おいしいコーヒーのいれ方 8
I Just Called To Say I Love You
買ってきた食材の袋をキッチンのテーブルに置き、部屋の窓を細く開けてまわると、雨音とともにひんやり湿った空気が流れこんできた。
夏の雨とは、もう匂いからして違っている。これからはひと雨ごとに涼しくなっていくんだろう。
吹き込む心配のないベランダのサッシだけは大きく開け放ち、たっぷりと風を入れる。部屋からもれる明かりに照らされたベランダの隅、室外機の上に置いた鉢植えのホオズキが、夕闇にくっきりと浮かび上がる。まるでミニチュアのランプのようだ。
それは、まだ夏の盛りの頃に、大家のヒロエさんがわざわざ持ってきてくれたものだった。あの耳の遠いおじいさんが種から育てたのだそうだ。
ぼんやりと眺《なが》めやりながら、溜《た》め息をつく。
こんな天気でも、かれんは来てくれるんだろうか。
急な用事があるというわけじゃなし、僕が勝手に誘っただけだから、もしかするとまた別の日にしようということになるかもしれない。だとしたら、せっかく二人ぶんの料理を作っても無駄になってしまう。
(だからって、まさかそれくらいのことで学校に電話するわけにもいかないしな)
来ないとなったら、彼女のほうから電話してくるだろう。仕方なくそう思い定めて、僕はキッチンに戻り、ニンニクをむいて刻み始めた。
続いてタマネギとニンジンを刻みながら、あくびをかみ殺す。よく眠れない夜が、これで何日続いているだろう。
ゆうべ、噴水公園のベンチで一緒に弁当を食ったあと、かれんを花村《はなむら》家の前まで送り届けて部屋に戻ってきたのが十時過ぎ。ベッドに入ったのは十二時前だったはずなのだが、考えなくてはいけない事が多すぎて、頭の中がガヤガヤうるさくて、どんなにきつく目を閉じても正面からサーチライトに照らされているかのようで――朝方降り出した雨音に誘われるように、ようやくうつらうつらしたかと思ったら、あっという間に目覚まし時計が鳴った。サボるわけにはいかない必修の経済学だった。
刻んだものすべてをゆっくり炒《いた》める。挽肉《ひきにく》を加えてさらに炒め、トマトの水煮を入れて煮込み、ミートソースができあがる間際に、輪切りのナスを加えて味をととのえる。
かれんのリクエストで、今夜のメインはラザニアだ。オレガノは少し控えめに、かわりにタイムを強めに。ジャガイモのポタージュはつめたく冷やし、付け合わせのサラダはレタスとルッコラと、ほんのり桜色になるまで蒸した小エビ。それに粗《あら》くおろしたパルミジャーノ・チーズをトッピング――僕より腕のいいシェフならゴマンといるだろうが、僕ほど彼女の好みを知りつくした奴はどこにもいやしない。
耐熱の白い深皿に、とろみをつけたミートソースと、別に茹《ゆ》でておいた平たいパスタとチーズを交互に重ねていき、さらにいちばん上にチーズをたっぷりのせる。あとはオーブンに入れて焼くだけだ。
濡れたふきんで手をぬぐいながら、けれど僕は、またも長い溜め息をついた。料理の出来には自信があったが、満足の溜め息なんかではもちろんない。
帰り道のスーパーで食材を調達している間もそうだった。一時間あたりの溜め息の数では、おそらく過去最高だったと思う。かれんの喜ぶ顔を想像しながら買い出しをするなんて、僕にとっては本来なら鼻唄がもれるくらい楽しいことのはずなのに――その直前に会ってきたばかりの『風見鶏《かざみどり》』のマスターの厳しい表情が脳裏をよぎるたびに、上向きになりかけた感情がガクンと後ろへ引き戻されてしまう。まるで太い鎖で足首をつながれているかのようだ。
(自業自得ってやつだよな)
と思ってみる。そう、すべては、僕が自分で招いたことだ。
僕が『風見鶏』でやらかした失敗の中身を、万一かれんに知られたらと思うと、想像しただけで死ぬほど恥ずかしかった。その時点での僕の頭の中が、どれくらい彼女のことでいっぱいだったかを知られるのは、それに輪をかけて恥ずかしかった。彼女のほうは、この部屋に遊びに来ることを一度は我慢してまで、自分の今現在と未来のことをきちんと考えようとしていたのに、僕はといえば、ただひたすら彼女のことだけで頭がいっぱいで、自分自身のことなんて何ひとつ考えられなくなっていたのだ。
しっかり、しなければ。
仕込みの終わった料理を前に、僕は下唇を噛みしめた。
少なくとも今は、しっかりしているふりをしなければ。かれんにだけは、こんな情けないところを見せるわけにはいかない。
と、そのときだ。
外の階段を上がってくる足音が聞こえた。やがてキッチンの窓の外を、小さな愛しい横顔が通り過ぎ、一瞬おいて、ひかえめなノックが響く。ドアの横には呼び鈴のボタンもついているのだが、大げさなメロディが鳴り渡るのが、彼女はあまり好きではないらしい。
玄関のたたきに転がっている靴を踏んでドアを開けてやると、かれんは少し照れくさそうに僕を見上げ、「はい、おみやげ」
とケーキの箱を差しだした。もう一方の手に持った傘の先から、しずくがぽたぽた滴《したた》っている。
「濡れなかったか?」
「うん、大事にかかえてきたから大丈夫」
「ケーキじゃなくて、お前がだよ」
「あ、なぁんだ」かれんは笑った。「ええ、私も大丈夫よ」
でも、傘をドアの外にたてかけ、靴を脱いで上がってきたところを見ると、彼女の紺色のスカートは案の定、裾《すそ》のほうがしっとりと濡れていた。淡いラベンダー色のカーディガンの肩にも、そしてゆるやかに波打つ髪の先にも、まるで透明なビーズのような細かい水滴がついている。
「そのままだと風邪ひくぞ」
「すぐ乾くわよ。べつに寒くないし」
「ばか、寒いと思った時にはもうひいてるんだってば」
急いで奥の部屋へ行き、クローゼットから、持っている中で一番新しいトレーナーとジーンズを出して、強引に彼女に手渡した。
「ほら、そっちで着替えろよ。誰も覗《のぞ》きゃしないからさ」
「・・・・・・・・」
「なんだよ。覗いて欲しいのか?」
かれんが慌《あわ》てて、ぷるぷると首を横に振る。
「脱いだ服は、ハンガーにかけてそのへんに吊るしとけよ。帰る時まだ濡れてるようなら、ドライヤーか何かで乾かしてやるから」
帰る時まだ濡れているようなら、泊まっていけばいい――本当はそう言いたかったけれど、言ったところでどうせ無理なのはわかっていた。
着替え終わったかれんが奥の部屋から出てきたのは、僕がドレッシングの用意を終え、温めておいたオーブンにラザニアの皿を入れた時だった。
「ホオズキ、だいぶ赤くなってきたね」
声のほうに目をやると、彼女は手前の畳の部屋から、ベランダに首をつき出していた。
「母さんのオモトも、葉っぱがつやつやしてて元気そう。ショーリ、ちゃんと世話してあげてるんだー」
タイマーをセットしておいて、僕は部屋を横切り、彼女のすぐそばへ行った。
「まあ、せっかくもらったからには一応な」
さっきのホオズキの隣では、同じく鉢に植えられたオモトが濃い緑色の葉をひろげている。ここへ引っ越してくるとき、縁起ものだからと佐恵子《さえこ》おばさんに無理やり押しつけられたものだ。
「けど、なんだって一人暮らしの男の部屋に、よりによってオモトとホオズキなんだろうな」と僕は言った。「どうせなら、料理に使えるハーブとかのほうがありがたいのに」
「あら、ホオズキは食べられるのよー?」
「え、マジで?」
「シロップ漬けとかにすると甘酸っぱくておいしいんだから。こんど、作ってみたら?」
「うーん・・・・・まあ、ほんとに食うもんがなくなったら考えてみるよ」
あはは、と笑う彼女の横顔に、僕は見とれた。
グレーに紺色のロゴの入ったトレーナーの袖をまくりあげ、ジーンズのウエストをベルトで絞り、裾をいくつか折り返して着ているだけなのに、どういうわけだろう、なんだかものすごく色っぽく見える。こうして斜め後ろに立っていると、襟《えり》ぐりからのぞくきゃしゃな首筋にそっとキスをしたくてたまらなくなってくる。それだけじゃ足りなくて、いきなり噛みついて歯形まで残したくなる。
だが、同じこの口でゆうべ、〈自制心には自信がある〉などと豪語してしまった手前、必死の努力で目をそらし、
「そのへんに座ってテレビでも見てなよ」キッチンに戻りながら僕は言った。「出来たら呼ぶからさ」
「私も手伝うー」と、かれんがついてくる。「何か出来ることない?」
「え? まあ、手伝わないでくれることくらいかな」
「ひっどぉーい」
ぷぅっとふくれた彼女に、笑って僕は言った。
「うそだよ。いいからゆっくり座ってなって。どうしても俺のそばにいたいって言うなら止めやしないけどさ」
かれんは、真顔で舌を出した。くるっと僕に背中を向け、
「ふーんだ。向こうで何かCD聴いてよぉーっと」
「ハイハイどうぞ」
僕は冷蔵庫を開け、鍋ごと冷やしておいたスープを取り出した。
「それとも、雑誌でも読んでよっかなー」
「ハイハイお好きに」
「そうだ、ベッドの下とかも覗いちゃおーっと」
「ハイハ・・・・。ちょっと待て」
きゃははは、と笑い声をあげて奥の部屋へ逃げたかれんが、ぺたんと畳に腹這いになってベッドの下を覗こうとするところへ、一瞬早く追いついた僕は背中にのしかかって押さえこんだ。かれんが、おかしくてたまらないというように笑いながら暴れる。
「やーらしー。ショーリったら、やっぱり何か、見られるとまずいものがあるんだー」
「ねぇよそんなもんっ」
「じゃあ、どうして隠すのよぉー」
「そ、掃除してなくて汚ぇからだよっ」
「嘘ばっかりー」
もちろん嘘だった。
「ほんとは、エッチな雑誌とかいっぱい隠してるんでしょぉ」
「そんなことないって」
これは嘘じゃない。〈いっぱい〉じゃなくて、せいぜい数冊だ。
それにしても、うかつだった。ベッドの下なんて、女を部屋によぶと決まったらまず最初に片づけておくべき場所のはずなのだ。でも僕は、すっかり油断していたのだった。五つも年上だなんてとても思えないくらい、そういうことにウトいはずのかれんが、まさか男のベッドの下に興味を示そうとは。いったい彼女に何が、と思いかけたところへ、
「やっぱり、丈《じょう》の言うとおりだったわ」
と、かれんがぶつぶつ言った。
「なんだって?」
「今朝、ごはん食べながら、私が母さんに『帰りにショーリのとこ寄ってくる』って話してたらね。丈がニヤニヤしながら、『姉貴、いいこと教えてやろっか』って。『勝利《かつとし》んとこ行ったら、ベッドの下とか机の引き出しの奥とか、こっそり覗いてみな、いいもんが見つかるから』って」
(・・・・あン畜生〜〜〜!)
「そうよ、引き出し、引き出し」
いそいそと起きあがろうとするかれんを、慌てて再びねじふせる。冗談じゃない、覗かれてたまるか。引き出しの奥には、丈のよこした〈気持ち〉の箱詰めが、まだ封も切られることなく入っているのだ。
ったくあの野郎、恩を仇《あだ》で返しやがって、今度会ったらタダじゃおかねえぞ、とかなり本気で腹を立てながら、じたばた暴れまわるかれんを羽交い締めにしていると、
「やぁーん、見たい〜。見る〜」
かれんが腹這いのまま、片手を机のほうにのばした。まるで、「み、水をくれ」みたいな手つきだ、と思ったとたん、ふいに、爆発するようにおかしさがこみあげてきて、僕は次の瞬間、とうとう噴きだしてしまっていた。
力がゆるんだ隙に逃れようとするかれんを捕まえ、力ずくで仰向けにする。プロレス技をかけるようにして荒っぽくのしかかった僕の下で、彼女がけらけら笑っている。互いの体が笑いに大きく揺れるのがよけいにおかしくて止まらなくて、
「は、腹ッ・・・・腹痛てぇっ」
「ショーリってば重い〜、どいてよぉ」
「どいたらお前、覗くだろうが」
「もう覗かないから」
「絶対?」
「ぜったい」
「誓えんのかよ」
「・・・・・・・・」
「ほら見ろ、てめえ」
身をよじって笑い続ける彼女が、目尻に涙をにじませ、
「ダメもう、私もおなか痛い〜」
と悲鳴をあげる。
その顔を、ひょいと覗きこもうとした時だ。
すっと、醒《さ》めるものがあった。かれんと少し面差しの似た顔――実の兄であるマスターのひげ面が、脳裏に鋭くフラッシュバックして、僕を一気に引き戻したのだ。
(またかよ、ちきしょう)
心のなかで舌打ちをした。
何だってこんな気分にならなきゃいけないんだ。今は、目の前のかれんのことだけ考えていればいいじゃないか。ほかのことは彼女が帰ってから考えればそれでいいじゃないか。ようやくこうして二人きりになれたというのに・・・・雨の中、せっかく彼女が遊びに来てくれたというのに、この貴重な時によけいなことを考えるなんてまったく馬鹿としか言いようがない。
まさか、と、僕は思った。まさかこの先かれんの顔を見るたびに、こんなふうにマスターの顔を連想しては萎《な》える、なんてことになるんじゃないだろうな。冗談じゃねえぞ、と歯ぎしりしかけた時――。
見上げてくる視線に気づいて、ドキリとなった。
腕の中のかれんが、いつのまにか笑いやみ、その茶色く透《す》きとおった瞳で僕をひたと見つめている。彼女の顔がこんなに近くにあったことに今ごろ気づいて、どぎまぎしてしまう。今の今まで、ベッドの下のヤバいものを隠すほうに必死で、それどころではなかったのだ。
「ショーリ」
「・・・・え?」
訊《き》き返すと、かれんはとても静かな声で言った。
「何か、私に隠してない?」
「い・・・・いや、そりゃまあ、俺も男だしさ、いろいろその、」
「ううん、そういう意味じゃなくて」
ひどく真剣な目だった。
「何か、気になってることとか心配事とか、あるんじゃない?」
僕は、ごくりと唾《つば》を飲みこんだ。かれんにはきっと、大きく動いた僕の喉仏が見えただろう。こういう時に上手にしらを切ることさえできない自分に腹が立つ。
「別に、何もないよ」と、それでも僕は言った。「――なんで」
「ん・・・・。ほんとはね、ゆうべ会った時から思ってたの。ショーリ、何となく、いつもとちょっと違うから」
「そうかな。どこが?」
「どこがって、うまく言えないんだけど。何て言えばいいのかな、気持ちがどこか閉じてるっていうか・・・・さわろうとしてもパシッて跳《は》ね返されちゃうっていうか。なんか、静電気がぴりぴりしてるみたいな感じ」
「気のせいだって」
「でも、そうなんだもの。もしかして・・・・」
「うん?」
「浮気してる男の人ってこんな感じなのかな、なんて」
「してないよ俺!」
「わかってるわよう」かれんは、くすくすっと笑った。「それは単なる物のたとえだけど」
「――あせった」
「え?」
「てっきり、バレたのかと思った」
かれんが笑いながら、「もぉ」と頬《ほお》をふくらませる。
不自然にならないように気をつけながら、僕はそっとかれんの上からどいた。それ以上、胸と胸を重ねていたら、心臓の音の変化に気づかれてしまいそうだったからだ。
かれんが〈浮気〉と口にした瞬間を境に動悸《どうき》がやたらと速くなっていて、もちろんそれは星野《ほしの》りつ子《こ》との抜き差しならないあれこれを思い浮かべたからで、僕としては決して浮気のつもりなんてないにしろ、かれんに対して後ろめたい気持ちがまったく無いかと言えばそんなこともないわけで――。
ごろんと畳に仰向けになり、僕は天井を見上げた。
「ごめんな、心配かけて」
「ううん」
「ここんとこゼミの課題とか部活のこととかが重なって、ちょっと煮詰まっててさ。けど、それだけだよ。何も隠してることなんかない。って言うか、隠そうと思って隠せるほど、俺ふところ深くないしさ」
「ほんとに?」
「ああ」
「ほんとに、ほんと?」
「ああ」
「・・・・なら、いいけど」
かれんは僕のほうに寝返りを打ち、
「でもね、ショーリ」じっと僕を見ながら言った。「もしも何かで悩んだ時は、よかったら、私にも話してね。私、いっつもショーリに相談に乗ってもらうばっかりで、ショーリの力になってあげられたことって今まであんまりなかったから」
「そんなことないよ」
「ううん、そうなのよ。そりゃあ、私ってばこんなだし、あんまりたいしたことはしてあげられないかもしれないけど」
「そんなことないって」
「ずっと、気になってたの。ショーリは何でも自分でできる人だし、私だってショーリのそういうところをすごくいいなぁとは思うんだけど、でも、いつも自分のほうが頼るばっかりっていうのも、それはそれで寂しいものなんだからね」
僕は、頭をめぐらせて彼女を見やった。切れ長の目が、訴えるように、祈るように、僕を見つめている。
「時には、ちょっとでいいから、私のことも頼ってね」と、かれんはささやいた。「もちろん、ショーリがほんとにそうしたいって思った時だけでいいんだけど」
ひじをついて上半身を起こし、僕は、片手をかれんの頬にあてた。
親指でそっと頬を撫でる。肌ではなく、うぶ毛だけに触れるようにかすかに撫で続けていると、彼女のまぶたがゆっくりと閉じられ、かわりに唇が半びらきになって、そこからふっと吐息がもれる。
僕は、顔を寄せていって、小さくキスをした。可能な限り優しいやつを。
そして言った。
「お前、自分のこと全然わかってないのな」
かれんが、薄く目をあけた。「・・・・そうかなあ」
「俺、これでもけっこう、お前のこと頼ってるよ」
「・・・・嘘」
「ほんとだって。お前の気づかないところでかもしれないけど」
「たとえば?」
かれんの声がどんどん小さくなっていく。
「たとえば――」僕は、彼女の右手をとった。「これとかさ」
中指にはめられている、銀の指輪。真珠とアクアマリンをあしらった、あの二連の指輪を、あらためてよく見えるようにかれんのほうに向けてやる。
「お前がずっとこれをしてくれてるの見るだけで、俺、すっごい嬉しいしさ。嬉しいだけじゃなくて、何ていうか、誇らしいっていうか」
「――そんなこと」
