されど罪人は竜と踊る
著者
|浅井《あさい》ラボ
1974年神戸生まれ。三流造形大学中退。
趣味――悪口対戦と、煙草と煙草を喫う間だけの禁煙。
好きな言葉――この文は証明できない、という文を証明せよ
裏表紙 あおり文
森羅万象を統べる究極の力、|咒力《じゅりょく》。それを自在に操る|咒式士《じゅしきし》二人組。ひねくれ者のガユスと非常識極まりない美貌の狂戦士ギギナは、事務所の財政難を解消すべく、いつものように役所の下請け仕事を引き受けたのだが……待っていたのは900歳になろうかという巨大竜。しかもそいつを倒したのがまずかったらしい。皇国を揺るがす大陰謀劇に強制出演となってしまった! 第7回スニーカー大賞受賞作にして、傍若無人のテクノマジック・ノベル誕生!!
口絵・本文イラスト
宮城
口絵デザイン
中デザイン事務所
口絵
口絵1
口絵2
口絵3
口絵4
口絵5
目次
1 |咒式《じゅしき》と|剣《つるぎ》の|禍唄《まがうた》
2 あるいは平凡な日々
3 |枢機卿長《すうきけいちょう》の祝祭
4 夜と追憶
5 予感の朝
6 闇の中の影なる者たち
7 光条の|紡《つむ》ぎ手
8 帰郷する魂
9 暗雲
10 翼持つものの群舞
11 復讐の女神
12 そして全ては走り去る
13 あとがき
14 解説
CAST
ガユス
もと貴族の攻性咒式士――「俺」
ギギナ
ドラッケン族の攻性咒式士。「俺」の相棒
ジヴーニャ
ガユスの恋人
サザーラン
エリダナ市生活対策課課長
ホートン
プロウス軽飯屋店主
ロルカ
咒式具専門店・ロルカ屋の親父
ツザン
闇医者。女咒式医
モルディーン
ツェベルン龍皇国皇族。枢機卿会議議長
ヘロデル
龍皇国の咒式官僚。ガユスの親友
ジェノン
イェスパー
ベルドリト
モルディーン配下の十二翼将
アズ・ビータ
ラペトデス七都市同盟の下院議員
キュラソー
暗殺者
ニドヴォルク
エリダナ市咒式士連続殺人事件の犯人
1 |咒式《じゅしき》と|剣《つるぎ》の|禍唄《まがうた》
|我等《われら》は|絶叫《ぜっきょう》し問い続ける
|誰《だれ》かが美しい至銀の短剣を
私の胸の奥の心臓に|飾《かざ》るまで
教えてくれ
その真実の|虚偽《きょぎ》と|薔薇《ばら》を
ジグムント・ヴァーレンハイト「|遺稿詩《いこうし》生前葬」|皇暦《こうれき》四八九年
|號《ごう》っ!
|竜《りゅう》が|咆哮《ほうこう》し、大気と|梢《こずえ》の葉と俺の|耳朶《じだ》の中の耳小骨が、激しく|振動《しんどう》させられる。
小型の火竜であった。しかし、その|巨躯《きょく》は南方に生息する象すら|凌駕《りょうが》し、全身を|鈍色《にびいろ》の赤鱗で|隈《くま》なく|覆《おお》っている。
太い筋肉の束がうねる|前肢《まえあし》と、その指先から|伸《の》びる五本の剣のような|爪《つめ》は、|踏《ふ》みしめただけで固い|岩盤《がんばん》の大地に|亀裂《きれつ》を刻む。
まさに〈|異貌《いぼう》のものども〉の王の|威容《いよう》だった。
その|蛇《へび》にも似た長大な首は、家屋の|天井《てんじょう》から見下ろすような高みにあった。|獰悪《どうあく》な|橙色《だいだいいろ》の|双眸《そうぼう》が、俺を直線で|捕捉《ほそく》し、長い首を低くたわめる。
|口腔《こうこう》に|鈍《にぶ》い|緋光《ひこう》と|咒印組成式《じゅいんそせいしき》が漏れ、|灼熱《しゃくねつ》の|炎《ほのお》の|吐息《といき》が今まさに|吐《は》かれようとしていた。
「銀嶺氷凍息っ!」
俺の意識と|咒力《じゅりょく》が仮想力場を通り、|魔杖剣《まじょうけん》〈断罪者ヨルガ〉の|鍔《つば》に|埋《う》め込まれた|法珠《ほうじゅ》で|収斂《しゅうれん》し位相転移、|弾倉《だんそう》を回転させ|選択《せんたく》された|咒弾薬莢《じゅだんやっきょう》内の|置換《ちかん》元素を|触媒《しょくばい》に物理|干渉《かんしょう》。
|紡《つむ》いでいた|咒式《じゅしき》が刀身で増幅され、その切っ先の空間に|輝《かがや》く咒印組成式を|描《えが》く。
その|刹那《せつな》、発生した氷点下一九五・八度の液体|窒素《ちっそ》の|槍《やり》が高速|飛翔《ひしょう》。数十条の|氷槍《ひょうそう》が、炎の|息吹《いぶき》を吐こうとする火竜の|上下顎《じょうかがく》を|貫通《かんつう》し氷結し、そのまま地面に|縫《ぬ》いつけるっ!
|憤怒《ふんぬ》の目で体躯を覆う|氷塊《ひょうかい》を|振《ふ》るい落とし、|巨体《きょたい》をたわめ立ち上がろうとする火竜。
だが次の|瞬間《しゅんかん》、上空からの|瀑布《ばくふ》のような|白刃《はくじん》が、|邪竜《じゃりゅう》の長い首を等分に両断した!
|血煙《ちけむり》の向こうに、|疾駆《しっく》し終わった〈|屠竜刀《とりゅうとう》ネレトー〉を|肩《かた》に|担《かつ》ぐ相棒のギギナと、その|猛禽《もうきん》にも似た|獰猛《どうもう》な|笑《え》みが見えた。
火竜の長い首が三回転して地面に落下し、|濡《ぬ》れ布の落下音のような、間の|抜《ぬ》けた音を立てる。
ほぼ同時に、俺の魔杖剣から|排出《はいしゅつ》された十二口径|咒弾《じゅだん》の|空薬莢《からやっきょう》が岩盤に落下、銀の|鈴《すず》ににも似た清音を|響《ひび》かせた。
それが俺達の|戦闘《せんとう》の終幕を告げる、|微小《びしょう》な|晩鐘《ばんしょう》の音となった。
「報告ほどの巨竜じゃなかったな。ま、|面倒《めんどう》は小さいほどいいからな」
「残念だ。|栄《は》えある我がドラッケン族の|諺《ことわざ》には「|獲物《えもの》と女は強いほど良い」とあるのだが」
俺の言葉にギギナが答え、さらに続ける。
「それとガユス、|咒式《じゅしき》の名前を|叫《さけ》びながら発動していたが、今時|恥《は》ずかしくないのか? それとも誰かに|脅迫《きょうはく》されているのか?」
「ギギナこそ俺に教えてくれないか? お前って時々低能か|痴呆症《ちほうしょう》か|微妙《びみょう》だから、お前の主治医が安楽死の方法に困っているそうだ。むしろ|合併《がっぺい》症か?」
いつも通りの何の感情も宿らない会話。
俺は|鼻梁《びりょう》の上の、|知覚眼鏡《クルークブリレ》の位置を直す。
|冴《さ》え|冴《さ》えと|蒼《あお》く|弦《げん》を描く、月下の夜。
エリウス郡都エリダナより西北に十八キロメルトルほどの、グラシカ先史|遺跡《いせき》の|跡地《あとち》。|神楽《かぐら》暦以前の古代人が、何を|象《かたど》って造ったのか|襟《えり》をつかんで聞きたい石像や、たぶん家屋だと名推理するしかない|朽《く》ちかけた石積みの|壁《かべ》や柱の連なりの足元。
俺と相棒のギギナとが、小さな|焚火《たきび》を互いの二等分点として|挟《はさ》み、|石畳《いしだたみ》に座していた。
|静寂《せいじゃく》。炎の燃焼音が静けさを強調する。
俺は何げなく、|左肩《ひだりかた》に立てかけた魔杖剣の鍔を左親指で|鞘《さや》から押し上げ、現れた刀身を点検する。
|最大業物《さいおおわざもの》級魔杖剣〈断罪者ヨルガ〉。
白々と|鋼色《はがねいろ》に輝く、|刃《は》渡《わた》り八〇二ミリメルトルのデリビウム|咒銀《じゅぎん》合金製《ごうきんせい》の直剣。
機関部を除いた|柄《つか》全長は三〇一ミリメルトル。|緩《ゆる》く反り返った鍔は|鋲《びょう》装飾《そうしょく》、|事象《じしょう》誘導《ゆうどう》演算用|法珠《ほうじゅ》は三連|碧瞳珠《へきとうしゅ》。
十二口径の|各《かく》階位《かいい》咒式《じゅしき》弾《だん》が、弾倉に十二発、薬室に一発の、最大量十三発が|装填《そうてん》されているのを、肩にかかる魔杖剣の重量だけで|確認《かくにん》する。
長年使ってきたこの自動弾倉式魔杖剣も、|拵《こしら》えが大分くたびれてきたが、元々が大量生産の数打ちではなく、|無銘《むめい》だがどこかの|刀匠《とうしょう》の一本打ちのため、まだまだ|現役《げんえき》だ。
何となく俺自身に似ている気がする。
鈍色の刀身に映った、自分の横顔がふと目に入る。
その顔を映画俳優のラグマノフに似ているといった女もいたが、性病と貧困で|発狂《はっきょう》し、妻子を殺害し自殺した|破滅《はめつ》型俳優に似ていても|素直《すなお》にまったくうれしくない。
第一、俺はあんな甘い顔をしておらず、絶え間ない気苦労のためか常に|機嫌《きげん》が悪い顔をし、今日は特に|瞼《まぶた》が重く顔色も良くない。
我知らず|目頭《めがしら》をもみ、眼痛を追い出す。胃酸過多らしく胃までも|鈍《にぶ》い|疼痛《とうつう》を|訴《うった》えだす。
微小の機能障害、|戦闘《せんとう》には|影響《えいきょう》なし。
自分自身の肉体までも分子の部品のように|分析《ぶんせき》してしまうのが、化学系の中でも俺みたいな|練成系《れんせいけい》咒式士《じゅしきし》の|悪癖《あくへき》だろう。
救急用咒式弾を一発だけ取り出し、魔杖剣の横から装填。人差し指で鍔の引き金を下へ押し、|咒弾《じゅだん》薬莢《やっきょう》が排出。|化学《かがく》練成系《れんせいけい》咒式《じゅしき》第一階位〈|征酸《アザン》〉が発動した。
俺の胃に水酸化マグネシウムと水酸化アルミニウムが合成され、その制酸効果で胃痛が多少は楽になる。
もちろんスクラルファートやH2ブロック等の|薬剤《やくざい》のほうが|優《すぐ》れているが、俺は|医療《いりょう》化学《かがく》咒式士《じゅしきし》ではなく、医薬組成式は知識にない。
空薬莢が石畳を転がる|耳障《みみざわ》りな音が響く。
「胃痛か、|錬金《れんきん》術師《じゅつし》」
ギギナが|呟《つぶや》く。俺の|咒印《じゅいん》組成式《そせいしき》を見てたらしい。
「珍しく心配でもしてくれるわけか」
「貴様の首の切除手術なら、私がどんなに|多忙《たぼう》であっても最優先で|施術《せじゅつ》してやろう」
鋼の声で呟き、|剣舞士《けんまいし》ギギナは肩に立てかけた|巨大《きょだい》な屠竜刀ネレトーの鞘を、それすら|完璧《かんぺき》な造形の右手で|叩《たた》いて見せる。
真銀色の|髪《かみ》と|瞳《ひとみ》の相棒は、|黙《もく》していれば名工の手による至高の|彫像《ちょうぞう》のごとく、|玲瓏《れいろう》さと|精悍《せいかん》さを|兼《か》ねた|容貌《ようぼう》なのだが、その性格は、|闇夜《やみよ》に焼け死んだ|黒猫《くろねこ》の黒目の|影《かげ》よりなお黒い。
そして|沈黙《ちんもく》。
どうにも間が持たないので、仕方なく相棒に話しかけることにする。
「とにかく|腐《くさ》れ仕事は|終了《しゅうりょう》した。後は腐れ役所に腐れ報告に帰って|休暇《きゅうか》だな」
ギギナの返事はないが続ける。
「俺はベイリックやイアンゴたちと、ヴォックル観戦に行く約束があるが」
「球遊びなどに興味はない」
「別に|誘《さそ》ってねえよ」
俺の|反撃《はんげき》にギギナが|黙《だま》る。一点先制。
「で、ギギナ、おまえは何をするんだ?」
「呼吸」
同点。ギギナと交流可能な人類は、地上にはいないだろう。たぶん|虚数《きょすう》空間とかにも。
毎回こういう結果なのは分かっているのだが、それでも話しかける自分の人当たりの良さとお|喋《しゃべ》り|癖《ぐせ》が|恨《うら》めしい。さらにギギナが続けやがった。
「ガユス、|珍獣《ちんじゅう》の一種である貴様の鳴き声は耳に障る。早く死ぬことを切に|祈《いの》る」
「ギギナの|右隣《みぎどな》りの左隣りの人に言っておいてくれ、世界のために音速で死んで下さいとな」
「貴様は本当に性格が|大《だい》絶滅《ぜつめつ》しているな」
「|性根《しょうね》が原子|崩壊《ほうかい》しているおまえが言うな」
言われたついでに思い出したが、|咒式士《じゅしきし》の業界紙の『|咒式《じゅしき》の友』の先月号での「性格の悪い|咒式士《じゅしき》」の投票で、六つの系統の内でも俺のような|化学系《かがくけい》咒式士《じゅしきし》が一位だった。
俺なんかは、性格の良い|咒式士《じゅしきし》とは無能の別名だと思うのだが、やはり実際に性格悪いと言われるとうれしくない。
対して、相棒のギギナも同様の|咒式《じゅしき》使《つか》いだが、俺とは違い|生体系《せいたいけい》咒式士《じゅしきし》である。
この系統は|剣士《けんし》や|格闘士《かくとうし》が多いので、性格は|素朴《そぼく》で意地悪くなさそうに思われているのが、果てしなく事実無根だ。|証拠《しょうこ》は眼前に提出されている。
『咒式の友』の投票の集計の不正確さと不正|疑惑《ぎわく》、そしてやり直しを投書しておこう。
正々堂々と愛の正義の、|匿名《とくめい》で。
さらに沈黙。
|焚火《たきび》の|炎《ほのお》の舌が、|闇《やみ》を|舐《な》めるように|舞《ま》い|踊《おど》る。
それはまるで、|先程《さきほど》の|火竜《かりゅう》の|緋色《ひいろ》の舌のようだった。
その火竜は、俺の傍らにある強化咒銀鋼製の|檻匣《おりばこ》に、首をはみ出し|封印《ふういん》されている。
そして檻匣の|格子《こうし》の間から、何か言いたそうな濁った|緋瞳《ひとう》を俺に向けていた。
ギギナと話すのは永久|凍土《とうど》の二毛作と同じくらい不毛な作業なので、|暇《ひま》つぶしに心の中で火竜の首に俺の自己|紹介《しょうかい》をしてやる。
俺の名はガユス・レヴィナ・ソレル。
今どき何の役にも立たない〈レヴィ〉の|称号《しょうごう》が付くとおりの|子爵《ししゃく》出の準爵だが、俺も実家も仲良く貴族というのも|気恥《きは》ずかしい、|壮絶《そうぜつ》な|没落《ぼつらく》ぶりを|誇《ほこ》っている。それが|紆余《うよ》曲折《きょくせつ》を経て、現在では在野の咒式使いとなって五年目で、〈異貌のものども〉を|駆除《くじょ》したり、今回のように竜殺しの|屠竜士《とりゅうし》の|真似事《まねごと》などをしている。
俺をギギナは、学院や|企業《きぎょう》の研究・産業を支える|咒式師《じゅしきし》ではない。
EMES(|咒式士《じゅしきし》市場《しじょう》独立《どくりつ》保護会《ほごかい》)やENOK(|咒式士《じゅしきし》受益《じゅえき》委員会《いいんかい》)の規約にすら従わない、|荒事《あらごと》専門の|攻性《こうせい》咒式士《じゅしきし》のため、いろいろな雑事をこなして|糊口《ここう》を|凌《しの》いでいる状態である。
現在はその内の一つ、ツェベルン|龍皇国《りゅうおうこく》委任自治都市エリダナの役所との|契約《けいやく》で、その咒式を切り売りしているという|次第《しだい》だ。
契約内容も不安定だ。法的には臨時公務員でも何でもない契約なので、健康保険とか労災とか非常に、たぶん|恣意的《しいてき》にいい加減だ。
今度、投書して改善してもらおう。真っ正面からの|由緒《ゆいしょ》正《ただ》しい作法に|則《のっと》った、|怪文書《かいぶんしょ》で。
さて、俺達の故国でもあるツェベルン龍皇国はその国名から容易に分かるように、竜は建国の守護神みたいなもので、国旗にも神剣イシカとともに、黄金の神龍ガ・フーイが|描《えが》かれている。
国歌は確か――龍と|我等《われら》の|永劫《えいごう》の|契《ちぎ》り持て――そこしか覚えていない俺は、|著《いちじる》しく愛国心に欠ける。
とにかくその力と神秘性ゆえか、竜が|信仰《しんこう》対象として敬われている辺境地方も少なくはない。
同じ竜でも、飛竜科や多頭竜科は、知能が低く神秘性がないというだけで、敬われないどころか、ほとんどの地方で害獣指定である程度にいい加減な信仰だが。
一方で当然ながら、われらが龍皇国と高度知性を持つ龍族とは|比較的《ひかくてき》友好的であり、竜族最大|派閥《はばつ》の|賢龍派《ヴァイゼン》と、大昔の|皇暦《こうれき》三十六年のティエンルン合意で、人と竜の|互《たが》いの生息領域への|相互《そうご》不可侵《ふかしん》条約を結んでいる。
だが、|幾星霜《いくせいそう》を生きる高位の竜が結んだ共存条約も、元々個体で活動する竜族大多数には支持されず、生息地を|頑迷《がんめい》に固持する竜の方がむしろ絶対的に多い。
その竜どもは自身の信条に従い、後から住みついた人類を害敵と見なし、時に|緩衝区《かんしょうく》を無視し、人や|家畜《かちく》を|殺戮《さつりく》し|捕食《ほしょく》し、家屋財貨を|破壊《はかい》して地域に深刻な|被害《ひがい》を引き起こす。
ここエリウス郡北部辺境の典型的農業地帯のベルガ村|近郊《きんこう》、ナジ山|山麓《さんろく》グラシカ|遺跡《いせき》付近でも二月|初旬《しょじゅん》から、|猟師《りょうし》や遺跡調査員や家畜が|喰《く》い殺される事件が三件続発した。
|駐在官《ちゅうざいかん》が現場で|巨大《きょだい》な生物の|足跡《そくせき》を発見、死体に残存していた犬歯の|痕《あと》の巨大さから、ほぼ確実に竜の|仕業《しわざ》と類推された。グラシカ竜緩衝区との境界である付近一帯では、一ヶ月ほど前から周期的につがいの竜の境界|侵犯《しんぱん》が|確認《かくにん》されており、その二頭の竜が|元凶《げんきょう》と推測された。
それが事実かどうか確認。竜の|越境《えっきょう》が事実ならティエンルン合意条約|違反《いはん》として|即時《そくじ》討伐《とうばつ》するために、俺たちのような|咒式《じゅしき》使《づか》いが|傭《やと》われ|派遣《はけん》され、竜たるおまえは首だけになったわけだ。
まあ、悪いのはお互い様。なるべく俺を|恨《うら》むな。
無理だろうけど。
心の中で竜の首に話しかけるという、うすら|侘《わび》しく|無駄《むだ》な思考は|突然《とつぜん》中断された。
野営の|焚火《たきび》を囲む相棒。眼前で巨大な屠竜刀を|抱《かか》えて座る、ギギナ・ジャーディ・ドルク・メレイオス・アシュレイ・ブフという|馬鹿《ばか》馬鹿しく|大仰《おおぎょう》な名前の、つまり馬鹿に。
「ガユス、さっきの〈|銀嶺氷凍息《クローセル》〉は|愚《おろ》かな選択だ。貴様の陰険|化学《かがく》咒式《じゅしき》の同じく第四階位の〈|死哭燐沙霧《バル・バス》〉の方が確実だった」
その|髪《かみ》と|瞳《ひとみ》に似せたのか、|鋼《はがね》のような声のギギナが炎を見つめたまま言葉を放つ。
こいつはいつもこうなのだ。自分が教師にでもなったかのように|御大層《ごたいそう》な対竜戦術論を垂れてくる。
実際、大体以上に正しいのだが、|黙《だま》って聞いてやる気は、|悪魔《あくま》の良心ほどもない。
「メチルホスホン酸イソプロピルフルオリダート、つまりサリンガスを発生させる〈死哭燐沙霧〉なんかを、あんな接近戦で出せるか。|完璧《かんぺき》に|制御《せいぎょ》できなければ、こちらも負傷する可能性が高い。竜の〈死の|息吹《いぶき》〉を防ぎ|牽制《けんせい》するために即効性の足止めとして、何が問題なんだよ」
「|氷凍系《ひょうとうけい》咒式《じゅしき》では、竜の|鱗《うろこ》の|鎧《よろい》を確実に|貫通《かんつう》し、動きを|拘束《こうそく》することはできない。もし、私が火竜の首を|刎《は》ねるのがあと|一刹那《いっせつな》遅《おそ》かったら、|如何《いか》にする気だったと?」
鋼玉の眼球で、ギギナが俺を|凝視《ぎょうし》している。|優《やさ》しさから|遥《はる》か遠く|隔絶《かくぜつ》した目だ。
「おまえの|跳躍《ちょうやく》の気配が感じ取れていたからな、|一瞬《いっしゅん》の足止めの方が確実だと判断した。激しく不本意ながら、これでもドラッケン族のおまえの剣の|技倆《ぎりょう》を信用したんだが?」
俺の説明に、ギギナは詩想を|呻吟《しんぎん》する|孤高《ここう》の詩人のような表情を|浮《う》かべる。
次の瞬間、俺の首の左|頚動脈《けいどうみゃく》の横に巨大な屠竜刀が出現し、思わず呼吸が止まる。
ギギナの高速抜刀なのだが、|巨剣《きょけん》が動きだす動作も|途中《とちゅう》の|軌跡《きせき》もまったく分からなかった。
「貴様ごときが、ドラッケン族の何を知るというのだ」
ギギナが|美貌《びぼう》を|歪《ゆが》め、|鬱屈《うっくつ》を|吐《は》き|捨《す》てる。
ドラッケン族とは、太古の昔から害をなす人外の者を|狩《か》ることを|生業《なりわい》としてきた北方の一部族で、屠竜士と言われる竜殺し、〈異貌のものども〉の|討伐《とうばつ》専門家たちの|宗家《そうけ》である。
現代対竜戦闘術の技術、装備、戦術の基本は彼らが作ったともいえるだろう。
そして、竜や異貌のものどもとの戦闘は|熾烈《しれつ》を|極《きわ》め、現在でも登録屠竜士の二十人に一人は、ドラッケン族関係者で|占《し》められている。
ギギナはそのドラッケン族だった。
ただし、半分だけではあるが。
母は正統ドラッケン二十二氏族の出だそうだが、父は|普通《ふつう》の|巡回《じゅんかい》商人だったそうだ。|詳《くわ》しくは知らない。
というか、ギギナと過去を語り合うほどの友情や度胸が、地上人類にはいまだ未発見なのだ。
ドラッケン族であることに|過剰《かじょう》なまでの|誇《ほこ》りを持つが純血ではないという事実が、ギギナを|攻撃《こうげき》的で|冷笑《れいしょう》的という、俺自身に|地獄《じごく》のように|迷惑《めいわく》な性格にしているのだろう。
そんなギギナと組んでいる俺の気分は、|弾薬庫《だんやくこ》で花火大会をしている気分と|酷似《こくじ》している。
別名、|絞首刑《こうしゅけい》の階段を一段飛ばしで上がっているとも言うが、気づかないようにしている。
焚火の中の|薪《まき》が、骨折のような|乾《かわ》いた音を|響《ひび》かせ小さく|爆《は》ぜた。
その音に合わせ、俺は|魔杖剣《まじょうけん》の|柄《つか》で首筋に当たる冷たい鋼を|緩《ゆる》やかに横に|払《はら》う。
ギギナもそのまま魔剣を折り|戻《もど》す。俺は長い息を吐き、思考も現実に帰る。
無意味に|恫喝《どうかつ》されて腹立つので、ついでに|屠竜刀《とりゅうとう》を抱えるギギナに|厭味《いやみ》を言っておく。
「いつも|刃《やいば》を手放さないが、それも一族の|掟《おきて》か? それとも|刃物《はもの》を持ってると持病の連続|猟奇《りょうき》殺人病の|発作《ほっさ》が治まるとか?」
「それより貴様の脳の発作を心配していろ。貴様の|脳漿《のうしょう》が耳から|漏《も》れる|悪臭《あくしゅう》で、私の美しい思い出を|記憶《きおく》喪失《そうしつ》してしまいそうになる」
俺は|暇《ひま》つぶしの会話すら完全|放棄《ほうき》し、|帰還《きかん》まで|仮眠《かみん》することにした。
俺はその程度には|賢明《けんめい》だ。
「感じるかガユス」
「分かってる」
|剣舞士《けんまいし》に言われる前から、その気配は俺の|探知《たんち》咒式《じゅしき》圏《けん》が感知していた。
奴らは、巨大で|鈍重《どんじゅう》そうな外見からは想像つかないほどにしなやかに|巨躯《きょく》をくねらせ、石柱の間をすり抜け、|石畳《いしだたみ》を|踏《ふ》み割る音、|身体《からだ》の放射熱や|排出《はいしゅつ》する炭酸ガスすら、その|竜《りゅう》咒式《じゅしき》結界《けっかい》で完全に消失させてしまう。
だが、奴らは気配を消すのが|上手《うま》くない。なぜならこの地上において、奴らが|恐《おそ》れ|隠《かく》れるべき生命体など存在しないからだ。
|轟音《ごうおん》。
|突如《とつじょ》、俺達の右前方にある|崩落《ほうらく》の激しい|石壁《いしかべ》が炸裂した。|吹《ふ》き飛ぶ|瓦礫《がれき》が|礫《つぶて》と散弾とに化し、俺とギギナを強襲する!
瞬時に転がって|回避《かいひ》するが、飛来する慣性質量を完全には|逸《そ》らすことができず、|肌《はだ》や|装束《しょうぞく》を|石塊《せっかい》が|掻《か》きむしっていく。
轟々と|鼓膜《こまく》が耳鳴りをし、|粉塵《ふんじん》が白く|煙《けむ》るなか、金属質の|昏《くら》い鱗を月光に照らされて、そいつの|蜥蜴《とかげ》のような巨大な頭部が|顕現《けんげん》した。
竜族特有の氷点下の|瞳《ひとみ》が水平移動、俺達を|捕捉《ほそく》する。
「どうやらこいつが被害の元らしいな」
「昼間の竜は単なる迷子の幼竜、か」
眼前の全身漆黒の巨竜は、その鱗の色が如実に示す通りに〈黒竜〉であった。
黒竜とは、生物学的には|鱗竜目《りんりゅうもく》巨竜科|這竜《はいりゅう》属の、|火炎《かえん》を吐く火竜や塩素ガスを吐く緑竜と同属異種で、強酸を吐く獰悪な種類の竜である。
しかも|掲《かか》げた頭部までの高さは、優に家屋の二階以上の高さがあった。
|咒式《じゅしき》分析《ぶんせき》や資料|検索機《けんさくき》の機能を持つ、俺の|知覚眼鏡《クルークブリレ》が瞬時に計測。そして頭頂までの高さと後方にくねる長大な|尾《お》までの竜の全長を、一七・七八五メルトルと瞬時に表示する。
その昔、ギギナが俺に教え|腐《くさ》ったDDMM(|汎《はん》ドラッケン式竜測定法)によると、竜は生まれてから大体十から百年で全長一〇メルトルに達するまで成長するとされている。
それからは、さらに百年ごとに一メルトル前後ずつ成長する。つまり、二百歳なら一一メルトル、三百歳で一二メルトル。
俺達の眼前の巨竜全長は一七・七八五メルトルだから、約八、九百歳という計算になる。俺の体が我知らず|震《ふる》えた。最悪である。
|竜《りゅう》族は|加齢《かれい》とともに、その戦闘力・知能・咒力が向上する。そして、千年を|越《こ》える|星霜《せいそう》を生きた竜は|鱗《うろこ》に金属質の|輝《かがや》きを加え、その竜を特に|畏怖《いふ》を|込《こ》めて|長命竜《アルター》と呼ぶ。
屠竜士も、そして最も精強のドラッケン族ですら、無敵に近い|長命竜《アルター》級とやり合って、勝利どころか、生き残れるものすら少ない。組んでから三年間で五百歳級を|含《ふく》む大小十一頭の竜を|倒《たお》している俺とギギナだが、それも|虚勢《きょせい》にしかならない。
長命竜ではないが、長命竜にあまりにも近い|邪竜《じゃりゅう》と俺たちは相対しているのだ。
黒き邪竜の凛冽とした、その永劫の氷河のような目が、俺達の視線と正面で衝突する。視線だけで身体を|恐慌《きょうこう》・|麻痺《まひ》させる|咒力《じゅりょく》を感じる。
|威容《いよう》を現す前に反射的に展開しておいた、|生体《せいたい》強化系《きょうかけい》咒式《じゅしき》第一階位〈|醒奮《ヴェリネ》〉による、脳内|青斑核《せいはんかく》等でのノルアドレナリン、ドーパミン等のカテコールアミン類の合成がなければ、麻痺したままなすすべもなく|虐殺《ぎゃくさつ》されていただろう。
それでも本能的な|恐怖《きょうふ》で身が|竦《すく》んでいた。
|退却《たいきゃく》すらできない、まさに〈|異貌《いぼう》のものども〉の王の威容。
おおおおおるるるううううっ!
ギギナの|獅子吼《ししく》が|死闘《しとう》の開幕を告げた。
その|勇壮《ゆうそう》な|雄叫《おたけ》びで、俺の身体も畏怖の|硬直《こうちょく》から解き放たれ、動きだす。
|疾走《しっそう》するそのギギナの全身が、|鋼色《はがねいろ》のさざ波の群れに|覆《おお》われていく。
|生体《せいたい》強化系《きょうかけい》咒式《じゅしき》第三階位〈|衂蟹殻鎧《ドラメルク》〉により、体内に|埋《うめ》め込まれていた強化合金骨格の無数の六角形が|皮膚《ひふ》から生まれ、|拘束具《こうそくぐ》のように肉体にまとわりつき、強化チキン質と硬化クチクラの|装甲《そうこう》と強化筋肉がその上を覆っていき、ドラッケンの長躯を完全装甲していく。
生体|甲殻《こうかく》鎧《よろい》を身にまとったギギナが竜の右方向、俺は左方向へと|疾駆《しっく》し、竜の死の|吐息《といき》の目標を分散させる対竜戦闘の|常套《じょうとう》戦術を行う。
|魔風《まふう》となり走るギギナが、|腰《こし》の|革帯《かわおび》から金属筒を三本引き|抜《ぬ》き、|投擲《とうてき》を行う。
それは|封咒《ふうじゅ》弾筒《だんとう》と呼ばれる|咒式具《じゅしきぐ》であり、竜の眼前で、封じ込められた低位爆裂咒式を解き放ち、炸裂。
並みの異貌のものどもなら、これだけで|充分《じゅうぶん》殺傷可能。だが爆風は眼前の竜の直前で不可視の壁に|遮《さえぎ》られる。
俺の知覚眼鏡に、恐るべき〈|反咒禍界絶陣《アーシ・モダイ》〉の発生が表示される。
その結界は、咒式原理たる観測効果による作用量子定数や波動関数への|干渉《かんしょう》に、さらに|桁違《けたちが》いに強力な干渉で|阻止《そし》を行うという|超高《ちょうこう》位の結界であると予測されている。
一部の高等竜が使うと|噂《うわさ》される超|防禦《ぼうぎょ》結界だが、実際に見るのは初めてだ。こんな|厄介《やっかい》な竜が相手とは、俺の運は絶望的に悪く、軽く|涙目《なみだめ》になるのを感じた。ついでに俺の前世が|靴紐《くつひも》という|糞《くそ》占《うらな》いまで思い出して落ち込んでしまう。
いかに|完璧《かんぺき》に|防禦《ぼうぎょ》されようと、封咒弾筒の|威嚇《いかく》と|撹乱《かくらん》効果のなか、俺たちは間合いを|詰《つ》めるしかない。
|石壁《いしかべ》を紙細工のごとくに|破砕《はさい》しながら、竜がその黒鱗で|鎧《よろ》われた|巨躯《きょく》を乗り出す。
それだけで大地が鳴動し、大質量の生物が放つ高圧の圧力が夜気に張りつめる。
同時に、巨樹を何本も|捩《ね》じったような筋肉の束の左|前肢《まえあし》が、ギギナに向かって|横薙《よこな》ぎに|振《ふ》り|払《はら》われた!
破壊|槌《つち》の|破壊力《はかいりょく》と、|颶風《ぐふう》の速度を|併《あわ》せ持ったその超質量の|一撃《いちげき》を、ギギナは|落雷《らくらい》の速度で体を|屈《かが》めやり過ごす。
|槍《やり》のごとき竜の|長爪《ちょうそう》が甲殻鎧の表面を|掠《かす》めて走り、青い火花と悲鳴を上げさせる。
その|瞬間《しゅんかん》ギギナが笑っているのが見えた。
俺にはギギナの思考が推測できた。
|長命竜《アルター》級の竜を倒すのは|一般的《いっぱんてき》にも|英雄《えいゆう》である。竜を|狩《か》るドラッケン族にとっては、英雄以上の至上の尊敬の対象だ。
ドラッケンの血を半分しか受け|継《つ》がない、しかも|屠竜士《とりゅうし》を辞したギギナにしてみれば、準|長命竜《アルター》を何が何でも倒し、そして自己の勇者たる資格を証明したいのだ。
|一刹那《いっせつな》後、たわめた|身体《からだ》を伸ばし、ギギナが竜の|懐《ふところ》へと|弾丸《だんがん》の低空|跳躍《ちょうやく》を決行する。
そのまま長大な屠竜刀を、竜の|軸足《じくあし》、城の大広間の支柱のような右前肢に|叩《たた》き込む!
その刀身が高硬度の竜の鱗を|断《た》ち割り、肉を|切《き》り|裂《さ》き、赤黒い血が|迸《ほとばし》る。それは生体系の中でも、強化系の|咒式《じゅしき》|使《づか》いしか可能にしえない超人の身体動作であった。
竜が|苦悶《くもん》の|咆哮《ほうこう》をあげる。
薙ぎ払った左前肢を返してギギナを叩き|渡《つぶ》そうとするが、|小癪《こしゃく》な人族は後方に|素早《すばや》く飛び|退《の》き|躱《かわ》す。
ギギナが|握《にぎ》る真業物級|魔杖刀《まじょうとう》〈屠竜刀ネレトー〉。
全長九三五ミリトルの刀身は、金剛石すら|遥《はる》かに|凌駕《りょうが》するヌープ硬度と|耐久性《たいきゅうせい》を|誇《ほこ》るガナサイト|重咒《じゅうじゅ》|合金製《ごうきんせい》。
刀身と等しく長い|柄《え》から、子供の|肩幅《かたはば》ほどもあるその幅広の|刃《は》が|伸《の》び、根元と|中程《なかほど》で|湾曲《わんきょく》しているその形状は、|歪《ゆが》んだ平行四辺形のようにも見え、竜の黒血に|禍々《まがまが》しく|濡《ぬ》れ光っていた。
それは竜を殺す咒式が|幾重《いくえ》にも込められ、|防禦《ぼうぎょ》・|再生《さいせい》|咒式《じゅしき》に割り込み破壊する、|研鑽《けんさん》に研鑽を重ねられた末に|先鋭化《せんえいか》した、まさに〈竜〉や〈異貌のものども〉を|滅《ほろ》ぼすためだけの超大型魔杖刀である。
竜は巨躯を後方に|退《ひ》き、|咒印《じゅいん》を展開させて|胸腔《きょうこう》を急激に|膨張《ぼうちょう》、死の吐息を|吐《は》くべく大量呼気吸入を行う体勢に入る!
竜はようやく気づいたのだ。眼前の人族が、単なる無力な|獲物《えもの》ではなく、|偉大《いだい》な竜族たる自分を傷つける力を持つということに。
|竜《りゅう》の|喉元《のどもと》がせりあがり、まさに死の神の吐息を放射しようとしたその刹那。
俺の意識と魔杖剣〈断罪者ヨルガ〉との咒式反応により作用量子定数と波動関数に干渉、咒印組成式が展開、物理現象を発動させていた。
「電乖閲葬雷珠!」
ヨルガの|鍔《つば》元から高圧空気とともに|咒弾《じゆだん》の|空葉莢《からやっきょう》が|排出《はいしゅつ》され、|剣《けん》の前方からプラズマ化した雷球が、竜に向けて超高速|飛翔《ひしょう》する。
この咒式から生成されるプラズマは、大気中原子内部の電子と|原子核《げんしかく》が極度に|電離《でんり》した高温状態で、命中すれば庭園の池程度の水量を瞬時に蒸発させる|凶悪《きょうあく》な破壊力を持つ。
|電磁《でんじ》|雷撃系《らいげきけい》|咒式《けじゅしき》第五階位の破壊咒式で、今の俺が行使できる最速最大電磁咒式である。いくら竜の結界でも完全に無効化は不可能。良くて|瀕死《ひんし》の重傷であろう。
そう、ギギナの|突撃《とつげき》も|全《すべ》ては俺の高位攻撃咒式展開のための時間|稼《かせ》ぎである。
大気中で力と力が|衝突《しょうとつ》し、青白い|微細《びさい》な|霹靂《へきれき》が|弾《はじ》ける。
竜の原理干渉結界が瞬間展開し、プラズマ雷球の存在を分解しようと、咒式方程式に割り込みをかけているのだ。
だが、ついに|弩雷《どらい》は|障壁《しょうへき》を|貫通《かんつう》する。
|威力《いりょく》を低減させたとはいえ、結界を抜けた死の雷球を右前肢で直接に受ける黒竜。
瞬時に血肉が|霧《きり》と化して弾け飛ぶ。
俺の顔に|驚愕《きょうがく》の念が走る。竜は瞬間的に負傷を最小限に|抑《おさ》える方法を取ったのだ。
|片肢《かたあし》を失う激痛に細めた竜の|瞳《ひとみ》が、|瞋恚《しんい》の|炎《ほのお》の色を強める。
あまりの出来事に俺の脳が活動を停止したその時、竜が咒印に|溜《た》めていた|息吹《いぶき》を吐く。
|吐息《といき》は王水の|奔流《ほんりゅう》だった。
王水とは、|濃硝酸《のうしょうさん》と濃塩酸の混合酸で、その塩素と塩化ニトロシルの働きで安定金属たる金や白金ですら|腐食《ふしょく》|・溶解《ようかい》する|超《ちょう》強酸であり、それを浴びれば、生きながら溶解するという|地獄《じごく》の苦痛の、初にして最後の体験をしながら絶命するだろう。
|沸騰《ふっとう》した死の奔流が、|熱烈《ねつれつ》に俺を|抱擁《ほうよう》する寸前、|猛禽類《もうきんるい》の|強襲《きょうしゅう》速度で走り込んだギギナが俺を|抱《かか》え横転する。
王水が地面の|石畳《いしだたみ》を|灼《や》く|白煙《はくえん》を上げ、金属が|錆《さ》びたような強酸の|刺激臭《しげきしゅう》が夜気に満ちる。
白煙幕に|紛《まぎ》れ、俺とギギナはさらに転がり、竜の強酸の吐息のさらなる追撃を|躱《かわ》す。
強酸の洗礼を受けた|遺跡《いせき》の石柱や石壁が溶解され、重低音を立ててつぎつぎと|崩壊《ほうかい》する。
白煙が周辺一帯を|覆《おお》いつくし、風景すら一変させていく竜の超破壊力。
完全には躱せず、俺とギギナは背中や足に強酸の|飛沫《ひまつ》を浴び、姿勢を|崩《くず》し|倒《たお》れる。
酸に|肌《はだ》や目を刺激される苦痛に俺は情けない苦鳴をあげ、地面を転がっていった。
|惨状《さんじょう》の大地に|這《は》いつくばる俺を、いつもの鋼球の瞳で無機質に|一瞥《いちべつ》すると、ギギナは竜へと向かって再度の|疾走《しっそう》を始めた。
竜はその長大な|尾《お》、地上最大の|鞭《むち》をしならせ、ギギナが寸前まで存在した地面に|叩《たた》きつけて視界を|塞《ふさ》ぐほどの|爆煙《ばくえん》を起こす。
|轟音《ごうおん》で大気と|鼓膜《こまく》がびりびりと|震《ふる》える。ギギナは|唸《うな》る尾をかいくぐり、さらに右前肢を失った竜の死角、右方へと|疾駆《しっく》する。
|広範囲《こうはんい》|攻性《こうせい》|咒式《じゅしき》を|使役《しえき》する俺が戦意|喪失《そうしつ》している以上、ギギナが|狙《ねら》うのは竜の最大の急所たる|逆鱗《げきりん》が存在する|喉《のど》しかない。
|屠竜刀《とりゅうとう》を握り、|飛翔《ひしょう》しようと長身をたわめたギギナに、竜が|咒式《じゅしき》を展開、放射する。
|化学《かがく》|練成系《れんせいけい》|咒式《じゅしき》第四階位〈|銀嶺氷凍息《クロセール》〉による、液体|窒素《ちつそ》の極低温の冷気の|槍《やり》がギギナに|殺到《さっとう》する。
地上に生息する通常生物なら、防禦結界がなければ確実に凍結させられる凍気だった。
しかし、ギギナは対竜吐息用の|長外套《コート》を回転させ、数十条の極低温の液体窒素の槍を|裾《すそ》で|遮断《しゃだん》。
同時に刃の先で|生体《せいたい》|強化系《きょうかけい》|咒式《じゅしき》第一階位〈|耐凍《パテ・ム》〉の咒式が|輝《かがや》き、血液中にグリセノール等の不凍液を合成し凍結を防ぎ、体組織活性化による体熱生産を行って凍気に|耐《た》える。
甲殻鎧の表面を半ば凍りつかせたまま、放たれた矢のようにギギナは飛翔した。
慣性と全体重を乗せた屠竜刀の一撃を、天に届かんとする竜の脳天に叩き込む。
竜は首を後方に反らせ、必殺の刃を躱す。
このままギギナが着地すれば、竜の追撃で|無惨《むざん》に引き|裂《さ》かれるのが容易に予想できた。だがドラッケン族の思考と行動は、俺と竜の予想を|遥《はる》かに|越《こ》えていた。
屠竜刀の先で|生体《せいたい》|変化系《へんかけい》|咒式《じゅしき》第二階位〈|空輸龜《ゲメイラ》〉の咒式が輝き、背中や足裏に形成した|噴出《ふんしゅつ》|口《こう》から圧縮空気を噴射し、前方高速回転を行う。
屠竜刀を振るうギギナ
着地点の竜の左前肢首に、回転した屠竜刀の|渾身《こんしん》の刀身をめり込ませるっ!
苦痛の咆哮を上げる竜が、|吹《ふ》き飛んだ右前肢でギギナを|薙《な》ぎ|払《はら》おうとする。
右前肢の長さが足りないために、ギギナの生体|甲殻《こうかく》|兜《かぶと》をかすめ、それを割り飛ばすだけに止まる。
後方に飛びすさり、額から流れる血を舌先で楽しむギギナの横顔が見えた。
|対峙《たいじ》する|巨竜《きょりゅう》の、手先が吹き飛んだ右前肢と、|切《き》り裂かれた左前肢に何かが|蠢《うごめ》く。
骨格が再生され、筋繊維と血管、神経|網《もう》が張りめぐらされていき、|鱗《うろこ》と五本の指と|爪《つめ》までが完全復元するまで、|僅《わず》か三秒弱。
竜の全身に|恒常的《こうじょうてき》に|施術《せじゅつ》されている|竜咒式《りゅうじゅしき》で、咒式展開すら必要としない高速肉体復元であった。
これが竜である。高度な知性と強大な咒式を備えた、地上最大最強の生物。|破壊《はかい》をもたらす|攻性《こうせい》|咒式《じゅしき》や超絶の剣術を|駆使《くし》しても、竜には軽傷すら|与《あた》えてはいない。
どうすれば絶命させられるのか、|誰《だれ》か大至急教えてくれ。
超強酸と凍気を浴び負傷した絶望的|状況《じょうきょう》だったが、ギギナの甲殻鎧に覆われた背中はまったく|闘志《とうし》を失っていなかった。
竜を目の前にしながら、ギギナは|悠然《ゆうぜん》と手に下げた|魔剣《まけん》ネレトーの|回転式《かいてんしき》|咒弾倉《じゅだんそう》から、|空薬莢《からやっきょう》を|排出《はいしゅつ》する。
特注の二十二口径という超大型|咒弾《じゅだん》六発を|一括《いっかつ》|装填《そうてん》、がちりと音を立てて|撃鉄《げきてつ》を起こす。
これがドラッケン族なのか、その|桁《けた》|外《はず》れの|狂気《きょうき》と|誇《ほこ》りと闘争心に俺は|戦慄《せんりつ》した。
そしてギギナは、|宝玉《ほうぎょく》の瞳でこちらを横目に|振《ふ》り返り、|口《くち》の|端《はし》で|薄《うす》く|嘲笑《ちょうしょう》しやがった。確かに|嘲笑《あざわら》った。
|奴《やつ》は、貴様はどうだと、自分に助けられ、そこで|脇役《わきやく》っぽく|泡《あわ》|吹《ふ》いて|驚《おどろ》いて解説しているだけかと問うたのだ。
この天文学的低能がっ!
殺し合いと、|狩猟《しゅりょう》と、闘争の誇りしか脳神経に存在しない|熱狂的《ねっきょうてき》戦闘愛好民族がっ!
さらには、|普段《ふだん》から自分が俺より|眉目《びもく》|秀麗《しゅうれい》な男前なのを、特に気にしてないよという態度もっ!
俺は民族というか個人差別と、状況とまったく関係ない心理的|怒号《どごう》とともに、咒式方程式を高速で|紡《つむ》ぎ始めた。
ギギナのような、人間試験ぎりぎり失格者に俺が|試《ため》されるのは気に食わない。
|高僧《こうそう》のように|悟《さと》って死ぬよりは、戦って暴れてあがいて死ぬ。単純だが、それが俺の人生観だ。
|怒《いか》れる巨竜は、間合いの遠い尾と|吐息《といき》主体との、|隙《すき》のない必勝の戦術でギギナを|襲《おそ》う。
|遺跡《いせき》の石柱が|倒壊《とうかい》し、|石畳《いしだたみ》が|溶解《ようかい》する!
この世の|終焉《しゅうえん》が来たかのような、竜の破壊の力を、ドラッケン族は屠竜刀で受け流して|躱《かわ》すが、そう長くは耐えられない。
俺の|攻性《こうせい》|咒式《じゅしき》のための時間|稼《かせ》ぎが必要だと、ギギナも知っているのだ。
だが、竜もすぐにギギナの陽動に、続いて俺の高速咒式展開にも気づく。
ただちに俺の|咒式《じゅしき》|発動《はつどう》を|阻止《そし》すべく、強酸の吐息を|吐《は》こうと首をたわめ、|咒式《じゅしき》を紡ぐ。
その時、ギギナが自身の母と血の誇りの次に大切にしている屠竜刀ネレトーを両手で|投榊《とうてき》した。
|刃《やいば》は夜を裂いて回転飛翔し、竜の|下顎《かがく》を半ば|断《た》ち割るように|突《つ》き|刺《さ》さり、死の吐息の放射を強制阻止する。
|爆《は》ぜた自らの強酸で顔面を|灼《や》いた竜は|激昂《げっこう》し、ギギナを喰い殺すべく上下顎を開き|強襲《きょうしゅう》する。
だが、竜は戦術判断を誤った。俺の|咒式《じゅしき》の展開を阻止しなかったことを、|冥府《めいふ》の|糞海《くそうみ》の底で|後悔《こうかい》しやがれ。
「雷霆鞭っ!」
光速度で月夜の大気を切り裂く一条の|雷鞭《らいべん》は、竜が急速展開した|干渉《かんしょう》結界の境界面に|激突《げきとつ》し、激しく電花を散らす。
竜の|凶眼《きょうがん》に|嘲《あざけ》りの色が|浮《う》かぶ。
俺の展開した|咒式《じゅしき》は、竜の干渉結界を破る力すら|怪《あや》しい、|電磁《でんじ》|雷撃系《らいげきけい》|咒式《じゅしき》第二階位という、百万ボルトル程度の|雷撃《らいげき》|咒式《じゅしき》に過ぎなかったのだ。
だが次の|瞬間《しゅんかん》、電子の|触手《しょくしゅ》は、竜の下顎に刺さり、結界からわずかにはみ出ている、|屠竜刀《とりゅうとう》ネレトーの|柄《え》に|絡《から》みついた。
|途端《とたん》に電撃は急激成長し、刀身を伝導体として、竜の体内に電撃を|迸《ほとばし》らせる。
|殺戟《さつりく》の電子の|奔流《ほんりゅう》は、頭部|脳髄《のうずい》から、首、|胴体《どうたい》、内臓を灼き、|沸騰《ふっとう》させながら、後左肢から地面へと|駆《か》け|抜《ぬ》けていった。
|竜咒法《りゅうじゅほう》による|驚異《きょうい》の肉体復元も、言語を|司《つかさど》る脳髄自体が沸騰し、全身の神経網と内臓を灼かれては発動も許されない。
|身体《からだ》中の穴から|白煙《はくえん》と、沸騰した|汚泥《おでい》のような黒血を|零《こぼ》して、大きく|痙攣《けいれん》する竜。
俺とギギナの神速の|連携《れんけい》だったが、あらかじめ綿密な作戦を立てたわけではない。
|厭《いや》な事実だが、付き合いが長いため|互《たが》いに戦闘の呼吸は知りつくしており、相手の結界や|装甲《そうこう》が強固な場合なら電撃系咒式につなげる、と当然のように戦闘方程式が|一致《いっち》したのだ。
死に|瀕《ひん》する黒き竜。
だが、熱で|白濁《はくだく》した瞳が苦痛と|兇気《きょうき》に見開かれたかと思うと、ギギナをその巨顎で|咬《か》み殺そうと|爛《ただ》れた首を疾走させる。
竜の冥府への道連れに選ばれたギギナは、真正面からその突進を受け止めた。
|即死《そくし》の激突|衝撃《しょうげき》のはずだったが、俺は今日二度目の|脊髄《せきずい》を駆け登る戦慄を味わう。
ギギナは|颶風《ぐふう》の速度で襲いくる|巨竜《きょりゅう》の、その下顎部に刺さった自らの屠竜刀の|長柄《ながえ》を、両手に|握《にぎ》り止めていた。
しかし、死に|狂《くる》う竜の頭部の勢いは止まらず、衝撃でギギナは空中に浮く。
「がああああああああっっっ!」
|鬼神《きしん》の|咆哮《ほうこう》とともに石畳を|破砕《はさい》しギギナの両足が突き立ち、慣性に|抵抗《ていこう》!
その|両掌《りょうて》の中の、魔剣ネレトーの|回転式《かいてんしき》|咒弾倉《じゅだんそう》が咒弾開放の火花を|吹《ふ》く!
ギギナの発動した|生体《せいたい》|強化系《きょうかけい》|咒式《じゅしき》第五階位〈|鋼剛鬼力膂法《バー・エルク》〉により、筋肉|繊維《せんい》の|遅筋《ちきん》にグリコーゲン、速筋にグルコースとクレアチンリン酸が、両方にアデノシン|三燐酸《さんりんさん》と酸素を送り込み乳酸を分解、ピルピン酸へと置換。脳内四十六野と|抑制《よくせい》ニューロンによる筋肉の無意識限界制動を強制解除する。同時に甲殻鎧の各部を|締《し》める|螺子《ねじ》を|弾《はじ》き飛ばすほどに、瞬間的に筋繊維容量が増大する。
|脚部《きゃくぶ》の|大臀筋《だいでんきん》、中臀筋、|大腿《だいたい》|四頭筋《しとうきん》、|縫工筋《ほうこうきん》から|下腿《かたい》三頭筋が。
|胴部《どうぶ》の大胸筋、|前鋸筋《ぜんきょきん》と|外腹《がいふく》|斜筋《しゃきん》と腹直筋が。
背中の|大菱形筋《だいりょうけいきん》、広背筋、|僧帽筋《そうぼうきん》が。
|肩《かた》の三角筋、|腕部《わんぶ》の|上腕《じょうわん》三頭筋、上腕二頭筋が。
全身の約四百種類六百五十の強化筋肉が限界まで|膨脹《ぽうちょう》。そして|超人化《ちょうじんか》した全身の筋力が生む|剛力《ごうりき》を束ね、竜の下顎に刺さった屠竜刀に一点収束、前方へ|振《ふ》り抜くっ!
|鱗《うろこ》と筋肉と骨を|裂《さ》き|砕《くだ》き、刀身は地から天への|弩雷《どらい》となり|虚空《こくう》へと|疾《はし》り抜ける。
黒竜の頭部はそのまま|剪断《せんだん》されて月夜の宙空へと|舞《ま》い飛び、石柱の一つへと激突し、そして|黔《くろ》い血の|痕《あと》を引きながら落ちていった。
|鼓膜《こまく》が痛くなるような|沈黙《ちんもく》と|静謐《せいひつ》。
下顎の一部以外の頭部を失った、小山のような黒竜の胴体は、|蝙蝠《こうもり》に|相似《そうじ》した|黒翼《こくよく》をばさりと一度だけ振り、ある種|悠然《ゆうぜん》と|傾斜《けいしゃ》していき、ついには耳を|聾《ろう》する|地響《じひび》きを立てて地に|倒《たお》れた。
切断面から流れ出る|膨大《ぼうだい》な黒血が、天上に|冴《さ》え|冴《ざ》えと|輝《かがや》く|蒼月《そうげつ》を映していた。
俺はいつの間にか止めていた呼吸を吐き、負傷と|疲労《ひろう》のために石畳に|尻餅《しりもち》をつく。
それをじっと|確認《かくにん》してから、全身竜の黒血に|塗《まみ》れたギギナが初めて地面に|膝《ひざ》をつき、生体甲殻鎧を分解し体内へ収納しはじめる。
ギギナは、そういう|嫌《いや》な|奴《やつ》なのだ。
ツェベルン龍皇国厚生省|委託《いたく》生活安全部 エリウス郡 郡都エリダナ生活対策課
課長プリセラ・ユプスル・サザーラン
机の上の、頭の悪い不条理冗句のように長い役職札を、俺とギギナはただ見ていた。
〈|異貌《いぼう》のものども〉の|討伐《とうばつ》が、国民の健康と|福祉《ふくし》を司る皇国厚生省|管轄下《かんかつか》に置かれているのは意味が分かるようで分からないし、その真の理由は|誰《だれ》も知らない。
一度書類を|盗《ぬす》み|見《み》したことがあるのだが、書類上の俺達の|項《こう》は鼻紙・印紙類と同様、使い捨ての備品|扱《あつか》いの|欄《らん》にあった。
ガユス×一、ギギナ×一と。
その二なんかあるかっ!
さして広くもない室内。その空気はどんより|澱《よど》んでいた。
俺の右方から|本棚《ほんだな》に|飾《かざ》り棚に|執務《しつむ》机。そして窓を背にして立つ、サザーラン課長。その長く強い|叱責《しっせき》が、室内に分子一つ分の|隙間《すきま》もなく|充満《じゅうまん》していた。
七都市同盟の屠竜士のように規定を守らないから死にかけるになることから始まり、当然労災は音速|却下《きゃっか》。俺の生活態度から、生まれ月の星座、|眼鏡《めがね》の|掛《か》け方、呼吸の|間隔《かんかく》や、|匙《さじ》の持ち方まで|幅広《はばひろ》く叱責されている。
小一時間叱責されている。
なぜか? 俺が知るか。
聞いてるうちに、課長の|年頃《としごろ》の|娘《むすめ》が「私の下着をお父さんの|汚《きたな》い下着と|一緒《いっしょ》に洗わないでよ!」と言っているのも、|全《すべ》て俺達が悪いことになっている。
|理不尽《りふじん》|極《きわ》まる理論の流れが、まったく自然なことのようにつながるその話術は、ある意味熟練の|匠《たくみ》の|神業《かみわざ》の域に達していた。
俺の|左隣《ひだりどな》りのギギナは、後ろ手に組んだ|掌《て》を開いたり閉じたりし、額に|脂汗《あぶらあせ》を流してこの|緩慢《かんまん》な|拷問《ごうもん》の苦痛を必死に|耐《た》えていた。
ギギナにとっては、竜を相手に殺し合うより|辛《つら》いのだろう。そういうギギナを見られるので俺はあまり|退屈《たいくつ》しない。けけけ。
「よそ見するな、公費の|無駄飯《むだめし》|食《ぐ》らいの|腐《くさ》れ|龍理《ろんり》|使《づか》いのソレル君っ!」
俺は|悄然《しょうぜん》とうなだれた、|演技《ふり》をした。
|結婚《けっこん》もしていない俺の、孫の孫の孫の|不倫《ふりん》と生活態度まで未来予知で説教され、サザーラン課長の|薄《うす》くなった|頭髪《とうはつ》が夕暮れの赤光を|透過《とうか》しだす頃、やっと俺達は解放された。
「準|長命竜《アルター》級を倒したのに、何もあんなに|怒《おこ》ることないよな。この分だと|報酬《ほうしゅう》満額も|怪《あや》しいな。何をどう考えても明らかに、あのおっさんは俺たちの事を|嫌《きら》ってやがるな」
課長室から出た俺は、長時間の直立不動式叱責|拷問《ごうもん》で痛くなった|足腰《あしこし》をさすっていた。俺の|愚痴《ぐち》を聞いているのかいないのか、ギギナの方も、|凝《こ》りに凝った肩を|廻《まわ》していた。
奴の極限まで|鍛練《たんれん》された肩の三角筋にまで、乳酸|蓄積《ちくせき》による疲労を起こさせるサザーランの小言に末代まで|呪《のろ》いあれ!
後でそういう|咒式《じゅしき》がないか調べよう。
頭髪を絶望的に薄くする咒式がいい。
いや、本気な話。
「|木《こ》っ|端《ぱ》|役人《やくにん》|風情《ふぜい》の考えることは、前例|踏襲《とうしゅう》による安全と保身だけだ。眼前の現実の結果すらどうでもいいのだろう」
そしてギギナは、ドラッケン族特有の|肉食獣《にくしょくじゅう》の|笑《え》みを、ぎしりと口の|端《はし》に|浮《う》かべる。
「私は満足だ。準|長命竜《アルター》を倒せてな。次は|長命竜《アルター》を倒す自信がついた」
「お、おまえは先天性|脳震盪《のうしんとう》か、あれだけ死にそうな目にあったんだ、今度でかい竜が出たら|他《ほか》の他殺志願の咒式士にやらせろよ」
|呆《あき》れる俺に、ギギナは続ける。
「私と貴様が組んで、負けると思うか?」
「それは、その、そうだが……」
「ではな、|剣《つるぎ》と月の祝福を」
ドラッケン族式の別れの言葉を投げ捨て、俺の返事など待たずにそのまま歩き出すギギナ。
郡役所の石の|床《ゆか》に、それすら|優雅《ゆうが》な|音譜《おんぷ》の連なりのような足音が|反響《はんきょう》する。
その背に何か言おうとして、ふと俺は気づいた。さっきの言葉は、ギギナなりの|控《ひか》えめな|激励《げきれい》なのだろうか?
いや、|違《ちが》う。絶対に。
あの|無駄《むだ》に|誇《ほこ》り高い|戦闘狂《せんとうきょう》は、俺という都合のいい|攻性《こうせい》|化学《かがく》|咒式《じゅしき》の後衛役を、その|掩護《えんご》を失いたくないだけなのだろう。
俺は|嘆息《たんそく》し、長く重い息を|吐《つ》いた。
そのうち、どうせまた|奴《やつ》と組んで、〈|竜《りゅう》〉や〈異貌のものども〉と|凄絶《せいぜつ》無比な殺し合いをすることになるだろう。
それが俺達、|咒式《じゅしき》|使《つか》いの仕事だからだ。
|休暇《きゅうか》の間は、せめてそのことは忘れよう。ついでに、休暇中にギギナをヴォックル観戦にでも|誘《さそ》おうかと思った。
だが、やはりやめておこう。
俺はその程度には|賢明《けんめい》な男だった。
2 あるいは平凡な日々
|凡庸《ぼんよう》である事。それも一つの才能であり、そして|古《いにしえ》のグリシラ悲劇にも|匹敵《ひってき》する、|壮大荘厳《そうだいそうごん》な悲劇でもあるのだ。
フルラ・ティオ・キリンスキー作
|戯曲《ぎきょく》「ありふれた|惨劇《さんげき》」 同盟|暦《れき》七二年
「列車が参ります。黄色の線の内側に下がってお待ち下さい。列車が参ります」
俺は他の人々と同じように朝のエリダナ駅構内の|鬱蒼《うっそう》とした人の森の中に立つ。
構内放送、個々の話し声、足音その他の音が重なり過ぎて個々が解体・|融合《ゆうごう》した独特の|音響《おんきょう》が、一音のごとく終わることなく|響《ひび》く。
夏の|萌《も》え|木葉《ぎば》|色《いろ》と|蜜柑色《みかんいろ》に|塗《ぬ》り分けられた列車が、軽アルミ合金製の|巨躯《きょく》を|軋《きし》ませながら構内へと進入してくる。
俺も人々の|波涛《はとう》の波の一つとなり、その箱の中へ乗り込んでいく。
朝の通勤時間を多少過ぎたとはいえ、列車内の混雑度合いは金属結合並みだ。
俺の|魔杖剣《まじょうけん》の|鞘《さや》が人に当たらないよう、その結合の要素となることに気をつける。
その中で、二列の|鋲《びょう》が|肩《かた》から|袖《そで》に並ぶ|藍色《あいいろ》の帯が入る強化皮革製|長外套《コート》を押され、その下の暗色の上下を|皺《しわ》まみれにされ、|鈍《にぶ》い深青色の戦闘用|革靴《かわぐつ》を|踏《ふ》まれた。
そんな俺の|左隣《ひだりどな》りで、|中位《ちゅうい》|咒式語《じゅしきご》の参考書をめくりながら単語を覚えようとしている、アルリアン人の女子学生の長い耳が規則的に動く。
右隣りにいる肥満した勤め人は|欠伸《あくび》を|噛《か》み殺しながら、生体活性飲料の|瓶《びん》の|蓋《ふた》を開け、半分ほどを飲み、|螺子蓋《ねじぶた》を|締《し》めて|鞄《かばん》に|戻《もど》す。
俺の前に座る老人が広げたエリュシオン紙の一面には、ツェベルン|龍皇国《りゅうおうこく》とラペトデス七都市同盟との、散発的|紛争《ふんそう》のいつもの|膠着《こうちゃく》と、|徹底《てってい》|抗戦《こうせん》を主張する軍部と教会のいつもの声明。
同じくいつものように七都市同盟のティエンルン合意条約|批准《ひじゅん》会議が開幕し、竜|討伐《とうばつ》が|違法《いほう》状態のまま行われる同盟の批准路線への転換に対して、龍皇国が|嘘《うそ》くさい|応援《おうえん》声明を送る。
そして最近|頻発《ひんぱつ》する咒式士連続殺人の続報と、俺がこの前観戦しにいったヴォックルの試合で、愛するオラクルズが大敗、ついに|怒涛《どとう》の九連敗を|喫《きつ》した記事が|載《の》っていた。
|胸糞《むなくそ》|悪《わる》いのでその記事から目を外すと、列車の強化|硝子《がらす》窓の外で、無機質な高層ビル群が流れていく。
そしてその|壁《かべ》から、|薄《うす》い|鼻梁《びりょう》と皮肉な|笑《え》みが|貼《は》りついた|唇《くちびる》の、巨大な顔の|立体《りったい》|光学《こうがく》|咒式《じゅしき》|広告《こうこく》が近づいてくる。そのラグマノフの顔をした復刻映画の立体広告が列車を|掠《かす》め、流れ去っていった。
他人がどう言おうと、鋼色の|髪《かみ》と藍色の目と|眼鏡《めがね》以外、俺とラグマノフが似ている気はしない。
昨日と先週と先月と、そして多分、去年とすら変わりばえのない、|平凡《へいぼん》きわまるエリダナの朝の風景だった。
エリダナ市。
ツェベルン龍皇国三十五州の一つ、エリウス自治郡の郡都で、国土の|東端《とうたん》、ラペトデス七都市同盟との国境にあり、四十年|程《ほど》前から両国家の交流のため、両国共同で委任統治されている、観光と貿易と外交の都市である。
エリダナはルルガナ内海に面し、七つの運河と七十七の橋がある街であり、街の中央を流れるオリエラル大河の西岸が皇国系住民、東岸が七都市同盟系住民と|棲《す》み分けている。面積は龍皇都の七分の一ほどの七八九・五七平方キロメルトル。人口は十二分の一強の七二万七六四二人(皇暦四九五年度調べ)程度の中規模都市である。
観光的には各種博物館や|史跡《しせき》、聖歌|乙女《おとめ》エリダナの像がある大音楽堂が有名だが、一方でゴーゼス経済特別区の、合法非合法の|賭博場《カシノ》や|娼館《しょうかん》も観光客に大人気である。
経済的には税制|優遇《ゆうぐう》等の|企業《きぎょう》|誘致《ゆうち》が推進され、|翼印《つばさじるし》で有名な皇国のツァマト|咒式《じゅしき》|化学社《かがくしゃ》や同盟のオルドレイク技術連合社の支社・研究所が地域経済を支える。
と、エリダナ中央駅の出口に|掲《かか》げてある観光案内地図にでも書いてありそうだ。
ほとんど地元住人になっている俺は読まないので、あくまで適当な予想であるのだが。
ひとつだけ付け加えるなら、俺みたいな「行き場のない|奴《やつ》らが最後に|辿《たど》り着く街」だろう。
エリダナとはそんな街だ。
エリダナ中央駅から西へ二駅の所にある新カルナ駅西口を出てすぐに右折。俺は自分の事務所へと向かう。
|途中《とちゅう》、東カルナ商店街のプロウズ軽飯屋の持ち帰り売り場で、朝食|兼《けん》昼食用の|挽《ひ》き|肉《ひく》|揚《あ》げのポロックをいくつか買う。これが|遅《おそ》い朝の|珈琲《コーヒー》に合う。
「おやガユス久しぶり。景気が悪くて、あんたが来ないと売れ残って困るよ、そっちの景気はどうだい?」
軽飯屋の|婿入《むこい》り店主ホートンが、|紙袋《かみぶくろ》にポロックをつめながら話しかけてくる。
「|潰《つぶ》れかけの軽飯屋に心配されるほどじゃあない、と言いたいんだが、正直あまり景気は良くないな。
おい、そっちじゃなくて、肉の多いこっちのポロックにしろ」
「咒式士相手はやりにくいな」
ホートンが|嫌《いや》そうに見る俺の|知覚眼鏡《クルークブリレ》は、資料|検索《けんさく》機能と、各種探知波を放射して|咒印《じゅいん》や成分から咒式を判別する機能があり、対象物の簡単な成分|分析《ぶんせき》も可能だ。
こういう買い物にまでいちいち使うのは俺か主婦ぐらいだが、発売当時は商品の成分の|虚偽《きょぎ》表示が次々と|暴露《ばくろ》され、企業|倒産《とうさん》が相次いだ。ま、技術が社会を変えた一例だ。
「グラムル単位の肉にまでこだわるなんて不景気なのか、ついにあんたがエリダナ特有の|吝嗇《けち》病にかかったのか。
とすると、例の相方の|別嬪《べっぴん》さんとは|上手《うま》くいってないようだな」
「そういう言い方、ギギナの前では絶対しない方がいいぜ。店先にあんたの長い顔とポロック揚げが仲良く並ぶことになるのは、俺の|面白話《おもしろばなし》を増やすだけだ」
俺の忠告に軽飯屋が不器用に|肩《かた》をすくめ、骨の音が鳴る。そして後ろ手に持っていた東方の計算道具とかいう|珠算機《しゅざんき》を取り出す。
「じゃ、今週のピリ辛風味ホートン占いを聞いていくかい?」
「いらん」
「またまた、|遠慮《えんりょ》するな」
「口の形をよく見ろ、い、ら、ん!」
明確な|拒絶《きょぜつ》を無視し、すでに珠算機の|珠《たま》を|弾《はじ》きながらホートンの占いは始まっていた。
「ポロックを左手で受取り、眼鏡が右へ四度ずれている|貴方《あなた》の今日の運勢。|幸運《ラッキー》死因は|首《くび》|吊《つ》り、幸運小物はなぜか人間一人の重さを支えられるほどの|丈夫《じょうぶ》なネクタイ。金運は最悪。女難の相が出ています。あと|爬虫類《はちゅうるい》と目上の人の意地悪に宇宙的注意」
軽飯屋にくる都度、ホートンの|奇妙《きみょう》な占いを聞かされるために客足が遠のくのが、こいつは分かっていないのだろうか?
