村松 剛
三島由紀夫の世界
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目 次
序章――生家
雅びの棘
鹿鳴館の香水
T 青春――『酸模』から『盜賊』へ
初恋
恋の破局
失われたものへの復讐
U 自己改造をめざして――『假面の告白』から『金閣寺』へ
「假面」の創造
救済の拒否
肉体美の「神話」
「他者」への転生
夢想の恋、新しい恋
第二の人生
V 死の栄光――『鏡子の家』から『英靈の聲』へ
「時代」への挑戦
死の世界の再現
二つの事件――脅迫と告訴
「父」殺しと「父」の発見
NLTの結成と四部作
「優雅」をこえて
叛逆の騎士
W 行動者――『豐饒の海』の完結
「狂気」の翼
集団という橋
訣別
あとがき
(パソコン上での読み易さを考慮し、多くの旧字体の外字を新字体に置き換えました。)
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序章――生家
雅《みや》びの棘《とげ》
1
大久保の裏通りに、立派な門構えの家があった。
――これが橋さんの家よ。
散歩の折りに母親から、子どものころよく教えられたものである。
――開成中学の校長さんだった方ですよ。
あまりたびたび聞かされたので、庭木の鬱蒼《うつそう》と茂るその家のたたずまいがいまも鮮明に記憶に残っている。明治通りと平行に走る小路《こうじ》に、家は面していた。(長い塀《へい》は、木造だったように思う。)まえが、平沼騏一郎《ひらぬまきいちろう》の邸《やしき》だった。
古い戸籍だと橋家は東京府下豊多摩郡西大久保四〇八番地で、当方の育った家が三〇八番地だったから、地番は互いに一〇〇番ほど離れている。ただし老母の記憶では、橋家は四〇八に移るまえにも二七〇か八〇のあたりの小さな家に仮住まいしていたという。このあたりはその後の市区改正によって淀橋《よどばし》区――敗戦後は新宿区――に編入され、拙宅は西大久保二丁目の同番地になった。四〇八の橋家の方は、一丁目に変っていたのではないだろうか。
橋さんの家よといわれても、それとこちらとがどういう関係にあるのか、当時はさっぱりわからなかった。橋家の次女の倭文重《しずえ》さんと母とが子どものときからの知合いで、その倭文重さんが平岡という家に嫁《とつ》ぎ、生まれた子が三島由紀夫であるときかされたのは、ずっとのちのことである。
――若いころの倭文重さんは、それは可愛《かわい》らしいひとでしたよ、
といまでも老母はことあるごとにくりかえす。
その倭文重さんと母とが昭和八、九年のころ、四谷駅の近くで久しぶりに再会した。外濠《そとぼり》の土堤《どて》の上を市ヶ谷の方まで歩きながら、若い倭文重さんは嫁ぎさきでの苦労を綿々と訴え、離婚するつもりでいるといったという。正確な日時は、老母は覚えていない。
倭文重さんは昭和三十年代の末以後も母を含む複数の人びとをまえにして、離婚したいとしきりにいっていた。
――うちの主人は変人。
このころは母も倭文重さんも家庭裁判所の調停委員をつとめ、毎日のように顔をあわせていた。昭和四十年前後のこういう離婚ばなしは愚痴まじりの冗談だったとしても、昭和八、九年の倭文重さんの立場は深刻だった。姑《しゆうとめ》の夏子は幼い公威《きみたけ》(三島)を手許《てもと》に独占し、母親に会わせようとしない。公威が母の名を口にしただけで、ときには怒り狂う。
夫の梓《あずさ》氏との仲までも姑は嫉妬《しつと》すると、いま八十二歳になる老母の記憶力を信じるなら、倭文重さんはいったそうである。かといって離婚はこの状況下では、長男公威との訣別《けつべつ》を意味する。
三島由紀夫の生家は、四谷永住町二番地にあった。大木戸の市電――のちの都電――の停留所に近く、北がわには陸軍士官学校まえの道路をへだてて成女学園がある。成女学園は、いまも同じ場処に位置している。
昭和九年に彼の家は信濃町の慶応病院の近くに移転し、祖父母と両親とはこの借家ではべつべつの棟に住んだ。三島はそれまでと同様に祖父母の家にひきとられ、彼の弟妹は両親のもとで暮す。
倭文重さんの離婚の決心と突然のこの転宅とのあいだに、どのような因果関係があったのかはよくわからない。それまでは六人いた女中が転居とともに三人に減らされたとジョン・ネイスンはその著書、『三島由紀夫――ある評伝――』に書いていて、引越しの直接の原因は金銭上の窮迫だったのだろう。「私の家は殆《ほとん》ど鼻歌まじりと言ひたいほどの氣樂な速度で」経済的に没落して行ったと、三島は『假面の告白』のなかでしるしている。
とにかく倭文重さんとしてはこのときに結婚いらいはじめて、姑の夏子から独立した世帯をもつことを許された。長男の公威とは依然として別居状態であるとはいえ、生活を二六時中姑の監視下におかれないですむ。引越しが結果として、三島の両親を離婚の危機から救ったことは、たしかなことのように思われる。
さらに数年後の昭和十二年に、三島の一家は渋谷区大山町に移転した。『假面の告白』によると、
「父はこの機に私を自分の一家へ引取らうといふ遲ればせな決心にやつと到達したので、彼が『新派悲劇』と名付けたところの、祖母と私との別離の一場面を經て、父の新たな移轉先へ私も移つた。(中略)祖母は日夜私の寫眞を抱きしめて泣き、一週間に一度私が泊りに來るといふ條約を、私がもし破りでもすれば忽《たちま》ち發作をおこした。」
十三歳(数え)の私には、「六十歳の深情《ふかなさけ》の戀人がゐたのであつた」という有名な文章が、このあとにつづく。同じ年に梓氏は営林局長として大阪に単身赴任し、倭文重さんはここにはじめて母子《おやこ》水入らずの家庭生活を享受《きようじゆ》できた。
――これが橋さんの家よ、
と母が幼い筆者にくりかえしいったのは、たまたま出会った倭文重さんから離婚の意志をきかされて衝撃をうけ、実家の橋家のまえを通るたびにそのことを思い出したためだったらしい。倭文重さんは母と同じ小学校に在学していたし、その異母兄の橋健行は母の叔父の田部重治(英文学者、随筆家)と親しかったのである。
三島由紀夫が中学の一年生のときから住んだ渋谷大山町の家は、たずねて行ったことはむろんないけれど、いくどか見たことはある。一高(旧制)の裏門を出てすぐの場処であり、学校の寮から裏門を抜けて渋谷に出ようとすれば、自然にそのあたりを通る。
昭和二十三年のころ松濤《しようとう》公園のそばを歩いていたら、知合いの女の編集者に出会った。学校に用事があって来たのかとたずねると、
――いいえ、三島由紀夫さんの家に行くのよ。
そこよ、と赤い屋根|瓦《がわら》の家を指さした。黄色っぽい漆喰《しつくい》の壁の洋館で、横に和風木造の平屋が張出している。洋館の屋根の勾配《こうばい》は極端に大きく、二階の小さな窓の上部にさらに小窓があって、二階屋が三階建のように外からは見える。小さいながらいかついその洋式の塔に和風の平屋がとりついているのだから、異様な建物という印象をうけた。
三島の書斎は、洋館の二階にあった。なお大山町十五番地のこの家は、いまもむかしのままの姿で残っている。(現在の地番は松濤二丁目四ノ八。)門の表札は剥《は》ぎとられ、ひとが住んでいる気配はない。
大山町の家に移転してから倭文重さんがただちに着手したことは、子どもの学習院からの引揚げだった。次男の千之《ちゆき》氏は学習院初等科を退学させられ、近くの大向小学校の二年生に編入される。公威は一高に入れたいと、彼女は思っていた。
三島由紀夫が死んだ直後に、倭文重さんはいくつかの愚痴をぼくにいった。そのひとつが、学校のことである。
――学習院の中等科を終るときに、一高を受験させたのですよ。でも学習院程度の学校では、一高は無理だったのね。一高のバンカラ生活を経験していたら、公威もあんなことはしなかったと思うの。
「あんなこと」が自衛隊入りいらいの彼の生活をさすことは、いうまでもない。
学習院から一高にはいった例は、近衞文麿《このえふみまろ》がそうであるように少数ながら過去になかったわけではなく、それに一高の生活も外見ほどにはバンカラではない。そうは思ったのだが、このときはだまってきいていた。
――学習院に入れると決めてしまったのは、義母《はは》ですからね。
その義母《はは》の夏子は、昭和十四年に死去している。彼女がいなくなったからこそ、一高の受験にも踏切れたのだろう。しかしそれも、失敗におわった。つまり息子を死に向かって突走らせた責任の大本は姑にあると、倭文重さんはいいたかったのである。
華族以外の家の子弟が学習院にはいるということは戦前では少く、金持でもない平民となると例外例に属した。(敗戦までの学習院は、宮内省《くないしよう》の管轄下《かんかつか》にあった。)そのために息子に肩身のせまい思いをさせたと、倭文重さんがいくどもこぼしていたことは母からきいていたし、「足軽扱い」という表現も梓氏の著書『伜《せがれ》・三島由紀夫』に彼女のことばとして出ている。この問題に関しては弟の千之氏も『兄・三島由紀夫のこと』と題する文章のなかで、
「戦前の学習院であるから、皇族、華族を中心としており、爵位《しやくい》をもたない自分の家に兄はなにかしらのコンプレックスを抱いていた節《ふし》がある。(中略)ベートーヴェンが平民の出であり、その姓名の中にある『ファン』は貴族の印しの"von"でなく"van"であることを人に嘲《わら》われたというエピソードを、同情をこめて私に話したことがあった。」(「小説新潮スペシャル」創刊号、昭和五十六年一月)
ただし倭文重さんが思いこんでおられたほどにつよい違和感を、三島自身は学校生活のなかで感じていなかったのではないか。千之氏が例に引くベートーヴェンのはなしにしても、ことばどおりにうけとれば柄《がら》に似合わない「華族気どり」と世間から嘲笑《ちようしよう》されることへの懸念《けねん》をあらわしてはいても、学校内部での孤立感の表現とはちがうように思う。やはり非華族の出の三島の同級生にたずねてみても、
――差別なんて、そんなに感じませんでしたよ、
という返事だった。
それに何よりも文学上の師や仲間が、三島のまわりには形成されていた。文芸部の先輩である坊城俊民、東文彦、徳川義恭と知合ったのは、中等科初期の時代である。昭和十六年、中等科五年の九月からは、師の清水文雄氏の推挽《すいばん》によって『花ざかりの森』を、彼は「文藝《ぶんげい》文化」に連載しはじめる。三島由紀夫の名をつかったのはこのときが最初で、連載は十二月までつづいた。
『花ざかりの森』の完結は著者の自註によれば、昭和十六年の初夏となっている。同じ夏の末には『祈りの日記』の執筆にとりかかり、さらに秋にはいってから『苧菟《おつとお》と瑪耶《まや》』という短篇を書きはじめた。ちょうどこの時期に書かれた東文彦|宛《あて》の三島の書簡が、「新潮」昭和六十三年七月号に宇川宏の手でいくつか紹介されていて、これで見ると昭和十七年の一月から二月のころには、右の二つの小説の完成に彼が腐心していたことがわかる。
「『苧菟と瑪耶』はもう面倒臭くなつて結末の場面は十枚ぐらゐにもなりさうなところを半枚で切り上げて了《しま》ひました。母は却《かへ》つて餘韻があると申しますが甚《はなは》だ恠《あや》しいものです。お見せしようと思つてをります『祈りの日記』は二學期殆んどを費した擧句、完成が望めなくなつて筆を抛《はふ》つて、(中略)今書き直しなどしてをります故《ゆゑ》、それがすんだらお送り申し上げます。」(十七年一月二十一日付)
一高の受験が四年終了時ではなく、母堂のことばどおりに「中等科を終るとき」だったとすれば、彼は入学試験を目のまえにして、小説の「書き直しなど」をしていたのである。せいぜいが片手間の受験準備であって、もしも及第していたらその方が不思議だろう。
三島にとっては一高よりも学校外の雑誌に発表の舞台をあたえられたことの方が魅力的であり、倭文重さんも息子が創作に情熱を燃やしていることは十分承知していた。
「中等科の四、五年になるといよいよ小説というものを書きはじめました。日に三枚、五枚と書き、その日の分は必ず私のところに持って来て読ませました。私が賞《ほ》めてやると大喜びをし、時々けなすと決して怒りはしませんでしたが、ただニヤニヤと笑っておりました。」(『伜・三島由紀夫』)
落第には母堂も、責任がなかったとはいえない。
三島由紀夫が自決してから、十八年の歳月が流れた。
自決がもたらした社会的衝撃は大きく、それだけに事件直後にはずいぶん乱暴な非難や、――批判はあって当然としても――見当ちがいな解説が目立った。放《ほう》ってはおけないという気持から、当時はたのまれるがままにいくつかの文章を書いた。書くこと自体が辛《つら》かったのだが。
三島の文章を読むことも苦痛で、それいらいしばらくは彼の作品に殆ど手を触れないで来た。「憂国忌」なるものにもはじめの一回はべつとしてあとは出席を遠慮し、発起人名簿からも名まえをはずしてもらった。
書庫の奥に積んでおいた全集を(筆者もこの全集の編纂《へんさん》委員のひとりにはなっている)、改めてとり出したのは二年ほどまえである。読んで行くうちに、まえには気づかなかった部分が少し見えて来たような気がした。
三島由紀夫の自作朗読のテープを刊行するという企画を新潮社がたて、昨年の暮にそのテープをきいた。久しぶりの彼の声を平静にきけたのは、十八年の歳月というものであろう。
これ以上ときがたつと、記憶の方がうすれて行くおそれがある。三島について書きたりなかったこと、いろいろな意味で書き得なかったことをしるしておくのには、いまが機会かも知れないと思うようになった。
2
いくつかの伝説が、三島由紀夫をめぐってできかかっているように見える。
たとえば三島の祖母の夏子――戸籍名はなつ――がその少女時代に、有栖川宮威仁《ありすがわのみやたけひと》親王と恋に落ちたという物語を、野坂昭如《のさかあきゆき》が書いているそうである。(松本健一著『三島由紀夫亡命伝説』による。)この新解釈を松本健一はさらにすすめて、三島の父親が有栖川の御落胤《ごらくいん》だった可能性までにおわせている。
一読して、これには驚歎《きようたん》した。宮家の生活の実相を少しは知ったうえで、これらの人たちはものをいっているのだろうか。松本氏の引用で見ると、野坂昭如はこう論じている。
「威仁となつ子の間に、恋が生れても不思議はない。そしてこの二人も、正式に結ばれるには階級が違う。宮家の、それも嫡男《ちやくなん》の妻は、王女と呼ばれる身分か、あるいは堂上も五摂家の内から選ばれ、天皇の許可を必要とした。
なつ子の気性からして、悲恋に終ることは覚悟の上、むやみに武張ったその父(熾仁《たるひと》)とは違い、海軍に籍はおきながら、祖父(幟仁《たかひと》)の雅《みや》びやかな血筋を受ける威仁を、この聡明《そうめい》にして美しい娘は愛したとして不思議はない。」
この短い文章のなかには、いくつもの事実の誤認がある。第一に威仁親王は熾仁親王の異母弟であって、兄熾仁のあとを嗣《つ》いだとはいえ「血筋」のうえでは幟仁はその「祖父」ではない。次に宮家の嫡男の妻が王女か五摂家のうちからえらばれるとは、何を根拠としての断定かと思う。近い例でいえば直宮《じきみや》の秩父《ちちぶ》、三笠《みかさ》両宮の妃は、王女でも五摂家の出身でもなかった。
夏子は明治二十一年に、有栖川宮家に預けられる。このときに威仁親王は独身だったと野坂昭如も野坂説を支持している松本健一も思っているらしく、それでなければ右の「悲恋」伝説は成り立ちにくい。実際には親王は、八年もまえに結婚していた。妻は慰子《やすこ》といい、――やはり五摂家の娘や王女ではなく――加賀の前田|慶寧《よしやす》が側室に生ませた子だった。
夏子の少女時代に何を空想しようと、空想は各人の勝手というものだろう。しかし空想の生んだ伝説がいつのまにか定説化されるということもあり得るので、あえて彼女の生立ちについて触れておくことにする。
夏子の祖父の永井|尚志《なおむね》は、幕府最後の若年寄をつとめたひとである。
尚志は三河に生まれ、両親がはやく死去したために松平|縫殿頭近韶《ぬいどののかみちかつぐ》に育てられ、さらに永井尚徳の養子となった。
三十二歳のときに番士として出仕し、三百俵を給される。三百俵の扶持《ふち》とは知行地がなく、蔵米を俸給《ほうきゆう》として下付されることを意味する。
永井の家は美濃《みの》加納の藩主三万三千石の永井氏から、十八世紀のはじめに分家した旗本だった。尚志を養子にいれたころ養父の尚徳は、大身の旗本が任じられる御使番(役米千石)の地位にいた。その養子が三百俵の御家人扱いをうけたのは、家督をまだ相続していない部屋住みの身分だったことによる。
「遊伜をもってえらんで小姓組番士となす」措置がとられ、そのために「部屋住より召され御番の内え」編入されたと、『永井|玄蕃頭《げんばのかみ》尚志手記』にはしるされている。ペリイ来日の六年まえ、弘化四年のことであり、次第につのって来る外圧が旗本の「遊伜」たちの組織化を、幕閣に思いつかせたのだろう。
徳川|慶喜《よしのぶ》は晩年に旧幕時代を回顧し、官僚制度が老朽化した結果、いかに俊秀の抜擢《ばつてき》が困難だったかを述べている。
――まず幕府の方では非常に抜擢といったところが、永井|主水正《もんどのしよう》が若年寄になったというくらいのものだ。それで幕府には人がいない。人がないじゃない。採る途《みち》がないのだ。(『昔夢會筆記』、明治四十三年十月の項)
三百俵どりの番士から勘定|奉行《ぶぎよう》、外国奉行、軍艦奉行をへて若年寄だから、たしかに大抜擢だろう。若年寄にはふつう、譜代の小大名が任命される。大名ではない永井の場合は、正式職名は若年寄|格《ヽ》だった。俸禄《ほうろく》は、蔵米が七千俵。
若年寄|格《ヽ》としての玄蕃頭尚志は、土佐の後藤|象二郎《しようじろう》と会って大政奉還の建白書を出すことを彼にすすめたり、新選組の近藤|勇《いさみ》に後藤を引合わせたりした。すでに衰亡しきった幕府をつぶし、徳川慶喜を諸侯会議の議長として政権の座に据《す》えることがその念願だったのである。(坂本|龍馬《りようま》の考え方もこれと似ていて、龍馬は暗殺される約一箇月まえに尚志と京都で会っている。)
幕府倒壊の瀬戸ぎわに慶喜の腹心として働き、鳥羽、伏見のあと慶喜が蟄居《ちつきよ》してからは榎本武揚《えのもとたけあき》とともに箱館《はこだて》に走って、箱館の奉行をつとめる。箱館の降伏後は東京に檻送《かんそう》、投獄され、明治五年に赦《ゆる》されて開拓使御用掛となった。元老院の権《ごん》大書記官を最後に、明治九年に退官している。
明治二十四年の病歿《びようぼつ》であり、孫の夏子が有栖川宮家に行ったときには、まだ健在だった。旗本出身の元賊軍だし、榎本のように台閣に列したわけでもないので、爵位はむろんもらっていない。
子どものいなかった尚志は、退官にさき立って親戚《しんせき》から養子を迎えた。養子は永井家代々の通称、岩之丞《いわのじよう》を名乗る。岩之丞の妻は水戸の支藩である宍戸《ししど》藩(二万石)の元藩主、松平|頼位《よりたか》の側室の娘だった。したがって夏子とその祖父尚志とのあいだには、直接の血縁はない。
ついでに述べておくと松平頼位の側室――夏子の祖母――は、新門辰五郎《しんもんたつごろう》の姪《めい》だったという。夏子の実弟、大屋敦《おおやあつし》の回想によると、
「私の実の祖母は、芝居茶屋の娘であったとのこと。私は生前会った記憶がある。たいへん美しいおばあさんだった。この祖母は新門辰五郎の姪であった由《よし》であるから、私も新門辰五郎の血を、いくらかひいていると言えそうだ。」(『私の履歴書』第二十二巻、日本経済新聞社刊、昭和三十九年十一月)
徳川慶喜の愛妾《あいしよう》のひとりが、新門辰五郎の娘のお芳《よし》、一説ではお笑《さき》だった。辰五郎は将軍に就任した慶喜が二条城の本丸跡に臨時の奥御殿をつくったとき、京都まで行って人足あつめや工事の監督にあたっている。慶喜側近の永井尚志は、当然辰五郎をよく知っていたのである。しかしその事実と彼が養子の妻に辰五郎の姪の娘を迎えたこととのあいだに、何らかの関係があったかどうかはわからない。単なる偶然だったかも知れない。
養子の岩之丞は司法畑を歩き、おわりには大審院の判事をつとめたひとで、家は北豊島郡金杉村にあった。長女夏子を有栖川宮家に預けたのは前述のように明治二十一年、夏子十二歳の年といわれていて、明治二十一年が正しいとすれば岩之丞はこのとき東京控訴院の評定官(判事)だった。年俸は千六百円。月になおすと、百三十三円あまりになる。
岩之丞は夏子を含めて、生涯《しようがい》に十二人の子どもをもうける。夏子の弟の大屋敦の回想を再度引用すると、
「当時の判事は行政官に比べるときわめて薄給で、それで十二人の子女を養わねばならなかったから、当然清貧であった。」(『私の履歴書』前掲)
清貧の語に、誇張はないであろう。夏目漱石が明治二十八年に、松山中学の教師に就任したさいの月給が八十円だった。七年間の時期上のずれがあるとはいえ、二十八歳の文学士夏目金之助の月給が八十円で四十四歳の判事の方が百三十三円では、少々均衡を失しているという気がする。「官員」としての体面を維持しながら多数の子どもを育てて行くことには、相当な苦労をともなったはずである。
夏子の有栖川宮家行きは、彼女が疳気《かんき》がつよくて親がもてあましたからだと伝えられている。ヒステリイ的性格が、少女時代から顕著だったことは事実であるらしい。躾《しつけ》のために子どもを他家に預けるということは、昭和のはじめごろまでの山の手ではときに行なわれた。(「お行儀をよくしないと」某々家に預けますよと、筆者自身いくどかいわれた記憶がある。)
それにしても五年間の宮家預けは、異様に長い。永井家のがわには、口減らしという家計上の配慮も働いていたのかも知れない。
3
有栖川宮熾仁《ありすがわのみやたるひと》親王は、明治維新時の東征大総督として名高い。
親王の最初の妃は、水戸の徳川|齊昭《なりあき》の第十一女だった。妃の実母は、側室の仁科睦子である。
水戸の徳川は有栖川宮家と縁が深く、齊昭の正夫人吉子――慶喜の母――も、齊昭の世子|慶篤《よしあつ》の妻|線《いと》姫も、ともに有栖川宮家から来ている。永井家では妻の実家の宍戸松平家を通じて水戸にたのみこみ、夏子を宮家にはいらせるようにはからってもらったのではないかと思われる。夏子が宮家に行ったときには最初の妃はすでに逝去《せいきよ》し、新発田《しばた》藩の旧藩主|溝口直溥《みぞぐちなおひろ》の娘が後添えになっていた。
はなしをここで熾仁親王の異母弟、威仁《たけひと》親王にもどすと、威仁親王は夏子が邸《やしき》にはいる前年に、第一王子|栽仁《たねひと》王をもうけた。(第一王女は、明治十九年に夭折《ようせつ》。)親王の結婚が明治十三年だったことは、まえに触れた。
結婚の年に有栖川宮家では霞関《かすみがせき》に新しい本邸をつくりはじめ、宏壮《こうそう》なこの邸は四年の歳月をへて明治十七年に完成される。敷地は一万五千坪に達し、
「内部の装飾は、意匠|斬新輪奐《ざんしんりんくわん》の美と相俟《あひま》ちて絢爛《けんらん》目を奪ふ」、
と、『有栖川宮總記』(昭和十五年刊)は書いている。
「庭前又、枕流亭《ちんりうてい》等の結構あり。」
写真で見ると表御殿は、十九世紀ヨオロッパのネオ・クラシシスムの日本版とでもいえばよいのか、明治期の建築によくある左右対称の煉瓦《れんが》づくりである。二階建で各階の天井は高く、舞踏室には彫刻をほどこされた角形の穹窿《きゆうりゆう》から巨大なシャンデリアがいくつも吊下《つりさ》げられている。庭の牡丹《ぼたん》の美しさが、当時有名だった。
有栖川宮は、巣鴨《すがも》にも別邸をもっていた。しかし夏子が住込んだ邸は平生は留守番しかいない別邸ではなく、当然霞関の副島種臣《そえじまたねおみ》邸跡――もとは旧九鬼藩邸、現在の外務省庁舎の裏手――に建てられたこの本邸の方だったろう。金杉村の「清貧」な判事の家に育った少女が、突然「絢爛目を奪ふ」皇族の邸に入れられた。
察するに彼女は熾仁親王の妃付を、命じられたのではないか。熾仁親王の後添え董子《ただこ》は、夏子の母よりも二歳年長だった。(董子の実母は、土浦藩主の娘。)母親がわりになるのには、年齢的にふさわしい。
威仁親王妃|慰子《やすこ》の方は、明治二十一年にはまだ二十五歳だった。それに威仁親王はこの年の夏の末ころから、妃同伴の渡欧をしきりにねがい出ていた。つまり邸を長期間留守にする計画が、年の後半には進行していたのである。夏子が若い慰子付となったことも可能性として排除はできないにせよ、状況からいってその確率は小さいと見なければならない。
渡欧の許可が威仁親王に降《くだ》ったのは、十一月一日だった。夫人同伴ということだったので、勅許が容易には出なかった。小松宮彰仁《こまつのみやあきひと》親王(近衛都督)が二年まえに妃同伴で渡欧したさい、妃は高価な宝石や衣類の買物に専念し、その「醜聞」が天聴にまで達していた。
慰子妃は実家の前田家と相談して、妃の渡航費は前田が払うことにした。妃に関する費用は国に御迷惑はかけませんと威仁親王が奏上すると、帝は苦笑されて、
――それなら勝手にせよ。
大勲位海軍少佐威仁親王と同妃慰子とは、翌明治二十二年の憲法発布式典の五日後、二月十六日に横浜を発《た》つ。二人は明治二十三年の四月まで、邸には帰らない。
明治宮殿は、憲法発布の直前の完成だった。千代田城西の丸が明治六年の火災で炎上していらい、明治天皇は赤坂離宮を仮皇居として来られた。この間皇居造営計画は、財政難からいくどか延期されている。
皇居造営にさきだって霞関に壮麗な御殿を建てたのであり、この一事によっても有栖川宮家の格式の高さがわかる。熾仁親王は西南戦争の折りには再び征討総督となり、戦争終了後は西郷隆盛《さいごうたかもり》のあとをうけて日本で二人目の陸軍大将に任じられた。さらに明治十三年には、左大臣を兼ねる。(右大臣は岩倉具視《いわくらともみ》。)
内閣制度が明治十八年に発足し、左大臣職が廃止されると参謀本部長に転じ、二十一年には参軍――のちの参謀総長――を拝命した。地方議会や軍の演習等々の行事には天皇の名代《みようだい》としてしばしば派遣され、国内だけではなく外交面でも名代役をうけもっている。明治十五年にロシヤでアレクサンドル三世が即位したとき、名代としてセント・ペテルスブルクに赴いたのは親王だった。
宮家筆頭、というべきだろう。事実宮内省から支給される賄料《まかないりよう》も小松宮家とならんで額が皇族中もっとも高く、親王は陸軍大将としての年俸六千円のほかに三万五千円を、毎年給されていた。それとはべつに威仁親王が、賄料一万円を下賜《かし》されている。(『明治天皇實紀』による。)
有栖川宮家の家事総監督にあたる別当には、宮中顧問官兼法制局長官の山尾庸三が、明治十九年に任命された。山尾は伊藤|博文《ひろぶみ》の若いころからの友人であり、伊藤が井上聞多などとともに文久三年に渡英したさいには、彼も一行に加わっていた。
別当の下の家令は明治二十年代には、宮内大臣秘書官齋藤桃太郎の兼務だった。齋藤はのちに、東宮大夫となる。ほかに家扶二名、家従三名が宮内省からさしまわされる。威仁親王の生母森則子は、宮中で親王の生母となった側室が叙爵《じよしやく》されるのに準じる待遇をうけ、従四位権掌侍《じゆしいごんのしようじ》取扱とされた。
簡単にいえば、小宮廷である。表と奥の御座所とは分けられ、奥の女たちは特別の場合を除いては表に出ることを許されない。無位無官の幼い夏子が、表御殿に正式に出る機会はたぶんなかった。奥の方にしても、熾仁親王の奥御殿と弟で養子の威仁親王の住居とは当然ながらことなる。
威仁親王は明治二十三年四月の帰国後も、軍艦|葛城《かつらぎ》、高雄の艦長に次々に任命され、そのあとはロシヤの皇太子の接待役をつとめて例の大津事件の収拾にあたり、年譜に徴すると邸に落着いていた時間は少い。夏子が十六歳に達した明治二十五年には、二十九歳の海軍大佐威仁親王は千代田の艦長だった。彼女が熾仁親王妃董子付だったとすれば、威仁親王と顔をあわせる機会はきわめて稀《まれ》だったのではないか。
親も子も召使も同じ棟のなかに雑居している一般の家庭を思いえがくから、「威仁となつ子の間に、恋が生れても不思議はない」などという不思議な断定が出て来る。明治、大正期の宮家の生活は、そこらの金持の場合とはちがう。またもし大勲位大佐の宮が――ありそうにないはなしだが――義母のそばにいる少女と恋に落ちたと仮定したら、彼女を側室にするみちもあり得た。それが許された時代であって、既婚の宮さまとのあいだの「悲恋」とは語義矛盾に近い。
明治天皇自身が明治二十六年までに、五人の側室によって十三人の皇子皇女をもうけておられる。そのうち園祥子《そのさちこ》が生んだ第八皇女、房子内親王(明治二十三年生)については、将来威仁親王の子の栽仁王の妃とするという勅諚《ちよくじよう》があり、明治二十六年十一月に宮家では勅旨拝受を奉答している。この同じ月に、夏子は平岡定太郎と結婚した。
威仁親王との「悲恋」は悪い冗談としても、少女期の五年間を有栖川宮邸ですごしたことは、夏子の感受性に決定的な影響をあたえただろう。
有栖川宮家は歌と書との二道の家柄《いえがら》で、熾仁親王も飛鳥《あすか》井雅久《いまさひさ》と父|幟仁《たかひと》親王に歌を学び、書に関しては明治天皇の師範だった。能は観世流を学び、蹴鞠《けまり》、笙《しよう》にも通じていたという。(『熾仁親王行實』)後添えの董子は幼時に加賀の藩儒井東守常について和漢の学を修め、結婚後は福羽美靜《ふくばびせい》に歌の指導をうけた。書道は有栖川流を学んで、後年にはその筆は夫の筆跡と識別がつかないまでになった。彼女は歌会を、ときにもよおしてもいる。
歌と書とに熱心だった点では、威仁親王妃の慰子も同じだった。慰子の遺《のこ》した詠草は、一万首をこえる。旗本の孫として生まれた夏子が、公家《くげ》の雅《みや》びの世界にはいったのである。
三島由紀夫は後年『春の雪』でその主人公|松枝清顯《まつがえきよあき》に、夏子と類似した経験を味わわせる。父の松枝侯爵は「自分の家系に缺《か》けてゐる雅《みや》びにあこがれ」、「和歌と蹴鞠の家として知られ」る綾倉家《あやくらけ》に幼少の清顯を預けた。
「綾倉伯爵は京|訛《なまり》のとれない、まことに温柔な人柄で、幼ない清顯に和歌を教へ、書を教へた。綾倉家では今も王朝時代そのままの雙六《すごろく》盤で夜永を遊び、勝者には皇后御下賜の打物の菓子などが與へられた。」
この経験が、清顯の人生を変えた。実家にもどってからの彼は、自分が周囲のだれとも似ていないことを感じる。
「彼はすでに自分を、一族の岩乘な指に刺《ささ》つた、毒のある小さな棘《とげ》のやうなものだと感じてゐた。それといふのも、彼は優雅を學んでしまつたからだ。」
「彼は優雅の棘《とげ》だ。しかも粗雜を忌《い》み、洗煉《せんれん》を喜ぶ彼の心が、實に徒勞で、根無し草のやうなものであることをも、清顯はよく知つてゐた。」
文中の「彼」を「彼女」に、清顯を夏子におきかえても、格別の不自然さはないのではないか。二人のあいだの唯一《ゆいいつ》の大きなちがいは、夏子の実家が宏大《こうだい》な邸をもつ華族ではなく、したがって「一族の指」は少しも「岩乘」とはいえなかったことである。
父親の永井岩之丞は彼女が有栖川宮家にいたあいだに、東京控訴院の判事から部長判事に昇進し、住居も下谷桜木町に移転していた。俸給は少し上って、明治二十七年に年俸二千円だった。(行政職だと各省の局長が、閲歴その他にもよるにせよ年俸四千円だった。)
夫の平岡|定太郎《さだたろう》は、京橋の弥左衛門町に寓居《ぐうきよ》する一介の内務省官吏にすぎない。結婚した年にはまだ試補で――文書課兼記録課勤務――、年俸は五百円と政府『職員録』にはしるされている。それでも「優雅を學んでしまつた」十七歳の夏子は、この秀才との生活の未来にひそかな夢を、思いえがいていたであろう。
定太郎は明治十九年に東京大学予備門にはいり、在学中に第一高等中学校と名まえの変った同じ学校を、二十二年に卒業している。同学年百五十七名中には若槻禮次郎《わかつきれいじろう》、小川平吉(ともに仏法)、水野錬太郎(英法)、芳賀《はが》矢一(文科)、伊東忠太(工科)などの名が見える。定太郎自身は、英法科だった。
内務省の役人としての定太郎の生活は、二十年あまりのあいだは順調だった。もしも彼が樺太《からふと》庁長官時代に疑獄事件にまきこまれなかったら、同期の若槻禮次郎なみとまでは行かないまでも、法相、鉄相等をつとめた小川平吉や、内相、文相を歴任した水野錬太郎くらいの「栄達」は可能だったかも知れない。疑獄にかかわる裁判は昭和までつづき、しかも官を退いてからの定太郎は次々に事業に手を出しては失敗する。
夢をうち砕かれた夏子は、平岡家のなかの巨大な「棘《とげ》」と化して行くのである。
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鹿鳴館《ろくめいかん》の香水
1
樺太《からふと》で偉いのは、
「鰊《にしん》、番屋の親方、樺太長官」。
そういう順序であると、岩野泡鳴《いわのほうめい》が明治四十二年の『樺太通信』に書いている。当時の樺太庁長官は三島由紀夫の祖父、平岡定太郎である。
定太郎は明治四十一年六月に、福島県知事から樺太庁長官に転じた。長官としての年俸《ねんぽう》は本俸四千円、在外加俸をあわせると六千円に達する。
妻夏子の父岩之丞は大審院判事を最後に明治三十六年に職を引き、(大審院の部長《ヽヽ》判事と一部の研究書には出ているけれど、政府『職員録』で見ると誤り)、前年の明治四十年に歿《ぼつ》している。享年《きようねん》六十三歳。
岩野泡鳴が蟹《かに》の罐詰《かんづめ》工場の経営を企て、彼自身の表現をかりれば「樺太三界」をさすらったことは有名だろう。彼は明治四十二年の六月に北海道に行き、小樽《おたる》から船で樺太の真岡に渡った。平岡定太郎の長官就任からちょうど一年後に、北辺のこの地にはいったことになる。泡鳴は樺太庁第一部長の中川小十郎に誘われて西海岸の巡察に同行し、ロシヤ領北樺太にまで足を踏入れている。
中川小十郎は定太郎の第一高等中学校時代の同級生(同じ英法)であり、東大の卒業はどういう事情によるのか中川が一年遅れた。中川の養父が明治維新時に、山陰道|鎮撫《ちんぶ》総督としての西園寺公望《さいおんじきんもち》のために働いたことから彼は西園寺に可愛《かわい》がられ、樺太庁勤務のまえは西園寺内閣の内閣書記官兼首相秘書官をつとめていた。樺太では、かつての同級生の下僚となったのである。
中川は第一高等中学校に在学していた明治二十年に、学校の先輩の一木喜徳郎、岡田良平――二人は兄弟――などとともに、言文一致体を主張する婦人雑誌「以良都女《いらつめ》」を創刊した。山田美妙はこの雑誌にいくつかの小説を発表し、のちには編集そのものをひきうけるにいたる。泡鳴の同じ『樺太通信』によると、
「中川部長は帝國大學にゐた時代に、雜誌『いらつめ』を發刊し、山田美妙齋氏をして初めて言文一致體の文を作らしめた人で、官吏としては鳥渡《ちよつと》毛色が違つてゐる。而《しか》も經濟思想に富んでゐるので、調査の仕かたが一般の官吏とは違ひ、マオカでも人民からよく受けられたのだ。」
文学好きの人物だったから泡鳴の名は知っていただろうし、新聞(「二六新報」)に紀行文を送っているこの作家は優遇しておいた方がよいという配慮も、中川には働いていたのかも知れない。ついでにいえば「二六新報」を創刊した秋山|定輔《ていすけ》は、平岡や中川の二年先輩(英法)で、前長官――地方局長と併任――床次《とこなみ》竹二郎はその同級生だった。
泡鳴の方は地方の高官から思いがけない厚遇をうけて、悪い気持はしなかったらしい。彼は『韃靼《だつたん》海峽』という短篇のなかでも中川をえがいているのだが、書き方はやはり好意的である。
しかし永井健三(筆名|嵯峨戀太郎《さがれんたろう》)が書いた樺太開拓史、『「官立」樺太中学校と夏目漱石』(昭和六十二年刊)によると、「中川の野放図な施策が樺太疑獄事件を惹起《じやつき》させ」、平岡を失脚させたのだという。平岡は単身赴任だった上に政府との折衝の仕事が多く、上京中の業務は次席の中川に任せていた。
樺太庁の初代長官は、守備隊司令官|楠彦幸彦《くすのせさちひこ》少将の兼務だった。
樺太が内務省の管轄下《かんかつか》におかれることは、明治三十九年六月八日の閣議で決定されていた。西園寺内閣の内相原|敬《たかし》は、樺太を内地なみに扱う方針でいたのである。ところが陸軍大臣の寺内正毅《てらうちまさたけ》は山縣有朋《やまがたありとも》の意をうけて、樺太庁長官を守備隊司令官の兼務とするだけではなく、裁判その他一切を長官に委任することを主張した。
原敬はその日記に、
「寺内は山縣の意見に一も二もなく服從するものなるが故《ゆゑ》に、山縣の意を承《う》け樺太長官を陸軍武官にて之《これ》を占め臺灣の小形をやらんとするものなるも、是れ實に不當の事にて、結局責任は内務之に當り事實は彼れ自ら之を勝手になすものなるに因《よ》り、余は其《その》手に乘らず、」
と書いている。(明治三十九年八月六日の項)。
それなら樺太経営は陸軍でぜんぶお引受になってはいかがですかと、原は寺内にいった。人口|稀薄《きはく》な大原野を、陸軍だけの力で開発、経営できるわけがない。寺内は困惑し、結局樺太の法制はほぼ原敬の原案どおりに落着いた。守備隊司令官楠彦陸軍少将は、長官としては内務大臣の指揮、監督下におかれる。
明治四十年三月の勅令第三十三号によると、
「(樺太庁)長官ハ内務大臣ノ指揮監督ヲ承ケ法律命令ヲ執行シ部内ノ行政事務ヲ管理ス」。
樺太には日露戦争の末期から民政署が設置され、内務省の参事官だった熊谷喜一郎が民政長官をつとめていた。軍政時代から軍と民政署との関係は円滑を欠いていたようだが、樺太庁の設置にともなって熊谷の鼻息が荒くなる。楠彦少将は肩書は長官でも軍人だから、直属の官僚機構をもっていない。
岩野泡鳴のいう「鰊、番屋の親方」が樺太で巨大な問題と化したのは、この楠彦、熊谷の時代だった。日露戦争の結果樺太の南半分を――明治八年の樺太・千島交換条約でロシヤに譲っていらいはじめて――手中にしたとはいえ、日本はこれを維持、経営する財源に苦しんだ。ロシヤによる復讐《ふくしゆう》が懸念《けねん》されていた時代であり、対露防衛という観点からいえばどこよりもまず朝鮮を、財政面では優先させねばならない。樺太にたいする政府の交付金は、明治四十年代を通じて毎年わずか五、六十万円であって、いちばん多かった年でも六十三万円をこえなかった。
五、六十万円では、開発はできない。そこで考え出されたのが、鰊、鮭《さけ》、鱒《ます》漁業の免許料金の徴収である。
魚の乱獲を防止するために漁網は固着設置型のいわゆる建網のみとし、建網業者に沿岸漁業権の競争入札をさせた。建網の設置には金がかかるので、樺太の零細漁民には手が出せない。北海道の漁業会社が免許を独占して、その免許料金は明治四十年に八十四万八千円、四十二年には八十八万三千八百円に達した。金額は国庫からの補助金を上まわり、補助金を除いた樺太庁の全収入の六、七割にまで及んだという。(数字は谷口英三郎著『樺太殖民政策』、大正三年刊による。)
島外の業者は、漁場管理用の番屋を各地にもうけた。樺太庁の経済を支えていたのは建網業者、つまり番屋の親方だから、役所も彼らを鄭重《ていちよう》に扱う。ただし鰊の大群が来てくれなければ、その建網業者も商売が成立たない。したがって泡鳴によれば、偉いのは「鰊、番屋の親方、樺太長官」の順ということになる。
樺太に移住して来た漁民たちは、鰊や鮭、鱒の漁から完全に締出された。官吏の宿舎も整備されていなかった時期であって、警察官はしばしば番屋に寄寓《きぐう》している。警官たちは番屋の親方にいわれるとおりに動き、地元の雑魚《ざこ》漁民が禁を犯して鰊をとればただちに没収される。地元の漁民は雑魚をとって細々と生計をたてるほかなく、食事にもこと欠く状態だった。
惨状を見て驚いた楠彦長官が「拾い鰊だけは拾わせたらよかろう」といったのにたいして熊谷は、
――それを許すと制度が崩れます。
断じて譲らない、という姿勢をとりつづけた。
民政署の職員は、多くが警部級の警官の古手で占められていた。元来が軍政下の民政署だったためにそういうことになったのだろうが、彼らの大部分は事務上の才覚に乏しく、住民への態度は暴慢をきわめた。外地手当がついて懐《ふところ》は暖かかったから「身分不相應の生活は奢侈《しやし》に流れ、酒色に溺《おぼ》れ白晝醉歩漫策、醜業婦と手を携へて公道を濶歩《かつぽ》するを恥とせず、まさに百鬼夜行」と、明治三十九年の小樽新聞は書いている(永井健三著、前掲書)。熊谷は自分の執務室のまえに貼紙《はりがみ》をかかげて、
「面會人は三分以上の談話を許さず。」
明治四十一年四月に地方官会議が開かれ、上京した長官楠彦は熊谷の暴政を寺内陸相に直訴した。二人のあいだの軋轢《あつれき》は、それ以前から東京に聞えていた。寺内は原敬と相談して、楠彦、熊谷をともに罷免《ひめん》することに決する。いわば、喧嘩《けんか》両成敗である。
原敬の日記に、
「寺内陸相來訪、兼て内約し居たる樺太長次官|更迭《かうてつ》の事に關し、楠彦長官を他に移し、熊谷事務官も轉任せしめ、將來は純然たる行政官を置き、守備隊《ヽヽヽ》|司令官を以て之を兼攝せしめざる事に決したり《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。」(四月二十二日の項、傍点村松)
二人は二十三日に原敬に呼ばれ、更迭をいいわたされた。長官は一時期地方局長床次竹二郎の兼務となり、二箇月後に平岡定太郎に辞令が降りる。樺太を内務省の管轄下におくという原敬の企てが、ここに名実ともに実現を見るのである。
平岡定太郎は福島県の知事に就任するまでに、栃木県警察部長(明治二十八、九年)、広島県内務部長(明治三十二年)、宮城県内務部長(明治三十五年から三十七年まで)、大阪府内務部長(明治三十八年)等の職を歴任していた。諸県の警察部長から内務部長をへて重要府県の内務部長となり、次が知事というこの経歴は、むかしの内務省ではごく一般的な出世のみちすじだった。
しかし福島県の知事から樺太庁の長官への転任は、樺太の越冬人口がまだ二万人にすぎなかった時代とはいえ、刮目《かつもく》にあたいする大抜擢《だいばつてき》だったろう。年俸は本俸だけでも、福島時代の三千円から一挙に千円も上った。
「氏は極めて平民的で官僚的ではなかつた」と、樺太漁業制度改革運動の先頭に立って奔走した杉本善之助が、その著書『樺太漁制改革沿革史』(昭和十年刊)のなかで書いている。杉本はのちに平岡罷免の請願書を首相以下の主要閣僚に提出し、そのことが平岡にあたえた打撃は大きかった。つまり反平岡の急先鋒《きゆうせんぽう》だった人物だが、彼の平岡評は存外に好意的である。
「氏の風貌《ふうばう》は故後藤新平伯に彷髴《はうふつ》たるものがあり、(中略)經濟、行政、等々氏の地方長官として縣知事時代に於ける政策なり經|倫《〈ママ〉》なりは、實に放漫的であつた如《ごと》くであるが、積極的であつた。斯樣《かやう》なことは政友會の積極政策のよき實行者として、政黨首領及政友内閣で囑望された一人として當時氏を知る何人もが認めてゐたらしい。風貌の後藤伯に彷髴たると共に政策の實行もそれに似た處《ところ》があり、スケールの大きい人物として傑物たるの名に恥ぢなかつたらしい。」
福島県で敏腕を振るった役人が長官となったときいて漁民の会はよろこび、福島の平岡に電報を打った。
「嶋民《とうみん》は閣下の着任を待つや切なり。」
新長官の着任のさいの歓迎振りは、尋常ではなかった。
「幾百の漁船各自に歡迎の旗を飜《ひるが》へし舳艫相啣《ぢくろあひふく》んで兩行に整列し殆《ほと》んど船橋の如く棧橋《さんばし》まで引續き、其《そ》の棧橋には亦《ま》た官民の出迎ひ山又た山を爲《な》し(中略)、棧橋附近の海岸は正に人の波を打ちたり。」(『樺太漁制問題沿革史』大正三年刊)
熊谷喜一郎にたいする不満と憎悪《ぞうお》とが、平岡定太郎への期待感を増幅させていたように見える。乗船高松丸から平岡がボートに移乗して漁船群のあいだにはいると万歳の声が海陸に轟《とどろ》き、彼が演壇に立ったときには人びとは「從來の夫《そ》れに異なれる新長官の平民的なる態度に益々《ますます》信頼の念を深|ふ《〈ママ〉》し」、と同じ『沿革史』は伝えている。
その漁民たちが六年後の大正三年には、「ヒラオカジヘウテイシユツシタ」という電報を手にして、欣喜雀躍《きんきじやくやく》「手の舞ひ足の踏む所を知らなかつた」のである。岩野泡鳴が樺太の真岡に到着する二十日ほどまえには――泡鳴はそれについては触れていないけれど――大泊《おおどまり》で漁民の暴動が起こり、平岡の要請によって軍隊が出動して死亡者までが出た。
樺太植民史のなかで平岡定太郎が占めている役割は、よくも悪くもきわめて大きい。
2
平岡家の家系をめぐって、ある伝説が(ここでもまた)できかかっているようである。
『資料三島由紀夫』と題する本を書いた福島鑄郎《ふくしまじゆうろう》は、平岡家の菩提寺《ぼだいじ》である曹洞宗《そうとうしゆう》真福寺の過去帳に、
「知られたくないものが書かれてあった」、
と述べている。(同書増補改訂版、昭和五十七年刊)
「それぞれの祖先の肩書きには、とうてい文字にして書き表せないような汚名が書きしるされているからである。」
この種の記述は、福島論文のまえにも出ているときく。出自に関するこういう噂《うわさ》は川端康成についても、川端さんがなくなった直後に流れた。もちろん何の根拠もない、ただの噂だったのだが。
問題の平岡家の過去帳は、三島研究家の越次倶子《えつぐともこ》が真福寺に行って調べ、写真にもとって来ている。これで見るかぎり、「文字にして書き表せないような」ことばなどどこにも出て来ない。(ひとを介してたしかめたところでは、福島鑄郎は実際には過去帳を見たことがなく、何かの思いちがいからこんな断定的な文章を書いてしまったらしい。)
越次倶子は平岡家の壬申《じんしん》戸籍の写しも昭和三十九年ころに入手していて、これによっても格別変った箇所は見あたらない。もしも定太郎の出自に何らかの問題があったら、差別意識がきわめてつよかった明治の中期に、夏子との結婚は成立たなかったろう。結婚にさいしては互いに相手の戸籍|謄本《とうほん》をとり寄せるのがこの時代の慣行であり、いまとちがって身許《みもと》の調査はきびしく行なわれた。そして夏子の家は、貧しくても家系を誇りにしていた。
平岡定太郎の曾祖父《そうそふ》が真福寺に朱塗りの門を寄贈し、お上を畏《おそ》れぬ所業として所払いにされたというはなしも、もうひとつの伝説といえる。この赤門事件の方は外でひろまった噂ではなく、三島の父の梓氏が生前よく口にしていた挿話《そうわ》だった。天保《てんぽう》のころの事件という。
文政十年に加賀の前田家が、十一代将軍|家齊《いえなり》の五十五人もいた子どものひとり、溶姫を嫁にもらい、本郷の藩邸に赤い御主殿門をつくった。高い身分の家から嫁が来ると邸内に特別の御主殿というものを建てるのが、当時のしきたりだったのである。
前田の御主殿は、その豪華さによって有名だった。それと同じ赤い門を天保期に建てたというのだから、もしも本当とすればお咎《とが》めは当りまえで、不思議なこととは思いながらも、梓氏のいわれたままをぼく自身旧著に書いた記憶がある。しかし現地にはこれを実証する史料はないようであって、東京の平岡家にのみ伝えられていた物語、と見るほかない。
また平岡定太郎の失脚に関しては、三島は『假面の告白』のなかで、
「祖父が植民地の長官時代に起つた疑獄事件で、部下の罪を引受けて職を退いてから」、
自分の家の没落がはじまったと書いている。さらに彼はこの「部下の罪を引受けて」の部分に註釈をほどこし、
「私は美辭麗句を弄《ろう》してゐるのではない。祖父がもつてゐたやうな、人間に對する愚かな信頼の完璧《くわんぺき》さは、私の半生でも他に比べられるものを見なかつた。」(原文は括弧つき)
梓氏夫妻の説明では定太郎が長官在職中に郵便切手と収入印紙とを割引価格で島外に売却し、その収益を樺太の開発費にまわしたことが問題にされた、ということだった。(切手、印紙事件では、中川小十郎が大きな役割を演じている。)
切手、印紙にかかわる裁判がもっとも長びいたので、平岡家にはこの事件の印象がつよく残ったのだろうが、定太郎の失脚を招いた疑獄の中身はそれだけではない。元来樺太疑獄事件は、彼を引立てて来た原敬と立憲同志会との深刻な対立から発生したのである。
平岡定太郎の年俸《ねんぽう》は、明治四十三年には五千円に上っていた。
外地手当の五割を加えると、七千五百円である。(判任官以下の外地手当は、同年の勅令一三七号によって本俸の八割とされた。)首相の年俸が九千六百円、閣僚の場合が六千円だったから、――もっとも首相以下の閣僚には、べつに宮中からほぼ年俸額に近い御|下賜《かし》金が出た、――定太郎の収入は公的には閣僚より高く、明治政府のなかでも最高級の部類に属した。二千円も払えば、山の手に相当な大きさの邸《やしき》が買えた時代だった。
定太郎は、一年のうちの半分以上は樺太に行っている。それでも夏子にとって、金銭的にはもっともみたされた時期だったであろう。
樺太に着任するとすぐに定太郎は管内を巡視し、漁業問題の専門家の意見をきき、漁民の代表とも会ったうえで、漁業法の一部改正を行なった。建網の漁法は従来どおり堅持することとして、そのかわり雑魚漁民に漁業組合をつくらせ、三十九箇所の建網漁場の漁業権をこれらの組合に付与したのである。
熊谷喜一郎の時代に漁業権をあたえたり競争入札に付したりした漁場には、六年間の契約期間がおわるまでは手を触れられないし、またその免許料金が前述のように樺太庁の歳入の過半を占めている。それに建網のほかに刺網の併用を許せば、北海道ですでに前例があるように鰊《にしん》は濫獲《らんかく》されて漁場そのものが潰滅《かいめつ》すると、定太郎は思っていた。
貧しい漁民には、建網は単独ではつくれない。そこで彼は南樺太を二十の地区に分けてそれぞれに漁業組合を組織させ、三十九の漁場を割当てる方針をとった。建網制をつらぬきながら日露戦争後に流れ込んだ零細漁民を救おうとするなら、方法は実際上これしかなかったかも知れない。
平岡新長官の「英断」に、漁民は歓喜した。改正法によれば彼らは鑑札をもらって雑魚をとるほかに、鰊の建網漁を行なうことができる。真岡では祝賀の宴が催され、提燈《ちようちん》行列や記念神社の建立《こんりゆう》までが企画された。
しかし喜びは、長くはつづかなかった。杉本善之助の前掲の著書、『樺太漁制改革沿革史』によると、
「既に優良なる漁場は建網業者によつて先有されて居り、或《あるい》は禁止漁區として未定區域になつて居り、どうして優良漁場が殘つてゐる筈《はず》がなかつた。(中略)たとへ多少の漁獲があつたにしても支出經費に及ばず、|と《〈ママ〉》うてい生計を支ふるに足るものではなかつた。」
四十二年春の漁業は惨憺《さんたん》とした不漁におわり、そのために再び刺網漁業要求運動がもり上って、五月には大泊で「樺太漁制改革同盟会」が結成される。この改革同盟会のひきいる群衆が一箇月後の六月に、大泊で暴動を起こすのである。
西園寺内閣は定太郎の長官就任の直後に総辞職し、首相は桂《かつら》太郎に、内相は平田東助にかわっていた。平田新内相の下で次官となった一木喜徳郎《いちききとくろう》が樺太を視察しようとして、六月九日に大泊に上陸する。漁民たちは次官が支庁長の官舎で休息していることを知ると、官舎横手の高台に千人以上の群衆を集めて会合を開き、陳情委員をえらんで面会を求めた。一木次官は出迎えに来ていた長官平岡と相談して、代表三人にかぎって面会をみとめることにした。
三人が一木や定太郎と会っているあいだに、群衆のあいだに酒樽《さかだる》がもち込まれた。乾杯をかわしているうちに指導者のひとりが酒樽の上に立って演説をはじめ、もうひとりが空罐《あきかん》を叩《たた》いてこれに和したと記録にはあり、酒が暴動を誘発した気配が濃い。酒気を帯びた漁師たちが官舎に押寄せて護衛の警官とのあいだで乱闘を演じ、ついには官舎のそばに積んであった薪《まき》に火を放った。
「もし其爲すが儘《まま》に、四周に堆積《たいせき》せられたる薪材《しんざい》に火を放ち、官舍を燔燒《はんせう》するに任せんか、在中の官吏二十餘名は只《ただ》座して燒死を俟《ま》つなかりし、」
と『樺太殖民政策』は書いている。『樺太殖民政策』には平岡長官自身が序文を寄せていて、著者の見方は樺太庁の立場に近いけれど、暴動のこの記述には誇張はないと思われる。一木次官と官舎内で交渉中だった杉本善之助の回想の方で見ても、
「とに角群集は、警官をやつつけろと叫んで取つ組み合ひを始め、巡査が逃るなど騷然たるものがあつた。これを内部に居つて、私達と會見中であつた長官等がガラス窓を通じて見ると、實に惨憺たる騷ぎで正に一大暴動に見|へ《〈ママ〉》た。これは事態容易ならず、このまゝでは、長官を殺せと叫んでゐるし、一木次官や自分等の命が危いと思つたのか、日頃《ひごろ》落着いてゐる平岡長官は狼狽《らうばい》してしまつて、豐原の駐屯《ちうとん》軍司令部に、自から電話をかけ、軍の出動を求めて救援を頼んだ。」
軍の一個小隊が駆けつけて騒動は辛《かろ》うじて鎮圧され、漁民のがわは主謀者のうちの二人が懲役一年、三人が同六箇月(二人は執行|猶予《ゆうよ》つき)をいい渡される。ほかに罰金刑が、六人だった。何人かが群衆に押されて兵の構えている銃剣に触れて負傷し、そのなかの一人は二日後に死亡した。
この事件によって定太郎と雑魚漁民との間柄《あいだがら》は、一挙に険悪化した。それでも爾後《じご》数年間が平静|裡《り》にすぎたのは、明治四十三、四年が豊漁だったことと、建網漁業権の入札更新期が来たら制度を考えなおすという定太郎のことばに、漁民が希望をつないでいたためだった。入札更新期は、明治四十六年である。
定太郎はこの間に大泊、豊原間の軽便鉄道の軌条を拡幅、改善し、また豊原、栄浜間の鉄道を新しく敷設《ふせつ》したりしている。大泊、豊原間の軽便鉄道は、明治三十九年に楠彦守備隊司令官が鉄道班を投入して約六十日間で完成し、翌年樺太庁に移管されていた。改良工事以前には平均時速はわずか六マイルで、しかも「生命財産ハ官其ノ責ニ任ゼズ」という物騒な立札が、沿線各処に立てられていた。
とぼしい予算のなかで彼は鉄道、港湾を整備し、一方では三井合名会社を説いて大泊にパルプ工場を設立することを決定させる。しかし明治四十五年に、それまでは禁漁区だった十七漁場中の十一を解禁として、その漁業権を樺太物産という会社に指名入札させたことが、雑魚《ざこ》漁民の不満の火に油を注いだ。契約更新を目前にして、建網業界の方の権益を拡大したことになる。
漁民たちは翌大正二年に陳情団を東京に送って漁業法改正を国会に請願し、国会が動かないと見ると翌年には方針を長官更迭運動へと切りかえた。杉本善之助以下の陳情団は平岡の失政十五箇条を列挙した「平岡長官更迭に關する請願書」を、大隈重信《おおくましげのぶ》首相兼内相、加藤高明外相、尾崎行雄法相、大浦|兼武《かねたけ》農相に提出する。
定太郎にとっての不幸は山本|權兵衞《ごんべえ》を首相とする政友会内閣(原敬は内相)がジーメンス事件によって倒れ、立憲同志会に支援された大隈内閣が、四月に発足していたことだろう。ことに大浦兼武は原敬の宿敵といってよく、原の勢力を削《そ》ぐことに情熱を燃やしていた。原敬の日記には大浦の暗躍ぶりにたいする非難が、くりかえし出て来る。
新内閣の成立とともに、原系の内務次官、警視総監、東京府知事はそれぞれ辞表を提出した。樺太庁については、六年まえに原敬が罷免した長官次席熊谷喜一郎は、大浦の子分筋にあたる。平岡長官更迭の請願が出たことは、大浦の目には原への復讐《ふくしゆう》の好機として映じたはずである。
事実大隈首相兼内相は――たぶん大浦の進言によって――、平岡以下七人の地方官を休職処分にすることを考え、それでもさすがにためらいが生じたのか、元老の井上|馨《かおる》に相談している。井上は、これを制止した。山縣有朋が大浦を可愛《かわい》がったのにたいして、井上は旧友伊藤博文のつくった政友会に好意的だった。
興津で療養中の井上の許《もと》に定太郎が挨拶《あいさつ》に行き、自分はやはり辞任した方がいいと思うというと、やめてはいけないと井上はいった。元老にそういわれて思いなおし、樺太に帰任するつもりで大隈と大浦とを彼は歴訪する。それからさきの様子は、原敬の日記、大正三年六月三日の項にくわしい。
「平岡定太郎來訪、近日樺太に歸任せんと欲して大隈總理を訪問し、又下岡内務次官を訪問せしに別事なかりしが、大浦を訪問せしに頻《しき》りに旗幟《きし》の鮮明を要するとか改悛《かいしゆん》の情なきものは致方《いたしかた》なしとか云《い》ふ樣の談話ありて、其辭職を諷示《ふうじ》するものゝ如くなるに因《よ》り、再び下岡を訪問せしに下岡は大浦|遂《つひ》に内相たるべしとか、又平岡が辭職すべきやと云ひたるに對し之《これ》を止《とど》むるの話もなかりしに因り、(中略)如此《かくのごとき》情勢にては途中にて休職とならんも知れず、不面目|此上《このうえ》もなく、(中略)依《よつ》て辭職すべしと思ふに付同意を得たしと云ふ、余は彼等の術中に陷るは如何《いか》にも馬鹿《ばか》らしけれども不得已《やむをえぬ》事情と認め之に同意したり。」
樺太に「ヒラオカジヘウテイシユツシタ」という電報が届いたのは、五日の午前二時だったという。
定太郎はこの時点ではまだ、事態をさほど深刻にはうけとっていなかったのではないか。内閣が交替するごとに地方官の大幅な入れかえが行なわれることは、次第に慣習化していた。原敬は彼が無能と判断した知事を次々に罷免《ひめん》し、次の内相がこんどは政友会系の知事を追放する。樺太庁長官を定太郎が六年間もつとめ得たこと自体が、すでに異例といえた。
辞表を出して雌伏していれば、また必ず返り咲きの時期が来ると彼が判断したとしても不思議はない。政友会内閣の首相を二度つとめた西園寺公望は健康をそこね、山本權兵衞は挂冠《けいかん》にさき立って原敬に首相就任を求めた。このあと政友会が政権をとるときには、首相はまちがいなく原だろう。定太郎の同級生の若槻禮次郎は大正元年の桂内閣いらい蔵相を二度つとめ、水野錬太郎は原の下で内務次官になっていた。定太郎にも政、官界での将来は、まだ失われてはいなかったのである。
だが大浦は、原敬のこの子分の社会的生命を絶つつもりでいた。検察当局は樺太庁長官|更迭《こうてつ》の請願書が提出された時点から捜査を開始し、定太郎が原敬に会った日――六月三日――の報知新聞は、彼が十一の漁場を樺太物産に渡したのは、この会社を通じて原敬に選挙資金十万円を用立てるためだった、と報じている。原敬の日記をもう一度引用すると、
「政府の仕向は如何《いか》にも陋劣《ろうれつ》にして大浦が主となり江木書記官長及び安達謙藏等共謀して平岡を陷《おとしい》るゝ爲《ため》に、平岡が政友會の爲めに漁場を利用して選擧費用を作りたりとて報知、やまとの如き御用新聞に掲載せしめて無根の風説を流布《るふ》し、因て以《もつ》て平岡を傷《きずつ》け遂に其職を去らしむるか、(中略)獨り平岡のみならず他の地方官も此|奸計《かんけい》の爲めに其職を去らしめ、又は他に轉ぜしめられたるもの多し。」
調査の末に、検事は起訴にあたいしないと報告した。それでも大浦は法相尾崎行雄を説得して、平岡の起訴に踏切らせた。予審請求書は、翌大正四年三月十一日に提出される。
皮肉なことに大正四年には大浦自身が政友会の代議士に巨額の金を贈って彼らの買収をはかったことが発覚し、政界からの引退を条件に何とか起訴をまぬがれた。定太郎の裁判の方は大正五年五月に東京地方裁判所が無罪の判決を下し、検事がわは控訴したが東京控訴院は大正六年に検事控訴を棄却して、無罪が確定される。
控訴院の判決が出た直後の五月二十六日に、定太郎の「雪冤《せつえん》会」が楠彦幸彦中将(当時)を発起人総代として開催された。初代の長官だった楠彦は次席の熊谷喜一郎と衝突をつづけていたから、熊谷の暴政の後始末をさせられた形の定太郎には、同情的だったのだろう。
無罪は確定しても、切手印紙の割引売却によって生じた赤字|補填《ほてん》の問題は残った。定太郎はそれをとりあえず、私財をもって埋めておいたのである。その金額約十万円の返済を樺太庁に求める「不当利得返還請求」の訴訟を定太郎は起こし、裁判は昭和までつづく。
この間に定太郎は一時、東京市の土木局長になっている。しかしまもなく後藤新平が東京市長に選ばれ、後藤が市制大改革の抱負を抱いて市長に就任するときくと、彼は首相原敬――原内閣は大正七年九月に発足――と相談のうえ、大正九年十二月に職を辞した。原敬はその翌年の十一月に、東京駅頭で暗殺される。
3
定太郎の閲歴を、いささか長く述べた。彼の生活の浮沈が孫の公威《きみたけ》(三島)の精神形成に、間接的にせよつよくかかわっているからである。
息子の梓《あずさ》氏は原敬が殺されてから二年あまりのちに結婚し、翌大正十四年に公威が生まれる。定太郎はこの時期にはもう政界に諦《あきら》めをつけ、さまざまな事業に手を出しては借金を重ねていた。
定太郎の樺太庁長官時代には妻の夏子は数多くの侍女をまわりにはべらせ、実家の永井家では想像もできなかったような贅沢《ぜいたく》な生活を送った。有栖川宮家でかいま見た優雅を、わが身に実現しようとしたのだろう。定太郎が落魄《らくはく》してからのちも、彼女はその浪費癖を依怙地《いこじ》にまで変えようとしなかった。
「祖父の事業|慾《よく》と祖母の病氣と浪費癖とが一家の惱みの種だつた」、
と『假面の告白』で三島はいう。
「いかがはしい取卷き連のもつてくる繪圖面に誘はれて、祖父は黄金夢を夢みながら遠い地方をしばしば旅した。古い家柄の出の祖母は、祖父を憎み蔑《さげす》んでゐた。」
夏子は間歇《かんけつ》的に狂躁《きようそう》の発作を起こし、これについて三島は「祖父の壯年時代の罪の形見であることを誰が知つてゐたか」(『假面の告白』)といういい方で、性病だったことを暗示している。性病をうつされたと主張したのは当の夏子だったと見えて、梓氏の説明では、
「あながち母の邪推を待つまでもなく、(夫婦間に子どもがひとりしかできなかったのは)父があるいはトリッペルにとっつかれていたためかと思われます。」(『伜・三島由紀夫』)
長い単身赴任中のいつの時期かに、定太郎は病気を背負い込んだのだろうか。
官吏をやめてからの定太郎が三島のいう「黄金夢」にとりつかれ、山師のような仕事をしていることも、夏子には許せなかったはずである。平民の出であっても帝国大学――大学は当時ひとつしかなかった――出身の役人なら、勅任官へのみちは開かれていた。そう思ったから彼女はたぶん結婚を承諾したのであって、山師まがいの男といっしょになった覚えはない。
それでも夏子は平岡家のために彼女なりに心を砕き、借金とりにも果敢に応対したらしい。「夏は何も好きこのんで苦勞してゐるのではございませんよ」と、彼女が涙ながらに実家の伯父に訴える場面を、三島はのちに『好色』と題する短篇のなかでえがき出す。
昭和二十三年に発表された『好色』は、作中の話者が平岡公威であり、登場人物は夏子も彼女の伯父の松平頼安もその親兄弟も、(夏子の甥《おい》の名が一部分変えてあるらしいほかは)ことごとく実名である。三島の小説としては、異例であろう。作中には、「作者はこの小説でいかに些細《ささい》なアネクドートといへども公威が傳聞したこと以外には一切想像にたよらぬことにしてゐる」、という断り書きまで挿入《そうにゆう》されていて、ここに出て来る夏子の伯父にたいすることばは、ほぼ公威が耳にしたとおりと考えてよいように思う。
夏子は差押えをおそれ、大切な道具や母の形見の品を伯父に預けておいた。伯父の方はそれを売払って女遊びの費用にあててしまい、夏子が預けた品物のはなしを切出すと、そんなものは知らないとこたえる。
「『伯父さま』と祖母の顏がだん/\赤くなつて、小さな愛らしい眼《め》が眞劍な怒りできらきらしてくる。『夏が平岡(祖父の名)のことでこんなに苦勞してこんなに夜の目も寢ずにあれはかうこれはかうと心づもりをしてゐるのをお茶化しになるつもりでございますか。夏は何も好きこのんで苦勞してゐるのではございませんよ。誰が何も好きこのんで……』――言ひかけるうちに祖母は涙がこみ上げて來て、襦袢《じゆばん》のはじで目をぬぐはずにはゐられない。彼女はある無禮な債權者にここの部屋でつきとばされた日のことを考へる。彼女の古い血統の矜《ほこ》りが辛うじてたへ忍んできたかずかずの屈辱を思ひうかべる。」
屈辱をしのんで生きている女が慰めを求める相手は、ふつうなら息子だろう。しかし夏子とその偏窟《へんくつ》なひとり息子とのあいだに、気持のうえで通いあうものがあった気配は見当らない。『伜・三島由紀夫』のなかでも、夏子に同情することばを洩《も》らしているのは梓氏ではなく、倭文重《しずえ》さんの方である。
「……母のように一生|可哀想《かわいそう》な生活を送った者は数少ないと思っております。」
嫁として辛《つら》い生活を強《し》いられて来た倭文重さんが、そう述懐している。
「敗残の身の母の手もとにのこされたもの、それは今は一生まつわりつく精神的苦痛と疾病のさいなみの他にはなんにもありませんでした。暗黒の地底にもだえ苦しむ母に対し、公威は一条の救いの光を投げ与えてやれる唯一《ゆいいつ》のお星様だったのです。ひっきょう、祖母の生甲斐《いきがい》はただただ初孫のこの公威だけで、もはやその他には何の希望も期待も持つことができなかったのです。」
三島は生後四十九日で、「二階で赤ん坊を育てるのは危險だといふ口實の下に」(『假面の告白』)階下に住む夏子の手許にひきとられ、病気と老いの匂《にお》いにむせかえる部屋のなかで幼少期を送った。近所の男の子と遊ぶことは禁じられ、遊び相手は祖母のえらんだ三人の女の子だった。ちょっとした騒音も祖母の神経痛にさわるために、彼は女の子たちを相手におはじきなどをしていた。
こういう異様な生活と家の中を吹荒れる感情の暴風とが、子どもの心身に影響しないはずがない。自家中毒を彼が患《わずら》ったのも、そのせいではないかと思われる。自家中毒にはぼくも幼少時に長く苦しめられたのでよく知っているが、胃液までを吐く神経性|嘔吐《おうと》である。それが月に一、二度、突然襲って来る。神経質な、過保護に育てられた児童に多いといわれているだけで、原因はいまだにわかっていない。
――あれくらい人生の不条理を感じさせる病気はないねえ。
三島は後年(こちらが同じ病気の経験者と知って)、呟《つぶや》くようにいった。「人生の不条理を」というつよい語句が印象的に脳裡《のうり》に残り、彼はこのことばで単に病気の苦しみだけを表現しようとしたのだろうかと、いまでもとき折り考える。幼少期の三島は当人の意志とも両親の意向ともかかわりなく、まさに不条理に祖母の病室に閉じこめられていた。
三島は小学校一年生のときに、「フクロフ」(梟)と題する作文を書いた。その冒頭が、
「フクロフ、アナタハモリノヂヨワウデス。」
六歳の三島がこの文章を読むと同級生は一瞬|呆気《あつけ》にとられ、次には爆笑の渦《うず》が起こり、先生は「平岡は特別だから」といって、爾後《じご》彼に作文を読ませることは卒業までしなかったと、友人のひとりが伝えている。三島の方は、なぜ笑われたのか理解できなかったのではないか。
三島は祖母の部屋で、「子供に手のとどくかぎりのお伽噺《とぎばなし》を渉獵《せふれふ》して」いた。祖母が起こす発作や家庭内のいざこざをべつとすれば、それが彼の経験していた世界であって、外界の雑音は大人たちの口を通じてはいって来るにせよ、そんな社会が三島には、
「お伽噺の『世間』以上に陸離たるものとは思へなかつた。」(『假面の告白』)
森の女王の梟が三島にとっての「世間」であり、その「世間」を彼は無邪気に表現したまでだろう。「綴方《つづりかた》の教師は、私の空想的な綴方に眉《まゆ》をひそめてゐた」と、のちに三島自身『太陽と鐵』のなかで回想する。
夏子は少女時代から、泉鏡花が好きだった。弟の大屋敦の文章によると、
「私など、鏡花を読んでも、その世界が荒唐|無稽《むけい》で、ついていけないのだが、文学少女だった姉は、それをたいへんおもしろいと感じるらしい。姉は鏡花のファンだった。」(『私の履歴書』前掲)
三島が小学校の高学年に達してからは、夏子はこの孫に鏡花の作品を読ませた。作家としての三島由紀夫を育てたのは母の倭文重さんだったということを、三島自身がいくどか書き、いまはそれが通説になっているように見える。倭文重さんが彼の文学のよき理解者だったことは疑いを容《い》れないにしても、育ての親はそのまえにもうひとりいた。
「狂気の妖婆《ようば》がおそらく、かつて天才に必要なものと考えられていた狂気の種子を彼の内部に蒔《ま》いたのである。」
マルグリット・ユルスナールが、その『三島あるいは空虚のヴィジョン』(澁澤龍彦《しぶさわたつひこ》訳)のなかにしるしていることばである。
夏子を直接にえがいた三島の作品は、そう多くはない。
『假面の告白』や前掲の『好色』や、その他自分の少年期を題材とした二、三の短篇に、彼女は登場している。しかしいずれもいわば脇役《わきやく》として顔を出す程度にとどまり、夏子を思わせる婦人が前面に出て来る小説は、昭和二十六年に書かれた短篇、『偉大な姉妹』のみだろう。
夏子は昭和十四年一月に死に、二十六年一月がその十三回忌にあたる。忌日の法要に触発されて三島はこの小説を書いたようで、物語の冒頭は法要の場面である。もっとも法要の日時は作中では二年ばかりくり上げられているし、夏子に相当する人物も故人ではなく、故人の娘になっている。
三島は作品集(昭和二十八年刊、新潮社)にこれを収録したさい、みずから次のような解説を付した。
「『偉大な姉妹』はN一族をカリカチュアライズしたものである。私の祖母は小柄《こがら》な女性で、女主人公のやうな偉大な體躯《たいく》は持ち合はせてゐなかつたが、この二人の女主人公の古風な言葉遣ひや、古い禮儀作法の中に、私は亡《な》き祖母の思ひ出を書き込んだ。」
文中の「N一族」が永井家をさすことは、いうまでもない。「二人の女主人公」というのは、夏子にあたる人物|淺子《あさこ》に双生児の姉がいる設定になっていることによる。双生児の姉妹の夫はともに栄達を目前にして世を去り、二人は夏子がそうだったように「良人の偉大」を、もう一息のところで逸した。
それでも淺子は、娘時代に見た――と彼女が信じている――「偉大」を、なお夢みつづける。
「淺子は大帝の治世の最後の華であつた明治三十八年の横濱沖|凱旋《がいせん》觀艦式の盛況をおぼえてゐる。夜になつた。軍艦はイルミネーションに身を飾り、秋の星空につぎつぎと花火を打ち揚げた。」
「淺子がこれらの情景から學んだものは、要するに『偉大さ』の映像であつた。何といふ偉大な時代! 何といふ偉大な兩親!」
明治三十八年十月に百六十五|隻《せき》の艦艇をならべて行なわれた凱旋観艦式には、文武百官が家族とともに招かれ、拝観者を乗せる船の数は三十二隻に及んだ。淺子こと夏子も大阪府内務部長|従《じゆ》六位平岡定太郎の夫人として、実際に盛儀を拝観した可能性が高い。
その「偉大さ」は、彼女の周辺から跡形もなく消え去った。同じ小説によると、
「やがて『偉大』の觀念は、淺子にとつて、今や失はれたもの凡《すべ》ての總稱になつた。それは小さい家へ引越した一家がもてあます巨大な家具のやうなものであり、われわれの生活に多少迷惑な微笑を強ひる野放圖な音を立てる柱時計のやうなものであつた。」
柱時計はすぎ去った時を、過去の「偉大」を、有栖川宮《ありすがわのみや》の邸《やしき》でかいま見た貴顕の社会を、そしてその雅《みや》びを、幼い孫に告げつづけたであろう。
三島の初期の小説に華胄《かちゆう》界のはなしがよく出て来るのも、彼が学習院に学んだことよりはむしろ祖母の影響による、と考えた方が自然である。学習院の同級生には華族の子どもが数多くいたにせよ、つきあいは学校や文学面にかぎられ、社交上の生活はまたべつの次元に属する。(三島の生家は、華族の社交界とは無縁だった。)
鹿鳴館《ろくめいかん》の舞踏会のことも、夏子は孫にはなしてきかせていた気配がある。昭和十六年の「山梔《くちなし》」に『鹿鳴館のことども』と題する一連の句を、三島は発表している。
香水のしみあり古き舞蹈服
蟲干《むしぼし》や舞蹈服のみ花やかに
遠雷や舞蹈會場馬車集ふ
蟲干はまさか他人の家のことではないだろうし、古い舞踏服の持主といえば夏子以外に考えられない。洋装の祖母は、これより二箇月まえの同じ「山梔」に掲載された句にも出て来る。
洋裝の祖母の寫眞や庭|躑※[#「足+蜀」、unicode8e85]《つつじ》
鹿鳴館が閉鎖された明治二十二年には、夏子はまだ十三歳だった。十三歳の少女が末期の鹿鳴館に有栖川宮妃のお伴として行ったと仮定してみても、舞踏に加わることは子どもには許されない。もう少し成長してから有栖川宮邸の舞踏会に稀《まれ》に出させてもらったときの思い出が、噂《うわさ》にきいた鹿鳴館の光景と夏子の記憶のなかでまざりあったのか、それとも三島の方が両者をとりちがえたのか、そのどちらかではないか。『鹿鳴館のことども』という彼の句は稚拙ながら現実感をたたえていて、フィクションとは思えないのである。
「鹿鳴館時代といふものには、子供のころからあこがれを持つてゐた」、
と三島は昭和三十一年に書いている(『「鹿鳴館」について』)。憧《あこが》れを育てたのは、夏子だろう。その憧れがのちに鹿鳴館を背景とする『卒塔婆小町《そとばこまち》』の劇を生み、さらに四幕の『鹿鳴館』をつくり出す。
失われた「偉大」は夏子のなかでは鹿鳴館の――正確にいえば鹿鳴館の残映を保っていた時代の――舞踏会の香水と、分ちがたく結びあっていた。「偉大」はエロスの香りに、つつまれていなければならない。
これはやがて、三島由紀夫自身の鞏固《きようこ》な信条と化して行く。
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T 青春――『酸模《すかんぽう》』から『盜賊』へ
初恋
1
ピアノの音が恋のはじまりだったと、その回想録のなかで三島由紀夫は書いている。
昭和十九年の初秋のころ、三島は友人の家でピアノの音をきいた。彼の『わが思春期』によると、
「隣室から響いてくるピアノの音は、私の友だちの妹でした。彼女は、それまでにも、お茶を運んで部屋へ入ってくることがありましたが、顔をまっかにして、こそこそと逃げるように行ってしまうので、私は彼女の存在に、あまり注意しませんでした。(中略)しかし、そのピアノの音を聞いて、私は、彼女が何か、そのピアノの音を私たちに聞かせたがっているのを感じました。」
彼女――M・K嬢――は昭和二年の生まれだから、三島よりは二歳の年少である。父親は外交官で、当時在欧中だった。
M・K嬢の兄は学習院の初等科時代いらいの同級生であり、三島はしばしばその家を訪れていて、K子嬢とも――彼自身のことばにあるように――いくどか顔をあわせていた。しかしピアノを契機に、二人の間柄《あいだがら》は急速に変化する。
この場面は『假面の告白』にも、ほぼ同じ形で出て来る。ピアノの音が彼女にたいして、「私をぎごちない人間にしてしまつた」と『假面の告白』の主人公はいう。
「あの音に耳を傾けて以來、何かしら私は彼女の祕密を聞き知つた者のやうに、彼女の顏を正面からみつめたり彼女に話しかけたりすることができかねた。たまたま彼女がお茶をはこんでくるとき、私は目のまへに輕やかに動く敏捷《びんせふ》な脚だけを見た。モンペやズボンの流行で女の脚を見馴《みな》れないでゐるせゐか、この脚の美しさが私を感動させた。」
友人の方はその後まもなく召集をうけて十月に軍隊にはいるのだが、三島は彼の妹に思いきって手紙を書き、K子嬢からも返事が来て、両者間の文通がはじまる。K子嬢は背のすらりと高い、どちらかというと丸顔の美少女だった。
やや年表風の記述をここで加えておくと、三島はこの年、昭和十九年の同じ十月に、勤労動員で群馬県太田の中島飛行機に行き(住居は太田町東矢島寮十一寮三十五号室)、ただし身体虚弱ということから小泉にある工場への出勤は免除された。結核の同級生とともに総務課の事務室勤務を割当てられ、十二月以降はそこでもっぱら小説『中世』を書上げることに専念していた。『中世』は「主に中島飛行機小泉工場の總務課の机上で書かれたものであるが」、と彼はのちに述べている。
「終戰の年の早春の擱筆《かくひつ》直後に赤紙が來たときは、神々が私に形見となる作品を書かせるために、召集直前に完成させて下すつたか、といふ、大そう大袈裟《おほげさ》な感想を持つた。」(『三島由紀夫作品集』昭和二十九年新潮社刊、第五巻「あとがき」)
この小説の冒頭の部分は、昭和二十年二月の「文藝《ぶんげい》世紀」に発表された。赤紙(召集令状)が来たのが、二月四日だったという。本籍地の兵庫県の聯隊《れんたい》に入隊するために、三島は二月六日に渋谷の家を出た。
二月といえば東京はこの月の半ばに、機動部隊の艦載機による大空襲にはじめて見舞われる。手許《てもと》にある筆者の古い手帖《てちよう》で見ると、二月七日の項にスピッツ犬を薬殺と書いてある。混乱時にそなえて飼犬はすべて殺せという指令が出され、わが家もついにそれに抗しきれなくなったのである。(無心に毒薬の注射をうけていた犬を思うと、いまも胸が痛む。)そういう破局的な時期の応召だった。召集令状をうけとったときの家族の反応について、三島はのちに、
――家を出るときには、一通りの愁嘆場があったよ。母親は玄関で泣き伏すしね。
多少シニカルな口調で、いっていた。
感冒で高熱を出していたのを肺浸潤と誤診され、即日帰郷を命じられたことについては三島自身がいくどか書いていて、くりかえすまでもないだろう。帰京後の彼は病気を理由に大学にも動員さきにもしばらくは行かないで、小説『サーカス』を書いていた。『サーカス』を書上げてからまもなく、彼はM・K嬢の家からK子の兄に面会に行かないかという誘いをうける。
「私が予後を養っているうちに、彼女の兄の隊で、面会の許しが出ました。そこで、彼女の兄の家では、一家そろって面会に行くことになりました。それに私も呼ばれて、一緒に一泊旅行をして、面会に行くことになったのです。」(『わが思春期』)
K子嬢の兄は、前橋の予備士官学校にいた。当日の朝、三島が彼女の家に近い中央線の駅のホームで待っていると、二人の妹をつれたK子嬢が駅の階段を降りて来た。彼女は「ズボンをはき、セーターを着て」髪に小さなリボンをつけていたと『わが思春期』にはあり、『假面の告白』では「青いオーヴァー」を着ていたとしるされている。『假面の告白』は小説だが、オーヴァーの件は事実だったのではないか。
前橋行きは、三月九日である。当日の東京はぼくの記憶では寒かったし、まして行先は暖い地方ではない。
汽車は、予想外にすいていた。昭和三十二年に少女向けの雑誌に発表された『わが思春期』(口述を筆記した文章だから文字は新字新仮名、単行本としての刊行は三島死後の昭和四十八年)の方からの引用をつづけると、
「私は彼女と、何とか二人きりになって話したいと思いました。しかし、いつもじゃまが入ってきました。(中略、原文改行)やっと二人きりになる何分かの間、私たちは、まだ春の浅い寒々とした田園の景色を、窓の外に眺《なが》めました。そして、私たちは、何とはない話をしていました。
『どんな小説を読んでいるの』
と、私は彼女に尋ねました。」
『假面の告白』では、彼女がフゥケーの『水妖記《すいようき》――ウンディーネ』(柴田治三郎訳)の文庫本を、手提から出して「顏の前に、扇のやうにかざして見せた」ことになっている。『わが思春期』には小説の題名まではなく、この部分は彼女を水の精と結びつけるための創作だったかも知れない。水もしくは海を背景とする男女の愛の物語は、『花ざかりの森』(昭和十六年)や『苧菟《おつとお》と瑪耶《まや》』(昭和十七年)いらい、すでに彼はいくども書いていた。
前橋までのこの汽車旅行の経験をもとに、三島はのちに『バラアド』と題する詩をつくり、十八歳のK子嬢に贈っている。献辞つきのこの童謡風の恋歌は、同じころ同人雑誌「曼荼羅《まんだら》」の四号に発表されていらい、全集以外には再録されていない。知るひとも多くはないと思うので、少々長いけれどあえて引用しておく。
さくらさくころに
しづかに汽車が出る
花子と太郎はそれに乘つた
汽車ははしつた 海のほとりを
日のくれるまで 海のほとりを
昏《く》れる海から百合《ゆり》の原のやう
しろい手がたくさん招いてゐた
沖ではさびしい潮《うしほ》を吹いて
鯨たちがほえまはつてゐた
こゝへも還《かへ》る帆があるのだと
太郎は思ひもしなかつた。
汽車ははしつた 海のほとりを
――來る日も 來る日も――
さくらさくころに。
いくたび 風のあちらにのぼる
おほきな日の出をふたりはみたか。
目のそこまで明るくなると
さびしくなつて手をとりあつた。
汽車ははしつた 海のほとりを
海のほとりはどこまでつゞくか
花子は星のちかちかひかる
海をみながらかんがへてゐた。
………(中略)……
走るは世の果て、かぎりがあらうか?
やがて ふたりは 結婚した
汽車ははしつた 海のほとりを
ふたりはしづかに年をとつた
以下七行は、省略する。三島は三年まえの『苧菟《おつとお》と瑪耶《まや》』のなかで、
「『海へいかう。』そのことばは、なんぴとも識《し》ることのできない符牒《ふてふ》のやうに、ふたりの口からさゝやかれた。馬車は町を出發した」、
と書いている。いまはその瑪耶を、現実に見出《みい》だしたというべきだろうか。前橋行きの車窓から見えた早春の関東平野の風景は、三島の想念のなかでは海のほとりに変っていたのである。
前橋に三島が泊った夜、東京の下町は大空襲にあった。
空襲警報の発令が三月十日の午前零時十五分と記録にはあり、警報のそのサイレンが鳴ったときにはすでに最初の焼夷弾《しよういだん》が投下されていた。一時過ぎには下町は絨毯《じゆうたん》爆撃によって、炎の海と化した。火柱は、前橋からも遠望されたという。
深更のことだから前橋で実際にそれを見たひとは多くはなく、正確な情報は翌朝になっても伝わっては来なかった。それでもK子嬢の兄は東京にとどまることの危険さを家族一同に説き、「早く疎開《そかい》してくれなければ毎晩おちおち眠れない」と訴えたと、『假面の告白』はしるしている。女ばかりの家族を東京においている身として、当然の発言だったろう。三島とK子嬢の一家とは、帰途大宮の駅で罹災者《りさいしや》の大群にあう。
「彼らは顔にすすをつけたり、寝巻一枚の上にどてらを羽織ったり、髪も乱れ、足も泥《どろ》だらけの姿で、重い荷物をしょっていました。(中略)ただうれしかったことは、彼女がその人たちの目つきに対する恐怖のあまり、私に寄りそってきて、私の学生服の腕に思わずしがみついたことです。」(『わが思春期』)
帰京後は、二人のあいだの文通は頻繁《ひんぱん》になる。彼女の手紙には次第に親しみを籠《こ》めた愛が感じられ、「私も夢中で恋文を書いていました」と三島はいう。
若い男から「良家の子女」に手紙がたびたび舞込むということは、それだけでこの時代には事件だった。(「良家の子女」は、いまは死語に近い。)K子嬢の父方の伯父はプロテスタント系の哲学者として知られ、彼女自身の家も「清教徒風の家庭でした」と、同じ『わが思春期』は説明している。
敗戦前のものがたい東京の山手の家が、娘に若い男との文通を許したのである。母親の同意なしには、こういうことはあり得ない。そればかりかK子嬢は、疎開さきの軽井沢の家に三島を招待した。
彼女の家では長男の忠告を容《い》れて、軽井沢への疎開を慌《あわただ》しく決定していた。
「そのとき彼女からきた手紙に、いよいよ一家は高原へ疎開することになった。そして、もう足元から鳥の飛び立つような忙しさで、疎開を急いでいるので、東京にいる間はお目にかかるひまがないが、うちじゅうでも疎開先へ、ぜひ一度遊びに来てほしいと言っているから、ぜひ来てくれるようにと言ってきたのでした。(中略)お宿の心配は御無用だし、そちらの都合のつく限り、何日泊ってもいい、と記してありました。そして彼女は、私に会う日を待ちこがれていると、つつましやかに書き添えていました。」
若い女が男に向かって「会う日を待ちこがれている」と書くことは、この時代には愛情の告白だったという事実を、ここで註記しておいた方がよさそうに思う。(軽井沢から来た彼女の手紙には、『假面の告白』によれば、「お慕ひしてをります」としるされていた。)
K子嬢といっしょに軽井沢に移ったのは、彼女の祖母と母と二人の妹たちだった。伯母も同居していたと『假面の告白』には書かれているのだが、いずれにせよ女ばかりの世帯に三島は招かれたのであり、しかも何日泊ってもいいとK子嬢はいっている。殆《ほとん》ど許婚《いいなずけ》としての待遇、といってよい。三島の家でもむろん両親は息子の行先を知っていて、汽車の切符を苦心して入手した。つまりこの段階で両家のあいだには、ある無言の諒解《りようかい》が成立していたのである。
三島の学友たちは動員さきの中島飛行機と大学が衝突した結果、太田から東京に引揚げて来ていた。再開された大学の授業に三島も四月から通い、五月五日からは神奈川県高座の海軍|工廠《こうしよう》に再動員される。軽井沢に行ったのは六月十二日だったと『假面の告白』にはあり、『わが思春期』は「雨期に入りかけた」ころとのみ述べている。『わが思春期』では、K子嬢の仮名は浅子である。
「浅子は駅に迎えに来ていました。そして気がつかずに過ぎようとした私の背を突いて、ワッと私を驚かせました。私が振り向くと、彼女はひなげしのように真赤になりました。こういう彼女の動作や、はにかみや、一種の幼い媚態《びたい》には、もうはっきりお互いが恋人同士だという感じを抱かせるものがありました。
『お疲れになった?』
それはもう以前とは違って、はっきりした恋人のいたわりの言葉でした。」(『わが思春期』)
K子嬢は「元《もと》Mホテルの外務省分室」に、徴用のがれに勤めていたと、この軽井沢での数日間をえがいたもうひとつの小説、『夜の仕度』は書いている。(『假面の告白』では、ただ「官廳の分室」。)外務省の分室は、三笠《みかさ》ホテルにおかれていた。
初夏の軽井沢の裏山や旧ゴルフ場で、若い二人は接吻《せつぷん》をかわす。三島自身が『夜の仕度』(昭和二十二年)、『假面の告白』(昭和二十四年)で書き、『わが思春期』で口述しているその場面を、ここに改めて再現する必要はないだろう。
三島の母堂の倭文重さんは彼の初恋について質問をうけると、
――『假面の告白』に書いてあるとおりです。
つねに、そういっておられた。回想録である『わが思春期』よりも記述はむしろ『假面の告白』の方が全体としてくわしく、ぼく自身がもつ若干の知識に照らしても、まさに経緯はそこに書かれているとおりだったと思われる。ただ一点、主人公を同性愛に仕立ててあるということを除いては。
高座の海軍工廠にもどってからの彼は、『岬《みさき》にての物語』の執筆にとりかかった。この小説では主人公の少年がある小高い岬で、「遠い未來に私を訪れる花嫁はさういふ人でなければならないと、心にいつしか描き定めた面立《おもだ》ち」の美少女に出会う。
明かにK子嬢を念頭においた小説を書きながら、敗戦の日を彼は迎えるのである。
2
三島が「生れてはじめて小説らしいものを書いた」とみずからいっている作品は、『酸模《すかんぽう》――秋彦の幼き思ひ出――』である。
「三、四十枚の小説で、中學一年生のとき書き校友會雜誌に載せられた。」(『四つの處女作』)
『酸模』は『座禪物語』と題するもうひとつの短篇や詩の連作『金鈴』とともに、昭和十三年の「輔仁會《ほじんかい》雜誌」(三月二十五日付)に発表された。彼はこのとき、十三歳になったばかりだった。
――公威が四、五歳のころ、散歩に出たら市ヶ谷の刑務所のまえに出てしまいましてね、
と倭文重さんがこれも三島の死後、いっておられた。
――薄気味の悪い建物を見て、公威はよほど驚いたらしく、これはなあにってしつっこく聞くのですよ。悪いひとが入れられているところですから、はやく帰りましょうといったのですが、帰りたがらないのです。あとで義母《はは》から、どうしてそんなところにつれて行ったのかと、たいへん叱《しか》られましたけれどね。
刑務所に関する倭文重さんのほぼ同じ趣旨の回想は、『伜《せがれ》・三島由紀夫』にも出ている。市ヶ谷刑務所は小伝馬町《こでんまちよう》の牢《ろう》屋敷が明治八年に移転して来た建物で、昭和十二年まで市ヶ谷台町にあった。永住町の三島の家からは、坂を北に降《くだ》って成女学園沿いの坂をもう一度上れば、数分で刑務所の塀《へい》のわきに出る。
牛込にこの市ヶ谷刑務所があったせいか、囚人護送車が明治通りを通るのをぼくも子どものころ、何度か目撃した記憶がある。恐《こわ》いもの見たさで、編笠《あみがさ》をかぶせられた車内の囚人たちの姿に、熱心に見入ったものだった。彼らが自分の住む世界の人間とは別種の、何か不気味な存在として子どもの眼《め》には映じたのである。(犯罪劇や刑務所の情景などをブラウン管を通じて見馴《みな》れているいまの子どもの場合、感じ方はむかしとは多少ちがうかも知れない。)
童話の世界に閉じこもり、外界には無関心に生きて来た幼い三島にとって、灰色の刑務所との遭遇はとりわけ衝撃的だっただろう。「フクロフ、アナタハモリノヂヨワウデス」と彼が小学校一年生のときの作文に書き、教師や同級生たちを驚かせたことについては、まえに触れた。衝撃が彼の心に残り、その記憶が八、九年後に『酸模――秋彦の幼き思ひ出――』として結実することになる。
脱獄囚との少年の出会いが、この小説の主題となっている。少年はみちに迷って、しくしく泣いていた。
「すると、秋彦の肩を叩《たた》いたものがある。彼は大地が割れて、火柱が立つたやうに思へた。その火柱の中から、恐ろしい、惡魔が出て來て、秋彦の肩を叩いた。彼は聲も立てないで、飛びのくと、兩手で顏をおほつた。併《しか》し其《そ》の夢もさめて、人間の聲が、
『どうしたんだ、坊ちやん』
と明らかに云《い》つた。彼はそうおーつと目をあけた。」
これが中学校の一年生の書いた作品かと、『酸模』を読むと作者の早熟ぶりに驚歎《きようたん》する。
刑務所は小説のなかでも、家の近くの丘の上にある。
ただし小説では丘の上には酸模や草夾竹桃《フロツクス》の花が咲きみだれ、丘の上の右手には広大な森が拡《ひろ》がっている。
「冬は、雪姫の純白な白衣の袖《そで》をやんはりとかけられた丘が見えた。」
自然にたいする病的な憧憬《しようけい》や執着が子どもにもあると作者はいい、
「否《いな》、それは、大人より強烈な場合がある」、
と作中で説明する。
昭和のはじめの牛込に花の咲きみだれる丘はなく、まして広大な森など存在するはずもなかった。丘の景観はむろんフィクションだが、しかもここに展開されている自然はふつうにいう意味での自然とは性格をことにしている。「雪姫の純白な白衣の袖」という比喩《ひゆ》がすでに暗示しているように、それはむしろお伽噺《とぎばなし》のなかの自然だった。
主人公の少年は、「背丈の恐ろしく高い巨木が」枝を八方にのばしているお伽の森のような場所を駆抜け、草原に出て「青空を、それから、雲を、」口の中に呑込《のみこ》む。
「秋彦は、大地の躍動を知つた。大地は心臟の鼓動の樣に踊り始め、秋彦の足も自然にそれに伴つた。森羅萬象《しんらばんしよう》は音樂を奏し始めた。
秋彦には、その音樂と歌が、すべて、わかつた。森がうたつてゐる、(中略、原文改行)今の秋彦は、小鳥と話をすることさへ出來たであらう。」
童話の自然のなかでその自然との和解を拒否し、「どつしりと頑固《ぐわんこ》に」坐《すわ》っているのが、刑務所の灰色の建物である。夏が来ても刑務所の高い塀のなかには、夏ははいれないだろうと子どもたちは思っていた。
ところがお伽噺の悪魔のように火柱とともに出現した脱獄囚は、少年の純潔な心に触れて感動し、突然考えを変えた。よれよれの背広をまとった鬚《ひげ》だらけのこの男は、少年の腕のなかに顔を埋《うず》める。
「差し出された腕に(男は)顏を埋めて激しく泣いた。夜鶯《ナイテインゲイル》も梢《こずゑ》にとまり乍《なが》ら泣いた。」
そのあとで男は、自分にも「丁度坊やみたいに可愛《かはい》い」子どもがいたというはなしをする。その子どもは、いまは鴎《かもめ》になってひろい海原の上を飛んでいる。
「その鴎はな、水の中に首を突つ込んで云ふんだ。『夕靄《ゆふもや》の鉛色をした海の上で私は殺された。殺した奴《やつ》は、暗い/\海の底に沈んで行つた。だが、其奴の浮き上るまで、私はこの白い翼で、雲の低い空に浮んで居なけりやならない』」。
それは何のこと、という少年の問いにたいして男は直接にはこたえないで、
「所がその哀れな/\鴎を殺した奴は、自分の浮ぶ道を見つけたのだ。
その道を見つけさして呉《く》れたのを誰だと思ふ。――坊や! お前なんだよ。」
坊やが好きだから、坊やを喜ばせるために自分は刑務所に帰ると、この脱獄囚はいう。ここで注目されるのは脱獄囚が――彼もまた――、童話の世界の一人物になりおわっていることだろう。
幼い三島が心のうちに育てていたフクロフ(梟)の女王の世界にとって、灰色の刑務所は女王の支配を拒否する外界の極北とでもいうべき存在だった。その外界の極が『酸模』では、童話の世界に組込まれる。
後年の三島は少年期をふりかえって、「私は家族と共にピクニックに行き、捨てられた仔猫《こねこ》をひろつて歸つた、などといふ」綴方《つづりかた》は、決して書けなかったといっている。
「幼時の私に、正確さへの欲求が缺《か》けてゐたと言ふよりも、むしろ正確さの基準が頑固に内部にあつたといふはうが當つてゐる。私はベッドの寸法にあはせて宿泊者の足を切つてしまふといふ盜賊の話が好きだつた。(原文改行)かういふ風にして生れた一種の專制主義が、さうまで扱ひにくい現實に對する、復讐《ふくしう》の念を隱してゐたといふことは、容易に推測されるであらう。」(『電燈《でんとう》のイデア――わが文學の搖籃《えうらん》期』)
現実にたいする復讐の念が端的にあらわれるのは、十代の末に書かれた『夜の車』においてである。この小説では『酸模』とは反対に、主人公が外界のすべてを殺戮《さつりく》する。
『夜の車』は昭和十九年八月の「文藝文化」に発表され、のちに『中世に於《お》ける一殺人常習者の遺《のこ》せる哲學的日記の拔萃《ばつすい》』という長い題に改められる。昭和十九年にはこれ以後に雑誌に発表された小説はなく、十代の最終期の作と考えてよい。(もっとも執筆は十八歳のときだったと、三島は書いている。)
主人公によって殺されるのは室町幕府の将軍でありその北の方であり、能若衆であり遊女であり、百二十六人の乞食《こじき》や痩《や》せ衰えた肺癆人《はいろうにん》までが彼の殺害者名簿には含まれる。殺害をまぬがれるのは、徹底した行動者である海賊の友人だけだった。
「殺人者は造物主の裏。その偉大は共通、」
とこの『哲學的日記』はいう。
彼は自分の美の世界を守るために、「世界にあつてこよなくたをやかなものゝために、」他者を殺しつづける。自分が夢みる美が永遠であるためには、現実という名の外界の方にほろびてもらわねばならない。外界の方がもしも永遠なら、芸術とは一片の造花にすぎなくなる。
また地上の美女たちは、ほろびることによってこそむしろ永遠化される。
「たゞ花が久遠《くおん》に花であるための、彼は殺人者に|なつた《ヽヽヽ》のだつた。」
三島の文学の根底をつらぬく世界終末論《エスカトロジイ》が、すでにここにはあらわれている。
「殺人者の魂にこそ赫奕《かくえき》たる落日はふさはしいのだ。」
後年の『奔馬《ほんば》』の巻末を、思わせる文章だろう。
「世界崩壊」の壮大な劇が目前にせまるのを意識しながら、三島は十代のおわりの日々をすごしていた。
人生は二十五年ということがいわれ出したのは、昭和十八年の末ごろからだったと思う。(戦争の様相から見て、二十五まではどうせ生きられないだろうとぼく自身も思っていた。)どんな風に死ぬかを考えることを、若者たちが否応《いやおう》なしに強《し》いられていた時代だった。国民全体が、というべきかも知れない。
その時代相が、三島の世界終末論《エスカトロジイ》を育てた。童話的な、あるいはひろくいって空想的な世界に生きた作家のだれもが、現実の世界よほろびよと祈って来たわけではないはずである。三島の回想録のよく知られた一節を借りるなら、
「私一人の生死が占ひがたいばかりか、日本の明日の運命が占ひがたいその一時期は、自分一個の終末觀と、時代と社會全部の終末觀とが、完全に適合一致した、稀《まれ》に見る時代であつたと云へる。私はスキーをやつたことがないが、急滑降のふしぎな快感は、おそらくああいふ感情に一等似てゐるのではあるまいか。」(『私の遍歴時代』)
彼はこのころ、「裡《うち》に末世の意識をひそめた」謡曲の絢爛《けんらん》とした文体に惹《ひ》かれていたと、同じ『私の遍歴時代』に書いている。惹かれたのは、もちろん単に文体にだけではなかっただろう。夢幻能では往古の美女たちは転身を経たのちに後《のち》ジテとして、――多くはワキの夢想のなかに――復活する。
死を媒介として夢のなかに生きる女たちの美しさを、十八歳の年に書いた『夢野乃鹿《ゆめののしか》』のなかで、三島は強調しているのである。
「かずかずの謠曲と、それが演ぜられた能樂とは、その殆どが、古くして不朽な女人への、久遠にたゆることない悼歌のしらべであつた。その女身はこよなく毅《つよ》くたをやかに生きてゐる。」
無への無限の接近の彼方《かなた》に「最高の有が輝きだす」とも、彼は主張する。こういう文章を前提において考えると、まえに引用した、
「たゞ花が久遠に花であるための、彼は殺人者に|なつた《ヽヽヽ》のだつた」、
ということばの意味も納得が行きやすい。
将軍の美しい北の方は、「むしろ殺されることを喜んでゐるものゝやうだ」と作者は書く。能若衆も殺人者とのある「默契」を、信じて死んだように見える。これらの美女美少年は、作中では主人公の「共犯者」に似た役割を演じる。殺戮者を迎えて春の森は、「輪廻《りんね》そのものゝやうに」笑いさざめいているのである。
なお輪廻については、『憧憬との訣別《けつべつ》と輪廻への愛について』という副題をもつ『夜告げ鳥』という詩を、三島は昭和二十年に書いている。詩は五節四十行から成っているが、そのおわりの二節の部分だけをここでは引用しておく。
今何かある、輪廻への愛を避けて。
それは海底の草叢《くさむら》が酷烈な夏を希《ねが》ふに似たが
知りたまへ わたくしを襲うた偶然ゆゑ
不當なばかりそれは正當な
不倫なほど操《みさを》高いのぞみだ、と
さやうに歌ひ、夜告げ鳥は命じた
蝶《てふ》の死を死ぬことに飽《あ》け、やさしきものよ
輪廻の、身にあまる譽《ほま》れのなかに
現象のやうに死ね 蝶よ
その時沖なる帆は打傾き
奔情の潮《うしほ》は青く 氣高い繁吹《しぶき》が
かゞやきながら帆檣《ほばしら》をしたゝりおつる
知られざる航海へと立去つた。
その時|赫奕《かくやく》ともえた森から、いまこそ夜を
わたくしは告げる、晝の全き刹那《せつな》のために、と
夜告げ鳥はさやうに、歌つて死んだ
歌つた 薔薇《ばら》は無上の五月に
菊はああ 豐饒《ほうぜう》の秋に、と!
