人の記憶は儚い。そして人の誇りは脆い。
記憶を取り戻すたびに失われていく大切なもの―。エリダナ最強の咒式士達に訪れる断罪の刃。果たして彼らの運命は・・・・・・なーんてね!!
されど罪人は竜と踊る「禁じられた数字」 浅井ラボ
まぶしい光り。
自分が目を開けていたことに気づいた俺の視覚は、細長い四角形を捉える。
よく見ると、四角形は小さな机の天板の側面だった。その机の向こうには壁があり、女ものの服が掛かっていた。
頭の上の方からの眩しい光を探すと、窓の紗幕の隙間から朝日が漏れていた。
いつもの朝、気だるい目覚め。
意識が少しずつ鮮明になってきた。俺は寝台の上に横たわっているようだ。
睡魔が去る気配がないし、急ぎの用事も予定もない。論理的結論。掛布にくるまって二度寝に入ることに・・・・・・って、ちょっと待てっ!
体内ホルモンを調節し、血圧を上昇させて、俺は脳を覚醒させる。
女ものの服を着る特殊趣味はないから、俺の部屋ではないし、殺風景過ぎて、ジヴの部屋でもない。
(ここはどこだ?)
家具すらほとんどない無機質な部屋は、安ホテルの一室にしか見えない。
上半身を起こし自分の体を見下ろすと、薄い胸板に、痩せ犬のような腹直筋と脇の外腹斜筋が続き、その下は白い掛布に覆われていた。
生理現象が急角度で掛布を押し上げていたから、当然ながら下半身も裸だ。だが、俺はなぜ全裸で寝ていたのだろう?
知覚眼鏡が鼻先に引っかかったままだから、自然に寝たわけでもない。
そう思った途端に、こめかみの鈍い痛みと、脳の奥の鋭い痛みの二重奏が響く。
親指と人指し指でこめかみを揉みながら、痛みの嵐が去るのを待つ。
たっぷり数分間は耐えると少し治まってきて、思考もいくらか明瞭になってくる。
床の絨毯へと裸の足を下ろし、寝台に腰掛ける姿勢で、しばらく何も考えられない。
床には俺の衣服や下着や靴、魔杖剣までもが無秩序に散らばっている。
何があったのか脳で記憶検索をかけるが、頭痛と吐き気で上手く働かない。
自分の体内情報をざっと調査すると、血液一〇ミリリルトル中、アセトアルデヒドが〇・三ミリリルトルもあったので、そりゃ気分も悪くなるわ。
記憶を失うほど飲むとは、ギギナが聞いたら、攻性咒式士の風上にもおけない不用心さだと言われるだろう。
体を動かすと、寝台の枠にぶつかった左足首に鈍い痛みが。疾る。
痛みで急速に記憶が蘇る。
夕方のエリダナの街。俺は七八年型セルトゥラを軽快に走らせていた。
長年乗っていてよく故障するが元気な単車で、事務所のヴァンのバルコムMKWといい勝負の年寄りだ。
耳元を唸る風が心地よく、俺の気分も爽快だ。
オリエラル大橋へ出る道へと右折すると、前方から大きな衝突音があがった。
車の間をすり抜けていくと、道路の周囲では野次馬が遠巻きに眺めている。
俺も単車を止めて見ると、アスファルト上の急停止のタイヤ痕の先に、車と輸送車が横転しており、破片や燃料が零れていた。
欠伸をしながら単車を再起動させた時、ぶつかってくるものがあった。
単車ごと転がり、アスファルトに叩きつけられたことを、頬と全身の痛みで気づいた。
口の中にも埃や小石やらが入って気持ち悪く、いくつかは飲んでしまったようだ。
「重い痛い、痛い重い! 痛重い!」
目眩から視覚が戻ってくると、俺にのしかかる血塗れの男がいた。
「あ、ず・・・・・・けそ、れか、え・・・・・・」
血塗れの男が俺の襟元を掴み、謎の言葉を吐くが、そのまま胸の上で気絶する。
どうやら事故の被害者らしいが、男に上に乗られるほど不愉快なことはない。
救急隊員が男を俺から引き剥がしてくれた時は、本当に嬉しかった。
「負傷者はこちらで保護します。あなたは大丈夫なようですね。」
女性救急隊員がケガ人を担架で運んでいくが、俺に興味はないようだった。
周囲の人間に注目され、俺は笑顔を作りながら単車へと歩く。
実際は単車の下敷きになった時に足首を捻挫し、痛みで意識が混乱していたのだ。
魔杖剣ヨルガを腰に差したまま、鎮痛剤を合成して耐える。
女の前だとカッコつけたがる俺の癖は病気だ。一方でカッコつけなくなった男は最低の生物だという学説もある。ないかも。
平気な顔を保って、口内の埃や小石を吐き、愛車のセルトゥラを引き起こした。
側面に傷が付いているが、気にするほどではない。他人の目には、どれが今の傷か分からないくらいの傷があるし。
それよりも、来た道を戻ることを考えると気が重い。
この服でジヴと会うと、「また何かしたの!」と怒られるだけだ。
足首の傷みを摩りながら、俺は記憶から現実に戻る。
何というか、俺の運の悪さは極まっている。
確かあの後、どこかへと向かっていたのだが。確か記憶の中の俺は、あれからジヴに会うと考えていた。
しかし、単車で行き帰りし、ジヴと会うときに、頭痛がするほど呑むわけはないのだが。
とにかく、どこだか分からない場所で全裸でいるのは不安だ。相棒のギギナは自宅では全裸でいる方が気楽らしいが、動物と人類の羞恥心を比べてはいけない。
床に散らばった衣服を拾いに立とうとして、絨毯の上に慎重に両足を下ろす。足の裏に硬い感触があった。
身を乗り出し指先で探って、足裏に落ちていたものを拾う。
指先には紙に挟まれた燐寸。裏返すと電話番号と店の名前があった。
「エリダナ料理専門店『銀鱗亭』・・・・・・?」
俺は急速に記憶の続きを思い出した。
オリエラル大河東岸の「海鳥亭」の丁度向こう岸にある「銀鱗亭」は、値段も手頃でたまにジヴと二人で行く店である。
「ガユスにギギナさん、嫌な顔をしない」
ジヴの言葉にも、俺とギギナの表情は晴れない。
ジヴに誘われて、その「銀鱗亭」に来たのだが、予約席には俺と同じような渋い顔のギギナが座っていたのだ。
「長外套をお預かりしましょうか?」
黒髪のウェイトレスが俺に声をかけるが、無視して円卓の反対側に座る。
「ギギナ、どう騙されてここに来た?」
「ここで家具市があるからと」
子供でも分かりそうな嘘だ。しかし、ガユスの料理に飽きたし六割り引きの券をもらったとジヴが言った時、おかしいと気づかない俺の方こそ頭が悪い。俺の料理で、ジヴの体重が序々に増えているといっても過言ではないのだ。
最近のジヴは、何とか俺とギギナの関係を改善し、人間として更正させようとしているらしい。
しかし、俺は酒を呑み、ギギナは黙々と料理を片づけていくだけであり、二人とも目すら合わさない。
確かにこの仲の悪さでは、いつ殺しあいになるか分からない。
だが、磁石の同極くらい仲良しな俺たちには無理だと思う。
ジヴが肉又を皿に叩きつける乱暴な音があがる。
「少しは仲良くできないの?」
俺とギギナは目線を合わせ、ジヴへと戻す。
「私とガユスは、お互いが仲良くならないように真摯に協力しあっているのだ」
