村松友視
上海ララバイ
目 次
第一部 千 駄 ヶ 谷
第二部 上海ララバイ
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第一部 千 駄 ヶ 谷
1
「駅を出て左手が徳川さまのお屋敷で、右手が何とかいう外交官の邸宅、両方とも門衛が立っていてね……」
母はそう言って、鼻の汗をかるくハンカチでおさえた。真夏にしては涼しい風が、母とともに改札口を出た私の首筋をなでて通りすぎた。私は、母の言葉に目を向けずにうなずき、「徳川さまのお屋敷」が東京都体育館に、「何とかいう外交官の邸宅」が津田英語塾になっているのを確認した。私の反応に固いものがあるのを見ると、母はもう一度ハンカチで鼻の汗をおさえ、手に持った折りたたみの洋傘をにぎりなおした。
家を出るときも少し雨が降っていたが、今はすっかり止《や》んで晴れあがっている。私は、母の仕種《しぐさ》に合わせて洋傘をもてあそんでいる自分に気づき、そっと傘の先を地面におろした。
母とは、吉祥寺のホームで待ち合わせた。二時という約束にちょっと遅れて階段を駆けあがると、いちばん三鷹よりのベンチから立ちあがる母の姿が見えた。おそらく、早目にやってきて注意ぶかく自分の姿をさがしていたのだろう……私はそう思った。
(おふくろとのあいだにピンと張った糸は、俺《おれ》にもずっとついてまわるんだろうな……)
だが、その糸を何とかしてみようという気分が、私に今回の計画を思いつかせたのだった。
「あの、千駄ヶ谷の家のあとへ一緒に行ってみませんか……」
「ああ、いいわね、あたしも戦後一度も行ったことないし」
「駅からの道順、わかります……」
「ええ、大丈夫」
「ぼくは、家のまわりの記憶はあるけど、道順はまったくわからないから」
「あたしは、大丈夫……」
私が母に電話してこの計画を伝えたのは、一週間ほど前のことだった。母は、ややはずんだ声を出していたが、電話の切りぎわは言葉の調子が弱くなっていた。
(これは、あまり上等な計画じゃないかもしれない……)
私は、電話をかけたことを半分くらい後悔していた。
千駄ヶ谷の家、というのは私の生家だ。だが、母の側からすれば、千駄ヶ谷の家は、複雑な思いをからめてふり返る場所にちがいない。そして、それを知りながらこの計画を口にした私にとってもまた、千駄ヶ谷の生家は、ただなつかしいと言っただけではすまされない場所であることはたしかなのだ。
「それでは、行ってみましょうか」
「そうね……」
私と母は、青になった信号をわたった。東京都体育館を左に見ながら、私は歩調をいろいろに変えて歩いた。母とふたりだけで歩くのははじめてであり、母の歩調がよくつかめなかったのだ。おふくろが歩くテンポを知らないというのも……心のなかに生じたつぶやきを、私は無理にかき消した。
「このへんは、鬱蒼《うつそう》としていて、ひとりじゃ歩けなかったのよ、いつも迎えにきてもらって……」
母は、そう言って、体育館に植えてある樹木をながめた。
(迎えにきたのは、オヤジかな、それとも女中か何か……)
鬱蒼としたけしきのなかを、若い母と父がならんで歩いている姿を、私は一瞬ではあるが想像できたような気がした。だが、その想像のけしきはすぐに目の裡《うち》でかき消えた。自分の生れる直前に上海《シヤンハイ》で死んだ父の若い日の姿は、私には長つづきしない一瞬の幻想でしかなかった。
六十を過ぎた母は、鼻の汗にハンカチを当てることをくり返しながら、ゆっくりと歩いてゆく。私は、それに合わせた歩調をつくりながら、またもやこみあげてくるこの計画に対する後悔をかみしめた。
(これはもしかしたら、おふくろをいじめていることになるかもしれない……)
そんな気分さえ浮び、自分の歩調までがあいまいになるのを感じていた。
「こんなとこがふえたのね……」
母は、ガラス張りの店のなかにうごめく若者たちの姿をながめながら、折りたたみの傘をちょっと振るようにして言った。店の外側がカフェテラスのようになっていて、そこにも、五、六人の若者が坐っていた。若者たちは、ストローを突きさしたトロピカル・ドリンクをテーブルにおき、空っぽの目でこっちを見ていた。
「こういうとこ、案外おいしい物を食わせるんですよ」
「よく来るの、こういうとこ」
「ええ、ここはないけど、こんなとこには仕事の関係でよく……」
「あ……」
私は、自分の仕事について詳しくはなしたことがなかったことに気づき、不自然に言葉を途切らせた。母の額に、じっとりと汗がにじみはじめ、思いのほか涼しいと感じている自分を私は訝《いぶか》った。だが、四十の私と六十の母では、真夏の炎天を歩くための消耗がちがうのは当り前のことだ……私は、さっきから何度も生じる同じようなつぶやきをふり切るように、タバコを取り出してくわえた。
「あ、鳩森《はともり》神社……」
母が、前方の鳥居に向って女学生のように叫んだ。一服すったタバコを宙に浮せて、私は母の指さす方をながめた。鳩森|八幡《はちまん》神社……そういう文字が石柱に刻まれていた。
「あのわきに天プラ屋さんがあって、終戦のまぎわにどんぶりやお重を売ったのよ、ほら、うちに立派なのがあったでしょう、あれがみんなその天プラ屋さんの、何て言うのかしら……」
「放出品みたいなもん、ですか」
「そうね、格安に売っ払ったわけね」
「はあ……」
「この前、うちに来たとき出したでしょ、あのどんぶり、おぼえてる?」
「ええ……」
そうは言ったものの、私にはそのどんぶりの記憶はなかった。
母は、長女夫婦と一緒に昭島に住んでおり、つい先日も私はそこをたずねたばかりだった。長女の瑞枝《みずえ》は私にとって異父妹、その夫の中川雄次は大柄な九州男児だが、彼とともに小学校の教師をしている。母は、二人の孫の面倒を見ながら、のんびりとした毎日をおくっているという感じだ。
昭島の中川家を私がおとずれるようになったのは、八年前に秋子と結婚した直後からだった。ごくふつうの家庭に育った秋子は、私の複雑な気持を知りながらも、しきりに昭島の中川家へ遊びに行こうと提案した。それは、とぐろを巻いて身動きできないでいる夫の背中を、ポンと押してやろうという意識だったのだろうと私は思っている。
中川はかなり人の選《え》り好みをするタイプに見えたが、私とは奇妙に気が合った。というよりも、秋子と同じような神経が中川にもはたらいていて、母と私のあいだにピンと張った糸を、何とかしてゆるめようとしている様子があった。中川の故郷である鹿児島から焼酎《しようちゆう》が届くたびに電話があり、
「さあ、焼酎宴会よ……」
秋子が私に声をかけた。昭島の家へこちらから出かけてゆくこともあったが、たまには中川の運転で、母と中川家全員が吉祥寺の私の家へやってくることもあった。ぷつんと切れていた母と私の糸が、とにもかくにもそうやってつながったのだった。鳩森神社の横の天プラ屋から安く買ったというどんぶりや重箱も、そんな焼酎宴会のなかでよく出されていたのだろう。
(だが、こうやって一対一でいるのは、はじめてのことだからなあ……)
千駄ヶ谷の駅をおり、母とともに生家への道をたどっている私の耳に、そんなつぶやきがこだました。
「あのどんぶり、おぼえてない?」
母は、そんなはずはないという顔で私をみつめた。私は、母の目をまともに受けてすこしとまどった。母は、私にまつわる品々についてはひとつずつ説明をつけ、意味づけをして私に披露していたはずだ。そして、私もそのときだけは惑慨ぶかげにうなずいて、仔細《しさい》にそれを点検したりしてみせるのだが、そういう自分にはどこか嘘《うそ》くさいところがあると私は思っている。
「ちょっと忘れちゃったなあ……」
私は、自分の口から急に馴《な》れなれしい口調が出たのにおどろいたが、こんなことはよくあることだった。母親の歩調がつかめないのと同様、母との会話につかう言葉の選び方も、私はそのときどきでまちまちだった。
「男のひとって、そうなのよね……」
母は、そう言いながら、鳩森神社の信号を左へわたった。母が「男のひと」と言う意味は、一般的なことをあらわしているのか、亡き父になぞらえているのか、娘婿の中川を引きくらべているのか……その答えがみつからないまま、私は母のあとにしたがって信号をわたった。
「このふた叉《また》は、どっちから行ってもいいんだけど、左の方から行ってみましょう」
母の口調が、心なしか強くなった。あいまいな記憶をたどっているうち、道すじがたしかなかたちでよみがえってきたのかもしれない。しかし、やや昇りかげんの坂を歩いてきたため、母の手のハンカチはせわしく顔にもっていかれた。
「この薬屋さんは古いのよ……」
盆休みのためヨロイ戸が閉っている薬局を通りすぎたとき、母は私に言うともなくそんなことをつぶやいた。
「古いというと、この店は焼けずにのこったのかなあ」
「そんなはずはないから、戦後にもどってきたんでしょ」
「じゃ、うちも戻れば戻れたのかな……」
「だって、うちは借地だから」
「あ、そうか」
「どうなってるかしらねえ」
「ぜんぶ焼けたんでしょ、あの一帯は」
「そう」
「じゃ、戦後のことだから、小さな家が建て混んでるだろうな」
「そうでしょうね、きっと……」
「地主さんなんてのは、戦後になって戻ってるでしょう」
「ああ、地主さんは小山さんてお宅だったわねえ」
「小山さん……」
「そう、あのころ地代が百円か二百円だったんだから、安く貸してくれたのよね」
「へえ、百円ねえ……」
「ここを右へ折れましょう」
母は、完全に私の生家への道をつかんだらしい。大通りのひとつ手前の小路を右へ入り、右手にある立派な寺を見てうなずいた。大きな板に曹洞宗高雲山|瑞圓《ずいえん》禅寺と記されていた。母は、この寺の感じはむかし通りだと言って、なつかしそうにながめていた。そして、瑞圓禅寺を右手に見てさらに先へすすむと、あまり広くはない商店街へ出てしまった。すると、それまで自信にみちていた母の顔が、ほんのすこしこわばったようだった。
「分らなくなったの……」
「いや、そうじゃなくてね」
「来すぎじゃないかな、ちょっと」
「そんなことはないのよ」
母は、私の言葉を聞きながして左右をながめ、思い切ったように左へ歩いていった。しきりにハンカチを顔へもっていく仕種は変らなかったが、私と一緒に歩いているという緊張は、すっかり躯《からだ》からぬけているようだった。
「あら……」
大通りへ出てしまった母は、行き交う車をながめて立ち止った。母が「あら……」と声を発したのは、見も知らぬ風景を目にしてのことではないらしかった。
「あそこが、四|聯隊《れんたい》だから……」
母は、道の反対側の石塀の上を指さした。
「あそこに軍隊の厩舎《きゆうしや》があって、よく馬の声がしていたのよ」
「馬の声……」
「そう」
「そうすると、あの霞《かすみ》ヶ丘団地と書いたところが、聯隊だったってわけですね」
「でも、そうだとすると、聯隊の石塀の前はドブ川になっていたはずなんだけど……」
「ドブ川……」
私の記憶の底から、小さなかけらがひとつすくいあげられたような気がした。家の前が坂になっていて降りきったところに川があった。川べりに大きな樹《き》があって、そこでハチの子を食べたときの、舌にあたる不思議な冷たい感触だった。どうせ年上の子にそそのかされて食べたのだろう。そんな場面はよみがえらなかったが、舌にあたる冷たい感触は、それがきのうのことででもあるように、あざやかにもどってきた。
「あそこに大きな樹があって……」
「やっぱり、大きな樹があったのか」
「そこでよく梢風《しようふう》さんが抱いてくれて……」
「ぼくを……」
「そうよ」
「へえ」
「でも、ドブ川があったはずなんだけど……」
母は、信号が変っていきおいよく飛び出してきたナナハンにもかまわず、大通りへ身をのり出して石塀の手前を見ていた。私は、母の目を追ってみた。
(ここにドブ川が流れていたとすると、右へ流れたのかな、それとも左へ……)
石塀に沿って目をうつした私は、霞ヶ丘団地と書いた信号の向う側に建っている奇妙な黒い建物を見て、躯の奥をはしりぬけるものを感じた。黒い建物は異様なほど細ながく、螺旋《らせん》状の外階段がヘビのように建物を巻いていた――。
「あの、何かおさがしですか」
買物に行く途中という感じの、中身のない手さげ袋を持った中年の主婦が、ぼんやり立っている私たちに声をかけた。彼女は、化粧気のない人の良さそうな顔を近づけ、私と母を交互にながめている。それにしても、こんな都会の真っ只中で、いくら相手が心もとない顔をして立っていたからといって、声をかけてくれる人もめずらしい。彼女の目に、私たちの姿が、よほど途方に暮れているふうに映ったにちがいなかった。もっとも、私の神経は突然目に入った黒く細ながい建物に向けられていたのだが……。
「ちょっとこの辺をたずねて来たんですけど……」
「何てお宅、教えてあげるわ」
「いえ、以前、この辺に住んでいたものですから」
「で、何てお宅へ行くんです」
「ですから、以前、住んでいた家はどのあたりかと思って……」
「いつごろ住んでたんです」
「終戦の直前まで……」
「あ、それじゃもう建てかえられちゃったでしょう」
「ええ、ぜんぶ焼けましたからね、この辺は」
「それじゃ、もとの家なんてないでしょうに」
「どの辺にあったのかなと思って……」
「はあ……。ちょっと聞いてあげるわ、いらっしゃい」
主婦は、手さげ袋をくるくる回しながら母とやりとりしていたが、思い立ったように歩き出し、ふり向いて手招いた。
主婦が連れて行ったのは、霞ヶ丘団地の信号を、私たちがさっき来た道へ入って直《す》ぐ左の米屋だった。
「ねえ、ちょっとさ、この辺の古いこと知ってる人って誰かしらね」
「古いことって……」
気さくそうな米屋の奥さんが暗い店の奥から出てきて、私たちにぺこりと頭をさげた。母は、ていねいに頭をさげ、鼻の汗にハンカチを当てた。
「終戦の前だってさ」
「終戦の前、そんなに古くから住んでる人いるかしらねえ」
「二、三軒あったけど、もう越してっちゃったしねえ」
「何か手がかりはないですか」
「あの、小山さんてお宅に土地を借りてたんです」
「小山さんが地主なの」
「はい」
「そんなら、小山さんをたずねれば?」
「小山さんは、まだ住んでらっしゃるんですか、この辺に」
「小山さんは、ずっと元のところですよ」
「じゃ、焼けたあと戻ってこられたんですね」
「小山さんなら、教えたげる」
何も入っていない手さげ袋をもった主婦は、そう言って踊るように躯を反転させ、さっさと歩いてゆく。母はあわてて米屋の奥さんにお辞儀をして、主婦のあとを小走りに追った。私は、黒い建物に巻きついた螺旋階段を思い返しながら、のろのろとふたりのあとへ蹤《つ》いていった。
「あそこの奥よ、奥の右側ね、はい」
ここまでつき合って、主婦は急に用事を思い出したのか、手さげ袋をぐるぐる回しながら走り去った。母は、ほほえましげにそのうしろ姿を見おくっていたが、
「行ってみる?」
先に立って路地を入っていった。私はうなずいて従った。だが、なぜか気分が集中できず躯に力が入らない感じになっていた。
「こっちかしら……」
小山さんの表札は三つあり、どれにしようかと迷ったあげく、いちばん老人らしい名前を書きつけた表札のドアを選んで呼び鈴《リン》を押した。すると、その隣のドアが開き、
「どちらさまですか……」
という若い男の声がした。母は開いたドアのなかへ躯を半分だけ入れるようにして、
「あの、おじいちゃまは……」
のぞき込むようにお辞儀をした。
「おりますけど、どちらさま……」
「以前、この近くに住んでいたものですが」
「あ、そうですか。ちょっとお待ちください。いま碁をやっているもんですから」
「はあ……」
もう一度お辞儀をした母は、私をふり返ってちょっと笑った。やがて、一人碁から顔をあげたままといった風情の老人が玄関に出てきた。笑っているようにも見えたが、やけに歯ならびのいい入れ歯がゆるんでいるようでもあった。
「あの、以前この近くに村松梢風さんのお宅がございましたですねえ……」
母は、老人に対するていねいな物腰をつくってたずねた。私は、「村松梢風さん」という母の言い方に意外な感じを受けた。私の祖父の村松梢風は昭和三十六年の二月にこの世を去っているが、画人や文人の伝記や評伝が代表作としてのこされていて、好色物といった類《たぐ》いの小説によっても知られ、一風かわった文士としてさまざまな話題をも提供していた作家だった。
むろん、私の生家の地主であるこの老人が、村松梢風の名を知らないはずはなかった。村松梢風の名前が出たとたん、老人の顔に急に表情があらわれ、母と私に交互に目をやっている。やがて、母のことを思い出しかけた顔になって、
「あの、そうするとあなたさまは……」
と首をのばした。すると、母はその言葉にかぶせるように、
「おじいちゃまは、おいくつになられました……」
はっきりとした口調でたずねた。その口調には、老人の質問を消すためのような強いものがあり、首をのばし表情をつくった老人は、ふたたびもとの顔にもどってしまった。
「八十八になりました……」
「まあ、お元気でいらっしゃって。おばあちゃまもご健在で」
「いや、家内は亡くなりました」
「ああそうですか、それはそれは」
「で、あなたさまは村松さんの……」
老人はまた首をのばし、目をしばたたいて表情をつくった。
「村松梢風さんの家は、たしかあの辺だったと思うんですが……」
母は、今度はうしろをふり返り、老人は外の一角を指でさした。ふり返ったときに目が合い、私は母の表情にどこか必死なものを見てとった。
「あの白い家のところです」
「あの、白い壁とレンガのまじった」
「いえ、その右側にちょっと見える白い建物……」
「はあはあ」
「あれが村松さんのお宅のあとなんです」
「ああそうですか、どうもありがとうございました」
お礼を言って頭をさげた母をしげしげとながめていた老人は、もう一度首をのばした。
「あなたさまは……」
母は、老人をふり返るまえに一瞬、私を見た。そして、視線をはずしながらハンカチで鼻の汗をおさえ、躯に力を入れてゆっくりと老人の方を向いた。すると、老人は首を突き出したまま止ったような表情になり、ゆるんだ入れ歯のため奇妙な笑顔になった。
私は、一瞬ともいえるあいだに見せた母の強いけはいにたじろいだ。そして、自分と母とのあいだにピンと張られた糸が、巨大な指の爪先《つまさき》にビンとはじかれたような幻想におちいった――。
父の友吾《ゆうご》が上海で死んだとき、私はまだ母の胎内にいた。そして、祖父の梢風は急遽《きゆうきよ》上海へ飛び、友吾の遺骨を持って帰ってきた。当時としても死ぬのはまれな腸チフスが、友吾に二十七歳の若さでこの世を去らせた病気だった。仕事熱心の友吾が、雨のなかを濡《ぬ》れて歩いて風邪をひき、体力が弱まっていたためだったというはなしを、私は誰かから聞いたような気がする。
友吾が死んだのが昭和十四年の九月、私が生れたのが翌十五年の四月だった。つまり私は、父友吾が死んでから七ヵ月のあいだ母の胎内にいて生れたのである。
「今だったら、おふくろは俺を堕《おろ》していたかもしれないな」
「どうして……」
「だってまだ二十歳の若さだろ、それで亭主が死んじゃったんだから、また嫁に行かなきゃならないじゃないか」
「お嫁にいくのには子供がいない方がいいってこと……」
「まあ、当時は生めよふやせよの時代で、新聞に堕胎事件なんて見出しがあったくらいだから、堕そうと思っても堕せないわけだ」
「そんなふうに言っちゃうと、お母さんに対しても、自分に対しても失礼なんじゃない……」
「俺ね、いつもテレビのスイッチ見ておかしくなるんだ」
「何、テレビのスイッチって……」
「ONとOFFって書いてあるだろ」
「ええ……」
「あの当時だったから俺はONだけど、現在だったらOFF」
「よくそういうことが浮ぶわね」
「だけど不思議だよな」
「何が……」
「オヤジの死亡を考えると、ONとOFFが逆になる」
「………」
「オヤジの死んだ腸チフスなんて、当時だからこそOFFになってしまったけど、今だったら完全にONだからね」
「なるほどね……」
「でも、現在だったらオヤジはONでも俺はOFF」
「お父さまが生きてらっしゃれば、あなたはOFFにする必要ないんだから、ONでしょ」
「そうか……」
「そういうふうに、自分のことあれこれいじくり回して考えるの、そろそろやめにしたら……」
「そんなに感じわるいかね」
「ともかく、お母さまには失礼よ」
秋子とこんなやりとりをするのは、日常茶飯事だった。秋子は、私が生い立ちをこんなふうにもてあそんでしゃべるのが、本当にきらいのようだ。大家族のなかで素直に育った秋子にとって、自分の感覚に馴染めないところがあるのは当然のことだろう……私はそう思っていた。ふつうの家庭の感覚と私とのあいだに大きなミゾをつくったのは、やはり梢風であった。
梢風はまず、生れた私を自分の籍に入れた。そしてまだ二十歳の母を強引に説得して再婚に踏み切らせた。母が再婚したのは、私の生家の向いにあった橋爪家の長男だった。この経緯を私に詳しくおしえた者はいない。死んだ夫の家の向いへ再婚した母の気持を聞いたことはないが、たぶん今になっては語れない複雑な思いがからんでいるはずだ。それはたぶん、強引に再婚をすすめた梢風に対する恨みといった単純なものではなく、母自身でもつかみえない得体《えたい》の知れない感情ではないだろうか……私はそれを聞いてみようとも思わなかったが、漠然とそんなふうに思っている。
小山老人の言葉に答えようとしない母の背中が、そんな感覚を私によみがえらせたのだった。
「あの白い家ですね、こっちから入っていけるんですか、あそこまで」
「ええ、あっちからでもこっちからでも」
小山老人は右と左を指でしめした。さっき手さげ袋をもった主婦が送ってくれた商店街の方からでも、小山家を出て路地を右へまがった先からでも、私の生家のあったあたりへは出られるということらしい。
「それじゃ、どうもありがとうございました」
挨拶した母に対して、小山老人は表情のない顔になったまま頭をさげた。ていねいにお辞儀をする母のうしろで無造作に頭をさげる私に気づいた小山老人がおどろいたように礼をした。
2
「やっぱり、ドブ川と第四聯隊の通りへ出た方が感じが出るわね」
小山家を出た母と私は、いったん商店街へ出てさっきの米屋の前を通りすぎ、霞ヶ丘団地と書いた信号を左へまがった。私は、信号の向う側にある異様に細ながい黒い建物と、それにヘビのように巻きついた螺旋階段をちらりと見た。母は、私の様子をちょっと気にしたようだったが、だまって歩きだした。
「この路地しかないわね……」
母は、ひとつの路地の入口に立ち、目を細めて奥を見ている。その姿は、道路の測量をする技師のようで、私にははじめてみる母の滑稽《こつけい》な姿だった。
母のうしろに立って路地をながめているうちに、私の中の記憶が徐々によみがえってきた。それは、今はじめてよみがえったというのではなかった。生家での四歳くらいまでの時間は、私の頭にはこれまでもずっと貯《たま》っていたのだった。ただ、その場所へたどりつく道順はまったくおぼえていなかったから、生家に対するこまかな記憶の群れは、私の頭の片隅にある小さな箱庭のようなものにすぎなかった。
「いちばん奥がコウさんの家でしょ」
「よくおぼえているわね、そう、奥がコウさん」
「コウさんて、どんな字だったのかな」
「甲、亀の甲のコウでしょ」
「で、左手前がうちで……」
「そう、三軒分がうちだったから、大きな家よね」
「内玄関と外玄関があったでしょう」
「どうしてそんなに詳しく……」
「とにかく、変な記憶はやたらとあるんですよ、外玄関のところにいちばん上の叔父さんの日本刀がおいてあって、一回だけそっと抜いてみたことがある」
「あんなに重いものを?」
「いや、二、三センチ、刀架けにあるやつをよこに引いてみただけだったけど」
「へえ……」
「うちの下が鈴木さん、ここにはアキヒロちゃんとその妹のマサコちゃんという遊び友だちがいてね」
「そう……」
「この路地で駆けっこやってたとき、たしかマサコちゃんが道に落ちていた剣山を踏んで……」
「まあ、そんなものが道に」
「それで、血が出てたいへんだったのをおぼえてるなあ」
「いくつくらいの時かしらねえ……」
「だから、四つくらいじゃないかな」
「記憶って、あるものなのね……」
「あの奥の甲さんの家に、白系ロシア人がふたりいたでしょう」
「そういえばね」
「ユリアンさんとワニアンさん」
「そうそう……」
「子供たちにとってはね、恐《こわ》い人と恐くない人という分け方があって、ユリアンさんは赫《あか》ら顔で恐い人、ワニアンさんは色白で恐くない人ってことになってたなあ」
ユリアンはユーリア、ワニアンはワーニャなのだろう、詰襟のような服を着たふたりの白系ロシア人を、私はよくおぼえていた。空襲警報が鳴ると、近所の人たちや兵隊さんと一緒に、防火用水の氷を割っていたユリアンさんとワニアンさんを見たこともあった。ユリアンさんは赤毛、ワニアンさんは黒髪というのも、子供たちにとっては恐い、恐くないに関係していたかもしれない。そして、ユリが恐くて、ワニが恐くないというのが、子供たちにとっても不思議な感覚だったのだ。
「あの人たちなんか、どうしたのかな」
「戦後、どうなったのかしらねえ……」
「この路地の、右側の記憶がまったくないのが不思議だなあ」
「右手は、甲さんの手前が国分《こくぶ》さん、その手前が橋爪で、その手前は……」
母にも、右手の大通りに近い二軒は分らないらしい。ただ、橋爪家のところをすばやく通りすぎるような言い方が、私にはひっかかった。そして、母の気持のなかに、さっき小山老人に対したときのような構えがあるような気がした。だが、それは無理のないことかもしれない……私は、心のなかでつぶやいてみてから、自分がそう感じるのもおかしいと思った。
「村松の家のことはおぼえてる?」
「カシワの木があったでしょう」
「そう、防空|壕《ごう》の手前にね」
「物干し台もあったな、防空壕のあたりに」
「そうそう」
「防空壕のなかでぼくが騒いでいたら、おじいちゃんが、静かにしないと飛行機に聞えるって怒ったんだって、そんなはなしを叔父さんに聞いたことがあるなあ」
「梢風さんは、気が小さかったから……」
「へえ、そうかな」
「人間には強いとこあったみたいだけど、雷や空襲なんかは恐かったんじゃないかしら……」
母は、梢風のことを語るとき、不思議に遠慮がちの口調になった。他家へ嫁いでいった者の礼儀か……そうも思ったが、私に対する遠慮かもしれないという気もした。
(やっぱり、おふくろも俺に対して、歩調が合わないことにとまどっているらしい……)
ここで私を生み、村松家へのこして橋爪家へ嫁ぎ、その夫にも早死にされてしまった母……娘夫婦に身をよせてしあわせに暮し、私とも時たま会うようになって、どうにかこうにか晩年になって平穏な日々を迎えるようになったとはいえ、過去の屈託がまったく消えるわけではない。それは、私自身にとっても同じだった。
「裏に、お稲荷《いなり》さんがあったんじゃなかったかな……」
「裏じゃなくて、庭にね」
「そこで、おばあちゃんがころんだことがあるんだってね」
「へえ……」
「そしたら、小さいおばあちゃんが、アハハって声を出して笑ったんだって……」
小さいおばあちゃんは梢風の母、祖母にとっては姑《しゆうとめ》だ。姑にいじめられた話をするとき、祖母は身をふるわせ、拳《こぶし》をにぎりしめてしゃべった。それも、小学生の私に語って聞かせながらのことだから、誰にでも自らの境涯をうったえたかったのだろう。まったく、清水へ行ってからのおばあちゃんは荒れてたな……私は、静岡県清水で自分を育てた祖母のことを考えると、いつも思いが堂々めぐりをしてしまうのだった。そういう祖母だから梢風と離れてしまったのか、梢風と離れてしまったからそういう祖母になってしまったのか……答えの出ない堂々めぐりはいつも空回りをするばかりだった。
そんなことを考えていた私の目の裡に、清水での祖母との双六《すごろく》遊びが浮んだ。祖母と私は、よく東海道中双六をやったものだった。年寄りと子供の無理のない遊びとしては、双六がいちばんだった。カルタや百人一首やトランプでは、祖母は私の相手にならない。いくら頭でおぼえていても、痛風気味の祖母では私に敵《かな》うはずがなかった。そこへいくと、双六はただサイコロをふるだけ、祖母にも十分勝機がつかめるのだ。
あの東海道中双六は、たしか「講談|倶楽部《くらぶ》」の附録、岩田専太郎と富永謙太郎をごちゃまぜにしたような画風だったと、私はおぼえている。桑名と書いたところの、豆しぼりの手拭《てぬぐ》いで頭をつつんだ男が酒を呑《の》みながら船に乗っている絵が、やけに鮮明に私の網膜にのこっている。桑名で「一回やすむ」のサイの目を出すことが多かったためかもしれない。
祖母は私と機嫌よく双六に興じることが多かったが、「ふりだしにもどる」の目を出すと顔をくもらせた。東海道中双六の「ふりだし」はお江戸日本橋、「ふりだしにもどる」は、祖母にとって千駄ヶ谷の家を思い起させる文字だったのかもしれない。
梢風のすすめで向いの橋爪家へ嫁いだ母は、私の生家の一帯が強制疎開になるよりすこしまえに、静岡県の富士宮へ疎開していった。そのときにどんな約束があったのか、私は千駄ヶ谷から梢風の郷里である静岡県の遠州飯田村へ疎開するまえの数カ月を、富士宮の母の妹方ですごしたのだった。
このころすでに私は、父も母も亡くなったと教えこまれていた。小学校へあがるまえでもあり、父母が生存しないことの意味は、私にはまだ無縁だった。富士宮の母の妹方へひとり預けられた四歳の私には、祖父母と別れて見知らぬ家族のなかへ押し込まれたという実感しかなかった。妹の家の近くに橋爪家があり、母はときどき妹方へも姿を見せていた。
