村松友視
七人のトーゴー
目 次
七人のトーゴー
覆面剥ぎマッチ
セメントの世界
クレイジー・タイガー
奈落の案内人
ひとりぼっちのツアー
あ と が き
[#改ページ]
七人のトーゴー
しぼみかけて皺《しわ》になったゴム風船のような皮膚が、次々と私の目の前をよこぎってゆく。一歩踏み出すたびに脹《ふく》れ出る使い古しの血管、皮膚の内側でうごめいている弱々しい筋肉、無数の斑点がちらばった乾いた肌……。秋をむかえ高波もなくなったため、若者たちは場所をほかに求めていなくなっているのだろうか。この島の空に特有の真綿に似た雲のあいだから、強い陽の光がもれてきて、カラー・グラビアのように鮮やかだが深味のない風景をつくりだしている。
ワイキキ・ビーチを散歩するアメリカ人の老夫婦は、たいがい二組が一緒になって歩いている。白い縁のサングラスに娘たちと同じようなカラフルな模様の水着をつけ、女同士がならんで前を歩いてゆく。彼女たちは、海岸に群がっている日系人たちを無視しながら大声で話し合い、ときおり指でサングラスを上げて遠くを見る。その表情は、東洋人の女にはない大袈裟なものを漂わせている。そのあとを、パナマ帽にアロハ・シャツ、ビーチ用のサンダルという亭主たちが、お互いに口をきくでもなくゆっくりと歩いてゆく。そういう二組の夫婦が通りすぎるたび、彼らの|もも《ヽヽ》のあたりの肉が私の目にとらえられるというわけだ。
彼らは、砂浜に寝ころんで躯《からだ》を灼《や》く若者たちの頭をよけながら用心ぶかく先へ進んでゆくのだが、その歩調の遅さは極端だ。とっくに盛りをすぎた皮膚が通り過ぎるたびに蔭をつくるらしく、寝そべって目をつぶっていた若い女が目をしばたたき、ビキニの三角の布をちょっと摘みあげて浮かせる。すると、その脇に坐って沖を眺めていた日系人らしい老人の目が鋭くその布の内側へはしる。その老人の目を知っていながら頓着なく女はヘソのあたりの砂を払い、何やら老人に話しかける。老人は女の躯の上に身を乗り出し、耳を傾けながら女の顔に近づけ、いたずらっぽい表情で女に向って胸を叩いてみせる。女はふたたび目を閉じ、老人はもう一度三角の布をみやってから沖の水平線に目をもどす。そしてまた二組の老夫婦が通り過ぎる。
ワイキキ・ビーチはこんなふうにして時が経ってゆく場所なのだろうか。
出発の直前に私は成田でAに宛てた封筒を投函した。真珠湾を見てくる……そう書いたものの、一日目は時差ぼけで、パール・ハーバーヘ向う気にはなれなかった。何しろ夜の九時に成田を出発した航空機の中で、十時半頃に夜食が出され、三時頃に朝食が出されたのだ。七時間ほどのあいだに二度食事をし、ホノルル空港へ到着したとき私の時計の針は四時を指していたが、時差を直すと朝の九時だった。つまり、一睡もしないうちにまた一日の始まる時間になってしまったのである。旅なれた者は、短時間でもホテルで睡眠をとってから外出するらしいのだが、私はなんとなく急《せ》かされた気分だった。ワイキキ・ビーチを見おろすホテルから海岸まで出てきて、もう二時間も坐りきりだ。そうして目の前の風景をぼんやり眺めているあいだに、時差ぼけと寝不足がゆっくりと私の躯をつつんできていた。
そんな状態で見るせいか、ワイキキ・ビーチの風景は手応えのはっきりしないものだった。遊びにやって来た者、そして彼らを相手に商売する者……そんな構造の中に、すべての趣きが吸い込まれてしまうような気がしたのだ。
遠目に見ると、東洋人の姿はすべて少年少女のように見えた。あきらかにサイズのちがう西洋人のゆっくりとした動きのあいだを、せせこましく行き来する小柄な東洋人の姿がめまぐるしかった。
ところが、やがて目が馴れてくるにしたがって、サイズが大きくゆっくりした動きをする影の中に、日本人と同じ肌の色をした男や女たちが混っていることに気づいた。おそらく彼らは三世とか四世の連中なのだろう。赤銅色の皮膚の中は、身も心もアメリカンということだろうか、会話は流暢《りゆうちよう》な英語、仕種《しぐさ》はオーバーなヤンキー風、心臓の中心には星条旗が打ち建てられているというわけか……。
そんなことを思い巡らしている私の前を、また二組のアメリカ人夫婦が横切った。太陽の光にさらされた老婆の喉の皮膚が、幾重もの皺をくっきりと見せた。彼らは日光浴をしにやってきたらしく、人々のあいだの隙間を見つけて見当をつけると、日光浴用のマットを借りにいった。
貸椅子や貸マットを立てかけ、目印の旗を砂浜に突き立てたかたわらに、大きな男が海岸に背を向け足を投げ出してチェアに背をもたせかけている。男のうしろには何かを囲った鉄条網があり、スチール製の銀色の松葉杖が二つそこに立てかけてある。アメリカ人夫婦はその大男に呼びかけた。大男は背をチェアにもたせたまま首をねじって客の顔を見た。
はじめて大男の額が陽の光にさらされた。大男の額には無数の傷跡が縦に走っていた。アメリカ人夫婦はいくらか値切って満足したようにマットとチェアを持ってその場を離れていったが、私の目は大男の額に釘づけとなった。
あの傷跡の形はプロレスラー独特のものであり、私にはひと目で分るのだ。
私はかねがね、流血をするレスラーがいつも同じであることを不思議に思っていた。流血はアクシデントではなく、流血が売りもののレスラーがいるらしい。ここ数年間に来日したレスラーのうち、日本のマットヘ上ればかならず流血を見せるレスラーたちがいる。そして、彼らの額には、来日をかさねるたびに縦に走る傷跡がふえてゆく。
拳で殴られたり鉄柱にぶつけられたり机や椅子で打ちすえられたり噛みつかれたり、流血の直接の原因はさまざまだ。しかし、刃物によって流血させられるケースは、リング上ではまずありえない。だが、流血を売りものにするレスラーの額に縦にはしった傷跡は、あきらかに刃物による傷跡である。
「あのヒト知ってるんですか」
さきほどから私の横に坐っていた男が、意識的な視線をこっちへ向けていたのは知っていたが、どうせ観光案内志願の一人だろうと思ってわざと無視していた。その男は、私が貸マット屋の大男の額を凝視していると、ついに声をかけてきた。私は彼には目を向けず、
「ああ」
ぶっきらぼうに答えて立ち上り歩き出した。案のじょう、男は私のあとに蹤《つ》いてきた。
「観光案内はいらないよ」
私は、はじめて男の目を直視して言った。異郷で何の疑いもなく日本語の会話をかわしていることにすこし不思議な気分があった。男は、直毛を七三に分けて前髪をたらし、陽灼けした愛嬌のある顔に白い歯が目立った。アロハ・シャツに半ズボン、足にはビーチ用のバイキング・シューズという出立ちだが、年齢がよくつかめない。背景に白人をおけば少年、背景から白人が消えればしたたかな中年のたたずまいに見えた。
「あのヒト、プロレスラーのイアウケアですよ」
私がこのハワイヘ何を目的に来たのかを知っているかのような男の口ぶりが気になったが、訛《なま》りのある言葉つきが私の警戒心をすこしやわらげた。
「イアウケア……」
私は、貸マット屋の姿をもう一度思い浮べた。そして、そうだ、イアウケア……心の中にポンと手を打つような弾みが生じた。
プリンス・イアウケアというプロレスラーが日本のマットヘ登場したのは力道山時代の末期だ。ハワイの王朝カメハメハ一族の直系とかで、プリンス≠ニいうリング・ネームだった。その後、カーチス・イアウケア、キング・イアウケアと日本マットでのリング・ネームが変遷したが、つい、一、二年前にも来日していたはずだ。最近ではすでに一流半の悪役のスタイルとなり、唇をゆがめ「エア! エア!」と不思議な声を発して花道から登場、贈呈用の花束を投げ散らして暴れ回り、試合開始後五、六分で反則負けとなってふたたび吠えながら花道を引き上げてゆく、そんな役どころとなっていた。かつてプリンス≠ニ呼ばれた面影は、最近のイアウケアのリングのどこを探しても見当らなかった。髪の毛を荒々しく伸ばして掻きむしり、不精髭が顔に凄みを与え、プロレスラーの中でも巨漢の部類にはいる肥満型の上半身に、力道山スタイルの長いタイツをはいて登場していた。
ワイキキ・ビーチの貸マット屋は、髪はふつうの形にしていたし、サングラスにかくれた目も定かではない。それに上半身の肉がやや落ちているようにも見え、坐ったままだから背丈も分らない。ハワイの男らしい肥満体のおやじが店番をしているという、ありふれた風景だった。だが、あの額の縦にはしる幾筋もの傷跡を中心にして想像をふくらませてゆくと、力道山以来何回も来日してきたイアウケアの像が輪郭をつくった。プリンス≠ゥらキング≠ノなったイアウケアは、いまは一体何と呼べばいいのだろうか……鉄条網に立てかけられたスチール製の松葉杖の銀色の鈍い光が、私の目の中で点滅した。
「彼は、リタイアしたんですよ」
「足のケガかなんかで?」
男は私の質問には答えず、目をちかちかっとしばたたいてポケットに手を突っ込み、その手をいきおいよく引きぬいて宙で指を鳴らした。その仕種は、ヤンキー風を外側からあざやかに真似ているのであって、躯の内側にしみついたポーズというのではないだろう。
「プロレス、好きですか?」
「ハワイではどうなの、盛んなの」
「いや、あまり……、いまはサモア人のレスラーが中心ですよ」
「あの、サモアンズというタッグ・チームのことかな」
「いや、このあいだは、ピーター・メイビアなんか来てました」
ピーター・メイビアというのは、ニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデンなどにも登場するレスラーだし、私も日本のリングで見たことがある。おそろしくタフなレスラーという定評だが、日本のマットではうまい役が見つからないという感じで、外人レスラー中の目玉商品というわけにはいかなかった。
「しかし、マットヘ上れなくなって貸マット屋になったのは皮肉だな」
「リタイアしたレスラーは、みんなみじめですよ」
「彼は、日本では悪役だったけど……」
「イアウケアは、流血がうまかった方ですよ」
流血がうまかった、という表現が私の気をひいた。だが、この男が奇妙にプロレスに詳しいことを、私はちょっと不気味に感じはじめていた。都合がいいといえば都合がいいが、世の中でプロレスの知識をもっている者の数は限られている。たまたま、日系レスラーのイメージの原点である|真珠 湾《パール・ハーバー》を見にきた私が、到着早々、こんな便利な男に出会うというのは逆に不吉だ。会話のスムーズさが妙なしこりとなって私の中にわだかまりが生じてきた。私は、素っけなく彼を無視して、ゆっくりと歩き出した。私の背中が遠ざかってゆくのをじっと眺める男の怪訝《けげん》そうな表情を、私はしばらく思い浮べながら歩いた。
ワイキキ・ビーチは、あいかわらず、連れだってゆっくりうごく老人の夫婦たちが風景の中心をなしていた。
街角の木蔭や公園のような場所のベンチには、日系人らしい老人たちが、雑踏を眺めながら世間ばなしに興じている、そういう光景がそこかしこに見られた。
ワイキキの大通りから繁華街へやってきても、ここへ遊びにやって来る者と、そういう連中を相手に商売する者という組合わせは変らない。遊びに来る者が日本人で、それを相手に商売する者がアメリカ人である場合もあるが、海水浴客で賑わう湘南海岸の商店街といった感じだ。さまざまなTシャツが店に列《なら》べられているが、それらは原宿のブティックあたりにもありそうな品物に見えた。短期間滞在する客のために、とりあえずそれらしく陳列されているといったふうで、こんなことはどこの観光地のおみやげ店でも見られることだろう。どの店の前にも大きな紙が、パチンコ屋の「本日開店」の花輪のような嘘くささでぶら下り、「50% OFF!」「Sale!」などと記されていた。ここも、連れ立ってゆっくり歩く白人の老夫婦と、そのあいだをぬって足早やに行く東洋人たちの織りなす風景だ。そして、もちろん私も大きな白人のあいだをぬって足早やに歩く東洋人の一人にはちがいないのである。
私は四十歳になるプロレス気狂いだ。中学一年生のとき、電気屋の暗い茶の間で、力道山・木村組対シャープ兄弟組のプロレスを見て以来、現在にいたるまでプロレスを見つづけてきた。力道山が死んで少しのあいだ空白があるような気はするが、ほぼ二十六年間というものプロレスに飽きたことがない。これはすこし不気味なことだと、自分でも感じているのだが、事実は事実だ。
私には、生れたときにすでにちょっとしたフィクションがまとわりついていた。私が生れる六カ月前に父が上海で死に、母は私をのこして他家へ嫁いでいった。父が死んだ病気は腸チフスであり、上海などにいなかったら命はとりとめたはずだ。私を妊《みごも》った母は当時二十歳、堕胎事件などという記事が出る時世でなかったら、母は私を堕《おろ》すこともできただろう。ともかく、そういう状態のもとに生れた私は、祖父母の子の籍へ入れられて育った。学校の書類の父母の欄には祖父母の名前を書き、家では「おじいちゃん」「おばあちゃん」と祖父母を呼んでいた。両親ともに死んだと聞かされていたが、私は十五のときに母の生存を知らされた。母は嫁いだ先で幸せな半生をおくっているということだった。その母も一度も会ったことのないうちに病気で他界、私は祖父母が教えた通り、父も母も死んでこの世にいないという境遇になったのだった。自分の役割がぐるぐるぐる回って元にもどった……そんな思いが私にはある。いまは、祖父母も逝ってしまったが、私自身の役割は祖父母の残していった影としてのこっている。思い出ばなしとして祖父母や父母のことを妻に話すときの私は、フィクションとノンフィクションが入りまじった、プロレス的な感覚で喋っている自分に気づくことがあるのだった。
私は、妻にかくれてプロレス新聞やプロレス雑誌を購入し、巧みにある場所に保存してある。少年のようにプロレス雑誌の読者欄に投稿して、それが載っていると数日愉快になったりもする。
プロレス雑誌の読者欄は、会社の同僚や妻や親戚などが絶対に目を通すことのない聖域であり、もちろん実名で出す。そして、実名で出したため万が一露見する可能性に対するスリル感も、投稿の楽しみの中には当然ふくまれている。プロレス新聞から刻一刻の情報を吸収し、週一度のテレビのプロレス番組や、そのシリーズの意味や展開などを、まるで競馬ファンのように気にしている。外国の試合で膝を負傷したレスラーが来日すれば、その故障を頭に入れて試合の展開を読むといったあんばいで、自分でも呆れるほどのマニアだと私は自負していたのである。
ところが、あるとき私のところへ一通の封書が届いた。それは、ちょうどそのころ私が投稿した「日系レスラーの凄さ」という題の文章に対する手紙だった。差出人のAは、私より十歳も年下の三十歳の男性で、静岡県の清水市に住んで英語塾をやっていると記してあった。Aは、アメリカ、イギリス、ドイツなどに十人ほどの友人がいて、彼らとの情報の交換によって、外国のプロレスの情況に精通している。そして、私との決定的なちがいは、Aは絶対にプロレス会場へ足を運ばないという点である。現場の空気などはAにとってどうでもよく、あくまで資料《データ》によるプロレス研究という感じがある。したがって、自分こそがマニアであって貴兄は単なるファンであるとAはその手紙の中で規定していた。Aもおそらく、周囲には秘密にしながらプロレスと関わって楽しんでいるにちがいない。「あなたとは、マニアとファンのちがいはありますが、隠れプロレス者《もの》という点では同じです」とその手紙には書いてあった。プロレス好きを隠れ切支丹になぞらえる感覚を、私は気に入っていた。
それがきっかけで私とAとの手紙のやりとりが始まった。つまりは私とAはペンフレンドであり、四十と三十の男同士がプロレスに関するペンフレンドというのはちょっとグロテスクだが、それだけにプロレス的な匂いがあるというものだ。
何しろ、マニアを自称するAとのプロレスに関する意見の交換はかなり芯がつかれる。私とAは、手紙以外は、直接会うことはおろか電話でも話したことはない。手紙で意見を交換するだけというのが二人の暗黙の了解なのだが、私には手紙に書き連ねるほどの意見がもともとあるわけではなく、現場へ絶対に足を運ばないAとの手紙に書く内容の種切れに、最近では悩んでいたのだった。
そんなある日、私は洋書屋で手に入れたアメリカの『レスリング』誌の中に、興味ある記事を見つけたのだった。その記事には「七人のトーゴー」という不思議なタイトルがついていた。
七人のトーゴーとは、第二次世界大戦後、アメリカに輩出した日系人プロレスラー七人の総称だという。彼らは、いずれも|真 珠 湾 奇襲攻撃《パール・ハーバー・スニーク・アタツク》にイメージされる卑怯なジャップ¢怩表看板に、アメリカ人観客の憎悪を買いつづけ、躯の傷が増えるたびに財産をふやしていった悪役たちだ。グレート東郷を筆頭に、トシ東郷(ハロルド坂田)、ミスター・モト、キンジ・シブヤ、オーヤマ・カトー、デューク・ケオムカ、グレート・ヤマト、この七人を『レスリング』誌は、「七人のトーゴー」と呼んだのである。
全員がトーゴーという名前ではないが、軍神《ヽヽ》東郷元帥のイメージを象徴させて「七人のトーゴー」と呼んだのだろう。当時のアメリカ人にとって、ロシアのバルチック艦隊を撃破した東郷元帥という名はまだ鮮列なイメージをもっていたのだろうし、日系レスラーの個々の名前などどうでもよかったのではないか。三白眼の卑怯なジャップというのが彼らの命がけのセールス・ポイントだったが、彼らはいったいどんな試合ぶりだったのだろう。この記事の中に、「七人のトーゴー」の筆頭格であり、トーゴー流の発見者というか創始者でもあるグレート東郷のマットぶりが、実に細かく報告されていた。
彼はリングに従者を連れて登場してくる。従者の名をハタと言い、彼の役目はグレート東郷の闘いの前のセレモニーを手伝うことであった。アメリカのレスリング・ファンは日系レスラーの様々な儀式を目にすることになるのだが、そのオリジナルは東郷によって行われたものである。
従者であるハタが、まずロープをくぐってリングに上る。手には銀色の盆をもちそれには何かが乗っている。次に、明るい色のローブを身につけた東郷がリングに入る。ハタが東郷にお辞儀をする。東郷がお辞儀を返す。次に東郷は、レフェリーと対戦相手に向ってお辞儀をし、笑顔をもって観客に向い四方に深々とお辞儀をする。それから東郷は自分のコーナーにもどり、祈りのためにしゃがみ込む。ハタが小さな布の包みに塩と米をいっぱいにして手渡す。東郷は塩と米の混ったのをリングの周囲にまく。それは悪霊を追い払うためだ。そして、茶の用意をして待っているハタのところへもどり、ゆっくりと茶を啜《すす》る。東郷が茶を啜りおわると、ハタが紙で東郷の口を拭う。さらに東郷は長い時間をかけて、自分のコーナーのエプロン・サイドに盛り塩をする──。
もちろんこれは対戦相手をじらす戦法だ。相手レスラーだけでなく、観客だって苛立ちの極致である。しかし、相手がしびれを切らし、観客の罵声が高まるほど、グレート東郷は効果的に舞台をつとめられるというものだ。盛り塩はもちろん、相手に対する目つぶし用の小道具である。
従者のハタとかいう名の男は、たしか呉服屋の番頭のような|成り《ヽヽ》をしていたはずだ。以前、グレート東郷の横にそんな華奢《きやしや》な男が写っている写真を見たことがあった。
グレート東郷は、一九七三年十二月十七日、ロサンゼルスのニマーパーク・ホスピタルのベッドで胃ガンのために死んだ。ロサンゼルス郊外の住宅地ガーディナーで悠々自適の生活をおくり、その豪邸の玄関にある二匹の狛犬《こまいぬ》は、ガーディナーの名物になっていたという。遺産は七十億円を越すといわれ、日系レスラーの中で最高の成功者だった、これはもうプロレス・ファンにとっては常識すぎる常識である。
グレート東郷がはじめて日本のリングヘ登場したのは一九六一年だった。そのときのグレート東郷は、カナダの密林男≠ニいうキャッチ・フレーズのグレート・アントニオという怪物レスラーのマネージャーをも兼ねていたはずだ。髪の毛を伸ばし放題、バスを五台も連結し満員の人を乗せたまま引っ張るデモンストレーションで話題を呼んだアントニオの首には革の輪がはめられ、その首輪につながれた大袈裟な鎖を、三白眼で無表情のグレート東郷が握っていた。
「あれがグレート東郷か!」
幼い頃からの継続的プロレス・ファンである私は、もちろん何かで読んでグレート東郷のことは知っていた。だが、そのときはグレート東郷の印象はあまり強くなかった。原始人のようなグレート・アントニオの首をつないだ鎖をもった三白眼の小男……そんな程度のイメージしか残っていないのだ。それにしても、カナダの密林男≠ニいうのはグレート東郷のプランか力道山が名づけたのか、いずれにしても奇抜なネーミングだった。
グレート東郷の二度目の来日は強烈だった。あれは、銀髪鬼ブラッシーの噛みつきをテレビで見てショック死した老人が出たときである。銀髪鬼ブラッシーは、日本のマットにはじめて「噛みつき」を披露した。
ニヤリと笑って噛みつくブラッシーの口の中が真っ赤に染まり、はじめて見るおびただしい流血シーンの連続に、まだ白黒画面だったテレビに喰い入るファンは度胆をぬかれたものだった。血は本物か? そんなことには思いも及ばず、本当の血だろうが偽物の血だろうが、ともかく光景として超ド級の迫力があったことだけはたしかだ。そして、噛みつき役の名優がブラッシーなら、噛まれ役の名優こそが、グレート東郷だったというわけだ。
頭からおびただしい量の血をしたたらせ、噛まれても殴られても投げられても、ニヤニヤと笑って起き上り、三白眼を細めピクリピクリと首をすくめてみせる様子は、まるで蛙が立ち上って向ってくるごとき奇怪な凄味があった。老人のショック死事件は、銀髪鬼ブラッシーと日系レスラーの親玉たるグレート東郷という二人の名優の、度を過ぎた演技の度を過ぎた効果であった。
だが、日本のマットにおいては悪役はつねに外人であって、グレート東郷とても日本マットでは善玉でしかありえない。リング・コスチュームも、日系レスラー独特の田吾作スタイル≠ノ裸足《はだし》というのではなく、黒の短いタイツにリング・シューズまではいた正統的《ヽヽヽ》なスタイルで登場していた。アメリカのマットで編み出した極《きわ》め付の悪役スタイル、卑怯なジャップ役のグレート東郷は、日本マットでは当然、実現しなかった。グレート東郷は、ついにその最大のセールス・ポイントをわれわれの前に披露することなくこの世を去ったのである。
「血はリングに咲く真紅のバラだ」と言い放ち、全身に八十七箇所もの傷跡を印し、度胸ひとつで四角いジャングルを荒し回ったというグレート東郷のプロレスとは、いったいどんなものだったのだろうか。『レスリング』誌の記事にも、試合前のセレモニーについては克明な説明があるものの、試合そのものについては詳しく記されてはいない。日本軍の|真 珠 湾 奇襲攻撃《パール・ハーバー・スニーク・アタツク》をイメージした試合ぶりという以外、あまり具体的な輪郭は浮び上ってこないのだ。
七人のトーゴー≠フ残りの六人はいずれも、多かれ少なかれグレート東郷の影響を受けてトーゴー・スタイル≠身につけた日系プロレスラーたちである。
この中で、日本マットヘの馴染みという点からいえば、グレート東郷よりも早かったのがハロルド坂田だ。彼は一九四八年のロンドン・オリンピックにおいて重量あげの銀メダルを獲得し、その肩書きをもってプロレス入りした。そして、昭和二十六年にボビー・ブラウンズ一行と共に来日したのだから、日本にプロレスが定着する昭和二十九年のシャープ兄弟来日に先だつこと三年ということになる。
このときハロルド坂田は、相撲を廃業して飲んだくれていた力道山と出会う。新橋のナイトクラブで、ひとりの女を張り合って喧嘩になりそうになり、それがおさまると両者は大いに意気投合し、これがきっかけで力道山はプロレス入りをしたというのだから、ハロルド坂田は、日本のプロレスに火をつけた男ということになる。
このあとアメリカヘ帰ったハロルド坂田は、グレート東郷と出会って義兄弟となり、髪を短く刈りアゴヒゲを生やし田吾作スタイルのタイツに裸足というグレート東郷と瓜二つの姿になって、東郷ブラザース≠結成したのである。この東郷ブラザース≠ヘ大いに当り、憎まれ人気で爆発的ブームを起してゆくのだが、日系レスラーはこれに刺激されて次々とトーゴー・スタイル≠取り入れるという傾向を生んでゆく。
ハワイ相撲の不知火《しらぬい》からマットに転向したイワモトもその一人だった。彼は、ハリウッド探偵映画シリーズの中で日本人探偵ミスター・モトが話題を呼ぶと、それをとってリング・ネームをミスター・モトと変える抜け目のなさ。相手に向って卑屈にかがみ込み、拝むように両手を合わせているモトの写真を私はずっと前に見たことがある。哀願するように見えながら、スキあらば相手の急所でも狙いかねない気配があり、やはり、奇襲攻撃《スニーク・アタツク》のイメージを色濃く身にまとっていたようだ。
キンジ・シブヤは、在郷軍人の一人であり、ミスター・モトとチームを組んで売り出し、悪役としての人気を確立、七〇年代後半に引退するまで大いにファンを沸かせたという。この人の顔は写真で見たことがあるが、私にとってあまり強いイメージはない。だが、『レスリング』誌の記事によれば、かなり高い評価が与えられている。ここではケンジ・シブヤと記されているが、ルー・テーズの師匠であるストラングラー・ルイスの言葉として「二流あつかいされているが、日本人レスラーの中でもベスト」という高い点数がついている。
デューク・ケオムカは、一九四四年にプロレスラーとしてデビューしたが、当時はセールスマンをしており、仕事を一時休んでリングに登場したらしい。柔道、空手に精通し、ヒゲも生やさずトーゴー・スタイルの悪役とはちがったスタイルで闘ったが、日系人独特のクロー・ホールド(つかみ技)は内臓つかみ≠ニして評判を呼び、何人ものレスラーを負傷させたという。
オーヤマ・カトーというレスラーについては、私は実は顔も知らない。ハワイで柔道の使い手として名をあげ、テキサスでの試合で飛び蹴りを心臓に受けて即死したということである。
さまざまな資料をつき合わせても、日系レスラーの実像はなかなか具体性を帯びてこない。『レスリング』誌が全員をトーゴー≠ニしてイメージしたように、グレート東郷の発案した原型のバリエーションという感じが強く、それぞれが鮮やかな個性を発揮したという様子はなさそうなのだ。当時は、トーゴー・スタイル≠フ人気にあやかろうと、メキシコ人や中国人やフィリピン人などが、次々と日系レスラーを名乗ったらしい。全米にばらまかれた東郷軍団といったらいいだろうか。ともかく、トーゴー・スタイル≠フ日系レスラーは、戦後、プロレスのプロモーターたちが競って奪い合うほどの目玉商品となっていたようだ。
私は、グレート東郷をはじめとする六人の日系レスラーの記事を読みすすめたが、七人のトーゴー≠フ最後のひとりであるグレート・ヤマトの紹介には、とくに強い興味をひかれてしまった。
まず『レスリング』誌に載っているグレート・ヤマトの写真が、他の日系レスラーとはまったくちがう趣きだったのだ。トーゴー・スタイル≠フ日系レスラーといえば、髪を短く刈りあげ、顎ヒゲと口ヒゲをたくわえて三白眼で相手をにらみ、七分丈の田吾作スタイルと呼ばれるタイツをはき、もちろん裸足で試合をする。このスタイルが、日系レスラーの商標のようなものなのだ。
ところが、グレート・ヤマトはこれとは全然ちがうスタイルでリングに登場したようだ。
髪型はポマードをこってりつけたオールバック、高く形のいい鼻の下には女たらしふうの口髭を生やし、金ピカのガウンを着てグレート・ヤマトは写っているのだ。日劇のステージで見たビンボー・ダナオのような横顔だった。その傍には、金髪の白人女性が着物を着てつき添い、腰をかがめた姿があった。写真説明によると、彼女は花子さん≠ニいい、グレート・ヤマトの妻であるらしかった。相手をじらしながら金ピカのガウンをゆっくりと脱ぎ、それを花子さん≠ノたたませて持たせ、最後にその上に履いていた高下駄をおもむろに乗せるのだという。花子さん≠ヘ、それを持ってしずしずとリングを降りるのだろうが、|真珠 湾《パール・ハーバー》という言葉がまだ生々しいころ、アメリカ女性に花子さん≠ニいう名前をつけて従え、身の回りの世話をやかせているグレート・ヤマトというキザな日系レスラーは、アメリカ人観客には鼻もちのならない苦々しいタイプと映っただろう。
そして、このグレート・ヤマトは、巡業地のホテルの一室で、この花子さん≠ノ拳銃で撃たれて死亡したという。射殺された原因は、美男子で女性にもてすぎるグレート・ヤマトに対する花子さん≠フ嫉妬だったと記されていた。
『レスリング』誌の写真や記事に目を通しているうち、私の躯の中に悪戯心が羽をひろげはじめた。マニアのAに対する手紙の内容を濃くするためだけに、|真珠 湾《パール・ハーバー》を訪れてみようと思い立ったのだ。七人のトーゴー≠イメージの原点とした|真 珠 湾 奇襲攻撃《パール・ハーバー・スニーク・アタツク》……その現場へ行ってみようという気持で、私は本当にハワイヘやって来てしまったのである。
真珠湾を見てくる……Aへの手紙ではそう書いたが、実は、私はある人物と会うことをも目論《もくろ》んでホノルルヘやってきた。その人の名は沖識名、シャープ兄弟来日のときから日本のプロレス・ファンに馴染みの名前であり、相撲を廃業しプロレス入りをした力道山をみっちりとトレーニングで仕込み、プロレスのイロハを教えた人であることは知られている。Tシャツというより丸首の下着のようなシャツをびりびり破かれて、オロオロとリングを右往左往する沖識名レフェリーの姿は、ある年齢以上の日本人ならば一度は目にしているといってもいいだろう。
私が沖識名に会う目的は、力道山以前のアメリカ本土におけるプロレスの状態、とりわけ日系レスラーの活躍ぶりに対する印象を聞き出すということだった。沖識名はグレート東郷よりも年輩者だから、トーゴー・スタイル≠フプロレスラーではなかったが、戦前には数度世界チャンピオンに挑戦したほどのトップ・レスラーだった。
日本ヘレフェリーとしてやってきたときに、一度だけ特別試合に出場したことがあったが、アクの強いタイプではなく地味なテクニシャンだった。戦後、極端なショーマン・スタイルがブームを呼ぶにおよんで、第一線から自然に遠ざかっていったのかもしれない。だからこそ、ショーマン・スタイルの代表であるグレート・東郷の戦後の擡頭《たいとう》ぶりはつぶさに見ていただろう、というのが私の推測だ。
沖識名はホノルルのどこに住んでいるのか、私は彼について何の知識をも持ち合わせていなかったが、沖識名の前歴を思い浮べているうちに、彼がハワイ相撲出身者であることに思い当った。
沖識名への連絡方法はやはりハワイ相撲協会で教えてくれた。彼はいまこのホノルル市内に住んでいた。教えられた番号にダイヤルするとしわがれた老人の声が聞えてきた。
沖職名は、新聞記者でもプロレス関係者でもない私の訪問をOKしてくれた。あすの午後一時という約束をとりつけた私は、急に睡気がおそってくるのを感じた。無理もない、これで二十五時間以上目をあけっぱなしにしているのだ。だが、強烈な睡魔におそわれているという実感とはうらはらに、私は眠りに落ちることができなかった。極端な疲労が躯のバランスを崩しているのだろう。窓から射し込む陽の光に目をしばたたいた私の目の裡《うち》に、街のそこかしこに見られる老人の寄り集う光景が浮んだ。その光景にあのイアウケアの額に縦にはしる無数の傷跡がかさなった。そして、スチール製の松葉杖の鈍い光が浮んでいたが、それもやがて消えた。
「どこへ行くんですか、お供しますよ」
ホテルを出るとすぐあの男につかまった。彼はタクシーの運転手らしく、車のドアを半開きにして新聞を読んでいたが、私を見つけると長年の友人のように気やすい声をかけたのだ。
「カリヒヘ行きたいんだが……」
私はもうこの男を便利に使ってやろうという気になっていた。日本語の分らないタクシーに乗るのも億劫だし、この男のプロレスに対する多少の知識も役立つかもしれない。咋夜ゆっくり眠った私には、そんなふうに思う余裕が出てきたのだった。
「カリヒ……」
男の表情が微妙に沈んだ。
「カリヒのジェニー・ストリート。カリヒって、どういう感じの場所なの」
「まあ、何ていうか、あまりよくない人たちの住んでいるところですね」
「よくないって、生活がよくないっていう意味かい」
「ま、そうです」
それからカリヒに着くまで男は黙ったままだった。車がカリヒ一帯に入ってゆくと、私は注意ぶかく家並みを眺めたが、とくに低級な生活をする人々の住いとは映らなかった。馴れない南国の碧《あお》い空や、白い色をした建物のたたずまいといったものが、中に住む人の暗さを私の目から遮断しているのかも知れない。いずれにしても、日本の住宅事情とはほど遠い常識の中で、男はこの辺一帯のことを語っているにちがいないのだ。
番地の札を読みすすめながら探してゆくと、一軒の家の前に一人の老人が立って軽く手をあげた──。
「ボクは、パール・ハーバーのときは、アメリカにおってね」
沖職名氏は静かな物言いをする人だったが、声のすべてに痰《たん》がからむようなかすれた声をしていた。すこし痩せてはいるが、Tシャツにズボンといういまの出立ちは、私がむかしテレビで見た沖レフェリーの姿そのままだった。彼は、私が知りたい|真珠 湾《パール・ハーバー》のことよりも、それ以前のプロレスに対する懐かしさを抱いているようだった。沖職名の師匠の三宅太郎、そして日本人レスラーとして戦前に有名だったソラキチ・マツダなど、ショーマン派が擡頭する以前のプロレスを本当のプロレスだと考えているらしい感じだ。だが、やはり力道山に対しては特別の思い入れがあるようだった。
「はじめに力道山がハワイに来たとき、ボク、ここで十カ月ほどケイコしてやった。それからひと月ほどアメリカにおって、シャープ兄弟とビジネスまとめて、日本へ帰ってった。で、また、すぐハワイヘ来たな」
私は、一時間という短い時間の約束を考えて、話を強引に七人のトーゴー≠フ方へ転換してみた。
「沖さんは、七人のトーゴー≠チて言葉知ってますか」
「七人のトーゴー? 知らない」
「グレート東郷は、沖さんよりすこし歳下ですよね」
「ああ、歳下。トーゴーはねえ、力道山が死んでから、日本のプロレスのビジネスを自分で取りたかったんだ」
「はあ……」
「それはいかんとボク言ったんだ、おまえが連絡つけて外人呼ぶんならええ、だが、トーゴーは自分がボスになりたかった、日本を買い取ってしまいたかったんだね、それはいかんとボク言った。どうしてできんか、どうしてもできん、それでトーゴー怒っちゃって、ボクとあまり口きかなくなった、それでモトに話つけて、ありゃボクの弟子だからね、で、モトが日本へ外人を呼ぶ役になったんだ」
力道山の死後、日本のマット界は大荒れに荒れたらしい。力道山という超スターがこの世を去ったことにより、リングの後継者がうまく出現しないという点もあったが、それよりも、ビジネスの面に確執が生じたのだった。力道山ひとりによって牛耳られていたプロレス・ビジネスという金ヅルが、周囲のあらゆる人々にとって手の届くものとして目に映ったのである。この間の事情を詳しく書いた読物には、人間とは思惑の虫であるという人間観によって、まるで講談のように面白おかしく語られている。グレート東郷が殴られたというエピソードなども、私は何かで読んだ気がするのだ。ともかく力道山の死後、外人レスラー招聘《しようへい》の窓口は、グレート東郷からミスター・モトに移ったのだった。
「力道山がシャープ兄弟をよんで、沖さんがレフェリーをやったときは、沖さんはもう現役を引退してたんですか」
「ノー、引退はしてなかった、こっちにいても一週間に一ペんくらい出よったからね、それで、スポーツ・バーみたいなもんやっとった。ところがリキが、そんな儲けの分やるから来いっていって。で、日本へ行った。ところが、これが入ったね、コクギカン満員だったでしょう、ボクも金もらうことでけた」
「プロレスのプの字も知らないとこで、最初にやったときは不安だったでしょうね」
「あのころ、ボクんとこヘヤクザがドス持ってきよったよ、なぜ外人の味方するって怒ってね、いま考えれば、あれもファンなんだな」
「沖さんは、力道山と木村が闘ったのは見なかったんでしょ」