「蝶の死を死ぬことに飽け」以下の数行は、「さち多き蝶ぞ、いま、息たゆる」とうたった伊東靜雄の詩、『八月の石にすがりて』を、明かに意識して書かれたと推定される。『八月の石にすがりて』は伊東の第二詩集『夏花』(文藝文化叢書4、昭和十五年三月刊)に収録され、名作として当時から評価が高かった。
八月の石にすがりて
さち多き蝶ぞ、いま、息たゆる。
わが運命《さだめ》を知りしのち、
たれかよくこの烈《はげ》しき
夏の陽光のなかに生きむ。
この時期の三島は伊東に深く傾倒し、最初の小説集『花ざかりの森』(昭和十九年十月刊)の序文を彼に依頼したほどだった。(伊東は、執筆を拒否した。)ことに右にその一部分をかかげた十五行の『八月の石にすがりて』以下、『夏花』中のいく篇かについては、「近代詩の古典として殘るもの」という讃辞《さんじ》をくりかえし述べている。
「『八月の石にすがりて』の烈しい夏の陽光の裡に彫琢《てうたく》された絶望は、今日なほ私の胸を搏《う》つこと甚《はなは》だしい。」(『伊東靜雄』昭和二十八年「創元」六・七月号)
伊東の『八月の石にすがりて』は、おわりの方で急激な転調を見せる。
…………
われも亦《また》、
雪原に倒れふし、飢ゑにかげりて
青みし狼《おほかみ》の目を、
しばし夢みむ。
孤独な、しかもなお夢を失わないこの詩に搏たれながらも、二十歳の三島はロマンティックな死への想念をこえることを企てていたのだろう。「現象のやうに死ね 蝶よ」
三島が『夜告げ鳥』を書いたのは、自註によると昭和二十年五月二十五日だった。二十四日の未明には東京の山手西部が空襲をうけ、二十五日の夜はさらに夥《おびただ》しいB29の群が東京の空を掩《おお》う。空襲の情景は、高座の海軍|工廠《こうしよう》から鮮かに望見されたという。
「私たちは東京の空が眞赤に燃えるのを見た。ときどき爆發がおこつて空に反映が投げかけられると、雲の合間にふしぎなほど青い晝の空がのぞかれた。眞夜中に一瞬の青空が出現するのだ。」
死が文字《もじ》どおり「現象のやうに」、人びとのうえに降り注いでいた。
『夜告げ鳥』のような詩を書き、「輪廻への愛」を説きながらも、一方でこの時期の三島は心中の美を夢みていた。
小説『中世』は、『中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲學的日記の拔萃』の延長線上に位置する作品だった。(この小説は三島の二十歳の誕生日――誕生日は一月十四日――の直後に書上げられている。)主人公の足利義政《あしかがよしまさ》は、自分で直接手を下してはいないにせよ美しい巫子《みこ》を殺し、「蛾眉曼《がびまん》たる」能若衆を殺し禅師を殺し、自分の化身とも見られる巨大な亀《かめ》を殺す。殺しがおわったあとに、「今|※[#「玄+玄、unicode7386」]《ここ》に在ることの永遠が思はれ」る瞬間が訪れる。
しかしこの作品からあと、三島の小説には作風上の変化が生じる。心中の主題があらわれ、心中の美への夢はK子嬢とのつきあいが深まるにつれて、その濃度を高めて行く。
3
『サーカス』は、三島が書いた最初の「現代風」な恋愛小説だった。文体もそれまでの作品とは、――初期の『酸模《すかんぽう》』や『彩繪《だみゑ》硝子《ガラス》』(昭和十五年)などをべつとして――明瞭《めいりよう》にことなっている。
この短篇の初稿は、前述のように昭和二十年の二月に東京で執筆された。少しこまかくいうと『中世』を群馬県太田の飛行機工場で書上げた直後に召集令状が来て、彼は兵庫県の本籍地に行き、即日帰郷を命じられて二月十一日に東京に帰着する。したがって『サーカス』に本格的にとりかかったのは、十二日以後と見なければならない。
その『サーカス』の原稿を、当時「文藝」の編集長だった野田宇太郎の回想によれば、三島は二月二十二日に編集室に届けたという。(野田宇太郎著『灰の季節』昭和三十三年刊)「文藝」は河出書房刊行の雑誌で、編集室は日本橋区通三丁目にあった。
短い小説とはいえ十二日から二十二日までの十日間のうちに、三島はこの作品を仕上げているのである。ついでながら二月二十二日には、東京は雪だった。このころの手帖《てちよう》で見ると朝からの淡雪が次第に降りつもり、ぼくは予定されていた外出を諦《あきら》めて夕刻|雪掻《ゆきか》きをしたと書いてある。雪のために交通も麻痺《まひ》していたから、松濤《しようとう》の三島の自宅から日本橋への往復は、さぞ大変だっただろう。
『サーカス』は、結局採用されなかった。エロティックな箇所があって時局がら発表は具合がわるいということになり、かわりに『エスガイの狩』が六月号の「文藝」に掲載された。『サーカス』は昭和二十二年の暮に、「進路」という小さな雑誌に発表される。
幸運な小説とはいえないのだが、三島はこの短篇につよい愛着を抱いていた。昭和三十二年に平岡精二が彼の作品の音楽化を企画したとき、三島は対象として『サーカス』をえらび、昭和四十一年には録音用にみずからその全文を朗読した。自分の青春がここには短い形(全集版の大きな活字でもわずか十|頁《ページ》)に凝結されているという思いが、彼にはあったのではないだろうか。
『サーカス』の主役は、曲馬団の大道具係として働いていた少年少女である。曲馬団の団長は彼らがある夜、自分の天幕にはいりこんで逢引《あいび》きしているのを発見した。この団長は、かつては特務機関員として大興安嶺《だいこうあんれい》のあたりで働いていた人物、という設定になっている。
団長は少年の方に乗馬の経験があることを知って、彼を荒馬に乗せることを思いついた。少女は花やかな縫取のある紗《しや》のスカートを何枚もかさねて穿《は》き、はるか天空に張りわたした綱をわたる。少女が途中で足を踏みはずし、荒馬の背に立って馬を御して来た王子姿の少年が、彼女の体を抱きとめて舞台を一まわりする。団長が考えついたこの趣向は大成功を収め、王子と少女とは一躍人気者になった。
ある日二人は脱走し、いつか綱渡りの綱が切れて少女が小石のように落下する光景を、そして少年も彼女の体をうけとめそこなって死ぬことを、ひそかに夢想していた団長は、かなしみと怒りとにとらわれる。しかし少年少女は海岸の木賃宿でつかまり、曲馬団につれもどされる。
再び二人が舞台に出た日に、馬はいつになく荒れ狂い、少年は放り出されて頸骨《けいこつ》を折った。観客は総立ちになって、舞台へなだれこむ。その間に少女は綱をわたり切り、足場に立って下を眺《なが》めた。横たわった王子の胸には、緋色《ひいろ》の百合《ゆり》の紋章が輝いている。
「少女は足場からちひさな銀の靴《くつ》の片足を、丁度プールへ入るときさうするやうに、この暗いどよめいてゐる空間へさし出した。それからその足にそろへようとするかのやうに、もう片足も。
――何も知らない群衆の頭上に、一つの大きな花束が落ちて來た。」
団長は手下が「王子」の靴の裏にあらかじめ油を塗り、馬に興奮剤を注射しておいた「手柄《てがら》」への報酬として、「支へきれないほどの金貨を」彼の掌《てのひら》に落してやる。
舞台の設定は「現代風」であるとはいえ、中味はやはり童話に近い。
『サーカス』では、少年少女はひとことも口をきかない。二人の心理描写は一切なく、観客の表情もだれひとりえがかれていない。観客はいわば逆立ったり押寄せたりする波のような、顔のない集団として扱われている。大天幕の上には「近東風の月」が上り、団長の掌では金貨が音をたてる。
空襲警報のサイレンが毎日のように鳴りひびく東京で、二十歳の若者がこういう小説を書いて日をすごしていたということは、あまり尋常とはいえない。彼は召集をまぬがれて、帰って来たばかりだった。令状はまた来るかも知れなかったけれど、ともかくもしばらくの猶予《ゆうよ》を得たという解放感が、『中世』にくらべればスタイルの上ではるかに明るい童話風の物語へと、三島をみちびいたのだろうか。
K子嬢への慕情は、前年の秋いらい彼の心の中に根を降していた。手紙のやりとりはこの段階ではまだ少かったにしても、その脳裡《のうり》に影を落す少女はほかにはいなかった。『サーカス』はK子嬢を思い浮かべながら書かれた、と考えるのが自然だろう。べつの角度からいえばK子嬢という実在の恋人もまた、三島は童話中の一人物にしてしまった。
『サーカス』の少女は、眼下に横たわる少年の胸に緋色の百合の紋章を見たときに、「王子」に殉じて死へと跳躍する。貧しい少年少女は「王子」「王女」として死に、そのことによって二人の恋は気高く完成されるのである。三島由紀夫が作中の曲馬団長とともに夢みたのは、生をこえたところに輝く愛の姿だった。
K子嬢の一家が軽井沢に疎開《そかい》するまえに、三島が彼女の東京の家を訪れたときの二人の会話が、『假面の告白』には書かれている。
こうしているあいだにも直撃弾がいつ降って来るかわからないという作中の「私」のことばにたいして、彼女――ここでは園子――は「どんなにいいかしら」とこたえる。
「『何かかう……、音のしない飛行機が來て、かうしてゐるとき、直撃彈を落してくれたら、……さうお思ひにならない?』
これは言つてゐる園子自身も氣のつかない愛の告白だつた。
『うん……僕もさう思ふ』
尤《もつと》もらしく私が答へた。この答がいかほど私の深い願望に根ざしてゐるか園子が知る筈《はず》もなかつた。」
実際にこのような会話がとりかわされたのかどうかは、明瞭ではない。戦争末期の恋人どうしを考えれば、ありそうなはなしとは思う。少くともそれが「私の深い願望に根ざして」いたという一行に関しては、疑ってみる必要はなさそうに見える。
昭和二十年の春以降の三島は、親しい友人に会うと衣通姫《そとおりひめ》のはなしをしきりにしていた。輕《かるの》王子《みこ》と衣通姫とは、『古事記』のなかで最初に心中をとげる男女である。また同じころ近松門左衞門の劇を、「憑《つ》かれたやうに」耽読《たんどく》していた。(芳賀檀宛《はがまゆみあて》書簡、昭和二十二年二月)
男女の心中は一個の芸術的行為であると、三島は昭和二十三年に発表された『情死について――やゝ矯激《けうげき》な議論』のなかでいい切っている。ふつうの人生では、男女が同じ瞬間に死ぬということはあり得ない。心中する男女はそのあり得ないことの達成によって、天然自然の人生への模倣を乗越える。
「この點で、彼らは單なる模倣ではない人工の行爲を通じて、(つまり人生とは別の道をたどつて)、別樣の天然自然に到達します。ここに於《おい》て、心中は藝術的行爲であり創造的行爲であります。藝術といひ創造と言ひますのも、人工が自然の模倣に了《をは》らず、一つの新らしい自然の創造に關與することに他ならないからです。」
K子嬢との甘美な恋に三島が酔い、心中の美の夢を織りつづけていたあいだに、彼女の家では二人の将来についての現実的な計画が進行中だった。K子嬢が三島に夢中になっていることは、彼女の祖母や母にはむろんわかっていた。
それに二人が寄りそって軽井沢の旧道のあたりを散歩している姿は、すでにひとに見られている。噂《うわさ》がひろまって娘の評判に傷がつかないうちに縁談を正式化した方がいいと、彼女の家族は判断したのだろう。この部分はぼくの推測だが、推測がさほどまちがっているとは思われない。あるいは明日の知れない世の中だから、そんなに好き合っているのならはやく添いとげさせてやりたいという親心も、手伝っていたのだろうか。
三島自身の気持を知りたいというK子嬢の兄からの手紙が送られて来たのは、『假面の告白』によれば七月の末ころだった。
「……園子のこと、家ぢゆうみんな本氣だ。僕が全權大使に任命された。話は簡單なのだが、君の氣持をききたいのだ。
みんな君に信頼してゐる。園子はもとよりのことだ。式はいつごろにしようかとまで母は考へはじめてゐるらしい。式のことはともかく、婚約の日取はきめても早すぎないころだと思ふ。
もつともこれはみんなこちらの當推量からのことなんだ。要するに、君のお氣持をうかがひたい。家同志の話し合ひも、すべてそれからのことにしたいと言つてゐる。」
文面がこのとおりだったか否《いな》かはべつとして、こういう意味の手紙を彼がうけとったことは確実である。手紙に関連して倭文重さんは、
――はじめは先方が積極的だったのですよ、
といっておられた。
三島は、返答に窮した。童話風の夢のなかに現実が――ちょうど彼の後年の戯曲『薔薇《ばら》と海賊』のように――、突然現われた恰好《かつこう》だった。彼はまだ大学の一年生だったし、アメリカ軍は明日にも日本の本土に上陸して来るかも知れない。
戦争は、それからまもなくおわる。しかし敗戦後も、三島の逡巡《しゆんじゆん》はつづくのである。
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恋の破局
1
千葉県勝浦の西に、鵜原《うばら》という名の漁師町がある。
海岸は綺麗《きれい》な砂浜だから夏は海水浴客で賑《にぎ》わうと見えて、「民宿」としるした看板が方々に出ている。(ここをぼくが訪れたのは、四月のころだった。)戦前には武蔵《むさし》高校――現武蔵大学――の夏季寮が、おかれていたとの由《よし》である。
昭和十二年の夏、三島は母と弟妹とともに、この鵜原で約一箇月間をすごした。弟の千之《ちゆき》氏のはなしによると、
――三十分ほど私が迷子になったことがあってねえ。
事故にでも遭ったのかと、家中が大騒ぎをしたという。昭和二十年に書かれた『岬《みさき》にての物語』は、「三十分ほど」のその迷子事件をもとにしているらしい。主人公の「私」が千之さんのかわりに岬に迷い込むという設定であって、弟の方の姿は作中から消えている。
地名は作中では鷺浦《さぎうら》と変えてあるが、えがかれている景観は浜辺の様子といい海に注ぐ小さな川や町の東にある岬といい、いまの鵜原と殆《ほとん》どちがわない。岬は「理想郷」と名づけられていて、国道から岬にはいる地点には「理想郷」の文字を刻んだ昭和初期の石碑がある。
仰々しい名まえをつけることで、別荘の誘致をでも当時の町ははかったのだろうか。現在では岬の部分は、国定公園に指定されている。「理想郷」は三島の小説では、「メルヘンランド」である。
「メルヘンランド」に行くためには、小説によれば辨財天《べんざいてん》の裏の石段を上らねばならない。浜辺に立つとたしかに辨天の社《やしろ》らしい小さな赤い鳥居が、岬の下の方に見える。鳥居の横手の石段は草のなかに半ば埋れ、近年の埋立てで新しい道路が岬の突端に近い方にできたせいか、小径《こみち》をひとが平生往来している気配はない。十二歳の三島が半世紀まえに上ったときには、石段はもう少し整備されていたのだろう。
草を押分けて急|勾配《こうばい》のみちを上りきると、小説に書かれているとおりの風景が目前にひろがる。
「そこには處々《しよしよ》に松や灌木《くわんぼく》の小|聚落《しうらく》を見るのみだつた。夥《おびただ》しい小さな起伏がその頂きの至る處《ところ》に通ずる小徑を羊腸たるものにしてゐたが、起伏の|各※[#二の字点、unicode303b ]《おのおの》の杜《もり》や巖《いはほ》の間に隱見してゐる、前庭の花園や花の小門を持つた色さまざまな小別莊の、數を數へ上げることは不可能であるに相違なかつた。なぜなら(中略)甲別莊から、僅《わづ》か一丁ほどの乙別莊の門に立てば、もはや甲別莊の影はどこにもなく、四周にはたゞ草と花と突兀《とつこつ》たる巖と遠い海光とを望むばかりであつた故《ゆゑ》。さやうな微妙な地勢の祕密は、この美しい岬の風光に|益※[#二の字点、unicode303b ]《ますます》神祕と隱逸の美を副《そ》へるやうに思はれた。」
若干の文飾をとり除けば、まさにこのとおりの地形といってよい。十二歳のときに目にした光景を、二十歳の三島がよくもこうまで巨細《こさい》にわたって、記憶にとどめていたものだと思う。
岬の尖端《せんたん》で作中の「私」は、ダヌンツィオの『死の勝利』を思わせる事件に遭遇するのである。
自分の性向と家庭環境とを、三島がはじめて「告白」風に書いた作品が『岬にての物語』だった。
「幼年期から少年期にかけての私は、夢想のために永の一日を費すことをも惜しまぬやうな性質《たち》であつた。」
そういう文章とともに、小説ははじまっている。子どもの夢想癖を心配した父や祖母は、「第一の愛讀の書であつた千夜一夜|譚《たん》」をはじめ、「グリムの野卑な童話集、南洋の怪奇な小魔神像」、小さな人形の柩《ひつぎ》に見立てて「葬列を眞似《まね》て遊んだ黒檀《こくたん》の寶石|函《ばこ》、等々」、不健康なと大人の目に見える愛蔵品を残らず没収した。
父親の梓《あずさ》氏は息子がのちに小説を書くようになると、
――この不良少年め。
怒鳴りながら原稿を目のまえで破り棄《す》てるような人物だったから、子どもの愛蔵品を無慈悲に没収したとしても不思議はない。しかし『岬にての物語』の記述を信じるなら、三島を溺愛《できあい》し、溺愛のあまり彼を外界から殆ど遮断《しやだん》して育てた祖母の夏子までが、孫の(実は彼女自身がその多くを培《つちか》った)夢想癖をとり除こうとして、梓氏に協力しているのである。「ひとり母のみが私の理解者であつた」と、作者は註記する。
なお梓氏の原稿破りは、この鵜原行きの三、四年後に起こっている。『伜《せがれ》・三島由紀夫』所収の倭文重《しずえ》さんの談話によると、
「真夜中に眠りもせず朝まで一生懸命に書いたせっかくの原稿を父(梓氏)に破られたとき、私が心配で後から部屋をのぞきますと、公威は一人で下を向いて目に涙をいっぱいためておりました。私は主人が本当に憎らしかったのでございます。」
このことについては倭文重さんが筆者の母にいくどかいっておられたと聞いているし、ぼく自身も三島の死後に直接うかがったことがある。
「しかし子供にその父親の悪口を申すことは慎まなければなりませんし、お菓子と紅茶を持っていってやってだまって頭を撫《な》ぜてやったり、ハンカチで涙をふいてやったりして、何も言わないでそのまま部屋を出て参りました。(原文改行)この時の私も公威とは別の意味で本当に悲しい思いをいたしました。」(『伜・三島由紀夫』)
倭文重さんはぼくのまえでは(母と妹とが同じ席にいた)、
――可哀《かわい》そうになんてひとことでも申しましたら、公威は泣き出してしまいますからね。
独特の早口で、説明しておられた。倭文重さん自身が悲しみに耐えていたのだから、下手なことを口にすれば母子はあい擁して泣くところだったのではないか。倭文重さんはこの長男が芸術的天分をもっていることを、誇りにしていた。
「母は自分の父が漢學者のため、阻止された娘時代の藝術への夢を子どもの僕に再現したいといふ氣もちがあつたらしい」、
と三島は『母を語る』と題する(昭和二十六年発表、「僕に託した娘時代の夢=vというたぶん掲載紙の編集部が考案した副題つきの)談話のなかで述べている。また「私の最上の讀者」という副題をもつもうひとつの『母を語る』(昭和三十三年)では、
「母は私に天才を期待した。そして、自分の抒情《じよじやう》詩人の夢が息子に實現されることを期待した。(中略)私は、抒情詩人でもなく天才でもなく、散文作家として成長するやうになつたが、長いこと、その抒情的な夢から拔けられなかつた。私は無意識のうちに、母の期待するやうな者にならうとしてゐたのであらうと思ふ。」
『岬にての物語』は、母親と作者の「抒情的な夢」とのつながりをえがいた唯一《ゆいいつ》の作品であろう。
三島が祖母夏子の手許《てもと》を離れ、渋谷の大山町の家で両親とともに暮すようになったのは、前述のように昭和十二年の春だった。
鵜原滞在は、同じ年の夏である。父親は、鵜原には同行していない。その美しさを小学校時代いらい「誇らしいもの」(『母を語る――私の最上の讀者』)に思っていた母親と、いまは天下晴れて一緒に暮せるのであり、喜悦感が小説のことに前半には横溢《おういつ》している。
一家が浜辺で遊んでいる最中に、女中が来て東京から親戚《しんせき》が来訪したことを母親に告げる。
「『ああさう』と母はふと雲のかゞやく空を見上げて思案した。別にこれといふ表情もあらはれない刹那《せつな》の母の美しさであつたが、その耳隱しのあたりの頬《ほほ》や衿元《えりもと》の天徠《てんらい》の白さは、私の目には眩《まば》ゆくも嬉《うれ》しくみえた。微妙に色をかへてゐる青い海の反映が、母に紫陽花《あぢさゐ》の精の幻影を與へるのである。」
三島は作中の「私」の年齢を満十二歳から数えの十一歳――満なら九歳か十歳――に引下げていて、これは主人公の行動との整合性を考えての工夫だったと思われる。鴎《かもめ》のむらがる渚《なぎさ》へ駆け寄る「私」に、母が「ああ危ない/\」と風のなかから連呼したり、傘《かさ》の下で『宝島』に読みふける「私」を「憂《うれ》へて」やはり母親が「しづかに手をのばして本を伏せ」、海辺にいくようにと合図しているのも、「私」が満年齢の九歳か十歳なら不自然さを感じさせない。
母親は『岬にての物語』では守護神の役割を演じていると、佐伯彰一《さえきしよういち》がその『評伝三島由紀夫』のなかで書いている。「紫陽花の精」に比せられている母親は、たしかに主人公の守護神か(同じことだが)守護の天使という印象が濃い。来客のあることをしらされて帰って行く母に向かって、「私」は祈ることをさえする。
「私は母の日傘が時々母の肩に輕い音を立ててまはされるのを知つてゐた。考へ事をしながら歩く時、母は傘の柄《え》を少女のやうに兩手でまはす癖があつた。五六歩行つて美しい傘がひらりと一つまはるのを見た。もう一度まはれ! 私は砂に腹這《はらば》ひになつて祈つた。」
祈りは母の心に届かないままにおわり、日傘は橋を渡って消える。そばにいた書生が呆《あき》れて「何をしてらつしやるんです」と大声でいい、「私」は仕方なしに砂遊びにもどるのである。
日傘がもう一度まわってくれなかったことは、佐伯彰一が右に引いた著書ですでに指摘しているとおり、「メルヘンランド」への「私」の冒険を予兆しているだろう。「私」は書生に、自分はパラソルの下で本を読んでいるからそのあいだに泳いで来たらよいとすすめ、書生が喜んで走り去るのを待って、「守護神の突然の氣まぐれ」に促されるように辨天裏の石段の方に向かう。
石段を上って「メルヘンランド」をさまよっているうちに、彼はオルガンの音が流れて来るのを耳にする。崩れかかった一軒の別荘で、少女がオルガンを弾きながら歌をうたっていた。
「……夏の名殘の薔薇《ばら》だにも
はつかに秋は生くべきを
けふ知りそめし幸《さち》ゆゑに
朽ちなむ身こそはかなけれ」
オルガンの音と歌声とに魅せられて「私」は別荘にはいりこみ、少女はもの音に気づいて奥の部屋から出て来る。
「私の目には眩ゆいほど美しくみえたその人は屹度《きつと》二十《はたち》を超えてはゐなかつたが、遠い未來に私を訪れる花嫁はさういふ人でなければならないと、心にいつしか描き定めた面立《おもだ》ちによく似てゐた。」
K子嬢との恋のきっかけは、ピアノの音だった。戦前の日本ではピアノをもつ家はまだ少く、別荘にまでピアノをおいている例となると稀《まれ》だった。ことにこの場合は廃屋が舞台だから、作品の現実感を保つために三島はピアノをオルガンにおきかえたのだろう。
K子嬢に捧《ささ》げた詩『バラアド』では、海には「鯨たちがほえまはつて」いた。『岬にての物語』では、
「波濤《はたう》は彼方《かなた》で、海の巨大な象の群が歌ふかのやうに歌つてゐた。それは『運命』の歌聲を思はせた。」
2
『岬にての物語』の主人公は、小説の半ばをすぎるあたりから夢幻的な死の世界に、美少女とともにはいって行く。
美少女の家に二十歳か二十一歳の青年が訪ねて来て、二人は奥の部屋で何かをはなしあったあと、「私」をつれて散歩に出る。奥の部屋からは一瞬「忍び泣きのやうなもの」がきこえるのだが、まもなく出て来た二人の顔は、小説によると「むしろ若々しく輝やかしい」ものだった。
「ではすぐ?」「ええすぐ」という短い会話をかわすと、二人は「私」をつれて岬の尖端に通じるみちを歩みはじめ、「私」は自分が、
「何か年齡をこえた永遠のもの、不老不死と謂《い》つた力によつて包まれてゐるやうに感ぜられた。」
白百合の群生する野原が途中にあり、少女は「永遠」を象徴するかのような白い百合の冠を頭にのせる。しかしこの「戴冠《たいかん》」の直前に、芒《すすき》の中から「ゆつくりと身を起す黒い影」があらわれて「私」をおびえさせるのである。巨人の幻を思わせるその影は、芒をかき分けながら谷を下って行く。
「『何でせう』と少女は問うた。『乞食《こじき》だらう』と答へた青年の目には緊張の色があつた。(中略)|だがこの瞬間《ヽヽヽヽヽヽ》、|ふと私は《ヽヽヽヽ》、|自分たちが物語のなかの人物であると感じたのである《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。」(傍点村松)
黒い影は現実と死の世界との境界を、暗示しているだろう。(岬からもどる途上でも、「私」は別世界の番人ともいえるこの黒い影に出会う。)
岬のはずれに立った彼女は「私」に「隱れんぼをしないこと、……」と提案し、私が鬼になって木蔭《こかげ》で数を数えていると、突然の「鳥の聲に似た」悲鳴が聞えて来る。
「それは人の發する聲にしてはあまり純一で曇りなく、瞬時にして消えてしまつたので、何か高貴な鳥の呼び聲としか思はれなかつた。」
若い二人の姿は、岬から消えていた。どこをさがしてもいないとわかって、「私」は「嘗《かつ》てないほど烈《はげ》しく愛した人に叛《そむ》かれた悲しみ」から、視線を岬の向こうの海に向ける。
「沖は續く紺青《こんじやう》がそこへ近づくに從つて色濃く、そこから截然《せつぜん》と明るい雲の峰が立ち昇る美しい境界をみせて、やがて沒せんとして傾きかけた太陽の、雲の間《ま》から目じらせする赫奕《かくやく》たる瞳《ひとみ》に應《こた》へてゐた。」
ダヌンツィオの『死の勝利』では主人公のジョルジョ・アウリスパが最後に愛人イッポリタを抱いて、サン・ヴィート近くの岬の断崖《だんがい》からアドリア海に身を投げる。
ジョルジョは岬の林のなかにある別荘を借りうけ、人生のおわりの何週間かをイッポリタとともにこの家ですごすのである。別荘は二つの丘のあいだに位置し、下には入江が見降された。
『死の勝利』の後半約三分の二が、サン・ヴィートの「岬にての物語」になっている。三島は彼の『岬にての物語』を書くのにあたって、当然『死の勝利』を意識のうちにおいていただろう。『三島由紀夫書誌』(島崎博、三島瑤子共編、昭和四十七年刊)で見ると、彼は生田長江《いくたちようこう》訳――英語とドイツ語からの重訳――の『死の勝利』(新潮社版世界文学全集所収、昭和三年刊)を所蔵していた。
「海は絶え間なき微風に搖動《ゆる》がされて、空一杯に擴《ひろ》がつてゐる悦《よろこ》びを捕へ、消しがたき無數の微笑を以《もつ》てそれを投げ返した。」
生田長江訳のたとえばこういう文章を、『岬にての物語』の一節として引用しても、ひとは疑わないのではないか。また『岬《みさき》にての物語』のなかで若い二人と「私」とが、百合の群生地にさしかかる前述の箇所。
「しかしある凹《くぼ》みへ徑《みち》が下りると、そこには花と花とがひしめき合ふやうな白百合の群生が見られたのである。(中略)人の目にさらされぬこの場所で、花々は虔《つつ》ましい祈祷《きたう》のために打ち集うてゐたのだと思はれた。」
少女が身をかがめて百合を摘むこの部分は、『死の勝利』の次の場面を連想させる。
「小山の上へ出るために、彼等は或《あ》る垣根《かきね》に縁《ふち》どられた徑《こみち》を通つた。その垣根には深紅《しんく》の花が一杯に咲き、外にまた五つの瓣《べん》をもつた大きな白い花が、匂《にほ》ひの好い頭をうなだれてゐる。(中略、原文改行)これらのものゝ一切がイッポリタのすばやい眼《め》に留らないではゐなかつた。彼女はちよい/\身を屈《かゞ》めて……(以下略)」。
もっとも『死の勝利』の場合、イッポリタの方には死ぬ気はなく、二人の死は無理心中だった。断崖でイッポリタは、「人殺し」と叫んでいる。
イッポリタをダヌンツィオは肉慾《にくよく》の塊のような「美しい淫蕩《いんとう》な生き物」としてえがき、主人公のジョルジョは彼女の肉体に魅惑されながらも、二人の恋を完成するためには死ぬ以外にみちはないと考えるのである。野上素一の原語からの訳文によると、
「死んでしまえば、彼女は思考の材料と化し、純粋の理想的な姿になるのだ。(中略)そして彼女の病的な弱い淫乱な肉体は永久に捨てさられる。所有するために破壊するべきだ、恋愛の中の絶対的なものを見つけるには、他には方法はない。」
彼のこの決意を実行に移させる最終的な発条《ばね》となるのが、ヴァーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』だった。友人に依頼しておいたピアノと楽譜とが岬の林のなかの隠れ家に届けられ、媚薬《びやく》によって結ばれた男女の愛と死との物語は二人を熱狂させる。
「『二人を分かち、トリスタンがイゾルデを永遠に愛し、とこしえにただイゾルデのためにのみ生きんとするを妨ぐるものあるがゆえに死を選ばん』とトリスタンが語る。(中略)現象の世界は姿を消した。『かくて』トリスタンが言う『かくてわれらは死せり。はなれることなく、つねに結ばれ、とこしえに、(中略)恋にいだかれ、恋にのみ生きんがため』」。
イゾルデのように死にたいと思わないかと『死の勝利』の主人公は愛人イッポリタにきき、イッポリタは「そう思うわ」とこたえる。
「でも、この世ではあんなふうには死ねないわ」。
「じゃあ僕が」と、ジョルジョはさらにたずねる。
「『じゃあ僕が同じ時間に、同じ方法で、いっしょに死のうと言ったら』
彼女はしばらくの間、目を伏せて考えこむふうだった。それから、誘惑者のほうに生のあらゆる甘美をたたえた目を上げると、言った。
『私はあなたを愛してるし、あなたも私を愛してるし、何も私たち二人っきりで過ごすのを邪魔するものもないのに、死ぬなんて、どうしてなの』」。
生の世界に彼女は固執し、したがって物語は無理心中の結末へとみちびかれる。
三島の『岬にての物語』の少女は清純そのものであり、相手の男も少女と「眼の涼しさを爭」う青年であり、肉慾はここにはかげもない。『岬にての物語』は、いわば南国の富裕階級の倦怠《けんたい》感と肉慾とを捨象した『死の勝利』だった。媚薬もマルク王も介在しない『トリスタンとイゾルデ』、という形容も可能かも知れない。
少女が「遠い未來に私を訪れる花嫁」によく似たひととしてえがかれている以上、そのそばに立つ輪郭の稀薄《きはく》な青年は、「私」自身の未来への投影と考えるのが自然だろう。少女は青年にいわれるがままに巌頭《がんとう》に立ち、「私」は自分が耳にした「鳥の聲に似た」悲鳴が、「あれは神々が笑ひたまうた御聲」ではなかったかといぶかしむ。
断崖の下の「|不思議なほど沈靜な渚《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」(傍点原著者)を覗《のぞ》き込みながら、
「私はふと神の笑ひに似たものの意味を考へた。それは今の私には考へ及ばぬほど大きな事、たとしへもない大きな事と思はれた。」
三島がそのなかに生きて来た夢想の世界は、恋人と手をとりあっての死を媒介に永遠にまで達する。童話の世界が現実の拒否のうえに成立している以上、その完結は現実からの輝かしい離別であるほかない。
岬での経験を、「私」は母親にさえ物語らなかった。翌日に彼は発熱して、――実際に発熱したのは千之氏――書生に嬰児《えいじ》のように背負われて帰京したけれど、
「私はむしろ王子のやうに矜《ほこり》高い自分を見出《みい》だした。夢想はいかばかり人を矜高くすることであらう!」
それとひきかえでなら「命さへ惜しまぬであらう一つの眞實を」覚えて来たということばをもって、この小説はおわる。
『岬にての物語』は、まえにも述べたように敗戦の日をさしはさんで書かれた。原稿の中ごろに「戰ひ終る」という書込みがあると、三島自身が説明している。
「ある行のをはりに』があつて、『昭和二十年八月十五日戰ひ終る』などと注記してあり、その次の行から何事もなく、ロマンチックなお話の甘い風景描寫がつづいてゐるのは、今その原稿を見るとかへつて奇妙な感じがする。」(『八月二十一日のアリバイ』)
三島は動員さきの神奈川県高座|工廠《こうしよう》で高熱を出し、八月の上旬に東京にもどっていた。家族は豪徳寺の親戚の家に移転していたので、終戦の玉音放送を彼はこの親戚の家できいた。
八月の上旬といえば六日に原子爆弾が広島に投下され、九日にソ連軍が満州になだれ込み、同じ日に二発目の原子爆弾が長崎に落されている。たまたまわが家もこのころやはり豪徳寺のある病院の院長公舎――北杜夫《きたもりお》が『楡家《にれけ》の人びと』でえがいている元齋藤邸――にいて、次に原子爆弾の攻撃目標になるのは東京だろうから幼い妹だけでもせめて助けようと、埼玉県にあった親戚の家に妹の英子を慌《あわただ》しく疎開《そかい》させた。それが十日だったように思う。
八月十二日の夜、B29がただ一機東京上空に飛来したときのことがいまも忘れられない。B29が偵察《ていさつ》のために単機飛んで来るのは、当時少しも珍しくはなくなっていた。しかしこの夜だけは防空情報が平生とはことなり、JOAKのアナウンサーが「敵は一機なれど厳戒を要す」と、引きつったような声でくりかえした。原子爆弾を落すかも知れない、という意味である。
ポツダム宣言の受諾を政府が連合国に打電したという報道は、東京では軍人や新聞社の幹部などを通じて一部に急速に拡がり、ぼくも十日の夜には噂《うわさ》をきかされていた。それでも戦争はおわったわけではなく、空襲はなお連日くりかえされている。(十二日の夜の異様な緊張は、撃墜されて捕虜になったアメリカのパイロットが、次には東京を原子爆弾で攻撃するといったことを軍の上層部が真にうけた結果だったようだが、こちらはそんな事情は知るわけもなかった。)
「新型爆弾」から身を守るために、白い布をまとえという指示が出されていた。白い布ぐらいで、核爆弾の巨大な破壊力をふせぎ得るはずがない。火傷《やけど》で苦しむよりは即死した方がましだろうと思い、ぼくはどこにも避難しないで豪徳寺の「楡家」の縁側に坐《すわ》っていた。
同じころに三島の方は数百メートル離れたところにある家で、『岬にての物語』を書きつづけていたことになる。これほどみごとに時代離れした作品は、戦時下にほかに例を見ないのではないか。くりかえすなら三島の場合には戦争末期の『黙示録』的な状況が、死に向かうそのロマンティスムを支えていたのである。
小説の完成は、三島自身の註記によれば八月二十三日だった。この時点ではアメリカ軍の進駐は、まだ開始されていない。『岬にての物語』までの作品を残して自分が戦死していれば、「どんなに樂だつたかしれない」と、後年彼は書いている。
「運命はさういふ風に私を導かなかつたが、もしそのとき死んでゐれば、多くの讀者は得られなくても、二十歳で死んだ小|浪曼《らうまん》派の夢のやうな作品集として、人々に愛されて、細々と生き長らへたかもしれない。」(『三島由紀夫短篇全集』昭和四十年三月講談社刊、第一巻「あとがき」)
彼が夢みて来た「世界崩壊」の劇は敗戦とともに消え、日常的な時間がもどって来た。しかも消えたのは、それだけではなかった。
3
結婚の問題は、K子嬢と三島とのあいだで敗戦後もいくどか直接にはなしあわれていた。
ある日K子嬢から電話がかかって来たあと、三島はその場にいた千之氏に、
――急げっていわれても、こっちはどうにもしようがないよ。
苦笑しながら、いったとのことである。はやく結婚を正式に申込んでほしいと、彼女は三島にたのんだのだろう。
二十歳の三島には、この恋人と結婚する準備がまったくできていなかった。ようやく大学の二年生(戦争中の特別措置で入学が十月)になろうとする時期だったから、家庭を維持する財力もない。昭和二十三年に発表された短篇『頭文字』のなかで、彼は自分の恋について書いている。
「この戀には筋道といふものが缺《か》けてゐるらしかつた。それは奇怪な建築のやうな戀であり、つきあたりの扉《とびら》をあけて一足ふみ出すとそこはもう海の上なのであつた。いきなり海の上へふみ出した人體は記憶も絶望もなしにたゞ落下する。落ちてのちの泳ぎ方を考へる暇すらない。」
一歩ふみ出すとそこはもう海ということばが、『岬にての物語』の結末を暗示していることはいうまでもない。それでも三島は、彼女と貧乏世帯をはることを真剣に考えたりもしたらしい。
敗戦後まもなくのころ三島がしきりに本を出したがっていたということを、「文藝」の編集長だった野田宇太郎が書いている。
「三島君はその頃《ころ》よく、作品集を出したいがよい出版社はないかとか、用紙はこちらで持つが、出すところはないでしょうかなどという相談を持ち込んでは、わたくしを不快にするようになった。まだ作品もろくろく書いてはいないのに、本ばかり出したがるという奇妙な傾向である。もちろんわたくしは反対した。三島君の父君は官僚の出である製紙会社の重役とかで、用紙は何とかなるという。(中略)要するに何とかして早くこの学生は文壇に出たい下心なんだな、と感じた。」(『灰の季節』前掲)
梓氏は昭和十七年に水産局長を最後に農林省をやめ、パルプ関係の会社につとめていた。(祖父定太郎は樺太に三井の製紙工場を誘致したことから紙の業界とのつながりがつよく、そのことが梓氏の退官後の職業にも影響していたかも知れない。)
三島は昭和十九年の秋に短篇集『花ざかりの森』を刊行していたとはいえ、明治四十二年生まれの野田宇太郎から見れば、駆出しの青二才にすぎない。「まだ作品もろくろく書いてはいないのに、本ばかり出したがる」と、にがにがしく思ったのは当然の反応といえる。
しかし三島が小説集の出版を切望したのは、単に早く「文壇に出たい」ためだったかどうか。第二小説集を出したいという気持はあったにせよ、それだけのことなら野田を不快がらせるほどにことを急ぐ必要はなかったはずである。結婚にそなえて若干の金をでも、彼は手にしたかったのだろう。そうだったとしても、野田の方は三島の個人的事情など知らない。
三島が持参した『岬にての物語』の原稿も、野田には気に入らなかった。『サーカス』や『エスガイの狩』にくらべて、青年らしい初々《ういうい》しさに欠けていると彼は思った。野田の表現によると、
「作風は(『サーカス』などと)がらりと違っていた。実に当時の芥川賞向き、文壇向きの作風で、なかなか器用な書き振りである。この器用さが逆に、ちょっとわたくしの心につかえはじめた。」
野田宇太郎は木下|杢太郎《もくたろう》に師事していたひとで、『パンの會』という著作を昭和二十四年に刊行している。明治末期の耽美《たんび》派を愛していただけに三島の童話風の作品にも理解を示し、『エスガイの狩』を戦争中の「文藝」にのせた。『岬にての物語』の自伝風な語り口を見て、彼は若い三島が私小説に妥協したと考えたようである。
三島が本を出したがっていることも、世間に阿《おも》ねようとする若者という印象を、いっそうつよめたのだろう。三島が批評を求めると、野田は感想を露骨に口にした。
「器用で、文壇にはすぐに通用《ヽヽ》する作品かもしれないが、そんな手先の器用さよりも、もっと本質的なものの方が僕には大切だと思うと答えると、三島君はかなり不服らしかった。わたくしはむしろ前の『サーカス』のような何気なく未熟な若さのにじんだ作風から三島君の未来を求めたいのだと云《い》った。」(傍点原著者)
これは三島にとっては、心外きわまる批評だったと思われる。『岬にての物語』は死を予想して書いた彼の「詩と真実」であって、「詩と真実」だから自伝風の記述をともなっているにしても、文壇への気兼ねなどは微塵《みじん》もない。そもそも芥川賞などを念頭において、ものを書いていられる時代ではなかった。
三島が野田にはげしく抗辯したらしいことは、野田の回想録の文章に見られる感情のたかぶりからもおよその察しがつく。野田にしてみれば『エスガイの狩』を雑誌にのせてやった恩も忘れて、若僧が何をいうか、という気持がある。
「一体君は文壇のエピゴーネンになるために小説を書くのか、それとも本当に文学がやりたいためなのかと、わたくしはきびしく問いつめた。批評をしてくれというので批評をすると、いや、そうではないと云い張ろうとする態度も、生意気である。この学生は、わたくしを文壇に出るために利用したい下心だなと、そういうことに鈍いわたくしはやっとのことで思い当った。そう思うと、もうわたくしはこの小賢《こざか》しい青年が嫌《いや》になった。」
野田はこのとき以後、三島を嫌《きら》いつづける。
K子嬢には敗戦直後のころから、べつの縁談がもちこまれていた。
三島も彼の両親も、そのことはまったく知らなかった。知らなかったからこそ三島は決定までにはまだ時間的余裕があると思い、返事を保留していたのである。三島がためらっているうちにそちらの縁談の方が進行して、K子嬢は三島よりもかなり年上の銀行員と婚約する。
婚約の成立を三島がきかされたのは、その作品などから考えると昭和二十年の十一月か十二月のはじめのころだったと推定される。K子嬢の結婚は、翌年の五月だった。
恋人の婚約のことをしらされる少しまえに、三島は妹の美津子さんを失っている。昭和三十年に書かれた『終末感からの出發――昭和二十年の自畫像』のなかに、妹の死に触れたよく知られた文章がある。
「私は妹を愛してゐた。ふしぎなくらゐ愛してゐた。當時妹は聖心女子學院にゐて、終戰後しばらくは、學校の授業も、勤勞動員のつづきのやうで、疎開されてゐた圖書館の本の運搬などを、手つだはされたりしてゐたやうである。」
その妹がある日発熱し、ティフスと診断されて、人事不省のまま避病院へ移された。
「體の弱い母と私が交代で看護したが、妹は腸出血のあげくに死んだ。死の數時間前、意識が全くないのに、『お兄ちやま、どうもありがたう』とはつきり言つたのをきいて、私は號泣した。」
美津子さんの死は、十月二十三日だった。K子嬢との恋の破局の記述が、そのすぐあとにつづく。
「戰後にもう一つ、私の個人的事件があつた。
戰爭中交際してゐた一女性と、許婚《いひなづけ》の間柄《あひだがら》になるべきところを、私の逡巡《しゆんじゆん》から、彼女は間もなく他家の妻になつた。
妹の死と、この女性の結婚と、二つの事件が、私の以後の文學的情熱を推進する力になつたやうに思はれる。種々の事情からして、私は私の人生に見切りをつけた。その後の數年の、私の生活の荒涼たる空白感は、今思ひ出しても、ゾッとせずにはゐられない。年齡的に最も溌剌《はつらつ》としてゐる筈《はず》の、昭和二十一年から二・三年の間といふもの、私は最も死の近くにゐた。」
四年後の『假面の告白』に付すつもりで三島が書いた「作者の言葉」のひとつ(未刊、稿本)では、「この作品を書く前に私が送つてゐた生活は死骸《しがい》の生活だつた」ともいっている。ゾッとするような「荒涼たる空白感」といい「死骸の生活」といい、尋常な表現ではない。周知のように三島は、自分を語るのに大袈裟《おおげさ》な形容句をつかうたちの人物ではなかった。
K子嬢の婚約は三島にとっては予想もしていなかった事件であり、とうてい立ち直れないほどの衝撃だった。『岬《みさき》にての物語』の美少女は一緒に海に身を投じるかわりに自分を棄《す》てて消え去り、彼が築いて来た夢の王国は瓦解《がかい》した。
三島は童話の世界に生きる男女をえがいた戯曲、『薔薇《ばら》と海賊』を昭和三十三年に発表し、死の直前の昭和四十五年十月にこの芝居を彼の劇団、浪曼劇場に再演させた。作中の童話作家|楓《かえで》阿里子の役を演じた妹のはなしでは、三島は第二幕のおわりを見て舞台|稽古《げいこ》で泣き、初日にも客席で泣いたという。
第二幕のおわりは、童話の王国を夢みて来た青年「帝一」と女主人公との次のような会話である。
帝一[#「帝一」はゴシック体] 船の帆は、でも破けちやつた。帆柱はもう折れちやつたんだ。
楓[#「楓」はゴシック体] その帆を繕ふのよ。私は女よ。御裁縫は巧《うま》いわ。
帝一[#「帝一」はゴシック体] だめだ。もう帆はもとに戻らないんだ。
楓[#「楓」はゴシック体] でも空には新しい風が光つてゐるわ。手でつかむのよ。
帝一[#「帝一」はゴシック体] (手をのばして空氣をつかむ)だめだ、指のあひだから風が逃げちやふ。
楓[#「楓」はゴシック体] でも太陽の光りが私たちを助けるわ。
帝一[#「帝一」はゴシック体] 日はもう沈んぢやつた。
楓[#「楓」はゴシック体] 月がのぼるわ。
(中略)
帝一[#「帝一」はゴシック体] 阿里子……。
楓[#「楓」はゴシック体] え?
帝一[#「帝一」はゴシック体] 僕は一つだけ嘘《うそ》をついてたんだよ。王國なんてなかつたんだよ。
『春の雪』の冒頭近くに綾倉聰子《あやくらさとこ》が、
「私がもし急にゐなくなつてしまつたとしたら、清樣、どうなさる?」
主人公の松枝清顯《まつがえきよあき》に、早口でいう場面がある。自分に縁談があることを、聰子は示唆《しさ》したのである。彼女自身はその縁談を断わるつもりでいたし、断わったときいて清顯は聰子が自分を愛しているからだと感じ、大きな幸福感を味わった。
その後の二人は二度ほど接吻《せつぷん》をかわし、恋文を互いに書きつづける。ところが些細《ささい》なことから清顯は聰子に腹を立て、聰子からの手紙を読みもしないで破り棄てる。聰子には宮家から新しい縁談が来ていて、宮家が相手ではすでに許婚があるとでもいわないかぎり、はなしは断われない。
悲鳴をあげるように聰子は清顯に手紙を書き、電話をかけ、清顯はそれらを無視しつづける。ついに婚儀についての勅許が降り、そのときになってはじめて清顯は、自分が失ったものの大きさに気がつく。
三島の「失恋」の経験が、多少の屈折をともなってここに投影されていることは明かだろう。初恋とその破局とが三島の生涯《しようがい》と文学とに投げている翳《かげ》は、一般に考えられているよりもはるかに大きいのである。
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失われたものへの復讐《ふくしゆう》
1
K子嬢との縁談について母堂の倭文重《しずえ》さんは、
――あちらのお宅は、はじめ御熱心だったのですよ。戦争中で若い男がいなかったからでしょうね。
三島の死の直後に、いっておられた。学校の問題とともに、母堂が洩《も》らされたもうひとつの愚痴である。
――それで公威《きみたけ》も、その気になっておりましたの。ところが戦争がおわって若いひとたちが帰って来ますと、公威なんかではもの足りなくなったのでございましょうね。あちらは、さっさと結婚しておしまいになったのですよ。
母堂のシニカルな口調には、ときに三島を思わせるところがあった。
三島とK子嬢とは正式に婚約していたわけではなく、したがってK子嬢の実家に手続き上の落度はない。しかし「死骸《しがい》の生活」と自分でいうような状態におかれた息子を見ていた母堂としては、つい恨みごとがいいたくもなったのだろう。あのとき息子の望みを叶《かな》えてやっていたらとは、亡児をまえにした母親がいつの世にも抱く思いである。
婚約のきまったK子嬢とせめてもう一度会いたいという願いを、昭和二十一年の三島はそのノートで見ると反芻《はんすう》している。
「僕は婚約した彼女を一度誘ひ出して話したいといふ計畫を抱いてゐた。ところが突然別の僕がそれを氣狂《きちが》ひ沙汰《ざた》だと叫び出す。向ふの家の父は吃驚《びつくり》して怒り出すだらう。かりにも婚約した以上、ひとのものをと! ところが『冷靜な』僕がじつくりと別の僕をなだめてかゝる。一度位ゐそれも晝内一緒に出かけたつて何の惡いことがあらう。まして昔は仲の好《よ》すぎた友達だつたのだもの。向ふの家人も平氣で彼女を出してやるだらう。お前のやらうとしてゐることはひどく常識的なことにすぎないのだと。」
右の文章は、昭和三十年に刊行された『創作ノオト「盜賊」』(肉筆写真版限定三千部、ひまわり社刊)のなかにはいっている。『盜賊』の構想をしるした箇条書きのあいだにはさみこまれているのだが、この箇所は小説とは直接の関係はない。三島自身の感情の吐露、と見るべきだろう。
婚約後のK子嬢に三島は結局何度か会っていて、「彼女は今宵《こよひ》は頗《すこぶ》る美しくみえた」ということばも、同じ昭和二十一年のノートに出て来る。
前年に軽井沢で二人が接吻《せつぷん》したとき、彼女はレイン・コートを着ていた。『わが思春期』によると、
「彼女がそのときレイン・コートを着ていたのを私ははっきり覚えています。なぜなら、それは冷たいごわごわした、はなはだロマンティックでない手ざわりだったからです。しかしそのレイン・コートを通して、彼女の激しい鼓動が、急に私の胸に伝わってきました。」
そのときのことを思い出しながら、ノートで三島は次のようにいう。
「彼女はレインコートさへ脱ぎたがらなかつた。まるでそれが下着ででもあるかのやうに。だから僕の彼女の抱心地はゴワ/\した感覺しか殘らない。それのみか彼女は、唇《くちびる》を吸ふにまかせて自ら吸はうとしなかつた。(中略)そして戰爭中の人目のうるさゝから殆《ほとん》どお化粧をしてゐなかつた。そしていさゝか子供つぽすぎるその横顏をます/\子供つぽくみせてゐた。」
けれど彼女と自分とのあいだを第三者が隔ててから、彼女は急に美しくなり出したとノートはいっている。
「僕は彼女を眞夏の薄着で、いささか厚化粧で抱きえなかつたことを後悔した。彼女は今宵は頗る美しくみえた。彼女の白いレエスに包まれた胸のあたりに花房のやうに搖れるものを今日ほど烈《はげ》しく僕は欲したことがなかつた。」
ノートのこの箇所には欄外に、「他所《よそ》の芝は青い」という自嘲《じちよう》めいた書込みがある。このノートを三島があえて公表したのは――全集には収録されていない――、青春のいわば形見として残したかったためではないか。巻末の頁《ページ》には、猫《ねこ》と少女とのデッサンが見られる。
恋の破局について三島は、母堂がいわれたのと同じ意味のことばを、その短篇『夜の仕度』の主人公に呟《つぶや》かせている。(倭文重さんからはなしをうかがった折りには、実はそのことに気がつかなかった。)戦争の終了とともに奪い去られた恋という苦い思いを、三島自身も噛《か》みしめていたのである。
『夜の仕度』はまえにも書いたように、失われた恋を直接の題材とした最初の小説だった。掲載誌は、昭和二十二年八月号の「人間」である。
三島の『私の遍歴時代』によれば、発表にさきだって「人間」の編集長の木村徳三からいろいろ「技術上の注意」をうけ、
「ほとんど木村氏との共作と云つても過言ではないほど、氏の綿密な注意に從つて書き直され補訂されたものである。」
補筆の期間を考慮に入れると、執筆をはじめたのは昭和二十二年の春ごろと思われる。
この小説では芝《しば》という名の主人公が、昭和二十年の「六月上旬に」、恋人の疎開《そかい》さきである高原のK町を訪れる。K子嬢の名は、ここでは頼子《よりこ》となっている。
「大學から勞働奉仕に行つてゐる飛行機工場で、芝は辛《から》うじて、丸|二月《ふたつき》ぶりに頼子と逢《あ》ふためのその四日間のずる休みを入手したのだ。彼が友人である頼子の兄の隊へ母や彼女や妹が面會にゆく小旅行へ誘はれたのを絲口にたびたび頼子を訪ねるやうになつてから、二人とも一ト月餘りを何も言ひ出しえないですごしたのち、三月下旬には、芝は工場へ住み込み、頼子は高原へ疎開して、離れ離れになつたのだが、それ以後二人を戀人めいたものに仕立てたのは、ただ手紙の力があるばかりだつた。」
作中のこの文章は六月上旬までのK子嬢と三島との間柄《あいだがら》を、ほぼ事実に即して(三島の工場入りが実際には五月だった点を除いて)説明しているだろう。ただし主人公がK町つまり軽井沢の駅を降りてからあとの物語には、当然ながらさまざまな潤色や創作が加えられている。
三島が軽井沢に行ったときには、K子嬢が駅まで迎えに来ていた。
「そして気がつかずに過ぎようとした私の背を突いて、ワッと私を驚かせました。私が振り向くと、彼女はひなげしのように真赤になりました。」(『わが思春期』)
小説の方では、主人公は駅頭で恋人と会いそびれる。駅を出て彼が歩きはじめると、
「やがて自分の斜めうしろを、同じ速度で、誰かが自轉車を押して來る氣配に氣づいた。きつと頼子だ。言葉をかける勇氣がなくて、芝が氣づいてくれるのを待つてゐるのに相違ない。」
頼子はだまったまま主人公のあとを追い、みちを曲らねばならない地点を彼が通りすぎようとしたときに、慌《あわ》てて声をかける。
「あら左ですわ」。
主人公の芝が降りたのは「汽車」の駅と書かれているから、舞台が軽井沢なら当時ここを走っていた草軽《くさかる》電鉄ではなく、信越線の軽井沢駅ということになる。軽井沢駅からK子嬢の住まいの方向に行く曲り角までは歩いて十分くらいの距離があり、十分間も二人が互いに気がつかない振りをつづけることはかなり不自然である。三島は自分の経験を離れたこういう場面を設定することによって、若い男女の微妙な心理の喰《く》いちがいをえがこうとした。
声もかけられないでうしろからおずおずとついて来る少女の姿を想像し、芝は「身がほてるほど」の幸福感を抱く。だが頼子の心理は、それほど単純ではなかった。
「目の前をしらん顏をして歩いてゆく芝を見る頼子の目附は、大人びた目附にかはつてゐた。芝に言葉をかけまいと思つたのは羞《はづ》かしさからであつたのが、その期間をすぎると、いくらか意地わるな期待からに他ならなくなつて來た。――彼女は芝が自分に氣づいた瞬間を知つてゐた。」
気づいてもなお振向こうとしない男を見ているうちに、彼女のなかに「思ひがけない氣の強さが」頭をもたげる。それで彼女は「あら左ですわ」と自分から声をかけ、彼に挨拶《あいさつ》もしないで、
「さつきからそつとお後《あと》をつけて來たのよ。びつくりなさつた?」
男の方は自分が頼子に気がつかない振りをして来たことを、彼女に見抜かれていたとは知らない。この間の彼女の心理の曲折を理解できないままに、彼はおずおずとついて来たはずの少女が突然強がりをいい出したと感じ、「びつくりなさつた?」ということばを興醒《きようざ》めの思いできく。
この場面は堀辰雄《ほりたつお》の処女作、『ルウベンスの僞畫』の冒頭に近い部分からの借用と推定される。『ルウベンスの僞畫』の主人公は軽井沢の林間の小径《こみち》を知りあいの少女が歩いて行くのを見て、
「聲をかけようとして何故《なぜ》だか躊躇《ちうちよ》をした。」
少女のうしろを歩きながら、
「彼はもう彼女に聲をかけなければいけないと思ふ。が、さう思ふだけで、彼は自分の口がコルクで栓《せん》をされてゐるやうに感ずる。」
堀辰雄の小説では、男女の位置が『夜の仕度』の場合と入れちがいになっている。『ルウベンスの僞畫』の少女も、男がうしろからついて来ることに気がついていた。
「彼女はさつき振りかへつたときに彼が自分の後から來るのを見たのである。しかし彼女は立止つて彼を待たうとはしなかつた。なぜかさうすることに羞しさを感じた。そして彼女はたえず彼の眼《め》が遠くから自分の背中に向けられてゐるのをすこしむず痒《がゆ》く感じてゐた。」
『ルウベンスの僞畫』の少女のモデルは、松村みね子(本名は片山廣子)の娘總子である。堀の『聖家族』(昭和五年)が、松村母子をえがいていることは有名だろう。
堀辰雄は總子に片思いの思慕を寄せつづけ、昭和八年の『美しい村』などは總子|宛《あて》と思われる未練にみちた手紙が、小説の序章――表題は「序曲」――になっている。K子嬢が疎開中に住んでいた家は堀の一時期の住まいに近く、三島とK子嬢とは『ルウベンスの僞畫』や『美しい村』にいくどかえがかれているあたりの小径を散歩していた。軽井沢での恋の物語を書くのにさいして、三島が堀の作品を意識したのは当然だった。
堀辰雄とのかかわりについて三島自身は『聖家族』をあげ、
「『夜の仕度』は、身邊に取材して、それをフランス風心理小説に假託するといふ手法においては、堀辰雄の『聖家族』の亞流であるけれど」、
といっている。(『三島由紀夫短篇全集』第二巻「あとがき」前掲書)
「私の作品には堀氏の作に比べて明らかに濁りがあり、その濁りがまた私の活力である。」
『ルウベンスの僞畫』の若い男女は、同じ林間の小径を歩きながら羞しさから互いに声がかけられない。二人のあいだの淡い恋心を、この場面は浮かび上らせる。三島は『夜の仕度』でこれに類似した情景をえがきながらも、頼子に声をかけさせることで二人の感情の疎隔をつくり出すのである。
頼子が自分自身を偽って強がりをいっていると信じた主人公は、そういう彼女の存在を重荷に感じ、ついには自分の恋そのものまでも疑いはじめる。
2
『夜の仕度』は一面では、姦通《かんつう》主題の物語である。
頼子の両親は夫婦養子で、母親の桂《かつら》夫人には結婚まえに恋人がいた、という設定になっている。恋人のその医師は彼女の結婚とともに海外に去り、二十年間も帰国しなかった。ヨオロッパで戦争がはじまってから彼は東京にもどり、空襲で病院が焼かれて同じK町の別荘に疎開して来て、頼子の母と久しぶりに再会する。頼子の母は五、六年来、夫と別居していた。
それでも桂夫人は、むかしのこの恋人とのあいだに一定の距離を保とうとした。
「かうまで夫人が身を持すること固いのは、不眞面目《ふまじめ》な交遊に堪《た》へない鋭い愛情が忽《たちま》ち眞面目な眞劍な愛へ陷りやすいのを抑へるためか? (中略)生れながらに夫人は貞淑の運命を持つたのだ。殆ど淫蕩《いんたう》なほど激しい貞淑の。」
桂夫人の心理についてのこの記述は、三島が当時愛読していたラディゲの『ドルヂェル伯の舞踏會』の影響を明瞭《めいりよう》にうかがわせる。『ドルヂェル伯の舞踏會』を、彼は堀口大學の訳によって読んでいた。堀口訳から一、二の文章を引用しておくと、
「それまで(ドルヂェル伯爵《はくしやく》夫人は)、自分の本分と戀愛とを竝立《へいりつ》させて、二つながら巧みに捌《さば》きおほせて來たので、彼女はそのけがれのない純眞な心で、よこしまな感情といふものは樂しくない筈《はず》のものだと思つてゐるのだつた。」
「ド・セリュウズ夫人は、初めて、(中略)なほ貞操には幾つかの顏があることを知つたのだつた。」
訳文中に頻用《ひんよう》される「のだつた」という語法(半過去形の訳語)も、三島はしばしば使用している。
「思ひがけない娘の辱《はづか》しめに彼女(桂夫人)の|顳※[#「需+頁」、unicode986c ]《こめかみ》は痛む|のだつた《ヽヽヽヽ》。」(傍点村松)
頼子は母の恋を知って、医師の家に母が行くとそのあとしばらくは彼女と口をきかない。重い風邪にかかっても、この医師にだけは頑《かたく》なに体に手を触れさせなかった。しかしそういう母子の関係を、主人公の方はむろん知らない。
母親のほかには祖母と幼い妹しかいない女だけの家で一夜をすごしたあと、彼は頼子とともに朝の散歩に出る。接吻は、むしろ頼子の方が誘った恰好《かつこう》だった。前日の出会いいらい彼女にたいする白々しい気分の消えていない芝が、裏山で「歸りませう」といって立とうとすると、
「頼子は置去りにされた子供のやうな眼附で見上げた。」
ここでも彼女は、レインコートを着たままである。
「ゴハゴハしたレインコートの上から抱きすくめた頼子の體は、手に負へない嵩張《かさば》つたものに思はれた。羽搏《はばた》いて逃げようとして體中の力で地を蹴《け》つてゐる大きな鳥を、翼の上から抱き押へてゐるやうだつた。」
彼女の唇に唇を押しつけながらも、つよい陶酔感は主人公には起こって来なかった。「急激に自分の戀が信じられなくなり」、これは恋ではないと彼は思う。恋ではないという気持が、かえってその後の彼に不器用な色事師のような行動をとらせる。頼子と二人だけになる機会が来るごとに「知つてゐるかぎりの不都合な笑ひ話」を彼女にきかせ、寝るまえにはもう一度接吻して「或《あ》る無禮な要求」を耳許《みみもと》で囁《ささや》いた。
唐突な「無禮な要求」をきいて、
「頼子はあたりが明るくなるほど赤くなつた。怒つてはゐなかつた。しかし答はなかつた。(原文改行)萬事芝が豫期したとほりであつた。出來ない相談だと知つてゐればこそ、それを囁く氣にもなつた|のだつた《ヽヽヽヽ》。」(傍点村松)
ところが頼子は、予想外の行動に出る。母親が恋人の医師と一緒に旅行に行くように、彼女は画策するのである。母親は知合いの婦人に温泉への旅行に誘われているといったことがあり、それが実は恋人と一緒の旅行の計画であることを頼子は見抜いていた。
そこで頼子は芝から体を求められた翌日に、知合いの婦人にみちで会ったと祖母や妹のいるまえでいった。
「お母樣にお傳へして頂戴《ちやうだい》つて仰言《おつしや》るの。いつか御約束したK温泉へね、明日か明後日《あさつて》參りませうつて。」
宿も予約ずみといわれたと、彼女は母親に告げる。そう彼女がいえば祖母も妹も、母親の旅行の目的について疑いをはさまないだろう。桂夫人は自分の恋を娘が許してくれたと思って感動し、日ごろの「淫蕩なほど激しい貞淑」を忘れて、娘がさし出した援助の手にとびつく。自分を追出して頼子は芝に身を任せるつもりでいることを知っていながらも、彼女はそれには一切触れようとしなかった。
主人公は、そんな事情は知らない。翌日の午後、別れの接吻をかわすつもりで頼子と一緒に人影のない旧ゴルフ場に行くと、頼子が急に、
「今晩おかへりになるお心算《つもり》?」
「さうさ、仕方がないもの」
「……うそよ、あなた屹度《きつと》おかへりにならないことよ」。
頼子は「次第に頬《ほほ》から耳許へ漲《みなぎ》るやうに赤く」なりながら、およその経緯を説明した。はなしをきいて主人公は、
「これは戰爭のせゐだ、戰爭がこんな眞似《まね》を僕たちに強《し》ひるのだ」、
と呟く。
戦争で男たちが出払っているために、自分のような虚弱な若者に頼子はわが身を委《ゆだ》ねようとし、頼子の母もそれを容認する。戦争がおわったら、どうなるか。
「やがて戰爭も終るだらう……。彼は烈《はげ》しい嫉妬《しつと》なしには、戰爭が濟むと共にかへつて來る大勢の健康な血色のよい若者たちを思ひ浮べることができなかつた。」
昭和二十年の初夏に戦地から「大勢の健康な」若者が帰って来ることを、現実感をもって予想できた人間はたぶん日本中にひとりもいなかった。三島も例外であるはずがなく、したがってこの嫉妬の部分はあと智慧《ぢえ》と考えてよい。「若いひとたちが帰って来ますと、公威なんかではもの足りなくなったのでございましょうね」といわれた母堂と、――K子嬢の家の方の実情はともあれ――同じ感情を三島は抱いていたのである。
国の滅亡をまえにしながらも、女たちは「平然と」しぶとい慾情《よくじよう》をあらわにして生きたと、三島は前掲の『創作ノオト「盜賊」』に書き、彼女たちの「所業のかず/″\に呪《のろ》いのことばを投げている。
「男からの便り、『あなたの旺《さか》んなる肉慾が今では都にのこる唯一《ゆいいつ》のもの、唯一の炎 廢墟《はいきよ》のなかに立つ曼珠沙華《まんじゆしやげ》です』、あなたは永遠に太陽の如《ごと》く耀《かがや》いてゐて下さい
夏のさかりに戰ひは終つた」。
『盜賊』は昭和十年ごろの物語だから、この部分も『盜賊』とは関係がない。女を呪詛《じゆそ》する右の文章は、『夜の仕度』の末尾においた方が似つかわしいように思う。
『夜の仕度』は主人公が、自分の「血の氣のない」薄っぺらな手を嫌悪感《けんおかん》をもってみつめ、そこに不幸のしるしを読む場面でおわる。
「その不幸をじつと見つめながら、その不幸が彼自身を魅するやうになるまで、氣永に待つ他はないと思ふ|のだつた《ヽヽヽヽ》。」(傍点村松)
構成から見て『夜の仕度』は、必ずしも成功作とはいいがたい。
若い男女の心理のすれちがいを導入部においたのは巧妙な工夫であるにせよ、この微妙なすれちがいだけから若い主人公が恋人と一緒の生活を、突然「重荷に感じ」るようになるというのは、多少不自然な印象をまぬがれない。「貞淑の運命を」生まれながらにもっていたはずの桂夫人が、娘の許可を得ると慌《あわただ》しく恋人との旅行に踏切るのも、すんなりとは納得の行きかねるはなしだろう。
いくつかの弱点は指摘できるにしても、三島がはじめて書いたこの自伝的恋愛|譚《たん》は、彼の文学的世界の展開を考えるうえでやはり重要な意味をもつ。
「『夜の仕度』には『美徳のよろめき』や『假面の告白』の、(中略)萌芽《はうが》が見られる筈である」、
と三島はすでにいくどか引用して来た講談社版『短篇全集』の「あとがき」で述べている。
『夜の仕度』の頼子が『假面の告白』では園子となることは、いうまでもない。また昭和三十二年の『美徳のよろめき』の女主人公である人妻、節子は、結婚まえに避暑地でたった一度だけ接吻《せつぷん》をかわした青年と出会い、二人のあいだに恋が再燃する。
「それは避暑地で知り合ひになつた土屋といふ同い年の青年であつた。この接吻は必ずしも遊戲的なものとは云《い》へなかつたまでも、大そうお粗末なもので、節子はあわてふためいた男の乾いた唇《くちびる》の、ほんの一觸をおぼえてゐるにすぎなかつた。(中略、原文改行)あの青年の接吻が、只《ただ》一度であり、ほんの一瞬であり、しかも拙劣であつたことが、節子の記憶の裡《うち》にかへつてその重要性を高めたのである。」(『美徳のよろめき』)
彼女は知合いの夫人の別荘に行くと夫のまえではいいつくろい、結婚まえの恋人と一緒に旅に出る。『夜の仕度』の後日譚という性格を、十年後の『美徳のよろめき』は帯びているのである。
3
『夜の仕度』は昭和二十二年の作だが、三島はK子嬢の婚約を知ってからまもなく、長篇『盜賊』を執筆しはじめている。起稿は『創作ノオト「盜賊」』の冒頭にある書込みで見ると、昭和二十一年一月二十四日だった。
『盜賊』の主人公の藤村明秀は、大学の国文科を卒業したばかりの青年である。彼は母とともにS高原(三島自身の註釈によると志賀高原)に行き、そこのホテルで「嘗《かつ》て見ぬほど美しい人」に出会う。
「はじめ明秀はその人を平靜な氣持で見てゐると感じた。しかしそれは麻醉の作用かもしれなかつた。」
彼女――原田|美子《よしこ》――はやがて鬱蒼《うつそう》とした森にかこまれた池のほとりで、明秀の膝《ひざ》にもたれて午睡をとるのを日課とするようになる。明秀は幸福感に浸りながらも、彼女が自分の手から喪《うしな》われたときのことを戦慄《せんりつ》する思いで想像していた。(別離の不安な予覚さえが、この青年のなかでは死への「甘美な」期待をともなう。)
「彼は美子の若い葉のやうに彈力のある掌《てのひら》をそつと握りながら、『もしこの人がゐなくなつたら』と竦然《しようぜん》として幾度か思つた。この竦然《ぞつ》とする氣持の底には、冒險家が死の刹那《せつな》に感ずるやうな、不眞面目な甘美なあるもの、子供がサーカスや戰爭を喜ぶ氣持に通ふもの、あの原始的な悲劇の本能がひそんでゐなかつたと誰が云へよう。」
不幸な想像は適中し、美子の心は明秀が高原を去ったその日から彼を離れた。結婚を申入れに美子の家を訪れた母親の藤村子爵夫人は、先方にその意志がないことを知って美子の母に絶交を宣言する。
それでも明秀には、諦《あきら》めがつかなかった。母親の禁を冒して美子に電話をかけ、彼女に会いに行く。
「彼女は一言も辯解せずに、その事柄《ことがら》に觸れさうになると、辛《つら》さうな眼付をするだけだつた。」
その様子を見て主人公は無邪気にも、破談は彼女の意志によるのではないと思いこむ。
「『やはりこの破談は彼女の發意ではなかつたのだ。何か僕に云へない理由があるのだ』
――彼はさう斷定した。」
美子という浮気女にとって主人公との高原での恋は、実は「一番つまらないいろごと」のひとつにすぎなかった。彼女は彼の学校時代の上級生を新しい恋人にして自分の家に滞在させ、この恋人と一緒にいる部屋に明秀を招いた。明秀と彼女との恋の噂《うわさ》が新しい恋人の耳にも誇張された形ではいっている気配があり、美子としては恋人のまえで明秀をことさらに嘲弄《ちようろう》することによって、二人のあいだには何ごともないことを証明する必要を感じたのである。
ここまで残酷に扱われれば、明秀も自分のおかれている立場に気がつくほかない。(この場面は彼が死の決意をかためるためのいわば駄目《だめ》押しの役割を、作中で演じている。)明秀は祖父の法事に京都に行ったあと、海が見たくて神戸に行く。波止場から見える早朝の海は、灰色だった。
「鴎《かもめ》が振子のやうに單調に飛びかはしてゐる海面。沖の累々《るいるい》たる雲の裏側から、光が迸《ほとばし》らうとして不安な色調をにじみ出させてゐる。これが一體求めてゐた海であつたらうか。」
『岬《みさき》にての物語』の海の赫奕《かくやく》とした輝きにくらべると、この海は主人公の内面に対応してほの暗い。「これが一體求めてゐた海であつたらうか」と呟《つぶや》きながら、彼は自分の心を覗《のぞ》き込み、すでに自分が死を決意していることを悟る。
「最後の逢彦《あふせ》に敗れて、明秀は沙漠《さばく》をゆく人が烈しい渇《かわ》きに水を求める如くひたむきに死を希《ねが》ひはしなかつたか。美子への戀慕があの瞬間に見事に死へのそれに切り替へられたといふことを、彼は氣附いた筈だつた。(中略)死は獨立し見事に完成したまばゆい形態としてそこに在つたのだ。」
恋人に裏切られた主人公は『サーカス』の「王子」や『岬にての物語』の若者とはちがって、ひとりで死ななければならない。しかしその彼のまえに、やはり自殺を志願している少女があらわれる。名まえは山内清子といい、彼女もまた恋人にそむかれて苦しんでいた。
清子の父の山内男爵は、主人公の母親の藤村夫人が結婚の前後に愛したひとである。それが原因で山内と藤村子爵とは、長いあいだ絶交状態にあった。
この設定は、『夜の仕度』の桂夫人と医師との関係によく似ている。小説の構想を練ったのも起稿も『盜賊』の方がさきだから、三島は『盜賊』の筋書の一部を『夜の仕度』に転用したのではないかと思われる。
ラディゲの影響がつよく感じられる点でも、二つの小説は共通だろう。
「當時まで、私の文學的體驗の最大なものは、レイモン・ラディゲの小説であつた。」
三島は『盜賊』の「あとがき」(『三島由紀夫作品集』昭和二十八年新潮社刊、第一巻)で、みずからそう説明している。
「終戰直後の混亂した社會を避けて、一定の心理の實驗ができるだけ外的な條件に左右されずに可能であるやうな、さういふ無色の背景を、一九三〇年代の華族社會に求めたのは、この種の方法にいたるまで、ラディゲの『ドルヂェル伯』の摸倣であつたといへる。」
ノートで見ると三島は、「裏の筋」と彼が名づけた藤村夫妻と山内との三角関係をつくり上げることにまず専念した。主人公の失恋と死とが自明の題材である以上、これに物語としてのふくらみをあたえる「裏の筋」が大切であると、彼は考えたようである。三角関係の心理描写は、ドルヂェル伯爵夫妻とフランソア・ド・セリューズとの三角関係の場合と、しばしばかさなりあう。
「その愛のはたらきの盲目さのおかげで、夫人は今年の夏、(中略)山内男爵を愛しはじめてゐることに毫《がう》も氣附かないで暮らすことができたのである。山内氏に會ふとき、夫人は平靜な朗らかな、むしろいつもより理智の研ぎすまされてゐる状態にある自分を見て滿足してゐた。しかし人も知るやうに幸福とは理智のみが確かめうるものなのである。」
たとえば『盜賊』のこの文章は、『ドルヂェル伯』の次の一節と照応している。
「かうして永い日を過した後も、彼女は別に氣のとがめることもないのだつた。彼女は思ふのだつた。『あの方の前にゐる時、あたし何にも感じないわ』と。ところがこれが本當の幸福の定義ではなからうか? 幸福もまた健康と同じやうなものであつて、人はそれに氣がつかずにゐる。」
三島の当初の計画では藤村夫人と山内とのあいだに焼け棒杭《ぼつくい》に火がついた形でむかしの恋がよみがえり、若がえった母親の表情が息子を苦しめることになっていた。息子の明秀を清子と結婚させれば、藤村夫人は清子の父の山内と、姻戚《いんせき》同士として何の不自然さもなしに会うことができる。三島のノートによれば、
「すべてこれらの大人の意圖が若い戀人同志(?)の負擔《ふたん》となり、それをますます死へと急がせ、兩家の滅亡の運命を齎《もた》らす。」
また清子はこれも当初の計画では、自分が過去の恋人の胤《たね》を宿しているらしいことに思い悩んでいた。処女を奪われたときのたった一度の同衾《どうきん》で姙娠するものかと彼女はおそるおそる明秀にたずね、明秀もこれにはこたえられない。
深窓に育った十九歳の少女が、こんな質問を何の関係もない男にできるわけがなく、三島は同じノートに、
「物語の最後の心中の前一ヶ月程の間に二人が同衾した事實を匂《にほ》はせる必要あり。明秀も童貞でなくなつた」、
と書いている。
清子は姙娠の事実がはっきりしないうちに死んでしまいたいと思い、その決意を明秀に打明ける。ここに死の共謀が、成立するのである。
「彼(明秀)の無計畫な浮《うは》つ調子な死の概念に、姙娠といふ嚴肅な肉體的理由にもとづく死の決心で、ある覺醒《かくせい》を與へる。彼ははじめて悲劇の精神を知る。」
これが『盜賊』第二章後半以降の、元来の構想だった。ところが小説では、清子の姙娠のはなしは消える。
主人公と清子とは春のある日にはじめて会い、共謀の自殺は十一月だった。清子はむかしの恋人に一月いらい会っていないと、小説には明記されている。一月に姙娠したとすれば二人が死の共謀をめぐらしはじめた若葉のころにはお腹《なか》は大きく、自殺の十一月は臨月か、あるいはもう子どもが生まれてしまっている計算になる。
時間の辻褄《つじつま》をあわせようとしても、『ドルヂェル伯』型のゆっくりとした速度で動く心理小説に、姙娠への不安をもちこむことには無理がともなう。(姙娠したか否《いな》かのこたえは、せいぜい二、三箇月で出て来る。)二人は自殺するまえに結婚式を挙げる予定になっていたから、そのまたまえに数箇月の婚約期間をおかなくてはならない。
そういう時間上の制約がつきまとううえに、そもそも恋人の代理を死の床でつとめる女が姙婦でよいのかという疑問も作者にはあっただろう。ノートで見ると清子が処女を失っていることは、二人の出会いの場面で説明されるはずになっていた。
「清子にはそれまで|處女の性質が《ヽヽヽヽヽヽ》過剩にありすぎるやうにみえた。それは最初から處女を奪はれた彼女の羞恥《しうち》の表現なのであつた。」(傍点原著者)
この文章の後半の部分が、小説では削られている。
「『處女の性質をこの人は過剩に持ちすぎてゐるらしい』――明秀はそんな觀察を清子の第一印象としたのである。」
第一印象を否定するようなことばは作中にはなく、つまり清子は創作の過程で処女的な存在へと変貌《へんぼう》する。過去の恋人とのあいだの肉体的な関係はぼかされ、彼女も主人公と同様に、単に恋人に棄《す》てられて絶望した女としてえがき出される。
双方の親たちの『ドルヂェル伯』風の三角関係も、三島が企図したほどには二人の死を促進する役割を演じていない。二人は結婚と同時に死ぬ気でいたのだから、結婚を親たちがどう利用するつもりでいようと、その思惑につよい関心をもつはずがない。三角関係と死とを結びつけようとしたことは、無理な企てだったように思われる。
親たちの恋愛が「裏の筋」というよりは背景の一|挿話《そうわ》としておわり、清子の姙娠が消えて彼女が主人公と瓜《うり》二つの存在と化したために、死の動機のなかにはいり込むはずだった夾雑物《きようざつぶつ》が消えて、主題がよかれあしかれむしろ鮮明に浮かび出るという結果を生んだ。主人公は清子のなかに美子を見出《みい》だし、清子は明秀を過去の自分の恋人と思う。ノートに準備されていた同衾の場面は、小説では暗示的な表現にとどめられ、二人は「この上もない潔《きよ》らかな」恋人の装いを身につけたまま結婚して、結婚の当夜予定どおり情死をとげる。
二人の死後まもなく、美子は清子のむかしの恋人に出会う。二人は目を合わせると同時に、互いの顔に荒廃を見た。
「今こそ二人は、眞に美なるもの、永遠に若きものが、二人の中から誰か巧みな盜賊によつて根こそぎ盜み去られてゐるのを知つた。」
『盜賊』末尾のこのことばは、ノートのなかにこれと寸分ちがわない形で書込まれている。
4
三島にとって最初の長篇だった『盜賊』は、いくつかの雑誌や単行本にその断片が発表されたのちに、昭和二十三年十一月にようやく一巻として刊行された。(同じ年の九月に、彼は一年足らず勤務した大蔵省をやめていた。)
序文は、川端康成《かわばたやすなり》が書いている。
「私は三島君の早成の才華が眩《まぶ》しくもあり、痛ましくもある。(中略)三島君は自分の作品によつてなんの傷も負はないかのやうに見る人もあらう。しかし三島君の數々の深い傷から作品が出てゐると見る人もあらう。この冷たさうな毒は決して人に飮ませるものではないやうな強さもある。この脆《もろ》さうな造花は生花の髓を編み合せたやうな生々しさもある。」
三島が「虚空《こくう》の花と内心の惱みとを結實」させることを望むと、川端康成は序文の末尾でいう。「長篇小説の習作」と三島自身が呼んでいたこの「造花」のかげにひそむ作者の苦悩を、さすがに川端さんは察知していたらしい。
思い出からどうしても遁《のが》れられないと、三島はそのノートでいっているのである。
「我々がある思ひ出から遁れようとすると、その思ひ出自身が我々をはなれて激しく生きようと試み出すのを見ることがある。このやうな時我々の生きる意味はいやでも思ひ出のそれと一致して了《しま》ふ。そして我々の死の意味も。」
これにつづく文章は、上に二重丸の印がつけられている。
「僕の作品は、それを成立せしめた凡《すべ》ての條件への苛責《かしやく》なき復讐《ふくしう》である。」
『盜賊』の主人公は代理の恋人と情死することによって、自分にそむいた恋人に復讐をとげる。失われた『岬にての物語』の夢想を、作者はこういう異様な形態で成就《じようじゆ》して見せた。
敗戦後何年間かの三島の作品は、『盜賊』だけではなくその多くが、失恋への歎《なげ》きと自分を裏切ったものへの復讐とを主題としていた。『戀と別離と』(発表は昭和二十二年三月)がそうであり、『接吻《せつぷん》』『傳説』『白鳥』『哲學』の掌篇四部作(昭和二十三年一月)がそうであり、『頭文字』(同六月)『罪びと』(同七月)『親切な機械』(昭和二十四年十一月)『純白の夜』(昭和二十五年一月から十月)『翼』(昭和二十六年五月)も、同じ範疇《はんちゆう》にはいる。
このうち『戀と別離と』は昭和二十一年の暮か二十二年のはじめに書かれていて、創作の時期はたぶん『夜の仕度』よりもはやい。主人公の初恋のひとは、同級の友人の――妹ではなく――姉だった。しかしこの美女は、主人公のことなど心にとめもしない。同級生が召集をうけて入隊する日に主人公が駅に彼を見送りに行くと、美少女は長身の許婚《いいなずけ》とともにあらわれ、二人で同じ列車に乗込む。現地まで弟を、送って行くのである。
車内にはいった彼女の「美しい横顏を」外からみつめながら、主人公は呟いている。
「子供のころから、暗い自動車の窓にみる女の横顏をとりわけ好きであつた僕は、けふの彼女を、失はれたものの總計、――永い幼年時代と少年期にかつて失はれたものの總計のこよない繪姿として見てゐるのかもしれなかつた。(原文改行)それは今正に(中略)今の一瞬の全世界から失はれゆくもののやうに思はれた。」
また昭和二十三年の『頭文字』では、若い軍人の朝倉季信中尉《あさくらすえのぶちゆうい》の恋人が宮家と婚約する。恋人の渥子《あつこ》の父は朝倉家を嫌《きら》い、宮家との縁組を切望していたので、縁談の進行はだれにも阻止できなかった。婚約発表の一週間まえに、渥子は自分の寝室に通じる裏門の鍵《かぎ》を中尉に渡す。
季信はただちに戦地への出動を聯隊《れんたい》長にねがい出てから、指定された時刻に渥子の邸《やしき》のなかにはいった。
「戸のかげから辷《すべ》り出たものが中尉の腕にたふれかかつた。それははげしく鼓動してゐる熱い滑らかな物體であつた。(中略)二人はしばらく水を呑《の》む鹿《しか》のやうにしづかに接吻してゐた。」
まえに引いた「この戀には筋道といふものが缺《か》けてゐるらしかつた」という文章が、このあとにつづく。「つきあたりの扉《とびら》をあけて一足ふみ出すとそこはもう海の上なのであつた。」
二人は歓喜の一夜をすごし、最後に中尉は何かのしるしを恋人の肉体に残して行きたいといい出す。春の打毬会《だきゆうかい》の折りに宮の打った毬《まり》が渥子の胸にあたって、乳房の下に青い痣《あざ》をつくったことがあり、ほかの男が恋人の身体に痣をつくったことに中尉は嫉妬《しつと》していた。
それでは痣のあったあとに二人の頭文字を彫って頂戴《ちようだい》と渥子はいい、季信はナイフをとり出して白い乳房の下にASの文字を彫込む。彼はそれからまもなく戦地に赴き、渥子はこの「一夜の向うみずな振舞」を、次第に悔いるようになった。
「宮との婚儀が整つたころには傷はさすがに跡形もとどめなかつた。中尉の便りもなかつた。渥子はさうして忘却のいたましい誇りを抱いて高慢な女になつた。宮はこまやかに妃を愛される方だつた。しかし淫蕩《いんたう》な妃は、恥づべき愛撫《あいぶ》の手ほどきをさへしたのだつた。」
愛を忘却した彼女への復讐は、頭文字の幻影となってあらわれる。宮とのあいだに王子が生まれてからのち、産褥《さんじよく》をはなれて久々の入浴を許された渥子は、鏡のまえに立って左の乳下に「傍若無人な書體で AS と書かれた頭文字を」見た。
同時刻に朝倉季信中尉は、心臓を射貫《いぬ》かれて戦死していた。渥子は失神して寝室にはこびこまれ、数日間はだれとも会おうとしなかった。季信の戦死の報が届いてからは、
「喪服を身にまとはれ、爾後《じご》けつして宮と寢室を共になさらなかつた。(原文改行)極祕裡《ごくひり》に、妃は座敷|牢《ろう》めいた一棟にとぢこめられた。その振舞は狂氣のほかに原因を求めやうもないからだつた。」
『春の雪』の原型、といってよい作品だろう。『春の雪』の綾倉聰子は宮家との納采《のうさい》の儀(結納)を目前にして、あえて松枝清顯と密会をかさねる。
ただし後年のこの小説では、聰子は結婚はしない。そのかわり仏門にはいり、主人公は苦悶《くもん》のうちに死ぬのである。
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U 自己改造をめざして――『假面の告白』から『金閣寺』へ
「假面」の創造
1
――もっとシンプルにおなりなさい。
堀辰雄は三島に、そういう意味のことを忠告している。夾雑物《きようざつぶつ》を棄《す》てて素直な抒情《じよじよう》作家になれ、というほどの意味だったのだろうか。
三島の昭和二十一年の『創作ノオト「盜賊」』に、
「堀辰雄は僕にシンプルになれと云《い》つた、しかしシンプルにならうとしてそれに成功するなんて、さうおいそれと出來るものぢやない」、
という書込みがある。
「第一氏が例に引いた立原道造も僕はあんまり尊敬してゐない。ましてや氏自身の素寒貧《すかんぴん》な小説――すぐ微熱が出たり、切なくなつたりする小説を書きたいとは思はない。」
三島由紀夫が信濃追分《しなのおいわけ》の堀家を訪問したことは、――堀辰雄未亡人から谷田昌平がうかがったところでは――一度もなく、昭和十八年に杉並の成宗の家を訪ねたことが一回だけあったという。したがってこの堀の忠告は、昭和十八年にまだ学習院高等科在学中の三島に向かっていわれたことばか、あるいはそれ以後の書簡に書かれていたのか、そのどちらかと考えるほかない。
若いころの三島は堀辰雄に敬意を抱いていて、堀の作品の影響は『夜の仕度』にだけではなく、昭和十五年の『彩繪《だみゑ》硝子《ガラス》』にもすでにあらわれている。
「化石のやうな性質が彼女のなかにあつた。
高原の村落から自轉車で十分ぐらゐ、花がちらしたセロファンのやうに咲いてゐる廣野へ少女たちは自轉車で別莊地からあそびにきた。空色の金屬の輝きはじつとしてはゐなかつた。」
初期の堀辰雄の文体との類似性について、説明は不要かと思う。堀が『美しい村』や『風立ちぬ』のおわりの部分でくりかえし書いている軽井沢の水車小屋の情景も、『彩繪硝子』にはそのまま出て来る。少年時の三島は軽井沢には行った経験がなく、小説の主舞台をこの町に設定したこと自体が、堀の影響によると見てよい。
ただし堀とはちがって十五歳の三島は、小説のなかで空色の靴下留《くつしたどめ》を老夫婦の心理劇の小道具につかい、その一方で若い男女間の憎悪《ぞうお》が恋に転化して行く過程をえがいている。若い男は恋人の則子《のりこ》に伯母が、
「ねえ則子さんは空色の靴下留をしていらつしやるの?」
小声でたずねるのをきいて、自分が則子のスカートの中まで知っているかどうかを試験されていると思い、「はづかしいやうな不思議な氣持」になる。
女の靴下留や憎悪は、堀の抒情的な文学の世界からは縁がとおい。三島が自作と堀の小説とを比較して、
「私の作品には堀氏の作に比べて明らかに濁りがあり、その濁りがまた私の活力である」、
といっていることはすでに述べた。三島がこの文章を書いたときに、「もっとシンプルにおなりなさい」という堀のことばが念頭にあったことは、ほぼ疑いを容《い》れない。堀は俗世間の雑事や悪を決してえがき得ない文体をつくってしまったと、後年の三島は書いているのである。
「堀辰雄氏は自分の作つた文體に縛られた。私は氏の文體は尊敬するが、小説家としての氏が自分の文體に縛られて行つた經路については同情を禁じ得ない。人生の最初に、氏はまづおのが感受性に目ざめた。感受性といふものは、知的ではないところの、それ自體の頑固《ぐわんこ》な樣式をもつてゐる。」
「その結果、(中略)うまく丹念に選擇された言葉から成立つた文體は、機關車や、熔鑛爐や、巷《ちまた》の雜沓《ざつたふ》や、政界財界の上層部の動きや、殘酷な殺し場などを決して描きえない文體になつた。」(『卑俗な文體について』昭和二十九年一月)
堀の忠告を無視して、三島は「シンプル」とは逆の方向に向かって行く。堀のようになりかねない体質が自分にあることを、彼はむしろ警戒していた。
三島由紀夫がK子嬢への思いを絶ちきれなかったように、堀辰雄も片山總子への恋に長いあいだ苦しみつづけた。總子はK子嬢と同様に、他家へ嫁ぐ。
十数年の歳月をへだてて、二人はよく似た境遇におかれていたのである。
片山總子とはじめて会ったときの印象を、佐多稻子《さたいねこ》が書いている。昭和三年か四年のことだったという。佐多稻子は總子よりも、三歳の年長になる。
「その人が『ルウベンスの偽画』の『彼女』であることは(中略)私も知っていた。まもなく宗瑛《そうえい》というペンネームで作品を発表するこの人はすでに少女ではなかったが、堀辰雄は、優しい少年が少女に対するような親しさでその人に接していた。それはずっと前からつづいている親しさを感じさせた。」(『新潮日本文学 堀辰雄集』解説、昭和四十四年刊)『ルウベンスの僞畫』から『菜穗子』まで、堀の主要な作品を一貫して流れる主題が、彼女への思慕である。
『風立ちぬ』は結核で死んだ婚約者、矢野綾子への鎮魂の作であり、長篇ではこれだけがほかと主題をことにする。しかし矢野綾子との婚約直後の時期においてさえ、堀は片山廣子、總子の母子をえがいた『物語の女』――のちに加筆のうえ『楡《にれ》の家』と改題――を発表している。ここでは總子は菜穗子という名で登場し、菜穗子のその後が昭和十六年の『菜穗子』でえがかれる。つまり『楡の家』は、菜穗子連作の前半部分にあたる。
堀が片山母子にはじめて会ったのは、大正十三年の八月だった。軽井沢の旅館つるやに滞在中だった芥川龍之介に堀は会いに行き、芥川から二人を紹介された。もっともこの年には、堀は軽井沢に一晩しか滞在していない。
彼が片山母子と親しくつきあうようになるのは、翌大正十四年からである。母親の片山廣子は歌人として知られ、『翡翠《かはせみ》』等の歌集を出しているほかに松村みね子のペンネームで、アイルランドの作家シングの戯曲を飜訳していた。
芥川は『或阿呆《あるあはう》の一生』のなかで、彼女について書いている。
「彼は彼と才力の上にも格鬪出來る女に遭遇した。が、『越し人』等の抒情詩を作り、僅《わづ》かにこの危機を脱出した。それは何か木の幹に凍つた、かがやかしい雪を落すやうに切ない心もちのするものだつた。」
ここでいう「『越し人』等の抒情詩」とは、旋頭歌《せどうか》『越びと』二十五首の連作や、『相聞』などの詩篇を意味する。
片山廣子の夫、貞次郎は、大正九年に病歿《びようぼつ》していた。彼女は明治十一年の生まれだから、大正十四年には四十七歳になっている。この時代の通念では相当の年輩であり、芥川は十四歳年下だった。年齢に似ないみずみずしい魅力を、彼女はその肢体《したい》にひめていたのだろう。
娘の總子の方は最初の小説『胡生《こせい》の出發』を、昭和三年四月の「山繭《やままゆ》」に発表している。(このとき彼女は、二十歳だった。)宗瑛というペンネームによる創作活動は、爾後《じご》昭和八年ごろまでつづけられる。茶の方の名まえを宗瑛といい、それを彼女はそのまま筆名とした。
女の書いた作品として特別な目で見られることをきらい、茶人の方の名でとおしたのだという。このことに関しては、佐多稻子の文章をもう一度ひいておく。
「ついでに云えばこの人の宗瑛という名が、女性の作品として読まれることを拒否してつけられたというのは堀辰雄に聞いたことだったろうか。それを聞いたとき私は、その誇り高さに、いささかの反撥《はんぱつ》をふくむ格別のおもいを持ったことを覚えている。」
写真で見ると可愛《かわい》らしいふっくらとした顔立ちのひとだが、この才媛《さいえん》には相当に勝気なところがあったらしい。彼女の小説は男っぽい文章で書かれているだけではなく、どれも男か動物を主人公とする物語で、女はせいぜい端役《はやく》としてしか出て来ない。『胡生の出發』では都に行こうとして旅に出た胡生という若者が、一夜夢のなかで傷ついた蟹《かに》に会い、戦乱のうちにほろび去った国の物語を蟹からきかされる。
『胡生の出發』につづいて宗瑛は同じ「山繭」に、『トイトイフウは戰はない』と『狐《きつね》』とをのせている。(五月号、十月号)堀が『ルウベンスの僞畫』の前半部分を発表したのも「山繭」であり、彼女の作品の掲載は堀の推挽《すいばん》によると推定される。
「山繭」が昭和三年の秋に廃刊になると、堀は總子の実兄の片山達吉(筆名は吉村鐵太郎)や、やはり「山繭」の同人だった永井龍男《ながいたつお》などとともに、「文學」を第一書房から刊行する。片山家は、第一書房創業のさいの出資者だった。
「文學」の編集は、堀辰雄がひとりでとりしきった。小林秀雄訳のアルチュール・ランボオ『地獄の一季節』が五回にわたって連載され、二号(昭和四年十一月)にはそれとならんで宗瑛の小説、『プロテウスの倒影』がのっている。ごみ舟(浚渫船《しゆんせつせん》)で働く少年を主人公とする、これも男ばかりの世界の物語である。
堀は「文學」の五号(昭和五年一月)に『宗瑛の作品について』と題する一文を寄せ、寓話風《ぐうわふう》の物語をこれまで書いて来た宗瑛が『プロテウスの倒影』では「ラフオンテエヌ風な」作風から脱皮して、「人間の意識下への凝視」につとめていると論じた。女流作家として扱われるのを彼女がきらっていることを知っていた堀は、文中宗瑛を「彼」と呼んでいる。
「彼のこの文體位、われわれ人間の意識下を明瞭《めいれう》に表現したものはあるまい。(中略、原文改行)僕がいまこの宗瑛の作品を、こんなにも強くアンダラインするのは、それに諸君の注意を向けさせたいがためだ。そしてそれが出來たならば、僕のこの文章の目的は完全に果されたと言つていい。」
宗瑛の作品には才気の閃《ひらめ》きが感じられるとはいえ、全体としてはお嬢様芸のにおいが濃く、堀によるこの高い評価にそれらが釣合《つりあ》っているとは到底いいがたい。堀辰雄に彼女がどんな態度で接していたかは、堀がこのころ神西清宛《じんざいきよしあて》に書いた書簡に、「僕が欲しいのは唯《ただ》愛だけだ それだのに僕が知つたのは 一詩人は生きてる間は誰からも本當に愛されぬと云ふ事だ」と歎《なげ》いていることからも、およその察しがつく。右の『宗瑛の作品について』は、文学論の形をとった恋文といって過言ではない。
異様な論文という感想を抱いた人びとは、二人の周囲にいたはずだろう。二人のあいだには何かあるらしいという噂《うわさ》が立ち、堀もいわくありげに振舞ったために噂はひろがって、總子が文藝春秋社をたずね、変な噂をたてないでほしいと抗議したというはなしが伝えられている。(「山繭」「文學」を通じて堀とともに同人だった永井龍男は、文藝春秋社につとめていた。)しかも噂を裏打ちするように、『聖家族』が昭和五年の十一月に発表される。
『聖家族』の九鬼が芥川をさし、細木夫人母子が片山(松村)母子であることは、多少とも消息に通じている人間にはすぐにわかる。作中では堀自身としか思えない主人公が、細木絹子こと片山總子の恋人となっているのである。『聖家族』の発表以後、堀は片山家への出入りを禁じられた。
『聖家族』の続篇にあたるのが昭和八年の『美しい村』であり、主人公は「最近私を苦しめてゐた戀愛事件」について思い悩みながら、初夏のまだだれもいない細木家の別荘のあたりを歩きまわる。總子に宛てた手紙の形をとった序章(「序曲」)のなかで、主人公は書いている。
「あなた方とはじめて知り合ひになつたこの土地で、あなた方ともう見知らない人同志のやうに顏を合せたりするのは、大へんつらいから、僕はあなた方のいらつしやる前に、この村を出發しようかと思ひます。」
これで見ると昭和八年の時点でも、絶交状態は解かれていなかった。
堀辰雄は『聖家族』を書上げた直後に喀血《かつけつ》し、向島の自宅でしばらく静養してから長野県富士見高原の療養所にはいった。彼が病気療養中のその時期に宗瑛は「文學時代」という新潮社が出していた雑誌に「文壇美男|禮讃《らいさん》」と「求婚廣告」と題する二つの短文を寄せ、花聟《はなむこ》には用心棒がつとまるような逞《たくま》しい男がいいといった。「文壇美男禮讃」でも「鍛へ上げた感じの」「ジーグフリード的美」をたたえ、その例として室生犀星《むろうさいせい》をあげている。室生犀星とは懇意だったからその名を引いたまでで、文章の力点は明かに「ジーグフリード的美」の方にある。
これらの短文は、『聖家族』が発表された翌々月の雑誌に掲載された。女流作家と見られることを嫌《きら》っていた彼女が突然女として発言し、逞しい男をえらぶと強調したことは、堀辰雄のような病身の男には興味がないという宣言であると、解釈してよいのではないか。
それでも堀には、諦《あきら》めがつかなかった。總子が兄の同級生と結婚してからは、凡庸な夫をもつテレーズ・デスケルウ風の女として『菜穗子』の女主人公をえがく。(總子にとっては、迷惑なはなしだったろうと思う。)作中菜穗子を慕う都築明は、立原《たちはら》道造をモデルとしたという説もあるけれど、外見はともあれ中味は作者の分身としか考えようがない。
三島由紀夫にここではなしをもどすと、その『菜穗子』を三島はのちに『現代小説は古典たりうるか』(昭和三十二年)と題する評論のなかで詳細に批判し、自分ならこうするだろうといって筋書を書きなおして見せるのである。
他人の作品を修正してしまったのだから、批評の方法としては大胆きわまる。扱われている主題への深い共感がなければ、なし得なかった仕事であろう。
2
菜穗子の姿を都築明が、雑沓のなかで見かける場面から小説『菜穗子』ははじまっている。
都築が「もう二度と胸に思ひ描くまいと心に誓つてゐた菜穗子」は、「何か目に立つて憔悴《せうすい》して」いるように感じられた。そばにいる背の低い夫には無関心のように、彼女は足早に歩いていた。
「一度夫が何か彼女に話しかけたやうだつたが、それは彼女にちらりと蔑《さげす》むやうな頬笑《ほほえ》みを浮べさせただけだつた。」
このときから都築は職場である建築事務所にいても仕事に身がはいらなくなり、所長から休暇をやるから休養して来いといわれて、彼女と少年時の夏をたびたびすごした信州のO村(追分)に行く。追分では当時ここにいくつか残っていた氷室《ひむろ》のひとつで雨宿りをしているときに、偶然いあわせた早苗という村の娘に出あい、彼女と逢引《あいびき》をかさねる。以下、三島の要約によると、
「その娘とたびたびあひびきをするが、都築は手もふれず、口もきかず、ぼんやりと夢みてゐる。早苗には村の人氣者の若い巡査が求婚してゐて、都築はこの戀人同士に對して好意を持つてゐる。」(『現代小説は古典たりうるか』)
都築明という若者は作者の分身でありながら、およそ存在感が稀薄である。彼が「ぼんやりと夢みてゐる」のは早苗にたいしてだけではなく、肝腎《かんじん》の菜穗子との過去の間柄《あいだがら》にしても記述は一緒に自転車を乗りまわした仲という程度にとどまり、恋愛感情は茫漠《ぼうばく》としている。そのために、「此《こ》のおれは一體どうすれば好いのか?」という孤独への彼の歎きも、いたずらに大袈裟《おおげさ》なものにひびく。
自分が詩人だと勝手に思いこんでいるこの主人公を評して、三島は次のようにいう。
「讀み進むにつれて、この始終感動に息をはずませたり、『何か切ないやうな』氣持になつたりする青年、そのくせ體の無理を押して旅行をするほか、何一つ行爲につながらない青年は、私の目にますます滑稽《こつけい》な存在に映り、作者がこんな大《おほ》時代な青春|獨逸《ドイツ》派を戲畫《ぎぐわ》化せずに容認してゐる神經に私は呆《あき》れたが、強ひて言へば、一ヶ所だけ、都築が戲畫化されてゐる個所がある。それは後段で、彼が突然サナトリウムに菜穗子を訪ね、『急に何處《どこ》といふあてもない冬の旅がしたくなつたのだ』と告白して、菜穗子のにが笑ひを浴びる、その一ヶ所だけである。」
シューベルトの『|冬の旅《ヴインター・ライゼ》』が、この時代には学生のあいだで流行していた。
無為のうちに夢想することが暴力の君臨した戦争中には美徳であり得たのであり、その環境が堀辰雄のうちに都築明という無力な夢想家を育てたと三島は説明する。しかし戦後の時代には、都築はもはや滑稽にしか見えない。
そこで『菜穗子』を現代にも生きのび得る「古典」とするためには、三島によれば修正の方法は二つしかないことになる。
「一つは都築明の徹底的な戲畫化である。彼はいい氣な詩人氣取の青年で、自分の病身を愛し、自分の感受性にべた惚《ぼ》れしてゐる。それがあんまり確信に滿ちてゐるので、まはりの人物はみんな化かされてしまふのである。まづ建築事務所の所長が化かされ、彼に一二ヶ月の休暇を與へる。彼は早速旅に出る。(中略、原文改行)その高原で彼は追憶に溺《おぼ》れ夢想に醉ひ、氷室の雨やどりで出つ喰《く》はした早苗に、ばかげたロマンティックな讃辭《さんじ》を捧《ささ》げる。」
戯画化とならんでもうひとつのみちは、何ごとにも煮え切らないこの恋の詩人を、同性愛の男に仕立てることにある。この修正方法を三島は、「實存主義的」と呼ぶ。
「もう一つの修正はもつと實存主義的である。都築は休暇をとり、旅へ出、高原の氷室で娘と會ふ。あひびきを重ねるが、彼は娘の手一つ握らず、冷たい粘液質的な目つきでじろじろ見てゐるだけである。そのうち、彼は早苗に求婚してゐる若い人氣者の警官に會ふ。忽《たちま》ち都築は警官に同性愛を抱き、早苗と警官の間柄に嫉妬《しつと》する。つひに彼は警官を愛するあまり、狂的に、|ある嵐の夜《ヽヽヽヽヽ》、氷室の中で、早苗を強|姦《かん》してしまふのである。」(傍点原著者)
三島の修正案は菜穗子の夫にまで及んでいるけれど、いまはそこまでは立入らない。要するに三島は、彼自身の新版『菜穗子』をここで書上げた。改編の作業を通じて彼が実は自分を語っているということを、改めて説明する必要があるだろうか。
三島自身が敗戦のころまでは、「何一つ行爲につながらない」無為のうちに生きる夢想家だった。都築が菜穗子を「もう二度と胸に思ひ描くまいと」つとめていたように、二十一歳の三島はそのノートで見ると、K子嬢の「思ひ出から遁《のが》れようと」苦しんでいた。そういう意味では彼もまた、一個の都築明だった。
『現代小説は古典たりうるか』(初収単行本の書名《ヽヽ》は『現代小説は古典たり得《ヽ》るか』)は、『美徳のよろめき』の完結の直後から書きはじめられている。『美徳のよろめき』は作者自身の身辺に取材した作品であり、三島が自分でいっているように『夜の仕度』、『假面の告白』の系列に属する。青春の劇ともいえるこの作品系列に区切りをつけた時点で、三島は自分の過去を振りかえり、彼の都築明をどのようにして抹消《まつしよう》したかを、いいかえれば『假面の告白』へのみちを、解明しているのである。
第一の方法として彼があげている主人公の戯画化は、たとえば昭和二十三年一月に発表された掌篇四部作のなかにその例を見ることができるだろう。
四部作の冒頭におかれた『接吻《せつぷん》』の主人公は、自分が詩人だと思いこんでいる若者である。彼は丘のうえに住んでいる少女を愛し、わざわざ鵞《が》ペンをつかって彼女に捧げるこのうえなく下手な詩を書く。少女の方は自分は画描《えか》きだと称して、電燈《でんとう》の下で果物の絵を画《か》いている。
「詩人」は彼女のアトリエに行ってその横顔を眺《なが》めながら、「どんな果物よりも果物らしい味のしさうな」唇《くちびる》だと思う。「彼女はうんと言つてくれるかしら? ほんの一秒のキスでよいのだが。」しかし気の小さい彼には、接吻させてほしいとはいい出せない。
「何しにいらしたの、こんなに遲く」、
ときかれると、
「詩が……詩がね、どうもうまく書けないもので」
「私とおんなじね。でもやつぱり一人一人でゐた方がよく書けるわ。もうお歸りにならない?」
接吻のかわりに「詩人」は彼女がその唇を撫《な》でた紅《あか》い画筆をもらうことで満足し、月の傾きかけた夜道をとぼとぼと帰って行く。短いこの物語には最後に教訓がついていて、
「お孃さん方、詩人とお附合ひなさい。何故《なぜ》つて詩人ほど安全な人種はありませんから」。
掌篇の最後の『哲學』でも、無為の夢想家の失恋自殺が戯画的にえがかれている。だがこういう戯画的な小説が、三島の作品中に多いとはいえない。詩人気どりの恋人ぐらい戯画化しやすい存在はなく、戯画としての独自性は出しにくいだろう。
それに自分のなかの都築明を徹底的に戯画化するということは、当然夢想家的気質とその世界との否定に行きつく。夢想のなかの甘いほのかな恋も、否定されねばならない。否定の極北には三島のいう第二の方法が、すなわち同性愛とか男への嫉妬による強姦とか、およそ非|星菫派《せいきんは》的な、その意味で反|抒情的《じよじようてき》な筋立が浮かび上る。
『盜賊』の主人公は、まだ都築明の影を曳《ひ》いていた。
「彼はおそるおそる自分に問うて見た。お前は何かだいそれたことを企《たく》らんでゐるのではないか、と。(原文改行)その時久しくわすれてゐた切ない情緒が彼の胸を締めつけた。最後に美子と會つたあの日、彼女が絶えず三宅へ向けてゐた熱意ある眼差《まなざし》を苦しげに見戍《みまも》つてゐた時に襲つてきた情緒だつた。」
この部分は『菜穗子』の次の一節を想起させる。
「『お前はこんなところで何をしてゐる?』ときどき何物かの聲が彼に囁《ささや》いた。(原文改行)この間、彼がもう二度と胸に思ひ描くまいと心に誓つてゐた菜穗子にはからずも町なかで出逢《であ》つたときの事は、誰にとて話す相手もなく、ただ彼の胸のうちに深い感動として殘された。そしてそれがもう其處《そこ》を離れなかつた。」
『盜賊』を書きあげてからあと、三島は『菜穗子』的な世界と袂別《べいべつ》し、べつの自分をつくり上げる。新しい「假面」を、彼は創造するのである。
書きおろしの長篇小説の執筆を三島が河出書房から依頼されたのは、当時河出書房の文芸部門を担当していた坂本|一龜《かずき》の回想によると、昭和二十三年の八月末だった。
いわゆる戦後派作家による長篇|叢書《そうしよ》を、河出書房では企画していた。戦後派作家の作品シリーズはすでに前年に真善美社が刊行し、野間宏《のまひろし》の『暗い繪』や中村眞一郎の『死の影の下に』等を出している。真善美社のシリーズでは本の表紙の下部に apres-guerre creatrice という文字が刷込まれていて、アプレ・ゲールは一時期の流行語にまでなった。(なお apres-guerre は男性名詞だから、クレアトリスという女性形の形容詞をつけているのは文法的におかしい。正確には apres-guerre createur。「創造的戦後」といおうとしたのだろうが、apres-guerre creatrice では、「|創造的な戦争《ヽヽヽヽヽヽ》のあとに」の意味になってしまう。)
河出書房の企画は、その「apres-guerre creatrice」のいわば第二弾をねらったのだろう。シリーズの最初が椎名麟三《しいなりんぞう》の『永遠なる序章』、二冊目が中村眞一郎の『シオンの娘等』、以下望月義、谷本敏雄、船山馨《ふなやまかおる》、梅崎春生《うめざきはるお》、神西清、埴谷雄高《はにやゆたか》等の長篇と、このころの河出書房の広告を見ると出ている。
書きおろしの依頼は三島にとっては、
「まことに時宜《じぎ》を得た、渡りに舟の申入れであつた。」(『私の遍歴時代』)
三島は坂本一龜の来訪を大蔵省を辞任してからあとのこととしているのだが、これはどうやら彼の記憶ちがいらしい。四谷にあった大蔵省の仮庁舎に三島を訪ね、その場で快諾の返事を得たと、坂本氏は明記しているのである。三島は坂本氏に向かって、自分はこの長篇に賭《か》けるつもりでいるから、役所をやめるといったという。(坂本一龜『「仮面の告白」のころ』「文芸」昭和四十六年二月)
役所勤めと創作活動の二重生活が次第に苦痛となり、辞表を出したいと思っていたところに長篇の依頼が来た。三島がいうとおり、まさに「渡りに舟」だった。三島は父親を説得して九月二日に辞表を出し、「依願免本官」の辞令を九月二十二日にうけとる。彼が大蔵省にいた期間は、ちょうど九箇月だった。