このときの不思議な体験は、のちのちまで私に影響していった。それは、子供特有の恐い夢にすぎないのだが、いまだに私の躯からその夢はぬけきっていないのだ。
まず、目をつぶると光の渦があらわれた。その渦が大きく回転して吸い込まれそうになり、目を凝らすと藁《わら》でつくった家が見えてくる。田んぼのそこかしこにある、藁を家型に積みあげて干してあるものの形だった。人がそこへ隠れておどかした恐怖が頭にのこっていたのか、藁の家は恐ろしい物として幼い私に映った。その藁の家が立ちあがり、両手を出して私に迫ってきて、ついに手をつかまれてしまう……そこで目がさめるのだが、手がかならず畳に触れていた。ささくれ立った畳の感触は、夢のなかで自分をつかまえる藁のお化けの手の肌合いとつながっていた……。
一度その夢を見ると、毎日つづけて見るようになった。目をつぶると光の渦が回転し、藁のお化けに手をにぎられて目がさめる……そんなことをつづけているうち、目をつぶらなくても、暗いところへ行けば光の渦を見、それが回転するようになった。それに、もうひとつの恐怖がかさなった。
便所では新聞紙を使っていたが、それが下へ落ち糞にまみれているさまを、私は一度のぞき見てしまった。新聞紙が糞尿《ふんによう》で微妙に光り、そのうえをうごめく蛆虫《うじむし》がからんで、便器の下の光景がひとつの生き物のように見えた。それは、蟹《かに》に似た巨大な甲殻をもつ怪物で、のぞくたびに下からセリあがってくるのだった。
夜、便所へ向う途中の暗がりでは光の渦が回転し、便器の下からは巨大な怪物におそわれる……私は、そのときから夜尿症にさいなまれるようになった。そして、他人の家で寝小便の癖がついたことを意識することが神経を過敏にさせ、光の渦と便所の怪物と夜尿症に対する怯《おび》えをふくれあがらせた。
そのあと、祖母のいる遠州飯田村へ行くと、光の渦と便所の怪物は消えたが、夜尿症はかなり遅くまでのこってしまったのだった。
「千駄ヶ谷から富士宮へ連れていかれたとき、途中で大きな富士山見てね」
「………」
「絵のように青い色をしているのかと思ったら、ふつうの山なんで、がっかりしたのおぼえてるなあ」
「みんな、そう言うわね……」
千駄ヶ谷の駅を降りてから、かれこれ二時間ちかくなるかもしれず、母はすこし疲れを顔にあらわしていた。
(疲れもあるかもしれないけれど、本当はここへ来たくなかったのではないだろうか……)
私は、あいかわらずハンカチを鼻の汗に押し当てて、目を宙にすえている母をながめた。その顔は、清水にあったアルバムのなかで笑っている母と同じようでもあったが、ちがう人のようでもあった。
戦後、遠州から清水へやってきたのは、祖母と私のふたりだけだった。叔父たちはそれぞれの仕事の都合で、京都と東京に別れた。梢風は、鎌倉に家を買ってそこに住み、清水へはときどき顔を見せるくらいだった。たまにやってくる梢風と祖母が言い争う声が私の部屋まできこえることがあり、聞いたことのない女名前を祖母がしきりに言っていた。
やがて、祖母は何かをあきらめたようなけはいを身につけ、近所の婆さん連をあつめて念仏をはじめるようになった。新聞の人生相談欄を読みおわって、苦々しい表情で丸めて捨てるのを、私は何度も見たような気がする。
私にとって、父母の死を意識するようになったのは、小学校三年生くらいだった。父母の欄に梢風の本名である義一の名と祖母の名を書き、父の職業という欄に「著述業」と、祖母に教わった漢字で書いた。
「村松んとこ、お父さんとお母さんいないだか」
「いないだよ」
「だけど、ここに名前書いてある人ンいるじゃん」
「こりゃあ、おじいちゃんとおばあちゃんじゃん」
「この漢字、何て読むだか」
「知らないだか、ちょじゅつぎょうじゃん」
「何する人だね、ちょじゅつぎょうって」
「小説なんか書くだよ」
「小説、すごいだな」
「ほうさ、すごいだよ」
こんな会話が学校の友だちとのあいだにくり返されるうち、奇妙なポーズが私の身についていった。
祖母とのふたり暮しは、毎日がシャケと紅ショウガの連続、とても「著述業」の家の生活ぶりではなかった。ところが私は、「著述業」の家の子としてふるまおうと努力しはじめたのだ。
給食の脱脂粉乳のミルクは、クラスの者が誰でもまずいと言って毛嫌いした。ところが、祖母の老婆好みの料理ばかりを食べていた私には、脱脂粉乳でも一応はミルクであり、どこか新鮮なもののように感じられた。だが、ホーローの器からひと口ふた口と飲みはじめた私は、器をもつ手を宙で止め、クラスの仲間のけはいに神経を尖《とが》らせた。クラスの仲間は、こんなまずいもの飲めるかとばかり、コッペパンにミルクをしみこませて、それを次々とゴミ箱へ捨てているのだった。そこで私は器を机にもどし、同じようにコッペパンにしみこませてゴミ箱へ捨て、放課後に給食を捨てた廉《かど》で立たされる列に加わったのだ。
こうやって私は、建前と実体のあいだをつなぎ合わせることを楽々とやりこなす子供になっていった。祖父母が父母、戸籍上の父である梢風の家の子として、自分はふさわしい育ち方をしている……このように自分に言いきかせながら、家へ帰れば祖母と双六遊びをしていたのだった。
そんなところへ、母は、親戚のおばさん≠ニしてときどきやってきた。そして、祖母と三人の食事をしたあと、私はタンスからアルバムを出してきて母にも見せ、母の写真と本人とをならべて見て、
「おばさんと死んだお母さん、すごく似てるだね」
お世辞っぽく言って笑い、屈託なくアルバムを閉じて双六を取り出すのだった。母は死んだことになっており、アルバムと当人を同時に見ても、私には言い聞かされてきた嘘への一点の疑いも生じなかった。それは、私が素直な子であるというよりも、虚実のあいだを埋めることを習いすぎて、母親という存在に対する真正面からの対し方を、幼いころからどこかへおき忘れてきたような子として育ったからだった。
(今でも、俺にはそんなところがある……)
私を生んだ村松家と、次に嫁いでいった橋爪家のちょうど中間のような場所に立ち、何やら思案しているらしい母を見ながら、私はタバコを取り出してくわえた。母の妹の家での恐怖の体験が、自分の躯に何かを埋めこんでしまったのかもしれない……私はときどきそんなことを思った。
「この路地、小さいときに感じたのと、道はばが変らないような気がするなあ」
「そう、大きくなって行ってみると、垣根は低いし道はせまいしなんてはなし、よく聞くけどねえ……」
「この路地の奥行きからいって、うちは三軒分あったわけだから、ここで想像してもかなり大きな屋敷だしね」
「そう、うちは大きかったから……」
母は、やはり村松家と橋爪家の中間に立ってつぶやいた。
(おふくろとしては、あの位置が自然なのかもしれないな……)
私は、大袈裟《おおげさ》にタバコの烟《けむり》を吐き出した。腕時計を見ると午後四時半をすぎていたが、夏の陽《ひ》はまだまだ照りつけるらしく、朝の雨が嘘のようにあかるい空になっている。
しかし、ここへ立ってみて路地の広さに違和感がないのが、私にとってすこし不気味だった。
「ちょっとここで待っててください」
母に声をかけた私は、村松家のあたりからはずみをつけて駆け出し、路地を降《くだ》って大通りへ出た。そこは半分はドブ川になっていたという思い入れで、左へまがった。
(あの信号のところに橋が架っていたはずだ……)
信号を右へわたると、左前方に日本青年館が見えた。日本青年館を左に見て右へ折れると、私はなつかしい風景に出会った。芝生と植込みの組合わせによる風景は、幼いころ見たものにそっくりだった。
(しかし、四つの子がこんなところまで遊びに来たんだろうか……)
神宮外苑の時計台のあたりは遠すぎるから、叔父たちや梢風に連れてこられたとして、ここまではやってきたはずだ。私の躯のどこかに、「週番がこわい」という感覚がのこっている。週番は芝生を整え、そこへ入る子供を叱《しか》りつける役目だから、それに対する恐怖心は子供だけでいるときのものだ。
(やっぱり、俺はこのあたりまではやってきた……)
芝生の上で背嚢《はいのう》をおろし防毒マスクを脇へおいて休んでいる兵隊さんの群れが目のうらに浮んで、消えた。
私は、新しいタバコをくわえ、生家の方へ向って歩きはじめた。外苑の道も、かつてと変らない広さに見えた。頭上に飛行機の爆音がしたような気がして空をあおぐと、かるい眩暈《めまい》をおぼえた――。
外苑の芝生のわきの道を、防空|頭巾《ずきん》をかぶった四つくらいの男の子が走っている。外には低く飛ぶ敵機の爆音が垂れこめ、防空頭巾を通して子供の耳をおそってくる。子供は、途中で足をもつれさせて転んだが、歯をくいしばって起きあがった。日本青年館を通りすぎると、子供は息がつまりそうになった。あの橋をわたって左へまがり路地をあがれば……自分の家への道順を頭で反芻《はんすう》するのだが、躯がついてゆかない。やっと橋をわたったとき、遠くの方で焼夷弾《しよういだん》の破裂音と、カランカランという音がひびいた。子供は防空頭巾の上から必死で耳をおさえた。そして、自分の家への路地をまがるのを忘れ、まっすぐに走りつづけた。やがて、道をまちがったことに気づいた子供は、うしろをふり返ってみるのだが、人が誰もいないためか見知らぬ風景のような気がして立ちつくした。爆音が低くおおいかぶさってきた。そのとき、誰かが強い力で子供の手を引いた。
(それで、知らない家の防空壕へ入れてもらって帰ったんだった……)
私は、そんな追想をしながら、やはり生家への路地を通りすぎてしまった。踵《きびす》を返そうとしたとき、私の目に大通りへ飛び出してしまった一匹の犬が映った。信号が青になっていっせいにスタートした車の前を、その犬はかろうじて通りぬけて大通りの向う側へわたってしまった。私の躯から一気に力がぬけていった。
(あのときの俺も、あんなふうに奇跡的に助かったのかもしれない……)
ひとの家の防空壕へ入れてもらったときのことを思い返し、私は犬を自分になぞらえて見おくった。そして、もう一度犬をさがそうとしたとき、異様に細ながく黒い建物が目に入った。黒い建物にはやはり、螺旋階段がヘビのように巻きついていた。
3
生家のあった路地へもどってみると、母はやはり、村松家と橋爪家の中間に茫然《ぼうぜん》と立ちつくしていた。すでにもとの家並みもなく、やや坂になった一本の路地しかのこっていないのだが、母にはまざまざと記憶がよみがえっているのだろう。
十九歳で父と結婚し、すぐに夫を失った。そして私を生んで家へのこし、向いの橋爪家へ嫁いだ。戦後には二児をもうけたあと、ふたたび夫に先立たれ……こうやって大雑把にあとづけしてゆくと、母はまったく悲劇の中心人物としてしか見えてこない。そんな匂《にお》いが、母に寂しげな感じをあたえてしまっているのも事実だった。
(だが、俺のような性格の子を生んだことは、おふくろの気持を楽にさせている面もあるかもしれない……)
折りたたみの洋傘をぶらりと垂らし、それをすこしゆらしている母をながめながら、私はそう思った。
親子の名乗りをさせてほしい……戦後になって、母が何度か梢風にたのんでいたということを、私はのちになって聞いたことがあった。不幸とか悲劇とかいうのではなく、母にとっては決着をつけておかなければならないことであったはずだ。
だが、梢風はそれをゆるさなかった。高校を卒業するまでは……漠然とそんなふうに決めて、梢風は時をかせいでいたのではなかろうか。自分が説得して他家へ嫁がせ、子供は自分の籍に入れて妻に育てさせた……梢風が最初に敷いたレールが、そのあとのすべてを色づけしていったのだ。梢風が清水へ祖母と私をのこし、鎌倉で別な生活をするようになったのも、その色づけのひとつと言えるだろう。そういう色づけのすべてが、母と私の関係をあきらかにすることによってくずれてしまう……梢風にとっては、それが不安だったのではないだろうか。
祖母が、ついに母の生存を私に告げたのは、私が高校を卒業する直前だった。あの日のことを、私はいまも克明におぼえている。
学校から帰ってくると、祖母が私を茶の間へ呼んで坐らせた。そして仏壇に灯明《とうみよう》をあげ、かねを鳴らして火鉢の向う側へ坐った。祖母は、灰ならしでしばらく火鉢の灰に波形を描きつづけ、思い切ったように顔をあげた。
「あたしゃ、あんたに何と言われても仕方ンないことンあるだよ……」
言葉ははっきりしているものの、並々ならぬ決心をただよわせた祖母に、私は一瞬たじろいだ。
「何だね、おばあちゃん」
「あんたのお母さんは、死んじゃあいないだよ……」
「え」
私は、思わずおどろいたような声をあげたが、意外なほど冷静に祖母の言葉を受けとめていた。
「あんたのお母さんはね、富士宮のおばさんだよ」
思い切ったように言った祖母は、ふたたび仏壇に向って坐り、しばらく父の位牌《いはい》を見つめていた。私は、心に去来するさまざまな感情のなかに、実の母の存在に対する感動が見つからぬことにとまどっていた。それは、生れた直後に私の躯から引きぬかれてしまったネジなのか、祖母とふたりで暮すうちに身につけてしまった感性なのか……とまどいに対する答えはついにつかむことができなかった。
(あのときは、どう言ったらおばあちゃんの気がいちばん楽なのか、そればかりを考えていた……)
たしかに、祖母の告白の仕方は芝居がかっているところがあったのだ。梢風の敷いたレールは、祖母を中心にたどっても不思議な色合いの半生を強いているのだった。
祖母は、遠州のいなかで梢風と一緒になった。そして、東京へ出て文筆活動をこころざす梢風とともに生活し、父をはじめとする四人の子供を育てあげた。しかし、ある時期から、祖母は梢風の環境に追いつけなくなったのではなかっただろうか。世間に知られる文士としての梢風の生活ぶりは、常識的な祖母の目からはとらえきれないところへいってしまった。そのことが、戦後になって梢風が祖母と生活をともにしなかった理由ではなかったろうか。
(梢風と祖母のそんなあり方に、自分が一役買ってしまっている……)
長男の友吾の子である私を自分の子として籍に入れ、母を強引に説得して他家へ嫁がせた……そのために祖母に、私を養育する役目が生じたのである。梢風が別の生活をしていることに対する祖母の感情は、私を育てるという責任によって方向をうしなった。私の存在はそんな効果をもってしまうのであり、そのレールは、やはり梢風が敷いたものだった。
そんな祖母の境涯にとって、私に実の母が存在する事実を告白するのは、いったいどんな意昧を生じてしまうのか。それは、祖母が梢風の別の生活を暗黙の了解としている前提に、大きな亀裂をおこしかねない告白だったはずだ。
母の存在は、十八年のあいだ私に伏せられていたことになるが、そのことによって成り立っていた梢風と祖母の暗黙の了解が、この告白によって大きく狂いを生じてしまう可能性は十分だった。十八年間の秘密を打ちあける祖母が、その場面で芝居がかった匂いにつつまれてしまうのは当然のことだったのだろう。
「あんたのお母さんも、かわいそうだっけだよ……」
目がしらをぬぐう祖母の顔に、アルバムに貼《は》ってあった母の顔がかさなった。しかし、富士宮からときどきやってきたおばさんの顔を、いまは、どうしてもアルバムの顔にかさね合わせることができなかった。それはやはり、母という存在を求めるネジを引きぬかれて十八年の歳月が経《た》ってしまったことの、ひとつの効果といえるものだったろう。
祖母の告白を聞いて自分は何と答えたのか……私はそれをまったくおぼえていない。ただ、次に富士宮のおばさんに会ったとき、自分はどんな貌《かお》をつくればいいのか、そればかりを思案していたのが、私の記憶の中からたぐられるありようだった。
そのあと、私が母に会ったのは、祖母の告白から二年後の梢風の葬式のときだった。
告別式がはじまろうとするとき、終戦直前に私があずけられた妹に背中を押され、喪服の母が私のまえに現われた。母の背中を押した妹は、そっとそのままあとずさった。親戚の者たちが、遠くの方から母と私の対面を見守っているけはいが、私の背中につたわった。母は、私のそばへ寄り、
「これからは、しっかりしなくちゃね……」
とみじかく言った。私は、ちょっと母の顔を見たが、すぐに目を伏せてお辞儀をした。母は、鼻にハンカチを当てていたが、目に涙をうかべてはいなかった。それが、私の気持をかるくしたのは事実だった。それは、私の気持のながれにしたがおうとする、母の配慮であったのかもしれなかった。
母と私が対面して二分と経たないうちに、焼香がはじまってしまった。母と私は何となく人混みにまぎれるようにして離れ、それいらい私の結婚式まで会うことがなかった。
梢風の葬儀を終えて清水へ帰ると、祖母はひとりで仏壇に灯明をあげ、火鉢の向う側へ坐りこんでいた。正式の葬儀には列席せず、ひとり清水で仏壇へ向っていたのは、梢風の表向きの生活に対する遠慮もあったのだろうが、祖母の意地でもあったにちがいない。
「はい、わたくしが梢風の家内でございます……」
梢風についての取材にやってきた地元の新聞記者に対して、祖母は堂々とそう答えた。玄関で新聞記者と応対する祖母のまるい背中をながめて、ちょっと小さくなったな……と私は感じた。
「もう、ああいう人ですから、外で何をやろうと、わたくしはいっさいかまわない主義にしてましたもんですから、はい」
新聞記者が帰ると、祖母はふたたび火鉢の向う側へ坐り、灰ならしで灰に波形を描いていた。
「あたしゃ、おじいちゃんより一日でも早く死にたいだよ……」
口癖のようにそう言っていた祖母の言葉にどんな思いがこもっていたのだろう。だが、意味は謎《なぞ》だった。そんなねがいとは裏腹に、梢風は素っ気なく先に死んでしまった。梢風に先立たれた祖母は、火のないキセルを手にして、目を宙に浮せていることが多くなった。そして、梢風の死の二年後にあとを追って逝《い》ってしまったのだった。
私にレールを敷いた梢風と、そのレールを歩かされて私を育てた祖母がこの世から姿を消してしまうと、私はまったく宙に浮いた存在となってしまった。そして、十八年ものあいだこの世にいないことになっていた、生みの母の存在が大きく意味をもってきたのだった。
私の結婚式のときも、控室で秋子を紹介する程度で、かなり周期的に会うようになったのは、私が結婚生活をはじめてしばらく経ってからである。
母は、中川の運転する車で私のマンションへやってきた。母の長女であり中川の妻である瑞枝とそのふたりの娘、そして母の次女の玉江という一行だった。
中川は教師をしながら、柔道の教員の部の代表になるほどの巨漢だが、ビールを二本ほど飲むといびきをかいて眠ってしまった。
「いつも、こうなんですよ」
瑞枝はそう言って秋子にうったえたが、のちになって思えば、あれは中川なりの配慮かもしれなかった。母と私がはなしやすいよう、自分は高いびきでひと眠りというやり方は、今になって中川の性格を知ってみればありうることなのだ。
だが、そんな場面が何度おとずれても、母と私のあいだには、ピンと張った糸がいつも存在していたのだった――。
「そろそろ、帰りましょうか……」
「そうねえ」
母は、私の言葉にうなずいたものの、その場を立ち去りがたい感じを顔にのこしていた。村松家と橋爪家の中間に立って思う母の心のなかは、私などには計りしれない思いにみちているはずだ。しかし、それを母に与えた梢風はすでにこの世になく、村松家も橋爪家も跡かたもなく消え失せている。千駄ヶ谷の私の生家のあった路地の勾配《こうばい》だけが、むかしの面影をのこしている。それを知っているからこそ、母は路地からはなれがたいのかもしれないのだが……。
「このちょっと先に、豆腐屋がなかったかな……」
「豆腐屋……」
「ちょっと行ってみる?」
「ええ……」
ふたりはやっと路地をはなれ、大通りへ出て左へまがった。
「ここを右へ行けば、さっきいった日本青年館だから、まっすぐだな」
そのまま道をわたろうとすると、信号が赤になった。立ちどまって左を見あげたとき、
(やっぱり、ここなのか……)
私は、心のなかでつぶやいた。四谷四丁目の交差点をまがりまっすぐ行って高速道路をくぐり、ビクターを通りすぎた次の信号の左手……それがあの黒く細ながい建物なのだ。
私と母が立ちどまっているのは、そのビクターの建物の真ん前だ。ここならば仕事で何回も通ったし、ビクターで友人をおろしたこともあった。そして何よりも、あの黒く細ながい建物へたどりつくための、ビクターは大きな目印だった。
「青よ……」
母の声にうながされて道をわたると、今度は母が一軒の店のまえで立ちどまり、盆休みの断り札を貼って閉めてある店をつくづくながめていた。
「ここのおまんじゅう、梢風さんが好きでねえ、よく買いにきたのよ」
「へえ、こんなところのまんじゅうを……」
「戦後は、お酒をのまれるようになったんでしょ、でも、以前はたいへんな甘党だったから……」
「あ、そうらしいですね」
母は、私の生家のまえをはなれて、すこし生気をとりもどしたようだった。あの路地に立っていると、母はどうしても二つの家に対する追憶にひたってしまうはずだ。そこからはなれがたいという感情とともに、その場所の圧迫感による疲れもおぼえたにちがいない。路地をはなれてしまうと、母は私に対して村松家の思い出だけをえらんではなす余裕をとりもどしていた。
「この辺を入ってみましょうか……」
私は、記憶というよりも勘でひとつの小路をえらび、そこへ入っていった。
「この辺もよく通ったわねえ、いろんな店が両脇にあって、ちょっとこわいような人たちがいっぱいいてね」
「はあ……」
せまいわりに店がならび、酔っぱらいが屯《たむ》ろしているときに、若い女がここを通りぬけるのは苦になったろうといった雰囲気の小路だった。
「あ、やっぱりある」
小路をまた左へ入るさらに小さい小路の突き当りに、大きな字で「豆腐」と書いた店があった。このあたりが焼けのこったはずはないのだが、その豆腐屋は戦前からの店のようなたたずまいだった。小さい店ながら、豆腐屋をいとなんでいるという誇りが、小路の奥からとどいてくるようだ。店はやはり盆休み、貼りつけた紙に「十四日から十八日まで休業させていただきます」の文字が、馴れた筆で書かれてあった。
「やっぱり、ここだと思うんですよ」
「そうかもしれないわね」
「どうせ、誰かに連れてこられたんだろうけど」
「………」
「この店で、豆腐をすくわせてもらったことがあって……」
「そう……」
「こうやって腕をまくって、腕のつけ根のところが水につかってひんやりとする感じ、よくおぼえてるんだなあ」
腕をまくり豆腐をすくう形をつくってしゃべる私を、母はほほえみながら見ていた。母の笑顔にやや寂しそうなかげがさしていたので、私ははなしを途中で切った。だが、水に沈んだ豆腐をすくい上げるときの、二の腕につたわった冷たい感触が、さっきから私の脳裏にこびりついていた――。
四谷四丁目をまがって高速道路をくぐり、ビクターを通りすぎた先の信号の左側……電話のたびに弥生《やよい》は同じ説明の仕方をした。
「弥生なんて、古風な名前だな」
「あたし、古風って趣味なの。だからこの名前は好き」
「ちょっといいね、弥生ってのは」
黒く細ながい建物にヘビのように巻きついた螺旋階段をあがってゆくと、最上階に「ボールペン」というスナックがあった。私と弥生は、いつもそこを待ち合わせ場所にしていた。そこでのふたりの会話は、たいていとりとめのない内容だった。
弥生と知り会ったのは、秋子と結婚するすこし前だった。私がときどき通っていたフィルム・ライブラリーで、弥生といつも顔を合わせていたので声をかけたのがきっかけだった。
「溝口健二なんて古い人の映画、そんなに好きなの」
「ええ」
「ちょっと見ると、アングラ芝居かなんかの熱烈なファンって感じだけどな」
「ちょっと凝ったこともあったけど……」
「アングラ芝居にかい」
「でも、あたしにはむずかしくて疲れちゃう」
「へえ……」
「で、ここへ通っていろんな映画見てたら、溝口健二が好きになっちゃって」
「なるほどね」
「きらいですか」
「何が」
「溝口健二」
「いや、好きだよ」
「黒沢明より、上だと思うんです」
「賛成だね」
「あの、お酒好きですか」
「ああ……」
「これから、飲みません……」
そんなふうにして、私は弥生とつき合いはじめた。見かけにくらべて奇妙に古風なタイプの弥生と一緒にいると、私は何となく気がやすまった。「ボールペン」は、弥生が行きつけだった店で、ウィスキーのほかにはスルメとピーナッツとイカの燻製《くんせい》……まるで、私が学生だったころのトリスバーという感じだった。そんな素っ気なさが、私にとっては楽な空気をつくっていた。
ふたりは、「ボールペン」で酒をのんでから、螺旋状の急階段を躯を支え合いながら降り、信号をわたって歩いていった。住宅街のところどころに旅館の看板があり、ふたりはそのときの気分によって旅館をえらんで入った。
「千駄ヶ谷って、不思議なところね」
「どうして……」
「だってさ、すごい閑静な住宅地なんでしょ」
「そりゃ、マンションなんか買おうと思ったらたいへんだよ」
「そんななかに、こういう連れ込み宿があるんだから」
「そこが、千駄ヶ谷の特徴さ」
千駄ヶ谷の名は古く、約七百年のむかし、関東の豪族、北条氏が編纂《へんさん》した「小田原衆所領役帳」に、その由来を「千駄ヶ谷、それは一面の茅野《かやの》にて一日に千駄の菅《すげ》を出《いだ》しし所なりとぞ」……私と千駄ヶ谷の旅館を利用するようになって、弥生がどこからか見つけてきたパンフレットに、そんな文章が載っていた。
千駄ヶ谷は、江戸時代には徳川幕府の直轄地で、草深い里にはちがいなかったが、ほとんどが武家屋敷だった。東京になってからも、山の手の住宅地として発展し、武蔵野の名残りをそのまま庭園にとどめた邸宅が居ならんで、高級住宅街千駄ヶ谷として名が通っていた。それが空襲で焼野原となり、戦後は、住宅解放と称して邸宅が切り売りされた。そして、邸《やしき》を旅館や料理屋に改装したり、貸間アパートに利用したりした。また、これにつれて、商店、喫茶店、医院などがどんどんふえた――そのパンフレットには、こんな説明も加えられていたが、そんな戦後のうごきのなかでもっとも大当りした筆頭が旅館であるらしかった。
「一時は、まるで温泉旅館街みたいになっちゃったというからな」
「ちょっと面白いわね」
「面白いったって、ここで生活してる連中はおだやかじゃないよ」
「だから、千駄ヶ谷なんてとこは、昔の殿さまかですね、あたしたちみたいに連れ込み族かどちらかで、ここへ住もうってことがまちがってるんじゃない」
「そう言うなよ、俺なんか千駄ヶ谷生れなんだから」
「へえ、ほんと」
「ああ、どの辺かわからないんだけど、とにかく千駄ヶ谷だよ」
「どうして、自分の生れた家がわからないの」
「そういうこともあるんだよ」
「不思議ね、じゃあ、小さいころに遊んだとこなんてあるのね」
「そりゃあるさ、それがどこか分らないだけでね」
「ここかもしれないでしょう」
「ここって……」
「この旅館」
「そりゃあないだろう」
「この旅館の近くなんて、ドブにゴム製品がながれてきて、それを拾って子供が遊んだりしてるらしいから、こまるわよね」
「誰に聞いたんだい、そんなこと」
「このまえ泊った旅館の女中さん、あたし仲良くなっちゃった……」
「仲良くなるなよ、連れ込み旅館の女中なんかと……」
「でも、あなたは、そんなゴム拾って遊んだわけじゃないのね」
「当り前だよ、終戦前だからな」
「避妊しないのね……」
「え」
「子供できたら、どうする……」
「………」
弥生は、冗談めかして言っていたが、そのときすでに妊《みごも》っていたらしかった。
それから数カ月後、私は弥生に呼び出されて螺旋階段を昇り、「ボールペン」のカウンターに腰かけた。
「堕した方がいいと思う?」
「え……」
「子供よ、あなたの子供」
声を殺さないため、かえって弥生の声は人声にまぎれ、カウンターの向うのバーテンにはきこえないふうだった。皮チョッキを着たバーテンは、カウンターのすみの若い女に気をとられているらしく、減ってもいないグラスの水を注《つ》ぎたしていた。
「ねえ、どう思う……」
「子供か……」
「だって、使わないからいけないのよ」
「分ってるよ」
「堕す?」
「………」
「こういうとき、男のひとってはっきりしないのね」
「ほかの男のときも、あったのか」
「それはべつ、今回はあなたなの、ぜったいに」
「それはべつ、か………」
会話は途切れがちとなり、私と弥生はやたらにウィスキーをあおった。カウンターに坐っていても上半身がゆれうごき、私の目の向うで弥生の顔が何度もかすんだ。
「すいません、閉店だもんで……」
申し訳なさそうなバーテンの声に気づいて顔をあげると、弥生はまだカウンターに突っ伏して眠ったままだった。私は弥生をゆりうごかして起し、躯を支えてドアへ向った。
「気をつけてくださいよ、急階段だから」
バーテンの声が、ドアを閉めたため途中で遠くなった。弥生は、なかば眠ったまま躯を私にあずけた。弥生は、体重をぜんぶかけてくるとかなり重かった。螺旋階段は、上から見るとかなり急勾配になっている。冬の寒い風が下からふたりをあおり、弥生は頬《ほお》を押しつけてきた。私の襟巻きが弥生の肩にかかっていた。それを見て、
(可愛《かわい》いな……)
と思った。そして一瞬、弥生とふたりで子供を遊ばせている自分を想像した。公園のブランコに乗った子供を、弥生と私が笑いながら見ている、そんな光景だった。だが、ブランコに乗っている子供が男の子なのか女の子なのか……それが私の目にはとらえられなかった。弥生は、子供の乗ったブランコを強くふっている。私は、何とかして子供の顔を見ようとするのだが、それはついに果せなかった。子供の乗ったブランコはますます強く宙にふられ、子供は片手をはなしてしまった。
(あぶない!)