「ギギナの言う通りだ。ジヴ、よく考えてみろ。仲が悪いように協力しているということは、仲がいいってことじゃない?」
俺の真剣な表情に、ジヴが気圧される。
「え? でも、協力して仲を悪くしているってことは結局仲が悪い? でも協力しているから仲がいい・・・・・・あれ?」
言葉の不完全定理の罠にはまっているジヴを見て、俺は大笑いする。だが、喉の奥に違和感を感じ、咳をしだすと止まらない。
目を細めて俺を観察するギギナがいた。
「ガユス、介錯が必要か?」
「こんなことで死ぬか。喉の奥に何か引っかかっただけだ。」
咳は止まらず、俺は盛大に咳きこむ。
「うるさいぞ」
後ろの席の声へと振り向くと、アルリアン族特有の尖った耳に銀環が並んだ男がおり、その向こうには亜麻色の髪の女がいた。
「てめえはヘタレ眼鏡のガユスっ!、その向こうは馬鹿ドラッケン族!」
顔を逸らしたが、今さら遅かった。
「てめえらに会うとはな。たとえるなら、糞の上に糞が乗ってる珍風景を見た気分だ」
「お二人さんが仲良く食事なんて珍しい。来年はこの星が滅びるニャー」
騒がしいアルリアン人の男は、イーギー・ドリイエ。生体生成咒式を使う華剣士。
対して話し方が一定しない女は、同じ事務所に所属するジャベイラ・ゴーフ・ザトクリフ。電磁光学系咒式を駆使する光幻士。
ともに十二階梯に達する凄腕で、初夏の事件で顔見知りになったラルゴンキン咒式事務所の連中だ。
「あの事件以来か。永久に会いたくなかったけどな」
俺は独り言を吐き捨てる。
「あ、ジャベイラ先輩?」
「あれ、ジヴーニャって、もしかしてガユスの恋人ってあなただったの?」
ジヴが声をあげ、ジャベイラが答える。
「この変態とジヴは知り合いなのか?」
「ええ、私が入社した時に、少しだけお世話になったのよ。その後、すぐに辞めて攻性咒式士になったと聞きましたけど?」
「ええ、今はラルゴンキン事務所にいるわ」
「わ、やっぱり。ラルゴンキンさんの所で似た名前を聞いたから、もしやと思っていたけど」
「大量生産される名前だからね」
ジャベイラは憂いを帯びた瞳で遠くを見る。ジヴはジャベイラからイーギーの方へと興味津々の目を向ける。
「こちらの方は先輩の彼氏ですか?」
「違う」
アルリアン人は即座に否定する。
「イーギーは冷たいのう」
ジャベイラはイーギーの頬に触るが、アルリアンは露骨に嫌そうな顔で振り払う。
「オッサンの人格で触るな。そして、もう少し性格を統一しろ。そうしたら・・・・・・」
「そうしたら何?」
俺の問いにイーギーは顔を背ける。凶暴なくせに意外と純情なのね。
ジャベイラが豪快に笑って続ける。
「私たちの方は、単に仕事の打ち上げ。ついでに久しぶりに従姉妹と会おうと思って。あ、姉さん、こっちよ」
俺とギギナが入り口を向くと、豊満な体を場違いな白衣に包んだ、藍色の髪と瞳の女が手を挙げる姿があった。
「あれ患者四九七〇七〇一号に、四九六〇二二四号?」
待ち合わせの女は、変態女医のツザン・グラル・デュガソンだった。
確かにジャベイラとツザンは、容姿と電波系な性格が似ているが、まさか血縁関係があるとは。
そうか、ジャベイラは元夫の家名か。
遺伝子の悪夢に恐怖している俺とギギナを余所に、ジヴが恐るべき発言をする。
「どうぞ先輩、そちらの方と従姉妹の方も私たちと一緒に食べませんか?」
丸い食卓を囲む六人の男女。
女たちの会話は弾むが、俺とギギナとイーギーは黙りこむ。
よくもこれだけ仲の悪いヤツらが顔を揃えたものだ。嫌な偶然だけはよく起こる。
ジャベイラとツザンの悪魔女たちに合わせて、俺も酒杯を次々と空けていく。しかし、喉の奥の引っかかりがまだ取れない。
「いろいろあったが、仲良くやろうぜ」イーギーがギギナへと酒杯を向ける。「と、ラルゴンキン親父が言えと言っていたから、誘うだけだがな」
しかし、ギギナは酒杯に顔を背ける。
ギギナの体内には常に咒式が働き、ある程度の毒や有害物質を分解する。
強化されたアルコール脱水素酵素はアルコールをすぐに分解し、悪酔いの原因たるアセトアルデヒドもミクロゾームエタノール酸化酵素で酢酸になり、炭酸ガスと水へと分解される。つまりまったく酔えない。
だが、ギギナが酒を呑まないのは、単に味が嫌いだからだ。
おまえの味覚は子供かと言いたいが、まだこの世に未練があるので言わない。
「てめえ、このイーギーの酒が呑めないってのか?」
「アルリアン人の長耳臭い酒など、誇り高きドラッケン族か呑めるか」
「おいギギナ、アルリアン人の相手をするな。平和主義を掲げるくせに気の短い、嫉妬深いヤツらなんだから」
「ガユス、アルリアンの血が入っている私に言いたいことがあるなら、直接言ったらどうなの?」
「ガユスはジヴと仲良しで、ジャベイラちゃん寂チー」
「あんた、まだ人格変化なんてもので人の気を引こうとしてるの? その脳を外科的に除去したいわね」
「変態医師のツザンが言うな。てめえこそ腐乱死体と犯って死ね」
「あんたが死ねイーギー」
「と言うツザン姉さんも死に腐れ。血縁であることがはずかしいわい」
「まあまあ、俺に任せろ。ここはギギナが死ぬということで、全部丸く収めよう」
「ガユス、表へ出ないか? あの世へ片道旅行する秘訣を、貴様だけにそっと教えてやるから」
酒の所為なのか、咒式士どもの会話は口の悪さばかりが目立ってきている。
「もう、少しは仲良くできないの?」
咒式士たちの争いにジヴが怒りだす。
俺としても、全員に含む所があるので、ちょっとおちょくってやりたい。
「じゃあ、こんな余興はどうだ?」
夜空を見上げながら吐いた俺の言葉に、全員が「何?」と一音で合唱する。
「順番に数字を三つまで言っていき、一〇〇を言った人間が罰を受けるという遊びだ」
「いいわよ。罰とか面白そうだし」
ジヴや女たちが賛成し、イーギーも不承不承ながらもうなずく。
「あれか、あれは・・・・・・」
ギギナだけは秀麗な鼻先に皺を寄せていたが、異議があがる前に遊びを開始する。
円卓を囲んで俺の左へジヴ、ジャベイラ、ギギナ、イーギー、ツザンが座る。
「一、二、三」
「四、五、六ってトロいわね、この遊び」
「まあまあ、そのうち面白くなっていくって。七、八、九」
無駄話をし酒杯が空になっていきながらも、数字は左へ左へと延々と続いていく。
「九七」
イーギーの発言まで回り、ツザンへと回る。
「悪いね患者、九八、九九」
「俺かよっ!」
俺は驚いたような声を出し、全員の視線にうながされ仕方なく「一〇〇」と言い、負けを認める。
「提案者が負けてどうするのよ」
「さて、罰は何にするかな?」
ジヴやイーギーやジャベイラの笑みを噛み殺すような顔があった。
だが、俺の向かいのギギナだけは知っているのだが、これは俺の計算なのだ。
この遊び、敗者への罰は勝者たちの自由裁量である。
そして一回では終わらず、飽きるまで繰り返される。これは何を示しているのか?