「そんなことって言うなよ。俺にとっちゃ大事なことなんだから」
「あ・・・・ごめんなさい」
ピピッピピッという電子音がキッチンから聞こえてきた。ラザニアが焼き上がったのだ。でも僕は、かまわず言った。
「なあ」
「・・・・?」
「なんで俺がわざわざ、中指用のやつを贈ったかわかる?」
かれんが、首を横にふる。
「由里子《ゆりこ》さんにこれ作ってもらう時にさ、一応訊かれたんだ。左手の薬指用のじゃなくていいのか、って。男はたいていそうしたがるって。けど俺、いいって言った。俺らにはまだ早いと思ったから。いや、いつかそういうの贈る相手はお前しかいないってことはわかりきってるんだけどさ、俺自身がまだそこまでいってないっていうか・・・・一人前とは到底言えないから。でも、今考えても、それで良かったと思うんだよな。だって、お前のそっちの手の薬指が空《あ》いてるの見るたびに、頑張ろうって気になれるじゃん。早くそこに指輪を贈れるくらいの自分になろうって」
「・・・・・・」
「そんなふうに、お前はさ、自分じゃ特別なこと何にもしてないように思うかもしれないけど、じつは俺のためにいろんなこといっぱいしてくれてるんだよ。ただそこにいるだけでさ。・・・・うーん、なんか我ながら、言ってて背中がこそばゆいな。やめやめっ」
かれんの鼻をきゅっとつまんでおいて、勢いよく起きあがり、
「さ、もう食えるぞ。腹へったろ」
彼女の腕を引っぱって起こしてやる。
「ほら、さっさと起きて先に行く」
かれんがきょとんと僕を見上げる。「どうして?」
「お前だけ残してったら、どこ覗《のぞ》かれっかわかんなくて危ねえ危ねえ」
彼女は、ぷっと笑った。それでもまだどこか寂しそうな彼女に、
「大丈夫だっての」と、僕は言った。「もし本当にこの先、何かで悩んだときは、ちゃんとお前に相談する」
かれんが、上目づかいに僕を見る。
「約束するってば」
彼女は、ようやくおずおずと微笑んだ。
かれんの後ろについて部屋を出ながら、僕はふと、彼女が鴨居に吊した服を見やった。カーディガンとスカートが上下に干してあるせいだろう、目の端に映ったとき、まるで彼女自身がそこに立っているかのように見えたのだ。
なんだか急に、落ち着かなさを覚えた。
もう一人の彼女に、すべてを見透かされていたようで。
「じゃ、これな。――ご苦労さん」
マスターのごつい手が、僕の前に封筒を置くと、中の半端な小銭がカウンターにあたって固い音をたてた。
昼の客がひけたところで、店内にはほかに誰もいない。外は見事な秋晴れだったけれど、窓からさしこむまばゆい光に背を向けて、僕はじっと封筒を見つめていた。
胸が、痛い。いや、胸なんだか胃なんだか、よくわからない。考えて、考えて、マスターとも話し合って、最後は自分で決めたことのはずなのに、またしても決心がぐらついている。こういう事態を招いたのはすべて自分のせいだと、頭ではわかっているのに、マスターを恨みたくなってしまう。
〈そこを出ろ〉
と、マスターに言われたあの日から、今日でちょうど一週間。
〈あとはどうとでも好きにしろ。それでもここのバイトを続けるか、いっそ辞《や》めるか。辞めたいなら辞めてかまわんぞ。そうとなりゃ新しい店員を募集するまでだ〉
僕は、横目で入口のガラス窓を見やった。まだ店員募集の貼り紙はないけれど、それはマスターのいわば「武士の情け」みたいなものだった。でもそれも、こうして僕に最後のバイト料を渡してしまうまでのことだろう。
――と、目の前にマグカップが置かれた。客に出すやつじゃなくて、僕が先週まで自分用に使っていたやつだ。
目をあげると、マスターは、ヒゲに覆《おお》われたあごをしゃくって言った。
「飲めや。うまいぞ」
マスターは、ヒゲに覆《おお》われたあごをしゃくって言った。
「飲めや。うまいぞ」
うまいことぐらい、百も承知だ。そもそも僕が弟子入りまで志願したのは、マスターのいれるコーヒーの味にぞっこん惚れたからこそじゃないか。
思えば、あの冬の夜、偶然この店に立ち寄り、足しげく通うようになり、後にかれんと丈《じょう》もここの常連だと知ることがなかったら、僕は、転勤する親父たちの陰謀が持ちあがったときもマスターに愚痴などこぼさなかったろうし、そのときマスターが助言してくれなければ、かれんと丈との三人暮らしは実現しなかったろう。となれば当然、僕がかれんに恋することも、ましてや彼女が僕に思いを寄せてくれることもなかったはずだ。そういう意味では、マスターは僕にとって〈珈琲道〉を極めるための師匠であるだけではなくて、まさに恩人なのだ、と――。
ほんとうに、理性ではそう思う。
でも、それならマスターの言うことをもっと素直にきけそうなものなのに、ねじくれた気持ちが、冷静な判断の邪魔をする。ドアの外にいる者をしめだそうと、必死にノブを握りしめているガキみたいだ。
(こんなふうだから・・・・)
と、僕は思った。
(井の中の蛙《かわず》なんて言われるんだろうな)
マスターの逆鱗《げきりん》に触れた翌日――つまり、かれんが部屋に来てくれたあの雨の日の昼間ということだけれど――僕は意を決して開店間際の『風見鶏《かざみどり》』へ出かけていき、額がひざにつくくらい深く腰を折って、カウンターの中に入れなくてもいいからバイトだけは続けさせてほしい、挽回のチャンスを与えてほしい、と頼んだ。けれど、マスターは静かに言ったのだった。
〈その件だがな、勝利《かつとし》。お前、いっぺんここを離れてみちゃどうだ〉
まだ深々と頭を下げたままだったせいで、その低い声は、僕のはるか頭上から降ってきた。
〈見知った顔ばかりに囲まれて得意な仕事をしているのは、楽で居心地がいいだろうさ。だが、それじゃお前はいつまでたっても今より大きくはなれんぞ。井の中の蛙、大海を知らず、ってな。――なあ、勝利。当たり前のことだが、世の中にはいろんな奴がいる。人間として上等な奴もいれば、性根の腐った奴もいる。毎日を目一杯生きようとしてる奴も、生きながら死んでるような奴もいる。本当にさまざまだ。しかし、いずれにしても、お前がこのまま楽なところで傍観者を決めこんでいる限り、誰との接点も生まれやしない。世の中ってものはな。初めから身の回りにあるものだと思ったら大間違いだぞ。自分の足でそのド真ん中を歩いて初めて、文字通り、世《・》の《・》中《・》になっていくんだ。お前も、そろそろ自分から広い世界を見る努力をしたほうがいい。今度のことは、ある意味お前にとっちゃ、いい機会だと思うがな〉
要するに、その一件こそが、あの夜かれんには話せなかった溜《た》め息の原因だった。いくら彼女があんなふうに言ってくれたからって、『風見鶏』をクビになったなんて言えるわけがない。ほかのバイトとはわけが違うのだ。
「おい、さめるぞ」
我に返った。
のろのろとマグカップに手をのばす。
「――いただきます」
「ああ」
口をつけようとしたとたん、それより先に芳醇な香りが鼻腔を刺激し、細胞の隅々にしみこんでいく。
湯気を吹いて、ひとくち含む。苦みと酸味と渋みの絶妙なバランスが、じわじわと舌の根にしみわたる。のどを通ってすべり落ちていく液体の、こうばしい残り香がふっと鼻に抜けた時、脳がいっぺんに覚醒する。
――うまい。文句なしに、うまいコーヒーだ。僕がどれほどベストを尽くしても、この味にはやはりかなわない。
「どうだ」
僕はただ、うなずくしかなかった。
「いいか、勝利」
麻の布でグラスを磨きながら、マスターは低く言った。
「どんな時にも揺るがないものを、一つでいいから持っておけ。たとえば、そう、うまいと思うコーヒーの味でもいい。あるいは、手本にしたい誰かの背中でも、胸に響いた言葉でもいい。そういう、まわりの状況に左右されない自分だけの基準があれば、いざという時に方角を見失わずに済む。ちょうど、どこからでも見える高い塔みたいなものさ。知らない場所で、たとえ進む道がわからなくなっても、そこへ立ち戻りさえすれば一からやり直せる」
「・・・・・・」
僕は、ゆっくりとコーヒーを飲みほした。
ポケットをまさぐり、小銭を取り出して払おうとすると、マスターは苦笑まじりに言った。
「いらんわ、ばかもん」
「・・・・そう。じゃ、ごちそうさま」
立ちあがり、頭を下げて、ドアへ向かいかけた背中に、
「おい」
ふり向くと、マスターはカウンターの上をあごでさした。
「忘れもんだ」
空のマグカップの横に、縦長の茶封筒。もちろん、忘れたわけじゃない。忘れるわけがない。
「・・・・もらえないよ」
と、僕は言った。
「ほう」
マスターの目が、すうっと細くなった。
「お前、いつから、稼いだ金を俺に恵んでくれるほどえらくなった」
「そ、そういうわけじゃ、ないけど・・・・」
「けど?」
「いっぱい、迷惑かけたし」
「それとこれとは別だろうが。働いてくれた分に関しては、きちんと支払う。お前も、労働の代価はきちんと受け取れ。それが礼儀ってもんだ」
「・・・・・・・・」
仕方なく、戻って封筒を手に取った。
ひどく、軽いような。
それでいて、これまでで一番重いような。
こんな、意味合いも額も中途半端な金、いったいどうしろというんだろう。いたたまれなくて、尻のポケットにねじこむ。
「お前なあ」マスターは溜め息をついて言った。「もう少しシャキッとしろ、シャキッと。若いくせに、背中が丸すぎるぞ」
「・・・・わかってるけど」
「ケドも多すぎる。ったく、この世の終わりみたいな顔しやがって。言っておくが、自分を憐れみ始めたが最後、ますますドツボにはまっていくばかりだぞ。だいたいお前なんぞ、ただのバイトの身だろうが。会社をリストラされたサラリーマンなんかに比べりゃ、はるかにお気楽ってもんだ」
「そりゃまあそうだろうけど。・・・・あ」
マスターが、やれやれと首を振る。
「おい」
「・・・・うん?」
「お前さっき、俺に迷惑かけたとか言ったな」
「・・・・うん」
「よし。なら、罰だ」
「え」
「さぞかし気まずいか知れんが、たまにはここへ寄って、ちゃんと金払ってコーヒー飲んでけ」
僕は、目をそらした。
「返事は」
「・・・・・・・・」
「返事だ、返事」
目を戻す。
濃いヒゲの奥で、唇の片端が三ミリくらい上がるのがわかった。
「――はい」
と、僕は言った。
井戸の底で、くよくよと我が身を嘆いてばかりいる蛙を想像してみる。
あまりの情けなさに、思わず苦笑いがもれる。嘆いているだけの暇や余力があるのなら、井戸から這い上がる努力をするべきなんじゃないのか。
(自分を憐れみ始めたが最後、か――)
マスターの言葉がようやく腹の底まで届いて、徐々に体になじみ始めたのは、結局、それからさらに十日ばかりが過ぎてからだった。言われていることの意味は最初から理解できていたはずだけれど、それはまだ直訳みたいなものでしかなくて、ひとつひとつを咀嚼《そしゃく》して自分なりに翻訳するのにはどうしてもそれだけの時間がかかったのだ。
少なくとも、まだマスターから見限られたわけではないんだ、と僕は思った。『風見鶏』での挽回のチャンスは与えられなかったけれど、それさえも僕のこれから先を考えてくれたからであって、決して切って捨てられたわけではないんだ、と。
ただし――猶予期間は無期限じゃない。
(早く、次のバイトを見つけなければ)
でないと、とうてい顔を上げて『風見鶏』に出入りなんて出来やしない。
ともすればずるずると井戸の底に引き返してしまいそうな気分を無理やり奮《ふる》い立たせて、僕はその日、行きがけに駅のキオスクでアルバイト情報誌を二冊買い、階段教室のいちばん後ろに陣取って講義などそっちのけでページをめくった。
前のほうには、星野《ほしの》りつ子《こ》の小さな後頭部が見えていた。今日は水色のシャツを着ている。
テストが近くなったら、今日のぶんのノートは彼女に借してもらおう。僕のほうが彼女にノートを貸してやったことだって何回もあるのだし、このへんで一回くらい借りを返してもらってもいいはずだ。
けれど、授業が終わると星野は僕のほうを見上げもせずに、仲のいい橋本《はしもと》さんを促《うなが》してそそくさと教室を出ていってしまった。それは、とても珍しいことだった。いつもなら彼女は必ず僕を目でさがし、その後はたいてい橋本さんと三人で学食へ行くことになるのに。
(何か、機嫌を損ねるようなことをしたっけかな)
少し考えたものの、思い当たる節はなかった。というか、本来なら思い当たる節だらけというべきなのかもしれないが、そのあたりのあれこれについて深く考えすぎると、星野とは口をきくことすらできなくなってしまう。
きっと、急ぎの用事でもあったんだろう。そう片づけて肩をすくめ、僕は情報誌を丸めてかばんに突っこみ、飯を食いに行こうと立ちあがった。学食へさえ行けば、安西《あんざい》か岸本《きしもと》あたりがいるはずだ。
――丈から電話がかかってきたのは、その夜だった。
――丈《じょう》から電話がかかってきたのは、その夜だった。
寝転がってテレビをみていたら、八時台を半分くらい過ぎたころ携帯が鳴って、
「ああ?」
と出るなり、奴は下卑《げび》た含み笑いをしながらささやいた。
(おにいさん、いいコ紹介しますよ)
「切るぞ」
と、僕は言った。
(まあそう意地張らずに。ね、教えて下さいよ、どんなコが好みです?すぐお届けしますから)
「じゃあ――巨乳のパツキン」
(またまたぁ)
「教えろって言うから教えたんじゃないかよ」
(えっ)地声に戻って、丈はおそるおそる言った。(勝利《かつとし》って、ほんとは乳でかい女が好みなの?)
「ああ。ホルスタインくらいあるといいな」
(・・・・現実とずいぶん違くねえ? マジで?)
僕は溜め息をついた。
「なわけねーだろ」
(だよなあ!)なぜだかほっとしたように、丈は言った。
(ああびっくりした。ったく、ヒトをからかわねえでくれっての)
「そのセリフ、そのままお前に返す」
(ちぇ、携帯も善《よ》し悪《あ》しだよな、番号ばれてちゃイタズラ電話もできやしねえ)
番号以前に、着メロの段階でばれている。僕の携帯は丈からの電話の時だけ『ゴジラ』のテーマが鳴り響くようになっているのだが、それだって奴がひとの携帯を勝手にいじって設定したものなのだ。
「で、何なんだよ、用事は」
(何よぉ、用がなくっちゃかけちゃいけないのー?)今度はいきなり、わざとらしくもオットリとした裏声になって、奴はのたまった。(ほんのちょっと、ショーリの声が聞きたかっただけなのにー)
「誰の真似《まね》だ、気色悪い」と僕は言った。「じゃあな、切るぞ」
(待てってばさあ)奴はげらげら笑い出した。(オレの用事じゃねえの、おふくろの代理でかけてんの)
「佐恵子《さえこ》おばさんの?」
(うん。今週末にでも、晩メシ食いに来いってさ)
「ええ? なんで」
(なんでって、ヤなわけ?)
「べつにイヤじゃないけどさ、なんで急に」
(知らねえよぉ。でもさ、ほら、前にどっかの誰かが言ってたそうじゃん。時には甘えてやるのも親孝行だ、とか何とかさ)
「な・・・・!」
どっかの誰か、どころじゃない。それは、この僕がかれんに向かって言った言葉だった。ちょうど佐恵子おばさんがイギリスから戻ってきたばかりの頃で、なかなか二人きりになることができなかったから、同じ家にいながら夜中に電話なんかかけてひそひそ話したはずなのだ。なのにその話の内容を、
「なんでお前が知ってるんだよっ」
(へっへー、壁に耳ありってやつ?)
「てめえ、また立ち聞・・・」
(ウソウソ、冗談だって)と丈は笑った。(姉貴がさ、こないだオレに向かっておんなじようなこと言ってさ)
「ような?」
(だから、甘えるのも時にはって話をさ)
「お前なんか、時にはどころか骨までしゃぶりつくしてるじゃないか」
(だからぁ、姉貴にもそう言われたんだよ。たまにだから親孝行になるのよねぇ、って。そんで、姉貴ってば言ったあとで照れたみたいに白状したわけよ。元はと言えばこれも、前にショーリに言われたことなんだけどねー、なんちって。くうぅ〜憎いネこの色男っ、このっ、このっ)
「お前・・・・ホンットうぜぇ」
とは言ったものの――。
何だか、けっこう嬉しかった。そうして思い返してみれば、こんなに不甲斐ない僕だって、これまで付き合ってきた間には少しくらいかれんの役に立つこともあったんじゃないか。まあ、ほんの少しだったかもしれないけれど。
(でさ、どうする? いつ来る?)と、なぜか丈は勢いこんで言った。(明日とかは?)
「なんだよ、ずいぶん熱心だな。明日ならお前も家にいるのかよ」
(あ、えっと・・・・それはちょっと微妙?)
「ああん?」
(でもさ、来るなら早いほうがいいと思うなあ)
「なんで」
(だっておふくろ、勝利のこといっつも心配してんだぜぇ? 風邪ひいてないかとか、一人暮らしじゃ栄養がかたよりがちだとかって)
「わかってるけど」
(実の息子のオレより、勝利のこと心配してることのほうがずっと多いくらいでさあ。こうして離れてるから気になっちまうってのもあるだろうけど、やっぱ、あれなんじゃねえ? 勝利のことは、亡くなった千恵子おばさんのぶんまで自分がちゃんとしてやんなきゃって思っちゃうんじゃねえ?)
「まあ、それもよくわかってるけど」
(心配すんのが生き甲斐みたいなヒトではあるけどさ。たまには顔見せて、安心させてやってよ)
「・・・・・・・・」
(この際、オバ孝行だとでも思ってさ。めんどくさいか知れないけど、親孝行したいときには親はなし、って言うじゃん。な?)
「お前、今日はずいぶん思いやりにあふれてんな」
(あ、やだな、その言い方。オレはもともと思いやりのカタマリじゃん)
丈はしれっと言ってのけた。
僕は、電話のこちら側で眉を寄せた。丈の言っていることはどれもまったく間違っちゃいないが、それにしてもいったいなんだって、ここまで熱心に誘うんだろう?