「そう、あれはボクがこっち帰ってるときのはなし。木村は柔道着きたら日本一、でも、ハダカになったら負ける、ギャランティ負ける、賭けてもいい、ボクそう言っとったんだが、ボクがこっちにおるあいだにやったらしい、バカなことしたもんだ」
「木村より力道山の方がぜんぜん強かったですか」
「ああ、もう」
私は時計を見ながら、すこし焦りはじめた。沖識名は突然やってきた質問者にむかしのプロレスヘの記憶を刺激されるままに喋っている。ともすればトーゴーから外れそうな話を、私はもう一度もどしてみた。
「東郷ブラザースの話をちょっと聞かせてください」
「あれは何でしょ、岡村が東郷という名でやり出して、アメリカでハロルド坂田をつかまえて、東郷ブラザースがでけたんでしょ」
「ケガも多かったらしいけど、すごく金を稼いだんでしょう、東郷ブラザースは」
「儲かったらしいね、でも、トシ東郷はあまり儲かってない、グレート東郷、みんな取っちゃうからね」
「グレート東郷があんなに財産を残せたのは、プロモーターの才能があったからですか」
「そうね、それに、ああいうタイプははじめて出たんだから、入ったんでしょ、客がね」
「沖さんのころのプロレスとは、まったくちがうやり方だったんですね」
「そう、ショーマン・スタイル。ボクらのときは、いっしょけんめいやったからね」
「ショーマン・スタイルってのが、戦前のアメリカになかったわけじゃないんでしょ」
「少しはあったけどね、まあ、|八十パーセント《エイテイ・ポセント》、シンケン、|二十パーセント《トウウエニイ・ポセント》、ショーマン・スタイル。でも、あのころのショーマン・スタイルは、リングの外で客を怒らせたりするだけで、リングの上ではショーマン・スタイルやらない」
「そうすると、ああいうショーマン・スタイルを考えついたグレート東郷は、やはり商売のセンスがあったわけですね」
「そうね」
「そのころのプロレスは、やはり悪玉対善玉というパターンが多かったんですか」
「いや、きれい同士もやらせるよ、悪玉といってもね、自分がやられたときはボカンとやるけどね、最初から悪いことしないよ、今はもう最初からでしょ、スタイルが変ったね」
「しかし、それにしても、やれば儲かるといっても、戦争直後のアメリカで、|真珠 湾《パール・ハーバー》を思い起させるようなスタイルで登場するというのは、いい度胸ですねえ」
「そうね」
「沖さんなんかも、グレート東郷のそういうリングを実際に目の前で見たことあるんですか」
「あるある。そうねえ、まあ、あのころ日本人で悪役するのいなかったからね、塩を使って投げるでしょ、そういうとこ盛りあがったね。まあ、パール・ハーバー、まだアメリカ人の客の頭につよかったころだから」
「しかし、それはすごい覚悟でしょう」
「ああ、まあ、戦争終ってからはまだいいでしょ。戦争終る前、パール・ハーバーのすぐあとね、ぼくはプロレスを一度やめたよ。ボク、アラバマにおったよ、そりゃあもう、リングの上に何が飛んでくるやわからん、ほかのスモウトリ、いや、プロレスラーがボク囲んで控室へ帰った。で、プロモーターがね、沖いっとき休めということで、それでボク休んだ。日本人出てるだけで、なにもわるいことしなくても大変だったよ」
「じゃあ、そこでグレート東郷みたいにダーティな試合やるってのは、ちょっと想像つきませんね」
「ノー、グレート東郷がやるころには、もうそうでもないよ、ボクらのころは、一発ヒジでこうやっただけでもう大変、あのジャップ殺せでしょ。だからプロモーターが、一回出る分だけモネ(money)やるから休めといってくれた。あの、カンベツシ知ってる?」
「カンベツシ?」
「ああ、鶏《とり》の鑑別師」
つまり沖識名は、身の危険を感じてプロレスから足を洗っていたとき、プロモーターの世話で、鶏の鑑別師をしていたというのだ。リングで闘うプロレスラーが、小さなヒヨコの尻の穴をのぞき、雄雌を見分ける仕事で一時をやり過していたというのは面白かった。そして、金を貰う仕事として、鑑別師の仕事とリング上の仕事を、大したニュアンスのちがいなく喋る沖識名という人物の輪郭も、おぼろげにつかめるような気がした。沖識名は鶏の鑑別の作業について、おどろくほど細かく、しかも精力的に喋りつづけた。
「アラバマ、アトランタ、ボストン、いろいろ行ってね、鶏のセックスもやったよ、ヒヨコ一匹一セン(cent)」
プロモーターの世話で週七十五ドルの金を手にして、プロレスラー沖識名は、ヒヨコの尻の穴をのぞきつづけたわけである。陽に灼けてやや痩せてはいるが、以前の面影をとどめた沖識名の思いもよらない話に、私は興味をもって耳を傾けた。
「その鑑別の仕事は、どのくらいつづいたんですか」
「そう、あの戦争が終わるまでね」
現在、沖識名は七十三歳だという。三十歳すこし過ぎたころから三十八歳までの脂の乗りきった時期、彼はリングに上らず鶏の尻の穴をのぞいていた勘定だ。五月になるとデンバーヘ出かけて行って野菜を積み上げる仕事をやり、冬になると鶏の尻の穴をのぞく、そのような時を過しながら沖識名は終戦を迎えたのである。
しかし、日本人に対する感情から沖識名ら日系人レスラーはリングヘ上れないものの、その他、イタリア人、ドイツ人、アメリカ人など白人によるプロレスは、戦争中も行われていたという彼の話は意外だった。
プロレスというビジネスの中枢を歩きつづけてきた沖識名から、プロレス熱狂少年がそのまま大人になったような私の思い込みと同じものを引き出そうというのは、やはり無理なことだった。沖識名にとってプロレスは、夢ではなく仕事なのだ。トシ東郷、キンジ・シブヤ、ミスター・モト、デューク・ケオムカなどに対する断片的な記憶はあるらしいが、戦後のショーマン・スタイルのプロレスの擡頭は、ハワイ相撲からプロレス入りして世界チャンピオンに数度挑戦するトップ・レスラーだった沖識名の目には、いささか苦々しい傾向であったのかもしれない。とくに、グレート東郷について話すときの沖識名の表情には、一種の不快感がただよっていたような気がするのだ。
だが、いずれにしても、日本軍の|真 珠 湾 奇襲攻撃《パール・ハーバー・スニーク・アタツク》によってアメリカに生じた反日感情のすさまじさは、トップ・レスラー沖識名が鶏の鑑別師として生計を立てなければならないような空気をひき起したことは事実だったのである。
礼を述べて立ち上りかけた私は、気になっていたことを口に出してみた。
「あの、イアウケアというプロレスラーがですね、ワイキキの浜辺で貸マット屋をやっているのを見たんですが……」
「チェアに坐っとるんだろ、あれ、かわいそうだよ。とにかくね、あれはだいぶ売れ出して金も儲けよったけれども、道楽が多いでね、あっちこっち女こしらえて、しまいにゃ興奮剤《ドープ》飲んどったらしい、クスリね。ワイキキ・ビーチのあそこにチェアでね、坐っとるんだね、ボク一度行ったときはいなかったな。日本へもよく行ったでしょ、ボクも一緒になったことある」
沖識名の部屋にはさまざまなカップがならべられていた。いずれも、ハワイ相撲、プロレスラーとして現役のころ獲得したものらしい。プロレスラー当時の大きな写真が二枚壁に飾ってあったが、猪首で胴が太く頑丈で固そうな躯をしていた。日本ヘレフェリーとしてやってきた 頃の太ったおじさんという趣きからはほど遠く、ショーマン・スタイルが華やかになる前のプロレス界の、地味で頑固なプロレスラー沖識名をしのばせていた。脇の方にはルー・テーズの 写真、ハロルド坂田の写真があり、この部屋全体が、七十三歳の老人のオモチャ箱のように見えた。
一時間たったら迎えに来るといった例の男の車に乗り、私に向って手をふる沖識名の姿が遠ざかってゆくのをうしろに眺めながら、私はもう一度、鶏の尻の穴をのぞいている沖識名の姿を思い浮べた。
「親戚の方じゃないんですね」
「いまの家程度で下《ヽ》の方なのかい」
この男はプロレスにくわしいはずだが沖識名の顔は知らないらしい。以前とちがって痩せて年とったので分らないのだろうか……。沖識名の家はもちろん豪邸ということはないが、日本の生活から考えれば気のきいた別荘という感じの建物で、べつだん下層的な雰囲気はなかったのだ。
「いや、この辺はいい方です。カリヒもこの奥の方へ行くと、ひどいもんですよ。ところで、帰り路にあたりますから、珍しいとこへ御案内しましょうか」
「べつに珍しいとこへなんか行きたくないけどね」
「いや、通り路ですから、それに、かならず気に入りますよ」
逆らうことの方が面倒だと思い、私は男の言葉にしたがった。車が坂をのぼって行き、かなりの高さまで辿りつくと小さなロータリーになったようなところがあった。
「どうぞ降りてください、ここです」
そこは眺望台のようになっていてすでに数人のアメリカ人らしい観光客がいた。強烈な風にあおられてズボンが張りつき、髪が乱れて、眺望を楽しむといった感じの場所ではなさそうだ。だがやがて、私は彼らが景色を眺めているのではないことに気づいた。
「ここは風の名所でしてね」
私の肩をたたいて脇道を指さし、男はいたずらっぽい表情をつくった。彼の髪の毛は天に向ってはね上り、アロハ・シャツが音をたててはためいている。彼は私を一段低くなった脇道へ案内すると、地面の一点を指さして、
「ここです」
と言った。
「ここが一番風の強いところです」
男の言葉の意味がよくつかめないまま、私は強風の中を用心深く進み、男の指さしている場所へ近づこうとするのだが躯がおぼつかない。そんな私を見て愉快そうに笑いながら、男は両手をひろげて見せた。そして、自分が指さしている地面のあたりへ倒れこむようにした。ところが、全体重を投げ出した男の躯が傾いたまま途中で止ってしまったのだ。下から吹きあげる風の圧力と男の体重がある一点で均衡を保っているのだった。両手をひろげ、躯の重みをぜんぶ風にあずけきった男は、私にも同じことをやれと目で合図した。
私は大きく息を吸い込んで躯に力を入れ、やっとの思いでその場所に辿りつくと、そのまま前に倒れてみた。私の躯も男と同じようにある一点でピタリと止った。私は彼と同じように両手をひろげ、風に体重をあずけきった。この不思議な光景に、眺望台の上にいた白人や黒人が次々と私たちのところへ降りてきた。そして、両手をひろげて体重を風にあずけて遊んだ。これはちょっと異様な光景かもしれない、私はそう思った。
ここは、切り立った山の重なり具合、海からの風の通り路であることなど、さまざまな自然の条件によって、強烈な風がつねに陸に向って吹きあげている場所だ。高層ビルの谷間に起る強風のような現象が、より効果的に、しかも一定の方向性を堅持して働いているのだろう。そして、その法則によってもっとも強い風を起す場所が、男の指さしたところなのだ。その一メートル四方の地面から湧き出て吹き上げるような強烈な風が、何人もの男たちの躯をクッションのように宙で受けとめている。
だが……と私は思った。つねに丘に向って吹き上げているという自然の法則を、まことに素直に信じて成り立つこの不思議な名所が、いつ機嫌をそこねるか分らないという気がしたのだ。沖あいに舟が一隻現われたため、向うの山なみの大木が一本枯れ落ちたため、そんな簡単なことで急に風の方向が揺れうごくことがないといえるのだろうか。そうなれば、いま無邪気に風乗りゲームに興じているわれわれは、カンナ屑のように吹き飛ばされて彼方へ消えていってしまうはずなのだが……。
そんなことを思って風に躯をあずけながら、私は少し足を地面から浮かせてみた。すると、羽ばたくような恰好でしばらく躯が宙に浮き、また地面から跳ねあがるという感じになった。私の真似をして男も同じことをする、それにつれて白人や黒人もやり始めた。空を飛べない鶏が何羽も遊んでいるように見えた。
そのとき、私の横の黒人の胸ポケットから何やら白いものが浮き出たようになり、宙空に向って一直線に飛んで行った。すると、そのポケットから次々と白いものが飛んだ。男のポケットの中のタバコが一本ずつ風にもっていかれているのだった。手品師のようだな……そう思いながら、私はいつまでも躯を風にあずけていた。
夕方になって迎えにきたとき、男は白いスポーツカーに乗っていた。男の名は伊口清といった。風の名所ユアヌ・パリからの帰り路、何を思ったか彼はタクシーのメーターを倒さなくなってしまった。そして、はじめて名刺を私に渡し、今晩よかったらつき合ってくれと言った。私は、伊口の言う通りにすることは悪くないプランだという気になっていた。交換条件として、タクシーのメーターは倒すこと、行った先々の金は私が払うことを提案した。
「いや、酒やめしはおごってもらいますから」
伊口は、メーターの件についての約束を、メーターのないスポーツカーでやってくることによって破った言い訳を、頭をかきながらはじめた。私からは、もはや伊口に対するあらゆる意味での警戒心が消えていた。
「まず、ダウンタウンの映画館で、ポルノでも見てみましょうか」
伊口は自信ありげにそう言ってスポーツカーのエンジンを吹かした。
映画館の暗い切符売場には誰もおらず、ガラスを軽く叩くと白人が現われた。二人分の十ドルを払うと、相手は上を指さして何かを聞いているようだ。
「どちらを見るかということですよ」
窓口の上にはたしかに二つのポスターが貼りつけてあった。右側のポスターに Deep-throat という文字が読めたので指で示すと、うなずいた相手は右手を指さした。厚ぼったいカーテンを開いて入ると、試写室くらいの小さな客席にまばらな観客が坐っていた。映画はもはや始まっていて、有名なハード・コアのスターの巨大な男根をくわえる女の唇が大写しにされているところだった。画面は、同じような場面が同じように進行するという感じで、性器の拡大された大写しに馴れてくると、何ということのない退屈な画面の連続だった。
ところが私は、画面の刻一刻の|うごき《ヽヽヽ》に対して発せられる、うしろの席からのにぎやかな嬌声が次第に気になってきた。太い声も甲高い声も混っていたが、五、六人の女の集団だった。あらゆる体位のセックスと、あらゆる形に歪む女の性器に向けられる笑い声をふくんだ嬌声は、夜店で金魚すくいに興じるごとき無邪気さにあふれていた。腕時計を見ると午後七時三十分ちょっと過ぎ、女が連れ立って遊びに出かける時刻でもあるまいと思うのだが……。そのはしゃぎ声は辺りをはばかるといったふうはまったくなく、客席全体にひびくほどの大声なのだ。彼女たちのすぐ前の席で静かに見入っている私や伊口に向けた意味も、彼女たちの会話の中には入っているかもしれない。
彼女たちの言葉は英語ではなかったので、言葉の断片すら伝わらないのだが、画面と彼女たちの反応の組合わせによって、大意は察せられるような気がした。
「サモアンですよ……」
伊口が私の耳にそうささやいた。すると彼の声をかき消すほどのどよめきが起り、また何やら喋り合うという具合で、静かにしている瞬間というものがまったくない。
二つ目の映画が始まっても、うしろの席の雰囲気は同じだった。Deep-throat とはちがって、二本目は古風なポルノ映画だった。
ある秘密クラブのようなところへ盛装をした人品卑しからぬ仮面の紳士たちがやってくる。せり出した舞台を囲んだ豪華な暗い部屋に、ピエロが客を迎える役をつとめパントマイムをつづけている。ピエロは、胸のふくらみは女だが、筋肉の目立つ肩はばのひろい躯をしていて、整形をほどこした男娼のようでもある。次々とやってくるゲストは、シャンソン歌手ふうの明らかな男娼、遊び飽きたサディストの貴婦人、金髪のカツラをつけた巨漢のオカマ、並の者の腰までもない小男などだが、いずれも仮面をつけている。彼らは、葉巻をくゆらしブランデーを口にはこび、高級で無意味なお喋りをしながら、来るべき催しの開始を待っているといったふうである。
一方、その舞台の裏では、郊外のある邸宅に育ったらしい上品な少女が、覆面の男たちに誘拐され、この催しの見世物に供されるための訓練を受けている。訓練をするのはしたたかな中年の美女で、彼女の命令によってうごく数人の女が、少女の官能を刺激し開発する。数人の女たちの手と舌によって、徐々に少女が官能の世界にめざめてゆくという場面が延々とつづいた。このあたりでは、うしろの席の声は大音声のやりとりという趣きになっていた。
やがて、その少女が舞台に連れ出され、手と足をすべて女たちによって操られながらもだえはじめ、ついにカーテンの奥から現われた黒人の戦士のような男の屹立《きつりつ》するペニスが少女に突き立てられる。それを見ている仮面の紳士や淑女たちが興奮をおぼえ、たまたま横にいる者同士が接吻し抱擁し、男同士、女同士、男女とそれぞれの組合わせでお互いの性器をまさぐり合うシーンの展開となる。
古風というのはこういう構造のことで、Deep-throat のように即物的でドライな作品ではないのだ。舞台上のカーニバル的いけにえの儀式、そしてその犯罪的な前提、それを見る者の間に現実と虚構が混然となった淫靡《いんび》な時間がながれ、それがまた映画を見る観客にといった具合に、三重の劇中劇、三重の額縁があきらかに意識されて作ってあるのだ。しかし、そんな古風な方法論も、うしろのサモアンの御婦人方には通用するすべもなく、ただ無邪気な大声と笑いが画面に投げつけられていたのだった。
ところが、あるシーンが画面に映し出されたとたん、うしろの席からはひと声も発せられなくなったのだ。
舞台を見て欲情する客たちの中で、一人だけ組合わせから外れていた者があった。それは、金髪のカツラをかぶった巨漢のオカマだった。舞台上の光景が最高潮に達し、四肢を女たちによってひろげられた少女と、天井から吊られたロープから蜘蛛のように近づいた黒人が、宙空で性器を結合させた。すると、そのオカマは無表情に自分のスカートをめくり、ガードルを外してストッキングをずり下げた。剥き出しになった股の上に腹の肉が垂れ、白く太い内腿には腫物の跡がある。オカマは鈍そうな指で自分の腹の肉をぐいと持ち上げた。すると、そこに明らかな女の性器があったのだ。つまり、巨漢のオカマだと思っていたのが巨大な女だと分る傑作な趣向である。
その瞬間、うしろのサモアンの女たちの声が止み、乱暴に立ち上る気配があって、彼女たちは私と伊口の前を横切って出ていった。不愉快そうにぷいとした横顔のシルエットを画面に残して出ていった彼女たちは五人連れだったが、五人が五人とも、画面の中のオカマに見えて実は本当の女だった金髪の巨漢≠ノ瓜二つの、そろいもそろった大肥満体だったのだ。
彼女たちは、白人の美少女が凌辱される場面には大きなはしゃぎ声をあげて楽しんだが、自分と同じ体型の女が滑稽感とともに発情する場面など不愉快そのものだったのだろう。私は、そのどちらの反応の無邪気さにも何かさわやかな感じを抱いた。
もうこれ以上見ることもないだろうと伊口を肘《ひじ》でつつくと、浅い眠りの中にいたらしい彼は目をこすって頷き、うしろのサモアンの女たちがいつのまにか消えていることを訝《いぶか》りながら立ち上った。
ポルノ映画館を出てサイミンを食べ、二、三軒ダウンタウンの店をはしごしたが、いい音楽を聴こうという伊口の提案に従って、ゴーゴー・クラブヘ行った。伊口の記憶とは店の名前も変っていたし、生演奏のはずがレコードによる音楽になっていた。
ポルノ映画館にいたサモアンのような女が、何人も楽しげに踊っていた。ゴーゴー・クラブやディスコというよりも小さなビアホールといった素っ気ない雰囲気だが、客たちが陽気な空気をつくっていた。白人の女は二人ほどいたが、白人の男は一人もいないようだった。私は、ポルノ映画館にいた女ほどの巨大な女と踊りつづけた。伊口は遠くの席でバドワイザー・ビヤーをゆっくりと口に運びながら、ときどきカップを上げて踊っている私に合図した。
「一九四一年十二月七日の日本軍によるハワイUS海軍基地奇襲は、転戦中の日本人レスラーだけでなく、多くの日系人のおかれた状態を一変させてしまった。アメリカ政府の日系アメリカ人に対する手始めの行動は、検挙と収容所送りである。これは、アメリカとカナダにおける汚点であり、ちょうどヒットラーがヨーロッパでユダヤ人に対して財産と生活の権利を剥奪したと同じ汚点である。とくに戦争中の日本人憎悪は強く、それは戦後にも受け継がれ、スポーツの世界において、日本人レスラーが成功することなどなかったし、できなかった。
一九四三年、アメリカ政府は、二世部隊募集を許可した。一〇〇部隊と四四二部隊の二つである。戦後有名になったレスラーも、これらに参加した。
一九四五年九月二日、ミズーリー号の甲板上で戦争終結。日本人レスラーの上にも新しい夜明けが近づいていた。戦後になっても日本人憎悪は強かったが、戦争から帰ってきた日系の軍人たちの中には、プロレスラーになることに成功の道を見出していた者もいた」
この『レスリング』誌の記事は、沖識名の証言と符合するところがある。だが、二世部隊に参加したレスラーの話は沖識名の話には出なかった。私がこの記事をホテルで取り出してみたのには理由があった。
昨夜、ゴーゴー・クラブを出てから、私と伊口は朝の四時半までダウンタウンを飲み歩いた。そのとき、伊口は自分がハワイの新しい一世であることを私に打ち明けたのだった。私にとっては、日本語と英語の両方を話す彼が、三世なのか日本人なのかの区別がつきにくかった。新しい一世ということは、日本人であり、私と同じである。
かつての一世たちが、故郷へ錦を飾るために出稼ぎにやってきたのと趣きはちがう。しかし、旅券をのばしのばしにして、十年アメリカに税金をおさめればハワイでの生活は足が地についたものとなる。彼らは何を目的としてそうした生活を求めるのか、それは分らない。しかし、ホノルルヘ遊びに来る者と、それを相手に商売する者という組合わせの中に、ハワイの風景がすべて飲み込まれてしまうこととつながる事柄であるような気がするのだ。
|第二の 真珠湾攻撃《セカンド・パール・ハーバー・アタツク》という言葉を聞いたことがある。ハワイヘの日本人観光客と、それを相手に現地で網を張る日本企業、この二つの存在の激増は、今度はパール・ハーバーでなくワイキキに奇襲攻撃《スニーク・アタツク》をかけているという噂も呼んだらしい。そして、好むと好まざるとに関わらず、伊口も|第二の 真珠湾攻撃《セカンド・パール・ハーバー・アタツク》の底辺の一員なのである。
第二の一世である伊口がハワイの日系人の誰に似ているかといえば、やはり第一の一世に似ているにちがいない。苦労は自分のためにあるのであって、二世がもっていたような複雑で歪んだ影は彼の心に比重をもって存在してはいないだろう。
「あの二世の人たちの Go for Broke(当って砕けろ)のおかげですよ」
と伊口は言っていた。
戦線離脱者ゼロ、負傷者が逆に戦線へ向けて離脱する者が多く出た。これはアメリカ戦史では空前の出来事であった。日系二世部隊が敵陣へ肉弾攻撃をかけるときは、白鉢巻をしめ、「ツッコメ! バンザイ!」という雄叫びをあげた。だが、仲間同士の会話は英語であり、ウクレレを弾いてハワイアンを歌うのが安らぎであったというのだ。
彼ら二世たちは、帝国日本が負けるはずはないと頑《かたくな》に信ずる出稼ぎの大和魂をもつ一世たちと、自分たちをスパイ視するアメリカ人にはさまれていたはずだ。二世部隊での凄《すさ》まじい特攻精神は、自分たちを白眼視するアメリカに対してオトシマエをつけるために発揮された。だが、その Go for Broke(当って砕けろ)の精神こそ、自分たちの祖先の国日本の象徴なのだ。そして、その悲惨なあがきの原因を作ったのは、日本の|真 珠 湾 奇襲攻撃《パール・ハーバー・スニーク・アタツク》なのである。そんな複雑なよじれ方をした二世たちのアメリカ兵としての武勲が、伊口たち第二の一世たちにも恵みをたれているということなのだろうか。
|真 珠 湾 奇襲攻撃《パール・ハーバー・スニーク・アタツク》と、それから生じた反日感情とのあいだにだけ、七人のトーゴー≠スちのプロセスの原点を見ようとしていた私は、伊口の口走った Go for Broke という言葉の中にこそ、トーゴー・スタイル≠フ根があるように思いはじめたのである。
そう思ってみると、戦争勃発直後にはそんなプロレスは出来なかったという沖識名の言葉が、別なリアリティをもって浮び上ってこようというものだ。ただ真珠湾の奇襲ということだけからならば、度胸さえあれば殺される覚悟で成り立ったかもしれない。しかし、トーゴー・スタイル≠ヘ、「腕と度胸で稼ぎまくった」と評されているようなのどかなものではなく、祖国日本、日本軍の|真 珠 湾 奇襲攻撃《パール・ハーバー・スニーク・アタツク》、親たちの皇国崇拝、アメリカ人の白眼視・スパイ視、二世部隊の特攻精神、そして嘘と本当のつなぎ目の判然としない|日系アメリカ人《ジヤパニーズ・アメリカン》という立場……それらのあらゆる断片がかき回されて咲いた毒の花だろう。
それに、このハワイでは不思議な感覚に出会うことが多い。第二次大戦からベトナム戦争までの戦死者二万二千人が葬られているという墓地は、緑の芝生に墓石がはめ込まれていて公園のようだ。そして、ここはホノルル港の真北に位置する高度百メートルの死火山であり、墓のあるところは噴火口に当り、すり鉢型にくぼんでいる。その地形をそのまま生かして墓地となっているのだが、そこをPunchbowlという。つまり、カクテルのときにフルーツパンチなどを入れるあのパンチボウル、これが墓地の名につけられるのだ。そして、碧い空から降りそそぐハワイの明るい光の中では、その命名がよく似合っていると思ってしまうのはなぜなのだろうか……。
不思議な緊迫感が船上にただよっている。これは、あきらかに私の存在が生んでいる空気だ。私は、五十人ほどのアメリカ人乗客の中に、たった一人混じっている日本人なのだ。
パール・ハーバーを見るという、私の当初からの目的を実現するために、私は観光用の遊覧船クルーズを選ばなかった。遊覧船で海上から眺めるのではなく、実際に沈んだアリゾナ号の上に作られたアリゾナ記念廟に上陸してみたかったのだ。そうなると、日曜日をのぞいて三十分毎にハラワ・ゲートを出発する米海軍広報部の無料ボートを利用するしかない。
ところが、米軍広報部の船に乗る観光客のほとんどはアメリカ人だ。彼らが私に向けて、かつてアメリカ人が日系人に向けたような目を作ることはないが、何となく不思議な緊張感がただよってしまう。広島の原爆ドームや沖縄の戦跡において、われわれ日本人がアメリカ人を眺める感じとも少しちがうような気がするのだ。私は、なるべく遠くの景色を追うようにしていた。
これまでに私は何度か真珠湾の写真を見た。日本軍に攻撃され沈没寸前のアリゾナ号の写真、その他当時の空襲の模様、また、現在の真珠湾という文章を添えた写真もあった。そのどれを見たときにも、私の目をとらえたものがあった。それは、真珠湾の上空をおおう白い雲だ。戦闘写真においても、噴煙の彼方にかならず白い雲が写っている。真珠湾の上空に気流の関係で生じるこの白い雲は、日本の奇襲攻撃を成り立たせた大きな要因の一つだ。
ボートの上から今日も上空にたれこめている雲を見やっていた私の目を、その雲の間からもれた陽の光が強く射た。一瞬、めまいのようなものを感じて拳に力を入れた私の目の中で、雲間からもれてくる光は、プロレスのリングを煌々と照らすライトとなった。
ジャップ! 殺せ! そんな声が私の耳の奥にうずまいた。私の目は、タイムトンネルの彼方にあるプロレス会場を映し出していた。
罵声が飛び交う中を、金色のガウンを羽織り、オールバックの髪型をポマードで撫でつけ、コールマン髭を生やした日系レスラーが登場してきた。彼は日系というふれ込みだが、その風貌はフィリピン人にもメキシコ人にも、ある角度ではイタリア人にも見えた。だが、観客の誰もが彼を憎《につ》くき日本人として疑わないのは、その足にはかれた大袈裟な高下駄のためである。彼は、お伴と称して振袖を着た金髪のアメリカ女を従えている。
リング・アナウンサーは、彼を「グレート・ヤマト、フロム・ジャパン」と呼びあげ、金髪の女を「ハナコサーン」と紹介した。観客の罵声は最高潮に達し、グレート・ヤマトは、そのノーブルな鼻梁を誇示した横顔で観客を無視してみせる。そして、すでに相手がコーナーを飛び出そうとしているのをいんぎんに制し、金色のガウンをゆっくりと脱いで花子さん≠ノ手渡す。花子さん≠ヘ、グレート・ヤマトにあやつられるように時間をかけてガウンをたたみ、しずしずとグレート・ヤマトの前にたたんだガウンを示す。大仰にうなずいたグレート・ヤマトは、脱いだ高下駄をその上にていねいに置き、不審そうに角度を変えてみたりする。
ついにしびれをきらせた相手が Hurry up! と怒鳴って近づいたところへ、高下駄の歯が凶器となって打ちおろされる。奇襲攻撃《スニーク・アタツク》だ。ジャップ! 殺せ! 卑怯者! 裏切者! あらゆる罵声を引き受けるようにコールマン髭を片手で撫であげたグレート・ヤマトは、もう一度ゆっくりと下駄をふりあげる。額を打たれてうずくまった相手の髪をもって引きずり起し、今度は下駄の鼻緒をつかって目をこする。目をおさえて悲鳴をあげ、のたうち回る相手をたしかめ、グレート・ヤマトはやっと下駄を花子さん≠ノ手渡す。花子さん≠ヘ、ゆっくりとした動作で下駄をおしいただき、リング下へ降りる。やっと目をあけた相手が立ち上ると、コーナーに盛ってあった塩をつかんだグレート・ヤマトが、それを目にこすりつける。ジャップ! 殺せ! 観客は口々に叫びながら、興奮している自分だけを感じている。彼らの中にはナイフをかざしてリングヘ殺到する者も出る。ジャップ! 殺せ! グレート・ヤマトは、その声に向けてにんまりと笑ってみせる。あしたまた、同じように楽しませてやるぜ……そんな自信満々の悲しい呟きがグレート・ヤマトの唇からもれる──。
真珠湾の上空はあいかわらず白い雲がたれこめていた。アリゾナ記念廟に上陸し、この下に沈んだまま引き上げられてもいない戦死者の名を記した壁に向い黙祷をささげる老夫婦、車椅子のまま上陸し手に力を入れて操作するたびに引きつって笑ったような表情になる老人、静かにレイを海面に落す婦人、そして深刻な表情の若いカップルたち……私の頭の中で彼らは一様にアメリカ人として把えられた。彼らの目からすれば私はその逆、「日本人《ジヤツプ》」となるのだろう。
だが、これはこのアリゾナ廟の中で極端に強調される神経のような気がする。ボートの中でパール・ハーバーの惨劇を説明する女性の言葉のほとんどは聞きとれないが、二、三度「ジャップ」という英語が私の耳をひいた。とくに感情を込めた言い方ではなく、そういう言葉を使わなければ説明不能の物語という趣きだ。ここは、こういう場所なのだ。そう思うよりほかに救いはない。戦艦アリゾナ号の中には、艦とともに沈んだ一一七七人が眠っているという。赤く錆びついた戦艦アリゾナ号の部分部分に目を走らせながら、私はさきほど小耳にはさんだ係員とアメリカ観光客のやりとりを反芻《はんすう》した。
「この下の死体はなぜ引き上げないのか」
「この艦のまわりには藻がからみついていて、死体を発掘するのには藻を取り除かなければならない」
「では、なぜ、藻を取り除かないのか」
「藻を取り除けば、アリゾナ号がバラバラになってしまうからだ」
アリゾナ・メモリアル……そう呟きながら空を見あげると、白い雲のかなたに見事な三重の虹が出ていた。誰もがその虹を見ていたが、ここでそれを話題にする者は一人もいなかった。
私は信じられない気持で伊口のスポーツカーの助手台に乗っていた。さっき食べたサイミンのエビのスープが、胃のあたりからもどってきはしないかと思われる宿酔《ふつかよい》がはじまっていたのだが、そんなことも吹っ飛んでしまいそうだ。
「おい、本当かね」
「いや、大丈夫、うけあいますよ」
「誰に聞いたんだ」
「私の友だちに観光バスの運転手やってるやつがいまして、けさそいつに聞いたんです」
「俺のこと話したの?」
「いや、プロレス好きの友だちがいるって言ったら、その話をはじめたんです」
「しかし、本当かなあ……」
「それにしても、二日つづきでサイミンを喰う日本人も珍しいよ」
「ラーメンとタンメンの合の子みたいで旨いじゃないか、エビのスープが|みそ《ヽヽ》だな」
「パール・ハーバーに酔ったんですか、それとも、きのうの安酒ですか」
「両方だよ……」
オアフ島の北部にポリネシアン・カルチュラル・センターというレジャー・ランドがある。そして、ホノルルからそこへの行き帰りの中間に、「コラール・キングダム」という|休息 所《レスト・ストツプ》をかねたみやげ物のマーケットがある。そこで観光客は、ココナッツのジュースを飲んだり、便所へ行ったり、買物をしたりするのだが、そこに元プロレスラーがいるという情報を教えてくれたのは、私が真珠湾から疲れ果ててホテルヘ帰った直後の伊口の電話だった。その元プロレスラーの名前を聞いて、私は、にわかには信じがたい気持になったのだ。
コラール・キングダムヘ到着すると、おみやげ物店から張り出したようなところに、木から採ってきたヤシの実を冷やして飲ませるベンチがあり、その前で太い腕を回して準備体操のような仕種をしている頑丈そうな男がいた。伊口のスポーツカーを気にしてこちらを向いた男の顔は、まぎれもなく、七人のトーゴー≠フ一人であるトシ東郷ことハロルド坂田だった。
彼は、ここへやってくる観光客に、あるときは東郷ブラザース≠フトシ東郷として、あるときは「007ゴールドフィンガー」における"Odd-Job"役のハロルド坂田として愛嬌をふりまき、握手をし、サインをしてサービスにつとめているという。ここを経営する婦人が力道山時代に来日したハワイのボクサー出身のレスラーで、主にレフェリーをやった元ハロルド登喜夫人であることから、亡くなったハロルド登喜の親友だったハロルド坂田が、ここの宣伝に協力するようになったらしい。陽に灼けたハロルド坂田は、以前テレビで見たときよりも髪の毛がうすくなっていたものの、午前中は毎日トレーニングを欠かさないという上半身の筋肉は、五十五歳という年齢からは信じられないほど盛り上っていた。
「そう、あれは一九五一年だったねえ、私が一番はじめに日本へ行ったのは。プロレスが日本へ入っていないころだったよ。あのころは、力道山はあれでしょ、相撲やめて、毎日飲んだくれて大変だった、そう、力道山とはよう飲んだねえ、飲んで飲んで飲んで、いやよう飲んだもんだ。一番はじめ力道山に会ったのは、ナイトクラブのギンバシャ、よう覚えてますよ。そのときボクは日本で結婚しまして巣鴨に住んだ、で、ボク先にハワイヘ帰って待ってると、家内と力道山が二人でハワイに来ましてボク出迎えました、それで、トレーニングはじめて、プ口レスラーの力道山誕生よね」
「坂田さんが、グレート東郷に会ったのはいつ頃ですか」
「あれは、一九五四年」
「そのときは、東郷さんはすでに、パール・ハーバーをイメージさせたスタイルで有名になっていたんですね」
「そう、有名だった、大変に有名だったね。マジソン・スクエア・ガーデンでも何でも、アメリカのいいとこでメイン・イベンターだったからね。それでボクが東郷さんと同じ恰好にして、頭も刈って、兄弟になった。どこ行っても本当の兄弟とまちがわれてね、それ、昔のハナシね」
「そのころは、東郷ブラザース≠ヘ憎まれ人気でしょう、ケガなんかも多かったんじゃありませんか」
「そう、多かった、大変だった。まだ、ジャップ野郎という空気あったからね、このジャップ! ボクらリング入ったら反則も何でもやるからね、その人気でお客さん入ってくれるしね……。でも、リング出たらどうなるか分らない、ナイフも出る、ピストルでやられる、石も飛んでくるね、車も試合場まで乗ってきたら傷つけられるし、タイヤもナイフで切るからね、ほんと危なかったよ、それで六年やったの」
「七人のトーゴー≠チて言葉知ってますか」
「七人のトーゴー? 知らないね」
「グレート・ヤマトのことはごぞんじですか」
「グレート・ヤマト、トーア・ヤマトね、よく知ってますよ、あの人、鉄砲で撃たれて亡くなったでしょう。あの人の親たちは熊本いうとったかな、ヤマトさんはカナダのバンクーバー生れですよ、日本の言葉上手だったね、あの人。シカゴからテネシーを回って、ナッシュビルのホテルで死んだんですねえ。それは、奥さんのハナコさんが撃ったとか、自分で鉄砲の手入れをしてて暴発したとか言われてね、最後の話は、やはりアクシデントだったと聞いてますがねえ。あのハナコさんはアメリカ人だったね、ちょっと中国人が入ってますが……。ヤマトさんが死ぬ前に、ワイフがやったんじゃないと喋ったということでした、これも昔のハナシよ」
