TITLE : 高野聖
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(編集部)
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義血侠血
夜行巡査
外科室
高野聖
眉かくしの霊
注 釈
義血侠血
越中高岡《たかおか》より倶利伽羅下《くりからじた》の建場《たてば》なる石動《いするぎ》まで、四里八町が間を定時発の乗り合い馬車あり。
賃銭の廉《やす》きがゆえに、旅客はおおかた人力車を捨ててこれに便《たよ》りぬ。車夫はその不景気を馬車会社に怨《うら》みて、人と馬との軋轢《あつれき》ようやくはなはだしきも、わずかに顔役の調和によりて、営業上相干《あいおか》さざるを装えども、折に触れては紛乱を生ずることしばしばなりき。
七月八日の朝、一番発の馬車は乗り合いを揃《そろ》えんとて、奴《やつこ》はその門前に鈴を打ち振りつつ、
「馬車はいかがです。むちゃに廉くって、腕車《くるま》よりお疾《はよ》うござい。さあお乗んなさい。すぐに出ますよ」
甲走《かんばし》る声は鈴の音《ね》よりも高く、静かなる朝の街《まち》に響き渡れり。通りすがりの婀娜者《あだもの》は歩みを停《とど》めて、
「ちょいと小僧さん、石動までいくら? なに十銭だとえ。ふう、廉いね。その代わりおそいだろう」
沢庵《たくあん》を洗い立てたるように色揚げしたる編片《アンペラ》の古帽子の下より、奴《やつこ》は猿眼《さるまなこ》を晃《きらめ》かして、
「ものは可試《ためし》だ。まあお召しなすってください。腕車よりおそかったら代は戴《いただ》きません」
かく言ううちも渠《かれ》の手なる鈴は絶えず噪《さわ》ぎぬ。
「そんなりっぱなことを言って、きっとだね」
奴は昂然《こうぜん》として、
「虚言《うそ》と坊主の髪《あたま》は、いったことはありません」
「なんだね、しゃらくさい」
微笑《ほおえ》みつつ女子《おんな》はかく言い捨てて乗り込みたり。
その年紀《としごろ》は二十三、四、姿はしいて満開の花の色を洗いて、清楚《せいそ》たる葉桜の緑浅し。色白く、鼻筋通り、眉《まゆ》に力みありて、眼色《めざし》にいくぶんのすごみを帯び、見るだに涼しき美人なり。
これはたして何者なるか。髪は櫛巻《くしま》きに束《つか》ねて、素顔を自慢に〓《べ》脂《に》のみを点《さ》したり。服装《いでたち》は、将棊《しようぎ》の駒《こま》を大形に散らしたる紺縮みの浴衣《ゆかた》に、唐繻子《とうじゆす》と繻珍《しゆちん》の昼夜帯をばゆるく引っ掛けに結びて、空色縮緬《ちりめん》の蹴出《けだ》しを微露《ほのめか》し、素足に吾妻下駄《あずまげた》、絹張りの日傘《ひがさ》に更紗《さらさ》の小包みを持ち添えたり。
挙止侠《とりなりきやん》にして、人を怯《おそ》れざる気色《けしき》は、世磨《よず》れ、場慣れて、一条縄《ひとすじなわ》の繋《つな》ぐべからざる魂を表わせり。想《おも》うに渠《かれ》が雪のごとき膚《はだ》には、剳青淋漓《さつせいりんり》として、悪竜焔《あくりようほのお》を吐くにあらざれば、寡《すく》なくも、その左の腕《かいな》には、双枕《ふたつまくら》に偕老《かいろう》の名や刻みたるべし。
馬車はこの怪しき美人をもって満員となれり。発車の号令は割るるばかりにしばらく響けり。向者《さき》より待合所の縁に倚《よ》りて、一篇《ぺん》の書を繙《ひもと》ける二十四、五の壮佼《わかもの》あり。盲縞《めくらじま》の腹掛け、股引《ももひ》きに汚《よご》れたる白小倉の背広を着て、ゴムの解《ほつ》れたる深靴《ふかぐつ》を穿《は》き、鍔広《つばびろ》なる麦稈《むぎわら》帽子を阿弥陀《あみだ》に被《かぶ》りて、踏ん跨《また》ぎたる膝《ひざ》の間に、茶褐色《ちやかつしよく》なる渦毛《うずげ》の犬の太くたくましきを容《い》れて、その頭を撫《な》でつつ、専念に書見したりしが、このとき鈴の音《ね》を聞くと斉《ひと》しく身を起こして、ひらりと御者台に乗り移れり。
渠の形躯《かたち》は貴公子のごとく華車《きやしや》に、態度は森厳《しんげん》にして、そのうちおのずから活溌《かつぱつ》の気を含めり。陋《いや》しげに日に〓《くろ》みたる面《おもて》も熟視《よくみ》れば、清《せい》〓《ろ》明眉《めいび》、相貌秀《そうぼうひい》でて尋常《よのつね》ならず。とかくは馬蹄《ばてい》の塵《ちり》に塗《まみ》れて鞭《べん》を揚《あ》ぐるの輩《はい》にあらざるなり。
御者は書巻を腹掛けの衣兜《かくし》に収め、革紐《かわひも》を附《つ》けたる竹根の鞭《むち》を執《と》りて、徐《しず》かに手綱を捌《さば》きつつ身構うるとき、一輛《りよう》の人力車ありて南より来たり、疾風のごとく馬車のかたわらを掠《かす》めて、瞬《またた》く間《ひま》に一点の黒影となり畢《おわ》んぬ。
美人はこれを望みて、
「おい小憎さん、腕車《くるま》よりおそいじゃないか」
奴のいまだ答えざるに先だちて、御者はきと面を抗《あ》げ、かすかになれる車の影を見送りて、
「吉公、てめえまた腕車より疾《はえ》えといったな」
奴は愛嬌《あいきよう》よく頭を掻《か》きて、
「ああ、言った。でもそう言わねえと乗らねえもの」
御者は黙して頷《うなず》きぬ。たちまち鞭の鳴るとともに、二頭の馬は高く嘶《いなな》きて一文字に跳《は》ね出《い》だせり。不意を吃《くら》いたる乗り合いは、座に堪《たま》らずしてほとんど転《まろ》び墜《お》ちなんとせり。奔馬《ほんば》は中《ちゆう》を駈《か》けて、見る見る腕車を乗っ越したり。御者はやがて馬の足掻《あが》きを緩《ゆる》め、渠に先を越させぬまでに徐々として進行しつ。
車夫は必死となりて、やわか後《おく》れじと焦《あせ》れども、馬車はさながら月を負いたる自家《おのれ》の影のごとく、一歩を進むるごとに一歩を進めて、追えども追えども先んじがたく、ようよう力衰え、息逼《せま》りて、今や殪《たお》れぬべく覚ゆるころ、高岡より一里を隔つる立野《たての》の駅に来たりぬ。
この街道《かいどう》の車夫は組合を設けて、建場建場に連絡を通ずるがゆえに、今この車夫が馬車に後《おく》れて、喘《あえ》ぎ喘ぎ走るを見るより、そこに客待ちせる夥間《なかま》の一人は、手に唾《つば》して躍《おど》り出で、
「おい、兄弟《きようでえ》しっかりしなよ。馬車の畜生どうしてくりよう」
やにわに対曳き《さしび*》の綱を梶棒《かじぼう》に投げ懸《か》くれば、疲れたる車夫は勢いを得て、
「ありがてえ! 頼むよ」
「合点《がつてん》だい!」
それと言うまま挽《ひ》き出だせり。二人の車夫は勇ましく相呼び相応《あいこた》えつつ、にわかに驚くべき速力をもて走りぬ。やがて町はずれの狭く急なる曲がりかどを争うと見えたりしが、人力車《くるま》は無二無三に突進して、ついに一歩を抽《ぬ》きけり。
車夫は諸声《いつせい》に凱歌《かちどき》を揚げ、勢いに乗じて二歩を抽き、三歩を抽き、ますます馳《は》せて、軽迅丸《たま》の跳《おど》るがごとく二、三間を先んじたり。
向者《さきのほど》は腕車を流眄《しりめ》に見て、いとも揚々たりし乗り合いの一人《いちにん》は、
「さあ、やられた!」と身を悶《もだ》えて騒げば、車中いずれも同感の色を動かして、力瘤《ちからこぶ》を握るものあり、地蹈《じだ》〓《たら》を踏むもあり、奴を叱《しつ》してしきりに喇叭《らつぱ》を吹かしむるもあり。御者は縦横に鞭を揮《ふる》いて、激しく手綱を掻《か》い繰れば、馬背の流汗滂沱《ぼうだ》として掬《きく》すべく、轡頭《くつわづら》に噛《は》み出《い》だしたる白泡《しろあわ》は木綿《きわた》の一袋もありぬべし。
かかるほどに車体は一上一下と動揺して、あるいは頓挫《とんざ》し、あるいは傾斜し、ただこれ風の落ち葉を捲《ま》き、早瀬の浮き木を弄《もてあそ》ぶに異ならず。乗り合いは前後に俯仰《ふぎよう》し、左右に頽《なだ》れて、片時《へんじ》も安き心はなく、今にもこの車顛覆《くつがえ》るか、ただしはその身投げ落とさるるか。いずれも怪我《けが》は免《のが》れぬところと、老いたるは震い慄《おのの》き、若きは凝瞳《すえまなこ》になりて、ただ一秒ののちを危ぶめり。
七、八町を競走して、幸いに別条なく、馬車は辛くも人力車を追い抽きぬ。乗り合いは思わず手を拍《う》ちて、車も撼《うご》くばかりに喝采《かつさい》せり。奴は凱歌《かちどき》の喇叭を吹き鳴らして、後《おく》れたる人力車を麾《さしまね》きつつ、踏み段の上に躍れり。ひとり御者のみは喜ぶ気色《けしき》もなく、意《こころ》を注ぎて馬を労《いたわ》り駈《か》けさせたり。
怪しき美人は満面に笑《え》みを含みて、起伏常ならざる席に安んずるを、隣たる老人は感に堪えて、
「おまえさんどうもお強い。よく血の道が発《おこ》りませんね。平気なものだ、女丈夫《おとこまさり》だ。私《わたし》なんぞはからきし意気地《いくじ》はない。それもそのはずかい、もう五十八だもの」
その言《ことば》の訖《お》わらざるに、車は凸凹道《でこぼこみち》を踏みて、がたくりんと跌《つまず》きぬ。老夫《おやじ》は横様に薙仆《なぎたお》されて、半ば禿《は》げたる法然頭《ほうねんあたま》はどっさりと美人の膝に枕《まくら》せり。
「あれ、あぶない!」
と美人はその肩をしかと抱《いだ》きぬ。
老夫はむくむく身を擡《もた》げて、
「へいこれは、これはどうもはばかり様。さぞお痛うございましたろう。御免なすってくださいましよ。いやはや、意気地はありません。これさ馬丁《べつとう》さんや、もし若い衆《しゆ》さん、なんと顛覆《ひつくりかえ》るようなことはなかろうの」
御者は見も返らず、勢籠《こ》めたる一鞭《べん》を加えて、
「わかりません。馬が跌きゃそれまででさ」
老夫は眼《め》を円《まる》くして狼狽《うろた》えぬ。
「いやさ、転《ころ》ばぬ前《さき》の杖だよ。ほんにお願いだ、気を着けておくれ。若い人と違って年老《としより》のことだ、放《ほう》り出されたらそれまでだよ。もういいかげんにして、徐々《やわやわ》とやってもらおうじゃないか。なんと皆さんどうでございます」
「船に乗れば船頭任せ。この馬車にお乗んなすった以上は、わたしに任せたものとして、安心しなければなりません」
「ええ途方もない。どうして安心がなるものか」
呆《あき》れはてて老夫は呟《つぶや》けば、御者ははじめて顧みつ。
「それで安心ができなけりゃ、御自分の脚《あし》で歩くです」
「はいはい。それは御深切に」
老夫は腹だたしげに御者の面《かお》を偸視《とうし》せり。
後れたる人力車は次の建場にてまた一人を増して、後押《あとお》しを加えたれども、なおいまだ逮《およ》ばざるより、車夫らはますます発憤して、悶《もだ》ゆる折から松並み木の中ほどにて、前面《むかい》より空車《からぐるま》を挽《ひ》き来たる二人の車夫に出会いぬ。行き違いさまに、綱曳《つなひ》きは血声《ちごえ》を振り立て、
「後生だい、手を仮《か》してくんねえか。あの瓦多《がた》馬車《*》の畜生、乗っ越さねえじゃ」
「こっとらの顔が立たねえんだ」と他の一箇《ひとり》は叫べり。
血気事を好む徒《てあい》は、応と言うがままにその車を道ばたに棄《す》てて、総勢五人の車夫は揉《も》みに揉んで駈けたりければ、二、三町ならずして敵に逐《お》い着き、しばらくは相並びて互いに一歩を争いぬ。
そのとき車夫はいっせいに吶喊《とつかん》して馬を駭《おど》ろかせり。馬は懾《おび》えて躍り狂いぬ。車はこれがために傾斜して、まさに乗り合いを振り落とさんとせり。
恐怖、叫喚、騒擾《そうじよう》、地震における惨状は馬車の中《うち》に顕《あら》われたり。冷々然たるはひとりかの怪しき美人のみ。
一身をわれに任せよと言いし御者は、風波に掀翻《きんぽん》せらるる汽船の、やがて千尋《ちひろ》の底に汨没《こつぼつ》せんずる危急に際して、蒸気機関はなお漾々《ようよう》たる穏波を截《き》ると異ならざる精神をもって、その職を竭《つ》くすがごとく、従容《しようよう》として手綱を操り、競走者に後《おく》れず前《すす》まず、隙《ひま》だにあらば一躍して乗っ越さんと、睨《にら》み合いつつ推し行くさまは、この道堪能《かんのう》の達者と覚しく、いと頼もしく見えたりき。
されども危急の際この頼もしさを見たりしは、わずかにくだんの美人あるのみなり。他はみな見苦しくも慌《あわ》て忙《ふため》きて、あまたの神と仏とは心々に祷《いの》られき。なおかの美人はこの騒擾の間、終始御者の様子を打ち瞶《まも》りたり。
かくて六箇《むつ》の車輪はあたかも同一《ひとつ》の軸にありて転ずるごとく、両々相並びて福岡《ふくおか*》というに着けり。ここに馬車の休憩所ありて、馬に飲《みずか》い、客に茶を売るを例とすれども、今日《きよう》ばかりは素通りなるべし、と乗り合いは心々に想《おも》いぬ。
御者はこの店頭《みせさき》に馬を駐《とど》めてけり。わが物得つと、車夫はにわかに勢いを増して、手を揮《ふ》り、声を揚《あ》げ、思うままに侮辱して駈け去りぬ。
乗り合いは切歯《はがみ》をしつつ見送りたりしに、車は遠く一団の砂煙《すなけぶり》に裹《つつ》まれて、ついに眼界のほかに失われき。
旅商人体《たびあきゆうどてい》の男は最も苛《いらだ》ちて、
「なんと皆さん、業肚《ごうはら》じゃございませんか。おとなげのないわけだけれど、こういう行き懸かりになってみると、どうも負けるのは残念だ。おい、馬丁《べつとう》さん、早く行《や》ってくれたまえな」
「それもそうですけれどもな、老者《おやじ》はまことにはやどうも。第一この疝《せん*》に障《さわ》りますのでな」
と遠慮がちに訴うるは、美人の膝枕せし老夫《おやじ》なり。馬は群がる蠅《はえ》と虻《あぶ》との中に優々と水飲み、奴は木蔭《こかげ》の床几《しようぎ》に大の字なりに僵《たお》れて、むしゃむしゃと菓子を吃《く》らえり。御者は框《かまち》に息《いこ》いて巻き莨《たばこ》を燻《くゆら》しつつ茶店の嚊《かか》と語《ものがた》りぬ。
「こりゃ急に出そうもない」と一人が呟《つぶや》けば、田舎《いなか》女房と見えたるがその前面《むかい》にいて、
「憎々しく落ち着いてるじゃありませんかね」
最初の発言者《はつごんしや》はますます堪えかねて、
「ときに皆さん、あのとおり御者も骨を折りましたんですから、お互い様にいくらか酒手を奮《はず》みまして、もう一骨折ってもらおうじゃございませんか。なにとぞ御賛成を願います」
渠は直ちに帯佩《おびさ》げの蟇口《がまぐち》を取り出して、中なる銭を撈《さぐ》りつつ、
「ねえあなた、ここでああ惰《なま》けられてしまった日には、仏造って魂入れずでさ、冗談じゃない」
やがて銅貨三銭をもって隗《かい》より始めつ《*》。帽子を脱ぎてその中に入れたるを、衆人《ひとびと》の前に差し出して、渠はあまねく義捐《ぎえん》を募れり。
あるいは勇んで躍り込みたる白銅《*》あり。あるいはしぶしぶ捨てられたる五厘もあり。ここの一銭、かしこの二銭、積もりて十六銭五厘とぞなりにける。
美人は片すみにありて、応募の最終なりき。隗の帽子は巡回して渠の前に着せるとき、世話人は辞《ことば》を卑《ひく》うして挨拶《あいさつ》せり。
「とんだお附《つ》き合いで、どうもおきのどく様でございます」
美人は軽《かろ》く会釈するとともに、その手は帯の間に入りぬ。小菊にて上包みせる緋塩瀬《ひしおぜ》の紙入れを開きて、渠はむぞうさに半円銀貨を投げ出だせり。
余所目《よそめ》に瞥《み》たる老夫はいたく驚きて面《かお》を背《そむ》けぬ、世話人は頭を掻《か》きて、
「いや、これは剰銭《おつり》が足りない。私もあいにく小《こま》かいのが……」
と腰なる蟇口に手を掛くれば、
「いいえ、いいんですよ」
世話人は呆《あき》れて叫びぬ。
「これだけ? 五十銭!」
これを聞ける乗り合いは、さなきだに、何者なるか、怪しき別品と目を着けたりしに、今この散財《きれはなれ》の婦女子《おんな》に似気なきより、いよいよ底気味悪く訝《いぶか》れり。
世話人は帽子を揺り動かして銭を鳴らしつつ、
「〆《しめ》て金六十六銭と五厘! たいしたことになりました。これなら馬は駈けますぜ」
御者はすでに着席して出発の用意せり。世話人は酒手を紙に包みて持ち行きつ。
「おい、若い衆さん、これは皆さんからの酒手だよ。六十六銭と五厘あるのだ。なにぶんひとつ奮発してね。頼むよ」
渠は気軽に御者の肩を拊《たた》きて、
「隊長、一晩遊べるぜ」
御者は流眄《ながしめ》に紙包みを見遣《みや》りて空嘯《そらうそぶ》きぬ。
「酒手で馬は動きません」
わずかに五銭六厘を懐《ふところ》にせる奴は驚きかつ惜しみて、有意的《こころありげ》に御者の面《おもて》を眺《なが》めたり。好意を無にせられたる世話人は腹立ちて、
「せっかく皆さんが下さるというのに、それじゃいらないんだね」
車は徐々として進行せり。
「戴《いただ》く因縁がありませんから」
「そんな生意気なことを言うもんじゃない。骨折り賃だ。まあ野暮を言わずに取っときたまえてことさ」
六十六銭五厘はまさに御者のポケットに闖入《ちんにゆう》せんとせり。渠は固《かた》く拒《こば》みて、
「思し召しはありがとうございますが、規定《きめ》の賃銭のほかに骨折り賃を戴く理由《わけ》がございません」
世話人は推し返されたる紙包みを持て扱いつつ、
「理由《わけ》も糸瓜《へちま》もあるものかな。お客が与《くれ》るというんだから、取っといたらいいじゃないか。こういうものを貰《もら》って済まないと思ったら、一骨折って今の腕車《くるま》を抽《ぬ》いてくれたまえな」
「酒手なんぞは戴かなくっても、十分骨は折ってるです」
世話人は冷笑《あざわら》いぬ。
「そんなりっぱな口を〓《き》いたって、約束が違や世話はねえ」
御者はきと振り顧《かえ》りて、
「なんですと?」
「この馬車は腕車より迅《はや》いという約束だぜ」
儼然《げんぜん》として御者は答えぬ。
「そんなお約束はしません」
「おっと、そうは言わせない。なるほど私たちにはしなかったが、この姉《ねえ》さんにはどうだい。六十六銭五厘のうち、一人で五十銭の酒手をお出しなすったのはこのかただよ。あの腕車より迅く行ってもらおうと思やこそ、こうして莫大《ばくだい》な酒手も奮《はず》もうというのだ。どうだ、先生、恐れ入ったか」
鼻蠢《うごめ》かして世話人は御者の背《そびら》を指もて撞《つ》きぬ。渠は一言《いちごん》を発せず、世話人はすこぶる得意なりき。美人は戯るるがごとくに詰《なじ》れり。
「馬丁さん、ほんとに約束だよ、どうしたってんだね」
なお渠は緘黙《かんもく》せり。その脣《くちびる》を鼓動すべき力は、渠の両腕に奮いて、馬蹄《ばてい》たちまち高く挙《あ》ぐれば、車輪はその輻《やぼね》の見るべからざるまでに快転せり。乗り合いは再び地上の瀾《なみ》に盪《ゆ》られて、浮沈の憂《う》き目に遭《あ》いぬ。
縦騁《しようてい*》五分間ののち、前途はるかに競走者の影を認め得たり。しかれども時遅れたれぱ、容易に追迫すべくもあらざりき。しこうして到着地なる石動《いするぎ》はもはや間近になれり。今にして一躍のもとに乗り越さずんば、ついに失敗《おくれ》を取らざるを得ざるべきなり。憐《あわ》れむべし過度の馳《ち》〓《ぶ*》に疲れ果てたる馬は、力なげに俛《た》れたる首を聯《なら》べて、策《う》てども走れども、足は重りて地を離れかねたりき。
何思いけん、御者は地上に下り立ちたり。乗り合いはこはそもいかにと見る間に、渠は手早く、一頭の馬を解き放ちて、
「姉さん済みませんが、ちょっと下りてください」
乗り合いは顔を見合わせて、この謎《なぞ》を解くに苦しめり。美人は渠の言うがままに車を下れば、
「どうかこちらへ」と御者はおのれの立てる馬のそばに招きぬ。美人はますますその意を得ざれども、なお渠の言うがままに進み寄りぬ。御者はものをも言わず美人を引っ抱えて、ひらりと馬に跨《またが》りたり。
魂消《たまげ》たるは乗り合いなり。乗り合いは実に魂消たるなり。渠らは千体仏《*》のごとく面《おもて》を鳩《あつ》め、あけらかんと頤《おとがい》を垂《た》れて、おそらくは画《え》にも観《み》るべからざるこの不思議の為体《ていたらく》に眼《め》を奪われたりしに、その馬は奇怪なる御者と、奇怪なる美人と、奇怪なる挙動《ふるまい》とを載せてましぐらに馳《は》せ去りぬ。車上の見物はようやくわれに復《かえ》りて響動《どよ》めり。
「いったいどうしたんでしょう」
「まず乗せ逃げとでもいうんでしょう」
「へえ、なんでございます」
「客の逃げたのが乗り逃げ。御者のほうで逃げたのだから乗せ逃げでしょう」
例の老夫は頭を掉《ふ》り掉り呟《つぶや》けり。
「いや洒落《しやれ》どころか。こりゃ、まあどうしてくれるつもりだ」
不審の眉《まゆ》を攅《あつ》めたる前《さき》の世話人は、腕を拱《こまぬ》きつつ座中を〓《みまわ》して、
「皆さん、なんと思し召す? こりゃ尋常事《ただごと》じゃありませんぜ。ばかを見たのはわれわれですよ。全く駈《か》け落ちですな。どうもあの女がさ、尋常《ただ》の鼠《ねずみ》じゃあんめえ《*》と睨《にら》んでおきましたが、こりゃあまさにそうだった。しかしいい女だ」
「私は急ぎの用を抱《かか》えている身《からだ》だから、こうして安閑《あんかん》としてはいられない。なんとこの小僧に頼んで、一匹の馬で遣《や》ってもらおうじゃございませんか。ばかばかしい、銭を出して、あの醜態《ざま》を見せられて、置き去りを吃《く》うやつもないものだ」
「全くそうでございますよ。ほんとに巫山戯《ふざけ》た真似をする野郎だ。小僧早く遣ってくんな」
奴《やつこ》は途方に暮れて、曩《さき》より車の前後に出没したりしが、
「どうもおきのどく様です」
「おきのどく様は知れてらあ。いつまでこうしておくんだ。早く遣ってくれ、遣ってくれ!」
「私にはまだよく馬が動きません」
「活《い》きてるものの動かないという法があるものか」
「臀部《けつつぺた》を引っ撲《ぱた》け引っ撲け」
奴は苦笑いしつつ、
「そんなことを言ったっていけません。二頭曳《び》きの車ですから、馬が一匹じゃ遣り切れません」
「そんならここで下りるから銭を返してくれ」
腹立つ者、無理言う者、呟く者、罵《ののし》る者、迷惑せる者、乗り合いの不平は奴の一身に湊《あつ》まれり。渠はさんざんに苛《さいな》まれてついに涙ぐみ、身の措《お》き所に窮して、辛くも車の後《あと》に竦《すく》みたりき。乗り合いはますます躁《さわ》ぎて、敵手《あいて》なき喧嘩《けんか》に狂いぬ。
御者は真一文字に馬を飛ばして、雲を霞《かすみ》と走りければ、美人は魂身に添わず、目を閉じ、息を凝らし、五体を縮めて、力の限り渠の腰に縋《すが》りつ。風は〓《しゆう》々《しゆう》と両腋《りようえき》に起こりて毛髪竪《た》ち、道はさながら河《かわ》のごとく、濁流脚下に奔注《ほんちゆう》して、身はこれ虚空を転《まろ》ぶに似たり。
渠は実に死すべしと念《おも》いぬ。しだいに風歇《や》み、馬駐《とど》まると覚えて、直ちに昏倒《こんとう》して正気《しようき》を失いぬ。これ御者が静かに馬より扶《たす》け下ろして、茶店の座敷に舁《か》き入れたりしときなり。渠はこの介抱を主《あるじ》の嫗《おうな》に嘱《たの》みて、その身は息をも継《つ》かず再び羸馬《るいば》に策《むちう》ちて、もと来し路《みち》を急ぎけり。
ほどなく美人は醒《さ》めて、こは石動の棒端《ぼうばな》なるを覚《さと》りぬ。御者はすでにあらず。渠はその名を嫗に訊《たず》ねて、金さんなるを知りぬ。その為人《ひととなり》を問えば、方正謹厳、その行ないを質《ただ》せば学問好き。
金沢なる浅野川の磧《かわら》は、宵々ごとに納涼の人出のために熱了せられぬ。この節を機として、諸国より入り込みたる野師らは、磧も狭しと見世物小屋を掛け聯《つら》ねて、猿芝居《さるしばい》、娘軽業《かるわざ》、山雀《やまがら》の芸当、剣の刃渡り、活《い》き人形、名所の覗《のぞ》き機関《からくり》、電気手品、盲人《めくら》相撲《ずもう》、評判の大蛇《だいじや》、天狗《てんぐ》の骸骨《がいこつ》、手なし娘、子供の玉乗りなどいちいち数うるに遑《いとま》あらず。
なかんずく大評判、大当たりは、滝の白糸が水芸《みずげい》なり。太夫《たゆう》滝の白糸は妙齢十八、九の別品にて、その技芸は容色と相称《あいかな》いて、市中の人気山のごとし。されば他はみな晩景の開場なるにかかわらず、これのみひとり昼夜二回の興行ともに、その大入りは永当《えいとう》たり。
時まさに午後一時、撃柝《げきたく》一声、囃子《はやし》は鳴りを鎮《しず》むるとき、口上は渠《かれ》がいわゆる不弁舌なる弁を揮《ふる》いて前口上を陳《の》べ了《お》われば、たちまち起こる緩絃《かんげん》朗笛の節《せつ》を履《ふ》みて、静々歩み出でたるは、当座の太夫元滝の白糸、高島田に奴元結《やつこもとゆ》い掛けて、脂粉こまやかに桃花の媚《こ》びを粧《よそお》い、朱鷺《とき》色縮緬《ちりめん》の単衣《ひとえ》に、銀糸の浪《なみ》の刺繍《ぬい》ある水色絽《ろ》の〓《かみ》〓《しも》を着けたり。渠はしとやかに舞台よき所に進みて、一礼を施せば、待ち構えたりし見物は声々に喚《わめ》きぬ。
「いよう、待ってました大明神《だいみようじん》様!」
「あでやかあでやか」
「ようよう金沢暴《あら》し!」
「ここな命取り!」
喝采《やんや》の声のうちに渠は徐《しず》かに面《おもて》を擡《もた》げて、情を含みて浅笑せり。口上は扇を挙《あ》げて一咳《いちがい》し、
「東西! お目通りに控えさせましたるは、当座の太夫元滝の白糸にござりまする。お目見え相済みますれば、さっそくながら本芸に取り掛からせまする。最初腕調《こてしら》べとして御覧に入れまするは、露に蝶《ちよう》の狂いを象《かたど》りまして、(花野の曙《あけぼの》)。ありゃ来た、よいよいよいさて」
さて太夫はなみなみ水を盛りたるコップを左手《ゆんで》に把《と》りて、右手《めて》には黄白《こうはく》二面の扇子を開き、やと声発《か》けて交互《いれちがい》に投げ上ぐれば、露を争う蝶一双《ひとつ》、縦横上下に逐《お》いつ、逐われつ、雫《しずく》も滴《こぼ》さず翼も息《やす》めず、太夫の手にも住《とど》まらで、空に文《あや》織る練磨《れんま》の手術、今じゃ今じゃと、木戸番は濁声《だみごえ》高く喚《よば》わりつつ、外面《おもて》の幕を引き揚《あ》げたるとき、演芸中の太夫はふと外《と》の方《かた》に眼を遣《や》りたりしに、何にか心を奪われけん、はたとコップを取り落とせり。
口上は狼狽《ろうばい》して走り寄りぬ。見物はその為損《しそん》じをどっと囃《はや》しぬ。太夫は受け住《と》めたる扇を手にしたるまま、その瞳《ひとみ》をなお外の方に凝らしつつ、つかつかと土間に下りたり。
口上はいよいよ狼狽して、為《せ》ん方を知らざりき。見物は呆《あき》れ果てて息を斂《おさ》め、満場斉《ひと》しく頭《こうべ》を回《めぐ》らして太夫の挙動《ふるまい》を打ち瞶《まも》れり。
白糸は群れいる客を推し排《わ》け、掻《か》き排け、
「御免あそばせ、ちょいと御免あそばせ」
あわただしく木戸口《*》に走り出で、項《うなじ》を延べて目送せり。その視線中に御者体の壮佼《わかもの》あり。
何事や起こりたると、見物は白糸の踵《あと》より、どろどろと乱れ出ずる喧擾《ひしめき》に、くだんの男は振り返りぬ。白糸ははじめてその面《おもて》を見るを得たり。渠は色白く瀟洒《いなせ》なりき。
「おや、違ってた!」
かく独語《ひとりご》ちて、太夫はすごすご木戸を入りぬ。
夜《よ》はすでに十一時に近づきぬ。磧《かわら》は凄涼《せいりよう》として一箇《ひとり》の人影《じんえい》を見ず、天高く、露気《ろき》ひややかに、月のみぞひとり澄めりける。
熱鬧《ねつとう》を極《きわ》めたりし露店はことごとく形を斂《おさ》めて、ただここかしこに見世物小屋の板囲いを洩《も》るる燈火《ともしび》は、かすかに宵のほどの名残《なごり》を留《とど》めつ。河《かわ》は長く流れて、向山《むこうやま*》の松風静かに度《わた》る処《ところ》、天神橋《*》の欄干に靠《もた》れて、うとうとと交睫《まどろ》む漢子《おのこ》あり。
渠《かれ》は山に倚《よ》り、水に臨み、清風を担《にな》い、明月を戴《いただ》き、了然たる一身、蕭然《しようぜん》たる四境、自然の清福を占領して、いと心地よげに見えたりき。
折から磧の小屋より顕《あら》われたる婀娜者《あだもの》あり。紺絞りの首抜きの浴衣《ゆかた*》を着て、赤毛布《ゲツト*》を引き絡《まと》い、身を持て余したるがごとくに歩みを運び、下駄《げた》の爪頭《つまさき》に戞々《かつかつ》と礫《こいし》を蹴遣《けや》りつつ、流れに沿いて逍遥《さまよ》いたりしが、瑠璃《るり》色に澄み渡れる空を打ち仰ぎて、
「ああ、いいお月夜だ。寝るには惜しい」
川風はさっと渠の鬢《びん》を吹き乱せり。
「ああ、薄ら寒くなってきた」
しかと毛布《ケツト》を絡《まと》いて、渠はあたりを〓《みまわ》しぬ。
「人っ子一人いやしない。なんだ、ほんとに、暑いときはわあわあ騒いで、涼しくなる時分には寝てしまうのか。ふふ、人間というものはいこじなもんだ。涼むんならこういうときじゃないか。どれ、橋の上へでも行ってみようか。人さえいなけりゃ、どこでもいい景色《けしき》なもんだ」
渠は再び徐々として歩を移せり。
この女は滝の白糸なり。渠らの仲間は便宜上旅籠《はたご》を取らずして、小屋を家とせるもの寡《すく》なからず。白糸も然《さ》なり。
やがて渠は橋に来りぬ。吾妻下駄《あずまげた》の音は天地の寂黙《せきもく》を破りて、からんころんと月に響けり。渠はその音の可愛《おかし》さに、なおしいて響かせつつ、橋の央《なかば》近く来たれるとき、やにわに左手《ゆんで》を抗《あ》げてその高髷《たかまげ*》を攫《つか》み、
「ええもう重っ苦しい。ちょっうるせえ!」
暴々《あらあら》しく引き解《ほど》きて、手早くぐるぐる巻きにせり。
「ああこれで清々した。二十四にもなって高島田に厚化粧でもあるまい」
かくて白糸は水を聴《き》き、月を望み、夜色の幽静を賞して、ようやく橋の半ばを過ぎぬ。渠はたちまちのんきなる人の姿を認めぬ。何者かこれ、天地を枕衾《ちんきん》として露下月前に快眠せる漢子《おのこ》は、数歩のうちにありていびきを立てつ。
「おや! いい気なものだよ。だれだい、新じゃないか」
囃子方《はやしかた》に新という者あり。宵より出《い》でていまだ小屋に還《かえ》らざれば、それかと白糸は間近に寄りて、男の寝顔を〓《のぞ》きたり。
新はいまだかくのごとくのんきならざるなり。渠ははたして新にはあらざりき。新の相貌《そうぼう》はかくのごとく威儀あるものにあらざるなり。渠は千の新を合わせて、なおかつ勝《まさ》ること千の新なるべき異常の面魂《つらだましい》なりき。
その眉《まゆ》は長くこまやかに、睡《ねむ》れる眸子《まなじり》も凛如《りんじよ》として、正しく結びたる脣《くちびる》は、夢中も放心せざる渠が意気の俊爽《しゆんそう》なるを語れり。漆のごとき髪はやや生《お》いて、広き額《ひたい》に垂《た》れたるが、吹き揚ぐる川風に絶えず戦《そよ》げり。
つくづく視《なが》めたりし白糸はたちまち色を作《な》して叫びぬ。
「あら、まあ! 金さんだよ」
欄干に眠れるはこれ余人ならず、例の乗り合い馬車の馭者《ぎよしや》なり。
「どうして今時分こんなところにねえ」
渠は跫音《あしおと》を忍びて、再び男に寄り添いつつ、
「ほんとに罪のない顔をして寝ているよ」
恍惚《こうこつ》として瞳《ひとみ》を凝らしたりしが、にわかにおのれが絡《まと》いし毛布《ケツト》を脱ぎて被《き》せ懸《か》けたれども、馭者は夢にも知らで熟睡《うまいね》せり。
白糸は欄干に腰を憩《やす》めて、しばらくなすこともあらざりしが、突然声を揚げて、
「ええひどい蚊だ」膝《ひざ》のあたりをはたと拊《う》てり。この音にや驚きけん、馭者は眼覚《めさ》まして、叭《あくび》まじりに、
「ああ、寝た。もう何時《なんどき》か知らん」
思い寄らざりしわがかたわらに媚《なま》めける声ありて、
「もうかれこれ一時ですよ」
馭者は愕然《がくぜん》として顧みれば、わが肩に見覚えぬ毛布《ケツト》ありて、深夜の寒を護《まも》れり。
「や、毛布を着せてくだすったのは? あなた? でございますか」
白糸は微笑《えみ》を含みて、呆《あき》れたる馭者の面《おもて》を視《み》つつ、
「夜露に打たれると体《からだ》の毒ですよ」
馭者は黙して一礼せり。白糸はうれしげに身を進めて、
「あなた、その後は御機嫌《ごきげん》よう」
いよいよ呆《あき》れたる馭者は少しく身を退《すさ》りて、仮初《かりそめ》ながら、狐狸変化《こりへんげ》のものにはあらずやと心ひそかに疑えり。月を浴びてものすごきまで美しき女の顔を、無遠慮に打ち眺《なが》めたる渠の眼色《めざし》は、顰《ひそ》める眉の下より異彩を放てり。
「どなたでしたか、いっこう存じません」
白糸は片頬笑《かたほえ》みて、
「あれ、情なしだねえ。私は忘れやしないよ」
「はてな」と馭者は首《こうべ》を傾けたり。
「金さん」と女はなれなれしく呼びかけぬ。
馭者はいたく驚けり。月下の美人生面《せいめん》にしてわが名を識《し》る。馭者たる者だれか驚かざらんや。渠は実にいまだかつて信ぜざりし狐狸《こり》の類にはあらずや、と心はじめて惑いぬ。
「おまえさんはよっぽど情なしだよ。自分の抱いた女を忘れるなんということがあるものかね」
「抱いた? 私が?」
「ああ、おまえさんに抱かれたのさ」
「どこで?」
「いい所《とこ》で!」
袖《そで》を掩《おお》いて白糸は嫣然《えんぜん》一笑せり。
馭者は深く思案に暮れたりしが、ようよう傾けし首《こうべ》を正して言えり。
「抱いた記憶《おぼえ》はないが、なるほどどこかで見たようだ」
「見たようだもないもんだ。高岡から馬車に乗ったとき、人力車と競走《かけつくら》をして、石動《いするぎ》手前からおまえさんに抱かれて、馬上《うま》の合い乗りをした女さ」
「おお! そうだ」横手《よこで》を拍《う》ちて、馭者は大声《たいせい》を発せり、白糸はその声に驚かされて、
「ええびっくりした。ねえおまえさん、覚えておいでだろう」
「うむ、覚えとる。そうだった、そうだった」
馭者は脣辺《しんぺん》に微笑を浮かべて、再び横手を拍てり。
「でも言われるまで憶《おも》い出さないなんざあ、あんまり不実すぎるのねえ」
「いや、不実というわけではないけれど、毎日何十人という客の顔を、いちいち覚えていられるものではない」
「それはごもっともさ。そうだけれども、馬上《うま》の合い乗りをするお客は毎日はありますまい」
「あんなことが毎日あられてたまるものか」
二人は相見て笑いぬ。ときに数杵《すうしよ》の鐘声遠く響きて、月はますます白く、空はますます澄めり。
白糸はあらためて馭者に向かい、
「おまえさん、金沢へは何日《いつ》、どうしてお出でなすったの?」
四顧寥廓《しこりようかく》として、ただ山水と明月とあるのみ。〓《りよう》戻《れい》たる天風《てんぷう》はおもむろに馭者の毛布《ケツト》を飄《ひるがえ》せり。
「実はあっちを浪人してね……」
「おやまあ、どうして?」
「これも君ゆえさ」と笑えば、
「御冗談もんだよ」と白糸は流眄《ながしめ》に見遣《みや》りぬ。
「いや、それはともかくも、話説《はなし》をせんけりゃ解《わか》らん」
馭者は懐裡《ふところ》を捜《さぐ》りて、油紙の蒲簀莨入れ《かますたばこい*》を取り出だし、いそがわしく一服を喫して、直ちに物語の端を発《ひら》かんとせり。白糸は渠が吸い殻を撃《はた》くを待ちて、
「済みませんが、一服貸してくださいな」
馭者は言下《ごんか》に莨入れとマッチとを手渡して、
「煙管《きせる》が壅《つま》ってます」
「いいえ、結構」
白糸は一吃《いつきつ》を試みぬ。はたしてその言《ことば》のごとく、煙管は不快《こころわろ》き脂《やに》の音のみして、煙《けむり》の通うこと縷《いとすじ》よりわずかなり。
「なるほどこれは壅《つま》ってる」
「それで吸うにはよっぽど力が要《い》るのだ」
「ばかにしないねえ」
美人は紙縷《こより》を撚《ひね》りて、煙管を通し、溝泥《どぶどろ》のごとき脂に面《おもて》を皺《しわ》めて、
「こら! 御覧な、無性《ぶしよう》だねえ。おまえさん寡夫《やもめ》かい」
「もちろん」
「おや、もちろんとは御挨拶《ごあいさつ》だ。でも、情婦《いろ》の一人や半分《はんぶん》はありましょう」
「ばかな!」と馭者は一喝《いつかつ》せり。
「じゃないの?」
「知れたこと」
「ほんとに?」
「くどいなあ」
渠はこの問答を忌まわしげに空嘯《そらうそぶ》きぬ。
「おまえさんの壮年《とし》で、独身《ひとりみ》で、情婦がないなんて、ほんとに男子《おとこ》の恥辱《はじ》だよ。私が似合わしいのを一人世話してあげようか」
馭者は傲然《ごうぜん》として、
「そんなものは要《い》らんよ」
「おや、御免なさいまし。さあ、お掃除《そうじ》ができたから、一服戴《いただ》こう」
白糸はまず二服を吃《きつ》して、三服目を馭者に、
「あい、上げましょう」
「これはありがとう。ああよく通ったね」
「また壅《つま》ったときは、いつでも持ってお出でなさい」
大口開《あ》いて馭者は心快《こころよ》げに笑えり。白糸は再び煙管を仮《か》りて、のどかに烟《けぶり》を吹きつつ、
「今の顛末《はなし》というのを聞かしてくださいな」
馭者は頷《うなず》きて、立てりし態《すがた》を変えて、斜めに欄干に倚《よ》り、
「あのとき、あんな乱暴を行《や》って、とうとう人力車を乗っ越したのはよかったが、きゃつらはあれを非常に口惜《くや》しがってね、会社へむずかしい掛け合いを始めたのだ」
美人は眉《まゆ》を昂《あ》げて、
「なんだってまた?」
「何もかにも理窟《りくつ》なんぞはありゃせん。あの一件を根に持って、喧嘩《けんか》を仕掛けに来たのさね」
「うむ、生意気な! どうしたい?」
「相手になると、事がめんどうになって、実は双方とも商売のじゃまになるのだ。そこで、会社のほうでは穏便《おんびん》がいいというので、むろん片手落ちの裁判だけれど、私が因果を含められて、雇を解かれたのさ」
白糸は身に沁《し》む夜風にわれとわが身を抱《いだ》きて、
「まあ、おきのどくだったねえ」
渠は慰むる語《ことば》なきがごとき面色《おももち》なりき。馭者は冷笑《あざわら》いて、
「なあに、高が馬方だ」
「けれどもさ、まことにおきのどくなことをしたねえ、いわば私のためだもの」
美人は愁然として腕を拱《こまぬ》きぬ。馭者はまじめに、
「その代わり煙管の掃除をしてもらった」
「あら、冗談じゃないよ、この人は。そうしておまえさんこれからどうするつもりなの?」
「どうといって、やっぱり食う算段さ。高岡に彷徨《ぶらつ》いていたって始まらんので、金沢には士官がいるから、馬丁《べつとう》の口でもあるだろうと思って、探《さが》しに出て来た。今日《きよう》も朝から一日奔走《かけある》いたので、すっかり憊《くたび》れてしまって、晩方一風呂入《ひとつぷろはい》ったところが、暑くて寝られんから、ぶらぶら納涼《すずみ》に出掛けて、ここで月を観《み》ていたうちに、いい心地《こころもち》になって睡《ね》こんでしまった」
「おや、そう。そうして口はありましたか」
「ない!」と馭者は頭《かしら》を掉《ふ》りぬ。
白糸はしばらく沈吟したりしが、
「あなた、こんなことを申しちゃ生意気だけれど、お見受け申したところが、馬丁なんぞをなさるような御人体じゃないね」
馭者は長嘆せり。
「生得《うまれ》からの馬丁でもないさ」
美人は黙して頷《うなず》きぬ。
「愚痴《ぐち》じゃあるが、聞いてくれるか」
わびしげなる男の顔をつくづく視《なが》めて、白糸は渠の物語るを待てり。
「私は金沢の士族だが、少し仔細《しさい》があって、幼少《ちいさい》ころに家《うち》は高岡へ引っ越したのだ。そののち私一人金沢へ出て来て、ある学校へ入っているうち、阿爺《おやじ》に亡《な》くなられて、ちょうど三年前だね、余儀なく中途で学問は廃止《やめ》さ。それから高岡へ還《かえ》ってみると、その日から稼《かせ》ぎ人というものがないのだ。私が母親を過ごさにゃならんのだ。何を言うにも、まだ書生中の体《からだ》だろう、食うほどの芸はなし、実は弱ったね。亡父《おやじ》は馬の家じゃなかったけれど、大の所好《すき》で、馬術では藩で鳴らしたものだそうだ。それだから、私も小児《こども》の時分稽古《けいこ》をして、少しは所得《おぼえ》があるので、馬車会社へ住み込んで、馭者となった。それでまず活計《くらし》を立てているという、まことに愧《は》ずかしい次第さ。しかし、私だってまさか馬方で果てる了簡《りようけん》でもない、目的も希望《のぞみ》もあるのだけれど、ままにならぬが浮き世かね」
渠は茫々《ぼうぼう》たる天を仰ぎて、しばらく悵然《ちようぜん》たりき。その面上《おもて》にはいうべからざる悲憤の色を見たり。白糸は情に勝《た》えざる声音《こわね》にて、
「そりゃあ、もうだれしも浮き世ですよ」
「うむ、まあ、浮き世とあきらめておくのだ」
「今おまえさんのおっしゃった希望《のぞみ》というのは、私たちには聞いても解《わか》りはしますまいけれど、なんぞ、その、学問のことでしょうね?」
「そう、法律という学問の修行さ」
「学問をするなら、金沢なんぞより東京のほうがいいというじゃありませんか」
馭者は苦笑いして、
「そうとも」
「それじゃいっそ東京へお出でなさればいいのにねえ」
「行けりゃ行くさ。そこが浮き世じゃないか」
白糸は軽《かろ》く小膝《ひざ》を拊《う》ちて、
「黄金《かね》の世の中ですか」
「地獄の沙汰《さた》さえ、なあ」
再び馭者は苦笑いせり。
白糸は事もなげに、
「じゃあなた、お出《い》でなさいな、ねえ、東京へさ。もし、腹を立っちゃいけませんよ、失礼だが、私が仕送ってあげようじゃありませんか」
深沈なる馭者の魂も、このとき跳《おど》るばかりに動《ゆらめ》きぬ。渠は驚くよりむしろ呆れたり。呆るるよりむしろ慄《おのの》きたるなり。渠は色を変えて、この美しき魔性《ましよう》のものを睨《ね》めたりけり。さきに半円の酒銭《さかて》を投じて、他の一銭よりも吝《お》しまざりしこの美人の胆《たん》は、拾人の乗り合いをしてそぞろに寒心せしめたりき。銀貨一片に〓《とう》目《もく》せし乗り合いよ、君らをして今夜天神橋上の壮語を聞かしめなば、肝胆たちまち破れて、血は耳に迸出《ほとばし》らん。花顔柳腰の人、そもそもなんじは狐狸《こり》か、変化《へんげ》か、魔性か。おそらくは〓《えん》脂《し》の怪物なるべし。またこれ一種の魔性たる馭者だも驚きかつ慄けり。
馭者は美人の意《こころ》をその面《おもて》に読まんとしたりしが、能《あた》わずしてついに呻《うめ》き出だせり。
「なんだって?」
美人も希有《けう》なる面色《おももち》にて反問せり。
「なんだってとは?」
「どういうわけで」
「わけも何もありはしない、ただおまえさんに仕送りがしてみたいのさ」
「酔興な!」と馭者はその愚に唾《つば》するがごとく独語《ひとりご》ちぬ。
「酔興さ。私も酔興だから、おまえさんも酔興に一番《ひとつ》私の志を受けてみる気はなしかい。ええ、金さん、どうだね」