(勝利だって、そろそろ家庭の味ってやつが恋しくなる頃っしょ?)調子に乗って、丈は続けた。(何なら一晩くらい、ゆっくりこっちの家に泊まってってもいいんだしさ)
ようやく、ピンときた。
「ははぁん」
「なんだよう」
「とか何とか言いやがって、さてはお前、俺が留守の間、一晩この部屋貸してくれとか言うんじゃないだろうな」
「うそ。なんでわかんの」
「お前の考えそうなことくらい、お見通しなんだよ」
てっきりいつものようにヘラヘラ笑い出すかと思ったのに、丈のやつは、少し黙ったあと、なおも真剣な口調で言った。
「・・・・だめかな」
「あ・た・り・ま・え」と、僕は冷たく言ってやった。「ったく、ひとんちをラブホ扱いしやがって」
「・・・・・・・・」
「みすみす京子《きょうこ》ちゃんが餌食《えじき》になんのわかってて、部屋なんか貸せるわけないだろ? 常識で考えろっての」
「・・・・・・・・」
「もしもーし。 ・・・・丈? ・・・・おい、そうイジケんなって。もしもし?」
返事がない。電話の向こうで、無音の状態が続いている。
電波が途切れたかと携帯の画面を見直したが、そういうわけでもなさそうで、おかしいな、と再び耳にあてた時だった。
(常識なんて言葉が聞きたかったわけじゃないんだけどな)
どきりとするような低い声で、丈のやつは言った。
(オレ、ラブホ扱いなんかしてねぇよ。っていうか、あいつ連れてラブホなんか行きたくないから困ってんじゃねえかよ)
今度は、僕が黙りこむ番だった。
(勝利だって、よく知ってんだろ? ほんの十分でも、でなきゃ五分でもいいから二人っきりになりたいのに、そういう場所がどこにもない辛さをさ。勝利なんか、まだいいほうだよ。ずっと姉貴と同じ家で暮らせて、オレみたいな出来た弟に見守られてさあ、そりゃ親父とおふくろが戻ってきてからはイラつくこともあったろうけど、結局そうやって一人で部屋だって借りられてさ。オレらなんか、ケンカだってガッコの廊下とか、帰りの道ばたとかでするしかないんだぜ? そんで、仲直りしたくたってせいぜい携帯でするっきゃないんだぜ?)
「・・・・・・・・」
(そういうの、勝利ならわかってくれると思ったのにな)
「・・・・悪かったよ」
と、僕は言った。
(なのに、常識がどうとか言われちゃたまんねえよ)
「だから、悪かったって」
(ったく、いいかげんキレそうだよ)
「わかるけど、俺相手にキレてどうすんだよ」
(・・・・・・・・。ごめん)
僕らは、ほとんど同時に溜め息をついた。
気まずい沈黙が漂う。
(なんか、悪ィ。話がへんなほうに転がっちゃって)苦笑混じりに丈が言った。(なんつうかさ。何でも、焦《あせ》るとロクなことないよな)
今の話について言ったようにも、京子ちゃんとのことについて言ったようにも聞こえた。
(とにかくさ。うちには、来るっしょ?)
「ああ、行くよ」
(おふくろには、いつって言っとく?)
まだちょっと予定が見えないから、明日にでもまた電話する――。
そう言って、僕は携帯を切った。せっかく花村《はなむら》家へ行くのなら、かれんが早く帰れる日がいい。彼女にも相談してから、日にちを決めようと思った。
それにしても、誰かの恋の話をきくと、妙に人恋しくなってしまうのはなぜなんだろう。
再び寝転がり、絞ってあったテレビの音量を元に戻しながら、ふと、隅に寄せてあるパイプベッドに目をやる。引っ越しの日、鼻唄混じりにこれを組み立ててくれたのは丈だった。
〈これってさあ、二人で寝るにはちょっと狭すぎんじゃねえの? あ、でもそのほうがいいのか。狭けりゃ狭いだけ、ぎゅうっと抱き合って寝られるもんねー〉
そんな減らず口をたたいては、ゆでダコになったかれんにポカスカ叩かれていたのを覚えている。
――そういえば奴も、来年の春には高二になるんだよな。
僕がかれんに惚れたのも、高二の終わり。あのころ丈はまだ子供コドモした中坊で、手足の長さばかりが目立っていたのに、いつのまにか背丈も肩幅も僕とほとんど変わらなくなり、野太い声で話すようになり、好きな子をラブホには連れて行きたくないなんてことを平気で抜かすようになり・・・・。
思わず、苦笑がもれた。なんだかひどく年を取ったような気分だった。
――仕方がない。この際、一肌脱いでやるとするか。
今週末は、久々に花村の家に泊まりかな、と思ってみる。丈のやつが、必ずしも自分で言うほど「出来た弟」だったとは思いたくないが、それでもやはり彼がいなければ、かれんと僕の今は無かったに違いないのだ。
大学での友人たちの中には、当たり前のことながら地方から出てきている者もけっこういて、その多くは、ときどき親元から届けられる宅配便(中身は米とか野菜とか、保存食とか防寒着とか)に文句をたれていた。
(わざわざそんなもん買って送るくらいなら、そのぶん金送ってくれっての)
というのが、彼らのきまって口にする言葉だった。
そういうのを聞かされるたびに、付き合いで適当に相づちを打ちながらも、
(お前ら、心配してくれる親がいるだけでもありがたいと思えよな)
と、内心苦々しく感じていたものだが――。
「さあ、どんどん召し上がれ」
新たに目の前に置かれた煮物の大皿を見て、僕は思わず呻《うめ》いた。
「佐恵子《さえこ》おばさん、もういいって。ゆっくり座って一緒に食べようよ」
「大丈夫、ちゃんと食べてるわよ」
言いながらも、おばさんはひとときもじっとしてはいない。
土曜の夜。いつもより早めに帰ってきた花村《はなむら》のおじさんと、佐恵子おばさんと、かれんと、僕。
四人で囲む食卓がキッチンの小さなテーブルでは落ち着かないからと、その夜は居間での食事となったのだが、おばさんはまるで振り子みたいに休みなくキッチンとの間を行ったり来たりしていた。僕や花村のおじさんのグラスが空になるやいなやビールを注ぎ、小皿がなくなれば新しいのを出し、料理は料理で、出来たのから次々に運んでくる。運ぶのはかれんにも手伝わせていたけれど、作ったのは(当然)おばさん一人だったはずで、いったいどれだけ時間をかけたのだろうと思ったら、ありがたさと申し訳なさが半々といった感じだった。
と同時に、ちょっとだけ、例の友人たちの気持ちがわかるような気もした。ここまで大げさに世話を焼かれてしまうと、正直なところ、少しばかり鬱陶《うっとう》しくなってくる。こんなことを考えるなんてバチ当たりだとは思うけれど、つい、自分で好きなようにやるからほっといてくれ、という言葉が口をついて出そうになる。叔母という人との――それも、今はもういないおふくろの妹である人との――距離の取り方ってやつは、簡単なようで、けっこう難しい。
「ほら勝利《かつとし》、ごぼうの煮たのも、カキフライも、いっぱい残ってるわよ。おかわりは?」
「いやもう俺、」
「遠慮なんかしないで」
「してないよ、そんなの」
「じゃあもっと食べてちょうだいよ。今夜は丈《じょう》も帰ってこないし、こんなに残されたって困っちゃうんだから。ほんとに丈ったらもう・・・・よりによってこんな日に、友だちのとこへ泊まりに行かなくたってねえ。土日は勝利が来るからね、ってちゃんと言っといたのに」
ねえ、と、かれんを見やる。向かいのソファ、花村のおじさんの隣で、かれんは、熱々の里芋を頬ばりながらハフハフと首をうなずかせた。
「いいよ、べつに。あいつとは、ふだんからしょっちゅう会ってるんだし」
ほんとは(友だちのとこ)なんかじゃないんだけどな、と、僕は膝に目を落とした。何しろ当人は今ごろ、僕の部屋で京子《きょうこ》ちゃんと二人、念願の水入らずを楽しんでいる真っ最中に違いないのだ。
「まあ、あいつにはあいつの事情があるんだろうしさ」
「それにしたって、ねえ。せっかくご馳走だってこんなに作ったのに、もう、張りあいがないったら。いっそのこと、今からでもやっぱり帰ってきなさいって電話しようかしら」
「えっ! そ、それはいくら何でもやっぱ、アレでしょ、可哀想ってもんでしょ」
「可哀想なのは親のほうだわよ」
「いや、でもさあ」
なんだってあいつのためにこっちが冷や汗をかかにゃならないんだ、と思いながら、僕は急いで、おばさんを納得させる言葉を探した。
「あの年頃ってさ、親とかイトコなんかより友だちのほうがうんと大事でさ。俺にだって覚えがあるけど、でも、それが普通なんだよ。そうやって自立心みたいなもんが育ってくわけでさ」
「そういうものかしらねえ」
佐恵子おばさんは、残ったポテトサラダを菜箸《さいばし》できれいに寄せ集めながら、やれやれと首を振り、なぜだか、ちらりとさぐるように僕を見た。
「あの子ときたら、このごろ何考えてるのかよくわからなくて。この子が高校生の頃は、もっと色々話してくれたのに、ねえ?」
と、再びかれんを見やる。かれんは微笑んで肩をすくめた。
「しょうがないわよう。男の子だもの」
「そうだよ、そうそう」僕は勢いこんで言った。「男なんてそんなもんだよ。あんまりこう、干渉しすぎもよくないんじゃないの?」
かれんが、ちょっと不思議そうにこっちを見る。
露骨にかばい過ぎたろうか、とヒヤリとした。丈との約束で、今夜のことはかれんにさえ話していないのだ。
高校一年で、つきあっている彼女とそういう時間を持つのが早すぎるのか、それとも普通なのかは、僕にも正直よくわからない。親や教師だったら、眉をひそめることなのかもしれない。
でも僕はただ――自分の目でずっと見てきた丈を信じているだけだった。あの丈が、きちんと京子ちゃんと話し合って選んだことなのだったら、僕が横からとやかく言うことではないという気がした。親に対して秘密を作る手伝いをしていることに、少しの後ろめたさがないと言えば嘘になるけれど、そういう僕だって秘密なんか山盛り作ってきたのだし、それをあまり悪いことだとも思っていない。自分の力で責任が負えなくなることだけはするまいと思うけれど、丈だってその点では同じ考えのはずで、だからこそ、冗談めかしてではあるにせよ、(気持ち)の箱詰めなんかよこしたりするんだろう。あいつがああ見えて決して馬鹿じゃないってことは、何より、この家で一緒に暮らした年月が証明している。
でも――。佐恵子おばさんにしてみると、息子の親離れがよほど寂しいのだろうか、すっかり愚痴モードだった。
「つまんないわねえ、男の子なんて。せめてもう少しくらい、自分のこと話してくれればいいのに」
「しょうがないさ、それは」
ずっと黙って聞いていた花村のおじさんが言って、煙草をもみ消した。
「成長の過程で親に話さないことが増えていくのは、とくに男の場合、当たり前のことだしな」
「まあ、そうなんでしょうけど」
そして佐恵子おばさんは、またちらりと僕を見た。
何なんだろう、と思った。もしかして丈のやつが、何か尻尾をつかまれるようなことをポロリと言ってしまったんだろうか。それでおばさんが僕を疑っているとか、そういうことなんだろうか。気にはなるけれど、面と向かって訊《き》くわけにもいかない。
「大丈夫だって」と、僕は言った。「男なんて、ほっといても適当に育つって。おふくろナシでここまで立派に育った俺が言うんだから間違いないよ」
「よく言うわ」
と苦笑した佐恵子おばさんの横顔が、なんだかひどく寂しそうで、
「あ、ええと・・・・」僕は思わず言ってしまった。「そのポテトサラダ、すっげぇうまかった。もう少しもらおうかな」
佐恵子おばさんがようやく顔を上げ、いそいそと皿を手に取る。
「ちょっとでいいよ・・・・あっ、ほんとにちょっとでいいんだってば! そんなに盛っても食いきれないって」
「何を言ってるのよ、若い人が」
ポテトでできたエベレストを僕に渡しながら、おばさんは言った。
「あららら、テーブルにお皿がのらなくなってきたわ。さっさと食べちゃってよ。でないと、後がつかえてるんですからね」
「えっ。まだ何かあんの?」
「もちろんよ、メインがまだじゃないの」
「いや、もう食えないってば、マジで」
「そんなこと言わないで」おばさんはひどく悲しそうに言った。「ゆうべから下ごしらえしたのよ。豚肉を糸で縛るところから始めて、うんと本格的なのを作ったんだから。これでおいしく食べてもらえなかったら、豚が化けて出るわ」
化けて出るのは豚じゃなくて佐恵子おばさんなんじゃないかと思うくらいの、うらめしそうな口ぶりだった。
面白そうに眺《なが》めていた花村のおじさんが、
「勝利、なんならそのへんを一周走ってきたらどうだ」
「ええ?」
「そうすりゃあ胃袋に空きができるぞ、きっと」
「あ、それ、いい考えかも」かれんまでがクスクス笑って言った。「ほら、よく入浴剤とかのいれものに書いてあるじゃない。『容器の上部に空間があるのは、輸送中の振動によるもので、中身の量は表示のとおりです』って」
「俺はバスクリンかよ」
「お前、そんな細かいとこまでよく読んどるなあ」と、おじさんがつくづく感心したように言った。「毎晩、長風呂なのはそのせいか」
「えー、そんなに長いかなあ」
「長いさあ。よくまあふやけて溶《と》けないもんだ」
「あ、失礼しちゃーう。カラスの行水の誰かさんと比べないで」
久しぶりに耳にする(父)と(娘)の会話をよそに、僕はサラダと煮物を頬ばっては必死で飲みくだした。
それもこれも、うっかり丈のやつにほだされてしまったせいだ。ったく、この恩はきっと何かで返してもらうからな。
メインの焼豚や炒め物と一緒にキノコのまぜ御飯が出て、それをどうにかギリギリたいらげ終わると、デザートにはフルーツの盛り合わせと、自家製の特大プリンが出た。
いろんなものをちょっとずつ食べていたかれんは大喜びだったが、僕はもう、腹の皮がぱんぱんに張りすぎて痛いくらいだった。オヤゴコロもここまで来ると、一種の拷問じゃないかと思えてくる。
その頃には、花村のおじさんは例によって出来上がってしまい、テレビの前に寝転がっていた。
佐恵子おばさんが次に席を立った隙に、僕は、半分くらいに減ったかれんのプリンをスプーンごとひったくり、一口だけ食べた僕のやつを代わりに押しつけた。
「わあ、いいの?」
「いいも何も」と小声で呻く。「さすがに限界」
かれんが、ふふふ、と笑ってプリンを口に運ぶ。
「ん。おいし」
「丈がいなくてよかったな」
「どうして?」
「見てたらまた『間接キッスだー!』とか叫ばれてたぜ、きっと」
「あ・・・・」
頬を赤らめ、何とも言えない表情になった彼女が、きゅっと鼻のあたまにしわを寄せて僕をにらんでみせる。
それからふと真顔に戻ると、
「ねえ、ショーリ」さらに声を小さくして言った。「お料理、全部食べてくれて、ありがとね」
「え?」
「母さん、嬉しそうだった。ショーリはほら、うちにいた頃、毎回ちゃんと『おいしい』って言って食べてくれてたじゃない? けど、丈や父さんはあんまりそういうこと言わないから。ただ黙々と食べるだけだから。私はなるべく言葉にするようにしてるけど、そんなにたくさんは食べられないし・・・・母さん、せっかく作っても張りあいがないんだと思うの」
「――そういえばお前、介護福祉士の話、おばさんにしたのか?」
「ううん、まだ。母さんてば、このごろとみにあんなふうだから、話すきっかけがうまくつかめないの」
テレビの野球中継を縫って、おじさんのいびきが聞こえてくる。
ふいに押し寄せてきた懐かしさに、僕は思わず息をとめた。
思えば、今の部屋が見つかって、かれんに打ち明けた時もこんなふうだった。あの夜のかれんは浴衣姿で、髪をゆるやかに結い上げていて、あたりは夏の気配に満ちていたけれど、やっぱりテレビからは野球中継が聞こえていて、花村のおじさんのいびきも今と同じだった。
この家で毎日そんなふうに過ごしていたのはほんの数ヶ月前のことなのに、なんだかまるで、前世の思い出のようだ。
と、
「ああっ、いけない」
キッチンから佐恵子おばさんが叫ぶのが聞こえた。
「シチュー出すのすっかり忘れてたわ! ゆうべからコトコト煮込んだのに。勝利、食べてくれる?」
かれんが、噴きだしそうな目をして僕を見る。
「・・・・食うよ。喜んで」
と、僕は言った。
さすがに後片づけくらいは手伝うつもりだったのだが、それすら佐恵子《さえこ》おばさんに押しとどめられてしまった。子どもらだけで同居生活をしていた頃はともかくとして、女が二人もいるのに、殿方に台所を手伝わせるわけにはいかないというのだ。
こういう考え方の母親のもとで、どうしてタクアンもまともに刻《きざ》めないような娘が育ったのか理解に苦しむところだが、この〈母娘〉の場合、そのへんのことをうかつに話題にすると冗談では済まなくなってしまうおそれがある。
(あんまりお客扱いされても、かえって落ち着かないんだけどな)
と思いながら居間へ引き返し、つけっぱなしのテレビの前でぼんやり夕刊をひろげていると、電話が鳴った。
おばさんの洗う食器を拭いては片づけていたかれんが廊下に出ていって、受話器を取る。
「はい、花村《はなむら》でございます」
少しよそいきの声に、思わず微笑がもれる。
「もしもし? ・・・・あの、どちら様ですか? もしもし?」
僕は、目をあげた。何だか様子がおかしい。
かれんはやがて、首をかしげながら戻ってきた。流しに向かっている佐恵子おばさんに、
「また切れちゃった」
と言うのが聞こえる。
「いやだ、またなの? 気持ちの悪い」
僕は、立っていってキッチンを覗きこんだ。
「なに、どうしたの」
佐恵子おばさんは眉を寄せたままふり向いた。
「ああ、それがねえ。さっきから、変な電話が何回もかかってきてるのよ」
「今ので三回目なの」
と、かれん。
僕は思わず眉を寄せた。
「さっきからって、今日だけで三回?」
「そう。夕方からこっちだけで」
「変なって、どういう感じに変なわけ? 何かやらしいこと言ったりするとか?」
「ううん、ただずーっと黙ってて、それからプツッて切れるの」
「三回ともお前が出たのか?」
「ううん、一回目は母さん」
「ただの間違い電話ならいいけど」と、佐恵子おばさんは言った。「このごろはほら、何かと物騒だから。年頃の娘を持つ親としては気が気じゃないわよ」
それを言うなら、年頃の娘を恋人に持つ僕だって気が気じゃない。
「今度鳴ったら、俺が出ようか? いっぺんガツンと言ってやれば、もうかかってこないんじゃないかな」