昭和二十三年の三島は、気のきいた短篇と切れ味のよい評論とをときたま書く小型《マイナー》の作家と、ぼくなどの目には映じていた。彼の実績からいって、大方の評価もそんなところだったろうと思われる。とにかくまだ二十三歳の若さであって、その青年に書きおろしの長篇を依頼するということは、いかに敗戦直後の混乱期とはいえ、出版社としては相当の英断だったはずである。
小説の表題を三島が『假面の告白』と決定したのは、これも坂本一龜の文章によると十一月のはじめだった。氏の『「仮面の告白」のころ』には十一月二日付の三島の手紙が引用されていて、そのなかに、
「さて書下ろしは十一月廿五日を起筆と豫定し、題は『假面の告白』といふのです」、
ということばが見られる。
『假面の告白』には下書き原稿があり、この下書き原稿は昭和五十四年に毎日新聞社の主催で開かれた「三島由紀夫展」に展示された。カタログの写真で見ると(展覧会にはぼくは行かなかった)「假面の告白」と書かれた原稿用紙の上の方に、
ein ungewonliches Geschlechtsleben eines Mannes(ある男の異常な性生活)
das sonderbare Geschlechtsleben eines Mannes(ある男の奇妙な性生活)
ドイツ語の註釈が、飾りのように書きこまれている。
原稿の完成は、四月二十七日だった。
3
『假面の告白』の主人公は、自分とはまったく異質の世界に属する人間に憧《あこが》れを抱きつづける。
それが過去の三島の作品にはない、この小説の顕著な特色である。このときまでの三島の作品では、外界は作者の美学に染め上げられることなしには、作中への参入を許されなかった。
十三歳の三島は幼いころに見た刑務所の暗い印象をもとに童話風の作品、『酸模《すかんぽう》――秋彦の幼き思ひ出――』を書き、そのなかで脱獄囚までも童話中の一人物としてしまった。恋人のK子嬢は『岬《みさき》にての物語』では、「メルヘンランド」の巌頭《がんとう》に消える幻の美女と化した。三島が自分を戯画化した『接吻』もまた、教訓つきの童話の体裁をとっている。長篇『盜賊』は、壮大な夢物語といえるだろう。
このことについては、後年三島自身が書いている。
「私のものを書く手が觸れると同時に、所與の現實はたちまち瓦解《ぐわかい》し、變容するのだつた。ものを書く私の手は、決してありのままの現實を掌握することがなかつた。ありのままの現實は、どこか缺けてゐるやうに思はれ、缺けてゐるままのその『存在の完全さ』は、私に對する侮辱であるやうに思はれた。」(『電燈のイデア――わが文學の搖籃期』)
「思ふに、私は全く自分一人で、自己流に、現實を眺め變へる術《すべ》を學んでゐたのである。」(同右)
手を触れると触れたものことごとくが黄金に変り、そのために飢餓に苦しんだという童話の主人公を、右の述懐は思い出させる。堀辰雄はその感受性がつくり出した文体にしばられていたと三島由紀夫はいったけれど、三島もまた「所與の現實」をたちまち「變容」させる自分のスタイルの拘束を、脱《のが》れられないでいた。
『假面の告白』は、過去のこの美学にたいする挑戦《ちようせん》だった。冒頭近くに登場する汚穢《おわい》屋の姿は、その端的な表現だろう。五歳の「私」が家の外に立っていると、汚穢屋が坂を降りて来る。
「坂を下りて來たのは一人の若者だつた。肥桶《こえをけ》を前後に荷《にな》ひ、汚れた手拭《てぬぐひ》で鉢卷《はちまき》をし、血色のよい美しい頬と輝やく目をもち、足で重みを踏みわけながら坂を下りて來た。それは汚穢屋――糞尿汲取人《ふんねうくみとりにん》――であつた。彼は地下足袋を穿《は》き、|紺の股引《ヽヽヽヽ》を穿いてゐた。五歳の私は異常な注視でこの姿を見た。」(傍点原著者)
汚穢屋は『酸模』の脱獄囚ほどではないまでも、幼少時の三島が築いていた童話的世界からはとおく離れた、異質の存在だった。その異質の存在がここでは童話化されることなく、剥出《むきだ》しの姿をもって作中にあらわれ、しかも「私」は汚穢屋に憧れを抱く。
汚穢屋になりたいとまで、主人公は思うのである。
「物心つくと同時に他の子供たちが陸軍大將になりたいと思ふのと同じ機構で、『汚穢屋になりたい』といふ憧れが私に泛《うか》んだのであつた。憧れの原因は紺の股引《ももひき》にあつたとも謂《い》はれようが、そればかりでは決してなかつた。(中略、原文改行)といふのは、彼の職業に對して、私は何か鋭い悲哀、身を撚《よ》るやうな悲哀への憧れのやうなものを感じたのである。きはめて感覺的な意味での『悲劇的なもの』を、私は彼の職業から感じた。」
ここでいう「悲劇的なもの」ということばを「私」は説明して、汚穢屋の住む世界から自分が拒まれ、「永遠に排除されてゐる」ことを感じ、その拒まれているという予感のもたらす悲哀が、「悲劇的なもの」として相手の姿に投影されたのだろうといっている。つまり『假面の告白』の「私」は、五歳のときにすでに外界に拒まれていることの悲哀を感じていた。
現実の三島は逆に外界を頑固《がんこ》に拒否し、自分の夢想の世界に閉じこもって生きて来た。「私はベッドの寸法にあはせて宿泊者の足を切つてしまふといふ盜賊の話が好きだつた」という彼の文章(『電燈のイデア』)を、再度引用するまでもないと思う。外界は、彼の夢想の尺度にあわせて修正されたのである。
『假面の告白』では、この構造がさかさまになっている。「私」が病気の祖母のいる病室に閉じこめられ、お伽噺《とぎばなし》に読みふけるという基本的な設定は、三島自身の送った幼少時とちがわない。(自分を題材とする以上、その部分まで変えることは困難だった。)ところがここには、外界が無遠慮に踏込んで来る。汚穢屋の次に登場するもうひとりの異質の世界の人物は、近江という名の中学生だった。
近江は二、三回落第して「私」と同学年になった男であって、乱暴な振舞のために寮から追出され、「女の家から通つてゐるのだ」と噂《うわさ》されていた。彼は「私」と知りあってから一年足らずのうちに、学校から放逐される。札つきの不良少年ということになるのだが、「私」はこの年長の不良少年に恋をする。
単に同性愛をえがくことだけが目的なら、『トニオ・クレーゲル』のハンス・ハンゼンのように、だれからも可愛《かわい》がられる優等生の美少年を相手として設定しても、それでよかったはずである。しかし『假面の告白』のモティーフは、自分の過去の世界からの脱出にある。したがって同性愛の相手は、「私」の周囲にいくらでもいただろう可愛らしい優等生などではなく、「汚穢屋」的な、別世界の男でなければならなかった。
夏を迎えて母と弟妹とともに海辺の町に行った「私」は、寄せては返す波をまえに近江の孤独な姿を思う。
「孤獨の感じが、すぐさま近江の囘想とまざり合つた。(中略)近江の生命《いのち》にあふれた孤獨、生命《いのち》が彼を縛《いまし》めてゐるところから生れる孤獨、さうしたものへの憧れが、私をして彼の孤獨にあやかりたいと希《ねが》はせはじめ、今のやや、外面的には近江のそれに似てゐる私の孤獨、海の横|溢《いつ》を前にしたこの虚《むな》しい孤獨を、彼に倣《なら》つたやり方で享樂《きやうらく》したいとねがはせた。私は近江と私との一人二役を演ずる筈《はず》だつた。」
主人公のいる海岸は、三島が四年まえに『岬にての物語』の舞台とした鵜原《うばら》である。『岬にての物語』では母親は不意の来客を女中に告げられ、妹をつれて日傘《ひがさ》をくるくるとまわしながら家に帰って行く。それと同様な記述が、『假面の告白』にも出て来る。弟妹が海辺の遊びに飽きはじめたころ、
「そこへ女中が母のゐる砂濱の傘へ私たちを迎へに來、何か氣難しい顏で同行を拒んだ私を置いて、妹弟《きやうだい》だけを連れ去つたのだつた。」
母たちが去ってから『岬にての物語』では、主人公は小高い岬に登ってK子嬢を思わせる美少女とそのつれの青年とに出会う。『假面の告白』では「私」は同じ海をみつめながら、近江という不良少年との合体をねがい、自涜《じとく》行為に耽《ふけ》る。
『假面の告白』のために三島が準備した序文のひとつ、「作者の言葉」(稿本)は、冒頭で次のように述べている。
「この小説は、私の『ヰタ・セクスアリス』であり、能《あた》ふかぎり正確さを期した性的自|伝《〈ママ〉》である。前半は自己分析による倒錯とサ|ー《〈ママ〉》ディズムの研究に費され、後半は世にも不可思議な『アルマンス』的戀愛(『アルマンス』より更に不可思議)の告白とその永い熱烈な悔恨の敍述に宛《あ》てられる。」
スタンダールが書いた『アルマンス』の主人公は、性的不能者でありながらある婦人を愛して結婚し、結婚後まもなく自殺をとげる。性的不能が作中ではぼかされているのではなしがわかりにくく、三島のいうように「不可思議な」小説とされて来た。
『假面の告白』が「能ふかぎり正確さを期した性的自伝である」ということばは、それ自体がフィクションであることはいうまでもない。だが性的倒錯にかかわる部分を除けば、この小説は昭和二十三年ころまでの彼の生涯《しようがい》を、きわめて忠実に再現している。たとえば小説の冒頭の文章。
「永いあひだ、私は自分が生れたときの光景を見たことがあると言ひ張つてゐた。」
彼の友人のはなしでは三島は実際に子どものころ、自分が生まれたときの光景を見たと確信をもっていっていたそうである。
幼時いらいの感情生活を『假面の告白』で三島は巧みに再構成し、そのなかに性的倒錯への伏線をいくつも織込んで行く。たとえば白銀の鎧《よろい》をまとった凜々《りり》しい騎士が、男ではなくジャンヌ・ダルクという名の女だときいて「私」はがっかりする。
また松旭齋天勝《しようきよくさいてんしよう》の舞台を見て興奮し、彼女を真似《まね》て母親の衣裳《いしよう》を身につけ、顔に白粉《おしろい》まで塗って「僕、天勝よ」と駆けまわったり、活動写真で見たクレオパトラの扮装《ふんそう》をしたりする。子どものころの三島がときに演じただろうこういう行動をとりわけ強調してえがくことによって、作者は「私」を「變裝狂」として印象づける。「變裝狂」とは高名な性科学者マグヌス・ヒルシュフェルトによれば、「外部的性器からいって自分の属していない性の服装をして歩きたがる衝動」をさすという。
マグヌス・ヒルシュフェルトは、一九一八年に性科学研究所をベルリンに創設してその所長となり、のちには「性改良世界連盟」の会長を兼ねた人物である。性倒錯症ということば自体が、このひとの創案による。三島はヒルシュフェルトのことばを作中にいくどか引用し、グイド・レーニの「聖セバスチャン」殉教図を見て「私」が射精する場面では、彼の分析を解説に用いている。
『假面の告白』の執筆中に、三島は心理学者の望月衞《もちづきまもる》をその家や勤務さきに訪ねた。望月氏は三島との会話の内容まではあまり記憶しておられないので、確実なことはいえないにせよ、ヒルシュフェルトの著作(『性病理学』『男と女との同性愛』等)を含む倒錯症についての彼の知識は、望月衞に負うところがたぶん大きい。
三島が「『アルマンス』的戀愛」の告白と呼ぶこの小説の後半部分(第三章以下)は、周知のように園子と「私」との恋物語である。
K子嬢とのういういしい恋が概《おおむ》ね事実に即して書かれ、例の軽井沢の接吻《せつぷん》場面は第三章のおわり近くに出て来る。接吻を三島がどんな思いで回想していたかを示す文章を、彼の昭和二十一年のノートから再度引用しておく。
「彼女はレインコートさへ脱ぎたがらなかつた。まるでそれが下着ででもあるかのやうに。(中略)それのみか彼女は、唇《くちびる》を吸ふにまかせて自ら吸はうとしなかつた。また抱かれるにまかせて抱かうとしなかつた。彼女はお人形のやうに強《こは》ばつてゐた。そして戰爭中の人目のうるさゝから殆《ほとん》どお化粧をしてゐなかつた。そしていさゝか子供つぽすぎるその横顏をます/\子供つぽくみせてゐた。――ところが彼女との間を第三者が隔てゝから彼女は急に美しくなり出した。僕は彼女を眞夏の薄着で、いささか厚化粧で抱きえなかつたことを後悔した。」
それが『假面の告白』では、「私」は彼女にたいして何の慾望も感じ得なかったことになっている。
「園子は私の腕の中にゐた。息を彈ませ、火のやうに顏を赤らめて、睫《まつげ》をふかぶかと閉ざしてゐた。その唇は稚《をさ》なげで美しかつたが、依然私の欲望には愬《うつた》へなかつた。(中略、原文改行)私は彼女の唇を唇で覆《おほ》つた。一秒|經《た》つた。何の快感もない。二秒經つた。同じである。三秒經つた。――私には凡《すべ》てがわかつた。」
自分が女にたいして不能であることを悟った「私」は狼狽《ろうばい》し、園子から結婚の申込みをしてほしいと婉曲《えんきよく》にいわれて恐怖心にさえ駆られる。ことがらをどう処理したらよいかと思い惑っているところに、結婚の意志の有無を問合わせる手紙が、彼女の兄から送られて来る。
追いつめられた恰好《かつこう》であり、拒否するほかにもうみちはなかった。園子への愛情などはじめから自分にはなかったと思えばいいと、作中の「私」は呟《つぶや》く。
「はじめから園子なんか、あんな小娘なんか、愛してゐなかつたと考へればよいのである。私はちよつとした|欲望にかられて《ヽヽヽヽヽヽヽ》、(嘘《うそ》つき奴《め》!)、彼女をだましたと思へばよいのである。斷るのなんかわけはない。|接吻だけで責任はないんだ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。――」(傍点原著者)
この結論が、「私」を「有頂天に」した。愛してもいないのにひとりの女を誘惑し、先方に愛がもえはじめると棄《す》ててしまう「色魔」に、「私」はなったような気がした。
現実の三島は「逡巡《しゆんじゆん》から」、M・K嬢を失った。彼女が結婚した五月五日の夜には三島は倭文重さんのはなしによると酒を呷《あお》り、「生まれてはじめて」泥酔《でいすい》しているのである。
その彼が『假面の告白』では、同性愛という仮面を主人公につけさせることによって男女相互の立場を逆転させる。彼女を拒否したのは、ここでは「私」の方だった。第四章のはじめで、作者は書いている。
「私の妹の死後、間もなく彼女は結婚した。肩の荷が下りた感じとそれを呼ばうか。私は自分にむかつてはしやいでみせた。彼女が私を捨てたのではなく、私が彼女を捨てた當然の結果だと自負して。」
その後「私」は自分を試みるために、大学時代の友人に案内されて私娼窟《ししようくつ》に行く。結果は、みじめな失敗だった。
「恥ぢが私の膝《ひざ》をわななかせた。」
裸婦の写真を見てもエロティックな情景を目撃しても、「私」の慾望は一向に反応しない。みじめな気持でいるときに、「私」は人妻となった園子と再会する。二人きりになる機会が訪れると、園子は「あのね」としずかに切り出した。
「うかがはううかがはうと思つてゐて今までうかがへなかつたことがあるの。どうして私たち結婚できなかつたのかしら。」
自分をきらいだったのかという園子の質問にたいして「私」は、
「まだ廿一だし、學生だし、あまり急なことだつたからだ。さうして僕が愚圖々々してゐるうちに、君はあんなに早く結婚してしまつたんだもの」。
作者の三島がその素顔を、ここでは覗《のぞ》かせている。K子嬢の方には三島の「逡巡」の理由が呑《の》みこめていなかったはずだから、実際にこのような会話がかわされたのだろう。
4
『假面の告白』の最終章は、敗戦後の約三年間の物語である。
この間に「私」は大学を卒業し、ある官庁に事務官として奉職する。棄てたはずの園子とのつきあいが再開され、ときたまの逢瀬《おうせ》に「私」は奇妙な満足感を感じていた。
「園子のことを考へない日はなかつたし、逢《あ》ふたびごとに靜かな幸福を享《う》けた。逢彦の微妙な緊張と清潔な均整とが生活のすみずみにまで及び、いたつて脆《もろ》いがしかしきはめて透明な秩序を生活にもたらすやうに思はれた。」
性をともなわない愛情関係が、再建される。しかしこんな――まさに『アルマンス』風の――架空の愛が長つづきするわけがなく、晩夏のある日にレストランで二人が出会ったとき、園子は「今のままで行つたらどうなるとお思ひになる?」といい出す。
「何かぬきさしならないところへ追ひこまれるとお思ひにならない?」
彼女は自分を「怖《おそ》ろしい女だと思ひはじめたの」と真面目《まじめ》な顔でいい、「あたくし怖いのよ」とくりかえす。告白の形をとったこういう誘いのことばをきかされても、「私」には何もこたえられない。「私」が彼女とともにレストランを出て近くのダンス・ホールに行くと、ダンス・ホールの中庭には一目でやくざとわかる二人の若者が椅子《いす》に坐《すわ》り、二人の女と談笑していた。
その若者のひとりに、「私」の視線は吸寄せられる。二十二、三歳のこの粗野な若者は、薄鼠色《うすねずみいろ》の晒《さらし》の腹巻を締めていた。
「これを見たとき、わけてもその引締つた腕にある牡丹《ぼたん》の刺青《いれずみ》を見たときに、私は情慾に襲はれた。熱烈な注視が、この粗野で野蠻な、しかし比《たぐ》ひまれな美しい肉體に定着した。(中略)あやしい動悸《どうき》が私の胸底を走つた。」
幼年期の汚穢屋、少年期の不良少年につづいて、青年期の「私」を魅するのはやくざである。園子の存在を忘れて、「私」はこの若者が半裸のまま真夏の街へ出て行き、与太者仲間と戦って刺される光景を夢みる。汚れた腹巻は、血潮で美しく彩《いろど》られるだろう。
帰宅の刻限がせまっている園子は、
「あと五分だわ」。
叫ぶように、「私」にいう。
「園子の高い哀切な聲が私の耳を貫ぬいた。私は園子のはうへふしぎさうに振向いた。(原文改行)この瞬間、私のなかで何かが殘酷な力で二つに引裂かれた。雷が落ちて生木が引裂かれるやうに。(中略)|私といふ存在が何か一種のおそろしい《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》『不在《ヽヽ》』|に入れかはる刹那を見たやうな氣がした《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。」(傍点村松)
「不在」と入れかわるというような決定的変化が「私」の内部に起こっていることには、園子は気がつかない。彼女はダンス・ホールの淫靡《いんび》な雰囲気《ふんいき》に影響されたのか、つつましい微笑をたたえながら思いがけない質問を発する。
「をかしなことをうかがふけれど、あなたは|もう《ヽヽ》でせう。|もう《ヽヽ》勿論《もちろん》あのことは御存知の方《はう》でせう」。(傍点原著者)
女との性の経験はあると「私」がこたえると、
「どなたと?」
それはきかないでほしいと、「私」は哀訴するようにいう。二人の「関係」のおわりを暗示して、物語はおわるのである。
『假面の告白』を書くことによって過去の自分を殺したと、三島はまえにも引いた「作者の言葉」のなかで述べている。自分を殺すことで、逆に彼は生を獲た。
「この作品を書くことは私といふ存在の明らかな死であるにもかかはらず、書きながら私は徐々に自分の生を恢復《くわいふく》しつゝあるやうな思ひがしてゐる。これは何ごとなのか? この作品を書く前に私が送つてゐた生活は死骸《しがい》の生活だつた。この告白を書くことによつて私の死が完成する。その瞬間に生が恢復しだした。少くともこれを書き出してから、私にはメランコリーの發作が絶えてゐる。」
三島がこの作品で行なったことは、自分の表皮を裏返しにするような作業だった。夢想のなかにのみ閉じこもっていた少年が、汚穢屋や不良少年という「他者」に憧《あこが》れる存在へと変貌《へんぼう》し、K子嬢を失った苦しみから最後は自殺におわる長篇『盜賊』を書いたばかりの三島が、同性愛に悩む「私」となって登場する。「私」は最後には、やくざに魅せられるのである。
自己の感受性を切り刻む仕事であり、多少|大袈裟《おおげさ》な表現を用いるなら生体解剖に似た苦痛を彼は味わったと思われる。過去の自分を殺し、その世界を裏返すことによって、三島は外界の白日のもとに踊り出た。初版『假面の告白』に付せられた月報に、彼は書いている。
「この本は私が今までそこに住んでゐた死の領域へ遺《のこ》さうとする遺書だ。この本を書くことは私にとつて裏返しの自殺だ。飛込自殺を映畫にとつてフイルムを逆にまはすと、猛烈な速度で谷底から崖《がげ》の上へ自殺者が飛び上つて生き返る。この本を書くことによつて私が試みたのは、さういふ囘復術である。」
『假面の告白』を単純な「告白」とうけとり、三島と作中の「私」とを同一視する人びとがいまもむかしも少くはない。ただの性倒錯者の手記として読んだのでは、「裏返しの自殺」や「私といふ存在の明らかな死」などという三島の説明は、何を意味するかわからないことになる。
三島にとって『假面の告白』は、新しい文学的人生への再出発の書だった。『假面の告白』の「私」と三島当人とを混同することは、彼のこの時代までの作品にろくに目を通していない事実を自認しているのにひとしい。
『假面の告白』は好評をもって迎えられ、三島は流行作家のひとりとなった。ただし「假面」の部分の出来栄《できば》えについては、発表当初から批判がなかったわけではない。三島はK子嬢との恋のいきさつをおよそそのまま第三章に書いてしまったために、恋物語としては魅力的であるにせよ、ほかの性倒錯についての記述とのあいだに違和感が生じたのである。前半と園子の登場以後とでは、「さながら大理石と木とをつぎ合はしたやうな工合に見えた」と、神西清は論じていた。(『ナルシシスムの運命――三島由紀夫論』、昭和二十七年四月)
また花田|清輝《きよてる》は三島の『假面の告白』と森|鴎外《おうがい》の『ヰタ・セクスアリス』とを比較し、鴎外の作品が外向けの仮面をつけた装おわれた告白であるのにたいして、三島の「假面」は内向型であるといった。
「もちろん、三島由紀夫は、少しもひと眼《め》を気にして仮面をつけているわけではない。性的倒錯という内向型の仮面をかぶり、ひたすらかれが、おのれの肉体を模索しているのは、理知的な、あまりに理知的な自分自身に不満をいだき、きびしい自己批判を行なっているせいであり、(中略)これが世の大人たちに、この作品を、気障《きざ》だとか、気どっているとかいわせるのであろう。」(『聖セバスチァンの顔』、昭和二十五年一月)
花田のこの指摘には、今日でもなお古びない眼の冴《さ》えが感じられる。
それが花田のいうように内向けの仮面だったにしても、三島は「假面」を身につけることによって一個の「他者」を自分のなかにつくり出した。あとはこの「他者」を育て、肉づけをあたえることだろう。
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救済の拒否
1
三島の叔母のひとり――倭文重《しずえ》さんの妹――が、大阪の江村という家に嫁いでいた。
嫁ぎさきの江村家には、豊中に大きな農場があった。阪急電鉄の岡町駅に近く、三島自身の解説によると、
「大阪近郊の可成名高い農園である。叔母の舅《しうと》が實業界を隱退してから、近代的な園藝技術を活用した農園をはじめたのである。」(『三島由紀夫作品集』新潮社刊、第二巻「あとがき」)
その叔母が昭和二十四年の夏に「久々に關西から上京して」三島の家に泊り、農場のはなしをした。『假面の告白』の刊行が奥付によれば同じ年の七月の五日だから、本ができ上ってからまもなくの時期だったろう。
――公威《きみたけ》は妹のはなしに大変興味をもちましてね、
と倭文重さんはいっておられた。
三島は『假面の告白』では「私」を主人公に、彼自身のことばをかりるなら「完全な告白のフィクションを創《つく》らうと」企てた。その仕事をおわって次は三人称型の作品を書こうとしていた矢先に、叔母から農園にいた「若い無邪氣な」園丁のはなしをきかされたのである。
「もちろん叔母と園丁との間には何の關《かか》はりもない。しかしこの園丁の話から、突然、私に一つの物語の筋がうかんだ。物語はそのとき、ほとんど首尾一貫して腦裡《なうり》にうかんだのである。」(「あとがき」前掲書)
物語の筋書が「ほとんど首尾一貫して腦裡にうかんだ」という説明が本当なら、――疑う理由もなさそうに見える――構想はすでに漠然《ばくぜん》とながら練られていて、それを輪郭づける材料を待っている状態にあったと考えてよい。園丁が、その材料の役を演じた。
三島はこのころ、モオリアック風の小説を考えていた。筋書がすぐに浮かんだ理由としてモオリアックの影響を、彼は同じ「あとがき」のなかであげている。
「それには、一つには、當時一時的に心醉してゐたモオリヤックの小説の影響があつたのであらう。出來上つた小説も、誰が讀んでも、モオリヤックの敷寫しだと思ふにちがひない。おまけに最初は默示録の大淫婦《だいいんぷ》の章からとつて、折角『緋色《ひいろ》の獸』といふ題をつけたのが、それでは弱すぎるといふ新潮社の意見で、『愛の渇き』と改題したために、ますますモオリヤックくさくなつた。これではメイド・イン・USA(宇佐)商會の、KANADIAN・クラブ・ウイスキイのやうなものだ。」
舶来品とまぎらわしい名まえをつけた得体の知れない安物が、闇市《やみいち》によく見かけられた時代だった。三島が題名上の類似を気にしていたモオリアックの作品とは、明かに『愛の砂漠』である。
『愛の砂漠』は昭和十四年に、杉捷夫《すぎとしお》の訳によって白水社から刊行されていた。またモオリアックの代表作とされる『テレーズ・デスケルウ』は、やはり杉捷夫訳が昭和二十一年に青磁社から出版されている。
ほかに『癩者《らいしや》への接吻《せつぷん》』(|辻野久憲《つじのひさのり》訳)、『蝮《まむし》のからみ合い』(鈴木健郎訳、邦訳題名『遺書』)等の三つの長篇と戯曲、短篇集各一冊とが戦争まえに紹介されているけれど、三島がそのうちのどれを読んでいたかは、戯曲『アスモデ』(二宮孝顯訳)を除いては定かではない。(島崎博、三島瑤子共篇の『三島由紀夫書誌』で見ても、昭和二十四年の十月以前に刊行されたモオリアックの訳書は、三島の蔵書中に一点も残されていない。)
『愛の渇き』にその影響のあとを読みとれる作品といえば『愛の砂漠』と『テレーズ・デスケルウ』とであり、彼が「一時的に心醉してゐた」モオリアックの小説は、おもにこの二篇だったと推定される。三島は前年の昭和二十三年の暮に、エウリピデスの戯曲『メーディア』をもとにした短篇『獅子《しし》』を発表し、そのなかで女主人公を不幸に生甲斐《いきがい》を見出《みい》だす女としてえがいていた。『獅子』の女主人公のこの孤独な世界が、モオリアックの作品の影響下に『愛の渇き』へと発展して行くのである。
このことについても、作者自身による説明がある。
「女主人公のメーディアの奇矯《きけう》な論理は、後にいたつて、『愛の渇き』の女主人公の論理にその自我の積極面を、(中略)貸與してくれたのであつた。」(『三島由紀夫作品集』第四巻「あとがき」)
女主人公の相手役となる男を、彼はさがしていたのであろう。三島は『假面の告白』では自分の培《つちか》って来た夢想的な世界を打破るために、汚穢屋《おわいや》と不良少年とやくざとを作中に登場させ、「私」の憧《あこが》れの対象にした。『愛の渇き』でも女主人公の相手役は、彼女や作者である三島とはまったく異質の世界に住む男でなければならなかった。叔母がはなしてくれた無邪気な園丁は、その条件にかなう恰好《かつこう》の人物だった。
彼はこの年の秋に豊中の叔母の家に行き、二週間ばかり滞在して農園とその周辺とを見てまわった。ちょうど新潮社から新しい書きおろし長篇の依頼があり、年が明けてから新作の執筆にとりかかる。
豊中訪問のまえに、三島は河口湖に行っていた。この方は「婦人公論」に連載する長篇『純白の夜』の舞台を、しらべておくためである。
『純白の夜』は、三島がはじめて書いた大衆向けの小説だった。「婦人公論」の昭和二十五年一月号から十月号まで十回にわたって連載され、発表の時期からいうと『愛の渇き』と次の『青の時代』との両方にかさなっている。(『青の時代』は、昭和二十五年七月号から十二月号までの「新潮」に連載される。)主題は、若い人妻の姦通《かんつう》だった。
女主人公の村松|郁子《いくこ》は昭和二年に生まれ、相当に年長の銀行員に嫁《か》した。洋風の家に育って畳に坐《すわ》る習慣がなかったおかげで足はほっそりと形がよく、品のいい山手《やまのて》ことばをはなす。彼女の恋人である楠《くすのき》との間柄《あいだがら》は、接吻《せつぷん》以上には進行しない。
『假面の告白』の園子あるいはK子嬢との類似は、一見して明瞭《めいりよう》と思われる。このころの三島にはほかに女友だちがいなかったので、とりあえず彼女をモデルにしたという考え方も一応は成り立ち得る。しかし単にそれだけの理由なら、年齢までも同じにする必要があっただろうか。彼女に接吻することしか許されない楠には、K子嬢にたいする三島自身の立場が投影されている。
作品の構成は、『ドルヂェル伯の舞踏會』風である。
「彼女(郁子)はかうまでして楠の心を傷つけたがる自分の欲求が理解しにくい|のだつた《ヽヽヽヽ》。」(傍点村松)
堀口大學訳の『ドルヂェル伯の舞踏會』の文体を模倣したこういう文章は、『夜の仕度』にすでにあらわれていた。半過去形の動詞の訳語として、堀口大學が「のだつた」を用いていることはまえに触れた。
「マアオはどうしても、このぽおつとした氣持が自分には不愉快だと無理に思はうとしたのだつた。」
堀口訳の文章に魅せられ、そのスタイルに「がんじがらめに」なっていたと、三島は後年述懐している。
「『それかあらぬか』とか『館《やかた》』とか『寄付《よりつき》の間《ま》』とかの古めかしい言葉が、『するのだつた』『すぎぬのだつた』といふ『だつた』の亂用による、メカニックでもあり同時に呼吸が切迫するやうにパセティックでもある獨得の文體の中に、ちりばめられてゐる堀口氏の譯文は、しばらくの間私をがんじがらめにし何を書いても『だつた』がつづいて出てくるほどになつた。」(『一册の本――ラディゲ「ドルヂェル伯の舞踏會」』昭和三十八年十二月)
長篇では「のだつた」の頻用《ひんよう》は、この『純白の夜』の場合がもっとも目立つ。発表の舞台が文芸雑誌ではなかったために、彼はここでは自分のなかのラディゲ好きを野放しにした気配がある。
ラディゲは三島がそのラディゲ論、『ドルヂェル伯の舞踏會』でつかっている表現をかりれば、「無秩序と無倫理の時代の子」だった。第一次世界大戦後の「無秩序と無倫理の時代の子」が、あえて古典主義的な小説を書いた。三島の心をラディゲがとらえたのは、その逆説性にあっただろう。
古典的な恋愛劇は、混乱の時代には成立しにくい。かつての貞淑の美徳のかわりにラディゲは夫婦間の心理的|葛藤《かつとう》を前面に出し、マアオを愛するフランソワとの心理の三角関係の形でこの小説を進行させた。
たとえばある夜フランソワが車のなかでマアオの腕の下に腕をさし入れ、マアオはそのことを夫に訴える。夫はこれをきいて、むしろ嬉《うれ》しそうな顔をする。
「妻の正直さを知つたアンヌの心の安堵《あんど》が、その餘のすべてを忘れさせてしまふのだつた。(中略)
『兒戲でしかないよ。僕はちつともそんなこと氣にしてゐはしない。あなたも僕のやうになさい……。フランソワが、またそんなことをするやうだつたら、その時こそ、はつきり云《い》つてやらう。』と彼は云つた。
この輕率な言葉が、ドルヂェル夫人には氣に入らなかつた。かうして、夫が手傳つて呉《く》れないのなら、仕方がなかつた。いよいよ必要な場合には、自分一人で防戰の計畫をめぐらさうと決心するのだつた。」
夫婦間のこのやりとりは、ほぼそのままの形で『純白の夜』にとりいれられている。『純白の夜』の郁子の夫は妻に助言を求められて、「よし。もしあいつが君によからぬことを仕掛けたらとつちめてやらう」といいながらも、それ以上の穿鑿《せんさく》はさしひかえる。
「この晩の良人《をつと》の返事は彼女に甚《はなは》だしく不滿足なものであつた。(中略)もはや彼が何事かを思ひすごして、妻の心を取戻すことを諦《あき》らめてしまつたのではあるまいかといふ危惧《きぐ》を郁子は抱いた。彼女を諦らめようとしてゐる二人の男を思ひゑがくと、彼女は自分を世界中でいちばん不幸な女のやうに大袈裟《おほげさ》に想像した。」
そのあとで郁子は、楠に誘われるがままに彼の泊っているホテルに行き、昼食をともにする。食後彼の部屋に寄って行かないかといわれて、多少のためらいののちに部屋にはいり、いくどめかの接吻を許す。しかし楠が次の行為に及ぼうとすると彼女はあらがい、呼鈴を押してボーイを呼ぶのである。しかも彼女は事件を夫に報告し、夫は楠に向かって彼の会社への融資の停止と絶交とを宣言する。
恋愛とは拷問《ごうもん》であると、作者はメリメのことばをひきながら作中でいう。
「戀愛とは、勿論《もちろん》、佛蘭西《フランス》の詩人が言つたやうに一つの拷問である。どちらがより多く相手を苦しめることができるか試してみませう、とメリメエがその女友達へ出した手紙のなかで書いてゐる。」
郁子と楠とは、この小説のなかでまさに互いに苦しめあう。郁子はちょっとした油断から、自分の家に間借りしている夫の友人に身体《からだ》を許し、それを知った楠は自分が復讐《ふくしゆう》する番が来たと思った。彼は郁子に手紙を書き、秘密を夫に告げられることをおそれて会いに来た彼女を、わざと冷くあしらう。
二箇月ほど中途|半端《はんぱ》なつきあいを続けて郁子を苛立《いらだ》たせたのちに、楠は彼女を鎌倉の旅館につれて行って、夫の恒彦《つねひこ》にここから電話をおかけなさいといいわたす。
「かうおいひなさい。楠さんと今一緒にゐる、今晩はここに泊る、それだけでいい。恒彦君にそれだけ云へば、僕は全責任を負ふ」。
郁子には、夫にそこまではいえない。電話口に出て来た夫に、今晩は叔母のところに泊ると「世にも晴れやかな無垢《むく》な聲で」彼女はいい、蒼白《そうはく》な顔で受話器をおいた。一部始終をそばできいていた楠は、風呂《ふろ》にはいって来るといって立去り、一時間たってももどって来なかった。
郁子が帳場に問いあわせると、近くの親戚《しんせき》の家に用があると称して出て行ったという返事だった。実は近くの倶楽部《クラブ》に行って酒を飲み、「あやしげな女を抱いて」寝てしまったのである。
棄《す》てられたことを悟った郁子は、明方近くに半ば泣きながら夫に電話をかけた。
「さつきのはうそよ。楠さんと一緒なの。あたくしむりに連れて來られたの。でもあたくし楠さんを愛してをりますの。それなのに、楠さんはあたくしをお捨てになつたの。ここにはだれもゐないの。」
迎えに来てほしいといわれて夫が旅館に駆けつけたときには、彼女は毒を嚥《の》んで死んでいた。
『純白の夜』を書くのにあたって、三島は時代の生活環境を意図的に無視している。
郁子の夫が銀座の画廊でドラクロアのデッサンを買おうとする場面が、小説の冒頭近くに出て来る。時代は昭和二十三年の秋とされていて、二十三年の秋といえば極東軍事裁判が東條|英機《ひでき》以下七人の軍人、政治家に死刑を宣告したときだった。(十一月十二日。刑は十二月二十三日に執行された。)このころは紙不足から新聞には夕刊がまだなく、朝刊はどれも紙面が四|頁《ページ》である。ドラクロアのデッサンなどに、日本人が手を出せる時代ではなかった。
洋式のホテルは当時の東京には少く、そのまた大部分がアメリカ軍に接収されていて、ホテルでの優雅な食事や逢引《あいび》きなどは殆《ほとん》ど夢想の世界に属した。(郁子と楠とはホテルでアンダルシア風コンソメと車海老《くるまえび》とを注文し、白葡萄酒《しろぶどうしゆ》を飲んでいる。)小説では、郁子は遠乗会に行く予定になっていた。
楠は接吻だけを許して自分を裏切った若い人妻を、死にまで追込んだ。K子嬢の婚約以後に三島が書きつづけた「復讐」ものの系列に、この長篇ははいる。
三島は『盜賊』では昭和十年ころの華胄《かちゆう》界を、その恋愛物語の舞台とした。『純白の夜』では男女の心理的葛藤が展開される空間として、これも昭和十年ごろの富裕者層を思わせる人びとの生活を、廃墟《はいきよ》のうえにえがき出した。『盜賊』の心中主題はこちらにはないにせよ基本的構図は共通であり、習熟した技法に依存しているだけに心理の劇としては巧妙につくられている。
『純白の夜』は、松竹によって昭和二十六年に映画化された。そのプログラムのために書いた文章、「作者の言葉」のなかで、三島はこの小説が自分には気に入っているといい、
「野心があまり露骨に出すぎた作品には或《あ》る卑《いや》しさが伴ふものですが、これには比較的それが少ないことが作者自身の氣に入る理由でせう」、
と説明している。
文学的「野心」は、『愛の渇き』の方に注がれたのである。
2
『重症者の兇器《きようき》』と題する論文を、三島は昭和二十三年三月の「人間」に発表した。
「われわれの年代の者はいたるところで珍奇な獸でも見るやうな目つきで眺《なが》められてゐる」、
ということばではじまる「戦後派」論であり、文中の次の一節は三島についての多くの批評文のなかで、これまでにいくども引用されて来ている。
「たとへば私はこの年代の一人としてかういふ論理を持つてゐる。
『苦惱は人間を殺すか? ――否《いな》。
思想的|煩悶《はんもん》は人間を殺すか? ――否。
悲哀は人間を殺すか? ――否。
人間を殺すものは古今東西|唯《ただ》一つ≪死≫があるだけである。かう考へると人生は簡單明瞭なものになつてしまふ。|この簡單明瞭な人生を《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|私は一生かかつて信じたいのだ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。』」(傍点村松)
「否」とくりかえしている三箇条を、三島自身の心情と解する評者が過去に少くなかった。あまりにも単純な読み方であって、これを書いた時期の三島はK子嬢を失ったことへの「悲哀」と「苦悶」とから、「私は最も死の近くにゐた」とみずから述懐するような生活を送っていた。第一彼自身の最後の行動は、この文章の全体を否定しているだろう。
文章の力点は、むしろ傍点を付した最後の一行にある。
「この簡單明瞭な人生を、私は一生かかつて信じたいのだ。」
「苦惱」や「悲哀」や「無秩序と無倫理の時代の子」としての「思想的煩悶」に、何とか平然と耐えて生きたいと三島はいっているのである。平然として耐えるためには、「苦惱」や「悲哀」や「思想的煩悶」がもたらす不幸を、生活の常態として呑《の》みこんでしまわなければならない。
いいかえれば不幸を「不治の病」として、自分の存在そのものと同一化しなければならない。同じ『重症者の兇器』で三島はこの願望を、「自己の病の不治を頑《かたく》なに信じた者の、快癒《くわいゆ》の喜びを決して知らない者の、或るいたましい平明な思考」と説明している。
昭和二十三年の秋に書かれた『獅子《しし》』の女主人公は、不幸からの快癒を決してねがわない女だった。
エウリピデスの『メーディア』では、メーディアは自分を裏切った夫にたいする復讐のために、夫の新しい花嫁とその父クレオーン王とを殺し、夫と自分とのあいだにできた二人の子どもまでも殺害する。
この悲劇をもとにして書かれた三島の『獅子』は、子どもの数をひとりにしている点を除いて、原作の筋書をほぼ忠実になぞっている。メーディアがその夫と結ばれた僻遠《へきえん》の地コルキスは、『獅子』では満州になる。
『メーディア』と『獅子』とのあいだのただ一点の基本的なちがいは、女主人公の犯す殺戮《さつりく》の動機にある。『獅子』の女主人公|繁子《しげこ》は、夫への嫉妬《しつと》や怒りから夫の愛人や自分の子どもを殺すのではない。それは彼女のなかに根をおろし、その生の根拠ともなっている不幸への情熱である。
「繁子は幸福には目もくれなかつた」、
と三島はこの小説のなかでいう。
「繁子は自分の殘り少ない幸福を抵當《かた》に入れて、一つの確實な不幸を購《あがな》はうとしてゐるのだつた。それは無配當の幸福の株券とちがひ、きちんきちんと配當のある基礎堅固な株券だ。幸福のやうに生活から拔け出てゆく幽靈のやうなものでなく、生活それ自身に密着したこの不幸は、何より今彼女の生が求めてゐるものなのである。(中略)すこし内省の力に富む女で繁子があつたなら、彼女は自分の心のどの片隅《かたすみ》にも、『良人《をつと》を苦しめたい』といふ欲望が見出《みいだ》されないのを訝《いぶか》つた筈《はず》だ。」
『メーディア』で女主人公の保護者の役を演じるアテナイ王アエゲウスは、『獅子』ではアメリカ人アイゲウス少佐として登場する。彼だけは繁子の苦悩が嫉妬ではなく、彼女を駆り立てているものが「彼女自身の生を確證しようとする意志であることを」、正当に理解していた。
しかしキリスト教徒であるアイゲウス少佐にとっては、苦悩とはやはり「もつとみのりの多い人生のための機縁、さもなくば宗教的生活へ入るための一つの機縁であるべき」はずだった。苦悩は万人をひとしくその熱をもって焼き、苦熱のあとにはだれの場合にも必ず「稔《みの》り」が来るといって、彼は繁子を慰めようとする。それにたいして繁子は、
「でもこの苦しみは私のものです。他の誰のものでもありません」
「御自身の苦しみをそんなに大事にしてはなりません」
「それは私に『生きてゐる勿《な》』と仰言《おつしや》ることでございます」。
苦しみの個別性への確信だけが、彼女の生を支えている。物語の最後で惨劇を知った夫が彼女に、
「繁子、それでも私が心から愛してゐたのはお前ただ一人だつたといふことに氣がつかなかつたのか」。
皮肉をこめていったのにたいして、繁子は「百合《ゆり》のやうに美しい齒をみせて微笑し」、晴れやかにこたえた。
「あたくしもそれを知つてをりました。一度たりともあたくしはそれを疑つたことはなかつたのです」。
『獅子』につづいて書かれた短篇、『幸福といふ病氣の療法』(昭和二十四年一月「文藝」)の主人公も、自分の不幸を確信することによって心の安定を得ている。
「それは感情の擔保としてはこの上なく安全確實な・長持ちもする・保險金つきの情緒、『俺《おれ》は不幸だ』といふ情緒なのである。」
幸福は社会的なさまざまな要因や、何よりも当人のそのときの感情によって左右される頼りない想念である。それにくらべて不幸への確信は、何ごとが起こっても驚かないつよさをひとにあたえてくれると作者はいう。この場合の不幸とは、貧しさとか病気とかに由来するありきたりの不幸であってはならない。
貧しさや病気などの不幸に見舞われれば、だれでも豊かさや健康をねがう。つまりありきたりの不幸は、小さな幸福への願望をみちびき出す。自分の不幸への確信を保持するためには、ありきたりの不幸は身辺からとおざけねばならない。そこで主人公は「苦行僧のやうな決心で」、一見幸福にみちた家庭を築き上げた。
彼は自分もこの世の中も決して救われることはないと信じて安心し、
「救はれないといふ安心は何といふ救ひだ!」
と呟《つぶや》く。
ところが一見幸福そうな家庭を築いたことが、この「救ひ」に破綻《はたん》をもたらした。ある秋の日の朝、美しい妻が寝室にはいって来て、雨戸についている小窓を開いた。妻の髪を金色の陽光が「夜明けの森のやうに」明るくし、さらに光は彼の顔にも注がれる。そのとき彼の口から、予想外のことばがとび出した。
「俺は幸福だ」。
不幸への確信が、この瞬間から失われる。作中の医師の註釈によれば、
「彼は死ねと言はれたも同樣であり、彼の存在理由はなくなつたのである。」
このことばは『獅子』の繁子が、苦しみをそんなに大切にしてはいけないと忠告されたさいにいったせりふと、瓜《うり》二つであろう。『メーディア』の飜案の作業が、『幸福といふ病氣の療法』という奇妙な――「哲學小説」と三島はこれを呼んでいる――作品を生んだことには、疑問の余地がない。
不幸を見失ってからあとの主人公は、自分の存在感をとりもどそうとして借金、女、裏切りに、次々に手を出し、最後には殺人をさえ考える。不幸は彼にとって、殆ど「至福」の同義語だった。
戦争の終了とともに日常的な社会生活がよみがえり、幸福という小市民的な「病気」が蔓延《まんえん》する兆候がすでにあらわれていた。『獅子』の繁子や『幸福といふ病氣の療法』の主人公は、そういう「病気」を拒否し、一切の救済を拒絶して、自分たちの「至福」を守ろうとする。
このころの三島は、ギリシヤにつよい親近感を抱きはじめていた。一神教とその救済の理念とを文化のなかにもたないという意味で、日本と古代ギリシヤとのあいだにはある共通性が見られる。共通性への認識がもたらす親近感から、彼はのちに『ダフニスとクロエ』をもとに『潮騷』を書き、自分の家の庭先にアポロンの像をおくまでにいたる。『愛の渇き』の「あとがき」(『三島由紀夫作品集』、前掲書)に、三島は書いている。
「小説『獅子』において、ギリシヤ劇のアダプテーションを試みた私は、唯一神《ゆいいつしん》なき人間の幸福といふ觀念を實驗するために、日本が好適な風土であることを夢想しつつ、希臘《ギリシヤ》神話の女性に似たものを、現代日本の風土に置いてみようと試みたものと思はれる。希臘《ギリシヤ》神話の登場人物の特徴は、ジイドも指摘してゐるやうに、決して『自分以外のものにはなりたくない』點にあるのである。(原文改行)爾來《じらい》、『神なき人間の幸福』といふ奇怪な觀念は、私の固定觀念になつたかの概《おもむき》がある。」
文中の「神なき人間の幸福」は「神なき人間の至福」と読みかえた方が、論理の辻褄《つじつま》があいやすいかも知れない。
『愛の渇き』の女主人公悦子も、救済を拒否して自分の生活の現状を頑《かた》くなに守りつづける。その意味で反キリスト教的であり、反キリスト教的な意図を明示するために作者は題をことさらに『ヨハネ默示録』からとって、『緋色《ひいろ》の獸』としようとした。巻頭には黙示録第十七章の一句が、エピグラフとしてかかげられている。
「かくてわれ……緋色の獸に乘れる女を見たり」。
このエピグラフにつづく文章を、『ヨハネ默示録』から引いておくと、
「この獸の體は神を涜《けが》す名にて覆《おほ》はれ、また七つの頭《かしら》と十の角《つの》とあり。女は紫色《むらさき》と緋とを著《き》、金・寶石・眞珠にて身を飾り、手には憎むべきものと己が淫行《いんかう》の汚《けがれ》とにて滿ちたる金の酒杯《さかづき》を持ち、額には記されたる名あり。曰《いは》く『奧義大《あうぎおほい》なるバビロン、地の淫婦らと憎むべき者との母』我この女を見るに、聖徒の血とイエスの證人の血とに醉ひたり。」
はじめの方の「七つの頭と十の角」は、キリスト教徒を迫害していたローマの七つの丘と十人の皇帝とをさし、あとに出て来るバビロンは悖徳《はいとく》の都という意味で、やはりローマのことであるといわれる。(女が身につけている衣服の色の紫色と緋とは、それぞれ豪奢《ごうしや》と淫行との象徴である。)
すなわち原題の『緋色の獸』は、背教の大淫婦をあらわしていた。
3
悦子が大阪に出て園丁の三郎のために靴下《くつした》を買う場面から、『愛の渇き』ははじまっている。
彼女は大阪近郊の舅《しゆうと》の家に身を寄せるまえに、短い不幸な結婚生活を送っていた。夫は次々にほかに女をつくり、ティフスで死ぬまで彼女を苦しめつづける。悦子がこの夫を独占できたのは新婚旅行のときと、死の直前の看病期間だけだった。
こういう彼女の過去は物語の進行とともに、回想の形で明らかにされて行く。回想の形で主人公の過去を途中に織込んで行く書き方は三島のこれ以前の小説にはなく、この構成はモオリアックの影響によるのだろう。『テレーズ・デスケルウ』も『愛の砂漠《さばく》』も、回想形式を大幅にとりいれた作品だった。
『愛の砂漠』のマリア・クロスは、金持ちの囲われ者になっている女である。町中から彼女は白い眼《め》で見られ、絶えずうしろ指をさされている。「女王さまみたいに振舞っているよ、あの淫売は……。」はじめは男の家に秘書として住み込んでいたのだが、「疲れと、一種の自棄的な投げやりから」男の慾望に屈服した。
そのマリア・クロスが、電車のなかで知りあった十七歳の少年に恋をする。彼女は少年のなかに「汚れのない野鳥」のように純真な、ひとりの天使の姿を見ていた。
『愛の渇き』の悦子は、舅の妾《めかけ》になっていた。老人が手を出して来たときに彼女が抵抗しなかった理由を、作者はこう説明している。
「……多分、悦子は、溺《おぼ》れる人が心ならずも飮む海水のやうに、自然の法則にしたがつてそれを飮んだにすぎぬのであらう。何も望まないといふことは、取捨選擇の權限を失ふことだ。」
人生に一切の幻影を抱かない彼女は、「姙婦のやうな」もの憂《う》げな歩き方をした。そのために周囲の人びとは、「よほど自墮落な過去をもつた女だ」と思いこんだ。そして彼女は、若い園丁の三郎を愛するようになる。
『愛の砂漠』と『愛の渇き』とは、このような設定において多少似ている。しかし類似はここまでで、悦子はマリア・クロスのように若者をその天使を思わせる純真さのゆえに、(少くともそう見えたがために)愛したわけではない。三郎という天理教に熱心なこの青年は、都会の若者にはない逞《たくま》しい筋肉をもっていた。
村祭りの夜、彼の肩胛骨《けんこうこつ》のあたりの「肉の搖動」を背後から真近に見た悦子は、そこに手を触れたいという慾望を抑えられなかった。
「比喩《ひゆ》的にいふと、彼女はあの背中を深い底知れない海のやうに思ひ、そこへ身を投げたいとねがつたのである。それは投身者の欲望に近いものであつたが、投身者の翹望《げうぼう》するのは必ずしも死ではない。投身のあとに來るものが、今までと別なもの、兎《と》にも角にも別の世界のものであればよいのである。」
この場面の悦子は、『假面の告白』の「私」と同じ立場にいる。男の背中が海に見えるというおよそ官能性からはほどとおい比喩までも含めて、そのことが指摘できる。彼女が憧《あこが》れているのは現実の若者であるよりは、「別の世界」に住む人間としての三郎である。
その一方で悦子は希望の芽と思われるすべてを、乞食《こじき》が「自分の着物の虱《しらみ》を一匹のこさず潰《つぶ》すのと似た才能」をもって、丹念につぶしてまわっていた。彼女には、夫が避病院で死んだ秋の日の氾濫《はんらん》する陽光が忘れられなかった。死の床にいる夫を、嫉妬に身を焼きながらみとった日々には、彼女の人生が凝縮されていた。
それからの彼女は、みずから望んで緩慢な死に似た生活を送って来ている。若い身そらで老人の妾になるだろうことをさえ、彼女はここに来るまえから予期していた。作者の説明では、それは骸骨《がいこつ》の、すなわち死の愛撫《あいぶ》だった。
「骸骨の愛撫をうけた女は、もうその愛撫からのがれることはできない。」
それでも彼女は、自分を幸福だと思っていた。『獅子』の繁子と同様に、悦子は不幸からの快癒を決してねがわない。さかさまに彼女は、自分の幸福を確信していた。
「それでも私は幸福だ。私は幸福だ。誰もそれを否定できはしない。第一、|證據がない《ヽヽヽヽヽ》」。(傍点原著者)
悦子に三島はこのことばを、いわば物語のキイ・ワードのようにくりかえし呟かせている。幸福だと信じるためには、「悲哀」も「苦悶」も平然と呑み込まなければならない。悦子はそのことを、自分にいってきかせる。
「何もかも呑み込んでしまはねば……。何もかもしやにむに目をつぶつて是認してしまはねば……。この苦痛をおいしさうに喰《た》べてしまはねば……。」
彼女のこのことばが、『重症者の兇器《きようき》』で三島が書いた「快癒の喜びを決して知らない者の、或《あ》るいたましい平明な思考」をあらわしていることは、いうまでもないだろう。
テレーズ・デスケルウや『愛の砂漠』のマリア・クロスは、無意識|裡《り》にであれ神による救済を求めていた。マリア・クロスは自殺を図って失敗し、病床で眠っているあいだに譫言《うわごと》のようにいう。
「私たちが到達し所有できるだろうひとりの存在、でも肉においてではなく……そのものによって私たちが所有される存在……」
悦子は、救いなどだれにも求めない。彼女は自分の皮膚の強靭《きようじん》さを信じ、「苦痛に耐へる肉體の不滅」をまで信じて、焚火《たきび》の焔《ほのお》のなかに手をさし出すことをさえする。掌《てのひら》を火で焙《あぶ》っているときの彼女は、「彫塑《ていそ》的な」、「ほとんど倨傲《きよがう》なほどの平靜さ」を保っていた。
そばにいた舅が驚いて彼女に声をかけ、声などかけないでそのままに放置しておいたら、悦子は火傷《やけど》を負わずにすんだかも知れないと、すぐに彼は後悔する。この一刹那《いつせつな》の彼女は自信にみちた「彫塑的な」表情によって、ギリシヤの女神のような存在に老人の目には映じたのである。
「An sich の精神、An-sich-ismus」という文字が、『創作ノオト「盜賊」』のおわり近くの欄外に、大きく書きこまれている。
An-sich-ismus(即自主義)がもしも「自分以外のものになりたくない」という意味であるとすれば、救済や「快癒」を拒否しようとする意志は、昭和二十一年ごろから三島のなかに芽生えていたことになる。しかし『假面の告白』とともに、三島は異質の世界への憧れを新しい命題とした。
べつの世界にとびこむことは、宗教以外の方法による救済にほかならない。「自分以外のものになりたくない」という信念と、明らかにそれは矛盾する。その矛盾が、『愛の渇き』の劇を構成しているのである。
悦子は自分の深い絶望感を老婆《ろうば》が臍繰《へそく》りを大切にするように、「それでも私は幸福だ」という呪文《じゆもん》をくりかえしながら、大切に温めている。しかも三郎という異質の世界の男がもつ魅力に、彼女は抗することができない。矛盾がもたらす感情的|昂《たかぶ》りを大きくするために、作者は悦子をヒステリイ体質の女にした。
「彼女の有機體は最後の土壇場《どたんば》で、精神の支柱を失ふかもしれないのだ。咽喉元《のどもと》へ胸の底から大きな硝子《ガラス》の玉がすーつと上つて來るやうなこの不快。頭はふくらがり頭痛のためにひびわれさうに思はれるこの不快。……」
咽喉元に上って来る硝子玉とは、医学でいうヒステリイ球である。三島の「あとがき」によると、彼はヒステリイの症状に関する知識をフロイトの『ヒステリイ研究』から得た。
三郎を愛してしまったために、再び嫉妬《しつと》に明け暮れる日々がはじまる。三郎は女中の美代を姙娠させていて、その事実が村祭りの夜にわかった。悦子は嫉妬からも三郎への愛そのものからも、何とかして脱《のが》れようとする。
彼女は三郎を呼んで、美代を愛しているのかと質問した。三郎の方は、この質問にこたえられない。三郎が美代の肉体を欲したことはたしかだったとしても、それが愛の名にあたいするのかどうか。あまりにしつっこくきかれて「はい。愛してゐないであります」と健康な若者は朴訥《ぼくとつ》な口調でいい、悦子を嬉《うれ》しがらせた。ロマネスクな固定観念にとらわれた女と素朴な青年とのあいだのことばの喰違《くいちが》いが、事態をいっそう紛糾させて行く。
『愛の砂漠』のマリア・クロスは、自分が天使のように考えていた少年に自宅で突然抱きしめられ、驚いて本能的に抵抗する。「坊や、力づくで女を手に入れられると思っているの?」思わず彼女が口にしたそのことばが、少年の心には深い傷となって残る。
『愛の渇き』でも最後に三郎が悦子を襲って組伏せ、悦子は心では半ば彼をうけ容《い》れながらも本能的に叫び声をあげる。三郎は逃出し、けたたましい叫びをきいた舅が鍬《くわ》をかついで駆けつけて来た。悦子は三郎のあとを追い、そこに老人が鍬を持って立っているのを見ると、鍬を奪いとってその刃を三郎の肩に打込んだ。
「何だつて、此奴《こやつ》を殺さなくてはならなかつたんだ」、
という舅の質問にたいして彼女は、
「あたくしを苦しめた當然の報いですの。誰もあたくしを苦しめてはいけませんの。誰もあたくしを苦しめることなぞできませんの」。
夫の病死から約一年ののちに、彼女はこんどは恋人を殺害した。三郎に突然組伏せられたとき、悦子は彼の顔を見上げながら、「衝動によつて美しくされ、熱望によつて眩《まば》ゆくされた若者の表情ほどに、美しいものがこの世にあらうか」と思い、胸のうえの重味を、「溢《あふ》れるやうな愛《いと》しさで感じ」ていたのである。
だが彼女には、未来への幻想はなかった。幻想をもって苦しめるものには、死んでもらわねばならない。
救済への拒否を、『愛の渇き』のヒロインはつらぬいた。異質の世界とのかかわりはこれからあとの三島の文学では憧れとしてではなく、もっとべつの形をとってあらわれることになるだろう。
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肉体美の「神話」
1
男色家の溜《たま》り場《ば》として知られる喫茶店に三島が顔を出すようになったのは、昭和二十四年の秋ごろからだったらしい。
銀座の松坂屋のうらに当時あったブランスウィックという店に、彼はよく出入りしていた。夜はクラブになるこの店の二階に、親しい編集者などをつれて行ってお茶を飲み、ついでにこれもそちらの方の「専門家」が経営する近くの陶器店に立寄る。『禁色《きんじき》』にルドンという名でえがかれている男色酒場が、このブランスウィックである。
ブランスウィックの名は、昭和二十四年十二月に書かれた――と思われる――木村徳三|宛《あて》の彼の書簡にも出て来る。
「僕、目下、寢てもさめても、ブランスウィックのボオイの姿が忘れられず、溜息ばかり出て、思春期が再發したみたい。戀心つていぢらしいものですな、ヤレヤレ。」(木村徳三『文芸編集者 その跫音《あしおと》』所収)
ブランスウィックのボーイへの「戀」なるものが、本当だったか否《いな》かはかなり疑わしい。文章の調子から見ても、はなしを面白く仕立てて悪戯《いたずら》をたのしんでいるという気配が感じられる。このころ三島と頻繁《ひんぱん》に会っていた桂芳久は、ブランスウィックにも新橋の十仁病院のそばにあったアメリカ兵が大勢あつまる男色酒場にも彼といくどか同行していたけれど、三島がこういう場処で男色のつきあいに加わったことはなかったと断言している。(三島が一時的にもせよ同性愛にとらわれていたこと自体を、桂氏は信じていない。)
なお右の手紙を木村徳三は昭和二十六年の来信として紹介していて、これは誤植でないとすれば木村氏の思いちがいだろう。同じ書簡中に「光クラブじつくりとりかかりたく」という文章があり、この光クラブ云々《うんぬん》はいうまでもなく小説『青の時代』を意味する。
光クラブという名の高利貸業を経営して失敗し、自殺した東大法学部の学生がいた。昭和二十四年十一月のことであり、山崎という名のその青年は三島よりも二歳年長だった。
新聞に写真入りで大きく扱われた山崎を素材に、「戦後のジュリアンソレル」を書いてみないかと木村氏は三島にすすめ、三島もその気になっていたのである。ただし「新潮」からものちに同じ依頼があり、小説は木村氏の編集していた「人間」にではなく、「新潮」の方に連載される。
このことによって「三島君に対する私の気持は少なからず傷ついた」と、木村氏は書いている。
「その代償のように、三島君は戯曲『邯鄲《かんたん》』をくれたが、(中略)いったんひびが入った感情は元に戻るべくもなかった。」
『青の時代』の「新潮」への連載は、昭和二十五年の七月号からはじまる。したがって「光クラブじつくりとりかかりたく」といっている前掲の手紙が翌昭和二十六年の発信であり得るはずはなく、書簡末尾の十二月十六日という日付は昭和二十四年のその日と考えねばならない。
昭和二十四年の七月に三島は『假面の告白』を刊行し、同じ年の秋に『愛の渇き』の舞台をしらべるために豊中の叔母の家に行った。時期的にいうと『愛の渇き』執筆の準備と平行して、彼は男色の世界の探索をはじめていたことになる。
『假面の告白』で性的倒錯者としての「私」を創造した以上、読者はそれからあとの展開を当然期待する。期待にこたえねばならないという作家としてのある種の「義務」感も、三島には生じていたであろう。だが彼が男色の店に入り浸ったのは、むろんそれだけが理由ではなかった。
「彼(主人公)は藝術と生活との、一種いひしれぬ乖離《くわいり》にぶつかつた。」
『火山の休暇』という短篇のなかで、三島は自分自身のおかれていた立場をそう説明している。
昭和二十四年の秋には、三島は豊中のほかに伊豆の大島にも旅行していた。
大島を舞台にした短篇を彼はいくつか書いていて、そのひとつが『火山の休暇』(「改造文藝」十一月号)である。『火山の休暇』は三島の作品には珍しく、告白小説としての色彩が濃い。
三島はちょうど自画像を書くように、この小説の主人公をえがき出す。
「彼は廿五歳だつた。(中略)傲岸《がうがん》で子供つぽい眼差《まなざし》、やゝ不均整で痩《や》せて色艶《いろつや》の榮《は》えない顏だち、肌理《きめ》のこまかい皮膚、それでゐて粗い剃《そ》りあと、かうしたものが彼の顏の目じるしである。影法師にいどみかかる醉つた劍士のやうなありさまで、彼は野心に充《み》ちあふれ、人生を快刀亂麻に裁斷しようとする慾望に憑《つ》かれてゐた。」
自嘲《じちよう》的な表現を割引いて読めば、これがまさに数えで二十五歳の三島の自画像であることを、ひとは疑わないのではないか。二十五歳という年齢上の峠にさしかかって、主人公は自分の芸術にたいする深刻な悩みに苦しんでいた。これまでの彼は、「表現といふことは生に對する一つの特權であると共に生に於《お》ける一つの放棄に他ならぬこと」を信じ、「肉體を鍛へるやうに言葉を鍛へ」て来た。
「文體に意を須《もち》ひ、それが希臘《ギリシヤ》彫刻の的確な線に似ることを念願とした。」
ところが彼は自分のことばが、生の提供する素材を適確には捕え得ていないという焦慮の念を、脱しきれないでいる。深海からすくい上げたはずの魚はその網のなかでは、すでに柔軟な動きや鮮かな鱗光《りんこう》を、失っているように思われた。
「言葉の網にかかるのはただ言葉だけではないかといふ氣がする。……」
精神がことばを通じて、逆に美をむしばんでいるのである。そこで主人公は精神のかかわらない美を、魂のかげのない肉体の明澄《めいちよう》さを、夢みはじめる。彼は手帖《てちよう》に、しるしていた。
「精神はすでに一個の傳説だ。麒麟《きりん》や唐獅子《からじし》のやうな想像上の怪物にすぎない。そんなものをもう信じるな。」
三島は『假面の告白』の「私」に、「私」の精神の外がわに生きる汚穢屋《おわいや》や不良少年ややくざへの強烈な憧《あこが》れを抱かせた。それでも彼らはどこまでも憧れの対象にとどまり、「私」が自分を棄《す》ててそちらの領域にはいりこんだわけではない。
『愛の渇き』の悦子は知性とは無縁の園丁、三郎を愛しながらも、愛による救済を拒否して最後には三郎を殺す。彼女もまた、一個の孤独な精神だった。『愛の渇き』の執筆は『火山の休暇』の発表よりも二、三箇月あとになるのだが、三島はこれとよく似たモティーフによる一幕物の戯曲『聖女』を、大島行きにさきだって書上げていた。
『聖女』の女主人公はやくざな弟とその愛人のために身を粉にして働き、所有品の一切を売りつくし、売るものがなくなると娼婦《しようふ》となって働く。最後に残ったわずか一着の服を自分の愛人にわたせと弟にいわれれば、服を脱いで敷布を身にまとう。家も売ってしまったから明日からは「一文なしの家なしですよ」と弟に宣告されると、
「さう。物乞《ものご》ひでもしませうかね。」
しかもこの「聖女」は、信仰による救いを拒否しつづける。
「何かを信じたら、それを楯《たて》に人を責めることもできますわ。私それがこはいの。人を責めるなんて、この世で出來ることとも思へないわ。」
すべての不幸を呑込《のみこ》んで平然としているという点において、『聖女』の女主人公の立場は『愛の渇き』の悦子の場合と同じだろう。悦子は、自分にいってきかせた。
「何もかも呑み込んでしまはねば……。何もかもしやにむに目をつぶつて是認してしまはねば……。この苦痛をおいしさうに喰《た》べてしまはねば……。」
この苦悩には、出口がない。救済を拒否することによって、出口ははじめから閉ざされている。苦悩を苦悩でなくするためには、苦悩の主体である精神の方を、消してしまわなければならない。
これは「神なき人間の幸福」というギリシヤ的な――と三島の説明する――理念が、自然に彼をみちびいた帰結だった。精神を消去すれば、芸術にも生きた血が通って来るはずである。昭和二十七年の旅行記『アポロの杯』で、彼はギリシヤについて次のようにいう。
「希臘人は外面《ヽヽ》を信じた。それは偉大な思想である。キリスト教が『精神』を發明するまで、人間は『精神』なんぞを必要としないで、矜《ほこ》らしく生きてゐたのである。希臘人の考へた内面は、いつも外面と左右相稱を保つてゐた。希臘劇にはキリスト教が考へるやうな精神的なものは何一つない。それはいはば過剩な内面性が必ず復讐《ふくしう》をうけるといふ教訓の反復に盡きてゐる。」(傍点原著者)
とはいっても昭和二十四年の三島が、精神の否定に関して自信を抱いていたわけではなかった。『火山の休暇』の主人公、菊田次郎は、
「精神を否定するのはいい、しかしそこからどこへ向つて歩きだすかが……。」
と呟《つぶや》いている。
彼は岸壁で一|隻《せき》の船がほかの船の乗員から、マストの青い燈火《とうか》がついていないことを注意されるのをきき、それを自分のことのように思う。
「おーい、菊田次郎、お前の青い檣燈《しやうとう》がついてゐないぞお」。
そう呼ばれたような錯覚に、主人公はとらわれるのである。
自分の感受性への嫌悪《けんお》が知的なものへの嫌悪をもたらしたと、『私の遍歴時代』(昭和三十八年)のなかで三島は述懐している。
彼は昭和二十五年の初秋のころ、ある大きな書店のまえに中尊寺のミイラの写真が飾ってあるのを偶然に見かけ、その写真のミイラが書店に出入りする人びとの顔とそっくりだと思った。
「私はこの醜惡さに腹を立てた。知識人の顏といふのは何と醜いのだらう! 知的な人間といふのは、何と見た目に醜惡だらう!」
三島は自分の不健康さや肉体の貧弱さを気にしていたから、これは自己嫌悪のあらわれとうけとってよい。自己嫌悪が、「私のギリシアへのあこがれ」を触発したとしるしたあとで彼はさらにこれを訂正し、「私は多分誤解してゐた」のだという。
「あとで考へると、私は多分誤解してゐた。私の知的なものへの嫌惡は、實は、私の中の化物のやうな巨大な感受性への嫌惡だつたのである。」
いいかえればこれは、自己否定への衝動だった。自分のなかに棲《す》む「化物」を棄て去るためには、『假面の告白』で身につけた仮面を、確実に素顔にしてしまわなければならない。
2
昭和二十五年は三島にとって、作家として自立していらいもっとも多忙な年だったであろう。
四月の末に『愛の渇き』が完成したあと「一息つく暇もなく」――と三島は書いている――『青の時代』の連載にとりかかり、執筆のためにもう一度伊豆大島の観光ホテルに行った。(第一回分の締切は、五月の末である。)『青の時代』の半年間の連載の次に、『禁色』の起稿がつづく。
大島に行く方法は、この時代には船しかなかった。竹芝の桟橋《さんばし》に三島を担当していた「新潮」編集部の菅原國隆が送りに行くと、花束をかかえた青年がやはり三島を見送りにあらわれ、菅原氏を仰天させた。三島はこの青年を「ユウちゃん」とか「ユウイチ」(祐一?)とかいう名で呼び、仕事のとき以外には絶えずつれて歩いていた。
『禁色』の南|悠一《ゆういち》の名まえが、このユウイチからとられたことは疑いを容《い》れない。当時ユウイチは、ある私大の学生だった。
菅原氏は三島につれられて松坂屋うらのブランスウィックに昼日中いくどか行き、八重洲《やえす》通り沿いの焼け残ったビルの地下にあった男色酒場にも案内されている。地下の男色酒場の方には、高名な外国人の新聞記者もときに顔を見せたそうである。
男色酒場というと女装した男が給仕に出て来るのかと、ぼくのような「素人《しろうと》」はつい想像する。実際にそういう店もあるけれど、菅原氏の証言では三島はその種の女装の店には足を向けなかった。彼が惹《ひ》かれていたのは男が女の代理をつとめるいわゆる「稚児《ちご》さん」的な世界ではなく、ギリシヤの彫刻に見られるような男性美の輝きの方だった。
男色の世界に男役とか女役とかの概念をもちこむことは、「世俗的な異性愛の常識に犯され」た結果の逸脱であると、三島は『小説家の休暇』(昭和三十年)に書いている。
「だから私は小説『禁色』のなかで、女裝の男娼などの擬異性愛的分子を拂拭《ふつしよく》して、わざと簡明な定義に從ひ、『男色とは男が男を愛するものだ』といふ平凡な主題をつらぬいた。私にはプルウストのやつたやうな、男色家における女性的要素の強調が、論理的|歪曲《わいきよく》にすぎぬと思はれたのである。」
大島から帰ったあと、夏は強羅《ごうら》や沓掛《くつかけ》のグリーン・ホテルで彼は仕事をつづけた。(グリーン・ホテルではK子夫人――もとのK子嬢――と、偶然顔をあわせたという。)『青の時代』は、十月の末に脱稿した。
『青の時代』は三島自身がみとめているように、失敗作の部類にはいる作品だった。「戰後派」の一青年をえがこうとしていながら、物語は昭和十五年の年頭から敗戦の年の九月まで、突然飛躍するのである。戦争の四年間を含む六年に近い歳月が、小説では省略されている。
資料の十分な醗酵《はつこう》を待たないで書いたことが失敗のもとだったと、三島は『三島由紀夫作品集』(昭和二十八年新潮社刊、第二巻)の「あとがき」に書き、ぼくにもそういっていた。
――雑誌の編集部から、急がせられたものだから……。
しかし問題は実は、もっとべつのところにあったのではないか。『青の時代』の執筆に彼がついやした時間は、『愛の渇き』の場合とくらべて必ずしも短かったとはいえない。
『青の時代』には冒頭に「序」があり、主人公のモデルは「例の光クラブの山崎晃嗣《やまざきあきつぐ》」と、そのなかで明記されている。これまでの三島の作品とはことなり、モデルが世間にひろく知られた人物だから、主人公の経歴を勝手に大幅につくり変えることはできない。作者は実在の山崎にある程度寄りそうほかなく、しかも高利貸までもはじめた卑俗なニヒリストの山崎と作者の三島とでは、資質や生活環境において開きがありすぎた。
主人公ははじめから「どことはなしに|自然さ《ヽヽヽ》が缺《か》けてゐる」(傍点原著者)、男らしい「粗野な明朗」さをもたない、つまりは世間なみとは多少ちがった少年としてえがかれる。彼は作者によると、
「不吉な、と言つて言ひすぎなら、何か不幸な想像力の天賦《てんぷ》を持つてゐた。」
ここでは主人公の方が、三島に近づけられているだろう。三島は数えの十五歳のときに、『凶《まが》ごと』と題する詩を書き、「不吉な」「想像力の天賦」を示していた。
わたくしは夕な夕な
窓に立ち椿事《ちんじ》を待つた、
凶變のだう惡な砂塵《さぢん》が
夜の虹《にじ》のやうに町並の
むかうからおしよせてくるのを。
小説の前半で作者が主人公について書きこんでいるこれらの伏線が、後半で生かされているとはいいがたい。作者は主人公を自分の分身とすることを結局は断念していて、作中の六年間の空白はその断念をあらわしていると思われる。
敗戦後に主人公が高利貸をはじめた直接の動機は、野上|耀子《てるこ》という女への愛だった。事業の失敗も、小説では彼女の裏切りが主要な原因である。裏切られていると知りながら主人公は耀子を抱き、別れぎわにその裏切りを証明する秘密|探偵《たんてい》社の報告書の写しを彼女に手渡す。このときには彼は自殺用の亜砒酸《あひさん》を、すでに準備していた。
『青の時代』もまた後半部分では、――『純白の夜』のあとをひきついで――女への復讐の物語としての性格を濃厚にする。女への復讐は次の『禁色』では、老主人公の執念と化すだろう。
女の同性愛をえがいた短篇『果實』を、三島は昭和二十五年一月の「新潮」に発表していた。
同性愛を扱った最初の小説は昭和二十二年の『春子』だが、『春子』の場合はまだそれが主題とはいえない。『果實』では、音楽学校に通う二人の若い孤独な女たちが、孤独感から互いに身を寄せあい、「家庭」をつくろうとまでする。不毛な愛のもたらす倦怠感《けんたいかん》のうちに、愛しあう二人は最後には心中自殺をとげる。
この『果實』を発表してから三箇月後に、三島は長尺の『オスカア・ワイルド論』を「改造文藝」にのせ、さらに『青の時代』執筆中の七月には、『ジイドの「背徳者」』を書いている。オスカー・ワイルドは周知のように、青年期のアンドレ・ジッドにつよい影響をあたえた。ジッドを同性愛に走らせた最初の仕掛人とはいえないにせよ、少くとも彼は誘惑者としての役割を演じた。
ジッドはその母方の従姉《いとこ》、マドレイヌ・ロンドオと結婚しながらも、彼女の身体《からだ》には終生手を触れることがなかった。マドレイヌは処女妻として、一九三八年(昭和十三年)に七十一年の生涯《しようがい》を閉じる。そのくせジッドはベルギー人の画家、テオ・ヴァン・リセルベルグの娘エリザベートを愛して、一九二三年にカトリーヌという娘をもうけた。
妻のマドレイヌにたいする彼の性的不能は、『アンドレ・ジッドの青春』の著者ジャン・ドレによると心因性のことがらであって、性にたいして極端に潔癖だった母親の姿を、マドレイヌがつねに想起させたからだという。マドレイヌはジッドよりも、二歳年上だった。マドレイヌの母のマチルド・ポシェはこの一家には珍しく奔放な女で、六人の子どもを生んだのちに男をつくって家をとび出し、それからあとは長女のマドレイヌが母にかわって弟妹を指導しなければならなかった。父親も彼女が二十二歳のときに死に、マドレイヌは若いときから一家の母としての立場に立つことを、強《し》いられていたのである。
『背徳者』は、ジッドの奇怪な新婚生活を素材とした作品だった。もっともジッドの「|白い結婚《マリアージユ・ブラン》」の実情は、その手記『今や彼女は汝《なんじ》のうちにあり』がジッドの死の直後、昭和二十六年に出版されてはじめて明かにされたのであり、エリザベートとの間柄《あいだがら》もエリザベートの母親の日記『小さな淑女の手帖』が一九七三年と七四年とに刊行されて、詳細がようやく知られるにいたった。三島が『背徳者』論を書いた時点では、こういう事実はまだ秘せられていた。
ジッドのこの小説は、告白文学としてはおよそ歯切れがわるい。主人公は結婚したばかりの妻を愛し、敬虔《けいけん》なカトリック(マドレイヌはプロテスタント)のこの妻を姙娠させながらも、一方ではある種の快楽主義《エドニスム》に惹かれつづける。その惹かれるものの実体が暗示的にしか書かれていないために、いったいどこが「背徳的」であるのか、読む方は戸惑いをさえ感じる。
三島はこの作品について、「小説そのものの感銘は」薄かったといい、書かれていない「言外の意ばかりが明瞭《めいれう》」に感じられたと評している。
「『背徳者』の作品としての生命力は、それがまだ完膚なきまでに打明けられてゐないところの羞恥《しうち》にみちた官能性にあるのかもしれない。」
ジッドの結婚生活の実態がわかっているいまの時点から振りかえると、三島の右の指摘はきわめて鋭いものに思われる。ジッドは時代の道徳観に気がねし、若い妻のマドレイヌの気持を思い、何よりも彼自身のなかのキリスト教倫理に拘束されながら、一九〇二年にこのみずから「個別研究《モノグラフイー》」と呼んだ奇妙な告白小説を書いた。
キリスト教は自分にとっては何よりも倫理の問題であって、教義そのものには関心がないとジッドはくりかえしいっていた。
「キリスト教は、最初は一個の倫理にすぎなかった。宗教となるために、聖パウロの出現を必要としたであろうか。」(『小さな淑女の手帖』ガリマール社刊、前掲書)
ジッドによれば、使徒たちがキリスト教を神秘思想に変えた。
「キリストのことばに極度の霊的解釈をほどこしたのは、プロテスタント的な傾向だった。カトリックは次第に、聖母マリアの宗教と化した。これらすべてがわれわれの西欧世界を、頽廃《たいはい》に陥《おと》しいれたのである。」
ジッドの文学的生涯をつらぬくこの倫理主義は、オスカー・ワイルドには無縁だった。ジッドがアルジェリアでワイルドから「あの小さな笛吹きの少年が気に入りましたか」ときかれ、「硬くなって、絞めつけられるような声で」おずおずと「ええ」とこたえたとき、ワイルドは爆笑したと『一粒の麦もし死なずば』でジッドはいう。
この場面を三島はその『オスカア・ワイルド論』のなかに、そのまま引用している。
「アルジェリヤのとある陋巷《ろうかう》をゆく馬車のなか、ジイドがふとした頷《うなづ》きにはじめて内心の祕密を明かしてしまふのを見たワイルドが笑ふ。
……ワイルドが笑ひ出した。陽氣なと云《い》ふよりは、勝ち誇つた破れるやうな笑である。果のないどうにもならない、途方もない笑である。僕がこの笑に對して、あきれた樣子をすればするほど、彼は餘計に笑ふのであつた。
――こんなに大笑して失禮だが、どうにもならないんだ。我慢が出來ないんだ。
云ひ終ると彼はまた一層激しく笑ひ出した。」
ワイルドの哄笑《こうしよう》は、三島の説明によると「言葉の本來の意味での惡魔的な笑ひ」だった。
倫理にとらわれているジッドよりも、三島はむろんワイルドの方に共感を抱いていた。ワイルドは「太陽のほかには、もう何も崇拝したいとは思わないね」、といっていた男である。
『禁色』で三島はその主役のひとりである老作家に、ワイルドの哄笑とよく似た笑い方をさせている。女を愛せないはずの青年がひとりの女からもらった手紙に感動し、自分は彼女を愛していると口走ったとき、老作家は笑い出す。
「店中の人がふりかへるほどの笑ひ聲である。笑ひはつぎつぎとその咽喉《のど》にこみ上げる。水を呑んでむせながら又笑つた。その笑ひは黐《もち》のやうに、剥《は》がさうと思へばますます身に貼《は》りついた。」
この「莫迦《ばか》笑ひ」には嘲罵《ちようば》も朗らかさもなかったと、作者は註釈する。愛などということばをきかされると、老作家はジッドをまえにしたワイルドのように、ただこみ上げて来る笑いに耐えられなかった。
3
『禁色』の老作家、檜俊輔《ひのきしゆんすけ》のモデルは、三島由紀夫自身である。
俊輔は三島と同じように、「兵庫縣の素封家の」家に生まれている。
「幼年時代から、藝術は彼の胎毒のやうなものであつた。」
少年期には泉鏡花の作品を愛読し、その後は「ヨーロッパ世紀末文學の影響下に」おかれた。
「檜俊輔は死人の口腔《こうかう》から拔きとつた金齒のやうな藝術を創始した。(中略)この人工樂園には、死人のやうな女と、化石のやうな花と、金屬の庭と、大理石の寢床のほか何もない。貶《おと》しめられた凡《あら》ゆる人間的價値を檜俊輔は執拗《しつえう》にゑがいた。明治以來の日本の近代文學の中に彼が占めてゐる位置は何か不吉なものがある。」
この文章のなかの檜俊輔の名を三島由紀夫におきかえれば、いくぶんか誇張され戯画化された三島像が浮かび上るだろう。俊輔の文体は三島の場合と同様に、「いはば新古今風な、ロココ風な」「『人工的』な文體」、と世間から評されていた。
俊輔の小説が「化石のやうな花」の咲く「人工樂園」の観を呈するのは、作者によれば彼に客観的な認識が欠けていたことによる。
「俊輔には(中略)自分自身および他人に對する客觀的な關係の認識が缺けてゐたのである。」
その「人工的な」作風から、彼は「およそ人間的な烈《はげ》しい憎惡《ぞうを》、嫉妬《しつと》、怨恨《ゑんこん》、情熱の種々相は、氏の關知しないところであるかのやうだ」などといわれている。実際の俊輔は「たえず憎み、たえず妬《ねた》んで」、「女に對する絶ちがたい憎惡に惱まされつづけ」た。
俊輔は三度結婚し、三度とも失敗した。最初の妻は泥棒《どろぼう》であり、二年間の結婚生活のあいだにさまざまな品物を盗んで売ったあげく、宝石類をもって逐電した。二度目の妻は、狂人だった。三度目の妻は多くの男と浮気をくりかえし、最後には若い男と心中した。
三度目の妻が死んでからあと、俊輔はある元|伯爵《はくしやく》夫人に恋をする。生涯に十何回目かのこの恋は、成就《じようじゆ》しそうに思われた。ところがいざという場面に夫があらわれ、金をゆすりとられる。元伯爵夫人は、美人局《つつもたせ》だったのである。
俊輔はこういう私生活上の鬱憤《うつぷん》を、作品においてではなくフランス語で書く日記のなかで晴らしていた。ここに見られる女への彼の呪詛《じゆそ》は、執拗をきわめる。
「女はいたるところに生存してゐて、夜のやうに君臨してゐる。その習性の下劣さは、ほとんど崇高なほどである。女はあらゆる價値を感性の泥沼に引きずり下ろしてしまふ。女は主義といふものを全く理解しない。(中略)主義ばかりではない。獨創性がないから、雰圍氣《ふんゐき》をさへ理解しない。わかるのは匂《にほ》ひだけだ。彼女は豚のやうに嗅《か》ぐ。」
「女のもつ性的魅力、媚態《びたい》の本能、あらゆる性的|牽引《けんいん》の才能は、女の無用であることの證據である。有用なものは媚態を要しない。男が女に惹かれねばならぬことは何といふ損失であらう。男の精神性に加へられた何といふ汚辱であらう。女には精神といふものはないのであり、感性があるだけだ。」
女はいたるところに「夜のやうに君臨してゐる」という俊輔のことばは、三島が『創作ノオト「盜賊」』に書いた女の「慾情」についての一文を想起させるだろう。
「男からの(女への)便り、『あなたの旺《さか》んなる肉慾が今では都にのこる唯一《ゆいいつ》のもの、唯一の炎、廢墟《はいきよ》のなかに立つ曼珠沙華《まんじゆしやげ》です。』」
俊輔は、六十六歳の醜い老人だった。「世間で精神美と呼ばれるやうないかがはしい美點を見つけ出すことは、さして困難ではなかつた」としても、その顔は「むしろ精神によつて蝕《むしば》まれた」衰弱をあらわにしていた。つまりそのような老人として、三島は自分をこの小説に登場させているのである。
現実の三島が一度の「失恋」に苦しんだのにたいして、俊輔は三回の結婚に失敗し、恋人にも裏切られる。三島が知識人としての自分の肉体に自己嫌悪を感じていた以上に、老齢の俊輔は自分の醜さを憎み、かつみずからが築いた現実離れした文学の城のなかで苛立《いらだ》っている。
三島は彼が抱懐していた問題のすべてを、極端にまで拡大した形で檜俊輔という老人に託していたことになる。この小説に三島が賭《か》けていた野心は大きく、その前半部分を書上げた時点で、
「『禁色』でもつてぼくは今の二十代の仕事を總決算しようと思ふ」、
と書いていた。(昭和二十六年十二月十七日、「図書新聞」)
俊輔は康子《やすこ》という美しい少女に年甲斐《としがい》もなく惹《ひ》かれて、ある日彼女のあとを追って海岸の小さな町に行く。そこで彼は、精神をまったくもたない「完璧《かんぺき》な美」の体現者である青年が、波間から誕生するアフロディテのように、突然海中から姿をあらわすのを目にした。
「それは愕《おどろ》くべく美しい青年である。希臘《ギリシヤ》古典期の彫像よりも、むしろペロポンネソス派青銅彫像作家の制作にかかるアポロンのやうな、一種もどかしい温柔な美にあふれたその肉體は、氣高く立てた頸《くび》、なだらかな肩、ゆるやかな廣い胸郭、(中略)劍《つるぎ》のやうに雄々しく締つた脚をもつてゐた。」
「完全な外面の美の具現である」という文章も、このあとに出て来る。「完璧な美」をそなえた若者など、博物館の彫刻はべつとして世のなかにいるわけがなく、こういう書き方は少くとも近代小説の常識に反する。
ギリシヤ神話の世界をうたった長詩『エンディミオン』のなかで、キーツはアフロディテに愛された美青年アドニスの姿を、「アポロを偲《しの》ばせる頸や肩の曲線」という表現をもってえがいた。それと同じ「神話型」の人物像を三島は小説のなかに、リアリズムに慣れた読者の感情を逆撫《さかな》ですることを承知のうえで、あえて平然と導入したのである。
檜俊輔はキーツのこの長詩『エンディミオン』を愛し、詩句の一部は「ほとんど諳《そら》んじてゐる」と作者は書いている。海中から出現した南悠一を「エンデュミオーン」と、――ギリシヤ語の発音に近づけて――作者が呼んでいる場面も(第三十章に)ある。
悠一がエンデュミオーンなら、キーツの作品からいえば俊輔はエンデュミオーンが海中で出会う老人、グラウコスにあたるだろう。海神グラウコスはスキュラを愛して魔女キルケーの愛を拒んだために、キルケーは怒ってスキュラに呪《のろ》いをかける。キーツの詩ではグラウコスも魔女に呪われ、海中でむなしく年老いて行く刑を科せられた。予言によると千年を経たのちに、ひとりの若者が「神に愛され導かれて彼のまへに立ち」、何をなすべきかを教えてくれるはずだった。
千年ののちにエンデュミオーンが、老人のまえにあらわれる。三島が所蔵していた大和《やまと》資雄《やすお》訳『エンディミオン』(岩波文庫、昭和二十四年七月刊)で見ると、二人の出会いの部分は次のように訳されている。
その老人は彼の白髮の頭をあげて
茫然《ばうぜん》たる未知の人を見た。見てゐるとも思はれぬほど
彼の顏は無表情であつた。が突然に
……
二行目冒頭の「茫然たる未知の人」の原語は、The wilder'd(戸惑った)stranger である。この未知の人エンデュミオーンに、「老人の假面」をつけさせられた「若い魂」グラウコスは自分の過去と予言とを物語り、協力を求める。はなしをきいたエンデュミオーンは、自分たちは運命の糸によって結び合わされていたのだと叫ぶ。
若きエンディミオンは喜びに溢《あふ》れて叫んだ、「そんなら、
この運命で吾々《われわれ》は雙生兒の兄弟なのだ!」
エンデュミオーンの協力によって老人は若さをとりもどし、二人はスキュラをはじめとする死者たちを次々によみがえらせる。『禁色』でも南悠一の出現は、「老人の假面」をつけた作者の分身、檜俊輔に青春の情熱をとりもどさせるけれど、俊輔が悠一に依頼するのは死者たちの蘇生《そせい》ではなかった。悠一が性的倒錯者であり、女を愛することができないと知って、老人は彼にたのんでいる。
「おねがひだ。私の青春をもう一度裏返しに生きてもらひたい。平たく言へば、私の息子になつて私の仇《かたき》を討つてもらひたい。君は一人息子で養子にはなれない。しかし私の精神上の、(ああ、これは禁句だ!)、息子になつてもらひたい。」
キーツの『エンディミオン』の「雙生兒」が、こちらでは「精神上の」親子に変る。俊輔は女への復讐《ふくしゆう》の手はじめに、まず悠一を康子と結婚させた。これによって康子のうえに訪れるだろう不幸は、「俊輔にとつて考へるだに素晴らしいこと」だった。
「悠一の助力を借りれば、彼は百人の無垢《むく》な女を尼寺へ送ることもできさうに思はれた。かうしてこの老作家は生れてはじめて彼自身の本質的な情熱を見出《みいだ》した。」
悠一をつかって老作家は、かつて彼を欺《あざむ》いた美人局の元伯爵夫人にも復讐をとげる。元伯爵夫人は悠一に恋慕し、その悠一が夫と寝所で抱きあっているところを目撃して失踪《しつそう》する。(雑誌に発表された最初の稿では、彼女は自殺するのである。)
日本には室町時代いらい、「児《ちご》物語」と呼ばれる同性愛文学の伝統がある。
しかし「児物語」はその名称自体が示すように稚児《ちご》との恋物語であって、平安朝の恋物語のなかの女を、単に稚児におきかえただけという色彩が濃い。事実「児物語」のひとつである『鳥部山物語』は、江戸期にはいってから作中の稚児を女に変えて、――というよりはひきもどして――、『花の縁物語』として刊行されている。
こういう「児物語」は、同性愛から「擬異性愛的分子を拂拭《ふつしよく》し」ようとする三島にとっては何ら参考になり得なかった。他方欧米では同性愛への道徳的法的規制が一九七〇年ころまではつよく、男色を公然とえがいた文学作品は古代ギリシヤ、ローマの若干の文章を除いて皆無に近かった。
その意味で三島の『禁色』は、「擬異性愛的」ではない男の同性愛を赤裸々にえがいた最初の作品といえるかも知れない。ゲイ・バーというアメリカの俗語を日本の小説読者に周知させたのも、この小説だった。『禁色』が日本でも欧米でもひろく読まれた理由は、そこにあるだろう。
男色酒場やゲイ・パーティーの場面があまりに多いので、これは同性愛のルポルタージュ小説であるとマルグリット・ユルスナールはいい、さらに次のように論じている。
「少しずつ私たちは、このルポルタージュ小説が一種のお伽話《とぎばなし》小説だということに気づく。高名で裕福な一作家が、その妻の不貞に業《ごう》を煮やして、男や女に対する復讐の道具として悠一を利用しているのである。」(『三島あるいは空虚のヴィジョン』澁澤龍彦訳)
ユルスナールの指摘するとおりこの小説はルポルタージュ的な部分と、「神話型」の記述に縁どられたお伽噺的な部分とが、相互に矛盾しながら併存するという不思議な形状を呈する。ただし悠一については、その役割は単に復讐の道具であるだけにはとどまらない。
『禁色』は昭和二十六年の一月から十月までの「群像」に連載された第一部と、外遊をはさんで翌昭和二十七年の八月以降約一年間「文學界」に掲載された第二部(原題『祕樂《ひぎよう》』)との、二つの部分に当初は分れていた。単行本も、『禁色』『祕樂』の二冊として刊行された。
檜俊輔が当初目的としていたのはまさに女への復讐だったし、第一部はそのモティーフによってつらぬかれている。それが第二部のことに後半部分にいたると、物語は顕著な変化を見せはじめる。
悠一は「俊輔の觀念」であり、「神話型」の「藝術作品」(第二章)であるはずだった。その悠一が次第に、現実の人間としての自己主張を行なうようになる。俊輔という分身を通じて作者がつくったもうひとつの分身が、第一の分身である「精神」に、挑戦《ちようせん》を企てるのである。
『禁色』の第二部は、三島の分身同士の対立の劇として展開されて行く。
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「他者」への転生
1
昭和二十六年の暮に、三島ははじめての海外旅行に出た。
サン・フランシスコの講和条約はこの年の九月に調印されているのだが、その発効は翌二十七年の四月末である。つまり日本がまだ、連合軍の占領下におかれていた時代の外遊だった。
海外旅行もきびしく制限されていた時期であり、三島に当時それができたのは、父親の梓《あずさ》氏の友人で朝日新聞の出版局長をつとめていた嘉治隆一《かじりゆういち》の尽力による。嘉治氏と梓氏とは、一高独法科時代の同級生だった。(大正六年卒業の同じ独法科三十七人のなかには、岸信介《きしのぶすけ》、三輪壽壯《みわじゆそう》、我妻榮《わがつまさかえ》などがいた。)
嘉治氏の配慮によって、三島は朝日新聞の特別通信員というものにしてもらった。三島自身の回想で見ると、
「當時は、旅行者の體格檢査もやかましく、聖ロカ病院で片足で五十囘跳ねさせられたり、アメリカ大使館では窓口の二世にむやみと威張られたり、いろいろ不愉快な思ひ出もあるが、外國へ行けるといふ喜びで、そんなことは苦にならなかつた。」(『私の遍歴時代』)
アメリカまでは、船旅だった。船はこのころ太平洋航路に就航していたプレジデント・ラインの大型船、プレジデント・ウィルソン号である。
出帆の日――十二月二十四日――の横浜は、小雨が降っていた。しかし船がハワイに近づくにつれて陽差《ひざ》しは日ましにつよくなり、三島も甲板で日光浴をはじめた。デッキ・チェアで陽光に身をさらすのは南の海の船旅ではごくふつうのことだけれど、三島にとってはこれはただの日光浴にとどまらなかった。
「私は暗い洞穴《ほらあな》から出て、はじめて太陽を發見した思ひだつた。生れてはじめて、私は太陽と握手した。いかに永いあひだ、私は太陽に對する親近感を、自分の裡《うち》に殺してきたことだらう。(原文改行)そして日がな一日、日光を浴びながら、私は自分の改造といふことを考へはじめた。」(『私の遍歴時代』)
この「太陽との握手」については、三島は紀行文『アポロの杯』に書き、後年の『太陽と鐵』にも書いている。『禁色』の老主人公檜俊輔の暗い夜の世界からの離脱をはかっていたちょうどそのときに、プレジデント・ウィルソン号は彼を南国の陽光の下につれ出してくれた。
二十日間足らずをアメリカですごしたのちに、三島はブラジルに向かう。
二月の末にリオ・デ・ジャネイロで行なわれる謝肉祭を見物したかったせいもあって、ブラジルには彼は約一箇月間滞在している。リオ・デ・ジャネイロで案内役をつとめたのは、茂木という朝日の特派員だった。茂木氏の人柄《ひとがら》を三島は絶讃《ぜつさん》していて、
「茂木氏は本當に立派な人だ。旅先でいろいろつまらない日本人に會ふと、かういふ人の立派さがはつきりする。」(『アポロの杯』)
その茂木特派員とジョン・ネイスンは三島の死後に会い、同氏の回想を著書のなかに引用している。それによると茂木氏がもっとも驚かされたことは、三島の「おおっぴらな同性愛」だったという。
「茂木によれば、三島は決まったように昼間のホテルに、『公園でうろついているような種類』の十七歳前後の少年を連れて来ていたとのことである。三島はそれをあけひろげにしていたので、茂木は三島にどうやってそんな少年たちに近づくのかとたずねてみた。『あの世界』には言葉なしの了解がある、というのが三島の説明だった。|三島は自分に興味があるのは求愛の過程と女性心理であり《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、『|最終的な行為《ヽヽヽヽヽヽ》』|にはまったく興味がないといった《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。」(『三島由紀夫――ある評伝――』、傍点村松)
傍点を付した最後のくだりでは、同性愛からはなしが一転して女への関心の問題にかわる。恋愛の「最終的な行為」には興味がもてないという彼のことばは、もちろん「假面」的な表現にすぎない。そのことは『創作ノオト「盜賊」』に出て来る肉感にみちた記述ひとつをとっても明かだろう。(興味がもてないとはよくもいってのけたものだと、彼の若いころの作品や実際上の行状に照らして、これを読むとむしろ感歎《かんたん》する。)「人間」の編集長木村徳三にたいしてそうだったように、相手がジャーナリストである場合、ことさら性倒錯的な「假面」を強調してみせる傾向が、三島にはあった。
ジョン・ネイスンは至極単純に、三島の「假面」を生得的なものとしてうけとっているのである。ただし彼は同じ著書のなかで、三島が「最初の海外旅行の前から、積極的な同性愛者になっていたという証拠はない」といい、そのあとに茂木氏の右の回想を紹介している。リオ・デ・ジャネイロ訪問が三島に同性愛者としての経験の最初の機会を提供したと、ネイスンは主張したいらしい。
実際には旅行に出るまえに、三島のそばにはユウイチ青年がいた。昭和二十五年に大島に仕事に行ったとき、花束をもって竹芝|桟橋《さんばし》に送りに来たこの大学生を、――新潮社の菅原國隆の証言によると、――三島は異様に思われるほど可愛《かわい》がった。
『禁色』の第一部は、同性愛の男が夜の公園で相手を拾って来る手口などを仔細《しさい》にえがき出す。よほどその世界に深入りしなければ、こういう「ルポルタージュ小説」は書けない。
――公威《きみたけ》は何にでも興味をもつ子でしたから、
と母堂の倭文重《しずえ》さんは、話題がたまたま同性愛に触れたときにいっておられた。
――でもいいじゃないですか。たとえ同性愛でも。
リオ・デ・ジャネイロで同性愛をはじめて経験したというネイスンの説はうけ容《い》れがたいし、ホテルに少年をつれこんでいたこと自体も、どこまで本気だったかには疑問の余地がある。茂木特派員を驚かせるために、わざわざそんなことをして見せたのかも知れない。
こういうことの真相はわかりにくいのだが、とにかくこの明るい海辺の都市が、三島を魅惑したことは事実だった。「私は熱帶の光りに醉つた」と、彼は『私の遍歴時代』に書いている。
「はげしい青空の下の椰子《やし》の並木を見るだけで、久しく探し求めてゐた故郷へかへつたやうな氣がした。」
三島はリオに、自分が転生したという夢想をさえ抱く。『アポロの杯』のなかのリオ・デ・ジャネイロの章には、「リオ――轉身――幼年時代の再現」という表題がつけられている。リオの古い住宅街をひとりで歩きながら、彼は自分がかつて「たしかにここを見たことがある」と思う。
「夢の中に突然あらはれるあの都會、人の住まない奇怪な死都のやうな、錯雜した美しい、靜寂をきはめたあの都會、それを私は幼年時代に、よく夏の寢苦しい夜の夢に見たことを思ひ出した。(中略)私は自分が今、眠りながらそれを見てゐるのではないかと疑つた。」(『アポロの杯』)
『アポロの杯』のなかで、リオの章だけはほかとは色彩をことにしている。紀行文のなかでここだけが、物語的ともいえる空間を構成しているのである。
2
ブラジル在住の多羅間俊彦を、妹の友人だった婦人――板谷諒子――から紹介されたことが、アメリカからヨオロッパに行くまえに三島がブラジルに立寄った直接の契機だった。
多羅間俊彦は東久邇《ひがしくに》家の三男で多羅間家に養子にはいり、リンスの近くに五百町歩の大農園兼牧場を経営していた。農園の門をはいったところには、フット・ボールのグラウンドがあった。
邸内には白人系の混血の召使が何人も働いていたはずだから、三島はハーレムにとびこんだようなものだと評するひともある。ハーレムは大袈裟《おおげさ》としても南米は一般に性に関して寛容な社会であり、そのあけっぴろげの愉《たの》しさを後年の彼は折りに触れて回顧していた。
ある作家がブラジルに行き、現地で女にもてたことを帰国後しきりに自慢していたときに、三島は、
――ブラジルはそういう国だっていうことを懇々といってきかせておいたのに、彼は自分ひとりがもてた気でいるのだよ。ブラジルの女はそうなんだって、懇々と教えたのに。
そういって、悪戯《いたずら》っぽく笑っていた顔が思い出される。
ブラジルのまえのアメリカは、三島にとっては憂鬱《ゆううつ》な旅だった。外貨の購入額がきびしく制限されていた時代であり、彼もアメリカでは安宿にしか泊っていない。嚢中《のうちゆう》が乏しいうえに、人種差別はいまよりもはるかにつよかった。
ハーバート・パッシン(当時占領軍司令部に勤務)から紹介された「アメリカ自由委員会」のクルーガー女史が、ニュー・ヨークでは案内役をつとめた。三島をレイディオ・シティーのミュージック・ホールにつれて行き、案内係に劇場の収容人員を大声でたずねて七千人というこたえをきくと、
「『おゝ、七千人!』
彼女は一番先に模範的におどろいてみせる。」(『アポロの杯』)
初対面の日本の若い小説家をこの女史は社会主義者にしようと企て、彼がニュー・ヨークを去る日の飛行場の休憩室のなかでまで、社会主義についての説教をつづけた。三島がえがくクルーガー女史は気のいい田舎者であって、気はよくてもこういう女史に案内されることは、旅行者を疲れさせる。
「桑港《サンフランシスコ》はほとんど風土を感じさせない。一地方の自然と人間の歴史とのあの永い感情的交錯を感じさせない。」
「紐育《ニユーヨーク》の印象――
などといふものはありえない。一言にして言へば、五百年後の東京のやうなものであらう。今の東京と似てゐるところもいくらかある。ここでも畫壇の人たちは朝から晩まで巴里《パリ》に憧《あこが》れて暮してゐる。」
三島のアメリカについての印象は、『アポロの杯』の右のそっけない文章に要約されているように思う。そのアメリカとはちがってブラジルには、人種差別もかたくるしい清教徒思想もなかった。
リオ・デ・ジャネイロの美しい夜景を機上から眺《なが》めて三島は感動し、ここでなら墜落してもいいと思ったと述べている。
「私はリオの名を呼んだ。着陸に移らうとして、飛行機が翼を傾けたとき、リオの燈火《とうくわ》の中へなら墜落してもいいやうな氣持がした。自分がなぜかうまでリオに憧れるのか、私にはわからない。屹度《きつと》そこには何ものかがあるのである。地球の裏側からたえず私を牽引《けんいん》してゐた何ものかがあるのである。」
この感動ぶりは、本当とすればいささか異様だろう。
リオの夜景は、たしかに美しい。しかしたいていの都市の夜景は、――雑然とした日本の都市の場合でさえも――空からは美しく見える。飛行機をこわがって可能なかぎり鉄道を利用していたほどの三島が、単に夜景が美しいというそれだけの理由によって、未知の土地に墜《お》ちてもよいと考えたというのは、どういうことだろうか。
機上で彼が抱いた「屹度そこには何ものかがある」という直観は、『アポロの杯』によると適中した。ここでは市内電車までが、「郷愁的な形を」していた。コパカバーナに海水浴に行った少年たちを乗せてもどって来る電車を見て、三島は住宅街を歩いていたときと同様に、再び幼年時代を思い出す。
「私は又しても幼年時代の記憶に襲はれた。病院のかへりに、かうして木洩《こも》れ陽《び》を浴びながら、電車を待つてゐたことがたしかにある。暑さは耐へがたく、いとはしかつた。(中略)そのあげく、かうした古い懷《なつか》しい市内電車が、雀躍《こをどり》するやうに搖れながら、突然人氣のない眞夏の街角に現はれたのである。」
映画館に彼は、現地の子どもたちと一緒にはいる。ここでも彼は、自分の幼年時代と出会うのである。
「短篇や漫畫にまじつて、連續活劇の一卷が上映されてゐたが、これこそ幼年時代の私の憧れの全部であつた。それは荒唐|無稽《むけい》な冒險の物語で、別の天體の上の奇妙な王國、若い英雄、清らかなその戀人、嫉妬《しつと》にかられる王女、奸臣《かんしん》と忠臣、眠り藥、地下牢《ちかろう》、火龍の出現などからでつち上げられたものである。」
リオにはいたるところに、彼の幼少期の影があった。その幼少期を経て現実の三島は夢想的な青年となり、夢想の世界から容易に離脱できないことに苦しんでいた。だがリオの三島は、そうはならない。映画館を出てからあと、彼は太鼓の音と歌声とが近づいて来るのをきく。
「『あれは何ですか』と私は問うた。
『謝肉祭《カルナヴアル》の練習です。まだ一ト[#小さな「ト」]月も先のことなのに、かれらは今からああやつて練習してゐるのです』」。
この国では、絵までが生気をもっていた。三島は夜の街路を歩いていて、石塀《いしべい》に男の立像が黒々とえがかれているのを見た。描きそこねたために黒い絵具で塗りつぶしてしまったらしく、絵具のあとはまだべっとりとしている。
ところがその男の立姿が突然白い歯を見せて笑い、身悶《みもだ》えし、壁から身を引離して夜の街へと何事もなげに歩き出す。
「私はこの小さな奇蹟《きせき》の理由をたづねた。さうだ、あんなにたやすく畫像が背景をぬけ出すことのできた責任は畫家にある。彼は黒い夜の中に黒人を描く過ちを犯したのである。」
黒人を黒い画像と、単に見まちがえたのではない。「べつとりとして」乾いていない画像から生きた黒人が出て来たと、三島はいうのである。
リンスの農場に一週間滞在してから彼はまたリオにもどって謝肉祭を見物し、自分も四晩のうち三晩を踊り明した。リオの謝肉祭にはキリスト教的な要素はないと三島はいい、エウリピデスの『バッカイ』(バッカスの巫女《みこ》たち)との類似性を指摘する。
酒神ディオニューソス(バッカス)の供の女たちバッカイは、酒神への反抗者に出会うと狂気にとり憑《つ》かれ、木の葉で髪を飾り身には動物の皮をまとって半裸の姿で踊りまわる。エウリピデスの『バッカイ』はテーバイの王がディオニューソスの崇拝を拒否し、その結果テーバイの女たちは王の母をはじめ全員がバッカイの狂気にまきこまれて、王を八つ裂きにするという狂乱の悲劇だった。『アポロの杯』によれば、
「それ(『バッカイ』)は決して宗教的ドグマにもとづく狂信ではなかつたに相違ない。ディオニューソスが正しいがために、人がこれに赴いたのではない。ディオニューソスが正しいがために、人が狂亂と殺戮《さつりく》に陷つたのではない。希臘《ギリシヤ》人は、人間のあらゆる能力を神に祭つたから、安んじて狂亂に陷り、生の恐怖に安んじて身をゆだね、陶醉のうちに、愛兒を八つ裂きにしたのである。」
三島のなかのギリシヤが、ここで謝肉祭に結びつく。謝肉祭は古代南欧の春祭り(ローマでは農耕神サートゥルヌスの祭り)を起源とするといわれているから、『バッカイ』との比較はさほど突飛ではないだろう。
プレジデント・ウィルソン号の甲板上で「太陽と握手した」三島は、リオでは精神の呪縛《じゆばく》を離脱した男女の喜悦にみちた姿を、カルナヴァルの乱舞のなかに見出《みい》だす。リオ街頭での再三にわたる幼少時との奇妙な出会いは、新しい自分の誕生を暗示する挿話《そうわ》としてうけとるほかない。
リオ・デ・ジャネイロ紀行は「リオ――轉身――幼年時代の再現」という表題が示すとおり、作者の太陽の子としての再生を告げているのである。
3
謝肉祭の終了後まもなく三島はリオを発《た》ち、スイス経由パリにはいった。パリでは彼ははじめ、オペラ座のとなりのル・グラン・トテール(グランド・ホテル)に泊っていた。
値段の高いグランド・ホテルをえらんだのは、ここにはアメリカ人の観光客が多く、英語が通じるという理由によるのだろう。それにパリには一週間程度しか、いるつもりがなかった。
昭和二十七年のフランスは、戦争によってうけた傷からまだ恢復《かいふく》しきれないでいた。工業生産力は戦争の直前(昭和十三年)にくらべると四割方の上昇を示していたものの、インドシナ(ヴェトナム)で続行されていた戦争が、この国の復興に重い足枷《あしかせ》となっていたのである。オペラ通りやシャン・ゼリゼにはドル買いが大勢いて、公定交換率では三百五十(旧)フランだったアメリカ・ドルを、四百フラン以上でひきとった。
三島はそういうドル買いに誘われて、二、三百ドルをフランにかえるつもりであるカフェの裏部屋について行った。二千五百ドルの旅行者用小切手《トラヴエラーズ・チエツク》をとり出すと、どこかで呼子がきこえたという。三島がのちに説明してくれたところでは、
――ポリスだ、危い、とかいって向こうは騒ぎ出してね。
小切手をさらってドル買いは消え、三島があとを追って外に出て見ると、もう男の姿はない。彼はすぐに日本の在外事務所(大使館はまだなかった)に、盗難を届け出た。