しかもその理論は、その人の生年月日、その日の星の位置、星座、血液型、身長、体重、|趣味《しゅみ》、食べ物の好み、飼っていない犬の名前、|自慰《じい》を始めた年、昨日の天気、ホートンの歯の痛み具合等々の要素を元に、ホートンなりの複雑|怪奇《かいき》な計算と数式で出てくるらしいのだが、正直当たったためしはない。俺の前世を|靴紐《くつひも》と占うくらいだ。んなわけあるか。
第一、軽飯屋のホートンが俺の仕事内容を知っているわけもない。
急いで|撤退《てったい》するのが良策。自分に|了解《りょうかい》。
路地奥にある三階建てビル一階。〈アシュレイ・ブフ&ソレル|咒式《じゅしき》|事務所《じむしょ》〉という、俺がその順番|変更《へんこう》を長年要求し、ギギナ大議会(ギギナの法案が、常に俺に|優越《ゆうえつ》する独裁制議会)に|却下《きゃっか》され続けている、|真鍮《しんちゅう》製の看板が、入口の|扉《とびら》の上にやや|斜《なな》めに|掛《かか》かっている。
何重もの咒式防犯装置を解除しながら、その下の軽合金製の扉を開けた時、|漆黒《しっこく》の毛皮が|革靴《かわぐつ》にすり寄ってきた。気高い黄金色の|瞳《ひとみ》が俺を見上げる。
|黒猫《くろねこ》のエルヴィンだった。
と言っても、彼女は事務所に勝手に出入りしている|野良猫《のらねこ》であり、名前も俺が勝手に付けているだけである。
美しき|孤高《ここう》の|乙女《おとめ》に、昼食に持ってきたポロック揚げを差し上げようとしたら、|御機嫌《ごきげん》が悪いのか、つんと無視された。
|喉《のど》をなでようとしたら、彼女の針のような小さな牙で噛まれ、思わず手を引く。
そして|浮気《うわき》な彼女は、無礼な俺を捨てて扉から外へと、また|他《ほか》の|誰《だれ》かの|許《もと》へと去っていってしまった。
目を室内に|戻《もど》すと、元は|店舗《てんぽ》でそれを改造した、というか余計なものを取っ|払《ぱら》っただけの|閑散《かんさん》とした応接室が目に入る。
いつもの習慣に従い、一方の|壁《かべ》を|塞《ふさ》ぐ流し台の|薬缶《やかん》に水を入れ、火台の青いガスの火をつける。
応接室を|抜《ぬ》けて資質兼事務所兼倉庫に入るが、やはり相棒のギギナはいなかった。
見回すと事務所内の一方の|棚《たな》には|咒式《じゅしき》|研究書《けんきゅうしょ》が|幾何学的《きかがくてき》に|隙間《すきま》なく並び、研究資料が|摩天楼《まてんろう》のように雑然と俺の机の上に積み重ねられており、引用のための|付箋《ふせん》を何十|箇所《かしょ》にも挟まれ、雑然と言う単語を体現している。
机の上には、作成途中の|膨大《ぼうだい》な|咒式《じゅしき》|組成式《そせいしき》が紙の上に書きつけられ、反応機の上に立体化学構造式が宙に|浮《う》かび、秒速六度で回転しながら力の完成を待って|眠《ねむ》っている。
|床《ゆか》の|屑籠《くずかご》の横には|紙屑《かみくず》と、俺が卒業目前まで通っていたリューネルグ皇立中央咒式大学院の偽造卒業証書が、仲良く落ちていた。
入口を起点とした対称方向。窓方向のギギナの棚には咒式具や武器が、なぜか空白ぎみに整然と|陳列《ちんれつ》される。
机の上には手入れ用油と|鹿革《しかがわ》と|咒式具《じゅしきぐ》が並び、その横には、なぜか四つもある|典雅《てんが》な|装飾《そうしょく》の|椅子《いす》たちが、ある種美的なまでに整列している。
|微小《びしょう》な音が|天井《てんじょう》から|漏《も》れ|響《ひび》いてきた。
(また、あれか)
俺は薬缶の中で|沸騰《ふっとう》した湯を|珈琲生成機《コーヒーメーカー》に入れて蒸らし、続いて|陶杯《とうはい》に注ぎ、それを右手に持ちつつ奥の階段を登っていく
二階は以前の店舗のままで、改装前からいまだ中身の不明な紙箱や木箱、六弦琴や撞球の台、白黒熊のぬいぐるみが、通路の天井まで積み上げられている。
そしてギギナが趣味で|蒐集《しゅうしゅう》している|箪笥《たんす》や棚、椅子が|莫大《ばくだい》な空間を|占《し》め、谷底を囲む|断崖《だんがい》となっている。
その|狭《せま》い通路を進み、鉄製の非常扉を開くと、昼前の陽光が俺の|網膜《もうまく》を|刺《さ》す。
|瞳孔《どうこう》が明順応を起こし、眼前の光景を|鮮明《せんめい》に映しはじめる。
そこは事務所一階の屋上の四角いコンクリ床、その|四隅《よすみ》の対角線の交わるその一点に、俺の相棒のギギナが立っていた。
光の中に浮かぶその|美貌《びぼう》は、月光に|溶《と》ける乳白色の|滑《なめ》らかな|肌《はだ》。銀|時雨《しぐれ》の|髪《かみ》に銀|水晶《すいしょう》の瞳、|銀嶺《ぎんれい》の|鼻梁《びりょう》と|濡《ぬ》れた|焔《ほのお》の花弁の|口唇《こうしん》。
右の瞳を|跨《また》いで、額と|頬《ほお》に|彫《ほ》られた|蒼《あお》い|炎《ほのお》と|竜《りゅう》の|刺青《いれずみ》は、その|魂《たましい》の|壮烈《そうれつ》さを表す、とでも三流詩人は表現するのだろう。
眼前のいける美神は、両手で|握《にぎ》る|柄《え》の先の九三五ミリメルトルのガナサイト重咒合金製の刀身を床に|突《つ》き立て、次に床の|毛氈《もうせん》に|両膝《りょうひざ》を落とし刀身を水平に|捧《ささ》げ持ち、最後に床に額を着けて|礼拝《れいはい》を捧げる。
地から|湧《わ》き立つような祝詞の|詠唱《えいしょう》は、独特の|民族《みんぞく》|情緒《じょうちょ》を|醸《かも》しだす。
久しぶりにギギナの魂の故郷、ドラッケン族の礼拝|儀式《ぎしき》〈クドゥー〉を見た。
毎朝|恒例《こうれい》の礼拝だが、竜を殺した後には特に|丁寧《ていねい》に行う儀式で、自らの武運と竜や|獲物《えもの》に対する|畏敬《いけい》の念を、祖先と血族に|祈《いの》り報告する内容らしい。
ちなみにドラッケン族の|概念《がいねん》や神話に、厳密には|信仰《しんこう》する神は存在しないらしい。
ドラッケン神話では、最大の敵であり|供物《くもつ》である〈竜〉や〈異貌のものども〉との戦いを物語る役割のためにドラッケン族は存在するとして、その神話物語は進むのである。
俺に言わせれば、ドラッケン族は|徹底的《てっていてき》に想像力がなく、自分たちの|戦闘《せんとう》愛好趣味を|肯定《こうてい》するために後から理由づけをした、最悪の自己中心主義者たちなのだろう。
俺がそう考えていると、ギギナは礼拝の|中腰《ちゅうごし》の姿勢から、刀を|振《ふ》り上げ打ち下ろすドラッケン|刀剣術《とうけんじゅつ》の中伝〈流雲〉を行う。
続いて〈竜一肢〉〈下雷〉を行い〈浮雲〉へとつなげ、体を右へ向けて〈青嵐〉を、そして後ろを向いた所で〈波濤返し〉。
巨大な|屠竜刀《とりゅうとう》を|鞘《さや》に収めた後ろ向けの体勢から〈滝落とし〉に移行し、三たび正面を向いて腰を落としながら|迅雷《じんらい》のような〈竜撃〉を行い、そして背の鞘へと|優雅《ゆうが》に納刀する。
美貌のドラッケン族戦士の礼拝と|抜刀《ばっとう》の光景は、それだけで|一幅《いっぷく》の|絵画《かいが》となる|荘厳《そうごん》な光景だった
「この貧民|臭《くさ》い気配、ガユスか」
ギギナが振り返る。俺が女だったら、その|蠱惑《こわく》的な視線に|魂魄《こんぱく》まで抜き取られそうだ。
気を取り直すべく右手の陶杯の苦い珈琲を一口飲む。そんな俺には構わず|奴《やつ》が続ける。
「朝から貴様の|募金《ぼきん》目当ての|面《つら》を見せるな。直視に|耐《た》えるように|爆破《ばくは》し整形しろ」
「てめえこそ存在が道徳的に|無駄《むだ》だ。世界のために急いで故郷、学名あの世へ里帰れ」
俺は思い出した文句を足しておく。
「ギギナ、お前が通路に集めているごみ屑の、箪笥や棚や椅子を捨てろ。もしくは中に何か詰めろ。邪魔で仕方がない」
怪訝そうな顔をしてギギナが言った。
「|馬鹿《ばか》な、中に|一杯《いっぱい》詰めたら、箪笥や棚自体の優美さや機能美が|損《そこ》なわれるではないか」
馬鹿の美的感覚はよくわからん
俺達の朝は|大抵《たいてい》こんなものだ。
再び一階の応接室に戻り、俺は机を挟んだ向かい合わせの革椅子に、ギギナはお気に入りの木製の椅子に座る。
|手摺《てすり》や背もたれに装飾が入った優雅な椅子なのだが、ヒルルカとか名前まで付けてやがるのは少女|趣味《しゅみ》を|超《こ》えて、もはや異常者臭い。
俺は週末の定例経営会議の経費計算を始める。
「ロルカ屋の|親爺《おやじ》から|月賦《げっぷ》に五万、十一万五千、十五万イェンと|遠慮《えんりょ》ねえな、あとツザン|診療所《しんりょうじょ》から|請求書《せいきゅうしょ》八十五万って、あの|外道《げどう》女医、|治療費《ちりょうひ》に利子つけるとは|鬼《おに》か? というか全部燃えて消えろ」
「貴様自身が燃えて消えた方が早いな」
ギギナ発言は無視。請求書を数えながら、俺の一番燃えてほしい馬鹿に|尋《たず》ねる。
「それで、先月から|溜《た》まっていた巨人や人狼や竜|討伐《とうばつ》の|一斉《いっせい》|支払《しはら》いで、役所はいくら振り込んできた?」
ギギナは|流麗《りゅうれい》かつ典雅な動作で、|懐《ふところ》から銀行の|振込《ふりこ》み|控《ひか》えの|紙片《しへん》を引き|抜《ぬ》き俺に示す。
七度その紙片の上の数字を読み返して、俺は軽く心停止しそうになった。
椅子の上で屠竜刀を|磨《みが》きだすギギナを前に、俺はあまりの|理不尽《りふじん》さに|叫《さけ》んでいた。
「巨人や人狼はまだしも、竜を二頭、しかも一頭は準|長命竜《アルター》を|滅《ほろ》ぼしたのにこのふざけた金額は何だ?
使用武器・咒式費等の必要経費や、咒式研究費を除けば、子供の|小遣《こづか》いしか残らないじゃないか!」
ギギナは|黙々《もくもく》と刀身を磨きつづける。
「これだったら|近隣《きんりん》の村に討伐費を無理やり請求し、|咒式《じゅしき》|研究《けんきゅう》|機関《きかん》に竜の|死骸《しがい》を|献体《けんたい》として|売却《ばいきゃく》した方が四割はマシだ!」
|絶叫《ぜっきょう》しつつ、俺は脳内の想像のサザーランを|八《や》つ|裂《ざ》きにし、|粉微塵《こなみじん》に刻んで捨てた。
「竜一頭で|蔵《くら》が|建《た》つ」と昔話に言われるとおり、かつて竜の骨は|咒式《じゅしき》|反応《はんのう》|素材《そざい》、脳や心臓の|結晶体《けっしょうたい》は|法珠《ほうじゅ》素材として、|代替品《だいたいひん》ができた現在でも美術や希少品として、|闇《やみ》で|蒐集家《しゅうしゅうか》に高値に売買されているのだ。
俺のもっともな意見に、ギギナが視線を合わせずに言葉を投げる。
「かといって民間|企業《きぎょう》と契約すれば、役所の|委託《いたく》|契約《けいやく》|咒式使《じゅしきつか》いとしての仕事は|途絶《とぜつ》する。特に私たちを|嫌《きら》っているあのサザーランは喜んで契約を切る。とは言っても、典型的なエリダナ手法で|次第《しだい》に|疎遠《そえん》にしてうやむやにするのだろうが、とにかく安定した収入源が一つ減り、各種咒式法違反も見て見ぬふりはしなくなる」
俺はその正しさに反論を失ってしまう。
眼前でギギナが磨いている屠竜刀ネレトーも、俺の断罪者ヨルガも、実は咒式法違反だ。法令で|魔杖剣《まじょうけん》の刀身は八〇〇ミリメルトル以下、|柄《つか》をあわせた全長も一二〇〇ミリメルトル以下と決められているが、俺のヨルガの刀身全長八〇二ミリは|誤魔化《ごまか》せても、刀身全長九三五ミリ、全長を|含《ふく》めると一八五〇ミリもあるネレトーはまったく言い訳が|利《き》かない。
軍用重|魔杖《まじょう》|長槍《ちょうそう》も真っ青な巨大さの、そんな|怪物《かいぶつ》じみた魔杖剣を背負って歩けば、街角ごとに警察に尋問される。
ギギナに街角ごとの殺人をさせないために、|嫌《いや》がるドラッケン族を俺が必死に説き|伏《ふ》せ、|刃《は》と|柄《え》を|分離《ぶんり》させる改造を|施《ほどこ》し、「これは奇妙に|鋭《するど》い金属板です。ほら柄がついてないでしょ?」と、何とか|誤魔化《ごまか》しているのだが、厳密に魔杖剣として、咒式法院に査察に入られると法に問われる。
禁止されている破壊咒式の日常的使用も合わせると、俺達が役所と仲良くするのに越したことはない。
もっとも、向こうもエリダナ流にそれを見越して、俺たちを安価に酷使しているのだろうが。
「我がドラッケン族の|諺《ことわざ》に「眼前の|竜《りゅう》を|放《ほお》っておいて、他の竜を探してはならない」とある。いわく至言だろう?」
真当|至極《しごく》、正しい|指摘《してき》でございます。しかし、役所に頭を下げるしかない理由の|元凶《げんきょう》たるギギナに言われると、数学的に正確に二乗倍に腹が立つ。
そして、ある事実に気づいた俺の顔から血液が急速下降していく。
「おいギギナ|君《くん》、おまえ|君《くん》がさっきから|糞《くそ》|磨《みが》いている|剣《けん》に付いている、|糞《くそ》見慣れない|糞《くそ》|咒式具《じゅしきぐ》は一体何でござりましょうや?」
|恐怖《きょうふ》に俺の言語機能を司る脳内の|前言語野《ブローカ》と|後言語野《ヴェルニック》が|溶解《ようかい》していく。
そんな俺の内心に反比例して、ギギナの顔が|自慢気《じまんげ》にほころぶ。
「ああ、ツァマト社の|攻性《こうせい》|咒式用《じゅしきよう》|法珠《ほうじゅ》ZAM−四九六年式IV型だ。以前の形式の|奴《やつ》と|比較《ひかく》して刃の|摩擦《まさつ》係数が八・二%、|咒式《じゅしき》|割《わ》り込み率で九・五%も向上している|優《すぐ》れ|物《もの》だ。
ロルカ屋で中古が出ており、七|掛《が》けで安価なため|購入《こうにゅう》した。領収書はそこだ」
その金額を聞いて俺は失神、失禁、|脱糞《だっぷん》、|昇天《しょうてん》、転生しそうになった。出来ることなら|無惨《むざん》な現実に|帰還《きかん》したくなかった。
それは新車が丸々二台買える値段である。|椅子《いす》とともに後方へと|倒《たお》れつつ、|薄《うす》れゆく意識の中で俺は組成式を|紡《つむ》ぎ、背筋の力で元に戻りつつ咒式を放つ。
「返してこいっ! 光速でっ!」
俺の|化学《かがく》|練成系《れんせいけい》|咒式《じゅしき》第一階位〈|燐舞《ウコバ》〉が、ギギナの周囲でマグネシウムと|燐《りん》等の酸化反応の火花を散らす、はずだったが空中で|綺麗《きれい》に消失した。
「おお、見たかガユス。|低位《ていい》|咒式《じゅしき》に割り込んで、ほぼ完全に無効化してるぞ」
ギギナの反省成分|無添加《むてんか》の声と表情に、俺の気力はこの世から|逝去《せいきょ》|昇天《しょうてん》しつつあった。
脱力して、古びた応接椅子に腰から下が|崩落《ほうらく》するように座り込む。
おそらくギギナは、この咒式強化具を返品させられるくらいなら、俺の細い首を|刎《は》ねちゃってもいい、とさえ考えはじめているだろう。
「ではこうしよう。貴様の魔杖剣、断罪者ヨルガと|贖罪者《しょくざいしゃ》マグナスを売却しよう。あれは両方とも最大業物級だからいい値段で売れるだろう」
さも|素晴《すば》らしい考えを思いついたように、ギギナがほざいた。
「この魔杖剣には、ある夏の日の切ない|恋《こい》の思い出があるんだ、絶対売らん!」
「|賭博《とばく》で不正をし、|誰《だれ》かから無理やり取り上げたと聞いたが?」
俺の都合の悪いことだけ|抜群《ばつぐん》に|記憶《きおく》|明瞭《めいりょう》なギギナを、俺は論理的に|諭《さと》してやる。
「なあギギナ、魔杖剣を売った後に、俺はどうやって咒式を展開させるというのだ? |御伽話《おとぎばなし》の魔法使いみたく、木の|杖《つえ》振って|間抜《まぬ》けな|呪文《じゅもん》でも唱えてろというのか?」
ドラッケンの|剣舞士《けんまいし》は、|神託《しんたく》を告げる神官のごとく重々しく|頷《うなず》いた。本気だこの天然記念物|馬鹿《ばか》は。
言うまでもなく、俺たちのような近代以降の各種咒式使いにとって、|咒式《じゅしき》の展開を補助・|支援《しえん》する魔杖剣は必要不可欠である。
魔杖剣に装着された〈|法珠《ほうじゅ》〉と|俗称《ぞくしょう》される事象|誘導《ゆうどう》演算機関は、人間の意識と|咒力《じゅりょく》を仮想力場へ誘導して位相変異現象を|励起《れいき》し、|更《さら》に咒式発動を正確に|制御《せいぎょ》する|莫大《ばくだい》な演算機能を持っている。
その先の剣の刀身に使われる各種反応金属は、|咒印《じゅいん》と組成式を|描《えが》き、咒式を|増幅《ぞうふく》する。
そして|鍔《つば》と柄に内蔵された|咒弾倉《じゅだんそう》は発動時に回転し咒式を|選択《せんたく》、|装填《そうてん》された各種咒式用弾頭が、それぞれの咒式の|基《もと》となる咒式置換物質を開放するようになっている。
俺の魔杖剣〈断罪者ヨルガ〉は、|装填《そうてん》数も多く弾倉|入替《いれか》えも簡便な、自動弾倉式の魔杖剣だが、この形式は|極《ごく》|稀《まれ》にではあるが|弾《たま》|詰《づ》まりが起こることもある。
一方、回転弾倉式は全弾発射後、いちいち咒弾を装填しなくてはならないが、破壊力のある大口径咒弾の|負荷《ふか》にも|耐《た》え、弾詰まりもまったく存在しない。
ギギナが使っている〈|屠竜刀《とりゅうとう》ネレトー〉がこの形式であり、俺が補助魔杖剣として腰に差している魔杖短剣〈贖罪者マグナス〉も同様の形式だ。
制圧力に優れた自動式と、破壊力に|秀《ひい》でた回転式を|併用《へいよう》するのが現代の攻性咒式士の常識で、俺もそれに|倣《なら》っている。
原理不明な昔話の魔法は問題外としても、現代の複雑高度に発展した咒式を、|近距離《きんきょり》|戦闘《せんとう》でも使用できるくらいに高速かつ正確・精密に展開するには、どうしても魔杖剣の補助が不可欠であるのだ。
ギギナ自身も|生体《せいたい》|強化系《きょうかけい》|咒式《じゅしき》を使う|剛剣士《ごうけんし》の上級職たる剣舞士で、屠竜刀ネレトーを魔杖刀としており、その重要さを理解しきっているはずだ。
しかし、それを売れとは、何ともオモイヤリン(俺が考えた思いやりの分子成分、特許不出願中)が不足しまくってる奴である。
精神に深みのない、馬鹿の大陸記録を|狙《ねら》える|逸材《いつざい》ゆえに、その意見を変えさせるのは難しい。
仕方なく俺は泣き落としに入る。
「俺の苦労を分かっているのか? 見ろこの請求書の山脈と大河を。どうやって月末を生きるかすら、ちょっと量子的不確定なんだぞ?」
その機能で一計算しながら|知覚眼鏡《クルークブリレ》を鼻から落ちる寸前で止め、|憂《うれ》いを帯びて|濡《ぬ》れた|瞳《ひとみ》を下方へ落とす。
|完璧《かんぺき》だ。
小さい時からこの|技《わざ》で人情を篭絡し、女に衣服を自ら|脱《ぬ》がせ、|八百屋《やおや》に割引させ、|幾多《いくた》の危機を|回避《かいひ》してきたのだ。
「無視しろ。次の仕事を|即時《そくじ》入れればいいだけだ。我がドラッケン族の|諺《ことわざ》にはこうある。「勤勉な貧民はいない」とな。
というわけで、笑いすぎて腹筋が痛くなるほど大金の入る仕事。もしくは|道端《みちばた》に放置|遊戯《プレイ》中の金を捜索してこい」
俺の知覚眼鏡が|曇《くも》るのが分かった。
胸のどこかが急速|沸騰《ふっとう》し、また|凍《こご》えたのが感じられた。
「俺の将来の目標が決まった。ドラッケンの里へ行ってクソお子様たちに算数と経済を泣くまで、いや泣いても教えまくってやる。そうすれば俺のように|虐《しいた》げられる|被害者《ひがいしゃ》が一人でも減るだろうよっ!」
俺は半ば以上|自棄《やけ》ぎみに言い放ち、|長外套《コート》を引っ|掴《つか》み外へと出て行く。
これではまるで安い演歌の歌詞にある、|金《かね》|遣《づか》いの|荒《あら》い夫に泣かされ耐える妻である。
俺がなぜこいつと組んでいるのか、理由が自分の心理層のどこにも|発掘《はっくつ》できない。
その俺の背中へギギナの声が|刺《さ》さる。
「算数はともかく、近代経済学の父と呼ばれるゲイブルは、ドラッケン族の出身だが?
外に出るついでに、ロルカ屋で注文していた咒式弾を受け取っておけ、|支払《しはら》いはいつもの共同名義でな」
俺が|滂沱《ぼうだ》と|涙《なみだ》を流すのを誰が攻められただろう? それは多分、|汚《けが》れのない涙だった。
「|皇暦《こうれき》二二三年。|神楽《かぐら》暦では一七八八年の夏の盛りの七月十二日。
ウコウト大陸|東湾部《とうわんぶ》、後アブソリエル公国国立シベリウス大学院、エルキゼク・ギナーブ共同事象物理学研究実験室。
その日、エルキゼク・イプ・ナガラン事象界面物理学教授とギナーブ・ロル・ヘルマン予測物理学教授の二十四年に|及《およ》ぶ共同研究の、七十八回目の大型咒式起動実験が開始されようとしていた。
その実験に至る百年以上も前にウコウト大陸科学界のバレディンガル学派により、宇宙の空間|全《すべ》てを|埋《う》めつくしており、その状態の方が|熱量《エネルギー》的に低く安定し、物質の質量を|司《つかさど》る、質量一千億から数千億電子ボルトルという質量|粒子《りゅうし》が予測、そして観測された。
人類は、世界を構成する電磁力、重力、大きい力、小さい力の四つに分かれる前の、一つの〈力〉を、|朧《おぼろ》げながらも理解しはじめようとしていた。
バレディンガル学派の後を|継《つ》いだイプラッと研究室は、領し世界の基本単位であり、六・六二六〇七五五四〇に一〇の負の三四乗(J・S)と定義されていた、その|作用量子《プランク》定数hを操作し、局所的に変異させることが可能なら、h=Δ・Δtにより、|熱量《エネルギー》の不確定性は時間の不確定性に反比例するという理論を考案した。
その理論から中間子の|熱量《エネルギー》が陽子や中性子より大きくなる原理と同様に、存在する時間が短いなら熱量の不確定性、つまり物質の大きさは増大するという原理が導き出されたのだ。
エルキゼクとギナーブの両教授は、その先人たちの理論と実験を|踏《ふ》まえ、ついにその作用量子定数と波動関数に|干渉《かんしょう》する仮想力場を発見。
それを利用し、人間の意識と物理干渉|励起《れいき》をつなげる研究実験が重ねられた。
そしてついにその日、最終実験は開始された。
両教授の作成した、学院実験室を|天井《てんじょう》まで|席巻《せっけん》する|巨大《きょだい》な|咒印《じゅいん》|組成式《そせいしき》と、作用|陣《じん》と咒式増幅事象誘導演算装置と仮想力場への干渉が始まる。
そして同日午後九時三十八分三十五秒。
ついに、その実験|玄室《げんしつ》内部において、咒式という力場指示式により、熱量保存則を破って|虚空《こくう》状態から物質が出現、水素原子と炭素原子が組み合わされた六角|環《かん》が合成されるのが|確認《かくにん》されたのだ。
これにより、古来より|魔法《まほう》|使《つか》いと呼ばれる|胡散《うさん》|臭《くさ》い者たちの大部分の|欺瞞《ぎまん》を|暴《あば》き、|一《ひと》|握《にぎ》りの本物の|超《ちょう》物理現象の実在と、〈竜〉や〈|異貌《いぼう》のものども〉に|対抗《たいこう》する個人能力の拡大方法が存在することが証明されたのだ。
エルキゼク・ギナーブ実験、正式|名称《めいしょう》「限定系における、状態力方向の物理神経の観測指示作用による線形分解と作用量子定数変化、及び位相変異における強制作用力試験」は、現在でいう|化学《かがく》|咒式《じゅしき》の|基礎《きそ》の基礎でしかなかったが、それ以後、魔法という超常現象は、咒式という単なる科学技術体系の延長の一つとして理解され、そして|恐《おそ》るべき急速度で発展していくことになる。
それは人間自身が物質を生み、力を|振《ふ》るう、咒式の時代の|到来《とうらい》であった。
物理干渉能力という|特殊《とくしゅ》|極《きわ》まる才能を持たない人々にも、訓練と学習、機械の補助によって超物理現象の発動が可能になったのだ。
そこから発展した|化学《かがく》|咒式《じゅしき》、|生体《せいたい》|咒式《じゅしき》、|重力《じゅうりょく》|咒式《じゅしき》、|電磁《でんじ》|咒式《じゅしき》、|数法《すうほう》|咒式《じゅしき》、そして|汎用《はんよう》|咒式《じゅしき》を|超《こ》える|超《ちょう》|定理《ていり》|咒式《じゅしき》すら開発され、六つの大体系に分けられ発展したそれは、巨大な|翼《つばさ》となって、まさに世界と人々の生活と、心と|魂《たましい》までをも|覆《おお》いつくしてしまった。
それは自然の|摂理《せつり》を|征服《せいふく》し、〈竜〉や〈異貌のものども〉に対抗し|駆逐《くちく》していった|偉大《いだい》な|叡智《えいち》の力だった。その|咒式《じゅしき》により、技術、資源、環境、政治、思想、教育、|医療《いりょう》、流通、|娯楽《ごらく》、通信、そしてその他|諸々《もろもろ》の問題が改善され解決され、世界の有り様は大きく変貌していった。
咒式の発展による|膨大《ぼうだい》な利便とそれに|付随《ふずい》する問題を、始祖たる咒式博士は予想しており、このような警告を発している。
咒式の発展と同様に、それを|扱《あつか》う人類の意識も発展しなければ、今までは火薬遊びで済んだことが、いつか一つの国家ごとの消失になることを、決して、決して忘れないでほしい――ギナーブ・ルフ・ヘルマン予測物理学博士・咒式|叙勲《じょくん》|伯爵《はくしゃく》、皇暦二三一年、同氏論文ギナーブ宣言とその付加逆性予想、序文より」
咒式学参考書の|閑話《かんわ》|休題《きゅうだい》的な|穴《あな》|埋《う》め文をそこまで読んで、俺の思考は反発を覚える。
咒式を|無邪気《むじゃき》に|肯定《こうてい》し賛美しながら、自己批判しているフリも忘れない優等生的な低能文だ。
俺に言わせるまでもなく、もう一人の功労者のエルキゼク・ルフ・ナガラン事象界面物理学博士・|咒式《じゅしき》|叙勲《じょくん》|伯爵《はくしゃく》の有名な談話を、|恐《おそ》らくは|恣意《しい》|的《てき》に|黙殺《もくさつ》している。
それは確かこんな|要旨《ようし》だ。
「われわれはこの|咒式《じゅしき》というものの根源原理を、実は何一つとして分かっていない。咒式はあまりにも異質すぎる。産みの親たる私の理解すらまったく|拒絶《きょぜつ》する化け物だ」と。
同博士は咒式発見の翌年に|謎《なぞ》の|失踪《しっそう》を|遂《と》げ、現在に至るまで消息不明であるという事実も教えないなら、誠実さにおいて片手落ちであろう。
一方のギナーブ博士の方も、後年に咒式は神の力であると主張するギナーブ|真《しん》|咒式《じゅしき》|教《きょう》という、咒式至上主義の|奇怪《きかい》な宗教の開祖になった事実を記さないのも恣意的だろう。
生徒たちが俺が白板に板書した咒式を写すのを待つ時間つぶしをしていたのだが、いい加減|飽《あ》きてきて参考書から視線を上げる。
そして、二十三人の生徒がその机と|椅子《いす》に座ると|一杯《いっぱい》になる教室内の、その前方で教師の|真似事《まねごと》をしている俺、という現実を確かめることになる。
咒式大学院の入学試験を受ける高等学校の生徒たちに、|化学系《かがくけい》|咒式《じゅしき》を教える予備校講師をしているのだが、当然ながらあまり本意ではない。
|誰《だれ》の|所為《せい》とは言わないが、ギギナの|所為《せい》で少しというか大分生活が苦しいので、知り合いに|頼《たの》み込んで、時間のある時は|塾《じゅく》講師をさせてもらって家計の足しにしているのだ。
|荒事《あらごと》専門の|攻性《こうせい》|咒式士《じゅしきし》仲間には「|軟弱《なんじゃく》な咒式師の真似までしての内助の功」と笑われる姿だが、生きるためには仕方ない。
生徒たちの|頃合《ころあ》いを見て、|欠伸《あくび》を|噛《か》み殺しながら、俺は|咒式《じゅしき》|講義《こうぎ》を再開する。
「さて、板書した理論による|化学《かがく》|咒式《じゅしき》第一階位〈|蒼酸《アリキノ》〉で合成されたのはシアン化水素、よく言う塩酸で、化学式ではHCNだ。
その水素基とシアン基の内シアン基が、体内で酸素を取り込む|酵素《こうそ》であるチトクロムオキシターゼの中の鉄分と結合して、生体組織が酸欠状態になるわけだ。
対策は|嘔吐《おうと》・|洗浄《せんじょう》|後《ご》、〈|抗蒼酸《アテイン》〉の咒式合成による|亜硝酸《あしょうさん》と一〇〇%酸素で呼吸補助。同じ咒式に|含《ふく》まれる亜硝酸ナトリウムによる、メトヘモグロビンとの結合でシアンメトヘモグロビンとなり無毒化。
|硫酸《りゅうさん》ナトリウムからの直接吸収で|乖離《かいり》したシアニドを反応させ、毒性が弱く|尿中《にょうちゅう》に|排泄《はいせつ》しやすいチオシアン酸塩に変えるのが|一般的《いっぱんてき》な|咒式《じゅしき》|治療《ちりょう》で、咒式医学部試験でなくても|比較的《ひかくてき》出やすい基礎問題だな」
|壁《かべ》の白板に、簡単な咒式反応式をさらに書き足しながら生徒に説明する。
指先に立体化学構造式を展開した所で、授業の|終了《しゅうりょう》を告げる|眠《ねむ》たげな|鐘《かね》の電子合成音が鳴る。
「質問したい|奴《やつ》は五分だけ受けつける」と、俺が言うのを聞いているのかいないのか、生徒たちはそれぞれの速度で教室を出ていく。何人かが|迅速《じんそく》に最短|距離《きょり》で|教卓《きょうたく》に集まり、俺に話しかけてくる。
「ガユス先生、さっきの咒式やって見せて」
「|魔杖剣《まじょうけん》ヨルガとマグナス|触《さわ》らせて」
「本業は|攻性《こうせい》|咒式士《じゅしきし》だって本当?」
「そういやこの前、センセが街で|凄《すご》い美人と並んで歩いてたの見たよ」
「センセはエリダナ祭りはどうするの?」
「攻性咒式士って|儲《もう》かるの?」
「|嘘《うそ》、あれは男だよ。|肩幅《かたはば》あって背がガユっちより大分高かったもの」
年頃の少年少女は|恒常《こうじょう》|騒音《そうおん》発生装置だ。放置しておけばいつまででも話は続くだろう。
「というか、授業について質問しろ」
俺はもう立ち去ることにした、が、気になる言葉は不思議と耳が|選択《せんたく》する。
「ねえ、|皆《みな》知ってる? 市内で最近起こってる例の事件の犯人のこと」
女子生徒のセイリーンがわざとらしく皆が気になるように言った。|眼鏡《めがね》が似合っていない丸顔のフルフラムが聞き返す。
「もしかしてあれ?」
「そう、市内で咒式士が連続で殺されている事件の|噂《うわさ》よ。
深夜、咒式士が仕事帰りに歩いていて、ふと気配に気づいて|振《ふ》り返ると、黒い服のそいつが立っている。|漆黒《しっこく》よりも無明よりも|昏《くら》い服に、緑に光る目の|人影《ひとかげ》がね。そして「お前が我が|愛《いと》しの人を殺したのか?」というのよ。
何のことだ、|違《ちが》うと言っても、そいつは咒式で咒式使いを殺して、その首を|刎《は》ねてしまうの。それが三件も起こっているから、郡警察は増員して必死で|捜査《そうさ》してるらしいわ」
完全に怪談調の|喋《しゃべ》りである。少年少女たちにとっては、世界も殺人も|冗句《ジョーク》にしかならないのだろう。
それらは確かによく似たようなものだが。そして再びお喋りの|喧騒《けんそう》が増す。
「その話はおかしいだろ、|目撃《もくげき》した奴は|全《すべ》て死んでるのに、どうしてそいつが黒い服で緑に光る目をしてると分かるんだよ。郡警察ですら目撃者探しをしてるのに?」
「いったい、犯人はどんなヤツだろ?」
「警備会社の|攻性《こうせい》|咒式士《じゅしきし》も殺されているんだよ、かなりの攻性咒式の使い手だよ」
「じゃ、センセは危ないわね。弱いからすーぐ殺されるわ」
俺は会話を打ち切るべく言葉を投げる。
「かもな、じゃ今日は閉店。お前らもとっとと帰れ。そして俺の実績のために勉強して成績を上げろ。賞品は俺の|笑顔《えがお》だ」
「うわ、やる気出ない」「適当すぎ」と言いながらも、再び殺人話について盛り上がっている生徒たちを残し|廊下《ろうか》へ出る。
帰宅する生徒たちの|挨拶《あいさつ》の|度《たび》に自動的に返事しながら、今時珍しい|剥《は》げかけのリノリウム|張《ば》りの|床《ゆか》を歩き、俺は思考していた。
|先程《さきほど》の話の咒式士連続殺人事件がこのまま続発すれば、市と郡の自治統治機関が郡警に事件の早期解決への圧力をかけるだろう。
もちろん、郡の|咒式《じゅしき》士協会も|怯《おび》えた咒式師たちの声に押され、そろそろ犯人に賞金を|懸《か》け、専門の|猟人《かりうど》や|探偵士《たんていし》を派遣するだろう。それに|釣《つ》られて街の|攻性《こうせい》|咒式《じゅしき》|使《つか》いたちも動きだす。
言うまでもなく、俺もその|卑《いや》しい|猟犬《りょうけん》の一|匹《ぴき》だ。金になるならやるしかないのだ。
だが、それ以上に俺が|懸念《けねん》しているのが、これが大昔みたいな咒式士への|偏見《へんけん》を助長するようにならなければいいが、ということだ。
大昔、暗黒時代には十時教会の一派たるイージェス教派が先導し、ありもしない|魔法《まほう》を|邪悪《じゃあく》な悪魔の技として大陸中で魔法使い|狩《が》りを行い、魔法使いと見なされた数万人の|無辜《むこ》の人々が|残虐《ざんぎゃく》な|拷問《ごうもん》の末、|死刑《しけい》にされた。
それは実に|神楽暦《かぐられき》一七八五年、西イージェスのズームフ教会領で、魔法使いとみなされた一〇八人の|絞首刑《こうしゅけい》が行われ、魔法使いなどという|超常《ちょうじょう》能力者などは存在しない、と|遅《おそ》すぎる結論が出るまで連綿と続いてきたのだ。
それは|近代《きんだい》|咒式学《じゅしきがく》の夜明けたる、あのエルキゼク・ギナーブ実験のわずか3年前のことである。
|巨大《きょだい》な|咒式《じゅしき》という力は、現在、魔法時代に比較して、別次元なほどに理論化され使いやすくなり、各種学院や資格専門学校でも習得できるが、人類諸族の半数にはやはり届かない力である。
|誰《だれ》でも|普遍的《ふへんてき》に利用できる科学とは違い、|咒式《じゅしき》は才能という個人的要素が強いため、自分たちを|普通《ふつう》の人間より|優《すぐ》れた存在だと思う|傲慢《ごうまん》な咒式士や、|咒式《じゅしき》|使《つか》いの犯罪が起こる度に「やはり|奴《やつ》らは|龍《りゅう》の|理《ことわり》を使う邪悪な魔法使い、|龍理《ろんり》使いなんだ」という|妬《ねた》み混じりの偏見を持ち出してくる|時代遅《じだいおく》れな人々も、|雑踏《ざっとう》に石を二つ投げれば、必ずどちらかには当たるくらいはいるのだ。
大半の大学院での咒式歴史学や|倫理《りんり》法学講座では、この意識の断絶を一応だが伝えており、咒式の使い手としての基本的な心構えを教えるのだが、|一般《いっぱん》の高等学校や予備校では、入試や資格試験にまったく不要なので、わざわざ教えるところは少ない、というか存在しない。
それゆえ先程のような、生徒たちの興味本位で無責任な発言となるのだろう。
ここの|塾長《じゅくちょう》にでも言って、咒式科学倫理の時間を数分だけでも取ろうかと思う。
講師|控室《ひかえしつ》で、俺を予備校に|迎《むか》えてくれた知人のレシドにそう言ってみた。すると奴はしみじみと|頷《うなず》いて言いやがった。
「ガユス、おまえ絶対講師の方が適職だよ」
俺は|壮絶《そうぜつ》に|厭《いや》な顔をしただろう。だが、レシドは指を回して続ける。
「絶対そうだって。|途中《とちゅう》退学とはいえ皇立中央咒式学院生だったし、教え方も|上手《うま》い。生徒にも人気があるし、試験対策も強い。何より|真剣《しんけん》に生徒のことを考えている。おまえにやる気があるのなら、臨時ではなく正式に講師としてやっていかないか?
いや、塾長には私やアルノルン先生の方から|推薦《すいせん》するから安心しろって」
レシドは|全《すべ》て任せとけという感じで俺の背を|叩《たた》く。
何を安心するのか分からないが、俺はとりあえず笑っておいた。
それが大人の処世術らしい。
まあいい。今夜は久しぶりにジヴに会うので、|大抵《たいてい》のことはどうでもいい|浮《う》かれた気分になるのを、誰も責められまい。
夜。|繁華街《はんかがい》の声が遠く聞こえるビルの谷底の路地を、|工業《こうぎょう》|化学《かがく》|咒式《じゅしき》|技術師《ぎじゅつし》のエメットはほろ|酔《よ》い気分で歩いていた。
オルドレイク技術連合社系列のペンウィッチ咒式社で、工場の咒式化学合成主任を務めている彼は、普段は厳格な技術主任として部下を|叱咤《しった》し指導する立場であるが、今夜ばかりは酒を|呑《の》んで浮かれずにはおれなかった。
なんといっても今朝発表の辞令でエメットは、来週からペンウィッチ本社に研修に行くことになったのだ。
本社研修と言えば出世路線の本道。ゆくゆくは咒式技術部研究員、あるいは支社咒式技術長などという|昇進《しょうしん》もあるのだ。
|上機嫌《じょうきげん》|極《きわ》まる彼だが、|同僚《どうりょう》と居酒屋や|酒楼《しゅろう》を|梯子《はしご》しすぎてついには仲間とはぐれ、見慣れない路地に入ってしまったのに気づいた。
どうやら同僚や部下は心から自分の昇進を祝ってくれたわけでもないらしい。
普段は|垣根《かきね》なく仲良くやっているつもりでも、|咒式師《じゅしきし》と通常人ではやはり出来る仕事が歴然と|違《ちが》い、どこかで一線を引いてしまうものがあるのだな、とエメットの酔った|脳髄《のうずい》は|寂《さび》しく|悟《さと》った。
そう言えば|咒式師《じゅしきし》ではない彼の妻とは、やはり価値観のすれ違いが多かった。
普段なら、自分の仕事や|咒式《じゅしき》に無知な妻の方が悪いと思う所だが、アルコールが彼の前頭葉を|痺《しび》れさせ、|素直《すなお》にこれからは妻を大事にしようと思わせた。
エメットがその三十六年間と二ヶ月の人生の中で一番|優《やさ》しくなれた時、ふと、エメットは自分の目線を|塞《ふさ》ぐ|影《かげ》を目に止めた。
アルコール|酩酊《めいてい》のために|遅滞《ちたい》した動きで視線を上げると、そこには|漆黒《しっこく》の|深淵《しんえん》を切り取ったような|衣装《いしょう》をまといし闇があった。
人影は女の姿をしているが、はっきりそうとは言えない何かがあった。
「なんらぁ」と|麻痺《まひ》ぎみの舌と声帯で声を上げた時、エメットはそいつの眼球が|奇妙《きみょう》なのに気づいた。
|瞳孔《どうこう》が|猫《ねこ》のように細く、まるで|燐光《りんこう》を放っているような|緑瞳《りょくとう》をしていたのだ。そしてそいつが、内臓のごとき|真紅《しんく》の|口唇《こうしん》を開いた。
「|汝《なんじ》が我が|愛《いと》しの背の君を|弑《ころ》したのかえ?」
まるで幼児と老人が同時に|喋《しゃべ》っているような奇妙な|響《ひび》きの声だった。
エメットの酔いが急速に|醒《さ》めていった。
彼は自分が、街で|噂《うわさ》の連続咒式士殺人者と相対していることにようやく気づいたのだ。
エメットは、|携帯《けいたい》していた工業用|魔杖叉《まじょうさ》の|弾倉《だんそう》を必死に回転させ、|攻撃《こうげき》に使えそうな工業用|咒式《じゅしき》|炸薬《さくやく》を|慌《あわ》てて展開、生み出された|紅蓮《ぐれん》で女を包んだ。
だが、夜闇を照らす|炸裂音《さくれつおん》と火花と|白煙《はくえん》とを切り|裂《さ》き、その闇のような人影の|振《ふ》るった|掌《てのひら》から放たれた不可視の何かが、彼の顔の上半分の地と脳と骨を|吹《ふ》き飛ばしていった。
白い歯が並ぶ|下顎《かがく》だけの頭部となったエメットの|身体《からだ》は、思考の主体をなくしたためか、弱い慣性に従いゆっくりと後方に|倒《たお》れ、冷たいアスファルト上に、湯気を立てる血液や|脳漿《のうしょう》の残りをブチ|撒《ま》けた。
その顔の断面から、心臓の|動悸《どうき》に合わせて規則的に動脈血が噴き出し、|死骸《しがい》の|痙攣《けいれん》は、やがて自らの血液の海の中で停止した。
自らが起こした|凄惨《せいさん》|酸鼻《さんび》なその光景を見下ろし、影よりも絶望よりも|昏《くら》い影が|呟《つぶや》く。
「あな|哀《かな》しや、|何故《なにゆえ》か我れを害しようとしたが、こやつは|仇《かたき》ではないやうだ」
その声には本当の|悲哀《ひあい》が|籠《こ》もっていたが、表情には何も|含有《がんゆう》されていなかった。
まるで、顔面の表情筋の基本的な動かし方を知らないように。
そして、もしこの光景を見ている者がいたらその異常な現象に気づいただろう。
大地に|染《し》みのように広がるその影が、人影とは不似合いなほどに長大なことに。
月は|下弦《かげん》に向かい|痩《や》せていく。
3 枢機卿長《すうきけいちょう》の祝祭
最初はいつも小さい
だがその内、|這《は》い這いを覚え
|掴《つか》まり立ちを覚え
歩き出すものだ
悪徳も|狂気《きょうき》も|誤謬《ごびゅう》も例外なく
そう、善に属するもの以外は必ずに
ジグムンド・ヴァーレンハイト著「|形骸化《けいがいか》論考」|皇暦《こうれき》四八三年
「|龍皇国《りゅうおうこく》とラペトデス七都市同盟との、聖地アルソーク分割を|巡《めぐ》る東方|紛争《ふんそう》は混迷を極め、一触即発状態となり、対話での解決はおぼつかず武力を|以《もっ》てしても正義を通さざるをえない、という軍部のグズレグ統合|幕僚《ばくりょう》|参謀《さんぼう》本部次官の談話でした。
なお、教会|強硬派《きょうこうは》オルケンティウス長老は聖地|奪回《だっかい》に対し、皇国軍の正式投入を強く|訴《うった》える声明を発表するとのことです。
続いて続報です。昨日の朝、市内ハムラン地区で発見された変死体は、会社員エメット・ブルクム氏三十六歳と|確認《かくにん》されました。
郡警察では一連の|咒式士《じゅしきし》|連続《れんぞく》|殺人《さつじん》の四人目の|犠牲者《ぎせいしゃ》と断定して|捜査《そうさ》を続行し、市民からの目撃情報を|募集《ぼしゅう》しています。
ラペトデス七都市同盟と|龍族《りゅうぞく》|賢龍派《ヴァイゼン》とのティエンルン条約|批准《ひじゅん》会議は、同国推進派の民進党党首ヤーウェン議員の熱意に反して難航を窮めている模様です。
最後に、今週の|阻電霧《そでんむ》発生予報はエリダナ南部で二五%、北部で三五%……」
俺は受像機の電源を切った。世界はろくでもない事件ばかりで気が|滅入《めい》る。
俺が生まれる前、現在、そして死んだ後もそうなんだろう。
「どうしたのガユス?」」
俺の横で、|敷布《シーツ》の温かい雪原に|寝《ね》そべるジヴーニャが、俺の|碧玉色《へきぎょくいろ》の目を見上げる。
|肩《かた》までの白金の|髪《かみ》、深い|碧《あお》と|翠《みどり》の混じった春の|湖沼《こしょう》の|瞳《ひとみ》。それは北方アルリアン人の血が入った、|柔《やわ》らかな日差しのような|美貌《びぼう》。
俺の心の底の何かを思い出させる顔だったが、それが一体何かを表す言葉が見つからない。
いつものことだ。
「何でもない」
俺は自分に言い聞かせるように、|恋人《こいびと》の月下の雪原のような|裸身《らしん》を引き寄せ、そのまま甘い声を出しあらがうジヴーニャの|焔《ほのお》の色の|唇《くちびる》を|奪《うば》い、言を|封《ふう》じる。
エリウス郡、郡都エリダナ西市街、|翼印《つばさじるし》のツァマト咒式化学社の第二支社ビルとエリダナ|咒式《じゅしき》|医療《いりょう》|研究所《けんきゅうじょ》が目印になる、ネレス通りの高級住宅、十階の一〇一号室。
たまの|休暇《きゅうか》にこの彼女の自宅で会うのが、俺の|唯一《ゆいいつ》の|魂《たましい》の平安である。
金や仕事や相棒の|厄介事《やっかいごと》も、この時だけは|遥《はる》か遠けき|忘却《ぼうきゃく》の|彼方《かなた》だ。
ただ、彼女の薬品会社の仕事も|多忙《たぼう》で、なかなか都合があわず|逢瀬《おうせ》もままならない。ま、そこが熱くなるにはいいのかも知れない。
「ジヴ、いつものお題を出してくれ」
「なあに、またあれを? 仕方ないわね。
んーと、えっ、こんなものを百万イェンで買うの?」
ジヴの問題に俺はしばらく考え、答える。
「九十九万イェン通貨」
俺の返答に「くっだらなーい」と笑うジヴーニャ。それを見ていると俺も自然と笑みが|零《こぼ》れた。
「何よ、やーらしい笑いしちゃって」
俺の視線を、彼女が軽く|咎《とが》める。
そんなつもりは無かったのだが、俺の軽口は、俺の意思とはまったく関係なく作動する自動機械だった。
「いや別に。|昨夜《ゆうべ》の俺の下でジヴの激しさを思い出していたりして。あ、いつもか」
「この|馬鹿《ばか》ガユスっ!」
|枕《まくら》で後頭部を思いっきり|叩《たた》かれた。それが|凶器《きょうき》なら|脳漿《のうしょう》まで飛び出る|打撃《だげき》だった。
「ガユスの方がうるさい時や、私が上の時もあるわ!」
|一拍《いっぱく》|遅《おく》れて、自分の発言に気づいたジヴの|頬《ほお》がみるみる|朱《しゅ》に染まる。
「|貴方《あなた》との会話って、ときどき本当に頭にくるわ」
「ジヴを愛すればこそ、仕方なくなんだ」
「貴方って、|嘘《うそ》まで適当よ!」
彼女は照れやら何やらでむくれて、俺の真反対を向き白の掛布にくるまった。
それが正確に百八十度だと計測してしまった自分に笑えた。そんな俺の|冗句《ジョーク》の感覚は|著《いちじる》しく|間違《まちが》っている。
|愛《いと》しいジヴーニャの、その|裸《はだか》の背中も|愛《いとお》しく思う。
俺は頬を寄せて、白い掛布から半分だけ|視《み》える美しい天使の羽の|跡《あと》、白磁の|肩甲骨《けんこうこつ》に口づけする。
何とか|我慢《がまん》しているようだが、そのアルリアン族との混血を示す、|若干《じゃっかん》|尖《とが》った耳を|齧《かじ》ってやると、彼女は|堪《こら》えきれず|鈴音《すずおと》の笑声を発する。
手を|滑《すべ》り入れ、後ろから豊かな|双《ふた》つの|乳房《ちぶさ》を掴み、そのまま|寝台《しんだい》へと押し|倒《たお》して、俺の方へとジヴの白雪花のような顔を向かせる。
その瞳に、すでに|真剣《しんけん》な|怒《いか》りは宿ってはいなかった。
俺がその|可憐《かれん》な|口唇《こうしん》を|貪《むさぼ》ると、お返しに、彼女が俺の首筋の|頚動脈《けいどうみゃく》をふざけて甘く|噛《か》み、|尋《たず》ね聞いてくる。
「ねえ、明日からのエリダナ祭は|一緒《いっしょ》に行けるんでしょう?」
「ああ、今年は一ヶ月も前から予定を開けているからな。今から楽しみだ」
ジヴの顔が喜びに|燦然《さんぜん》と|輝《かがや》く。
ああ、平和だ。こんな日が続けばいいのになぁと俺は心から、本当に心から願う。
そう思いながら、ジヴの首筋から形の良い胸の|膨《ふく》らみへと唇を|這《は》わせ、その|桃色《ももいろ》の山頂を軽く口に|含《ふく》むと、ジヴが軽く声を上げる。
ジヴが視線を|逸《そ》らすのは、|了承《りょうしょう》の合図。
そのままジヴと愛しあおうとした時、寝台横に置かれた電話機から、|唸《うな》り声のような呼び出し音が鳴る。
無視しようとしたが、|無粋《ぶすい》な音は一向に止まらず集中できない。|嫌《いや》な予感が|溢《あふ》れ零れる。
「もう、どこの馬鹿よっ!」
ジヴーニャが寝台横の受話器を引っ|掴《つか》み、無言が続く。そして急に氷点下の表情になって俺に|手渡《てわた》す。
「どの馬鹿だ?」
「ソレルさんが|御自分《ごじぶん》で確かめたら?」と返される。ジヴが俺を家名で呼ぶ時は本気で|機嫌《きげん》が悪い。取りあえず受話器を耳に当てる。
「|誰《だれ》?」
「貴様こそ誰が馬鹿だと?」
|地獄《じごく》の馬鹿からの声だった。
最近どうも内燃機関の調子の悪いヴァンを道路の|端《はし》に無理やり|駐車《ちゅうしゃ》し、|戦闘靴《せんとうぐつ》に包まれた足裏をアスファルトに下ろすと、エリダナ市役所の|敷地《しきち》前に相棒が|悠然《ゆうぜん》と立っていた。
生ける|彫像《ちょうぞう》たるギギナは、首回りに|羽飾《はねかざ》りが付いた|黒革《くろかわ》の上下を着ており、その|両脇《りょうわき》に寄り|添《そ》うように二人の女が立っていた。
右は|金髪《きんぱつ》|碧眼《へきがん》の知的な感じの美女で、左は短い|黒髪《くろかみ》の|痩《や》せぎみの美少女と、どちらも非常に俺の守備|範囲《はんい》内だった。
そしてその二人ともが、ギギナの美神のような横顔に|魂魄《こんぱく》を|奪《うば》われたかのように|陶然《とうぜん》と|見惚《みと》れ、ギギナの声にいちいち|頷《うなず》いていた。
ギギナの周りに女たちが群れているのはいつものことだ。たぶん磁力が問題だろう。
「仕事だ、貴様らはどこかへ行っていろ」
俺に視線を向けたギギナの言葉に女たちは、見ている方が何か|哀《かな》しくなるほど先を争って、敷地の奥へと走っていった。まるで暴君の忠犬のようだった。
市庁舎入口でギギナを見守る二人の女を横目で見ながら俺は疑問を口にした。
「おまえ、一体何人の女がいるんだ?」
「さあな、女どもが勝手に私に寄ってくるだけで、数えるのは|途中《とちゅう》で|止《や》めた」
「おまえ女の敵だな。いつか|刺《さ》されるぞ」
ギギナが|端正《たんせい》な鼻の先で笑う。
「その時は、別の女が身を|挺《てい》して守ってくれるだろうな」
世界中の善男善女に成り代わり、俺は想像の中でギギナを刺しておいた。もちろんかなり遠くから。
「|無駄《むだ》|話《ばなし》はここまでだ、行くぞ」
入口に待つ女二人を通りすぎる時、ギギナが|振《ふ》り返り、その耳元へ|完璧《かんぺき》な造形の|紅《くれない》の口唇を寄せ「また|可愛《かわい》がってやる」と|囁《ささや》いた。
二人の女は耳まで桜貝色に紅潮させ、|脱力《だつりょく》して市庁舎|玄関《げんかん》の柱にもたれ|掛《か》かる。
すでにギギナは背後を|一顧《いっこ》だにせずに、市庁舎内へと入っていった。
俺は相棒のそのあまりの|気障《きざ》さに|呆《あき》れ、玄関口にしばし立ちつくしていた。
「ギギナに君たちを|想《おも》う気持ちなんか|椅子《いす》に対する百分の一どころか、|素粒子《そりゅうし》一つも無い、もっといい人を見つけなさい。例えば、この俺」と、誰もこの女たちに言ったことがないような忠告をしようと思った、が、やめた。
|性悪《しょうわる》の美男の心ない|甘言《かんげん》より、俺のような|平凡《へいぼん》な顔の|真面目《まじめ》な忠告が女の耳に届くなら、この世に不幸な女など理論的には|一切《いっさい》存在しなくなるはずだからだ。
第二市庁舎内部の|石床《いしゆか》を静かにギギナが歩み、俺の足音が乱暴に|響《ひび》く。
「サザーランからの召集だったが、貴様の|携帯《けいたい》|咒信機《じゅしんき》が切れていて居場所が分からない。|阻電霧《そでんむ》も発生しだして電波も届かない。仕方ないから女の所にかけただけだ、何を|怒《おこ》る?」
「天使と|戯《たわむ》れる天国から落とされ、地獄の|鬼《おに》と対面し、不機嫌にならない人間がいるか。それに一番の問題は、なぜ、おまえが、ジヴーニャの自宅の電話機の番号を知っているんだ?」
俺はたぶん十人並みの|容貌《ようぼう》をしているだろうとは思っている。しかし、ギギナの容貌は内面とは正確に反比例し、はっきり言って無駄に|神々《こうごう》しい美貌である。
まさかとは思うが、ギギナとジヴーニャにそういう関係があるとしたら……殺す。
いや正面は|怖《こわ》いので、夜道に背後から|遠距離《えんきょり》|咒式《じゅしき》で世紀道徳|満載《まんさい》式、|虐殺《ぎゃくさつ》|拷問《ごうもん》暗殺だ。
人的に|駄目《だめ》だ俺。
「私は図書館の常連でな、そこでたまたま以前に貴様に|紹介《しょうかい》された女がいた。|挨拶《あいさつ》も|面倒《めんどう》なので|放《ほう》っておいたのだが、向こうから声をかけてきた。それだけだ」
「いや、|普通《ふつう》は番号まで教えないだろ」
「女性に番号を聞かないのは|礼儀《れいぎ》として失礼に当たるだろうが」
「おまえの礼儀なんて、思いつきと同義語だろうが」
今度ジヴーニャに会ったら、音速で番号を変えるように言おう。いや、本気で。
「落ちつけ|錬金術師《れんきんじゅつし》。私にも似たような経験がある。私の昔の仕事で組んだ二人が、頭割りで分ける|報酬《ほうしゅう》を|誤魔化《ごまか》したので、そいつらの頭を割って正しく|独《ひと》り|占《じ》めしたことがある」
俺はギギナの言葉を数十回高速|反芻《はんすう》する。
「その話と今と、どこに共通点がある?」
今度はギギナが|黙《だま》り込む。
「無いのか?」
こいつの会話は根本から|間違《まちが》っている。|道端《みちばた》の犬の糞の方がまだしも論理的だ。
「で、|慢性《まんせい》知性不足病のギギナが図書館へ行っただと、一体何の本を読んでるんだ?」
ギギナは|邪悪《じゃあく》な|笑《え》みを|浮《う》かべた。
「飼育動物を|躾《しつ》ける一〇〇の方法」
聞かなければ良かった。前々からうっすら|勘《かん》づいていたが、こいつは俺を便利な|家畜《かちく》か何かと|勘違《かんちが》いしているとしか思えない。
それが今、確信に変わった。ジヴには「とっても的確な表現」とか言われそうだ。何かそんな気がする。空気を変えたい。
「そういやおまえ、本当は女|嫌《ぎら》いだって言ってたけど、男色愛好|癖《へき》を|隠《かく》すための必死の演技?」
俺の軽口にギギナが重く黙り込む。
うげげっ、もしかして|核心《かくしん》? そういえば仕事中に俺の方を熱心に見ている時があるような。なぜか|臀部《でんぶ》が|緊張《きんちょう》する。
「ギギナさん、俺は先祖代々|由緒《ゆいしょ》|正《ただ》しい、|熱狂的《ねっきょうてき》かつ過激|武闘派《ぶとうは》な異性愛主義者ですが?」
「|冗句《ジョーク》だ。これでも|許婚《いいなずけ》がいる」
そうか冗句か、と安心するより、ギギナに許婚がいるという言葉が理解できなかった。一体どんな生き神様が、この|破滅《はめつ》人間の妻になろうというのだろうか?