「そうね、そうしてもらえると助かるわ」
佐恵子おばさんはほっとしたように言って、それから、やれやれという目で居間のほうを見やった。
「こういうときに頼りになる男の人が、うちにはいないから」 視線の先では、花村のおじさんが気持ちよさそうに口を開けて、うたた寝の続行中だった。
「かれん、そろそろ父さん起こしてちょうだい。あのままじゃ風邪ひいちゃうわ」
「はーい」
出ていきかけたかれんが、
「あ、ねえショーリ」
ふと振り返る。
「うん?」
「気分直しって言うとあれだけど、よかったら、みんなにおいしいコーヒーいれてくれる?」
「・・・・オッケ、まかしとき」
と、僕は笑ってみせた。
でも、正直なところ――少しだけ気が重かった。こんなことは今までなかったことなのだけれど、『風見鶏《かざみどり》』での失敗以来、コーヒーをいれることは僕にとって小さな苦行のようになってしまっている。
毎朝、自分のためにいれる一杯ですらそうだ。特別に手元に集中することなく、それこそ目をつぶっていてもいれられるくらい体に染みついた作業のはずなのに、どうしてあの時に限って、あんなひどい味のしろものを、それも常連客に出してしまったのだろう。考えれば考えるほど、自分が不運に思えてくる。あれはどう考えても僕自身の失敗であって、不運だったなんて思うこと自体が責任転嫁でしかないことはわかっているのに、それでも我が身を憐れみたくなってしまうのだ。
三人分のコーヒーと、カフェオレをひとつ。
これまでだったら鼻唄まじりでこなしていた作業なのに、なんだか、ものすごく緊張した。まるで、とつぜん歩き方がわからなくなったみたいだった。足はどっちから出せばいいんだっけ。そのとき手はどう動かせばいいんだっけ、と、そんな感じだ。
(どんな時にも揺るがないものを持て、か・・・・)
今の僕に思いつく〈揺るがないもの〉といえば、そう、かれんへの気持ち、くらいしかない。
でも、マスターがあの時、そういうもののことを指して言ったのでないことくらいはわかる。マスターが言おうとしたのはたぶん、誰かとの関係の上に成り立つものとか、注ぐ対象を必要とするものじゃなくて、あくまでも自分だけの中で完結するもの、自分一人が芯とするべき何かなのだ。
居間から、おじさんを優しく揺り起こしているかれんの声が聞こえてくる。
いつかは僕にも、あんなふうに彼女に揺り起こしてもらえる日が来るんだろうか。どんなに先だとしても、そういう日が来るとはっきりわかってさえいたら、いま目の前にあるどんな悩みや日常も屁でもないのに・・・・。
ひそかに溜め息をついて、僕は、湧き上がったやかんを火からおろした。
目を覚ます間際まで、柔らかであたたかな体を抱きしめている夢を見ていたせいか、最初に目に映った天井に何の違和感も覚えなかった。何しろ、その体の持ち主と暮らしていた二年の間、毎朝毎晩見上げていた天井だ。
僕がベッドや机を置いて使っていたこの部屋は、今は客を泊めるための部屋になっていて、時折りやってくる親父と明子《あきこ》姉ちゃんたちがそうするのと同じく、僕も布団を敷いて寝たのだった。そのぶんだけ、見慣れた天井の模様が少し遠い。
まだかすむ目をごしごしこすりながら、ふと、足元のドアへと向ける。思い出すなり、頬がだらしなくゆるんでしまった。今の今まで腕の中にいたかれんはただの夢でしかなくても、ゆうべそこに立っていた彼女はまぎれもない現実なのだ。
接待ゴルフで朝が早いおじさんは、ゆうべあれからコーヒーを飲むとさっさと風呂を済ませて二階に寝に行き、続いて僕が先に入らされ、ガスレンジを磨いている佐恵子おばさんに言われてかれんが入り――最後におばさんが風呂場の折れ戸を閉めたと同時に、僕は半ば強引にかれんをうながして、この部屋に引っぱりこんだのだった。
ドアを細く開け、物音に耳をそばだてながらも、僕らは互いの体に腕をまわして抱きしめ合い、何度もキスをかわした。相手の体や髪から、同じ石けんとシャンプーの香りが漂うのが嬉しかった。
親たちがこんなに近くにいるにもかかわらず、かれんは、二人きりで僕のアパートにいる時よりリラックスしているようだった。こみあげてくるものにたまらなくなって僕が仕掛けた〈上級者向きのキス〉にも、いつもより積極的に応えてくれたくらいだった。こういうシチュエーションでなら、どんなに僕が男として興奮しようが、絶対に最後までいくわけがないとわかっていたからだろうと思う。
それでも、薄地のニットの裾からそっと忍び込んだ僕の手が背中にじかに触れるなり、彼女はまるでやけどしたみたいに飛びあがった。小さな悲鳴が、僕の口の中でくぐもって響いた。
〈大丈夫だから〉
僕のほうも内心はけっこう必死で、でも懸命に平静を装ってそんなことを言った気がする。
〈こうしてるだけだって。へんなとこ触ったりしないから〉
〈じゅ、じゅうぶん、へんなとこだと思うけど〉
消え入りそうな声で、かれんがささやく。
〈へんじゃないよ。ただの背中だろ〉
同じ理屈で、ただの胸だろ、とか言うことだって出来たはずだが、さすがに決心がつかなくて、そのかわり、僕はもう片方の手も同じようにすべりこませ、両手で彼女の背中をぎゅっとつかむようにして抱き寄せた。かれんが、泣くような声をもらして背中を反り返らせ、僕にしがみついてくる。
お互いの心臓がばくばく音を立てているのがわかった。僕に限って言えば、緊張のせいばかりではなかった。あまりにも強烈な興奮で、頭のネジが端から一つ残らず吹っ飛びそうだった。
なめらかな背中を撫でさすり、背骨の溝にそって指を這いのぼらせていくと、つるりとした固い布地に阻まれた。びくっとなったかれんが、早口にささやく。
〈だめ〉
それでも僕の指がそこでぐずぐずしていると、かれんは、必死に首を横に振った。
〈だめ。だめだめだめッ、今はだめ!〉
〈じゃあ、いつになったらいいんだよ〉
〈とにかく今は絶対だめ! お願いっ〉
押しひそめた声はあまりにも切羽詰まっていて、僕はしぶしぶ、てのひらを後戻りさせた。
かわりに、やみくもに背中に手を這わせる。すべすべの肌が、上質ななめし革のような艶《なま》めかしさでてのひらに吸いついてくる。
背中でこれなら、ほかの場所の手触りはどんなふうなんだろう。おなかは・・・・? それとも、胸は?
風呂場から、シャワーの音が聞こえてくる。
そういえば、ずっと前に一度だけ全裸のかれんを目撃したのもここの風呂場だった。あのまぶしいくらい白い胸がくっきりと脳裏に浮かんだ。今ならさすがに、実物を目にしたからといって鼻血を噴くことまではないと思うけれど、それでも考えただけで体じゅうの血が沸騰しそうになる。
我慢、できなかった。
かれんの腰をきつく引き寄せて動けなくすると、僕は、今まででいちばん激しいキスを送り込んだ。舌の根が痛くなるくらい深く、彼女の口の中をむさぼり尽くす。
やがて、とうとう立っていられなくなったかれんがへなへなとくずおれそうになるのを、脇を支えて抱き上げるようにしながら、僕は彼女を壁に押しつけ、その肩で波打つ湿った髪に顔をうずめた。情けないくらい、息が乱れていた。
どうにか呼吸を整えながら、
〈これまで――さんざん、えらそうなこと言ってきたけどさ〉
こんなことを言ってしまったら彼女は引いてしまうだけだとわかっているのに、止められなかった。
〈俺・・・・正直、もうあんまり長く我慢できる自信、ないかも〉
耳に届いているのかいないのか、かれんは、同じくらい乱れた息のまま黙っていた。
〈お前が本当にいやがることだけはしないつもりだけど・・・・やだって言われたら、ちゃんとやめるつもりではいるけど・・・・それでも、もし俺のこと怖かったら、無理してあの部屋に来なくてもいいよ〉
かれんののどが、何かを飲み下すようにこくりと動くのがわかった。何度かそれがくり返された末に、彼女が、ようやく口をひらく。
でも、その答は聞けなかった。風呂場の折れ戸が開く音がしたからだ。
客用の布団にくるまって、大きく深呼吸をした。
ヤバい。こんなことをつらつら考えていたせいで、朝っぱらから、というか、朝っぱらだから、というか、気がつくとたいへんヤバいことになってしまっている。
かといって一番手っ取り早い解決法に走るのは、この家ではどうにも気が引けて、僕は仕方なく、意のままにならない自分の体の一部にこんこんと物の道理を説いて聞かせ、今週末までに提出しなければならないレポートの内容やら、さらにはネアンデルタール原田《はらだ》の鼻の穴などを思い浮かべるに至って、どうにかこの場は落ち着いてもらうことに成功した。まったく、これじゃまるで苦行僧だ、と苦笑いがもれる。
でも――ほんとうの苦行がまだその後に控えているなんて、どうしてその時の僕にわかっただろう。
十一時頃になって佐恵子おばさんは、かれんに昼飯のための買い物を頼んだ。荷物持ちを装って一緒に出かけようとすると、
「あ、勝利《かつとし》はいてくれる?」と、おばさんは言った。「ちょっと、相談があるの」
「あ、勝利《かつとし》はいてくれる?」と、おばさんは言った。「ちょっと、相談があるの」
僕より先に、かれんがきょとんとしてふり返った。
「相談? なんの?」
「あんたはいいのいいの。ちょっとね、和泉《いずみ》の家のことや何か」
「・・・・ふうん」
彼女は小さく肩をすくめ、僕のほうをちらっと見て微笑んだ。
「じゃあ、行ってくるね」
「ああ。気をつけてな」
玄関のドアが閉まる音を聞きながら向き直ると、佐恵子《さえこ》おばさんは、わざわざ二人分のお茶をいれ直しているところだった。
そんなにこみ入った話なんだろうか。
「座って」
「・・・・・・・・」
言われたとおり腰をおろす。
僕の前に湯呑みを置いたおばさんが、自分のを両手で包み込むようにして向かい側に座り、僕をじっと見る。
なんとなく、面倒なことになりそうな予感がした。
だいたい、これまで一度だって、佐恵子おばさんが和泉の家のあれこれに口をはさんだためしはないのだ。おふくろが死んだ後も、陰になり日向になり手をさしのべてくれこそすれ、必要以上に男やもめの世話を焼こうとしたこともなければ、僕に対する親父の教育方針(そんなものがあったとしてだが)についてとやかく言うこともなかった。ひとまわり以上も年の違う明子《あきこ》姉ちゃんと親父が所帯を持つと決まった時も、その明子姉ちゃんがすでに妊娠していると知らされた時も、驚きこそすれ、異を唱えはしなかった。むしろ親父のために本当に心から喜んでくれたのだ。
それが、今になって、何だというのだろう。
「・・・・で?」
切り出しにくそうなおばさんの代わりに、僕はさらりと言ってみた。
「親父が、どうかしたの」
おばさんは、黙って首を横に振った。
「じゃあ何。もしかして、明子姉ちゃんのこと?」
また首を振る。
「なんだよ、気になるなあ」
落ちつかなさをまぎらわそうと、僕は背筋を伸ばして座り直した。
「いいよ、この際だから何訊《き》いてくれても。絶対にここだけの話にしとくから。俺、これでもけっこう口固いしさ」
冗談めかして言ってみたのだが、とたんに佐恵子おばさんの、どことなくとがめるような視線にぶち当たった。
「――そうみたいね」
「え?」
「というより、秘密主義なのかしら。あんたやうちの人に言わせると、男の子なら当たり前ってことになるのかもしれないけど」
「・・・・どういう意味?」
「勝利」
ふだんはめったに耳にすることのない深刻な声で、佐恵子おばさんは言った。
「あんた何か、大事なことを隠してない?」
僕は、眉を寄せた。
「親父たちのことで?」
佐恵子おばさんは、またしても首を振った。
「いいえ。ほんと言うと、和泉の家とはぜんぜん関係ないの」
「は?」
「いいから。とにかく、私たちに隠してることがあるんじゃない?」
心臓が、不穏な動悸《どうき》を打ち始めた。
「べつにそんな・・・・」
「正直に言ってちょうだい」
「いや、急にそんなこと言われてもさ」
思い当たることがないわけではない。かえって、幾つもありすぎて、いったい佐恵子おばさんがどの隠し事のことを疑っているのかわからないのだ。
かれんに対して、和泉の家に関する相談だなんて嘘をつかなければならなかったということは、彼女の身辺に関することなんだろうか。まさか、例の出生の秘密を僕が知っていることに気づいた、とか? ・・・・いや、それはまずないだろう。とすると、ゆうべの丈《じょう》の外泊についてだろうか? 可能性としては一番ありそうな線だが、うかつなことを言えばヤブヘビになりかねない。
「わかんないよ、何のことだかさっぱり」
と僕は言った。まったくの本音だった。
おばさんは、なおもじっと僕を見ていたが、やがて椅子の背もたれによりかかって長々と息を吐いた。
「星野《ほしの》、りつ子《こ》さん・・・・」
思わずぎくりとなった僕を見つめながら、
「っていったわよね、あの子」
「・・・・彼女が、何」
「おとといだったか、駅前でばったり一緒になったんだけど」
「・・・・・・・・」
「あんた、あの子と付き合ってたんでしょ?」
「付き合ってなんかいないってば」
「だって前にうちに連れてきた時は・・・・」
「だからあれは、ただそこまで一緒に帰って来ただけなんだって」半《なか》ばうんざりしながら、僕は言った。「近所に住んでるってだけで、べつにわざわざ送ってきたわけでも連れてきたわけでもなくてさあ」
「そうなの?」
「そうだよ。あの時だって何度もそう言ったのに、おばさんが勝手に誤解しただけだろ?」
「でも、彼女のほうは一度も否定しなかったじゃない」
「だからそれは・・・・」
そのへんについては、とても一言や二言では説明できない。でも、今はそんなことより、おばさんの話の核心が全然見えなくて、
「いいよ、それはもう」僕は内心いらいらしながら言った。「それで、星野がどうかしたの」
「あの人、陸上部のマネージャーさんでもあるんでしょ?」
「そうだけど?」
「なのに、どうして今になるまであんたの引っ越しを知らされてないの。彼女、びっくりして、」
「えっ、うそ」
思わず、大きな声が出てしまった。
「それ、星野にしゃべっちゃったわけ?」
「しょうがないでしょう」
さすがに佐恵子おばさんの口調が弁解がましくなった。
「こっちは、まさか内緒にしてるなんて思ってもみないもの。それならそうと言っといてくれなくちゃわかるわけないじゃないの」
「いや、あの、何もおばさんを責めてるつもりじゃなくてさ」僕は、慌てて言った。「ただ・・・・どういうふうに話したのかなと思って」
「一人暮らしの男の子なんてどうせろくなもの食べてないかもしれないから、時には気をつけてあげてちょうだいね、って」
「なっ、なんで星野にそんな」
「だから、あんたたち二人が付き合ってるとばかり思ってたから」
僕は、深いふかい溜め息をついた。
そうして、できるだけ恨めしそうに聞こえないように、何とか口調を抑えながら言った。
「もういっぺん言わせてもらうけどさ。星野とは、ほんとに、ただの友だちでしかないんだよ」
もういっぺん、どころじゃない。何度目だろう、この言葉を口にするのは。
でも、おばさんの表情は硬いままだった。
「あんたはそうでも、向こうはそう思っていないようね」
「・・・・・・・・」
「ずいぶんショックだったみたいよ。あんたに隠し事されていたのが」
ばれたのは誰のせいだよ、と、胸の内で毒づく。
僕だって、一人暮らしを始めたことを永遠に星野に黙っていようと思っていたわけじゃない。原田《はらだ》先輩にはとりあえず黙っていてくれるように頼んだものの、ずっとこのままでは借りを作っているようで落ち着かなかったし、何より、このことが万一ほかから星野の耳に入ったら決していい気はしないだろう、それどころかかなり面倒なことになるだろうと、それがわかっていたから、いつかは――そう、ほんとうに近いうちには、折を見て話そうと考えていた矢先だったのだ。
でも、こうなってしまった後では、それを星野に言ってもただの言い訳にしか聞こえないだろうな、と僕は思った。何だか、あいつに対してはいつも同じ失敗ばかりくり返しているような気がする。
それにしても――佐恵子おばさんの、この固い態度はどうしたことだろう。秘密を秘密だと思っていなかったわけだから、しゃべってしまったのもおばさんの落ち度というわけではないにしろ、結果的に甥《おい》っ子がまずい立場に追い込まれたには違いないのだから、とりあえず謝ってくれるのが筋というか・・・・いつものおばさんならとっくにそうしているんじゃないかと思うのだ。少なくとも、こう一方的に僕を責めてばかりというのは、どうも腑に落ちない。
「だいたいね」と、おばさんはなおも続けた。「ただの友だちでしかないって言うならよけいに、どうしてそんなおかしな隠し事しなきゃならないのよ」
「だから、それにはいろいろと事情が・・・・」
なんだかひどく混乱してきて、僕は額を押さえた。
「あのさ。さっきおばさんが俺に、隠してる事はないかって訊いたのはそのことだったわけ?」
ためらうように佐恵子おばさんが口をつぐみ、湯呑みに目を落とす。
「――いいえ」
「じゃあ、何」
黙っている。
「何なんだよ」
すると、佐恵子おばさんは思いきったように目を上げて、一息に言った。
「勝利。あんた、かれんと付き合ってるって本当?」
「・・・・・・・・」
その瞬間、真っ白にとんだ頭の中を、ありとあらゆる答えが駆けめぐった。まるで、液晶の画面上を文字列が流れていくみたいな感じだった。
何か――早く何か言わなければ、疑われてしまう。それを肯定しているも同じことになる。いや、しかし、そもそも肯定して何がいけない? ほんとうのことなんだから認めてしまえばいいじゃないか、そうすればもう誰に隠し事をする必要もなくなるし、うんと気も楽になる、だいたい、こんなにもかれんを大事に想っているこの気持ちを、同じように彼女を大事に思う親に向かってどうしていつまでも否定し続けなきゃいけないんだ? たとえ反対されたとしても、二人の気持ちさえ確かならいくらだって乗り越えられるじゃないか。それとも、それを心から信じられずにいるのは、この僕自身なのか?