心のなかにそんな叫びが生じたとき、私は自分が支えていた重みが、ゆっくりと躯からはなれてゆくのを感じた。
「弥生!」
本当の叫びが私の口からもれ、弥生の躯が仰向けに螺旋階段に打ちつけられて、よじれながらずり落ちていくのを見た。
「弥生!」
私は、もういちど叫んだ。弥生の躯はよじれた螺旋階段のかげにかくれ、さらに二、三段すべり落ちて止った。私は、足早に階段を降りた。冬の夜空に、靴をはじく鉄階段の音がひびいた。螺旋階段を半周して降りたところに、弥生は坐り込むような姿勢でうずくまっていた。酔っていたために無理な力が入らず、どうやら大きなケガはしなくてすんだ様子だった。
私は、弥生の上にかがみ込み、手をさしのべた。弥生は、ぼんやりと宙に泳がせていた目をあげ、私の顔をまっすぐに見た。
「わざとやったのね……」
弥生の声が、いつもとちがうひびきをもっていた。
「何が……」
「わざと、突き落したのね……」
「そんな、ばかな」
「そうよ、きっとそうよ……」
「何言ってんだ、ほら」
私はやさしく手をさしのべて、弥生の躯を引きおこそうとした。すると、弥生の右手がいきおいよく宙を掃き、さしのべた私の手を強く払った。私は、思わず手を引いて、弥生の顔を見つめた。
螺旋階段に腰をおろした姿勢のまま、弥生は鋭い目で私をにらみつけていた。額にかぶさった前髪のあいだから、汚いものを見るような弥生の目が異様な光を放っていた。私がもういちど手をさしのべようとしたとき、弥生の躯はいきおいよく真うしろへ倒れ、さらに下へ転げ落ちた。
私がそれを追うように駆けおりると、弥生はさっきと同じ姿勢で、螺旋階段にうずくまっていた。額に垂れた前髪のあいだからは、やはり異様に光る目が私をにらんでいた。弥生の唇のわきから、血がひとすじ流れ落ちている。私は、その表情にたじろいで、身動きができない者のように立ちつくしていた。
弥生の唇がすこしゆがみ、私をさげすむような表情が浮んだ。弥生は、ゆっくりと躯を立てなおし、手すりにつかまって螺旋階段を降りていった。その背中には、頑として私を拒否するけはいがあり、私は手すりに手を当てたまま、茫然と弥生を見おくっていた。鉄製の手すりは、私の掌《たなごころ》に氷のような冷たさをつたえていた――。
弥生は、私が妊娠を告げた自分をわざと突き落したと思ってしまったようだった。私にはもちろんそんな気はなかったが、自分の心のなかをのぞかれた感じがあった。弥生が子供を妊ったと聞いたとき、得体のしれない感覚におそわれたのは事実だった。額にかかった前髪のあいだから鋭い光を放っていた弥生の目、さげすむようにゆがめた唇から流れていたひとすじの血、凍りつくような冷気を掌につたえた鉄の手すり……。
(なぜ、そんなことになったのだろう……)
心のなかで疑問が反芻されたが、生家の近くへやってきて、異様に細ながく黒い建物と、ヘビのようにそれに巻きついた螺旋階段を目にしたときから、私の躯を何かがはしりぬけた実感がのこっていた。
4
「すしでも食べましょうか……」
気分をはらうように言ってふり返ると、母は閉った豆腐屋をじっとながめて唇をかんでいた。水に沈んだ豆腐のことをはなした私の言葉が、母にも何かをよみがえらせてしまったのだろうか。そんなはずはあるまい……私は自分の思いをかき消した。村松家と橋爪家の中間に立ちつくしていた時間が、六十をすぎた母に疲労をあたえているにちがいない……私は、顔をあげた母と目があったので、あわてて大声を出した。
「この向うに、創業大正十一年という鮨屋《すしや》があるはずだから……」
「へえ、この辺へよく来たの」
「いや、駅からの道は分らないけど、鮨屋のあたりはよく通ったから」
「そう」
「おなかは……」
「そう言えば、すこしすいてきたみたい」
私に歩調を合わせて小走りになった母に気づき、私はゆっくりとした足どりで歩きはじめた。霞ヶ丘団地の交差点からビクターの交差点へもどり、左へ折れてゆくコースは、かつて私が弥生と連れ込み旅館へ向う道だった。
(弥生と歩いた道を、実のおふくろとたどっているのも妙だな……)
私は、たしかあの辺と見当をつけたところに同じ鮨屋を見つけた。
店内のテーブルには、数人の外人をまじえた満員の客がいた。
(そうだ、この店には変に外人が多かった……)
カウンターはふたり分あいていて、私と母はそこへならんで坐った。
「にぎりふたつ、それからビールください」
ビールのそばにコップがふたつならべられると、母はごく自然にそのうちのひとつを手に取った。昭島の中川家をおとずれたとき、母が酒を飲んでいたかどうか……私はそれを思い出すことができなかった。私が母のコップにビールを注ぐと、母はすぐにコップを引いた。母のコップの底に、ビールがおしるし程度にたまった。私は自分のコップにビールを注いでから、母に向ってコップを上下させた。
「おつかれさま……」
母は、私と同じように宙でコップを上下させ、かるくひと口飲んでコップをカウンターにもどした。
にぎりの一人前ずつがふたりの前にならべられ、母は醤油《しようゆ》を入れる小皿がないことを訝っていた。その仕種がすこし弥生に似ていたので、私は目をしばたたいた。
「ここですよ……」
カウンターにまるい瀬戸容器があり、それに創業大正十一年と記してある。小皿はその容器のなかに重ねられていて、そこから客が取り出すようになっている。「これを取るとき、かならず創業大正十一年の文字が目に入るってわけね、好きだな、こういう軽犯罪的気分……」そう言って笑った弥生の顔が、私の目の裡にしばらく浮んでいた。
「秋子さん、どうなの、その後……」
「ええ、もういいみたいです」
「何だったの、けっきょく」
「疲労、らしいんだけど」
「たいへんだわね」
「たいへんといっても、子供がいるわけじゃないんだけど……」
「だから、たいへんなのよ」
秋子は三カ月くらい前、精密検査をすると言って二週間ほど入院した。それは、原因不明の不眠症にさいなまれ、体力が急激に弱まっていったためだった。秋子の実家の周囲には医者が多く、秋子も自分自身の躯のぐあいを判断できるらしかった。秋子の弟ふたりも医者であり、その伝手《つて》によって病院を決めて入院した。
検査の結果は、心身ともに疲労がつみかさなって体力が衰弱しているという漠然としたものだった。ともかく休養が必要ということで二週間入院し、さしたる変化もないままに退院してきた。私の目には、秋子は入院するまえよりもむしろ病人らしくなってしまったように映った。見た目にも極端に痩《や》せてきたが、体重が十キロ近く減ってしまったらしい。
心身ともに疲労がつみかさなって……それはおそらく、自分と一緒にいる時間がそうさせているのだと私は確信していた。子供がいれば気がまぎれるのかもしれないが、ふたりだけのために秋子はいつも私と直面している。しかし、それが秋子を疲れさせているとしても、私にはどうしようもないことのように思われた。
「ねえ、子供ほしくない……」
「俺と同じような奴がもうひとりいたら、気持わるいものなあ」
「冗談じゃなく……」
「いや、俺もべつに冗談で言ってるんじゃないんだ」
「あたし、もうそろそろ高齢出産になってしまうのよ」
「へえ、そんなになるかねえ」
「あなたって、本当に自分のことしか考えないのね……」
「べつに、そういうわけじゃ……」
「そうよ、自分のことばっかり考えてるのよ」
「そういえば、生れつきそうかもしれない……」
「すぐに、そう言うでしょ、それは甘えよ」
「甘え……」
「お母さまだって、おばあちゃまだって、あなた以上にいろんなことがあって」
「そんなことは分ってる」
「でも、あなたは、自分のことにだけ耳をかたむけてるみたい……」
「そう見えるなら、仕方ないけどね」
「またそうやって居直る」
「居直ってなんかいないさ」
「居直ってるわよ、けっきょく」
「ただ、こういう性格ですくわれてるってこともあるな」
「誰が? あなたがでしょ」
「いや、おふくろだって、死んだおばあちゃんだってさ……」
「そうかしらね、逆だと思うけど」
「すくなくとも、おばあちゃんに関してはそうだな。俺がやたらにおふくろを欲しがる子だったら、たまらないぜ」
「おばあちゃまは、あなたのもうひとりの母親だから……」
「で、梢風のもうひとりの妻だ」
「おばあちゃまは正妻なんでしょ」
「そうだけど、戦後は裏へ回ったからね。清水に住んで俺を育てて……」
「また、そこへ戻るのね」
「ともかく、仕方ないよ……」
「何が……」
「俺がこういう性格の子になったことがさ」
「それはいいけど、大人としてのあなたはどうなるの……」
「大人として、か」
「ねえ、子供ほしくない……」
ふたりはよくこんな堂々めぐりの会話をした。もちろん結論の出る話題ではないし、いつも中途半端な終り方をした。
自分の生い立ちや性格を考えると、子供のことは素直には考えられないという思いが私にはあった。そして、小学校のときにまずくもない脱脂粉乳を捨てたように、自分の生い立ちをどこかで気取りたい気持はいまでも私に棲《す》みついている。だが、秋子が言うように、そういうポーズを抱いたままの大人は、やはり不気味かもしれないという気もした。
しかし、子供に関しては、弥生との衝撃的とも言える場面が原因のひとつになっているのかもしれなかった。螺旋階段の途中にうずくまり、額に垂れた長髪からにらんでいる鋭い光を放った目、私をさげすむようにゆがめた唇のわきに流れるひとすじの血……それらは、秋子との結婚生活のなかでも、私の網膜からはがれることがなかった。「わざと、やったのね」……弥生の声が、眠っている私の耳をおそうこともあった。
弥生とのことは、秋子にはいっさい知らせてなかった。ただ、自分と私とのあいだが、何かのために真空状態になっていると思い決めているようなふしは感じられた。子供がほしい自分を正面から受けとめない私を、秋子は遠い存在をながめる目で見ているにちがいない。
「おいしいわね、ここのおすし……」
母は、マグロの赤身やシャコの裏側にぬってあるワサビをていねいに割箸《わりばし》で落し、あらためてシャリの上に乗せていた。
「やっぱり、刺激ものはひかえてるんですか」
「そう、このごろはね」
「すしは、好きだったんだっけ……」
「あたし?」
「ええ」
「はい、好きですよ」
母は、口へもっていったシャコのにぎりを、半分だけ頬ばった。半分のこったシャコをはさんだ割箸が、中途半端に浮いていた。私は、コップにビールを注ぎたし、それをひと息に飲みこんだ。
「おかんじょう、おねがいします!」
うしろのテーブルに坐った外人のグループから、思い切ったような大声が飛んだ。日本語にはちがいないのだが、抑揚がちがうため不思議な調子にひびいた。
「はい、おかんじょう!」
カウンターのなかから、それに応じたいきおいのいい声が飛び、符牒《ふちよう》めいた言葉がつけくわえられた。それに呼応して若い衆が素早くレジへ走り、大正十一年創業らしい手馴れた雰囲気が店内にただよった。
「外人さんなんかも来るのね」
「ええ、まえもそうだったから……」
「まえも……」
「八年くらい前、よく来てたから」
「そう……」
「でも、生れた家とこんなに近いとはね」
「ぜんぜん知らなかったの」
「ええ、千駄ヶ谷っていうと、生れた家っていうより……」
「何……」
「いや……」
母との会話は途切れがちだった。外人たちが大声で何やら言いながら出ていくと、「まいどあり!」カウンターのなかから景気のいい声が発せられた。母と私は、それにはかまわず黙々とにぎり寿司を口にはこんでいた。
5
創業大正十一年の鮨屋を出た母と私は、肩をならべてゆっくりと駅の方角へ歩いて行った。いつのまにか陽はやや暮れかかり、鬱蒼とした千駄ヶ谷のたたずまいが見えてきた。葉の生いしげる垣根の向うに、かなり立派な屋敷の建物が見えるのだが、暗くなりはじめた時間というのにあかりがついていない。
「こういうの、いかにも二号さんのかこわれどころって感じね……」
弥生は、あこがれるような顔でそんなことを言っていた。弥生は自分の住いを私に教えたことはなかったが、千駄ヶ谷近辺に住んでいるのではなさそうだった。昼は喫茶店、夜はスナックという「ボールペン」でいつも待ち合わせ、いろんな道すじを通って旅館へ入る。弥生は、千駄ヶ谷の雰囲気にあこがれているような無邪気さで、旅館への道を歩いていた。
「八カ所の浴室にこんこんと湯が溢《あふ》れています」「自慢の新しい水族館付き舟風呂が、朝から沸いてます」「全室お風呂、トイレ、テレビ、電話付のオール離屋」「早朝サービス、朝十時までにおいでの方にはウナ丼《どん》をサービス」「ハイボールをサービス、人目につかぬ裏口を御利用下さい」「コイルスプリングマット使用」「ハリウッド式ベッド使用」「舟底型浴室付き部屋」「玄関、次の間、浴室付」「各室離屋式」……そんな文字が、住宅街の角をまがると突然あらわれ、弥生をよろこばせた。
環境のいい住宅街だから、住民たちからの声を無視することもできず、逆さクラゲのネオンやあくどい色のネオンは、私と弥生が会っていたころからなくなった。また、旅館の看板はなるべく塀の内側につける、お休憩やお泊りの値段の書いたものは出さない……など、他の旅館街とはちがった旅館側の自粛もされていて、それがまた千駄ヶ谷旅館街の独特の雰囲気をつくりはじめた。
「俺たちみたいな連中を何て呼んだか知ってるかい」
「あたしたちみたいって、連れ込みへ行くお客のこと?」
「ああ」
「さあね、不良かしらね、やっぱり」
「不良か、そうねえ、似たような言い方だね」
「何て言ったの……」
「不純アベック」
「へえ……」
「連れ込み旅館で男と女の関係をいとなむと不純ってことになったらしい」
「純粋アベックってのは、どんなアベックかしら」
「何もしないふたり連れだろう」
「何もしないアベックね、不純だなあ」
「だから、千駄ヶ谷の住民にとっては逆ってわけさ」
「なるほどね……」
「不純アベック追放なんて言って、鳩森小学校のPTAやなんかが騒いだことがあるらしい」
「誰に聞いたの、そんなこと」
「こないだの旅館な、あそこのオバサンに……」
「わ、ずるいんだ。あたしが女中さんに聞いたら怒ったくせに」
「怒りゃしないよ、べつに」
「そうだったかしら……」
「不純アベック追放と温泉旅館のしめ出し、これはもうたいへんないきおいだったらしいよ」
「へえ……」
「でも、ここはもともと閑静な住宅地で、そこにある連れ込み旅館だからこそいいわけだろ、だから、ふえすぎちゃったら旅館の側も自滅だよ」
「どうして」
「千駄ヶ谷がもし、熱海みたいになっちゃったら、もう千駄ヶ谷じゃなくなっちゃうものな」
「それはそうね」
「だから、旅館もあんまりふえなかっただろ」
「そう言えば、数はあまりないものね」
「俺たち不純アベックにとっても、その方がよかったってわけさ」
「そうね……」
弥生は、そう言って裸のままベッドを降り、タバコをくわえて火をつけると、それを私の唇にさし込んだ。弥生の躯はそれほどゆたかではなかったが、乳頭の小さな乳房とタテ型のヘソが、幼女のような趣きをもっていて、それが私の気分を刺激した。
「弥生、このまわりはふつうの住宅なんだから、裸で窓ぎわなんかへ行ったら、のぞかれちゃうぞ」
私は、片手で弥生の両肩をつつみ込むようにして耳もとでささやいた。両膝《りようひざ》をそろえて脚をくの字にまげた弥生は、躯を思いきり私に押しつけてきた。まるで胎児みたいだな……私はそう感じた。
「平気よ、のぞかれても……」
弥生は、私の胸に押し当てた唇をすこしひらいて言った。
「この辺の子供たちは、夕方になると屋根に乗って旅館をのぞいたりするらしいぞ」
「へえ……」
「ゴザをひいてアベックごっこをしたり、ともかくませてるんだから」
「そうなの……」
「もっとも、そういう真っ只中でこうやっているのも、スリルがあるってもんだけどな」
「ねえ……」
「何だい」
「そろそろ、不純アベックにならない……」
弥生は、くの字にまげていた躯をのばし、両手を私の首にからげ、私の腋窩《えきか》に顔をうずめた。弥生は、いつもこうするのだが、そのとき「この匂い、好き」とつぶやくことがあった。私はそれに問い返したことはなかったが、
(この娘《こ》は片親そだちかな……)
漠然とそんなことを感じることがあった――。
「駅は、こっちじゃない?」
母の声が聞えないふりをして、私は信号をわたりまっすぐにすすんだ。それは、かつて弥生と歩いたコースだった。怪訝《けげん》そうな顔をつくった母だったが、折りたたみの洋傘を小脇にかかえ、足早に私のあとを追って信号をわたった。
住宅街のところどころに、旅館の看板があり、それを目にするたびに母の頬はこわばった。
(俺とおふくろは、純粋アベックだな……)
私は、弥生の言葉を思い出しておかしくなった。
ふつうの住宅街の角をまがると突然あらわれる旅館の看板は、目立たなくて入りやすいという効果がたしかにあった。だが、ふつうの住宅街にかこまれた怪しい場所へ行くという、奇妙なスリルを与えるのも事実だった。ふつうの目にかこまれたうさん臭い場所というのが、千駄ヶ谷の連れ込み旅館の特徴かもしれなかった。
(大久保あたりみたいになっちゃったら、全員裸の共同浴場みたいなもんだからな……)
弥生に向って言うようなセリフをノドの奥に生じさせながら、私は次々と路地をまがっていった。母は、見知らぬ街の風景をながめては、私の歩みのあとへ蹤いてきた。私は、母とこんなふうにして連れ込み旅館のまえを通りすぎている自分を面白いと思った。そして、この気分にはどこかで梢風の孫である気取りがはたらいていると感じた。
「そこを脱皮しないと、大人になれないわね……」
秋子は口癖のようにそう言っている。過去をひきずることを病気のようにもっている夫……それは秋子にとって心もとない相手にちがいない。
「過去なんて、誰にでもあるんだから……」
秋子は、そんなことも言っていた。誰にでも語るべき過去があることは私も知っている。そして、とくにその過去にこだわろうとする自分の癖にも気づいている。それはたぶん、村松梢風というかつて世間に知られた存在の縁者であることへの意識がそうさせているのだろう。
(脱脂粉乳は、俺の躯から一生ぬけきれないのか……)
戸籍上の「梢風の子」という建前の踏みごたえのなさは、「梢風の孫」という本当にもどってみても埋められない嘘くささがあった。だからこそ俺はその両方を失いたくないのか……他人に対する自分のポーズを思うたび、私はそんなセリフを心のなかでつぶやいた。そして、そういう自分の心根が、秋子に見すかされているらしいことにも気づいていた。
「だけどさ、ちゃんとした家庭に育ったやつの変な自信より、可愛げがあるだろう」
「駄目よ、あなたにはその反対の自信がありすぎるもの」
「その反対の自信……」
「可哀《かわい》そうな子を演じることの自信」
「そうかな……」
そう言ってはみたものの、私にも思い当ることがあった。
小学校の頃、私の学校では母の日にカーネーションをつける習慣があった。クラスの他の全員が赤いカーネーションをつけているなかで、私だけは白いカーネーションを胸につけた。戸籍上の母である祖母は存在しているのだが、実の母はいないという立場を、私自身がえらんだためだった。白いカーネーションをつけた私を、クラスの友だちの母親たちは可哀そうな子を見る目でながめた。私は、そんな目を浴びていることを意識し、その日はみんなの母親のまえで可哀そうな子を演じていたはずだ。
(本当は、俺には戸籍上の母親と、生みの母親が両方ともいたのに……)
当時はもちろん母の生存は知らなかったが、実態としてはそうだった。そして、そんな実態をもった子供が、白いカーネーションを胸につけて同情を買っていた……これはいかにも自分らしいと私は思った。そういうポーズとともに、梢風の縁者であるというポーズをも、幼い日から私はもちつづけてきた。その両方を、秋子は見破っているにちがいないのだ。
(見破られたって、俺は俺でしかないんだから……)
秋子の眼差《まなざ》しに対しては、そんな居直りが生じた。そして、その居直りもまた、秋子には見破られているというわけだ。
「お子さんは?」
「いや、まだ……」
「ほう、それはまた、何かご計画でも」
「そういうことではないんですが……」
「なるほど、すると偶然おできにならない」
「はあ……」
「こりゃあ、ちょっとご努力がですね、足りないのでは……いや、これはさし出がましいことではありますがですね」
「まあ、こればっかりはね……」
「すると、お子さんを欲しいというお気持は、奥さまともども……」
「ええ、まあ」
「あの、これはですね、パーセントからいってもかなりの成果をあげているんですが、わたしの知っている医者でですね……」
こんなやりとりをしている私のわきで、秋子はいつもにこにこ笑って聞いていた。だがその笑顔は、内からこみあげてくるものが何もない、ただ笑いの面《めん》をまねているだけのような趣きだった――。
私は、母の躯が奇妙に自分に近づいたのを感じ、あれこれと巡らしていた思いをかき消した。正面から一組のふたり連れがやってきて旅館へ入ろうとし、母と私の姿に気づいて立ち止っていたのだった。あたりはすでに夕闇《ゆうやみ》につつまれはじめ、人影はあいまいな輪郭になっていた。銀行か何かのドアを入るのをゆずるようなポーズをとりかけたふたり連れは、急に表情を消していきおいよく旅館へ入っていった。母は、折りたたみの洋傘をにぎりなおし、鼻にハンカチを押し当てて、そのふたり連れが旅館のなかへ消えるのを見おくった。
私は、連れ込み旅館の点在する住宅街を、自分に蹤いて歩いている母のことをはじめて気にした。弥生との時間に対する思い入れが、私を夢遊病者のようにかつて弥生と入った連れ込み旅館のあたりへ足をはこばせてしまった。そして私は、自分を梢風になぞらえて、これも面白いなどと気取っているのだ。私の目のうらに、一瞬、秋子の貌が浮んで消えた。
「こっちへ出れば、駅の方だから……」
私は、そう言ってみたものの、このあたりから駅へ出たことがないことに気づいていた。私と弥生は「ボールペン」で待ち合わせて連れ込み旅館へ行き、そこを出るとまた「ボールペン」のある霞ヶ丘団地の信号まで戻った。そして、ふたたび「ボールペン」で飲むこともあったが、交差点の両脇にわかれておたがいにタクシーをひろって帰ることが多かった。私は青山方面へ向うタクシーを、弥生は四谷方面への車をひろったものだった。
私は、とにかく広い通りへ出ようと一歩足を踏み出した。そのとき、はげしい閃光《せんこう》が私の目を射た。不意を突かれてのけぞるようになった私の大袈裟な身ぶりに、母が声をあげて笑った。閃光は、大きな家の門のまえで子供たちが興じる線香花火だった。苦笑いをしながらのぞき込むと、線香花火をもった少女が顔をあげて私を見あげた。線香花火の閃光に照らされた少女は、額に垂れた前髪のあいだから鋭く光る目で私をにらむようにした。私がとまどってふり返ると、うしろにいた母が声を出し、肩をゆすって笑っていた。
6
母と私が大通りへ出ると、右角が「総合教育専修学校・河合塾」と大きな看板をかかげた予備校だった。たしかスパルタ式の教育法を売りものにする新興予備校で、「東大合格率四十八%」の謳《うた》い文句が添えてあった。
私は、いま出てきた路地をふり返って見た。子供たちが興じている線香花火の向うに、連れ込み旅館のぼんやりとしたあかりが見えた。その向うはやはり、鬱蒼とした樹が生いしげり、暗くなった空に影をひろげていた。
「あ、あっちが駅よ……」
母は、私が駅への出方を迷っていたのを知っていたかのように叫んだ。私は、さっき見た少女の貌を思い浮べながら、駅に向ってやや坂になった道を歩いていった。そして、怪訝な表情で母の横顔を見た。
(おふくろと歩調が合っている……)
そう思ったからだった。生家をたずねてみようという単なる思いつきが、母とのこれまでにない長い時間、足どりを合わせて歩くという場面を生んだ。さがしあぐねて生家のあとへたどりつき、生家のあった路地に立ち、大通りから豆腐屋のまえを通って、創業大正十一年の鮨屋へ寄った。そして、かつて弥生と徘徊《はいかい》した連れ込み旅館が点在する住宅街をぬけ、ふたたび千駄ヶ谷の駅に近づいている……ただそれだけのことだったが、母と私は、それぞれにちがった複雑な思いにかられたはずだった。
この千駄ヶ谷を出発点にしてまったくちがった旅をしてきた者同士が、それぞれの屈託をかかえて千駄ヶ谷へ舞いもどった。おたがいの胸に去来したのは、かみ合うことのできない|しこり《ヽヽヽ》のようなものだったかもしれない。だが、ふたりの道中は、背中合わせではあるが足どりを合わせて歩く時間を生んだのである。
(これからも、おふくろと俺は、こんなふうにしてつき合っていくんだろうな……)
私は、きょう半日のながいときをふり返り、おたがいの気持を語り合うことがいっさいなかったことを思い出していた。これは一生無理なことかもしれないな……私にそんなつぶやきが生じた。
祖母が母の生存を知らせたあと、母から私に一通の手紙がきた。それを読んだ私は、返事を書くことをしなかった。それは、返事を書きたくないという感情のためではなく、実の母に対する自分の感情がつかめなかったからだった。私が下宿していた学生時代、就職してしばらく経ったころ、そして結婚してからは折にふれて母からの手紙が来た。それらの手紙には、いっさい主張というものがなく、私とかかわった物事に対する母の気持の記憶が淡々と書かれてあった。そんな手紙に対して、私は一度も返事を出さないままここまでやってきたのだった。
(それでいいのかもしれない……)
私の胸に、急にそんなからっとした感情がこみあげてきた。梢風の敷いた嘘のレールは、案外正しかったのではないか……そんな思いが、徐々に私のなかでふくらんでいった。
梢風の敷いた嘘のレールは、梢風の長男であり、母の夫であり、そして私の父である友吾の死という、厳然たる事実を出発点として敷かれている。梢風は、この厳粛な事実と直面しつづけるのは自分だけにしようと思ったのではないだろうか。強引に母を説得して橋爪家へ嫁がせ、私を自分の籍に入れ、梢風はふたりに対して厳然たる事実から身を遠ざけるレールを敷いた。それは当然ふたりに新しい歪みを与えることにはなったが、友吾の死とまん真ん中でからみつくことを避けさせる唯一の方法であったかもしれないのだ。あの路地で、母がかつての村松家と橋爪家の中間で立ちつくしている姿が、私の目に浮んだ。母と祖母というふたりの母親が、リレーのようにバトン・タッチした私の時間も、これまでとはまったくちがった趣きで見えてきた。
(やっぱり梢風さんは、ただの人じゃないらしい……)
私は、母と同じように「梢風さん」という言葉を頭に思い浮べた。
(嘘ってのは、すごい特効薬だ……)
駅へわたる信号までやってきたとき、私はこれまですっかり抜けていた記憶をふと思い出した。それは、高校生のころ梢風とともにこの交差点に立った記憶だった。夏休みに上京した私は、梢風とともに東京都体育館でのプロレスを見にやってきた。清水にいるときからプロレス狂になっていた私は、張り切って梢風とともにリングサイドへ坐り、力道山とボボ・ブラジルの空手対頭突きの激突に興奮した。
ところが、放送席で時間経過を告げたり、通訳をやっていた松井翠声が梢風を見つけてやってきて、何やら小声でささやいたとたん、梢風は愉快そうに躯をゆすって笑った。松井翠声が行ってしまうと、梢風は笑顔のまま、
「いま来ている外人はアメリカではバリバリの現役で、物見遊山で来ているからいいようなものの、本気でやったら日本人なんてかないっこないそうだ……」
うれしそうに私に言ってきかせた。私は、自分なりに信じていた力道山の神話に水をかけられて不愉快だったが、梢風の異常なよろこびように意外な感じを受けた。
(リング上でプロレスラーがやっている嘘なんか、俺の敷いた嘘のレールにくらべれば子供だましだ……)
梢風はそう言いたかったのかもしれない……かつてと同じ交差点に立って東京都体育館をながめていた私は、そんなことを思いながら母を見た。母は、やはり同じように体育館の方をながめていた。
「ここへね、梢風さんとプロレスを見にきたことがあるんですよ」
そう言うと、目をしばたたいた母が私をふり返り、
「あ、梢風さんがね、そう……」
と、つぶやくように言った。母の目は、体育館を突きぬけて、その向う側にある路地で向い合ったふたつの家をとらえているのかもしれなかった。
「青ですよ……」
そう言って母をうながそうとしたとき、目のまえの道路にみるみるうちに斑点《はんてん》ができた。
「雨……」
母はあわてて折りたたみの洋傘をひらこうとしたが、一瞬、さしかけた私の傘に入った。ふたりは、躯をよせ合ってひとつの傘に入り、小走りに横断歩道をわたった。夕方のラッシュ時間なのか、改礼口をはき出された人々が次々とたまり、駅の軒先で雨やどりをしながら、走ってゆく私と母を見ていた。道を半分ほどわたるころには、すでに雨はかなりのいきおいで降りしきり、母と私の足ははねを上げていた。
こちらを向いた群れのなかへ飛び込み、傘をたたんで進もうとしたが、次から次へとはき出されてくる人々のため無理だった。仕方なく私は人群れと同じように駅前広場へ向きなおった。
すっかり暮れてしまった千駄ヶ谷の駅前広場には、黒々とした体育館と、窓からあかりのもれる津田英語塾の建物しかはっきりとは見て取れるものがなかった。そして、目の前にふりしきる豪雨の滴《しずく》が、駅のあかりに照らされて光っていた。斜めうしろをふり返ると、鼻の汗にハンカチを当てた母が、どこを見るともない目を駅前広場に投げていた。母と自分のあいだに張られた糸を、ビンとはじく梢風の巨大な指が、また私の目に浮んだ。そして、その糸の振幅のなかに祖母の丸い背が見え、秋子と弥生の貌が一瞬、見え隠れた。
(ふりだしにもどる、か……)
ゆっくりと躯の向きを変えた私は、母と同じ方向へ目をやった。だが、黒い世界のまえに幾条ものすだれ状の光る幕がおろされ、千駄ヶ谷の風景はすっかりかき消えていた。私はじっと目を凝らし、光の幕の向う側に、自分好みのけしきを想像していた――。
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第二部 上海ララバイ
1
おびただしい人々の頭が、まもなく明けようとする薄闇のなかで、ゆっくりと上下している。どこへ目をうつしても、同じようなけしきが映った。人の頭が上下する呼吸が、やがて私の神経に馴染んできた。私の躯の奥の何かが、人々のうごきに合わせて浮き沈みした。私は、自分の躯の奥に生じた不思議なけはいにとまどいながら、太極|拳《けん》の群れをながめつづけた。
午前五時半、黄浦江ぞいの外灘《バンド》には、信じられないほどの人々の太極拳がくりひろげられていた。ホテルを出たのは五時ごろだったと思うが、すでに通勤者をのせたバスは日常的な趣きで走っており、自転車での通勤者の群れも、無灯のままで行き来していた。無灯……というよりも、自転車にライトが備えつけられていないのだが、自動車のすぐわきを馴れたハンドルさばきで走っていた。
太極拳をおこなっている人々の表情は、無表情という表情をつくっているようだった。一点をみつめ、神経を集中し、躯に貯めた力を呼吸法を駆使して少しずつ吐き出す……そんな感じだ。つねに、躯の重心を保って移動する姿は、あるときは鬼気迫って私の目に映った。だが、全体のうごきはスローモーション・フィルムのようにゆったりしていて、きわめて自然だ。