幸いに小切手には、換金の署名はしていなかった。しかし小切手がもどって来るまでには一箇月もかかり、それまではパリにとどまらねばならない。懐《ふところ》には、わずかな小遣銭が残っているだけだった。
彼は匆々《そうそう》にグランド・ホテルを引払い、日本人が経営する「ぼたんや」という宿に移った。「ぼたんや」は十六区のアヴニュー・モザール(モオツァルト)の南端のあたりにあり、ブウローニュの森が近い。同じ宿に、木下惠介が逗留《とうりゆう》していた。
留学生として在仏中だった黛敏郎《まゆずみとしろう》も宿の近くに住んでいて、とき折り顔を見せた。黛氏は三島の小説『純白の夜』が前年に映画化されたさい、その音楽を担当している。
観光客とは無縁な地域だから、英語は一切通じない。何をするのにも黛氏が唯一《ゆいいつ》のたよりだったと、三島はのちに述懐する。
「ア・ベ・セもできない私は、歩いて一丁ほどのところの郵便局へゆくにも、黛氏を拜みたふして、ついて來てもらつた。土地にも盲《めく》らなら、言葉も唖《おし》、ヘレン・ケラーではないがパリにおける三重苦の私は、ひたすら氏を杖《つえ》とも柱ともたのんでゐたわけである。」(『黛氏のこと』、昭和三十年六月)
――ドイツ語ならできるのだけれど、
と三島は黛氏のまえで、口惜《くや》しがっていたそうである。
同性愛のカフェをさがしてほしいと三島は黛氏にたのみ、黛氏はフランス人の学生にきいて「|白い王妃《ラ・レイヌ・ブランシユ》」という店を見つけ出した。サン・ジェルマンの大通りをオデオン座の方に曲る角のあたりに、そのカフェはあった。木下惠介を加えて三人で「白い王妃」に行くと、店にいた若者たちは木下惠介と黛敏郎とのまわりにあつまり、三島は相手にされなかった。
これに懲《こ》りたのか、その後の三島は芝居や美術館に行くほかは宿に引きこもり、四幕物の戯曲、『夜の向日葵《ひまはり》』を書いていた。三月のパリは寒く、曇り空がつづいてときには雪が舞う。真夏のリオ・デ・ジャネイロから来た三島には、鬱陶しいかぎりだった。
しかも金がなく、ことばが通じないことによる「三重苦」がかさなる。飜訳を通じてあれほど親しみ、創作上にもつよい影響をうけて来たフランス文学の故郷に、彼は決定的な嫌悪感《けんおかん》を抱くにいたった。
旅行者用小切手がもどって来たのは、四月にはいってからである。三島は四月の半ばにパリを去ってイギリスに行き、数日間をここでついやしたのちに、四月二十四日にかねてからの「眷戀《けんれん》の地」であるアテネに到着する。
「今、私は希臘にゐる。私は無上の幸に醉つてゐる。」(『アポロの杯』)
アクロポリスに彼は二日間通い、二日目には神殿の南斜面にあるディオニューソス劇場で何時間かをすごした。そのあとで三島は、「希臘人は外面《ヽヽ》を信じた」というまえにも引用した文章を書く。
「それは偉大な思想である。キリスト教が『精神』を發明するまで、人間は『精神』なんぞを必要としないで、矜《ほこ》らしく生きてゐたのである。希臘人の考へた内面は、いつも外面と左右相稱を保つてゐた。希臘劇にはキリスト教が考へるやうな精神的なものは何一つない。(中略)われわれは希臘劇の上演とオリムピック競技とを切離して考へてはならない。この夥《おびただ》しい烈《はげ》しい光りの下で、たえず躍動しては靜止し、たえず破れてはまた保たれてゐた、競技者の筋肉のやうな汎神論《はんしんろん》的均衡を思ふことは、私を幸福にする。」
彼はデルフォイまで行き、さまざまな神々の像と対面した。しかし三島がもっとも感動したのは実は古代ギリシヤの彫刻ではなく、ローマのヴァティカンの美術館にあるアンティノウスの像だった。アンティノウスはローマのハドリアヌス帝にその美貌《びぼう》を愛され、帝の旅行には必ず扈従《こじゆう》していた。
アンティノウスは西暦一三〇年に、ナイル川で溺死《できし》する。皇帝の生命が長くはないという預言をきいて自殺したという噂《うわさ》が流れ、ハドリアヌス帝は彼を祀《まつ》る神殿を帝国領内各地につくった。その生地には、アンティノウポリスという名の都市が建設された。
アンティノウスの像はパリのルーヴルにも、デルフォイの小博物館にもある。三島はこの二つには気がつかなかったと見えて、ヴァティカンのアンティノウス像についてのみしるしている。その美しさに彼は魅せられ、
「他のさまざまな部屋の名畫を見てゐても、心はアンティノウスのはうへ行つてゐるので、全體としてヴァチカンの見物は、甚《はなは》だ收穫の乏しいものに終つてしまつた」。(『アポロの杯』)
彫像はいずれもアンティノウスが死んだ一三〇年から、ハドリアヌス帝死去の一三八年までのあいだの制作と推定される。ハドリアヌス帝は熱狂的なギリシヤ好きだったから、彫刻の様式はヘレニスムというよりは、それよりもまえのフェーディアスの時代への模倣の色が濃い。だが様式はそうであってもアンティノウスはアポロンなどとはちがって実在の人物であり、彫像はボスフォロス海峡に近いビトモア(現トルコ領)出身のその顔立ちをあらわしている。
人間でありながら、彼は美貌によって神々のひとりに列せられた。その事実が三島には、かぎりなく魅力的に感じられたのであろう。三島はアンティノウスを主人公とする『鷲《わし》ノ座』という題の劇を、帰国後に書こうとした。『近代能樂集』に加えられるはずだったこの劇は未完におわり、同じ題名のこれも未完の短篇が、『アポロの杯』には挿入されている。
ハドリアヌスはアンティノウスの美貌を惜しんで、彼の彫像を無数につくらせた。彫像とされたことによってアンティノウスは「永遠の縛《いま》しめ」をうけ、べつの生を生きることを強《し》いられる。三島の表現によると、ギリシヤでは「生は永遠にくりかへされ、死後もわれわれはその生を罷《や》めることができない」のである。
「彫像が作られたとき、何ものかが終る。さうだ、たしかに何ものかが終るのだ。一刻一刻がわれらの人生の終末の時刻《とき》であり、死もその單なる一點にすぎぬとすれば、われわれはいつか終るべきものを現前に終らせ、一旦《いつたん》終つたものをまた別の一點からはじめることができる。希臘彫刻はそれを企てた。そしてこの永遠の『生』の持續の模倣が、あのやうに優れた作品の數々を生み出した。」
肖像好きだったローマと古代ギリシヤとを、この文章はいささか混同しているように見える。アンティノウス像は、古代ギリシヤ人の創造した神々の像のうえに実在の人間の顔をのせたその特異な――いわばルネッサンス的な――性格においてむしろ知られて来た。だが当面の問題は三島のギリシヤ論の是非ではなく、彼がギリシヤに何を見ようとしたかにある。
アンティノウスは、「基督《キリスト》教の洗禮をうけなかつた希臘の最後の花」だったと三島はいう。
「羅馬《ローマ》が頽廢《たいはい》期に向ふ日を豫言してゐる希臘的なものの最後の名殘である。」
三島はローマを発つ直前に、「アンティノウスに別れを告げるために」わざわざ再度ヴァティカンを訪れた。
「私は今日、日本へかへる。さやうなら、アンティノウスよ。われらの姿は精神に蝕《むしば》まれ、すでに年老いて、君の絶美の姿に似るべくもないが、ねがはくはアンティノウスよ、わが作品の形態をして、些《いささ》かでも君の形態の無上の詩に近づかしめんことを。」
五月七日羅馬にてという日付が、文末にしるされている。日本への帰着は、五月十日だった。
「太陽との握手」いらいの彼の再生を求めての旅は、ヴァティカンでの「ギリシア」との出会いによって完結を見る。帰国後の三島は、すぐに『禁色《きんじき》』第二部の執筆にとりかかった。第二部は「第一部と截然《せつぜん》とちがつてゐる」と、三島は『私の遍歴時代』に書いているのである。
4
「文學界」の昭和二十七年八月号には、『祕樂《ひぎよう》』――『禁色』第二部――の連載第一回とならんで、大岡昇平の『酸素』(連載第八回)、高見順の『昭和文学盛衰史』(第一回)、瀧井孝作の『新人の文章』(第三回)などが掲載されている。
宇野浩二も『芥川龍之介』を、同じ雑誌に連載中だった。昭和二十七年は皇居前でいわゆる血のメイ・デイ事件が起こった年だが、講和条約が発効を見て占領は終結し、文学の世界もよかれあしかれ落着いて来ていたことが、この目次からはうかがわれる。なお瀧井孝作が『新人の文章』で論じた新人とは、堀田善衞《ほつたよしえ》、安部公房、井上靖などの諸氏だった。(連載のあとの方には、三浦朱門、吉行淳之介、安岡章太郎の名も出て来る。)
『祕樂』はのちの合本『禁色』でいうと、第十九章「わが相棒」からはじまる。『禁色』第一部のおわりでは鏑木《かぶらぎ》という元伯爵夫人を自殺させてしまっていたのを、まえにも触れたように第二部の方では、単に失踪《しつそう》しただけのことに作者は修正した。鏑木夫人は夫と南悠一との同性愛の現場を見て「モルヒネを含有するパビナール」を呑《の》み、夫の鏑木信孝は泣きながらそこに駆けつけたことに、はじめはなっていたのである。
「信孝は悠一を伴つて、夫人との新婚の第一夜の宿であるその湯河原の馴染《なじみ》の旅館へかけつけたが、信孝は往《い》きの車中を泣きつづけ、遺骸《いがい》の傍《かたは》らに、見るべきでないものを見たといふ趣意の、簡單な走り書の遺書を見出だしたとき、さらに大聲をあげて哭《な》いた。悠一はこの奇妙な夫婦愛のあらはれを前にしては、彼自身の甚だ|自然な《ヽヽヽ》涙の介入の餘地がないことに茫然《ばうぜん》とした。」(傍点原著者)
決定版の『禁色』ではこの文章が削除され、かわりに次の一行がおかれる。
「三日たつた。鏑木夫人は歸らなかつた。」
夫人を自殺させることは当初からの計画だったと、三島は『禁色』の「あとがき」(『三島由紀夫作品集』第三巻、昭和二十九年新潮社刊)で述べている。『禁色』が老作家檜俊輔の女への単なる復讐譚《ふくしゆうたん》であるのなら、鏑木夫人は『純白の夜』の女主人公とひとしく、絶望の末の自殺に追い込まれねばならない。彼女はかつて檜俊輔を欺《あざむ》き、色仕掛で彼から金をゆすりとった女だった。
しかし三島の説明では、
「雜誌の最終囘の原稿で、計畫どほりに夫人を殺してから、私は早まつたと思つた。この人物には書くにつれて愛着が増して來てをり、殺すには惜しい女だつたからである。」
一度殺した鏑木夫人を作者が「救出」した理由のひとつは、登場人物の数が少なすぎることに気がついたせいではないかと推測される。千枚をこえる長篇を書こうとする以上、何人かの男女をあらかじめ用意しておかなければ、物語の劇的展開は望めないだろう。『禁色』は同性愛の問題をはじめから前面に出したために若い女の姿が作中に少く、南悠一と結婚する康子と鏑木夫人と、あとは穗高恭子という人妻が書かれているだけだった。そのなかの鏑木夫人を殺せば、作者が自由に動かせる女は穗高恭子ひとりになってしまう。
第二部の『祕樂』では物語は女への復讐から檜俊輔と南悠一の対立へと、次第にその焦点を移動させて行く。「救出」された鏑木夫人は、両者の対立の発端を形成する役割をつとめるのである。
鏑木夫人はもともと「精神などと縁を持つた」ことがなく、檜俊輔が彼女に恋したのも「この女が全く精神性をもたないところに」惹《ひ》かれたのだと、作者は第一部で説明していた。(第十六章)彼女自身も男女間の行為に愛と称する「精神的な粕《かす》」がつきまとうことを嫌悪し、愛なしに男に身を委《ゆだ》ねることがなぜ難しいのだろうかと呟《つぶや》いている。
「『愛さないで體を委《まか》すといふことが』と夫人は寢起きの|顳※[#「需+頁」、unicode986c ]《こめかみ》に熱つぽくからんで來る後《おく》れ毛をかいやりながら、考へた。『男にはあんなに易しいのに、女にはどうして難かしいのだらう。なぜそれを知ることが、娼婦《しやうふ》だけにゆるされてゐるのだらう』」。
この奇妙な願望あるいは信条が、彼女を高級娼婦にした。悠一の方も「精神性の皆無」な青年という設定になっていて、その意味では二人はよく似た男女だった。鏑木夫人は悠一が自分の夫と抱きあっている「見るも忌《いま》はしい」場面を目撃して、それを――修正版では――自分の感受性にたいする挑戦《ちようせん》と感じる。
悠一が自分の手の届かないところにいると知って、矜り高いこの娼婦は逆にいっそう彼を愛するようになり、つつましい長文の手紙を書く。
「貴下《あなた》を自分のものにしようなどとどうして思へませう。それは青空をわがものにしようとするのと同じことです。私に言へるのは、ただ貴下をお慕ひしてゐるといふことだけです。」
手紙を読んで悠一は感動し、檜俊輔に向かって自分は鏑木夫人を愛しているという。
「僕はわかつたんです。鏑木夫人を愛してゐることがわかつたんです」。
俊輔がアンドレ・ジッドの同性愛に関する告白をきいたときのワイルドのように、とめどのない「莫迦《ばか》笑ひ」の発作を起こすのはこのときである。しかし笑いがおさまったあとでこんどは俊輔自身が、自分もまた悠一を「肉感的に愛してゐる」のではないかと、ひそかに考えはじめる。
俊輔にとって悠一は「精神上の息子」であり、女たちへの復讐の道具であり、自分の青春をとりもどす手段であり、そういうものとしての「彼の藝術作品」であるはずだった。グラウコスにとってのエンデュミオーンが、悠一という存在だった。ところが第二部では二人のあいだがらは、むしろハドリアヌス帝とアンティノウスとの関係に似て来る。
芸術論に塗りこめられたこのお伽噺《とぎばなし》兼「ルポルタージュ小説」のなかで、比較的に生き生きとえがかれている人物は穗高恭子だろう。
恭子は十数年まえに俊輔の家に出入りし、結局は彼の愛をしりぞけて外交官に嫁《か》した女だった。「きれいで輕快で派手な貞女」で、笑顔がことのほかに美しい。朗かな恭子はある日悠一に誘われて夜の食事をともにし、車のなかで彼に接吻《せつぷん》を許し、さらにナイトクラブで踊ったあと、柳橋の待合につれこまれる。
夜半目が覚めたときには、彼女は浴衣《ゆかた》の下には何も身に着けていなかった。手をのばすと、冷たい骨ばった男の手に触れた。そばに寝ていたのは悠一ではなく、俊輔だった。驚いた恭子は慄《ふる》え声で、
「何でこんなことをなさつたんです。あたくしが何をして? あたくしに何の怨《うら》みがあるの? どういふお心算《つもり》なの? あなたに憎まれるやうなことを何かして?」
穗高恭子は『純白の夜』の女主人公、村松郁子の変形といってよい。復讐をうけるにいたる筋書にはかなりのちがいがあるにせよ、その性格のある部分、ことにことばづかいはそっくりである。三島がM・K嬢への「失恋」いらい作中に培《つちか》って来た女性像であって、それだけに恭子をめぐる挿話《そうわ》は、やや『デカメロン』的ながらも一種の安定感をもっている。
5
『禁色』中のもっとも印象的な記述は、康子の出産に夫の悠一が立会う場面である。
康子の下半身は「嘔吐《おうと》する口のやうな動きを示し」、悠一は「陶器のやうに無縁のものと思つてゐた妻の肉體が」裏返しにされ、真紅に輝くのを嘔気《はきけ》を抑えながら直視しつづける。この場面にはユルスナールも衝撃をうけたと見えて、『三島あるいは空虚のヴィジョン』のなかで次のように書いている。
「あらゆる死あらゆる誕生と同様、世の慣習がいたるところで布をひろげて覆《おお》いかくそうとする、あるいは私たちの目を慎ましくそむけさせようとする、秘儀伝授式的な場面というべきであろう。」(澁澤龍彦訳)
フロベールが『マダム・ボヴァリイ』のおわりの方で、毒を仰いで死んで行くボヴァリイ夫人の苦悶《くもん》を詳細に描出したことはひろく知られている。それは文学史上、死の苦悶を生々しくえがいた最初の例だった。『禁色』は文学史上、出産の場面を解剖学的にえがいた最初の作品ではないだろうか。
妻の出産に立会うことを悠一にすすめたのは、檜俊輔だった。女を嫌悪する悠一が、その嫌悪の対象から自分の子が生まれるところを見ることを、つまりは嫌悪に直面することを俊輔は望んだ。
そして見たことによって、悠一は変った。これまでは見られてばかりいて、自分でも鏡のなかの自分だけを見ていたナルシスが、他者をひたすら見るがわに立ったのである。
「見られることなしに確實に存在してゐるといふ、この新たな存在の意識は若者を醉はせた。つまり彼自身が|見てゐた《ヽヽヽヽ》のである。(原文改行)何といふ透明な、輕やかな存在の本體! (中略)苦痛のあまり我を忘れた妻の顏が、もし一瞬でも目をみひらいて良人《をつと》を見上げたら、そこに自分と同じ世界にゐる人間の表情を容易に見出《みいだ》したにちがひない。」(傍点原著者)
悠一は康子が姙娠したころから、自由になりたいと俊輔に訴えていた。
「僕はなりたいんです。|現實の存在《ヽヽヽヽヽ》になりたいんです」(傍点原著者)
しかし俊輔からきみは世にも美しい青年だといわれ、そのことばの呪縛《じゆばく》によって自分でも鏡のなかの自分を「絶美の青年」と思っていたあいだは、彼は自由にはなり得なかった。俊輔の「藝術作品」として、生きるほかなかった。機会はナルシスが、鏡以外のものを見たときに訪れる。
悠一の変貌《へんぼう》に、俊輔はすぐに気がついた。「君は變つたね」と俊輔は彼に向かっていい、もう会わないことにしようと苦痛に耐えて宣言する。
「……しかし君に必要が生じたら、どうしても私に會ふ必要が生じたら、そのときは喜んで會はう。」
悠一は康子と望まない結婚をするまえに、俊輔から報酬として五十万円をもらっていた。自由になるためにはまずそれを返却することだと、鏡を破ったこのナルシスは考える。「君に必要が生じたら」会おうといわれてから二、三箇月後に、悠一は五十万円の小切手を懐《ふところ》に入れて俊輔の家に行く。
俊輔の書斎で悠一は、老作家が自分ではない何ものかに向かって語りかけていることに気づくことになる。
俊輔は悠一をまえにして、その持論を展開する。
「そこには君がゐる、美しい自然が。ここには私がゐる、醜い精神が。これは永遠の圖式だ。」
ただし自分はまえのようには、精神であることを卑下するつもりはないと、老作家はつけ加える。
「精神にもなかなかいいところがある。」
精神は無限に問いかけをくりかえし、自然を創造しようとする。そういいながら俊輔は、悠一を見た。悠一の方は、「この視線は僕に向けられたものぢやない」と、「慄然《りつぜん》として」思った。
「『檜さんの視線は紛《まが》ふ方なく僕に向けられてゐるが、檜さんが見てゐるのは僕ではない。この部屋には、僕ではない、もう一人の悠一がたしかにゐるのだ』(原文改行)自然そのもの、完璧《かんぺき》さに於《おい》て古典期の彫像にも劣らぬ悠一、その不可視の美青年の彫像を悠一ははつきりと|見た《ヽヽ》。もう一人の美青年がその書齋には明確に存在した。」(傍点原著者)
悠一が変質して「現實の存在」となり、また自分自身が悠一を愛しはじめたと知ったときに、俊輔は悠一を素材として青春を生きなおそうとする自分の計画が、ついに挫折《ざせつ》したことを悟った。それ以後の彼は再び精神のなかにたてこもり、「夢想の悠一」像を築いて来たのである。ハドリアヌス帝が、アンティノウス像を築いたように。
俊輔のつくり出した彫像は、むろん「夢想」の像にすぎない。それでも悠一は俊輔のことばに耳を傾けながら、「美しい青年の彫像が自分の耳もとで同じやうに耳傾けてゐるのを」感じた。
この世で精神と自然とが和解し交合する瞬間は、死という一回的な行為を通じてのみ可能であると俊輔は説き、それから穏かに笑って「チェスでもしようぢやないか」といった。チェスは、悠一の勝利におわった。
「『やあ、負けたか』と老作家は言つた。その顏にはしかし喜悦が溢《あふ》れ、これほど和やかな俊輔の表情を悠一ははじめて見た。」
酔いざましに少し眠って来るからといって俊輔は立上り、二、三十分したら起こしてほしいと書庫から声をかけた。二、三十分後に悠一が起こしに行くと、俊輔は死んでいた。精神あるいは認識者は、行動者との最後のチェスに敗れ、敗れたことに満足して瞑目《めいもく》したのである。遺書があり、一千万円に近い動産不動産「その他の財産一切が」南悠一に遺贈されていた。
三島は『禁色』の第一部を書きあげた直後に、
「『禁色』では『假面の告白』や『愛の渇き』とは違つて、自分の中の矛盾や對立物なりの二人の『私』に對話させようとした」、
と述べている。(昭和二十六年十二月十七日、「図書新聞」)
「對話」は、三島自身の「精神」を体現する作家の死をもっておわった。これ以後の三島の小説では、認識者は『豐饒《ほうぜう》の海』の本多繁邦《ほんだしげくに》がそうであるように、喜劇的にしか扱かわれない。
老作家の死の翌朝、三島のなかのもう一人の「私」である――と作者のいう――悠一は、一千万円と呟きながら俊輔の家を出た。
「一千萬圓、と若者は電車通りを横切りながら思つた。よせやい、今自動車に轢《ひ》かれたら型無しだぞ。……飾窓の覆ひを外したばかりの花屋の中では、多くの花がしとどに濡《ぬ》れて鬱陶《うつたう》しく凭《もた》れ合つてゐる。一千萬圓、花が何本買へるだらう、と若者は心に呟いた。」
石塀《いしべい》にえがかれた黒い絵から黒人がとび出したように、「神話型」の作品から安っぽい青年があらわれる。自分とは少しも似ていない「私」を、三島はつくり出したといえるだろう。
[#改ページ]
夢想の恋、新しい恋
1
銀座のブランスウィックに、昭和二十七年の夏以降も三島はしばしば通っていた。
このころのブランスウィックは西銀座に移っていて、移転の理由はよくは知らないのだが、もとの店が火災にあったためとかきいている。店の構造はまえとほぼ同じで、二階がクラブだった。酒をあまり呑《の》まない三島は甘くて強い緑色のリキュール、シャルトルーズ・ヴェルトを注文し、火をつけると酒が燃えるのを見て面白がっていた。
最初の欧米旅行から帰っていらいの彼はギリシヤに熱中し、三島自身の表現によると当時は、
「私のギリシア熱の絶頂に達した時期であつた。何を見ても、ギリシアの幻影と二重映しに見えたのである。」(『「潮騷《しほさゐ》」のこと』)
『禁色』の第二部は、昭和二十八年の六月に脱稿する。その数箇月まえから、彼はロンゴスの『ダフニスとクロエー』を粉本とする物語の執筆を思い立ち、舞台になりそうな島を物色しはじめていた。
『ダフニスとクロエー』の舞台は、エーゲ海のレスボス島である。レスボスは女流詩人サッフォの出身地として知られ、また女の同性愛を意味するレスビアンの語源となったことによっていまはむしろ名高い。
三島の考えていた物語の主題は素朴《そぼく》で古代的な男女の恋であり、島はレスボス島よりもずっと小さいことが望ましかった。大きな港湾のあるような島では、都市化の波の浸入は避けがたい。
「私は文明から隔絶した人情の素朴な美しい小島を探してゐた。水産廳の援助があつて、金華山沖の某島と、伊勢灣口のこの神島《かみじま》との二つを推薦してきた。やはり私は、氣候の温暖な、そして歌枕《うたまくら》に富んだ地方を選びたかつた。」(『「潮騷」のこと』)
『ダフニスとクロエー』には、羊飼いや山羊《やぎ》飼いが出て来る。日本にはそんなものはいないので三島は牧人を漁師に変え、作中の海賊の襲撃して来る場面も削除するつもりだった。要するにこの場合も、はなしの大筋ができ上ってから背景となる土地をさがした。
水産庁の紹介状をもって神島に行ったのは昭和二十八年の春だったと、三島はのちに書いている。
「鳥羽から一日何度かの便船しかない伊勢灣口の、ここは正に注文そのものズバリの島であつて、都會文明から隔絶し、パチンコ屋もなければバアもなく、自動車はもちろん、石段が多い村なので自轉車もなく、村の子供は牛や馬も見たことがなかつた。」(『「潮騷」執筆のころ』)
彼は夏のおわりにも、もう一度この島を訪れる。執筆は秋からであり、これに関しては椿實《つばきみのる》の回想がある。
「三島君は、大磯《おほいそ》で『潮騷』を書きたいといつて、旅館を紹介してほしいと言はれ、私は家業(医療機具)の職人であつたI氏の経営するI旅館を紹介した。I氏は大磯町の町会議員であつたと思|う《〈ママ〉》。」(『椿實全作品附録』所収)
もっとも大磯行きがいつの時期だったかについてまでは、椿氏は触れていない。原稿の完成は、翌二十九年の四月だった。
神島は作中では、歌島という名になっている。
ロンゴスの小説では、ダフニスとクロエーとはともに富裕な家の子だった。
それがゆえあって親に棄《す》てられ、クロエーは羊飼いに拾われ、ダフニスは羊飼いよりも身分の一段階低い山羊飼いの手で育てられる。伝説や童話によくあるこの「実は貴種」という設定は、三島の『潮騷』では削られている。
ダフニス役の主人公、久保新治は、島の漁師の息子である。父親は、海上で米軍機の機銃掃射をうけて死んだ。
女主人公の宮田初江は村の素封家の末娘として生まれ、志摩に養女に出されていたのを父親の気持が変って家に呼びもどされ、籍も旧に復した。久しぶりに島へ帰って来た初江に出会って、見覚えのない顔だが他者《よそもの》でもないらしいと新治は訝《いぶか》しがる。
初江と会ったときから、十八歳の新治の感情に微妙な変化が生じた。島の住民にとって海は生活の場所であって、新治もこれまでは海に「根も葉もない海外雄飛の夢」をえがくことはなかった。
「……とはいふものの、その日の漁の果てるころ、水平線上の夕雲の前を走る|一艘の白い貨物船の影を《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|若者はふしぎな感動を以て見た《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。世界が今まで考へもしなかつた大きなひろがりを以《もつ》て、そのかなたから迫つて來る。この未知の世界の印象は遠雷のやうに、遠く轟《とどろ》いて來てまた消え去つた。」(第二章、傍点村松)
海と白い汽船とは、三島の作品にこれまでにもいくどかえがかれて来た。『岬《みさき》にての物語』で作中の「私」が美しい青年男女とともに見た白い船は、生の彼方《かなた》に輝く希望をあらわしているかのようだった。
「沖を今し白い汽船が通るのであつた。私たち三人は聲もなく、その快活な汽船を望んだ。夏の紺青《こんじやう》の沖合を、稀《うす》い煙を引いて遠ざかるその汽船は、多彩な雲の峰を反映して薔薇色《ばらいろ》の貝殼《かいがら》のやうにみえたが、禁斷された希望をそのままに、それはあまりに活々《いきいき》と美しく二人の目には映じたに相違ない。」
K子嬢を失ったあとの苦悩のなかで書かれた『盜賊』では、白い船は碇《いかり》を降したまま動かない。明方の海は、喪に服しているように思われた。
「沖には白鳥のやうな外國汽船が碇泊《ていはく》してゐた。目近く灰色の貨物船があつた。かなたこなたで汽笛が葬列の喇叭《らつぱ》のやうに鳴り響いてゐた。」
やはり「失恋」の悔恨のなかで執筆された掌篇『傳説』――昭和二十三年一月、掌篇四部作のひとつ――は、船そのものを舞台としている。この作品のなかで青年は少女に、子どものころ瀬戸内海航路の船に乗遅れたというはなしをする。すでに出帆した船の灯《ひ》が沖に明滅するのを見て、十五歳の少年は突然ひとつの思いにとらわれた。
「あの船にこそ、僕が一生に一度めぐり合ひ、心と體をささげ合ふ女が乘つてゐるのだ。あの船に乘つてゐさへすれば、僕はその人と會つてゐたのだ。その人ともう一生離れることはなかつたのだ。……」
これをきいて少女は、その船には私が乗っていたのですとこたえる。当時五歳だった少女は船が出ると泣き出し、まわりがどうなだめても泣きやまなかった。自分でもその理由が理解できなかったと、彼女は青年にいう。
「今こそそれがわかりました。港に取殘された貴方《あなた》にお會ひ出來なかつたことが、ふしぎな力で、幼ない私を泣かしたのです。生れてはじめて、取返しのつかないつらい別離が、まだ會はなかつた私たちの別離が私を泣かせてゐたのです。」
海に三島が少年時から憧《あこが》れを抱き、作中にも絶えず海を書いて来たことはひろく知られている。馬込の彼の家には客間に海の絵がかけられていて、
――ぼくは海が好きだから。
絵を見ていたぼくに、あるとき三島は説明してくれた。
海は彼の作品のなかでは日常の世界をこえた、いわば無限なるものの輝きをたたえて拡《ひろ》がり、船はその無限への旅立ちを誘う。とりわけ白い船は『岬にての物語』の場合でも『盜賊』においても、恋の夢の表現である。『傳説』の船については、いうまでもない。(『傳説』には船の色についての記述はないのだが、瀬戸内海航路の客船は白塗りがふつうだったから、作者はそのつもりで書いたとも考えられる。)
その白い船が『潮騷』の第二章に、昭和二十三年の『盜賊』いらい六年ぶりで登場する。新治が見るのは『盜賊』にえがかれているような、灰色の海面を動かない船ではない。死によって愛を実現しようとする男女の、「禁斷された希望」を暗示して走る『岬にての物語』の船ともことなる。それは新治という若者に、未知の世界への挑戦《ちようせん》の情熱をかき立てる存在だった。初江と彼との恋は、未知の世界に立向かおうとするこの若い素朴な情熱と、結びあった形で展開されて行く。
『禁色』の主人公檜俊輔には、「裏切られた男」としての女への呪詛《じゆそ》の念がまだ黒々と渦巻《うずま》いていた。『潮騷』とともに三島は過去のそういう暗い世界から決定的に離れ、行動者の恋愛の世界を、改めてつくり上げようとしたのである。
物語のおわり近くで新治は初江の父のもつ船に乗って沖縄に行き、はげしい嵐《あらし》に遭遇する。嵐のために船を浮標につなぐワイヤが切れると、彼は敢然と荒海に飛込んで命綱を浮標に結びつけて、船と乗員とを救った。小説中のこの光景は、「同時に神話的でもあり現実的でもある」と、マルグリット・ユルスナールは評している。
「黒い水の逆巻くうねりに揉《も》まれる白い裸体は、ヘーローのいる岸に泳ぎ渡ろうとする伝説のレアンドロスよりもさらに力強く、呼吸を整えながら波と闘うのである。」(『三島あるいは空虚のヴィジョン』澁澤龍彦訳)
レアンドロスはアフロディテの女神官ヘーローと恋仲になり、彼女と会うために毎夜ヘレスポントスを泳ぎ渡ったと伝えられる。
2
『潮騷』はギリシヤ小説を模倣したつくり咄《ばな》しとして、単純に解釈されがちである。
「この小説にはモデルといふものがない。(中略)主人公と女主人公は、正に、ギリシアの素朴なヒーローとヘロインの日本版である。」(『「潮騷」執筆のころ』)
作者自身がそういう註釈をほどこしていて、それはそのとおりにちがいないにしても、三島の恋愛にかかわる心情が屈折した形で主人公に仮託されていることは、やはり見のがし得ないだろう。
二人の恋の進行を若干の嫉妬心《しつとしん》とともに傍観している燈台《とうだい》長の娘、千代子は、『禁色』の檜俊輔の血を継いでいるといえる。東京の大学で勉学中の彼女は、ヴィクトリア朝の群小詩人の名まえまでそらんじていた。島では随一の知識人であって、その「教養」のおかげで、――というよりは知識人は醜いという作者の感情を反映して――自分は醜いと信じこんでいる。
「その燻《くす》んだ、しかし目鼻の描線がぞんざいで朗らかな顏立ちは、見る人によつては、心を惹《ひ》かれるかもしれなかつた。それなのに千代子はいつも陰氣な表情をし、自分が美しくないといふことを、たえず依怙地《いこぢ》に考へてゐた。今のところこれが、東京の大學で仕込んできた『教養』の最も目立つ成果であつた。」
新治と初江とは浜辺の漁船のそばで、はじめての接吻《せつぷん》をかわす。この場面も作者自身の経験と、無関係とはいいがたい。
三島が九年まえにK子嬢と接吻したときには、『わが思春期』によると彼女の「激しい鼓動が」、レイン・コートを通して彼の胸に伝わって来た。『潮騷』では少女が着ているのはレイン・コートではなく、「仕事着の色褪《いろあ》せたセル」である。
初江は胸を抑えて、
「ここんところが痛うなつた」、
といい、新治は思わず手をそこにあてる。鼓動が伝わり二人の顔が近づいて、「ひびわれた乾いた唇《くちびる》が觸れ合つた。」
K子嬢も初江と同様に、口紅をつけていなかった。「かわいた唇へ、私は自分の唇を押しつけました」と、『わが思春期』はいっている。『潮騷』では初江のかわいた唇は少し塩辛く、
「海藻《かいさう》のやうだと新治は思つた。」
「かわいた唇」への接吻のみでおわったK子嬢との初恋が、三島の心に残した傷の深さについては、説明はすでに不要かと思う。
接吻だけでおわる恋を『假面の告白』いらい、彼はくりかえしその小説に書いて来た。『純白の夜』の楠と郁子との関係がそうであり、『禁色』の檜俊輔と彦川康子とのあいだがらも同じだった。康子は俊輔に唇だけは許しながらも南悠一の許《もと》へ走り、俊輔はそのことへの報復として女を愛し得ない青年悠一を、無理に康子と結婚させる。(ついでにいえば、悠一と穗高恭子とのあいだも接吻だけでおわった。)
『潮騷』の二人の恋もこれと似ていて、二度の接吻のあと彼らは初江の父親の手で仲を引裂かれる。原典の『ダフニスとクロエー』では主役の二人はなかなか結ばれないけれど、両者が会えなくなるということはない。
ダフニスとクロエーとはパーン(牧羊神)やニンフたちのまえで愛を誓い、裸になって一緒に寝ることまでする。ただし寝てからあと何をしたらよいかは、無邪気な二人にはわからなかった。ダフニスはのちに美貌《びぼう》の人妻から性の手ほどきをうけ、恋人たちは物語の最後の一行にいたってようやく愛の交りをかわすのである。
『潮騷』には性の手ほどきのはなしも、原典の最後の一行にあたる部分も出て来ない。ダフニスとクロエーとが裸になってならんで横になる挿話《そうわ》は、ここでは嵐の日の観的哨《かんてきしよう》での有名な逢引《あいび》きの場面におきかえられる。約束の場処にさきに着いた新治が、雨に濡《ぬ》れた衣服を乾かそうとして枯松葉や粗朶《そだ》に火をつけ、初江を待って居眠りをしていると、そこに初江が来てやはり肌着《はだぎ》を乾かしはじめる。新治が気がついたときには、彼女の上半身はすっかり露《あら》わにされていた。
「新治が女をたくさん知つてゐる若者だつたら、嵐にかこまれた廢墟《はいきよ》のなかで、焚火《たきび》の炎のむかうに立つてゐる初江の裸が、まぎれもない處女の體だといふことを見拔いたであらう。決して色白とはいへない肌は、潮《うしほ》にたえず洗はれて滑らかに引締り、お互ひにはにかんでゐるかのやうに心もち顏を背《そむ》け合つた一雙の固い小さな乳房は、永い潛水にも耐へる廣やかな胸の上に、薔薇いろの一雙の蕾《つぼみ》をもちあげてゐた。」(第八章)
抑制された文章が、少女のみずみずしい裸像を浮かび上らせる。エロスは彼女の胸の爽《さわや》かな「薔薇いろの一雙の蕾」に、わずかに息づいている。
ユルスナールの『潮騷』評をもう一度ここで引用しておくと、『ダフニスとクロエー』の「肉の快楽の方法を見つけるに至らずに愛の経験をする二人の子供の、人工的に長びかされた無邪気なたわむれが」、『潮騷』では「まったく読者をくすぐろうという下心なしに描かれている」と彼女は書き、焚火のそばの裸体の場面については次のようにいう。
「この焚火のほとりの怖《お》ず怖ずとしたたわむれは、神道の火の儀式におけるそれに近い、美しい微光と美しい反映を『潮騷』のなかに投げている。」
着衣のすべてを脱ぎ棄てた新治は、火の向こうがわに裸で立っている初江から、
「その火を飛び越して來い。その火を飛び越してきたら」。
清らかな弾んだ声でいわれて、彼は「火のなかへまつしぐらに飛び込ん」で少女のまえに立った。ユルスナールのいうように、火はここでは浄化の炎のように感じられる。
二人は抱きあって倒れ、初江は「道徳的な言葉で」それ以上の行為を拒否する。
「いらん、いらん。……嫁入り前の娘がそんなことしたらいかんのや」。
新治は彼女のことばに、従順にしたがった。慾望を抑えての接吻に、むしろ彼は浄福感を感じる。
「若者の腕は、少女の體をすつぽりと抱き、二人はお互ひの裸の鼓動をきいた。永い接吻は、充《み》たされない若者を苦しめたが、ある瞬間から、この苦痛がふしぎな幸福感に轉化したのである。(中略)新治は、この永い果てしれない醉ひ心地と、戸外のおどろな潮の轟きと、梢《こずゑ》をゆるがす風のひびきとが、自然の同じ高調子のうちに波打つてゐると感じた。この感情にはいつまでも終らない淨福があつた。」
こんなに喜びにみちた接吻を、三島はこれまでに書いたことがなかった。その心に苦悩の疼《うず》きとなって残っていた接吻の思い出を、彼は「ふしぎな幸福感に轉化」させた。
新治が沖縄の海で演じたレアンドロス的な活躍ぶりをきいて、初江の父親は新治にたいする見方を変え、二人の婚約を許す。若い二人は島の神社に詣《もう》で、「神々の加護」に感謝の祈りを捧《ささ》げる。そのあとで彼らは燈台に行き、燈台の望遠鏡を覗《のぞ》いてもう一度沖を走る船を見るのである。
「初江がふたたび喚聲をあげた。レンズの視界に巨船が入つてきたのである。(中略)船は二、三千|噸《トン》の貨客船らしい。プロムネイド・デッキの奧の、白い卓布を敷いたいくつかのテーブルと椅子《いす》とがはつきり見える。人一人ゐない。(原文改行)食堂らしいその部屋の奧に、白《しろ》瀝青《ペンキ》塗りの壁と窓とがみえ、ふと右方から、一人の白服のボオイが現はれて、窓の前を横切つた。……」
船は前燈と後檣燈《こうしようとう》とをともし、夜の闇《やみ》のなかに消えて行く。この情景は、まえにも引いた掌篇『傳説』の一節を想起させるだろう。『傳説』のなかで青年は少女に、波止場を出て行ってしまった船を眺《なが》めたときの彼の思いを説明している。
「沖の汽笛。遠い灯の明滅。……(原文改行)そこにこの時刻には當然僕たちの居る筈《はず》であつた華やかな船室、はじめての船旅にあこがれてゐた船室ばかりを、僕は思ひゑがいてゐるのでした。僕の目はありありと見てゐました。夜の海を遠ざかる一つの華麗な虚《むな》しい部屋を。誰もゐない、ささやかな明るく灯ともした密室を。」
船に乗遅れたことによって、「一生に一度めぐり合ひ、心と體をささげ合ふ」はずの女についに会えないで終ったと、『傳説』の青年は歎《なげ》く。同じように闇のなかを遠ざかって行く船を見ながらも、その「人一人ゐない」部屋に新治は『傳説』の青年のような悲哀を感じなかった。彼のそばには、許嫁《いいなずけ》の初江がいる。島からどこかに旅立たねばならない理由は、新治にも初江にもない。
島の神々が、彼らを守ってくれていた。
「今にして新治は思ふのであつた。あのやうな辛苦にもかかはらず、結局一つの道徳の中でかれらは自由であり、神々の加護は一度でもかれらの身を離れたためしはなかつたことを。つまり闇に包まれてゐるこの小さな島が、かれらの幸福を守り、かれらの戀を成就させてくれたといふことを。……」
『潮騷』は、新しい『傳説』だった。それはK子嬢を失っていらいさまざまな創作上の曲折を経て来た三島が、ギリシヤ小説を支えとしてはじめて書き上げた幸せな恋の物語だったのである。
3
『潮騷』のなかで書こうとした自然は、共同体意識に裏づけられた「唯心論《ゆいしんろん》的自然」だったと、三島はその『小説家の休暇』(昭和三十年刊)のなかでいっている。
「唯心論的自然」とは、汎神論《はんしんろん》的あるいは多神論的な立場から擬人化された自然を意味する。キリスト教はこのような自然観を、もちろん拒否した。自然信仰を許していたのでは、一神教は成立たない。(旧約聖書は周知のように、一神教の多神教にたいする戦いの史書である。)
三島のことばによると、
「キリスト教の根本的な信念は、もつとも反自然的なものを『精神』と呼ぶことにある。」
人間の肉体も自然の一部分だから、キリスト教とともに精神は人間を離れたことになる。しかも一方では自然科学の発達が十八世紀以降の啓蒙《けいもう》主義を生み出し、自然を物として見る見方を拡大して来たと彼はいう。
「啓蒙主義的人間主義は、まつたく唯物的な人間主義である。自然科學だけが、このやうな人間主義を教へ、自然を物とみなし、自然を征服せしめ、自然を道具に分解し、……やがて人間をも物として見るやうに誘導した。なぜなら自然を物として見ることは、やがて人間をも物として見ることを意味するからである。」(『小説家の休暇』)
十八世紀の啓蒙主義が、この文章では多少単純化されすぎている気味合いがある。啓蒙主義運動のなかにはジャン・ジャック・ルソオがことにそうだったように、自然回帰への強烈な志向も含まれていた。それにしても自然科学の発達が人間を物に近づけて来たことは、疑いようのない事実だろう。
「人間は人間をも物として見る。他人を物として見るばかりか、人から見られる自分をも物として見る。つひには人間は、誰からも見られてゐない時だけしか、(中略)彼自身たりえない。」
こういう孤独から人間を救い出すみちは、この時代の三島の考え方では二つしかなかった。キリスト教かギリシヤかの、どちらかだった。
「キリスト教によつて再び、自然から世界から人間から逃避するか、古代|希臘《ギリシヤ》の唯心論的自然觀のうちにふたたび身をひたすか。ヘルデルリーンは後者に從つたが、もとよりギリシアはすでに死んでをり、彼の行く道は、浪曼《らうまん》派的個性の窄狹《さくけふ》な通路しかなかつた。このミザントロープは、おのれの孤獨の救濟のために達した唯心論的自然における孤獨さから、發狂せざるをえない。」
三島をギリシヤに向かわせた最大の媒介者は、ヘルダーリンだったようである。アクロポリスの丘に立ったとき、彼はヘルダーリンの「『ヒュペーリオン』を携へて來なかつたことを大そう悔んだ」としるしている。(ヘルダーリンは三島後年の日本回帰の小説『絹と明察』でも、重要な役割を演じる。)
ほろびたギリシヤに実りのない孤独な哀歌を捧げるのではなく、ギリシヤに似た多神教的な共同体を現代に再発見することが、三島のえらんだみちだった。ダフニスとクロエーとがエロスの神の庇護《ひご》をうけ、彼ら自身もニンフたちの援助にたよっていたように、新治は綿津海《わたつみ》の神の加護を信じている。彼は豊饒《ほうじよう》な自然と、合体して生きていた。
「若者は彼をとりまくこの豐饒な自然と、彼自身との無上の調和を感じた。彼の深く吸ふ息は、自然をつくりなす目に見えぬものの一部が、若者の體の深みにまで滲《し》み入《い》るやうに思はれ、彼の聽く潮騷は、海の巨《おほ》きな潮の流れが、彼の體内の若々しい血潮の流れと調べを合はせてゐるやうに思はれた。」(第六章)
同じ自然が現代的な「教養」に染まった千代子の目には、まったくちがった性質のものとして映じる。
「千代子は東京が戀しくなつた。(中略)あそこでは一應『自然』は征服されてゐたし、のこる自然の威力は敵であつた。しかるにこの島では、島の人たちはあげて自然の味方をし、自然の肩をもつのであつた。」(第八章)
新治は嵐という自然の「狂躁《きやうさう》」にも、「いひしれぬ親しみを感じ」ていた。千代子にとっては嵐の下の「波のとどろきは醉つぱらひの繰り言のやうに」しつっこく、その威嚇《いかく》するような響きから彼女は、「愛する男に手ごめにされた學友」のことを思い出すのである。
『ダフニスとクロエー』の影響下に書かれた有名な作品に、ベルナルダン・ド・サンピエールの『ポオルとヴィルジニイ』がある。
ジャン・ジャック・ルソオの友人だったベルナルダン・ド・サンピエールは、南海の島を舞台としたこの牧歌的な小説をその論文集『自然の研究』の第四巻と名づけ、ヨオロッパ人が自然から離れてしまった不幸について、作中できびしく警告する。
「あなた方ヨオロッパ人たちの精神は、幸福とは反対の多くの偏見に子どものときからみたされ、自然があまたの光りと快楽とをあたえ得ることを認識できないでいる。その魂は人間の知識のせまい輪のなかにとどまり、やがては人工的なたのしみの限界に突きあたる。自然と心とは、尽きることのない豊かさにみちているのである。」
ポオルとヴィルジニイとは、時計も暦ももっていなかった。それでも「彼らの生活の周期は自然の周期に一致していた」から、時間や季節を二人は正確に知覚できた。
この点では、『潮騷』の新治も同じだった。
「新治は時計をもつてゐない。強《し》ひて云《い》へば時計は必要でない。夜も晝も、時間を本能的に知覺するふしぎな才能を代りにもつてゐる。(中略、原文改行)自然の聯關《れんくわん》の片端に身を置けば、自然の正確な秩序がわからない筈はなかつた。」(第十二章)
また『ポオルとヴィルジニイ』のまんなかのあたりに、インドのさまざまな織物をもった商人たちが、群をなして島に上って来る情景がえがかれている。『潮騷』にもこれと同様に、行商人が海女《あま》たちに品物を売りに来る場面がある。(『ダフニスとクロエー』には、こういうくだりはない。)
『ポオルとヴィルジニイ』は『三島由紀夫書誌』(島崎博、三島瑤子共篇)で見ると、彼の蔵書のなかにはいってはいないけれど、『ダフニスとクロエー』の新版を書くのにさいして、彼がこの古典に目を通さなかったということは、とうてい考えられないだろう。ただし『ポオルとヴィルジニイ』の行商人の挿話に三島がかりに触発されたとしても、『潮騷』の行商人のえがき方は十八世紀のフランス版『ダフニスとクロエー』の場合とはまったくことなる。
『ポオルとヴィルジニイ』の商人たちが、マドラスやベンガルやマダガスカルの高価な織物を持込んで来るのにたいして、『潮騷』にあらわれるのは「がま口や鼻緒やビニールのハンドバッグ」や、「簡單服や子供服」を入れた箱を背負ったみすぼらしい老人である。海女たちが浜に焚火を焚《た》いて冷えきった身体をあたためているときを狙《ねら》って、この男は行商に来る。浜では女たちは、気が大きくなるからだった。彼女らは、乳房の大きさを競いあったりしている。
「どの乳房もよく日に灼《や》けて、神祕的な白さもなければ、まして靜脈が透けて見えもしない。(中略)しかし太陽がその肌の日灼けの裡《うち》に、蜜《みつ》のやうな半透明でつややかな色を養つてゐる。乳首のまはりの乳暈《にううん》のぼかしは、その色から自然につづいて、そこだけが黒い濕つた祕密を帶びてゐるといふことはなかつた。(原文改行)焚火のまはりにひしめいてゐるたくさんの乳房のなかには、すでに凋《しぼ》んだのもあれば、乾いて固くなつて干葡萄《ほしぶだう》のやうに乳首だけが名殘をとどめてゐるのもあつたが、概してよく發達した大胸筋が、乳房を(中略)しつかりとひろい胸郭の上に保つてゐた。」(第十三章)
遠近法が『潮騷』にはしばしば缺《か》けていることを、服部達はその『われらにとって美は存在するか』(昭和三十年)の冒頭近くで指摘していた。遠近法の缺如《けつじよ》は、右に引いた文章にも見られる。乳房に「靜脈が透けて見えもしない」というはじめの方の観察は、ひとりひとりの女の胸に目を近づけなければ成り立たない。ところが文章の後段では視点はいつのまにか後退し、女たちは集団として眺められている。
自然に同化して生きる女たちを、作者はちょうど自分の育てた木や花を点検してまわる庭師のように、いちいち見てまわっているとでもいえばいいだろうか。服部の表現をかりれば、「作者の眼《め》は、つねに、おのれがその輪廓《りんかく》をなぞろうとする対象の直前にある。」
行商人にはなしをもどすと、無邪気に笑いさざめいている海女たちのまえでこの「よれよれのズボンに、白い開襟《かいきん》シャツを」着た老人は都会製のガラクタを拡《ひろ》げて見せ、女たちは嘆声をあげる。古代的な活力にみちた島も、都会の浮薄さから無縁ではあり得ない。
しかし都会の安物に心を奪われながらも、島の女たちの無垢《むく》な感受性は失われなかった。売上げの思いがけない大きさに気をよくした行商人が、鮑《あわび》をいちばん多くとって来た女にヴィニールのハンドバッグを一個、無料で進呈するといい、新治の母や初江を含む八人がこの競争に加わる。彼女らを乗せた船が出て行ったあと、海女たちは歌をうたう。
「殘つた海女たちは老いた行商を央《なか》にして歌を歌つた。
入江は青く澄んで、赤い海藻に包まれた丸い岩が、波が擾《かきみだ》さぬあひだは、水面ちかくに泛《うか》び上つてゐるやうにはつきり見える。實はそれがかなり深いのである。波はその上をとほつてふくらんで來る。波の紋樣や屈折や泡立《あわだ》ちは、海底の岩にそのままに影を落す。波は立上るかと思ふともう磯《いそ》に碎けてゐる。すると深い吐息のやうなどよめきが磯全體に漲《みなぎ》つて、海女たちの歌聲を遮《さえぎ》るのであつた。」
美しい文章である。腐敗した世界からの使者である老人も、海神への祭儀に似た海女たちの歌のなかにとりこめられてしまっている。
4
『潮騷』は、作家がその生涯《しようがい》に一度しか書けないような「幸福な」傑作であると、ユルスナールはいっている。
「若者の恋というテーマだけを取ってみれば、『潮騷』はまず、『ダフニスとクロエ』の無数の二番|煎《せん》じの一つのように見える。けれどもここで古代と、さらにずっと後代の変則的な古代とを、あらゆる偏見を棄《す》てて比較してみると、二つのうちでは『潮騷』の旋律の示す音高線のほうがはるかに純粋だ。」
ロンゴスの作品よりは『潮騷』の方が醇度《じゆんど》が高いと、彼女は判定しているのである。原典の「無数の二番煎じ」のなかに『ポオルとヴィルジニイ』がはいっていることは、いうまでもない。
三島自身は『潮騷』でえがいた自然が、「協同體内部の人の見た自然」に徹しきっていなかったとのちに述懐する。
「あの自然は、協同體内部の人の見た自然ではない。私の孤獨な觀照の生んだ自然にすぎぬ。(中略)もし私がその(協同體)意識をわがものとし、その目で自然を見ることができたとしたら、物語は内的に何の矛盾も孕《はら》まずに語られたにちがひない。が、私にはできなかつた。」(『小説家の休暇』)
古い共同体に都会育ちの「孤獨な」作家が、同化できなかったことはむしろあたりまえだろう。それでも作中の自然は「同時に神話的でもあり現実的でも」あり、島の生活の臭《にお》いは稀薄《きはく》であるにせよ、視覚的に鮮かな文章が清冽《せいれつ》な夢の世界へと読者を誘い込む。
この作品が三島の書いた「幸福な」傑作であるというユルスナールの評価に、ぼくは賛同する。日本では明治の末いらい自然主義的な文学観の影響がきわめてつよく、こういう「物語」を文学上の邪道扱いする風潮が、ことに昭和三十年ごろにはまだ顕著だった。しかし三十数年の歳月をへて振りかえっても、『潮騷』の魅力は色褪《いろあ》せてはいない。同時代のほかの小説にくらべて、新鮮にさえ感じられるのである。
マルグリット・ユルスナールは三島と同じようにハドリアヌス帝とその寵児《ちようじ》アンティノウスとに興味を抱き、『ハドリアヌス帝の回想』を二十七年の歳月をついやして書いた。この小説に付せられた作者の「覚書」に、
「わたしが一九二七年ごろ、(中略)フロベールの書簡集のなかに見いだした、忘れがたい一句――≪キケロからマルクス・アウレリウスまでの間、神々はもはやなく、キリストはいまだない、ひとり人間のみが|在《あ》る比類なき時期があった。≫わたしの生涯のかなりな期間は、このひとり人間のみ――しかもすべてとつながりもつ人間――を定義し、ついで描こうと試みることに費された。」(多田智滿子訳)
神なき人間の尊厳を古代の地中海に――三島の場合は帝政ローマの初期ではなくギリシヤだったにせよ――求めていた点において、二人の志向はある時期まで共通だった。ユルスナールが三島論を書いたことも、この事実がもたらす共感を抜きにしては考えられない。
三島の紀行文『アポロの杯』は外国語には飜訳されていないので、ユルスナールもその一部分をだれかに読んでもらった程度らしく、三島がアンティノウス像に傾倒していたことまでは知らなかった。彼女は女としてはじめてアカデミイ・フランセーズにはいったあと、アメリカから船で来日し、その折りにぼくも会う機会があった。フランス大使館が開いた小人数の午餐会《ごさんかい》の席であり、昭和五十七年の十二月だったと記憶している。(念のためにフランス大使館に確認を求めたところ、まちがいないだろうという返事だった。)彼女の三島論もその邦訳本も、このときにはもう刊行されていた。
食卓をはさんで斜め前に坐《すわ》っていたユルスナール女史に、
――三島がアンティノウスの像を熱愛していたのをご存じですか、
とたずねると、
――|ほんとう《ヴレマン》? 知りませんでした。どの像をです。
――ヴァティカンの像です。『禁色』の第二部には、ハドリアヌスとアンティノウスとの関係が投影されていますよ。
女史は少しのあいだ沈黙したのちに、
――そうかも知れませんね、考えてみましょう。
数年後に、この老作家の訃報《ふほう》をきいた。もしも彼女が『アポロの杯』の全文を読んでいたら、彼女の『禁色』論は少しはちがったものになっていたかも知れない。
『潮騷』のおわりには、一九五四年(昭和二十九年)四月四日という脱稿の日付が書かれている。
六月に出版されたこの小説はたちまち十万部以上を売りつくし、三島のそれまでの作品のすべてをこえる大ベストセラーとなった。観的哨《かんてきしよう》跡の裸の逢引《あいび》きの場面が、とくに話題を呼んだのである。同じ年の秋には、映画もつくられた。
しかし作家、批評家の反応はがいして極端に冷く、三島はこれによって第一回の新潮社文学賞をうけたとはいえ、それも文壇からの冷遇にたいする彼の失望を癒《いや》すにはいたり得なかった。「『潮騷』の通俗的成功と、通俗的な受け入れられ方は、私にまた冷水を浴びせる結果になり、その後ギリシア熱がだんだんにさめるキッカケにもなつた」と、三島は『私の遍歴時代』に書いている。
昭和二十八年からギリシヤ語の勉強をはじめ、東大に毎週通っていたのも、彼のことばによれば「むづかしすぎたので」途中でやめてしまった。むつかしいというよりは語学の習得に通う時間的余裕が、彼にはとれなくなっていたのだろう。
ギリシヤ熱が「だんだんにさめ」て、『潮騷』を最後にギリシヤにかかわる作品を彼が書かなくなった理由は、実は『潮騷』にたいする反響に失望したためだけではない。『潮騷』の映画が完成したころ、彼は中村|歌《うた》右衞門《えもん》からある美女を紹介され、二人は熱烈な恋に落ちた。
三島は彼女を親しい友人たちにひきあわせ、ときには文学座の楽屋にまでつれて行ったから、当時の二人の仲を知っている人びとは何人かいる。彼はこのひとをよく綽名《あだな》で呼んでいたので、ここでは綽名の頭文字をとってD子としておく。
K子嬢との「失恋」いらい、三島ははじめて恋人を獲たのである。このD子嬢との恋を素材に、彼は次の長篇『沈める瀧』を書く。
[#改ページ]
第二の人生
1
三島夫人の瑤子《ようこ》さんがまだ小学生だった時代に、学芸会で御小姓《おこしよう》か何かの役を演じているのを見た記憶がある。
昭和二十四年ごろのことだから、瑤子さんは五年生ぐらいだったろう。拙宅は当時日本女子大の付属小学校の隣りにあり、妹はこの学校に通っていた。学芸会があるから見に来てほしいといわれて、垣根《かきね》ひとつを隔てた学校の講堂を覗《のぞ》きに行ったのである。
妹よりも一年上級の学年の子どもたちが演じた劇のなかに、――どういう内容の劇だったかは忘れてしまったのだが――目鼻立ちのはっきりとした小柄《こがら》な少女がいた。いかにも可憐《かれん》に見えたので、あとで妹に名まえをたずねると、
――ああ、あの方は杉山瑤子さんよ。
彼女はこのとき、鷲《わし》の羽根のくっついた帽子をかぶっていたような気がする。しかし瑤子さん自身はそんなものをかぶった記憶はないといっておられるので、これはこちらの思いちがいかも知れない。
昭和三十二年の夏(だったと思う)やはり妹と一緒に軽井沢のある喫茶店にはいったら、若々しい美女が入口の横の方の席に坐《すわ》っていた。先方にも連れがあって、彼女は妹に会釈《えしやく》してまもなく連れと一緒に席を立った。妹に名まえをきくと、
――杉山瑤子さんよ。
彼女が七、八年まえのあの学芸会の少女であるとは、こちらはすぐには気がつかなかった。妹の方は二度も名まえをたずねられて、兄貴めはよほど瑤子さんに関心があるのかと思ったそうである。
その杉山瑤子さんが三島と結婚したと知ったのは、それから一年近くのちだった。
三島は独身だった時期が長く、結婚まえにつきあっていた若い女たちは当然何人かいた。
瑤子夫人と三島との実際上の仲人《なこうど》役を演じた湯淺あつ子の著書、『ロイと鏡子』(中央公論社刊、昭和五十九年)によると、昭和二十八、九年ごろまでの三島は、
「余り上手《うま》くない字を、ペン習字で猛練習し、すぐに臣三島由紀夫拝、などと書いたラブレターを、(中略)相手かまわずせっせと書きつづけていた。私は、げっそりして、
『又、臣か』
というと、彼は、
『うるせえ』」。
『禁色』を発表してからの三島は同性愛の世界の男と世間的には見られ、自分でも一部の人びとにたいしてはそのように振舞って来た。実際の三島には、女性へのみたされない思いが鬱積《うつせき》していたのである。作品の多くがエロスのにおいを濃厚にただよわせているのとは裏腹に、実生活上の彼は生家がもの堅い家だったせいか、「並はずれて女性に無免疫者《むめんえきしや》だった」と、湯淺女史は同じ著書のなかで書いている。
この「無免疫者」は「臣三島由紀夫」としるした「騎士道」(?)的な恋文を、
「大手建設会社の令嬢、ミスM・K、そして代議士令嬢で、母がドイツ人のハーフ、ミスH・K(在アメリカ)に送り、さらに後には紀平悌子《きひらていこ》女史にまで名乗りをあげられ、選挙運動などと世間では(女史の行動を)おっしゃっていたようだが、あの彼の筆まめさから考えあわせれば、嘘《うそ》とは思えない。」
紀平悌子は三島の死後まもなく、若いときに彼からもらった何通かの手紙をある週刊誌に発表した。このとき女史は何かの選挙に立候補していて、だから書簡の公開も選挙運動の一環と評されたのだけれど、写真つきで発表された手紙そのものはもちろん嘘ではないだろう。
紀平女史は三島の妹の美津子さんと、聖心女子学院時代に同級生だった。誤解を避けるためにあえてつけ加えておくと、これまでに書いて来た三島の初恋のひととこの政治好きの女史とは、何の関係もない。
右の文中にある大手建設会社の令嬢、ミスM・Kとは、ジョン・ネイスンが『三島由紀夫――ある評伝――』のなかに、エイコという仮名で登場させている人物のことかと思われる。初恋の相手と頭文字が似ているのは、単なる偶然にすぎない。こちらのミスM・Kは昭和三十一年に結婚し、三島の結婚後も三島夫妻と親しくつきあっていた。
湯淺女史の説明では、三島はミスM・Kや「母がドイツ人のハーフ、ミスH・K」とは、
「プラトニックながら、相当長いこと交際をつづけていた。いくら親しくとも、夫のある身ゆえ、夜中まで、見張っていたわけではないから、しかとは分らないが、日頃《ひごろ》の彼の臆病《おくびよう》さから、一線をこえたくても母(倭文重《しずえ》さん)に覚《さと》られるのが厭《いや》で、いつも何となくはかない付き合いで終っていたようだ。」
若い三島は身辺の事件を、貪婪《どんらん》なまでに創作に活用した。だがこれらの人びとが、三島の文学作品にその影を投げている形跡は見られない。そういうなかで、D子嬢だけがべつだった。
D子嬢は、赤坂の有名な料亭の娘である。湯淺女史は「彼が真剣に愛した女性は」彼女だけだったと明言し、さらに、
「彼女はとても美人で、お人形のような顔立ちで、不思議に亡妹美津ちゃんに似ていた」、
と書いている。
なくなった妹の美津子さんとは実はそれほど似てはいなかったという説も、ほかで耳にしたことがある。顔立ちがたとえ多少ちがっていたとしても、三島がD子嬢に亡妹の面影《おもかげ》を見出《みい》だそうとしたことはあり得るだろう。
美津子さんは三輪田高等女学校から聖心女子学院にはいり、敗戦後の十月に腸ティフスにかかって死去した。
病気に感染した原因は三島自身が『朝顏』(昭和二十六年)と題する短篇で書いているところによれば、焼跡の水道の鉛管から出ている水を飲んだためだったという。
「戰後學校へたちまち疎開の荷物が還《かへ》つて來て、それをリヤカーで運び入れる作業に携つてゐるあひだ、初秋のまだ暑い日光に照らされて、咽喉《のど》が渇いた。燒跡の鉛管から出てゐる水を呑《の》んだ。それが感染の經路ではないかと友達は言つてゐる。(原文改行)私は妹を大そう愛してゐたので、その死は隨分とこたへた。」
美津子さんは死の数時間まえに、意識のまったくない状態のなかで「お兄ちやま、どうもありがたう」といい、看病にあたっていた三島はこれをきいて号泣した。まえにも書いたように彼はその『終末感からの出發――昭和二十年の自畫像』のなかで、美津子さんの死とそれにつづくK子嬢の結婚とが、「私の以後の文學的情熱を推進する力になつたやうに思はれる」、と説明している。
愛して来た二人を、彼はほぼ同時に失った。『夜の仕度』から『盜賊』、『假面の告白』、『純白の夜』とつづくK子嬢主題の作品系列とはべつに、いくつかの美津子さん主題の短篇を、三島は書いているのである。
『朝顏』は作者が妹に、夢のなかで再会するはなしだった。夢のなかの「私」が旅から帰ると、家のなかは深閑としていて妹だけが玄関に出て来る。
「美津子一人かい」
「さうよ。お留守番なのよ」。
影のうすい妹は人気のない家に住みついた家霊のように、再び出かけて行く「私」に、
「いつてらつしやいまし」。
「ちよつとじれるふうな樣子」で、送り出す。
昭和二十三年に書かれた『罪びと』では、ティフスを患《わずら》って死ぬのは主人公の許婚《いいなずけ》という設定になっていた。許婚の郁子は「Sミッション・スクール」で荷物をはこぶ作業中にのどが渇き、井戸水を飲んだのちに発病する。井戸水を飲むことをすすめた彼女の同級生は、かつて「避暑地での夏休みに」、主人公と「あやまち」を犯したことのある人物だった。
「避暑地での夏休みに」と二十三歳の三島が書いたとき、彼の脳裡《のうり》に三年まえの軽井沢が――K子嬢との逢瀬《おうせ》が――浮かんでいたことはほぼ疑いを容《い》れない。(昭和二十三年の三島は、『盜賊』の執筆中だった。)妹の死と「失恋」という二つの主題が、この小説ではまぜあわせられている。
美津子さんは、湯淺あつ子の三輪田時代の下級生だった。
「私には下級生に当り、私の妹と同級で仲もよく(中略)学校中に明るさをまきちらしながら、楽しげによく遊び、よく学んでいた。頭脳|明晰《めいせき》は、まさに平岡家のもので素晴らしかった。」(『ロイと鏡子』)
彼女は「平岡家の太陽」であり、「とかく気持がバラつく一族をうまくかしこく結ぶ貴い糸の存在だった」と湯淺女史はいう。この湯淺女史のことばを前提にして、三島が昭和二十四年三月に書いた一幕ものの戯曲『燈臺《とうだい》』を読むと、作者が『燈臺』でいおうとしていることがおのずから推察できる。
『燈臺』の主人公は戦争中に予備学生として航海学校にはいり、対馬《つしま》の厳原《いずはら》を基地とする哨戒艇《しようかいてい》隊に勤務していた。この経歴は『罪びと』の主人公の場合と同じだが、『罪びと』の主人公が復員してすぐに許婚の死に際会するのにたいして、『燈臺』の方では帰宅した主人公は若い継母に出会う。実母は彼の出征中に死亡し、父親は息子と五つしか年のちがわない後妻を迎えていたのである。
主人公は、この若い継母に恋慕する。そのことに気がついたのは父親ではなく、主人公の妹の正子だった。正子は、「某ミッション・スクール」に通っていた。
継母との恋という主題は、ラシーヌの悲劇『フェードル』を想起させる。『フェードル』とその原典であるエウリピデスの『ヒッポリュトス』とを三島は愛していて、『禁色』の主人公にまで作中で二つの芝居について言及させ、のちには『フェードル』を飜案した歌舞伎《かぶき》、『芙蓉露大内《ふようのつゆおほうち》實記』を書くにいたる。
『燈臺』は、もうひとつの三島の『フェードル』だった。ただしラシーヌの『フェードル』には、正子に相当する人物は出て来ない。『燈臺』のなかの正子は父親と母を慕う兄との対立をふせぎ、家庭を崩壊の危機から救い出す。
彼女は一同が寝静まってからあと、燈台の光りが見える部屋のなかでひとりで呟《つぶや》きつづける。
「……まるであたし、あの燈臺みたいだわ。あたしだけが明るくなつてゐなければならないの。……あたしのおかげでみんなが航路を迷はないでゐられるの。……みんなのために、あたし一人が夜どほし起きてゐなければならないの。
……どうしてなの。(責めるやうに)どうしてなの。
……あたくしこんなのいやよ。……あたしもういやよ。」
美津子さんもまた三島にとってはその明るい性格によって、複雑な家庭のなかの燈台に似た存在だったのであろう。
2
『沈める瀧』の創作ノートの一部分(写真版)が、『新潮日本文学アルバム』の『三島由紀夫』篇に掲載されている。
ノートの冒頭が、ダムは芸術の象徴ということばである。
「ダム(藝術の象徴)が、何ものにも關係しないといふ確信。何の關係も考へず、たゞダムの完成のみに盲《めく》ら滅法に邁進《まいしん》。」
「持てるものの倦怠《けんたい》。この世の優雅なものへの何の希《のぞ》みももたず、社交界を捨て、女も男も誰も愛さず、たゞ少年の從者をつれてゐる。|女次々とダムを訪れ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|主人公に捨てられてかへる《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。」(傍点村松)
三島が利根川上流の須田貝《すだかい》ダムの調査をはじめたのは昭和二十九年の十月だから、創作ノートも同じころのものと見てよい。
この小説でも彼は再び、過去の自分を否定することを企てた。「私の中の化物のやうな」存在と『私の遍歴時代』でいい、それは自分の内部に棲《す》む「正に龍《りゆう》だつた」と『旅の墓碑銘』(昭和二十八年四月)では書いているその「感受性」を殺すために、彼は自分とは正反対の人間をつくろうとする。
三島が祖母の支配する家庭のなかで童話的な世界を夢みながら幼少期をすごしたのとは逆に、『沈める瀧』の主人公、城所《きどころ》昇は、女気のまったくない家で育てられた。昇は子どものときから、石と鉄とにしか興味をもたなかった。
父と母とははやく他界し、祖母も発狂して家にはいない。電力開発の事業に熱中していた祖父は「竣工式《しゆんこうしき》の記念品の發電機の模型や、鐵の組立|玩具《ぐわんぐ》や、ダムの調査の折にもちかへつた河底の石などばかりを」、ただひとりの孫にあたえた。
「玩具は要するに、石と鐵ばかりであつた。空想力の乏しい、しつかりした子供で、小學校の先生は、昇が數學がよくできるのにおどろいたが、情操のまるきり缺けてゐることにもおどろいた。塗繪をさせてみると、馬でも、兎《うさぎ》でもおなじ灰いろに塗りつぶしてしまつた。」(第一章)
そういう主人公にとっては、ダムは電力の発生装置という社会的な道具ではなく、ひたすら芸術的な愛の対象だった。「『禁色』に於《お》ける悠一《ゆういち》=ダム」ということばも、同じ創作ノートには見られる。
『新潮日本文学アルバム』に発表された創作ノートのこの断片――見開き二|頁《ページ》――は『沈める瀧』の主人公とダムとの関係を明確に説明しているだろう。ノートの二頁目には俗物を傍役《わきやく》として配する構想がしるされていて、これも大筋は作品のなかに生かされている。
ただし『沈める瀧』のもうひとつの大きな主題である恋愛については、ノートはまったく触れていない。女の問題に関しては「女次々とダムを訪れ、主人公に捨てられてかへる」、と書かれているのみである。『沈める瀧』にこれに相当する場面はなく、ダムの工事現場には恋人の菊池顯子だけが主人公につれられて行く。
顯子は、殆《ほとん》ど和服しか着ない女だった。昇が彼女と多摩川の河原ではじめて会ったときも、「臙脂《えんじ》のまじつた派手な久留米絣《くるめがすり》」を着ていたし、次の待合わせのときには喫茶店の奥に、大輪の花のように坐っていた。
「近づいて行つた昇はおどろいた。かういふ場所に似合はないあまり豪奢《がうしや》な身裝《みなり》をしてゐたからである。(原文改行)繪羽染の一越縮緬《ひとこしちりめん》の着物であるが、白地に肩からは藤の花房がいくつも垂れ、裾《すそ》からは亂菊が生ひ立つてゐる。金銀の大きな市松のつづれ帶に、紅白の水引の帶留を締めてゐる。それがすこしも暑苦しい野暮な感じを與へず、細身の體に優雅に適《ふさ》つてみえるのである。
『踊りの會のかへりなのよ。途中から拔けて來たの』」。
創作ノートに恋愛主題があらわれていないのは、これを書いた時点では顯子のモデルとなるひとに、三島がまだ会っていなかったためではないか。毎日新聞社主催の「三島由紀夫展」のカタログにあるもうひとつの創作ノートで見ても、小説の表題ははじめは「ダムの影」「浸水區域」「The Backwater」(逆流)などとなっている。
『沈める瀧』では、まずダムがあったようである。
三島由紀夫はD子嬢との恋仲を湯淺女史に、
「絶対これは内緒なんだからな。喋《しやべ》っちゃ駄目《だめ》だよ」、
といっていた。
そのくせ自分の方はこの「華やいだ絹張りの令嬢」を、どこにでも同伴した。
「これだけ私に内緒にといっておきながら、生来の稚気からうれしさがかくせず、歌舞伎、新劇、文壇、旅行と、行く先々に伴って、見せびらかし、紹介し、あとになって彼女が、『もう、イヤー』というほど、知らぬと思うのは三島由紀夫|唯《ただ》一人という有様で、貝になっていた私など、莫迦《ばか》の標本で、彼を失って十四年目の今も、(中略)『全く莫迦みたい。本当に彼の頭の中はどんな具合に出来ていたのかしら』と考えてしまう。」(『ロイと鏡子』)
三島が終生失わなかった稚気にあふれた側面を、この文章は彷彿《ほうふつ》とさせる。しかし実生活上はそうだったとしても、作品のなかでの恋愛の扱い方はおのずからべつだった。
主人公の昇は「この世の優雅なものへの何の希《のぞ》みももたず」、「女も男も誰も」愛さないはずの青年である。そこで作者は菊池顯子の方も不感症の人妻としてえがき、性的に「無感動」であるがゆえに昇は彼女に惹《ひ》かれるという設定にした。
顯子が大理石像のように無感覚な女であると知って、昇は「記憶のもつとも深いところから生れる親しみを」、彼女にたいして抱く。
「彼が愛してゐるのは絹の優雅や柔軟さではなかつた。それは石、明快な物質だつたのである。」
愛を信じない青年が、愛を知らない女とめぐりあった。昇は顯子に向かって、愛のこの不在から恋愛を人工的に合成することを提案する。
「誰をも愛することのできない二人がかうして會つたのだから、嘘からまことを、虚妄《きよまう》から眞實を作り出し、愛を合成することができるのではないか。」
自分の「感受性」を否定して「他者」になりきろうとしていた作者は、こういう突飛な提案を主人公にさせることによって、その恋にみちを開いたとも見ることができる。不思議なこの結びつきについては三島自身が、『沈める瀧』には過去の自分とそのままにつながっている「氣質的な主人公」と、それとはべつの「反氣質的な主人公との強引な結合がある」と、『十八歳と三十四歳の肖像畫』のなかでのちにみとめている。
恋愛はここでは、不感不動の石像との契約として展開される。「『禁色』に於ける悠一=ダム」と三島は創作ノートに書いたが、悠一に似ているのは石像にされた顯子の方だったかも知れない。いずれにしても彼女は、ダムと愛を競いあう立場におかれた。愛を合成するためには「お互ひに苦しめ合ふ」ことが必要だと昇はいい、みずから志願して山奥の工事現場に行って、半年間の越冬生活を送る。
山中の生活の部分が、八章から成るこの小説の半ば以上――第二章から第六章の前半まで――を占める。工事現場について作者は念入りな調査を行ない、それだけに深い雪に閉ざされたなかでの男たちの生活の記述は生彩に富み、とりわけ自然描写の筆は冴《さ》えていて、それがこの観念的な小説に現実感をあたえているのである。
山中には直通の電話線もなく、麓《ふもと》の町の事務所に届けられる郵便物を、高圧線を利用した搬送電話を通じて所員が読上げるのが、外界からの唯一《ゆいいつ》の連絡方法だった。顯子からは週に一度ずつ、その搬送電話を通じて便りが来る。顯子自身が麓の町に来て、搬送電話をかけて来たこともある。
昇の方は吹雪の吹荒れるなかで、顯子の屍《しかばね》をしばしば夢に見た。
「その無感動な、呼べども答へない肉體は、仰向いてしらじらと横たはつてゐる。(中略)深くのけぞつた顏は半ば闇《やみ》にひたされ、白い小さな引きしまつた顎《あご》だけが、陶器の破片のやうにうかんでみえるのである。」(第四章)
「昇はこの幻に憑《つ》かれた。彼が今まで女に求めて得られなかつたものは、かかる死屍《しし》の幻だつたかもしれなかつた。」(同右)
ところが長い越冬期間が明けて帰京してみると、顯子は不感症ではなくなっていた。昇に愛撫《あいぶ》されて、彼女は涙をさえ流す。
石像が、現実の女に変った。
「昇は去年の顯子の不感不動に、あれほど獨創的なものがあつたからには、彼女の體に蘇《よみがへ》つた歡喜は、顯子をもう一段獨創的な女に、昇の見たこともない新らしい種類の女に、ほとんど嵩高《かさだか》で悲劇的な女に、生れ變らせるだらうと想像してゐた。しかるに歡喜を知つた女は、|かけがへのない《ヽヽヽヽヽヽヽ》男に對する女の屈從の見本になり、(中略)忽《たちま》ちそこに腰を落ちつけ、生れ落ちたときからそこに居るやうな顏をしてゐるのだつた。」(第七章、傍点原著者)
彼女は夫と今日にでも離婚するといい、「銀座の眞中を裸で歩けと仰言《おつしや》れば、さうするわ」といくども口にする。昇にたのんで工事現場までついて行き、それを知った夫が二人のあとを追う。昇と夫とのあいだで短いやりとりがあったのちに、顯子は昇の同僚から決定的なことばをきかされた。
「城所君は言つてゐましたよ。
『あの人は感動しないから、好きなんだ』つて」。
女の表情が絶望をあらわにし、「まはりの楓《かへで》の緑とまぎれるほどに」蒼《あお》くなるのを、昇は木蔭《こかげ》から見ていた。それでも彼は、動かなかった。
顯子は、走り書きの遺書を遺《のこ》して死ぬ。
「あなたはダムでした。感情の水を堰《せ》き、氾濫《はんらん》させてしまふのです。生きてゐるのが怖《おそ》ろしくなりました。さやうなら。顯子」。
ダムは五年後に完成し、昇がひそかに顯子に似ているように感じて彼女を偲《しの》んでいた瀧も、地下深くに埋没される。
『沈める瀧』は「中央公論」に、昭和三十年の一月号から四月号まで毎回百枚ずつ連載された。
発表直後の批評を読むと、力作だし自然描写はよくできているものの、作者の意図が呑《の》みこめないという反応が目立つ。そのなかで注目を惹くのは田中澄江が「中央公論」六月号に発表した「『沈める瀧』の男と女」であって、この作品を読んで涙が出たと彼女は書いている。
「作者が創造し得たのは、若さにみち溢《あふ》れた肉体をもつ生ける屍である。彼は自己放棄を理想としている。人間のこれ程の非人間化への構想が、私には切なくやりきれなくて涙をこぼさずにはいられなかった。作品の中の生ける屍が文字を通して、私の中に、生き生きと場所を占めてしまったのである。小説の成功というべきであろう。(中略)|自己放棄といい《ヽヽヽヽヽヽヽ》、|非人間化への努力といい《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|愛情を否定する主人公の行為のすべてが《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|最大の謙虚さで示された愛の渇望に思われた《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。」(傍点村松)
『沈める瀧』という作品の本質を、これほどみごとに洞察《どうさつ》した文章をほかに知らない。女の直観といえば、作家である田中氏に失礼にあたるだろうか。『沈める瀧』だけではなく『假面の告白』にはじまる彼のすべての自己否定へのこころみが、「愛の渇望《かつぼう》」の(あるいは文字どおり『愛の渇き』の)逆説的な表現だった。
平林たい子は朝日新聞の文芸時評(三月二十六日付)のなかで『沈める瀧』に触れ、顯子を作者が素人《しろうと》としているのはおかしいといった。
「第一回のはじめのところをよんでいるうちに私は知らず知らず微笑していた。(中略)彼(昇)の女に対するシ(嗜)好は『素人専門』と説明されているにもかかわらず、事実上の女の姿態は『玄人《くろうと》専門』に近く思われたからである。」
これもやはり、女流作家らしい指摘である。顯子に粋筋風の和服を着せ、踊りの会のはなしまでさせておいて、「素人専門」と説明するのはたしかに矛盾した印象をあたえる。
3
日記の体裁をとった文学論集を、三島は昭和三十年の十一月に『小説家の休暇』と題して発表した。
休暇とみずからいっているように、『沈める瀧』を書きおわってからの彼は、しばらく次の長篇小説には手をつけていない。『幸福號出帆』という娯楽用の読物を読売新聞に連載したほかは、ブラジルを舞台とした『白蟻《しろあり》の巣』、『フェードル』をもとにした『芙蓉露《ふようのつゆ》大内實記』等の戯曲と、若干の短篇を書いたのにとどまる。
九月から三島はボディー・ビルを自宅で週に二回、早稲田大学の玉利齊の指導下に練習しはじめた。D子嬢とのつきあいはつづき、その一方で彼は『美徳のよろめき』に素材を提供したべつのある「事件」に、この年の初夏からかかわっている。湯淺女史の表現によれば、「『美徳のよろめき』のモデルの夫人との火遊び」(『ロイと鏡子』)、ということになる。
この「事件」は実は「火遊び」などという程度のものではなく、同じ時期から彼の心境にはいちじるしい変化が生じる。
「このごろ外界が私を脅《おび》やかさないことは、おどろくべきほどである」、
と三島は『小説家の休暇』のはじめの方(七月五日の項)にしるしている。
「内面の悲劇などといふものは、あんまり私とは縁がなくなつた。」
まさに「おどろくべき」、ことばである。彼がわずか数箇月まえに書き上げた『沈める瀧』が、悲痛なまでの内面否定の企てだったことはくりかえすまでもないだろう。ところがいまは「まるで私が外界を手なづけてしまつたかのやうだ」と同じ日記のなかに書き、すぐそのあとでクレッティマーの分裂性気質に関する文章を引用しながら、「氷のやうに硬いもの」が次第に身のまわりをつつんで、過敏な感受性が減退して来たのだろうと説明する。
はたしてそんなことだったろうか。彼の健康状態が格別に改善されたわけではなく、間歇《かんけつ》的に襲う胃痛はまだやんではいなかった。(伊豆の旅館で原稿を書いていた三島が、夜中に胃痛のために呻《うめ》き声をあげ、隣室にいた黛敏郎が急いで医者を呼んだこともあったとの由《よし》である。)三島に突然の変化をもたらしたもっとも重要な要因は、D子嬢との仲の親密化やもうひとつの「事件」にあると、判断するほかないように思う。
田中澄江のいう「愛の渇望」が、ようやくみたされたのだった。同性愛をことさらに誇示し、表面は陽気に振舞いながらも苛立《いらだ》ちを掩《おお》いきれなかった時期とはまったくちがった充足感が、昭和三十年の日記には感じられる。
少年時代からの夢想を自分はことごとく成就したとまで、彼はここでいっている。
「大體において、私は少年時代に夢みたことをみんなやつてしまつた。少年時代の空想を、何ものかの惠みと劫罰《ごふばつ》とによつて、全部成就してしまつた。唯《ただ》一つ、英雄たらんと夢みたことを除いて。(原文改行)ほかに人生にやることが何があるか。|やがて私も結婚するだらう《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。青臭い言ひ方だが、私が本心から『獨創性』といふ化物に食傷するそのときに。」(傍点村松)
K子嬢への「失恋」いらい三島が結婚を口にしたのは、少くとも文章のなかではこれが最初だった。K子嬢との問題にはじめて触れた回想を彼が発表した時期も、ちょうど右の日記とかさなる。
「戰爭中交際してゐた一女性と、許婚《いひなづけ》の間柄《あひだがら》になるべきところを、私の逡巡《しゆんじゆん》から、彼女は間もなく他家の妻になつた。」
再三引用して来たこの『終末感からの出發――昭和二十年の自畫像』は、「新潮」の八月号(七月刊行)に掲載された。つづいて同じ月に、「失恋」の苦悶《くもん》を書きこんだ『創作ノオト「盜賊」』の写真版が(限定三千部)刊行される。
三十歳の三島は自分の青春にひとつの区切りをつけようとして、こういう文章やノートの発表に踏切ったのだろう。もっとも『創作ノオト「盜賊」』は肉筆の走り書きで読みにくいせいか、これを材料に三島の青春を論じる批評家、研究者は、いままでついにあらわれなかった。
『金閣寺』の取材のために彼が京都に行くのは、この年の十一月のはじめである。南禅寺のそばの加満田という宿に泊り、十一月十一日には主人公のモデルの出身地である東舞鶴《ひがしまいづる》に赴く。『金閣寺』は昭和三十一年の一月号から、「新潮」に連載された。
連載がはじまってからも、彼は三月にもう一度京都に行っている。このときの宿は、祇園《ぎおん》だった。母堂の倭文重さんには、都ホテルに泊るといっていたらしい。
『金閣寺』のなかに泥酔《でいすい》したアメリカ兵が日本人の娼婦《しようふ》を押倒し、彼女の腹を踏めと主人公に要求する場面が出て来る。
舞台は、金閣寺の境内である。主人公は雪の上に倒れている女の腹を踏み、兵士から二カートンのアメリカ煙草《たばこ》をもらう。
あの場面は歌舞伎《かぶき》の『金閣寺』からとったのだろうと、三島にいったことがある。
――わかったか、あっはっは。
こたえは、例の高笑いだった。
歌舞伎の『金閣寺』――正確には『祇園祭禮信仰記、北山金閣寺の場』――では、松永大膳《まつながだいぜん》が雪舟の孫娘雪姫を金閣寺のまえで足蹴《あしげ》にする。この芝居は六代目中村歌右衞門丈が芝翫《しかん》の時代から愛していた丈の当り狂言であり、歌右衞門と三島とは交友が深かった。三島は歌右衞門を称讃《しようさん》するいくつかの文章を発表し、歌右衞門と佐田啓二とをモデルとした『女方』という短篇も、昭和三十一年に書いている。
「わかったか」と三島は笑ったけれど、小説『金閣寺』の娼婦についての一節から歌舞伎の『金閣寺』の雪姫を連想するのは、ごく当りまえの反応だろう。
「金閣寺の雪姫が後手に縛されたまま深く身を反らす。ほとんどその身が折れはしないかと思はれるまで、戰慄《せんりつ》的な徐《ゆる》やかさで、ますます深く身を反らす。その胸へ櫻が撩亂《れうらん》と散りかかる。」
昭和二十四年に書かれた『中村芝翫論』のなかで、三島は芝翫――のちの歌右衞門――の芸をそのようにえがいていた。芝翫の肉体からは刹那《せつな》刹那に「妖氣《えうき》」に似た、「ある悲劇的な光線」が放たれると彼はいい、さらに文章は歌舞伎のもつ「惡」としての美の性格にまで及ぶ。
「歌舞伎とは魑魅魍魎《ちみまうりやう》の世界である。その美は『まじもの』の美でなければならず、その醜さには惡魔的な蠱惑《こわく》がなければならない。『金閣寺』や『金殿』のやうな狂言の怪奇な雰圍氣《ふんゐき》は一種の黒《くろ》彌撒《ミサ》に他ならぬ。」
小説の『金閣寺』にも黒ミサとまではいえないにせよ、一種の妖気を女がただよわせる場面がある。戦争末期の南禅寺の茶室に派手な長振袖《ながふりそで》を着た若い美女が端然と坐《すわ》り、軍服姿の男に自分の乳を注ぎ入れた薄茶をすすめるのである。
「女は姿勢を正したまま、俄《には》かに襟元《えりもと》をくつろげた。私の耳には固い帶裏から引き拔かれる絹の音がほとんどきこえた。白い胸があらはれた。私は息を呑んだ。女は白い豐かな乳房の片方を、あらはに自分の手で引き出した。(原文改行)士官は深い暗い色の茶碗《ちやわん》を捧《ささ》げ持つて、女の前へ膝行《しつかう》した。女は乳房を兩手で揉《も》むやうにした。」
白い乳が茶碗のなかにほとばしり、主人公が「背筋を強《こは》ばらせて」見ているまえで、男は「茶碗をかかげ、そのふしぎな茶を」飲みほす。
金閣寺は三島が『中村芝翫論』を書いてから一年足らずののちに、放火にあって焼亡した。このとき小林秀雄は『金閣燒亡』という随想を「新潮」に書き(昭和二十五年九月号)、放火犯人の狂気について論じている。
「金閣を燒いた青年は、動機は、美に對する反感にあつたと言つてゐる。新聞に載つた彼の自供は、いかにも狂人好みの推論の爲《ため》の推論、反省の爲の反省で、私の興味を惹《ひ》いた。」
「彼は意志を病んでゐる。人間を信じない事を先《ま》づ欲した。(中略)厭人《えんじん》による退屈は、發作なしには濟まぬ。これは自殺を思つてゐた青年期の經驗で、私はよく知つてゐる。」
美にたいする反感などといっても、美はそもそも「個體的な感覺を通じて普遍的な精神に出會はうとする意志の創《つく》るものだ」、と小林秀雄は断じる。
「倫理的でない美はない。」
ところが放火犯人は「人生への出口の見つからぬ閉された魂」であり、「人とともに生きてゐるといふ根本の倫理感を缺いてゐる」から、彼の美感は意味をもたないままに浮動する。
「この無意味な美感は、あらゆる移《うつろ》ひ易《やす》い感覺と同樣に浮動してゐるから、それは美といふこれも亦《また》移ひ易く浮動する觀念を生むだけである。(中略)彼は、心中の貼《は》り紙《がみ》細工に倦《あ》き倦きした時、放火をしてみたのである。狂人になる事は易しい。」
三島由紀夫は共同通信社に依頼されて書いた雑誌評の冒頭で小林氏のこの文章を論じ、「好エッセイ」と評した。
「美と倫理との問題は、ジイド以來言ひふるされた問題でありながら、金閣燒亡といふ事件が起つてみると、再び異樣な新鮮さでわれわれの胸に迫り、依然としてこれが今日の重要な問題の一つであることを納得させる。小林氏は倫理を生活の信條としてとらへ、これを通して見られた美のみが、人間を無道徳な混濁した末世的思考から救ふことを説いてゐる。この一文はまた今月隨一の健康な文章である。」(『九月號の文藝雜誌』、「秋田|魁《さきがけ》新報」ほか)
金閣寺に三島はまず歌舞伎を通じて親しみ、その焼亡後は小林秀雄の文章による刺戟《しげき》もあって、放火犯の心情に興味を抱いた。つまりは金閣寺への親近感と、「美に對する反感」からこれを焼いたと称する犯人への関心とが、五年後の小説『金閣寺』となって結実する。
主人公にとって金閣寺は、青春そのものだった。ことに戦争末期の一年間は、自分も美の結晶である金閣寺もともに戦火のなかにほろびるだろうという終末論的な期待が、金閣寺と自分とを同一の次元におくことを、主人公に可能にさせた。
「美と私とを結ぶ媒立《なかだち》が見つかつたのだ。(中略、原文改行)私を燒き亡《ほろ》ぼす火は金閣をも燒き亡ぼすだらうといふ考へは、私をほとんど醉はせたのである。同じ禍《わざは》ひ、同じ不吉な火の運命の下で、金閣と私の住む世界は同一の次元に屬することになつた。」(第二章)
滅亡の日は、彼の期待に反して来なかった。平和の到来とともに金閣寺は「永遠」の彼岸へと去り、主人公は「人生への出口の見つからぬ」状態で生きることを強《し》いられるのである。
4
『金閣寺』を中村光夫はすぐれた「観念的私小説」と呼び、マルグリット・ユルスナールはこれを「傑作」と評しながらも、「要するに、このリアリズム小説は(作者の)歌なのである」と書いている。
小林秀雄は三島との対談のなかで、「あれは小説つていふよりむしろ抒情詩《じよじやうし》だな」といった。
「無論、作者はさういふ意圖で書いたんだと思ふんだよ。だから抒情的には非常に美しいものが、たくさんあるんだよ。ありすぎるくらゐあるね。ぼくはあれを讀んでね、率直に言ふけどね、きみの中で恐るべきものがあるとすれば、きみの才能だね。」
「きみの才能は非常に過剩でね、一種魔的なものになつてゐるんだよ。ぼくにはそれが魅力だつた。あのコンコンとして出てくるイメージの發明さ。」(「文藝」昭和三十二年一月)
同じ対談で小林氏は三島に、放火後の主人公をなぜ自殺させなかったのかとたずね、三島の方は「あれは殺しちやつたはうがよかつたんですね」とこたえている。三島が本気でこういう返事をしたのかどうか、かなり疑わしい。小林さんという大先輩への遠慮が、働いていたのではないかと思われる。
三島は主人公の友人の鶴川を、すでに自殺させているのである。鶴川は主人公である「私」の吃《ども》りを少しも気にすることがなく、吃りのために外界から遮断《しやだん》されがちな「私」に、「まことに善意な通譯者、私の言葉を現世の言葉に飜譯してくれる、かけがへのない」友人だった。「私」は彼を、自分の「陽畫」だと思っていた。
主人公が作者の分身なら、彼の「陽畫」もまた分身だろう。この分身が、『盜賊』の主人公のように、失恋して自殺をとげる。自殺するまえに、彼は手紙を遺していた。
「今、思ふと、この不幸な戀愛も、僕の不幸な心のためかとも思へる。僕は生れつき暗い心を持つて生れてゐた。僕の心は、のびのびした明るさを、つひぞ知らなかつたやうに思へる」。
明るい表情の下に鶴川もまたこんな苦悩を抱いていたと知って、「私」は愕然《がくぜん》とする。鶴川の家が彼の死を単純な交通事故として処理したので、自殺だったことを「私」は長いあいだ知らなかった。その鶴川の手紙を「私」に見せたのは内飜足《ないほんそく》の友人の柏木であり、柏木は内飜足を巧みに逆用して次々に女をひっかけていた。彼は世界を変貌《へんぼう》させるのは行為ではなく認識であると、かたく信じている。認識者という意味では柏木には、『禁色』の檜俊輔と似通ったところがある。
彼は「私」に向かって、
「俺《おれ》にはわかるんだ。何かこのごろ、君は破滅的なことをたくらんでゐるな」。
破滅的なこととは、自殺を意味する。柏木は「私」が自殺しようとしていると思いこみ、そのために三年まえに死んだ鶴川のみじめな手紙を「私」に読ませて、勝誇ったような気分になる。
「どうしたね。それを讀んで人生觀が變つたかね。計畫はみんな御破算かね」。
鶴川の自殺を知ったことが、「私」の行動への決意をさらに決定的なものにした。自分の「陽畫」だったはずの友人は初恋に破れて自殺し、もうひとりは認識のみが世界を変え得るとうそぶいている。
「世界を變貌させるのは決して認識なんかぢやない」、
と「私」は「告白とすれすれの危險を冒しながら」、柏木のまえでいい放った。
「世界を變貌させるのは行爲なんだ。それだけしかない」。
自殺を嘲笑《ちようしよう》する認識者に対抗して主人公は行動者のみちを、美の殺戮《さつりく》をえらんだ。そういう彼を放火後に自殺させては、論理上の矛盾におちいりはしないだろうか。
『金閣寺』は中村光夫が指摘しているように、明瞭《めいりよう》な「観念的私小説」だった。
『假面の告白』や『禁色』の主人公がかぶっているような「假面」がここにはないという意味で、「観念的」という限定つきながら長篇中では最初の「私小説」、というべきかも知れない。自分と正反対の人間をえがき出そうとした『沈める瀧』の場合のような、強引な作業にともなう軋《きし》みが、『金閣寺』には感じられないのである。
自分の青春と一体化した金閣寺の幻に悩む主人公に、作者はごく自然に寄りそっている。だからこそこの「観念的私小説」は、そのまま作者の「歌」(ユルスナール)となり「抒情詩」(小林秀雄)となった。
三島自身の説明によると『金閣寺』では、
「やつと私は、自分の氣質を完全に利用して、それを思想に晶化させようとする試みに|安心して立戻り《ヽヽヽヽヽヽヽ》、それは曲りなりにも成功して、私の思想は作品の完成と同時に完成して、さうして死んでしまふ。」(『十八歳と三十四歳の肖像畫』、傍点村松)
自分の本来の気質をえがくこころみに、「安心して立戻り」得た理由についてはまえに触れた。生活上の充足感が自分の青春をある距離をおいて振りかえることを、彼に可能にさせた。
昭和二十八年の『旅の墓碑銘』のなかで、三島は自分を「幼年時代に重石《おもし》をつけられて海底に埋められた」人間としてえがいていた。
「彼はまづ脱獄者のやうに鑢《やすり》を手に入れた。そして重石につながつた鎖を切つた。それを切るには永い時間がかかつた。それを切れば海面に出られると彼が一途《いちづ》に信じてゐたことは笑止だつたが、切れた鎖は、もつと太い鎖を二重に束ねてゐたものにすぎなかつたので、その結果今までの距離のわづか倍だけ海底を遠ざかりえたにすぎなかつた。しかも彼は計算をあやまつて、海面までの距離が半分になつたと自ら信じ、人にもさう言ひふらした。」
鎖を切るための苦闘の積重ねが、『假面の告白』から『沈める瀧』までの長篇の系列を構成している。『金閣寺』にいたってようやく、彼は海面に出たのである。その青春は、作中の金閣寺とともに焼かれる。『金閣寺』は、彼の青春への訣別《けつべつ》の歌だった。
この小説が――昭和三十一年八月に――完成されてから数箇月後に、回想録『わが思春期』が「明星《みようじよう》」に発表される。三島の青春を考える上で貴重な証言だが、これも発表の舞台の性格上、批評家の目には殆《ほとん》どとまらなかった。
『金閣寺』は翌昭和三十二年一月に読売文学賞をうけ、三島はたいそう喜んだ。『潮騷《しほさゐ》』の新潮社文学賞のときとはちがって、こんどは自分の文学的努力が正当に評価されたと思ったのだろう。
芝居や短篇小説は数多く書いていても、自分は「本當の自敍傳は長篇小説の中にしか書いてゐない」と、三島はその『十八歳と三十四歳の肖像畫』のなかで述べている。
『金閣寺』の次の長篇は、娯楽用の『永すぎた春』をべつとすれば『美徳のよろめき』だった。『美徳のよろめき』は姦通《かんつう》主題という点では『純白の夜』の系列にはいるけれど、『盜賊』や『純白の夜』に見られたラディゲ風の心理の劇は、ここには殆どあらわれない。小説の冒頭で作者は女主人公の性格を説明して、
「非常に躾《しつけ》のきびしい、門地の高い家に育つて、節子《せつこ》は|探究心や理論や洒脱な會話や文學や《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|さういふ官能の代りになるものと一切無縁であつたので《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、ゆくゆくはただ素直にきまじめに、官能の海に漂ふやうに宿命づけられてゐた、と云《い》つたはうがよい。」(傍点村松)
洒脱《しやだつ》な会話とも文学とも無縁だというのだから、心理小説の主役となる資格を彼女ははじめから奪い去られているのにひとしい。ラディゲはたとえば彼女の恋人の土屋についての次のような記述に、片鱗《へんりん》を残しているのにとどまる。
「もし知的な女が土屋を見たならば、かうした彼の因《いは》れのない感情の無力感に、正に時代の兒《こ》の特徴を讀み取つたかもしれないのである。」(第十一節)
作者は男の内面には、それ以上踏み込むことをしない。女主人公の罪の意識が、あるいは罪の意識の今日風の形骸《けいがい》化が、ここでは物語の中軸になっている。
「古典的幾何學めいた心理小説への郷愁」はもはや少く、「そこで、シニカルな不可知論を主軸にした、一方的な姦通小説を書いた」と三島は説明する(『十八歳と三十四歳の肖像畫』)。「一方的な」とは、男のがわの心理が書かれていないことをさす。
『愛の渇き』も、もっぱら女の内面をえがいた小説だった。しかし『愛の渇き』では女主人公の悦子自身にまぎれもない三島の心情が投影されていて、『美徳のよろめき』の場合とは様相がことなる。
『美徳のよろめき』という「自敍傳」には、作者の姿がおぼろげにしか見えない。自分を消し去ることによって恋を放し飼いにした、とでもいうべきだろうか。
「よろめき」という流行語までも生んだこの小説を書いていたころ、D子嬢と三島とのあいだに破局が訪れた。以下再び、湯淺あつ子の著書による。
「彼女が十九歳代から二十歳代の初めの年頃《としごろ》の付き合いだったので、三島由紀夫の才には充分の尊敬と愛をもちながら、ストイシズムの彼についてゆくには、何としても幼く、いくら背のびして勉強しても、相手をするだけですっかりくたびれはててしまった。(原文改行)彼が幼い彼女に本当に求めていたものの実体はそんなものではなく、(中略)暖かく(彼女が)見守ってくれるその雰囲気が、彼の創作意欲につながり、名作が出来上ってゆくことだったのだ。」
こういう場合にありがちな誤解も、相互間には生じていたらしい。
「彼女は、昭和三十二年五月、新派『金閣寺』観劇を最後に離れて行った。」
新派『金閣寺』が新橋演舞場で公演された翌々月の七月に、三島はクノップ社の招きで渡米し、たまたまニューヨークにいたK子夫人――もとのK子嬢――と久しぶりに再会する。これらの一連のできごとが彼に過去の清算と新しい人生への出発とを決断させたことは、容易に想像できる。
帰国は、昭和三十三年の一月だった。杉山瑤子さんとの見合は、二箇月後の三月である。結婚にいたる経緯は、三島自身がくわしく書いている。
「僕の家と昔からごく親しい間柄で、僕といゝ漫才相手である湯淺夫人が、日本畫家|杉山寧《すぎやまやすし》氏の長女だといつて、瑤子の寫眞を持つてこられた。湯淺夫人は、瑤子の叔母である小松夫人と友達なので、この話が出てきたわけである。それから二週間後に見合をした。」(『私の見合結婚』)
五月五日に正式にはなしが決定し、挙式は六月十一日だった。「湯淺、小松兩夫人とも凄《すご》くスピーディーな人だから」、当事者の二人が驚くほどに手早くことをはこんでしまったという。
「僕はかねて、婚約期間が永すぎることには疑問をもつてゐたが、これほど短い例も少からうと思ふ。」
三島は『鏡子の家』の執筆に三月十七日からとりかかり、湯淺あつ子が縁談をもって来たその日も、冒頭の部分を書いていた。
「長篇はやつと緒についた。」(『裸體と衣裳《いしやう》』、三月二十三日の項)
青春と訣別した三島は、この長篇では「自分のあらゆるものを」投げ込んで同時代をえがこうとした。彼が『鏡子の家』の成功にいかに期待していたかは、
「私はこの書きおろしを成功させて、一作で何年か食ひつなぎ次作に備へるといふ、西歐型の文士生活にはひることを夢みてゐた」、
と後年述懐していることによっても知られる。(『「鏡子の家」――わたしの好きなわたしの小説』)
結婚式は『鏡子の家』の第一章を、ほぼ書き上げた時点で行なわれた。
結婚は三島にとって、第二の人生の門出だったのである。
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V 死の栄光――『鏡子の家』から『英靈の聲』へ
「時代」への挑戦《ちようせん》
1
「俺《おれ》は實は俺ぢやない」という趣旨の手紙を、三島由紀夫からもらったことがある。
手紙といってもこの場合は私信ではなく、公開状だった。批評家が作家に「直言」する手紙を書き、作家がこれにこたえるという形の紙上問答を、産経新聞の文化部が昭和三十五年の正月用の企画として考えた。
そのなかで三島を担当する役目が、こちらにまわって来たのである。「三島由紀夫氏への直言」という副題つきのぼくの手紙は、昭和三十五年一月八日付の同紙に掲載され、三島からの返信は五日後の紙面に出た。『鏡子の家』上下二巻の刊行が前年の九月二十日だったから、それから約四箇月ののちになる。
便宜上自分の「直言」の文章の方を、まず引用しておく。冒頭の挨拶《あいさつ》のことばにつづいて、「わたしはかなり古くからの、あなたの熱心な読者のひとり」だったと、三島|宛《あて》の三十年まえの手紙は述べている。
「戦後の混乱した文学の世界に、あなたが次々に作ってこられた作品のお城には、いつも注目を払ってきたものです。そうです。それはわたしの眼《め》には、バロック風のお城に見えました。そしてその精巧なできばえに感嘆しながらも、いったいあのお城にはひとが住めるのかしらと、一方で、いつも訝《いぶか》しんでいたのでした。
いきなりこんな独断を口にする不躾《ぶしつけ》をお許しねがいたいのですが、三島さん、あなたは相当なロマンティストでいらっしゃる。もちろんあなたは、それをナマのままではお出しにならないし、むしろそういうロマンチスムや精神主義を、幻想として追いはらおうとなさいます。ご自分の中のロマンチスムを、ストイックに否定し、その否定を発条《ばね》として、古典的な世界をつくろうとなさる。
あなたの小説に逆説的なアフォリズムが多いことは、だれでもが言うことですが、つまりあなたは、ロマンチスムを野放しにするかわりに、それをうらがえしに逆用して、絢爛《けんらん》とした観念の世界を織り出してこられました。その手際《てぎわ》はみごとです。しかしその結果あなたは、どうにもひとの住めない窮屈な世界を、逆説的な観念でできたお城を、築いてしまわれたのではないでしょうか。(中略、原文改行)そしてそのことをだれよりもご存じなのは、おそらく城のたった一人の住人であるあなたご自身なのでしょう。そこで淋《さび》しがりやの城主は、ときどき城を出て人ごみにはいりこみ、映画に出たり、その他いろいろ、人さわがせな演技をする……
ロマンチスムは、すでに久しく、幻滅の嘆きぶしをしか歌いません。(中略)あなたがご自分の気質をさか手にとって、反ロマンティックな世界を打ち樹《た》てようとなさってきた努力を、わたしは非常に貴重なものに思います。」
ひとの住み得ない建築物という表現は実は三島自身も、のちの『電燈《でんとう》のイデア――わが文學の搖籃《えうらん》期』(昭和四十三年九月)のなかで、みずからの文学的出発を振りかえってつかっているのである。
「人の決して入れない建築、住めない建築、しかも太陽の明暗のくつきりとした建築、……さういふものを考へて、子供の私が、フィクションとしての文學に到達したのは、すこぶる自然であると言はねばならない。」
文学にたいするこの考え方が、「後年、手痛い復讐《ふくしう》を私自身の人生に加へることになる」と彼はいう。
「ひとの住めない城」のなかで、三島が苦しんだことは事実だった。だから「直言」もそこまではまだいいとして、それからあとに次のような、いわでもがなのことばをならべていた。
「現実排除の上に成り立ったその堅固なお城を、現実の力によってこわさねばなりますまい。童話のお城では、われわれは生きられない。(原文改行)その自己否定の仕事こそが、あなたにとっての先決問題ではないかと、わたしには思われるのです。」
何をいまさらと、三島の方は思ったであろう。自分のなかの「ロマンチスムを、ストイックに否定し」、抒情的な「自分の気質をさか手にとって」仕事をしていた時期は、彼にとってはおわっていた。過去の自分からは脱却したという自信を三島がもつにいたっていたことに、迂闊《うかつ》にもぼくは当時気がつかなかった。
その『直言に答へる――村松剛さんへ』という一文では、三島は自分の立場を多少茶化しながら、しかし明確に示している。
「あなたの下さつた直言を、友情と誠意に充《み》ちたお言葉として、うれしく拜讀しました。あなたは獨斷と仰言《おつしや》るが、古典派が内心|浪曼《らうまん》派であることは、文學史の通則みたいなもので、私も大きにロマンチストなのかもしれません。ただ面白いことは、正面切つた浪曼派には、本當の古典派はゐないことで、この通則は、『逆も亦《また》眞』ではないやうですね。
しかし、傳播《でんぱ》の速い世の中では、今日の獨斷も、明日の通念になる。あなたがロマンチストと言つて下さつた以上、明日から私はロマンチストでとほりさうです。いづれにせよ、人がかぶれといふ帽子を、私は喜んでかぶるつもりです。たとへそれが、あのルイ王がかぶらされたといふ三角帽子であつても。
ただ私の何とも度しがたい缺陷は、自分に關する最高の通念も、最低の通念も、同じやうに面白がることなのです。これはほとんど私の病氣です。おしまひにはいつもかう言ひたくなる。『何を言つてやがる。俺は實は俺ぢやないんだぞ』これが私の自負の根元であり、創作活動の根源です。そしてこれが、あらゆる通念を喜んで受け入れる私の態度の原因なのです。」
昭和二十八年の『旅の墓碑銘』では、作者は彼の分身である主人公の菊田次郎を、友人の口を借りてからかっていた。
「ははあ、また君の例の『他人になりたい』といふ欲望だね」
その自嘲《じちよう》が昭和三十五年のはじめには、他者であることが「私の自負の根元」であるという断定に変る。なお菊田次郎を主人公とする短篇を三島は『旅の墓碑銘』を含めて三つ――あとの二篇は『火山の休暇』(昭和二十四年十一月)と『死の島』(昭和二十六年四月)――書いていて、いずれも蒼白《あおじろ》い顔の青年が自分の感受性をもてあましている物語だった。
『旅の墓碑銘』を最後に自分のなかの菊田次郎は死んだと、三島は昭和四十年の短篇全集(講談社刊)の「あとがき」にしるしている。
「私の中で、菊田次郎といふ、このロマンチックな孤獨な詩人は、これ以後死して二度とよみがへらない。彼は私の感受性の象徴である。しかし菊田次郎の亡靈は、今日もなほ、時たま夜のしじまに現れて、私の制作をおびやかし、作品に影を投じてゐる。」
幼少期から培《つちか》われて来た「ロマンチックな孤獨な詩人」としての気質を、彼は『直言に答へる――村松剛さんへ』の末尾で、子どものころに「オデコに」できた「コブ」といういい方で表現した。
「私は不斷の遁走曲《とんそうきよく》であり、しかも、いつも逃げ遲れてゐる者です。子供のころ、學校で集團でイタヅラをすると、いつも逃げ遲れるのが、私ともう一人Kといふ生徒でした。そこで私とKはつかまつて、先生から、鉢合《はちあは》せの罰をうけるのでした。こんな痛い刑罰はない。しかしKのオデコにはコブができないのに、私のオデコにだけはコブができた。これが爾後《じご》、私の宿命となつたやうに思はれます。」
肉体的にもこの時期の三島はすでに変貌《へんぼう》をとげ、筋肉の逞《たくま》しさを誇るようになっていた。
自宅でボディー・ビルを開始したのは前述のように昭和三十年の九月からだが、翌年には鈴木智雄の経営する練習所に通うようになり、さらに同じ三十一年の暮ごろからは日本大学の拳闘部《けんとうぶ》で拳闘の指導をうける。(ついでながら全集「補巻1」所収の年譜が、拳闘の練習開始を昭和三十三年のはじめごろとしているのは、明らかな誤記である。)
もっとも拳闘は、八箇月くらいでやめた。やめた理由をあとで当人にきいたら、
――あれは脳をやられるんだよ。
――脳を?
