最後までやりはしたが、どうでもいいことに何時間も費やしていた。課長はたびたびの注意にもかかわらず彼の仕事ぶりがまったく改まらないため、ついに注意することをやめた。効果がないことが課長にもわかったからだ。
試験の最中も、彼は何かぶつぶつ言いながら答案用紙を見ていた。そして名前以外、何も書かなかった。白紙で答案を出したのであった。
試験の前の三日間、彼はほとんど眠っていなかった。その前の一カ月間は、一日数時間しか眠っていなかった。彼の頭の中は、答案と同じように真っ白で、何も浮かばなくなっていた。
試験の終わり頃、試験官の一人が彼の挙動がおかしいことに気づいた。彼は真っ白な紙に向かって、何度も何度も同じことを呟いていた。
「全面解除。オール解除。ストップ」
彼は会社を休職し、私のいる病院に入院した。二カ月ほど入院して落ち着いたが、まだ長い休養が必要だった。長期にわたって蓄積されてきた精神の疲労が、彼の精神構造を解体せしめてしまったのだ。ふたたびもとのかたちに戻すためには、充分な疲労の回復が不可欠なのである。
妻は夫が精神病になったことに、露骨に不安を示した。この男と結婚したのはとんでもない失敗だったといわんばかりであった。きちんと休めばふたたび仕事ができるようになると説明してようやく落ち着きを取り戻したが、一家四人で夫の実家に行くことは頑に拒否した。山姥のような祖母と猿のいる谷あいなど嫌だというのである。そのうえ、子供二人を育てるのがやっとで、夫の世話まではできないと言い張った。結局、彼は一人で実家に戻り、地元の病院に通うことになった。
彼はこのとき、すこぶる悲しげな表情をしていた。故郷に戻っても、彼の心を暖めてくれる者はいないのだ。
父はすでに化石のようになっており、ひと言もしゃべらなかった。祖母は相変わらず、人の話などはまったく聞かなかった。
母の死後、彼は自分を包み込むやさしい愛を求めてひたすら努力してきたのではなかったか。そしてようやくの思いで妻を得、かわいい子供を得た。彼は真面目に働き、それなりに給料を得ていた。彼は立派にやってきていたのだ。
しかし、彼の周囲はなおも、彼に働くことを求めた。文明に限りなく毒された者たちは、なお苛酷に、彼に先へと進むことを迫ったのである。
彼が心を病んだとき、やっとつかんだ愛は逃げてゆこうとしていた。
彼は実家から三カ月ほど地元の病院に通院して、妻子のいるアパートに戻った。通院はそのまま中断してしまった。彼はすぐ復職した。
休んだために給料はかなり減額されていたが、妻は家計についての考えを改めようとはしなかった。ふたたび実家に生活費を求め、無口な父親も愚痴をこぼした。彼ももう、実家に戻ってのんびりするわけにはいかなくなった。
平生から気持ちに不安定なところのある妻は、知人の紹介で、ある占い師のところに通うようになった。もろもろの相談を、その占い師にするようになったのである。占い師は、病院に通い続けなくても夫の病気は治ると教えた。そして、中国古来の術なるものを彼に施した。その術に効果があったためか、その後彼は、まったく病院に通うことなく勤務を続けることができるようになった。
課長もしばらくは、彼に気を遣っていた。妻もしばらくはやさしかったが、三カ月もすると、ふたたび彼に依存するようになっていった。
彼はまた、かつてのように残業を始めた。課長もときどき文句を言うようになった。要するに、病気になる前と何ひとつ変わらない生活に戻ったのだ。
無理をしてはならないことや、規則的な生活を送るように医者から教えられてはいたが、いつのまにか現実的な要請の前に打ち負かされていった。眠れない日々が始まった。
課長は相変わらず、朝は怒鳴り、夕方になるとおどけていた。彼は課長の顔を見るのがたまらなく嫌だった。会社を辞めたいと思った。しかし妻は承知しないだろう。二人の子供はまだ幼い。
彼はふたたび追い詰められていった。
精神が病むということは、心がオーバーヒートしたということだともいえる。だから治療と休息によって、病気はよくなってゆく。しかし、オーバーヒートがもたらした心の火傷の跡は、簡単には消えない。火傷は治ったが、瘢痕は残るということだ。瘢痕は他の皮膚より弱く、消えてゆくのに長い時間がかかる。そしてふたたび瘢痕に刺激が加われば、前よりも容易に出血する。彼がその後、無造作に同じストレス下に戻ったためにふたたび発病したとしても、不思議ではなかった。
自分のストレスを他者を攻撃することで発散するタイプの上司では、部下はやりきれない。自分勝手な要求だけを押しつけ、夫の立場でものを考えたことのない妻を持つのも辛い。そして自分自身の怒りや悲しみに共感してくれる者が一人もいないとしたら……。
彼は次第に気分が落ち込み、何もかも嫌になりはじめていた。元気のいいときは何でもなかったことが、今では精いっぱいの努力を必要とするようになった。ガス欠を起こした車が平坦な道でも数メートルと進めないように、どんなに頑張っても、彼はこれ以上一歩も先へは進めなかった。毎晩悪夢が襲い、食欲はまったくなくなった。そして、すべてに漠然とした恐怖を感じはじめた。
ある月曜日、ついに彼は会社を休んだ。死にたかった。あんなにかわいかった子供が煩わしく感じられてならなかった。
妻は彼を車に乗せて実家に行くと、父親に病院に通わせるように言って、彼を置いて帰っていった。しかし彼は地元の病院に通わず、昔、母がよく寝ていた奥の部屋で一カ月も伏せっていた。
ある日、彼は不意に、妻が浮気をしているのではないかと考えはじめた。
人は、自分の顔を自分で見ることができないのと同じように、自分の心を自分で見ることは困難なのだ。しかも、心を映す鏡はない。人は他者の自分に対する反応の中から、間接的に自分の心の輪郭を知ることができるだけである。
ひとりで引きこもれば、自分の考えの是非を検証する他者の反応は失われてしまう。検証を受けない考えは、彼の心の中の不安や恐怖や悲しみだけに動かされて、頭の中を巡りはじめる。すなわち、妄想となってゆく。
彼が病気になって以来、妻は彼とのセックスを好まなくなっていた。妻は、彼が好きではなくなっていたのだ。彼がふたたび落ち込んでいったのは、彼の求めを妻が何度も拒絶したためでもあった。やさしい愛を求めていた彼にとって、それは辛すぎる仕打ちであった。心が混乱に陥りはじめた彼が、妻の浮気を疑い出したとしても、不思議なことではあるまい。
彼は妻の浮気の相手が、あの占い師だと思った。そう思ったとき、彼はにわかに起き上がり、妻子のいるアパートに向かった。
妻は予告もなしに不意に夫が戻ってきたことに機嫌を損ね、冷たかった。よく見れば夫の眼は血走り、形相は硬く、怒りを発している。それでも妻は、夫に実家に帰るように強く求めた。
彼は妻を殴らなかった。その昔、母がいかに邪険であっても、黙って耐えたように。
妻は病気を治してから戻ってくるように言い続けた。彼は実家の近くの病院ではなく、私のいる病院にかかりたいと言った。妻子のそばにいたいのだ。そして彼は、私のいる病院に電話で受診を求めてきたのだった。
妻はそのことを無視して、実家の父を呼んだ。
翌日、彼は父親に連れられて実家に戻っていった。日曜日だった。父は月曜日に、地元の精神科に彼を受診させるつもりでいた。しかし月曜日の朝、彼が納屋で縊死したので、その必要はなくなった。
十一月十三日、ビワの花の咲く頃であった。
[#改ページ]
第二話 マノン
[うつ病][#「 うつ病 」はゴシック体]薬品販売会社営業部次長◆四十三歳[#「薬品販売会社営業部次長◆四十三歳」はゴシック体]
大手薬品販売会社の営業部次長が冷汗をかき、四肢をこわばらせ、涙を流しながら、担ぎ込まれてきた。駅のホームで倒れ、内科に運ばれたが神経的なものだと言われ、私のいる病院に回されてきたのだ。一見して、不安発作とわかる。四肢のしびれは、早い呼吸による酸素の吸いすぎによるものだ。
彼はうわごとのように言った。
「兄さん、兄さん、助けてくれ……」
「落ち着いてください。死ぬようなことはありませんよ」
「女房が、女房が」
「奥さんがどうかしましたか?」
「兄さん、兄さんを呼んでくれ」
「奥さんに何かあったんですか?」
「兄を先に呼んでくれ」
とにかく、妻より先に兄を呼んでくれというのである。私は一応、彼の言うとおりに兄を呼んだ。
兄はすぐにやってきた。彼よりずっと背が高く、雰囲気も堂々としていて立派である。彼は兄に、泣き虫の少年のように言った。
「あいつが浮気しているよ。どうしよう」
「大丈夫。しっかりしろ」
兄は、父親のように答えた。
妻の浮気だけでこのようなパニックを起こすというのは、やや過剰な反応である。普通はもう少しいろいろな問題が隠されているのだが、兄も最近のことはよくわからなかった。「小さい頃から気の小さなやつで」と繰り返すばかりであった。
法的には妻が彼の保護義務者となるため、妻に連絡をとった。
予想よりかなり遅れて、処置室の窓の外に赤いスポーツカーが停まった。外を見ていた兄が言った。
「あれが女房の車ですよ」
「奥さん専用の?」
「妙に勘のいい女で、株で稼いで買ったと聞いてます」
「株で?」
二人の男が見守る中で、まるで映画のワンシーンのように、彼の妻は車を降りた。紺色のツーピースに白いスカーフをまき、とてもスマートだ。冬なのにコートは着ていない。
「お年はいくつぐらいですか」
「三十七、八じゃないかな」
「とてもそんな歳には見えませんね」
「女房が美人すぎるのも困ったものだ」
「本当に浮気しているんですかね」
「子育てなんかはよくやってるようだが」
彼の妻は遠くで見るだけでなく、近くで見ても美人だった。ただ、整った顔ではない。かなり異質なものがきわどくバランスを保っているような、怪しげな魅力があった。これでホテルのバー・カウンターにでも座っていたら、男たちのおごりでカクテル・グラスがずらりと並ぶだろうと思われた。
彼は精神安定剤の注射でうとうとしはじめている。彼女はとても落ち着いている。私はゆっくりと、彼について聞いてみた。
「奥さんが浮気をしていると彼は言ってます」
「お酒の飲み過ぎで頭がへんになったんじゃないですか」
「そんなに飲みますか」
「五合ぐらいすぐ飲んでしまいます」
「日本酒?」
「ビールと日本酒ですね」
「いつ頃からそんなに飲むようになったんですか?」
「四月頃でしょうか。前からよく飲みましたけど」
彼女はどこまでもクールだった。
アルコールを大量に飲む者は、しばしば妻が浮気していると思い込むことがある。本当に浮気している場合もあるし、妄想である場合もある。どちらであるかをはっきりさせることは、通常かなり困難であるが、どちらであるにしろ、夫婦間はうまくいってない。またこういう場合、男は妻に依存的で女がしっかり者というパターンもよく見られる。
とにかく、男の酒の飲み方は尋常ではなく、その妻も尋常な女とは見えなかった。
その日の夕方、兄と妻に付き添われ、彼は帰っていった。
前年の三月まで、彼は毎朝六時に起き、三十分ジョギングをしてから朝食をとり、妻に車を運転させて二十キロ先の営業所に出社していた。その頃彼は、県北西部に販売網を持つ薬品販売会社の営業所長だった。彼の営業所は医薬品だけでなく、化粧品や工業製品など、何でも扱っていた。
彼はとてもやり手で、所長になって三年目で営業所の売り上げ成績を一位に押し上げ、それから五年続けて一位の座を守った。頭がよく切れ、自信に満ちていて、相手を見下すような感じを与えたために、誰も彼のやることに文句を言わなかったし、あまりに辣腕を振るったので、本社の方でも彼の異動をつい先送りしていた。ひとつの場所に七年もいるという、異例の所長であった。
彼は四十三歳で、妻と二人の子供の四人暮らしだ。父親がその土地の名士だったので、次男ではあったが立派な家も借金なしで持っていたし、それ以外にもマンションなどを所有し、人に貸していた。給料以外にも、かなりの定収入があったのである。
おまけに、所長というのはずいぶんとよい身分だった。自分で決裁できるから経費で遊ぶこともできるし、自由に職場を抜け出すこともできた。売り上げ一位を維持していたから本社の監査も甘く、毎晩のような飲み屋の支払いも日曜日のゴルフも、すべて経費で支払っていた。彼が身につけているのは、すべて高価な外国ブランドばかりだった。キザでおしゃれなのだ。
だが、少しばかりやりすぎではなかったか。
所長を七年やったあと、彼は前年の四月に本社の営業部次長に昇進した。
本社の方が家に近いから、朝もゆっくりできる。だが彼は、相変わらず妻の運転で会社まで通っていた。変わったのは、会社の帰りに一杯やることがなくなったことである。経費を含めたさまざまな決裁は上司である部長が行なうし、今まで顎で使っていた営業マンたちもいないから、資料集めから自分でやらねばならなかった。むろん好きなときに外出はできないし、経費でのゴルフも不可能となった。仕事がハードになったというより、気を遣うことが増えたのである。
彼が転勤した頃、親会社として会社の全株式を所有している製薬会社から、若い社長がきていた。社長はつねに親会社から出向してくるのだが、退職間際の重役などではなく、若くてバリバリのエースが送り込まれてきて、五年もすると異動してしまうのである。
今の社長は、彼より二つ年下であった。若くてやる気まんまんなので、いろいろなことを思いつく。年配者のように、少し企画を寝かせておいて、もう一度考え直す、などといったことをしない。いささか実情に合わない指示も多いのだが、すぐにやらないと機嫌が悪い。その実施の段取りを彼がやらねばならないので、気疲れするのだ。
七月を過ぎた頃になると、彼は少し自分がいらいらしていることに気づきはじめた。自分が疲れ果てて家に帰っても、おかえりなさいのひと言もない。食卓に座ったところで、お茶やビールが出てくるわけでもない。妻は、彼が言ったときだけはやるが、自発的には何もしてくれない。
ある暑い日、販売キャンペーンの激励に社長と営業所回りをやった。社長は彼に言った。
「君のとこのかみさんはえらい美人やないか」
社長は関西人なのだ。
「ゴルフやってるんやね。この間、Aカントリーに営業部長と行ったときに、あんたのかみさんに会《お》うたよ」
営業部長が、彼の妻を知っていたのである。
妻がゴルフを始めたのは六年くらい前であった。何事もこつこつやるタイプだから、今ではかなりの腕前になっているはずだ。
「妻に会ったのはいつですか?」
「二週間前の金曜日かな。楽しくやってたみたいやから声はかけんかったがね」
平日、妻がコースに出ているのは知っていたが、誰とプレイしているのかはあまり深く考えなかった。彼は胸騒ぎがしたが、あえて聞き返さなかった。社長の方が年下で、下手に出るのに抵抗があったからだ。レディスゴルフクラブの会員になったと言っていたから、女だけでやっていたのだろう。
彼はこの日暑い思いをして、社長との緊張した一日を終えて家に帰った。
以前とはちがってずいぶん早く帰っているのに、テーブルの上には何も用意されていない。冷蔵庫を開けたが、ビールもなかった。
彼は本を読んでいる妻に近づくと、本を取り上げて投げ捨てた。妻はいつも本を読んでいた。
「ビールぐらい用意しとけ。ゴルフなんかやってる暇があるならできるだろう」
彼は、妻がこの剣幕でへこたれるだろうと予想していた。いや、そうに決まっている。なぜなら、彼は毎日苦労を重ねているし、給料だって彼が持ってくるのだ。
妻は驚いた様子だったが、ふだんもあまり感情を表に出さない顔をさらに硬くして、彼の次の攻撃に備えていた。むろん、次の攻撃に対して反撃するつもりだとはっきり示す顔つきである。
彼は妻の顔を見つめ、それがどこか奇異であることにいまさらながら気づいた。才槌頭だが鼻や口や耳はむしろ小づくりで、眼だけが大きかった。顔は玉子形の輪郭をしているが、どこかいびつである。しかし、そのすべてが微妙なバランスを保ち、きわめて印象的な顔なのだ。男は、いちど見たら忘れないだろう。
彼は妻が一向にへこたれる様子がないのに気圧されてしまった。「私は悪くない、あんたが悪い」と、妻の眼は語っていた。何か自分の方にまずいことがあったのか? 彼はまだ、妻を愛していた。
彼が一目で好きになった恋女房だ。クールで、感情をあまりあらわにしない。どこか、今でも謎めいたところのある女である。決められた家事はちゃんとやってのけるし、毎日、暇があると本を読んでいる。
彼は今になって気づきはじめていた。どうも尋常な女ではなさそうだ、と。
秋になった。
彼はもはや、朝のジョギングをやめてしまった。朝、布団から出ることができないのだ。頭が重いし、食欲も落ちていた。寝つきが悪くなったくせに、朝四時頃には目が覚めてしまう。
そんな彼に、妻は心配の気持ちを示す言葉のひとつもかけない。よく考えると、まったくよそよそしいのだ。
結婚した頃はこれほどではなかった。怠けるわけでもなく、彼にこまめに気を遣ってくれていた。いつからだろう。なんと、それすらよくわからないのだ。
営業所にいた頃、彼はすさまじく仕事をする男であった。帰りが十一時、十二時になることもざらだった。日曜日も、接待ゴルフなどで出かけていった。家庭のことはすべて妻に任せていると、彼はむしろ、誇らしげに思っていた。
ただ、結婚して五年ほど経ったとき、妻が宅地建物取引主任の資格を取ったことに驚かされた。いったいいつそんな資格を取ったのだろう。妻がコツコツとよく勉強する質であることは知っていたが、果たして、彼に妻のすべてが見えていたかとなると、かなり怪しかった。
結婚して十年目、小学生の長男が登校を渋ったことがあった。妻はこのことで、彼に相談を持ちかけた。
彼は当時、営業所の所長になったばかりで、子供のことを考える余裕などなかった。逆に、子供の育て方が悪いと妻を叱った。
妻はそのとき、意外な激しさで吐き捨てるように言った。
「息子はいじめられるから学校へ行かないというし、父親は何の頼りにもならないし、これだから男はだめなのよ」
彼はこの言葉を聞いて、ぎょっとなった。なかなか忘れられない科白だったが、努めて忘れようとした。
結婚のとき、彼の両親は反対した。妻の生いたちに問題があるというのだ。父親がおらず、母親は再婚していた。しかも長兄は行方不明だったし、次兄は交通事故を起こしたあと、さしたる怪我でもなかったのに毎日ぶらぶらしていた。彼女と妹だけがちゃんと生活していた。そんな家庭環境が、次男とはいえ、土地の名士の嫁にはふさわしくないと反対されたのだ。むろん、彼女の美貌は、そんな反対を黙らせるに充分だった。
結婚後、妻の母親から、彼女の実の父親は女をつくって家を出てしまったという話を聞かされたことがあった。だから、妻の身内には、誰ひとり頼りになる男がいなかった。男はいずれ女を見捨てる。そんな感覚が彼女の中に宿っているように思われた。
彼は息子の登校拒否事件以来、妻が男を軽蔑していることに気づきはじめていた。男を強く引きつけながら、男を軽蔑している女なのだ。
セックスについても、彼は妻が淡白だと思っていた。だがよく考えると、それはこの五、六年のことで、以前はけっこう熱心だったような気もした。
彼は忙しかったが、ことセックスに関しては、頻繁に妻に求めた。しかし、ときどき強い拒絶に会うため、次第にあきらめるようになっていった。
求めて拒絶されると、深く傷つくタイプの男がいる。彼のように両親や兄姉に大事に育てられた男は、拒絶されるという事態に遭遇したことがあまりなかったし、困ったときはいつも助けてくれる人がいた。大学時代、年上の女と関係ができ、別れられなくなったときも、兄に解決してもらった。会社勤めを始めて二年ほどしてひどい胃潰瘍ができたため、地元に戻って今の会社に再就職したのだが、それも兄のおかげだった。姉も、彼の面倒をよく見てくれた。末っ子の彼は、小さい頃から箸のあげおろししかやったことがなかったのだ。幸いにも、妻が美人のうえにマメな女であったから、そんな彼でもはじめの十年ほどは順調にやってこられたのではないだろうか。
四十歳に近づく頃、今まで自分の思いどおりに動くと思っていた妻が、そうではないということに気づき、彼は戸惑った。彼はこんなとき、どのように対処すればよいかという訓練をこれまであまり積んでこなかった。だから、とても単純な反応しかできなかったのである。
「そんな家なんかに帰ってやるものか」
彼はその頃、営業所の所長として売り上げを伸ばしていた。会社の帰りは、ゴルフで知り合ったライオンズクラブの会長と飲み屋にいった。帰りは十二時、一時になった。
毎朝、妻は能面のような顔をして彼を会社まで送る。だが、そのあと妻が何をしているのかは、彼は何ひとつ知らなかった。まったく。六年間も。
彼が本社勤務になった年の秋であった。またしても、社長は彼に言った。
「この間もAカントリーに行ったら、君のかみさんがいたよ」
社長は、何か意味ありげな含みで続けた。
「あんな美人のかみさんは大事にしまっとかな危ないで」
彼は年上の人間から注意を受けることにはさほど腹を立てない男だったが、日頃から自分より年下だと思って見下していた社長から訳知り顔に言われて、ついカーッとなった。キマっていると信じていた自分のスタイルが批判されたのだ。最高の装身具だった自慢の女房について、おまえはキメてないと言われたのである。
彼の顔色が激しく変わったのを見て、社長はそれきり何も言わなくなった。彼も、一緒にプレイしていたのが男なのか女なのかを聞く余裕がなかった。
彼はその後、社長とも気まずくなったし、妻についても、もはや放置しておけないと感じはじめていた。もともと酒好きな男だったが、毎晩、多量に飲むようになっていた。かつてはライオンズクラブの会長というよい話し相手がいたが、今は、我が家にいながら、孤独に手酌していた。
年末、忘年会でしたたか酔って家に帰った次の朝、すさまじい下痢に襲われた。酒の飲みすぎか食あたりだと思い、内科を受診した。年末の追い込みで、休むわけにはいかなかった。無理して出社したが、一日に何度も便所に行った。酒を飲むとその場は腹痛がおさまるので、酒量だけがますます増えていった。おそらくこの下痢や腹痛は、過度の飲酒と不安からくる神経症状とが、重なったものだったのだろう。彼の体重は六キロも減った。
一月、新しく厚生省の認可を受けた薬品の説明会が大阪で行なわれ、出張した。出張先でも彼は酒しか飲まず、ホテルではほとんど眠れず、次の日、早めに帰宅した。妻は、夫が予定より早く帰ることを予想していなかったようだ。彼は帰宅してすぐ、布団に入って寝てしまった。
妻が電話で話をしている声がしていた。たぶん、午後の四時か五時頃だろう。妻が彼のことを誰かに告げているような内容だった。彼は聞き耳をたてた。会話の流れから、相手は男のようだった。
男?
彼の全身を、電撃のように不安が走った。そのまま眼を開けて、布団の中にいた。電話を終えた妻が彼の枕元を通ろうとして、彼がカッと眼を見開いているのを見て、ギョッとした表情をした。少なくとも、彼にはそう思われた。妻が浮気をしていると、彼は確信した。
「今、誰と電話してた?」
「友だちとよ」
「男のか?」
「息子の友人のおかあさんよ」
妻はさらりと言った。
その夜は悪夢の見通しだった。翌朝、すさまじい努力のすえに起き上がったがやはりかなわず、午後から出社の旨を電話して、十時頃まで寝ていた。
電話が鳴った。妻はベランダで洗濯物を干しているようだ。彼が電話に出ると、無言のまま切れた。彼は昨日の男からに違いないと確信した。気持ちが混乱しはじめていた。
出勤の途中、駅のホームで激しい腹痛に襲われて動けなくなった。こうして彼は、内科を経由して、私のいる病院にやってきたのであった。
一カ月ほどして、彼は一応元気になった。妻はきちんと子育てをしていたが、彼に対しては打ち解けなかった。
「奥さんとは一緒にゴルフに行かないのですか?」
「行きたがりませんね」
「温泉などへ二人で行ってみたらいかがです?」
「今度誘ってみます」
しかし結局、温泉にも行かなかった。温泉は嫌いだと、にべもなかったという。
彼が家でごろごろしていることに、妻はあからさまな嫌悪を示すようになった。彼は出社することにした。
半年ほどは無事に勤まった。
予定の外来日より早めに、彼は兄と一緒に憔悴して現れた。彼が熱を出して出社を午後にしたところ、男の声で電話があったという。はっきり彼の姓を告げていたのだが、彼が応答したとたんに切ってしまったという。彼は妻の男だと確信した。そして、子供の頃、困ったときにそうしたように、「どうしよう、どうしよう」と言いながら、家の庭でうろうろしていた。シャツとステテコのままで、茫然とたたずんでいた。
妻が用足しから戻ってきて家の中に彼を連れ戻したのだが、例の電話のあとから家に戻るまでの記憶がない。こういう症状を心因性朦朧状態というのだが、それほどに彼のショックは大きかった。
しかも、それに追い打ちをかけるように、昨夜、妻が一方的に離婚したいと宣言した。「家だけ欲しい。子供は育てる。あんただけ出てってくれ。養育費はいらない」という条件だという。彼女には男の手など借りずにやってゆく自信が充分にあるということだ。
「浮気なんかしていない。とにかくあんたと一緒にいたくないの」
いざというとき頼りにならないなら、せめて負担にならないでくれ、ということだった。
「私の何がよくないのでしょうか」
彼が元気のない声で聞いた。私は、その質問には直接答えずに言う。
「奥さんの決意は堅いのですね」
「ええ」
「受け入れるつもりですか?」
「子供も女房と暮らすと言ってますし」
冷たい女とはいえ、男は捨てられたと言って泣きわめくことはできない。今まで、彼は食事をまともにつくったことがなく、洗濯機の動かし方も知らなければ、ましてやズボンの裾あげなどしたこともない。国産車では最高級のスポーツカーを持ち、外国ブランドで身を固めているスマートな男がはじめて直面したリアリズムであった。
「他に女をこさえればいいじゃないか」
兄は横からそう言った。しかし、新しい女をつくるためには、元気でなくてはならないのだ。彼のように、自分の能力のすべてを使って仕事をやってきた男には、余力はない。飲み屋でカラオケをやって憂さ晴らしをするのが精いっぱいで、妻子のことを気にすることさえなかったのだ。
彼は、妻が母のように黙って自分の世話をしてくれることを望んでいた。妻が「やめた」と言ったとき、はじめて、自分が妻に依存していたことを悟らされたのである。
離婚して半年ほどで、社長が交代した。彼は閑職に退き、通院しながら会社に通っていた。社長を送るパーティのとき、彼はふと聞いてみた。
「別れた女房をゴルフ場で見かけたとおっしゃってましたが」
社長は少し考えてから言った。
「最近も一度、Aカントリーで見かけたよ。前と違う男と一緒やったようだ」
「男と?」
「なんか噂では、カントリーの会員たちの間で、だいぶ前からマノンて呼ばれてたそうや」
彼はまもなく辞表を出した。その後、兄の会社の専務をやっている。私の忠告を無視して、毎日酒を飲んでいる。
[#改ページ]
第三話 胴長おじさん
[うつ病][#「 うつ病 」はゴシック体]エンジニアリング会社部長代理◆四十三歳[#「エンジニアリング会社部長代理◆四十三歳」はゴシック体]
彼は救急車の中でにわかに起き上がり車の外に飛び出そうとしたために、私の病院に着いたときには、救急車のベッドにす巻きにされていた。暴れ出すまでは、冷凍マグロみたいにぴくりとも動かなかったという。
身長はたいしたことはないが肩幅が広く、手足の短い牛のような体格をしていた。大学ではボート部だった。力は強い。
この朝、出社の準備がいかにも緩慢で、しかも朝食を前にじっと黙りこくって、まったく食べようともしなかった。妻は彼をふたたびベッドに寝かせ、会社を休ませたが、午後になって見に行くと、うつぶせに寝たまま、身体を揺すっても応答しなくなっていた。このとき、妻は彼が精神の病いに冒されているとはまったく思っていなかった。彼は昨日までは、会社の仕事をちゃんとこなしていたし、家の中でも申し分なく紳士であった。
彼が最初に担ぎ込まれた病院の医者は言った。
「少なくとも脳卒中でもなければ心筋梗塞でもありません。詳しく検査しなければわかりませんが、精神科の病気も考えられます」
この説明に、妻や子供は納得しなかった。とくに精神科の疾病の疑い、という説明について露骨に不快感を示したために、医者は自分の診断能力がまったく信用されていないと判断した。そして「ケンイのある公立の三次救急医療センターに移して、精密検査をなされたら」と、ぶっきらぼうに言った。
その搬送の途中で、彼は暴れ出した。というより、むっくり起き上がり、点滴の管を引きずったまま走っている車から飛び降りようとしたのだ。力が強く、制止した妻を突き飛ばすような格好になったため、妻は頭にコブをつくった。妻は夫が怒っていると感じた。結婚してはじめて、夫に恐怖を感じた。
彼は大手電機会社が一〇〇パーセント出資してつくったエンジニアリング会社の部長代理である。重役のほとんどが親会社から天下ってくる中で、本部長と彼は、数少ない設立以来のはえ抜きであった。
本部長の信頼は厚く、その抜擢で、彼は四十三歳ながら部長代理になった。彼が部長でなかったのは若かったためで、彼の部署には部長がいなかった。権限は部長と同じで、しかも財務を担当していた。本部長は他の天下りの部長たちに対抗するためにも彼を必要としていたし、自分が命じたことを真面目にこなす彼を重用してもいた。見方によっては、社長の座を狙う本部長にいいように使われていたとも言えなくはなかった。
救急車の中の派手な立ち回りによって、行く先は急遽、精神病院に変更された。
点滴の針が抜けて腕は血だらけになり、あげくに抑制帯でぐるぐる巻きにされてきたわりには、彼は、死んだふりをした米つき虫みたいに動かなかった。眼はうつろだが、今日は何月何日であるとか、自分のいる場所が病院であるといったことは理解できている様子であった。
大声で呼びかけたりする強い刺激にはほとんど反応しないが、間をおいて、耳元でゆっくりと話すとかすかに反応した。
「どうしていいかわからない感じですね?」
ゆっくりとうなずいた。
「生きているのが辛い気がしますか?」
やはり、うなずく。ちゃんとこちらの言葉を理解している。
「今、困っていることは?」
「はめられた……」
ポツリと小さな声で、そう言った。
こういう状態を、昏迷という。
彼が入院したのは四月二日。新年度予算を提出する日であった。
その前日まで、彼の異常に気づいた者は一人もいなかった。きちんと会社に出社していたし、仕事に破綻はなく、酒の付き合いにもよく顔を出し、不機嫌そうでもなかった。ただ、三月中旬頃から声が低くなって、彼のしゃべっている内容が聞き取りにくくなり、酒の席でもほとんど飲まないことを多少いぶかる者はいた。だが、彼が死にたいと思っていることに気づいた者はいなかった。
妻は神経質で、たえず動悸と頭痛で悩まされており、年中、病院通いをしていた。だから、自分が死ぬのではないかといつも心配してはいたが、夫の健康についてはまったく考えたことはなかった。
彼は薬によく反応し、二週間ほどで元気になった。むろん、これで治療が完了するわけではない。しかし、妻は私生活について語りたがらず、会社のことは妻にはまったくわからなかった。見た目には著しく回復していたため、妻は精神病院という不愉快な場所と早く縁を切りたくてしようがないようだった。夫が精神病院に入院したなんて、ご近所様にはとうてい言えない、というのである。
こうなってくると私も彼に、多少脅しを含めた問いを発せざるを得なくなる。
「あなたのような人は往々にして自殺に至ることが多いのですが、今回、なぜこうなったかご自分でわかっていますか?」
彼はこの問いに、整然と回答した。
この四月、彼の会社は組織替えを行ない、大幅な人事異動を行なったという。組織替えのプランニングには当然彼も加わり、人事異動の調整を行なう立場にもあった。
組織替えに伴う引っ越しは、人事異動が発表される前の三月下旬に行なわれた。だが、この引っ越しの様子から、異動内容はある程度事前に予想できてしまった。彼は人事をめぐる軋轢の矢面に立たされた。実際は、彼の部下はむしろ削られ、他の部署に譲ったかたちの人事だったのだが。
組織替え、人事異動、予算案作りと仕事が重なり、くたびれ果てていたところに、せっかく自分の部署の合理化を率先して行ない、他の部署に配慮した人事を行なったにもかかわらず、社内の不満の矢面に立たされてしまったのだ。そのために、何もかもが急に嫌になった。三月中旬頃からほとんど眠れなくなったし、気力がどんどん失われてゆくような感じだったという。
「はめられた、とおっしゃっていましたが」
「本部長に騙されたような気がしたんです。せっかく私のところの人員を削ったのに……」
「今はどうですか?」
「考えすぎだったようです」
「また、すべてが嫌になることがあるかもしれませんよ」
「もうなりませんよ」
「なぜです?」
「理由がよくわかってますから」
「理由がはっきりしすぎてますね」
「えっ?」
彼の説明は、裁判の起訴状のように明快で、つけ入る隙もなかった。
彼は退院し、その後四、五回通ってきたが、もう元気になったといってやがて来なくなった。
その年の冬、ふたたび彼は救急車に乗って、私の病院にやってきた。
首を包丁で切り、救急病院で処置を受けた後、転院してきたのだ。傷口は深く、自殺が本気であったことは間違いない。妻の包丁の手入れが悪く、切れ味が鈍かったのが幸いし、動脈まで切れなかったのだ。
前回と同じように彼はほとんど昏迷状態であったが、やはり一定の回復はすみやかに得られた。むろん一〇〇パーセント回復はしていない。
「今度はどうして生きているのが嫌になったんでしょうね」
「新しいプラントがうまくいきませんでした」
「失敗に終わったんですか?」
「いえ」
「まだ進行中でしょ?」
「そうですね」
「プラントの何がうまくいかなかったんですか?」
「予想した生産量が得られそうになくて……」
「それはあなた一人の責任ですか?」
「そうでもないんですが……」
それにしても彼は、今年の初めまではうまくやってきていた。なぜここにきて、こんなにもろくなってしまったのであろうか。
「あなたがとてもよく頑張っているって、誰か認めてくれているんですか?」
「本部長は認めていると思います」
「では、少々の失敗ぐらいで死ぬこともありませんね」
「そうですね」
「なんでも一人で背負い込もうとするから、行き詰まってしまうんじゃないですか?」
「はあ」
「愚痴をこぼすことはないんですか?」
「そうですね。みっともないし」
「泣きたいときはどうします?」
「そんなことはないですよ」
「死にたいときはあっても、泣きたいときはないんですか?」
「え?」
「泣きたいときはなかった?」
「……思い出せません」
「泣きたいときって、どんなときか知ってますか?」
「……苦しいとき、ですか?」
「慰めてもらいたいときですよ」
何かが頭の中をよぎったらしく、彼は上の空になった。
彼はサムライなのだ。
人前で泣くことはしない。家族の前でも構えを崩すようなことはない。だがそんなサムライにこそ、気持ちの通う心やさしい人が必要なのだ――。
彼はしばらくの沈黙の後、ポツリと、しかもやや怒りを込めて、呟いた。
「女房は慰めてなんかくれませんよ」
私ははじめて、彼の本音を聞いたと感じた。
彼は岡山県の出身で、男ばかりの四人兄弟の三番目だった。男子高を経て、男ばかりの大学の工学部に進んだ。おまけにボート部だ。どうみても女に縁のないところを渡り歩いてきている。今の会社も女子社員は少ない。
彼は自分が胴長で、女の子をナンパできるほど見栄えがするとは思っていなかったから、本部長の遠縁にあたる一人娘を紹介されたとき、あっさりと婿に入った。あまり運命に逆らわない質だったのだ。
妻は楚々とした美人だったが、子供を産んだあたりから身体の不調を訴えることが多く、わがままで家計もルーズであった。両親に溺愛されていたようで、夫にも父親と同じような愛情を求め、それが満たされないと不機嫌になった。そんな妻に、彼はよく尽くしてきたといえる。
結婚して五年目、三十歳のとき、彼は半年ほど、地方のプラントに単身で赴任した。赴任にあたっては、妻の母を郷里から呼び出さねばならなかった。
田舎町からさらに少し山の方に入ったところに、彼が赴任したプラント建設の現場はあった。彼はそこの事務所の責任者だ。