そう、罰を受けた敗者が次の勝者になった時、自分以上の罰を与えたくなるという当然の心理が働くのだ。
つまり、回が進めば進むほど、罰は爆発的に容赦なくなっていくのである。
たとえば、前に負けたギギナの罰は、十分間、俺の座る椅子になることだった。
屈辱のあまり、最後には口から血を吐いたギギナは、写真を撮っておきたいほど素晴らしい表情をしたものだ。
となると、智略を尽くして全部の勝負を勝てばいいと思うが、それは不可能である。
一人だけ敗者になっていないヤツは、後半には怨念に満ちた敗者たちの標的になる。
そして敗者の何人かが組めば、簡単にそいつを陥れられるのだ。
合理的結論。最初の方に罰を受けて恨みを回避し、協力者を増やして、後半の大殺戮を開始するのだ。
罰にしても、女性、しかも初心者が混じっているから加減が分からず軽いものになる。俺の恋人のジヴも混じっているから、そう酷いものにはならない。
そこまで読んでの、俺の緻密な作戦なのである。
「さあ、みんなで何でも罰を言ってくれ」
ジヴが悩んでいると、即座にギギナの顔に邪悪な表情が閃いたのを俺は見逃さない。
「ネレス通りで火事があったらしいぞ」
「やだ、それって私の家の方角じゃない」
ジヴが急いで店の奥へ確かめに向かっていったのを確かめ、ギギナがツザンに接近していった。
ギギナが耳元で何事か囁くと、ツザンがうなずき、顔には邪悪な表情が浮かぶ。
「うわ、何か嫌な笑い」
「いやガユスの服に酒が零れているから」
思わず腹部を見下ろすと、いきなり首筋に小さな痛みを覚えた。
振り返ると、自分の首筋に突き立てられた注射器と、愉快そうなギギナとツザン、そしてジャベイラやイーギーの顔が見えた。
麻酔で意識が遠のきながら、俺は食卓に掴まろうとして倒れる。握ったものを見ると、「銀鱗亭」の燐寸だった。
その瞬間、俺の意識は闇へと落ちていった。
見知らぬ部屋に座りながら、俺はそこまで思い出した。
あの後にギギナが考え、ツザンが実行する罰を受けたのだろうが、思い出せない。
何かとんでもない、思い出してはいけないことのような。
混乱しながらも掛布から抜け出す。
下着とジーンズを穿いて釦を止めようとした時、以前に倍する吐き気が帰ってきた。
口許を押さえながら急いでトイレを探す。部屋の手前の扉を開けると、衣装入れ。
急いで次の扉を開けると、白磁の便器があり、頭を突っこんで吐く。
胃から喉が一本の管となったかのように、盛大な反吐が出る。
吐きおわると、表現しがたい混沌の中に、飲みこんだらしい黒い小石まで出ていた。
見ているとまた吐きそうになる。水を流して立ち上がると、尖った痛みが腹部に疾って俺はうずくまる。
痛みの発信源を探ると、裸の腹部に小さな傷痕があり、薄く血がにじんでいた。
途端に記憶が蘇る。最悪の記憶が。
喉に引っかかる不快感に薄目を開けると、銀鱗亭の屋外席の底があった。その上には月が輝く夜空が見えた。
とすると、ここは銀鱗亭の下、オリエラルの川縁に置かれた長椅子の上らしい。
腹部を撫でてくる感触、ジヴの愛撫かと思って放っておくと、鋭利な痛みが疾る。
上半身を起こすと。俺の服の前がはだけられており、裸の腹部にメスを当てているツザンと目が合う。周囲には咒式士どもが並んでいやがる。
「いや、この前のラズエル社事件で、汚らしい禍つ式があんたの腹を触ったと聞いて」
俺の視線に対し平然と言い放つツザン。
「だから、なぜ俺の腹を開こうとする?」
まったく聞いていないツザンが、夢見るように語りだす。
「皮膚を触っただけで分かったわ。ラズエルや中央病院の医者なんかに、あんたの内臓の修復なんかできるわけない。何千人もの内臓を見てきた私が保証するわ。あんたの内臓は、血塗れの天使という名の楽園なのよ」
「嫌な楽園だな。それより俺の外面に興味を持てよ」
「平凡。ギギナの顔の解剖と保存なら興味あるけど。というわけで位置を直させて、ついでに保存させて。えーと、そういう罰。そうよね皆さん?」
ギギナが神妙にうなずく。ジャベイラとイーギーも呆れ顔だが止める気配はない。
しまった、罰が最初から限界値に達しているとは、俺の人徳の無さを計算していなかった。逃げようとした俺は、麻酔で動けない自分の体に気づいた。
「ま、待ててほ」
舌まで麻痺しだした俺の腹部に、人指し指を背に当てた冷たいメスが入っていく。
「このメスは私の宝物で、素晴らしい切れ味なのよ。安心して解剖されなさい♪」
皮膚の表面で赤い血の雫が盛り上がり、さらに銀色の刃が進む。それ以上の進入を別の刃が止めた。
細い魔杖剣の刃、その柄を握っていたのはジャベイラ。
「ツザン姉さん、罰としてはもう十分よ。それ以上は私の玩具にやりすぎよ」
「お俺はは、いつ、からおまえのの玩具にになったんだよよ?」
俺の呂律は回らない。だが、ジャベイラが良心に目覚めてくれて助かった。
従姉妹同士の視線が、俺の上空で衝突していた。
「邪魔しないで。私が興味あるのはガユスの内臓だけ。あんたも後で遊ばせてあげるから。ね、従姉妹じゃない?」
「本当? じゃ、協力するわ。従姉妹だから」
魔女たちの利害が一致し、四つの悪意に満ちた瞳が俺へと向けられる。デュガソン家の雑な遺伝子なんぞ呪われろ。
「大丈夫よ、ちゃんと咒式無菌力場を発生させ、輸血もするから」
消毒の後、ツザンは自分の手に輸血管の針を突き刺し、逆を俺の腕へとつなげる。輸血管を通って、赤い血液が俺の中へと侵入していく。
「ほーら、私の命がガユスの中へと入って、二人の命が混じりあう」
変態毒を注入される気分だ。逃げたいのだが、麻酔の効果で動けない。
ツザンは喘ぎ声を出しながら、俺の胸から腹へとメスの刃で撫でていく。麻酔で感触がなくなってきたのが、すっごく怖い。
「初めてガユスの内臓を見たときの感動を思い出すわ。憂いを帯びた肝右葉に肝左葉、その裏に恥ずかしげに隠れた胃の横顔。大網に飾られた小腸は、まさに美の化身だったわ!」
ツザンの声に、上気した顔のジャベイラが唱和する。
「人は外面じゃなく内面と言うけど、ガユスこそ内臓美人なのね。何か性的に興奮してきたわ!」
ツザンにジャベイラ。エリダナ最悪の変態女たちの発狂会話に、次元が歪みそうだ。
俺は自分の内臓が晒されるのを想像し、気持ち悪くなってきた。
脳から血液が降下していくのが分かるが、気絶するな俺。したら終わりだ。内臓をみんなに見られるのって何か恥ずかしいな、とか思っている場合じゃないぞ。
「ちょっと、何してるんですか!」
夜のオリエラル大河を背景に、肩を上下させて怒っているジヴが立っていた。
「それは私のですっ! 手を出さないでくださいっ!」
ジヴの指先をたどる変態女二人の視線。
「あなた膵臓派? 意外と渋い趣味ね」
「いやいやツザン姉さん。ジヴーニャはもっと下の方が大事で・・・・・・」
「そ、それだけじゃなくて、それを含めた全部ですっ!」
真っ赤になって怒るジヴ。
「では、誰がガユスを解剖するかで、もう一勝負よ」
ツザンの宣戦布告にジャベイラがうなずき、ジヴが激しい視線を返し、ギギナもイーギーも楽しそうにして去っていく。
「皆ささん、人権とかいう単語をを聞いたことがないでれすか? ああと麻酔を解いてくれくれない? もししもーし?」
部屋に戻りながら俺は腹の傷を撫でる。たかが遊びで死にかけたことが恐ろしい。
ジヴが来るのがもう少し遅かったら、ツザンは俺の小腸に頬ずりし、ジャベイラに悪戯をされ、解剖実習の蛙と同じ運命をたどるところだった。
寝台に腰掛けながら俺は感謝していた。
ありがとうジヴ。俺はもう絶対に浮気なんかしないよ。
「うう、ん」
艶っぽい呻き声が俺の背後から響いた。だが、振り向いた寝台の上には誰もいない。
恐る恐る探していくと、寝台と壁の間の空間に人肌が見えた。
白い背中に滑らかな臀部の曲線。つまり、全裸の女が倒れていたのだ。
(う゛ごあぱおえ゛えええええええええっ!?)