「ヤマトは、レスラーのランキングから言ったらどんな程度だったんですか」
「ヤマトさんのランキングは、まだまだ|タ《ヽ》ップでなかった、小さいのクラブではいいとこ出てましたが、ニューヨークやバッファローの大きなとこでは|タ《ヽ》ップでない、まだまだ下だったね。一番の日本人の|タ《ヽ》ップは、どうしてもグレート東郷、それからミスター・モトさんが出た」
「キンジ・シブヤという人は?」
「そのキンジ・シブヤがちょっとえらくなって、モトさんと組んだの」
「これも、トーゴー・スタイルですか」
「いや、ボクらはちょっとちがった。ボクらはリングに入ったらバンバンやる、あんまり、ゴメンナサーイのポーズやらない、ボクらは大和魂スタイルだからね、バンバンやるよ、それにお客さんついてたんだしね、そこが値打ちよ。殺せ! ジャップ! 汚いやつら! そうするとこっちはわざとニコニコしてさ、そこは頑張ってやったからね、しっかりやらんとね、いやー、ボク二十五年よ、プロレス」
「デューク・ケオムカは?」
「おお、デューク・キヨムク。彼の名前は、ハワイのスイマーのチャンピオンでハナムクいう人がおったの、それとってキヨムクとした、本当の名前はタナカ。テキサスの方ではキヨムクの名前は、一番出ていたね、今、あの人はやめてプロモーターをやっていますよ、タンパ、フロリダでね」
「オーヤマ・カトーという名前は?」
「あの人も亡くなったよ。あの人は沖縄相撲の人で、カナダのバンクーバーでリングの中で亡くなったの。あの人はまだタップでなかった、まだ細かったからね。大きくなりたい気持もっとったけどね、あの人は髪が長かったの」
「東郷さんは、はじめは東条って名乗ったんですって」
「アメリカの人は、ジャップ、ジャップ、トージョー、トージョーと頭にこびりついている頃だから、トーゴー言うてもトージョーになっちゃうの。トージョー、この野郎……何言われても don't care ね、何しろお客さん入りますから、切符もみんな Sold-out だからね、don't care よ。もし、メイン・イベントとってお客さん入らなんだら、エライことだ、でも Sold-out だから大丈夫」
「それでね、グレート東郷さんは、すごく資産を残したでしょ、あれはプロモーターの才覚があったからですか」
「金持だけでなく、頭がスマートだったね、土地を買う家を売るそれをまた売る新しい土地買う家建てる、それとっても上手だったからねえ」
「グレート東郷さんの死は、どこで聞かれました」
「ハワイでした、電話がロサンゼルスからきました。もう五年ほど前かな、年も六十ちょっとでしょう、ちょうどいいとき亡くなってしまったな。ほんとに、力道山も亡くなって、グレート東郷も亡くなって、ボクも寂しくなりましたよ。もう今、ぜったいにプ口レスラーのとこ行きとうない、前のこと思い出すからね」
そう言って、ハロルド坂田は目をくもらせた。
私は、ハロルド坂田のはずみのある独特の二世言葉を聞いているうち、不思議な興奮が躯の中に芽生えているのを感じた。単なるプロレス・ファンである私の質問に対して、ハロルド坂田は陽気に熱意を込め、懐かしさまでただよわせながら応じている。日本から遠く離れたハワイという異郷でのことであることも手伝い、私は自分が劇の中の登場人物のように感じはじめていたのだ。私の役はジャーナリスト、日米開戦のきっかけとなった|真 珠 湾 奇襲攻撃《パール・ハーバー・スニーク・アタツク》をヒントにして二十五年間のリング生活をおくったプロレスラーに、|真珠 湾《パール・ハーバー》のあるハワイで現地取材を試みているジャーナリスト……そんな思い込みを楽しみながら、私はおもむろに声の調子を変え、極め付のジャーナリストの目つきをつくって言った。
「ところで坂田さん、二十五年間プロレスというものと関わってみて、ひと言で言って、あなたにとってプロレスとは何ですか」
すると、ハロルド坂田は急に目をしばたたき、組んでいた両腕を解いて、「気をつけ」のような姿勢になった。そして、試合前に国歌吹奏を神妙に聞くプロレスラーのような顔になった。彼は、緊張を表わしながらひと言ずつ噛みしめるように、独特な言葉のつかい方で私の質問に答えはじめた。
「ひと言で言うと、プロレスリングはボクには勉強なった。男らしの気持のアイディアもでけました。ほんとのことは、勉強なりました。いま考えると、プロレスリングは、ボクに良いだった。もし、ワンモア・チャンスあったら、もう一度やりたいか、ノー、ぜったい、never、もうワンモア・チャンスはとりとうない。二十五年は、ボクの一番いい年のとこやった。これからはレスリングだけの人生でない、プロレスリングのおかげで、007ゴールドフィンガーもやりました。そのチャンスは、本当のこと言ったら、プロレスリングのおかげだから、ホント、ボクは、プロレスリングには thank you でした」
ハロルド坂田の半生は幸せであったに違いない。彼は、自分が体験したすべてを生かして生きている。彼の首からはロンドン・オリンピックのとき重量あげのライト・ヘビー級で獲得したシルバー・メダルがペンダントとなってぶら下っている。彼の車の前部には、007の Odd-Job 役の象徴であるスチール・ハットが金色で形作られて取り付けられている。そして、親友の妻だった女性が再婚して経営している「コラール・キングダム」で、観光客と接して宣伝に協力し、自らの躯に棲むプロレスラーとしての記憶をもあたためているのだ。
「映画の仕事も今度大きな役がくるし、これからも頑張るよ」
そう言ったハロルド坂田は、両腕と胸の筋肉を躍らせて見せてくれた。
「どうです収穫は?」
帰り路、伊口は得意満面で私に聞いてきた。
「ホノルルで一番高い店で食事をおごらなきゃならないな」
「大丈夫ですか、本当に」
「いや、本日の会見はですね、金では絶対に買えない収穫でござんした」
「じゃ、覚悟してくださいよ」
いきおいよくアクセルを踏んだ伊口のスポーツカーは、迷うことなくダウンタウンヘ向った。すでに顔見知りとなった食堂で、私はきょう二度目のサイミンを注文した。伊口は注文取りの女の子に、
「今日は高いものおごってもらえるんだ」
と言ってやはりサイミンを注文し、「大盛りね」とつけ足してから、私に向って片目をつぶってみせた。そのとき、観光バスの運転手をしている友だちというのは、伊口自身のことではないかという直感が、ふと私の心を静かに横切った。
奥歯をかんだような表情のアメリカ人らしい老婆の顔が、目の前を横切ってゆく。そのあとを、やはり苦渋にみちた顔つきで彼女の夫らしい老人が蹤《つ》いてゆく。彼らの唇元は、砂浜を一歩踏みしめるごとにゆがみ、目がしばたたかれる。それが、苦しそうだったり、眩しそうだったり、笑顔のようだったりする。私は、そういう彼らの表情をうまく読みとれないまま、このオアフ島から帰ってゆくことになりそうだ。
すべての風景は、やはり、ハワイヘ遊びにくる者と、それを相手に商売をするという組合わせの中に溶け込んでゆくようだ……私は、はじめてワイキキ・ビーチヘやってきたときと同じ場所に坐り、同じ感想を心の中で呟いた。あのとき私にまとわりついていた時差ぼけの感覚は、いまだに躯の中で浮き沈みしている。この感覚をまとったまま、あしたの夕方は日本へ帰っている。そして、逆の時差ぼけのまま月曜日に出勤し、往復六万円という超格安のルートを見つけてくれた同僚に、おみやげのアロハ・シャツをそっと手渡す。そして私はふたたびサラリーマンのレールに足をおろすというわけだ。時差ぼけがなおるのは時間の問題、妻には、世話になった上役の息子の結婚式へのつき合いだと言ってあり、約束の黒珊瑚《くろさんご》の指輪もさっき街で買ったので、それこそ don't care だ。これでどうやら、嘘と本当のつなぎ目は完全に縫い合わされたようだ。
「ずいぶん探しましたよ」
伊口が私の肩をたたいた。三日前と同じ場所で同じ場面が生じたことに、私と伊口は同時に気づいたようだった。
「よく分かったね、何か急用?」
「何か急用はないでしょ、今夜は最後の晩だから、ダウンタウンの見おさめだって言ったのは誰ですか」
「あ、そうか、すっかり忘れてた」
「忘れた? 私は夜は仕事あけてあるんだからね、遊ぶのやめるわけにはいきませんよ」
「いや、そうだったな、わるかった」
「それから、とびきり上等のおみやげを持ってきましたよ」
「それが困るんだよ」
「まあ、見てください」
伊口がまるめてあった大きな紙をひろげると、私は思わず驚嘆の声をあげてしまった。私に対するみやげとしてこれを思いつく伊口のセンスにおどろいたのだった。大きな紙は、かつてハワイのニール・ブライズデール・センターで行われたプロレス試合のポスターだった。日本のプロレスのポスターのようにカラー刷りでない地味なものだが、さびれかけたハワイのプロレス市場《マーケツト》を考えれば、ここにいるマニアにとっても貴重品のはずだ。
「例の、ハロルド坂田さんを教えてくれた友だち、観光バスの運転手やっているやつ、あいつからふんだくってやったんですよ」
「ハワイでは、このごろ、プロレスのポスターもあまり出ないっていうじゃないか」
「このニール・ブライズデール・センターなんかに、むかしは八千人からのファンを集めたもんですがね、いまは会場もブラック・アリーナに変ってしまって、そこは収容能力が三千人やっとですからね。テレビもローカル局の13チャンネルに変っちゃって、ハワイのプロレスじゃなく本土の試合を流してるんですよ、これはプロレス・ファンにとっては情けない傾向らしくて……」
伊口がながく喋るのをはじめて聞くような気がした。彼は、観光バスの運転手をやっているプロレス・マニアの友人によれば、というプロレス談義を延々と紹介している。私の目の中で、伊口の姿がすーっと小さくなった──。
第二次世界大戦後にアメリカに輩出した「七人のトーゴー」と呼ばれる日系レスラーたちの輪郭は、この旅ではついにつかめなかったような気がする。沖識名とハロルド坂田との偶然の対面は、「七人のトーゴー」についての実態を私に灼きつけてくれるようなものではなかった。だが、奇襲攻撃《スニーク・アタツク》、Go for Broke(当って砕けろ)というキイ・ワードを頭に彼らに対していた私を、プロレス的な世界へ誘う効果をもってしまった。それは、戦士の墓をパンチボウルと呼ぶ、この土地の風が私をそそのかすためなのかもしれない。あのパンチボウルの中でかき回された善玉アメリカ人と悪玉日本人という不埒《ふらち》なカクテルが、「七人のトーゴー」と呼ばれたプロレスだったのではないだろうか。ハロルド坂田も沖識名も、そのカクテルの中に浮いて回る赤いチェリーのような存在かもしれない。そして、そのパンチボウルの中には、目の前の伊口や私自身までもが浮いて回っているような気がしてきたのだ。
怒号と野次のなかを、揃いのハッピを着て、田吾作スタイルのタイツに高下駄をはいた東郷ブラザースが登場してくる。自分たちに浴びせられる罵声を歓声と錯覚するかのように、彼らの顔にはそれを笑顔で受けとめているというけはいがある。だが、彼らの笑顔が自分たちを小馬鹿にした表情であることに気づき、観客はさらに大きく叫ぶ。ジャップ! ジャップ!
リングに登場すると、東郷ブラザースはリングの四隅に塩を盛り、何やら呪文のようなものをとなえていたが、顔を見合わせてのお辞儀をくり返す。レフェリーが双方をリング中央に呼びよせようとするが、彼らは一向に自分たちの儀式をやめようとはしない。相手のアメリカ人チームは、すでにガウンを脱ぎ、悪をこらしめる顔つきをつくって、観客の興奮をさそっている。レフェリーは仕方なく、アメリカ人チームのボディ・チェックを先にはじめた。
その瞬間、信じられないほどの敏捷さで、東郷ブラザースがアメリカ人チームにおそいかかった。アメリカ人チームのふたりの頭には東郷ブラザースのハッピがかぶせられ、目の見えない状態となってしまった。もがき苦しむアメリカ人チームを東郷ブラザースは散々にいたぶった。塩を目にすりこむ、首を締める、下駄で殴る、胃袋をつかむ……あらゆるトーゴー・スタイルを見せては、観客に向って三白眼を細め、ニヤリと笑って挑発する。
だが、それは東郷ブラザースの序曲にしかすぎない。息も絶えんばかりに苦悶していたアメリカ人チームが、観客の怒号に対するポーズをとっている余裕|綽々《しやくしやく》の東郷ブラザースに襲いかかるところから血のセールスがスタートするのだ。自分の持ち出した凶器で額を割られ、ドクドクと流れる血の中から三白眼の見得がきまる。その上にふりおろされるアメリカ人の正義の鉄拳による制裁……もはや観客は、東郷ブラザースが殺されてしまうことがもっとも正しい結末であるという感覚にかたまって、怒号や野次はおろか、ナイフや棒を片手にリングに殺到し、なかには拳銃をぶっぱなす奴までもが出てくる始末だ。全身を血だらけにしながらも、東郷ブラザースはなおも執拗にアメリカ人チームに反撃、けっきょくアメリカ人チームは青息吐息で反則勝ちをひろう。しかし、観客はこんな判定に満足するはずもなく、アメリカ人チームは試合終了後も東郷ブラザースに襲いかかって、うさ晴らしをしなければ役目が果せない。なにしろこれは正義のアメリカ人による卑怯なジャップヘの報復物語なのだ。自分の凶器でめった打ちにされ、リングをひとしきり転げまわった東郷ブラザースは、頃合もよしとばかりにリング下に降り、かねて用意の包囲網に守られて控室へと向う。リング上には、とりのこされたアメリカ人チームがうずくまり、その躯は返り血を浴びてまっ赤に染まっている。観客たちは、ナイフを投げつけ、拳銃をぶっぱなして東郷ブラザースを威嚇するばかりか、本気で殺そうと殺到する者も出る。そうやって迫るアメリカ人観客の標的に自分がすえられていない保証はどこにもない……私は躯の緊張をとくように大きな伸びをした。
「そのひと、観光バスの運転手のひと、相当のプロレス気狂いだね」
「そりゃもう、馬鹿ですよ」
プロレス・マニアのAとのゲームがヒート・アップして、私はハワイくんだりまでやってきてしまったが、ここでもまた別のゲームが出発してしまったようだ。このポスターはAにゆずってやるべきか私の手元におくべきか、鼻唄でも出そうな弾んだ気分の中で、私はわざとらしく苦々しい表情をつくった。しかし、伊口はこれまでまる三日というもの仕事らしい仕事をしていないはずだ。その間の稼ぎ分のドルを、どんな口実で彼の手ににぎらせたらいいのか、私の中で深刻な思案はそのことだけだった。
「さて、いい女でも見つけに行きましょう」
笑い声をのこした伊口が、尻のポケットからキイを取り出してぐるぐる回しながら、自分のスポーツカーの方へ歩いて行った。そのあとに従って立ち上ろうとした私は、浮かした腰をもう一度砂の上におろした。
銀色の鋭い光を反射していたスチール製の松葉杖が、あざやかな夕焼けの中で暗い金色に染まっていた。もう、マットを借りにくる観光客はひとりもいなかった。手伝いの太った若者が店じまいをしているかたわらで、リタイアしたプロレスラーのイアウケアは、今日の|あがり《ヽヽヽ》の勘定をしていた。大きな掌の中で不器用にまるめられたドル札が、ズボンのポケットヘ押し込められた。その仕種が、私の目の裡に昨夜のちょっとした出来事を思い出させた。
ダウンタウンのバーをハシゴしたあと、伊口と私は例のゴーゴー・クラブヘ行った。私はあいかわらずポルノ映画館にいた女たちのような巨大な女と踊りつづけ、伊口はテーブルでバドワイザー・ビヤーを飲みつづけた。踊りあき飲みあきて立ち上り、尻のポケットをさぐった私は、いつのまにか札入れが消えていたことに気づいた。大音響のR&Bがながれるなかで、私は伊口に向って合図した。伊口は、私の合図を「もっとここにいよう」という意味に取ったのか、いったん浮かした腰をふたたび椅子に降ろしてしまった。私は、大声で伊口に向って叫んだ。
「サイフをやられた」
私の声は、伊口の耳にとどくのと同時に、ちょうど通りかかったプロレスラーのように太ったゴーゴー・クラブの主人にも聞えてしまった。主人は怪訝そうな顔をつくって私に近づいてきて何やら話しかけた。私は同じことをもう一度言った。すると、主人は「たくさん入っていたのか」と聞いた。私がうなずくと、主人の表情が消え、右手が大きくふりあげられた。
「ストップ・ザ・ミュージック!」
主人のしわがれ声に呼応するように音楽が消え、踊っていた連中のうごきが止った。私と踊っていた巨大な女が、不思議なポーズになったままこっちを見た。暗い照明のなかの黒い影が目だけを光らせ、微動だにしなくなった。伊口はあわてて立ち上り、私に近づいてきた。
「何と言ったんです」
「サイフをやられた、と」
「額が大きいって言ったんですか」
「ああ……」
「それは、やばい」
伊口は、プロレスラーのような主人と話していたが、やがて表情をやわらげて私をふり返った。主人がふたたび右手を大きくふりあげると、音楽がもどり、黒い影はストップ・モーションがうごきだしたようにR&Bのステップを踏みはじめた。巨大な女もその渦に溶け込んでしまい、何事もなかったかのようにゴーゴー・クラブのムードがもどった。伊口が片目をつぶって私を見た。
「ここは、私がおごりますよ」
「でも、サイフが……」
「全財産ですか」
「いや、そんなことはないけど」
「じや、あきらめてください」
伊口はきびしい口調で言って、さっさと金を払い、出口に向った。
「あのままだったら、どうなったの」
「入口を閉めて、全員の身体検査です」
「それでも出てこなかったら……ということか」
「そうです」
「そうか、たすかったな」
「なにしろ、もともとのこの土地の住人ですからね、彼らは」
「なるほど……」
この島の象徴のように言われる|真 珠 湾 奇襲攻撃《パール・ハーバー・スニーク・アタツク》だって、結局はよそ者のドラマだ。アメリカ人が善玉、日本人が悪玉というプロレスの役割の原点を生んだこのリングの本当の持ち主は、ハワイに生れハワイに育った現地の人々だったのだ。ホームリングで花開いた日米の毒のドラマに、暗い場所から目を凝らしているはずの無数の人々……それは、プロレスを見るときの私の死角だった。伊口のはからいで何事も起らなかった時間を、伊口ぬきで巻きもどすことを想像すると、私の額に脂汗が浮き出たのだった。
イアウケアは、「ウッ」と声を発して腰を浮かせた。鉄条網に立てかけたスチール製の松葉杖に手をかけようとしたのだった。彼の脇にいたひとりの女性がはじかれたように立ち上り、松葉杖を取って彼の手に渡した。少年たちが近寄って心配顔をつくって見上げた。店じまいをしていた太った若者も、一瞬、手を止めて見守った。松葉杖を砂に突き立て肩に力を入れた彼は、「エア!」と気合いを入れて一気に立ち上った。彼の半ズボンにまとわりついた白い砂を、女と少年たちが払い落した。真っ赤な夕焼けに向ってすっくと立ち上った彼のシルエットは、従者をつれたカメハメハ王家の末裔《まつえい》キング・イアウケアのものだった。
もともとこの土地に生れ落ちた彼が、嘘と本当のつなぎ目が判然としないプロレスという世界に身を投じたのは皮肉だった。彼は、この土地の者でない人々に対するもっとも分りやすい説明として、カメハメハ王家の末裔というキャッチフレーズを選んでしまったのだ。悪役として日本やアメリカのマットヘ登場する彼が、プ口レスラーとしての自分を演じるため興奮剤のたすけを借りたのはよく分る気がする。それは|真 珠 湾 奇襲攻撃《パール・ハーバー・スニーク・アタツク》のプランが成り立たなくなると、広島原爆投下の仇を討つため海をわたって復讐にきた日本人というプランに切りかえて次々と変り身のはやい商売をつづけた日系レスラーの風通しのよさとは裏腹に、まったく行き止りの袋小路であがく姿だ。だが、いま、ワイキキ・ビーチをつつむあざやかな夕焼けが、イアウケアの嘘と本当の境目をも消し去っている。
両の脇の下に固定させたスチール製の松葉杖が大きく前へ振り出された。そして、肩と両腕に力が漲《みなぎ》った瞬間、「エア!」と叫び声を発した巨大なイアウケアの肉体は、いきおいよく宙に舞いあがった。水平線からかくれようとする太陽が、最後の光を彼に向けていた。それは、プロレスのリングを煌々と照らすライトだった。イアウケアの流血試合を待ちわびる観客たちの声が渦巻いた。「エア! エア!」イアウケアは得意の叫び声をあげ、唇をゆがめ、椅子を蹴散らしながらリングヘ向ってゆく。ゴングが打ち鳴らされ、どぎつい照明が額に刻まれた無数の傷跡を晒《さら》した。「エア!」ロープをつかんだイアウケアは、一声叫んでリングの上へ舞いあがった。私は息を殺して身をのり出し、拳に力を込めてイアウケアの巨大な背中を見守っていた──。
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覆面剥ぎマッチ
足ばやにゆく人群れをぬって遡行《そこう》してくる男たちがいる。よく見ると、彼らは遡行しているのではなく、人の流れと逆方向をむいて立っているのだった。通りすぎる人の肩口のあたりへ目を走らせ、低い声で何やら語りかける。声をかけるというほどはっきりとした口調ではなく、囁《ささや》きかけるのとも少しちがう。肩口をかるく撫でるような声音だ。ある者はジャンパーを羽織り、ある者は三ツ揃いを着こなし、ある者はオーバー・コートに身をつつんでいる。
急ぎ足の人群れはおおむね男たちをよけながら進んでいった。犯人を追う刑事と刑事に追われる犯人の両方にただよう匂いが、男たちの目配りやポーズに表われていた。ドスをきかせた態度を示しながら、終始なにかに怯えているような気配があるのだ。ここへやってくるたびに目にする数人のダフ屋の猫の目のようにかわる表情の裏側を想像しながら、アキラはポケットの中の切符をズボンの上から探った。
「どう? リングサイドあるよ、リングサイド」
自分の肩口ヘ声をかけた男に、アキラはポケットから取り出した切符を定期券のように示して通りすぎた。男は無表情でアキラを見送り、
「余った券買うよ、余った券」
誰にともなく呟くようにいった。余った券を買い、それを券のない者に売りつける。興行主からも警察からも監視され、そのどちらとも密約が成り立っているかのような不思議な連中だ。彼らは強い存在なのだろうか弱い存在なのだろうか、いつもと同じ思いを頭に貼りつかせて、アキラはプロレス会場の入口を通りぬけた。
パンフレットを買い、タオル、Tシャツ、トレーナーなどの売場をのぞき込み、便所へ寄ってからアキラは場内へ入った。試合開始までにはまだ十五分あまり、場内は六分の入りというところだ。二階の一番前へ陣取ると、リング上でトレーニングをつづける若手レスラーがいい角度で眺められた。やがて、若手レスラーがリングから消え、場内の照明がやや暗くなり、リングを照らすライトがつけられた。暗い場内のまんなかに、青いマットが浮び上った。
〈試合展開のルツボの中に身をおくというのではなく、プロレス試合のあらゆる局面を観察するのに恰好な座席は二階の一番前だ。試合を間近に見られないという難点は、遠景をも自在にクローズ・アップさせる人間の眼《まなこ》を駆使することで解決する。そのためには、一度坐った席を絶対に移動しないこと、つまりフレームを固定させることが肝要だ。自分の席までクローズ・アップしてくるレスラーの匂いの強さを公平に受けとめ、どのレスラーの匂いが一番強くとどいてくるかを味わうのである〉
ショルダー・バッグから取り出した朝比奈のノートに書き記された独特の思い入れのある文章に目をやって、アキラは軽い舌打ちを放った。
そのとき、前座試合の開始をつげるゴングが打ち鳴らされ、ざわついた場内に憮然《ぶぜん》とした表情を向けて、ガウンもつけない前座レスラーがリングに駈けあがった。だが、観客たちのほとんどはリングには目を向けず、パンフレットに記された「本日の試合予定」を指で追ったり、連れの者と来る路々の話のつづきをしたり、買ってきたプロレス・トレーナーのサイズを点検したりしている。そんな雰囲気を先刻承知といったふうに無視し、前座レスラーはコーナーのロープを手でしごいて試合開始のゴングを待っている。
〈前座レスラーはキャバレーの歌手と似た役割を背負わされている。酒を飲み女の肩に腕を回し愚にもつかないジョークを無理矢理に弾ませ嬌声渦巻く客の前に登場し、誰も聞こうとしていない歌を歌うキャバレー歌手。彼らはこんな悲しい環境の中のなぐさみ物なのだが、すべてのスーパースターはここからスタートする。マラソンのスタート・ラインに密集するランナーの中から誰がトップ・グループに飛び出すか、前座レスラーの試合はそんな楽しみで味わうべき世界である。したがって……〉
朝比奈のノートをそこまで読みすすめたとき第一試合開始のゴングが鳴った。そして、青く照らし出されたリングの上に、朝比奈と麻美の顔が交互に浮んで消えた。
朝比奈と麻美、そしてアキラの三人は、ガリ版でプロレスの同人雑誌『ラディカル・メッセージ』を編集している仲間である。編集長は四十歳の朝比奈、三十歳のアキラが記者、二十五歳の麻美はイラストレーションを担当するというのが『ラディカル・メッセージ』の役割だ。
「プロレスのファンクラブ雑誌が二百いくつあるというプロレス・ブームらしいけど、平均年齢では断然群をぬいてるだろうな、ちょっと不気味な高年齢だぜ、俺たち。でもまあ、不気味さこそプロレスを支える大きな要素でありましてね」
朝比奈はそう言って苦笑する。朝比奈は広告代理店に勤務しているというが詳しいことは分らない。『ラディカル・メッセージ』の取材費である切符代やタクシー代、印刷代などの諸経費はすべて朝比奈が出しているのだから、けっこう羽ぶりよくやっているのだろうというのが麻美とアキラの感想だ。
麻美はどこかの劇団に所属する女優だというが、朝比奈もアキラも麻美の名前を女優の名として耳にしたことはない。
「これでも一座の主演女優なんだから」
そう言って麻美が片手で髪をいじり片手を股《もも》の外側に当てる古臭いポーズをとっても、その躯ぜんたいに儚《はかな》い感じがまとわりついて、艶っぽさはにじみ出てこない。
「広告代理店の俺とだね、ルポライターのアキラが知らないんだから、女優ったって名もない小さな劇団なんだろうな。俺、そういうの好きだけどね」
麻美がトイレヘ立ったすきに、朝比奈がそんなことを言って片目をつぶって見せたことがあった。
アキラはルポライターとはいっても、教育雑誌の中の、僻地の教師の生活を浮彫りにする記事などの取材が多いのだが、朝比奈は勝手に芸能ルポライターと決めているようなのだ。つまり、三人はそれぞれについて何も知らないに等しい関係なのである。三人が知り合ったのは、三人が出会って以来『ラディカル・メッセージ』の打ち合わせ場所となっているスナックKだった。
「あたしね、アマリロなんていうテキサス訛《なま》りの強いとこの大学へ留学しちゃったもんだから、困るのよね、ダサイ英語がぬけなくて……」
カウンターに突っ伏してひとりごとのように喋《しやべ》っている麻美の「アマリロ」という言葉に、アキラと朝比奈が同時に反応した。テキサス州アマリロというのは、プロレス・ファンだけに強い意味をもつ場所だ。かつてNWA世界チャンピオンであった兄のドリー・ファンク・ジュニアと、少年ファンのアイドルでもあり一度はNWAベルトを腰に巻いたこともある弟のテリー・ファンク、日本のマットに馴染みの深い「ファンクス」と呼ばれる人気兄弟の本拠地がテキサス州アマリロというわけだ。
「アマリロって、あのファンク兄弟の……」
アキラと朝比奈は、麻美の言葉に対して同じ言葉を発した。麻美の暗い表情に一瞬、光がさした。そして三人はすっかり意気投合し、その夜のうちに『ラディカル・メッセージ』の刊行が決定したのだった。アキラは、プロレス新聞を毎日買っている程度のただのプロレス・ファンだが、朝比奈と麻美はそれぞれまったくちがった関わり方ながらプロレス・ファンという域を越えている感じがあった。
テリー・ファンクの熱狂的なファンだという麻美は、彼に会うのが目的でアマリロヘ留学したというのだ。それがプロレス・ブームとやらがやってくる二、三年前のことだから、麻美のプロレスヘの熱狂はちょっと特殊といえるだろう。
「いくらプロレスが好きだっていったって、それだけで留学の場所を決めちゃうってのもねえ」
朝比奈はあきれ顔をつくった。彼は本当は留学の話自体が眉唾ものだと疑っているらしかった。だが、そういう当の朝比奈はもっと不思議な存在だとアキラは思っている。四十歳のプロレス・ファンということ自体がすでに特異だが、その思い入れの激しい関わり方が大袈裟で奇妙なのだ。
三人が二度目に会ったとき、朝比奈は部厚いノートを数冊かかえてスナックKにやってきた。そのノートには細かい字の横書きで、びっしりとプロレス哲学めいた内容が書き記されていたのだ。その論旨は、世間から蔑視されるプロレスに脚光を与え、プロレスを蔑視する世間の目を逆に蔑視しようというアジテーションにつらぬかれていた。何ゆえに朝比奈がそのような角度を世間に対して持つようになったか、それは未だに謎のままだ。だが、現代ビジネスの真只中にある広告代理店に勤務するいい年をした大人が、プロレス熱狂少年まがいの知識を駆使して、ノート何冊にもわたる文章を綴っているのはアキラの興味をひいた。
『ラディカル・メッセージ』の内容は、当然のこととして朝比奈の考えを打ち出してゆくことになった。アキラと麻美は、もともとこれといった考えをもってプロレスに接していたわけではないから、そのことに対する抵抗感はなかった。スナックKに朝比奈が置いた『ラディカル・メッセージ』と書いたボトルをいつ飲んでもいいということ、四、五千円から一万円もするプロレスの入場券の代金を朝比奈が面倒をみてくれること、この二つのルールがアキラと麻美にとってはメリットだった。打ち合わせ場所のスナックKで週に一度の編集会議をやり、出来るかぎり月刊のペースを守ることを確認、『ラディカル・メッセージ』編集部はスタートしたのだった──。
リング上では三人の若手レスラーが箒《ほうき》でマットを掃いている。メイン・イベントの開始前、マットの調整のため五分間の休憩となっていたのだ。腕時計の針が八時八分前を指しているから、テレビ中継のための時間調整だろう。リング上のあかりがやや暗くなり、場内に雑然とした雰囲気がみなぎった。便所へ立つ者、このときとばかり間近に寄ってリングを見ようとする少年たち、見やすい空席へと移動する観客などによって、場内の景色全体がゆれうごいた。
メイン・イベントは覆面レスラー同士の「覆面世界一決定戦」だ。レスラーは二人ともメキシコ人であり、どちらも花形の善玉と悪玉だ。パンフレットには、この試合が「覆面剥ぎマッチ」であると発表されている。
「覆面剥ぎマッチ」は、覆面の剥ぎ合いをするという試合形式ではない。試合に敗れた側が覆面を剥がされ、観客の前に素顔を暴《さら》さなければならないというルールの試合である。試合中に相手の覆面を剥いでしまうことは、汚い手とかいう問題ではなく、商売上のルールとして禁じ手となっている。これは、素顔を隠して仮面をつけて金を稼ぐ者同士の、いわば「暗黙の了解」なのだ。
メイン・イベントの開始を待ちながら試合展開に思いを巡らしていたアキラは、『ラディカル・メッセージ』を十号も一緒にやってきた時間が、自分のプロレスの見方を朝比奈そっくりにさせていることに気づいた。朝比奈のノートの中に綴られた文章が自分のもののように感じられるのは、ルポライターという職業とかかわっていることだろう。一夜づけはおろか、喫茶店で荒読みした資料をもとに人をたずねることは、職業柄よく経験することだ。資料の内容と自分との距離に神経質であっては、アキラの商売は先へ進むことができないというものだ。だが、それにしても朝比奈のノートは自分の躯の中へ浸透しすぎている……そう思って眉を寄せたとき、リングが急に煌々《こうこう》たるライトに照らし出された。いよいよ、本日のメイン・イベント、時間無制限一本勝負の開始だ。
ゴングが三つ打ち鳴らされると、場内のあかりが消され、ライトに照らされた青いリングだけが宙に浮いたように見えた。と見るまに、リング上の照明も消え、場内が闇につつまれた。やがて、サーチライトが天井に向けられ、心にくいタイミングで青コーナーにふられた。大歓声が起った。青コーナーにはまだ誰も姿を現わしたわけではないが、そこからまず悪玉が登場してくることを予知したどよめきだ。
「フライング・ヘッド」というロックの曲が流れ、どよめきが大きくなった。「フライング・ヘッド」は、悪玉の得意技の名をとって作曲された曲であり、彼の登場にはいつもこの音楽が流れる。サーチライトに照らされた人影の中に光るものがゆれている。悪玉のもつサーベルがサーチライトを射返しているのだった。
サーベルをふり回したり口にくわえたりして見得を切り、人を押しのけ蹴散らしながら、悪玉はたっぷりと時間をかけて花道を進んでくる。ロープ最上段を飛び越してリングに舞い降りた悪玉は、銀色の覆面をつけ銀色のガウンをまとっていた。リング上で観客の目に把えられるものは、サーチライトを射返す銀色だけだった。
サーチライトがいったん天井を照らし、観客の気分を玩《もてあそ》ぶように時間をかけてから、大きく弧を描いて赤コーナーにふられた。前にもまして大きな歓声が湧き起った。善玉は悪玉よりさらに派手な登場ぶりだった。
ゆれうごく人影よりも一段高いところに善玉の姿が見えた。それは、善玉が少年たちの肩にかつがれているためだった。金色の縁どりをした緑色のラメの覆面をつけ、背中に祭と赤く染めぬいたハッピを羽織り、火消纒《ひけしまとい》を頭上でぐるぐる回しながら花道からの登場だ。
善玉のテーマ音楽は、笛と太鼓による祭囃子《まつりばやし》である。メキシコ人の覆面レスラーがハッピを羽織り祭囃子にのって登場するという演出は、この場内でだけ似合うのかもしれない。プロレスを胡散《うさん》くさく見る世界の目から遮断されたこの体育館の中に、こういう演出を白けた気分で迎えるものは誰ひとりいない。
リングに上った善玉は、リングの中央で火消纒をぐるぐる回してから附人《つきびと》に渡し、ひきかえに受け取った大きなソンブレロをかぶると、頭上で両手を大きく振って観客の歓声にこたえた。それを合図のようにリングを照らすあかりがつき、おびただしい人々がリング上にうごめいていることを観客は知った。
試合前のセレモニーが始まった。リング・アナウンサーによって紹介されたメキシコ人のコミッショナーが前にすすみ出て、選手権試合としての宣言を読みあげた。そして、大きなケースの中からチャンピオン・ベルトを取り出して観客に示した。通訳により「メキシコの代表的レスラーである二人の試合が、こうやって祖国から遠く離れた東京で覆面世界一決定戦として行われることは、たいへんに意義深いことであります。この試合の勝者に対してはこの豪華なチャンピオン・ベルトが与えられます。なお、この試合は覆面剥ぎマッチとして行われ、敗者は公衆の面前で素顔をさらされるというルールになっております」というコミッショナーの趣旨が朗読された。
たしかに、日本において外国人同士の王座決定戦が行われることはめずらしい。だが、重量級のプロレスのメッカはやはりアメリカであり、メキシコは百キロ以下の軽量レスラーが群雄割拠する地盤だ。したがってこの試合で世界最強のプロレスラーが決定するという重量感はない。しかし、空中殺法を得意とするメキシコのスーパースター同士の対決するこの試合は、見世物としてこれ以上のカードはあるまいという期待が、プロレス新聞には大きく取沙汰されていた。
チャンピオン・ベルトを観客に示したコミッショナーは、善玉と悪玉の二人にもベルトを確認させた。善玉の方は大きくうなずいていたが、悪玉はのぞき込むようにベルトを眺めてから、それを自分の腰に巻く仕種をして見せた。この演技は類型的でちょっといただけないな……アキラは苦笑いをしながら得意げな悪玉を凝視した。〈些細《ささい》なところにプロレスラーとしての格が表われるものだ〉という朝比奈の文章の断片が、アキラの頭をよぎった。
「ただいまよりメキシコ国歌吹奏と国旗掲揚を行いますので、恐れ入ります、ご起立をおねがいいたします」
リング・アナウンサーの野太い声にしたがって、会場を埋めつくした観客がけだるそうに立ち上った。この場面についての朝比奈のノートの文章をアキラはおぼえている。