事務所は男ばかりだったので、お茶汲みの女の子を雇った。美人とはいえないが、血色がよく、元気のよい娘であった。二十一歳だ。東京で働いていたが、母はすでに亡く、半年前に父も急死したので、弟たちの世話をするために故郷に戻ってきたのだという。下の弟が高校を出たら、また東京に働きに出たいと言っていた。
娘は四キロもある上り坂を、自転車に乗ってやってきた。帰りは車を追い越して風のように帰っていった。辛い境遇にもかかわらず元気な娘だと思ったが、それ以上に、彼女が上り坂を苦にもせずに自転車に乗ってやってくることに、彼は驚いた。
一カ月もしないうちに、彼女が事務所にいない日は、仕事をしていてもなんとなくつまらないことに気がついた。
彼女はよく気がつき、労を惜しまずに体を動かした。事務所の机も窓もヤカンもピカピカになった。少なくとも、彼にはそう思えた。暇なときは、彼の肩をもんでもくれた。このとき彼は、中学時代の淡い初恋を除けば、はじめて恋をした。今度は本物だった。
今は店を閉じているが、彼女の実家が自転車屋で、在庫の自転車が十台ほどあることを聞いたとき、彼は彼女の家を訪れる絶好の口実を見つけた。彼は事務所のトラックで彼女の家に乗りつけ、五台自転車を買い、三台は事務所用にし、二台は兄の高校生の息子たちに送ってやった。
彼も事務所用に買った一台に乗り、自分のアパートから四キロの坂を上った。ボート部で鍛えた彼の心臓も強い。彼女と並んで坂を上った。幸せだった。
そろそろ彼が本社に戻る日が近づいてきた。
彼は四キロの坂道を上りながら、彼女に提案した。女の子を誘うことは彼がもっとも苦手とすることだが、一緒に汗を流して坂道を上っているときは、なんの躊躇もなく、言葉が口をついて出た。
「今度の休み、僕とサイクリングに行かないかい?」
彼女はニコッと笑った。
サイクリングの日、その地方を流れる大きな川の土手の上で、二人は並んで握り飯をほおばった。彼は彼女の手を握ったりはしなかった。彼は我慢した。そのかわりに、東京へ出たら、おじさんが就職や住まいのことを考えてやる、と約束した。
しかし、彼はこのとき、すべてを放り出して彼女を抱き寄せるべきだったのかもしれない。彼はこのことを、長く悔やむことになった。
東京に戻って一年ほどして、彼女から川崎に就職したことを告げる電話があった。彼は約束どおりアパートを探し、保証人にもなってやった。
彼は足長おじさんをもじって、自分を胴長おじさんと呼んで、彼女の誕生日やクリスマスにプレゼントを贈った。妻の浪費癖のために、彼には彼女を洒落たレストランに誘える余裕はなかったのだ。だが、彼が本当に彼女を喜ばせたいと思っていたのなら、彼女は裏通りの定食屋でも満足したかもしれない。不幸なことに、彼にはそんな女心は読めなかった。
彼女を誘いたいと思っても、彼は妻や子供に対して気を遣いすぎていた。ましてや、妻は本部長の姻戚である。自分の将来を危険に晒さねばならない。彼は迷いながらも、若い自転車屋の娘に手を出さなかった。
三年ほどして、彼女は結婚した。相手は年下の調理師だった。彼はひどく失望したが、ある程度覚悟していたことでもあった。精いっぱいの結婚祝いをしてやった。
彼はますます仕事に打ち込んだ。ときどき言いようもなく落ち込んだが、我慢が身上の男である。黙々と働いた。
彼の妻が、マイホームが欲しいと言い出した。バスで三つ目の所に行くにもタクシーを使うような女で、家で食事をするよりも外食を好んだから、彼の給料では貯蓄は決して多くなかった。親譲りの資産など、三男の彼にあるわけがない。
マイホームのことを言われたとき、彼は自分の貯金があまりに少ないことに愕然とした。そして「家の一軒ぐらい持つくらいの甲斐性がないの」という妻の言葉に、かつてない激しい怒りが込み上げてくるのを感じた。
郊外にやっと建売り住宅を買ったとき、彼は四十歳だった。会社や銀行や兄などから借金をして、やっと買った家である。共稼ぎなら生活はずっと楽なのだが、妻は仕事などとうていできそうにない。
彼は四十二歳になった。頭には、年よりもずっと白いものが多かった。そんなある日、あの自転車屋の娘が六年ぶりに現れた。
幼い落ち着きのない二人の女の子の手を引いて、彼女は応接室の中で立ったまま彼を待っていた。気丈そうな風貌は失われていないが、明るさはなくなっていた。
亭主がサラ金で三百万円近い借金をつくってしまったという。いくらかでも返したいが、なんとかならないかという相談であった。もちろん彼女は、サラ金に対処する方法を聞きにきたのではなかった。そんなことは彼女も知っている。要は、金を借りたいということだった。
「そんな男とは別れてしまったら?」
彼はそう言ってみた。
彼女はニコッと笑った。子供も二人いるし、ぐうたらでもかわいい男だと、彼女は思っているようだった。
彼女はやつれてはいたが、眼には光があり、口元は堅く結ばれていた。サラ金を整理して亭主と小料理屋をやりたいので、金を借りたいという。強い女だ。あのとき、あの河原で彼女を抱き寄せていれば……。彼の心に鋭い後悔が走った。
このとき、せめて彼女に金を貸すことができれば、彼の誇りは満たされたであろう。愛は満たされずとも、男としての誇りは保てたのだ。しかし、彼には彼女に貸す金がなかった。会社や銀行からもはや金を借りることはできない。もちろん、他に借金のあてもない。
彼は「二十万円くらいなら貸せる」と言った。彼女はかすかに失望の色を見せたが、すっくと立ち上がり、一円も借りずに帰っていった。
彼は愛を失い、誇りをも失ったことを悟った。今すぐにでも、かのマイホームというやつをぶち壊したかった。
明けて三月、彼はいったい何を糧として、この厳しい仕事をしのいでゆけばいいのか、まったくわからなくなっていた。
彼のような人は、ある日、本気で自殺を試みる。成功率は高い。仕事をきちんとこなしているので、周囲の人間は、死ぬ直前までその心の内に気づくことはない。そしてたいていは、仕事に疲れて自殺をしたのだと説明されることになる。
[#改ページ]
第四話 おいらん草
[心因性妄想精神病][#「 心因性妄想精神病 」はゴシック体]新聞記者◆四十一歳[#「新聞記者◆四十一歳」はゴシック体]
彼は立派な新聞社の地方支局のベテラン記者だった。四十一歳になる。頭が切れるというより、敏感で勘が鋭く、状況判断が的確で、記者クラブなどでも信頼が厚かった。だから、県庁の内部などでちょっとしたごたごたがあったときは、県の課長たちは、まず彼に電話して記事にしないよう頼んでみる。彼が根回しに応ずれば、他社の記者たちもおおむねオフレコにしてくれるのだった。
記事を書かせるとなかなか厳しい内容が多いのだが、本人はとても物静かで、人の話をよく聞き、めったに皮肉など言わない。痩せていて背が高く、ブルーのスーツがよく似合い、新聞記者より哲学者のような風貌をしていた。
長いこと独身でいたが、四年ほど前に若い奥さんをもらい、三歳になる娘がいた。奥さんは十二歳も年下で、かわいい顔立ちのため、歳よりさらに若く見えた。娘も彼に似て、目鼻立ちが整い、きれいな眼をしていた。彼は娘を深く愛しているようであった。
新聞記者の仕事はおおむね、通常の人間の活動時間とはずれ、時に深夜早朝に及ぶ不規則さを特徴としている。人間が生理的な身体のリズムと合わない活動をすることは、疲労を蓄積させやすいものである。とくに深夜の不規則な作業が加わると、疲労はさらに大きくなる。彼も四十歳を越えた頃から、徹夜が続くとドッと疲れがくることを感じはじめていた。
ある公共事業の発注に関して、業者とある町長の間に汚職めいた事実があるとのたれ込みがあった。彼がそのことで調査を始めたとたん、ときどき自宅に脅迫電話がかかってくるようになった。脅迫電話は彼を名指ししていたが、具体的なことは何も言わなかった。
「家族のことを心配しろよ」
そう言って、ガチャンと切ってしまうのである。
贈賄の疑いのある業者の背後に右翼団体がいることは、よく知られていた。彼に対する脅迫は、その右翼によるものであろうと思われた。しかし脅迫のしかたは徹底を欠き、電話のかけ方にも規則性がなく、頻度も少なかった。誰が何の目的で行なっているのか、曖昧なのだ。
新聞記者が個人的に脅されるということは、そうめったにあることではないという。また仮にそのようなことがあっても、怯えていたらこの仕事はできない。
これまでの彼は、こういった脅迫でうろたえたりすることはなかった。仲間うちでも度胸がよいとされていた。だがこの一連の脅迫電話は、彼をして、かつてない不安に陥れた。脅迫の内容がもっと具体的であれば、対応の方法もわかり、うろたえ方は少なくてすんだだろう。曖昧で意図の読めない脅迫だからこそ、かえって妙に恐ろしく感じられたのである。
なにより、妻や娘を標的とするという内容が、彼に言いようのない不安を与えた。家族を標的にするという脅しは、珍しいものではない。しかし、彼にとってははじめての体験であった。
柔和だがクールで、人が何人死のうと眉ひとつ動かさずに現場へ駆けつけた男が、結婚以来、というより娘が生まれて以来、どうもそういう残酷さについていけない気がしはじめていた。
動物の子供を見るとむやみとかわいいと感じ、無事育つかどうかが心配になった。一日に六十本近く吸っていたタバコも、やめてしまった。みな、娘が生まれてからだ。麻雀の誘いも断って家に帰り、娘を風呂に入れるのが楽しかった。そのかけがえのない娘が奪われるなどということは、ちょっと考えただけでも、胸が張り裂けるような苦痛であった。
脅迫電話は、二カ月ほどでたらめに続いてやんでしまった。二、三日続けてあったかと思うと二週間なかったりするという調子だったため、かかってこなくなったあとも、またいつ始まるかわからないという不気味さを残した。
規則的刺激は耐えやすいが、不規則な刺激は耐えにくい。電話がやんで一カ月しても、彼の不安はおさまらなかった。むしろ、次第につのる傾向にあった。
彼のような内面に強いプライドを有する人は、こういった弱音を人に漏らしたりはしない。新聞記者として、曖昧な脅迫電話で眠れないほどの不安を感じているなどとは、言えないのだ。
支局長は、この二、三カ月、彼の顔から血の気が失せていることをいぶかしく思っていた。仕事はちゃんとこなしていたが、ときどき上の空になるようなことがあり、あまり重要でない細かなことにしつこくこだわる傾向がみられるようになった。また言葉が少しきつくなり、いらいらしやすくもなっていた。
大口の広告を定期的に掲載している企業には、新聞社も甘くなる。その企業のひとつに関する好意的なニュースがあった。そのニュースの取り扱いをもう少し大きくしてくれないかと、営業部から編集部に申し入れがあった。いつもは営業部と編集部の確執を緩衝する役をしていた彼が、このとき、営業部に怒鳴り込んだ。
「そんなのは三行でたくさんだ。ちょうちん記事など書かんぞ!」
言い方がきつかったので、営業部員は色をなした。
秋の県議会が紛糾し、徹夜の記事を書いたあと、彼は深夜、家に帰った。このところ、眠りにつくまでますます時間がかかるようになり、眠っても二、三時間で目が覚めてしまう。この十日ぐらい、どれほど眠っただろうか。
彼は酒などあまり飲まない男だったが、最近はウイスキーをストレートで飲むようになっていた。それでも、容易に眠ることはできなかった。むしろ、頭が冴々としてくるようだ。
彼は酒を飲んでいるときも、ふと手をとめて、入口のドアが閉まっているかどうかを確認にいく。マンションの重いスチールドアの施錠など一度確認すればすむはずだが、その夜、彼はすでに三回も確認にいった。そばで彼のやっていることを見ていれば、彼はちゃんとドアチェーンに手を触れて確かめているように見えるだろう。しかしテーブルの前に戻ると、ドアチェーンがしっかりかかっているかどうか不安になってくるのだ。
脅迫電話がかかってくるようになってから、たしかに戸締まりにはことさら神経質になっていた。だがその夜の彼は、ロボットのように同じ確認作業を繰り返しているだけなのだ。
彼はその奇妙な動作を反復しながら、あたりが妙に騒がしいように感じていた。
最近になって、いろいろな音が以前よりうるさく感じられるようになり、それが彼をいらいらさせていた。壁を伝わってくる隣家のピアノの音も、上の階のテレビの音も、以前と変わりはなかったはずだが、耳についてしようがなくなっていた。
このときも、彼はドアチェーンとテーブルの間の往復運動を続けながら、しかしドアチェーンには、ほとんど注意を払っていなかった。彼の心は、家の周囲に満ちている不可解な音に気をとられていたのだ。
精神が疲労してくると、人は音というものに敏感になってゆく。大きな音より、遠くから伝わってくる小さな音が妙に気になりだし、果てはそれが不気味な感じすら喚起するようになる。
彼の精神は今、疲労の極に達しようとしていた。ごく当たり前の日常の音が、特別な意味を持って感じられるようになっていた。
――往来を行き交う車の音が何か変だ。まだ、夜明けには間がある。こんな時間にうごめいているのは何者だろう。何台かの車は、マンションの前で一度停まって、また発進してゆく……。
実際には、車はマンションの前の信号で停まったのにすぎないのだが、彼には、マンションを監視するためのように感じられた。
――そういえば、帰宅のタクシーの後を、黒塗りのリムジンがつけていたような気がする。あれは、右翼の幹部が乗っている車じゃないだろうか。たぶんそうに違いない。ここ何日か、自分が町を歩いていると、黒塗りのリムジンが妙に近づいてくることが多かった。やはり、見張られているのだ……。
彼は自分が右翼に監視され、追跡されていると、ほとんど確信するに至った。そして例の往復運動をやめると、寝室に入っていった。
妻と娘が幸福そうに眠っている。彼は限りなく、二人を愛していると感じていた。
――この二人を誘拐しようとするやつがいたら、殺してやる。だが、もし俺が先に殺されたら、いったいどうなるのだろう。妻は乱暴されたあげく、殺されるか売られるに違いない。娘もどこか遠くへ連れ去られるだろう。どこか、限りなく遠くへだ……。
ふいに、車が急ブレーキをかける音がした。何人かが車から降りる足音がした。彼は突如、確信した。
――右翼が自分を殺しにやってくる。妻や娘をさらってゆく。早く逃げなくてはならない。
妻は娘の泣き声で目が覚めた。頭の上で、すさまじい形相をした夫が、窒息させんばかりに激しく娘を抱きしめていた。彼は妻に言った。
「殺される。逃げよう」
妻は、仲人でもあった支局長に電話で助けを求めた。支局長がやってきたのは、明け方近くであった。それまで彼は、娘を抱いたまま立ちつくしていた。
支局長と妻に付き添われて、彼は病院にやってきた。
暴れ出したいのを必死にこらえているのか、身体を硬くし、眼にはすさまじい恐怖の色を浮かべていた。彼はそのとき、言いようもなく不気味なものたちの気配に取り囲まれていると感じていたに違いない。これを妄想気分という。
このような気分の中では、人は何ものかに襲われるような深い恐怖にとらわれ続ける。だから何の意味もない足音を聞いても、「殺される」と思ってしまう。これを妄想知覚という。すなわち、さまざまな刺激が、すべて敵意をもって迫ってくるのだ。
彼はすさまじい恐怖と苦痛にとらわれ、そうした刺激のやってくる全世界を拒絶していた。だから世界から差し出される救いをも、拒絶してしまうのだ。
彼は入院を宣告される前に、診察室から飛び出してゆこうとしたので、職員にかつがれて鍵のかかる個室に入れられた。入院直後、彼の言葉は千々に乱れ、恐怖に満ちた言葉、攻撃的な言葉、卑猥な言葉など、平生は人間の内奥に隠されているさまざまな思いの切れ端が、でたらめに口をついて出た。だがその大半は、ほとんど重要ではない。ときおり意味のある表現が混じったりもするが、すぐに滅茶苦茶な饒舌の陰に隠れてしまう。
こういうとき精神科医は、砂金取りが流砂から金を集めるように、忍耐強く患者の言葉を聞き続ける。そうしているうちに、彼の言葉の裏に流れる、ある悲しい響きを聞き取ることができるかもしれない。そして不思議なことに、医者がその響きを聞き取ったかどうかは、すぐに患者にわかるのだ。
敵意に満ちた世界の中に、かすかに自分の心に同調するものがあると気づくことは、患者にとって大きな救いである。闇が深ければ、かすかな明かりもすぐに見わけられる。その光の方へ、患者は寄ってくる。
一カ月もすると、彼はようやく落ち着きを取り戻し、現実的な判断力が戻りはじめた。
彼は東京の生まれである。四歳のとき、もらわれて養子となった。養母は大森の新地で縄のれんの店を営む、もと遊女だった女で、亭主は三人替わった。つまり、彼には三人の養父がいたことになる。
最初の男は金持ちだがひどいじいさんで、すぐに死んでしまったから、彼はよく覚えていない。
二人目の男はやはり初老の歯医者で、しばらく一緒に暮らしていたが、結局籍は入れないまま、そのうちに本妻のところに戻ってしまった。
三人目の男は旅回りの役者で、たまにしかやってこなかったが、養母が強引に籍に入れたという。オヤマの役者で色男だったから、行く先々で女をつくっていたようだった。だから年中、行方がわからなくなり、そのたびに養母はヒステリーを起こし、彼を理由なく折檻した。そのたびに、養母は幼い彼に大声でわめきちらした。
「おまえは、おいらん草のそばに捨てられて泣いてたんだ。おいらんの気持ちはわかるだろう。おいらんを捨てちゃいけない」
彼がこの言葉の意味を理解できるようになるまでには、かなりの年月が必要だった。
彼の本当の親は、彼を長野県の山中に捨てたという。
彼の実父は画家であった。腕はよく、彼がデザインしたある大型デパートの包装紙は、半世紀を経ていまだに使われている。しかしすこぶる偏屈で金儲けはできず、家計は母が支えていた。子供は五人いて、彼は男の子の末で、下から二番目だった。
彼が四歳の夏、一家は父の郷里の長野県にしばらく逗留した。その帰り、一家は歩いて十二キロの峠を越えたという。そして、途中で歩けなくなった彼を、両親は置き去りにしたのだ。両親ははぐれたのだと説明したが、捨てたことは確かだった。探した形跡もなく、警察に届けてもいない。
次の朝、林道脇のおいらん草のそばで泣いている彼を、近くの村の者が発見した。最初は身元がわからず、新聞の全国版に載った。その記事の中に「幼児は、おいらん草のそばに捨てられていた」という文面があったという。
この記事を養母が読み、すぐに新聞社に、養子にしたいと申し入れた。養母は十代で遊女に売られた女で、そこで悪性の病気を移され、子供が産めなかった。おいらん草と見捨てられた幼児のイメージが、遊女に売られた自分の境遇と重なり、養母の心を強く動かしたのだろう。
発見された後しばらくして、実父の郷里の者の通報で彼の身元は警察に知れた。彼の両親は二つ返事で養子に出すことを承知した。
彼は、山中に置き去りにされた日のことをかすかに覚えていた。
父が食料を入れた大きなリュックを背負い、母は妹を背負っている。二人の兄も、手にイモや野菜などを持っていただろう。姉が、彼の手を引いていた。
草の中にしゃがみ込んだ彼を置いて、一家は去ってゆく。そろそろ日が傾きだしていた。日が暮れるまでに駅に着きたかったのだろう。姉が、彼に道端のピンク色の花を握らせた。何の花だったのかはわからない。両親は一度も振り向かず、道が曲がるところで、ただ姉だけが振り向いた。夏の終わり、肌にべったりとはりつくような草いきれを風が払った。
彼は、そのときなにを感じたのかを思い出すことができない。何度そのイメージを反芻しても、輪郭はぼやけ、風景は淡い色調の中に沈んでいるだけであった。
だが、それとは別に、夏草のにおいを嗅いだときなど、彼は立っていられなくなるような悲哀感にとらわれることがあった。映画を見ていても、別れの場面がくると、ふいに逃げ出したい衝動にかられたりもした。
養母に引き取られた後も、彼は孤独だった。養母は冷たい女ではなかったが、邪険でケチで気まぐれだった。三番目の養父は年中いなかったし、彼が中学を出る頃には、本当に行方不明になってしまった。
彼が高校二年のとき、養母は頭の血管を破裂させて死んだ。まだ五十歳にもなっていなかった。養母が小金を貯めていたために彼は生活に困ることはなかったが、ますます孤独になった。彼は、自分が愛したり大切に思ったりする人間は、みんないなくなってしまうのだと思い知らされた。
幼児期には、心はまだ完成していない。父や母や兄弟たちの支えで、それはかろうじて成り立っているといえる。その支えが一度に取り払われてしまえば、建築中の建物と同じように、心は歪んでしまう。そしてその歪みは大人になっても修正されず、強いストレス下で、心はその歪んだ箇所から崩れはじめることがある。
彼は、人を愛することに用心深くなった。本当は強く愛に飢えていたから、ひとたび愛したらのめり込んでしまう。のめり込んだ後で、突如愛を失ったら、今度は本当に立ち直れないだろう。彼は、そのことをどこかで感じつつ、四十歳近くまで独身で過ごしてきたのだ。
しかし、彼はついに愛してしまった。
彼の愛した者たちは、彼を支えるほどに強くなっていない。彼は、妻と娘を守らねばならない。しかし、すでに彼は疲れすぎていた。
私はここで、彼が精神を病んだ理由をすべて説明したとは、むろん思っていない。ただ、幼児期の鋭い喪失体験がなければ、病気にはなりにくかっただろうと考えているのだ。
幸い、彼の病状はさほど予後の悪いものとはいえなかった。精神科医との付き合いは多少長くなるが、そこそこに生活を維持してゆくことはできるだろう。
彼は三カ月の入院後、一年して復職した。
[#改ページ]
第五話 赤とんぼ
[うつ病][#「 うつ病 」はゴシック体]食品会社製造課長◆五十四歳[#「食品会社製造課長◆五十四歳」はゴシック体]
夏。
大きなアイスクリーム工場の製造課長が、内科からの紹介状を持ってやってきた。「十年来の胃潰瘍で治療を続けていたが、三カ月前の吐血のあと、すっかり元気がなくなった。何日も口をきかずに考え込んでいる。うつ状態と思われるから診察して欲しい」と書いてあった。胃の検査結果を見ると、小弯側の上の方に瘢痕が残っている程度で、たいしたことはないとある。
すこし頭が薄く、痩せて、澄んだ眼をしている。服装は地味で、椅子にきちんと座り、一見して実直な苦労性とわかる。胃の病気そのものが、彼の神経質なところからもたらされたものなのだろう。五十四歳。ここにきて、くたびれ果ててしまったに違いない。
彼は一昨年、製造課長になった。普通なら、本社から出向してくる大卒のエリートがこのポストにつく。彼は中途採用の工場職員で中学も出ていなかったから、きわめて異例な人事だった。
工場の労使関係が緊張したため、職員に人望もあり、世話好きで真面目な彼を抜擢することで緊張緩和を狙った人事だという。だが、労使双方に気を遣うこのような立場は、図太くなければつとまらない。彼はいくぶん繊細すぎたが、自分の努力が評価されたという満足感は大きな勇気を生んだ。出だしは順調であった。
その年の暮れ、彼の次男が急に会社を辞めてしまった。会社での人間関係にくたびれたからだという。
彼は父親に反抗して家を出てしまった長男より、素直でおとなしい弟に期待していた。その弟がなんとも歯がゆい理由で会社を辞めたことは、心配性の彼をひどく悩ませた。幸い二カ月ほどで別の会社に再就職したが、次男がいつまた会社を辞めると言いだすかわからないという不安は、彼の心に残った。
そんなとき、重大な事件が起きた。十リットル入り営業用アイスクリームのなかに、錆びた釘が入っていたのである。
幸い小売店で発見されたため、客には知られず、その小売店が会社の系列店でもあったため、彼が三拝九拝して事は穏便にすみそうだったが、こういうことは食品会社としては第一級の事件である。もちろん、工場内の総点検をしなければならない。
明らかに、誰かが故意に釘を入れたに違いなかった。職場の中が暗くなるのは避けられなかった。工場の上司は、なんのために君を製造課長にしたのかと言わんばかりであったし、たとえそれでなくとも、彼は事件が自分の責任だと思い込んでいた。
彼は辞表を出した。むろん、会社は彼を首にすることを考えていたわけではない。だが、再発防止のための厳しい注文がつけられた。
彼は一日五時間程度しか眠らず、休暇も取らず働いた。だが、なんのために?
彼はむしろ、ここで辞表を出すべきではなかっただろうか。管理職としての定年まであと二年ほどだったから、嘱託でもよかったはずだ。
しかし彼は、男として、そんな形で会社を辞めることはできなかった。もちろん、社員全員から祝福されて退職したいと思っていたこともある。だが彼は、三十五年間やろうと思い続けていてまだ果たし得ないあることのために、現在の地位にとどまりたかったのだ。
釘の混入事件が収まったかに見えて一カ月ほどして、誰かが事件を新聞社にリークした。新聞記者が、取材に現れた。保健所にも届けねばならなくなった。会社にとって幸いなことに、世の中が多少にぎやかであったから、その記事は小さく出ただけですんだが、工場の幹部が苦しい立場に立たされたことに変わりはなかった。誰がリークしたかはまったくわからず、それが製造課長の責任だという者もいなかったが、彼はいよいよ辞職を決意した。もうくたびれ果てていたのだ。
連日の労使の話し合い。幹部会議。さまざまな報告書の作成、作業工程の再三のチェックなどで、疲労は極限に達していた。そして彼がふたたび辞表をしたためた夜、激しい吐血に見舞われ、胃腸科に担ぎ込まれたのだ。
私の外来に通っているうちに、彼は次第に元気になっていった。
「みんなに迷惑をかけたし、会社を辞めようと思っています」
「会社はあなたに責任を取れとは言ってないでしょ」
「でも、もういられませんよ」
「そうまで言うのなら、のんびり暮らしてみるのもいいかもしれませんね」
「でも、ひとつやってから辞めたかったことがあるんですが……」
「ひとつやってから?」
「先生は笑うでしょうが、ずっと昔、好きだった娘がいましてね」
「べつに笑いませんよ。私にだって好きな娘はいましたから」
「見栄っ張りかもしれませんが、今の地位にいるときに会いたいんですよ」
「昔の恋人に、ですか」
「世話になった方の娘さんなんですが、今、苦労してるんです」
「そういうことってよくありますよ」
「なんとかしてあげたいって考えていたんですが、辞めると収入がなくなるし……」
「どんな恩があるんです?」
「聞いていただけますか?」
むろん、私に異存があるはずはなかった。
彼は鹿児島市に近い、桜島を望む海沿いの町で生まれた。家は肉屋で、十人兄弟の四男であった。
彼がまだ六歳ぐらいのとき、上の兄二人が海でボート遊びをしていて遭難した。長兄はついに上がらなかった。浜に打ち上げられた次兄を、父は泣きながら背負って戻ってきた。家に近所の人が集まってくるなか、彼は玄関の隅で、濡れた土間を見詰めていた。あれは父の涙なのか、次兄の衣服から落ちた雫なのかと、そんなことばかり考えていた。
三番目の兄は、彼が九歳のときに結核で死んだ。一人いた姉は、小児麻痺のために右足が不自由だった。だから彼が事実上の長男となって、弟や妹の世話を焼くことになった。
父は真面目だが厳格であった。帰りが遅いと戸を閉めて、子供たちを家に入れなかった。母親はおとなしく、夫にも子供にも何も言わなかった。悪戯をして家から閉め出された弟たちをこっそり迎え入れる役は、彼がしていた。
いちばん下の妹が一歳のとき、母親の不注意で窒息死した。母と彼が肉の行商から帰ったあと、布団の中でうつぶせで死んでいるのを見つけたのだ。父は母を叱らず、彼を殴りつけた。彼は黙って耐えた。
十二歳のとき、母親も死んだ。ある日、口から泡を吹いて痙攣を起こし、そのまま意識が戻らずに二日後に絶命した。彼は、人間があっけなく死ぬことを身にしみて悟った。
昭和十九年、わずか十四歳の彼は軍属として激戦のフィリピンに渡った。そして終戦までに、彼の所属していた部隊はジャングルの中で消滅した。
彼はただひとり、巧みに逃げ回った。ジャングルに人間の食べられるものはほとんどない。ヤシは人家の周囲にしか育たないのだ。彼は毎日、カエルをつかまえて食べていた。
餓死寸前で、あと十日ともたないというときに、終戦になった。逃げる体力もなくぶらぶらと歩いていると、現地の人間に出会った。その人は、「ノウ、パタイ(殺さない)」と叫んだ。捕虜となるなと命じられていたから、彼は自爆用の手榴弾を出したが、もはや安全ピンを抜く力すらなかった。現地の民が言った。
「ニッポン、ヒロヒト、バンザイ」
彼はそのあと、サンホセやヤルンバンなどの収容所をへて、モンテンルパに移された。その途中、日本兵たちが岬からブタのように海に突き落とされるのを見た。
ところで、このように選択の幅が非常に限られたなかを生き抜いてきた人間は、その後の人生について迷うことは少ない。これまでの体験が半端でないためだろう。そして彼らは、ときに感動的なまでの忍耐強さや、ささやかな恩にも必ず報いようとする律義さ、過剰ともいえる深情けを身に帯びることがある。彼も、そんな一人だった。
昭和二十一年の夏、彼はようやく日本に戻ることができた。父は健在だったが、肉の仕入れがうまくゆかず、店は閉じたままだった。
その父も昭和二十二年三月、働いていた工場の機械に巻き込まれて死んだ。彼は満十七歳で小児麻痺の姉と四人の弟妹の面倒を見なくてはならなくなった。
父の蓄えはわずかであったが、それでも彼が十九歳になるまでは多少の余裕があった。だが売るものはなく、仕事もほとんどなく、やがて兄弟は貧困のきわみへと追い詰められていった。
父の死後、彼らのことを心配して面倒をみてくれていた民生委員がいて、生活保護の手続きを取った。近隣の資産家であった。
保護費が支給される日、彼は役所に行く途中で、礼を言うためにその民生委員の家を訪ねた。秋風の吹く、十月の午後である。ススキの上をとんぼが舞っていた。彼は、そのとんぼをつかまえて食いたかった。門を入ると庭に大きな池があり、うまそうな鯉が泳いでいた。
玄関を開けると、娘がいた。
彼はその娘を、かなり前から知っていた。ときどき父の代わりに彼の家に連絡表を持ってきたからだ。落ち着いた色白の娘で、振る舞いに育ちの良さが出ていた。
彼は娘が好きだったが、身分が違いすぎてとうてい言い出せなかった。自分には、そんな資格はないと思っていたのだ。しかし、いくら貧しくとも、あのすさまじい戦争から生還してきた精悍な若者に、娘は本当に無関心でいられただろうか。
自分の貧しさを娘に見られるのはさほど気にならなかったが、彼は生活保護を受ける身を娘の前に晒したくはなかった。自分の力で生活の糧を得られないことを恥としたのだ。だから娘の顔を見たとき、彼は生活保護の受け取りを断ろうと決意した。
遅れて出てきた民生委員に彼は言った。
「いつもご心配いただいてありがとうございます。先日は生活保護費をいただけるよう取り計らっていただきましたが、やはり遠慮させていただきたいと思います」
「なんでまた。明日食う物もないというのに」
「弟たちにタダ飯を食わすことはできません」
彼は深々と頭を下げた。民生委員は不快感を隠さずに言った。
「勝手にするがいい。見栄なんか張らずに保護を受ければいいのに。これからどうやって食っていくつもりだ?」
彼は、働くことを厭うつもりはなかった。ただ、働き口が少なかった。
「筑豊に行くしかないだろう。ここらあたり、仕事などありゃせんよ」
炭坑なら食える。坑夫は衣食住の心配がいらないということは彼も聞いていた。
「筑豊に行きます」
思わず答えたが、考えたところでそれしかなかった。
彼が門を出て思案げに歩いていると、娘が追ってきた。娘は一袋の玄米を彼に差し出した。
「父には内証です。これを」
あっけに取られている彼が礼の言葉を思いつく前に、娘は踵を返して去っていった。
彼は娘が見えなくなったあとも、ずっと立ちつくしていた。赤いとんぼが彼の胸にとまり、羽を休めたが、風に払われた。
一袋の玄米は彼を勇気づけもしたが、それはまた悲しみをも生んだ。家も家財も買い手の言い値で売り払い、兄弟たちはあわただしく出発した。娘に礼を言う暇もなく、気持ちのうえでもそのような余裕はなかった。
坑夫の仕事は危険だが、それ以外の面ではかなり恵まれていた。住居費や電気・ガス・水道費がかからず、手当も地上勤務者より多かった。
仕事も思ったより厳しくはなかった。採炭場に行くまでにトロッコに一、二時間乗る。それから一時間ほど機械の点検を行ない、ハッパを仕掛ける。実際の採炭は約一時間で、一時間ほど休憩してからふたたび機械を片づけ、地上に戻るのである。
彼は真面目で働き者だったから、間もなく先山《さきやま》になった。七人ほどのグループで採炭をするのだが、その先頭に立ち、ドリルで穴をあけてダイナマイトをセットするのが先山の仕事だ。
少量の火薬でできるだけ多くの石炭を取るには、炭層の目を正しく読んで慎重にダイナマイトをセットしなければならない。その日の採炭量は、このセットのしかたで決まる。坑夫の収入は出来高制だから、七人の実入りがそれで決まってしまう。仲間の信頼がなければ、先山にはなれない。
坑夫たちは長屋に住んでいた。各棟の住人は大家族のような生活を営み、お互いに助け合っていた。冠婚葬祭や病気のときなど、労を惜しまずに手伝ってくれる。プライバシーはないが、慣れればこれほど住みよいところはない。こういう環境の中で、彼が人びとの尊敬を集め、指導的な立場になっていったのは、きわめて当然のことであった。
しかも彼は、小柄だが男前である。二十六歳のとき、先輩の坑夫の娘を請われてもらうことになった。赤トンボが舞う夕暮れなどに、ふと玄米を渡してくれた娘のことを思い出すことはあったが、時の風がその思いを吹き払っていった。
炭坑時代は楽しかった。弟たちも成人し、右足が不自由な姉も結婚できた。二人の息子も元気に育っていた。しかし、炭坑が必要でなくなる時代がやってきた。
昭和四十三年、彼が三十八歳のとき、ついに閉山が決まった。仲間たちは全国に散ってゆき、彼も、千葉の港湾地帯にある大きなアイスクリーム工場の従業員となった。
彼が千葉に就職した頃、日本の家庭には冷凍庫付きの冷蔵庫が普及しはじめていた。家庭でアイスクリームを保存できるようになったのである。日本は豊かになりつつあった。工場はアメリカのブランドを借りて、一リットル入りの家庭用高級アイスクリームの製造を開始した。高温多湿の地の底で炭塵にまみれていた男が、マイナス四十度の冷却庫の中での作業に替わったのである。楽ではない。
むろん彼は持ち前の努力によって、次第に工場の中で認められていった。厳重な細菌検査がなぜ必要なのかを理解することもできたし、さまざまな機械に誰よりも精通することもできた。そして十五年、長い主任の期間を経て、製造課長に任命されたのである。
もちろん、彼が正規の教育を受けられるような環境に育っていたのなら、もっとずっと高い地位についたであろう。だが、そう考えたのは私であって、彼ではない。彼ははじめて役職につくことができたことを心から喜んだ。
彼は世話好きな男である。これまでも昔の炭坑仲間が金に困ったりトラブルを起こしたりしたときなど、まるで身内のように駆けつけて、できるだけのことをしてやっていた。だから、自分の身内にはなおさらであった。
二十歳も年上の男と結婚した姉は子供もなく、夫に先立たれて寡婦となっていた。そんな姉に彼は、生活費として毎月数万円ずつ送っていた。生活力のない末の弟の子供の学費なども、援助してやっていた。
彼の子供は無事成人し、妻もパートで働いていたし、彼は名のある企業の課長である。彼は、以前から死ぬまでにしておきたいと思っていたことを実行に移しはじめた。それは、これまでに彼がささやかであれ恩を受けた人々に返礼をすることであった。
こういうことは、彼のような苦労人が社会的成功を手にしたときの心理として、珍しいものではない。もちろん、彼の成功はそこそこのものである。だが、彼ももう若くはない。今こそその時期であるに違いなかった。
秋。彼は鹿児島に住む遠縁の者の結婚式に招かれた。久しぶりに、桜島を背景に飛ぶ赤とんぼの群れを見た。彼は、あの玄米をくれた娘のことを思い出した。
いや、この遠縁の者の結婚式は、断っても失礼には当たらなかった。彼はそもそも、娘の消息を尋ねるために、この招きに応じたのだ。