言語にならない悲鳴を手で押さえる。
言ったそばから、俺が他の女と寝たという事実が信じられない。
俺自身が信じられないのだから、ジヴが信じてくれるわけがない。
この女は誰なんだったらなんだ? 近よって顔を覗こうとして、壁から出ていた上着掛けに鼻先をぶつけた。
目尻に涙が滲みながらも見下ろすと、女の裸の背の上で赤い飛沫が跳ねていた。
鼻の下に熱いものを感じ、急いで鏡を探すが見つからない。床の魔杖剣を拾って刃に顔を映すと、俺は鼻血を流していた。
よく見ると、一度出た鼻血が乾いたのだが、ぶつけてしまったことでまた流れだしたらしい。
それで一度目の鼻血を思い出した。
二回目。何とか自力で治療した俺の左から、ギギナ、ジャベイラ、ツザン、イーギー、ジヴと席につく。
「あのお客様、騒ぎは困ります」
ウェイトレスが怯えた声で言った。
途端に俺の厳しい視線に晒されたウェイトレスは短い悲鳴をあげ、夏用の長外套へと酒を零す。
「す、すいません。すぐにお洗濯して」
「いいから退いていろ」
俺は黒髪のウェイトレスを押し退ける。
楽しい食後の余興は、邪悪な雰囲気に変わっていた。
「まあまあ、遊びなんですから楽しくやりましょうよ。ね、ガユス?」
「そうだな。真剣に怒るのも子供だしな」
ジヴのとりなしに俺は微笑む。
だが内心では、俺をハメた咒式士どもをまったく許していない。俺以上の地獄を見せ、一人一人の心を破壊すると決意していた。
まずはギギナ、てめえからだ。
俺の黒い心を隠し、数字は続いていく。
「九四、九五・・・・・・」
「ゴホっゴホっ」
イーギーが数字を言った時、俺は咳をした。
「喉の奥の違和感がどうにも取れなくて」
「喉に眼鏡と戯言を詰めて死ね」
イーギーが文句を言う間に、俺の視線に気づき、瞬時に意を汲んだジヴが続ける。
「じゃあ、私は九六、九七、九八」
俺の左隣のギギナの眉が跳ね上がる。
「待て、イーギーの数字を、ガユスがわざとらしく邪魔しただろうが」
「残念、ジヴが続けたからもう手遅れだよーん」
舌を出しながら指先で耳をほじり、両の瞳孔を眼の端に寄せて嘲笑してやる。
「俺は九九、ギギナの罰は何がいい?」
歯を噛みしめるギギナ以外の全員が、真剣に考えこむ。
「だったらガユスちんと同じか、そうだギギナたんには女装が・・・・・・」
ジャベイラが別人格で言った瞬間、周囲の気温が下がっていく。
屠竜刀の柄に手を掛けている凄絶なギギナの視線が、物質的な圧力となって放射されていたのだ。
俺はジャベイラに駆けより、ギギナへと視線を向けながら耳元で囁く。
「そうじゃな、女装では甘い。ギギナ殿への罰は・・・・・・許嫁への愛の告白で」
ジャベイラの発言に、ジヴとツザンの顔がなぜか輝いた。女ってこういうの好きだよな。
「ふざけるなっ、私はそんなことは絶対にせぬぞっ!」
ギギナが椅子を蹴って立ち上がる。引き抜いた柄は、背中の刃へと連結されていく。
「ギギナ、いい年して我が儘言うなよ、皆が困っているだろ?」
「我が儘ではないっ、そんな軟弱なことはドラッケン族の戦士の誇りが許さない!」
女性陣の興味津々の顔に対し、ギギナは抜刀して戦闘態勢に入っていた。無理にやらせようとするなら、この場の全員を殺すという決意が表れている。表れるなよ。
「あれあれギギナ君、それはおかしいんじゃない?」
酒杯を傾ける俺に、炎のようなギギナの視線が向けられる。
「誇り高きドラッケン族の戦士が、たかが遊戯の規則も守れないの? それとも許嫁が嫌いなのん?」
そう言った瞬間、ギギナの全身から一層凄まじい殺気が俺へと放射される。
平気そうにしているが、俺の心臓は縮みあがっている。
道理とギギナ自身の誇りが俺の手札。ギギナの手札は憤怒。
銀の双眸に複雑な色の嵐が吹き荒れ、ギギナの犬歯が鳴る。そして、ついに屠竜刀が静かに納められた。
俺の勝利だ。
心理学の初歩だが、最初に無理な願いをすると次の小さな願いが通りやすい。一度目を断った罪悪感と、難しさの比較による譲歩だそうだが、今回も上手くいった。
全員の沈黙のなか、ギギナの薔薇色の口唇が震えながらも言葉を紡ぐ。
「わ、わ、わた私の許嫁は、す、素晴らしい女で、私は許嫁を・・・・・・」
ギギナの顔には極限の苦痛の色が表れていた。
人前で愛を語るくらいなら、俺は裸で親の葬式に行って失禁する。無意味に誇り高いギギナにとっては、死よりも辛いだろう。
無敵のギギナが地上で唯一恐れるものが、故郷の許嫁の機嫌である。
ギギナ以上の美貌で、ヤツの会話が退屈だと尻を蹴り上げる気性の持ち主らしく、非常に恐れている。
俺の想像するその姿は、美しい顔の下は獅子と象の間の子の姿である。とにかく人間の範囲ではないだろう。
「あ、あ、い、愛、して・・・・・・」
噛みしめたギギナの唇からは鮮血が噴き出していた。精神崩壊を防ぐために、全身の細胞が必死に抵抗しているのだろう。
「る?」
ギギナの目が焦点を失い、隣にいた俺が逃げる間もなく倒れてくる。
銀髪に包まれた後頭部が俺の鼻筋に衝突し、目と鼻の奥に火花が散る。
大型単車なみのギギナの体重の下で、俺は鼻血を出していた。
何かの下敷きになるのは、今日だけで二回目だな、と余計なことに気づいた。
ギギナの表情を思い出すと、笑いと鼻血が止まらない。
大声を出さないために手で口許を押さえ、机に手をつきながら笑っていたが、笑えない事態を思い出す。
寝台と壁の隙間で意識を失っている女は誰だ?
意識を無くした女の裸の肩を掴んで、少し覗いてみる。
ジヴではない。ジャベイラでもツザンでもないことには真剣に神に感謝した。
肩までの黒髪に象牙色の肌。美人だが、どこか険のある顔立ち。
呻き声に反射的に身を引くと、女の目が開き、漆黒の瞳が俺と出会う。
壁と寝台の隙間から身を起こす女は、一糸まとわぬ全裸だった。当然、豊かな胸と桃色の山頂が俺の目に入る。
俺の視線は意外に鍛えられた女の腹筋をたどり、さらに降下しようとしたが、素直な欲望に必死に抵抗し、何とか目を逸らす。
思考は混乱しきっている。
酒とツザンの麻酔でおかしくなっていたといえど、俺の理性がそんなに簡単に浮気心に負けるはずがない、と信じたい。
いや、勝ったことが一度でもあったっけかな?