――ボクサーはしらべてみると、必ず脳圧がたかまって機能が破壊されているんだって。それをきいたので、やめることにした。
結婚後は拳闘のかわりに剣道をはじめ、ボディー・ビルの方は有楽町の「産経ジム」に原則として週に三回(火木土)通い、昭和三十四年の夏には七十キロのバーベルをもち上げられる水準に達した。拳闘や剣道に手をひろげたのはボディー・ビルには動きがなく、「動きとスピードへの欲求」が高まったためだったと、彼は『ボクシングと小説』(昭和三十二年一月)や『わが非文學的生活』(昭和三十四年一月)のなかで説明している。
そしてこれらの運動が彼の日記『裸體と衣裳』によれば、千枚に近い長篇『鏡子の家』の執筆を可能にさせた。同書の昭和三十四年四月七日の項に、
「夜半、ここ數週間の、憂鬱《いううつ》きはまりない遲々たるロック・クライミングの果てに、『鏡子の家』はやうやく七百枚に達した。しかし私が曲りなりにもコンスタントに仕事を續行できるのは、運動のおかげである。|少くとも運動の充血と發汗のおかげで《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|週五囘づつ《ヽヽヽヽヽ》、|古い形骸から蘇つてゐなければ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|私はとつくに精神の屍體になつてゐたことであらう《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。」(傍点村松)
肉体的鍛錬が、彼の自分からの離脱の意志を支えていたのである。
2
『鏡子の家』の主人公はひとつの時代だったと、三島はこの小説の広告用リーフレットのために書いた文章のなかで説明している。
「『金閣寺』で私は『個人』を描いたので、この『鏡子の家』では『時代』を描かうと思つた。『鏡子の家』の主人公は、人物ではなくて、一つの時代である。この小説は、いはゆる戰後文學ではなく、『戰後は終つた』文學だとも云《い》へるだらう。『戰後は終つた』と信じた時代の、感情と心理の典型的な例を書かうとしたのである。」(『「鏡子の家」そこで私が書いたもの』)
「自敍傳」としての長篇を『盜賊』いらい書いて来た三島にとって、時代を主題とする小説ははじめてのこころみである。その準備のためか、昭和三十二年ごろの三島はフロベールの『感情教育』(生島遼一《いくしまりよういち》訳)を熟読していた。『感情教育』が主人公フレデリック・モロオやその友人たちの青春群像を通じて、フランスの二月革命前後の時代を浮彫にした作品であることは、いうまでもない。
ルイ・フィリップの王制を呆気《あつけ》ないほど簡単に押しつぶした一八四八年のパリ暴動を、フロベールは淡々とした筆致でえがき出す。しかし二月革命への興味から『感情教育』を読む読者はかぎられているはずで、この全体としては退屈な小説に一条の輝きをさしかけているのは、疑いもなくフレデリック・モロオと貞節な人妻アルヌー夫人との恋だろう。
作品中の時代背景や風俗は、急速に古びて行く。「それでも『感情教育』が古びないとすれば」、その作中人物が「作者の眞に創造した人物であり、作者の文體と共に呼吸してゐる人物は古びない」ためであると、三島は『現代小説は古典たりうるか』でいう。
昭和三十二年に書かれた『現代小説は古典たりうるか』の前半部分で彼が堀辰雄の『菜穗子』を論評し、『菜穗子』の修正という作業を介して、自分の堀辰雄的世界からの離脱のみちを明かにしていることについては、「『假面』の創造」の章でややくわしく触れた。三島はそのあと『感情教育』やヴォリンガアの『抽象と感情移入』を論じ、さらに後段では石原愼太郎の『龜裂《きれつ》』を題材に時代の現実をえがく方法を検討している。
『龜裂』はこのころ「文學界」に連載されていて、まだ完結を見てはいなかった。それでも三島はこの小説を、「石原氏の今までの仕事のうちで最良のものであるのみならず、戰後の長篇小説の名篇と並べても、さほど見劣りのしない作品」と断言しているのである。
石原愼太郎の処女作『太陽の季節』は、「文學界」新人賞の第一回受賞作品として、同誌昭和三十年七月号に掲載された。
それが翌年には芥川賞をあたえられ、授賞は半ばスキャンダラスな事件として喧伝《けんでん》された。芥川賞がこのときほどひろく社会的な関心をあつめたことは、賞の創設いらいかつてない。石原氏の小説はたちまちあい継いで映画化され、愼太郎ブームなるものが起こる。
文学史的な観点から見ても、『太陽の季節』やこれにつづく『処刑の部屋』の出現は、一個の事件だったであろう。それらは徹底した反知性主義と暴力的な行動主義とにおいて、当時流行していた「平和主義」的人道主義や大正いらいの教養主義とは、まさに対極に位置していた。
文章にはときに粗っぽさが目立ち、批評家の多くはこのハード・ボイルド型の新進作家の登場に眉《まゆ》をひそめた。そのなかでいちはやく石原氏のもつ新しさを理解し、もっとも積極的に氏を支持したのが三島由紀夫だった。
石原愼太郎の独創性は「生《なま》の青春を文壇に提供したこと」にあると、『太陽の季節』が芥川賞を受賞した直後に三島は書いている。
「われわれは文學的に料理された青春しか知らないし、自分の青春もその眞似《まね》をして、のつけから料理してかかつてゐたのである。(原文改行)私はあるとき飜然とそれに目ざめ、爾來《じらい》、文學的青春および觀念的青春といふものを一切信じなくなつてしまつた。それからやつと、私は若くなつたのである。」(『石原愼太郎氏』)
文学的青春の軛《くびき》を断ち切るために、三島は十年余の歳月をついやした。太陽の輝きに憧《あこが》れ、いく重もの重い鎖をはずしてようやく彼が海面に浮かび出たら、いとも軽々と太陽と戯《たわむ》れている石原青年がそこにいた、といってよいのではないか。
「主觀的に見た青春は、形をなさない、モヤモヤした不透明な氣味のわるいものだが、客觀的に見た青春は、明晰《めいせき》な、形のはつきりした、堅固なものである。この二つを調和させるのは不可能だから、石原氏は後者だけを誇張した。だからその作品は割り切れすぎ、その惡徳は透明すぎ、その表現は人間の肉體の美しさと俗惡さを同時にそなへてゐるが、こんな簡單なことを今まで敢《あへ》てやつた人がなかつたから、世間をさわがせ、女の子を熱狂させたのである。」(同右)
また昭和三十五年に石原愼太郎の作品集――筑摩書房刊「新鋭文学|叢書《そうしよ》」第八巻――に寄せた解説の冒頭では、三島は次のようないい方をする。
「石原氏はすべて知的なものに對する侮蔑《ぶべつ》の時代をひらいた。(中略)それは知性の内亂ともいふべきもので、文學上の自殺行爲だが、これは文學が蘇《よみがへ》るために、一度は經なければならない内亂であつて、不幸にして日本の近代文學は、かうした内亂の經驗を持たなかつた。」(『石原愼太郎氏の諸作品』)
知的なものにたいする侮蔑は、三島自身が『禁色《きんじき》』のころから一貫して主張して来た。要するに石原愼太郎の作品は、少くともその外見においては三島が夢みて来た「外界」と類似していたのである。
はなしをここで『龜裂』にもどすと、この「殺し屋と捕虜收容所の記憶と、事もなげなたびたびの同衾《どうきん》と、人間ごと自動車を引つくりかへすプロレスラーの武勇傳と、ボクシング試合と」をちりばめた小説には、三島によれば「まぎれもない現代の相貌がうかんで」いる。特定のイデオロギイによる抽象的な図式や、「ジャーナリズムに濾過《ろくわ》された現實」像によって、時代の真実が掬《すく》い上げられるとは、三島は信じてはいなかった。
「『龜裂』の作者の誠實さは、いかなる政治的解釋にも曇らされてゐない生《なま》の現實を信じてゐるところにある。(中略)どこにあるのかは知れず、彼自身もしかとつかめず、性交やスポーツの或《あ》る瞬間にだけつかめたやうに思はれるもの、……(中略、原文改行)そして氏の作家としての方法論は、何とかこの生《なま》の現實を結晶させ、造型することであり、そのために、このとらへがたいものを何とかして解釋し、抽象的表現にまで高めようと試みることであらう。その點で氏は、私が前述した『現實の豫斷的抽象化』をあくまで避けようとしてをり、この姿勢は潔癖でもあり、誠實でもある。」(『現代小説は古典たりうるか』)
石原愼太郎の『龜裂』に託して、三島は「時代」のえがき方を論じている。『現代小説は古典たりうるか』の後半部分は、翌年の『鏡子の家』の執筆にさき立って彼が発表した創作技法上の抱負と、うけとってよいように思われる。
『鏡子の家』の舞台が湯淺あつ子の家をモデルとしていることは、当の湯淺女史がその著書『ロイと鏡子』に書いておられるので、かなりひろく知られているはずである。
湯淺女史の最初の夫は仕事上の出張が多く、広い家には「学習院初等科に通う娘が一人と」お手伝いと、「主人が頼んでくれた有能なハウスキーパーが」いるだけだった。三島が女史の家に出入りしはじめたのは、同じ女史の文章によると昭和二十六、七年以降のことらしい。
昭和二十九年に三島は、湯淺親子を材料に短篇『鍵《かぎ》のかかる部屋』を書いた。(作中の女主人公は、娼婦《しようふ》だった。)その『鍵のかかる部屋』が『鏡子の家』の母胎となったと、三島はいっている。
「『鏡子の家』のそもそもの母胎は、一九五|三《〈ママ〉》年の夏に書いた『鍵のかかる部屋』だと思はれる。この短篇小説はエスキースのやうなもので、いづれは展開されて長篇になるべき主題を含んでゐたが、その後五年間、つひぞ私は、『鍵のかかる部屋』の系列の作品を書かなかつた。」(『裸體と衣裳』)
『鏡子の家』の友永鏡子は金持のわがままな家つきの一人娘で、一度は結婚したものの夫を追い出し、娘の眞砂子を手許《てもと》において「おそろしく開放的な」家庭生活を送る。この母子と彼女の家に絶えず出入りしている四人の若者が、小説の主要登場人物である。
四人というのはナルシシストの俳優と拳闘家と画家と会社員とであり、彼らの生き方には互いに何ら似通ったところはない。ただ彼らは「戦後」の混乱の終りがもたらした平和に一様に退屈し、この平穏な生活を呪《のろ》うという感情において結びあっていた。
「みんな欠伸《あくび》をしてゐた」、
という一行から、『鏡子の家』ははじまる。また作者は第一章のおわり近くで、会社員の杉本清一郎に世界滅亡への期待を熱心に語らせている。
「さうだらう。君も本音を吐けば、やつぱり崩壞と破滅が大好きで、さういふものの味方なんだ。あの一面の燒野原の廣大なすがすがしい光りをいつまでもおぼえてゐて、過去の記憶に照らして現在の街を眺《なが》めてゐる。」
「世界が必ず滅びるといふ確信がなかつたら、どうやつて生きてゆくことができるだらう。會社への往復の路の赤いポストが、永久にそこに在ると思つたら、どうして嘔氣《はきけ》も恐怖もなしにその路をとほることができるだらう。(中略)俺《おれ》が往復の路のポストに我慢でき、その存在をゆるしてやれるのは、俺が毎朝驛で會ふあざらしのやうな顏の驛長の生存をゆるしておけるのは、俺が會社のエレヴェータアの卵いろの壁をゆるしておけるのは、俺が晝休みに屋上で見上げるふやけたアド・バルーンをゆるしておけるのは、……何もかもこの世界がいづれ滅びるといふ確信のおかげなのさ」。
現世的秩序への呪詛《じゆそ》の念は鏡子を含むほかの仲間たちによっても、――これほど鮮明な形はとっていないにせよ――頒《わ》けもたれていた。鏡子は清一郎を、自分と同じように「無秩序を信奉」する「精神的|伴侶《はんりよ》」とみなし、画家の山形夏雄は「清一郎の親炙《しんしや》してゐる虚無が、自分にとつても疎遠なものではないことを」承知している。
戦争中の三島は、世界滅亡の予覚あるいは夢想のなかにいた。敗戦は彼にとっては『金閣寺』の主人公がいっているように、「解放ではなかつた」のである。
「それは(中略)斷じて解放ではなかつた。不變のもの、永遠なもの、日常のなかに融《と》け込んでゐる佛教的な時間の復活に他ならなかつた。」
それでも三島が自分の青春を清算しようとして苦闘していた十年間は、「世界崩壞」への願望が作中人物の行動のモティーフとなることはなかった。小市民的な幸福への拒否が、『愛の渇き』やその他いくつかの短篇に見られるのにとどまる。『金閣寺』では作者はその青春と袂別《べいべつ》するために、世界をではなく美の結晶としての金閣寺を主人公に焼かせた。
三島由紀夫が「俺は實は俺ぢやない」といいきり、一個の「他者」として時代とつきあおうとしたときに、安定した世界への嫌厭感《けんえんかん》が改めて浮かび上る。世界終末論《エスカトロジイ》への夢は彼がどのように変貌しようと、もしくは変貌したとみずから信じようと、決して消えてはいなかった。
3
自分以外のものに――「他者」に――なり切ろうとしたその意志の強靭《きようじん》さにおいて、三島は文学史上異彩を放っている。こんな例は海外にも、ほかに見当らないのではないだろうか。
「彼がゆっくりと彼自身にとって一個の異邦人になってゆくその段階を、一定の忠実さに基いて跡づけることが可能である。」
「彼自身のもっとも奥深いところで、彼は自己とは別の者であることを承知させられた子供なのだ。」
これらの文章は、三島についての論評ではない。(そう読めないこともないけれど)、ジャン・ポオル・サルトルのジャン・ジュネ論、『聖ジュネ、演技者と殉教者』(飜訳題名『殉教と反抗』、白井浩司《しらいこうじ》、平井啓之《ひらいひろゆき》共訳)からの引用である。
ジャン・ジュネは、棄《す》て児《ご》だった。七歳のときに貧民救済所は彼を田舎の百姓家に預け、ジュネははじめの数年間は草や水とたわむれて無邪気な日々をすごした。しかしある日この少年は貧しい百姓家で盗みを働いている現場を抑えられ、爾後泥棒《じごどろぼう》の刻印を押される。
ジュネはそのために、社会から疎外された存在と化した。サルトルの表現によれば「他者」となることを、彼は強《し》いられた。
同じ「他者」といっても三島とジュネとでは、その内容も前提としての生活環境もまったくちがっている。三島はジュネのように「他者」となることを、社会から強制されたわけではなかった。逆に敗戦後の社会を生きるために、彼は自分からの離脱を企てた。
『鏡子の家』の杉本清一郎は徹底的な俗物として振舞うことによって、自分自身を社会と同一化してしまおうと考える。つまりは社会の何もかもを嚥《の》み込んでしまうことだと、彼は鏡子に説明する。
「お伽噺《とぎばなし》の猫《ねこ》のやうに、何もかも嚥み込んでしまふことが、たつた一つ殘された戰ふ方法、生きる方法なんだもの。お伽噺の猫は道で出會ふものをみんな嚥み込んでしまふ。馬車を、犬を、學校の建物を、咽喉《のど》がかわけば貯水タンクを、王樣の行列を、おばあさんを、牛乳車を、……あの猫はたしかにどうして生きるかを知つてゐたんだね。」
これと似たことばは、『愛の渇き』の悦子もかつて口にした。
「何もかも呑《の》み込んでしまはねば……。何もかもしやにむに目をつぶつて是認してしまはねば……。」
しかし悦子はその胸裡《きようり》に深い絶望感を蔵し、「それでも私は幸福だ」と自分を慰めるように絶えず呟《つぶや》いていた。結局彼女は園丁の三郎との恋を、「呑み込んでしま」うことができなかった。
悦子のただよわせる悲愴《パセテイツク》な雰囲気《ふんいき》は、『鏡子の家』の清一郎にはもはやない。自分の胃の腑《ふ》の丈夫さに彼もその背後にいる作者も、明かに自信をもつにいたっていたのである。
『鏡子の家』の物語は、昭和二十九年の四月からはじまるという設定になっている。
太陽が「瓦礫《がれき》の地平線から昇り、そこへ沈んだ」時代はおわろうとしていた。(もはや戦後ではないという発表を経済企画庁が行なったのは、昭和三十一年だった。)平和で退屈な時代の到来をまえにして拳闘家《けんとうか》と俳優と画家と会社員とは、時代の壁へのたいし方についてそれぞれ考える。
「『俺はその壁をぶち割つてやるんだ』と峻吉《しゆんきち》は拳《こぶし》を握つて思つてゐた。
『僕はその壁を鏡に變へてしまふだらう』と收は怠惰な氣持で思つた。
『僕はとにかくその壁に描くんだ。壁が風景や花々の壁畫に變つてしまへば』と夏雄は熱烈に考へた。
そして清一郎の考へてゐたことはかうである。
『俺はその壁になるんだ。俺がその壁自體に化けてしまふことだ』」。
ずいぶん思い切った図式化を作者はしてしまったものだと、この文章を読むと思う。長篇小説にはしばしば作者の思惑をこえた不透明な部分が生じ、不透明さがときに作品に厚味を加えもする。その可能性を、彼はみずから排除したのにひとしい。小説は四人の生活をべつべつに追い、四つの物語のつみ重ねのような形で展開される。
四人の男たちのうちでもっとも生き生きとえがかれているのは、拳闘家の深井峻吉だろう。彼は行動をしか、「有効なパンチ」をしか信じてはいなかった。峻吉は画家の山形夏雄に向かって、誇らしげにたずねる。
「君はかういふ瞬間を知つてるか? 左フックが見事に決つた、かういふ、何ともいへない、すばらしい瞬間を?」
試合の最中にものを考えていたら、素早いパンチはくり出せない。思考は彼にとっては敵であり、「すべての醜さを代表」していた。
峻吉という行動者は、三島が『龜裂《きれつ》』を論じた文章のなかでいっている意味での「生《なま》の現實」だけを相手に、生きているのである。作者は短期間ながら拳闘の稽古《けいこ》に通っただけに、峻吉がプロ・ボクサーとしての初舞台に臨む場面(第五章)には、鮮かな躍動感がある。
だが競技もそれが職業となれば、行動は単なる行動ではなくなって行く。峻吉は全日本フェザー級チャンピオンに挑戦《ちようせん》して勝利を収め、チャンピオン・ベルトをもらった。金色のベルトをゆっくりと眺めたいと彼は思い、友人の俳優舟木收の母親が経営していた喫茶店に向かう。喫茶店はいつのまにか酒場に変り、店にはちんぴらがたむろしている。
ちんぴらが峻吉に因縁をつけ、彼はそのひとりを苦もなく叩《たた》き伏せる。彼らは店から消えたが、入口の外で峻吉の出て来るのを待っていた。峻吉は店を出たとたんに「バットのやうなもの」で脛《すね》を打たれ、チャンピオン・ベルトを入れたバッグを胸にかかえたまま倒れる。
「倒れる刹那《せつな》に、ボストンバッグを大事に胸に護《まも》つて、その上に倒れたので、自然に右手で地面を支へた。すると黒い影が飛びかかつて來て、地面に支《か》てた右手の甲へ、重い白いものを打ち下ろした。はつきりと、ものの潰《つぶ》れる音がした。」(第八章)
拳闘家なら、本能的に拳を庇《かば》わなければならない。彼は手を守るかわりにチャンピオン・ベルトという「勲章」の方を守り、行動者としての未来を失う。峻吉の拳は、握りあわせることができないまでに粉砕されていた。彼は拳闘の世界を去り、暴力団風の右翼の組織にはいる。
ナルシシストの舟木收は楽屋に滅多に顔を出さない、したがって一向に役のつかない俳優である。そのかわり彼は週に三回ボディー・ビルの練習に行き、逞《たくま》しい筋肉を次第に身につける。
「海水着一つになつて、收は練習場へ出て行つて、大きな壁鏡の前に立つた。すると喜びが湧《わ》いてきた。そこには彼であつて彼ではないもの、(中略)即ち見事な輝やかしい筋肉が映つてゐた。」(第四章)
美しい肉体を獲得してからは、彼は女との情事に興味がもてなくなる。女は自分の性的な「陶醉の底深く陷沒してしまひ」、收はひとりでとり残される。彼の鏡の役割を、女は演じてはくれない。生きた鏡を獲られないままに老い朽ちて行くのかと思っている矢先に、彼の肉体の讃美者《さんびしや》があらわれた。醜い、高利貸の女だった。
收の母親は喫茶店を開業するために高利の金を借り、高利貸からの脅迫に悩まされていた。その女高利貸が收の身柄《みがら》を買いとり、母親への貸金を帳消にする。彼女は收をとき折り呼び出して彼の身体《からだ》を「なまなましい屍體《したい》を眺めるやうに」眺め、剃刀《かみそり》でその脇腹《わきばら》を切って小さな傷口の血を吸ったりした。
こういう目にあわされながら、收は「快い恐怖に目のくらむ思ひ」を味い、「これがきつと、僕の永年望んでゐた女なのだ。やつとその女にめぐり會へたんだ」と考える。
「收が求めてゐたのは、彼に對するひりひりするやうな苛烈《かれつ》な關心だつた。彼を愛撫《あいぶ》するだけでは足りず、彼を腐蝕するやうな關心だつた。(中略)自分の存在をたしかめるために、あの一瞬の痛みにまして確實なものはなかつた。|彼が正に必要としてゐたのは痛苦だつたのだ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。」(第七章、傍点村松)
筋肉を鍛錬するとともに、肉の「光輝」を保証する「苦痛」への慾求《よつきゆう》が増大して来ると、三島は後年『太陽と鐵』のなかで書いている。
「苦痛とは、ともすると肉體における意識の唯一《ゆいいつ》の保證であり、意識の唯一の肉體的表現であるかもしれなかつた。筋肉が具《そな》はり、力が具はるにつれて、私の裡《うち》には、徐々に、積極的な受苦の傾向が芽生え、肉體的苦痛に對する關心が深まつて來てゐた。しかしどうかこれを、想像力の作用だとは考へないでもらひたい。私はそれを肉體を以《もつ》て直《ぢか》に、太陽と鐵から學んだのである。」
受苦への慾求を「想像力の作用だとは考へないでもらひたい」と、とくにことわっていることには注目しておいてよい。三島は『假面の告白』のなかに、二本の矢を肉体に射込まれた「聖セバスチャン」殉教図を見て主人公が射精する場面を、ヒルシュフェルトの解説つきで挿入《そうにゆう》していた。この受苦願望は「太陽と鐵から學ぶ」以前の想像力の所産であって、彼が創造した「假面」の一部にほかならない。「假面」のその部分を彼は肉体上の鍛錬の結果、ある程度まで素顔に転化していたのである。
收はよろこんで女高利貸に殺され、高利貸も彼を殺したのちに自殺をとげる。鏡子はこの事件をニュー・ヨークにいる清一郎に手紙で伝え、ついでに自分もいままでのような生活は維持できなくなりそうだと書いた。同じころ画家の山形夏雄は絵がかけなくなり、妙な神秘主義に凝り出した。
清一郎は副社長の娘と結婚し、ニュー・ヨーク五十六丁目のウェスト・サイドに美しい新妻と一緒に暮していた。マンハッタンの五十六丁目などに住む日本人は、昭和三十年ごろにはまだごくかぎられていたのだが、未来には確実に世界の破滅があると信じていた彼は、自分が単に企業の世界の「チェスの駒《こま》に化身したやうな」たのしみを味わっていた。妻の藤子は異国暮しの寂しさから、同じ建物に住むフランクという青年につい一度だけ身を許す。妻の口からそれをきいても、清一郎は驚かなかった。
夫が怒って罰してくれることを期待していた藤子は、この清一郎の態度を見て逆に失望し、このひとは単純な野心家で、自分や自分の父の御機嫌《ごきげん》をそこねまいとしているのだと思いこむ。彼女は涙をぬぐい、夫をからかうようにいった。
「『あなたつて本當にやさしいのね。今しみじみわかつたわ』
藤子は自分のうかべてゐる微笑が、絶對に不誠實な微笑だといふことを、何とかして良人《をつと》に傳へようと試みた。フランクと逢《あ》つてゐたあひだ何度か練習を重ねたあの娼婦《しやうふ》の微笑だといふことを。」(第九章)
数日後に清一郎は乱痴気パーティーに招かれ、その席で日本の老婦人から会社の社長が死去したこと、後任者は妻の父であることをきかされるのである。
4
『鏡子の家』は執筆にとりかかってから十五箇月あまりをついやして、昭和三十四年六月二十九日に完成した。
「出來上つた作品はそれほど絶望的ではなく、ごく細い一縷《いちる》の光りが、最後に天窓から射《さ》し入つてくる」、
と三島は『裸體と衣裳《いしやう》』の同じ日の項で述べている。画家の山形夏雄は最後の章では何とか立ちなおって現実感覚をとりもどし、メキシコに行くといっているのだし、杉本清一郎はこのうえなく皮肉な立場におかれているとはいえ、まだ状況は絶望的とはいえない。
「とにもかくにもこの一年餘り、私はこの仕事によつて幸福を味はつてきたのであるから、まづその幸福感を感謝しなければならない。」(『裸體と衣裳』)
これだけの時間をかけて彼が書いた小説は、最初の長篇『盜賊』と二部作『禁色』とを除いて、当時ほかになかった。それだけに三島としても、この作にかけた期待は大きかったのである。
しかし批評家からの反応は、酷評ばかりだった。「文學界」十二月号に掲載された座談会、「一九五九年の文壇總決算」から、『鏡子の家』に関する一部分を拾っておくと、
「平野|謙《けん》 いろいろ三島さんの手持ちの材料をフルに使つていると思つたけれども、盛り上りがなくてね。
山本健吉 三島さんという人は、『潮騷』にしても、『美徳のよろめき』にしても、失敗作じやないんですよ。こんど初めて大きな失敗をしたんですよ。
臼井吉見《うすいよしみ》 これまでの三島氏の作品の世界にくらべて、廣い、狹いという點からいえば、廣いように見えるけれども、結局は狹いんで、人物の設定が三島式紋切型の逆説づくめでしよう。あまりくりかえされるとあさはかな感じを伴う逆説で全部設定されている。逆説的に勝手に人物を設定しておいて、それに對する勝手な逆説的解説の見本をならべたてただけだからまことに單調でね、およそバルザックなどとはちがつたものだ。」
最後の「逆説づくめ」という臼井吉見の批評は、作品に照らしてはたしてどんなものだろうか。拳闘家やナルシシストの行動はこれまで見て来たところからもわかるように、逆説的どころかむしろ直情径行型に書かれている。逆説的なのは社会の壁に化けてしまうことを宣言する杉本清一郎の場合であり、清一郎の影が作品全体に濃いために臼井氏のこういうことばが出て来たと推定される。
右の座談会にはほかに佐伯彰一、江藤淳《えとうじゆん》の二人が出席していて、失敗作とする点ではこの両氏の意見も同じだった。おわりの方で山本氏が、
「あの失敗が(三島に)なにかをもたらすだろうということは考えるね」、
といっておられるのが印象的である。
三島由紀夫は『鏡子の家』では、「文學的に料理された青春」とは無縁な若者たちをえがいた。
四人の男たちのうちで作者にいちばんよく似ているのは画家の山形夏雄であり、
――夏雄が一等ぼくに近い、
と自分でもいっていた。
しかし作中の夏雄の生い立ちに関する説明では、
「彼は『幸福な王子』の種族であつた。まことにのびのびと育ち、その育ち方に、精神分析醫の嘴《くちばし》を容《い》れられるやうな材料は何もなかつた。(中略、原文改行)その上末つ子で兩親にも兄や姉にもこよなく愛され、自分がどこがちがつてゐるかを自分自身にも感づかせないやうに育てられた。かうして當然のことながら、一人の|自覺のない藝術家が誕生した《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。」(第三章、傍点原著者)
三島自身の生い立ちとの相違について、説明は不要であろう。彼は過去の自分の痕跡《こんせき》を周到にとりはらって、四人の人物を組立てようとした。女たちについてもこれまでの小説とはことなり、鏡子母子をべつとすれば過去に知り合った人びとをモデルにはしなかった。
くりかえすならこの作品は、「俺《おれ》ぢやない」新しい自分による「時代」への挑戦だったのである。その意図が当時もいまも理解されていないことは、三島にとっての大きな不幸といわなければならない。『假面の告白』いらい彼は「假面」を世のなかに売込みすぎてしまったために、これが新しい自分の世界だといっても、世間はむかしからのつづきの「紋切型」ぐらいにしかうけとらなくなっていた。
それに四人の男たちの物語をべつべつに書いたことは、やはり技法上の失敗だったろう。四人をつなぐはずの鏡子の家は、彼らが活動をはじめてからはその役割を果せなくなり、鏡子母子の心理的|葛藤《かつとう》はまたべつの挿話と化す。
人間のあいだのつながりの構造が、その「時代」の性格を自然に浮かび上らせる。鏡子母子の物語を加えると五つのはなしを、相互の関連を缺いたままに展開した結果、主人公だったはずの時代は小説の背後に消えてしまった。法相|犬養健《いぬかいたけし》の指揮権発動とか砂川基地の騒動とか日ソ交渉とかが、とき折り新聞記事風に、または茶呑咄《ちやのみばなし》風に、思い出したように点綴《てんてい》される。「ジャーナリズムに濾過《ろくわ》された現實」を書くということは、『現代小説は古典たりうるか』のなかで三島が排除していた方法だった。
挿話の積重ねとして展開されているこの長篇には、牽引力《けんいんりよく》の中心となるフレデリック・モロオやアルヌー夫人がいない。古風な貞女アルヌー夫人はともかくとして、フレデリック・モロオにあたるべき存在はここでは当然杉本清一郎だった。ところがなぜか作者はこの重要な人物を、アメリカに追放した。
清一郎は、行為とはおよそ無縁に生きる。彼が行なった行動といえば、副社長の娘と結婚したこととその姦通《かんつう》を許したことぐらいだった。
『鏡子の家』の不評は、三島には痛手だった。それは彼にとって、「第二の人生」への出発の蹉跌《さてつ》を意味したのである。
――だれも気がついてくれなかったのだよ、ぼくのしようとしたことを。
珍しく彼が愚痴をいうのを、きいたことがある。(「だれも」のなかには、「自己否定」をいまさららしく「直言」した筆者自身も、むろんはいっていたと思う。)
これ以後も彼は行動人や、肉体の受苦の悦《よろこ》びについて書く。しかし社会のなかにとびこみ、平和な社会の「何もかも」を平然と「嚥《の》み込んで」しまおうとするこころみは、それをこころみようとする人物をえがくことは、三島は二度としなかった。
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死の世界の再現
1
映画に主役として出演してみないかと、三島は昭和三十四年の秋に大映の永田雅一《ながたまさいち》社長からいわれた。
これは、社長自身が考えた企画だったらしい。突然のはなしに三島は驚いて一応は辞退したものの、こういうことは彼は自分でもみとめているように、「まんざら嫌《きら》ひな」方ではなかった。
映画出演にいたる経緯をしるした三島のエッセイ、『ぼくはオブジェになりたい』によれば、自分はどんな役に向いていると思うかと永田氏にたずねると、永田社長は言下に、
「二枚目の敵役《かたきやく》で、崩れた役がよろしい。ヤクザつぽい役の方がいいだらう。」
それならやってみましょうと三島はいい、大映は三島との契約成立を派手派手しく宣伝した。映画の題名は、最終的には『からっ風野郎』と決定される。
映画の撮影がはじまるまえの昭和三十五年一月に、三島の戯曲『熱帶樹』が文学座によって上演され、そのプログラム用の小冊子――「文学座 1960・1」――に石川|淳《じゆん》が、
「三島由紀夫君は役者になるさうである」、
と書いている。
「このひとの質量をもってすれば、欲せられたいかなる役に於《おい》ても生きてみせるといふ演技に堪へられるにちがひない。人間は一つの顔しかもちえないときまったものでもないだらう。」
石川淳の文章は『初芝居三ツ物』と題されていて、三つ物の発句は、
羽子板や三島由紀夫のふたおもて
『熱帶樹』を石川淳は「これはイケます」と推賞し、そのかたわら三島の映画出演を激励したのだが、実際には映画の方は「いかなる役に於ても……演技に堪へられる」というふうには行かなかった。三島は増村保造監督にエスカレイターを上から逆さまに落ちる芸当を演じることを命じられ、頭を打って病院にはこび込まれるのである。
増村監督が「三島由紀夫だからといって特別扱いはしません、ひとりの俳優として扱うだけです」という意味のことを述べているのを、当時の新聞で見た記憶がある。監督として、当然の発言だったろう。有名な作家とはいえ映画には素人《しろうと》の人物の登用を、社長が急に思いついた。下手な演技を見のがしてでき上った映画が不評におわれば、責任の大部分は監督が背負わねばならない。
三島自身も、そのことは一応承知していた。「いまは、文士が映畫に出たからといふだけの興味で入場料を拂つてくれるほど、お客も甘くない」と、彼は『映畫初出演の記』に書いている。
それでも怪我《けが》をした直後には増村監督にさんざんしごかれた恨みが爆発したと見えて、見舞いに来たロイ・ジェイムスに監督をなぐって来てくれとたのんだという。湯淺あつ子の『ロイと鏡子』によると、
「三島由紀夫は、からっきし喧嘩《けんか》が出来ず、映画『からっ風野郎』のエスカレーターの場面で、自分の運動神経皆無からころんで、頭に負傷して虎の門病院に入院した時、私と二人で見舞った夫に、まるで子供の喧嘩のように、監督の増村さんを、
『なぐって来てくれよ、ロイ!』
と駄々《だだ》っ子《こ》みたいにわめき、単純な夫は、敬愛する三島由紀夫に頼られた嬉《うれ》しさに、まわりが止めなかったら、きっと実行して大困りになっていたと思う。」
母堂の倭文重《しずえ》さんは、
――映画では公威《きみたけ》は監督にいじめられて、頭に怪我までいたしましたのですのよ。
のちのちまで、筆者の母にもほかの知人たちにも恨みごとをいっておられた。
『からっ風野郎』はぼくは見てはいないし、したがってどんな映画だったかも知らないのだが、世評はあまり高くはなかった。もっともこの経験は彼がのちに『憂國』を映画化するさいに、いくぶんか役立ったかも知れない。
『熱帶樹』は、長篇『鏡子の家』の刊行後に三島が発表した最初の戯曲である。(そのまえの作『女は占領されない』は、『鏡子の家』出版の直前に、東宝の芸術座で上演された。)
フランスの新聞に奇怪なある事件についての記事がのり、その内容を朝吹登水子《あさぶきとみこ》からきいたことがこの芝居の執筆を思い立った発端だったと、三島は説明している。
「それは近ごろフランスの地方のシャトオで實際に起つた話で、そのシャトオの主の金持の貴族と、二十年あまり前に結婚した夫人が、實はこの二十年の間、ひたすら良人《をつと》の財産を狙《ねら》つてゐて、つひに息子を使つて、ごくわかりにくい方法で父親を殺させ、やつと二十數年の宿望を達して、莫大《ばくだい》な遺産をわがものにしたといふのである。貴族との間には一男一女があつた。どこまで計畫的にやつたことかしれないが、夫人は息子が年ごろになると、將來彼を一切自分の意のままに使ふために、われとわが子の童貞を奪つた。息子はそれ以後心ならずも母の意のままに動かざるをえぬ自分に絶望して、今度はわが實の妹と關係したのである。」(『「熱帶樹」の成り立ち』)
こういう事件はギリシヤ悲劇のなかでかつてえがかれたと、同じ文章のなかで三島はいう。
「かつてアイスキュロスの『オレスティア』三部作において、アガメムノン、クリュタイメストラ、オレステス、エレクトラ、の一家族の間に起つたのであつたが、それと同じことが現實に、現在ただ今のヨーロッパで起つたといふことは注目に値ひする。」
ミケナイの王アガメムノンは、アイスキュロスの「オレスティア」三部作によると王妃の裏切りにあって殺され、娘のエレクトラが父の復讐《ふくしゆう》のために弟のオレステスの力をかりて、実母である王妃を殺害する。ソポクレスの『エレクトラ』でもエウリピデスの同名の悲劇でも、物語の大筋は同じだった。
ギリシヤ悲劇と「同じことが」起こったと三島はいうけれど、これらのギリシヤ劇には夫殺しはあっても近親|相姦《そうかん》はなく、フランスの事件の方にはオレステス、エレクトラ型の母親殺しは、三島のしるしているかぎりでは見られない。『熱帶樹』にはそのすべての要素が――殺人は未遂であるとはいえ――含まれているのだから、三島はむしろギリシヤ悲劇と事件との両者をあわせて芝居を組立てたことになる。
『熱帶樹』のなかのエレクトラは、郁子である。この劇の初演のときに郁子役の加藤|治子《はるこ》が、舞台の下手に据《す》えた寝台から上半身を起こして、
――小鳥さん、可愛《かはい》い小鳥さん。あなたも今日一日の命だわ。
多少高い声で長いせりふを歌うようにいっていたその声と情景とが、いまも記憶に鮮明に残っている。劇の冒頭の彼女の独白は、全集版で見るとほぼ二|頁《ページ》の長さに達する。
三島は『鏡子の家』に、自分と同じように長ぜりふの芝居を書く劇作家を登場させていた。
「彼の書く臺詞《せりふ》は長い。だから八人のうちの一人の役をもらへば、それだけで、ほかの芝居なら主役の臺詞に相當するほどの分量がある。世間はこれを|水島流の臺詞《ヽヽヽヽヽヽ》と呼んで嗤《わら》つた。未熟な役者がむきになつてその長臺詞をまくし立てると、息繼ぎがうまく行かなくなつて、息が切迫して、たうとうどこかの新人劇團に、稽古《けいこ》中に腦貧血を起すさわぎがあつた。」(傍点村松)
文中の「水島流」を「三島流」とおきかえても、この文章はそのまま通用するのではないか。朗唱術《デクラマシオン》と呼ばれる詩的な長ぜりふを、三島はたぶんフランスの古典劇から学んだ。ルイ・ジュヴェの『俳優の回想』には、
「デクラマシオンは音節を完璧《かんぺき》に表現することを、明瞭《めいりよう》な発音を、正確にいうことを要求する」、
と書かれている。
日本の新劇には、デクラマシオンの伝統がない。演出家も俳優もその点には苦労したようで、『鹿鳴館《ろくめいくわん》』いらい三島のいくつかの戯曲を演出して来た松浦竹夫は同じ『熱帶樹』のプログラムに「感想」を寄せ、新劇人一般の演劇観の偏《かたよ》りを指摘していた。
「僕は、三島のイキの長い文体の作品をいくつか手掛けてきて、益々《ますます》その(伝統の缺如による)難しさを痛感するだけだ。」
「常に心理《ヽヽ》から出発しなければ|語れない《ヽヽヽヽ》という、日本演劇の悪い習慣はなんとか打ち破らなければならない。|語ること《ヽヽヽヽ》それ自体が、劇的行為を立派に生み出し、それによって内面を伝えうる場合があるということの認識を俳優が本当に持たなければ駄目だ。」(傍点原著者)
三島は『朱雀《すざく》家の滅亡』の終幕では朱雀|經隆《つねたか》と松永|璃津子《りつこ》とに、『わが友ヒットラー』ではグレゴール・シュトラッサーに、全集版で三頁にもわたる長ぜりふをいわせる。『わが友ヒットラー』には、日常会話は一行もない。
彼はデクラマシオンを日本の新劇に、かりにはじめてではなかったとしても、はじめて大がかりに導入した作家だった。
2
『鏡子の家』をあいだにはさんで、三島は二つのすぐれた戯曲を書いた。
まえの方は、『薔薇《ばら》と海賊』である。『熱帶樹』が『鏡子の家』の完成後の作品だったのにたいして、同じ三幕の『薔薇と海賊』は『鏡子の家』起稿の直前に書き上げられた。この芝居の末尾には「一九五八・三・三」と脱稿の日付がしるされていて、三月三日は『鏡子の家』にとりかかる二週間まえにあたる。
『薔薇と海賊』の着想は、前年の九月にニュー・ヨークでロイヤル・バレエ団の『眠れる森の美女』を見たときに得たと、三島は説明している。着想はそうだったとしても、『眠れる森の美女』のただよわせる西洋中世の雰囲気《ふんいき》はここにはない。子どもたちの合唱や海賊のはなしが劇中に出て来ることからも容易に察しられるように、作者は『ピーター・パン』の物語を適宜に利用しているのである。(薔薇の花の歌も、『ピーター・パン』では歌われる。)
劇の女主人公|楓阿里子《かえでありこ》は高名な女流童話作家であり、その家に松山帝一という青年がたずねて来る。帝一は三十歳にもなるのに、自分が童話の主人公のユーカリ少年であると信じて疑わない。
阿里子は少女時代に夕暮の公園で行きずりの男に犯され、犯した男は贖罪《しよくざい》の念と愛情とから「親の反對を押し切つて」彼女と結婚した。結婚後の阿里子は夫が自分の身体《からだ》に手を触れることを頑《かたく》なに拒み、「『神聖な純潔』といふ固い貝殼《かひがら》の中に」こもって、童話の世界に生甲斐《いきがい》を見出《みい》だして来た。
彼女は帝一が童話の夢から抜け出せないでいることを知って、はじめは彼にいってきかせる。
「あなたは人よりずいぶん永いこと夢の中に生きていらしたんだから、これからはいつか目をさまさなければならない時が來ます。|あなたの目ざめはほかの人より辛くて苦しい《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。|でも仕方がない《ヽヽヽヽヽヽヽ》、|それだけ深くそれだけ永く幸福な夢の中に生きていらしたんですもの《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。夢に溺《おぼ》れることはもう毒ですわ。目をさまさなければ……」(傍点村松)
三島が童話的な夢想の世界からの脱出に長く苦しんだことは、くりかえすまでもないだろう。阿里子の口をかりて、作者は明かに自分自身を語っている。
しかし帝一は阿里子に、
「先生、どうして目をさまさなくてはいけないの?」
と問い返し、ついには楓阿里子の方も帝一と一緒に「僕たちの王國」に向かう船のなかにいるような気分になる。
帝一[#「帝一」はゴシック体] (部屋の天井を見上げて)この家は船なんだよ。船なんだよ。僕たちは海賊船を占領したんだ。さうして僕たちの王國へ舳先《へさき》を向けたんだ。帆が風にはためいてゐる。きこえない? きこえない? 白い何百羽の鴎《かもめ》が一せいに羽搏《はばた》いてるやうなあの音が。
楓[#「楓」はゴシック体] きこえるわ。
帝一[#「帝一」はゴシック体] 僕たちの航海がはじまつたんだよ。
『薔薇と海賊』の初演のさいに、三島は文学座のプログラム――「文学座 1958・7」――で次のように述べていた。
「世界は虚妄《きよまう》だ、といふのは一つの觀點であつて、世界は薔薇だ、と言ひ直すことだつてできる。しかしこんな言ひ直しはなかなか通じない。目に見える薔薇といふ花があり、それがどこの庭にも咲き、誰もよく見てゐるのに、それでも『世界は薔薇だ』といへば、キチガヒだと思はれ、『世界は虚妄だ』といへば、すらすらと受け入れられて、あまつさへ哲學者としての尊敬すら受ける。こいつは全く不合理だ。虚妄なんて花はどこにも咲いてやしない。」(『「薔薇と海賊」について』)
二十歳になるまでの三島は、まさに虚妄の薔薇という表現がふさわしい世界に生きていた。『金閣寺』によって青春との訣別《けつべつ》をなしとげたという自信を抱いた彼は、安心してもう一度、その薔薇の園に立ちもどる気になったのだろう。
作中の阿里子は、虚妄の薔薇を守りつづける。
「本曲の女主人公楓阿里子は、身を以《もつ》て、生活を犧牲にして、この不合理に耐へて來た女である。それがこの不合理をものともせず、『世界は薔薇だ』と言ひ切る、少々イカれた青年の突然の訪問をうける。二人の間に戀が生れなかつたらふしぎである。」
三島がこの芝居の想をニュー・ヨークで練っていたときに、彼が初恋のひとと会ったことはまえに触れた。(出会いは、一年半ぶりだった。)
この出会いも手伝ってか『薔薇と海賊』は恋愛劇として書かれ、作者は芝居の中軸が恋にあることをくりかえし強調しているのである。
「本曲で私が眼目としたのは、阿里子と帝一のラヴ・シーンである。このラヴ・シーンが成功せずに、本曲が成功するといふことは、金輪際ありえない。」
「本曲のラヴ・シーンは、クラシック・バレエのラヴ・シーンの如《ごと》きものである。その感情は眞率で、シニシズムも自意識も羞恥《しうち》も懷疑も一つのこらずその場から追つ拂はれてゐなければならない。それは甘い、甘い、甘い、糖蜜《たうみつ》よりも、この世の一等甘いものよりも甘い、ラヴ・シーンでなければならない。この喜劇の中で、ラヴ・シーンだけは嚴肅でなければならない。なぜならこの芝居における人を笑はせる要素はすべて、(中略)ラヴ・シーンの純粹性を確保するために、企《たくら》まれたものだからである。私はわざと本曲に、『喜劇』と銘打つことを避けた。」
情慾を嫌悪《けんお》する女と「性慾を持たぬ男」とが清純な恋に落ち、帝一は楓阿里子の家に住むと宣言する。狼狽《ろうばい》した阿里子の夫や周辺の人びとは、帝一が眠っているあいだに万能の力をもつ――と彼が信じている――「薔薇の短劍」を、ひそかに奪いとる。
帝一は絶望して「みんな海賊だ、みんな敵なんだ」といい、彼を元気づけようとする阿里子に、「戀の破局」の章で引用したあの悲歎のことばを口にする。
帝一[#「帝一」はゴシック体] 船の帆は、でも破けちやつた。帆柱はもう折れちやつたんだ。
楓[#「楓」はゴシック体] その帆を繕ふのよ。私は女よ。御裁縫は巧《うま》いわ。
帝一[#「帝一」はゴシック体] だめだ。もう帆はもとに戻らないんだ。
楓[#「楓」はゴシック体] でも空には新しい風が光つてゐるわ。手でつかむのよ。
帝一[#「帝一」はゴシック体] (手をのばして空氣をつかむ)だめだ、指のあひだから風が逃げちやふ。
(中略)
帝一[#「帝一」はゴシック体] 阿里子……。
楓[#「楓」はゴシック体] え?
帝一[#「帝一」はゴシック体] 僕は一つだけ嘘《うそ》をついてたんだよ。王國なんてなかつたんだよ。
三島の実人生のうえでは、彼の夢想の「王國」は敗戦とK子嬢の婚約とによって空に帰した。
しかし芝居の方では次の第三幕で帝一が死者たちの亡霊の助けによって短剣をとりもどし、その剣の力で全員を追払って彼は阿里子と結婚式を挙げる。二人は阿里子の童話に登場するジャラジャラ魔や犬のマフマフなどにかこまれ、薔薇の宝石をちりばめた冠を頭にかぶる。
帝一[#「帝一」はゴシック体] ねえ、君。
楓[#「楓」はゴシック体] え?
帝一[#「帝一」はゴシック体] 僕たちは夢を見てゐるんではないだらうね。
楓[#「楓」はゴシック体] 大丈夫よ。私に委《まか》せておおきなさい。たとへあなたの見てゐるものが夢だとしても。
帝一[#「帝一」はゴシック体] うん。
楓[#「楓」はゴシック体] (キッパリと)私は決して夢なんぞ見たことはありません。
幕切れのこの楓阿里子のせりふが、いかに効果的であることか。
三島がつねに作品の結末の部分に工夫を凝らし、小説の場合でさえ最後の情景が脳裡《のうり》に浮かばないかぎり筆をとらなかったことは、ひろく知られているだろう。『鏡子の家』に関しても、鏡子の夫が「七|疋《ひき》のシェパァドとグレートデン」を先頭に家にもどって来る巻末の部分の原稿は、はやくからでき上っていた。(『鏡子の家』の冒頭と末尾との枠《わく》の部分は、中身にくらべてずっと光って見える。)
『薔薇と海賊』は三島の成功した戯曲の殆《ほとん》どがそうであるように、すべての筋立てが幕切れの一句に向かって流れて行く。「私は決して夢なんぞ見たことはありません」と阿里子が「キッパリと」いい切ったとき、虚妄と現実との関係は逆転し、彼女は夢という「真実」の世界の文字どおり女王の位置に坐《すわ》る。
三島が新劇のために書いた作品としては『鹿鳴館』(昭和三十一年)が、新派でまで上演されたこともあって一般的にはたぶんもっとも名高い。
「しかし『鹿鳴館』をロマンチックな芝居とすればこの『薔薇と海賊』は、|私流にずつとリアリスティックな芝居である《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。」(傍点村松)
『薔薇と海賊』の初演にさき立って「毎日マンスリー」に発表した短文、『薔薇と海賊について』のなかで、三島はそのように説明している。『鹿鳴館』はたしかに「ロマンチックな芝居」の部類にはいるにしても、ジャラジャラ魔やマフマフや幽霊が出て来る『薔薇と海賊』を、彼が「私流にずつとリアリスティックな芝居」と呼んでいることは注目に価《あた》いする。
玩具箱《おもちやばこ》をひっくりかえしたような世界とも見えかねないこの芝居は、三島の青春の劇であり、彼にとってはまぎれもないリアリティーの表現だった。昭和三十年ごろに身辺に起こったいくつかの「事件」は、「私は少年時代に夢みたことをみんなやつてしまつた」と日記(『小説家の休暇』)にしるすほどの充足感を彼にもたらし、そのことやニュー・ヨークでのK子夫人との再会が、第三幕の「甘い、甘い、甘い」二人の愛の達成を書くことを可能にさせたと推定される。
三島は松浦竹夫とともに組織していた劇団浪曼劇場に、死の前月の昭和四十五年十月二十二日から、『薔薇と海賊』を再演させた。三島生前の最後の公演であり、第二幕のおわりで彼が二度も泣いたことはまえに触れた。
劇団は十一月二日に東京公演をすませて地方に行き、関西公演の打上げが十一月二十三日だった。三島の死の、二日まえである。
3
『熱帶樹』には、ギリシヤ悲劇のコロス(合唱隊)に相当する人物が登場する。
郁子の父の従妹《いとこ》にあたるこの婦人は郁子の家に寄寓《きぐう》していて、「人は死に絶え、笑ひはのこる」というような唄《うた》を絶えず口ずさむ。彼女の夫は長い患《わずら》いののちに死に、それいらい彼女は自分の人生は「何もかも終つてしまつた」と思っている。
人間が死んでも世界は少しも変らないことを、信子という名の彼女は病床の郁子に熱心に説明してきかせるのである。
「あの人が死んでも、毎朝きちんと郵便配達の來るこの世界。家《うち》のちかくの急な坂の途中に、晝間でも門燈をともしてゐる變な家があつたの。あの人が死んでも、晝間そこの煤《すす》けた門燈は、乳色の硝子《ガラス》の珠《たま》に半分うすい日ざしを浴びながら、いつものやうに灯《とも》つてゐたわ。……今日も汽車は時刻表どほりに發車し、今日も銀行は同じ時刻に鎧戸《よろひど》をあげる。何一つ變りはしないの。何をしたつて、あの人が死んだつて、人を殺したつて、何一つ變りはしないの。世界は、呼んでも谺《こだま》の返らないふしぎな場所、どんなことをしても手の屆かないふしぎな場所なの。」(第一幕)
信子のこのせりふは『鏡子の家』のなかで杉本清一郎が鏡子に向かっていうことばと、ひとつの手袋の裏と表のように似ている。
「會社への往復の路《みち》の赤いポストが、永久にそこに在ると思つたら、どうして嘔氣《はきけ》も恐怖もなしにその路をとほることができるだらう。(中略)俺《おれ》が往復の路のポストに我慢でき、その存在をゆるしてやれるのは、俺が毎朝驛で會ふあざらしのやうな顏の驛長の生存をゆるしておけるのは、俺が會社のエレヴェータアの卵いろの壁をゆるしておけるのは、俺が晝休みに屋上で見上げるふやけたアド・バルーンをゆるしておけるのは、……何もかもこの世界がいづれ滅びるといふ確信のおかげなのさ」。
両者のちがいは日常的な世界が必ずほろびると清一郎が確信しているのにたいして、信子は逆に人間が死のうとひとを殺そうと、世界は動かないと信じている点にある。つまり『熱帶樹』のコロスは運命や神々の意志をではなく、人間のほろびのむなしさをうたう。
だが信子が何といおうと、郁子は母を殺して兄と一緒に海で死のうとする夢を棄《す》てはしない。母が父を殺して財産を横領しようと企てていることは、兄の勇も知っている。郁子に激励されて勇が決心をかため、母を殺すために彼女の寝室にはいって行くと、母親はすぐに目をさまし、寝間着の胸を開いて乳房を息子に見せる。
アイスキュロスの『供養《くよう》する女たち』では、母親のクリュタイメストラは息子のオレステスが自分を殺そうとしていると悟ったとき、跪《ひざまず》いて胸の衣を裂き、乳房を彼にさし出して哀願した。
「お待ち、待つておくれ、オレステス、これを憚《はばか》つて、これに免じて、吾子《あこ》、この乳房《おちち》、それへ縋《すが》つて、お前がたびたび、眠《ね》こけながらも、齒齦《はぐき》に噛《か》みしめ、たつぷりおいしい母乳《おちち》を飮んだぢやないの。」(呉茂一《くれしげいち》訳)
それでもオレステスは、この母を殺した。三島のオレステスである勇は母を恋しているから、乳房を見せられるととたんに殺意が萎《な》える。母親の死のしらせを期待に胸をふくらませて待っていた郁子のまえに、当の母親がガウン姿のまま意気揚々とあらわれ、一部始終を彼女に説明する。
「私の白いふくよかな豐かな胸が、枕《まくら》もとのあかりの下に露《あら》はになつたの。……それからどうしたと思つて? 郁子。母親に一等ふさはしいことを私はしたのよ。今しも私を殺さうとした息子の顏を、私は兩手で抱いて、ほほゑみながら、自分の白い豐かな乳房の間へ押しつけたの。……ほんの短かい間、勇は大人しくそこへじつと顏を押しつけてゐた。汗だらけになつたあの子の頬《ほほ》が、私の乳房にはつきり感じられた。……ほんの短かい間、それでもそれはたとしへもなく永い、甘い、たゆたふやうな時間だつたわ。あなたなんかの決して知らない時間だつたわ。……」
長ぜりふをアリヤのようにうたったのちに彼女は勝誇って去り、残された郁子は「お兄樣」と呼びかける。
「いいのよ。お兄樣に罰をあげる。御褒美《ごほうび》にと思つてゐたものを、罰にあげるわ。(兄の胸に頬をあてて)まだ、こんなに動悸《どうき》を打つてゐるのね。(顏を見上げて)お顏にもひどい汗。可哀想《かはいさう》に。……可哀想に。(手をとつて)いらつしやい。」
郁子は母親から意気地のない兄を奪い返すためにすすんで彼に身を委《ゆだ》ね、次には自分を自転車に乗せて海につれて行ってほしいとたのむ。「この白い寢間着のまま、お兄樣の肩につかまつて、海まで自轉車で連れて行つてもらふんだわ」とは、彼女がすでに第一幕で口にしていたことばだった。その実行を、いまは愛人となった兄に郁子は求めるのである。
郁子[#「郁子」はゴシック体] 月に光る靜かな海を、ゆつくりと運ばれてゆくんだわ。手をつないだまま……。
勇[#「勇」はゴシック体] (慄然《りつぜん》として)手をつないだまま!
郁子[#「郁子」はゴシック体] ねえ、一緒に行きませうね、どこまでも一緒に。
勇[#「勇」はゴシック体] 行かう、郁子、きつと行かうね。
二人の家出の報告役は、当然コロスがつとめる。
信子は「お起きになつて! お起きになつて! 大變だわ」と夫婦にいい、若い二人が自転車に乗って出て行った情景を説明する。
「郁子さんは跣足《はだし》で、白い裾長《すそなが》の寢間着のまま、勇さんの肩に手をかけて笑つてゐました。(中略)郁子さんの白い裾は風をはらんで、本當の花嫁のやうに見えましたわ。今式をあげたばかりの眞白な花嫁のやうに。……自轉車は走り出し、門の前の急な坂を一散に下りて行きました。二人とも幸福さうに笑つてゐましたわ。あんな美しい若々しい微笑を、この家でまだ見たことがありません。」
心中する若い男女の喜悦にみちた姿を三島がえがいたのは――『盜賊』の代理心中をべつとすれば――、『岬《みさき》にての物語』いらいのことだった。
『熱帶樹』には母と息子との異様な関係といい、兄妹間の愛情といい、三島自身の経験した家庭環境のある面が――むろん極度に誇張されて――反映しているのかも知れない。
しかし同時にまた三島は、作中の妹の名を郁子とした。初恋のひとを明かにモデルとしている『純白の夜』の女主人公の名が、同じ郁子である。初期の短篇小説『罪びと』の主人公の婚約者もやはり郁子と名づけられていて、『罪びと』の場合にはK子嬢と妹の美津子さんとの影が同一人物中にまざりあっている。
三つの作品に同じ郁子の名がつかわれているのは何か特別の意味があってのことかと、『熱帶樹』にはなしが及んだときに三島にたずねたことがある。
――そんなことに気がつくのは、きみくらいのものだろう。
彼は苦笑しながらこたえ、
――『純白の夜』のときには、そのまえにつきあっていた女の名まえと字の感じが似ていたので郁子としたんだよ。
それ以上はいいたくないという風だったので、こちらも話題をほかに転じた。『純白の夜』の郁子がK子嬢を意識しての命名だったとすれば、それから十年をへているとはいえ『熱帶樹』の郁子が、まったく偶然につけられた名とは考えにくい。
初恋のころに書かれた『サーカス』いらいの心中願望を、『熱帶樹』で三島は兄妹|相姦《そうかん》という形で実現した。その意味ではこの悲劇にもまた、彼の青春の刻印が深く刻み込まれている。
『盜賊』を書き上げてからの三島は、死への希求をモティーフとする作品を書いたことがなかった。『假面の告白』以後の長篇はいずれも生への模索の表現であり、そのために過去の自分から離脱しようとする努力のつみ重ねだった。『鏡子の家』のあとの『熱帶樹』にいたって、戯曲という形式によってだが、十年ぶりに彼は死への願望をえがく。
二年まえの『薔薇《ばら》と海賊』は、ハッピイ・エンドの劇だった。『熱帶樹』とともに復活した死への願望は、彼の作品のなかで次第にその影を濃くして行く。第二の人生への出発を飾るはずだった『鏡子の家』の不評による挫折感《ざせつかん》と、これは無関係ではないだろう。
『熱帶樹』初演の年の秋に、彼は青年将校とその若い妻との自刃の物語、『憂國』を書くのである。
4
『熱帶樹』の次の作品は、戯曲では『弱法師《よろぼし》』だった。
『弱法師』は三島の『近代能樂集』に収められた八篇のうちの最後の戯曲であり、内容もほかの七つの一幕ものとはきわだってちがっている。『綾《あや》の鼓《つづみ》』や『卒塔婆小町《そとばこまち》』や『葵上《あふひのうへ》』のように恋が主題ではなく、主役はここでは終末観そのものであるといってよい。
能の『弱法師』では高安の左衞門尉通俊《さえもんのじようみちとし》という人物が、一人息子の俊徳丸《しゆんとくまる》を「さる人の讒言《ざんげん》によつて」追放し、あとで後悔して子どもの安楽を祈るために天王寺で七日間の施行を行なう。そこに盲目の弱法師(乞食僧)となった俊徳丸が来あわせ、親子はめでたく再会をとげる。
三島の『弱法師』の舞台は、家庭裁判所の一室である。俊徳《としのり》という青年は五歳のときに空襲にあって失明し、実の父母とはぐれて、爾来《じらい》他家で育てられて来た。彼が生きていることを十五年後に知った実の親が息子をかえしてほしいといい、養父母がこれを拒否した結果、争いは家庭裁判所にもち込まれる。
ところがその場に姿をあらわした俊徳は、十五年ぶりに実の父母の声をきいても何の感動も示さない。実母の高安夫人に向かって、「この世はもう終つてゐる」と彼はいい放つ。
「この世はもう終つてゐるんだから。わかりますか。あなたが幽靈でなければ、この世界が幽靈なんだ。この世界が幽靈でなければ、(ト高安夫人をキッと指さして)あなたが幽靈なんだ。」
俊徳は空襲で失明する直前に、この世の終りを見たと思った。そのことを親たちが別室に去ってから、彼は調停委員の櫻間|級子《しなこ》に説明する。
「僕はたしかにこの世のをはりを見た。五つのとき、戰爭の最後の年、僕の目を炎で灼《や》いたその最後の炎までも見た。それ以來、いつも僕の目の前には、この世のをはりの焔《ほのほ》が燃えさかつてゐるんです。」
「見える? 見えるだらう? あちこちで人間が燃えてゐるのが。(中略)……さうだ。川も人間でいつぱいだつた。川が見える。川のおもてはもう何も映さなくなり、ぎつしり詰つて浮んだ人間が、少しづつ海のはうへ動いてゐた。葡萄《ぶだう》いろの雲が垂れ込めてゐる海のはうへ。」
能の『弱法師』では俊徳丸は「日想觀を拜み候《さうら》へ」といわれて、極楽の東門と向かいあっていると伝えられる天王寺の西門の方を拝する。日想観はいうまでもなく日没を観じて極楽浄土を想《おも》うことを意味し、浄土に生まれるための十六観の第一とされる。これにたいして三島の俊徳は、家庭裁判所の「古ぼけた西の門」が、「丁度地獄の東の門へ向つてゐる」という。
また能の俊徳丸はむかし見知っていた難波《なにわ》の岸辺に立って、
「盲目の悲しさは、貴賤《きせん》の人に行き逢《あ》ひの、轉び漂ひ難波江の、足もとはよろよろと、げにもまことの弱法師とて、人は笑ひ給《たま》ふぞや。思へば恥かしやな、今は狂ひ候はじ、今よりはさらに狂はじ。」
盲目の身を歎《なげ》いて着座するのだが、三島の俊徳はこれとは反対に盲目の幸せを、実の父母や養い親の川島夫婦のまえで誇ってみせる。
俊徳[#「俊徳」はゴシック体] さうです。僕は地下鐵に乘つたり、デパートで買物をしたりするのも平氣だ。他人の日常生活をとやかく言ふには當らない。ただ不幸なことに、目あきには自分の日常生活の繪がまざまざと見え、僕には倖《しあは》せにもそれが見えないだけ。(中略)……僕は平氣だ、庭の草花に水をやつたり、芝刈り機を動かしたりすることも。怖《おそ》ろしいことを見ずにやれる! だつて、もう終つてしまつた世界に花が咲きだすのは怖ろしいことぢやないか。もう終つてしまつた世界の土に水を灌《そそ》ぐのは!
川島夫人[#「川島夫人」はゴシック体] さうですとも。怖ろしいことだわ。
川島[#「川島」はゴシック体] われわれはみんな恐怖のなかに生きてゐるんだよ。
俊徳[#「俊徳」はゴシック体] ただあなた方はその恐怖を意識してゐない、屍《しかばね》のやうに生きてゐる。
川島[#「川島」はゴシック体] さうだ。われわれは屍だよ。
親たちは俊徳の機嫌《きげん》をそこねることをおそれて、ひたすら彼のことばに同調する。
三島はこの芝居では、能の『弱法師』から親と別れた盲《めしい》の青年という設定だけを借り、仏法による救いをほろびへの確信に逆転させた。父親との和解は、ここにはない。この世の終りを見たという確信のみが、主人公を支えている。
しかし俊徳に阿諛《あゆ》する二組の夫婦とはちがって、調停委員の櫻間級子は彼の絶望の裏にある甘えを見抜いていた。窓の外の真紅の夕映えに世界の滅亡を見たはずだという俊徳のことばに、級子は「いいえ、見ないわ」とこたえる。
俊徳[#「俊徳」はゴシック体] うそだ。見たのを隱してゐるんだ。
級子[#「級子」はゴシック体] (やさしく)いいえ、本當に見ないわ。見たのは夕映えだけ。
俊徳[#「俊徳」はゴシック体] うそだ。
級子[#「級子」はゴシック体] 私は嘘《うそ》は言へません。
(中略)
俊徳[#「俊徳」はゴシック体] (―間《ま》)君は僕から奪はうとしてゐるんだね。この世のをはりの景色を。
級子[#「級子」はゴシック体] さうですわ。それが私の役目です。
俊徳[#「俊徳」はゴシック体] それがなくては僕が生きて行けない。それを承知で奪はうとするんだね。
級子[#「級子」はゴシック体] ええ。
俊徳[#「俊徳」はゴシック体] 死んでもいいんだね、僕が。
級子[#「級子」はゴシック体] (微笑する)あなたはもう死んでゐたんです。
『弱法師』は昭和四十年の五月に劇団NLTによってはじめて公演され、三島はこのときのプログラムに掲載された座談会で、作者としての意図を簡潔に説明している。
「終末感に腰をすえた少年が、いかに大人の世界に復讐《ふくしゆう》するかっていう話ですね。それが『弱法師』に象徴されている。大人は皆、馬鹿《ばか》に書かれている。大人の中で一人母性的な、調停委員の級子だけが、彼にとってどうにもならないもので、それにぶつかって彼もさすがに一種のコケットリィで対処するほかなくなっちゃうってところを現わしているんです。」
この世が「もう終つてゐる」と主張している以上、俊徳は「あなたはもう死んでゐたんです」という級子のことばに、抗辯することができない。困惑する彼を級子は優しく遇し、俊徳は彼女に甘えて食事をとり寄せてほしいとたのむ。級子は承諾して、
級子[#「級子」はゴシック体] 待つてゐてね。すぐかへるわ。
俊徳[#「俊徳」はゴシック体] うん。(級子微笑を殘して去りかける)……ねえ……。
級子[#「級子」はゴシック体] え?
俊徳[#「俊徳」はゴシック体] 僕つてね、……どうしてだか、誰からも愛されるんだよ。
俊徳が「明るい部屋に」、「一人ぽつねんと」残されて幕が下りる。
彼のこの最後のせりふについて三島は同じ座談会のなかで、俊徳には「一種のナルシシズムとコケトリー以外に対処する方法|しか《〈ママ〉》なくなっちゃうもんでね、まあ窮地に追いつめられた一言なんだよね、彼にとっては」という註釈を加えている。
「つまり現実的なもの全部に対する敗北なんだよ、あの言葉がね。」
終末論的な世界観が、現実に敗れる。堅牢《けんろう》な――「何一つ變りはしないの」と『熱帶樹』の信子がいう――現実世界との対立は死への願望が彼の作中で濃度を深めるとともに、不可避的に新しい主題として浮かび上って来るのである。
家庭裁判所に三島がある事件の参考人として姿を見せたと母からきいたのは、昭和三十二年ごろのことだったと思う。
――私の担当ではありませんけれど、驚いたわ。
母はそのころから、調停委員をつとめていた。事件の内容については職務上の秘密とかで母は何もいわなかったし、こちらも当時そういう問題には関心がなく、穿鑿《せんさく》する気にもならなかった。(いまの老母は、そんな事件があったこと自体を忘れてしまっている。)
三島の死後ずいぶんたってから二、三のひとに教えられたところでは、ことがらはある夫婦の離婚問題にからんでいたという。夫人の方は三島の妹の美津子さんと、三輪田高女時代の同級生だった。
彼女と三島とが懇意にしていたために、嫉妬心《しつとしん》のつよい夫にその仲を疑われ、当惑した夫人の要請によっていわば証人として彼は裁判所に出向いた。三島の証言が効を奏したのか、担当の調停委員は夫人に同情的な措置をとったそうである。
『弱法師』の家庭裁判所の場面は、たぶんこのときの経験にもとづいている。三島の母堂の倭文重さんが調停委員になられたのは、『弱法師』の執筆よりもさらに五年くらいあとだった。
妻と三島との仲を疑った夫は、ひろい教養をもつ多少ディレッタント的な実業家だったとの由《よし》であり、その点では『憂國』の次に書かれた中篇『獸の戲《たはむ》れ』の夫と似ていなくもない。『獸の戲れ』は、死によって愛を完成する三人の男女の物語だった。
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二つの事件――脅迫と告訴
1
深澤七郎の『風流|夢譚《むたん》』に触発されて、三島は『憂國』を書いたのではないか。
そういう意味のことを井出孫六が、これは自分の「想像」だがとことわりながら、その回想のなかにしるしている。井出氏は『憂國』の原稿を、馬込の三島の新居にうけとりに行ったひとである。
氏は当時――昭和三十五年――、「小説中央公論」の編集部に勤務していた。『憂國』の末尾には「一九六〇、一〇、一六」という脱稿の日付があり、三島は夜中から明方にかけて仕事をするのがふつうだったから、井出氏が馬込に行ったのは十月十六日の午後だったと推定される。同じ氏の回想文によれば、三島はテラスに出て半裸のまま遅い朝食をとっていた。
彼は「一字一句印刷したようにきれいな」小説の原稿を井出氏にわたすと、すぐに深澤七郎の『風流夢譚』のはなしをはじめた。
「三島さんは深沢さんの新作『風流夢譚』を生原稿で読んでいたらしく、それを話題にしながら、こう言った。
『社にもどったら、例の深沢さんの新作とこの『憂国』を並べて載せたらどうかと、編集長に伝えといてください』
むろん、わたしは帰社後、三島さんのことばを復唱しはしたけれども、『憂国』は予定通りわたしの従事していた小説雑誌に、そして『風流夢譚』はややおくれて『中央公論』にべつべつに掲載されることになってしまった。」(『衝撃のブラックユーモア――深沢七郎「風流夢譚」』、「新潮」昭和六十三年十二月号所収)
『憂國』と『風流夢譚』とを同じ雑誌に併載することによって、皇族|惨殺《ざんさつ》の夢想譚をえがいた深澤氏の小説の毒を、少しは減殺《げんさい》できると三島は考えていたようだったと、井出氏は述懐する。もっとも井出氏は「中央公論」誌の担当ではなく、この時点では『風流夢譚』の内容をまったく知らなかった。
深澤七郎の『楢山節考《ならやまぶしこう》』が昭和三十一年に第一回中央公論新人賞をうけたときいらい、三島は武田泰淳《たけだたいじゆん》、伊藤整とともに賞の銓衡《せんこう》委員をつとめていた。昭和三十四年にやはり中央公論社から刊行された深澤七郎の短篇集、『東京のプリンスたち』にも、彼は帯に推薦の辞を寄せている。そういう経緯もあって「中央公論」の編集部は、三島に『風流夢譚』の原稿を一応見せたのだろう。(原稿は、武田泰淳の手許《てもと》にも届けられた。)
『風流夢譚』を読んで三島がこれをどう考えたかについては、一行の文章も残されていない。感想を直接きいたこともなく、したがって単なる推測としていうのだが、この夢想譚に彼は不快感を抱いたろうと思う。
三島は敗戦後の緊張感を缺《か》いた平和な社会を嫌《きら》いぬいていて、その意味では彼のなかには殺人者やアナーキスト的なものに、つよく共感する部分があった。昭和四十年代に過激派学生の集会にわざわざ出かけて行ったことにも、それはあらわれている。昭和三十六年に発表された『魔――現代的状況の象徴的構圖』と題する論文の前半は、路上で行きあった未知の若い女を刺すいわゆる「通り魔」の心情についての、文学的哲学的考察だった。
しかしその一方で彼が伝統と古典的な美との信奉者だったことは、改めていうまでもない。皇太子の御成婚のときに三島は『カンタータ「祝婚歌」』を書き、『日本書紀』のなかの相聞歌を模したこの祝婚の歌に、黛敏郎が音楽を付した。カンタータはNHK交響楽団によって、御成婚の当日演奏されているのである。指揮者は、ヴィルヘルム・シュヒターだった。
世界の破滅をねがう伝統主義者、またはアナーキスト的な心情を懐抱する古典主義者、とでもいったらよいだろうか。天皇の問題はこのころはまだ彼の文学上の主題とはなっていなかったにせよ、『風流夢譚』のことさらに野卑なことばづかいをまじえた白昼夢は、この古典主義者の美意識にはあいそうにない。
それに三島は御成婚前の美智子妃――現在の皇后――を、ほんのわずかながら知ってもいた。昭和三十二年に後年の美智子妃が聖心女子大学を卒業されたときには、どういう事情によるのか、彼は倭文重《しずえ》さんと一緒にその卒業式の参観に行っている。(参観は、あるいは美智子妃とは無関係だったかも知れない。)
『風流夢譚』は三島のつよい推挽《すいばん》によって「中央公論」に掲載されたという噂《うわさ》が、後日|流布《るふ》された。三島は声明を発表して自分は推薦などした覚えはないといい、深澤七郎のような既成の作家の作品について雑誌掲載の可否を決定する権限は、当の雑誌編集部以外にはないことを力説した。外部の人間が編集に口をはさむことが許されるものではなく、
「編集権を侵害しないというモラルは、ぼく自身いつも守ってきたはずだ。」(『三島由紀夫氏の声明――「風流夢譚」の推薦者ではない――』、「週刊新潮」昭和三十六年二月二十七日号)
推薦どころか三島は、『風流夢譚』の発表が惹《ひ》き起こす社会的反響を心配していた。だからこそ彼は自分の『憂國』との併載を、井出氏にすすめた。
井出氏のはなしではこのときの三島の表情はきわめて深刻であり、『風流夢譚』の発表が何らかの不祥事を招くことを、直観的に予想しているように見えたとの由《よし》である。『憂國』の執筆それ自体が『風流夢譚』にみちびかれたのではないかという井出氏の推測は、三島からうけたこの印象に由来する。
「三島さんのサーヴィス精神を思えば、あるいは、深沢さんの『風流夢譚』にふくまれた毒に触発され、その毒を消さんがために、三島由紀夫は一気呵成《いつきかせい》に『憂国』を書いたのではなかったかとすら、いまわたしは想像することがある。」(『衝撃のブラックユーモア――深沢七郎「風流夢譚」』)
『憂國』は周知のように、二・二六事件を背景とした短篇である。
主人公の青年将校は、美しい妻を迎えたばかりだった。そのことへのいたわりからか、同志の将校たちは「蹶《けつ》起」のしらせを主人公に伝えない。「蹶起」部隊は数日後には叛乱《はんらん》軍となり、彼は逆に盟友を討つ方のがわに立たされる。
自裁をただちに彼は決意し、妻と最後の情熱的な愛の交りをかわしたのちに、古式どおりの切腹をとげる。若い妻も、夫の死を見とどけてから自害する。
『熱帶樹』とともに心中の主題が、三島の文学のなかに十年ぶりで復活したことはまえの章で述べた。その死の劇が、『憂國』でははじめて切腹という形をとってあらわれる。軍人として切腹するのだから、自分の死は「戰場の死と同等同質の死である」と主人公の武山信二|中尉《ちゆうい》は考える。
「これはつかのまのふしぎな幻想に中尉を運んだ。戰場の孤獨な死と目の前の美しい妻と、この二つの次元に足をかけて、ありえやうのない二つの共在を具現して、今自分が死なうとしてゐるといふこの感覺には、言ひしれぬ甘美なものがあつた。|これこそは至福といふものではあるまいかと思はれる《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。」(傍点村松)
『憂國』は「喜劇でも悲劇でもない、一篇の至福の物語であつた」と、三島は『二・二六事件と私』(昭和四十一年六月)のなかで書いている。
「死處《しにどころ》を選ぶことが、同時に、生の最上のよろこびを選ぶことになる、このやうな稀《まれ》な一夜こそ、彼らの至福に他ならない。(中略)このやうな一夜をのがせば、二度と、人生には至福は訪れないといふ確信を、私はどこから得たのであらうか。」
至福としての死への「確信」を根づかせたのは、戦争中の日々だったろう。『憂國』は戦争末期に書かれた『サーカス』、『岬にての物語』の延長線上にある。
ただし『岬にての物語』や『熱帶樹』とはちがって、『憂國』には切腹の痛苦があり、痛苦への予想が二人の肉の交りをいっそうはげしい、甘美なものにする。
「口には出さなかつたけれど、心も體も、さわぐ胸も、これが最後の營みだといふ思ひに湧《わ》き立つてゐた。その『最後の營み』といふ文字は、見えない墨で二人の全身に隈《くま》なく書き込まれてゐるやうであつた。(中略、原文改行)まだ感じられない死苦、この遠い死苦は、彼らの快感を精錬したのである。」
二人は自分たちの死とそれにさき立つ「正當な快樂」とが、「大義と神威に、一分の隙《すき》もない完全な道徳に」、守られていると感じていた。エロスと大義とが、ここでは直結している。白無垢《しろむく》の帯に懐剣をたばさんだ中尉夫人の姿は、殉教者のような清らかさをただよわせるのである。
若者の心には、「若いままの自分の英雄的な死のイメーヂが搖曳《えうえい》してゐる」と三島はいう。
「これは永久に太鼓腹や高血壓とは縁のない死にざまで、死が一つの狂ほしい祝福であり祭典であるやうな事態なのである。」(『魔――現代的状況の象徴的構圖』)
「東京中の連れ込み宿で女と寢てゐる男のうち、一度でも、それを壯烈なすばらしい死を前にした最後の交合だと夢みたことのない者がゐるだらうか?」(同右)
これは少しばかり、過激な断定であろう。若いもののすべてが夭折《ようせつ》に憧《あこが》れるとはいいきれないし、連れ込み宿に行く男の全員が、「壯烈なすばらしい死を前にした最後の交合」を、夢みるとはかぎらない。
三島のなかに根深い「至福の死」への願望を、むしろこの文章はあらわしている。その「至福の死」を、彼は『憂國』によって実現して見せることに成功した。
自分の作品のなかから代表作を一篇だけえらべといわれれば『憂國』とこたえると、三島は講談社版の短篇全集(昭和四十年)の「あとがき」や、映画『憂國』の説明(昭和四十一年)でいい、新潮文庫『花ざかりの森・憂国』(昭和四十三年)の解説でも書いている。最後の解説の方から引用しておくと、
「かつて私は、『もし忙しい人が、三島の小説の中から一編だけ、三島のよいところ悪いところすべてを凝縮したエキスのような小説を読みたいと求めたら、『憂国』の一編を読んでもらえばよい』と書いたことがあるが、この気持には今も変りはない。」
『憂國』の主人公は「小説中央公論」に出た初稿では、近衛輜重兵《このえしちようへい》大隊勤務となっていた。ことさらに輜重兵としたのは三島自身の註釈によると、「武山中尉の劇的境遇を、多少|憐《あは》れな、冷飯を喰《く》はされてゐる地位に置きたいため」だった。しかしろくに武器をもたない輜重兵が、もしも「蹶起」の先頭に立ったとしたらおかしなもので、盟友の討伐も直接にはできない。
また彼は初稿では遺書として、
「皇軍萬歳 陸軍中尉武山信二」
墨痕《ぼつこん》鮮かに、半紙に書き残している。
二・二六事件当時の日本の陸軍では、兵科の区別がはっきりと表示されていて、服の襟章《えりしよう》の色を見ただけでどの兵科に属するかがわかった。(輜重兵なら、藍色《あいいろ》だった。)正式な名乗りは陸軍中尉ではなく、陸軍輜重兵中尉である。
これらの点について三島はのちに末松太平(元陸軍歩兵大尉)から忠告をうけ、昭和四十一年以後の版では「近衞輜重兵大隊勤務」を「近衞歩兵一|聯隊《れんたい》勤務」に、遺書の「陸軍中尉」を「陸軍歩兵中尉」に、それぞれ訂正した。帰宅した夫を玄関に迎えに出た妻が、「軍刀と革帶を」うけとって袖《そで》に抱く場面も、単に「軍刀を抱いて」に変る。革帯まではずして妻にわたしたのでは、軍袴《ぐんこ》がずり落ちてしまう。
要するに三島は二・二六事件のころの軍人の生活を、あまり調査することなしにこの小説を書いた。執筆にとりかかるまえには綿密な調査を行なう彼としては、こういうことは珍しい。それを考えると三島が『風流夢譚』に刺戟《しげき》されて、「一気呵成に『憂国』を書いたのではなかったか」という井出孫六の指摘は、ある説得力をもってくる。
ごく控えめに見ても『風流夢譚』は、それを読んだ直後に彼が書いた『憂國』と、完全に無関係ではないように思う。
2
『風流夢譚』をのせた「中央公論」の十二月号(十一月発売)が書店の店頭に出たときには、三島は日本にいなかった。
彼は十一月一日に夫人とともにアメリカに行き、そのあとヨオロッパ諸国をまわって翌年の一月二十日に帰国した。ニュー・ヨークではグリニッチ・ヴィレッジの小さな実験劇場で、『近代能樂集』の『班女《はんぢよ》』と『葵上』とが上演されるのを見ている。
中央公論社社長の嶋中鵬二《しまなかほうじ》邸を右翼の若者が襲い、女中が刺殺《しさつ》され夫人が重傷を負うという事件が起こったのが、帰国してから約十日後の二月一日だった。三島の家にも脅迫状が頻々《ひんぴん》と舞込み、警察は彼に護衛をつけた。
不祥事の発生を三島は危惧《きぐ》していたにしても、まさか自分が狙《ねら》われる対象となろうとは夢にも思っていなかったはずである。当惑した彼はまえにその一部を引用した声明を、談話の形で「週刊新潮」の「タウン」欄に発表した。
「聞くところによると、例の『風流夢譚』掲載のいきさつについて、中央公論の嶋中社長がその掲載を反対したにもかかわらず、あたかもぼくが圧力かけて掲載させたように伝わっているらしいんです。これはとんでもない誤解で、推薦した事実さえない。」
「しかし、それにもかかわらずぼくの名が使われたとすれば、それは一部の者が苦しまぎれの逃げ口上に使ったのではないか。そう思えば使った者にも同情の余地はあるのだが、迷惑うけるのはこちらだからね。ともかくふりかかった火の粉ははらい落としたいというのが本音だ。」
護衛の警官は二月から三月まで三島の家に泊り込み、彼が外出するさいにはどこにでもついて行った。三島は前年の秋いらい東調布警察に週に一度ずつ通って、吉川正實師範から剣の指導をうけていた。そのうえにこんどは護衛警官の泊り込みであり、警察との縁がにわかに深くなる。
警察との接触は警察を舞台とした戯曲『喜びの琴』(昭和三十八年)の執筆のために、必要な知識を彼に提供することになるだろう。またこの事件が三島が「国粋主義」に向かう契機となったと、主張する編集者もいる。ジョン・ネイスンによると弟の千之《ちゆき》さんもそう考えているとのことで、ネイスンは『三島由紀夫――ある評伝――』で次のようにいう。
「千之は、(中略)三島の『右旋回』が、少なくともその一部分は、このとき三島が経験した『右翼に対する深刻な恐怖』に起因するとすらいうのである。」
しかし右翼に敵視されたから「右旋回」したという説は、どうにも腑《ふ》に落ちかねる。(この稿を書いてからあと、在外勤務をおわって帰国した千之さんにたしかめたところでは、そういうことをいった覚えは自分にはなく、ことばのうえの誤解があったのではないかという説明だった。)
『憂國』を書いたことによって三島は二・二六事件そのものに改めて興味を抱き、青年将校たちの心情への共感を次第につよめたと解する方が、前後の状況からいって自然ではないか。『憂國』では二・二六事件は、「至福」の愛と死とに若い二人をみちびくための舞台だった。
三島自身の映画『憂國』についての説明によれば、
「『憂國』は、いくつかの主題を持つた映畫ですが、そのもつとも大切な主題の一つは、夫婦愛といふことです。この、昭和十年代の青年將校夫妻は、(中略)死の中にだけ、永遠の愛を求め合ひます。」
「この中尉夫妻は、自分で求めたわけではないが、運命と意志によつて、男女の愛の最高の場所に昇りつめるのです。」
作中に「蹶起」の趣旨への言及は、少しもない。事件は文字どおり、「運命」的なできごととして扱われていた。
数年後の三島は、「私は徐々にこの(二・二六事件の)悲劇の本質を理解しつつあるやうに感じた」、と書くようになる。事件に参画して四年の禁錮《きんこ》刑を科せられた末松太平の著書、『私の昭和史』(昭和三十八年刊)を「是非御高覽|相成度《あひなりたく》」という献辞つきで、のちに彼はわざわざ贈ってくれた。第三者の著作を三島からもらったのは、あとにもさきにもこのときだけだった。少々驚いたのだが、ぜひ買って読んでみろとすすめて来るぐらいでは、満足できなかったらしい。
末松氏を三島は自宅に招待し、ぼくもその席に招かれて氏の回顧|譚《たん》をうかがった。蹶起した「同志」が叛乱軍として皇軍の銃によって銃殺されたときには、
――三八式歩兵銃に刻印されている菊の御紋章を、削りとりたい気持でした。
穏かな口調で氏がそういわれたのが、記憶に鮮明に残っている。
三島は後年『英靈の聲』(昭和四十一年)を書き、『「道義的革命」の論理――磯部一等主計の遺稿について』(昭和四十二年)を書き、「蹶起」将校たちにみずからを殆《ほとん》ど同化させて行く。「至福の物語」としての『憂國』は、そこにいたるみちの出発点に位置するのである。
『風流夢譚』の生んだ騒動のほとぼりがさめかけたころ、三島はこんどは元外相有田八郎から訴訟を起こされる。
三島の小説『宴《うたげ》のあと』が有田氏をモデルとしていることは明白であり、氏はこれによってはなはだしいプライヴァシイ上の侵害をこうむったというのが、原告がわのいいぶんだった。三島と出版もとの新潮社とにたいする訴状は、三月十五日に東京地方裁判所に提出される。
『宴のあと』は『鏡子の家』の出版にひきつづいて、昭和三十五年の一月号から十月号まで、「中央公論」に連載された長篇だった。戯曲『熱帶樹』が前述のように『鏡子の家』の刊行の二箇月後に書き上げられ(発表は翌年一月)、その次が『宴のあと』、『憂國』の順序である。戯曲『弱法師《よろぼし》』は、『宴のあと』の連載中に完成されている。
この長篇を執筆するまでの過程については、裁判にさいして被告がわの辯護を担当した辯護士、齋藤直一の書いた文章がある。(『「宴のあと」訴訟事件を想《おも》い三島君を偲《しの》ぶ』、『三島由紀夫全集』第十三巻付録)これによると三島は、
「昭和三十四年四月の東京都知事選に有田八郎氏が立候補した際、対立候補側の中傷運動のため配られたと思われる怪文書を手に入れたり新聞記事を集めたりして、真偽はともかくそれらに表われた有田氏と般若苑《はんにやえん》女将《おかみ》畔上輝井《あぜがみてるい》さんとの関係に興味を持ち、それを素材にし畔上さんにも面接して、(中略)中央公論に畔上さんをモデルにした小説を連載した。」
畔上輝井は快く取材に応じ、有田八郎も連載がおわるまでは格別の抗議はしなかった。齋藤氏の文章では触れられていないけれど、有田氏の気にさわったのは作中の主人公が妻を叩《たた》いたり蹴《け》ったりする場面(第十二章)と、選挙に彼が敗れたあと、妻が吉田茂を思わせる人物の邸《やしき》を訪れ、金策の応援をたのむ箇所(第十七章)とだった。
自分は妻を打擲《ちようちやく》などしたことはいちどもなく、妻が吉田茂に金策の支援を乞《こ》うたという記述も事実無根である、と有田氏はいった。単行本にするさいには、この二箇所は削ってほしいと氏は中央公論社を通じて三島に申し入れ、三島は削除の要求を拒否した。
小説は結局そのままの形で新潮社から出版され、有田八郎の方は告訴に踏切る。プライヴァシイの侵害といっても、本来の問題点は右の二箇所だったのである。
三島は第一審の法廷で『宴のあと』執筆の意図を説明し、
「昭和三十一年に戯曲『鹿鳴館《ろくめいかん》』を発表した頃《ころ》から政治と恋愛とのからみあいというような主題につき書いてみたいという希望があった」、
と述べている。(齋藤直一の前掲の文章による。)
三島が祖母夏子の影響によって、鹿鳴館時代に子どものころから憧れをもっていたことは、まえに触れた。中学二年のときに日本画の自由画材を許され、「鹿鳴館の貴婦人の繪を絹布に描いたことがある」そうである。
その鹿鳴館を劇化するのにあたって、彼はヴィクトール・ユゴーの『ルクレチア・ボルジア』から筋書の一部を借りた。三島はユゴーのこの芝居を愛し、ぜひ自分の手で上演したいといくどもいっていた。
ユゴーの劇のルクレチアは、先夫とのあいだにもうけた子と現在の夫とのあいだにはさまって苦悩し、最後には彼女を自分の母と知らない子どもの手にかかって殺される。
「ああ、おまえは私を殺す……私はおまえの母ですよ」というルクレチアの悲痛な叫びを最後に、芝居の幕は降りる。
『鹿鳴館』でルクレチアにあたるのが、元芸者の影山|伯爵《はくしやく》夫人、朝子である。朝子はユゴーのルクレチアとはちがって、まえの愛人とのあいだにできた子どもに自分がその母親であることを第一幕で打明け、それからあと母子の劇は「新派調」に展開される。筋立はまったくのメロドラマと、三島自身が書いている。
「『鹿鳴館』は、筋立は全くのメロドラマ、セリフは全くの知的な樣式化、といふ點に狙《ねら》ひがあるので、特にセリフにすべてがかかつてゐる以上、セリフの緊張がゆるめば、通俗的なメロドラマしか殘らない。」(『美しき鹿鳴館時代――再演「鹿鳴館」について』)
自由民権派の壮士をはじめ、彼の芝居としては珍しく多数の男女を舞台に登場させ、大衆性娯楽性をもりこみながらも、せりふのもつ緊張感によって作者は劇の品位を維持しようとした。
同じように政治を扱っているとはいえ、『宴のあと』と西洋だねをまじえたメロドラマ『鹿鳴館』とのあいだには、直接のつながりは見られない。共通点は、身分ちがいの夫婦という設定ぐらいだろう。
三島が有田八郎と畔上輝井との結婚に興味を抱いたのは、一方が外交官出身の元外相で、他方がむかしは「薩摩揚《さつまあげ》を賣り歩いたことだつてある」、料理屋の女将という点だったと思われる。教養も出身の背景もまるでちがう二人の愛と対立とを軸として、『宴のあと』は展開される。
3
『宴のあと』の女主人公福澤かづは、死後の無明《むみよう》の世界を怖《おそ》れていた。
過去に犯した恋の「罪障の思ひ」と身寄りがひとりもいないこととが、この楽天的な女に死後への不安を抱かせるのである。
「かづは闇《やみ》に浮ぶ石段を見上げたまま、死後のことに思ひ及んだ。(中略)もしこのまま死んで行つたら、弔《とむら》つてくれる人は一人もあるまい。死後を思つたら、頼るべき人を見つけ、家族を持ち、まつたうな暮しをしなければならないが、さうするためには、やつぱり戀愛の手續を辿《たど》るほかはないと思ふと、又しても罪障を怖れずにはゐられない。」(第七章)
闇に浮かぶ石段とは、東大寺二月堂の廻廊《かいろう》に通じる階段をさしている。福澤かづは元外相でいまは革新党顧問の野口雄賢に誘われて、野口の友人たちと一緒に二月堂の御水取を見に行き、松明《たいまつ》が出て来るまえの寂寥《せきりよう》のなかでこういう感慨に耽《ふけ》る。彼女が奈良のホテルで野口と寝床をはじめて共にするのは、御水取の行事がおわったあとの夜明けだった。
二人の結婚はそれから十日後に発表され、六十歳をすぎた革新党の顧問と、宏壮《こうそう》な庭園をもつ料理屋の五十歳の女将との奇妙なとり合わせは、世間からさまざまな揶揄《やゆ》を浴びせられる。結婚式の盃《さかずき》ごとのあいだ、かづは涙をためてうつむいたまま考えていた。
「ああ、これで私は野口家の墓に入れる! 安住の地がこれで出來上つた」。
新婚旅行から帰ったとき、かづが夫に最初にたのんだことは、野口家の墓への墓参だった。墓は「古い由緒《ゆいしよ》と名門の誇り」をうかがわせ、かづは線香のつよい香りに「幸福な眩暈《めまひ》のやうなものを」感じる。こういう「身ぎれいな誇り高い一族」の墓所に、暗い過去をもつ彼女がはいることは、永遠への「瞞着《まんちやく》」であると作者はいっている。
「かづが今やその人たちの一族に連なり、その人たちの菩提所《ぼだいしよ》にいづれ葬《はうむ》られ、一つの流れに融《と》け入つて、もう二度とそこから離れないといふことは、何といふ安心なことだらう。(中略)かづがそこへ葬られるときこそ、安心が完成され、瞞着が完成される。それまでは世間はいかにかづが成功し、金持になり、金を撒《ま》かうと、本當に瞞《だま》されはしないのだ。瞞着で世間を渡りはじめ、最後に永遠を瞞着する。これがかづの世間へ投げる薔薇《ばら》の花束である。……」(第九章)
かづにとって野口は「貴顯」であり、――その光輝には多少|苔《こけ》が生えてはいても――、「貴顯」の夫人におさまることは、彼女の長いあいだの夢だった。しかしそれ以上に、野口家の墓にいれてもらえるという期待が、彼女を幸福にした。
野口は、「どうしても御隱居樣になり切らない」男と評されていた。むかしの同期の大使たちが集った席で、旧友たちが外国語をまじえながら懐旧談をくりかえすと、野口は、
「もう過去の話はよしにしようよ。われわれはまだ若いんだから」。
表情はにこやかながらつよい口調でいい、一座をしんとさせる。
それでも彼はこの結婚を、やはり「終《つひ》の栖《すみか》」と思っていた。どちらにとっても、墓にはいる準備としての結婚だったのである。そこに突然革新党から野口にたいして、都知事選挙に立候補してほしいという要請があり、彼がその要請をうけたために、二人の人生設計には大きな狂いが生じる。
野口の家の書斎には、洋書ばかりがならんでいた。
かづがそれを見て、「中には怪しげな御本もあるんでせう」とひやかすと、
「さういふものは一册もない」。
彼が断言するのをきいて、かづは驚歎《きようたん》した。
「知的なものが知的なものだけで成立つてゐる世界は、彼女の理解の外にあつた。すべてに裏がある筈《はず》ではなかつたか。(中略)野口のしやつちよこ張つた身の處し方そのものが、(かづには)云《い》はうやうなく神祕で魅力あるものに思はれてくるのである。」(第六章)
三島の小説には西洋の文学や哲学を愛好する俗物が、しばしば登場する。『愛の渇き』の悦子の義兄夫婦が、そのはやい時期の例だった。謙輔《けんすけ》と千惠子という名の義兄夫婦は、ときに二階の出窓にならんで腰かけて、ボオドレールの散文詩を音読したりした。『獸の戲れ』(昭和三十六年)の夫も、ホフマンスタールやシュテファン・ゲオルゲの訳書を出したことのある知的スノッブであり、『絹と明察』(昭和三十九年)の岡野は、ヘルダーリンの詩句を絶えずくちずさむ。
野口雄賢の場合はこれらの知的ディレッタントとは、明かに趣きをことにしている。彼は一九二八年にロンドンでつくった袖口《そでぐち》のすりきれた外套《がいとう》を着て、ダンヒルの古いライターを大切にもち、ライターを劇場で落したときには「ない、ない」と子どものようにうろたえる。
そういうことはあっても、三島はこの謹厳な人物を決して軽蔑《けいべつ》してはいない。古いダンヒルを惜しんだり、三十年も同じ櫛《くし》をつかいつづけたりすることは「一概に吝嗇《りんしよく》や貧しさのため」ではなく、作者によるとイギリス趣味と儒教精神との結合だった。
「アメリカ流の消費經濟が生んだ、新製品ばかり追つかける淺薄なお洒落《しやれ》に抵抗して、野口は英國流の舊套墨守のお洒落を頑《かたく》なに持してゐた。儒教風の節儉精神は、かういふ貴族趣味とよく結びついた。」
野口は自分の生活上の信念を、明治人らしい一徹さでつらぬきとおそうとする。選挙演説にはじめて出て行く日の朝、彼はかづが玄関口で切火を打って送り出そうとしていることを察知し、石をもつかづの右手を握って低い声で叱《しか》りつけた。
「つまらんことはやめなさい。みつともない」。
だが彼の生活感情は、自分で思っているほどには「近代的」でも「西歐的」でもなかった。
「野口には無感動といふことの大へんな虚榮心があつて、これはおそらく英國仕込みだが、イギリス人とちがふところは、それを裏附ける粹な冷笑やユーモアが全く缺けてゐることであつた。」
選挙に情熱を燃やしたのは、野口よりもむしろ行動家のかづの方だった。彼女は選挙公示以前に野口の名を刷込んだ特大の名刺をつくって配り、顔写真入りのカレンダーを五十万枚も発注し、さらに野口が終戦の数箇月まえに天皇に和平の建白書を奉呈したときくと、そのことを内容とするパンフレットを用意した。費用は料理屋の雪後庵《せつごあん》を抵当に入れて、彼女自身がつくったのである。
公示以前の選挙運動は禁止されているのだが、彼女はそんなことは意に介さなかった。職業|柄《がら》、保守党の幹部の密談はいろいろ耳にしている。保守党の領袖《りようしゆう》のひとりが選挙法違反による逮捕を、かづに婉曲《えんきよく》にほのめかすと、彼女は平然として、
「でも私がもし捕まつたら、檢察廳へ申上げることも澤山ございますからね」。
かづは自分のしていることが、書斎にこもりきりの野口には知られないですむと思っていた。ところが偶然の機会から野口はそれを知り、その違法活動やとくに自己宣伝のパンフレットの作成にたいして激怒する。
「貴樣は亭主の顏に泥《どろ》を塗つてくれた。いかにも貴樣のやりさうなことだ。僕の履歴を見事に汚してくれた。恥を知れ、恥を!」
有田八郎が削除を要求した打擲の場面が、ここで出て来る。踏んだり叩いたりの拷問《ごうもん》の末に、どこからこれだけの資金を調達したのかと野口はたずね、
「自分でためたお金……あなたのために使つた……みんなあなたのために……」
譫言《うわごと》のように、かづはこたえる。
雪後庵を抵当に入れたときいて、野口は今後は店を閉鎖せよと厳命した。いうことをきかなければ離婚すると宣言され、かづは目のまえが真暗になった。
「『離縁されたら……私は無縁佛になる』……さう思ふとかづはどんな代償をも仕拂ふ氣持になつた。」
選挙戦は、結局二十万票の差で野口の敗北におわる。保守党はかづの過去の男遍歴を曝《あば》きたてた中傷文書を都内にばらまき、革新党の金が尽きかけた投票数日まえのころからは、「おそろしいほどの金」を投入した。
結果が判明した日の夜、野口はかづに「これでもう僕は政治はやらんよ」といった。
「これからは世間の片隅《かたすみ》に、恩給だけで小さく暮して行かう。ぢぢばばで暮して行かうや」。
このことばに、かづは一応「はい」と返事をした。「はい」といってから、そのことのもついいようのない暗さに彼女は次第に気がつく。
「これは一緒の墓に入ることの同意のしるしであり、もとよりそれはかづの望んだところだつた。しかしその言葉は、まつすぐに墓へ通ずる苔蒸《こけむ》した小徑《こみち》への同意に他ならなかつた。」
五十歳を出たばかりのかづには、ただちにそんな生活にはいる気持の準備はなく、もともと簡単に自分を埋もれさせる|たち《ヽヽ》の女でもなかった。彼女は雪後庵の再開を思いたち、鎌倉に隠居している元首相の家に奉加帳を持参する。この元首相は「何度も總理をつとめた、日本の保守勢力の記念碑的人物」と説明されていて、内妻に身辺の世話をさせている点でも、明かに晩年の吉田茂を思わせる。
元首相は気軽に奉加帳の筆頭に名まえを書いてくれ、おかげで政界、財界から多額の寄付があつまった。かづが保守党の政治家から金銭上の面倒を見てもらっているときいて、野口は再び嚇怒《かくど》する。彼は妻に向かって、「お前は不貞を働いたのだ」という。
彼女の行動は夫への政治的裏切り行為であり、野口の「古い支那《しな》風の政治觀によれば」、妻の政治的裏切りは不貞行為と変らなかった。雪後庵を彼女が手離さないかぎり離婚するほかないといいわたされ、かづの脳裡《のうり》には弔《とむら》うもののいない無縁仏の墓が再び浮かび上る。
長い思案の末に、彼女は無縁|塚《づか》に朽ちるみちをえらんだ。旺盛《おうせい》な生への情熱が、死後への恐怖に勝った。
「致し方ございません。雪後庵は再開いたします。身を粉《こ》にして働いて、借金は必ず皆さんにお返しいたしますわ」
かづの籍は抜かれ、荒廃していた雪後庵の修復工事がはじめられるのである。
『宴のあと』は、三島のほかの作品とはいちじるしくその性格をことにしている。
彼の作品をいろどる世界終末への期待やニヒリスムや死への願望はこの小説にはなく、『金閣寺』が詩であるという意味での詩的要素もここには感じられない。作者は自分とはおよそ無縁な男女を中心に、「政治」のよくできた風俗図をつくり上げた。(それだけに三島の小説、戯曲に固有の衝撃力に缺けることも、否定しがたい事実だろう。)
野口雄賢と福澤かづとの結びつきから別れにいたる劇は、明快な構成をもって進行する。野口がかづの事前運動にいきどおって彼女を打擲する箇所と、かづが吉田茂らしい人物を訪問する場面とは、ともに劇の大きな節目であって、削除の要求を三島としては呑《の》めるはずがなかった。削れば、劇の全体が崩れる。
『宴のあと』をめぐる裁判は、一審では原告がわの主張がほぼみとめられ、三島と新潮社とは八十万円を有田八郎に支払えという判決が、昭和三十九年九月に降りる。被告がわは、すぐに控訴した。(控訴後に有田八郎が死去し、遺族とのあいだに和解が成立する。)
裁判は長くつづいて三島を悩ませたうえに、吉田健一との仲違《なかたが》いという副産物をもたらした。有田八郎を知っていた吉田健一は、三島に彼と会うことを訴訟が起こされるまえにすすめたのである。三島は吉田健一が有田八郎の肩をもっているとうけとって憤激し、吉田氏の顔など見たくもないといい出した。吉田健一の加わっていた「鉢《はち》の木會」を彼は昭和三十六年の末にやめ、これがきっかけで「鉢の木會」そのものが解散されるにいたる。
もっともそういう事情を知ったのはずっとあとのことで、三島も吉田健一との衝突の理由は口にしなかった。昭和三十七年の春ごろ、なぜ「鉢の木會」をやめたのかと彼にたずねたことがある。ヒルトン・ホテル(現在のキャピトル東急)のレストランで、食事をしながらの会話だったと思う。
――なぜこの人たちは偉いんだろうかって考えてみたんだよ、
と三島はフォークとナイフとを手にしたままいった。
――要するに外国語ができるっていうことなんだね。それだけなんだよ。
皮肉をいわれているのかと、一瞬こちらは思った。「鉢の木會」の会員たちは、大岡昇平、福田|恆存《つねあり》、吉田健一、中村光夫、吉川逸治等、はやくなくなった神西清まで含めて、たしかに外国語ができる。外国語ができて西欧の文学、思想に多少とも通じていることがいけないのであれば、「偉い」か偉くないかはべつとして、ぼくも同罪になるではないか。
このときの三島には、皮肉という気持はなかったようだった。しかし八年後の昭和四十五年秋には、同じことをいわれる番がぼくにもまわって来る。
――きみは頭のなかの攘夷《じようい》を、まず行なう必要がある……
目を据《す》えて彼がそういったときの情景は、いまも忘れがたい。
三島の日本への「回帰」志向は、作品のうえでは昭和三十九年の『絹と明察』から、鮮明な形をとりはじめる。
[#改ページ]
「父」殺しと「父」の発見
1
――『午後の曳航』の「曳航」は、日本語では「栄光《グローリイ》」と同じ発音になります。それを利用して、表題には「栄光」の意味も含ませたのです。
三島がニュー・ヨーク・タイムズの日曜版に掲載されたインタヴューで、そう語っているのを読んだことがある。昭和四十一年の一月だったと、記憶している。
昭和四十年の九月から十月にかけて、三島は夫人とともにアメリカ、ヨオロッパ、タイを旅行した。ぼくは三島夫妻よりも二週間遅れてアメリカに行くことになっていたので、
――ニュー・ヨークではどこに泊るの。
――ウォルドフ・アストリア。
そうこたえてから三島は、
――でもよそうよ、外国で会うのは。
このころの彼は週に少くとも一、二度は――それもたいていは夜の十一時ころに――電話をかけて来ていた。平生は人なつっこい三島が意外なことをいうと当時は思ったものだが、あとで知ったところでは彼はこの旅行では自作の英訳本の宣伝を手伝うために、きわめて多忙な旅程を組んでいたのである。
『午後の曳航』のジョン・ネイスンによる英訳が、ちょうど出版された直後だった。ウーメンス・クラブの午餐会《ごさんかい》での講演などをべつとして、都合六つのラジオ・インタヴューに応じたと、彼はネイスン宛《あて》の書簡に書いている。(ジョン・ネイスン『三島由紀夫――ある評伝――』)
ネイスンの同じ著書に引用されている三島のバンコックからの手紙――昭和四十年十月十八日付――によれば、ニュー・ヨーク・タイムズの書評とインタヴューは、同社のストライキのために予定されていた日に出なかった。
「ニューヨークの新聞ストライキで、折角書評とインタビューの載つたニューヨーク・タイムス・ブック・レビューが出なくなつたのは全く殘念。ニューヨークの新聞ストライキがしよつちゆう起るわけでもないのに、一度目は『宴のあと』、二度目は『午後の曳航』がストライキ中に出るとは、情ない偶然です。」
掲載はその結果、翌年の一月になったらしい。インタヴューのなかには姦通《かんつう》は許されると思うかという質問があり、
――その姦通が美しくさえあれば、
と三島は返答していた。
この記事を読んだアメリカ人の若い人妻から、「どのようにすれば姦通が美しくなるのかしら」と、悪戯《いたずら》っぽい表情でぼくはたずねられた。六月に帰国してから三島にそのはなしをすると、彼は面白がって、
――それで? その女とはうまく行ったの?