実際には、ものの一秒か二秒ほどの空白だったはずだ。
それが、永劫に続く責め苦のように思えた。
のどがゴクリと音をたてそうになるのを必死にこらえる。目線が宙をさまよわないように腹に力を入れて、僕は、ようやく言った。
「星野から――聞いたんだ?」
おばさんは、黙っている。
「彼女、どういうふうに話した?」
「その前に」表情と同じくらいこわばった声で、佐恵子おばさんは言った。「訊いたことに答えてちょうだい。本当に、かれんと付き合ってるの?」
表情と同じくらいこわばった声で、佐恵子《さえこ》おばさんは言った。
「訊《き》いたことに答えてちょうだい。本当に、かれんと付き合ってるの?」
「・・・・・・・・」
答えたいのに、言葉が出なかった。まるで、思考を声に変換する装置が壊れてしまったみたいな感じだった。
〈ああ、そうだよ〉
と。
〈もうずっと前からなんだ〉
と。
星野《ほしの》に対して以前そうしたのと同じように、思いきって話してしまうことが出来たなら、どんなによかっただろう。
でも、今の僕には、まだ出来なかった。まだ――というか、同時にそれは、もう出来ない、でもあった。僕自身が佐恵子おばさんたちに安心してもらえるほど大人でないという意味では「まだ」だが、かれんに向かって、これからは相談もなく誰かに秘密を話したりしないと約束したという意味においては「もう」なのだ。いくら相手が佐恵子おばさんだからといって、いや、佐恵子おばさんだからこそ、こんな大事なことをなし崩しに話してしまうわけにはいかない。僕らがこれまでの年月をどういうふうに過ごしてきたか、お互いをどれほど大事に思い、どんなにかけがえのない相手だと考えているか・・・・そういったこと全部をきちんとした形で打ち明け、親たちにわかってもらうためには、かれんにはかれんで、僕には僕で、まだまだやらなくちゃいけないことが山ほどある。
「勝利《かつとし》?」
とにかく、今はぐずぐず考え込んではいられない。何としても、この場は言い逃れなければならない。こんな話のさなかにかれんが戻ってきてしまったらと考えるだけで身がすくむ。決死の覚悟で、僕は、のどに絡まる声を押し出した。
「星野のやつが、おばさんに何て言ったかは知らないけど・・・・俺・・・・あいつに、嘘ついた」
「嘘?」
「っていうか、今もついたままなんだけど」
「何て?」
「だから、その・・・・かれんと付き合ってるんだって」
佐恵子おばさんは、眉を寄せて僕を見た。
「それが、嘘だっていうの?」
「・・・・うん」
「つまり、本当は付き合ってなんかいないってこと?」
「・・・・うん」
「ほんとね? あんたたち、ほんとにそういう関係じゃないのね?」
「・・・・・・・・」
「信じて、いいのね?」
これにうなずけば、ますます本当のことが言い出しにくくなる――そう思ったけれど、今さらどうにもできない。僕は、なんとか首を縦に動かした。
と、おばさんの体から、みるみる力が抜けていくのがわかった。
「まったくもう」
空気がもれるような溜《た》め息をつく。
「びっくりさせないでちょうだいよ」
「・・・・ごめん」
「聞かされたときは耳を疑ったわよ」
「だから、ごめんって」
星野はいったいどういうふうに話したのか、と、僕があらためて訊くまでもなかった。おばさんのほうからどんどん話してくれたからだ。
「『和泉《いずみ》くんの心配をするのは、私じゃなくてかれんさんの役目でしょうから』なんて、星野さんたら半分怒ったみたいな感じで言うんだもの。・・・・え? だからほら、私があんたの身の回りのことを頼んだ時よ。こっちがあんまりびっくりするのを見て、向こうもうろたえたみたいだけれど、親としてはそりゃあ急にそんなこと言われたらびっくりもするじゃないの、ねえ」
苦笑いしてみせるしかなかった。
「それで? 佐恵子おばさんは何て言ったの」
「まさか、って言ったわよ、もちろん。いくら何でも五つも年が違うんだし、それはないでしょうって。だけど星野さん、なんだか泣きそうな顔で黙ってるし。・・・・それにしてもあんた、いったいなんだってそんな嘘をついたのよ」
「いや、それが・・・・俺の口からは言いにくいんだけど」
「だいたいわかる気はしますけどね」
「え?」
おばさんは、苦い顔で言った。
「いいから、ちゃんと話してちょうだい」
「だからその・・・・星野はさ、俺なんかのことすごく想ってくれてて・・・・けど、俺のほうはどうしてもそういう気になれなくてさ」
「どうして」
「どうしてって・・・・」
「彼女、いい子じゃないの」
「そんなことわかってるよ」
思わず、苛立《いらだ》たしさが声に出てしまったせいだろう。佐恵子おばさんが、鼻白んだように口をつぐむ。
「・・・・ごめん」
と、僕はくり返した。
「ほんとにさ、わかってるんだ、あいつがすごくいいヤツだってことは。けど、好きになるとかならないとかって、そういうことで決まるもんじゃないだろ」
ずっと以前にも、当の星野りつ子を前にして、同じことを思った気がする。あの時も、星野は泣いたんだっけ・・・・。
黙っているおばさんの顔がまっすぐ見られなくて、僕は、目の前の湯呑みに目を落とした。
「本人にもさ、何度もそう言ったんだよ。友だちとしてなら付き合えるけど、それ以上を望まれても困るって。気持ちはほんとにありがたいけど、そういう対象として見ることはできないって。なのに、どうしても納得してくれなくて・・・・俺のほうにいま付き合ってる相手がいるならともかく、そういうわけでもないのにどうしてそんなに拒むのかって、けっこう押しが強くてさ。そのうちにあいつ、思い詰めたせいかわからないけど、メシとかうまく食えなくなっちゃって」
「ええ?」
「無理に食ってもすぐ吐いちまうって言うし、実際どんどん痩《や》せてくるし。部活の最中にいきなりぶっ倒れたりするし」
「それってあんた、あの、拒食症とかそういうことなの?」
「いや、そこまではいかないみたいだけど・・・・それでもやっぱり、心の問題ではあるんだろうな。あれでも、一番ひどい時よりは少し太ったほうなんだよ。けど、そういうのって、そばで見てても参るっていうか・・・・かわいそうだとは思うし、俺のせいだと思うと何とかしてやりたいとも思うけど、だからって責任取ってやれるわけじゃないしさ。どこかできっぱり思い切ってもらわないと、どんどん深みにはまる一方じゃないかと思って、それで、ほんとは俺には好きなやつがいるんだって言ってみたんだけど・・・・それでも駄目で」
「だけど、その相手がどうしてかれんだってことになるの」
「いや、それは星野のほうから言いだしたんだって」
「何て」
「『もしかして、和泉くんの好きな相手ってかれんさんでしょ』って」
「・・・・・・・・」
「まあ、俺、学校でもバイト先でもぜんぜん女っ気ないし、他に近くにいる相手って考えたらそれくらいしか思いつかなかったんだと思うけど。とにかく、それで俺、苦しまぎれについ、そうだって言っちゃって」
「おまけに、ご丁寧にも付き合ってるとまで言ったわけね?」
「そうでも言わないと、あきらめてくれなさそうだったから。これでもさんざん悩んだんだよ」
佐恵子おばさんが、あきれたように鼻を鳴らした。
「なんだかねえ。ぜいたくな悩みだこと」
「どこがだよ。こっちだって困ってるんだってば。むげに断って傷つけるのもいやだけど、だからって、あんまり優しくして誤解されてもあれだしさ」
「まあま。色男はたいへんだわ」
「勘弁してったら」
そうして言葉を重ねながら、僕は自己嫌悪でどうにかなりそうだった。星野とのことについて話した内容はどれも本当のことばかりだというのに、どうしてこうも胸が痛いのだろう。
いや、どうしてもクソもなかった。そもそも、こういうことをおばさんに話している目的は何かといえば、最初についた嘘をごまかすためでしかないのだ。ゼロに何をかけてもゼロにしかならないのと同じで、嘘をつくためにいくら本当の事情を言い連ねても、すべては口にする端から嘘になっていってしまう。それがわかっているからこそ、自分で自分の言葉に胸を刺される思いがするのだ。
でも――その一方で、僕の中には、そんな自分を正当化したい気持ちもあった。星野の心の問題を、本人のいないところで話題にするのはもちろんほめられたことではないし、欠席裁判みたいで彼女に申し訳ないとも思う。思うけれど、それを言うならお互い様じゃないか、という気もするのだ。僕とかれんの仲が親たちに内緒なのは重々わかっているくせに、どうしてよりによって佐恵子おばさんにしゃべったりするんだろう。たとえ故意にではなく、ついうっかり口を滑らせてしまったのだとしても、そのせいで僕らのこれまでの苦労はあやうく水の泡になるところだったのだ。
押し黙っている僕を見ながら、佐恵子おばさんは冷めたお茶をすすった。
「それで?」
「・・・・うん?」
「そのあたりの事情を、あの子は全部知ってるの?」
あの子、というのはもちろん、かれんのことだった。
すばやく考えて、僕は言った。
「ううん。話してないよ」
「なんにも?」
「うん。だから――虫のいい頼みだとは思うけど、おばさんもさ、できたら、あいつにはこのこと黙っててくれないかな」
「・・・・・・・・」
「いくらかれんだって、自分の知らないところで勝手に憎まれ役にされてるって知ったら気分悪いだろうし。俺にしても、なんていうか、こんなことがあいつにバレたら合わせる顔がないっていうか」
おばさんが、苦笑まじりに首を振る。
「やれやれ。青春の悩み真っただ中ってとこだわね」
「だから、勘弁してってば、そういうの」
自己嫌悪はそのままだったが、我ながらいい気なもので、心臓の動悸《どうき》はどうにかおさまってきた。一時は、ほんとうにどうなることかと思ったのだ。正直、動悸どころか心臓そのものが止まりそうだった。
「だけどね、勝利」
佐恵子おばさんが、ふいに難しい顔になって言った。
「変なことにだけはならないように、気をつけてちょうだいよ」
「変なこと?」
「ええ。言いたくはないけど、ほら、何ていうの? あんたを想うあまりに、星野さんがかれんを逆恨《さかうら》みして、何かこう・・・・」
思わず、ぽかんと口をあけてしまった。
「まさか。そんなやつじゃないよ」
「そんなやつじゃなくても、思い詰めたら人は何をするかわからないのよ」
それこそ思い詰めたような顔で、佐恵子おばさんは言った。
「毎日のようにニュースになってる事件の犯人だって、いざつかまってみると近所の人がみんな言うじゃないの。そういう人には見えなかったって。ふだん真面目な人ほど、かえって危ないんだから」
「いや、それとこれとは、」
「同じことです」
佐恵子おばさんは言いきった。怖いくらい、真剣な目つきだった。
「どうせまた考え過ぎだとか心配性だとかって、あんたは馬鹿にするか知れないけど、女の子の親というのはね、そういうことまで考えるものなの。何かあってからじゃ遅いんですからね」
「・・・・・・・・」
「あんたがまいた種なんだから、自分できちんとしてくれなきゃ困るのよ」
「わかってるけど」
「そりゃ、あんたのことだから、できるだけ相手を傷つけないように、誰も悪者にならないで済むようにって、丸くおさめようとしたことはわかるわよ。そういう気の優しいところは、たぶん正利《まさとし》さんのほうに似たんでしょうね。姉さんのほうはわりに、何でもさばさば割り切るほうだったから」
「・・・・そうだっけ」
そういうことは、あまりよく覚えていない。
「でもねえ、勝利」
半《なか》ば同情するような、それでいながらその思いを振り切るようなきっぱりした口調で、佐恵子おばさんは言った。
「それがあんたのいいところだってことはよーくわかった上で、この際、あえて言うけどね。――気を遣《つか》いさえすれば丸くおさまることばかりだったら、世の中誰も苦労はしないのよ」
「だから、わかってるって」
「そう?」
佐恵子おばさんは、僕をまっすぐに見た。
「本当に、わかってるの?」
「・・・・?」
「私が言ってるのはね。どうしても誰かが憎まれなければいけないものなら、あんたが自分でそれを引き受けなさい、ということなのよ? かれんに憎まれ役を押しつけるんじゃなくて」
「そ、そんな・・・・」
押しつけたつもりなんかない。
断じて、そんなつもりじゃない。
そう言いたかったけれど、言葉にならなかった。おばさんが今、つもりの話をしているのでないのは明らかだったからだ。口をつぐんだ僕を見て、お灸がききすぎたと思ったのだろうか。佐恵子おばさんは、壁の時計をちらっと見上げ、不自然なくらい明るく声を張って言った。
「さてと、もうそろそろかしらね」
僕も、時計を見た。
心臓に悪い話をしていたせいで無茶苦茶長く感じられたけれど、かれんが出かけてから、やっと二十分が過ぎたところだ。戻ってくるまでには、まだ少し時間があるだろう。
「おばさん」
立ちあがって急須にお湯を注いでいた佐恵子おばさんは、こちらに背中を向けたまま、うん? と返事をした。
「星野と駅で会ったの、おとといって言ったっけ?」
「ええと・・・・」急須にふたをしながら、もう一度記憶をたぐるように宙を見上げる。「ええ、そうだわね。おとといの夕方」
「じゃあ、ゆうべ俺がここへ来るまでに、まる一日あったわけだよね」
「そうね」
「なのになんで、かれんのほうに先に訊こうとしなかったわけ?」
おばさんは、二人分の湯呑みにお茶を注ぎ足すと、すまして言った。
「そうして欲しかった?」
「まさか」と僕は言った。「けど、おばさんにしてみればすごく気になることだったはずだし・・・・どうしてそうしなかったのかなと思って」
佐恵子おばさんは、うつむきがちに苦笑した。
「さっきも言ったけど、だいたい想像はついていたからね」
「え?」
「あんたとかれんがどうこう、なんて聞かされて、そりゃあ最初はびっくりしたけど、落ち着いて考えたらそんなはずがあるわけないじゃない。だってそうでしょう? かれんは現に、中沢《なかざわ》先生とおつきあいしてるんだし」
「・・・・・・・・」
「となるとこれは、星野さんの勝手な思いこみか、それでなければ、何かわけがあってあんたがそういうふうに話したかのどちらかじゃないかってね、そう思ったのよ。仮にそうだとすると、かれんの耳に入れてもいいことなのかどうかを、先にあんたに確かめてからにしないと、あんたがあんまり可哀想ってもんじゃないの。違う?」
「あ・・・・う、まあ」
「だいたい、ゆうべからずっとあんたたちを見てたけど、さっぱりそんなふうには見えなかったしねえ。お互い好き合ってる二人なら、空気でわかるものよ。一応念のためにこうして確かめはしたけど、ま、訊くまでもなかったわね」
すました調子で言い、佐恵子おばさんはテーブルの隅にあった小さなガラスのいれものを引き寄せると、チョコレートを一つつまんで口に入れた。
「・・・・そんなふうに、かぁ」
「ん、なあに?」
「いや・・・・俺らがそんなふうに見えなかったってことはさ、もし本当にそういう関係だったら、やっぱ、そんなふうに見えるものなのかなと思って」
「そりゃあ、そうじゃない?」
おばさんはお茶をすすりながら、おかしそうに肩をすぼめた。
「ほら、あんたの父さんと明子さんだって、初めてここに挨拶に来たときはそうだったでしょうが。まだまだ子どもの丈《じょう》と京子《きょうこ》ちゃんでさえ、こう、あるでしょうほら、二人のまわりの空気が桃色っていうか」
「――桃色、ねえ」
そのモモイロの空気が、僕とかれんの間にまったく感じられなかったというのはある意味とても嘆かわしいことのような気もするが、まあ、今回に限ってはそのおかげで助かったわけだ。
と、ふいに佐恵子おばさんが、そうだ、と手を打った。
「丈と京子ちゃんで思い出したわ。あの子ったらもう、何の連絡もしてこないで・・・・出ていったら鉄砲玉なんだから」
そのとき、背後で僕の携帯が鳴りだした。居間のソファに置いた上着のポケットだ。
誰だか知らないが、うまいタイミングで助け船を出してくれた、と感謝しながら走っていって見ると、まさにその丈からだった。
〈よっす。ゆうべはサンキュ〉
そんなふうに言うわりには、何やらシケた声だった。
「何だよ、どうしたんだよ」
〈んー。・・・・あのさ、今それ、うちにいんの?〉
「ああ」
〈おふくろもそばにいんの?〉
「うん、まあな」
〈じゃあさ、おふくろには俺からだって言わないでさ、ちょっとだけ出て来らんない?〉
「はあ?」驚いて、僕は言った。「何かあったのか?」
〈いや、べつに何もないけど。ただ・・・・何ていうかこう、まっすぐ帰る気になんないっていうかさ〉
台所から聞こえてきた水音にちらっと後ろをうかがうと、佐恵子おばさんは湯呑みを洗っているところだった。
「お前なあ、人のこと呼び出してノロケ話するつもりじゃないだろうな」
声をひそめて釘を刺してやったのだが、丈は苦笑まじりに、そんなんじゃないよ、と言った。
「ほんとかよ。こっちはそれどころじゃないんだからな」
〈だから、違うって〉
「じゃあ何なんだよ」
〈っていうかさあ、いいじゃんか、たまにはオレの相談に乗ってくれたって〉
そうして奴は、いくぶん小さな声で付け足した。
〈頼むわ〉
と。
どんなに探してもなかなか部屋が見つからなかったあの頃は、とにかく一人暮らしを実行に移せるなら何だってよかった。住めば都なんて言葉もあるくらいだし、駅からアパートまでけっこう歩くことくらい、慣れてしまえば何てことはなくなるだろうと高をくくっていた。
でも実際には、すっかり慣れたはずの最近のほうが、かえってこの道のりを遠く感じることが増えてきた気がする。部活で疲れきっているときはもちろん、今日みたいに、体は使っていないのに精神面でいろいろあった日などは特にそうだ。
両手をポケットにつっこんで歩きながら、ふと目を上げると、澄んだ紺色の夜空に宵の明星がぴかりと光っていた。いつのまにかずいぶん日が短くなったものだ。
いま、何時ごろだろう。七時前・・・・いや、少しまわった頃だろうか。ひどくかったるくて、携帯を引っぱり出して時間を見るというただそれだけのことさえ億劫《おっくう》だ。
足が、重い。まるで昔の囚人みたいに、足首から鉄の玉がぶらさがっているような気がする。今日一日、佐恵子《さえこ》おばさんや、丈《じょう》や、そしてかれんと交わした言葉の一つひとつがすべて合わさって、その鉄球を形づくっているのだった。
あのあと――丈からかかってきた電話を切ったあと、僕は佐恵子おばさんに、友だちに呼び出されたからちょっと行ってくると言って、花村《はなむら》の家を出た。
と、駅に向かう道の途中で、買い物を済ませて帰ってくるかれんに出くわした。
もちろん、おばさんとの危うい綱渡りみたいなやり取りについては、急いで話して聞かせた。かれんをむやみに不安がらせたくはなかったけれど、ここでちゃんと口裏を合わせておかないと、どんな弾みでボロが出ないとも限らないからだ。
僕らが付き合っているのが本当にばれてしまったのかと、驚いてうろたえる彼女をどうにかなだめ、
〈大丈夫だよ、何にも心配いらないって〉
と僕は言った。
〈とにかくお前は、俺と星野《ほしの》との一件については全然知らないってことになってるから。よけいなことは言わなくていい。おばさんももうお前には何も訊《き》かないとは思うけど、万一訊かれても、ただポカンとしてろな〉
これから待ち合わせている相手が丈だということは、かれんにも話さなかった。
〈たぶん小一時間で帰れるからさ。午後は一緒にどこか行こうな〉
そう言ってみせると、かれんはようやく少しほっとしたように微笑《ほほえ》んでくれた。
人騒がせな丈のやつは、駅前のコーヒーショップで待っていた。電話で場所を指定したのも丈のほうだった。『風見鶏《かざみどり》』にしようと言われなかったのは僕としてもありがたかったが、今になって思えば、要するにやつは、知っている人間に話を聞かれたくなかったのだろう。
店の奥のほうで、二人がけのテーブルに目を落としてぼんやりしている丈を見つけた時、僕は思わずそこで立ち止まってしまった。長い付き合いだが、あんなにすさんだ感じの丈を見たのは初めてじゃないかと思う。高校受験のまぎわだって、あれほど深刻な顔を見せたことはなかった。僕のよく知っているイトコにそっくりの、でも全然知らない他人みたいな感じだった。
注文したコーヒーを手に、僕が向かいに腰をおろしても、なかなか口をひらこうとしない丈に向かって、僕は仕方なく明るく言ってやった。
〈ま、そう落ちこむなよ。最初はたいていそんなもんだって〉
けれど、やつはほんの一瞬だけ引きつったような苦笑《にがわら》いを浮かべて首を横に振り、のろのろとした口調で言った。
〈そんなんじゃ、ねえよ〉
〈なんだよ。じゃあうまくいったのかよ〉
〈・・・・よく、わかんね〉
〈あ?〉
〈どういうのを、うまくいったって言うのか、よくわかんね〉
俺にはお前のほうこそよくわかんねえぞ、と思ったが、あえて何も言わずに見るともなく窓の外を見ていると、
〈・・・・なんでなのかな〉
うめくような低い声で、丈が言った。
〈なんで女ってさ。人を試すようなこと、わざわざ言うかな〉
〈え?〉
〈・・・・・・・・〉
〈何を言われたんだよ〉
ずいぶん長く黙っていた後で、やつはようやく話しだした。気が進まなさそうでもあったし、ひどく話しにくそうでもあったが、そもそも僕を呼びだしたのは話をするためだったのだ。
京子《きょうこ》ちゃんとは、途中まではそれなりに順調にいったものの、ある段階から急に彼女が痛がってしまって先に進めなくなってしまったのだと丈は言った。何も最初から無理をする必要はないんだからと、(内心はどうあれ)気長に構えてみせる丈に対して、絶対に最後までするのだと意地になって頑張ったのは京子ちゃんのほうだったらしい。まあ、二人の力関係を考えると、そんなところもらしいと言えば言える。そうして、何度目かの試行錯誤(丈|曰《いわ》く、たぶんはたから見たら思いっきり滑稽《こっけい》な試行錯誤)の末に、やっとのことで当初の目標をクリアし、お互いくたくたになって抱き合った――そこまではよかった。
〈あいつだって幸せそうだったよ。今まで話したことのないような話もしてくれたし、オレもいろいろ話したし・・・・〉
丈は、相変わらずの低い声で続けた。
〈よくさ、女より男のほうがロマンチストだとか言うけど、オレ正直、むきになってあくせくエッチしてる最中よか、終わって抱き合ってる時のほうがずっと幸せでさ。こう、気持ちが満ち足りるっての? あいつ、ほんとちっちゃくて、柔らかくて、いい匂いがして・・・・これからはオレが絶対こいつを守ってやるんだとか思ったら何でも出来そうな気がしてさ。なんか、大声で叫び出しそうだった。だから・・・・明け方くらいだったかな、あいつが急にオレに背中向けてしくしく泣きだした時だって、てっきり、ただ感情が高ぶって泣いてるんだとしか思わなかったんだ。嬉し泣きとまではいかなくても、何ていうか、わりといい涙っていうかさ〉
と、いうことは、そうじゃなかったわけだ。
黙って先をうながすと、丈は上目づかいにちらっと僕を見て、ひどく老成した溜め息をついた。
〈やっぱり隠しておけないよ、って・・・・〉
〈え?〉
〈あいつ、そう言って泣いたんだ〉
〈隠すって、何を?〉
〈オレが・・・・初めてじゃ、なかったんだってさ〉
〈えええっ?〉
〈あ、いや、さすがに最後までいったのはゆうべが初めてだったそうだけど〉
僕は、思わずどっと息をついた。
〈なんだよ、おどかすなよ〉
あの京子ちゃんにそこまで先を越されていたとなれば、こっちの立つ瀬がなくなるどころの話じゃない。世の中何を信じていいのかわからなくなる。
〈・・・・けど、その前の段階ってかさ。要するにBまでいったのは、オレが初めてじゃなかったってこと。要するに、オレ以外の男が、先にあいつの胸触ったわけよ〉
〈ちょっと待て〉
と、僕は言った。これまでに丈から聞かされている話では、二人が付き合いだしたのは二年近く前、確か中二の終わりくらいからだったはずだ。それより前に、Bまでいった相手がいた?