動揺していると、女の朦朧とした目に意識が宿り、俺の姿を捉える。
「あの、あなた様はどこの女の方であらせられますので・・・・・・」
「おまえっ!」
女は唸りをあげる回し蹴りを放つ。腕を掲げて受けるが、重い衝撃に骨が軋む。
続いて女がいつの間にか握っていた短剣が、俺の鼻筋へと突き出される。
三回目。円卓を囲んで、鼻血がようやく止まった俺の左に、ジャベイラ、ギギナ、ジヴ、ツザン、イーギーと並ぶ。
「あのお客様、お酒を零したお召し物の代わりをお持ちしましたので、お着替えください・・・・・・」
背広を手にしたウェイトレスが俺に声を掛けてくる。
「いらない」
俺の言葉にウェイトレスが怯む。
「大声出してすまない、だが、大事な戦いをしているから、しばらく話しかけないでくれ」
顔を円卓に戻すと、場の雰囲気は悪化の一途をたどっていた。それぞれの口から吐かれていく数字も、呪いの言葉にしか聞こえない。
ツザンの顔は真っ青だった。
それはそうだろう。俺の各個撃破の次なる標的は、ツザンとしか思えないからだ。
「た、助けてジャベイラ。私たち従姉妹でしょ?」
「ポクは今、ジャベイラじゃないっピー。モピ星のポルロンガだプルッピー、九五」
ジャベイラも自分の命が惜しいのだ。続くギギナも「九六、次」と安全圏に逃れる。
「ゴメンねツザンさん。ガユスの仇を取るから九七、九八、九九」
ジヴの声に、ツザンの顔色は青から白になっていった。
「ひ、一〇〇って言いたくない。罰は何なの何なの何なの!?」
「全員でツザンを抑えろ。悪の根を絶つ」
泣き叫ぶツザンを全員が抑え、俺は女医の懐からメスを奪う。
「さすがに仕事道具を壊すのは可哀想よ。ガユス、別の罰にしましょう」
ジヴが止めようとし、ツザンが叫ぶ。
「そうよ、それは私の宝物なのよ。罪もない実験動物や人間を、ガユスを無意味に解剖するために要るのよっ!」
「ガユス、思いっきりやりなさい」
ジヴの冷たい死刑宣告とともに、俺はメスを夜空へと放り投げ、魔杖剣ヨルガを抜き打ちで放つ。
メスが折れる軽い音が心地よかった。ツザンの魂が砕ける音にも聞こえた。
折れたメスが俺の鼻先を掠め、落ちていく。
鼻先を掠めて記憶を蘇らせる短刀を躱わし、俺は後方回転。床に着地した足首の捻挫が痛い。
俺を追って、全裸の女が寝台を蹴って飛翔してくる。
短刀が煌めくのを躱わすが、瞬時に上段からの一撃に切り換わる。俺は左手で女の右手首を打ち、右拳を脇腹へと打ちこむ。
苦痛の呼吸が吐き出されるのを待たず、掴んだ女の右手を捻って床に転がし、首筋に右手刀を放つ。
床に倒れた女の鳩尾に膝を落とし、喉への必殺の拳を叩きこもうとして、やっと我に返る。
「わっ、ゴメン、やりすぎた!」
俺が飛びのくと、女が床に手をついて胃液まで吐き、肩を上下させて喘ぐ。
ギギナに教わったドラッケン式護身術が反射的に出てしまったのだが、どう考えても殺人が目的だと思う。
ちょっと待て、顔も知らないこの女が、俺を殺そうとする理由がどこにある?
もしかして、酔った俺が無理矢理に押し倒したとか?
んなアホなっ。それだけは絶対にありえない!
大急ぎで記憶の続きを検証する。
「さあさあ楽しい大道芸です」
屋外席では大道芸人が乱入し、帽子から鳩を出し、人々に手品を見せていた。女大道芸人が陽気な声を俺に掛けてくる。
「お客さん、上着をお借りしてもよろしいですかな。中から兎を出してみせましょう」
「いらん」
今日はよく話しかけられるが、今はそんな余裕はない。手を振って大道芸人を追い返し、勝負へと集中する。
四回目。すでに楽しいという単語はこの場所から完全消失していた。
俺、ジャベイラ、ジヴ、イーギー、痴呆じみた顔をしているツザン、憮然としたギギナと並び、非情な数字が続いていく。
「四八、四九、五〇」
「あ」
「何よ」
五〇と言ったばかりのジヴが、俺の発言に疑念を返す。
「いや、何でもない。続けてくれ」
全員が不審そうな顔になる。
俺の発言は本当に意味はない。しかし、今の「あ」で、その数字が何か決定的なものなのかと思ってしまうだろう。
全員の心理を解説すると、五〇を二倍にすると一〇〇になるので、何となくそれが敗北の予兆に思えてしまうのだ。
だが、この勝負には数学的な勝利方法は存在しない。
数字を小さくして、終わりを二〇とし、二人だけでやるとする。
先に一九を取ればいいから、一九の四つ前、一五を取る。一五を取るには一一を取ればいい。一一を取るには七となっていき、最終的には一を取る先手の勝利なのである。
しかし、人数が増えていくと、一巡りで一〇以上の数字が出るため、自分の使える三つの数字だけでは流れを制御できないのだ。
つまり、勝敗を分けるのは、純粋な心理の駆け引きのみ。会話で圧力を加え、味方に引きこみ、特定の相手へと悪意を集中させるしか必勝法らしきものが存在しない。
悪意を込められた数字が続き、ギギナが九六と言って安全圏に入る。
このままいけば最小の数でも九九でジヴ、一〇〇でイーギーとなる。
さすがに次の罰には、ギギナの鋼の精神も耐えられないようで、誰の恨みも買わないような消極的作戦に切り換えたようだ。
その時、俺の脳内に悪魔的な閃きが疾った。このまま九七、九八、九九と言ってジャベイラを葬るのもいいが、もっと愉快痛快な考えがあるのだ。
「九七、次はジャベイラ」
「九八・・・・・・」
ジャベイラは気づいた。九八のままだと、自分の隣のジヴが九九と言う。
当然、その隣のイーギーが一〇〇と言うことになる。迷いつつジャベイラは言った。
「九八、九九。次・・・・・・」
「ジャベイラ先輩っ、後輩の私より同僚を取るんですかっ? 信じられないっ!」
ジヴが嘆くが、ジャベイラはその言葉から逃れるように必死で視線を逸らす。
「あ、あなたの彼氏を恨みなさいよ。早く一〇〇を言いやがれっ!」
これでジャベイラとジヴのつながりは破壊された。
残るジャベイラを葬るだけでは、俺の怒りは収まらない。腐れ咒式士どもの人間関係を徹底的に破壊しつくしてやる。
そのために恋人を悪魔に売ることになろうとも、俺は涙を堪えて耐える。
ジヴは可愛い唇を噛みしめながら、「ひ、一〇〇」と吐き出した。
記憶の中の俺はかなり酷い人間だった。
「あの、いきなり襲いかかってくるのは、俺が何かイケナイことをしたからとか?」
女は肩で息を整えながら考えこむ。俺が心配になっていると、やっと返答をしてくれた。
「私も混乱していたのよ。自分の前に半裸の男がいたら驚くでしょう? 大丈夫、あなたが心配するような犯罪行為はなかったわ」
胸を撫で下ろす俺に、衝撃的な追い打ちが襲いかかる。
「だって、合意のうえのことですもの」
女の言葉に悲鳴をあげそうになった。
悲鳴でまた記憶がつながっていく。
「ぴぎーぴぎー」
俺たちの眼前で可愛い子豚さんが鳴いていた。
それはジヴの成れの果てだった。
エリダナの夜の川辺。テープで鼻を押さえ両手両足を床板につきながら、ジヴは子豚の真似をさせられていた。
「真剣さが足りないわ」
ジャベイラのつぶやきに振り向いたジヴの顔は、鬼よりも恐ろしかった。
「子豚さんはそんな怖い顔はしないのう」
「止めとけってジャベイラ。手負いの猛獣を挑発してるようなもんだぞ」
イーギーは同僚の暴走を必死に止めようとするが、すでにジャベイラの顔からは正気が消し飛んでいた。
「ジヴ、いや子豚さん。もっと派手に鳴けっ! 手はちゃんと蹄にして偶蹄目の哀しみを表現するのよ!」
ひいっ! ジヴの顔に殺意に近いものが浮かんでいる。
涙を零すまいと耐える緑の双眸は、地獄の業火よりも激しく燃えさかっている。
ジヴの全身から立ちのぼる憎悪が、夜にありえない陽炎を作りそうだった。
「びぎーびぎー、ぷぎーぷぎー」
エリダナの夕闇に響くその鳴き声は、冥界の底よりの呪いの叫びだった。
「なあガユスよ」
「何だねギギナくん」
お互いに平坦な声しか出ない。
「間違いなく、次は死人が出るぞ」
ホートン占いより遥かに確実なギギナの予測に、俺は苦すぎる唾を飲みこんだ。
そこまで思い出して、俺は笑う。
ジヴの子豚は可愛かった。子豚が成長し悲恋の末、出産して母となる場面には、生命の神秘に全員が思わず涙ぐんでしまった。
いかん、今は現実逃避している場合ではない。
「その、本当に俺は君と?」
「覚えていないの? 酷い男ね」
床に落ちた掛布を拾って、女がまとっていく。
ありえない。いや、あったら破滅だ。
目の前の女はどこか信用できない。さっき見た裸身は鍛えられていたし、短刀と体術は戦闘訓練を受けたとしか思えない。
何か別の理由があるはずなんだ。脳神経を全開にして必死の本気で考える。
条件その一、見知らぬ男女が出会ってホテルに泊まった。
条件その二、その男女が裸で目覚めた。
そこから導き出される論理的帰結は・・・・・・。ダメだ、その結論は断固却下する。
生き残るために、必死に記憶をたどる。
「楽しいなぁ。ねえ、お兄さん」
酔っぱらった女が俺に寄りかかってきて、懐へと手を入れてくる。邪険に振り払うと去っていった。今日は不自然なまでに邪魔ばかり入る。
五回目。俺の左にジヴ、ジャベイラ、イーギー、ツザン、ギギナと並ぶ。
俺たちの席の雰囲気は最悪になっていた。全員の顔に疑念と裏切りへの不安が明確に表れている。視線が合うと逸らしてしまい、それがさらなる疑いを呼ぶ。
張りつめた空気の圧力で、小象でも三匹は殺せそうだ。
「なあ、ここらで止めないか?」
唯一正気を保っているイーギーの声が絞り出される。
「ダメよ。納得いくまでやります」
葡萄酒を一気に空けたジヴの静かな声に、イーギーが怯えたように身を引き、椅子が床を擦る嫌な音が響く。
周囲の客も、この食卓の闘争に興味と恐怖の入り混じった視線を注いでいる。
しかし、眼前の女性は、本当に俺が愛した可愛いジヴなのだろうか?