馭者はしきりに打ち案じて、とこうの分別に迷いぬ。
「そんなに慮《かんが》えることはないじゃないか」
「しかし、縁も由縁《ゆかり》もないものに……」
「縁というものも始めは他人どうし。ここでおまえさんが私の志を受けてくだされば、それがつまり縁になるんだろうじゃありませんかね」
「恩を受ければ報《かえ》さんければならぬ義務がある。その責任が重いから……」
「それで断わるとお言いのかい。なんだねえ、報恩《おんがえし》ができるの、できないのと、そんなことを苦にするおまえさんでもなかろうじゃないか。私だって泥坊に伯父《おじ》さんがあるのじゃなし、知りもしない人を捉《つかま》えて、やたらにお金を貢《みつ》いでたまるものかね。私はおまえさんだから貢いでみたいのさ。いくらいやだとお言いでも、私は貢ぐよ。後生《ごしよう》だから貢がしてくださいよ。ねえ、いいでしょう、いいよう! うんとお言いよ。構うものかね、遠慮も何も要《い》るものじゃない。私はおまえさんの希望《のぞみ》というのが〓《かな》いさえすれば、それでいいのだ。それが私への報恩《おんがえし》さ、いいじゃないか。私はおまえさんはきっとりっぱな人物《ひと》になれると想《おも》うから、ぜひりっぱな人物にしてみたくってたまらないんだもの。後生だから早く勉強して、りっぱな人物になってくださいよう」
その音柔媚《おんじゆうび》なれども言々風霜を挟《さしはさ》みて、凜《りん》たり、烈たり。馭者は感奮して、両眼に熱涙を浮かべ、
「うん、せっかくのお志だ。御恩に預かりましょう」
渠は襟《きん》を正して、うやうやしく白糸の前に頭《かしら》を下げたり。
「なんですねえ、いやに改まってさ。そう、そんなら私の志を受けてくださるの?」
美人は喜色満面に溢《あふ》るるばかりなり。
「お世話になります」
「いやだよ、もう金さん、そんなていねいな語《ことば》を遣《つか》われると、私は気が逼《つま》るから、やっぱり書生言葉を遣ってくださいよ。ほんとに凜々《りり》しくって、私は書生言葉《*》は大好きさ」
「恩人に向かって済まんけれども、それじゃぞんざいな言葉を遣おう」
「ああ、それがいいんですよ」
「しかしね、ここに一つ窮《こま》ったのは、私が東京へ行ってしまうと、母親がひとりで……」
「それは御心配なく。及ばずながら私がね……」
馭者は夢みる心地《ここち》しつつ耳を傾けたり。白糸は誠を面《おもて》に露《あら》わして、
「きっとお世話をしますから」
「いや、どうも重ね重ね、それでは実に済まん。私もこの報恩《おんがえし》には、おまえさんのために力の及ぶだけのことはしなければならんが、何かお所望《のぞみ》はありませんか」
「だからさ、私の所望はおまえさんの希望が〓《かな》いさえすれば……」
「それはいかん! 自分の所望《のぞみ》を遂げるために恩を受けて、その望みを果たしたで、報恩《おんがえし》になるものではない。それはただ恩に対するところのわが身だけの義務というもので、けっして恩人に対する義務ではない」
「でも私が承知ならいいじゃありませんかね」
「いくらおまえさんが承知でも、私が不承知だ」
「おや、まあ、いやにむずかしいのね」
かく言いつつ美人は微笑《ほほえ》みぬ。
「いや、理窟《りくつ》を言うわけではないがね、目的を達するのを報恩《おんがえし》といえば、乞食《こじき》も同然だ。乞食が銭をもらう、それで食っていく、渠らの目的は食うのだ。食っていけるからそれが方々で銭を乞《もら》った報恩《おんがえし》になるとはいわれまい。私は馬方こそするが、まだ乞食はしたくない。もとよりお志は受けたいのは山々だ。どうか、ねえ、受けられるようにして受けさしてください。すれば、私は喜んで受ける。さもなければ、せっかくだけれどお断わり申そう」
とみには返す語《ことば》もなくて、白糸は頭《かしら》を低《た》れたりしが、やがて馭者の面《おもて》を見るがごとく見ざるがごとく〓《うかが》いつつ、
「じゃ言いましょうか」
「うん、承ろう」と男はやや容《かたち》を正せり。
「ちっと羞《は》ずかしいことさ」
「なんなりとも」
「諾《き》いてくださるか。いずれおまえさんの身に適《かな》ったことじゃあるけれども」
「一応聴《き》いた上でなければ、返事はできんけれど、身に適ったことなら、ずいぶん諾くさ」
白糸は鬢《びん》の乱《おく》れを掻《か》き上げて、いくぶんの赧羞《はずか》しさを紛らわさんとせり。馭者は月に向かえる美人の姿の輝くばかりなるを打ち瞶《まも》りつつ、固唾《かたず》を嚥《の》みてその語るを待てり。白糸は始めに口籠《くちご》もりたりしが、直ちに心を定めたる気色《けしき》にて、
「処女《きむすめ》のように羞《は》ずかしがることもない、いい婆《ばばあ》のくせにさ。私の所望《のぞみ》というのはね、おまえさんにかわいがってもらいたいの」
「ええ!」と馭者は鋭く叫びぬ。
「あれ、そんなこわい顔をしなくったっていいじゃありませんか。何も内君《おかみさん》にしてくれと言うんじゃなし。ただ他人らしくなく、生涯《しようがい》親類のようにして暮らしたいと言うんでさね」
馭者は遅疑せず、渠の語るを追いて潔く答えぬ。
「よろしい。けっしてもう他人ではない」
涼しき眼《め》と凛々しき眼とは、無量の意を含みて相合えり。渠らは無言の数秒の間に、不能語、不可説なる至微至妙の霊語を交えたりき。渠らが十年語りて尽くすべからざる心底の磅《ほう》〓《はく》は、実にこの瞬息において神会黙契されけるなり。ややありて、まず馭者は口を開きぬ。
「私は高岡の片原町《かたはらまち》で、村越欣弥《むらこしきんや》という者だ」
「私は水島友といいます」
「水島友? そうしてお宅は?」
白糸ははたと語《ことば》に塞《つま》りぬ。渠は定まれる家のあらざればなり。
「お宅はちっと窮《こま》ったねえ」
「だって、家《うち》のないものがあるものか」
「それがないのだからさ」
天下に家なきは何者ぞ。乞食《こつじき》の徒といえども、なおかつ雨露を凌《しの》ぐべき蔭《かげ》に眠らずや。世上の例《ならい》をもってせば、この人まさに金屋に入り、瑶輿《たまのこし》に乗るべきなり。しかるを渠は無宿《やどなし》と言う。その行ないすでに奇にして、その心また奇なりといえども、いまだこの言の奇なるには如《し》かず、と馭者は思えり。
「それじゃどこにいるのだ」
「あすこさ」と美人は磧《かわら》の小屋を指させり。
馭者はそなたを望みて、
「あすことは?」
「見世物小屋さ」と白糸は異様の微笑《えみ》を含みぬ。
「ははあ、見世物小屋とは異《かわ》っている」
馭者は心ひそかに驚きたるなり。渠はもとよりこの女をもって良家の女子とは思い懸《か》けざりき、寡《すく》なくとも、海に山に五百年の怪物たるを看破したりけれども、見世物小屋に起き臥しせる乞食芸人の徒ならんとは、実に意表に出でたりしなり。とはいえども渠はさあらぬ体に答えたりき。白糸は渠の心を酌《く》みておのれを嘲《あざけ》りぬ。
「あんまり異《かわ》りすぎてるわね」
「見世物の三味線《しやみせん》でも弾《ひ》いているのかい」
「これでも太夫元《たゆうもと》さ。太夫だけになお悪いかもしれない」
馭者は軽侮《けいぶ》の色をも露《あら》わさず、
「はあ、太夫! なんの太夫?」
「無官の太夫じゃない、水芸の太夫さ。あんまり聞いておくれでないよ、面目《きまり》が悪いからさ」
馭者はますますまじめにて、
「水芸の太夫? ははあ、それじゃこのごろ評判の……」
かく言いつつ珍しげに女の面《おもて》を>〓《のぞ》きぬ。白糸はさっと赧《あから》む顔を背《そむ》けつつ、
「ああもうたくさん、堪忍《かに》しておくれよ」
「滝の白糸というのはおまえさんか」
白糸は渠の語《ことば》を手もて制しつ。
「もういいってばさ!」
「うん、なるほど!」と心の問うところに答え得たる風情《ふぜい》にて、欣弥は頷《うなず》けり。白糸はいよいよ羞じらいて、
「いやだよ、もう。何がなるほどなんだね」
「非常にいい女だと聞いていたが、なるほど……」
「もういいってばさ」
つと身を寄せて、白糸はやにわに欣弥を撞《つ》きたり。
「ええあぶねえ! いい女だからいいと言うのに、撞き飛ばすことはないじゃないか」
「人をばかにするからさ」
「ばかにするものか。実に美しい、何歳《いくつ》になるのだ」
「おまえさん何歳《いくつ》になるの?」
「私は二十六だ」
「おや六なの? まだ若いねえ。私なんぞはもう婆《ばばあ》だね」
「何歳《いくつ》さ」
「言うと愛想を尽かされるからいや」
「ばかな! ほんとに何歳だよ」
「もう婆だってば。四さ」
「二十四か! 若いね。二十歳《はたち》ぐらいかと想《おも》った」
「何か奢《おご》りましょうよ」
白糸は帯の間より白縮緬《ちりめん》の袱紗《ふくさ》包みを取り出だせり。解《ひら》けば一束の紙幣を紙包みにしたるなり。
「これに三十円あります。まあこれだけ進《あ》げておきますから、家《うち》の処置《かた》をつけて、一日も早く東京へおいでなさいな」
「家の処置といって、別に金円《かね》の要《い》るようなことはなし、そんなには要らない」
「いいからお持ちなさいよ」
「全額《みんな》もらったらおまえさんが窮《こま》るだろう」
「私はまた明日入《あすはい》る口があるからさ」
「どうも済まんなあ」
欣弥は受け取りたる紙幣を軽《かろ》く戴《いただ》きて懐《ふところ》にせり。時に通り懸かりたる夜稼ぎの車夫は、怪しむべき月下の密会を一瞥《いちべつ》して、
「お合い乗り、都合で、いかがで」
渠は愚弄《ぐろう》の態度を示して、両箇《ふたり》のかたわらに立ち住《ど》まりぬ。白糸はわずかに顧眄《みかえ》りて、棄《す》つるがごとく言い放てり。
「要らないよ」
「そうおっしゃらずにお召しなすって。へへへへへ」
「なんだね、人をばかにして。一人《いちにん》乗りに同乗《あいのり》ができるかい」
「そこはまたお話合いで、よろしいようにしてお乗んなすってください」
おもしろ半分に〓《まつわ》るを、白糸は鼻の端《さき》に遇《あしら》いて、
「おまえもとんだ苦労性だよ。他《ひと》のことよりは、早く還《かえ》って、内君《うちの》でも悦《よろこ》ばしておやんな」
さすがに車夫もこの姉御の与《くみ》しやすからざるを知りぬ。
「へい、これははばかり様。まああなたもお楽しみなさいまし」
渠は直ちに踵《きびす》を回《めぐ》らして、鼻唄《はなうた》まじりに行き過ぎぬ。欣弥は何思いけん、
「おい、車夫《くるまや》!」とにわかに呼び住《と》めたり。
車夫《しやふ》は頭《かしら》を振り向けて、
「へえ、やっぱりお合い乗りですかね」
「ばか言え! 伏木《ふしき*》まで行くか」
渠の答うるに先だちて、白糸は驚きかつ怪しみて問えり。
「伏木……あの、伏木まで?」
伏木はけだし上都《じようと》の道《*》、越後直江津《えちごなおえつ*》まで汽船便ある港なり。欣弥は平然として、
「これからすぐに発《た》とうと思う」
「これから?!」と白糸はさすがに心《むね》を轟《とどろ》かせり。
欣弥は頷きたりし頭《かしら》をそのまま低《た》れて、見るべき物もあらぬ橋の上に瞳《ひとみ》を凝らしつつ、その胸中は二途の分別を追うに忙しかりき。
「これからとはあんまり早急じゃありませんか。まだお話したいこともあるのだから、今夜はともかくも、ねえ」
一面は欣弥を説き、一面は車夫に向かい、
「若い衆《しゆ》さん、済まないけれど、これを持って行っとくれよ」
渠が紙入れを捜《さぐ》るとき、欣弥はあわただしく、
「車夫《くるまや》、待っとれ。行っちゃいかんぜ」
「あれさ、いいやね。さあ、若い衆さんこれを持って行っとくれよ」
五銭の白銅を把《と》りて、まさに渡さんとせり。欣弥はその間《なか》に分け入りて、
「少し都合があるのだから、これから遣《や》ってくれ」
渠は十分に決心の色を露わせり。白糸はとうていその動かす能わざるを覚《さと》りて、潔く未練を棄《す》てぬ。
「そう。それじゃ無理に留めないけれども……」
このとき両箇《ふたり》の眼《まなこ》は期せずして合えり。
「そうしてお母《かあ》さんには?」
「道で寄って暇乞《いとまご》いをする、ぜひ高岡を通るのだから」
「じゃ町はずれまで送りましょう。若衆さん、もう一台ないかねえ」
「四、五町行きゃいくらもありまさあ。そこまでだからいっしょに召していらっしゃい」
「お巫山戯《ふざけ》でないよ」
欣弥はすでに車上にありて、
「車夫《くるまや》、どうだろう。二人乗ったら毀《こわ》れるかなあ、この車は?」
「なあにだいじょうぶ。姉《ねえ》さんほんとにお召しなさいよ」
「構うことはない。早く乗った乗った」
欣弥は手招けば、白糸は微笑《ほおえ》む。その肩を車夫はとんと拊《う》ちて、
「とうとう異《おつ》な寸法になりましたぜ」
「いやだよ、欣さん」
「いいさ、いいさ!」と欣弥は一笑せり。
月はようやく傾きて、鶏声ほのかに白し。
滝の白糸は越後の国新潟《にいがた》の産にして、その地特有の麗質を備えたるが上に、その手練の水芸は、ほとんど人間業《わざ》を離れて、すこぶる驚くべきものなりき。さればいたるところ大入り叶《かな》わざるなきがゆえに、四方の金主《きんす》は渠《かれ》を争いて、ついに例《ためし》なき莫大《ばくだい》の給金を払うに到《いた》れり。
渠は親もあらず、同胞《はらから》もあらず、情夫《つきもの》とてもあらざれば、一切《いつさい》の収入はことごとくこれをわが身ひとつに費やすべく、加うるに、豁達豪放《かつたつごうほう》の気は、この余裕あるがためにますます膨脹《ぼうちよう》して、十金《じつきん》を獲《う》れば二十金《にじつきん》を散ずべき勢いをもって、得るままに撒《ま》き散らせり。これ一つには、金銭を獲るの難《かた》きを渠は知らざりしゆえなり。
渠はまた貴族的生活を喜ばず、好みて下等社会の境遇を甘んじ、衣食の美と辺幅の修飾《*》とを求めざりき。渠のあまりに平民的なる、その度を放越《ほうえつ》して鉄拐《てつか*》となりぬ。往々見るところの女流の鉄拐は、すべて汚行と、罪業と、悪徳との養成にあらざるなし。白糸の鉄拐はこれを天真に発して、きわめて純潔清浄なるものなり。
渠は思うままにこの鉄拐を振り舞わして、天高く、地広く、この幾歳《いくとせ》をのどかに過ごしたりけるが、いまやすなわちしからざるなり。村越欣弥は渠が然諾を信じて東京に遊学せり。高岡に住めるその母は、箸《はし》を控えて渠が饋餉《きしよう》を待てり。白糸は月々渠らを扶持すべき責任ある世帯持ちの身となれり。
従来の滝の白糸は、まさにその放逸を縛し、その奇骨を挫《ひし》ぎて、世話女房のお友とならざるを得ざるべきなり。渠はついにその責任のために石を巻き、鉄を捩《ね》じ、屈すべからざる節を屈して、勤倹小心の婦人となりぬ。その行ないにおいてはなおかつ滝の白糸たる活気をば有《たも》ちつつ、その精神は全く村越友として経営苦労しつ。その間は実に三年《みとせ》の長きに亙《わた》れり。
あるいは富山《とやま》に赴《い》き、高岡に買われ、はた大聖寺《だいしようじ》福井に行き、遠くは故郷の新潟に興行し、身を厭《いと》わず八方に稼《かせ》ぎ廻《まわ》りて、幸いにいずくも外《はず》さざりければ、あるいは血をも濺《そそ》がざるべからざる至重《しちよう》の責任も、その収入によりて難なく果たされき。
されども見世物の類《たぐい》は春夏の二季を黄金期とせり。秋は漸《ようや》く寂しく、冬は霜枯れの哀れむべきを免れざるなり。いわんや北国の雪《せつ》世界はほとんど一年の三分の一を白き物の中に蟄居《ちつきよ》せざるべからざるや。ことに時候を論ぜざる見世物と異なりて、渠の演芸はおのずから夏炉冬扇《*》のきらいあり。その喝采《やんや》は全く暑中にありて、冬季は坐食す。
よし渠は糊口《ここう》に窮せざるも、月々十数円の工面《くめん》は尋常手段の及ぶべきにあらざるなり。渠はいかにしてかなき袖《そで》を振りける? 魚は木に縁《よ》りて求むべからず《*》、渠は他日の興行を質入れして前借りしたりしなり。
その一年、その二年は、とにもかくにもかくのごとき算段によりて過ごしぬ。その三年ののちは、さすがに八方塞《ふさ》がりて、融通の道も絶えなむとせり。
翌年の初夏金沢の招魂祭《*》を当て込みて、白糸の水芸は興行せられたりき。渠は例の美しき姿と妙なる技《わざ》とをもって、希有《けう》の人気を取りたりしかば、即座に越前福井《*》なるなにがしという金主附《つ》きて、金沢を打ち揚げしだい、二箇月間三百円にて雇わんとの相談は調《ととの》いき。
白糸は諸方に負債ある旨を打ち明けて、その三分の二を前借りし、不義理なる借金を払いて、手もとに百余円を剰《あま》してけり。これをもってせば欣弥母子《おやこ》が半年の扶持に足るべしとて、渠は顰《ひそ》みたりし愁眉《しゆうび》を開けり。
されども欣弥は実際半年間の仕送りを要せざるなり。
渠の希望《のぞみ》はすでに手の達《とど》くばかりに近づきて、わずかにここ二、三箇月を支《ささ》うるを得ば足れり。無頓着《むとんじやく》なる白糸はただその健康を尋ぬるのみに安んじて、あえてその成業の期を問わず、欣弥もまたあながちこれを告げんとは為《な》さざりき。その約に負《そむ》かざらんことを虞《おそ》るる者と、恩中に恩を顧みざる者とは、おのおのその務むべきところを務むるに専《もつぱら》なりき。
かくて翌日まさに福井に向かいて発足すべき三日目の夜の興行を〓《お》わりたりしは、一時に垂《なんな》んとするころなりき。白昼《ひるま》を欺くばかりなりし公園内の万燈《まんどう》は全く消えて、雨催《あまもよい》の天《そら》に月はあれども、四面〓《おう》〓《ぼつ》として煙《けぶり》の布《し》くがごとく、淡墨《うすずみ》を流せる森のかなたに、たちまち跫音《あしおと》の響きて、がやがやと罵《ののし》る声せるは、見世物師らが打ち連れ立ちて公園を引き払うにぞありける。この一群れの迹《あと》に残りて語合《かたら》う女あり。
「ちょいと、お隣の長松《ちようまつ》さんや、明日はどこへ行きなさる?」
年増《としま》の抱《いだ》ける猿《さる》の頭を撫《な》でて、かく訊《たず》ねしは、猿芝居と小屋を並べし轆轤首《ろくろくび*》の因果娘なり。
「はい、明日は福井まで参じます」
年増は猿に代わりて答えぬ。轆轤首は愛相よく、
「おおおお、それはまあ遠い所へ」
「はい、ちと遠方でございますと言いなよ。これ、長松、ここがの、金沢の兼六園《*》といって、百万石のお庭だよ。千代公《ちよんこ》のほうは二度目だけれど、おまえははじめてだ。さあよく見物しなよ」
渠は抱《いだ》きし猿を放ち遣《や》りぬ。
折からあなたの池のあたりに、マッチの火のぱっと燃えたる影に、頬被《ほおかぶ》りせる男の顔は赤く顕《あら》われぬ。黒き影法師も両三箇《ふたつみつ》そのかたわらに見えたりき。因果娘は偸視《すかしみ》て、
「おや、出刃打ちの連中があすこに憩《やす》んでいなさるようだ」
「どれどれ」と見向く年増の背後《うしろ》に声ありて、
「おい、そろそろ出掛けようぜ」
旅装束したる四、五人の男は二人のそばに立ち住《ど》まりぬ。年増は直ちに猿を抱き取りて、
「そんなら、姉《ねえ》さん」
「参りましょうかね」
両箇《ふたり》の女は渠らとともに行きぬ。続きて一団また一団、大蛇《だいじや》を籠《かご》に入れて荷《にな》う者と、馬に跨《またが》りて行く曲馬芝居の座頭《ざがしら》とを先に立てて、さまざまの動物と異形の人類が、絡繹《らくえき》として森蔭《もりかげ》に列を成せるその状《さま》は、げに百鬼夜行《*》一幅の活図《かつと》なり。
ややありて渠らはみな行き尽くせり。公園は森邃《しんすい》として月色ますます昏《くら》く、夜はいまや全くその死寂に眠れるとき、〓《こだ》谺《ま》に響き、水に鳴りて、魂消《たまぎ》る一声《ひとこえ》、
「あれえ!」
水は沈濁して油のごとき霞《かすみ》が池《いけ*》の汀《みぎわ》に、生死も分かず仆《たお》れたる婦人あり。四肢《し》を弛《ゆる》めて地《つち》に領伏《ひれふ》し、身動きもせでしばらく横たわりたりしが、ようよう枕《まくら》を返して、がっくりと頭《かしら》を俛《た》れ、やがて草の根を力におぼつかなくも立ち起《あ》がりて、〓《よろめ》く体《たい》をかたわらなる露根松《ねあがりまつ*》に辛《から》くも支《ささ》えたり。
その浴衣《ゆかた》は所々引き裂け、帯は半ば解《ほど》けて脛《はぎ》を露《あら》わし、高島田は面影を留《とど》めぬまでに打ち頽《くず》れたり。こはこれ、盗難に遇《あ》えりし滝の白糸が姿なり。
渠はこの夜の演芸を〓《お》わりしのち、連日の疲労一時に発して、楽屋の涼しき所に交睫《まどろ》みたりき。一座の連中は早くも荷物を取纏《まと》めて、いざ引き払わんと、太夫《たゆう》の夢を喚《よ》びたりしに、渠は快眠を惜しみて、一足先に行けと現《うつつ》に言い放ちて、再び熟睡せり。渠らは豪放なる太夫の平常《へいぜい》を識《し》りければ、その言うままに捨て置きて立ち去りけるなり。
程《ほど》経て白糸は目覚《めざ》ましぬ。この空小屋《あきごや》のうちに仮寝《うたたね》せし渠の懐《ふところ》には、欣弥が半年の学資を蔵《おさ》めたるなり。されども渠は危うかりしとも思わず、昼の暑さに引き替えて、涼しき真夜中の幽静《しずか》なるを喜びつつ、福井の金主が待てる旅宿に赴《おもむ》かんとて、そこまで来たりけるに、ばらばらと小蔭より躍《おど》り出ずる人数《にんず》あり。
みなこれ屈竟《くつきよう》の大男《おおおのこ》、いずれも手拭《てぬぐ》いに面《おもて》を覆《つつ》みたるが五人ばかり、手に手に研《と》ぎ澄ましたる出刃庖丁《でばぼうちよう》を提《ひさ》げて、白糸を追っ取り巻きぬ。
心剛《こころたしか》なる女なれども、渠はさすがに驚きて佇《たたず》めり。狼藉者《ろうぜきもの》の一個《ひとり》は濁声《だみごえ》を潜めて、
「おう、姉《ねえ》さん、懐中《ふところ》のものを出しねえ」
「じたばたすると、これだよ、これだよ」
かく言いつつ他の一個《ひとり》はその庖丁を白糸の前に閃《ひらめ》かせば、四挺《ちよう》の出刃もいっせいに晃《きらめ》きて、女の眼《め》を脅かせり。
白糸はすでにその身は釜中《ふちゆう》の魚たることを覚悟せり。心はいささかも屈せざれども、力の及ぶべからざるをいかにせん。進みて敵すべからず、退きては遁《のが》るること難《かた》し。
渠はその平生《へいぜい》においてかつ百金を吝《お》しまざるなり。されども今夜懐《ふところ》にせる百金は、尋常一様の千万金に直《あたい》するものにして、渠が半身の精血とも謂《い》っつべきなり。渠は換えがたく吝しめり。今ここにこれを失わんか、渠はほとんど再びこれを獲《う》るの道あらざるなり。されども渠はついに失わざるべからざるか、豪放豁達《かつたつ》の女丈夫も途方に暮れたりき。
「何をぐずぐずしてやがるんで! サッサと出せ、出せ」
白糸は死守せんものと決心せり。渠の脣《くちびる》は黒くなりぬ。渠の声はいたく震いぬ。
「これは与《や》られないよ」
「与《く》れなけりゃ、ふんだくるばかりだ」
「遣《や》っつけろ、遣っつけろ!」
その声を聞くとひとしく、白糸は背後《うしろ》より組み付かれぬ。振り払わんとする間もあらで、胸も挫《ひし》ぐるばかりの翼緊《はがいじ》めに遭《あ》えり。たちまち暴《あら》くれたる四隻《よつ》の手は、乱雑に渠の帯の間と内懐とを撈《かきさが》せり。
「あれえ!」と叫びて援《すく》いを求めたりしは、このときの血声なりき。
「あった、あった」と一個《ひとり》の賊は呼びぬ。
「あったか、あったか」と両三人の声は〓《こた》えぬ。
白糸は猿轡《さるぐつわ》を吃《はま》されて、手取り足取り地上に推し伏せられつ。されども渠は絶えず身を悶《もだ》えて、跋《は》ね覆《か》えさんとしたりしなり。にわかに渠らの力は弛《ゆる》みぬ。虚《すか》さず白糸は起き復《かえ》るところを、はたと〓《け》仆《たお》されたり。賊はその隙《ひま》に逃げ失《う》せて行くえを知らず。
惜しみても、惜しみてもなお余りある百金は、ついに還《かえ》らざるものとなりぬ。白糸の胸中は沸くがごとく、焚《も》ゆるがごとく、万感の心《むね》を衝《つ》くに任せて、無念已《や》む方《かた》なき松の下蔭《したかげ》に立ち尽くして、夜の更《ふ》くるをも知らざりき。
「ああ、しかたがない、何も約束だと断念《あきら》めるのだ。なんの百ぐらい! 惜しくはないけれど、欣さんに済まない。さぞ欣さんが困るだろうねえ。ええ、どうしよう、どうしたらよかろう?!」
渠はひしとわが身を抱《いだ》きて、松の幹に打ち当てつ。ふとかたわらを見れば、漾々《ようよう》たる霞が池は、霜の置きたるように微黯《ほのぐら》き月影を宿せり。
白糸の眼色《めざし》はその精神の全力を鍾《あつ》めたるかと覚しきばかりの光を帯びて、病めるに似たる水の面《おも》を屹《き》と視《み》たり。
「ええ、もうなんともかとも謂《い》えないいやな心地《こころもち》だ。この水を飲んだら、さぞ胸が清々するだろう! ああ死にたい。こんな思いをするくらいなら死んだほうがましだ。死のう! 死のう!」
渠は胸中の劇熱を消さんがために、この万斛《ばんこく》の水をば飲み尽くさんと覚悟せるなり。渠はすでに前後を忘じて、一心死を急ぎつつ、蹌踉《よろよろ》と汀《みぎわ》に寄れば、足下《あしもと》に物ありて晃《きらめ》きぬ。思わず渠の目はこれに住《とど》まりぬ。出刃庖丁なり!
これ悪漢が持てりし兇器《きようき》なるが、渠らは白糸を手籠《てご》めにせしとき、かれこれ悶着《もんちやく》の間に取り遺《おと》せしを、忘れて捨て行きたるなり。
白糸はたちまち慄然《りつぜん》として寒さを感《おぼ》えたりしが、やがて拾い取りて月に翳《かざ》しつつ、
「これを証拠に訴えれば手掛かりがあるだろう。そのうちにはまたなんとか都合もできよう。……これは今死ぬのは。……」
この証拠物件を獲《え》たるがために、渠はその死を思い遏《とどま》りて、いちはやく警察署に赴かんと、心変わればいまさら忌まわしきこの汀《みぎわ》を離れて、渠は推し仆《たお》されたりしあたりを過ぎぬ。無念の情は勃然《ぼつぜん》として起これり。繊弱《かよわ》き女子《おんな》の身なりしことの口惜《くちお》しさ! 男子《おとこ》にてあらましかばなど、言い効《がい》もなき意気地《いくじ》なさを憶《おも》い出でて、しばしはその恨めしき地を去るに忍びざりき。
渠は再び草の上に一物《あるもの》を見出だせり。近づきてとくと視れば、浅葱地《あさぎじ*》に白く七宝繋ぎ《つな*》の、洗い晒《ざら》したる浴衣《ゆかた》の片袖《かたそで》にぞありける。
またこれ賊の遺物なるを白糸は暁《さと》りぬ。けだし渠が狼藉《ろうぜき》を禦《ふせ》ぎし折に、引き断《ちぎ》りたる賊の衣《きぬ》の一片なるべし。渠はこれをも拾い取り、出刃を裹《つつ》みて懐中《ふところ》に推し入れたり。
夜はますます闌《た》けて、霄《そら》はいよいよ曇りぬ。湿りたる空気は重く沈みて、柳の葉末も動かざりき。歩むにつれて、足下《あしもと》の叢《くさむら》より池に跋《は》ね込む蛙《かわず》は、礫《つぶて》を打つがごとく水を鳴らせり。
行く行く項《うなじ》を低《た》れて、渠は深くも思い悩みぬ。
「だが、警察署へ訴えたところで、じきにあいつらが捕《つかま》ろうか。捕ったところで、うまく金子《かね》が戻るだろうか。あぶないものだ。そんなことを期《あて》にしてぐずぐずしているうちには、欣さんが食うに窮《こま》ってくる。私の仕送りを頼みにしている身の上なのだから、お金が到《い》かなかった日には、どんなに窮るだろう。はてなあ! 福井の金主のほうは、三百円のうち二百円前借りをしたのだから、まだ百円というものはあるのだ。貸すだろうか、貸すまい。貸さない、貸さない、とても貸さない! 二百円のときでもあんなに渋ったのだ。けれども、こういう事情《わけ》だとすっかり打ち明けて、ひとつ泣き付いてみようかしらん。だめなことだ、あの老爺《おやじ》だもの。のべつに小癪《こしやく》に障《さわ》ることばっかり陳《なら》べやがって、もうもうほんとに顔を見るのもいやなんだ。そのくせまた持ってるのだ! どうしたもんだろうなあ。ああ、窮った、窮った。やっぱり死ぬのか。死ぬのはいいが、それじゃどうも欣さんに義理が立たない。それが何より愁《つら》い! といって才覚のしようもなし。……」
陰々として鐘声の度《わた》るを聞けり。
「もう二時だ。はてなあ!」
白糸は思案に余って、歩むべき力も失せつ。われにもあらで身を靠《もた》せたるは、未央柳《びおうりゆう*》の長く垂《た》れたる檜《ひのき》の板塀《いたべい》のもとなりき。
こはこれ、公園地内に六勝亭《ろくしようてい》と呼べる席貸《せきが》しにて、主翁《あるじ》は富裕の隠居なれば、けっこう数寄《すき》を尽くして、営業のかたわらその老いを楽しむところなり。
白糸が佇《たたず》みたるは、その裏口の枝折門《しおり*》の前なるが、いかにして忘れたりけむ、戸を鎖《さ》さでありければ、渠が靠《もた》るるとともに戸はおのずから内に啓《ひら》きて、吸い込むがごとく白糸を庭の内にぞ引き入れたる。
渠はしばらく惘然《ぼうぜん》として佇みぬ。その心には何を思うともなく、きょろきょろとあたりを〓《みまわ》せり。幽寂に造られたる平庭《*》を前に、縁の雨戸は長く続きて、家内は全く寝鎮《ねしず》まりたる気勢《けはい》なり。白糸は一歩を進め、二歩を進めて、いつしか「寂然の森《しげり》」を出でて、「井戸囲い」のほとりに抵《いた》りぬ。
このとき渠は始めて心着きて驚けり。かかる深夜に人目を窃《ぬす》みて他の門内に侵入するは賊の挙動《ふるまい》なり。われははからずも賊の挙動をしたるなりけり。
ここに思い到《いた》りて、白糸はいまだかつて念頭に浮かばざりし盗《とう》というなる金策の手段あるを心着きぬ。ついで懐なる兇器に心着きぬ。これ某《なにがし》らがこの手段に用いたりし記念《かたみ》なり。白糸は懐に手を差し入れつつ、頭《かしら》を傾けたり。
良心は疾呼《しつこ》して渠を責めぬ。悪意は踴躍《ゆうやく》して渠を励ませり。渠は疾呼の譴責《けんせき》に遭《あ》いては慚悔《ざんかい》し、また踴躍の教唆を受けては然諾せり。良心と悪意とは白糸の恃《たの》むべからざるを知りて、ついに迭《たが》いに闘《たたか》いたりき。
「道ならないことだ。そんな真似《まね》をした日には、二度と再び世の中に顔向けができない。ああ、恐ろしいことだ、……けれども才覚ができなければ、死ぬよりほかはない。この世に生きていないつもりなら、羞汚《はじ》も顔向けもありはしない。大それたことだけれども、金は盗《と》ろう。盗ってそうして死のう死のう!」
かく思い定めたれども、渠の良心はけっしてこれを可《ゆる》さざりき。渠の心は激動して、渠の身は波に盪《ゆら》るる小舟《おぶね》のごとく、安んじかねて行きつ、還《もど》りつ、塀ぎわに低徊《ていかい》せり。ややありて渠は鉢前《はちまえ》近く忍び寄りぬ。されどもあえて曲事《くせごと》を行なわんとはせざりしなり。渠《かれ》は再び沈吟せり。
良心に逐《お》われて恐惶《きようこう》せる盗人は、発覚を予防すべき用意に遑《いとま》あらざりき。渠が塀ぎわに俳徊《はいかい》せしとき手水口《ちようずぐち》を啓《ひら》きて、家内の一個《ひとり》は早くすでに白糸の姿を認めしに、渠は鈍《おそ》くも知らざりけり。
鉢前《*》の雨戸は不意に啓きて、人は面《おもて》を露《あら》わせり。白糸あなやと飛び退《すさ》る遑《ひま》もなく、
「偸児《どろぼう》!」と男の声は号《さけ》びぬ。
白糸の耳には百雷の一時に落ちたるごとく轟《とどろ》けり。精神錯乱したるその瞬息に、懐なりし出刃は渠の右手《めて》に閃《ひらめ》きて、縁に立てる男の胸をば、柄《つか》も透《とお》れと貫きたり。
戸を犇《ひしめ》かして、男は打ち僵《たお》れぬ。朱《あけ》に染みたるわが手を見つつ、重傷《いたで》に唸《うめ》く声を聞ける白糸は、戸口に立ち竦《すく》みて、わなわなと顫《ふる》いぬ。
渠はもとより一点の害心だにあらざりしなり。われはそもそもいかにしてかかる不敵の振舞《ふるまい》をなせしかを疑いぬ。見れば、わが手は確かに出刃を握れり。その出刃は確かに男の胸を刺しけるなり。胸を刺せしによりて、男は殪《たお》れたるなり。されば人を殺せしはわれなり、わが手なりと思いぬ。されども白糸はわが心に、わが手に、人を殺せしを覚えざりしなり。渠は夢かと疑えり。
「全く殺したのだ。こりゃ、まあ大変なことをした! どういう気で私はこんなことをしたろう?」
白糸は心乱れて、ほとんどその身を忘れたる背後《うしろ》に、
「あなた、どうなすった?」
と聞こゆるは寝惚《ねぼ》れたる女の声なり。白糸は出刃を隠して、きっとそなたを見遣《みや》りぬ。
灯影《ひかげ》は縁を照らして、跫音《あしおと》は近づけり。白糸はひたと雨戸に身を寄せて、何者か来たると〓《うかが》いぬ。この家の内儀なるべし。五十ばかりの女は寝衣姿《ねまきすがた》のしどけなく、真鍮《しんちゆう》の手燭《てしよく》を翳《かざ》して、覚《さ》めやらぬ眼《め》を〓《みひら》かんと面《おもて》を顰《ひそ》めつつ、よたよたと縁を伝いて来たりぬ。死骸《しがい》に近づきて、それとも知らず、
「あなた、そんな所《とこ》に寝て……どうなすっ。……」
燈《あかし》を差し向けて、いまだその血に驚く遑《いとま》あらざるに、
「静かに!」と白糸は身を露わして、庖丁を衝《つ》き付けたり。
内儀は賊の姿を見るより、ぺったりと膝《ひざ》を折り敷き、その場に打ち俯《ふ》して、がたがたと、慄《ふる》いぬ。白糸の度胸はすでに十分定まりたり。
「おい、内君《おかみさん》、金を出しな。これさ、金を出せというのに」
俯して答《いら》えなき内儀の項《うなじ》を、出刃にてぺたぺたと拍《たた》けり。内儀は魂魄《たましい》も身に添わず、
「は、は、はい、はい、は、はい」
「さあ、早くしておくれ。たんとは要《い》らないんだ。百円あればいい」
内儀はせつなき呼吸《いき》の下より、
「金子《かね》はあちらにありますから。……」
「あっちにあるならいっしょに行こう。声を立てると、おいこれだよ」
出刃庖丁は内儀の頬《ほお》を見舞えり。渠はますます恐怖して立つ能《あた》わざりき。
「さあ早くしないかい」
「た、た、た、ただ……いま」
渠は立たんとすれども、その腰は挙《あ》がらざりき。されども渠はなお立たんと焦《あせ》りぬ。腰はいよいよ挙がらず。立たざればついに殺されんと、渠はいとど慌《あわ》てつ、悶《もだ》えつ、辛くも立ち起がりて導けり。二間《ふたま》を隔つる奥に伴いて、内儀は賊の需《もと》むる百円を出だせり。白糸はまずこれを収めて、
「内君、いろいろなことを言ってきのどくだけれど、私の出たあとで声を立てるといけないから、少しの間だ、猿轡《さるぐつわ》を箝《は》めてておくれ」
渠は内儀を縛《いまし》めんとて、その細帯を解かんとせり。ほとんど人心地《ひとごこち》あらざるまでに恐怖したりし主婦《あるじ》は、このときようよう渠の害心あらざるを知るより、いくぶんか心落ちいつつ、はじめて賊の姿をば認め得たりしなり。こはそもいかに! 賊は暴《あら》くれたる大の男《おのこ》にはあらで、軆度《とりなり》優しき女子《おんな》ならんとは、渠は今その正体を見て、与《くみ》しやすしと思えば、
「偸児《どろぼう》!」と呼び懸《か》けて白糸に飛び蒐《かか》りつ。
白糸は不意を撃たれて驚きしが、すかさず庖丁の柄《え》を返して、力任せに渠の頭を撃てり。渠は屈せず、賊の懐に手を捻《ね》じ込みて、かの百円を奪い返さんとせり。白糸はその手に咬《か》み着き、片手には庖丁振り抗《あ》げて、再び柄をもて渠の脾腹《ひばら》を吃《くら》わしぬ。
「偸児! 人殺し!」と地蹈鞴《じだたら》を踏みて、内儀はなお暴《あら》らかに、なおけたたましく、
「人殺し! 人殺しだ!」と血声を絞りぬ。
これまでなりと観念したる白糸は、持ちたる出刃を取り直し、躍り狂う内儀の吭《のんど》を目懸《めが》けてただ一突きと突きたりしに、覘《ねら》いを外《はず》して肩頭《かたさき》を刎《は》ね斫《き》りたり。
内儀は白糸の懐に出刃を裹《つつ》みし片袖を撈《さぐ》り得《あ》てて、引っ掴《つか》みたるまま遁《のが》れんとするを、畳み懸けてその頭《かしら》に斫《き》り着けたり。渠はますます狂いて再び喚《わめ》かんとしたりしかば、白糸は触《あた》るを幸いめった斫《ぎ》りにして、弱るところを乳の下深く突き込みぬ。これ実に最後の一撃なりけるなり。白糸は生まれてよりいまだかばかりおびただしき血汐《ちしお》を見ざりき。一坪の畳は全く朱《あけ》に染みて、あるいは散り、あるいは迸《ほとばし》り、あるいはぽたぽたと滴《したた》りたる、その痕《あと》は八畳の一間にあまねく、行潦《にわたずみ*》のごとき唐紅《からくれない》の中に、数箇所の傷を負いたる内儀の、拳《こぶし》を握り、歯を噛《く》い緊《し》めてのけざまに顛覆《うちかえ》りたるが、血塗《ちまぶ》れの額越《ひたいご》しに、半ば閉じたる眼《まなこ》を睨《にら》むがごとく凝《す》えて、折もあらばむくと立たんずる勢いなり。
白糸は生まれてより、いまだかかる最期《さいご》の愴惻《あさましき》を見ざりしなり。かばかりおびただしき血汐! かかるあさましき最期! こはこれ何者の為業《しわざ》なるぞ。ここに立てるわが身のなせし業なり。われながら恐ろしきわが身かな、と白糸は念《おも》えり。渠の心は再び得堪《えた》うまじく激動して、その身のいまや殺されんとするを免《のが》れんよりも、なお幾層の危うき、恐ろしき想《おも》いして、一秒もここにあるにあられず、出刃を投げ棄《す》つるより早く、あとをも見ずしていっさんに走り出ずれば、心急《こころせ》くまま手水口の縁に横たわる躯《むくろ》のひややかなる脚《あし》に跌《つまず》きて、ずでんどうと庭前《にわさき》に転《まろ》び墜《お》ちぬ。渠は男の甦《よみがえ》りたるかと想いて、心も消え消えに枝折門まで走れり。
風やや起こりて庭の木末《こずえ》を鳴らし、雨はぽっつりと白糸の面《おもて》を打てり。
高岡石動《いするぎ》間の乗り合い馬車は今ぞ立野《たての》より福岡までの途中にありて走れる。乗客の一個《ひとり》は煙草《たばこ》火《び》を乞《か》りし人に向かいて、雑談の口を開きぬ。
「あなたはどちらまで? へい、金沢へ、なるほど、御同様に共進会《*》でございますか」
「さようさ、共進会も見ようと思いますが、ほかに少し。……」
渠《かれ》は話好きと覚しく、
「へへ、何か公務《おつとめむき》の御用で」
その人は髭《ひげ》を貯《たくわ》えて、洋服を着けたるより、渠《かれ》はかく言いしなるべし。官吏?は吸い窮《つ》めたる巻煙草を車の外に投げ棄《す》て、次いで忙《いそが》わしく唾《つば》吐きぬ。
「実は明日《あす》か、明後日《あさつて》あたり開くはずの公判を聴《き》こうと思いましてね」
「へへえ、なるほど、へえ」
渠はその公判のなんたるを知らざるがごとし。かたわらにいたる旅商人《たびあきゆうど》は、卒然我《われ》は顔《がお》に喙《くちばし》を容《い》れたり。
「ああ、なんでございますか。この夏公園で人殺しをした強盗の一件?」
髭ある人は眼《まなこ》を「我は顔」に転じて、
「そう。知っておいでですか」
「話には聞いておりますが、詳細事《くわしいこと》は存じませんで。じゃあの賊は逮捕《つかま》りましてすか」
話を奪われたりし前の男も、思い中《あた》る節やありけん、
「あ、あ、あ、ひとしきりそんな風説《うわさ》がございましたっけ。有福《かねもち》の夫婦を斬《き》り殺したとかいう……その裁判があるのでございますか」
髭は再びこなたを振り向きて、
「そう、ちょっとおもしろい裁判でな」
渠は話児《はなし》を釣るべき器械なる、渠が特有の「へへえ」と「なるほど」とを用いて、しきりにその顛末《てんまつ》を聞かんとせり。乙者《おつ》も劣らず水を向けたりき。髭ある人の舌本《ぜつぽん》はようやく軟《やわら》ぎぬ。
「賊はじきにその晩捕《や》られた」
「こわいものだ!」と甲者《こう》は身を反《そ》らして頭《かしら》を掉《ふ》りぬ。
「あの、それ、南京《ナンキン》出刃打ちという見世物な、あの連中の仕事だというのだがね」
乙者《おつ》は直ちにこれに応ぜり。
「南京出刃打ち? いかさま、見たことがございました。あいつらが? ふうむ。ずいぶん遣《や》りかねますまいよ」
「その晩橋場の交番の前を怪しい風体のやつが通ったので、巡査が咎《とが》めるとこそこそ遁《に》げ出したから、こいつ胡散《うさん》だと引っ捉《とら》えて見ると、着ている浴衣《ゆかた》の片袖《かたそで》がない」
談ここに到《いた》りて、甲と乙とは、思わず同音に嗟《うめ》きぬ。乗り合いは弁者の顔を〓《うかが》いて、その後段を渇望せり。
甲者は重ねて感嘆の声を発して、
「おもしろい! なるほど。浴衣の片袖がない! 天も……なんとやらで、なんとかして漏らさず……ですな」
弁者はこの訛言《かたごと》をおかしがりて、
「天網恢々《てんもうかいかい》疎にして漏らさずかい」
甲者は聞くより手を抗《あ》げて、
「それそれ、恢々、恢々、へえ、恢々でした」
乗り合いの過半《おおく》はこの恢々に笑えり。
「そこで、こいつを拘引して調べると、これが出刃打ちの連中だ。ところがね、ちょうどその晩兼六園の席貸しな、六勝亭、あれの主翁《あるじ》は桐田《きりた》という金満家の隠居だ。この夫婦とも、何者の仕業《しわざ》だか、いや、それは、実に残酷に害《や》られたというね。亭主は鳩尾《みぞおち》のところを突き洞《とお》される、女房は頭部《あたま》に三箇所、肩に一箇所、左の乳の下を刳《えぐ》られて、僵《たお》れていたその手に、男の片袖を掴《つか》んでいたのだ」
車中声なく、人は固唾《かたず》を嚥《の》みて、その心を寒うせり。まさにこれ弁者得意の時。
「証拠になろうという物はそればかりではない。死骸《しがい》のかたわらに出刃庖丁《でばぼうちよう》が捨ててあった。柄《え》の所に片仮名《かたかな》のテの字の焼き印のある、これを調べると、出刃打ちの用《つか》っていた道具だ。それに今の片袖がそいつの浴衣に差違《ちがい》ないので、まず犯罪人はこいつとだれも目を着けたさ」
旅商人は膝《ひざ》を進めつ。
「へえ、それじゃそいつじゃないんでございますかい」
弁者はたちまち手を抗《あ》げてこれを抑《おさ》えぬ。
「まあお聞きなさい。ところで出刃打ちの白状には、いかにも賊を働きました。賊は働いたが、けっして人殺しをした覚えはございません。奪《と》りましたのは水芸の滝の白糸という者の金で、桐田の門《かど》は通過《とおり》もしませんっ」
「はて、ねえ」と甲者は眉《まゆ》を動かして、弁者を凝視《みつ》めたり、乙者は黙して考えぬ。ますますその後段を渇望せる乗り合いは、順繰りに席を進めて、弁者に近づかんとせり。渠はそのとき巻莨《まきたばこ》を取り出だして、脣《くちびる》に湿しつつ、
「話はこれからだ」