「許婚って美人?」
「まあな、だがもう三年も前に、な」
|凄《すさ》まじい|静謐《せいひつ》。|靴音《くつおと》のみが|虚《うつ》ろに響く。
「……すまない、俺は無神経で。そんな深い事情があるとは知らず」
ギギナの表情にはさざ波一つ立たない。
「貴様の耳と耳の間の完全な真空は、前々から重々|完璧《かんぺき》に承知している。
ただ、四年前に|出稼《でかせ》ぎに出てからは、帰省の|度《たび》に許婚になじられて|寿命《じゅみょう》が縮むだけだ」
「許婚って生きてるのか?」
「当たり前だ。よく人の話を聞け」
俺は瞬間的な殺意を抑え、やっと言葉を続けた。
「おまえの会話、現在形と過去形が激しく間違ってるぞ、|冗句《ジョーク》としても最低だ」
いつもならギギナに鼻で笑われるだろう。
「許婚や族長にも言われる」
ギギナの|端正《たんせい》|極《きわ》まる美貌が|苦悩《くのう》に|歪《ゆが》む。|余程《よほど》に族長や許婚が|恐《おそ》ろしいのだろう。
三年も前から仕事で組んでいるのに、俺はこいつの私生活をまったく知らない。特に知りたくもなかったが、なかなか大変そうだ。
とにかく、世界にはまだまだ知りたくもない神秘が多く残されているようだ。
「ガユス、私の会話の何が問題なのだ? 帰省の度に、族長にはおまえは勇者になる武はあっても人が寄りつく徳が無い、許婚には会話にならないと|峻烈《しゅんれつ》になじられ|尻《しり》を|蹴《け》り上げられるのは|辛《つら》い。よければ貴様に問題点を教えさせてやるが?」
俺は完全完璧に無視してやった。俺は今最高絶頂に正義である。
俺とギギナにとって|愉快《ゆかい》な思い出など物理的にありえない、サザーラン課長室。
ふと気づいたが、ギギナがサザーラン課長の小言が苦手なのは、許嫁の小言と似ているからかも知れない。
と、思考遊びで自分を誤魔化していたが、現実に|帰還《きかん》することにする。再びの故郷は特に|懐《なつ》かしくはなかった。
応接用の|長椅子《ながいす》に座る、いつも|不機嫌《ふきげん》絶頂が義務か天の使命なサザーラン課長。
会った|瞬間《しゅんかん》、|叱責《しっせき》の|幻聴《げんちょう》が聞こえてきた。
もう病気だ。労災|申請《しんせい》しよう。
それはともかく、その向かいの椅子に座る高級|官僚《かんりょう》の制服姿の若い|髭男《ひげおとこ》が、俺を見て立ち上がり、親しげな表情を浮かべる。
(|誰《だれ》だっけ?)と、俺が|記憶《きおく》|検索《けんさく》をする前に、おもむろにそいつが口を開いた。
「おいおい、私のことを忘れたのかガユス? リューネルグ咒式大学院で、あれだけ咒式境界条件理論を|闘《たたか》わせただろう?」
「境界|弦《げん》理論のヘロデルか! そうか、懐かしいなおい、五年半ぶりになるかな」
「それくらいだな。しかし変わったな君は! |眼鏡《めがね》なんて|掛《か》けても、女の|裸《はだか》は|透視《とうし》できないといい加減に気づかないのか?」
「おまえこそ! なんだその髭、|間抜《まぬ》け顔を少しでも隠そうとしているのか?」
|挨拶《あいさつ》代わりの悪口の|応酬《おうしゅう》も昔のままに、俺とヘロデルは笑いあう。
ヘロデルは俺が|咒式《じゅしき》|学院生《がくいんせい》の時の悪友で、二人してよく|酒杯《しゅはい》を重ねながら、法律で禁止されている危険極まる|咒式《じゅしき》を再現したり、咒式理論を闘わせたりしたものである。
その論争が、最後は咒式発動の|喧嘩《けんか》になって|互《たが》いに死にかけたことも、今では青春の|甘酸《あまず》っぱい思い出としてそっと胸に|秘《ひ》めておこう。
いまだに法的時効が成立していないことも、民事|刑事《けいじ》事件を問わず山盛りであるし。
しかし|途中《とちゅう》で退学した俺と違い、ヘロデルは|数法系《すうほうけい》|法咒式士《ほうじゅしきし》の官僚として軍部で順調に出世している、と遠く風聞で聞いていたのだが。
「だが、なぜヘロデルがここに? 俺の|優《すぐ》れた人徳を|慕《した》ってくるほど、おまえの人間性は出来ていないはずだが?」
俺は心中の疑問をそのまま口にする。
「君の人徳などという、ありもしない想像上のものは、誰も慕わん」
「不在の証明は、|悪魔《あくま》の証明と言うくらい難しいと学院で習っただろ。この世のどこかにはあるのさ。|霊《れい》や死後の世界と同じ程度には、な」
終わらない|馬鹿《ばか》|話《ばなし》に|業《ごう》を|煮《に》やしたのか、|薄《うす》い|頭髪《とうはつ》に反比例して|濃度《のうど》の|濃《こ》い顔のサザーラン課長が言葉を引き取る。
「ヘロデル|一等《いっとう》|咒式官《じゅしきかん》|殿《どの》は、お前たち二人に|御用《ごよう》があるそうだ。それもかなり上の方からの御意向のな」
俺が|振《ふ》り向くと、|肩《かた》とそして似合わない髭を器用に同角度で|疎《すく》めるヘロデル。
そういえば、昔からこいつは下らない|嘘《うそ》をついて|厄介事《やっかいごと》を持ち込む天才だった。
俺の|勘《かん》は、至急かつ|迅速《じんそく》にここの窓から飛び下りてでも|逃《に》げろと告げていた。
郡都エリダナの中心から数キロメルトルは|離《はな》れた|郊外《こうがい》住宅地。
広い|敷地《しきち》の中に、|豪商《ごうしょう》か貴族の|避暑《ひしょ》用だかの、|煉瓦《れんが》造りの|瀟洒《しょうしゃ》な建物があった。
|麗々《れいれい》しい|蔓《つる》模様の|施《ほどこ》された鉄の|門扉《もんぴ》を抜けて、へロデルは俺とギギナを敷地内へと案内していく。
俺は敷石を|踏《ふ》みしめながら|喋《しゃべ》りだす。
「小話が出来た、ドラッケン族の|結婚式《けっこんしき》の、意外な引き出物とは?」
俺は俺に答える。
「白く|塗《ぬ》った幸せの、敵の生首」
ギギナは俺の軽口に対し|沈黙《ちんもく》したまま歩み続けていたが、やがて答えた。
「よく知っているな、ドラッケン族の|傍流《ぼうりゅう》たるギダレラ家の風習を」
俺は|嫌《いや》な顔をしていただろう。
俺とギギナの不毛な会話を無視して、へロデルは二階建ての建造物正面の|黒檀《こくたん》の|扉《とびら》を開ける。
内部に歩を進めると、すぐに照明の|抑《おさ》えられた広間になっており、簡便な応接具が|設《しつら》えられ、七人の男たちが立っていた。
それぞれがまったく|特徴《とくちょう》のない平服を着ているが、それが逆に変だ。その|隙《すき》のない立ち姿からも、全員が高度に訓練を受けた、軍人や|攻性《こうせい》|咒式士《じゅしきし》だと推測する。
その七人に囲まれ、一人だけ奥の応接用|革《かわ》椅子に座る中年男がいた。
|白髪《はくはつ》の混じる|黒髪《くろかみ》と|黒瞳《こくとう》に銀細工の眼鏡を掛けており、黒に|銀糸縫《ぬ》いの質素だか派手だか判別しがたい司祭服をまとい、細い|顎《あご》の下で組んだ手にいくつもの指輪が光る。
|端正《たんせい》な|碩学《せきがく》といった|風貌《ふうぼう》の、|口《くち》の|端《はし》に|笑《え》みを張りつけた|壮年《そうねん》のこの男が、なぜか一目でこの場の中心だと|納得《なっとく》させられた。
また|既視感《きしかん》が俺の中で発生した。確かにどこかでこの碩学の容貌を見たことがある。
脳内海馬の|記憶《きおく》を高速|検索《けんさく》する俺の横で、ヘロデルはその男の前の|床《ゆか》に進み、|片膝《かたひざ》をつけた第一種最敬礼を行う。
「私めの|朋友《ほうゆう》ガユス・レヴィナ・ソレル氏とギギナ・ジャーディ・ドルク・メレイオス・アシュレイ・ブフ氏の両名をお連れしました。
我が主君、モルディーン・オージェス・ギュネイ|枢機卿《すうきけい》会議議長|猊下《げいか》」
俺の息が|詰《つ》まり、|横隔膜《おうかくまく》が収縮する。|滅多《めった》に|動揺《どうよう》などしない鋼鉄の|魂《たましい》のギギナですら呼吸が一瞬途絶する。
モルディーン枢機卿長の肖像
モルディーン・オージェス・ギュネイ。
|啓示《けいじ》派教会の枢機卿会議の議長にして、現|龍皇《りゅうおう》ツェリアルノスVII世の意思を委任された全権大使。オージェス選皇王の後見人にしてオージェス選皇王軍最高司令官代理。
龍皇の|諮問《しもん》機関たる|円卓《えんたく》評議会の一人にして、啓示派教会独立異端|監査《かんさ》官。
|白翼《はくよく》|勲章《くんしょう》と|銀環《ぎんかん》勲章の|叙勲者《じょくんしゃ》。ジェデッカ|公爵《こうしゃく》にしてアルベルム|伯爵《はくしゃく》、クンデラ聖堂委任大司教。ヴォックルの|強豪《きょうごう》たるシグルスの筆頭株主等々の肩書を持つこの人物を知らないというツェベルン龍皇国民は、かなり気合の入った世捨て人だけだろう。
我らが|仰《あお》ぐ龍皇陛下を選ぶ五つの選皇親王家。|冠《かんむり》のアドリアル家、|楯《たて》のイルム家、|剣《けん》のウルフェ家、|槍《やり》のエギラン家。
そして美と芸術の守護者、旗のオージェス家の次男としてモルディーンは生まれる。
|恐《おそ》るべき|高位《こうい》|咒式士《じゅしきし》の一族たるツェベルン龍皇家にあって、まったく|咒力《じゅりょく》を持たない病弱な|出来《でき》|損《そこ》ないと言われたが、知性と学識に|天賦《てんぶ》の才を持っていたモルディーンをオージェス選皇王として期待する声も多かった。
だが、|嫡子《ちゃくし》たる|双子《ふたご》の兄アスエリオに、自身のその才覚と人望を|厭《いと》われるのを|避《さ》けるためか、|僧侶《そうりょ》として教会に入ることになる。
しかし、長じて彼が才能を発揮したのは政治や軍事、そして|権謀《けんぼう》|術数《じゅっすう》であった。
教会の中の法王ユリナスIV世派と神授派との|権力闘争《とうそう》においてはその争いに|憂慮《ゆうりょ》し、中立を保つ演技をしていたが、裏では|双方《そうほう》を争わせ、|失脚《しっきゃく》・暗殺させ両者の力を弱め|次第《しだい》に第三勢力として頭角を現した。
そしてついには法王ユリナスIV世を退位に追い込み、|傀儡《かいらい》法王デレクII世を|即位《そくい》させて自分は枢機卿長として納まり、その本性が決して善良|無垢《むく》な碩学などではないことを、人々は初めて知らされたのだった。
その後は、彼が糸を引いたと|陰《かげ》で|囁《ささや》かれる|実兄《じっけい》の|不審《ふしん》な事故死により|一時還俗《げんぞく》。オージェスの|家督《かとく》を|継《つ》いだのが精神と肉体に変化を|及《およ》ぼしたのか、病弱で三十歳まで生きられないと言われたことが嘘のように、選皇王の一人として皇国の国家経営に精力的に着手し、|優《すぐ》れた業績を挙げはじめる。
|皇暦《こうれき》四八八年のハルマトの乱の鎮圧、四九一年の神聖イージェス教国との西グールト|紛争《ふんそう》での|電撃《でんげき》的勝利と、その後の|卓越《たくえつ》した講和|交渉《こうしょう》は有名であろう。
最近では三年前のアルカンドラ|神殿《しんでん》の|狂信《きょうしん》派神官たちの|大虐殺《だいぎゃくさつ》を裏で演出したとされる。
亡兄の|隠《かく》し子の発覚後はその選皇王の代理後見人に退き、|僧籍《そうせき》に復帰した後は教会の改革、先端咒式研究の推進政策等々を行い、僧侶というよりは、|辣腕《らつわん》の戦略家|兼《けん》政治家であると言った方が、言語の定義上より正確であろう。
言わば現在皇国で十本の指に入る最重要人物、さらには皇位|継承権《けいしょうけん》第七番目の至尊の皇族が、俺たちの眼前に座っているのだ。
俺がさらに記憶を|手繰《たぐ》り、貴族式第一種最敬礼の動作を行おうとすると、そのモルディーン枢機卿長は右手を|優雅《ゆうが》に|振《ふ》って|拒否《きょひ》する。
「レヴィナ・ソレル君といったね。私の方針を教えるとね、|退屈《たいくつ》な典礼よりも合理論理性だ。大体皇族と言ったって、大昔に一番横暴で|狡猾《こうかつ》だった|盗賊《とうぞく》の親玉の|末裔《まつえい》にすぎないんだから、気にせず手早くいこう」
その指先に|促《うなが》されるままに、モルディーン|卿《きよう》の対面の皮革張りの|椅子《いす》に座る俺と相棒。さすがに俺も生で皇族を見たことはないし、一応龍皇国民の|端《はし》くれとして、とんでもなく|緊張《きんちょう》する。
いつのまにか下がっていたヘロデルが戻り、|琥珀色《こはくいろ》の紅茶を|華奢《きゃしゃ》な|陶器杯《とうきはい》に|注《つ》ぐ。
|芳醇《ほうじゅん》な|芳香《ほうこう》が室内に広がるも、俺は完全に動作停止したまま卿の言葉を待つ。
右手の陶杯を置き、ようやく卿が話を続ける。
「さてレヴィナ・ソレル君にブフ君、いや確かドラッケン族は父母の|姓《せい》を発音しないと失礼に当たるのだったねアシュレイ・ブフ君。だが、親交を深めるため、早速名前で呼ばせてもらうよ、ガユス君にギギナ君と。
実はね、君たち咒式士の二人に、私の特務の案内兼身辺護衛を今日から|頼《たの》みたいのだよ。幸いガユス君は、私の秘書官ヘロデル君の古い友人で信用できるし、公式非公式の仕事の経歴を調べただけでも、|腕《うで》の方もかなり立つらしいしね」
|全《すべ》てを|見透《みす》かすようなモルディーン卿の視線に、ギギナが|怪訝《けげん》な顔で言を返す。
「それは|筋違《すじちが》いだろう。まず名前で呼ばれる|不愉快《ふゆかい》さは置くとしてだ。
我々は|竜《りゅう》、もしくは|異貌《いぼう》のものどもと戦うし、護衛なども得手な仕事の内だろう。だが、いくら皇国と教会の実力者といえど、|咒式士《じゅしきし》|協会《きょうかい》を経由するか、あらかじめ話を通してもらわなければ、今日いきなり案内や護衛などという不審な|契約《けいやく》は出来かねる」
|率直《そっちょく》な物言いというより、|僧越《せんえつ》かつ非礼な暴言である。|途端《とたん》に護衛官たちの顔に|怒気《どき》と緊張の|微細《びさい》な|紫電《しでん》が走る。
ギギナは何事もなかったかのように、その大剣にも似た|鋭利《えいり》な暴言を続ける。
「それに、わざわざ我々など外部の者を使うまでもなく、武力においてなら、モルディーン卿|御自慢《ごじまん》の十二|翼将《よくしょう》がいるはずだが?」
相棒の|指摘《してき》の通り、モルディーン卿にはモルディーン十二翼将と|俗称《ぞくしょう》される精強無比な側近の|咒式《じゅしき》|使《つか》いたちが常に護衛しているのは、事情通なら|既知《きち》の事実であろう。
最も|疾《はや》き|刃《やいば》、サナダ・オキツグ。
|参謀《さんぼう》にして|大賢者《だいけんじゃ》ヨーカーン。
|凶戦士《きょうせんし》イェスパーと|魔剣士《まけんし》ベルドリトのラキ兄弟。
うつろわぬものカヴィラ等々。
各職業咒式士の第十三|階梯《かいてい》、俗に言う〈|到達者《とうたつしゃ》〉級以上で構成される彼ら十二人は、龍皇国全体を見ても精強無比であり、俺とギギナの出番など末席にもあるまい。
「だがその十二軍将は|誰《だれ》|一人《ひとり》としてこの場にはいない。と言うより、彼らを連れていけない重大な理由があるのだよ。
そしてこれは私、モルディーン|枢機卿長《すうきけいちょう》からの決定特務|事項《じこう》、最優先|秘匿《ひとく》命令である」
途端に俺とギギナの身が固まる。そしてモルディーン卿は|託宣《たくせん》を告げるかのように言い放った。
「それでは、私の「観光旅行」の案内を命じる。十二翼将なんて|厳《いか》めしく目立つ|奴《やつ》らを連れていたら、観光は楽しめないだろう?」
ギギナが苦い苦い顔をする。わけの分からぬまま|事後了承《りょうしょう》させられることになるようだ。
ヘロデルの方を見ると、|口髭《くちひげ》の残像を残す|超《ちょう》高速で視線を|逸《そ》らしやがった。この|疫病神《やくびょうがみ》め。
照明を落とした暗室。|壁面《へきめん》には|剣槍《けんそう》が交差して掛けられ、地図と図形が|所狭《ところせま》しと|貼《は》られ、部隊名が書かれた旗が|突《つ》き立ち、さながらどこかの軍事|施設《しせつ》のようだった。
そこだけは|淡《あわ》い照明が照らす、|豪奢《ごうしゃ》な机の上の八×八の黒と白の|盤面《ばんめん》には、兵士や|騎士《きし》が|鋭《するど》い剣槍を並べ、王や王女が|鎮座《ちんざ》するはずだった。
だがその盤面は、|黒翡翠《くろひすい》の|僧正《そうじょう》が七個と騎士が十二個並び、二枚の舌をひらめかせた道化の|駒《こま》が笑っているという|奇妙《きみょう》なものだった。
黒翡翠と白い|象牙《ぞうげ》の駒たちの|干戈《かんか》の音も血の|臭《にお》いもない|抽象的《ちゅうしょうてき》な戦いに、黒の軍服と赤の僧服で|塗《ぬ》り分けられた|影《かげ》たちは無責任に|一喜《いっき》|一憂《いちゆう》し、観戦者の一人がおもむろに問う。
「道化からの|連絡《れんらく》はまだか?」
「僧正が七つ。多すぎるようです」
「僧正の首を|刎《はね》ろ、十二の騎士を殺せ」
「主には内密に内密に」
さざめく赤と黒の影たちの|傍《かたわ》らに、影よりも|漆黒《しっこく》の|闇《やみ》が現れ、|韻《いん》々とした声を発する。
「道化が僧正の所在を|掴《つか》みました。どうやら|歌乙女《うたおとめ》の都で、七星の手を掴むようです。そして|件《くだん》の十二の騎士の七人はそれぞれの僧正たちに付いているようです」
ざわめく黒の人影たち。
「|騙《だま》されるところだったぞ、あの|詐欺師《さぎし》め!」
「背信者め、背教者め、|売国奴《ばいこくど》め!」
黒と白の盤面の二人の指し手が|鷹揚《おうよう》に手を|掲《かか》げ「静まりたまえ観戦者諸君」と告げ、周囲のざわめきを制す。
「闇よ、|疾《と》く走り使命を果たせ」
影の中で闇が|頷《うなず》くのが感じられた。
「|拙者《せっしゃ》めと影たちと|猟人《りょうじん》が向かいます」
「|流浪《るろう》の|汝《なんじ》たちを|傭《やと》った|甲斐《かい》を見せろ」
無言で頷いたその間の気配が遠く去っていき、影たちと指し手たちが満足げに歌う。
「さあ、劇が始まる。血と裏切りと死の|即興劇《そつきょうげき》だ。
我々は|英雄《えいゆう》の|活躍《かつやく》と|非業《ひごう》の死に|涙《なみだ》し、人生と歴史の複雑さを|堪能《たんのう》し楽しんだ後は、愛国の勝利の|輝《かがや》かしき|祝杯《しゅくはい》をあおろう」
指し手が複雑な細工を|施《ほどこ》した|切《き》り|子硝子《こがらす》の酒杯を高く掲げると、全員がそれに|倣《なら》う。
|呑《の》み干された|杯《さかずき》が地面に|叩《たた》きつけられる音が、漆黒の中で開幕の合図となった。
幾百幾千万の|紙吹雪《かみふぶき》が、建造物の谷間の通りの民衆へと降り注ぐ。視界を|遮蔽《しゃへい》させるのが、その|唯一《ゆいいつ》絶対の使命かのように。
行進する楽隊の軽快な|音符《おんぷ》の連なりと、群衆の|高揚《こうよう》の限りの|歓声《かんせい》が重なり、まるで怒号のような|轟々《ごうごう》たる|喧騒《けんそう》を産む。
|露店《ろてん》、大道芸、花火、音楽、|踊《おど》り、演劇そして道や橋を|埋《う》めつくす人々の|波濤《はとう》。
アルリアン人、ノルグム人、ランドック人、そして判別もできない人類各種族の|洪水《こうずい》。それは給料日の|淫売《いんばい》屋もかくやの大混雑だった。
エリウス郡都エリダナは祝祭の|狂乱《きょうらん》の中に街全体が歌い、踊り、|揺《ゆ》れていた。
「エリダナ祭りの|壮大《そうだい》さは話には聞くが、なかなかに|壮麗《そうれい》だね」
初春の祭りの喧騒の光景を、エリダナ名物の橋の|欄干《らんかん》に寄りかかりながら、子供のように見入るモルディーン卿。
その|呑気《のんき》な|猊下《げいか》を、ギギナとヘロデル、護衛七人が自然な|円陣《えんじん》の|壁《かべ》を組んで護衛し、俺が|内陣《ないじん》で観光案内を引き受けている。
護衛官が、|装甲《そうこう》典礼車内からの厳重警護の観光を|懸命《けんめい》に主張したのだが、「そんな護送犯みたいな観光があるかね?」と|一蹴《いっしゅう》され、こういう事態に|陥《おちい》っているのである。
さらに俺の|間抜《まぬ》けな観光案内が続く。
「|龍皇都《りゅうおうと》の建国祭や聖生誕祭には|及《およ》びませんが、それでも皇国八大祭りの一つです。
元々は六百八十年ほど前にこの街が|騎馬《きば》族のフイヴル族に|占領《せんりょう》された時、エリダナという女歌手が祭りの行進と見せかけて歌とともに行軍し、|占拠《せんきょ》された市庁舎に入りフイヴル族を破ったという故事があります。
それからこの街の名もエリダナ、歌乙女市と言われるようになったそうです。今聞こえているのが、その故事で歌われたという歌ですよ」
俺は誰にも見えないように|溜息《ためいき》を|吐《つ》く。
本来なら|今頃《いまごろ》は愛するジヴと、この祭りを|満喫《まんきつ》していたはずである。
急な仕事だと告げた時の、ジヴの仕方ないわねという|優《やさ》しい顔を思い出すと、今すぐ彼女の|許《もと》へと走り寄り|平伏《へいふく》したくなる。
そんな俺の一大悲劇な事情などお構いなしに、傍らの|枢機卿《すうきけい》会議議長は歌を口で|辿《たど》る。
「私が|狂《くる》っても、|貴方《あなた》が|壊《こわ》れても
運命の糸車は皮肉気に笑ってる
約束の海の底で待っていて
空を|懐《なつ》かしむ|駝鳥《だちょう》のように
世界を夢見て|孵化《ふか》しない|雛鳥《ひなどり》のように
貴方となら|煉獄《れんごく》も天上の|裾《しとね》、か。
ヴァーレンハイトの無名時代の|陳腐《ちんぷ》な詩のような歌だな」
俺が卿に|振《ふ》り向くと、卿が気づく。
「君もヴァーレンハイトが好きなのかね?」
「ええ、さあどうでしょう?」
好きとかそういう問題でも無い。
「しかし、騙し|討《う》ちが街名の由来とは、何とも私に似合っているとは思わないかね?」
モルディーン卿の|自嘲《じちょう》ぎみの|揶揄《やゆ》に、俺は人工的な|愛想笑《あいそわら》いをするしかなかった。
俺や卿にまったく関係ないフリをして歩いて、平気な神経のギギナが|羨《うらや》ましい。
道ゆく観光客の女性、時には男性が、ギギナの天上の美神のような|容貌《ようぼう》に気づき、|惚《ほう》けたような顔をしているのも、ギギナ自身はどうでもいいかのように立っている。
その視線が|道端《みちばた》の店先の古びた|椅子《いす》に注がれていることから、あの下らない|蒐集品《しゅうしゅうひん》に加えるべきかと迷っているのだろう。
そして飲み干した後の|紙杯《しはい》をどこに捨てるかと考える、|驚異《きょうい》的に|無駄《むだ》な時間が過ぎる。
「ガユス君も楽しんでいるかね」
「俺、いや、私のことはお|気遣《きづか》いなく。むしろ存在しないものとして考えて下さい」
|呑気《のんき》な卿の言葉に、一つ疑問を返す。
「本当に心から観光を楽しんでますね。猊下は|御自分《ごじぶん》を皇国を左右する重要人物だと分かっておられますか?」
「さあね。でも本当は|違《ちが》うよ」
俺は真正面から卿の顔を見る。
「本当は、単なる遊び好きの不良中年、だったら楽なんだけどねぇ」
大笑いするモルディーン卿はこの二日間、ずっとこの調子で観光を楽しんでいる。
まさか権力者のご|機嫌《きげん》取りをする日が来ようとは、八歳のムルクル熱病の時の、緑色の小人たちの大討論会「何を討論しようか討論しよう!」の悪夢の時にも思わなかった。
|企業《きぎょう》や国家に飼われるような|咒式師《じゅしきし》になるのが|嫌《いや》で、自由で|自堕落《じだらく》な|攻性咒式士《こうせいじゅしきし》になったというのに。
横で観光を楽しむ枢機卿長から視線を|逸《そ》らすと、ビル|壁面《へきめん》の大型受像機の画面で皇国議会|中継《ちゅうけい》をやっており、モルディーン枢機卿長が議会演説を行っていた。
「……以上の必然的理由から、無益な東方戦線それ自体を|暫時《ざんじ》縮小、停戦に持ち込む議決に対する|変更《へんこう》決議は|即時《そくじ》|棄却《ききゃく》すべきです。|併《あわ》せて公定歩合を引下げ、実質|破綻《はたん》してる銀行を整理する、昨年のアグタ・マクハム共同宣言を実行すべきです。さもなくば、国内失業者率も先年期の|不名誉《ふめいよ》な記録を更新するでしょう。
現在、国家が経済を|制御《せいぎょ》しようとするゲイブル経済主義は|時代《じだい》|遅《おく》れですが、同理論内の場を活性化させる最低限の政策は必要です。
現在の財政悪化、景気後退は構造的ですらあり、改善には各省責任者の退任と責任追及の制度化こそが必須であり……」
ふと見ると、画面下に生中継とあった。
(そうか生中継か)と思った|瞬間《しゅんかん》に、|矛盾《むじゅん》に気づいた。百八十度回転すると、俺のその様子に|微笑《ほほえ》むモルディーン卿がいた。
「私に、死んだアスエリオ以外の三つ子の兄弟なんていないよ」
「つまり、あれですか」
「そう、|巷間《こうかん》に言うところの|影武者《かげむしゃ》だよ。あれを演じているのは十二|翼将《よくしょう》の一人、千貌のジェノン・カル・ダリウスという|奴《やつ》でね。どんな人間にも変装し、|完壁《かんぺき》に演じられる人物だ。元々はどこかの無名俳優だったらしいけどね。
|普段《ふだん》から変装していて、私も、そして彼自身も、自分が男か女か子供か老人か、|素顔《すがお》がどんな顔かも忘れてしまったよ」
|悪戯《いたずら》を見つかった子供のように、卿は|嬉々《きき》として語った。
モルディーン枢機卿長はどの重要人物ともなれば、影武者は当然の処置とも言える。
だが、|偽物《にせもの》を議会に送り、しかも演説をさせるとはまったく正気の|沙汰《さた》とは思えない。
「実は|近習《きんじゅ》の者にはまた別の、少々出来の悪い偽者と十二翼将の何人かとともに、北のウード|避暑《ひしょ》地帯へと遊びに行ってもらって、「議会の奴は偽者だよ」とか|冗談《じょうだん》めかして言ってる|頃《ころ》だろうな。
そういう|紛《まが》い|物《もの》が|他《ほか》に五人。つまり私を含めて全部で七人のモルディーンが皇国全土に散っている。ま、保険が多いほど安心というわけだ。一つのお遊びだよ」
聞くほどに、この人物の|突飛《とっぴ》な思考と、それ以上に|偏執狂的《へんしつきようてき》な用心深さと異常|趣味《しゅみ》が分かった。
続く枢機卿長自身の言によると、政敵が放った|咒式《じゅしき》|暗殺者《あんさつしゃ》から|殉教《じゅんきょう》|刺客《しかく》までの暗殺|未遂《みすい》が年中行事で、最近は東方の暗殺者が卿を|狙《ねら》っているためらしいが、それでも正気ではない。
「お|偉《えら》いさんも大変ですね。|休暇《きゅうか》にも|御大層《ごたいそう》な|嘘《うそ》と演出が必要とは」
「その嘘と演出こそが楽しいんだけどね」
モルディーン卿が言を返したその時、|舞台《ぶたい》背景のように|嘘臭《うそくさ》いまでの青空に、花火が|打《う》ち上げられる。
花火は通常ありえない、複雑な|上昇《じょうしょう》と降下を繰り返し、|蒼弩《そうきゅう》に|煙《けむり》で「エリダナに|長寿《ちょうじゅ》と|繁栄《はんえい》を」という文字を|描《えが》く。
「子供の頃から不思議だったが、あのよく動く花火はやはり咒式なのかね?」
卿の質問に、それでも俺は説明機械となり答える。
「ええ、|化学《かがく》|練成系《れんせいけい》|咒式《じゅしき》第一階位の〈|噴矢《ロレイ》〉という簡単な咒式を使っています」
そこで説明を終わりにしたいが、橋の|欄干《らんかん》に寄りかかる卿の目が、その実漬をうながしていたので、仕方なく「一例を見せましょうか」と続けた。
|腰《こし》の|魔杖剣《まじょうけん》の|鍔元《つばもと》で咒式を展開させ、手にしていた空の紙杯を投げる。
紙杯は放物線の|途中《とちゅう》で火花を噴出させ、|飛翔《ひしょう》|軌道《きどう》を何回も変えながら、|屑籠《くずかご》へと飛び込んでいく。
道行く人々が何事かと注目するが、すぐに祝祭の|喧騒《けんそう》へと興味を|戻《もど》し、去っていく。
「指示式を作成し、|硝酸《しょうさん》カリウム七五%、|硫黄《いおう》一〇%、木炭一五%を合成し、黒色火薬を生成。あとは|基礎《きそ》|電磁《でんじ》|咒式《じゅしき》で発火させて軌道を順次変更。あの花火はこの程度の単純な原理ですよ」
「咒式遊びも楽しいものだね」
俺の説明に|枢機卿長《すうきけいちょう》は|呟《つぶや》く。
「まさに現代は|咒式《じゅしき》の世紀だな。だが、私には|熱量《エネルギー》を生む|重轟炉《じゅうごうろ》の仕組み、量子通信の原理一つもまったく分からない。龍皇家の|癖《くせ》に|咒式《じゅしき》をまったく使えない私などは時々|恐《おそ》ろしくなる。それゆえ私には|全《すべ》てが|万能《ばんのう》な魔法に見えるよ。魔法使いの|杖《つえ》の|一振《ひとふ》りで人々の幸せを創出して欲しいものだ」
視線の先では路上劇場が|催《もよお》され、役者が|長衣《ローブ》を|被《かぶ》って演じる悪い魔法使いが杖を振り、魔法で石炭を瞬時に金に変えていた。
たわいない手品の|仕掛《しか》けに、輪になった物見高い観客たちが|歓声《かんせい》を上げる。
「残念ながら|咒式《じゅしき》は、万能の魔法ではありません。
例えば、一番基本の水素元素をヘリウムに|変換《へんかん》するには、太陽内部と同等の五十兆ワットルの熱量、数百万度の高熱で、正の|電荷《でんか》で反発する水素原子を|核融合《かくゆうごう》させなければなりません。
金に至っては、小さじ|一杯《いっぱい》で数十億トーンの質量を持ち、|超《ちょう》高熱の中性子星同士の|衝突《しょうとつ》による、一兆度という冗談のような超々高温高圧によって初めて誕生したとされます。
それらは明らかに通常の人間の|咒力《じゅりょく》の限界を|超越《ちょうえつ》しています。咒式は即物的な、単なる限界ある技術の一つで、幸せになるのを助けはしても、幸せ自体を|紡《つむ》ぐことは別問題です」
言った直後に|後悔《こうかい》した。|咒式士《じゅしきし》が|嫌《きら》われ|易《やす》い原因である、したり顔の講義口調になっていたのだ。
しかし、元々|学究肌《がっきゅうはだ》の卿の方は、それがまた|愉快《ゆかい》らしかった。
「君の話は下らないが即物的で|面白《おもしろ》いな。普通、咒式士とは無限の可能性の方を話すものだが。
むしろ君は、教師等の方が向いていないかね?」
俺がなぜか苦い顔をして|黙《だま》り込むのを、モルディーン枢機卿長が|怪訝《けげん》そうに見る。
「そういえば、経歴資料によれば、君の学生時代の教養課程は|咒式《じゅしき》|倫理学《りんりがく》と歴史だったね。私は咒式を技術としか考えていないから、私見でいいから意見を聞かせてくれないかね。例えば、そう、咒式と人間について」
俺はしばし考え、|浮《う》かぶままに思考を言葉にしてみた。
「確かに、|咒式《じゅしき》による自然因果律の|破壊《はかい》、それによる並列世界との不自然な次元|回廊《かいろう》の増大、そして咒式を犯罪に|濫用《らんよう》する者の増加とその|被害《ひがい》の拡大。さらに、咒式を使える者と使えない者の富や|雇用《こよう》の差という新しい階層化、と|一般《いっぱん》には問題にされています」
卿が無言でうながし、俺はさらに続ける。
「真の問題は、咒式が|普遍的《ふへんてき》体系である科学に比べ、個人技能の要素が強いことです。
|極《きわ》めれば個人で|大虐殺《だいぎゃくさつ》を引き起こすことが可能な|攻性《こうせい》|咒式《じゅしき》は、どこまで法的に規制するか? すでに攻性咒式使用の届け出義務は、車の制限速度並みに|誰《だれ》|一人《ひとり》守っていません。
しかも咒式は科学武器とは|違《ちが》い、頭脳や手から取り上げることは出来ず、それをどう規制するのか? あまりに強大な破壊の力の個人所有という問題に対し、古典的な平等|概念《がいねん》は|困惑《こんわく》するのみです。それは単なる力の問題ではなく、思想と思弁の問題でもあるのです。
例えば、元々は科学の延長だったはずの咒式は結局、根源原理を解明できず、超常現象とし
か思えないためか、一部の咒式士たちは自身を|霊的《れいてき》に進化した新しい人類だと考えたり、さらには|咒式《じゅしき》|六系統《ろくけいとう》のその開祖たる咒式士を|崇《あが》める、|本末《ほんまつ》|転倒《てんとう》な宗教まで登場する始末です。
一方、一般の人間にとって我々|攻性《こうせい》|咒式士《じゅしきし》は、|竜《りゅう》と同じ破壊の力を振るう化け物で、|龍理《ろんり》使いの|蔑称《べっしょう》で呼ばれることもあり、問題は昔より増大し複雑化していくばかりですよ」
「まさに神話にある、火を|盗《ぬす》んだ人間に天の神々がかけた|呪《のろ》いそのものだな。
だが、高位咒式士たるガユス君が、自らのよって立つ咒式を否定するのかね?」
俺は少し|逡巡《しゅんじゅん》しながらも答える。
「私は咒式文明を絶対に否定できません。|咒式《じゅしき》が存在しなければ、人類は自然や〈|異貌《いぼう》のものども〉との|熾烈《しれつ》な生存競争において敗北し、現在のように、この大地の|傲慢《ごうまん》な支配者|面《づら》は出来ていないでしょう。
|愚《おろ》かな言い方ですが、咒式問題に対しては|曖昧《あいまい》な倫理道徳や法よりも、咒式それ自体の進歩が問題を解決することの方が多いのです。そして、またその解決した咒式の方の問題が生まれるという愚かな繰り返しです。
だが、我々は咒式と歩まねばならない。科学があるがままの世界を見つめることで、無知と|迷信《めいしん》から人類を解放させたようには、咒式が何を行い、何を指向しているのかは分かりません。
そして、何も知らなかった時代に|戻《もど》るには、人間は少々|歳《とし》を取り|繁殖《はんしょく》しすぎました」
俺は少しだけ落ち込んだ。こんな未熟な結論と定義の|環《わ》を昔から|堂々《どうどう》|巡《めぐ》りしている。
「君はあまりに若く、そして|矛盾《むじゅん》している決定論者だね。人の心やその|叡知《えいち》の力を無視することは、自らの、そして全ての意思の否定だよ」
「そうでしょうね。だがしかし、人の心と言葉はあまりに不確実です。
どんなに|偉大《いだい》な名君や政治家、理想の思想や法であろうと、その〈心と言葉〉は時間の|波濤《はとう》の前の砂文字のように|儚《はかな》く消える。それらは、単に人が自らの心を分類してみただけのことだから。
そして、厳然とした〈世界の法則〉のみが、変わらずに人々と心を支配していくだろうとしか思えません」
|卿《きょう》の視線が|若干《じゃっかん》厳しくなった。
「君は、人類が、いや知性それ自体が、時の果てでも完全や永遠になれないからといって、心の存在を|嫌悪《けんお》しているようだな」
「違う、ただ私は……」
そこで俺は言葉を切った。
「そこまで大層な意見ではありません。私は文句を言うだけで何かを|為《な》した気になっている、よくいる愚かな群衆の一人であるだけです」
群衆の中で、卿と俺は言葉を|喪失《そうしつ》した。
|魔法《まほう》|使《つか》いの演劇を通りすぎ、人波のなかをそのまま歩んでいると、甘い|芳香《ほうこう》を放つ|氷菓子《アイスクリーム》の屋台が近づいてきた。
卿が「君も少し食べないか?」と|誘《さそ》ってきたため、俺も|渋々《しぶしぶ》同意する。
現金を持たない卿の代わりに俺が屋台の|親爺《おやじ》に聞くと、|苺味《ストロベリー》、|白乳味《バニラ》、|林檎《アップル》、|香瓜《メロン》とあり、二つ重ねることも出来るそうだ。
俺が卿に問うと、若干|恥《は》ずかしそうに左下を見ながら苺と白乳味の二段重ねと言った。
俺はその似合わない動作に意外さを覚えながらも、甘味の|控《ひか》えめな香瓜味を選んだ。
|枢機卿長《すうきけいちょう》は苺氷菓子を別に|美味《おい》しくもなさそうに|舐《な》めながら、ふとその眼前の光景を|見据《みす》え、俺の視線をもうながす。
その先には卿と同じように氷菓子を舐める女の子が父親の|肩車《かたぐるま》に乗り、祭りの|喧騒《けんそう》に目を|輝《かがや》かせて満面の|笑顔《えがお》を浮かべていた。
「子供が幸せに氷菓子を食べられる光景がある限り、私はこの世界と国を|肯定《こうてい》する。
そのために私は血を流し、|騙《だま》し、裏切り、殺し、|試逆《しいぎゃく》してきた。君の言う呪いも何とか乗り切られるよう|研鑽《けんさん》と叡知を|傾《かたむ》けよう」
卿の目はひどく|真《ま》っ|直《す》ぐだった。
卿のこの|大仰《おおぎょう》な言葉に、ほんの少しでも真意が|含有《がんゆう》されるのなら、私は彼を認めようと思う。
「ま、次の選挙では、私の|派閥《はばつ》に一票を投票していただければ幸い|至極《しごく》、光栄の至りだね」
このおっさんの言うことは、どこまでが本当で、どこまでが|虚偽《きょぎ》かは分からない。
後者が多いのは確実だろうが。
「さて昼食にしようか。観光案内書のこのウルク料理の店に行きたいな。私が熱々のウルクが大好きなのは有名だから知ってるだろう?」
左下に視線を流し、卿が言った。
いい加減うんざりしてきたので、武官との交代時間を幸いにその場を去る。
モルディーン卿の|寂《さび》しそうな視線が背中に|刺《さ》さるが、無視する。
|狂乱《きょうらん》の祝祭は、明日に終幕が|下《お》りる。
4 夜と追憶
「夢も物語も|妄想《もうそう》だと否定し、世界は現実しか無いとする現実主義者に一つ聞きたい。君たちの|崇《あが》める金も国家も法も正義も、|全《すべ》ては|我等《われら》が妄想の国の私生児だ。否定をするなら、どうぞ私にそれ等の所在揚所を指で指し示していただきたい。世界は妄想も|含《ふく》めて多様多重世界なのだ」
タデオ・ルフ・ボルボック|咒伯爵《じゅはくしゃく》
|皇暦《こうれき》四一一年十二月十一日、トリスタン誌上で
|硝子《がらす》管内部の陰極と陽極の間を電子が|交錯《こうさく》し、ナトリウム灯やネオン灯の色とりどりの明かりが街の角々で|煌々《こうこう》と|灯《とも》りはじめ、|蒼白《あおじろ》く|優《やさ》しい月明かりを|駆逐《くちく》していき、エリダナのそこかしこに流れる|川面《かわも》に光点を落とす。
建物と建物の谷底の|目抜《めぬ》き通りや橋々の上には、まだまだ人々がそぞろ歩き、これからが本番とばかりに夜の祭りをも楽しもうとしていた。
|夕陽《ゆうひ》が遠くに落ち、|黒猫《くろねこ》が|舞《ま》い降りるように夜の|帳《とばり》が街を|覆《おお》おうとも、エリダナの|歌乙女《うたおとめ》の祝祭は続いていた。
エリダナ|随一《ずいいち》の格式と|豪華《ごうか》さと高料金を|誇《ほこ》る、リンツホテルの正面|玄関《げんかん》前。
祭りに遠路|遥々《はるばる》と来訪した観光客や、夜会に向かい|着飾《きかざ》った人々が、大理石の柱に|挟《はさ》まれた玄関を|頻繁《ひんぱん》に出入りしている。
|磨《みが》きあげられた|花崗岩《かこうがん》で飾った|壁面《へきめん》の、十五階建ての|楼閣《ろうかく》を左方に見ながら、車道を|悠然《ゆうぜん》と進んでいく長大な|黒塗《くろぬ》りの高級車の中。
「いや、久しぶりに楽しんだよ。祭りと美食と喧騒をね」
モルディーン|枢機卿長《すうきけいちょう》が、祝祭を|堪能《たんのう》した感想を|漏《も》らした。
俺は車内からも周囲を|監視《かんし》しており、卿と視線を合わすわけもなく、その|慨嘆《がいたん》が心からの感想かは分からないし知る気もない。
祝祭のざわめきとは別の、悲鳴のような|掛《か》け声が車窓|越《ご》しに俺の耳に飛び込んできた。
視線を向けると、赤字で主張が書かれた看板を|掲《かか》げ、どこか思いつめた顔の人間たちが、悲鳴のような声を上げ歩道を行進していた。
「ティエンルン合意へのラペトデス七都市同盟の|批准《ひじゅん》反対!」
「人と|竜《りゅう》に何の約定か! ツェベルン|龍皇国《りゅうおうこく》も条約を即時|破棄《はき》せよ!」
主張の内容からすると、彼らが問題にしているティエンルン合意条約とは、確か竜族主流派の|賢龍派《ヴァイゼン》が人類諸国家と|締結《ていけつ》した条約で、無用な争いを|避《さ》けるために|相互《そうご》の|不可侵《ふかしん》|不干渉《ふかんしょう》を取り決めた法である。
その条約ゆえに、竜主流派の定めた|緩衝《かんしょう》境界線を|侵犯《しんぱん》し人類に危害をなす竜強硬派は、竜族全体の|平穏《へいおん》への反逆者とされ、人類が独自に|討伐《とうばつ》することが半ば|黙認《もくにん》されており、竜と人との本格的|衝突《しょうとつ》が避けられているのである。
しかし、ラペトデス七都市同盟の成立は約百年ほど前であり、当然その何百年も前、皇暦三十六年に成立したティエンルン合意条約を批准することなど不可能だった。
しかし、条約批准をしない竜の殺害という現状は、知的生物の権利で大陸で最も進んだ国家を|標傍《ひょうぼう》している同盟としては、非常に|体裁《ていさい》が悪い。
同盟独立時に条約を無視して皇国の|象徴《しょうちょう》たる竜を当てつけに討伐したために、いまさらの条約批准もできず、今現在、同盟の|竜被害《りゅうひがい》は皇国よりも多いという事態を引き起こしている。
現在、七都市同盟の野党民進党党首ヤーウェン下院議員が批准推進派として会談に|赴《おもむ》いているが、いつものごとく竜族は返答すら表わさず、眼前で|抗議《こうぎ》運動をしている反対派の|思惑《おもわく》どおり、高い確率で失敗するだろう。
俺もエリダナ東側の同盟側|管轄地《かんかつち》での竜討伐があるので無関心ではいられない。
俺の|隣《となり》の座席で|瞑目《めいもく》している竜殺しのドラッケン族にとっては竜を殺せさえすれば、その後は世界すらどうでもいいのだろうが。
何かを察したのかドラッケン族は美しい銀の右目を開き、俺の方を見て、そして閉じた。
俺の予測では、この特注車の高級な|椅子《いす》を|偶然《ぐうぜん》|裾《すそ》に引っかかったフリして持って帰れないか、とギギナは|真剣《しんけん》に考えているのだと思われる。
車窓の向こうでは抗議者たちが|怒号《どごう》のような声を上げはじめ、俺は|嘆息《たんそく》を|吐《つ》く。
モルディーン枢機卿長が俺の嘆息に気づいたらしく口を開く。
「彼らを|愚《おろ》かと思うかね。しかしその主張の|幾分《いくぶん》かは正しい。〈竜〉と人の、もしくは人と〈|異貌《いぼう》のものども〉の共存など、|所詮《しょせん》はありえない。
|皆《みな》仲良くなんて|愚者《ぐしゃ》の|戯言《たわごと》だ。絶対的な断絶の存在を理解し、だからこそ相互不干渉を定める条約という|枠組《わくぐ》みが必要なのだが、それが彼らには想像できないだけだ」
「無知と貧困と行進が結合すれば、ああいう|馬鹿《ばか》が合成されるだけですよ。しかし一方で、敵に家族や知人を殺されたら、条約なんてのは許しがたい|妥協《だきょう》に思えるのですよ」
「それは分かる。だがそれは個人の視点だ。私が、国家が|肯定《こうてい》するわけにはいかない」
俺は反感を覚え返してしまう。
「|埃《ほこり》の積もった権力論理ですね。それは七都市同盟との関係にも当てはまりますか?」
「その通り、七都市同盟は人間だ。だからこそ|凡庸《ぼんよう》な利益合理主義がある程度通じる。それこそが我々の取りうる限界の|施策《しさく》だ」
卿の言葉に答える気力もなく|沈黙《ちんもく》していると、車外では現れた郡警察たちと、退去を命じられているらしい抗議者たちとが言い争っていた。
|彼《かれ》らは看板を|振《ふ》り上げ抗議をしていたが、それが暴力|行為《こうい》と見なされ、ついには振り下ろされる警棒の下に|排除《はいじょ》されていくのが見えた。
その|騒擾《そうじょう》から遠ざかり、ホテル裏手の|賓客《ひんきゃく》専用の入口を目指し|車輌《しゃりょう》が左折、弱い遠心力が外方向へと俺の|薄《うす》い|尻《しり》に加わる。
「で、これからの護衛計画は?」
外から視線を外さないままの俺の問いに、前の座席に座るヘロデルが答える。
「リンツホテルに入ればまったく心配ない。|匿名《とくめい》で一つの階を丸ごと、そしてその上下階も|偽装《ぎそう》で借りてあります。
|滞在《たいざい》する階は何階のどこかは防犯上分からないようになっている独立構造で、最高の|咒式《じゅしき》|結界《けっかい》と|警戒《けいかい》装置が|十重二十重《とえはたえ》に張りめぐらせてあり、第七階位の準戦略級咒式の直撃でも|耐《た》えられる上に、選皇王家の護衛|騎士《きし》が|駐屯《ちゅうとん》し、絶対安全です」
「大陸最高の|宿泊《しゅくはく》設備と大陸最高の安全。皇室|御用達《ごようたし》のリンツホテルの名は、飾りでも|大仰《おおぎょう》|過剰《かじょう》でもない、か」
俺にはリンツホテルの冷たい|花崗岩《かこうがん》の壁面が、|堅固《けんご》な城壁に見えてきた。
「まさに豪奢かつ|堅牢《けんろう》な|要塞《ようさい》だな。|浮《う》かれるどこかの|猊下《げいか》が、ここから一歩も出ないでくれれば、我々の警護も非常に楽なんだがな」
ギギナの無礼な|厭味《いやみ》に、卿自身も「それはもっともな見解だ」と薄く|苦笑《くしょう》していた。
俺は再度ヘロデルに問う。
「とすると、私たちもリンツホテルの中で警護を行うのか?」
護衛に|挟《はさ》まれ、|葡萄酒《ぶどうしゅ》の|杯《はい》を|傾《かたむ》けている卿がそれに答える。
「明日の朝からの観光で外出するまで、特に護衛と案内の必要はないね。君たちとはまた明日の朝に感動の再会ということだね」
「猊下、護衛を下げるなどとんでもない!」
ヘロデルが血相を変えて振り向いてくる。それに対し|枢機卿長《すうきけいちょう》は|泰然《たいぜん》と笑う。
「絶対安全だと言ったのは君だよ。まあいいじゃないか、皇宮で大陸一|邪悪《じゃあく》な|陰謀家《いんぼうか》と|陰口《かげぐち》を|叩《たた》かれる私にだって、このホテルを完全装衛の軍隊なしに|侵入《しんにゅう》する手段は思いつかない。つまり、ほぼ絶対に安全だということだよ。
それに秘書官君とガユス君にも友人同士で積もる話があるだろう? 今夜は思い出話でも語り合いたまえ。うん、私はいい上司だなぁ」
一度言いだしたら聞かない枢機卿長の発言に、ヘロデルが|肩《かた》と|髭《ひげ》を落とし重い|吐息《といき》を|吐《は》く。
「君と|呑《の》むなんて、何年ぶりかな?」
「学院生時代が最後だからな。会わなかった時間と同じ、五年と三ヵ月半から、五年二ヵ月前といったところだろう」
「君は相変わらず細かいな」
「これでも|杜撰《ずさん》になった方だ」
ヘロデルは|赫《あか》いジェダ酒を、俺は冷えたダイクンカクテルの杯を傾けていた。
地下の店内の空気中には|穏《おだ》やかな|旋律《せんりつ》が流れ、|天井《てんじょう》の木製の三枚の|翼《つばさ》が|悠然《ゆうぜん》と回転し、空気と|音符《おんぷ》を|攪辞《かくはん》していた。
落ちついた|飴色《あめいろ》の木材の|壁《かべ》。それに合わせた色の椅子と|卓《たく》に、酒や食事を楽しむ、ほとんどは|攻性《こうせい》|咒式士《じゅしきし》の客たちが|集《つど》い、それぞれの後ろ暗い話題をそれぞれに|囁《ささや》き合う。
適度に|抑《おさ》えられた暖色照明が、攻性咒式士特有の|鋭《するど》い視線や、|硝子《がらす》の酒杯の|硬質《こうしつ》の|輪郭《りんかく》を|柔《やわ》らかくしていた。
俺の目の前には、地名、人名、事件と様々な由来の名を付けられ、|百花《ひゃっか》|繚乱《りょうらん》の|色彩《しきさい》をまとった花々にも似た|酒瓶《さかびん》が数百本と、天井までの高さの|樫材《かしざい》の|棚《たな》に並ぶ。
カウンター裏では、|蝶《ちょう》ネクタイに|吊《つ》り帯の|矍鑠《かくしゃく》とした老バーテンダーが|闘牛士《とうぎゅうし》の|如《ごと》くに|優雅《ゆうが》に立ち、客の注文の|混合酒《カクテル》を銀色の|攪拌筒《シェイカー》で律動的に前後させ、アルコールの角を取っていた。
モルディーン卿に、|束《つか》の|間《ま》だが護衛の任を解かれた俺達は、それでも護衛の都合上リンツホテルの近くがいいだろうと、俺の|馴染《なじ》みのバー「青い|煉獄《れんごく》」に行くことにしたのだ。
二杯目のジェダ酒を、正確に五分の三ほど空けたヘロデルが言葉を|継《つ》ぐ。
「急に来て仕事を|頼《たの》んですまない。何しろ猊下の気まぐれで急な観光で、現地に明るく|頼《たよ》れる人間が、君以外にいなかったのだ」
「気にするな。俺と相棒にすれば、借金全額返しても|充分《じゅうぶん》お|釣《つ》りの来る臨時収入は有り|難《がた》かったしな」
「しかし、その君の|綺麗《きれい》な顔の相方はどこへ? 私たちに気を|遣《つか》ってくれたのか?」
「今はその重武装移動型|疫病神《やくびょうがみ》の話だけはやめてくれ、酒が|不味《まず》くなる」
|怪訝《けげん》な顔をするヘロデルには分かるまい。あの|馬鹿《ばか》ドラッケンは、今回の収入を当て込んで「二十四時間どころか気合いで二十五時間営業」が合言葉の|咒式具《じゅしきぐ》専門店ロルカ屋に直行し、新たな馬鹿高い|咒式《じゅしき》|装備《そうび》|購入《こうにゅう》の|吟味《ぎんみ》をしているのだろう。
実は昨夜、ギギナを正座させ、|家計簿《かけいぼ》を付けると指切りまでして約束させた。
経費|欄《らん》に「|無駄《むだ》|遣《づか》い」という|大譲歩《だいじょうほ》の|項目《こうもく》まで作ってやったのに、今朝|屑籠《くずかご》の中に、その家計簿の|惨殺《ざんさつ》死体を発見した時には、さすがにギギナ暗殺計画第一三七|號《ごう》の、|握手《あくしゅ》からの|攻性《こうせい》|咒式《じゅしき》を|惜《お》しくも実行したくなった。(ちなみに計画は、日々の|呪《のろ》いから偽装事故死まで六五四號まで完備している)
|貯蓄《ちょちく》や計画性という|概念《がいねん》をまったく理解しないギギナが標準とは思わないが、一体、ドラッケン族はどうやって現代自由経済社会に生きているのだろう?
公共事業による一定の市場活性化と非協力状態における取引の|均衡《きんこう》を提唱した、現代経済学の始祖たる|偉大《いだい》な経済学者のゲイブルが、|戦闘《せんとう》|嗜好症《しこうしょう》のドラッケン族から生まれたのは、幼少時代の|理不尽《りふじん》|極《きわ》まる|境遇《きょうぐう》への|義憤《ぎふん》と|復讐《ふくしゅう》からだろうと俺は思う。
俺の場合は殺人事件を生みそうだが。
などと高速思考をしていると、俺の右目にヘロデルの|呆《あき》れたような表情が映った。
「君は変わっていないな。学生時代から思考の横道へと飛ぶ|癖《くせ》が治っていない」
「回想の|邪魔《じゃま》をするな。第一、本当の|高位《こうい》|化学《かがく》|練成《れんせい》|咒式士《じゅしきし》とはこんなものなんだよ」
ヘロデルの苦笑いに俺は答える。
例えば相棒の|剣舞士《けんまいし》、ギギナの|奴《やつ》は生体系の中でも実戦的な|強化系《きょうかけい》|咒式士《じゅしきし》である。
この系統は生体内部で様々な高分子を合成し、|超人的《ちょうじんてき》な筋力や再生能力、さらには遺伝子変化や元素|置換《ちかん》を起こし、進化と退化を|司《つかさど》る咒式士であり、その近接戦闘力を生かして、前衛役の|剛剣士《ごうけんし》や剛闘士という|咒式職《じゅしきしょく》を形成している。
単純に自分への作用力を|振《ふ》るえは済むそいつら前衛役と|違《ちが》い、俺のような化学系は、その場で最も有効な薬毒物や|爆薬《ばくやく》等の化学物質を合成する現代の|錬金術師《れんきんじゅつし》であり、電磁系の光線を放つ|光幻士《こうげんし》や、数法系の数式で力を呼び出す|符咒士《ふじゅし》らに並んで、後衛役に多い咒式士である。
|化学《かがく》|練成系《れんせいけい》|咒式士《じゅしきし》の俺は、|常日頃《つねひごろ》から思考を回転させ|状況《じょうきょう》の情報を|分析《ぶんせき》し、人の心理を疑い深く|探《さぐ》って|編《だま》す、言わば性格の悪い|咒式士《じゅしきし》である必要があるのだ。
と、いちいち|根性悪《こんじょうわる》の|山羊《やぎ》の角のごとく|捩《ね》じくれた思考を行うのが、再び|隣《となり》のヘロデルの苦笑いを呼んでいることに、さすがに気づいた。
俺は苦い思考を、冷えたダイクンとともに|呑《の》み干し、老バーテンにギレンテ酒を注文する。
老|紳士《しんし》は無言で重々しく|頷《うなず》き、蒸留酒とライムを調合した銀色の|筒《つつ》を振りはじめる。
そんな俺に構わずヘロデルが続ける。
「すまんな、|猊下《げいか》のおもりはさぞ大変だったろう」
「まったくだ、悪魔の|尻穴《しりあな》を|拭《ふ》くほうがよっぽど気楽だね」
ヘロデルも俺も|苦笑《くしょう》して今日一日を振り返る。長い一日だった。ヘロデルが遠い目をして言葉を継ぐ。
「そういえば、昨日から|多忙《たぼう》すぎて、君との旧交を温める|暇《ひま》もなかったな」
「やめろよ、んな気色悪い口調は」
俺が空いた|左肘《ひだりひじ》で旧友の胸を|突《つ》くと、ヘロデルは呑んでいた赫い酒を|鼻孔《びこう》から|吹《ふ》き出し、激しくむせる。
ヘロデルが|驚《おどろ》きの顔から、急速に五年前の学生時代の顔に|戻《もど》り、俺の胸を突き返す。
「ガユス、|礼儀《れいぎ》っていう言葉の|噂《うわさ》を知ってるか? 本当に実在するらしいぞ」
「ヘロデルよ、そう思っても言わないのが真の礼儀というものだろうが」
そこでヘロデルは小さく笑い、急に少しだけ真顔になる。
「しかしその|歳《とし》で|咒式士《じゅしきし》の十二|階梯《かいてい》とは|凄《すご》いな、何をどうしたらそうなるんだ?」
「退学以後は実戦で馬鹿みたく|鍛《きた》えられたからな。もうすぐ|到達者《とうたつしゃ》たる十三階梯だ。
ギギナの|阿呆《あほう》がすでに十三階梯なのは、何かの間違いか、大気温暖化のせいなので忘れろ」
「一人で軍の二個中隊にも|匹敵《ひってき》する十三階梯か。学院出でも、|攻性咒式士《こうせいじゅしきし》に転職してそこまで行く奴はまずいないぞ。ランバルテ|化学《かがく》|咒式《じゅしき》|研究室《けんきゅうしつ》|随一《ずいいち》の|俊英《しゅんえい》は、いまだ|錆《さ》びつかず、だな」
俺は空の|酒杯《しゅはい》を手で|弄《もてあそ》ぶ。
「そういや俺を追い出した、ランバルテの|腐《くさ》れ|爺《じじい》はまだ生き腐ってやがるのか?」
「さあな、だが二年前に学院に寄った時のランバルテ教授は、痛風に|悩《なや》んでいる程度で|御元気《おげんき》だったから、たぶん今でも|御健在《ごけんざい》だろう。いまだにガユス、おまえのことを気にかけていたよ。自分の理論の最高の|後継者《こうけいしゃ》を失い、無法者を一人生んでしまったと」
「だから学者一筋の馬鹿は|嫌《きら》いなんだよ。結局|他人《ひと》を学究の道具にしか見ていない」
「それでも教授は|後悔《こうかい》なされていた。あの時の御自分の処断を。大事なものは失ってから気づく。|哀《かな》しみは意外と|平凡《へいぼん》なのだな、と」
それでも昔話は|懐《なつ》かしかった。自分は|自滅《じめつ》同然に去ったといえど、ヘロデルから学友たちのその後の進路や|結婚話《けっこんばなし》を聞くだけで、胸の奥が|郷愁《きょうしゅう》の甘い|疼痛《とうつう》に|締《し》めつけられる。
「昔話といえば、あの|頃《ころ》二人でランバルテの|咒式《じゅしき》|構造式《こうぞうしき》を|盗《ぬす》み|見《み》して作った、あの二つの|化学《かがく》|咒式《じゅしき》は使っているのか?」
「正気かヘロデル、あれが|幾《いく》つの|咒式法《じゅしきほう》や条約に|違反《いはん》していると思っている? 第一、戦闘に使うにしても、あの二つはあまりに危険すぎる。まあ、青春の良き思い出に|封印《ふういん》しておくのがいいだろう」
ヘロデルがなぜか残念そうな顔をする。
「あの歩く非常識のガユスが、そんな|退屈《たいくつ》な常識を言うようになるとはね、時間の流れとは|恐《おそ》ろしいものだ」
俺は我れ知らず|真剣《しんけん》な声で続ける。
「俺の方こそ意外だったよ。|化学《かがく》|咒式《じゅしき》|学部《がくぶ》から|法政《ほうせい》|咒《じゅしき》|式学部《がくぶ》に学部|変更《へんこう》してまで軍部に行ったおまえが、|龍皇《りゅうおう》陛下派で教会の実力者、しかも共存和平の現実利益派の|領袖《りょうしゅう》たるモルディーン|卿《きょう》に付いているとはね」
老バーテンから冷えたギレンテ酒を受け取りながらの俺の問いに、ヘロデルは|杯《さかずき》を|舐《な》めながら|暫時《ざんじ》|沈黙《ちんもく》していたが、やがて重い口を開いた。
「あの頃は軍部が正しいと思っていた。俺の大切なものを|奪《うば》ったラベトデス七都市同盟を|倒《たお》すことのみが。だが今はもう違う。復讐では|誰《だれ》も何も救えない、特に国家という単位では、な。
そう、あの|御方《おかた》に教わり、俺は変わったんだ。俺は猊下の指し示す道を信じている」
熱を帯びたヘロデルの言葉は酒の|所為《せい》だけではないようだ。俺はふと問うてみた。
「おまえは過去を|忘却《ぼうきゃく》できたのか?」
「おまえはどうなんだ。|攻性《こうせい》|咒式士《じゅしきし》へと|逃《に》げたおまえが何を言える?」
俺達は|互《たが》いの過去に言葉を|喪失《そうしつ》した。どうにも沈黙の多い酒だった。
満天の|星辰《せいしん》を眼下に|眺《なが》めるような、そんな|荘厳《そうごん》なエリダナの夜景を見下ろしている人物がいた。
リンツホテルの秘密の十三階、七重の|咒化《じゅか》|硝子《がらす》|窓《まど》のなかで、モルディーン|枢機卿長《すうきけいちょう》は後ろ手に手を組み、|悠然《ゆうぜん》と立っていた。
|豪著《ごうしゃ》な調度品や落ちついた|飴色《あめいろ》の木材で色調を統一された室内には、彼一人がいた。
護衛武官も|全《すべ》て奥の間に下がり、厳重な警護を|不眠《ふみん》|不休《ふきゅう》で続けるのだろう。
モルディーンの背後の、|螺鈿《らでん》模様が|彫《ほ》り込まれ|湾曲《わんきょく》した四つ|脚《あし》に支えられた|飾《かざ》り机。
|奇怪《きかい》なことに、複雑な文様を織り込んだガブラル|絨毯《じゅうたん》に落ちたその机の|影《かげ》が、真夏の路上の|陽炎《かげろう》のごとく|揺《ゆ》らめいていた。
それは永遠に平面であることに|倦《う》んだのか、左右奥行きがあるだけでなく、垂直方向に成長して立体構造を成しはじめた。
|轟《うごめ》き成長していく影は、ついには|闇《やみ》を人型に切り取ったような造形を取っていた。
まさに、|跪《ひざまず》く暗灰色の服の人間の形に。
「来たか」
枢機卿長は|振《ふ》り返ることなく、その影に肩越しの言葉を投げた。
「それで、七つの星の老人はどうした?」
枢機卿長の問いがそいつに放たれる。影はその声まで闇色の返答を|紡《つむ》ぐ。
「懐刀は予定通り明朝|到着《とうちゃく》。指し手たちは笛の音に|踊《おど》り、|傀儡《かいらい》と|猟師《りょうし》を呼び寄せた」
「もう一つの問題、反逆の迷い子の片割れは|生贅《いけにえ》たちを訪問してきたか?」
「さすがに市街地は不慣れでいまだ訪問できず、適当に当たりを付けては事件を起こすばかり。別策が必要だろう」
「|奴《やつ》にはいずれ合図でも送ってやるさ」
影は|懸念《けねん》の混じる声を|継《つ》いだ。
「計画変卦はないというのか?」
「その通り。不確定要素は多少存在するが、|充分《じゅうぶん》な|柔軟《じゅうなん》性を持たせられているから、劇の上演は必ず成功すると私は信じているよ。神とあの御方が私たちを守ってくだされるさ」
|一片《いっぺん》の|信仰心《しんこうしん》などもあるはずのない枢機卿長の背中|越《ご》しの言葉に、影は|一瞬《いつしゅん》何かを言おうと|躊躇《ちゅうちょ》したが、出現した時と同様に、|唐突《とうとつ》に絨毯の上の影に|沈《しず》み消えていった。
|樫《かし》製の|大扉《おおとびら》を|叩《たた》く音が聞こえ、モルディーンが入室を許可する。
一礼して入室して来た私服の|騎士《きし》と咒式士が「全室異常なしです」と報告、枢機卿長は背を向けたまま手を振って下がらせた。
「異常なし、ね。リンツの警備も|噂《うわさ》ほどじゃないし、うちの騎士団も質が下がったな。ま、あいつ相手では仕方ないか」
モルディーンは一人|慨嘆《がいたん》した。そして|舞台《ぶたい》俳優のように|大仰《おおぎょう》に両手を広げ独白する。
「さて、劇は開幕した。|脚本《きゃくほん》は書き|換《か》えたのだが、また誰かが書き換えたようだ。何処の誰が最後の|幕《とばり》を下ろし、観客の|万雷《ばんらい》の|拍手《はくしゅ》を受ける資格を得るのやら」
まるで舞台劇の|台詞《せりふ》を読み上げているような|過剰《かじょう》に|装飾的《そうしょくてき》な言葉だった。
さらに右手を|顎《あご》に当て、台詞を続ける。
「物質構成要素自体が波でもあるという発見により、古典物理学における、計算による事象の完全予測は|崩壊《ほうかい》した。つまり、神も誰も何も予測と決定をしきれないからこそ人生は楽しいのだよ」
どうも自分の台詞と演技が気に入らなかったのか、枢機卿長はしばし|瞑目《めいもく》して沈思黙考し、そして目を見開き言いなおす。
「|違《ちが》うな、この方がいい。
|我等《われら》は|絶叫《ぜつきょう》し問い続ける
誰かが美しい至銀の|短剣《たんけん》を
私の胸の奥の心臓に飾るまで
教えてくれ
その真実の|虚偽《きょぎ》と|薔薇《ばら》を
ジグムント・ヴァーレンハイトの詩は、こういう時に使うと|雰囲気《ふんいき》が出るなぁ」
自分の|一人芝居《ひとりしばい》にも彼は特に楽しくもなさそうに|欠伸《あくび》をし、そろそろ|眠《ねむ》ることにした。
「というわけで、だ。|解熱剤《げねつざい》には非ステロイド|抗炎症剤《こうえんしょうざい》系とアセトアミノフェン系があるが、より副作用の少ないのは後者の方なんだ。解熱剤は、炎症の体温|上昇《じょうしょう》の|延髄《えんずい》活動を|刺激《しげき》するプロスタグランディンという物質の合成を|抑《おさ》えるのだが、アセトアミノフェンは限定的に脳にだけ働き、抗炎症剤は|患部《かんぶ》に働くわけなんだ。
正常な炎症は血液|循環《じゅんかん》を良くして修復速度も上げるから、それを無理に抑えるのは最終的には傷の完治も|遅《おく》れる。といっても、アセトアミノフェンも解熱剤も必要最低限に使う方がいいって、あれ?」
俺が|喋《しゃべ》っていると、右横に座っているはずのヘロデルは分子一つ残さず消えていた。
|記憶《きおく》を|辿《たど》ると、ヘロデルは明日は早くから関係者と護衛計画の調整があるから、ホテルへ|帰還《きかん》すると言って去ったのだった。
俺もすごく関係者じゃないのか? と思ったが、まあ気にしない。
俺は|凍《い》てつく寸前のダイクンカクテルか、舌を|刺《さ》す刺激のギレンテ酒があれは満足だ。|支払《しはら》いもヘロデル持ちなので|尚《なお》、満足だ。
しかもギギナが俺の半径十メルトル以内にいないので満点だ。
だがしかし、|幻覚《げんかく》が見えた。|悪酔《わるよ》いだ。
学生時代に試した幻覚剤が|今頃《いまごろ》になって副作用を起こしたのか、向こうから悪夢が接近してくる。
「やれやれ、ここにいるとは思ったが、仕事中に酔うとは。ドラッケン族の寸言たる「|酒杯《しゅはい》を|傾《かたむ》けながら|剣《けん》は振れない」を貴様に教えてやらなかったか?」
悪夢が喋る。いかにもあいつが言いそうな|胸糞《むなくそ》|悪《わる》い台詞だ。消えろと毒思念波を送る。
「ぴぴぴー、おまけにぴぴぴー」
「私の許可なく|壊《こわ》れるな。帰るぞガユス」
実体化した悪夢はさらに俺の|襟首《えりくび》を|掴《つか》み、空中にぶら下げる。
「うふん、ギギナさんお久しぶりねぇ、ほーらお兄さん、空気あるよ空気、採れたてのピチピチ|新鮮《しんせん》空気を、今なら三割増量で売り殺すよん」
俺は手で空気を掴みながらギギナに差し出す。
酔った俺の脳髄言語野と口が、わけの分からない言葉を|吐《は》き出しているようだ。
ギギナは|美貌《びぼう》に|憮然《ぶぜん》とした表情を|浮《う》かべ、その顔のまま俺を|肩《かた》に|抱《かか》えて歩きだす。
もったいないので、|硝子杯《がらすはい》を|黙々《もくもく》と|磨《みが》く老バーテンに空気を無料であげると、彼は|恭《うやうや》しく受け取り|真面目《まじめ》な顔でこう言った。
「無料でいただくわけには参りませんので、店の酒棚に取り置きしておきます」
俺は何かの死病の|発作《ほっさ》のように笑いながら、ギギナに運ばれる。
出口でそのギギナが|振《ふ》り返り、言った。
「主人よ、この店の|酒棚《さかだな》は目|利《き》きの私が見ても歴史を重ねたいい棚で、|椅子《いす》たちもいい顔をしている。大事に|可愛《かわい》がれ」
老バーテンが|怪訝《けげん》な顔をしたいのを何とか職業意識でこらえて|頷《うなず》くのを、俺はさらに|断末魔《だんまつま》の|痙攣《けいれん》のように笑いながらバーを辞した。
長い夜だった。
上を見上げれば、建物の|稜線《りょうせん》に祝祭の残り火が遠く|望《のぞ》める街路。
さすがにこの時間、通りには人通りも絶えてしまっていて、まるで遠いマリマル|海溝《かいこう》の深く|昏《くら》い海の底のようだった。
別にそんな深海へ行った経験はないが。
歩道の|石畳《いしだたみ》の上を、俺に肩を貸しながらギギナが進む。
身長一八三センチメルトルの俺より、さらにギギナの方が頭半分高い一九四センチもあるので|奇妙《きみょう》な|二人《ににん》|三脚《さんきゃく》の歩みになる。
「ギギナの低能、|戦闘《せんとう》|偏執狂《へんしつきょう》め、おまえの頭の中で|兜虫《かぶとむし》を飼うのを|即刻《そっこく》中止せよ。おまえの息は血と臓物と死の|臭《にお》いがする。いつも|稼《かせ》ぎ以上に使いやがって、家計の苦しさを理解しろってんだって、俺は主婦か?
いえいえ|滅相《めっそう》もない、あたしゃ通りすがりのギギナ絶対反対|絶滅《ぜつめつ》根絶|殲滅《せんめつ》主義者です」 俺は|酒精《アルコール》の勢いを借りて、|普段《ふだん》なら言えないギギナへの文句を並べ立てる。|反吐《へど》と|一緒《いつしょ》で|一端《いったん》口を出ると、なかなか止まらなかった。
「くそ、おまえが|誘《さそ》わなかったら、俺は|平凡《へいぼん》な|貧乏《びんぼう》貴族の|三男坊《ぼう》の人生で、学士にでもなった後、今頃学院の助手か研究員になって、|可愛《かわい》い奥さんと二人の|娘《むすめ》と|息子《むすこ》がいたんだ」
ギギナがその美貌を軽く|歪《ゆが》める。
「最初の方の|妄想《もうそう》は、まあ理解できないこともないが、その後の、私が貴様と会った時にはすでに学院を立派に退学していただろうが」
それでも俺は悪口雑言と|罵詈《ばり》|讒諺《ざんぼう》をひたすら並べ続けていた。ドラッケン族は俺の上方で|不愉快《ふゆかい》そうな顔をしていた。
「なあ、ガユスよ、貴様本当に酔っているのか?」
「ううん、酔った|演技《フリ》をした方が、おまえも|酔漢《すいかん》の|戯言《たわごと》と思って|怒《おこ》らないだろ?」
俺の|至極《しごく》合理的な意見に、ギギナは腹への|鉄拳《てっけん》で|応《こた》える。本気ではないのだろうが、苦痛で|反吐《へど》を|戻《もど》しそうになった。
そして「では続けろ」と言った。
意外な展開に酒精がいくらか飛んだ。
「続けろ、言いたいことがあれば言え」
異常に|寛大《かんだい》である。俺の疑問をよそに|奴《やつ》は続けた。
「私と貴様はなぜだか相棒だ、腹蔵なく何でも言い合い、そして許し合おうではないか」
その日が天空を見ている。空はいつの間にか|薄曇《うすぐも》りの真っ暗な夜空になっていた。
この精神永久氷河期の、心の広さが分子間|距離《きょり》以下のギギナが急に改心するとは。
物理学的にありえない。
この世に質量不変の法則、熱力学第一|及《およ》び第二法則と同等に確実なものがあるとすれば、それはギギナは|邪悪《じゃあく》だということだ。
つまり論理的結論はこうだ。
「おまえ、また|馬鹿《ばか》|高《たか》い|咒式具《じゅしきぐ》か家具を買ったんだろ」
ギギナが|亜《あ》音速で顔を反らした。
そして言いやがった。
「図書館で借りた『飼育動物を|躾《しつ》ける一〇〇の方法』のなかで、時には飼育する動物と話し合えとあったからな。赤ちゃん言葉もいいらしいが、そこまで私がする義務はない」
くだらない最低の|冗句《ジョーク》だが、俺は小さく|吹《ふ》いた。
俺がこいつと長く組んでいる理由は分からない。剣や咒式の|腕《うで》などどうでもいい。
「俺はおまえが|大嫌《だいきら》いだ」
「|素晴《すば》らしく気が合うな、私も貴様が大嫌いだ」
ギギナが皮肉気に|微笑《びしょう》した。俺も鼻先で笑い捨てた。
しかし、笑うしかないだろ、実際のところ。
「一つ聞いていいかギギナ。一体おまえは何のために生きている。その|血塗《ちまみ》れの人生はどこの|地獄《じごく》を目指していやがる」 |酔《よ》った俺のロから|日頃《ひごろ》の疑問が|零《こぼ》れ、怪訝な顔をしつつ、やがて|戦鬼《せんき》が答えた。
「理由などという|戯《ざ》れ|言《ごと》を必要とするのは、貴様のような弱者だ。私には理由はない。ただ自然にあるがままを成しているだけだ」
ギギナは逆に俺に問い返した。
「貴様はなぜ生きてなぜそれを問う。貴様のように答えと価値観すらも他人に|依存《いぞん》する人間など私には理解できないし、まったく存在理由が分からない」
ギギナの言葉に俺は|厭《いや》な気分になる。多分にそれは俺の本質を|突《つ》いているからだ。
いつも直線でしか話さないこの男の|側《そば》にいると、時にそういう気分になれる。それでもなぜ組むのかは俺にはやはり分からない。
ここからほど近い俺達の|隠《かく》れ|家《が》の一つで朝まで過ごすことにし、二人でマイート|菓子店《かしてん》の、店主のマイートの意味なく|巨大《きょだい》な|笑顔《えがお》の看板の下の角を曲がる。
俺とギギナから、わずか人間五人分の身長の間合いの距離。街灯の明かりすらほとんど届かない|影《かげ》と|闇《やみ》の世界。
黒々としたアスファルトの上にわだかまる、晴天より落ちし夜の|破片《はへん》があった。
それは無責任な|噂《うわさ》|通《どお》りに、闇よりなお一層の|昏《くら》さの、|関《ひらめ》く光すら|呑《の》み込むという|超重轟洞《ブラックホール》のような無明色の上下の服と、同色の|腰《こし》まで届く長い|髪《かみ》の女だった。
その足元には、腹部から赤黒い内臓をはみ出させた警備会社の制服姿の男が、自らの血に|塗《まみ》れた|魔杖《まじょう》|短剣《たんけん》を|握《にぎ》りしめていた。
白い|肌《はだ》の人形のような|容貌《ようぼう》の、女の|双《ふた》つの眼球だけが|燐光《りんこう》のように光ることまで噂通りだった。続く言葉も同様に。
「|汝《なんじ》が、汝らが我が|愛《いと》しの背の君を|弑《ころ》したのかえ?」
老人と幼児が同時に発音したような、|奇妙《きみょう》な|韻律《いんりつ》の声だった。
その声は、|純粋《じゅんすい》な|悲哀《ひあい》と|哀切《あいせつ》により成分組成されていたが、声を発した女自身の表情は金属の表面のようにまったく|平坦《へいたん》だった。
まるで表情の作り方を知らないみたいに。
(|咒式《じゅしき》士殺しだっ!)
俺の背に|落雷《らくらい》のように|強烈《きょうれつ》な|怖気《おぞけ》が走り、酔いも吹き飛ぶ。
噂話以上にこいつは危険だ。手負いの|肉食獣《にくしょくじゅう》と|対峙《たいじ》したかのごとく、ここまで敵意と殺意が放射された存在に対し、俺の本能が|恐怖《きょうふ》に反応する。
ギギナも|膨大《ぼうだい》な殺意を|瞬時《しゅんじ》に感じ取り、|長柄《ながえ》を|伸《の》ばしながら背中の|鞘《さや》へと回す。
結合|円盤《えんばん》が固定|鋲《びょう》を打ち込み、内部で回転して長柄と|刃《やいば》を一体化させ、生まれた|屠竜刀《とりゅうとう》ネレトーを引き|抜《ぬ》き、地を|蹴《け》り|疾駆《しっく》しはじめた。
同時に俺も断罪者ヨルガを|抜剣《ばっけん》し、ギギナと左右からの|斬撃《ざんげき》を同時に|叩《たた》き込む。
二条の|閃光《せんこう》に対して、その女は無造作に一歩、歩みを進め、|被害者《ひがいしゃ》の血海の|飛沫《しぶき》を散らしながらアスファルトを|踏《ふ》み割る。
硬質音が発生し、そいつは|翳《かざ》した|両腕《りよううで》で|鋼《はがね》の|殺到《さっとう》を受け止めた。
その|可憐《かれん》な腕を包む黒き|両袖《りょうそで》の上で、俺達の刀身は、一ミリメルトルたりとも|皮膚《ひふ》と肉の中へと|侵入《しんにゅう》できなかった。
俺の|魔杖剣《まじょうけん》から|排出《はいしゅつ》された|咒弾《じゅだん》|空薬莢《からやっきょう》が、アスファルトの上で|澄《す》んだ金属音を立てる。
俺が剣の刃に宿らせた咒式は、|化学系《かがくけい》|練成《れんせい》|咒式《じゅしき》第二階〈|矢闇《ピ・ネ》〉である。
合成されたd−ツボクラリンは、アルカロイド系毒物で半数|致死量《ちしりょう》は体重一キログラムル当たり〇・三ミリグラムル。
そのアルカロイド系毒は神経伝達物質であるアセチルコリンに分子構造が|相似《そうじ》しているため、アセチルコリンに代わって受取口と結合し筋肉活動を|阻害《そがい》し、呼吸困難から|痙攣《けいれん》を起こさせ急速に|窒息死《ちっそくし》させるのだが、この魔女には何ら|影響《えいきょう》を|与《あた》えていなかった。
さらに|生体《せいたい》|強化《きょうか》|咒式《じゅしき》を使役する|剣舞士《けんまいし》ギギナの、その筋力強化された|一撃《いちげき》は、|主力《しゅりょく》|咒化《じゅか》|戦車《せんしゃ》と|攻殻《こうかく》|咒兵《じゅへい》の装甲以外の|全《すべ》ての兵器装甲を切り|裂《さ》く|威力《いりょく》を持つ。
その|猛毒《もうどく》と超|破壊《はかい》の|攻撃《こうげき》を、この魔女は多少苦い顔をしただけで受け止めたのだ。
双刃を載せたまま、女は両手を|捻《ひね》る。
信じられない|膂力《りょりょく》に、俺は右方の|漆喰《しっくい》の|壁《かべ》へと横向きの重力で叩きつけられ、|咒式《じゅしき》による肉体|置換《ちかん》で大型単車並みの、体重二〇〇キログラムル以上のギギナまで前方のアスファルトの地面に落とされる。
壁にめり込んだ俺の|軋《きし》む|肺腑《はいふ》から呼吸が|漏《も》れ、受け身を取ったギギナも、手負いの四足|獣《じゅう》のように地に|這《は》ったままの姿勢である。
女は追撃もせず、ただ|悠然《ゆうぜん》と立っていた。
こいつは|重力《じゅうりょく》|咒式士《じゅしきし》だった。
重力咒式士とは、物質の質量や重力子を|操《あやつ》る咒式を使役する咒式士である。
肉体や武具の一撃の重量を見かけ上増大させて威力を増加、重量密度を上げて肉体の|硬度《こうど》を|上昇《じょうしょう》させるその特性から、近接・|遠隔《えんかく》系ともに使われる咒式系統だ。
力の基本特性は単純ではあるが、それゆえに近接|戦闘《せんとう》においては、生物ゆえの出力限界がある生体系よりさらに|剣呑《けんのん》な咒式系統である。
その、|恐《おそ》るべき使い手が目前にいるのである。|到達者《とうたつしゃ》たる十三|階梯《かいてい》か、それ以上の|超《ちょう》級の重力系咒式使いが。
女が自分の両袖を見、目を見開く。
「その刃の切れ味、その|咒《まじな》いの波長」
その冷厳な大理石の顔に初めて感情のようなものが発生した。
「我が背の君の|仇《かたき》どもを見つけたぞ!」
|號《ごう》っ!
膨大な殺意が物質的な圧力となり、夜の大気に|噴出《ふんしゅつ》した。
女の視線は、まさにその眼光だけで死を与えようとする|殺戮《さつりく》の|禍神《まがかみ》の視線だった。
気弱な|心疾患者《しんしっかんしゃ》なら、その圧力波動で気死したかもしれない。
「一体どこの|誰《だれ》の仇だと!?」
ギギナが圧力に|耐《た》え、|前屈《ぜんくつ》姿勢から身を起こしつつ言い放った。
ギギナは元屠竜土以外に従軍経験もあり、何人もの人間を殺してきたと語ったことがある。
同様に俺も後ろ暗い仕事で何人もの人間を殺し、その手を血で染めてきた。もちろん|誇《ほこ》れる理由も無いことの方が断然多い。
人を殺す者はいつか|復讐者《ふくしゅうしゃ》の前に|倒《たお》れるだろうという|覚悟《かくご》、というかそういうものだとは理解している。
だが、俺達を二人|一緒《いっしょ》に仇と|狙《ねら》う心当たりはそう数多くはない。
「|何処《どこ》の誰だと、|汝《なんじ》らはそれすら知らずに|弑《ころ》したというのか!」
女はギギナと俺へと|距離《きょり》を|詰《つ》める。
「我れの名はウルズの♯ド*ォルク。我が|愛《いと》しの背の君、ウルズの誇り高きエ※ンギ♯ドの仇を取るべく|疾《と》く推参した!」
ギギナへと|横薙《よこな》ぎの一撃を繰り出しながら女が告げた二つの名前は、俺の知らない不思議な異国の発音のために、はっきりとは判別できなかった。
皇国表記文字に無理に変換すれば、女自身の名はニドヴォルクかイィドブォルク。後者はエニンギルゥドかウェニンギィエグドだろうか?