全体としては笑顔なのだが、口許は憎悪に痙攣し、吊り上った眼には毛細血管が浮き出ている。異貌のものどもでも、こんな激烈な殺気を放つヤツはいなかったような。
俺もギギナも似たような顔をしているだろうが。
イーギーがそれでも制止に入る。
「ガユス、冷静が信条のおまえなら分かるだろ、止めないと危険だ」
「引っこんでろイーギー。余計なことを言うと、おまえへの罰は公開自慰にするぞ」
「ガユスの言う通りだアルリアンの小僧。怖いのなら、自分の尻の穴に頭を突っこんで震えているがいい」
俺とギギナの言葉にイーギーが溜め息を吐く。
「てめえら正気じゃねえ。咒式士として一瞬だけ憧れたけど、単にアホの二乗だ」
残念だが、お遊びの時期は過ぎている。すでにここは地獄の賭場で戦場なのだ。
賭けられているのは、掛けがえのない自分の魂。飛び交うのは言葉の銃弾と裏切りの刃だ、なんてね。
全員が無意味で不毛な闘いだと気づいているのだろうが、引くに引けなくなっているのだ。
俺もアホの一人だと分かっていたが、冷静に戦略的思考に戻ることにする。
さきほどの勝負は、自分の恋人を陥れて敵を増やしただけに思えるが、それは素人考えだ。
俺の誘導で、ジャベイラは同僚を売るか、後輩を裏切るかの二択にさせられたが、あくまで決断はジャベイラの意志である。
それが分かるからこそ、ジヴの憎悪はジャベイラへと向けられる。
そう、俺は共通の敵を持つ、ジヴという絶対の協力者を作ることに成功したのだ。
許せジヴ、腐れ咒式士どもを葬るためには必要だったのだ。君のマヌケ姿を見たい気持ちがあったのも確かだけれど。
とにかく、この回でジャベイラを地獄へと叩き落してやるのだ。
ギギナの目も、自分と同じ苦痛を、全員に味あわせるべきだと雄弁に語っていた。
五人中、俺とジヴとギギナの三人が完全に手を組み、心が折れて負け犬となったツザンも俺に従うだろう。
となると、ジャベイラとイーギーの不完全な連携では勝てない。
「えーと四九、五〇で次・・・・・・」
「あ」
ジヴに続くジャベイラの数字に俺は小さな声をあげてやる。
途端に全員の顔に緊張が疾る。当のジャベイラの顔も青ざめている。
「いや、今のは無しぢゃ。四九まで・・・・・・」
「次と言ったからダメだ。人格変化の言い訳もなし」
俺の笑顔をジャベイラが睨んでくる。女が奥歯を噛みしめる音が、心地よい天上の音楽にも聞こえる。
俺の「あ」で、さきほど敗北したジヴも五〇を言ったという事実が、ジャベイラと全員の脳裏に思い出されたのだ。
「イーギー、私たちは生死をともにする同僚で、生涯の友人よね」
「え? ああ、そう、そうだな」
ジャベイラの縋るような眼差しに、イーギーがどこか寂しそうに答える。気づいてやれよジャベイラ。
しかし二人の美しい友情には涙が出そうだ。まったくの嘘だが。
清い友情とやらがどこまで続くのか、確かめさせてもらおうじゃないの。
思惑を隠し、数字は淡々と続いていく。
「六〇・・・・・・」「七〇、七一・・・・・・」「八〇、八一、八二・・・・・・というか、ウチだけが〇番代を言ってるうううっ!」とジャベイラの人格がまたおかしくなってきている通り、六人中四人の間違った友情力が集結したのだ。
こうなると、ジャベイラに協力して自分の立場を危うくするような人間はいない。
泣きそうになっているジャベイラとイーギーの視線が交錯する。だが、イーギーですら何も言えなくなっていた。
「みんな、罰は何がいいかな?」
「下劣であるほどいいわ。まず脱がすわ」
「ドラッケン族の拷問式に、生皮まで脱いでもらおうか」
俺たちの悪意満載の会話に、ジャベイラの蒼白な顔が、生物学的にありえない色になっていく。
折れたメスを抱えたツザンが九五と言い、ギギナはまたも九六で安全圏に逃れる。俺は九七でジヴに渡す。
「うふふふふふふふふふ、九八、九・・・・・・」
気味悪い声でいきなりジャベイラを葬ろうとしたジヴ。その尖った耳元に俺が囁く。
「それではジヴは復讐の初心者だ。俺なら九八で止めて渡すね」
ジヴは俺の言わんとすることを察し、半月のような笑みを口許に浮かべた。
それは地獄の悪魔と契約する、邪悪な魔法使いの顔だった。
「早く言いなさいよっ! 私に罰を受けさせたいんでしょうがっ!」
ジャベイラのイラだった声にも、ジヴは優雅に微笑んで返す。
「九八でいいわ、次をどうぞ先輩」
「え、嘘? 本当に? やったー」
気の抜けたジャベイラは九九とだけ言おうとし、眼を見開き硬直する。
「あれあれ? さっきは後輩を裏切って、今度は自分の隣の同僚を裏切るつもり?」
俺の声に、泣きそうな顔になるジャベイラがイーギーの方を向く。
「いいぜジャベイラ。俺が犠牲になる」
次のイーギーの顔は引きつっている。
俺たちを見据えるジャベイラの悲壮な顔。俺はこういう顔を見たことがある。
賭博場の緑の羅紗の上で、自分の全財産が溶けていくのを見ている敗北者の顔。
決定的な破滅に、気持ちが折れてしまった人間の顔だ。
長い長い沈黙の後、ジャベイラはようやく重い重い言葉を吐き出した。
「九九・・・・・・一〇〇。これでいいんだろうが!」
ジャベイラの絶叫に、イーギーが安堵の息を漏らした。だが、すぐに自らの卑劣さを恥じるようにジャベイラの肩を抱いた。
「イーギー、私、俺、儂は・・・・・・」
「ジャベイラ、もういい。何も言うな。というか言っても虚しいし」
だが、俺はそんな美談を望んではいなかった。
俺が視線で確認すると、ギギナとジヴのその眼が、「裏切り者に凄惨な復讐を!」と求めていた。
任せろ。ジャベイラの魂を復活不可能なまでに砕いてやる。
俺が机の上に小さく拳を握ると、ジヴとギギナの手もそれに答えて小さく拳を作る。
俺とジヴとギギナの負の魂が、今、一つになったのだ。
咳をする俺に、ジヴが心配そうな顔を向ける。
「まだ治らないの?」
「大丈夫だジヴ、何かが引っかかっているだけだ。ウェイトレスさん、勝利の美酒を俺に。それで喉の引っかかりと敗北を流そう」
ダメだ。眼前の女とどこで出会ったのか思い出せない。
「ちょっと待て、待ってくれ。本当に俺は、その、君と?」
寝台に腰掛けた女が考えこむような顔つきになり、目を床に落とした。
「あんなに激しく愛しあったのに」
女の微笑みにも俺はまったく笑えない。
「喉が乾いたわね。何か飲む?」
机の上にあった硝子杯を女が掲げるが、俺は首を振る。女は杯を戻して俺の視線を受ける。
「服を着たいから、後ろを向いてくれると嬉しいんだけど?」
俺は慌てて寝台に背を向ける。魔杖剣の機関部を弄びながら、思考に没頭する。
どこかでこの女を見た。それは確かだ。
記憶が急加速ではっきりしていく。
「はいもう一回」
屋外席の手摺りに並んだ俺たちの眼下。下から出てきたジャベイラが、川縁の板の中央で固まり、通行人が何事かと見ている。
「早くしなさい負け犬」
ジヴの氷点下の声がジャベイラを打ちのめす。
唇を噛んで堪えるジャベイラが、何事か言葉を漏らす。
「聞こえないなぁ。もっと大声でないと商売にならないわよ?」