左側《さそく》の席の前端《まえはし》に並びたる、威儀ある紳士とその老母とは、顔を見合わせて迭《たが》いに色を動かせり。渠は質素なる黒の紋着きの羽織に、節仙台《ふしせんだい》の袴《はかま*》を穿《は》きて、その髭は弁者より麗しきものなりき。渠は紳士というべき服装《いでたち》にはあらざるなり。されどもその相貌《そうぼう》とその髭とは、多く得《う》べからざる紳士の風采《ふうさい》を備えたり。
弁者は仔細《しさい》らしく煙を吹きて、
「滝の白糸というのはご存じでしょうな」
乙者は頷《うなず》き頷き、
「知っとります段か、富山で見ました大評判の美艶《うつくしい》ので」
「さよう。そこでそのころ福井の方で興行中のかの女を喚び出して対審《*》に及んだところが、出刃打ちの申し立てには、その片袖は、白糸の金を奪《と》るときに、おおかた断《ちぎ》られたのであろうが、自分は知らずに遁《に》げたので、出刃庖丁とてもそのとおり、女を脅《おど》すために持っていたのを、慌《あわ》てて忘れて来たのであるから、たといその二品が桐田の家にあろうとも、こっちの知ったことではないと、理窟《りくつ》には合わんけれど、やつはまずそう言い張るのだ。そこで女が、そのとおりだと言えば、人殺しは出刃打ちじゃなくって、ほかにあるとなるのだ」
甲者は頬杖《ほおづえ》〓《つ》きたりし面《おもて》を外《はず》して、弁者の前に差し寄せつつ、
「へえへえ、そうして女はなんと申しました」
「ぜひおまえさんに逢いたいと言ったね」
思いも寄らぬ弁者の好謔《こうぎやく》は、大いに一場の笑いを博せり。渠もやむなく打ち笑いぬ。
「ところが金子《かね》を奪られた覚えなどはない、と女は言うのだ。出刃打ちは、なんでも奪ったという。偸児《どろぼう》のほうから奪ったというのに、奪られたほうでは奪られないと言い張る。なんだか大岡《おおおか》政談《*》にでもありそうな話さ」
「これにはだいぶ事情《わけ》がありそうです」
乙者は首を捻《ひね》りつつ腕を拱《こまぬ》けり。例の「なるほど」は、談《はなし》のますます佳境に入るを楽しめる気色《けしき》にて、
「なるほど、これだから裁判はむずかしい! へえ、それからどう致《いた》しました」
傍聴者は声を斂《おさ》めていよいよ耳を傾けぬ。威儀ある紳士とその老母とは最も粛然として死黙せり。
弁者はなおも語《ことば》を継ぎぬ。
「実にこれは水掛け論さ。しかしとどのつまり出刃打ちが殺したになって、予審《*》は終結した。今度開くのが公判だ。予審が済んでからこの公判までにはだいぶ間《ひま》があったのだ。この間《あいだ》に出刃打ちの弁護士《*》は非常な苦心で、十分弁護の方法を考えておいて、いざ公判という日には、一番腕を揮《ふる》って、ぜひとも出刃打ちを助けようと、手薬煉《てぐすね》を引いて《*》いるそうだから、これは裁判官もなかなか骨の折れる事件さ」
甲者は例の「なるほど」を言わずして、不平の色を作《な》せり。
「へえ、そのなんでございますか、旦那《だんな》、その弁護士というやつは出刃打ちの肩を持って、人殺しの罪を女に誣《なす》ろうという姦計《たくみ》なんでございますか」
弁者は渠の没分暁《ぼつぶんぎよう*》を笑いて、
「何も姦計《たくみ》だの、肩を持つの、というわけではない。弁護を引き受ける以上は、その者の罪を軽くするように尽力するのが弁護士の職分だ」
甲者はますます不平に堪えざりき。渠は弁者を睨《げい》して、
「職分だって、あなた、出刃打ちなんぞの肩を持つてえことがあるもんですか。敵手《あいて》は女じゃありませんか。かわいそうに。私なら弁護を頼まれたってなんだって管《かま》やしません。おまえが悪い、ありていに白状しな、と出刃打ちの野郎を極《き》め付けてやりまさあ」
渠の鼻息はすこぶる暴《あら》らかなりき。
「そんな弁護士をだれが頼むものか」
と弁者は仰ぎて笑えり。乗り合いは、威儀ある紳士とその老母を除きて、ことごとく大笑せり。笑い寝《や》むころ馬車は石動に着きぬ。車を下らんとて弁者は席を起《た》てり。甲と乙とは渠に向かいて慇懃《いんぎん》に一揖《いちゆう》して、
「おかげでおもしろうございました」
「どうも旦那《だんな》ありがとう存じました」
弁者は得々として、
「おまえさんがたも間《ひま》があったら、公判を行ってごらんなさい」
「こりゃ芝居よりおもしろいでございましょう」
乗客は忙々《いそがわしく》下車して、思い思いに別れぬ。最後に威儀ある紳士はその母の手を執りて扶《たす》け下ろしつつ、
「あぶのうございますよ。はい、これからは腕車《くるま》でございます」
渠らの入りたる建場の茶屋の入り口に、馬車会社の老いたる役員は佇《たたず》めり。渠は何気なく紳士の顔を見たりしが、にわかにわれを忘れてその瞳《ひとみ》を凝らせり。
たちまち進み来たれる紳士は帽を脱して、ボタンの二所失《と》れたる茶羅紗《ちやらしや*》のチョッキに、水晶の小印《こいん》を垂下《ぶらさ》げたるニッケル鍍《めつき》の〓《くさり》を繋《か》けて、柱に靠《もた》れたる役員の前に頭《かしら》を下げぬ。
「その後は御機嫌《ごきげん》よろしゅう。あいかわらずお達者で……」
役員は狼狽《ろうばい》して身を正し、奪うがごとくその味噌漉《みそこ》し帽子《*》を脱げり。
「やあこれは! 欣様だったねえ。どうもさっきから肖《に》ているとは思ったけれど、えらくりっぱになったもんだから。……しかしおまえさんも無事で、そうしてまありっぱになんなすって結構だ。あれからじきに東京へ行って、勉強しているということは聞いていたっけが、ああ、見上げたもんだ。そうして勉強してきたのは、法律かい。法律はいいね。おまえさんは好きだった。好きこそものの上手《じようず》なりけれ、うん、それはよかった。ああ、なるほど、金沢の裁判所に……うむ、検事代理《*》というのかい」
老いたる役員はわが子の出世を看《み》るがごとく懽《よろこ》べり。
当時《むかし》盲縞《めくらじま》の腹掛けは今日黒の三つ紋《*》の羽織となりぬ。金沢裁判所新任検事代理村越欣弥氏は、実に三年前の馭者台上の金公なり。
公判は予定の日において金沢地方裁判所に開かれたり。傍聴席は人の山を成して、被告および関係者水島友は弁護士、押丁《おうてい》らとともに差し控えて、判官の着席を待てり。ほどなく正面の戸をさっと排《ひら》きて、躯高《たけたか》き裁判長は入り来たりぬ。二名の陪席判事《*》と一名の書記とはこれに続けり。
満廷粛として水を打ちたるごとくなれば、その靴音《くつおと》は四壁に響き、天井に〓《こた》えて、一種の恐ろしき音を生《な》して、傍聴人の胸に轟《とどろ》きぬ。
威儀おごそかに渠《かれ》らの着席せるとき、正面の戸は再び啓《ひら》きて、高爽《こうそう》の気を帯び、明秀の容《かたち》を具《そな》えたる法官は顕《あら》われたり。渠はその麗しき髭《ひげ》を捻《ひね》りつつ、従容《しようよう》として検事の席に着きたり。
謹慎なる聴衆を容《い》れたる法廷は、室内の空気些《さ》も熱せずして、渠らは幽谷の木立ちのごとく群がりたり。制服を絡《まと》いたる判事、検事は、赤と青とカバーを異にせるテーブルを別ちて、一段高き所に居並びつ。
はじめ判事らが出廷せしとき、白糸は徐《しず》かに面《おもて》を挙《あ》げて渠らを見遣《みや》りつつ、臆《おく》せる気色《けしき》もあらざりしが、最後に顕われたりし検事代理を見るやいなや、渠は色蒼白《あおざ》めて戦《おのの》きぬ。この俊爽なる法官は実に渠が三年《みとせ》の間夢寐《むび》も忘れざりし欣さんならずや。渠はその学識とその地位とによりて、かつて馭者《ぎよしや》たりし日の垢塵《こうじん》を洗い去りて、いまやその面《おもて》はいと清らに、その眉はひときわ秀《ひい》でて、驚くばかりに見違えたれど、紛《まが》うべくもあらず、渠は村越欣弥なり。白糸は始め不意の面会に駭《おどろ》きたりしが、再び渠を熟視するに及びておのれを忘れ、三たび渠を見て、愁然として首を低《た》れたり。
白糸はありうべからざるまでに意外の想《おも》いをなしたりき。
渠はこのときまで、一箇《ひとり》の頼もしき馬丁《べつとう》としてその意中に渠を遇せしなり。いまだかくのごとく畏敬すべき者ならんとは知らざりき。ある点においては渠を支配しうべしと思いしなり。されども今この検事代理なる村越欣弥に対しては、その一髪をだに動かすべき力のわれにあらざるを覚えき。ああ、濶達《かつたつ》豪放なる滝の白糸! 渠はこのときまで、おのれは人に対してかくまで意気地《いくじ》なきものとは想わざりしなり。
渠はこの憤りと喜びと悲しみとに摧《くじ》かれて、残柳の露に俯《ふ》したるごとく、哀れに萎《しお》れてぞ見えたる。
欣弥の眼《まなこ》は陰《ひそか》に始終恩人の姿に注げり。渠ははたして三年《みとせ》の昔天神橋上月明《げつめい》のもとに臂《ひじ》を把《と》りて壮語し、気を吐くこと虹《にじ》のごとくなりし女丈夫なるか。その面影もあらず、いたくも渠は衰えたるかな。
恩人の顔は蒼白《あおざ》めたり。その頬《ほお》は削《こ》けたり。その髪は乱れたり。乱れたる髪! その夕べの乱れたる髪は活溌溌《かつはつはつ》の鉄拐《てつか》を表わせしに、今はその憔悴《しようすい》を増すのみなりけり。
渠は想えり。濶達豪放の女丈夫! 渠は垂死の病蓐《びようじよく》横たわらんとも、けっしてかくのごとき衰容をなさざるべきなり。烈々たる渠が心中の活火はすでに燼《き》えたるか。なんぞ渠のはなはだしく冷灰に似たるや。
欣弥はこの体《てい》を見るより、すずろ憐愍《あわれ》を催して、胸も張り裂くばかりなりき。同時に渠はおのれの職務に心着きぬ。私をもって公に代えがたしと、渠は拳《こぶし》を握りて眼《まなこ》を閉じぬ。
やがて裁判長は被告に向かいて二、三の訊問ありけるのち、弁護士は渠の冤《えん》を雪《すす》がんために、滔々《とうとう》数千言を陳《つら》ねて、ほとんど余すところあらざりき。裁判長は事実を隠蔽《いんぺい》せざらんように白糸を諭《さと》せり。渠はあくまで盗難に遭《あ》いし覚えのあらざる旨を答えて、黒白は容易に弁ずべくもあらざりけり。
検事代理はようやく閉じたりし眼《まなこ》を開くとともに、悄然《しようぜん》として項《うなじ》を垂《た》るる白糸を見たり。渠はそのとき声を励まして、
「水島友、村越欣弥が……本官があらためて訊問するが、裹《つつ》まず事実を申せ」
友はわずかに面《おもて》を擡《あ》げて、額越《ひたいご》しに検事代理の色を候《うかが》いぬ。渠は峻酷《しゆんこく》なる法官の威容をもて、
「そのほうは全く金子《きんす》を奪《と》られた覚えはないのか。虚偽《いつわり》を申すな。たとい虚偽をもって一時を免《のが》るるとも、天知る、地知る、我知る《*》で、いつがいつまで知れずにはおらんぞ。しかし知れるの、知れぬのとそんなことは通常の人に言うことだ。そのほうも滝の白糸といわれては、ずいぶん名代《なだい》の芸人ではないか。それが、かりそめにも虚偽《いつわり》などを申しては、その名に対しても実に愧《は》ずべきことだ。人は一代、名は末代だぞ。またそのほうのような名代の芸人になれば、ずいぶん多数《おおく》の贔屓《ひいき》もあろう、その贔屓が、裁判所においてそのほうが虚偽に申し立てて、それがために罪なき者に罪を負わせたと聞いたならば、ああ、白糸はあっぱれな心掛けだと言って誉《ほ》めるか、喜ぶかな。もし本官がそのほうの贔屓であったなら、今日《きよう》限り愛想《あいそ》を尽かして、以来は道で遭《あ》おうとも唾《つば》もしかけんな。しかし長年の贔屓であってみれば、まず愛想を尽かす前に十分勧告をして、卑怯《ひきよう》千万な虚偽の申し立てなどは、命に換えてもさせんつもりだ」
かく諭《さと》したりし欣弥の声音《こわね》は、ただにその平生を識《し》れる、傍聴席なる渠の母のみにあらずして、法官も聴衆もおのずからその異常なるを聞き得たりしなり。白糸の愁《うれ》わしかりし眼《まなこ》はにわかに清く輝きて、
「そんなら事実《ほんとう》を申しましょうか」
裁判長はしとやかに、
「うむ、隠さずに申せ」
「実は奪《と》られました」
ついに白糸は自白せり。法の一貫目は情の一匁なるかな、渠はそのなつかしき検事代理のために喜びて自白せるなり。
「なに? 盗《と》られたと申すか」
裁判長は軽《かろ》く卓《たく》を拍《う》ちて、きと白糸を視《み》たり。
「はい、出刃打ちの連中でしょう、四、五人の男が手籠《てご》めにして、私の懐中の百円を奪りました」
「しかとさようか」
「相違ござりません」
これに次ぎて白糸はむぞうさにその重罪をも白状したりき。裁判長は直ちに訊問を中止して、即刻この日の公判を終われり。
検事代理村越欣弥は私情の眼《まなこ》を掩《おお》いてつぶさに白糸の罪状を取り調べ、大恩の上に大恩を累《かさ》ねたる至大の恩人をば、殺人犯として起訴したりしなり。さるほどに予審終わり、公判開きて、裁判長は検事代理の請求は是《ぜ》なりとして、渠に死刑を宣告せり。
一生他人たるまじと契りたる村越欣弥は、ついに幽明を隔てて、永《なが》く恩人と相見るべからざるを憂いて、宣告の夕べ寓居《ぐうきよ》の二階に自殺してけり。
(明治二十七年十一月一日―三十日「読売新聞」)
夜行巡査
「こう爺《じい》さん、おめえどこだ」と職人体の壮佼《わかもの》は、そのかたわらなる車夫の老人に向かいて問い懸《か》けたり。車夫の老人は年紀《とし》すでに五十を越えて、六十にも間はあらじと思わる。餓えてや弱々しき声のしかも寒さにおののきつつ、
「どうぞまっぴら御免なすって、向後《こうご》きっと気を着けまする。へいへい」
と、どぎまぎして慌《あわ》ておれり。
「爺さん慌てなさんな。こう己《おり》ゃ巡査じゃねえぜ。え、おい、かわいそうによっぽど面食らったと見える、全体おめえ、気が小さすぎらあ。なんの縛ろうとは謂《い》やしめえし、あんなにびくびくしねえでものことさ。おらあ片一方で聞いててせえ少癇癪《すこかんしやく》に障《さわ》って堪《こた》えられなかったよ。え、爺さん、聞きゃおめえの扮装《みなり》が悪いとって咎《とが》めたようだっけが、それにしちゃあ咎めようが激しいや、ほかにおめえなんぞ仕損《しぞこな》いでもしなすったのか、ええ、爺さん」
問われて老車夫は吐息をつき、
「へい、まことにびっくりいたしました。巡査《おまわり》さんに咎められましたのは、親父《おやじ》今がはじめてで、はい、もうどうなりますることやらと、人心地もござりませなんだ。いやもうから意気地《いくじ》がござりません代わりにゃ、けっして後ろ暗いことはいたしません。ただいまとても別にぶちょうほうのあったわけではござりませんが、股引《ももひ》きが破れまして、膝《ひざ》から下が露出《むきだ》しでござりますので、見苦しいと、こんなにおっしゃります、へい、御規則《*》も心得ないではござりませんが、つい届きませんもんで、へい、だしぬけにこら! って喚《わめ》かれましたのに驚きまして、いまだに胸がどきどきいたしまする」
壮佼はしきりに頷《うなず》けり。
「むむ、そうだろう。気の小さい維新前《むかし》の者《*》は得て巡的をこわがるやつよ。なんだ、高がこれ股引きがねえからとって、ぎょうさんに咎め立てをするにゃあ当たらねえ。主の抱《かか》え車じゃあるめえし、ふむ、よけいなおせっかいよ、なあ爺さん、向こうから謂わねえたって、この寒いのに股引きはこっちで穿《は》きてえや、そこがめいめいの内証《*》で穿けねえから、穿けねえのだ。何も穿かねえというんじゃねえ。しかもお提灯《ちようちん》より見っこのねえ闇夜《やみ》だろうじゃねえか、風俗も糸瓜《へちま》もあるもんか。うぬが商売で寒い思いをするからたって、何も人民にあたるにゃあ及ばねえ。ん! 寒鴉《かんがらす*》め。あんなやつもめったにゃねえよ、往来の少ない処《ところ》なら、昼だってひよぐる《*》ぐらいは大目に見てくれらあ、業腹な。おらあ別に人の褌襠《ふんどし》で相撲《すもう》を取るにもあたらねえが、これが若いものでもあることか、かわいそうによぼよぼの爺さんだ。こう、腹あ立てめえよ、ほんにさ、このざまで腕車《くるま》を曳《ひ》くなあ、よくよくのことだと思いねえ。チョッ、べら棒め《*》、サーベルがなけりゃ袋叩《ふくろだた》きにしてやろうものを、威張るのもいいかげんにしておけえ。へん、お堀端あこちとらのお成り筋《*》だぞ、まかり間違やあ胴上げして鴨《かも》のあしらいにしてやらあ」
口を極《きわ》めてすでに立ち去りたる巡査を罵《ののし》り、満腔《まんこう》の熱気を吐きつつ、思わず腕を擦《さす》りしが、四谷組合と記《しる》したる煤《すす》け提灯《ちようちん》の蝋燭《ろうそく》を今継ぎ足して、力なげに梶棒《かじぼう》を取り上ぐる老車夫の風采《ふうさい》を見て、壮佼《わかもの》は打ち悄《しお》るるまでに哀れを催し、「そうして爺さん稼人《かせぎて》はおめえばかりか、孫子はねえのかい」
優しく謂《い》われて、老車夫は涙ぐみぬ。
「へい、ありがとう存じます、いやも幸いと孝行なせがれが一人おりまして、よう稼《かせ》いでくれまして、おまえさん、こんな晩にゃ行火《あんか》を抱いて寝ていられるもったいない身分でござりましたが、せがれはな、おまえさん、この秋兵隊に取られましたので、あとには嫁と孫が二人みんな快う世話をしてくれますが、なにぶん活計《くらし》が立ちかねますので、蛙《かえる》の子は蛙になる、親仁《おやじ》ももとはこの家業をいたしておりましたから、年紀《とし》は取ってもちっとは呼吸がわかりますので、せがれの腕車《くるま》をこうやって曳《ひ》きますが、何が、達者で、きれいで、安いという、三拍子も揃《そろ》ったのが競争をいたしますのに、私のような腕車には、それこそお茶人か、よっぽど後生のよいお客《*》でなければ、とても乗ってはくれませんで、稼ぐに追い着く貧乏なしとはいいまするが、どうしていくら稼いでもその日を越すことができにくうござりますから、自然装《なり》なんぞも構うことはできませんので、つい、巡査《おまわり》さんに、はい、お手数を懸《か》けるようにもなりまする」
いと長々しき繰り言をまだるしとも思わで聞きたる壮佼は一方《ひとかた》ならず心を動かし、
「爺さん、いやたあ謂われねえ、むむ、もっともだ。聞きゃ一人息子《むすこ》が兵隊になってるというじゃねえか、おおかた戦争にも出るんだろう、そんなことなら黙っていないで、どしどし言い籠《こ》めて隙《ひま》あ潰《つぶ》さした埋め合わせに、酒代《さかて》でもふんだくってやればいいに」
「ええ、めっそうな、しかし申しわけのためばかりに、そのことも申しましたなれど、いっこうお肯《き》き入れがござりませんので」
壮佼はますます憤りひとしお憐《あわ》れみて、
「なんという木念人《ぼくねんじん》だろう、因業な寒鴉め、といったところで仕方もないかい。ときに爺さん、手間は取らさねえからそこいらまでいっしょに歩《あゆ》びねえ。股火鉢《またひばち》で五合《ごんつく》とやらかそう。ナニ遠慮しなさんな、ちと相談もあるんだからよ。はて、いいわな。おめえ稼業にも似合わねえ。ばかめ、こんな爺さんを掴《つか》めえて、剣突《けんつく》もすさまじいや、なんだと思っていやがんでえ、こう指一本でも指《さ》してみろ、今じゃおいらが後見だ」
憤慨と、軽侮と、怨恨《えんこん》とを満たしたる、視線の赴くところ、麹《こうじ》町一番町英国公使館の土塀《どべい》のあたりを、柳の木立ちに隠見して、角燈あり、南をさして行く。その光は暗夜《あんや》に怪獣の眼《まなこ》のごとし。
公使館のあたりを行くその怪獣は八田義延《はつたよしのぶ》という巡査なり。渠《かれ》は明治二十七年十二月十日の午後零時をもって某町《なにがしまち》の交番を発し、一時間交替の巡回の途に就《つ》けるなりき。
その歩行《あゆむ》や、この巡査には一定の法則ありて存するがごとく、晩《おそ》からず、早からず、着々歩を進めて路《みち》を行くに、身体《からだ》はきっとして立ちて左右に寸毫《すんごう》も傾かず、決然自若たる態度には一種犯すべからざる威厳を備えつ。
制帽の庇《ひさし》の下にものすごく潜める眼光は、機敏と、鋭利と厳酷とを混じたる、異様の光に輝けり。
渠は左右のものを見、上下のものを視《なが》むるとき、さらにその顔を動かし、首を掉《ふ》ることをせざれども、瞳《ひとみ》は自在に回転して、随意にその用を弁ずるなり。
されば路すがらの事々物々、たとえばお堀端《ほりばた》の芝生《しばふ》の一面に白くほの見ゆるに、幾条の蛇《くちなわ》の這《は》えるがごとき人の踏みしだきたる痕《あと》を印せること、英国公使館の二階なるガラス窓の一面に赤黒き燈火の影の射《さ》せること、その門前なる二柱《ちゆう》のガス燈の昨夜よりも少しく暗きこと、往来のまん中に脱ぎ捨てたる草鞋《わらじ》の片足の、霜に凍《い》て附《つ》きて堅くなりたること、路傍《みちばた》にすくすくと立ち併《なら》べる枯れ柳の、一陣の北風に颯《さ》と音していっせいに南に靡《なび》くこと、はるかあなたにぬっくと立てる電燈局の煙筒より一縷《いちる》の煙の立ち騰《のぼ》ること等、およそ這般《このはん》のささいなる事がらといえども一つとしてくだんの巡査の視線以外に免《のが》るることを得ざりしなり。
しかも渠は交番を出《い》でて、路に一個の老車夫を叱責《しつせき》し、しかしてのちこのところに来たれるまで、ただに一回も背後《うしろ》を振り返りしことあらず。
渠は前途に向かいて着眼の鋭く、細かに、きびしきほど、背後《うしろ》には全く放心せるもののごとし。いかんとなれば背後はすでにいったんわが眼《まなこ》に検察して、異状なしと認めてこれを放免したるものなればなり。
兇徒《きようと》あり、白刃を揮《ふる》いて背後《うしろ》より渠を刺さんか、巡査はその呼吸《いき》の根の留まらんまでは、背後《うしろ》に人あるということに、思いいたることはなかるべし。他なし、渠はおのが眼《まなこ》の観察の一度達したるところには、たとい藕糸《ぐうし》の孔中《*》といえども一点の懸念をだに遺《のこ》しおかざるを信ずるによれり。
ゆえに渠は泰然と威厳を存して、他意なく、懸念なく、悠々《ゆうゆう》としてただ前途のみを志すを得《う》るなりけり。
その靴《くつ》は霜のいと夜深きに、空谷を鳴らして遠く跫音《きようおん》を送りつつ《*》、行く行く一番町の曲がり角のややこなたまで進みけるとき、右側のとある冠木門《かぶき*》の下に踞《うずく》まれる物体ありて、わが跫音《あしおと》に蠢《うごめ》けるを、例の眼にてきっと見たり。
八田巡査はきっと見るに、こはいと窶々《やつやつ》しき《*》婦人《おんな》なりき。
一個《ひとり》の幼児《おさなご》を抱きたるが、夜深《よふ》けの人目なきに心を許しけん、帯を解きてその幼児を膚に引き緊《し》め、着たる襤褸《らんる》の綿入れを衾《ふすま》となして、少しにても多量の暖を与えんとせる、母の心はいかなるべき。よしやその母子《おやこ》に一銭の恵みを垂《た》れずとも、たれか憐《あわ》れと思わざらん。
しかるに巡査は二つ三つ婦人の枕頭《まくらもと》に足踏みして、
「おいこら、起きんか、起きんか」
と沈みたる、しかも力を籠《こ》めたる声にて謂えり。
婦人はあわただしく蹶《は》ね起きて、急に居住まいを繕《つくろ》いながら、
「はい」と答うる歯の音も合わず、そのまま土に頭《こうべ》を埋めぬ。
巡査は重々しき語気をもて、
「はいではない、こんな処《ところ》に寝ていちゃあいかん、疾《はや》く行け、なんという醜態だ」
と鋭き音調。婦人は恥じて呼吸《いき》の下にて、
「はい、恐れ入りましてございます」
かく打ち謝罪《わぶ》るときしも、幼児は夢を破りて、睡眠のうちに忘れたる、饑《う》えと寒さとを思い出し、あと泣き出だす声も疲労のために裏涸《うらが》れたり。母は見るより人目も恥じず、慌《あわ》てて乳房《ちぶさ》を含ませながら、
「夜分のことでございますから、なにとぞ旦那《だんな》様お慈悲でございます。大眼《おおめ》に御覧あそばして」
巡査は冷然として、
「規則に夜昼はない。寝ちゃあいかん、軒下で」
おりからひとしきり荒《すさ》ぶ風は冷を極《きわ》めて、手足も露《あら》わなる婦人《おんな》の膚《はだ》を裂きて寸断せんとせり。渠はぶるぶると身を震わせ、鞠《まり》のごとくに竦《すく》みつつ、
「たまりません、もし旦那、どうぞ、後生でございます。しばらくここにお置きあそばしてくださいまし。この寒さにお堀端の吹き曝《さら》しへ出ましては、こ、この子がかわいそうでございます。いろいろ災難に逢《あ》いまして、にわかの物貰《ものもら》いで勝手は分《わか》りませず……」といいかけて婦人は咽《むせ》びぬ。
これをこの軒の主人《あるじ》に請わば、その諾否いまだ計りがたし。しかるに巡査は肯《き》き入れざりき。
「いかん、おれがいったんいかんといったらなんといってもいかんのだ。たといきさまが、観音様の化身でも、寝ちゃならない、こら、行けというに」
「伯父《おじ》さんおあぶのうございますよ」
半蔵門《*》の方より来たりて、いまや堀端《ほりばた》に曲がらんとするとき、一個の年紀少《としわか》き美人はその同伴《つれ》なる老人の蹣跚《まんさん》たる酔歩に向かいて注意せり。渠《かれ》は編み物の手袋を嵌《は》めたる左の手にぶら提灯《ぢようちん》を携えたり。片手は老人を導きつつ。
伯父さんと謂われたる老人は、ぐらつく足を蹈《ふ》み占めながら、
「なに、だいじょうぶだ。あれんばかしの酒にたべ酔ってたまるものかい。ときにもう何時《なんどき》だろう」
夜は更《ふ》けたり。天色沈々として風騒がず《*》。見渡すお堀端の往来は、三宅《みやけ》坂にて一度尽き、さらに一帯の樹立《こだ》ちと相連なる煉瓦屋《れんがおく》にて東京のその局部を限れる、この小天地寂《せき》として、星のみひややかに冴《さ》え渡れり。美人は人ほしげに振り返りぬ。百歩を隔てて黒影あり、靴《くつ》を鳴らしておもむろに来たる。
「あら、巡査《おまわり》さんが来ましたよ」
伯父なる人は顧みて角燈の影を認むるより、直ちに不快なる音調を帯び、
「巡査がどうした、おまえなんだか、うれしそうだな」
と女《むすめ》の顔を瞻《みまも》れる、一眼盲《し》いて片眼《へんがん》鋭し。女はギックリとしたる様《さま》なり。
「ひどく寂しゅうございますから、もう一時前でもございましょうか」
「うん、そんなものかもしれない、ちっとも腕車《くるま》が見えんからな」
「ようございますわね、もう近いんですもの」
やや無言にて歩を運びぬ。酔える足は捗取《はかど》らで、靴音は早や近づきつ。老人は声高に、
「お香《こう》、今夜の婚礼はどうだった」と少しく笑《え》みを含みて問いぬ。
女は軽《かろ》くうけて、
「たいそうおみごとでございました」
「いや、おみごとばかりじゃあない、おまえはあれを見てなんと思った」
女は老人の顔を見たり。
「なんですか」
「さぞ、うらやましかったろうの」という声は嘲《あざけ》るごとし。
女は答えざりき。渠はこの一冷語のためにいたく苦痛を感じたる状《さま》見えつ。
老人はさこそあらめと思える見得《みえ》にて、
「どうだ、うらやましかったろう。おい、お香、おれが今夜彼家《あすこ》の婚礼の席へおまえを連れて行った主意を知っとるか。ナニ、はいだ。はいじゃない。その主意を知ってるかよ」
女は黙しぬ。首《こうべ》を低《た》れぬ。老夫はますます高調子。
「解《わか》るまい、こりゃおそらく解るまいて。何も儀式を見習わせようためでもなし、別に御馳走《ごちそう》を喰《く》わせたいと思いもせずさ。ただうらやましがらせて、情けなく思わせて、おまえが心に泣いている、その顔を見たいばっかりよ。ははは」
口気酒芬《しゆふん*》を吐きて面《おもて》をも向くべからず、女は悄然《しようぜん》として横に背《そむ》けり。老夫はその肩に手を懸《か》けて、
「どうだお香、あの縁女《えんじよ》は美しいの、さすがは一生の大礼だ。あのまた白と紅《あか》との三枚襲《がさね*》で、と羞《は》ずかしそうに坐《すわ》った恰好《かつこう》というものは、ありゃ婦人《おんな》が二度とないお晴れだな。縁女もさ、美しいは美しいが、おまえにゃ九目だ《せいもく*》。婿もりっぱな男だが、あの巡査にゃ一段劣る。もしこれがおまえと巡査とであってみろ。さぞ目の覚《さ》むることだろう。なあ、お香、いつぞや巡査がおまえをくれろと申し込んで来たときに、おれさえアイと合点《がつてん》すりゃ、あべこべに人をうらやましがらせてやられるところよ。しかもおまえが(生命《いのち》かけても)という男だもの、どんなにおめでたかったかもしれやアしない。しかしどうもそれ随意《まま》にならないのが浮き世ってな、よくしたものさ。おれという邪魔者がおって、小気味よく断わった。あいつもとんだ恥を掻《か》いたな。はじめからできる相談か、できないことか、見当をつけて懸《か》かればよいのに、何も、八田も目先の見えないやつだ。ばか巡査!」
「あれ伯父さん」
と声ふるえて、後ろの巡査に聞こえやせんと、心を置きて振り返れる、眼《まなこ》に映ずるその人は、……夜目にもいかで見紛《みまが》うべき。
「おや!」と一言われ知らず、口よりもれて愕然《がくぜん》たり。
八田巡査は一注の電気に感ぜしごとくなりき。
老人はとっさの間に演ぜられたる、このキッカケにも心着かでや、さらに気に懸《か》くる様子もなく、
「なあ、お香、さぞおれがことを無慈悲なやつと怨《うら》んでいよう。吾《おり》ゃおまえに怨まれるのが本望だ。いくらでも怨んでくれ。どうせ、おれもこう因業じゃ、いい死に様もしやアしまいが、何、そりゃもとより覚悟の前だ」
真顔になりて謂《い》う風情《ふぜい》、酒の業《わざ》とも思われざりき。女《むすめ》はようよう口を開き、
「伯父《おじ》さん、あなたまあ往来で、何をおっしゃるのでございます。早く帰ろうじゃございませんか」
と老人の袂《たもと》を曳《ひ》き動かし急ぎ巡査を避けんとするは、聞くに堪えざる伯父の言《ことば》を渠《かれ》の耳に入れじとなるを、伯父は少しも頓着《とんじやく》せで、平気に、むしろ聞こえよがしに、
「あれもさ、巡査だから、おれが承知しなかったと思われると、何か身分のいい官員か、金満《かねもち》でも択《えら》んでいて、月給八円におぞ毛をふるったようだが、そんな賤《いや》しい了簡《りようけん》じゃない。おまえのきらいな、いっしょになると生き血を吸われるような人間でな、たとえばかったい坊《*》だとか、高利貸しだとか、再犯の盗人《ぬすつと》とでもいうような者だったら、おれは喜んで、くれてやるのだ。乞食《こじき》ででもあってみろ、それこそおれが乞食をしておれの財産をみなそいつに譲って、夫婦《めおと》にしてやる。え、お香、そうしておまえの苦しむのを見て楽しむさ。けれどもあの巡査はおまえが心《しん》からすいてた男だろう。あれと添われなけりゃ生きてる効《かい》がないとまでに執心の男だ。そこをおれがちゃんと心得てるから、きれいさっぱりと断わった。なんと慾《よく》のないもんじゃあるまいか。そこでいったんおれが断わった上はなんでもあきらめてくれなければならないと、普通《なみ》の人間ならいうところだが、おれがのはそうじゃない。伯父さんがいけないとおっしゃったから、まあ私も仕方がないと、おまえにわけもなく断念《あきら》めてもらった日にゃあ、おれが志も水の泡《あわ》さ、形なしになる。ところで、恋というものは、そんなあさはかなもんじゃあない。なんでも剛胆なやつが危険《けんのん》な目に逢《あ》えば逢うほど、いっそう剛胆になるようで、何かしら邪魔がはいれば、なおさら恋しゅうなるものでな、とても思い切れないものだということを知っているから、ここでおもしろいのだ。どうだい、おまえは思い切れるかい、うむ、お香、今じゃもうあの男を忘れたか」
女はややしばらく黙したるが、
「い……い……え」ときれぎれに答えたり。
老夫は心地《ここち》よげに高く笑い、
「むむ、もっともだ。そうやすっぽくあきらめられるようでは、わが因業も価値《ねうち》がねえわい。これ、後生だからあきらめてくれるな。まだまだ足りない、もっとその巡査を慕うてもらいたいものだ」
女はこらえかねて顔を振り上げ、
「伯父さん、何がお気に入りませんで、そんな情けないことをおっしゃいます、私は、……」と声を飲む。
老夫は空嘯《そらうそぶ》き、
「なんだ、何がお気に入りません? 謂《い》うな、もったいない。なんだってまたおそらくおまえほどおれが気に入ったものはあるまい。第一容色《きりよう》はよし、気立てはよし、優しくはある、することなすこと、おまえのことといったら飯のくいようまで気に入るて。しかしそんなことで何、巡査をどうするの、こうするのという理窟《りくつ》はない。たといおまえが何かの折に、おれの生命《いのち》を助けてくれてさ、生命の親と思えばとても、けっして巡査にゃあ遣《や》らないのだ。おまえが憎い女ならおれもなに、邪魔をしやあしねえが、かわいいから、ああしたものさ。気に入るの入らないのと、そんなこたあ言ってくれるな」
女は少しきっとなり、
「それではあなた、あのおかたになんぞお悪いことでもございますの」
かく言い懸《か》けて振り返りぬ。巡査はこのとき囁《ささや》く声をも聞くべき距離に着々として歩《ほ》しおれり。
老夫は頭《こうべ》を打ち掉《ふ》りて、
「う、んや、吾《おり》ゃあいつも大好きさ。八円を大事にかけて、世の中に巡査ほどのものはないと澄ましているのが妙だ。あまり職掌を重んじて、苛酷《かこく》だ、思い遣《や》りがなさすぎると、評判の悪《わろ》いのに頓着《とんじやく》なく、すべ一本《*》でも見免《みのが》さない、アノ邪慳《じやけん》非道なところが、ばかにおれは気に入ってる。まず八円の価値《ねうち》はあるな。八円じゃ高くない、禄《ろく》盗人とはいわれない、まことにりっぱな八円様だ」
女はたまらず顧みて、小腰を屈《かが》め、片手をあげてソト巡査を拝みぬ。いかにお香はこの振舞《ふるまい》を伯父に認められじとは勉《つと》めけん。瞬間にまた頭《こうべ》を返して、八田がなんらの挙動をもてわれに答えしやを知らざりき。
「ええと、八円様に不足はないが、どうしてもおまえを遣《や》ることはできないのだ。それもあいつが浮気《うわき》もので、ちょいと色に迷ったばかり、おいやならよしなさい、よそを聞いてみますという、お手軽なところだと、おれも承知をしたかもしれんが、どうしておれが探ってみると、義延《よしのぶ》(巡査の名)という男はそんな男と男が違う。なんでも思い込んだらどうしても忘れることのできない質《たち》で、やっぱりおまえと同一《おんなじ》ように、自殺でもしたいというふうだ。ここでおもしろいて、はははははは」と冷笑《あざわら》えり。
女《むすめ》は声をふるわして、
「そんなら伯父さん、まあどうすりゃいいのでございます」と思い詰めたる体にて問いぬ。
伯父は事もなげに、
「どうしてもいけないのだ。どんなにしてもいけないのだ。とてもだめだ、なんにもいうな、たといどうしても肯《き》きゃあしないから、お香、まあ、そう思ってくれ」
女はわっと泣きだしぬ。渠《かれ》は途中なることをも忘れたるなり。
伯父は少しも意に介せず、
「これ、一生のうちにただ一度いおうと思って、今までおまえにもだれにもほのめかしたこともないが、ついでだから謂《い》って聞かす。いいか、亡《な》くなったおまえのお母《つか》さんはな」
母という名を聞くやいなや女はにわかに聞き耳立てて、
「え、お母さんが」
「むむ、亡くなった、おまえのお母さんには、おれが、すっかり惚《ほ》れていたのだ」
「あら、まあ、伯父さん」
「うんや、驚くこたあない、また疑うにも及ばない。それを、そのお母さんを、おまえのお父《とつ》さんに奪《と》られたのだ。な、解《わか》ったか。もちろんおまえのお母さんは、おれがなんだということも知らず、弟《おとと》もやっぱり知らない。おれもまた、口へ出したことはないが、心では、心では、実におりゃもう、お香、おまえはその思い遣《や》りがあるだろう。巡査というものを知ってるから。婚礼の席に連なったときや、明け暮れそのなかのいいのを見ていたおれは、ええ、これ、どんな気がしたとおまえは思う」
という声濁りて、痘痕《とうこん》の充《み》てる頬骨《ほおぼね》高き老顔の酒気を帯びたるに、一眼の盲《し》いたるがいとものすごきものとなりて、拉《とりひし》ぐばかり力を籠《こ》めて、お香の肩を掴《つか》み動かし、
「いまだに忘れない。どうしてもその残念さが消え失《う》せない。そのためにおれはもうすべての事業を打ち棄《す》てた。名誉も棄てた。家も棄てた。つまりおまえの母親が、おれの生涯《しようがい》の幸福と、希望とをみな奪ったものだ。おれはもう世の中に生きてる望みはなくなったが、ただ何とぞしてしかえしがしたかった、といって寝刃《ねたば》を合わせるじゃあない《*》、恋に失望したもののその苦痛《くるしみ》というものは、およそ、どのくらいであるということを、思い知らせたいばっかりに、要《い》らざる生命《いのち》をながらえたが、慕い合って望みが合《かの》うた、おまえの両親に対しては、どうしてもその味を知らせよう手段がなかった。もうちっと長生きをしていりゃ、そのうちにはおれが仕方を考えて思い知らせてやろうものを、ふしあわせだか、しあわせだか、二人ともなくなって、残ったのはおまえばかり。親身といってほかにはないから、そこでおいらが引き取って、これだけの女にしたのも、三代祟《たた》る執念で、親のかわりに、なあ、お香、きさまに思い知らせたさ。幸い八田という意中人《おもいもの》が、おまえの胸にできたから、おれも望みが遂げられるんだ。さ、こういう因縁があるんだから、たとい世界の金満《かねもち》におれをしてくれるといったって、とても謂《い》うこたあ肯《き》かれない。覚悟しろ! 所詮《しよせん》だめだ。や、こいつ、耳に蓋《ふた》をしているな」
眼《め》にいっぱいの涙を湛《たた》えて、お香はわなわなふるえながら、両袖《そで》を耳にあてて、せめて死刑の宣告を聞くまじと勤めたるを、老夫は残酷にも引き放ちて、
「あれ!」と背《そむ》くる耳に口、
「どうだ、解《わか》ったか。なんでも、少しでもおまえが失望の苦痛《くるしみ》をよけいに思い知るようにする。そのうち巡査のことをちっとでも忘れると、それ今夜のように人の婚礼を見せびらかしたり、気の悪くなる談話《はなし》をしたり、あらゆることをして苛《いじ》めてやる」
「あれ、伯父さん、もう私は、もう、ど、どうぞ堪忍してくださいまし。お放しなすって、え、どうしょうねえ」
とおぼえず、声を放ちたり。
少し距離を隔てて巡行せる八田巡査は思わず一足前に進みぬ。渠《かれ》はそこを通り過ぎんと思いしならん。さりながらえ進まざりき。渠は立ち留まりて、しばらくして、たじたじとあとに退《さが》りぬ。巡査はこのところを避けんとせしなり。されども渠は退かざりき。造次《ぞうじ》の間《*》八田巡査は、木像のごとく突っ立ちぬ。さらに冷然として一定の足並みをもて粛々と歩み出だせり。ああ、恋は命なり。間接にわれをして死せしめんとする老人の談話《はなし》を聞くことの、いかに巡査には絶痛なりしよ。ひとたび歩を急にせんか、八田は疾《とく》に渠らを通り越し得たりしならん、あるいはことさらに歩をゆるうせんか、眼界の外に渠らを送遣し得たりしならん。されども渠はその職掌を堅守するため、自家が確定せし平時における一式の法則あり。交番を出でて幾曲がりの道を巡り、再び駐在所に帰るまで、歩数約三万八千九百六十二と。情のために道を迂回《うかい》し、あるいは疾走し、緩歩し、立停《りゆうてい》するは、職務に尽くすべき責任に対して、渠が屑《いさぎよ》しとせざりしところなり。
老人はなお女の耳を捉《とら》えて放たず、負われ懸《か》くるがごとくにして歩行《ある》きながら、
「お香、こうは謂うもののな、おれはおまえが憎かあない、死んだ母親にそっくりでかわいくってならないのだ。憎いやつなら何もおれが仕返しをする価値《ねうち》はないのよ。だからな、食うことも衣《き》ることも、なんでもおまえの好きなとおり、おりゃ衣ないでもおまえには衣せる。わがままいっぱいさしてやるが、ただあればかりはどんなにしても許さんのだからそう思え。おれももう取る年だし、死んだあとでと思うであろうが、そううまくはさせやあしない、おれが死ぬときはきさまもいっしょだ」
恐ろしき声をもて老人が語れるその最後の言《ことば》を聞くと斉《ひと》しく、お香はもはや忍びかねけん、力を極《きわ》めて老人が押えたる肩を振り放し、ばたばたと駈け出《い》だして、あわやと見る間に堀端《ほりばた》の土手へひたりと飛び乗りたり。コハ身を投ぐる! と老人は狼狽《うろた》えて、引き戻さんと飛び行きしが、酔眼に足場をあやまり、身を横ざまに霜を辷《すべ》りて、水にざんぶと落ち込みたり。
このとき疾《はや》く救護のために一躍して馳《は》せ来たれる、八田巡査を見るよりも、
「義さん」と呼吸《いき》せわしく、お香は一声呼び懸《か》けて、巡査の胸に額《ひたい》を埋《うず》めわれをも人をも忘れしごとく、ひしとばかりに縋《すが》り着きぬ。蔦《つた》をその身に絡《から》めたるまま枯木は冷然として答えもなさず、堤防の上につと立ちて、角燈片手に振り翳《かざ》し、水をきっと瞰下《みお》ろしたる、ときに寒冷謂《い》うべからず、見渡す限り霜白く墨より黒き水面に烈《はげ》しき泡《あわ》の吹き出ずるは老夫の沈める処《ところ》と覚しく、薄氷は亀裂《きれつ》しおれり。
八田巡査はこれを見て、躊躇《ちゆうちよ》するもの一秒時《セコンド》、手なる角燈を差し置きつ、と見れば一枝の花簪《はなかんざし》の、徽章《きしよう》のごとくわが胸に懸《か》かれるが、ゆらぐばかりに動悸烈《どうきはげ》しき、お香の胸とおのが胸とは、ひたと合いてぞ放れがたき。両手を静かにふり払いて、
「お退《ど》き」
「え、どうするの」
とお香は下より巡査の顔を見上げたり。
「助けてやる」
「伯父さんを?」
「伯父でなくってだれが落ちた」
「でも、あなた」
巡査は儼然《げんぜん》として、
「職務だ」
「だってあなた」
巡査はひややかに、「職掌だ」
お香はにわかに心着き、またさらに蒼《あお》くなりて、
「おお、そしてまああなた、あなたはちっとも泳ぎを知らないじゃありませんか」
「職掌だ」
「それだって」
「いかん、だめだもう、僕も殺したいほどの老爺《おやじ》だが、職務だ! 断念《あきらめ》ろ」
と突きやる手に喰《く》い附《つ》くばかり、
「いけませんよう、いけませんよう。あれ、だれぞ来てくださいな。助けて、助けて」と呼び立つれど、土塀《どべい》石垣寂として、前後十町に行人絶えたり。
八田巡査は、声をはげまし、
「放さんか!」
決然として振り払えば、力かなわで手を放てる、咄嗟《とつさ》に巡査は一躍して、棄つるがごとく身を投ぜり。お香はハッと絶え入りぬ。あわれ八田は警官として、社会より荷《にな》える負債を消却せんがため、あくまでその死せんことを、むしろ殺さんことを欲しつつありし悪魔を救わんとして、氷点の冷、水凍る夜半《よわ》に泳ぎを知らざる身の、生命とともに愛を棄てぬ。後日社会は一般に八田巡査を仁なりと称せり。ああはたして仁なりや、しかも一人の渠《かれ》が残忍苛酷《かこく》にして、恕《じよ》すべき老車夫を懲罰し、憐《あわれ》むべき母と子を厳責したりし尽瘁《じんすい》を、讃歎《さんたん》するもの無きはいかん。