腕章をつけた指導員が各ブロックに何人かいて、その号令によって太極拳はおこなわれているらしい。指導員の顔には、かたい表情とやわらかい表情がある。力強い号令をかけ、ときどき個人的な注意をしている指導員もあったが、みんなと同じ空気に溶け込んでいる感じだ。
子供たちは、やはり人がたくさん出ている場所でははしゃぎたくなるらしく、太極拳のさまざまな群れの中を、行ったり来たりしている。そんな子供が二、三人、私がながめているグループのあたりまでやってきて、大人の真似をしてはふざけ合っていた。
すると、棒をもった指導員がだまって子供のうしろへ近づき、いきなり棒で尻をひっぱたいた。子供は悪びれた照れ笑いを浮べ、指導員は無表情に列の先頭へ戻り、周囲からは笑い声がおこった。
子供を集めて鍛えている輪、水底を歩くようなうごきをつづけるグループ、無駄ばなしに興じ相手をからかいながら伸びない躯をうごかしている老人たち、瞑想《めいそう》風やカンフー・スタイルのはげしいうごき、そして体操の競技のようにスポーツ的な運動をくり返している人々……外灘《バンド》の風景をつくりあげている人群れの趣きはさまざまだった。
(それにしても、小鳥や犬猫はどこにいるのだろう……)
日本でこんな風景が生じれば、人々のあいだをぬって歩く野良犬、物かげからじっと窺《うかが》う猫の目、そして樹のあいだから不気味な調子《トーン》で叫ぶ野鳥の声といった脇役が想像できる,だが、ここだけでなく、上海の町ではそのような生き物を見かけないのだ。
「あれは、心意六合拳……」
「太極拳には、楊《よう》派と陳派があります」
ぼんやりと人々のうごきをながめている私に、運転手の孫さんがときどき説明をくわえてくれる。孫さんは、ほとんど日本語は話せないのだが、私が手に持ったノートへ文字を書きつけ、片言の日本語で説明するのだ。
「あれは、三年刀……」
私が、青竜刀の形をした木刀をもって異様なうごきを示している人々に目を釘づけにしているのに気づいて、孫さんは「三年刀」とノートに書き記し、私の耳もとで大きく叫んだ。それを合図のように、黄浦江の対岸の工場地帯の向うに太陽がのぼりはじめ、黄浦江をわたる汽笛の音がにわかに活気をおびた。
私は、そのときやっと、ホテルでまだ眠っているだろう母の顔を思い浮べた。母は、きのうの疲れでぐっすりと眠っているはずだった。
(もっとも、もし目が覚めていても、こういうのはおふくろは苦手だろうな……)
私と母が上海空港に到着したのは、きのうの午後四時だった。そのままタクシーで南京路の土産品を売る店へ連れて行かれ、日本円を元に換えた。ところが、タクシーを降りて土産品店へ入るまでに、母はすでに神経をやられてしまったらしいのだ。それは、母にとっては想像を絶する群衆のためだった。
タクシーの中の日本人を目ざとく見定め、好奇心にみちた目で凝視する中国人たちに対して、母はあきらかに恐怖心をいだいたようだった。
(日本では、こんな群衆の中へ久しく出たことはなかっただろうからな……)
そんなふうにも思ったが、母の恐怖心はそれだけではないことにすぐ気づいた。母の恐怖心は、今から四十四年前、つまり私が生れる一年前の上海体験の記憶がよみがえったためなのだ。
「あぶく銭が入ったから、上海へおふくろを連れてってやろうかな……」
そんなことを私が妻の秋子に言ったのは、一年半ほど前のことだった。知り合いの鮨屋の板前に連れられて競馬へ行き、生れてはじめて買った馬券が大当りし、五十万円あまりが懐へころがりこんだ。これをどうやって使ったらいいかというプランがいくつか頭に生じたが、けっきょくそれがいいのではないかと思ったのだった。
「それがいいわ、こんなことでもないとお母さまと旅なんてできないでしょうし」
「ま、そうだな……」
「お母さまにしてみれば、お父さまの亡くなられた土地ですものね」
「日本租界にいたんだろうけど、建物は昔のままだって言うからな」
「じゃあ、すぐに分るんでしょうね」
「さあ、それはどうかな。何しろ、日本人がそのまま住んでるんじゃないし、昔の番地が分ってるわけじゃないんだからな」
「でも、行ってみれば感じがつかめるんじゃない?」
「まあね、それだけが頼りってとこだな」
「お父さまは、何のご病気だったのかしら……」
「腸チフス」
「そうだったわね、腸チフスで亡くなるなんて、不運ね」
「今ならもちろん死なずにすんだんだろうが、当時でも日本にいれば死ぬことはなかっただろうな」
「お仕事で疲れてたんでしょうね」
「何しろ、当時の緊迫した空気の中だから、取材でうごくのも神経をつかったろうし」
「新聞記者だったんでしょ、お父さまは」
「ああ、上海毎日って新聞社の記者だったんだ」
「それは、毎日新聞と関係あるの」
「さあ……」
「あなたって、そういうことにあまり興味ないのね」
「きみのように、親子で愛情を育《はぐく》んだ経験がないからね」
「それ、皮肉?」
「いや、べつに……」
「ともかく、行ってらっしゃいよ」
「ああ……」
秋子との会話は、何となく尻切れトンボのようになったが、母にその計画を電話すると、電話の向うからはずんだ声が返ってきた。それから一年半たって、上海行きが実現したというわけだが、上海の街での母の硬《こわ》ばった表情は、私にはちょっと意外だった。最初に電話をかけたときのはずんだ声には、上海という土地に対するなつかしさのひびきがあったはずだ。だが、上海の土を踏んだ母の目は虚《うつ》ろだった。母の中に眠っていた記憶の断片が、ひとつずつ剥《はが》れるにつれ、母の表情にはかたさがくわえられていくようだった。
「市場へ行ってみますか……」
孫さんの声に、私ははじかれたようにふり返った。外灘《バンド》のけしきは、すでにすっかり明けきっていた。太極拳はまだまだつづくらしいので、もう少しこのあたりにいたいことを孫さんに告げ、黄浦公園から河濱公園の方へ移動した。
あかるくなったけしきの中で、太極拳はいつ果てるともなくつづいている。額にバンダナを巻きトレーニング・ウェアに身をつつんだアメリカ人らしい男が、中国人の列の先頭に立って真面目なうごきを見せていた。そのよこでは、うまく躯のバランスのとれない老人を、となりの老婆がからかうといった光景があり、何もせずに見物している中国人も意外に多いことが、徐々に私の目にとらえられてきた。
(どこか、戦後のラジオ体操に似ているな……)
神社の境内へ老若男女が集って、木にくくりつけたスピーカーからながれる音楽と号令に合わせ、みんなで毎日やっていた戦争直後のラジオ体操の光景が私の目のうらに生じた。また、船橋ヘルスセンターあたりで楽しく集う老人の群れに似ているようにも思えた。もしかしたら、そこで行われていることの趣きが似ているのではなく、上海の人の顔が私に時間をさかのぼらせているのかもしれなかった。上海の人々の貌は、私が子供のころに見たおとなの貌と、どこかでかさなるような気がするのだ。
(現代の日本人の貌は、あのころとはちがってしまったのだろうか……)
私は黄浦江の対岸にのぼってきた赤い太陽をながめた。赤い陽に帆を染めたジャンクが黄浦江をすべってゆく。水面がキラリと光り、それに目を射られるたびに対岸の風景が消えた。
「市場、おわってしまいますから……」
うしろから声をかけた孫さんをふり向くと、赤い陽をあびた上海独特の石の建物が目に入った。それはまさに、中国人のものでない中国だった。それを目にした瞬間、またもや私の躯の奥に、不思議なけはいが生じた。
2
「どうでした、市場は」
巨鹿路菜場の入口まで戻ってくると、通訳の周さんが、いたずらっぽい目をして待っていた。周さんは、日本語は流暢《りゆうちよう》だから、ほとんどの冗談も通じるし、私の旅の流儀もすぐに理解してくれる勘のよさがあった。
私たちの上海旅行は四泊五日、このなかでどうしたら満足させられるかというプランを、周さんは周さんなりに練っていたらしい。日本人の観光旅行のコースを、なるべく多く入れる努力をしながら、周さんは一応の計画を立ててくれていた。だが、それが私たちの目的と少しばかりずれていることに気づくと、周さんはすぐに計画を修正してくれた。
「せっかく作ってくれたプランなのに、すみませんね」
「いえ、私たちは旅行者の方に楽しんでいただくのが一番ですから」
「つまり、おふくろの場合は、呉淞路《ウースンロ》のむかし住んでいた家をたずねることが目的なんです」
「それだけ、ですか……」
「ええ、それだけみたいなもんです」
「で、あなたは?」
「ぼくは、何と言うか、市場とか雑踏とか、何となく上海の空気にふれたいのと、太極拳をやっている風景、できれば芝居を見たいんです。それに、運よくシーズンですから、上海ガニはぜったいに食べたい」
「ああ、分りました」
「すみません、変則的で」
「いえ、私の方はかまいません。でも、おかしな目的ですね」
「そうでしょうね」
「雑踏なんて、目的をもって行かなくても、南京路を歩いていれば雑踏の中ですから」
「ええ、それでいいんです」
「どこでも同じですよ」
「いや、それがちがうんですよね、人の顔は」
「じゃ、人の顔を見に来たんですか」
「ええ、まあ……」
「そうすると、私も見られてますね」
「もちろん、そうです」
そんなやりとりのあと、周さんは自分なりのメニューをつくってくれた。周さんは、二十六歳の女性で、色白で唇のあかい、あかるい娘さんだった。父親は中学校の先生をやっていて、母親や姉は労働者だと説明していた。
「しかし、市場というのは、どこの国でも活気があって気持がいいですね」
私がそう言うと、
「どこの国の市場へ行かれました?」
周さんは、目をかがやかせて聞いた。ベトナム、タイ、韓国、メキシコ、エジプト……私は、かつて自分が行ったことのある国の市場を、台湾だけを除いて説明した。
「それにくらべると、ここの市場はちょっと寂しいですね」
私の言葉に、周さんは怪訝な顔をした。
「寂しい? 人が少いですか」
「いや、規模が小さいみたいな……」
「規模? ああ、でも、人がたくさんいるとちがいますよ」
「人がねえ……」
「今日は、外灘《バンド》で時間とりすぎて遅くなってしまったから」
「なるほど」
「日本の市場とは、ちがいますか」
「ああ、ちょっとね」
「どんなふうに?」
「さあ、どんなふうと言っても……」
私は、周さんに何と答えたらいいか分らずに困った。日本の市場とちがっていると言えば言えるのだが、市場などどこでも同じ雰囲気みたいな気もする。ここの市場によく似た日本の地方都市の市場は想像できるし、やはり、規模がちがうと答えるより外にない。資本の流通が大手をふって歩いている国と、そうでない国とで、市場の規模がちがうのは当り前のことだろう。そんなことを考えていた私は、さっき見た奇妙な魚の処理の仕方を思い浮べていた。
野菜市場の大通りをはさんだ反対側に、魚を売っている場所があり、そのへんは千葉県あたりの朝市のごとき風景だった。その中に何箇所か、太刀魚《たちうお》のような魚をあつかっているおばさんがいた。その魚のヒレを、おばさんはまずハサミで切り落す。そして次に、磨き砂のようなものをふりかけて、タワシ状のものでこすり、ウロコを落す。それを洗っては別の器にうつしているのだが、魚のウロコに磨き砂をかけるというやり方を見るのは、私にとってははじめてだった。おばさんの姿は、魚を売る人というよりも研ぎ屋という趣きだった。だが、これを周さんに説明したところで、話がながくなるだけという気がした。
「油条《ユーチヤオ》、食べますか」
周さんが、そう言って私の顔をのぞき込んだので、私は大きくうなずいた。油条というのはたぶんあれだろうと、私は見当をつけていた。ドーナツのような色をしたやわらかいパンが、大きな油の鍋《なべ》からあがってくる売場に、人々が列をつくっているのを市場の中で見たが、それが油条にちがいないと思ったのだ。それには何の根拠もなかったが、周さんの「油条、食べますか?」と言うときの表情が、「私たちの朝食、食べてみます?」というふうに私の耳にひびいたのだった。
「もちろん、食べたいね」
「油煎餠は……」
「あ、それも」
「じゃ、行きましょう」
周さんは、うれしそうに油条と油煎餠を売っている店へ向って走って行った。私は、あわててあとを追い、列にならんだ周さんの肩をたたき、
「朝食、食べてこなかったんだろう」
そう言うと、周さんはにっこりと笑って私に片目をつぶり、
「私、朝寝るのと西瓜子《シークアズ》が大好き」
と叫んだ。周さんがならんだ列は、やはり私が見当をつけたドーナツのような色をしたパンを売っている場所だった。
「これ、いくらなの」
やっと油条と油煎餠を買ってきた周さんに金をわたそうとすると、彼女は首をふって笑った。
「この油条、いくらだと思いますか」
「さあ……」
「四分」
「四分って言うと、日本円でいくら?」
「二銭です」
「へえ、こっちの油煎餠は?」
「五分だから、それよりちょっと高いだけ」
「なるほどな……」
「何を感心してるんですか」
「いや、最低限、これだけ食ってれば大丈夫という国民食みたいなものが、どこへ行ってもあるんだなと思っただけ」
「日本にはないんですか」
「日本には、ないなあ……エジプトにもメキシコにも、あったみたいだけど」
「とにかく、食べてみませんか」
「あ、そうだね」
私は、周さんの持っている油条を少しちぎり、口へ入れてみた。
「これは、うまいじゃないか」
「本当ですか」
「うん、こいつはいける。帰るとき持って行こう」
「それじゃ、お母さんにたのんで市場で買ってもらいます」
「つまり、周さんはそのあいだ眠ってるってわけだ」
「はい、そうです。油煎餠は、どうですか」
周さんが、塩せんべいを大きくしたような油煎餠をすすめたので、それをつまんでみるとやわらかい感触だった。ちぎって食べてみると、微妙な塩味がきいていていい味だった。
「これと茶があれば、何もいりません」
「ああ、いい朝食だよね」
道に立ったまま、周さんと私が油条と油煎餠を食べていると、孫さんがやってきて周さんの手から油条をちぎり、大きな口をあけて頬ばった。
「あれ、孫さんもけさは朝食ぬきかい」
「いや、昼食です」
「そんなはずはないよ、その食べ方は」
「孫さんも、朝は苦手なんですよ」
「周さんほどじゃないでしょう、けさも五時から外灘《バンド》へつき合ってくれたし。そこへいくと周さんは、ぐっすり眠ってこの市場の入口へやってきたわけだから、朝食の時間くらいあったでしょう」
「今日は、とくによく眠りましたから、朝食ぬきでかけつけました」
「今日も、でしょ」
「ああ、それちがいます、今日は、です」
髪にパーマをかけ、エンジ色の上衣を羽おり、黒いズボンをはいた周さんは、私が小学生のころの音楽の先生に似ている。色白の血色のよい唇から、白い歯がこぼれて健康そうだった。
「さあ、ホテルへ帰りましょうか……」
孫さんがそう言って道をわたり、停めてある水色の車のドアを開けた。周さんにつづいて道をわたろうとした私は、やってきた自転車をよけるため、いったんもとの位置へもどろうとした。そのとき、大きなカゴをかかえた中年の女性にぶつかりそうになり、私はあわてて躯をひねってよけた。そして私は、笑顔をつくって女性に会釈を向けた。すると、その中年女性は、私の顔を見て表情を固くした。
彼女には、母が中国人に対して示したのと同じような恐怖の感情がただよっていた。私は、自分の顔に手をやり、スミでもついているのかなというふうにおどけて見せた。だが、彼女の表情の固さはとけることがなかった。
3
「これが、何て言う物ですって……」
母は、だいぶ前に起きて待ちくたびれたといった表情で、私と周さんの顔を交互にながめた。
「ユーチャオ、ユーテァオ、ユーテャオ……どう発音しても当ってないみたいで困るんだけど、油条って書くらしい。油で揚げた長い物ってことらしいですね。条ってのは長い物のことらしいから」
「そうね、形が長いものね」
「これが、私たちの朝食です」
「そう、おいしいわね、これ」
「それ、お茶に合いますよ」
「ウーロン茶?」
「ああ、そうですね」
「朝はオカユって聞いてたから、塩昆布と梅干し持ってきたんだけど、これならいらないわね」
「ええと、朝食は食べますか」
「あたしは大丈夫、何しろゆうべ食べすぎたから……」
母は、やはり少し疲れているようだった。それは、飛行機による旅とか、ゆうべの食事のもたれというより、四十四年ぶりにおとずれた土地の重みのためにちがいなかった。だが、母は四十四年前に父とともにすごした場所へ、まだ躯をはこんだわけではないのだ。
「そろそろ、行きましょうか、お母さん」
周さんは、さかんに「お母さん」という言葉を連発する。飛行場から町へ向う車の中で、私たちが親子であることを知ると、周さんはまず私に「親孝行ですね」と言った。私はとりあえず頭をかいて照れ笑いをして見せ、母はかるく微笑《ほほえ》んで見せたが、私と母のあいだには複雑な風が吹いたようだった。親孝行……この言葉ほど私にとって無縁なものはないはずだ。私たちは、親不孝という形の親孝行までもがからみつかない、不思議な母と子の関係なのだ。
「行きますか……」
「そうねえ、行きましょうか」
母は心なしか消極的な感じがした。しかし、旅の目的はあくまでこれなのだからと自分に言いきかせているかのように唇をかんで、ベッドの上にあったハンドバッグを取りあげた――。
「ガーデン・ブリッジをわたると、ブロードウェイ・マンションがうしろにあるでしょ」
「いえ、ブロードウェイ・マンションは、ガーデン・ブリッジをわたった左側です」
「そんなはずはないのよ。何しろガーデン・ブリッジのところに憲兵がいて、なるべく下を向いてブロードウェイ・マンションをうしろにして橋をわたって、呉淞路《ウースンロ》へ入って行くんですもの」
「呉淞路はたしかにその方角ですけど、ブロードウェイ・マンションの位置が……」
「あたしの記憶ちがいかしら、おかしいわねえ」
「とにかく、呉淞路へ行ってみましょうか」
「そうだね、そうすれば思い出すかもしれない……」
かつての日本租界の中の呉淞路へ、私たちを乗せた車は入っていった。呉淞路にも、おびただしい人があふれていた。
「この上海の道の混みようってのは、お祭や歩行者天国とはちょっとちがいますね」
「そうねえ……」
「ぼくはよくプロレスを見に行くんだけど、プロレスが終って人が吐き出されるときの会場の前の道ね、そんな感じだなあ」
「ああ……」
「とにかく、用がない人や遊んでる人というんじゃなくて、何しろどこかへ向って急ぎ足なんだよね」
「そんな感じね……」
「しかし、それにしてもすごい人混みがどこまでもつづくもんだなあ」
「ほんとに……」
母は、私の言葉に一応は相槌《あいづち》を打っているものの、その語尾がぼやけていた。それは、いま車が走っている呉淞路を見定めようとしているというよりも、かつて身をおいた土地へやってきてしまったという気の重さが、心をからっぽにしているようだった。
(おふくろは、興奮して|あが《ヽヽ》ってるのかな……)
そう思って母の横顔を盗み見ると、首のあたりに筋が浮き力が入っているのがうかがえた。そして私はといえば、母のセンチメンタルな気分から遠ざかろうとするため、あれこれと無駄口をたたいている。やっぱり、おふくろと俺のミゾは埋まるもんじゃない……私は、あらためてそういう気分をかみしめた。
呉淞路の呉服屋の三階……そこに、父と母は一年ほど住んでいたはずだ。昭和十三年の三月に父が上海へ赴き、六月には母もやってきた。それは父と母の新婚早々の時期、父は二十六歳で母は十九歳のときだった。そして、約一年間の上海での新婚生活のあげく、昭和十四年九月十七日、父は腸チフスであっさりと死んでしまう。そのとき母は日本へ帰っていたが、その胎内には私が宿っていた……こんな話を、私は誰からともなく聞かされたような気がしている。
父が死んだとき母は二十歳そこそこであり、私を村松の家へのこして他家へ嫁いでいった。私は、祖父の籍へ入れられ、母は死んだと言いきかされて育った。私を静岡県の清水で育てたのは祖母だったが、そのころ祖父はすでに鎌倉に生活の場をもうけ、世間の人に「奥さん」と呼ばれる女性とくらしていた。
そんな状態でありながら、祖父はひと月に一度くらいは清水にやってきた。そして、戸籍上の妻はあくまで祖母であった。祖母はおそらく、私を育てることが生活の張りであったにちがいない。ときどき清水へやってくる祖父と出かけることがあっても、祖母は四メートルほどうしろを蹤いていった。ある時期から、祖母は念仏をはじめるようになり、近所の老婆たちをあつめて高野山の念仏大会へ出場したりした。それはたぶん、祖父とのつながりの何かを自ら断ち切るための手だてであったにちがいない。おそらく祖母にとって、祖父はすでに手のとどかない存在になってしまっていたのだろう。
祖父は村松梢風という名で世間に知られる小説家だった。私は、小学校のときに学年が変るたびに配られる書類の「父の職業」という欄に「著述業」と書き入れるのを、どこかで誇らしげに思っていたはずだ。
小学校四年の夏休み、清水へやってきた梢風は、私の頭に手をやり、
「鎌倉へ行くか?」
と聞いた。私は反射的に祖母の顔を見たが、祖母は寂し気に火鉢の灰をかき回していた。私は、頭におかれた祖父の手がやけに重いのを感じながら、顔をあげてコックリとうなずいた。
鎌倉から帰ってくると、祖母はやはり火鉢の灰をかき回しながら、
「どうだっけ?」
と聞いた。私は見たこと聞いたことすべてが新鮮であったので、その通りをはずんだ気持で祖母につたえた。祖母は、火鉢の灰をかき回す手をすこし休め、ぼんやりとした目を宙に泳がせていたが、
「鎌倉に、知らないおばさんがいたかね」
ポツリと言った。
「ああ、いただよ」
「そう……」
「御用聞きの人なんか、あのおばさんを奥さん奥さんて呼んでたけど、どうしてずら」
「さあ、どうしてずらねえ……」
祖母は、また寂しそうな顔をした。それを見た私は、祖母に対して言ってはいけないことを言ってしまったことを漠然と感じ、祖母をかわいそうだと思った。ところが、鎌倉の梢風の家の、それまでに見たことのない雰囲気に魅《ひ》かれる気持は、そのことによって抑えられるものではなかった。
鎌倉の家には、紅茶やチーズの匂いがあった。そして、たずねてくる大人のタバコの匂いと、客に出すヘネシーのブランデーの香りが部屋にただよっていた。それは、シャケと紅ショウガとゴマ塩でくらす祖母との生活からは、想像のできない世界だった。その魅力が、私を虚実をもてあそぶ奇妙な子供にしてしまったのである。それは私の見得のようなものだった。つまり、鎌倉の梢風の生活が自分の環境であるかのごときポーズで、自分自身をも騙《だま》してしまう癖のようなものが、そのころから身についてしまったのだった。
やがて私は、休みのたびに鎌倉の梢風の家へ行くようになり、清水での生活が架空の時間であると思い込んでしまいかねない少年になった。清水の家の二階で、梢風が戦前に上海から買ってきた画や書、あるいは調度品や絨毯《じゆうたん》にかこまれているとき、階下で仏壇に灯明をあげている祖母の存在は、私にとっておそろしく稀薄《きはく》だったような気がする。
梢風は、家庭というものをないがしろにして勝手気ままな生活をおくっていたが、誰からも恨まれることのない人だった。自分が魅せられた魔都上海へ、まったく個性のちがう父を送り込んだのも梢風だった。
「物を書くつもりなら、上海を見ておいた方がいい」
そう言って強く梢風にすすめられ、新婚早々の父は、気が進まないまま上海へ赴いた。そして、その上海で腸チフスにかかって死んだのだから、さすがに梢風は痛恨の思いを味わったらしい。それは、のちになって梢風の息子であり、私の父の弟である叔父たちから、さまざまな言い方で聞かされたことだ。
「おまえのおやじが亡くなったあとは、さすがに脱けがらみたいになっていたよ……」
そんな言葉を、何度も聞いたように思う。だが、そのあとも梢風は精力的な執筆活動をつづけ、その存在はますます祖母から遠いものになっていった。そして、梢風の存在が祖母から離れてゆくにつれ、祖母に育てられていた私の気持も分裂していったのだ。ところが、虚と実がどちらともつかず、神経がこんぐらがってしまっていた私に、強烈な事実が突きつけられた。それは、高校三年の夏休み、鎌倉の家でのことだった。
居間で電蓄を聴いている私のそばへやってきた、「奥さん」と呼ばれる女性が、何気ない調子で、
「あんたのお母さん、本当は生きてるんだよ……」
と言ったのだ。その実の母は、それまで親類のおばさんだと言われて、何度かあったことのある人だった。そのとき、自分の躯の芯《しん》を何かがはしりぬけたのを私はおぼえている。だが、それよりも強く感じたのは、このことは祖母から聞いてやらねば……という感覚だった。
(あれも、俺独特の逃げの一手かな……)
今になってみれば、そういう思いもある。たしかにあのときは、鎌倉の家での梢風の生活の裏で、孫を子として育ててきた祖母の気持を思いやる気持もあったにちがいない。だが、そんなことよりも、死んでこの世にいないと思っていた母親が、生きて存在しているという事実に、強い衝撃を受けるのがふつうの感情だろう。自分を育ててきた祖母に気持を向けるというのは、やはり虚と実のあいだで迷子になっていた少年の神経なのではないだろうか。頭で考えたというより、物事の真実を真正面で受け止めるというネジが、すでに私の躯からは抜けおちてしまっていたというのが当っているようだ。
それから私は、祖母が母のことを切り出すのを、今日か明日かと待つ日がつづいた。鎌倉の「奥さん」と呼ばれる女性が、「高校を卒業するまでは知らせないことになっていたけど……」と言ったのが、頭に突き刺っていたからだった。
するとある日、祖母は仏壇に灯明をあげ、火鉢の前へ私を呼び、そのことを打ち明けた。祖母は、火鉢の灰に波形を描きながら、ひとことずつかみしめるように話した。私は、待ちかまえていた場面に緊張していたが、祖母の話を聞きながら、またもや分裂してゆく自分の神経を感じた。この話にあまりびっくりしたら、せっかく私を育てた祖母の立場が宙ぶらりんとなってしまう。しかし、この話に心をうごかされるけはいが祖母に伝わらなかったら、祖母は私が前からそのことを知っていたと思うだろう。そのあげく、祖母に対してどのように反応したのだったか、それがいまだに思い出せないのだ。
私に母の生存を告げると、祖母はひと安心したようだったが、その丸い背からますます張りが消えていった。別な女性と生活する夫の裏に回り、孫を養育することで意地の支えとしてきたのが、ぷつりと切れてしまったのだろう。そのとき祖母は、
「これでもう、おまえはおじいちゃんにお返しするんだから……」
ぽつりと、そんなことを呟《つぶや》いていた。それはいったいどのような意味なのか、私には皆目見当がつかなかった。お返しする……と言うからには、私は梢風のところでくらすような感じだが、それでは祖母はどうするのか。私もいなくなった清水で、たったひとりでくらすつもりなのだろうか。
「あんたっちのおばあちゃんは、あんたと一緒にくらすのが夢だからねえ……」
私は、祖母の念仏仲間の何人かから、そんな言葉を聞いていた。それはたぶん、祖母のグチ話を私に伝えたものだろうが、祖母の正直な気持のあらわれにちがいないと思った。しかし、高校を卒業して東京の大学へ行ったところで、私には生活能力があるわけではない。そんな私と一緒にくらすと言っても、現実を考えれば無いものねだりだ。それに、祖母は私とくらすのが夢だと言うが、これまで私はずっと祖母とくらしてきたではないか。祖母が念仏仲間に言った言葉の意味の芯は、いったい何なのだろうか……当時の私には、それはまったくつかめなかった。いや、今となってみても、あの意味は私にとって謎のままであるのかもしれない。
そして、謎はまだある。私は母の生存を打ち明けられたあと、梢風の葬式ではじめて実の母に会ったのだ。梢風が死んだのは、昭和三十六年の二月十三日であり、私が大学二年のときだった。つまり、母の生存を打ち明けられてから母に会うまでには、二年間くらいの期間があるのだ。打ち明けるだけは打ち明けて、あとはいったいどうするつもりだったのか……祖母は私を梢風に返したつもりであり、梢風は母のことについてはひと言も触れなかった。
さらにもうひとつの謎は、梢風が死んだときの祖母の反応だった。
東京での葬儀を終えてから私が清水へ帰ってくると、祖母はひとりで仏壇に灯明をあげていた。そして帰って来た私の顔を見ると、
「今ごろまで、なぜ帰ってこなかった!」
と言って怒鳴った。私はその意味がのみ込めなかった。母の生存を私に知らせていらい、祖母はあきらかに躯から力がぬけたようになっていたはずなのだ。そして、私には「おまえはもうおじいちゃんにお返しするんだから……」と言っていた。東京で行われた梢風の葬式にも出席せず、清水の家の仏壇に向って灯明をあげていた祖母の躯に、どうして急に力がみなぎってきたのか、私にはそれが解せなかった。
そこへ、地元の新聞社の人がたずねて来たが、祖母は妙に愛想よく応対していた。
「はい、わたくしが梢風の家内でございます。ええもう、ああいう人ですから、わたくしは主人のすることにはいっさい文句を言わず、したいようにさせていたんでございます、はい……」
私は、記者に向って滔々《とうとう》としゃべりつづける祖母の背中を、不気味なものを見るような気持でながめた。そして、いいかげんに切り上げたほうがいいと思い、
「おばあちゃん!」
袖《そで》のあたりをそっと引くと、それを乱暴にふりはらった祖母が、恐ろしい顔でふり返って私をにらみつけた。私が、あとにもさきにも、祖母のことを恐いと思ったのは、あのときだけだった。
記者が帰ってしまうと、祖母はいつもの脱けがらのような背中になり、火鉢の前へ坐ってあいかわらず、灰に波形を描きつづけていた。
梢風の葬式で対面した母は、私の顔を見ると、
「これからは、しっかりしなくちゃね……」
たしなめるように言っていた。母は、再婚した夫とのあいだにふたりの娘をもうけたが、その夫にも病気ですでに先だたれていた。梢風の葬式の控室で会った母の顔が、火鉢の灰に波形を描く祖母の背中にかさなったような気がしたが、それは脈絡のない私の感傷だったにちがいない。
「おまえはもうおじいちゃんにお返ししたんだから……」と祖母は言っていたが、その「おじいちゃん」たる梢風はこの世にいなくなってしまった。そうなって祖母は自分の言葉を修正するのかどうか、それもよくつかめないうちに梢風のあとを追うように逝ってしまった。
すべての謎を宙ぶらりんにのこしたまま、戸籍上の父と母はこの世から消えてしまった。本当の父は私が生れる前に死んでいる。のこっているのは、私と母だけということになった。だが、実感として私との関係をあとづけできる母と、謎が宙に浮いたままの私が、自然なかたちで関係を保てるはずもなかった。身よりがすべていなくなった子に対する思い入れをからめずに、母は私を見ることはできない。だが、私の躯からは、母とのつながりを保つネジが一個抜けおちているのだ。
「そういうふうに思い込もうと、あなた自身が努力してるんじゃないのかしら」
自分の生い立ちにふれて私がしゃべると、秋子はいつもそう言って水をかける。それはたぶん、東北の雪国の大家族に育った秋子の、私に対する反発なのだろう。