〈プロレスのタイトル・マッチの際に国歌吹奏・国旗掲揚の儀式があるのは興味ある現象だ。まるで国体やオリンピックのような厳粛さをなぞっているようでありながら、この儀式の直後に急所打ちなどが繰り出される予感が起立した観客の中にすでに生じている。きれいごとを排除するのではなく、徹底的に取り入れた上で馬鹿にするというしたたかさが、プロレスの中にはたしかにあるのだ。その意味でプロレスは、ルールを拒否する世界ではなく、ルールを凌辱する世界なのである〉
こういうことに触れるときの朝比奈の大袈裟な思い入れには苦笑してしまうが、なにか不気味なエネルギーのようなものを感じることもあって、それが朝比奈という男の存在の謎とかかわってくるのだった。
メキシコの民族衣裳をつけた日本人女性が、二人のレスラーとレフェリーに花束を贈呈した。花束を受け取った善玉は女性の頬にキスを返し、花束をリングサイドの女性ファンに贈って喝采を浴びた。悪玉は無感動に受け取った花束を無造作に附人に手渡した。こんな場面での善玉と悪玉の型どおりの態度だ。
花束を贈った女性がリングを降りるとき、若手レスラーが肩と足でロープの間隔をひろげた。女性が躯をかがめてロープをくぐるとき、若手レスラーの顔に一瞬、ニヒルな気取りの表情が浮んだ。若手レスラーの足からロープが外れ、女性のスカートを大きくはね上げる光景がアキラの想像の世界に点滅した──。
「朝比奈さんって、独身なのかしら」
「まさか、もう四十だぜ」
「四十だから妻帯者ってこともないでしょ」
「そりゃまあ、そうだけど」
「朝比奈さん、あたしたちのこと知ってるのかしら」
「知るわけないだろう、知っちゃったらルールが成り立たないもの」
「ルール……」
「プロレス以外はいっさい無関係というルールさ」
「それが三人の暗黙の了解ってわけね」
「そうさ、それがくずれたら、プロレスは成立しませんよ」
「あたしたち三人の関係も、プロレス的な関係なのね」
「それが、朝比奈さん流の人づきあいだろ、これには協力しなくっちゃ」
「こうやって、アキラと同じベッドの中にいるなんてことも秘密にしておかなくちゃね」
「もちろん」
「それにしても、朝比奈さん、ほんとの独身みたいな気がするんだけど」
「それはないだろうね」
「だって、いつも言ってるでしょ、俺は奇蹟の独身だって」
「あれはジョークだよ」
「ジョーク……」
「ああ。だけど、そのジョークを真剣に受けとめるところに、プロレス的世界の魅力があるわけだよ」
「それは、朝比奈さん的な言い方ね」
「そう、朝比奈さんの世界につき合わなくちゃ、バチが当るんじゃないかな」
「そうね、アキラとこうやっていられるのも、『ラディカル・メッセージ』のおかげですものね」
「『ラディカル・メッセージ』さまさまってわけさ」
「でも、ジョークを真剣に受けとめるってことは、朝比奈さんは独身ってことになるわね」
「そう、そうなってしまうな……」
三人の中での秘密らしい秘密といえば、アキラと麻美が最初の夜にベッドを共にし、その関係が今でもつづいているということくらいだろう。つまり、『ラディカル・メッセージ』がはじまってから三人の中に生じた秘密はこれだけなのだ。このことは、アキラにとっては朝比奈に対する負い目のように思われた。
「どうだい、麻美ちゃんと結婚しちゃあ。もしかしたら似合いかもしれないぜ」
朝比奈がそんなことを言いながらアキラの脇腹を肘で押したことが何度かあったような気がする。だが、そんな仕種をしたあとの朝比奈は、微《かす》かではあるがかならず翳《かげ》りの表情をただよわせた。どのような境遇で生きてきたのか知るよしもないが、プロレスを通じてつながる三人の関係は、朝比奈にとって何かの救いになっているような気配があった。
「いや、やっぱり俺たち三人は、プロレス以外のことでは無縁の方が面白いよ」
そんな言葉を返すアキラに、朝比奈は目をしばたたいてうなずくのだった。紺のブレザーに銀色のメタル・ボタンという都会ふうの身なりを好む朝比奈だが、何かの拍子に見せる横顔に、言いしれぬ寂しさが滲《し》みついているようだ。その朝比奈の暗さと、彼のノートに書き綴られた極彩色のようなプロレス哲学とは、どこか奥深いところで繋がっているのだろうとアキラは思っている。
場内のざわめきが急に静まった。リング・アナウンサーによる両レスラーの紹介である。プロレス的な儀式の刻一刻の推移が、すでに満員となったこの場内の呼吸をあやつっているようだった。
「青コーナー、二百十ポンド四分の三……」
まず悪玉の名をリング・アナウンサーは呼びあげた。悪玉は自分の名前を呼ばれても、コーナーで腕組みをして天井を見上げるようなポーズをとり、観客の拍手に応えようとはしない。〈今どきポンドで体重を表現するのはプロレスくらいのものだろう。これはなぜか、その方が重そうに聞えるからである〉朝比奈のノートには、こんな|くだり《ヽヽヽ》もあったようだ。論理のポーズがあるかと思うと、こんな子供向けの言葉もちりばめて朝比奈はプロレス観を綴っているのだ。そのような行き届き方がアキラには不思議だった。
「赤コーナー、二百五ポンド……」
善玉はリング・アナウンサーの声に応じて勢いよくリング中央に進み出ると、大きく両手を振って観客にアピールしたあと、緑色に金の縁どりをほどこした覆面に手をかけ、自らそれを剥ぎ取って観客に投げ与えた。覆面の下にはもう一つの覆面があり、それは紫色のラメ地をしていた。テレビ中継のアナウンサーが「オーバー・マスクの下には、もう一つのマスクが隠されていました、素晴しい演出であります」などと絶叫する場面だ。
リング・アナウンサーが降りると、リング上には闘うレスラーとレフェリーの三人だけが残った。レフェリーは両レスラーをリング中央に呼び寄せ、何やら細かい反則のチェックを説明している。レフェリーは、アメリカから特別に招かれたNWA認定のレフェリーだ。二人に対してオーバーなジェスチュアをまじえて語りかけているのは、二人のレスラーに英語を分りやすく聞かせようというより、観客に対してのアピールを強くしようとするためだろう。このチェックはかなり長い時間つづいたが、これも観客をじらせ熱気をあおるためにちがいなかった。
〈レフェリーは、試合の裁定をする審判であると同時に、試合のヴォルテージを盛りあげる演出家だ。冷たいルールの監視者であるというより、熱い試合を実現するための監視者であるというべきで、この点がプロレス以外の格闘技の審判とはまったくちがうところだ。したがって、リング上でプロレスをする者は、闘い合う二人のレスラーとレフェリーの三人なのである〉
試合開始のゴングと同時にコーナーを飛び出した善玉と悪玉は、睨み合いながらリングを一周半ほどまわって止り身構えた。お互いの首に手をかけ合うと、まず善玉が悪玉の腕を巻き込んで躯をひねり、悪玉をマットに投げつけた。鮮やかに弧を描いて宙に舞いマットに叩きつけられた悪玉が、両足を交叉させて善玉の首をはさみ逆襲した。柔軟に躯のバネを使って善玉が跳ね起きると、同時に悪玉も機敏に立って身構えた。前哨戦でおなじみのやりとりが四回つづいた。〈こういう型通りの応酬でも、一流と二流では、形、スピード、斬れ味などの点で雲泥の差がある〉という朝比奈の見方に従うならば、二人のレスラーは、技術的にも風格の面でも超一流ということができそうだ。〈それがわかったら膝を乗り出す……プロレスはそうやって見なければ面白くないのだ〉だが、朝比奈の文章とはうらはらに、アキラは深々と椅子に背をあずけ、リングを照らすライトに目をやった。煌々たるカクテル光線がリングを鮮やかに際立たせていたが、リングの上から天井にかけては白く煙ったようになっていた。
「プロレスの善玉をベビー・フェイスって呼ぶのは面白いな」
昨夜、スナックKで行われた『ラディカル・メッセージ』の打ち合わせのとき、朝比奈は水割を口に運びながら、上目遣いでアキラと麻美を何度も眺めていた。
「ベビー・フェイスって、赤ん坊みたいな顔っていうベビー・フェイスね、それが善玉、感じ出てるわね」
「日本人レスラーは、ほとんどベビー・フェイスだったってわけだ」
「はじめから?」
「日本に本格的にプロレスが紹介されたのは、力道山がシャープ兄弟を呼んだときだからね」
「それくらい知ってるわよ、ねえ、アキラ」
「だから、その頃はだね、日本人の中にアメリカ・コンプレックスが満ち満ちていたわけだよ。とにかくアメリカ人を殴るなんて夢だったからな」
「つまり、アメリカ人は憎まれ役にピッタリってわけね」
「その憎まれ役、つまり悪玉をだね、空手チョップで叩きのめしてくれたのが力道山なんだから、爆発的ブームになっちゃったのも無理はないね」
「日本人ってベビー・フェイスだから、善玉に向いてんじゃないの、ねえ、アキラ」
「いや、戦後のアメリカにおける日本人レスラーはぜんぶ悪役だったんだよ」
「え、どうして」
「力道山の逆ですね。|真 珠 湾 奇襲攻撃《パール・ハーバー・スニーク・アタツク》の卑怯なジャップ、つまり大悪玉だよ。この悪玉をアメリカ人がこらしめるというパターン、だから日系の悪玉レスラーは大いに商売になった」
「じゃ、日本人の善玉、つまりベビー・フェイスは、力道山が発明したことになるの」
「発明か、そうかもしれないな。本場のアメリカで流行《はや》ってたパターンをそっくり裏返したところに、力道山のセンスってものがあったということだろうね」
「外人に反則のしたい放題させておいて、最後に堪忍袋の緒を切って空手チョップの雨あられ、一度でいいから見てみたかったわ」
「そうか、麻美ちゃんは力道山を知らない世代だもんなあ」
「八つくらいのとき力道山が死んじゃったから、まだ興味なかったもんね、プロレス」
「とにかくだね、善玉が悪玉の外人をやっつけるという伝統をのこして力道山が死んだもんだから、そのワンパターンでずっときてるわけだよ、日本のプロレスは」
「でも、アメリカでも悪玉対善玉みたいよ」
「そうか、麻美ちゃんはアマリロ留学だもんな。アメリカではむしろ、日本より極端らしいね、その傾向が。いい奴とわるい奴が喧嘩するという感じが一番わかりやすいんだろうね」
「子供なんか、映画見ても、あれいい方かわるい方かって聞くでしょ、そういう幼児的な見方なのかしら」
「そうかもしれないねえ……」
アキラは少し飲みすぎたせいもあったが、いつになく弾む二人の会話を黙って聞いていた。朝比奈の顔はめずらしく紅潮していたが、内臓の具合でもわるいのだろうか、唇の端に小さな腫物が出ていた。麻美は紺のセーターの腕をまくりあげ、腕組みをしながら朝比奈の言葉に反応していた。麻美の腕の産毛が、スナックKの暗いあかりのなかで金色に光った。
「でまあ、あれやこれやとありましてですね、現代のプロレスは単なる|善  玉《ベビー・フエイス》対|悪玉《ヒール》じゃあすまなくなってきた。日本でもそうだし、アメリカだってそういう傾向は出てきているらしいというのが、ま、専門筋の見方ですわな。ところが、メキシコのプロレスには未だに堅固にこのパターンが生きている。というわけで、あしたの覆面剥ぎマッチの話になるんだけどね」
「メキシコのプロレスって遅れてるわけなの」
「遅れてるっていうより、善玉《リンピオ》対|悪玉《ルード》の対立を演じる民俗的な形式にのっとってやってるんじゃないの」
「あしたの試合もそうだけど、メキシコには覆面レスラーが多いのね」
「そこなんだよ。覆面つまり仮面というのもメキシコの民俗的色彩が濃いものだからね。覆面と悪玉対善玉の形が絡んだのがメキシコ・プロレスの特徴だけど、そこから何が浮びあがってくるか……。まあ、ちょっとこんなことを考えてみたんだけど」
朝比奈は部厚いノートの紙をはさんだところを開いて二人に読んできかせた。スナックKに他の客がいても、朝比奈は自分の文章を平気で声を出して読むのだ。神経質そうに見えて、どこか鈍感な影を感じるのは、朝比奈のそういうところだった。そんなときアキラは、彼はなぜプロレスに執着しているのだろうかという疑問をあらためて反芻するのである。しかし、その答えがアキラの頭に浮ぶはずはなかった。朝比奈が文章を読みはじめると、麻美は水割のグラスを耳もとへ持っていき、氷の音を聞いていた。
「覆面をつけた者、つまり素顔を隠した者に善玉・悪玉の個性を与えるということは、役割の極端な抽象化である。いかにも悪玉らしいスタイル、表情をつくるというレベルの労力をいっさい排除し、純粋に役割としての……」
朝比奈の文章の結論は単純だった。素顔を隠し役割のみによってうごく存在は、きわめて巫女《みこ》的でありながら、つまりは都会人の生態をあらわしているというのだ。だから、メキシコのプロレスは古臭くもあり新しくもあるという、朝比奈特有の言い方だった。だが、急いで書いたという文章のせいもあるが、最近の朝比奈のプロレス哲学とやらには失敗作が多いような気がする。どこがどうということもないが、これもその失敗作のひとつだなと思いながら、アキラは水割を唇にはこんでいた。麻美もアキラと同じような感想らしく、朝比奈が文章を読みおわるまで耳もとで氷の音をたてるのをやめなかった。
「だけど……」
アキラは深呼吸をしたあと、躯全体の力を徐々にぬきながら、はじめて二人の会話に口をはさんだ。言葉を発したタイミングが朝比奈の朗読を妨げるかたちとなってしまった。朝比奈は口を閉ざし、射るような目をアキラに向けた。
「その覆面剥ぎマッチってやつ、俺たち三人の関係に似てますね」
「三人の、関係に……」
「お互いに覆面をつけて闘いながら、試合中は相手の覆面を剥ぎ取っちゃあいけないんでしょ」
「そう、試合中に相手の覆面を取ったら、そのレスラーは反則負けになる。つまり、負けたわけだから自分も覆面を剥がれちゃうってことだな」
「つまり、両方とも素顔がばれちゃうってわけですよね」
「だから、試合の途中で相手の覆面を剥ぐということは、即ち自分の覆面を剥ぐことになってしまう。そんな馬鹿な行為に出るプロレスラーはいないよ」
「だから、俺たち三人に似てるなと思って……」
「どうして」
「だって、試合がつづくかぎり覆面は剥がされないということでしょう」
「それが、まあ、例の暗黙の了解ってやつだからね」
「つまり、試合が終るまで素顔はバレないわけですよね」
「もちろん、そうだ」
「似てますよね、俺たち三人の関係に」
「そうかねえ、俺はべつに素顔を隠しているつもりはないけどね」
「俺だって隠してませんよ」
「あたしも」
「でも、どこか似てますよ」
「もし似てるとすれば、俺たちはリング上で闘っていることになるねえ」
「そりゃ、そういうことですね」
「誰と誰が闘ってるんだい」
「俺と朝比奈さんでしょうよ、それは」
「何のために闘ってるんだい」
「そりゃあ決ってますよ、麻美の取りっこですよ」
「ああそうか、そりゃあいい」
「じゃあ、あたしはレフェリーみたいなもんね」
「リングヘ上った三人ということで言えばそうだな」
「自分の取りっこを裁くレフェリーね」
「こりゃ、複雑になってきた」
「いいかい、レフェリーは冷徹な審判じゃなくて、試合を盛りあげる演出家なんだから、それを忘れちゃ困るよ、ねえ、朝比奈さん」
「そりゃ、そうだ」
「自分の取りっこを盛りあげるレフェリー、あたし好みだな」
三人は笑い合い、麻美の取りっこをプロレス試合に見たてて、微に入り細をうがった想像をふくらませて喋りながら酒をあおった。麻美にはそうではないと言っているが、朝比奈は自分と麻美の関係に気づいているとアキラは思っている。そして、朝比奈が麻美に惹《ひ》かれているらしい気配をも察している。だが、麻美にとって朝比奈は単なるプロレス仲間でしかない。仕事の合間に道楽として『ラディカル・メッセージ』に関わっているアキラはともかく、部厚いノートを小脇にかかえ、講義のように演説をぶつ朝比奈に対して、最近の麻美はかなりの違和感を感じているようでさえあるのだ。
「あたし、いつかそんな役をやってみたいな」
「舞台の上でかい」
「もちろん、現実にはこうやって演じてるんだから不足はないわ」
「じゃ、舞台なんかで演じなくても……」
「冗談じゃないわよ、舞台はあたしの命なのよ」
「俺だって広告は命だぜ」
「俺はルポが命……」
「そういう言い方、やめてほしいな」
スナックKの回転椅子をすべり降りた麻美は、米軍放出品のファイター・ジャケットの肩をそびやかし、躯の重心もままならぬ歩き方で出口ヘ向った。麻美が開けて出て行ったドアが閉りきらず、そこから吹き込んだ冷たい風がアキラと朝比奈の髪をかすめて通りすぎた。若造りにしている朝比奈の前髪が風に持ちあげられ、意外に広い額が一瞬、剥き出しになった。目をそらすように椅子を降りたアキラは、朝比奈に借りたノートでずっしりと重くなったショルダー・バッグを肩にひっかけ、麻美のあとを追った。朝比奈の声が背中に当ったような気がしたが、アキラは立ち止らずドアを押し開けた──。
大歓声が場内をとどろかせた。リング下に落ちた悪玉に対して、反対側のロープヘ飛んでいった善玉が勢いをつけ、ロープの中段からダイビングを放ったところだった。メキシコ・レスラーのほとんどが使う「トペ」という技を予測し、観客が沸いたのだ。だがリング下の悪玉はすばやく起き上って受け身の体勢をとった。すると、機敏にそれを察知した善玉はダイビング寸前で動きを止め「トペ」をあきらめる仕種をした。場内に溜め息が生じ、悪玉は受け身の体勢を解いた。と、すばやく両手でトップ・ロープをつかんだ善玉が鉄棒競技の選手のように両手をひろげて宙に舞い上り、リング下の無防備な悪玉の上へ落下した。これはやはりメキシコ・レスラーが多用する「プランチャー」という技で、トペをあきらめたふりをして「プランチャー」を放つというのも、一種の常套《じようとう》手段なのだ。リング下で折り重なって倒れた二人のレスラーの姿が、立ち上ったリング・サイドの観客のかげにしばらく隠れた。
先にリング内にもどった悪玉を追った善玉が、うしろから飛び蹴りを放った。不意をつかれてコーナーに額をぶつけ、崩折《くずお》れるような恰好の悪玉の覆面に、背後から近づいた善玉の手がかかった。「おや?」という空気が観客のなかに充満した。ここまでの試合展開では、悪玉がべつだん悪どい反則をくり返したということはない。あまりに凶暴な反則をやめない相手をこらしめる、という図式は成りたたないはずだ。それに第一、相手の覆面を剥がせば即座に反則負けとなり、自らの覆面を剥がれてしまうという「覆面剥ぎマッチ」のルールを、百戦練磨の善玉が忘れているはずもない。だが、双方のセコンド陣の興奮ぶりを目にしたアキラの胸のなかに、双手を打つような気分が生じた。
〈何でもない試合の流れのなかで、観客の目に把えられないハプニングが生じることがある。それは、どちらかが何らかの形で暗黙の了解を破ったときだ。ロープ・ブレイクの場面において、拳打ちの応酬において、場外乱闘の局面において、闘うプロ同士の関係において生じるハプニングであり、観客の目にはほとんど分らない場合が多い。だが、そうしたハプニングがあったであろうと思われる直後の、闘う両者の表情の変化、セコンド陣の動揺の空気などによって、観客はハプニングが生じた可能性を想像することはできるのだ。ハプニングが生じた直後は、急展開の試合はこびとなって両者ともが試合を決めにかかるか、あるいは、両者が我をわすれて妥協のない喧嘩まがいの真剣勝負《セメント・マツチ》の様相を呈するか、ともかく試合は急激にヒート・アップせざるを得ないのである〉
いま、善玉が悪玉の覆面に手をかけたのは、場外に落ちた悪玉が暗黙の了解を破る行為に出たことに対する報復だったのだ。だが、剥いではならない覆面に手をかけた善玉はこのあとどうするのだろう……アキラの目はもはや朝比奈の目になっていた。
善玉は必死で抵抗する悪玉の覆面を、本気で剥ごうとしているように見えた。悪玉のあごから鼻のあたりまでが露わになった。レフェリーは善玉に向って反則のカウントを数えはじめた。悪玉の覆面に手をかけた善玉を制しながらカウントを数えるレフェリーは、善玉のルール意識を全面的に信用しているらしく、安心して観客の興奮を煽る役割を果している。観客は緩慢なレフェリーの動作に焦立《いらだ》ち、罵声を浴びせた。
レフェリーがやっと善玉を引き離すと、悪玉は頭をかきむしるようにして覆面を直し、躯全体で興奮を表わして善玉の首を抱え、顔面にパンチを当てた。膝をつく善玉を引き起し、指による目つぶし、のど締め、ロープで首を締めるなど一連の反則技を披露した悪玉は、善玉の腕を逆に取って大きくロープに振り、自分は反対側のロープヘ飛んでいった。悲鳴のような少年の声がひびき、場内が一瞬、静まりかえった。いよいよ悪玉が得意技である「フライング・ヘッド」のタイミングをつかんだのだ。場内の沈黙は、悪玉の得意技に対する固唾《かたず》を飲む期待感と、善玉の敗北を懸念する空気がいりまじった不思議な静寂だった。
ロープへ振られた善玉は体力の消耗を表わしながら弱々しくロープに跳ね返された。反対側のロープの反動を利用した悪玉は、リング中央にふらりと立つ善玉に向って勢いよく突進すると見せて飛び越え、ロープの最上段へ飛び上った。そして、そこから大きく手をひろげ、胸を迫《せ》り出すようなポーズをとり、真っ逆さまに落下したのである。相手の行方を見失って立つ善玉の後頭部へ自分の頭を打ち当てようというわけだ。これが、悪玉の得意技「フライング・ヘッド」、つまり「空飛ぶアタマ」というわけだ。
〈頭の硬さを武器とするレスラーは、実に哀感に満ちた存在だ。頭が硬く生れおちたという運命に得意技をゆだねている点が、何とも物悲しく暗い世界なのだ。頭突きという技からは、打たれた者の痛みではなく、頭の硬さを武器として攻撃するレスラーの痛みを受け取るべきである〉
一万人の大観衆は、悪玉の「フライング・ヘッド」が決って、リング上に失神する善玉の姿を思い浮べて静寂をたもった。だが、重心を失うようにしてリング中央に突っ立っていた善玉は、絶妙のタイミングで悪玉の頭の落下をよけたばかりでなく、目標を失った悪玉がマットに落ちる寸前に不思議な動きで両足をからめ、加速度をつけたかたちで悪玉の頭をマットに叩きつけた。善玉がこの一瞬の場面を設定するためにすべてを仕組んでいたことを知った観客は、望むべき結果に大満足の拍手をおくった。
リング上にはふたたび大勢の人々が登場した。少年たちの肩にかつがれて声援に応える善玉にチャンピオン・ベルトが贈られた。差し出されたマイクに向い、善玉がスペイン語らしい言葉でコメントし通訳がマイクを握って説明した。相手がまったく反則をせずペースがつかめなかったので、わざと覆面に手をかけて興奮させる方法をとった。そうすれば、かならず「フライング・ヘッド」を狙ってくると思い、そのタイミングだけを計っていた。今日は作戦勝ちをしたが次はどうなるか分らない強敵だ。もう一度闘いたいという意思をもちコミッショナーが認めるなら、いつでも挑戦を受けるだろう。ワタシはチャンピオンだ、逃げも隠れもしない……極《きわ》め付の善玉らしい優等生的な言葉が紹介されるのを聞きながら、あのときリング下でハプニングが生じたのではなかったらしいことにアキラは舌打ちをした。朝比奈の意見は、ほとんどがオーバーな想像力を頑固なプロレス観に結びつけているだけで、実態とはほど遠いケースが多いのだ。それが、通訳によって語られた善玉の言葉で証明されたような気がしたのだった。
目の前を人影が横切り、アキラは足を引いてよけた。片手を前へ出し、かるく頭を下げるようにして一人の男が座席から通路へ出た。通路から階段をのぼり出口ヘ向うその男の佇《たたずま》いがアキラの目をひいた。コートの襟を立て肩をいからせているのだが、その背中が極端に寂しそうに見えた。プロレス会場で、アキラは何人ものこんな背中を見てきたように思った。まだリングに目を釘づけにした観客のなかで、男だけが背中を見せて帰っていった。緑地に白く「非常口」と書かれたドアから男が消える瞬間、廊下のあかりが男の横顔を浮き立たせた。そのとき、アキラは男の顔を思い出したのだった。男は、アキラの肩口ヘ撫でるように声をかけたダフ屋だった。ダフ屋がなぜこんなところにいたのだろうと訝《いぶか》るアキラの耳に、固い音がひびいた。誰かに蹴られた瓶が床の傾斜を転がり降り、コンクリートの壁に当ったのだった。その音が、窓ガラスに打ち当る石|飛礫《つぶて》の音とかさなった──。
「これはルール違反よ……」
昨夜、スナックKでの麻美の酔い方が気になったアキラは、強引に麻美をアパートヘ送った。麻美のアパートを訪れたのははじめてだった。朝比奈に対して二重のルール違反を犯しているようで気が咎《とが》めた。
麻美のアパートは木造の二階建の一室だった。壁一面にとてつもなく大きな黒人の顔写真がはってあったが、ボクサーだったかミュージシャンだったかよく憶えていない。三面鏡とベッド、それに茶ダンスのような物以外に家具らしいものはなかった。部屋の隅にあるレコード・プレーヤーは、盤の上に針が降りたまま止っていた。名もない劇団に所属する女優の部屋という趣きもあったが、この部屋をいくら眺め回しても、麻美の本当の姿が探り出せるという感じはなかった。
「あんまりじろじろ見ないで、ひとの部屋」
ベッドに倒れ込んだ麻美は乱暴に衣服を次々と脱ぎ捨て、すっかり裸になった。ベッドの蒲団の下へ押し込んであったパジャマをつまみ出して身につけ、勝手にベッドヘ潜った。アキラは、あかりを消してから蒲団をめくり上げ、麻美をもう一度裸にした。ガス・ストーブの炎が麻美の裸身を不思議な色に染めた。アキラが躯をかさねると、麻美はいつものように両腕をのばしてアキラの首を抱いた。麻美の腋のやわらかい匂いがアキラを包んだ。
「ルール違反よ」
言葉を続けようとする麻美をアキラの唇がふさいだ。麻美の唾液がアキラの躯を濡らした。麻美の両腕をとって万歳のような恰好をさせ、アキラは麻美の腋窩《えきか》のやわらかい匂いを嗅いだ。そのとき、固い音がアキラの耳をひいたのだ。麻美の躯の緊張がアキラに伝わった。もう一度、固い音がした。麻美の部屋の窓に当る石|飛礫《つぶて》の音らしかった。麻美はアキラの首に回した腕を強く引きつけた。ガス・ストーブの炎が窓ガラスの上にかげろうのような模様を描きつづけていた──。
プロレス会場の床を転がった瓶がコンクリートの壁に当って固い音をたてたとき、アキラの躯のなかで頭をもたげてくるものがあった。あの石飛礫は朝比奈ではなかったか……そうなると、ルール違反はまったくの|あいこ《ヽヽヽ》だ。
〈刻一刻の展開を予測し、噛みしめ、楽しみ、分析しながら試合を追わなければならないのは自明のことだが、結果から過程を推論し直すことも忘れてはならない。思いもかけぬ顛末《てんまつ》だと思っていた結果が、実は試合開始早々に仕込まれていたという発見は、試合の反芻から受けとる楽しみの一つなのだ〉
犯人を追う刑事と刑事に追われる犯人の両方にただよう匂いをもつダフ屋の姿に、朝比奈の貌《かお》がかさなった。躯の奥底からおかしみがこみあげ、アキラは声を出して笑ってしまいそうになった。『ラディカル・メッセージ』編集部における「覆面剥ぎマッチ」は、まだまだ試合の真最中ということになるのだ。いまのところ朝比奈が優勢に試合をすすめているという試合展開だが、最後のワンチャンスに「フライング・ヘッド」を自爆させる手だってまだ残っている。だが、場外乱闘のなかで暗黙の了解をくずしたのはアキラの方なのか、朝比奈の側なのか……。レフェリーにうながされて場外からリングヘ上った二人の、これからの試合展開はたしかにヒート・アップするだろう。それにしても、試合を盛りあげる演出家としては、麻美は名レフェリーということになる。
「自分の取りっこを盛りあげるレフェリー、あたし好みね」
したたかな麻美の声を思い浮べながら、アキラはリングに目をもどした。
リング上には、もう一つの見せ場が残されていた。大歓声のなかでチャンピオン・ベルトを腰に巻いた善玉が、反対側のコーナーにうずくまる敗者の悪玉に近づき、その覆面に手をかけた。悪玉は必死で抵抗するのだが、試合のダメージが残っているらしく弱々しい姿に映った。善玉側のセコンド陣が殺到して悪玉の両腕を押えつけ、覆面を固定する紐を意外なほど簡単に解いてしまった。徐々に覆面がゆるみ、善玉の手がついにそれをむしり取るように剥いだ。悪玉は両手で顔を覆い、セコンドに守られて花道から控室へ走り去った。覆面は剥がされたが、悪玉の素顔が観客の目に暴されたわけではなかった。観客は、悪玉の毛髪が栗毛色をして縮れているらしいことを見ただけだった。しかし観客は、このあいまいな結果に満足しているという意味の拍手を善玉に向けた。
善玉はもう一度手をあげて大歓声に応えたあと、右手ににぎった銀色の覆面を大きく回して見せ、勢いをつけて自分のコーナーのトップ・ロープの上に立った。汗に光る善玉のビルドアップされた肉体にサーチライトが向けられた。日本人の肌とは微妙にちがう肌の色が、客席の最後尾まで届いた。善玉は、大きなモーションで右手ににぎったものを宙たかく放り投げた。舞いあがった覆面は、サーチライトにとらえられて銀色に光った。悪玉の抜け殻となってしまった銀色の覆面は、この世のものとは思えない歪んだ貌を見せて儚《はかな》い弧をえがき、宙にはりついて止った。
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セメントの世界
あみ棚のプロレス新聞に手をのばそうとしたとき、出入口のドアの近くに立っていた三人の女性が大声をあげて笑った。
宙に浮かせた手をそのまま吊革へもってゆき、私は彼女たちを盗み見た。誰がおきわすれたともしれぬプロレス新聞に、ケチな男が手をのばそうとしているのを笑われたような気がしたからだった。
だが、彼女たちに私を気にしている様子はなかった。三十五、六歳というところだろうか、三人とも流行のテニス・ルックに身をつつみ、ラケット・ケースを小脇にかかえている。午後三時半、テニス・スクールでひと汗ながし、三人であんみつでも食べての帰りといった風情だ。声高にはなし合っている内容は、中学生の校内暴力についてらしい。同じ年ごろの子供をもつ母親同士の共通の話題が、身ぶり手ぶりをまじえながら途切れなくつづいている。
三人は、いずれもマーク入りの白い半袖ポロシャツを着ていた。テニス教室を通じてできたあたらしい|お友だち《ヽヽヽヽ》同士、おそろいのファッションをえらんだのだろう。私は、見るともなしに三人の姿を眺めていたのだが、彼女たちのポロシャツに、ブラジャーの線が透《す》けていることに気づいて、思わず吊革から手をはなしかけた。
私は、女性のブラウスから透けて見える下着の線をテーマとして、この秋に写真展をやろうと思っている。あれはつい透けて見えてしまっている結果だろうか、それとも、わざと透けて見えるようにしてあるのだろうか。白いブラウスには白い下着、ベージュにはベージュ、黒には黒といったぐあいに同じ色を合わせても、やはり下着が透けて見えてしまうのだ。ベージュのブラウスからベージュの下着が透けるなど、むしろどぎついイメージを受けてしまうくらいだ。
小学生のころ、近所のコンニャク屋の若い奥さんの背中にシュミーズのかたちが浮き出ていたことをおぼえている。祖母の手で育てられた私には、若い奥さんの背中に浮き出た模様は不思議なものにみえたのだった。私をかわいがってくれたあの若い奥さんは、まもなくコンニャク屋から姿を消していなくなってしまった。まさかそんなことに対するこだわりが尾をひいているはずもないのだが、私はいまだにブラウスから透けて見える下着にこだわりつづけている。
(そういう病気は、仕事に生かすしか手はないぜ)
私は、躯のなかに生じたそんな呟きを実践して、この秋には「ランジェリー」というタイトルの写真展をやろうというつもりになっている。公園、ホテルのロビー、歩行者天国、コンサートの会場など、ブラウスから下着の線が透けて見える女性にカメラを向けるのはそろそろ習慣になってきているのだ。とくに、電車の吊革につかまった女性の背中に透ける下着のかたちは、カメラマンとしての私の意欲をそそるケースが多い。だから、電車に乗ったときの私は、いつでもカメラを取りだせる構えで立っているのである。
だが、さっきの笑い声にたじろいであみ棚へのばした手を引っこめた私は、テニス・ファッションの三人連れに向けてカメラを構えようとする神経をしぼませてしまった。
私は、もう一度あみ棚のプロレス新聞に手をのばした。そのとき、私は自分のひざが柔らかく温《ぬく》みのあるものにつつまれるのを感じた。私の前に坐っていた女子高校生の制服のスカートに、背のびをした私のひざが割りこんでしまったのだ。そして、女子高校生の両股《りようもも》が緊張して閉じたため、私のひざを彼女の内股がつつむかたちとなったのだった。
テニス・ルックの三人連れを目でさぐりながら、私は自分のひざを女子高校生のスカートからそっと引きぬいた。彼女の両股のかたさがかすかにゆるんだ。彼女は、共犯者のように私に呼吸を合わせたのだ。「ブッチャー血笑」「悪のかぎりをつくすシークに制裁!」「大巨人場外に自爆!」プロレス新聞の極彩色のような見出しが、私の目の裡《うち》に点滅した。
女子高校生は、テニス・ルックの女性たちの娘という年齢にちがいない。この年ごろ独特の青白い顔色をしていたが、夏物のセーラー服からのぞく胸元は、きめのこまかい白さを見せていた。高校生にしてはちょっと不思議な雰囲気をもっていて、それは眉の手入れをしているからだろうと思われた。組み合わせた指の爪にも透明なマニキュアが濡れたように光り、腕の産毛《うぶげ》が窓から吹きこんでくる風にゆれて光った。
私の視線を意識して、女は躯をかたくしている。そして、カバンの上で組んだり解いたりしていた手を把手にもっていった。カバンの把手の横腹には何か文字が彫りつけてあるようだ。ナイフかキリのようなもので引っ掻いたような四つの漢字が、紺の皮の表面に傷としてのこっていた。その文字は半分ほど剥《はが》れかけていて、上から見おろす私には読み取れない。
テニス・ルックの三人がまた大袈裟な声をあげた。中途半端につまんだ指からはなれたプロレス新聞が、風にあおられて三人の方へ飛んだのだった。
ひとりが敏捷に躯をかがめ、テニスのボールをひろうような仕種で新聞をつかんだ。すると、あとの二人が心得たように拍手をした。乗客のなかの何人かが怪訝《けげん》な顔でふり返ったが、すぐに無表情にもどった。床のちかくで新聞をつかんだテニス・ルックが、新聞を前にさし出しながら私に近づいてきた。私に向けられた笑顔とは裏腹に、彼女の指は汚物をつまむようなかたちにまがっていた。
「あ、どうも……」
声を出したときは、テニス・ルックはすでに私に背を向けていた。目の前のポロシャツの背に、ブラジャーのかたちが透けてみえた。それをぼんやり見つめる私の様子がおかしかったのか、女子高校生の口もとがゆるんだ。
私は、自分のひざを彼女のスカートの中央へ向けて突き出した。すると、彼女は余裕たっぷりにひざを閉じてガードをかためた。そのとき、カバンの位置がすこしずれて、把手の横腹に刻まれた四つの漢字がはっきりと読めた。
愛裸舞遊……「愛《あい》」「裸《はだか》」「舞《おどり》」「遊《あそび》」、この四文字にアイラブユーという音《おん》を合わせたのだろう。四文字をもう一度読みなおそうとしたとき、女子高校生はすいと立ちあがり、テニス・ルックの三人連れをかきわけるようにして降りていった。
「しばらくですねえ」
太くかすれた声が私に向けられたようだった。テニス・ルックと反対側のドアのそばに立っていた躯の大きな男が近づいてきた。
「山岡ですよ」
しばらく茫然としていた私に、男はそう言ってからかるくせき込んだ。
私は山岡の顔を忘れていたわけではなかった。紺のカバンの把手に愛裸舞遊の四文字を刻んだ女子高校生が、自分の前からあっというまに消えてゆくうしろ姿をぼんやりと見つめていただけだった。その表情のまま山岡を見たので、山岡は不思議に思ったのだろう。
「道場、まだ行ってんの」
そういう私の言葉に、山岡は安心したような顔をつくった。
「クビですよ」
「道場をかい、どうして」
「いやあ、先輩にははずかしいんだけど、喧嘩のやりすぎですかね」
「喧嘩のやりすぎ、ありそうなことだね、それは」
「またあ……」
山岡は大きな躯を折りまげるようにして私をのぞき込み、かるく私の肩を拳《こぶし》で突いた。
山岡は、私が以前通っていた空手道場にいた茶帯の一級だった。だが、道場の自由組手では、山岡はいつも二段の連中を相手にしていた。