今こそ、娘にあの金の粒にも見えた玄米の礼を言わねばならない。そのことをせずして死ぬことは、薩摩男の恥である。娘の面影は淡く薄れていたが、だからこそより美しく光り輝いていた。
彼は、式場で会った土地の男に娘の父親のことを聞いてみた。父親は三年ほど前に八十歳で死んだという。水産加工会社を経営していた資産家だが、息子の代で経営が悪化し、会社は七、八年前に倒産していた。そのとき息子は自殺し、母親も失意のなかで病死したという。
「娘さんがいたでしょう」
少年のようにドキドキしながら、彼は聞いた。
「娘さんは早くから出戻ってきて、父親と暮らしていたよ」
「今は?」
「町外れで一人暮らしているらしいよ。生活保護を受けてるって」
「生活保護」という言葉が、彼の胸を鋭く貫いた。
婚礼がすむと親戚への挨拶もそこそこに、彼は娘の家のあったところを訪ねた。家はなく、あとは製粉工場になっていた。うまそうな鯉が泳いでいた池もなくなっていた。
「大きな池のある家の男の子はうまく育たんのだ」
「そんなもんですか?」
「水が貯まるってのは良くないんだとよ」
式場で会った男の言葉が頭の中に浮かんだ。
娘の現在の住まいは、近所の者から知ることができた。一族の者たちの多くは土地を去ったが、娘は父の墓を守るために残ったという。町の外れの古い土蔵のような家に住み、屋根の上には草がはえているから見誤ることはないと、教えてくれた近所の人は言った。
みすぼらしい土蔵の戸をたたいたが、返事はなかった。
彼はそのとき、娘が不幸になっていることを以前から予感していたと思った。だから今、自分は恩人の不幸を救うためにここに来たのだ。彼はこの考えに酔った。だが、その考えに酔い切るには年をとりすぎていた。
実際、彼女を貧しさから救うなどということが彼にできるわけもなかった。おまけに、中年の域に達した現実の彼女を見れば、彼は失望するに違いない。用心深い彼の理性が、そのことを告げていた。彼が追い求め、憧れていたのは、あのときの十八、九の娘なのだ。
彼は、娘の帰宅を待つことなく、そのうらぶれた家をあとにした。秋の夕暮れ、赤とんぼが舞い、桜島が噴煙をあげていた。
千葉に戻り、彼はまた忙しい日々を送っていた。ときどき娘のことを思い出しはしたが、その思いをどうするか迷うばかりだった。そんなときに、ふいに下の息子が会社を辞めてしまった。彼は、フィリピンで死にかけたときにも感じたことのないような、嫌な予感を覚えた。
フィリピンで、彼は無我夢中だった。だが今、彼はあまりに多くのことを経験しすぎている。いずれの危険もかろうじて切り抜けてはきたが、これからもそうできるとは限らない。明らかに、彼はくたびれ始めていた。もう、あまり余力はない。
娘に援助の手を差し出すことを躊躇させたのは、実はこの潜在的な疲労感だったのではないだろうか。彼はそのことを、むろんまだ自覚していない。
次男はさしたる理由もなく会社を辞め、父親に反抗的になった長男は家を出てトラックの運転手をしている。長男は彼の律義さを馬鹿にしきっており、めったに家にも来ない。彼は少し不幸になった。足元が崩れはじめていることを感じ出した。
こういうとき、人はかつてやってきたのと同じパターンを頑に維持しようとする。これまでそのパターンで成功してきたのだし、その行動パターンを変えるのにはかなりのエネルギーがいるからだ。
彼は疲れて不幸になったぶんだけさらに真面目になり、完全さを求めるようになっていった。仕事場でも過剰に注意を払い、夜遅くまで点検を怠らなかった。だがそんな姿勢は、他の作業員に近寄り難い感じを強く与えていた。めったに笑わなくなり、額にたて皺を寄せた不機嫌な男は、急速に孤独になっていった。そんな男の脳裏に、三十五年前の恋人の面影が濃い影を落としていたなどと、誰が気づくだろう。
彼は息子がふたたび仕事を始めたとき、あの娘にできるだけの援助をすることを決意した。息子が駄目になったのは、自分が忘恩の徒となっていたことへの天罰なのだと思えたからである。そのためにも、いそいで恩に報いねばならない。さもないと、人生のつき[#「つき」に傍点]が落ちてしまう。なぜか彼はひどく余裕がなくなり、焦りを感じはじめていた。
そんな彼に、釘入りアイスクリーム事件はとてもこたえた。態勢を立て直す間もなく、新聞にリークされるというパンチも受けた。彼は何もかも嫌になっていた。だが、死んでもいいが、なおひとつだけやらねばならぬことが残っている。
彼は精神科へ来るまでの内科のベッドの上で「早く娘を助けに行かねばならぬ」「そうしないとすべてが手遅れになる」と考えていた。うつむいて、黙りこくって、三十五年前の恋人のことを考えていたのだ。
彼はアイスクリーム会社を辞め、別の食品会社でパート勤務を始めた。ストレスが減ったために、胃の方も著しく改善してきている。彼は、もう少し元気になったら娘のところへ行くと言っている。彼の妻もそのことを知っており、気のすむようにやればいいと言ったという。
彼は私に意見を求めた。娘のところへ行くべきか否か。行くのならいつ頃がよいか。
私は笑って答えなかった。彼自身の意思によって決断されてこそ、この物語は完結するのだから。
[#改ページ]
第六話 セールスマンの死
[覚醒剤精神病][#「 覚醒剤精神病 」はゴシック体]フリー・セールスマン◆三十四歳[#「フリー・セールスマン◆三十四歳」はゴシック体]
彼は、汚れたパンツとシャツしか身に付けていなかった。背の高い男だ。手には手錠がかけられ、腰には逃走防止用の紐が結ばれていて、その紐の先を警官が握っている。
男は、椅子に座っても落ち着きなくあたりを窺っている。鋭く暗く濁った眼。髪は逆立ち、青黒い顔は夜叉のごとき怪しさを漂わせている。その形相はすさまじく、しかし生気に乏しく、一瞬ののちにはバラバラに崩壊してゆくような危うさを感じさせた。
通常の精神病者には、いかに興奮していようとも、もう少し暖かな感触がある。だが彼の形相には、自分以外のすべての人間との交流を拒絶する、血液が凍っているかのような独特の雰囲気があった。一目で覚醒剤乱用者とわかった。
私は警官に手錠を外すよう頼み、診察を始めた。
「ここは病院ですよ」
「おれはおかしくないぞ」
彼ははっきりと、ここが精神病院であることを理解している。
「ずいぶんいらいらしてますよ」
「帰る!」
彼はいきなり立ち上がると、嗄れた声で叫んだ。落ち着いて座っていることができない。
「座ってください」
「俺を殺そうというのだな!」
泣き叫ぶような声で言う。うろうろと動こうとするが、警官に引き戻される。ついてきた弟が傍から言う。
「とにかく、ちゃんと診察を受けなよ」
「おまえ、殺したな。殺して財産を奪うんだろ!」
「誰を殺したって言うの?」
弟は落ち着き払っている。
「おふくろだ!」
「おふくろは家にいるよ」
「うるせえ! 電話をかけさせろ」
彼はそう叫んで、診察テーブルの上の電話を掴む。しかしすぐ、投げつけるように受話器を放り出す。
「盗聴器がついている! ばかやろう」
彼はふいに逃げようと、ドアに向かう。警官が腰紐を引っ張り、弟と二人がかりで彼を押さえにかかるが、とことん抵抗する。ベッドに抑制されたあとも、彼は叫び続けた。
「ちくしょう。俺を殺す気か!」
「殺さないよ」
「ちくしょう! 殺せよ。やれよ。苦しまないようにやれよ!」
彼はすさまじく興奮し、すさまじく敵対的だったが、私の言葉の意味をはっきりと了解していた。状況の解釈のしかたは歪んでいるとしても、まったく無関係な、すなわち状況から完全に乖離している言葉はない。精神の構造が完全に解体してしまったわけではないのだ。どこか醒めたところが残っている。このどこか醒めているような感じは、覚醒剤乱用者にしばしば認められるものである。
彼は、入院して二日目には落ち着いた。攻撃的なところはまったくなくなり、にこやかな笑顔で看護婦にものを頼んでいた。覚醒剤の乱用による興奮状態は、適切な薬物を投与すると、すみやかに鎮静することが多い。ただ、乱用期間が延びるとそうはいかなくなってくる。
彼は、過去にも興奮状態になったことがあった。五年ほど前には、覚醒剤取締法違反で逮捕されてもいる。
リゾートホテルなどの会員券のセールスをしている彼は、トップ営業マンであった。三十四歳。母と弟が一人。甘いマスクの美丈夫だ。
彼が入院して数日後、一人の女性から電話があった。面会できないかと言う。入院したことを家族から聞いたらしい。
面会は通常、あまり制限はできない。ただ、身内以外の者には多少のチェックの必要がある。とくに患者が覚醒剤乱用者の場合は、その仲間だということもありうる。
彼に面会を望むかと聞くと、少し考えてから、会いたいと言った。恋人なのだという。
電話の二日後、その女性は病院に現れた。貿易会社のフランス語の通訳だった。浅黒く、愛くるしい顔をした、魅力的な女性だ。
彼も彼女も、ファッションモデルのような、どこか日本人離れした雰囲気を持っていた。だから二人が並ぶと、ハリウッド映画のポスターのような、美男美女のカップルになる。しかし、男は覚醒剤中毒患者であり、女は深く傷ついていた。
面会のとき、彼女はずっと泣いていた。そして、病院を去るときに私に言った。
「こんど覚醒剤をやったら別れるって言ってありました。やっぱりやりました。別れます」
「彼が立ち直るためには、あなたの助けがいるのではありませんか」
「私がいると、よけい駄目みたい」
「まさか」
「おまえの顔を見てると、滅入ってくるって」
「私なら元気が出そうですが」
彼女は少しニコリとしたが、フランスに行って日本にはもう戻ってこないつもりだと言った。彼は、彼女と覚醒剤との選択で、後者を選んだのだ。自滅の道を選んだのであった。
彼は東京・人形町の生まれだった。父親は有名な相場師で、元芸者の母親はその囲い者だった。
父と母の間がうまくいっているときは、母は彼をいたくかわいがった。当時彼は、母と、母を育てたやはり芸者あがりの五十歳前後の女性と、三人で暮らしていた。その五十歳ほどの女性も彼をかわいがった。ただ母は神経質で、何でも整頓しまくる女だったから、彼もきれいにしていなくてはならなかった。
父親はかなり財力があったから、好きなものを買ってもらえたし、好きなものを食べることができた。彼を認知こそしなかったが、たまに会うと、いろいろなものをくれた。
しかし、彼が五歳になった頃、その父親は相場に失敗して行方をくらましてしまった。父の経済的な支えがなくなると、母はふたたび芸者となって仕事を始めた。そうなると、母親はすこぶるケチで小心者だった。彼は一日中放っておかれたし、何も買ってもらえなくなった。
彼はときどき、すさまじい癇癪を起こすことがあった。するとたちまち、家の外に放り出された。母のこのような変化は、彼に、人間というものをあまり信じすぎてはいけないという教訓を与えたようだった。
それでもまだ、母と一緒に暮らしているうちはよかった。母はまた、別の男の囲い者になった。彼は邪魔者になったのである。
母がその男の子供を妊娠したとき、彼は、東京からずっと東の方にある、海沿いの松林の中の施設に預けられた。六歳だった。
母は事務的といえるくらいにあっさりと、彼を施設に預けた。母は彼にほとんど何も説明しなかったから、彼は施設に着くまで事情がわからなかった。
母が去っていこうとしたときはじめて、これからはここにひとりでいなくてはならないのだということを悟った。彼が帰りたいと泣くと、母は、ほんのちょっとで迎えにくるよ、と猫なで声で言った。しかし母は、それから六年間、一度も施設に現れなかった。
彼はもともと夜尿癖があった。それが施設に来てしばらくのあいだ悪化し、毎日寝小便をした。他の子供たちは、彼をションベン小僧と呼んでからかった。
彼が施設に入った年の夏、父が突然やってきた。夏の日射しが砂地の庭にまぶしく照っていた。そこを父は、ややくたびれた白いスーツを着て、白い帽子をかぶって、歩いてやってきた。当時としては珍しい外国のチョコレートをたくさん土産に持ってきた。皆ドロドロに溶けていたが、彼にはうれしかった。
父親は彼の頭をなでて言った。
「しばらく辛抱しろ。今度来るときはおまえを引き取って、でっかい家に住まわせてやるからな」
そして、腕にはめていたスイス製の時計を彼に渡し、松林の間を帰っていった。それっきり父は二度と現れなかった。
彼は父の言葉を信じた。信じるしかなかった。だが、二年経っても三年経っても、母はむろんのこと、父も一度として現れなかった。
施設での彼は、はじめこそいじめられたが、次第に目立つ存在になっていった。目先のきく、すばしっこい子供だったから、少しボーッとした子供から菓子を巻き上げたり、気弱な子供を顎で使ったりしていた。かわいい顔をしていたので、漁師のおかみが地引き網にかかったタツノオトシゴやイカなどをくれることもあった。すると彼は、それを施設に持ち帰り、他の子供に売りつけた。ただ落ち着きはあまりなく、敏感で寝つきが悪く、寝小便は十二歳まで続いた。
彼には妙に抹香臭いところがあって、施設にあった宗教の本をよく読み、したり顔で年少の子供に聞かせたりもしていた。そしてときどき、夜中にひどく怯えて飛び起きた。妖怪や幽霊が今にも彼を襲ってくるのではないか、そんな気がした。しかし、誰も助けに現れそうになかった。
彼は、自分を施設に預けた母を知らず知らず恨んでいたのかもしれない。母は、彼が出した手紙にもろくに返事をよこさなかったし、たまに来る手紙には、そのうち迎えに行くよ、と書かれてはあったが、何年たっても迎えにくる様子はなかった。
いよいよ中学入学というときに、ようやく彼は、母のところに戻された。母は引き取りを拒んだようであったが、施設側の強い要請で引き取らざるを得なかったのだ。だから、彼が家に戻っても、母はしごく冷淡だった。
彼は幼児期に大事にされて育った。家に戻ればそのときのような幸せな気分になれると、どこかで思い込んでいた。六年間の辛い生活に耐えられたのも、そんな希望があったからだ。しかし、自宅での生活は施設よりも辛かった。
いつの間にか、弟なる者がいた。弟には実父から養育費が送られてきていたから、母の扱いはずっと甘かった。弟をいじめようものなら、母は決まって、彼に向かって出て行けと怒鳴った。弟が彼より小遣いを多くもらっていることも、彼をひどくくさらせた。彼は、自分が不幸であると感じた。ときどき、母親を憎悪している自分に気づくようになった。そして父のことを、不思議な憧憬を抱きつつ、思い出していた。
母は鶴のように痩せ、几帳面で、騒がしく、頭痛持ちだった。機嫌がいいと、歯の浮くような心のこもらない褒め言葉を息子たちに連発し、怒ると三日も口をきかなかった。せかせかとして、心配性で、年中不眠症だった。睡眠薬をいつも飲んでいた。
中学校時代、彼は非行とは無縁な生徒だった。むしろ、不良グループを意識的に避けていた。表向きは涼しい顔をして尊大にかまえてはいたが、非行少年たちが怖かったのだ。
そもそも、彼はひどく怯えやすい質であった。だが、あまり勉強しないわりに成績はよかったし、はったりを利かせるのがうまかったから、いじめられたりはしなかった。女生徒にもけっこう人気があった。
彼は都立高校に進んだ。一年のときはよく勉強して、トップクラスにつけていた。この頃から、目立ちたがり屋の本領が発揮されはじめた。
母からの早い分離を体験した子供たちは、歌手やタレントに強く憧れやすい。たぶん、母の愛の代償として、広く皆から愛されたいという願望を抱くのだろう。
彼も自分を人気者として売り出そうと苦心するようになった。生徒会の役員に立候補したり、下手なバンドを組んだり、文化祭で模擬店をやったり、こまめに動いた。
この年頃の少年たちの頭はたいてい混乱している。ふつふつと湧きあがってくる性欲は自分の意志では押さえ切れないし、自分の未来がどうなるかも、まったく読めない。彼も自分の未来について、希望と絶望の入り混じった気持ちを抱いていたが、真面目に勉強して就職するなどという地味な人生だけは嫌だった。そんな未来などたかが知れている、父のように相場師になって一攫千金の夢を追いたい、と思った。あるいは芸能人になるのもいいかもしれない、と考えていた。
彼は、自分はまんざら顔も悪くないし、背も高くスマートだということを知っていた。だからバンドに精を出し、学外で演奏会を開くようになると、チケットを巧みに売って回ったりもした。営業の才はあったのだ。
しかし、ややはしゃぎすぎたと言うべきか、深夜喫茶などに出入りするようになった彼は、次第にそこにたむろする連中との交流を深めていった。どのみち、家に帰っても面白いことなどないのだ。外泊を繰り返して、学校からもマークされはじめた。金が欲しかったので、禁止されていたアルバイトも始めた。そして、自ら学校をやめた。何事も中途半端で放り出してしまうという傾向は、すでにこの頃からあったのかもしれない。
高校をやめた彼は、ある劇団の研究生となった。教授陣には有名な俳優たちが名を連ねていたが、たまにしか指導に来なかった。
どんなことでもそうだが、演劇の稽古も地味で根気がいる。彼はきわめて熱心に稽古に通いはじめたが、甘いマスクとスマートなスタイルで女の研究生たちからチヤホヤされ、自分は俳優としてのすばらしい才能に恵まれていると、次第に思い込んでいった。
一年経って、定期公演の端役に研究生が出られるということになった。彼は当然、自分が出演できるはずだと思っていたが、彼は選ばれなかった。指導教官に、なぜ選ばれないのかを聞いてみた。確かに器用でうまいが、真摯さが足りないと言われた。
彼はこのような批評を理解し、受け入れるほど謙虚ではなかった。口からの出まかせを本当のように巧みにしゃべる術こそあったが、誠意を欠いていた。もちろん彼は、自分が誠実な人間だとは思っていなかった。しかし、他人もすべて信用がおけないし、誠実な人間など存在しないと、心の底では思っていた。
彼は劇団をやめ、ある大きなホテルに就職した。同時に、すでに交流のあった新宿のジャンキーたちと、非合法の薬物の乱用を始めた。
あっさりとタレントの夢が破れたこと、女は欲しいが金がないこと、母はまったく自分を愛していないこと、そして結局は、地味にこつこつと生きねばならなくなったこと、そういった挫折や困難が彼をひどく落ち込ませ、薬物に逃げさせたのだろう。
かろうじて彼は、仕事を続けることはできた。見栄っ張りで、目立ちたがりで、周囲からプラスの評価を得ていないと落ち着かなくなるタイプでもあったから、仕事はよくやった。とにかく、馬鹿とは思われたくなかった。もし本当に馬鹿だったら、誰が自分を愛してくれよう。
彼はこれまで、自分の欠点をも含めてすべてを受け入れてくれるような愛を経験していない。本当に自分が困ったとしても、誰も助けには来ないだろうと思っていた。
彼は人見知りする質ではない。しかし、いつ裏切られるかわからないという不安のために、人と深く交わることはなかった。そしてたぶんそのために、はじめは明るく調子のいい彼を好ましく思った者たちも、次第に、口からでまかせを言う一種の虚言癖が彼にあることに気づき、去っていくのだった。
彼はもともと寝つきが悪く、ときどき睡眠薬を飲んでいた。ジャンキーたちから手に入れたものである。彼が薬物を使うのは、酒がまったく飲めなかったからでもあった。ビールをひと口飲んでも身体中に赤く蕁麻疹ができる。一杯飲めばすっかり酔ってしまう。
ホテルに勤めはじめて以来、彼に妙に親切な上司がいた。隙のない身のこなしで、言葉は女性っぽいが、ボディビルをやっていて、腕は太く肩にも筋肉が盛りあがっていた。四十歳を過ぎて、独身であった。
その上司が、ある夜、帰宅しようとする彼を送ってやると誘った。彼は喜んで、その申し出を受けた。上司は、途中で自分のマンションに寄っていかないかと言った。彼はこういうとき、断れない質だった。だから上司についていった。
上司はひどく高いブランデーを彼に勧めた。飲めないからと断ったが、上司は執拗であった。めったに飲めないような高い酒だったから、意地汚く手が出てしまった。
そのあとのことは、彼もよく覚えてはいない。彼がすっかり酔ったところで、上司から強姦されたのだ。彼は抵抗したが、上司は怪力の持ち主だった。最終的に彼は、上司のなすがままにされるほかなかった。
彼は本質的にヤクザな男だったから、このようなことでうろたえたりはしなかった。しかし、相当にプライドが傷ついた。そもそも、人に屈服することの嫌いな男である。まして女みたいに強姦されたなんて、人に知られたら物笑いの種になるだけだ。そう彼は思ったのだ。
それからしばらくして、やはり遅い勤務ののち、彼は職場の仮眠室に泊まった。枕が変わってもすぐには眠れない男だから、睡眠薬を少し多めに飲んでいた。彼のところにふたたび上司がやってきて、マンションに誘った。彼は眠いところを起こされたうえに、薬でやや抑制が外れていた。
彼は突如、激しい怒りに駆られて上司を殴りつけた。上司は彼より腕力は強かったが、彼の剣幕の激しさに殴られるままになった。どのみち、けんかは気合で勝負するものである。彼の激怒のしかたは尋常の域を越えていた。彼の内面には、激しい攻撃性が秘められていたのである。
上司は鼻の骨を折られて血だらけになり、警察汰沙になった。傷害事件ではあったが、正当防衛が認められた。しかし彼は、これでホテルをやめた。
彼は一種の人材派遣会社なるものに入った。ホストクラブにホストを斡旋する会社である。あるホストクラブにいたときに、イタリアンレストランの女社長に気に入られて、ヒモのような生活を始めた。彼女には夫がいたが、もう八十歳だという。
はじめはヒモも悪くはなかった。だが神経質な彼は次第に、五十歳を過ぎた太った愛人が嫌になりはじめた。性欲が起こらないのだ。それに彼は、騒がしいおしゃべりな女が嫌いだった。まるで母親みたいだ。
その女社長は、彼に言った。
「私は五種類の男が欲しいのよ」
「どういう意味です?」
「夫でしょ。恋人でしょ。父親でしょ。お友達でしょ。それからわかる?」
彼にはわからなかった。彼女は言った。
「下男よ」
彼はもう少しで、女社長を張り倒すところだった。この女は、俺のことを下男と見ているのだ。
実際、彼女は身のまわりのこまごました面倒を彼にみさせ、それはときどき洗濯にまで及んだ。金はたくさんくれた。彼は女社長への怒りを押さえざるを得なかったが、しかし、同時に性欲も押さえられた。
彼は女社長とのセックスのときに、覚醒剤を使いはじめた。覚醒剤は、セックスのために使われることが多い。彼は薬を使わなければ、女社長とその気になれなかった。
覚醒剤は水に溶かし、注射で血管に入れる。衛生の知識のない人間は、泥水に溶かしてでも注射を行なう。打ったとたん、胸が少し締めつけられるようになり、そして気分が高揚してくる。効果の発現はマリファナやコカインなどよりずっと早い。感覚が研ぎ澄まされ、平生まったく気づかないようなわずかな動きが、何百倍にも増幅されて感じられてくる。音はビンビンと響く。まったく眠くならない。自分が偉くなったように思え、何でもできるような気になってくる。
このようなことは、しかし、はじめのうちだけである。やがて不快な、名状し難い不安に襲われるようになる。薬が切れると、気分がひどく落ち込む。
彼はつくづくヒモが嫌になり出した。だが、金づるをにわかにあきらめるわけにはいかない。彼はときどき、気分が激しく落ち込むようになった。これは早くも現れた覚醒剤の影響だとも考えられるが、たぶん彼の体質にそもそも備わっていたものでもあるだろう。いずれにせよ、気分が落ち込めば、また覚醒剤を使いたくなるのだ。
ある晩、女社長のマンションに行くと、すでに別の客がいた。同じくらいの年の女だ。女社長は、外で待っていてくれと彼に言った。雨の降る、肌寒い夜だった。彼はせいぜい、五分か十分のことだろうと思っていた。
しかし、客は一向に帰らなかった。一時間待った。彼のことを忘れ果てているかのごとき様子だ。彼は同性愛者ではない。しかし本当は、女は嫌いだった。そしてこのとき、彼は全世界の女を憎悪していた。
やはり彼は、その日覚醒剤を打っていた。覚醒剤は、兵士たちを攻撃的にさせる薬として発明されたものである。人間を狂犬に変える薬である。客を帰すために女社長がドアを開けたとき、彼の怒りは爆発した。鉄のドアが開く音は覚醒剤を打った彼の耳に異様に大きく響き、それを引き金に、彼は女社長に飛びかかった。首を力いっぱい締めあげた。
彼は傷害罪で一年間刑務所に入れられた。このとき、警察が彼の尿を調べたなら、覚醒剤を検出できたかもしれない。
刑務所の一年はさすがにこたえた。しばらくはおとなしくしているしかなかった。
彼はセールスマンになった。
セールスマンはたった一人でする仕事である。タイムカードもないし、ノルマさえ果たせば何も文句は言われない。話術が重要だが、これは彼の得意とするところだ。目覚ましい成績をあげた。自分に合った仕事だと思った。
彼は女をナンパする腕も一流であった。話は面白いし、スマートでハンサムだ。セールスをやりだしてからは金回りもいい。だが、しばらく付き合うと、女はいつも彼から去っていった。彼の話に虚言が多いことに気づくのだ。彼が、父親にもらった古いスイス製の腕時計を見せながら、自分は故人となった高名な財界人の落とし胤だと言っても、女たちはいつまでも騙されてはいなかった。
女たちが去ってゆく直接のきっかけは、しかし、彼の方がつくった。金を貸してくれと言うのだ。すると、たいていの女は去ってゆくのだった。
二十代の終わり頃、古い仲間から覚醒剤を買わないかと勧められた。彼はこの頃、周期的ともいえる気分の落ち込みに襲われるようになっていた。この周期的な気分の変化は、彼の体質にそもそも組み込まれていたのかもしれない。あるいは、母から見捨てられたという体験が生んだものかもしれない。そして覚醒剤の乱用が、そのような性向をさらに促進させたのだろう。
彼は気分が落ち込むと、また覚醒剤を打つようになった。女をやすやすと誘惑できたが、女を心から愛したことはなかった。どんな女と寝ても、満足することはなかった。それどころか、次第に女が疎ましくなってくるのだ。
彼はよく気のつく男である。誕生日はちゃんと覚えるし、重い荷物はすぐに持ってやる。髪型をちょっと変えても褒めることを忘れない。しかし、ただそれだけだ。
女はすぐに、彼がやさしくもないし誠実でもないことに気づいた。女に対して憎しみを抱いていることを感じ取ることもあった。いずれにせよ、女は去ってゆく。彼も女を疎ましいと思っているのだから、それでいいともいえる。しかし、女が去るたびに、彼は深く気分が沈み込んだ。そしてまた、新しい女を探しに出るのであった。
新しい女がすぐに見つからないときは、彼は覚醒剤を打った。そしてふたたび、覚醒剤の罠に落ちていった。
覚醒剤は日本ではつくられていない。だが、恐ろしく単純な化学構造だから、つくるのに大掛かりな装置はいらない。だから、外国の町工場でつくられる。どの国の政府も、自国内での薬物の販売は厳しく取り締まるが、他国で売ることには寛容なのだ。
覚醒剤は売人の供給も安定しており、純度も高い。パッケと呼ばれる小さなビニールの袋に入れられ、小売りされる。値段は一グラムが数万円から数千円の間を変動しているようだ。
彼は外国帰りの金持ちのドラ息子と友人になった。ドラ息子の別荘などで、大麻やLSDを使って、乱痴気騒ぎをやった。そのうち一緒に会社をつくって商売を始めたが、結局うまくゆかず、二人は喧嘩別れした。
ドラ息子がアメリカから持ち帰った、鼻から吸引する覚醒剤類似物が彼の気に入った。消毒もされていない注射器で薬を打つのは不潔であったし、そもそも痛い。注射の跡も残る。鼻から吸引すれば清潔で手軽だし、アメリカでは薬剤として市販されているから、発見されても、知らずに持ち込んだと言えなくもない。
彼はふたたびセールスマンの仕事に戻った。彼はさまざまなものを売り歩いた。圧力釜、サンルーム、アルミの門柱、電話機、コーヒーメーカー、宝石……。もちろん売り上げは目覚ましく、とくに女性客に売り込む術はますます磨きがかかっていた。
彼は性欲はあったが、女という存在は好きではなかったし、内心では憎んですらいた。だからこそ彼は、嫌いだという気持ちを押さえるように、表面上は女にすこぶる親切で、にこやかに振る舞うのだ。プレイボーイと呼ばれる男たちの中には、彼のようなタイプがよくいるのである。
彼の弟は順調に大学を卒業して、普通のサラリーマンになり、地方支社に勤務していた。彼は弟が家を出た頃から、東京の実家に戻って母と暮らすようになった。母親は嫌いだが場所がいいし、アパート代も浮くからである。
彼が輸入品のセールスを行なっているときに、フランス語のかわいい通訳と知り合いになった。頭がよく、素直な娘だった。すでにいろいろな女を知っていたから、彼には彼女がめったにいない女であることがわかった。なにより、こんな遊び人でヤクザな彼を、ひたむきに愛してくれているのだ。
彼女と付き合いだしてしばらくは楽しかった。彼もさすがに、地味につつましく生きる気になっていた。
しばらく彼と付き合っているうちに、彼女も彼の虚言癖や浪費癖や、いいかげんな生活態度に気づきはじめた。今までの女はこのあたりで去っていったのだが、しかし、彼女は彼を矯正しようと試みたのだ。
彼は、人から注意されるのをひどく嫌う男である。だからセールスマンをやっているといってもいい。セールスマンは成績さえあげていれば、誰からもうるさく言われない仕事である。彼女が熱心に矯正しようとすればするほど、彼は彼女のことをうるさがるようになっていった。
そもそも人は誰でも、他人の注意を素直に受け入れるのは苦手である。まして彼は、人から見下されたり、駄目なやつだと思われることにひどく敏感であった。
幼児期に安定した親子関係があり、親からプラスの評価を受けたことがある人ならば、自己評価は低くならない。しかし彼のように不安定な親子関係の中で育った場合は、外見上自信に満ちているように見えても、自己評価はさほど高くはないのだ。そして自己評価が低いと、他人の批判に傷つきやすくなる。
彼は時に、彼女の批判に対して激しく怒るようになった。デートの最中に喧嘩になり、彼女が帰ってしまうこともあった。そんなとき彼は、しばらくなかったひどい気分の落ち込みにふたたび襲われるようになった。彼女がいるときは押さえがたい憎悪を感じ、彼女がいなくなると、何ともいえない不安と、世界から取り残されてゆくような寂しさを感じるのだ。そして彼は、覚醒剤に手を出した。
彼と喧嘩したあと、娘はすぐに後悔した。彼に辛く当たりすぎたと思ってしまうのだ。だからしばらくして、彼から電話がかかってくると、あっさりとよりを戻してしまう。彼が覚醒剤を乱用していることは、むろん知らなかった。
ついに来るべき時が来た。
ある夜、例のものを鼻から吸った直後、彼は今までとはまったく違う変化を示した。柔和な表情はまったく消え、眼だけが暗く輝き、ぶつぶつと独言しながら、母親の寝室のドアを蹴り開けた。そして母親の枕を引き抜いて、寝ていた母親を脅したのだ。
おまえが俺の父親を殺し、父親の財産を奪ったのだろう、彼はそう言って母にすごんだ。ただ、まとまった行動はできなかったので、やがてうろうろと部屋を出て行き、その隙に母はうまく逃げだすことができた。寝巻のまま家の外に飛びだし、隣家に助けを求めた。
彼は警察の留置場の中で、自然と落ち着いていった。ほんの短期間だけ狂ったのである。警官は覚醒剤を疑い、結局、彼の身体からそれを検出した。彼はそのまま、覚醒剤取締法違反により逮捕された。
覚醒剤は使用量よりも、使用期間の方が問題となりやすい。使用期間が五、六年を越えると、次第に幻覚や妄想が起こりやすくなるとともに、それが固定化して改善にまで時間を要するようになるのだ。その症状が進むと、ほんのわずかな覚醒剤の使用によっても激しい幻覚が起こり、ついには覚醒剤を使わなくとも、ストレスなどから急に狂いだすようになる。これをフラッシュバックという。
すでに彼の身体は、覚醒剤に過敏な反応をするようになっていた。わずかな使用量で、ジキルからハイドへと変貌するのである。
娘は彼が逮捕された原因を知った。だが彼の予想に反し、今までの女たちのように、彼のもとを去らなかった。
彼女は育ちのよい、しっかりした娘である。だが愛情が深い分、彼に甘かった。やさしさは、時には相手に逃げ道を与えてしまうことになる。
出所の日に娘が迎えにきたことで、彼はややいい気になったのかもしれない。この女は俺に惚れている。少しぐらい悩ませてやった方が、かえって俺についてくるだろう。彼はそんなことを考えていた。
さすがに頭がおかしくなってしまうことは嫌だったから、彼は当分、覚醒剤はやめることにした。しかし、今まで慣れ親しんできたものをやめるということは、やさしいことではない。人はガンになると知っていても、タバコをやめない。何度かやめる努力をするが、たいていは失敗する。タバコをやめるためには、知識だけでは駄目なのだ。
タバコをやめられないのは、やめるという消極的な態度に原因がある。タバコをやめると同時に、別の行動を起こさねばならないのだ。目的のはっきりした、別の行動をである。
彼は覚醒剤をやめはしたが、積極的に別の行動を取ろうとはしなかった。彼が彼女を本当に愛しているか、愛していなくても愛そうと努め、彼女を幸せにしてやろうと考えたなら、覚醒剤をやめることができたかもしれない。幸せにしてやるという目的の中に、覚醒剤をやめるということが当然入ってくるからだ。
やはり彼は、人を愛せない男であったのかもしれない。さまざまな女と関係を持ちながら、どの女も彼から去っていったのは、そのためである。
今、彼の眼の前にはまれに見るいい女がいて、彼に過剰な愛を注いでくれている。そして女は、そのための対価をあまり要求してこない。彼はそこに甘えていた。ただ、この世でタダほど高いものはないと、思い知るべきではあった。
彼の浮気心は相変わらずおさまっていなかったから、ときどき別の女と関係を持った。これはもちろん、娘の気持ちを逆なでした。次第に娘は、彼にこまごまと注意をするようになっていった。いかに寛容な女でも、報いのない愛に苛立ちはじめたのだ。
彼がまた他の女と関係を持ったことで、二人は喧嘩になった。このとき、彼の方から別れ話を持ち出した。もう破綻は時間の問題と思えたし、さすがの彼も、別れた方が彼女に対して親切であるとどこかでわかっていたからだ。
「俺はおまえを幸せになんかできないのさ。それを望んでいたら、俺とは暮らせないよ」
彼は言った。
娘は彼から離れていったが、なお彼に未練を残していた。彼もまた、多くの未練を有していた。娘が去ってから、ときどき起きていた気分の落ち込みが、さらにひどくなりだしたからだ。
ある夜、新しい女とセックスをするとき、彼は例の覚醒剤類似物を吸引した。気分の落ち込みが長引くようになって、何をするにも気力が起こらなくなっていたからだ。覚醒剤の後遺症だろうが、セックスも楽しくなくなってきた。元気を出すために一回やってみよう、そう思ったのだ。
薬を吸引した直後、彼はふたたび急激に変貌した。
突然、誰かに狙われていると感じた。ここにいる女も自分を殺そうとしているはずだ、と思った。ふいにすさまじい恐怖がやってきた。彼は女を縛りあげ、ホテルの一室から裸で飛び出し、自ら派出所に行き、殺されそうだから助けてくれと言った。警官には彼が狂っていることが一目でわかったから、彼はそのまま保護された。
覚醒剤中毒者は、しばしば殺されるという恐怖に駆られて、警察に助けを求めに行く。そして病院に連れてこられるのだ。彼もそのようにして、私のいる病院にやってきたのである。
かわいい通訳は、泣きながら帰っていった。もちろん彼女はひどく傷ついた。だが、きわめて多くのことを学んだはずである。
彼はほんの二週間ほどで退院した。表面的には、精神症状はまったくなくなっていた。ふたたび覚醒剤を使用しなければ、周期的な落み込みもゆっくりと改善していくはずである。落ち込んだときは、それを軽減する薬があることも伝えた。しかし彼は、一度通院したきりで、もはや二度と病院には現れなかった。
その後しばらくして、警察から問い合わせがあった。彼はあるペーパー商法に関与して、取り調べを受けていた様子であった。警察は、入院歴の有無を確認してきたのだ。相変わらず派手なセールスをやっていたのだろう。彼は何度警察にやっかいになろうと、懲りない男たちの一人に違いなかった。
三年ほど過ぎて、新聞に、「覚醒剤男、母を殺す」という記事が載った。状況から、彼のことであろうと思えた。