ジヴの追い打ちは厳しい。人間関係って簡単に壊れるなぁと俺は感心してしまった。
「俺が教えた通りにやれよー。一つでも間違えると、また最初からやり直しだよー」
俺の言葉にジャベイラの細い肩が震える。そして長い息を吐き、何かを振り切るように引きつった笑みを浮かべる。
魔杖剣サディウユを振って、光学咒式の桃色の光をまといつつ奇妙な舞いを踊るジャベイラ。そして踊りながら、通りすがりの親子連れに向かって突き進む。
「年齢的にかなり無理がある、魔法少女ジャベイラ参上!」
自らの目の前に、左手で横向きのV字を作るジャベイラ。もちろん、反対の目は閉じ、口からは照れたように舌を出している。
上からは、イーギーが咒式生成した食虫植物と有毒植物が降りそそいでいる。
父親は思いっきり引いており、父親の手を握っている幼児は泣きそうになっている。
「ポンピロ、ピンピロ、アロパロパ! あなたのくだらない夢とゲスい欲望を、邪悪な咒式で叶えちゃうぞ、ただしばっちり有料で(はーと)」
さらに魔杖剣を振りつつ踊るジャベイラ。幼児は恐怖のために泣きだし、父親はわが子を抱えて逃げ出した。
超弩級の変質者だと思ったのだろう。
板張りの川岸の上には、年増の魔法少女が一人取り残されていた。
ラルゴンキン事務所一番の男前な姐さんことジャベイラが、耳まで真っ赤になってうつむき、肩を震わせていた。そのジャベイラが振り向き、二階の俺たちを涙混じりの双眸で見上げる。
「こんな商売成立するかっ! 何だこのカワイさ目指してイタい呪文はっ!?」
手摺りにもたれる俺は耳元に手を当てて、問い返す。
「はあ? 職業に貴賤はない。そうだよね紳士淑女の皆様方?」
ジヴが鷹揚にうなずく、ギギナとイーギーとツザンは、俺たちと目も合わせない。
「ジャベイラ先輩、こちらに声をかけないでいただけます? 私たちが変質者の知り合いだと思われてしまいますわ」
ジヴが手の甲を口許に当てて、優美に高笑いする。
「ジヴーニャ嬢ったら、素敵に残酷ですこと(はーと)」
「いえいえ、ガユス元準爵こそ、素晴らしく冷酷でございますわ(はーと)」
俺とジヴの笑いは止まらない。笑いすぎて腹が痛い。
悔しさのあまり、ジャベイラは床に落ちた食虫植物と有毒植物を踏みにじる。
「ガユス、てめえの言う通りにやったが、これって恥ずかしさを和らげてないんじゃねーの?」
イーギーが疑問をつぶやくが、気づくのが遅い。こいつの淡い感情が一生実らないことを、俺が完全品質保証する。
「あの、御注文のお酒です」
すでに視線を合わそうともしないウェイトレス。銀盆の上の酒杯を引ったくり、一気に勝利の美酒を味わう。妙に苦めで美味い。
俺とジヴは高笑いを止めて、眼下の下民へと視線を向ける。
「じゃあもう一回。頑張ってくださいね、ジャベイラ・ゴーフ・ザトクリフ先輩」
「ジ、ジヴーニャちゃん、頼むから名前を全部言わないで! 外に出られなくなる!」
ジャベイラの絶叫に、慈母のように目を細めてジヴが微笑みかえす。
「では急いでくださいな。ジャベイラ・ゴーフ・ザトクリフ先輩」
「ジヴ、あんた、私以上に人格変わってない? ガユスの悪い影響が出てるわよ?」
俺は仕方なく正義の怒りを爆発させた。
「俺にも謂れのない文句を言うつもりかい? ジャベイラ・ゴーフ・ザト・・・・・・」
「わ、分かったわよ、この外道ども!」
「誰が外道ですって? ジャベイ・・・・・・」
「う、嘘です、すいません! 全力全開で魔法少女を喜んでやらさせていただきますっ!」
ジャベイラは大きく息を吐いた。
「漢の散りざまをみさらせっ!」
俺たちの眼下、集まってきた周囲の人々を前に、ジャベイラはひたすら奇怪な魔法少女の踊りと、謎の奇声を繰りかえした。人々の奇異の視線と失笑を一身に浴びて。
「脇が甘い! アホ呪文が腹の底から出ていない! 先輩は不況を舐めてるの?」
「ダメだ、もっと真心を込めて踊れ! 誇りだとか自尊心だとか、人間としての大事なものを全部捨てろ! 話はそれからだ!」
「魔法で株価を上げなさい。魔法で世界中の民族紛争を止めなさい。魔法でガユスの料理を食べても食べても私の体重が増えないようにして! できないと終わりませんよっ!」
「もっと哀れみを誘え!哀れみと施しこそが魔法少女の喜びで主収入なのだっ!」
俺とジヴの苛烈なダメ出しが続き、すでに二〇分が経過している。
はっきり言ってこんな商売が成りたつわけがない。つまり、俺たちの気分次第で、この世の終焉までも続けられるのだ。
警官が来て逮捕、もしくは射殺する方が早いだろうが。
二二度目、ついにジャベイラは下から出てこなくなった。
心配顔のイーギーが階下へと迎えに行くのにウキウキしながらついていく。
川縁へと出る階段の前でジャベイラは膝を抱えてうずくまっており、何やら呪文を唱えている。
耳を澄ますと、「私の生まれてきた意味って何? これが私の目指した咒式士の高み? 否、断じて否! でも・・・・・・」と、言ってはならないことを延々とつぶやいていた。
廃人寸前の状態に、さすがに可哀相になってきた。
「もういいよジャベイラ、俺たちが悪かった。少しやりすぎた」
俺の言葉の傍らを、高い踵を鳴らしジヴが通りすぎ、先輩のジャベイラの肩に優しく手をかける。
涙を零しているジャベイラが振りむき、ジヴを見上げる。
恐怖に震えるジャベイラに、ジヴが許しを与えるように首を左右に振った。
「ジヴ、あなたに子豚の全力の物真似をさせた私でも許してくれるの・・・・・・?」
「もちろん・・・・・・」だが、ジヴの左右の首の動きは止まっていなかった。
「もちろん、子豚の物真似の屈辱は、この程度の罰では晴れません」
感情のないジヴの声に、ジャベイラの顔が極限の恐怖に歪む。
「はい、休みは終わり! 次は大通りの大観衆が魔法少女を必要としている気がするわ!」
「嫌、それだけは嫌! エリダナで生きていけなくなるーっ!」
ジヴの細い手が鉤爪となってジャベイラの手首を掴み、表へと引きずっていく。
イーギーとツザンが止めようとしたが、ジヴの一瞥を受けて、階段の壁際まで後退する。
大通りの方からジヴの怒鳴り声と、ジャベイラの嗚咽混じりの呪文が響いてくる。
「私の許嫁でも、あそこまで鬼では・・・・・・」
ギギナの静かな述懐が、色濃い夜に谺していった。俺にしても俺以上に性格の悪い、黒ジヴを始めて見た。
「ジヴ、みんな仲良くって言ってた優しい君は、一体どこに行ってしまったんだ? なぜ人は憎しみあい、傷つけあうんだ?」
俺には深い哀しみを込めて、惨劇を見送ることしかできなかった。
「よく考えると、何もかも貴様が原因のような気がするのだが・・・・・・?」
ギギナが俺を責めているようにも思えたが、気のせいだろう。
次の瞬間、俺は夏には相応しくない体の震えを感じた。
立っていられなくなり、俺は階段の壁際に肩を預ける。酒やツザンの麻酔は抜けているはずなのに変だ。
ギギナを置いて洗面所に向かうが、意識が朦朧としてくる。
何とか洗面所の扉を開けた時、濡れたタイル床に片膝をついてしまう。