(明治二十八年四月「文芸倶楽部」)
外科室
実は好奇心のゆえに、しかれども予は予が画師《えし》たるを利器として、ともかくも口実を設けつつ、予と兄弟もただならざる医学士高峰をしいて、某《それ》の日東京府下の一《ある》病院において、渠《かれ》が刀《とう》を下すべき、貴船《きふね》伯爵夫人の手術をば予をして見せしむることを余儀なくしたり。
その日午前九時過ぐるころ家を出《い》でて病院に腕車《わんしや*》を飛ばしつ。直ちに外科室の方《かた》に赴《おもむ》くとき、むこうより戸を排してすらすらと出で来たれる華族の小間使とも見ゆる容目《みめ》よき婦人《おんな》二、三人と、廊下の半ばに行き違えり。
見れば渠らの間には、被布《*》着たる一個《いつこ》七、八歳の娘を擁しつ、見送るほどに見えずなれり。これのみならず玄関より外科室、外科室より二階なる病室に通うあいだの長き廊下には、フロックコート着たる紳士、制服着けたる武官、あるいは羽織袴《はかま》の扮装《いでたち》の人物、その他、貴夫人令嬢等いずれもただならず気高きが、あなたに行き違い、こなたに落ち合い、あるいは歩し、あるいは停し、往復あたかも織るがごとし。予は今門前において見たる数台《すだい》の馬車に思い合わせて、ひそかに心に頷《うなず》けり。渠らのある者は沈痛に、ある者は憂慮《きづか》わしげに、はたある者はあわただしげに、いずれも顔色穏やかならで、忙《せわ》しげなる小刻みの靴《くつ》の音、草履《ぞうり》の響き、一種寂寞《せきばく》たる病院の高き天井と、広き建具と、長き廊下との間にて、異様の跫音《きようおん》を響かしつつ、うたた陰惨の趣をなせり。
予はしばらくして外科室に入りぬ。
ときに予と相目して、脣辺《しんぺん》に微笑を浮かべたる医学士は、両手を組みてややあおむけに椅子《いす》に凭《よ》れり。今にはじめぬことながら、ほとんどわが国の上流社会全体の喜憂に関すべき、この大いなる責任を荷《にな》える身の、あたかも晩餐《ばんさん》の筵《むしろ》に望みたるごとく、平然としてひややかなること、おそらく渠のごときはまれなるべし。助手三人と、立ち会いの医博士一人と、別に赤十字の看護婦五名あり。看護婦その者にして、胸に勲章帯びたるも見受けたるが、あるやんごとなきあたりより特に下したまえるもありぞと思わる。他に女性《によしよう》とてはあらざりし。なにがし公と、なにがし侯と、なにがし伯と、みな立ち会いの親族なり。しかして一種形容すべからざる面色《おももち》にて、愁然として立ちたるこそ、病者の夫の伯爵なれ。
室内のこの人々に瞻《みまも》られ、室外のあのかたがたに憂慮《きづか》われて、塵《ちり》をも数うべく、明るくして、しかもなんとなくすさまじく侵すべからざるごとき観あるところの外科室の中央に据えられたる、手術台なる伯爵夫人は、純潔なる白衣《びやくえ》を絡《まと》いて、死骸《しがい》のごとく横たわれる、顔の色あくまで白く、鼻高く、頤《おとがい》細りて手足は綾羅《りようら*》にだも堪えざるべし。脣《くちびる》の色少しく褪《あ》せたるに、玉のごとき前歯かすかに見え、眼《め》は固く閉ざしたるが、眉《まゆ》は思いなしか顰《ひそ》みて見られつ。わずかに束《つか》ねたる頭髪は、ふさふさと枕《まくら》に乱れて、台の上にこぼれたり。
そのかよわげに、かつ気高く、清く、貴《とうと》く、うるわしき病者の俤《おもかげ》を一目見るより、予は慄然《りつぜん》として寒さを感じぬ。
医学士はと、ふと見れば、渠は露ほどの感情をも動かしおらざるもののごとく、虚心に平然たる状露《さまあら》われて、椅子に坐《すわ》りたるは室内にただ渠のみなり。そのいたく落ち着きたる、これを頼もしと謂《い》わば謂え、伯爵夫人の爾《しか》き容体を見たる予が眼よりはむしろ心僧きばかりなりしなり。
おりからしとやかに戸を排して、静かにここに入り来たれるは、先刻《さき》に廊下にて行き逢いたりし三人の腰元の中に、ひときわ目立ちし婦人《おんな》なり。
そと貴船伯に打ち向かいて、沈みたる音調もて、
「御前《ごぜん》、姫様《ひいさま》はようようお泣き止《や》みあそばして、別室におとなしゅういらっしゃいます」
伯はものいわで頷《うなず》けり。
看護婦はわが医学士の前に進みて、
「それでは、あなた」
「よろしい」
と一言答えたる医学士の声は、このとき少しく震いを帯びてぞ予が耳には達したる。その顔色はいかにしけん、にわかに少しく変わりたり。
さてはいかなる医学士も、驚破《すわ》という場合に望みては、さすがに懸念のなからんやと、予は同情を表《ひよう》したりき。
看護婦は医学士の旨を領してのち、かの腰元に立ち向かいて、
「もう、なんですから、あのことを、ちょっと、あなたから」
腰元はその意を得て、手術台に擦《す》り寄りつ、優に膝《ひざ》のあたりまで両手を下げて、しとやかに立礼し、
「夫人《おくさま》、ただいま、お薬を差し上げます。どうぞそれを、お聞きあそばして、いろはでも、数字でも、お算《かぞ》えあそばしますように」
伯爵夫人は答えなし。
腰元は恐る恐る繰り返して、
「お聞き済みでございましょうか」
「ああ」とばかり答えたまう。
念を推して、
「それではよろしゅうございますね」
「何かい、痲酔剤《ねむりぐすり》をかい」
「はい、手術の済みますまで、ちょっとの間でございますが、御寝《げし》なりませんと、いけませんそうです」
夫人は黙して考えたるが、
「いや、よそうよ」と謂《い》える声は判然として聞こえたり。一同顔を見合わせぬ。
腰元は、諭《さと》すがごとく、
「それでは夫人《おくさま》、御療治ができません」
「はあ、できなくってもいいよ」
腰元は言葉はなくて、顧みて伯爵の色を伺えり。伯爵は前に進み、
「奥、そんな無理を謂ってはいけません。できなくってもいいということがあるものか。わがままを謂ってはなりません」
侯爵はまたかたわらより口を挟《はさ》めり。
「あまり、無理をお謂やったら、姫《ひい》を連れて来て見せるがいいの。疾《はや》くよくならんでどうするものか」
「はい」
「それでは御得心でございますか」
腰元はその間に周旋せり。夫人は重げなる頭《かぶり》を掉《ふ》りぬ。看護婦の一人は優しき声にて、
「なぜ、そんなにおきらいあそばすの、ちっともいやなもんじゃございませんよ。うとうとあそばすと、すぐ済んでしまいます」
このとき夫人の眉《まゆ》は動き、口は曲《ゆが》みて、瞬間苦痛に堪えざるごとくなりし。半ば目を〓《みひら》きて、
「そんなに強《し》いるなら仕方がない。私はね、心に一つ秘密がある。痲酔剤《ねむりぐすり》は譫言《うわごと》を謂《い》うと申すから、それがこわくってなりません、どうぞもう、眠らずにお療治ができないようなら、もうもう快《なお》らんでもいい、よしてください」
聞くがごとくんば、伯爵夫人は、意中の秘密を夢現《ゆめうつつ》の間に人に呟《つぶや》かんことを恐れて、死をもてこれを守ろうとするなり。良人《おつと》たる者がこれを聞ける胸中いかん。この言《ことば》をしてもし平生にあらしめば必ず一条の紛紜《ふんぬん》を惹《ひ》き起こすに相違なきも、病者に対して看護の地位に立てる者はなんらのこともこれを不問に帰せざるべからず。しかもわが口よりして、あからさまに秘密ありて人に聞かしむることを得ずと、断乎《だんこ》として謂い出だせる、夫人の胸中を推すれば。
伯爵は温乎《おんこ》として、
「わしにも、聞かされぬことなんか。え、奥」
「はい、だれにも聞かすことはなりません」
夫人は決然たるものありき。
「何も痲酔剤《ますいざい》を嗅《か》いだからって、譫言を謂うという、極《き》まったこともなさそうじゃの」
「いいえ、このくらい思っていれば、きっと謂いますに違いありません」
「そんな、また、無理を謂う」
「もう、御免くださいまし」
投げ棄つるがごとくかく謂いつつ、伯爵夫人は寝返りして、横に背《そむ》かんとしたりしが、病める身のままならで、歯を鳴らす音聞こえたり。
ために顔の色の動かざる者は、ただあの医学士一人あるのみ。渠は先刻《さき》にいかにしけん、ひとたびその平生を失《しつ》せしが、いまやまた自若となりたり。
侯爵は渋面造りて、
「貴船、こりゃなんでも姫《ひい》を連れて来て、見せることじゃの、なんぼでも児《こ》のかわいさには我《が》折れよう」
伯爵は頷きて、
「これ、綾《あや》」
「は」と腰元は振り返る。
「何を、姫を連れて来い」
夫人は堪《たま》らず遮《さえぎ》りて、
「綾、連れて来んでもいい。なぜ、眠らなけりゃ、療治はできないか」
看護婦は窮したる微笑《えみ》を含みて、
「お胸を少し切りますので、お動きあそばしちゃあ、危険《けんのん》でございます」
「なに、わたしゃ、じっとしている。動きゃあしないから、切っておくれ」
予はそのあまりの無邪気さに、覚えず森寒を禁じ得ざりき。おそらく今日《きよう》の切開術は、眼を開きてこれを見るものあらじとぞ思えるをや。
看護婦はまた謂えり。
「それは夫人《おくさま》、いくらなんでもちっとはお痛みあそばしましょうから、爪《つめ》をお取りあそばすとは違いますよ」
夫人はここにおいてぱっちりと眼を〓《ひら》けり。気もたしかになりけん、声は凜《りん》として、
「刀《とう》を取る先生は、高峰様だろうね!」
「はい、外科科長です。いくら高峰様でも痛くなくお切り申すことはできません」
「いいよ、痛かあないよ」
「夫人《ふじん》、あなたの御病気はそんな手軽いのではありません。肉を殺《そ》いで、骨を削るのです。ちっとの間御辛抱なさい」
臨検の医博士はいまはじめてかく謂えり。これとうてい関雲長《*》にあらざるよりは、堪えうべきことにあらず。しかるに夫人は驚く色なし。
「そのことは存じております。でもちっともかまいません」
「あんまり大病なんで、どうかしおったと思われる」
と伯爵は愁然たり。侯爵は、かたわらより、
「ともかく、今日はまあ見合わすとしたらどうじゃの。あとでゆっくりと謂い聞かすがよかろう」
伯爵は一議もなく、衆みなこれに同ずるを見て、かの医博士は遮りぬ。
「一時後《ひとときおく》れては、取り返しがなりません。いったい、あなたがたは病を軽蔑《けいべつ》しておらるるから埒《らち》あかん。感情をとやかくいうのは姑息《こそく》です。看護婦ちょっとお押え申せ」
いと厳《おごそ》かなる命のもとに五名の看護婦はバラバラと夫人を囲みて、その手と足とを押えんとせり。渠らは服従をもって責任とす。単に、医師の命をだに奉ずればよし、あえて他の感情を顧みることを要せざるなり。
「綾! 来ておくれ。あれ!」
と夫人は絶え入る呼吸《いき》にて、腰元を呼びたまえば、慌《あわ》てて看護婦を遮りて、
「まあ、ちょっと待ってください。夫人《おくさま》、どうぞ、御堪忍あそばして」と優しき腰元はおろおろ声。
夫人の面は蒼然《そうぜん》として、
「どうしても肯《き》きませんか。それじゃ全快《なお》っても死んでしまいます。いいからこのままで手術をなさいと申すのに」
と真白く細き手を動かし、かろうじて衣紋《えもん》を少し寛《くつろ》げつつ、玉のごとき胸部を顕《あら》わし、
「さ、殺されても痛かあない。ちっとも動きやしないから、だいじょうぶだよ。切ってもいい」
決然として言い放てる、辞色ともに動かすべからず。さすが高位の御身とて、威厳あたりを払うにぞ、満堂斉《ひと》しく声を呑《の》み、高き咳《しわぶき》をも漏らさずして、寂然《せきぜん》たりしその瞬間、先刻《さき》よりちとの身動きだもせで、死灰のごとく、見えたる高峰、軽く身を起こして椅子《いす》を離れ、
「看護婦、メスを」
「ええ」と看護婦の一人は、目を〓《みは》りて猶予《ためら》えり。一同斉しく愕然《がくぜん》として、医学士の面を瞻《みまも》るとき、他の一人の看護婦は少しく震えながら、消毒したるメスを取りてこれを高峰に渡したり。
医学士は取るとそのまま、靴音《くつおと》軽く歩を移してつと手術台に近接せり。
看護婦はおどおどしながら、
「先生、このままでいいんですか」
「ああ、いいだろう」
「じゃあ、お押え申しましょう」
医学士はちょっと手を挙《あ》げて、軽く押し留《とど》め、
「なに、それにも及ぶまい」
謂う時疾《はや》くその手はすでに病者の胸を掻《か》き開《あ》けたり。夫人は両手を肩に組みて身動きだもせず。
かかりしとき医学士は、誓うがごとく、深重厳粛なる音調もて、
「夫人、責任を負って手術します」
ときに高峰の風采《ふうさい》は一種神聖にして犯すべからざる異様のものにてありしなり。
「どうぞ」と一言答《いら》えたる、夫人が蒼白なる両の頬《ほお》に刷《は》けるがごとき紅を潮しつ。じっと高峰を見詰めたるまま、胸に臨めるナイフにも眼《まなこ》を塞《ふさ》がんとはなさざりき。
と見れば雪の寒紅梅、血汐《ちしお》は胸よりつと流れて、さと白衣《びやくえ》を染むるとともに、夫人の顔はもとのごとく、いと蒼白《あおじろ》くなりけるが、はたせるかな自若として、足の指をも動かさざりき。
ことのここに及べるまで、医学士の挙動脱兎《だつと》のごとく神速にしていささか間《かん》なく、伯爵夫人の胸を割《さ》くや、一同はもとよりかの医博士に到《いた》るまで、言《ことば》を挟《さしはさ》むべき寸隙《すんげき》とてもなかりしなるが、ここにおいてか、わななくあり、面を蔽《おお》うあり、背向《そがい》になるあり、あるいは首《こうべ》を低《た》るるあり、予のごとき、われを忘れて、ほとんど心臓まで寒くなりぬ。
三秒《セコンド》にして渠が手術は、ハヤその佳境に進みつつ、メス骨に達すと覚しきとき、
「あ」と深刻なる声を絞りて、二十日以来寝返りさえもえせずと聞きたる、夫人は俄然《がぜん》器械のごとく、その半身を跳ね起きつつ、刀《とう》取れる高峰が右手《めて》の腕《かいな》に両手をしかと取り縋《すが》りぬ。
「痛みますか」
「いいえ、あなただから、あなただから」
かく言い懸《か》けて伯爵夫人は、がっくりと仰向《あおむ》きつつ、凄冷極《せいれいきわ》まりなき最後の眼《まなこ》に、国手《こくしゆ》をじっと瞻《みまも》りて、
「でも、あなたは、あなたは、私《わたくし》を知りますまい!」
謂うとき晩《おそ》し、高峰が手にせるメスに片手を添えて、乳の下深く掻き切りぬ。医学士は真蒼《まつさお》になりて戦《おのの》きつつ、
「忘れません」
その声、その呼吸《いき》、その姿、その声、その呼吸、その姿。伯爵夫人はうれしげに、いとあどけなき微笑《えみ》を含みて高峰の手より手をはなし、ばったり、枕に伏すとぞ見えし、脣《くちびる》の色変わりたり。
そのときの二人が状《さま》、あたかも二人の身辺には、天なく、地なく、社会なく、全く人なきがごとくなりし。
数うれば、はや九年前なり。高峰がそのころはまだ医科大学に学生なりしみぎりなりき。一日《あるひ》予は渠《かれ》とともに、小石川なる植物園《*》に散策しつ。五月五日躑躅《つつじ》の花盛んなりし。渠とともに手を携え、芳草の間を出つ、入りつ、園内の公園なる池を繞《めぐ》りて、咲き揃《そろ》いたる藤《ふじ》を見つ。
歩を転じてかしこなる躑躅の丘に上らんとて、池に添いつつ歩めるとき、かなたより来たりたる、一群れの観客あり。
一個《ひとり》洋服の扮装《いでたち》にて煙突帽《*》を戴《いただ》きたる蓄髯《ちくぜん》の漢《おとこ》前衛して、中に三人の婦人を囲みて、後《あと》よりもまた同一《おなじ》様なる漢来たれり。渠らは貴族の御者なりし。中なる三人の婦人《おんな》等《たち》は、一様に深張りの涼傘《ひがさ》を指し翳《かざ》して、裾捌《すそさば》きの音いとさやかに、するすると練り来たれる、と行き違いざま高峰は、思わず後を見返りたり。
「見たか」
高峰は頷《うなず》きぬ。「むむ」
かくて丘に上りて躑躅を見たり。躑躅は美なりしなり。されどただ赤かりしのみ。
かたわらのベンチに腰懸《こしか》けたる、商人《あきゆうど》体の壮者《わかもの》あり。
「吉さん、今日はいいことをしたぜなあ」
「そうさね、たまにゃおまえの謂うことを聞くもいいかな、浅草へ行ってここへ来なかったろうもんなら、拝まれるんじゃなかったっけ」
「なにしろ、三人とも揃ってらあ、どれが桃やら桜やらだ」
「一人は丸髷《まるまげ*》じゃあないか」
「どのみちはや御相談になるんじゃなし、丸髷でも、束髪《*》でも、ないししゃぐま《*》でもなんでもいい」
「ところでと、あのふうじゃあ、ぜひ、高島田《ぶんきん*》とくるところを、銀杏《いちよう*》と出たなあどういう気だろう」
「銀杏、合点《がてん》がいかぬかい」
「ええ、わりい洒落《しやれ*》だ」
「なんでも、あなたがたがお忍びで、目立たぬようにという肚《はら》だ。ね、それ、まん中の水ぎわが立ってたろう。いま一人が影武者というのだ」
「そこでお召し物はなんと踏んだ」
「藤色と踏んだよ」
「え、藤色とばかりじゃ、本読み《*》が納まらねえぜ。足下《そこ》のようでもないじゃないか」
「眩《まばゆ》くってうなだれたね、おのずと天窓《あたま》が上がらなかった」
「そこで帯から下へ目をつけたろう」
「ばかをいわっし、もったいない。見しやそれとも分かぬ間《*》だったよ。ああ残り惜しい」
「あのまた、歩行《あるき》ぶりといったらなかったよ。ただもう、すうっとこう霞《かすみ》に乗って行くようだっけ。裾捌き、褄《つま》はずれ《*》なんということを、なるほどと見たは今日がはじめてよ。どうもお育ちがらはまた格別違ったもんだ。ありゃもう自然、天然と雲上《うんじよう》になったんだな。どうして下界のやつばらが真似《まね》ようたってできるものか」
「ひどくいうな」
「ほんのこったがわっしゃそれご存じのとおり、北廓《なか*》を三年が間、金毘羅様《こんぴら*》に断《た》ったというもんだ。ところが、なんのこたあない。肌《はだ》守りを懸けて、夜中に土堤《どて*》を通ろうじゃあないか。罰のあたらないのが不思議さね。もうもう今日という今日は発心切った。あの醜婦《すべつた》どもどうするものか。見なさい、アレアレちらほらとこうそこいらに、赤いものがちらつくが、どうだ。まるでそら、芥塵《ごみ》か、蛆《うじ》が蠢《うご》めいているように見えるじゃあないか。ばかばかしい」
「これはきびしいね」
「串戯《じようだん》じゃあない。あれ見な、やっぱりそれ、手があって、足で立って、着物も羽織もぞろりとお召しで、おんなじような蝙蝠傘《こうもりがさ》で立ってるところは、憚《はばか》りながらこれ人間の女だ。しかも女の新造《しんぞ》だ。女の新造に違いはないが、今拝んだのと較《くら》べて、どうだい。まるでもって、くすぶって、なんといっていいか汚《よご》れ切っていらあ。あれでもおんなじ女だっさ、へん、聞いて呆《あき》れらい」
「おやおや、どうした大変なことを謂い出したぜ。しかし全くだよ。私もさ、今まではこう、ちょいとした女を見ると、ついそのなんだ。いっしょに歩くおまえにも、ずいぶん迷惑を懸けたっけが、今のを見てからもうもう胸がすっきりした。なんだかせいせいとする、以来女はふっつりだ」
「それじゃあ生涯《しようがい》ありつけまいぜ。源吉とやら、みずからは、とあの姫様《ひいさま》が、言いそうもないからね」
「罰があたらあ、あてこともない」
「でも、あなたやあ、ときたらどうする」
「正直なところ、わっしは遁《に》げるよ」
「足下《そこ》もか」
「え、君は」
「私も遁げるよ」と目を合わせつ。しばらく言《ことば》途絶えたり。
「高峰、ちっと歩こうか」
予は高峰とともに立ち上がりて、遠くかの壮佼《わかもの》を離れしとき、高峰はさも感じたる面色《おももち》にて、
「ああ、真の美の人を動かすことあのとおりさ、君はお手のものだ、勉強したまえ」
予は画師たるがゆえに動かされぬ。行くこと数《す》百歩、あの樟《くす》の大樹の鬱蓊《うつおう》たる木《こ》の下蔭《したかげ》の、やや薄暗きあたりを行く藤色の衣《きぬ》の端を遠くよりちらとぞ見たる。
園を出《い》ずれば丈《たけ》高く肥えたる馬二頭立ちて、磨《す》りガラス入りたる馬車に、三個《みたり》の馬丁《べつとう》休らいたりき。その後九年を経て病院のかのことありしまで、高峰はかの婦人のことにつきて、予にすら一言《こと》をも語らざりしかど、年齢においても、地位においても、高峰は室あらざるべからざる身なるにもかかわらず、家を納むる夫人なく、しかも渠は学生たりし時代より品行いっそう謹厳にてありしなり。予は多くを謂わざるべし。
青山の墓地と、谷中《やなか》の墓地と所こそは変わりたれ、同一《おなじ》日に前後して相逝《ゆ》けり。
語を寄す、天下の宗教家、渠ら二人は罪悪ありて、天に行くことを得ざるべきか。
(明治二十八年六月「文芸倶楽部」)
高野聖
「参謀本部編纂《へんさん》の地図《*》をまた繰り開いて見るでもなかろう、と思ったけれども、あまりの道じゃから、手を触《さわ》るさえ暑くるしい、旅の法衣《ころも》の袖《そで》をかかげて、表紙を附《つ》けた折り本になっているのを引っ張り出した。
飛騨《ひだ》から信州へ越える深山《みやま》の間道で、ちょうど立ち休らおうという一本の樹立《こだ》ちもない、右も左も山ばかりじゃ。手を伸ばすと達《とど》きそうな峰があると、その峰へ峰が乗り、嶺《いただき》が被《かぶ》さって、飛ぶ鳥も見えず、雲の形も見えぬ。
道と空との間にただ一人わればかり、およそ正午と覚しい極熱の太陽の色も白いほどに冴《さ》え返った光線を、深々と戴《いただ》いた一重《ひとえ》の檜笠《ひのきがさ》に凌《しの》いで、こう図面を見た」
旅僧はそういって、握り拳《こぶし》を両方枕《まくら》に乗せ、それで額《ひたい》を支《ささ》えながら俯向《うつむ》いた。
道連れになった上人《しようにん》は、名古屋からこの越前敦賀《つるが》の旅籠屋《はたごや》に来て、今しがた枕に就《つ》いたときまで、わたしが知ってる限りあまり仰向《あおむ》けになったことのない、つまり傲然《ごうぜん》として物を見ない質《たち》の人物である。
いったい、東海道掛川《かけがわ》の宿《しゆく》から同じ汽車に乗り組んだと覚えている、腰掛けのすみに頭《こうべ》を垂《た》れて、死灰のごとく控えたから別段目にも留まらなかった。
尾張《おわり》のステーションで他の乗組員は言い合わせたように、残らず下りたので、函《はこ》の中にはただ上人と私と二人になった。
この汽車は新橋を昨夜九時半に発《た》って、今夕敦賀に入《はい》ろうという、名古屋では正午《ひる》だったから、飯に一折りの鮨《すし》を買った。旅僧も私と同じくその鮨を求めたのであるが、蓋《ふた》を開《あ》けると、ばらばらと海苔《のり》が懸《か》かった、五目飯《ちらし》の下等なので。
(やあ、人参《にんじん》と干瓢《かんぴよう》ばかりだ)とそそっかしく絶叫した。私の顔を見て旅僧は耐《こら》えかねたものと見える、くつくつと笑いだした、もとより二人ばかりなり、知己《ちかづき》にはそれからなったのだが、聞けばこれから越前へ行って、派は違うが永平寺に訪《たず》ねるものがある、ただし敦賀に一泊とのこと。
若狭《わかさ》へ帰省する私もおなじ処《ところ》で泊まらねばならないのであるから、そこで同行の約束ができた。
渠《かれ》は高野《こうや》山に籍を置くものだといった。年配四十五、六、柔和ななんらの奇も見えぬ、なつかしい、おとなしやかな風采《とりなり》で、羅紗《らしや》の角袖《かくそで》の外套《がいとう》を着て、白のフランネルの襟巻《えりま》きをしめ、トルコ形の帽を冠《かぶ》り、毛糸の手袋を嵌《は》め、白足袋《たび》に日和《ひより》下駄《げた》で、一見、僧侶《そうりよ》よりは世の中の宗匠というものに、それよりもむしろ俗か。
(お泊まりはどちらじゃな)といって聞かれたから、私は一人旅の旅宿のつまらなさを、しみじみ歎息《たんそく》した、第一盆を持って女中が坐睡《いねむ》りをする、番頭が空世辞《そらせじ》をいう、廊下を歩行《ある》くとじろじろ目をつける、何より最も耐えがたいのは晩飯の支度《したく》が済むと、たちまち灯《あかり》を行燈《あんどん》に換えて、薄暗い処《ところ》でお休みなさいと命令されるが、私は夜が更《ふ》けるまで寐《ね》ることができないから、その間の心持ちといったらない、ことにこのごろの夜は長し、東京を出るときから一晩の泊まりが気になってならないくらい、差し支《つか》えがなくば御僧《おんそう》とごいっしょに。
快く頷《うなず》いて、北陸地方を行脚《あんぎや》の節はいつでも杖《つえ》を休める香取屋というのがある。もとは一軒の旅店《りよてん》であったが、一人女《ひとりむすめ》の評判なのがなくなってからは看板を外《はず》した、けれども昔から懇意な者は断わらず泊めて、老人《としより》夫婦が内端《うちわ》に世話をしてくれる、よろしくばそれへ、その代わり、といいかけて、折りを下に置いて、
(御馳走《ごちそう》は人参《にんじん》と干瓢《かんぴよう》ばかりじゃ)
とからからと笑った、慎《つつし》み深そうな打ち見よりは気の軽い。
岐阜《ぎふ》ではまだ蒼空《あおぞら》が見えたけれども、あとは名にし負う北国空、米原《まいばら》、長浜は薄曇り、かすかに日が射《さ》して、寒さが身に染《し》みると思ったが、柳《やな》が瀬《せ》では雨、汽車の窓が暗くなるにしたごうて、白いものがちらちら交じってきた。
(雪ですよ)
(さようじゃな)といったばかりで別に気に留めず、仰いで空を見ようともしない、このときに限らず、賤《しず》が岳《たけ》が、といって古戦場を指《さ》したときも、琵琶湖《びわこ》の風景を語ったときも、旅僧はただ頷《うなず》いたばかりである。
敦賀で悚毛《おぞけ》の立つほど煩わしいのは宿引きの悪弊で、その日も期したるごとく、汽車を下《お》りるとステーションの出口から町端《まちはな》へかけて招きの提灯《ちようちん》、印傘の堤《つつみ》を築き、潜り抜ける隙《すき》もあらなく旅人を取り囲んで、てんでにかまびすしくおのが家号を呼び立てる。中にも烈《はげ》しいのは、すばやく手荷物を引《ひ》っ手繰《たく》って、へいありがとう様で、を喰《く》らわす。頭痛持ちは血が上るほど耐《こら》え切れないのが、例の下を向いて悠々《ゆうゆう》と小取り廻《まわ》しに通り抜ける旅僧は、たれも袖《そで》を曳《ひ》かなかったから、幸いそのあとに跟《つ》いて町へ入《はい》って、ほっという息を吐《つ》いた。
雪は小止《おや》みなく、今は雨も交じらず、乾《かわ》いた軽いのがさらさらと面《おもて》を打ち、宵ながら門《かど》を鎖《と》ざした敦賀の通りはひっそりして、一条二条縦横に、辻《つじ》の角《かど》は広々と、白く積もった中を、道のほど八町ばかりで、とある軒下に辿《たど》り着いたのが名指しの香取屋。
床《とこ》にも座敷にも飾りといってはないが、柱立ちのみごとな、畳の堅い、炉の大いなる、自在鍵《じざいかぎ》の鯉《こい》は鱗《うろこ》が黄金《こがね》造りであるかと思わるる艶《つや》を持った、すばらしい竈《へつつい》を二つ並べて一斗飯は焚《た》けそうなめざましい釜《かま》の懸かった古家で。
亭主は法然《ほうねん》天窓《あたま*》、木綿《もめん》の筒袖の中へ両手の先を竦《すく》まして、火鉢《ひばち》の前でも手を出さぬ、ぬうとした親仁《おやじ》。女房のほうは愛嬌《あいきよう》のある、ちょっと世辞のいい婆《ばあ》さん。くだんの人参と干瓢の話を旅僧が打ち出すと、にこにこ笑いながら、縮緬雑魚《ちりめんざこ》と、鰈《かれい》の干物と、とろろ昆布《こんぶ》の味噌汁《みそしる》とで膳《ぜん》を出した、物の言いぶり取りなしなんど、いかにも、上人とは別懇の間と見えて、連れの私の居心のいいと謂《い》ったらない。
やがて二階に寝床を拵《こしら》えてくれた。天井は低いが、梁《うつばり》は丸太で二抱えもあろう、屋《や》の棟《むね》から斜めに渡って座敷の果ての廂《ひさし》の処では天窓《あたま》に支《つか》えそうになっている、巌乗《がんじよう》な屋造り、これなら裏の山から雪崩《なだれ》が来てもびくともせぬ。
特に炬燵《こたつ》ができていたから私はそのままうれしく入った。寝床はもう一組み、同一《おなじ》炬燵に敷いてあったが、旅僧はこれには来たらず、横に枕《まくら》を並べて、火の気のない臥床《ねどこ》に寝た。
寝るとき、上人は帯を解かぬ、もちろん衣服も脱がぬ、着たまま円《まる》くなって俯向《うつむ》き形《なり》に腰からすっぽりと入って、肩に夜具の袖を掛けると手を突いて畏《かしこま》った、その様子はわれわれと反対で、顔に枕をするのである。
ほどなくひっそりとして寐《ね》に就《つ》きそうだから、汽車の中でもくれぐれいったのはここのこと、私は夜が更けるまで寐ることができない、あわれと思ってもうしばらくつきあって、そして諸国を行脚《あんぎや》なすったうちのおもしろい談《はなし》を、といって打ち解けて幼《おさな》らしくねだった。
すると上人は頷いて、わしは中年から仰向《あおむ》けに枕に就かぬのが癖で、寝るにもこのままではあるけれども目はまだなかなか冴《さ》えている、急に寐就《ねつ》かれないのはおまえ様と同一《おんなじ》であろう。出家のいうことでも、教えだの、戒めだの、説法とばかりは限らぬ、若いの、聞かっしゃい、と言って語り出した。あとで聞くと宗門名誉の説教師で、六明寺《りくみんじ》の宗朝という大和尚《おしよう》であったそうな。
「今にもう一人ここへ来て寝るそうじゃが、おまえ様と同国じゃの、若狭の者で塗り物の旅商人《たびあきんど》。いやこの男なぞは若いが感心に実体《じつてい》なよい男。
わしが今、話の序開きをしたその飛騨《ひだ》の山越えを遣《や》ったときの、麓《ふもと》の茶屋でいっしょになった富山の売薬《ばいやく》というやつあ、けたいの悪い《*》、ねじねじしたいやな壮佼《わかもの》で。
まずこれから峠に掛かろうとする日の、朝早く、もっとも先《せん》の泊まりは、ものの三時ぐらいには発《た》って来たので、涼しいうちに六里ばかり、その茶屋までのしたのじゃが、朝晴《あさば》れでじりじり暑いわ。
慾張《よくば》り抜いて大急ぎで歩いたから咽《のど》が渇《かわ》いて為様《しよう》があるまい、さっそく茶を飲もうと思うたが、まだ湯が沸いておらぬという。
どうしてその時分じゃからというて、めったに人通りのない山道、朝顔の咲いているうちに煙が立つ道理もなし。
床几《しようぎ》の前には冷たそうな小流れがあったから手桶《ておけ》の水を汲《く》もうとして、ちょいと気がついた。
それというのが、時節がら暑さのため、おそろしい悪い病が流行《はや》って、先《さき》に通った辻《つじ》などという村は、から一面に石灰《いしばい》だらけじゃあるまいか。
(もし、姉《ねえ》さん)といって茶店の女に、
(この水はこりゃ井戸のでござりますか)と、きまりも悪し、もじもじ聞くとの。
(いんね、川のでございます)という、はて面妖《めんよう》なと思った。
(山したの方にはだいぶ流行《はやり》病《やまい》がございますが、この水は何から、辻の方から流れて来るのではありませんか)
(そうでねえ)と女は何気なく答えた、まずうれしやと思うと、お聞きなさいよ。
ここにいて、先刻《さつき》から休んでござったのが、右の売薬じゃ。このまた万金丹《*》の下廻《したまわ》りときた日には、ご存じのとおり、千筋《せんすじ》の単衣《ひとえ*》に小倉の帯、当節は時計を挟《はさ》んでいます、脚絆《きやはん》、股引《ももひ》き、これはもちろん、草鞋《わらじ》がけ、千草《ちぐさ》木綿《もめん*》の風呂敷《ふろしき》包みの角ばったのを首にゆわえて、桐油合羽《とうゆがつぱ*》を、小さく畳《たた》んで、こいつを真田紐《さなだひも》で右の包みにつけるか、小弁慶の木綿《*》の蝙蝠傘《こうもりがさ》を一本、お極《き》まりだね。ちょいと見ると、いやどれもこれも克明で、分別のありそうな顔をして。
これが泊まりに着くと、大形の浴衣《ゆかた》に変わって、帯広解《おびひろげ》で焼酎《しようちゆう》をちびりちびり遣《や》りながら、旅籠《はたご》屋の女のふとった膝《ひざ》へ脛《すね》を上げようという輩《やから》じゃ。
(こりゃ、法界坊《*》)
なんて、天窓《あたま》から嘗《な》めていら。
(異《おつ》なことをいうようだが何かね、世の中の女ができねえと相場がきまって、すっぺら坊主になって、やはり生命《いのち》はほしいのかね、不思議じゃあねえか、争われねえもんだ、姉さん見ねえ、あれでまだ未練のあるうちがいいじゃあねえか)といって顔を見合わせて二人でからからと笑った。
年紀《とし》は若し、おまえ様、わしは真赤《まつか》になった、手に汲《く》んだ川の水を飲みかねて猶予《ためら》っているとね。
ポンと煙管《きせる》を払《はた》いて、
(なに、遠慮しねえで浴びるほどやんなせえ、生命が危うくなりゃ、薬を遣らあ、そのために私がついてるんだぜ、なあ姉さん。おい、それだっても無銭《ただ》じゃあいけねえよ、憚《はばか》りながら神方《しんぽう》万金丹、一貼《じよう》三百だ、ほしくば買いな、まだ坊主に報捨をするような罪は造らねえ、それともどうだ、おまえいうことを肯《き》くか)といって茶店の女の背中を叩《たた》いた。
私はそうそうに遁《に》げ出した。
いや、膝だの、女の背中だのといって、いけ年を仕《つかまつ》った和尚が業体《ぎようてい》で恐れ入るが、話が、話じゃから、そこはよろしく」
「わしも腹立《はらた》ちまぎれじゃ、むやみと急いで、それからどんどん山の裾《すそ》を田圃道《たんぼみち》へかかる。
半町ばかり行くと、路《みち》がこう急に高くなって、上りが一か処《しよ》、横からよく見えた、弓形《ゆみなり》でまるで土で勅使橋がかかってるような。上を見ながら、これへ足を踏み懸《か》けたとき、以前の薬売りがすたすた遣って来て追い着いたが。
別に言葉も交《かわ》さず、またものをいったからというて、返事をする気はこっちにもない。どこまでも人を凌《しの》いだ仕打ちな薬売りは流眄《しりめ》にかけてわざとらしゅうわしを通り越して、すたすた前へ出て、ぬっと小山のような路の突先《とつさき》へ蝙蝠傘を差して立ったが、そのまま向こうへ下《お》りて見えなくなる。
そのあとから爪先《つまさき》上がり、やがてまた太鼓の胴のような路の上へ体が乗った、それなりにまた下りじゃ。
売薬は先へ下りたが立ち停《ど》まってしきりにあたりを〓《みまわ》している様子、執念深く何か巧《たく》んだかと、快からず続いたが、さてよく見ると仔細《しさい》があるわい。
路はここで二条《すじ》になって、一条《じよう》はこれからすぐに坂になって上りも急なり、草も両方から生《お》い茂ったのが、路傍のそのかどの処《ところ》にある、それこそ四抱《かかえ》、そうさな、五抱えもあろうという一本の檜《ひのき》の、背後《うしろ》へ蜿《うね》って切り出したような大巌《おおいわ》が二つ三つ四つと並んで、上のほうへ層《かさ》なってその背後《うしろ》へ通じているが、わしが見当をつけて、心組んだのはこっちではないので、やっぱり今まで歩いて来たその幅の広いなだらかなほうがまさしく本道、あと二里足らずで行けば山になって、それからが峠になるはず。
と見ると、どうしたことかさ、今いうその檜じゃが、そこらになんにもない路を横断《よこぎ》って見果てのつかぬ田圃の中空へ虹《にじ》のように突き出ている。みごとな根方の処の土が壊《くず》れて大鰻《うなぎ》を捏《こ》ねたような根が幾筋ともなく露《あら》われた、その根から一筋の水がさっと落ちて、地の上へ流れるのが、取って進もうとする道のまん中に流れ出してあたりは一面。
田圃の湖にならぬが不思議で、どうどうと瀬になって、前途《ゆくて》に一叢《むら》の藪《やぶ》が見える、それを境にしておよそ二町ばかりの間まるで川じゃ。礫《こいし》はばらばら、飛び石のようにひょいひょいと大跨《おおまた》で伝えそうにずっと見ごたえのあるのが、それでも人の手で並べたに違いはない。
もっとも衣服《きもの》を脱いで渡るほどの大事なのではないが、本街道《かいどう》にはちと難儀すぎて、なかなか馬などが歩行《ある》かれるわけのものではないので。
売薬もこれで迷ったのであろうと思ううち、切れ放れよく向きを変えて右の坂をすたすたと上りはじめた。見る間に檜を後ろに潜《くぐ》り抜けると、私が体の上あたりに出て下を向き、
(おいおい、松本《まつもと》へ出る路はこっちだよ)といってむぞうさにまた五、六歩。
岩の頭へ半身を乗り出して、
(ぼんやりしてると、木精《こだま》が攫《さら》うぜ、昼間だって容赦はねえよ)と嘲《あざけ》るがごとく言い棄《す》てたが、やがて岩の陰に入《はい》って高い処の草に隠れた。
しばらくすると見上げるほどなあたりへ蝙蝠傘の先が出たが、木の枝とすれすれになって茂みの中に見えなくなった。
(どっこいしょ)とのんきなかけ声で、その流れの石の上を飛び飛びに伝って来たのは、茣蓙《ござ》の尻当《しりあ》てをした、なんにもつけない天秤棒《てんびんぼう》を片手で担《かつ》いだ百姓じゃ」
「先刻《さつき》の茶店からここへ来るまで、売薬のほかはだれにも逢《あ》わなんだことは申し上げるまでもない。
今別れぎわに声を懸《か》けられたので、むこうは道中の商売人と見ただけに、まさかと思って気迷いがするので、今朝《けさ》も立ちぎわによく見て来た、前にも申す、その図面をな、ここでも開けて見ようとしていたところ。
(ちょいと伺いとう存じますが)
(これは何でござりまする)と山国の人などはことに出家と見るとていねいにいってくれる。
(いえ、お伺い申しますまでもございませんが、道はやっぱりこれをまっすぐに参るのでございましょうな)
(松本へ行かっしゃる? ああああ本道じゃ、何ね、この間の梅雨《つゆ》に水が出て、とてつもない川さできたでがすよ)
(まだずっとどこまでもこの水でございましょうか)
(なんのおまえ様、見たばかりじゃ、わけはござりませぬ、水になったのは向こうのあの藪《やぶ》までで、あとはやっぱりこれと同一《おなじ》道筋で山までは荷車が並んで通るでがす。藪のあるのはもと大きいお邸《やしき》の医者様の跡でな。ここいらはこれでも一つの村でがした、十三年前の大水のとき、から一面に野良《のら》になりましたよ。人死にもいけえこと。御坊様歩行《ある》きながらお念仏でも唱えてやってくれさっしゃい)と問わぬことまで深切に話します。それでよく仔細《しさい》がわかって確かになりはなったけれども、現に一人踏み迷った者がある。
(こちらの道はこりゃどこへ行くので)といって売薬の入った左手《ゆんで》の坂を尋ねてみた。
(はい、これは五十年ばかり前までは人が歩行《ある》いた旧道でがす。やっぱり信州へ出まする、先は一つで七里ばかり総体近うござりますが、いや今時往来のできるのじゃあござりませぬ。去年もお坊様、親子連れの巡礼が間違えて入ったというで、はれ大変な、乞食《こじき》を見たような者じゃというて、人命にかわりはねえ、追っかけて助けべえと、巡査《おまわり》様が三人、村の者が十二人、一組みになってこれから押し登って、やっと連れて戻ったくらいでがす。御坊様も血気に逸《はや》って近道をしてはなりましねえぞ、草臥《くたび》れて野宿をしてからがここを行かっしゃるよりはましでござるに。はい、気を付けて行かっしゃれ)
ここで百姓に別れてその川の石の上を行こうとしたがふと猶予《ためら》ったのは売薬の身の上で。
まさかに聞いたほどでもあるまいが、それがほんとうならば見殺しじゃ。どのみちわしは出家の体、日が暮れるまでに宿へ着いて屋根の下に寝るには及ばぬ、追っ着いて引き戻してやろう。罷《まか》り違うて旧道をみな歩行《ある》いても怪《け》しゅうはあるまい。こういう時候じゃ、狼《おおかみ》の旬《しゆん》でもなく、魑魅魍魎《ちみもうりょう*》の汐《しお》さきでもない、ままよ、と思うて、見送るとはや深切な百姓の姿も見えぬ。
(よし)
思い切って坂道を取ってかかった、侠気《おとこぎ》があったのではござらぬ、血気に逸《はや》ったではもとよりない、今申したようではずっともう悟ったようじゃが、いやなかなかの臆病者《おくびようもの》、川の水を飲むのさえ気が怯《ひ》けたほど生命《いのち》が大事で、なぜまたと謂《い》わっしゃるか。
ただ挨拶《あいさつ》をしたばかりの男なら、わしは実のところ、打棄《うつちや》っておいたに違いはないが、快からぬ人と思ったから、そのままで見棄《みす》てるのが、わざとするようで、気が責めてならなんだから」
と宗朝はやはり俯向《うつむ》けに床に入ったまま合掌していった。
「それでは口でいう念仏にも済まぬと思うてさ」
「さて、聞かっしゃい、わしはそれから檜《ひのき》の裏を抜けた、岩の下から岩の上へ出た、樹《き》の中を潜《くぐ》って、草深い径《こみち》を、どこまでも、どこまでも。
するといつの間にか今上った山は過ぎて、また一つ山が近づいて来た、このあたりしばらくの間は野が広々として、先刻《さつき》通った本街道《かいどう》よりもっと幅の広い、なだらかな一筋道。
心持ち西と、東と、まん中に山を一つ置いて二条《すじ》並んだ路《みち》のような、いかさまこれならば槍《やり》を立てても行列が通ったであろう。
この広っ場《ぱ》でも目も及ぶ限り芥子粒《けしつぶ》ほどの大きさの売薬の姿も見ないで、時々焼けるような空を小さな虫が飛び歩行《ある》いた。
歩行くにはこのほうが心細い、あたりがぱっとしているとたよりがないよ。もちろん飛騨《ひだ》越えと銘を打った日には、七里に一軒十里に五軒という相場、そこで粟《あわ》の飯にありつけば都合も上のほうということになっております。それを覚悟のことで、足は相応に達者、いや屈せずに、進んだ進んだ。すると、だんだんまた山が両方から逼《せま》ってきて、肩に支《つか》えそうな狭いとこになった、すぐにのぼり。
さあ、これからが名代の天生《あもう》峠《*》と心得たから、こっちもその気になって、なにしろ暑いので、喘《あえ》ぎながらまず草鞋《わらじ》の紐《ひも》を緊《し》め直した。
ちょうどこの上り口のあたりに美濃《みの》の蓮大寺《れんだいじ》の本堂の床下まで吹き抜けの風穴があるということを年経《た》ってから聞きましたが、なかなかそこどころの沙汰《さた》ではない、いっしょうけんめい、景色《けしき》も奇跡もあるものかい、お天気さえ晴れたか曇ったかわけが解《わか》らず、目《ま》じろぎもしないですたすたと捏《こ》ねて上る。
とおまえ様、お聞かせ申す話は、これからじゃが、最初に申すとおり路《みち》がいかにも悪い、まるで人が通いそうでない上に、恐ろしいのは、蛇《へび》で。両方の叢《くさむら》に尾と頭とを突っ込んで、のたりと橋を渡しているではあるまいか。
わしはまっ先に出会《でつくわ》したときは笠《かさ》を被《かぶ》って竹杖《づえ》を突いたまま、はっと息を引いて膝《ひざ》を折って坐《すわ》ったて。
いやもう生得《しようとく》大きらい、きらいというよりこわいのでな。
そのときはまず人助けに、ずるずると尾を引いて、向こうで鎌首《かまくび》を上げた、と思うと、草をさらさらと渡った。
ようよう起き上がって道の五、六町も行くと、また同一《おなじ》ように、胴中を乾《かわ》かして尾も首も見えぬが、ぬたり!