「自分の躯に一本ネジが欠けている……そう思いたいあなたにとって、恰好《かつこう》の過去があったっていう感じ」
「そんなに都合よくなってるかね、俺の考え……」
「なってますよ、完全に気取ってるもの」
「そうかなあ」
「それで、そういうネジがぜんぶそろってるあたしが、いつもヤボの代表になってるんでしょ」
「べつに、そういうわけじゃないけどね」
「けっきょく、カッコつけてるんじゃないかしら」
「俺が、かい……」
「言葉遣いなんかも、変にていねいでしょう」
「そうかねえ」
「あのね、そういうふうにやっていくと、宙ぶらりんになっちゃうのは、あなたじゃなくてお母さまじゃないかしら」
「おふくろが……」
「そう、あなた好みのメルヘンの小道具……」
「いや、おふくろは今、べつに不幸じゃないだろう」
「そりゃあ、今はね」
「自分の娘の婿さんと一緒に住んでだよ、実の子の俺とだってたまに行き来する……いい晩年じゃないかな」
「それはあなたの考え方でしょ、お母さまはあなたとはちがうんだから」
「何がちがうんだよ……」
「これまでのご自分の時間にからまった謎が、お母さまこそ宙ぶらりんでしょ」
「何が宙ぶらりんなんだよ」
「実の息子のあなたの存在だって、お母さまにとっては宙ぶらりんでしょ」
「まあ、おふくろとふたりきりになったりすると、話がつづかないものなあ」
「そうでしょ、息苦しいんじゃない、お母さまも」
「あのね、人生ってのは宙ぶらりんなの」
「だから、それはあなたの考えでしょう」
「でも、おふくろと行き来できるようになったのは、結婚いらいだからな」
「そうすると、あたしもひと役買ってるってことね」
「そういうことになるね」
「なぜ、そうなったのかしら……」
「俺は、下宿にいるときにじいさんとばあさんが死んじゃっただろ、だから帰省先っていうのがなくなっちゃったんだよな」
「また、得意の宙ぶらりん」
「茶化すなよ、そういうことがおふくろの目から見ると、かわいそうと映るんじゃないかな」
「そりゃ、まあそうでしょうね」
「ところが結婚するとさ、とりあえずは伴侶《はんりよ》がいるわけだから、すこしはかわいそうさが減るだろう」
「かわいそうさが減る、ねえ……」
「ま、生活があるって感じでさ」
「そういう意味では、お母さまは安心されたのよね」
「でね、俺はかわいそうと見られるのが好きじゃないから、おふくろがそう見ないことで気が楽になったってわけだ」
「あなたみたいに、自分にだけ興味もってる人って、あまりいないんじゃないかしら」
「そうかな……」
「何だか、あたしが宙ぶらりんになりそう」
「きみは、ちゃんと育ったんだから文句はないだろう」
「また、そう言って蔑《さげす》むんだから」
「べつに、蔑んでなんかいないさ」
「いいえ、あたしには何となく分るんです……」
「ああ、そうかい」
「そういう意味でも、お母さまとの上海行きは実現してほしいわね」
「そういう意味って、何だい」
「あなたの感覚のいちばん|もと《ヽヽ》っていうのは、お父さまがあなたが生れる前に亡くなったってことなんでしょ」
「はあ……」
「だから、それをまぼろしにしておかないで、現実に見てくればいいんですよ」
「そういうことか……」
「言ってみれば、もういちど人生のスタートまでもどって自分をながめてみるってことかしら」
「………」
「そうすれば、べつに自分を特別だって思わなくていいんじゃないかしら」
「なるほどね、ご意見はうけたまわっておこう」
「自分をかわいそうだって思ってるのは、お母さまより、あなた自身かもしれないわよ」
「こいつは、きつい言い方だ」
秋子とのやりとりを反芻しているあいだに、車は呉淞路から遠ざかってしまい、ふたたびブロードウェイ・マンションの前まで来てしまった。昔のブロードウェイ・マンション、今は上海大廈……その前で車を止め、周さんと孫さんは何やら相談し合っている。母は、ブロードウェイ・マンションがガーデン・ブリッジをわたった左側にあるということが、どうしても納得できないらしく、ガーデン・ブリッジの向う側を見やりながら首をかしげている。
「四川北路ではありませんね……」
周さんは、母をふり返ってたしかめるように言った。
「いえ、呉淞路です」
「じゃあ、呉淞路へもういちど入ってみます」
車は、ふたたび呉淞路をゆっくりと走りはじめた。このあたりがかつての日本租界か……私は、下町的な呉淞路のたたずまいから、父が生きていたころの様子を想像しようとした。しかし、おびただしい中国人の人群れが、私の想像を遮断した。建物はレンガや石造りなのでもとのままのこっているのだろうが、道の側へ洗濯物を干し、家の前で老人がぼんやりと外を見ているありさまは、日本人の生活とは趣きがちがいすぎる。しかも、ニワトリを追いはらうように車はクラクションを鳴らしつづけ、そのたびに歩いている中国人が素直に道をあけるのだが、一瞬、鋭い目を車の中の母と私に注ぐ。あらゆる人の目が、日本人である私たちをかならず確認しているようだ。だが、中国人たちの私たちに対する目のニュアンスまでは、読み取ることができないのだ。
「呉淞路は、ここまでです……」
「あ、そう」
「もういちど、廻ってきましょうか」
「そうねえ……」
母の目に焦りの色が浮んできた。母は、かつての記憶をたどろうとしているのだが、母のたどり方では、現在の位置がつかめないらしいのだ。
「写真館の一軒おいてとなりに呉服屋さんがあって、向いが甘栗《あまぐり》太郎だったんだから……」
「しかし、そんなものは今は変ってしまっているだろうから……」
「いいえ、甘栗太郎もそのままのこっているって、むかしここにいた人が言っていたんだから」
「それは、甘栗太郎のあった建物がそのままってことで、現在も甘栗太郎をやってるわけないものね」
「そうねえ……」
母は、しだいに不安になりながら、車の左右をながめ首をかしげている。
「このへんで車を止めて、ちょっと歩いてみます」
母が急にそう言ったので、私は少しおどろいた。中国人の群れに恐怖をよみがえらせていたはずの母が、積極的に車の外へ出ようとしているのは意外だった。
(おふくろは、何かに支えられはじめたのかな……)
車の外へ出て、呉淞路の道の両脇、路地の様子をじっとながめている母を見て、私はそう思った。だが、母はそのあたりの手応《てごた》えをつかんだのではなく、何もよみがえらない記憶に茫然と立ちつくしているようだった。
「分りませんか……」
「呉淞路には、まちがいないんだけど」
「建物は、まったく変ってないんでしょう」
「そう。でも、建物を飾るものがぜんぶ変ってしまったし、やっぱり中国人の家になっちゃってるから、みんな同じみたい……」
「なるほど……」
「店がちゃんとのこってればね」
「街の感じでは、分らないんですか」
「ちょっと、分らないわね」
「この先に郵便局がありますけど、あれは目印になりませんか」
周さんと孫さんが、向うからやって来て言った。
「それは、昔からある郵便局?」
「そうです」
「じゃ、その先の方に上海毎日があったんだわ」
「そうですか」
「で、手前に郵便局があって、そこからブロードウェイ・マンションの方角へ少しあるいたところの右側……」
「それは、ちょうどお母さんの立っているところですよ」
周さんは、そう言って母の足もとを指さした。母は、指さされた足もとに目を落した。そして、ゆっくりと目をあげ、たしかめるようにすぐ前の建物を見ているのだが、腑《ふ》に落ちない表情は変らなかった。
「やっぱり、見当がつかないわ……」
「郵便局から少し歩いてきたところに、写真館があったわけ?」
「そう……」
「その一軒おいてとなりが、呉服屋?」
「そう……」
「で、この表通りに入口があった?」
「その呉服屋さんが角にあって、路地をまがったところから入るんだけど……」
「それじゃ、その路地をさがせばいい」
「路地……」
「ここの前をいちおう写真館と決めて……」
私は、そう言ってゆっくりと歩いた。
「一軒おいてとなりを呉服屋と決めて……」
私は、その先へ進んだ。
「この路地かな……」
母は、私が指さした路地の入口に立って、奥を見ていた。母の目に、かすかに光がもどってきた。
「ああ、こんな路地だった……」
「この路地を入って、どこが入口なの?」
「このあたりだと思うんだけど……」
母は、角の家のレンガの壁をしきりにながめていたが、
「入口を壁にしちゃったのかしら……たしか、路地を入ったすぐ右側に入口が」
「じゃあ、ここなんじゃないかな」
「でも、入口がねえ」
「あたりの感じは、こんなふうだったんでしょ」
「ええ。でも、ほかの路地も同じようだったし」
「むずかしいな……」
そんなことを言っていると、やがて、近所の人々が次々に集ってきた。周さんは、母の言葉の断片を伝えるのだが、彼らにはそれが理解できないらしい。しかし、分らないながらも首を突っ込む人はあとからきりがなく増え、母は周さんに必死で説明をくり返している。「呉服屋」とか「写真館」という言葉が母の口から出るたびに、周さんはそれを中国語に訳すのだが、それに反応する人はいない。彼らは、私たち日本人に対するものめずらしさだけで、集ってきているのかもしれなかった。
「やっぱり、四十四年も前のことを知ってる人なんかいないのね、もっと年取った人がいればねえ……」
母がそう呟いたとき、周さんが突然叫んだ。
「あの、写真館は別の通りにあるそうです!」
周さんのはずんだ声に、近所の人々もいきおいよくうなずいた。
「いや、写真館をさがしてるんじゃないんですよ」
私は、周さんに対する苛立《いらだ》ちをも込めて、手をはげしくふった。
「やっぱり、よく分らない……」
母は、路地裏のレンガ造りの建物を何度も見あげていたが、ついにあきらめたように周さんを手招いた。
「ありがとう、四十年以上も前のことだもの、分らなくて当り前よ……」
母は、私に対する遠慮なのか、こんなところでいつまでも時間をとって申し訳ないという表情をした。
「いや、分るまで探せばいいのに」
「いいのよ、もう……」
「べつに、時間の制限があるわけじゃないんだから……」
「でも、分らないから」
「分らないって、もっとよく探せば分るかもしれないでしょう」
「もう、いいわ……」
母は、さっさと道をわたり、中で孫さんの待つ水色の車の方へ歩いて行った。私は、唖然《あぜん》として母のうしろ姿を見送ってから、周さんをふり返った。だが、そこには周さんではなく、口々に何かを言い合いながら、じっとこちらを窺っている中国人たちの姿があった。
4
「さて、カニだよカニ……」
私は、今夜の夕食は上海ガニと朝から決めていたので、とにかく浮き浮きとした気分になっていた。
「上海ガニは、名物ですからね、お母さん、知ってますか」
周さんも、上海ガニは大そう楽しみのようだった。
「ええ、日本を出るとき、今はちょうどシーズンだから、上海ガニがおいしいって言われたから」
「へえ、誰に言われたんですか」
「だからほら、長沢さんよ」
「長沢さん……」
「手紙にも書いたでしょ、写真館をやっていた長沢さん」
「はあ、呉服屋の一軒おいてとなりの……」
「そうよ」
「その人は、上海にいたわけ……」
「ええ、お父さんとも親しかったし」
「はあ……」
「手紙に書いたでしょ」
「ああ、そう言えば……」
「その長沢さんが、電話で教えてくれたのよ」
「何を……」
「だから、上海ガニのこと」
「あ、そうか……」
「それも、手紙に書いたんじゃなかったかしら」
「あ、そう言えばね……」
母は、上海行きが近づくにつれて、むかしの上海仲間の何人かと連絡を取ったらしい。そして、その人たちとのやりとりを詳しく手紙に書いて私に送ってきたのだったが、私はそれを例によって流し読みしただけで、返事を書くこともしなかった。それは、母からくる手紙に対する、一貫した私の態度だった。
「たまには、お返事書いたら……」
秋子は、そのたびにそう言ってすすめるのだが、私にはいったいどんな反応をしていいのかが分らないのだ。
「これまでに、お母さまから何通の手紙をもらったの」
「さあ……」
「それも忘れたのね」
「ああ……」
「あなた、都合のいいとき健忘症になるのね」
「そうかもしれない……」
「ねえ、あたしの誕生日おぼえてる?」
「昭和二十二年十二月八日だろ」
「じゃあ、星座は」
「射手座」
「よくおぼえてるわね」
「自分で、よく言ってるじゃないか」
「あ、そうか。これじゃ、あなたの記憶をためしたことにならないわ」
「きみが言ったことをおぼえてるんだから、記憶はたしかだろうに」
「そういう言い訳は、あなたのお手のものですから」
「べつに、言い訳じゃないさ」
「じゃあ、お母さまにどうしてお返事を書かないの」
「さあ、それは俺にも分らないんだ……」
秋子との会話は、いつもこんなふうになる。そして、実際に私は、自分がなぜ母の手紙に返事を書かないのかが分らない。そればかりか、母との会話でさえ、私は自然にできないままなのだ。
「あなた、上海へ行って、お母さまとひとつ部屋に泊るんでしょ」
「いや、別々だよ、もちろん」
「どうして? 親子なのに……」
「ああ、旅行社の人もそう思ってひとつの部屋にしたらしいんだけど、ふたつ部屋を取ってもらうことにした」
「へえ……」
「また、何か言いたそうだな……」
「あなたにとってお母さまって、いったい何なの」
「まあ、縁者だね」
「縁者ねえ……」
「濃い縁だけど、疎縁ということだね」
「ほんとに、疎縁ね」
「だけど、これは仕方ないと思うね」
「どうして……」
「どうしてったって、とにかく仕方ないんだよ」
「お母さまにとっても、仕方がないのかしら……」
「さあ……」
「でも、ふたりきりになると会話ができないなんて、やっぱり異常よ」
「まあ、そうかもしれないね。だけど、上海のホテルのひとつ部屋っていう自信はないよ」
「変ねえ、ほんとに」
「変でも何でも、ふたつの部屋にする……」
私は、秋子とそんな話をしたあとも、旅行社へ確認の電話を入れ、ホテルの部屋はふたつ取ってほしい旨を強調した。
上海のTホテルには、その通りふたつの部屋が取れていて、私はまず安心した。それに、自分たちの部屋へもどって眠るとき以外は、ほとんど周さんが一緒というのが、私の気持を楽にした。
「さあ、出かける時間ですよ」
周さんが、いきおいのいい声を出した。二日目になったので、周さんはやや打ち解けて、私たちの旅の仕方を理解するようになってきたが、到着早々はやはり紋切型だった。上海の概要や建物の説明を、けしきが変るたびに説明し、最初の夕食を共にすることを彼女は固辞した。だが、母とふたりで無理矢理に説得して、夕食を共にしたあとは、やや態度がやわらかくなった。そして、何と言っても周さんと私たちの気持が近くなったのは、油条《ユーチヤオ》を食べてからだろう。油条は周さんの好みの朝食でもあり、生活の基本でもある。それを市場で買ってまず私が食べ、ホテルで母が食べたのを見てから、周さんは私たちの感覚を素直に受け入れるようになったのだった。
「周さん、ばかに急ぐね」
「あとに、サーカスがありますから」
「あ、そうか。今夜はサーカス見物か……」
「とにかく、カニを食べてからです」
周さんは、ホテルの廊下を歩くときも、どこかに気のはずみをあらわしていた。母は、そんな周さんを、目を細めてながめていた。そして私はと言えば、そんな和やかな空気によって、自分が救われていることをよろこんでいるのだ。
「あの、運転手も一緒でいいんですか……」
カニ料理屋の階段をのぼりながら、周さんは例によって私に小さな声で聞いた。
「ああ、もちろんいいですよ」
そう答えると、周さんはニッコリ笑ってうなずいた。
店へ入ると、食事をしている人々がいっせいにこっちを見た。周さんにしたがってそこを通りぬけて行くと、ひとつの部屋へ通された。そこには、大小二つのテーブルがあり、店の人が私たちに小さなテーブルを示した。
「飲み物はどうします……」
「茅台酒《マオタイチユー》だね」
「自信ありますね」
「やっぱり、ここへきたら茅台酒」
「瓶で一本取らなければなりませんよ」
「だから、ほら、ゆうべ見たやり方で……」
私は、昨夜ホテルのレストランで食事した際、茅台酒を一本取っている男を見ておどろいた。だが、その男はグラスへ二杯ほどを飲み干すと、のこりの瓶を持って帰ったのだった。
「ああ、あれならいいわね」
母が、そのことを思い出したらしく、笑いながら私を見た。
「それにしても、半分にしたらどうでしょう」
「半分……」
「半分の量の瓶」
「ああ、そんなのがあるんなら、それがいい」
「お母さんは……」
「私は、お茶でけっこう」
「周さんと孫さんは」
「コカコーラ」
「ああ、コカコーラね」
飲み物を決めると、あとは周さんが注文してあったらしく、次々と料理がはこばれた。それらは、すべてがカニの料理であり、そのハイライトに、皿に堆《うずたか》く積まれた上海ガニの蒸したのが出てきた。ひとりにいくつずつあるのか、かなりの量が盛られている。
「へえ、これが上海ガニか……」
「これは、淡水のカニなんでしょ」
「ええ、揚子江で獲《と》れるんですから」
「あ、ところで、カニは大丈夫なんでしたっけ……」
私は、母がカニを食べられるかどうかもたしかめず、カニの専門店へやってきた自分に、さすがにあきれていた。
(秋子だったら、俺の無神経をさっそく責めたてるだろうな……)
そう思いながら、私はおずおずと母にたずねた。
「ええ、大好きよ」
「そうか、よかった」
「さあお母さん、これがおいしいです」
周さんは、メスの大きいのを手に取り、真ん中から二つに割ってから、母の皿の上へおいた。ふつう、こんなことを息子がやるんだろうな……そんなことを考えながら、私はそれを横目でながめた。そして、自分用のメスガニを取って、甲羅のうらについているミソを、箸でかきあつめて食べた。これが上海ガニの味か……私は、十分にそれを堪能《たんのう》した。私の前には、見る見るうちにカニの殻がたまっていった。周さんと孫さんは、歯をうまくつかって馴れた感じで上手に殻を割って食べ、口の中から吐き出した殻をテーブル・クロスの上にためつづけた。せっかく受け皿があるのに、白いテーブル・クロスが汚れてゆくのは、奇妙な感じがしないでもなかった。だが、中華料理はテーブル・クロスを汚して何度も替えさせるのが、十分に堪能したという表現だ……というようなことを、どこかで聞いたことがあった。
「あれ……」
周さんと孫さんの前のテーブル・クロスが汚れているのに気を取られていた私は、となりの母が黙々と食べつづけているのに気づいて、そんな声を発してしまった。
母は、店の人が植木バサミのようなものでちょん切ったカニの足を、次々に口へはこんでいるのだ。
「何だ、カニを努力しないで食べてる人がいるな」
私のからかいに、母は笑いながら、皿の上のカニの身を口へはこんだ。
「カニというのは、周さんや孫さんやぼくのようにですね、力をつかいテーブルを汚して食べるから旨《うま》いんだから……」
そうつけ加えた私に対しても、母はただ笑い返していた。周さんと孫さんは、そんな母に笑顔を向けていた。私は、ノドの奥に鋭い味わいを与えている茅台酒の余韻を感じていた。
円形劇場のようになったサーカス会場は、演技がはじまる前らしく、照明が消えていた。二階の一番奥の席へ歩いてゆくと、ある一角が奇妙に気になった。そのあたりには、日本人観光団が席を占めているらしかった。それになつかしさを感じたわけでも、嫌悪感をおぼえたわけでもなかった。ただ、そのへんだけに、別なけはいがあった。
(これだな……)
私は、思わず呟いた。町を走る車の中の母と私に、道ゆくおびただしい人々がかならずある一瞬、目をとめていた。それは、皮膚の色とか服装とか仕種とか、そんな具体的な特徴に対してではなく、私たち日本人のけはいが人々の目を引くのだろう。
真正面の上段にバンドの席があり、エレクトーンとドラムが見えた。演技をするらしい中心にブルーの絨毯が敷いてあり、そこにスポット・ライトが当っている。赤、緑、黄の小さなランプが点滅し、ジャズの調べが静かにながれはじめた。「上海雑技団」の字が浮びあがり、ミラーボールが回転しはじめた。スポット・ライトに照らし出されたひとりの若者が、小気味よいうごきで中央へ踊り出た。若者は、真っ赤な口紅をほどこした唇の両わきをきゅっと上げ、会場を埋めつくした観客に愛嬌《あいきよう》をとどけた。そのとき、私の目の中いっぱいに、若者の赤い唇の色がひろがり、やがてその中にひとりの日本人の姿が浮びあがった。それは、はじめて上海へ上陸したばかりの、若き日の梢風が雑踏を行く姿だった。
[#この行1字下げ]私が上海へ行つたのは、昨年――一九二三年の三月なかばであつた。そして私が上海を去つたのは、五月の末近い頃だつた。前後二ケ月余の滞在であつた。其の間お前は彼地で何をして暮らして来たかと訊《き》かれると、私は直ちに返答はできない。私は其処《そこ》でいろ/\の事を経験して来たやうだ。そも/\私が上海へ行つた目的は、変つた世界を見ることにあつた。変化と刺激に富む生活を欲したからのことであつた。私の其の目的には、上海は最も適当した土地であつた。それは見様に依《よ》つては実に不思議な都会であつた。其処は世界各国の人種が混然として雑居して、そしてあらゆる国々の人情や風俗や習慣が、何んの統一もなく現はれてゐた。それは巨大なるコスモポリタンクラブであつた。其処には文明の光が燦然《さんぜん》として輝いてゐると同時に、あらゆる秘密や罪悪が悪魔の巣のやうに渦巻いてゐた。極端なる自由、眩惑《げんわく》させる華美な生活、胸苦しい淫蕩《いんとう》の空気、地獄のやうな凄惨《せいさん》などん底生活――それらの極端な現象が露骨に、或ひは隠然と、漲《みなぎ》つてゐた。天国であると同時に、其処は地獄の都であつた。私は雀躍《こおど》りして其の中へ飛び込んで行つた。
大正十三年七月一日、小西書店より梢風が出した『魔都』という本の自序である。
私は、上海へ来るに当ってたった一冊の本を持ってきた。なぜ梢風のこんな本を持ってきたかという理由は、べつだんはっきりとはしていない。梢風は、この文章で書いているように、一目見た上海にぞっこん惚《ほ》れてしまっている。そして、それいらい何度も上海をおとずれているのだが、その興奮の手応えが、のちになって息子である私の父に上海行きをすすめた根拠なのだろう。
だが、梢風とはちがって、彼の長男である父は上海の空気にしびれるどころか、馴染もうともしなかったようだ。そのことが、上海でのひとりぐらしに耐えきれず、新婚の妻である母を呼びよせるということにつながるのだ。そして、あまり気乗りがしないまま上海にいるという気分が、父の疲労を倍加させていったにちがいない。
(その疲労が、父を腸チフスで死ななければならない体力へとみちびいた……)
そう考えるのは自然だから、息子に上海行きをすすめた梢風は、大きな衝撃を受けたにちがいない。
梢風がはじめて上海へわたったのが一九二三年三月、つまり大正十二年だとするならば、そのとき彼は四人の子をもうけていたはずだ。しかも、いちばん下の子は大正十二年の生れだから、その年にあたる。梢風は上海に上陸して雀躍りしたのだろうが、内地では祖母の重苦しい生活がスタートしていたにちがいない。
しかし、そのようなこととは別に、私には梢風の興奮がよく分った。アヘン窟《くつ》、賭博《とばく》場、娼家《しようか》、ダンスホール、そして貧困、殺人、捨て子……世間一般ではもちろん否定的な要素の人間臭さは、梢風を強く魅了したにちがいない。「魔都」と呼ばれた、「中国の街でない中国の街」は、すっかり梢風をとりこにしてしまったのだ。
梢風は、当時としてはやや背がたかく、肩幅の極端に張った躯をしていた。私の目の中に、ステッキを大きく振りあげて散歩していた梢風の、けばけばしい姿がよみがえった。ちぢれた頭、頬骨がたかく口を一文字にむすんだ表情、ステッキをふりあげるたびに、「は、は、」の声で拍子をとり、大股《おおまた》にあるく梢風……それはもちろん、第二次大戦後に私が見た姿だったが、それがそのまま上海の雑踏に吸い込まれてゆくのを、私はたったいまながめたように錯覚した。
サーカスに登場した若者の真っ赤な唇は、不意打ちのように私に梢風の姿を思いおこさせた。愛嬌のある表情をつくり、唇の両はしをきゅっと上げた貌が、現在の上海の中から浮き上っていたように私が感じたためかもしれなかった。
(いや、これはただの中国の伝統的メーキャップであるにすぎない……)
京劇の写真などを見ても、こういう化粧法はよく出てくるではないか。だが、その見馴れたはずの貌を現実に目にしたとたん、一瞬、私の神経は宙に浮いたようになったのだった。
「女性の表情が、きれいねえ……」
母の声が耳もとでひびき、私はやっと我にかえった。
「ああ……」
私は、あいまいな返事をした。私の頭には、さきほど生じた梢風の影が、まだ余韻をのこしていた。
母が指さしているのは、玉乗りなどをやっている女性の軽業師だった。彼女たちは、色彩のはなやかな衣裳を身につけていたが、肘《ひじ》から上は布におおわれている。七分袖のようなデザインだ。もちろん、胸のあたりは肌を露出していず、少年とも少女ともつかない顔立ちもあった。
「これ、食べますか……」
どこかへ消えていたらしい周さんが、ソフトクリームを二つもって席へ帰ってきた。私と母はそれをひとつずつもらって舐《な》めた。
「わたしの友達がくれたんです」
「周さん、結婚は当分しないの……」
「わたし、まだ若いですから」
「二十六歳でも、まだ結婚しない人が多いの」
「中国は、いま子供を少くしたいんです」
「はあ、なるほど……」
「でも、好きな人はいるんでしょ」
母が、そんな言葉を向けると、周さんは面白そうに笑って、ステージへ登場してきたパンダを指さした。
「ああ、パンダ……」
母は、孫たちへのみやげ話にしようと思ったか、身をのり出した。
母はいま、長女夫婦と一緒に、東京の郊外に住んでいる。夫婦はふたりとも小学校の教師をしていて、娘がふたりいる。ひとりは小学校六年生、ひとりはやっと三年生だ。母にとって、その孫たちとすごす「おばあちゃん」としての時間が、もっともゆったりとしているのかもしれない。
パンダは、さまざまな曲芸を披露し、観客を笑わせていた。野生を調教したのだろうが、パンダにはもともと芸人の気質があるのではないかと思えるほど、その動作のいちいちに愛嬌があった。
「パンダって、まるで人間の前で芸をやるために生れてきたみたいなとこありますね」
「そうね、ほんとにかわいいわ」
「でも、何だかちょっと不思議な性格ですよね」
「上野のパンダは、見たことないのよ」
「人間の目にかわいく見えるってことは何なんだろう」
「子供なんか、ほんとによろこぶでしょうね」
「人間に、媚《こ》びてるのかな……」
「ほら、引っくり返った」
「不思議な性格だなあ……」
母と私のちぐはぐな会話を、周さんはほほえみながら聞いていた。そして、パンダの芸は大拍手のうちに終了し、またもや中央のステージだけが青く浮きあがる薄闇がおとずれた。よく見ると、かぶりつきのいい席は、ほとんど白人の観光客で埋っていた。サーカスというのは、到着早々に周さんがさかんにすすめていたし、いわゆる一般的な観光コースなのだろう。満員の観客の六割方は観光客、あとは子供連れの母親や、老人たちのようだった。
次のステージは綱渡りだった。やはり、唇を真っ赤に塗った若者の演技で、ロープの上で宙返りをしたり、飛び跳ねるのが特徴のようだ。若者は、ロープの上で躯を回転させ、両肢《りようあし》を大きくひらいてロープの上へ降り、ロープの反動を利用して宙たかく飛び上ることをくり返した。
(股間《こかん》が痛くないんだろうか……)
ロープに何度も股間をぶつけては跳ねあがり、笑顔で宙返りをする若者に対して、私はそんな疑問をいだいた。だが、母も周さんも、そして他の観客たちも、整然たる拍手を向けつづけている。
静かな観客の中で、若者は何度も股間をロープに打ちつけ、何度も宙に舞っては赤い唇をほころばせた。それを見ている私の目のうらに、上海の雑踏を悠然とあるく梢風のいかり肩が、浮んでは消えた。
5
「こんなに遅くまで、何をしてたの……」
弥生は、ベッドのはしに腰かけ、不満そうな顔で呟くように言った。
「サーカスを見て帰ってきたもんだから……」
「サーカス、ああ、あたしたちのコースにも入ってたわ」
「まあ、面白かったよ」
「へえ……」
「しかし、同じホテルが取れたんで安心したよ」
「これでホテルが別々だったら、あたし何をしに来たのかよく分らないもの」
「俺だって、そうだよ……」
「だって、あなたは親孝行の上海旅行でいいじゃない」
「ま、そうしなかったら、カミサンが連れて行けって言うだろうからな」
「あたしにとっては、奥さんだろうがお母さんだろうが同じみたいなものよ」
「それはしかし、俺にとってはえらいちがいだぜ」
「でも、こんないたずら旅行、本当に実現しちゃうのね、あたし……」
「ツアーの予定はどうなっているの?」
「とにかく、ツアーが直前になってキャンセルされそうになってあせったわ」
「キャンセル……」
「上海だけのツアーなんて、人が集りにくいのよ」
「日本人は、はとバス旅行だからな」
「杭《こう》州、重慶、蘇《そ》州、北京……とにかく、三日や四日のあいだに何でも見てしまおうって気持がつよいから、上海だけ見物するなんて悠長な旅はしないのよね」
「上海は、見物するんじゃなくて、味わうところだぜ」
「そんなこと言っても、通用しないわよ」
「まあ、でもこんなところで会えてよかった」
「会えてよかったって、あなたの計画なんでしょう」
「それは、そうだ……」
私は、父が死んだ町である上海へ、母を連れて旅をするという計画を立てたが、それが実現するまでには約一年半かかっている。これは、仕事のやりくりのせいもあったが、弥生の旅費を秋子に内緒で貯めなければならなかったためであった。弥生と私は、秋子と結婚する前からのくされ縁のようなものだった。しばらく会わないでいると何かの拍子にバッタリ出会い、それがきっかけでよりがもどってはまた袂《わか》れることを、私たちはつづけてきた。私の子を妊った……と弥生が言ったこともあったが、それも謎のままだ。弥生は近ごろになってやっとある男との結婚を決心したらしい。弥生は、秋子より二つほど上のはずだから、編集企画会社をわたり歩いていた時間から、そろそろ足を洗いたくなったのだろう。
「おい、お別れ旅行ってやつをやってみようか」
「お別れ旅行……そんな時間取れるの」
「まあ、時間が先なら大丈夫じゃないかな」
「どこへ連れてってくれるの……」
「上海」
「え……」
「上海だよ」
「だって……」
「外国がきらいってわけじゃあるまいに」
「そういうことじゃなく……」
「何を考えてるんだ」
「奥さんには、何て言うの……」
「競馬のあぶく銭を使っておふくろを上海に連れて行くと言ってある」
「ああ、あなたのお父さん、上海で亡くなったのよね」
「でも、俺にとっては生れる前に死んだ、顔も知らない相手だよ」
「べつに、そんな突き放した言い方しなくても」
「まあ、おやじのこと考えるとつい躯に力が入っちゃうんだ」
「お母さんにとっては、かつての夫との思い出の地をたずねる旅行ね」
「そういうことだな」
「そんなところへ、あたしを紛れ込まそうとするなんて、あなたの性格ってやっぱり普通じゃないね」
「そいつは、今にはじまったことじゃないだろうに」
「まあね……」
「いやならいいんだぜ」