明らかに異常だ。解毒剤を合成するため、体内の物質を調査しようとすると、声が聞こえた。
「大丈夫ですか?」
振り向くと、黒髪の女が立っていた。
そのまま俺の意識が遠のいていく。
「そうか、君は倒れた俺を助けた女か?」
「え、ええ? やっと思い出したのね」
背後で衣擦れの音をさせ服を着ているらしい女が同意する。
あの後の記憶を検索しようとしたが、いくら考えても何も思い出せない。
「倒れたあなたを介抱したんだけど、帰りたくないって言うからホテルに来たのよ。後は、もう言わなくても分かるでしょ?」
確かに納得はできる。だが、どこかが決定的におかしいと感じている。
電光のような閃き。
俺は魔杖剣を引きよせて振り向きざまに掲げ、女が振り下ろしてきた短刀を受ける。
眼前で刃が軋る悲鳴があがり、その向こうに女の殺意に満ちた瞳があった。
「どうして分かったのかしら?」
「解剖や嫌がらせ以外で、君みたいな美女から寄ってくるような魅力が、俺にあるはずがない」
「後ろ向きな推理ね。だけどあまりに正しい自己認識だわ」
「正しいって言うな!」
「分かっているなら、早くアレを出しなさい!」
「何だよアレって?」
同時に電磁雷撃系咒式第二階位<雷霆鞭>を刃に発動。刃と柄に耐雷撃処置をしていない女は通電し、背筋を逸らして硬直。
倒れていく女。その首の後ろに俺の足の甲を延ばし、後頭部を床に打つのを防ぐ。
舌が喉の奥に入って窒息しないように引き出すと、女の意識が戻ってきた。
「手加減したのね」
「俺はギギナじゃないからな。何もわからないままに死なれたら、寝覚めが悪いし」
「本当に何も知らないの?」
「ああ」見下ろしながら言った瞬間、昨日一日、この女の顔を何度も見ていたことにやっと気づいた。
「いや、思い出したぞ。救急隊員に大道芸人に酔っぱらい。そうか、あのウェイトレスもおまえで、勝利の酒に薬を盛ったんだな」
「正解。だけどあなたってあまり頭良くないわね」女は重い息を吐いた。
「アレってのは、具体名は言えないけど、ある企業が開発した新型の記憶素子。それを他の企業へと社員が持ち出したのよ。私はそれを追っていた探偵のイビサってわけ」
「よくある話だな。だが、それが俺と何の関係が?」
「裏切り者の車に輸送車をぶつけて、記憶素子を奪おうとしたけど持ってなかったの。病院で力ずくで聴取したら、あなたに渡したと吐いたのよ。」
夕方の事故を思い出した。
「その後も何度も変装して服を奪ったり探ろうとしたのだけど、その度にダメだったわ。ついには裸にしてまで調べようとした時、酔ったあなたに殴られて私も気絶したのよ。
記憶がないようだから、途中から何とか誤魔化して、奪う隙を伺っていたんだけど」
「じゃ、俺と君は何もしていない?」
「残念だけど、あなたは私の好みじゃないわ。ただ『君が脱がないと俺も脱がない。脱がないったら脱がない』とあなたが言ったのは事実だけど」
イビサの言葉に俺は落ちこむ。酒と薬の効果が多少はあったとしても、俺の理性の不在が証明されたような。
本能だけで生きているギギナを責める資格がない。
「正直に言ったのは信じて欲しいから。記憶素子はあなたの役には立たない。報酬を折半してもいいから、渡してくれない?」
「いや、俺もそうしたいんだけど、本当に俺は知らないんだ」
「嘘、だって記憶素子の特殊波長の反応は、あなたの方から・・・・・・」
イビサは足の先を寝台の下へと延ばして、器用に携帯端末を取り出す。
足の指先で操作すると、探知機らしきものが発動するが、何も反応しない。
「もしかして、新型の記憶素子って、これくらいの大きさの黒いヤツ?」
俺が指先に小石くらいの大きさを示すと、女探偵が大きくうなずく。
俺は裏切り者にぶつかった時以来、喉の奥に何かが引っかかった感じと、先ほど反吐を戻したことを思い出していた。
「多分、今ごろは便器から流れて、下水処理場に。わ、悪いことをしちゃったかな?」
俺の言葉にイビサが肩を落とした。
その時、俺の携帯が鳴った。ジヴからなので条件反射で出てしまった。
「ガユス、罰を最後まで見ないで帰るなんてもったいない。昨夜はあれからが面白かったのよ。今日の朝までやっていたんだから」
立体映像のジヴの爽やかな笑顔。その横に廃人のように表情が消えたジャベイラやツザン、ギギナやイーギーの顔が並んでいた。
どんな罰か、もう想像したくもない。
「それより今どこ?」
「え、いや」
「ねえ、ガユス。私のブラとショーツはどこかしら?」
イビサの甘えた声に振り返ると、俺の背後を女が歩いていた。
わざわざ全裸になって。
「ガユス、そこを動かないでね」
向き直ると、ジヴの凄まじい形相が待っていた。
表情は笑っているのだが、目だけは笑っていないあの表情だ。
「今、位置検索をしてそこに向かうから。昨日考えた最高に楽しい罰を試したいの」
俺の前へと回った女探偵は服を着ながら歩き、出口から出ていこうとしていた。
「おい女探偵、イビサ、ジヴに説明していけ。何にもなかったって!」
イビサは黒髪を掻きあげながら振り返り、真紅の舌を出した。
「ガユスの内股には、古い刀傷があって可愛いのよね」
そして愉快そうな足取りで出ていった。
ジヴが通信を乱暴に切った音が、俺の鼓膜を破りそうになった。
寝台に腰を下ろし、ジヴを待ちながら、俺は上手い言い訳を考えていた。
企業間の諜報戦に巻きこまれて、女探偵イビサと戦った。仕事に失敗した女が、嫌がらせに俺をハメた。
ダメだ。どこまでも真実だけど、電波系の妄想にしか聞こえない。
ええと、実はあれは医者である。いつも具合の悪い、俺の脳の緊急手術をしていた。
ダメだ。医者まで全裸になる理由が、地の果てまでも存在しない。
ええと、実はあれは幻覚である。人類の感覚が絶対的に正しいとは言い切れない。
人は自分が存在すると考えるがゆえに存在する、と思っている生物である、と自分で思っているだけである。
ダメだ。こんなアホ言い訳をしている間に、俺の鼻にジヴの踵がめり込み。後頭部から鼻が出ることになる。
ええと、実は・・・・・・。
そこまで考えた所で、入り口からコンクリ床を高い踵が叩く音が聞こえてきた。
俺は静かに目を閉じて、ジヴの罰がせめて半殺し程度であることを願った。
<了>
―角川書店 The Sneaker 2003年08月号 P114-129 掲載
CREATOR'S NOW あの人は今何を!? -人気作家の近況を直撃- (P218)
浅井ラボ(バカの確信犯)
作中の嫌がらせや罰ゲームは、ロンドンブーツさんのNot一〇〇をやった時の、周囲の事実を元にしています。あまりに非道な罰は、さすがに掲載拒否されました。
お決まりは恥ずかしいのですが、スニーカー一〇周年おめでとう。二巻もよろしく。
2003年 01月 30日発売 されど罪人は竜と踊る
著:浅井ラボ イラスト:宮城 本体619円(税別)
2003年 05月 30日発売 されど罪人は竜と踊るU -灰よ、竜に告げよ-
著:浅井ラボ イラスト:宮城 本体648円(税別)