そんな山岡が、あとから運動不足解消のため道場へ入門した三十五歳の私に奇妙になついてきた本当の気持は、今でもよくわからないのだ。もちろん、山岡と私が道場で自由組手をやることなどあるはずもない。
私たち初心者の稽古が終ったあと、有志による自由組手の試合がよく行われた。大会を前にしたときなどは、実戦特訓の様相をおびたはげしい試合が見られたので、初心者たちも正座して見学することが多かった。
そんなとき、山岡はかならず飛び入りで参加して、大会に選出された相手にケガをさせてしまうのだ。ふだんでも荒っぽいのだが、大会の前の試合ではとくに激しかった。そのときの山岡の目は、泣きはらしたように紅潮していて凄味がただよった。二段程度の相手では、山岡の荒技を受けきれず、手や足を痛める者がよく出た。
「先輩、どうすか空手は」
ある日、稽古のあと着替えていたとき、山岡が私に声をかけた。
「いや、ぼくのは運動不足をカバーするだけだから……」
「それが一番ですよ、こんなの武道なんてもんじゃないですからね」
「でも、あんたのは荒っぽいじゃない」
「みんながベタベタやってるから、つい頭にきちゃうんですかね」
「じゃあ、寸止めじゃない空手だってあるだろう、あっちの方はどうなの」
「あれねえ……」
「あれはきらいなの」
「本当に当てるの、好きじゃないんすよ」
「じゃあ、寸止めになっちゃうだろ」
「そう、寸止めは最高です、だけど、チンタラやってる寸止めは最低ですよね」
「そういうもんかねえ」
「ものすごい寸止めじゃなきゃ……」
そんなやりとりをして以来、私と山岡は稽古の帰りに道場の近くの焼肉屋へ寄るような仲になった。二、三回は飲みあるいたこともあったが、山岡は巷ではおとなしいタイプだった。大きな躯をかがめて焼肉屋の椅子にちんまりと坐っている姿は滑稽に見えるほどでさえあったのだ。その山岡が道場をクビになったというのは、たぶん大会前のあの荒っぽさのためだったのだろう。
「しかし、先輩もがまん強くない方ですよねえ、あそこに半としも通いましたか」
「冗談じゃないよ、二年はいたはずだよ」
「え、そうすると俺は丸三年ってことになるなあ」
「ずっと茶帯のままかい」
「ええ、もちろんですよ」
山岡は拳を突きあげてみせた。左右の拳には巻藁《まきわら》や板割りのためのタコが目立っていた。
「そういうのが目立つうちは、まだ初心者ということだな」
「先輩、あいかわらずですねえ」
山岡はうれしそうに笑った。一八五センチという山岡の躯は車内でも群をぬいてみえた。私は用心棒を引き連れたギャングのような気分になり、眉を寄せ唇をゆがめてテニス・ルックの三人連れをふり返った。
テニス・ルックの三人連れは、話がつきたらしくだまりこくって立っていた。目を宙にすえ、何かを思案するそのたたずまいは、すっかり主婦の姿にもどっていた。
「先輩、どちらまで」
「ちょっと、プロレス会場までね」
「先輩、プロレス好きなんすか」
「いや、写真を撮りに行くんだよ、仕事さ」
「あ、先輩、カメラマンさんでしたよね」
「カメラマンさんってのはいいね」
「で、プロレスの写真を撮ってるんですか」
「ああ、一年くらい前から撮りはじめたんだけど」
「面白いすか」
「写真かい」
「いや、プロレス」
「さあ、面白いと言えば面白いかな……」
「そうすか……」
山岡の目が一瞬うつろになった。こういう時の山岡は、頭のなかに浮んだいくつかの考えをまとめかねているのだ。そういう山岡のなつかしい表情を眺めているうち、私の躯のなかによどんでいた二日酔のおもくるしさが徐々にぬけていくようだった。
「今日、仕事あんの」
「先輩、ひやかさないでくださいよ、あるわけないでしょう」
「喧嘩仕事かなんかあるんじゃないの」
「またあ……」
「プロレス、見る?」
「面白いすか」
「それじゃあ話がもどっちゃうよ」
「ああ、そうか」
「どうする、次の駅だけど」
「今日は、やめにしときます」
「あ、そう」
「これ、俺の名刺です」
「今度、連絡するよ」
私があわてて名刺を出すと、山岡は両手でそれを受け取り、おがむような仕種をしてからポケットに入れた。山岡の腕をかるく叩くようにして出口ヘ向うと、テニス・ルックの三人連れがオーバーに道をあけた。
「おす!」
私の背に向けて投げかけられた山岡の声に、三人連れは何かを囁き合った。電車を降りると、じっとりとした湿り気が躯にまとわりついた。額の汗をぬぐおうと手をあげかけた私は、あわてて拳をにぎった。私の拳は、プロレス新聞のインクで黒く染まっていたのだ。ガラスの扉に下着の線ごと貼りついたテニス・ルックがゆっくりと遠のいていった。
現場でしか見ることのできないプロレス、それは前座試合だ。私はその前座試合をここ一年も撮りつづけているのだが、プロレス関係者たちも私が前座試合の写真を撮り続けていることを知らないはずだ。カメラマンがひしめきあってフラッシュ合戦をくりひろげるのは、セミ・ファイナルからメイン・イベントの試合であり、前座試合の写真を撮りつづけるプロのカメラマンの存在など誰も信じようとはしないのである。
たしかに、私には前座レスラーに対する思い入れがつよい。
場内の座席が半分も埋まっておらず、ジュースを買いにゆく者や自分の席をさがす者、より見やすい席をもとめてうごく子供たち、それを注意する係員などがざわついた空気をつくっている。そこへ登場してくるのが前座レスラーだ。
ゴングが数回打ち鳴らされ、リングがライトに照らされて浮き出る。ブルーのマットがあざやかに映っているが、観客は一瞬、リングの方へ目をやるだけで、すぐにもとのざわめきがもどる。
わずかに控室の近くが人だかりになっていて、ガウンもつけないタイツ姿の前座レスラーが登場する。花道を歩いてリング下までやってきても、前座試合ではリングにかけた階段梯子がない。階段梯子がかけられ、ガウンを着用し、花束贈呈があり、音楽が効果をあげ、セレモニーが行われる……プロレス試合はそのように、華やかさをメイン・イベントに向って徐々に拡大してゆく演出が確立しているのだ。
先にリングヘ登場したレスラーは、反対側コーナーの奥にある花道をにらみつけ、レフェリーに向って不満な顔をつくる。レフェリーも前座のレフェリーであり、そんなレスラーの不満顔を受けとめる演技力はもちあわせていない。表情を消したままニュートラル・コーナーに躯をあずけているだけだ。
遅れてあらわれたレスラーは、花道から駈け足で登場する。それが偶然、奇妙な迫力を生んだようになり、場内の一角からどよめきが起る。リング・アナウンサーも見習いふうの小柄な男で、タキシード姿がキャバレーのボーイのような佇《たたずま》いだ。
キャバレーといえば、前座レスラーの存在はキャバレーの前歌《まえうた》の歌手と似ている。女の腰に手をまわし胸をいじっている酔客のなかに登場し、誰の注目もあびない歌を歌うキャバレーの前歌歌手の姿が、リング上の前座レスラーにかさなった。
リング・アナウンサーによる両レスラーの紹介が終ると、レフェリーはおもむろにニュートラル・コーナーから出てきて、両者を中央に呼びよせる。レフェリーが反則のチェックをおこない、両者は大きくうなずいたりしているのだが、メイン・イベントのときの同じシーンにただよう緊迫感はない。両者はがっちりと握手してにらみ合い、さっと分れて自分のコーナーヘもどってスタートの姿勢をとる。
ゴングが鳴っておたがいのコーナーを飛び出したレスラーは、にらみ合いながらリングを半周し、首をきめ合ってもみ合う。片方が頭を腕で巻いてヘッド・ロックで締めあげ、首投げを放つ。投げられた側はあざやかな受け身をとって立ち上り、おたがいの力量を認め合う感じで構え合う。メイン・イベントなら拍手のくるシーンだが、かえって野次を呼んでしまうところが何ともかなしい。
「わざとらしいぞ!」
そういう野次は聞えやすいらしく、リング上の両レスラーは観客席をちょっと気にする気配を見せてふたたび組み合う。
前座レスラーには、ベテランも新人もいる。いかにもプロレスラーらしい躯つきのベテランは、前座レスラーの世界に生きがいをみつけているという割切りがただよっている。これからのスター候補生である新人は、人気と実力のバロメーターを前座試合で計られるだけに真剣なファイトだ。あらゆる人生の局面がしのぎをけずっている、そんなムードが前座試合にはただよっているのだ。
私はリングサイドの最前列まで出て、カメラを構えている。私の前をトレーニング・ウェア姿の練習生が行きかう。彼らは、これから前座試合でデビューする前座レスラーのタマゴたちだ。自分のデビューを頭にえがきながら、彼らはリング上の先輩たちの試合を喰い入るように見つめている。
「ちんたらすんじゃねえよ、おら!」
容赦ない野次が浴びせられ、リング上のレスラーの躯のなかに、奇妙なシコリが生じる気配があった。私はカメラを構え、緊張した指をシャッターに当ててねらいをつける。
片方が平手打ちを浴びせ、やられた側がパンチで応酬する。
「痛くない、痛くない!」
さっきと同じ声が飛び、殴り合いはにわかに激しさをます。平手とパンチの応酬が、パンチとパンチにかわった。パンチの打ち合いが数回つづいたとき、レフェリーが心得顔に割って入り両者を分けた。片方のレスラーの唇のはしが切れて、すこし血が流れている。前座試合に流血は御法度《ごはつと》という感じだから、この血はハプニングにちがいない、するとやはり……。
私は、プロレスの試合に関する用語のなかで、「セメント」という言葉につよい興味をひかれていた。セメント試合、こちこちに固まった妥協のない試合、どちらかの躯がぶっこわされでもならなくてはおさまりのつかない試合などと説明されている言葉だ。要するに真剣勝負といった意味合いであり、相撲における「ガチンコ」という言葉と同じようなふくみをもっているような気がする。ドラム缶の中にセメントで固められ海に沈められた死体……そんな三面記事も、セメントという言葉からはひき出される。つまり冗談ぬき、「でき試合」ではないということだが、そうなるとセメント・マッチと呼ばれるもの以外は、すべて「でき試合」なのだろうか。
人間と人間がやっていることには、かならず不測の事態が発生するはずだ。とくに、格闘技であればその可能性はつよい。プロレスのように「暗黙の了解」によって成りたつ部分が多ければ、ますますハプニングの発生する確率はつよいはずだ。ルールやレフェリーの存在が、そういうハプニングをおさえる歯止めになりにくいからだ。
そして、観客の軽視・蔑視の対象となる前座試合においては、試合以外のプレッシャーがレスラーたちの冷静さを失わせ、見た目に派手でないセメントの凄味を見つけ出すことができそうだ。前座レスラーの存在に対する思い入れとともに、前座試合に期待して私がシャッターを向けつづけるのは、そういう暗黙の了解が破れる瞬間の人間の貌を撮りたいからなのだ。
「おい、そんな生ぬるいことやってたら、セメントでこられたときケガするぞ……」
野太い声がシャッターを構える私の上からリング上の前座レスラーに向けて飛んだ。ドロップ・キック合戦で同時にマットヘ落ちたふたりが、一瞬うごきを止めてリング下の声の主を盗み見た。そしてすぐに試合は再開され、片方が逆エビ固めの体勢にはいった。
「そんな十年も前のワザでギブ・アップなんかすんなよ!」
場内からの野次が飛ぶと、野太い声の主は花道へ向って歩き出した。ファインダーから目をはなした私は、そっと花道をふりかえってみた。花道をかき分けて消えてゆく男の背中には見おぼえがあるような気がしたが、どのレスラーだったかはっきりとは見さだめることができなかった。
だが、野太い声の主の発した言葉の意味がよく分らない。そんな生ぬるいことやってたら、セメントでこられたときけがするぞ……海千山千の外人レスラーが急に本気をだしてセメントでかかってきたらどうする、こういう意味かもしれない。しかし、こんな前座のレスラーが外人選手と試合をする可能性は無にひとしいではないか。私のなかであの野太い声がくり返されたが、そこからは何の意味もつかむことができなかった。ともかく、さっきのパンチ合戦を見て、もしかしたらこれはセメント試合かなと思った気分は、野太い声のセリフにすっかりかき消されてしまったのだった。
前座試合は、けっきょく十五分フルタイム闘っての引分け、まばらな拍手におくられた二人のレスラーは、それぞれの控室へ姿を消していった。場内のざわめきは、入れかわりに登場してきた二人のレスラーの姿によってどよめきに変った。
前座試合から見ている者にとって、これは信じられないカードだ。パンフレットの最終ぺージを確認すると、山川健吾対青山嘉明とゴム印が打ってある。山川が出場するためか、前座試合にはめずらしく階段梯子がかけられた。
山川健吾は今やジュニア・ヘビー級の看板レスラーだ。テレビにも登場する人気スターとなっており、場内の歓声の盛りあがりようは、とても第二試合とは思えない。この山川がどうしてセミ・ファイナルでもない試合に登場したのだろう。山川というプロレスラーは、前座レスラーであったころから少女ファンの声援が飛びかい、相手レスラーに苦々しい表情をさせていた。しかし、山川にはまたぶっこわし屋≠ニいう異名があり、対戦相手にケガをさせることでも有名だった。外人の新人レスラーなどはまず山川とのカードを組まれ、その力量のほどを計られた。そして、妥協のない山川の攻撃によってケガを負わされ、シリーズなかばで帰国するケースもたびたびだった。メキシコで獲得したジュニア・ヘビー級チャンピオンの座が、山川をスターに押しあげていっぺんにメイン・イベンターの一員となっている。
青山嘉明は、山川とほぼ同期のレスラーだ。生来地味な性格なのか、山川のように全身から立ちのぼる華々しさというものがない。青山のきまじめな試合のファンはいるものの、スターと呼ぶべきムードを持ち合わせていないのだ。腕のころし方、関節のきめ方に独特の切れ味があり、前座試合を楽しむ者のなかには、青山の試合こそプロレスだという応援の仕方が見うけられる。だが、強さはみとめられても、リングの上から発散されるプロレスラーの魅力の乏しさが、青山をいつまでも前座の地位にすえおかせているにちがいない。もっとも、その青山の存在が、このプロレス団体の前座のスケールを大きくしているという効果はあるのだが……。
山川健吾はその実力をいかんなく発揮できる地位をきずき、青山嘉明はその力のわりにいまだに縁の下の力持ち的存在に甘んじている……現在のプロレスラーとしての両者の立場は、大きくへだたっているのだった。
二人は、五、六年前まではよく前座試合で対決したものだった。そして、そのほとんどがフルタイムの引分けであったはずだ。それも、さっきの前座試合とはちがい、同期生同士の張り合いがリングに漲《みなぎ》る凄味ある前座試合だった。
だがその後、プロレスラーとしての出世争いは完全に山川に軍配があがったのだ。もはや山川は前座で試合をすることなどない花形スターだ。青山が格あげされてセミ・ファイナル試合に登場し、タッグ戦で山川と相まみえることはあっても、山川が前座試合へ降りてくることはありえないのだ。
ところが、今日は大きなシリーズの開幕日であり、外人の超目玉商品が目白押しだ。そのカードからはみ出した山川が、セミ・ファイナルの前で青山と組み合わされたのだろう。ともかく、この不思議な前座カードは、あと二、三試合は退屈を覚悟といった風情でのんびりと見物していた観客の目を惹く効果をもったのであった。
赤コーナーからまず山川が登場した。水色のガウンに真紅のタオルをからませ、駈け足でやってきた山川は、リングにかけられた階段梯子を無視して、トップ・ロープごしにリングヘ舞い降りた。最近、とみにふえてきたチア・ガール的応援団が疳《かん》だかい声をあげ、その声の量におどろいて観客席の一角から笑いが発せられた。山川は、左右の爪先をマットに当てて交互に回し、ロープに躯をあずけて反動のぐあいを試している。
青コーナーから登場した青山の顔を見て私は目をみはった。オール・バックの髪型にしていたはずの青山は、髪を五分刈りにして口髭をたくわえていたのだ。青山の顔つきは、華々しい出世の道を捨てて居直った野武士の風貌のようだった。そして、ガウンもつけず前座レスラーの姿で花道をゆっくり歩いてくる青山の唇がすこし笑いをふくんでいた。リング下からじろりと山川を見あげ、階段梯子を踏みしめるようにしてロープをまたぎ、リングヘと姿をあらわした。
私は、つい一カ月ほど前に青山のリング姿を見ているのだが、それにくらべたあまりの変貌ぶりにおどろいた。ふてぶてしく見える態度にしても、ふくみ笑いにしても、以前からの青山の表情なのかもしれない。が、髪を切り口髭を生やした青山嘉明は、これまでの青山嘉明とは別人のようだった。
山川健吾一八九センチ九九キロ、青山嘉明一八八センチ一○二キロ……リング・アナの紹介は、前座試合としては大型すぎる二人の体格を強調するようにひびきわたった。
レフェリーが両者をリング中央へ呼びよせた。三日前の試合で外人レスラーに痛められたため、山川の手首には白い繃帯がまきつけてある、青山はそれを指さしてレフェリーにアピール、あの白い繃帯は怪しいというジェスチュアだ。レフェリーは首をふってそれを無視し、両者に反則のチェックをはじめる。同じ前座試合のレフェリーでありながら、さっきの試合とはまったくちがうシーンのような重さがリングにただよった。
コーナーのロープを両手でつかみ前傾姿勢をとっていた両者が、ゴングとともに飛び出し、お互いの手をさぐりあった。山川の右手が青山の左手をつかむと、青山ははげしくそれを払いのけた。そんなことが二、三度つづくあいだ、青山は例のふくみ笑いをただよわせていた。こういうシーンが、いかにもプロレスらしい空気を場内に浸透させれば、プロレスラーも一流というところだろう。
青山はいきなり腕で首をまきヘッド・ロックの体勢に入った。山川は青山の背中を押してロープに飛ばそうとするが、青山はヘッド・ロックをはずそうとしない。メイン・イベント流の派手なプロレスを、青山が拒否しているようにも見えた。二度、三度と相手をロープヘ飛ばすことを試みていた山川は、不思議なうごきで足をからめ青山を腹ばいに倒すと、足をたたんで固め自分の足をさし込んで締めつけた。インディアン・デス・ロックだ。そのかたちから山川は、躯をまうしろに倒して青山の足を痛めつけた。すると、青山の右腕が山川のアゴをとらえて締めあげ、山川がからめた足がほどけてしまった。派手な見せ場に引きつぐべき技を、青山は途中でカットしてしまったのだ。山川の表情が、はじめてかたくなった。だが、そこはロープ・サイド、レフェリーが両者を引きはなしリング中央へ出るように指示した。
青山は、山川のアゴにかけた手をゆっくりとはなし、スキがあれば当て身でも打ちかねないムードを躯にただよわせながらあとずさった。青山の口もとにふくみ笑いが浮んだ。山川は、青山の表情の意味をつかみかねるような顔で、身構えながら立ちあがった。山川の背中には、すでに汗が浮んで光っていた。
リング中央で組み合ったあと、青山は腕をからめて山川を投げ、関節技にはいった。これは青山の得意技であり、それを知っている観客はいつも拍手をするところだが、今日は静まりかえっている。重量感のある前座試合を、観客は息をのんで見つめているといった感じだ。
青山の関節技は執拗だった。前座試合でこういった地味な技がつづくと、きまって野次を浴びせられるのだが、この試合は張りつめた糸のような空気のなかで進行している。ロープに逃れた山川が立ちあがろうとすると、青山の平手打ちが山川の頬をおそった。青山の口もとに、またふくみ笑いが浮んだ。
頬をおさえて青山をにらみつける山川の目が痙攣《けいれん》した。山川の躯にやっと闘志の火がついたようだ。ぶっこわし屋≠フ異名をとっていたころの貌がやっと頭をもたげ、躯全体に緊張がみなぎった。
それを見て、青山が大きくうなずき、平手打ちの返礼をカバーするかのように左掌をアゴのあたりへもっていった。目はするどく山川をにらみ、口もとには依然としてふくみ笑いがのこっている。
(そうだよ、極《きわ》め付の前座試合を見せてやろうじゃねえか……)
青山の口もとのふくみ笑いは、花形スター山川にそう語りかけているようだった。そのふくみ笑いは一瞬のうちに消えた。平手打ちを放つ仕種から、山川は前蹴りで青山の脇腹を打ったのだ。躯をくの字に折り曲げた青山の首ヘエルボー・パットを決め、倒れ込むともう一度インディアン・デス・ロックをかけた。同じ技でありながら、先にかけたかたちとは効果がまったくちがうらしく、青山はマットを叩いて苦悶した。今度は、青山の躯に汗が浮んできた。
チア・ガールもどきの声援を浴びる花形スターの姿は消え去り、極め付の前座レスラーぶっこわし屋≠フ匂いがリングに立ちのぼっていた。かつて何回となく対戦した青山を相手に、凄味ある前座試合を展開する山川の躯には、鍛えた技を存分に発散する快感さえただよっている。
一方の青山には、出世の階段を駈けあがった同僚が、技を競い合う前座試合の世界まで降りてきた度胸に感動しているような気配があった。口もとのふくみ笑いはすっかり消え、青山は得意の痛め技を連発して山川を追い込んだ。それを耐えぬいた山川が青山のこめかみにパンチを当てると、
「うおー!」
と大声をあげて青山はロープにもたれた。その声を聞いたとき、私の耳にさっきの野太い声がよみがえった。
「おい、そんな生ぬるいことをやってたら、セメントでこられたときケガするぞ」
リング上の前座レスラーに野太い声をかけて花道を消えていった大男の影……あれは青山の姿だった。頭を刈りあげていたため、うしろからでは私には分らなかったのだ。だが、声の主は青山と分っても、その言葉の意味は謎のままであった。
そのあと試合は急転回となり、パンチ合戦から大技のかけ合い、関節技をからめて何度もフォールの体勢となった。そのたびにレフェリーはオーバーなジェスチュアでカウントを数えるが、二人はそんなところで試合に終止符を打つつもりはない。攻撃技と受け身技を鍛え合った同士のシリアスな試合が、こんなにも観客を飽きさせないのが不思議だった。
空中殺法とやらが流行する最近のプロレス界で、プロレスの原点に返ったように重々しい前座試合。だが、その重々しさのなかには、鍛えぬかれた肉体の躍動がありリズムがあって、観客を白けさせないのだ。それは、前座レスラー当時の二人の試合にさえないものだった。
二十分という試合時間のタイム・アップ寸前、青山は空手の足刀のようなかたちで山川の脇腹を蹴った。倒れた山川を引き起してロープになだれ込み、反動を利用して反対側のロープに飛ばす。はね返ってくるところへ、またもや足刀で脇腹を蹴る。山川は躯を折りまげて苦しむが、も一度、足刀が脇腹へ飛ぶ。山川は脇腹をおさえてリングにうずくまり、青山はそろそろフィニッシュとばかりにコーナー・ポストの最上段へのぼる。そのうごきに合わせて立ちあがった山川は、重心もおぼつかない感じでリング中央に立った。その肩口へ、青山は止《とど》めのニー・ドロップを敢行した。したたかに肩を打たれた山川は、そのまま青山のヒザをかかえこみ、すばやく青山の躯を丸めてしまった。レフェリーがカウント・スリーを数え、山川の手をあげた。
青山はレフェリーが山川の手をあげているのを見ると、指を三本立ててレフェリーの顔を見た。カウントが三つ入ったのか……そういう問いかけだ。レフェリーがうなずくと、青山は口もとにふくみ笑いを浮べ、ふっと息を吐いて立ちあがった。
レフェリーに手をあげられている山川は、ダメージのつよい躯をたてなおし、不満そうな顔で立ちあがった。
観客は闘いおわった両者に対して大歓声を向けた。前座レスラーの青山が徹頭徹尾、花形レスラーの山川を追いまくり、最後にはあざやかな逆転による勝ちをゆずった……そういう轍《てつ》をはずさない試合ぶりにも観客は満足していた。
青山がふくみ笑いを浮べながら手をさし出したが、山川はその手を払って握手を拒否した。試合中は夢中になりかつての前座レスラーにもどってシリアスな試合をしてしまったが、花形レスラーのプライドが試合を終えてみてよみがえったのだろう。
(それにしても、こいつどうして今日はこんなにガンガンきたんだろう……)
そんな謎が、まだ解決されずに山川の頭のうしろに貼りついているようだった。そんな山川をリング上にとりのこし、青山はリングを降りた。私の前を通る青山の口もとには、またふくみ笑いが浮んでいた。そろそろ超満員となってきた花道の人垣をかき分けてゆく青山の背中に前座レスラーに対するものとは思えないほどの声援と拍手が向けられた。
リング上で肩口をおさえていた山川は、片手を天に突きあげて頭をさげ、メイン・イベンターらしいポーズでリングを降り、歓声に向けて手をふりながら控室へ姿を消していった。
そのとき、私は山川健吾と青山嘉明の試合で一回もファインダーをのぞかなかったことに気づいた。つまり、一枚も写真を撮れなかったのだ。暗黙の了解を超える瞬間のプロレスラーの貌……そんなものが目の前にあらわれたら、肉眼でくらいついて見る以外に方法があるはずもない。プロレス試合がセメント・マッチになる瞬間なんて、私のようなカメラマンにそう簡単に撮すことができるはずもないのだ。
手にもったカメラをもてあそびながら、私はかるく舌打ちした。花道のあたりにまばらな拍手がおこり、試合を終えた青山嘉明がトレーニング・ウェア姿であらわれた。これから、セミ・ファイナル、メイン・イベントの試合でセコンドをつとめる青山は、私の前を通って青コーナーの鉄柱のかげにうずくまった。五分刈りに口髭は同じだったが、その口もとからふくみ笑いは消えていた。
「先輩、やっぱり現われたすね」
山岡と会ったなつかしさもあって、プロレスの帰りに道場の近くの焼肉屋へ行ってみると、誰もいないカウンターで山岡がおやじと話していた。
「プロレス、面白かったすか」
「ああ、面白かった。今日あんたの言っていた凄味のある寸止めってやつね、あれだったな」
「いやあ、プロレスって恐いすからね」
「馬鹿なんだよ、山ちゃんは」
焼肉屋のおやじが私にビールを注ぎながら、山岡を指さして眉をよせた。おやじと山岡は、ひとしきり話をはずませたあとらしかった。
「何だい、その馬鹿ってのは」
「いやね、プロレスの道場へね、他流試合を申し込んだんだってさ」
「彼がかい」
これはあり得る話だと私は思った。
巷《ちまた》に腕自慢は|ごまん《ヽヽヽ》といる。柔道や空手やボクシング、あるいは喧嘩自慢という男たちのなかで、やっつけて勇ましい話題にするならば、プロレスラーなどは恰好の標的だ。リングの上で嘘の殺し合いを見せているプロレスラーなど、本物の武道を心得た者や巷の修羅場をくぐった猛者ならば軽い相手だ、そのうえプロレスラーといえば怪物のようなイメージもあり、自慢ばなしの種ぐらいにはなるだろう。こんなことを考えた連中が、プロレスの道場へ他流試合を申し込む可能性は十分にあるのだ。そして大会前の稽古で荒れ狂ったような自由組手をやり、チンタラやってる寸止めは最低だといっていた山岡が、何かの拍子にそんなことを考えることもあり得ただろう。
「それは、道場にいるときかい」
「いや、つい最近だってさ」
「で、どうなったの」
「だからさ、プロレスの道場へ行って喧嘩売ったわけさ。そしたら、リングの上へあげられて、どこからでも攻撃してこいって言われたんだって、そうだったよね」
おやじに促《うなが》されて、山岡はそのときの様子をしゃべった。背の高さは向うが少し大きいくらいだが、躯の厚味はあきらかにちがっていたという。間合いをとって蹴りを一発いれようと思うのだが、急所をはずれてつかまったらおしまいだ。喧嘩を売ったのはこっちだし、なまじっか躯が大きいから向うも真剣になっているだろう。そう思っているうちに何度もロープを背にしていることに気づき、思いきって突きを出し、間髪を入れずに前蹴りを踏み込んだのだが、簡単に払われて拳をつかまれた。そして、信じられない力で関節を決められ、「参ったと認めるか」と聞かれた。脂汗をながしてうなずくと、ぱっと突き放され三メートルくらい躯が飛んだという。
「信じられないすよ、あいつら」
焼肉を箸でつまみながら、山岡はしかめ面をつくった。
「でね、二、三人の新人みたいなのを指さして、彼らも他流試合に来て逆に入門しちゃったんだなんて説明されるしさ」
「強そうな連中なの」
「うん、けっこうね。でも、売り出す新人は俺なんかでも背が足りないらしい、一九五センチはほしいって言ってたね、肉は鍛えればつくからって」
「でも、無事でよかったじゃないか」
「そうなんすよ、無事でなかったやつなんかもいるんじゃないかな」
「そりゃ、そうかもしれないよ」
「近ごろのセメントは、ヤワになったなんて言ってましたしね……」
私の頭に、前座レスラーに野太い声をかけた青山の言葉があざやかによみがえった。おい、そんな生ぬるいことやってたら、セメントでこられたときケガするぞ……。あの言葉の意味はそれではなかったか。たまたま道場にいた者が道場やぶりの相手をしなければならない。もし、道場やぶりに負けでもしようものなら、プロレス団体としての商売にさしさわるのだ。誰がセメントできても勝てるように、つねにきびしい試合をしていなくては前座のプロレスラーはつとまらない。華々しいハイライトはメイン・イベンターにまかせて、商売の外堀をしっかり固めなくては……青山の野太い声が長ゼリフのように私の耳の奥をはしりぬけていった。
「アメリカの道場なんかの話も聞かされましてね」
「あっちは黒人の大男やなんかがわんさといるだろうしなあ、ボクサー、フット・ボーラー、何もやってないカウボーイだって強そうだ」
「そういうとこで、日本人のプロレス道場があるわけでしょ」
「そりゃあ、ねらわれるね」
「酒場で喧嘩吹っかけられても、逃げられないそうすよ」
「逃げたと言われたら、その町でプロレスできないもんな」
「だから、かならず道場へ呼んで、かならず腕を折るんだそうすよ」
「かならず……」
「そう、かならず腕を折る。そして病院へ連れて行って治療費をはらい領収書をもらう。そこまでやっとかないと、たいていの男は負けたと言わないそうすよ」
「そういうときの証拠に領取書をもらうってわけだね」
「半死半生の目に会わせても、四、五日するとすっかり忘れて、喧嘩は五分五分だったなんて言いふらす連中が多いらしいすよ」
「そうすると、商売が成りたたないということだね……」
「アメリカでなくてよかったな、なんて肩たたかれてね、ほうほうの態《てい》ってとこすよ」
かならず腕を折る、そしてかならず病院の領収書をもらう……これが商売の事務のようにして行われるという話の内容に私は凄味をおぼえた。リング上で「暗黙の了解」が破れ真剣勝負となってしまうセメント・マッチもあるが、あらゆるプロレスを成立させているセメントもあるということだろう。大袈裟で嘘くさいジェスチュアで倒れて見せるショーマン・スタイルのプロレス、そんな試合でさえも「腕を折って領収書をもらう」というセメントが支えている。プロレスのなかにセメント・マッチがあり、プロレスの外側もセメントなのだ。
「で、誰なのあんたの相手になったのは」
「名前は忘れましたよ、何しろテレビなんかじゃ見たことない奴だったなあ、躯は大きかったすけどね」
「じゃ、前座レスラーか……」
私は頭のなかで青山嘉明のふくみ笑いを思い描いていた。
「先輩、また道場へ来ないすか」
「来ませんかって、あんたは道場へ帰ることに決めたの」
「じつは、まあ白けたってこともあるけど、ちょっとほかの仕事で忙しかったんで、すこし休んだんすよ」
「何だい、喧嘩でクビなんて言やがって。寸止めでもいいのかい」
「そりゃもう、寸止めのおかげで腕を折られなくてすんだんすから」
「シャレる余裕がありゃ、ましだな」
おやじが笑ってビールの栓をぬいた。私が手でコップにフタをする仕種をすると、おやじはうなずいて山岡のコップへビールを注いだ。それから二、三杯ビールを飲んだところで、山岡はカウンターに突っ伏して眠ってしまった。
「あんまり簡単にやられたんで、かえって気持いいみたいですよ、山ちゃんは」
おやじが目を細めて山岡の髪の毛についた灰を払った。山岡の分もふくめた勘定の合図をした私に、おやじは無邪気な笑いをつくって言った。
「領収書いりますか」
「こっちはセメントじゃないからいいよ」
おやじに向けて片目をつぶり、そっと戸を開けて出ようとすると、
「おす!」
という声がかかった。ふり向いて見たが、山岡はカウンターに突っ伏して眠ったままだった。
電車は本日最後のラッシュ・アワーで混雑していた。午後十一時四十分バーやキャバレーがはね、終電、終電と乗り継いで帰るホステスと客たちで車内はごった返している。
化粧を落す時間もなく店を飛び出したらしいピンクのワンピースを着たホステスが、ビーズのハンドバッグをかかえて飛び込むと、ドアが閉った。ネクタイをゆるめ、吊革にぶらさがった男のカツラが少しずれている。それを指さして笑い合っているのは、孔雀の羽のような色合のドレスをまとった五十前後の女と、やたらに痩せて色白な笑うと大きく歯ぐきの見える若い女だ。ケバケバしい衣裳のせいか、女たちの背中には下着の線は透けて見えない。化粧品と汗の匂いがまじり合った終電車のなか、疲れきった人々の表情を消した貌が蛍光灯のなかで目立った。
店からタクシーで六本木、赤坂などへ食事に行く者、客に送ってもらうホステス、自分の車で近くのマンションヘ帰る者……そういう連中からはみ出した人々が、ひたすら家路をたどっている姿は、どこか夕方のラッシュで帰るサラリーマンと似かよっていた。行きたくもない場所へ行き、帰りたくもない場所へ帰ってゆく……そんな風情だ。シャッターを一度も押さずに目的地から帰ってきた私も、このけしきのなかに溶けこんでいることだろう……。
あみ棚にプロレス新聞がのっている。もはや数人に読み捨てられたらしい新聞は、折り目もあいまいなほど皺になっている。それに手をのばそうとしたとき、出入口の近くにいた三人連れが大声でわらった。その三人連れは、店の客のうわさをしている中年のホステスたちだった。
あらためて新聞に手をのばした私は、自分のひざが柔らかく温みのあるものにつつまれたのを感じた。私の前には、さっき飛び込んできたピンクのワンピースを着たホステスが、いつのまにか坐っていた。薄地のピンクのワンピースの胸もとに、白いブラジャーの線がくっきりと透けて見えている。私がひざを引こうとすると、彼女は私の呼吸に合わせるようにひざをひらいた。そのとき、うしろの乗客に背中を押された私のひざが、さらにふかく彼女のスカートに割り込んでしまった。だが、彼女は眠そうに私を見あげてから、すぐに自分のひざの上へ目をもどした。
彼女は、ひざの上でビーズのハンドバッグを大事そうにつかんでいた。彼女の腕には脱色したような金色の毛が光っている。私は、思わずビーズのハンドバッグの把手のあたりに目をやった。眉をいじった感じが昼間の女子高校生と似ているような気がしたのだ。だが、そこにはもちろん愛裸舞遊《アイラブユー》の四文字はなかった。ピンクのワンピースに透けた下着のかたちは、コンニャク屋の若い奥さんのシュミーズに似ているように見えた。私は、カメラ・バッグに手をかけようとして吊革から手をはなした。そのとき、彼女は、やにわにビーズのハンドバッグをあけて、何やら紙の束のようなものを取り出して点検しはじめた。それは、彼女が客のツケを回収したときに手渡す領収書の束のようだった。
[#改ページ]
クレイジー・タイガー
暗闇のなかを二条の光が縦横に走りまわった。虎の吠える声に雷鳴のかぶさるようなクレイジー・タイガーのテーマが場内に響きわたった。シタールの旋律にドラムの激しいリズムがからみ、異様なムードが盛りあがった。
サーチライトが| 控 室 《ドレツシング・ルーム》のあたりに向けられると、黒い人群れがゆれうごくのが見えた。その向うにキラリと光るサーベルの切っ先の気配があったと思ったとたん、人群れがどっと後退した。
プロレス会場で、観客はある種の安心感をいだいてプロレスラーに近づいてゆく。リング上の恐怖の物語は、かならず額ブチにおさまった絵のようなものであるはずだという感覚が、その安心感を生んでいるのだろう。流血したレスラーの額めがけて殺到し、半紙を押しあてて血の拓本をとって狂喜する少年たちは、プロレスの流血をブラウン管ごしに見てショック死をした老人たちとは、比較にならない冷静さでプロレスにかかわっているのだ。