その右の|剛腕《ごうわん》の一撃を、刀身で|迎撃《げいげき》したギギナだが、刀ごと|身体《からだ》を持っていかれ夜の宙空へ水平に飛ばされる。
そのまま歩道の|欄干《らんかん》を|越《こ》え、下方へと落下するのに合わせ、俺も|跳躍《ちょうやく》して後へ続く。
重力に従い下方の道路に着地し、すぐに転がって身体全体で|衝撃《しょうげき》を吸収。
|頬《ほお》に夜気に冷えたアスファルトの|感触《かんしょく》を一瞬感じ、回転。
回転中に上を向いた視界に、黒が見えた。さらに|回避《かいひ》。俺が一瞬間前まで存在した地面を、上空から飛来した女の左足が|穿孔《せんこう》する。
その穴を|軸《じく》に回転し、アスファルトの|破片《はへん》を飛ばしながら、ニドヴォルクだかイィドブォルクだかが|瞬時《しゅんじ》に間合いを詰めてくる。
構えも何もない無造作な動きだが、発する物理的圧力はまったく減じない。
先に着地したギギナが身体を切り返し、大地から女の|眉間《みけん》へと|跳《は》ね上がるガナサイト|重咒《じゅうじゅ》|合金《ごうきん》の|雷光《らいこう》の一刀を放つ。
それに対し女が|腕《うで》を|一振《ひとふ》りする。ギギナは野性の本能でその直線|軌道《きどう》から身体を大きく反らし、跳躍。
同時に、ギギナのいた場所の背後にあった大型自動車に黒点が発生、金属製の|扉《とびら》や屋根が内部へ向かって瞬時に圧壊した。
街灯の支柱の|中程《なかほど》に横向きに着地し、鉄管を|握《にぎ》ってそこに停止したギギナの下方で、金属|塊《かい》の自動車が、まるで握り|潰《つぶ》された|紙屑《かみくず》のように圧壊する。
一瞬後、破壊された電気系統が燃料に着火、黒い|油煙《ゆえん》を上げて|炎上《えんじょう》する。
|噂《うわさ》に名高い、|重力《じゅうりょく》|力場系《りきばけい》|咒式《じゅしき》第五階位〈|轟重冥黒孔濤《ベヘ・モー》〉だった。
それは位相空間内の中性子星並みの|超巨大《ちょうきょだい》な仮想質量から放出される強力な重力子を、現実空間に順次転移させる高位咒式であった。
その超破壊力は、眼前のかつて車だったことも判別しがたい|残骸《ざんがい》で|嫌《いや》でも証明される。
重力波が時空の曲率で表わせられ、時空自体が歪められていると考えられるため、それを|遮断《しゃだん》する|防禦《ぼうぎょ》方法が事実上存在しない|厄介《やっかい》な|咒式《じゅしき》でもある。
重力使いと戦う時に最も|警戒《けいかい》される強力な咒式であるが、実際にこの高位咒式を行使できる|重力《じゅうりょく》|力場《りきば》|咒式士《じゅしき》はいまだ噂にも聞かない。
それを自在に行使するこの女は、破壊力において俺達を|通《はる》かに上回る。
白い頬を|紅蓮《ぐれん》の色に染めて立つ|魔女《まじょ》。
さらにその手から放出される不可視の重力波が、ギギナの|留《とど》まる街灯を破壊。
ギギナは|飛翔《ひしょう》して|逃《に》げるが、その|影《かげ》を|追跡《ついせき》する重力波が、アスファルトを、|石壁《いしかべ》を、紙細工のように千切り|圧搾《あっさく》|崩壊《ほうかい》させていく。
破壊音の多重奏の下を俺は半ば転がりながら|躱《かわ》す。着地したギギナは連続回避運動から間合いを詰め、|左脇《ひだりわき》から魔女へ剣撃を放つ。
その寸前でギギナは刀の軌道を変化させ、|猛禽類《もうきんるい》が|獲物《えもの》を|猟《か》るような|脚部《きゃくぶ》への急降下|攻撃《こうげき》に切り|換《か》える。
だが、ニドヴォルクは超反射で|上昇《じょうしょう》させた|華奢《きゃしゃ》な|脛《すね》で|白刃《はくじん》を受け止め|弾《はじ》き、金属同士が打ち合わされるような重い音を発生させる。
|渾身《こんしん》の一撃が防がれ、ギギナの体勢が乱れたそこへ、|頭蓋《ずがい》を|貫通《かんつう》する力を秘めたニドヴォルクの|貫手《ぬきて》が空気を|灼《や》き|疾《はし》る。
だが、その体勢の乱れは、俺の咒式の通り道を開けるためのギギナの|誘《さそ》いであった。
|魔杖剣《まじょうけん》ヨルガの|鍔元《つばもと》から|咒弾《じゅだん》|薬莢《やっきょう》が|排出《はいしゅつ》され、俺の|咒式《じゅしき》が発動する。
|迸《ほとばし》る液体が、横転するギギナの頭上を激流となり|瀑布《ばくふ》となり|駆《か》け|抜《ぬ》けて行き、攻撃動作中のニドヴォルクに|激突《げきとつ》し、|押《お》し|戻《もど》す!
|強烈《きょうれつ》な酸化反応で、夜気に強酸独特の|鼻孔《びこう》を|刺《さ》す|刺激臭《しげきしゅう》が満ちる。
俺の放出した|化学《かがく》|練成系《れんせいけい》|咒式《じゅしき》第三階位〈|皇瑞灼流《フォーカロル》〉が合成した強酸群、クロロ|硫酸《りゅうさん》や過塩素酸の|沸騰《ふっとう》した|奔流《ほんりゅう》の前に、そうそう生物が生存可能なはずはない。
道路や石壁に反応し|濛々《もうもう》と上がる|白煙《はくえん》。
通常行う咒式効果の限定発動をしていないため、視界を|遮《さえぎ》る|白霧《はくむ》の壁となる。
俺達はその前で|緊張《きんちょう》した顔を並べていた。
「ガ、」
「|黙《だま》って構えてろ相棒!」
俺はギギナの声を制止して臨戦態勢を保持し、いざという時の|咒式《じゅしき》を|紡《つむ》いで待つ。
「このような」
と、突然白煙を穿孔して、影が歩み出す。
「このような|咒《まじな》いを使うとは、|何処《どこ》まで我れを|愚弄《ぐろう》する気かやっ!」
以前に倍する、|凍《こご》えるように|凛冽《りんれつ》な殺気を放射し、ニドヴォルクが現れた。
まとっている|闇《やみ》色の服や長い|黒髪《くろかみ》が蒸気を上げるが、そこにほとんど|焦《こ》げ目はなかった。
ありえない。質量密度を上昇させ肉体自体を強化するのはともかく、|末端《まったん》の髪や服まで同時強化を可能にする|膨大《ぼうだい》な|咒力《じゅりよく》を持つ|咒式《じゅしき》|使《つか》いが、目の前に存在しなければとても実在するとは思えない。
「退くぞ相棒!」
俺の|叫《さけ》びと同時に、|閃光《せんこう》と|炸裂音《さくれつおん》が夜を白に染め、|瞬間的《しゅんかんてき》に昼夜を逆転させた。
|化学《かがく》|練成系《れんせんけい》|咒式《じゅしき》第一階位〈|光関《コヴア》〉が作り上げた|硝化綿《しょうかめん》、|所謂《いわゆる》ニトロセルロースとマグネシウム粉と|燐粉《りんぷん》の燃焼により、夜に小太陽が生み出された。
一瞬後、ニドヴォルクの眼球が暗順応を起こし、視力を取り戻した時には、二人の|咒《まじな》い士の姿はすでに消えており、道路や背後の壁からは|濠々《もうもう》たる白煙が|煙《けむ》るばかりだ。
|恐《おそ》ろしく頭の回る相手だった。
その時点で|倒《たお》す手段が見つからなければ|躊躇《ためら》わずに|退却《たいきゃく》し、しかも追跡を防ぐために人が集まりやすい、音と光と|臭気《しゅうき》が発生する|咒式《じゅしき》を使ったのだ。
さらに、ニドヴォルクが剣や|咒《まじな》いの波長から|復讐《ふくしゅう》するのだと言った瞬間から、|互《たが》いの名前を呼ぶのを|止《や》めて、追跡調査をさせないようにしていた。
その|鮮《あざ》やかな|引際《ひきぎわ》に、ニドヴォルクも相手の力量を認めないわけにはいかなかった。
そう、彼女の愛した|猛《たけ》きエニンギルゥドを|弑《ころ》した事実を忘れてはならないのだ。
周囲の建造物から|誰何《すいか》の|灯《ひ》が|灯《とも》り始めたため、そろそろ彼女も退却せねばなるまい。
|憤怒《ふんぬ》のまま、ここに集まる|全《すべ》ての者を|葬《ほうむ》り殺しつくすのもいいだろう、と女は思った。
それだけの力が彼女にはあった。
だが、彼女とて決して無敵ではない。無理をしても、|本懐《ほんかい》を|遂《と》げる前に軍隊や|咒《まじな》い士の集団もしくは彼女の捨てた故郷の無情な追手の|粛清《しゅくせい》に、|無惨《むざん》な敗死を|迎《むか》えるだけだ。
彼女が愛した背の君のように。
しかし、それ以上に、自らに課した絶対の|誓約《せいやく》と|掟《おきて》が許さなかった。
ニドヴォルクは夜の|深淵《しんえん》の中に|帰還《きかん》して、次の好機を待つことにした。
感情の|猛《たけ》りのあまり、|仇《かたき》を討つ前に、まず背の君の形見を探すという手順を|踏《ふ》むことを忘れるところだったのだ。
そのアスファルトを踏む足が、一歩ごとにめり込んでいたが、やがて穴を開けることがなくなり、そして足は宙を踏んでいた。
ニドヴォルクは髪と|装束《しょうぞく》をなびかせ、夜空を歩行しはじめていたのだ。
その姿はしかし、夜の|冥《くら》さに同化していて|誰《だれ》にも|視認《しにん》できなかった。
5 予感の朝
生きることとは、殺し増えることである。死と|生殖《せいしょく》。それのみが単体として|吃立《きつりつ》する|娯柴《ごらく》である。
それ以外は前述の二つの不完全な|模倣《もほう》か、もしくは|堕落《だらく》である。
ピルエリフ・トロノス・ラッツェン著
ジフリブ・ソラ・オロル訳
「都市本能生存|概論《がいろん》 序文」 同盟|暦《れき》〇五八年
目覚めはじめた|朧気《おぼろげ》な陽光が、高層建造物の|輪郭《りんかく》に白銀の|稜線《りょうせん》を|描《えが》きはじめても、俺とギギナは|一睡《いっすい》もしていなかった。
その|陰鬱《いんうつ》な朝。エリュシオン紙の朝刊の一面には、俺の|晶眉《ひいき》のオラクルズの今期|衝撃《しょうげき》の十連敗の|腐《くさ》れ記事と「|連続《れんぞく》|咒式士《じゅしきし》|殺人犯《さつじんはん》、現行犯|逮捕《たいほ》」 の大見出しがあった。
一瞬両方に|驚愕《きょうがく》し、順番通り前半から後半へと読むと、記事にはこうあった。
「三月二日未明。エリダナ市内ウェラ通りで、帰宅|途中《とちゅう》の咒式技術者ロロブ・イズカ・フェングラー氏(五十一歳)を、何者かが|低位《ていい》|攻性《こうせい》|咒式《じゅしき》で|襲撃《しゅうげき》。犯人は金銭も|強奪《ごうだつ》せずに犯行後|逃走《とうそう》したが、フェングラー氏は|搬送先《はんそうさき》の病院で死亡。
さらに|咒式《じゅしき》|戦闘《せんとう》があったと通報されたマイート|菓子《かし》|店《てん》前で、|咒式《じゅしき》|警備士《けいびし》ボパル・ウア・イルムズ氏(四十二歳)の死体が発見され、郡警が緊急検問を設置。
ほどなく逮捕されたのは、郡内の高等学院に通う|化学《かがく》|咒式《じゅしき》|専攻《せんこう》の十六歳の少年。
二時間後に、先年逮捕された連続殺人者、ザッハドの使徒を名乗る容疑少年と接見した弁護士は、記者会見で|被疑者《ひぎしゃ》は単なる模倣犯で一連の事件とは無関係であると発表。
警察も連続殺人事件との関連性を|捜査《そうさ》・確認中と、|未《いま》だ明言を|避《さ》けている状態である」
世間は引かれ者の|妄言《ぼうげん》だと思っているようだが、俺とギギナだけは|愚《おろ》かな模倣犯とは別に真犯人が存在することを知っている。
昨夜、俺達は連続咒式士殺人犯、その本人と|遭遇《そうぐう》したからだ。
昨夜の襲撃現場から近い倉庫兼第二事務所や、名の知れてる本事務所は避け、|馴染《なじ》みのロルカ屋の二階で夜をやり過ごしていたのだ。そこで二人で朝近くまで検討したが、|互《たが》いにエニンギルゥドもしくはウェニンギィエグという人物を殺害した覚えはなかった。
「グィネル事件の時の相手か? それとも|蛇女《へびおんな》レジーナが復讐で送ってきた暗殺者か? もしくはシュメリクの使徒の残党か?」
「貴様はいろいろと下らない仕事をしすぎるな」
自分たちが殺した人間は多くはないとはいえ、全ての本人と関係者を知っているわけもなく、この|詮索《せんさく》は最初からあまり有益な結果が出ないと俺が予想した通りだった。
俺達を|狙《ねら》ったあのニドヴォルクという女咒式士は、多分、俺達と同様の|昏《くら》い世界の住人だろう。
いや、もっと深い|闇《やみ》の底からの。
とにかく、|魔女《まじょ》が本当の標的たる俺とギギナの顔を確認した以上、これから他の咒式士殺人は起こらないだろう。
郡警察に犯人を|匿名《とくめい》で告発しても、最近の|汚職《おしょく》や|冤罪《えんざい》で評判を落としている警察は、事件はすでに解決したことにしたいはずだ。
さらには|一般《いっぱん》警察が|対抗《たいこう》できる相手でもない。実際、軍か警察の咒式部隊か、高位咒式士が団体で必要なくらいの強大な相手なのだが、警察や司法機関がその|恐《おそ》るべき力に気づく|頃《ころ》まで、俺達が生存しているかどうか。
つまりこのままなら次に連続殺人で発見されるのは俺と相棒の|惨殺《ざんさつ》死体で、そこで事件は終結。よくある|迷宮《めいきゅう》|入《い》り事件の仲間入りという可能性が高い。
俺とギギナの存在を確認した、あのニドヴォルクという化け物女が容易に|諦《あきら》めるとは思えないため、しばらく夜の外出は避けた方がいいだろう。
とにかく、モルディーン|枢機卿長《すうきけいちょう》の遊覧観光の警護という|厄介《やっかい》絶頂な仕事中に、さらに|剣呑《けんのん》|窮《きわ》まる事態が重なったものだ。その点でだけ、|珍《めずら》しくギギナと俺の意見が|一致《いっち》した。
「おーい、ちいっと来て手伝え」
そこで階下からロルカの野太い声がした。
新聞片手に俺が階段を下りていくと、ロルカ屋の主人、ロルカ・クレム・バグフォットが|忙《いそが》しそうに開店準備をしていた。
ロルカ屋は「来やがれ、|破壊《はかい》が大好きなろくでなしども!」という善意が絶滅した看板の、|咒式具《じゅしきぐ》|総合《そうごう》|専門店《せんもんてん》である。
階段を下りた俺が|見渡《みわた》すと、そんなに|狭《せま》くもないはずの店内を、|壁《かべ》や|棚《たな》に積み上げられた咒式具が|埋《う》めつくしている。
棚の、ツァマト咒式化学社やオルドレイク技術連合が激しく競争する、|汎用《はんよう》簡易型〈|爆炸吼《アイニ》〉の十二口径|咒式弾《じゅしきだん》二十五発入り箱は、十箱買うと一箱おまけに付いてくるそうだ。
|硝子匣《がらすばこ》には、職人的造形で有名なアガラ|工房《こうぼう》の|傑作《けっさく》、|蒐集家《しゅうしゅうか》|垂挺《すいぜん》の|魔杖剣《まじょうけん》の回転式|咒弾倉《じゅだんそう》〈レイシー五〇五|號《ごう》〉が、|美麗《びれい》な銀|彫刻《ちょうこく》が|施《ほどこ》された金属の|肌《はだ》を|晒《さら》していた。
さらに、現在では生物・化学兵器咒式を禁止したジェルネ条約で、使用と習得に絶対許可が下りるはずもない〈|它聞《タブン》〉と〈|咀曼《ソマン》〉の|有機燐《ゆうきりん》系毒ガスの化学咒式弾頭が、戸棚の裏からちょろっと見えていたりする。
|床《ゆか》には咒式屋にまったく関係ない、今時珍しい火薬式|拳銃《けんじゅう》まで転がっていたのが、この店の節操のなさを表している。
「おいガユス、こっち手伝え」
|振《ふ》り返ると、|樽《たる》体型のロルカが、床の|巨大《きょだい》な木箱を前に俺を手招きしていた。
ロルカの言うとおりに視界を|塞《ふさ》ぐほど大きな木箱を|抱《かか》え上げようとすると、|腰《こし》が落ちる。
「な、なんだこの重さは? 箱|一杯《いっぱい》の夢と希望でも|詰《つ》まっていやがるのか?」
「ちょっと前に、|狙撃用《そげきよう》|光学《こうがく》|咒式《じゅしき》が大分売れたという秘密情報があってな。そろそろエリダナにも流行が来ると読んでの山盛り|緊急《きんきゅう》仕入れと、|掘《ほ》り出し物の大盛りだ」
まったく手伝う素振りもなく解説しているロルカを横目に、|亀《かめ》の歩行速度で何とか運び、机の上に下ろすと、箱の重さで机が|軋《きし》んだ。
「そういや、運送屋は必死の六人|掛《が》かりで運んでいたな」
それを聞いて急に腰が痛み、思わず顔をしかめてしまった。
「老化かガユス、|眼鏡《めがね》が重いのか?」
「ロルカ|爺《じじい》こそ、額から|豚足《とんそく》スープが出ているぜ」
「昨夜おまえたちに出した夕食の隠し味さ」
「てめえなんざドゥナツの穴でも食ってろ。そういや、てめえの|葬式《そうしき》用のいい養豚場は見つかったか?」
俺の返答に、ロルカが|胴間声《どうまごえ》で笑いやがった。
こいつは|小柄《こがら》で赤毛の典型的なノルグム族の老人で、俺の|腐《くさ》れ|縁《えん》の一人だった。
俺は|傍《かたわ》らにあった|朽《く》ちかけの|椅子《いす》に腰掛け、|徹夜《てつや》の|欠伸《あくび》を|噛《か》み殺し周囲を見回す。
「相変わらずの店だな。ここにある咒式で小さな戦争くらいは起こせそうだな、おい」
「まあ、エリダナの街くらいなら景気よく一回半は|吹《ふ》っ飛ばせるわな。だが、そういうことをあまり|余所《よそ》では言うなよ、それでなくても咒式具屋は警察や役所に|睨《にら》まれてるんだ」
まったく気にしてない表情でロルカが言った。警察や役所が公務員特有の|理不尽《りふじん》な苦情を入れれば、咒式具で吹っ飛ばすくらいはやりかねない|剣呑《けんのん》なじじいである。
ふと、俺は思い出した。
「ロルカ、こいつが何か分からないか?」
俺が差し出した油紙包みを開け、|懐《ふところ》から引っ張りだしたチタン製の|小鉗子《しょうかんし》でそれをつまみながら、ロルカが疑問を口にする。
「何だこれは?」
それは小さな小さな|破片《はへん》だった。金属のような|光沢《こうたく》をし、|芥子《けし》|粒《つぶ》のさらに十分の一程度の大きさしかない、黒い黒い破片だった。
「昨夜やりあった|奴《やつ》の|身体《からだ》に切りつけた、俺とギギナの剣に付着していた服の破片だ。知覚眼錠の資料にもない|妙《みょう》な素材だから、こいつから相手の身元が|辿《たど》れるかと思ってな。どうだ、何か分からないか?」
「岩石のような金属の破片のような、見たことない素材だな。肉眼じゃ分からないが、|委託《いたく》している測量|分析士《ぶんせきし》か、情報屋のヴィネルに質量分析させれば、組成は明日の夜には分かるだろうが?」
「|頼《たの》む、急いでくれ。ついでに最近エリダナにいる、ニドヴォルクかそれに近い名前の二十から三十五歳程度までの女の|咒式士《じゅしきし》を調べてくれ。|重力《じゅうりょく》|力場系《りきばけい》|咒式《じゅしき》|使《つか》いの|到達者《とうたつしゃ》か、その付近の|階梯《かいてい》の|超《ちょう》達人のな。
ウルズとかいう地名か人名に関係しているらしい、|黒髪《こくはつ》|緑瞳《りょくとう》、アルリアン人系か東方セグ系の美女、いや人種特定をしない方がいい。判明したらすぐに俺に|連絡《れんらく》してくれ」
「もちろんだ、咒式具屋らしい真剣な仕事は久しぶりだからな」
重々しく|頷《うなず》いて破片を|仕舞《しま》い込むロルカ。こいつは金さえ|払《はら》えば仕事は確実だ。
ロルカが、息を長く長く|吐《は》く。
「しかし、最近は|咒式《じゅしき》|覚《おぼ》えたての学生が試験か|悪戯《いたずら》のために買ったり、実際発動もせず|飾《かざ》るだけの|咒式具《じゅしきぐ》|蒐集家《しゅうしゅうか》ばかりが増えるだけだ。おまえやギギナみたいな、本物の|咒式《じゅしき》を使う本物の客は|皆目《かいもく》増えやしねえ」
ロルカ|親爺《おやじ》のノルグム族特有の細い目が、少しだけ真剣さを帯びた。
こう見えてロルカは|咒式具《じゅしきぐ》|造《づく》りの本場ゾーンターク市の出身で、やはり咒式具製作者を目指していたそうだ。
その専門技術と知識に自負を持ち学院試験を受けたのだが、その時になり初めて彼に|咒力《じゅりょく》がほとんど存在しないことが判明した。
つまり、努力|次第《しだい》では二流にはなれるが、自分が一流以上の|咒式具《じゅしきぐ》|製作者《せいさくしゃ》には決してなれないと知って、仕方なく売る方に転身したと言う。
その経歴が真実か、俺達の同情を引いて売上を上げるための|嘘《うそ》かは判別しがたい。だが、|咒式《じゅしき》を道具として使う俺達以上に、ロルカが|咒式具《じゅしきぐ》を|真摯《しんし》に、というより|偏執的《へんしゅうてき》に愛しているのは認めるべきだろう。
「俺を|褒《ほ》めても何も出ないぞ。それでなくても親爺が次から次へとギギナに|咒式具《じゅしきぐ》を買わせるから、こっちの家計は赤字|炎上《えんじょう》まっしぐらなんだからな」
「ふむ、いい|法珠《ほうじゅ》だ。後期ダマスクス派、いや、フレグン派の直系か|後裔《こうえい》の品か」
見ると、今しがた階段を下りてきたギギナが、さっき運んだ箱から|咒式具《じゅしきぐ》を手に取り検分していた。
「さすが、お目が高いぜドラッケン族¥」
ロルカが商売の好機に|操《も》み|手《で》をせんばかりに、目にイェン記号を|浮《う》かべる。
いかん、商売人の目に|戻《もど》っている。
「そいつはゾーンタークの|天才《てんさい》|咒式具《じゅしきぐ》|製作者《せいさくしゃ》、故ジュゼオ・ゾア・フレグンの作品だ。造形も芸術的に美しいが、|各種《かくしゅ》|咒式《じゅしき》|効果《こうか》と性能はそれ以上に折り紙付きで保証するぞ」
ギギナはその|掌《てのひら》の上の、複雑な|幾何学《きかがく》模様の装置に|縁取《ふちど》られた小さな法珠機関を、科学者のような|冷徹《れいてつ》な目で見つめている。
「本物か? フレグン作といえば、|弟子筋《でしすじ》の|模倣《もほう》や習作、そして|贋作《がんさく》も多いと聞くが?」
「|偽物《にせもの》ならいつでも返品しろ。だが、分かるだろ。おまえさんはどの|咒式《じゅしき》|剣士《けんし》なら、その|紫瞳《しとう》の|殊《たま》に込められた|異端《いたん》の|鬼才《きさい》の、強大な咒力と意思力が感じ取れるはずだ」
ギギナは真理を|探《さぐ》る|自皙《はくせき》の|哲学者《てつがくしゃ》のように|沈思《ちんし》|黙考《もっこう》し、そして「買おう」とあっさり言いやがった。
「待て、買うかどうかはこの俺、経理担当を通してからだ。第一、そいつの値段はいくらなんだ?」
あまりの金額に魂消るガユスの図
ロルカとギギナはお|互《たが》いに|黙《だま》り込みやがった。ギギナの手から値札を|奪《うば》い取り、確認し……
暗転。
気がつくと俺は急性貧血で|床《ゆか》に|膝《ひざ》をつき、ギギナに助け起こされていた。
どうやら|巨大《きょだい》な金銭的|衝撃《しょうげき》のあまり、|瞬間的《しゅんかんてき》に脳が現実|拒否《きょひ》を起こしたようだ。
「ついに私を|崇《あが》める気になったのか?」
「んなわけあるか、どこにそんな発言があった!? なぜ、万年赤字の俺達が一九五五万イェンもし|腐《くさ》る咒式具を買うんだ!? というか、絶対買わすか!? 買うなら俺を殺せ! いや俺が殺す!」
|絶叫《ぜっきょう》する俺が見上げると、ギギナが苦い顔をした。ぐるりんと|首《こうべ》を|廻《めぐ》すと、ロルカが手に持った書類に熱い|接吻《せっぷん》を|繰《く》り返していた。
「もしかして?」
「うむ、貴様が|倒《たお》れていた|隙《すき》に、|月賦《げっぷ》|契約《けいやく》はすでに無事|終了《しゅうりょう》していた」
手足の先から冷気が|駆《か》け|上《のぼ》る。
「俺が倒れていたのはどれくらいだ?」
「一・二秒あるかないか。無いな」
「その一瞬で契約? そりやあんた、|素晴《すば》らしく確信犯じゃないですか」
泣きそうになっている俺に、|優《やさ》しい|慈父《じふ》のような表情のギギナが続ける。
「私だけでは悪いと思ってな、ついでに貴様用の|玩具《おもちゃ》も|購入《こうにゅう》しておいた。喜べ」
俺の|鼻孔《びこう》から長い息が吐き出され、そして|瞑目《めいもく》した。もう現実を見るのが|辛《つら》すぎた。
大昔に|貨幣《かへい》経済を考案し、|月賦《げっぷ》制を生み出した|悪魔《あくま》の|親戚《しんせき》の人間に|永劫《えいごう》の|呪《のろ》いあれ。
いや、俺が直接、|金鑢《かなやすり》で指の先からゆっくりと|削《けず》り殺し、|豚《ぶた》の|餌《えさ》にしてやる。
事務所近くの「食事の事ならプロウス」の看板の下の、小さな軽飯屋。
俺は重い足取りながら、いつもの習慣でポロック|揚《あ》げをいくつか買った。
よく考えると店の料理の|全《すべ》てはホートンが考え作っているのに、|婿養子《むこようし》というだけで店の名前にも出ずにこき使われている。
俺と少しだけ似ている|報《むく》われない|境遇《きょうぐう》だ。別に|馬鹿《ばか》に同情する馬鹿になる気はないが。
そんなことはお構いなしに、いつも通りにホートンが聞いてくる。
「今日のどっきどきホートン|占《うらな》い(水陸両用型)を聞いていくか?」
「何が|括弧《かっこ》、水陸両用型、括弧閉じるだ。いらん」
いつも通りに答えたら、いつも通りに無視されてホートン占いが始まっている。
ホートンの五本の|枯《か》れ枝みたいに細長い指が、|珠算機《しゅざんき》を|踊《おど》るように|弾《はじ》く。
黒角牛の肉もそれくらい早く切れれば、商売もマシになると早く気づけ。
「出た、朝飯を|抜《ぬ》いて|寝癖《ねぐせ》が取れてない|貴方《あなた》は、剣難と光に注意、そして……」
そこでホートンが言葉を切った。
沈黙。俺が最後まで言えとせっつくと、やっと続ける。
「ガユスが言えというから言うが、|怒《おこ》らないで聞いてくれ。とても言いにくいんだが、その、あんたの友の死の|卦《け》が出ているんだ」
俺は|獰悪《どうあく》な|薄笑《うすわら》いを浮かべる。
「あのギギナが死ぬと思うか? もし当たったら、それはギギナに保険を|掛《か》ける|無駄《むだ》に勇気ある保険会社が出てきた時と思え。もちろん、犯人と受取人は俺だ」
ホートンがさらに続けようとした時、剣を|振《ふ》る以外の|一切《いっさい》の機能が付いていないギギナが、事務所から|縁石《えんせき》にぶつけながらもヴァンを回して来たので、それに乗り込む。修理費も結構命取りになる経済状態なので、あまりに下手な運転手とすぐに交代する。
留守の間に|黒猫《くろねこ》のエルヴィンが訪問してきた時のために、事務所裏手にポロック揚げを置いておくのも忘れないようにしないとな。
さて、またあのふざけた|枢機卿長《すうきけいちょう》との一日が始まる、と考えて俺は軽めに|嘆息《たんそく》した。
その時、俺の|携帯《けいたい》|咒信機《じゅしんき》が鳴った。
出ると、向こうでわめき散らす男がいた。
「早く出ろ、この人と|泥亀《どうがめ》の私生児のソレルめ! 我らが生活安全課|仮託《かたく》の|委託《いたく》の一時保管所が|襲撃《しゅうげき》されたんだ。
これは国家と役所と私への|挑戦《ちょうせん》だ! 腐れ人類至上主義者か反咒式主義者のしわざだっ! 保管していた|竜《りゅう》や|異貌《いぼう》のものどもの資料、先月最後に君らが倒した竜の首まで奪われたのでその分|報酬《ほうしゅう》は引く。犯人を調べろ|捕《つか》まえろ|龍理《ろんり》|使《つか》いどもっ!
今朝見た空の青さに感動して牛乳が|零《こぼ》れて服が|汚《よご》れたから、ついでに私の|娘《むすめ》がまた家出して、|驚《おどろ》いた私が皿を落として割ったから、当然その分も報酬を減額しておくっ!」 市役所のサザーラン課長の|叱責《しっせき》は|怒濤《どとう》のように続き、|唐突《とうとつ》に切れた。
|生粋《きっすい》のエリダナ人というのは、どうして|理不尽《りふじん》な理由を付けてまで、金を|払《はら》うのを|渋《しぶ》る意地悪な|吝嗇《りんしょく》家|揃《ぞろ》いなのだろうか。
何かそういう、|吝嗇《けち》と意地悪を比べる大会でも年中開いているのだろうか?
エリダナは、行き場のないものが最後に流れ着く土地だと言われるが、住民はそれをいいように利用している気がする。
そして|家計簿《かけいぼ》の予定収入を、また下方修正しなければならないようだ。
そういえば、黒字を計上した|記憶《きおく》がもう何年もない気がする。
俺はヴァンの|加速板《アクセル》を乱暴に|踏《ふ》み込み、車を急発車させた。
|虹色《にじいろ》に|燦然《さんぜん》と|輝《かがや》く|水晶《すいしょう》と|硝子《がらす》を|幾重《いくえ》にも|螺旋《らせん》状に組み合わせた照明、その|遥《はる》か下方。
リンツホテルの裏手、|貴賓《きひん》客専用ロビーの皮革|張《ば》りの|椅子《いす》に座り、俺とギギナは|麗《うるわ》しの枢機卿議会議長|猊下《げいか》を待っていた。
専用自動|昇降機《しょうこうき》の|扉《とびら》が開き、先導するヘロデル|他《ほか》、|一般《いっぱん》観光客風に|扮《ふん》した護衛に厳重に囲まれたモルディーン枢機卿長が現れた。
卿が片手を振り、昼前の|挨拶《あいさつ》をしてくる。
|欠伸《あくび》混じりなのは昼前までゆっくり|寝《ね》ていたのだろう。至尊の貴人は気楽なものだ。
|早速《さっそく》ギギナが口を開く。
「モルディーン猊下が約束の時刻より三十分も|遅《おく》れてくるとはね。ドラッケン族の|諺《ことわざ》で「|決闘《けっとう》で首を無くしてから|剣《けん》を振る|愚《おろ》か者」とあるのを知らないのか」
ギギナの口が真円を|描《えが》いたまま停止する。
俺はギギナの|口真似《くちまね》を|完璧《かんぺき》にしてやった。相棒の心底|厭《いや》そうな顔が大変|爽快《そうかい》だ。
「貴様に|猿《さる》真似されるとは|不愉快《ふゆかい》だ。まあ、貴様の真似は犬の|糞《ふん》に任しておけば、これ以上の名演技はないしな」
「この高性能酸素消費機|及《およ》び二酸化炭素発生装置が何言ってやがる。俺は|爽《さわ》やかさと|透明感《とうめいかん》でここまでやってきたんだ」
「ああ、だから女の目にはなかなか見えないわけか」
「言ったな、このドラッケン|野郎《やろう》! |無頼《ぶらい》を気取っているけど、実はこっそり絵日記つけてる|癖《くせ》に! しかもなぜか|一人称《いちにんしょう》が僕になってるし」
「き、貴様、勝手に読んだな! 貴様こそ、|淫《みだ》らな|記憶素子《レコーダー》選びを「|嫁《よめ》選びより真剣に選ぶ」とか言ってるらしいじゃないか」
「なっ、どこでそれを! てめえなんぞ、人食い|箪笥《だんす》に食われてろっ!」
ギギナがさらなる|罵倒《ばとう》を言おうと口を開こうとしたが「まあ、箪笥なら少々|凶暴《きょうぼう》でも欲しいな」と一人で|納得《なっとく》しだした。
俺とギギナの会話は、悪口だか何だか分からない域に達しているようだ。
「朝から愉快だねぇ君たちは。観光よりもむしろ君たちを見てる方が楽しいかも知れんな、ガユス・レヴィナ・ソレル君に、ギギナ・ジャーディ・ドルク・メレイオス・アシュレイ・ブフ君を」
モルディーン枢機卿長の半ば|呆《あき》れたような|微笑《びしょう》に、俺は疑念を|呈《てい》する。
「よく私達二人の|姓名《せいめい》、特にドラッケンの無駄に長い名前まで覚えていますね」
「私には、一度聞いた人間の名前は絶対忘れないという特技だけしかないからね」
卿の|自虐的《じぎゃくてき》な|響《ひび》きすらある言葉に、周囲の護衛どもがなぜか揃って|誇《ほこ》らしげな|眼差《まなざし》を並べる。
それは信念の眼だった。
上司が上司なら、部下も部下でまったくわけの分からない|奴《やつ》らだ。
とにかく仕事を進めよう。
「で、|我等《われら》が麗しの枢機卿長猊下は今日はどこへと観光あそばすのでしょうかね。街でエリダナ劇を観劇しますか。それともやはり|賭博場《カシノ》、もしくは|娼館《しょうかん》で羽目を外しますか? さらには|公爵館《こうしゃくかん》で後期|啓示《けいじ》派の|巨匠《きょしょう》ボレッティの描いた『使徒たちの|連祷《れんとう》』 でも見ますか?」 俺の|厭味《いやみ》な言い方もかなり投げやりになってきた。ヘロデルが|凄《すご》い視線でにらんできたのももはや別次元的にどうでもいい。そんな思考にお構いなく卿は一つ|頷《うなず》いて言葉を発した。
「どれもやめておこう。私は観劇より|脚本《きゃくほん》を書く方が好きだし、|絵画《かいが》も後期啓示派の主題性の強さはどうも感性に合わなくてね。
絵画なら、事象派の|鬼才《きさい》ルグランや|混沌《こんとん》派の|狂人《きょうじん》イェム・アダー。もしくは詩情派エギル・エギレラ辺りの方が好きで、|幾《いく》つか|蒐集《しゅうしゅう》してるよ」
俺は|趣味《しゅみ》で絵を|描《か》くから知っているが、卿の挙げた画家は|全《すべ》て、権力者に歯向かって|発狂《はっきょう》や|獄死《ごくし》、自殺した者ばかりである。
さり気なく俺に「そうなりたいの?」と|嫌《いや》がらせしているのだろうか?
別にまったく完壁に、はっきり知りたくはないが。
さらに卿は思い出したように付け加える。
「そうそう、遠くからのお客とお茶会をすることになったんでね、今日はこれから約束の場所へと行く予定だよ」
俺は青酸カリウムを服毒したような、この世で有数の厭そうな顔をしてやった。
「そんなに満面で喜ばなくてもいいよ。|美味《おい》しい紅茶に甘い砂糖|菓子《がし》も出るし、愉快な幕間劇もある。なかなか|退屈《たいくつ》はさせない楽しいお茶会になると思うよ」
卿が|悪戯《いたずら》っぽく片目を|瞑《つぶ》って言った。
|可憐《かれん》な美少女がやっても、今どきどうかと思うが、中年男のそれは確実に|悪寒《おかん》を生じさせる|恐《おそ》ろしいものだった。
6 闇の中の影なる者たち
絶対確実な統計が二つある。
一つ、人はいつか必ず死ぬ。
二つ、統計には必ず例外が存在する。
ジグムント・ヴァーレンハイト著
「|抽象的《ちゅうしょうてき》事実と物質的|虚構《きょこう》」 |皇暦《こうれき》四八九年
エリダナの祝祭の|喧騒《けんそう》と狂乱から|遥《はる》けき遠く|隔絶《かくぜつ》し、|静謐《せいひつ》に閉ざされた|郊外《こうがい》。
今は|廃棄《はいき》された石造りの|巨大《きょだい》な教会。その内部最上階、四階にある|貴賓《きひん》信徒用の礼拝堂。
|緩《ゆる》やかな半円の|橋梁《きょうりょう》を|描《えが》く|天蓋《てんがい》型の|天井《てんじょう》には、天使や聖人が平面と化して並ぶ。
採光用の|嵌《は》め込み|硝子《がらす》|絵《え》から差し込む白色光内で|塵埃《じんあい》が|舞《ま》い、打ち捨てられた礼拝堂の|無惨《むざん》さを|鮮明《せんめい》に|浮《う》かび上がらせる。
|海原《うなばら》の|波濤《はとう》のように連なる|革張《かわば》り|長椅子《ながいす》の信徒席には|綻《ほころ》びが目立ち、本来は固定されているその長椅子も、熱力学第二法則に従順に従い混沌のままに放置されている。
礼拝堂の正面に高く|掲《かか》げられ太陽を背負った光輪十字印も、|金箔《きんぱく》が|落剥《らくはく》し合金製の地金を|晒《さら》していた。
その聖なる輪の上に、|陶製《とうせい》の|贖罪《しょくざい》の|御子《みこ》像が|掛《か》けられ、ひび割れた白い額に物悲しい表情を浮かべて、自らの救世の成果のあまりの|不甲斐《ふがい》なさにうなだれている。
そして|軛《くびき》を架せられ物言わぬ神の御子と、生ける人との眼が|虚空《こくう》で結び合わされる。
モルディーン卿は|枢機卿《すうきけい》の長の名に|恥《は》じない、|完壁《かんぺき》な手順で礼拝を|捧《ささ》げ|跪《ひざまず》く。
|慌《あわ》てて俺も幼少期以来の礼拝をする。貴族の末席だった習慣が、意外に|懐《なつ》かしかった。
もっとも、ソレル子爵家の三男|坊《ぼう》の俺の、今どき何の役にも立たない準爵位など、|偽装《ぎそう》|結婚《けっこん》でとっくに|売却《ばいきゃく》していたが。
「君は神を信じるか?」
背中|越《ご》しに卿が問うた。
|暫時《ざんじ》の時を置き、俺はなぜだか|素直《すなお》に言う気になった。
「いえ、この世の|悲惨《ひさん》を見るかぎり、物理的に存在するとは思えません」
「|信仰《しんこう》の守護者である枢機卿長たる私の前でも、|涜神《とくしん》の言を|臆《おく》さないか」
その|妙《みょう》に|威厳《いげん》ある発言が、俺の中の深く|昏《くら》い何かに|無遠慮《ぶえんりょ》に|触《ふ》れた気がした。
「神が、もし神が存在するのなら、人々を|紛争《ふんそう》や|疫病《えきびょう》や事故で死なせた理由を|尋《たず》ねたい。
我が友ヘロデルの|婚約《こんやく》者がなぜ戦争で、俺の妹アレシエルがなぜあのような死を。
神の|所為《せい》だと思うほど俺も|愚《おろ》かではない。だが、教会や|僧侶《そうりょ》が苦難は神の試練だと、したり顔で説教するのは絶対に許せない。神が全能なら、苦難を|与《あた》えて弱き人々を|試《ため》す必要がどこにある」
我知らず静かな|凍《こご》えた|叫《さけ》びとなった。
「その通り。神は存在しないか、|我等《われら》を苦しめて楽しんでいる|虐待《ぎゃくたい》性愛趣味者だろう。
だが、言語が人と人の意思|疎通《そつう》の道具であるのと同様、神とは異なる人間の内面を均質化するための有効な共通|認識《にんしき》装置だ」
|振《ふ》り返ったモルディーン枢機卿長は、なぜかひどく遠く|優《やさ》しい目をしていた。
「どの論にしろ、神がこの世の悲劇と|苦悩《くのう》を作ったのではないのは確かだ。|全《すべ》ての|災厄《さいやく》は人の心とその営みよりのみ、生まれ出ずるものである。
だが神を人格神と規定せず善や真理と置き|換《か》えてもいいが、|形而上《けいじじょう》的な|普遍《ふへん》価値も認めないなら、人は何を基準に生きるのかね? 自然発生的な生体反射に任せるとでも?」
「それは、」
俺は未熟な|弾劾《だんがい》に|詰《つ》まった。
「君が以前語ったように、これはありもしない心と言葉の|概念上《がいねんじょう》の問題だ。
しかし、我等がそれを自己と規定しているのも事実だ。そうである以上、その世界なりの|枠《わく》|組《ぐ》みが必要ではないかね」
「|解《わか》りません。正しいという概念ですら、実は正しくないのではないのなら、同時に意味という概念は消失します。残るのは場の合理性と利益だけ。いや、その正しさすらもそこでは消失するでしょう」
俺は一つの|噂《うわさ》を思い出した。
この|魔人《まじん》は、自分を|疎《うと》んだ|双子《ふたご》の兄アスエリオを事故死に見せかけて殺害したと|巷間《こうかん》に|喧伝《けんでん》されている。
だがしかし、オージェス家の双子の兄弟は、誕生日は必ず|晩餐《ばんさん》を囲むほど親密だったそうだ。しかし、過激な皇国改革論を叫び、|寵姫《ちょうき》の言いなりに国政を動かしていたアスエリオの権力と咒力を、|龍皇《りゅうおう》と血族は|警戒《けいかい》しており、いつか必ず両者は|衝突《しょうとつ》し国政は乱れると言われていた。
その|破滅《はめつ》を防ぐために、彼は|唯一《ゆいいつ》の肉親、敬愛する兄のアスエリオを事故に見せかけ|弑逆《しいぎゃく》したとされる。
|爾来《じらい》、彼は|策謀《さくぼう》のための|愛想《あいそ》|笑《わら》い以外、心から笑ったことが無いとされる。
それは、どんなに救いのない無明|地獄《じごく》なのだろう。俺には想像できなかった。
「我々は世界を無意味であると理解し、その上で意味という存在を|捏造《ねつぞう》することでしか生きていけないのではないかね」
どこか優しい声の卿の問いかけだった。
「解りません。無意味を|超克《ちょうこく》し、意味と|戯《たわむ》れることが正しいのかすらも。もしかしたら、無意味を無意味として、ただ受け入れるのが正しいのかも知れません」
卿が天を|仰《あお》いだ。
「君は、いや全ての|咒式士《じゅしきし》は世界を理解しようとしている。だが、それこそ君の|指摘《してき》する心と言葉の|間違《まちが》いを|犯《おか》している。世界など|所詮《しょせん》、我々自身の鏡なんだよ」
「それは、一体どういう意味です?」
不毛な言葉遊びの答えはなかった。
立ちつくした俺を、モルディーン卿は|真っ直ぐ《ま す 》見つめて告げた。
「それは私の答えだ。君は君の頭で答えを考えたまえ。それが正しくても間違いでも、そして答えが出なくても。
それは人間の数ある|行為《こうい》の中で、最も|真摯《しんし》で尊い|愚行《ぐこう》だろう」
礼拝堂の小さな|扉《とびら》に寄りかかって立つギギナは|退屈《たいくつ》そうな|欠伸《あくび》をしていた。
雲の燃えつきる天の果ての果てまで、|悩《なや》みのない|奴《やつ》だ。
枢機卿長がギギナから俺に視線を|戻《もど》し、|穏《おだ》やかな顔で言った。
「会見時から思っていたのだが、表面上はともかく君と彼は仲良しなのかね」
俺は苦いものを飲んだ顔をする。
「度が合ってないようなので、いい|眼鏡《めがね》屋を|紹介《しょうかい》しましょうか? 俺があいつと組んでいるのは、ギギナは低能で|戦闘《せんとう》|依存症《いぞんしょう》の家具|馬鹿《ばか》で金銭感覚|皆無《かいむ》という点を除けば、いい奴だからですよ。ただ、それらを除けば|髪の毛《かみ  け 》一本残りませんがね」
「自分で気づかないならば仕方ないな。存在をあるがままの存在として認められぬ、それが君たちの限界なのだろうな」
|枢機卿長《すうきけいちょう》の|謎《なぞ》めいた|笑《え》みに、俺はゆっくりと首を左右に往復運動させるに|止《とど》めた。
その時、礼拝堂の入口の大扉を開け現れた秘書官ヘロデルが来客の|到着《とうちゃく》を告げる。
そして現れた客人とその秘書が枢機卿長に|黙礼《もくれい》し、四人が連れ立って奥の司教室へと向かう。
俺は秘書を連れたその客とすれ違った。
|裕福《ゆうふく》な商人の|風体《ふうてい》をし、|白髪《はくはつ》と|皺《しわ》に|埋《うず》もれた、どこか|狷介《けんかい》そうな顔の老人だった。
|刹那《せつな》だけ|交錯《こうさく》した青灰色の視線が、俺に何かを告げたように思えた。
青銅|飾《かざ》りの|獅子《しし》が|施《ほどこ》された司教室の扉が閉まるまで、俺はその背中を|眺《なが》めていた。
無音の礼拝堂。
|敬度《けいけん》な信徒たちが|祈《いの》っていただろう古びた|長《なが》|椅子《いす》に、俺と相棒が|一片《いっぺん》の|信仰心《しんこうしん》も無く|腰掛《こしか》け|暇《ひま》つぶしの会話をしていた。
「残念ながら手入れがされていないが、この教会の椅子たちはいい椅子たちだ」
「まったく聞きたくはないけど、ギギナの定義する良い椅子と悪い椅子の基準って何だ?」
「|滲《にじ》み出る椅子の内面、その気高さだ。ここの椅子たちは信仰心|篤《あつ》く血筋もいい。もう少し若ければ、うちのヒルルカの|婿《むこ》にしたいくらいだ」
俺は椅子の|花嫁《はなよめ》と椅子の|花婿《はなむこ》の|壮麗《そうれい》壮大な|結婚式《けっこんしき》を想像したが、それが静かな風景画とまったく変わらないことに気づいて、その|一瞬《いっしゅん》の思考時間の|無駄《むだ》を感じた。
そんな俺とギギナ以外の、枢機卿長の七人の護衛は館内と外を固めている。
|先程《さきほど》、窓から見下ろすと客側の護衛も十人近くいた。同盟|訛《なま》りがあったから、ラペトデス系の|咒式士《じゅしきし》だろう。
「気づいたかガユス。|我等《われら》は|剣呑《けんのん》な事態に巻き込まれているぞ」
|珍《めずら》しくギギナから俺に話しかけてきた。
「何が?」
俺が|嬉《うれ》しいかどうかは別次元の話だ。そんな俺に、ギギナの|鋼《はがね》の|光彩《こうさい》が|蛇《へび》のように細まる。
「貴様を水に|放《ほう》り込んだら、頭と|尻《しり》がぽっこりと|浮《う》かびそうだな」
「ギギナこそ、耳と耳の間の空気がより比重の軽いヘリウムになって、天空へと飛ばないように重しの|屠竜刀《とりゅうとう》を頭に深く|刺《さ》しとけ」
相棒の悪口雑言に、俺も負けずに返す。
大陸標準語に|翻訳《ほんやく》するなら「こんにちは」に「ご|機嫌《きげん》いかが」といったところだ。|恐《おそ》らく。
「話を戻すがガユスよ、モルディーン卿の客人とは、あのラペトデス七都市同盟のアズ・ビータ下院議員だ」
「知ってるよ」
ラぺトデス七都市同盟とは、七人の|英雄《えいゆう》と七つの都市に率いられ、我等がツェベルン|龍皇国《りゅうおうこく》から議会制民主主義を|標榜《ひょうぼう》し独立した国家で、|爾来《じらい》百年近く領土や資源戦争を行い、時に手を組み外敵に向かう、いわば歴史的な宿敵であり、第一の友邦でもある。
しかもアズ・ビータ下院議員とは、七都市最高議会長カイ・クヨウの腹心の部下の一人とされる民自党の幹事長である。
そんな大物議員とモルディーン枢機卿長の会談が、ただの呑気なお茶会なわけが物理的にありえない。
「貴様、理解してなぜ何も言わない?」
「危険なことを|詮索《せんさく》しない、見ても無いことにしろ。俺の|親父《おやじ》は|賢《かしこ》い男でね、その|遺言《ゆいごん》」
「その父親とやらは確か、|詐欺師《さぎし》に土地財産を|詐取《さしゅ》され、貴様の家を|徹底的《てっていてき》に|没落《ぼつらく》させて、しかもよく考えると確か存命だろうが」
俺の|嫌《いや》なことだけは、|完璧《かんぺき》に|記憶《きおく》していやがるギギナがさらに続ける。
「あの中では龍皇国に対する反逆会談でもしているのかもしれんな」
「おまえは相変わらず|冗句《ジョーク》下手だな。それなら身内で固めるはずだ。外部の俺達を使うものか」
「もしくは、私と貴様を何らかの|策謀《さくぼう》の捨て石にしようとしているのかもしれないな」
「じゃあ、七都市同盟にでも政治亡命するか?」
「馬鹿と私が平等に|扱《あつか》われる国など|御免《ごめん》だ」
またも|沈黙《ちんもく》。|均衡《きんこう》を破ったのは俺だった。
「では問題。月刊誌『たのしい呼吸』の今月の特集記事は?」
俺のいつもの言葉遊びに、ギギナが|迷惑《めいわく》そうに視線を上げる。
「またそれか。答える義務が地上に見当たらない」
「おまえ、族長に勇者になることを認められ、|許嫁《いいなずけ》に|怒《おこ》られない|愉快《ゆかい》な会話法を覚えたいんだろう? ではでは練習『たのしい呼吸』の今月の特集記事は?」
ギギナは、暴君に|進呈《しんてい》する詩を詩人が|命懸《いのちが》けで|呻吟《しんぎん》するような、真剣|極《きわ》まる顔で|思惟《しい》を|廻《めぐ》らし、やがて重々しく答えを|吐《は》き出した。
「|死闘《しとう》、光の呼吸派対|闇《やみ》の呼吸派」
「いまいちだなぁ」
「では貴様ならどう答えるというのだ?」
「徹底討論、|蔓延《まんえん》する子供の呼吸中毒問題。母の悲痛な|叫《さけ》び「うちの子は|寝《ね》ていても呼吸をやめないんです!」とかね」
「……本当にこの方向性なのか?」
「俺を信じろ。この目を見ろ」
「向こうを向かれては見えぬ。というか、私で暇つぶしをして遊んでないか貴様?」
「まさか」と、俺は|欠伸《あくび》をし「無料で俺の|秘奥義《ひおうぎ》を習おうという気か?」と続けると、ギギナが|腐《くさ》りかけの|猫《ねこ》の死体を|踏《ふ》んだような|厭《いや》な顔をした。
いや、以前本当にあった話だから、とても正確な表現だと思う。
「……|幾《いく》らだ」
|煩悶《はんもん》の末にようやく吐き出したギギナの問いに、俺は|恭《うやうや》しく手を差し出す。
「初級で一〇イェン、中級で一〇〇イェン、上級で一〇〇〇イェンでございます、お客様」
|秀《ひい》でた|眉間《みけん》に|皺《しわ》を刻んだギギナが|懐《ふところ》を|探《さぐ》り、俺の手の上に一〇イェン硬貨を投げる。
「初級の心得は「一番安いものは一番安物の|銭失《ぜにうしな》い、中級へ急げ」だ」
苦々しい顔で|唇《くちびる》を|噛《か》みしめ、ギギナはさらに一〇〇イェン|硬貨《こうか》を放り投げる。
「中級の心得は「人にものを|頼《たの》む時は金を|惜《お》しむな、上級へ|突進《とっしん》しろ」だ」
形の良い|眉《まゆ》を|地震《じしん》のように|痙攣《けいれん》させながら、一〇〇〇イェン硬貨を、俺の手めがけ投げつけるギギナ。
「上級の心得は「金で何もかも解決しようとするな、|超《ちょう》上級へ全軍突撃せよ」だ、続く超上級は一〇〇〇〇イェ」
言おうとした瞬間、|屈《かが》んだ俺の頭があった空間を屠竜刀が|唸《うな》りを上げて|疾《はし》っていき、|逃《に》げ|後《おく》れた|髪《かみ》が|一房《ひとふさ》切られる。わーい|散髪代《さんぱつだい》|儲《もう》け。|嘘《うそ》だが。
「私からの心得だ。ドラッケンを|嘲《あざけ》る者はことごとく死ぬか、死んできた」
発言とともに、さらに俺の|凭《もた》れていた信徒席が両断される。|床《ゆか》に転げながら俺は叫ぶ。
「止めろって、ちょい待ち|刃物《はもの》|馬鹿《ばか》。というか|椅子《いす》に対する愛はどこいった!」
「貴様が|避《さ》けるからシャルーアは死んだ。血には血を。遺言は一秒だけ聞く、|終了《しゅうりょう》。|死刑《しけい》|執行《しっこう》」
「いちいち周囲の椅子に名前を付けるな気色悪い! あと血なんか流れてないし! |違《ちが》うって、|雰囲気《ふんいき》おかしくないか?」
言葉遊びの|応酬《おうしゅう》の後、俺とギギナは気づいた。
定時報告の時間なのに|誰《だれ》も現れないのだ。俺は急ぎ窓に|駆《か》け寄り、眼下の|寂《さび》れた庭園を|巡回《じゅんかい》警備しているはずの護衛官を探すが、誰一人見当たらない無人の|園《その》になっていた。
礼拝堂の|大扉《おおとびら》を静かに開け、昼なお|薄暗《うすぐら》い|廊下《ろうか》へと進み出ても、誰もいなかった。
反対方向の左方に視線を向けると廊下の|端《はし》で、巡回していた護衛官二人が笑っていた。
半月状に切り|裂《さ》かれた|喉《のど》を第二の口とするような、|歪《ゆが》んだ美意識があればだが。
|噴出《ふんしゅつ》する血は暗赤色の|血溜《ちだ》まりを産み、|壁《かべ》に寄りかかる護衛たちを|朱《しゅ》で|飾《かざ》っていた。
その|瞬間《しゅんかん》、俺の背に|氷塊《ひょうかい》が|滑《すべ》り落ちるがごとく|猛烈《もうれつ》な|悪寒《おかん》が走る。
上方から俺の脳天へ疾る|白刃《はくじん》を、ギギナの電光の|抜《ぬ》き打ちの|屠竜刀《とりゅうとう》が受ける!
金属音と|緋色《ひいろ》の火花を散らし、ギギナがそのまま|剛腕《ごうわん》で|振《ふ》り抜く。
そいつは|刃《やいば》にかかる屠竜刀の慣性を利用して後方へ回転、|飛翔《ひしょう》し、廊下の|天井《てんじょう》に逆さに着地。
その|衝撃《しょうげき》で|吊《つ》り照明が|揺《ゆ》れる。
|襲撃者《しゅうげきしゃ》の|奇術《きじゅつ》じみた体術に、ギギナの追い打ちの返し刃が間合いをずらされ空を切る。
|影《かげ》は天井を|蹴《け》り、壁に着地。さらに壁を蹴って|撞球《どうきゅう》反射のような|跳躍《ちょうやく》を行い、そして俺達の前方の廊下に無音で着地した。
そいつはまさに影だった。
|小柄《こがら》ながら|鍛《きた》え上げられた全身と、そして鼻下までを暗灰色の|装束《しょうぞく》と|鎖帷子《くさりかたびら》で包み、見慣れぬ形状の片刃の|剣《けん》を手に下げていた。
それはウコウト大陸の打突用の剣ではなく、引き斬る原理の東方の刀だった。
瞬時に俺の頭に|閃《ひらめ》いた単語があった。
「こいつは〈コウガ〉だ!」
俺の|呟《つぶや》きより速くギギナが|疾駆《しっく》する。
俺は学院を出て諸国|遍歴《へんれき》という名の、正直いうと|傭兵《ようへい》|兼《けん》|盗賊《とうぞく》|紛《まが》いの生活をしていた、悲しく|侘《わび》しい時期がある。
ある時、旅の相棒になった東方より|放浪《ほうろう》してきた曲刀の剣士が、旅の長い夜語りに〈コウガ〉たちのことを教えてくれたことがある。
コウガとは、|忍《しの》びの者とも言われ、|謀略《ぼうりゃく》と暗殺を|生業《なりわい》とする暗殺組織の構成員であり、その訓練は肉体と精神を極限まで|鍛練《たんれん》し、その手刀で人間の首を|刎《は》ねることすら可能とするまさに生ける殺人機械の一流派である。
コウガは、古くは東方のヒナギの国の領主たちと取引し暗躍していたが、ヒナギがついに王に統一され平和が続いたため、コウガやフウマといった|忍者《にんじゃ》各流派は、一族の存続の場を求めどうやらこの大陸に|渡《わた》ってきているらしいと、その曲刀の剣士は語った。
その異境の暗殺者が眼前にいるのだ。
モルディーン|枢機卿長《すうきけいちょう》の話にあったとおり、卿とアズ・ビータ下院議員を、いや、おそらくは両者を暗殺したい何者かに|傭《やと》われて。
|飛燕《ひえん》の速度で間合いを|詰《つ》めるギギナに、コウガは両の後ろ手から小型|円盤《えんばん》を|投擲《とうてき》する。
|手裏剣《しゅりけん》と呼ばれる円盤型の刃で、八方の刃はどこからでも命中すれは肉を切り裂く。
ギギナは手裏剣を|躱《かわ》して体勢を|崩《くず》す|愚《ぐ》を避け、|凶器《きょうき》が自らの|肩口《かたぐち》を切り裂き、|鮮血《せんけつ》が|跳《は》ねるに任せる。
さらに|軸足《じくあし》を一歩|踏《ふ》み込み、全長九三五ミリメルトルのガナサイト|重咒《じゅうじゅ》|合金《ごうきん》の刀身を|裂帛《れっぱく》の気合で打ち込む。
コウガ|忍《しのび》は装束の端を切らせるだけで白銀の|軌跡《きせき》を躱し、体が流れた剣士に|横薙《よこな》ぎの刃を走らせるが、ギギナの左手の|籠手《こて》の表面で受けられ|蒼《あお》い|鋼《はがね》の悲鳴と火花を散らす。
|刹那《せつな》の間すら置かずにコウガ忍の左中段蹴りが放たれ、ギギナの|右脇腹《みぎわきばら》をえぐる。
ギギナの極限にまで鍛練された筋肉の束の腹筋でなければ、内臓|破裂《はれつ》していただろう。
さらに連動するコウガ忍の電光の右|貫手《ぬきて》を、左手で|捌《さば》きつつ後方へと飛び|退《の》くギギナ。
同時に|牽制《けんせい》で振られる|魔剣《まけん》を避けて、後方へと大きく逃げるコウガ|忍者《にんじゃ》。
|連携《れんけい》は|完壁《かんぺき》だった。俺の|魔杖剣《まじょうけん》〈断罪者ヨルガ〉で|紡《つむ》いでいた|化学《かがく》|練成系《れんせいけい》|咒式《じゅしき》第三階位〈|緋竜七咆《ハボリュム》)が発動する。
振り向きざま、俺の後方へ!
俺の首を刎ねるべく、背後上空から飛びかかろうとしていたもう一人のコウガに、ナパーム燃焼方式の七条の火線が|襲《おそ》いかかる。
緋色と|橙色《だいだいいろ》の|業《ごうか》火と衝撃が新手の襲撃者に|轟音《ごうおん》とともに|殺到《さっとう》、|収斂《しゅうれん》する。
咒式で合成された、ベンゼン二一%、ガソリン三三%、ポリスチレン四六%が混合されたナパームの|地獄《じごく》の|炎《ほのお》は、優に千度に|迫《せま》り骨まで|灼《や》く。
必ず二人で巡回警護していた護衛を声も上げさせずに|倒《たお》すには、敵は最低二人いる。
合わせてまず|厄介《やっかい》な後衛役、|攻性《こうせい》|咒式《じゅしき》|使《つか》いたる俺の|咒式《じゅしき》|展開《てんかい》の|隙《すき》を|突《つ》くつもりだろう、と推測した俺の反撃は、まさに完壁だった。
が、その俺の完壁な|赫怒《かくど》の火線を、忍者はより一層の加速で躱していた。
通常、展開発動した|咒式《じゅしき》は絶対外れない。発動から一瞬で展開し、咒式にもよるが音速や光速で標的に|到達《とうたつ》、正確に命中するように|咒式《じゅしき》|方程式《ほうていしき》が組成されているからだ。
このコウガ者は|咒式《じゅしき》|技術者《ぎじゅつしゃ》が想定しえないほどの、通常ではあり得ない|超《ちょう》速度で加速したのだ。
|火炎《かえん》を背景に、暗殺者の凶刃はすでに俺の首に、その刃身の冷気が|皮膚《ひふ》で感じられる間合いにまで迫っていた。
だが、コウガの刃が俺の首を刎ねる直前、俺はもう一つの〈|緋竜七咆《ハボリュム》〉の七条の|猛炎《もうえん》を生成していた!
|紅蓮《ぐれん》と|漆黒《しっこく》の混血児たる|爆炎《ばくえん》の|奔流《ほんりゅう》がコウガ忍に|衝突《しょうとつ》し、|炸裂《さくれつ》衝撃で|吹《ふ》き飛ばす。
同時に、二つの|咒弾《じゅだん》|空薬莢《からやっきょう》が|床《ゆか》に落下する音も|掻《か》き消される。
そいつはまとわされた火炎を消火すべく、飛ばされながら高速回転、着地したが|無駄《むだ》だ。そのナパームの炎は、四塩化炭素等の|薬剤《やくざい》消火か空気中の酸素を食いつくすまでは消えない。
俺は最初の緋竜七咆の式を発動するのと同時に、もう一つの緋竜七咆を発動、時間差で発動したのだ。
これを|二重《にじゅう》|咒式《じゅしき》|発動法《はつどうほう》といい、咒式の隙をほぼ無くす、|攻性《こうせい》|咒式士《じゅしきし》の切り札であるが、とんでもなく難易度が高い。
その原因は|咒式《じゅしき》の多重並行思考の困難さ、例えるなら|戦闘《せんとう》をしながら右手で円を|描《えが》き、左手で三角形を描くようなものがあるからである。
しかし、その実戦有効性は確かなため、数少ない|高位《こうい》|咒式士《じゅしきし》は必ず|使役《しえき》する。例えば俺みたいな。
だが、|煉獄《れんごく》の炎の|装束《しょうぞく》をまとったコウガ忍は、こちらへと|突進《とっしん》を開始する。
その突進は|防御《ぼうぎょ》も何もないものだった、だからこそ俺は|戦慄《せんりつ》し|絶叫《ぜっきょう》した。
「|逃《に》げろギギナっ!」
声と同時に俺とギギナは礼拝堂へと横転して逃げる。同時に炎上するコウガ忍の肉体が爆散する。
|己《おのれ》の命を使った自爆であった。
|樫《かし》|扉《とびら》を引きちぎる|怒濤《どとう》の爆風と|肉片《にくへん》の|牙《きば》から、ギギナの|身体《からだ》に守られた俺は、|抱《かか》えられたまま礼拝堂内へと転がり込む。
|肌《はだ》と装束に|灼熱《しゃくねつ》の|抱擁《ほうよう》がまとわりつき、その激痛に俺の全身が苦鳴を上げる。
とんでもない|奴《やつ》らだった。人間とは思えない体術とその必殺の|執念《しゅうねん》。
どんな|異貌《いぼう》のものどもよりも、人間の心、信念こそが|恐《おそ》ろしい。
コウガやフウマの忍者が世界最凶の暗殺者とは、あまりにも正確な|称号《しょうごう》だろう。
「どうした!? 何事だ!?」
司教室の扉を開け、ヘロデルが顔を出す。
「味方の反対だっ!」
ヘロデルの顔の真横に|鈍色《にびいろ》の手裏剣が突き立つ。|慌《あわ》てて扉を閉めるヘロデル。
|振《ふ》り返ると、最初の|忍《しのび》が仲間の産んだ炎の|壁《かべ》を|弾丸《だんがん》のように突き破り、|疾走《しっそう》してくる。神速で反応するギギナと魔剣ネレトーが、コウガ者の左側頭部に、白光の|瀑布《ばくふ》のように振り下ろされる。
コウガ者はそれを|双刀《そうとう》で受けて、そのまま|刃《やいば》を折るか|搦《から》め|捕《と》る、ことは出来なかった。
受けた鋼鉄の双刀から左側頭部、|頸部《けいぶ》、|鎖骨《さこつ》、|鎖帷子《くさりかたびら》で|覆《おお》われているはずの|肋骨《ろっこつ》とその|肺腑《はいふ》、心臓、小腸上部、そして|右脇腹《みぎわきばら》へと凶刃が|疾《はし》り|抜《ぬ》け、異郷の暗殺者を一刀両断した。
|脳漿《のうしょう》と内臓と黒血を大気中にプチ|撒《ま》けながら、死者の上半身が|衝撃《しょうげき》慣性のままに飛んでいく。
刃との|摩擦《まさつ》で空気分子が|焦《こ》げる|幻臭《げんしゅう》すら|漂《ただよ》ってくる、|凄絶《せいぜつ》無比な|斬撃《ざんげき》だった。
|生体《せいたい》|強化《きょうか》|咒式士《じゅしきし》は地上最強の戦士である。その中でも|剣舞士《けんまいし》たるギギナは、最高の一人であろう。
その手の刃にロルカ屋で|購入《こうにゅう》した|馬鹿《ばか》|高《だか》い咒式、|天才《てんさい》|咒式具《じゅしきぐ》|製作者《せいさくしゃ》ジュゼオ・ゾア・フレグンの|強化《きょうか》|咒式《じゅしき》|法珠《ほうじゅ》が加わったのだ。
その法珠に|封入《ふうにゅう》された咒式の一つは、単結晶の刃を微細に超高速振動させ、破壊力を増加させるという|剣呑《けんのん》|窮《きわ》まるものであったのだ。両者が合わさり今まさに|鬼神《きしん》の剣となったのである。
両断された死体が、広間の|絨毯《じゅうたん》に|濡《ぬ》れた音を立てて落下するのと重なり、いくつもの|硝子《がらす》の|砕《くだ》け散る音が広間に|響《ひび》く。
礼拝堂|天蓋《てんがい》の聖画を描いた色硝子を破り、コウガ者たちが落下してくる。|影《かげ》の数は八人。
「司教室に一人も通すな、|殲滅《せんめつ》せよ! あと|椅子《いす》たちを殺させるなっ!」
|叫《さけ》ぶギギナの背後へと、落下しながらの忍者の一刀が打ち下ろされる。
ギギナは背後を|顧《かえり》みることなく|封咒《ふうじゅ》|弾筒《だんとう》を|投擲《とうてき》。コウガ者の頭部と胸部に命中し、大人の|拳《こぶし》が入りそうな穴を開け、|屍《しかばね》は横方向の衝撃のまま壁に|叩《たた》きつけられる。
「さあ、闘争を|享受《きょうじゅ》しよう、|殺戮《さつりく》を|肯定《こうてい》しよう。命と命の刃が激突し火花を散らす、その瞬間だけ私と世界は脈動を始める!」
ドラッケンの全身を、|蠢《うごめ》く|蛇《へび》のような強化キチン質と硬化クチクラと強化筋肉の生体|甲殻《こうかく》|鎧《よろい》が覆っていく。
「さあ、貴様たちの限界の向こうを見せろ!」
一方の俺もコウガ|忍《しのび》の一人が床に着地する前に、|電磁《でんじ》|雷撃系《らいげきけい》|咒式《じゅしき》第二階位〈|雷霆鞭《フュル・フー》〉を発動。忍の頸部に電子の|毒蛇《どくじゃ》が巻きつき、神経系や内臓を|灼《や》きつくす。
他のコウガ忍の|手裏剣《しゅりけん》の空を|裂《さ》く追撃の|唸《うな》りを耳元で聞きながら、椅子と椅子の間を転がって|回避《かいひ》、追撃の手裏剣をさらに横転し|躱《かわ》しながらも|咒式《じゅしき》を|紡《つむ》ぎ、走る。
こいつら忍者に対して通常の|咒式《じゅしき》では|遅《おそ》いのだ。
秒速約三十万キロメルトルの光速を叩き出す光学系、雷撃系の|咒式《じゅしき》でないと正確に|捉《とら》えきれないと判断したのが正解だった。
休む|暇《ひま》もなく次のコウガの刀が俺に|迫《せま》りくる。|魔杖剣《まじょうけん》ヨルガと|噛《か》み合い、|耳《みみ》|障《ざわ》りな金属音が女の|断末魔《だんまつま》のように|哭《な》き叫ぶ。
俺は|二重《にじゅう》|咒式《じゅしき》|発動法《はつどうほう》で紡いだ〈|雷霆鞭《フュル・フー》〉を自分の刃に放つ。
|鋼《はがね》から通電、激しく|痙撃《けいれん》し絶命する|忍《しのび》。その|眼窩《がんか》と|鼻腔《びこう》、|口腔《こうこう》から|沸騰《ふっとう》した黒血が|汚泥《おでい》のごとく|零《こぼ》れる。
その仲間の屍の背を|蹴《け》って、別のコウガが必殺の|飛翔《ひしょう》|斬《ぎ》りを打ち降ろしてくる。
|咄嗟《とっさ》に魔杖剣を|撥《は》ね上げて|迎撃《げいげき》するが、その|刀身《とうしん》が押し込まれ、俺の|左肩《ひだりかた》に食い込む。|鍛練《たんれん》と|咒式《じゅしき》|強化《きょうか》でそこらの|力自慢《ちからじまん》をねじ|伏《ふ》せる俺の|膂力《りょりょく》を、この頭一つ|小柄《こがら》なコウガ忍が|凌駕《りょうが》し押し|斬《き》ろうとするのだ。
と、俺の注意が激しく出血する肩口に行った所に、コウガの右中段蹴りが放たれる。
咄嗟に体を|捻《ひね》り、急所への打撃を躱すが、忍の|翻《ひるがえ》った返し刃に軽装多層|鎧《よろい》ごと胸を切り裂かれ、血液を撒き散らし、後方の椅子に足を取られ左横の|床《ゆか》に|転倒《てんとう》。
胸部の重要血管が三本切断。|分析《ぶんせき》は重傷!
コウガ者の返す刃が来る瞬間に、転がった慣性を水面蹴りに|替《か》え、忍者の|軸足《じくあし》を|払《はら》う。
相手の刃は必殺の|軌道《きどう》をずらされ、俺の左耳の横の、椅子の木製|手摺《てす》りに食い込む。
俺はすぐに背筋と|足腰《あしこし》の|発条《ばね》で半回転し、転倒から立ち上がろうとするコウガ者の|胸板《むたいた》に、他に伏せたままの|低空廻《まわ》し蹴りを入れる。
そのまま俺の右手の断罪者ヨルガを、不自然な体勢ながら〈|雷霆鞭《フュル・フー》〉の咒式とともに暗殺者の|胴《どう》に叩き込む。
引き金が軽い。|弾《たま》|詰《づ》まり!
半ば割れた血まみれの左肩と|咒式《じゅしき》の|宿《やど》らない刃では、暗殺者のまとう鎖帷子と鍛練された腹筋に|阻《はば》まれ、|致命傷《ちめいしょう》にはならない。
すかさず魔杖剣を投げ捨て、低空体当たりを|食《く》らわし同時に|倒《たお》れ込む。
ジヴといちゃついてたときに入室してきたギギナの図
夢中で腰の後ろから引き抜いたものを、コウガ者の顔に向ける。
相手は咄嗟に手で払いのけようとするが、構わず引き金を引き、六発全弾斉射。
コウガ忍の|上腕《じょうわん》に、|喉《のど》に、|頸動脈《けいどうみゃく》に、眼窩に大口径軟弾頭が|突《つ》き立つ。
|覆面《ふくめん》の下から、そこで初めて短い|溜息《ためいき》のような苦鳴を上げ、暗殺者は絶命した。
|銃口《じゅうこう》から鼻腔を突き|刺《さ》す|硝煙《しょうえん》の|臭《にお》いが立ちのぼる。
ギギナがロルカ屋で俺に無理やり持たせたのが、この火薬式|拳銃《けんじゅう》だった。
|咒式《じゅしき》や各種|装甲《そうこう》の発達したこの大陸において、単なる拳銃を使う者は少ない。
体に穴が開き、|片腕《かたうで》が|吹《ふ》き飛ぶ程度では絶命しない咒式士相手には、急所|狙《ねら》いか|特殊《とくしゅ》弾頭でも使わない限りは殺傷力不足なのだ。
ただ捨てるのももったいないので、仕方なく持っていたのだが、|早速《さっそく》役に立ってしまったのが腹立たしく、弾丸を失った銃を投げ捨てる。
胸と肩の血と相手の血に|塗《まみ》れた俺は、その痛覚で相方を思い出す。
床の魔杖剣を拾い、|咒弾《じゅだん》|排出《はいしゅつ》。空弾倉を乱暴に抜き取り、十二発全弾|装填《そうてん》した|咒弾倉《じゅだんそう》と|交換《こうかん》。遊底を引いて初弾を薬室へと送り込み、すぐにギギナの|支援《しえん》へと向かうべく|振《ふ》り向く。
俺が振り向くと、一方のギギナはすでに二人を斬り伏せ、また一人の|忍者《にんじゃ》の|頭蓋《ずがい》を、|真鍮《しんちゅう》の|蝋燭台《ろうそくだい》ごと地面と永平に切断していた。
床や|椅子《いす》や|壁《かべ》に飛び散る、灰と赤の|脳漿《のうしょう》。
残る最後の|一際《ひときわ》黒い|装束《しょうぞく》のコウガ者が、ギギナの|斬撃《ざんげき》のその|隙《すき》に走り込む。
水平に発生した|落雷《らくらい》のような刃の|刺突《しとつ》を、左手で腰から|抜《ぬ》いた短剣でギギナが受けるが、|甲《かん》|高《だか》い金属音を発して|破砕《はさい》される。
ボルニウム|剛金《ごうきん》製の|防禦《ぼうぎょ》用短剣が、だ。
|瞬時《しゅんじ》に体勢を立て直したギギナと、コウガが礼拝堂の|長椅子《ながいす》の上を平行に|疾《はし》る。
|双《ふた》つの|颶風《ぐふう》の間には銀の|奔流《ほんりゅう》が飛び|交《か》い、|燭台《しょくだい》や長椅子がまるで|薄紙《うすがみ》のように一瞬で解体され、|破片《はへん》が雪のように|舞《ま》う。
自分の手で椅子を|破壊《はかい》したことに|激怒《げきど》したギギナの、下段|脛足《すねあし》|斬《ぎ》りから変化する三段突きという必殺連撃を、長椅子を蹴って後方へと|飛翔《ひしょう》して躱すコウガ者。代わりに連撃を受けた長椅子が|爆散《ばくさん》する。
|眉根《まゆね》を上げるドラッケンの|剣舞士《けんまいし》がさらに間合いを|踏《ふ》み込み、|裂帛《れっぱく》の斬撃を放つ。
コウガ者が右手に|握《にぎ》った刀でそれを受け流そうとするが、余りに|巨大《きょだい》な質量|衝撃《しょうげき》に受け止めた自らの刃で肩口が|弾《はじ》ける。だが自由な左手が|奇妙《きみょう》な|二股《ふたまた》の|魔杖叉《まじょうさ》を引き抜いた。
ギギナの|超嗅覚《ちょうきゅうかく》が一連の不自然な防御に危機を察知、|勘《かん》で頭を大きく左横に振る。
|煌《かがや》く|斜線《しゃせん》が、左方からギギナの|甲殻兜《こうかくかぶと》を|削《けず》りながら飛来していき、その|軌跡《きせき》の遠く背後に存在した長椅子や蝋燭台、|祭壇《さいだん》に、教典の|棚《たな》を破壊、正確に言えば削り取った。
コウガの左手の|魔杖叉《まじょうさ》から、再度の斜線が放射される。
ギギナがさらに|飛燕《ひえん》の動きで|躱《かわ》そうとするが、|大腿部《だいたいぶ》や上腕の一部を|鎧《よろい》ごと削りとり、|鮮血《せんけつ》を上げさせた。
俺の|知覚眼鏡《クルークブリレ》の裏にコウガ|忍《しのび》の使う|咒式《じゅしき》の、その|恐《おそ》るべき推測が表示される。
|奴《やつ》が発射しているのは、恐らく|化学《かがく》|鋼成系《こうせいけい》|咒式《じゅしき》第三階位〈|微塵極針《チリアット》〉で生み出された|莫大《ばくだい》な数の|極細《ごくぼそ》の針であり、それが対象物体を粉砕したのだ。
もちろん、単なる金属の強度では、このような|驚異的《きょういてき》な破壊力は不可能である。
針は単分子の針であった。
極小の針自体が、一個の巨大分子であり、分子間の引っ張り力がそのまま針の強度になるのである。
その張力は直径一ミクロル当たり約二・四トーンという超強度を持ち、原子一つ分の針先はこの世で一番の|鋭利《えいり》さを|誇《ほこ》り、人体程度は文字通り水のごとく|貫通《かんつう》する。
そのウコウト大陸一細い死神の数億の群れを、忍者がさらに放つ。
壁や|天井《てんじょう》を粉砕しながら、|剣呑《けんのん》|極《きわ》まる銀線がギギナへと高速|強襲《きょうしゅう》。ガナサイト|重咒《じゅうじゅ》|合金《ごうきん》の超|硬度《こうど》の刃が受ける。
|竜《りゅう》の|鱗《うろこ》さえ|貫《つらぬ》く硬度強化の術式が組み込まれた魔剣と、決して折れない単分子の針たちが、|互《たが》いを破壊しようと|爪牙《そうが》を突きたて、|抱擁《ほうよう》し、悲鳴を上げる。
コウガが手を|捻《ひね》り、次の一撃を繰り出す。
ギギナが気配を察して横転、俺は|魔杖剣《まじょうけん》の弾倉を回転させ、|選択《せんたく》した|化学《かがく》|練成系《れんせいけい》|咒式《じゅしき》第三階位〈|爆炸吼《アイニ》〉を発動、|淡黄色《たんこうしょく》柱状|結晶《けっしょう》を|紡《つむ》ぐ。
トリニトロトルエン、|所謂《いわゆる》トルエンにニトロ基が三つ結合したTNT爆薬を、ジアゾジニトロフェノールやアジ|化鉛《かえん》や|雷汞《らいこう》等の起爆薬で|炸裂《さくれつ》させる|爆裂《ばくれつ》|咒式《じゅしき》の高速展開。
単分子針と|床材《ゆかざい》と長椅子を|灰塵《かいじん》と化させる爆裂と衝撃波とを、それを予測していたコウガ者が寸前で上空に回転飛翔し、負傷を軽減していた。
その行動は俺の予測|範囲《はんい》内。足場の無い空中で|退避《たいひ》行動は不可能。
そこへ|電磁《でんじ》|雷撃系《らいげきけい》|咒式《じゅしき》|第二《だいに》|階位《かいい》〈|雷霆鞭《フュル・フー》〉の|迅雷《じんらい》の|毒蛇《どくじゃ》を疾らせる!
だが、俺の|網膜《もうまく》と視神経は、信じ|難《がた》い光景を映した。
コウガ忍は|魔杖刀《まじょうとう》を握った右手で引き金を引き、俺と同じ〈|爆炸吼《アイニ》〉の咒式を展開し、爆裂を呼び起こした!