〈そうじゃなくて〉
相変わらず苦笑のようなものを顔に貼り付けたままで、丈は言った。
〈ついこないだの夏休みなんだってさ。考えてみりゃ、たしかにあいつ、一時期おとなしかったんだよな。夏風邪ひいたとかいってごまかしてたけど・・・・そういえば、勝利に話したことあったっけ〉
〈何を〉
〈京子がオレと付き合う前に好きだった先輩のこと〉
僕は首を振った。
〈そいつ、中学じゃ陸上部だったからオレの先輩でもあったわけだけど、もともと京子の友だちの彼氏でさ。けど京子のやつ、その友だちに付き合わされて部活とか見にきたりしてるうちに、だんだん先輩のこと好きになっちまって・・・・まあ、そのあたりの事情はオレもずっと後んなってから聞かされたわけで、オレとしては、わざわざ話してくれるくらいだから、もうすっかり吹っ切れたんだとばかり思ってたんだ。ってか実際、吹っ切れてたんだと思うよ。この夏休みのことさえなけりゃ、さ〉
少し口をつぐんだ後、丈は唐突に、ヤケのように言った。
〈ディズニーランドなんか二度と行くもんか〉
と。
聞けば、この夏休み中、京子ちゃんのところには親戚の子どもらが二人遊びに来ていたらしい。ある日、家族はその子たちを連れてディズニーランドへ出かけた。子守り要員は多いほどいいというので駆りだされていた京子ちゃんは、そこで偶然、例の先輩と再会した。先輩のほうは、高校の男友だちとその彼女の三人で遊びに来ていたところだった。中学時代つき合っていた京子ちゃんの友だちとは、しばらく前に別れてしまったのだと彼は言ったそうだ。
いったいどういういきさつで、その先輩だけが京子ちゃんたち家族と一緒に(というか京子ちゃんと一緒に)アトラクションを回ることになったのかはわからない。たぶん、連れの友だち二人を恋人同士水入らずにしてやろうと気を遣《つか》ったとか、そういうことだったんじゃないかと思う。その後、京子ちゃんと先輩の間でどんな会話が交わされたのかについても、夜のパレードの真っ最中に、何がどうなって家族の目の届かないところでキスばかりか胸まで触られるようなことになったのかについても、僕は丈に確かめなかったし、丈のほうも僕にはっきりとは話さなかった。
〈まあ、なんとなくわかるような気はするんだ〉
と丈は言った。
〈わかりたくはないけどさ。ああいう、非日常を絵に描いたみたいな場所だと、なんかこう、現実味が薄くなるっていうか、ガードが甘くなるっていうかさ〉
僕は、想像してみた。かつては好きでたまらなかった憧れの先輩、けれど友だちへの遠慮で親しく言葉を交わすことさえ避けていたような相手と、ひょんなことから親しく話すことになった京子ちゃんの気持ちをだ。定員二人の狭いブースに押し込められて暗いところをめぐったり、猛スピードで振りまわされながらきゃあきゃあ叫んだりしていることへの信じられなさ。家族から妙に微笑ましげに見守られたり、ませた子どもたちから無責任に冷やかされたりしながら、長い列の後ろに並び、懐かしい思い出や友人たちの消息なんかを一つまた一つと交わしていれば、さしもの気の強い京子ちゃんでも、何だか置き忘れてきたものが手の中に戻ってきたようなせつない気持ちになるのは無理もなかったんじゃないかと思う。
〈彼女にも、落ち度がなかったわけじゃないだろうけどさ〉
と、僕は言ってみた。
〈けどそれって別に、お前のことを忘れるとか、裏切るとかいうのとは全然別のことだったんじゃないかと思うけどな。その先輩と遊んで羽目はずすことに少しくらい罪悪感はあったかもしれないけど、だからって変に意識して断るような感じでもなかったんだろうし、実際、家族も一緒だったわけだしさ。そのあと起こったことは、まあこういう言い方するとお前怒るかもしれないけど、アクシデントっていうかさ。ほんとに取り返しのつかないことになったわけじゃないんだし・・・・〉
〈それくらいはわかってるんだってば〉
丈は苛立《いらだ》たしげにさえぎった。がさがさと荒れた感じの頬を両手でこする。
〈だから、そのことであいつに腹立ててるわけじゃないんだって。そりゃ全然腹立たないわけじゃないけど――先輩のことだって正直殴り飛ばしてやりたいくらいだけど、でも、オレが納得できないでいるのはそこじゃないんだ。なんかうまく言えないけど、そういうことじゃないんだ〉
僕の視線を避けるように窓の外に目をやり、またしばらく黙っていた後、丈はぼそりと言った。
〈利用された、みたいな気がしたんだよな〉
〈・・・・え?〉
〈まあ、利用ってのは言葉が強すぎるとは思うけどさ。京子だって、そういうつもりでオレに打ち明けたわけじゃないのはわかってんだけど・・・・なんかこう、結果的にだけど、いやなこと忘れるためのダシに使われたみたいなさ〉
〈ゆうべお前とそうなったことが、って意味か?〉
〈・・・・よくわかんない〉
〈わかんないって、お前・・・・〉
〈オレと二人で勝利《かつとし》の部屋に泊まることに関しては、あいつもほんとに純粋な気持ちだったと思うんだ。それは信じられる。今回、最初に誘ったのはオレのほうだし。けど、途中であんなに痛がったにもかかわらず、最後まですることにあれほどまでに意地になったのは何でなんだって考えだしたら――こんなの被害妄想だってわかってんだけど・・・・一〇〇パーセント純粋にオレとそうなりたいっていう気持ちだけ、じゃなかったような気がしてくるんだ。あの先輩にはされなかったことをオレとすることで、いやな思い出を塗り替えるみたいな気持ちもあったんじゃないか、とか思い始めたらさ。こう、振り払っても振り払っても、その考えが頭から離れないんだ。・・・・いや、そうだとしても、京子だけを責める筋合いのもんじゃないってこともわかってんだよ。人間なんてきれいごとばっかじゃないし、オレだってずるいとこいっぱいあるし。誰だって結局は自分が可愛いしさ。けど・・・・けど、なんでああいうこと、よりによってあのタイミングでオレに言うんだよ。そりゃ、先輩とのこと平気な顔で隠してられたのが後からわかったりしたらもっと腹立ったろうけど、正直に全部打ち明ければそれでいいのかっていうとさ、そういうもんでもねえじゃん。オレの気持ちはどうなるんだよ。泣いてごめんなさいって謝られて、いま好きなのはオレだけだとか言って、あたしがバカだったからとか、先輩のキスなんか忘れさせてほしいとか言われりゃあ、こっちは絶対抵抗できねえじゃん。せいぜい、めちゃくちゃに抱きしめるしかねえじゃん。それで赦《ゆる》してやれなかったら、男としてすげえチッポケじゃん。けど・・・・知っちまった以上、もう二度と知らなかったとこへは戻れないんだよ。あいつのほうはいいよ、全部正直に話せば楽になれるのかもしれないけど、なんか・・・・ほんと、あいつにそういうつもりはないのかもしれないけど、なんか・・・・オレの気持ちを試すためにわざと他の男とのことを話したみたいにも思えてきちゃってさ。それでいて、そういう自分が情けないっていうか・・・・。オレ、自分がここまで肝っ玉の小せえヤキモチ焼きだとは思わなかった。もうちょっとくらいは、マシなやつだと思ってた・・・・〉
やがて、ようやく目を上げて僕を見ると、丈のやつは、ぷす、と鼻を鳴らした。
〈結局のとこ、オレがいちばん頭にきてんのは、そういうオレ自身のいじましさなんだろうな〉
自分だったらどうしただろう、と思わずにはいられなかった。
午後、かれんに付き添って出かけ、彼女の携帯を見つくろっていた間も、その考えはまるで、悪意を持つあぶくのように水底から浮き上がってきては、ふつりと弾けて僕の気持ちを濁らせた。もしもこの先、僕と彼女がそうなった夜、この上ない幸福感に満たされて抱き合っている時に、ふいに彼女の口から決して聞きたくない類の話を打ち明けられたとしたら――丈と同じく、僕だってそういう彼女を何とか受け止めようとはするだろうけれど、それでいながら、自分の中に渦巻く感情と折り合いをつけるのにはたいへんな努力が要ったろう。
夜道にこぼれるコンビニの明かりを横切りながら、僕の背中は、昼間の丈と同じくらい丸くなった。僕なんかに話したからといってどうなるものでもないとわかっていて、それでも話さずにいられなかった丈のやりきれなさが、少しわかる気がした。
角を折れると、ようやくアパートが見えてきた。
鉄の階段を照らす蛍光灯が、ゆうべからチカチカ明滅し始めている。大家のヒロエさんに言わなくちゃな、と思いながら廊下を歩き、尻のポケットからカギを取り出したところで、石になった。
部屋のドアの前で、うずくまるように膝を抱えて僕を見ているのは、星野《ほしの》りつ子《こ》だった。
部屋のドアの前で、うずくまるように膝を抱えて僕を見ているのは、星野《ほしの》りつ子《こ》だった。
「な・・・・!」
足が出なかった。足だけじゃない、言葉も出なかった。今度会ったらこれだけは言わせてもらう、そう思っていた恨《うら》みごとがいくらもあったはずなのに、この瞬間、思考は飛んでしまい、かわりにどうしても言葉にならない感情がぐるぐると渦を巻いて僕の舌を金縛りにしていた。
手の中のカギをぎゅっと握りしめる。ようやく、足が動いた。
僕が近づいていっても、星野はドアの前から立ちあがろうともしない。
隣の部屋の前にさしかかると、すりガラスの窓から明かりがもれているのに気づいた。水音も聞こえる。ここしばらく空室だったのだが、どうやら昨日か今日のうちに誰か入居したらしい。
間が悪いよな、とちょっと思った。僕が帰ってきた物音に気づいたら、わざわざ挨拶《あいさつ》に出てこないとも限らない。部屋の前に断固座り込みを決めた星野の姿は、隣の住人の目にどう映るだろう。いや、もうすでに見られてしまった後だろうか。
上目づかいの星野を無視して、カギを差し入れる。まわしたカギを引き抜いて見おろすと、星野はぱっと目を伏せた。長袖のシャツにジーンズ。すそからのぞいた細すぎる足首に、白いスニーカーが不釣り合いなくらい大きく見える。
こっちが黙っていれば彼女のほうから何か言うだろうと思っていたのに――このままじゃドアも開けられない。仕方なく僕は、うつむいた星野のつむじに向かって言った。
「そこ、邪魔なんだけど」
言った自分がたじろぐくらい、言葉はコンクリートの廊下に冷えびえと響いた。思わずフォローしたくなるのをぐっとこらえる。
少しくらい冷たく聞こえたとしても仕方がない。いや、かえってそのほうがいいのかもしれない。佐恵子《さえこ》おばさんが言っていたとおり、何もかも丸くおさまる方法なんてないのだとすれば――どうしても誰かを傷つける以外にないのだとすれば――僕は、どこかの時点で選ばなくちゃいけない。〈傷つけたくない相手〉に優先順位をつけなくてはならないのだ。たとえそれが、どんなに不本意なことであろうと。
「悪いけど」
動こうとしない星野に、再び声をかける。
「どいてくれないかな」
彼女はようやくのろのろとかかとを引き寄せ、背中でドアをこすり上げるようにしながら立ちあがった。それでも、どこうとはしない。視線も合わせない。
僕はため息をつき、ノブに手をかけた、とたんに、引き開けようとしたドアがバタンと音をたてて閉まった。星野が背中をぶつけたのだ。
すぐ近くから、星野の目が僕を見つめてくる。白目の部分が明かりをはじいて、怖いくらい青白く光っている。
気圧《けお》されて後ずさりしたい気持ちを抑えながら、
「・・・・何だよ」
と僕は言った。
「ったく、何やってんだよこんなとこで」
星野ののどが、こくりと何かを飲み下すように動いた。
「話が、したくて」
「・・・・・・・・」
「いろいろ、謝りたいこともあるし」
「べつに、謝られる覚えなんかないけどな」
「嘘」
と、星野は言った。
「そんなの、嘘だよ。だって和泉《いずみ》くん、私がここで待ってたの見ても、ぜんぜん驚かなかったじゃない」
「驚いたよ、充分」
「それは単に、いきなりだったからでしょ。けど、もしも私が、まだ和泉くんの引っ越しのこと知らないまんまだと思ってたんならもっと驚いたはずだもん。聞いたんでしょ、おばさんから」
「・・・・・・・・」
「やっぱりね。じゃあ、私がおばさんに、あのことしゃべっちゃったっていうのも聞いたわけだ」
「・・・・・・・・」
「でしょ?」
「だったら、何なんだよ」
「だったら――私に謝られる覚えだってあるはずじゃない」
僕は、ノブから手を放して星野に向き直った。
けれど、謝るどころか、彼女の目は挑むかのようだった。
「なら、遠慮なく言わせてもらうけどな。星野お前、知ってたはずだろ、俺とあいつがつき合ってることはまだ親にも言ってないって。だってそうだよな、親は知ってるのかって最初に訊《き》いたのはお前のほうだったもんな」
「・・・・・・・・」
「なのに、なんでわざわざバラしたりするんだよ」
「・・・・・・・・」
「そりゃあ、黙っててくれなんて頼んだことはなかったさ。頼めた筋合いのもんでもないしな。けど――虫のいい話かもしれないけど、そこんとこはちゃんとわかってくれてると思ってた。あらためて頼んだりしなかったのは、つまり、信じてたからだよ。それだって俺の自分勝手な思いこみだって言われりゃそれまでだけど、少なくとも、星野りつ子ってのは、告《つ》げ口とかそういうことだけは絶対しないヤツだと思ってたからだよ」
途中から、星野の唇が小刻みにふるえ始めたことには気づいていたけれど、止まらなかった。僕のほうも、噴きあげる感情で体がふるえるくらいだったのだ。
「だ・・・・からこうして、謝りに来たんじゃない」
かすれた声で、星野は言った。
「悪かったと思うから、謝りに来たんじゃない」
「今さら謝られたって遅いよ」
「とか言って、どうせうまく切り抜けたんでしょ?」
僕は、思わずあきれて言った。
「そういう問題なわけ?」
「だっ・・・・」
何か言い返そうとした星野が、口をつぐむ。そして彼女は、背中をますますぎゅっとドアに押しつけるようにしながらつぶやいた。
「・・・・ごめん。そうじゃないよね。私ったら何言ってんだろ、ごめん」
「・・・・・・・・」
「ごめんなさい」
「・・・・・・・・」
「ほんとに、ごめんね」
僕は、こわばっていた体の力をゆっくりと抜いた。夜中にうなされて目が覚めたときのように、舌の根に苦い味が残っていた。
「もう――いいよ」
「よくないよ」
星野は今にも泣きだしそうな顔で言った。
「だって和泉くん、まだすごく怒ってるじゃない」
「怒ってないって」
「そんな・・・・そんな簡単にいくはずない」
「わかってんならほっとけよ」
「ほら、やっぱりね」
「・・・・・・・・」
僕は、ぐっと奥歯を噛みしめた。
鼻から大きく息を吸いこみ、静かに吐き出す。
「怒ってるんじゃなくてさ――ただ、そんな急に気分は変わらないっていうだけだよ。だいたい、俺だってけっこう筋の通らないこと言ってるんだし・・・・ていうか、かなり勝手だし」
さっきから星野の目にたまっている水っぽいものには気づいていないふりをして、僕は言った。
「今度ガッコで会うときはもう、普通だから。約束する。星野がここまで謝りに来てくれた気持ちは、よくわかったからさ」
唇をかんで、彼女がうつむく。
「けど――話が済んだんなら、今日のところは帰ってくれるかな。自分でも情けないとは思うけど、今日の今日で優しくはちょっと出来そうにないから」
夜風が吹き、彼女の短めの髪がぱらりと落ちて、青白い頬を隠した。
「優しくなんか、してくれなくていいよ」
「だからそういうことじゃないんだって」
苛立《いらだ》ちを抑えきれずに言いかけた僕を、星野の強い視線がさえぎった。
「だって、話、済んでないもの」
「まだ何かあるのかよ」
「あるよ、いっぱい。聞いたが最後、和泉くんが私のこと大ッ嫌いになるようなこと」
「・・・・・・・・」
「とか言って、もうとっくに嫌いだろうけどね」
唇がゆがんだのは、笑ってみせようとしたのだろうか。
一瞬迷ったけれど、やっぱり、言わずにはいられなかった。
「――あのさあ。いいかげん、そういう卑屈なこと言うのやめなよ」
「・・・・・・・・」
「嫌いになったとかどうとかさ。幼稚園児のケンカじゃあるまいし、こういうことで簡単に嫌いになるような相手だったら、最初からここまで頭にきたりしないんだよ。だいたい、それを言うなら俺のほうがずっと星野のこと傷つけてきたじゃないか。今だって星野の気持ち知ってて、こんな勝手なことばっか言ってる。なのにそっちこそ、どうして嫌いにならないんだよ。いいかげん愛想尽かせよ、こんなやつ」
口にしながら、自分で自分にそれこそ愛想が尽きる思いだった。こんな傲慢《ごうまん》極まりないセリフ、何があっても星野が僕のことを好きでいると高をくくっていない限り言えないはずじゃないか。恥を知れ、恥を。
苛々《いらいら》を必死に飲み下していると、すぐ横で、星野がふうっと息をついた。
「――そしたら、楽になれるのかな」
見ると、驚いたことに星野は微笑んでいた。
「だけど、それにはさ・・・・悪いけど、先に和泉くんが私に愛想尽かしてくれないと駄目みたい。だから話しにきたの、全部」