結末を教えろと、いくどもいっていた。
『午後の曳航』の原題は、『海の英雄』である。
この小説の「創作ノート」が三島の死後、雑誌「波」の昭和四十九年十一月号と十二月号とに連載された。ノートの冒頭には「マドロスの小説」としるされていて、少しあとに「決定案『海の英雄』」の文字が見られる。
また『午後の曳航』がイギリスの港町を舞台に、マーティン・ポールの手で映画化されたとき、プログラムのなかに「創作ノート」の一部が写真版で挿入《そうにゆう》されていた。写真版のノートの一冊の表紙には、『海の男 これぞマドロスの恋 第一〇〇|埠頭《ふとう》=xという表題が書きこまれ、この長い表題は作者自身によってのちに塗りつぶされている。(したがって判読には、多少難渋する。)
つまり最初に「マドロスの小説」を書く構想があり、それが『海の男 これぞマドロスの恋 第一〇〇埠頭=xから『海の英雄』の最終案をへて、『午後の曳航』という題に行きついたのだろう。講談社が第一線作家による「書下ろしシリーズ」の企画をたて、その第一冊目の執筆を川島勝が三島に依頼したのが昭和三十六年の暮のころだったという。三島は即座に承諾し、次に横浜を取材したいと川島氏にいって来た。
「昭和三十七年の春、今度の小説の主人公は船乗りになると思うから、是非横浜を取材したいという申入れがあり、私も松本(道子)さんと連れだち、珍らしく朝から三島邸に集合して車で横浜に向かった。」(川島勝『「午後の曳航」の頃《ころ》』、『三島由紀夫全集』第十四巻付録)
冒頭に「マドロスの小説」と書かれた三島の「創作ノート」は、これで見ると昭和三十六年の暮か昭和三十七年の年頭のころからつくられはじめた、と推定される。ノートのえがく船員は、「メロドラマチックな死を遂げる」ことを夢みる。
[#ここから天付き、折り返して2字下げ]
「 マドロスの小説
〇マドロスの精神の荒廃、単調、退屈、倦怠《けんたい》と人の目には派手にロマンチックに見えること。
内面と外面との乖離《くわいり》。
外面に忠実に、外面に殉じ、マドロスらしい死、
メロドラマチックな死を遂げる。」
[#ここで字下げ終わり]
派手々々しい外観と倦怠感にみちた内面との乖離ということばは、作者自身の心情のあらわれとして、うけとってよいのではないか。「私の中の故《ゆゑ》しれぬ鬱屈《うつくつ》は日ましにつの」っていたと、彼は後日『二・二六事件と私』のなかで述べている。
「かつて若かりし日の私が、それこそ頽廢《たいはい》の條件と考へてゐた永い倦怠が、まるで頽廢と反對のものへ向つて、しやにむに私を促すのに私はおどろいてゐた。(中略)私は劍道に凝り、竹刀《しなひ》の鳴動と、あの烈《はげ》しいファナティックな懸聲だけに、やうやう生甲斐《いきがひ》を見出《みいだ》してゐた。そして短篇小説『劍』を書いた。」
『劍』は昭和三十八年十月号(九月刊行)の「新潮」に発表された作品であり、『午後の曳航』は同じ九月初旬の出版だった。
やはり昭和三十八年に書かれた回想録、『私の遍歴時代』の末尾では、三島は「刻々の死の觀念」だけがいまの自分にとっては生々しいといい、過去に夢みたギリシヤ的な古典主義など信じてはいないと断言する。
「今の私は、廿六歳の私があれほど熱情を持つた古典主義などといふ理念を、もう心の底から信じてはゐない。(原文改行)自分の感受性をすりへらして揚棄した、などといふと威勢がいいが、それはただ、干からびたのだと思つてゐる。」
三島の二十歳代は、「化物のやうな巨大な」――と彼自身のいう――感受性との格闘の歴史だったはずだった。感受性が徐々に「ただ、干からびた」のにすぎないのであれば、いったい何のための苦闘だったかということになる。
もちろんこれはシニシズムをまじえた表現であって、『假面の告白』にはじまる自己からの脱出の努力は確実に彼を変貌《へんぼう》させた。マイナーな幻想的詩人は才能の多彩な輝きを見せる作家となり、病気がちだった彼が筋肉の逞《たくま》しさを誇るまでにいたった。
三島のこの文章の力点は、青春との訣別《けつべつ》とともに再現した死の想念の方にある。それは生きるみちを模索していた二十歳代には、かげにかくされていた部分だった。
「そこで生れるのは、現在の、瞬時の、刻々の死の觀念だ。これこそ私にとつて眞に生々しく、眞にエロティックな唯一《ゆいいつ》の觀念かもしれない。その意味で、|私は生來《ヽヽヽヽ》、|どうしても根治しがたいところの《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|ロマンチックの病ひを病んでゐるのかもしれない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。廿六歳の私、古典主義者の私、もつとも生のちかくにゐると感じた私、あれはひよつとするとニセモノだつたかもしれない。」(『私の遍歴時代』、傍点村松)
死へのロマンティックな夢想を、彼は自分の「根治しがたい」病いと呼び、病いにとりつかれた状態こそが本物の自分であることを示唆《しさ》している。
「世界破滅的、終末的状況の中における死。
もつとも贅沢《ぜいたく》な死。」
三島はそういうことばを『午後の曳航』の「創作ノート」に、大きな囲みのなかに書きこんでいるのである。
「創作ノート」の最初の部分では、船員は彼の自殺願望を見抜いた男に「死の会」という集りに案内され、ここで同じ願望を抱く夫人に出会う。
二人は暗い目を見かわし、
「お互の『壮烈な死』についてのイメージを叩《たた》き込む。」
見知らぬ男女の死への黙契は、『盜賊』の場合を想起させる。ただし『盜賊』の男女のように、二人はそれぞれの恋人に裏切られたわけではない。
「愛撫《あいぶ》のおののきの中で死にたい。
愛撫されつゝ死にたい。
贅沢な死の願望」
ひたすらな愛と死とへの願望を綴《つづ》った文章をもって、「創作ノート」の最初の部分はおわる。
三島は昭和三十九年に朝日新聞に発表した談話のなかで、過去数年間の作品はすべて父親像をえがいたものであると説明し、『午後の曳航』もそのなかのひとつだったといっている。
「この数年の作品は、すべて父親というテーマ、つまり男性的権威の一番支配的なものであり、いつも息子から攻撃をうけ、滅びてゆくものを描こうとしたものです。『喜びの琴』も『剣』も、『午後の曳航』もそうだった。」(昭和三十九年十一月二十三日付)
『絹と明察』が毎日芸術賞をうけた直後に、紙面に出た談話である。『絹と明察』はたしかに家父長的な経営者の物語だし、『喜びの琴』の若い警官は、父のように思っていた公安係巡査部長に裏切られる。『劍』は父子をえがいた作品ではないにせよ、大学の剣道部の主将をつとめる「男性的権威」が、自分の「権威」に自信を失って自殺する。
だが『午後の曳航』の最初の構想には、父子問題はまったくあらわれていない。「マドロスの小説」の主人公はすでに見たように、「愛撫のおののきの中で死にたい」という夢を、追っているだけの男だった。
子どもは「創作ノート」では、「決定案『海の英雄』」のなかではじめて登場する。それとともに小説の視点は船員と子どもとの両極に分れ、死への単純な夢想|譚《たん》が父親|憎悪《ぞうお》の物語へと移行して行く。
2
「決定案『海の英雄』」では、女は元町の高級洋品店のマダムである。彼女には、十五歳の息子がいる。
「息子十五才は、父なきあと母を監視し、一度づゝの浮気なら許すが、それ以上は許さぬ。」
彼は母親が船員を愛していると知って、
「ものすごく嫉妬《しつと》して悩む也《なり》。(母との寝室を見てしまふ)」
母親の行動をつねに監視している子どものはなしは、三島は『鏡子の家』でも書いていた。友永鏡子の娘の眞砂子は母親が杉本清一郎を誘って自分の寝室にはいると、どうしてそれを事前に察知したのか、ベッドのかげにかくれて二人を待ち、「急に立上つて」彼らを押しもどす。
鏡子母子が湯淺あつ子とその長女とを素材としていることは、まえに触れた。(もっとも『鏡子の家』のある信濃町《しなのまち》の高台は、湯淺女史の家とは何の関係もなく、初恋のひとの嫁ぎさきの家が建っていた場所だった。)『鏡子の家』のその母子関係を、女の子を息子に変えて作者はもう一度つかう。
女は高級洋品店を経営しているために、品物の仕入れの必要上、船とは縁がある。「創作ノート」によると、
「外国船のみならず、日本船にも縁あり。
ふとした機縁で、酒場で、下級船員と知り合ふ。逞ましい青年なれど、自殺願望を抱く。『殺してくれ! 殺してくれ!』(|獣の戯れとの類似を避けよ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》)
未亡人これに興味を持ち、愛し合ふ。」(傍点村松)
『獸の戲れ』は『風流夢譚』の事件のあと、警官の護衛がついているさなかに起稿され、単行本として刊行されるまえに「週刊新潮」に、昭和三十六年の六月から九月まで連載された作品だった。この小説は序章でまず、「最後のいたましい事件の數日前に撮られた」三人の男女の白っぽい写真を紹介し、次に女の朱のはいった寿蔵をかこむ二人の男の墓をえがき、それから時間をさかのぼって事件の顛末《てんまつ》を物語るという倒叙法をとっている。
死んだ二人の男のうちのひとりである草門逸平は、銀座で西洋陶器の店をいとなむかたわら、若いころはホフマンスタールやシュテファン・ゲオルゲの訳書を出したり、李長吉の評伝を書いたりもした。しかし四十歳の彼は「商人の卑屈と知的優越との間にわが身を引き裂」かれ、忙しい情事に慰めを見出だしているだけの、「異樣にうつろな官能的な」人間と化していた。逸平の妻の優子に恋している若い幸二が、その逸平の頭をスパナで乱打し、逸平は大脳|挫傷《ざしよう》によって失語症となる。
幸二は傷害罪で懲役刑に処せられるのだが、二年後に出所して来た彼に逸平はまわらない舌で「死。……死にたい」と訴える。幸二は優子と相談のうえ、二人で逸平を絞殺するのである。
『午後の曳航』の青年に「殺してくれ」と口走らせれば、作者が危惧《きぐ》しているように、『獸の戲れ』の二番|煎《せん》じという印象を読者にあたえかねないだろう。それを回避するために決定稿の『午後の曳航』では、船員は死への願望を女や子どものまえでは一度も口にしていないことになっている。
「彼は自分の榮光や死の觀念、自分の厚い胸にひそむ憧《あこが》れや憂鬱、彼に與へられた大洋のうねりに充《み》ちた暗い巨《おほ》きな感情については、|何一つ女に語ることができなかつた《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。それを語らうと思ふところで、いつも失敗した。」(第一部第四章、傍点村松)
船員は女に、自分が結婚しなかった理由を次のように説明したかった。
「私は何もしないで、しかし、自分だけは男だ、と思つて生きて來たんです。何故《なぜ》つて、男なら、いつか曉闇《げうあん》をついて孤獨な澄んだ喇叭《らつぱ》が鳴りひびき、光りを孕《はら》んだ分厚い雲が低く垂れ、榮光の遠い鋭い聲が私の名を呼び求めてゐるときには、寢床を蹴《け》つて、一人で出て行かなければならないからです。……そんなことを思ひ暮してゐるうちに、いつのまにか三十を越したんです」
喇叭はいつまで待っても鳴りひびくことがなく、男は「榮光」の死を死ぬ機会を失した。
「|しかし彼はそれを言はなかつた《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。半ばは、女にはわからないと思つたからだ。」(傍点村松)
『獸の戲れ』は能の形式を踏んだ作品であることを、小西甚一が指摘している。
序章にえがかれている三つの墓は、「いわゆる幽霊能の定型に当たる道具だて」であると小西氏はいう。
「優子のを中央に、右に逸平、左に幸二と並んだ墓が、序章に持ち出される。優子だけは死んだわけでないけれど、終身懲役に服しており、(中略)終章でわかるように、以前の優子とはもはや同じでない。つまり、精神的には死人なのである。したがって、この作品が語られている時点では、三人とも幽霊にほかならない。その幽霊が入ってゆく塚《つか》、後見がしずしずと持ち出して鼓座の前に置く造り物の塚が、すなわち『三つの新しい墓石』だとすれば、この作品は、いわゆる幽霊能の定型に当たる道具だてを備えているといえよう。」(『三島文学への古典の垂跡――「獣の戯れ」と「求塚《もとめづか》」』、「国文学 解釈と鑑賞」昭和四十三年八月号)
墓が能の『錦木《にしきぎ》』や『求塚』などの冒頭に出て来る造り物の塚にあたると考えれば、この小説が異例の倒叙法を採用している理由も納得がゆく。登場人物の顔立ちも、たしかに能を思わせるのである。優子は「大まかな花やかな」顔に「古拙な悲しみが」窺《うかが》われ、いつも「濃い目の口紅」の色が目立つ。若い幸二は、自分が「よくできた木彫の面《めん》のやうな顏をしてゐる」と思っている。
小西氏の論文からの引用を、もう少しつづけると、
「もっとも、三島は、序章で『これは諸国一見の僧にて候《さうらふ》』と名のらせるほど稚拙なパロディを作りはしない。幽霊能の定型、旅僧の名のりで始まる『序』の部分は、この作品では、実は終章なのである。終章は、民俗学の研究者『私』の語り出しで始まる。『私』がまず身分を名のり、研究のため民俗の探訪旅行に出かけたことを告げるのは、まさしく『諸国一見の僧』の現代化だと思われる。」
ワキにあたるこの民俗学者は、海岸の小漁村で禅寺の和尚《おしよう》から二年まえに起こった事件のはなしをきき、つよい興味を抱く。彼は和尚から三人が最後に撮った写真を預って刑務所に行き、殺人の共犯者として服役中の優子に面会する。
「うなだれた優子の顏を私はひそかに窺つた。實に平凡な顏立ちだつた。丸顏の大まかな顏がむくんだやうに肥《ふと》り、肌《はだ》は手入れが行き屆いて白くこまやかだが、紅をつけない薄い唇《くちびる》は、顏の下半分を硬い線で區切つてゐて、それが顏立ちを卑《いや》しく見せてゐる。」(終章)
すでに「精神的には死人」である獄中の優子は、夢幻能なら前シテの里娘の位置にいる。里娘が実は名のある女の亡霊だったことが、後シテの登場とともに物語られる。後シテとしての優子は、序章にわずかに顔を出すのを除けば、第一章の中ほどから出て来ている。
前シテを最後においたという意味では、作者は能の構成を逆転させた。小西氏の表現によれば『獸の戲れ』は「能のパロディ」であり、さらに内容的には「『求塚』のパロディ」だった。
『求塚』の菟名日《うない》処女《おとめ》は二人の男に求婚されて懊悩《おうのう》のあげく生田川に身を投じ、二人の男はそれを知って刺しちがえて死ぬ。そのあとの彼女は地獄の業火《ごうか》に焼かれながら、なお二人の男に左右から手を引っぱられ、
「火宅の住みかをば、なにの力に出づべきぞ。」
後シテはそういって、舞台のうえで歎《なげ》く。
『獸の戲れ』で「火宅の住みか」に相当するのが、失語症の逸平と優子と幸二との奇態な共同生活だろう。(ここでは「火宅」を暗示するように、耐えがたい暑さがくりかえし強調される。)ほかにも『求塚』を想起させる部分は作中にいくつかあり、三島がこの能に構想をかりて『獸の戲れ』を書いたという小西氏の指摘は、つよい説得力をもっているように思う。
ただし『獸の戲れ』の「火宅」は『求塚』の場合とはちがって、死後の「火宅」ではない。逸平は理解力と表現能力との殆《ほとん》どを失い、ただ見るだけの存在と化していた。「意志の疏通は不自由でも精神そのものには何の變りもない」と、優子から幸二は説明されて、精神は彼のなかでどんな風になっているのかと考えこむ。
「物事を理解もせず、言葉も表現できない自分の姿に、まづおどろき、つひにはおどろき疲れ、ただ見戍《みまも》つてゐるほかはなくなつたもう一人の明敏な自分。手足を縛られ、猿轡《さるぐつわ》をはめられた理智《りち》。」(第三章)
怪我《けが》をするまえの逸平は二、三の飜訳書や著書を刊行しながらも、そのような「精神的な營爲一般に對して、粹人の冷たい嘲罵《てうば》を」かくそうとしない男だった。精神が精神の努力に、シニカルな目を向けていた。幸二の振るったスパナの一撃はこの分裂を完成し、逸平は過去の仕事とは無縁な、すべてを無力な微笑をもってうけ容《い》れる男になりおわっていたのである。
片言しかしゃべらないこの「見者」と、牢獄《ろうごく》にはいって「悔悟した」激情家の幸二とを、優子は等分に愛している。同じ屋根の下に住みながらも逸平の存在に妨げられて、幸二には優子を抱くことができない。それは空洞《くうどう》に似た「目」のまえで、「獸の戲れ」を演じることを意味する。「俺《おれ》にはそれはできない」と、幸二は逸平に向かっていう。
「優子もできない。わかるか? あんたの思ふ壺《つぼ》にはまつて、幸福な獸になるのが怖いから、俺たちには決してできない。しかも、いやらしいことに、あんたはそれを|知つてゐる《ヽヽヽヽヽ》んだ。」(第五章、傍点原著者)
逸平は、いわば二人の自意識だった。幸二と優子とを自意識は絶えず見張って、「逃げ場のない」ところに彼らを追いつめる。そのさきに「あんたは何を望むんだ」と幸二は彼にきき、それにたいするこたえが、
「死。……死にたい」、
という逸平のことばだった。
行動者が自意識と刺しちがえることによって、三人の愛は完成される。獄中の優子は、「本當に私たち、仲が好《よ》かつたんでございますよ」といい、
「ね、わかつていただけますわね」、
とくりかえして姿を消す。
3
『午後の曳航』の出版は、作者がその構想を練りはじめてから一年九箇月ののちだった。
あいだに『美しい星』の連載がはさまっていたということはあるにせよ、『美しい星』が脱稿してからもなお四箇月以上、彼はこの作品の執筆にとりかかっていない。準備のためについやした時間は長く、それだけに彼の小説のなかでも結晶度はひときわ高いと思われる。
批評も、全般に好意的だった。しかしそのなかで、『午後の曳航』には三島の「素顔の苦渋のようなもの」があらわれていることを指摘したのは、日沼倫太郎だけだった。(日沼が読売新聞に書いたこの書評は、『三島由紀夫全集』第十四巻の付録にも、虫明亜呂無《むしあけあろむ》によって引用されている。)
「正直にいうと私には『午後の曳航』が失敗作なのか成功作なのかがわからない」、
と日沼はいっていた。
「かりに成功作だとしても、その成功が三島氏にとって栄光なのか悲惨なのかがわからない。というのはこの作品は、いままで三島氏がたえて私たちに見せてくれなかった素顔の苦渋のようなもの、精神の晦暗さのようなものを、ある程度かいまみせてくれている作品だからである。あるいはこういってもよい。三島氏の『午後の曳航』は、三島氏の青春の完璧《かんぺき》な死とともに訪れた精神のドラマ(中略)の終熄《しゆうそく》に不可避的に伴う、そこからのあたらしい旅立ちといった事態の困難さを予想させる作品である、と。」(読売新聞、昭和三十八年十月三十一日付)
鋭い評言、というべきだろう。
作中の子どもは、「創作ノート」の十五歳が決定稿では二歳引下げられて、十三歳になっている。その十三歳の少年登が第一部第一章のおわりで、母親と船員の龍二《りゆうじ》との最初の肉の交りを覗《のぞ》き見する。
折から船の汽笛の音が、「海の潮《うしほ》の情念のあらゆるもの、百千の航海の記憶、歡喜と屈辱のすべてを滿載した、あの海そのものの叫び聲が」ひびいて来た。汽笛のおかげで、月も海の熱風も男女の肉体も、すべてが「宇宙的な聯關《れんくわん》を」獲得したように登には感じられた。
「自分は今、たしかに目の前に、一連の絲が結ぼほれて、神聖なかたちを描くところを見たと(登は)思つた。それを壞してはならない。|もしかするとそれは《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|十三歳の少年の自分が創り出したものかもしれないから《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。
『これを壞しちやいけないぞ。これが壞されるやうなら、世界はもうおしまひだ。さうならないために、僕はどんなひどいことでもするだらう』」。(傍点村松)
船員の龍二は、まさに「十三歳の少年の自分が創《つく》り出した」夢を、抱きつづけて生きた男だった。龍二の夢を、作者は再三説明している。
「彼が久しく誰にも言はずに夢みてきたこの大がかりな夢想のうちでは、彼が男らしさの極致にをり、女は女らしさの極致にゐて、お互に世界の果てから來て偶然にめぐり合ひ、死が彼らを結びつけるのだつた。(中略)彼らは人間のまだ誰も行つたことのない心の大海溝《だいかいこう》の奧底へ下りてゆく筈《はず》だつた。」(第四章)
そういう龍二を少年の登は英雄だと信じ、「何と言つていいかわからないほど」の幸福感にひたる。龍二の方は少年の母親に会うまでは、いつまでも夢のみたされない寂寥感《せきりようかん》を、マドロスを主題とした安っぽい流行歌でまぎらわせていた。
船の実際の生活は、単調だった。龍二は女と別れて船に乗るときに、「男は大義へ赴き、女はあとに殘される」ということばを思い出す。
「そのくせ航海の行く手に、大義なんかありはしないことを、誰よりもよく知つてゐるのは龍二であつた。」(第七章)
『憂國』の若い夫婦に至福の愛と死との達成を可能にした「大義」は、平和なこの世のなかのどこにもない。それに三十歳をすぎた龍二は、船員としての生活に飽きていた。
青春と栄光への夢とを棄《す》てようとする決意を、龍二は第二部にいたってかためる。第二部の表題は、――第一部が「夏」だったのにたいして――「冬」である。
「(……)龍二は今度の航海の歸路、つくづく自分が船乘りの生活のみじめさと退屈に飽きはててゐることを發見してゐた。彼はそれを味はひつくし、もう知らない味は何一つ殘されてゐないといふ確信をも持つた。それ見ろ! 榮光はどこにも存在しなかつた。世界中のどこにも。北半球にも南半球にも。あの船乘りたちの憧れの星、南十字星《クルセイロ・ド・スル》の空の下にも!」
龍二は女に結婚を申込み、船乗りを廃業して女の経営する洋品店に通いはじめる。これは登とその仲間の少年たちにとっては、重大な裏切りだった。彼らは社会が虚構であり、「父親や教師は、父親や教師であるといふだけで大罪を犯してゐること」を確信していた。
ところが龍二は登のまえに英雄としてあらわれ、永遠と愛との結合を一度は夢みさせながら、「地上で一番わるいもの、つまり父親に」なろうとしている。
「仕方がない。處刑しよう」、
と少年たちの首領はいう。首領の説明によれば、それが龍二を「もう一度英雄にしてやれる」唯一の方法だった。処刑の場処となる丘の上に龍二は少年たちに誘い出され、水平線上を遠ざかって行く小さな貨物船を見ながら、「俺は永遠に遠ざかりゆく者でもありえたのだ」と考える。
作者はその龍二を陸にもどらせ、洋品店の経営という凡庸な生活をえらばせた。
「こうした凡庸な生活にだれよりも耐えきれない人物こそ、ほかならぬ三島氏なのだ。」
日沼倫太郎は同じ書評の後半の部分で、そう書いている。だからこそ船員を「永遠に遠ざかりゆく者」にするために、最後に殺してしまわなければならなかった。
「まさしく『青春』というかけがえのない情熱の〈時〉を失った三島氏のようなロマン主義者にとっては、青春のエネルギーにかわるべき劇的ななにものかをあたらしく発見しないかぎり残された人生は(まだ四十にもならないのに)〈午後の曳航〉なのだ。おそらく三島氏は、この作品を書いたことによって、はじめて痛切に自己の文学の危機を、いや正確には自己の人生の危機をかんじとっているにちがいない。私がこの文章の冒頭で世評にそむき『午後の曳航』の成功が栄光なのか悲惨なのかわからないとかいた理由も、そういう意味においてである。」
『午後の曳航』については当時ぼくも東京新聞に書評をたのまれ、「平和」な月並みの生活への呪《のろ》いを主題に、子どもの夢みがちで残酷な眼《め》を巧みにとりこんだ大人のためのメルヘン、というような内容の一文を草した。まちがったことをいったとはいまも思ってはいないのだが、日沼のように三島の「人生の危機」をここに読みとるまでにはいたらなかった。
龍二を殺すことによって、三島は青春を失った自分を殺した。殺される寸前に、龍二は呟《つぶや》いている。
「……暗い沖からいつも彼を呼んでゐた未知の榮光は、死と、又、女とまざり合つて、彼の運命を別誂《べつあつら》へのものに仕立ててゐた筈だつた。世界の闇の奧底に一點の光りがあつて、それが彼のためにだけ用意されてをり、彼を照らすためにだけ近づいてくることを、二十歳の彼は頑《かたく》なに信じてゐた。」
これは明かに、二十歳の三島自身の肖像だろう。
日沼が三島に、
――三島さん、いつ死ぬんですか、
ときいていた光景が、この稿を書きながら思い出される。
『午後の曳航』が刊行されたころには、日沼は三島とはまだ面識がなかった。翌昭和三十九年の暮に、何年間か休刊されていた「批評」の再刊が決定され、三島も同人のひとりに加わったので、古くからの「批評」の仲間だった日沼は自然に彼と顔をあわせるようになった。
したがって「いつ死ぬんですか」と日沼がくりかえしきいていたのも、昭和四十年代にはいってからである。三島はその都度、さすがに困ったような顔をしていた。日沼は三島の困惑など無視して、
――あなたには、もう死ぬしかみちがありませんよ。
日沼倫太郎は、昭和四十三年七月に急逝《きゆうせい》する。訃報《ふほう》を三島に電話で伝えると、
――え? 日沼が。自殺したの?
自殺ではなく病死だと、ぼくは説明した。
――死ね死ねとこっちにすすめておいて、自分が死んだのか。
三島は「批評」(一九六八年秋季号)の「日沼倫太郎追悼」に、『日沼氏と死』と題する文章を寄せ、日沼の急逝は自分にとって「強い衝撃」だったと書いた。
「氏は、今から考へれば死の近い人特有の鋭い洞察力《どうさつりよく》で、私の文學の目ざす方向の危險について、掌《たなごころ》を斥《さ》すやうによく承知してゐた。氏は會ふたびに、私に即刻自殺することをすすめてゐたのである。(中略)氏は私が今すぐ自殺をすれば、それはキリーロフのやうな論理的自殺であつて、私の文學はそれによつてのみ完成する、と主張し、勸告するのであつた。その當人に突然死なれた私の愕《おどろ》きは云ふまでもあるまい。電話で訃音に接したとき、咄嗟《とつさ》にその死を、私が自殺と思ひちがへたのも無理はあるまい。」
しかし「氏といへども、もちろん私について誤解はしてゐた」と、三島は書きそえている。自分は文学者として自殺することは、決してしない。文学には「最終的な責任といふもの」がなく、文学者の自殺は「モラーリッシュな」行為ではあり得ない。
「私はモラーリッシュな自殺しかみとめない。すなはち、武士の自刄《じじん》しかみとめない。」
義のための自殺しか容認しないと、彼は宣言したのである。その死よりも、二年あまりまえに書かれたことばだった。
4
『午後の曳航』の刊行の直後から書きはじめられた『絹と明察』では、三島は最初から日本の父親像をえがくことを意図していた。
いくつかの作品で父親を追求しているうちに、「企業の中の父親、家父長的な経営者にぶつかりました」と、三島はまえにもその一部を引用した談話のなかで述べている。
「この意味で、これ(『絹と明察』)は、ぼくにとって、最近五、六年の総決算をなす作品です」(朝日新聞、昭和三十九年十一月二十三日付)
小説の素材は、昭和二十九年に起こった近江《おうみ》絹糸の労働争議だった。この労働争議は戦後版の女工哀史としてひろく喧伝《けんでん》され、三島が『絹と明察』を書いた時点でも、読者の記憶にまだ残っていたのである。
物語は彦根《ひこね》にある紡績会社、駒澤《こまざわ》紡績の社長が、業界の大物たちを自分の工場に招待し、そのあと船で近江八景を案内する場面からはじまる。船が工場の桟橋《さんばし》を離れるときには千人あまりの女子工員が整然とならび、社旗を振りかざして、
「湖畔にそびゆる絹の城……」、
という社歌を合唱する。
一行のなかには岡野という名のハイデッガー好きがいて、彼はハイデッガーの『ヘルダーリンの詩の解明』を愛読し、浮御堂《うきみどう》をまえにヘルダーリンの『帰郷』の一節を思い浮かべたりした。
「遠くひろがる湖面には、
帆影に起る喜悦の波。
拂曉《ふつげう》の町はかなたに
今花ひらき明るみかける」
岡野は最近|旦那《だんな》に死なれた中年の芸者を、駒澤の工場の女子寮に寮母として送り込み、スパイの役を演じさせた。工場の様子を彼女からきき出すために再度彦根に行ったときに彼が口吟《くちずさ》むのも、やはりハイデッガーが論じているヘルダーリンの詩、『追憶《アンデンケン》』の一節だった。ヘルダーリンはこの小説では重要な、――知的な装飾の範囲をこえた――役割を演じている。
駒澤の会社では社長のはじめての外遊中に、新しい労働組合がひそかに組織され、彼らは突然|蜂起《ほうき》して工場を封鎖し、寮を占領した。新組合を大手の紡績会社は、公然と支援していた。低賃銀で利潤をあげているこんな新興会社は、同業者にとっては目障りな存在だった。
工員には外出の自由もなく、女子工員への手紙は開封され、食事は低劣をきわめている。しかも駒澤は、「わしはほんまに、わしが父親《てておや》で、うちの工場で働らいてるもんは、娘や息子や思うてます」といい、それが偽善だなどとは考えたこともない。
「その顏の絹の肌《はだ》のやうに萬事がつるりとして、民衆を輕んじながら民衆と一體化し(中略)自分の善意を一度も疑つたためしがなかつた。」(第五章)
争議が起こったときいてアメリカから帰って来る駒澤を、岡野は羽田に迎えに行く。飛行場で不意に海の香りを嗅《か》ぎ、彼は『追憶』の最後から三行目の詩句を想起するのである。
「それはいつも彼の心の傷を押しひろげまた癒《いや》す海風、心の萎《な》えたときに必ず彼を襲ふあの爽《さは》やかな留保、ヘルダアリンの頻發《ひんぱつ》する『|しかし《アーバー》』だつた。
『しかし
海は記憶を奪ひ去り且《か》つは與へる』
それをハイデッガーは、『海は故郷への追想を奪ふことによつて、同時にその富裕を展開する』と註してゐる。」(第七章)
海に執着するという点で、岡野には作者の影が多少とも投影されている。二十歳代の三島が「神なき」ギリシヤの美に憧れていたように、財界に寄生するこの男は「ハイデッガーの神なき神祕主義」に支えを求めていた。ただし彼は、行動者ではない。
「『ハイデッガーの脱自《エクスターゼ》の目標は』と彼(岡野)は考へつづけた。(原文改行)『決して天や永遠ではなくて、時間の地平線《ホリツオント》だつた。それはヘルダアリンの憧憬《しようけい》であり、いつまでも際限のない地平線へのあこがれだつた。俺はかういふものへ向つて、人間どもを鼓舞するのが好きだ。不滿な人間の尻《しり》を引つぱたいて、地平線へ向つて走らせるのが好きだ。(後略)』」。(第三章)
岡野は、傍観者だった。ディレッタント的な傍観者としての彼は、『獸の戲れ』の草門逸平の血を濃厚にうけ継いでいるように見える。
『絹と明察』は、単に独善的で野暮ったい成上りの経営者をえがいただけの作品ではない。
物語の進行とともに、主人公の「家族主義」の背景には「反現代」的な冷たい人間認識があることがわかって来る。
「駒澤は氣まぐれな自然の、時には苛酷《かこく》にわたる仕打に比べて、自分がいかに思ひやりの深い理想的な自然の役を演じ、ほどほどの雨やほどほどの日照りを鹽梅《あんばい》よく配分し、ひよわな稻も人並に育つやうに、いかに夜の目も寢ずに精進を重ねて來たかを説いた。(中略)目先だけでは理解されやうもないが、いつも遠い調和へ目を放つて、そのときの理解をたのしみに暮すほかはなかつた。サークル活動は風紀を紊《みだ》し、文化的なたのしみは青年を腑拔《ふぬ》けにし、その害毒はいづれも年配になればわかることだが、彼は自由の意味もわからぬ年ごろに自由を與へたりすることが、自然に反する行ひだとよく知つてゐた。(原文改行)さうだ。彼はよく|知つてゐた《ヽヽヽヽヽ》。」(第八章、傍点原著者)
この反時代的な人物を、いつのまにか堂々としたヒーローとして浮かび上らせて行く作者の手腕は、あざやかというほかない。最終章(第十章)の「駒澤善次郎の偉大」では、病床の駒澤は自分を敵視し自分を裏切った人びとのすべてを許す気になっている。
「今かれらは、克《か》ち得た幸福に雀躍《こをどり》してゐるけれど、やがてそれが贋《にせ》ものの寶石であることに氣づく時が來るのだ。折角自分の力で考へるなどといふ怖《おそ》ろしい負荷を駒澤が代りに負つてやつてゐたのに、今度はかれらが肩に荷《にな》はねばならないのだ。大きな美しい家族から離れ離れになり、孤獨と猜疑《さいぎ》の苦しみの裡《うち》に生きてゆかなければならない。幸福とはあたかも顏のやうに、人の目からしか正確に見えないものなのに、そしてそれを保證するために駒澤がゐたのに、かれらはもう自分で幸福を味はうとして狂氣になつた。さうして自分で見るために、ぶつかるのは鏡だけだ。」
それもええやろう、と死の床の駒澤は呟く。
「そして存分に、悲しさうに吠《ほ》えるがよい! 人間どもは昔からさうして吠えてきたし、今後もそのやうに吠えつづけるだらう。だから駒澤は、自分をも含めて、かれらをみな恕《ゆる》す。」
駒澤は、「四海みな我子やさかいに……」という澄明《ちようめい》な心境のなかで死ぬ。彼の死をえがいた部分は故郷の「根源への接近」にはおのずから清澄化が作用し、「清澄《ハイテレ》が現出される」というハイデッガーのことばを想起させる。三島が『ヘルダーリンの詩の解明』を精読していることから考えると、実際に彼がハイデッガーの論文のこの箇所を念頭において書いた可能性は高い。
岡野は、駒澤の死に遭ってうろたえた。
「されどわが心にいやまさる樂しみは、
聖なる門よ! 汝《なれ》をくぐりて故里《ふるさと》へ歸りゆくこと」
故郷への回帰をうたうヘルダーリンの詩を口吟みながら、岡野は駒澤を「地平線へと走らせ」、没落させた。しかし駒澤が死んだいま、こういう詩句自体が「言ひがたい暗さ、恐怖、不安、愚かしさ、滑稽《こつけい》さの總體を」蔵しているように見えはじめたのである。
駒澤の死は、何ものかを彼に感染させた。しかも傍観者の岡野には、この暗い場所からの出口が見あたらない。
ヘルダーリンは二十歳代の三島を、ギリシヤ古代にみちびいた。
彼は『小説家の休暇』のなかで、
「私はかつてアクロポリス丘上に立つたとき、『ヒュペーリオン』を携へて來なかつたことを大そう悔んだ」、
と書いている。
その同じヘルダーリンに――ハイデッガーの註釈とともに――みちびかれて、『絹と明察』の三島は日本に、「歸郷」した。
――駒澤は天皇なんだよ。
冗談めかしてだが、三島がぼくにいったことがある。
『絹と明察』を書き上げたあと、三島はジョン・ネイスンにこの小説の飜訳を依頼し、「ノーベル賞をとる手助けをする」と約束してくれといったそうである(ジョン・ネイスン『三島由紀夫――ある評伝――』)。ネイスンはこのころ、『午後の曳航』の英訳を仕上げたばかりだった。
ネイスンはこのときは飜訳をひきうけたが、九箇月後に欧米への慌《あわただ》しい旅から帰って来た三島に会い、「飜訳する気持になれない」といって依頼をことわった。この日本回帰小説は、ネイスンの気に入らなかったのだろう。それにしても九箇月たってからの断りは、あまり常識的とはいえない。
三島はこのときをさかいにネイスンとのつきあいを事実上絶ち、ネイスンの方は三島の死後、棘《とげ》の多い三島論を出版する。
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NLTの結成と四部作
1
大長篇を書くというはなしを三島から最初にきかされたのは、昭和三十八年の秋だった。
同年九月の末に彼からもらった葉書に、そのことへの言及がある。葉書は『午後の曳航《えいかう》』を寄贈されてこちらが出した礼状への、そのまた返信だったように思う。
「お葉書ありがたく拜見。(中略)本日は『論爭』のリレー評論拜見、悉《ことごと》く同感いたしました。特に最後の一行で、男性的理念として『哲學』を要請されてゐる點、特に切實なるものあり、小生もさ來年あたり、大長篇を計畫してをりますが、時代の中樞をなす哲學なしに、いかにして大長篇が書けるか、疑問に苛《さいな》まれます。題材などは山ほどころがつてゐますが、匆々《さうさう》」(九月二十七日付)
冒頭にしるされている「論争」とは、このころ刊行されていた雑誌の名まえだった。三島がその「論争」の九月号に『天下泰平の思想』と題する小論文を発表し、あとをうけてぼくが次号に『再説 女性的時代を排す』というエッセイを書いた。昭和三十八年の正月にぼくは『女性的時代を排す』という一文を「文藝春秋」にのせ、それがジャーナリズムで多少の反響を呼び、「論争」の編集部がこれに目をつけて、同じ主題による「リレー評論」を企画したのである。
『再説 女性的時代を排す』では、当時一時的に流行していた奇妙な「家庭絶対化」論に反対して、「家庭という穴をこえたもの、(中略)男性的なもの、一口にいって哲学を、求める人間の心と、その能力とを信じたい」と文の末尾にしるした。三島の葉書に出て来る「哲学」云々《うんぬん》は、その文言をさしている。
「さ来年あたり」と彼がいっていた背景には、「さ来年」の昭和四十年には自分も四十歳になるという気持が、つよく働いていたように見える。三島は前年の昭和三十七年の初夏に、「私も二、三年すれば四十歳で、そろそろ生涯《しやうがい》の計畫を立てるべきときが來た」という感想を述べていた。
「人間、四十歳になれば、もう美しく死ぬ夢は絶望的で、どんな死に方をしたつて醜惡なだけである。それなら、もう、しやにむに生きるほかはない。」(『「純文學とは?」その他』)
人生を「しやにむに生きる」ことを前提に昭和三十七、八年の三島は、仕事上のひとつのしめくくりとしての大長篇を計画していたと考えてよい。しかしこの構想が明瞭《めいりよう》な輪郭を得るためには、昭和三十九年五月の『濱松|中納言《ちゆうなごん》物語』(松尾聰《まつおさとし》校註)の刊行をまたねばならなかった。
昭和三十八年の十月には、三島は文学座のために戯曲『喜びの琴』を書いていた。『喜びの琴』は十月二十四日に脱稿し、劇団は十一月十五日から読みあわせにはいる。
十一月にはプログラムにのせる「作者のことば」(表題は『「喜びの琴」について』)も、彼は文学座に渡した。そのなかで三島はこの戯曲が『若人よ蘇《よみがへ》れ』いらいの群衆劇であることを説明し、末尾を次のようなことばで結んでいる。
「文學座の男優陣は、去勢されてるみたいだといふ評判だが、そんな評判を吹つとばし、(中略)百二十パーセントの男性的魅力を發揮してもらひたいと思つて、かういふ男ばかりの芝居を書いた。世は滔滔《たうたう》と女性的時代に移りつつあるさうだが、この時に當つて、文學座が『男性の復權』を成し遂げてほしいものである。」(稿本)
プログラムはついに印刷されないままにおわり、この「作者のことば」は爾来《じらい》どこにも収録されていない。
文学座はこの年の一月に、大分裂を起こしたばかりだった。
芥川比呂志《あくたがわひろし》、仲谷昇《なかやのぼる》、小池朝雄、岸田今日子、神山繁等の二十九人が座を脱退し、福田|恆存《つねあり》を中心に新劇団「雲」を創設した。計画は極秘|裡《り》にすすめられていたのだが、どこからかはなしが毎日新聞に洩《も》れ、一月十四日の同紙社会面に「文学座が分裂」という見出しの大きな記事が掲載された。記事を見て驚いたぼくが文学座の親しい友人に電話をかけると、先方はいたって呑気《のんき》な口調で、
――分裂って……本当かい?
――新聞を見てごらんよ。
――新聞か……あっ、こりゃ大変だ。
北見治一はこの新聞報道に動転し、目的地とは反対方向に向かう電車に乗ってしまったことにも気がつかなかったほどだったと、その『回想の文学座』(中公新書)に書いている。のんびりとした雰囲気《ふんいき》の劇団だっただけに、突然の集団脱退は残された人びとにとってまさに青天の霹靂《へきれき》だったであろう。
三島も分裂に関して、事前に何もきかされていなかった。(彼は昭和三十一年に福田恆存が文学座をやめたのと殆《ほとん》ど入れちがいに座員となり、演出部に名まえをつらねていた。)「雲」の創立には三島は賛意を表明し、『「演劇のよろこび」の復活』という文章を機関誌「雲」の第一号に寄せている。それでも福田氏にたいする気持のうえのわだかまりが生じたのは、やむを得なかったかも知れない。
文学座が『喜びの琴』の上演を拒否し、三島自身が劇団をやめてからあと、彼は渡米する福田氏を羽田に見送りに行った。そのとき氏が三島に、
――どうだ、ぼくの軍門に降《くだ》るか。
福田恆存は北見治一の説明によると、三島が「第二次脱退者をまとめて雲にはいるものと、早トチリをしていたのかもしれない」(『回想の文学座』)との由《よし》である。福田さんはあとで、
――そんなことをいったかなあ。
苦笑しながら呟《つぶや》いておられたから、いずれにしても軽い気持の冗談だったらしい。
だがこの冗談が、三島の心にくすぶっていたわだかまりを一挙に爆発させる。三島と福田さんとの仲違いはそれから二、三年間尾をひき、あいだにはさまってこちらはときに閉口したものだった。
はなしを昭和三十八年の時点にもどすと、「雲」分裂後の文学座の再建にもっとも熱心に尽力したのは、――これも北見氏の著書によれば――三島由紀夫だった。
「三島はこんな不明の騒動をおこしたおわびと、再建の決意を披瀝《ひれき》する声明文まで、自分からすすんで起草した。」
彼は六月にサルドゥーの『トスカ』(安堂信也《あんどうしんや》訳)を自分で潤色して舞台にのせ、次に正月公演用に『喜びの琴』を書き上げた。『喜びの琴』のプログラムに掲載する解説文を書いてほしいという電話が文学座からかかって来たのが、十一月の半ばごろであり、執筆を承諾すると赤い表紙のついた上演台本が届けられた。
台本には演出松浦竹夫、演出助手寺崎嘉浩(いまは裕則)と刷りこまれていたほか、配役の方は俳優の名が走り書き風に書き加えられていた。配役があとで決定されたために、謄写版《とうしやばん》印刷にまにあわなかったのだろうと思われる。
上演台本は、この稿を書いている現在も手許《てもと》にある。幻におわった文学座による『喜びの琴』公演の主要な配役は、次のようになっている。
警察署長 奥野匡
公安係長山田 中村|伸郎《のぶお》
公安係巡査部長松村 北村和夫
同 巡査|片桐《かたぎり》 草野大悟
同 巡査瀬戸 笈田勝弘
同 巡査末黒 近藤準
柔道助教巡査兵頭 三津田健
協力者佐渡 北見治一
以下登場人物総計二十六人に、台本では学生がひとり追加されていた。(この人物は、決定版では抹消《まつしよう》される。)
また芝居の中味については、三幕物として書かれた劇が台本ではペンで修正され、二幕となっているのである。第二幕の前半(第一場)を第一幕に、後半(第二場)を次の幕にそれぞれ組入れ、もとの第二幕が消えてしまっている。原作者の諒解《りようかい》なしにこんな改変ができるはずはなく、三島も一時は二幕立てにする気になっていたのではないだろうか。
三島の芝居の公演台本は何冊かもっているけれど、これほど加筆訂正の目立つ本はほかに見当らない。原文にあった「日共」の文字が「黨」と変えられ、「中共」が「大陸」と修正されているのは、無用に世間を刺戟《しげき》することを避けようとする配慮によるのだろう。だが修正はそのような字句の範囲をこえて、劇の山場を構成する部分のせりふまでが、大幅に書き変えられていた。
三島は『喜びの琴』が日生劇場で上演されたさい、そのプログラムのなかで次のように述べている。
「私にしてはめづらしいことだが、今度の上演に當つて、私は二三、臺本に手を加へた。一つは、第三幕第一場の松村のセリフを書き足し、もう一つは、大詰幕切れにいたる部分をかなり大幅に書き直した。」(『「喜びの琴」について』)
文中に「今度の上演に當つて」とあるので、加筆は日生劇場での上演のまえに行なわれたようにうけとられかねない。実際には文学座に台本の原稿を渡した直後に彼は訂正の筆を加え、上演台本には新しいせりふを刷った追加分の四|頁《ページ》がはさみ込まれていた。
この修正は『喜びの琴』の性格を、かなりの程度変容させた。
2
『喜びの琴』は三島自身の説明によれば、同じ年に書かれた『午後の曳航』、『劍』などとともに、「父親」を主題とする作品系列に属する。
若い公安係巡査の片桐は上司の巡査部長松村を深く敬愛し、共産主義にたいして燃えるような敵意を抱いている。ところが松村は、実は警察にもぐり込んでいた極左集団のスパイだった。
彼は列車の爆破をひそかに企て、しかもそれを右翼の仕業に見せかけようとした。純情で疑うことを知らない片桐が、その偽装工作に利用される。片桐は松村の指示によって捜査に赴き、右翼団体の男たちを逮捕する。無線送信機も、現場付近で発見した。
右翼の破壊工作をさぐり出した片桐は、若い同僚たちから英雄扱いされる。そしてどんでん返しが、第三幕のはじめに起こるのである。松村が片桐のまえに、手錠をはめられてつれて来られる。
「まさかあなたが……」と驚いてくりかえす片桐に向かって、松村は事件の一部始終を説明する。右翼団体の男たちも無線送信機も、片桐が「発見」するように松村があらかじめ仕掛けておいた道具立てだった。極左の陰謀にうまくつかわれたと知って片桐は激怒し、松村は初稿では一応|詫《わ》びのことばを口にしている。
松村[#「松村」はゴシック体] 俺《おれ》はすまんと思つてゐる。衷心からすまんと思つてゐる。お前の信頼を裏切つたのはすまなかつた。署長におねがひして、かうしてここで話をする機會を作つてもらつたのも、そのためだ。お前に詫びを言ふためだ。
右のせりふは、台本の段階で削りとられる。清純すぎる片桐を「父」役の松村は「鍛へてやりたい」と署長に堂々といっているのだから、彼が謝ってしまっては両者の対決のもつ緊張感は減殺《げんさい》されるだろう。詫びのことばが消されただけではなく、決定版ではその少しあとに、「いや、俺は詫びる氣はないよ」というせりふがさらにつけ加えられた。次の対話のうち傍点の部分は、初稿でも修正台本でも単に「しかし」となっていた。
松村[#「松村」はゴシック体] |いや《ヽヽ》、|俺は詫びる氣はないよ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。|實は《ヽヽ》お前にも罪はある。
片桐[#「片桐」はゴシック体] 俺に罪だと。
松村[#「松村」はゴシック体] さうだ。俺を信じたのがお前の罪だ。
「俺を信じたのがお前の罪だ」というこのことばは、五年後の戯曲『わが友ヒットラー』でヒットラーがレームの「罪」を数え立てる場面を思い出させる。「レームは有罪でした」と、劇中のヒットラーはクルップにいう。
「なるほどあの男は私に友情を持つてゐた、そのこと自體が罪であるとは氣づかずに。その上私からも友情を期待した、それこそもつと重い罪であるとは氣づかずに。……」
『わが友ヒットラー』の執筆(昭和四十三年十月)にさき立って完成された『奔馬』の主人公飯沼勳も、「白磁のやうな」純粋性をたたえた若者だった。勳の辯護にあたった本多繁邦は、「彼の純粹世界」を壊してやらなければならないと考える。
「勳は自分の世界を信じすぎてゐた。それを壞してやらねばならぬ。なぜならそれはもつとも危險な確信であり、彼の生を危《あや》ふくするものだからである。」
本多は勳に裏切りにみちた外界の存在を教え、他者への憎しみを彼の心に植え込もうとする。『奔馬』と『喜びの琴』とでは作品の性格がまったくことなるにせよ、青年の純粋さに教育者的な情熱を抱くという意味では――そのかぎりでは――、片桐にたいする松村は勳にたいする本多の祖型的な役割を演じている。
松村[#「松村」はゴシック体] さうだよ。それがお前の罪だ。清純さの罪、若さの罪、この世できれいな心が負はなければならん罪だよ。お前は何の根據があつて俺を信じた。さういふ組織だからか、それとも俺の人間をか?
片桐[#「片桐」はゴシック体] はじめは……。とにかく俺はだまされてゐた。
松村[#「松村」はゴシック体] だから、そのどつちだ。
片桐[#「片桐」はゴシック体] 兩方だ。信じなければならない組織だから信じた。信じるに値ひする人間だと思つたから信じた。
松村[#「松村」はゴシック体] お前の頭は混亂してゐる。(中略)お前は、俺の人間にだまされた。俺の人間を信じたのはまちがひだつた。それぢや組織はどうか。組織は信じるのか?
片桐[#「片桐」はゴシック体] 當り前だ。どうあつても、警察官としてそれを信じる。
松村[#「松村」はゴシック体] よろしい。今、お前の前には二つの道しかないのだぞ。人間を信じないで組織だけ信じるか、それとも、人間も信ぜず、それとごつちやになる組織も信じないか。
三島がもっとも多くの修正をほどこしたのは、初稿のこの箇所だった。台本にはさみこまれた追加分では一行目の松村のせりふ、「この世できれいな心が負はなければならん罪だよ」のあとが、左のように変っているのである。
松村[#「松村」はゴシック体] ……(ゆつたりと)しかし何だつてお前はそんなに俺を憎むんだ。俺が一體何をしたつていふんだね。
片桐[#「片桐」はゴシック体] 盜人《ぬすつと》猛々《たけだけ》しいことを言ふな。
(中略)
松村[#「松村」はゴシック体] それぢや訊《き》かう。お前はただ、俺に裏切られたから俺が憎いのか?
片桐[#「片桐」はゴシック体] さうだ。決つてるぢやないか。
松村[#「松村」はゴシック体] それだけか?
片桐[#「片桐」はゴシック体] これ以上言ふ必要はない。
松村[#「松村」はゴシック体] ふうん、そんなら俺の思想は憎くないのか? 公安警察の依《よ》つて立つ理念をくつがへすやうな、國の治安を危くするやうな俺の思想は……
片桐[#「片桐」はゴシック体] だから憎いんだ。すべてはそこからなんだ。そこから來てゐるんだ。
松村[#「松村」はゴシック体] お前の頭は混亂してゐる。はつきりしたまへ。だから時間をやると言つたんだ。お前は思想が憎いのか? それともただ、自分が裏切られたから俺が憎いのか? 男に裏切られたそこらの小娘とおんなじ憎しみなのか? そこらの町でいくらも拾へる、哀れなロマンスの怒りなのかね。
片桐[#「片桐」はゴシック体] ばかにするな! ばかにするな! 思想が憎いんだ。人を骨の髓まで腐らせるその思想が憎いんだ。
松村[#「松村」はゴシック体] よし、それで話はわかつた。思想が憎い。惡い思想が憎い。お前は前からその思想を親の仇《かたき》みたいに憎んでゐた。他ならぬ俺の影響でね。……今日たまたま、俺が|それ《ヽヽ》だとわかつた。よく考へてみろ。お前はきのふその思想を憎み、けふその俺の思想を憎む。きのふのお前もけふのお前も一貫してゐる。みごとに一貫してゐる。きのふとけふの間に何が起つた。その觀點からは何も起りはしなかつた。そりやあ、俺がお前の信頼を裏切るといふ事件は起つたが、こんなことはとるにたらぬ小さな事件だ。惡い思想からすれば當然の成行で、今さらおどろくことは何もない。まあ、お互ひに、なかつたことと考へればそれですむ。さうぢやないかね。
片桐[#「片桐」はゴシック体] …………。
松村のことばはなお追加台本のおよそ二頁分つづくのだが、長くなるのでこれ以上の引用はひかえる。初稿が人間と人間がつくっている組織とのどちらを信じるかを問題にしていたのにたいして、改訂版では人間か政治思想かという選択に焦点が移行している。二つの稿を比較して、そのちがいは明瞭であろう。
もしもひとつの政治思想だけが問題なら、松村のいうように彼の裏切りなど「當然の成行で、今さらおどろくことは何もない」かも知れない。だが松村を信じたばかりに政治のからくりに踊らされ、過激派の手先としての汚名を着せられた事実は、癒《いや》しがたい傷口となって片桐の心に残る。
松村[#「松村」はゴシック体] |さつぱりしないらしいな《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。|やはりお前は裏切られた怒りを選ぶのか《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。|そんなら《ヽヽヽヽ》この傷は手ひどく祟《たた》るぞ。一生痛みつづけるぞ。それもみんなお前の罪なんだ。|思想よりも人間を選んだお前の罪なんだ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。|こんなまちがひは若い栗鼠しかやらない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。|くるみとゴルフのボールをまちがへるやうなことは《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|公安のおまはりは決してやつてはならんことだ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。(傍点村松)
このせりふでも、傍点を付した部分はあとからの書入れである。
修正によって『喜びの琴』は、一切の政治的イデオロギーにたいする幻滅の劇としての輪郭を鮮明にした。松村の裏切りにあったあとの片桐の目には、赤嫌《あかぎら》いの老巡査|末黒《すぐろ》も、松村の同類としかうつらない。そういう孤独な状態におかれた彼に、天上から琴の音がきこえて来る。「思想の絶對化を唯一《ゆいいつ》のよりどころに生きてきた青年は、すべての思想が相對化される地點の孤獨に耐へるために、ただ幻影の琴の音にすがりつく」(『文學座の諸君への「公開状」――「喜びの琴」の上演拒否について』)と、作者は説明している。
「イデオロギーは本質的に相對的なものだ、といふのは私の固い信念であり、|だからこそ藝術の存在理由があるのだ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、といふのも私の固い信念である。」(『「喜びの琴」前書――ムジナの辯』、傍点村松)
『喜びの琴』は傷心の片桐が、観客にはきこえない琴の音にひとりで耳をすましている場面で幕を閉じる。
台本を大幅に書きなおした結果、それまでの片桐が「琴の音に對して、なかば無意識の受身の姿勢であつた」のにくらべると、「意識的でもあり、自覺的意志的でもある姿勢に變つて來たと思ふ」と、日生劇場のプログラムに掲載された前掲の文章――『「喜びの琴」について』――のなかで、三島はいっていた。
「その琴の音が何であるかについては、私はわざと注解を加へない。演出家は演出家の解釋を加へるがよし、觀客は觀客の解釋を試みるがよからう。」
三島自身がイデオロギーの相対性と芸術とを対置して、「だからこそ藝術の存在理由があるのだ」と断言している以上、琴の音を芸術一般と考えることは当然可能である。しかしそうだとしても、なぜそれが和製の琴の音でなくてはならなかったか、という疑問は残る。
あえて推論をこころみるなら、琴の音の導入はヘルダーリンの詩の影響によるのではないかと思われる。三島はハイデッガーの著作『ヘルダーリンの詩の解明』(訳者は手塚富雄ほか)を、『絹と明察』の主人公のいわば思想的註釈として利用した。『絹と明察』のための取材に彼が彦根に行ったのは八月の末であり、『喜びの琴』を書き上げてから二日後の十月二十六日には、この長篇小説の執筆にはいっている。
『喜びの琴』は、『絹と明察』の準備中に書かれた戯曲だった。『ヘルダーリンの詩の解明』をこの時期の彼が熟読していたことは、疑いを容れない。
ハイデッガーの著書の巻頭で論じられているヘルダーリンの詩、『帰郷』は、次のような詩句でおわる。
[#ここから2字下げ]
けれども、絃《いと》の弾奏はすべての時間に声を与え
近づきつつある天上の霊たちをおそらくはよろこばせよう。
それが奏《かな》でられるとき、喜びの中にもまじる|憂い《ゾルゲ》は、すでになかば和げられているのだ。
このような|憂い《ゾルゲ》を、好むと否《いな》とにかかわらず、
伶人《うたびと》は魂《こころ》のうちにしばしば抱《いだ》かねばならぬのだ、しかし他のひとびとはそうではない。
[#ここで字下げ終わり]
故郷への回帰がもたらす「|喜び《フロイデイーゲ》」の「絃の弾奏」を、ヘルダーリンはうたっていた。
三島は『喜びの琴』の次に書いた戯曲『戀の帆影』に付した解説のなかで、劇中の女主人公の「純潔」な生が、「實は眞の實存からの逃避であつたこと、生の『本來的な憂慮《ゾルゲ》の樣相』の拒否であつたこと」を説明し、『喜びの琴』の主人公の純潔も、これと「相照應してゐる」といっている。『喜びの琴』の片桐は裏切りにあい、生の「本來的な憂慮《ゾルゲ》」にはじめてめざめる。
そういう|憂い《ゾルゲ》も、「|絃の弾奏《ザイテンシユピール》」によって「和げられ」ると、ヘルダーリンの詩はいう。(詩のなかの|憂い《ゾルゲ》の語についてのハイデッガーの解釈は、三島の書いている生の「本來的な」様相としての憂慮《ゾルゲ》とは少しちがうようだが、その問題にはいまは立ち入らない。)『喜びの琴』では、三島は絃《ザイテ》の響きのかわりに日本の琴の音色をおいた。
「澄み切つた琴の音」でおわる『喜びの琴』は、――『帰郷』による影響の有無をべつにして考えても――伝統への回帰を暗示しているだろう。そのあとを、『絹と明察』がひき継ぐのである。
3
『喜びの琴』上演の可否を検討する臨時総会を、文学座は十一月二十日に開催した。
上演を企画委員会と運営委員会とが決定してすでに配役もきまり、読みあわせは六回も行なわれ、プログラム用の原稿まで発注してしまった段階で、改めてその可否を臨時総会にかけたのだから、異様な措置としかいいようがない。反対派は外遊中だった杉村春子が帰国するのをまって、突然この挙に出たのである。杉村春子の帰国は、十一月十八日だった。
上演反対の火付け役は、劇団の総務部だったらしい。「いっぽう的な言葉の暴力とよびたいような圧力を」総会の席では感じさせられたと、北見治一は書いている。
「総務部は口々に唱えはじめた。
『松川事件を連想させる。それ(列車爆破)がひとつの小道具にすぎないとはいっても、お客はそうはとるまい』
『労演(勤労者演劇協会)も買わず、NHKテレビにも中継をことわられるような芝居は、興行的に不安だ』
『正月早々、こんな|きもちのわるい芝居《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》の切符は売りたくもない』
彼らは、歳末の郵便事情が輻輳《ふくそう》するから、各自が予約をとるべき封筒の宛名《あてな》書きを、はやくしてくれと、そのすぐまえまではせきたてていたのだ。のちに賀原夏子が書いているように、『杉村さんの帰朝を待ち、杉村さんをカサにきて急に例会〈十一月二十日の総会〉を開き、一挙に中止に持っていこうというやり方は実に卑怯《ひきよう》千万』(「新劇」昭和三十九年二月号)というべきだった。」(『回想の文学座』、傍点原著者)
文学座は昭和三十五年の訪中公演にさいして、森本薫の『女の一生』を|当時の《ヽヽヽ》中共の政策に阿諛《あゆ》迎合して改竄《かいざん》し、「いかにも取つてつけた、齒の浮くやうな、せりふ」(福田恆存)を原作につけ加えた。呆《あき》れたことに、最後に革命歌までそえたという。
中島健藏を会長とする日中友好協会あたりの「忠告」に、おそらくはしたがったのだろう。安保騒動の直後のこととはいえ、さすがにこの改竄には批判の声が高く、賀原夏子は訪中公演の役を辞退した。それでも杉村春子には自分が何をしているかがよくわからなかったと見えて、『女の一生』は森本薫と自分との共作に近いのだから改作も許されるはずだと、理窟《りくつ》にもならない説明をしていた。(創作を手伝ったから改作も勝手という論理は成り立たないし、まして外国の政府に迎合して文学の自立性をみずから放棄することは、どんな事情があろうと正当化され得ない。)
訪中公演から帰国したあと、杉村たちの一行の何人かが幹事の久保田万太郎の家に招かれた。そのとき女優のひとりが「政治は演劇に優先します」といい切り、久保田はそれをきいて、
「では、今夜かぎりぼくは、諸君と袂《たもと》をわかちましょう」。
切口上にいってから、拳《こぶし》を目にあてたそうである。
福田恆存が脱退組の誘いに応じて雲の結成に踏切ったのも、原因のひとつは文学座のこのような「左傾化」にある。一切のイデオロギーへの絶望をえがいた『喜びの琴』をさえ、右翼的として拒否する雰囲気《ふんいき》が、劇団のなかには醸成されていた。北見治一によると二十日の総会の席上、
「主役の公安部長だった男優は、はじめから異様に深刻な顔をしていたが、やおらおもおもしくたちあがったとおもったら、一言発言するなり、涙をこらえきれなくなったように、すぐうしろのドアから退場してしまった。『僕の役の反共的なセリフは、僕にはしゃべれません。役者としてこの役は、どうしても、やれません!』」
公安部長役の男優とは、配役表を見ればわかるように北村和夫をさす。反共的なことばを口にするのはむしろ片桐の方であって、北村和夫が演じることになっていた松村は、俳優が涙ぐまねばならないほどに激越なせりふはいっていない。
北村和夫が左翼思想の熱心な信奉者だった、というわけではないだろう。奇態な「劇」を、北見氏は次のように要約している。
「おそらくは、雲分裂のドサクサにまぎれ、共産主義者(?)もしくはそのシンパが、総務部と演出部におくりこまれていたのかもしれないが、その前面で、おおむね芝居以外にはなんの興味もない、いわゆるノンポリの役者|馬鹿《ばか》≠スちが、おどらされる構図だったというべきか。(中略)政治主義を排する地点から出発した文学座が、二十六年後に、その政治主義によって混乱し、つまずかされるという歴史の皮肉だった。」
上演は結局中止と決定され、翌日開かれた幹部会議の終了後に理事|戌井市郎《いぬいいちろう》を代表とする五人の企画委員が三島の家に行って、その旨《むね》を申し入れた。形式上は、上演は保留となっていた。保留ではなく中止とせよと三島はいい、後日のために戌井市郎、三島由紀夫、連名の覚書がその場でとりかわされる。
証
昭和卅八年十一月二十一日 三島由紀夫作『喜びの琴』を文学座は思想上の理由により上演中止を申し入れ、作者はこれを応諾した。
三島は劇団を脱退し、同時に文学座への「公開状」を発表した。
「諸君の代表がこの覺書に署名|捺印《なついん》したとき、正にそのときに、文學座創立以來の藝術理念は完全に崩壞したのである。藝術至上主義の劇團が、思想的理由により臺本を拒否するといふのは、喜劇以外の何ものでもない。」
「諸君は、戲曲の主題などには目もくれず、ただ劇的手段としての反共的セリフや、左翼が列車を轉覆させたといふ設定のために、『この役はどうしてもできない』とこぼしたり、惱みに惱んで泣いたり、何ものに氣兼ねしてかヒステリックな上演拒否の申入れをしたりして、あらはさないでもよい馬脚をあらはす始末になつたのである。」
「なるほど『喜びの琴』は今までの私の作風と全くちがつた作品で、危險を内包した戲曲であらう。しかしこの程度の作品におどろくくらゐなら、諸君は今まで私を何と思つてゐたのか。思想的に無害な、客の入りのいい芝居だけを書く座付作者だとナメてゐたのか。さういふ無害なものだけを藝術として祭り上げ、腹の底には生煮えの政治的偏向を隱し、以《もつ》て藝術至上主義だの現代劇の樹立だのを謳《うた》つてゐたなら、それは僞善的な商業主義以外の何ものなのか。」(『文學座の諸君への「公開状」』、朝日新聞十一月二十七日付)
「公開状」が新聞に出たその日に、松浦竹夫、矢代靜一《やしろせいいち》が文学座をやめ、やはり演出部の寺崎嘉弘、水田晴康がこれにつづいた。俳優の方については、
「演技部から退座順に、北見、南(美江)、村松(英子)、青野(平義)、賀原、丹阿彌《たんあみ》(谷津子《やつこ》)、中村(伸郎)、それからあいだをおき、真咲美岐、奥野匡、宮内順子夫妻、|荻c子《おぎいくこ》、仁木|佑子《ひろこ》の十七名が、(中略)|個々に《ヽヽヽ》やめていった。」(『回想の文学座』、傍点原著者)
このうち青野、中村、奧野の三氏は、『喜びの琴』への出演を予定されていた人びとである。
文学座の方は、「三島氏には失礼をわびるが、政治的配慮から劇の上演は適当でないと考える。しかし座は芸術至上主義を守る」という趣旨の前後矛盾した、意味の判然としない声明を発表した。
日生劇場が『喜びの琴』を上演するということを新聞がいっせいに報道したのは、翌昭和三十九年の一月十日だった。(劇場による正式の記者会見は、一月十七日に行なわれる。)
新築されてまもないこの劇場には、石原愼太郎と淺利慶太とが重役としてはいっていた。淺利氏は文学座の騒動が起こるとすぐに『喜びの琴』の台本を入手して読み、上演のことを石原愼太郎に相談した。このときのいきさつを石原愼太郎にきくと、
――三島さんを支援して、彼を日生劇場にとり込んでしまいたかったのですよ。
ただし警官ばかりが出て来るおよそ色気のない芝居を、一箇月間も上演するつもりは日生劇場にも当初はなかった。五月の前半には三島の新作オペラ『美濃子』を舞台にのせ、後半を『喜びの琴』とする予定だった。オペラの作曲は、黛敏郎が担当していた。
三島と黛敏郎とは昭和三十年代の前半に松竹から依頼をうけ、『墮《お》ちたる天女』という題――黛氏の記憶によれば――のオペレッタをつくろうとしたことがある。主演女優に水谷八重子を想定して三島は荒筋《シノプシス》を書いたけれど、この企画は途中で廃案となった。『美濃子』の主人公は、素盞嗚尊《すさのおのみこと》である。素盞嗚尊はここではちんぴら暴力団の首領として、オートバイに乗って登場する。この着想は『ウェストサイド物語』から得たと、三島は黛敏郎に説明していた。
――素盞嗚が荒魂《あらみたま》で、恋人の美濃子が和魂《にぎみたま》……。
のちの四部作の第一部が和魂《にぎみたま》を、第二部が荒魂《あらみたま》をあらわしていることは、いうまでもないだろう。
『美濃子』は昭和三十八年の七月四日に起稿、十七日に脱稿と、島崎博、三島瑤子共編の『定本三島由紀夫書誌』所収の年譜にはしるされている。黛氏のはなしでは三島は帝国ホテルの一室で夜遅く氏と淺利慶太とに会い、二人を待たせたまま風呂《ふろ》を浴びたあと、タオルを腰に巻いただけの姿で部屋に出て来て原稿を書きはじめた。年譜の日付が正しいとすれば、それが七月四日だったことになる。翌日の明方までに三島は一幕、二幕を書き上げ、三幕を含む完成稿は近いうちに届けるといった。
第一幕の秋祭りの場面を、黛敏郎は隠岐《おき》の島に残る古い神楽《かぐら》を参考にして作曲した。しかし第二幕以下の曲は、容易にでき上らなかった。オペラの準備には当然ながら歌の練習が加わるから、稽古《けいこ》にはふつうの芝居の倍くらいの時間を要する。二月にはいっても曲が完成しそうにないことを知って、三島は『美濃子』の上演を諦《あきら》め、黛氏との十二年に及ぶ交友を絶った。
一方で三島は、文学座からの脱退者がつくった新劇団NLTの顧問に、岩田豐雄とともに就任していた。NLTの結成は『喜びの琴』の日生劇場による上演決定が新聞に出たのと同じ日、一月十日であり、騒動いらい一箇月あまりしかたっていない。劇団――正式名称は「グループN・L・T」――の創設がはやまったのは、三島の「たっての要望によった」と北見治一は書いている。
福田恆存から羽田の飛行場で、
――どうだ、ぼくの軍門に降《くだ》るか、
といわれて、
「この言葉に、こどものようにカッカとムキにさせられた三島は、そんな福田の鼻をあかすべく、福田がアメリカから帰国するまえに、劇団としての実績を、早急につくっておきたかったのだろう。」(『回想の文学座』)
福田恆存の日程は「雲」第二号の消息欄で見ると、フォード財団との打合わせのために「十二月三日羽田発にて、(中略)一月末帰国の予定」となっていた。したがって三島としては一月末以前に、劇団をつくってしまいたかったのである。
NLTは岩田豐雄がつけた名まえで、Neo Litterature Theatre の略称だった。文学座という名まえも、昭和十二年の劇団発足いらいの幹事だった岩田氏の命名による。文学座の紋章を岩田豐雄は、Litterature Theatre の頭文字を組合わせてつくった。
岩田氏はやはり創設いらいの幹事だった久保田万太郎の死去(昭和三十八年五月)と前後して、特別顧問の地位に退いていた。「こんなことなら、私は、幹部をやめるのではなかった」と、『喜びの琴』の騒動の直後に氏は慨歎《がいたん》している。
「年もとったし、もち前のモノグサ根性でやめたのだが、もし、やめなかったら、こんな文学座を解散させたろう。」(毎日新聞、十二月十一日付夕刊)
再生の文学座という意味が、NLTという名称には託されていたと推察される。
日生劇場による『喜びの琴』の公演には、NLTから奧野匡(外事係巡査堀)、青野平義(剣道助教巡査朝倉)、賀原夏子(掃除婦まさ)の三人が出演した。奧野匡が演じるはずだった署長の役は劇団四季の田中明夫にかわり、松村の役は山形勳がうけもった。
五月七日の初演の日には、終演後にロビイでパーティーがあり、倭文重《しずえ》さんもその席に来ておられた。公的な催しに母堂が顔を出されたことは滅多になく、この劇の上演に三島がかけていた意気込みのほどを改めて感じた。文学座からも労演からもけちをつけられた芝居であるだけに、三島は何としてでも上演を成功させたかっただろう。「何なら、プラカードを持つて、銀座を練り歩いてもいい、と思つてゐる」とまで、当時彼は新聞に書いていた。
『濱松中納言物語』が『篁《たかむら》物語』『平中《へいちゆう》物語』といっしょに、岩波の「日本古典文學大系」の一巻として刊行されたのは、奥付で見ると五月六日となっていて、公演初日の前日にあたる。もっとも三島はその月報に『夢と人生』と題する一文を寄せているから、刊行よりも少しまえに輪廻《りんね》転生のこの物語を校正刷りで読んでいたはずである。
4
三島の戯曲の日生劇場による二回目の公演は、『戀の帆影』だった。
水谷八重子主演の『戀の帆影』は日生劇場開場一周年記念として、昭和三十九年の十月三日から二十九日まで上演され、ぼくはその最終日の舞台を見に行った。(帰りに瑤子夫人の運転する車でホテル・ニューオータニに行き、最上階の回転式ラウンジで三島夫妻といっしょに食事をしたのが、つい昨日のことのような気がする。)オリンピックが、東京で開かれた年だった。
輪廻転生の物語を書くと彼が電話で突然いって来たのは、この『戀の帆影』上演の少しまえだったと思う。
――長篇は四部作にするよ、
と彼は電話で説明した。
――第一部が明治時代で、第二部は昭和の右翼のテロリスト、昭和の神風連《しんぷうれん》だよ。テロリストの息子が東南アジアに行って、タイの王女に会う。その王女が、第三部のヒロインになるのさ。第一部の主人公が次々にそういう風に生まれ変って行くのだけれど、当人たちは自分が生まれ変りだとは気がつかない。まわりの人間には、それがわかっている……
このことはまえにもほかで書いたことがあるのだが、必要上あえて再録しておく。小説の腹案を彼がこんなにくわしく説明するのをきいたのは、これがはじめてだった。しかも先方からわざわざ電話をかけて来て、はなしをはじめたのである。ようやく構想ができ上った喜びを、だれかにきかせたかったのだろう。「第四部は?」ときくと、
――第四部は未来だ。
三島は松尾聰によって復元された『濱松中納言物語』を「何度も讀むうちに、私の小説はこれにこそ依據すべきだと」考えたという。『濱松中納言物語』は、全六巻のうち首尾二巻が戦国時代の末期に佚亡《いつぼう》し、その全貌《ぜんぼう》はそれまで――二、三の稀覯本《きこうぼん》が出たのをべつとして、――一般には殆《ほとん》ど知られていなかった。
「それは唐に轉生した亡《な》き父を慕うて渡唐する美しい貴公子にまつはる戀物語で、夢と轉生がすべての筋を運ぶ小説である。」(『「豐饒《ほうぜう》の海」について』)
輪廻転生を主題とする作品を、三島は二十歳のときにすでに書いている。この稿のはじめの方で触れた昭和二十年五月の詩、『夜告げ鳥――憧憬《しようけい》との訣別《けつべつ》と輪廻への愛について――』の一部を、ここでもう一度引用する。
今何かある、輪廻への愛を避けて。
それは海底の草叢《くさむら》が酷烈な夏を希《ねが》ふに似たが
知りたまへ わたくしを襲うた偶然ゆゑ
不當なばかりそれは正當な
不倫なほど操《みさを》高いのぞみだ、と
さやうに歌ひ、夜告げ鳥は命じた
蝶《てふ》の死を死ぬことに飽け、やさしきものよ
輪廻の、身にあまる譽《ほま》れのなかに
現象のやうに死ね 蝶よ
……(中略)……
その時|赫奕《かくやく》ともえた森から、いまこそ夜を
わたくしは告げる、晝の全き刹那《せつな》のために、と
夜告げ鳥はさやうに、歌つて死んだ
歌つた 薔薇《ばら》は無上の五月に
菊はああ 豐饒の秋に、と!