場外乱闘にまきこまれて逃げまどう観客たちにしても、荷物をかかえ悲鳴をあげて走りながらうしろをふり返り、また笑顔をつくって乱闘シーンの輪の中へ入ってゆく。こんな有様を「新しい観客参加」と表現したプロレス関係者の言葉が、プロレス新聞の片すみのコラムに出ていたことがあった。「興奮のルツボ」とテレビ・アナウンサーが絶叫するプロレス会場には、お化け家敷で泣き叫ぶ幼女が、顔を手でおおい指のすきまからお化けの正体をさぐっているような、不思議な安心感がただよっているのである。
だが、この男に対してだけは、観客はそういう安心感をいだくことをしないのだ。それでもこの男を間近で見たいという欲望はおさえがたく、おそるおそる近づいてゆく。そして、この男がふり回すサーベルに傷つけられ、放り投げるスチール製の椅子に当ってケガをさせられ、必死で逃げる人群れに押されて倒れ込むのだ。この男が登場したときだけは、観客の神経のなかに本当の恐怖が生じてしまう。
男の名は、クレイジー・タイガー。ゆれうごき、どっと後退した人群れの向う側で、鈍い物音がひびいた。| 控 室 《ドレツシング・ルーム》の扉を蹴り開け、おさえがたい苛立ちの表情を浮べたクレイジー・タイガー、極《きわ》め付の登場だ。
数人の若手レスラーが両腕をおさえ、タイガーをリングヘ導いてゆく。タイガーは、オレンジ色のターバンの下の大きな瞳に妖しい光を帯び、口髭を神経質にけいれんさせた。口をゆがめてけいれんさせる表情は、アメリカの悪役レスラーに共通するイメージもあるが、タイガーの表情には、何かに怯えたインドの狂虎という匂いがつよい。檻から引き出された猛獣が、一瞬あらわす恐怖感、そしてその恐怖を払うように獲物に飛びかかっていく気配……。プロレス・スタイルとしての表情にはちがいないが、タイガーの内面の表情と一致するような気配が不気味なのだ。
タイガーは、若手レスラーの先導を拒否してあとずさり、サーベルを口にくわえ、片目をチカチカとさせ頬をけいれんさせて見得を切った。サーチライトのなかに、サーベルの切っ先とタイガーの大きく見開いた片目が浮びあがった。タイガーの片目の光は、サーチライトを軽々と射返すようだった。若手レスラーが無理矢理に前へ押し出そうとすると、それを拒むふうに見せたタイガーは、次の瞬間、おそろしい速さで斜めに走り、観客席の真只中へなだれ込んでいった。
満員の観客席が真二つに割れ、叫び声や物音がひびいた。タイガーの行く手に立つ者は誰ひとりとしてなく、タイガーを両側から遠まきにつつんで見守っている。サーチライトがやっとタイガーの姿をとらえ、オレンジ色のターバンとライト・ブルーのインド式のシャツを浮きあがらせた。若手レスラーは両脇から必死でタイガーの腕をとり、もとの位置へもどそうとする。だが、タイガーはサーベルを口にくわえてしごき、何度も見得を切ってうごこうとしない。タイガーに向って、二階席から紙クズやミカンが投げつけられ、タイガーは突然の豪雨をふりあおぐふうに左腕をくの字に曲げてこれを避けた。そのとき、タイガーの目のふちに、かすかに恐怖の色が生じた。紙クズやミカンを雨に見立て、自分に雨を降らせた神の不機嫌を想定する。これもまたタイガーの独特の表情だ。
若手レスラーにもとの位置へ引きもどされ、タイガーは口にくわえていたサーベルを右手に持ってはじめてリング上を見あげた。すでに登場していた相手は、先ほどからのタイガーの登場ぶりに業《ごう》を煮やし、コーナー・ポストに登ってガッツ・ポーズをつくり、カモンというふうにタイガーを招いた。
すると、タイガーはその相手に向けて唾を吐きかけ、もう一度サーベルをくわえた。そして若手レスラーによって押し出されるようにしてリング下までやって来た。
タイガーにとって、| 控 室 《ドレツシング・ルーム》からリング下まで続く通路は、花道のようだった。何度も見得を切っては止り、自分の個性を客席に浸透させながら、通路を歌舞伎の花道のようにつかって登場する。舞台にして舞台にあらず、通路にして通路にあらず……歌舞伎の花道のあり方に忠実に登場してくるがごときタイガーの内面と外面のめまぐるしい照射に、観客は恐怖し、逃げまどい、熱狂して待ち受けるのである。
今夜のタイガーの相手は、正統派レスリングが売り物の元世界チャンピオンだ。インディアンの血を引くといわれ、執拗な攻めと、ねちっこいと評されるグランド・レスリングの実力は、専門家筋には高く評価されている。現役のチャンピオンではないが、アメリカでは稀少価値のストロング派として各地で引っぱりダコ、日本のマットに登場するのは久しぶりだ。ボディ・ビルで造った肉体美の男に短期間でプロレス・テクニックを教え込み、即製のスーパー・スターを誕生させる傾向のアメリカのプロレス界にあっても、元チャンピオンの鍛えぬいた技の冴えは、やはり高いゼニの取れる価置を認められているという。
今回のシリーズは「ストロング・シリーズ」と銘打たれ、ショー・アップ時代のプロレスに対する警鐘を謳い文句として興行が行われている。格闘技の原点であるストロング・スタイルが忘れ去られてゆくことに対する歯止めとして、興行成績を犠牲にしてもという構えで、関係者はこの企画を打ち出したらしい。しかし、切符の売れゆきは予想外にのびて、ストロング・スタイルという言葉は未だ死んでいないという手応えを語る関係者の言葉が、プロレス新聞に紹介されていた。そのストロング派の目玉商品が元世界チャンピオンなのである。
しかし、このシリーズの人気の要素のなかで、並いるストロング・スタイルのプロレスラーを向うに回すクレイジー・タイガーの存在は大きな意味をもっているにちがいない。タイガーは、インド・レスリングの基本をみっちりと叩き込まれ、そののちアメリカヘ渡ったインド人レスラーだ。観客のほとんどは、アントニオ猪木との八年にわたる抗争の過程で、タイガーがストロング・スタイル一本でも一流のテクニシャンであることを知っている。しかし、だからといってタイガーが正攻法で元チャンピオンに立ち向うなど、誰も信じていない。ストロング・シリーズという催しそのものを、クレイジー・タイガーがあざ笑うように壊してしまうだろうという期待が、リング下で唾を吐きサーベルをくわえるタイガーに集まっているといっていいのだ。
だが、今夜はシリーズの幕開きだ。結着をつけるのは後半戦になるとして、ストロング・スタイルというキレイゴトに唾をかけるような試合ぶりを披露するにとどめるだろうとの予測も成り立つ。相手の元チャンピオンだって千両役者、開幕戦では|いいところ《ヽヽヽヽヽ》を見せておかなければ、シリーズの主役としての立場が失われるというものだ。
リング上の元チャンピオンはすでにジャンパー・スタイルのガウンを脱ぎ、自らのコーナーで跳躍運動をしながら、シャドウ・ボクシングでタイガーにプレッシャーをかけはじめた。現役のチャンピオンとして来日したときにくらべ、躯がふたまわりほど華奢になったという印象だ。無駄な肉がいっさいない鋼鉄のような躯という趣きもあったが、肉がそげた感じがやや目立った。
タイガーは、リング下からサーベルで花束嬢に襲いかかり、花びらがリングに散乱した。怯えた花束嬢を若手レスラーが反対側のコーナーヘ誘導し、下のロープを足で踏み上のロープを肩でもちあげた。これは、いかにも若手レスラーらしい役どころで、格闘の場で女のために手助けをする若手レスラーの横顔に、照れとダンディズムが交叉した。花束嬢が身をかがめてロープをまたいだとき、香川洋一の耳の奥を、今日子の低いハスキーな声が通りすぎた。
「下のロープを踏んでいる足、あれをはずしたら面白いのにね……」
下のロープを踏んでいる足をはずせば、ロープは反動で跳ね上り、またいでいる花束嬢のスカートを巻きあげるばかりでなく、腿の奥を直撃してしまうはずだ。こういうシーンで香川がそんな想像をしたのは初めてではなかったが、今日子の口からそのセリフが出たのは不思議な気がした。それはたぶん、香川の神経にちょっとした悪戯《いたずら》をしかけるつもりのセリフだったのだろう。プロレスを今日子と一緒に見ると、このシーンでかならずそういうセリフを聞いたような気がする──。
今日子は、あるホテルのバーでカクテル・ピアノを弾いているセミ・プロのピアニストだ。ピアノを弾くことによって収入を得ているということではプロと言えるのだろうが、ピアニストとしての独立心や向上心は、今日子には何もない。ただピアノを弾けるだけで幸せという純情でもなく、ホテルのバーで酔客相手に弾くピアニストという時間が好きなのかもしれない。
今日子がそのホテルのバーで弾く曲は、誰でもが知っているジャズのスタンダード・ナンバーだった。ルポライターの香川はよくそのバーを打ち合わせ場所として利用していたが、今日子の存在を気にとめるということはなかった。打ち合わせ場所のムードという意味のなかに、今日子の存在も今日子の弾くピアノ曲と一緒ににじんで見えなくなってしまっていたのだった。
今日子がピアノを弾いているホテルのバーは、近ごろではめずらしい蓮っ葉なムードに満ちている。
「今どき、不良外人の溜り場って雰囲気は貴重だな、とくにホテルのバーでさ……」
仕事仲間の遊び好きがそういうように、バー全体に何ともいかがわしい匂いがただよっている。それは、見るからに陳腐で安っぽい壁の絵やテーブルのならべ方のためもあったが、そこに出入りする外人のイメージがつくる匂いという感じが強い。暗い照明のなかで、金髪や銀髪の外人観光客が、女をあさる目つきを四方に配っている。女同士、男同士の外人客がいつの間にか同じテーブルで笑い興じ、一夜のアバンチュールのシナリオが徐々にできあがってゆく。カウンターに頬杖をついて無表情にビールを飲んでいた肥満体の白人が、オーバーなジェスチュアで入口をふり返って手をあげると、小走りに入ってきたダーク・スーツの日本人が近づいて耳打ちをする。数分後には、大袈裟な毛皮コートをひっかけた女がやってきてカウンターに坐り、肥満体の白人は指を二本立てて女に交渉中といったあんばいだ。そんなけしきが暗い照明のなかで毎晩つづく。そのBGMが今日子の弾くカクテル・ピアノだった。
ある夜、待ち合わせた相手が遅れているのに苛立ちながらハイボールを飲んでいた香川は、何気なくピアノを弾く今日子を見ていた。髪の毛を長く垂らし、前髪で眉のあたりまでがかくれた、何ということもない印象だった。YOU DON'T KNOW WHAT LOVE IS を弾き終った今日子が、マイクに口を近づけて何かを喋った。低いハスキーな声だった。今日子の言葉のなかに「プロレス」という発音を聞き取って、香川はハイボールのグラスを宙に止めた。
香川はいま、小さな雑誌に依頼されて、プロレスのルポをやっている最中だった。このところの奇妙なプロレス・ブームのおかげで、香川は以前から好きなプロレスを生《なま》で見ながら仕事ができるようになった。こんなブームがいつまでも続くとは思えないが、とりあえず退屈しない仕事にありついたという弾んだ気分があった。
「プロレスの技からとった曲で、ボディ・スラム、お送りいたします」
バーの客たちはそれぞれ自分たちの話に熱中し、今日子の言葉を耳にとめる者はいなかったろう。香川は、宙に止めていたハイボールをゆっくりと口にもっていき、今日子の様子をじっと見まもった。今日子は、ベースに向って目で合図をした。
ベースのソロにゆっくりと今日子のピアノが乗ってゆき、ビートのきいたバラードになっていった。その旋律はあきらかにスタンダード・ジャズではなく、香川が耳にしたことのない曲だった。だが香川はその曲に惹かれたのではなかった。「ボディ・スラム」というプロレス技の発音をした今日子の低いハスキーな声が耳に残ったのだった。
一回目の演奏タイムが終り、ピアノからはなれた今日子は、白いジャケットを肩から羽織り譜面を小脇にはさんでカウンターに坐ると、呼吸よくはこばれたグラスを指ではじいた。近づいたバーテンが馴れなれしい笑みを向けると、今日子はジャケットのポケットからタバコを取り出した。バーテンがさし出すライターの炎を無視し、自分のマッチでタバコの火をつけた今日子は、ゆっくりと脚を組みかえた。タイト・スカートのスリットの下で形のいい足があざやかに入れかわった。
次の演奏タイムになっても、香川の待っている相手はやって来なかった。こんなことはよくあることだった。お互い変則的な時間の使い方をする者同士、もし片方が都合で約束を破ることがあってもここならば……、このバーはそういうことで決めた打ち合わせ場所だった。
(今夜は、待ちぼうけの方が面白いかもしれない……)
そんな予感が、香川の躯の芯をはしりぬけた。
「次は、プロレスの技からとった曲で、デッドリー・ドライブ、お送りいたします……」
今日子は数曲のスタンダード・ジャズを弾き終えてから、低いハスキーな声でそう言った。そして、第一回目のときと同じ曲を演奏した。香川は心のなかでニヤリと笑った。同じ曲なのに題名がボディ・スラムからデッドリー・ドライブに変っている。プロレスの技の名前など、ボディ・スラムだろうがデッドリー・ドライブだろうが誰も分りはしないだろう……そういう悪戯心がピアノを弾く今日子の躯に透けて見えるようだった。
香川は、ボーイを招いて小さな紙に何かを書き記すと、ピアニストにわたしてくれと注文した。
「リクエストでございますね……」
ボーイは心得顔に紙片を受け取り、今日子に仰々しく手わたした。その背中には、自分を見つめている香川の視線を意識したポーズがあった。
ボーイから紙片を受け取った今日子は、それをひらいてからボーイに耳打ちした。ボーイは、やはり安っぽい気取りを見せてピアノを弾く今日子の上へ屈《かが》み込み、流し目で香川の席を示した。今日子はボーイの肩ごしに香川を見た。香川はハイボールのグラスをあげて答え、今日子は FIVE SPOT AFTER DARK を弾いている手を止めずに香川に向って会釈した。
「ではお客さまからのリクエストで、プロレス技のナンバーから、パイル・ドライバー、おおくりいたします。リクエストありがとうございました」
パイル・ドライバーは、脳天杭打ちと呼ばれるプロレス技だが、この技を得意としたバディ・オースチンというプロレスラーのたたずまいが、このバーのけしきにはよく似合うような気がしたのだった。今日子は、さっきと同じようにベースに目で合図をおくり、同じ曲を弾いた。
最後の演奏タイムが終ると、白いジャケットを袖を通さずに羽織った今日子が、小脇に譜面をはさんで香川の席へやってきた。遠くから眺めたときとはまったく違う、強い瞳が前髪の下で光っていた。
「ハイボールなんか飲んでるんですか、あたしも同じもの欲しくなったわ」
今日子は通りかかったボーイの横腹に手を当てながら、自分用のハイボールを注文した。ボーイは、安っぽい気取りをあらわして今日子にうなずき、
「こちら様は……」
香川の空のグラスに手を添えて聞いてから、香川がうなずくのをたしかめて、ダンスのターンのようなポーズでうしろを向いた。ボーイの安っぽい仕種の一部始終が、この場の空気によく溶け合っていた。
「でも、おどろいたわ」
「リクエストかい」
「ええ。パイル・ドライバーって書いてあったから、あたしの|つもり《ヽヽヽ》がぜんぶ読まれちゃったみたいで」
「あれ、あんたのオリジナル曲?」
「ええ、あれだけなの」
「どうして、プロレス技の名前なんかつける気になったの。それも、そのときそのときで違う名前だろ」
「曲は作ったんだけど、どうしてもタイトルが浮ばなかったの」
「それで、面倒くさくなって……」
「そう、こうなったらプロレスの技を次々とつけていこうと思ってね、どうせみんなには分りっこないし」
「だけど、デッドリー・ドライブなんて技の名前を浮べるところをみると、相当くわしいんだね、プロレス」
「まあね。でも、あたしはデッドリー・ドライブって技、ほんとはきらいなの」
「大袈裟な技だよね」
「やっぱり、基本はボディ・スラムでしょ」
「デッドリー・ドライブは、ボディ・スラムのバリエーションだからね」
「ただ派手なだけで、嘘くさいのよね」
「嘘くさくてもさ、凄きゃいいんだけど……」
「嘘くさくて凄味がない、これは最低よね」
「しかし、くわしいんだねえ」
「くわしいっていうより、好きなのね」
「いちばん好きなプロレスラーは?」
「もちろん、クレイジー・タイガー」
「それはまた偶然だ」
「あなたも!」
香川と今日子はハイボールのグラスを合わせて乾杯した。この出会いはプロレス的でいかしてる……香川は、かるく今日子の肩に手を触れた。すると、今日子はゆっくりと体の重みを香川にあずけてきた。今日子の髪の毛からたちのぼるヘヤ・スプレーの濃い匂いが、香川の鼻を強く刺激した。暗い照明のなかでは、今夜の約束をかわした男女が、ラスト・オーダーのグラスをゆっくりと味わっていた。そして、香川と今日子は、そんなけしきのなかにすっかり溶け込んだ一対の男女となったのだった──。
リング上では、試合開始前から元チャンピオンをサーベルの柄で打ちのめそうというクレイジー・タイガーの姿が、炎のごとくゆらめいていた。
このシリーズの面目にかけてストロング・スタイルの正攻法でタイガーを打ち破り、その勢いで一気にアントニオ猪木の好敵手の座を手に入れようと目論《もくろ》む元チャンピオンは、タイガーの奇襲攻撃にそなえて身構えた。その眼光には、こんなインド人の三流レスラーになめられてたまるかという、本場アメリカでメイン・イベントを張っている一流プロレスラーの意地がただよっている。
クレイジー・タイガーは、若手レスラーたちにコーナーに押し込められ、口にサーベルをくわえてしごくと、片目をつぶるようにして唇をけいれんさせた。オレンジ色のターバンの端がタイガーの左頬に垂れ、助六のようなダンディズムをただよわせた。
(そう言えば、タイガーのターバンは、自らの熱を冷ますための頭痛鉢巻きみたいなところがあるな……)
香川は、クレイジー・タイガーと花川戸助六をむすびつけて悦に入った。それにしても、タイガーの唇のけいれんは、プロレスラーの悪役のポーズだけとは思えない……彼は、いつもそう思ってリングを見あげるのだ。
クレイジー・タイガーというプロレスラーは日本でのみ花ひらく毒の花である。プロレスの本場といわれるアメリカでは、タイガーには三流、四流のランクしかつかないということだ。それは、アメリカのプロレス・プロモーターが求めるプロレスを、タイガーがやらないためだと言われている。それがどのようなことを意味するのかは理解できないが、タイガーが日本のマットで開花したのは事実なのだ。
タイガーは、アントニオ猪木との数年にわたる抗争で独特のプロレスを展開してきた。それは、いわば暗黙の了解を破り続けるプロレスだった。プロレスをつつんでいる暗黙の了解という安全弁を、タイガーは次々と破壊していったのである。それは、一九七〇年以降にくりひろげられた過激派と呼ばれる存在の行動とも時を一にし、どこかでそれと呼応する気分をはらむプロレスであったような気がする。タイガーの過激派的プロレスを、アントニオ猪木は受けて立ち、それが呼び物になって、両者は他のプロレスと一線を画し、観客に対するアジテーションをエスカレートさせていった。
暗黙の了解を破るプロレスは、タイガーというマイナーなレスラーのデビューにとって起死回生のプランであった。ところが、タイガーのマットには、いつも暗黙の了解を破るプロレスが期待され、しかもその期待は刻々とエスカレートしていった。タイガーとの抗争で、アントニオ猪木の肉体にもダメージが蓄積されていったが、それはタイガーにとっても同じことだった。
そんなことを私が感じ始めたころから、タイガーの唇のけいれんが奇妙に変化しはじめたのだ。アメリカの悪役レスラーの典型的な表情をつくっているというより、肉体の内部から突きあげられているようなけいれんだった。片目をつぶって見得を切って見せるときも、頬の筋肉が異常に引きつって見えることが多くなった。
(興奮剤《ドープ》かな……)
香川はそう思った。自分の過激な役割を演じきろうというストイックさが、肉体や気力の衰えをカバーするために薬の助けを借りる……それはありうることだと思ったのだ。だが、今日子はそういう香川の考えをキッパリと否定した。
「そんなことしたら、その日はいいかもしれないけれど、何年ももつはずないわよ」
今日子は、香川の浅はかな想像を蔑《さげす》む表情をつくり、唇を噛んで目をそらしていた。たかだかひとりのプロレスラーのはなしに、彼女はなぜこんな顔をつくるのだろう……彼は、自分のことをタナにあげて苦笑したものだった。それにしても、タイガーの唇のけいれんの変化は、香川の心のなかに謎のまま沈んでいるのである。
レフェリーが、元チャンピオンとタイガーを両コーナーに分け、ボディ・チェックを始めた。若手レスラーはすべてリング下へ降り、リングの上の三人だけが、煌々たるライトに照らし出された。レフェリーは、まず元チャンピオンに近寄り、草色のトランクスとシューズをチェックした。元チャンピオンは、相手のボディ・チェックのあいだに奇襲をかけるタイガーの常套手段にそなえ、油断のない構えをくずさない。次にレフェリーは、タイガーのボディ・チェックに先だってまずサーベルを自分にわたすよう警告した。タイガーがそれを拒否して元チャンピオンに向おうとすると、レフェリーはすばやく反則カウントを数え始めた。このシリーズはいつものシリーズとはちがうんだ……そんな主張がレフェリーのヒステリックなポーズから観客に伝わった。
茫然とした面もちのタイガーは、仕方なくサーベルをレフェリーにわたし、素直にボディ・チェックを受けた。そうしながらも、タイガーの目は、レフェリーから若手レスラーヘと手わたされたサーベルがどの位置へ落ちついたかを見定めていた。おとなしくボディ・チェックを受け、レフェリーの肩に手をおいて左右の足を交互に上げるタイガーの姿に、ホーッというどよめきが起った。タイガーが意外にも紳士的にふるまっていることに対する観客の反応だった。
ゴングが鳴ってコーナーからはなれた二人のレスラーは、リングを半周しながら手を探り合った。タイガーは、アントニオ猪木との試合でも、時おりこんなシリアスなシーンを演じることがあった。それは、俺はただの悪役じゃないというアピールとなり、インド・レスリングの基本を学んだというタイガーのプロレスの底辺を垣間見《かいまみ》せる効果を生んだ。
二人は互いに手を探り、つかんでは離して身構えた。足をマットに力強く踏んばり、腰を引きかげんに両手をさし出すシーンに、これから始まるドラマの序曲らしい雰囲気がただよった。タイガーは相手の首のうしろに手を当て、こねあげるようにしてロープに押しつけた。元チャンピオンは用心深く両手をあげ、レフェリーが両者のあいだに割って入りブレイクを告げた。こういう瞬間、キックやパンチを相手に叩き込み、早々と場外乱闘を展開してゆくのが、クレイジー・タイガー独特の試合はこびである。観客は、そんなシーンを期待してヒザを乗り出した。
ところが、タイガーはレフェリーの制止に従って両手を高々と上げ、リング中央にもどってしまったのだ。
観客はふたたびホーッという声をあげた。今度はやや驚きのニュアンスもただよったが、とりあえずクリーン・ファイトのシーンを見せたタイガーに拍手がおこった。こういうことも、アントニオ猪木との数年間にわたる抗争のなかにはいく度かあった。こんな場面を二、三度続け、相手の気勢をそいでから虎の牙をあらわす……これも、タイガー式プロレスのいくつかのパターンのひとつだった。
ふたたび組み合ったとき、元チャンピオンがタイガーの頬に平手打ちを放った。これは、ルー・テーズやアントニオ猪木がよく用いる心理的な出方で、平手打ちで頬を張られた相手の、屈辱感による取り乱しをねらうためだ。そのことによって、相手よりも自分が格上だということを表わす芝居気たっぷりの対し方で、アメリカでメイン・イベントをつとめる元チャンピオンのプライドがリング上にただよった。頬を張られてロープにもたれかかったタイガーは、きびしい目で元チャンピオンを睨みつけたが、そのままリングを半周してファイティング・ポーズをとった。観客は、元チャンピオンの貫禄十分な平手打ちに湧き、タイガーの不気味なクリーン・ファイトに感嘆の声をもらした。
試合は同じような展開のまま十五分を経過した。アントニオ猪木との試合でしばしば見せるタイガーのクリーン・ファイトは、時間にしてせいぜい十分足らずであった。そんなタイガーが執拗にクリーン・ファイトを続ける意味が香川には計りかねたが、香川は不思議なことに気づいたのだった。
クリーン・ファイトのレスリングを十五分続けたタイガーの肌には汗が光っていなかったが、元チャンピオンの背中や胸には大粒の汗が吹き出していたのだ。スタミナの消耗が一段と激しい十五分のクリーン・ファイトで引っぱられ、元チャンピオンはすっかりエネルギーをロスさせてしまったようだ。タイガーのストロング・スタイルの実力は、やはりかなりのものなのだろう……そう思いながら香川は、タイガーがそろそろ自分流のファイトを見せる潮どきだとばかり、大きく腕を組んで身を乗り出した。
タイガーがロープヘ飛んでタックルにいったのを、元チャンピオンは身をかわしざまうしろから抱きついてタイガーをロープに押しつけ、その反動を利用して| 回転エビ固め 《ローリング・クラツチ・ホールド》に入ると、タイガーは躯のバネを使って難なくこれをはねのけた。そして茫然とする元チャンピオンの腕をとってロープに飛ばし、はね返ってくるところへ完璧なコブラツイストをきめた。ロープをつかんで元チャンピオンがこれをのがれると、うしろから腕を腰に巻きつけてバック・ドロップを放った。後頭部を打った元チャンピオンは、完全に戦意を失った。相手を強引に引きずり起したタイガーは、今度は両腕をきめてのフロント・スープレックスをくり出し、次にブレーン・バスターまで決めて元チャンピオンをノック・アウトしてしまった。
タイガーは、相手の技にいっさいつき合うことをせず、元チャンピオンの存在を完封してしまったのだ。そして、その上へおおいかぶさってフォールの体勢に入った。レフェリーがカウントを数える位置をとろうとしたとき、タイガーはフォールの体勢を解いて半身を起し片膝を立てた。
タイガーの目に例の妖しい光が漲《みなぎ》った。この目に接すると、今日子の躯に何かが生じるのだった。今日子は、たしかにタイガーのあの目に惹かれている。暗黙の了解を破り続けることを自らに課したクレイジー・タイガーがあの目を見せるとき、またひとつ暗黙の了解を破ろうとしている気配が放たれる。そして、今日子の躯に埋め込まれた何かが、その気配に呼応して解凍されてゆくようなのだ。
「あたしね、亭主のこと、殺してやりたいと思うことがあるの……」
「そんなこと、女房と名のつく女は誰だって思ってるんじゃないか」
「むこうは絶対に殺されないって思ってるのよね」
「殺しちゃおしまいだよ、それはプロレスと同じさ」
「でも、クレイジー・タイガーのようなやり方だってあるのよね」
「亭主に対して暗黙の了解を破ることをしでかすのか……、ま、せいぜい浮気だな」
そう言って今日子の裸の背中に指を一直線に走らせると、今日子はヒッと声をあげてベッドのなかで反転し、じっと香川の目を見つめた。その目には、リング上のクレイジー・タイガーが放つ、あの妖しい光がにじんでいた。
タイガーは仰向けに倒れた元チャンピオンの片足をもちあげると、あっという間に四の字固めを決めてしまった。四の字固めこそ、元チャンピオンがこの「ストロング・シリーズ」で鮮やかに披露すべき必殺技なのだ。元チャンピオンが開幕戦でアピールすべきすべてを奪ってしまったタイガーは、元チャンピオンがギブ・アップを告げたことを確認すると、四の字固めを解いてリングに仁王立ちになった。そして、すばやくリング下からサーベルを持ち出し、倒れている元チャンピオンの額にサーベルの柄を打ちつけて流血させ、ペッと唾を吐いてマイクをとった。何やらわめくタイガーの英語は理解できなかったが、「バイオレンス」という言葉だけが聞きとれた。
ストロング派の代表といわれる元チャンピオンを、ストロング・ファイトで妥協なく攻めぬき、相手の得意技でギブ・アップを奪ってしまったタイガーの試合に、場内の観客は騒然となった。タイガーは、このシリーズの目玉商品たる元チャンピオンの、商品価値を開幕戦で消してしまったのだ。こんなことがプロレスのなかで許されるのだろうかという疑問が、タイガーの試合の凄まじさに加えて、観客の頭にのしかかっているようだった。
若手のレスラーたちが元チャンピオンを担架にのせて| 控 室 《ドレツシング・ルーム》へ消えていった。それと入れかわるようにしてメイン・イベントのタッグ戦に登場するアントニオ猪木が、緋《ひ》の地に闘魂と染めぬいたガウンを着てやってきた。リング上でマイクを持つタイガーの姿に一瞥をくれたアントニオ猪木は、リング下で関係者の耳打ちを聞いている。タイガーは、さかんに「バイオレンス」を叫び、マイクをアントニオ猪木に向って投げつけると、サーベルを口にくわえ、片目をチカチカさせて唇をけいれんさせた。
観客は、我に返ったように歓声をあげ、クレイジー・タイガーのアピールに拍手をおくった。関係者が説明するまでもなく、タイガーの主張は、観客に受け入れられたというムードが生じた。もはや観客の関心は、こういうタイガーの主張をアントニオ猪木が受けるのかどうかに集中している。関係者との打ち合わせを終えたアントニオ猪木は、ガウンを着たままマイクを左手に持ち、ゆっくりとリングに登場した。
大歓声のなかで、左手にマイクを持ち右手でタイガーを指さしたアントニオ猪木は、聞きとりにくい声で叫んだ。
「タイガー、おまえは俺のリングを踏みにじったことを忘れるな。そのかわり、おまえの一番分りやすいように、どっちかが死ぬようなプロレスで受けてやる。本当のストロング・スタイルの恐さを見せてやる」
通訳からアントニオ猪木の言葉を聞いたタイガーが突進しようとするのを、若手レスラーが躯を張って押えた。「ストロング・シリーズ」の開幕戦は、アメリカのトップ・レスラーの犠牲を踏み台にして、最高潮に盛りあがってしまったのである。若手レスラーに取りかこまれてタイガーが退場すると、関係者がリングに上った。そして、このシリーズの名称を「ストロング・シリーズ」から「バイオレンス・シリーズ」と改名することを発表、シリーズ最終戦に予定されたアントニオ猪木対元世界チャンピオンの六〇分一本勝負というカードを、アントニオ猪木対クレイジー・タイガーの時間無制限のデスマッチに変更することを発表した。
クレイジー・タイガーは、こうやって自らの主役の地位を甦らせ、アントニオ猪木はそこまでのタイガーの執念に賭けてみる気になった。暗黙の了解を破るプロレスは次から次へとエスカレートしなければ期待に応えられない。それを最尖端で読んだアントニオ猪木とクレイジー・タイガーが、興行側のプラン変更まで余儀なくさせるドラマを作ったのかもしれない。そうなると、アントニオ猪木とクレイジー・タイガーという二人のプロレスラーの間には、暗黙の了解を破らなければならないという暗黙の了解が成り立っていることになる……香川は、今回のプロレス・ルポのテーマを、そこにしぼってみることに決めた。
クレイジー・タイガーのアジテーションによって、場内の空気は異常に盛りあがり、リング上の緊張がただよった──。
「MISTY なんかをちんたら弾いてる場合じゃないぜ。とにかく今夜のクレイジー・タイガーは凄かった……」
暗い照明のなかで、三回目の演奏タイムを終えてカウンターにいた今日子に、香川は得意げに声をかけた。
「そう……」
「元気ないみたいだね、せっかくのタイガーの試合の晩に仕事なんか入れるからだよ」
「あのね、いくらタイガーみたいにやっても、ぜんぜんこたえない相手っているのよね、殺さないかぎり」
「また、ダンナのことかい……」
「画鋲《がびよう》まいといたのよ、部屋中に」
「本当にやったのか、そんなこと」
「だって、あなたがやってみろって言ったんだもの」
亭主のことを愚痴る今日子に対して、たしかに香川はそんな意味のことを言ったおぼえがある。そんなに感受性がにぶいなら部屋の床に鋲でもまいてみればいい、それに気づいたらいくらにぶい男でも気持わるくなって別れてくれるさ……こんな言葉を実行してしまうところが、いかにも今日子らしいという気もする。だが香川は自分の言葉の通りにうごいてみせているという気分をつたえてくる今日子に、徐々に不気味なものを感じはじめた。本当に画鋲をまいたのかどうか……それを疑う気持もあったが、「あなたがやってみろって言ったんだもの」と言う今日子の目に、妖しい光がスタートしそうな気配があったからだ。
「でも、平気みたい、気にならないのね」
「踏んで痛いとかいうより、部屋に画鋲まくって感覚が恐いはずだけどね」
「それも平気みたい」
「平気で画鋲まくのも、恐いね」
「あたしって、そういうとこあるのよね」
「はじめは好きで結婚したんだろ、ダンナと」
「そう、はじめはね」
「で、いつから画鋲まくような気持になったんだ」
「急によ」
「急に……」
「あなたのせいかもね……」
「おいおい、クレイジー・タイガーのたたりじゃあるまいし」
「冗談よ……」
最後の演奏タイムの合図があり、今日子はカウンターを降りてピアノの方へ歩いていった。袖を通さずに羽織った白いジャケットが、今日子の背中でドスをきかせているようだった。今日子とつき合って何カ月たったか……。プロレス会場でクレイジー・タイガーの試合を見ている今日子、このバーでスタンダード・ジャズを弾いている今日子。それだけで今日子という女の輪郭を知るには十分だと香川は思っていた。だが、自分の亭主に不気味さを与えるために部屋中に画鋲をまく今日子をいったいどう考えたらいいのか、香川にはその答えは出なかった。暗黙の了解を破ることにあれほど惹かれる今日子の細胞は、自分の知らないずっと前からつくられているものにちがいない。香川はそう思い決めてタバコを取り出し、今日子が置き忘れたマッチで火をつけた。今日子が強くにぎりしめていたためか火のつきがわるく、いきおいのわるい炎が立ちのぼった。
(きょうこ……)
呟きをかすかな声で口から出してしまった香川は、突然、今日子と狂虎の発音が同じであったことに気づいて苦笑いし、唇をゆがめたままピアノを弾き始めた今日子に目を投げた。
暗い照明のなかで、女を漁《あさ》る外人観光客と、それを相手に商売をするジャパニーズ・ガールが、嬌声をあげながらジョークを飛ばしあっている。胸に名札をつけたままの大男たちが、香川の横をすり抜けて、今日子が弾いているピアノの周囲の椅子に坐った。躯の線のくずれを強調するようなドレスに身を包んだ中年の外人女が、どやどやと入ってきて大声でボーイを呼び席をつくるよう命じた。安っぽい気取りをあらわしたボーイが、二つのテーブルを寄せながら、ちょっと今日子の方を気にした。すべてのけしきがアフター・アーズを弾く今日子のカクテル・ピアノを無視している。
香川は、ハイボールのグラスを宙に浮かせて今日子に合図した。それに向けてウインクを返した今日子は、ベースに合図した。ベースのソロがピアノにかぶさり、いつものオリジナル曲がはじまった。今日子は曲のタイトルを言わずに弾きはじめたが、今夜はどんなタイトルを頭に浮べているのだろう。
(今夜のタイトルは、クレイジー・タイガー……)
カウンターで足を組みかえた香川は、グラスを宙でゆらし氷の音をたてた。そして、カウンターから身をずらして今日子の表情を窺った香川は、口にためていたハイボールを思わず飲み込んだ。ピアノを弾く今日子の目が、じっと自分に向けられていたのだ。今日子の目は妖しい光をおび、頬と唇が少しけいれんしているようだった。
徐々にひろがってくるハイボールの酔いに身をゆだねた香川は、クレイジー・タイガーになるけはいの今日子から目をそらすチャンスを、弱々しくはかっていた。
[#改ページ]
奈落の案内人
「あとで、奈落へ案内してあげるよ」
竹林さんは、そんなことを言いながら筋書に目を通し、この世界の常連らしい顔つきになった。柚木は、竹林さんの流儀で進んでゆく時間を楽しむことにはしていたものの、あまりにも芝居がかったやり方にそろそろ苛立ちはじめていた。
演《だ》し物は「伽羅先代萩《めいぼくせんだいはぎ》」、次は竹林さんお目当ての「床下の場」だ。歌舞伎を見る習慣などもちあわせていない柚木は退屈であろうが何であろうが、とりあえずこの通し狂言をじっくり見てやろうとして歌舞伎座へやってきたのだった。だが、そういう柚木の計画は竹林さんによって次々とこわされていった。