「あたし、何だか行きたくなってきた……」
「じゃあ、ちゃんと計画を立てないとな」
「一緒に行くの……」
「そういうわけにはいかないだろう、俺たちはツアーのコースとは外れた目的をもってるんだから、向うで通訳《ガイド》をたのもうと思ってるんだ」
「あたしは……」
「きみは、俺とおふくろの旅程と合わせたツアーに参加する」
「何だ、それじゃあ別々じゃない」
「こっちが合わせるよ、こっちの方が自由がきくんだから」
「大丈夫かしら」
「スリルがあって俺たちのお別れ旅行に似合いだぜ」
「でも、お父さんが死んだ土地に対しては、礼儀を欠いた態度ね……」
「だから、俺は見ず知らずのおやじに礼儀なんか正したくないんだよ」
「でもやっぱり、上海っていう土地は気になってるんでしょ」
「ああ、いちおう父親の死んだ町だからな」
「そうよね……」
「それに、俺のルーツでもあるんだよ」
「ルーツ……」
「おふくろは何しろ、俺を上海でみごもったんだから」
「なるほどね……」
「だから、俺は上海仕込み」
「また、そういう悪ガキふうの言い方をする」
「上海仕込みで東京生れ、そして清水みなとの育ちでござんす」
「あきれるわね、もう……」
「そういうふうに育ったんだよ、俺は」
「じゃ、あなたは上海へ子守歌を聞きに行くようなもんじゃない……」
「子守歌か……」
「だって、子守歌なしに育ったって、あなたよく言ってるでしょ」
「ああ、その通りだからな」
「だから、おなかの中にいたころ聞いた子守歌を聞きに上海へ行く」
「おふくろのはらの中で聞いた子守歌か……」
「ちょっと、センチメンタルじゃない」
「上海|子守歌《ララバイ》か……」
「上海ララバイ、また自分を飾る」
「ああ、それはカミサンにもよく言われるセリフだ」
「あのね、あたしの前で奥さんのこと話題にしてほしくないのよね」
「だって、さっきはきみが言ったじゃないか」
「あれは、まじめな話でしょ」
「まじめならいいのか……」
「あたしたち同士の会話の空気の中へは、紛れ込ませたくないのよ、奥さんを」
「分った……」
「でも、それも終りなのよね」
「じゃ、せめてお別れ旅行まで、きみとのルールを守るよ」
「で、どうするの……」
「何のことだい」
「計画は、実行するのね」
「お別れ旅行かい、俺は本気だよ」
「あたしも、本気……」
弥生とそんなやりとりをしてから約一年、計画通りと言えばそうなのだが、上海のホテルで実際に面と向っていると、やはり一種の感動があった。
「きみの方は、男には何と言ってきたんだ」
「あなたが奥さんのこと言わないルールなんだから、あたしも男のことしゃべらない方がいいんじゃないかな」
「でも、どう言って日本を出てきたのかと思ってさ」
「独身最後のひとり旅、ツアーで上海へ行ってカニ食べてくるって言ったら、きみらしいって言ってたわ」
「きみらしい、か……」
「ま、あたしらしいって言えば、らしいのよね」
「そして、俺らしくもある」
私は、自分の部屋から持ってきた茅台酒を、弥生のコップにもすこし入れた。弥生は、それを鼻先へもっていって顔をしかめたが、コップを私のグラスに打ち当てた。
「何の乾杯になるのかな」
「まず、再会を祝して……」
「そうか」
「次に、あたしたちのお別れ旅行の成功を祈って」
「はいはい。しかし、お別れ旅行の成功ってのは、ちゃんと別れるってことなんだぜ」
「もちろん、そうよ」
「俺は、本当はもっときみとグダグダした関係でいたいんだけど」
「女は、そうはいかないのよ」
「じゃ、いさぎよく別れるか」
「それでなきゃ、この旅の意味がないもの」
「まあね」
「次に……」
「何だい、乾杯の名目がいっぱいあるな」
「あなたが、上海ララバイを味わえますように」
「それは、どうかな」
「次に……」
「まだあるのかい」
「あたしたちの新しいスタートのために」
「俺たちそれぞれのか……」
「そう」
「そりゃあきみは新しいスタートだろうけどさ、俺はせっかくのいい女と別れなきゃならないんだから、新しいスタートなんてありゃしないじゃないか」
「そうよ、めったにないいい女と別れるってことは、ちゃんと自覚してほしいわね」
「さて……」
私は、これから二泊三日のツアーのスケジュールを自由行動にした弥生と、私たちの時間を合わせる工夫を考えた。
「あした、俺たちは船で黄浦江の遊覧をすることになってるんだけど、一緒に行くかい」
「もちろんよ、でも、どうすればいいの」
「七時にロビーで通訳と待ち合わせだから、きみもそこへ来ればいい」
「でも、お母さんには……」
「いや、ホテルのみやげ品売場でバッタリ会った知り合いでいいさ」
「そんな嘘、通じるのかしら……」
「いや、こういうことは案外、大雑把な仕掛けの方がいいんだよ」
「それ、あなたがつかんだ知恵?」
「まあ、生活の知恵だね」
「奥さんも、大変ね」
「おい、冗談でカミサンの名前を出さないってのは、きみの決めたルールだぜ」
「だって、今のは冗談じゃないもの」
「へえ……」
「奥さんとの時間から得た知恵を、あたしに対しても使ってたかもしれないしね」
「あ、そういう意味か……」
「それに、あたしとの時間からだって、あなたは何か知恵をつかんだんでしょ」
「そうかもしれないな……」
「その知恵を、あたしに使ったり奥さんに使ったり」
「何だか、俺だけがすごい策士みたいじゃないか」
「けっきょく、そうなのよ」
「それはともかく、船には一緒に行くんだろ」
「ええ」
「みやげ品売場でバッタリ知り合いと会った、ひとり旅で当てがないって言うんで、船の遊覧に誘った……そんなとこでいいだろう」
「それくらいなら、あたしにもおぼえられるわ」
「で、船のあと俺たちは呉淞路へ行くから……」
「呉淞路って?」
「ああ、むかしの日本租界の中だけどね、つまり、おやじとおふくろが一年ほど住んでたところさ」
「お父さんが亡くなった家……」
「それがまだ分らないんで、あしたもういちどたずねてみることになってるんだ」
「上海ララバイね」
「そう、上海ララバイだ」
私は、同じ言葉をくり返し、弥生の肩に手をかけて引きよせた。弥生は、躯の力をぬいて私に寄りそうようなかたちになったが、急に躯を固くして離れた。弥生は、唇をかんで私を見すえてから、ふっと息を吐いた。
「まちがわないで、出発の旅ではなくて、お別れの旅なんだから……」
弥生の気色ばんだ表情がおさまるのを待ってから、私は茅台酒を一気にあおり、弥生の両肩に手をかけた。すると、弥生はゆっくりとその手をはずし、
「あたし、この旅ではそういうことしない決心をして来たの」
もういちど躯に力を入れなおすように息を吸って、大きく吐き出した。
6
浦江号の三階には、アメリカ人らしい客が多かった。三階は外国人用のフロアになっているのだが、日本人観光客は私たちだけだった。一階には、中国人の小学生たちが団体で乗り込んだが、その嬌声は三階までも大きくひびいてきた。中国語で歌われるポップスがながれていたが、「イエスタデイ」のような歌を中国語で聞くと奇妙な感じだった。「ケセラセラ」「ドナドナ」とつづき、急に日本の歌謡曲の旋律がながれ、それが森進一の「望郷」だと気づくまでに、かなりの時間がいった。つづいて「白いブランコ」「夜明けの歌」「北国の春」がながれたが、私の耳に何とはない違和感を与えていた。
「ブラック・コーヒーですか、ホワイト・コーヒーですか」
周さんが、私と母と弥生に聞いた。
「ホワイト・コーヒー……」
私は、聞き馴れないフレーズに首をかしげ、母と弥生を交互に見て、周さんに聞き返した。
「ミルクの入ったコーヒーです」
「ああ、ミルク・コーヒー……」
「ええ、ホワイト・コーヒー」
「ミルク・コーヒーじゃなく、ふつうのコーヒーのミルク入りなんですね……」
女性が持った盆の上のカップを見て、弥生が母に向って言った。
「ああ、ふつうのコーヒーにミルクを入れるのを、ホワイト・コーヒーって言うんですね」
「そうみたいですね」
母と弥生は、さっきロビーで会ったばかりなのに、もはやすっかり打ち解けている。上海などという土地で偶然会った私の知り合いということになれば、母が気をゆるすのは無理もないだろう。ふたり旅とは言え、私とのあいだにはあまりなごやかな会話はつづかない。周さんとでは、やはり微妙なニュアンスを埋めるのに苦労する。母は、私と弥生の上海での出会いを訝るどころか、やっと楽な気分で話せる相手が出現したことをよろこんでいるようだった。
弥生は、母が自分に対して疑いの目を向けていないのを知ると、とたんにゆったりとしたらしく、ホテルから船乗場までやってくる車の中でも、母とスムーズな会話をつづけていた。
(計画はまず、順風に乗ってか……)
私は、浮き浮きとして心の中で呟いた。浦江号の船内では、アメリカ人観光客たちが、無邪気にはしゃぎながら、行ったり来たりしている。太った男が、ジャンパーの袖をまくりあげて、これから出発する気分を大袈裟に発散している。どこかで買い求めたらしい人民帽をかぶり、プレスをきかせたようなジーンズをはいた初老の男が、首から下げたカメラを点検している。黒ぶちの眼鏡をかけたおそろしく痩せた男が、ぼんやりとした目を遠くへ投げている。
そのうちに、リンゴ、茶、南京豆、チョコレート、キャンデーが配られ、これは三階特別室のサービスのようだった。チョコレートの包み紙には、「巧克力威化」と記してあった。中国人はほとんどが通訳《ガイド》らしく、何となく遠慮がちに坐っていた。だがそれは、紺やグレーの人民服がそのように感じさせるのかもしれず、エンジの上衣をつけている周さんだけは、若さのせいもあってか陽気な姿に見えた。
「ストップ・ザ・ジョーク!」
私のうしろで老人の大袈裟なしわがれ声が発せられ、それに応える爆笑がおこった。とにかくアメリカ人はあかるい。おたがいに写真を撮りっこしてはしゃぎ合い、大声で笑っている姿からは、母のように何かに怯えているといった感じは伝わってこない。ただ、黒ぶちの眼鏡をかけている痩せた男だけが、いつまでも虚ろな目をしていた。母と弥生は、ここでもさまざまな話題を交換し、母の顔にやや生気がよみがえっているのがよく分った。
出発のドラが鳴ったのを聞きのがしたような気がしたが、浦江号はいつのまにか水面をすべり出し、揚子江の方へ向っていくようだ。
黄浦江には、かつて写真で見たのと同じように、何艘《なんそう》ものジャンクが行き交っていた。帆をはった舟、物を運ぶ舟、その上で仕事をする漁民……私は、こんな写真を何度も目にしている。清水にあった古いアルバムに貼ってある、色があせた写真の中に、こんな風景がたくさんあったのだ。
(あれは、父が撮った写真なんだろうな……)
そのアルバムの中には、同じような風景の中に、母が写っている写真もあったはずだ。私は、祖母に母の生存を打ち明けられ、清水の家にあったアルバムを引っぱり出し、祖母にかくれてよくながめたものだった。そこには、見知らぬ土地のけしきの中に、顔を見たことのない父がいくつも写っていた。あのアルバムはいったいどこへいってしまったのか……今からはさがす術《すべ》もないように思うが、写真の中の父はおそらく二十七歳くらいだろう。
(俺の方が十六歳も年上になってしまったわけか……)
私は、どちらかといえば母親似で、父にはあまり似ていない。しかし、私の中にもかすかには父の面影がやどっているはずだから、上海で私をながめる母の目のうらに、父の顔が浮んでくることもあるのだろう……漠然とそんなことを考えていた私だが、私の方が父よりはるかに年をとってしまったことに思い当ると、その思いはかげをひそめた。
船内が急にざわめきだしたのは、どうやら浦江号が揚子江に出たためらしい。アメリカ人観光客はすべてデッキへ出て、あれこれと屈託なく言い合っている。風のため、みんなの髪が逆だって額があらわとなっている。私たちの席のすぐ前に立ってカメラをいじっている老人の鼻の下に雫《しずく》が光っていた。
(外は、かなり寒いのかな……)
船室にほとんどのアメリカ人がいなくなると、中国人の通訳《ガイド》たちがゆっくりとタバコをふかし、おたがいに何かを言い合ってはチラリと外のけしきに目をはしらせている。母と弥生は席を立つ様子がなかったし、周さんはふたりの話に興味深そうに耳をかたむけている。母と弥生は、いま上海の町で上映されている「蒲田行進曲」の話をしているらしく、それを二、三日前に見てきたばかりの周さんが、「あの女優は有名ですか?」などと質問している。
眼鏡の痩せたアメリカ人が、のそっと立ち上ったのを見て、私も外へ出てみることにした。デッキは強い風にさらされていてかなり寒かった。舳先《へさき》の方で何やら言い合っているアメリカ人のあいだへ、私は躯をねじ込むようにして立った。一階の小学生の嬌声は、デッキへ出るといちだんと大きく聞えた。ちょっとふり返ると、弥生と話をしていた母がカメラをかまえ、私に向ってシャッターを押すのが見えた。
私は、弥生の表情をさぐった。カメラをかまえる母のかげから、弥生はじっとこっちを見ていた。弥生が何を考えているのかはつかめなかったが、その表情にやや虚ろなかげが惑じられた。私は、ゆうべの時間をたどろうとする自分の神経にブレーキをかけ、ゆっくりと首をねじって進行方向へ向きなおった。そして、私は不思議なものを見たのだった。
浦江号は黄浦江をくだり、その河口までやってきて揚子江と出会う……私の目の先にはまさに揚子江が広々とした姿を見せていた。だが、私は絵や写真で見た揚子江のながめよりも、もっと手前の水面に目をそそいでいた。黄浦江は、やや泥色をして濁った水だという印象があったが、その水が揚子江と出会うあたりで、色がくっきりと変っているのだ。黄浦江にくらべて、揚子江はもっと黄色に近い泥色だった。そして、両者の境界線は、デッキからもはっきりと識別できるのである。
(黄浦江の水と揚子江の水は、決して混り合わない……)
私は、泥色と黄色が判然と分れているあたりをしばらくながめていた。そして、上海の町の雑踏のなかで、どこへ行っても一瞬のうちに日本人と見定められる私や母のことを思った。顔や服装と言うならば、あまりにも遠くから判別されているらしいのが奇妙だった。
「ぼくは同じようなものだと思うんだけど、どこがちがうのかな」
「中国人と日本人は同じですよ」
「でも、みんなすぐ分るみたいだから……」
「それはたぶん、服装ですよ」
「はあ……、ファッションのちがいか」
「それだけですよ」
「しかし、車で通りすぎるのを、向うの交差点に立っている人なんかが、ピッと見ている感じがある」
「車のせいでしょ」
「車がめずらしいのかな、それともこの水色の車というのに何か意味が……」
「とにかく、日本人と中国人は同じです」
周さんとそんなことを言い合って乗船場へやってきたのだが、そこで周さんは自分の意見を引っ込めざるをえなくなった。車から降りて乗船場へやってくると、小学生たちが列をつくってはしゃぎながら船へ乗り込むところだったが、私たちを見て口々に何かを叫んでいる。
「何て言ってるの?」
私が問いかけると、周さんは苦笑いをしながら頭へ手をやり、
「外国人だって……」
「ほら、やっぱりどこかがちがうんだ」
「そうですねえ」
「知識とか観念で見る大人じゃなくて、子供の無垢《むく》な目にそう映るんだからね」
「おかしいですね」
「服装のファッションじゃないんだよね」
「それは、何でしょう」
「やっぱり、けはいみたいなものかもしれないな」
「けはい……」
「ま、理屈の世界じゃないんだね」
黄浦江と揚子江の境目にあるくっきりとした色のちがい……それをながめながら、私は船へ乗る直前の周さんとの会話を頭の中でなぞっていた。水と水であっても色が混り合わず、はっきりとした区別が成り立っている。人と人のあいだにも、そういうものが存在するのだろう……そう思っている私の目を、水面から反射した陽の光が射た。私は目をしばたたいて眩《まぶ》しさをこらえた。私の目を射たのは、黄浦江の水面からの反射なのか、揚子江の水面からの光なのか……それを考えていた私の目のうらに光の輪が生じ、その中心に梢風の貌が浮びあがってきた。
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昨日――三月二十一日――の午前九時に長崎を出帆した長崎丸は、一昼夜の航海をして、今朝は明け方から揚子江を遡《さかのぼ》つてゐた。
私は、眼が醒《さ》めると直ぐベットの上で服を着て、キャビンを出て甲板の方へ歩いて行つた。船の動揺が全く止んでゐて、それに昨夜うまく睡《ねむ》れたお蔭《かげ》で頭が軽くなつてゐるので大変気分がいゝ。かう言ふとなんだか海が荒れでもしたやうに聞えるが、実は昨日からの航海は、一年中にもこんな日は滅多に無いといふくらゐな上凪《じような》ぎだつた。だから船酔ひなどしてゐる弱虫は船ぢう探したつて目つかりつこはなかつた。処《ところ》が私は、昨日|午《ひる》頃五島沖へ差し掛つて、食堂へ出た時体がユラユラッと感じたので、忽《たちま》ち怖ぢ気づいてキャビンへ遁《に》げ込んでしまつた。私は無類に船に弱い。十二三歳の時分に漁船に乗つて遠州|灘《なだ》へ運び出されて、ヘドを嘔《は》き乍《なが》ら目を廻したことがあつたが、それ以来海と船とは恐ろしくて仕方がない。五間か六間の漁船が五千屯の汽船になつても、遠州灘の荒浪が筆洗の水のやうに平らになつても、矢つ張り怖さに変りはない。船底がガリガリと地にくッ附いてゐれば安心だが、それでは船が進まないし、あの底知れぬわだつみに浮かんでゐるのだと考へると、それだけで不気味でたまらない。船に乗つてゐると、ちやうど地震に遇《あ》つてゐる時のやうなあの極度の不安定な恐怖を連続的に感じてゐる。だから揺れようが揺れまいが、私は船に乗れば酔ふものだと自分で極《き》めてゐるのだ。そんな訳で直《す》ぐにベットへもぐり込んで、恥も外聞もなく寝通して、食事はボーイに運んで貰つて食べた。――が、今朝は全く元気を恢復《かいふく》してゐた。私は昨日の事は知らないやうな顔をして、聢《しつか》りとした足取りで、廊下を歩いたり階段を昇つたりした。
甲板へ出ると、冷《ひや》つこい朝の風が寝起きの顔へぶつかるやうに吹いて来た。私よりも早い人々がチラホラ散歩してゐる。私は手摺《てすり》につかまつて四方を眺めた。が、かう見渡したところが、一向河らしい様子はない。黄色い泥濁みの水が眼の届く限り続いてゐる。空は朝からカラッと晴れて、眩しいくらゐな太陽が其の濁水の上をキラキラ照り付けてゐる。水平線はくつきりと見えるけれども、其の向うには青い空ばかりで何物の影も無い。「是《こ》れでも河かしら」と私は思つた。けれどもよく/\見ると、波の立ち具合が海とは何処《どこ》か異つてゐる。そして、其の水は船と反対の方向へ向つて可なりの速力で流れてゐる。ノアの洪水を眼の辺りに見たら恁《こ》うだらうかといふ気持がした。つまり、世界が洪水に浸つてゐると思へば間違ひはない。支那は大国だからすべての物が規模が大きいと聞いてゐる。けれども、此《こ》の揚子江は、大きいばかりで何の風情も無かつた。風をひきさうだから私は間もなくキャビンへ戻つた。
十時頃|※[#「さんずい+呉」]松《ごしよう》を通つた。揚子江の支流の黄浦江の口もとの河港だ。私達を乗せた船も其処から本流をそれて黄浦江を遡り始めた。さすがの揚子江もここ迄《まで》来ると余程河幅が狭ばまつて漸《ようや》く陸地が見えるくらゐになつて来たが、黄浦江へはひると更に其の幾分の一かになつて、両岸の景色がはつきり見えるので初めて河らしい気持になる。※[#「さんずい+呉」]松の港には無数のジャンク船が木の葉を散らしたやうに碇泊《ていはく》してゐた。入江のほとりの村にはもう青々と芽をふいてゐる楊柳が茂つてゐた。対岸には煉瓦《れんが》造の倉庫が建つてゐる。堤防の上の道路を幾人もの支那人が長い服の裾《すそ》を風になぶらせながら歩いてゐる。それを見て私は初めて支那へ来た事を強く意識した。
船客は大抵甲板へ出てゐた。画家らしい人は、スケッチブックを展《ひろ》げてジャンクの形を様々にスケッチしてゐる。私の横に立つてゐた一人の紳士は、河べりに倉庫が建ち並んでゐるのを見ると、未開地の旅を続けて来た人が急に文明の風にあたつた時のやうに歓《よろこ》びの声を上げて、伴《つ》れの人を顧みて言つた。
「どうです、立派な倉庫ですなあ! 支那もうんと開けて、此の河岸にべつたりこんなのが並んぢまはんけや嘘ですわい」
彼は此の黄浦江の河べりに、一本の楊柳は愚か草の根さへ絶やしてしまふ日を空想して見るかのやうな眼つきをした。余念なくスケッチをしてゐた画家は、ヂロリと横目で事業家を睨《にら》んだ。
「何を云つてやがるんだ、折角のいゝ景色が、あの殺風景な倉庫のお蔭で台無しになつちまつたぢやないか、此の上もつと建てられて溜《たま》るもんか」と、其の眼はありあり語つてゐる。
沿岸の風景は進むに従つて文明化して行く。軈《やが》て一時間ばかり経つと、私達の眼の前には、河に臨んだ純洋風の大市街が出現した。長崎丸は※[#「冫+(はこがまえ<ふるとり)」]山|碼頭《ばとう》に着いた。
税関で手荷物の検査を受けねばならない。が、それは船へ出迎へてゐる旅館の番頭に委《まか》せて置いて波止場から自動車に乗つた。初めて上海の街を見た。其の通は殆んど西洋建築ばかりだつた。ニス塗の人力を曳《ひ》いてゐる苦力が無数にウロ/\してゐる。人がゾロ/\歩いてゐる。頭を布で包んでゐる印度人の巡査が棍棒《こんぼう》を持つて往来の整理をしてゐる。どの巡査もどの巡査も真つ黒い頬鬚《ほおひげ》を生やして、躯幹《くかん》長大容貌|魁偉《かいい》でタゴールのやうな風采《ふうさい》をしてゐる。こんな立派な体格と容貌とを持つてゐる国民が外国に征服されて巡査位で甘んじてゐるのは不思議な話だ。私はふと印度の独立運動を連想した。と、向うからお葬式が遣《や》つて来た。真紅の服を着た西洋楽隊が先登に立つて、其の後から道化役者のやうな着物を着た支那の楽人が随《つ》いて来る。棺を載せた馬車は美しい造花で飾られてある。先登の楽隊が囃《はや》し立てることか、「あな嬉し、喜ばし、戦ひ勝ちぬ――」あの行進曲を、ドンチャン/\と囃し立てる。亡者が浮かれて棺の中から飛び出しさうだ。
[#ここで字下げ終わり]
「これは、六〇年代のヒット曲ですね」
周さんがそう言い、私の耳に「オー・キャロル」がひびいた。いつのまに周さんは私のとなりへ立ったのだろう。揚子江とも黄浦江ともつかぬ水面からの陽光に射られ、眩暈のようなものをおぼえた……あれはたしか、この浦江号が黄浦江が揚子江に交わるあたりまで出たときだったはずだ。だが、いま浦江号は逆方向、つまりは出発した船着場へ向っていて、しかもすぐにそこへ着こうとしているところだった。
川べりに作った外灘《バンド》の堤防のあたりに、多勢の人々がひしめきあっているが、あの中にはおそらく、二分間くらいの黄浦江見物をしている日本人観光客も混っていることだろう。しかし、それにしても私の記憶はどうして途切れてしまったのだろう。周さんの向う側には、母と弥生がならんで岸のけしきをながめている。中国人の群れを見る母の横顔には、またもやこわばった表情があらわれていた。
(こうやって、梢風は船で上海へやってきた……)
梢風が上陸した※[#「冫+(はこがまえ<ふるとり)」]山碼頭はもう少し遡ったところなのかと思い入れる気分はあったが、なぜか父の上陸に自分の感情をかさねようとする神経は生じなかった。梢風がはじめて上海へ上陸したのは三十四歳、父は二十六歳だった。そして今、こうやって浦江号に立っている私は四十三歳だ。何の意味もない上海上陸時の年齢が私の頭にならべられた。私は、自分の年齢がいちばん上であることに奇異な感じをおぼえた。
船着場へ浦江号がつくと、船の上から太いロープが投げられ、それが弧をえがいて見事に桟橋へとどいた。
「ナイス・ショット!」
人民帽をかぶったジーンズの老人が、大声で叫ぶと、甲板の上からいっせいに拍手がわき起った。船からロープを投げた男と桟橋で受け取った男が、その反応にとまどったように唇をゆがめ、笑い顔になりそうなのをこらえていた。
上陸は一階の小学生たちから……またいちだんと高くなった嬌声が、一瞬、風にかき消されたようになった。眼鏡をかけて虚ろな目をしたアメリカ人が、そっと私のわきをすりぬけて行った。私は、梢風のごときいかり肩をつくり、揚子江から黄浦江へ入り、はじめて上海の土を踏もうとしている男の貌をつくった――。
7
「じゃ、また呉淞路へ行きましょう」
弥生をホテルまで送ってから、ふたたび日本租界の中に母の記憶の場所をさがすため、ガーデン・ブリッジへともどってきた。
「あのかた、ひとりで大丈夫なの……」
「ああ、寝てるんじゃないですかね」
「夕食はおさそいしてあげればいいのに」
「さっき、そう言っときましたから、呉淞路のあと、ホテルでひろって行きます」
「きょうはどこへ行くの」
「ええと、四川料理かな、ねえ周さん」
「四川料理です」
「四川料理って、どんな感じなのかしら」
「これは、昧が濃いです、北ですから」
「はあ、北は濃いんですか」
「南淡北濃|西棘《せいきよく》東酸……これ、知ってますか」
「ああ、聞いたことがあるな」
「それで、北の四川料理は濃いのね」
「そうです」
「南淡北濃西棘東酸……人間もそうかな」
「いえ、人はみな同じです」
「周さんに言わせると、日本人も中国人も変りないってことになっちゃうんだからな」
「ところで、ガーデン・ブリッジを渡りましたよ……」
周さんは、都合のわるい話題になったという顔でニヤリと笑い、外を指さして言った。
「さあ、またもや迷路へとやってきた」
「行っても、同じなのに……」
母は、どうも気乗りがしない様子で、仕方なくガーデン・ブリッジをわたった左手にあるかつてのブロードウェイ・マンションを見あげた。
今日はとびきりの上天気であるため、そうでなくても目立つ洗濯物やフトンが、家の前を満艦飾のごとくに彩っている。
「あんなふうに干すんなら、家も楽ね」
「どういうこと……」
「洗濯物やフトンをどこへ干すか、それを考えると家なんかでも意外と場所がないのよ。何しろ、日本の家って敷地いっぱいに建ててあるでしょ。でも、こうやって家の前へ平気で干せば干せるのよね、玄関のよこでも何でもかまわないんなら」
「なるほど」
母が言う通り、呉淞路の両わきには、陽の当るところへはすべて物が干してあるだろうと思うくらい、家の前面だろうが何だろうがかまわずに、フトンを干し洗濯物をぶら下げてある。さすがにこんな風景の目立たない南京路などでは、人々の服装のために反《かえ》って町が地味に見えた。南京路をあるく人々は、ジャンパーやコートを身につけた人でもその色はくすんでいて、多くの人の着ている人民服はカーキ色と紺とグレーなのだ。だが、呉淞路にはフトンや洗濯物の満艦飾、これは意外にけばけばしい風景なのだ。
私たちは、きのうと同じ場所で車を止め、孫さんをのこして呉淞路を歩いて行った。現在の呉淞路にも、さまざまな物を売っている店があり、人がごちゃごちゃと混んでいるから、商店街という趣きがないではない。だが、ここから満艦飾の干し物と人混みを除いてしまったら、この通りはいったいどのようなたたずまいになるのか……それは、なかなか想像しにくい。
(ゴキブリ一匹がうごいても目立つような、案外そんなおそろしく静かな街であるかもしれない……)
そんな気もした。
「上海って、来てみたらこんなだったんで、友吾さんなんかは、いっぺんに気がふさいじゃったらしいのよね……」
母は、一軒一軒の様子を、顔をこわばらせながらながめ、かつての記憶を必死でよみがえらせようとしているようだった。母は父のことを「お父さん」と言ったり「友吾さん」と言ったりする。父の名は祖父がつけたらしいのだが、ビクトル・ユゴーになぞらえて、友吾としたのだということを聞いたことがあった。
「じいさんは、ここへわたって雀躍りしたって書いてるくらいだから、麻薬的な魅力を感じたんでしょうね」
「そうなのよ、でも、友吾さんはちがった……」
「お母さんも、おやじと同じように、あんまり上海は好きじゃなかったんでしょ」
「そうねえ……」
「そのころも、こんなふうに物を干してあったのかな」
「さあ……、日本租界は日本人が住んでたんだから、あんなことはしなかったように思うけど……」
「あんまりはっきりした記憶はないわけですね」
「そうねえ……」
「さて」
私は、きのう足を停めたあたりまでやってくると、母と周さんをふり返った。
「ここで、ちょっと聞いてみようか」
「聞いてみる? 誰に……」
「ぼくは、どうもこの建物がむかしの写真館のような気がするんだけど」
「そうかしら……」
「ま、とにかくものは試しだ。周さん、たのむよ」
「はい」
周さんは、何かの事務所のようになっている間口のひろい建物へ入って行った。入口の近くに、人民服を着た五十年輩の人がいて、まるで将棋でもやっているような趣きで向い合っていた。彼らは、べつに何をしているのでもなく、ただ向い合って坐っているだけのようだった。
周さんが彼らに何かをたずねると、ふたりは外を指さしながら出て来た。私と母は、ふたりに向ってペコリとおじぎをした。すると、ふたりは同じようにペコリと頭を下げ、周さんの言うことを聞き逃すまいというふうに耳を傾けた。周さんが何度も同じことを説明すると、ふたりは大きくうなずいて私たちに笑顔を向けた。
「分ったって?」
「このうらに老人がいるから、その人に聞いてみればいいって」
「四十四年前ですものね、そのとき二十歳のあたしが六十四になってるんだから」
「まあ、そうですよね」
「むかしのことだから、分らないと思うけど……」
「とにかく、うらの老人に聞いてみるか?」
「そうしましょう」
周さんの声にはじかれたように、母は路地を入って行った。ふたりの男は、目を細めてじっと母を目で追っていた。私は、呉淞路の歩道に立って、ガーデン・ブリッジの方角をちょっと気にした。すると、満艦飾の干し物が、本物の万国旗となってはためいているように見えた。
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支那に行つてゐる時私が不思議に感じることの一つは、明暗の両極端が他の国とは反対になつて見えることである。譬《たと》へば、淋《さび》しい街と賑《にぎ》やかな街とを比較する時、常識的に云へば、無論淋しい街の方は陰気で、賑やかな街は陽気でなければならぬ。ところが支那はさうでないのである。淋しい街は人通りが乏しくいづれの店並も粗雑であつて特に其処に明るさがあるといふわけではない。たゞ、繁華な街になると、往来は雑鬧《ざつとう》し、店舗は燦然と耀《かがや》いて、雑然紛然の巷《ちまた》であるから明るく陽気でありさうなものだが、それが支那は反対で、賑やかな場所になるに従つて反つて一種の陰惨たる感じが生れて来るのである。田舎の町や巷の方がむしろのどかに明るく、殷盛《いんせい》な都会の第一街ほど暗い、むしろ惨澹《さんたん》とした感じが濃厚に現はれてゐるのである。
人が群集すればするに従つて陰惨となり、灯火が耀けば耀くほど周囲が暗澹として来るのである。これは勿論《もちろん》われ躯外国人の受ける感じであり、あるひは私一人の見方感じ方であるかも知れないのであつて、其の色に慣れ其の中で生活してゐる支那人自身はさうは感じてゐないのである。矢張り常識的に淋しい街よりは賑やかな明るい街の方が陽気であると信じてゐるのである。