あっというて飛び退《の》いたが、それも隠れた。三度目に出会ったのが、いや急には動かず、しかも胴体の太さ、たとい這《は》い出したところでぬらぬらと遣《や》られてはおよそ五分間ぐらい尾を出すまでに間があろうと思う長虫と見えたので、やむことを得ず私は跨《また》ぎ越した、とたんに下っ腹が突っ張って、ぞっと身の毛、毛穴が残らず鱗《うろこ》に変わって、顔の色もその蛇のようになったろう、と目を塞《ふさ》いだくらい。
絞るような冷や汗になる気味の悪さ、足が竦《すく》んだというて立っていられる数《すう》ではないから、びくびくしながら路を急ぐと、またしてもいたよ。
しかも今度のは半分に引っ切ってある、胴から尾ばかりの虫じゃ、切り口が蒼《あお》みを帯びて、それでこう黄色な汁《しる》が流れて、ぴくぴくと動いたわ。
われを忘れてばらばらとあとへ遁《に》げ帰ったが、気が付けば例のがまだいるであろう、たとい殺されるまでも二度とは彼を跨ぐ気はせぬ。ああ先刻《さつき》のお百姓がものの間違いでも故道《ふるみち》には蛇がこうといってくれたら、地獄へ落ちても来なかったにと照りつけられて、涙が流れた、南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》、今でもぞっとする」と額《ひたい》に手を。
「果てしがないから胆《きも》を据えた、もとより引き返す分ではない。もとの処《ところ》にはやっぱり丈足《じようた》らずの骸《むくろ》がある。遠くへ避けて草の中へ駆け抜けたが、今にもあとの半分が絡《まと》いつきそうでたまらぬから気臆《きおく》れがして足が筋張ると石に躓《つまず》いて転《ころ》んだ、そのとき膝節を痛めましたものと見える。
それからがくがくして歩行《ある》くのが少し難渋になったけれども、ここで倒れては温気《うんき》で蒸し殺されるばかりじゃと、わが身でわが身を激《はげ》まして、首筋を取って引き立てるようにして峠の方へ。
なにしろ路傍《みちばた》の草いきれが恐ろしい、大鳥の卵みたようなものなんぞ足許《あしもと》にごろごろしている茂り塩梅《あんばい》。
また二里ばかり大蛇《おろち》の蜿《うね》るような坂を、山懐《やまぶところ》に突き当たって、岩かどを曲がって、木の根を繞《めぐ》って参ったがここのことで。あまりの道じゃったから、参謀本部の絵図面を開いて見ました。
なにやっぱり道は同一《おなじ》で聞いたにも見たのにも変わりはない、旧道はこちらに相違はないから心遣《や》りにも何にもならず、もとよりれっきとした図面というて、描いてある道はただ栗の毬《いが》の上へ赤い筋が引っ張ってあるばかり。
難儀さも、蛇も、毛虫も、鳥の卵も、草いきれも、記《しる》してあるはずはないのじゃから、さっぱりと畳《たた》んで懐《ふところ》に入れて、うんとこの乳の下へ念仏を唱え込んで立ち直ったのはよいが、息も引かぬうちに情けない、長虫が路《みち》を切った。
そこで、もう所詮叶《しよせんかな》わぬと思ったなり、これはこの山の霊であろうと考えて、杖《つえ》を棄《す》てて膝《ひざ》を曲げ、じりじりする地《つち》に両手をついて、
(まことに済みませぬがお通しなすってくださりまし、なるたけお午睡《ひるね》のじゃまになりませぬようにそっと通行いたしまする。
ご覧のとおり杖も棄てました)と我《が》折れしみじみと頼んで額《ひたい》を上げるとざっという凄《すさま》じい音で。
心持ちよほどの大蛇と思った、三尺、四尺、五尺四方、一丈余、だんだんと草の動くのが広がって、かたえの渓《たに》へ一文字にさっと靡《なび》いた、果ては峰も山もいっせいに揺らいだ、恐毛《おぞけ》を震って立ち竦むと涼しさが身に染《し》みて、気が付くと山颪《やまおろし*》よ。
この折から聞こえはじめたのはどっという山彦《こだま》に伝わる響き、ちょうど山の奥に風が渦巻いてそこから吹き起こる穴があいたように感じられる。
なにしろ山霊感応あったか、蛇は見えなくなり暑さも凌《しの》ぎよくなったので、気も勇み足も捗取《はかど》ったが、ほどなく急に風が冷たくなった理由を会得することができた。
というのは目の前に大森林があらわれたので。
世のたとえにも天生峠は蒼空《あおぞら》に雨が降るという、人の話にも神代から杣《そま》が手を入れぬ森があると聞いたのに、今まではあまり樹《き》がなさすぎた。
今度は蛇のかわりに蟹《かに》が歩きそうで草鞋が冷えた。しばらくすると暗くなった、杉、松、榎《えのき》と処 々 《ところどころ》見分けができるばかりに遠い処からかすかに日の光の射《さ》すあたりでは、土の色がみな黒い。中には光線が森を射通すぐあいであろう、青だの、赤だの、ひだが入《い》って美しい処があった。
時々爪尖《つまさき》に絡《から》まるのは葉の雫《しずく》の落ち溜《たま》った糸のような流れで、これは枝を打って高い処を走るので。ともするとまた常磐《ときわ》木《ぎ》が落ち葉する、なんの樹とも知れずばらばらと鳴り、かさかさと音がしてぱっと檜笠《ひのきがさ》にかかることもある、あるいは行き過ぎに背後《うしろ》へこぼれるのもある、それらは枝から枝に溜っていて何十年ぶりではじめて地《つち》の上まで落ちるのか分《わか》らぬ」
「心細さは申すまでもなかったが、卑怯《ひきよう》なようでも修行の積まぬ身には、こういう暗い処《ところ》のほうがかえって観念に便りがよい。なにしろ体《からだ》が凌《しの》ぎよくなったために足の弱さも忘れたので、道も大きに捗取《はかど》って、まずこれで七分は森の中を越したろうと思う処で五、六尺天窓《あたま》の上らしかった樹《き》の枝から、ぽたりと笠《かさ》の上へ落ち留まったものがある。
鉛の錘《おもり》かとおもう心持ち、何か木の実ででもあるかしらんと、二、三度振ってみたが附着《くつつ》いていてそのままには取れないから、何心なく手をやって掴《つか》むと、なめらかにひやりときた。
見ると海鼠《なまこ》を裂いたような目も口もない者じゃが、動物には違いない。不気味で投げ出そうとするとずるずると辷《すべ》って指の尖《さき》へ吸いついてぶらりと下がった、その放れた指の尖《さき》から真赤《まつか》な美しい血がたらたらと出たから、吃驚《びつくり》して目の下へ指をつけて、じっと見ると、今折り曲げた肱《ひじ》の処へつるりと垂《た》れ懸《か》かっているのは同じ形をした、幅が五分、丈《たけ》が三寸ばかりの山海鼠《やまなまこ*》。
呆気《あつけ》に取られて見る見るうちに、下のほうから縮みながら、ぶくぶくと太ってゆくのは生き血をしたたか吸い込むせいで、濁った黒いなめらかな肌《はだ》に茶褐色《ちやかつしよく》の縞《しま》をもった、疣胡瓜《いぼきゆうり》のような血を取る動物、こいつは蛭《ひる》じゃよ。
誰《た》が目にも見違えるわけのものではないが、図抜けてあまり大きいからちょっとは気がつかぬであった、なんの畠でも、どんな履歴のある沼でも、このくらいな蛭はあろうとは思われぬ。
肱をばさりとふるったけれども、よく喰い込んだと見えてなかなか放れそうにしないから不気味ながら手で抓《つま》んで引き切ると、ぷつりといってようよう取れる、しばらくも耐《たま》ったものではない、いきなり取って大地へ叩《たた》きつけると、これほどのやつらが何万となく巣をくってわがものにしていようという処、かねてその用意はしていると思われるばかり、日のあたらぬ森の中の土は柔らかい、潰《つぶ》れそうにもないのじゃ。
ともはや頸《くび》のあたりがむずむずしてきた、平手で扱《こ》いて見ると横撫《な》でに蛭の背《せな》をぬるぬるとすべるという、やあ、乳の下へ潜んで帯の間にも一疋《ぴき》、蒼《あお》くなってそっと見ると、肩の上にも一筋。
思わず飛び上がって、総身を震いながらこの大枝の下を一散にかけぬけて、走りながらまず心覚えのやつだけは夢中でもぎ取った。
なんにしても恐ろしい、今の枝には蛭が生《な》っているのであろうとあまりのことに思って振り返ると、見返った樹のなんの枝か知らず、やっぱり幾つということもない蛭の皮じゃ。
これはと思う、右も、左も、前の枝も、なんのことはないまるでいっぱい。
わしは思わず恐怖の声を立てて叫んだ、するとなんと? このときは目に見えて、上からぼたりぼたりとまっ黒な痩《や》せた筋のはいった雨が体へ降りかかって来たではないか。
草鞋を穿《は》いた足の甲へも落ちた上へまた累《かさ》なり、並んだわきへまた附着《くつつ》いて爪先《つまさき》も分《わか》らなくなった、そうして活《い》きてると思うだけ脈を打って血を吸うような、思いなしか一つ一つ伸び縮みをするようなのを見るから気が遠くなって、そのとき不思議な考えが起きた。
この恐ろしい山蛭は、神代の古《いにしえ》からここに屯《たむろ》をしていて、人の来るのを待ちつけて、永《なが》い久しい間にどのくらい何斛《ごく*》かの血を吸うと、そこでこの虫の望みが叶う。そのときはありったけの蛭が残らず吸っただけの人間の血を吐き出すと、それがために土がとけて山一つ一面に血と泥との大沼にかわるであろう、それと同時にここに日の光を遮《さえぎ》って昼もなお暗い大木が切れ切れに一つ一つ蛭になってしまうのに相違ないと、いや、全くのことで」
「およそ人間が滅びるのは、地球の薄皮が破れて空から火の降るのでもなければ、大海が押《お》っ被《かぶ》さるのでもない、飛騨の国の樹林《きばやし》が蛭《ひる》になるのが最初で、しまいにはみんな血と泥の中に筋の黒い虫が泳ぐ、それが代《だい》がわりの世界であろうと、ぼんやり。
なるほどこの森も入り口ではなんのこともなかったのに、中へ来るとこのとおり、もっと奥深く進んだらはや残らず立ち樹の根の方から朽ちて山蛭になっていよう、助かるまい、ここで取り殺される因縁らしい、取り留めのない考えが浮かんだのも人が知死期《ちしご*》に近づいたからだと、ふと気が付いた。
どのみち死ぬるものなら一足でも前へ進んで、世間の者が夢にも知らぬ血と泥の大沼の片端でも見ておこうと、そう覚悟が極《き》まっては気味の悪いも何もあったものじゃない、体じゅう珠数生《じゆずな》りになったのを手当たりしだいに掻《か》い除《の》け〓《むし》り棄《す》て、抜き取りなどして、手を挙《あ》げ足を踏んで、まるで躍り狂う形で歩行《ある》きだした。
はじめのうちは一廻りも太ったように思われて痒《かゆ》さが耐らなかったが、しまいにはげっそり痩《や》せたと感じられてずきずき痛んでならぬ、その上を容赦なく、歩行《ある》くうちにも入り交じりに襲いおった。
すでに目も眩《くら》んで倒れそうになると、禍《わざわい》はこの辺が絶頂であったと見えて、トンネルを抜けたように、はるかに一輪のかすれた月を拝んだのは、蛭の林の出口なので。
いや蒼空の下へ出たときには、なんのことも忘れて、砕けろ、微塵《みじん》になれと横なぐりに体を山路《やまじ》へ打ち倒した。それでからもう砂利《じやり》でも針でもあれと地《つち》へこすりつけて、十余りも蛭の死骸《しがい》を引っくりかえした上から、五、六間向こうへ飛んで身顫《みぶる》いをして突っ立った。
人をばかにしているではありませんか。あたりの山では処 々 茅蜩《ところどころひぐらし》殿、血と泥の大沼になろうという森を控えて鳴いている、日は斜め、渓底《たにそこ》はもう暗い。
まずこれならば狼《おおかみ》の餌食《えじき》になってもそれは一思いに死なれるからと、路はちょうどだらだら下《お》りなり、小僧さん、調子はずれに竹の杖《つえ》を肩にかついで、すたこら遁《に》げたわ。
これで蛭に悩まされて痛いのか、痒《かゆ》いのか、それとも擽《くすぐ》ったいのかえもいわれぬ苦しみさえなかったら、うれしさにひとり飛騨山越えの間道で、お経に節をつけて外道踊《げどうおど》りをやったであろう、ちょっと清心丹でも噛《か》み砕いて疵口《きずぐち》へつけたらどうだと、だいぶ世の中のことに気がついてきたわ。抓《つね》っても確かに活き返ったのじゃが、それにしても富山の薬売りはどうしたろう、あの様子ではとうに血になって泥沼に。皮ばかりの死骸は森の中の暗い処、おまけに意地のきたない下司《げす》な動物が骨までしゃぶろうと何百という数でのしかかっていた日には、酢をぶちまけても分る気遣《きづか》いはあるまい。
こう思っている間、くだんのだらだら坂はだいぶ長かった。
それを下り切ると流れが聞こえて、飛んだ処に長さ一間ばかりの土橋がかかっている。
はやその谷川の音を聞くとわが身で持て余す蛭の吸い殻をまっさかさまに投げ込んで、水に浸したらさぞいい心地《ここち》であろうと思うくらい、なんの渡りかけて壊《こわ》れたらそれなりけり。
あぶないとも思わずにずっと懸《か》かる、少しぐらぐらとしたが、難なく越した。向こうからまた坂じゃ、今度は上りさ、御苦労千万」
一〇
「とてもこの疲れようでは、坂を上るわけにはいくまいと思ったが、ふと前途《ゆくて》に、ヒイインと馬の嘶《いなな》くのが谺《こだま》して聞こえた。
馬士《まご》が戻るのか小荷駄が通るか、今朝《けさ》一人の百姓に別れてから時の経《た》ったはわずかじゃが、三年も五年も同一《おんなじ》ものをいう人間とは中を隔てた。馬がいるようではともかくも人里に縁があると、これがために気が勇んで、ええやっと今一揉《も》み。
一軒の山家《やまが》の前へ来たのには、さまで難儀は感じなかった。夏のことで戸障子のしまりもせず、ことに一軒家、あけ開いたなり門というてもない、いきなり破《や》れ縁になって男が一人、わしはもうなんの見境もなく、
(頼みます、頼みます)というさえ助けを呼ぶような調子で、取り縋《すが》らぬばかりにした。
(ご免なさいまし)といったがものもいわない、首筋をぐったりと、耳を肩で塞《ふさ》ぐほど顔を横にしたまま、小児《こども》らしい、意味のない、しかもぼっちりした目で、じろじろと門に立ったものを瞻《みつ》める、その瞳《ひとみ》を動かすさえ、おっくうらしい、気の抜けた身の持ち方。裾《すそ》短で袖《そで》は肱《ひじ》より少ない、糊気《のりけ》のある、ちゃんちゃんを着て、胸のあたりを紐《ひも》で結《ゆわ》えたが、一つ身のものを着たように出っ腹の太り肉《じし》、太鼓を張ったくらいに、すべすべとふくれて、しかも出臍《でべそ》というやつ、南瓜《かぼちや》の蔕《へた》ほどな異形な者を、片手でいじくりながら、幽霊の手つきで、片手を宙にぶらり。
足は忘れたか投げ出した、腰がなくば暖簾《のれん》を立てたように畳《たた》まれそうな、年紀《とし》がそれでいて二十二、三、口をあんぐりやった上唇《うわくちびる》で巻き込めよう、鼻の低さ、出額《でびたい》、五分刈りの伸びたのが前の鶏冠《とさか》のごとくになって、頸脚《えりあし》へ撥《は》ねて耳に被《かぶ》さった、唖《おし》か、白痴《ばか》か、これから蛙《かえる》になろうとするような少年。私は驚いた、こっちの生命《いのち》に別条はないが、先方《さき》様の形相。いや大別条《*》。
(ちょっとお願い申します)
それでも為方《しかた》がないからまた言葉をかけたが少しも通ぜず、ばたりというとわずかに首の位置をかえて今度は左の肩を枕《まくら》にした、口の開《あ》いてることもとのごとし。
こういうのは、悪くすると、いきなりふんづかまえて、臍を捻《ひね》りながら返事のかわりに嘗《な》めようも知れぬ。
わしは一足退《すさ》ったが、いかに深山だといってもこれを一人で置くという法はあるまい、と足を爪立《つまた》てて少し声高に、
(どなたぞ、ご免なさい)といった。
背戸と思うあたりで再び馬の嘶く声。
(どなた)と納戸《なんど》の方でいったのは女じゃから、南無三宝《なむさんぼう》、この白い首には鱗《うろこ》が生《は》えて、体《からだ》は床を這《は》って尾をずるずると引いて出ようと、また退《すさ》った。
(おお、お坊様)と立ち顕《あら》われたのは小造りの美しい、声も清《すず》しい、ものやさしい。
わしは大息を吐《つ》いて、なんにもいわず、
(はい)と頭《つむり》を下げましたよ。
婦人《おんな》は膝《ひざ》をついて坐《すわ》ったが、前へ伸び上がるようにして、黄昏《たそがれ》にしょんぼり立ったわしが姿を透かして見て、
(何か用でござんすかい)
休めともいわず、はじめから宿の常世《つねよ》は留守《るす》らしい、人を泊めないと極《き》めたもののように見える。
いい後《おく》れてはかえって出そびれて頼むにも頼まれぬ仕誼《しぎ》にもなることと、つかつかと前へ出た。
ていねいに腰を屈《かが》めて、
(わしは、山越えで信州へ参ります者ですが旅籠《はたご》のございます処《ところ》まではまだどのくらいございましょう)
一一
(あなたまだ八里余りでございますよ)
(そのほかに別に泊めてくれます家《うち》もないのでしょうか)
(それはございません)といいながら目《ま》たたきもしないで清《すず》しい目で私の顔をつくづく見ていた。
(いえもうなんでございます、実はこの先一町行け、そうすれば上段の室《へや》に寐《ね》かして一晩扇《あお》いでいてそれで功徳のためにする家があると承りましても、全くのところ一足も歩行《ある》けますのではございません、どこの物置きでも馬小屋のすみでもよいのでございますから後生でございます)と先刻《さつき》馬の嘶《いなな》いたのは此家《ここ》よりほかにはないと思ったから言った。
婦人《おんな》はしばらく考えていたが、ふとわきを向いて布の袋を取って、膝《ひざ》のあたりに置いた桶《おけ》の中へざらざらと一幅、水を溢《こぼ》すようにあけて縁をおさえて、手で掬《すく》って俯向《うつむ》いて見たが、
(ああ、お泊め申しましょう、ちょうど炊《た》いてあげますほどお米もございますから。それに夏のことで、山家は冷えましても夜のものに御不自由もござんすまい。さあ、ともかくも、あなた、お上がりあそばして)
というと言葉の切れぬ先にどっかり腰を落とした。婦人はつと身を起こして立って来て、
(お坊様、それでござんすがちょっとお断わり申しておかねばなりません)
はっきりいわれたのでわしはびくびくもので、
(はい、はい)
(いいえ、別のことじゃござんせぬが、わたしは癖として都の話を聞くのが病でございます、口に蓋《ふた》をしておいでなさいましても無理やりに聞こうといたしますが、あなた忘れてもそのとき聞かしてくださいますな、ようござんすかい、私は無理にお尋ね申します、あなたはどうしてもお話しなさいませぬ、それをぜひにと申しましてもたっておっしゃらないようにきっと念を入れておきますよ)
と仔細《しさい》ありげなことをいった。
山の高さも谷の深さも底の知れない一軒家の婦人《おんな》の言葉とは思うたが、保つにはむずかしい戒めでもなし、わしはただ頷《うなず》くばかり。
(はい、よろしゅうございます、何事もおっしゃりつけは背《そむ》きますまい)
婦人は言下《ごんか》に打ち解けて、
(さあさあきたのうございますが早くこちらへ、お寛《くつろ》ぎなさいまし、そうしてお洗足《せんそく》を上げましょうかえ)
(いえ、それには及びませぬ、雑巾《ぞうきん》をお貸しくださいまし。ああ、それからもしそのお雑巾ついでにずっぷりお絞んなすってくださると助かります、途中で大変な目に逢《あ》いましたので体《からだ》を打棄《うつちや》りたいほど気味が悪うございますので、ひとつ背中を拭《ふ》こうと存じますが、恐れ入りますな)
(そう、汗におなりなさいました、さぞまあ、お暑うござんしたでしょう、お待ちなさいまし、旅籠《はたご》へお着きあそばして湯にお入《はい》りなさいますのが、旅するおかたには何より御馳走《ごちそう》だと申しますね、湯どころか、お茶さえろくにおもてなしもいたされませんが、あの、この裏の崖《がけ》を下《お》りますと、きれいな流れがございますからいっそそれへ行らっしゃってお流しがよろしゅうございます)
聞いただけでも飛んでも行きたい。
(ええ、それは何より結構でございますな)
(さあ、それでは御案内申しましょう、どれ、ちょうどわたしも米を磨《と》ぎに参ります)とくだんの桶《おけ》を小脇《こわき》に抱《かか》えて、縁側から、藁《わら》草履《ぞうり》を穿《は》いて出たが、屈《かが》んで板縁の下を覗《のぞ》いて、引き出したのは一足の古下駄《げた》で、かちりと合わして埃《ほこり》を払《はた》いて揃《そろ》えてくれた。
(お穿きなさいまし、草鞋はここにお置きなすって)
私は手をあげて、一礼して、
(恐れ入ります、これはどうも)
(お泊め申すとなりましたら、あの、他生の縁とやらでござんす、あなた御遠慮をあそばしますなよ)まず恐ろしく調子がいいじゃて」
一二
「(さあ、わたしに跟《つ》いてこちらへ)とくだんの米磨《と》ぎ桶《おけ》を引っ抱《かか》えて手拭《てぬぐ》いを細い帯に挟《はさ》んで立った。
髪はふっさりとするのを束《たば》ねてな、櫛《くし》をはさんで簪《かんざし》で留めている、その姿のよさというてはなかった。
わしも手早く草鞋《わらじ》を解いたから、さっそく古下駄を頂戴《ちようだい》して、縁から立つ時ちょいと見ると、それ例の白痴《ばか》殿じゃ。
同じく私が方をじろりと見たっけよ、舌足らずが饒舌《しやべ》るような、愚にもつかぬ声を出して、
(姉《ねえ》や、こえ、こえ)といいながら、けだるそうに手を持ち上げてその蓬々《ぼうぼう》と生《は》えた天窓《あたま》を撫《な》でた。
(坊《ぼう》さま、坊さま?)
すると婦人《おんな》が下ぶくれな顔にえくぼを刻んで、三つばかりはきはきと続けて頷《うなず》いた。
少年は、うんといったが、ぐたりとしてまた臍《へそ》をくりくりくり。
わしはあまりきのどくさに顔も上げられないでそっと盗むようにして見ると、婦人は何事も別に気に懸《か》けてはおらぬ様子、そのまま後へ跟《つ》いて出ようとするとき、紫陽花《あじさい》の花の蔭《かげ》からぬいと出た、一名の親仁《おやじ》がある。
背戸から廻《まわ》って来たらしい、草鞋を穿《は》いたなりで、胴乱の根付け《*》を紐長《ひもなが》にぶらりと提《さ》げ、銜《くわ》え煙管《ぎせる》をしながら、並んで立ち停《ど》まった。
(和尚《おしよう》様おいでなさい)
婦人はそなたを振り向いて、
(おじ様どうでござんした)
(さればさの、頓馬《とんま》で間の抜けたというのはあのことかい。根っからはや狐《きつね》でなければ乗せ得そうにもないやつじゃが、そこはおらが口じゃ、うまく仲人《なこうど》して、二月や三月はお嬢様が御不自由のねえように、翌日《あす》はものにしてうんとここへ担《かつ》ぎ込みます)
(お頼み申しますよ)
(承知、承知、おお、嬢様どこさ行かっしゃる)
(崖《がけ》の水までちょいと)
(若い坊様連れて川へ落っこちさっしゃるな。おらここに眼張《がんば》って待っとるに)と横様に縁にのさり。
(あなた、あんなことを申しますよ)と顔を見て微笑《ほおえ》んだ。
(一人で参りましょう)とわきへ退《の》くと、親仁はくつくつと笑って、
(はははは、さあ、早くいってござらっせえ)
(おじ様、今日《きよう》はおまえ、珍しいお客がお二かたござんした、こういうときはあとからまた見えようもしれませんし、次郎さんばかりでは来た者が弱んなさろう、わたしが帰るまでそこに休んでいておくれでないか)
(いいともの)といいかけて、親仁は少年のそばへにじり寄って、鉄梃《かなてこ》を見たような拳《こぶし》で、背中をどんとくらわした、白痴の腹はだぶりとして、べそをかくような口つきで、にやりと笑う。
私はぞっとして面を背《そむ》けたが、婦人は何気ない体《てい》であった。
親仁は大口を開《あ》いて、
(留守におらがこの亭主を盗むぞよ)
(はい、ならば手柄でござんす、さあ、あなた参りましょうか)
背後《うしろ》から親仁が見るように思ったが、導かるるままに壁について、かの紫陽花のある方ではない。
やがて背戸と思う処《ところ》で、左に馬小屋を見た。ことことという音は羽目を蹴《け》るのであろう、もうその辺から薄暗くなってくる。
(あなた、ここから下《お》りるのでございます、辷《すべ》りはいたしませぬが、道はひどうございますからお静かに)という」
一三
「そこから下《お》りるのだと思われる、松の木の細くって度外《どはず》れに背《せ》の高い、ひょろひょろしたおよそ五、六間上までは小枝一つもないのがある。その中を潜《くぐ》ったが、仰ぐと梢《こずえ》に出て白い、月の形はここでも別にかわりはなかった、浮き世はどこにあるか十三夜で。
先へ立った婦人《おんな》の姿が目さきを放れたから、松の幹に掴《つか》まって覗《のぞ》くと、つい下にいた。
仰向《あおむ》いて、
(急に低くなりますから気をつけて。こりゃあなたには足駄《あしだ》では無理でございましたかしら、よろしくば草履《ぞうり》とお取《と》り交《か》え申しましょう)
立ち後《おく》れたのを歩行《ある》き悩んだと察した様子、何がさて転《ころ》げ落ちても早く行って蛭《ひる》の垢《あか》を落としたさ。
(なに、いけませんければ跣足《はだし》になります分のこと、どうぞお構いなく、嬢様に御心配をかけては済みません)
(あれ、嬢様ですって)とやや調子を高めて、あでやかに笑った。
(はい、ただいまあの爺《じい》さんが、さよう申しましたように存じますが、夫人《おくさま》でございますか)
(何にしてもあなたには叔母《おば》さんくらいな年紀《とし》ですよ。まあ、お早くいらっしゃい、草履もようござんすけれど、棘《とげ》がささりますといけません、それにじくじく湿《ぬ》れていてお気味が悪うございましょうから)と向こう向きでいいながら衣服《きもの》の片褄《つま》をぐいとあげた。まっ白なのが暗《やみ》まぎれ、歩行《ある》くと霜が消えていくような。
ずんずんずんずんと道を下《お》りる、かたわらの叢《くさむら》から、のさのさと出たのは蟇《ひき》で。
(あれ、気味が悪いよ)というと、婦人は背後《うしろ》へ高々と踵《かかと》を上げて、向こうへ飛んだ。
(お客様がいらっしゃるではないかね、人の足になんか搦《から》まって、ぜいたくじゃあないか、おまえたちは虫を吸っていればたくさんだよ。
あなたずんずんいらっしゃいましな、どうもしはしません。こういう処ですからあんなものまで人懐《なつか》しゅうございます、いやじゃないかね、おまえたちと友達《ともだち》を見たようではずかしい、あれ、いけませんよ)
蟇はのさのさとまた草を分けて入《はい》った、婦人はむこうへずいと。
(さあこの上へ乗るんです、土が柔らかで壊《く》えますから地面は歩行かれません)
いかにも大木の僵《たお》れたのが草がくれにその幹をあらわしている、乗ると足駄穿きで差し支《つか》えがない、丸木だけれども恐ろしく太いので、もっともこれを渡り果てるとたちまち流れの音が耳に激《げき》した、それまでにはよほどの間。
仰いで見ると松の樹《き》はもう影も見えない、十三夜の月はずっと低うなったが、今下りた山の頂に半ばかかって、手が届きそうにあざやかだけれども、高さはおよそ計り知られぬ。
(あなた、こちらへ)
といった婦人はもう一息、目の下に立って待っていた。
そこははや一面の岩で、岩の上へ谷川の水がかかってここによどみを作っている、その幅は一間ばかり、水に臨めば音はさまでにもないが、美しさは玉を解いて流したよう、かえって遠くの方ですさまじく岩に砕ける響きがする。
向こう岸はまた一座の山の裾《すそ》で、頂の方はまっくらだが、山の端《は》からその山腹を射る月の光に照らし出されたあたりからは、大石小石、栄螺《さざえ》のようなの、六尺角に切り出したの、剣のようなのやら、鞠《まり》の形をしたのやら、目の届く限り残らず岩で、しだいに大きく水に〓《ひた》ったのはただ小山のよう」
一四
「(いい塩梅《あんばい》に今日《きよう》は水がふえておりますから、中へ入《はい》りませんでもこの上でようございます)と甲を浸して爪先《つまさき》を屈《かが》めながら、雪のような素足で石の盤の上に立っていた。
自分たちが立った側《かわ》は、かえってこっちの山の裾《すそ》が水に迫って、ちょうど切り穴の形になって、そこへこの石を嵌《は》めたような誂《あつら》え。川上も下流も見えぬが、向こうのあの岩山、九十九《つづら》折りのような形、流れは五尺、三尺、一間ばかりずつ上流の方がだんだん遠く、飛び飛びに岩をかがったように隠見して、いずれも月光を浴びた、銀の鎧《よろい》の姿、目《ま》のあたり近いのはゆるぎ糸を捌《さば》くがごとくまっ白に翻《ひるがえ》って。
(結構な流れでございますな)
(はい、この水は源が滝でございます、この山を旅するおかたはみな大風のような音をどこかで聞きます。あなたもこちらへいらっしゃる道でお心着きはなさいませんかい)
さればこそ山蛭《やまびる》の大藪《おおやぶ》へ入ろうという少し前からその音を。
(あれは林へ風の当たるのではございませんので?)
(いえ、たれでもそう申します、あの森から三里ばかり傍道へ入りました処《ところ》に大滝があるのでございます、それはそれは日本一だそうですが、路《みち》が嶮《けわ》しゅうござんすので、十人に一人参ったものはございません。その滝が荒れましたと申しまして、ちょうど今から十三年前、恐ろしい洪水《おおみず》がございました、こんな高い処まで川の底になりましてね、麓《ふもと》の村も山の家も残らず流れてしまいました。この上《かみ》の洞《ほら》も、はじめは二十軒ばかりあったのでござんす、この流れもそのときからできました、ご覧なさいましな、このとおりみな石が流れたのでございますよ)
婦人《おんな》はいつかもう米を精《しら》げ果てて、衣紋《えもん》の乱れた、乳《ち》の端もほの見ゆる、膨《ふく》らかな胸を反《そ》らして立った、鼻高く口を結んで目をうっとりと上を向いて頂を仰いだが、月はなお半腹のその累々たる巌《いわお》を照らすばかり。
(今でもこうやって見ますとこわいようでございます)と屈《かが》んで二の腕の処を洗っていると。
(あれ、あなた、そんな行儀のいいことをしていらしってはお召しが濡《ぬ》れます、気味が悪うございますよ、すっぱり裸体《はだか》になってお洗いなさいまし、私が流してあげましょう)
(いえ)
(いえじゃあござんせぬ、それ、それ、お法衣《ころも》の袖《そで》が浸るではありませんか)というといきなり背後から帯に手をかけて、身悶《みもだ》えをして縮むのを、じゃけんらしくすっぱり脱いで取った。
わしは師匠が厳《きび》しかったし、経を読む身体《からだ》じゃ、肌《はだ》さえ脱いだことはついぞ覚えぬ。しかも婦人の前、蝸 牛 《まいまいつぶろ》が城を明け渡したようで、口を利《き》くさえ、まして手足のあがきもできず、背中を円《まる》くして、膝《ひざ》を合わせて、縮かまると、婦人は脱がした法衣をかたわらの枝へふわりとかけた。
(お召しはこうやっておきましょう。さあお背《せな》を、あれさ、じっとして。お嬢様とおっしゃってくださいましたお礼に、叔母《おば》さんが世話を焼くのでござんす、お人の悪い)といって片袖を前歯で引き上げ、
玉のような二の腕をあからさまに背中に乗せたが、じっと見て、
(まあ)
(どうかいたしておりますか)
(痣《あざ》のようになって、一面に)
(ええ、それでございます、ひどい目に逢《あ》いました)
思い出してもぞっとするて」
一五
「婦人《おんな》は驚いた顔をして、
(それでは森の中で、大変でございますこと。旅をする人が、飛騨《ひだ》の山では蛭《ひる》が降るというのはあすこでござんす。あなたは抜け道をご存じないからまともに蛭の巣をお通りなさいましたのでございますよ。お生命《いのち》も冥加《みようが》なくらい、馬でも牛でも吸い殺すのでございますもの。しかし疼《うず》くようにおかゆいのでござんしょうね)
(ただいまではもう痛みますばかりになりました)
(それではこんなものでこすりましては柔らかいお肌《はだ》が擦《す》り剥《む》けましょう)というと手が綿のように障《さわ》った。
それから両方の肩から、背、横腹、臀《いしき》、さらさら水をかけてはさすってくれる。
それがさ、骨に透《とお》って冷たいかというとそうではなかった。暑い時分じゃが、理窟《りくつ》をいうとこうではあるまい、わしの血が沸いたせいか、婦人の温気《ぬくみ》か、手で洗ってくれる水がいいぐあいに身に染《し》みる、もっとも質《たち》のいい水は柔らかじゃそうな。
その心地《ここち》のえもいわれなさで、眠けがさしたでもあるまいが、うとうとする様子で、疵《きず》の痛みがなくなって気が遠くなって、ひたと附《くつ》ついている婦人の身体で、私は花びらの中へ包まれたようなぐあい。
山家の者には肖合《にあ》わぬ、都にもまれな器量はいうに及ばぬが弱々しそうな風采《ふう》じゃ、背中を流すうちにもはっはっと内証《ないしよ》で呼吸《いき》がはずむから、もう断わろう断わろうと思いながら、例のうっとりで、気はつきながら洗わした。
その上、山の気か、女の香《におい》か、ほんのりといい薫《かおり》がする、私は背後《うしろ》でつく息じゃろうと思った」
上人《しようにん》はちょっと句切って、
「いや、おまえ様お手近じゃ、その明かりを掻《か》き立ってもらいたい、暗いと怪しからぬ話じゃ、ここらから一番野面《のづら*》で遣《や》っつけよう」
枕《まくら》を並べた上人の姿もおぼろげに、明かりは暗くなっていた、さっそく燈心を明るくする、上人は微笑《ほおえ》みながら続けたのである。
「さあ、そうやっていつの間にやら現《うつつ》ともなしに、こう、その不思議な、結構な薫のする暖《あつた》かい花の中へ柔らかに包まれて、足、腰、手、肩、頸《えり》からしだいに天窓《あたま》まで一面に被《かぶ》ったから吃驚《びつくり》、石に尻餅《しりもち》を搗《つ》いて、足を水の中に投げ出したから落ちたと思うとたんに、女の手が背後から肩越しに胸をおさえたのでしっかりつかまった。
(あなた、おそばにいて汗臭うはござんせぬかい、とんだ暑がりなんでございますから、こうやっておりましても、こんなでございますよ)という胸にある手を取ったのを、慌《あわ》てて放して棒のように立った。
(失礼)
(いいえだれも見ておりはしませんよ)と澄まして言う、婦人もいつの間にか衣服《きもの》を脱いで全身を練り絹《*》のように露《あら》わしていたのじゃ。
なんと驚くまいことか。
(こんなに太っておりますから、もうおはずかしいほど暑いのでございます、今時は毎日二度も三度も来てはこうやって汗を流します、この水がございませんかったらどういたしましょう、あなた、お手拭《てぬぐ》い)
といって絞ったのを寄越した。
(それでおみ足をお拭《ふ》きなさいまし)
いつの間にか、体《からだ》はちゃんと拭いてあった、お話し申すも恐れ多いが、はははははは」
一六
「なるほど見たところ、衣服《きもの》を着たときの姿とは違うて肉《しし》つきの豊かな、ふっくりとした膚《はだえ》。
(先刻《さつき》小屋へ入《はい》って世話をしましたので、ぬらぬらした馬の鼻息が体《からだ》じゅうへかかって気味が悪うござんす。ちょうどようございますからわたしも体を拭《ふ》きましょう)
と姉弟が内端話《うちわばなし》をするような調子。手をあげて黒髪をおさえながら腋《わき》の下を手拭いでぐいと拭き、あとを両手で絞りながら立った姿、ただこれ雪のようなのをかかる霊水で清めた、こういう女の汗は薄紅になって流れよう。
ちょいちょいと櫛《くし》を入れて、
(まあ、女がこんなお転婆《てんば》をいたしまして、川へ落っこちたらどうしましょう、川下へ流れて出ましたら、村里の者がなんといって見ましょうね)
(白桃の花だと思います)とふと心付いてなんの気もなしにいうと、顔が合うた。
すると、さもうれしそうににっこりして、そのときだけはういういしゅう年紀《とし》も七つ八つ若やぐばかり、処女《きむすめ》の羞《はじ》を含んで下を向いた。
わしはそのまま目を外《そ》らしたが、その一段の婦人《おんな》の姿が月を浴びて、薄い煙に包まれながら向こう岸の〓《しぶき》に濡《ぬ》れて黒い、なめらかな大きな石へ蒼《あお》みを帯びて透き通って映るように見えた。
するとね、夜目ではっきりとは目に入らなんだが、地体なんでも洞穴《ほらあな》があると見える。ひらひらと、こちらからもひらひら、ものの鳥ほどはあろうという大蝙蝠《こうもり》が目を遮《さえぎ》った。
(あれ、いけないよ、お客様があるじゃないかね)
不意を打たれたように叫んで身悶《みもだ》えをしたのは婦人。
(どうかなさいましたか)もうちゃんと法衣《ころも》を着たから気じょうぶに尋ねる。
(いいえ)
といったばかりで極《き》まり悪そうに、くるりと後ろ向きになった。
そのとき小犬ほどな鼠色《ねずみいろ》の小坊主が、ちょこちょことやって来て、あなやと思うと、崖《がけ》から横に宙をひょいと、背後から婦人の背中へぴったり。
裸体《はだか》の立ち姿は腰から消えたようになって、抱きついたものがある。
(畜生、お客様が見えないかい)
と声に怒りを帯びたが、
(おまえたちは生意気だよ)と激しくいいさま、腋の下から覗《のぞ》こうとしたくだんの動物の天窓《あたま》を振り返りさまにくらわしたで。
キッキッというて奇声を放った、くだんの小坊主はそのまま後ろ飛びにまた宙を飛んで、今まで法衣をかけておいた、枝の尖《さき》へ長い手で釣るし下がったと思うと、くるりと釣瓶覆《つるべがえ》しに上へ乗って、それなりさらさらと木登りをしたのは、なんと、猿《さる》じゃあるまいか。
枝から枝を伝うと見えて、見上げるように高い木の、やがて梢《こずえ》まで、かさかさがさり。
まばらに葉の中を透かして月は山の端《は》を放れた、その梢のあたり。
婦人はものに拗《す》ねたよう、今の悪戯《いたずら》、いや、毎々、蟇《ひき》と、蝙蝠と、お猿で三度じゃ。
その悪戯に、いたく機嫌《きげん》を損《そこ》ねた形、あまり子供がはしゃぎすぎると、若い母様《おふくろ》にはえてある図じゃ。
ほんとうに怒《おこ》りだす。
といった風情《ふぜい》で、めんどうくさそうに衣服《きもの》を着ていたから、わしはなんにも問わずに小さくなって黙って控えた」
一七
「優しいなかに強みのある、気軽に見えてもどこにか落ち着きのある、なれなれしくて犯しやすからぬ品のいい、いかなることにもいざとなれば驚くに足らぬという身に応《こた》えのあるといったようなふうの婦人《おんな》、かく嬌瞋《きようしん*》を発してはきっといいことはあるまい、今この婦人にじゃけんにされては木から落ちた猿も同然じゃと、おっかなびっくりで、おずおず控えていたが、いや案ずるより産むが安い。
(あなた、さぞおかしかったでござんしょうね)と自分でも思い出したように快く微笑《ほおえ》みながら、
(しようがないのでございますよ)
以前と変わらず心安くなった、帯をはやしめたので、
(それでは家《うち》へ帰りましょう)と米磨《こめと》ぎ桶《おけ》を小脇《こわき》にして、草履《ぞうり》を引っかけてつと崖《がけ》へ上った。
(おあぶのうござんすから)
(いいえ、もうだいぶ勝手がわかっております)
ずっと心得たつもりじゃったが、さて上がるとき見ると、思いのほか上まではたいそう高い。
やがてまた例の木の丸太を渡るのじゃが、先刻《さつき》もいったとおり草のなかに横倒れになっている木地がこうちょうど鱗《うろこ》のようで、たとえにもよくいうが松の木は蝮《うわばみ》に似ているで。
ことに崖を、上の方へ、いい塩梅《あんばい》に蜿《うね》った様子が、飛んだものに持って来いなり、およそこのくらいな胴中の長虫がと思うと、頭と尾を草に隠して、月あかりにありありとそれ。
山路《やまみち》のときを思い出すとわれながら足が竦《すく》む。
婦人は深切に後ろを気遣《きづこ》うては気を付けてくれる。
(それをお渡りなさいますとき、下を見てはなりません、ちょうどちゅうとでよっぽど谷が深いのでございますから、目が廻《ま》うと悪うござんす)
(はい)
ぐずぐずしてはいられぬから、わが身を笑いつけて、まず乗った。引っかかるよう、刻《きざ》が入れてあるのじゃから、気さえ確かなら足駄《あしだ》でも歩行《ある》かれる。
それがさ、一件じゃから耐《たま》らぬて、乗るとこうぐらぐらして柔らかにずるずると這《は》いそうじゃから、わっというと引ん跨《また》いで腰をどさり。
(ああ、意気地《いくじ》はございませんねえ。足駄では無理でございましょう、これとお穿《は》き換えなさいまし、あれさ、ちゃんということを肯《き》くんですよ)
私はその先刻からなんとなくこの婦人に畏敬の念が生じて善か悪か、どのみち命令されるように心得たから、いわるるままに草履《ぞうり》を穿いた。
するとお聞きなさい、婦人は足駄を穿きながら手を取ってくれます。
たちまち身が軽くなったように覚えて、わけなく後ろに従って、ひょいとあの孤家《ひとつや》の背戸の端《はた》へ出た。
出会い頭《がしら》に声を懸《か》けたものがある。
(やあ、だいぶ手間が取れると思ったに、御坊様もとの体《からだ》で帰らっしゃったの)
(何をいうんだね、小父《おじ》さん家の番はどうおしだ)
(もういい時分じゃ、またわしもあまりおそうなっては道が困るで、そろそろ青を引き出して支度《したく》しておこうと思うてよ)
(それはお待ち遠でござんした)
(なにさ、行って見さっしゃい、御亭主は無事じゃ、いやなかなかわしが手には口説《くど》き落とされなんだ。ははははは)と意味もないことを大笑いして、親仁《おやじ》は厩《うまや》の方へてくてくと行った。
白痴《ばか》はおなじ処《ところ》になお形を存している、海月《くらげ》も日にあたらねば解けぬと見える」
一八
「ヒイイン! 叱《し》っ、どうどうどうと背戸を廻《まわ》る鰭爪《ひづめ》の音が縁へ響いて、親仁《おやじ》は一頭の馬を門前へ引き出した。
轡頭《くつわづら》を取って立ちはだかり、
(嬢様そんならこのままでわし参りやする、はい、御坊様にたくさん御馳走《ごちそう》してあげなされ)
婦人《おんな》は炉縁《ろぶち》に行燈《あんどう》を引き附《つ》け、俯向《うつむ》いて鍋《なべ》の下を燻《いぶ》していたが、振り仰ぎ、鉄の火箸《ひばし》を持った手を膝《ひざ》に置いて、
(ご苦労でござんす)
(いんえ御懇《ごねんごろ》には及びましねえ。叱っ!)と荒縄《あらなわ》の綱を引く。青で蘆毛《あしげ》、裸馬でたくましいが、鬣《たてがみ》の薄い牡《おす》じゃわい。
その馬がさ、わしも別に馬は珍しゅうもないが、白痴《ばか》殿の背後《うしろ》に畏《かしこま》って手持ち不沙汰《ぶさた》じゃから今引いて行こうとするとき、縁側へひらりと出て、
(その馬はどこへ)
(おお、諏訪《すわ》の湖のあたりまで馬市へ出しやすのじゃ、これから明朝《あした》御坊様が歩行《ある》かっしゃる山路を越えて行きやす)
(もし、それへ乗って今からお遁《に》げあそばすおつもりではないかい)
婦人はあわただしく遮《さえぎ》って声を懸《か》けた。
(いえ、もったいない、修行の身が馬で足休めをしましょうなぞとは存じませぬ)
(なんでも人間を乗っけられそうな馬じゃあござらぬ。お坊様は命拾いをなされたのじゃで、おとなしゅうして、嬢様の袖《そで》の中で、今夜は助けてもらわっしゃい。さようなら、ちょっくら行って参りますよ)
(あい)
(畜生)といったが馬は出ないわ。びくびくと蠢《うごめ》いて見える大きな鼻っ面《つら》をこちらへ捻《ね》じ向けて、しきりにわしらがいる方を見る様子。
(どうどうどう、畜生これあだけた《*》獣じゃ、やい!)