竹林さんは、「床下の場」だけが目的であるらしいが、それをこっちにまで押しつけるのは迷惑だ……柚木は、竹林さんの読んでいる筋書に描いてある仁木弾正が巻物をくわえて印をむすんでいる図をちらりとのぞきこんだ。このあと巻物をふところへおさめ、長袴を引きながら揚幕へとゆっくり引っ込んでゆく仁木弾正。竹林さんはこのシーンなら何度見ても飽きないと溜息をついていた。
(だけど、そんなことは竹林さんの勝手だ、こっちの都合だって考えてくれなくちゃ……)
柚木は、苦々しい表情で腕時計をながめ、新しいタバコを取り出してくわえると、やや乱暴な仕種でライターをつけた。さっき食べたカレーライスが、胃の腑から遡《さかのぼ》ってくるような感じがして、柚木は思わず拳を口ヘもっていった。
「幕間《まくあい》に食事をするから、食ってこなくて大丈夫だよ」
竹林さんにそう言われたので、柚木は朝食のあと何も腹に入れずにやってきたのだった。四時半開演というのは、食事を考えると中途半端な時間だ。幕間の食堂を予約したようでもなく、どうするのかと思っていると、竹林さんは幕の途中に柚木の脇腹を肘で突いた。
「ちょっと、出よう」
何事かと立上ってロビーヘ出ると、竹林さんはうしろも見ずに階段をのぼってゆく。あわてて蹤《つ》いてゆくと、竹林さんは三階まで上り、廊下を足早やにあるいてコーヒー・ショップヘ入った。
廊下から一段さがったようになったそのコーヒー・ショップは、一般の客にはちょっと気づかれないような場所にあった。また、たとえ気づいたとしても入りにくいようなけはいが店そのものにあった。初老のマスターが無表情にコーヒーを入れ、木のカウンターは手入れがゆきとどいて光っている。テーブルの席が二つあり、奥の方で新聞を読んでいる肥満体の男は、ひと目で歌舞伎業界の何かをやっている人だと見てとれた。ツマ楊子で歯をそうじしながら、口の奥で何やら邦楽ふうのメロディをうなり、新聞の見出しをえらんでいる目くばりが芝居もどきだ、顔の色はライト灼けのような黒さ、夏ミカンの皮のような皮膚感をしていた。役者や地方《じかた》というのではなく、舞台へ出ない人種のたたずまいに思えた。
(照明係……いい線だな)
柚木は心の中でそんなことを呟いたが、上演中に照明係がこんなところにいていいのだろうか、いや親方ならばありうるかもしれないなどと思い巡らしていると、
「カレー、二つ」
竹林さんが注文した。その注文をくり返して確認したマスターのまなざしに、厳格そうな匂いがあった。この店は、コーヒーとカレーが中心、そしてウイスキーとビールがおいてあるらしい。カウンターのすみにいる二人連れの男は、ウイスキーのグラスをかたむけながら、ポスターがどうの文字がどうのというやりとりをしていた。
「こういうところでカレーを食うなんて、粋《いき》ですね……」
柚木がちょっと媚《こび》をうるふうに言うと、
「え? ああ、まあね」
竹林さんは気のない返事をして、目を宙にすえていた。朝めしから何も食べていない腹具合を思うと大盛と言ってみたかったが、竹林さんのしかめ面が頭に浮んで柚木は口をつぐんだ。
場内のスピーカーから、舞台上の鳴物やセリフが低い音量で聞えている。竹林さんはそれにしばし耳をかたむけ、
「まだ、大丈夫だ」
誰に言うともなく呟いた。竹林さんの最大の眼目は「床下」なのだが、それ以外にも気になる場面がいくつかあるらしく、スピーカーの音から舞台の進行の当りをつけているようだった。
カレーライスを食べて客席へもどり、しばらくすると、柚木は竹林さんにまた肘で脇腹を突かれた。
「ぼくは、見てますから……」
「もったいないよ時間が。退屈なんだから、ちょっと出よう」
「いや、ぼくは退屈してませんから……」
「だめだめ、ちょっと出よう」
さっきもどってきたばかりなのにまた出てゆくのを、不機嫌そうに足を引いて通した人にいちいち頭を下げ、二人は通路から外へ出た。舞台のあかりに照らされた客席の人々が、すべて自分たちを向いているように感じられ、柚木には非常口ヘ向う通路がやけにながく感じられた。柚木の前をゆく竹林さんは、そんなことはまったく意に介さないふうに、左肩をすこし下げた独特のうしろ姿で悠然とあるいていくのだった。
「ここにね、歌舞伎関係のレコードがあるんだよ」
二階の廊下の一画にレコードの売店があり、舞台録音やら三味線、鳴物などのレコードが各種ならんでいた。とくに積極的に売ろうという感じはなく、うす暗い照明のなかで無造作にレコードがならべられた様子は、小さな古本屋の店内のムードに似ていた。
竹林さんは、レコードを買う目的があるのではなかった。そのレコード売場が見えるソファに腰をうずめ、レコードの列をじっと見つめているだけなのだ。柚木も仕方なくその横に坐り、喫いたくもないタバコをくわえた。竹林さんにもタバコをすすめてみると、気のないふうに顔をそむけ、大きく息を吐いた。
こんなふうにして、何度も座席を立って出てゆく竹林さんにつき合って時間をすごすうち、ついに通し狂言も「床下の場」の前の場面、乳母の政岡の愁嘆場という見せ場まできてしまった。ところが、この「奥殿の場」がはじまっても、竹林さんは客席へ入っていこうとしないのだった。
「ここは有名なところなんでしょ」
「まあ、千松が鶴千代の身がわりになって悪人の仕込んだ毒マンジュウを食べる、それで鶴千代の命が助かってだね、政岡がわが子の死骸をかき抱いて、でかしゃったでかしゃったと泣き叫ぶ、これがまあ愁嘆場というわけだね」
「ちょっと見てみたいな」
「見たことないの、この場面」
「ええ」
「見ることないね、退屈だから」
「退屈ったって、竹林さんはいつも見て分ってるから退屈でしょうけど、おれは退屈かどうかも分んないんだから……」
「いや、退屈なんだよ、ぜったいに」
「そうかなあ……」
「それよりね、次の床下はすばらしい。これだけ見ればあとはいいよ」
「それじゃ、その時間に合わせてくればすむじゃないですか」
「そういうことも、よくやるさ」
「演劇担当としては、ちょっと偏見がありすぎるんじゃないかなあ、竹林さんは」
「おれ、偏見にみちた記事書いたことあるか」
「そう言えばねえ……」
「ないだろ、見るのと仕事とは別だよ」
竹林さんは、そう言って筋書を小脇にさし入れ、くわえタバコに火をつけた。
竹林さんと柚木は、ともに小さなスポーツ新聞社「スポーツ・レヴュー」につとめている。竹林さんは演劇担当だが、スポーツ欄にはさまれた芸能欄の、そのまた一画にある目立たない演劇時評が竹林さんの担当だ。その欄はとくに歌舞伎中心というのではなく、新劇、小劇場、商業演劇、寄席、そして宝塚までをふくむ、いわばステージ欄というところだ。竹林さんの時評は奇をてらったふうもなく、ある潮流を追うというのでもなく、個性のうすい欄となっていた。竹林さんに急に歌舞伎にさそわれて、その不思議な時の過し方に接しているうち、柚木の中で、
(竹林さんはなぜ、おれなんかを歌舞伎にさそったんだろう……)
という疑問が頭をもたげてきた。
柚木は、スポーツ担当といっても、去年から各種スポーツ欄の片すみに設けられた、「プロレス万華鏡《まんげきよう》」というコラムが主な受けもちだ。このところ、第何回目かの黄金時代をむかえたというプロレス・ブームに便乗し、ながいあいだ目をそむけてきたプロレスに関係する記事を、「スポーツ・レヴュー」でもスタートさせたのだった。社としては、単にブームに便乗しただけのプラン、いつブームが去って消えてもいいコラムということで、チェックはいっさいない。もっとも、プロレスの記事にチェックを加えようとしても、イメージもなく実態も知らないデスクには介入のしようもないのだ。柚木は、好きなときにプロレス会場をおとずれて、自分好みの記事を書きつづけている。これは、竹林さんが演劇欄を書く態度とは正反対といってよかった。
「そろそろ、入りましょうか……」
柚木は、それにしてものんびりと時をやりすごしすぎている竹林さんに、すこし強い調子で言ってみた。だが、竹林さんは、
「まだまだ」
かえって胸を反って落ちつきをあらわし、貸オペラグラスをならべたコーナーの脇にあるソファに、深々と腰をうずめてしまった。そして、柚木にも坐れというふうに、二度三度指でよこを示した。
「あの、仁木弾正って役は不思議な役でね」
柚木がしぶしぶよこへ坐ると、竹林は淡々として喋りはじめた。目を半眼にみひらいて宙を見すえ、うすくひらいた唇からしぼり出すような声が発せられた。柚木は、相槌を打つというでもなくうなずき、取り出したタバコをくわえ歯でかむようにしてもてあそんだ。
「花道の七三《しちさん》て、あるだろ」
「七三……」
「舞台から三分、揚幕から七分といったあたりを、七三っていうんだよ」
「ああ、よく役者が見得を切るところですね」
「そう、あそこへくると役と役者が入りまじる、つまり虚実が一緒になるんだね」
「はあ」
「舞台から走ってきても、あの七三にさしかかると、まるで何かに蹴つまずいたようになって止ってだね、パッと見得を切るわけだ。するとお客さんが掛け声と大拍手……お客さんは役者に向って掛け声をかけてるんだよね、何々屋! って。だけど、役の見得と役者としての見得の両方を受けとってるわけさ」
「それ、竹林さんの考えでしょ」
「いや、これは常識だよ、ま、おれ好みではあるけどね」
「竹林さん好みですね、たしかに」
「だけどさ、あの花道の七三で、どうして蹴つまずくようになって止るのかね……」
「それは、そういう形式になってるからでしょう」
「だから、どうしてそういう形式が生れたのか……」
「知りませんよ、ぼくは」
「逢魔《おうま》ヶ辻なんだね、あそこは」
「……」
「魔に出逢う場所さ」
「魔に出逢う」
「あそこに、スッポンがあるだろ」
「スッポン……」
「セリ上りの穴」
「はあ、あれをスッポンて言うんですか」
「丸い穴から人が出たり入ったりする感じが、スッポンの首に似てるってことじゃないのかな」
「それも、竹林さんの好みですか」
「そう、好みで、しかも常識だね。あのスッポンは、人間が湧いて出たり、急に消えたりするところだからね」
「なるほど……」
「人の出没が約束されている場所だな。それをまた、見る方も納得している」
「それが、歌舞伎の様式美なんでしょ」
「様式美とか何とかより、逢魔ヶ辻さ」
「逢魔ヶ辻か……」
竹林さんは、こんな話をころがしたあと、そのスッポンから湧いて出て、舞台へ向わず揚幕へ向ってゆく仁木弾正について解説した。舞台でも客席でもない花道という不思議な通路、その花道の七三にあるスッポンから湧いて出て舞台にいる荒獅子男之助に小柄《こづか》を放ち、舞台を睨んだあげく、揚幕へ向って長袴を引いて悠然と去ってゆくダンディズム……あきらかに好みでしかありえない味わい方を、竹林さんは身ぶり手ぶりをまじえながら、熱気をこめて喋った。
竹林さんの言葉を聞いているうち、柚木の目の裡にある記憶がよみがえった。それは、竹林さんからくり返し仁木弾正についてのイメージが語られるまで、柚木の躯からすっかり消えていた記憶だった。
中学一年生のとき、柚木は静岡の公会堂で歌舞伎を見たことがあった。クラスにやたらと古風な趣味をもっている友だちがいて、その友だちと仲良くなった柚木も、かなりの影響を受けた。学校の帰りに露店の古道具屋の前へしゃがみ込むのを日課にして、寛永通宝や文久永宝の裏の摸様のちがいを検討したり、日曜日ともなればボートで駿府城の外堀の石垣を調べた。駿府城は家康の隠居城であったため、全国の大名から石垣にする大石が寄進されたと言い、その大石には大名の紋所が刻まれていた。ボートに乗って紋所のついた石を見つけると、墨をぬって拓本をとる。それで何をするというわけではなかったが、クリスチャン大名らしい刻印を見つけたときなどは、友だちとふたり顔を見合わせ、中学生にしては含みのある目をつくったものだった。
そんな矢先、公会堂へ歌舞伎がかかるというのだから、友だちと柚木は喜んで出かけていった。
演し物は、最初に「寺子屋」、次が踊り、そして最後が「先代萩」の中の「奥殿」と「床下」だった。しかし、「床下」の仁木弾正はスッポンからセリ上ることができなかった。静岡の公会堂はもちろん歌舞伎の常打劇場ではないから、スッポンどころか花道だってなかったのだ。
そこで、仁木弾正が出るときは、いったん場内のライトを消して真っ暗闇とし、あかりがついたときには巻物をくわえた弾正が立っているというやり方になった。男之助に小柄を打って巻物をふところへしまったあと、弾正は大きく目をむいて見得を切る、そしてライトが徐々に暗くなってふたたび闇になるという演出だった。
本当はどういうものかも知らずに見ていた中学生の柚木にとって、公会堂の仁木弾正と本物の仁木弾正がどうちがうかなど、もちろん分りようがない。ともかく、あのとき見た舞台の記憶は、柚木の躯からぬけきっていたのである。
(そういえば、おれも古臭い子供だったっけ……)
公会堂の仁木弾正の記憶がよみがえると、柚木の頭にはそんな感慨もわいてきた。故郷をはなれてどれほどの月日が経ったか、自分がどんな子供であったかなどに、柚木はついぞ思いを向けることがなかった。とにかく、あんな古臭い子供をかこんでいた環境は、すべてこの世から消え去って久しいのだった──。
「さて、そろそろかな……」
竹林さんの声が耳のまぢかでひびき、柚木はあわてて腰を浮かせた。
座席へ向う扉とちがう方向へあるく竹林さんをいぶかりながらもあとを追うと、心得顔でふり返った竹林さんが、
「花道の近くで、立って見よう」
柚木に目くばせして言った。
「あや、しーやなあ」
扉を入ると、床下の舞台中央にネズミを踏まえてセリ上った男之助が、唇をぷるぷるとふるわせる独特の大音声をはりあげたところだった。柚木にはそれが、「あや、ぴーやなあ」と聞えたが、竹林さんの時のはかり方の正確さに今さらながらおどろいて、花道七三のあたりに目をはしらせた。
スッポンから煙が湧きあがり、仁木弾正が巻き物をくわえ印をむすんでセリ上ってきた。舞台に向って小柄を打つと男之助がこれを宙で受け、幕が閉った。幕外でゆっくりと巻物をふところへおさめた仁木弾正に、「たっぷり!」と声がかかった。もういちど舞台を見こんだ仁木弾正は、大きく躯を反らせて大見得を切り、花道へ一歩踏み出した。長袴の裾の花道を掃く音が効果をあげ、悠然と花道から揚幕へ一歩ずつ向う仁木弾正に、客席から掛け声と拍手が飛ぶ。竹林さんは、肩に力を入れ拳をにぎりしめて、目の前にやってきた仁木弾正を凝視していた──。
「さて、約束通り、奈落へ案内してあげよう」
ロビーにあふれる人混みを器用にぬいながら、竹林さんは柚木を廊下のすみへ連れて行った。「関係者以外立入厳禁」の札がかかった鉄の扉を、竹林さんはごく当り前といったふうに押しあけた。吸い込まれるように中へ入ると、ひんやりとした冷気が柚木の躯をつつみこんだ。
「ここが舞台の真下、つまり奈落だ」
竹林さんの声がしたが、暗闇に目が馴れないためか、その姿は柚木にはとらえられなかった。やがて目が馴れてくると、うす暗い奈落の風景の輪郭がぼんやりと見えてきた。
中央に巨大な滑車がよこたわっていて、幾重にも巻きつけられた太いワイヤーが、左右にある何かとつながっていた。
(これで、回り舞台を回すわけだな……)
そう思ってながめている柚木の前を、黒子《くろご》姿の若者がふたり、重そうな大道具をはこんで通りすぎた。黒い幕が幾重にも垂れさがり、その前にたたずむ黒子の姿はとらえにくい。道中駕籠が黒幕の前においてあり、そのわきに御用提灯がひとつ無造作にころがっている。道中駕籠の上に、誰がおき忘れたのか、ストローを突き刺したままの牛乳パックが、あやういバランスを保って乗っかっている。
釘を打ちつける音が止み、拍子木の音がひびき、鳴物が鳴った。舞台では、次の幕がはじまっているのだろう。向うの方に、女形が三人、出を待っているのか所在なげにたたずんでいる。舞台の袖でなく奈落に降りてきているところを見ると、まだ出番は先なのだろう。
「すみません……」
押し殺した声で言ったGパンの若者が、尻のポケットにさした金槌に片手を当てて、何かを探すふうに走っていった。そのため、駕籠の上にあった牛乳パックが床へ落ち、床に白い液体がながれた。
(こりゃあ、奈落の風景だ……)
そんなことを呟きながら、柚木は竹林さんを目でさがした。だが、竹林さんの姿はどこにもなかった。「関係者以外立入厳禁」のドアから、竹林さんは吸い込まれるようにして奈落へ入っていった。それにつづいたときひんやりとした冷気につつまれたのだが、その瞬間から柚木は竹林さんを見失っているような気がした。
奈落の中を、竹林さんをさがしあるいた柚木は、目の前に奇妙なものを見た。舞台上のあかりがすきまからもれ、それをたよりに柚木はその不思議なものをながめた。台のようなものが低い位置にすえられ、その下に機械が仕組んであるようだった。
(スッポン……)
柚木はそう呟いた。そして、これはたぶん当っているだろうと思った。竹林さんは、ここからセリ上り揚幕へと消えてゆく仁木弾正だけを見るために劇場へ足をはこんでいる……柚木は、竹林さんが逢魔ヶ辻と言ったスッポンの下に立っている自分を不思議に思った。さっき見た仁木弾正の引っ込み、中学生のときに見たあかりを暗くする演出で消える仁木弾正が浮び、それに左肩をやや下げてあるく竹林さんの独特のうしろ姿がかさなった。柚木の躯をもういちど、ひんやりとした冷気がつつんだ。
サーチライトが青コーナーの控え室にふられると、そこに短剣を口にくわえたアラビアの怪人が姿を見せるはずだった。しかし、アラビアの怪人は客席のドアを蹴破って現われた。
あわててふり向けられたサーチライトに照らし出されるアラビアの怪人の額には、流血を身上とするプロレスラー独特の傷が、たてに何本もはしっている。若手レスラーに先導されていったん花道にやってきたアラビアの怪人は、突然、踵を返して控室へ帰る仕種をしたかと思うと、そのまま観客席へなだれこんだ。観客は、期待していたシーンに大よろこび、嬌声をあげて逃げまどっては、ふたたびアラビアの怪人に近づいてゆく。ブラッシーの噛みつきを見たショックで死人が出た時代とはちがい、観客はプロレスの仕組みそのものを楽しんでいる。
アラビアの怪人は、四十代の後半というふれ込みだが、観客を蹴ちらしている表情から、すでに五十代の後半であろうと思われるおとろえが伝わってくる。口から火を吹いたり、試合前に神に祈りをささげるセレモニーをやったり、ショーマン派のレスラーとしては最古参のひとりだが、最近ではリング上での試合は五分もやったことがない。体力がおとろえたプロレスラーの苦肉の策、場外乱闘でお茶をにごす典型となりさがっている。
柚木は、記者席から身を乗り出して、観客席の真ん中にいるアラビアの怪人を見ていた。アラビアの怪人は、天井のライトをよけるように手をかざし、怯えの表情をつくっている。アラーの神の怒りにふれることを怯える、ここ何年もやりつづけているポーズだ。アラビアの怪人の黒いタイツには、アラビアを象徴するためかラクダのマークが白く浮き出ている。これは、倒れた相手に背中ごしに馬乗りになり、アゴを上に引き上げて背骨を痛めつける得意のキャメル・クラッチ、日本ではラクダ固めといわれる必殺ワザを表わしているのかもしれない。凶悪レスラーというイメージと、タイツに浮き出たのどかなラクダの図が不思議なコントラストをかもし出している。
アラビアの怪人は、今度は柚木のいる記者席へ向ってきた。柚木はとりあえず二、三列後方まで逃げたが、逃げおくれたひとりの記者がアラビアの怪人に手をつかまれ、何やらわめかれている。おれの記事をでかく扱え……たぶんそんなことを言っているにちがいなかった。やっと手を放されたその記者は、うす笑いを浮べ頭に手をやって、間のわるそうな顔をつくった。
アラビアの怪人は次に放送席をおそった。アナウンサーがもっていたマイクを奪ってどなりちらし、テーブルに短剣を突き立てて見せた。そんなことをされながらも、アナウンサーは実況をやめない。会場の中のすべての出来事が、プロレスの劇中劇のようになっていた。
そのとき、赤コーナーで待機していたアラビアの怪人の対戦相手である外人選手が、もう待ってはいられないとばかりにリング下へ降り、ものすごいいきおいでアラビアの怪人に突進していった。それを察したアラビアの怪人は、目の前の折り畳み式の椅子をたたんで構え、相手選手のアゴヘ打ち当てた。そして、かろうじて立ち上ってくるところへ、もういちど椅子をふりおろした。脳天を打ちすえられた相手は、大袈裟な身ぶりで泳ぐようにあるいたあげく観客席へ倒れ込んだ。
アラビアの怪人は、舌なめずりの表情をしたまま目をむき、反対側の観客席へ向っていった。
(やれやれ)
柚木は、アラビアの怪人のサービス精神にあきれ、メモ帳を確認して帰り仕度をはじめた。シリーズの開幕戦に、外人選手団の悪役の親分として、強烈なイメージをブラウン管にのこさなければという役割意識は、いかにもプロレスラーらしい神経の使い方だ。
アラビアの怪人は会場をひととおり荒し回り、若手レスラーに制されながら、花道から控室へと消えていった。リング上では、ただ椅子でなぐられただけの善玉外人選手が、コーナーのロープの上に立って叫んでいる。おれはかならずこのシリーズでアラビアの怪人をやっつけてやる……どうせそんな程度のセリフだろうと柚木は思った。
(老いたりとはいえ、アラビアの怪人を退治する役者としては、ちょっと無理のようだな)
柚木は、リング上の善玉外人に失望し、あんな程度のテクニシャンなら、まだ老いぼれ怪人の方がましだと思って舌打ちをした。そして、アラビアの怪人が消えた控室のドアヘ目をやったとき、
(アラビアの怪人は、仁木弾正だ……)
柚木はそう思った。アラビアの怪人は、客席のドアを蹴破って突然、出現した。そして本舞台であるリングヘは一度も上ることなく、すべての観客を巻き込んだあげく、花道から控室へと消えていったのだ。場外乱闘が得意であるプロレスラーは多いが、一度もリングヘ登場しなかったのは、アラビアの怪人にしても今日がはじめてのことだろう。
柚木は、メモ用紙に「仁木弾正」と書きつけた。明日のコラムはこれでいこう……柚木はすこしはずんだ気分になって、メモ用紙をポケットにしまい込んだ。
(竹林さんが消えて、三年目の夏か……)
柚木は、プロレス会場から出たとき、急にそんなことを思い出した。それはたぶん、アラビアの怪人から仁木弾正を連想したためだろう。竹林さんの蒸発のことを、柚木はとっくに忘れていたのだった。
歌舞伎座の奈落で消えた竹林さんが、まさかあのまま居なくなってしまおうとは思わなかった。翌日、竹林さんの奥さんから会社に電話があったときも、「奈落に消えるなんて、凝りすぎですよね」と柚木は冗談口をたたいていたくらいなのだ。ところが、竹林さんは正真正銘あのまま姿を消してしまったのだ。会社でも理由はつかめず、奥さんにも理解できない蒸発だった。柚木は最後に会った人間として、上司や奥さんにも色々とたずねられ、警察にも事情聴取をされたのだが、仁木弾正のことなどを喋っても、自分自身がこんぐらがってくるばかりだった。
最近流行の蒸発ということで、奥さんは一応捜索願いを出したが、三年の歳月が経っても見つからず、もはやかなりの落ちつきを取りもどしているらしい。柚木にとっては、あの日、なぜ竹林さんが自分を歌舞伎に誘ったのかさえ分らなかった。歌舞伎座での不思議な時間については、考えれば考えるほど混乱してしまう。しかし、三年という歳月は、柚木のそういう神経をも消してしまっていたのである。アラビアの怪人から竹林さんのことを思い浮べるという奇妙な顛末をなぞりながら、柚木は沈みかけた太陽に向って見得を切った。そして、今月はあれいらい久方ぶりに、歌舞伎座で「伽羅先代萩《めいぼくせんだいはぎ》」の通し狂言を出していることに思い当った。
スッポンからセリ上り、花道を悠然と去ってゆく仁木弾正のダンディズムは、三年前に竹林さんと見た通りだった。
(この場面のあと、廊下から鉄の扉を押して入ったんだった……)
柚木はそんな記憶を辿りながら、次の幕から大詰までを見終った。極悪人仁木弾正は、最後にはやはり鼠の術がきかなくなって、進退きわまってしまう。だが、そういう勧善懲悪の物語とは別に、仁木弾正という悪の艶が匂い立つ魅力というのは、竹林さんの言葉通りだった。これは、
「プロレスラーのトップは、悪役《ヒール》のトップのことだ」と豪語するアラビアの怪人の啖呵《たんか》ともかさなり、明日のコラムは気持よく書けそうだと柚木は思った。
(でも、おれも物好きだな……)
開幕戦が異例の午後三時開始であったため、プロレス会場を出たのが六時直前、真夏の太陽はまだ高かった。歌舞伎座へ着いたとき、場面は竹林さんが退屈だと言った「奥殿の場」の途中だった。アラビアの怪人が仁木弾正を、そして仁木弾正が竹林さんを思い起させたからといって、何もそのまま歌舞伎座へ足をはこぶことはなかったのだが……。
(おれも、退屈しているのかな……)
そんな気もした。好き勝手に書いていたはずのプロレスのコラムも、プロレス・ブームが三年たった今もつづいているためそのままつづいている。こうなってくるとコラムの書き方も投げやりとなり、そう言えば竹林さんが書いていた演劇時評と似たような趣きになっているかもしれないと柚木は思った。
あのとき竹林さんが歌舞伎へ誘ったのは、実際の思い入れと記事とはちがうものだということを教えようとしたためだろうか……そうも考えたが、その想像は竹林さんの個性に合っていないような気がした。
(とにかく、もう三年も前のことだ……)
歌舞伎座を出た柚木は、地下道をあるいて銀座四丁目方面へあるいて行った。
地下道が四丁目に近づくと、そこかしこにうずくまる浮浪者の姿が目立ってきた。ある者は正体を失ったように眠り、ある者はあるいてゆく人々を睨みつけ、ある者は目を半眼にみひらいて聖者のごとき貌をつくり、ある者は宙に目を泳がせて茫然と表情を止めている。一升瓶や幕の内弁当、それに缶詰などをひらいて、二、三人で宴会をやっているような連中もあった。
売店の女が眉を寄せて彼らをながめながら、新入りらしい女の子に何かを注意している。黄色とグリーンの組合わせのユニフォームが、艶のない肌と不釣合だ。売店でスポーツ新聞を買った男が、二面のプロレス記事をひらきながら赤電話に十円玉を入れ、ダイヤルを回すときに指の汚れに気づいて舌打ちをした。スポーツ新聞のインクのための汚れだった。そのよこの赤電話では、中年の女が子供に戸閉りの確認をしているらしく、疳だかい大声を発している。柚木は、寒々しい蛍光灯の光の下の地下道には、何があっても不自然でないように思ってそれらをながめていた。
三年前に見た歌舞伎座の奈落の風景が次々と柚木の目によみがえった。床に落ちた御用提灯、道中駕籠の上に危ういバランスを保つストローを突き刺したままの牛乳パック、出番を待つ女形の無表情、上の舞台の光を中途半端に受けたスッポンのセリ台、天井から幾重にも垂れさがっていた黒い幕……柚木は、それらをいちどきに思い起した。
(この地下道は、銀座の奈落だ……)
銀座四丁目という大舞台の下の、何があってもおかしくない奈落……そう思ってみると、柚木の目に地下道の風景は不思議な世界として映った。寒々しい蛍光灯のあかりは、あの幾重にも垂れさがった黒い幕のようなもの、奈落にふさわしい極め付の照明だ。こんな思い入れも、今日の奇妙な時間の推移が抱かせるのだろう……心の中でそう呟いた柚木のわきを、極端に太った中年の女が通りすぎていった。
夏の薄着が女の腹を際立たせ、ふくらはぎのうしろに浮いた青筋が、ゆるんだストッキングの上からも目立った。女は、ハンドバッグの中身を点検しながらあるいていたが、その中にあったポケット・ベルが急にけたたましい音をたてた。動顛した女は止め方が分らなくなったらしく、ベルはいつまでも鳴りつづけた。
女は、あまりの取り乱しのため、ハンドバッグからつかみ出したポケット・ベルを、掌の上でお手玉のようにしてから取り落してしまった。女の掌から落ちたポケット・ベルは、地下道の床をころがって、死体のように眠っているひとりの浮浪者の顔の近くで止った。肥った女の様子を見ていたサラリーマンが、あわててポケット・ベルをひろいあげ、ベルを止めて女にわたした。女は、浮浪者の目を覚ますことなく手にもどった安堵感で深呼吸をし、サラリーマンに向って何度も頭をさげた。サラリーマンはかるく手をふり、眠っている浮浪者をちょっと気にしてから立ち去った。肥った女は、ポケット・ベルをバッグにおさめ、段になった腹部とふくらはぎの青筋を目立たせながら、階段の方へ歩いていった。地下道にはもとの空気がもどり、蛍光灯が人々の姿を寒々しく染めていた。
柚木は、躯を硬直させて、眠っている浮浪者の顔を凝視していた。
(竹林さん……)
ポケット・ベルがまぢかで鳴っているのに、それを知らぬげに眠っているその男は、髪は伸び放題、顔の色が煤《くす》んでいて、無精ヒゲで表情がかくれている。ゴムゾウリをはいた足だけが奇妙に白く、膝をくの字にまげて眠る姿は、小さな子供のようにも見えた。だが、それはまぎれもなく、三年前に奈落から消えた竹林さんだった。
柚木の躯を、ひんやりとした冷気がつつんだ。天井のパイプから吹き出される冷房の風が、柚木の躯に向けられているためだった。柚木は、竹林さんに向ってあるこうとしたが、二、三歩行ったところで足を止めた。竹林さんの奥さんの顔が浮び、会社の上司や同僚の反応、それに自分に対しての一ミリほどの疑いを消していないだろう刑事の目つきなどが、一瞬のうちに柚木の目のうらに点滅した。柚木の足は、なぜか釘づけになったようにうごかなかった。
竹林さんは、子供のような姿で眠りつづけている。その姿からは、あの左肩をさげた神経質な竹林さんのたたずまいは想像できなかった。竹林さんは竹林さんなりの事情があったのかもしれないが、もしかしたら、蒸発の理由は竹林さん自身にもつかめていないのではないか……膝をくの字にまげて眠りつづける竹林さんの子供のような姿をながめているうち、柚木はそんなふうに感じはじめた。
柚木は躯に力を入れなおし、ゆっくりとあるきはじめた。竹林さんのそばを通りすぎるとき、天井からの冷気がもう一度、柚木の躯をひんやりとつつんだ。柚木は、真上から眠っている竹林さんをながめ、ゆっくりとはなれていった。竹林さんは、静かな寝息を立てているようにも見えたが、この世にない者のごとき表情をかためているようにも感じられた。柚木の頭に、スッポンからセリ上って舞台へ小柄を打ち、巻物をふところへおさめてからゆっくりと揚幕へ向う仁木弾正の姿が生じた。花道を掃く長袴の音が、シュッ、シュッと柚木の耳の奥でひびきつづけた。
地下道の蛍光灯が大きくまばたき、一瞬、闇の世界がおとずれた。人声がひびいたが、あかりはすぐに元にもどった。寒々しい蛍光灯が、地下道の風景に輪郭をつけている。柚木は、ちょっと竹林さんをふり返ってみた。だが、ヒザをくの字にまげて子供のように眠っていたはずの竹林さんの姿は、さっきの場所には見えなかった。ラッシュ時でもないのに、おびただしい人群れだった。竹林さんは、柚木の目から完全に消えてしまった。
(奈落で二度も見失うか……)
柚木の耳に、床下でネズミを踏んまえた荒獅子男之助の、唇をふるわせた「あや、しーやなあ」というセリフがひびいた。
柚木は、巻物をふところへおさめ、舞台を見込んだあと、大きく躯を反り返らせて見得を切った。そして、揚幕に向ってゆっくりとあるきはじめた。だが、どの方向へ進めば揚幕へ向うことになるのか……地下鉄のいくつもの出口が柚木の目を戸惑わせた。出口の階段をのぼれば、揚幕ではなく銀座四丁目という本舞台へ出てしまう。
地下道のけしきはすべて消え、天井から幾重にも垂れさがる黒幕におおわれた世界が見えてきた。うす暗い奈落の中で棒立ちになっている柚木の表情に、仁木弾正とアラビアの怪人が交叉しつづけた。
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ひとりぼっちのツアー
胸毛についた砂をはらいながら片手で女を抱きよせた男が、海水パンツからせり出した下腹をゆらしながら無表情にあるいてくる。男の腕に引きつけられた腰を器用にずらせてサンバのリズムをとり、女は唇にくわえたタバコを二本の指でいきおいよく抜き取った。女の唇から吐き出された烟《けむり》がトグロを巻いたが、すぐにつよい風にもっていかれた。
バスタオルを敷きブラジャーをはずした三人の娘が、腹ばいになって背中を灼きながら、ひとつのアイスクリームを順番になめている。右端の娘と真中がアイスクリームを取りあって躯をすこし起し、ふたりの乳房がバスタオルから浮きあがった。物売りの黒人が油断のならない顔つきで、売り声をあげながら人の躯をよけてゆっくりと遠ざかった。そんなことを意に介さないふうに、海岸で肌を灼く観光客はじっくりと自分の時間を味わっている。強い太陽の光が降りそそぎ、誰の肌も同じような色に見えた。
コパカバーナの浜辺……弓状にのびた全長五キロにおよぶ白い砂浜には、カーニバルのために世界中から押しよせた観光客がひしめいている。コパカバーナからイパネマ、レブロンとつづく海岸線は、世界一のリゾート地として折紙つきだ。
(そして、世界一の美女のあつまる海岸というわけだ……)
胸と腰を小さな布で覆っただけのブラジル美女を見つけようと思えば、何も首をうごかす必要はない。ただぼんやりと海の方を向いて腹ばいになっている私の目には、楽しげに行き来する世界一の美女たちが映りつづけているのだ。何人もの世界一の美女たち……それは私の実感だった。だが、その世界一の美女という存在の価値は、コパカバーナの海岸でそれをながめている私の目の中で小さくちぢんでいくようだった。
ブラジルの娘たちは、美女コンテストという観点でながめるならば、日本の女性からはねたましいほどの素材だろう。顔立ちは、日本のテレビタレントや歌手、またはファッションモデルのように派手やかで、明るい魅力を発散している。スタイルはといえば、脚のながい見事なプロポーションは文句のつけようがなく、そのくせ少女のごとき無邪気さがただよい、ハリウッド映画の極め付の女主人公の人を寄せつけない冷たさはない。つまり、綺麗で可愛いのだからこれ以上のことはないはずなのだが、私にはどうも踏みごたえのない印象しかないのだ。
それは、目の前にあらわれる娘たちが、すべて世界一の美女の資格をもっていることからくる不満かもしれない。つまり、個人個人の差というものが、私の目にはとらえられないのだ。顔立ちのバリエーションはたしかにあるのだろうが、それは網膜の中で持続しない、どれもこれもがブラジルの世界一の美女という像のなかに溶け込んでしまうのである。
(時差ボケがつづいているせいもあるな……)
私は、腕時計に目をやりながらそんなことを思った。ブラジルヘやってきて以来、朝の七時に目が覚めるという日々の連続、これは私にとって日本ではありえないことだった。それに、時計の針を気にするたびに、私は奇妙な気分につつまれた。いまブラジルは午後二時三十二分三十秒をすこし過ぎたところだが、日本では何時かと考えるのは簡単、午前二時三十二分三十秒をすこし過ぎたところである。それはつまり、時差が十二時間ということで当然なのだろうが、秒数までもおなじ昼と夜が逆さまということが変な気分を生じさせる。
(ま、地球の表と裏だからな……)
そう納得しようとするのだが、すとんと胸におさまらないのだ。「地球の上に朝がくる、その裏側は夜だろう」……子供のころよく耳にした川田晴久の、ギターをバックにした浪曲調の不思議な旋律が、日に何度も頭のかたすみに浮んできた。
地球の裏側ではおかしなことが起る……といえば、こうやってリオデジャネイロはコパカバーナの海岸で寝そべっていることになった顛末もそのひとつだった。
「二月の十七日にやってきて、突然、カーニバルを見たいって言ってもねえ」
サンパウロのホテルのロビーで、Mさんが表情をくもらせたのは無理もなかった。
リオのカーニバル見物にブラジルヘ行くという計画を話すと、東京の友人がMさんと連絡をとってくれた。あの男ならちゃんと世話してくれるはずだという友人の言葉通り、空港へ出迎え、ホテルの予約の確認などをMさんは手際よくやってくれた。ポルトガル語はオブリガードだけで右も左もわからない私は、寝不足顔でぼんやりとコンゴニアス空港に降り立ち、「ようこそ、ブラジルヘ」と声をかけて近づいたMさんの車に乗り、ホテルに入ってシャワーを浴びることができた。だが、十九日から二十三日までのリオのカーニバルを見るためにやって来たと言われ、さすがのMさんも唖然《あぜん》としたようだった。