下方へと|噴出《ふんしゅつ》する、秒速二千から六千メルトルの爆発の反作用で、空中で再|上昇《じょうしょう》し雷刃から|逃《のが》れたのだ。
それは俺の想像しえない、|凄絶《せいぜつ》な実戦応用能力だった。
忍はそのまま宙空を飛翔し、天地創世図の|描《えが》かれた礼拝堂の|天蓋《てんがい》に逆さに着地。
右手の刀を、平面の天使の顔に|無惨《むざん》に|突《つ》き立てて|身体《からだ》を固定。左手の魔杖叉からの単分子針を、地上の我々に皮肉な|恵《めぐ》みの雨のごとく拡散して降らせた。
ギギナが俺に体当たりしてともに逃れ、両断された長椅子の下に転がり込む。
針たちが俺の脛を|掠《かす》め、その出血が|床《ゆか》の古びた教典の上に|零《こぼ》れる。
再び上方から放たれた|獰猛《どうもう》な銀雨は、床を長椅子を|貪欲《どんよく》に微塵に削りながら俺達に|殺到《さっとう》してくる。
さらに転がる俺の頭上で、ギギナが針を|屠竜刀《とりゅうとう》の側面で受け、その下方から俺は再び〈雷霆鞭〉を放つ。
|雷《いかずち》の|刃《やいば》は天井の天使画で弾けたが、忍者はすでにそこから退避し、空中で一回転。礼拝堂の床に重力が無いかのように無音で着地。
ギギナの化け物ぶりは知っているが、それと同等に|渡《わた》り合えるこのコウガ者は、他の|忍群《にんぐん》より|遥《はる》かに抜きん出ている恐るべき|猛者《もさ》である。
「この私、ドラッケンのギギナと|互角《ごかく》に|斬《き》り結ぶ暗殺者がいるとはな。死ぬ前に貴様の名を聞かせろ」
実戦で敵に話しかけるギギナの非常識さ。
「……十二代目|甲賀《こうが》真伝、キュラソー・オプト・コウガ」
忍の者は、物質的圧力すら感じられる|炯眼《けいがん》を光らせ、意外に高い声で短く応じる。
俺はそのコウガの刃先に発生した白色針状結晶に気づき、血流が逆流するのを感じた。
「ギギナっ!」
|轟音《ごうおん》が|咆哮《ほうこう》した。
7 光条の|紡《つむ》ぎ手
|逃《に》げろ逃げろ、過去から逃げろ
|捕《つか》まれば過去の|深淵《しんえん》は君を|喰《く》い殺すから
だがしかし、過去から逃げきった時
もはや君という存在はそこにいない
ジグムント・ヴァーレンハイト 「曲面|虚像《きょぞう》心理学」 |皇暦《こうれき》四八七年
|肺腑《はいふ》に|響《ひび》く重低音の二重奏が教会を|揺《ゆ》るがし、|壁《かべ》を、|窓枠《まどわく》を、|天井《てんじょう》を|砕《くだ》き散らせる。
キュラソーが発動したのは、|化学《かがく》|練成系《れんせいけい》|咒式《じゅしき》第四階位〈|曝轟蹂躪舞《アミ・イー》〉の|咒式《じゅしき》であった。
この|咒式《じゅしき》は同系列の|爆裂《ばくれつ》|咒式《じゅしき》〈|爆炸吼《アイニ》〉のTNT爆薬を|凌駕《りょうが》する|破壊力《はかいりょく》のRDX、|俗称《ぞくしょう》ヘキソーゲン、正式にはトリメチレントリニトロアミンという、平均秒速八三五〇メルトルの|爆遠《ばくそく》を|誇《ほこ》る強力な軍用爆薬を合成し爆裂させる、強力な|攻性《こうせい》|咒式《じゅしき》である。
だが、礼拝堂の|天蓋《てんがい》が完全|崩落《ほうらく》して|蒼弩《そうきゅう》が|覗《のぞ》き、|茫漠《ぼうばく》たる|白煙《はくえん》と|瓦礫《がれき》の広間の中で、俺とギギナは|奇跡《きせき》のごとく生き残っていた。
キュラソーの|攻性《こうせい》|咒式《じゅしき》に気づいた時、ギギナは後方|飛翔《ひしょう》し、俺は同じ〈|曝轟蹂躪舞《アミ・イー》〉の咒式を高速展開。指向性を持たせて発動し、|超破壊《ちょうはかい》力を無理やり|相殺《そうさい》したのだ。
限界を|超《こ》えた高速発動の|負荷《ふか》は、当然俺に逆流し、|右腕《みぎうで》の神経と脳の一部が焼き切れやがった。
そして俺とギギナ、ともに全身に軽いとはとても言えない傷を負っている。特に|咒式《じゅしき》|発動《はつどう》で俺の出血は|酷《ひど》くなり貧血ぎみだ。
「アロアデ、モロコイ、エピネデス、フェレイラ。貴様たちの尊い|犠牲《ぎせい》は決して忘れぬぞ」
破壊された|長椅子《ながいす》たちに|真摯《しんし》な|黙祷《もくとう》を|捧《ささ》げる|奇特《きとく》なドラッケンは|放《ほう》っておき、俺は周囲を|確認《かくにん》したが、|忍者《にんじゃ》の頭目のキュラソーはすでに|退却《たいきゃく》した様子だった。
「くそっ、あれだけ動けて|高位《こうい》|化学《かがく》|錬成《れんせい》|咒式《じゅしき》まで使うだと? どんな化け物だ!」
|眼鏡《めがね》の位置を直し、俺は|吐《は》き捨てる。
「しかも|偏執狂《へんしつきょう》的に用意|周到《しゅうとう》らしいな」
ドラッケン族が言うとおり、忍者は|館中《やかたじゅう》に燃焼|剤《ざい》を|撒《ま》いていたらしく、建造物のあちこちで|猛烈《もうれつ》な火災と黒煙が発生しはじめていた。
「そういえばこういう感じの、|田舎《いなか》の奇祭の話を聞いたことがあるな」
「すぐに|妄想《もうそう》に|逃避《とうひ》できる、貴様のそういう才能が時には|羨《うらや》ましい。季節の|贈答品《ぞうとうひん》にはまったく向かないがな」
俺と相棒は黒煙を|避《さ》け、礼拝堂奥の、|爆風《ばくふう》で|歪《ゆが》んだ|扉《とびら》の中へ飛び込む。
そこは四方を|書棚《しょだな》で囲まれた小さな部屋。
俺の前で一体何が起こったとわめくヘロデルは無視し、応接椅子に|恬然《てんぜん》として座るモルディーン|卿《きょう》に問いただす。
「|悪魔《あくま》の|親戚《しんせき》みたいに|剣呑《けんのん》|窮《きわ》まる暗殺者たちは退けましたが、我々を|遠《すみ》やかに|焼却《しょうきゃく》したいようです。礼拝堂からの出口は行き止まりの|火葬場《かそうば》。|他《ほか》の出口はありませんか?」
「そこまで都合のいいものがあるか」
ドラッケンの戦士が吐き捨てる。
「貴族相手の教会で、|緊急《きんきゅう》用逃走路がない方がおかしいんだよ。貴族は、いや、俺がそうだったように、病的に|臆病《おくびょう》で他人をまったく信じていないからな」
元貴族の|端《はし》くれだった俺が相棒に言い返すのを見つつ、卿は|悠然《ゆうぜん》と立ち上がり、書き物机をその|繊手《せんしゅ》の先で指し示す。
「机の下に納骨堂へと通じる通路がある。そこから外の|廟《びょう》へと出られるだろう」
教会が|炎上《えんじょう》し|焦《こ》げる|臭《にお》いを|嗅《か》ぎながら、ギギナとヘロデル、モルディーン|枢機卿長《すうきけいちょう》、アズ・ビータ下院議員、その秘書官、そして俺の六人の順で、暗く|狭隘《きょうあい》な地下納骨堂の通路を急ぎ進む。
ギギナの|紡《つむ》いだ|生体《せいたい》|変化系《へんかけい》|咒式《じゅしき》第一階位〈|螢明《ネミノン》〉が、その剣先で|淡《あわ》く温度の無い白光を揺らし、通路の左右の壁に積み上げられた聖職者たちの|柩《ひつぎ》を照らしていた。
その|咒式《じゅしき》は、合成したルシフェリンにATPとルシフェラーゼ|酵素《こうそ》と酸素を結合させ、酸化ルシフェリンが発生するというものだ。その時の化学エネルギーから光エネルギーへの|変換《へんかん》率は九八%以上と効率に|優《すぐ》れ、|無駄《むだ》な熱がほとんど発生しない。
|蛍《ほたる》の発光原理と同様の|優雅《ゆうが》な光で、ギギナの|気障《きざ》さが気に入らない。
その光精の光が|土砂《どしゃ》の上に|零《こぼ》れる。
出口への階段が|途中《とちゅう》で瓦礫に|塞《ふさ》がれているのだ。ギギナとヘロデルと同盟秘書官が、落ちていた板や|屠竜刀《とりゅうとう》で、急いで瓦礫を|撤去《てっきょ》しはじめる。
慣れない|疾走《しっそう》で千々に乱れた呼吸を整えながら、モルディーン卿が独白する。
「こんなに走ったのは、その昔、アルカンドラ|神殿《しんでん》で逃走する|狂信者《きょうしんしゃ》たちの|追撃《ついげき》を指揮した、あの時以来だよ」
左下に落としていた視線を上げ、目があった俺に枢機卿長は問いかける。
「君はここで私とアズ・ビータ下院議員の間で、一体何が話されたのか聞かないのかね」
「|下《した》っ|端《ぱ》は何も知らず聞かないのが、祖先から伝わる|由緒《ゆいしょ》|正《ただ》しい保身術でしてね」
言いながら|翳《かざ》した俺の|袖口《そでぐち》が、黒く|濡《ぬ》れていた。ギギナの|生体《せいたい》|咒式《じゅしき》で何とか塞いだ胸と|肩《かた》と焼き切れた右手の傷が、激しい運動で再び破れ出血しはじめていたのだ。
血と意識の流出を止めるべく、|生体《せいたい》|咒式《じゅしき》のか鈿い光を発動させる。
|化学《かがく》|練成系《れんせいけい》|咒式《じゅしき》|第一《だいいち》|階位《かいい》〈|殖血《ゾーチ》〉で作られたエリスロポイエチン等の増血剤で血を増やし、生体活性で出血を|抑《おさ》えるが、気休めにしかならない。
火災の熱気もかなり近くなり、|頬《ほお》を焼く。
「ただ、推測は可能です。|恐《おそ》らくは、対ラペトデス第九次東方|紛争《ふんそう》に関してでしょう」
俺の|呟《つぶや》きに対し、アズ議員の|皺《しわ》|深《ぶか》い顔に淡い|驚愕《きょうがく》の念が|浮《う》かぶ。
俺は傷の苦痛を忘れるために続ける。
「第九次東方紛争は歴史的・宗教的に|微妙《びみょう》な位置のアルソークの|割譲線《かつじょうせん》を押し|戻《もど》すのが一応の建前ですが、実際は東方二十三諸国家方面につながる交通利権と|要衝《ようしょう》の確保のための紛争です。
|猊下《げいか》ほどの頭の切れる方なら、すでにソルティアと組んだ海路の新設により、この争いが投入・予想|被害《ひがい》と割りに合わない無意味なものと判断する。
だが、教会と信徒、軍人たちと軍事産業は宿敵との戦いと|金儲《かねもう》けと宗教的正義に熱くなりすぎて、退くことなど考えもしていない。
皇国と七都市同盟が紛争で|疲弊《ひへい》しているその|際《すき》に、神聖イージェス教国やバッハルバ大光国が、|薄笑《うすわら》いを浮かべながら足元をすくおうとしているのに」
|肺腑《はいふ》が苦しくなり、一呼吸置いてから続ける。
「そこで|貴方《あなた》は、同程度には合理的で冷静なラペトデスの有力者、つまり最高議会長老カイ・クヨウと、その代理のアズ・ビータ下院議員と機密会談を持ち、和平の道を|探《さぐ》った。
そこで、両国の主戦派の顔を|潰《つぶ》さない程度の、適当な戦果を|捏造《ねつぞう》して手を打つ、といった内容の会談でしょうか。
その計画の|成就《じょうじゅ》がなると面目を失う、両国の|強硬《きょうこう》主戦派と|軍需《ぐんじゅ》産業のどちらかが暗殺者を送ってきた、そんなところでしょう」
モルディーン枢機卿長が|典雅《てんが》に|微笑《びしょう》し、アズ・ビータ下院議員が高雅に|微笑《ほほえ》む。
「その通り、七都市同盟はダエフ線まで引いて皇国との和平に応じる用意がある。
ツェベルンにはこんな|辺邸《へんぴ》な地下通路にも頭のマシな人間がいるようで|羨《うらや》ましいね。我が同盟議員の、正義|馬鹿《ばか》どもと交換してくれないかね、モルディーン猊下?」
「それは丁重に|辞退《じたい》させていただきますよ、アズ|殿《どの》。彼は皇国でもマシな方の人材でね。
|宮廷《きゅうてい》の、|飾《かざ》りにしては不細工な頭の無能貴族と戦争ごっこ好きの馬鹿軍人の山なら、タンクル鉱山の|採掘権《さいくつけん》付きで差し上げますが?」
「安すぎますよ、皇国の領土の半分をいただいてもそれは割りに合いませんな」
「お|互《たが》いに、自分こそ有能で正しいと信じている無能な愛国者には苦労しますな」
社交辞令の|笑《え》みを|交《か》わす政治家二|巨頭《きょとう》。
こういう人物がいるから、この狂気の世界にも、何とかよりマシな程度の狂気という政治があるのだろう。
しかし、俺には疑問が残った。
東方諸国家方面への交通路を開けるダエフ線まで七都市同盟が退くなら、|龍皇国《りゅうおうこく》がー方的に有利なだけだ。何か政治的|代償《だいしょう》があるはずだが、今の俺には思い出せない。
「開いたぞ!」
悲劇の|美姫《びき》のような顔を、|汗《あせ》と|埃《ほこり》と土と血で|斑《まだら》に|彩《いろど》ったドラッケンの戦士が|叫《さけ》ぶ。
政治的疑問は取りあえず|放《ほう》っておいて、|朽《く》ちかけた石階段を|駆《か》け上がる。
出口のそこは、教会の庭園にある|日陰《ひかげ》を作るための、小さな|霊廟《れいびょう》であった。
地下への階段から、|轟々《ごうごう》とした|崩壊音《ほうかいおん》と|土煙《つちけむり》が|噴出《ふんしゅつ》して全員が|咳《せ》き込み、乱雑な多重奏を|吐《は》き出す。
ついに地下で|炎上《えんじょう》による|崩落《ほうらく》が起こったのだが、あと数秒|遅《おそ》けれは納骨堂の|僧侶《そうりょ》たちの干からびた|遺骸《いがい》と仲良く生き|埋《う》めであった。
「どうやら助かった、らしいな」
「とにかくガユス君を、|高位《こうい》|治療《ちりょう》|咒式《じゅしき》を使える医師のいる所へ運ばないと危険だ」
「人を呼んできますっ!」
霊廟を走り出る|栗毛《くりげ》の同盟秘書官。
その腹部に小さな穴が開く。赤黒い穴が。
音はまったく聞こえなかった。
「|咒式《じゅしき》|狙撃《そげき》だっ!」
|倒《たお》れ|痙攣《けいれん》する秘書官をヘロデルが引きずってこようとすると、さらにその|右肩《みぎかた》で|血霧《ちぎり》が弾け、半回転して庭に倒れる。
さらに救助に走ろうとするアズ議員の肩を|掴《つか》み、ギギナが霊廟の柱の|陰《かげ》に引き込む。
寸前まで下院議員の肉体が|占《し》めていた空間を光が|薙《な》ぎ、大地に熱線の|焦《こ》げ穴が開く。
血臭とそれが焦げる|臭《にお》いが大気に満ちる。
ギギナの|鋼《はがね》の声が告げる。
「ドラッケン族の|狩《か》りにもこういう方法がある。どこからかは分からぬが、狙撃手は|初弾《しょだん》で秘書官を殺さなかった。それは我らが秘書官を救いに物陰から出るのを|誘《さそ》うためだ。助けに出たヘロデルを|即死《そくし》させなかったのも同様の理由だ。貴様と|卿《きょう》をここから引きずり出すための、|猛毒《もうどく》入りの|撒《ま》き|餌《え》に手を出すな」
ドラッケンの|剣舞士《けんまいし》がまさに|指摘《してき》する通りで、しかも敵は|凄腕《すごうで》の|咒式《じゅしき》|狙撃手《そげきしゅ》だった。
狙撃手が発動しているのは、手に|握《にぎ》る|魔杖弓《まじょうきゅう》により|増幅《ぞうふく》・|制御《せいぎょ》された|電磁《でんじ》|光学系《こうがくけい》|咒式《じゅしき》第四階位〈|光条灼弩顕《レラージエ》〉による光の矢である。
その光の矢の正体は、メーザーと同様の原理であるマイクロ波より波長の短い可視光線、近赤外線の光を|交互《こうご》に発生させた磁場で増幅、|発振《はっしん》させたものである。
放射される光条は、通常光と異なり位相が|揃《そろ》い収束性に|優《すぐ》れ、|狭《せま》い面積に|極《きわ》めて高密度の光エネルギーを集中させ標的を|灼《や》き、|溶解《ようかい》させる。レーザー線を移動させれば標的の切断も可能であり、光速と等しい秒速約三十万キロメルトルの|超《ちょう》長大な光の|刃《やいば》は、事実上|回避《かいひ》不可能な強力な殺傷咒式である。
|光学系《こうがくけい》|咒式《じゅしき》の着弾角度と|威力《いりょく》、付近に高層建造物が存在しないことから推測すると、|遥《はる》か遠くに見える市街地の商業ビルからの狙撃。
つまり一キロメルトル近い超超長|距離《きょり》から光学咒式狙撃を行っているのだろう。
しかも、走り動く人間の急所を正確に外して|撃《う》ってきているのだ。|尋常《じんじょう》の腕ではない。
「この手口と正確さは元軍人。そしてここまで高位の光学咒式狙撃手は、長手のエルザロルか、射光のブレナントあたりだろうな」
「どっちでも、ろくでもなさではいい勝負だな」
|神殿《しんでん》の外に倒れるヘロデルに、さらに急所を外した|冷酷《れいこく》な高熱レーザーが撃ち込まれる。|瀕死《ひんし》の友の悲鳴が俺の耳に|刺《さ》さり、倒れたヘロデルと俺の視線が|交錯《こうさく》する。
たまらず俺が駆け寄ろうとすると、ヘロデルが|勁《つよ》い視線で制した。
そんな俺の肩をモルディーン卿が掴み止める。
「ガユス君、冷静に|救援《きゅうえん》を待ちなさい」
「ここで救援を待つと!? |炎《ほのお》は|迫《せま》り、このままだと|燻製《くんせい》され焼き殺されるのだぞ!?」
背後のアズ・ビータ議員が卿の言に続けるとおり、地下通路からは、熱気を帯びた死の一酸化炭素の|黒煙《こくえん》が|禍々《まがまが》しく|吹《ふ》き出してきている。
「だからと言って、ここから出れば狙撃される。|恐《おそ》らく|先程《さきほど》のコウガ者も待ち|伏《ぶ》せてな。この|騒《さわ》ぎだ、郡警の|到着《とうちゃく》を待つのが最善策だ。たとえヘロデルと秘書官が死んでも、貴様らを死なせない、そういう護衛|契約《けいやく》だ」
ギギナの声は平時と何ら変化しない。
「郡警が間に合うものか、それに、君の|同僚《どうりょう》のガユス君も死にかけているのだぞ!」
議員の指摘にギギナが|黙《だま》り込む。長い長い|沈黙《ちんもく》。ギギナと俺の視線が交錯する。
ギギナは何も言わなかった。
俺が言うべき言葉を引き|継《つ》ぐ。
「俺の生死は|考慮《こうりょ》に|値《あたい》しない。俺やヘロデル、|貴方《あなた》の秘書官もその命は|誰《だれ》かと|交換《こうかん》が出来る。
しかし、アズ閣下とモルディーン|猊下《げいか》が死ねば、ツェベルン龍皇国とラペトデス七都市同盟の二つの国は引き|際《ぎわ》を失し、今度こそ|致命的《ちめいてき》な|泥沼《どろぬま》の戦争を開始するかも知れない。
そして、ヘロデルの|婚約者《こんやくしゃ》と同じように人々は戦火に巻き込まれ死ぬ」
ジヴーニャの|振《ふ》り向く|笑顔《えがお》が|脳裏《のうり》を|掠《かす》め痛みを|伴《ともな》ったが、|強引《ごういん》に忘れた、ことにする。俺の言葉にアズ議員は沈黙を守り、そしてモルディーン卿が重々しく告げる。
「事実その通りになるだろう。だが、他人の命に対してそう言える|馬鹿《ばか》はいても、自分の命で発言できる馬鹿に、私は敬意を|払《はら》いたい」
「私は貴方の命や国家に興味はありません。単に|咒式士《じゅしきし》の思考で合理的に判断しただけですよ」
俺はこの機会に続ける。
「敬意や|勲章《くんしょう》なんかより、欲しいものが一つ、いや二つあるのですが」
「ふむ、まあ、生きてここを出られたら、何でもと言っておこう」
「約束を絶対に覚えておいて下さい。答えを手に入れずには死ねないのでね」
モルディーン卿に軽口を|叩《たた》くが、俺の生命の限界は近い。
|苛々《いらいら》としたギギナが立ち上がる。
「私のような前衛役には何も手がないな。ガユス、|遠距離《えんきょり》|咒式《じゅしき》でどうにかならないのか?」
俺は残った血液を頭脳に|廻《まわ》して思考する。
「条件は最悪だ。通常、攻性こうせい|咒式士《じゅしきし》は相手との距離を正確に掴む必要がある。相手を視覚その|他《ほか》で|捉《とら》えて作用量子定数や波動関数に|干渉《かんしょう》し、|咒式《じゅしき》の|効果範囲《はんい》を厳密に決定するからだ。
相手は通常の|攻撃《こうげき》|咒式《じゅしき》の弱点を|突《つ》いた熟達の|咒式《じゅしき》|狙撃手《そげきしゅ》だ。つまり、|視認《しにん》不可能なはどの長距離咒式狙撃の相手をすることを、俺やおまえの|咒式《じゅしき》は想定していない」
「|化学《かがく》|練成《れんせい》|咒式士《じゅしきし》特有のまわりくどい言い方を|翻訳《ほんやく》すると、ここで我々は死ぬということか」
ギギナが|吐《は》き捨てる。
|霊廟《れいびょう》から走り出る|誇《ほこ》り高きドラッケン族に向かって、遥か遠い殺意が|凝縮《ぎょうしゅく》される。
|倒《たお》れ伏すヘロデルと秘書官に助けに寄ると見せかけて、|瞬間《しゅんかん》、|疾走《しっそう》の|軌道《きどう》を変える。
直後、熱線が庭園の土をえぐる。
|初弾《しょだん》を外した|射撃手《しゃげきしゅ》が|咒式《じゅしき》|反動《はんどう》を処理し、|次弾《じだん》|光学《こうがく》|咒式《じゅしき》を|紡《つむ》ぎ、再び|狙《ねら》いを付けるまで約一秒弱。
射撃手のいる方向へと、ギギナはドラッケン族の伝説にある、死を運ぶ|魔風《まふう》のごとく疾走する。
二秒。想定次弾発射時間に、戦士は大きく右に高速|飛翔《ひしょう》する。
それを|捕《と》らえられず、不可視の光条は空間を|貫通《かんつう》し大地に|炸裂《さくれつ》するだけだった。
俺がギギナに要求したのは、狙撃を三発外せということだった。
三秒。それのみがこの状態を打開する策の大前提なのだが、超絶の狙撃手を相手に何という難題であろうか。
ギギナは|生体《せいたい》|強化系《きょうかけい》|咒式《じゅしき》第二階位〈|飛迅燕《セエレ》〉により筋肉神経伝達物質アセチルコリンとそのエストラーゼ|酵素《こうそ》を合成|制御《せいぎょ》し反射速度を、同階位〈|疾惟隼《セレー》〉によりドーパミン、ノルアドレナリン、アドレナリン等のカテコールアミン類を合成し、脳神経系の|戦闘《せんとう》に余計な回路を|遮断《しゃだん》して思考速度を限界以上に引き上げ、|超《ちょう》高速反射と運動を可能にしている。
だが、通常戦闘では瞬間的に使うこの二つの咒式を、霊廟から出る前から同時併行発動して高速の反射と移動を行っているため、ギギナの全身の筋肉組織と神経と脳が悲鳴を上げているはずだろう。
四秒。ギギナの|咒式《じゅしき》|限界《げんかい》が近い。ギギナは|光弾《こうだん》から身を|隠《かく》すべく|倒壊《とうかい》した石壁へと|疾駆《しっく》する、と見せかけて反転|跳躍《ちょうやく》、光速の熱線を|躱《かわ》す。
だが、続く|灼熱《しゃくねつ》の光が、ギギナの生体甲殻鎧を|挨拶《あいさつ》も無しに貫通。右腹部の|臓腑《ぞうふ》を|掻《か》き回して去っていく。
射撃手はドラッケン族の|詐術《さじゅつ》を|見越《みこ》して咒式を連射してきたのだ。
強化筋肉の限界以上の速度で、しかも不規則跳躍する標的を、約七五〇メルトルの|長距離《ちょうきょり》で当ててくるとはまさに精密射撃機械。
四・一秒。さらなる|冥府《めいふ》の光が、音すら|追跡《ついせき》できない|超《ちょう》速度でギギナに|迫《せま》る。
|剣舞士《けんまいし》は右手の|屠竜刀《とりゅうとう》を、|横薙《よこな》ぎに振り|抜《ぬ》き|楯《たて》にする。
ガナサイト|重咒《じゅうじゅ》|合金製《ごうきんせい》の刀身に熱線が|衝突《しょうとつ》し、火花が散乱。瞬間的に刀身が熱せられはじめる。
灼熱の死線が刀身の上を走り抜け、|輪郭《りんかく》をはみ出し、|鎧《よろい》ごと|上腕《じょうわん》二頭筋を|灼《や》く。転がってそれ以上の熱線の|凌辱《りょうじょく》を|回避《かいひ》するも、そのままギギナは倒れる。
ここまでギギナが|囮《おとり》を演じ、しかも続く俺が失敗して死んだなら、相棒と|地獄《じごく》で会った時、さらなる下層地獄へと|蹴《け》り落とされるだろう。
その光景を捉えながら、俺は必死に咒式を紡いでいた。
超長距離の敵に対処する|咒式《じゅしき》は三種類ある。
一つには一個大隊を|壊滅《かいめつ》させる破壊力の、第七階位の|戦略級《せんりゃくきゅう》|咒式《じゅしき》や準戦略級咒式。
だが|未《いま》だ|到達者《とうたつしゃ》たる十三|階梯《かいてい》に達しない俺に起動することは絶対に不可能だし、それらの超大型咒式を市街で使用するのは、五十年も前から非人道咒式を禁止した、ジェルネ条約等で厳重禁止されている。
第一、それを起動できても観測咒式の助けがなければ、正確な命中は不可能である。
二つには光・|雷《いかずち》系の咒式である。
相手が使用しているように、電磁系の中でも光学系は、|遮蔽《しゃへい》されない限り一直線に飛んでいく長射程を誇る。
だが、化学物質を合成する|化学系《かがくけい》|咒式《じゅしき》の俺は、電磁系に属する光系の|咒式《じゅしき》はほぼ使えないのだ。同じ|咒式《じゅしき》でも系統が|違《ちが》うものは低階位ですら|使役《しえき》するのは容易ではない。
電磁系の中でも俺が|唯一《ゆいいつ》使用できる|雷撃《らいげき》系の|咒式《じゅしき》は制御が難しく、近距離でならともかく、長距離発動には伝導体による|誘導《ゆうどう》がないと、ほとんどまったく命中精度が存在しないといっても過言ではない。
三つには誘導系の咒式。生物の放射する熱、赤外線や|咒力《じゅりょく》を感知し追跡する組成式を物体に|込《こ》めて放つのである。
しかし、その性質ゆえに発動と展開が難しい上、この場合時間的に|手遅《ておく》れだ。
つまり、俺には超超長距離の敵を倒す|咒式《じゅしき》が、何一つ存在しないのだ。
しかし|矛盾《むじゅん》するようだが、|奴《やつ》を倒す手段は一つだけある。
敵の|咒式《じゅしき》|狙撃《そげき》があるからこそ可能な手が。
俺は|咒式《じゅしき》を発動させるべく、深く深く自意識の中へと降下していき、その|混沌《こんとん》の世界に意識で|咒式《じゅしき》を紡ぎはじめる。
|昏《くら》い意識の海の底に、|蒼白《あおじろ》い|燐光《りんこう》が|描《えが》く複雑な|咒印《じゅいん》|組成式《そせいしき》。
|膨大《ぼうだい》な数の構造式の六角形の頂点に、各種原子を配置していき、分子合成命令を組む。
咒力は多重|螺旋《らせん》を描き、複雑に組み合わされ、|上昇《じょうしょう》していき、|魔杖剣《まじょうけん》〈断罪者ヨルガ〉の|法珠《ほうじゅ》の超演算能力を借り練り上げられる。
剣の引き金を引き、|咒弾《じゅだん》の中の|置換《ちかん》物質と|補助《ほじょ》|咒式《じゅしき》が放出・収束する。
|咒力《じゅりょく》が暗い無意識の道を抜け、仮想力場を通り、|虚数《きょすう》界面から事象界面へと位相転移し、同時に|咒弾《じゅだん》を|媒介《ばいかい》に、周囲の物質の|作用量子《プランク》定数と波動関数に強制|干渉《かんしょう》を開始する。
それはまさにギギナが光弾に倒れた瞬間。
まず俺が紡いだ一つめの|咒式《じゅしき》は、|化学《かがく》|練成系《れんせいけい》咒式第一階位〈|瑞壁《アグー》〉。
それもギギナに向かって。
相棒の前方で|咒印《じゅいん》が遠距離展開。そこから|噴出《ふんしゅつ》する水素と酸素の結合物、つまり水分子の|奔流《ほんりゅう》の分厚い|壁《かべ》が張りめぐらされる。
水の|紗幕《しゃまく》にレーザー熱線が|突《つ》き|刺《さ》さり、|沸騰《ふっとう》・蒸発する、が、ほとんど|貫通《かんつう》せず、貫通した光線も殺傷力をほぼ失っていた。
|光学系《こうがくけい》|咒式《じゅしき》の弱点がこれだ。光の収束を求められる光線は、実は|極端《きょくたん》に水に弱く、大気中の水分にさえ散乱し吸収されてしまうため、晴天の日にしか発動できない。
つまり、水そのものの厚い壁の前には、|威力《いりょく》が|著《いちじる》しく減殺されるのだ。
|焦《あせ》る狙撃手の姿が目に映った。
同時展開した第二の咒式、|生体《せいたい》|強化系《きょうかけい》|咒式《じゅしき》第一階位〈鷹瞳〉で、|網膜《もうまく》内のオブシンやレチナール類や全transレチノール、|所謂《いわゆる》ピタミンAの交換や視覚組織を最活性化。
さらに|知覚眼鏡《クルークブリレ》の光学|増幅力《ぞうふくりょく》を借り、視力を|飛躍的《ひやくてき》に引き上げる。
それにより、|霊廟《れいびょう》から七五三・三四メルトル先の高層建造物の屋上の狙撃手の、|獲物《えもの》に死を|与《あた》えようとする|狩猟者《しゅりょうしゃ》の焦りの表情まで視認できた。
その時、〈|瑞壁《アグー》〉の波動関数の変異が|破綻《はたん》し、物理効果が解除されていった。
こちらに再度の|咒式《じゅしき》|展開《てんかい》をさせる|隙《すき》を与えず、狙撃手はすかさず次なる〈|光条灼弩顕《レラージエ》〉の死の熱線を放った。
その時すでに俺は三つめ、最後の|咒式《じゅしき》を同時併行発動させていた。
ギギナに刺さる、と見えた光線は、その手前に出現した|煌《きら》めく銀板に|激突《げきとつ》する。
それは、水酸化ナトリウム|水溶液《すいようえき》と|硝酸銀《しょうさんぎん》とアンモニア水溶液とブドウ糖水溶液で励起させる銀鏡反応にも似た反射鏡を咒式で作る、|化学練成咒式《かがくれんせいじゅしき》第五階位〈|積晶転咒珀鏡《サブナック》〉の|咒鏡《じゅきょう》であった。
多層化処理され内部|格子《こうし》が組み込まれた|咒化《じゅか》|晶板《しょうばん》の裏面に、兆分の一の平面の反射層を高速反応させた咒鏡。その表面に|着弾《ちゃくだん》したレーザー光は、魔杖剣ヨルガの法珠の|超《ちょう》演算により、咒鏡内で反射|制御《せいぎょ》され、発射地点へと正確に放射される。
反転させられたその死の光条は、七五三・三四メルトル先の商業ビル屋上の狙撃手ブレナントの|眉間《みけん》に正確に命中し、|頭蓋骨《ずがいこつ》、|硬膜《こうまく》、|脳髄《のうずい》。そして再び頭蓋骨を貫通して、後頭部よりさらに|遥《はる》か天空へと|迸《ほとばし》っていく。
|喜悦《きえつ》の表情を|浮《う》かべたままの狙撃手の|屍《しかばね》が|倒《たお》れゆくのが、俺の視覚強化された網膜に映った。
「終わった、のかね? 今度こそ?」
「どうやらそのようですね」
アズ・ビータ下院議員の問いにモルディーン|卿《きょう》が答え、さらに俺の方を|振《ふ》り返る。
しかしその時の俺は、廟の入口の石柱に|凭《もた》れながら、自ら流した大量の血の海と、限界を|超《こ》えた|咒式《じゅしき》の大量併行発動による、精神が|侵食《しんしょく》される混沌の中で死に向かっていた。
遠く近く、|啓示《けいじ》派教会の|陰々《いんいん》とした|弔《とむら》いの|鐘《かね》が鳴り|響《ひび》く。
無表情な|墓掘《はかほ》り人夫たちが|肩《かた》に|掛《か》けた|綱《つな》が、|遅々《ちち》とした速さで下ろされ、墓地に|穿《うが》たれた昏く深い穴に|柩《ひつぎ》が下ろされていく。
|緇衣《しえ》の|喪服《もふく》に身を包んだヘロデルと俺と、学院の級友たちが墓穴の|傍《かたわ》らに並び、肺病ぎみの|僧侶《そうりょ》の、|咳《せき》混じりの|鎮魂《ちんこん》の|祈祷《きとう》の前に頭をうなだれていた。
白と異に|塗《ぬ》り分けられた|陰鬱《いんうつ》な風景の中で、柩の上に|手向《たむ》けられた、二人の紅玉の婚約指輪と|真紅《しんく》の|薔薇《ばら》の|花環《はなわ》を|鮮烈《せんれつ》に覚えている。
俺の|右隣《みぎどなり》のヘロデルは赤い目のまま、未来の妻となるはずだったシファカが大地に|埋葬《まいそう》されていくのを|真《ま》っ|直《す》ぐに|見据《みす》えていた。
ヘロデルの|婚約者《こんやくしゃ》シファカは、夏期|休暇《きゅうか》を利用してコンル州へ帰省し|田舎道《いなかみち》を歩いていたのだが、彼女の帰郷前に|変更《へんこう》されていた|緩衝《かんしょう》地帯を知らず歩いてしまった。
そして当時、まだ七都市同盟が国境から散発的に放っていた、適当な|威嚇《いかく》演習の|長距離《ちょうきょり》|咒式《じゅしき》|砲弾《ほうだん》の|爆発《ばくはつ》に、運悪く|被弾《ひだん》し絶命したのだ。
一報を聞いた俺達は、国境の田舎街まで列車を乗り|継《つ》ぎ葬儀に参列したのだ。
葬儀の間、ヘロデルはまったくの無言で、帰りの列車内でも一言も|喋《しゃべ》らなかった。
誓いの指輪とともに、かけがえのない何かを地下に埋葬してきたかのように。
その時以来だった。ヘロデルがそれまでの|実際《じっさい》|化学《かがく》|咒式《じゅしき》から数法系の|法政《ほうせい》|咒式《じゅしき》に学部を変更し、咒式|官僚《かんりょう》を目指しはじめたのは。
ヘロデルは何かをしていないと気が|狂《くる》いそうだったのだろう。
ヘロデルはまだ若く、|哀《かな》しみにただ|耐《た》えるという|選択《せんたく》が|容認《ようにん》できなかったのだ。
「人間には何かが出来る」というお題目は、哀しみに直面した人間にとっては、「自分は何かを出来たのではないか? これから何かをしなくてはならないのではないか?」という|強迫《きょうはく》的な|焦燥感《しょうそうかん》と罪悪感を背負わせる。
個人とは世界の|微小《びしょう》な部品に過ぎないのに、世界の|全《すべ》ての責任を受け止めてしまう。
|誰《だれ》の責任でもない、とは言い切れない。
必ず誰かが何かを行動する、もしくは何かを行動しないからこそ事象因果は発生する。それを理解し、感じられるがために、その誰かの位置に自分を置いてしまうのだ。
俺も妹を|亡《な》くした時はそうだった。
|逃《に》げるように学院に進学し、咒式に|没頭《ぼっとう》して自分の根源的な問題から逃げていた。
いや、俺の場合、そんな美しいものではなかった。
思い出したくない。
どうか、どうか止めてくれ。
思い出させないでくれ。
それは|抽象的《ちゅうしょうてき》な風景。全てが|忘却《ぼうきゃく》に塗りつぶされ、|輪郭《りんかく》さえ|定《さだ》かではない。
それは二つの|人影《ひとかげ》。俺とは|違《ちが》う|髪《かみ》と|瞳《ひとみ》をした妹のアレシエル。少年と青年の間の俺自身。
|兄妹《きょうだい》は立っていて、座っていた。
|曖昧《あいまい》な|舞台《ぶたい》、|朦朧《もうろう》とした|記憶《きおく》の中で、高速度上映された映画の人物のように、二人は|戯画《ぎが》的に|幾重《いくえ》にも重なり|揺《ゆ》らめく。
時間進行は|緩慢《かんまん》で、そして|静謐《せいひつ》だった。
前後関係は不自然に省略され、時間と空間は|凍《こご》えていた。
やがて|均衡《きんこう》は破られ、アレシエルの|紅《あか》い|唇《くちびる》が一つの言葉を|紡《つむ》ぐ。
「     」
俺にはその言葉が理解できなかった。
アレシエルはその言葉を、子供をあやすかのように|繰《く》り返す。
「         」
俺は|俯《うつむ》いたまま静止している。その言葉の意味を理解できない。いや、理解はできるが理由を承服できないし、したくない。
俺がその視線をなぜ|逸《そ》らさなかったのかも分からない。
|諦念《ていねん》か、従容か。
そういえば俺はいつも決断を人に預けてきた。
考えてはいるが、それすらもいつも|何処《どこ》かの誰かからの借り物だった。
その時も借り物の思考だった。
全てが絶望的に|遅《おそ》く緩慢に感じる。空気密度が急激に万倍にも増加したようだった。
そしてそれは起こった。予期しない形で。
アレシエルは美しい口唇から血を|零《こぼ》し、|舞《ま》うように|倒《たお》れた。
俺はなぜそうなったのかを理解できずに、倒れたアレシエルの体を|抱《だ》き起こす。
|瀕死《ひんし》の妹は、口唇から零れる|赫《あか》い血に|塗《まみ》れても、いや、だからこそ一層に美しかった。
アレシエルは何かを言おうとした。
|朱《しゅ》を|零《こぼ》した口を開き、二音節だけの言葉を|絞《しぼ》り出す。
「   いで、     わ」
そしてそのまま瞳から光が消失していく。
その時、俺の胸中に|巨大《きょだい》な|安堵感《あんどかん》が|湧《わ》いてきた。
すぐさま|恐《おそ》ろしい|嫌悪感《けんおかん》が、|鋭利《えいり》な|破片《はへん》となって全身の血管を食い破り、|駆《か》け|巡《めぐ》る。
なぜなのか。俺は、俺だけは知っている。
あれはアレシエルの断罪と|弾劾《だんがい》の言葉だったのだ。
それは世界に対する|咒《のろ》いの|絶叫《ぜっきょう》。
それは兄に対する|咒《のろ》いの|慟哭《どうこく》。
|発狂《はっきょう》するかと思ったが、それからの|平凡《へいぼん》な日々は|悲哀《ひあい》も愛も|磨滅《まめつ》させ、|残酷《ざんこく》にただ続いた。
あそこで俺も死んでいたらと思う。
そう、今でも、いつでも。
そして夢の中でも。
|昏《くら》い海の底に|沈《しず》むように、俺の精神と心は|混沌《こんとん》の中へと分解・|還元《かんげん》していった。
無音の世界。
無色の視界。
そこは事象の背面で|哄笑《こうしょう》し、|圧倒的《あっとうてき》な静謐と|虚無《きょむ》が広大さに狂い咲き、|充満《じゅうまん》する空虚が高密度を|誇《ほこ》る領域。
俺は心から笑い、俺は|滂沱《ぼうだ》と泣いた。
俺は平面化し、俺は立体化した。
俺は|微塵《みじん》にされ、俺は|喪失《そうしつ》した。
そのそして割れた俺の破片が収束し集中し消えて消えていき俺の俺が思考している主体が主観が消失喪失消滅していきいった。
それは何らかの呼びかけ、力場だった。
気づいた時には、その力が力場が引力が、俺の私の僕の、部品を破片を断片を微塵を、結集し集結し収集し|蒐集《しゅうしゅう》し、回復させ再生させ再構成させ復活させ|蘇生《そせい》させていった。
|止《や》めてくれ、俺はもう帰りたくない。
黒い|虚《くろ》い|黔《くろ》い|黯《くろ》い|驪《くろ》い|玄《くろ》い|畔《くろ》い
白い|皎《しろ》い|皓《しろ》い|晧《しろ》い|皙《しろ》い|皚《しろ》い|顴《しろ》い
そして|煌《かがや》く光。
8 帰郷する魂
「君が何も|行為《こうい》しないと言っても、何もしないという行為を君は行為している。君が何も|選択《せんたく》しないと言っても、何も選択しないという選択を君は選択している。
ここまで言わないと、私が答えないという答えを出しているのが理解不可能なのかね」
ジグムント・ヴァーレンハイト、|皇暦《こうれき》四九二年一月三一日、
同氏の|盗作《とうさく》|疑惑《ぎわく》へのトリビュート誌の質問に答えて
目を開けると、一面の白が広がっていた。死後の世界とも思ったか、俺は魂の不滅も楽園も論理的に信じない。
(では|此処《ここ》は何処だ?)
目を|凝《こ》らして観察すると、それは白い合板の|天井《てんじょう》だった。
右横を向くと、丁度部屋に入ってきたジヴーニャの|碧緑《へきりょく》と、俺の碧青の視線が出会う。
「今日和」
「こ、こんにちは」
「ここ病院?」
「え、ええ」
「|診察代《しんさつだい》ボッたくるツザン|診療所《しんりようじよ》、じゃ、ないようだな」
俺がそこまで|喋《しゃべ》ると、ジヴが|慌《あわ》てて|咒式医《じゅしきい》を呼びに走る。
その後|駆《か》けつけた医師とジヴーニャの話によると、俺はあの事件で|昏倒《こんとう》した後、六日間も|昏睡《こんすい》状態に|陥《おちい》っていたらしい。
しかも、一時は完全に心臓|及《およ》び生命活動、そして脳波までが停止し、|咒式《じゅしき》|医師《いし》による正式な死亡判断が下されたが、そこから持ち直すという医学的|奇跡《きせき》が起こったらしい。
神は六日間で天地を造り、最後の七日目に休息したという。
俺はその反対で、しかも何も作らなかったわけだから、俺は神ではない。
我ながら見事な三段論法だが、それを聞いた医師は|優《やさ》しい|笑顔《えがお》を|浮《う》かべながら、強力な安定|剤《ざい》を処方した。
医師に聞かれたので、昏睡の間に昔の夢を見ていたと話すと、限界以上の咒式発動による精神|崩壊《ほうかい》状態を自己修復すべく、過去の|記憶《きおく》から再構成したのだろうと適当な|分析《ぶんせき》をされた。
どうでも良かった。
ただ、ジヴーニャが俺の|生還《せいかん》に|透明《とうめい》な|涙《なみだ》を|零《こぼ》してくれるのが、なぜか|心地《ここち》よかった。
彼女と妹アレシエルの|面影《おもかげ》にどこにも似た所はないが、どこか似ている。
|呪縛《じゅばく》は続く。そして愛も。
それでいいのだろう。
泣き|疲《つか》れて、俺の|膝《ひざ》を|覆《おお》う|掛布《シーツ》に顔を|伏《ふ》せて|眠《ねむ》るジヴの、その|柔《やわ》らかい白金の|髪《かみ》を|撫《な》でながら俺なりの適当な達観に至った。
事件のその後は、病室の|骨董品《こっとうひん》並みに旧式の受像機から聞くことになった。
今回のモルディーン|枢機卿長《すうきけいちょう》、アズ・ビータ下院議員の暗殺|未遂《みすい》事件は|公《おおやけ》になり、|狙撃手《そげきしゅ》の|咒式《じゅしき》|購入《こうにゅう》|経路《けいろ》から、|啓示《けいじ》派教会の最強硬派オルケンティウス長老が|喚問《かんもん》された。
|証拠《しょうこ》が不十分なために|起訴《きそ》と|実刑《じっけい》は|避《さ》けられたが、同長老の政治的|失脚《しっきゃく》は確実で、強硬派は|領袖《りょうしゅう》を失うだろう。
事件に関連したとされる強硬派の軍人・商人・|僧侶《そうりょ》も多数失脚、|逮捕《たいほ》された。モルディーン枢機卿長の|仇敵《きゅうてき》とされるグズレグ統合|幕僚《ばくりょう》|次官《じかん》は、さすがに|巧《うま》く|回避《かいひ》したようだ。
事件後、国民世論からも主戦世論が|大幅《おおはば》に後退、改めてモルディーン枢機卿長とアズ・ビータ下院議員の両名指導による両国の|暫定《ざんてい》和平会談が持たれることになり、今夏末から秋にも正式な条約|締結《ていけつ》が始まるだろうというのが事情通の予測だ。
ブレナントと特定された狙撃者の死体は発見されたが、あの|恐《おそ》るべきコウガ|忍者《にんじゃ》のキュラソーは、軍の|徹底的《てっていてき》な|捜索《そうさく》にもかかわらず|未《いま》だ|行方《ゆくえ》不明だった。
何か|腑《ふ》に落ちない幕切れだ。
「検査の結果、ソレルさんの|御身体《おからだ》の方は、咒式治療でほぼ健康体に回復してるそうです。つまり、この夕方にでも自宅療養で退院です。良かったですね」
俺の体温計の温度を記録紙に付けながら、新人看護婦のノジェが声をかけてくる。
「ソレルじゃなく、ガユスでいいよ」
俺が意識を回復した翌日は、朝から昼まで検査ばかりだった。
「でも、退院はあまり|嬉《うれ》しくはないな」
|寝台《しんだい》に横たわりながら俺が言うと、ノジェが記録紙から目を上げる。
「え、なぜですか?」
「|綺麗《きれい》なノジェさんに会う口実が無くなるからさ」
俺が|冗談《じょうだん》めかして言うと、ノジェが小さく|吹《ふ》き出して笑う。
「|可愛《かわい》い|恋人《こいぴと》さんに言いつけますよ」
「それは大変困る。俺と地球の危機だ」
俺が|真剣《しんけん》な顔をして言うと、またノジェが笑う。
だが俺は、以前ジヴに|浮気《うわき》が発覚した時のことを|突然《とつぜん》思い出していた。
ジヴは、俺が浮気相手を|抱《だ》いたその場所を問いつめ、|長椅子《ながいす》でいけない行為をしたと答えると「今すぐその長椅子を焼き捨てて」と|慈母《じぼ》のような優しい笑顔で言い「もったいないから、長椅子を焼くのは今回で終わりにしましょうね」と続けた。
あの時ほどジヴが|怖《こわ》かったこともない。
本当に|激怒《げきど》している時、なぜ女性は笑顔を作れるのだろう。男と女が同じ生物だとはとても信じられない。進化系統樹上の祖先は別だと思う。
午後まで|暇《ひま》なので、色々と思考|遊戯《ゆうぎ》をしてしまった。
「あの、ソレルさんは|咒式屋《じゅしきや》さんなんですよね」と、ノジェが敷布を|畳《たた》みながら背中|越《ご》しに問うてきた。俺が|肯定《こうてい》すると、しかし彼女は|黙《だま》り込む。
「いえ、私、今ちょっと困ったことになっていまして。また退院した後にでも相談に行ってもよろしいでしょうか?」
「いいよ」
|一般《いっぱん》に、国家や|企業《きざょう》や個人|紛争《ふんそう》の|駒《こま》に|雇《やと》われたり、|異貌《いぼう》のものどもを|討伐《とうばつ》したりと、破壊の|化身《けしん》のように思われている|攻性《こうせい》|咒式士《じゅしきし》だが、実際は身近な諸問題にかかわる|攻性《こうせい》|咒式士《じゅしきし》の方が|圧倒的《あっとうてき》に多い。
高度咒式士は破壊だけでなく知識や技術にも|優《すぐ》れることから、|慢性《まんせい》的に力不足の司法や警察の|委託《いたく》を受けて、|執行《しっこう》代行をする|探偵士《たんていし》となる攻性咒式士も多い。
実際、賞金首の犯罪者や|保釈金《ほしゃくきん》|未払《みばら》いの|脱走者《だっそうしゃ》を|捕獲《ほかく》するのは、|攻性《こうせい》|咒式士《じゅしきし》だと相場が決まっているし、警備会社や企業の機密防衛度の信用と株価が、|攻性《こうせい》|咒式士《じゅしきし》の多さで決まるのは常識だ。
さらには、学識背景と抑止力がある|咒式士《じゅしきし》が|仲裁《ちゅうさい》に入るだけで、問題の|当事者双方《そうほう》の|衝突《しょうとつ》を防止するため、調停立会い人の資格も有する。
つまり、今では|絶滅《ぜつめつ》した古老や|地廻《じまわ》りや護民官がやっていた仕事が、俺達にまで回り回ってきたわけだ。
かといって|巨大《きょだい》な力を持つことには変わりはなく、社会に絶対必要だが、危険な存在でもあるとの|認識《にんしき》あたりが一般的だろう。
「知らない男が君の今日の下着は白だね、と電話機にしつこくかけてきたり、自宅前で待ち伏せしたりするとか?」
「え、ええ、それに近いこせなんですが、それだけで済むとは思えなくなってきまして」
不安げな顔を笑顔で押し|隠《かく》すように、ノジェは敷布を|抱《かか》えて病室を去った。
その後のやたら|不味《まず》い病院の昼食、というより栄養学|一辺倒《いっぺんとう》の|食餌《しょくじ》を、文句も言わずに食べながら一連の事件を思い出していた。
そこで俺はある考えに|囚《とら》われ、そして以前からの疑念が確信に変わろうとしていた。
思考に|没頭《ぼっとう》していると、午後にヘロデルとモルディーン|卿《きょう》が俺の|見舞《みま》いに来た。
モルディーン卿は|枢機卿《すうきけい》の|帽子《ぼうし》に|長裾《ながすそ》の黒衣という第三礼装で来ており、|珍《めずら》しくいかにも高官といった感じがした。|挨拶《あいさつ》に上げた右手指に並ぶ銀や白金の指輪が、とてつもなく高価そうな輝きを散らしていた。
|傍《かたわ》らのヘロデルは上司の手前も気にせず、俺の傷の具合のことばかり|尋《たず》ねていたが、逆に俺が尋ね返す。
「ヘロデル、おまえこそ|大丈夫《だいじょうぶ》なのか?」
「最高級の|治療《ちりょう》|咒式《じゅしき》ですぐに治ったよ。労災が利かなかったら|請求書《せいきゅうしょ》を見れないがな」
俺はヘロデルの腹に|拳《こぶし》を|突《つ》き入れた。
「な、何を?」
「|面倒《めんどう》なことに巻き込んだことに対する、|懇切《こんせつ》|丁寧《ていねい》な、かつ学院伝統のお礼である」
|虚《きょ》を突かれた顔のヘロデル。
「いつかこの借りは返せよ」
俺の軽い言葉に、ヘロデルはしばらく黙っていたが「ああ、いつか必ず」とだけ返した。
俺とヘロデルのそんなやり取りに、モルディーン枢磯卿長が小さく|笑《え》みを|零《こぼ》す。
続く一般的なお見舞いの言葉と、|果物《くだもの》の盛り合わせの見舞い品はどこも|一緒《いっしょ》だ。
卿がヘロデルに車を廻せと指示した。
病室を退出する時に、俺の視線と交錯した旧友の|唇《くちびる》が「すまない、借りは返せそうにない」と言ったのが小さく聞こえた。
何もそんな真剣に取らなくても、と俺は思ったが、友人の心配|性《しょう》が嬉しかった。
そして静かな白い病室に、俺と卿の二人だけになった。
|暫時《ざんじ》の|沈黙《ちんもく》の後に卿が口を開く。
「今回の君とギギナ君の働きのお|陰《かげ》で、私とアズ・ビータ下院議員の命は救われた。そして何より和平会談により、何人の|無辜《むこ》の民の命が|無駄《むだ》に失われずに済んだことか。
何と言って感謝の言葉を述べたらいいか分からない。何か望みはないかね、私に出来ることなら何でもするが」
「別に、仕事ですから」
俺は窓の外を見下ろしながら答えた。病院前に典礼車を廻し、降車したヘロデルが見えた。
階下の|髭顔《ひげがお》のヘロデルが病室の|窓際《まどぎわ》の俺の姿に気づき、小さく手を上げる。
俺も小さく|振《ふ》り返すが、ヘロデルはなぜか|俯《うつむ》く。いつから照れ屋になったんだ?
それより、言わねばならぬことに気分を|切《き》り|換《か》える。
そう、ここからが真の戦いだ。
「そうですね。ではあの時の約束どおり、二つほど聞かせていただきたいことがあります」
真実を知る機会は、今しかないだろう。
|腹腔《ふくこう》の息を|吐《は》いて、言葉を一つ一つ|慎重《しんちょう》に発音する。
「初めましてですね。|卑賎《ひせん》の身たる私ですが|御尊顔《ごそんがん》を|拝《はい》し、この|貴顕《きけん》を|幸甚《こうじん》|至極《しごく》に存じあげます。|栄《は》えある|龍皇《りゅうおう》の血に連なる|御方《おんかた》、モルディーン・オージュス・ギュネイ枢機卿会議議長|猊下《げいか》」
|一拍《いっぱく》の間があった。
「|奇妙《きみょう》な|挨拶《あいさつ》をするね。それが君の政郷の奇習かね?」
「いいえ、なぜなら私の知るモルディーン枢機卿長は、出会った最初からあの事件の終結まで|影武者《かげむしゃ》、|恐《おそ》らくジェノン・カ・ダリウスという変装名人の十二|翼将《よくしょう》が入れ|替《か》わっていたのですから」
モルディーン枢機卿長が、初めて心からの|賛嘆《さんたん》の成分を、|薄《うす》く表情に|含有《がんゆう》させた。
「いつ、それが分かったのかね。私が|全幅《ぜんぷく》の|信頼《しんらい》を寄せるジェノン君の変装は、最高精度の個人識別機も|騙《だま》すほどの|完璧《かんぺき》な|模倣《もほう》なのだが?」
俺は大きく息を吐いた。
「まず、論理的に考えると、影武者を六人も用意するほどに|偏執的《へんしゅうてき》に用心深い猊下が、いくら重要とはいえ、カイ・クヨウ本人でもない相手との和平準備会談のために、警備の不安な秘密会談に出てくること自体が疑問なのです。つまり、|偽者《にせもの》である可能性もある。
しかし枢機卿長の|遊戯《ゆうぎ》至上|趣味《しゅみ》を考えるとありえない|範囲《はんい》でもない。そこで猊下を注意深く観察することにしました。
観察して偽者だと疑念を深めたのは、|貴方《あなた》が氷菓子を口にして、熱々のウルク料理を好きだと言い、アルカンドラ|神殿《しんでん》の思い出を語った時のことを思い出した、つい|先程《さきほど》です」
卿の暗灰色の|瞳孔《どうこう》が収縮する。
「周知の通り、猊下も偽者も|右利《みぎき》きです。大脳生理学的に、右利きの人間が、見たことのある場所を思い出す時に眼球は左上へ、暑い寒い・|感触《かんしょく》・体感に関係することを思い出す時には右下へ、音や声に関係のあることを思い出す時に左下へと、高確率で移動すると言われます。
その場の料理の好みや、過去の体験を語る時になぜか卿の眼球は左下へと動きました。一度ならともかく何度も。つまり、あの時点の猊下は、|誰《だれ》かに「声」で教えてもらった役を忠実に演じていた人物です。
そこであの時の猊下は偽者だと推測したのです。完壁な演技でも|記憶《きおく》や思考まで演じるわけにはいきません。同様の理由に続き、遊戯好きのモルディーン猊下御自身が幕切れを告げないと話が|締《し》まらないため、眼前の貴方が本人だとも言えます。以上証明|終了《しゅうりょう》」
病室の|白壁《しらかべ》に|凭《もた》れた卿が小さく|拍手《はくしゅ》する。
「|己《おのれ》の演技に、命以上の|誇《ほこ》りを|抱《いだ》くジェノン君が聞いたら、さぞ再|挑戦《ちょうせん》したがるだろうよ。それに、君は私という人間をよく観察しているね」
「先程の生理学の推理も、あくまで統計上というだけの|罠《わな》です。それでは、もう一つ教えて下さい」
そして俺はさらに恐るべき|核心《かくしん》に|触《ふ》れる。|震《ふる》えそうになる声を必死に|抑《おさ》え、|尋《たず》ねる。
「モルディーン猊下、なぜ貴方は、御自分で御自身を暗殺しようとしたのか、を」
二人の間の、氷河のような冷たい|静謐《せいひつ》。
モルディーン卿の|高雅《こうが》な|微笑《びしょう》は、分子一つ変化しなかった。
ただ、|淡《あわ》い|感嘆《かんたん》の言葉を|口《くち》の|端《は》にのぼらせただけだった。
「君は想像以上に|怜例《れいり》な頭を持っているね。それも気づいていたのかね?」
「これもあくまで推測でしたので、同じく罠をかけただけですよ。あと、|御丁寧《ごていねい》にもいちいち私の罠にかかった|演技《フリ》をなされなくても結構ですよ」
「それは失礼した。約束に従って|素直《すなお》に答えようと思ってね。存分に続けたまえ」
俺は|畏怖《いふ》に|挫《くじ》けそうになる心を|鼓舞《こぶ》し、告発を続ける。
「奇妙な点が多すぎました。まず、暗殺者たちが猊下の行動を|詳細《しょうさい》に知りすぎていた。七重もの偽者まで立てた機密会談が、日時や場所まで正確に|漏洩《ろうえい》している。これは内部に|詳《くわ》しい内通者がいるとしか思えない。だが、それにしては策略の|詰《つ》めが甘い。つまり貴方が、御自身で漏洩を行ったのだ」
「残念、そこは厳密には不正解だ。内通者は君の古い友人のヘロデル君だよ」
その時、病院の外から|轟音《ごうおん》が発生した。
反射的に振り返り外を見下ろすと、卿の|装甲《そうこう》典礼車が|爆発《ばくはつ》、|炎上《えんじょう》していた。
ヘロデル|一等《いっとう》|咒式《じゅしき》|秘書官《ひしょかん》ごとに。
黒煙を|吹《ふ》き上げる|業火《ごうか》の|熱烈《ねつれつ》な|抱擁《ほうよう》に包まれ、車はすでに黒い|輪郭《りんかく》しか残っていない。
病院と周囲に悲鳴と混乱の輪が|疾《はし》る。
その|阿鼻《あび》|叫喚《きょうかん》の|惨状《さんじょう》と、あまりに|唐突《とうとつ》な友の死に、俺は目を見開いたまま|硬直《こうちょく》する。
「|嘘《うそ》だ、|奴《やつ》が、ヘロデルが、そんな裏切りをするはずが!?」
「真実は常に|凡庸《ぼんょう》で|退屈《たいくつ》だ。今のは、彼が君に持ってきた|果物《くだもの》の内に仕込んだ爆発物だ。私の美食好きの舌には合わないから|交換《こうかん》し、彼自身に食してもらったというわけだ。
まあ、じっくり味わう|暇《ひま》もないだろうが」
爆発の赤光で顔の右半面を染めながら、卿はさも退屈そうに告げる。
「な、ぜ、ヘロデルには、理由がない!?」
言いながら、すでに俺は気づいていた。
「ヘロデル君は、軍部最強硬派のグズレグ統合|幕僚《ばくりょう》|次官《じかん》の飼い犬だ。結局、彼はラペトデス七都市同盟による、|婚約者《こんやくしゃ》の死の|復讐《ふくしゅう》の念からは|逃《のが》れられなかったようだ。
私は三重の内通者たる彼に|騙《だま》され信用する演技をし、今回はヘロデル君から情報が漏洩するように画策した。そのために飼っていたのだが、|道化《どうけ》の出番が終わったので|速《すみ》やかに|舞台《ぶたい》から退場してもらった、というわけだ」
モルディーン|枢機卿長《すうきけいちょう》は、あくまで|優雅《ゆうが》に品良く笑う。
「殺す、殺す必要はなかった、法の裁きを受けさせるべきだった!」
俺の悲痛な声に、卿は|笑顔《えがお》のまま答える。
「ヘロデル君が私を殺すために、君まで殺そうとした事実から目を|逸《そ》らしてはいけない。私は君の命をも救ったのだよ」
俺は言葉に詰まる。
「それに今なら、ヘロデル君は暗殺の悲劇の|犠牲者《ぎせいしゃ》で遺族に年金も出るし、彼の死はさらなる強硬派の残党追及の材料となる」
枢機卿長はさらに真相を続ける。
「実はコウガ|忍《しのび》のキュラソー・オプト・コウガは、私の子飼いの十二|翼将《よくしょう》の一人でね。こちらからわざと強硬派に接近させたんだよ。|臆病《おくびょう》で口先だけで思考する頭のない彼らを、私が親切にもキュラソーを使って|煽《あお》り指令して、一からこの私自身の暗殺計画を作ってあげたのだよ。
|咒式《じゅしき》|狙撃手《そげきしゅ》ブレナントは、|緊迫感《きんばくかん》と真実味を出すオマケ演出で|雇《やと》われ、死んだだけだ。後は、キュラソー君から相手の動向も完全に|掴《つか》んでいた上での|愉快《ゆかい》で楽しい寸劇というわけだ」
「そのキュラソーの配下のコウガ|忍者《にんじゃ》たちに、護衛や俺達と殺し合いをさせてまで、ですか」
卿の笑みに、意外だという成分が加わる。
「それこそ死ぬこともコウガ忍者の仕事の内だよ。そうでなければ真実味が|薄《うす》い。そのための忍者や護衛の死の全責任は私が持つ。ただ、|全滅《ぜんめつ》寸前にまで追いつめられようとは、さすがのキュラソー君も予想してなかったようだがね」
俺はこの|魔人《まじん》の|策謀《さくぼう》に|恐怖《きょうふ》していた。
卿はまだ笑っている。
|微笑《ほほえ》み続けている。
「和平会談自体は神、いやそんな退屈な|虚構《きょこう》よりも、死んだ|双子《ふたご》に|誓《ちか》って真実本当だ。ただ、この機会に私の政敵たる主戦派も、そろそろ舞台から退場させようと思ってね。ほんの余興ついでにやっただけだよ」
「わざわざ我々を使った理由は?」
卿が血の策謀など聞いたこともないというように、高貴な右手の五本の指を順番に折り説明していく。
「一つ、三重|間諜《かんちょう》のヘロデル君に、自分が信用されていると思わせ安心させる。
二つ、ガユス君とギギナ君という外部の人間を入れることにより、事件後の証言に客観性が加わるし、両名は各種咒式士協会からすら|孤立《こりつ》しているため、他の勢力に政治利用される心配もない。
三つ、同時にガユス君は、この私の力、本当の国家権力に逆らうほどに|馬鹿《ばか》でも勇者でもない。
四つ、この策謀劇を見て笑う観客が一人、例えば君くらいはいないと|寂《さび》しいからね。
五つ、それは秘密で、後のお楽しみだ」
「|無駄《むだ》に複雑すぎて、無意味な策謀だ」
「私の|趣味《しゅみ》だよ。人を|駒《こま》にした裏切りと|陰謀《いんぽう》と|闘争《とうそう》、そして愛。|極《きわ》めて劇的だろう?」
俺の背に|戦懐《せんりつ》の|氷塊《ひょうかい》が|滑《すべ》り落ちる。
策謀で人の運命を|操《あやつ》り、その|愛憎《あいぞう》すら彼には|遊戯《ゆうぎ》に過ぎないという事実に。
そして卿の策謀の利益も|証拠《しょうこ》もまったく無い。しかも現在、時の|英雄《えいゆう》となっているモルディーン枢機卿長を不確かな証拠で、俺のような|胡散臭《うさんくさ》い|攻性《こうせい》|咒式士《じゅしきし》が告発など行えば、確実に|投獄《とうごく》されるだろう。
その後、卿の|御自慢《ごじまん》の十二翼将、多分キュラソーあたりが訪問し、|監獄《かんごく》で俺が|寝《ね》ている間にでも自然死風に暗殺されるのだろう。
それ以前に、この場で|不審《ふしん》な、しかし自然な事故死をさせられるかも知れない。
わざとだろうが、病院周囲にいくつかの|巨大《きょだい》な|咒式《じゅしき》|気配《けはい》が発生するのを感知できた。
俺がモルディーン卿に危害を加えようとすれば、|即座《そくざ》にこの世という舞台から退場させられるとの分かりやすい|威嚇《いかく》なのだろう。
「俺ごときを相手に翼将を|揃《そろ》えるとは、|御丁寧《ごていねい》すぎて泣けますね」
「最初からずっと|側《そば》に|隠《かく》れていたんだよ。これでも君の力に敬意を表しているんだよ」
俺は最後の疑問をぶつけることにした。これだけは考えてもまったく分からなかった。
「残る疑問は、アズ・ビータ議員が|漏《も》らしたように、七都市同盟がダエフ線まで一方的に退く理由は何なのですか? 貴方は何を|支払《しはら》って政治取引を行ったのです?」
「それがさっきの最後の理由だよ。答えはもうすぐ分かるよ、君が最も早くにね」
卿はまだ切り札があるように|典雅《てんが》に笑う。
「私と君とはどこか共通性がある。好感といってもいい。だからこそ君は観測者に|選択《せんたく》された」
「|貴方《あなた》と私には何も|相似《そうじ》性はない。私は自分の意思で行動しただけだ。今までもこれからも貴方の|間抜《まぬ》けな駒になる気はない!」
「だといいがね」
俺はしばらく|沈黙《ちんもく》し、そして問うた。
「一体、貴方はどこへと向かっているのですか?」
俺の静かな|詰問《きつもん》に卿は答えた。
「終幕が分かっていたら劇は|面白《おもしろ》くないよ」
モルディーン|枢機卿長《すうきけいちょう》はゆっくりと身を起こし、出口へと向かいはじめた。
「エリダナ祭りの意味を知っていますか?」
俺の問いにも|振《ふ》り返らずに卿は答えた。
「エリダナの|騙《だま》し|討《う》ちの意味? 単純に目的のためには手段は正当化される、かな」
「|違《ちが》いますよ」
言葉を切り、そして続けた。
「真の意味は「あらゆる|行為《こうい》は必ず|誰《だれ》かに|記憶《きおく》される」ということです」
「君にしては|捻《ひね》りのない言葉だね。ではもう一つこちらから教えてあげよう。疑問にしていた、君がギギナ君の|傍《かたわ》らにいる理由をな」
俺は予想もしない返答に言を失う。
「それは君が、自身の欠落を彼の心で補っているからだ。君は自分と違って|愚《おろ》かな迷いがない彼を|羨《うらや》んでいるのさ。それが、ある種の断絶だとも知らずにね。
忠告しょう。君は欠落を欠落で|埋《う》めようとするために何も|掴《つか》めない。いや、君は手を|伸《の》ばそうとしてもいないのだ。
まあこんな|分析《ぶんせき》はどうでもいい無駄話だね。ではまたどこかで会おう」
卿は去り、俺は力なく笑うに止めた。
|倫理《りんり》や正義感で生きたことはまったくないが、それでも利用されたのは|不愉快《ふゆかい》だった。
|爆発《ばくはつ》を引き起こし|雷《いかずち》を放つ|咒式《じゅしき》|使《つか》いの力も、|魔剣《まけん》を振るう|咒式《じゅしき》|剣士《けんし》の力も、|咒力《じゅりょく》も武力もまったく存在しない、ただ一人の|怜例《れいり》な頭脳の|策謀《さくぼう》の前には何の力も持たなかった。
そして俺はモルディーンの|冷徹《れいてつ》な精神|解剖《かいぼう》にも何一つ言い返せなかった。
モルディーン卿が病院の正面|玄関《げんかん》から出ると、|炎上《えんじょう》する車の|騒《さわ》ぎが続いていた。
消防隊が消火作業に|駆《か》けつけ、警察士らが現場を|封鎖《ふうさ》し、無責任な野次馬たちが|十重《とえ》|二十重《はたえ》にそれを囲み|騒然《そうぜん》となっていた。
卿は|悠然《ゆうぜん》と|粛々《しゅくしゅく》と、その横を歩みすぎる。
すかさず|闇《やみ》のような背広姿の|人影《ひとかげ》、キュラソーが傍らに付き従い、|主《あるじ》に苦言を|呈《てい》する。
「|御館《おやかた》様、|馬鹿《ばか》正直に約定を守って真相を教えるなど、|軽率《けいそつ》なお|戯《たわむ》れもここまでに」
「君はいまいち遊び心に欠けるなぁ。私の適当な|似非《えせ》精神解剖に、|真面目《まじめ》なガユス君が|懊悩《おうのう》すると考えるとなかなか愉快だろう?」
「|忍者《にんじゃ》に遊戯は不似合いで」
「ごもっとも」
枢機卿長と|随身《ずいじん》はゆっくりと歩き、病院の先の雑居ビルの角を曲がり、そこにあらかじめ停車していた代わりの大型車へと近寄っていく。
卿の目に小さな電光が|閃《ひらめ》く。
視線の先、車のさらに先の|石畳《いしだたみ》の歩道に、落ちる|影《かげ》すら美しい男が立っていた。
ドラッケン族の|誇《ほこ》り高き|凶《きょう》戦士、ギギナだった。
内心の|動揺《どうよう》を|一切《いっさい》表出することなく、軽く|会釈《えしゃく》をして進む卿。
ギギナがその|鋼《はがね》の声を|紡《つむ》ぐ。
「我々を|上手《うま》く利用した、と思っているようだな」
歩み続ける枢機卿長。ギギナは続ける。
「あのガユスの馬鹿、そして馬鹿は、|途中《とちゅう》から|薄々《うすうす》気づきつつも貴様の計画を無視した。分かるか? あいつは貴様の計画が人々のためになると考えて、騙された演技をしていただけだ。
だが、あいつは自分が思ってるほどに頭は良くない。だから氷菓子に喜ぶ少女の|笑顔《えがお》を|肯定《こうてい》し、守ると影武者に言わせた、貴様の下らない信念を単純に信じたがったのだ」
初めて卿の歩みが止まる。
「ならば、その|気遣《きづか》いに感謝しようか」
「それだけでは、料金が大きく不足しているな」
ギギナの気圧が爆発的に増大する。
卿の傍らのコウガ|忍《しのび》が|瞬間的《しゅんかんてき》に反応して、主君を守護すべく|白刃《はくじん》を|繰《く》り出す。
「不足料金として、その細首を半分いただこう」
ギギナの高速抜力が|炸裂《さくれつ》する。
受け止めた忍の|魔杖刀《まじょうとう》を両断し、さらに|踏《ふ》み込み|突《つ》き出された|剛刃《ごうじん》は、モルディーン卿の額の美しい|飾《かぎ》り|鎖《くさり》を|断《た》ち切る。
その額が圧力でうっすらと赤くなっていたが、|屠竜刀《とりゅうとう》はそれ以上に進むことができなかった。
竜族並みの強大な|防禦《ぼうぎょ》結界が、それ以上の|刃《やいば》の|侵攻《しんこう》を|阻《はば》み、|微細《びさい》な|紫電《しでん》を上げていた。
「|咒式《じゅしき》の達人たるヨーカーンの|防禦《ぼうぎょ》|咒式《じゅしき》があると、理解はしていても|恐《おそ》ろしいものだね」
言葉とは裏腹に、モルディーン卿の深く|昏《くら》い目に|恐怖《きょうふ》の成分は|含有《がんゆう》されていなかった。
「君に私は絶対に殺せない。なぜなら、君もガユス君と同様に、この|斜陽《しゃよう》の|龍《りゅう》の皇国に私が絶対に必要だと知っているからだ」
ギギナの|頑健《がんけん》な|臼歯《きゅうし》が|噛《か》みしめられる音が|響《ひび》く。
「これだから|中途《ちゅうと》|半端《はんぱ》に頭の|廻《まわ》る|奴《やつ》は気に入らない。貴様もガユスも、自分の|生命《いのち》すら取引の|駒《こま》としてその効果を|天秤《てんびん》に掛けている」
ギギナは|巨大《きょだい》な刃を半回転させ折り畳み、背の|鞘《さや》に収める。
「私とドラッケン族以外の、この国や街の行く末など知ったことか、私は相棒の意思を尊重してやっただけだ。次に会えば殺す」
|枢機卿長《すうきけいちょう》が一瞬、|戸惑《とまど》った顔を見せ、そして笑みをほころばせた。
それはなぜか|優《やさ》しい|微笑《ほほえ》みだった。
「意外だな、君のような完全に自己完結している人間が、あの|可愛《かわい》らしい|錬金術師《れんきんじゅつし》の心を思いやるとはね」
ギギナは、これ以上ないくらい|苦渋《くじゅう》の表情を|浮《う》かべ、こう続けた。
「最近読んだ本にこうある「時に|愛玩《あいがん》動物の意思を尊重し、精神の安定を|図《はか》るのも飼い主の務めです」とな」
その言葉にモルディーンは|口《くち》の|端《はし》を上げて微笑を|零《こぼ》し、さらに言葉を返した。
「相方と|一緒《いっしょ》で、君の方も自分が理解できていないようだ。一見君の方が主導権を|握《にぎ》っているように見えて、実は君こそが|依存《いぞん》する側のようだ」
一瞬、|虚《きょ》を突かれたような表情をしたギギナは「下らん。安手の|精神《せいしん》|分析家《ぶんせきか》気取りならよそか|地獄《じごく》でやれ」と、|獰猛《どうもう》な笑みで|吐《は》き捨て、ドラッケン族特有の|長躯《ちょうく》を|優雅《ゆうが》に|翻《ひるがえ》し、石畳を|蹴《け》りつけ去っていった。
その姿を見送りつつ、モルディーン卿はその|秀《ひい》でた額を優美な右手で|撫《な》でる。
「少しは自覚している程度には、ガユス君より長生きしているというわけか。何とも|面白《おもしろ》い組み合わせだね」
そして|傍《かたわ》らの忍に真顔で問う。
「キュラソー君、彼を暗殺できるかね?」
コウガ者はゆっくりと首を|振《ふ》る。
「残念ながら先日のような|狭隘《きょうあい》な場ならともかく、このような屋外での真っ当な|剣技《けんぎ》比べは正直したくないですな。|先程《さきほど》の|剣撃《けんげき》を受けた手から、まだ|痺《しび》れが取れませぬ」
卿は|思慮《しりょ》|深《ぶか》げに|頷《うなず》き、キュラソーに中継させていた|咒信機《じゅしんき》へと歌うように|台詞《せりふ》を|紡《つむ》ぐ。
「さて、終幕の計画をそろそろ発動しよう。|誰《だれ》かあの|釣《つ》り|餌《えさ》たちと遊んで、お客様を|歓迎《かんげい》する元気っ子はいるかな?」
|咒信機《じゅしんき》のそれぞれの向こうで、|双影《そうえい》と女がそれぞれに頷いた。
枢機卿長と十数分の入れ|違《ちが》いで、なぜか|僅《わず》かな殺気をまとったギギナが、俺の病室に入ってきた。
ジヴーニャが|剥《む》いた|林檎《りんご》を、俺と彼女が|両端《りょうたん》から|齧《かじ》って近づいていく、まさにその瞬間だった。
三人の視線が三角形の辺として結ばれて、部屋の体感気温がぐんぐんと下降。反比例して俺とジヴーニャの顔面温度が|上昇《じようしよう》する。
|壮絶《そうぜつ》な|静寂《せいじゃく》が、|狭《せま》い病室を支配した。
ギギナは何も見なかったかのように歩き、|寝台《しんだい》側の|椅子《いす》に座り、重々しく宣言した。
「気にせず続行してくれ」
「できるか!」
「何だ、貴様もある意味|衝撃《しょうげき》映像だという自覚はあるのか?」
ジヴはアルリアンの血統特有の|尖《とが》った耳まで紅潮させて「あたし、おんもに出て、お耳をお日様に当てて光合成しなくっちゃ」と、|支離《しり》|滅裂《めつれつ》な言葉とともに病室から|逃《に》げ去っていった。|逃走《とうそう》不可能な俺は仕方なく|叫《さけ》んだ。
「ああ、君は誰なんだ? なぜかギギナの名前が思い出せないっ」
「どうやら貴様は、私が長年|奨《すす》めていた脳の|摘出《てきしゅつ》手術を受けたようだな」
俺は|頭蓋《ずがい》の中で、眼前の男の|記憶《きおく》を永久に|喪失《そうしつ》させる方法をひたすら考えていた。
論理的結論。|殺《や》るしか!