「・・・・・・・・」
「ねえ、和泉くん。どうして私に、ここの場所がわかったと思う?」
「――え?」
「まさか、私がおばさんに住所まで聞いて、地図とか見て探しあてたなんて思ってるわけじゃないよね」
「え。違うのか?」
星野は、くすりと笑った。
「さすがに、そこまでは聞けないよ。だっておばさん、和泉くんがこの部屋のこと私に内緒にしてたってわかった時、すっごく気まずそうだったもの」
「――じゃあ、どうやって・・・・」
おばさんでないのなら、あとは原田《はらだ》先輩から無理やり聞き出したのだろうか。そう思った僕は、星野の次の言葉にあっけにとられた。
「和泉くんのあとつけたに決まってるじゃない」
「――は?」
「おばさまと会った次の日。大教室で授業のあった、あの日の帰り」
「ちょっ・・・・」
「覚えてる? 和泉くんあの日、部活のあと学生部寄って、バイトの掲示板見て、でもいいの見つからなくて、購買部寄って雑誌二冊買って、」
「ちょ、待てよ」
「それから駅前の電器屋入って、何でか知らないけど携帯いろいろ見てまわって、結局買わないで電車乗って、」
「待てってば」
「人ってさ、歩くとき後ろふり返らないものなんだね。あとつけるのなんて簡単すぎて拍子抜けしちゃった。あんなに長く和泉くんの後ろ姿見てたの初めてかも」
「おま・・・・それってほとんどストーカーじゃないかよ」
かなり情けなくうろたえながら言うと、星野はまた少し唇をゆがめた。
「そうだよね、ほんと。ちょっと前まではそういうのって気が知れないとか思ってた。それがまさか、私がするようになるなんてね。・・・・ねえ、もうひとつ教えてあげようか」
「――何」
「ゆうべ和泉くん、ここには帰ってこなかったでしょ。あっちの、かれんさんの家のほうに泊まったでしょ」
「お前・・・・」
「何回か、無言電話あったでしょ」
自分ののどが、ごくりと鳴るのがわかった。
「・・・・嘘、だろ?」
星野が、薄い肩をすくめる。
言葉を失って立ちつくしている僕を、笑い泣きのようなおかしな顔で見上げながら、星野は言った。
「どう? これで少しは嫌いになってくれた?」
どこか外に誘うんだった――。
などと後悔するだけの冷静さが戻ってきたのは、狭いキッチンで星野《ほしの》りつ子《こ》と二人きりになり、互いの間に触れれば切れるような沈黙がおりてきた後のことだ。
さっきの時点では、とうていそんな余裕などなかった。外の廊下で言い合う僕らの話し声を不審に思ったのか、それまで隣の窓から聞こえていた水音がふいにやんでシンと静まりかえった時、僕は思わず星野が背にしたドアを引き開け、
〈とにかく上がれば?〉
早口にそう言ってしまっていた。これから隣人となる相手に、いきなりこんな修羅場を見られたくはなかったのだ。
その星野は今、キッチンの入口につっ立ってあたりをじろじろと見回している。
「――座《すわ》んなよ」
ダイニングの椅子《いす》を示しておいて、僕はすぐ隣の部屋の電気をつけにいった。ベッドのある奥の間とを仕切るふすまを閉めかけたとたん、
「へーえ、けっこう広いんだ」
ぎくりとふり返ると、すぐ後ろに星野が来て覗《のぞ》きこんでいた。
「二部屋もあるんじゃない、生意気に。新婚さんでも充分暮らせそう」
「・・・・勝手に入ってくんなよ」
「いいでしょ、そのくらい。今まで内緒にしてた罰よ」
つんと顎《あご》を上げながらの偉そうな口調は、いつもの星野のようでいて、でも全然違っていた。小さい体のまわりに、高電圧のバリアが張りつめている。
「誰が泊まったの?」
星野の視線をたどると、押入れの前に来客用の布団が畳んで積んであって、見るなり一瞬(え?)と思ってしまった。
・・・・いや、そうか。そうだった。なんだか普段と違うことが立て続けに起こりすぎて、今日が昨日の続きだという実感がわかない。でも、見れば外のベランダには確かにシーツと枕カバーが干されて夜風に揺れていた。部屋を出るまでに乾かなくて仕方なくそのままにしていったのだろう。慣れない手つきで洗濯物を干している彼らを想像したら、ようやく少しだけ現実感が戻ってきた。
「もしかして、お泊まりしていったのって・・・・」
あからさまにからかっている目で、星野が僕を見る。
「――違うよ」
星野は肩をすくめ、くすりと笑った。「ま、そういうことにしときましょ」
カチンときたものの、こんな見えみえの挑発に乗ってたまるかとこらえ、間仕切りの襖《ふすま》をきっちりと閉めてキッチンに戻りながら、
「コーヒーでいいかな」
「おかまいなく」
「こっち来て座ってれば」
「ここでいい」
さっさと窓を開けてベランダに出る星野の背中に、心の中で(勝手にしろ)と舌打ちをする。いったいなんだって彼女といるとこうも押され気味になってしまうのだろう。コーヒーだって別にいれてやる必要はないのだけれど、そうでもしていないと間がもたない。流しの前に立ってやかんに水をくむ、その水音までがありがたかった。沈黙が気になるならCDでもかければいいのだろうが、そうすることで出来上がってしまう一種親密な空間が、今は何よりやばいような気もする。
洗いあげてラックに伏せてあったマグカップを並べ、豆を用意しながら、途中から僕は、首筋のちりちりする感じをこらえていた。今ふり返れば星野がベランダからこっちをじっと見ていそうな気がした。ほとんど確信に近いだけに、どうにもふり返れない。レンズで一点に集められた太陽光が紙を焦《こ》がしていくような感触がうなじのあたりに集中していて、思わずてのひらで拭《ぬぐ》いたくなる。僕のあとをつけたという星野が、その間じゅうこういう視線で後ろから見ていたのだとしたら、どうして気づかずにいられたんだろう。
やがて、お湯が沸く頃になって、するするとベランダのサッシを閉める音が聞こえ、ふっと外の気配が遠くなった。
「コーヒー、はいったけど」
呼んだのに返事はなくて、覗きにいってみると、星野は隅っこに腰をおろし、抱えた膝の上に顎をのせてぼんやり畳の目を見つめていた。
「なあ。ここ、椅子とか無いしさ。向こうで話さん?」
「やだ。こっちがいい」星野は頑固に言い張った。「和泉《いずみ》くんも座ればいいじゃない」
「・・・・・・・・」
「そんなに警戒しないでよ。襲いかかったりしないから」
「けどお前、前科があるしな」
「まあね、否定はしないけど。でも和泉くんだって、私なんかに襲われて抵抗もできないほど非力ってわけじゃないでしょ?」
僕はため息をつき、キッチンに引き返した。マグカップを二つトレイにのせて運び、星野との間の畳に置いて腰をおろす。
膝を立て、柱にもたれてしばらくコーヒーをすすっていると、星野は自分のには手をのばしもしないまま、ぽつりと言った。
「ねえ」
「――うん?」
「今さらだけど、どうして教えてくれなかったの? 引っ越しのこと」
「・・・・・・・・」
「なーんて、訊《き》くのもばかげてるか。要するに、私にだけは教えたくなかったわけだよね。こういうふうに面倒なことになるのがわかってたから」
近いうちに話すつもりだったんだ――という例の言い訳なんて、この期《ご》に及んではやっぱり言えるわけがなかった。
「けど・・・・ショックだった、すごく」ぷしゅ、と鼻を鳴らして彼女は言った。「何もさ、隠すことないじゃない。引っ越してきたの、もう二ヶ月も前だっていうじゃない。それからだって私とは何度も会ってるのに、その間ずうっと黙ってたわけでしょ? どうりで部活の後とか、一緒に帰ることが減ったはずだよね。たまに食事に入った後も、まだ用事があるとか言って一人で消えちゃって・・・・ああいうのも結局ぜーんぶ嘘だったわけだ」
「いや、全部ってわけじゃ、」
「ほんっと頭くる」星野は僕にしゃべらせなかった。「そんなに私にここへ来て欲しくないんだったら、ひと言、引っ越したけど部屋には呼ばないからって言えばよかっただけじゃない」
「・・・・・・・・」
そういうことをきっぱり口に出来るタチではないからこそ、しばらく隠すほうを選んだのだったが、まあそれ自体が威張って言える話ではない。打つ手打つ手がすべて裏目に出てしまうこの悪循環を、断ち切る方法はもう嫌というほどわかっているのだけれど、わかっているのと実行に移せるかどうかとはまた別の話だ。
「――悪かったよ」
と、僕は言った。
「それは、謝る。ほんと、ごめんな。たださ・・・・」
「言い訳なんか聞きたくない」
「・・・・うん。確かに言い訳になっちゃうけど、べつに星野にだけ黙ってたわけじゃなくて、岸本《きしもと》とか安西《あんざい》とかにも言ってないんだし・・・・」
「あのー、何のなぐさめにもなってないんですけど」と、星野はかなり意地悪い口調で言った。「岸本くんたちと一緒にしないでよ。あの人たちがこれ知ったところで、私みたいにショック受けるわけないじゃない」
「なんで」
「・・・・ばっかじゃないの?」
ほとほとあきれた、というふうに目をみはって、星野は言った。
「それ、ほんとにわかんないで言ってるの? それともとぼけてるの?」
「・・・・・・・・」
「私はねえ、和泉くん。悪いけど、和泉くんのこと好きなんだよ? もしかしてそのこと忘れちゃってる?」
「いや、それは、」
「だけどそんなこと、これ以上いくら言われたって迷惑でしかないだろうから、私としては必死で頑張って和泉くんの言う『大事な女友だち』やろうとしてたんじゃない。あのとき和泉くんがほんとに本音で言ってくれたんだとばかり思ってたから、」
「いや、ほんとだってそれは」
「そぉかなあ?」星野は思いきりうさんくさい目で僕を見た。「言いたくないけど私なんか、自分でも情けないくらい一生懸命だったんだよ? どうしても恋人にはなれないんなら最高の女友だちになってやるって・・・・和泉くんがたとえかれんさんにも言えないようなことでも私には言ってくれるくらいの、それこそ、十年くらいたってお互い別の人と結婚とかしてても、たまには外で会って一緒にお酒飲んだり悩みごと相談したりできるみたいな、こう、何ていうの? ちょっといい関係っていうの? そういう、他じゃ替えのきかない存在になってやるんだって、無理やり自分のこと納得させてさ。なのに・・・・なのに、何なのよこれ。引っ越したことさえ教えてくれないで、会うたび適当に流してごまかして、そのとぼけた顔で山ほど嘘ついて――そういう扱いを平気でできる相手のことを、和泉くん的には『大事な女友だち』って呼ぶわけだ?」
「いや、だから・・・・」
「人のことバカにすんのもいいかげんにしてよね」
そのとき、携帯が鳴った。
ヴ・ヴ・ヴ・ヴ・ヴ・・・・ヴ・ヴ・ヴ・ヴ・ヴ・・・・帰りの電車に乗るときマナーモードにしたきりの携帯が、キッチンのテーブルの上で震動している。「出れば?」
と星野。
「――いいよ」
「出ればいいじゃない、私なら構わないから」
言い終わらないうちに、音はやんだ。ずいぶんと遠慮深い感じだった。
かれん――かもしれない。さっきまで会っていたのだから特に急用とも思えないが、初めて一緒に選んだ携帯を試したくてかけてきたのかも・・・・。
〈携帯ってなんだか、かけるのに少し勇気がいるのよね〉
夕方、彼女は自分のものになったばかりの白い携帯を眺めながらそんなことを言っていた。
〈行く先々まで相手を追いかけてつかまえる、みたいなことになっちゃうじゃない? かけるほうは自分の都合のいい時にかけられるけど、受けるほうにしてみれば、いつも突然かかってくるわけだし・・・・そのとき相手が何をしてるにしろ、私の電話がそれを邪魔して迷惑かけちゃうことになるんじゃないかと思うと、ついつい気が引けるっていうか・・・・。考え過ぎかなあ〉
〈そんなことないんじゃないの〉と僕は言った。〈そういうとこまで考えちゃうお前って、なんかいいと思うし。ただ、少なくとも俺に関してだけは、そういう遠慮は絶対ナシにしてくれよな〉
〈どうして?〉
〈だって、電話に邪魔されて迷惑っていうのはさ、かけてきた相手よりも自分にとって大事なことをやってる場合だけだろ?〉
めずらしいことにかれんは、それだけで僕が言外ににじませた意味をちゃんと汲み取ってくれたらしく、はにかむような何ともいえない上目づかいで僕をきゅっとにらんだ。
〈大丈夫だよ〉と僕は言った。〈電話を受ける側にだって、ほんとに手が離せない時は出ないって選択があるんだからさ〉
今かけてきたのが、本当にかれんだったとしたら――僕がすぐに出ようとしなかったのを、彼女はどんなふうに受け取っただろう。今は迷惑なんだとでも思って、それですぐに切ってしまったのだろうか。
(迷惑なのは、かけてきた相手よりも自分にとって大事なことをやってる場合だけ・・・・)
かれんよりも星野りつ子のほうが大事なのか、と誰かに訊かれれば、僕はきっぱり首を横に振るだろう。かれんよりも大事なものなんか、僕にはない。けれど、今この瞬間、かれんと話すよりも星野と話すほうが大事だと思うか、と訊かれるなら、答は――ためらいながらも――イエスだった。こんなに痩《や》せて小さくなった星野りつ子を、後のことなど何も考えずに突き放すだけの〈強さ〉は、僕の中のどこを探してもないのだ。
「あのさ・・・・」
僕の声に、星野の肩がぴくりとなる。
「こういうことって、本来、星野に話すようなことじゃないんだけどさ。俺・・・・一人暮らしをしようと思ってアパート探しを始めた時点からもう、はっきり決めてたんだよな。しばらくは絶対誰にも言わないでおこうって。うっかり話しちまえば溜まり場になるってわかってたし、それだとわざわざ部屋借りる意味ないし。そもそも何で一人暮らしかって言ったら、あの花村《はなむら》の家にいたんじゃ、その・・・・あいつと二人きりになれる機会なんてほとんど無かったからでさ。要するに、俺の下心をわかりやすい形にしたのがこの部屋ってわけで・・・・そこまでして手に入れた二人きりの時間と空間を、正直、誰かに邪魔されたくなかった。なんかこう・・・・とにかく、秘密にしときたかった。だから岸本たちにも先輩たちにも言わなかったんだ。まあ、行きがかり上、原田《はらだ》先輩にだけは白状する羽目になったけど」
星野の眉が動くのを見て、
「うん、原田先輩だけは知ってるんだ」と僕は言った。「けど、先輩のこと恨《うら》まないでくれよな。口止めしたのはこっちなんだから。――あ、いれなおそうか?」
星野は、ようやく手にとったマグカップを口に運びながら、かぶりを振った。
「いい」
「けど、さめちゃっただろ」
「いいってば」そして、まるでカップの中に言葉を落とすような感じで、ぶすっと付け足した。「和泉くんのいれるコーヒーは、さめてもちゃんとおいしいからいいのっ」
その瞬間――なんだっていうんだろう、急に鼻の奥がじんとしびれて、僕はうろたえた。星野の何げないひとことは、僕の中で今いちばんもろくなっている部分をまっすぐに突いたのだ。鼻腔の奥のほうで、ちょうどひじをぶつけた時にも似た痛みがじわじわとうごめいている。気づかれないように息を詰めてその情けない衝動をやり過ごしていると、星野がふと、まるで僕の身代わりみたいな大きな息をついた。
「・・・・ずみくんはさ」
「え?」
「和泉くんは、そういうのは私に話すようなことじゃないって言ったけど・・・・私は、ほんとは、そういうことこそ話して欲しかったんだよ」
「・・・・・・・・」
「せっかくこうして自分のお城を手に入れたんだもの、誰にも邪魔されたくなかったっていう気持ちは、私にだってよくわかる。でも、たとえばだけど・・・・これこれこういうわけだから誰にも内緒にしておいてくれって、そんなふうに言ってくれてたら――私、死んでも秘密守ったし、二人の邪魔なんかしなかった。まあ、和泉くんにしてみれば、私には特に言いにくかったってことなんだろうしね。それもすごくよくわかるんだけど、でも何がショックだったって、和泉くんが私のこと全然信用してないんだって思い知らされたのが一番ショックだったの」
「だから、そんなつもりじゃないんだって」
「つもりじゃなくても、和泉くんがしたのはそういうことじゃない?」
「・・・・・・・・」
「けど――もういいんだ、べつに。謝ってもらいたいわけじゃないし。私のほうこそ、和泉くんに一言謝らなくちゃとは思ったけど、それだって許してもらうためじゃないし」
「・・・・?」
「言ったでしょ? 嫌いになってもらうために来たんだって」
「まだそんなこと言ってんのかよ」
「何も、悲劇のヒロイン気取ってるわけじゃないの。さっきも言ったけど、そうでもしないと和泉くんのことちゃんと思い切れないんだってことが、私なりによくわかっただけ。和泉くんの後つけたのだって、ほんと言うと、一度だけじゃないよ。この前の晩、かれんさんと公園のベンチでデートしてたのだって知ってるもの」
「な・・・・! ど、どこまで見たんだよ!」
「ふうん。ってことは、見られると困るようなことしてたわけね?」
ぐっと詰まった僕を見て、