左右にして綱を引っ張ったが、脚から根をつけたごとくぬっくと立っていてびくともせぬ。
親仁大いに苛立《いらだ》って、叩いたり、打《ぶ》ったり、馬の胴体について二、三度ぐるぐると廻《まわ》ったが少しも歩かぬ。肩でぶっつかるようにして横っ腹へ体《たい》をあてたとき、ようよう前足を上げたばかりまた四つ脚を突っ張り抜く。
(嬢様嬢様)
と親仁が喚《わめ》くと、婦人はちょっと立って白い爪《つま》さきをちょろちょろとまっ黒に煤《すす》けた太い柱を楯《たて》に取って、馬の目の届かぬほどに小隠れた。
そのうち腰に挟《はさ》んだ、煮染《にし》めたような、なえなえの手拭《てぬぐ》いを抜いて克明に刻んだ額《ひたい》の皺《しわ》の汗を拭いて、親仁はこれでよしという気組み。再び前へ廻ったが、旧《もと》に依《よ》って貧乏動《ゆる》ぎもしないので、綱に両手をかけて足を揃《そろ》えて反《そ》り返るようにして、うむと総身に力を入れた。とたんにどうじゃい。
すさまじく嘶《いなな》いて前足を両方中空へ翻《ひるがえ》したから、小さな親仁は仰向《あおむ》けに引っくりかえった、ずどんどう、月夜に砂煙がぱっと立つ。
白痴にもこれはおかしかったろう、このときばかりじゃ、まっすぐに首を据えて厚い脣《くちびる》をばくりと開《あ》けた、大粒な歯を露《む》き出して、あの宙へ下げている手を風で煽《あお》るように、はらりはらり。
(世話が焼けることねえ)
婦人は投げるようにいって草履《ぞうり》を突っかけて土間へついと出る。
(嬢様勘違いさっしゃるな、これはおまえ様ではないぞ、なんでもはじめからそこなお坊様に目をつけたっけよ、畜生俗縁があるだっぺいわさ)
俗縁は驚いたい。
すると婦人が、
(あなたここへいらっしゃる路《みち》でだれにかお逢《あ》いなさりはしませんか)」
一九
「(はい、辻《つじ》の手前で、富山の反魂丹《はんごんたん*》売りに逢《あ》いましたが、一足先にやはりこの路《みち》へ入りました)
(ああ、そう)と会心の笑《え》みを洩《も》らして婦人《おんな》は蘆毛《あしげ》の方を見た、およそたまらなくおかしいといったはしたない風采《とりなり》で。
きわめて与《くみ》しやすう見えたので、
(もしやこちらへ参りませなんだでございましょうか)
(いいえ、存じません)というときたちまち犯すべからざる者になったから、わしは口をつぐむと、婦人は、匙《さじ》を投げて衣《きもの》の塵《ちり》を払うている馬の前足の下に小さな親仁を見向いて、
(しようがないねえ)といいながら、かなぐるようにして、その細帯を解きかけた、片端が土へ引こうとするのを、掻《か》い取ってちょいと猶予《ためら》う。
(ああ、ああ)と濁った声を出して白痴《ばか》がくだんのひょろりとした手を差し向けたので、婦人は解いたのを渡してやると、風呂敷《ふろしき》を寛《ひろ》げたような、他愛のない、力のない、膝《ひざ》の上へわがねて宝物を守護するようじゃ。
婦人は衣紋《えもん》を抱き合わせ、乳の下でおさえながら静かに土間を出て馬のわきへつつと寄った。
私はただ呆気《あつけ》に取られて見ていると、爪立《つまだ》ちをして伸び上がり、手をしなやかに空ざまにして、二、三度鬣《たてがみ》を撫《な》でたが。
大きな鼻頭《はなづら》の正面にすっくと立った。丈《せい》もすらすらと急に高くなったように見えた、婦人は目を据え、口を結び、眉《まゆ》を開いてうっとりとなった有様《ありさま》、愛嬌《あいきよう》も、嬌態《しな》も、世話らしい打ち解けたふうはとみに失《う》せて、神か、魔かと思われる。
そのとき裏の山、向こうの峰、左右前後にすくすくとあるのが、一つ一つ嘴《くちばし》を向け、頭を擡《もた》げて、この一落の《*》別天地、親仁を下手《しもて》に控え、馬に面して彳《たたず》んだ月下の美女の姿を差し覗《のぞ》くがごとく、陰々として深山《みやま》の気が籠《こ》もってきた。
なまぬるい風のような気勢《けはい》がすると思うと、左の肩から片膚を脱いだが、右の手を脱《はず》して、前へ廻《まわ》し、ふくらんだ胸のあたりで着ていたその単衣《ひとえ》を円《まろ》げて持ち、霞《かすみ》も絡《まと》わぬ姿になった。
馬は背、腹の皮を弛《ゆる》めて汗もしとどに流れんばかり、突っ張った脚《あし》もなよなよとして身震いをしたが、鼻面を地につけて一掴《つか》みの白泡を吹き出したと思うと前足を折ろうとする。
そのとき、頤《あぎと》の下へ手をかけて、片手で持っていた単衣をふわりと投げて馬の目を蔽《おお》うがいなや、
兎《うさぎ》は躍《おど》って、仰向《あおむ》けざまに身を翻《ひるがえ》し、妖気《ようき》を籠めて朦朧《もうろう》とした月あかりに、前足の間に膚が挟《はさ》まったと思うと、衣《きぬ》を脱《だつ》して掻い取りながら下腹をつと潜って横に抜けて出た。
親仁は差し心得たものと見える、このきっかけに手綱を引いたから、馬はすたすたと健脚を山路に上げた、しゃん、しゃん、しゃん、しゃんしゃん、しゃんしゃん――見る間に眼界を遠ざかる。
婦人ははや衣服を引っかけて縁側へ入《はい》って来て、突然帯を取ろうとすると、白痴は惜しそうに押えて放さず、手を上げて、婦人の胸を圧《おさ》えようとした。
じゃけんに払い退《の》けて、きっと睨《にら》んで見せると、そのままがっくりと頭《こうべ》を垂《た》れた。すべての光景は行燈《あんどう》の火もかすかに幻のように見えたが、炉にくべた柴《しば》がひらひらと炎先《ほさき》を立てたので、婦人は衝《つ》と走って入る。空の月のうらを行くと思うあたり、はるかに馬子唄《まごうた》が聞こえたて」
二〇
「さて、それから御飯のときじゃ、膳《ぜん》には山家の香の物、生姜《はじかみ》の漬《つ》けたのと、わかめを茹《う》でたの、塩漬けの名も知らぬ蕈《きのこ》の味噌汁《みそしる》、いやなかなか人参《にんじん》と干瓢《かんぴよう》どころではござらぬ。
品物はわびしいが、なかなかのお手料理、餓《う》えてはいるし、冥加《みようが》至極なお給仕、盆を膝《ひざ》に構えてその上に肱《ひじ》をついて、頬《ほお》を支《ささ》えながら、うれしそうに見ていたわ。
縁側にいた白痴《ばか》はたれも取り合わぬつれづれに堪《た》えられなくなったものか、ぐたぐたと膝行《いざ》りだして、婦人《おんな》のそばへその便々たる腹を持って来たが、崩《くず》れたように胡坐《あぐら》して、しきりにこうわが膳を視《なが》めて、指さしをした。
(うううう、うううう)
(なんでございますね、あとでお食《あが》んなさい、お客様じゃあありませんか)
白痴は情けない顔をして口を曲《ゆが》めながら頭《かぶり》を掉《ふ》った。
(いや? しようがありませんね、それじゃごいっしょに召しあがれ。あなた、ご免を蒙《こうむ》りますよ)
私は思わず箸《はし》を置いて、
(さあどうぞお構いなく、とんだ御雑作《ごぞうさ》を頂《いただ》きます)
(いいえ、なんのあなた。おまえさんのちほどにわたしといっしょにお食べなさればいいのに。困った人でございますよ)とそらさぬ愛想《あいそ》、手早く同一《おなじ》ような膳を拵《こしら》えてならべて出した。
飯のつけようもかいがいしい女房ぶり、しかもなんとなく奥ゆかしい、上品な、高家《こうけ》のふうがある。
白痴《あほう》はどんよりした目をあげて膳の上を睨《ね》めていたが、
(あれを、ああ、あれ、あれ)といって、きょろきょろとあたりを〓《みまわ》す。
婦人《ふじん》はじっと瞻《みまも》って、
(まあ、いいじゃないか。そんなものはいつでも食べられます、今夜はお客様がありますよ)
(うむ、いや、いや)と肩腹を揺すったが、べそをかいて泣きだしそう。
婦人《おんな》は困《こう》じ果てたらしい、かたわらのもののきのどくさ。
(嬢様、何か存じませんが、おっしゃるとおりになすったがよいではござりませんか。私にお気遣《きづか》いはかえって心苦しゅうござります)と慇懃《いんぎん》にいうた。  婦人《おんな》はまたもう一度、
(いやかい、これでは悪いのかい)
白痴《ばか》が泣きだしそうにすると、さも怨《うら》めしげに流眄《ながしめ》に見ながら、こわれごわれになった戸棚《とだな》の中から、鉢《はち》に入《はい》ったのを取り出して手早く白痴の膳につけた。
(はい)とわざとらしく、すねたようにいって笑顔《えがお》造り。
はてさて迷惑な、こりゃ目の前で黄色蛇《あおだいしよう》の旨煮《うまに》か、腹籠りの猿《さる》の蒸し焼きか。災難が軽うても、赤蛙《あかがえる》の干物を大口にしゃぶるであろうと、そっと見ていると、片手に椀《わん》を持ちながら掴《つか》み出したのは、老沢庵《ひねたくあん》。
それもさ、刻んだのではないで、一本三つ切りにしたろうという握り太なのを横銜《よこぐわ》えにしてやらかすのじゃ。
婦人《おんな》はよくよくあしらいかねたか、盗むようにわしを見てさっと顔を赧《あか》らめて初心らしい、そんな質《たち》ではあるまいに、羞《は》ずかしげに膝なる手拭《てぬぐ》いの端を口にあてた。
なるほどこの少年にこれであろう、身体《からだ》は沢庵色にふとっている。やがてわけもなく餌食《えじき》を平らげて湯ともいわず、ふっふっと大儀そうに呼吸を向こうへ吐《つ》くわさ。
(なんでございますか、私は胸に支《つか》えましたようで、ちっともほしくございませんから、またのちほどに頂きましょう)
と婦人《おんな》自分は箸も取らずに二つの膳を片づけてな」
二一
「しばらくしょんぼりしていたっけ。
(あなた、さぞお疲労《つかれ》、すぐにお休ませ申しましょうか)
(ありがとう存じます。まだちっとも眠くはござりません。先刻《さつき》体《からだ》を洗いましたので草臥《くたび》れもすっかり復《なお》りました)
(あの流れはどんな病にでもよく利《き》きます、私が苦労をいたしまして骨と皮ばかりに体が朽《か》れましても、半日あすこにつかっておりますと、みずみずしくなるのでございますよ。もっともあのこれから冬になりまして、山がまるで氷ってしまい、川も崖《がけ》も残らず雪になりましても、あなたが行水をあそばしたあすこばかりは水が隠れません、そうしていきり《*》が立ちます。
鉄砲疵《きず》のございます猿《さる》だの、あなた、足を折った五位鷺《ごいさぎ》、いろいろなものが浴《ゆあ》みに参りますからその足跡で崖《がけ》の路《みち》ができますくらい、きっとそれが利いたのでございましょう。
そんなにございませんければこうやってお話をなすってくださいまし、寂しくってなりません、ほんとにお可愧《はずか》しゅうございますが、こんな山の中に引っ籠《こ》もっておりますと、ものをいうことも忘れましたようで、心細いのでございますよ。
あなた、それでもお眠ければ御遠慮なさいますなえ。別にお寝室《ねま》と申してもございませんがその代わり蚊はひとつもいませんよ。町方ではね、上《かみ》の洞《ほら》の者は、里へ泊まりに来たとき蚊帳《かや》を釣って寝かそうとすると、どうして入《はい》るのか解《わか》らないので、梯子《はしご》を貸せいと喚《わめ》いたと申して嬲《なぶ》るのでございます。
たんと朝寝《あさね》をあそばしても鐘は聞こえず、鶏も鳴きません、犬だっておりませんからお心安うござんしょう。
この人も生まれ落ちるとこの山で育ったので、なんにも存じません代わり、気のいい人でちっともお心置きはないのでござんす。
それでも風俗《ふう》のかわったかたがいらっしゃいますと、大事にしてお辞儀をすることだけは知ってでございますが、まだ御挨拶《ごあいさつ》をいたしませんね。このごろは体《からだ》がだるいと見えてお惰《なま》けさんになんなすったよ。いいえ、まるで愚かなのではございません。なんでもちゃんと心得ております。
さあ、御坊様に御挨拶をなすってください。まあ、お辞儀をお忘れかい)と親しげに身を寄せて、顔を差し覗《のぞ》いて、いそいそしていうと、白痴《ばか》はふらふらと両手をついて、ぜんまいが切れたようにがっくり一礼。
(はい)といって、わしも何か胸が迫って頭《つむり》を下げた。
そのままその俯向《うつむ》いた拍子に筋が抜けたらしい、横に流れようとするのを、婦人《おんな》は優しゅう扶《たす》け起こして、
(おお、よくしたのねえ)
あっぱれといいたそうな顔色で、
(あなた、申せばなんでもできましょうと思いますけれども、この人の病ばかりはお医者の手でもあの水でも復《なお》りませなんだ、両足が立ちませんのでございますから、何を覚えさしましても役には立ちません。それにご覧なさいまし、お辞儀ひとついたしますさえ、あのとおり大儀らしい。
ものを教えますと覚えますのにさぞ骨が折れてせつのうござんしょう、体を苦しませるだけだと存じてなんにもさせないでおきますから、だんだん、手を動かす働きも、ものをいうことも忘れました。それでもあの、謡が唄《うた》えますわ。二つ三つ今でも知っておりますよ。さあお客様にひとつお聞かせなさいましなね)
白痴は婦人を見て、またわしが顔をじろじろ見て、人見知りをするといった形で首を振った」
二二
「左右《とこう》して、婦人《おんな》が、励ますように、賺《すか》すようにして勧めると、白痴《ばか》は首を曲げてかの臍《へそ》を弄《もてあそ》びながら唄《うた》った。
木曾《きそ》の御嶽山《おんたけさん》は夏でも寒い、
袷遣《あわせや》りたや足袋《たび》添えて。
(よく知っておりましょう)と婦人《おんな》は聞き澄ましてにっこりする。
不思議や、唄ったときの白痴の声は、この話をお聞きなさるおまえ様はもとよりじゃが、私も推量したとは月鼈雲泥《げつべつうんでい*》、天地の相違、節廻《ふしまわ》し、あげさげ、呼吸《いき》の続くところから、第一その清らかな涼しい声というものは、とうていこの少年の咽喉《のど》から出たものではない。まず前《さき》の世のこの白痴の身が、冥土《めいど》から管でそのふくれた腹へ通わして寄越すほどに聞こえましたよ。
わしは畏《かしこま》って聞き果てると、膝《ひざ》に手をついたっきりどうしても顔を上げてそこな男女《ふたり》を見ることができぬ、何か胸がキヤキヤして、はらはらと落涙。
婦人は目早く見つけたそうで、
(おや、あなた、どうかなさいましたか)
急にものもいわれなんだがようよう、
(はい、なあに、変わったことでもござりませぬ、わしも嬢様のことは別にお尋ね申しませんから、あなたもなんにも問うてはくださりますな)
と仔細《しさい》は語らずただ思い入ってそう言うたが、実は以前から様子でも知れる、金釵玉簪《きんさぎよくさん*》をかざし、蝶衣《ちようい》を纏《まと》うて、珠履《しゆり》を穿《うが》たば、まさに驪山《りさん*》に入って、相抱《あいいだ》くべき豊肥妖艶《ようえん》の人が、その男に対する取り廻《まわ》しの優しさ、隔てなさ、深切さに、人事ながらうれしくて、思わず涙が流れたのじゃ。
すると人の腹の中を読みかねるような婦人ではない、たちまち様子を悟ったかして、
(あなたはほんとうにお優しい)といって、えも謂《い》われぬ色を目に湛《たた》えて、じっと見た。わしも首《こうべ》を低《た》れた、むこうでも差し俯向《うつむ》く。
いや、行燈《あんどう》がまた薄暗くなって参ったようじゃが、おそらくこりゃ白痴のせいじゃて。
そのときよ。
座が白けて、しばらく言葉が途絶《とだ》えたうちに所在がないので、唄うたいの太夫《たゆう》、退屈をしたと見えて、顔の前の行燈を吸い込むような大欠伸《あくび》をしたから。
身動きをしてな、
(寝ようちゃあ、寝ようちゃあ)とよたよた体を持ち扱うわい。
(眠うなったのかい、もうお寝か)といったが坐《すわ》り直ってふと気がついたようにあたりを〓《みまわ》した。戸外《おもて》はあたかも真昼のよう、月の光は開《あ》け拡《ひろ》げた家《や》の内へはらはらとさして、紫陽花《あじさい》の色もあざやかに蒼《あお》かった。
(あなたももうお休みなさいますか)
(はい、お厄介にあいなりまする)
(まあ、いま宿を寝かします、おゆっくりなさいましな。戸外へは近うござんすが、夏は広いほうが結句《けつく》ようございましょう。わたしどもは納戸《なんど》へ臥《ふ》せりますから、あなたはここへお広くお寛《くつろ》ぎがようござんす、ちょいと待って)といいかけてつっと立ち、つかつかと足早に土間へ下《お》りた、あまり身のこなしが活溌《かつぱつ》であったので、その拍子に黒髪が先を巻いたまま項《うなじ》へ崩《くず》れた。
鬢《びん》をおさえて戸につかまって、戸外を透かしたが、独《ひと》り言《ごと》をした。
(おやおやさっきの騒ぎで櫛《くし》を落としたそうな)
いかさま馬の腹を潜《くぐ》ったときじゃ」
二三
この折から下の廊下に跫音《あしおと》がして、静かに大跨《おおまた》に歩行《ある》いたのが、寂《せき》としているからよく。
やがて小用を達《た》した様子、雨戸をばたりと開《あ》けるのが聞こえた、手水鉢《ちようずばち》へ柄杓《ひしやく》の響き。
「おお、積もった、積もった」と呟《つぶや》いたのは、旅籠《はたご》屋《や》の亭主の声である。
「ほほう、この若狭《わかさ》の商人《あきんど》はどこへか泊まったと見える、何かおもしろい夢でも見ているかな」
「どうぞそのあとを、それから」と聞く身には他事をいううちがもどかしく、膠《にべ》もなく続きを促した。
「さて、夜も更《ふ》けました」といって旅僧はまた語りだした。
「たいてい推量もなさるであろうが、いかに草臥《くたび》れておっても申し上げたような深山《みやま》の孤家《ひとつや》で、眠られるものではない、それに少し気になって、はじめのうちわしを寝かさなかったこともあるし、目は冴《さ》えて、まじまじしていたが、さすがに、疲れがひどいから、心《しん》は少しぼんやりしてきた、なにしろ夜の白むのが待ち遠でならぬ。
そこではじめのうちは、われともなく鐘の音の聞こえるのを心頼みにして、今鳴るか、もう鳴るか、はて時刻はたっぷり経《た》ったものをと、怪しんだが、やがて気が付いて、こういう処《ところ》じゃ山寺どころではないと思うと、にわかに心細くなった。
そのときははや、夜がものに譬《たと》えると谷の底じゃ、白痴《ばか》がだらしのない寐息《ねいき》も聞こえなくなると、たちまち戸の外にものの気勢《けはい》がしてきた。
獣の跫音《あしおと》のようで、さまで遠くの方から歩行《ある》いて来たのではないよう、猿《さる》も、蟇《ひき》も、いる処と、気休めにまず考えたが、なかなかどうして。
しばらくすると、今そやつが正面の戸に近づいたなと思ったのが、羊の鳴き声になる。
わしはその方を枕《まくら》にしていたのじゃから、つまり枕頭《まくらもと》の戸外《おもて》じゃな。しばらくすると、右手《めて》のかの紫陽花《あじさい》が咲いていたその花の下あたりで、鳥の羽ばたきする音。
むささびか知らぬが、きっきっといって屋《や》の棟《むね》へ、やがておよそ小山ほどあろうと気取《けど》られるのが胸を圧《お》すほどに近づいて来て、牛が鳴いた。遠くかなたからひたひたと小刻みに駈《か》けて来るのは、二本足に草鞋《わらじ》を穿《は》いた獣と思われた。いやさまざまにむらむらと家《うち》のぐるりを取り巻いたようで、二十三十のものの鼻息、羽音、中には囁《ささや》いているのがある。あたかも何よ、それ畜生道の地獄の絵を、月夜に映したような怪しの姿が板戸一重、魑魅魍魎《ちみもうりよう》というのであろうか、ざわざわと木の葉が戦《そよ》ぐ気色《けしき》だった。
息を凝らすと、納戸で、
(うむ)といって長く呼吸《いき》を引いて一声、魘《うなさ》れたのは婦人《おんな》じゃ。
(今夜はお客様があるよ)と叫んだ。
(お客様があるじゃないか)
としばらく経《た》って二度目のははっきりと清《すず》しい声。
きわめて低声《こごえ》で、
(お客様があるよ)といって寝返る音がした、さらに寝返る音がした。
戸の外のものの気勢は動揺《どよめき》を造るがごとく、ぐらぐらと家が揺らめいた。
わしは陀羅尼《だらに*》を呪《じゆ》した。
若《にやく》 不《ふ》 順《じゆん》 我《が》 呪《じゆ 》悩《のう》 乱《らん》 説《せつ》 法《ぽう》 者《しや》
頭《ず》 破《は》 作《さく》 七《しち》 分《ぶ》 如《によ》 阿《あ》 梨《り》 樹《じゆ》 枝《し》
如《によ》 殺《さつ》 父《ふ》 母《ぼ》 罪《ざい》亦《やく》 如《によ》 厭《おん》 油《ゆ》 殃《おう》
斗《と》 秤《しよう》 欺《ぎ》 誰《すい》 人《じん》調《ちよう》 達《だつ》 僧《そう》 罪《ざい》 犯《ほん》
犯《ほん》 此《し》 法《ほう》 師《し》 者《しや》当《とう》 獲《かく》 如《によ》 是《ぜ》 殃《おう》
と一心不乱、さっと木の葉を捲《ま》いて風が南《みんなみ》へ吹いたが、たちまち静まり返った。夫婦が閨《ねや》もひっそりした」
二四
「翌日また正午《ひる》ごろ、里近く、滝のある処《ところ》で、昨日《きのう》馬を売りに行った親仁《おやじ》の帰りに逢《あ》うた。
ちょうどわしが修行に出るのを止《よ》して孤家《ひとつや》に引き返して、婦人《おんな》といっしょに生涯《しようがい》を送ろうと思っていたところで。
実を申すとここへ来る途中でもそのことばかり考える、蛇《へび》の橋も幸いになし、蛭《ひる》の林もなかったが、道が難渋なにつけても、汗が流れて心持ちが悪いにつけても、いまさら行脚《あんぎや》もつまらない。紫の袈裟《けさ》をかけて、七堂伽藍《がらん*》に住んだところで何ほどのこともあるまい、活《い》き仏様じゃというて、わあわあ拝まれれば人いきれで胸が悪くなるばかりか。
些《ち》とお話もいかがじゃから、先刻はことを分けていいませなんだが、昨夜《ゆうべ》も白痴《ばか》を寐《ね》かしつけると、婦人《おんな》がまた炉のある処へやって来て、世の中へ苦労をしに出ようより、夏は涼しく、冬は暖かい、この流れにいっしょにわたしのそばにおいでなさいというてくれるし、まだまだそればかりでは自分に魔が魅《さ》したようじゃけれども、ここにわが身でわが身に言いわけができるというのは、しきりに婦人が不便《ふびん》でならぬ、深山《みやま》の孤家に白痴の伽《とぎ》をして言葉も通ぜず、日を経《ふ》るに従うてものをいうことさえ忘れるような気がするというはなんたること!
ことに今朝《けさ》も東雲《しののめ》に袂《たもと》を振り切って別れようとすると、お名残《なごり》惜しや、かような処にこうやって老い朽ちる身の、再びお目にはかかられまい、いささ小川の水になりとも、どこぞで白桃の花が流れるのをご覧になったら、私の体《からだ》が谷川に沈んで、ちぎれちぎれになったことと思え、といって悄《しお》れながら、なお深切に、道はただこの谷川の流れに沿うて行きさえすれば、どれほど遠くても里に出らるる、目の下近く水が躍《おど》って、滝になって落つるのを見たら、人家が近づいたと心を安んずるように、と気をつけて、孤家の見えなくなったあたりで、指さしをしてくれた。
その手を取り交《かわ》すには及ばずとも、そばにつき添って、朝夕の話対手《あいて》、蕈《きのこ》の汁でご膳《ぜん》を食べたり、わしが榾《ほだ》を焚《た》いて、婦人が鍋《なべ》をかけて、わしが木の実を拾って、婦人が皮を剥《む》いて、それから障子の内と外で、話をしたり、笑ったり、それから谷川で二人して、そのときの婦人が裸体《はだか》になって、わしが背中へ呼吸が通って、微妙な薫《かおり》の花びらに暖かに包まれたら、そのまま命が失《う》せてもいい!
滝の水を見るにつけても耐えがたいのはそのことであった。いや、冷や汗が流れますて。
その上、もう気がたるみ、筋が弛《ゆる》んで、はや歩行《ある》くのに飽きがきて、喜ばねばならぬ人家が近づいたのも、高がよくされて口の臭い婆《ばあ》さんに渋茶を振舞われるのが関の山と、里へ入《はい》るのもいやになったから、石の上へ膝《ひざ》を懸《か》けた、ちょうど目の下にある滝じゃった。これがさ、のちに聞くと女夫滝《めおとだき》と言うそうで。
まん中にまず鰐鮫《わにざめ》が口をあいたような先のとがった黒い大巌《おおいわ》が突き出ていると、上から流れて来るさっと瀬の早い谷川が、これに当たって両《ふたつ》に岐《わか》れて、およそ四丈ばかりの滝になってどっと落ちて、また暗碧《あんぺき》に白布を織って矢を射るように里へ出るのじゃが、その巌にせかれたほうは六尺ばかり、これは川の一幅を裂いて糸も乱れず、一方は幅が狭い、三尺くらい、この下には雑多な岩が並ぶと見えて、ちらちらちらちらと玉の簾《すだれ》を百千に砕いたよう、くだんの鰐鮫の巌に、すれつ、縋《もつ》れつ」
二五
「ただ一筋でも巌《いわ》を越して男滝《おだき》に縋《すが》りつこうとする形、それでも中を隔てられて末までは雫《しずく》も通わぬので、揉《も》まれ、揺られてつぶさに辛苦を嘗《な》めるという風情《ふぜい》、このほうは姿も窶《やつ》れ容《かたち》も細って、流るる音さえ別様に、泣くか、怨《うら》むかとも思われるが、あわれにも優しい女滝《めだき》じゃ。
男滝のほうはうらはらで、石を砕き、地を貫く勢い、堂々たる有様《ありさま》じゃ、これが二つくだんの巌に当たって左右に分かれて二筋となって落ちるのが身に浸《し》みて、女滝の心を砕く姿は、男の膝《ひざ》に取りついて美女が泣いて身を震わすようで、岸にいてさえ体《からだ》がわななく、肉が跳《おど》る。ましてこの水上は、昨日《きのう》孤家《ひとつや》の婦人《おんな》と水を浴びた処《ところ》と思うと、気のせいかその女滝の中に絵のようなあの婦人の姿がありあり、と浮いて出ると巻き込まれて、沈んだと思うとまた浮いて、千筋に乱るる水とともにその膚《はだえ》が粉《こ》に砕けて、花片《はなびら》が散り込むような。あなやと思うとさらに、もとの顔も、胸も、乳も、手足も全き姿となって浮いつ沈みつ、ぱっと刻まれ、あっと見る間にまたあらわれる。わしはたまらずまっさかさまに滝の中へ飛び込んで、女滝をしかと抱いたとまで思った。気がつくと男滝のほうはどうどうと地響き打たせて、山彦《やまびこ》を呼んで轟《とどろ》いて流れている。ああその力をもってなぜ救わぬ、ままよ!
滝に身を投げて死のうより、もとの孤家へ引き返せ。汚らわしい欲のあればこそこうなった上に躊躇《ちゆうちよ》するわ、その顔を見て声を聞けば、渠《かれ》ら夫婦が同衾《ひとつね》するのに枕《まくら》を並べて差し支えぬ、それでも汗になって修行をして、坊主で果てるよりはよほどのましじゃと、思い切って戻ろうとして、石を離れて身を起こした、背後《うしろ》から一つ背中を叩《たた》いて、
(やあ、御坊様)といわれたから、時が時なり、心も心、後ろ暗いのでびっくりして見ると、閻王《えんおう》の使いではない、これが親仁《おやじ》。
馬は売ったか、身軽になって、小さな包みを肩にかけて、手に一尾《び》の鯉《こい》の、鱗《うろこ》は金色《こんじき》なる、溌剌《はつらつ》として尾の動きそうな、鮮《あたら》しい、その丈《たけ》三尺ばかりなのを、顋《あぎと》に藁《わら》を通して、ぶらりと提《さ》げていた。なんにも言わず急にものもいわれないで瞻《みまも》ると、親仁はじっと顔を見たよ。
そうしてにやにやと、また一とおりの笑い方ではないて、薄気味の悪い北叟笑《ほくそえ》みをして、
(何をしてござる、御修行の身が、このくらいの暑さで、岸に休んでいさっしゃる分ではあんめえ、いっしょうけんめいに歩行《ある》かっしゃりゃ、昨夜《ゆうべ》の泊まりからここまではたった五里、もう里へ行って地蔵様を拝まっしゃる時刻じゃ。
なんじゃの、おらが嬢様に念《おも》いが懸《か》かって煩悩《ぼんのう》が起きたのじゃの。うんにゃ、秘《かく》さっしゃるな、おらが目は赤くっても、白いか黒いかはちゃんと見える。
地体並みのものならば、嬢様の手が触《さわ》ってあの水を振舞われて、今まで人間でいようはずはない。
牛か、馬か、猿《さる》か、蟇《ひき》か、蝙蝠《こうもり》か、何にせい飛んだか跳《は》ねたかせねばならぬ。谷川から上がって来さしったとき、手足も顔も人じゃから、おらあ魂消《たまげ》たくらい。おまえ様それでも感心に志が堅固じゃから助かったようなものよ。
なんと、おらが曳《ひ》いて行った馬を見さしったろう、それで、孤家へ来さっしゃる山路で富山の反魂丹《はんごんたん》売りに逢《あ》わしったというではないか、それ見さっせい、あの助平野郎、疾《とう》に馬になって、それ馬市で銭《おあし》になって、銭が、そうら、この鯉に化けた。大好物で晩飯の菜になさる、お嬢様をいったいなんじゃと思わっしゃるの)」
私は思わず遮《さえぎ》った。
「お上人《しようにん》?」
二六
上人《しようにん》は頷《うなず》きながら呟《つぶや》いて、
「いや、まず聞かっしゃい、あの孤家《ひとつや》の婦人《おんな》というは、もとな、これもわしには何かの縁があった、あの恐ろしい魔所へ入《はい》ろうという岐道《そばみち》の水が溢《あふ》れた往来で、百姓が教えて、あすこはその以前医者の家であったというたが、その家の嬢様じゃ。
なんでも飛騨《ひだ》一円当時変わったことも珍しいこともなかったが、ただ取り出《い》でていう不思議はこの医者の娘で、生まれると玉のよう。
母親《おふくろ》殿は頬板《ほおつぺた》のふくれた、眦《めじり》の下がった、鼻の低い、俗にさし乳《*》というあの毒々しい左右の胸の房《ふさ》を含んで、どうしてあれほど美しく育ったものだろうという。
昔から物語の本にもある、屋《や》の棟《むね》へ白羽の征矢《そや》が立つ《*》か、さもなければ狩倉《かりくら*》のとき貴人《あでびと》のお目に留まって御殿に召し出されるのは、あんなのじゃと噂《うわさ》が高かった。
父親《てておや》の医者というのは、頬骨《ほおぼね》のとがった髯《ひげ》の生《は》えた、見得坊で傲慢《ごうまん》、そのくせでもじゃ、もちろん田舎《いなか》には刈り入れのときよく稲の穂が目に入《はい》ると、それから煩う、脂目《やにめ》、赤目、流行《はやり》目《め》が多いから、先生眼病のほうは少し遣《や》ったが、内科ときてはからっぺた。外科なんときた日にゃあ、鬢附け《びんつ*》の水を垂《た》らしてひやりと疵《きず》につけるくらいなところ。
鰯《いわし》の天窓《あたま》も信心から、それでも命数の尽きぬ輩《やから》は本復するから、ほかに竹庵養仙木斎《ちくあんようせんもくさい*》のいない土地、相応に繁昌《はんじよう》した。
ことに娘が十六、七、女盛りとなってきた時分には、薬師様が人助けに先生様の内へ生まれてござったといって、信心渇仰《かつごう》の善男善女、病男病女がわれもわれもと詰《つ》め懸《か》ける。
それというのが、はじまりはかの嬢様が、それ、馴染《なじ》みの病人には毎日顔を合わせるところから愛想《あいそ》の一つも、あなたお手が痛みますかい、どんなでございます、といって手先へ柔らかな掌《てのひら》が障《さわ》ると、第一番に次作兄いという若いのの(りょうまちす)が全快。お苦しそうなといって腹をさすってやると水あたりの差し込みの留まったのがある。初手は若い男ばかりに利《き》いたが、だんだん老人《としより》にも及ぼして、後には婦人《おんな》の病人もこれで復《なお》る、復らぬまでも苦痛《いたみ》が薄らぐ、根太《ねぶと》の膿《うみ》を切って出すさえ、錆《さ》びた小刀で引っ裂く医者殿が腕前じゃ、病人は七顛《てん》八倒して悲鳴を上げるのが、娘が来て背中へぴったりと胸をあてて肩を押えていると、我慢ができるといったようなわけであったそうな。
ひとしきりあの藪《やぶ》の前にある枇杷《びわ》の古木へ熊蜂《くまんばち》が来て恐ろしい大きな巣をかけた。
すると、医者の内弟子《でし》で薬局、拭《ふ》き掃除《そうじ》もすれば総菜畠《そうざいばたけ》の芋も掘る、近い所へは車夫も勤めた、下男兼帯の熊蔵《くまぞう》という、そのころ二十四、五歳、稀塩酸《きえんさん》に単舎利別《たんしやりべつ*》を混ぜたのを瓶《びん》に盗んで、内がけちじゃから見附《みつ》かると叱《しか》られる、これを股引《ももひ》きや袴《はかま》といっしょに戸棚《とだな》の上に載せておいて、隙《ひま》さえあればちびりちびりと飲んでた男が、庭掃除をするといって、くだんの蜂の巣を見つけたっけ。
縁側へ遣《や》って来て、お嬢様おもしろいことをしてお目に懸けましょう、無躾《ぶしつけ》でござりますが、わたしのこの手を握ってくださりますと、あの蜂の中へ突っ込んで、蜂を掴《つか》んで見せましょう。お手が障った所だけは螫《さ》しましても痛みませぬ、竹箒《たけぼうき》で引《ひ》っ払《ぱた》いては八方へ散らばって体《からだ》じゅうに集《たか》られてはそれは凌《しの》げませぬ即死でござりますがと、微笑《ほおえ》んで控える手で無理に握ってもらい、つかつかと行くと、すさまじい虫の唸《うな》り、やがて取って返した左の手に熊蜂が七つ八つ、羽ばたきをするのがある。脚《あし》を振るうのがある。中には掴《つか》んだ指の股《また》へ這《は》い出しているのがあった。
さあ、あの神様の手が障れば鉄砲玉でも通るまいと、蜘蛛《くも》の巣のように評判が八方へ。
そのころからいつとなく感得したものと見えて、仔細《しさい》あって、あの白痴に身を任せて山に籠《こ》もってからは神変不思議、年を経るにしたごうて神通自在じゃ、はじめは体を押しつけたのが、足ばかりとなり、手さきとなり、果ては間を隔てていても、道を迷うた旅人は嬢様が思うまま、はっという呼吸《いき》で変ずるわ。
と親仁がそのとき物語って、御坊は、孤家《ひとつや》の周囲《ぐるり》で、猿《さる》を見たろう、蟇《ひき》を見たろう、蝙蝠《こうもり》を見たであろう、兎《うさぎ》も蛇《へび》もみな嬢様に谷川の水を浴びせられて畜生にされたる輩《やから》!
あわれそのときあの婦人《おんな》が、蟇に絡《まつわ》られたのも、猿に抱かれたのも、蝙蝠に吸われたのも、夜中に魑魅魍魎《ちみもうりよう》に魘《おそ》われたのも、想《おも》い出して、私はひしひしと胸に当たった。
なお親仁のいうよう。
今の白痴も、くだんの評判の高かったころ、医者の内へ来た病人、そのころはまだ子供、ぼくとつな父親が附き添い、髪の長い、兄哥《あにき》がおぶって山から出て来た。腰に難渋な腫《は》れ物があった、その療治を頼んだので。
もとより一室《ひとま》を借り受けて、逗留《とうりゆう》をしておったが、かほどの悩みは大事《おおごと》じゃ、血もだいぶんに出さねばならぬ、ことに子供、手を下ろすには体に精分をつけてからと、まず一日に三つずつ鶏卵《たまご》を飲まして、気休めに膏薬《こうやく》を貼《は》っておく。
その膏薬を剥《は》がすにも親や兄、またそばのものが手を懸《か》けると、堅くなって硬《こわ》ばったのが、めりめりと肉にくっついて取れる、ひいひいと泣くのじゃが、娘が手をかけてやれば黙って耐《こら》えた。
いったいは医者殿、手のつけようがなくって身の衰えをいい立てに一日延ばしにしたのじゃが、三日経《た》つと、兄を残して、克明な父親《てておや》は股引《ももひ》きの膝《ひざ》でずって、あとさがりに玄関から土間へ、草鞋《わらじ》を穿《は》いてまた地《つち》に手をついて、次男坊の生命《いのち》の扶《たす》かりまするように、ねえねえ、というて山へ帰った。
それでもなかなか捗《はかど》らず、七日《なぬか》も経ったので、あとに残って附《つ》き添っていた兄者人が、ちょうど刈り入れで、この節は手が八本もほしいほど忙しい、お天気模様も雨のよう、長雨にでもなりますと、山畠にかけがえのない、稲が腐っては、餓《う》え死にでござりまする、総領のわしは、一番の働き手、こうしてはおられませぬから、と辞《ことわり》をいって、やれ泣くでねえぞ、としんみり子供にいい聞かせて病人を置いて行った。
あとには子供一人、そのときが、戸長様の帳面前《*》年紀《とし》六つ。親六十で児が二十《はたち》なら徴兵はお目こぼしと何を間違えたか《*》届けが五年おそうしてほんとうは十一、それでも奥山で育ったから村の言葉もろくには知らぬが、りこうな生まれで聞き分けがあるから、三つずつあいかわらず鶏卵《たまご》を吸わせられる汁《つゆ》も、今に療治のとき残らず血になって出ることと推量して、べそを掻《か》いても、兄者が泣くなといわしったと、耐えていた心のうち。
娘の情けで、内といっしょに膳《ぜん》を並べて食事をさせると、沢庵《たくあん》の切れをくわえて、すみの方へ引っ込むいじらしさ。
いよいよ明日《あす》が手術という夜は、みんな寐静まってから、しくしく蚊のように泣いているのを、手水《ちようず》に起きた娘が見つけて、あまり不便《ふびん》さに抱いて寝てやった。
さて療治となると、例のごとく娘が背後《うしろ》から抱いていたから脂汗《あぶらあせ》を流しながら切れものが入《はい》るのを、感心にじっと耐えたのに、どこを切り違えたか、それから流れ出した血が留まらず、見る見るうちに色が変わって、あぶなくなった。
医者が蒼《あお》くなって、騒いだが、神の扶《たす》けかようよう生命《いのち》は取り留まり、三日ばかりで血も留まったが、とうとう腰が抜けた。もとより不具《かたわ》。
これが引き摺《ず》って、足を見ながら情けなそうな顔をする、蟋蟀《きりぎりす》が〓《も》がれた脚《あし》を口に銜《くわ》えて泣くのを見るよう、目もあてられたものではない。
しまいには泣きだすと、外聞もあり、少焦《すこじれ》で、医者は恐ろしい顔をして睨《にら》みつけると、あわれがって抱きあげる娘の胸に顔をかくして縋《すが》る状《さま》に、年来《としごろ》ずいぶんと人を手にかけた医者も我も折って腕組みをして、はっという溜息《ためいき》。
やがて父親が迎えにござった、因果と断念《あきら》めて、別に不足はいわなんだが、なにぶん小児《こども》が娘の手を放れようといわぬので、医者も幸い、言いわけかたがた、親兄の心をなだめるため、そこで娘に小児を家《うち》まで送らせることにした。
送って来たのが孤家《ひとつや》で。
その時分はまだ一個《こ》の荘《そう》、家も小《こ》二十軒あったのが、娘が来て一日二日、ついほだされて逗留《とうりゆう》した五日目から大雨が降りだした。滝を覆《くつがえ》すようで小歇《おや》みもなく家にいながらみんな蓑笠《みのかさ》で凌《しの》いだくらい、茅葺《かやぶ》きの繕《つくろ》いをすることはさて置いて、表の戸もあけられず、内から内、隣どうし、おうおうと声をかけ合って、わずかにまだ人種《ひとだね》の世に尽きぬのを知るばかり。八日を八百年と雨の中に籠《こ》もると九日目の真夜中から大風が吹きだして、その風の勢い、ここが峠というところで、たちまち泥海。
この洪水《こうずい》で生き残ったのは、不思議にも娘と小児とそれにそのとき村から供をしたこの親仁ばかり。
同一《おなじ》水で医者の内も死に絶えた、さればかような美女が片《かた》田舎《いなか》に生まれたのも国が世がわり、代がわりの前兆であろうと、土地のものも言い伝えた。
嬢様は帰るに家なく、世にただ一人となって小児といっしょに山に留《とど》まったのは御坊が見らるるとおり、またあの白痴につきそって行き届いた世話も見らるるとおり、洪水のときから十三年、いまになるまで一日もかわりはない。
といい果てて親仁はまた気味の悪い北叟笑《ほくそえ》み。
(こう身の上を話したら、嬢様を不便がって、薪《まき》を折ったり水を汲《く》む手助けでもしてやりたいと、情けが懸かろう。本来の好き心、いいかげんな慈悲じゃとか、情けじゃとかいう名につけて、いっそ山へ帰りたかんべい、はて措《お》かっしゃい。あの白痴殿の女房になって世の中へは目もやらぬ換《か》わりにゃあ、嬢様は如意自在。男はより取って、飽けば、息をかけて獣にするわ、ことにその洪水以来、山を穿《うが》ったこの流れは天道様がお授けの、男を誘《いざな》う怪しの水、生命を取られぬものはないのじゃ。
天狗道《てんぐどう》にも三熱の苦悩《*》、髪が乱れ、色が蒼《あお》ざめ、胸が痩《や》せて手足が細れば、谷川を浴びるともとのとおり、それこそ水が垂《た》るばかり、招けば活《い》きた魚も来る、睨めば美しい木の実も落つる、袖《そで》を翳《かざ》せば雨も降るなり、眉《まゆ》を開けば風も吹くぞよ。
しかもうまれつきの色好み、ことにまた若いのが好きじゃで、何か御坊にいうたであろうが、それを実《まこと》としたところで、やがて飽かれると尾ができる、耳が動く、足がのびる、たちまち形が変ずるばかりじゃ。
いややがて、この鯉を料理して、大《おお》胡坐《あぐら》で飲むときの魔神の姿が見せたいな。
妄念《もうねん》は起こさずに早うここを退《の》かっしゃい、助けられたが不思議なくらい、嬢様別してのお情けじゃわ、生命冥加《みようが》な、お若いの、きっと修行をなさっしゃりませ)とまた一つ背中を叩《たた》いた、親仁は鯉を提《さ》げたまま見向きもしないで、山路を上の方。
見送ると小さくなって、一座の大山の背後へかくれたと思うと、油旱《あぶらひでり》の焼けるような空に、その山の巓《いただき》から、すくすくと雲が出た、滝の音も静まるばかり殷々《いんいん》として雷《らい》の響き。
藻抜《もぬ》けのように立っていた、わしが魂は身に戻った。そなたを拝むと斉《ひと》しく、杖《つえ》をかい込み、小笠《おがさ》を傾け、踵《きびす》を返すとあわただしく一散に駈《か》け下《お》りたが、里に着いた時分に山は驟雨《ゆうだち》、親仁が婦人に齎《もたら》した鯉も、このために活きて孤家に着いたろうと思う大雨であった」
高野聖はこのことについて、あえて別に註《ちゆう》して教えを与えはしなかったが、翌朝袂《たもと》を分かって、雪中山越えにかかるのを、名残《なごり》惜しく見送ると、ちらちらと雪の降るなかをしだいに高く坂道を上る聖の姿、あたかも雲に駕《が》して行くように見えたのである。
(明治三十三年二月「新小説」)
眉かくしの霊
木曾街道《きそかいどう》、奈良井《ならい》の駅は、中央線起点飯田町《いいだまち》より一五八マイル二、海抜三二〇〇尺《*》、と言い出すより、膝栗毛《ひざくりげ*》を思うほうが手っ取り早く行旅の情を催させる。
ここは弥次郎兵衛《やじろべえ》、喜多八《きたはち》が、とぼとぼと鳥居峠《*》を越すと、日も西の山の端《は》に傾きければ、両側の旅籠《はたご》屋《や》より、女ども立ち出でて、もしもしお泊まりじゃござんしないか、お風呂《ふろ》も湧《わ》いていずにお泊まりなお泊まりな――喜多八が、まだ少し早いけれど――弥次郎、もう泊まってもよかろう、のう姐《ねえ》さん――女、お泊まりなさんし、お夜食はお飯《まんま》でも、蕎麦《そば》でも、お蕎麦でよかあ、おはたご安くしてあげませず。弥次郎、いかさま、安いほうがいい、蕎麦でいくらだ。女、はい、お蕎麦なら百十六銭《もん》でござんさあ。二人は旅銀の乏しさに、そんならそうと極《き》めて泊まって、湯から上がると、その約束の蕎麦が出る。さっそくにくいかかって、喜多八、こっちのほうでは蕎麦はいいが、したじが悪いにはあやまる。弥次郎、そのかわりにお給仕がうつくしいからいい、のう姐さん、と洒落《しやれ》かかって、もう一杯くんねえ。女、もうお蕎麦はそれ切りでござんさあ。弥次郎、なに、もうねえのか、たった二ぜんずつ食ったものを、つまらねえ、これじゃあ食いたりねえ。喜多八、はたごが安いもすさまじい。二はいばかり食っていられるものか。弥次郎……ばかなつらな、銭は出すから飯《めし》をくんねえ。……無慙《むざん》や、なけなしの懐中《ふところ》を、けっく蕎麦だけよけいにつかわされて悄気《しよげ》返る。その夜、故郷の江戸お箪笥《たんす》町引出し横町、取手屋《とつてや》の鐶兵衛《かんべえ》とて、工面《くめん》のいい《*》馴染《なじ》みに逢《あ》って、ふもとの山寺に詣《もう》でて鹿《しか》の鳴き声を聞いたところ……
……と思うと、ふとここで泊まりたくなった。停車場《ステーション》を、もう汽車が出ようとするまぎわだったと言うのである。
この、筆者の友、境賛吉は、実は蔦《つた》かずら木曾の桟橋《かけはし*》、寐覚《ねざめ》の床《*》などを見物のつもりで、上松《あげまつ》までの切符を持っていた。霜月の半ばであった。
「……しかも、その(蕎麦二膳《ぜん》)には不思議な縁がありましたよ……」
と境が話した――
昨夜は松本《まつもと》で一泊した。ご存じのとおり、この線の汽車は塩尻《しおじり》から分岐点《のりかえ》で東京から上松へ行くものが、松本で泊まったのは妙である。もっとも、松本へ用があって立ち寄ったのだと言えば、それまででざっと済む。が、それだと、しめくくりが緩《ゆる》んでちと辻褄《つじつま》が合わない。何も穿鑿《せんさく》をするのではないけれど、実は日数の少ないのに、汽車の遊びを貪《むさぼ》った旅行《たび》で、行途《ゆき》は上野から高崎《たかさき》、妙義山を見つつ、横川、熊《くま》の平《だいら》、浅間《あさま》を眺《なが》め、軽井沢、追分《おいわけ》をすぎ、篠《しの》の井線に乗り替えて、姥捨田毎《おばすてたごと》を窓から覗《のぞ》いて、泊まりはそこで松本が予定であった。その松本には「いい娘のいる旅館があります。懇意ですから御紹介をしましょう」と、名のきこえた画家が添え手紙をしてくれた。……よせばいいのに、昨夜その旅館につくと、なるほど、帳場にはそれらしい束髪の女が一人見えたが、座敷へ案内したのはむろん女中で。……さてその紹介状を渡したけれども、娘なんぞ寄っても着かない、……ばかりでない、この霜夜に、出《だし》がらのなまぬるい渋茶一杯汲んだきりで、お夜食ともお飯《まんま》とも言い出さぬ。座敷はりっぱで卓は紫檀《したん》だ。火鉢《ひばち》は大きい。が火の気はぽっちり。で、灰の白いのにしがみついて、なにしろ暖かいものでお銚子《ちようし》をと言うと、板前で火を引いてしまいました、なんにもできませんと、女中《ねえ》さんのそっけなさ。寒さは寒し、なるほど、火を引いたような、家じゅうひっそりとはしていたが、まだ十一時前である……酒だけなりと、頼むと、おあいにく。酒はないのか、ござりません。――じゃ、ビールでも。それもおきのどく様だと言う。姐さん……境は少々居直って、どこか近所から取り寄せてもらえまいか。へいもうおそうござりますで、飲食店は寝ましたでな……飲食店だと言やがる。はてな、停車場から、震えながら俥《くるま》で来る途中、ついこの近まわりに、冷たい音して、川が流れて、橋がかかって、両側に遊廓らしい家が並んで、茶めしの赤い行燈《あんどん》もふわりと目の前にちらつくのに――ああ、こうと知ったら軽井沢で買った二合壜《びん》を、次郎どのの狗《いぬ》ではないが、みななめてしまうのではなかったものを。大歎息《おおためいき》とともに空腹《すきばら》をぐうと鳴らして哀れな声で、姐さん、そうすると、酒もなし、ビールもなし、肴《さかな》もなし……お飯《まんま》は。いえさ今晩の旅籠《はたご》の飯は。へい、それが間に合いませんので……火を引いたあとなもんでなあ――なんの怨《うら》みか知らないが、こうなると冷遇を通り越して奇怪《きつかい》である。なまじ紹介状があるだけに、喧嘩面《けんかづら》で、宿を替えるとも言われない。前世の業と断念《あきら》めて、せめて近所で、蕎麦か饂飩《うどん》の御都合はなるまいか、と恐る恐る申し出ると、饂飩なら聞いてみましょう。ああ、それを二ぜん頼みます。女中は遁《に》げ腰のもったて尻《じり*》で、敷居へ半分だけ突き込んでいた膝《ひざ》を、ぬいと引っこ抜いて不精《ぶしよう》に出て行く。