ギギナは本当に気にもせず、俺のための枢機卿長の|土産《みやげ》の|果物《くだもの》を勝手に食べはじめる。それも正確に値段の高い果物から。これこそギギナの七つの特技(|迷惑《めいわく》な)の一つだ。七つ以上を数えると俺の精神が|崩壊《ほうかい》するだろうが。
食べながらついでのようにギギナが口を開く。
「あの女、面白いな」
「ジヴの|名誉《めいよ》のために言っておくが、|普段《ふだん》はいい女なんだ。いや本当に」
「知っている」
彼女とギギナの間に、一体何があったのかいい加減知りたくなってきた。
「それより、まだ生きているのか錬金術師?」
「おまえの|御希望《ごきぼう》に反するが、|身体《からだ》は咒式医師が値段分は修復してくれやがった。あとは精神的な|疲労《ひろう》だけだそうだ」
「それは|重畳《ちょうじょう》。私はすでに全快だ」
|忍者《にんじゃ》の死の針に身体を刻まれ、|狙撃手《そげきしゅ》に身体に|幾《いく》つもの穴を開けられ、俺以上に重傷のはずのギギナは、健康そのものだった。
|距離《きょり》を取って|咒式《じゅしき》を発動する俺のような|後衛《こうえい》|咒式士《じゅしきし》とは違って、相手の|咒式《じゅしき》を身体で止めて斬り込む|前衛《ぜんえい》|咒式士《じゅしきし》の頑健さは、|超人《ちょうじん》というのも|愚《おろ》かしい。
だが俺は、ギギナのその|瞳《ひとみ》の中にヤサシニウム(俺が独自に考えた|優《やさ》しさ元素、特許|申請《しんせい》不受理)がまったく配合されていない事実に気づいた。
|素晴《すば》らしくヤな予感が壮絶に|疾走《しっそう》する。
「戦術とは言え、よくも咒式の的にしてくれたものだな。あと貴様に一一一〇イェンを|騙《だま》し取られたとも忘れてはいない。
怪我人は痛めつけられないが、意識が健康な者を痛めつけても、ドラッケン族の|復讐《ふくしゅう》の|掟《おきて》にあまり|背《そむ》かない」
「あまりって、やはりそれは厳密に言うと背いているのではギギナさん!?」
「私と貴様の仲だ、|遠慮《えんりょ》は無用!」
ドラッケンの宣言と同時に、奴の背中から|長柄《ながえ》につなげられた|屠竜刀《とりゅうとう》が引き|抜《ぬ》き延ばされ、|弩雷《どらい》の速度で打ち降ろされる。
俺は、寝台横に置いていた|魔杖剣《まじょうけん》の|鞘《さや》を|掴《つか》み、それを受け止める。
重い衝撃に鞘が割れ、寝台の|四脚《よつあし》が|軋《きし》む。|両腕《りょううで》が痺れながらも俺は叫ぶ。
「あの、ギギナさん、今現在、本気の真剣で俺を殺そうとしてない?」
「応。先程、腹の立つことがあったのでな」
ギギナの瞳に地獄が見えた。|刃《やいば》を降ろすドラッケン族の片手の力が、両手で鞘を支える俺の力を|圧倒《あっとう》し、その|巨大《きょだい》な|刃先《はさき》が、|緩慢《かんまん》にしかし着実に俺の額に接近してくる。
「安心しろ、今ならネレトーの刃には人工物ではない天然素材の油を使った大自然に優しい斬れ味で、死ぬにも安心だ」
「安心できるか、というか自然より俺に優しくしろ! それより、何でも刀で解決しようとするドラッケン|癖《ぐせ》を改めろ! 第一、俺はおまえの相棒だろうが。地上には|希有《けう》な、おまえの敵じゃない人間を殺してどうする!?」
「私の気が晴れる」
「その後はっ!」
「………………ぁ」
「おまえ、今「あ」とか言っただろ! しかもかなり考えないと分からないことかよ!」
「いや、取りあえず貴様を殺しておこうと思い立ったら、後のことを考慮するという|隙《すき》が無かったな」
|恐《おそ》ろしく|短絡的《たんらくてき》な言葉を|吐《は》いて、ようやくその大刀を折り|畳《たた》むギギナ。なぜだか残念そうな顔をしてやがる。
「そういえば、税金の|控除《こうじょ》|申請《しんせい》や法的手続き等の雑事は貴様がやっていたな。資格申請も近いし、殺すのはその後にしよう」
「それでも保留かよ。というか俺と会う以前、おまえはどうやって社会生活をしていたんだ?」
「|勘《かん》」
|災厄《さいやく》を|避《さ》けて|脱力《だつりょく》していると、「気が変わった、やはり片腕を|貰《もら》おう」という言葉とともにギギナが屠竜刀を再び|振《ふ》り抜く。
それを予想していた俺は、魔杖剣を|載《の》せていた物体を無表情に|掲《かか》げて受ける。優美な木製の骨格に刃が半ばまで食い込み、急停止する。
「こ、これは」
「何って、事務所にあったギギナくんが愛する|椅子《いす》のヒルルカだけど、忘れちゃったの? 冷たいなぁ」
口を酸欠の|鯉《こい》のように開閉させながらギギナが|腰《こし》から座り込む。
「こ、これ、ヒルルカがどれほど貴重なっ!?」
「あれれ、切ったのはギギナくんだよぉ?」
愛する椅子を殺害し、絶望に|瀕《ひん》したドラッケンは、しかし|憎悪《ぞうお》の瞳で俺に告げる。
「ド、ドラッケン式復讐法の|三択《さんたく》だ。
その一、貴様が事務所に|隠《かく》している裏ものの|淫《みだ》らな|記憶素子《レコーダー》の場所を、ジヴーニャに教える。
その二、事務所の貴様の机に、私の超前衛的署名をする。
その三、祝! 領収書の大展覧会」
「どれか一つでもやるなっ!」
「安心しろ、全作戦|完了《かんりょう》|済《ず》みだ」
|神々《こうごう》しいまでの|威厳《いげん》すら|伴《ともな》って|首肯《しゅこう》し、ギギナは椅子とともに|床《ゆか》に|倒《たお》れた。
程度の低い|漫才《まんざい》みたいな|応酬《おうしゅう》に、俺は軽く|目眩《めまい》を覚えた。まあ引き分けって所だろう。
三月十一日、午前○時八分。|龍皇都《りゅうおうと》ギネクンコン発エリダナ終点の最終列車が、車輪と線路との長い長い|接吻《くちづけ》の金切り声を上げながら、エリダナ中央駅構内六番乗降場に|到着《とうちゃく》した。
最終列車のために乗客は少なかったが、八つの乗降場の長大な夜行列車たちが発車を待っていた。
貨物列車から下ろされる荷物、それを運ぶ人夫や引き|継《つ》ぎを行う駅員たちで、夜行列車が発着する駅舎特有の、|静寂《せいじゃく》なのだが|騒然《そうぜん》とした|雰囲気《ふんいき》を|醸《かも》しだしていた。
「ああ、やっと着いた。なあ兄貴、どうして列車ってこんなにトロいんだろうね」
「少し|黙《だま》れ、|誰《だれ》もおまえのような移動方法を取れはしない」
「はいはい、低血圧の兄貴に|夜更《よふ》かしさせるものじゃないなぁ」
列車の七号車の自動|扉《とびら》から、|噛《か》み合わない会話をしながら二人組の男が降車してきた。
一人は|鍛《きた》え上げられた肉体を地味な灰色の背広で包み、|闇色《やみいろ》の短く|刈《か》り上げた|髪《かみ》と同色の|瞳《ひとみ》をし、小さな|荷匣《にばこ》をさげた長身の男だった。
だが、この男を|一瞥《いちべつ》し、まず何よりも目につくのは、何重にも巻かれ右目を|覆《おお》うなめし|革《かわ》の眼帯だろう。そして残った|隻眼《せきがん》が|峻厳《しゅんげん》なまでの歴戦の武人の圧力を感じさせる。
その|傍《かたわ》らで風景の感想を|喋《しゃべ》りつづける男は、異に細い縦の銀線の入った背広に、同じように車輪付きの大きな荷匣を引いていた。
|漆黒《しっこく》の瞳に髪、どことなく|締《し》まりのない顔に角張った飛行|眼鏡《めがね》を額に|掛《か》けており、春の陽気に|浮《う》かれすぎた詩人とでもいった印象を|与《あた》える。
まったく正反対の言動の二人だったが、どことなく共通した雰囲気と|容貌《ようぼう》を持っていた。
「急ぐぞ、すでにあの|御方《おかた》の呼び出しに|遅参《ちさん》しているのだ」
眼帯の男が低温の声を放ち、歩みだす。
「|大丈夫《だいじょうぶ》だって兄貴。先行した二人程度でも計画を|巧《うま》くやっているんだし。単に|後詰《ごづ》めに立候補したんだ、標的を|誘《さそ》い出す時に間に合えばいいんだから、ついでにエリダナ観光にいこうよ。僕、エリダナ料理食べたいし、女の子とももへもへ遊びたい」
「|却下《きゃっか》だ。遅参は俺の忠誠の|汚点《おてん》になる」
弟らしい眼鏡の男の|呑気《のんき》な提案に|一顧《いっこ》だにせず、兄たる隻眼の男は構内を進んでいく。
仕方なく飛行眼鏡の男もその後に続く。
「じゃ兄貴、僕はこの子を連れて先に行っているからね」
そう言って荷匣を左手で軽く|叩《たた》くと、眼鏡の男は構内の|煉瓦《れんが》|壁《へき》の前で立ち止まり、|右掌《みぎて》を当てる。
|奇妙《きみょう》な現象が起こった。
男の右掌が|触《ふ》れた煉瓦の|壁《かべ》、そのざらついた表面が、小石が落ちた|水面《みなも》のように|幾重《いくえ》もの|波紋《はもん》を|描《えが》いたのだった。
次の|瞬間《しゅんかん》、男の五指の先が、|硬《かた》いはずの壁面の中に|沈《しず》む。続いて手首、|腕《うで》、|肩《かた》が壁の中へと|潜《もぐ》っていく。そして最後に背広の|裾《すそ》と荷匣が灰色の壁面へと吸い込まれていった。
一連の流れるような動作に、駅構内の誰も気づく者はいなかった。
隻眼の男も背後の現象をまったく|顧《かえり》みることもなく、早足の歩みを刻み続ける。
階段を上り、改札を|抜《ぬ》け、眼帯の|超剣士《ちょうけんし》は深夜のエリダナへとその一足目を記した。
その明かりに呼応するように、男の腰の|魔杖剣《まじょうけん》の九つの|法珠《ほうじゅ》が|鈍《にぶ》く光る。
子牛肉のリップル|香草《こうそう》包み焼き。
北海|鱈《たら》のジンバラ風味。
|南瓜《かばちゃ》のスープ。
|央華風《おうかふう》|餡掛《あんか》け|固蕎麦《かたそば》|焼《や》き。
竹の子と|人参《にんじん》と|芋《いも》の|田舎煮《いなかに》。
野菜盛り合わせナラカントソース|和《あ》え。
|白乳《バニラ》ヨーグルトの|林檎《りんご》と|苺《いちご》|添《ぞ》え。
俺と、主にジヴーニャの好物ばかりがまったく|脈絡《みゃくらく》なく並ぶ|食卓《しょくたく》。二人が共同で作った山盛りの料理は、すぐに二人の|胃袋《いぶくろ》に納まった。
しかし、俺の方が料理が|上手《うま》く、ジヴの料理には|旨《うま》み成分たるグルタミン塩酸を|咒式《じゅしき》|合成《ごうせい》で足していたという事実は、|伏《ふ》せておくほうが限定的世界平和のためにいいだろう。
俺秘蔵のラペトデス製のやーらしい|記憶素子《レコーダー》を|没収《ぼっしゅう》してジヴの|機嫌《きげん》が悪いのを、ようやく料理と口づけで|誤魔化《ごまか》したのだから。
エリダナ西市街ネレス通りの高層住宅、一〇一号室。退院した夜、俺は久しぶりにジヴの自宅にやって来ていた。
料理を|堪能《たんのう》しすぎてすでに満腹なのだが、食後のジヴの酒に付き合う。
俺とジヴは、応接机を|挟《はさ》んだ|椅子《いす》に座りながら、何をすることなく部屋の壁一面|張《ば》りの|窓《まど》|硝子《がらす》の外の夜景を|眺《なが》め、|酒杯《しゅはい》を重ねていた。
俺が手製のダイクン酒とギレンテ酒を|二杯《はい》空けてる間に、ジヴは果実酒を五杯、ボルク産の|白《しろ》|葡萄酒《ぶどうしゅ》を六杯も空けていた。
それらは口当たりは甘いが、アルコール成分は俺の手中の酒と大して変わらない。さすがに飲酒の度が過ぎる。
「おいジヴ、|呑《の》みすぎだぞ」
俺の忠告に、ジヴは|翡翠《ひすい》の瞳を半眼にして俺を|睨《にら》む。
「おい、ガユス・レヴィナ・ソレル、ちいっとこっち来い」
ジヴが細い|顎《あご》をしゃくって俺を招く。早くも|酔《よ》ってきているようだ。しかも俺の名前と称号と家名まで呼んでいる事実から、これまでにないくらい相当に|怒《おこ》っている。
俺は素直な忠犬のように、ジヴの座る長椅子の空いた所に|腰《こし》を下ろす。
「ん、よろしい」
そう言うと彼女は、俺の|膝《ひざ》の上に白金の|髪《かみ》に包まれた小さな頭をころりんと乗せる。
そのまま|緩《ゆる》やかな時間だけが過ぎた。
窓の外の音が、遠い|潮騒《しおさい》のように消えていった。
俺は何かを言おうとして、何も言葉が見つからないことに気づいた。
ふと、手の|甲《こう》に熱い|滴《したた》りを感じ、見るとそれは|透明《とうめい》の液体だった。
ジヴは静かに|涙《なみだ》を|零《こぼ》し、泣いていた。
俺はジヴの清流のような白金の|髪《かみ》を|撫《な》でるだけだった。
「ホ、ントに、ホントに、し、心配し、たんだから」
さらに|鳴咽《おえつ》が強くなってしまった。
「六日、よ? 六、日も眼を覚まさないんだから、心、臓まで止まって、絶対死ん、じゃったと、思ったのよ!」
上から見えるジヴの横顔。|途端《とたん》に涙と鼻水が|滂沱《ぼうだ》と零れて激しくしゃくりあげる。
深い湖のような|双眸《そうぼう》から、止めどなく熱い|泪《なみだ》が|溢《あふ》れ続けていた。
俺は|寡黙《かもく》な男を演じきれなかった。
「すまない」
「すま、ないじゃないわよ、い、つもいつもドラッケンの子と遊ん、で、勝手に死にそうになれば私に、仕事まで休ま、せて看病させ、て。私の心は、いつでもどこでも引き出し自由なものじゃない、|馬鹿《ばか》にするなっ!」
鼻水を|啜《すす》り上げてジヴーニャが|弾劾《だんがい》する。
だが俺は、それこそ馬鹿みたいに|繰《く》り返すしかなかった。
「すまない」
俺がジヴの泪と鼻水を|拭《ぬぐ》ってやろうとしたら、ジヴの|繊手《せんしゅ》に|邪険《じゃけん》に|払《はら》われた。
「うるさいっ、あんたなんか、勝手に野垂れ死ねっ!」
ジヴは急に身を起こし、手近にあった柔紙を引き出し鼻をかんだ。一枚では足りなかったのでもう一枚。最後にもう一枚で涙を拭って乱暴に投げ捨てた。
「出来ることなら、私だけが貴方の横に立って生死すらともにしたいのに、私にはその力が、咒式の力が無い。|普通《ふつう》の女であることが、こんなに|辛《つら》く|悔《くや》しいなんて!」
|抑《おさ》えた|叫《さけ》びが続く。
「私、こんなんじゃなかった。こんな馬鹿みたいに泣いてる女じゃなかった。本当は、|恰好《かっこう》いい大人の女として、貴方に|優《やさ》しく|微笑《ほほえ》んでお帰りなさいと言うつもりだったのに、出来ない。私にはそれすら出来ないのよ」
ジヴの|想《おも》いが俺の胸に|刺《さ》さる。
「すまない」
|突然《とつぜん》、ジヴの|拳《こぶし》が俺の顎を打ち|抜《ぬ》く。
体重も拳に乗っていないし、体勢も座ったままと目茶苦茶だったが、それはとても痛かった。
胸の奥まで|響《ひび》くような重い拳だった。
ジヴは俺を見た。
俺はジヴを見た。
こんなのはよくある男女の|愁嘆場《しゅうたんば》だ。
少し|違《ちが》うのは、ジヴは俺にはもったいないほどの最高にいい女で、俺はろくでなしの|腐《くさ》れ|攻性《こうせい》|咒式士《じゅしきし》だということだ。
目を赤く|腫《は》らしながら、ジヴーニャは長い長い息を|吐《は》いた。そして|酷《ひど》く優しい|瞳《ひとみ》で告げた。
「次からは、貴方の立ち向かう時を、私にだけはそっと告げておいて。
そしたら私は、いつか貴方の無惨な死体と対面しても、下らない涙は半分に節約できるわ。いい? 分かった?」
それは|笑顔《えがお》だった。
愛する者の苦難に対し、何も出来ない|哀《かな》しみ。無力さという絶望に|耐《た》えること。
|諦《あきら》めではなく、差異と結末を受け入れること。
かつての俺があがき、知と力で|埋《う》め合わせようとして失敗した|傷痕《きずあと》を、ジヴは|真《ま》っ|直《す》ぐに|見据《みす》え、|遥《はる》かに|勁《つよ》く立っていた。
俺には出来ない。弱さを|抱《いだ》きながら|勁《つよ》くあるということが。
哀しみと|懊悩《おうのう》はそれゆえに一層、我が身を|灼《や》く。
ジヴの声がそれを|吹《ふ》き散らす。
「あー、もう酔ってるから、心配する演技で気を引こうとする、頭の弱い女の役をやっちゃったじゃないの」
ジヴの|照《て》れ|隠《かく》しに俺も笑みが零れる。
「何か、ジヴって計算高いな」
「そうよ、ってまた馬鹿女をやらせないでよ。何かすっごく|恥《は》ずかしいから、ガユスも|呑《の》めっ!」
ジヴーニャは笑いながら、持っていた|硝子《がらす》の|酒杯《しゅはい》を俺に|突《つ》きつける。
俺は|一瞬《いっしゅん》彼女の瞳を見て、そして酒杯を受け、|喉《のど》を灼く|透明《とうめい》な液体を一気に呑んだ。
それを見届けたジヴが俺に|凭《もた》れかかってきた。彼女の額の白金の髪が俺の顎をくすぐる。
「これも演技ですか?」
「そうですよーだ」
「では馬鹿男としては、|騙《だま》されるとしますか」
俺はそのまま彼女のつむじを|眺《なが》めていた。ただひたすらに。
そんな俺の態度は、ジヴのお気には|召《め》さず|渋《しぶ》い表情をされた。|次第《しだい》に疑問になってきた。
「あのさ、ジヴ」
「何?」
「一体、俺のどこが好きなわけ?」
「顔」
|即答《そくとう》された。
「あのー、性格とか|趣味《しゅみ》の|一致《いっち》とかは?」
「貴方みたいな収入が安定しない、いつ死ぬか分からない、しかも「自分のどこが好き?」なんて聞いてくる|自惚《うぬぼ》れの強い男に、|他《ほか》に取り|柄《え》があって?
性格や趣味の一致なんて気分次第だけど、好きな顔はいつまでも|嫌《きら》いにならないのよ。だから私は顔で男を選ぶことにしてるの」
俺は酒杯に映る自分の顔を見た。そういえは、俺を映画俳優のラグマノフに例えたのもジヴだった。
「あと、手とか好き。男の|癖《くせ》に長く細いから。それが私の好きな|全《すべ》てね」
俺の手の上でジヴの手が|躍《おど》り、|捕《つか》まえようとしたら|逃《に》げられた。
「|褒《ほ》められている、わけじゃないな」
「本当に|馬鹿《ばか》ね、それこそ本当に褒めているのよ」
まったく理解できない俺を無視して、彼女は酒杯をさらに|傾《かたむ》ける。
「何か話してよガユス」
「話って?」
ジヴの会話の|無軌道《むきどう》さに、俺はまったく付いていけない。
「ガユスの恥ずかしい思い出とか、|失恋話《しつれんばなし》とか。そしたら今だけ、貸しは無しにしてあげる」
「そうか。そうだな、そう、俺の学生時代の話だ。ヘロデルという|迷惑《めいわく》な、でも最高にいい|奴《やつ》がいてな……」
俺の学院時代の、笑える、そして笑えない|悪戯《いたずら》や失敗や失恋話を語りつづけた。
その間も酒杯は重ねられたが、ジヴの呑む速度に付き合ったので、すぐに意識が|酩酊《めいてい》してくる。|誰《だれ》にも話したことのない、俺と妹のアレシエルの話。そしてこれからの俺達の詰もした時、俺の|膝《ひざ》の上のジヴが、すでに安らかな|寝息《ねいき》を立てていることにようやく気づいた。
起こさないように、手を伸ばして|椅子《いす》の背凭れに|掛《か》かってる厚手の|膝掛《ひざか》けを取って、ジヴの細い|身体《からだ》に掛けてやる。
そして|口許《くちもと》の|涎《よだれ》を手で|拭《ぬぐ》ってやる。くすぐったかったのか、|眠《ねむ》るジヴが小さく笑う。
その時、俺の胸に熱い|疼痛《とうつう》が走った。
無意味な世界の|片隅《かたすみ》で、俺は君に出会えた。
俺が君ではなく、その|希有《けう》な心を感じられることに、俺は感謝する。
君が俺ではなく、この血まみれの生を背負わないことに、俺は感謝する。
君のために、俺は、俺白身とすら戦える。
自分の中に、そんな|真摯《しんし》に何かを|想《おも》う部分が残っていたことに、俺は|酷《ひど》く|驚《おどろ》いた。
俺のジヴーニャは、|咒式《じゅしき》なんて|無粋《ぶすい》なものが無くても、小さな|奇跡《きせき》くらいは起こせるらしい。
だが、いつかうつろうこの心を、俺は憎む。
だから、だからこそ時よ、今この時のまま永久に凍えてくれ。
しばらくはそのジヴの寝顔を眺めていたが、やがて俺の意識も眠りへと落ちていった。
9 暗雲
|狡猾《こうかつ》で|獰悪《どうあく》な悪意より|遥《はる》かに|恐《おそ》ろしいものがある。
|愚《おろ》かなまでに真摯な善意である。
ジグムント・ヴァーレンハイト著
「|屹立《きつりつ》する|愚者《ぐしゃ》の|巨塔《きょとう》」 |皇暦《こうれき》四八一年
女は|疲労困憊《ひろうこんぱい》していた。
女の強大無比の咒力を|以《もつ》てしても、自然の|摂理《せつり》を逆転させる〈究極の|咒《まじな》い〉の術を連続行使して、平然としているわけにはいかなかった。
標的と|接触時《せっしょくじ》に受けた|咒《まじな》いの波長をもとに、命を|削《けず》るほどの|広範囲《こうはんい》|探索用《たんさくよう》|咒《まじな》いで標的を|捕捉《ほそく》しようとしたがついに発見できなかった。
しかしつい|先程《さきほど》、どこの誰なのかは分からないが、標的の波長を知らせる咒信号を発していたのを|捉《とら》えたのだ。
すぐにも|復讐《ふくしゅう》の|儀式《ぎしき》を始めたかったが、目立つ昼間に動くわけにはいかない。
なぜかは分からないが、二つの標的の|傍《かたわ》らの|僧服《そうふく》の男は、常に強力な|咒《まじな》い士の集団を付近に待機させており、安易に手を出すわけにもいかなかったのだ。
そしてついには、先日のような|不手際《ふてぎわ》極まる事態まで引き起こしてしまった。
自分の行動は愚かすぎる決断であろうと、女は自覚していた。復讐の目的と、まったく相反する事態を生み出していることも自覚している。
しかし、これにより女は、至上の目的の機会を取り|戻《もど》すことができたのだ。
血族に|背《そむ》き故郷を捨ててまでも、本来の|誇《ほこ》りを取り戻そうとした、気高き背の君との想いは|間違《まちが》いだったのだろうか? 故郷の齢経た古老たちは、あらかじめこうなることすら予想していたのだろうか?
急がねば、その古老たちの定めた約定を破った女に、故郷の|苛烈《かれつ》な追手が|迫《せま》ってくるだろう。
だが、その身を内から焼く|灼熱《しゃくねつ》の|溶岩《ようがん》のような復讐の念を静めることはできない。今は咒力の回復を待ち、再び羽ばたく時には、|渇望《かつぼう》した全てをその手に|掴《つか》むのだ。
ようやく|奪還《だっかん》した、|愛《いと》しい背の君の形見とともに。
女は|束《つか》の|間《ま》の|闇《やみ》のまどろみの底へと|潜《もぐ》っていった。
病院を退院した翌日の三月十一日の朝。俺は酷い頭痛を|抱《かか》えながら日常に復帰した。
昨夜、退院祝いにとジヴーニャに|呑《の》まされての|二日《ふつか》|酔《よ》いの|所為《せい》である。
我が|恋人《こいぴと》ながら、殺人的な酒量を自分で呑み、さらに俺に呑ませて退院|即《そく》入院させて、人生を省略させる気なのかよく分からない。
俺が自分の事務所一階奥の私室で最初にやった仕事は、俺の机に書かれた復讐のギギナの前衛的署名の|徹底的《てっていてき》消去である。
本人の言によると、ドラッケン族の栄光の|闘争《とうそう》の歴史の一場面の図らしいが、俺には何度見ても、|毒斑蛙《どくまだらがえる》のお|姫《ひめ》様と人食い|茄子《なす》の臓器移植の図にしか見えなかった。
しかも|奴《やつ》の絵文字には何か呪いでもあるのか、咒式まで使用してやっと消えた。
ふと机の横を見ると、優美な|透《す》かし|彫《ぼ》りの|手摺《てすり》の|椅子《いす》のヒルルカが|鎮座《ちんざ》し、ギギナが作った斬り口には|丁寧《ていねい》に包帯が巻いてあった。
俺は精神的に急激疲労、ゆっくりと顔を左右に|振《ふ》り、手近にあった新聞を広げる。
ェリュシオン紙の三月十一日の朝刊には、エリダナ再訪間中のモルディーン|枢機卿長《すうきけいちょう》の、過日巻き込まれた一連の事件に関しての公式声明と、明日の皇都での|龍皇《りゅうおう》陛下との会見の発表があった。
そして|我等《われら》がオラクルズの記録的十一連敗も出ていた。このままではオラクルズは、万年最下位タルフォルズの八十四年に起きたヴォックル史上最悪記録の十四連敗に並んでしまう。
ヴォックル観戦仲間のベイリックやイアンゴに、大いに|馬鹿《ばか》にされるのが予測できるので、しばらくは会わないようにしよう。
特に俺は、常々タルフォルズの連敗記録を馬鹿にしていたので、|熱狂的《ねっきょうてき》タルフォルズ派のイアンゴに会うのは|魂《たましい》の危機だ。
続いて、予想通りラペトデス七都市同盟のティエンルン合意条約|批准《ひじゅん》は、顔すら出さない|賢龍派《ヴァイゼン》に今までの行状を書状で批判されて失敗に終わり、批准推進したヤーウェン下院議員は大いに面目を|潰《つぶ》すことになった。
民進党のヤーウェン議員といえば激烈な反カイ・クヨウ派で、あの事件の議長派のアズ・ビータとも政敵になるのを思い出した。
さらに深読みすると、もしかしたら条約批准の失敗は、モルディーン枢機卿長が賢龍派に|干渉《かんしょう》して起こしたことで、カイ・クヨウとの政治取引だったのかも知れない。
だが、あの|魔人《まじん》が起こしたにしては|驚《おどろ》きと遊び心に欠けるし、よく考えれば、|竜《りゅう》たちがその|要請《ようせい》に従う取引材料が卿に存在しない。
しかし俺は考える|暇《ひま》もなく、地方版一面の|咒式士《じゅしきし》|連続《れんぞく》|殺人《さつじん》|事件《じけん》の続報に目を|奪《うば》われた。
それによると、昨日午後、事件の容疑者として二日に|逮捕《たいほ》された少年の現場見聞を行うための護送車に、|遠隔《えんかく》|咒式《じゅしき》|火砲《かほう》が|撃《う》ち込まれ、|爆発《ばくはつ》|炎上《えんじょう》。
容疑少年は即死。護送に付き|添《そ》った警官四人と運転手が重傷。群衆と報道関係者にも負傷者が出たという。
事件後、各新聞社・映像局に咒式反対破壊活動組織「|反咒式《はんじゅしき》|共同《きょうどう》|人民《じんみん》|開放《かいほう》|戦線《せんせん》」から、|咒式《じゅしき》による殺人の大罪を非難するとかいう犯行声明通信が送られてきたようだ。
俺は|暗澹《あんたん》たる気分になった。予想通り|咒式《じゅしき》と|咒式士《じゅしきし》に対する反感が|噴出《ふんしゅつ》したのだ。
|被害者《ひがいしゃ》と加害者は|全《すべ》て|咒式《じゅしき》|使《つか》いであるし、そして咒式殺人を大罪と定義していながら、自分たちも咒式殺人を行っている論理|錯誤《さくご》。
どれほどの人が単純な|咒式《じゅしき》への反感に流されず、|咒式士《じゅしきし》を|龍理《ろんり》使いと|蔑《さげす》むことなく、その咒式と犯罪は別だと考えてくれるのだろうか。また、どれだけの|咒式士《じゅしきし》が、咒式士は通常人より|優《すぐ》れているという、|歪《ゆが》んだ|優越感《ゆうえつかん》を持たないでいられるのだろうか。
そして俺に一番重要なのは、最後の殺人以外の一連の事件の犯人が別にいることだ。
これで真相は永遠に闇の中である。つまり俺達が警察を利用する機会も消失した。
俺が思考に|煩悶《はんもん》していると、二階からギギナの相変わらずの朝の礼拝、|忌《い》ま忌ましいクドゥーの祝詞が脳に|響《ひび》く。
さらに|携帯《けいたい》|咒信機《じゅしんき》の受信音が鳴る。入院中は動力を切っていたからその存在を忘れていた。出るとロルカ屋の|親爺《おやじ》からだった。
「退院おめでとうとでも言っておくかな」
「でかい声を出すな善意|欠乏症《けつぼうしょう》、こっちは二日酔いなんだよ。どうせなら祝いついでに|月賦《げっぷ》をなかったことにしてくれ」
「おや、回線が急に混線してるなぁ?」
まったく声量を下げる気配すらない、とてもやさしいおっさんだった。
「それより、やっと報告できる。|頼《たの》まれた調査報告なんだが、まずウルズなどという地名も人名も大陸には存在しない。さらに重力咒式士のニドヴォルクとやらの方は、金かけてEMESやENOKの経歴情報の奥の方まで調べたが|該当《がいとう》する人物はいない。そんな人物は存在しないんだ」
「んな、馬鹿な。つまり、どの組織や学院や|師匠《ししょう》にも学んだことがない咒式士だと?」
「いや、情報屋のヴィネルに|咒式士《じゅしきし》最高|諮問《しもん》|法院《ほういん》の機密情報に不正|侵入《しんにゅう》させてまで調べたんだが、そいつは咒式士としての資格検定や|公式《こうしき》|咒式《じゅしき》|購入《こうにゅう》すら、一度も行っていないことになる。
つまり存在不可能な人物だ。一体何に追われているんだガユス、俺は正直|恐《おそ》ろしいよ」
俺も背筋が冷えてきた。
「それと、もう一つの|破片《はへん》の方だが、あれは服や|鎧《よろい》じゃない。生物組織だった」
続く|分析《ぶんせき》結果報告を、ある程度は予想していたその事実を聞いた。
前後を|掛《か》け合わせると、ある恐ろしい事実が|浮《う》かび上がってくる。
ロルカが|咒信機《じゅしんき》の向こうで続きと代金の額を|怒鳴《どな》っていたが、返事もそこそこに切る。
|二日《ふつか》|酔《よ》いよりも|強烈《きょうれつ》な、|悪寒《おかん》と寒けが俺を|襲《おそ》い、手足の|末端《まったん》から感覚が|痺《しび》れてくる。
ギギナが階段から下りて姿を現す。|奴《やつ》にしては|珍《めずら》しく|髪形《かみがた》が乱れているままなので、|余程《よほど》必死にヒルルカを修理したのだろう。
「|椅子《いす》相手に、|愛撫《あいぶ》を張り切りすぎだぜ色男」
「私の家具に対する愛は性愛ではない。もっと|崇高《すうこう》な、真実の愛だ」
俺とギギナはいつもの軽口を|叩《たた》いた。そのお|陰《かげ》で精神の|平衡《へいこう》がいくらか|戻《もど》った。
ギギナはそんな俺の顔を見もせず「郵便が来ていた」と封書を置いて、椅子のヒルルカを|抱《かか》え、また二階へと上がっていった。
その封書の送り主を見ると、|咒式士《じゅしきし》最高|諮問《しもん》|法院《ほういん》からだった。
開けてみると、勝手に調査された俺の十三|階梯《かいてい》の実力|認定《にんてい》と、|併《あわ》せて資格|申請《しんせい》の要請があったが、資格を取ると法的に使えない咒式が増えるので、そのまま|屑籠《くずかご》へ直行。
もう一方の俺が申請していた二つの|咒式《じゅしき》の発動許可は、当然のごとく下りなかった。
その書類も、前の書類と同様の運命を|辿《たど》った。
午後は、事務所の裏の|廃品《はいひん》置場の空き地で、どうしても研究・実験しておかなければならない二つの咒式を|試《ため》していた。
俺は積み上げられた、かつて車だった金属製の|枢《ひつぎ》たちの前に立ち、咒式の組成式を厳密に空中展開し、正確に反応させる練習をひたすら反復していた。
何度も発動寸前まで式を組み上げ停止させ、精度を向上させることに集中した。
あまりにも危険なこの二つの|咒式《じゅしき》に、|慎重《しんちょう》に過ぎるということはありえない。
ギギナは俺の左の、|扉《とびら》の取れた車の屋根に異教の神像のごとく|鎮座《ちんざ》し、俺の作業を|暇《ひま》つぶしにか見学していた。
横手に置かれた携帯受像機の|液晶《えきしょう》画面では、あのモルディーン|枢機卿長《すうきけいちょう》が映っており、エリダナでの事件についての声明や、講和交渉への意義と熱意と、それによる経済的利益を演説していた。
枢機卿長は今夜にも皇都へと|帰還《きかん》し、明日には、ツェリアルノスVII世龍皇陛下に|拝謁《はいえつ》し意見を|上奏《じょうそう》するのだという。
「なあ、ガユスよ」
「何だ」
別の思考に|没頭《ぼっとう》していたので、俺の返事は適当だ。お陰でギギナの|屠竜刀《とりゅうとう》ネレトーの|鞘《さや》で後頭部をはたかれた。
「|真面目《まじめ》に|拝聴《はいちょう》しろ」
「だから、何だってんだ?」
空中に展開していた咒式方程式を一時|畳《たた》んで、俺はドラッケン族に向き直る。
「|偏執狂的《へんしつきょうてき》な|策謀《さくぼう》愛好家のモルディーンが、あのまま引き下がるとは思えない。我々は何も対処しなくてもいいのか?」
確かにそれも|懸念《けねん》の一つだ。俺は卿とギギナの|軋轢《あつれき》の|経緯《けいい》もすでに聞いている。
「本気で俺達を始末したいなら、意識不明状態の俺を千回は殺しているだろうな」
「では貴様は、再度の|襲撃《しゅうげき》は無いと?」
それに対し俺は|暫時《ざんじ》思考する。
「いや、あの|魔人《まじん》がそんな甘いわけがない。たぶん俺達を|玩具《おもちゃ》として遊んでいるのだろう。それゆえにその遊びを|切《き》り|抜《ぬ》ければ何とかなる。それで|飽《あ》きてくるはず、だ」
「だろうに、はず、か。何の推測にも対策にもなっていないな」
「だが物理的限界は存在する。一連の事件の後始末で、モルディーン卿がエリダナに|滞在《たいざい》している今夜までが要注意だ。卿の|狷介《けんかい》|窮《きわ》まる性格からすると、自分自身が特等席で観劇できないような「遊び」は|避《さ》けるだろうからな。つまり安全のため、今日の夜まで人気の無い所を避ければ|大丈夫《だいじょうぶ》のはずだ」
「また、だろうに、はず、か」
ギギナは|須臾《しゅゆ》の間、考えそして続けた。
「貴様が心配なら、エリダナの|他《ほか》の|高位《こうい》|攻性《こうせい》|咒式士《じゅしきし》、|緋《ひ》のパンハイマかラルゴンキン、魔術師イムホテプかクエロの力を借りるか?」
「|誰《だれ》がパンハイマや、ラルゴンキンみたいな|腐《くさ》れ咒式士や、イムホテプみたいな真性変質者に|頼《たよ》るか! それに……」
「それに元|恋人《こいびと》、クエロか」
ギギナはまったく|厭《いや》な奴だ。いつでもどこでも常に|嫌《いや》がらせを|怠《おこた》らない厭な奴の鏡だ。
クエロとの過去は、もう思い出したくない。
俺が傷つけ、傷つけられた女の|記憶《きおく》で、いまだ俺の心は血を流している。
ギギナに過去を話すとロクなことがない。俺のお|喋《しゃべ》り|癖《ぐせ》はいつか俺自身を|減《ほろ》ぼすだろう。
「とにかく、他の咒式士を|傭《やと》えるほどの金と友情が不足中。俺達でやるしかないんだ」
俺は咒式を再度展開して検証、そして組成式の最後を結びにかかる。ふと気づいた。
「そういやおまえ、俺が入院している間に仕事を取ってこなかったのか?」
「貴様はドラッケンの|諺《ことわざ》に言う「|蒼《あお》い月を転がして遊ぶ|子猫《こねこ》」そのものだな」
俺は相棒の言葉を数十回|咀嚼《そしゃく》する。
「すまんが、まったく意味が分からない」
「|比喩《ひゆ》を使ったのだが、貴様には難解すぎたか。ようするに、物理的に不可能なことを言うな、ということだ」
|至極《しごく》当然のように答えるギギナに、俺は深い|嘆息《たんそく》を|吐《は》いた。
こいつは咒式士としては一流だが、人間としては|欠陥品《けっかんひん》だ。そりゃ|許嫁《いいなずけ》に|怒《おこ》られるわ、と思いながら俺は咒式を結び終わった。
ロルカからの報告をギギナに話そうと思ったが、あくまで推測なので、|先程《さきほど》と同じ問答が起こるのが嫌なのでやめておく。
とにかく策を考えるが、大して|浮《う》かばないままに時が|無為《むい》に過ぎる。
|突然《とつぜん》、|携帯《けいたい》|咒信機《じゅしんき》の受信音が鳴る。
「ロルカかっ、金は後で|払《はら》うって! |恐《おそ》らくだけ……」
「あ、あの、助けてくださいっ!」
|切迫《せっぱく》し、悲鳴に変わる寸前の女の声が俺の声に|覆《おお》いかぶさる。俺はなるべく|優《やさ》しい声を出す。
「落ちついて、まずは深呼吸。軽くもう一呼吸。そして君が誰なのか教えてくれ」
例えるなら道を|尋《たず》ねる声だ。その声に落ちついたのか、咒信機の向こうで深く呼吸する音が聞こえ、ようやく女性の言葉が続いた。
「あの、市立病院でガユスさんをお世話させていただきました看護婦のノジェですが、覚えていらっしゃるでしょうか?」
当然だ。咒信機の番号を聞いたのは俺の方からだったし。
ジヴーニャに発覚したら一大事だが。
「誰だ?」とギギナが問うてくる。
「入院してた病院のノジェって看護婦さんから、仕事になりそうな感じ」
「貴様も私の私生活を非難できまい。ジヴに|露顕《ろけん》しても知らんぞ」
ギギナに弱みを見せるのは危険だ。
「世界中でギギナにだけは言われたくない。てめえこそ漁色を許嫁に報告してやる」
俺の|反撃《はんげき》にギギナはまったく動じない。
「その前に、私の親切で貴様を左右に真っ二つにして、どちらが本当の貴様か実験してみよう」
|無駄《むだ》話を断ち切るように、携帯咒信器の向こう側で、ノジェが|絶叫《ぜっきょう》に近い声を出す。
「実は、ガユスさんと|御友人《ごゆうじん》が咒式屋さんだというので、相談したいことがありまして、実はすぐそこまで来ていますっ!」
「今? ここに?」
俺達の背後で、急停止した車輪がアスファルトに|牙《きば》を立てる悲鳴が上がった。
|振《ふ》り返ると、小型ヴァンが止まっていた。エリダナ市立中央病院医局と文字が書かれたその|扉《とびら》を|撥《は》ね開け、ノジェが顔を出し「急いで乗って下さい!」と言葉を投げつけた。
俺とギギナは顔を見合わせた。そして俺の意思を汲んだのか、ギギナが|頷《うなず》く。
「いいから乗ってっ!」
俺は助手席に、ギギナは長身を|屈《かが》めて後部座席に飛び込む。それと同時に|到着《とうちゃく》時以上の悲鳴を上げ、車は急発車する。
加速により、俺の|身体《からだ》は座席の背に押しつけられる。
「あの、何が起こってるわけ?」
「話は後です。追われているか後ろを確かめてください!」
首だけで後ろを振り向くと、黒い大きな車が路地を左折してこようとしていたのが見えた。
「あれのこと? 別に|普通《ふつう》の……」
「飛ばしますっ!」
俺の疑問はノジェの|怒号《どごう》にかき消される。
俺とギギナを乗せたノジェの車は、|夕陽《ゆうひ》の|緋《ひ》の|衣《ころも》から夜の|緇衣《しえ》へと|着替《きが》え始めようとしているエリダナの街を、|弾丸《だんがん》のように|疾駆《しっく》していった。
約束を思い出し、ジグに|連絡《れんらく》を入れようかと|懐《ふところ》から携帯咒信機を取り出したが、やはりすぐに|戻《もど》した。
10 翼持つものの群舞
戦争とは、言語に|還元《かんげん》すれば死の札の押しつけ合いである。
最前線の兵士には分からない。
作戦指揮する将軍には分からない。
王宮の玉座の王様には分からない。
|娯楽《ごらく》と戦争の|違《ちが》いは|誰《だれ》にも分からない。
レオニダス・プロッツェル著「|闘争《とうそう》と|妄想《もうそう》の|披露宴《ひろうえん》」 |皇暦《こうれき》一二一年
|夕闇《ゆうやみ》に暮れゆくトレル川を横目に、病院のヴァンが疾走していく。
俺の|左《ひだり》|隣《どな》りの運転席のノジェは、仕事中は後ろで束ねていた長い|髪《かみ》を|伸《の》ぱし、白いシャツと青のスラックス姿で、その指先でせわしなく|操縦環《ハンドル》を|叩《たた》いていた。
「女、事態を説明しろ」
後部座席に座る美の|彫刻《ちょうこく》たるギギナが、ノジュに疑問をぶつける。
右上の車内鏡でギギナの|麗姿《れいし》と視線を合わせ、看護婦ノジェはようやく口を開いた。
「|突然《とつぜん》すいません。実は……」
そこで車は左折しノジェは言葉を切る。そして続ける。
「実は、一週間ほど前、勤務している中央病院に|賊《ぞく》が侵入し、金庫のお金や有価証券が|盗《ぬす》まれました。
犯人が金目の物を探すついでに、書類もぶちまけていったのですが、まったく|偶然《ぐうぜん》、|床《ゆか》に落ちた保険|申請《しんせい》の書類の文面が、私の|眼《め》に入ったのです」
そこで言を|濁《にご》すノジェに俺はさらに先をうながし、彼女は何とか続ける。
「その書類には、私の受け持っている|患者《かんじゃ》さんたちの|医療《いりょう》記録もあったのですが、私の|記憶《きおく》にない|診療《しんりょう》と医療機器の使用が記されていました」
「つまりそれって?」
「そう、つまりやってもいない診察分の保険申請を行い、保険料を引き出す|詐欺《さぎ》です。他の医療記録も点検すると、|全《すべ》て|改竄《かいざん》されていました。|即《すなわ》ち病院の医師全体で行っている不正としか考えられず、総額では|莫大《ばくだい》なものになります」
俺は頷く。
「|即座《そくざ》に院長に問いただしたところ、逆に|黙秘《もくひ》の取引を持ちかけられましたが、私は|拒否《きょひ》しました。すると翌日から見知らぬ人物からの|脅迫《きょうはく》電話や|付《つ》きまといが続き、今日はついに連れ去られそうになってしまい動転して……」
ノジェの横顔に|陰鬱《いんうつ》な表情が|浮《う》かぶ。
「それで俺達を、ね」
「どうしたらいいのか、私にはもう分かりません」
俺が視線を前に戻すと、一行を乗せた|車輛《しゃりょう》は、ルルガナ|湾《わん》を遠く|望《のぞ》む川辺の坂を下り、住宅街の谷底の街路を何度も曲がり、|巨大《きょだい》な建造物の並ぶ一角に進んでいった。
どうやら最近の|粘着質《ねんちゃくしつ》な不景気で操業停止に追い込まれた工場街のようだった。
ノジェが急左折をし、ラズリー建材と書かれた|錆《さ》びた看板が入口にかかる、ひときわ巨大な工場の|敷地《しきち》内へと車を進めた。
「ここに|証拠《しょうこ》、つまり改竄書類を|隠《かく》してあります」
ノジェが到着点としたのは、貯蔵|筒《とう》や機械が並ぶ広大な敷地の中でも、突出した|威容《いよう》を|誇《ほこ》り、横手に|棟《むね》工場を臣下のように連結させた、巨大な工業用の|砂礫《されき》製造工場だった。
その見上げるような高さは五、六階建ての建造物ほどもあり、巨人が出入りするような正面の|大扉《おおとびら》が大きく開かれたままだった。
ノジェは俺達を乗せた車輛を、潮風で|錆《さ》びついた大扉の中へと走らせていく。
俺とギギナが停止した車から降りると、そこは巨大な|神殿《しんでん》の|伽藍《がらん》とも比すことが可能な、広大な空間だった。
役所の庁舎が一棟丸ごと入りそうな広さの所々に、巨大な円筒状の貯蔵筒が異教の神像のごとく並び、それを大小様々な輸液金属管、蒸気管が複雑に結び合わせていた。
|吹《ふ》き|抜《ぬ》けの大構内の|壁《かべ》の、三階ほどの高さを交差する|橋梁《きょうりょう》から垂れ下がる何本もの|吊《つ》り上げ|鉤《かぎ》が、|死刑囚《しけいしゅう》を待つ|貪欲《どんよく》な首吊り|縄《なわ》のようにも見える。
|距離感《きょりかん》と空間|把握《はあく》能力が|狂《くる》いそうな、全てがあまりに極大に過ぎる空間だった。
窓から差し込む|西陽《にしび》が、|橙《だいだい》と黒の複雑な|陰影《いんえい》を付け、|壮大《そうだい》な|古《いにしえ》の|帝国《ていこく》の|破滅《はめつ》の風景を再現しているかのようだ。
そして構内中央、球を|蹴《け》り合うヴォックルすら競技できそうな開けたコンクリ床に視線を|戻《もど》すと、停車した車の前に看護婦のノジェが立っていた。
ノジェがその|可愛《かわい》らしい|口唇《こうしん》を開く前に、俺は言った。
「いいから、|罠《わな》だって分かってるから」
俺の発言に、|驚《おどろ》いたノジェが何かを言おうとしたが、俺が続けた。
「別に君が誰かに|脅《おど》された、とも思ってない。
確か、モルディーン|枢機卿長《すうきけいちょう》|麾下《きか》、十二|翼将《よくしょう》の一人、ジェノン・カル・ダリウスだったけかな?」
ノジェの|可憐《かれん》な目鼻だちの顔に|驚愕《きょうがく》の|雷光《らいこう》が走り、再度口を開く。
「何を|馬鹿《ばか》なことを言ってるの、なんて返事もなし。時間の|無駄《むだ》だ」
俺の|指摘《してき》に、口を開けたまま|硬直《こうちょく》するノジェ。
「なぜ分かった。一度ならず二度までも我が完全な変装と演技を見破るとは。貴様の言った心理学的視線方向も注意したはずだが?」
ノジェの可愛らしい|唇《くちびる》から、ジェノンの|嗄《か》れた声が発せられるのを見るのは、|出来《でき》|損《そこ》ないの悪夢のようである。
俺は|疲労《ひろう》を感じながらも、|反抗心《はんこうしん》から、世界で一番|大嫌《だいきら》いな|奴《やつ》の|真似《まね》をしてやる。
「演技はまあ|完壁《かんべき》だろう。だが、まず一つ、時期が悪い。卿が今夜エリダナを|発《た》つ以上、今日中に十二翼将が|仕掛《しか》けてくるのは自明。
二つ、美人の看護婦が自分に好意を寄せて|頼《たよ》ってくる、なんて男心をくすぐりまくる設定はちょいとわざとらし過ぎる。
三つ、変装を見破られたことを卿に告げられたおまえは必ず|雪辱戦《せつじょくせん》を|挑《いど》んでくる。卿の言ったとおりなら、職人|気質《かたぎ》の演劇者のおまえなら必ず再上演するだろうと読んだわけだ。
四つ、おまえの会話の中の「つまり」「即座に」「即ち」なんて単語は、統計心理学的に男性が多く使う言葉だし、説明的だ。
五つ、認めたくはないが、ギギナの異常な|美貌《びぼう》を見て|陶然《とうぜん》としない女は|珍《めずら》しい」
横のギギナが、俺の真似している当の人物を思い浮かべたのか、心底|厭《いや》そうな顔をする。
「最後は、まあ言わなくても分かるだろ」
「何なんだ、それは?」
俺の言葉にジェノンが本気で|反駁《はんばく》する。
「奴らにでも聞けよ」
巨大機械の|影《かげ》の下、一つだけ残った構内の非常灯が切れかかっているらしく、病人の|咳《せき》のような不規則な明滅を繰り返していた。
まるで|舞台《ぶたい》照明のようなその|灯《ひ》の下へと、|双《ふた》つの人影が歩み出てきた。
一人は長身を完全装備の積層|甲胃《かつちゅう》で包んだ男で、右目を皮革製の包帯で|覆《おお》っている。その|腰《こし》に下げた長い|魔杖剣《まじょうけん》の|柄《つか》には、九つの|法珠《ほうじゅ》が|昆虫《こんちゆう》の複眼のように配されている。
その武人の額に流れる|髪《かみ》と同色の|闇色《やみいろ》の左の|隻眼《せきがん》が、ギギナの鋼珠の|瞳《ひとみ》と水平に|交錯《こうさく》する。
もう一人は細い魔杖剣を右手に|握《にぎ》り、軽装|鎧《よろい》に|咒式《じゅしき》|帽《ぼう》を|被《かぶ》り、飛行用|眼鏡《めがね》を額の上に|掛《か》けた男で、|軽薄《けいはく》そうな笑みを|口《くち》の|端《はし》に浮かべながら、|傍《かたわ》らの車輪付き|荷匣《にばこ》に寄りかかっていた。
二人の容貌に|類似点《るいじてん》はほとんど無いが、|醸《かも》しだす|雰囲気《ふんいき》に共通|項《こう》を感じる。
「ジェノン君さ、君が変装してノジェて名前は、やっぱ安易だと思うよ、僕はね」
咒式士らしき方が|朗《ほが》らかに答える。
「おまえの役目は終わった。後は我らの補助に回れ」
隻眼の剣士が、海の底から|響《ひび》くような低い声で告げる。
ジェノンは皮肉気に笑って|肩《かた》を|竦《すく》め、二人の背後へと下がる。
工場構内で三人の|魔人《まじん》たちと、俺とギギナが向かい合う。
「名くらい名乗れ。どうせ、ろくでもないモルディーン十二翼将の一将だろうが」
ギギナの問いにも剣士は無言を通す。代わりに|咒式《じゅしき》|使《つか》いが返答する。
「そこまで分かっているなら正直に名乗っちゃうけどね、|愛嬌《あいきょう》|溢《あふ》れる僕はベルドリト・リヴェ・ラキ。横の無敵に無愛想なのが|双子《ふたご》の兄貴のイェスパー・リヴェ・ラキ。
と言っても、|二卵性《にらんせい》|双生児《そうせいじ》なのでほとんど似ていないだろう? そうそう、僕はヴォックル派で兄はベルス派なんだ。あ、これ僕達の|趣味《しゅみ》の話ね、意外だった? そうでもない?」
よく|喋《しゃべ》る男だった。だが、俺とギギナはそのラキの名の意味することに|慄然《りつぜん》としていた。
「じゃ用事を手早く済ませるよ。ようするに|猊下《げいか》は|御自身《ごじしん》の|策謀《さくぼう》を見抜いた君たちを|警戒《けいかい》していてね。「今後のためにも警告を|与《あた》えよう」って猊下語を|翻訳《ほんやく》すると、さっくり殺しちゃえというわけ」
「なぜ今なんだ。暗殺など、俺が意識不明の時に剣で何千回でも|刺《さ》し殺せたはずだ」
二人の翼将はそれぞれの温度で笑った。
「まあ、僕は剣も全然得意だけど。そうだ、猊下の言葉のままに伝えるのが一番かな?
それは「|万全《ばんぜん》の彼らを、完全に|叩《たた》きつぶした方が遊びの|礼儀《れいぎ》だし、楽しいだろう。それに|謎々《なぞなぞ》は彼ら自身が解くべきだ」だってさ。わぁお楽しいね」
モルディーン枢機卿長の|狂気《きょうき》のお遊びは、標的を|変更《へんこう》し、まだ続行していたのだ。
「逆に聞くけど、分かっててなぜここへ?」
ベルドリトの聞いに俺は答えてやった。
「忘れて|寝《ね》てるところをやられるよりはマシだ。それに遊びなら、これを乗り切れば劇的展開を好む|枢機卿長《すうきけいちょう》はすぐに|飽《あ》きる。そして勝算はある」
だがいまだ疑問が解けない。やはり俺達の殺害の理由と時期が不自然なのだ。
モルディーン枢機卿長は策謀に遊びを入れはするが、遊びで策謀を起こさない。
なぜ今なのか、理由がまったく分からない。
「あ、そ。ちなみに周囲一帯は僕の咒式で|閉鎖《へいさ》してるから|救援《きゅうえん》信号は届かないよ。警察は別件で|忙《いそが》しいようにしてるしね。じゃ、ぴょっこり行くから、出来るだけ|頑張《がんば》って|抵抗《ていこう》してね」
弟のベルドリトのヘリウム元素並みに軽い|死刑《しけい》宣告とともに、兄のイェスパーという剣士がそのまま間合いを|詰《つ》める。
二人の属するラキ|侯爵家《こうしゃくけ》。
咒式剣士の間では、|噂《うわさ》だけが歩いている名前である。
〈リヴェ〉の|尊称《そんしょう》が付き軍事を|司《つかさど》る侯爵でも、|闘争《とうそう》と、そして暗殺を専門とするラキ家と出会うことは絶対の死を意味する。
|皇暦《こうれき》二百年代の|継承《けいしょう》戦争において、龍皇の命じるままにバルドルク派の反乱貴族たちを暗殺し、五十八人の首級を並べて「|降伏《こうふく》せよ」と文字を作り、反乱派を|恐怖《きょうふ》で|崩壊《ほうかい》せしめたという。
さらに皇暦三五八年のゾフ|戦役《せんえき》においては、|捕《と》らわれた肉親たちと|交換《こうかん》するべき|人質《ひとじち》を、一寸刻みの|肉片《にくへん》として送り返した。
ラキ家の人質たちも「戦いにおいて、ラキ家に|妥協《だきょう》と|怯懦《きょうだ》など|皆無《かいむ》」と言い残して全員が自害、ラキ家本隊は戦闘を続行し、敵を|殲滅《せんめつ》しつくしたという。
近年ではアルカンドラ|神殿《しんでん》の|虐殺《ぎゃくさつ》に|暗躍《あんやく》し、付いた|忌《い》み名が「|皆殺《みなごろ》しのラキ家」という|恐《おそ》ろしく|剣呑《けんのん》なものだ。
そのラキ家の|刺客《しかく》に立ち向かうべく、ギギナが|甲殻《こうかく》|鎧《よろい》を全身にまとうのと同時に、俺が|瞬時《しゅんじ》に|紡《つむ》いだ〈|爆炸吼《アイニ》〉のトリニトロトルエン爆薬の|炸裂《さくれつ》が、夕暮れのしじまを破り死闘の開始を告げた。
まったく感情の欠損した表情のまま、|爆煙《ばくえん》を|突《つ》き破る逆光の影形。
腰の|長剣《ちょうけん》を|鞘《さや》から|抜《ぬ》かず、|螺鈿《らでん》作りの|柄頭《つかがしら》に手を掛けたままの|翼将《よくしょう》イェスパーの|疾走《しっそう》。
その構えに対し、ギギナのドラッケン族の歴戦の経験が小さく|呟《つぶや》かせた。
「居合か」
〈居合〉とは、東方の刀術の一つで、常に|刃《は》を納めたままで敵と相対し、間合いに入った瞬間に刃を鞘走らせ|斬撃《ざんげき》を繰り出すという流派だ。
その|初《しょ》|太刀《だち》、抜き付けの一刀で相手の機先を制し、連続する理詰めの刀術で|圧倒的《あっとうてき》に押していく|超《ちょう》実戦|抜刀術《ばっとうじゅつ》である。居合は斬撃の時まで刃身が鞘に納められているがために、相手に容易に刃の間合いを|悟《さと》らせないという恐ろしさがある。
しかし、刃の起点が|腰《こし》の鞘からとあまりに明確であり、そこからの太刀筋もある程度限定されてしまう。
それゆえに初太刀を防げば、|屠竜刀《とりゅうとう》の破壊力に分がある。
それにイェスパーの得物は、居合用に|緩《ゆる》く|湾曲《わんきょく》した刀ではなく幅広の直剣だ。そのために神速の抜刀はかなり不自然な|技《わざ》となるはずだ。
ギギナはイェスパーの予想不能な間合いに届く前に投剣を|投擲《とうてき》する。縦に三本!
下の投剣から命中するように|微妙《びみょう》に時間をずらして投げられたため、相手は下方からの斬撃での|防御《ぼうぎょ》を|余儀《よぎ》なくされる。
居合の初太刀を|迎撃《げいげき》に使わせ、もし相手がそのまま間合いを詰めても、少なくとも手傷を負わせられる|奇襲《きしゅう》である。
イェスパーが居合を放ち、腰から、|飛燕《ひえん》を|越《こ》える神速の縦の太刀筋が発生する。
剣士なら一生に一度でもこのような刃を|繰《く》り出したいと|渇望《かつぼう》する|峻烈《しゅんれつ》な|光刃《こうじん》が、投剣を叩き切る。
その超絶の刃と等速度の屠竜刀が、|横薙《よこな》ぎの|激突《げきとつ》を起こすべく|軌跡《きせき》を|描《えが》く。
しかし次の|刹那《せつな》、投剣を|弾《はじ》き飛ばした翼将イェスパーの抜刀術は、屠竜刀、そしてドラッケン戦士の額にまで達していた!
異常な間合いに電光の反射速度で反応、刃と刃の打ち合わされる金属の悲鳴と火花。
|剣舞士《けんまいし》は体勢を修正、長外套(コート)の|裾《すそ》を|閃《ひらめ》かせ、さらに|翻《ひるがえ》り|迫《せま》る翼将の|白刃《はくじん》を|躱《かわ》し、さらに間合いを取るべく引き潮のごとく後退する。
ギギナのその|頬《はお》から一条の血液が|零《こぼ》れる。
「|猊下《げいか》に対する非礼と同じく額に付けようとしたが、さすがに無理、か」
翼将が呟き、そして|鋼《はがね》の言葉を|継《つ》いだ。
「そして、我が剣を躱し生存しているのは翼将以外では、貴様が初めてだ」
そう言い放つイェスパーの|掲《かか》げる刀身のその全長は三〇〇〇ミリメルトルを|超《こ》えていた。
明らかに鞘以上に長い、物理的にありえない刀身である。
その|鈍色《にびいろ》に光る金属の刃がギギナの目前で波打ち、収縮し、通常の長さに|戻《もど》り、イェスパーの手首が|華麗《かれい》に回転して鞘に|帰還《きかん》。再び腰を落とし、|磐石《ばんじゃく》の居合の構えに戻る。
ギギナが屠竜刀を|握《にぎ》る手に力が|籠《こ》もり、|柄《え》の金属が悲鳴を上げる。
眼前の翼将が使ったのは、刀身の分子間組成を自在に変化させる|化学《かがく》|鋼成系《こうせいけい》|咒式《じゅしき》の基本中の基本、第一階位〈|錬成《ペリス》〉に特化した機剣だった。
戦闘における間合いを自在に|操《あやつ》る機剣と、鋼成系咒式を使役する居合の機剣士の組み合わせは、まさに|戦《いくさ》の|鬼神《きしん》を産んだのだ。
ギギナの表情に|喜悦《きえつ》と恐怖が等分に混合される。
もちろん俺も遊んでいたわけではない。ギギナと入れ代わりに、紡いでいた咒式をベルドリトとジェノンの方向へと向ける。
ベルドリトの|傍《かたわ》らの|荷匣《にばこ》が開き、|膨大《ぼうだい》な咒式が|噴出《ふんしゅつ》し、俺の視界を|塞《ふさ》ぐ。
俺の|知覚眼鏡《クルークブリレ》は成分を無害と判断。|目眩《めくらま》しに構わず咒式を放出しようとした。
その刹那、俺の左方から急激に発生した気流の流れを感じ|咄嗟《とっさ》に後退するが、|捻《うな》る|颶風《ぐふう》が伸ばした腕を|掠《かす》めて血の|飛沫《しぶき》を飛ばす。
俺の|網膜《もうまく》が|奇妙《きみょう》な光景を映した。
眼前の大気が、まるで水面に小石が落とされ|波紋《はもん》が広がるように|歪《ゆが》み、その中心から俺の血に|濡《ぬ》れた五本の鈍色の短剣が見えた。
短剣と|誤認《ごにん》したのほ五本の|鉤爪《かぎづめ》だった。続く|巨大《きょだい》な指先、手首、|腕《うで》が、空気の波紋から抜け出し産まれ落ちようとしていた。
そいつの|臍《へそ》の|緒《お》のように続いた|尻尾《しっぽ》の|端《はし》は数字の|羅列《られつ》となり、ベルドリトの荷匣の中へとつながっていた。
ついにそれが物質界に|顕現《けんげん》、その膨大な質量で|石畳《いしだたみ》を|踏《ふ》み割り、|口腔《こうこう》に並ぶ|鋭利《えいり》な犬歯の|隙聞《すきま》から蒸気と化した高温の|吐息《といき》を|吐《は》く。
竜を顕現させ、虚空に消えつつ軽口をたたくベルドリト
俺は眼前の大型質量へと、中断させられた|化学《かがく》|練成系《れんせいけい》|咒式《じゅしき》第三階位〈|緋竜七咆《ハポリュム》〉を再展開し、ナパーム火線を放射する。
一千度近い七つの|紅焔《こうえん》の|怒涛《どとう》の|奔流《ほんりゅう》を、そいつはまるで水浴びのように、その|赤《あか》い|鱗《うろこ》の表面で|弾《はじ》き散らした。
そいつは|竜《りゅう》だった。
輸送車ほどもある|巨躯《きょく》を|紅《くれない》の鱗で|装甲《そうこう》し、|胴体《どうたい》から続く太い首の先に、人間の親指大の鋭利な|牙《きば》を隙間なく生やした巨大な頭部があった。
火竜と呼ばれる中型の竜で、その額には|法珠《ほうじゅ》が|鈍《にぶ》い光を放っていた。通常ならその下に|煮《に》えたぎる|坩堝《るつぼ》の|双眸《そうぼう》が納まるはずだが、代わりに金属の|制御桿《せいぎょかん》が、|無惨《むざん》に|眼窩《がんか》から脳までを|貫通《かんつう》している。
そこからベルドリトの声が聞こえた。
「君たちに|相応《ふさわ》しいように呼び出した僕の友達で下僕だ、元気|一杯《いっぱい》にぷりっと遊んであげてね」
尻尾と荷匣を|繋《つな》ぐ臍の緒が切れ、竜が誕生の産声を|號《ごう》と|吠《ほ》え、|突進《とっしん》してきた。
ギギナ・ジャーディ・ドルク・メレイオス・アシュレイ・ブフにとって、|闘争《とうそう》は大いなる安らぎである。
ノルアドレナリン、ドーパミン等のカテコールアミン類の脳内|青斑核《せいはんかく》等での|疾走《しっそう》と、極限の生存本能の|高揚《こうよう》だけが、彼の苦痛も|懊悩《おうのう》も|悲哀《ひあい》も|束《つか》の|間《ま》、焼きつくしてくれる。
広大な|廃《はい》工場の構内。
その中で火竜が空気を|震《ふる》わす|咆哮《ほうこう》を上げた時、|双《ふた》つの|疾風《しっぷう》が構内を疾走し、|翔《と》ぶがごとく|駆《か》けていった。
|魔風《まふう》の|一陣《じん》、イェスパーは|眉《まゆ》一つ動かさず機剣の引き金を引き、|閃光《せんこう》の居合を放つ。
|鞘《さや》から|猛禽《もうきん》のごとく|飛翔《ひしょう》する白銀の帯。
足元をつんざく刃に追われ、ギギナは後方回転飛翔、背後の階段の八段目に着地。
さらに下方からの銀の閃光の|追撃《ついげき》。
|鋳鉄《ちゅうてつ》製の階段の八段目を貫通、翻って九段目を貫通。|跳《と》び|退《しさ》る戦鬼をさらに追撃して十五段、十六、十七段目にと|速射砲《そくしゃほう》のごとく|刺《さ》さる。
ギギナは大きく後方へ|跳躍《ちょうやく》し、構内の四方の|壁《かべ》に備えつけられた二階の|回廊《かいろう》に着地。
追撃の刃が|欄干《らんかん》を切り|裂《さ》き、さらに長大な|横薙《よこな》ぎの|雷刃《らいじん》が走るのを後転して|回避《かいひ》する。
立ち上がりながら追撃を剣で弾くと、階段を上りおえ、|魔杖剣《まじょうけん》の|咒弾倉《じゅだんそう》を再|装填《そうてん》し終わったイェスパーがギギナの視界に入る。
と同時にイェスパーの手元から|迸《ほとばし》り、下から|跳《は》ね上がる刃、横からの|斬光《ざんこう》、|眉間《みけん》への|突《つ》き、そこから変化する薙ぎ|払《はら》い、続く足への|斬撃《ざんげき》が発生する。
ギギナはその魔剣の颶風の|全《すべ》てを躱し、見切り、|屠竜刀《とりゅうとう》で受け、|撥《は》ね返し、弾き、緋色の火花が|百花《ひゃつか》|繚乱《りょうらん》と咲き|誇《ほこ》る!