次の日、また別の記事が載った。犯人が留置場で頓死したという。原因は不明だった。
覚醒剤は人間を花火に変える。一瞬に爆発させ、あとは燃え滓としてしまうのだ。男は激しく暴れたあげく、疲労し切って死んだのだろう。ただ、母を殺せば死ぬしかないと、男は狂いながらも、どこか醒めた頭で感じていたのかもしれない。
[#改ページ]
第七話 故郷の祭り
[アルコール精神病][#「 アルコール精神病 」はゴシック体]ビル管理会社役員◆四十五歳[#「ビル管理会社役員◆四十五歳」はゴシック体]
彼は四階の病室の窓から酸素ボンベを投げた。
ボンベは爆弾のような音をたてて病院の厨房の屋根に大穴をあけ、流しの蛇口をひん曲げた。水が噴水のように吹き出し、あたりを濡らした。幸いガス栓には当たらず、深夜で人もいなかった。しかし、隣で寝ていた神経質そうな心筋梗塞の男は確実に悪くなり、その後、集中管理室に移された。
彼はボンベを投げ落としたあと、しばし床に這いつくばっていたが、おもむろにベッドの一つを解体しはじめ、次いで病室の入口にバリケードを築こうとした。彼はきわめて緩慢に事を行なっていた。だから、警官が二十分後に到着したときも、バリケードは完成していなかった。
彼はそのとき、自分が病室にいるということがまったくわからなくなっていたし、自分のやっていることが、連続性も因果関係も失って滅茶苦茶であるということも認識できなかった。まして、警官に対しては素直に振る舞う方が手荒く扱われずにすむ、などということに思い至るはずもなかった。おかげで彼は、押さえられるときに足払いをかけられて転倒し、体中に打撲を負った。それでも、あまり痛みは感じなかった。
彼は、何やら自分の周囲で騒ぎが起こっていて、やがて自分は殺されるのだと感じていた。騒ぎの元が自分なのだとも、今、彼に襲いかかろうとしている影のようなものは幻覚なのだとも、わかろうはずはなかった。
それから一時間ほど車に乗せられて、彼はひどく明るいところに連れてゆかれた。明るいところでは、彼に襲いかかろうとしている影のようなものは、どこかに消え失せていた。
いつの間にか、妻が子供を抱いて彼の横にいた。若い妻だ。ひとまわりも年が違う。子供は生まれて一年ほどにしか見えない。
「おとうさん! しっかりしてよ」
妻は泣きじゃくっていたが、真夜中の精神病院の診察室で、子供と、おかしくなった夫との両方に的確な気遣いを見せ、うろたえた様子はない。
妻は警察に呼び出され、彼の到着のあと少し遅れて、病院にやってきた。彼女は、パジャマのままで寒い診察室にいた彼を見ると、すばやくオーバーを脱いで彼にしっかりと着せ、子供をマフラーで包んだ。私は、その手際のよさと、確信に満ちた行動に感心した。
私は彼に聞いた。
「今は何月かわかりますか?」
彼は質問の意味をしばらく反芻して、
「五月……」
と答えた。
今は十二月である。それも二十五日、午前一時である。彼はクリスマスイブの夜、酸素ボンベ爆弾を病院の屋根にプレゼントしたのだ。
「今日はクリスマスですよ」
「雪……」
雪は降っていない。雨が降っている。しかし、彼の眼には雪のような細かい幻が、窓の外の暗闇の中に見えていたのだ。
「ここ、どこかわかります?」
「え?」
「ここはどこですか?」
彼は私のことを恐ろしげに感じていたはずである。
「え? 刑務所……」
彼はついてきた制服の警官の方を見ながら言った。
彼はふいに、診察机の下の陰に震える手をのばした。そして、床にしゃがみ込み、虫をつぶすように指で床をゆっくりと押しはじめた。彼には数知れぬ小さな虫が陰の中をぞろぞろと這っているのが見えていたのである。つぶしてもつぶしても虫は限りなく這い出して来て、彼の手の上にも這いあがり、向かってくる。
彼はかつてない恐怖にとらわれていた。しかし、いったいどこへ、どの方向へ逃げてよいのかもわからなかったのだ。
私は若い妻に言った。
「入院ですね。よくなりますよ」
妻の厳しい表情が和らいだ。
彼は四十五歳。ビル管理会社の役員であった。今から十七年ほど前に、現在会長をやっている男と二人で会社を興した。はじめは十名ほどの社員しかいなかったが、今は二百人ほどの社員を擁し、さらにやはり二百人ほどのパートを使っている。この業界の中堅どころだ。
ビル管理会社は、清掃はもちろんのこと、電気、ガス、防災、空調、といった設備のメインテナンス、情報伝達処理システムの維持管理や電話交換業務なども行なうし、警備や運転などの仕事を請け負ったりもする。だから、いろいろな技術者を雇ったり、掃除のおばさんを集めたりする必要もあり、営業より人事管理の方にエネルギーを必要とする業種であるといえる。
彼は、自分の持ち味はタフであることだと信じていた。確かに、横に広い、骨太のがっしりとした身体をしていた彼は、一日に十五時間続けて仕事をしてもあまり疲れを覚えず、睡眠時間は五時間で足りた。会社が今日の大きさになったのは、彼の馬力に負うところが大きかった。
彼は関東平野の北の方の出身であった。
生家は代々小さな雑貨商だったが、彼の父の代でその地方最大の文房具店となった。父は働き者で、苦労人で、頑固で、支配的であり、子供たちに自分の信念を押しつけて、自分の正しさを疑わなかった。母は近在の豪農の出で、家柄はよく、上品で繊細で涙もろかった。長男の宿命か、彼は父に反発し、母を愛していた。
彼は祭りが好きだった。母が祭りが好きだったからだ。その地方の総社の祭りは、九月の中旬に行なわれる。近隣のすべての神社の山車《だし》や御輿《みこし》が、その日、総社に集結し、町を練り歩く。
幼い頃、彼は母に連れられて祭りに行った。すこし身体が大きくなると、母は祖父の代からの祭り半纏を取り出し、彼に着せた。御輿をかつぐいなせな姿を母に褒められるのがうれしかった。
彼は大学の理工学部に進んだ。父に反抗し、文房具店などやるまいと決めていた。
彼が大学に入学した頃は、学生運動が盛んになりはじめた時代であった。学生たちはまだ、主として大学の中だけで活動し、威嚇のために角材を持つ程度であった。彼らが鉄パイプを持ち、火炎瓶を持って街頭に出てゆくようになったのは、もっと後のことだ。彼の時代、学生運動はまだ、祭りのようなものだった。
声は大きく、人のあげ足を取るのがうまく、話術が巧みで、品は悪かったが強い意志で断定的にものを言う彼は、やがて指導者の一人になった。だが彼は、特定の党派に属することを嫌った。組織の一員として働くのは嫌だったのだ。トップか、さもなくば一匹狼が彼の肌に合っていた。彼の本質は、父親に似てワンマンだった。
結局彼は、自ら退学し、父親から勘当された。学生運動の中で知り合った女子大の学生と、すでに同棲を始めていた。退学する頃には、彼女は妊娠していた。
ほどなくして女の子が生まれ、籍を入れたが、親の世話にはなれず、彼はしばらくアルバイトをしたのち、ある電機メーカーに就職して営業マンになった。努力家だから成績はよく、エネルギーがあり、飲み込みも早い男だったが、鼻っ柱が強く、上司に対して辛辣だったからあまり好かれはしなかった。表向き彼の強引さに調子を合わせていた同僚たちも、内心では彼を煙たがっていた。彼は、どこにいても次第に孤立してゆく人間の一人なのだ。
彼はたしかに誇り高き男である。勇気もあった。だが、他人の誇りには鈍感であった。人を引っ張ってゆくすばらしい馬力がある一方で、しかし誰も、彼を押してやろうとは思わなかった。会社の帰りに酒を飲む相手もいなかった。一人で飲むときの酒量は、二人で飲むときよりも多くなるものだ。
妻は痩せて無口な女であった。あまり勤勉ともいえず、子育てと家事は一応こなしていたが、自発的には何もしなかった。一方的な夫によく仕えているようにも見えるが、何事にも深刻味を欠いていた。学生の頃は、青ざめたどこか陰のある美人で、彼と一緒にデモに行き、けっこう小気味のよいアジをぶったりしていたのだが、結婚後、次第に眼は濁り、陰が消えるとともに、深みのない女になっていった。彼女は一日、誰とも口をきかないことがあった。彼は家に帰っても、満たされた気持ちにはなれなかった。料理もまずい。それより、人生経験の豊かな飲み屋のママを相手に酒を飲んでいる方が楽しかった。いきおい、仕事が早く終わったときでも、酒を飲んで帰るようになった。
五年ほど勤めたが高卒扱いだったし、いくら成績を上げても評価されなかった。だがそれは、上司のゴルフや麻雀に付き合って、歯の浮くようなお世辞を言わないせいだと彼は思っていた。課長が打ったへたくそなショットを「ナイショー」と揉手をして言わないせいだと、信じていたのだ。
むろん、それもあるだろう。しかし、人を褒めることは、けなすことよりいくぶん難しいことだと、彼は知らなかった。
勤めはじめて六年目のある日、取引先の専務が新しい会社を設立するからと、やり手の営業マンである彼を誘った。小さな会社とはいえ、取締役にするという。彼は二つ返事で快諾した。
彼は以前にも増して仕事に励み、新しい会社は順調に発展していった。会社の発展は自分の力によると彼は信じていたし、ある程度それは正しかった。だから当然、次期社長には自分がなるものと、彼は思い込んでいた。
中学、高校と野球をやっていた彼は、自分の家の近くの草野球の監督をやっていた。多少押しつけがましいが、世話好きでマメな男なのだ。少年たちを支配し、自分の思うように操ることは、彼の強い支配欲の捌け口のひとつでもあった。
会社や家の外での彼の行動に、妻はまったくといってよいほど関心を示さなかった。彼もまた、妻や子供に対してほとんど興味を失っていった。
ある日気がつくと、妻はあるキリスト教系の宗教に入信していた。彼女は教団の集会や行事に熱を入れ、彼との間には、セックスはおろか、会話もきわめて乏しくなった。ときおり妻が口を開けば、決まって入信の勧めであった。
会社が発足して五年目頃、彼は他の会社から、経理に詳しい男を引き抜いた。株の増資を行ない、仕事の幅が広がるにつれ、経理に人材を必要としたからだ。
彼のスカウトした男は優秀だった。彼は満足して、その男を引き立てた。しかし彼は、自分のスカウトしたのが優秀すぎる男だと見抜くことはできなかった。
彼は、人にものを教えることが好きだった。だからその男にも、いろいろなことを労を厭わず教えてやった。ほとんど弟のように思っていた。
その男は、人当たりがよく、繊細で、敏感だった。めったに人の悪口を言わず、よく人の意見を聞き、その意見を取り入れる形で事を行ない、たとえ部下が妙な提案をしても、うまくアレンジしてそれをまとめあげる不思議な力があった。そして男は、次第に社員の人望を集めていった。しかも、彼のようなワンマンな上司の下でも仕事をしてゆくだけの柔軟性を持っていた。
創立から十年経つと、会社は大組織と呼べるまでの規模になった。それに伴って、営業も重要ではあったが、人事を管理し、掌握する能力がより求められるようになっていた。
その頃、父が死んだ。彼を勘当した父ではあったが、悲しかった。文房具店はすでに弟夫婦が継ぐことになっていた。彼は、自分が継がなかったことに少し後悔に似たものを感じた。父にもっと素直であるべきだったと、はじめて思った。母は病気がちで、寝込むことが多くなった。
彼は父の死後、再び祭りの日には郷里に戻り、祖父の祭り半纏を着て御輿を担いだ。文房具屋を継いでいれば、これからもずっと祭りに出られたではないか。氏子の代表として祭りを取り仕切ることもできたではないか。つらつら思えば、故郷はよきところであった。
彼は四十歳になった。その年の九月、いよいよ母は床に伏して、起き上がることもかなわなくなった。彼は母の枕元で半纏を着て、祭りに出た。あいにくと雨が降っていた。
御輿を出すことができず、人びとは社務所で酒を飲んでいた。彼も寂しい気持ちで酒を飲んだ。どれほど飲んだであろう。
雨が小降りになったとき、少しだけでも練り出そうと若い衆が集まった。若くはなかったが、彼もむろん参加した。
御輿は神社の急な階段の上で回った。敷石は雨で濡れ、すべりやすかった。一人が足をすべらせた。数名が倒れ込んだ。彼の右大腿の上に一トンもある御輿が落ちてきた。
彼は大腿骨を粉砕骨折し、結局、半年にわたる療養を余儀なくされた。回復した後も、足の長さが不ぞろいになり、軽く足を引きずって歩くようになった。少年野球の監督もやめた。
妻は、邪教の祭りになど出て天罰が下ったのだ、と真顔で言った。彼の気持ちはそんな妻から完全に離れた。彼は、はっきりと離婚を決意した。
彼が復帰して一カ月ほど経った頃、社長が会長に退き、新しい社長が任命された。新社長は彼がスカウトした経理に詳しい男だった。
社長交代は、彼の入院中に準備されていた様子だった。会長は彼を、社長の器とは見ていなかったのだ。
いかに営業の成績がよくても、人心の収攬にたけていなければ大組織の長たり得ない。会長にとって、彼はしょせんドリルの刃のようなものであった。岩をも切り裂くが、いずれすり減って捨てられる運命であった。彼は社長になれなかったとき、そのことを知った。
社長となる夢が去り、後輩に出し抜かれたことのショックは大きかった。足はときどきしびれてうずく。
しかし、いったい誰が彼の落胆を慰めてくれようか。妻はもとより冷淡であり、友はなく、母も完全に寝たきりとなっていた。酒の量だけが増えていった。
足のリハビリを受けていたときに、父親のリハビリに付き添っていた、三十歳少し前の娘と知り合った。社長になれないとわかってくさっていた頃だった。半年ほど経って足の骨の検査に病院を訪れたとき、また、その娘と会った。美人ではないが、素朴で愛情深そうな娘で、ふいに彼は強く魅かれるものを感じた。彼は彼女にプロポーズし、彼女はそれを受け入れた。
妻は離婚をしぶったが、承知せざるを得なかった。彼は郊外にマンションを買い、新しい妻と住んだ。会社まで二時間もかかるところだ。
しょせん使われる身である以上、会社にいる限り仕事に追われ続ける。四十歳を過ぎて疲労がたまるのを感じるようになっていたから、休みの日は家でごろごろしてはビールを飲んだ。かつての精悍な印象は薄れ、ぶくぶくと太り、顔には酒焼けが現れだしていた。
彼が四十三歳のときに母親が死んだ。
母が死ぬと、故郷の家とは疎遠になっていった。それでも彼は、祭りの日にだけは故郷に戻った。だがもはや、故郷の家は弟の家であり、他人の家であり、気を遣う旅館であった。
祭りとは、産土《うぶすな》神が鎮め守る土地に住む人びとが行なうものである。だからその土地を去った者にとっては、故郷の家あらばこそ、なお我が祭りである。家あらばこそ、いや、母あらばこそ、故郷の祭りだったのだ。
母が死んだあと、彼は御輿を担ぐ熱意を失った。再び祭りに来ることはないと思った。
おそらく彼は、故郷に錦を飾りたかったのだ。父に対して誇り、母から褒めてもらいたかったのだ。
まだ、たかだか四十代半ばではないか。これからでもチャンスはあるだろう。むろん頭ではそのつもりでいたが、朝目覚めたときなどに、言い知れぬ寂寥感に襲われ、生きてゆこうという気力さえも失われそうな気分になった。
二度目の妻は、しっかりしてやさしい女だった。多くを望まねば何も不足はないはずだ。しかし、一度すり減ったドリルの刃は、もはや元に戻らなかった。彼はあえぎながら、往復四時間の会社へと通っていた。あえぎながらも、しかし酒はやめなかった。
会社の健康診断で、肝臓がかなり悪く、血中の中性脂肪の濃度も高いことが指摘された。新しい妻とのあいだに男の子が生まれた少しあとのことだった。酒のせいだということは明らかだった。彼の酒量はウイスキーのボトルが三日であくほどになっていた。それでも若い頃よりは、酒に弱くなった。すぐ酔って、酔ったときの記憶がしばしば定かでなくなるようになっていた。
医者は彼に、酒をやめるように言った。妻も、子供のために酒をやめてくれと懇願した。彼もようやく、肝臓を治療するために入院し、それをきっかけに酒をやめることを決意した。
彼は内科に入院した。酒をやめたために、夜はまったく眠れなかった。長年アルコール漬けになった身体は、アルコールが抜けると正常に作動しなくなる。わずかな睡眠薬では、ほとんど眠ることはできなかった。
入院して三日目頃から、彼の行動にはまとまりがなくなってきた。便所に行くはずが、廊下の隅で放尿してしまった。看護婦から厳しく注意されると、そのときだけは、見た目にはまとまった対応をし、しきりに謝った。しかしそのすぐあとには、隣のベッドの男の持ち物を勝手に使って、また注意を受けた。
そしてその日の夜。実はクリスマスイブだったが、病院の電気が消えた頃から、彼は、影のようなものが襲いかかってくるように感じはじめていた。窓の外から、誰かが彼を窺っている。ベッドの横のフットランプは、まるで火のようにチラチラしている。いや、火に違いない。火事になりそうだ。いや、もう火事なのかもしれない。
彼にはそのあとの記憶がない。なぜ酸素ボンベを四階の病室の窓から外へ投げたかも、覚えていなかった。
彼が正気に戻ったのは、精神病院に入院して一週間ほどしてからであった。派手な立ち回りのわりには、回復は早かった。彼は典型的なアルコール離脱症状を示したのである。
回復は早かったが、事件が大きく、会社にも知れてしまった。病院や心筋梗塞の男にも、かなりの賠償をせざるを得なかった。真に困難なのは、これからだ。ふたたび酒に逃げることなく、一歩退くようにしながら態勢を立て直さねばならない。過去への執着をすべて捨て、地味な人生に甘んじるのだ。
私の経験によれば、このような男たちの多くは、その後転落の一途をたどってしまう。ふたたび酒を飲み、やがてまた精神病院にやってくる。
むろん、そうならない男たちもいる。私には、彼がその一人と見えた。それはきわめて簡単な理由による。平凡でおとなしいと思えた妻は、よく見れば、すこぶる忍耐強そうではないか。平生は夫の言うことをよく聞く受け身の女だが、ひとたび困難が来れば、毅然として事に臨む勇気があるように見える。
彼の本質は甘えである。そしてその甘えを無条件で受け入れてくれる、過ぎたる女房がいた。
彼は立ち直るだろう。もし、彼が妻の本当の価値に気づくならば。
母ありてこそ ふるさとの祭りかな
[#地付き]綱代錦泉子(館山市出身の俳人)
[#改ページ]
第八話 春一番が吹く頃
[躁病][#「 躁病 」はゴシック体]鉄鋼会社研究開発部課長◆四十歳[#「鉄鋼会社研究開発部課長◆四十歳」はゴシック体]
背が高く、精悍な体つきの男だった。剛柔流空手三段だという。その日彼は、次長に回し蹴りをくらわせて昏倒させ、警察に捕まった。そして今、傲然たる態度で椅子に座り、私を睨みつけている。
私も椅子に座ると、ゆっくりと間をおいた。どちらが先にしゃべり出すであろうか。むろん、彼の方である。
「おまえの大学はどこだ?」
「あなたの大学はどちらですか?」
「ふん、T大工学部だ。工学博士だ」
「それはすごい」
「あたりまえだ。俺の親父は文部大臣の友人なんだぞ」
「何という名の大臣ですか?」
「おまえは何の権利があって聞くのだ!」
「ここは病院で、私はここの医者です。診察しているのです」
「俺は医者などにかかる必要はない。忙しいんだ。帰る!」
「あなたは、なぜここに来たんですか?」
「そんなこと知るか!」
「自分ではわからないのですね」
「警察が勝手に連れて来たのだ」
「なぜ、警察に連れて来られたんです?」
「警察は当局の言うことを聞いただけだ。俺は予算を勝手に流用していることを指摘したから、皆が俺を煙たがっているのだ」
「予算の流用を指摘しただけで警察が来たんですか」
「だから、計上されていない品物を買ったやつらがいるんだ。ルール違反だから注意しただけだ」
「次長さんを殴ったのではないですか?」
「殴ってなどいない」
「でも、次長さんは救急車で運ばれたということですが」
「あいつは悪党だ。勝手に倒れたんだ」
「そうですか?」
突然、彼は立ち上がり、診察室の真ん中で仁王立ちになった。空手の組手を二、三決めると、私の顔になかなかシャープな突きを入れてきた。彼の拳は私の顔の十センチほど前で止まった。
私は、逃げ出したりはしなかった。いかにも攻撃的だが、あまりすごみはなく、顔つきも人がよさそうだった。だが私が逃げなかったのは、彼が一見して躁病とわかったからである。躁病者は、威嚇はするが、実際に殴ることはめったにない。
彼は本当に工学博士だったし、父も兄も大学教授だった。母親もさる有名女子大学を出ているという。妹まで高校の教師をやっているという教育一家だ。一族の者たちはみな優秀であり、もちろん彼も優秀であった。彼が傲然とした態度をとるのは当然かもしれない。だが、私は彼に対して下手に出るようなことはしない。躁病の傾向にある人びとは、おおむね権威主義者である。精神科医は権威をもって診察を行なうことが大切なのだ。
彼は小学校三年生以降、高校三年までずっと学級委員だった。中学校、高校では生徒会副会長になった。すさまじくよく勉強をし、真面目で几帳面で、なおかつ勇敢に筋を通すので、周囲は結局、彼に従わざるを得なかったのだ。このような子供は、学級委員にはうってつけである。少し筋にこだわりすぎるということはあるが、そんなことは学校の中ではほとんど問題にならない。学校というところは、結局のところマニュアルどおり、筋書きどおりに動くことが最良とされるところだからだ。
しかし、この華々しい学校生活においても、どうにも達成できず、不満に思い続けていたことが彼にはあった。小学校時代の成績は一番で、彼には敵はなかったが、中学後半から高校にかけては、常に二番であった。テストで一位になることはたびたびあるのだが、総合成績では二位になってしまうのだ。人はたいてい、このように、どうにも越えられない他者に出くわしてしまうのだ。
彼がトップになれない理由は単一ではないが、ひとつあげれば、彼はここ一番にやや弱いようだった。マニュアルどおりの答を求めてくるフォーマルな試験はいつもトップだったが、教師がたまに気まぐれで出すような、かなりひねった問題になると、他の子供と同じくらいにできが悪かった。総合でトップになるのは、こういう問題でもそこそこに得点できるような子供だ。さらに、こういった試験のときにだけ高得点をとる子供もいる。人生の後半戦になって、彼らが表舞台に躍り出てくることも多い。
ともあれ、彼が高校卒業までにもらった賞状は百枚近くあった。スポーツもそこそこにはやれたし、ピアノもちゃんと習っていた。およそ教育という枠の中で与えられるものはすべて与えられ、それをよく消化し、優秀であり得たのだ。
大学入試もどちらかというとフォーマルな試験である。彼は、日本でも三本の指にはいる国立大学の工学部に現役で入学できた。
彼は、高校の同窓会には、特別の用がない限り必ず出席した。そして自己紹介の時、大学名のあとに学部名をつけることを忘れなかった。なぜならその大学では、彼が入学した学部の試験がいちばん難しかったからである。
彼が大学に入った頃は、学生運動が盛んだった。しかし、彼はそのような運動には一切加わらなかった。空手部に入っていたし、イデオロギー的にも右寄りだったからだ。学生時代でも身なりはきちんとしていたし、長髪など一度もしたことはなかった。やりはじめると何でも凝る方で、空手もめきめきと強くなり、三年のときは主将になった。弁舌もさわやかで、長身だったから、左翼の学生からゲッペルスというあだ名をつけられていた。
兄よりも行儀はよかったし、母親に対してはとくにこまめに気を遣ったので、両親も彼を親孝行な息子だと思っていた。
大学に少し残って学位を取ると、彼は大手鉄鋼会社の研究開発部に就職した。日本で三本の指に入る鉄鋼会社だった。そろそろ鉄の需要に翳りが見えだした頃で、鉄鋼会社もハイテクノロジーへの参入を試みはじめていた。工学博士のような人材がさらに重用される時代になっていたのだ。
その会社の社長は、彼と同じ大学の出身だった。伝統的に技術系の人間が経営の主導権を取ってきた会社だった。だから彼は、掛け値なしのエリートだった。
彼はそもそも権威主義者だった。だが権威主義というものは彼の脳味噌のスタイルであって、身体全体が権威主義であったわけではない。いかにきちんとした衣服で身を包もうとも、身体は、脳味噌の意図とは逆の行動を迫ることがある。その代表的なものが、性に関することだ。
彼は、頭の中では、立派な教育を受けた楚々とした美人を妻に迎えたいと思っていた。彼は権威主義者ではあったが、打算的とは言えなかった。だから、金持ちの娘や有力者の娘にこだわっていたわけではない。昔の映画のヒロインのように、清純で、男をそれなりに立ててくれる女を妻に迎えたかったのだ。しかし、そんな娘がそう都合よく周囲にいるはずはない。いたとしても、その娘が彼を好きになるとは限らない。
彼は、ハンサムな割には女にもてるとは言えなかった。彼は女に対して冷たい男ではない。よく気を遣っていろいろとサービスも怠らなかった。美女が暴漢に襲われているのを見たら、彼はもちろん得意の空手で助けただろう。もっとも勇敢な男たちの一人なのだ。
そういうことのよくわかる女は彼を好いてくれたが、実際に彼が好きになるのは、そんな女ではなかった。彼の脳味噌の、すなわち観念の中の女とも異なり、かなりミーハーでセックスアピールに富む女たちに、彼は魅かれた。要するに普通の男と同じように性的であっただけなのだが、有名な国文学者を父に持つ教育一家の中で、彼の性欲はいささか窮屈な枠の中に押し込められていたのだ。厳格な父や学校が彼に与えた観念上の規律は、必ずしも彼の旺盛な性欲を統制しきってはいなかった。そのことは、彼の女に対する態度にしばしば反映された。どうにもぎこちなく、のびのびした振る舞いができないのである。女たちは、陰で彼のことをこのように言った。
「すかしてるわ」
彼は二十代の後半、仕事に黙々と打ち込んだ。一見、女になど興味があるようには見えなかったし、大学までの彼とは異なり、妙におとなしかった。会社は彼の手堅い仕事ぶりを評価したから、昇進は順調だった。
三十歳を過ぎた頃だった。彼はバンコク勤務を命ぜられた。
日本の男は海外に出ると、おおむね性的に放縦になるという。日本の男だけではないのかもしれないが、自分の育った文化から離れることで、それまであった文化的抑圧が取れるのだろう。
彼は、タイの女たちを相手に性欲を発散させることができた。円はすでにかなり強くなっていたから、タイの女を抱く値段ははなはだ安かった。物価もむろん安い。身辺の世話をするメイドの月給が、円で一万円以下だった。彼の給料は三十万円以上だったから、リッチな気分でのびのびとできた。おまけに暖かな気候である。
彼はタイに来て、妙にうきうきとして元気がよくなった。昼は猛烈に仕事をして、夜は猛烈に遊んだ。彼は日本からきたエリートサラリーマンである。タイの素朴な女たちは、それだけで彼を尊敬した。「すかしてるわ」なんて考えもしなかったはずである。
彼はあるクラブでかわいいタイ娘に恋をした。彼はかなり強引に結婚を申し込んだ。彼がタイ娘と結婚するという話は会社の同僚も知らなかったし、親にもまったく知らせていなかった。親や会社にわかったときは、すでに書類上の手続きが残っていただけであった。親は猛反対をしたし、会社もあまりいい顔はしなかった。周囲の人間は、彼の行動が慎重でないとみなしていた。
彼は一年ほどでタイ人の妻を連れて帰国した。帰国してからは、彼はまた今までと同じように真面目で仕事のよくできる男となった。タイにいたときに見られた、妙にうきうきとした強引な行動は静まり、むしろ控え目ですらあった。彼が落ち着いた勤勉さを示していたから、タイ人の妻も、異国の地にすぐに慣れていった。子供もまもなく生まれた。
彼が三十五歳くらいになったときに、鉄鋼会社は構造不況業種に数えられるようになった。鉄は発展途上国でも生産されるようになってきたし、造船不況とも重なったからである。会社は合理化を急ぎ、研究開発部門にてこ入れをした。
彼は主としてベアリングの研究開発に携わり、その部門の室長をやっていた。
ベアリングは限りなく抵抗の小さいものが最良とされ、この分野で日本は世界をリードしている。だがベアリングは、ハイテクの時代にあってはいささか古風で地味な分野である。会社は、そろそろ現実感の出てきた超伝導などの分野に予算を注ぎ込むようになってきた。
彼は、少し焦りを感じた。研究開発部長がベアリングはもう古いなどと発言して、彼にちょっとした不安を与えたのだ。こういった、考えようによっては細かなことが、彼の心理を大きく圧迫したのである。
どういう原因によって心理的圧迫を感じるかは、実は、人によってそれぞれ異なっている。敏感な人にも鈍感な部分はあるし、鈍感な人の中にも敏感に反応する事柄がある。つまりそれは人によってまったく異なっているから、ある個人にとってどういうことがプレッシャーになるのかを発見することは、精神科の治療の中で重要なことである。
彼は小学校三年生以来、およそ人に後れをとったことのなかった男である。トップではなかったとしても、三番以下に落ちたことはない。会社でも同期の社員のトップ集団にいる。彼は部長の言葉に、時代遅れの研究のせいでトップ集団の中からズリ落ちる不安を感じたのだった。
おりしも会社の業績は落ち、鉄の製造部門は大幅に縮小されつつあり、会社の先行きに、かつてない暗雲が漂っていた。会社は七千人ほどの人員整理を行ない、残った社員の仕事は当然厳しくなった。研究部門に対しては、会社はさかんにアイディアを募集し、論文の提出を求めた。
そんな年の暮れ近く、彼はこれまでの数倍の論文や企画書を提出し始めた。彼はあまり眠らないで論文を書いていた。徹夜した次の朝は誰でも少し爽快な気分になる。妙に明るくなり、少し多弁になるから、このことをうつ病の治療に利用することもある。しかしおおむね、徹夜は一晩以上するものではない。それ以上続けると次第に人間は苛立ちやすくなり、現実的判断は、深みを欠いたワンパターンなものになる。彼の提案や論文は、数が多い割にはほとんど採用されなかった。いずれも、すでに誰かが考えたことだという理由で却下されたのである。
彼の焦りは、また少しひどくなった。ただ、外見的には妙に元気で、すばらしく積極的になっていた。仕事だけでなく、女に対してもそうだった。
年が明けて、春一番が吹く頃だった。彼はこの一カ月、一日数時間しか眠らないで画期的なアイディアづくりに専念していたが、ふいに、高校時代の同級の女生徒のことを思い出した。彼は昔、彼女のことが好きだった。その後もときどきは思い出していたから、同窓会のときなどになんとなく消息を気にしてもいた。彼女はまだ独身で、さる大学の研究室で秘書をしていた。
彼がこのとき、次のような確信に至ったことについて、私には心理的な因果の説明ができない。ただ、こういった突如の確信ということは、人間の心にまれならず起こるということだけは言っておこう。おりしも、木の芽時という愛の季節であった。
彼は確信した。彼女こそ教養のある楚々とした美人ではないか。今もって純潔のまま清く生きている。言い寄る男たちを袖にして、理想の男を求めている。そして理想の男というのは、自分みたいな男をいうのではなかろうか。なるほど自分にも多少の欠点はある。だがいったい、彼女を幸せにできる男が、自分をおいてほかにいるであろうか。いるわけがない。
彼は突如、タイ人の妻を些細なことで非難するようになった。タイ人の妻は少し派手な性格ではあったが、よく彼に尽くしているといえた。日本語もうまくなったし、子供ができると日本社会への適応にもいっそう努力するようになった。だが、彼はにわかにその妻に対し不満を抱きはじめたのだ。
会社の幹部連中は、自分を抜擢することに抵抗を示しているらしい。それは、この素性のわからぬタイ人の妻のせいではないか。自分のすぐれた論文が採用されないのは、自分を抜擢する気がない証拠だ。そう考えたのだ。彼は、しごく一方的に離婚を宣言し、大学秘書をしている同級生に、猛烈な求愛を始めた。
彼は、今までは、これほど自分勝手ではなかった。だいたい、妻は二人目の子供の出産を控えてもいたのだ。そんなときににわかに離婚を宣言することなど、大学を出た立派な男のすることではむろんあるまい。
彼のこの行動は、妻だけでなく、両親や兄をも驚かせた。すでに助教授になっていた兄がやってきて、弟の考えを質した。兄には、弟の様子が少し変だということはわかったが、どこが変なのかを具体的に言うことはできなかった。もともと仕事熱心な男だったが、さらに仕事に打ち込んでいるように見える。だが落ち着きを欠いているし、話す内容がかなり誇大的である。彼は兄に、自分の提出した案はほとんど会社が採用したと豪語した。実際はたった一編を除いて却下されてしまったことを兄は知らなかったが、少しオーバーだということには気がついた。
彼の実際の言動には、はっきりと指摘できるような混乱はない、だが、周囲の人びとへの配慮をまったく欠いているように見える。ひどく金使いが荒くなり、高い背広を新調したり、高価なオペラの切符を十数枚も買って人に与えたりしていた。
あるいは、朝早くからいたるところに電話をすることもあった。電話の内容は、新しい研究開発で自分が大発明をしたとか、国のプロジェクトを委託され何億円もの研究費をもらえる、といった非現実的な内容だった。慎重な兄も、彼の頭が少しおかしくなっていると結論せざるを得なかった。
幸い兄の言うことなら彼も聞いたので、知り合いの精神科の医者に受診させた。外来で薬をもらい、一カ月もすると次第に以前の彼に戻った。精神科医は躁病だと言い、過去にも似たようなことがあったかと兄に聞いた。兄は、以前タイにいた頃と同じようだと答えた。
会社には知れることもなく、離婚にも至らず、ふたたび彼は以前のように真面目で、几帳面な働き者に戻った。あまり出しゃばらず、控え目で、しかし頑固できれい好きであった。
また五年ぐらい経ち、彼は四十歳を越えた。彼の仕事には粗雑さはあまりない。マニュアルにはもともと忠実な男である。立派に昇進して、一部門の課長になった。この頃には、会社の業績は持ち直していた。鉄がふたたびよく売れるようになったのもさることながら、会社が大都市近くに保有していた土地が、信じ難いほどの値上がりをしたことが追い風となったのである。
彼の人生も、順調であるかのように見えた。タイ人の妻は次第に母としての丈夫さを身につけて、日本の社会への適応も良好であった。しかし彼女は、育児にのみかまけて、彼の気持ちについては理解に乏しかった。
この後、彼にふたたび躁状態が到来するのだが、ここでも私は、明確な原因というものを示すことができない。かといって、起こるべくして起こった遺伝のようなものだと言うつもりもない。
人間の体内には時計のようなものが組み込まれており、ある年齢にはある状態に身体がおかれるのだ、と言うことができる。たとえばおたふく風邪になりやすい年齢とか、ガンになりやすい年齢とか、そういうことだ。これは運命といえるほどのものではないにしても、おたふく風邪にならないためにはそれなりの努力がいる。
彼はこれまでに、二度ほど軽い躁状態になっている。三度目もあり得るのだ。いつふたたびそうなるかは、はっきりとはわからない。だが男の場合、一般的に四十歳を越えたあたりでそうなりやすい時期を迎える。そのことを認識して自重していれば、再発を防ぐ助けになる。しかし彼は、それをまったく知らなかった。
会社はいよいよ遅ればせながら、ハイテク産業に本腰を入れはじめた。鉄が主役の時代は終わったと、開発部長は部下にハッパをかけた。このような時期は、野心家にとっては頑張りがいのある時でもある。ここで得点しておけば、将来の幹部への道が拓ける。
彼は今のところ、トップ集団を走っていた。しかしよく見ると、そのトップ集団の中にも微妙な差が出はじめていた。
残念ながら、彼の前を何人かの男が走っていた。一人はもう青ざめた顔をしているから、まもなく息切れして番外に去るであろう。一人はなかなか丈夫そうだが、人に好かれていないから部長止まりだろう。だがもう一人。あいつだけにはちょっと歯が立ちそうもない。
その男は、ある地方の国立大学工学部の出身だった。しかも、入社当時はまったく目立たなかった。ルーズなところがあり、ときどき上司から注意を受けていた。彼から見ると阿呆みたいだった。しかし、開発部でのその男の評価は次第に高まっていった。人柄がいいので他の研究員から好かれていたし、ときどき独創的な提案を行なっては皆をびっくりさせた。