待つことしばらくして盆で突き出したやつを見ると、丼《どんぶり》がたった一つ。腹の空《す》いた悲しさに、姐さん二ぜんと頼んだのだが。と詰《なじ》るように言うと、へい、二ぜん分、装《も》り込んでございますで。いや、相わかりました。どうぞお構いなく、お引き取りを、と言うまでもなし……ついと尻を見せて、すたすたと廊下を行くのを、継児《ままつこ》のような目つきで見ながら、抱き込むばかりに蓋《ふた》を取ると、なるほど二ぜんもり込みだけに汁《したじ》がぽっちり、饂飩は白く乾《かわ》いていた。
この旅館が、秋葉山三尺坊が、飯綱権現へ、客を、たちものにしたところへ打撞《ぶつか》ったのであろう、泣くより笑いだ。
その……饂飩二ぜんの昨夜を、むかし弥次郎、喜多八が、夕旅籠の蕎麦二ぜんに思い較《くら》べた。いささかぎょうさんだが、不思議の縁というのはこれで――急に奈良井へ泊まってみたくなったのである。
日あしも木曾の山の端に傾いた。宿には一時雨《しぐれ》さっとかかった。
雨ぐらいの用意はしている。駅前の俥は便《たよ》らないで、洋傘《かさ》で寂しく凌《しの》いで、鴨居《かもい》の暗い檐《のき》づたいに、石ころ路《みち》を辿《たど》りながら、度胸は据えたぞ。――持って来い、蕎麦二膳、で、昨夜の饂飩は暗討ちだ――今宵の蕎麦は望むところだ。――旅のあわれを味わおうと、ガラス張りの旅館、一、二軒をわざと避けて、軒に山駕籠《やまかご》と干菜《ひば*》を釣るし、土間の竈《かまど》で、割り木の火を焚《た》く、わびしそうな旅籠屋を烏《からす》のように覗《のぞ》き込み、黒き外套《がいとう》で、御免と、入《はい》ると、頬被《ほおかぶ》りをした親父《おやじ》がその竈の下を焚いている。框《かまち》がだだっ広く、炉が大きく、煤《すす》けた天井に八間行燈《はちけん*》の掛かったのは、山駕籠と対《つい》の註文《ちゆうもん》どおり。階子《はしご》下の暗い帳場に、坊主頭の番頭はおもしろい。
「入らっせえ」
蕎麦二膳、蕎麦二膳と、境が覚悟の目の前へ、身軽にひょいと出て、慇懃《いんぎん》に会釈をされたのは、焼き麸《ふ》だと思う(しつぽく)の加料《かやく》が蒲鉾《かまぼこ*》だったような気がした。
「お客様だよ――鶴《つる》の三番」
女中も、服装《みなり》は木綿《もめん》だが、前垂《まえだ》れがけのさっぱりした、年紀《とし》の少《わか》い色白なのが、窓、欄干を覗く、松の中を、攀《よ》じ上るように三階へ案内した。――十畳敷き。……柱も天井もじょうぶ造りで、床の間の誂《あつら》えにもいささかのいやみがない。玄関つきとは似もつかない、しっかりした屋台である。
敷き蒲団《ぶとん》の綿も暖かに、熊《くま》の皮のみごとなのが敷いてあるわ。ははあ、膝栗毛時代に、峠路で売っていた、猿《さる》の腹ごもり、大蛇《おろち》の肝、獣の皮というのはこれだ、と滑稽《おどけ》た殿様になってくだんの熊の皮に着座に及ぶと、すぐに台《だい》十能《じゆう》へ火を入れて女中《ねえ》さんが上がって来て、惜しげもなく銅《あか》の大火鉢へ打《ぶ》ちまけたが、またおびただしい。青い火さきが、堅炭を搦《から》んで、真赤《まつか》に〓《おこ》って、窓に沁《し》み入る山颪《やまおろし》はさっと冴《さ》える。三階にこの火の勢いは、大地震のあとでは、ちと申すのも憚《はばか》りあるばかりである。
湯にも入った。
さて膳だが――蝶脚《ちようあし*》の上を見ると、蕎麦扱いにしたは気恥ずかしい。わらさの照り焼きはとにかくとして、ふっと煙の立つ厚焼きの玉子に、椀《わん》がまっ白な半ぺんの葛《くず》かけ、皿《さら》についたのは、このあたりで佳品と聞く、鶫《つぐみ》を、なんと、頭を猪口《ちよく》に、股《もも》をふっくり、胸を開いて、五羽、ほとんど丸焼きにして芳しくつけてあった。
「ありがたい……実にありがたい。……」
境は、その女中に馴《な》れない手つきの、それもうれしい……酌《しやく》をしてもらいながら、熊に乗って、仙人《せんにん》の御馳走《ごちそう》になるように、慇懃に礼を言った。
「これはたいした御馳走ですな。……実にありがたい……全く礼を言いたいなあ」
心底《しんそこ》のことである。はぐらかすとは様子にも見えないから、若い女中もかけ引きなしに、
「旦那《だんな》さん、お気に入りましてうれしゅうございますわ。さあ、もうお一つ」
「頂戴《ちようだい》しよう。なお重ねて頂戴しよう。――ときに姐さん、この上のお願いだがね……どうだろう、この鶫を別に貰《もら》って、ここへ鍋《なべ》に掛けて、煮ながら食べると言うわけにはいくまいか。――鶫はまだいくらもあるかい」
「ええ、笊《ざる》に三杯もございます。まだ台所の柱にも束にしてかかっております」
「そいつは豪気《ごうぎ》だ――少し余分に貰いたい、ここで煮るように……いいかい」
「はい、そう申します」
「ついでにお銚子《ちようし》を。火がいいからそばへ置くだけでも冷《さ》めはしない。……通いが遠くってきのどくだ。三本ばかり一時《いつとき》に持っておいで。……どうだい。岩見重太郎が註文をするようだろう」
「おほほ」
今朝《けさ》、松本で、顔を洗った水瓶《みずがめ》の水とともに、胸が氷に鎖《とざ》されたから、なんの考えもつかなかった、ここで暖かに心が解けると、……分《わか》った、饂飩で虐待した理由《わけ》というのが――紹介状をつけた画伯は、近ごろでこそ一家をなしたが、若くて放浪した時代に信州路を経歴《へめぐ》って、その旅館には五月《いつつき》あまりも閉じ籠もった、滞る旅籠代の催促もせず、帰途《かえり》には草鞋《わらじ》銭《せん》まで心着けた深切な家だと言った。が、ああ、それだ。……おなじ人の紹介だから旅籠代を滞らして、草鞋銭を貰《もら》うのだと思ったに違いない。……
「ええ、これは、お客様、お粗末なことでして」
と紺の鯉口《こいぐち*》に、おなじ幅広の前掛けして、痩《や》せた、色のやや青黒い、陰気だが律儀《りちぎ》らしい、まだ三十六、七ぐらいな、五分刈りの男がていねいに襖《ふすま》ぎわに畏《かしこま》った。
「どういたして……実に御馳走様……番頭さんですか」
「いえ、当家の料理人にございますが、いたってふつつかでございまして。それに、かような山家辺鄙《やまがへんぴ》で、いっこうお口に合いますものもございませんで」
「とんでもないこと」
「つきまして……ただいま、女どもまでおっしゃりつけでございましたが、鶫を、あなた様、何か鍋でめしあがりたいというお言《ことば》で、いかようにいたして差し上げましょうやら、右、女どももやはり田舎もののことでございますで、よくお言《ことば》がのみ込めかねます。ゆえに失礼ではございますが、ちょっとお伺いに出ましてございますが」
境は少なからず面くらった。
「そいつはどうも恐縮です。――遠方のところを」
とうっかり言った……
「串戯《じようだん》のようですが、全く三階まで」
「どう仕《つかまつ》りまして」
「まあ、こちらへ――お忙しいんですか」
「いえ、お膳は、もう差し上げました。それが、お客様も、あなた様のほか、お二組みぐらいよりございません」
「では、まあこちらへ。――さあ、ずっと」
「はっ、どうも」
「失礼をするかもしれないが、まあ、一杯《ひとつ》。ああ、――ちょうどお銚子が来た。女中《ねえ》さん、お酌をしてあげてください」
「は、いえ、てまえぶちょうほうで」
「まあまあ一杯《ひとつ》。――弱ったな、どうも、鶫を鍋でと言って、……そのなんですよ」
「旦那様、帳場でも、あの、そう申しておりますの、鶫は焼いてめしあがるのがいちばんおいしいんでございますって」
「お膳にもつけて差し上げましたが、これを頭から、その脳味噌《のうみそ》をするりとな、ひと噛《か》じりにめしあがりますのが、おいしいんでございまして、ええとんだ田舎流儀ではございますがな」
「お料理番さん……私はけっして、料理をとやこう言うたのではないのですよ。……弱ったな、どうも。実はね、あるその宴会の席で、その席にいた芸妓《げいしや》が、木曾の鶫の話をしたんです――だいぶ酒が乱れてきて、なんとか節というのが、あっちこっちではじまると、木曾節というのがこのとき顕《あら》われて――きいても可懐《なつか》しい土地だから、うろ覚えに覚えているが(木曾へ木曾へと積み出す米は)なんとかっていうのでね……」
「さようで」
と真四角に猪口《ちよく》をおくと、二つ提《さ》げの煙草《たばこ》入れ《*》から、吸いかけた煙管《きせる》を、金《かね》の火鉢だ、遠慮なくコッツンと敲《たた》いて、
「……(伊那《いな》や高遠《たかと》の余り米)……というでございます、米《こめ》、この女中の名でございます、お米《よね》」
「あら、なんだよ、伊作《いさく》さん」
と女中が横にらみに笑って睨《にら》んで、
「旦那さん――この人は、家が伊那だもんでございますから」
「はあ、勝頼《かつより》様と同国ですな」
「まあ、勝頼様は、こんな男ぶりじゃありませんが」
「あたりまえよ」
とむっつりした料理番は、苦笑いもせず、またコッツンと煙管を払《はた》く。
「それだもんですから、伊那の贔屓《ひいき》をしますの――木曾で唄《うた》うのは違いますが。――(伊那や高遠へ積み出す米は、みんな木曾路の余り米)――と言いますの」
「さあ……それはどっちにしろ……その木曾へ、木曾へのきっかけに出た話なんですから、私たちも酔ってはいるし、それがあとの贄川《にえがわ》だか、峠を越した先の藪原《やぶはら》、福島、上松のあたりだか、よくは訊《き》かなかったけれども、その芸妓が、客といっしょに、鶫あみを掛けに木曾へ行ったという話をしたんです。……まだ夜の暗いうちに山道をずんずん上って、案内者の指揮《さしず》の場所で、かすみを張って囮《おとり》を揚げると、夜明け前、霧のしらしらに、向こうの尾上を、ぱっとこちらの山の端《は》へ渡る鶫の群れがむらむらと来て、羽ばたきをして、かすみに掛かる、じわじわととって占めて、すぐに焚火《たきび》で附け焼きにして、膏《あぶら》の熱い処《ところ》を、ちゅっと吸って食べるんだが、そのおいしいこと、……と言って、話をしてね……」
「はあ、まったくで」
「……ぶるぶる寒いから、煮燗《にえかん》で、一杯のみながら、息もつかずに、幾口か鶫を噛じって、ああ、おいしいと一息して、焚火に獅噛《しが》みついたのが、すっと立つと、案内についた土地の猟師が二人、きゃっと言った――そのなんなんですよ、芸妓の口が血だらけになっていたんだとさ。なまなまとした半熟の小鳥の血です、……とこの話をしながら、うっかりしたようにその芸妓はハンケチで口を圧《おさ》えたんですがね……たらたらと赤いやつが沁《し》みそうで、私は顔を見ましたよ。触《さわ》ると撓《しな》いそうな痩せぎすな、すらりとした、若い女で。……聞いてもうまそうだが、これはすごかったろう、そのとき、東京で想像しても嶮《けわ》しいとも、高いとも、深いとも、峰谷の重なり合った木曾山中のしらしらあけです……暗い裾《すそ》に焚火を搦《から》めて、すっくりと立ち上がったという自然、目の下の峰よりも高い処《ところ》で、霧の中からきれいな首が」
「いや、旦那さん」
「話はまずくっても、なんとなく不気味だね。その口が血だらけなんだ」
「いや、いかにも」
「ああ、よく無事だったな、と私が言うと、どうして? と訊《き》くから、そういうのが、慌《あわ》てる銃猟家だの、魔のさした猟師に、峰越えの笹原《ささはら》から狙《ねら》い撃《う》ちに二つ弾丸《だま》を食うんです。……場所といい……時刻といい……昔から、夜待ち、あけ方の鳥あみには、魔がさして、怪しいことがあるというが、まったくそれは魔がさしたんだって、てきめんにきれいな鬼になったじゃあないか。……どうせそうよ。……私は鬼よ――でも人に食われるほうの……なぞと言いながら、でもこわいわね、ぞっとすると、また口をハンケチで圧《おさ》えていたのさ」
「ふーん」
と料理番は、われを忘れて沈んだ声して、
「ええ。旦那、へい、どうも、いや、全く、――実際、あぶのうございますな。――そういう場合には、きっと怪我《けが》があるんでして……よく、その姐さんは御無事でした。この贄川《にえがわ》の川上、御嶽口《おんたけぐち》、美濃《みの》寄りの峡《かい》は、よけいに取れますが、その方の場合はどこでございますか存じません――芸妓衆は東京のどちらの方で」
「なに、下町の方ですがね」
「柳橋……」
と言って、覗《のぞ》くように、じっと見た。
「……あるいはその新橋とか申します……」
「いや、そのまん中ほどです……日本橋の方だけれど、宴会の席ばかりでの話ですよ」
「お処が分《わか》って差し支えがございませんければ、参考のために、その場所を伺っておきたいくらいでございまして……この、深山幽谷のことは、人間の智慧《ちえ》には及びません――」
女中も俯向《うつむ》いて暗い顔した。
境は、この場合だれもしよう、乗り出しながら、
「何か、この辺に変わったことでも」
「……別にその、といってございません。しかし、流れに瀬がございますように、山にも淵《ふち》がございますで、気をつけなければなりません。――ただいまさしあげました鶫は、これは、つい一両日続きまして、珍しく上の峠口で猟があったのでございます」
「さあ、それなんですよ」
境はあらためて猪口をうけつつ、
「料理番さん。きみのお手ぎわで膳につけておくんなすったのが、見てもうまそうに、香しく、脂《あぶら》の垂《た》れそうなので、ふと思い出したのは、今の芸妓の口が血の一件でね。しかし私は坊さんでも、精進でも、なんでもありません。望んでも結構なんだけれど、見たまえ。――窓の外は雨と、もみじで、霧が山を織っている。峰の中には、雪を頂《いただ》いて、雲を貫いて聳《そび》えたのが見えるんです。――どんな拍子かで、ひょいと立ちでもしたとき口が血になって首が上へ出ると……野郎でこの面《つら》だから、その芸妓のような、すごく美しく、山の神の化身のようには見えまいがね。落ち残った柿だと思って、窓の外から烏《からす》が突つかないとも限らない……ふと変な気がしたものだから」
「お米さん――電燈《でんき》がなぜか、おそいでないか」
料理番が沈んだ声で言った。
時雨《しぐれ》は晴れつつ、木曾の山々に暮れが迫った、奈良井川の瀬が響く。
「なんだい、どうしたんです」
「ああ旦那《だんな》」……と暗夜《やみよ》の庭の雪の中で――「鷺《さぎ》が来て、魚を狙《ねら》うんでございます」
すぐ窓の外、間近だが池の水を渡るような料理番――その伊作の声がする。
「人間《ひと》が落ちたか、獺《かわうそ》でも駈《か》け廻《まわ》るのかと思った、えらい音で驚いたよ」
これは、その翌日の晩、おなじ、旅店《はたごや》の下座敷でのことであった。……
境は奈良井宿に逗留《とうりゆう》した。ここに積もった雪が、朝から降り出したためではない。別にこのあたりを見物するためでもなかった。昨夜は、あれから鶫《つぐみ》を鍋《なべ》でと誂《あつら》えたのは、しゃも、かしわをするように、膳《ぜん》のわきで火鉢《ひばち》へ掛けて煮るだけのこと、と言ったのを、料理番が心得て、そのぶつ切りを、皿《さら》に山もり、目笊《めざる》に一杯、葱《ねぎ》のざくざくを添えて、醤油《しようゆ》も砂糖もむきだしに、担《かつ》ぎあげた。お米が烈々と炭を継ぐ。
越《こし》の方だが、境の故郷いまわりでは、季節になると、この鶫を珍重すること一とおりでない。料理屋が鶫御料理、じぶ、おこのみなどという立て看板を軒に掲げる。鶫うどん、鶫蕎麦《そば》と蕎麦屋までが貼紙《びら》を張る。ただし安価《やす》くない。何の椀《わん》、どの鉢《はち》に使っても、おん羹《あつもの》、おん小蓋の見識で。ぽっちり三臠《きれ》、五臠よりは附《つ》けないのに、葱とひとつに打《ぶ》ち覆《ま》けて、鍋からもりこぼれるような湯気を天井へ立てたはうれしい。
あまつさえ熱燗《あつかん》で、熊《くま》の皮に胡坐《あぐら》でいた。
芸妓の化ものが、山賊にかわったのである。
寝るときには、厚衾《あつぶすま》に、この熊の皮が上へ被《かぶ》さって、袖《そで》を包み、蔽《おお》い、裙《すそ》を包んだのもおもしろい。あくる日、雪になろうとてか、夜嵐《よあらし》の、しんと身に浸《し》むのも、木曾川の瀬のすごいのも、ものの数ともせず、酒の血と、獣の皮とで、ほかほかして三階にぐっすり寐込《ねこ》んだ。
次第であるから、朝は朝飯から、ふっふっと吹いて啜《すす》るような豆腐の汁も気に入った。
一昨日の旅館の朝はどうだろう。……溝《どぶ》の上澄みのような冷たい汁に、おん羹ほどに蜆《しじみ》が泳いで、生煮えの臭さといったらなかった。……
山も、空も氷を透すごとく澄み切って、松の葉、枯れ木の閃《きらめ》くばかり、きらきらと陽《ひ》がさしつつ、それで、ちらちらと白いものが飛んで、奥山に、熊が人立《じんりつ》して、針を噴《ふ》くような雪であった。
朝飯《あさ》が済んでしばらくすると、境はしくしくと腹が疼《いた》みだした。――しばらくして、二、三度はばかりへ通った。
あの、饂飩の祟《たた》りである。鶫を過食したためでは断じてない。二ぜん分を籠《こみ》にした生がえりのうどん粉の中毒《あた》らない法はない。腹《おなか》を圧えて、饂飩を思うと、思う下からチクチクと筋が動いて痛みだす。――もっとも、戸外は日当たりに針が飛んでいようが、少々腹が痛もうが、我慢して、汽車に乗れないという容体ではなかったので。……ただ、だれも知らない。この宿の居心のいいのにつけて、どこかへのつらあてにと、逗留する気になったのである。
ところで座敷だが――その二度めだったか、廁《かわや》のかえりに、わが座敷へ入《はい》ろうとして、三階の欄干《てすり》から、ふと二階を覗《のぞ》くと、階子段《はしごだん》の下に、開《あ》けた障子に、箒《ほうき》とはたきを立て掛けた、中の小座敷に炬燵《こたつ》があって、床の間が見通される。……床に行李《こうり》と二つばかり重ねた、あせた萌黄《もえぎ》の風呂敷《ふろしき》づつみの、真田紐《さなだひも》で中結《ゆわ》えをしたのがあって、旅商人《あきんど》と見える中年の男が、ずっぷり床を背負《しよ》って当たっていると、向かい合いに、一人の、中年増の女中がちょっと浮き腰で、膝《ひざ》をついて、手さきだけ炬燵に入れて少し仰向《あおむ》くようにして旅商人と話をしている。
なつかしい浮き世の状《さま》を、山の崖《がけ》から掘り出して、旅宿《やど》に嵌《は》めたように見えた。
座敷は熊の皮である。境は、ふと奥山へ棄《す》てられたように、里心が着いた。
一昨日松本で城を見て、天守に上って、その五層《いつつ》めの朝霜の高層に立って、ぞっとしたような、雲に連なる、山々のひしと再び窓に来て、身に迫るのを覚えもした。バスケットに、なおざりに絡《から》めたままの、城あとの崩《くず》れ堀の苔《こけ》むす石垣《いしがき》を這《は》って枯れ残った小さな蔦《つた》の紅の、鶫の血のしたたるごときのを見るにつけても。……急に寂しい。――「お米さん、下階《した》に座敷はあるまいか。――炬燵に入ってぐっすりと寐《ね》たいんだ」二階の部屋部屋《へやべや》は、時ならず商人衆の出入りがあるからと、望むところの下座敷、おも屋から、土間を長々と板を渡って離れ座敷のような十畳へ導かれたのであった。
肱掛《ひじか》け窓の外が、すぐ庭で、池がある。
白雪の飛ぶ中に、緋鯉《ひごい》の背、真鯉の鰭《ひれ》の紫は美しい。梅も松もあしらったが、大方は樫槻《かしけやき》の大木である。朴《ほお》の樹《き》の二抱えばかりなのさえすっくと立つ、が、いずれも葉を振るって、素裸の山神のごとき装いだったことは言うまでもない。
午後三時ごろであったろう。枝に梢《こずえ》に、雪の咲くのを、炬燵で斜違《はすか》いに、くの字になって――いい婦《おんな》だとお目に掛けたい。
肱掛け窓を覗くと、池の向こうの椿《つばき》の下に料理番が立って、つくねんと腕組みして、じっと水を瞻《みまも》るのが見えた。例の紺の筒袖《つつつぼ》に、尻《しり》からすぽんと巻いた前垂《まえだ》れで、雪の凌ぎに鳥打ち帽を被《かぶ》ったのは、いやしくも料理番が水中の鯉を覗くとは見えない。大きな鷭《ばん*》が沼の鰌《どじよう》を狙っている形である。山も峰も、雪深くその空を取り囲む。
境は山間の旅情を解した。「料理番さん、晩の御馳走《ごちそう》に、その鯉を切るのかね」「へへ」と薄暗い顔を上げてニヤリと笑いながら、鳥打ち帽を取ってお時儀をして、また被《かぶ》り直すと、そのままごそごそと樹《き》を潜《くぐ》って廂《ひさし》に隠れる。
帳場は遠し、あとは雪がやや繁《しげ》くなった。
同時に、さらさらさらさらと水の音が響いて聞こえる。「――まただれか洗面所の口金を開《あ》け放したな」これがまた二度めで。……今朝《けさ》三階の座敷を、ここへ取り替えない前に、ちと遠いが、手水《ちようず》を取るのにきれいだからと女中が案内をするから、この離座敷《はなれ》に近い洗面所に来ると、三か所、水道口《みずぐち》があるのにそのどれを捻《ひね》っても水が出ない。さほどの寒さとは思えないが凍《い》てたのかと思って、谺《こだま》のように高く手を鳴らして女中に言うと、「あれ、汲《く》み込みます」と駈け出して行くと、やがて、スッと水が出た。――座敷を取り替えたあとで、はばかりに行くと、外に手水鉢がないから、洗面所の一つを捻ったが、そのときはほんのたらたらと滴《したた》って、かろうじて用が足りた。
しばらくすると、しきりに洗面所の方で水音がする。炬燵《こたつ》から潜《もぐ》り出て、土間へ下《お》りて橋がかりからそこを覗くと、三つの水道口《みずぐち》、残らず三条の水が一斉《とき》にざっと灌《そそ》いで、いたずらに流れていた。たしない《*》水らしいのに、と一つ一つ、ていねいにしめて座敷へ戻った。が、そのときも料理番が池のへりの、同じ処《ところ》につくねんと彳《たたず》んでいたのである。くどいようだが、料理番の池に立ったのは、これで二度めだ。……朝のは十時ごろであったろう。とそのとき料理番が引っ込むと、やがて洗面所の水が、再び高く響いた。
またしても三条の水道が、残らず開け放しに流れている。おなじこと、たしない水である。あとで手を洗おうとするとき、きっと涸《か》れるのだからと、またしても口金をしめておいたが――
いま、午後の三時ごろ、このときも、さらにその水の音が聞こえだしたのである。庭の外には小川も流れる。奈良井川の瀬も響く。木曾へ来て、水の音を気にするのは、船に乗って波を見まいとするようなものである。望みこそすれ、きらいも避けもしないのだけれど、不思議に洗面所の開け放しばかり気になった。
境はまた廊下へ出た。はたして、三条とも揃って――しょろしょろと流れている。「旦那さん、お風呂《ふろ》ですか」手拭《てぬぐ》いを持っていたのを見て、ここへ火を直しに、台十能《じゆうのう》を持って来かかった、お米が声を掛けた。「いや――しかし、もう入《はい》れるかい」「じきでございます。……今日《きよう》はこの新館のが湧《わ》きますから」なるほど、雪の降りしきるなかに、ほんのりと湯の香が通う。洗面所の傍《わき》の西洋扉《ど》が湯殿らしい。この窓からも見える。新しく建て増した柱立てのまま、筵《むしろ》がこいにしたのもあり、足場を組んだ処があり、材木を積んだ納屋《なや》もある。が、荒れた厩《うまや》のようになって、落ち葉に埋もれた、一帯、脇《わき》本陣とでも言いそうな旧家が、いつか世が成り金とか言った時代の景気に連れて、桑も蚕も当たったであろう、このあたりも火の燃えるような勢いに乗じて、贄川はその昔は、煮え川にして、温泉《いでゆ》の湧いた処だなぞと、ここが温泉にでもなりそうな意気込みで、新館建て増しにかかったのを、この一座敷と、湯殿ばかりで、そのまま沙汰《さた》やみになったことなど、あとで分《わか》った。「女中《ねえ》さんかい、その水を流すのは」閉《し》めたばかりの水道の栓《せん》を、女中が立ちながら一つずつ開《あ》けるのを視《み》て、たまらず詰《なじ》るように言ったが、ついでにこの仔細《しさい》も分った。……池は、樹《き》の根に樋《とい》を伏せて裏の川から引くのだが、一年に一、二度ずつ水涸《みずが》れがあって、池の水が干《ひ》ようとする。鯉も鮒《ふな》も、一処に固まって、泡《あわ》を立てて弱るので、台所の大桶へ汲み込んだ井戸の水を、はるばるとこの洗面所へ送って、橋がかりの下を潜《くぐ》らして、池へ流し込むのだそうであった。
木曾道中の新版を二、三種ばかり、枕《まくら》もとに散らした炬燵へ、ずぶずぶと潜って、「お米さん、……折入って、おまえさんに頼みがある」と言いかけて、ういういしく俯向《うつむ》くのを見ると、猛然として、喜多八を思い起こして、わが境は一人で笑った。「ははは、心配なことではないよ。――おかげで腹按配《あんばい》も至ってよくなったし――午飯《ひる》を抜いたから、晩には入合せ《*》にかつ食い、大いに飲むとするんだが、いまね、伊作さんが渋苦い顔をして池を睨んで行きました。どうも、鯉のふとりぐあいを鑑定《めきき》したものらしい……きっと今晩の御馳走だと思うんだ。――昨夜の鶫じゃないけれど、どうも縁あって池の前に越して来て、鯉と隣附き合いになってみると、目の前から引き上げられて、俎《まないた》で輪切りはひどい。……板前の都合もあろうし、またわがままを言うのではない。……
活《い》きづくりはお断わりだが、実は鯉汁《こいこく》大歓迎なんだ。しかし、魚屋か、何か、都合して、ほかの鯉を使ってもらうわけにはいくまいか。――差し出たことだが、一尾《ぴき》か二尾で足りるものなら、お客は幾人だか、今夜の入り用だけは私がその原料を買ってもいいから」女中の返事が、「いえ、この池のは、いつもお料理にはつかいませんのでございます。うちの旦那も、おかみさんも、お志の仏の日には、鮒だの、鯉だの、……この池へ放しなさるんでございます。料理番さんもやはり。……そして料理番《あのひと》は、この池のを大事にして、かわいがって、そのせいですか、隙《ひま》さえあれば、黙ってああやって庭へ出て、池を覗いていますんです」「それはお誂えだ。ありがたい」境は礼を言ったくらいであった。
雪の頂から星が一つ下ったように、入相《いりあい》の座敷に電燈の点《つ》いたとき、女中が風呂を知らせに来た。「すぐに膳《ぜん》を」と声を掛けておいて、待ち構えた湯どのへ、いっさん――例の洗面所の向こうの扉《とびら》を開けると、上場らしいが、ハテまっくらである。いやいや提灯《ちようちん》が一燈ぼうと薄白く点いている。そこにもう一枚扉《ひらき》があって閉《しま》っていた。その裡《なか》が湯どのらしい。
「半作事《*》だというから、まだ電燈《でんき》が点かないのだろう。おお、二つ巴《どもえ》の紋だな。大星だか由良之助《ゆらのすけ》だかで、鼻を衝《つ》く、うっとうしい巴の紋も、ここへ来ると、木曾殿の寵愛《ちようあい》を思い出させるから奥ゆかしい」
と帯を解きかけると、ちゃぶり――という――人がいて湯を使う気勢《けはい》がする。このとき、洗面所の水の音がハタと留《や》んだ。
境はためらった。
が、いつでも構わぬ。……他《ひと》が済んで、湯のあいたときを知らせてもらいたいと言っておいたのである。だれも入《はい》ってはいまい。とにかくと、解きかけた帯を挟《はさ》んで、ずっと寄って、その提灯の上から、扉《と》にひったりと頬《ほお》をつけて伺うと、袖《そで》のあたりに、すうーと暗くなる、蝋燭《ろうそく》が、またぽうと明るくなる。影が痣《あざ》になって、巴が一つ片頬《かたほお》に映るように陰気に沁《し》み込む、と思うと、ばちゃり……内端《うちば》に湯が動いた。なんの隙間《すきま》からか、ぷんと梅の香を、ぬくもりで溶かしたような白粉《おしろい》の香がする。
「婦人《おんな》だ」
なにしろ、この明かりでは、男客にしろ、いっしょに入ると、暗くて肩も手も跨《また》ぎかねまい。乳に打着《ぶつか》りかねまい。で、ばたばたと草履《ぞうり》を突っ掛けたまま引き返した。
「もう、お上がりになりまして?」と言う。
通《かよ》いが遠い、ここで燗《かん》をするつもりで、お米がさきへ銚子《ちようし》だけ持って来ていたのである。
「いや、あとにする」
「まあ、そんなにお腹《なか》がすいたんですの」
「腹もすいたが、だれかお客が入《はい》っているから」
「へい、……此方の湯どのは、久しく使わなかったのですが、あの、そう言っては悪うございますけど、しばらくぶりで、お掃除《そうじ》かたがた旦那様に立てましたのでございますから、……あとで頂きますまでも、……あの、まだどなたも」
「構やしない。私はゆっくりでいいんだが、婦人の客のようだったぜ」
「へい」
と、おかしなベソをかいた顔をすると、手に持つ銚子が湯沸かしにカチカチカチと震えたっけ、あとじさりに、ふいと立って、廊下に出た、一度ひっそり跫音《あしおと》を消すやいなや、けたたましい音を、すたん、と立てて土間の板をはたはたと鳴らして駈け出した。
境はきょとんとして、
「なんだい、あれは……」
やがて膳を持って顕《あら》われたのが……お米でない。年増《としま》のに替わっていた。
「やあ、中二階のおかみさん」
行商人と、炬燵でむつまじかったのはこれである。
「御亭主はどうしたい」
「知りませんよ」
「ぜひ、承りたいんだがね」
半ば串戯に、ぐっと声を低くして、
「出るのかい……何か……、あの、湯殿へ……まったく?」
「それがね、旦那、大笑いなんでございますよ。……どなたもいらっしゃらないと思って、申し上げましたのに、御婦人のかたが入っておいでだって、旦那がおっしゃったと言うので、米ちゃん、大変な臆病《おくびよう》なんですから。……久しくつかいません湯殿ですから、内のお上さんが、念のために――」
「ああそうか、……私はまた、ちょっと出るのかと思ったよ」
「だいじょうぶ、湯どのへは出ませんけれど、そのかわりお座敷へはこんなのが、ね、あなた」
「いや、結構」
お酌《しやく》はこのほうがけっく飲める。
夜は長い、雪はしんしんと降りだした。床を取ってから、酒をもう一度、その勢いでぐっすり寝よう。晩飯《ばん》はいいかげんで膳を下げた。
跫音《あしおと》が入り乱れる、ばたばたと廊下へ続くと、洗面所の方へ落ち合ったらしい。ちょろちょろと水の音がまた響きだした。男の声も交じって聞こえる。それが止《や》むと、お米が襖《ふすま》から円《まる》い顔を出して、
「どうぞ、お風呂へ」
「だいじょうぶか」
「ほほほほ」
とちとてれたように笑うと、身を廊下へ引くのに、押し続いて境は手拭を提《さ》げて出た。
橋がかりの下り口に、昨夜帳場にいた坊主頭の番頭と、女中頭か、それとも女房かと思う老《ふ》けた婦と、もう一人の女中とが、といった形に顔を並べて、一 団 《ひとかたまり》になってこちらを見た。そこへお米が、足袋《たび》まで見えてちょこちょこと橋がかりを越えて渡ると、三人の懐《ふところ》へ飛び込むように一団。
「御苦労様」
わがために、見とどけ役のこの人数で、風呂を検《しら》べたのだと思うから声を掛けると、一度に揃《そろ》ってお時儀をして、屋根が萱《かや》ぶきの長土間に敷いた、そのあゆみ板を渡って行く。土間のなかばで、そのおじやのかたまりのような四人の形が暗くなったのは、トタンに一つ二つ電燈がスッと息を引くように赤くなって、橋がかりのも洗面所のもいっせいにパッと消えたのである。
と胸を吐くと、さらさらさらさらと三筋に……こう順に流れて、洗面所を打つ水の下に、先刻の提灯が朦朧《もうろう》と、半ば暗く巴を一つ照らして、墨でかいた炎か、鯰《なまず》の跳《は》ねたか、と思う形に点《とも》れていた。
いまにも電燈が点くだろう。湯殿口へ、これを持って入る気で、境がこごみざまに手を掛けようとすると、提灯がフッと消えて見えなくなった。
消えたのではない。やはりこれが以前のごとく、湯殿の戸口に点いていた。これはおのずから雫《しずく》して、下の板敷きの濡《ぬ》れたのに目の加減で、向こうから影が映《さ》したものであろう。はじめから、提灯がここにあったわけではない。境は、斜めに影の宿った水中の月を手に取ろうとしたと同じである。
爪《つま》さぐりに、例の上がり場へ……で、念のために戸口に寄ると、息が絶えそうにひっそりしながら、ばちゃんと音がした。ぞっと寒い。湯気が天井から雫になって点滴《したた》るのではなしに、屋根の雪が溶けて落ちるような気勢である。
ばちゃん……ちゃぶりとかすかに湯が動く。とまた得ならず艶な、しかし冷たい、そして、におやかな、霧に白粉を包んだような、人膚の気がすっと肩に絡《まつわ》って、項《うなじ》を撫《な》でた。
脱ぐはずの衣紋《えもん》を且《か》つしめて、
「お米さんか」
「いいえ」
と一呼吸間を置いて、湯どのの裡《なか》から聞こえたのは、もちろんわが心がわが耳に響いたのであろう。――お米でないのは言うまでもなかったのである。
洗面所の水の音がぴったりと留《や》んだ。
思わず立ち竦《すく》んであたりを見た。思い切って、
「入りますよ、ごめん」
「いけません」
と澄みつつ、湯気に濡れ濡れとした声が、はっきり聞こえた。
「かってにしろ!」
われを忘れて言ったときは、もう座敷へ引き返していた。
電燈は明るかった。巴の提灯はこの光に消された。が、水は三筋、さらにさらさらと走っていた。
「ばかにしやがる」
不気味より、すごいより、なぶられたような、反感が起こって、炬燵へ仰向《あおむ》けにひっくり返った。
しばらくして、境が、飛び上がるように起き直ったのは、すぐ窓の外に、ざぶり、ばちゃばちゃばちゃ、ばちゃ、ちゃっと、けたたましく池の水の掻《か》き攪《みだ》さるる音を聞いたからであった。
「なんだろう」
ばちゃばちゃばちゃ、ちゃっ。
そこへ、ごそごそと池を廻《まわ》って響いてきた。人の来るのは、なぜか料理番だろうと思ったのは、この池の魚《うお》を愛惜すると、聞いて知ったためである。……
「なんだい、どうしたんです」
雨戸を開《あ》けて一面の雪の色のやや薄い処に声を掛けた、その池も白いまで水は少ないのであった。
「どっちです、白鷺《しらさぎ》かね、五位鷺かね」
「ええ――どっちもでございますな。両方だろうと思うんでございますが」
料理番の伊作は来て、窓下の戸ぎわに、がっしり腕組みをして、うしろ向きに立って言った。
「むこうの山口の大林から下《お》りて来るんでございます」
言《ことば》の中にも顕《あら》われる、雪の降り留《や》んだ、その雲の一方は漆のごとく森が黒い。
「不断のことではありませんが……この、旦那、池の水が涸《か》れるところを狙《ねら》うんでございます。鯉《こい》も鮒《ふな》も半分鰭《ひれ》を出して、あがきがつかないのでございますから」
「りこうなやつだね」
「ばかな人間は困っちまいます――魚がかわいそうでございますので……そうかと言って、夜一夜《よつぴて》、立ち番をしてもおられません。旦那、お寒うございます。おしめなさいまし。……そちこち御註文《ごちゆうもん》の時刻でございますから、何か、不手ぎわなものでも見繕《みつくろ》って差し上げます」
「都合がついたら、きみが来て一杯、ゆっくりつき合ってくれないか。……私は夜ふかしは平気だから、いっしょに……ここで飲んでいたら、いくらか案山子《かかし》になるだろう……」
「――結構でございます。……もう台所は片附《かたづ》きました、追っつけ伺います。――いたずらな餓鬼どもめ」
と、あとを口こごとで、空を睨《にら》みながら、枝をざらざらと潜《くぐ》って行く。
境は、しかし、あとの窓を閉《し》めなかった。もちろん、ごく細目には引いたが。――実は、雪の池のここへ来て幾羽の鷺の、魚を狩る状《さま》を、さながら、炬燵で見るお伽話《とぎばなし》の絵のように思ったのである。驚破《すわ》と言えば、追い立つるとも、驚かすとも、その場合のこととして……第一気もそぞろなことは、二度まで湯殿の湯の音は、いずれの隙間《すきま》から雪とともに、鷺が起《た》ち込んで浴《ゆあ》みしたろう、とそうさえ思ったほどであった。
そのままじっと覗《のぞ》いていると、薄黒く、ごそごそと雪を踏んで行く、伊作の袖《そで》の傍を、ふわりと巴《ともえ》の提灯《ちようちん》が点《つ》いて行く。おお今、窓下では提灯を持ってはいなかったようだ、それに、もうやがて、庭を横ぎって、濡《ぬ》れ縁か、戸口に入《はい》りそうだ、と思うまで距《へだた》った。遠いまで小さく見える、としばらくして、ふとあとへ戻るような、やや大きくなって、あの土間廊下の外の、萱屋根《かややね》のつま下をすれずれにだんだん此方へ引き返す、引き返すのが、気のせいだか、いつの間にか、中へ入って、土間の暗がりを点《とも》れて来る。……橋がかり、一方が洗面所、突き当たりが湯殿……ハテナとぎょっとするまで気がついたのは、その点れて来る提灯を、座敷へ振り返らずに、逆に窓から庭の方に乗り出しつつ見ていることであった。
トタンに消えた。――頭からゾッとして、首筋を硬《こわ》く振り向くと、座敷に、白鷺かと思う女の後ろ姿の頸脚《えりあし》がスッと白い。
違い棚《だな》のかたわらに、十畳のその辰巳《たつみ*》に据えた、姿見に向かった、うしろ姿である。……湯気に山茶《さざん》花《か》の悄《しお》れたかと思う、濡れたように、しっとりと身についた藍鼠《あいねずみ》の縞小紋《しまこもん》に、朱鷺色《ときいろ》と白のいち松のくっきりした伊達《だて》巻きで乳の下の縊《くび》れるばかり、消えそうな弱腰に、裾《すそ》模様が軽く靡《なび》いて、片膝《かたひざ》をやや浮かした、棲《つま》を友染《ゆうぜん》がほんのり溢《こぼ》れる、露の垂《た》りそうな円髷《まるまげ》に、桔梗色《ききよういろ》の手絡《てがら》が青白い、浅黄の長襦袢《ながじゆばん》の裏がなまめかしく搦《から》んだ白い手で、刷毛《はけ》を優しく使いながら、姿見を少しこごみなりに覗くようにして化粧をしていた。
境は起《た》つも坐《い》るも知らず息を詰めたのである。
あわれ、着た衣《きぬ》は雪の下なる薄もみじで、膚《はだ》の雪が、かえって薄もみじを包んだかと思う、深く脱いだ襟脚《えりあし》を、すらりと引いて掻き合わすと、ぼっとりとして膝近だった懐紙《かみ》を取って、くるくると丸げて、掌《てのひら》を拭《ふ》いて落としたのが畳へ白粉のこぼれるようであった。
衣摺《きぬず》れが、さらりとしたとき、湯どのできいた人膚に紛う留南奇《とめき》が薫《かお》って、少し斜めに居返ると、煙草《たばこ》を含んだ。吸い口が白くつやつやと煙管《きせる》が黒い。
トーンと、灰吹きの音が響いた。
きっと向いて、境を見た瓜核顔《うりざねがお》は、目《ま》ぶちがふっくりと、鼻筋通って、色の白さはすごいよう。――気の籠《こ》もった優しい眉《まゆ》の両方を懐紙《かみ》で、ひたと隠して、大きな瞳《ひとみ》でじっと視《み》て、
「……似合いますか」
と、にっこりした歯が黒い。と、にっこりしながら、褄《つま》を合わせざまにすっくりと立った。顔が鴨居《かもい》に、すらすらと丈《たけ》が伸びた。
境は胸が飛んで、腰が浮いて、肩が宙へ上がった。ふわりと、その婦の袖で抱き上げられたと思ったのは、そうではない、横に口に引き銜《くわ》えられて、畳を空に釣り上げられたのである。
山がまっ黒になった。いや、庭が白いと、目に遮《さえぎ》ったときは、スッと窓を出たので、手足はいつか、尾鰭《おひれ》になり、われはぴちぴちと跳《は》ねて、婦の姿は廂《ひさし》を横に、ふわふわと欄間の天人のように見えた。
白い森も、白い家も、目の下に、たちまちさっと……空高く、松本城の天守をすれすれに飛んだように思うと、水の音がしてもんどり打って池の中へ落ちると同時に炬燵でハッとわれに返った。
池におびただしい羽音が聞こえた。
この案山子になど追えるものか。
バスケットの、蔦《つた》の血を見るにつけても、青い呼吸をついでぐったりした。  廊下へ、しとしとと人の音がする。ハッと息を引いて立つと、料理番が膳《ぜん》に銚子《ちようし》を添えて来た。
「やあ、伊作さん」
「おお、旦那《だんな》」
「昨年のちょうど今ごろでございました」
料理番はひしと、身を寄せ、肩をしめて話しだした。
「今年《ことし》は今朝《けさ》から雪になりましたが、そのみぎりは、忘れもしません、前日雪が降りました。積もり方はもっと多かったのでございます。――二時ごろに、目の覚《さ》めますような御婦人客が、ただお一方《ひとかた》で、おいでになったのでございます。――目の覚めるようだと申しましてもはでではありません。あだな中に、なんとなく寂しさのございます、二十六、七のお年ごろで高等な円髷《まるまげ》でおいででございました。――御容子《ごようす》のいい、背のすらりとした、見立ての申し分のない、しかし奥様と申すには、どこかなまめかしさが過ぎております。そこは、田舎《いなか》ものでも、大ぜいお客様をお見かけ申しておりますから、じきにくろうと衆だと存じましたのでございまして、これが柳橋の蓑吉《みのきち》さんという姐《ねえ》さんだったことが、のちに分《わか》りました。宿帳のほうはお艶《つや》様でございます。
その御婦人を、旦那《だんな》――帳場で、このお座敷へ御案内申したのでございます。
風呂《ふろ》がお好きで……もちろん、おいやな方もたんとございますまいが、あの湯へ二度、お着きになって、すぐと、それに夜分に一度、お入りなすったのでございます――都合で、新館の建て出しは見合わせておりますが、温泉ごのみに石で畳《たた》みました風呂は、自慢でございまして、旧の二階三階のお客様にも、ちと遠うございますけれども、お入りを願っておりましたところが――実はその、時々、不思議なことがありますので、このお座敷も同様にしばらく使わずにおきましたのを、旦那のようなかたに試みていただけば、おのずと変なこともなくなりましょうと、相談をいたしまして、申すもいかがでございますが、今日《きよう》久しぶりで湧《わ》かしも使いもいたしましたようなわけなのでございます。
ところで、お艶様、その御婦人でございますが、日のうち一風呂お浴びになりますと『鎮守様のお宮は』と聞いて、お参詣《まいり》なさいました。贄川街道《かいどう》よりの丘の上にございます。――山王様のお社で、むかし人身御供があがったなどと申し伝えてございます。森々と、もの寂しいお社で。……村社はほかにもございますが、鎮守という、お尋ねにつけて、その儀を帳場で申しますと……道を尋ねてそこでお一人でおのぼりなさいました。目を少々お煩いのようで、雪がきらきらして疼《いた》むからと言って、こんな土地でございます、ほんのできあいの黒い目金《めがね》を買わせて、掛けて、洋傘《こうもり》を杖《つえ》のようにしてお出掛けで。――これは鎮守様へ参詣は、奈良井宿一統への礼儀挨拶《あいさつ》というお心だったようでございます。
無事に、まずお帰りなすって、夕飯のとき、お膳《ぜん》で一口あがりました。――旦那の前でございますが、板前へと、御丁寧《ごていねい》にお心づけを下すったものでございますから私《てまい》……ちょいと御挨拶に出ましたとき、こういうおたずねでございます――お社へお供物《くもつ》にきざ柿《*》と楊枝《ようじ》とを買いました。……石段下のそこの小店のお媼《ばあ》さんの話ですが、山王様の奥が深い森で、その奥に桔梗《ききよう》が原という、原の中に、桔梗の池というのがあって、その池に、お一方《ひとり》、お美しい奥様がいらっしゃるということですが、ほんとうですか。――
――まったくでございます、と皆まで承らないで私《てまい》が申したのでございます。
論より証拠、申して、よいか、悪いか存じませんが、現に私《てまい》が一度見ましたのでございます」
「…………」
「桔梗が原とは申しますが、それは、秋草はきれいに咲きます、けれども、桔梗ばかりというのではございません。ただその大池の水が真桔梗の青い色でございます。桔梗はかえって、白い花のがみごとに咲きますのでございまして。……
四年あとになりますが、正午《まひる》というのに、この峠向こうの藪原《やぶはら》宿から火が出ました。正午《しよううま》の刻の火事は大きくなると、何国《いずこ》でも申しますが、全く大焼でございました。
山王様の丘へ上りますと、一目に見えます。火の手は、七条《すじ》にも上りまして、ぱちぱちぱんぱんと燃える音が手に取るように聞こえます。……あれは山間《やまあい》の滝か。いや、ぽんぷの水の走るのだと申すくらい。この大《おお》南風《みなみ》の勢いでは、山火事になって、やがて、ここもとまで押し寄せはしまいかと案じますほどの激しさで、駈《か》けつけるものは駈けつけます、騒ぐものは騒ぐ。私《てまい》なぞは見物のほうで、お社前は、おなじ夥間《なかま》でいっぱいでございました。