昭和二十一年の正月から書きはじめられた『創作ノオト「盜賊」』にも、次のような書き込みが見られる。
「ひとり藝術のみが永遠である、なぜなら藝術は永遠に滅びゆく存在であるから。
(最も一身專屬的なるが故《ゆゑ》に永遠|也《なり》、輪廻説)」
ほろびて行くものの永遠性を輪廻こそが保証するという考え方を、逆説的なこの命題はあらわしているようである。
輪廻を中軸に小説を書こうという着想も、三島自身の説明によると『青の時代』を執筆していたころに、そのノートに出て来ていた。
「それは昭和二十五年のノートで、二十五歳の私はしきりに長い長い小説を書きたがつてゐる。(中略)『螺旋《らせん》状の長さ、永劫《えいごふ》囘歸、輪廻の長さ、小説の反歴史性、轉生|譚《たん》』と書いてゐるところを見ると、それから十年以上、この想は私の心の奧深く埋もれて、再發見の時を待つてゐたのだと思はれる。」(『「豐饒の海」について』)
「再發見」の決定的な契機が、『濱松中納言物語』との出会いだった。この物語は「もし夢が現實に先行するものならば、われわれが現實と呼ぶもののはうが不確定であり、恆久不變の現實といふものが存在しないならば、轉生のはうが自然である、と云つた考へ方で貫ぬかれてゐる」と、彼は月報に寄せた文章(『夢と人生』)のなかでいっている。
「それほど作者の目には、現實が稀薄《きはく》に見えてゐたにちがひない。(中略)われわれが一見荒唐無稽なこの物語に共感を抱くとすれば、正に、われわれも亦《また》、確乎《かくこ》不動の現實に自足することのできない時代に生きてゐることを、自ら發見してゐるのである。」
三島は前年の秋には、「時代の中樞をなす哲學なしに、いかにして大長篇が書けるか、疑問に苛《さいな》まれます」と書いていた。『濱松中納言物語』についての彼のことばは、まさにその「疑問」にたいする解答としての響きをもつ。哲学をもち得ない「不確定」性のなかを漂いながら、しかもそういう「稀薄」な現実に「自足」安住しようとするこの世界への、夢のがわからの挑戦《ちようせん》を三島は企てたのである。
四部作の最初の題は『月の宴』だった。
「新潮」の昭和四十六年一月臨時増刊(「三島由紀夫読本」)に発表された『「豐饒の海」ノート』で見ると、総題はそうなっている。これは察するに『濱松中納言物語』のなかの未央宮《びようきゆう》の月の宴から、思いつかれた題ではないだろうか。唐土に渡った浜松中納言が帰国するのにさいして、長安の未央宮で別れの宴が催され、その月の宴のことが巻の二、巻の三を通じてくりかえし物語られる。
また同じ『「豐饒の海」ノート』では、第二部の主人公は北一輝《きたいつき》の息子である。単に昭和の神風連といっていたのが北一輝の息子に変ったのは、十月以降だった。(ホテル・ニューオータニでも三島は北一輝の件を口にしていたような気がするのだが、そのあたりの記憶はさだかではない。)
第一部『春の雪』の「新潮」への連載は、昭和四十年の八月(九月号)からはじまった。連載のおわりに近いころ、
――あれは私小説なんだよ。
何かのおりに、ぽつりと彼はいっていた。
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「優雅」をこえて
1
『豐饒《ほうぜう》の海』と題する詩集を刊行することを、昭和二十一年の三島は考えていた。
昭和十七年ころから親交のあった齊藤吉郎が、同時代の詩人たちの詩集を叢書《そうしよ》の形で出版するという企画に当時関与していて、三島も叢書のうちの一巻をうけもたないかと齊藤氏にすすめられたのである。彼はよろこんで、この勧誘に応じた。
三島がこのときに齊藤氏|宛《あ》てに書いた手紙が、小島千加子の著書、『三島由紀夫と檀《だん》一雄』(構想社刊、昭和五十五年)のなかに引用されている。
「……この詩集には、荒涼たる月世界の水なき海の名、幻耀《げんえう》の外面と暗黒の實體、|生のかゞやかしい幻影と死の本體とを象徴する名《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》『|豐饒の海《ヽヽヽヽ》』といふ名を與へよう、とまで考へるやうになりました。詩集『豐饒の海』は三部に分れ、戀歌と、思想詩と、譚詩《たんし》とにわかれます。幼時少年時の詩にもいくらか拾ひたいものがありますが、それは貴下に選んでいたゞきませう。これが貴下の御厚意への僕の遠慮のないお答へです。……」(昭和二十一年一月九日付、傍点村松)
齊藤氏は三島の詩の原稿を、しばらく預っておられたという。
氏は三島よりも、二、三歳年長だった。一高の文芸部委員をつとめ、昭和十七年に一高を卒業して東大にはいってからは「『故園』國文藝の會」という会を友人とともにつくり、雑誌「故園」を発刊した。昭和十八年の春に出た「故園」第一|輯《しゆう》には、三島の詩『春の狐《きつね》』が掲載されている。巻頭の論文は、蓮田善明の『神韻のしらべ』である。「『故園』國文藝の會」は敗戦後に「故園草舍」として再発足し、昭和二十一年六月に「敍情」という雑誌を出す。その「敍情」第一輯にも、三島は『絃歌――夏の戀人――』という題の詩を寄せている。
「夏の戀人」とは、恋に破れたばかりの自分をさしているのだろう。K子嬢の結婚は、この年の五月だった。
絃 歌
――夏の戀人――
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花もなく 蝶鳥《てふてう》の舞も果て 夏の戀人よ その燃え立つ傾斜《なぞへ》のみどりに 蝉《せみ》の彌撒《みさ》は君らを飾れど
……(中略)……
君らの悲劇がいと高きものの幸《さち》に たぐへられる日はすぎ 忘られたる海のやうに 漲《みなぎ》り照る日はすぎても
わななく泉や森の花ざかりや 舞ふ鹿《しか》の うららかな春に遲れ 夏の戀人よ 今こそ愛の至限へと人は云《い》へど ああ火のごとく露《あら》はに 歌はざるものと君らがなる時 ……もはや歌はざるものと君らがなる時 諸聲《もろごゑ》にその時の歌をうたふ
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逸題詩篇
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拒まんかな 一つの帆
見やらるる海もなき祭日のためとにはあらず
烈《はげ》しき夢より片雲《かたくも》の思ひは舞ひ出《づ》るかの闃《げき》たる水平線のためとてはましてあらず……
再《ま》たしても汀《なぎさ》に我はのこされむ
とりのこされむ又しても神の輪舞に圍まれて
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全集ではこの詩は「逸題詩篇」以下が切り離され、前半とは別個の独立した作品として扱われている。そのために『絃歌――夏の戀人――』は、「諸聲《もろごゑ》にその時の歌をうたふ」の一句をもって唐突におわる。
「逸題詩篇」の文字は、雑誌では小さいゴティックの活字で印刷されていた。末尾のこの五行が、「諸聲《もろごゑ》にその時の歌をうたふ」をうけた「歌」であることは、一読して明瞭《めいりよう》と思う。
夏の高原の「燃え立つ」緑のなかを歩いていた恋人たちは、いまは「歌はざる」二人となった。恋はおわりを告げ、三島が夢みていた悲劇的な栄光も「愛の至限」も、むなしく消え果てる。恋の帆影は去り、作者はひとり汀にとり残されるのである。
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再《ま》たしても汀《なぎさ》に我はのこされむ
とりのこされむ又しても神の輪舞に圍まれて
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『岬《みさき》にての物語』を、とりわけおわりのこの二行は想起させる。『岬にての物語』にも一組の「夏の戀人」があらわれ、「鹿の精」のような美少女は青年とともに、作中の「私」を蝉《せみ》時雨《しぐれ》のなかにひとり残して忽然《こつぜん》と消える。昭和二十年の八月に書き上げられたこの小説が鮮明に脳裡《のうり》にあったので、「再《ま》たしても」と三島は書いたのではないか。そう考えなければ、「再《ま》たしても」ということばの意味は、納得がゆかない。
『岬にての物語』は愛と死との夢を、少年の「私」の目をとおしてえがいた作品だった。これにたいして詩のなかの「我」には、「歌はざるものと君らがなる時」の暗い畳句《ルフラン》が示しているように、愛と死とに達する通路がすでに閉ざされている。それでも『岬にての物語』の「私」が耳にした「神々の笑ひ」は残り、「神の輪舞」は夢幻の彼方《かなた》に思いを馳《は》せることを自分に使嗾《しそう》してやまないと、「夏の戀人」という副題をもつこの詩篇はいう。
齊藤氏たちが企画した詩集の叢書は、用紙の入手難その他の事情からついに実現を見なかった。『豐饒の海』の原稿は、作者に返却された。
十九年後に三島は「生のかがやかしい幻影と死の本體とを象徴する」表題を、彼の最後の作品となる長篇小説に冠するのである。
2
四部作第一巻の『春の雪』の執筆をはじめるまえに、三島はブリティッシュ・カンシルの招きでロンドンに行った。
このとき、ロンドンからもらった絵葉書がある。
「只今《ただいま》ロンドンでのらくらしてゐます。
出發前ぜひお目にかかりたかつたのですが、メチャクチャに日程が立てこんで、つひにその機を得ず殘念でした。今、貴兄がここにをられれば、いくらでも駄話をする時間があるのですが……
『批評』はもう出ましたか? 飜譯のつゞきも氣にかかつてゐますが、それが完成したら、書かせていただきたい仕事もあります。ロンドンの春は氣温も氣候も變轉きはまりなく、皆が傘《かさ》を持つて歩く理由がはじめてわかりました。今夜はオペラで『エレクトラ』を見て、人並に昂奮《かうふん》しました。」
日付は消印の文字が不明瞭で一九六五年三月とまでしか読めないけれど、三島が日本を発《た》ったのは三月十日だったから、三月の半ばくらいの発信だろう。
文中の「飜譯のつゞき」とは、ダヌンツィオの『聖セバスチァンの殉教』の訳をさす。三島からこの聖史劇《ミステール》――三島、池田訳では霊験劇――のフランス語原本と冒頭部分の日本語訳とを手渡されたのは、『喜びの琴』の上演のあとぐらいだったと記憶している。だれかにたのんだ下訳が語学的に正しいかどうかを見てほしい、という注文だった。
下訳には、初歩的な文法上の誤りが多かった。これではダヌンツィオの絢爛《けんらん》とした劇の全訳は到底無理だろうと思い、そのことを三島に説明すると、彼は飜訳者に腹を立てて、
――許せない、
といい出した。
――語学ができないことは、べつに罪ではないよ。
――語学ができないことを、俺《おれ》は怒っているんじゃないんだ。できないならできないと、いえばいい。できないのにできるといったことが、許せないんだよ。
ほかの飜訳者をさがしてほしいと彼にたのまれて、そのころよく遊びに来ていた池田弘太郎を紹介した。池田氏は東大仏文科の大学院に、当時在学中だったはずである。
「それから一年有餘にわたる怖《おそ》るべき共譯の作業がはじまつた」、
と三島はのちに、書いている。
「なぜ『怖るべき』かといふと、私は全然フランス語が讀めないのである。(原文改行)まづ文法を勉強し、一字一句、格や人稱をたしかめ、一語一語の意味について、池田氏に根掘り葉掘り質問しながら、蟻《あり》の這《は》ふ如《ごと》く譯業を進めて行つた。われわれは毎週一囘徹夜作業をした。そしてさういふ勞苦の間にも、ダンヌンツィオ獨特の官能性に富んだ豐麗なイメージを少しづつ採掘してゆくことを愉《たの》しんだ。時には一語について數時間の議論をすることもあつた。私にとつては蘭學事始《らんがくことはじめ》的な感動があつた。」(『本造りのたのしみ――「聖セバスチァンの殉教」の翻譯』)
こちらは池田氏を紹介しただけのことで、それからあとの仕事の模様などはたずねてもみなかったから、こんな難行苦行を二人が毎週かさねているとは少しも知らないでいた。飜訳は「批評」昭和四十年の春季号から秋季号まで、三回にわたって掲載される。
はじめから「批評」にのせるつもりで、三島はこの飜訳にとりかかったわけではない。訳をすすめているあいだに、たまたま「批評」復刊のはなしが起こった。彼は「批評」同人の全員を昭和四十年の一月五日に馬込の家での晩餐《ばんさん》に招いていて、これが古くからの同人たちとの初顔合わせである。二月には訳稿の第一回分を編集部に渡し、翌月がロンドン行きになる。
ロンドンからの葉書で三島が、飜訳が完成したら「書かせていただきたい仕事もあります」といっているのは、『太陽と鐵』のことだった。『太陽と鐵』の「批評」への連載は、同年の秋季号から――最初は『聖セバスチァンの殉教』の最終回と併載の形で――はじまっている。
『太陽と鐵』の起稿は、七月ごろだったと推定される。
――こんど書くのは回想録だよ。
そのころ彼は、そういっていた。
――年寄りが若いころをふりかえって書く、厭味《いやみ》な回想録があるだろう。あれを真似《まね》して、うんと厭味な回想録をつくってみる……
政治家や実業家にしばしば見られる「出世美談」型の文章を、彼が書く気づかいはむろんないにしても、いったいどんな作品があらわれるのだろうかとぼくは思っていた。実際に雑誌にのった『太陽と鐵』は、驚くほど抽象化された回想だった。「厭味な回想録」は単にシニカルな表現だったと見えて、ふつうの自伝にはつきものの過去の生活に関する点描は、ここでは思いきって排除されている。三島はこれを、「告白と批評との中間形態」とみずから称した。
「このごろ私は、どうしても小説といふ客觀的藝術ジャンルでは表現しにくいもののもろもろの堆積《たいせき》を、自分のうちに感じてきはじめたが、私はもはや二十歳の抒情《じよじやう》詩人ではなく、第一、私はかつて詩人であつたことがなかつた。そこで私はこのやうな表白に適したジャンルを模索し、告白と批評との中間形態、いはば『祕められた批評』とでもいふべき、微妙なあいまいな領域を發見したのである。(原文改行)それは告白の夜と批評の晝との堺の黄昏《たそがれ》の領域であり、語源どほり『誰そ彼』の領域であるだらう。」(『太陽と鐵』)
『豐饒の海』の第一部『春の雪』の連載は、既述のように八月からだった。最後の大長篇の執筆と、小説では「表現しにくい」部分を描出する仕事とを、彼はほぼ同時期に開始したのである。
『聖セバスチァンの殉教』を、三島は機会があれば上演したいと考えていた。
願望はついに果されないままにおわったのだが、彼がこの芝居を愛した理由は容易に理解できる。作中の聖セバスチァンは、アドニスやハドリアヌス帝の寵児《ちようじ》アンティノウスにも比せられる美青年としてえがかれている。
ハドリアヌス帝がアンティノウスの死後、彼を神として祀《まつ》つたように、(一時期の三島は、アンティノウス像に心酔していた)、作中のローマ皇帝はセバスチァンに「お前は神だ、帝だ」といい、「帝國をお前に授けよう」とまで約束する。勝利の女神像を帝からあたえられたセバスチァンの周囲では、アドニスの再出現をことほぐ合唱が起こる。この瞬間のセバスチァンは、疑いもなく古代の神々と同列に位置しているのである。
『聖セバスチァンの殉教』の上演に協力したカトリック教徒は破門すると、パリの大司教が警告を発したのも当然だったかも知れない。この劇は、単純な殉教者の聖史劇《ミステール》ではなかった。
三島自身のことばを借りるなら、
「體裁としては中世キリスト教靈驗劇でありながら、内容は、といふよりは戲曲の外貌《ぐわいばう》は、あげてセバスチァンの肉體の讃美《さんび》に捧《ささ》げられてゐるのである。」(『聖セバスチァンの殉教』「あとがき」)
美しい若者は皇帝の哀願に似た棄教の命令を拒否し、生命をながらえてほしいという兵士たちの懇願も拒絶して、死へのみちを歩む。
「彼はあたかも、キリスト教内部において死刑に處せられることに決つてゐた最後の古代世界の美、その青春、その肉體、その官能性を代表してゐたのだつた。」(同右)
肉体美の永遠の代表であるためには、アドニスのように青春とともに死なねばならない。自分を射殺せよとセバスチァンは部下たちに命じ、若い肉体に無数の矢が深々と立つ。それらの矢は彼の絶命とともに突然ことごとく消え失《う》せて、奇蹟《きせき》を見た人びとは美の神の蘇生《そせい》を信じる。ただし芝居にはこのあとにまだもうひとつ、「天國」と題される短い場面があり、ここではセバスチァンの霊は天上の合唱にとり巻かれ、聖人の劇としての「體裁」はこれによって完成される。
セバスチァンは伝承によると、アッピア街道沿いの墓場《カタコンベ》のあいだで処刑された。ダヌンツィオの劇でも処刑の場面では「そこかしこに高い墓標が散らば」り、手前に月桂樹《げつけいじゆ》のひとつにしばられたセバスチァンと射手たちとがいる。夕暮のせまるなかを、皇帝の派遣した騎兵たちが去って行く。
この場面が一番好きだと、三島は同じ「あとがき」のなかでいう。
「私は全篇のうち、(中略)『最後の(騎兵の)馬の尻《しり》』が薄暮のなか、高架水道のつらなるラテンの野のそこかしこの墓標のうしろへ消えるところが、もつとも好きだ。」
墓といえば『春の雪』の冒頭も、「得利寺附近の戰死者の弔祭」と題する写真のはなしである。写真には墓のまわりに集まった兵士の群がうつし出され、前景には「古代の月桂樹の樹々《きぎ》」のかわりに、「都合六本の、大そう丈の高い樹々が」立つ。
「畫面の丁度中央に、小さく、白木の墓標と白布をひるがへした祭壇と、その上に置かれた花々が見える。(原文改行)そのほかはみんな兵隊、何千といふ兵隊だ。(中略)わづかに左隅《ひだりすみ》の前景の數人の兵士が、ルネサンス畫中の人のやうに、こちらへ半ば暗い顏を向けてゐる。」
セバスチァンが殉教死をとげるルネッサンス絵画風の墓場の情景と、この「得利寺附近の戰死者の弔祭」とは、果して無関係だったろうか。
「生のかゞやかしい幻影」と三島が齊藤氏|宛《あて》の手紙で対比した、「暗黒の實體」としての死を強調するために、彼は死が支配する光景を四部作の巻頭においた。「巻頭にすえられたこの忘れ難い情景のイメージは、一切をひたすら死者に、死の方向に『集中』している」と、佐伯彰一は文庫版『春の雪』の解説のなかで書いている。
「|死の儀式化《ヽヽヽヽヽ》こそここにおける焦点をなすものであり、これは巻末における主人公松枝清顕の死と照応しているばかりでなく、四部作全体をつらぬく死のテーマをいち早く鋭利なかたちで告知《ヽヽ》するものであった」(傍点原著者)
まさにそのとおりであろう。だが恋に殉じて死ぬ若者の物語の導入部として、作者がこのような情景の写真をえらんだ背景に、『聖セバスチァンの殉教』による刺戟《しげき》が働いていた可能性も、一概には排除できない。
『聖セバスチァンの殉教』の墓場の場面を含む部分を三島が訳したのが、五月から七月半ばまで(訳了は七月十四日の早朝)だった。これはちょうど彼が、『春の雪』を執筆しはじめていた時期にあたる。
3
『春の雪』の構成には、『濱松中納言物語』の佚亡《いつぼう》した一の巻の筋立てが利用されている。
『濱松中納言物語』の一の巻は松尾聰の考証によると、義理の兄妹にあたる男女の恋物語だった。主人公である中納言ははやく父を失い、まだ若く美しい母は左大将を自分の許《もと》に通わせる。左大将の娘に大姫という絶世の美女がいて、彼女と中納言とは親同士のつながりから自然に親しくつきあうようになり、中納言の胸には恋心が芽生える。
のちに東宮になる式部卿宮《しきぶきようのみや》も、大姫に恋慕していた。式部卿宮からの求婚がたびたびあり、父親の左大将はついに宮に娘を奉《たてまつ》ることを決心した。婚約の決定をきいて、中納言は「はじめておのが恋の心の深さに驚き」、自分の逡巡《しゆんじゆん》を後悔するのである。
彼は婚約のすんだあとの大姫と大胆にも契《ちぎ》りを結び、その後も大姫付きの女房、宰相の君などのはからいによって逢瀬《おうせ》をかさねる。その結果大姫は懐姙し、左大将はこれを知って狼狽《ろうばい》する。大姫は母の監視の目を盗んで、八尺の黒髪をおろす。
復元されたこの物語の概要にあらわれる人間関係を、『春の雪』の場合にあてはめることは容易だろう。
中納言 松枝清顯《まつがえきよあき》
大姫 綾倉聰子《あやくらさとこ》
左大将 綾倉|伊文《これぶみ》
宰相の君 蓼科《たでしな》
式部卿宮 洞院宮治典王《とうゐんのみやはるのりわう》
中納言とはちがって松枝清顯は母が再婚したわけではなく、幼少時に綾倉家に預けられたために聰子と姉弟のようにして育った。武家出身の松枝家では「自分の家系に缺けてゐる雅《みや》びにあこがれ、せめて次代に、大貴族らしい優雅を與へようとして」、清顯の教育を堂上家の綾倉に委《ゆだ》ねたのである。
三島の祖母の夏子は少女時代を有栖川《ありすがわ》家の奥ですごし、そこで覚えた優雅を孫に伝えた。清顯は自分自身が和歌と蹴鞠《けまり》の家に預けられ、成長後は「優雅を學んでしまつた」自分を、――この稿のはじめでも触れたように――「一族の岩乘な指に刺つた、毒のある小さな棘《とげ》のやうなもの」に感じる。
「つい五十年前までは素朴《そぼく》で剛健で貧しかつた地方武士の家が、わづかの間に大をなし、清顯の生ひ立ちと共にはじめてその家系に優雅の一片がしのび込まうとすると、もともと優雅に免疫《めんえき》になつてゐる堂上家とはちがつて、たちまち迅速な沒落の兆《きざし》を示しはじめるだらうことを、彼は蟻《あり》が洪水《こうずい》を豫知するやうに感じてゐた。」
「自分の存在理由を一種の精妙な毒だと感じることは、(清顯の)十八歳の倨傲《きよがう》としつかり結びついてゐた。」
皇族との婚約が内定している女との恋は、三島はすでに昭和二十三年の短篇『頭文字』で書いている。婚約の正式発表の一週間まえに主人公は恋人の家に忍び込み、二人は歓喜の一夜をすごす。男はそれからまもなく出征して戦死し、これをきいた女は喪服を身にまとって、宮家内の「座敷|牢《らう》めいた一棟」で生涯《しようがい》を送る。
『頭文字』を発表してから十数年後に、これと酷似した筋書の物語と作者はめぐりあったのである。
松枝清顯の家は、目黒にあった西郷從道《さいごうつぐみち》の宏壮《こうそう》な邸《やしき》をモデルにしている。
三島は『「豐饒の海」ノート』で見ると、明治の末から大正にかけての西郷家の模様を、かなりくわしくしらべていた。
「明治末年の西郷家と皇族の妃殿下候補との恋愛」、
という文字も出て来る。もっとも作者は途中で考えを変えたのか、小説につかわれているのは主として邸宅や庭などにとどまり、西郷家の人びとに関する材料はごく一部分しか用いられていない。
その同じ『「豐饒の海」ノート』のはじめの方に、
「少女と愛し合へど意志薄弱。
つひに少女やきもきして宮家と許婚。
このときはじめて通じ合ひ、妊娠し、大問題。
少女|剃髪《ていはつ》。」
この腹案は全体としては『濱松中納言物語』一の巻のとおりであり、前半二箇条は「宮家」が相手であるという一点を除けば、三島の青春そのものである。「許婚の間柄《あひだがら》になるべき」だった「夏の戀人」を、三島もまた逡巡から失った。
小説構成上の第一の問題は、この逡巡をどのように理由づけるかにあっただろう。三島の場合、逡巡は彼がまだ二十歳の無収入な学生だったことによる。だが華胄《かちゆう》界を舞台とする以上、御曹司《おんぞうし》の無収入は結婚のさまたげとはならない。この点に作者は苦慮したと見えて、ノートのなかの「障害の設定」の項目には二重丸が付されている。
「◎障害の設定
@主人公の意志薄弱 A 」
主人公を「意志薄弱」としてしまったのでは、小説全体の迫力が弱まるおそれがある。それで作者は、第二案を模索した。(「ノート」のAの下には、書入れがない。)
最終的に三島が採用した方法は、主人公に年齢上の劣等感を恋人にたいして抱かせることだった。そのために彼は『假面の告白』とは逆に――つまり自分の経験とは反対に――女を主人公よりも二歳年長にした。
清顯にとって聰子は「自分の幼時をあまりにもよく知り、あまりにも感情的に支配してゐた」女であって、「自分の肉體の小さな白い擬寶珠《ぎぼうし》の蕾《つぼみ》まで、聰子に見られてしまつてゐたかもしれない」と思っていた。だから成人後も彼女の「勝氣で涼しげな」目にみつめられると、「いつもたぢろいで、その視線に批評的なものを」読んでしまう。美しい聰子を心の底では愛しながらも、彼はそういう自分に絶えず苛立《いらだ》っていた。
聰子の方は清顯の屈折した心情を、十分には理解していない。ほかから縁談をもち込まれると、はじめから断わる気でいながら清顯に向かっては、
「私がもし急にゐなくなつてしまつたとしたら、清樣、どうなさる?」
おどかすようにきき、清顯の表情が不安に曇るのを見てよろこぶのである。
これにたいして清顯は、聰子に復讐《ふくしゆう》するための手紙を書く。そのなかで彼は父に誘われて花柳街に行き、芸者と一夜をすごしたと嘘《うそ》をいい、「女といふ女は一切、うそつきの、『みだらな肉を持つた小動物』に」すぎないことを発見したと宣言する。
「小生は今、あなたをも、はつきり、One of them としか考へてゐないことを申上げておきます。あなたが子供のときから知つてゐた、あの大人しい、清純な、扱ひやすい、玩具《おもちや》にしやすい、可愛《かはい》らしい『清樣』は、もう永久に死んでしまつたものとお考へ下さい。」
乳離れをしたがってもがいているような若者と聰子とのあいだは、それでも正月をすぎてから一度は修復される。清顯はこの手紙を出してからあと、思いなおして聰子に電話をかけ、手紙が届いても開封しないで破り棄《す》ててほしいとたのんだ。「はい」と聰子は口では約束しながらも、届けられた手紙を読んで懊悩《おうのう》し、正月の親族会の席で清顯の父親に、清顯を花柳街につれて行ったというはなしは本当かとたずねた。誘ったことは事実だが「一言のもとに」はねつけられたと父親は正直にこたえ、それをきいて彼女は幸福感に酔う。
「私はこんな仕合せな新年は存じません」、
と聰子は清顯にいう。当の清顯には、彼女が何をよろこんでいるのかわからない。
二人の雪見の場面が、そのあとにつづく。聡子の方からの誘いで二人は人力車に乗って雪の降りしきるなかを走りまわり、はじめての接吻《せつぷん》をかわす。小説中でも忘れがたい、もっとも美しい情景のひとつである。
接吻ののちに清顯が聰子をどこかに誘ったら、彼女はどこにでもついて行ったであろう。しかし『わが思春期』の三島がそうだったように、そこまで「重たい骰子《さい》」を振るのには、彼は若くて純情でありすぎた。そのうえに清顯は聰子の優雅が、「どんなみだらさをも怖《おそ》れない」官能性を含んでいることにも、あるこだわりをもっていた。
彼が聰子にたいして抱いていた劣等感は、年齢の問題だけにとどまらない。清顯には、
「聰子の優雅の持つみだらなほどの自由が嫉《ねた》ましく、それに引け目を感じてもゐた。」
幼少時を綾倉の家で送ったとはいえ、もともと彼は成上りの下級武士の孫だった。彼の祖母はその出自を「大きな武骨な手」や「いかつい顏つき」にとどめていて、郷里の人びとがたずねて来ると、子どもたちの虚飾を嘲笑《ちようしよう》するように平気で鹿児島辯で応対した。清顯はこの祖母と会っているときだけ、
「自分および自分をとりまくすべて贋物《にせもの》の環境からのがれて、まだこんな身近に生きてゐる素朴で剛健な血に觸れる喜びを抱いた。」
幕末の戦乱を生き抜いて来た老婆《ろうば》に、優雅の夢を追う孫がつよい愛着を寄せる。「革命」を戦った武家の血と気質とは、清顯のなかになお屈折した形でその名残りをとどめていた。彼は自分の未熟な「ぎくしゃくした優雅」を恥じながらも、本当の恋は安易な「みだら」さとはべつの、到達不可能に近い純粋なものでなければならないと思っている。不可能に挑戦すれば傷つくことは不可避であり、優雅は「血みどろの實質を」もってあらわれるほかない。
明治とともに花々しい戦争の時代はおわったと、副主人公の本多繁邦がのちに清顯にいう。そのかわりいまは、「感情の戰爭の時代」がはじまっている。
「行爲の戰場と同じやうに、やはり若い者が、その感情の戰場で戰死してゆくのだと思ふ。それがおそらく、貴樣をその代表とする、われわれの時代の運命なんだ。……それで貴樣は、その新らしい戰爭で戰死する覺悟を固めたわけだ。さうだらう?」
4
清顯と聰子とのあいだに感情の決定的な行きちがいが生じるのは、四月六日に松枝家で開かれた花見の宴からである。
諒闇《りようあん》中だったのだが、先帝の従兄《いとこ》にあたる洞院宮の御成りが決定されたために、松枝|侯爵《こうしやく》としては華美な宴を開く名目が立った。宴には聰子も招かれ、聰子は招待が清顯の指図によると思い込んで彼に礼を述べた。清顯の方は実は何も知らされていなかったので、曖昧《あいまい》な返事をする。
洞院宮の第三王子治典王は、多くの花嫁候補を拒否してまだ独身でおられる。そのことを知っていた松枝侯爵は花見の宴に聰子を呼び、洞院宮と妃殿下とにさりげなく彼女をお引合せしようとした。当日招かれた客のなかで、若い未婚の女は聰子だけだった。
宴会の席に出てすぐに聰子は、自分がどんな立場におかれているかを悟った。宮家から正式に縁談をもち込まれてしまっては、聰子の家としてはことわりにくい。彼女は暗澹《あんたん》とした思いにとらわれ、自分を守ってくれなかった清顯を恨んだであろう。聰子と自分とは恋仲であると彼が親にひとこといってくれていたら、松枝侯爵もこんな企ては諦《あきら》めたはずだった。聰子が宴会への招待の御礼を彼にいったときに、清顯はすでに洞院宮の御成りを知っていたのだから、父親の画策に気がついてよかったのではないか。
広い庭園の一隅《いちぐう》で聰子は清顯に接吻を許したのちに、彼の胸に顔を埋めて涙を流す。何の涙かと清顯が訝《いぶか》っていると、
「彼の胸から顏を離した聰子は、涙を拭《ぬぐ》はうともせず、打つてかはつた鋭い目つきで、(中略)たてつづけにかう言つた。
『子供よ! 子供よ! 清樣は。何一つおわかりにならない。何一つわからうとなさらない。私がもつと遠慮なしに、何もかも教へてあげてゐればよかつたのだわ。御自分を大層なものに思つていらしても、清樣はまだただの赤ちやんですよ。本當に私が、もつといたはつて、教へてあげてゐればよかつた。でも、もう遲いわ。……』」
心を傷つけられ茫然《ぼうぜん》としている青年を残して、聰子は去る。これは「彼をいためつける言葉の精華」といってよく、彼女がどうしてこんな「惡意の純粹な結晶」をつくり出し、口にしたかを、清顯は「まづ考へるべきだつた」と作者は註している。しかし彼は、口惜《くや》しさに涙ぐむだけだった。
その夜彼は書生の飯沼から、聰子が正月の親族会のさいに松枝侯爵にたいして、例の芸者遊びの件を問い糺《ただ》したということをきく。侯爵はそれを寵愛《ちようあい》の女中のみねにはなし、みねから飯沼にはなしは伝わっていたのである。聰子が芸者遊びにかかわる清顯の手紙を、約束を破って読んでいたことが明かになった。
聰子によって徹底的に侮辱されたと思い込んだ清顯は、この日をさかいに彼女との音信を絶つ。宮家と聰子とのあいだの縁談は松枝侯爵が準備した膳立《ぜんだ》てどおりに進行し、聰子からは清顯に毎日電話がかかって来た。
電話口に清顯が頑《かたく》なに出ないでいると、侍女の蓼科《たでしな》が来た。蓼科との面会も、彼は拒否した。聰子からの部厚い手紙は、封も切らないで焼き棄てた。
洞院宮家からは聰子との結婚についての御内意伺いが、五月十二日に宮内《くない》大臣に提出される。花見の宴からこの手続きまで、わずか一箇月あまりしかたっていない。折返し宮内大臣から内意伺い済みの通知があり、あとは正式に勅許を奏請するばかりだった。
勅許は、梅雨のさなかに下りた。その直前にも蓼科から再度電話があり手紙も届けられたけれど、清顯は無視しつづける。ところが勅許が下りたときいた瞬間から、彼の聰子への感情は灼熱《しやくねつ》の恋へと変貌《へんぼう》するのである。勅許によって突然聰子は、禁断の花と化した。
到達が不可能であるというそのことこそが、恋の純粋性を証明している。清顯が夢みて来たのは、まさにこのような恋だった。
「『僕は聰子に戀してゐる』
いかなる見地からしても寸分も疑はしいところのないこんな感情を、彼が持つたのは生れてはじめてだつた。」
勅許が下りたその日の夕刻、彼は蓼科を呼び出して聰子と彼とを会わせることを、無理|強《じ》いに約束させる。指定された霞町《かすみちよう》の軍人下宿の離れで三日後に待っていると、蓼科に案内されて聰子があらわれた。彼女はうなだれて片手を畳につき、手巾《ハンカチ》で顔を掩《おお》っていた。「襲《かさね》の色目に云ふ白藤《しらふぢ》の着物」を着た聰子は、「禁忌としての、絶對の不可能としての」、無双の美をたたえた女だった。「聰子は正にかうあらねばならなかつた」と、清顯は心に呟《つぶや》く。
「見るがいい。彼女はならうと思へばこれほど神聖な、美しい禁忌になれるといふのに、自ら好んで、いつも相手をいたはりながら輕《かろ》んずる、いつはりの姉の役を演じつづけてゐたのだ。(原文改行)清顯が遊び女《め》の快樂の手ほどきを頑なにしりぞけたのは、以前からそんな聰子のうちに、(中略)彼女の存在のもつとも神聖な核を、透視し、かつ、豫感してゐたからにちがひない。それとこそ清顯の純潔は結びつかねばならず、その時こそ、彼のおぼめく悲しみに閉ざされた世界も破れ、誰も見たことのないやうな完全無缺な曙《あけぼの》が漲《みなぎ》る筈《はず》だつた。」
『春の雪』には、三島が過去に書いた一連の恋愛小説とかさなりあう箇所が多い。
昭和二十二年に発表された『夜の仕度』について、彼はこの小説には『美徳のよろめき』や『假面の告白』の「萌芽《はうが》が見られる筈である」と、『短篇全集』(昭和四十年)の「あとがき」で説明していた。
「それはあるひは作者自身にしか見わけのつかぬ證跡かもしれないが、作者が見れば、ちやんとナメクヂの歩いたあとみたいな銀いろの筋が、それら年月を隔てた兩作の間にはつきりと辿《たど》れるのである。」
三島のいう「ナメクヂの歩いたあと」を見分けることは、そんなにむつかしい作業ではないだろう。回想録『わが思春期』に出て来る初恋のひととの接吻の場面は、『夜の仕度』でも『假面の告白』のなかでも、そのまま再現されている。初夏の高原での恋を素材に彼は『夜の仕度』を書き、次に主人公に同性愛者の仮面をつけさせて『假面の告白』を書いた。『美徳のよろめき』は避暑地で接吻をかわしただけにおわった男女の恋の後日譚《ごじつたん》、という体裁をとっているのである。
『夜の仕度』から『假面の告白』を経て『美徳のよろめき』にいたるこの「ナメクヂの」あとは、明瞭《めいりよう》に『春の雪』にまでつながっている。『假面の告白』の主人公も恋人への求婚を、――この場合は同性愛という理由によって――逡巡しつづける。
『假面の告白』の園子は、美しい瞳《ひとみ》のひとだった。
「この瞳の美しさは稀有《けう》のものである。泉のやうに感情の流露をいつも歌つてゐる深い瞬《まばた》かない宿命的な瞳である。この瞳に向ふと私はいつも言葉を失《な》くした。」(『假面の告白』第四章)
『春の雪』の聰子も、「美しい大きな目」でしばしば清顯をみつめる。
「……何ものも隱すことができないのは、彼女の瞳の光りの或《あ》る勁《つよ》さだつた。そこに依然清顯を怖れさせる、ふしぎな、射貫くやうな力が具《そな》はつてゐた。」
園子は「哀切さと倦《だる》さとの入りまじつた」高い声ではなし、聰子は「甘くて張りのある聲音」でものをいう。ついでにいえば『春の雪』に本多繁邦の又《また》従妹《いとこ》の房子が突然本多にしなだれかかり、その膝《ひざ》の上に顔を伏せる場面があるが、これと殆《ほとん》ど同じ情景が『假面の告白』にも出て来る。『假面の告白』の主人公の又従姉、澄子は、そばに坐《すわ》っていた「私」に「疲れなくて? 公ちやん」と声をかけると、「兩方の袂《たもと》で顏を」おおい、頭を「私」の膝のうえに乗せる。
『わが思春期』によれば三島は中学生のころ、十七、八歳の美しい又従姉に、同じことをされたことがあったという。その経験が二つの小説に、そのまま活用されているのである。
『美徳のよろめき』の女主人公も、「優雅な女」だった。いまは人妻となっているむかしのこの恋人と一緒に、主人公は高原の町に行き、到着したその夜は性行為に失敗する。そして同じ失敗が、『春の雪』の軍人宿での出逢《であ》いの場面でも起こっている。
「清顯は聰子の裾《すそ》をひらき、友禪の長襦袢《ながじゆばん》の裾は、紗綾形《さやがた》と龜甲《きつかふ》の雲の上をとびめぐる鳳凰《ほうわう》の、五色の尾の亂れを左右へはねのけて、幾重に包まれた聰子の腿《もも》を遠く窺《うかが》はせた。(中略、原文改行)やうやく、白い曙の一線のやうに見えそめた聰子の腿に、清顯の體が近づいたときに、聰子の手が、やさしく下りてきてそれを支へた。この惠みが仇《あだ》になつて、彼は曙の一線にさへ、觸れるか觸れぬかに終つてしまつた。」
『美徳のよろめき』の二人は、のちに湘南《しようなん》の海岸にいくどか行く。女がホテルに着くと、男は水着姿で浜辺にいた。
「彼は灼熱の陽《ひ》を浴びて眠つてゐた。戰死者のやうに、頬《ほほ》にいつぱい砂をつけて。」
松枝清顯は夏休みに鎌倉の別荘に行き、本多に頼んで一夜聰子を自動車で鎌倉につれて来てもらう。鎌倉に招かれていたあいだに本多は、赤褌《あかふんどし》ひとつで浜辺に眠っている清顯の「砂と貝殼《かひがら》の微細な碎片」にまみれた脇腹《わきばら》に、小さな三つの黒子《ほくろ》を発見する。
秋が来てから、聰子は清顯にいった。
「私たちの歩いてゐる道は、道ではなくて棧橋《さんばし》ですから、どこかでそれが終つて、海がはじまるのは仕方がございませんわ」。
同じ意味のことばは、『頭文字』に見られる。
「この戀には筋道といふものが缺けてゐるらしかつた。それは奇怪な建築のやうな戀であり、つきあたりの扉《とびら》をあけて一足ふみ出すとそこはもう海の上なのであつた。」
しかも『春の雪』の聰子は『美徳のよろめき』の倉越節子と同じように、恋人の胤《たね》を宿すまでにいたる。
『春の雪』は、三島の恋愛小説の集大成のような趣きを呈している。
いいかえればここには、三島自身の青春と恋愛経験とが凝縮されているのである。「あれは私小説なんだよ」と彼がいったのは、そういう意味だろう。
ほかならぬそのことが夢想の花のようなこの作品に、生き生きとした現実感をあたえている。明治いらいの日本の小説のなかでも、『春の雪』はぬきん出て魅力的な香気を放つ。ことに聰子の姿は、美しい。
どんな夢にもおわりがあると、聰子は本多にいう。
「そのとき、お約束してもよろしいけれど、私は未練を見せないつもりでをります。こんなに生きることの有難さを知つた以上、それをいつまでも貪《むさぼ》るつもりはございません。どんな夢にもをはりがあり、永遠なものは何もないのに、それを自分の權利と思ふのは愚かではございませんか。(中略)でも、もし永遠があるとすれば、それは今だけなのでございますわ。……|本多さんにもいつかそれがおわかりになるでせう《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。」(傍点村松)
健気《けなげ》な少女は、この約束を実行した。人工中絶の手術を大阪でひそかにすませたあと、彼女は奈良の月修寺で剃髪《ていはつ》する。剃髪したら清顯とはもう会えなくなるが、それでもいいのかという門跡の問いにたいして、彼女は「後悔はいたしません」とこたえる。
「お別れも存分にしてまゐりました。」
清顯は若い日の三島が『絃歌――夏の戀人――』でうたったように、ひとり「とりのこされ」る。
とりのこされむ又しても神の輪舞に圍まれて
彼は聰子に一目でも会おうとして、春さきの寒い田舎道を寺に毎日むなしく通う。淡い春の雪が舞い、彼は肺炎をこじらしてついに起《た》てなくなる。
「又、會ふぜ。きつと會ふ。瀧の下で」
このことばを残して、二十歳の清顯は死んだ。
夏の恋は三島にとっても、二十歳とともにおわっていたのである。
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叛逆《はんぎやく》の騎士
1
女だけの芝居を書くつもりだが上演する気があるかと、三島はNLTの賀原夏子に電話でたずねたという。
上演すると賀原女史がこたえると、
――それじゃホテル代だけ何とかしてくれよ。そしたら一週間、帝国ホテルに泊って書くから。
産経新聞に連載された女史の回顧談、『話の肖像画』(平成元年十一月)に出ている回想である。
「女だけの芝居」が『サド侯爵《こうしやく》夫人』をさすことはいうまでもない。『サド侯爵夫人』の原稿の末尾には「一九六五、八、三一」と、脱稿の日付がしるされていて、昭和四十年八月末日の擱筆《かくひつ》なら、三島の帝国ホテル入りは八月の下旬だった計算になる。
同じ賀原夏子の談話によれば、原稿は一週間で仕上げられた。
「約束通りほんとに一週間で『書きあがったから取りに来てくれよな』って電話がかかって来た。で、あたし、帝国ホテルへ行って、ロビーのところで待ってたの。『サド侯爵夫人』の原稿は、まあ一字一句直してないんですよ。きれーいに書いてあるんです。あたしはびっくりしちゃった。『これ清書するだけでもってホテルにいたんじゃない?』っていうぐらい、ぴちーっと書いてあるんですよ。」「清書するだけ」のためにホテルにはいったのではないにせよ、全体の構想と第一幕とはそれ以前に大略でき上っていたと推定される。三島は第一幕の写しを軽井沢に滞在中だったドナルド・キーンに送り、キーン氏は――氏自身のことばでは――帝国ホテルに折返し電話をかけて、この芝居を訳したい旨《むね》を申し入れた。郵送その他に要する時間を考えると、三島はホテルにはいった直後かあるいはもしかするとその直前くらいに、写しを発送したのだろう。
『サド侯爵夫人』の起稿を、『定本三島由紀夫書誌』所収の年譜は六月二十八日としている。もしもそうであればホテルにはいるよりも二箇月近くまえだから、準備期間は十分にあり得た。
その前月の五月に、NLTは『班女《はんぢよ》』と『弱法師《よろぼし》』とを上演していた。芝居がおわったあとで、三島は『班女』の花子の役を演じた妹の村松英子に、こんど書く『サド侯爵夫人』のおわりは『班女』と同じだよ、と説明したとの由《よし》である。
――サド侯爵夫人の役を、いずれはやってもらおうと思うからいっておくのだけれど、『班女』の花子と同じように彼女も夫をさんざん待って、最後にはその夫に肱鉄《ひじてつ》を喰《く》わせるのさ。
能の『班女』では、遊女の花子は放浪の末に吉田の少将とめぐり会う。これにたいして三島の『班女』の花子は、たずねて来た恋人の吉雄を吉雄とはみとめない。「忘れたのかい? 僕を」ときく男に向かって彼女は、
花子[#「花子」はゴシック体] いいえ、よく似てゐるわ。夢にまで見たお顏にそつくりだわ。でもちがふの。世界中の男の顏は死んでゐて、吉雄さんのお顏だけは生きてゐたの。あなたはちがふわ。あなたのお顏は死んでゐるんだもの。
彼女は男を拒否して、永遠に「待つ女」となるみちをえらんだ。
この芝居について三島は、「リルケの描いたサフォーのイメーヂが、作者の私にはあつた」と『班女』の解説のなかで述べている。リルケの『マルテ・ラウリッツ・ブリッゲの手記』はサフォーを、「もはやこの世にあり得ぬ人を、激しい彼女の愛に耐え得る人を」思って死んだ情熱の女としてえがき出す。『班女』の花子の愛も吉雄をこえて、「この世にあり得ぬ人」に向けられる。
「實際、あまりに強度の愛が、實在の戀人を超えてしまふといふことはありうる。それは花子が狂氣だからではない、實子の云《い》ふやうに、彼女の狂氣が今や精錬されて、狂氣の寶石にまで結晶して、正氣の人たちの知らぬ、人間存在の核心に腰を据《す》ゑてしまつたからである。そこでは、吉雄も一個の髑髏《どくろ》にしか見えないのである。」(『班女について』)
サド侯爵夫人ルネもまた、夫の帰宅を前後十三年のあいだ待ちつづけた女だった。「あなたのためにのみ生きております」と、彼女は獄中の夫に宛《あ》てた手紙に書いていた。サドが彼女に異様な嫉妬心《しつとしん》を燃やしはじめたせいか、ルネはアパルトマンを棄《す》てて修道尼《しゆうどうに》院に移り、そこから夫との面会に通う。ところが大革命後にようやく釈放されたサドが修道尼院をたずねると、彼女は冷ややかに会うことを拒否した。ルネはそのあとすぐに、離別の手続きをとっている。
『班女』型のこのルネの行動が、三島の興味を惹《ひ》いた。
「澁澤龍彦氏の『サド侯爵の生涯』を面白く讀んで、私がもつとも作家的興味をそそられたのは、サド侯爵夫人があれほど貞節を貫き、獄中の良人に終始一貫盡してゐながら、なぜサドが、老年に及んではじめて自由の身になると、とたんに別れてしまふのか、といふ謎《なぞ》であつた。この芝居はこの謎から出發し、その謎の論理的解明を試みたものである。(中略)私はすべてをその視點に置いて、そこからサドを眺《なが》めてみたかつた。」(『サド侯爵夫人』「跋《ばつ》」)
『春の雪』の聰子も最後には尼寺にはいり、松枝清顯との面会を拒否する。そこにいたる状況は『班女』や『サド侯爵夫人』の場合とはことなるにしても、現世の愛を潔《いさ》ぎよく断念してそれをこえる何ものかに到達しようとする姿勢において、聰子の立場は前二者と共通しているだろう。
そういう聰子を書いていた最中だったので、いっそう三島はサド侯爵夫人ルネに関心を抱いたのではないかと思われる。
『サド侯爵夫人』の物語はルイ十五世晩年の一七七二年から大革命後の一七九〇年まで、足かけ十九年にわたっている。
古典劇の三一致の法則に概して忠実だった三島の戯曲としては、時間のこの流れは異例に長い。その長い時間のなかで、サド侯爵夫人ルネは三つのそれぞれちがった顔を見せる。第一幕のルネは、サドの貞淑な妻である。「良人が惡徳の怪物だつたら、こちらも貞淑の怪物にならなければ、と思ひますの」と彼女はいう。
二幕目の――一七七八年の――ルネは、サドの性の饗宴《きようえん》に加わっていたことを母親に指摘され、「アルフォンス(サド)は、私だつたのです」と幕切れで昂然《こうぜん》といい放つ。(三島、松浦の演出では母親はこれをきいて仰天するのだが、二年まえにフランスで男ばかりで演じられた芝居で見ると、彼女は泣きながらその事実を告白していて、ソフィー・ド・ルカチェフスキイによるこの演出には多少の疑問を感じる。)
最後の第三幕では、彼女はサドの作品『ジュスティーヌ』の女主人公に変貌《へんぼう》している。
ルネ[#「ルネ」はゴシック体] あれ(「アルフォンスは私です」といったこと)はまちがひでございました。(中略)むしろかう言ふのが本當でせう。
「ジュスティーヌは私です」つて。
彼女はサドが「あらゆる惡をかき集めて」天国への「裏階段を」つくり、「汚濁を集めて神聖さを作り出し」た雄々しい騎士であるといい、自分もこの反キリストの「騎士」が創造した世界の一住人にすぎなかったと説明する。しかしジュスティーヌにされたと信じることによって、ルネはある意味ではサドをこえる「狂氣の寶石」に、なり切っていたのである。
「銀《しろがね》の鎧《よろひ》」をつけた「騎士」だったはずの夫が、「醜く肥えて」尾羽打枯らした姿でもどって来たときいたとき、彼女は召使のシャルロットに命じる。
ルネ[#「ルネ」はゴシック体] お歸ししておくれ。さうして、かう申上げて。「侯爵夫人はもう決してお目にかかることはありますまい」と。
釈放されたころのサドは運動不足のために異様に肥満し、「殆《ほとん》ど身動きもできないほど」だったと、自分でその手紙に書いている。「もはや何物にも興味がなく」、澁澤龍彦の表現によれば彼は「一つの廃墟《はいきよ》に」なってしまっていた。
サドのみじめな姿はシャルロットによって報告されるだけで、サド自身は舞台にはあらわれない。山本健吉が指摘しているように、「それゆえにこそいっそう醜くみじめな姿で観客の頭に浮び上ってくる」(『「サド侯爵」讃《さん》』)能の省略の技法が、ここでは巧みに生かされている。
もしもルネが夫に会っていたら、『班女』の花子と同じように「あなたはちがふわ」といっただろう。
「あなたのお顏は死んでゐるんだもの」。
『サド侯爵夫人』では「セリフだけが舞臺を支配し、イデエの衝突だけが劇を形づくり、情念はあくまで理性の着物を着て歩き廻《まは》らねばならぬ」と、三島はまえにも引用したこの戯曲の「跋」のなかで書いていた。
「サド夫人は貞淑を、夫人の母親モントルイユ夫人は法・社會・道徳を、シミアーヌ夫人は神を、サン・フォン夫人は肉欲を、サド夫人の妹アンヌは女の無邪氣さと無節操を、召使シャルロットは民衆を代表して、これらが惑星の運行のやうに、交錯しつつ廻轉《くわいてん》してゆかねばならぬ。」
したがって芝居は美しくはりつめたせりふの劇であると同時に、「美徳」や「悪徳」が活躍する中世の道徳《モラリテ》劇の現代版という側面を、一方ではもっている。「悪と善とのほとんどマニ教的な対立」、とユルスナールは評した。その「マニ教的な対立」を極端に拡大して見せたのが、イングマール・ベルイマンの演出である。ベルイマンの『サド侯爵夫人』では、サン・フォン侯爵夫人は小悪魔(一幕)か魔女(二幕)のような服装であらわれ、ルネと母親とは睨《にら》みあう二頭の獅子《しし》の咆哮《ほうこう》を思わせるはげしい争いをかわし(二幕)、サドを叛逆の悪の騎士とたたえる場面(三幕)のルネは、ストールのうえに立って脚光のなかに浮かぶ。
ルノオ・バロオ劇団による昭和五十二年から翌年にかけての長期公演(ジャン=ピエール・グランヴァル演出、日本公演は昭和五十四年十月)いらい、海外の劇団の『サド侯爵夫人』上演は小さいものをべつとしてベルイマンで三度目になる。戯曲のもつ国境をこえた魅力を、この事実はあらわしている。
2
『サド侯爵夫人』の初演は、大入満員だった。
そこでNLTは翌昭和四十一年の六月に、この芝居を同じ紀伊國屋《きのくにや》ホールで再演した。初演のときにはぼくは日本を留守にしていたので、舞台を見たのは帰国直後の再演の方だった。
その六月に『英靈の聲』が出版され(雑誌発表は前月刊行の「文芸」六月号)、ある週刊誌が書評の執筆をぼくに求めて来た。つまり『サド侯爵夫人』を見るのとほぼ同時に『英靈の聲』を読んだ次第で、二つの作品の性格の相違にいささか戸惑ったことを覚えている。
当時は知らなかったのだが、三島は三月のはじめに河野司を自宅に招いていたのである。河野氏は二・二六事件のさい、前内大臣牧野|伸顯《のぶあき》襲撃の指揮をとった陸軍航空兵|大尉《たいい》、河野壽の実兄にあたる。『二・二六事件』(昭和三十二年刊)、『湯河原襲撃』(昭和四十年刊)の二冊の編著書を出し、また二・二六事件の遺族の集まりである仏心会を組織してその会長をつとめていた。
氏は三島の死後の昭和五十一年に『私の二・二六事件』と題する三つ目の著作をあらわしていて、三島との接触の経緯はそのなかにくわしく物語られている。これによると彼のつくった映画『憂國』がヨオロッパでさきに封切られ、割腹の凄惨《せいさん》な場面に卒倒する婦人もいたという記事が新聞に出たことが、二人の出会いの直接的な契機だった。
河野壽大尉は牧野伸顯護衛の警官と撃ち合って胸に負傷を負い、のちに病院から脱《ぬ》け出して割腹自殺をとげる。事件に加わった青年将校のうちで、切腹した唯一《ゆいいつ》のひとである。
映画の記事が出た時点では、河野氏は『憂國』という小説の存在そのものをさえ知らなかった。切腹した将校のはなしときいて自分の弟を材料にしたのかと思い、「河野大尉の切腹シーンをどのように演出したのか、またその原作はどんなものか」を問い合わせる手紙を、三島に宛《あ》てて書いた。
氏の著書が引用している三島からの返書は、一月三十一日付となっている。三島は河野氏の『二・二六事件』は読んだと手紙の冒頭で述べ、次に『憂國』は「全くのフィクション」であることを力説した。
「さて、拙作映畫の原作『憂國』は、全くのフィクションとして、二・二六事件を背景として、一中尉の夫婦愛の昂揚《かうやう》と、悲壯凄絶な自害を描きましたもので、設定の人物の性格も、實在人物に類似の點なきやう留意し、且《か》つ、小生の少年時代にとつて、眞に英雄崇拜の對象たりし二・二六事件の、悲壯崇高なる性格を傷つけることなきやう、一つの悲劇美の世界を作らうといたしましたもので、もし御一讀|賜《たま》はれば、御理解いただけると存じます。」
最後に彼は「この時代のことは、もつと大きなスケールで、大作にいたしたい氣持を持つてをります」とつけ加えていた。
河野氏は三島が送って来た『憂國』を読んで、「私の弟の自決とは全く関係がないことが判《わか》った」という。しかしこれがフィクションであるという主張は、氏は信じなかったらしい。事件の最中に青島健吉という輜重兵《しちようへい》中尉が、結婚後まもない妻とともに自決していた。『憂國』の主人公と、その身分も行動も酷似している。
「青島中尉はその前年士官学校の区隊長勤務中に、ある問題で今でいうノイローゼとなり入院治療ののち原隊に復帰し、一〇年秋|頃《ごろ》結婚し、新婚間もない家庭であった。こうした精神状況が、事件の強烈な衝撃によって突発的に自決に追込んだのではないかと、同期生は見ている。彼と同期で事件に参加した者に、竹島中尉(死刑)、河野大尉(自決)がいるが、両名との関係は全くない。この青島中尉自決に三島氏が着想し、背景の二・二六事件に関連させた作品であることは間違いない。」(『私の二・二六事件』)
『憂國』は映画化され、それがトゥールの国際短篇映画コンクールで次点となったという報道によって、改めて一般の注目を惹いた。その結果二・二六事件の支持者たちから、五年まえのこの小説にたいする非難の声が出ていた。
「それは、セックス場面のどぎつい描写と背中合せに、自決場面が凄惨に演出されていることに対する、潔癖な右寄りの人びとや、良識派の中からの、青年将校を冒涜《ぼうとく》するものであるとの攻撃である。」(同右)
そのことを三島もよく知っていたからこそ、小説が「全くのフィクション」であることを手紙のなかで強調したのだろうと、河野氏は註釈している。
「二・二六遺族の中の、私の立場を知る三島氏が、右の返書の中で述べている、(中略)一読して『御理解いただけると存じます』という願望は、右のような一部の非難の声に対して、尠《すくな》くとも遺族の人には諒解《りようかい》を得たいという素直な氏の心情であったのであろう。ましてや、先の『宴《うたげ》のあと』での裁判|沙汰《ざた》になったプライヴァシー事件のこともある。鄭重《ていちよう》な文面のうちに三島氏の慎重な配慮が汲《く》める。」
遺族の感情を刺戟《しげき》したくないという配慮が三島のがわに働いていたことは、手紙の文面から見て容易に推察できる。だが青島中尉の方の件については、中尉の自殺を三島は執筆の時点で果して知っていただろうか。
中尉は事件とは直接の関係がなく、したがって二・二六事件についての回想や記録のうちでは――ぼくの知るかぎり――福|本龜治《もとかめじ》の『秘録二・二六事件真相史』が、わずかに中尉の切腹に触れているのにとどまる。そして三島の蔵書中には、この本はない。
かりに三島が中尉夫婦の自殺を知っていたとしたら、作中の主人公を同じ輜重兵中尉とすることははじめから避けていたのではないか。むしろ知らなかったために実際とよく似た設定をとり入れた、という推測が成り立つ。
『憂國』は「徹頭徹尾、自分の腦裡《なうり》から生れ、言葉によつてその世界を實現した作品」という三島のことば(『三島由紀夫短篇全集』「あとがき」、昭和四十年)は、額面どおりにうけとってよいように思われる。
馬込の家を訪れた河野氏に『私の二・二六事件』によれば三島は、「二・二六事件の挫折《ざせつ》の原因は何でしょう」とたずねている。
河野氏が「ややためらいつつも」、「三〇年に亘《わた》る私の探求の結果は、口にすることは憚《はばか》るものがありますが、最終的には天皇との関係の解明につきると思います」とこたえると、三島は「やはりあなたもそうですか」といって椅子《いす》を立ち、
――河野さん、席を変えましょう。
前年の春に増築された三階の客間に、彼は客人を案内した。三階でかわされたという会話の内容は『英靈の聲』と密接な関係があり、少し長いけれど引用しておく。
「私(河野氏)は述べた。『木戸日記』『本庄日記』に明らかなように、事件暴発者に対する天皇の御怒りはよく理解できるが、問題はその『激怒』にある。法治国家の元首として、また、軍の大元帥《だいげんすい》として、国法を紊《みだ》り軍紀を犯したものに対し、厳乎《げんこ》たる措置をとることは、国の秩序を守り、軍の統帥を正すことである。
その処置として、勅命を下し叛乱《はんらん》部隊の原隊復帰を命じたことも当然であったと思う。しかるに何故《なぜ》か、勅令の下達実行が遷延《せんえん》した時点において、陛下は『朕《ちん》自ら近衛《このえ》師団を率い、此《これ》が鎮圧に当らん』とまで叱咤《しつた》しておられる。これまでは理解できる。しかしその後、蹶起《けつき》将校一同は全員自決を決意し、自決に際しては、せめて勅使の差遣を仰ぎたい旨《むね》の懇願を、本庄侍従武官長を通じて奏上した。この最後の願いに対する陛下のお言葉は、『陛下には非常なる御不満にて、自殺するならば勝手に為《な》すべく此の如《ごと》きものに勅使など以《もつ》ての外なりと仰《おお》せられ』と、『本庄日記』にある。これは私達が天皇に抱く不抜の信念からは、どうしても理解ができない。(中略)いま、陛下の赤子《せきし》が、その犯した罪を死をもって償おうとしている。『そうか、よく判ってくれた』と、温かく侍従に、『お前行ってよく見届けてやってくれ』と何故に仰せられないだろうか。ここまで言った私の言葉に、三島氏は、
『人間の怒り、憎しみですね、日本の天皇の姿ではありません、悲しいことです』
と、言葉をはさんだ。」
このあとで河野氏は、
「三島さん、彼等が若《も》し獄中で陛下のこのような言動を知っていたら、果して『天皇陛下万歳』を絶叫して死んだでしょうか」、
といった。
「三島氏は『君、君たらずとも、ですよ。あの人達はきっと臣道を踏まえて神と信ずる天皇の万歳を唱えたと信じます。でも日本の悲劇ですね』と、声をつまらせたことが、未《いま》だに忘れられない。」
『英靈の聲』は、その翌月に書き上げられた。筆が勝手に動いてとまらなかったと、あとで母堂の倭文重《しずえ》さんにはなしたそうである。
「『手が自然に動き出してペンが勝手に紙の上をすべるのだ。止めようにも止まらない。真夜中に部屋の隅々《すみずみ》から低いがぶつぶつ言う声が聞える。大勢の声らしい。耳をすますと、二・二六事件で死んだ兵隊達の言葉だということが分った』憑霊《ひようれい》という言葉は知ってはいたが、現実に、公威《きみたけ》に何かが憑《つ》いている様な気がして、寒気を覚えた。」(平岡倭文重『暴流のごとく』、「新潮」昭和五十一年十二月号)
執筆にとりかかる二、三日まえに、三島は二・二六事件のころの東北農村の疲弊ぶりを、「うっすらと涙を浮べさえして」母堂に説明した。二・二六の若い将校たちに、気持のうえで殆どなりきっていたのだろう。
『英靈の聲』は蹶起将校の霊に捧《ささ》げるつもりで書いたと、彼は河野司宛の手紙(五月三十一日付)にしるしている。
「御令弟をはじめ、二・二六蹶起將校の御靈前に捧げるつもりで書いた作品であります。しかしそれにつけても、現代日本の飽滿、沈滯、無氣力には、苛立《いらだ》たしいものを感じてなりません。これは小生一人のヒステリーでありませうか?」
3
「淺春のある一夕、私は木村先生の歸神《かむがかり》の會に列席して、終生忘れることのできない感銘を受けた。」
そういうことばとともに、『英靈の聲』ははじまっている。
木村先生の神がかりは他感法といって、「審神者《さには》」である先生が石笛を吹くと盲目の青年川崎君に神霊がとりつく。川崎青年の口をとおしてその日まず響いて来たのは、若者たちの合唱だった。
「……今、四海必ずしも波穩やかならねど、
日の本のやまとの國は
鼓腹撃壤《こふくげきじやう》の世をば現《げん》じ
御仁徳の下《もと》、平和は世にみちみち
人ら泰平のゆるき微笑《ほほゑ》みに顏見交はし
利害は錯綜《さくそう》し、敵味方も相結び、
外國《とつくに》の金錢は人らを走らせ
もはや戰ひを欲せざる者は卑劣をも愛し、
邪《よこし》まなる戰《いくさ》のみ陰《いん》にはびこり
夫婦|朋友《ほういう》も信ずる能《あた》はず
いつはりの人間主義をたつきの糧《かて》となし
僞善の團欒《だんらん》は世をおほひ
力は貶《へん》せられ、肉は蔑《なみ》され、
……(中略)……
天翔《あまか》けるものは翼を折られ
不朽の榮光をば白蟻《しろあり》どもは嘲笑《あざわら》ふ。
かかる日に、
などてすめろぎは人間《ひと》となりたまひし」
木村先生の「いかなる神にましますか、答へたまへ」という問いにたいして、川崎君は「われらは裏切られた者たちの靈だ」とこたえ、さらに「われらは三十年前に義軍を起し、叛亂の汚名を蒙《かうむ》つて殺された者である」という。そのあとに、「怒れる神靈」の神語りがつづくのである。
二・二六事件の青年将校たちが夢みていた終局の光景は、『英靈の聲』によれば二つあった。
舞台はどちらも丘のうえで、雪に包まれた白皚々《はくがいがい》の丘に血刀をさげた将校が兵をひきいて立っている。そこに白馬にまたがった「われらの頭首、大元帥陛下」が、従者もつれずにあらわれる。一方の絵図では陛下は彼らの行動を嘉賞《かしよう》して親政を約束し、将兵とともに丘を下る。もうひとつの場面ではやはり親政を約束しながらも、「心安く死ね。その方たちはただちに死なねばならぬ」と仰せ出《いだ》され、将校たちは躊躇《ちゆうちよ》なく刀を腹に突立てる。陛下の挙手の礼をうけて、彼らは「至福」の死を迎える。
しかしこの「至福」は、ついに夢におわった。天皇は事件の報を耳にされると、「日本もロシヤのやうになりましたね」といわれ、将校たちを自刃《じじん》させるために勅使の差遣をねがい出たものには、「自殺するならば勝手に自殺させよ。そのために勅使など出せぬ」と仰せられたと、神霊は痛憤をこめて訴える。
「陛下のわれらへのおん憎しみは限りがなかつた。佞臣《ねいしん》どもはこのおん憎しみを背後に戴《いただ》き、たちまちわれらを追ひつめる策を立てた。」
それは人間としての憎悪《ぞうお》だったと、二・二六事件の神霊たちはいう。
「こは神としてのみ心ならず、
人として暴を憎みたまひしなり。
………
このいと醇乎《じゆんこ》たる荒魂《あらみたま》より
人として陛下は面《おもて》をそむけ玉ひぬ。
などてすめろぎは人間《ひと》となりたまひし。」
最後の「などてすめろぎは人間《ひと》となりたまひし」の句は、当然ながら昭和二十一年|元旦《がんたん》の「人間宣言」と呼ばれる詔書《しようしよ》の問題へとつながって行く。「人間宣言」を歎《なげ》くのは、フィリッピンでアメリカの機動部隊に突入した特別攻撃隊の隊員たちの霊である。
彼らは「神なる天皇のために、身を彈丸となして」死んだのに、それからわずか一年後に天皇は人間であると仰せられ、そのために作中の霊はなお宙に迷いつづける。
「陛下がただ人間《ひと》と仰せ出されしとき
神のために死したる靈は名を剥脱《はくだつ》せられ
祭らるべき社《やしろ》もなく
今もなほうつろなる胸より血潮を流し
神界にありながら安らひはあらず」
天皇の人間としての属性は『英靈の聲』も否定しているわけではない。「高御座《たかみくら》にのぼりましてこのかた、陛下はずつと人間であらせられた」と特攻隊員の霊はいっている。
「あの暗い世に、一つかみの老臣どものほかには友とてなく、たつたお孤《ひと》りで、あらゆる辛苦をお忍びになりつつ、陛下は人間であらせられた。清らかに、小さく光る人間であらせられた。(中略、原文改行)だが、昭和の歴史においてただ二度だけ、陛下は神であらせられるべきだつた。何と云はうか、人間としての義務《つとめ》において、神であらせられるべきだつた。この二度だけは、陛下は人間であらせられるその深度のきはみにおいて、正に、神であらせられるべきだつた。」
二度とはいうまでもなく、二・二六事件のときと敗戦時とをさす。「などてすめろぎは人間《ひと》となりたまひし」という合唱がくり返され、神々の荒魂が神上りした夜明けには、川崎青年は息絶えていた。
『英靈の聲』は三島の作品中でももっとも政治的な、「革命」主題の小説だった。天皇批判にたいしては右翼から何通もの抗議文や脅迫状が来たと、当時彼はいっていた。
山本健吉は読売新聞の文芸時評でこの小説を論じ、次のように書いた。
「あえて氏が、このような極端な発想の小説を書かねばならない理由は、わからないではない。戦後の民主主義がもたらしたあらゆるものが、氏には空虚な偽善と見え、厭《いと》うべき低俗と見えているのだ。だが、一たび神性を棄《す》てられた天皇を、国民はもう一度神に復帰させることはできない。その不可能を作者は知りながら、あえて書いたとすれば、それは作者の考える今日の状況の絶望の度の大きさを物語るものだろう。その空虚を、民主主義という護符で埋められると思っている知識人たちののんきさが、氏にはいらだたしいのだろう。(原文改行)だが若い英霊たちの復権を訴えようとする時事的な姿勢のせいか、これは三島氏の小説としては想が痩《や》せている。私にはこれは、天皇制の問題でなく、宗教の問題だと思っている。」
敗戦後の社会にたいする作者の苛立ちには理解を示しながらも、山本氏は三島が天皇の問題をあまりにも宗教的な観点に立って見ていることを、批判したのである。
『英靈の聲』の提示する天皇観は、たしかに法の常識からは逸脱しているように見える。天皇は明治憲法の下でも、立憲体制にもとづく君主だった。統帥を紊《みだ》して兵を勝手に動かし、何人もの政治家や高級軍人を殺傷した将校たちを、君主が嘉賞するなどということが許されるはずがない。憲法を遵守《じゆんしゆ》しようとすれば、討伐を命じるほかなかった。
勅使の差遣を拒否されたのも、単に感情に動かされての措置とはいえないのではないか。勅使を差遣して死を賜《たま》わる形をとれば、天皇が彼らを顕彰したことになってしまう。
二・二六事件を起こした幹部のうち十五人は、その年の七月に銃殺された。翌八月の新盆に、天皇は十七の盆|提燈《ちようちん》を用意させて常御殿に吊《つる》させている。処刑された十五人と、自決した二人(河野、野中の両大尉)とを加えた数になる。
宮中で女官をつとめていたひと(盛本喜美女史)にたしかめたところでは、天皇はそのさい理由は何もいわれなかった。何のための盆提燈だったかは知るすべがないのだが、いずれにしても哀悼の意の表明は立憲君主の立場ではこれが限度だったろう。
天皇のそういう憲法上の立場は、三島は百も承知していた。『英靈の聲』単行本のあとがきとして書かれた『二・二六事件と私』と題する文章のなかで、彼は昭和天皇が敗戦後|洩《も》らされた「|實際餘りに立憲的に處置し來りし爲めに如斯事態となりたりとも云ふべく《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」ということばを引用して(傍点は三島)、以下のように論じている。
「私が傍點を附したこの個所は(中略)陛下が立憲君主として一切逸脱せず振舞はれたといふことが主旨である。しかしこの傍點の個所に、私は、天皇御自身が、あらゆる天皇制近代化、西歐化の試みに對する、深い悲劇的な御反省の吐息を洩らされたやうにも感じるのである。日本にとつて近代的立憲君主制は眞に可能であつたのか? ……あの西歐派の重臣たちと、若いむかう見ずの青年將校たちと、どちらが究極的に正しかつたのか? 世俗の西歐化には完全に成功したかに見える日本が、『神聖』の西歐化には、これから先も成功することがあるであらうか?」
近代的な立憲君主制そのものを、彼は批判の対象としている。『英靈の聲』は、その意味でまさに「革命」的な作品だった。二・二六事件で「勝つたのは、一時的には西歐的立憲君主政體であり、つづいて、これを利用した國家社會主義(多くの轉向者を含むところの)と軍國主義とのアマルガムであつた」と、昭和四十三年の『二・二六事件について』ではいう。「血みどろの日本主義の矢折れ刀盡きた最期《さいご》が、私の目に映る二・二六事件の姿」だった。
「日本主義」と明治いらいの立憲君主体制とが、ここでは対置される。二・二六事件を支持しようとすれば、この構図に行きあたるほかないのである。
4
天皇は「みやび」の文化伝統の中心であると同時に、「革命」の原点でもある、と『英靈の聲』を書いたころの三島は考えるようになっていた。
君側の奸《かん》が国政を壟断《ろうだん》していると感じれば、「革命」派は蹶起《けつき》して大御心《おおみこころ》を蔽《おお》う黒雲を一掃しようとする。恋闕《れんけつ》の情が禁裡《きんり》に届かないはずがないという期待あるいは確信が、彼らを一途《いちず》な行動に駆り立てる。幕末いらい、いくどかくりかえされて来た行動様式だった。
「すなはち日本天皇制における永久革命的性格を擔《にな》ふものこそ、天皇信仰なのである。」(『「道義的革命」の論理――磯部一等主計の遺稿について』)
天皇信仰にもとづく「永久革命的」運動の先駆は、三島によると神風連である。こういう天皇信仰を、彼は「絶對否定的國體論」とも呼んでいる。
「明治政府による天皇制は、むしろこのやうな絶對否定的國體論(攘夷《じやうい》)から、天皇を簒奪《さんだつ》したものであつた。明治憲法的天皇制において、天皇機關説は自明の結論であつた。」(同右)
天皇機関説問題が起こったとき、昭和天皇は「機関説は少しも不都合はないではないか」といわれた。しかし三島の目には、それは日本人の「神聖」観念を生かし得ない漢意《からごころ》として映じたのだろう。『英靈の聲』の霊が夢想した天皇は、愛馬白雪にまたがった大元帥《だいげんすい》であり、「軍人に賜《たま》はりたる勅諭《ちよくゆ》」のいう「朕《ちん》は汝等《なんぢら》を股肱《ここう》と頼み汝等は朕を頭首と仰ぎて」を、そのまま具現化した光景だった。
ただしこれは作中の夢想のひとこまであって、三島が本気で天皇の親政を望んだことを意味してはいない。逆に「天皇陛下を政治權力とくつ付けたところに弊害があつた」と、彼は三年後の論文(『榮譽の絆《きづな》でつなげ菊と刀』)では明言している。「革命」的心情の原点でもあるはずの天皇の独裁政治とは、語義矛盾にひとしい。天皇は三島の考え方によるなら、エロスやテロリズムまでも含む日本文化全体の「體現者」でなければならない。
彼は天皇に、元首でありながら同時に叛乱の源泉でありつづけることを期待した。神風連から(もっと溯《さかのぼ》れば眞木《まき》和泉守《いずみのかみ》いらい)二・二六事件までの一連の尊皇叛乱を、まるごと肯定したことの論理的帰結といってよい。べつのいい方をすれば自分のなかのアナーキスト的心情と王朝的なものへの愛着とを、三島は直結させたのである。
「言論の自由の至りつく文化的無秩序と、美的テロリズムの内包するアナーキズムとの接點を、天皇において見出さうといふのです」、
とまで彼は書いている。(『橋川文三氏への公開状』)
こういう天皇は三島自身みとめているように、史上かつて一度も存在したことがなく、これからさきもありそうにない。三島独自の天皇像、とでもいうほかなさそうに思う。
『英靈の聲』の後半で三島が特攻隊員の霊の怒りをえがき、昭和二十一年元旦の詔書が彼らの死を無に帰したといっていることについては、アイヴァン・モリスの著書『高貴なる敗北』の特攻隊の章――「いさぎよく散りて果てなむ」――のなかに、次のような指摘がある。
「『などてすめろぎは人間《ひと》となりたまひし』。三島由紀夫に対する敬意を抱きつつも、私は特攻隊志願者の動機は、この挽歌《ばんか》から与えられる印象ほど単純ではなく、かなり錯綜していたと考える。」(齋藤和明訳)
アイヴァン・モリスは、『金閣寺』の英訳者だった。
特攻隊員の心情も昭和二十一年元旦の詔書の意味も、作者はたぶんある程度意図的に単純化している。それが作品の挽歌としての迫力を増したという点はあるにせよ、「想が痩せている」(山本健吉)印象をあたえることも否定しがたい。
『英靈の聲』が出版されてからまもなく、七月十二日に三島は末松太平を自宅に招いた。
その会食の席にぼくも呼ばれたことは、まえにしるした。『英靈の聲』所収の『二・二六事件と私』には、元陸軍歩兵大尉末松太平氏の「助言に」よって『憂國』の一部分を修正したという記述があり、末松氏と三島が会ったのはこれが最初ではない。助言へのお礼の意味で、本の出版を機会に彼は小宴を開いたらしい。
翌八月には『豐饒の海』の第二部『奔馬』の取材のために、奈良の大神《おおみわ》神社と熊本とに行っている。第一部『春の雪』は十一月二十五日に脱稿し、第二部は一月刊行(したがって入稿は十二月)の「新潮」二月号から連載がはじまっているから、『奔馬』の執筆開始は十一月の末か十二月のはじめだったと推定される。
『奔馬』の主人公飯沼勳は、天皇信仰に生きる革命家である。『春の雪』が作者自身の青春の恋愛経験を核とする「私小説」だったのにたいして、『奔馬』の勳青年は二・二六事件や神風連に触発された三島の情念を背負う。その意味では彼もまた、作者の分身にほかならない。
その『奔馬』起稿の少しまえに、彼は突然自衛隊に入隊するといい出した。驚いていつはいるのかとききかえすと、
――来年の春からにしたい。
――期間は?
――半年が限度だよ。仕事の都合があるので、二箇月ごとに帰って来てね。一般の隊員なみの訓練をうけて、出て来るときには少尉にしてもらう。
半年間のとび入り訓練で、三尉(少尉)になどなれるものだろうかとこちらは思った。三島は戦争中の陸海軍が、短期間の訓練によって一般の大学、専門学校の出身者を予備|役《えき》の少、中尉に仕立てた例を、思い浮かべていたのかも知れない。
昭和四十一年は、ヴェトナム戦争へのアメリカの介入に反対する運動が、ひろがっていた時期だった。学生騒動が早稲田では起こり、四年後に来る日米安保条約の改定の年には、相当規模の騒乱が生じると予想されていた。そのなかで三島も、防衛の問題に関心を深めていたことは事実だった。
「防衞問題に限つて、机上の議論は全く無意味だ」と思ったので自衛隊入りを決意したと、彼は当時いっていたし、そのことを『文化防衞論』の「あとがき」に書いてもいる。それは一応、そのとおりだったであろう。
しかし防衛体制の実情を知るためだけならば、三尉にしてもらう必要はない。少尉になりたいといったときの三島には、二・二六事件の青年将校の感情を追体験したいというつよい願望が動いていたのではないか。『英靈の聲』を発表した直後、『奔馬』執筆の直前ということから見て、この判断はそうまちがってはいないように思う。
サドは叛逆という裏階段を通じて天に達しようとした「銀《しろがね》の鎧《よろひ》」の騎士だったと、『サド侯爵《こうしやく》夫人』のルネはいった。それとはべつの意味での「叛逆の騎士」のみちを、三島は歩んでみようとしていたのである。
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W 行動者――『豐饒《ほうぜう》の海』の完結
「狂気」の翼
1
自衛隊に三島が体験入隊をしたのは、昭和四十二年の四月だった。
防衛庁との交渉の内幕についてはあまりよくは知らないのだが、はじめは毎日新聞社の常務だった狩野近雄に、橋渡しをたのんだようである。狩野氏の名まえを彼が口にするのをいくどか耳にしたし、氏自身ものちに――三島の死後は毎日中部本社の社長――その自衛隊入りには尽力したといっておられた。
長期入隊の要請を、防衛庁は当初ことわった。個人の体験入隊は前例がなく、それにだれでもが長期間の軍事訓練をうけてよいということになったら、自衛隊は革命やテロリズム志望の若者の錬成所にさえなりかねない。ことわる方が、あたりまえだったであろう。
それでも三島は、ひき退《さが》らなかった。二月ごろに彼と一緒に藤原岩市(元陸将、第一師団長)と会う機会があり、藤原氏はそのとき三島に、
――自衛隊の件は、大丈夫ですよ、心配なさらなくても。
これをきいて彼が頷《うなず》いていたところから推すと、藤原氏も依頼をうけて応援に動いていたのではないか。いくつかの手蔓《てづる》をとおして三島は防衛事務次官の三輪良雄を説得し、三輪氏の口ききによって最終的に防衛庁は四十五日間の入隊をみとめた。四十五日間連続では規則に触れるから、一、二週間ごとに一度帰宅するという条件づきだった。
十月に自衛隊入りをいい出してから翌年の三月に承認を得るまでに、交渉には相当の曲折があり、三島はそのたびに喜んだり腹を立てたりしていた。半年間が四十五日に短縮され、三尉への任官の希望はかなえられなかったとはいえ、一応の宿願は達成されたことになる。出発に先立ってささやかな会を彼のために開こうと思い、新潮社の菅原國隆に相談した。
菅原氏は『奔馬』の連載を担当していたので、ジャーナリズムには一切秘密だった自衛隊行きを、氏にだけは三島も打明けていたのである。紀尾井町の福田家で三人が会ったのは、四月十日だったと思う。(三島は翌々日の四月十二日に、久留米《くるめ》の自衛隊幹部候補生学校にはいる。)菅原氏は不機嫌《ふきげん》そうに、
――三島さん、いったい何をはじめるつもりなんですか。
女中が膳《ぜん》を置いて引込むと、いきなりそう切り出した。
氏が三島にこの夜いったことばを、小島千加子がその著書『三島由紀夫と檀《だん》一雄』のなかに引用している。小島千加子は菅原氏からあとで直接それをきいたらしく、会合の日時が一年近くずれている点を除けば、はなしの内容はぼくの記憶ともほぼ合致する。以下小島氏の著書から引いておくと、
「国を守る人間は、いざとなれば必ず出てくる。それが防人《さきもり》以来の伝統です。それより、三島さんは二人とゐない、かけがへのない作家なんです。あなたでなければ書けない作品が沢山あります。三島さんに国を守つてもらふくらゐなら、僕が代りに守りますよ。それより、あなたは作品だけを書いて下さい。自分でわからなくても天才なんです。大事な人です。とにかくご自分で作りあげた主人公になりきる習性があるから、注意して下さいよ」。
『禁色』を書くまえの三島が男色酒場に出入りし、「ユウちゃん」という青年を可愛《かわい》がっていたのを、菅原氏は見ていた。彼の分身である『禁色』の老作家|檜俊輔《ひのきしゆんすけ》は、男色酒場ではことさら「その道の人間」を装い、ついには「陰語に通じ、微妙な目くばせの意味に」も「精通」してしまう。少くともその俊輔程度には、一時の三島は男色の世界に入り浸った。
『美しい星』を書いていたころの三島は、半ば宇宙人になりかかっていた。狭山に今夜UFOが降りるのだといってヤッケをまとい水筒と双眼鏡と雑嚢《ざつのう》とを下げ、菅原氏の表現によれば「何ともいいようのない恰好《かつこう》で」深夜現地に出かけて行った。この場合も、菅原氏は同行している。
「ご自分で作りあげた主人公になりきる習性がある」と氏がいったのは、過去のそのような経験による。このことばは三島の痛いところに触れたようで、彼は悪戯《いたずら》を見つかった子どものような顔をした。小島千加子の同じ著書では三島は菅原氏に、
「君は、ここに至つてまださういふことを言ふのか。今回こそ、僕は真剣であるといふことがわからないんだな。語るに足らないよ」、
とこたえたとしるされているけれど、この部分の方はぼくの記憶とはことなる。彼はむしろはにかんでいたという印象がつよく、「語るに足らないよ」とまではいわなかったような気がする。翌朝三島からお礼の電話があり、このときも彼は、
――夕べは菅原に、すっかり怒られちゃって……
笑いながら、いっていた。
三島との電話が切れてからあと、こんどは菅原氏から電話がかかった。こちらはその「暴走」を、どうしたら停《と》められるかの相談である。制止はだれにもできないだろうというと菅原氏は、
――だれか先輩からいってもらったらどうかしら。
――先輩といえば川端さんか小林秀雄さんだけれど、このさいは小林さんの方がいいのではないかな。
――小林さんね。ぼくもそう思っていた。それでは小林さんにたのんでみる。
自衛隊の三島からは、四月の末に手紙が届いた。彼は久留米から須走《すばしり》の富士学校に移っていて、封筒の裏書きには「陸上自衞隊富士學校(企畫室氣付)平岡公威」とあり、中味の手紙の署名は三島由紀夫だった。平岡公威の名で入隊していたから、こういう書き方になったのだろう。
「前略
出發前はいろいろお世話になりました。軍隊生活もすでに十日、すつかり體も馴《な》れ、三度三度の隊食もペロリと平らげ、朝は六時の起床ラッパと共にはね起き、快晴の富士を目前に、千五百の駈足《かけあし》、爽快《さうくわい》きはまる生活です。小生のストイシズムはここで完全に滿足されました。ここでは何しろ、ストイシズムは何ら奇癖ではなくて美徳なのですからね。
簡素單純、何ら不必要なもののない生活は、小生が久しく求めてゐたものです。それに昔の軍隊のやうに陰慘ではない。(中略)目下、戰術の勉強をしてゐます。歸つてから煙に卷いてあげませう。實彈射撃も思ふ存分やらせてもらへ、宿願を達しました。」
彼が味わっていた充足感は、「爽快」「滿足」「宿願を達しました」等の語句のくりかえしのなかに、おのずから滲《にじ》み出ている。
一方菅原氏はさっそく小林秀雄に会って事情をはなし、五月に一度帰宅した三島を誘って鎌倉に行った。小林さんは三島に、あせってはいけないという意味のことをいわれたそうである。
その翌日の朝電話が鳴り、受話器をとると三島の怒り声がきこえた。
――怪《け》しからんよ、菅原は、変な小細工を弄《ろう》して。小林さんをつかって、おれを抑えようとした。
「小細工」にはこちらもひそかに荷担していたので、電話機のまえで首を縮めた。「今回こそ、僕は真剣であるといふことがわからないんだな。語るに足らないよ」とは、もしかすると小林氏訪問ののちに、彼が菅原氏にいったことばだったかも知れない。
自衛隊からもどってからの三島は、あとで知ったところでは、青年をあつめて一種の民兵をつくる着想をすでにあたためていた。体験入隊を希望する早稲田大学の学生たちのために、彼は防衛庁への仲介の労をとり、幹事役には若干の金までわたしている。
早稲田の学生が国防部という看板を出したよと、彼が愉快そうに教えてくれたことがある。自衛隊(北海道恵庭基地)に行ったのは、その国防部を中心とする何人かの学生たちであり、代表格のひとりが森田必勝という名の青年だった。
この集団とはべつに、三島の周辺には雑誌「論争ジャーナル」の編集にたずさわっていた一群の若者たちがいた。編集の実務を担当していた萬代潔との出会いは、「青年ぎらひ」だった自分を一変させる「革命的な」事件だったと、三島は『青年について』と題する文章のなかで述べている。
「忘れもしない、それは昭和四十一年十二月十九日の、冬の雨の暗い午後のことである。林房雄氏の紹介で、『論爭ジャーナル』編集部の萬代氏が訪ねて來た。私はこの初對面の青年が訥々《とつとつ》と語る言葉をきいた。一群の青年たちが、いかなる黨派にも屬さず、純粹な意氣で、日本の歪《ゆが》みを正さうと思ひ立つて、固く團結を誓ひ、苦勞を重ねて來た物語をきくうちに、私の中に、はじめて妙な蟲が動いてきた。青年の内面に感動することなどありえようのない私が、いつのまにか感動してゐたのである。私は萬代氏の話におどろく以上に、そんな自分におどろいた。」
萬代潔は雑誌創刊の基金をつくろうとして、友人のひとりとともにまず退職金の多い就職さきをさがし、退職金が一定の額に達するのを待って辞職、上京したというようなはなしをした。青年らしからぬこの計画性が、とりわけ三島を「感動」させたと見えて、彼らをひとに紹介するときにはきまって退職金の一件を説明していた。
――あいつらが来たら、いつでも歓迎してやってくれとおれは女房にいっているんだ。
三島の自衛隊入りの計画をきいて、彼らは自分たちもぜひ一緒に行きたいと申し出た。これが民兵隊創設の構想を彼に抱かせるにいたる最初のきっかけだったことは、前後の事情から考えて疑いを容《い》れない。
「論争ジャーナル」の関係者は、総計十名内外にすぎなかった。そこで彼は早稲田の国防部や同じ系列の日本学生同盟の学生にも、加盟を呼びかけたのである。森田必勝の遺稿集『わが思想と行動』(日新報道刊、昭和四十六年)所収の日記で見ると、彼は四月に「論争ジャーナル」の友人から三島の民間防衛隊への加入を誘われ、奇異な感じを抱いたとしるしている。
「民間防衛隊は大いに結構だし、俺《おれ》はいつでもやる覚悟はあるけれど、あのキザな三島さんが、それをやるといふのは何かチグハグな感じだ。」
三島は森田必勝たちの体験入隊を応援し、翌年三月に富士学校で行なわれた民兵隊の最初の訓練にも、彼とその友人たち四人とを参加させた。しかし富士学校に行くまえに三島が青年たちと交したという血盟には、森田必勝は加わってはいない。血盟書に署名したのは、「論争ジャーナル」系の十人だけだった。
2
『朱雀家の滅亡』を、七月に三島は書き上げた。「――エウリピデスの『ヘラクレス』に據《よ》る――」ということわり書きが、この戯曲の表題のそばには書きそえられていた。
『ヘラクレス』に想をかりて芝居をまとめてみたいという気持は、「十ヶ月も前から」あったと、NLTのプログラムに掲載された文章『「朱雀家の滅亡」について』のなかで、作者は述べている。しかし問題は『ヘラクレス』の主人公を狂気に走らせる嫉妬《しつと》の女神ヘラを、日本にどのような形で移しかえるかだった。ヘラクレスは彼女の多情な夫ゼウスが地上の女を愛して生んだ子であり、そのためにヘラは彼を憎みつづける。
「どうしても話がまとまらず、困り切つてゐたところ、今春、たまたま自衞隊に入つて、訓練の餘暇に、ふと辨天の女神のテーマの插入《さふにふ》を思ひつき、それによつて一氣にプロットが結晶したのでした。私もどうやら辨天樣の餘徳をうけた一人であるやうです。」
辨天を守り神とする西園寺《さいおんじ》家ではこの女神の嫉妬をおそれ、当主は代々正妻をおかなかった。有名なこのはなしを思い出した三島は、それをそのまま朱雀家という架空の家にあてはめたのである。
エウリピデスのえがくヘラクレスは、僭主《せんしゆ》リュコスがテーバイを支配し、彼の妻子が殺されそうになったとき、遠征さきから帰還して僭主を殺す。その直後にこんどはヘラのたくらみによって狂気にされ、妻子を自分の手で殺して館《やかた》を打ち砕く。
その大筋は、三島の芝居に生かされている。作者自身の要約によると、
「『朱雀家の滅亡』では、第一幕が僭主征伐、第二幕が子殺し、第三幕が妻殺し、第四幕が絶望のあとの運命愛《アモール・フアテイ》に該當します。そして大詰では(原作にはないけれど)、ギリシア悲劇風の『機械仕掛の神』(デウス・エクス・マキナ)の技巧が使はれます。しかしそれは、救濟の神としてではなく、復讐《ふくしう》の神として現はれるのです。」
構想は『サド侯爵《こうしやく》夫人』の場合と同様に、執筆にとりかかるまえにほぼでき上っていて、題を彼は『朱雀家の花嫁』とするつもりだった。
四幕のこの芝居を通じて、朱雀家の花嫁となろうとする女は一幕ごとにかわる。第一幕の冒頭では顯子という美しい女がかつて朱雀家に嫁にはいり、辨天様の嫉妬によって一年後に死んだことが、妾《めかけ》のおれいの口から物語られる。二幕、三幕は、それぞれべつの花嫁志願者を中心に劇が構成され、四幕にいたると辨天様自身が登場する。
劇の進行は能仕立てで、一、二幕のヒロインが三幕の中入りを経て四幕では辨天様として姿をあらわすのである。ただしふつうの後ジテとは性格が多少ちがうために、デウス・エクス・マキナと作者はいったのだろう。
この年の六月に、NLTは『鹿鳴館《ろくめいくわん》』を公演した。劇団としてはそのプログラムに、次に公演する芝居の題を予告しなければならない。『朱雀家の花嫁』では外題《げだい》として平凡だから変えてほしいという要請が劇団からあり、その結果「花嫁」が「滅亡」になった。
「滅亡」の方が、内容には似合っていたかも知れない。朱雀家をほろぼす狂気は、花嫁にたいする女神の嫉妬心のみに由来するものではなかった。そこに『ヘラクレス』と三島の作品とのあいだの、基本的な相違がある。
『朱雀家の滅亡』の第一幕と第二幕とは、ほろびをまえにした恋の輝きをえがき出す。
朱雀家の一人息子經廣の恋人、松永璃津子は、第一幕のはじめの方で經廣とならんで海を見ながら、「このさき日本はどうなるのでせう」という。
經廣[#「經廣」はゴシック体] 僕たちは、つてききたいのではない?
璃津子[#「璃津子」はゴシック体] その二つは同じことだわ。
經廣[#「經廣」はゴシック体] さうだね。同じことだ。
(中略)
璃津子[#「璃津子」はゴシック体] ……もしかすると、日本は負けるのではないかしら。
經廣[#「經廣」はゴシック体] それは世界が夜になることだ。この世でもつとも美しい優雅なものが土足にかけられることになるのだよ。そんなことにさせてはいけない。
璃津子[#「璃津子」はゴシック体] それならあなたは……
經廣[#「經廣」はゴシック体] 海が僕を惹《ひ》き寄せる。何故《なぜ》だか知れない。絶望と榮光とが、押し寄せる海風のなかにいつぱいに孕《はら》まれてゐる。
經廣はこのときには、海軍の予備学生の志願手続きをすませていた。
彼の母親は妾のおれいだが、おれいは息子を若様と呼ばされている。日蔭者《ひかげもの》の彼女にとって、息子が無事に生きていてくれることだけが人生の生き甲斐《がい》だった。
おれい[#「おれい」はゴシック体] ああ、これで若樣がどうか御無事で戰爭がをはりさへすれば! 若樣がやがて大學へお進みになり、戰爭のすんだ世の中で、のどかなお勤めでも遊ばすやうになれば! (ト泣く)それだけが私の望みでございます。
經廣[#「經廣」はゴシック体] 小さな、卑屈な、情ない望みだ。おれいさんには名譽や矜《ほこ》りといふものがわからないのだ。
光康[#「光康」はゴシック体] まあ、さう言ふな。おれいさんには言はせておけ。實を言へばなりふり構はぬ女の繰り言が、世の中の正義になる時代だつてあるのだ。
光康は、朱雀經隆の弟にあたる。彼のいう「なりふり構はぬ女の繰り言」と、矜りや忠節によって代表される男性的原理との対立が、おれいと朱雀父子とのあいだでくりかえされるのである。
父親の朱雀經隆は専横な首相を失脚させるという勲功をたてながら、爾後《じご》一切の公職をはなれる。彼は一同に、こう説明している。
「……私は御前に伺候して、事の落着《らくぢやく》を言上した。(中略)何も仰言《おつしや》らなかつたが、そして私にだけはわかるのだが、その一瞬、お上の御目には、一點、お悲しみの色があつた。
……わかるかね。それが私のお暇を願ひ出た原因だ。お上のお心はかう仰《おほ》せだつた。『何もするな。何もせずにをれ』……どういふ意味か、私には直下にわかる心地がした。三十七代の朱雀家の血がさうさせたのだ。お上は何かをすでに見透《みとほ》しておいでになるのだ。」
お上がすでに「見透しておいでになる」何かとは、目前に迫っているほろびであるほかないだろう。
「おそばを離れるのは身を切られるほど辛《つら》いが、せめて今後は遠い菊の香《か》を慕つて、身を愼しんで餘生を送らう。どんなに離れても、お上のお心は、畏《おそ》れながら、私の心に通《かよ》つてゐて下さるのだから。」
この恋闕《れんけつ》の情は、『葉隱《はがくれ》』のいう「忍戀」を想起させる。「戀の至極は忍戀《しのぶこひ》と見立て申|候《さうらふ》。」(「聞書第二」)三島は『朱雀家の滅亡』の執筆にわずかに先立って、『葉隱入門』(光文社刊、昭和四十二年九月)を書いていた。
息子の經廣は第二幕では海軍|少尉《しようい》の軍服姿であらわれ、南の島に勤務することになった旨《むね》を父と叔父とに報告する。敵が襲って来ることの必至な島であって、――島は沖縄のつもりだったと三島はいっていた――生還は期しがたい。叔父の光康がこれをきいて驚き、經廣が座をはずしているあいだに、配置がえを海軍大臣に自分がたのみに行くと、兄に向かって申し出る。
「兄さんは經廣を殺すつもりですか。あいつが確實に死んで行くのを、父親が手をこまぬいてただ見てゐるのは、わが子を殺すのも同じぢやありませんか。あなたは氣が狂つたのではありませんか?」
經隆が弟のこの提言を冷く斥《しりぞ》けると、外で立ち聴きしていたおれいがとび込んで来て、「れいの一生のお願ひでございます」と床にひれ伏す。「どうか若樣のお命をお救ひ下さいまし。」それでも經隆はことわり、おれいは走り出て息子の經廣をさがし求める。彼自身の口から「をぢさまの仰言るとほりにする」と、いわせようと企てるのである。
おれいが何をしようとしたかを知った經廣は、実母にたいして怒りを爆発させる。彼には、卑《いや》しい身分の出の母親をもったことへの引け目がある。
「お前は、朱雀の家《いへ》の矜りの高みから、僕を引きずり下ろさうと企てたのだ。並の、さうだ、並のといふのはお前並の、命の惜しい、情《じやう》の深い、氣立てのやさしい、事なかれの、卑怯《ひけふ》未練な勉強家の青年に僕を仕立てようと計つたのだ。さうだらう。それが今夜ははつきりと露《あら》はれた。その上でのお前の嘆き、お前の悲しみ、お前のせい一杯の情愛が罠《わな》をしつらへたのだ。若いすばしこい、矜りの高い獸《けだもの》は、罠にかかりかけたが、みごとに身を解き放つた。この情愛の泥《どろ》、名譽と榮光の磨《みが》き立てた靴《くつ》を汚すだけの役にしか立たない、(中略)卑しい罠からのがれて駈《か》け去つた。今こそ僕は別れるのだ。おきき、おれいさん、もう二度と逢《あ》ふことはあるまい。」
恋人の經廣が死地に赴くと知った璃津子は、祝言《しゆうげん》をぜひとも即刻あげたいといい出す。朱雀家の花嫁に自分がなれば、嫉妬深い辨天様は經隆の迎えた正妻をかつて殺したように、自分をとり殺すだろう。そのかわり經廣は守られる、と彼女はいう。
「さうですわ、女神は男は生かしておおきになるでせう。御自身の大切な良人《をつと》ですもの。私は若くて忽《たちま》ち死ぬ朱雀家の花嫁、春の日のやうに夕風にまぎれて終る短い一生、(中略)丁度をぢさまの、あのお美しかつた奧樣のやうに。」
健気な少女の申し出は、うけ容れられない。それでもこういうことを公言した以上、辨天様は自分を許さないだろうということを、璃津子は予期している。ともに死を覚悟した若い二人が、月光の下を去って行く。
おれい[#「おれい」はゴシック体] 秋の夜の月の光りを浴びて、本當に美しい花婿《はなむこ》花嫁でいらつしやいました。朱雀家の新らしい花婿花嫁は、
經隆[#「經隆」はゴシック体] (おもむろに微笑の顏をあげる)月の光りのなかに溶けてしまつた。
ほろびを前提としたこのような恋を、三島は二十歳の春から夢みつづけて来た。『朱雀家の滅亡』は、NLTの舞台をつかったその夢の――最後の――再現だったのである。
3
朱雀經隆の誠忠を三島は、「『承詔《しようせう》必謹』の精神」ということばで説明している。
「すなはち、完全な受身の誠忠が、しらずしらず一種の同一化としての忠義へ移つてゆくところに、ドラマの軸がある。ヘラクレスを襲ふ狂氣に該當するものは、すなはち狂氣としての孤忠であり、又、滅びとしての忠節なのである。」
「完全な受身の誠忠」は、『英靈の聲』で彼が書いた青年将校や特攻隊員の恋闕の情とは、その様相をことにする。「忍戀」という一方的な恋には、酬《むく》いられることへの期待はあり得ない。「何もするな」「ただ滅びよ」と「お上の目が」仰言るのを「心で聽い」てからの經隆は、邸《やしき》にただひっそりと閉じこもっている。弟の光康のことばによれば彼の姿は、「人の訪れない山の只中《ただなか》の、小さな澄んだ狂氣の湖」に似ていた。「湖のほとりの森では、鳥といふ鳥が死に絶え」て行く。
經隆はみずから手を下してひとを殺してはいないにせよ、息子の經廣を「矜り」とお上への忠誠心とのために見殺しにした。つまりこの芝居にはエウリピデスの『ヘラクレス』とはちがって、狂気の二つの源泉がある。辨天様の嫉妬心と、經隆の忠節とである。
第三幕では經廣の戦死をしらされたおれいが生きて行く心の張りを失い、ついにこれまでの忍従をかなぐり棄《す》てて、經隆に正式に結婚してほしいといい出す。「これだけ生きのびたら、辨天樣も怖くはありませんわ」と彼女はいう。
「あなたの代々の御先祖が、そして若い美しい辨天樣が、二千年の間待ちこがれてゐた朱雀家の花嫁は私だつたのですよ。辨天樣も祝壽と福徳の惠みを垂れ、誰一人異存はなく、老いて醜く、道ゆく人も顏をそむけるやうな花嫁こそ、あなたとあなたの御家系に一等ふさはしい花嫁だつた。(中略)私にははじめからわかつてゐた。だから二十年の間忍びに忍んで、身も心も醜くなり果てるのを待つたのです。(中略)朱雀家の花嫁は、もうすでに子供を生み、そしてその子を失つた、悲しみにあふれた老いた|したたか《ヽヽヽヽ》な女だつたのです。……さあ、今すぐ私たちは結婚しませう。」(傍点原著者)
籍をすぐに入れてもらいたいという彼女の要求を經隆はことわり、二人が睨《にら》みあっているさなかに空襲警報のサイレンが鳴る。おれいはひとりで防空|壕《ごう》にはいり、經隆が一緒に来ることを拒否する。爆音が近づいて經隆は辨天の社前にひれ伏し、落ちて来た爆弾はおれいの命を奪う。
朱雀家の花嫁に彼女がなろうとしたことが辨天様の怒りを買い、死の懲罰をうけたと劇の筋からは解してよいのだろうと思う。辨天の社《やしろ》もそのまえにひれ伏した經隆も、まったくの無傷だった。彼が過去においてどのように頑固《がんこ》だったとはいえ、そのことが彼女の死の直接の原因だったとはいえない。
經隆の狂気は息子を死に追い込み、次に辨天様の嫉妬がおれいを殺した。少くともおれいは辨天様のたたりを信じ、日蔭者の身分に二十年間を甘んじた末に恨みを抱いて死んだ。そして四幕目は、經隆と辨天様との対決となる。恋人を失った璃津子が辨天様と化して、社から姿をあらわす。
朱雀家は社だけを残して焼け落ち、經隆は壕舎に暮している。たずねて来た光康に彼は過去の自分が狂気だったとしても、その狂気のなかには「光りかがやくあらたかなものがあつた」と説明する。
「狂氣の核には水晶のやうな透明な誠があつた。(中略)その狂氣によつてかるがると私は飛んだ。……今はどうだ。お前は私が正氣になつたといふかもしれない。私にはわからない。(中略)只一つわかることは、その正氣の中心には誠はなく、みごとに翼は具《そな》へてゐても、その正氣は決して飛ばないといふことだ。あたかも醜い駝鳥《だてう》のやうに。私は知らず、少くともお前たちみんなは駝鳥になつたのだよ。……私はまづこのまま、汚れ果てた穴ぐらに巣を營んで、いつまでも自分のかつての狂氣を占ひ、ただ靜けさ、ただ無爲の褥《しとね》をしつらへて、そこに狂氣の再臨を待つほかはあるまい。」
光康が去り、經隆がひとりで日本の滅亡を、「古いもの、優雅なもの、潔《きよ》らかなもの、雄々しいもの」がことごとく滅び去ったことを歎《なげ》いているときに、秘曲「楊眞操《ようしんそう》」のしらべが流れ、社の階《きざはし》を十二|単《ひとえ》を着た璃津子が降りて来る。驚く經隆に向かって彼女は、女性原理の勝利を告げるかのように、「女神の世が來たのですわ」と宣言する。
若くて死んだ夫をもち、「悲しみをくぐり拔けて」来た瑠津子は、「もう決して嫉妬しない」、しかし復讐の刃《やいば》を心にひめた女神となっていた。
璃津子[#「璃津子」はゴシック体] 私はもう決して死なない朱雀家の花嫁です。花嫁が女神になり、女神が花嫁になりましたから。悲しみの瀧を浴びて、よみがへつた新らしい女神ですから。でもをぢさまは、……(中略)私はおすすめにまゐりました。廣樣の花嫁として、それから、あなた御自身のよみがへつた花嫁として、あなたにおすすめにまゐりました。一番先に滅びるべきであつたあなたが、まださうして生き永らへていらつしやるのは、何故?
經隆[#「經隆」はゴシック体] …………。
璃津子[#「璃津子」はゴシック体] 滅びなさい。滅びなさい! 今すぐこの場で滅びておしまひなさい。
經隆[#「經隆」はゴシック体] (ゆつくり顏をあげ、璃津子を注視する。――間。)どうして私が滅びることができる。夙《と》うのむかしに滅んでゐる私が。
日沼倫太郎は『朱雀家の滅亡』の初演時のプログラムに長文の解説を寄せ、そのおわりに「生きていればいるほど人生は悪くなるという青春喪失の歌が、行間からきこえてくるような気がしてならぬのである」と書いていた。
三島は『朱雀家の滅亡』の公演の中途まで、インドに行っていた。
インド政府の招待であり、出発は九月二十六日だった。インドに行くならぜひベナーレスを見て来たらよいとすすめると、
――ベナーレスって……どういうところ?