彼はかなり以前から、その男が気になってはいた。一緒に並んで走っているはずが、スーッといつの間にか前に出られてしまっている。しかも、その男の表情には余裕と落ち着きがあった。どうにもかなわないやつは、やはり会社にもいたのである。
彼は四十歳の坂を越えるときに、その男に勝負を挑んだ。おりしも会社はフレッシュ・アンド・ストロング作戦というスローガンのもとに、社員たちのクリエイティビティを引き出す運動を展開し、一等に百万円の賞金を出す懸賞論文制度をつくった。むろん一等になれば、金だけではなく、昇進の可能性も示唆されていた。
彼は、その論文づくりに打ち込み出した。今度こそ、あの、いつも現れるどうにもかなわないやつ、あいつを打ち負かしたいと思ったのだ。彼の深層心理には、兄にだけは負けたくないという気持ちが潜んでいたのかもしれない。
彼の兄は、小中高と必ずしも彼よりよい成績だったわけではない。しかし、日本でいちばん難しいとされる大学にあっさりと入学し大学院の博士課程まで進み、この頃にはすでに地方の国立大学の文学部の教授になっていた。さほど派手さはないが、いともやすやすと自分の立場を築いているのである。
幼児期から彼は、この兄にだけはどうにもかなわないと思ってきたし、思わされてきた。負けたくない、一度でもいいから兄を打ち負かしたい、彼は心のどこかでそう思うことによって頑張ってきたのだろう。競い合っている男と兄のイメージが重なったとき、彼は自分のエンジンを全開させた。
彼は年末にかけて一日に、四、五時間しか眠らずに、新しい論文づくりに打ち込んだ。しばらくの間はひどく眠かったが、次第に眠気を感じなくなり、やがて三時間ほどの睡眠でも平気になった。
彼は妙に明るくなり、おしゃべりで、活動的になった。しかしその反面、ごく些細なことにこだわり、筋を通すことに以前にも増して頑固になった。忘年会では一人ではしゃぎ回り、年が明けると目に見えて怒りっぽくなった。
一月末に懸賞論文の発表があり、あのどうにもかなわぬ男の出した「インテリジェントビルにおけるアクティブ免振システム」という論文が一等になった。それにひきかえ、彼の出した論文は入賞せず、佳作にすらならなかった。
彼は、大変な剣幕で研究開発部次長に掛け合いに行った。自分の論文を一顧だにしないとはどういうことか。選考委員が愚鈍なのか、さもなくば悪意による陰謀なのかと、怒鳴った。次長は再調査すると約束し、ひとまず彼は引きさがった。
次長は彼の論文を取り出して読んでみた。「究極のベアリング――抵抗ゼロの空気ベアリングシステム」と題されていた。タイトルはなかなか勇ましいのだが、読み進んで、次長は彼の頭が少しおかしくなっていると結論せざるを得なかった。抵抗ゼロのベアリングなど作れるわけがないのもさることながら、裏づけのない数式をやたらに並べ立てた果てに、まったく脈絡なく抵抗ゼロの究極の空気ベアリングが登場するのである。
次長は、ベアリング開発部の主任研究員を呼んだ。彼の様子を聞くと、最近ひどく近寄り難くなっているという。何かピリピリとして、ふいに思いつきで命令を出し、部下がその命令をただちに実行しないと怒鳴り出す。しかし数日すると、自分の言ったことを忘れてしまい、また別の提案をするといったあんばいであった。
次長は、彼にどう対処してよいか迷った。今までの彼の仕事上における功績は、決して小さくはなかった。また、彼は確かに怒りっぽく常軌を逸しているが、まだはっきりとした失敗はしていない。うかつに制裁を加えると、訴えるぞと言わんばかりの様子でもある。
というわけで次長は、もう少し様子を見るに越したことはないと思った。そもそも、あれほどの剣幕で怒鳴り込んできた懸賞論文のことについて、その後どうなったのかを聞きにも来ないのだ。反省したのかもしれない。次長は、彼が落ち着きを取り戻したと誤って解釈した。
彼は反省していたのではなかった。他のことに気が移っていただけであった。彼はふたたび、妻に対し厳しくなっていた。そして、またしてもあの女性秘書に求愛を始めた。彼女のところに朝の五時から電話をするのだ。
女性秘書はずっと独身のままで仕事を続けていた。やや臆病で受動的な質だったため、今日まで結婚できずにきていたのだ。だからこそ、その反面で、彼のような強引な働きかけをどこかで求めているようなところもあった。
彼女が三十五歳ぐらいのときに彼が突然やってきて、好きだと言ったときはいささか面くらった。そのうえ何度も誘われて、ついその気になった頃にパタッと何も言ってこなくなってしまったのだ。よく事情がわからぬうちに、それきりになってしまったのである。せっかくの結婚のチャンスだったかもしれない。彼女はむしろ、自分の反応が遅かったせいだと反省していた。
彼は、ふたたび躁状態となって、彼女へのアタックを再開した。彼女ももう年である。なおふたたび求愛されるなどとは思ってもみなかった。だから、前回よりもやすやすと彼の誘いに応じた。彼の頭が多少正常でなくなっているなどとは、むろんわからなかった。
彼は、女と付き合っていることをまったく隠そうとはしなかった。タイ人の妻はふたたび彼の頭が変になったことを察知すると、彼の兄に電話した。兄は迅速にやってきたが、彼に会って、やや手遅れだったことを悟らざるを得なかった。もはや兄の言うことなどいっさい聞かぬと怒鳴ったからである。
躁病の人をただちに見分けるのは容易なことではない。なぜなら彼らは、常に興奮し続けているわけではないし、行動の内容も個々の場面では、一応の辻褄が合っているからである。しかし、もう少し細かく観察したり、大局的に行動を眺めたりすると、それが周囲との関係をまったく無視した突出した振る舞いであることがはっきりと見て取れる。
昔好きだった女に求愛することは、それだけでは確かに異常なこととは言えないし、現にその秘書にとっては、熱心なラブコールとしか見えない。しかし、これまでの経過を知っている兄や妻から見れば、病気が始まったとわかるのだ。
彼は兄が来て以後、あまり家に帰らず、ホテルを泊まり歩くようになった。ホテルへの支払いはカードなので、むろんあとで付けが回ってくる。家族は彼がどのくらい使い込んでいるかよくわからないのだ。いよいよ兄は、力ずくでも彼を病院に連れて行くしかないと考え出した。
彼は秘書と付き合い出してから、会社では一時、妙におとなしくなった。朝はいちばん早く出勤してくるし、時には泊まり込みで仕事をやっている。ときどき突然休みを取るにしても、その穴埋めはちゃんとやるのだ。もちろん、研究費などを勝手に使ったりもしない。いやむしろ、他の研究グループの金の使い方すら厳しくチェックしようとしていた。
春一番が吹いて、木の芽時がやってきた。彼は、あのどうにもかなわない男の率いる研究チームの予算書をどこからか手に入れてきた。そして、わずか数万円の予算書に計上されていない物品を見つけ、ただちにそのチームに怒鳴り込んだ。
たまたまそこには、研究開発部次長もいた。彼は次長にまで食ってかかり、次長も怒鳴り返した。監督責任者としての立場もあり、彼を抑えねばならなかったのだ。だが、次長が怒鳴ったことは逆効果だった。彼はさらに、こういった予算の流用が起こったことは次長の手落ちであると、傲然と言い放った。
次長や他の研究員が息を飲んで彼のわめくのを聞いていると、彼はにわかに空手の組手を始めた。そして、鋭い気合とともに、次長の後頭部に見事な回し蹴りを決めた。ただし、絶妙の寸止めも行なったから、打撃力はほとんどなかった。次長は大袈裟に倒れ、死んだふりをした。誰かの連絡で警官がやってきた。彼は悪びれた風もなく、パトカーに乗った。
彼は病院の中で、わがままいっぱいに振る舞ったが、次第に落ち着き、退院となった。
タイ人の妻は、今回の入院でかなり苦労させられたが、なお離婚の意志は示さなかった。辛抱強く、彼の療養生活を支えた。彼女こそ、よく見れば清純で男を立てる女であった。
彼はふたたび会社に戻り、ベアリングの研究を行なっている。毎年、年末になると妻に促されて、彼は病院にやってくる。そして、春一番が吹いて新しい芽が吹き終わるまで、予防の薬を飲む。
[#改ページ]
第九話 部長代理の秘められた悩み
[不安神経症][#「 不安神経症 」はゴシック体]証券会社部長代理◆四十二歳[#「証券会社部長代理◆四十二歳」はゴシック体]
秋口、長身で痩せた男が、派手なイヤリングをつけた大柄な奥さんとやってきた。男の方は疲れ切った顔をして元気がなく、奥さんの方は血色はよいがいらいらしていた。
男はこの春、大手証券会社の本社付き部長代理になったという。四十二歳で、昇進は早い方だ。しかし、夏の部長研修会に出て以来、朝の四時か五時頃には目が覚めてしまい、そのあと気分が悪く、布団から起き上がることができなくなった。内科で調べてもらったが内臓には異状がなく、神経科に行くことを勧められたという。
いかにも几帳面で、真面目そうで、母親も教員だったというが、営業マンより教師向きの風貌をしていた。本社付きになる前は営業所の所長を長くやっており、成績はいつもトップクラスで、やり手で通っていた。彼のついた新しいポストは、普通にしていても支社長までは行けるという、幹部となる重要なステップだ。人は彼を羨みこそすれ、不自然な人事とは思わなかった。
春の栄転後、彼がまずとまどったのは、幹部会議で企画書などを説明するとき、緊張することだった。もともと人前で話をするときは気後れする質だったが、今までのところ無難にこなしてきていた。ここにきて、幹部会議の説明でむやみと緊張が強くなったのはどうしてであろう。
「なんだか自信がなくなって……」
彼はボソボソとしゃべり、言葉が途中で消えてしまう。奥さんはいらいらして横目で見ている。
「なんだか、自信がなくなってしまった」
私は彼の言葉を繰り返してみる。
「顔がひきつって苦しくなってくるんです」
「顔がひきつって、苦しくなるのですね?」
「自信がなくなってしまって」
また同じことを彼は言う。
「自信がなくなってしまったんですか?」
「ええ」
「それで、何に自信がなくなったんでしょうね?」
私は、すでに説明されているはずのことについてまた聞いてみる。
「ですから……え?」
彼はここで混乱に陥り、しゃべることをストップさせてしまった。彼の答えは、「ですから、会議で説明することに自信がない」であるはずである。しかし自信のないことが他にもあり、しかも、本当はそちらの方が重要であれば、同時にそのことが思い浮かんでくることがある。疲れて集中力の低下した頭では、そのとき、どちらを言っていいかわからなくなるのだ。一瞬、そのもっと重要なことが思い浮かび、口を衝いて出そうになったのをとどめたために、混乱したのではなかろうか。それは、あからさまには言いたくないことに違いなかろう。
しかし通常、一回目の診察ではこれ以上聞くことはしない。
会議の前の日、彼はあまりよく眠れず、終わったあとは不全感が残り、酒を大量に飲むようになった。どこかで聞き及んだ自己暗示療法というものを受けにいった。人前で緊張しないイメージを思い浮かべ、これを繰り返すことで、本番でも緊張しないでいられるようにするという方法である。この方法は、瞠目するほどの効果はないが、時にかなりの成果をあげる。しかし、背景に別の問題が隠されている場合は、その問題の解決を遅らせてしまう。
どうやら、会議での緊張は少し軽減したかに見えた。だが不眠は改善せず、酒の量も増していた。そして夏の終わり、部長研修会から帰宅してがっくりと気力が失せ、出社できなくなってしまった。
彼はうつ状態にあった。いわゆる、仕事中毒人間の昇進うつ病というやつだ。几帳面で真面目な人間にとって、日本の企業で仕事をする限り、運命的な病いと言えよう。
この病気には、当面、抗うつ剤がとてもよく効く。ほんの数週間でそこそこに元気になり、会社に行くことができるようになるだろう。そして、半年か一年後に再び悪化するはずだ。
彼がどうしてうつ病になったかは、まだ充分に掴み切れてはいない。うつ病は、生まれつきの質にやや由来する。だが、どうしてうつに至ったかを理解すれば、少なくとも、悪化の時期を十年延ばすことができる。十年後のことは、そのとき考えればよい。
少し元気が出てきた頃に、彼に聞いてみた。
「部長研修会のあと、とくに具合が悪くなってますね」
彼は静かに頷いた。
「どうして具合が悪くなったんでしょうね」
彼の表情がやや硬くなっている。彼には何かとても言いたいことがありそうだ。私はじっと黙って、彼がしゃべり出すのを待っている。
「酒癖の悪いやつがいまして」
私はなおも黙って待っている。
「嫌なやつなんです」
やや激しい口調で言った。
「宴席で何かあったんですね?」
「からまれたんです」
「からまれたんですか?」
彼はそのあと口を噤む。
「仕事のことで何か注意を受けたんですね?」
「仕事のことならいいんです」
「仕事以外のこと?」
「つまらんことを言うんです」
「人間って、一見つまらないように見えることの方が傷つくものですよ。そのつまらないと思われることが、あなたの病気と関係があるような気がします」
精神分析療法のように長い時間をかけて聞いている余裕はない。通常の外来では、狙いを定めて一気に切り込んでいく。
「からかうんです」
「なんてからかわれました?」
「小せえって」
彼は小さい声で言った。
「何が小せえって?」
「チンポの小せえやつだって。……四十過ぎて、短小ノイローゼなんて恥ずかしくて」
彼は早口で言ってしまうと、額の汗をぬぐった。
「とても人間的な悩みですよ」
彼がしゃべってしまったことを後悔しないように、こう言って慰めておく。
ともかくも、彼は今日までひた隠しにしてきた少年のような悩みを、私に告げはじめた。こうして、彼の病気に至る物語が次第に明らかになってゆく。
彼は東北の田舎の出身だった。三人兄弟の長男で、小中高と秀才で通し、大学も一流どころに入った。父は、農地改革のあと土地を失った地主の息子で、怠け者で、飲んだくれで、酔うとすこぶる獰悪だった。母は小学校の教員でしっかり者だったが、夫婦仲は悪く、仕事にかこつけて家にいないことが多かった。彼は母を愛し、父を憎悪した。
父は酔うと家宝の刀を畳に突き刺し、夜中でも家族をその前に並ばせて説教した。長男たる彼は正面に座らされ、むやみと怖い思いをした。そのたびに彼のペニスは縮みあがった。彼は物心つく頃より、自分のペニスが人より小さいと思い込みはじめていた。
学校では、そのことがばれやしないかと不安で、いつもすずしい顔をして行儀よく振る舞った。おかげでいつも学級委員になった。
彼は仮性包茎で、放置してもいいと書物で知ったが、大学に入ったとき、こっそりと手術した。一流の大学に入り、包茎も直し、大手の企業に入社できた。これで自信が出、無事に美人の妻を得て、子供もできた。とても順調だった。
彼は若くして都市部の大きな営業所の所長になり、成績を伸ばした。営業成績はすぐ数字に出るから、評価はただちに得られる。業績が伸びて証価されるたびに、彼の自尊心は高まった。昔、母に成績表を見せ、褒めてもらったときのように、幸せだった。
母親はむろん、おまえのオチンチンは小さいね、などと決して言うはずがない。しかし、彼は立派な成績表を見せることによって、自分のペニスが立派でないということを母にも見抜かれないように気を遣っていた。会社でも、見抜かれないように頑張った。
中年になった。美人の妻も化粧が濃くなり、多忙にかこつけてセックスもめったにしなくなった。妻も少しいらいらしていたのだろう。ある晩、布団の中で妻が彼のペニスを触りながら言った。
「わりと小さい方なんじゃない」
とうとう知れてしまったか、と思った。彼の古い不安がよみがえってきた。
表向き多忙という理由によって――確かに多忙だったが――、妻とのセックスを彼の方から避けるようになった。妻も彼に期待することをしなくなり、その分よそよそしくなっていった。彼が会社でいくら派手な成績をあげても、いっさい関心を示さなくなった。
母親が生きていたら、きっと褒めてくれただろうに。
栄転には違いなかったが、本社ではまったく地味な仕事が待っていた。アクの強い部長と、彼より年上の者もいる部下たちとの間の調整が仕事で、こんなことをいくらやっていても、成績表みたいに数字には出てこない。目に見える成果が出ても、それは部長のものだ。彼の縁の下の力持ち的苦労には誰も気づいていないだろう。そんなはずもないのだが、彼の気持ちを支えてくれる母のような存在が欠けていた。
家に帰っても、妻はとっくに寝ている。夜中、彼は一人でウイスキーを飲んだ。
夏になると、朝、目が覚めたとき、言い知れぬ寂寥感が襲ってきた。ひどく孤独だった。いったい、自分は今まで何のために頑張ってきたのだろうか。
夏の終わり、部長研修会があった。研修会の最終日の宴席でも、彼は一人浮かない顔をして酒を飲んでいた。
酒癖の悪い古参の参事がからんできた。まるで父親のようだ。彼が身を縮めてかわそうとしたところ、参事は弱点を見透かすように言った。
「チンポの小せえやつだ」
半分傾いていた彼の自信は、音をたてて崩れていった。この日以来、まったく眠れなくなった。
彼のペニスが大きいか小さいかは、実はどうでもよいことである。ペニスについて自信がないということは、自分の男らしさについて自信がないということだ。彼はその自信のなさからくる不安のために、人に依存して、支えてもらわないと身が持たないようなところがあるのである。
昔は、母が支えてくれた。母が死んでも、風向きがよかったために、勢いでやってこられた。しかし、辛抱の時期がきたとき、誰も彼を支えてくれなかった。
彼を支えてくれる人間を見出せさえすれば、彼はなんとか持つのである。心の通う者であれば、それは誰でもよい。
彼の妻は、彼を支えてくれるだろうか。このままでは、まずやってはくれないだろう。妻はますます彼にうんざりしている。
とはいえ、今まで会社に注いできたエネルギーの何割かを妻に向ければ、妻との関係も改善してくるはずである。結婚以来、彼は妻に、「そのイヤリングをつけるとすてきだ」などと一度も言ったことはなかった。自分に関心を抱かせるには、自分の方がまず関心を示さねばならないということを、彼に教えねばならない。
それにしても、妻との関係が改善するまでにはだいぶ時間がかかる。それまでは、精神科医が彼を支えてやらねばならないだろう。
[#改ページ]
第十話 革命家の生涯
[精神分裂病][#「 精神分裂病 」はゴシック体]労働組合執行委員◆三十九歳[#「労働組合執行委員◆三十九歳」はゴシック体]
午前四時、三十九歳の元革命家は、診察室に入るなり叫んだ。
「革命バンザイ!」
しかし、それ以外は意味をなさない言葉を唾を飛ばしてしゃべり続けるだけである。彼は少なくとも、昨夜の六時からしゃべっていたらしい。爛々と眼を光らせ、全身に力を入れ、身を硬くしているが、ときどきパントマイムのような奇妙なしぐさをする。そのしぐさはどこかわざとらしく、顔の表情と乖離していた。右手を真っ直ぐに突き出し、頭を右にねじりながら反らし、左手は陰部にあてている。
彼があとで語ったところによれば、そのとき、オナニーをしようと思っていたという。しかも、革命家たる彼の耳に神の声が聞こえていたため、神に知れぬようオナニーをしようと思っていた。そこで、頭を右に反らせていれば神に知れぬはずだ、なぜなら自分は左翼だからだ、と考えたのである。それ自体はきわめて奇妙で滑稽な内容だが、彼が必死でいたことは確かである。
このように混乱したときのことを、病気がよくなったあとで詳しく聞いても、心の深層に至るところまで患者自身が答えることはない。ただ、私の経験の範囲で言えば、患者たちはどんなに混乱していても、自分のやっていることは馬鹿げたことだと、どこかで感じていることが多い。そして、馬鹿げたことにもかかわらず、必死でやらざるを得ないということを恥じている。だから、こんな馬鹿げたことに必死になっている自分をごまかすために、ふざけているのだと見せかけようと振る舞っているように思えるのだ。
まさに魂が崩壊しつつあるそのときに、なお、魂は己の崩壊をどこかで認識しているということなのだろう。
彼は元革命家であり、先頃まで労働者だったが、昔から貸家を持っている大家でもあった。中背で痩せており、目鼻立ちの整ったいい男ぶりである。彼を病院に連れて来たのは、彼の長年の店子である酒屋の主人だった。主人は彼の身内に連絡を取ろうとしたが連絡が取れず、しかたなく自分で彼を連れて来たのだ。
彼は誰が見ても病気とわかる様子だったが、身内がいなければ、にわかに入院させることはできない。精神科医が入院を宣告しただけでは、その人間の自由を奪うことはできないのだ。
人のいい主人の努力によって、彼の兄と連絡が取れたのは、朝の六時頃になっていた。彼はその間、わめきとおしている。ベッドに軽く抑制してあったが、この頃には、元革命家の口からは、自分は神である、といった内容の言葉が漏れはじめていた。
彼の兄はしごくあっさりと電話で入院を承諾したが、病院に来ることは渋った。どうしても来てもらわなければならない旨を説明して、十日後の来院の約束を得た。兄といっても二十五歳も年上で、母が異なっており、二十年も会ったことがないという。姉も一人いたが、彼女もまた母が異なっていた。
彼の父親は、東京・上野付近の大きな酒屋の息子だった。若い頃から放埒をきわめ、妻を二度替えた。酒屋は戦災を受けなかったが、たび重なる浪費で身代はほぼ消滅した。
その父親が六十歳になったとき、籍を入れぬままに一緒に暮らした小唄の師匠がいた。彼女は四十歳だったが妊娠して、彼を産んだ。父親は年を取って気難しくなっており、彼には怖い存在だった。母は何をしても怒らなかったが、自分勝手でわがままで疲れやすかった。気に入らないことがあると、ねちねちと文句を言った。
父親は彼が七歳の頃に死んだ。借金が少し残っていたが、それでも家作を二軒残した。その家賃と母の小唄による収入で、生計はあまり苦しくはなかった。
母のところに小唄を習いに来る女たちは、整った顔立ちをした彼を猫のようにかわいがり、彼がひょうきんなことをするたびに喜んだ。眼を見張るようなことをしたかと思うと、わざと少し失敗してはらはらさせてみたりすることが、とりわけ彼女たちをひきつけるようだった。そうでもしないと母は彼のことを忘れていたし、女たちは彼に小遣いをくれなかった。
彼が十四歳のとき、母は持病の心臓病で死んだ。心細かったが、寂しいとはあまり感じなかった。彼は小さな頃からすでにひとりで寝ていたし、おおむね何でもひとりでやってきた。寂しさはむしろ、母が死ぬ以前からあったのだ。
彼は学校でも女子生徒によくもてた。ひょうきんで、人を食った態度で皆を笑わせていたからだ。かわいい顔立ちで、親切でもあったので、人気者だった。
しかし彼は、外見上磊落に見えても、些細なことにこだわりを見せ、ふいに相手から去ってゆく人間である。彼と関係をつくったまわりの者は、いつもしばらくあとになってからそのことに気づくのだった。
彼には年の近い兄弟がいないため、欠点をさらけ出しての確執を経験したことがなかった。母は喜ばせておけば甘い女で、彼を傷つけようとわざわざ攻撃などしてこない。
兄弟は最初の敵である。互いに競い、傷つけ合うことで、互いに強くなってゆく。親子の関係は人の愛し方の基準となるが、兄弟との関係は傷つくことの練習問題だ。そして彼は傷つくことを練習していなかった。
彼は、付き合い出したはじめは過剰なまでに親切である。その親切を彼は、表向きは無条件でやっているようにしていたし、相手のことを心配しているのだと自分自身で信じていた。しかし、無意識的には、相手からの賞賛と気遣いを強く求め、自分を傷つけに向かってくることのないよう保障を要求していたのである。そしてそれがあまり期待できなくなったとき、ふいに彼は去ってゆく。
「冷たいから嫌いだ」
彼は人から去ってゆくとき、いつもそう言った。
彼は周囲にやや不良っぽく見せ、勉強もまるでしていないように思わせていたが、一人でいるときはよく勉強していた。実は努力家で、勉強は好きだった。一浪して、難しい私立の総合大学に入学した。
浪人中、高校時代の同級生と半ば同棲していたが、大学に合格すると別れてしまった。その別れ方は相手にとってはかなり急だったし、ふたたびよりを戻そうという気を起こさせないほどそっけなかった。
彼が大学に入った頃は、学生運動がいちばんトレンドな時代だった。政治を語らない学生は遅れているとみなされたし、構内で演説をぶつ姿は華やかであった。カッコマンたる彼がそこに魅かれぬはずはなかった。
たまたま付き合いはじめていた女子学生が、ある党派の下部青年組織に属していた。だから誘われるとすぐ、その組織の一員となった。連日のグループ活動は楽しげに見えたし、運動のしかたが穏健なので、ついてゆける気もしたのだ。なにより、女からの誘いだから断らなかった。
しかし彼は、組織に入ってから数カ月で失望した。いかにゆるやかに見えようと政治組織であり、その原則は厳しいものだった。末端は十名ほどの班に分かれ、班長がおり、班相互の横の交流は制限を受けていた。秘密が漏れるという理由だったが、むしろ彼がとまどったのは、班長の権限がかなり強く、その上のブロック委員に至っては指導者として彼らの上に厳然と君臨していたということだった。ブロック委員はたいてい、組織の上部団体である党派の構成員だった。
青年組織の中で組織の活動に忠実な者は、ほどなく上部団体の党員になるよう勧められ、党員になると青年組織の幹部構成員になっていく仕組みだった。
ダジャレを得意とし、ひょうきんだがあまり班長の指示に従わず、女子学生との関係もにぎやかな彼には、いくら待っても党員の誘いはかからなかった。無視されていたのだ。無視に敏感な彼は、いささか傷ついた。彼を誘った女子学生との関係にも飽きてきた。
ちょうどその頃、その党派の有力な構成員だった詩人が除名された。文化大革命が起こり、党派と中国との関係がまずくなった。詩人は党内の中国派だった。
その詩人のつくった有名な歌は、以後パタッと組織では歌われなくなった。なぜ歌わないのかと聞くと、ブロック委員は歌の一部の表現を取り上げて、ブルジョア的だからだと真顔で答えた。それを聞いて、いいかげん組織に嫌気がさしていた彼は、ついにやめることを決意した。女との関係もついでに切れると、どこかで計算してもいた。
しかし、彼はすでに十分政治運動に浸っていたし、頭の中にはマルクス主義がすみずみまで染み込んでいたために、もはや普通の学生には戻れなかった。より過激な、より派手な党派に志願して入ったのだ。
おおむね、過激な党派では、アジ演説が秘められた攻撃性を発散するのにきわめて有効な手段になる。攻撃的な者から順にグループのリーダーシップを握っていくのが常だった。
彼はあまり攻撃的な男ではない。しかし、グループ内ではそこそこの位置にいた。理論をよく勉強していたからである。
過激派といわれる党派にはいろいろあるが、彼は比較的穏健な、中国共産党の影響の強いグループに属していた。しかし、彼はこの党派にも一年ほどで嫌気がさした。そもそも彼にとって、革命運動など肌に合うはずはなかったのかもしれない。
彼は次第に大学に行く回数を減らし、家にこもるか、浅草あたりの映画館に行くかして毎日を過ごしはじめた。貸家からあがる金で生活費はまかなえるから、アルバイトもしない。しかし、勉強は手につかなかった。組織の仲間と会うのは嫌だったし、機動隊と渡り合うのも怖かった。とにかく集中できず、何もかも面白くなかった。女さえも、である。ときどき、死にたい気持ちになった。
結局、一年間はほとんどぶらぶらしていた。
そのうち教育学部の女子学生と知り合い、同棲を始めた。彼はハンサムなのだ。黙っていても、女をひきつける力はあった。この同棲も、女の方からやってきて一緒になったといったふうであった。彼は毎日ごろごろしていたが、彼女はいろいろと世話を焼いてくれた。
二年が経った。彼が学生運動から完全に足を洗ったと思っていた頃、党派がやってきた。党派組織から抜けることは許さない、ということだった。彼は今まで、気に入らなくなるとすべて放り出してくることで、心理的平衡を保ってきた男である。ところが党派は彼にそれを許さず、どこまでも追ってきたのだ。彼は恐怖にとらわれた。党派は攻撃をしかけてきた。彼を呑み込もうとしていた。逃れるすべはないように感じた。ヤクザなら小指一本ですむかもしれないが、党派はどのような妥協も許さないだろうと思えた。もし彼がこのとき一人であったなら、病気になるしかなかった。病気か自殺なら、党派は見逃したであろうからだ。
彼の同棲相手は、そのようなことにあまり動じなかった。彼が組織に組み込まれて政治運動をするのが嫌でしようがないと見て取ると、こう言った。
「適当に付き合ってればいいじゃない。うまく立ち回っていれば、そのうちなんとかなるわよ」
屈託なくのびのびと言ってのけた。
彼女は、元気のない彼の面倒もよくみた。彼は少し元気になり、また党派の活動を始めた。そして党派を離れようとする連中に、苛酷な振る舞いをするようになった。
二年留年して大学を卒業した彼は、左翼の影響の強い組合員方式の会社に就職した。会社は、組合員の生命保険や損害保険を扱っていた。理事や幹部社員には労組出身者がなったし、他の労働組合からも人が送り込まれてきたりしていたので、仕事をしながら運動を続けることができたのだ。
七年ほど経った。同棲していた女と結婚して男の子が一人生まれた。妻は小学校の教員で、忙しかった。彼も家事や育児を分担させられた。妻はそれをごく当然と思っていたが、彼は、自分が子供を好きになれない人間だということに気づいた。
子供は親に依存した生きものである。それも、子供のしでかしたことはすべて親の責任に帰せられるというほどの、強い依存である。普通の親にとっては当たり前のこういったことが、彼には限りなく煩わしく感じられたのである。
彼は、大学時代に党派から加えられたストレスを克服したおかげで、強靭になれたと思っていた。それに、近頃は会社の労働組合の執行委員にもなって、自信がついてきていた。だが、不安はまだ他にあった。過激派内の内ゲバが彼の党派にも及びかねない形勢だったからだ。もっとも陰惨な闘争を繰り返している党派とは異なっていたが、一歩間違えば狙われる可能性があった。
彼はもはや、かつてのようにダジャレは言わなかったし、ひょうきんな態度も影を潜め、言葉を選んで丁寧に自分の考えをしゃべるようになった。
ふいに、きわめてふいに、彼は妻に離婚を宣言した。なぜそういう態度をとったのかは、実は彼自身もよくわかってはいなかった。ただ、表向きの理由は、これからも労働運動を続けていくのに妻子を危険な目に遭わせるわけにはゆかないということだった。妻にそう言うと、彼女は、
「ふん、やっぱり臆病者ね、あんたは」
と言っただけで驚かなかった。彼がいずれ去ってゆくのを予感していたかのようだった。
彼は、自分の貸家からかなりの家賃が入ってきていることを、どれだけ認識していただろうか。安い給料でも労働運動を続けていられたのは、その家賃のおかげである。また、彼が妻と別れるとき、慰謝料や子供の養育費についてそれほど悩まなかったのも、その家賃のおかげであった。
彼は東京のど真ん中に住んでいながら、電車やバスをあまり使わなかった。ほとんど車を使っていた。行く先々の駐車場代だけでもけっこうな額になっていたが、彼はまったく気にしなかった。彼は額に汗して、生活を賭けて働いたことがなかったのだ。
彼は離婚すると、すぐ別の女と付き合いはじめた。
五年ほど経った。彼は労働組合の執行委員を続けていた。会社が大きくなってゆくうちに、次第に労働運動などに興味を持たない社員も増えてきていた。古いタイプの労働運動は退潮傾向にあった。会社の力が強くなっていた。そのおかげで、彼は今まで主に外回りをやっていたのが、内勤に異動させられてしまった。
今まではいろいろな職場に行き、そこで集めた組合費の集金をすることなどが主たる仕事だった。この仕事は、要するに人が集めておいた金を預かってくるだけだから、行けばいいといった体のもので、何の苦労もいらなかった。また、中央の労組の会合などに出席もしやすかったし、他にも時間は取りやすかった。
彼は内勤になったことに文句は言えなかった。外回りがあまりに長かったし、内勤でなければ仕事上のポジションも上がらなかったからだ。
しかし、他の社員と一緒に机を並べて仕事をするのは、さほど楽なことではないと、彼は悟った。そもそも彼は、やや落ち着きのない人間で、ずっと同じ場所にいるのは苦手だった。バスや電車が嫌いなのもそのせいなのだ。バスや電車は彼の意志によらずに動くし、待たされることにも耐えねばならない。一方、車は彼の意志で勝手に動かせる機械である。待つことはあっても待たされることは少ない。一定の場所にずっといなくてはならない苦痛に加えて、事務処理的な仕事にも不慣れな彼が内勤に戸惑ったのも、当然である。
彼はこの頃、また別の娘とねんごろになっていた。旅行代理店の窓口で働いていた彼女は、二十八歳だった。彼が労働組合の大会を地方で開く手配をするために旅行会社に出向いたときに、知り合ったのだ。
今度は彼の方が積極的だった。彼女の方もそろそろ適齢期だったし、早く結婚して家を出たかったため、彼の押しに屈した。
彼はその頃、やや辛かったのである。彼の先輩にあたる労働組合の委員が、内ゲバに巻き込まれて死んでいた。ひょっとすると自分も狙われはすまいかという思いが強くなっていた。党派は忘れた頃にやってくるものなのだ。学生時代に党派に連れ戻されたときの恐怖が、また襲ってきた。
彼を今日まで労働運動に駆り立てたのは、そのときの恐怖である。彼は、しっかりした女にすがってその恐怖をやわらげ、辛さをいやそうと思ったのだろう。
おりしも、彼は仕事に対する新たな悩みをも抱えていた。仕事の量は一日のうちに処理できないまでになり、遅くまで残業して仕事をこなすようになった。彼は労働というものをはじめて行なうことになったのである。会社は拡大しつつあり、地方の同種の会社との系列化の話も出ていたから、いくら労働組合の幹部だからといって、それほど仕事が軽減されるはずもなかった。
彼は、このまま労働組合の執行委員を続けることは難しいと感じはじめていた。会社側に仕事量を減らすように交渉してみたが、あっさり蹴られた。それならば執行委員を辞めなさい、というしごく当然の回答だった。元労組の幹部だった部長は、労働組合がつくった会社に労働組合があることがそもそもおかしい、とまで平気で言ってのけた。
彼は執行委員を辞めたくなかった。辞めればただの平社員である。しかし、彼はくたびれていた。
彼は娘との結婚を考えはじめた。さすがに四十歳も近くなり、身を落ち着けたくなったのだ。年は離れているが彼は悪党ではなかったし、すこぶる親切だったから、娘もはっきりと結婚を望むようになった。
付き合いはじめて半年経ち、そろそろ結婚の取り決めでもしようかという頃だった。娘は彼に両親と弟を紹介した。
彼女の父は暗い印象の男だった。弟は生気がなく、仕事をしていない様子だった。娘は、弟が最近精神分裂病になったことを彼に告げた。まだ退院したばかりだという。母も平凡な女だ。四人の中で娘がいちばんしっかりとし、生き生きとしていた。
彼はとたんに、娘に対する気持ちが薄れてゆくのを感じた。弟が精神分裂病であることを嫌ったのだ。
思うに、精神障害者にとって、ファシズムの時代は辛い時代だった。しかしマルクス主義もまた、必ずしも精神障害者にとって生きやすいとはいえない。そして資本主義社会は、彼らに多少の余り物を分け与えはしたが、余り物以上のものを与えることは決してない。市民は皆、精神障害が嫌いなのだ。彼の精神病についての理解が古風であるのも、致し方ないことではある。革命家であろうと、下町の小唄の師匠であろうと、そして私の知る限り、いかなる宗教家であろうと、精神病者についての考え方には大きな差はないように思える。
彼女の弟のことを知って以来、彼は次第に結婚について及び腰になってきていた。彼はナルシストである。だから、娘がかわいそうで別れにくいのだと思っていた。だが娘は、自分のことをかわいそうになどと思って欲しくはなかった。はっきりとした態度を望んでいたのだ。
付き合いはなお続いていた。彼はちゃんと家まで送ってくれるし、さまざまな支払いもすべてしてくれるが、彼女が帰ろうとすると甘えた口調で、「もう少しいてよ」などといつも言うのだった。一人になるのが寂しいのである。