二百十日のあれ前で、残暑の激しいときでございましたから、ついつい少しずつお社の森の中へ火を見ながら入《はい》りましたにつけて、不断は、しっかり行くまじきとしてある処《ところ》ではございますが、この火の陽気で、人の気の湧《わ》いている場所から、深いと言っても半町とはない。だいじょうぶと。ところで、私《てまい》陰気もので、あまり若衆《わかいしゆ》づきあいがございませんから、だれを誘うでもあるまいと、杉檜《すぎひのき》の森々としました中を、それも、思ったほど奥が深くもございませんで、一面の草花。……白い桔梗でへりを取った百畳敷きばかりの真青《まつさお》な池がと、見ますと、その汀《みぎわ》、ものの二、……三……十間とはない処《ところ》に……お一人、なんともおうつくしい御婦人が、鏡台を置いて、斜めに向かって、お化粧をなさっていらっしゃいました。
お髪《ぐし》がどうやら、お召しものが何やら、一目見ました、そのときのすごさ、恐ろしさといってはございません。ただ今思い出しましても御酒《ごしゆ》が氷になって胸へ沁《し》みます。ぞっとします。……それでいてそのお美しさが忘れられません。もったいないようでございますけれども、家のないもののお仏壇に、うつしたお姿と存じまして、一日でも、この池の水を眺《なが》めまして、その面影を思わずにはおられませんのでございます。――さあ、そのときは、前後も存ぜず、翼《はね》の折れた鳥が、ただ空から落ちるような思いで、森を飛び抜けて、いちもくさんに、高い石段を駈《か》け下りました。私《てまい》がその顔の色と怯《おび》えた様子とてはなかったそうでございましてな。……お社前の火事見物が、一雪崩《なだれ》になって遁《に》げ下りました。森の奥から火を消すばかり冷たい風で、大蛇《だいじや》がさっと追ったようで、遁げた私《てまい》は、野兎《のうさぎ》の飛んで落ちるように見えたということでございまして。
とこの趣を――お艶様、その御婦人に申しますと、――そうしたおかたを、どうして、女神様とも、お姫様とも言わないで、奥さまというんでしょう。さ、それでございます。私《てまい》はただ目が暗んでしまいましたが、前々《せんせん》より、ふとお見上げ申したものの言うのでは、桔梗の池のお姿は、眉《まゆ》をおとして、いらっしゃりまするそうで……」
境はゾッとしながら、かえって炬燵を傍《わき》へ払った。
「どなたの奥方とも存ぜずに、いつとなくそう申すのでございまして……旦那。――お艶様に申しますと、じっとお聞きなすって――だと、その奥さまのお姿は、ほかにも見たかたがありますか、とおっしゃいます――ええ、月の山の端《は》、花の麓路《ふもとじ》、蛍《ほたる》の影、時雨《しぐれ》の提灯《ちようちん》、雪の川べりなど、ずいぶん村方でも、ちらりと拝んだものはございます。――お艶様はこれをきいて、猪口《ちよく》を下に置いて、なぜか、しょんぼりとおうつむきなさいました――
――ところで旦那……その御婦人が、わざわざ木曾のこの山家へ一人旅をなされた用事がでございまする」
「ええ、そのとき、この、村方で、不思議千万な、色出入り、――変な姦通《まおとこ》事件がございました。
村入《むらいり》の雁股《かりまた》と申す処《ところ》に(代官婆)という、庄屋《しようや》のお婆《ばあ》さんといえば、まだしおらしく聞こえますが、代官婆。……渾名《あだな》で分《わか》りますくらい恐ろしく権柄な、家の系図を鼻に掛けて、おらが家はむかし代官だぞよ、と二言めには、たつみ上がりになりますので。その料簡《りようけん》でございますから、中年から後家になりながら、手一つで、まず……せがれどのをりっぱに育てて、これを東京で学士先生にまで仕立てました。……そこでひところは東京住居《ずまい》をしておりましたが、なんでもいったん微禄《びろく》した家を、故郷《ふるさと》に打開《ぶつぱだ》けて、村じゅうの面《つら》を見返すと申して、沽券潰れ《こけんつぶ*》の古家を買いまして、両三年前から、そのせがれの学士先生の嫁ご、近ごろで申す若夫人と、二人で引き籠《こ》もっておりますが……菜大根、茄子《なすび》などは、料理に醤油《したじ》が費えだという倹約で、葱《ねぶか》、韮《にら》、大蒜《にんにく》、辣薤《らつきよう》と申す五薀《うん》の類《たぐい》を、空地《あきち》じゅうに植え込んで、塩で弁ずるのでございまして……もう遠くからぷんと、その家が臭います。大蒜屋敷の代官婆。……
ところが若夫人、嫁ごというのが、福島の商家の娘さんで学校をでたかただが、当世に似合わないおとなしい優しい、ちと内輪すぎますぐらい。もっともこれでなくっては代官婆と二人住居はできません。……大蒜ばなれのした方で、鋤《すき》にも、鍬《くわ》にも、連尺《*》にも、婆どのに追い使われて、いたわしいほどよく辛抱なさいます。
霜月の半ば過ぎに、不意に東京から大蒜屋敷へお客人がございました。学士先生のお友だちで、この方はどこへも勤めては居なさらない、もっとも画師《えかき》だそうでございますから、極《き》まった勤めとてはございますまい。学士先生のほうは、東京のある中学校でれっきとした校長さんでございますが――
で、その画師さんが、不意に、大蒜屋敷に飛び込んで参ったのは、ろくに旅費も持たずに、東京から遁《に》げ出して来たのだそうで。……と申しますのは――早い話が、細君がありながら、よそに深い馴染《なじ》みができました。……それがために、首尾も義理も、世の中は、さんざんで、思い余って細君が意見をなすったのを、何を! と言って、一つ横頬《よこぞつぼ》を撲《くら》わしたはいいが、御先祖、お両親《ふたおや》の位牌《いはい》にも、くらわされてしかるべきは自分のほうで、仏壇のあるわが家にはいたたまらないために、その場から門《かど》をかけ出したは出たとして、知合《ちかづき》にも友だちにも、女房に意見をされるほどの始末で見れば、行処がなかったので、一夜しのぎに、この木曾谷まで遁げ込んだのだそうでございます。遁げましたなあ。……それに、その細君というのが、はじめ画師さんには恋人で、晴れて夫婦になるのには、この学士先生がたいそうなおほね折りで、そのおかげで思いが叶《かな》ったと申したようなわけだそうで。……遁げ込み場所には屈竟《くつきよう》なのでございました。
時に、弱りものの画師さんの、その深い馴染みというのが、もし、なんと……お艶様――てまえどもに一人でお泊まりになったその御婦人なんでございます。……ちょいと申し上げて置きますが、これは画師さんのあとをたずねて、雪を分けておいでになったのではございません。その間がざっと半月ばかりございました。その間に、ただいま申しました、姦通騒ぎが起こったのでございます」
と料理番は一息した。
「そこで……また代官婆に変な癖がございましてな、癖より病で――あるもの知りのかたに承りましたのでは訴訟狂とか申すんだそうで、葱《ねぶか》が枯れたと言っては村役場だ。小児《こども》が睨《にら》んだと言えば交番だ。……派出所だ裁判だと、なんでも上沙汰《ざた》にさえ持ち出せば、われに理があると、それあなた、代官婆だけに思い込んでおりますのでございます。
その、大蒜屋敷の雁股へ掛かります、この街道《かいどう》、棒鼻《*》の辻《つじ》に巌穴《いわあな》のような窪地《くぼち》に引っ込んで、石松という猟師が、小児《がき》だくさんで籠《こ》もっております。四十親仁《おやじ》で、これの小僧のときは、まだ微禄をしません以前の……その婆のとこに下男奉公、女房《かかあ》も女中奉公をしたものだそうで。……婆が強《えろ》う家来扱いにするのでございますが、石松猟師も、堅い親仁で、はなはだしく御主人に奉っておりますので。……
宵の雨が雪になりまして、その年の初雪が思いのほか、夜半《よなか》を掛けて積もりました。山の、猪《しし》、兎《うさぎ》が慌《あわ》てます。猟はこういうときだと、夜更《よふ》けに、のそのそと起きて、鉄砲しらべをして、炉ばたで茶漬《ちやづ》けを掻《か》っ食《くら》って、手製《てづくり》の猿《さる》の皮の毛頭巾《けずきん》を被《かぶ》った。筵《むしろ》の戸口へ、白髪を振り乱して、蕎麦切《そばき》り色の褌《ふんどし》……いやなやつで、とき色の禿《は》げたのを不断まきます、尻端折《しりばしよ》りで、六十九歳の代官婆が、跣足《はだし》で雪の中に突っ立ちました。『内へ怪《ばけ》ものが出た、来てくれせえ』と顔色、手振りで喘《あえ》いで言うので。……こんなとき鉄砲は強うございますよ、ガチリ、実弾《たま》をこめました。……旧主人の後室様がお跣足でございますから、石松も素跣足。街道《かいどう》を突っ切って韮、辣薤、葱畑を、さっさっと、化ものを見届けるのじゃ、静かにということで、婆が出て来ました納戸口《なんどぐち》から入って、中土間へ忍んで、指さされるなりに、坂戸の節穴から覗《のぞ》きますとな――なんと、六枚折りの屏風《びようぶ》の裡《なか》に、枕《まくら》を並べてと申すのが、寝ては居なかったそうでございます。若夫人が緋《ひ》の長襦袢《ながじゆばん》で、掻《か》い巻きの襟《えり》の肩から辷《すべ》った半身で、画師の膝《ひざ》に白い手をかけて俯向《うつむ》きになりました、背中を男が、撫《な》でさすっていたのだそうで。いつもは、もんぺを穿《は》いて、木綿《もめん》のちゃんちゃんこでいる嫁ごが、その姿で、しかもそのありさまでございます。石松は化もの以上に驚いたに相違ございません。『おのれ、不義もの……人《にん》畜生』と代官婆が土蜘蛛《つちぐも》のようにのさばり込んで、『やい、……動くな、そのざまを一寸《すん》でも動いて崩《くず》すと――鉄砲《あれ》だぞよ。弾丸《あれ》だぞよ」という。にじり上がりの屏風の端から、鉄砲の銃口《すぐち》をヌッと突き出して、毛の生《は》えた 蟇 《ひきがえる》のような、石松が、目を光らして狙《ねら》っております。
人相といい、場合と申し、ズドンと遣《や》りかねない勢いでごさいますから、画師さんは面喰《めんくら》ったに相違ございますまい、『天罰は立《た》ち処《どころ》じゃ、足四本、手四つ、顔《つら》二つのさらしものにしてやるべ』で、代官婆は、近所の村方四軒と言うもの、その足でたたき起こして廻《まわ》って、石松が鉄砲を向けたままの、そのありさまをさらしました。――夜のあけ方には、派出所の巡査《おまわり》、檀那《だんな》寺の和尚《おしよう》まで立ち会わせるという狂い方でございまして。学士先生の若夫人と色男の画師さんは、こうなると、緋鹿子《ひがのこ》の扱帯《しごき》も藁《わら》すべで、彩色をした海鼠《なまこ》のように、雪にしらけて、ぐったりとなったのでございます。
男はともかく、嫁はほんとうに、うしろ手に縛《くく》りあげると、細引きを持ち出すのを、巡査が叱《しか》りましたが、叱られるとなお吼《たけ》り立って、たちまち、裁判所、村役場、派出所も村会もいっしょにして、姦通の告訴をすると、のぼせ上がるので、どこへも遣《や》らぬ監禁同様という趣で、ひとまず檀那寺まで引き上げることになりましたが、活《い》き証拠だと言い張って、嫁に衣服を着せることを肯《き》きませんので巡査さんが、雪のかかった外套《がいとう》を掛けまして、なんと、しかし、ぞろぞろと村の女小児《こども》まであとへついて、寺へ参ったのでございますが」
境はききつつ、ただ幾度も歎息した。
「――遁《に》がしたのでございましょうな。画師さんはその夜のうちに、寺から影をかくしました。これはそうあるべきでございます。――さて、聞きますれば、――せがれの親友、兄弟同様の客じゃから、せがれ同様に心得る。……半年あまりも留守《るす》を守ってさみしく一人でいることゆえ、嫁女や、そなたも、せがれと思うて、つもる話もせいよ、と申して、身じまいをさせて、衣《き》ものまで着かえさせ、寝るときは、にこにこ笑いながら、床を並べさせたのだと申すことで。……嫁ごはなるほどわけしりの弟分の膝《ひざ》に縋《すが》って泣きたいこともありましたろうし、芸妓《げいしや》でしくじるほどの画師さんでございます、背中を擦るぐらいはしかねますまい、……でございますな。
代官婆の憤り方をお察しなさりとう存じます。学士先生は電報で呼ばれました。何と宥《なだ》めても承知をしません。ぜひとも姦通の訴訟を起こせ。いや、恥も外聞もない、代官といえば帯刀じゃ、武士たるものは、不義ものを成敗するはかえって名誉じゃ、とこうまで間違っては事めんどうで。たって、裁判沙汰《ざた》にしないとなら、生きておらぬ。咽喉笛《のどぶえ》鉄砲《*》じゃ、鎌腹《かまばら*》じゃ、奈良井川の淵《ふち》を知らぬか……桔梗が池へ身を沈める……こ、こ、この婆《ばばあ》め、沙汰の限りな、桔梗が池へ沈めますものか、身投げをしようとしたら、池が投げ出しましょう」
と言って、料理番は苦笑した。
「また、今時に珍しい、学校でも、倫理、道徳、修身のほうを御研究もなされば、お教えもなさいます、学士は至っての御孝心。かねて評判なかたで、嫁ごをいたわる傍《はた》の目には、ちと弱すぎると思うほどなのでございますから、困《こう》じ果てて、なんとも申しわけも面目もなけれども、とにかく一度、この土地へ来てもらいたい。万事はその上でという――学士先生から画師さんへのお頼みでございます。
さて、これは決闘《はたし》状《じよう》より恐ろしい。……もちろん村でも不義ものの面《つら》へ、唾《つば》と石とを、人間の道のためとか申して騒ぐほうが多いまん中でございますから。……どの面さげて画師さんが奈良井へ二度面がさらされましょう。旦那」
「これはなんと言われても来《こ》られまいなあ」
「と言って、学士先生との義理合いでは来ないわけにはまいりますまい。ところで、その画師さんは、そのとき、どこにいたと思《おぼ》し召します。……いろのことから、けしからん、横頬《よこぞつぼ》を撲《は》ったという細君の、袖《そで》のかげに、申しわけのない親たちのお位牌《いはい》から頭をかくして、尻《しり》も足もわなわなと震えていましたので、弱った方でございます。……必ず、連れて参ります――と代官婆に、誓って約束をなさいまして、学士先生は東京へ立たれました。
その上京中。その間のことなのでございます――柳橋の蓑吉姉《ねえ》さん……お艶様が……ここへお泊まりになりましたのは……」
「――どんな用事の御都合にいたせ、夜中、近所が静まりましてから、お艶様が、おたずねになろうというのが、代官婆の処《ところ》と承っては、一人ではお出し申されません。ただ道だけ聞けばとの事でございましたけれども、おともがじかについて悪ければ、垣根《かきね》、裏口にでもひそみまして、内々守って進じようで……帳場が相談をしまして、その人選《にんせん》に当たりましたのが、この、ふつつかな私《てまい》なんでございました。……
お支度《したく》がよろしくばと、私《てまい》、これへ……このお座敷へ提灯《ちようちん》をもって伺いますと……」
「ああ、二つ巴《どもえ》の紋のだね」と、つい誘われるように境が言った。
「へい」
と暗く、含むような、頤《おとがい》で返事を吸って、
「よくご存じで」
「二度まで、湯殿に点《つ》いていて、知っていますよ」
「へい、湯殿に……湯殿に提灯を点けますようなことはございませんが――それともへーい」
この様子では、今しがた庭を行くとき、この料理番とともに提灯が通ったなどとは言い出せまい。境は話を促した。
「それから」
「ちと変な気がいたしますが……。ええ、ざっとお支度済みで二度めの湯上がりに薄化粧をなすった、めしものの藍鼠《あいねずみ》がお顔の影に藤色《ふじいろ》になって見えますまで、お色の白さったらありません、姿見の前で……」
境が思わず振り返ったことは言うまでもない。
「金の吸口《くち》で、烏金《しやくどう》で張った煙管《きせる》で、ちょっと歯を染めなさったように見えます。懐紙《かいし》をな、眉《まゆ》にあてて私《てまい》を、おも長に、ごらんなすって、
――似合いますか――」
「むむ、む」と言う境の声は、氷を頬張《ほおば》ったように咽喉《のど》に支《つか》えた。
「畳のへりが、桔梗《ききよう》で白いように見えました。『ええ、もったいないほどお似合いで』と言うのを聞いて、懐紙をおのけになると、眉のあとがいま剃《そ》り立ての真青《まつさお》で、……『桔梗が池の奥様とは?』――『お姉妹……いや一倍おきれいで』と罰もあたれ、そう申さずにはおられなかったのでございます。
ここをお聞きなさいまし」……
『お艶さん、どうしましょう』
雪がちらちら雨まじりで降る中を、破れた蛇目傘《じやのめ》で、見すぼらしい半纏《はんてん》で、意気にやつれた画師《えかき》さんの細君が、男を寝取った情婦《おんな》とも言わず、お艶様――本妻が、その体では、情婦《いろ》だって工面《くめん》は悪うございます。目を煩って、しばらく親もとへ、納屋《なや》同然な二階借りで引き籠もって、内職に、娘子供に長唄《ながうた》なんか、さらって暮らしていなさるところへ思い余って、細君が訪《たず》ねたのでございます。
『お艶さん、私はそう存じます。私が、あなたほどお美しければ、こんな女房がついています。なんの夫《やど》が、木曾街道《かいどう》の女なんぞに。と姦通《まおとこ》呼ばわりをするその婆に、そう言ってやるのがいちばん早分《はやわか》りがすると思います』『ええ、何よりですともさ。それよりか、なおその上に、お妾でさえこのくらいだ。と言って見せてやりますほうが、上に、なお奥さんと言う、奥行きがあってようございます。――奥さんのほかに、わたしほどのいろがついています。田舎《いなか》で意地ぎたなをするもんですか。婆《ばばあ》に、そう言ってやりましょうよ。そのお嫁さんのためにも』――
「あとで、お艶様の、したためもの、かきおきなどに、この様子が見えることに、なんともどうも、つい立ち至ったのでございまして。……これでございますから、なんの木曾の山猿《やまざる》なんか、しかし、念のために土地の女の風俗を見ようと、山王様御参詣は、その下心だったかと存じられます。……処《ところ》を、桔梗が池の、すごい、美しいおかたの事をおききなすって、これが時々人目にも触れるというので、自然、代官婆の目にもとまって居て、自分の容色《きりよう》の見劣りがする段《ひ》には、美しさで、勝つことはできないという、覚悟だったと思われます。――もっとも西洋剃刀《かみそり》をお持ちだったほどで――それでいけなければ、世の中に煩い婆、人だすけに切っちまう――それも、かきおきにございました。
雪道は雁股まで、棒鼻をさして、奈良井川の枝流の青白いつつみを参りました。氷のような月が皎々《こうこう》と冴《さ》えながら、山気が霧に凝《こ》って包みます。巌石、ごうごうの細い谿川《たにがわ》が、寒さに水涸《みずが》れして、さらさらさらさら……ああ、ちょうど、あの音、洗面所のあの音でございます」
「ちょっと、あの水口を留めて来ないか、身体《からだ》の筋々へ沁《し》み渡るようだ」
「御同然でございまして……ええ、しかし、どうも」
「一人じゃいけないかね」
「あなた様は?」
「いや、何、どうしたんだい、それから」
「岩と岩に、土橋が架《か》かりまして、向こうに槐《えんじゆ》の大きいのが枯れて立ちます。それがあぶなかしく、水で揺れるように月影に見えましたとき、ジイ、と私《てまい》の持ちました提灯の蝋燭《ろうそく》が煮えまして、ぼんやり灯《ひ》を引きます。『暗くなると、巴が一つになって、人魂の黒いのが歩行《ある》くようね』お艶様の言葉に――私《てまい》はッとして覗《のぞ》きますと、不注意にも、なんにも、おきれいさに、そわつきましたか、ともしかけが乏しくなって、かえの蝋燭が入れてございません――おつき申してはおります、月夜だし、足もとに差し支えはございませんようなものの、当館の紋の提灯は、ちょっと土地では幅が利《き》きます。あなたのおためにと思いまして、道はまだ半町足らず、つい一走りで、駈け戻りました。これが間違いでございました」
声も、言《ことば》も、しばらく途絶えた。
「裏土塀《どべい》から台所口へ、……まだ入《はい》りませんさきに、ドーンと天狗《てんぐ》星の落ちたような音がしました。ドーンと谺《こだま》を返しました。鉄砲でございます」
「…………」
「びっくりして土手へ出ますと、川べりに、薄い銀のようでございましたお姿が見えません。提灯も何も押《お》っ放《ぽ》り出して、自分でわっと言って駈《か》けつけますと、居処が少しずれて、バッタリと土手腹《どてつぱら》の雪を枕《まくら》に帯腰が谿川の石に倒れておいででした。『寒いわ』と現《うつつ》のように『ああ、冷たい』とおっしゃると、その唇《くちびる》から糸のように、三条《すじ》に分かれた血が垂《た》れました。
――何とも、かとも、おいたわしいことに――裾《すそ》をつつもうといたします、乱れ褄《づま》の友染《ゆうぜん》が、色をそのままに岩に凍りついて霜の秋草に触《さわ》るようだったのでございます。――人も立ち会い、抱き起こし申す縮緬《ちりめん》が、氷でバリバリと音がしまして古襖《ふるぶすま》から錦絵《にしきえ》を剥《は》がすようで、このほうが、お身体《からだ》を裂く思いがしました。胸に溜《たま》った血は暖かく流れましたのに――
撃ちましたのは石松で――親仁《おやじ》が、生計《くらし》の苦しさから、今夜こそは、どうでも獲《え》ものをと、しとぎ餅《もち*》で山の神を祈って出ました。玉味噌《たまみそ》を塗《なす》って、串《くし》にさして焼いて持ちます。その握り飯には魔が寄ると、申します。がりがり橋という、その土橋にかかりますと、お艶様のほうでは人が来るのを、よけようと、水が少ないから、つい川の岩に片足おかけなすった。桔梗が池の怪しい奥様が、水の上を横に伝う、と見て、パッと臥《ふ》しうちに狙いをつけた、おれは魔を退治たのだ。村方のために、と言って、いまもって狂っております。――
旦那《だんな》、旦那、旦那、提灯が、提灯が、あれへ、あ、あの、湯どのの橋から。……あ、あ、ああ、旦那、向こうから、私《てまい》が来ます、私《てまい》とおなじ男が参ります。や、並んで、お艶様が」
境も歯の根をくいしめて、
「しっかりしろ、恐ろしくはない、恐ろしくはない。……怨《うら》まれるわけはない」  電燈の球《たま》が巴になって、黒くふわりと浮くと、炬燵の上に提灯がぼうと掛かった。
「似合いますか」
座敷は一面の水に見えて、雪の気《け》はいが、白い桔梗の汀《みぎわ》に咲いたように畳に乱れ敷いた。
(大正十三年五月「苦楽」)
注 釈
*対曳き 人力車に綱をつけ、かじ棒引きの補助として引くこと。
*瓦多馬車 がたがたするぼろ馬車。乗合馬車に対する蔑《べつ》称で、当時「がた馬車」とか「がたくり馬車」の呼び名があった。
*福岡 現在の富山県西礪波郡福岡町。
*疝 疝気の略。腹部または腰部の痛む病気。
*隗より始めつ 最初に言い出した者から始めた。「郭隗曰、今王誠欲レ致レ土、先従レ隗始、隗且見レ事、況賢二於隗一者乎」(「戦国策」)に由来する。
*白銅 五銭のこと。銅とニッケルの合金による貨幣。白色でさびなかった。
*縦騁 思うがままに馬を走らせること。聖主得二賢臣一頌「縦騁馳〓、忽如二影靡一」
*馳〓 馬を奔走させること。
*千体仏 仏像の光背や洞窟《どうくつ》内などに彫刻された数多くの仏像をいう。
*尋常の鼠じゃあんめえ 世間ふつう並みの人間じゃあるまい。「あんめえ」とは「あるまい」の転、俗語。「伽羅《めいぼく》先代萩」床下の場で荒獅子男之助が言うせりふ「うぬもただの鼠じゃあんめえ」が、世間に流行したのが始まりといわれる。
*木戸口 芝居小屋の見物人の出入り口。
*向山 卯辰山の別名。現在の金沢駅の東五キロの地点にあり、標高一〇〇メートル余だが、眺望《ちょうぼう》がよい。
*天神橋 浅野川にかかり、卯辰山西の登り口の一つに位置する。この橋のたもとに今は滝の白糸の碑がある。新派狂言の「滝の白糸」では卯辰橋となっている。
*首抜きの浴衣 衣紋《えもん》から前の襟《えり》へかけて大きな模様を染めぬいてあるはでなゆかた。祭りのそろいなどによく使われた。
*赤毛布 赤色の毛布。ここでは肩掛けとして用いられている。「ケット」とはブランケットblanketの略。
*高髷 高島田のこと。
*油紙の蒲簀莨入れ 油紙製のかます型きざみたばこ入れ。江戸時代初期にたばこが伝来して以来、貞享年間(一六八四─一六八八)あたりで油紙製のたばこ入れが出現。以後、それも、しだいに意匠に工夫をこらしたものがふえた。その一つ。
*書生言葉 書生どうしで交《か》わされていたことば。「君」「僕」「我輩」「たまえ」等のことばが頻出し、平常語としてざっくばらんに使われるところに特色があった。
*伏木 現在は富山県高岡市の一部。小矢部川左岸河口に位置し、新潟・敦賀とともに裏日本三港の一つ。金沢、高岡間は、現在の北陸本線で四〇・九キロ。当時の街道ではさらに長い里程である。
*上都の道 東京へ出る道の途中の意。「伏木港を発する観音丸は、乗客の便を謀《はか》りて、午後六時までに越後直江津に達し、同所を発する直江津鉄道の最終列車に間に合わすべき予定なり」と「取舵《とりかじ》」(明28・1)にある。ただし信越本線が開通したのは明治三十年(一八九七)。
*越後直江津 現在の新潟県直江津市。新潟県南西部の荒川河口に発達し、鎌倉時代以降日本海航路の発展に伴い重要視された港町。
*辺幅の修飾 うわべだけを飾ること。「反修二飾辺幅一、如二偶人形一」(「後漢書」馬援伝)から出た。
*鉄拐 勇み肌で無法な気性のこと。
*夏炉冬扇 夏のいろりと冬の扇。いずれも季候に適さない。季節によっては全く顧みられないたとえ。「作二無レ益之能一、納二無レ補之説一、猶如二以レ夏進レ炉以レ冬奏一レ扇、亦徒耳」(「論衡」)
*魚は木に縁りて求むべからず 望んでもとうてい得られないことのたとえ。「以二若所一レ為、求二若所一レ欲、猶二縁レ木而求一レ魚也」(「孟子」梁恵王)
*招魂祭 招魂社の祭典。国難に殉じた者のみたまをまつる祭りのこと。明治元年(一八六八)に始まる。ここでは今の石川護国神社(昭和十四年の改称までは石川招魂社)の祭りのこと。石川護国神社は兼六園に近い。
*越前福井 現在の福井県福井市。日本に市制が確立したのは明治二十一年(一八八八)、翌年には全国で三十九の市ができたが、○○県××市という呼称は二十年代半ばでは一般化していなかったのであろう。
*轆轤首 ふつうの人間より異常に長い首。よく見せ物に使われた。
*兼六園 金沢市内小立野台地にある。江戸時代藩主前田氏の外園で、十三代斉泰のころから現在のような庭園に整えられた。白河楽翁(松平定信)が、宏大、幽邃《ゆうすい》、人力、蒼古、水泉、眺望の六つの特色を兼備している名園の意味で兼六園と名づけたといわれる。総面積一〇万平方メートル。北東から南西にかけてやや傾斜している。
*百鬼夜行 さまざまな妖怪が夜さまよい歩くこと。
*霞が池 兼六園内にあり、縦一三〇メートル、横八〇メートル、周囲三八六メートル。池の中に蓬莱《ほうらい》島(亀甲《きつこう》島)と名づけられた島があり、池近くには松が多く、池畔の唐崎《からさき》松は十三代藩主斉泰が近江唐崎の松の実をまいて育成したものといわれる。池畔からの眺望がよく、日本海を遠望することもできる。
*露根松 根が高く露出した松。
*浅葱地 薄いねぎのような水色の布地。
*七宝繋ぎ 楕円《だえん》形の両端がとがった形をつなぎ合わせた模様。
*未央柳 中国原産の鑑賞用小灌木。葉は透明な点のある長楕円形で柳に似る。
*枝折門 折った木の枝で作ったそまつな門。転じてそれをよそおった簡略な門。
*平庭 築山《つきやま》のない平らな庭園。
*鉢前 便所のそばの手洗い鉢を置く所。
*行潦 地上にたまり流れる雨水のこと。
*共進会 ひろく各地の産物や製品を集め公衆に展覧し、その優劣を批評して決める会。産業の進歩改良をはかるためのもので、今の品評会と博覧会を折衷したようなかたちのものであった。明治十二年(一八七九)九月、横浜で製茶共進会を開いたのが始まり。
*節仙台の袴 節糸で織った仙台平の袴《はかま》。仙台平とは、仙台地方に産出される平織の袴地で、上等の絹織物とされた。
*対審 事件にかかわる者両方を相対されて口頭弁論の手続きで審理すること。
*大岡政談 大岡越前守忠相《ただすけ》の公正な裁判に仮託した小説・脚本などのこと。大岡忠相とは江戸中期、八代将軍吉宗に重用された町奉行。その公正かつ名裁《さば》きが評判を呼んだ。
*予審 旧憲法下にあった制度で、刑事被告事件を公判に付すかどうかを決定するため、公判前に裁判所で審理すること。それによって、公判に付するか免訴かが言い渡された。
*弁護士 明治九年(一八七六)、代言人規則が発布され、代言人(弁護士の前身)、代書人、公証人と分化し、代言人試験が実施されて免許制が確立。明治十二年には東大法学部法律学科卒業生には無試験で弁護士免許状を与えることが定められ、明治二十六年三月に至って代言人規則を廃止して弁護士法が公布され、五月一日から施行された。
*手薬煉を引いて 手に薬煉を引くの意に始まる。「薬煉」とは油を混ぜて練った松脂《まつやに》で、弓の弦などに塗って強くした。準蒲を整え機会を待っての意。
*没分暁 分別のないこと。無知でものごとをわきまえていなかったり、さとりのにぶいこと。
*茶羅紗 茶色のらしゃ地。「羅紗」とは地の厚く密な羊毛による織物。日本では室町時代末期に輸入されたに始まる。
*味噌漉し帽子 みそこしのように底の深い帽子。「味噌漉し」とはみそかすをこすために、丸い容器の底を竹でふるいのように編んだものとか、底の深いざるを言った。
*検事代理 明治十九年(一八八六)五月五日に定められた裁判所官制(勅令四〇号)によれば、検察官とは検事長・検事・検事試補の総称であって「検事代理」という名称はない。検事試補を虚構により「検事代理」と言ったものか。なお慶応義塾図書館泉鏡花文庫蔵の推敲以前のものとみられる原稿には、「威儀ある紳士」の描写はなく、馭者が村越欣弥と名を変えられる以前の埴生荘之助であり、検事代理ではなく判事になっている。
*三つ紋 紋付は紋をつける数によって三つ紋とか五つ紋と呼ばれ、三つ紋は背と両袖につけた。
*陪席判事 合議制裁判を構成する裁判官のうち裁判長を除いた裁判官。明治十五年(一八八二)一月一日施行の治罪法によって、重罪裁判所では陪席判事は四名とされたが、実際には四名制の実現がむずかしく、明治十四年の太政官《だじようかん》布告四六号により当分の間二名とされた。
*天知る、地知る、我知る 偽り隠したつもりでも天はこれを知り、地はこれを知り、自分もまた知っている。「後漢書」の「四知」(もう一つは子〈相手方〉知る)に始まる。
*御規則 明治二十五年(一八九二)現在で、人力車夫の股引きは冬季(十一月―五月)は長い目倉縞《めくらじま》に限り、夏季は半股引きでよいという規制があった。また、街頭で尻《しり》をまくったり、高い尻端折《はしよ》りも違警罪に問われた時代であった。
*維新前の者 明治維新前におとなになった者。今日の「戦前派」という言い方に似る。
*内証 他人に言えない理由。ここではふところぐあい。
*寒鴉 冬の烏。寒空の烏。紺色らしゃ地の制服の巡査を烏に見立ててののしったもの。
*ひよぐる 小便を勢いよくすること。
*べら棒め 何をばかめ。人をののしる啖呵《たんか》に使われた江戸語。語源としては寛文十二年(一八七二)、大阪で、漂着した異形の異国人の見せ物があり、その名をべらぼうと呼んだに始まるという説と、飯を糊《のり》にする竹箆《たけべら》の棒、すなわち穀潰《ごくつぶ》しの意からきているとするのと二説ある。
*こちとらのお成り筋 おれたちがいつもお出歩きになる道。おれたちの領分。お成り筋とは本来、将軍が御外出になる道の意。
*後生のよいお客 よこしまな心のない親切な客。仏教の因果応報の理では、この世で善行を積めば後生も善いとされる。そんな善行を積んでいる客。
*藕糸の孔中 蓮《はす》から糸を引き出した後《あと》の穴。きわめて狭い場所のたとえ。
*空谷を鳴らして遠く跫音を送りつつ 人影のないさびしい谷で響かせるように足音を遠くまで送り聞かせながら。『荘子』の「夫逃二空谷一者、聞二人之足音跫然一而喜矣」(空谷に逃《の》がるる者は、人の足音の跫然たるを聞いて喜ぶ)を踏まえている。
*冠木門 両端の柱の上に、サの字型に一本の冠木を貫《ぬき》に渡した屋根のない門。
*窶々しき やせ衰えた。
*半蔵門 皇居の吹上御苑《ふきあげぎよえん》に近い門。現在の千代田区麹町《こうじまち》一丁目に面している。
*天色沈々として風騒がず 空模様はひっそりとしずまり、風も音をたてない。
*酒芬 酒のにおい。
*三枚襲 三枚の小袖を重ねて着ること。
*おまえにゃ九目だ おまえには九目を置かねばならない。「九目」とは囲碁用語。力量がはなはだ劣る場合、対戦者は互角にではなく初めから九目を盤面に並べて対峙《たいじ》する。すなわちここでは、おまえのほうがはるかに美しい。互角に対時したらおまえのほうが問題なく勝ちだの意。
*かったい坊 ハンセン病患者を当時このように呼んだ。
*すべ一本 藁《わら》しべ一本。ほんの少しのことのたとえ。
*寝刃を合わせるじゃあない 「寝刃を合わせる」とは切れなくなった刃をとぐこと。したがって、切れなくなった刃をもう一度といで襲おうというわけじゃない。つまり刃物に訴えようというわけじゃない、の意。
*造次の間 少しの間。あわただしい間。
*腕車 人力車。明治三年(一八七〇)に和泉《いずみ》要助が発明。高山幸助・鈴木徳次郎らと製造に着手。二、三年で普及した。初めは人車と称した。一人乗りまたは二人乗りの腰掛け座席・幌《ほろ》・かじ棒などからなる二輪車で、車夫が引く。
*被布 女性だけの外衣。羽織に似るが、左右に立て襟《えり》をつけ、襟のまわりにもう一つ小さな襟をつける。色紐《ひも》を編んだ飾りが襟の前に四つつく。
*綾羅 あやとうすぎぬ。すなわち薄く軽やかな衣装である。
*関雲長 関羽。字が雲長。中国三国時代の蜀《しよく》の勇将。容貌魁偉《かいい》、美髯《びぜん》をたくわえ、張飛とともによく劉備《りゆうび》を補佐した。古来、英雄豪傑の代表的存在。臂《ひじ》に毒矢を受けたさい、肉を裂き骨をけずる手術の間も、自身は酒を飲み肉を食らいつつ、平然と碁を囲んでいたという故事がある。
*小石川なる植物園 旧幕府が経営した小石川薬園を明治八年(一八七五)小石川植物園と改称。明治十年には東大理学部の付属となり、明治二十一年六月から一般の縦覧を許している。現在も文京区白山三丁目七番一号にある。
*煙突帽 シルク・ハット。山高帽子。上部が高い円筒形なので世間では煙突帽と俗称した。礼装用だが、明治五年(一八七二)ごろから流行し、二十四年(一八九一)ごろには、さらに上部をちょっと押えた高帽子が大流行をみた。
*丸髷 楕円《だえん》形にやや平たく結った髪型。一般に既婚女性が結う。江戸時代初期に始まり末期に再流行。このころから丸髷と呼ばれた。
*束髪 明治十七、八年以来、欧化主義に応じて流行した女性の洋髪の型の一種。髪を束ねて結う。二十二、三年ごろ、一時、日本髪に押されて衰えたが、三十年代にはまた復活している。
*しゃぐま 漢字では赭熊。赤く染めた白熊《はぐま》の毛や、ちぢれ毛で作った入れ毛のこと。桃割れ髷などに用いる。
*高島田 若い女性が結んだ島田髷の一種。根を高く形を太く結う。文金高島田は婚礼などで多く結われる、さらに上品ではでやかな島田髷。ここでは後者。
*銀杏 女性の髪形の一つ。銀杏返しのこと。粋好みの娘や三十代以上の後家、芸人、花柳界の女に多かった。
*わりい洒落 前行の「銀杏《いちよう》」を「一丁」(いっちょう)とかけたことをさしている。
*本読み 書物を好きで読むこと。ここでは好きでよく読んでいる男。
*見しやそれとも分かぬ間 「めぐりあひて見しやそれともわかぬ間に雲がくれにし夜半の月かな」(紫式部『新古今集』一六、雑上)を踏まえている。見ていたのはそれともこれとも判断のつかぬくらい短い時間の意。
*褄はずれ 和服を着たときの取りまわし。身のこなしのこと。
*北廓 新吉原遊廓の異称。漢語の「北廓」とは品川遊廓に対し北にあったからという説がある。吉原遊廓とは最初、今の中央区高砂町・住吉町あたりにあり、蘆《あし》や葭《よし》が茂っていたので葭原と名づけられたに始まる。明暦三年(一六五七)に所替えになり、浅草日本堤近くに移った。
*金毘羅様  現在の港区芝琴平町にある金刀比羅《ことひら》宮のこと。当時は参詣人も多く、にぎわった。
*土堤 吉原遊廓に近い山谷《さんや》堀の土手《どて》、すなわち日本堤のこと。
*参謀本部編纂の地図 旧陸軍陸地測量部作成で、それを統轄する陸軍参謀本部の地図として広く愛用された地図。維新後、各省庁で進められた地図作成が、明治十年代の終わりころ陸軍に統一され、二万分の一の縮尺で始められたが、数年後には二万分の一は将来発展性のある平地部に限られ、全国の基本図は五万分の一で作成された。「参謀本部」とは旧陸軍で、参謀総長を長とし国防と用兵のことを取り扱った軍令機関。
*法然天窓 頭頂の中央部がくぼんだはげ頭。法然上人(長承二年―延暦二年 一一三三―一二一二)の頭に似ているのでこの称がある。「天窓」とは頭頂部を天窓とみたてたあて字。ただし、鏡花固有のあて字ではない。
*けたいの悪い いまいましい。感じの悪い。「怪態《けたい》な」に「悪い」を言い重ねている。
*万金丹 宇治山田東方の朝熊山《あさまやま》で製し、広く愛用された丸薬の名。長方形で金箔《きんぱく》を押した。気つけ、解毒、胃腸その他の諸病にきくとされる。
*千筋の単衣 細い縦縞《たてじま》模様のひとえ。「単衣」とは一重で裏のない着物。
*千草木綿 黄と青の中間の色のもめん。
*桐油合羽 桐油紙で作った雨具。「桐油」とはアブラギリの種子から絞り採った乾性油。黄色または茶色で、紙にひいて油紙を作る。よく雨や湿気を防ぐ。「合羽」とは、雨天のときに用いる外套《がいとう》。ポルトガル語のcapaに由来する。
*小弁慶の木綿 弁慶縞《じま》の模様の細かいもの、すなわち二種の色糸で織った小さな碁盤縞の綿織物製の意。
*法界坊 江戸後期の托鉢《たくはつ》僧。諱《いみな》は了海。法海坊を脚色した歌舞伎に、奈河七《し》五三《め》助《すけ》作『隅田川 続 俤《すみだがわごにちのおもかげ》 』が著名。破戒の悪僧、こじき坊主として描かれている。ここでは僧侶の蔑称として用いられている。
*魑魅魍魎 山林・川・木石等の精気から生ずるといわれるさまざまな怪物、ばけもの。「魑」は虎の形をした山の神。「魅」は猪頭人形の沢の神。「魍魎」は、水の神、山川の精、などを言う。
*天生峠 岐阜県飛騨高地の白川郷近くにある吉城郡河合村天生の峠。標高一二九〇メートル。ただし、実際的にこの地名は作品には該当せず、鏡花の聞き誤りとみられる。
*山颪 山から吹きおりる風。
*山海鼠 鏡花の造語か。山蛭《やまびる》のこと。蛭類顎蛭《あごひる》目の環形動物。人や動物に吸着して血を吸う。
*斛 石《こく》の正字。体積の単位。一石は一〇斗、約一八〇リットル。
*知死期 ここでは死期。死にぎわ。陰陽道《おんみょうどう》では、人の生年月日によって死期を予知すること。
*大別条 たいへんに別条がある、すなわち、はなはだしくふつうと異なっている。
*胴乱の根付け 「胴乱」とは革で作った方形の袋。薬・印・たばこ等を入れ、腰にさげる。「根付け」とは胴乱が落ちないようにその紐《ひも》の端につけた飾り。
*野面 恥知らずな顔。あつかましい顔。鉄面皮。
*練り絹 練ってやわらかにした絹布。
*矯瞋 なまめかしい美人が怒って目をみはること。
*あだけた 好色な。いろけづいた。
*反魂丹 食傷・腹痛等にきくとされ広く愛用された丸薬。富山で製し富山の薬売りが全国に広めた。
*一落の 一段さがった。
*いきり 湿気。水蒸気。
*月鼈雲泥 その優劣ではなはだしい差異のあることのたとえ。月とスッポン、天上の雲と地上の泥。
*金釵玉簪 黄金を打ち延ばして作ったかんざしや玉を刻んで作ったかんざし。
*驪山 中国陜西《せんせい》省臨潼《りんとう》県の南東にある山。秦《しん》の始皇帝はここの温泉で瘡《きず》を治療し、唐の玄宗は華清宮を建設して楊貴妃に浴を楽しませた。ここでは楊貴妃の故事を踏まえている。
*陀羅尼 ここでは読誦《どくじゆ》しやすいようにつづられた陀羅尼の呪文《じゆもん》のこと。密教ではこれを誦すると障碍《しようげ》を除き大利があるとされる。梵《ぼん》語では
*七堂伽藍 正式な仏教建築が備える七種の堂のこと。七種の堂とは塔・金堂《こんどう》(仏殿)・講堂・鐘楼・経蔵・僧房・食堂《じきどう》。禅宗では仏殿・法堂《はつとう》・僧堂・庫裏《くり》・山門・西浄《さいじん》・浴室を言う。ここでは七堂伽藍を備えたりっぱな寺院の意。
*さし乳 乳児が吸うほどに出る乳量の多い女の乳。たれさがらない乳房。
*屋の棟へ白羽の征矢が立つ 多くの少女の中から特に選び出されること。むかし人身御供《ひとみごくう》を求める神が、その望む少女の家の屋根に人知れず白羽の矢を立てたという伝説に由来する。「白羽」とはまっ白な矢羽根。「征矢」とは戦いに用いる矢。狩矢・的矢に対して言う。
*狩倉 狩猟を競い合うこと。
*鬢附け びんつけ油。木蝋《もくろう》と菜種油とを練り合わせた髪油。日本髪のかたちを整えるのに用いる。
*竹庵養仙木斎 竹庵・養仙・木斎。どれもありふれた医師の名まえ。
*単舎利別 白砂糖六五パーセント、蒸留水三五パーセントで溶かした砂糖水。薬剤の味をととのえるために用いる。単シロップとも言う。希塩酸と混ぜ合わせると胃酸不足を補う薬とされる。
*戸長様の帳面前 戸長に届け出た戸籍台帳の上ではの意。多少やゆ的に言っている。「戸長」とは維新後、町村制施行以前に町村に設けて行政事務をつかさどらせた吏員。戸籍法改定があったのは明治四年(一八七一)。翌五年二月一日から戸籍登録が行なわれ、五月十五日には庄屋・名主・年寄などの称を廃して、行政区域の小区には戸長を、町村には副戸長をおいている。だが後には後者も戸長と呼ばれた。
*親六十で児が二十なら徴兵はお目こぼしと何を間違えたか 明治十六年(一八八三)の徴兵令の改正で、戸主の年齢六十歳以上の者の嗣子は兵役を免除されることとなり、そのころ、兵役をのがれるための戸籍上の操作がそちこちで行なわれた。「何を間違えたか」とは、その場合、嗣子にかぎるのであって、二、三男以下は該当しないからである。
*天狗道にも三熱の苦悩 深山に棲《す》み、人の形をし、顔赤く、鼻が高く、神通力を持ち、自在に飛行できる天狗《てんぐ》の世界にも、竜や蛇が受けると同じ三つの苦しみがある。「三熱」とは、仏教用語で、一、熱風や熱砂で皮肉を焼かれること。二、悪風が荒れて飾りたてた衣を失うこと。三、金翅鳥《こんじちよう》が来て子を食べること。
*中央線起点飯田町より一五八マイル二、海抜三二〇〇尺 中央本線飯田町―名古屋間が全通したのは明治四十四年(一九一一)五月一日。当時鉄道距離はマイルで表わした。「一五八マイル二」とは約二五四・六キロメートル。「三二〇〇尺」は約九七二・八メートル。
*膝栗毛 『道中膝栗毛』(一八〇二―一八二二年刊・十返舎一九作)の一部、「木曾街道」編のこと。江戸神田八丁堀の栃面《とちめん》屋弥次郎兵衛が旅役者の喜多八を伴って旅を続ける滑稽本の一編。
*鳥居峠 標高一一九七メートル。長野県奈良井に近く、今は中央本線や中仙道(国道一九号線)がトンネルを設け通過している。
*工面のいい 金まわりのいい。算段のいい。
*木曾の桟橋 木曾路の一部。長野県西筑摩郡の木曾福島と上松両駅間トンネルの入り口。次注とともに木曾三絶勝の一つ。
*寐覚の床 木曾路の一部。長野県駒ケ根市にある景勝地。木曾川の急流に沿い奇岩が岸や川中に突出している。
*もったて尻 持ち上げたままの尻。
*干菜 乾燥させた茎葉。
*八間行燈 八方あんどんともいう。平たい大型の掛けあんどん。梁《はり》に掛けて広いへやの照明に用いる。
*焼き麩だと思う(しっぽく)の加料が蒲鉾 「しっぽく」(卓袱)とはここではそばまたはうどんの上に松茸《まつたけ》・椎茸《しいたけ》・蒲鉾・野菜などを載せた料理。かまぼこをしっぽくの材料に加えるのがふつうだが、どうせ一段落とした焼き麩で間に合わせているのだろうと思ったら、意外に本物のかまぼこだったの意。
*蝶脚 蝶脚膳のこと。脚が蝶の羽を広げたような形をしている膳。
*鯉口 水仕事などで着物のよごれを防ぐため筒状の袖に仕立てた布子《ぬのこ》。鯉《こい》の口に似ているところから言う。
*二つ提げの煙草入れ きせるを緒と根付けでたばこ入れにつないだ腰差しのもの。
*鷭 鶴目の鳥。鳩ほどの大きさ。全体に灰黒色で下尾筒が白色。池や沼、水田などに棲息《せいそく》する。
*たしない 足りない。乏しい。「足し無し」(形ク)の口語。
*入合せ 埋め合わせ。釣り合いをとる。
*半作事 建築工事が途中で止まっていること。
*辰巳 辰と巳の間、すなわち南東の方角。
*きざ柿 木に実ったままで甘くなる柿。甘柿。きざわしとも言う。
*沽券潰れ 「沽」は売るの意。「沽券」とは地所家屋などの売り渡しの証文。売買・所有を記してある書きつけ。そこで、一度は売り渡しに失敗した、すなわち値打ちのないの意。
*連尺 物を背負う道具。二枚の板に縄をわたして背負えるようにしたもの。または麻縄などで肩にあたる部分を幅広く編んで作った背負い縄。
*棒鼻 宿場はずれ。
*咽喉笛鉄砲 のどぶえに鉄砲をあてて自殺するの意。のどぶえは喉の気管の通じるところ。
*鎌腹 鎌で腹を切り自殺すること。
*しとぎ餅 神前に供える餅の名。古くは米粉をこねて長卵形としたが、のちには糯米《もちごめ》を蒸し、少しついて餅とし、供えた。
(三田英彬)
高野聖(こうやひじり)
泉いずみ鏡きよう花か
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平成12年9月1日 発行
発行者  角川歴彦
発行所  株式会社 角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
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本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『高野聖』昭和46年4月20日初版刊行