が、私の目で見るとそれが今云つた如く全く反対の印象を受けるのである。
私は其処に支那の性格、若《も》しくは国土の色といふものを考へて見る。そしてそれが支那といふ国や其の民族のもつてゐる宿命的な色彩の一つの現はれであると見てゐる。換言すればそれは一種の頽廃《たいはい》色である。爛熟《らんじゆく》の極致を過ぎた精神の衰退が都会の中心に於けるほど濃厚に現はれてゐるのである。
これは、多少学理的にも説明ができないことはない。詰り、あらゆる生活様式に技巧を加へ、技巧に技巧を積み重ねる結果は、単純な物の有《も》つ明るさは次第に失はれていつて、反つて陰気に暗くなつて行くことは免れがたい結果であらう。
とにかく、明暗の感じを反対に受けることは事実である。さうしてそれは支那の大概の物事にもあてはまるのである。それが支那の文明及び其の国土の一つの特色であると私は思ふ。
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呉淞路の両わきに、満艦飾のごとき干し物がぶらさがり、それが遠近法の構図におさまるようになっているけしきは、なかなかに華やかな趣きがあった。破れブトンから綿がはみ出したありさまも、子供の服の幼稚な原色の模様も、遠景としてながめるかぎりはきれいな彩りなのだ。そう考えて見ると、そのあたりに屯ろする人々のくすんだ色合いも、風景を際立たせる効果となっているようにも感じられてくるのだ。では、干し物が取り込まれ、人々のにぎわいが消えたあと、呉淞路というかつての日本租界の趣きはいったいどのようなものなのか……やはりそれは、にわかには想像しかねるのだった。
「ちょっと来てください、おばあちゃんが……」
周さんが呼びに来たので、私はあわてて路地へ入って行った。そこには、何人かの中国人にかこまれて当惑している母の姿があった。
「このおばあちゃんが、むかしのことを知ってるそうなんですが」
周さんがそう言うと、母が言葉を引きとった。
「でも、写真館はあったけど、呉服屋は記憶にないって言うのよ」
「あ、そう……」
「たしかに、こんな感じだったんだけど……」
母は、思案顔で建物の二階を見あげた。
「住んでいたのは、二階だったの?」
「いえ、三階」
「三階……」
「その呉服屋さんだけ三階になっていてね、ちゃんと屋上もあったし……」
母は、必死で記憶の糸をたぐりよせようとしているらしい。だが、当時とは住む人も変ってしまい、建物自体もかなり古びてしまったはずだ。しかも、建物だけで言うならば、どの建物も似たりよったりであるというのが厄介だ。
「むかしの番地は?」
私が聞くと、母はすこし不機嫌な表情になって、
「そんなもの、おぼえてるはずないでしょ」
呟くように言った。だが、ここまでやってきて、写真館と呉服屋、それに甘栗太郎という目印が消えてしまうと何も分らなくなってしまう自分に、母自身が苛立っているらしいところもあった。
「呉服屋は知らないけど、タオル売ってた店があったと、おばあちゃんは言ってますけど」
根気よく老婆に聞きただしていた周さんが、申し訳なさそうな声を出して母の顔を見た。
「タオル……、それが呉服屋じゃないのかしら」
「ああ、呉服屋で手拭いやタオルを売ってるものね」
「中国の人は、そういう物を売る店だと思っていたかもしれないわね」
「じゃ、そのタオルを売ってた店は、写真館の一軒おいてとなりかどうか聞いてください」
「はい」
周さんは、やや興奮気味に老婆の方へ屈《かが》み込んだ。そして、目をかがやかせて、
「たしかに、一軒おいてとなりだって言っています」
「それじゃ、写真館のうら側はどこに当りますか」
「写真館のうらは、ここだそうです」
「そうして、それから一軒おいてとなりは……」
「これだ!」
私は、そう叫んで母をその建物の前へ立たせた。母は、三階のあたりを見あげながら、思い入れにひたろうとするのだが、何かが遮断して感情がほとばしらないようだ。だが、建物自体はたしかにこれにちがいないことを私や周さん、それに教えてくれた老婆に伝えるために、二、三度大きくうなずいた。
「建物は、まちがいないんだね」
「ええ……」
「そうか、よかった……」
私は、わざわざ上海までやってきた目的に対する大きな手応えに、躯の力がぬけてゆくようだった。だが、母はやはりどこか虚ろになった目で、建物を見あげているだけだった。
そのとき、何人か集っていた近所の人のうちのひとりの男が、大声で何かを叫びながら裏口のドアを叩《たた》きはじめた。すると、その音におどろいて新しい野次馬がふえ、建物の前はかなりの人だかりとなってしまった。母は、浦江号でバッグに入れたチョコレートと、日本から持ってきたらしいチューインガムを、自分のすぐ近くに立っていた女の子にやった。女の子は、無感動にそれを受け取り、どうしてよいか分らないように俯《うつむ》いていた。
やがて、二階の窓が開いて女の人が顔を見せ、男の言葉にしたがって三階へ昇ってゆくのが見えた。三階の窓から初老の男の顔がのぞいて周さんや男と何やらしゃべり合うと、下の扉の鍵《かぎ》が開けられる音がした。
その瞬間、母の躯に不思議な力が入ったようだった。母は、背筋を伸ばしキッと前方をにらんで、入口の扉に吸い込まれるように消えて行った。私は、あわててそのあとを追った。
暗い中に急勾配のせまい階段があった。その階段は、人がひとりやっと通れるほどの幅で、永年踏まれつづけたせいで、木製の踏板のへりはヤスリで研いだように丸くなっていた。一階から二階、二階から三階へと昇ってゆくとき、この階段の急勾配はどこかでおぼえがあると思った。私は五歳のころ梢風が生れた土地である遠州飯田村へ疎開したのだが、祖母と父の弟夫婦と一緒に、農家の納屋の二階にいた。その納屋の梯子段《はしごだん》が、ちょうどこのくらいの幅、このくらいの勾配だった。
(あのころは、すでに母は別の家へ嫁いでいたんだな……)
脈絡のない記憶のからみが、私をすこしとまどわせた。
二階から三階へ行く途中のせまい踊り場の奥に便所があった。母は、そこでながいことたたずんでいた。そして、ゆっくりと急勾配の階段をあがりきったとき、あきらかにはじめての家ではない足さばきで、すーっと右の奥へ歩いて行った。母と入れかわりに、初老の男が首を出して私と目を合わせ、かるく目礼した。私が頭を下げると、
「Your mother?」
本来は流暢なのに、こちら向けにブロークンにしたという感じの英語で訊いた。私は、コックリうなずいて、彼女がむかしここに一年ほど住んでいた旨を伝えた。
「Good」
初老の男は、窓からのけしきや天井を点検している母をながめながら、自分の息子はカナダと香港へ行っていることなどを私に伝えた。周さんは、母の気持を推しはかってのことだろう。階段の途中で止り首だけをのばして部屋をながめていた。そして、急に思い立ったように駈《か》けあがり、母の手からカメラを取って、母と私にならぶように言った。母はまだ神経が高ぶっているらしく、言葉をひとことも発しなかった。
周さんが二、三枚写真を撮ると、母は夢遊病者のごとく、部屋の中を何かに憑《つ》かれたようにゆっくりとうごいていた。
(いったい、何を呼び覚まそうとしているのだろう……)
私は、母のうごきを目で追った。母はふたたび入口の方へ歩き、階段をちょっと昇ったところにある小さな戸をあけて外へ出た。そこは屋上になっていた。母は、何も迷うことなく左へ歩き、そこから呉淞路の道路のたたずまいをしばらく見おろしていた。母はやはり、ひとことも言葉を発しなかった。
私は、母のうしろに立って呉淞路を見おろしてみたが、上から見ると干し物の満艦飾はさほどの効果はなく、あれほどと思った人混みもさしたるものとは思えなかった。眼下には、ただ何でもない街角の風景があった。道があって建物があって、人や車が行き交っている……それをながめているうち、
(ここからこうやって、おふくろはおやじの帰りを待っていたんだろう……)
そんな言葉が、私の躯の奥をはしりぬけた。
「おやじの葬式は、ここでやったんですか」
「ええ……」
「そこへ、お母さんとじいさんが駈けつけたわけか」
「あたしが駈けつけた?」
「ああ」
「あたしが、どうして駈けつけるの」
「………」
「あたしは、友吾さんの死を看取《みと》ったのよ」
「………」
「で、ここで当時としてはかなりの人に集っていただいて、ちゃんとお骨《こつ》にしたのよ」
「あ、そうだったのか……」
「どう思ってたの」
「いや、おやじが死んだときは日本へ帰っていて、突然の死にじいさんとふたりで駈けつけたんじゃないかと」
「あたしが? それ、誰に聞いたの……」
「いや、誰にも……」
「ずっと、そう思っていたの?」
「ああ、今までね」
「………」
母は、寂しそうに押し黙ってしまった。ここから見おろす風景は、かつて日本租界であったときのものと、ほぼ同じかもしれない。そんな風景を見おろしながら、母はじっと黙っていた。母は、あまりにも厳粛な事実を知らず、ここまで生きてきてしまったわが子を、不気味なものを見るような目でふり返った。私は、その母の視線を浴びながら、少しずつ肩に力を入れ、梢風のごときいかり肩をつくった。
8
「あなた、そんなことをどうして知らずにいたの……」
ホテルへ帰り、疲れたという母のため、食事に出かけるまでに二時間ほどの休みをとった。弥生の部屋をノックして、呉淞路でのありさまを話すと、弥生はあきれ顔でウーロン茶を私の前へおいた。
「誰も教えてくれなかったからなあ……」
「自分から、聞こうとも思わなかったわけ?」
「ああ……」
「やっぱり、あなたがいつも言ってるように、ネジが一本欠けてるみたいね」
「これはやっぱり、俺がわるいのかな」
「さあ、誰がわるいのかしら」
「じいさんが、すべての仕掛人だからな」
「あなた、梢風さんにそうやって何でも頼ってきたんでしょう」
「いや、頼らないことを教えてくれたんだよ、じいさんは」
「でも、もし梢風さんという存在がなかったら、あなたはただネジが一本欠けた子供のような大人であるだけかもしれないでしょ」
「………」
「梢風さんという存在があるから、ネジが一本なくても救われてるのよ」
「そうかなあ……」
「はじめてお母さんに会ったけど、お母さんはふつうの人よ」
「そりゃ、そうだよ」
「だから、あたしなんかとちがうのよって言ってるんじゃない」
「それは、どういう意味……」
「ネジが一本欠けてる男を、ちょっと面白がるような人じゃないってこと」
「まあね……」
「あなた、お父さんのことまるで知らないの」
「だって、俺が生れる前に死んだんだぜ、おやじは」
「でも、親は親でしょ」
「そりゃそうだけど、実感はないね」
「じゃ、お母さんは?」
「………」
「お母さんはちゃんと生きてるのよ」
「ああ……」
「でも、お父さんと同じように実感がない……そうでしょ」
「そうかもしれない……」
「あなた、上海へ来たらすこしは正直になったみたいね」
「冗談言うなよ」
「いえ本当、やっぱりお母さんの子守歌が効いたのかな」
「まさか……」
「それとも、お父さんの子守歌……」
「それはないな」
「じゃあ、梢風さんの子守歌」
「いや、あの人には子守歌は似合わないよ」
「いいえ、ふつうの子守歌じゃなく、いかがわしい子守歌」
「いかがわしい子守歌……」
「うそよ、やっぱり子守歌はお母さんのものでしょ」
「でも、おふくろと俺のあいだには、そういうのが入りにくいんだよね」
「今まではね」
「これから子守歌が入り込んできたら、こりゃあ不気味だぜ」
「お母さんにとって、上海って何なんでしょうね」
「さあ……」
「夫との愛を育んだ場所」
「それもあるね」
「夫との死別の場所」
「それは、強いだろうな」
「子供をみごもった場所」
「そのすべてだろうな」
「じゃあ、上海って土地はどうなの」
「上海って土地?」
「そう、お母さんにとっての上海は……」
「そりゃあ、夫や子供の思い出とつながる土地だろ」
「じゃ、上海でなくてもいいんじゃない」
「上海じゃなくてもいい……」
「お父さんにとっての上海は?」
「ま、いまわしい場所か」
「それじゃ、上海じゃない方がいいわけね」
「上海じゃない方がいい、か……」
「梢風さんにとっての上海は?」
「魔都だね」
「やっぱり、そう……」
「魅惑的な魔都、おやじやおふくろが認めたくない世界さ」
「やっぱり、ね」
「上海の魔力のとりこだね、梢風さんは」
「じゃ、あなたにとって上海は?」
「落したネジがころがってるかもしれない場所」
「ごまかしたわね」
「べつに……」
「ねえ、梢風さんは、この上海の魔都たるところに惹《ひ》かれただけなのかしら」
「どういう意味……」
「特定の女性なんていなかったの?」
「そうねえ……」
「いくら遊びの街でも、特定の男と女じゃないと実感がわかないわ」
「きみらしいね」
「でも、上海に特定の女の人がいたら、もっとすてきね」
「まあね……」
私は、あいまいに答えたが、『魔都』の中に出てくるY子という女性の名が、弥生の言葉に触発されて頭の中に生じていた。
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上海へ来て半月以上の日数が夢の間に経つてしまつた。土地の様子もほゞ分つて来た。さうなると何時《いつ》迄も日本旅館にゐたのでは面白くないから、何か変つた生活がやつて見度《みた》いと思つて、それには西洋人の家の部屋を借りて自分勝手な生活をして見るに限ると考へ、四月十日頃の或日のこと貸間探しに出掛けた処が、|老※[#「革+巴」]子路《ローボーツロー》の九十五号といふ処で、主人が露西亜人で、大変上等の貸間が見つかつたので早速翌日其処へ引つ越してしまつた。
処が、それと同時に、私の一身に或る偶然の事件が持ち上つた。と云ふのは、そも/\其の貸間を探しに出た日のこと、初めて私が知り合ひになつたY子といふ、矢張り老※[#「革+巴」]子路の外人の家を借りて社交ダンスの教授をしてゐた日本の女性と、其の後|僅《わず》か三日ばかりの間に、特殊の関係が生じてしまつた。それは観《み》る人の解釈次第でどういふ批判でも下せる事柄だが、少くとも当事者としては真面目で真剣だつたので、第三者との間に生じたいざこざに構はずY子はそれ迄の彼女自身の生活は其の日限りうつちやつてしまつて、私の処へ来て同棲《どうせい》する事になつたのだつた。
孤独の旅人であつた私の環境は俄《にわ》かに一変してしまつた。人生の行路には実にさま/″\の運命が待つてゐるものである。私は全く夢にも知らなかつたところの新しい生活にはひつて行つた。其の生活は、刺戟《しげき》に餓《う》ゑて飽く事を知らぬ私の慾望をも十分に満足させずにはおかなかつた。Y子はまだ二十六歳の女だが、彼女は殆《ほと》んど有らゆる人生を経験して来てゐる。それは主に彼女の美貌と情熱と才気とが、彼女をさういふ複雑な経路に導いたのだつた。それが為めに彼女の容貌には凄惨な魅力が加はり、性格は複雑化して来た。温く平坦《へいたん》な人生は益々彼女から遠ざかるばかりだつた。それが彼女にとつて不幸であるか或ひは幸福であるかといふ事に就いては判断が出来ない。が、経験といふものを一番重んじる人生の観方もある。それも確かに正しい観方である。私は彼女の豊富なる経験を私自身の智識にして、そして彼女をモデルにする長篇の創作を試みようと決心した。彼女も勿論私の企てに賛成した。そこで彼女は話す、私は聴く――さういふ仕事を幾晩も続けた。
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ドアをノックする音がして、私はとりあえずベッドのわきへかくれた。
弥生は私の姿が入口から見えないのを確認すると、ゆっくりとドアを開けた。
「あのね、越劇の切符が手に入りそうだから、ちょっと早目に食事に行くんですって。あなたもごらんになったら、越劇」
「えつげき……、何ですかそれ」
「京劇ってあるでしょ、あれに対していろんな地方劇があるんですって。越劇もそのひとつ」
「へえ、お芝居なんですか」
「そうらしいわね」
「あたしも、いいんでしょうか」
「もちろんよ、多勢の方が楽しいもの」
「じゃ、ご一緒させてください」
「あと三十分くらいにロビーですって」
「はい、分りました」
「おかしいわねえ……」
「何ですか」
「いえ、どこにもいないもんですから」
「ああ……」
「どうせ、そのへんを歩いてるんでしょ」
「そのへん……」
「何しろね、人を見てるのが楽しいらしいんですよ」
「はあ……」
「それじゃ、三十分後」
「はい」
弥生は、ドアを閉めて母の足音が遠ざかるのを確認すると、ふーっと大きく息を吐いた。私は、ベッドのわきから伸びをするような仕種をして弥生に近づき、両肩に手を当てた。すると、弥生はアゴを引き斜めに私を見すえて、
「きのうみたいなことしたら、別れてあげないから……」
呟くように言って、肩に当てた私の両手をつかんだ。
9
人民大舞台の前には、ものすごい人だかりがしていた。入口のわきで小さな袋を売っているのを見ると、周さんがニヤリと笑って私の方を見た。私は、得意そうな周さんの表情の意味が分らないまま、周さんについて劇場へ入った。劇場のロビーにも人が屯ろしており、今日は超満員という感じだ。周さんはどんどん前の方へ歩いてゆき、ついに一番前まで行ってしまった。
「一番前の席なの、よく手に入ったね」
「孫さんの友だちが外にいます」
「へえ、その友だちに券を工面してもらったのか」
「あれは、いい友だちですよ」
「そりゃあ、いい友だちだ」
「これ、どうぞ」
「これは何……」
「西瓜子《シークアズ》」
「ああ、スイカのタネか」
「外で売ってたでしょ」
「なるほど……」
「これ、市場で買いましたから」
「そうか、周さんの好きなもののひとつだ」
「そうです、そうです」
「よく眠ることと、西瓜子を食べること」
「当りました」
「それにしても、すごい量だね」
周さんは大きくうなずいて、母や弥生にも西瓜子を分けた。
「周さんは、本当は映画の方がよかったんじゃないのか」
「孫さんに、今夜これを見たら、越劇が好きになるって言われました」
「あ、そう。そんなに面白いの?」
「主人公の女優が有名ですから」
「へえ、何て言う女優……」
「王文娟」
周さんが、くわしい説明をしようと思ったところで、あかりが消えて、越劇の「慧梅」がはじまった。越劇は女性だけの劇であり、見得の切り方などは日本の歌舞伎によく似た演出だ。赤、黄、緑の衣裳がサッと中央に集って色彩効果が盛りあがったとたん、キッと見得を切り、それに合わせてドラが鳴る。女性劇なので、悪役はヒゲをつけた子供のように見えることもある。主人公の慧梅を演じている王文娟は五十歳を越えているというのだが、見るほどに主人公の風格をましてゆくような気がした。物語は、政略結婚の犠牲になり、最後には夫の手にかかって死んでゆく慧梅という女性の悲劇で、べつだん何ということもない筋だ。舞台の両わきにスクリーンの代りのような白い幕が垂れ、歌の部分はそこへ字が出るのだが、その字に母はしきりに感心していた。母は、子供に習字を教えたりしているので、書には興味があるらしい。
母のとなりの弥生の様子をときどき窺っていると、周さんがくれた西瓜子を不器用に爪で割ろうとするのだが、それがなかなかうまくいかず苦労している。母ははじめからあきらめているらしく、周さんに手わたされた西瓜子を、左の手でにぎりしめたまま、舞台に目を注いでいる。
(おふくろの掌の中の西瓜子は、あったまってふやふやだろうな……)
私は苦笑しながら、となりの周さんの袋からすこしずつ西瓜子を取っては食べた。周さんは、西瓜子をポイと口へ放り込むと、歯を器用に使って、中身だけを食べては、タネの外側を床ヘペッと吐き出している。周さんの足もとは、そのうちに西瓜子だらけになっていった。
いよいよ、主人公の慧梅が死ぬ場面のクライマックスとなった。すると、うしろからおびただしい人々が殺到し、最前列の私たちの前で舞台にかぶりついた。私も、負けじと立ち上って、オーケストラ・ボックスや舞台をのぞき込んだ。母と弥生は、それでも座席にじっと坐ったままだった。
「ほう、こりゃすごいや……」
カーテン・コールも何度かあって、宝塚のフィナーレのごときムードで越劇が終了し、客席と舞台の照明が同じになった。いつまでもカーテン・コールをもとめようとする連中もあきらめて、劇場のうしろへ向って移動しはじめた。そして、客席をぬって早道をしようとした私は、あらゆる椅子の下に散らばっている西瓜子のタネを見て、思わず声をあげたのだった。座席の下には、周さんのように器用に口の中で割って吐き出された西瓜子のタネが、それが儀式ででもあるごとくに、堆くのこっていた。
越劇が終ったあとの劇場前は、たいへんな混みようだった。孫さんが劇場の正面につけた水色の車の前に立っており、孫さんのまわりに人だかりがして、孫さんにしきりに何かを聞いている。孫さんは、ニコニコ笑ってそれをあしらい、私たちに向って合図した。それに手をあげた私たちが階段を降りてゆくと、車のまわりにいた群衆がいっせいにこっちへ走ってきた。私は、一瞬、躯を固くして身がまえるような気分になった。
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上海といふ処は、のどかで、明るくて、さうして華やかな都会である。が、それは物の一面を見たばかりである。私は更に振り返つて、暗黒な上海の一部分を窺つて見よう。
上海へ来て、私は怖ろしい話をいくつも聞いた。其の一つは、今年の正月頃の出来事だ。
或る日本の婦人が、大馬路を歩きながらショーウインドを眺めてゐた。大馬路といふ街は、所謂《いわゆる》南京路といふ大通で、東京の銀座以上の大商店の櫛比《しつぴ》してゐる上海第一の繁華な街だ。ホワイトアウエイとか永安公司とか、其のほか有名なデパートメントストアなどは大概此の通のうちにある。真ん中を電車が通つてゐる。車道には自動車が絶え間なしに続いてゐる。両側の人道は極《ご》く幅が狭いのに人通りが劇《はげ》しいので少しうか/\してゐようものなら忽ち車道へ突き落されてしまふ。其の賑やかな大馬路を右の婦人は買ひ物でもするつもりで歩いてゐた。ショーウインドの前に立つてうつとりと中の商品に見惚れてゐると、其処へ一台の自動車が走つて来て、一人の西洋人が自動車から飛び降りて、ツカ/\と婦人の側へ寄つて行つて肩のあたりをポンと叩いた。婦人はヒョイと振り向いたが、彼女は其の途端にフラ/\として西洋人の腕へ倒れ掛けた。一寸《ちよつと》見ると甘つたれてゐるやうにも見えた。西洋人は其の婦人を両方の腕で抱くやうにして自動車へ連れ込んだ。自動車は直ぐに走り出した。それは僅々一分か二分の間の出来事であつた。往来の人々はそれを目撃してゐたけれど、無論其の日本婦人と西洋人とは親しい間柄だとしか思はれないので誰も怪しむ者はなかつた。処が、其の日本の婦人の家では、昼間彼女が大馬路へ買ひ物に行つた儘《まま》夜になつても帰つて来ぬので非常に心配し始めた。段々騒ぎが大きくなつて警察部が活動すると、漸く前の事柄だけが判つたので、彼女は西洋人の悪漢のために麻酔剤を嗅《か》がせられて誘拐されたものだといふ事になつたが、犯人が上らないので何処へ連れて行かれたのか判らない。其の日本の婦人はいまだに行方不明である。
或日私と同宿の人が二人、三人づれで大馬路の電車停留所で立つてゐると、向うから一名の支那人がやつて来てニコ/\笑ひながらシガレットを一本づつ私達に突き付けた。何気なく手に受けると相手はもうマッチを擦《す》つてつけてくれる。余り親切過ぎるが多分煙草の広告だらうと思つてゐると、何んぞ計らん直ぐ後から来た奴が名も知れぬ変な煙草を一袋|宛《ずつ》押し付けて「一個十銭」と言ふ。「不用々々」と言つて見たが先方が承知しない。「それなら何故今の煙草をのんだのだ」といふやうな事を言つて急に剣幕が荒くなつた。支那は物見高い国だ。忽ちわッと人が寄つて来て私達を取り巻いてしまふ。言葉はろくに通じないし、高が十銭のことで争ふのも見苦しいと思ふから、めい/\一個宛買つて遣《や》ることにしたが、生憎《あいにく》私は小銀貨を持ち合せてゐないので一弗の銀貨を持つて行つて近所の銭荘で小洋(小銀貨)に替へようとすると、煙草売りが「釣りを遣るからよこせ」といふらしい事を言つて私の持つてゐる銀貨をひッたくつてしまつた。一弗銀を小洋に替へると、普通二十銭銀貨が五個と十銭銀貨が一個、それに銅貨が六七枚付いてくるから、私は其の割で釣を取る気で手を出してゐると、彼《か》の煙草売りは二十銭銀貨を二個出したばかりで更に煙草を二つ三つ私の手に叩き付けて、私が苦情を云ひかけると、お負けに私の胸倉を二つ三つ小突き飛ばして、その儘ツーッと行つてしまつた。初めからお終《しま》ひ迄が僅か二三分間の出来事である。其の遣り方は実に敏捷《びんしよう》で、野呂馬な私が「あつ」と口を開いてゐる間に、相手はたうに見えなくなつてしまつた。江戸は生き馬の眼を抜く処だと昔日本では云つてゐたが、上海では生き馬どころか浮か浮かしてゐると生きた人間の眼の玉をくり抜かれる。
併《しか》し、幾日も経たぬうちに私はさういふ恐怖を感じなくなつた。此の罪悪の巣窟である上海といふ都会に身を置いてゐるといふ事に就いても何の不安をも抱かなくなつた。けれども、それは私の恐怖や不安が全然小児の妄想に近いものであつたからではない。寧《むし》ろ反対に、日を経るに従つて私は此の土地が如何に戦慄《せんりつ》すべき秘密を蔵してゐるかといふ事の事実を知るばかりだつた。只不思議なことには、私の心持が、さういふ罪悪や秘密が有つてゐるところの毒々しい麻薬を嗅ぐやうな魅惑の力に識らず/\のうちに惹き付けられて行くのだつた。私は恐怖したり不安をおぼえたりしなくなつた代りに、反つてそれを讃美し憬《あこ》がれるやうな気持になつた。そして私自身も悪漢の群れに投じて、巧妙な手段を用ゐて有らゆる悪事を働いて見度いやうな気持になつた。さうした活動写真的な奇怪な空想を駆使するためには、上海の何処の一部分を取つて来ても是れ程適当な舞台はないのである。
明るい上海は表面だけの現象である。幕一重奥へ這入《はい》れば暗黒と秘密を以て満されてゐる。そしてそれが上海の本体である。
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水色の車を取りかこんでいた中国人たちが、私たちに向って殺到してきたのは、孫さんのいたずらのためだった。
私たちは、客席に誰もいなくなったあと、椅子の下に無数に散らばっていた西瓜子のタネをながめていたので、劇場から吐き出された観客のうちのいちばんうしろに位置していた。ながいこと待っているうち、孫さんの水色の車を、群衆が興味をもって取りかこんでしまった。孫さんは、彼らに向って、
「これは越劇の主役の車だ、もうじき出てきてこの車に乗るんだ」
と言ったらしい。そこで、群衆たちは水色の車へ乗るために出てくる主役を待ちかまえていたのだった。そこへ、観客のいちばんうしろから私たちが出てきて、孫さんの合図に向って手をふったのだから、夜ということもあって群衆は勘ちがいし、こっちへ向って走ってきたのだった。
それは、一種異様な雰囲気だったので、私も一瞬躯を固くした。しかし、母の緊張ぶりはもちろん私以上だった。何が起るのか……それをつかめない恐怖が、母の神経を支配しているらしかった。だが、母の状態には、呉淞路のかつて自分がいた家での時間が、余熱のようにのこっているのではないだろうかと私は思った。
「越劇って、宝塚みたいで面白いわね」
弥生は、越劇にたいそう興味をおぼえたらしかった。ホテルへ帰る途中、弥生は観劇のあとの興奮をもどかしそうに言葉にして吐き出しつづけた。周さんは、すっかり越劇のファンになったらしく、しきりに孫さんに質問を浴びせながら、のこりの西瓜子を口へはこんでいた。
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「でも、ものすごい入りなのね……」
弥生は、ホテルへ帰っても、まだ興奮が冷めやらぬという感じで、頬のあたりを上気させていた。
「筋は単純だけどね……」
「筋なんて、単純でいいのよ」
「俺なんかは、ちょっと幼稚な感じがしたなあ」
「そうかしら、歌舞伎だって何だって、筋に興味なんかないな」
「やっぱり、役者の芸か……」
「そうね」
「役者の芸、そんなによかったかねえ」
「あの主役の王文娟っていう人、なかなかじゃない?」
「ああ、あの人はちょっとね」
「まあ、役者もあるけど、全体のながれが小気味よくていいじゃない」
「そうだね」
「言葉が分らないのにこれだけ楽しめるっていうのはすごいんじゃない」
「そう言えばね……」
「あたし、これから何度も上海へ来ようかな」
「越劇を見にくるのかい」
「そうね、越劇だけじゃなく、京劇だって面白そうだし」
「きみらしいな、芝居を見に上海へ来るなんて……」
「あなたは、上海はこれっきりにするつもりなの」
「さあ……」
弥生の言葉にはすぐに答えられなかったが、上海に対する私のこだわりが、上海の土を踏んでから生れたのは事実だ。あぶく銭を使って母を父とのなつかしい土地へ連れて行き、それを弥生とのお別れ旅行とからめて実行する……それこそ、私らしい計画と言えるものだった。
だが、実際に上海へやって来た私は、母のなつかしさに感情を合わせようとする神経が徐々に遠ざかっていった。呉淞路の中の父母がかつて住んだ部屋……そこをおとずれることができたのは、旅行の目的から言えばまことに好運だった。あきらめかけていた母は、部屋へ入ったとたんに、おびただしい記憶のラッシュにおそわれ、それを頭の中でどう処理してよいか分らないというふうだった。
ところが、その母の感傷は、私にはまったく伝わってこない。母の物語を、私は観客としてうしろからながめているようだった。これが、ネジが一本欠けた男の神経か……そうも思った。
父が死んだ町である呉淞路へやって来ても、父の死を母が看取りその葬式をやったという部屋をおとずれても、私のなかに血のなつかしさというものは生じなかった。だが、南京路の雑踏をあるいているときの人々のけはい、外灘《バンド》で太極拳をつづける老人の横顔、サーカスの演技をする若者の赤い唇、市場で頬ばった油条の味、越劇の客席に散らばった西瓜子のタネ……それらに接しているとき、躯の底に何かが生じる手応えを、私は何度も味わったのだ。
(それはいったい何なのだろう……)
頭でつかまえようとすると、そんな感覚はすぐに影をひそめてしまった。
「お母さん、船へ乗ったときとまったくちがうみたいね」
「そうかな……」
「やっぱり、単なるなつかしさとかそういうもんじゃないのよね」
「いやいや上海へやって来たおやじを追ってきて、いやいや上海でくらしたんだものな」
「だから、なつかしさも複雑なのよね」
「そうだろうな……」
「それに、お母さんはあなたをのこして再婚したんでしょ」
「ああ……」
「それにもきっと、複雑な気持がからむんでしょうね」
「そうね……」
「だから、こっちへ来ても、自分の感傷をあなたに押しつけられないで悩んでるんじゃないかな」
「自分の感傷を俺に押しつけるのは無理だろう」
「でも、親はふつうそうするのよ」
「はあ……」
「で、子供もそれを受け入れるのよ」
「それが、ふつうか……」
「あなたみたいに、あとずさらないの」
「俺があとずさってる……」
「あとずさったあげく、自分中心の世界へ逃げていくのがあなたのクセ」