彼と一緒にいると、親切さはあるが、それ以上に独り善がりな押しつけがましさがあった。例えば彼女がカメラを持ってゆくと、写してやるとばかりにカメラを取り上げ、やたらにシャッターを押す。しまいにフィルムがなくなり、いざ肝心なときにフィルムがない、という結果になるのである。
あるいは、こうと決め込むと強引で、彼女の友人にまで文句をつける。「あいつは冷たいやつだ」「腹黒いやつだ」などと、強い調子で言ってくる。自分の判断が正しいと信じて疑わないのだ。
彼女にとって、彼のこういったおせっかいがとくに鼻につくようになったのは、彼が必ずこう言うからだ。
「僕は、君のことが心配でしようがないから言うんだ」
彼女は、別れようかと思いはじめた。そして、次第に彼から距離をおきはじめた。以前から彼女を好きだと言っていた同僚を見直すようになった。その同僚は、不細工で愛敬はないが、彼女が自分に好意を示すようになるのを待っていた。この「待つ」ということのできる愛は、一見地味に見えても、豊かな内容を有しているものである。
彼女は、革命家に別れを告げる決心をした。
革命家は、かつて女に捨てられるという経験をしたことがなかった。傷つくのを恐れていたから、捨てられる前に捨ててきたというべきかもしれない。
彼は結婚するのは嫌だったが、若くてしっかりした彼女とは別れ難かった。今までの女がそうだったように、このままの形で付き合ってくれればいいのだがと、虫のいいことを考えていた。彼の父親がそうしていたように。
ある日のこと、彼女は言った。
「別れようと思います」
彼はそのとき、苦しいさなかにいた。少しずつ、少しずつ、濁った暗い影が彼の心を覆いはじめていた。だから、女が去るのは嫌だった。
「他に好きな男がいるのか?」
「ええ」
彼女は正直に答えた。
「俺、それ妨害するよ」
彼女は驚いた。そこに、自分を見捨てる者に対する復讐という攻撃的な甘えだけでなく、やめるものを総括しようとする党派の理屈すら感じられたからである。彼が本当に彼女を愛していたのなら、決して出てくるはずのない言葉だった。
彼は妨害行動には出なかった。それほど質は悪くなかったし、だいたい、彼女にふられたことで、気力ががっくりと落ちてしまい、そんなことができる余裕などなかったのだ。
彼の心の中に少しずつ闇が広がっていった。もはや、日々の仕事をこなすのも精一杯だった。
彼は専従の労働組合員として扱ってもらうために、中央の組合の書記長から会社に働きかけてもらえるように頼んだ。かねてより、書記長は彼にそうしてやると約束していた。専従になれば、給料は変わらないが仕事の量は半分になる。しかもこれは、労働組合員としてのエリートコースだった。
だが、書記長はやんわりと彼の申し出を断った。その代わりに「ヤミ専従」になるような工夫をしてみるように勧めた。彼は先輩として長く信頼してきた書記長にも裏切られ、見捨てられた気になった。また少し、彼の心の中の闇が濃くなった。
専従は会社が全額給与を支払うのに対し、ヤミ専従は給与の半分を労働組合が出す。だから、組合の承認がなければヤミ専従にはなれない。会社は、彼がヤミ専従になることも認めなかった。書記長が執り成すという話もなかった。
彼は焦り出した。いずれは中央本部の執行委員になりたかったのだ。中央の執行委員になれば、うまくゆけば、組合関係の組織の上層まで行ける。市会議員や県会議員になる可能性も出てくる。それに、かなりの額の不定収入が期待できる。だが、彼が自分の能力について思っているほどには、周囲は彼を評価していなかった。
焦った彼は、きちんと根回しもしないままに、ヤミ専従のことを組合の会議に提案する愚を踏んだ。彼とは党派を異にする一派から異論が出され、無党派の組合員が同調した。そして逆に、新しい提案を出されてしまった。
「もう十年も執行委員をやっているんだから、いいかげんに代わってもらおうではないか」
彼は、圧倒的多数によって罷免されてしまった。ただの平社員として机に向かわねばならなくなった。それにしても、今日まで彼を縛ってきた党派は、何もしてくれなかったではないか。
闇はいっそう深くなった。
会社の同僚は、彼の仕事の遅さにいい顔をしていない。いつのまにか、年下の者が係長になっている。課長は口うるさく彼に注意してくる。
ところで、いったい彼はこれまで何を望んで生きてきたのであろうか。
彼はわからなかった。
革命だろうか。
自分は革命を本当に望んでいたのだろうか。無理矢理党派に組み入れられてきただけではないか。
もはや何日も、彼は眠れなかった。
ふいにまた、過激派同士の内ゲバの記事が新聞に載った。
彼は恐ろしくなった。今まさに、敵対する党派の連中が鉄パイプで殴り込んでくるのではないか。しかも彼には、誰一人助けにくる者はいないのだ。
数カ月経つと、彼は、職場の人間が自分を嫌っていると感じるようになった。執行委員を降ろされたとき、すでに、一座の中心から外されたという大きなショックを受けていた。彼には、こういったことから心理的に立ち直る訓練ができていなかった。
彼は一方的に傷つき、激しい怒りを職場の者たちに感じた。むろん怒りは内在化し、職場の人間が皆、彼に敵意を持っているという、逆転した心理的投影を行なっていた。
彼は職場に出ると、すさまじく緊張するようになった。人間は精神的な緊張が長く続くとさらに孤立し、他者に対して被害的な考えを抱きやすくなる。相手のなんでもない言葉が、自分を非難しているかのように感じられてくるのだ。
彼はついに、自分から会社を辞めた。組合は彼を引き止めなかった。
その後、小さな会社にいくつか勤務してみたが、いずれも長くは続かなかった。どこに行っても、周囲の人間が彼を嫌っているように感じられたからである。
そのうちに、ふいに、世の中がしらじらしく感じられるようになった。生き生きとしたもの、心暖まるものは何もかも消え失せてしまった。
精神病が始まったのである。
道行く人びとが異邦人のように感じられるし、自分に対して何事かを仕組んでいるようにも感じられるようになった。言葉で表し得ない恐怖が、彼の心を覆いはじめた。
人の話し声がヒソヒソと、特別な響きをもって聞こえてくる。彼のことを噂しているに違いない。
そしてある日のこと、彼は党派が襲撃に来ると確信した。彼は部屋に閉じこもり、一人で襲撃に備えはじめた。
彼の家の階下で酒屋を営んでいる男は、彼が生まれた頃はすでに店を開いていたが、かつては彼の父親の使用人だった。その酒屋の主人が、彼が近頃、家の中から出て来ないのをいぶかしく思っていた。日中家から出て来ないだけならともかく、まだ薄暗い早朝には通りに出て、木刀で剣術の稽古を始めたのだ。もちろん彼は、これまで剣道などやったことはない。冷静に考えれば、襲撃などあるはずはなかった。だが彼の頭は、とうに現実的判断力を失っていたのである。
彼は、火をつけられることも恐れ出した。
彼の住んでいるところは、関東大震災にも戦災にもあわなかった古い街である。もしいったん火事になれば、火はひしめく木造の家々に広がり、大火となるだろう。これまで街が無事だったのは、人びとがそのことをよく知っていて細心の注意を払ってきたからだった。
彼が党派の人間なら、彼を狙うのなら、この町に火をつけるのがいちばん簡単だと考えるだろう。彼は何日も何日もろくに眠らず、わずかな物音にも飛び起きた。
遠くでサイレンの音がした。火事に違いない。それともたった今、自分の家に誰かが火をつけたのだろうか。党派は、自分が家から飛び出すのを待って襲撃してくるに違いない。
彼はまさしく妄想の世界で、蒸し焼きにされるか殴り殺されるかの岐路に立たされた。
ついに彼の頭が、不眠と恐怖と緊張とで破裂するときが来た。彼は、自分の魂が崩壊していくのを悟った。
そのとき、ふいに神の声が聞こえたのだ。神が彼に何を語ったか、私にはわからない。ただ、革命を起こし、悪いやつらを根絶やしにしろ、といったようなことを言っていたらしい。
テレビの前でわめく彼の声は、夕方から始まり、深夜に及んだ。階下の酒屋の主人は、夜になって、大家の頭が変になっていると結論せざるを得なかった。彼は階段を昇り、彼の住まいの戸をたたいて言った。
「ぼっちゃん、私ですよ。病院へ行きましょう」
[#改ページ]
第十一話 二代目
[心因性妄想精神病][#「 心因性妄想精神病 」はゴシック体]飲食店チェーン副社長◆四十歳[#「飲食店チェーン副社長◆四十歳」はゴシック体]
四十歳の痩せた小柄な男が、妻、母、叔父、弟夫婦などに連れられてやってきた。最高級のベンツを先頭に三台の大型高級車に分乗していたから、彼らがかなりの資産家の一族であることを見間違うことはなかった。
彼は、千葉県成田市と船橋市、それに東京の築地、池袋、新宿に計五軒のうなぎ店を持ち、不動産も手がけている会社の専務であった。本当は社長になるはずだったが、様子がおかしいので、目下、叔父が社長を代行している。彼は、先頃ガンで死んだ社長の長男なのだ。
先代の社長が生きている頃は、彼は仕事熱心で、船橋の大きなうなぎ店を取り仕切っていた。その先代が死んだのだから、彼が社長になることに問題はないはずだった。だが、先代の臨終が近づくにつれて、彼の言っている言葉にまとまりがなくなり、何をしてもどこか上の空、という感じになってきた。例えば話の途中で急にまったく別の話題に移ってしまったり、前後の脈絡が掴めないようなことを口走ったりするのである。
先代、すなわち父親がいよいよ臨終近しとなった頃、父親の病室で、妻が点滴のことについて彼に語りかけたことがあった。
「この点滴はもうすぐ終わりそうね。看護婦さんに言わなくていいのかしら」
「……点滴? 台湾産の点滴はいつ終わるかなあ」
「え? あなた、何言ってるの?」
彼の頭の中では、点滴のことと台湾産のうなぎのことがごっちゃになっていたのだ。そして彼は、急に立ち上がり、船橋の店に電話をかけると言って病室から出ていった。台湾産のうなぎのことで、何か思いついたのかもしれない。しかし彼は、エレベーターで病院の外来ロビーに着くまでに電話をかけることを忘れてしまい、ロビーで少しうろうろしてから、売店でわけもなくタバコを買って戻ってきた。このように彼は、何事にも集中できず、すべてに上の空になっていた。彼はどうやら、昏迷状態になりつつあったのだ。
妻は早くから、夫の異常には気づいていた。しかし、それとなく姑にそのことを伝えても、取り合ってもらえなかった。姑は夫である先代の病状で頭がいっぱいだったし、嫁に対してはそもそもあまり寛容ではなかった。だからその話を聞いても、嫁が何か寝呆けたことを言ってる、といった程度にしか受け取らなかったのだ。姑だけでなく、一族の者たちは皆、彼とはときどきしか会っていなかったし、はじめのうちは彼も四六時中頭を混乱させていたわけではないから、少し疲れているのだろうとしか考えてはいなかった。
妻以外に、彼の異常に気づいていた者もいた。船橋の店の店長をやっている初老のうなぎ職人と、会社の経理を長くやってきた先代の愛人である。初老の店長は、うなぎを捌く腕は一流だったが、気が弱く、おとなしい男で、何も言い出さなかった。
先代の愛人はもともと寡黙で、黙々と仕事をし、たいていのことは実はいちばん最初に気づいていたが、聞かれなければ自分からしゃべることはなかった。髪を丸く結い、いつも地味な服装をしている、五十歳くらいの女である。彼女は喜怒哀楽を顔に出さず、なるべく目立たぬように振る舞っていたが、ときどき下を向いてふふふと笑った。そのとき妙にまわりの人間を小馬鹿にした風であったので、誰もが少し薄気味悪く感じていた。
先代が入院していた頃、代理である彼の決裁を得るため、経理をやっていたその愛人が自宅までやってきたことがあった。彼は決裁の書類をじっと眺めながら、ぜんぜん関係のないことを父の愛人に聞いた。彼女は下を向いて、ふふふと笑った。横にいた妻は、そのときはじめて、夫の頭の混乱に気づいた。
妻は夫を、精神科医に受診させる必要があるのではないかと思った。だが、具合が悪そうだから病院で診てもらおうと促しても、彼は応じようとはしなかった。
精神の病いの場合、いかに混乱していようとも、右も左もわからなくなっているわけではない。むしろ、きちんと思考することのできる時間がひどく短くなってしまっていると考えるべきである。普通の人は、数十分連続して集中した思考ができる。病者には、その集中ができないのだ。そして病状が重くなるにつれて、集中できる時間は減っていく。
最初の頃、彼もときどきはまとまった態度をとっていたから、妻も病院に行くことを強くは勧められなかった。そのうち、頭の混乱が深刻になるにつれ、彼は自分についての正確な認識ができなくなったから、自分の頭が病んでいるといった話をますます受けつけなくなった。妻は彼女の一存で、夫を精神病院に連れて行くことができなかった。
先代が死んだ。通夜の晩は落ち着かなかった彼も、葬式の日は無難にこなした。実は妻がいつも彼のそばについていて、それとなく次の行動を教え続けていたので、破綻が起こらなかったのだ。妻には、彼の叔父の言葉が重荷になっていた。
「あいつがあんなにくたびれてるのは、女房がしっかり世話してねえせえだ」
叔父も、それほど強い調子で言ったわけではない。だが妻は、古い体質の一族の中で嫁として苦労させられてきたので、こういった表現にはひどく敏感になっていた。
葬式という過度の緊張を伴う行事を喪主として乗り切ったところまでが、彼の限界であった。その後、彼の混乱は急速に増加し、夜中に起き上がり、ふいに家の外へ出ると、わけもなく周囲をぐるぐると回るようなこともあった。
そんな深夜の徘徊の途中で、彼は警官に職務質問を受けた。警官は妻に、彼を神経科に受診させることを勧めた。この話で、ようやく母や叔父たちも、彼が少し変であることに気づいた。
むろん、それでもすぐに、精神科に彼を連れて行こうとしたわけではない。父を失った悲しみと看病疲れと不眠とで軽いノイローゼにかかったのだろうと、一族の者たちは思ったのである。そこで彼らは、知り合いの開業医に頼んで、睡眠薬をもらって彼に飲ませた。それほどに一族の者たちは、神経科や精神科などというところに次期社長候補を連れて行きたくはなかったのである。
彼は内科医の出した軽い薬で、なんとか一週間ほどは眠れるようになった。眠ったせいか気持ちにも落ち着きが見られたし、受け答えもまとまってきた。このまま彼の頭がはっきりすることを、一族の者たちは願っていた。いや、本当はこの時点でしっかりと薬を飲み、充分な睡眠と身体のリズムの正常化が得られたのなら、たぶんもう少し病気は軽くなっただろう。
彼は父が死んで二週間目くらいから、もはや内科医の出した薬では眠らなくなった。そして、自分の家には盗聴器が仕掛けられていて、いずれヤクザがやってきて一家は皆殺しにされると怯え出した。おおかた単なる疲れだろうと思っていた母たちも、もはや姑息な手段では駄目だと悟った。それでもなお、私のいる病院に来るのに十日ほどを要した。
例の内科医の紹介で、彼は自宅からはるかに離れた大学病院の精神科に受診することになった。受診日が限られていたために、そこでまた数日が過ぎた。受診の結果、入院の必要を言われたが、ベッドがないという理由で、近くの精神病院を当たるように勧められた。長くかかるから、病院は近くの方がよいとも説明された。
大学病院から出された薬で、彼はちょっと落ち着いたかに見えた。そのため一族の者たちは、精神病院を探すのを一日延ばしにしていた。
そして、一種の昏迷状態がやってきた。彼は茫然と何もしないで一日を過ごし、言葉すら発しなかった。こちらの言うことには一切反応せず、悲しい表情もうれしい表情もなく、さりとて苦しげな表情すらもなくなった。つまり能面のように表情を失って、何を考えているのかまったくわからなくなったのである。
そして、ある晩、ふいに彼は言った。
「みんなで死のう」
妻はもはや、姑や叔父にいちいち相談している余裕はないと判断した。電話帳をめくって、最初に見つけた精神病院に受診を依頼した。だが、その精神病院の回答は、きわめてそっけないものだった。すでに外来の受診時間をはるかに過ぎているし、そもそも医者がいない、と言うのである。
妻が食い下がると、その精神病院は、夜間でも受診できる別の病院の名を告げた。彼の家から数キロしか離れていないところにある病院だった。妻は何度もその前を車で通っていたのだが、そのときにしてはじめて、そこに精神病院があることを知った。それがつまり、私が勤務している病院である。
彼の一族は千葉県成田市周辺の出である。もともとその土地の大地主で、土蔵が十数個もあり、そこに納められていた古い家具調度は公立の博物館に寄託されているという。彼の祖父は村長を二十年もやり、村の実力者として羽振りをきかせていた。しかし、その祖父の政治好きのために、一族はかなりの田畑を失うことにもなった。そして彼の父は、そんな祖父に反発し、東京に出て、一介のうなぎ職人となったのである。
彼の父は、戦後の混乱期に築地に小さなうなぎ店を開き、成功した。そして現在では、五軒の店の他に、東京の真ん中に数百坪のビルを所有するまでになったのだ。
父、つまり先代の成功の第一の理由は、彼の焼くうなぎがうまかったからだという。先代は、店の周囲を取り巻くように細長く溝を掘り、そこにうなぎを放した。その溝は特殊な仕掛けで常に水が流れるようになっており、そこにしばらく放されたうなぎは臭みが抜けて甘くなるのだという。
味にくせのある輸入うなぎが主流になってくると、この装置はかなりの威力を発揮した。先代は、このような創意工夫の才と勤勉さを備え、それと同時に、短気で強引な側面をも祖父から譲り受けていたのである。
まだ先代が築地に小さな店を開いたばかりの頃、彼が生まれた。生まれたときはわりと大きく元気そうだったが、その後はよく熱を出した。母親も店の手伝いで忙しく、多少気が回らなかったためかもしれない。
母親は神経質な質で母乳も充分に出なかったから、彼も少し神経質になった。夜中によく泣く子供だった。
そんなところに、祖父母がやってきた。彼は一族の長男の長男である。祖父は彼を抱き上げると言った。
「こいつはわしが育てる」
有無を言わせぬ強引さであった。母親はむろん異議を唱えようとしたが、彼の家には伝統的に、女にものを言わせる雰囲気がなかった。
もしこのとき、母の意志をもう少し尊重し、母のもとで彼を育てたなら、彼は多少神経質な子供として成長できたかもしれない。少なくとも、妻を含めた女たちからもう少しうまく助けを引き出せる人間になれたのではなかろうか。
彼は、成田の大きな屋敷で育てられることになった。祖父は彼を両親から取り上げてはきたが、実際に彼の世話をするわけではなかった。祖母と、同居していた父のすぐ下の弟の妻が彼の世話をした。
むろん、彼は大切に育てられた。しかし一時期、彼はほとんどミルクを飲まず、ひどく痩せてしまった。だがそれが、突如母親から離されたためであるとは、祖父は考えなかった。
しばらくのち、彼はふたたびミルクを飲むようになった。そして以後、あまり手のかからない、自発的な意思表示の少ない子供に育っていった。
彼は母親との触れ合いが欠けていただけではなく、母親の突如の喪失をも被っていた。こうした突如の喪失は、心理的な空白となって、長じても心に残り続ける。そして、心に穴があいたかのごとき作用をし、何を心に詰め込んでもそこから逃げてゆくような、永遠の名状しがたい寂しさを生むのである。
彼の世話を、祖母や叔母が本心から歓迎していたわけではない。そもそも祖父の独裁に面従腹背していただけだから、いまひとつ心のこもらない世話であったはずである。
そのうち、従兄弟たちが生まれた。彼は最初から別室を与えられ、夜も一人で寝ていたし、食事のときも祖父の横に並び、従兄弟たちよりおかずの内容もよかった。彼は特別扱いを受け、女たちにかしずかれてはいたが孤独であった。
唯一、彼の気持ちが通じたのは、祖父であった。祖父は彼に対して絶対の力を有し、彼を守っていたが、また彼を恐れさせてもいた。たまにやってくる実母にも、彼は打ち解けることができなかった。母に甘える、女に甘える、ということができない男であった。女が彼を助けようとしても、である。
彼には弟が二人と妹が一人いた。三人とも東京で育てられていた。むろん彼は、弟や妹たちが羨しかった。だが、そんな弱音を吐くのは男らしいことではないと思っていた。
大学に入学すると、彼は東京の家に移った。うれしくはあったが、父や母に打ち解けることはやはりできなかった。
父は相当のやり手だが、短気でわがままな男だから、周囲は父がいるだけで緊張した。かっとなると手がつけられず、母すらもその気性を恐れていた。母親はいつも胃が悪く、痩せていた。
彼はきちんとした男であり、有名な私立大学に入学し、文句を言わない質だったから、父は彼が気に入ったようだった。すぐ下の弟はどこか偏屈だったし、三男は父親に反抗し、高校のときから家を出てしまっていた。
彼は、神経質で落ち着きのない母より、祖父とそっくりで祖父よりさらにアクの強い父に魅かれていた。彼は父を恐れ、父に好かれたいと思っていたのだ。彼はこれまで、女の存在によって心理的に支えられたという経験がなかった。
大学を卒業すると、彼は東京の店で仕事を始めた。仕事ぶりはすぐれていた。彼は器用でもあったから、うなぎを捌く腕もなかなかなものだった。一族の期待は彼に集中しはじめていた。
彼は小柄だったがハンサムで、自然と周囲の娘たちの注目を集めるようになった。しかし彼の方は、女を身辺に近づけることをあまり好まなかった。父が女好きで、そのことで母との間に絶えずトラブルが生じていたからでもあったが、しかしそんなときでも彼は、母が妻としてしっかりしてないからだ、などと父を弁護していた。彼の心の底には、やはり男性中心主義的な一族の伝統が生きていたのである。
彼に魅力を感じていた女たちも、鋭く女を引きつける雰囲気が彼にやや欠けていたためか、遠巻きにしているだけで近寄っては来なかった。そもそも彼は、気位が高く、半端な女と付き合うのは嫌だと思っていたし、女に対するある種の不潔恐怖もあった。
彼はむろん、同性愛者ではない。女を求めてはいた。しかし、現実に現れるどの女も、彼の理想とは異なっていたのだ。
例外が一人いた。彼の大学時代の同級生だった。
大学時代に同じスキーのサークルに所属していたことから、彼女との付き合いは始まった。彼は、彼女のことを好きだと思ってはいなかった。ただ、互いの実家が近いことと、娘が比較的積極的であったことで、付き合いが続いていた。
娘の家は印刷屋で、店の広告や年賀状などの印刷物はたいていそこに頼んでいたし、娘の家も彼の店でしばしばうなぎを食べるなど、両家の交流もコンスタントに生じていた。
娘は兄と弟にはさまれて育ったから、男との間合いを見切る術を自然に身に付けていた。それに背が高く色白で、かわいい顔をしていたから、男たちにずいぶんもてた。ちょっとしたパーティなどでは常に座の中心になり、男たちがアイドルのように彼女を扱うのである。
彼ももちろん、そんな彼女に魅かれてはいた。だが、背が高すぎるのが気に入らなかった。わずかに彼より背が高いのだ。よく考えてみればたったそれだけのことだが、女から見下ろされるのは、彼の自尊心にとって不愉快であった。
大学を卒業すると、娘は会社に勤めるかたわら、家業の印刷屋を手伝った。彼女は男まさりの女だったから、男の世話をすることは厭わない質であった。彼も同じく仕事熱心だが、家では茶碗ひとつ片付けたことのない男である。だから、実は彼は隙だらけなのだが、彼女はそんな隙だらけの男が好きになってしまう女なのだ。
互いに二十八歳を過ぎる頃になっていた。彼女は結婚を望んだが、男の方は煮えきらなかった。二人は、ホテルに通う関係になっていた。いつまでたってもキスすら求めてこない男に業を煮やした彼女が、半ば強引にホテルへ引っ張っていったという方が正しいかもしれない。彼も律義なところがあるから、手をつけた以上、娘と結婚する気になった。
しかし、その話を父に持っていったところ、真っ向から反対された。おまえの女房はしかるべく格式のあるところからもらう、と言うのである。だいたい、今でこそ印刷業で多少羽振りはよいが、昔は何をしていたかわからん家の娘などもらえないという理由だった。
すでに、彼の一族は膨大な資産を有するようになっている。娘は、その頂点に立つ男の妻としてふさわしくないというのだ。彼は父に反抗できない男である。気持ちもどこか及び腰だった。結局、破談になった。
彼が三十歳になったとき、微熱が続いた。一族を慌てさせたのは、その原因が肺結核であったからだ。結核は珍しい病気と思われがちだが、実際はこの病気を患う人は多い。
彼は半年、入院しなくてはならなかった。彼はいささか気落ちしていた。病室でひとり寝ていると嫌でも気が滅入ってくる。彼のことを心の底から心配してくれる人間などどこにもいないように思えるのだ。
父は彼を気にかけてくれてはいるが、愛しているといえるだろうか。
ふいに、別れた娘のことを思い出した。あいつはいい女だったのではないか。彼は、娘と別れたことを後悔しはじめていた。
ところがある日、娘が見舞いに現れた。彼は、自分にも親身になってくれる女がいることをはじめて悟った。だが娘の話で、彼は不安を抱え込んだ。娘はそろそろ結婚したいと思っていると、彼に告げた。三十歳も過ぎたし、いつまでもひとりというわけにはゆかないと言うのである。
彼女が結婚しようと思っている相手は、彼の店のうなぎ職人だった。彼とほぼ同じ年だったが、十代の頃はぐれて、一時、ヤクザの組員にもなったことがあるという。今は真面目に仕事をしてはいるが、喧嘩っ早く、腕っぷしも強い。彼は内心、その職人のことを恐れていた。父親の言うことならよく聞くが、彼のことはなめている風で、聞こえていてもそっぽを向いていることが多かったからだ。
そのヤクザあがりの職人は、以前から娘が好きだったらしい。そういえば、彼に会いに娘が店に来たとき、遠くから監視されているような気がしたことがあった。むろん、娘は彼のことしか考えていなかったから、破談になるまでは自分に注がれる職人の視線にまったく気づかなかった。
彼と娘の破談が職人に伝わったのは、ずいぶんあとのことである。その話を知ったすぐあとから、職人は彼女に近づこうとしはじめたようだ。職人はなかなかひたむきに彼女をくどいたという。彼女もにわかには応じなかったが、そういつまでも断り続けることはできないというのだ。
彼はその職人が怖かったが、職人に娘を奪われるのは嫌だった。娘との結婚を決意した。むろん、父親は喜ばなかった。職人とのトラブルが生じそうな結婚だったし、三十歳を過ぎた女との結婚自体、好ましくは思っていないのだ。だが、今度は彼の方の決意が固く、そんな父も、結局、結婚に同意せざるを得なかった。
結婚と同時に彼は築地の店を離れ、船橋の店の店長になった。もちろん、その職人とのトラブルを避ける意味もあった。
結婚後も、父親は彼の妻に対して厳しかった。とくに二人目の子供が軽い脳性麻痺であったことがわかったとき、あんな女と結婚するからだと父親は言った。脳性麻痺の子供が生まれたのは女房のせいだと言い放っても、それが少し勝手すぎる言い分ではないかという反省はなかった。それほど父親は、自分の一族に自信があったのだ。
彼が三十七歳になったときである。父の胃ガンが発見された。
そのことを、主治医は彼に最初に告げた。もちろん手術はきちんと行なわれて、父親は元気になったが、再発するかどうかはまだわからない。
父がガンであると聞かされたときの衝撃は大きかった。学生時代に祖父が死んだときも、彼はひどく悲しい思いをした。そして今、ひょっとすると父が死ぬのではないかと思ったとき、彼は押さえ難い不安を感じたのである。
父が死ねば、彼が一族を率いてゆかねばならない。主治医が彼に父のガンを最初に告げたのも、彼の立場をよく理解していたからだ。
彼の頭目としての最初の仕事は、当分の間、母親にすら、父の病気は単なる潰瘍であると言い通すことであった。ただ、炯眼の妻はガンに気づいた。舅の看病を長男の妻として申し出たが、父親は断った。
父親はその後、見た目には完全に回復した。相変わらず会社に君臨し、肝心なところは一手に握って、経理も愛人である無口な女にまかせていた。
三年経った。父親の肝臓の調子がおかしくなっていた。ガンは肝臓に転移していたのだ。父親はふたたび入院し、死ぬまで退院しなかった。
東京には三軒の店があったが、築地の店はすぐ下の弟が管理し、他の二軒も三男と妹夫婦がそれぞれ管理していた。成田の店は、父の末の弟に任されていた。父は自分の病気がかなりやっかいなものであることを悟ったから、さすがにほとんどのことから手を引いていた。
だが、店の経営が父親の手を離れたほんのまもない頃から、次男の築地の店の業績が落ちはじめた。いや、実際は三男の店もかなり以前から業績が落ちていたのだ。それでも表面上困らないのは、不動産収益が莫大であったからである。
経理がつりあっているのは、成田の店と妹夫婦の店と、彼のいる船橋の店だけであった。ただ彼は、船橋の店を維持するのにかなり無理をしていた。
彼の店の近くに大きなショッピングセンターができた。彼は商工会議所や商店街の寄り合いによく顔を出していたから、ショッピングセンター建設の話はずいぶん前から知っていた。商店街は、ショッピングセンター側との事前交渉で、商店街の店と競合する店を一定期間内は開かないという譲歩を引き出した。もちろん彼もこのとき、さまざまな付け届けや接待によって、ショッピングセンターからうなぎ屋を外すことに成功していた。ただ、こうした接待費は、ほとんどが自腹であった。
彼の父親は、さほど甘い男ではない。接待や付け届けに多額の金を使うことを認めるはずはなかった。父の怒りを恐れた彼は、ゴルフの会員券や祖父から直接譲渡された株券などを売って得た金を、接待費に当てていた。
父親は言葉が悪い。この程度の交渉に多額の金を使ったと知れば、彼を無能呼ばわりすることは確実だった。父親はただ「ばかやろう」と相手を罵れば忘れてしまう質だったが、彼の方は、そう言われるとひどく傷ついてしまうのだ。
ショッピングセンターが開店すると、できないはずのうなぎ屋があっさり出現した。いや、名目はうなぎ屋ではなく焼き鳥屋だったが、うなぎも取り扱っていたのである。商工会の連中に訴え出たが、単なる合意事項で法的な規制などできるわけがないと簡単にあしらわれてしまった。
彼はひどく自信を失っていた。その直後に、父親が二度目の、つまり最後の入院をした。父が入院してみれば、彼の会社でまともな経営をやっているのは、叔父のところと妹夫婦のところだけであった。
偏屈な弟に築地の店を任すことなどできないという理由で、彼は築地と船橋と両方の店の管理を行なうことになった。だが築地の店には、例の職人がまだいる。すでに結婚して子供もおり、昔に比べれば数段丸みが出ていたが、彼の言うことに素直に従うとはとうてい思えなかった。
古い築地とはいえ、客層は激しく変わってきつつある。今までとは違った宣伝をしなくては、客は来ない。店を立て直すには、よほど思い切った対策を実行しなくてはならないのである。しかし彼は、例の職人が怖くて何もできなかった。
父親の入院が一年を越える頃、築地の店の業績はさらに落ちはじめた。不動産がすさまじく値上がりしているため、会社は経理上は黒字であったが、いつまでもこの調子で行くはずがなかった。彼は焦り出した。
彼は本音を言えば、社長などやりたくはなかった。プライドは傷つくが、社長になってからのことを考えると、不安はぬぐえなかった。彼にとっては、ショッピングセンターとの交渉ですら、たいへんな気力と金が必要だったのである。社長になればこんな交渉ごとは年中あるし、なによりそれに対する全責任を負わなければならないのである。
二店のかけ持ちで、彼はくたびれていた。築地の店は例の職人が怖くてやりにくく、船橋の店の二倍も気疲れした。
実際は、その職人が何をするわけでもない。ただ、彼の言うことに忠実ではなかっただけである。仕事は普通にしていた。そんな部下は、要するにうまく使えばいいのだ。しかし、彼は恐れのあまり、その職人に呑まれていた。他人に呑まれるということは、対人関係の中でよく起こることである。
船橋の店も、ショッピングセンター内のうなぎ屋のおかげでまた少し業績が落ち出した。たいしたことはなかったが、心理的に余裕がなくなってきていた彼はずいぶんと慌てた。
もともと、祖父や父のような力強さを欠いた男である。父という大黒柱があってこそ、彼も天井を支える柱であり得た。今、すべての重みが彼にかかりつつあるとき、彼ははじめて、自分の力を思い知らされたのである。
妻はこれまで、会社のことには一切の口出しを禁じられていた。だが、夫の器量がややひ弱であることは、すでに見抜いていた。だから彼女は、自分も手伝います、と夫に言ってみた。
父が死ねば、姑では会社は維持できない。彼のすぐ下の弟は労働意欲がなく、末弟は生意気なだけでまったくの浪費家であった。
妻は、本心では店の一軒ぐらい切り回す自信があった。かつては会社で経理をやっていて、簿記の免許も持っていた。だからこそ、疲れている様子だから、東京の店をあなたがやって、船橋の店は私がやってもいい、という提案をしてみたのである。
彼は、築地の店こそ誰かにやってもらいたかった。しかし、妻にやらせることはできない。
姑は築地にいる。妻に対して、彼の母も父と同様に厳しかった。さらに、あの職人がいるではないか。彼は妻の提案を退けた。
だがたぶん、彼の妻なら、姑がいようとその職人がいようと、築地の店をうまく切り回し得ただろう。彼がそうしろと言えば、やったはずだ。冷静に考えれば、いくらでも工夫はある。
炯眼の妻も、夫が実は、あのヤクザあがりの職人を恐れているというところまでは気づかなかった。
彼は、兄弟たちと殴り合いの喧嘩をしたことがない。人に殴られたことすらないのだ。学校でも成績がよく、教師の覚えもめでたく、村長の孫でもある彼に、悪《わる》どもも遠慮していた。もちろん彼は、祖父や父に対して反抗したことなど一度もない。
しかし、兄弟喧嘩やクラスの悪どもとの戦いや、父親に対する反抗といったことは、人間の自我の発達にきわめて重要なのである。そうでないと、心の外壁が鍛えられないのだ。さらに彼は、母親との予定しない別離によって、心に穴まで開けてしまっていた。
たかだか、少し気の短い職人が一人いたにすぎない。だが彼は、その職人に殴られるのが、本心から怖かったのである。だが、そんなことを誰に言えよう。
いよいよ父親の命は危なくなってきた。だが、父親の意識はまだはっきりしている。そろそろ遺言も得なくてはならない。経理をやっている無口な愛人にも、父親は何か遺そうとしているのではないか。そんなことも不安の種であった。
ワンマン社長が死ぬときは、周囲の者はたいへんである。死に際に妙なことを言い出すと、ひどくやっかいなことになるからだ。だから彼は、ほぼ毎日、病院に顔を出さなくてはならなかった。
なんとこの場においても、彼の妻は舅の世話をさせてもらえなかった。舅が嫁を嫌っていたからだが、彼もまた、妻を父に受け入れさせる努力が足りなかった。彼の妻をよく見れば、この程度の会社なら、充分に社長が務まるほどの強靭さを感じさせるではないか。
彼は疲れていた。この一年、気持ちの安まることはなかった。とくにこの一カ月は、会社の引き継ぎやら連日の父の見舞いやらでほとんど眠る暇もなく忙しかった。
父はまだ死ぬ気はなかったらしく、経営の細かいところまでは彼に教えなかった。おまけに、彼が不用意な質問を発すると決まって言うのだ。
「おまえ、バカか」
一度でもよい。こんなとき、彼は父と喧嘩をするべきなのだ。父に向かってバカヤローと言えたときはじめて、彼は父と心理的に対等になれるのである。呑まれていることから解放されるのだ。
しかし、彼は言えなかった。父に呑まれっぱなしであった。だから、父の非難をまともに受けて傷ついてしまうのだ。
臨終の一週間ほど前であったかもしれない。ほとんど徹夜で付き添っていた彼に、父親はふいに言った。
「おまえは駄目なやつだなあ」
彼は、自分が会社を切り回し得ない人間であると父から思われていると考えた。築地や船橋での失敗を父には言っていなかったが、なぜか知っているらしい。それはもちろん、彼の単なる思い過ごしだったに違いない。だがこの言葉は、彼の最後の自尊心をも突き崩してしまったのである。心がくたびれているときは、人は傷つきやすくなるものなのだ。