死者の骨灰を流すガンジス河畔《かはん》の町で、永遠と悲惨の極とがそこには同居していると説明すると、彼は興味を抱いた風だった。同行した瑤子夫人とニュー・デリイで別れ、単身ベナーレスに行ったとあとできいた。しかし彼がそこで何を見たかは、『豐饒の海』の第三巻、『曉の寺』を読むまではわからなかった。
ラオス、タイに立寄って、彼は十月二十三日に帰国している。『朱雀家の滅亡』東京公演の最終日は、十月二十九日だった。
民兵隊の組織化を彼が最終的に決定したのは、それからまもなくのことである。
4
民兵隊組織を、三島ははじめ「國土防衞隊」と名づけていた。
彼が昭和四十二年の暮に作製し、隊員や若干の関係者にタイプ印刷で配布した。『祖國防衞隊はなぜ必要か?』という小冊子がある(日付は「一九六八年一月一日」)。この方は一部分を拙著に引用したことがあるし、伊達《だて》宗克《むねかつ》編著の『裁判記録「三島由紀夫事件」』ほか一、二の本には全文が収録されている。
「祖國防衞隊」のまえの「國土《ヽヽ》防衞隊」計画の方は、三島の手書き原稿のコピイが残っているだけで、どこにもまだ発表されていない。表題は、『「國土防衞隊」草案(三島由紀夫案)』である。
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一、國土防衞隊は民兵を以《もつ》て組織し、有事の際の動員に備へ、年一囘以上の訓練教育を受ける義務を負ふ。
一、民兵は志願制とし、成年以上の男子にして年齡を問はず、體格檢査、體力檢定に合格したる者にして、前科なき者を採用する。
一、民兵の雇傭主《こようしゆ》は、民兵訓練期間の有給休暇を與へる義務を負ふ。民兵には原則として俸給《ほうきふ》を支給せず。
一、國土防衞隊の經費は、三分の一を國費、三分の一を地方自治體費、三分の一を國民|醵金《きよきん》により、これを支出する。
一、民兵はこれを幹部と兵とに分け、幹部教育には、自衞隊内に民兵幹部教育隊を設けて特殊短期訓練を施し、自衞隊幹部に準ずる資格を與へて、以て民兵組織と自衞隊とをリンクする。……(三項目略)……
一、指揮命令系統は、現行憲法下では、内閣總理大臣に直屬する。
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指揮命令系統や予算にまで触れていることからもわかるように、彼がこの時点で企てていたのは制度としての民兵の設立だった。自衛隊を補完する国の民兵であって、のちの「楯《たて》の會」とは性格がちがう。
自衛隊には一握りの予備自衛官を除いては後詰めの兵力がなく、万一のさいには現有の人数だけで戦わねばならない。補充の方法のないことが、自衛隊の最大の弱点のひとつとされている。体験入隊を通じて、三島はそのことを痛感したのだろう。
『「國土防衞隊」草案』は、イギリス、スウェーデン、ノルウェイの民兵組織や、フランスの国防省が当時計画していた民兵構想を、明かに参考にしていた。フランスの民兵案は正規軍を最小限にとどめ、そのかわり侵略に抗するレジスタンス組織を、平時から軍の指導下につくっておくという考え方にもとづく。(手許《てもと》にあったその計画書を、夏まえに三島にわたした記憶がある。)
十一月に彼は「論争ジャーナル」の青年のうちの何人かを自宅に呼び、民兵隊の結成を正式に告げた。この月にはヴェトナム戦争に反対して若者が首相官邸のまえで焼身自殺をとげるという事件があり、羽田では佐藤榮作首相の渡米に反対する学生が騒ぎを起こして、ひとりが死亡している。こういう社会情勢も三島の決心に、何ほどか作用していたと思われる。
ヴェトナムの戦争に反対して日本の首相官邸のまえで死ぬというのは、常識的には筋のとおらないはなしだが、三島は焼身自殺につよい感銘をうけたようだった。
――政治的行動は、ああでなければいけないんだよ。
隊名はこのころには、「祖國防衞隊」にかわっていた。もっとも三島の考えでは「祖國防衞隊」は依然として将来つくられるだろう国の機関であり、彼の仕事はその幹部になるはずの青年の養成にあった。幻の「祖國防衞隊」の名は外部には秘し、体験入隊の第二期生を出したあとでも「漱石の猫《ねこ》ではないが、この集團の『名前はまだ』ない」と書いている。(『わが「自主防衞」――體驗からの出發』昭和四十三年八月)
――一期に百人ずつを訓練するんだよ、
と彼ははじめのころいっていた。
――各人が二十人程度の部隊の指揮を、とれるようにする。一年に一回なら、五年で五百人の幹部ができて、五百人が二十人ずつを指揮すれば一万人だろ。方々の企業からも、ひとを出してもらうのさ。
一介の文士にそんなことができるものだろうかと、ぼくは気のとおくなるような思いできいていたものである。
三島の民兵隊構想は、単に直接間接の侵略にそなえることだけを、目的としていたのではない。彼自身機会があるごとに書いていたように、その関心は軍事力よりも国民の魂の方にあった。国民の自立の精神と武の伝統とを、民兵隊という組織を通じてよみがえらせようと彼は考えていた。「祖國防衞隊」の「綱領草案」と題するこれも手書きの文章のコピーが、手許に残っている。
[#ここから1字下げ、折り返して2字下げ]
一、われらは日本の文化と傳統を劍を以て死守せんとする軍隊である。
一、われらは平和な日本人の生活を自らの手で外敵内敵から護《まも》らんとする軍隊である。
一、われらは日本をして文武兩道の眞の國柄《くにがら》に復せしめんとする市民の軍隊である。
一、われらは市民による、市民のための、市民の軍隊である。平和な日本人の生活を、自らの手で外敵内敵から防衞し、依《よつ》て以て日本の文化と傳統を、劍を以て死守せんとする有志市民の戰士共同體である。
[#ここで字下げ終わり]
四箇条のうちの三箇条までが、伝統の擁護と「文武兩道の眞の國柄」の恢復《かいふく》を謳《うた》う。
『朱雀家の滅亡』の朱雀經隆は、「もつとも艶《つや》やかな經絲《たていと》と、もつとも勇ましい緯絲《よこいと》とで織られてゐた」たぐいまれな「一枚の美しい織物」が敗戦とともに煙になったといい、現在の正気には誠がなく、「みごとに翼は具へてゐても、その正氣は決して飛ばない」と歎いた。經隆のいう文武両道の「美しい織物」の再現を、「透明な誠」をもった「狂氣」の翼をとりもどすことを、三島は夢想していた。
「論争ジャーナル」系の若者たちと三島が血盟を行なったのは、二月二十六日だったという。二・二六事件の日を、特にえらんだらしい。
四日後の三月一日に、彼らは富士学校に一箇月間の訓練に行った。森田必勝たち五人が参加したのは、予定されていた人数に突然缺員が生じたためである。
学生騒動は当時はげしさを増し、学生運動の団体には人員を三島の会にとられることを嫌《きら》う傾向があった。そのうえに「論争ジャーナル」系の青年との感情的対立も加わり、三島と日本学生同盟とのあいだはとかくぎくしゃくしがちだったときいている。関係改善の意味もあって、森田必勝たちは誘われるがままに体験入隊に参加した。
三島は第一週とおわりの週とを彼らとともにすごし、駆足にはつねに先頭に立った。三尉《さんい》には任官できなかったものの、「部下」の集団はできていた。学生たちはこの集団を、「三島小隊」と呼んだ。
例の制服を見せられたのは――まえにも書いたことがあるが、――四月二十九日だった。「祖國防衞隊」の会を開くので麻布のプリンス・ホテルに来てくれと三島にいわれ、宴会場にはいって待っていると、あつまって来た学生たちが次々に大きな金屏風《きんびようぶ》の向こうに姿を消す。三島からは何の説明もなく、これから何がはじまるのだろうかと思っていたら、数分後にきらびやかな制服姿の青年たちが目のまえにならんだ。驚くぼくの顔を、彼は嬉《うれ》しそうに眺《なが》めていた。
あつまったのは第一期生のなかでも、「論争ジャーナル」系の十人ほどだけだった。彼らは三島が作詞した「祖國防衞隊」の隊歌をうたい、宴会のテーブルについた。彼が若者たちに洋食の食卓作法をこのとききびしく教えたのは、彼らは将来の民兵隊の幹部、という気持があったからだろう。
菅原國隆が福田家で、
――三島さん、いったい何をはじめるつもりなんですか。
苦りきっていってからこのときまで、ちょうど一年あまりの歳月である。
文学作品の方では『豐饒の海』第二巻の『奔馬』が六月に脱稿し、「批評」に連載中だった『太陽と鐵』も、六月発行の夏季号で完結する。(『太陽と鐵』はべつに「文芸」に発表された『F104』をエピローグとして、この年の暮に刊行される。)
肉体を鍛え武道を修錬していらい、自分のなかには肉体とことばとの両極が生じたと、『太陽と鐵』のなかで三島はいっている。
「徐々に、私が太陽と鐵から、(ただ、言葉を以て肉體をなぞるだけではなく)、肉體を以て言葉をなぞるといふ祕法を會得《ゑとく》しはじめるにつれ、私の内部で兩極性は均衡を保ち、直流電流は交流電流に席を讓るやうになつた。私のメカニズムは、直流發電機から交流發電機に成り變つた。そして決して相容れぬもの、逆方向に交互に流れるものを、自分の内に藏して、(中略)たえず破壞されつつ再びよみがへる活々《いきいき》とした均衡を、一瞬一瞬に作り上げる機構を考案したのである。」
均衡を維持していたはずの交流発電機が、民兵隊の創設を決定したころから不協和音を発しはじめる。四部作の第四巻の内容についてきくと、
――昭和四十五年の安保騒動、おれが斬死《きりじ》にする。
高笑いとともにいうようになったのは、ぼくの知るかぎりでは昭和四十二年の秋からだった。
[#改ページ]
集団という橋
1
三島の家にはじめて夕食に招かれたときの様子を、ヘンリイ・スコット・ストークスがその著書、『三島由紀夫 死と真実』のなかで書いている。
「一九六八年五月――三島邸の夕食に招かれる。相客は、村松剛と自衛隊の高級将校が一人。」(徳岡孝夫訳)
自衛隊の高級将校はストークスの思いちがいで、防衛庁の弘報課長(当時)伊藤圭一だった。「祖國防衞隊」一期生の入隊に関して伊藤氏に三島は世話になっていたから、お礼の意味もあって招いたのだろう。ストークスはこのころ、ロンドン・タイムズの東京支局長をつとめていた。
「会話はきわめて挑発《ちようはつ》的、日本であんなに質問攻めにあったのは、はじめて」、
と彼はいう。
「『なぜ、われわれのような右翼に興味があるのか』
三島はそう聞いて、すぐ例の哄笑《こうしよう》になる。他人に答えるすきを与えない。」
三島の口調はぼくの印象では平生と少しも変りがなく、「挑発的」な雰囲気《ふんいき》などは感じられなかった。(二人は何年もまえからの知合いかと、このときは思ったほどである。)あとできくと会ったのはこれが二度目とかで、三島の廻転《かいてん》のはやい会話にストークスがまだ馴《な》れていなかったために、そのような印象を抱いたのかも知れない。
徹底して西洋式な三島の生活形態にもストークスは驚き、「三島のいわゆる『右翼』は、ほんとうだろうか」としるしている。「なんだか遊びのような気がする。」食事にひとを招くときには印刷された英文の招待状を送り、食後には必ずコニャックと葉巻とを供するという生活は、日本の「右翼」にたいして西洋人がもつ凶々《まがまが》しいイメージと、たしかに似合いそうにない。
この小宴から二箇月後に、――同じストークスの著書によると――三島は自殺を暗示する手紙を彼に送った。
「一九六八年七月二十六日――夏になってから会っていない三島から、きのう来信。家族を連れて下田東急ホテルにいるから、こないかと言ってくる。不思議な手紙だ。このあいだ死んだ日沼倫太郎が、何度も三島文学の唯一《ゆいいつ》の解決は自殺だと言っていたという。日沼が死んでから、その言葉がいっそう重く感じられるそうだ。何を言いたいのか、どうもよくわからない。まだよくも知らない三島の自殺劇に巻きこまれるのはご免だ。下田へ行かず、返事も書かないことにする。」
ストークスは三島とは二度ばかり会っただけであり、まして七月十四日に病歿《びようぼつ》した日沼倫太郎となると、名まえさえきいたことがなかった。三島が「何を言いたいのか」わかるはずもなく、「自殺劇に巻きこまれるのはご免だ」と考えたことに格別の不思議はない。
三島の方は、このイギリス人の人柄《ひとがら》を愛していた。
――俺《おれ》はあの男が好きなんだよ、
と彼がいうのを――翌年になってからのことだが――、きいたことがある。
しかし内心の苦衷を三島がストークスに打明けようとしたのは、単に彼が「好き」だったせいだけではなかったであろう。知人に自分の精神の暗部を覗《のぞ》かせることは、彼の矜恃《きようじ》が許さなかった。だから冗談めかして「昭和四十五年には斬死《きりじ》にする」と、ぼくなどには哄笑とともにいっていた。ストークスは外国人だし、日本の作家とのつきあいもない。安心してはなし相手にしようとしたのではないかと、推測される。
ついでに書きそえておくと、ストークスが手紙をうけとった七月二十五日には、三島はまだ下田に行ってはいなかった。二十四日に彼は「祖國防衞隊」第二期生の壮行会を市ヶ谷会館で開き、翌二十五日に彼らをひきいて富士学校に赴いている。ストークス宛《あて》の手紙の文面は、正確には「下田東急ホテルにいるから」ではなく、「八月に下田東急ホテルに行くから」だったはずである。
下田から彼は八月十七日に手紙をくれて、そのなかで第二期生の様子に触れ、
「學生も夏の合宿などに二股《ふたまた》をかけてゐる者が多く、最初の人數より減りましたが、殘つた者ハ士氣|旺盛《わうせい》のやうで、たのもしく思つてをります」、
と書いていた。
「八月末歸京の節は、又、文化會議を引つかき廻《まわ》しにまゐります。その節は何卒《なにとぞ》よろしく。」
日本文化会議は田中美知太郎を理事長に同じ年の六月十日に発足し、三島はその理事のひとりだった。
ストークスを困惑させた死を暗示するようなことばは、この手紙には片鱗《へんりん》さえもあらわれていない。
「批評」夏季号(六月十五日刊行)に掲載された『太陽と鐵』の最終章で三島は戦争中を振りかえり、過去に自分が逸したのは「集團の悲劇」、「あるひは集團の一員としての悲劇」であるといっている。
「私がもし、集團への同一化を成就してゐたならば、悲劇への參加ははるかに容易な筈《はず》であつたが、言葉ははじめから私を集團から遠ざけるやうに遠ざけるやうにと働らいたのである。しかも集團に融《と》け込むだけの肉體的な能力に缺け、そのおかげでいつも集團から拒否されるやうに感じてゐた私の、自分を何とか正當化しようといふ欲求が、言葉の習練を積ませたのであるから、そのやうな言葉が集團の意味するものを、たえず忌避しようとしたのは當然である。」
肉体を鍛え、肉体をはげしく行使するようになってから、はじめて彼は集団の意味を覚《さと》るにいたったという。
「力の行使、その疲勞、その汗、その涙、その血」が、「同苦」を通じて、「私は皆と同じだ」という信条をもたらす。「私は皆と同じだ」というこの信条が、個性の表現としての文学の対極に位置することはいうまでもない。だが三島によれば、集団は個人の到達し得ない「神聖」にまでひとをみちびくことができる。
「肉體は集團により、その同苦によつて、はじめて個人によつては達しえない或《あ》る肉の高い水位に達する筈であつた。そこで神聖が垣間見《かいまみ》られる水位にまで溢《あふ》れるためには、個性の液化が必要だつた。のみならず、たえず安逸と放埒《はうらつ》と怠惰へ沈みがちな集團を引き上げて、ますます募る同苦と、苦痛の極限の死へみちびくところの、集團の悲劇性が必要だつた。集團は死へ向つて拓《ひら》かれてゐなければならなかつた。私がここで戰士共同體を意味してゐることは云《い》ふまでもあるまい。」
これを三島が書いた時期は、雑誌の刊行日から逆算して三月か四月だったと思われる。第一期生をつれて彼が富士に行ったときよりは、当然あとになる。夜は富士学校の一室を借りて原稿を書いていたというから、その場での執筆だった可能性も高い。
したがって次の文章に出て来る集団とは自衛隊員ではなく、彼が一緒に走った「祖國防衞隊」の若者たちをさしている。
「早春の朝まだき、集團の一人になつて、額には日の丸を染めなした鉢卷《はちまき》を締め、身も凍る半裸の姿で、駈《か》けつづけてゐた私は、その同苦、その同じ懸聲、その同じ歩調、その合唱を貫ぬいて、自分の肌《はだ》に次第ににじんで來る汗のやうに、同一性の確認に他ならぬあの『悲劇的なもの』が君臨してくるのをひしひしと感じた。(中略)『身を挺《てい》してゐる』といふ感覺は、筋肉を躍らせてゐた。|われわれは等しく榮光と死を望んでゐた《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。|望んでゐるのは私一人ではなかつた《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。」(傍点村松)
括弧内《かつこない》の「悲劇的なもの」と「身を挺してゐる」の二語は、十九年まえの『假面の告白』にもならんで用いられていた。『假面の告白』の主人公が汚穢《おわい》屋を見て、その職業に憧《あこが》れる場面である。
「といふのは、彼の職業に對して、私は何か鋭い悲哀、身を撚《よ》るやうな悲哀への憧れのやうなものを感じたのである。きはめて感覺的な意味での『悲劇的なもの』を、私は彼の職業から感じた。彼の職業から、或る『身を挺してゐる』と謂《い》つた感じ、或る投げやりな感じ、或る危險に對する親近の感じ、虚無と活力とのめざましい混合と謂つた感じ、さういふものが溢れ出て五歳の私に迫り私をとりこにした。」(第一章)
同じ二つのことばに『太陽と鐵』でも作者が括弧を付しているのは、偶然の一致ではなかったのではないか。
『假面の告白』という初恋の物語のなかで、この汚穢屋は主人公の「私」のまえに最初に登場する異質の世界の人間であり、最初の「他者」だった。『假面の告白』以後の三島は、自分を「他者」につくり変えようとして努力をかさねる。
ボディー・ビルに通って肉体そのものを変え、自分が肉体とことばとの両極をもつ「交流發電機に成り變つた」ことを、誇るまでにいたった。それでも何ものかのために「身を挺する」機会は、彼にはあたえられなかった。
その感覚を味わう機会は、「等しく榮光と死を」望む「戰士共同體」を得た――と彼が信じた――ときに訪れたのである。『假面の告白』の汚穢屋の部分と同じことばをつかうことによって、三島は十九年来の宿願だった「虚無と活力とのめざましい混合」への同一化を果したと、いおうとしているように見える。
集団は彼によれば、「彼方《かなた》へ」の橋だった。
「心臟のざわめきは集團に通ひ合ひ、迅速な脈搏《みやくはく》は頒《わか》たれてゐた。自意識はもはや、遠い都市の幻影のやうに遠くにあつた。(中略)私一人では筋肉と言葉へ還元されざるをえない或るものが、集團の力によつてつなぎ止められ、二度と戻つて來ることのできない彼方へ、私を連れ去つてくれることを夢みてゐた。それはおそらく私が、『他』を恃《たの》んだはじめであつた。しかも他者はすでに『われら』に屬し、われらの各員は、この不測の力に身を委《ゆだ》ねることによつて、『われら』に屬してゐたのである。
かくて集團は、私には、何ものかへの橋、|そこを渡れば戻る由もない一つの橋と思はれたのだつた《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。」(傍点村松)
二月に彼が若者たちと血盟をかわしたという事実を考えあわせると、「そこを渡れば戻る由《よし》もない一つの橋」という最後のことばは、深刻な意味をもって来る。(血盟の件はかたく秘せられ、三島の死後までぼくも知らなかった。)
昭和四十一年までの三島は、自分は畳のうえで死ぬだろうといっていたのである。昭和四十一年の七月に彼が「朝日ソノラマ」に依頼されて発表した談話が、『現代人と死』という題で二年まえに「新潮カセットブック」に収録された。このなかで三島は死を目前にした戦争末期の自分の心理状態の方が、「今に較《くら》べて幸福だった」といい、さらに次のように述べている。
「それは、私は病気になれば死を恐れます。癌《がん》になるのも一番いやで、考えただけで恐ろしい。それだけになんかもっと名誉のある、もっと何かのためになる死に方をしたいと思いながらも、結局『葉隠』の著者のように、生まれてきた時代が悪くて一生そういうことを思い暮らしながら、畳の上で死ぬことになるだろうと思います。」
十五年か二十年たって体力が衰えたら藤原定家について書きたいと、彼は同じ談話のなかでいってもいる。定家の『明月記』を三島は折りに触れて読み、後鳥羽院《ごとばいん》にたいする定家の屈折した感情をよく話題にした。
昭和四十一年七月は、『英靈の聲』が出版された直後にあたる。そのあとに「論争ジャーナル」の若者たちとの接触があり自衛隊入りがあり、「國土防衞隊」の構想は血盟をみちびく。いまになって思えば『太陽と鐵』の末尾は、畳のうえでは死なないという決意を彼が公《おおやけ》にした最初の文章だった。
集団とともに「彼方へ」と走りはじめながらも、その心中にはさすがになお不安と動揺とがあった。第二期生の壮行会が開かれたちょうどその日にストークスに手紙を書いていることによっても、それは推察できる。
2
若者たちが三島の家に出入りするようになってから、彼はある日こんなことをいった。
――若い者が来たらこっちは褞袍《どてら》かなんか羽織って玄関に出て、「おう来たか、まあ上れ」……そういってほしいのだろうなあ、あいつらは。
――……
――それがおれには、できないんだよ。
できたらそうしてやりたい、という口調だった。
唖然《あぜん》とする思いで、ぼくはこのことばをきいた。磊落《らいらく》を衒《てら》うこういう泥臭《どろくさ》さを、三島は何よりも嫌《きら》っていたはずではないか。
剣道の懸声も生臭くてファナティックで耐えがたいと、少しまえまでの彼はいっていた。三島が卒業した学習院とぼくの出た中学校とは、武道の試合を毎年の恒例とした。はなしがたまたまそのことに触れたときに、
――いやだったねえ、あれは。
嫌悪《けんお》の情を、顔いっぱいにみなぎらせたものである。
――あの生臭い声。それから試合に勝っても負けても、腕を顔にあててウーッとかいって泣くだろ……我慢できないな。
『劍』を書くよりもまえだから、昭和三十七、八年のことだったと思う。彼自身が剣道を習いながらも、その「生臭い声」にたいしてある時期までもちつづけていた嫌悪感は、『奔馬』のはじめの方に本多繁邦の回想として出て来る。
「そのむかしは清顯《きよあき》と共に、劍道部の連中や、あの稽古《けいこ》のファナティックな懸聲を憎んだものだ。あの懸聲は少年期の感受性にとつて、自分の内臟を裏返して鼻先へ押しつけられるやうな、なまぐさい、窒息的な、恥しらずの狂氣が神聖な狂氣を氣取つてゐると謂つた趣きがあつて、苦痛なしには聽くことのできないものであつた。尤《もつと》も清顯と本多とでは、その嫌惡の性質は多少ちがつてゐた。清顯はその聲を纖細な感情への侮辱と感じ、本多はまた理性への侮辱と感じたものだつた。……」
『奔馬』を書いていたころの作者は、こういう嫌悪感をもう口にしなくなっていた。それどころか二月の血盟のさいには、コップのなかにたまった一同の血を呑《の》みまわしたという。清顯の「纖細な感情」にも本多の「理性」にも、正面から挑戦する行為であろう。
作者の感情の変化を反映して、懸声への本多の感じ方もむかしとはちがって来る。主人公の飯沼勳《いいぬまいさお》が試合の場であげる「目覺《おどろ》かされた野鳥の叫び」のような声をきいて、本多はそこに少年の魂の火の迸《ほとばし》りを感じとった。
勳の発した懸声は本多を、「むかしの自分も意識してゐなかつたもつと深い本質的な自分の姿へ到達しようとする試み」へと、ごく自然に向かわせる。彼はその叫びから、「少年の胸深く刺《ささ》つて殘つてゐる、鋭いささくれた痛みにまで」思いいたるのである。
ここで作者のいう「むかしの自分も意識してゐなかつたもつと深い本質的な自分の姿」とは、日本人の精神の基底にあるものを、つまりは日本人の魂をさす。それは明治の文明開化いらい地下に追込まれて来た部分だったと、三島は第三巻『曉の寺』の第一部で、本多の口をかりて説明している。
「思へば民族のもつとも純粹な要素には必ず血の匂《にほ》ひがし、野蠻の影が射《さ》してゐる筈だつた。世界中の動物愛護家の非難をものともせず、國技の鬪牛を保存したスペインとちがつて、日本は明治の文明開化で、あらゆる『蠻風』を拂拭《ふつしよく》しようと望んだのである。その結果、民族のもつとも生々《なまなま》しい純粹な魂は地下に隱れ、折々の噴火にその兇暴《きようばう》な力を揮《ふる》つて、ますます人の忌《い》み怖《おそ》れるところとなつた。(原文改行)いかに怖ろしい面貌《めんばう》であらはれようと、それはもともと純白な魂であつた。」
大多数の日本人がそれを無視し、「あたかもないかのやうに振舞つて」いると、第三巻の本多は考える。
「すでに大方の西歐化した日本人は、日本の烈《はげ》しい元素に耐へられなくなつてゐた。」
その「烈しい元素」との一体化を、三島は志した。神風連へのみちであり、血を啜《すす》りあっての血盟はそういう彼の意志の端的なあらわれだったろう。「イギリスの真似《まね》をしてスマートがっていた海軍には、日本人の泥臭い心がわからない」と彼が呟《つぶや》くのを、昭和四十五年のはじめに耳にしたことがある。
昭和三十九年の『絹と明察』とともにはじまった日本への「歸郷」は、二・二六事件の青年将校たちへの共感を経て、「野蠻の影」をともなう民族の「魂」への回帰にまでいたった。しかしこのような「魂」を抱いて生きようとすれば、現実の日本に存在するすべてを、否定しなければならない。
「すべてを拒否すること、現實の日本や日本人をすらすべて拒絶し否定することのほか、このもつとも生きにくい生き方のほかに、とどのつまりは|誰かを殺して自刄することのほかに《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|眞に《ヽヽ》『日本《ヽヽ》』|と共に生きる道はないのではなからうか《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》?」(傍点村松)
これは『曉の寺』の本多繁邦が、飯沼勳の生涯《しようがい》を振りかえっていうことばである。
三島はその「眞に『日本』と共に生きる」という願望を、『奔馬』の飯沼勳に託した。勳は『神風連史話』を枕頭《ちんとう》の書とし、「神風連の純粹に學べ」をスローガンとしている。
日本の道統と彼が信じるものを純粋につらぬきとおすことが、この少年の念願だった。「純粹」という観念に忠実であろうとするあまり、彼は「純粹に笑ふ」とはどういうことかと考え込んだりする。
「勳には、『純粹に死ぬ』といふことはむしろ容易《たやす》く思はれたが、たとへば純粹で一貫しようとすると、『純粹に笑ふ』といふことはどういふことだらうと思ひ惱んだ。感情をどう規制してみても、彼は時にはつまらないものを見て笑つてしまつた。道ばたの仔犬《こいぬ》が、下駄《げた》をくはへて來て戲《たはむ》れてゐるのならまだしも、いやに大きなハイヒールをくはへて來て、ふりまはして戲れてゐるのを見たときにも笑つてしまつた。彼はさういふ笑ひを人には見られたくなかつた。」
勳は作者の分身であるとはいえ、過度の「純粹」願望がもたらす硬直した姿勢の滑稽《こつけい》さを指摘することも、このときの三島は決して忘れてはいない。
夢と転生との主題は、「第一卷『春の雪』の中に火藥のやうに裝填《さうてん》されて、各卷に爆《はじ》けてゆく」と、三島は『「豐饒の海」について……』(昭和四十四年四月)で説明している。
「火藥のやうに裝填されて」いたのは、清顯の左の脇腹《わきばら》にあった三つの黒子《ほくろ》と彼の「夢日記」とであり、さらにその最後のことばだった。
「又、會ふぜ。きつと會ふ。瀧の下で」。
三輪山の滝の下で水を浴びていた勳の脇腹には三つの黒子がならび、「夢日記」に書かれているとおりに彼は白衣を着て鳥を銃で撃つ。その直後に勳の父親がいうことばをさえ、「夢日記」は予告していた。
「|お前は荒ぶる神だ《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》。|それにちがひない《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》。」(傍点原著者)
この若者の出現が、本多繁邦の人生を変える。勳が清顯の生まれ変りであることを、本多は疑わなかった。
『春の雪』の聰子《さとこ》は夢にはおわりがあるといい、永遠がもしもあるとすれば「それは今だけなのでございます」といっていた。「本多さんにもいつかそれがおわかりになるでせう。」本多は冷静な観察者でありながら、聰子のこのことばとは反対に永遠の夢を追いはじめた、というべきだろう。
勳の父母は松枝清顯の家の書生だった飯沼と、女中のみねである。
『春の雪』では純情な若者だった飯沼が、第二巻では財界から抜け目なく金をもらって大世帯を張る職業右翼として登場し、可憐《かれん》な少女だったみねは卑屈な中年女と化している。二十年まえに清顯と聰子とが密会につかった麻布|三聯隊《さんれんたい》横の軍人下宿はなお営業をつづけ、堀という革新派の歩兵|中尉《ちゆうい》がそこに住んでいた。
勳は堀中尉に「お前のもつとも望むことは何か」ときかれて、
「太陽の、……日の出の斷崖《だんがい》の上で、昇る日輪を拜しながら、……かがやく海を見下ろしながら、けだかい松の樹《き》の根方で、……自刄《じじん》することです」、
とこたえる。
彼は二十人の同志をあつめ、蹶起《けつき》の計画をすすめた。一班が東京市内各処の変電所を爆破し、ほかの一班が堀中尉の指揮下に日本銀行を占領して放火する。勳を含む六人は財界の巨頭三人を襲い、堀中尉の友人が飛行機から檄文《げきぶん》をまく。戒厳令を政府に施行させて維新政府の樹立をみちびくのが目的であって、二十一人はことの成否を問わず払暁《ふつぎよう》までに宮城まえで自刃する。
この計画は、堀中尉が途中で手を引いたためにこわれた。中尉は突然、満州への転勤を命じられる。そうでなくても計画の粗漏さと参加人員の少さとを知った中尉は、蹶起は失敗におわるという至極常識的な判断を下していた。
「神風連の二の舞になつてはいかん。維新は是が非でも成功させなくてはならんのだ。いつか又、一緒に戰ふ機會が必ず來るよ。」
勳に中尉はそういって訓誡《くんかい》するのだが、勳が望んでいたのは神風連にならって、まさに「神風連の二の舞」を演じることだった。
堀中尉もその友人の航空将校も協力しないときいて、勳の同志たちの何人かは、蹶起の強行は暴挙であると抗議する。これにたいする勳のこたえは、
「暴擧だよ。それに決つてゐる。神風連も暴擧だつた」。
同志の半数がこれで脱落し、あとから加わった一人をいれても総計十二人という数になった。十二人では変電所六箇所の爆破にまわす人員の余裕はなく、目標は藏原武介《くらはらぶすけ》等十二人の財界人の暗殺に変更された。
藏原武介は古典的な重金主義者《モネタリスト》で、通貨の安定のためには失業者が多少ふえたり、東北の農民が餓死してもやむを得ない、と思っていた。飯沼勳の方はこの藏原について、さほどくわしく知っていたわけではない。藏原は彼にとって、その存在そのものが「惡」だった。
「藏原は何かこの國の土や血と關《かか》はりのない理智《りち》によつて惡なのであつた。それかあらぬか、勳は藏原についてほとんど知らないのに、その惡だけははつきりと|感じる《ヽヽヽ》ことができた。」(傍点原著者)
『奔馬』のえがく未遂クー・デタには、特定のモデルはないと三島はいっていた。
神兵隊事件の関係者や北一輝の息子を主人公とするという構想は、四部作の第一巻にとりかかった時点で棄《す》てられたようである。この小説のなかで実在の人物を想起させるのは、退役の陸軍中将|鬼頭謙輔《きとうけんすけ》とその娘の槇子《まきこ》くらいだろう。
高名な将軍歌人の娘と二・二六事件の栗原安秀中尉とが親しかったように、飯沼勳も歌人である鬼頭の家によく出入りし、槇子にほのかな恋心を抱いた。決行の四日まえに彼は槇子に別れの挨拶《あいさつ》に行き、予定の日どりを彼女にだけはつい洩《も》らしてしまう。槇子はそれを勳の父親に電話で告げ、父親は息子を無謀な暴発から救うために警察に密告する。
翌々日に同志十二人は全員が逮捕され、新聞でそれを知った本多は裁判所を辞して勳の辯護をみずから買って出る。槇子は辯護がわの証人として法廷に呼ばれ、勳が彼女に蹶起の中止を約束したと平然と偽証を行なう。
勳の企ては政治的正義感の純情かつ未熟なままの発露としてうけとられて、裁判所に届いた減刑|歎願《たんがん》書は五千通にも及んだ。訊問《じんもん》にあたった警部補さえが、勳の「一片|耿々《かうかう》の赤心はわかるつもりだ」という。勳の企てていたことは、実はただの政治改革などではない。
「『世間はまじめにとつてゐないのだ』と、勳は、入獄以後身についた、一つの考へをどこまでも暗く煮つめる習慣に從つて考へた。『俺《おれ》の考への中の、怖ろしい血みどろな純粹性について少しでも知つてゐたら、世間の人たちは俺を愛することなんてできない筈だ』」。
刑を免除されて釈放されてから三日後に、勳は伊豆の藏原武介の別荘に行き、藏原を刺したあと自分も海に臨む斜面で深夜自刃する。松の木はなく、日の出にはまだとおい時刻だった。それでも腹に刀を突き立てたとき、
「日輪は瞼《まぶた》の裏に赫奕《かくやく》と昇つた。」
3
祖国防衛隊の名まえが消えて、名称が「楯《たて》の會」と改められたのは、同じ年(昭和四十三年)の十月五日だった。
この日に教育会館で体験入隊者の例会が開かれ、三島は全員に制服を配っている。服の製作は、堤清二にたのんだ。
――廉《やす》くしてくれとあんまりいったものだから、堤は泣いて泣いて、とうとう目を悪くしちゃった。
面白そうに、三島はいっていた。堤氏は当時目を患《わずら》い、眼帯をかけていたのである。
民間防衛組織をつくる計画を、三島は中日新聞社の社長だった與良ヱ(アイチと読む)に、当初はなしていた様子だった。與良氏が四月の半ばに急逝《きゆうせい》したせいもあってか、――氏の葬式には三島と一緒に行った――彼は堤氏にだれかしかるべき財界人と会わせてほしいといい、堤氏は日経連代表常任理事の櫻田武と常任理事の小坂徳三郎とを紹介した。堤氏の記憶によれば櫻田武と三島とが会ったのは、五月か六月だったという。
櫻田氏は三島に、
――きみ、私兵をつくってはいかんよ、
といっていくばくかの金を差出した。
三島には、身体《からだ》の震えるような屈辱だった。彼は金を謝絶して席を立ち、これ以後は財界から援助を仰ぐことに見切りをつける。資金|稼《かせ》ぎにテレビのコマーシャルに出ようかと思うと、夏に会ったときには真顔でいっていた。
「楯の會」と名乗った理由を、三島は自分ではっきり説明している。はじめは彼は、国の民兵をつくろうとした。
「しかし私の民兵の構想は、話をする人|毎《ごと》に嗤《わら》はれた。日本ではそんなものはできつこないといふのである。そこで私は自分一人で作つてみせると廣言した。それが『楯の會』の起りである。」(『「楯の會」のこと』)
民兵構想が、三島部隊に変った。「私兵をつくってはいかんよ」という櫻田氏のことばが、皮肉にも彼に「私兵」を組織させたことになる。
警備保障の会社との連携を、その後計画したこともあった。しかしこれも双方の要求が折り合わないままに、沙汰《さた》やみになった。
「楯の會」は謄写版《とうしやばん》刷りの機関誌「楯」を翌年の二月に刊行し、その巻頭に『楯の會の決意』と題する三島の文章をかかげている。
「いよいよ今年は『楯の會』もすごいことになりさうである。第一、會員が九月には百名になる豫定、第二、時代の嵐《あらし》の呼び聲がだんだん近くなつてゐることである。自衞隊の羨望《せんばう》の的なるこの典雅な軍服を血で染めて戰ふ日が來るかも知れない。期して待つべし。そのためには、もう少し、諸君のピリッとしたところが見たい。」
昭和四十三年には学生の騒ぎがますます激しさの度を加え、十月二十一日の騒動では暴力学生が新宿駅を数時間にわたって占領した。安田講堂をめぐる茶番劇じみた「攻防戦」は、翌年の一月に起こる。
そういうなかで三島は、騒動が内乱へと拡《ひろ》がることを期待し、またその可能性を殆《ほとん》ど信じてもいた。内乱になれば、自衛隊の治安出動は避けられない。
――内乱状態の発生と治安出動とのあいだには、時間的な隙間《すきま》があるんだよ、
と彼はいった。
――自衛隊が出て来るまでのその隙間が、楯の会の出番なのさ。
そのことと三島が念願としていた憲法の改正とが、どのようにつながるのかの説明はなかった。
三島以下、「楯の會」が斬《き》り込んで内乱を拡大し、実質的な戒厳令下に日本をみちびけば、憲法改正の機会はおのずから訪れると考えていたのであろう。「楯」に掲載された文章が示しているように、「楯の會」はこの時点ではもう民兵の基礎ではなく、斬込隊としての性格を深めていたのである。
昭和四十三年には、劇団NLTにも変化が起こっていた。
NLTが分裂して、三島と松浦竹夫との二人を幹事とする浪曼劇場が誕生した。分裂を推進したのは、松浦氏だった。
「三島さんと僕と二人で作った劇団として出発し」、そこに俳優たちが参加するという形にしたかったと、松浦竹夫は浪曼劇場の創立についての座談会の席で述べている。(劇団浪曼劇場第一回公演プログラム所収)
三島の方は、松浦氏に引きずられた恰好《かつこう》だったらしい。同じ座談会の席で彼は「NLTの分裂ぐらい、わけの分らない分裂はみたことはないと、もっぱらの評判で、実のところ私にも良く分らない」と発言し、出席者を笑わせていた。
『喜びの琴』事件で文学座を出た人びとがあつまって、NLTをつくった。芝居に寄せる夢は三島によればそれぞれことなり、運営面にもおのずから意見のちがいが見られる。
「ですから、今度は松浦さんが独裁でやりたいというから、独裁でやったらいいや、ぼくも大いに支持するよというんで、浪曼劇場が出来た。そして、その独裁者の誕生に捧《ささ》げて、『わが友ヒットラー』を書いたわけです。(笑)今度のことを分裂というけれど、ぼくはNLTの連中と会えば話をするし、あの連中は好きなんですよ。」
浪曼劇場という名は、三島が考えた。
ヒトラーを主人公にした芝居を書くと彼にきかされたのは、九月のはじめのころだったと記憶する。『サド侯爵《こうしやく》夫人』が女だけの芝居だったので、こんどは男ばかりの劇にするということだった。
脱稿は十月十三日と、『わが友ヒットラー』の巻末にはしるされている。「楯の會」の命名の八日後であり、民兵構想の放棄を彼が考えていた時期と、執筆はちょうどかさなっているのである。『わが友ヒットラー』のなかで突撃隊(SA)という民兵をひきいて孤立して行くレーム大尉には、作者の心情が投影されているだろう。
レームは作中のクルップのことばによれば、「群《むれ》の思想」すなわち集団の思想に、とりつかれた男だった。
「軍隊こそ男の天國ですよ」と、彼はクルップに向かっていう。
「男の特性はすべてあらはになり、雄々しさはすべて表立つ軍隊生活は、それだけ殼《から》の内側に、甘い潤澤な牡蠣《かき》の肉のやさしさを湛《たた》へてゐます。この甘い魂こそ、共に生き共に死ぬことを誓ひ合つた魂こそ、戰士のみかけのいかめしさをつなぐ花綵《はなづな》なのだ。」(第一幕)
非正規軍である突撃隊を国軍の中核に据《す》えてこそ、「男らしい戰士共同體の國が立てられる」とレームは信じている。国防軍はそんなことを、むろん許しはしない。突撃隊の横暴さに業《ごう》を煮やした軍は、国防大臣の名まえで鎮圧の要望書をヒトラーに突きつける。
財界はヒトラーがレームや左翼のシュトラーサーを、どう処理するかを眺《なが》めていた。結局ヒトラーは彼らの粛清に踏切って軍と財界とを安心させ、独裁体制へのみちを切り開く。
芝居ではシュトラーサーはヒトラーが粛清を断行する気配を察知し、レームを味方につけて何とかわが身を守ろうと企てる。だがレームはヒトラーが自分を殺すなどという予測を、頭からうけつけない。なぜなら、
「アドルフは俺の友だちだからだ。」
彼は自分にたいする銃殺命令がヒトラーから出たとは、最後まで信じないで死に、舞台のヒトラーは「レームは有罪でした」とたたみかけるようにクルップにいう。
「なるほどあの男は私に友情を持つてゐた、そのこと自體が罪であるとは氣づかずに。(中略)……あいつはいつも過去を夢みてゐた。自分を神話の人物にさへなぞらへてゐた。三度の飯よりも兵隊ごつこが好きで、穴だらけの軍隊毛布をかぶつて、星空の下に眠るのが好きだつた。臺閣の座にありながら、いつも私をその夢へ誘《いざな》つた。それが罪だつた。……あいつは自分ほど男らしく、逞《たくま》しく、凜々《りり》しい男はないと己惚《うぬぼ》れてゐた。それが罪だつた。」(第三幕)
『わが友ヒットラー』は浪曼劇場の旗上げ公演として、昭和四十四年の一月から紀伊國屋《きのくにや》ホールで上演された。最終日の一月三十一日に幕が降りて拍手が起こり、もう一度幕が上ると、「楯の會」の制服姿の三島が舞台の上手の奥から出て来て、観客席に向かって敬礼した。
何をはじめるつもりかと、こちらは一瞬心配したものである。三島は「楯の會」の趣旨について手短かにはなしをして、「しかるに」とことばを継いだ。
――しかるにこの芝居の作者は、きいておれば私が三度の飯よりも兵隊ごっこが好きだとか、いつも過去を夢みておるとかいいおって、まことに許しがたい。
観客は、これをきいて爆笑した。
そのあとの打上げの会で三島に上手にやったねといったら、彼は相好を崩して、
――うまかったろう。
そばにいたクルップ役の中村|伸郎《のぶか》は、不機嫌《ふきげん》だった。カーテン・コールに俳優をさしおいて作者が出るとは何ごとかと、中村氏は呟《つぶや》いていた。
4
――日本人の作家が、ノーベル賞をもらった。
スペインの役人から昭和四十三年の十月に、そういうはなしをきいた。スペイン政府の招きでぼくは十月の半ばに日本を発《た》ち、ノーベル賞受賞者の発表のころは、セヴィリアにいたのである。日本を出るまえにある新聞社にたのまれて、三島がノーベル賞をもらった場合に出す三島論の予定原稿を書いておいた。
だからこのときも三島がもらったのかと思い、
――だれですか、その作家は。ミシマですか?
――名まえはよく覚えていないが、ミシマといったかも知れない。
一緒にその席にいた加彦俊一夫人が、「三島さんのために乾盃《かんぱい》しましょうよ」といった。
授賞されたのが三島ではなく川端康成だと知ったのは、翌朝になってからだった。スペインの新聞のひとつは川端さんの写真を、一面に大きく掲げていた。
三島がぼくに、
――ノーベル賞をほしがったりするのを、きみは馬鹿《ばか》にするだろうがね、
といったことがある。
――しかしぼくにノーベル賞が来るといって、スウェーデンのテレビが訪ねて来て、家族の写真までとっていったんだよ。そこまでされると、どうしても落ち着かなくなる。
ノーベル賞を逸して、三島は残念だったろう。ただしかりに賞をもらっていたとしても、三島のその後の行動にさほどの変化はなかったのではないか。彼の「楯の會」が自衛隊調査学校の幹部の指導下に、対ゲリラ訓練をうけているということは、このころすでに間接的にきいていた。ノーベル賞受賞者の発表があってから四日後の十月二十一日にも、三島は会員をつれて騒動の模様を見てまわっている。
二十一日の騒動は新宿をはじめ国会周辺や六本木、銀座等々の各地で起こり、東京だけで七百六十九名、全国では千三百人をこえる逮捕者を出した。銀座で過激派学生と警察機動隊とが衝突するのを、あとできくと三島は銀座四丁目の交番の屋根によじ登って眺めていたとの由《よし》である。
この夜の彼の興奮ぶりは「手がつけられない程」だったと、倭文重《しずえ》さんが書いておられる。
「身振り手振り宜《よろ》しく事細かに話す彼の話を、私は面白いと思いつつもうす気味悪く聞いた。彼の心の底深く沈潜していたものが一挙に噴出した勢いが感じられた。」(『暴流のごとく』、「新潮」昭和五十一年十二月号)
昭和四十四年にはいってからは、彼は二月に二十八人の学生をひきいて下赤塚《しもあかつか》の寺で合宿し、四泊五日の対ゲリラ訓練をうけ、三月には第三期生とともに富士学校に行く。(このとき三島は、ストークスを誘って取材させた。)五月の末には、また三日間の対ゲリラ訓練が都内で行なわれる。
三島の生活形態は、昭和四十三年以降一変していた。「楯の會」の幹部級の七、八人に居合を習わせることにしたのは、昭和四十四年の五月ころだった。練習の場所としてははじめは板橋警察署の道場を、のちには皇宮警察の済寧館を借りた。
この年の夏のころ、日本文化会議の理事会か何かの席で三島と顔を合わせたら、彼が「中辻を呼んであるから、あとでつきあってくれよ」と耳許《みみもと》で囁《ささや》いた。
中辻和彦は昭和四十一年の暮に三島の家を訪問した萬代潔の仲間で、「論争ジャーナル」の編集責任者だった。何の用事かと思って会がおわったあと三島について行くと、行きさきは赤坂プリンス・ホテルの喫茶室だった。席に坐《すわ》るなり、彼は中辻君を面罵《めんば》した。
――きみは雑誌なんかやめて、リュックサックを背負って田舎に帰れ。
理由は、三島は何もいわなかった。中辻和彦もだまっていたところから見ると、二人のあいだではそのまえにはなしあいがあったのだろうと思われる。
ある右翼系の人物から「論争ジャーナル」が財政上の支援をうけていたことが三島を立腹させた原因だったと、これもあとになってからきいた。多少誇張癖のあるその人物は、「楯の會」は自分が養っていると吹聴《ふいちよう》し、それが三島の耳につたわったのである。「論争ジャーナル」関係の若者たちは「楯の會」の中核を構成していたし、会の事務所自体も編集部内におかれていたから、二つの組織は密接に結びあい、雑誌が金をもらえば会の純粋性にも傷がつく。
「楯の會」を外部からの金銭上の援助なしに独力で運営して来た三島にとって、これは許しがたい背信の行為だった。絶縁宣言の立会人として、ぼくはその場に呼ばれたらしい。
この事件によって「論争ジャーナル」系の七人が、あい継いで「楯の會」をやめた。その七人のなかに、持丸博という学生がいた。三島が「祖國防衞隊」の結成をはじめて告げた相手が中辻、持丸の二人であって、持丸博はあとで学生長に任命される。「論争ジャーナル」の編集次長を兼ねていたのだが、彼だけは三島にはやめさせる気はなく、やめもしないだろうと思っていた。「楯の會」の仕事に専念してくれれば、生活は自分が保証すると三島は彼に提案した。
それを振り切って、持丸博は会を去ったのである。このときも三島は、電話をかけて来た。
――持丸がやめるっていうんだよ。「楯の會」が、成り立たなくなる……
悲しみようは尋常ではなく、大切な右腕を失った歎《なげ》きというよりも、むしろそれはわが子に裏切られた父親の悲歎《ひたん》を思わせた。
血盟をかわした十人のうち七人が退会してひとりが就職し、残ったのは二人だった。一期生ではその後ほかに四人がやめ、二人が就職したので、はじめからの会員は全体をあわせて五、六人しかいなくなる。
『奔馬』の主人公飯沼勳があつめた同志は二十人のうちの十人までが、軍の協力が得られないときいて去って行く。そのさいの勳の苦悩を、作者の三島が味わわせられた。
彼は森田必勝を、次の学生長に任命した。直情径行のこの青年は、二月に学生運動をやめて「楯の會」に移って来ていた。十一月三日の「楯の會」のパレードは、森田必勝の指揮のもとに挙行される。
国立劇場の屋上で行なわれた「楯の會」一周年記念の式典では、三島は川端康成に祝辞を述べてもらうつもりでいた。
鎌倉の川端さんの家に行って彼がその依頼を切出すと、川端さんは言下に、
――いやです。ええ、いやです。
にべもない返事なんだよと、三島はその口調をまねしながらいった。ことわられるとは思っていなかったので、打撃は大きかったのである。川端さんは政治ぎらいだからといって慰めると、
――だって今東光の選挙のときには、応援に走りまわったじゃないか。
選挙の応援はともかく、「楯の會」にまではついて行けないというのが川端康成の立場だっただろう。しかし三島の死後はこの一件が、川端さんのなかに大きな悔いとなって残る。口に出してはいわれなかったにせよ、言動のはしばしにそのことが感じられた。
パレードの約二週間まえが、過激派学生のいう「国際反戦デー」だった。この日の暴動の概況について、警視庁刊行の『激動の九九〇日――第二安保警備の写真記録――』から引用しておく。
「極左暴力学生集団は『一〇・二一国際反戦デー』を七〇年安保闘争の最大のヤマ場とし、全国動員で都内に約六千を集めて首相官邸・国会占拠『首都制圧』を豪語し、(中略)銀座、築地、新宿、高田馬場などの各所で無届デモ、道路上にバリケードを構築、警察署四、派出所十九、警察車両三十三などを襲撃し、部隊の規制をのがれて各所で破壊的なゲリラ行動に出た。」
ほかに「総評、社会党、共産党などは実行委方式で代々木公園に四万一千名を集め」てデモ行進を行ない、「ベ平連は清水谷《しみずだに》公園に約九千名を集め」、デモ行進ののちに「解散地ではバリケードを構築してこれに放火し、部隊に対して投石するなどの暴力を」振るったという。方々の町の婦人会が警察署に行って警官のために焚出《たきだ》しを行ない、神田では「地元自警団」が結成されて民間人パトロールを実施した。警察はこの大騒乱に警視庁機動隊四千五百を基幹とする三万二千を投入し、検挙された人数は東京だけで千二百二十一人に及んだ。
三島はこの夜も「楯の會」の会員をつれて新宿駅の周辺を歩き、極左勢力が簡単に鎮圧されて行く状況を見ていた。自衛隊の治安出動は、まったく必要がなかった。治安出動が不必要なら、「楯の會」の出る幕もない。
失望した彼は「楯の會」は今後どうしたらよいかということに関して、会の幹部の意見を徴している。これには三島と最後の行動をともにしたひとり、小賀正義の法廷での証言がある。
小賀被告 四十四年十月か十一月ごろ、楯の会のパレードをやるというので、班長が集まったとき、三島先生が『一〇・二一も不発に終わり、彼ら(過激派学生)の行動に対する治安活動もなくなった。楯の会はどうすべきか』と言った。そのとき森田さんは『楯の会と自衛隊で国会を包囲し、憲法改正を発議させたらどうだろうか』と言った。(伊達宗克編著『裁判記録「三島由紀夫事件」』による)
三島はこのときは、森田案に賛同しなかった。翌年にわずかながらの希望を、まだつないでいたのだろう。
もともと彼は昭和四十四年十月の蹶起《けつき》を、想定してはいなかった。だからこそパレードは十一月三日と、はやくから決めていた。四部作の方も、第三巻の途中までしか書かれていない。
パレードは富士学校の元校長、碇井《いかりい》準三陸将を観閲者として盛大に行なわれた。富士学校音楽隊が行進曲を演奏し、観閲がおわったあとの宴席では三島は外人記者団向けに英語で挨拶《あいさつ》をした。
十月二十一日以後も暴力学生の騒ぎはくりかえされ、一万人をこえる人数をあつめた騒動は十一月十三日、十四日、十六日、二十六日と四回起こった。ことに十六日には佐藤榮作首相の渡米阻止を叫んで、過激派諸派やベ平連など約六万人が街頭にくり出し、逮捕された人数は千九百四十人を数える。
このころが、最後の山だった。気ちがいじみた過激派の騒動も、爾後《じご》徐々に鎮静化の方向に向かい、その一方で学生の派閥間の対立が深刻の度を加える。
三島の「戰士共同體」が活躍できる機会は、確実に失われようとしていたのである。
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訣別《けつべつ》
1
三島の最後の戯曲となった『椿説《ちんせつ》弓張月』は、昭和四十四年の十一月五日から二十七日まで、国立劇場で上演された。
同じ場処で「楯《たて》の會」のパレードが行なわれたのが十一月三日だから、初日はその翌々日にあたる。源爲朝《みなもとのためとも》を松本幸四郎(八世)が、八町|礫《つぶて》の紀平治は市川中車(八世)が、白縫姫《しらぬいひめ》は坂東玉三郎(五世)が、このときはそれぞれ演じた。
最終日の幕が降りたあとで俳優の表彰式があり、国立劇場会長の高橋誠一郎が何人かの役者に表彰状を渡すのを、客のいない観客席で三島夫妻と一緒に見てから、瑤子夫人の運転する車で六本木に行った。夫人が車を駐車場へとりに行くのを待つあいだに、彼は劇場の玄関口のはずれで、
――きみにはわかってもらえると思うけれど、この芝居で書きたかったのは神風連《しんぷうれん》なんだよ。
爲朝が神風連とは意外だったので、こちらは少々|曖昧《あいまい》な返事をした。清澄高邁《せいちようこうまい》なその人柄《ひとがら》と讃岐院《さぬきのいん》(崇徳《すとく》上皇)への恋闕《れんけつ》の情とは、彼の思いえがく神風連そのものであるといいたかったのだろう。
『椿説弓張月』の上演時間は、五時間に及んだ。これほど長尺の歌舞伎《かぶき》作品は三島もかつて手がけたことがなく、それだけにこの芝居には大変な情熱を傾けていた。原稿にとりかかるよりもまえの五月からスタッフ会議を開き、稽古《けいこ》にはいったときには全部の役のせりふを自分で吹き込んだテープをもち込んで、俳優たちにきかせることまでしている。
芝居の中味も人形|浄瑠璃《じようるり》風の技巧がありモドリの場面があり、さらに鶴屋南北《つるやなんぼく》張りのグロテスク趣味も加わって多彩をきわめ、歌舞伎大鑑的な趣きさえある。そういう大芝居を仕上げたことへの喜びとともに、店をひろげすぎて「神風連」主題を稀薄《きはく》にしたかも知れないという不安の念が、作者の心にはつきまとっていたのではないか。役者も彼の思うとおりには、必ずしも動かなかった。「書きたかったのは神風連」とことさらに念を押したのはそのためだろうと、勝手にぼくは憶測している。
車で行ったさきは、六本木の「すし長」という店である。打上げの祝盃《しゆくはい》をあげたあとで、不満なんだろうとぼくがいうと、彼は「うん」と頷《うなず》いて、
――でも鴈治郎《がんじろう》はうまいねえ。彼だけは本当によくわかっているんだ。
二代目中村鴈治郎は、崇徳上皇の霊と悪女|阿公《くまぎみ》との二つの役をうけもっていた。
曲亭馬琴の『椿説弓張月』は、十三歳の爲朝が藤原通憲《ふじわらのみちのり》入道|信西《しんぜい》のまえで武勇をためされる場面からはじまっている。
これにたいして三島の芝居では、爲朝の少年期も保元《ほうげん》の乱もすべて除かれ、原作の第二十二回――後篇巻之三――にあたる伊豆大島での戦いの場面が冒頭におかれる。讃岐院の忌日で、爲朝が島民をあつめて慰霊の祭りをいとなんでいる最中に、平家の水軍が攻め寄せて来るのである。
次の「讃岐國|白峯《しらみね》の場」は、馬琴の原作よりははるかに巧みにつくられていると思う。馬琴の文章はときに饒舌《じようぜつ》に走る気味があり、白峯の墓のまえでも爲朝は西行法師が書き残した歌を詠《よ》んだりする。三島の爲朝は幕が上るとすぐに、
「ヲヽ嬉《うれ》しや。あれこそは新院の御陵《ごりよう》よな。」
花道から墓前に駈《か》け寄り、「お懷《なつか》しや、おいたはしや」と涕泣《ていきゆう》する。
「さぞや御無念に思《おぼ》し召しつらん。微臣爲朝、もはや勢ひ盡き、力|究《きは》まッて、孤忠を述ぶる由《よし》もなく、せめては後世《ごせ》のお供に後《おく》れしを、つぐのひ參らせんため參じたり。」
血潮のけがれは御免あれといって刀を腹に突立てようとすると、突然手がしびれ、刀をとり落す。それと同時に舞台の奥から、腰輿《こしぐるま》をとりまく行列がゆっくりと近づいて来る。輿《こし》からあらわれるのは、讃岐院の霊である。
怨霊《おんりよう》の群がかわす会話の大筋は、馬琴の作と変らない。ただし源頼朝《みなもとのよりとも》や足利《あしかが》氏の将来にかかわる預言は大幅に削られ、はなしは平家の運命と爲朝とのことだけに絞られる。
肥後に赴けば「はからずして故《ふる》きに逢《あ》ひ、心慰む方もあるべし」という上皇の霊のことばがあって、その指示どおりに肥後に行った爲朝は、正妻の白縫と実子の舜天丸《すてまる》とに出会う。(馬琴の原作では、舜天丸は爲朝と白縫との再会後に生まれる。)白縫は肥後に山塞《さんさい》をもうけ、平氏討滅の武士を募っていた。
爲朝と白縫とは平清盛を襲うために水路京都に向かい、途中で嵐《あらし》にあって一行はちりぢりになる(「薩南海上の場」)。琉球《りゆうきゆう》に漂着した爲朝は悪者を征伐して王朝のお家騒動を解決し、わが子舜天丸を王位につける。
舜天丸が舜天王となってから七年後の春に、平家は西海に没した。その年の上皇の忌日の宵宮《よいみや》が、芝居の最後の場面(「運天海濱宵宮の場」)である。
「君父の仇亡《かたきほろ》びては、われ亦《また》誰を仇《あた》とし討つべき」と爲朝は歎《なげ》き、いまは御陵に詣《もう》でて腹を切ることが武士としての「のこる望み」という。
「懷かしやわが君、懷かしや故里。何とてこの爲朝の、願ひを聽き容《い》れ玉はずして、葎《むぐら》も繁《しげ》き白峯の、奧津城《おくつき》深く靜まり玉ひ、彌遠長《いやとほなが》に在《ま》しますや。もし、|いやちこ《ヽヽヽヽ》の靈驗《れいげん》あらば、微臣が誠を聞こし召され、おん陵《みささぎ》へ率《ゐ》て行きたまへ。」(傍点原著者)
爲朝のこの祈りとともににわかに海が荒れ、花道のスッポンから白馬がせり上って来る。馬は白峯の場で上皇から彼が授かり、一度は海中に失った盃《さかずき》をくわえていた。それを見た爲朝は「これぞ正しく白峯より、お迎への神馬《しんめ》と極《きは》まつたり」といって馬に跨《またが》り、一同に別れを告げる。
爲朝[#「爲朝」はゴシック体] もはや、これまで。必ず嘆くな。葉月も末の夕空に、弓張月を見るときは、この爲朝の形見と思やれ。舜天丸、さらば。
国立劇場のプログラムに三島は「作・演出のことば」として、次のように書いていた。
「全篇、つねに海が背後にあり、(私は歌舞伎の海の場面が大好きだ)、英雄爲朝はつねに挫折《ざせつ》し、つねに決戰の機を逸し、つねに死へ、『故忠への囘歸』に心を誘はれる。彼がのぞんだ平家征伐の花々しい合戰の機會は、つひに彼を訪れないのである。」
爲朝に託して、彼が自分を語っていることはいうまでもない。
三島が、「楯の會」にも出番があるという期待を深めたのは、まえにも触れたように「祖國防衞隊」を「楯の會」と改称して再出発した直後に起こった騒動を、その目で見てからだった。昭和四十三年十月二十一日のこの騒動では、暴力学生は万余の弥次馬《やじうま》を捲《ま》き込んで荒れ狂い、ことに新宿駅周辺では警察機動隊はしばらく手をつかねていた。当時の警備課長は、心身を消耗しつくして職を更迭《こうてつ》された。
翌昭和四十四年の十月二十一日には、三島は警察の指揮下に「楯の會」を入れて警備にあたらせてほしいと警視庁にたのみ込み、当然ながら断わられている。『椿説弓張月』の公演がおわった十一月二十七日には、騒動はすでに峠をこしていた。
『椿説弓張月』の脱稿は九月のはじめであり、この時点では三島はまだ騒動の内乱化に、期待をかけていたのである。それでも一方で彼は自分が「つねに決戰の機を逸し」、「花々しい合戰の機會は、つひに彼を訪れない」ことを、ひそかに予覚してもいたのだろう。
「すし長」で三島は、全学連が家の玄関まえのアポロン像を爆破するといって来たと、笑いながらはなしていた。
――だからうちのアポロンも、あと一週間ぐらいの生命《いのち》だよ。
左右両翼からの厭《いや》がらせはよくあり、三島はさして気にしてはいない風だった。
このころ松浦竹夫が浪曼劇場の小屋を渋谷西武の建物のなかにつくる計画を樹《た》て、堤清二と会ってその可能性を打診した。ところが堤氏に松浦竹夫は、新劇がどんなにもうからないかということを正直に蜒々《えんえん》と述べ立て、堤氏はあとでぼくに、
――重役たちにどう説明したらよいのかしら。
頭をかかえて、いったものだった。
そのはなしを三島にすると、
――それは全然知らなかった。悪いけれどそのはなしは、きかなかったことにするよ。
真面目《まじめ》な表情でいった。
劇団の経営面には作家は手を出してはいけないと、彼はNLTをつくったときからくりかえしいっていたのである。だから芝居小屋の件にも触れたくないのかと、このときは思った。それにしても三島から、「きかなかったことにする」などということをいわれたのはこのときがはじめてで、不審の念は小さな棘《とげ》としてぼくの心に残った。
自衛隊と「楯の會」とで国会を包囲し、憲法の改正を発議させるという森田必勝の提案が、三島の脳裡《のうり》に明滅していたのだろうということは、いまになれば推察できる。この年のはじめに旗上げ公演をしたばかりの浪曼劇場だったが、もうその責任をとる余裕はないと彼はおそらく考えていたのである。
――子どもたちをアメリカのディズニイ・ランドにつれて行く約束になっていてね。
子どものはなしを彼が口にするのをきいたのも、この夜が最初だった。
2
三島由紀夫は、議会制民主主義体制の支持者だった。
彼の政治的立場についてはいまだに誤解が絶えないように見えるので、この点は強調しておきたい。昭和四十四年の『反革命宣言』のなかで、三島は明瞭《めいりよう》に書いている。
「言論の自由を保障する政體として、現在、われわれは複數政黨制による議會主義的民主義より以上のものを持つてゐない。(原文改行)この『妥協』を旨《むね》とする純技術的政治制度は、理想主義と指導者を缺く缺點を有するが、言論の自由を守るには最適であり、これのみが、言論統制・祕密警察・強制收容所を必然的に隨伴する全體主義に對抗しうるからである。」
議会制民主主義のもつ効率のわるさを認識しながらも、「言論の自由を守るには」それが「最適」であると力説する。(こんなことをいう「ファシスト」が、いるものだろうか。)
天皇親政という戦前右翼的な考え方も、まえに触れたように彼は峻拒《しゆんきよ》していた。天皇は祭祀《さいし》王として日本の文化の中心に位置しつづけて来たのであって、――祭祀王ということばは彼は用いてはいないけれど――、ときの政体に密着すればその超政治的な立場はそこなわれる。大正十四年の「治安維持法」の失敗は、三島によれば天皇中心の国体と資本主義体制とを同一化してしまったことにある。
「すなはち、その第一條の、
『國體ヲ變革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ……』
といふ並列的な規定は、正にこの瞬間、天皇の國家の國體を、私有財産制度ならびに資本主義そのものと同義語にしてしまつたからである。」(『文化防衞論』)
天皇と私有財産制度とは、たしかに次元をことにしているだろう。天皇と資本主義とをともに打倒すべき「敵」と看做《みな》した共産主義の理念に政府自体が影響をうけ、両者を同一視するという「條文の『不敬』に氣づいた者はなかつた」と三島はいう。
皇室の永続のためには天皇は政治に直接関与しない方がよいと、原|敬《たかし》はその首相時代の日記にいくどかしるしていた。
「皇室は政事に直接御關係なく、慈善恩賞等の府たる事とならば安泰なり」。(大正九年九月二日付)
天皇の地位についての三島の考え方は、形のうえでは大正期のこの政党政治家の場合と変らない。ただしいまは恩賞の天皇からの授与が文官にかぎられているので、対象をもう一度武官にまでひろげよと三島は主張した。
「問題は實に簡單なことで、現在の天皇も保持してをられる文官への榮譽授與權を武官へも横辷《よこすべ》りさせるだけのことであり、又、自衞隊法の細則に規定されてゐるとほり、天皇は儀仗《ぎぢやう》を受けられるのが當然でありながら、一部|宮内《くない》官僚の配慮によつて、それすら忌避されてゐるのを正道に戻すだけのことではありませんか。」(『橋川文三氏への公開状』)
自衛隊員は万一の場合には国に命を捧《ささ》げることを求められていながら、それにふさわしい名誉をあたえられていない。天皇が外国の儀仗兵と礼砲とに迎えられても、自国の自衛隊の儀仗はうけないというのは、三島の指摘するとおり奇妙なはなしだろう。この範囲のことなら、たしかに現行憲法下でも処理できる。
もっともこれは法の運用にかかわる側面であって、原敬の時代の憲法と現行憲法とではそもそも天皇のおかれている立場がちがっている。したがって栄誉の問題も、天皇が「榮譽授與」の源泉としての地位を、はたして憲法によって保障されているか否《いな》かということに、おのずからかかわって来る。
明治憲法の第三条「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」は、天皇の無答責条項だった。現行憲法は天皇を政治の実務面から切りはなしながらも、こういう条文をもうけてはいない。
「天皇の政治的無答責は、それ自體がすでに『神聖』を内包してゐると考へなければ論理的でない。なぜなら、人間であることのもつとも明確な責任體系こそ、政治的責任の體系だからである。そのやうな天皇が、一般人同樣の名譽|毀損《きそん》の法的保護しか受けられないのは、一種の論理的|詐術《さじゆつ》であつて、『榮典授與』(第七條第七項)の源泉に對する國自體の自己|冒涜《ぼうとく》である。」(『問題提起(日本國憲法)』)
国の「神聖」な部分を代表する存在としての天皇の地位の明確化を、三島は求めていた。彼の「文化防衞論」の根幹が、そこにあった。
昭和四十五年の一月から、三島は「楯の會」の有志に毎週「憲法研究會」を開催させた。
右にその一部分を引いた『問題提起(日本國憲法)』は、この研究会の参加者に配布された文書であり、のちに全集にも収録されている。憲法にたいする彼の考え方が、ここにはもっとも明確にあらわれているだろう。
一九七〇年という時点で「改憲について根本的思索をめぐらさねばならぬ理由」として、彼は冒頭に二つの事項をかかげる。
「一は、自立の論理が左派によつて追求されてゐる一方、半恆久政權としての自民黨は、ますます福祉價値中心の論理に自己を閉ぢ込めつつ、物理力としての國家權力を強めつつあるといふ状況下にあるからである。
一は、この半永久政權下における憲法が次第に政體と國體との癒着混淆《ゆちやくこんかう》を強め、現體制としての政體イコール國體といふ方向へ世論を操作し、かつ大衆社會の發達が、この方向を是認しつつあるからである。」
日本の左翼勢力は昭和三十五年の安保騒動がすでにそうだったように、対米関係に関するかぎりは自立をとなえ、国民の反米ナショナリズム感情に訴えようとして来た。これにたいして自民党は経済成長をもっぱら追求し、その政府はいまは過激派学生が騒いだくらいではびくともしない。「物理力としての國家權力を強めつつある」という第一項の指摘が、学生騒動の鎮圧をさしていることは明らかと思われる。
次の第二項が示しているのは、アメリカの庇護下《ひごか》に平和の夢をむさぼっている大衆化社会が日本の体質として定着し、それが新しい「國體」と化して行くことへの危機感である。このような危険は、「現憲法自體」から生じた「必然的な結果」であると三島はいっている。
現行憲法のもつ問題点は、しばしば論議の対象とされる第九条の非武装条項だけではもとよりない。かりに第九条を改廃しても、それだけではアメリカの軍事政策に利用されるのにとどまり、日本が独立国として生きるみちは開かれないというのが、三島の主張の基本だった。
「たとひ憲法九條を改正して、安保條約を雙務條約に書き換へても、それで日本が獨立國としての體面を囘復したことにはならぬ。韓國その他アジア反共國家と同列に並んだだけの結果に終ることは明らかであり、これらの國家は、アメリカと軍事的雙務條約を締結してゐるのである。」
自由の擁護は大切だが、「眞にナショナルなもの」はそのような政治社会体制の次元をこえたところにあり、ナショナルな価値観と結びつかない自由のために人間が自己の生命を犠牲に供し得るとは、三島は信じてはいなかった。死を賭《と》しても守るのに価《あた》いし、かつ守らねばならないものは、「歴史・傳統・文化の時間的連續性に準據し、國民の永い生活經驗と文化經驗の集積の上に成立する」国体にほかならない。
「國體は日本民族日本文化のアイデンティティーを意味し、政權交替に左右されない恆久性をその本質とする。」
文化のアイデンティティーを、政権交替に左右されることなく保持して来たのは、疑いもなく皇室だった。神道の名で総称される古代いらいの信仰の祭祀者としての天皇が、この国の「神聖」な部分を、――新井白石のことばをかりれば「天にかかはる」部分を――、代表している。
ところが日本を占領した連合軍は、宮中の祭儀を皇室の私事とすることによって、「天にかかはる」みちを断とうと企てた。
「キリスト教文化をしか知らぬ西歐人は、この唯一《ゆいいつ》神教の宗教的非寛容の先入主を以《もつ》てしか、他の宗教を見ることができず、(中略)のみならずあらゆる侵略主義の宗教的根據を國家神道に妄想《まうさう》し、神道の非宗教的な特殊性、その習俗純化の機能等を無視し、はなはだ非宗教的な神道を中心とした日本のシンクレティスム(諸神混淆)を理解しなかつた。敗戰國の宗教問題にまで、無智な大斧《おほをの》を揮《ふる》つて、その文化的傳統の根本を絶たうとした占領軍の政治的意圖は、今や明らかであるのに、日本人はこの重要な魂の問題を放置して來たのである。」
西欧の立憲君主国は国王の「神聖」や「不可侵」を、いずれも憲法で規定している。異教の日本に「神聖」が存在することを、アメリカ軍は許さなかった。彼らが英語で書き上げた日本国憲法は、日本の「帝位はダイナスティック」(日本語の訳文では単に「皇位は世襲」)と第二条において規定していながら、ダイナスティーの根拠を「主權の存する日本國民の總意に基く」(第一条)ことにした。
「これは(中略)むりやりに、西歐的民主義理念と天皇制を接着させ、移入の、はるか後世の制度によつて、根生の、昔からの制度を正當化しようとした、方法的|誤謬《ごびう》から生れたものである。|それは《ヽヽヽ》、|キリスト教に基づいた西歐の自然法理念を以て《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|日本の傳來の自然法を裁いたものであり《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|もつと端的に言へば《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|西歐の神を以て日本の神を裁き《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|まつろはせた條項であつた《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。(原文改行)われわれは、日本的自然法を以て日本の憲法を創造する權利を有する。」(傍点村松)
三島が切望したのは、日本の|根の恢復《アンラシーヌマン》だった。真の変革とは、純粋な日本の魂の蘇生《そせい》を叫びつづけることをおいてはほかにないと、昭和四十五年の一月に発表された『「變革の思想」とは』のなかで彼は宣言する。
「その結果が死であつても構はぬ。(中略)うまずたゆまず、魂の叫びをあげ、それを現象への融解から救ひ上げ、精神の最終證明として後世にのこすことだ。」
生命を賭して「精神の最終證明」をのこす機会を、三島は求めていたのである。
3
四十五歳の誕生日を、三島は拙宅で迎えた。
昭和四十四年の暮にぼくは住居を移し、年が明けてから二、三の友人とともに彼を新居に招いた。その日、一月十四日が、たまたま三島の誕生日にあたっていたのである。彼はグラナダで買ったという小型のテーブルを、引越しの祝いとしてもって来てくれた。
防衛庁長官に中曾根康弘《なかそねやすひろ》が任命されたことが、同じ日に発表された。わが家の秘書嬢がそのはなしをすると彼は「え、本当ですか」といって、すぐに防衛庁に近い知人に電話をかけていた。このころの三島には自衛隊にまだ期待する気持があって、それだけに長官の人事にも無関心ではいられなかったのだろう。
丸山|明宏《あきひろ》の説によると彼自身には天草四郎の霊が、三島には二・二六事件の磯部淺一の霊がついているそうだとか、右翼が「楯の會」について悪評を流して困るとかいうようなことを、この夜の三島はいっていた。一月一日に馬込の彼の家で恒例の新年会が開かれ、磯部淺一の霊の件はその席で丸山明宏がもち出した。同席していた妹にあとできいたところでは、三島は磯部淺一といわれて驚愕《きようがく》していたという。それを冗談めかして彼はぼくにはなしたのだが、愉快そうな表情ではなかった。
ほかの来客たちとこちらが会話をかわしているあいだに、三島は挨拶《あいさつ》に出て来た子どもたちを見て、
――可愛《かわ》いいですねえ、子どもは。子どもたちのことを考えると、ぼくは心配で心配で……
秘書嬢や家人に、そういっていた。
このごろは子どものことをなぜこうも気にするのだろうかと、彼のことばを小耳にはさんでぼくは不思議に思った。
前掲の『「變革の思想」とは』は一月十九日から二十二日まで、読売新聞に連載されている。
その最終回が新聞に出た二十二日にぼくは日本を発《た》ち、二月八日まで海外にいた。(参議院議員だった石原愼太郎と、一緒の旅だった。)
帰国した翌日に三島から電話がかかり、
――やあ、お帰りなさい。
短期間の旅行だったから、外国行きのことは彼にも格別しらせてはいなかった。よくわかったねというと三島は笑って、
――ちゃんとわかるのさ。
佐藤榮作首相から「楯の會」を支援するという申し出があったときいたのは、このときだったように思う。
――毎月百万円を寄付すると、木村(俊夫)官房副長官を通じていって来たんだよ。困っちゃってねえ。
民兵制度をつくろうとして政界財界に彼が昭和四十三年に働きかけたことの「成果」が、二年後になってこういう形であらわれたらしい。昭和四十五年の三島は、もう民兵などは考えてはいない。それどころか自民党政府そのものが、彼にとっては日本人の魂を忘れて敗戦後の体制を維持しようとする「敵」となっていた。当然ながら三島は、この申し出を謝絶した。
頻繁《ひんぱん》にかかって来ていた三島からの電話が急に間遠になり、顔を会わせる機会も減ったのは、三月にはいってからである。このことは『豐饒の海』の第三巻『曉の寺』の完結と、いまから考えれば、無関係ではなかった。『曉の寺』の最後の稿を、彼は、二月十日に「新潮」編集部の小島喜久江(千加子)に渡した。
第三巻を完成したときの感想を、三島は「波」に連載していた『小説とは何か』に、次のように書いている。
「つい數日前、私はここ五年ほど繼續中の長篇『豐饒の海』の第三卷『曉の寺』を脱稿した。これで全卷を終つたわけでなく、さらに難物の最終卷を控へてゐるが、一區切がついて、いはば行軍の小休止と謂《い》つたところだ。(中略)人から見れば、いかにも快い休息と見えるであらう。しかし私は實に實に實に不快だつたのである。」
「實に不快」の「實に」が、三回もくりかえされている。しかもこの不快は作者によると、作品の出来栄《できば》えとはまったく関係がなかった。
『曉の寺』は二部に分かれていて、第一部の舞台は昭和十六年のタイ、インドと、戦争中の日本とである。
本多繁邦《ほんだしげくに》は『春の雪』に登場するタイの王子の末の娘に、バンコックの王宮で会う。満七歳になるこの月光姫《ジン・ジヤン》は自分が日本人の生まれ変りであるといいはり、事実|松枝清顯《まつがえきよあき》と本多とが松枝邸内の中の島にボートで渡った時期も、飯沼勳《いいぬまいさお》が逮捕された日付も、正確に覚えていた。
インドのベナーレスでは本多は、ガンジス河畔《かはん》の焚火《たきび》のうえで人間の屍体《したい》が焼かれ、のた打ち、焼け残った頭蓋骨《ずがいこつ》が竹竿《たけざお》で打砕かれて灰は河に投げ込まれるのを見た。同じ河のなかで女たちが沐浴《もくよく》したり、祈ったりしている。
その情景をつぶさにえがきながら、三島は本多の口をかりて「ここには悲しみはなかつた」という。
「無情と見えるものはみな喜悦だつた。輪廻《りんね》轉生は信じられてゐるだけではなく、田の水が稻をはぐくみ、果樹が實を結ぶのと等しい、つねに目前にくりかへされる自然の事象にすぎなかつた。」
「本多はこのやうな喜悦を理解することを怖《おそ》れた。しかし自分の目が、究極のものを見てしまつた以上、それから二度と癒《い》やされないだらうと感じられた。あたかもベナレス全體が神聖な癩《らい》にかかつてゐて、本多の視覺それ自體も、この不治の病に犯されたかのやうに。」
彼はその後アジャンタにも行き、日本にもどってからは輪廻転生と唯識論《ゆいしきろん》との研究に没頭する。唯識論が六つの感覚のほかに自我意識としての末那《マナ》識《しき》と、世界を存在させる阿頼耶《アーラヤ》識とを立てていることを知り、自分をとりまく世界も本多自身の阿頼耶識の所産であることを悟るにいたる。
空襲で廃墟《はいきよ》と化した東京をまえに、これも自分がつくり出したものだと本多は考える。
「戰爭中、(中略)もつぱら餘暇を充《あ》ててきた輪廻轉生の研究が、このとき本多の心には、正にかうした燒趾《やけあと》を顯現させるために企てられたもののやうに思ひなされた。|破壞者は彼自身だつたのだ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。」(傍点原著者)
焼けただれたこの末期的な世界は、ひとつの終りを告げているのではない。滝のように奔流する阿頼耶識は、「この赤茶けた廢墟を世界として引受け、次の一瞬には又|忽《たちま》ち捨て去つて」行く。廃墟のうえにもうひとつの廃墟がかさなり、ほろびが深まることを、本多は期待していた。
「破局に對抗するに破局を以てし、際限もない頽落《たいらく》と破滅に處するに、さらに巨大、さらに全的な一瞬一瞬の滅亡を以てすること、……さうだ、刹那《せつな》刹那の確實で法則的な全的滅却をしつかり心に保持して、なほ不確實な未來の滅びに備へること、……本多は唯識から學んだこの考への、身もをののくやうな涼しさに醉つた。」
ほろびへの待望は、三島自身の戦争末期の感情に近い。
本多繁邦は行動者とはなり得ない人物であるとはいえ、作者の認識者あるいは自意識の部分を代表していて、その意味では彼もまた三島の分身だった。作者と本多の姿とがもっとも明瞭《めいりよう》にかさなり合うのは『曉の寺』第一部のとくにおわりの部分においてであり、二十歳の三島がほろびの彼方《かなた》に愛の実現を夢みたように、本多は廃墟の彼方に黄金の孔雀《くじやく》に乗って飛翔《ひしよう》する、肌《はだ》もあらわな女神の姿を夢想するのである。
その本多が昭和二十七年の第二部では、「かつて若い日に醜いと眺《なが》めた初老の特徴」を、残らずそなえた男としてあらわれる。彼はタイの美しいお姫さまの裸身を見たいばっかりに、富士|山麓《さんろく》の別荘にプールをつくり、客用の寝室には覗《のぞ》き穴をもうける。
十八歳の月光姫《ジン・ジヤン》は、幼いころの自分が日本人の生まれ変りだと主張したことを、一切記憶してはいなかった。日本を訪れたのも、単に父親にすすめられて「留學に來ただけです」と、彼女は本多に説明する。
「……もしかするとね。私、このごろ考へるのです。小さいころの私は、鏡のやうな子供で、人の心のなかにあるものを全部映すことができて、それを口に出して言つてゐたのではないか、思ふのです。あなたが何か考へる、するとそれがみんな私の心に映る、そんな具合だつた、思ふのです。どうでせうか」。
このことばは、本多の慾望《よくぼう》の矛盾を衝《つ》いていた。彼が月光姫《ジン・ジヤン》の裸身に何を見出《みい》だしたとしても、それは阿頼耶識の所産にほかならない。(阿頼耶識それ自体は無機で、末那識によって現行する。)観察に本多が加われば、彼女の自然な姿はたちどころに瓦解《がかい》してしまう。
「なぜなら、見ることはすでに認識の領域であり、(中略)あの書棚《しよだな》の奧の光りの穴からジン・ジャンを覗くときには、すでにその瞬間から、ジン・ジャンは本多の認識の作つた世界の住人になるであらう。彼の目が見た途端に汚染されるジン・ジャンの世界には、決して本當に本多の見たいものは現前しない。」
裸で孔雀に跨《またが》り、空を飛翔する女神、孔雀明王とは、本多の夢想のなかではジン・ジャンであるはずだった。しかし彼の認識のつくった世界に住むかぎり、ジン・ジャンはこの世の物理法則にしばられて飛ぶことができない。
光りかがやく彼女の姿は、本多の認識が遮断《しやだん》されたときにしか、つまりは「彼のゐない世界に」おいてしか、あらわれはしないだろう。真の認識は、認識者の死を求める。
一方ではそう思いながらも本多はなお自我に執し、自分の認識の根源を「阿頼耶識と、同一視する」にはいたり得ないでいた。彼は別荘にジン・ジャンが泊った夜、彼女の寝室を穴から覗く。ジン・ジャンは隣りの別荘の住人である久松慶子と裸で抱き合い、その左|脇腹《わきばら》には三つの小さな黒子《ほくろ》が歴然と見られた。幼かったころの姫には、なかった黒子だった。
我執に引きずられた本多は、ここで「覗き屋」と化した。「覗き屋」ということばに三島が託している意味は、自分の慾望の影を行為者に投げかけて満足している人間というほどに、解釈してよいのではないか。彼女の三つの黒子もむかしはなかった以上、本多の願望の反映かも知れない。
ジン・ジャンはタイに帰り、二十歳になった春に、腿《もも》をコブラに咬《か》まれて死んだ。孔雀明王は蛇《へび》の毒を消す仏の化身だから、孔雀に跨るジン・ジャンという本多の夢もまた幻影だったことをこれは意味する。松枝清顯、飯沼勳と続いて来た生まれ変りの系譜は、ジン・ジャンにいたって怪しくなって来る。
物語の観察者の位置にいる本多が「覗き屋」と化し、認識の機能を我執によって喪失したために、小説は堅固な外界を保持できなくなった。「實に實に實に不快だつた」という三島の感情は、そのことに由来しているのである。それまでは「未來を孕《はら》んで浮遊して」いた作品外の現実が、彼の表現によれば『曉の寺』の完成とともに「紙屑《かみくづ》」と化し、作品内の現実だけが残った。
「私は本當のところ、それを紙屑にしたくなかつた。それは私にとつての貴重な現實であり人生であつた筈だ。しかしこの第三卷に携はつてゐた一年八ヶ月は、小休止と共に、二種の現實の對立・緊張の關係を失ひ、一方は作品に、一方は紙屑になつたのだつた。それは私の自由でもなければ、私の選擇《せんたく》でもない。作品の完成といふものはさういふものである。」(『小説とは何か』)
三島のはじめの構想では、月光姫は「聰子《さとこ》にそつくりな」女に惚《ほ》れ、本多は二人のベッド・シーンを見て絶望感にとらわれることになっていた。昭和四十六年の「新潮」臨時増刊号に発表された『「豐饒の海」ノート』で見ると、次の第四巻では「永遠の青春」に輝く少年が出現する。
「本多はすでに老境。(中略)つひに七十八歳で死せんとすとき、十八歳の少年現はれ、宛然《ゑんぜん》、天使の如《ごと》く、永遠の青春に輝けり。」
「本多死なんとして解脱《げだつ》に入る時、光明の空へ船出せんとする少年の姿、窓ごしに見ゆ。」
本多が「覗き屋」となってしまった以上、解脱の機会はもはやとぼしい。外界は本多の夢想に犯されてその根拠を失い、作者は作品のなかに封じ込められる。
「しかしまだ一卷が殘つてゐる。最終卷が殘つてゐる。『この小説がすんだら』といふ言葉は、今の私にとつて最大のタブーだ。この小説が終つたあとの世界を、私は考へることができないからであり、その世界を想像することがイヤでもあり怖ろしいのである。そこでこそ決定的に、この浮遊する二種の現實が袂《たもと》を分ち、一方が廢棄され、一方が作品の中へ閉ぢ込められるとしたら、私の自由はどうなるのであらうか。」
二十歳までの三島がつくっていたのは、『酸模《すかんぽう》――秋彦の幼き思ひ出』から『サーカス』、『岬《みさき》にての物語』にいたるまで、現実とはかかわりのない童話的な世界だった。敗戦後の三島はその童話的な世界から脱却しようとして苦闘をかさねるのだが、それでも彼の成功した作品の多くは、虚妄《きよもう》の人生のうえに咲く大輪の花という性格を濃厚に示していた。『薔薇《ばら》と海賊』や『午後の曳航《えいかう》』が、代表的な例だろう。四部作自体にも夢のがわからの現実への挑戦《ちようせん》という意図が、当初はこめられていたはずだった。
その三島が外界の喪失を暗いパセティックな口調で歎き、「生きながら魂の死を」経験するのにひとしいとまでいうのである。小説が思いがけない方向に走って行ったことのほかに、いまは彼を内部から突き動かすものの力が、閉ざされた作品の世界にとどまることを許さないほどにつよくなっていたと、解してよいのではないか。
「お前は何か誇大妄想に陷つてゐるのではないか」、小説家なら「ただ大人しく小説を書いてをれ」という声が自分にはきこえて来ると、彼は同じ論文の最後につけ加えている。
「その忠言はまことに尤《もつと》もであり、(中略)返す言葉もない。しかし私は生きてゐる限り、力の限りジタバタして、この忠言に反抗し、この忠言からのがれようとつとめるであらう。もし、(萬が一にもそんなことはありえないが)、私が心を改めて、こんな忠告に素直に從ふとしたら、その時から私は一行も書けなくなるであらうからである。」
小説が人生の虚妄を告げておわるとき、自分はべつの次元に立って外界と戦うだろうことを、この文章は予告していた。
4
――蓮田善明《はすだぜんめい》は、おれに日本のあとをたのむといって出征したんだよ。
三月に会った折りに、三島はしんみりとした口調でそういっていた。
蓮田善明は十六歳の三島を、「悠久《いうきう》な日本の歴史の請《まを》し子」と雑誌「文藝文化」の後記で絶讃したひとである。ジョホール・バハルで敗戦を迎えた彼は、敗戦の責任を天皇に帰して日本精神の壊滅を説いた聯隊長《れんたいちよう》(中條豐馬大佐)を八月十九日に射殺し、自分も拳銃《けんじゆう》で自殺をとげた。
小高根二郎の著書『蓮田善明とその死』が、三月に刊行された。序文は三島が書き、年譜は清水文雄の編纂《へんさん》だった。この本のことから自然に蓮田善明が、話題に上ったのだと思う。蓮田善明のはなしはそれ以前にもよく三島からきいていたので、「日本のあとをたのむ」といったという彼のことばも、このとき深くは気にとめなかった。それよりも六月の安保条約改訂期の騒動に期待していたのに、世の中がすっかり静かになって、四部作の最後の部分が書けなくなったと彼がいったことの方が、しばらく心に残った。
――すっかり構想を変えなくてはならなくなってね。
実際に『曉の寺』が四月号で完結したあと、四月刊行の五月号には連載はのらなかった。
その四月の十八日ごろ三島から三週間ぶりくらいの電話があり、佐伯彰一と三人で食事をしないかといって来た。「承知なら吉兆《きつちよう》に、二十五日に部屋をとるけれど……。」何の集まりかとたずねると、佐伯君がカナダから帰って来た帰国のお祝いだよ、と彼はいった。
佐伯彰一がカナダのトロントに行っていたのは、二、三箇月間にすぎない。その程度の期間の外国行きは当時もう珍しくはなく、友人の帰国にさいして会を開いたことなどは一度もなかった。第四巻の構想がまとまらないので雑談でもしたいのかと考えたりもしたけれど、それにしては吉兆は少々仰々しい。
第四部の構想はもうできていると、当日彼はいった。
――『春の雪』の英訳者が、東宮とはどういう意味かって質問して来たんだよ。東宮も知らない男が、あの小説を訳しているんだからね。第三巻、第四巻のいい飜訳者を、佐伯君さがしてくれないかなあ。
考えておきましょうと、佐伯彰一はこたえていた。ついでに彼はある親しい日本の批評家の三島論について不平を洩《も》らし、また『日本文學小史』のつづきを「群像」に書いたので、これはぜひ読んでほしいといった。
――日本文化会議を、やめることにした。「批評」ももうやめようよ。
「批評」をやめると三島が突然いい出して、村松が怒ったとジョン・ネイスンはその著書に書いているが、これはネイスンの誤解である。同人雑誌はそう長くつづけられるものではなく、そろそろ切上げどきだろうとぼくは思っていた。佐伯彰一も、反対はしなかった。
いつもの三島の高笑いや冗談は出て来なくて、妙に沈んだ雰囲気《ふんいき》の会だったという印象が濃い。伊達宗克編著の『裁判記録「三島由紀夫事件」』によると、この月のはじめにすでに彼は蹶起《けつき》の決意をかため、小賀正義、小川正洋の二人に参加を呼びかけている。
「本件は、三島が発案し、それに(中略)森田必勝が参画して計画が進められていたが、昭和四十五年|四月初旬ころ《ヽヽヽヽヽヽ》東京都千代田区内幸町一の一帝国ホテルコーヒーショップにおいて、被告人小賀が三島から最後まで行動を共にする意志の有無を打診され、次いで、|同月十日ころ《ヽヽヽヽヽヽ》三島方において、被告人小川が三島から同様に打診されて右被告人らは、いずれもこれを承諾し、その意思を表明した。」(傍点村松)
帰国祝いは口実で、これは訣別《けつべつ》の宴だった。
そのことにまったく気がつかなかったのは、四部作の完成は順調に行けば昭和四十六年の末と彼がいい、そう書いてもいたことが、脳裡《のうり》を占めていたからである。最後の第四巻は、まだはじまってもいなかった。
第四巻『天人五衰』は、『曉の寺』の完結後二箇月をおいて、六月刊行の「新潮」七月号から連載される。裁判記録に徴すると、小説の進行と併行して事件の計画はすすめられていた。
「同年五月中旬ころ三島は(中略)自宅において、森田および被告人小賀、同小川に対し、楯の会と自衛隊がともに武装|蜂起《ほうき》して国会に入り、憲法改正を訴える方法が最も良い旨《むね》もらしたが、そのころは未だその具体的方法については、三島自体も模索している状況であった。
その後同年六月十三日(中略)ホテルオークラ八二一号室に右の三島ほか三名が集合した際、三島は、|自衛隊は期待できないから《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|自分達だけで本件の計画を実行する《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、その方法として、自衛隊の弾薬庫を占拠して武器を確保するとともに、これを爆発させると脅かすか、あるいは東部方面総監を拘束して人質とするかして、自衛隊員を集合させ、三島らの主張を訴え、決起する者があれば、ともに国会を占拠して憲法改正を議決させるという方策を提案した。」(傍点村松)
自衛隊の一部が協力してくれるという期待を、彼は五月までは抱いていた。六月にいたってそれを断念したことが、右の文章(検事の冒頭陳述書)によってわかる。
弾薬庫の占拠という三島の計画にたいして若い三人は、「その所在が明らかでなく、両案をともに行うと兵力が分散するから困難である」といって反対し、結局総監を拘束する方に案は絞られたという。
七月十三日に保利茂官房長官の招きによる会が同じ吉兆で開かれ、三島もぼくもその席に出た。木村俊夫官房副長官のほかに、安岡正篤《やすおかまさひろ》も同席していたように記憶している。
三島の表情は、いつになくとげとげしかった。
――ぼくはもう政治のことばは口にしません、
と彼は保利氏に向かっていった。
――知識人は自民党に、顔がちょっと右を向きすぎているからなおせとか、それじゃ左向きすぎるとかいうでしょう。そういうことは、ぼくはいいません。
ぼくにたいする皮肉だなと、これをきいて思った。公害問題がやかましく騒がれていた時期であり、日本もはやく環境保全のための省庁をつくった方がいいと、保利氏にぼくはいっていたのである。そんな問題は枝葉のことだと、三島は叫びたかったのだろう。
――文学のことばだけを、ぼくはしゃべります。政治家はそれを、政治のことばに飜訳して下さい。
――ほほう、
と保利氏は身を乗出すようにして、
――それをひとつ書いて下さいませんか。
――書いてお届けしましょう。
三島は長尺の論文を口述筆記して、保利氏に届けた。この論文は彼の死後十年を経て、「月刊PLAYBOY」という若干場ちがいな雑誌に発表される。表題は『武士道と軍國主義』であり、あとに『正規軍と不正規軍』と題するややくだけた口調の文章が、付録のようについている。
彼がこのなかで説いているのは『問題提起(日本國憲法)』その他でいって来たのと同様に、「天皇の伝統」の復活と武士道精神の尊重とだった。「文学のことば」という表現をもって彼がいおうとしたことは、要するに日本人の魂の恢復《かいふく》だった。
この会の二日まえ、七月十一日に、小賀正義は三島の命令をうけて、市ヶ谷の自衛隊に乗込むさいに使用する中古のコロナを、二十万円で購入していた。
5
日刊紙に三島が発表した最後の論文は、『果たし得ていない約束』である。
サンケイ新聞――いまは産経新聞――が「私の中の二十五年」という題の連載随想をのせ、三島の文章がその第一回目だった。(単行本、全集には『私の中の二十五年』という題で収録されている。)
「私の中の二十五年間を考へると、その空虚に今さらびつくりする。私はほとんど『生きた』とはいへない。鼻をつまみながら通りすぎたのだ。」
それが、書き出しだった。
「二十五年前に私が憎んだものは、多少形を變へはしたが、今もあひかはらずしぶとく生き永らへてゐる。生き永らへてゐるどころか、おどろくべき繁殖力で日本中に完全に浸透してしまつた。それは戰後民主主義とそこから生ずる僞善といふおそるべきバチルスである。」
七月のはじめにぼくは韓国に行き、その後も旅行が多かったので、七日の新聞に出たこの文章をずっとあとまで知らないでいた。保利茂との会合のときにも、まだ読んではいなかった。七月の末ごろになってはじめて読み、何よりもその投げやりな、苛立《いらだ》たしげな文体に一驚した。彼の文章の特色である逆説や諧謔《かいぎやく》は、ここには影もない。
「自分では十分俗惡で、山氣もありすぎるほどあるのに、どうして『俗に遊ぶ』といふ境地になれないものか、われとわが心を疑つてゐる。私は人生をほとんど愛さない。」
「私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行つたら『日本』はなくなつてしまふのではないかといふ感を日ましに深くする。日本はなくなつて、その代はりに、無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、拔目がない、或《あ》る經濟的大國が極東の一角に殘るのであらう。|それでもいいと思つてゐる人たちと《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|私は口をきく氣にもなれなくなつてゐるのである《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。」(傍点村松)
八月に『天人五衰』の最終部分を下田で書き上げたということを、それからまもなくきいた。ここにいたってぼくも、事態が容易ではないところにまで来ていることに気づいた。『果たし得ていない約束』は、殆《ほとん》ど日本社会への縁切り状ではないか。
三島とは四月二十五日の「訣別」の宴のあと、ことに七月以降は、事実上の絶縁状態になっていた。彼の身辺にたったひとり残っていたのが伊澤甲子麿だったので、その伊澤氏に仲介をたのみ、会食の機会をつくってもらった。
十月七日に四谷の蔦屋《つたや》で会おうというこたえが、三島からはかえって来た。
約束の時間に、彼は半袖《はんそで》シャツ一枚の姿であらわれた。「楯《たて》の會」の帰りかとたずねると、やや曖昧《あいまい》に頷《うなず》いていた。
――ソウルでは、フランス語で講演をしたそうだね。
七月にソウルで開かれた国際ペン大会の席で、ぼくは専務理事の阿川弘之《あがわひろゆき》にたのまれ、フランス語で報告をしたのである。(「日本人は英語しかしゃべれないと思われると癪《しやく》やからな」と、阿川氏はいっていた。)
――どうしてそれを知っているの?
――ドナルド・キーンからきいたんだよ。
キーン氏も、同じ会議に出席していた。
――それよりも、『天人五衰』の最終章を書き上げたそうじゃないか。
――え? だれにきいた。
三島はこの一瞬、血相を変えた。新潮社の新田敞《につたたかし》からきいたのだったと思うが、その説明はしなかった。
――『果たし得ていない約束』を読んで、驚いたんだよ。あの文章は、ただごとじゃないです。心配になったので、こうして時間をつくってもらった……
――ふーん。きみにも日本語がわかるのか。フランス語しかわからないのかと思っていた。
これをきいてそばにいた伊澤氏が、「何て失礼な」と呟《つぶや》いた。そのことばは撤回してほしいとぼくがいうと、
――きみは頭の中の攘夷《じようい》を、まず行なう必要がある。
目を据《す》えて三島はいった。血走った目は、いまも忘れがたい。飯沼勳の目だ、とぼくは思った。
『假面の告白』いらいの三島は自分を「他者」にしようと努力し、その努力を通じて大衆社会の一個のヒーローとなって来た。『假面の告白』でも『潮騷』でも、読者は彼の演じた「他者」に喝采《かつさい》を送った。いいかえれば大衆社会を逆手にとって、生きて来たではないか。
――そのとおりだよ、
と彼はこちらのことばを、途中からひきとってこたえた。
――大衆社会を逆手にとって来た。しかしそれがもういやなんだよ。
「おれだって何かしようと、いろいろな人間に会い、いい知れないいやな思いをしたんだぜ」。それが具体的にどんなことだったか、いまはいえないが、と三島は説明した。「おれの小説の発表枚数をしらべれば、いつのことかわかるよ。そういう月には、ガタンと減っているからね」。
連載の発表枚数が激減した月とは、昭和四十五年では六月執筆の八月号がそれにあたり、昭和四十三年は初夏のころのぶんの枚数がきわめて少い。昭和四十三年に彼は「祖國防衞隊」の必要を財界人に説き、昭和四十五年には自衛隊の知人に蹶起を呼びかけて、どちらも失敗におわった。そのときの苦渋を、おそらく枚数は反映しているのだろう。
自分の家にはいろいろな外国人が来る、と三島はいった。
――彼らが口々にいうことは、日本のいちばん美しい部分が失われて行くという失望なんだよ。
去年までの日本には、世の中にまだ危機意識があった。
――それがこのごろでは、みんな危機意識なんか忘れて生活に満足している。その安心しきった顔を見ていること自体に、おれは耐えられない。政治家は左も右も、平和憲法を守りましょう、文士の話題といえばゴルフのはなしと、こんどの文学賞をだれにやろうかという相談ばかりじゃないか。
それだからといってと、伊澤氏が反問した。三島さんが革命を志してどこかに斬込《きりこ》んでも、
――天才の文学者が気がふれたといわれるだけですよ。
――そうだろうな、狂気の意味について、くだらない批評家がいろんなことを書くさ。佐藤榮作は、おれを気ちがいだというだろう。中曾根も、似たようなことをいうよ。
このときの会話の内容は、まえにその一部を引用したことがある。当時ははぶいたことがらを含めて、いまはできるだけ正確に主要な部分を復元しているつもりである。忘却にともなう書き落しは当然あり得るとしても、よけいな潤色はほどこしていない。
――おれはねえ、村松君、このごろはひとが家具を買いに行くというはなしをきいても、嘔気《はきけ》がするんだよ。
――家庭の幸福は文学の敵。それじゃあ、太宰治《だざいおさむ》と同じじゃないか。
――そうだよ、おれは太宰治と同じだ。同じなんだよ。
――太宰の苦悩なんか、器械体操でもすればなおるはずではなかったの?
このぼくの質問には、彼はこたえなかった。(少くともこたえは、ぼくの記憶のなかにはない。)太宰治と同じだとまでいい切られては、はなしの接穂《つぎほ》が失われてしまう。少しのあいだだまっていると、彼は突然「村上一郎という作家はいいねえ」といい出した。話題が文学にうつって、ぼくはある作家の名まえをあげた。これにたいして三島は、
――彼の作品の中心には、残念ながらニヒリズムがない。文学というものはね、
と両手で空中に球をえがくような仕草をして見せて、
――こういう作品のそのまんなかに、ニヒリズムがなくてはならないんだ。
――アンドレ・マルロオの文学の中心には、ニヒリズムがありますよ。それでも彼は、文化大臣をつとめた。
――そりゃマルロオのように、いろいろな機会にめぐまれていれば……。彼は幸せな男だよ。
席を立ったのは、九時半ごろだったろうか。三島はタクシーを停《と》め、ぼくを住まいのそばまで送ってくれた。
「もう待てない」、「いやだ」ということばをくりかえしきかされたあとでも、何かを彼が起こすのなら来年だろうと、なおぼくは思っていた。『天人五衰』は九月刊行の十月号の段階では、主人公の安永透が本多繁邦の養子にはいると決めたところであり、劇の展開はこれからであるように見えた。それに斬死にの機会も、いまの社会にはありそうにない。前年まで斬死にのはなしばかりをきかされていたので、蹶起とはすなわち斬死にと、単純にうけとっていたのである。
三島は九月に古賀浩靖を同志に加え、決行の日は十一月二十五日とすでに決定していた。検事の冒頭陳述書を、もう一度引用しておく。
「同(九)月九日被告人古賀は、銀座四丁目西洋料理店において、三島と会った際、三島から『市ヶ谷で楯の会員の訓練中、自分が自動車で日本刀を搬入し、五人で連隊長にその日本刀で居合を見せるからといって連隊長室に赴き、連隊長を二時間人質として自衛隊員を集合させ、われわれの訴えを聞かせる、|自衛隊員中に行動を共にするものがでることは不可能だろう《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、いずれにしても、自分は死ななければならない、決行日は、十一月二十五日である』旨従来からの計画を打ち明けられ、この行動に参加することを誓って決意を新たにした。」(傍点村松)
東部方面総監を人質にする計画だったのが、六月の末から三十二連隊長に変り、のちに連隊長が当日不在とわかって再び方面総監にもどる。十一月二十五日という決定は、この日までに『天人五衰』を完成できる目算が、確実に立っていたことを意味する。
三島は自分が蹶起《けつき》を呼びかけても自衛隊員は動かないことを、これで見ると予知していた。不成功を承知のうえで彼が企図したのは、『「變革の思想」とは』の末尾でいっていたように、文字どおり死を賭《と》しての「魂の叫び」を後世にのこすことだった。
蔦屋でぼくと会ってから十二日後の十九日に、彼は四人の若者とともに制服姿で記念写真をとった。
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月光姫《ジン・ジヤン》の脇腹《わきばら》に三つの黒子《ほくろ》を見たとき、本多は自分が「不死かもしれないと信ずる理由」を得た。
自分の慾望《よくぼう》の反映をしか認識できない彼は、気ままに世界像をつくり出す小さな「造物主」であるといってよい。そういう自分が実は認識の「地獄」にいることを、彼はよく知っていた。そのために本多は、「人間の境地を超えた」悟達に達しているといわれる聰子を訪れることをためらった。
「會ふなり聰子が本多の地獄を看破《みやぶ》ることは確實なのである。」
『天人五衰』の主人公の安永透もまた、眺《なが》めることの幸福によって生きている少年だった。十六歳のこの少年は、「自分がまるごとこの世には屬してゐないことを確信し」、世界は自分の認識のうえに成り立っていると信じていた。
「僕がもし無意識の動機に動かされて何かを言つたりしたりするとすれば、世界はとつくにぶつこはされてゐるだらう。世界は僕の自意識に感謝すべきだ。統御といふこと以外に意識の誇りはないから。」
本多は透と会い、この少年の内部が自分の「自意識の雛型《ひながた》」であることを直観する。しかも透は左の脇腹に、三つの黒子をもっていた。本多はそれを見て、ただちに透を養子に迎える手続きをすすめるのである。
透に彼は家庭教師をつけ、徹底して俗物的な教育をほどこす。清顯や勳や月光姫の歩んだみちを、齢《とし》老いて気力の衰えた本多はこの少年にたどらせたくなかった。「飛ぶ人間を世間はゆるすことができない」と、七十六歳の本多は考える。
「翼は危險な器官だつた。飛翔《ひしやう》する前に自滅へ誘ふ。」
初期の短篇『翼――ゴーティエ風の物語――』の主人公がもち、『朱雀《すざく》家の滅亡』の朱雀經隆がその喪失を歎《なげ》いた「狂氣の翼」を、本多は透からあらかじめ奪いとろうとした。清顯や勳は、翼をかくそうとさえしなかった。
「それは人間どもの社會に對する侮蔑《ぶべつ》でもあり傲慢《がうまん》でもあつて、早晩罰せられなければならない。かれらは、苦惱に於《おい》てさへ特權的に振舞ひすぎたのだつた。」
作者の三島は、このときまさに苦悩にみちた飛翔を準備していた。第四巻の本多は、作者とは対極的な位置に立つ。
しかし本多の計画は、透が松枝清顯いらいの輪廻《りんね》転生の秘密を知り、自分が本物であることを証明しようとして毒薬を飲んだために、結局は挫折《ざせつ》する。透は生命《いのち》はとりとめたものの、失明した。
安永透が本物だったか偽物《にせもの》だったかは、軽々には断定できない。三島は『曉の寺』を書き上げた直後に、テレビで次のようなことをいっていた。
「『曉の寺』では、女主人公が本当にまえの主人公の生まれ変りなのかどうか、わかりにくくなっている。次の第四巻では、それがもっとわからなくなるはずです……。」
作者は透に二回過去生をかいま見させ、さらに透の日記には物語の筋とは何の関係もなさそうな老人が登場して、雪のうえに何か黒いものを落す。黒い、鳥の屍骸《しがい》らしかった。何の鳥だったろうと、透は考える。
「あまり永く見詰めてゐるうちに、その黒い羽根の固まりは、鳥ではなくて、女の鬘《かつら》のやうにも思はれだした。」
雪のうえに落ちた女の黒髪は、『春の雪』の聰子の髪を想起させるのである。「あれほど艶《つや》やかだつた黒髮も、身から離れた刹那《せつな》に、醜い髮の骸《むくろ》になつた」と、第一巻の聰子の剃髪《ていはつ》の場面には書かれていた。
失明した透は、狂女と一緒にみじめな生活を送る。だが失明は一面では、『曉の寺』のおわりで本多が果し得なかった認識者の自己否定の実現ではないのか。透はもともと、行動者ではない。認識者からありもしない行動の翼を摘みとろうとした本多の教育方針はまちがいで、透は彼なりに認識者のみちを果てまで行ったと、解釈することもできる。
我執からいつまでも脱し得ないのは、本多の方だった。死期の近いことを悟った本多は、月修寺に門跡の聰子をたずねて行く。松枝清顯の名を本多が口にすると聰子は、
「その松枝清顯さんといふ方は、どういふお人やした?」
本多が何年かまえに予覚したとおり、八十三歳の聰子は彼の認識の「地獄」をはっきりと指さす。
「私は俗世で受けた恩愛は何一つ忘れはしません。しかし松枝清顯さんといふ方は、お名をきいたこともありません。そんなお方は、もともとあらしやらなかつたのと違ひますか? 何やら本多さんが、あるやうに思うてあらしやつて、實ははじめから、どこにもをられなんだ、といふことではありませんか?」
それでは、何もなかったことになる。勳もジン・ジャンも、その上、ひょっとしたらこの私も、という本多の叫びに、「門跡の目ははじめてやや強く本多を見据ゑた」と作者は書いている。
「それも心々《こころごころ》ですさかい」。
本多は庭に立ち、「記憶もなければ何もないところへ、自分は來てしまつた」と思う。
作者自身の自意識の部分をあらわしていたこの人物を、三島は無の世界に茫然《ぼうぜん》と佇《たたず》ませるのである。
「庭は夏の日ざかりの日を浴びてしんとしてゐる。……」
――自分をファナティックにできない人間はだめだよ。
三島がそういっていたことが、市ヶ谷台上の事件のあと、しきりに思い出された。自意識を踏みこえないかぎり、外界にかかわることはできないという意味だったろう。
十一月二十五日には、ぼくは香港《ホンコン》にいた。ある経済団体の主催する洋上研修の講師を依頼され、二十一日に船で横浜を出たのである。たまたま使用した船がソ連船だったから、外部の情報は一切はいらない。二十五日の午後おそく香港の埠頭《ふとう》に接岸すると陸上から連絡があって、村松が乗っているはずだがききたいことがあり、至急下船してほしいといって来た。相手は、時事通信社の支局長だった。
何ごとだろうと思って船を降り、上屋《うわや》階上の喫茶店に案内されて、そこではじめて事件の概要をきかされた。「ご感想をうかがうようにと、本社から指示があったものですから」と支局長は鄭重《ていちよう》にいった。
名状しがたい衝撃だった。「とうとうやってしまいましたか」といったことのほか、何をはなしたかは記憶がない。東京行きの飛行機の最終便が午後五時四十分に出るのをたしかめ、大急ぎで飛行場に行った。飛行機の座席に坐《すわ》ってからもさまざまな思いがとびかい、こみ上げて来るものを抑えるのにせい一杯でいた。自衛隊や政治家との過去の三島のつながりから、下手をすると政治問題になりかねないという心配も、脳裡《のうり》をよぎった。
東京着は深夜に近かったのでその日はひとまず帰宅し、翌朝馬込を訪問した。客間の中央に瑤子夫人が、放心したように坐っておられた。
遺体は司法解剖に付されたとかで、なかなかもどって来なかった。翌日が友引で火葬場は休みになるために、どうしても夕刻までには荼毘《だび》に付さなければならないという。そういう時間的な制約から、慌《あわただ》しい密葬となった。
制服姿の遺体は綺麗《きれい》に縫合されていて、口許《くちもと》が少し歪《ゆが》んでいたことを除けば、表情は見たところ平生とさして変らなかった。デス・マスクをとりますかと二、三の編集者がいい、瑤子夫人とご両親とにどうしましょうかとうかがうと、必要はないというお返事だった。突然のできごとをまえにして、遺族にもそこまで考える心理的余裕はなかったのだろう。独断でとっておいた方があるいはよかったかも知れないと、あとになってときどき考える。
出棺は、四時すぎだった。居間から庭にはこび出すとき、母堂の倭文重《しずえ》さんが指で柩《ひつぎ》の顔のあたりをそっと撫《な》でて、
――公威《こうい》さん、さようなら、
といわれた。
本当は「公威さん、立派でしたよ」と大声でいいたかったのだと、倭文重さんはのちに書いておられる。
「並いるお客にちらと頭が走った。芝居がかりと思われそうな気がして、気がひけた。仕方なく、『公威さん、さようなら』と、小声で送ったが、これはあとあとまで私を責めたてる痛恨事として残った。」(『暴流のごとく』、「新潮」昭和五十一年十二月号)
三島由紀夫は平和と繁栄とのぬるま湯にひたっている日本社会の全体に、血に染まる白刃を突きつけた。神風連の精神の「純粋」さに深く共感していた彼は、一切の妥協を拒んで自己の信条に殉じたのである。
それが三島のえらんだみちである以上、「立派でしたよ」と母親としてはいってやるほかない。生き甲斐《がい》そのものである息子を失った倭文重さんの悲痛な思いが、いわれることのなかったこのことばにはこめられている。
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あとがき
三島由紀夫の本葬は昭和四十六年の一月二十四日に、築地の本願寺で営まれました。
葬儀のはじめに委員長の川端康成さんが挨拶《あいさつ》に立ち、式は静粛に行なってほしい、何かが起こったらただちに葬儀は打切ると、つよい口調でいわれました。異例の挨拶ですが、極左勢力が式場を襲うとか右翼がこれを機会に暴れ出すとか、さまざまな噂《うわさ》がこのころはとびかっていたのです。
ぼくの手控えで見ますと、本願寺の建物の内部にはこの日二十一人の築地署の私服警官(そのうちの六人は婦人)が配置され、前庭と門外とでは制服と私服とをあわせて七十四人の警官が警備にあたる、としるされています。一万人に近い数の参列者が見込まれていたうえに不穏な情報まで流れていたのですから、警察が心配したのは当然だったでしょう。警備保障会社からも、四十六人のガードマンが来ていました。
佐藤|寛子《ひろこ》夫人はヘリコプターに乗ってでも葬儀の席に出たいと、手紙でいって来られました。哀悼の意にあふれた文面でした。夫の佐藤榮作首相が三島の自刃《じじん》をきいて、「天才と狂人とは紙一重」と新聞記者たちのまえでいったことを――これは三島の預言していたとおりでした――、夫人は気にしておられたのです。
本願寺の前庭は当日は人で埋まりますので、ヘリコプターは降りられません。警察がそういっておことわりすると、それなら変装してうかがいます、と寛子夫人はいい出されました。「村松さんのお宅のどなたかが、お寺の門のそばに立っていらっしゃって下さい。私の方がさがしあてますから。」
結局はこの案も、周囲の人びとに制止されたようです。
あの事件いらい、すでに二十年に近い歳月が流れました。
三島の死の直後には主として自衛隊にはいってからあとの彼の足跡について、たのまれるがままに何篇かの文章を書きました。本書のはじめの方にもしるしておいたように、誤解や曲解にみちた三島論が当時はあまりにも多く、それを少しでも是正したいという気持だったのです。三島の作品をひとつも読んだことのない人物が、読んだことはないと公言しながら堂々と彼について論じている例をさえ見かけました。
同性愛心中という伝説が一部に流布《るふ》され、いくつかの週刊誌は同性愛の痕跡《こんせき》が解剖によって発見されなかったかと、警察に問い合わせたとのことです。そんなものがあるはずもなく、警察の責任者は苦笑していました。
そのころ書いた評論を中心に、昭和四十六年の秋『三島由紀夫――その生と死』と題する一本をまとめました(文藝春秋社刊)。それ以後は断片的な文章はべつとして、三島に関するまとまった論文はまったく書いていません。事件の衝撃は大きく、彼の著作を読むことも辛《つら》かったのです。
三島論を書くような気持になるまでには十年はかかるだろうと、事件の直後には思っていたものです。それでも将来いつか書くときにそなえて、資料だけはあつめておくことにしました。「楯《たて》の會」にいた若者のひとりにたのんで、三島との血盟に加わった青年たちの名簿や会の行動日程を、書き出してもらいました。
『椿説《ちんせつ》弓張月』の初演打上げのあとで六本木の「すし長」に行ったときも、三島が最後の誕生日を拙宅ですごした夜も、わが家の秘書嬢が同席しています。その折りに三島とのあいだで交された会話を、彼女は可能なかぎり復元して記録してくれました。
それからちょうど十年がすぎたころ、辻井喬《つじいたかし》(堤清二)から、三島論をそろそろ書かないかとすすめられたことがあります。同性愛伝説や右翼伝説にとらわれない三島像を書いてほしいと辻井氏はいい、書くとすればそういうことになるだろうとこちらも漠然《ばくぜん》とながら考えました。しかし筆をとる気には、このときはまだなれなかったのです。
三島の作品を多少とも冷静な気持で読み、準備しておいた資料を活用できるようになるまでには、十年ではなく十七年以上の時間が必要だったことになります。
本書は「新潮」の昭和六十三年八月号から平成二年六月号まで、(正月号を除いて)二十一回にわたって連載されました。
三島の祖父母に関する記述――序章の部分――に多くの頁《ページ》をついやしたのは、家系、血筋にかかわる新手《あらて》の伝説が、近ごろはできかかっているからです。妄想《もうそう》といってよいこういう伝説を見ると、祖父母の生涯《しようがい》をできるだけ正確にしるしておくことも、このさい必要だろうと思います。
同性愛伝説については、本文中に仔細《しさい》に書きましたので、ここではくりかえしません。『假面の告白』と『禁色《きんじき》』とを同性愛という視点から考察することは、この二作が同性愛の男をえがいている以上むろん可能でしょう。けれど作者自身とこれらの登場人物との安易な同一視は、三島の作品、回想録を含むあらゆる証言と矛盾しますし、何よりもそれは自分を「他者」としようとした彼の悲痛なまでの努力のつみ重ねを、無視することにひとしいのです。
日本人としての魂をとりもどせと、市ヶ谷台上で三島は死を賭《と》して訴えました。当面の問題としたのはアメリカ製の憲法であり敗戦後の社会でしたが、神風連《しんぷうれん》的な心情がその根底に息づいていたことは、疑いを容《い》れません。まぎれもなく日本人がつくった明治憲法も、彼によれば漢意《からごころ》の所産でした。
明治いらいの欧化政策によって土着の魂は生きる場所を失って来たと考えていたので、彼の提起した問題の根本の部分がそこにあります。型どおりの政治的図式にあてはめて三島を論じていたのでは、その行動の本質は見えて来ないのです。
作者自身のことばによる伝記という形式を、本書では極力とったつもりです。評者の独断を最小限に抑えるために、三島の創作、評論、日記等を通じて、その生涯の全体像を浮かび上らせるようにつとめました。
したがって娯楽用の読物を除いては、主要な小説、戯曲、評論の殆《ほとん》どに触れています。そのために当初考えていたよりもはるかに分量がふえて原稿用紙にすると九百枚をこえ、これまでに書いた作家の評伝中ではもっとも浩瀚《こうかん》な本になりました。雑誌連載は、はじめは一年半ぐらいで終る予定だったのです。
三島の死の直後には、書けないことがいろいろありました。たとえば佐藤首相が「楯の會」に資金援助を申し出た件は、三島の方が謝絶したとはいえ、書けば政治問題と化したでしょう。そういう意味での制約は、いまはもう消えています。
それでもこういう本を書けば、やはり周囲の人びとに個人的な迷惑を及ぼしかねません。伝記の執筆にはともないがちなことがらでして、その点にもっとも苦慮しました。「新潮」の坂本忠雄編集長にも、これに関してはいくどか相談しました。
坂本氏の激励がなかったら、およそ二年間の連載に耐えられなかったかも知れないと思います。この場をかりて、感謝をささげます。
単行本にするのにさいしては、雑誌連載の文章を一箇所だけ大きく訂正しています。第一部所収「恋の破局」の、冒頭の記述です。
子どものころの三島が千葉県|鵜原《うばら》の海岸で迷子になったと、雑誌では書きました。平岡千之《ひらおかちゆき》氏が、
――三十分ほど迷子になってねえ。
そういわれたのを、兄の平岡公威のことと思い込んだのです。あとでたしかめると、迷子になったのは千之氏自身だったそうです。弟の迷子経験を利用して主人公が迷子になる小説『岬《みさき》にての物語』を、三島は書いたのでした。
昭和二十七年に『贋金《にせがね》づくりへの期待』と題する三島論を、「世代」という同人雑誌に発表しました。
これが三島について書いた、ぼくの最初の評論でした。『假面の告白』の同性愛の仮面を、「贋金」ということばで表現しようとしたのです。
個人的に親しくつきあうようになったのは、昭和三十年代の半ば以降です。そのうちに双方の母親の交友が復活し、妹の英子は三島の劇団にはいりました。
倭文重さんの口から三島の私生活上のことが、折り折り母を通じてぼくの耳に伝わり、彼はそれを極端に厭《いや》がっていました。三島の少年時代に触れた文章をぼくが書いたときには、露骨に不愉快そうな顔をして、
――よそうよ、ああいうことを書くのは。お互に尻尾《しつぽ》はにぎっているのだから。
倭文重さんから伝わって来たはなしでは実はなかったのですが、彼の方はそう思っていたようです。それいらい三島の生い立ちには、一切さわらないようにしました。
「よそうよ、ああいうことを書くのは」といったときの彼の表情が、連載の執筆中いくどか思い出されました。ようやく本を書き上げたいまは、いいようのない虚脱感にとらわれています。
なお本文中にそのお名まえを引いた方々のほかに、岩澤健藏、加藤治子、佐々淳行、嶋中鵬二、寺崎裕則、松本徹、宮崎正弘の諸氏から、貴重な助言や資料を頂戴《ちようだい》しました。巻末の「作品名索引」の作製については、新潮社出版部の栗原正哉氏の手をわずらわせました(電子書籍およびオンデマンド本版では索引は削除した。――編集部)。
[#地付き](平成二年七月十七日)
この作品は平成二年九月新潮社より刊行され、平成八年十一月新潮文庫版が刊行された。