「へえ、分析してるねえ」
「奥さん、よく一緒にくらせるわよね」
「………」
「あたしは、あなたとはくらせないな」
「俺だって、きみみたいな分析魔とくらすのはしんどいよ」
「奥さんは、分析しないの」
「分析しても、だまってるんだろ」
「お母さんは、あなたのことどう感じてるんでしょうね」
「おふくろは、やっぱりとまどってるんだろうな」
「愛情を受け入れない子供なんて、お母さんは信じられないんじゃないかしら」
「そうかもしれないな」
「でも、あなたは自分を変えるつもりはないんでしょ」
「ああ……」
「あなたのそういうとこ、どこからきたのかしらね」
「そういうとこって……」
「自分をかこんでる空気を守る神経って言うのかな……」
「俺、そんなに自分を守ってるかな」
「自分って言うより、自分をつくってるものを守ってるって感じ」
「むずかしいな、あいかわらず」
「けっきょくね、いくら親しくなっても他人なのよ」
「………」
「だから、あたし別れる気になったんだ」
「………」
「苦しいのよ、そういうの」
「………」
「奥さんも、お母さんも、苦しいと思うわ……」
「まるで、極悪人だね」
「まあ、そんなところじゃないかな」
「ひどいもんだ」
「お母さん、きっと気づいてるわね」
「え……」
「あたしたちのことよ」
「それはありえないね」
「あなた、そういう甘さがあるのよね」
「甘い……」
「女にはね、ピンとくるところやプンと匂うところがあるの」
「じゃ、おふくろは……」
「昼間、ドアあけたでしょ」
「あのときは、バレなかったじゃないか」
「バレなかったけど、匂ったわね」
「匂った、か……」
「いえ、あたしがあらわれたときから匂ってるかもしれないな」
「おそろしい話だな……」
「それが、女っていうものよ」
「それでも平気なきみも、おそろしいね」
「それも、女よ」
「はあ……」
「あのね」
「え……」
「もしかしたら、奥さんだって知ってるかもしれないわよ」
「まさか……」
「どうしてまさかって思うの」
「しかし……」
「それが、女っていうものなのよ……」
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すべての物とお別れだ――。
荷物は昼のうちに船へ送つてしまつた。其のあとで親しくした二三人の処を暇乞ひに廻つて今此処へ戻つて来たところだ。
「上海の生活も愈《いよいよ》是れでお終ひになるんだね。もう二度と繰り返せない生活だ、繰り返した処で同じ物ぢやない。物の終りといふものは厭《いや》なものだね」と私はY子に言つた。
「それあ誰だつて厭だわ。けれども、一つの物がお終ひになると同時に次ぎの新らしい物が始つてるんだから、結局お終ひなんだか始まりなんだか判らないわ」とY子はまだ少し時間があると思つたのか冠《かぶ》つてゐた真紅な帽子を脱いでベッドの上に置き乍ら答へた。
「さうも云へるね。けれども是れは矢張り是れでお終ひさ。日本へ帰れば俺達の生活でも心持でも全く違つた物になつちまうんだから」
「何故? 上海にゐる時と同じ心持で生活が出来ないといふ筈《はず》はないわ、少くとも自分達だけの問題ではね」
「僕だって現在はさう思つてるよ、併し恐らくそれは六か敷いだらう、現在の僕でもお前でも想像してゐないやうな運命が遅かれ早かれ必ず遣つて来るに違ひない、それがどんな物でどんな形になつて現はれて来るかは其の場になつて見ないことにやあ分らないが」
「いやだわねえ、そんな不安な位ならいつそ日本へなんか帰らない方が増しだわ。そしてフランスタウンへでも行つて住めば、もつとずつと感じがよくつてそして経済的な生活が出来るんぢやないの」
「それが出来る位なら何んでもない、帰らなきやあならなくなつてゐるのがすでに一つの変化だ。いゝぢやないか構はず何んでも来る奴からぶつかつて行かうよ、どうせお互ひに体一つを元手にして生活してゐる人間なんだ、いつ迄も同じ事をしてゐた日にやあ体が腐る、良くても悪くても変つた経験を味はつて行かなきやあ駄目だ」
「あなたがさう云ふ気持は解つてるが、わたしはそんな気持では帰れないね、只此の舞台をぐるッと廻して東京へ移すだけのつもりなの」
「舞台が廻るのに、役者がいつもおんなじ事を言つてちやあ芝居にならないぢやあないか」
そんな事を言つてる処へ、今度偶然私達のあとを借りることになつてそれで知り合ひになつた旅で来てゐる日本人と其の友達の人と、二人の紳士が私達を船まで見送りに行くと云つてやつて来て呉《く》れた。同時に、Y子が親しく交際したJ氏といふ人が花籠《はなかご》を持つて別れを告げに来た。
船へ行くとS君と田中貢太郎君が来てゐた。貢太郎は近々広東へ行くことになつてゐた。狭い二人部屋のキャビンへ寿司詰めになつて南瓜の種を食べ乍ら一時すぎまでみんなで話した。
其の翌朝私が眼を醒《さま》した時には、船は揚子江を出て海を走つてゐた。キャビンの窓から私は黄色い海を眺めた。私は一瞬間に二カ月の上海生活を回顧した。其の時の私の気持を一言で云つて見ると、それは蕃界《ばんかい》の探険を終へて還《かえ》る探険家の心持――といつたやうな気持だつた。
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『魔都』の中に出てくるY子は、たしかに梢風が上海で出会った女性のようだが、ある席では梢風はY子を妻として他人に紹介しなければならなかったらしい。ある晩餐会《ばんさんかい》に呼ばれてY子と一緒に行くと、五、六人の先客があった。先客は、「郭沫若君、成瀬君、林祖涵君、黄日葵君、その他の人々」であった。そこで梢風は、「これは私の妻です。つい此の頃東京から参りました」と紹介している。
上海に魅入られた梢風の感動は、もちろん「魔都」上海のイメージだけではない。郭沫若や郁達夫《いくたつふ》をはじめとする、中国の新しい芸術家たちとの出会いは、梢風を大きく変貌させたにちがいない。
遠州飯田村出身の村松義一という百姓の長男は、東京へ出て行って小説家となったことによって、まず祖母の手のとどきにくい存在になってしまった。そして、上海へ上陸したあとの梢風のスケールは、祖母をはじめとする一家の者たちが、はるか遠くにながめる星のごとくになってしまったのではなかろうか。
祖母がいくら家族の立場からの主張をくり出しても、梢風にはとうてい矢が届かなかったにちがいない。梢風が上海へ赴いたときはすでに四人目の子供が生れたばかり、祖母は生活の地盤をかためることに神経をつかっていたことだろう。だが、上海での興奮を胸に帰ってきた梢風の目には、家族などという近視眼的な存在はとらえがたくなっていたはずなのだ。
Y子という女性は、のちに梢風が書いた小説『上海』では、赤城陽子という名で登場している。そして、梢風は二カ月の上海での同棲生活ののち、Y子を連れて帰国しているのだが、Y子については私はもちろん何も知らない。ただ、上海での酒席で歌合戦になり、「じゃあ、印度の国歌を……」と言って不思議なリズムで歌った女というのは、私にも興味津々のタイプだ。しかし、親戚のあいだでの話題や、祖母の口などから、上海で同棲していたY子という女性の名前が出たことはなかった。ふたりは、梢風の言葉の通り、別々の変化の中を生きたのだろうか……。
「何を考えてるの……」
弥生の声が、私を現実に戻した。弥生は、私が部屋から持って来た茅台洒をちびりちびりやっているうち、かなり酩酊《めいてい》してきたようだ。
「あなたがそうやって考えているのは、かならず自分のことなのよね」
「ちがうよ……」
「じゃ、何なの」
「女ってのは、いつの時代も厄介なもんだと思ってさ」
「ほら、厄介っていうのは自分にとってでしょ、やっぱり自分のことを考えてる」
「まあ、そう取るならご自由に」
「ねえ、どうする……」
「何を」
「東京へ帰ってからのあたしたち」
「だって、別れるために上海旅行にやって来たんじゃないか」
「まあ、そうね……」
「おい、気を変えたわけじゃないだろうな」
「でも、あたしたちって、よく考えれば別れることもないのよね、結婚してたわけじゃないんだから」
「そりゃまあ、そうだけど」
「だから、一緒にいるのもゲーム、別れるのもゲーム……」
「またおどかす」
「ひとつの舞台でひとつの役じゃつまんないもの」
「それじゃまるで、『魔都』のセリフだ」
「魔都……」
「いや、何でもない」
私は、弥生の口から、たったいま自分が思い浮べていた言葉が出たのでとまどった。それはもちろん単なる偶然なのだろうが、奇妙に心の中にひっかかるものを生じた。そのとき、ドアをノックする音がした。
「どうする……」
弥生は、いたずらっぽく私を見た。
「俺はかまわないぜ」
「ほんと?」
「ああ」
「じゃ、開けるわよ」
「どうぞ」
弥生は、もういちど念を押す顔で私を見てから、ドアへ近づいていった。そして、落ちついた手つきで静かに開けた。だが、そこには誰もいなかった。弥生は、廊下をのぞき込むようにしてからうしろ手にドアを閉め、私をにらんで立ちつくしていた。
11
「男女浴室」という文字が、赤と青のネオンに彩られて、コンクリート打ち放しの工事現場のような壁に、不釣合に張りついている。入口でチケットを買ってエレベーターへ乗ると、「日本人?」と言われ、どのような顔をしていいか分らぬままにうなずいた。三階でエレベーターの反対側が開いたが、上海へ来てからこんなケースが二、三度あったのでおどろかなかった。しかし、乗った側の反対側が開いたのには、はじめはびっくりしたものだった。
エレベーターを降りると、無表情な男が近づいてきてチケットを点検した。私にはくわしいことはよく分らないが、「マッサージはかるくやってくれ」というような私の注文が、おそらく書きつけられているのだろう。手で示された方向に廊下がずっとつづいており、いなかの診療所のような感じだ。廊下をあるいてゆくと、左手の部屋から小柄な男が出てきて、その部屋へ入るよううながした。
部屋の中に陽灼《ひや》け用の安楽椅子のごときものが四つ、壁に沿っておかれてあり、そこには誰も坐っていなかった。男は、私にいちばん奥の椅子へ坐るよう仕種で示したあと、何かを語りかけた。私が首をかしげていると、日本語の「貴重品」という発音が聞えたので、金と時計を男に手わたした。
男は、それを紙の封筒に入れ、私のすぐわきにある粗末な木の抽出《ひきだ》しの中へおさめ、カギをかけて自分のポケットへ入れた。そして、私に立ち上れと指示して、衣服を脱ぐような仕種をした。私が自分のジャンパーを脱ぐまねをしてたしかめると、男はニッコリ笑って大きくうなずいた。
私がまずジャンパーを脱ぐと、男はそれを受け取ってハンガーにかけ、目の前にあるロッカーにおさめた。次にシャツを脱ぎズボンを脱ぎパンツまで脱いだのだが、洋服を着た男がすぐそばでいちいちそれを受け取るのは奇妙な気分だった。
すっかり裸になって所在なげに立っていると、バスタオルをくるりと私の胴に巻きつけて器用にうしろで止め、外へ出るようにうながした。
外へ出ると誰かが待っているのか……と思ったがそんな様子はなく、左へ行けば突き当りになっていたので、仕方なくもと来た方へ向って歩いて行った。途中に観音開きの開閉する仕切りがあり、それを押して進むと、左手の部屋からシャワーの音がした。
その部屋から、直毛で痩せた男が顔をのぞかせ私を手招いた。近づくと男は私の胴に巻いたタオルをいきおいよく剥ぎ、シャワーの小部屋の向う側の浴室を指さした。浴室へ入って見ると、浴槽の色がくすんでいた。浴槽のふちに裸の男が寝そべっており、その躯をこすっている男がいる。こんなペアが二つ三つあったが、寝そべっている男の裸は、浴槽に沈んでいる私からはまる見えだった。
(なるほど、これが垢《あか》すりというやつか……)
そう思って遠慮がちに目をやっていた私は、ある瞬間に奇妙なことに気づいた。それは、浴槽のふちに寝そべっている男たちが丸裸なのは分るが、垢をすっている男も同じように身に何もつけていないのだ。
(あれ……)
私は、心の中の呟きを声に出しそうになった。そのとき、さっき私のタオルを剥ぎ取った直毛で痩せた男が、浴槽のふちに二、三度湯をかけてその上へ濡れたタオルを敷いている姿が目の前にあることに気づいた。そして、その男もまた、躯に何もつけていなかった。
男はやがて、浴槽のふちに敷いたタオルの上へ腰かけ、足を浴槽へつけたままにしているよう指示し、背中をしずかに何かでこすりはじめた。上から下へ、上から下へとていねいにうごいていた何かが、急に強く押しつけられて下から上へ、キュッ、キュッとこすりあげる。そんなリズムがつづくうち、浴槽のふちに腰かけた腿《もも》のあたりに、背中から流れおちた私の垢がたまってきた。すると、男は手桶《ておけ》に湯をすくい、浴槽の側から外側へ向けてかるくそのあたりへかけ、手でパッパッと垢を外側へ落した。だが、男が手をやすめているあいだに見おろしていると、外へ流れようとした垢が途中で止り、逆に浴槽の内側へ流れおちているのに気づいた。何組かいる全員の垢が、このように浴槽の内側へ逆戻りしている……私は、最初目にした浴槽の中の色のくすみの意味が分り、ふっと溜息をついた。
次に私は、躯を俯《うつぶ》せにさせられ、両腕と両足の垢をこすり落された。こすり落された垢は、同じように浴槽へ流れつづけているのだろう。仰向けになると、男は自分のヒザを立て、その上へ私の腕や足をのせ、かたわらにある見たこともない色をした石鹸《せつけん》を、タオルともヘチマともスポンジともつかぬものに滲《し》ませ、それで垢をこすった。男は腕のつけ根、足のつけ根までをまんべんなく、ていねいにこするのだが、そのたびに私と男の肌が触れあうのが変だった。
私と同じようにしている客はすべて中国人で、彼らは窺うともなく私の方を気にしている。外へ出れば人民服を着たり地味な服装に身をつつんでいるのだろうが、裸になると彼らは個性が強く見えた。このまま黒のドスキンのダブルなどを着て巷へ出れば、立派なヤクザの親分という風格の男もいた。また、無表情で小柄な男は、口さきだけで何人もの相手をだます天才的な詐欺師に見え、無表情の痩身《そうしん》の男は、女に金を貢がせて涼しい顔をしている色男という風情だ。私は、裸の中国人たちをながめながら、頭の中で着せ替え人形のように彼らをもてあそび、さまざまに変装をさせてみた。すると、彼らは私の想像の世界で無限に跋扈《ばつこ》し、そのすさまじさが私を圧倒した。
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上海では大規模な強盗団が横行してゐる。彼等は常に大々的計画と手段とを用ゐて有名な富豪を拉致《らち》して人質を取り、其の身分相応の銀行手形を書かせそれを現金と引替へた後に礼を厚くして釈放する。抑留中も至れり尽せりの待遇をするといふことだ。彼等は警察よりも遥かに強い勢力と大きな組織の下で活動してゐるから、警察は常に彼等に対して無関係であるか、或ひは其の機関の一部であつたりする。其のほか上海には無数の罪悪が行はれてゐる。けれども其のどれも是れも此土地では極く平凡な出来事である。都市の不安を叫ぶ者もなければ、警察の廓清《かくせい》を要求する者もない。
上海にたゞ一つの道徳がある。曰く「自分を守れ」といふことである。すべての人は自分の生活を自分の力で保護してゐればよい。それ以上の大きな権力の存在を希望してゐない。それが上海人に共通の観念である。そして其処に平和があり、平等があり、歓楽があり、罪悪があり、あらゆるものがある。何があつても此の土地では自然である。自由である。デカダニズムの行き止りが上海であると云ふ人もあるが、人類の生活は必ずしも道徳的構成に向つてばかり進歩するものではない。資本主義が亡びても罪悪が無くなるとは云へない。私がむしろ上海が人類の最後の場面を暗示してゐると云ふのは間違ひであらうか。
[#ここで字下げ終わり]
直毛で痩せた男が向うで手招きしているのに気づいて、私は目をしばたたいた。躯の垢をこすり終り、私はふたたびくすんだ浴槽の中に身を沈めて、しばらくぼんやりしていたらしい。浴槽のふちには新しい客が丸裸でよこたわり、やはり丸裸の男がその垢をこすっては湯をかけつづけている。それによって浴槽の内側へ落ちて溶けたさまざまな客の垢が、私がいま浸っている浴槽の中で混り合い、くすんだ色をつくっているのだ。私は、あわてて浴槽から上りながら、なぜ自分がこんなところへ浸っていたのか、それが不思議だった。
「男女浴室」というネオンをふり返ると、やはりコンクリートと不釣合な彩りを見せていた。例によって朝五時ごろ外灘《バンド》の太極拳を見物し、そのあと市場へ行って油条とソバを食べ、そのままホテルへ帰ろうとしたのだが、「男女浴室」のネオンがなぜか心に引っかかった。周さんにはホテルへ帰ってもらい、母と弥生の朝食を世話してもらうようたのみ、孫さんと落ち合う場所だけ決めて、私は「男女浴室」へ入ったのだった。
孫さんとの約束の場所までは、かなり歩かなければならない。「男女浴室」まで迎えに来るという孫さんに、ちょっと歩きたいのでということで、わざと離れた場所で落ち合うことにしたのだった。
上海の裏道は、工事現場が多い。工事現場で働く人々は道ゆく人々を見物し、通行人は工事現場を物めずらしそうにながめているので、そこはやはり人だかりとなっていた。私の姿を見ると、人々は何かをささやき合ったり、じっと見つめたりした。ときどき、けたたましいクラクションがうしろからひびいた。ニワトリの群れを追い散らすように、車は進んでゆき、人々はニワトリのように逃げるのだ。私は、クラクションがひびいても、わざと緩慢なうごきで車をやりすごした。そんなことをやってみたいという気分もあったが、頭が重くて躯の反射神経がにぶっているのも事実だった。
私は、安直に考えついた上海旅行のプランが、自分の中で見る見るうちに色あせてゆくのを感じていた。呉淞路の父と住んだ部屋へ行ってからというもの、母は熱でも発したのではないかというふうに黙りこくっている。母にとっても、呉淞路での体験のショックは、自分自身で想像できないほど大きかったのだろう。私にしても、未知の父にゆかりの場所をおとずれてみれば、生れたときから欠けている小さなネジを、拾うことができるかもしれないという期待があった。だが、そんな効果はまったく生じないばかりか、得体の知れない妄想が、浮んでは消えるようになってしまった。
(上海|子守歌《ララバイ》なんて、飛んでもない……)
私は、弥生の言葉を思い起して、苦々しい気分になった。
12
「けっきょく、基本を知らないで武術の試合なんかへ出場して、ケガしたようなもんね」
「何だい、そりゃ」
「あなたの上海旅行よ」
「あ、そうか……」
「ちょっとした思いつきじゃあ、処理しきれないこともあるって分ったでしょ」
「しかし、おふくろはショックだったんだなあ」
「でもね、お母さんはあれでちゃんと、受け止めるものは受け止めてるわよ」
「………」
「あなたとちがって、イメージだけじゃなく、事実って重みがあるからね」
「まあ、そうだろうね」
「あたしとのお別れ旅行も、目的はおじゃんだし……」
「どうして」
「どうしてって、二度もルールを破ったんだから」
「だから、お別れは白紙か……」
「それに、お母さんにもバレちゃったし」
「それ、たしかめたの……」
「馬鹿ね、カンよ」
「そうか、例のやつか」
「いずれ、奥さんにもバレるわよ」
「もうバレてるって言ってたじゃないか」
「その可能性もあるけど、たとえ奥さんにバレてなくても、お母さんにバレたから……」
「だから、どうだって言うんだ」
「いまはお母さんは、自分のことを頭で処理できないでいるけど、そのうちにそれがおさまったら……」
「カミサンに伝わるって言うのか」
「女同士って、恐いのよ」
「それじゃ、きみとおふくろだって女同士じゃないか」
「そうよ、もちろん」
「まさか、ふたりで食事なんかしながら、余計なことしゃべらなかっただろうな」
「さあね……」
「おどしに出たな」
「あたしと奥さんも、女同士……」
「どういう意味だい、それ」
「あなたは、孤立するのは馴れてるんでしょ」
「孤立無援か、上等じゃねえか」
私がそう言って歌舞伎の見得のマネをして見せたとき、ドアをノックする音がした。
「今度はどうする?」
「好きなように、どうぞ」
「じゃ、覚悟しなさい……」
弥生が立ち上り、いきおいよくドアをあけると、周さんがキョトンとした顔を出し、
「あ、やっぱりここですか、そろそろジャズを聞きに出かける時間ですよ」
「はい、分りました」
「じゃ、十五分後にロビーで」
周さんの姿が消えると、ドアを閉めた弥生がダンスのようなターンをしてふり返った。
「やっぱりって言ってたけど、俺がこの部屋にいるだろうって教えたのはおふくろかな……」
弥生は、アゴを引いて顔を斜めにして私をにらみ、
「それを周さんに聞いても、口は割らないわよ」
「おふくろと周さんも、女同士ってわけか」
「お気の毒さまね」
「考えると気が遠くなるよ、ジャズでも聞きに出かけようぜ」
「ねえ……」
「何だい、ふくみのある目つきはいいかげんにしろよ」
「あのね、今夜ルール破ったら、本当に別れてあげないわよ」
弥生は、ダンスのうごきで部屋の中を回転しながら、指でピストルの形をつくり私に向けて二発撃った――。
Kクラブは、通称外人クラブと言って、中国人は外人の連れと一緒でなければ入れないことになっている。文化大革命のとき五歳だったという周さんは、ポップスやジャズが好きらしく、うす暗いレストランのテーブルに着くと、目をかがやかせてバンドに目を注いでいる。バンドは四人ほどで、バイオリンを軸にしたクラシックや、フォスターのメドレーなどをやっては、次にアメリカン・ミュージックを何曲が演奏した。まず、「ホワイト・クリスマス」が演奏されると、客席の一角から拍手がわきおこった。
「ここは、アメリカ人だけじゃなく、いろんな白人が来てるみたいだね」
「それはね、いま国際海事技術会議がひらかれているからです」
「ああ、それで胸に名札みたいなのをつけてるのか」
「そうです」
「あれ、誇らしそうでおかしいね」
「え?」
「誇らしそうで……」
「はい、誇りですね」
ざわめきと音楽のため、周さんとの会話はおたがいの声が届きにくかった。だが、それは私自身の声が心なしか弱くなっているせいかもしれなかった。
母は注文した料理を黙々と口へはこんでいる。弥生はなぜか、サディスティックな奇術師のように得々とした表情をつづけている。周さんは、音楽が終るたびに拍手をして、すっかり無邪気な顔になっている。私は、青島《チンタオ》ビールを飲みながら、あたりの風景を見わたした。
「上海は、これから年々変っていくんだろうな、急速に」
「それはそうでしょうね、産業のある都市ですもの」
弥生が、不自然にていねいな相槌を打ったのは、やはり母を意識してのことだろう。
「公園のアベックなんか、日本人より濃厚みたいだし」
「『紅楼夢』の国ですものね」
「南京路に、髪をまだらに染めた突っぱり若者なんかもいたしな」
「へえ、男でね、それはすごいわね」
「やっぱり、毎年来てみようかな」
「来るたびに変貌する都市、か」
「でも、変貌ってのは、先へ進むのかな、あと戻りするのかな」
「あと戻り……」
「ああ、むかしの上海なんて、まるでニューヨークだぜ」
「なるほどね」
「だから、前へ進んでいってブーメランみたいに昔へ戻るってことも……」
「昔へって、どこまで戻るの」
「おやじのころまで戻れば、『上海バンスキング』、ディック・ミネの世界だね」
「もっと昔へ戻ると?」
「じいさんのころまでいけば……」
「そこまでいくと何なの?」
「やっぱり、魔都かな……」
[#この行1字下げ] パリジャンやマキシムになるとニューカルトンの何分の一しかないので壮大華麗の点では到底及びもつかないが、其の代りにぐッと平民的になつて全く異つた気分がある。天井や柱に電灯を仕組んだ造花だの果物の実が生《な》つてゐるやうな装飾がしてあつたりして、オーケストラの人数も半分位になる。此処ではソシャルダンスのほかに、専属のダンサーがあつて余興にバレーダンスをして見せる。来る客もさう改まつたなりではなく、ふだん着の儘で踊つてゐる者もある。眼ぶちを黒くして頬べにを濃くつけた商売人の女が、自堕落に頬杖をついて、いゝ客は居ないかしらといふやうな眼つきをしてギョロ/\見廻しながら、強い酒を飲んでゐる。芸人らしい男もゐれば、水兵の服を着て踊つてゐるのもある。黒ん坊の楽師がおどけた顔をしてクラリネットを吹いてゐる。酔つぱらひの爺さんが、踊り半ばに靴が片つぽ脱げてしまつたので、亀の子をブラ下げたやうにブラ/\やりながら、変な腰つきをしてテーブルへ戻つてくる。総じて極く自由で、余り広くないだけに一層濃厚な、胸ぐるしいほどの歓楽と淫蕩の気分が満ちてゐる。かうして夜は音楽と踊りとで更けて行く。
Kクラブのレストランから廊下へ出た私は、その天井の高い長い廊下を歩き、右に左にとゆれながら、歩いていた。トイレへ立って廊下へ出たとき、廊下のかなたを縮れた毛をしていかり肩の中国服を着た男が、廊下の向うをついと左へまがったのが見え、私はその男のあとを追ったのだった。すると私は、耳にひびく固い音に気をひかれた。ひとつはたしか右側の部屋から、もうひとつは左側の部屋から聞えてくる。そこで右の部屋のドアを開けてみると、そこは卓球部屋、多勢の白人の男女がはしゃぎながら、ラリーを応酬、スマッシュを決め合っていた。左のドアを開けると、キューに松ヤニをぬりながら、狙《ねら》うべき玉を片目で見すえている男や、腰を半分台にのせてマッセを試みようとする男、クッションを利用してより高い点数を目論む男などが、タバコの煙で烟った室内でさかんにビリヤードに興じていた。
私は、それをしばらくながめていたが、またもやさっきの男のうしろ姿を見つけ、ふらふらと夢遊病者のように蹤いて行った。男の姿が消えた。小さな部屋を通りぬけると、妖《あや》しいあかりにつつまれた、不気味に静まり返ったところへ出た。そこは、バーだった。寄り添ったアベックや男同士のペアが、カクテルを舐めながら、静かに会話を楽しんでいる。多勢の者の静かな声が、うす暗い世界の中で読経の唱和のごときハーモニーをつくっていた。
私は、さっきの男の姿をしばし目で探したが、カウンターに空いた席を見つけるとそこへ坐り、オールド・ファッションを注文した。白人たちは一瞬、私の方を気にしたようだったが、すぐに自分たちの会話の世界へ戻った。オールド・ファッションをひと息に飲み干した私は、札入れを取り出して中をさぐった。すると私の指は兌換券《だかんけん》と一緒に、奇妙な物をつまみあげた。それは、新聞記事のコピーを切りぬいた小さな紙片だった。
(このコピーは、いつから札入れの中におさまっていたのか……)
それは、たぐれなかった。いつの日からか札入れの中へ押し込んであった紙片、それは昭和十四年九月十八日の「朝日新聞」の死亡記事をコピーしたものだった。「村松友吾氏 上海毎日新聞記者村松友吾氏は十七日腸チブスで上海の自宅で死去した。享年二十九、厳父村松梢風氏は上海へ急行した」縦四センチ横二センチほどの小さな切りぬきだ。
享年二十九というのは数え年のためか……私は、その紙片を空の灰皿の上へのせ、ライターの火を近づけた。コピーの紙片は、端の方がはじめ黒く焦げ、次に不気味な色の炎をあげて一気に燃えつきた。私は、それを見おろしていた目をあげ、カウンターの向うにある鏡に映った自分の貌を見た。そして、梢風のごときいかり肩をつくり、椅子の肘掛けに手をついて、ぐいと躯をもちあげた――。
「男のくせに、ずいぶんながいトイレね……」
弥生が、あきれたように言った。その親しげな声の調子に、母がちらりと私を見たが、すぐにテーブルへ目を落した。
「赤城陽子って女、聞いたことあります?」
「おじいちゃんの関係の女《ひと》なの」
「ええ」
「聞いたことないけど……」
「上海で一緒だった女らしいんだけど」
「そう……」
「日本へも一緒に帰ったって言うんだけど」
「誰が?」
「いや、『魔都』って小説に、そう書いてある」
「あ、そう」
「Y子っていう名で出てくるんだけど……」
そう言いかけたとき、バンドがチェンジして、ラクダ色のカーディガンを着て、地味な眼鏡をかけた男がマイクの前に立った。その男は手にクラリネットをもっているが、ボーカルも担当しているらしい。そして、最初の演奏がはじまると、私と弥生は顔を見合わせて苦笑した。その曲は、ウェスタンの「ジャンバラヤ」だった。
「これも、ジャズなの?」
弥生がすっとんきょうな声をあげたが、周さんはあいかわらず、無邪気な表情でのり出している。母は、あした買ってゆくみやげの相手をメモしている手を休め、私に向ってちょっと笑ってみせた。そして、
「秋子さんのお母さんへのおみやげ、忘れるところだったわ……」
誰に聞かせるともなく呟いた。弥生は、私の方へ顔を向けたまま目だけを母にはしらせ、唇をちょっとゆがめて笑った。曲は、「ジャンバラヤ」から、「アイム・イン・ザ・ムード・フォー・ラブ」に変った。
「お、ラブソングだ、踊ろうぜ」
私は、さすがに母を気にしてとまどっている弥生の腕を取り、強引に立ち上らせた。
「ここ、踊っていいの?」
「かまやしないさ、ラブソングにはダンスだ」
「でも、誰も踊ってないのよ」
「すぐに踊るようになるさ」
「そうかしら……」
「ここは、上海だもの」
「それは先へ進むの、あと戻りなの?」
「さあね……」
「あたしたちはどうなの、先へ進む、それともあと戻り?」
「それは、今夜決るかもしれないな」
「決らないかもしれないのよ……」
私と弥生は、音楽に合わせてせまいフロアで踊りはじめた。私は、弥生の頬を私に押しつけさせるようにした。
「あなたの子守歌《ララバイ》は、やっぱり梢風さんが歌ってるのね」
「いや、梢風をとりこにしたこの上海の風だろ……」
上海の土を踏んでから、私の神経のバランスをくずしたのは、上海に吹く風なのだ。その風は、たしかに梢風をとりこにしたが、父の肉体をも蝕《むしば》んでしまった。そしてまた、この私にもそそのかしの子守歌《ララバイ》を歌って聞かせ、妖しい世界への手招きをしている。それはもちろん、現在の上海だけに吹いている風ではない。上海に租界という中国人にとっては悲しい存在ができていらい吹いている、人間のあらゆる要素を喰いつくした者の口臭のような、毒々しくも魅惑的な風らしい。現代中国の健全な風のなかに、一瞬、すり寄っては姿をくらます異臭をふくんだ魔都の風……それに、私が聞き耳をたてているのだろう。
(上海ララバイは、恐い風だ……)
弥生の躯を強く引きよせ、ラブソングに合わせて踊っていた私は、ダンスのうごきを利用して、テーブルの方を窺ってみた。すると、母と周さんのふたりが、表情を止めてじっとこちらへ目を注いでいる姿があった。フロアの上を這《は》っていた風が一瞬、ふわっと舞い上って、手を組み合っている私と弥生にまとわりつき、生まあたたかい感触をのこして吹きぬけていった――。
[#地付き]〈了〉
初出誌
千駄ヶ谷 別冊文藝春秋 161号/昭和五十七年九月
上海ララバイ 別冊文藝春秋 166号/昭和五十八年十二月
単行本
昭和五十九年六月文藝春秋刊
〈底 本〉文春文庫 平成元年二月十日刊
外字置き換え
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