彼の頭は、その直後から混乱しはじめた。眼は落ちくぼみ、体重は減り、夜は眠れず、周囲の人間が何か不気味に感じられるようになってきた。これといってはっきりと対象はとらえられないが、いつもどこかで見張られているような気がしていた。
もはや彼は、恐ろしくて築地の店の中に入れなくなっていた。例の職人が、彼にいつ殴りかかってくるか知れない。実は彼は、ひそかにポケットにナイフを隠し持っていた。例の職人が殴りかかってきたら、それで対抗しようと考えたのだ。彼の頭の中で、恐怖だけが肥大していた。
父の臨終が今日か明日かというときであった。あの無口な父の愛人が彼のところにやってきて、箱を渡した。彼が茫然とそれを受け取ったままでいると、彼女は小声で言った。
「会社の実印ですわ」
そう言って、ふふふと笑った。
箱はまるで、石のように重くなりはじめた。ふいに、幻の声が彼の耳に響いた。
「おまえは駄目なやつだなあ」
その声は父親の声のようでもあったが、その無口な女の声のようでもあった。
幻聴が始まったのである。
この後一カ月近くも経って、ようやく彼は精神病院に入院した。幸い二カ月ほどの入院で良好に回復したが、それでもやはり、妻の強い支えがなくては社長の仕事はできまいと思われた。
妻の話では、彼には経理の面での甘さがあるという。冠婚葬祭の援助はもちろん、ゴルフの招待や飲み屋に連れて行って派手におごることまで、うなぎ職人たちに過剰なサービスを続けてきたのだ。それも、先代に知られないように、自分の金を使ってきたという。
かなり症状が改善してから、私はその点を指摘してみた。そのとき彼は、はじめて例の職人を恐れていることを語ったのである。彼は本来はたった一人の職人を恐れていたのだが、その不安がいつのまにか拡大して、他の職人たちまでが自分に反抗するのではないかと恐れるに至ったのだ。その結果、職人たちが自分に背かないように過度の気遣いをしてきたのである。
だが、彼は単に、男がヤクザあがりだというだけで恐れたわけではあるまい。私が次のように言ったとき、彼は深く頷いた。
「その職人さんは、お父さんにとても似てるのではありませんか?」
強すぎる父は、時に息子を潰してしまうことがあるものである。
[#改ページ]
第十二話 文明の病い
[強迫神経症][#「 強迫神経症 」はゴシック体]不動産会社元社長◆四十九歳[#「不動産会社元社長◆四十九歳」はゴシック体]
冬の日の午後、私はある男を往診した。彼のマンションは、JRの駅前通りを一本入ったところにあった。駅からほんの五分といったところだが、静かで暗い場所である。周囲に建ち並ぶビルがあまりに高く、音と光を遮っているのだ。
そのマンションは三階までしかなく、外壁は褐色の暗い煉瓦で、薄暗い周囲からさらに沈んで見えた。豪華で堅牢なつくりだが、陰気であった。彼は、そのマンションのオーナーである。
彼は二階に住んでいるという。通りから見上げると彼の住んでいると思われる部屋には厚くカーテンが引かれ、中に人がいるような気配を感じさせない。しかし確かな依頼であるから、彼はそこにいるはずである。
マンションの玄関の入口は洞窟のようにやはり暗い。管理人の妻が私を案内してくれたが、さもないと迷いそうであった。彼の住まいの戸には表札もなかった。彼女は彼の賄いも行なっているらしく、ドアベルも押さずに戸を開け、私を応接室へ通してお茶を出すと、出ていった。
そこは、マンションの一室とは思えないほど広い部屋だった。しかし、どこか生活臭に乏しく、なぜか狭苦しくも感じさせた。整理はされているが、物が多すぎるのだ。
壁の絵や置物も過剰である。はなはだ高価な家具もあれば、一円玉や五円玉の入ったコーヒーの瓶もある。紅茶や菓子の入れ物がいくつも並べてあった。彼はたいへんな金持ちだから、吝嗇なのは頷ける。しかし、彼の部屋に並んでいる物はどれもバランスが悪いのだ。
私は、彼がすぐにも出てくるものと思っていた。しかし、私は予想外の長い時間、そこで彼を待つことになる。こののち私は知るのだが、彼は人に会う前に、必ず一定の儀式に似た行動をするのであった。その行為を行なわずには、人に会うことができないのである。そしてその儀式の中に、排便することが含まれていた。
彼は痩せた、背の高い男であった。色が白く、手指は細く長い。面長で上品な顔立ちだが、まぶたが腫れぼったく、鼻筋も少し曲がっている。ハンサムとはいいにくい顔だが、感じはさほど悪くない。ものごしやしゃべり方にも、やや女性的なところが感じられる。
私がこれまで会った実業家は皆、張った顎に大きな鼻を持ち、口元は強く結ばれていた。しかし彼はどこかひ弱な印象を与え、顔の表面にも脂気がなかった。
彼は最近まで、県内有数の不動産会社の社長であった。今は辞めているが、大株主だから会社の実権は握ったままである。さらに相当数の不動産を個人的にも所有していたから、その資産は莫大であった。
その資産をもってすれば、もっと明るくて広々とした邸宅を好きなところにつくることができるはずであった。だがすでに三年前から、彼はこのマンションに住んでいる。三年前に妻と子供が去って以来、彼はこのマンションに住み、三年後の今、彼はこのマンションから外に出ることができなくなりつつあったのだ。
彼は一年前から刑事被告人でもあった。贈賄の罪で逮捕され、三カ月ほど拘留され、目下保釈の身である。すでに公判は始まっているが、彼は公判に出ることにたいへんな困難を感じていた。
彼はずいぶん昔から便所のない場所では落ち着いていられない男であったが、三年前、妻子が去った頃より、人に会う前に必ず便所に行かないといられなくなっていた。それが、保釈されて戻ってからさらにひどくなり、外出のたびに便所に行かねばならず、また来客のたびにもそうしないではいられなくなったのだ。だから彼にとっては、弁護士に会うことすらなかなか大変であったし、まして裁判所に出頭することは、決意のために長い時間を要した。
彼は、電話でやり取りするときはまったく緊張を感じずに、どんな難しい商談でもやってのけたが、相手と面と向かうと、何度も便所に行かねばならなくなるのだった。
彼は強迫神経症と呼ばれる状態であった。そして公判の際の苦痛を少しでもやわらげたいと望み、私の治療を求めてきたのである。
私の前に座ると、彼は長い話を始めた。長すぎる話であった。整然と克明に、微に入り細をうがつようにしゃべり続けるのである。彼はあらゆることをしゃべっている様子であった。すべてをしゃべり尽くさねば気がすまないようにしゃべるのだ。しかし、ほとんどどうでもよいことばかりをしゃべっていた。これでも実業家が務まるのか、私には不思議に思えてならなかった。
彼は、北海道夕張の山の中の炭坑の宿舎で生まれた。父はもと鉄道の機関手であったが、飲んだくれで、酔っぱらって機関車を運転したために国鉄を首になった。その後、炭坑に流れて来て、石炭列車の運転手になったのである。
母はどこか南の方から夕張にやってきた女で、離婚歴があり、前夫との間に子供が一人いた。しかし、そういうことがわかったのは、彼が大人になってからのことである。母は、夕張の駅前の飲み屋で仕事をしていたときに父と知り合った。
父は、酒を飲まないときはおとなしい男で、酒を飲むと人が変わったように怒りっぽく、しつこく、滅茶苦茶になった。そんな男が真冬でも凍死しなかったのは炭坑という共同体に住んでいたからで、道路に寝ていると必ず誰かが家まで連れて来てくれた。
母は気が強く、几帳面で、短気で、酒もタバコもやり、歌がうまかった。高校を卒業していることが自慢で、卒業後は駐留軍関係の仕事についたといい、実際、少し英語がわかった。アメリカの歌を巧みに英語で歌った。しかし、子育てはまったく嫌いな女だった。
母は、お前が生まれてしまったのはたまたま堕ろすチャンスを逸したせいだ、と平気で彼に言っていた。十代の頃から何度も子供を堕ろしたという。しかも彼を産んだあとも、二、三回、札幌まで行って子供を堕ろし、頻回の掻爬のあげく、ついに妊娠できなくなっていた。だから、父と母との間には彼以外子供はいなかった。
炭坑の宿舎の近くに、シュウパロ湖という、大きくて美しい人造湖がある。石狩川の源の湖だ。夕張山地からの水を一手に集め、水は青く、豊かな水量の湖であった。その付近の雑木林やジャガイモ畑が、彼の遊び場だった。
彼の母親は普段は家におらず、彼はめったに昼食をつくってもらったことがない。いやそればかりか、朝食すらもほとんどつくってはもらえなかった。保育園では給食がある。だが長い冬の休みの間は、朝も昼も食べられないのだ。彼は食べ物の調達方法について、自ら工夫をする必要があった。
北海道の山は豊かである。遅い六月の春に一斉に花が咲くと、そのあと山々には、さまざまな食用植物が出現するのだ。
一見した限りでは、深い針葉樹の森と細く背の高いイラクサ類が育つ斜面しか眼には入らない。しかしよく見ると、針葉樹の森はたいてい人間が植林したもので、自然の森にはさまざまな木が生えていた。そしてそうした自然林には、ワラビやゼンマイやキノコが生えたし、グミや山イチゴやアケビやムベなどが自生していた。
むろん彼はまだ小さくて、そういった植物を一人で採ることはできなかった。周辺の子供たちは、中学生くらいの子供をリーダーに集団となって山に入り、山菜や果実を採って食べた。炭坑部落という共同体が、こういう子供たちのグループ化を容易にしていたのだ。
子供たちは、どの場所に行けば何があるのかをたいてい知っていた。また、川にもイワナやアカハラなどの魚がいて、小学生くらいになると素手でも捕ることができた。石炭を洗うために夕張川の下流は黒く濁っていたが、いちばん上流の部落にいた彼らにとって、流れ込む沢は透明であり、潜りさえすれば魚は捕れたのである。捕った魚を河原で焼いて食べるのも、また楽しかった。
彼らには、もっと腹の足しになるものが実はあった。畑にあるトウモロコシやジャガイモやサツマイモである。そういった穀類を勝手に取って食べるのだ。彼らはそうやって集めた食糧を調理して食べるアジトすらつくり、ナベ、カマなども用意しておいた。
保育園から小学校にあがる頃まで、彼は皆のあとについて山の中に入り、おこぼれをもらっていただけであった。だがとにかく、食べ物を自分で手に入れるという体験は、町の子供に望んでもできないことであった。
長い冬場は、木の実はない。しかし彼は、家の中にある野菜やイモ類を、絶えず燃やされているストーブの上で勝手に焼いて食べる術を、小さい頃から身につけていた。貧しくひもじかったが、大自然の中で彼はのびのびと生きていたのである。
母親はかなりきれい好きな女であったから、彼が山の中で泥だらけになるのを好まなかった。しかしほとんど家にいない女だったから、彼の行動を監視はできない。だからおおむね、彼に文句を言う程度であった。
だが母は、便や尿についてはひどく汚ながった。水洗便所のない地域だから、冬場はややもすると便所の臭いが部屋にこもることが多い。それを嫌い、母は便所を家の外から入るように改造して、家の中との間を板で仕切ってしまった。
真冬に、家の外にある便所に行くのは大仕事である。軒伝いに行くことはできるが、小さな彼は、真冬は土間にうんちをした。うんちはすぐに凍りついて、スコップで母が外に放り出した。雪の降らない頃はいたるところで用が足せたから、幼児期の彼には、便所を使うという習慣がなかった。
まだ彼が五歳の頃であった。母が彼を連れて、朝一番の列車で札幌まで出た。札幌までは三時間以上かかるのだが、掻爬するのに近場の婦人科を嫌ったのである。
父親は数日間行方不明であったし、そのときは一時、山遊びが禁止されていた。ヒグマが出没していたからだ。母親は、彼が一人でのこのこ山へ行くことを一応は心配して、町まで連れて行くことにしたのだ。
彼は生まれてはじめて、大きな町に出た。母親は表通りから少し入ったところにある婦人科の医院に入った。
母は待合室に彼を残したまま、診察室の中に消えた。それっきり三時間たっぷり、彼女は出てこなかったのである。
彼は朝、汽車の中で握り飯を食べただけだった。母はわずかな菓子を彼に与えただけで、消えてしまったのだ。彼は、同じ場所に十分とじっとしていることができない年齢だったから、ひとりで医院の外に出てしまった。
通りをはさんで洒落た西洋料理店があった。空腹だった彼は、しばらく入口をうろうろしたあげく、中に入り込んだ。
ちょうど昼頃で、客もちらほらいた。彼は隅のテーブルにひとり座って、テーブルの上のシュガーポットなどをいじりはじめた。ウエイターがどこの子かと聞いたが、うまく答えられない。結局、放り出すわけにもいかず、警察に連絡することになった。
警察が来るまでの間、彼はアイスクリームを食べさせてもらった。薄汚れた身なりではあったが、どこか人が親切にしたくなるかわいさがあったのだ。
しかし不幸にも、彼はすでに、母親が診察室の中に消えた頃から便がしたかった。ひとり見知らぬところに取り残され、不安になったとき、便意を感じたのである。おまけに、食べたことなどほとんどなかった冷たいアイスクリームを、空腹にまかせて勢いよく流し込んだから、もう我慢などできなくなっていた。
町は下水や便所の管理から始まる。町を知らなかった彼は、小水やうんちをどこにしてよいかまったくわからなかった。まだ、便所という概念ができていなかったのだ。
自然の中にいたとき、彼は便所なるものを必要としなかった。自然には便や尿を浄化する力がある。そもそも自然の中では、便や尿は汚ないものではないのだ。町の家々に便所ができたとき、便や尿が汚ないものだという概念が定着したのである。
彼はレストランの椅子の上で、尿を漏らしはじめた。慌てたウエイターが彼を便所に連れて行こうとした途中で、便まで出はじめた。半ズボンの隙間から床の絨毯の上に、軟らかい下痢のような便が流れ出たのだ。
ウエイターは若い男だった。「汚ねえ、ばかやろう!」と、たかが五歳の子供であることなど考えずに、怒鳴りつけた。彼も町の男だったのだ。
彼は外に押し出され、婦人科の待合室に逃げ込んだ。ここでも、彼は看護婦にたっぷり嫌味を言われることになる。しかし、母は現れない。術後の麻酔からまだ醒めていないのだ。
彼は札幌という巨大な人工物に、すでに恐怖を感じていた。その怪物は、排泄の失敗に対し激しく怒り出したのだ。
彼の母は、彼が排泄の失敗をすることに厳しかった。だから彼は、自然の中で排泄していたのだ。今、彼は自然のないところで排泄に失敗するとどんな恐ろしいことになるかを、いやというほどに刻印されたのであった。
西洋料理店の主人は長年、婦人科の前で商売をしていたから、彼の母親が掻爬に来ていたことを感づいていた。病気で来たのではないのだ。だから主人は、三時間後に母親がボーッとする頭で下腹部をさすりながら出て来たとき、遠慮せずに損害賠償を要求した。
母親は気の強い女だから、もちろんそんなことで「はい」などとは言わなかった。だが彼は、帰りの汽車の中で厳しく折檻された。損害賠償を請求されたことではなく、彼がパンツやズボンを汚したことに母は腹を立てたのであった。
次の日、母は一日、食事をつくってくれなかった。
その後、彼はふたたび大自然の中でのびのびと便をしていた。
七歳の頃、彼は父親の友人のトラックに乗せられて、苫小牧まで行ったことがあった。父の友人は魚の行商人で、苫小牧の市場まで魚を買いに行くのであった。
市場での仕事がすむと、彼らはラーメン屋に入った。彼はふいに気分が落ち着かなくなり、便がしたくなった。
ラーメン屋の便所は水洗であったが、使い方がわからない。そのうえ、彼は下痢ぎみであった。派手に便器を汚し、水を流さずに出てきた。
彼の出たあと、父の友人が便所に行った。戻ってきた父の友人が彼に言った。
「汚ねえなあ。水ぐらい流せよ。俺にクソの掃除をさせるのかよ」
彼は、基本的に敏感で頭のよい子供だった。だからこそ、こういった予想もしない言葉を浴びせられると、いたく傷ついてしまうのだ。
彼は、町に出るのが嫌になった。
町はもちろん、彼にとっても魅力に富んでいた。山の斜面の雑木林を拓いてつくった炭坑部落など、それに比べればあまりにもみすぼらしい。しかし便所のことを考えると、彼は町に出るのが怖かった。
母親は炭坑列車で二駅ほどの食堂で仕事をしていた。坑夫たちの妻たちは、あまり仕事にはつかない。子育てや長い冬の用意、畑の手入れなどで十分に忙しいからだ。しかし彼の母は、家のことをあまりせず、外で働きたがった。そして帰りも遅い。
日中は近所の子供たちの群れの中にいられたが、厳しい冬場や夜を、彼はほとんど一人で過ごさなければならなかった。
彼は寂しさに慣れているように見える。しかしふいに、何かに突き動かされるように、落ち着きなくあたりをうろうろとする。寂しくなると動き出すのだ。何物かを求めて動き回るのである。そうすれば少しは寂しさが薄れ、気の紛れるものを見つけることもできる。
彼は実にさまざまな物を集める癖があった。トチやシイの実、ギンナンやクリなどの食べられるもののみならず、きれいな虫やよく光る石なども集めた。そういったものを集めに山や沢を歩き回ることも、彼の日課であった。そして集めたものを家に持ち帰り、それを眺めながら孤独な夜を過ごすのである。
母が帰宅すると、彼は急いで母のそばに寄って行く。しかし母はうるさがり、しばしば彼を突き離した。彼はふたたび部屋の隅に戻り、壁にもたれながら集めたものを寂しく眺めるのだった。
父親も年中、家にいなかった。母は父を馬鹿にしていた。中卒だったし、趣味もなく、酒ばかり飲み、仕事もかろうじて続けているありさまだったからだ。
父は彼をかわいがりはしたが、約束は何ひとつ守らず、家に素面《しらふ》で戻ったことがなかった。いざというときは、まったく頼りにならないのだ。
真冬といえども、スケートやソリ遊びなど、自然はいくらでも彼を楽しませてくれた。いかに寂しかろうと、山の中で食べ物やさまざまな貴重品≠探し集めているうちに、心は満たされてくる。
彼は生まれてこのかた、やさしい愛に出会ったことはなかった。いくら求めても、常に拒絶しか返ってこないのだ。家の中は殺伐としていた。酔った父と気の強い母が激しく言い争うのを背に、彼は山へ出ていった。
山は厳しいが、彼を裏切ることはない。そしてまだそのときは気づかなかったが、山は彼に一円も要求したことがなかった。
父親が酔っ払って炭坑列車を脱線させた。このことがあって、一家は夕張を離れることになった。
東京周辺を点々としたあげくに、一家は東京駅から電車で一時間ほどかかる町の、町外れの市営住宅に住むことになった。彼は十歳であった。
新参者がいきなり市営住宅に住むというのは、本来あまり簡単なことではない。しかし彼の母親は、夫が炭坑離職者であるとか、肝臓病であるとか、いろいろな理由をつけて、格安の住居をうまく借り受けた。なかなかのやり手だったのだ。
そこは周辺にまだ緑の多いところだったが、彼にとって自然はないも同然であった。町には遊ぶところがないと、彼はまず思った。公園などというものは、そもそもいかほど面白いものであろうか。同じ動きしかしないブランコやスベリ台と本物の木登り、単なる四角い水桶にすぎないプールとさまざまな魚がいるダイナミックな自然の川。たとえヒグマが出没しようと、吹雪に遭おうと、大自然の豊かさに比べれば、人間のつくった物など味もそっけもないものばかりであった。
彼がいちばん驚いたのは、すべてに金がいることであった。彼は今までに、食べ物を手に入れるのに金を使ったことはほとんどなかった。しかしここには、もはや木の実はなく、イモを盗む畑もない。金というものがなくては町では何も得られないことを悟るのに、あまり時間はかからなかった。
父は町に来てから、ほとんど仕事をしなくなった。母は昼は病院の賄いをして、夜はときどきスナックで働いていたが、彼にはほとんど小遣いを与えなかった。
町の連中は彼より小遣いをたくさんもらっていたし、服装もよく、比較的貧しいといわれている市営住宅の子供たちでさえさまざまな塾に通っていた。一緒に遊ぶにも、彼らとは差がありすぎた。だから彼はあまり友人をつくれず、学校から帰ると、ひとりで町の中をうろうろしていた。ただ、町に出ると必ず便所に行きたくなるのだ。
町の中でふいに便意を催したらどうしよう。彼は実に、かかる不安に怯えはじめたのだ。そしてその不安が起こると、実際に便意が襲ってきた。便所以外のところで排便できないと思うと、よけいに便意を感じてしまうのだ。
彼はうろうろしながらも、便のできる適当な場所を常に確認して移動するようになった。家の中で酔い潰れている父親と一緒にいるのも嫌だったから、天気がよければ必ず外に出る。そして、便所の位置を探しながら、行動半径を広げていったのである。
彼は同時に、便意を我慢するよう努めてもいた。単純に便所に行く回数を減らそうとしていたわけではない。むしろ、一度に大量の便をするために、少々の便意は我慢しようとしていたと言った方が正しかった。一度に大量の便をすることで、また出たくなるという不安を押さえようとしたのだ。
彼の排便のしかたは、きっぱりと、とことんきちんと出すことでなくてはならなかった。そして、次第にきっぱりときちんと便を出すことにこだわり、専念するようになった。それがうまくいったとき、彼は遠くまで行けた。
十二歳になった。学友たちは彼を遠巻きにしていたが、近寄らなかった。色白で、一見やさしげな顔立ちをしていたが、身体が大きく、どこか凄味もあったから、彼をいじめるほど度胸のある子供はいなかった。
学校へはきちんと通い、成績も上位につけていた。教室で悪ふざけはしない。むしろ几帳面で、ノートなどもきれいに使っていた。ただ、彼が休み時間ごとに必ず便所に行っているということは、誰も知らなかった。
家に帰ると、彼はまた一人で町に出る。便所のあるところをたどりながら、何か珍しいものを探しに行くのだ。
草むらのイチゴやキノコやゼンマイなどを見つけて集めることは、実に楽しいことだ。彼は他の子供が見過ごすようなところからも、そういうものを発見する能力にすぐれていた。町に来ても、彼はゴミの中や家々の裏口や道の隅などに、錆びたパチンコ玉やまだ充分に新しい漫画本や打ちっぱなしのゴルフボールなどを見つけて楽しんでいた。だがそれらをいくら集めても、空腹は癒されなかった。
夏、どの家も戸締まりは甘くなっている。彼はすでに周辺の道筋をよく知っていたし、それとなく家の中のこともわかるようになった。窓を平気で開けておくからだ。以前彼は、ある家の主婦が財布を戸棚にしまうのを見たことがあった。
ある日、その家の前を通ったとき、家の中に誰もいないことがわかった。彼はまるでそこに木イチゴの実が隠れてでもいるように、するすると家の中に入り、戸棚を開けてみた。財布があった。彼は財布を開けて、中から金を抜いた。
彼がなぜ財布ごと持っていかなかったのかはわからない。彼の泥棒としての勘が、財布はそのままにしておいた方がよいと教えたのであろうか。とにかく、彼はたちまちに、小遣いの何十倍もの金を手にしたのだ。
以後、彼はこの手で金を盗むようになった。
彼はいつの頃からか、便意を感じたとき、民家の便所を借りることを覚えた。嫌がる家もあったが、少年に便所を使わせることを、たいていの家は拒まなかった。便所を借りるときに、少年がすばやく家の中を窺っているとは、家の人はむろん思わなかった。彼はそのとき、後に忍び込む場所に見当をつけた。
中学生になった。彼の窃盗癖はますます磨きがかかり、手袋をし、小銭には目もくれずに札だけを狙い、商品券などにも手は触れなかった。周辺の住人は次第に、家の周囲をうろついている少年がたび重なる窃盗の犯人らしいことに気づきはじめた。
彼は人のいないのを確かめ、必ず、鍵のかかっていないところから侵入する。戸やガラスは壊さない。このため証拠は残らず、彼を捕えることはできなかった。まして容疑者が十四歳以下の場合は、警察も直接捜査に踏み切れなかった。
彼は中学校でも成績はけっこうよかったし、学校も休まなかった。泥棒はもっぱら、休日に行なった。
彼が中学三年生のときに、母親は男をつくって家を出てしまった。母は彼を連れて行く様子を見せたが、彼の方が嫌がった。相手は母より十歳も若い鉄筋工で、野蛮で手が早かったからだ。
母たちは市営住宅の近くに住んでいたから、ときどき彼は小遣いをもらいに行けた。結局、父と一緒に生活保護を受けることになったが、彼は盗んだ金で父の酒を買い、近所の年下の子供たちに公園で菓子を配ったりしていた。その中には、前日に泥棒に入ったばかりの家の子供もいた。
彼は十五歳になった。警察も事件を放っておけず、捜査を開始した。容易に証拠は得られなかったが、ついに彼がある家の鍵束を持っていたことから、捕えることができた。
その家の家主は、一度侵入されたときに、金以外に鍵束を盗まれたことには気づかなかった。彼はその鍵で三度、その家に盗みに入った。彼も欲ばりすぎたのだ。三度目で、家主も鍵束のなくなったことにやっと気づいたのである。
彼は少年院に送られ、一年間そこにいた。
出所のときに、母が迎えにきた。彼は母といるときは、どこに行ってもあまり便意は感じなかった。いかに邪険で厳しい母であろうと、母といるときだけは安心できたのである。
母は彼を、市営住宅まで送った。玄関に入らずに、母は彼に十万円ほど渡すと、今度は迎えに行かないよと言った。今の男と別れて、遠くへ行くのだという。彼は母の去る姿を見て、いよいよひとりになったと感じた。
ふいに便意がやってきた。
彼は一年間、コンビニエンス・ストアで仕事をすると、保護士の世話で夜間高校に通いはじめた。昼間はちゃんと仕事をし、夜は真面目に学校に通った。色白でおとなしそうな顔をし、勉強のよくできる彼は、同級生たちから尊敬すら受けていた。
夜間高校を卒業すると、彼は父を残し、家を出た。それっきり、父とは二度と会わなかった。
彼は不動産会社に入社した。二十歳だったが身なりによく気を配り、きれい好きで、スマートで、ややふけて見えた。衣服などもなかなかシックに決め、繊細そうな雰囲気と合わせて、女性的な印象を与えた。
彼はベランダ付きのアパートを借りると、プランターにバラを植え、遠出をするときはアイマスクを持っていった。神経質なのだ。
おりから、関東平野の不動産が限りなく上昇を続けていく時代に突入していた。不動産のセールスマンの得られるマージンは、地価が高ければ高いほど大きい。
例えば、あるマンションを三千万円で売却したい家主がいたとする。中古であっても、改装してきれいにすれば、四千万円で売れるはずである。セールスマンはその仲介をすることで、差額の二、三割を手にすることができる。一カ月に一件売るだけで、月に百万円や二百万円の収入を得る計算となる。
大手の不動産会社の給料は、このような状況でも法外なものとはならない。しかし中小の不動産会社は、歩合給がすべてだ。地価は高騰を続けていたから、腕のよいセールスマンの中には年収が数千万円にもなる者も出はじめていた。
彼もほんの二十二、三歳で月に百万円からの収入を得ることがあった。はじめは信じられなかったが、そのうちに当然と思うようになった。
すでに持病となっていた便所を確認する癖も、多少緩和していた。それでも、セールスマンの仕事と便所の確認の作業は相容れないものである。彼は客との交渉を、必ず便所の近くで行なった。
彼は頭がよく几帳面な男だから、仕事ができるし成績もよい。金は不思議なくらいよく入った。その金を彼はひたすら貯め、そして一回で大金を使った。平生の彼はすさまじくケチな生活を送っていたが、いざ使うとなると、一食五万円のレストランに入り、一晩十万円のスウィートを取り、いちばん高い酒をボトルでキープし、いちばん高い女を抱いた。この一気に使ってしまうということに、彼は不思議な快感を感じた。
彼は賢い男であったし、もともと物を集める癖のある男だ。金こそもっとも集めがいのあるものだと思った彼は、貯めることに精を出した。多くのセールスマンが彼と同じように多額の収入を得ながら、結局は浪費してしまうという。あまりに簡単に大金が入るために、金銭感覚が狂うのだ。
彼らのうち、しかし、ほんの一握りの男たちが金を貯め、会社を興し、実業家になってゆく。彼も会社を興したいと、早々と考えていた。
彼はたいていのものを金に換算できると考えていた。むろん、すべてではあり得ないことは知っていた。人間の生死や運命を、金で変え得るなどとは思っていなかった。だがそれらは金とは関係のないところで起こることであり、いまさら考えてもしかたがないと思っていた。
彼は、それ以外のものはすべて金で買い得ると信じていた。金があることによって失われるものがあることには、思い至らなかったのだ。金などなくても人間は生きてゆける以上、金で買えないものがたくさんあるのだとは考えなかった。
彼は、不動産のセールスによって多額の収益をあげるだけでは満足しなかった。もはや金で買える女については充分知り尽くしていたから、今度は金持ちの娘と結婚することを考えたのだ。
二十代の後半に入った頃、肉の卸しの会社の社長の娘と知り合いになった。その会社は肉の卸し以外に事業を広げようと、会社に隣接していた土地を買い取り、温水プールをつくったのである。その買い取りを彼が巧みに行なったことで、温水プールの開設パーティに招かれた。彼はそのときはじめて娘を知った。そしてその後、社長に気に入られ、ときどき家に出入りするようになり、ついに縁談が持ちあがったのである。
社長は一介の貧しい農民から身を起こし、また屠殺業に携わっていたこともあって、若い頃からかなりの偏見に苦労させられてきていた。だから、人間の氏素性にはとらわれない男であった。彼が夕張の炭坑出であるということにも、あまりこだわらなかった。
娘は五人兄弟の下から二番目で、かわいい顔立ちをし、小柄であったが、よく見るとがっしりとした骨格をし、手は男のように無骨で、太い指をしていた。彼がサラブレッドのようなスマートさとひ弱さを感じさせるとすれば、彼女は農耕馬のようなたくましさと生真面目さを感じさせた。
娘の母は彼女が七歳の頃に死に、後妻に育てられた。後妻は女の子を産んだ。上は男三人で、下に腹の異なる妹がいて、義母とも心理的な距離があったから、娘も早く家を出たかった。二人の縁談はきわめてスムーズに進んだ。
結婚の日が近づいていた頃である。警察から電話が入った。一カ月ほど前にある田舎町の畑の中にあるアパートで、五十歳過ぎくらいの女が首を締められて殺されていた。その女は彼の母ではないか、という問い合わせであった。以前付き合っていた男から逃げるために、女は偽名を使っていたらしいという。女を殺したのは追っている男ではなく、最近付き合いはじめた工員で、結局は金銭のもつれらしいと警察は言った。
母がいずれそういう運命をたどることを、彼は予感していた。母は何度男を替えようと、いつも粗野で乱暴で怠惰な男を選ぶのだ。そのあげくに男に追われ、わずかな金をめぐって男に殺されてしまったのである。
彼は電話の内容から、殺されたのが母であることを確信していた。しかし彼は、婚約者に、母とは生き別れになっていると説明してはいたが、このような無惨な死に方をしたとは言いにくかった。
ただ、婚約者や彼女の父親が、そのようなことを聞いて婚約を破棄するとは、彼は考えていなかった。傷ついたのはむしろ、彼のプライドである。見栄っ張りなのだ。
死体置き場で母を見たとき、彼は危うく倒れるところであった。真夏の暑い盛り、発見まで十日も放っておかれた死体は腐乱しきっていた。いっそ見ない方がよかったであろう。
彼が見せた女のような敏感な反応は、刑事を驚かせた。刑事は間違いなく、彼の母だと思った。しかし、彼は認めなかった。自分の母であるとは思えないと言い張ったのである。
詳しく調べればわかることであったが、刑事も面倒臭かったせいか、結局、身元をうやむやにしたまま死体は処理された。彼は、母を弔うことを拒否したのである。惨めな殺され方をし、腐乱した女を、母として受け入れたくなかったのだ。もちろん、子として母を弔うべきだと彼の良心は囁いたが、彼はあえてその声に耳をふさいだ。
彼が脂汗を流しながら警察署の玄関を出るとき、ふいに便意がやってきた。ここしばらく、薄れていた便意である。
彼は慌てて引き返した。一階のフロアには、すぐには便所が見つからなかった。しかたなく職員に聞くと、そばの階段を指さして、降りたところにあると言った。
その便所は、地下の遺体安置所の前にあった。彼は、母に引き戻される恐怖を感じた。
この後、彼は外出するとき、必ず排便しないと出かけられなくなった。
彼は無事結婚した。その後も彼は不動産の仲介をやり、腕のよい営業マンとして、この業界で名を知られていった。結婚してからは、彼は他の女と関係を持つようなことはしなかった。きわめて几帳面に帰宅した。だいたい彼は、仲間と飲み屋に行くなどといったことも嫌いであった。どうしても欠席できない宴席があっても、一次会は付き合うが、二次会はほとんど断った。そんなことをすると、翌朝の出発の儀式に混乱を生じかねないからだ。便所にゆっくりと入り、きっぱりと排泄するという儀式にである。
ゴルフの打ちっぱなしは付き合う。しかしコースには絶対出ない。便所まで遠すぎるからだ。テニスはいい。快適なホテルになら何日だっている。しかしスキーはやらない。彼は、便所の完備したところにしかいられなかった。
彼は三十歳そこそこで不動産会社を興した。妻の父親に援助を受けて、滑り出しは順調であった。
彼ははじめ、不動産の売買以外に、モーテルの建築に力を入れた。彼が会社を興した頃は、国道や県道から少し入った荒れ地に、比較的簡単にモーテルをつくることができた。そんなモーテルなら軽量鉄骨の柱にボードを貼る程度の低層の建物でも充分営業できたし、窓口に人を一人配置する程度でよいから人件費も安い。
彼は県内に安い土地を買い、いくつものモーテルを建てた。誰でも車のある時代なのだ。
そのうちに法律が変わった。モーテルは風紀上問題があるとされ、学校や市街地に近いところには建てられなくなった。すると彼は、レストラン付きの少しデラックスなホテルを駅前などに建てた。モーテルはレストランがなくてもよいが、ホテルはレストランがあることが認可の条件なのだ。
彼はこのように、ひとつの事業に何らかの形で規制が加わっても、すぐその規制をかわして新しいプロジェクトをつくりあげてゆく。彼は実業家としての才能に恵まれていたのかもしれない。
彼の家庭生活が波乱なくすんでいたのは、はじめのうちだけであった。妻は次第に、夫のいささか奇妙な生活様式が気になりだした。
出かける前に必ず便所に寄るということだけではない。彼は一日のスケジュールを、実に綿密に決めておくのだ。そしてそれを、めったなことでは変えなかった。その頑さは相当なもので、彼はその予定に従って家庭の中も支配した。
彼は実は、一日の排便のスケジュールを決めていて、そのスケジュールが乱れないように自分の生活を組み立てていたのである。妻がそのスケジュールを乱そうものなら、すさまじい怒りに出会った。しかしそれ以外では、彼はたいていのことに文句を言わなかった。
子供はなかなかできなかった。彼は婦人科の医者から説明を聞くと、それをただちに彼なりのしかたで実行に移した。それは妻の排卵日を正確に計算し、その前後に妻を会社に呼び、そこでセックスをする、というものであった。
妻は嫌がった。家に帰ってすればよいのだ。しかし彼は多忙をきわめていたし、夜はとくに接待や会合が多く、また彼は、十時には寝ることに几帳面だった。そうしないと、朝の排便の儀式の予定が狂ってしまうのだ。
彼はその頃、日に三回排便をした。朝と昼と夕方である。それを儀式のようにきちんと行なうことによって、途中、便意を感じないようにすることがある程度できたのだ。
それでも彼は、社長車をすこぶる大型のアメリカ車にし、中にポータブルの便器を積み、渋滞しそうなところを避けさせた。秘書たちは長い間、社長がなぜ目的地までのドライブインやレストランを調べさせるのか、理解できなかった。
彼はセックスを夕方の四時と決めて、それを実行に移した。妻は精いっぱい反論し、抵抗したが、彼の理屈に屈した。彼は多忙を理由に、どうしても会社の隣にあるホテルの一室で四時にセックスをしようと言い張ったのだ。それも正確に四時にである。五時からは会社の会議がある。