リオのカーニバルといえば、世界中の観光客がねらいをつけ、半年も一年も前からホテルを予約、カーニバル会場の入場券を予約、ガイドを予約……というあんばいで、カーニバルの直前にサンパウロヘふらりとやってきて、「ちょっとカーニバルを見てみようと思って」などと口ばしられたら、Mさんが鼻白むのも当然だった。
それでもMさんは腰をあげた。そして、早くもあきらめ顔をしている私を尻目に、日系人の街リベルダーデの坂を几帳面な足どりで歩いて行った。私は、あわてて立ちあがり、肩に力を入れてMさんのあとを追った。
引ったくりが多くて犯罪は日常茶飯、車は乱暴で事故も見なれすぎた風景だからな……出発前の友人の忠告にしたがって、とくにブラジル旅行用に買った小型のショルダーバッグをしっかりと肘でおさえつけ、胸のポケットには強盗に出会ったときに渡すための五千クルゼイロを入れ、左右に十分に目を配りながらMさんのあとに蹤いてゆく私の姿は、他人の目からは滑稽なほどおどおどしていたにちがいなかった。
「Bグループならあいてます」
Mさんが飛び込んだのは、カーニバル・ツアーを企画している旅行社だった。「燈台もと暗しと言いますからね」Mさんはそう言ったが、こんな当り前の手段で突破口をひらこうとする彼の、オーソドックスすぎるやり方に少し落胆していると、旅行社の係員から意外な答えが返ってきたのだった。
「なぜ……」
Mさんの唇から驚嘆の声がもれた。
「いや、運がいいんですよ」
係員が軽口をたたくと、Mさんは唇をへの字にまげて不快げな顔をつくった。Mさんと係員とのそのあとのやりとりを聞いているうち、ツアーがなぜあいていたかの理由が、私にもつかめてきた。
リオのエスコーラ・デ・サンバの行進は、二十一日の日曜日が最高潮、Aグループはその日曜日をふくむ四日間のスケジュールだ。Bグループは二十二日の月曜日にエスコーラ・デ・サンバを見物するのだが、日曜日までとちがって二線級のチームの出場となる。しかも、二十四日の水曜日の夜にサンパウロヘ帰るという日程は、カーニバルあけの水曜日の正午から仕事がはじまるというサンパウロの人々には、どだい無理な企画だった。したがって、AグループとBグループのあいだにはかなりのメリットの差があり、Aグループは満員だが、Bグループにはまだあきがあったのである。
「つまり、企画の失敗だね」
Mさんのセリフに、今度は係員も弱々しくうなずいていた。だが、企画の失敗だろうが何だろうが、私にとっては好条件だ。Aグループのすぐれた行進にも興味はあったが、カーニバルがすすむにつれての狂騒ぶりも予想できるような気がした。二線級の方が、そういうハプニングの確率が高いようにも思えたのだった。
「ちょっと値切って、手を打ちますか」
Mさんのきわめてオーソドックスなやり方が功を奏し、私は悦に入ってうなずいた。
「二十二日十時三十分、コンゴニアス空港ポンテ・アエレア搭乗カウンター前に御集合下さい」
パンフレットの指定にしたがった私は、飛行場の待合室で旅行社の社員から一枚の搭乗券を受け取った。「御集合下さい」と書いてあるわりに、このロビーでリオ行きの飛行機を待っている人々は、ツアーのメンバーという感じがなかった。観光客ふうの人物は少なく、所用でリオヘ出かけるという趣きの人々が多かったのだ。だが、リオの空港に集合する人が多いのかもしれず、中途半端な気分をいだきながらも、私はリオ行きの飛行機へ乗り込んだのだった。
リオの空港へ着き待合室へ入ってゆくと、入口に立っていたサングラスの日系人女性が声をかけ、私の名前を確認した。
「どうぞ……」
不思議な感じにしわがれた声で私をうながしたその女性は、両肩を出したタンクトップスタイル、ショート・パンツにサンダルという出立ちだった。彼女は、空港の外に待っていた大型バスヘ私を案内した。バスヘ乗り込んでみると、座席にはひとりの姿も見当らなかった。
「みなさんは、どこに」
「みなさん……」
「ええ、ツアーの人たち」
「ツアーは、あなただけです」
「ぼくひとり、まさか……」
「わたし、マリアと申します、ツアーの担当です」
「はあ」
「これからホテルヘご案内して、ホテルの前のコパカバーナの海岸でも散歩されたあと、ゆっくりとカーニバル見物に出かけましょう」
「はあ」
私は、躯の底からこみあげてくる笑いをこらえることができなかった。最悪の条件をもったBグループには参加者がただひとり、カーニバルの直前になって飛び込んだ私ひとりだったのだ。ツアー会社は、Aグループが帰ったあと、私ひとりのために二台の大型バスを用意し、ホテルに二十室を確保し、そして私だけのためのガイドをつけたことになる。もし私が予約をキャンセルすれば、ツアー会社は大いによろこんだことだろう。
(これは、Mさんも想像できないことだな……)
ひとりぼっちのツアーに胸をふくらませた私は、バスの座席にふかく腰をうずめた。ツアー会社の女性は、ガラス戸で仕切られた運転席で何やら運転手と話していた。彼女がおれだけのためのガイドか……タンクトップからむき出しになった柔らかそうな女の肩が、逆光のなかで光って見えた。
地球の上に朝がくる、その裏側は夜だろう……またもや躯の奥に湧いて生じた浪曲調に、私は眉を寄せ唇をゆがめた。いつまでたってもなおらない時差ボケに、そろそろ私は苛立ちはじめていたのだ。
コパカバーナの海岸には、あいかわらず世界一の美女たちが行き来している。肥満体の金持ちや金をためた老夫婦が、まぶしいのか苦々しいのか、それとも笑っているのかよく分らない顔のゆがめ方をして、ゆっくりと私の視界をよこぎってゆく。油断のならない顔つきの物売りは寝そべった観光客の躯をよけて遠ざかり、すべての風景がさっきと少しも変っていなかった。
「灼けましたか」
不思議な感じにしわがれた声が上から降ってきた。マリアは、ビキニの水着姿になっていた。すでに泳いだあとなのか、髪の毛が濡れて肩に垂れ、肌には拭きのこした水が光っていた。
「自由行動なの、夕方まで」
「そう、だってお客さまは、あなただけですもの」
「そうか、監視するのはおれだけでいいんだもんな」
「そうよ、楽な役目よ」
「ああいう娘《こ》たち、日本人とちがってすごく開放的なんだってね」
私は胸の布をはずして腹ばいになっている三人の娘をアゴでしゃくって言った。アイスクリームがおわった三人は、ただじっとして背中を灼いていた。
「そうね、開放的でしょうね」
「だいたい、みんなそうなの」
「だいたいね」
「へえ、個人差ってのはないの」
「まあ、あるでしょうけど、だいたい開放的ね」
「こっちの日系人は、そうでもないの」
「たとえば、あたしみたいな女性のこと」
「いや、ふつうに言ってさ」
「だいたい、ブラジル人みたいに開放的じゃないわね」
「そうだろうな」
「でも、日系人でも、なかにはブラジル人のような人もいるわよ」
「きみは、どうなんだ」
「さあ……」
マリアは、両腕を組んで上に突きあげるような仕種をした。腕のつけ根にひっぱられた胸のふくらみが、奇妙なラインを描いたように見えた。マリアはあまり大柄ではなく、やや痩せ型で胸も小さかった。腰をつつんだ布に目をはしらせようとすると、マリアはそれに気づいたように躯の向きをかえた。リオヘ到着する早々、マリアとこんな時間をすごしていることを思うとおかしかった。マリアは、いわゆる身もちのいいタイプなのだろうが、日本の女とはやはり少しちがう、やはりブラジル的開放感のなかの日系人という感じだった。躯の向きをもとにもどしたマリアは目をつぶり、午後のまどろみに身をゆだねていた。私は、用心ぶかく半身を起し、マリアの腰をおおっている布に、もういちど目をはしらせた。
七五〇メートルのコースを、一組二千人ほどのサンバの行進がゆく。何箇所かのチェック・ポイントがあり、ファンタスティックな魅力度、全体のハーモニー、サンバの踊りの力量など、さまざまな秤にかけられて採点される。そして、カーニバルの翌日に優勝が発表されるのだが、そこまでがカーニバルだと言われているらしい。高い桟敷の見物席がサンバ行進のコースの両側にこしらえられ、そこに陣取った見物人は、行進に合わせて熱狂するわけである。
「すいてるみたいだから、だんだん前へ行っちゃいましょうよ」
マリアは、馴れた動作で次々と前の席へうつり、ついに前から二番目に二人分の空席を見つけて手で招いた。
「いいのかい、そういうの」
おびただしい死人が出るというリオのカーニバルにおびえていたからではないが、あまりに屈託のないマリアの様子に、私はちょっと心配したのだった。しかし考えてみれば、Aグループと同じ人数分の席は確保してあったはず、たった二人が前の席を取ったところでかまわないだろう……勝手な理屈を頭に、私はマリアにしたがって見やすい二番目の席にうつった。
一チームのサンバ行進は四十分くらいかかるだろうか、それが終って次のチームがスタートするまでにも、やはり四十分くらいのインターバルがある。その間の主役は、救急車のサイレンだった。
強盗、急性アルコール中毒、喧嘩、麻薬など、さまざまな理由で死者が続出するのがカーニバル。これが常識だとは聞いていたが、そういう噂を実証するかのようにサイレンを鳴らし、ヒステリックに行き交う救急車を見おろすうち、熱狂のうしろ側にある殺ばつたるけはいが、サンバのリズムに貼りついているような気がした。
エスコーラ・デ・サンバの行進と見物人のあいだには、奇妙に冷めた空気がただよっていることに私は気づいた。
(これは、二線級のせいかもしれない……)
そうも思ったが、そうでないような気もした。踊る阿呆に見る阿呆同じ阿呆ならというかたちで見物席が熱狂、それが習慣となれば、ある意味でカーニバルの礼儀のようになってしまう。パンフレットの歌詞が配られ、見物人は大声でそれぞれのチームの歌をうたって迎える。うたい踊りながら行進するチームと見物席がつくりあげるムードは、たしかにものすごい盛りあがりだ。だが、いったんその空気に馴れてしまうと、熱狂のなかに冷めた感じがただよってくる。熱狂が演出されている……それが見えるため、私の中に冷めたものが生じてしまうのかもしれなかった。
私は、むかし映画館で見たムービートン・ニュースのタイトル・バックを思い出した。あれはたしかリオのカーニバルのシーンだった。巨大な山車《だし》を飾る巨大な人形……白黒画面からはみ出してくるようなその熱気を、子供ごころには不気味さとして受けとっていたような気がする。あれには、貯えたエネルギーが一気に爆発する開放感が、画面からあふれて襲ってくるような不気味な圧迫感があった。灼熱の太陽は、白黒画面のなかのカーニバルの乱舞のけはいを、おどろおどろしい光と影が織り成す風景としてつくりあげていた。
(こんなに冷めてみえるのは、カーニバルの風化のせいなのか、それともおれが変ったのか……)
マリアは、カーニバルにそれほど浮かれているようでもなかったが、すぐ下へやってきて見物人にアピールするチームの面々には、律儀に拍手をおくっていた。
「この行進にはですね、いちおう決りがあるんですよ」
ガイドとしての役割を意識すると、マリアの言葉がていねいになるのはおかしかった。そういうときのマリアに、私はなぜか艶っぽいものを感じた。
「まあ、採点で優勝が決るんだから、ルールもあるんだろうねえ」
私が興味ある顔をつくると、マリアは宙をにらんで頭のなかを整理するふうに見せて、おもむろに説明をはじめた。
たとえば、ブラジルを発見したポルトガル人がまず上陸したバイヤ州をイメージする衣裳が必要だという決りがある。丸くひろがったスカートの衣裳をつけたオバサンの群れもかならずいなければならない、インディアンとポルトガル人の混血をあらわす半黒といわれるムラータの女性が、ビキニふうの衣裳で加わること、帽子をかぶり見物人に向って深々と礼をする高齢者も不可欠、山車は三台、行進の時間にも制限がある……マリアによればそういった程度の決りであるらしいが、この決りの中でテーマを演出し、衣裳を凝らし、全体のアンサンブルを工夫して勝負するらしい。
「でもね、決りを守らないチームもあるのよ」
「それはまた、どういうこと」
「今年の優勝はどこだというカーニバルの前評判が出るでしょ。で、優勝をあきらめたチームがどんちゃん騒ぎするわけよ、山車を十台も出したり、時間もオーバーしたりしてね」
「へえ、プロレスだね、それは」
「プロレス……」
「いや、ルールがあれば反則が生れるってことだけどね」
プロレスはマリアにはピンとこなかったらしいが、マリアはルールを破るチームのことを話すとき、目をかがやかせていた。
今年の優勝をあきらめたチームがルールを無視して派手にフィーバー、見物人と自分たちのあいだでの熱狂に終始する。ストーリーがあってテーマがあり、プランがからんで反則も生じる……とくに、反則負けという堂々たる世界が成り立つところはきわめてプロレス的だ。私ははじめて本格的に身をのり出してカーニバルのサンバ行進に神経を集中した。
するとやはり、山車を数多くくり出し、胸を丸出しにして踊り狂い、見物人を大よろこびさせることだけを目的としたようなサンバ隊があった。私は、立ちあがってそのチームにいつまでも拍手をおくった。全体の踊りはたしかに統一がとれていないようだったが、そんなことはどうでもいいと思った。気がつくと、坐っていたはずのマリアも立ちあがり、腰をふり拍手をしてそのチームを見おくっていた。
「すこしは観光コースヘ案内させてよ」
「観光はいいよ、ゆうべの反則のカーニバルを見ただけで十分だ」
「よっぽど気に入ったのね」
「そういうきみだって、けっこうよろこんでたじゃないか」
「まあね」
「やっぱり、観光案内しないと役目上まずいのかい」
「誰も見張ってるわけじゃないから、いいんだけど」
「じゃ、こうやってビールを飲んでりゃいいじゃないか」
「こまった観光客ね」
朝の五時までカーニバル会場にいた私とマリアは、午後の二時すぎまで眠ってしまった。それでもマリアは私より少し前に目が覚めたらしく、私を電話で起してくれた。私は時差ボケがこんな荒療法でなおるかどうか分らないが、朝の七時に目覚めていたブラジルでの私の時差ボケ現象は、カーニバルのために途切れたことになる。
「ねえ、コルコバードの丘だけでも行ってみない」
「コルコバード……」
リオ市内に突き出ているカリオカ山脈が、ロドリーゴ・デ・フレイタス湖近くで急に絶壁となって途切れる。コルコバードのキリスト像は、この標高七〇九メートルの切り立った絶壁の上に、一九三一年、ブラジル独立百年を記念して建てられた。八メートルの台座の上に、高さ三〇メートル、広げた腕の長さ二八メートル、重さ一一四五トンのキリスト像が立ち、湾の入口を見おろしている。像の中には十五人を収容できる礼拝堂がある。キリスト像の前にある展望台からは、リオの中心地区、グワナバラ湾のほぼ全景、リオ・ニテロイ大橋からニテロイ市、右手にはリゾートのコパカバーナ、イパネマ海岸、眼下にはロドリーゴ・デ・フレイタス湖と緑の芝生の競馬場など、リオの景観をあますところなく眺望できる。そして、夜景を楽しむ人々のため、夜間照明も設備されている。頂上までは、ふもとのコスモ・ベーリョ通りから、一八八二年以来の歴史をもつ登山電車で行くことができる……マリアは、観光ガイドとしてのセリフを暗誦するようにコルコバードを説明した。
「それで大体わかった、もう行く必要はないだろう」
「ほんとにあそこはステキなんだから、行きましょうよ」
「そんなに行ってもらいたけりゃ、断わることはできないだろうな」
「ほんとに、へんな観光客」
マリアは急に言葉を止めて、目を泳がせるようにした。私が観光ガイドをたのまなければ自由に時間をつかえばいいと思うのだが……。私は、唇をかんで目を宙に浮かしているマリアの、柔らかそうな肩にある小さなアザを見つけた。それに気づいたマリアが肩をすくめ私をのぞき見て、
「ヤケドのあとなの、小さいときの……」
小さい声ではずかしそうに言った。
コルコバードからの夜景は美しかったし、キリスト像がライトに照らし出されているのも思ったより嘘くさくなかった。マリアはリオに住んでいるらしいが、結婚しているのかはまだ聞いていなかった。
キリスト像からすこし降りたところに、ガーデンふうのレストランがあった。そこでビールでも飲もうと提案すると、マリアはにっこり笑ってうなずいた。
注文を取りにきた大柄の男に、私はビール、マリアはショップをたのんだ。ショップは日本の生ビールのようなものらしい。ビールとショップを持ってきた大柄の男は、こういう場所の男がかならずそうである蝶ネクタイ姿、エンジ色のタキシードに身をつつんでいた。男が立ち去ったとき、私は肘でマリアをつついた。
「あの男の指を見たかい」
「べつに……」
「おれね、あんなにでかい指、見たことがないよ」
「そうだったかしら……」
「今度きたら、見てごらん」
マリアは、となりの席ヘビールをはこんできた男の指を見て目を丸くし、私に向って大きくうなずいて見せた。はじめ私は、男が手袋をはめているのかと思ってながめたのだったが、掌も部厚く、生ビール用のジョッキがすっぽりとかくれるほどの大きさだった。
「へんなことに気づくのね」
マリアは、自分の掌を宙にかざし、五本の指を反らせた。そして、テーブルの上にワリカンの代金をおいた。マリアは、飲み物代ひとつ私に払わせることをせず、自分の代金だけはかならずテーブルにおくのだった。それはツアー会社の社員としてのマナーかと思ったが、そうではなかった。
「たまにはおごらせろよ」
「こっちではね、こうなの」
「おごられると、まずいのかい」
「そうね」
「どうして」
「その人におごられる関係ってことになるから」
「ほんとかね、それじゃ、まずおごってしまってから、おごる関係に入っていくって手もあるな」
「悪知恵ね」
「よし、いつかおごってやるからな」
登るときに中国人が撮していた私とマリアの写真が、登山電車の下の駅の外にある写真の掲示板の中にあった。さまざまな肌の観光客が群がっている掲示板から一枚をはがし、マリアは中国人に金をはらった。
「あの花は何て言う名前なの」
写真をはがした掲示板のうしろに、微妙な紫色をした花をつけた樹があった。ドライフラワーによくある紫色に似ていたが、サンパウロにもリオにもよく目立った。Mさんに聞いてみたが、「あれは誰でも知っていて、誰に聞いても名前の分らない花」という答えが返ってきた。
「クワレヅマ」
「クワレヅマ……」
「そう四カ月だけ咲くという意味の名前よ」
「クワレヅマか……、浮気をした女房って意味か」
「え」
「いや……」
クワレヅマを喰われ妻とかさねて覚えようとしたのを説明しようとしたが、私は言葉をにごした。そして、四カ月だけ咲くというのも喰われ妻らしいな……そんなことを心の中で呟きながら、マリアの肩に手をまわした。
タクシーが値段をふっかけたということで、ホテルの近くまでバスで帰ろうとマリアは提案した。バスに乗るのもおもしろい、これもひとりぼっちのツアーならではの体験と私は賛成した。バスには、コルコバード帰りのアメリカ人観光客が大勢いたが、駅をすぎるごとにブラジル人が乗り込んできて、街へ入るころには車内のムードがすっかり変っていた。
「どこで降りるの」
私が聞いてみると、ぼんやりしていたマリアは、あわてて男の車掌に何かを聞こうとした。そのとき、バスの中に緊張のけはいがはしり、わけの分らぬ人声とともに数人が格闘をはじめた。数人の怒鳴り声のあと、ひとりの男が腕をねじりあげられ、急停車したバスの外へ連れ出された。男のGパンの尻のポケットには血がにじんでいた。男は、四つほど前の駅から乗ってきた、屈託なさそうな青年だった。
(あの青年が何か……)
やがて警官がやってきて男を引き取り、腕をねじりあげていた男が手にもっていた何かを警官にわたした。警官がそれを宙にかざした。男が手わたした物は、切り取った二本の人間の指だった。二本の指にはそれぞれ指輪が光っていた。マリアが私の腕をつよくつかみ、私の肩に顔をうずめた。
指輪を目当ての強盗が、指輪がぬけないために指を切り取ってしまった……そういうことなのだろう。だが、その切り取った二本の指をGパンの尻のポケットに突っ込み、無造作にバスの吊革につかまっているという日常感覚は何だろう。私の目のうらに、またもやムービートン・ニュースのタイトル・バックに映し出された、白黒画面によるリオのカーニバルの不気味なシーンがよみがえった。そして、さっきガーデンふうのレストランで見た蝶ネクタイにタキシードの男の、異様に大きな指がそれにかさなった。
ゆうべのエスコーラ・デ・サンバの行進には、たしかに奇妙に冷めたものがあった。反則でフィーバーするサンバ行進を見て満足したものの、あれも、サンバのチームと見物人との双方が認め合ったルールの中での反則なのだ。そうやってルールにつつみこまれてゆく祭の無礼講が、演出されたサンバ行進の場からどこへ拡散してゆくかといえば、それはやはり巷という日常の中へだろう。
行進に参加できなかったサンバ隊が巷にくり込み、無銭飲食や暴行をはたらき、殺人、強盗、交通事故などによる数多くの死者の群れが、カーニバル会場の外側に築かれている。そして、毎年のおびただしい死者の数を確認しても、市民たちはさしたるおどろきをもってその数字に接することがないという。
さっき、男をとらえた男は、荷物はこびを手つだったという顔つきでもはや吊革につかまっている。乗客もすぐに平静にもどり、車掌はもとの位置にもどった。バスの外にドラム缶を打ち鳴らすような音がひびき、ひとつの店の前に群がってサンバを踊っている人々が見えた。すべての風景が日常にもどり、バスは何ごともなかったように走りつづけたが、マリアはしっかりと私の腕をつかみ、肩に顔をうずめたままだった。
「やっぱり、ああいう女の方が魅力的だな」
ホテルの前のガーデン・レストランでビールをのみながら、私はブラジル人にまじってサンバを踊っているアメリカ人らしい白人女を指した。マリアは、そっちをちょっと見てから目の前のショップを少しずつなめていた。
白人女は、ポニーテイルに髪を束ね、胸にリンゴのマークがついたTシャツスタイル、下はホット・パンツという出立ちだった。さっきからブラジル人の娘のまねをして、腰をこまかくふったり、脚をひろげてリンボー・ダンスのような恰好をしたりして、サンバの研究中というふうだった。
彼女は、私たちの二つとなりのテーブルに連れの男をおいたまま、いつまでもサンバを踊っている。連れの男は亭主なのだろうか、頭の天辺《てつぺん》が極端に禿げている五十くらいの年輩、無表情でビールを口にはこんでいるが、ときどき女の方を気にしている。女はサンバに興じながらタバコをくわえ、男の方へ向けて烟《けむり》をふっと吐き出し、白々しいウインクをおくる。男は唇だけで笑顔をつくり、周囲から女の踊りに向けられた拍手に苦りきっている。女がやっとテーブルにもどったので、躯を前へかたむけて何かを言おうとする男のポーズを置きざりにするように、女はビールをひと口あおっただけでまた踊りの中へ入ってしまった。いつもあいつはこうなんだ……苦々しく吐き捨てるような顔になった男は、生アクビをかみ殺しながらビールの代りを注文した。
(もう、二時すぎか……、すると日本では昼の二時すぎってことだな)
私は、映画のシーンを見るようにアメリカ人の男女の様子をながめて楽しんだ。こういう屈折した時間がブラジル人の世界一の美女たちからは立ちのぼらない……自分のブラジルの風景に対する不満は、そういうことではないのかと私は気づいた。しかし、あまりにも屈託なく、あまりにも明るすぎる世界一の美女たちに、私好みの|よじれ《ヽヽヽ》がないからと言って、それは彼女たちに不満として向けるのは筋ちがいだ。そんな堂々めぐりをもてあそんでいるうち、時間は午前二時をすぎてしまったというわけだ。だが、リオの人々も、世界中からあつまった観光客たちも、今夜は延々とカーニバルの最後を謳歌するつもりらしい。
「もう、ショップを飲むの、飽きたかい」
私が言葉をかけると、マリアは首をふって新しいジョッキを注文した。マリアの目もとが、ほんのりと赤みをおびていた。ボーイが持ってきたショップを、マリアがいきおいよくあおったとき、コパカバーナの海岸の物売りのように油断のならない顔をした小柄な老人が、何かをマリアに向って喋りながら、テーブルの上へ人形をおいた。それは長いピンクの羽のついた帽子をかぶり胸を大きくあけて裾が丸くひろがったスカートをはいた黒人女が、両手に大きなマラカスを持った人形だった。マラカスを持つ手首と足首から糸がのびて丸い棒につながっている。老人は、その棒を左右にひねった。すると人形は、私とマリアのテーブルの上で見事なサンバの踊りをはじめた。
マリアは老人に首をふって見せたが、私はこの幼稚な人形が気に入ってしまった。マリアに値段を聞くと、六百クルゼイロだという。六百クルゼイロは千円弱であり、面白い買物だと思った。マリアに金をわたし、
「ひとつ買ってくれ」
と言うと、マリアはあきれ顔をした。そして、老人に向って一応値切る交渉をしてみたが、老人は私が買う気のあることを見すかしていて応じない。私は、マリアをなだめて交渉を打ち切らせ、人形を手にとって老人の真似をして棒を左右にひねった。すると人形は、向うで踊っている集団のサンバのリズムに合わせ、器用に踊りはじめた。木でできた人形の靴がテーブルを打ち、心地よい音をひびかせた。
マリアは、人形をもてあそぶ私を、テーブルに頬杖をついて見ていた。そのマリアのノドのあたりが羽毛のようなもので撫でられた。二人組のオカマが肩を組んでテーブルのあいだを縫い、シナをつくってひょうきんに踊りながら、片方が首からぶら下げた箱に金を入れてもらっているのだった。男役と女役だが、女役の方はどう見ても不細工で、テーブルごとに失笑を買っていた。まったく動じないマリアを見て、「ふん」とすねるような仕種をすると、二人組のオカマは別のテーブルヘ移っていった。
「ブスのおかまだな」
「あれはね、わざとああいうふうにしてるのよ」
「というと……」
「本当は、男役やってた人が女役なの」
「ははあ、カーニバルの無礼講で、逆にして遊んでるのか」
「そう」
そうならば納得がいく組合わせだな……私は、二人組のオカマの踊りを遠目にながめてそう思った。そして、マリアの声が不思議なしわがれ声でなくなっているように感じたが、それは気のせいだった。マリアの声に、私の耳が馴れてしまったのだろう。
マリアは、サンバのリズムに合わせてジョッキを宙で揺らせ、タンクトップからはみ出した両肩を上下させている。アメリカ女はあいかわらず見事な踊りをつづけ、ブラジルの若者たちがタンバリンを叩きながら彼女に群がった。若者のひとりは、脚をひろげ腰をゆすって踊るアメリカ女の股間に、タンバリンをくぐらせた。このやり方を、私はゆうべのエスコーラ・デ・サンバの行進のさいにも、何度か目にしていた。周囲からはどよめきと拍手がおこり、アメリカ女は指にはさんだタバコを唇にもっていくと、大きく烟《けむり》を吐き出した。それをながめていたアメリカ女の連れの男は、テーブルにおいてあったビールを一気に飲み干し、こめかみに筋を浮かせた。
ガーデン・レストランの前には、次々とサンバ隊が集まってきた。それは、あっちこっちの町内の精鋭というふうで、衣裳を着こなし化粧をほどこしているものの、エスコーラ・デ・サンバに参加したチームのメンバーではなさそうだった。まわりを取りかこむ群衆も、それぞれにステップを踏み、嬌声と悲鳴が飛び交った。
さっきアメリカ女の股間にタンバリンをくぐらせた若者が、踊りながらアメリカ女のTシャツを脱がせようとした。アメリカ女は一瞬、連れの男をうかがうそぶりを見せたが、いきおいよくTシャツを首からぬき取って宙に投げた。それを受け取って鼻に押しつけた若者が、アメリカ女のうしろから両手をまわし、前で組んで自分に引きつけるようにした。アメリカ女の唇が少しひらき、乳首が尖った。連れの男は無表情にテーブルに両手をおき、その拳をにぎったりひらいたりしている。
店のうらで物の割れる音がひびき、男女のはげしい声がとどいてきて、やがて止んだ。群衆のなかを疾走してゆく黒い影を、もうひとつの影が追っていった。人々はそれを見おくりながらも、サンバのステップを止めなかった。ここには、エスコーラ・デ・サンバの行進にあった冷めたムードはない。すべての人々が、自分のルールであと数時間でおわるカーニバルを楽しんでいる。あちこちの木かげには二つの影がひとつになった形が見え、誰が何をしても、それはカーニバルの背景として似合っているように見えた。アメリカ女は、さっきの若者とともに踊りながら人混みに消えていったようだ。遠く近く、パトカーや救急車のサイレンが行き交っていた。
(クワレヅマか……)
カーニバルの無礼講がもうじき終ろうとしている。あしたから彼らは仕事がはじまり、私は五十人乗りのバスでサンパウロまで帰らなければならない。五十人乗りのバスをひとりじめにするのは悪くない、ひとりぼっちのツアーのフィナーレにはぴったりの演出だ……私は、ビールの酔いでままならない躯の重心をたてなおし、マリアの様子をうかがった。
マリアは、私が買った人形を器用にあやつり、人形はテーブルの上で見事なサンバを披露していた。私はゆっくりと指をさし出し、人形の股間をくぐらせようとした。すると、マリアの左手がナイフのように宙を掃き、私の指を切断するまねをした。私は人差指を折りまげて宙にかざした。マリアの側からは人差指が切れてなくなったように見えたはずだ。
マリアはちょっとおどろいたようだったが、すぐに気づいて笑った。マリアが声を出して笑ったのははじめてだった。私は、おもむろに立ちあがり、空のコップに突っ込んであった勘定書をつまむと、マリアを見すえて言った。
「今夜は、おごらせてもらうぜ」
マリアは私を見てすこし笑い、テーブルの上で人形にサンバを踊らせつづけた。ピンクの羽のついた帽子をかぶり胸を大きくあけて据が丸くひろがったスカートをはいた人形は、リンボー・ダンスのように徐々に脚をひらき、ふかく腰をしずめていった。
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あ と が き
プロレスとは虚実がよじれる境目を垣間見せるジャンルであり、これはもう実人生そのものに酷似した世界だ。
デスマッチと呼ばれる試合が、きょうもあすも展開している奇妙な時間が、嘘と本当が表裏一体となっているプロレスの匂いをかもし出す。相手の存在を完全に消滅させるのではなく、その価値を温存しながら進行する生殺しの死闘は、巷に交錯する男女関係や、会社における同僚との確執、またはベテランの夫婦の在り方によく似ているではないか。
また、プロレスが他の格闘技と袂を分かつ最大の特徴は、反則を許容するルールを設けている点だろう。プロレスは、|5《フアイブ》カウントまでの反則が認められている。たとえばノドを締めるというような反則をレフェリーが四つかぞえるまで続けてパッと手をはなし、ふたたび首を締めるというふうにすれば、反則は永遠につづけられるようにも思える。しかし、こんなことをいつまでもやっていれば試合は当然ダレるし、観客は次第に飽きてくるわけで、それを察知したレフェリーは、突然、反則負けを宣したりもする。
このような文学的なルールが、プロレス史的に言っていつ誰によって制定されたのか……それがまったく定かでないところが実に心強く、これこそプロレスのプロレスたる凄味であると私は思っております。で、そんな反則を五つまで許容する苦渋にみちたルールによって進行しているのが、われわれの実人生ではないだろうか。突然、反則負けを宣せられてキョトンとするケースは、記憶をたどれば枚挙にいとまがない。そして、自分の犯した反則の数もまた、枚挙にいとまがないといったあんばいだ。
そんな感覚で、プロレスと実人生を合わせ鏡にして小説を書いてみたいという気持は、いつの日からか私の心に芽生え、今もつづいている。そんな気分で小説を書いてみると、プロレスを見物することと実人生を見物することとは、酷似しているどころかまったく同じではないかという気さえする。そういう意味では、この小説集は、私自身をリングサイドにおいた、六つの実人生観戦記のような趣きもあるかもしれない。
第二次大戦後、アメリカ本土とハワイに出現した日系悪役レスラーの存在は、単にプロレスにとどまらず、日本人のタチというものを考える上で不思議なキーワードだ。
|真 珠 湾 奇襲攻撃《パール・ハーバー・スニーク・アタツク》をイメージする卑怯なジャップ像を、スパイ視されたり、その反発でヨーロッパ戦線では外人部隊として日本風の特攻精神で異常なほどの活躍をしたという日系二世の複雑な感性が、リングに毒の花として咲いた日系悪役レスラーの存在から透し見えるのだ。ハワイに取材した「七人のトーゴー」は、突っ込めば突っ込むほど大きな靄の中へ吸い込まれてゆくような、そんな気分を抱きながら書きすすめた。
また、日系悪役レスラーの肉体をカタにして居直った役づくりには、さまざまな格闘ジャンルからドロップ・アウトした人々によって成り立ってきたプロレスのもっている、悲痛にして凄味ある時間も投影されているのであり、これは単なる昔ばなしのレベルを越えた世界だという気がする。これを書いているとき、ハロルド坂田がホノルルでガンのため死去した。享年六十二……これで、戦後アメリカ・マットを震憾させたトーゴー・ブラザースは完全に消滅したわけである。
「覆面剥ぎマッチ」は、相手の正体をあばくというサスペンスを導入した試合形式が、日常の仮面性と通じていると感じて書いた作品だ。負ければ覆面を剥がれなければならないのだが、試合の途中で相手の覆面を剥いだら反則負けとなり、自分自身が覆面を剥がれることになるというルール。これまた、自らの正体を隠し、イメージで他人と対している都会人の抜きさしならないドラマの一面だ。素顔と仮面の関係はさまざまな人々によって書かれたが、プロレスの試合ルールとからめたところが、ま、私なりの流儀とでも言おうか。
八百長と蔑まれ軽視されるプロレス世界に、相撲のガチンコと同じように真剣勝負を指す言葉で、セメント・マッチというのがある。「これはもうセメントですね」アナウンサーがよく叫ぶセリフだが、セメントのようにガチガチに固まった妥協のない試合のことを意味するのだろう。しかし、清水育ちの私には、ドラム缶へ死体を詰めてセメントで固め海へ沈めたという事件が、セメントというフレーズからは想起され、そんな感覚で「セメントの世界」を書いてみた。
八百長というセリフが飛び交うリング上の試合を成立させている、日常の中でのプロレスラーのセメント的世界、これまた実人生のなかで多かれ少なかれ人々が関わっているプレッシャーの時間帯だろう。
「クレイジー・タイガー」は、タイガー・ジェット・シンという私好みのプロレスラーの狂気の在り方に、ホテルのバーでカクテル・ピアノを弾く今日子という名の女の内包する異様な熱をかさね合わせてみた作品だ。タイガー・ジェット・シンは狂虎と呼ばれ、同じ発音の今日子という女を登場させ、理解不能の過激さの相乗効果をねらったわけである。
「ひとりぼっちのツアー」は、ブラジルのカーニバルを見物したさい、演出されたカーニバル≠ニいう印象を受けたが、カーニバル会場から拡散した人種のルツボの日常の中に、むしろプロレス的イメージを感じ、ひとつのストーリーを編んでみた。
歌舞伎座の奈落の暗い空間のそそのかしを何となく感じて、銀座四丁目の地下道を銀座の奈落に見立ててみると、自然にあるストーリーが浮んできた。すでに本づくりは進行中であったが、友人でもありこの本の担当でもある、文藝春秋出版部の藤野健一さんに無理にたのみ込み、収録してもらったのが「奈落の案内人」で、これだけが書きおろしというわけだ。プロレス者《もの》としても愛着を感じる一冊となって、今年はまことに気分のいい夏を味わっている。
[#3字下げ]一九八二年盛夏
[#地付き]村松友視
初出誌
「七人のトーゴー」
別冊文藝春秋154号 昭和五十六年一月
「覆面剥ぎマッチ」
オール讀物 昭和五十六年四月号
「セメントの世界」
小説新潮 昭和五十六年八月号
「クレイジー・タイガー」
月刊プレイボーイ 昭和五十七年一月号
「奈落の案内人」
書下ろし
「ひとりぼっちのツアー」
野生時代 昭和五十七年七月号
単行本
「七人のトーゴー」
昭和五十七年九月文藝春秋刊
〈底 本〉文春文庫 昭和五十九年一月二十五日刊
外字置き換え
友※[#「示+見」]→友視