それはさながら、死と殺意に指揮され、金属音により|奏《かな》でられる|剣戟《けんげき》の|交響曲《こうきょうきょく》。
弾かれた剣と刀で、たちまち間合いの内の金属製の欄干や|床《ゆか》や壁が、裂かれ|穿《うが》たれ|惨状《さんじょう》を|晒《さら》し、排出された|咒弾《じゅだん》|空薬莢《からやっきょう》が調子外れな音階を付け加える。
剣の暴風の中、ドラッケン戦士は間合いを|詰《つ》め、|生体《せいたい》|強化系《きょうかけい》|咒式《じゅしき》第五階位〈|鋼剛鬼力膂法《バー・エルク》〉で筋力強化した|渾身《こんしん》の膂力の一撃を放つ。
イェスパーがその|弩級《どきゅう》の質量を剣で受け、刃同士が|軋《きし》り悲鳴を上げる。
運動慣性の分だけ|衝撃《しょうげき》が|相殺《そうさい》されず、背後の壁の|窓《まど》|硝子《がらす》に二人ともに激突。
|耐火《たいか》硝子の|破片《はへん》と|破砕音《はさいおん》を|撒《ま》き散らしつつ、|双影《そうえい》が工場の外へと落下していく。
俺が|大扉《おおとびら》から工場外へと転がった時、|轟音《ごうおん》と|煌《きら》めく破片とともに、高所から落下する二つの|影《かげ》が横目に|掠《かす》めた。
だが、背後から床を踏み|破《やぶ》ってくる足音に注意を戻す。
視界一杯に広がる火竜の|咽喉《いんこう》部。その奥に|咒印《じゅいん》の|灯《あか》りが|灯《とも》った次の|刹那《せつな》、外気を緋光で|塗《ぬ》りつぶす膨大な熱量の|火炎《かえん》が吐き出される。
雑草で|覆《おお》われた地面に転がって俺が回避したため、その火炎は|敷地《しきち》にそびえ立つ|貯蔵筒《ちょぞうとう》の|壁面《へきめん》に着弾、破砕し炎上する。
熱風が俺の上着と|髪《かみ》の端を焼き、天を|焦《こ》がす|炎《ほのお》を上げる。
髪の|蛋白質《たんぱくしつ》が焦げる|臭《にお》いが鼻を掠める。
最悪だった。
数や法を支配する|数法《すうほう》|咒式士《じゅしきし》は、量子的確率に|干渉《かんしょう》し、物質と物質を|透過《とうか》させる現象や、場の全ての要素を計算し限定未来を予測したりと、咒式士の中でも法則それ自体を操作する一派である。
目前のベルドリトは、|巨大《きょだい》な火竜を量子的に分解し、|使役《しえき》したい時に|召喚《しょうかん》という物質化を行う数法量子咒式士の上級職、|虚法士《きょほうし》だった。
その上、召喚した火竜の脳を法珠と眼窩の|制御桿《せいぎょかん》で支配し、統制の取れた戦術を展開させているのが、竜の火炎の|吐息《といき》が正確に俺に向かって|襲《おそ》いかかることから推測できた。
再び|躱《かわ》す俺の|逃走《とうそう》先に、走り込んできた小型ヴァンが車輪を乱ませ急停止し、その屋根上に|翼将《よくしょう》ジェノンが|膝《ひざ》をついているのが見えた。
その|輪郭《りんかく》が|揺《ゆ》らいだ、と思った|瞬間《しゅんかん》。
ジェノンの女の服と|皮膚《ひふ》が弾け、同時に足元の小型ヴァンと周囲の機器の輪郭が|融解《ゆうかい》。まるで幼児が|粘土《ねんど》を混ぜるかのように融合していった。
それらを吸収したジェノンの骨格や筋肉が|爆発《ばくはつ》的に増大|膨張《ぼうちょう》。短剣のごとき犬歯が|下顎《かがく》と|上顎《じょうがく》から飛び出すように生え、小山のごとく膨張した|体躯《たいく》を、|鈍色《にびいろ》の鱗がさざ波となって覆っていき、老人の|嘆息《たんそく》のような長い長い蒸気の吐息を|吐《は》く。
俺を二階の高さから見下ろすのは、|身体《からだ》に歯車や鋼管を|埋《う》め込んだ、どこか輪郭の|歪《ゆが》んだ|火竜《かりゅう》の|戯画《ぎが》の、その無機質な|瞳《ひとみ》だった。
小型ヴァンの扉にあった「エリダナ市立中央病院医局」の文字が、その顔から首や|肩《かた》に張りついているのが、より一層戯画めいていた。
「サあ、変装ヲ見破っテみ ナ」
ジェノンだった竜が、|爬虫類《はちゅうるい》の口で器用に人語を話しながら、|口腔《こうこう》の奥に緋光を灯す。
ジェノンが変装の名人なのは真実だ。というより、生体咒式士の一派、身体組織を自在に変化させる|変化系《へんかけい》|咒式《じゅしき》の達人、|変幻士《へんげんし》だったのだ。
竜で統一したのは、あの|枢機卿長《すうきけいちょう》の様式美からの指示だろうが、どうにもやりすぎだ。
|途端《とたん》にその口腔から|業火《ごうか》が放射される。緋の火線が敷地の|施設《しせつ》や機械を破砕し、地面の雑草を|焼却《しょうきゃく》させる|焦熱《しょうねつ》|地獄《じごく》が吠え猛る。
俺が何とか反射的に横転回避すると、前方頭上で最初に召喚された竜が吸気し、咒印を展開しているのが見えた。
再び|炸裂《さくれつ》する赤と緋と|赫《あか》。
|恐慌《きょうこう》状態に|陥《おちい》る寸前、|双眸《そうぼう》から|制御桿《せいぎょかん》を生やした火竜が|顕現《けんげん》した瞬間から、俺が展開していた咒式を発動させる。
|猛炎《もうえん》が俺を|蹂躪《じゅうりん》するのを|阻《はば》んだのは、|突如《とつじょ》大地より発生した金属の壁の|檻《おり》だった。
|化学《かがく》|鋼成系《こうせいけい》|咒式《じゅしき》第四階位〈|遮熱断障檻《フォエニク》〉が合成したニッケル基|超《ちょう》合金やチタン・アルミニウム金属化合物に、ホウ素や高融点金属元素ハフニウムの|添加《てんか》で|耐熱《たいねつ》効果を高めた積層金属の檻は、竜の一千度超の火炎息だろうが|充分《じゅうぶん》に|遮断《しゃだん》可能である。
その表面で|弾《はじ》けた火炎は、工場敷地の貯蔵筒を|爆裂《ばくれつ》させ、鋼管を|吹《ふ》き飛ばし|瞬時《しゅんじ》に風景を|赤光《しゃっこう》で染めあげた。
俺を守護する耐熱檻の表面で、|破壊《はかい》の|狂乱《きょうらん》に|荒《あ》れ|狂《くる》う緋と|橙《だいだい》と|朱《しゅ》は、一向に弱まる気配はなかった。
|召喚《しょうかん》火竜とジェノンの変身した|疑似《ぎじ》火竜が、本物の火竜に|匹敵《ひってき》する|灼熱《しゃくねつ》の炎を途絶えることなく連続で吐き続けているのだ。
俺は|剣呑《けんのん》|極《きわ》まる戦術に気づかされた。
|化学《かがく》|咒式《じゅしき》に限らず|攻性《こうせい》|咒式《じゅしき》とは、基本的に一瞬から数十秒程度の発動しか可能にしえない。
|咒式《じゅしき》|原理《げんり》の一つたる、作用量子定数hの変異には限界があり、物体が巨大なほど、それに反比例して短時間しか存在できないのだ。つまり〈|遮熱断障檻《フォエニク》〉の耐熱壁はいずれ消失し、その瞬間、俺の全身を灼熱の炎に晒すことになる。
かといって、同じ咒式を再度発動して防いだとしても|間隙《かんげき》を|突《つ》かれるか、いつかは二頭の火竜の|無尽蔵《むじんぞう》の体力に押され咒式を|紡《つむ》げなくなり、炭化するまで焼かれるだろう。
野生の竜には|到底《とうてい》ありえないこの|狡猾《こうかつ》|窮《きわ》まる高等戦術は、虚法士ベルドリト自身が直接竜に指令し、もう一頭が竜に変身した変幻士のジェノンだからこそ取れる、必殺の戦術である。
まさに、かつてない|恐《おそ》るべき使い手だ。
対抗策としては、この咒式が解けた瞬間、左右の竜を|一撃《いちげき》で|葬《ほうむ》る強力な咒式を発動するしか俺の生き残る道はないのだ。
だが、単体ならともかく、俺の爆発系咒式を|警戒《けいかい》して左右に散開し、火や爆発に高い耐性を持つ火竜と、肉と金属で構成された疑似火竜を一撃で葬る咒式など俺は知らない。
そしてついに、耐熱金属を構成・|維持《いじ》する咒式の作用量子定数と波動関数の変異が破れ、|崩壊《ほうかい》しはじめようとしていた。
|夕陽《ゆうひ》の血色の大気の中、落下する二つの|影《かげ》は|互《たが》いに|鋼《はがね》の一撃を交差させ、回転する。
着地したギギナの|靴裏《くつうら》が最初に|捉《とら》えたのは、大工場の横に|繁《つな》がれた|棟《むね》工場の、|屋根瓦《やねがわら》の割れ|砕《くだ》けた|感触《かんしょく》だった。
ギギナは追撃を|避《さ》けるべく屋根を走る。同様に着地したイェスパーも、屋根の|峰《みね》を|挟《はさ》み|疾走《しっそう》する。
落陽を背に、再び|怒濤《どとう》の銀の|奔流《ほんりゅう》が竜飛|鳳舞《ほうぶ》のごとく放たれ、|剛剣《ごうけん》が|迎《むか》え|討《う》ち弾く。
元より|交《か》わされるその|剣《つるぎ》の一条一条は、常の|剣士《けんし》の速度と質量の比ではない。
通常、人間は|筋繊維《きんせんい》や|腱《けん》の損傷を無意識に防ぐため、最大でも全筋肉出力の六割しか出せないとされる。
もし限界を外せば、成人で親指のみで十六キログラムルの押す力、|片腕《かたうで》で百二十キログラムルを持ち上げる|怪力《かいりき》を発生可能である。だが、ギギナのような|生体《せいたい》|強化《きょうか》|咒式士《じゅしきし》たちの|操《あやつ》る咒式は、五十一のインシュリンから二百以上ものアミノ酸で構成される二十種類以上の|蛋白質《たんぱくしつ》を合成し、身体を改変し強化する。
ギギナが|生体《せいたい》|強化《きょうか》|咒式《じゅしき》を行使する|剣舞士《けんまいし》であるのに対し、一方のイェスパーは|化学《かがく》|鋼成《こうせい》|咒式《じゅしき》を操る|機剣士《きけんし》だった。
機剣士とは、武器金属の構成を自在に変化させ、人体の骨格や筋肉を金属や機械と|置換《ちかん》して生物の限界を|超《こ》える鋼成系咒式を操り、自らを|戦闘《せんとう》機械とする咒式剣士である。
互いに生体限界を取り|払《はら》い人類を|遥《はる》かに|超越《ちようえつ》した筋力、反射力、耐久力、再生力を生みだす超絶の剣舞士と機剣士。
戦闘機械たるイェスパーの|乾坤《けんこん》の一撃を|打《う》ち払い、|迂闊《うかつ》にもギギナの身体が空に泳いだ|瞬間《しゅんかん》。|捩《ね》じ込むように放たれたイェスパーの|裂帛《れっぱく》の三千ミリメルトル超の|刺突《しとつ》が、同様に身体を|捻《ひね》って動いたギギナの|耳朶《じだ》を切り|裂《さ》き、背後の屋根上の|煉瓦《れんが》|煙突《えんとつ》を紙のごとく|貫通《かんつう》する。
|誘《さそ》いを成功させたギギナは、|軸足《じくあし》を|踏《ふ》み込み屋根瓦を砕きながら間合いを|詰《つ》め、九三五ミリメルトルのガナサイト|重咒《じゅうじゅ》|合金《ごうきん》の|刃《やいば》を怒濤の|瀑布《ばくふ》と化し打ち下ろす!
|隻眼《せきがん》の|翼将《よくしょう》の、左肩口の|甲冑《かっちゅう》|装甲《そうこう》の金属分子を両断していく死の|白刃《はくじん》は、だが、その肉体に|到達《とうたつ》する前に停止していた。
|屠竜刀《とりゅうとう》ネレトーの刀身に、白銀の|竜《りゅう》の首が正確に七重に巻きついて|拘束《こうそく》し、その一撃を強制停止させたのだ。
その銀の竜の正体は、ドラッケンの背後から|戻《もど》ってきたイェスパーの剣の刀身だった。刀身が|伸縮《しんしゅく》自在なだけでなく、|彎曲《わんきょく》自在だという現実に直面したギギナの顔に、|驚愕《きょうがく》の表情が|閃《ひらめ》く。
瞬間、|毒蛇《どくじゃ》のごとく|鎌首《かまくび》をもたげた剣先が|跳《は》ね飛び、ギギナの|喉笛《のどぶえ》に|強襲《きょうしゅう》してくる。
ぎぢんっ
|誰《だれ》も聞いたこともない音が大気に|反響《はんきょう》した!
その音はギギナの顔の下方から発生した。
超々|近距離《きんきょり》での|咽喉《いんこう》部への刃を、ギギナ自身の門歯と犬歯で|噛《か》んで停止させたのだ。
|刹那《せつな》の|膠着《こうちゃく》。
イェスパーの無機質な隻眼に、初めて|淡《あわ》い感情の|波紋《はもん》が|揺《ゆ》らめく。
ドラッケンは固定されていない左手で、|腰《こし》の後ろから無骨な短刀を逆手で引き|抜《ぬ》き、イェスパーの死角の右目に|叩《たた》き込む!
翼将も空いている左手で|抜刀《ばっとう》した小刀で、ギギナの刃を|迎撃《げいげき》!
|甲高《かんだか》い金属音。続くイェスパーの返し刃がギギナの|頸動脈《けいどうみゃく》を|狙《ねら》うも、首を|振《ふ》って|躱《かわ》す。|戦鬼《せんき》のエギン|晶《しょう》合金の短刀が、手首の血管と腱を狙うが、イェスパーが|手甲《てっこう》で|弾《はじ》く。
ドラッケンは半歩踏み込んで、左肩口をイェスパーの|右頬《みぎほお》へ叩きつけ頬骨を|軋《きし》ませる。
イェスパーがそのまま後方へと|退《ひ》くのと連動させた剣がしなり、ギギナの歯の|縛《いまし》めから|逃《のが》れるついでにその美しい|上唇《うわくちびる》を浅く裂く。
|硬質《こうしつ》の激突音。
|跳躍《ちょうやく》して退く状態で、互いに互いへ剣の追撃を放ち、金属音が|夕闇《ゆうやみ》近い大気に|響《ひび》く。
そして再び工場の屋根の峰を挟んで|対峙《たいじ》する、剣舞士と機剣士。
|己《おのれ》と敵。
ギギナの世界は今、ここだけだった。
極限の闘争、二つの命の|軌道《きどう》が|烈《はげ》しく|交錯《こうさく》し火花をあげるこの刹那の瞬間が、それだけがギギナと他者の|魂《たましい》を深く結ぶ|羅刹《らせつ》と|修羅《しゅら》の|絆《きずな》だった。
弱き|朋輩《ほうばい》より強大な敵の方が、ギギナには|愛《いとお》しい。
「|精妙《せいみょう》かと思えば、|野獣《やじゅう》のような太刀筋だな」
|掌中《しょうちゅう》の機剣を静かに肩口へ上げながら、イェスパーが|呟《つぶや》き、言を続ける。
「|汝《なんじ》に問う。汝の剣に信念はあるか」
同様に屠竜刀ネレトーを天へと|突《つ》き立てるように構えたギギナの美しい口の|端《はし》が跳ね上がり、|口腔《こうこう》から赤い舌を|踊《おど》らせ|叫《さけ》ぶ。
「貴様も相棒と同様の|愚者《おろかもの》のようだな。私にそんな余計なものは存在しない」
そして機剣士は剣を正眼に構えた。ドラッケン族の背に、なぜか|凍土《とうど》の|悪寒《おかん》が走る。
「だろうな。だがそれでは俺や他の翼将たちには|到底《とうてい》勝てぬ。
行くぞ|狂《きょう》剣士、|猊下《げいか》に|下賜《かし》されし〈九頭竜剣〉の真の|顕現《けんげん》を見て死ね!」
宣告と同時に、翼将の|掲《かか》げる剣の|先端《せんたん》がその名の通り、多頭竜の頭のように割れた。
それも九つに。
その九つの|剣峰《けんぽう》はそれぞれが竜の長首のようにうねり、白銀の鎌首をもたげる。
|恐《おそ》るべきことに、この機剣は|伸縮《しんしゅく》|彎曲《わんきょく》自在な上に、刀身を九つに分割可能なのだった。
|化学《かがく》|鋼成系《こうせいけい》|咒式《じゅしき》第一階位〈|錬成《ベリス》〉を、九つ同時発動させることに特化させるためのみに、九つの演算|法珠《ほうじゅ》が|鍔元《つばもと》に|埋《う》め込まれていたのだった。
一つの刀身でさえ何とか|互《ご》している状態なのに、それが九倍化する|恐怖《きょうふ》。
九条の白刃が|孔雀《くじゃく》の羽のように、|鳳風《ほうおう》の羽ばたきのように広がっていく。
|超《ちょう》剣士の|奥義《おうぎ》の発する物質化すら|錯覚《さっかく》する圧力に、ギギナは死の|息吹《いぶき》を身近に感じた。
|耐熱檻《たいねつおり》が|消滅《しょうめつ》する寸前、竜たちは|灼熱《しゃくねつ》の|吐息《といき》を|吐《は》くべく|一斉《いっせい》に大量酸素吸入を始める。
|檻《おり》の|崩壊《ほうかい》と同時に、ベルドリトの精神感応指揮の|煉獄《れんごく》の|業火《ごうか》が一斉に放たれる。
だがしかし、その口腔から代わりに吐き出されたのは、大量の|血泡《けっぽう》だった。
そう、俺が昼間実験していた咒式の一つが|影《かげ》よりも|密《ひそ》やかに展開していたのだ。
|化学《かがく》|練成系《れんせいけい》|咒式《じゅしき》第六階位〈|髑翁腐界瘍蝕雲《アシタルテ》〉が。
この咒式が合成したのは、典型的な神経ガスと、|皮膚《ひふ》|侵食《しんしょく》するイペリットガスの両方の構造と特性を|併《あわ》せ持つ現代|最凶《さいきょう》の|猛毒《もうどく》の|霧《きり》、X]ガスである。
その|有機燐《ゆうきりん》系の有毒成分は、神経伝達物質のアセチルコリンを分解するアセチルコリンエストラーゼという|酵素《こうそ》の作用を|阻害《そがい》し、その結果、体内アセチルコリンが異常増加し神経が常に伝達状態となるために猛毒となる。併せて副交感神経の熱代謝を|破壊《はかい》し、体温を|摂氏《せっし》五十度近くまで|上昇《じょうしょう》させ、生体組織を構成する|蛋白質《たんぱくしつ》を|凝固《ぎょうこ》させ|葬《ほうむ》る。
もう一つのイペリット成分は|遅効《ちこう》性で皮膚に|潰瘍《かいよう》・|糜爛《びらん》・|水泡《すいほう》を発生させ絶命させる。
このあまりに|凶悪《きょうあく》で非人道的な咒式は、五十年も前のジェルネ条約で国際的に製造と使用が厳重禁止されている。
だが俺とヘロデルは学生時代のあの日、自分たちの無力を認めたくない、過去を取り戻したいという|焦燥感《しょうそうかん》に突き動かされて、|無謀《むぼう》にも|禁忌《きんき》の咒式を構成し再現したのだ。
当時は発動する咒力が無く、組成式も不完全だったが、まさか使用する時が来ようとは。
灼熱の吐息を吐くための呼気吸入を行った火竜たちは、あらゆる生命体を死に至らしめる、煉獄の毒霧を大量に吸気し全身に浴びたのだ。
空気中の毒素成分が急速に分解する中、俺は|咒式檻《じゅしきおり》の構成を完全解除する。
|召喚《しょうかん》火竜は|制御桿《せいぎょかん》を差し込まれた眠から、ジェノンの変身した疑似火竜は口腔から、|血反吐《ちへど》と長い舌を|零《こぼ》しつつ、大気を|震《ふる》わす重低音を|敷地《しきち》の大地に響かせ、|倒《たお》れていった。
全身の穴から血を|噴出《ふんしゅつ》させて|痙攣《けいれん》する火竜たちの姿は、|地獄《じごく》とはまさにこの世のことだと俺に確信させた。
「借りは返したぜ」とばかりに手を挙げるヘロデルの後ろ姿が、なぜか|脳裏《のうり》を|掠《かす》めた。
そして火竜たちの死を見届けた|瞬間《しゅんかん》、俺は後方へと|魔杖剣《まじょうけん》ヨルガの|刺突《しとつ》を放ち、背後の空間の|波紋《はもん》から出現し、魔杖剣を|振《ふ》り下ろそうとしたベルドリトの|胸元《むなもと》に突き立てる!
|虚法士《きょほうし》と俺の視線が激しく交錯した。
俺は最初から読んでいた。
召喚が量子的な圧縮と移動だということは、自分も量子的に自己を分解して、瞬間的な空間移動を可能にするということである。
量子を|操《あやつ》り空間を|渡《わた》る|刺客《しかく》が、わざわざ宣言して派手な召喚を行うのは不自然だ。
ラキ家の|苛烈《かれつ》な家風と、|奴《やつ》が最初に|長剣《ちょうけん》を持って現れたことを合わせて考えると、火竜は|囮《おとり》で、失敗時には俺の背後からの|一撃《いちげき》という、絶対の戦術を選ぶと推測できる。
そう、俺ならそうするからだ。
俺の断罪者ヨルガの|鋭利《えいり》な刀身が、ベルドリトの|胸腔《きょうこう》をこじ開け、右肺を|貫通《かんつう》する。
|完璧《かんぺき》な|致命傷《ちめいしょう》。虚法士は少しだけ苦い顔をした。
だが、あまりにも肉と骨が|軟《やわ》らかい、というより空を切るデリビウム真銀合金の刀身。
|噂《うわさ》に聞く、|数法《すうほう》|量子系《りょうしけい》|咒式《じゅしき》第五階位〈|量子過躯遍移《タプ・ス》〉か!
その|咒式《じゅしき》は、|接触時《せっしょくじ》に量子的に身体の分子と、対象の分子の間を|透過《とうか》させて致命傷を|避《さ》けさせるのだが、その発生確率は十の二十四乗分の一という、自然界においては宇宙|開闢《かいびゃく》以来、いまだ発生しないという|極微《きょくび》の確率を強制|励起《れいき》させるのである。
瞬間的には絶対的な|防禦《ぼうぎょ》|咒式《じゅしき》を行使し、霧のように|希薄化《きはくか》して致命傷を避け、拡散していくベルドリトの量子的逃走。
急いで振り返ると、工場の屋根上での超剣士同士の戦いが決着しようとしているのが見えた。
俺は魔杖剣ヨルガに付いた血を|振《ふ》り|払《はら》い、|咒弾倉《じゅだんそう》の|交換《こうかん》をしながら走りだした。
棟工場の屋根上、イェスパーの九条の|刀身《とうしん》が暴風と化し|荒《あ》れ|狂《くる》っていた。
ギギナは右方より飛来する三条の剣の竜を|躱《かわ》し、左方よりの三条の|閃光《せんこう》を左手の|籠手《こて》を半ば|貫《つらぬ》かれながらも|防御《ぼうぎょ》する。
上方よりの三条の銀の雨を後方へ飛び|退《すさ》って|回避《かいひ》。銀光は|甲殻《こうかく》|鎧《よろい》の|爪先《つまさき》を掠め、そのまま|屋根《やね》|瓦《がわら》を|穿孔《せんこう》し、|刺《さ》さる。
ギギナが反転して間合いを|詰《つ》めようとした|刹那《せつな》、足元に刺さったはずの|剣《けん》が地面を貫通して|跳《は》ね上がり、彼の下腹部に無礼に|潜《もぐ》り込もうとして|疾《はし》る。
ギギナは|踏《ふ》み込んだ足の装甲された|靴裏《くつうら》で剣先を踏み、さらに加速する。
イェスパーも九頭竜剣を瞬時に|翻《ひるがえ》し、|剣舞士《けんまいし》の|突進《とっしん》を|迎撃《げいげき》するべく再放射。
九条の剣が|絡《から》まり一条となり、|剣峰《けんぽう》で再び散開、高速回転し、ギギナの顔面に|殺到《さっとう》する。
それは|草刈《くさか》り機の内部の刃のごとく|獰悪《どうあく》な光景であった。
ドラッケンの|屠竜刀《とりゅうとう》ネレトーが振り降ろされ迎撃するが、刃と刃の|接吻《せっぷん》の空気分子一個分の手前で、九頭竜剣は再び九つの小竜に分散、それぞれ敵の急所へと|毒牙《どくが》を走らせる!
ギギナはまったく防御せず、さらに空気を|切《き》り裂く|魔風《まふう》となり突進する!
イェスパーの顔に勝利の予感が走るが、|即時《そくじ》に消え去った。
九条の銀光に全身を貫かれながらも、ドラッケンの剣舞士は、ガナサイト|重咒《じゅうじゅ》|合金《ごうきん》の刀身の神殺の一撃を繰り出す!
間合いを見切ったイェスパーは、致命傷を避けるべく後退する。
だが、|猛《たけ》き|迅雷《じんらい》の刃はそれ以上に加速し、真銀鋼製積層|甲胃《かっちゅう》を、|鎖帷子《くさりかたびら》を、その下の皮膚、筋肉、|肋骨《ろっこつ》を|突《つ》き破り心臓へと|迫《せま》る!
しかしその切っ先は停止した。
筋肉蛋白質の、ミオシンとアクチンを、|化学《かがく》|鋼成系《こうせいけい》|咒式《じゅしき》第二階位〈|化刎網《ザガン》〉で、重量強度で鋼鉄の五倍というポリポラフェニレンテレフタルアミド、|所謂《いわゆる》ケブラー|繊維《せんい》の多重網に置換させて、切っ先とギギナの|腕《うで》までを|搦《から》め|捕《と》り、さらに重要器官をずらしたイェスパーが即死を防いだのだ。
再び左手で引き|抜《ぬ》いた短刀で|縛鎖《ばくさ》を瞬時に切り裂くギギナ。右手で刃をさらに押し込もうとすると、|緋《ひ》色の大気を切り裂き|強襲《きょうしゅう》してくる九頭竜剣。それが屋根に突き刺さり、|離《はな》れる|双影《そうえい》。
血泡を|吐《は》き、左胸から下を|朱《あけ》に染めたイェスパーが転がる。
対するギギナも全身鎧の|九箇所《かしょ》から噴水のように|鮮血《せんけつ》を|迸《ほとばし》らせ、屋根瓦に|右膝《みぎひざ》をつく。
ギギナの背後の屋根瓦を、彼がよく知った|歩幅《ほはば》で踏み割る音。
「死んでたら返事しろ、|闇《やみ》の|豚足《とんそく》の親友の|腐《くさ》れドラッケン族!」
|容赦《ようしゃ》ない呼び声がギギナの後方から|響《ひび》いた。
ギギナの顔になぜか不敵な|笑《え》みが|浮《う》かぶ。
「ああ、その姿を見ていると、なぜか視力が下がる|馬鹿《ばか》ガユスよりは死んでいない」
俺が屋根を走りながら必死に声をかけ、ギギナの素っ気ない返答が返ってきた時。
それは負傷したベルドリトが、転移移動で兄の|傍《かたわ》らに出現したのと同時だった。
ギギナとイェスパーは双方ともに全身朱に|塗《まみ》れていた。それを気にも止めないドラッケンが|凄絶《せいぜつ》な笑みを浮かべながら、対決者に言葉を投げつける。
「貴様の〈練成〉の咒式が質量保存の法則を超えられない以上、分かれた九つの刃の一つ一つは軽くなる。九分の一の重さの刃なら、急所さえ外せは瞬時に絶命はしないと判断したのだが、どうやら正解だったな」
|慌《あわ》てた弟に|抱《かか》えられて何とか|膝《ひざ》をつくのを|止《や》め、|隻眼《せきがん》の機剣士が|自嘲《じちょう》ぎみに笑う。
「それを考えたとしても、刃の|渦《うず》に飛び込む|愚《おろ》か者がいるとはな」
俺は剣に生きる者の|狂気《きょうき》を見た。|矜持《きょうじ》のみが支配する、俺にはまったく理解不能な非論理的な世界観だ。
|凶獣《きょうじゅう》の|咆哮《ほうこう》とともに膝を|震《ふる》わせてギギナは立ち上がり、イェスパーも|胸鎧《むなよろい》から鮮血を|噴《ふ》き出させながら、弟の手をはねのけて立ち上がる。
背後から|轟音《ごうおん》が|湧《わ》き起こる。
屋根瓦を空中に巻き上げて、|影《かげ》が現れる。|爆煙《ばくえん》の中に、|巨大《きょだい》だがどこか均整の取れていない|疑似《ぎじ》|火竜《かりゅう》の頭部が出現し、鉄管を|捩《ねじ》り合わせたような前足でその|巨躯《きょく》を屋根に持ち上げる。
その巨大質量で屋根瓦が|破砕《はさい》され、棟工場の屋根が大きく|軋《きし》む。
異様なのはその疑似火竜の頭部から、さらに|裸身《らしん》の人間の上半身が生えていることだ。
見覚えのない人間だった。一本の|頭髪《とうはつ》も無い|禿頭《とくとう》で、女の|乳房《ちぶさ》と骨格と、男の声帯と筋肉を|併《あわ》せ持つ中性的な顔と体だった。
「ざ、残念。この私、|千貌《せんぼう》のジェノン、は、あ、あの程度では死、なないよ」
|若干《じゃっかん》苦しげに片目を|瞑《つぶ》って見せるそいつは、|先程《さきほど》絶命したはずのジェノンだった。
誤算だった。|高位《こうい》|生体《せいたい》|咒式《じゅしき》を|使役《しえき》する|変幻士《へんげんし》たるジェノンならば、毒ガスの対処薬の|硫酸《りゅうさん》アトロピン発動後、2−ピリジルアルドキシムメチオタイドや、オキシム|剤《ざい》、ピリドスチグミン程度は合成して無毒化し、重要臓器を移動させることすら可能にするだろう。
全身に傷を負った俺達だが、|奴《やつ》らも決して軽傷ではない。だがしかし、まったく|闘気《とうき》を|衰《おとろ》えさせずに向かってくる。
「何なんだ、なぜここまでして戦闘を続ける!? 一体お前たちは、なぜそうまでしてこの国のために、モルディーン|枢機卿長《すうきけいちょう》のために戦う!?」
俺の|恐怖《きょうふ》の|叫《さけ》びにも似た問いに、しかし三人の魔人たちは|互《たが》いに視線を|交錯《こうさく》させた。
「この腐れた国などどうにでも|滅《ほろ》びよ」
意外なことに、|瀕死《ひんし》の重傷で一番|寡黙《かもく》に見えたイェスパーが口を開いた。
「この国を愛し、守るために生命と死技を|尽《つ》くすのは、単にあの|御方《おかた》が望むからだ。
モルディーン|猊下《げいか》は、|異端《いたん》の|我等《われら》の捨てた命に、向かうべく理想と戦う場所を|与《あた》えて下さった|掛《か》けがえのない至尊の御方」
俺にはこいつの言葉が理解できず、|反駁《はんばく》せずにはいられなかった。
「奴は自分の信念とこの国のためなら、おまえたちの死などに|涙《なみだ》一つも|零《こぼ》しはしない!」
イェスパーは自嘲ぎみに言い返す。
「彼の御方は決して涙など流さぬ。一人に泣けば皇国の|民《たみ》|全《すべ》てのために泣かねばならぬ。だから泣かず、|怒《おこ》らぬ、喜ばず、笑わぬ。
だから我々がこの命を|矛《ほこ》と|楯《たて》に支える。あの御方の遊びに、|一瞬《いっしゅん》の|微笑《びしょう》に一命を|捧《ささ》げるのだ。
猊下はそんな我らを|慈《いつく》しみ、その|犠牲《ぎせい》を|哀《かな》しんでおられる。だからこそ、その理想のために|殉死《じゅんし》した者たちの名前を一人残さず全て覚えておられる。
その|誇《ほこ》り高き勇者たちは、現在六千三百四十三名。
俺はその勇者たちの一人になりたい。敬愛するモルディーン猊下の|記憶《きおく》に残りたいのだ!」
|饒舌《じょうぜつ》から|遥《はる》かに|隔絶《かくぜつ》したこの男に似合わぬ激しい独白に、傍らに立つ竜の上のジェノンも|肯定《こうてい》するよう耳を|傾《かたむ》けている。
俺はモルディーンの|唯一《ゆいいつ》の特技が、人の名前を忘れないというのを思い出した。
だが俺には、奴らが|恋《こい》の狂熱を、狂信の|殉教《じゅんきょう》を語っているようにしか聞こえない。
モルディーンという希代の|梟雄《きょうゆう》に、心と|魂《たましい》の|全《すべ》てを|魅了《みりょう》され|灼《や》き尽くされた殉教者たち。
彼らは父母を|慕《した》う幼子たちなのだ。
いや、それも|違《ちが》う。世界の痛みを許せず、その|無慈悲《むじひ》さに|徒手《としゅ》|空拳《くうけん》で立ち向かうモルディーン。彼ら|翼将《よくしょう》は、そんな|脆《もろ》く|儚《はかな》い子供を、だからこそ守る|健気《けなげ》な|騎士《きし》役を演じることを自らに科した子供らなのだ。どうしたらあの男の心に残れるか。愛でもなく、忠義でもなく、流血しか捧げられない戦士たち。
そうであればこそ、こうまで彼らは、彼らの信念は強いのだ。
哀しいまでに|壮烈《そうれつ》に。
「ま、見た目に反比例して、実は|無駄《むだ》に熱ーい兄貴と違って、僕は単に猊下といると、もげもげと|面白《おもしろ》いからだけどね。さて、そろそろ幕引きを始めよっかな」
笑うベルドリトの|身体《からだ》の|輪郭《りんかく》が|揺《ゆ》らぎ、量子の世界へと消えて|襲撃《しゅうげき》態勢に入る。
「一つ聞くが、先のキュラソーや貴様らは、十二翼将の中でどのくらいの強さだ?」
ギギナの問いに、九頭竜剣を展開させながらイェスパーが返答する。
「十二軍将の内、コウガ|忍者《にんじゃ》キュラソーは本業は|諜報屋《ちょうほうや》で十二番目。千貌のジェノンが十一番目。弟のベルドリトが十番目。俺は九か八番目の席次だろうな」
そして奴が続ける。
「そして俺の九頭竜剣は、本来は|雌雄《しゆう》二刀流だ」
|腰《こし》の|鞘《さや》から、左手でもう一つの|短剣《たんけん》の九頭竜剣を引き|抜《ぬ》く隻眼の機剣士。
右に九条、左に九条の銀線が、剣士の背中に見える落日の光輪のように広がっていく。
背中合わせの俺とギギナは、互いに背筋に総毛立つものを感じていた。
「こいつらは今まで、まだ全力ではなく、しかも十一から九番目、だと?」
俺の奥歯が|噛《か》み合わない。
ギギナの刀を|握《にぎ》る手が小さく|震《ふる》える。
「|嬉《うれ》しいじゃないか、なあガユス?」
その意見に絶対に賛成はできないが、こう|呟《つぶや》く時、ギギナの人としての|美貌《びぼう》が、|凄絶《せいぜつ》な美の武神へと高められているのだろう。
|美姫《びき》の血を吸った断頭台に降り積もる白雪を、美しいと感じるのならではあるが。
その様子を映した受像機の前で、|嬉々《きき》として観戦している視線があった。
オージェス選皇王後見人、モルディーン・オージェス・ギュネイ枢機卿長だった。
「なかなかに燃える対戦組み合わせだね。まあ、個人戦闘力では私の|駒《こま》たちの方が一枚上だが、仲の悪い翼将たちより、|腐《くさ》れ|縁《えん》のガユス君とギギナ君の二人の方が|連携《れんけい》に|優《すぐ》れている。それでも八割五分ほどの確率で、私の駒たちが勝つだろうし、逆でも結末は何ら変わらない」
|掌中《しょうちゅう》の、夕陽と血を混ぜ合わせたような|色彩《しきさい》の酒を|孕《はら》んだ|杯《さかずき》を|弄《もてあそ》びながら、モルディーン卿が独自する。
以前と同じエリダナのリンツホテルの秘密の十三階、最上級警護|貴賓室《きひんしつ》。
その室内中央の大|椅子《いす》に座り映像に見入る卿は、まるでヴォックル競技の大陸大会でも観戦しているかのように|上機嫌《じょうきげん》そうだった。
「|猊下《げいか》、一言よろしいでしょうか?」
モルディーン卿の椅子の背後、その影のように立つ忍者キュラソーが硬い声が|呈《てい》する。
枢機卿長は、|傍《かたわ》らの皿の上の物を器用に|箸《はし》で|摘《つ》まみ、一口で食べて返答する。
「うん、キュラソー君お|薦《すす》めの、この〈|漬物《つけもの》〉ってやつは、なかなかお酒に合うね」
「|拙者《せっしゃ》が畑で育てた野菜を使って|漬《つ》けました。猊下こそ箸の使い方が上達なされて……」
|誇《ほこ》らしげに胸を張るキュラソーだが、すぐに話を|逸《そ》らされたことに気づき表情を硬化させ、かねてからの疑問を口にする。
「|御館《おやかた》様、|恐《おそ》れながら申し上げますと、始末なさるだけなら、やはり|寝《ね》込みを不意打ちするか|人質《ひとじち》を取った方が確実ではないでしょうか?」
「|無粋《ぶすい》」
卿は|振《ふ》り返らずに|鋭利《えいり》な言葉の短刀を|突《つ》き出し、|虚《きょ》を突かれた|忍《しのび》が|硬直《こうちょく》する。
「|退屈《たいくつ》|極《きわ》まる発言だ。|遊戯《ゆうぎ》の絶対の|掟《おきて》を守れないからこそ君は参加させてもらえず、ここからの劇の展開を知らせなかったんだよ」
その声には|叱責《しっせき》や|怒《いか》りの成分は|含有《がんゆう》されていなかったが、歴戦の忍者キュラソーを|以《もっ》てしても|心胆《しんたん》寒からしめる何かがあった。
|怜悧《れいり》な頭脳と、人間としての|圧倒的《あっとうてき》な格の違いへの|畏怖《いふ》、そしてこの人物のためなら自らの命をすら捨てようと思わせる|蠱惑的《こわくてき》|魅力《みりょく》。
だからこそ|忍《しのび》は通常はありえない、|雇用《こよう》を|超《こ》えた絶対無比の忠誠を捧げているのではあるが、時にこの知性と|酔狂《すいきょう》の|怪物《かいぶつ》に|恐怖《きょうふ》し、殺害を|企《くわだ》てている|己《おのれ》れに気づかされる。
さらなる|戦慄《せんりつ》がコウガ忍者の背を走る。
このようなキュラソーの最近の忠誠の揺らぎを|見越《みこ》し、モルディーンは他の部隊ではなく、あえてキュラソーと部下の忍者たちを死地へと向かわせ、|綱紀《こうき》|粛正《しゅくせい》を|図《はか》ったのではないだろうか。
コウガ忍は、自分の精神に|絡《から》みつく|枢機卿長《すうきけいちょう》の冷たく長い|触手《しょくしゅ》を感じた。
「私の最優先|事項《じこう》を理解しなさい。劇的ではない退屈な劇は見たくないんだ。
|脚本《きゃくほん》が退屈なら、私が|馬鹿馬鹿《ばかばか》しいまでに演出|過剰《かじょう》にしてやるまでさ」
卿は見えざる楽団に指揮するように指を振るが、やがてその指が止まる。
「さて、|遅《おく》れていた最後の配役が、ようやく私の合図に気づいて|舞台《ぶたい》に上がる。これで様式美も整い、一連の私の演劇が完成する」
どういう意味なのかとキュラソーが|尋《たず》ねかけ、枢機卿長の視線の先のものに気づく。
それは受像機の画面の遠くに映る|微小《びしょう》な影だったが、|次第《しだい》に前方へ接近していた。
大きさの変化から考えると、それは|飛燕《ひえん》のごとき速度の人影の接近だった。
11 復讐の女神
夢破れ、|剣《けん》折れし勇者たちよ
今は|束《つか》の|間《ま》に安らぎにまどろむがいい
|汝《なんじ》のいくさは語り部に返し、|猛《たけ》き|身体《からだ》は大地に返し、気高き志は|蒼天《そうてん》に返そう
だが、汝の心だけは草原を|疾《はし》る風に乗り
そして故郷の|愛《いと》しい人の胸へと|還《かえ》る
ドラッケン族の|狩猟《しゅりょう》の「クドゥー」と呼ばれる|祈《いの》りの一節
作者|及《およ》び成立年代|不詳《ふしょう》
「人生|脱落《だつらく》ぎみの失敗顔のガユスよ、勝てる戦術を急ぎ提案しろ」
ギギナの相変わらず勝手な言葉に、俺は|知覚眼鏡《クルークブリレ》で測定した結果を告げる。
「|彼我《ひが》の力の正確な算定は、俺が今日十三|階梯《かいてい》になったばかりで、ギギナも十三階梯。
対してジェノンが十三階梯。イェスパーとベルドリトは、聞いたこともない十四階梯といったところだ。つまり、打つ手なしだ。分かったか軽量級|脳《のう》|味噌《みそ》のドラッケン」
「おいガユス」
「何だよ、|遺言《ゆいごん》か?」
|翼将《よくしょう》たちから|眼《め》を|離《はな》さず俺は問い返す。その|甲殻《こうかく》|兜《かぶと》の下に何だか|嬉《うれ》しそうなギギナの表情が|覗《のぞ》き、生理的に気持ち悪い。
「なぜだか、負ける気がしない」
「その不思議な方程式の|根拠《こんきょ》を知りたいね」
この非常時にこんなことを話してくるギギナの思考は、相変わらずまったく理解できない。
それを合図に俺とギギナは|疾走《しっそう》した。
|疑似《ぎじ》|火竜《かりゆう》の姿のジェノンの方向へ。
会話は相手に聞かせるための|詐術《さじゅつ》。
勝機は一つ。
一番勝てる確率の高いジェノンを可能な限り|瞬時《しゅんじ》に|倒《たお》し、その後ラキ兄弟との二対二の対決に持ち込むしか生存の可能性はない。
屋根の|巨竜《きょりゅう》に俺は|攻性《こうせい》|咒式《じゅしき》を放つ、と見せかけて左足を|軸《じく》に急速一八〇度反転。
後方から神速で|突進《とっしん》して来ていたイェスパーに向け、|電磁《でんじ》|電波系《でんぱけい》|咒式《じゅしき》第四階位〈|赫濤灼沸怒《フルフーレ》〉を展開。
俺達の読みくらい向こうも読む、と読んでいるのを向こうも読んでいるだろうが、防げない咒式を放つ!
俺の放った咒式は、可視光線より波長が長い、秒間|振動《しんどう》二十四億五千万回のマイクロ波を標的に放射し、対象生物の体内の水分子を振動させ体液を|沸騰《ふっとう》させるという、電子加熱器の原理と同様の|凶悪《きょうあく》な|咒式《じゅしき》で、不可視の広範囲|攻撃《こうげき》ゆえに|回避《かいひ》不可能。
だが、イェスパーの体液が|無惨《むざん》に沸騰し、絶命することはなかった。
機剣士は|鎧《よろい》を変形させ、同時に|双剣《そうけん》の|幅《はば》を広げ全身を包む|楯《たて》のように編み防いでいたのだ。
マイクロ波帯電波は金属を|透過《とうか》しにくい性質があるため、鎧と|魔剣《まけん》で金属製の楯を作れば無力化できることをイェスパーは知っていやがったのだ。
敵は|対《たい》|咒式《じゅしき》|戦闘《せんとう》に極限まで熟達している、|超絶《ちょうぜつ》の戦闘者だった。
イェスパーの楯は瞬時に十八条の銀線に|戻《もど》り、俺の|肩《かた》、|上腕《じょうわん》、|脇腹《わきばら》、|太股《ふともも》、|脛《すね》と全身へ|殺到《さっとう》。|貫《つらぬ》き飛ばして|屋根《やね》|瓦《がわら》に|縫《ぬ》い止めた。
|鮮血《せんけつ》を|噴《ふ》きながら強制的に|仰向《あおむ》けになった俺が見たのは、火竜となったジェノンの|巨大《きょだい》な右|前肢《まえあし》の|一撃《いちげき》をかいくぐり、その胸部へとギギナが|屠竜刀《とりゅうとう》ネレトーを|撥《は》ね上げている瞬間だった。
ガナサイト重咒合金の|刃《やいば》が疑似火竜の胸板に|触《ふ》れる直前、ギギナを|覆《おお》う生体甲殻鎧を、広背筋を、|肩甲骨《けんこうこつ》を、冷たい刃が|突《つ》き破る。刀身は|柄《つか》に続き、その柄は背後に量子移動で背後の|煙突《えんとつ》から上半身を出したベルドリトが|握《にぎ》っていた。
ドラッケンは背後に|振《ふ》り返りながら|剛刀《ごうとう》を|繰《く》り出すが、|虚法士《きょほうし》は再び量子的|希薄化《きはくか》して物質界から消失。反撃の刃は|虚《むな》しく|煉瓦《れんが》を|砕《くだ》くのみだった。
右肺を|貫通《かんつう》され|血反吐《ちへど》を|吐《は》くギギナに、疑似火竜の左前肢の、巨大すぎる|鉄槌《てっつい》が振り下ろされる。
俺の額にもイェスパーの九頭竜剣が|迫《せま》る。
死がまた親しく寄り|添《そ》ってきた。
不思議な事象が発生した。
振り下ろされた疑似火竜の、巨木のような左前肢の|肘《ひじ》部分が内方向へとひしゃげる。
関節部から折れた骨が飛び出し、鮮血を噴く。
ほぼ同時に電光の速度で落下する九頭竜剣の|先端《せんたん》が砕け、銀の|破片《はへん》が|弾《はじ》ける。
二つの現象は、まるで不可視の|壁《かべ》の極大の圧力に|押《お》し|潰《つぶ》されたようだった。
その場にいた全員が、|恐《おそ》るべき|咒式《じゅしき》の放出された方向を見上げた。
俺達の立つ|棟《むね》工場に|隣接《りんせつ》した、巨大な本工場の屋根から水平に飛び出た受信管。その先に立ち、下等生物を見下ろすような|透徹《とうてつ》した死神の視線があった。
いや、果たしてそれを立っていると言えるのだろうか。
鉄管の先端に|靴裏《くつうら》を付け頭を下に向けて立つ、重力を無視したその|人影《ひとかげ》を。
重力を無視して、逆様に起立するニドヴォルク
逆さ|吊《づ》りになったその全身を|昏《くら》い黒で包み、同色の長い|髪《かみ》が、落陽と|夜闇《よやみ》の争う空の|微風《びふう》に|煽《あお》られ、|幾《いく》万本の微細な蛇の首のごとくに|緩《ゆる》やかに|舞《ま》っていた。
その者の名はニドヴォルク。
死神はここまで追ってきたのだ。
|驚愕《きょうがく》・|恐怖《きょうふ》・|憤怒《ふんぬ》・|畏怖《いふ》・不安・苦痛。
全員の視線が集中する一点、彼女は高い高い受信管にただ吊り下がっていた。
「|猊下《げいか》の筋書き通り、やはり出現したか」
イェスパーがそう|呟《つぶや》いたのが聞こえた。
魔女は重力落下を起こすことなく平行に地上十数メルトルを歩み、そして重力が急に本来の働きを思い出したかのように急速落下を行う。
ジェノンの上半身を支える疑似火竜が|咆哮《ほうこう》し、天空の女に向けて|灼熱《しゃくねつ》の業火を吐く。
彼女はその|猛《たけ》り狂う炎を両手を広げ受け止め、そしてその肉体は|炎《ほのお》の中に無惨にも|爆散《ばくさん》した。
(そんな|馬鹿《ばか》な!)
あの女の|怪物《かいぶつ》じみた力を知る俺には、眼前の|唐突《とうとつ》すぎる死が信じられなかった。
しかし、現実に、|腕《うで》や足首、半分になった頭部等、数十個の、かつてニドヴォルクだった|肉塊《にくかい》たちは、炎の|尾《お》を引く流星となり地上へと自由落下していく。
それぞれの視線が|交錯《こうさく》する瞬間、その変異は起こった。
落下するニドヴォルクの右手首、その人指し指と薬指が|黯《くろ》い羽毛を生やし|伸長《しんちょう》し、親指と小指が小さな|鉤爪《かぎづめ》の生えた|脚《あし》を|瞬時《しゅんじ》に形成する。
中指の傷口に産まれた小さな眼球が|蠢《うごめ》き、爪が|嘴《くちばし》を生成し、|不吉《ふきつ》な|嗄《しわが》れ声を上げる。
それは|漆黒《しっこく》の|鴉《からす》だった。
同時に左手首、両足首、頭部、胃や腸と数十の肉の破片が同様の|変貌《へんぼう》をとげ、数十の鴉の群れが|夕闇《ゆうやみ》を背景に羽ばたき、|時雨《しぐれ》のような多重音を|響《ひび》かせた。
まるで神話の世界のような|夢幻《むげん》の光景に、全員が|凍《こお》りついていると、天空を|埋《う》めつくす闇の羽の群れは、重力の|軛《くびき》より速く空を切り|裂《さ》く急降下を開始した。
その漆黒の流星群の収束点には、|呆然《ぼうぜん》と見上げているジェノンの|疑似《ぎじ》|火竜《かりゅう》の|巨躯《きょく》があった。
数十条の黒い|迅雷《じんらい》たちは、疑似火竜の金属の|鱗《うろこ》を|穿孔《せんこう》し、体内へと|潜《もぐ》っていき、その|衝撃《しょうげき》の|度《たび》に不規則に|痙攣《けいれん》し、竜とジェノン自身の二つの口が意味不明な苦鳴の二重唱を上げる。
その悪夢のような眼前の光景から、|誰《だれ》もが視線を|逸《そ》らせなかった。
ジェノンの疑似火竜の鱗の下で、何かが蠢きのたくっていたのだ。
筋肉を、内臓を、恐ろしい激痛を生みながら縦横に穿孔し進むその群れは、やがてジェノン自身のすぐ背後、疑似火竜の首の根元の鱗の下の一点に集結していき、まるで巨大な|腫瘍《しゅよう》のように|膨張《ぼうちょう》させていく。
そしてジェノンと竜の|瞳孔《どうこう》が痙攣し回転し、|聴覚《ちょうかく》があることを|後悔《こうかい》したくなるような悲痛な|絶叫《ぜつきょう》を|撒《ま》き散らす。
その悲鳴を登場音楽とし、腫瘍を貫通し、五指が|揃《そろ》った白い人間の手が出現する。
その瞬間、内圧に|耐《た》えきれず腫瘍を包む鱗と皮下組織が|破裂《はれつ》した。
飛び散る肉と骨と内臓と歯車と金属管。
破裂した傷口から、鉄と塩の|血臭《けっしゅう》が夜気に放たれ、|溢《あふ》れ出る血液が湯気を立てる。
その死体の火口から、長い小腸を|襟飾《えりかざ》りにし、|剥《む》き|出《だ》しの臓器と|脊髄《せきずい》とジェノン自身を|踏《ふ》みしめて、漆黒の魔女ニドヴォルクが|倣然《ごうぜん》と姿を現す。
ニドヴォルクの塩化ナトリウム|結晶《けっしょう》のごとくに白い|肌《はだ》には、破片になった|傷痕《きずあと》一つ無く、全身に浴びた血液もその|深淵《しんえん》色の髪と|衣装《いしょう》を染めるには至らなかった。
その|燐光《りんこう》宿る視線の先の|繊手《せんしゅ》に、いまだ血液を|噴《ふ》き上げ|鼓動《こどう》する|巨大《きょだい》な心臓を|掴《つか》んでおり、それから|延《の》びる動脈や静脈がまだ傷口につながっていた。
それは|発狂《はっきょう》した画家が|悪魔《あくま》に|魂《たましい》を売り|渡《わた》して|描《えが》いた、|狂《くる》える美神の|受胎《じゅたい》と誕生の光景。俺の現実感が風に|吹《ふ》き散らされる砂のように|崩壊《ほうかい》していく光景だった。
ここは物理法則が絶対支配を行う、|現代《げんだい》|咒式《じゅしき》による論理と理性の世界のはずだった。
しかし、ニドヴォルクがその力でこの世界を、|妄想《もうそう》と悪夢の支配する神話の世界へと|全《すべ》て|造《つく》り|変《か》えてしまったかのようだった。
|嘔吐《おうと》を|催《もよお》すほど|凄惨《せいさん》で|醜悪《しゅうあく》な、だがしかし夢幻の美すら持つ光景に、俺の魂は掴まれてしまっていた。
動くことを|忘却《ぼうきゃく》した|彫像《ちょうぞう》たちの見守る|凍結《とうけつ》した時間の中、ニドヴォルクが足元を見下ろす。
そこには「エリダナ市立中央病院医局」という文字が書かれた疑似火竜の|鱗《うろこ》があった。
魔女の人形のような顔に、|嫌悪《けんお》にも似た表情が|浮《う》かぶ。
「これが竜だと? |汝《なんじ》らの考える竜とは、怪物の|紛《まが》い|物《もの》だというのかえ?」
|一抱《ひとかか》えほどの大きさで弱々しく鼓動する心臓を|眺《なが》めていたニドヴォルクは、緑の|双眸《そうぼう》を大きく見開き、次の瞬間、それを|握《にぎ》りつぶした。
心臓は大量の|鮮血《せんけつ》を飛散させ、ニドヴォルクの白い容貌に|緋《ひ》の|飛沫《ひまつ》を描き、|皮膚《ひふ》に吸収されて消えた。
ニドヴォルクに踏まれていたジェノンが|不明瞭《ふめいりょう》な|断末魔《だんまつま》をあげ、自らの血潮の海に|沈《しず》みながら静かに絶命した。
心臓を|破壊《はかい》された疑似火竜は、まるでそこだけ時間が|遅滞《ちたい》したかのように、|恐《おそ》ろしく|緩慢《かんまん》な動作で|倒《たお》れていった。
耳を|聾《ろう》する|轟音《ごうおん》なのだが、|戦慄《せんりつ》に全身を|貫《つらぬ》かれた俺達には|静謐《せいひつ》|窮《きわ》まる光景だった。
いつの間にか俺達の眼前の屋根の上に、ニドヴォルクが降り立っていた。
「そこな|咒《まじな》い士どもへの|復讐《ふくしゅう》を|邪魔《じゃま》する者は殺す。|退《ど》け、弱き者どもよ」
神の|託宣《たくせん》のような|峻烈《しゅんれつ》な|言霊《ことだま》が放たれた。
俺の|傍《かたわ》らに立つ翼将イェスパーとベルドリトが、|惚《ほう》けたような表情のまま動くのを感じた。
一歩後ろへ、と。
|隻眼《せきがん》の|機剣士《きけんし》が、自らの足の動きを信じられないような|眼《め》で見下ろした。
「|恐怖《きょうふ》、だと、神をも殺すこの俺が?」
そして|殺戮《さつりく》が始まった。
自らの|怯懦《きょうだ》を|振《ふ》り|払《はら》うかのように、イェスパーが|鋭《するど》く|叫《さけ》ぶ。
「ベルドリト、あらかじめの打合せ通りに行く!」
「お、おうさ兄貴っ!」
ベルドリトとイェスパーのラキ兄弟は|屋根《やね》|瓦《がわら》を踏み破り、間合いを|詰《つ》めるべく|猛然《もうぜん》と|疾走《しっそう》していく。
まさに二|陣《じん》の|颶風《ぐふう》だった。
絶望の黒をまとうニドヴォルクに向かい、|疾風《しっぷう》と化したベルドリトが|剣《けん》の|刺突《しとつ》を放つ。
ベルドリトの|痩躯《そうく》の、その全身十八|箇所《かしよ》から白銀の竜が生まれ、死神に|殺到《さっとう》する。
物体同士の量子的|透過《とうか》を可能にする弟の|身体《からだ》を貫いて、イェスパーが九頭竜剣の|散弾《さんだん》を放ったのだ。
ベルドリトの身体が|壁《かべ》となって、イェスパーの九頭竜剣の|軌跡《きせき》がまったく見えない、ラキ兄弟必殺の|連携《れんけい》|攻撃《こうげき》。
十八条の竜の|顎《あぎと》はニドヴォルクの十八箇所の急所に喰らいつく!
だが、女のかざした|掌《てのひら》の表面で金属が|蛇腹《じゃばら》のように収縮させられ、剣の|群狼《ぐんろう》は皮膚一枚すら|貫通《かんつう》することが出来ずに折れ|砕《くだ》ける。
|機剣士《きけんし》の隻眼が、この世に生を受けてから初めて|驚愕《きょうがく》に大きく見開かれる。
黒の女に接近しすぎていたベルドリトは、身体の原子内の|隙間《すきま》を|制御《せいぎょ》し、魔女の身体を透過し背後を取ろうとした。
ニドヴォルクの身体を構成する原子内の、|原子核《げんしかく》と電子の|狭間《はざま》に、同じく自分の身体の原子核と電子をすり|抜《ぬ》けさせる。
魔女の左手を抜けようとした|刹那《せつな》、ベルドリトは量子的存在となり|誰《だれ》も|触《ふ》れるはずのない白分の|右肩《みぎかた》を掴む感覚を感じた。
振り返る視線の先には、背後を|顧《かえり》みてもいないニドヴォルクの|秀麗《しゅうれい》な左五指があった。
|網膜《もうまく》がその信号を脳に伝達した瞬間、ベルドリトの右肩は文字通り破裂した。
女の|掌中《しょうちゅう》の重力波が、肩を防護するベルニウム|轟金《ごうきん》|装甲《そうこう》ごと肉と骨を千切り取ったのだ。
大量の鮮血と苦痛の|絶叫《ぜっきょう》を上げて、屋根瓦を砕きながら転がり落ちて行く|虚法士《きょほうし》。
弟への|追撃《ついげき》を|阻止《そし》するべく機剣士イェスパーが|飛燕《ひえん》の速度で間合いを詰め、|先端《せんたん》が折れたままの十八条の|白刃《はくじん》を打ち下ろす。
無造作に立つニドヴォルクの全身に|襲《おそ》いかかる|刃《やいば》は、|先程《さきほど》の|超硬度《ちょうこうど》の皮膚を|避《さ》け、眼球や|口腔《こうこう》、|鼻孔《びこう》や|耳腔《じこう》等の、体内へと直結する急所に|潜《もぐ》り込もうと、大気を|灼《や》く|亜《あ》音速で殺到する。
その|全《すべ》ての光条に|微細《びさい》な亀裂が発生し、|微塵《みじん》に砕け圧壊した。
まるで不可視の|巨人《きょじん》に握り|漬《つぶ》されたかのように。
その|視認《しにん》不可能な力場は|膨張《ぼうちょう》しながら突進し、イェスパーの|胸元《むなもと》の割れた積層|甲冑《かっちゅう》を|破砕《はさい》し、|衝撃《しょうげき》で機剣士を後方へと|吹《ふ》き飛ばす!
屋根の|峰《みね》を|越《こ》えて飛び、脳天から|煉瓦《れんが》|煙突《えんとつ》へと衝突して|脳漿《のうしょう》をブチ|撒《ま》ける寸前。
「死んじゃ|駄目《だめ》だ兄貴っ!」
大量失血のため顔を|蝋《ろう》のように|蒼白《そうはく》にしたベルドリトが|瀕死《ひんし》の兄の身体を受け止め、自らが出現した空間の|波紋《はもん》の中へ引き込み、そして|瞬時《しゅんじ》に|煙突《えんとつ》内へ|逃走《とうそう》した。
一刹那の後、女の放った重力波が煉瓦煙突に|接触《せっしょく》。煉瓦色の|砂塵《さじん》が空中に|爆散《ばくさん》する。
その|超《ちょう》重力が|煉瓦《れんが》の分子まで粉砕、|圧搾《あっさく》分解してしまったのだ。
|棟《むね》工場の屋根の上の|惨状《さんじょう》。
屋根瓦のあちこちが|踏《ふ》み割り破壊され、人間を頭部に|飾《かざ》る疑似竜の|屍《しかばね》が屋根の|端《はし》に倒れている風景。それはまるで自意識|過剰《かじょう》の前衛芸術作品のようだった。
十メルトル弱ほどの|間隔《かんかく》で並ぶ煉瓦煙突のいくつかも、|倒壊《とうかい》し破砕されていた。
俺の背後の主工場ではすでに|炎上《えんじょう》が始まっているらしく、|炎《ほのお》の|臭《にお》いが伝わってくる。
瀕死の負傷で立った俺は、同様に|満身《まんしん》|創痍《そうい》のギギナの|左《ひだり》|隣《どな》りに並ぶ。
俺にはこの事態の推移が理解できなかった。なぜ、翼将たちが俺達を無視し、まったく関係ないニドヴォルクを殺しに向かったのか。
むしろ、それがかねてからの|狙《ねら》いだったかのように。
「|可哀相《かわいそう》なれど、これで我れの|邪魔《じゃま》|者《もの》どもは|排除《はいじょ》した」
俺達の前方十メルトルほどに立つニドヴォルクが、幼児と老人が同時に|喋《しゃべ》るような声を発し、俺の思考を中断させた。
|恐《おそ》らくは龍皇国最強の十二翼将の三人を同時に相手にし、軽々と粉砕した魔女の姿は、ある種の|威厳《いげん》と|荘厳《そうごん》さすら感じさせた。
「命の、恩人、だな」
全身血に|濡《ぬ》れ、右肺を|傷《いた》めたギギナが、まったくそうは思っていない|荒《あら》い声で|吐《は》き捨てた。
「|奴《やつ》らに|汝《なんじ》らを殺させるわけにはいかない。我れ自身がこの事で引き|裂《さ》いてやるために、様々な手間を|掛《か》けさせおるわ」
|漆黒《しっこく》をまとうニドヴォルクが告げた。
「一体、貴様は何者なんだ」
ギギナが自らの|屠竜刀《とりゅうとう》ネレトーを構え直して|呟《つぶや》くと、魔女の無機質な|怒気《どき》が高まる。
「|愚者《おろかもの》どもめ、まだ我れを分からぬか」
「正体は分かっている」
俺はゆっくりと息を吐き、告げる。
「ニドヴォルク、いや正確に発音すれば♯ド*ォルクよ!」
ニドヴォルクが、初めてその無機質な顔に表情を|浮《う》かべた。|驚嘆《きょうたん》の表情を。
「なぜ、汝がその名と発音を!」
俺は続ける。
「分かったのはつい最近だ。まずは俺達が殺してきた奴らの中に、そんな|奇妙《きみょう》な名前や言語を使う奴は恐らくいない。
続いて、おまえはあまりにも強すぎた。俺はともかくギギナや|翼将《よくしょう》まで軽く退けるなど、人間|業《わざ》ではないし、そんな超高位重力|咒式士《じゅしきし》がいるとしても、現在エリダナには|滞在《たいざい》していない。
最後の推理の|破片《はへん》はすでに|確認《かくにん》|済《ず》みだ。
俺の|剣《けん》に付着したおまえの服の破片を知り合いに調べさせた。|分析《ぶんせき》の結果、それは|爬虫類《はちゅうるい》の|鱗《うろこ》に|酷似《こくじ》した組織をしており……」
「我れの高貴な鱗を、知性の低い爬虫類などと|一緒《いっしよ》にするな」
「失礼、黒竜の|方《かた》、♯ド*ォルク」
屋根の上で|対峙《たいじ》する|暫時《ざんじ》の|静謐《せいひつ》の後、|闇色《やみいろ》の女が口を開いた。
「|下賎《げせん》の口で、再び我れの名を口にするな。人族の分際で」
そう、|魔女《まじょ》ニドヴォルクの正体とは|黒竜《こくりゅう》であった。
♯ド*ォルクという、人間には|咒式《じゅしき》で間接的にしか発音できない名前は、伝え聞く竜言語の名だったのだ。
眼前に立っているのは、黒竜が何らかの|咒式《じゅしき》により身体組織を変異させ、人間形に変身した姿なのだろうか。
人間社会に|紛《まぎ》れて、俺達を探すための。
自分の目で見ていても、それを信じられない。
だが、俺とギギナは思い出していた。
俺達が一ヶ月ほど前に|討伐《とうばつ》した、あの恐るべき準|長命竜《アルター》級の黒竜のことを。
「我が|愛《いと》しの背の君を、竜らしく生きるためにともに手を取り|堕落《だらく》した故郷を捨てた、我が最愛のエ※ンギ♯ドを|弑逆《しいぎゃく》した|痴《し》れ者が」
そこで女が|笑《え》みに近いものを浮かべた。
「もう一度、さらに二度殺してやろうかえ」
女の発言と|残酷《ざんこく》な笑みらしきものの意味を|測《はか》りかねて、ギギナが|怪訝《けげん》な顔をする。
しかし、その言葉の意味することを正確に理解してしまった俺は、|手脚《てあし》の|末端《まったん》から急激に血液が逆流、冷えていくのを感じた。
やはりそうか、そうだったのか。
黒き竜の女は高らかに宣告する。
「ようやく理解したようぢゃな。そう、汝は病院で一度死んだのぢゃ。あの限界を|超《こ》えた|咒《まじな》いの発動でな」
ギギナが息を飲み、横目で俺を見る。
「あの時、我れの竜の|咒《まじな》いで、汝の精神の内に|侵入《しんにゅう》し、汝を過去の|記憶《きおく》から再構成して、|蘇生《そせい》させたのぢゃ」
臨死状態からの蘇生は現代咒式でも可能ではある。
だが、それは死の直前の肉体損傷、しかも脳に重大な損傷が無いという条件下のみの|極《きわ》めて限定されたものである。
この竜は不可能なはずの精神と記憶と脳組織の損傷を再生し、蘇生させたのである。
通常の咒式法則限界を、|遥《はる》か遠く|逸脱《いつだつ》している|超絶《ちょうぜつ》の咒式力である。
「何のためなんだ、なぜ死んだ俺を、なぜ蘇生させたんだ!?」
俺には女の返答が分かっていた。そして本当はその返答に耳を|塞《ふさ》ざたかった。
「決まっているであろう、我れ自身の手で|汝等《なんじら》を引き裂いてやらねば、我が背の君、エ※ンギ♯ドは納得してくれまい」
愛する夫を|奪《うば》われ、|憤怒《ふんぬ》と|悲嘆《ひたん》からの|復讐心《ふくしゅうしん》は俺にも何とか理解できる。
だがしかし、まったくの異種族の人間に変身して俺達を探し、相手を殺すために、当の相手を死から蘇生させてでもその手で殺す。
竜族の|倫理《りんり》|観《かん》など|寡聞《かぶん》にして知らないが、|恐《おそ》ろしいまでの|執念《しゅうねん》|深《ぶか》さ。
そして、|狂《くる》える復讐心だった。
「なぜそこまで!? そもそも、おまえとその夫の黒竜が|緩衝区《かんしょうく》を逸脱して人間を食い殺したからだろうが!?」
「ガユス、問うても無益だ。同族でさえ復讐心が起こる。まして竜族にとって我等は|食餌《しょくじ》にすぎない」
ギギナの言葉で俺は理解した。
竜はいくら人間を|殺戮《さつりく》しょうと、何ら良心の|呵責《かしゃく》を感じないだろう。
なぜなら、我々が|食卓《しょくたく》の牛や|豚《ぶた》に自己と同等の権利を認めないのと同様のことなのだ。
ニドヴォルクにしてみれば、食餌を|捕食《ほしょく》しただけなのに、その食餌の仲間がそれを罪だとして、夫を殺したのだ。
例えば、俺の大切なジヴが牛や豚を食うからとその牛や豚に殺されたなら、ニドヴォルクと同様に相手を問答無用で殺すだろう。
どちらが|間違《まちが》いとも言えない。種族の意識の断絶とはそういうものだ。
そこまで考えた時に俺と相棒は、ギギナの発動させた|生体《せいたい》|生成系《せいせいけい》|咒式《じゅしき》第四階位〈|胚胎律動癒《モラックス》〉の、未分化|細胞《さいぼう》による肉体修復をほぼ終えていた。
会話で時間|稼《かせ》ぎをしながらの、俺達の治癒咒式の展開と|咒弾《じゅだん》の|装填《そうてん》を目前にしても、ニドヴォルクはまったく何も行動しなかった。
|恐《おそ》らく回復を待っていたのだろう。
「では、我が背の君の|仇《かたき》、|捻《ひね》り|潰《つぶ》すぞ」
ニドヴォルクが|一歩踏《ふ》み出し、|屋根《やね》|瓦《がわら》を踏み割る|乾《かわ》いた音が合図となった。
ギギナと俺は死戦を開始した。
俺達は|疾走《しっそう》し間合いを|詰《つ》める。
屋根の上で立ちつくす魔女の|可憐《かれん》な両の手が、|唸《うな》りを上げて|振《ふ》り下ろされる。
|重力《じゅうりょく》|力場系《りきばけい》|咒式《じゅしき》第五階位〈|轟重冥黒孔濤《ベヘ・モー》〉による|巨大《きょだい》な不可視の重力波群が放射され、俺とギギナの急制動した足元寸前で|炸裂《さくれつ》。
重力波群は瓦を|破砕《はさい》し、屋根の|峰《みね》を、|梁《はり》を|壁《かべ》を|砕《くだ》き、工場内部の|塵埃《じんあい》まみれの機械をも|粉砕《ふんさい》した。
強力な重力波同士が反応、|瞬時《しゅんじ》に工場の|棟幅《むねはば》よりも巨大な|擂鉢《すりばち》状の大穴を|穿《うが》つ。
破砕された|幾百万《いくひゃくまん》もの|破片《はへん》と粉塵と|煙《けむり》を|吹《ふ》き上げ、横長い棟工場がその半ばで折れ、擂鉢の底へと|連鎖《れんさ》|崩壊《ほうかい》していく。
|膨大《ぼうだい》で雑多な破壊音を|撒《ま》き散らし崩落する棟工場から、俺とギギナは右の空間へと|飛翔《ひしょう》する。
その|軌跡《きせき》を追跡するいくつもの重力弾が、|白煙《はくえん》と破片に人間の頭大の穴を|穿孔《せんこう》していく。
宙空を飛ぶ俺とギギナの筋力による飛翔が下降線を|描《えが》く所を|狙《ねら》い、さらなる姿なき重力弾が唸りを上げて|殺到《さっとう》する。
|激突《げきとつ》の寸前、下方へ放出された|爆裂《ばくれつ》が二人の咒式士を急激|上昇《じょうしょう》させ、重力の|顎《あぎと》から|逃《のが》れさせる。
|化学《かがく》|練成系《れんせいけい》|咒式《じゅしき》〈|爆炸吼《アイニ》〉の、トリニトロトルエン爆薬の炸裂の発動|衝撃《しょうげき》を利用した|緊急《きんきゅう》|回避《かいひ》。
俺はあのコウガ者の回避|技《わざ》を|真似《まね》たのだ。
上昇したドラッケン族はその頭上に|迫《せま》る金属製の|橋梁《きょうりょう》に|屠竜刀《とりゅうとう》を|突《つ》き|刺《さ》し、左手で俺の手を|掴《つか》んで振り子の要領で半回転。
俺を橋梁の上に|放《ほう》り投げ、自分も|身体《からだ》を捻って着地する超人の|登攀術《とうはんじゅつ》を|披露《ひろう》する。
そこは巨大な|貯蔵筒《ちょぞうとう》を|王冠《おうかん》にした|鉄塔《てっとう》から延びた、|砂礫《されき》|運搬《うんぱん》用の橋梁の一つだった。
眼下の工場が完全崩壊した|轟音《ごうおん》と爆煙が、|斜《なな》め下から吹き|荒《あ》れる。
粉塵で白く染められた俺とギギナ。
二人が立つ人間の身長の|幅《はば》のその回転筒。それが連なる橋梁の前方に、ニドヴォルクがいつの間にか降り立とうとしていた。
俺はさらに|紡《つむ》いでいた〈|爆炸吼《アイニ》〉を放出する。
目も|眩《くら》むトリニトロトルエンの|爆炎《ばくえん》と衝撃が橋梁の上の|竜《りゅう》の女の顔に直撃。女の立つ橋梁も崩壊し、落下していく。
崩落する橋梁の坂を後退していく俺とギギナを追跡するように、強力な|重力《じゅうりょく》|咒式《じゅしき》が爆煙に大穴を穿ち視界を開く。
さすがに直撃で|肌《はだ》が吹き飛び、|露出《ろしゅつ》した|鱗《うろこ》を急速修復しつつ、ニドヴォルクが重力咒式で空中を飛翔し突進してくる。
(ここだっ!)
竜の眼前で、俺の紡いだ二重の、|化学《かがく》|練成系《れんせいけい》|咒式《じゅしき》第四階位〈|曝轟蹂躪舞《アミ・イー》〉が多重炸裂する。
無色|斜方形《しゃほうけい》の|結晶《けっしょう》たるトリメチレントリニトロアミンは、以前コウガ|忍者《にんじゃ》キュラソーと俺が同時使用した時に、|堅牢《けんろう》な教会を|一撃《いちげき》で崩壊させることで|超《ちょう》破壊力を証明した、強力な軍用爆薬を炸裂させる咒式である。
|重力《じゅうりょく》|質量《しつりょう》|咒式《じゅしき》で毒や|刃《やいば》を|瞬間的《しゅんかんてき》に|防禦《ぼうぎょ》することは可能でも、この二方向からの破壊の|嵐《あらし》の直撃は、黒竜の防禦力を何とか|凌駕《りょうが》するはずだ。
爆発で金属橋梁が崩壊し、地面に落下する轟音が連続する。
鉄塔の頂上、地上十数メルトル。橋梁や鋼管が複雑に交差する工業用の砂礫生産装置まで俺達は後退し、|濠々《もうもう》と立ち込める粉塵の中で息をこらしていた。
だが、その粉塵と爆煙が急速に吹き|払《はら》われ無効化されていった。
頂上の|床面《ゆかめん》を踏みしめる|闇色《やみいろ》の|靴《くつ》。続いて白い顔のニドヴォルクが出現した。
「|咒式《じゅしき》|干渉《かんしょう》|結界《けつかい》だとっ!?」
「|馬鹿《ばか》な、あんな巨大な重力咒式を行使して、同時に結界を展開できるわけがっ!?」
俺とギギナの|驚愕《きょうがく》の二重唱をよそに、|爆裂《ばくれつ》|咒式《じゅしき》を防いだニドヴォルクが一歩を進める。
その防禦を成しとげたのは、いつの間にかニドヴォルクの|傍《かたわ》らに|浮遊《ふゆう》する、|一抱《ひとかか》えほどもある大きさの球体だった。
赤味を帯びた|半透明《はんとうめい》の球体内に、生物の臓器のような器官が|隙間《すきま》なく内蔵され、不規則に脈動しているのが|覗《のぞ》けた。
その球体が、高位竜族が|稀《まれ》に使用する結界〈|反咒禍界絶陣《アーシ・モダイ》〉を周囲の空間に発動させ、|咒式《じゅしき》の物理干渉の原理自体を|阻害《そがい》する絶対防禦を成しとげたのだ。
|寡聞《かぶん》にして聞かないが、俺達人間の|法珠《ほうじゅ》にも似た、竜族の|事象《じしょう》|誘導《ゆうどう》|演算《えんざん》|装置《そうち》なのだろうか。
ニドヴォルクはその半透明球体、その竜法珠に|繊手《せんしゅ》を差し|伸《の》べ、どこか|愛《いとお》しげな表情で表面を|撫《な》でた。
俺が奥歯を|噛《か》みしめる音が小さく|響《ひび》いた。
ニドヴォルクは|攻撃型《こうげきがた》の竜で、ただでさえ行使する重力咒式を防禦することが不可能に近い。
それでも|防御力《ぼうぎょりょく》においては、何とか俺達が破れるものだった。
どういう原理か分からないが、俺達の勝利の可能性がほとんど皆無に近くなったのだ。
ニドヴォルクは、自らの衛星のごとく浮遊する竜法珠から俺達に視線を|戻《もど》し、|一歩踏《ふ》み出しながら断罪の手刀を|振《ふ》り下ろす。
竜女が放つ重力波を|間一髪《かんいつぱつ》で|避《さ》けるも、重力余波で俺とギギナの全身が|軋《きし》む。俺達は床面を|蹴《け》りつけさらに後退する。
急激に加速接近、迫る|魔女《まじょ》の|弩級《どきゅう》の|貫手《ぬきて》。
そのニドヴォルクの一撃を、ギギナのガナサイト|重咒《じゅうじゅ》|合金《ごうきん》の刀身が受け止める。
表面で|弾《はじ》ける|赫《あか》い火花。
だが、竜の|膂力《りょりょく》はギギナのそれを|遥《はる》かに凌駕し、ドラッケン戦士の大型単車並みの質量を、|腕《うで》の運動慣性のままに飛ばす。
横手を走る鋼管の|壁《かべ》にギギナが激突する瞬間、回転して壁に横方向の着地をし、|飛翔《ひしょう》。同時にニドヴォルクの流れた|右脇《みぎわき》へと、俺は咒式を|込《こ》めた|魔杖剣《まじょうけん》ヨルガの必殺の|刺突《しとつ》を放つ。
その剣の|先端《せんたん》を、魔女は地上からの|落雷《らくらい》のごとく|右膝《みぎひざ》を上げて|迎撃《げいげき》、ヨルガの|柄《つか》を持つ俺の手が|痺《しび》れる。
|咄嗟《とっさ》に柄を|握《にぎ》る手を|緩《ゆる》めたので五指が|砕《くだ》かれずに済む。同時に竜の右膝から下が回転し、俺の|胸板《むないた》へ伸び上がるのを|躱《かわ》す。
しかし、その靴の|爪先《つまさき》を突き破って五本の|鋭利《えいり》な竜の|爪《つめ》が|噴出《ふんしゅつ》し、蹴りの回転半径が|伸長《しんちょう》!