彼にとって、セックスも仕事のひとつであった。妻はそういった彼の考え方が嫌だった。女を、子供をつくるための道具だと考えているのだとしか思えなかった。
彼は、愛情を持たない冷たい男ではなかった。だが、自分の愛情の発露を許すと、それに伴って、今まで心の底に深くしまい込んでいた悲しみや不安までが表面に出てくるのではないかと怯えていたのである。だからこそ、彼はクールに振る舞うのだ。
心の中は均質なものではあり得ない。何層にも折り畳まれた複雑な構造をしていると考えるべきである。そのいちばん深いところに、幼児期のさまざまな思い出が、恐怖や悲しみに彩られてしまい込まれている。そういった恐怖や悲しみが、心の隙を縫って噴出するとき、彼は名状し難い不安を感じ、耐え難い便意に襲われるのである。
愛とは「愛する力」のことであり、人と人との絆を実現し維持する積極的なものである。金も力となり得るがゆえに、一人の人間の持つ力を拡大し、愛の実現に役だつものである。しかし、人と人との絆はいずれ、財産とか地位とかにかかわらない、生身の人間どうしの結びつき|に収斂《しゆうれん》してゆくものである。その時人は己《おのれ》の一身《いつしん》の力のみが絆の対価《たいか》となっていることに気づかざるを得ない。己の一身の値うちは己一身に内在する愛する力によってのみ計られ、もはや保有する金の多寡《たか》ではあり得ない。
彼の母も父も愛する力を彼に示さず、それゆえ彼の一身にも愛する力は育まれなかった。彼は人と人との絆を結ぶ愛する力の乏しい寂しい男である。しかし、心の底では、赤ん坊のように無条件でさし出される愛をもとめていた。
娘が生まれた。虚弱な子供で、ミルクの飲み方も悪かった。妻は母乳がほとんど出なかったし、彼から見ると、大味で粗雑な育て方をしているようにしか思えなかった。
娘はよく、布団から転げ出て熱を出した。しかし妻はそれにあまり気づかず、鼾をかいて寝ていた。
彼は敏感な男だから、妻のようにおおらかに眠ることができなかった。妻は、彼にとって、しゃくなくらいよく眠れる質であった。だから彼は、子供が風邪を引くと、おまえが布団をかけないせいだと妻をなじった。
結婚して七年ほど経った。妻の父親に援助を受けた手前、彼はこれまで、妻ととことん事を構えることはしなかった。しかし、妻の父親が死に、彼は妻への遠慮がいらなくなっていた。
彼は怒るときはすこぶる厳しい。同時に、人のミスによく気づく男でもあった。ところが妻はかなり大雑把な質で、怠惰な人間ではないが、細かなところに気が回らなかった。例えば、ワイシャツのポケットをよく調べずに洗濯をしたりするのだ。料理も大味で、彼が信じ難いほどの量をつくり、よく食べ、煮物のダイコンなどの切り方も大雑把であった。このような妻の性格は、彼から見ると、粗雑そのものに見えてしまうのであった。
彼は口うるさく妻に注意をするようになった。妻は素朴で口下手でもあるから、とうてい彼の理屈にはたちうちできない。頑固な不服従で抵抗を始めた。夫婦の間は、きわめて険悪になっていった。
娘が三歳のとき、原因のよくわからない高熱を発した。彼はひどく心配した。妻はしょせん他人だと彼は思っていたし、そもそも愛などというものを信じないふりはしていたが、娘については本気で心配になったのだ。
結局、娘は大学病院に入院し、手術することになった。十二指腸に潰瘍ができ、穿孔していたのだ。生来、虚弱な子だとはいえ、腸に穴があくほどのストレスはどこから来たのだろう。彼は、妻の育て方が悪いからだと思った。
その後も娘はよく病気をした。インフルエンザをこじらせて肺炎を起こしたこともあったし、小学校に入ってすぐ、猩紅熱にもなった。
彼は娘が熱を出すたびに、死ぬのではないかと心配した。そして娘が病気をするたびに、娘は彼にとってかけがえのないものだと強く思った。病んだ娘は彼の手の中の兎のようだ。頬ずりして抱きしめれば、いとしさで胸がいっぱいになった。
彼は娘のことでたびたび病院に通ううちに、病院の玄関を入るだけで便意を催すようになった。ちょっした心配ですぐ便意を催すのだ。しかし妻は子供がどのような病気をしようと、心配で眠れぬ彼の横で、ぐっすりと眠っていた。
十年経った。会社は大きくなり、彼の資産は莫大なものとなっていた。
彼はひたすら金を儲け続けた。社員たちにも他の会社よりかなり高い給与を与えていたし、能力の高い者には破格の抜擢を行なった。これだけを取れば、彼はすぐれた経営者であった。社員は絶大な信頼を彼に寄せていた。
だが、彼は社員を信じていなかった。彼はときどき、会社が崩壊してゆく不安に怯えた。いつか自分を裏切る者が出るのではないかと恐れていたのだ。
彼はこれまでの人生において、さまざまな秘密を抱えていた。夕張のこと、母のこと、父のこと、盗癖のこと、そして便所についての強迫のこと。彼はそれらを人に知られるのを、極端に嫌った。
そもそも彼は、小さな頃から孤独な少年であった。人に自分の心の中を語ったことなど、一度もなかった。だから彼は、人が必要以上に自分に接近するのを好まなかった。万一、人が自分の心の中を覗き、そこにあるものを見て彼を非難したら、いたく傷つくに違いない。実はそんなことはないのだが、彼は一度も人と心を通わせたことがないため、怖くて、それを人に見せることができないのであった。
彼は人に、自分の心の大部分を隠していた。だから人も、彼に対して自分の心の大部分を隠しているのだろうとしか思えなかった。だから彼には、心から信ずる友人も部下もいなかった。
人は、金を与え続けていれば笑顔を向けてくる。金は人の心を覗き込むこともないし、彼を裏切ることもない。だから、ひたすら金を儲け続けたのである。
金は本来、物の従属物であった。だがいつのまにか、物を支配するようになった。金は人をも支配するようになった。彼をも支配するようになった。
彼はすでに所有しているゴルフ場の近くに、もうひとつのゴルフ場と健康センターをつくることを計画した。近くに高速道路が通じ、都心からもさほど遠くはない。しかしそれには、広い土地とさまざまな認可を得る必要があった。当然、土地の有力者たちの了解も得なくてはならない。
彼はすでに町長とは気脈を通じていたから、あとは県会議員の了承を得るだけで事は決まるかに見えた。しかし、町長には敵が多かった。
建設計画を立てた地域は、何人もの国会議員が勢力の浸透を図っていたところで、周辺の町長や村長たちは、選挙のたびに入れ替わった。そうしたさまざまな派閥の有力者たちの同意を取りつけるためには、多額の賄賂が必要となる。彼は法の許すぎりぎりのところで、こまめに賄賂を献上してきた。
彼は何も慌てる必要はなかったのだ。ゆっくりと時間をかけて土地を買収し、周囲の有力者たちに働きかけを行なえばよかったのである。しかし彼はこのプロジェクトを進めるにあたって、あまり冷静であったとは言えなかった。
妻との間に、娘以外子供はできなかった。娘は病弱であったが、妻は子育てに甘い女ではなかった。彼女が小さいときにしつけられたと同じように、娘に対したのである。
例えば妻は、出された物はすべて食べなくてはならないと考えていた。食べられそうもなければ、あらかじめ分けてから食べるか、はじめから箸をつけるべきでないと考えていた。
盛りつけが少なければそれでもよい。しかし彼女はかなりの大食いで、人もつい自分と同じ程度に食べると思っていた。娘はきわめて食の細い子供だったから、とても食べきれるものではない。よく残したために、しばしば母から折檻された。
娘にとって幸か不幸か、母親は次第に家にいる時間が少なくなった。家の財産が膨張するにつれ、財産管理の雑務が増えてきたからである。彼の妻は、相当の財産を独自に保有してもいたのだ。おまけに男まさりのところもあり、スポーツをやったり旅行に行ったり、一時もじっとしていられない質であった。
彼の方は、娘にすこぶる甘いように見えた。娘が欲しがるものはすべて買い与えたし、小学六年になる頃まで、娘と入浴したがった。しかし自分の意思を押しつけることに変わりはなく、相手が納得するまでしつこく求めた。
例えば彼は、ハワイに行く用事ができると、娘を連れて行こうと考えた。娘は嫌がったが、承知するまで粘るのだ。あげくに十万円とか二十万円の金を持ち出し、これをあげるから一緒に来いとせがんだ。娘はいつも根負けして、彼に従った。彼は娘に対し、まるで子供のように振る舞っていたのである。
娘は彼に似て神経質で、敏感で、いつも青白い顔をして、背が高かった。彼女は早くから、生真面目で厳しい母親と、強引で自分に依存してくる父親との間で悩んでいた。
父母はよく諍いを起こしたが、さすがに娘の前では控えていた。娘の方も、両親の間に険悪な空気が流れると、本当は逃げ出したかったが、無理に楽しげに振る舞って我慢して居続けた。
中学に入った頃から、そんな努力がほとほと嫌になったのであろう。娘は部屋に閉じこもりがちとなり、両親を避けるようになった。母親の方はそんな娘の態度に何も思わなかったが、彼の方はそうではなかった。
彼は娘に心理的に依存していた。今まで人形のように愛でてきたし、自分に素直で気も遣ってくれていたからだ。だが、娘ははっきりと自分の意思を示しはじめた。彼の潜在的な依存要求をうるさがるようになってきたのだ。
彼は動揺した。なぜ娘が自分を避けるのか、理解できなかった。欲しがる物は何でも与えたし、愛情だって人一倍傾けてきたではないか。それなのに、娘はそっぽを向いてしまう。しかも、彼女は金では動かない。
彼はその昔、すぐれた直感力を持っていた。木イチゴやグミの実がどこにあるか、他の子供より先に見つけることができた。忍び込んだ家のどこに財布があるかも、不思議とよくわかった。
しかし彼の財産が、生きてゆくのに必要な枠をはるかに越えて増大してゆくにつれ、彼の直感力は鈍っていった。むしろ莫大な金の運用にすべてのエネルギーを費やし、他の事には、はなはだしく無知のままでいたのだ。まして彼は、人の愛を測る術において、欠陥のある男である。微妙な思春期の娘の心など、とうてい読み取れるはずはなかった。
健康センター付きのゴルフ場の計画はなかなか進まなかった。土地は買収したが、周辺の開発もからみ、有力者たちはあっさりと彼の計画を受け入れなかったのである。
今までのところ、彼はたいていのプロジェクトを成功させてきた。モーテルを建てようとして住民のすさまじい反対にもあったが、彼はそれも乗り越えた。そんなとき彼の使った手段は、きわめて単純である。金を使うのだ。金を使えば誰でも転ぶ。だから、このプロジェクトでも金を使うことにした。
娘は閉じこもるだけではなく、反抗的にもなった。彼の言うことなどまったくきかないのだ。彼は娘に百万円を渡してみようとした。妻が中学生にそんな大金を渡すことに反対したので一度は引っ込めたが、そこでやめないところが彼の性格の特異なところである。こっそり娘の机の中に入れておいたのだ。娘はその金を窓から外に放り投げた。庭が広かったので、札は通りまでは出なかった。
娘は金で動かずとも、有力者たちは金で動く。経験は彼にそう教えていた。
彼はかなりむきになっていた。強迫的な人格は、自分の周囲を自分なりの秩序に従って支配しようとする。妻はかなり前からこうした彼の支配に反抗を始めていた。娘もやはり、反抗を始めた。その上さらに、いつも権力をかさに自分を支配しようとする政治家たちの言うことをきくのは、ますます腹立たしい。
だが金があれば、政治家を支配することができる。金とはそうしたものだ。
彼は賄賂を与えるにあたって、古典的手口を用いた。
彼はまず、南米のある国の無名の作家の木彫品を東京などで買い集めさせ、それを政治家や有力者たちの集まるゴルフコンペの賞品にし、その木彫品が彼らにくまなく行き渡るように仕組んでおいた。そして少し間をおいてから、妻の姻戚の者につくらせた美術品取り扱い会社に、それをかなりの高値で引き取らせるのである。彼はこの手口で、その後、あきれるほどの執拗さで賄賂を贈り続けた。
娘はほとんど彼と口をきかなくなった。彼は、妻も子も自分から離れていきつつあることを感じた。彼はふいに、ひしひしと己の孤独を感じはじめたのだ。彼には、身内なるものが一人もいない。母は殺された。父は彼が二十歳のときに見捨てて以来、行方不明になっている。
もちろん金を使って妾をつくり、ふたたび子を成すこともできた。確かに彼はそれを試みもしたが、それは意外な疲労をもたらしただけであった。彼が保有している莫大な資産と巨大な会社は彼にほとんど時間の余裕を与えなかったし、女と付き合うことは、排便の儀式を混乱させるだけであったからだ。
四十歳を越えた頃より、彼は女に対する性的興味を失いつつあった。要するに疲れていたのだ。
彼はそれほどタフな男ではない。しかし大金持ちであるためには、タフでなくてはならない。さもなくば、金の重みで潰されてしまう。
彼は娘に家庭教師をつけた。女子大の生徒で、かなり高い給与を払って勉強以外の付き合いも要請した。
孤独な一人娘は、真面目で気のいい女子大生を姉のように慕うようになった。女子大生も高い給与をもらっていたから、一生懸命娘と付き合った。時とともに二人は、本当の姉妹のような関係になっていった。
彼はむろん、そんなことは気づかなかった。政治家たちの心を巧みに読めるはずの彼も、二人の若い女の気持ちにはまったく想像が及ばなかったのである。
彼はある日、女子大生を会社に呼び、娘が自分のことをどう思ってるか、報告してくれと求めた。そのようなことは自分で確かめるべきことであって、人に聞くことではないはずである。女子大生はそう思って言いよどんでいたが、それ以上に彼がひどく真面目に聞いてくることに驚いた。そして、この男は本当にわからないのだと気づいた。
女子大生は日頃から、彼について娘からいろいろと聞いていた。だから、ひどくあけすけに、彼を批判した。彼は黙ってじっと聞いていて、女子大生の話が終わると言った。
「君は首だ」
そのあと彼は、女子大生の批判には一切答えず、被雇用者としての分をわきまえなければならないことを長々と説明しはじめた。
彼は動揺すると、ときどきとめどもなくしゃべり出す。むろん肝心なことは何も言わないのだが、よく聞いていると、しばしば本音も混じってはいた。女子大生は娘の友人のつもりでいたが、彼にとって彼女は単なる使用人であった。だから使用人の分を越えた意見など聞く必要はないのだ。
彼が娘に家庭教師をつけたのは、娘の自分への気持ちを探らせるための手段であった。だから、その目的を果たさない家庭教師は首なのだ。この理屈は、論理としては正しい。しかし、娘の心を探るために家庭教師をつけるという考え方そのものが誤っているのだということには、彼はまったく気づかなかった。
娘は突然家庭教師が出入りを差し止められたことに深く傷ついた。女子大生は、彼女が最初に心を許した人物といってもよかったのだ。
こののち娘の成績は急速に悪くなり、帰宅も遅くなり出した。彼が与えていた多額の金で、遊んで帰るようになったのである。
ある晩、娘はついに帰宅しなかった。彼のうろたえ方は尋常ではなかった。彼から見ると、妻はふてぶてしいばかりに落ち着いていた。彼は妻を殴りつけた。
次の朝、彼の排便の儀式は著しい混乱に陥った。その日は、何度もトイレに行かずにはいられなかった。
彼のプロジェクトは進みはじめた。賄賂の力は目覚ましい効果をあげていた。
彼は、金の力によって権力者たちを支配することに快感を感じていた。金によって、彼らはあまりに容易に転ぶではないか。それは、彼の寂しい心をまぎらすゲームであった。今度はあの自治会長を転ばせてやろう。次はあの町会議員だ。彼は、下痢便のように金をばらまきはじめた。
娘は、暴走族グループと付き合い出していた。ときどき若い男のバイクに乗って、夜中の町を疾走した。
ある夜、若い男はパトカーに追われ、ハンドルを切り損ねて転倒した。男は腕の骨を折った程度だったが、娘は脳挫傷で重体となった。彼の心の中で、何かがプツンと切れた。がっくりと落ち込み、自分の人生に対する興味が薄れてきた。
彼はもともとあまり酒を飲まない男であったが、妻との不和がひどくなってから、酒量が増してきていた。そして娘が反抗的になった頃より、酒を飲むと機嫌が悪くなり、怒りっぽくなった。
娘が重体となって入院してのち、彼の酒量はさらに増した。そしてときどき、妻に暴力をふるい、娘がこのようになったのはおまえのせいだとなじった。どこか、彼の父親に似ていた。
娘は一時、生命の危険すらあったが回復し、脳挫傷による後遺症も予想よりはるかに軽いものであった。妻はかねてより相談していた知人の意見に従って、別居することを決意した。彼は、娘を妻と一緒に行かせることに容易には同意しなかったが、長い療養を要する身であるため、結局あきらめざるを得なかった。妻と娘は東京に去り、娘は都内の高名な医者の治療を受けることになった。
妻と子が去ったあと、彼はまた金で買える女たちと遊びはじめたが、しばらくしてそれもやめてしまった。女たちは彼に媚を売るが、どこか彼を馬鹿にしているようであった。実際はそうではなかったのだろうが、すさまじく強い母に育てられたため、彼はもともと自分の男らしさに不安があったし、妻や娘に去られて、さらに自信がなくなっていたのだ。
彼はもう、女を相手にするのが面倒臭かった。本当は、人間を相手にすることが面倒臭くなっていた。そんな暗い気分でいた頃、彼は偶然、雑誌に載っていた夕張山地の写真を見つけた。B5判程度の小さな写真だが、彼の心を激しく揺り動かした。懐かしい思いが込み上げ、彼はすべてを放り出して戻りたいという気持ちに駆られた。彼はその写真を切り抜くと、自分の住まいの便所の壁に貼りつけた。
もちろん彼は、深く考えてそうしたわけではない。便座に座りながらその写真を眺めると、気分が落ち着くような気がなんとなくしたのだ。
夕張の自然を失い、文明の中で生きねばならなくなったとき、彼の排便強迫は発生した。まさしく、強迫神経症とは、文明が生んだ病気であり、それゆえに治療はきわめて困難だ。おそらく彼の病いを癒し得るものは、夕張の自然だけであろう。彼はそのことを、どこかで感じ取っていたに違いない。
彼はひとり自室にこもり、有力者たちのリストとデータを見ながら、いかにして彼らを転ばすかというシミュレーションを考えることに熱中しはじめた。孤独な少年たちは、ことさらテレビゲームを好む。彼も寂しさを紛らすように、そのゲームに打ち込みはじめたのだ。
彼の武器は、金という史上最強の武器である。賄賂という臭い武器だ。敵はそれに当たると、汚れて落ちる。そう、金は便にどこか似ている。彼はこれまでに貯めてきた巨大な金をあたりにばらまき、世界を金で、つまり彼の便で汚してしまいたかったのではないだろうか。
すべてが汚れてしまえば、彼も安心していたるところで便ができる。彼がこのゲームに熱中しているときは、便意は遠のいていた。
彼のプロジェクトは着々と進みはじめた。それでも、都心から比較的近いところにある広大な土地の開発には時間がかかった。隣接地帯の町村も六つ以上あり、人口も多かった。
大小の実力者がたくさんおり、それぞれ派閥も党派も異なっている以上、バランスの取り方は難しいし、賄賂を欲しがらない実力者もいる。そんなときでも、彼は執拗に、相手が根負けして受け取るまで贈り続けた。プロジェクトの成功などむしろ二の次であった。法律の網の目をかいくぐって、狙った獲物を金で支配するというゲームに興じていたのである。
妻子が去って二年ほど経った。いよいよゴルフ場のクラブハウスと健康センターの巨大な屋内体育館が完成に近づいた。そんなとき、いちばん大きな土地を提供した町の町長が選挙で落選した。対立する派閥が推すまったくの新人が当選したのだ。
新しい町長はすでに、彼の強引な賄賂攻撃を知っていた。炯眼の実力者の中には、彼のやり方に危険なにおいがすると気づきはじめた者もいた。いかに法律上のごまかしが成立していようとも、その執拗さと常同性が常軌を逸しているのである。
なぜ彼は、同じパターンで賄賂を贈り続けたのであろうか。プロジェクトの完成という当初の目的を、どこかで放棄し去っていたからだ。彼の満たされぬ心の憂さをはらすためにだけ、ゲームをしていたからだ。そして、心が疲れ切っていたからだ。
新しい町長は、彼の賄賂を峻拒した。そして配下の者を通じて、警察に捜査を要請した。彼は新しい町長が賄賂を拒んだとき、事態の変化に気づくべきであった。かつて、少年の頃の彼ならば気づいたかもしれない。しかしこれまでの幾多の成功と莫大な資産は、彼の勘を腐らせていた。
プロジェクトはついに完成した。周辺の有力者たちをことごとく招いての賑々しい開設パーティで、彼は久しぶりに便意に悩まなかった。しかし段上に登っても、本当はあまりうれしくはなかった。彼の話をよく聞いていた者たちの何人かは、彼が実に長々と饒舌であり、来客たちを少し小馬鹿にしていると感じ取っていた。
開設式が終わってほんの数日後、近々、警察の捜査があるとひそかに伝えられた。彼は自分のやっていることは贈賄罪として摘発できまいと思ったが、調べられれば埃は立つ。もはや、事件がマスコミに流れるのは避けられまい。
彼は急に不安になった。また、嫌な便意がひどくなりだした。
しばらくして、いよいよ彼への事情聴取の日が伝えられた。すでに美術品買い取り会社は調べられており、妻の姻戚の男は、すべてのカラクリをしゃべってしまっていたようであった。姻戚の男は、彼に好意を持っていなかった。
ここに至って彼は、事がボヤ程度ではすまないことを悟らざるを得なかった。彼の賄賂の与え方は、値のつけにくい物を相手に手に入れさせ、それを高額で買い取るという方法である。これだけでは、通常は問題とされにくい。それほどの頻度でなければ、あるいは相手の職務権限に直接働きかけていなければ、である。しかし彼のやり方はしつこく、露骨すぎた。
彼は窮地に陥って、ひしひしと自分が孤独であることに気づいた。誰も彼を慰めてはくれない。誰も彼を愛してはいない。会社の重役たちも、かなり以前から、彼の賄賂のばらまき方に危惧の念を抱いていたから、責任はすべて社長にあると言ってはばからなかった。
彼は捜査が始まって以来、自分のマンションに引きこもっていた。マスコミに追われるのも嫌だったし、何よりも、人に会うのが嫌になっていたのだ。
人に会えば、賄賂の話が出されるだろう。そして、おまえがいけないのだと非難されるだろう。そう思うと、人に会うだけで便意が起こってくるのだった。
いよいよ、逮捕される日がやってきた。
彼は罰せられるのだ。何の罪によってか? 金をばらまいた罪によってである。便のように汚れた金で、あたりを汚したからである。
昔、レストランの絨毯を便で汚し、人びとから罰せられたときの恐怖が、ふたたび心の底から浮かび上がってきた。
彼は逮捕の日、容易に便所から出ることができなかった。捜査官がドアの外から彼を促した。便所から出るとき、彼は壁に貼った夕張山地の写真を外し、胸にしまった。
[#改ページ]
あとがき
一
精神科の医者になって十八年も経ってしまった。十八年もひとつの仕事をしていれば、起こり得るたいていのことには遭遇しているから、それなりに対処する技術は修得した。しかし、対処とは治療ということではない。治療は単に、知識や技術の集積ではない。よき治療を行なうためには、治療者は誠実でなくてはいけないのである。
精神科の治療技術の中でとくに修得することが困難なもののひとつに、さまざまな事柄を病者に理解できるように説明する、ということがある。精神科に来る人びとは現実を歪んで解釈しやすいし、そもそも、自らが精神を病んでいるという現実を認めないことが多い。これは知的理解力が低下したというより、精神を病んでいるという現実を受け入れることが苦痛だから、理解する努力を放棄していると言った方が正しい。
こういった人たちに病んでいるという現実を受け入れさせるためには、どのようにして心が病むに至ったか、どのように心が病んでいるのか、といった理解に導かねばならない。病むという現実を受け入れることが、治癒へと向かう重要なステップなのである。これは相当に困難なことであるが、わかりやすく明快な言葉で誠意をもって語るということが基本であるのは確かである。
にもかかわらず、精神科医や精神科の医療技術者たちの語る言葉は、しばしば難解である。彼らの言葉は、病んでいる人びとはむろんのこと、病んでいない人びとにも届いていない様子なのだ。
そもそも、精神を病む人は普通の人びとの中からやってくる。だから病んだ人びとも、考え方の基準は普通の人びとと同じである。精神が病むことを、病んでいない者も、病んでしまった者も、同様に望んでいない。どちらも病むという現実を遠くへ押しやりたいのである。病んでしまった者は自らの心の外へ、病まなかった者は、病んだ者を隔離することで社会の外へ。
しかしこの試みは、いずれも失敗する。病んだ部分のみを心から切り離すことはもちろんできない。同様に、病んだ者もまた社会内存在であるし、精神の病いは実は、風邪の次くらいにありふれているから、社会の外に排除することもまた不可能なのだ。
私がここで言いたいのは、病んだ人びとに精神が病んでいるという認識を導く作業は、病んでいない人びとに精神が病むとはどういうことかを説明することと、同質のものだということである。だが精神医療に携わる者たちは、目下のところ、一般の人たちがわかる言葉で語ってはいないように思える。
それは精神医療従事者たちに、そもそも精神の病いについての知識が不足しているせいであるのかもしれない。あるいは、彼ら自身に潜んでいる精神の病いへの恐れを克服せぬままに、他者に対して克服せよと迫る不誠実のせいかもしれない。さらには、単なるやる気のなさによるのかもしれない。
欧米の社会が精神を病んだ者たちに、日本より寛容であることはよく知られている。社会が寛容になれば、すなわち一人ひとりが精神を病むということにさほどの違和感を有さなくなれば、同じ市民として生きる病者が自らの病気を受け入れやすくなることは当然である。
私はときどき、いかにして一般の人たちに精神の病いをわかりやすく説明できるかを考えてきた。精神医学の知識に通暁すれば、たぶんそれは可能だろう。通暁していなくとも、誠意をもって説明すればよいかもしれない。誠意も不足していれば、気力をもってするしかない。しかし、そのいずれも私には不充分である。
だが、いかに漫然と日々を過ごしてきたにせよ、十八年も医者をやってきて、何も語ることがないとは恥ずかしいことである。その恥ずかしさにかられて、私は十二の物語を書いた。これを読んだ人びとが、精神の病いについてささやかでも知識を深めることがあるのなら、私の恥ずかしさも多少は薄れるはずである。
二
この物語は、通常の症例報告のような形を避けている。症例報告は客観的でなければならないため、目の前の事柄のみ克明になり、検証の困難な過去は粗いタッチになる。また、病いと直接の関連を有さない事柄には、ほとんど触れない。だからそれは、多少の奥行きはあったとしても、病んだ人びとについての、病んでいる姿の描写になる。あるひとりの人間の、ある時期(病気であるとき)の横断的解釈なのだ。
それにもかかわらず、症例報告には、その人間の全体を示すかのような表現が満ちていることが多い。私はそれが、病んだ者たちについての片寄った見方を生んでいるひとつの原因ではないかと考えるのだ。
多くの人たちは、精神を病んだ人びとが生まれつき異質なもの(例えば遺伝因子)を内在させており、その異質さによって病いを一元的に説明できると信じ、いちど精神を病めばその者は二度と癒されないと考えている。それは、一時期の横断的像を、すなわち長い人生のある部分にすぎないことを、全体であると錯覚することにもよってもたらされているのではないだろうか。症例報告が、病歴という時の経過を説明する内容を含むがゆえに、よけいにかかる錯覚に陥るのであろう。
精神医療従事者たちは、病んだ人びとについて、病む前のことも、病いが癒された後のことも、実はさほど知ってはいない。彼らの患者の中には不幸にしてなかなか改善しない病者がいて、そういった病者との長い付き合いによって、彼らは治った人びとがいることを忘れてしまう。つまり精神医療従事者たちは、病者が病んでいる最中のことのみ、ほんのわずかよけいに知っているにすぎないのである。だが、部分的な知識は、時に全体の理解を歪めることもある。
私はあえて、症例報告よりも奥行きのある、時の流れをはっきりと意識した、ひとりの人間の部分でない全人生から、病んだ人びとを描いてみたいと思った。その方が、病んだ人びとに対してフェアな態度であるはずなのだ。
もちろん、私の描き方ははなはだしく不充分である。とうてい彼らの全体像を描き切ってはいない。ただ、彼らの全人生を描きたいという私の意図だけは、汲んでいただけたのではないかと考えている。
この物語の持つ限界は私の人間理解についての限界を意味しているが、同時に、私の貧弱な誠実さの限界をも示している。
三
男たちは、たとえどのような男であろうとも、ドン・キホーテのことをよく理解できる。
ドン・キホーテはある日、かつて好きだった百姓娘アルドンサ・ロレンソのことを思い出した。セルバンテスは、彼女を思い出す前にドン・キホーテは遍歴騎士になろうと思い至ったと書いているが、私は、昔の恋人のことを思い出す方が先であったと思う。
ドン・キホーテは、彼女にドゥルシネーア・デル・トボーソ姫という仰々しい名前を勝手につけ、彼女の愛を得んがために、巨人カラクリアンブロ(「不細工なやつ」といったような意味)を打ち倒す遍歴に出発する。不幸にして、あるいは当然というべきか、百姓娘アルドンサ・ロレンソは、露ほどもそのようなことを知らない。知ったら、腹をかかえて笑い出すだろう。
ドン・キホーテも長い人生を生きてきた男だから、その程度のことは心のどこかでわかっている。にもかかわらず、彼は命を賭けて、風車に戦いを挑むのである。
衆知のごとく、彼は破れ、さまざまな遍歴ののちに結局、愛を成就させ得ずして死ぬ。愛と冒険に生き、そして破れるのである。これ以上、男たちにとってわかりやすい物語は存在しない。
私が描いた男たちも、彼らなりの愛と冒険の物語を生き、どこか無器用なために破れてしまう。破れる者たちがいるということは、この世の宿命ではある。いずれ誰もが破れる時がくる。この苛酷な原理を仏教は、輪廻転生という考えで乗り越えようとし、キリスト教は、永遠の魂の存在を仮定することで合理化しているように思える。
だが、男たちにとってそんなことはどうでもいいのではないだろうか。男たちは皆、ドン・キホーテになりたいのである。
男は自分の愛を成就させるために、女が思っているより、常に多めに努力している。だが男は、そのことを女にわかってくれなどと望んではいない。たとえ破れようと、愛と冒険に生き、そのために命を賭けることを望んでいるのだ。
最後に、たびたび執筆作業を放棄しようとした私を励ましてくれた、私の若い友人である石川洋一君に感謝します。また、本書を世に出すために尽力していただいた、宝島社の上田高史氏をはじめ、同出版局の皆さまに心からお礼申し上げます。
[#改ページ]
文庫版あとがき――無常なること
精神の病は大きく二つの範疇に分けることができる。神経症とよばれる疾病群と精神病とよばれる疾病群である。神経症群は原則的に理性は保たれており、病気であることの認識を有し、治療も入院を要さないのが普通である。精神病群は自我の解体をともない病気についての認識はないか、あっても不完全なことが多く、入院による治療を必要とすることが多い。
いうまでもなく精神病群の方が重症であるのだが、必ずしもなおりが悪いとはいえない。かなり治癒し、治癒に至らずとも良好な社会適応を達成できることが少なくない。
ただ、いわゆる狂を発するとはまさしく精神病群のことをさし、この病的な状態は医学的にはきわめて死に近い状態である。なぜならば、この病気の極期においては、放置すればしばしば死に至るからである。
精神病は慢性に経過することの多い病気であるから、その経過のすべての期間にわたって常に死の危険があるわけではない。ただ、悪化し自我の解体が著しくなれば、眠ることも食べることもできなくなり、死に至るほどの衰弱に至り、あるいは、恐怖や絶望的な想念にとらわれやすく、自ら命を断つことのきわめて多い病気である。
神経症は生活上のストレスに対し、もともとある性格的な要素が過剰に反応し、苦痛を感じるまでの状態になったことをいう。この定義から、神経症に陥っている人々は膨大な数であることが予想できよう。そして、この病気はどこからが病気かの境界を決め難く、病気としての輪郭は曖昧である。
これに反し、精神病のイメージはかなりはっきりとしている。精神科医が精神病者を診察する時、幻覚や妄想の存在を確かめたのちに診断を下していることはむしろ少ない。診察の最初に得た印象からすでに見当をつけて、その裏づけのために幻覚や妄想を捜すことの方が多いのだ。精神科医でなくとも、一般の人々でも精神病者を見分けることができる。精神病、すなわち狂というもののイメージは理屈や原則より以前のきわめて直観的なレベルでとらえ得ることができるのである。それは、そのイメージの中に普遍的ともいえる要素が内在されているからであろう。私はそれが「死」であるに他ならないと考える。狂とは死に至る状態、あるいは死を予感させる状態であると思えるのだ。もちろん、精神を病んでも、死に至らぬ人々がたくさんいることは確かだが、それは周囲の人々の直接間接のかかわりによるためであり、おかれた状況に内在する抱擁力のような要素により回避できたせいである。
狂は死を予感させるところの状態であり、すなわち無常なることに他ならない。死に至る病は他にもあるとしても、身体の病においては精神はなお無常の縁に留まり得る。しかし、狂は精神そのものを無常の中に引きずり込む。人々が狂を恐れるのは無常の中に沈んでゆく魂を見るからである。
この本はバブル経済の絶頂の頃に書かれたものである。その時代、人々は、しばし、世の無常を忘れ、錬金術者になれると信じ、時流に乗り遅れまいとあがき、足もとの闇が見えていなかった。しかし、きらめくバブルの時代の流れの底へも沈み行く人々はいた。沈み行く原因は色々あるにしても、その中に精神を病んだ人々もいた。
流れの底に沈み行く人々はすぐ忘れられてゆく。それも無常なるがゆえであろう。無常こそ常なる流れなのかもしれない。せめて、無常に沈む人々について語り残しておくべきだろう。精神を病んだがゆえに敗れ沈まざるを得なかった十二人の男の物語はその目的にそうものであろう。
この本は意外なほどに良く売れた。精神病という暗いテーマが中心にあるにもかかわらず、人々に読まれたのは、バブルの絶頂期において、すでに少なからずの人々が世の無常なることに気づいていたせいかもしれない。あるいは、きたるべきバブルの崩壊を予感していたのかもしれない。
バブルの崩壊ののち、さらに多数の人々が時代の流れの底へ沈み行く運命となった。時代は困難となっただけでなく、逃げ場のない閉塞した状況となっている。人と人との間の歪は増大し、歪はめぐりめぐって一番弱いくたびれきった魂に集中し、いずれ、その魂は狂を発するに違いない。すなわち、この本に描かれた十二人の男に似た人々はこれからも出続け、増えることはあっても減ることはないと考えられよう。
この本を出版した時、この十二人の人物像がかなり克明であったせいか、モデルの秘密まで暴露しているのではないかとの批判を受けたことがある。確かにモデルというべき人々はいないわけではなかったが、特定の個人の歴史を直接に描いたわけではなく、私が出会った多数の病んだ人々の像を幾つも重ねあわせ、まったく架空のストーリーに脚色しなおして書きあげたものである。すなわち、十二編の短編小説といっても良いのであり、それゆえに、多少なりと十二人の男たちは普遍的イメージを持ち得ていないだろうか。
ともあれ、この本を出版したのちも、十二人の男たちに良く似た人々に精神病院で幾人となく出会ってきた。おそらく、明日もまた新たに出会うことになりそうであり、精神科医の仕事を続ける限り、出会い続けるであろうと思われる。
一九九六年四月五日
[#地付き]浅野 誠
浅野誠(あさの・まこと)
一九四六年新潟県生まれ。千葉大学医学部卒業。精神科医。著書に『微かなる響きを聞く者たち』『「精神《こころ》が病む」ということ』。
本作品一九九一年、宝島社(当時JICC出版局)より刊行され、一九九六年五月、ちくま文庫に収録された。