一気に|咒化《じゅか》|繊維《せんい》の服と、心臓の左心室と、|右心房《うしんぼう》が|掻《か》き回され、顔面へと爪で切り上げられる激痛。
ニドヴォルクの爪先に俺の右の眼球が引っかかり、視神経が引っ張られ千切れる音が、なぜか|明瞭《めいりょう》に聞きとれた。
空中攻撃を|肘《ひじ》で受けられ、竜の追撃の|掌《てのひら》を蹴って躱すギギナが見えたが、その姿が消失した。
俺の視界が暗転した。
|切《き》り|裂《さ》かれた胸の傷から流れる血液とともに自己が流れていく。いや逆だ。|虚空《こくう》に|霧散《むさん》しようとする自己を傷の痛みで|拘束《こうそく》しようとしていたのだ。いやそれも逆だ。死にゆくのは自分ではなく、眼前にいた竜であり、ギギナであった。俺以外の|全《すべ》てが死んでいた。それも逆だった、その逆も逆だった。再びの生はあまりにも苦痛だった。生まれたくない。いや、死は快楽で苦痛で|堕落《だらく》で神で生だ。
気がつくと、自分の|身体《からだ》の傷が急速修復されていくのが見えた。逆だ、傷こそが元で元が今なのだ。逆だ、死んだからこそ生まれたのであり、生まれたからこそ死ぬのだ。
空気分子の流れ。風。ギギナが俺を脇に抱えて後退しているのが感じられた。
「意識を取り戻せ低能ガユスっ!」
「今、今、お、俺?」
「ああ、|一瞬《いっしゅん》死んでいた」
|聴力《ちょうりょく》に続いて視力が回復し、眼前のニドヴォルクが傍らの|竜法珠《りゅうほうじゅ》と|紡《つむ》いだ咒式を停止していくのが見えた。
|咒印《じゅいん》|組成式《そせいしき》からそれが未知の|超高度《ちょうこうど》|蘇生《そせい》|咒式《じゅしき》につながっているのが分かった。
最後に、千切れた右眼球が時間を逆回ししたかのように|眼窩《がんか》にもぐり込み修復される異様な|感触《かんしょく》に、俺の全身が総毛立った。
「この程度で死なせては、我が背の君の苦しみには価せず、我れの|瞋恚《しんい》の|赫怒《かくど》も治まらない。百度殺し、百度蘇生してやろうぞ」
竜の|上手《うま》くなった|微笑《ほほえ》みに俺の全身が|悪寒《おかん》に|震《ふる》える。|奴《やつ》はもう一度やりやがったのだ。
俺の蘇生を。
再度体験する生は、五感の全てに微細な砂が|詰《つ》まったかのような|違和感《いわかん》があった。
死と、死からの蘇生。こんな極大の苦痛を俺は|他《ほか》に知らない。
次の蘇生、さらに次の蘇生を受ければ、俺の精神は確実に|発狂《はっきょう》し|崩壊《ほうかい》するだろう。
根源的な|恐怖《きょうふ》。半神の|復讐《ふくしゅう》の前には、絶対の死すら救いではないのだ。
「行くぞ|間抜《まぬ》け|錬金術師《れんきんじゅつし》っ!」
その時点でギギナが「|大丈夫《だいじょうぶ》か」などと|気遣《きづか》い聞いていれは、俺は狂気に|囚《とら》われていただろう。
ギギナの|罵詈《ばり》に対する|怒《いか》りと反発が、俺の思考と理性を取り戻させた。震える奥歯を|噛《か》みしめ|叫《さけ》ぶ。
「応! |誰《だれ》に言ってる、この欠陥|剣振《けんふ》り機!」
間合いを計るドラッケン族の横に、横転した俺が並ぶ。
高所の強風が、俺とギギナの|長外套《コート》の|袖《そで》をはためかせる。
前方では|巨躯《きょく》を|誇《ほこ》る|砂鑠《されき》|貯蔵筒《ちょぞうとう》を背景に、竜法珠を従えたニドヴォルクが神像のごとく|悠然《ゆうぜん》と立つ。
女は風が自分の|黒髪《くろかみ》をなぶるに任せ、ただ|沈黙《ちんもく》していた。
「ここで問題だ、あの竜の女を一撃で|倒《たお》す意外な方法とは?」と、ギギナが聞いてくる。
「|離婚《りこん》問題で|訴《うった》えられ借金で自殺寸前の、自らの|破滅《はめつ》の道連れを探す税務署員が、|脱税《だつぜい》|監査《かんさ》にやってくる」
まったく笑いもしないギギナの横顔を見ずに俺は答え、ゆるりと横へ歩き出し間合いを計る。
「ギギナ、もしおまえが魔王だか超ドラッケン族の血を引く裏設定なら、そろそろその真の力と|醜《みにく》い姿で暴走しても許してやるぞ」
「貴様こそ、追いつめられて発揮される秘められた力があるのなら、盛り上がり的にそろそろ出してもいい所じゃないか? 追いつめられ度が足りないなら、私がちいっと心臓を|刺《さ》してやるが?」
|捻《ひね》りのない|冗句《ジョーク》が出るようだから、俺達は何とかぎりぎり正気の|範囲《はんい》だろう。
|先程《さきほど》の|攻防《こうぼう》で蘇生した俺の心臓の傷は|塞《ふさ》がれたが、|肋骨《ろっこつ》は六本ほど|砕《くだ》かれたままであり、親切にも呼吸の都度に死を警告し、苦痛で視界の|端《はし》が赤く明滅する。
ギギナの方も|吹《ふ》き飛ばされた|衝撃《しょうげき》で出血し、右肺も完治してないらしく、口と|鼻孔《びこう》から|鮮血《せんけつ》を流し、|美貌《びぼう》を苦痛に|歪《ゆが》めている。
二人ともに次から次に|治療《ちりょう》|咒式《じゅしき》を発動しているが、まったく追いつかない重傷だ。
「どうやら俺達は対人戦術を行う|間違《まちが》いを|犯《おか》していたようだ。
これは竜相手の|戦闘《せんとう》なんだ。|飛燕《ひえん》の速度の奴の手足は|巨獣《きょじゅう》の|四肢《しし》、服や|肌《はだ》は超高|硬度《こうど》の|鱗《うろこ》だと考えろ」
「そして|防禦《ぼうぎょ》不可能な重力波か、あの化け物|揃《ぞろ》いの|翼将《よくしょう》が敗れるわけだ。その上、|咒式《じゅしき》|干渉《かんしょう》|結界《けっかい》の豪華なおまけ付きだ、むしろ笑えてくるな」
前方で俺達を|見据《みす》えるニドヴォルクの足元で、|床《ゆか》の鉄板や金属管が押し|潰《つぶ》されるのが|視認《しにん》できた。
俺は奴の超質量|攻撃《こうげき》の原理が分かった。
人間の姿をしているが、正しく質量保存の法則に従うのなら、|魔女《まじょ》は十トーン以上の巨竜の体重のままなのだ。
奴はそれを本来の使用法とは逆に、重力咒式で逆方向に重力をかけ軽量化して移動し、攻撃の瞬間に重力を|戻《もど》し本来の体重にしているのだろう。
それゆえに、ドラッケン式竜測定法ではその強さを判定できない。
だが、その超絶の咒式攻撃と体術から推測する限り、夫の黒竜と同等。いや、それ以上の力を持っていることは確かだ。
「九百から一千歳級の真の|長命竜《アルター》か」
ギギナが顔に例の表情を|浮《う》かべる。闘争に|酔《よ》いしれる|剣舞士《けんまいし》の顔を。
俺の場合は、長命竜とやりあうなんて考えるだけで体温が低下し頭痛がする。
「しかしなぜ奴は、|憎《にく》むべき人間の姿でいるんだ? 前方|被弾《ひだん》面積が少ないから、ではないな。竜族本来の姿の方が絶対的に戦い|易《やす》いはずだが」
「私に聞くな」
「すいませんごめんなさい。物理的な無理を言って本当にごめんなさい」
「貴様、私を|馬鹿《ばか》だと思ってないか?」
「いや、その|親戚《しんせき》くらいだろ」
ギギナは|口《くち》の|端《はし》を歪め、表情を戦闘態勢に切り|換《か》え甲殻兜の|面頬《めんぼお》を下ろす。
「ドラッケン族の記録でも数例しかないが、人間に殺された竜のその|仇《かたき》を取る竜は、復讐を果たすまでは、自分に何らかの絶対的な|誓約《せいやく》を課す風習があるらしい」
俺は奥歯を噛みしめる。
「ならば俺達にも勝てる|隙《すき》がある」
俺とギギナは|疾走《しっそう》し始める。
「|竜《りゅう》相手に、今までの|小技《こわざ》で|攻《せ》めて隙を|突《つ》くという持久戦は、体力的にこちらが先に|消耗《しょうもう》する。その上、|重力《じゅうりょく》|咒式《じゅしき》相手に|防御《ぼうぎょ》も不可能。
結論。とにかく無理でも|咒式《じゅしき》|干渉《かんしょう》|結界圏《けっかいけん》と鱗を破り、強大な|攻撃《こうげき》|咒式《じゅしき》をたたき込むしかない!」
「本物の|長命竜《アルター》相手にか? 気軽に言うものだな!」
ギギナが言い返し、そして俺と相棒の全速疾走は|近距離《きんきょり》|咒式《じゅしき》の間合いに入る。
「|遺言《ゆいごん》は|終《しま》いか。では参る!」
反応する|竜法珠《りゅうほうじゅ》とニドヴォルクに向かって、俺は|魔杖剣《まじょうけん》で|紡《つむ》いでいた|化学《かがく》|練成系《れんせいけい》|咒式《じゅしき》第三階位〈|緋竜七咆《ハボリュム》〉のナパーム火線を、|瞬時《しゅんじ》に二重発動する。
合わせて十四条の|赫《あか》と|紅《あか》の|火炎《かえん》の|奔流《ほんりゅう》の|殺到《さっとう》はしかし、ニドヴォルクの前に浮かぶ竜法珠の寸前で急激消失させられた。
結界圏にまとわりつく火炎を|華麗《かれい》な|装束《しょうぞく》とし、ニドヴォルクが|頭《かぶり》を|振《ふ》る。
俺達に向かってその長い黒髪が放射され、俺とギギナは左右にわかれて|回避《かいひ》。
数万本の|毛髪《もうはつ》の硬化|先端《せんたん》が金属管の|壁《かべ》を|貫通《かんつう》し、|甲高《かんだか》い|豪雨《ごうう》の音を立てる。
|瞬《まばた》きも許さぬ|刹那《せつな》、金属管の壁を裏から再度貫通した頭髪が|噴出《ふんしゅつ》。
俺とギギナに|絡《から》みつき、|極細《ごくさい》の|拘束着《こうそくぎ》となり|絞《し》め殺す寸前、|咒弾《じゅだん》|空薬莢《からやっきょう》が|跳《は》ね、|髪《かみ》を|溶解《ようかい》、残りを刀身で切り|払《はら》う。
俺の|化学《かがく》|練成系《れんせいけい》|咒式《じゅしき》第一階位〈|毛壊《ゲハル》〉により合成されたチオグリコール酸が、頭髪の主成分ケラチンを溶解させたのだ。
他の酸では俺達にも大きな負傷が出るため、サザーラン課長の頭髪への|嫌《いや》がらせを調べていた自分の|根性《こんじょう》の悪さに感謝する。
自由を取り戻した俺はさらに魔杖剣の引き金を連続で引き、薬莢が|跳《は》ねる。
水平に噴出された奔流と|瀑布《ばくふ》が、|互《たが》いを|喰《く》らわんとする|巨竜《きょりゅう》のごとく|激突《げきとつ》し、火花のような|飛沫《しぶき》と蒸気と|白煙《はくえん》を上げる。
異竜の|吐《は》く王水の強酸の|濁流《だくりゅう》を、俺の合成した|化学《かがく》|練成系《れんせいけい》|咒式《じゅしき》第二階位〈|瑞障流《フォネウス》〉の水と酸化金属の|怒濤《どとう》の流れで、塩基中和反応させて防いだのだった。
髪を振った時に吸気で魔女の|胸郭《きょうかく》が|膨張《ぼうちょう》したのを、俺は|見逃《みのが》さなかったのだ。
同時にその流れの交合の上に、二重展開させていた〈|電霆鞭《フュル・フー》〉の|咒式《じゅしき》が疾走する。
自らの吐いた強酸の奔流から|電撃《でんげき》が逆流、|口腔《こうこう》内で紫電が|爆裂《ばくれつ》し|弾《はじ》ける。
ニドヴォルクの|瞳《ひとみ》が高温で|凝固《ぎょうこ》白濁する。
作戦的中。いくら|咒式《じゅしき》|干渉《かんしょう》|結界《けっかい》が|咒式《じゅしき》を|阻害《そがい》するといえど、自らが攻撃する時には結界を解除せねばならないのだ。
|畳《たた》み込む好機は今しかない!
同時に俺とギギナが間合いを|詰《つ》める。
眼球修復までの|須臾《しゅゆ》の間を|稼《かせ》ぐため竜が重力波を放つも、|魔風《まふう》のごとく疾走する俺達には命中しない。
二十二口径の超大型|咒弾《じゅだん》が火を|吹《ふ》き、|生体《せいたい》|強化系《きょうかけい》|咒式《じゅしき》第五階位〈|鋼剛鬼力膂法《バー・エルク》〉で活性化したギギナの強化筋肉が|隆起《りゅうき》するのが見えた。
竜法珠が主人を守ろうと再び|咒式《じゅしき》|結界《けっかい》を張ろうと|咒式《じゅしき》を発動する瞬間、九三五ミリメルトルのガナサイト|重咒《じゅうじゅ》|合金《ごうきん》の刀身が、|落雷《らくらい》の速度で振り下ろされる!
ニドヴォルクの立つ、その眼前の|床面《ゆかめん》へ。
眼球が急速修復した時、魔女の|網膜《もうまく》が|捉《とら》えたのは、切断された|鉄塔《てっとう》の床の断面。
その|衝撃《しょうげき》で|砂礫《されき》生産装置の巨大|円筒《えんとう》や輸送管、それらを支える鉄筋、|橋梁《きょうりょう》が相次いで|崩壊《ほうかい》、崩落し、雑多な物質で構成された瀑布となり、下階へと落下していく。
俺とギギナ、ニドヴォルクと竜法珠も同様にその落下物体の一つだった。
落下するニドヴォルクが巨大な重力波咒式を展開、上方のギギナへと放つ。その〈|轟重冥黒孔濤《ベヘ・モー》〉の破壊力場は、|瓦鑠《がれき》と|粉塵《ふんじん》をかき消していき、天空への大穴を|穿《うが》つ。
それはギギナを捉えられなかった。
ギギナは落ち行く瓦礫の一つに上下逆に着地、それを|蹴《け》る反動で下方へ|飛翔《ひしょう》したのだ。
ガユス・ギギナとニドヴォルクの死闘
重力と剣速を込めた|屠竜刀《とりゅうとう》ネレトーが|軌跡《きせき》の|全《すべ》ての物質を両断し、竜法珠の前に出たニドヴォルクが|左掌《ひだりて》で受ける。
|遅《おく》れて発生した|咒式《じゅしき》|干渉《かんしょう》|結界《けっかい》が強制干渉を|励起《れいき》するが、その咒式をギギナの|魔剣《まけん》の法珠からの|破壊《はかい》|咒式《じゅしき》が|肉食獣《にくしょくじゅう》のごとく食い破り、|蹂躪《じゅうりん》し、そして|破砕《はさい》しつくす。
連続で火を吹く大口径咒弾薬莢。
|煌《きら》めく刀身に、複雑|窮《きわ》まる咒印が|浮《う》かび上がっていた。
|天才《てんさい》|咒式具《じゅしきぐ》|製作者《せいさくしゃ》フレグンの法珠の咒式が、竜法珠の|咒式《じゅしき》|干渉《かんしょう》に逆に割り込み無効化したのだ。
光をまとった|刃《やいば》は黒竜の|掌《て》を切断。さらに手首、|尺骨《しゃこつ》、|腕橈《わんとう》骨筋、|上腕《じょうわん》|二頭筋《にとうきん》、上腕三頭筋、|左肩《ひだりかた》の三角筋、大胸筋、|肋骨《ろっこつ》上部、右肺まで|斬《き》り|裂《さ》き、|誇《ほこ》り高きその心臓をも|疾《はし》り|抜《ぬ》けていた。
勢いのまま回転し、着地するギギナ。
|復讐者《ふくしゅうしゃ》は心臓を失ってもなお生命の|灯《ひ》を止めず、着地と同時に|超《ちょう》高速臓器修復を始めるが、フレグンの法珠の咒式により、生体内の神経伝達のための電位変化が阻害され、不完全にしか作動しえない。
下階に降り注ぐ|破片《はへん》と瓦礫の瀑布にまぎれた俺は、竜と竜法珠の頭上から|咒式《じゅしき》を放つ。
その距離は、まさに|綻《ほころ》びた|咒式《じゅしき》|干渉《かんしょう》|結界《けっかい》の境界。
俺の|紡《つむ》いだ|電磁《でんじ》|雷撃系《らいげきけい》|咒式《じゅしき》第五階位〈|電乖閻葬雷珠《マーコキアズ》〉の超高熱量プラズマ雷球が、竜の眼前の大気と物質を分解し始める。
|即時《そくじ》に再展開したニドヴォルクの竜法珠の波結界が再干渉を始め、プラズマ雷球を分解しようとする。
|轟音《ごうおん》と|號音《ごうおん》。
さらに落下してくる物体の大瀑布も、俺の雷球と竜法珠の結界の|衝突《しょうとつ》に|触《ふ》れて破砕され、分解されていく。
両者の力が|括抗《きっこう》し、|閃光《せんこう》を放つ。下階の橋梁の床に|擂鉢《すりばち》状の大穴が穿たれ、そして|咒式《じゅしき》の超熱量は|瞬時《しゅんじ》に崩壊、消失する。
刹那の|静寂《せいじゃく》。
巨大な穴の円周上を|挟《はさ》んで着地する俺とニドヴォルク。ギギナが後方から追走する気配。
大穴の上の空間を何かが疾る。
俺が|防禦《ぼうぎょ》|咒式《じゅしき》を反射展開する|暇《ひま》もなく、俺の腹部に|灼熱《しゃくねつ》が発生した。
俺の下腹から、黒い|鱗《うろこ》に包まれた長大な|円錐《えんすい》の|先端部《せんたんぶ》が生えていた。
その|逆端《ぎゃくたん》は大穴の上を飛翔して来る黒竜の女の|尻《しり》から生えた、長い|尾《お》だった。
変身を一部解除した黒竜が竜法珠を従えたまま俺の上に着地し、出血する俺の胸を|踏《ふ》み|倒《たお》し、|肋骨《ろっこつ》を|砕《くだ》く。肺に骨が|刺《さ》さるその激痛に苦境が|漏《も》れる。
魔女はギギナの|強襲《きょうしゅう》を|牽制《けんせい》すべく|振《ふ》り向くが、すでにドラッケンの足裏が橋梁を蹴りつけ飛翔、空気分子を|灼《や》く|横薙《よこな》ぎの|斬撃《ざんげき》を放っていた。
何よりも先に|厄介《やっかい》な|竜法珠《りゅうほうじゅ》を破壊しようと、ガナサイト重咒合金の九三五ミリメルトルの刃が振り抜かれる。
その|軌道《きどう》に割り込み、残った|右腕《みぎうで》を半ばまで両断されながら尺骨で停止させるニドヴォルク。
その|左脚《ひだりあし》が|跳《は》ね上げられ、短刀のごとき五指の|爪《つめ》が、ギギナの甲殻鎧の強化キチン質と強化筋肉を切り|裂《さ》き、|鮮血《せんけつ》とともに|撥《は》ね飛ばす。
同時にニドヴォルグは|頭《かぶり》を振り、何本かが|捩《ねじ》れ合い、|槍《やり》状に変形した数十条の|髪《かみ》を飛ばす。
極細の槍たちは、空中のギギナの左肩、右上腕、腹部、|両太股《ふともも》、|右脛《みぎすね》を甲殻鎧ごと|貫通《かんつう》。そのまま床に|縫《ぬ》いつける。
ギギナが|口唇《こうしん》から血泡を噴きながら立ち上がろうとするが、さらなる髪の槍が腹部に|突《つ》き刺さり動きを強制停止させる。
ニドヴォルクはその光景を|確認《かくにん》してから、竜法珠とともに再び俺を見下ろす。|肌《はだ》の下からは鱗が|覗《のぞ》き、変異が解けているのも気にならないほどに|高揚《こうよう》した表情だった。
「ようやく我が手に|捉《とら》えた。いや、尾か」
ニドヴォルクは自らの|冗句《ジョーク》らしきものに|笑《え》みを|零《こぼ》しながら尾をうねらせる。その動きに連動して|腹腔《ふくこう》を|掻《か》き回される俺の悲鳴が|響《ひび》く。
「どうだ痛いかえ? だが我が背の君の苦痛はこんなものではなかったと思え」
小腸や|腎臓《じんぞう》を|尻尾《しっぽ》で掻き回される激痛に、俺の視界は|朱《しゅ》に染まっていた。
灼熱、苦痛、|沸騰《ふっとう》、激痛、死への|渇望《かつぼう》。
俺は|筆舌《ひつぜつ》に|尽《つ》くしがたい激痛に|発狂《はっきょう》寸前の状態。それを見下ろす黒竜の顔に|嘲笑《ちょうしょう》が浮かび、瞬時に|喪失《そうしつ》した。
俺の|魔杖剣《まじょうけん》の先端の咒式は、自らの|顎《あご》の下で発動を目指していたのだ。
いくら竜の|超《ちょう》|蘇生《そせい》|咒式《じゅしき》といえど、脳を完全に|吹《ふ》き飛ばし、自殺した俺を復活蘇生させることはできない。
黒竜はそんな俺の|思惑《おもわく》を瞬時に|看破《かんぱ》、その右手が高速で視界から消失した瞬間、俺はわけの分からない絶叫と(ぜっきょう)ともに魔杖剣の引き金を引く。
〈|爆炸吼《アイニ》〉の爆発音が右へと遠ざかっていく。|咒弾《じゅだん》|空薬莢《からやっきょう》が|橋梁《きょうりょう》の|床《ゆか》に落下する高音。そして|濡《ぬ》れた落下音が続いた。
俺の右腕が竜の|一撃《いちげき》で千切れ飛び、俺の眼前に落下してきた。
「そんな安楽な死など許さぬぞえ」
光輪のごとく竜法珠を背後に従えたニドヴォルクが、|残酷《ざんこく》な死の神の宣告を行う。
吹き飛ばされた腕の、骨と筋肉と|脂肪《しぼう》の断面から、脈拍と(みゃくはく)ともに噴き出す鮮血。
瞬間に感じたのは風。次に灼熱。そして|激烈《げきれつ》な苦痛の雷が脳内を吹き|荒《あ》れる!
だが俺は|鎮痛剤《ちんつうざい》を合成する|真似《まね》はしなかった。むしろこれが最初からの|狙《ねら》いだった。
残った左手で|腰《こし》の魔杖短剣マグナスを引き|抜《ぬ》き、ついさっき腕ごと飛ばされた〈|爆炸吼《アイニ》〉を|囮《おとり》にして、いや、今日の昼から、|翼将《よくしょう》との|戦闘《せんとう》中も並行展開していた|咒式《じゅしき》を急速展開。
それは実験していた二つの咒式の残る一つ。
今朝ほど俺は|咒式士《じゅしきし》|最高《さいこう》|諮問《しもん》|法院《ほういん》から十三|階梯《かいてい》の実力認定をされたが、それでも研究|及《およ》び発動許可が|却下《きゃっか》された禁断の咒式である。
その咒力の強力さを、直観したニドヴォルクは、残る俺の左手と魔杖短剣を|破壊《はかい》しようと|貫手《ぬきて》を走らせる。
その|秀麗《しゅうれい》な額に何かが|激突《げきとつ》し、血と|脳漿《のうしょう》が跳ねる。
後方で倒れたギギナの|投擲《とうてき》した|屠竜刀《とりゅうとう》ネレトーの刀身が、黒竜の顔面を|断《た》ち割るように突き刺さり、脳を|削《けず》って飛んでいったのだ。
当然ながら、それだけでは不死の竜を絶命させることはできなかったが、しかしその脳の思考と行動を一瞬途絶させた。
|回避《かいひ》不可能な|防禦《ぼうぎょ》結界の内側、俺の自殺を防ぐべく竜の残った右手が流れ、ギギナの|掩護《えんご》による思考の|隙《すき》。一連の|詐術《さじゅつ》で条件は|揃《そろ》い、|超《ちょう》|近距離《きんきょり》で俺の咒式はついに発動した。
超高速反応したニドヴォルクが、|致命傷《ちめいしょう》を|避《さ》けるべく全身を反らそうとする。
だが竜法珠を背負った黒竜は、なぜか一瞬、回避を|躊躇《ちゅうちょ》し、その動作が|硬直《こうちょく》。致命的な隙を作る。
異竜の|歪《ゆが》んだ表情は、魔杖短剣マグナスの刀身が|融解《ゆうかい》しながら放つ、眼も|眩《くら》む|閃光《せんこう》の中に白く|晧《しろ》く|塗《ぬ》りつぶされていった。
続く猛り狂う爆風と超々高熱の|刃《やいば》が竜へと|殺到《さっとう》し、その|身体《からだ》と竜法珠を|瞬時《しゅんじ》に後方へと吹き飛ばす!
ごお をええるれる るるるうぁっっっ!?
黒竜の|咆哮《ほうこう》と結界が|炎《ほのお》を|相殺《そうさい》|消滅《しょうめつ》させようとするが、そのまま|鉄塔《てっとう》の中心柱に激突。
そこで|咒式《じゅしき》本来の力が放出された。
視界を|虚無《きょむ》の白に染める|莫大《ばくだい》な閃光。
俺が発動させたのは、化学練成系の最高第七階位の|禁咒《きんじゅ》〈|重霊子殻獄瞋焔覇《パー・イー・モーン》〉だった。
それは水素に中性子が一つ余計に付いた重水素と二個余計に付いた三重水素に、作用量子定数を変化させた|触媒《しょくばい》のミューオン|粒子《りゅうし》を|添加《てんか》。
位相空間内で超高圧放電による超高温高圧をかけて|洞穴《トンネル》効果を|励起《れいき》、電子を切り|離《はな》したその|原子核《げんしかく》同士を|衝突《しょうとつ》させる咒式である。
そこでは原子核内部で陽子と中性子を|繁《つな》ぎ止めているパイ中間子等の|束縛《そくばく》、つまり世界が世界であり、形を成さしめている核力という神の|縛鎖《ばくさ》からの解放。質量が熱量に|変換《へんかん》される瞬間。
ついに、禁断の核融合爆発が発動され、ヘリウム原子核と中性子、そして数億度の超々高熱を発生させるのである。
その膨大な熱量の大部分は空間転移時に消失するが、|疑似《ぎじ》結界内に指向開放される数千から数万度の超高熱は、原子核と電子が|遊離《ゆうり》したプラズマ現象すら|誘発《ゆうはつ》し、重金属すら瞬時に沸騰し、蒸発し、分解せしめる神の刃となり、あらゆる物理・|咒式《じゅしき》|防禦《ぼうぎょ》を|破砕《はさい》する。
この〈|重霊子殻獄瞋焔覇《パー・イー・モーン》〉は、現在|確認《かくにん》される|攻性《こうせい》|咒式《じゅしき》の中でも最強最悪と呼ばれる咒式の一つである。
咒式の力が吠え猛り、眼前の竜の|干渉《かんしょう》結界を存在しないかのように破壊しつくし、背後の柱や|壁《かべ》の金属原子を巻き込んで|崩壊《ほうかい》させていく光景。
俺は自らの|行為《こうい》の、そのあまりに|圧倒的《あっとうてき》な破壊の美に、|痴呆《ちほう》のように|呆然《ぼうぜん》と見とれていた。
その|禁忌《きんき》の破滅咒式の、白と|緋《ひ》の爆光が|渦《うず》を巻き、そして|次第《しだい》に消失していく。
ニドヴォルクと|竜法殊《りゅうほうじゅ》が飛ばされた地点の鉄塔や橋梁は|綺麗《きれい》に消失し、その金属や|床材《ゆかざい》の断面は高温で融解、蒸気で|陽炎《かげろう》が|揺《ゆ》らめいていた。
限定結界空間内のみの指向性発動だからこそ、これだけで済んでいる超絶の破壊力。
イオン化した空気の|肌《はだ》を|刺《さ》す感覚、そして支えを無くした|天井《てんじょう》や壁が崩落していく音で、俺の|身体《からだ》が激痛を強制的に思い出す。
情けない悲鳴を発した時に、|右腕《みぎうで》の断面の血管や筋肉に鎮痛剤と止血剤が発生した。
見上げると、|埃《ほこり》と血に|塗《まみ》れそれでも美しいギギナが|生体《せいたい》|咒式《じゅしき》を俺に発動していた。
「死ぬのは後だ。しかしなぜニドヴォルクは咒式を|躱《かわ》さなかったのだ?」
ギギナの質問に俺は|沈黙《ちんもく》するだけだった。
ギギナに|抱《かか》え上げられる苦痛に|呻《うめ》きながら、俺は|灼《や》けた金属の熱が大気に|蜃気楼《しんきろう》を発生させているその地点へと足を進める。
|未《いま》だ蒸気を上げる|巨大《きょだい》な大穴の外円部に、ニドヴォルクの|残骸《ざんがい》と|半透明《はんとうめい》の外殻が割れた竜法珠が引っかかっていた。
ニドヴォルクの|胸郭《きょうかく》から下の|全《すべ》てと左手が消失し、超高熱のために断面から|頸部《けいぶ》までが炭化し赤黒い表面を|晒《さら》していた。残る右腕は完全に炭の棒と化していた。
炭化した|皮膚《ひふ》と|髪《かみ》を|落剥《らくはく》させながら、ニドヴォルクが残った右の|瞳《ひとみ》で俺を見上げる。
「|汝《なんじ》らの勝利だ。汝の|蘇生《そせい》|咒式《じゅしき》を行ったために戦う咒力を失った我れの不覚」
竜の女は感情の成分も無く|淡々《たんたん》と述べる。
|傍《かたわ》らに立つギギナが疑問を叩きつける。
「貴様、|充分《じゅうぶん》に致命傷を避けられたはず、なぜ、なぜ避けなかった!」
ギギナの声には|憤怒《ふんぬ》が|含《ふく》まれていた。ドラッケン族にとっては戦いは神聖なものなのだ。竜が手加減や|諦《あきら》めを行ったとしたら、ギギナの|名誉《めいよ》と|誇《ほこ》りは|灰燼《かいじん》に帰するのだ。
「そこな|咒《まじな》い士に|尋《たず》ねるがいい」
ニドヴォルクは|哀《かな》しげな顔を俺の方へ向けて言い放った。
俺は重い口を開く。
「ニドヴォルクは避けられなかった、なぜなら、背後にはその球体があったから」
ニドヴォルクの傍らに落下し、半ば割れた竜|法味《ほうじゅ》にギギナは視線を落とす。
「これを救うためにだと、なぜだ?」
ニドヴォルクが言葉を|吐《は》き出す。
「そう、その|珠《たま》には我が背の君の|亡骸《なきがら》から取り出した脳を|封《ふう》じ|込《こ》めてある。汝の|咒《まじな》いを|躱《かわ》せば背の君が再度死ぬことになる」
|未《いま》だ弱々しく脈動する竜法珠の割れ目から|覗《のぞ》いていたのは、巨大な灰色の|塊《かたまり》。脳と|脊髄《せきずい》の神経系だった。
俺はニドヴォルクには不可能な|別系統《べつけいとう》|咒式《じゅしき》の干渉結界が張られた時点で、役所のサザーランからの黒竜の首が何者かに|強奪《ごうだつ》されたという苦情を思い出し、その可能性に気づいていた。
竜の女は死せる夫の首を|奪《うば》い返し、その脳を|事象《じしょう》|誘導《ゆうどう》|演算《えんざん》|機関《きかん》として使用したのだと。
もちろん、すでに絶命から時間が経過し|腐敗《ふはい》が始まっている脳の復活は不可能。だが、それでも事象誘導演算装置として使用したのだろう。
ギギナが何度も、その竜法珠を破壊しようとしたが、その|度《たび》にニドヴォルクは身を|挺《てい》して|庇《かば》った。
たとえ演算装置に成り果てたとしても、それはニドヴォルクにとって、夫のエニンギルゥドそのものなのだろう。
「|愛《いと》しの背の君自身にも|復讐《ふくしゅう》をさせてやりたかったのだが、どうやらそれが|仇《あだ》となったようぢゃな……」
そう、俺はその心情を理解し利用して|咒式《じゅしき》を放った。
ニドヴォルクが、自らが|避《さ》けることにより、背後の夫の亡骸を再び死の|咒式《じゅしき》の|恥辱《ちじょく》に晒すのを、絶対にしないはずだということを。
生きるためとはいえ、あまりに|卑劣《ひれつ》な思考なのを自覚し、俺は|喉《のど》の奥に苦いものを飲み込む。
ニドヴォルクはしかし、俺を責める瞳をしていなかった。どこまでも|透明《とうめい》なその視線を|逸《そ》らしたのは俺の方だった。
罪悪感の縛鎖から性急に|逃《のが》れるように、俺は問いをぶつける。
「俺やギギナの所在地を探知できたなら、なぜ俺がおまえの夫を殺したように、俺のジヴを殺したりしなかったんだ!?」
見上げる黒竜は、初めて|怪訝《けげん》な顔をした。
「何を言っている? 我れに|怯《おび》え、いきなり|攻撃《こうげき》してきた人族どもはともかく、我れの愛する背の君を|弑《ころ》したのは汝ぢゃ。汝の愛する者とやらにいささかの責もなかろう?」 俺とギギナは言葉を失ってしまった。
人間よりも、竜の方が|遥《はる》かに論理的に高潔で、そして誇り高かったのだ。
動物は愛するものを殺されても復讐などしない。それは自らを余計な危険に晒すという生存競争に|無駄《むだ》な|行為《こうい》だからだ。
しかし、愛しい人を失った|報《むく》いを相手の命で|償《つぐな》わせたいと思うのは、高等知性と感情の存在証明であり、竜もその一員であった。
だが、等価原則を厳密に守る竜とは|違《ちが》い、我々人間は奪われた命に対し無制限の復讐を求めているのではなかろうか。
|憎悪《ぞうお》と復讐のために相手の命で|贖《あがな》っても、我々の|渇《かわ》きは|癒《い》えないだろう。
なぜなら、失った何かを取り|戻《もど》したのではなく、過去を取り戻せたわけでもないのだ。
だがもしも。
そう、もし俺が愛したアレシエルが生き返り、そのアレシエル自身が俺と殺害者を許し、この世の|罪人《つみびと》の全てが|悔悟《かいご》の|涙《なみだ》を|滂沱《ぼうだ》と流しても。
世界の|隅々《すみずみ》まで|万人《ばんにん》の苦痛と貧困と暴力を根絶し、平和と|優《やさ》しさと安息に満たされつくしても。
俺の、人々の、その時受けた哀しみと|怒《いか》りと苦痛は決して救済されない。
すでに愛しい人々が去った後で、いかなる償いがそれを贖えるというのか。どんな救いも決してその代価にはならないのに。
だが、その無意味さを理解はしていても、我々はそれを、より|凄惨《せいさん》な復讐を|渇望《かつぼう》し|繰《く》り返す。
ヘロデルや俺も、流された以上の血と償いを渇望し卑劣な手段を取った。あのモルディーン|枢機卿長《すうきけいちょう》もその一人なのかも知れない。
そして|愚直《ぐちょく》なまでに、失われた時への|哀惜《あいせき》を|叫《さけ》び続ける。
人間の限界は、もしかしてそこにあるのかも知れない。
俺の|想《おも》いを知ってか、竜が問うたのだ。それは限りなく|透徹《とうてつ》した|素朴《そぼく》な問いだった。
疑問に対する答えがいつまでも返ってこないのに|倦《う》んだのか、ニドヴォルクはやがて|疲《つか》れたようにその|燐光《りんこう》|灯《とも》る美しい緑瞳を閉じた。
「我れはもう疲れた。我れが竜の|矜持《きょうじ》を保ち、人間に|頭《こうべ》を垂れることを善しとせず、故郷まで捨てたがゆえに、それに付き合った背の君を失ってしまった……」
海からの潮風がその|黒髪《くろかみ》をなぶる。
「大いなる世界の法に従い、十全に行動した我れを背の君は許してくれるぢゃろう。
だが、我れは本当は何を得たかったのぢゃろうか?」
俺とギギナは言葉も無くただ立ちつくしていた。
竜の緑瞳が再び開き、死に|瀕《ひん》し|朦朧《もうろう》とした意識の中で言葉を|吐《は》く。
「|冥府《めいふ》で、も、背の君と寄、り|添《そ》って、|悠久《ゆうきゅう》の森の中、で星、空を見上げる、ことができ、るといいの、ぢゃ、が……。
しかし、復、警の|誓約《せいやく》を果たせない我れ、は、竜の姿に戻ることを許、され、ない。
こ、の姿で冥、府の背の君、と会っ、ても我れだと気、づいてもらえ、るの、だろ、うか? そ、れだ、けが心、配、……」
そしてニドヴォルクは小さな小さな息を吐き、一つだけ残った瞳からは意思の光が消えた。ニドヴォルクにつながっていたらしい|傍《かたわ》らの|竜法珠《りゅうほうじゅ》も、弱々しく鳴動していた音を停止した。
一言の|恨《うら》み|言《ごと》もなく彼女は絶命し、その|頬《ほお》には一筋の涙も無かった。
ある説によると「泣く」という行為は、実は自分のためにしかできないそうだ。
たとえ愛する人の死でも、愛する人が死んで|哀《かな》しんでいる、その自分が|可哀相《かわいそう》で人間は泣いているのだという。
竜にそんなものは必要ない。
大自然の弱肉強食の論理と知的生命の情愛の間で、彼女は十全に行動したのだから。
不完全に生きる、どこまでも|孤独《こどく》な人類だけが、泣くのだろう。
それしかできないがゆえに。
それはとても悲しいことだ。
我等の哀しみはそれ自体が|紛《まが》い|物《もの》だ。
それはとても哀しいことだ。
すでに|夕陽《ゆうひ》は落ち、|闇《やみ》の|帳《とばり》が|廃《はい》工場に、そしてエリダナの街にと降り始めていた。
俺とギギナは、言うべき言葉を失い、しばらくそこに立ちつぐしていた。
遠くから見れば、廃工場の|鉄塔《てっとう》は、|戦闘《せんとう》による|破壊《はかい》で大きく姿を|変貌《へんぼう》させ、|異形《いぎょう》の|巨獣《きょじゅう》、たとえば竜のような|影《かげ》をしていただろう。
|痩《や》せた|蒼《あお》い月の朧光が、俺達の|沈黙《ちんもく》を見下ろしていた。
いつしかギギナのクドゥーの|儀式《ぎしき》の|韻律《いんりつ》が|響《ひび》きだす。
俺はギギナにいくつかの詩句を教えてもらい、|誇《ほこ》り高き種族の、実在を信じてもいない|魂《たましい》だか来世だかを|祈《いの》り、そして|倒《たお》れた。
12 そして全ては走り去る
|愚《おろ》かである事は自己と全体に対する大罪である。だが|賢明《けんめい》である事は|概《おおむ》ね、自らが今まさに|死刑台《しけいだい》の|首吊《くびつ》り|縄《なわ》の前に立っているという事実を|悟《さと》る事に過ぎない。
だがしかし、人類から完全に|愚行《ぐこう》を取り去ったら、宗教家と劇作家は首吊りをするしかないだろう。私自身を|含《ふく》めてね。
ジグムント・ヴァーレンハイト著
「|堕落《だらく》|信仰《しんこう》|処方箋《しょほうせん》」 |皇暦《こうれき》四九三年
俺が目覚めるとそこは|傾《かたむ》いた世界だった。白い|紗幕《しゃまく》、人体|解剖図《かいぼうず》と薬品の|棚《たな》の下半分、時代遅れのリノリウム張りの|床《ゆか》、|薄明《うすあか》るい|診療室《しんりょうしつ》。
|既視感《きしかん》。
「気づいたか、|患者《かんじゃ》四九七〇七〇一号」
|寝台《しんだい》に横向けに|寝《ね》ていた俺の視線を上方、通常垂直視点では左方向へと向けると、白衣の女医の視線と出会う。
ツザン・グラル・デュガソン。三年前から二十代後半と言いつづけ、|藍色《あいいろ》の|髪《かみ》と|瞳《ひとみ》の、|無駄《むだ》に色気のある|身体《からだ》を白衣に包む女医で、俺達がよく外傷の|治療《ちりょう》を|頼《たの》む|生体《せいたい》|咒式《じゅしき》|医師《いし》だ。
俺は不得意だが、生体咒式士のギギナは骨折や軽傷程度なら|充分《じゅうぶん》に|治癒《ちゆ》を可能にする。
しかし、千切られた右手をつなげたり、|掻《か》き回された内臓を修復するなどの高度治療咒式手術は、さすがに専門の咒式医ツザンに|頼《たよ》るしかない。
闇医者なので料金はやはり法外に高いが。
そのツザンの診療所で、拾ってきた|腕《うで》と腹を|繋《つな》げて、|麻酔《ますい》で少し|眠《ねむ》ったのかと思った|瞬間《しゅんかん》、急ぎ身を起こし、純白の|掛布《シーツ》をめくり、自分の右手を引き|抜《ぬ》き、ついで|裸《はだか》の腹部を見た。
手には裏表、五指もある。腹部もあった。
「良かった、まともだ」
「どういう意味かしら? あたしの|治療咒式《ちりょうじゅしき》に手抜かりがあるとでも思ってるわけ?」
|紫《むらさき》の瞳に、|怒《いか》りの|紫電《しでん》を宿らせツザンが問う。だが俺は言ってやった。
「おまえの技術は一流だが、人格が|崩壊《ほうかい》している。以前、俺の右手の|腱《けん》を繋げる時、意味なく鼻に、俺より大きな|猛犬《もうけん》をつなげようとしただろっ!」
「お、おしゃれよ、|超《ちょう》流行の|装飾品《そうしょくひん》」
「どこの|誰《だれ》の流行だ」
「ここの、私の」
俺は絶対|零度《れいど》の視線を浴びせ、ツザンを|黙《だま》らせてやった。
この女は典型的な、治療と実験をはき|違《ちが》えている|狂医師《マッドドクター》である。
元々、ツザンは|人体《じんたい》|修復《しゅうふく》|咒式《じゅしき》|実験《じっけん》を実験室で研究しているだけの研究医だった。
ある時、病院の外科|臨床医《りんしょうい》が事故に|遭《あ》い、誰も手術できないところ、ツザンは必死に|瀕死《ひんし》のその医師を治療し、そしてより歩けるようにと足を、八つ付けた。
その後、即医師資格|剥奪《はくだつ》となったのは言うまでもない。
元皇立病院医のツザンの腕は|間違《まちが》いなく一流だが、本人はまったく反省していないので決して目を|離《はな》してはならないのだ。
まあ、今回は|一緒《いっしょ》にギギナがいただろうから、|妙《みょう》な手術をしようものなら本気で|挽《ひ》き|肉《にく》にされるのが分かっていたのだろう。
ギギナの、敵となれば女子供も平気で殺す社会不適応な性格が何かの役に立つものだ。
他の|用途《ようと》は、人間関係が非常に軽量薄型になるくらいだが。
「|恰好《かっこう》いいし強いと思うけどなぁ|鼻猛犬《はなもうけん》。さて、あたしは中断させられた人体改造実験をしなくちゃね。できるかな? パスタの身体に人の頭の合成生物」
|麺類《めんるい》と人類の合成に、一体何の医学的意味があるのか知りたくもない。
「そういや患者。あんたの|陰茎《いんけい》は|普通《ふつう》でつまらないから、手術で大きくしてやろうか?」
掛布の下の俺の身体は裸だったことを思い出し、我れ知らず|頬《ほお》に|朱《しゅ》が|昇《のぼ》る。
「せ、性的|嫌《いや》がらせだ」
「あんたの彼女も三・二八倍喜ぶのに」
「普通でいいの。俺は愛情と|技巧《ぎこう》派なのっ」
掛布を胸までたくし上げて、俺は清純な|乙女《おとめ》のように|叫《さけ》んだ。
三・二八倍という所には、ちょっと|魅《ひ》かれたが。
そんなに医学的に|駄目《だめ》か俺自身?
「|攻性《こうせい》|咒式士《じゅしきし》も、夜は案外保守派なのね」
「おまえはどうなんだよ」
ツザンはにっこりと|艶気《いろけ》のある|紅唇《こうしん》を|綻《ほころ》ばせて「あんたが|腰《こし》抜かすほど|凄《すご》いわよ」と言いやがった。
おちょくられてる。駄目だ、俺は女に絶対的に勝てない運命らしい。
「じゃ、今度はなるべく死体で来てね。あんたって内臓標本に理想的な身体なのよ」と|厭《いや》なことを言いつつ、ツザンがようやく立ち去ろうとしていたが、途中で俺を|振《ふ》り返る。
「それより、あんたに|見舞客《みまいきゃく》が来てるわ」
「見舞客? ここに来てからまだ何時間も|経《た》っていないだろうが」
「じゃ後ろの本人に聞いたら?」とだけ言って、これまた無意味に色気のある|尻《しり》を|揺《ゆ》らしつつ、ツザンは|狭隘《きょうあい》な病室を去っていった。
「やあ、|壮健《そうけん》そうで何よりだ」
どこかで似たような展開があったのを思い出しながら振り返ると、後ろ向きの|椅子《いす》の|背凭《せもた》れに指輪の光る両手と|顎《あご》を乗せた、|僧服《そうふく》の|碩学《せきがく》の顔があった。
|栄《は》えある|龍《りゅう》|殺《ごろ》しの|裔《すえ》。モルディーン・オージェス・ギュネイ|枢機卿長《すうきけいちょう》だった。
|傍《かたわ》らには無言の|影《かげ》、灰色の背広姿のキュラソーが、|居心地《いごこち》悪げに直立不動で|控《ひか》えていた。
「|貴方《あなた》は、|今頃《いまごろ》はエリダナから皇都へと|帰還《きかん》する列車の中、のはずですが?」
俺の熱の無い言葉に、卿は|眼鏡《めがね》の奥の暗い瞳を|笑《え》みに|歪《ゆが》める。
「例によってそれは|偽者《にせもの》。ジェノン君ほど|抜群《ばつぐん》に|上手《うま》く演じられはしないけどね」
だが、その顔はどこか|蒼浪《そうろう》としていた。
「イェスパー君とベルドリト君もどうやら一命を取り留めたようでね。ベル君なんかは、|残酷《ざんこく》なラキ家らしくもなく「兄貴が死んじゃう、僕の血をあげて、僕の血を兄貴に全部あげて!」って大泣きして大変だったよ。
ジェノン君は|竜《りゅう》に|攻撃《こうげき》された瞬間、|偽体《ぎたい》を残して内臓だけで地下を|掘《ほ》って|逃走《とうそう》し、今は脳と心臓のみで|培養槽《ばいようそう》にぷっかり|浮《う》いてるよ。彼、いや彼女かも、が今回一番の|御苦労様《ごくろうさま》だ、特別|賞与《しょうよ》でも出さないとね」
「それで何の|御用《ごよう》です? |猊下《げいか》|御《おん》自ら、私ごときにとどめでも|刺《さ》しにお|越《こ》しいただきましたか?」
「まさか。まったく君は人が悪い。自分でも信じていない言葉を他人にぶつけ、否定させて真実を引き出す会話法は、いい子は使っちゃ駄目だよ」
俺は改めてウコウト大陸有数の、性格の|捩《ね》じれた男と|対峙《たいじ》している事実を思い出した。
「では何を?」
「言葉を少なくする作戦に|切《き》り|換《か》えたね? 安易だが効果的だ。お|喋《しゃべ》りな私には特にね。
そう、今回は君たちの勝ちだよ。さすがの私も、君たちが|剣呑《けんのん》な黒竜に|狙《ねら》われていたとは予想できなかった、いや私の失敗だ」
俺はその言葉を受け止める。そして一呼吸を置いて、返答を|紡《つむ》ぐ。
「失敗? |全《すべ》てが貴方の思いどおり、竜ニドヴォルグの登場と死すら貴方の計画の内だというのに?」
俺は何度目かの推理を|叩《たた》きつける。
「一連の事件での貴方の真の狙いは、龍皇国と七都市同盟との有利な停戦を求める|交換《こうかん》条件に、|賢龍派《ヴァイゼン》と七都市同盟との間のティエンルン条約|批准《ひじゅん》を|仲介《ちゅうかい》することです」
「それが私と関係が? 一体どうやって?」
枢機卿長は椅子の背に顎を乗せ、|悪戯《いたずら》が見つかった子供のように|微笑《ほほえ》んでいる。
そう、この|瞬間《しゅんかん》も俺は遊ばれ、|試《ため》されているのだ。分かってはいるが|弾劾《だんがい》を続ける。
「推測ですが、貴方と賢龍派との裏取引があった」
俺は言葉を|継《つ》ぐ。
「賢龍派から|離脱《りだつ》した|長命竜《アルター》のエニンギルゥドとニドヴォルクを、貴方がその賢龍派のために始末することを交換条件とし、竜と同盟との条約批准を取り持つという密約が。
過日、条約批准を推進し失敗した反議長派民進党のヤーウェン議員は|面目《めんぼく》を|漬《つぶ》しました。
その逆に、議長カイ・クヨウとアズ議員が今秋辺りにでも条約を批准させ、来年頭の中間選挙では|圧倒的《あっとうてき》大差でカイ・クヨウの民自党が政権|与党《よとう》を取るだろう。
それによりモルディーン卿の現実路線に共感する与党が同盟内に|継続《けいぞく》し、同与党は和平条約で龍皇国にダエフ線まで|紛争《ふんそう》線を退き、同盟と皇国の関係はまた少し|緩和《かんわ》される。
貴方に|叩《たた》かれた龍皇国|強硬派《きょうこうは》も、その意に反する共存路線が前進しながらも、龍皇国を最大限に利した卿には手を振り下ろせない。
貴方は敵対する三つの勢力のその要望を順に交換していき、|間抜《まぬ》けな俺達を|操《あやつ》り、一人の竜を殺しただけで最大限の利益を引き出した」
俺はそこで一旦言葉を切る。枢機卿長は静かに|口《くち》の|端《はし》を歪め、俺の|指摘《してき》を認める。
俺は真相の究明を続ける。
「つまり私とギギナは|餌《えさ》だった。|翼将《よくしょう》をぶつけて、標的たる反逆竜ニドヴォルクを|誘《さそ》い出すためだけの。
最初から私とギギナは、貴方の護衛や案内役などではなかった。|獲物《えもの》を|釣《つ》り上げる餌として、背中に翼将の|監視《かんし》という釣り糸を付けられ泳がされていたわけだ。
そして私たちに刺さった釣り針には、モルディーン枢機卿長という|猛毒《もうどく》が|塗《ぬ》られ、飲み込んだ竜は|哀《あわ》れに死に絶え、貴方の望みだけが全て|叶《かな》った」
モルディーン枢機卿長は、良くできた生徒を|褒《ほ》めるように音の鳴らない|拍手《はくしゅ》をする。
「よくできました。古人の言を借りれば、国家には永遠の敵も永遠の味方も存在しない。うつろう全ての中で、ただ人民の国益のみが絶対の主君であり、私はそれに従うのみ、賢龍派だろうと七都市同盟だろうと利用するだけだ。
ま、反逆の竜殺しの方は、賢龍派との多くの取引の中の一つなんだけどね。
竜との|戦闘《せんとう》が初めての下位翼将たちでは失敗したが、一応の保険の君たちが何とかしてくれたので結果的に良しという所だね」
卿は片目を|瞑《つぶ》って|微笑《びしょう》して見せた。
実際は、本当の保険たる|長命竜《アルター》を上回る強大な翼将たちを控えさせ、万全の用意をしていたはずだろう。どこまでも|隠《かく》し事が好きな|魔人《まじん》だ。
そこで俺の思考は|戦慄《せんりつ》に|貫《つらぬ》かれる。
ニドヴォルクを誘い出すには、あまりに強大で多数の翼将たちでは|警戒《けいかい》される。逆だと俺達の生命の危機にはならず、|復讐《ふくしゅう》を望む竜は都合のよい時期に現れない。
側近中の側近の翼将たるイェスパーとベルドリトやジェノンたちは、その|冷徹《れいてつ》な計算に|恐《おそ》らく気づいていただろう。
無意味な危険を前提とした|策謀《さくぼう》に|出撃《しゅつげき》する翼将の、その忠誠をも策謀の内とする魔人。
その理想は|蒼天《そうてん》を貫くほどに気高いが、その実態は合理思考の|権化《ごんげ》。その|怪物《かいぶつ》は俺の眼前で、いまだ|典雅《てんが》に微笑みつづけている。
「二重三重の策を|弄《ろう》するのは二流の策謀家に過ぎない。本当の策謀家とは、登場人物がいかなる|即興《そっきょう》|演技《えんぎ》をしようとも、|脚本《きゃくほん》を破り捨てて劇を|脱出《だっしゅつ》したとしても、そこはまだ劇外の劇という演出にすぎないように、世界自体を|舞台《ぶたい》とするのだよ」
俺はまったく動けなかった。この男と同じ部屋にいることが|耐《た》えられなかった。
自分の自由意思としての行動は、この知性の|竜《りゅう》の脳内の劇場から一歩も出ていない。
まるで自分の全身に、そして翼将や強大な竜にすら、不可視の操り糸が|隙間《すきま》なく結ばれているように感じた。
いや、その糸は俺の心や精神にまで結ばれているのだろう。
俺はそれを|振《ふ》り|払《はら》うように最後の疑問を|叫《さけ》んだ。
「なぜ、なぜ|貴方《あなた》は、それを、私に理解できるようにしたのだ。
ジェノンの演技のことといい、|謀略《ぼうりゃく》を|匂《にお》わせもう一つの目的があるような発言といい、なぜわざと正解への|手掛《てが》かりを|与《あた》えたのだ! なぜわざわざ不完全な策謀にしたのだ!」
卿はどこか|寂《さび》しげな顔をした。
「君の言葉がすでに解答となっている。完全な策謀とは、その存在すら|誰《だれ》にも知られることはない。だが、人間に観測されない現象は、人間にとっては存在しないことになる。解かれない|謎《なぞ》は謎にあらず。劇的な結末には謎解きという不完全さが必要なのだ」
俺とモルディーン卿の視線が空中で激しく|衝突《しょうとつ》する。
何の制約がなくとも、自らに|遊戯《ゆうぎ》の絶対を課す。
この男の視線は、もはや現実の人間の持つ視線ではない。物語をより|面白《おもしろ》く作る、語り手の視線で世界を見ているのだ。
俺にはこの|狂《くる》える|叡知《えいち》の竜が理解できない。理解してはいけない。理解すれば、俺は……。
「それで貴様は、何の|奸策《かんさく》でここにいる」
いつの間にか入口にギギナが立っており、俺の|想《おも》いを|断《た》ち切った。
|傍《かたわ》らのコウガ|忍《しのび》が|薄《うす》く|驚愕《きょうがく》している所を見ると、気配をまったく感じ取れなかったらしい。俺もまったく同様なのだが、当然知っていたような顔をしているのが得策だ。
「やあ、ギギナ君。あいかわらずお元気そうで何より。私の|敬度《けいけん》な祈りが神様に届いたのかな? どの神様か知らないけどね」
胸や|腕《うで》に|咒式《じゅしき》|包帯《ほうたい》をまとったドラッケン族から放射される|弩級《どきゅう》の殺気に、室内体感温度が急低下していく。
モルディーン卿だけが平然としている。
「次に会う時は、貴様の|腐《くさ》れ脳を|載《の》せた細首を|刎《は》ねると言ったのを覚えていような」
ギギナは、卿のお遊びにつき合わされて|怒《いか》り心頭に達しており、後を考えずに卿を八つ|裂《ぎ》きにしてしまうこともあり得るのだ。
その恐るべき可能性に気づいた傍らのキュラソーが、すでに|魔杖刀《まじょうとう》の|鯉口《こいくち》を切って臨戦態勢に入り、|攻性《こうせい》|咒式《じゅしき》を展開し始めている。
「全員、落ちつきたまえ。一応これでも私は皇族らしいから、ね? 敬意とかその周辺のことを努力して思い出してみようよ?」
あまりにも|緊迫《きんぱく》成分の|含有《がんゆう》されない|茫洋《ぼうよう》たる物言いに、場が|緊張《きんちょう》を失する。
何事もなかったように卿が続ける。
「さて、用向きは二つ、一つは君たちにおめでとうと言いたかっただけだ。二つは|優秀《ゆうしゅう》な競演者には|名誉《めいよ》と賞品が与えられるべきだ」
「貴様からは分子一つ何も受け取らない。ただ、二度と我らの前に現れるな」
ギギナの|抜《ぬ》き|身《み》の言葉に、|忍《しの》びが刀を|疾《はし》らせようとするが、卿自身が手で制す。
「よかろう。ではガユス君は?」
「右に同文」
「君にしては|捻《ひね》りのない返答だね」
モルディーン卿はさも残念そうに|肩《かた》を落とし|椅子《いす》から立ち上がる。そして何かを思い出したかのように、右手の指輪の一つを外し、座っていた椅子の上に置く。
「では賞品代わりに、この指輪を置いていこう。色々な人や場所が|便宜《べんぎ》を|図《はか》ってくれるだろう」
「受け取れません。第一、私たちのようなならず者に|渡《わた》しても悪用するだけですよ」
「それはそれで私を呼び寄せる楽しい口実となる。君が要らないなら私はここに捨てるだけだ。それを勝手に拾ったと思いなさい」
俺とギギナは|微動《びどう》だにしなかった。
「それとも、こんな終幕はお気に|召《め》さないかね? 悪役は|倒《たお》されず、善行は|報《むく》われず、何も変わらず、何も起きてはいない。主題の存在しない物語に、主人公のいない劇。
だが残念、私は善の味方でも悪の権化でもない。私は君たち|咒式士《じゅしきし》よりは|遥《はる》かに弱い、|普通《ふつう》の人間で、必死に生きる人間とともに立つ者だ」
少しだけ、ほんの少しだけモルディーン|枢機卿長《すうきけいちょう》はその声に感情を|込《こ》めていた。
「私は負けないよ。普通の人間の|卑劣《ひれつ》な力を見せてあげよう。
弱き人々のささやかな生を守るためなら、|時代《じだい》|遅《おく》れの竜や|異貌《いぼう》のものどもなど|鼻唄《はなうた》まじりで|滅《ほろ》ぼし、咒式の|呪《のろ》いなど笑って|超克《ちょうこく》してみせる。
弱く|脆《もろ》い人間の、その弱さと脆さだけで、人は立っていけると証明してあげよう」
そう言うと、卿は静かに椅子から立ち上がり、|襟元《えりもと》を正して出口へと去っていったが、振り返りつつ言葉を足した。
「あ、もう一つ。君たち、|翼将《よくしょう》とかに転職する気はない? 高給|優遇《ゆうぐう》、各種社会保険完備」
「無い」
「じゃ体験入社、見習いからやる気は?」
「無い」
俺とギギナの素っ気ない|拒絶《きょぜつ》。しかしそれでも俺は認めてしまうしかなかった。
「|貴方《あなた》が|偉大《いだい》な|英傑《えいけつ》か|梟雄《きょうゆう》か、|凡人《ぼんじん》の俺には分からない。|恐《おそ》らく、両者は時代と|環境《かんきょう》の|違《ちが》いだけで本質的には同じなのだろう。
だが、俺と貴方が同じ道を行くことは決してできない。
貴方は仕える人間の心と|魂《たましい》を食いつくしてしまう。俺はそれを理解しながらも、|全《すべ》てを|捧《ささ》げる翼将たちのような|殉教者《じゅんきょうしゃ》にはならない。
いや、俺もそうなってしまうことが分かるからこそ、俺は貴方を|畏《おそ》れる」
枢機卿長の傍らで、|忍者《にんじゃ》キュラソーが無言で|瞑目《めいもく》する。
立ちつくす枢機卿長の灰色の|瞳《ひとみ》を|真《ま》っ|直《す》ぐに見つめながら、俺は最後の決別を告げる。
「公約数的な正しさを絶対とするその一点で、貴方の言動は間違っている。|上手《うま》く説明できないが、その正しさにはどこか神にも似た|不吉《ふきつ》さを感じる。
だからこそ俺は、|凡庸《ぼんよう》に、無様に、地面を|這《は》いずろうと、俺自身でいたい。貴方になりたくはないんだ」
枢機卿長は少しだけ残念そうな顔をした。
「それが君の|選択《せんたく》か、たかが|自我《じが》という|矮小《わいしょう》な配役の固持が。
だが、初めて君が、何にも|誰《だれ》にも|頼《たよ》らずに立ったと言えようか」
俺は危険を|覚悟《かくご》でさらに返す。
「こういう北方の|冗句《ジョーク》があるのを|御存《ごぞん》じですか?
ある男が|龍皇都《りゅうおうと》で「モルディーン枢機卿長の|下衆《げす》|野郎《やろう》」と|叫《さけ》んだ。男は|逮捕《たいほ》され裁判にかけられ十九日と十九年の|刑《けい》を宣告された。十九日は|名誉《めいよ》|毀損罪《きそんざい》として、そして十九年は国家最高機密の|漏洩罪《ろうえいざい》として」
モルディーン枢機卿長は声を殺して小さく笑った。
「君の思考は大変|面白《おもしろ》い。その|小賢《こざか》しさも|含《ふく》めてね。分かった、|肝《きも》に|銘《めい》じておくとしよう」
そしてモルディーン卿は「では|御機嫌《ごきげん》よう。君が君を乗り|越《こ》えたその時に、また|何処《どこ》かで会いたいものだ」と|典雅《てんが》に一礼し、今度こそ病室から歩み去る。
「|剣《つるぎ》と月の祝福を」
入口で卿とすれ違ったギギナが極大の皮肉を込めて、ドラッケン族の祝詞を投げる。
さすがに多少苦い顔をしてモルディーン枢機卿長は一瞬だけ立ち止まり、そしてキュラソーを従え再び歩み去る。
俺にはその|奇怪《きかい》な思考の脳から延びる、|幾《いく》万条の操り糸が見えたような気がした。
その糸は俺やギギナや世界に広がり、そしてモルディーン自身の背中にも再び|絡《から》みついているように思えた。
言葉と思弁の|舌戦《ぜっせん》、その|疲労《ひろう》のあまり、俺は|吐息《といき》を長く|吐《は》く。
|魔人《まじん》が去り、しばらくの時が経過してからギギナが|呟《つぶや》いた。
「今度こそ終わった、のだな」
「恐らく、な」
俺は|寝台《しんだい》の上で|寝返《ねがえ》りを打つ。
「結局、俺達は何をしたんだろう。勝ったのはモルディーンだけというわけか?」
さらさらと時間だけが過ぎた。
ギギナが無言で|椅子《いす》に|腰《こし》を下ろす。そのまま俺の目を見もせず言葉を吐く。
「勝利など|糞《くそ》食らえだ。私は生きている、貴様も生きている。それだけで|充分《じゅうぶん》だろう」
ギギナが|獰猛《どうもう》な|笑《え》みを|浮《う》かべていた。
その単純な言葉に、俺も笑みを|零《こぼ》した。
「俺とおまえ、糞ったれ|咒式士《じゅしきし》には、それがお似合いかもな」
「そうだな、そしてこれまでのように、また二|匹《ひき》の糞ったれ咒式士でいればいいだけだ」
そう言ってから、ギギナは言いなおした。
「私を貴様と|一緒《いっしょ》にするな。私の品位と人間性が他人に誤解される」
俺はギギナの|寿命《じゅみょう》が一刻も早く|尽《つ》きることを切に|祈《いの》った。神以外の何だかに。
|粗末《そまつ》な椅子の上の、モルディーン卿の残した至銀の指輪が|鈍《にぶ》い|輝《かがや》きを見せていた。
冬の|名残《なご》りが春へと|浮気《うわき》な心変わりをする、ゆるやかな日差しの日曜の昼下がり。
中央エリダナ駅から続くエリュオン通りには、|薄絹《うすぎぬ》の|衣装《いしょう》が並ぶ|服飾店《ふくしょくてん》、東方からの輸入品を|揃《そろ》えた雑貨店、地面の布の上に西方の宝飾品を並べた|露店《ろてん》と雑多な店が|軒先《のきさき》を連ね、様々な人々が行き|交《か》う。
その商店街の歩道に、ジヴーニャと並んで歩く俺の姿があった。
|諸々《もろもろ》の事件の破約の|埋《う》め合わせとして、朝から彼女の買い物に付き合ったのだが、彼女は俺が一年に買うのと等量以上の服や小物を買い、それを俺が|運搬《うんぱん》させられているという|次第《しだい》である。
|苦役《くえき》を|耐《た》え|忍《しの》ぶ俺の、その表情を見た彼女が笑顔で宣告した。
「まだまだこんなものでは済まさないわよ。今度も私に断りなく死にかけてた特大|馬鹿《ばか》には、創作手作り|天罰《てんばつ》を|与《あた》えてあげるわ。
今日中にもう十|軒《けん》は行くわよ。代金はぜーんぶガユス持ちでね!」
俺の元気がもりもり|抜《ぬ》けていく。
しかし、これが彼女なりの仲直りの|儀式《ぎしき》なのだろう。俺の約束の|反故《ほご》を笑いにしてくれる、その大人の|優《やさ》しさに頭が下がるばかりだ。
一連の事件から、日常は静かに過ぎていた。
退院後に|一縷《いちる》の望みをかけ、|試《ため》しに|嘘《うそ》まみれの労災|申請《しんせい》をしてみたが、役所のサザーラン課長は俺達の目前で申請書を食べた。
親の|仇《かたき》に出会ったような、|憤怒《ふんぬ》の視線で俺達を|睨《にら》みつけながら紙を|咀嚼《そしゃく》しつづけ、|嚥下《えんか》するまで、俺とギギナは|呆然《ぼうぜん》と見ていた。
最初から最後まで全員無言のままだった。
相変わらずホートンの|占《うらな》いは当たらず、|猫《ねこ》のエルヴィンは俺に|噛《か》みつく。オラクルズの連敗は十三連敗でようやく止まった。
そういえば、事務所を|休暇《きゅうか》にしたギギナは、ロルカ屋の代金請求から一時戦略|撤退《てったい》すべく、|修行《しゅぎょう》と椅子のヒルルカの|治療《ちりょう》のために|山《やま》|籠《ご》もりに行く、と脳が|溶解《ようかい》蒸発したようなことを言っていた。
俺は足を止める。
あの咒式と|謀略《ぼうりゃく》の|吹《ふ》き|荒《あ》れた日々。ヘロデルという、俺の思い出の一部が永久に消失した。
|黒竜《こくりゅう》ニドヴォルクは、彼女の種族の流儀で|復讐《ふくしゅう》を望み、俺達の流儀で殺した。
二人の復讐者は俺に|凶事《きょうじ》を運び、忘れられない|傷痕《きずあと》を刻んだ。それが俺の右手薬指に、モルディーン|枢機卿長《すうきけいちょう》が残していった指輪の姿として|結晶化《けっしょうか》している。
それは|煌《かがや》く|紅珠《こうじゅ》を、|精緻《せいち》な|螺鈿《らでん》|彫《ぼ》りを|施《ほどこ》した銀の|環《わ》が受け止めるという|繊細《せんさい》で|典雅《てんが》な造形だった。
ギギナには確実に|呪《のろ》いか|遅効《ちこう》性毒薬か、とにかく何かあるから捨てろと言われたが、|途轍《とてつ》もなく高価そうなこと以上に、ある|想《おも》いから俺にはどうしても捨てられなかったのだ。
これは過去であり、俺やモルディーンもそれに|囚《とら》われた復讐者なのだ。
ヘロデルが誓いの指輪とともに地下に埋葬した、|失《な》くしてはならない何かを、俺はまだ、この指に|掴《つか》んでいたい。
この指輪は、痛みと|悔恨《かいこん》を、そしてかけがえのない何かを決して忘れないために必要な|真紅《しんく》の傷痕なのだ。
指輪を|嵌《は》めた薬指に痛みが走る。
ツザンの|診察《しんさつ》では、|禁忌《きんき》の|咒式《じゅしき》|発動《はつどう》の連発で、脳や神経系統に過負荷が|掛《か》かっての|昏睡《こんすい》が二回も続いたため、俺の心身に障害が残る可能性もあるそうだ。これが進行すれば|咒式士《じゅしきし》|生命《せいめい》に関わるだろう。
よく動かせば良くなるとの|診断《しんだん》なので、ジヴの|尻《しり》をよく|触《さわ》って治すことにしよう。
そう考え、視線を商店の軒先を|覗《のぞ》くジヴの後ろ姿に|戻《もど》すと、痛みが|緩《ゆる》やかに去っていき、俺は自らの胸に問うた。
俺が死ぬ時、ジヴはまた泣くのだろうか。
アレシエルが死んだあの時、俺は同じ理由で泣いたのだろうか?
今ではそれすらよく思い出せない。
生きるほどに深まる罪。
それが人間や、俺という存在を構成している|全《すべ》ての境界条件なのかも知れない。
そして俺は目を閉じる。我知らず意識の海の底へと|沈《しず》んでいった。
千億の|狂気《きょうき》の一つを正気として|選択《せんたく》せざるを得ない、|昏《くら》く|蒼《あお》い|何処《どこ》かへと。
「何してるのガユス、早くしないと|激烈《げきれつ》安値市が終わるわよっ!」
少し先で|振《ふ》り返るジヴの|朗《ほが》らかな声と|笑顔《えがお》に、俺の意識が物質界へと|帰還《きかん》する。
そして光|溢《あふ》れる|蒼弩《そうきゅう》の空を見上げる。
残念ながら、そこに死者たちの笑顔が見えるような安っぽい感傷は持っていない。
ただ、世界はまだまだ無様に続いていき、俺達はその世界で不器用に|踊《おど》るしかないのだろうと|凡庸《ぼんよう》な理解をし、それを|幾《いく》らか許した。
俺はジヴに向かい歩きはじめ、そして地面を|靴底《くつぞこ》で|蹴《け》りつけ、走り出す。
なぜなら、走らなけれは、その笑顔には追いつけないからだ。
〔 了 〕
あとがき
実は、私はずーっと|漫画《まんが》を|描《か》いていたものですが、適当な賞は取れても芽が出ませんでした。
ふてくされて生まれて初めて小説を書いたら、こうやって本の形になり、何か変な|感慨《かんがい》があります。
ついでに言ってしまうと、私は|幻想小説《ファンタジー》というものをあまり読んだことがありません。
J・R・R・トールキンの『指輪物語』も一巻で投げてふて|寝《ね》したのに、そんな人間が幻想小説を書くのは|荒廃《こうはい》した時代のせいでしょうか? 多分|全《まった》く|違《ちが》います。
自分の小説を冷静に読み返してみると、|勘違《かんちが》いと読みにくさも本物です。|頑張《がんば》れ読者、頑張れ地球、反省しろ私、間違いなく校正者さんに嫌われているぞ!
担当編集者のNさんには、|膨大《ぼうだい》な不備を|指摘《してき》していただき、|御協力《ごきょうりょく》がなかったら全く小説の形にはならなかったことには自信があります。
イラストの宮城さんには、私のダルい設定を、理系の知識でもって|素晴《すば》らしい絵にしていただきました。
選考委員の|諸先輩《しょせんぱい》方には、この小説に賞を|与《あた》えたその勇気と|博打《ばくち》心を感謝します。
そして、御協力いただいた以下の心の広い方々に、心よりの感謝を|捧《ささ》げます。
|鍛錬《たんれん》場提供…ならずもの&銀猫誌の方々
考証助言…山本先生・好田先生・井沢先生・膨大なSF|及《およ》び軍事・科学系HPの方々
|脚本《きゃくほん》助言…J子&Y子、悪口協力…鄭弘孝・土井敏郎・黒空手眼鏡、イェスパー原案…田中英二、|爆薬《ばくやく》考証協力…竹田兄、|邪魔《じゃま》…病崎ドロ、|傍観《ぼうかん》者…若村|監督《かんとく》、お告げ…ミムハジャキン・トントゥク、無関係…マイケル・ホイ
そしてAND YOU(昔のゲーム風)
|辛《つら》いあとがきの行|稼《かせ》ぎになりました。ありがとうマイケル・ホイ!
本書の科学知識の|錯誤《さくご》や論理|矛盾《むじゅん》は、|全《すべ》て筆者の父の弟の母の孫に責任があります。つまり筆者本人に。
ただ、罪を|憎《にく》んで人を憎まず。という言葉を大事にした方が(私に都合が)いいと思います。
それではまた機会があればどこかで。
解説
角川スニーカー文庫編集部
『されど罪人は竜と踊る』は、第7回のスニーカー大賞において、|奨励《しょうれい》賞を受賞しました。
毎年さまざまなドラマが|繰《く》り広げられる選考会ですが、この年はおおいにモメました。|喧々《けんけん》|囂々《ごうごう》の議論の末、三編の受賞作が決定したのですが、その中心にいた問題作が、今、あなたが手に取ってくださっている『されど』です。
いまだ|全貌《ぜんぼう》を現わしていないとてつもない設定、特異な人生観(?)と|癖《くせ》になるバカ話が|輝《かがや》く主人公二人組。お話も、|竜《りゅう》が出てきて、ファンタジーらしいなと思っていると、どこか私たちの住む社会とクロスしていて、心に|突《つ》き|刺《さ》さるストーリーです。欠点は多いけれど、それを上回る|魅力《みりょく》が評価された、一点|突破《とっぱ》型の受賞でした。
受賞から約一年、選考会で評価された魅力をブラッシュアップし、主人公たちのバカ度もグレードアップ、今回の完成版が出来上がりました。
編集担当者は自信を持って言うことができます。
「この小説は|自慢《じまん》できる!」
小説史を|揺《ゆ》るがすとまでは断言しませんが、ともかく見たことも、読んだこともない|面白《おもしろ》小説″であることは間違いありません。
案ずるより産むが|易《やす》い、ということわざもあります。
ご一読いただき、あなたも大声で言いましょう。
「この小説は自慢できる!!」
ガユスとギギナの活躍は、ザ・スニーカー誌(イラストの宮城さんは、ここのイラストコンテスト出身!)でも始まっています。ぜひ、こちらも手に取ってやってください。
本書は、第七回スニーカー大賞(選考委員:あかほりさとる、飯田譲治、藤本ひとみ、水野良/二〇〇二年二月発表)の奨励賞受賞作「されど咎人は竜と踊る」を改題し、加筆・修正したものです。
書誌情報
題名
されど|罪人《つみびと》は|竜《りゅう》と|踊《おど》る
著者
|浅井《あさい》ラボ
初版発行
平成十五年二月一日
発行者
井上伸一郎
発行所
株式会社 角川書店
東京都千代田区富士見二−十三−三
電話編集(〇三)三二三八−八四九四
営業(〇三)三二三八−八五二一
〒一〇二−八一七七
振替〇〇一三〇−一九五二〇八
印刷所
暁印刷
製本所
コオトブックライン
装幀者
杉浦康平
定価
本体619円(税別、初版発行時)
ISBN
4-04-428901-8 C0193
通番
角川文庫 12817
S 165-1
著作権表示
© Labo ASAI 2003 Printed in Japan