「ふふ、どうかしてるよねぇ」星野は、鼻にしわを寄せて自分を嗤《わら》ってみせた。「うん、ほんと、どうかしてる。それはよくわかってるの。でもね、自分でもどうしようもないんだ。言っとくけど、あの晩、和泉くんとかれんさんを見かけたのは、たまたまだよ? まだ引っ越しのことおばさんから聞かされる前だったし。私はただ、偶然駅のそばで和泉くんたちを見かけて、何となく公園までついてっただけ」
「何となくって・・・・なんでそんなこと」
「そりゃ、気になったからっていうのが一番だけど。でも、ここまできたらもう、二人が実際にイチャイチャしてるとこでも見ないと覚悟決められないかなって思って。何ていうかね、自分でもいいかげん、バカみたいだなと思うわけ。この世に男は和泉くんだけってわけじゃないのに、なんでこう、潔《いさぎよ》くあきらめられないんだろうって。こういうのってもう、好きっていうより執着に過ぎないのかな、とか、意地になってるだけなのかな、とかね。けど、」
もう一度、ふう、と大きな息をついて、星野は言った。
「そうじゃなかったみたい、やっぱり。あの晩――噴水のずっとこっち側からだったけど、和泉くんたちのこと見てて・・・・和泉くんが、かれんさんの残したお弁当を受け取って、あたり前みたいに食べ始めたのが見えただけで、もう・・・・なんかもう、ダメで・・・・イチャイチャどころか、たったそれくらいのことで涙ぼろぼろこぼれてきちゃって・・・・」
あっは、と笑うと、星野は急いで目の下をぬぐった。
「やだ、思い出したらまた泣けてきちゃった。ごめん、気にしないで」
「――そう言われても」
「いいのっ。思い出し笑いがあるんなら、思い出し泣きっていうのがあったっていいでしょ?」
「・・・・・・・・」
「とにかく、それだけだから和泉くん、安心して。あとのことは全然見てないから。っていうか、見てるのもばかばかしくて帰っちゃったから」
「とにかく、それだけだから和泉《いずみ》くん、安心して。あとのことは全然見てないから。っていうか、見てるのもばかばかしくて帰っちゃったから」
そう言うと星野《ほしの》は、手の甲を鼻の下に押しあてるようにしながら、
「悪いけど・・・・」詰まった声できまり悪そうにつぶやいた。「そこのティッシュ、一枚くれる?」
畳に転がっていた箱から二、三枚抜き取ってやる。
「ありがと」
律儀に礼を言って僕のほうへのばす手首が、白々と細い。まるで小鳥の首みたいだ。
なんだか、もう、たまらなかった。鼻のあたまも目のふちも真っ赤にして、それでも何とか僕の前では泣くまいと唇をかみしめる星野りつ子を見ていたら、心臓のひと隅がずきずきと疼《うず》いて仕方なかった。
心臓のひと隅――。
正直そこはこれまで、ただ一人かれんを想う時にしか決して痛まなかった場所だった。ふだんどんなにせつない思いをしようと、それがかれんに関することでない限り、心臓のその場所だけはしっかりと痛みから守られていたはずなのだ。
かれんに対して抱くのと同じ種類の想いを、星野に対して抱いたことなど一度もない。それについてははっきり断言できる。
それなのに、心臓のその場所に痛みを感じるというだけで充分にかれんを裏切っている気がして、ほんとにもう、たまらなかった。頼むからいいかげんに解放してくれという感じだった。
とはいえ――もっと正直になるなら――かれんに対する気持ちと星野に対する気持ちの間には、共通点もまるきり無いわけじゃなかった。ひとことでうまく言い表すのは難しいけれど、あえて言葉にするならたぶん〈ほっとけなさ〉みたいなもので、もしかするとその点に関しては、そう、あくまでもその点に関してだけだけれど、今のところ星野のほうがかれんよりむしろ上かもしれなかった。なぜなら、かれんのほうは今、とにもかくにも自分の向かうべき道を見つけて僕の前を歩いているからだ。〈ほっとけない〉どころか、ぼやぼやしているとこっちが置いていかれてしまいそうなほどだからだ。
星野に対する感情が、かれんへの恋とはまったく別のものであるにもかかわらず、僕がこんなに後ろめたさを感じてしまう原因はそこにあるのかもしれない。かれんを追いかけてひた走り、何とか肩を並べようと必死にもがくことよりも、いま目の前でつまずいてなかなか立てずにいる星野に手をさしのべてやるほうが、僕にとってはずっと楽で、自然で、気の休まることではあるのだ。はるか前方を走られる劣等感にさいなまれることもなければ、思うように距離を縮められない焦《あせ》りに苛立《いらだ》つ必要もない。無理に背伸びなんかしなくても、ありのままの、等身大の自分でいられる。
と――、ふいに星野がこっちを向いた。
「同情だけは、しないでよね」
真顔で言われてギクリとなる。
「――するかよ、そんなの」
「絶対よ。それでなくてもズタボロなのに、このうえ憐《あわ》れまれたりしたら死んじゃいたくなるから」
「だから、しないって」
いま星野に感じているこの〈ほっとけなさ〉が同情なのかそうでないのか、ほんとうは自分でもよくわからない。わからないままに、
「だいたい、そんな余裕無いよ」と僕は言った。「こっちだって、星野に同情できるほど色々うまくいってるわけじゃないし」
「ふん。とか言っちゃって」
「いやマジで。俺なんかここんとこ、いっそ誰かに同情してもらいたいくらい最低の日々だもん」
「あ、そ」
興味なさそうに肩をすくめてみせたくせに、星野が一瞬まっすぐにこっちを見たのがわかった。睫毛《まつげ》がひらっと動いて、すぐまた伏せられる。
やがて、彼女は言った。
「何か・・・・あったの?」
「――うん。まあ、いろいろ」
「別にかれんさんとうまくいってないわけじゃないんでしょ」
「一応ね」
「じゃあいいじゃない」
「俺だって何も恋愛関係ばかりが悩みってわけじゃないよ」
「あ、やな言い方。それじゃ恋愛関係でばっかり悩んでる私がばかみたいじゃない」
「いや、そんなつもりじゃ・・・・」
「私だってたまには恋愛以外のことで健康的に悩んでみたいわよ」皮肉なかたちに口を曲げて、星野は言った。「最後にごはんを美味《おい》しいって思ったのがいつだったか、もう忘れちゃったもの」
「・・・・・・・・」
「かれんさんのことじゃないなら、いったい何がそんなに最低なわけ?」
「いいよもう、俺のことは」つい、ぶっきらぼうになる。
「そっちこそ、まだ話があるんじゃないのかよ」
「話?」
「さっき言ってたろ、俺に嫌われるためにどうとかって話だよ。それって、ただ公園まで俺らの後を付けたってことだけか?」
「・・・・ほかに、まだ必要?」
「なんだよ、やっぱそれだけなのかよ」
「後まで付けられたのに、腹が立たない?」
「そりゃ立つけどさ。立つけど、そういうのと嫌いになるってのとはまた別・・・・」
ふっと奇妙な感じにとらわれて、僕は口をつぐんだ。何なんだ、このやり取りは。これじゃまるで星野が僕の恋人で、どれくらい愛しているかを試されているかのようだ。どの程度のことをすれば相手が自分を嫌いになるかを確かめるのは、その相手がどれほど自分を大事に思っているかを確かめるのと同じことなんじゃないのか。
〈なんで女ってさ。人を試すようなこと、わざわざ言うかな〉
耳の底に、昼間の丈《じょう》の声が響く。
黙ってしまった僕を横目で見ながら、
「・・・・そう」星野はため息をついた。「じゃあやっぱり、しょうがないか」
「何が」
「ほんとは、こんなことまで話したくなかったんだけどね。和泉くんが頑固だからしょうがないや」
「だから何が」
じれる僕を見て、星野は苦笑まじりに肩をすくめた。
「ゆうべ、私ね。ほら、かれんさんちにろくでもない電話しちゃったじゃない? でもぜんぜん気分なんか晴れなくて、それどころかよけいにクサクサしちゃって、バイトの時もふだんなら絶対しないようなミスいくつもして店長に怒られてさ。勢いで、帰りに先輩の人と飲みに行ったのね・・・・」
脳裏を、ある男の姿がよぎった。いつだったか星野に脚立を押さえてもらいながらビデオを整理していた、あの長髪にピアスの男だ。飲みに行こうと誘ったのは男のほうだろうか、それとも星野のほうだったのだろうか。
「どれくらい飲んだかなあ。うん、かなり飲んだと思うけど、記憶が飛ぶほどじゃなかったのは確か。はは、いっそのこと、酔っぱらって記憶がなくなるタチならよかったのにね」
「・・・・?」
僕が目を上げると同時に彼女はふいっと視線をそらし、どこかサッシの外のあたりを見やった。
「結局、ゆうべはその後・・・・彼の部屋まで『お持ち帰り』されちゃったってわけ」
軽い口調だった。まるで、「新作のホラー借りちゃった」というのと同じくらいに。
そして星野は、いつものようにあごをつんと上げて言った。
「もういっぺん言っとくけど、へんな同情なんかしないでよね。無理やりだったとかそんなんじゃないんだから。全部わかってて、自分で部屋までついていったんだから」
「・・・・そ・・・・それってつまり・・・・」
かすれ声を押しだす僕を、憐れむように見る。
「何言ってんの? ハタチも過ぎた男女が朝まで一緒にいて何も起こらなかったなんて、ありっこないでしょうが」
「・・・・・・・・」
「今どき親でも信じないわよ、そんなこと」
「・・・・・・・・」
「少しはショックだったりする?」
「・・・・・・・・」
答えられないでいる僕を見て、星野がまた肩をすくめる。
(少しは・・・・だって?)
少し、どころの騒ぎじゃなかった。何か・・・・せめて一言くらいまともなことを言ってやらなければと思うのに、言葉なんかまるで出てこなくて、頭の中がぐらぐら沸《わ》いて、視界のすべて、部屋の壁も天井も畳もすべてがゆっくり回転していて、なんで俺こんなにショック受けてんだと思ったら、そういう自分にまた打ちのめされる思いがした。何の脈絡もなく、また丈の顔が浮かぶ。もしかするとどこかに脈絡はあるのかもしれないが、頭が痺《しび》れてさっぱり働いてくれない。
「ヤケになったとかいうのとは、違うの」
膝をきつく抱え直して、星野は淡々と言った。
「その先輩のことを好きで付いてったわけじゃないけど、だからってヤケだとか、和泉くんへの腹いせだとか、そういうのとは違うの。でも、この際誰でもよかったっていうのもほんとなの」
よくわからなくて眉を寄せると、それを誤解したのか、星野はうっすら苦笑いを浮かべた。
「軽蔑した? いいよ、してくれて。そのほうが話した甲斐があるし」
僕は黙っていた。
後を付けたくらいのことで嫌いにはならない――そう安請け合いしたせいでこんな話を聞かされたのなら、好きでもない男と寝たくらいで軽蔑なんかしない、などとうっかり言えば、星野が今度は何を言い出すかと思うと怖ろしかった。
「ほんとにね、誰でもよかったんだぁ」
膝をかかえたせいでいっそう小さくなった星野は、畳の目に言い聞かせるかのようにささやいた。
「ゆうべはとにかくもう、殺人的に寂しくて、息を吸ったりはいたりするのもつらくて・・・・ねえ、和泉くん、知ってる? 寂しい気持ちって、痛いんだよ。とくに、背中が。ほんとに、ちぎれるみたいに痛くてたまんないの。あのまま一人でいたら私、一晩もたなかったかも」
「――もたなかった?」
星野は、それには答えなかった。
「何ていうのかな・・・・寂しいのと寒いのってそれほど似てないけど、すごく寂しいのとすごく寒いのって、似てる気がする。だって、すごく寒いときに毛布か何か渡されたら、文句なんか言わずにありがたく受け取るじゃない。この色はいかがなものかとか、模様がちょっとねぇとか、言わないじゃない絶対。つまり、そういうこと」
「・・・・・・・・」
「とにかく、誰でもいいからちゃんとかまってもらいたかったの。私のことを見てもらいたかったの」
「わかる、けどさ」やっとの思いで、僕は言った。「わかりはするけど――頼むからそんな、誰でもいいとか言うなよ」
「じゃあ、和泉くんがいい」
「えっ」
「そう言われると、困るでしょ?」
「・・・・・・」
「なら、無責任なこと言わないでよ」
――ごめん、と僕は言った。星野がまた苦笑する。
「ねえ」
「・・・・うん?」
「けっこう、いい人なの、その先輩。見た目は軽いけど、面倒見がいいっていうか」
「うん。前にも聞いた」
「そうだっけ」星野は少し眉を上げて僕を見た。「そっか。まあ、そのせいもあるんだと思うけど、成り行きでそういうふうになっても、ヤな感じはしなかったのね。後から薄ら寒い気持ちになったりもしなくて、ただ抱き合ってるだけであったかくて・・・・それだけで私、涙が出るくらいほっとしたの。毛布なんかより、人肌がいちばんあったかいってほんとだね。体がつながってるだけで何となく安心できるっていうかさ。『お前にだって魅力がないわけじゃないんだよ』って肯定してもらえる感じがして、それが相手から求められてのことだとよけいに、自分が必要とされてる気がして、こんな私でも要らない人間じゃないんだって思えて・・・・なんかうまく言えないけど――でも、わかるでしょ? 和泉くんだって、かれんさんと抱き合ってる時にはちょっとくらいそういうふうに感じることあるでしょ?」
「・・・・・・・・」
「それとも、いつだって自信満々だったりする?」
「・・・・星野」
「そうだよね。和泉くんのとこは、ずうっと前から両想いなんだもん、そんなふうに卑屈になる必要ないか」
「星野、あのさ」
「そうでなくたって、ふつうは恋人とベッドで抱き合ってる時にいちいちそんなこと考えないよね。こんなことでビクビクおびえたりするのなんか、」
「星野っ」
「私ぐら・・・・い・・・・」
ようやく僕の声が届いたのか、彼女がすうっと口をつぐむ。ボリュームのつまみを唐突に絞るような黙り方だった。
その目がのろのろと動き、それでもどうにかちゃんとこっちを見るのを待ってから、僕は、低く言った。
「悪い、星野。そういう気持ちって俺、頭では理解できるけど、ほんとうにはわかってやれないと思う」
「――そっか」ぽつりと星野がつぶやく。「うん、たぶんそうじゃないかと思った」
「違う。星野お前、誤解してる。俺が言ってるのはそういう意味じゃなくて・・・・もっとすごく単純っていうか、いっそ笑えるくらいの話でさ」
ひとつ大きく息を吸いこみ、腹をくくる。
「つまり、わかってやれないのはただ単に、俺にはまだあいつとそこまでいった経験がないからってこと」
「そこまで・・・・って?」
黙って星野を見つめ返す。
だんだんと、彼女の顔つきが変わっていくのがわかった。
「まさか・・・・嘘でしょ?」
予想したとおりの言葉だった。
「なんでそんな嘘つくの?」と、星野《ほしの》はひどく平板な声で言った。「そんな見えすいた嘘でごまかせる気でいるなんて・・・・和泉《いずみ》くん、私のことバカだと思ってるでしょ」
「思ってないよ」と僕は言った。「星野こそ、なんで嘘だなんて思うんだよ」
「だって、あり得ないじゃない。かれんさんと実際につき合い始めてから、もうどれくらいたつって言ってた?」
「一年半と少し、かな」
「この部屋で一人暮らしを始めてからだってもう、」
「三ヶ月とちょっと」
「それで、一回もしたことないって? 変だよ、そんなの。いくらなんでも不自然じゃない」
「常識からいったらそうかもしれないけど、しょうがないだろ。俺らにとってはそれが自然だったんだから」
(とりあえずこれまでのところは)
と、胸の中で付け足す。
「嘘だね、ぜったい」きっぱりと星野が首を振った。「信じない」
「信じようが信じまいが、事実はそうなんだよ」
でも、星野が疑いたくなるのも無理はないのかもしれなかった。僕だって、同じことを誰か他の人間が言ったら信じなかっただろう。
「一緒にいて・・・・」
「え?」
「あのひとと一緒にいて、いっそのこと押し倒しちゃいたいとか思わないの?」
こちらを見もせずに言う。
「なわけないだろ。何度も気がへんになるくらいそう思ったよ」
星野がふっと笑った。「それでも我慢しちゃうくらい、好きってことだ」
「・・・・・・・・」
「はっ。ごちそうさま」
僕はため息をついた。
「なんでそう、いちいち曲げて取るかな。そういうことが言いたいんじゃないことくらい、ほんとはわかってんだろ?」
星野は、黙りこくって畳をにらんでいる。
こういう場合――つまり、僕がかれんと未経験だと聞かされた場合、星野の立場なら内心喜ぶかホッとするものなんじゃないかと僕なんかは簡単に考えていたのだが、現実はそうシンプルなものではないらしい。彼女の目はむしろ、さっきまでよりもさらに暗さを増したように見えた。
「なんか・・・・」と、星野がつぶやいた。「なんかすっごい腹立ってきた」
斬りつけるような口調だった。
「だいたい、そんなんで何がわかるの?」
「どういう意味だよ」
「プラトニックも結構だけど、抱き合って初めてわかることだってあるんじゃないのかって訊《き》いてんの。いいかげん大人の男と女が、これだけ付き合ってるのにエッチもしないで、それでほんとに相手のことわかってるなんて言えるの? ちょっと聞いたらお互い相手のこと大事にしてるみたいに聞こえるけど、案外、大事なことから逃げてるだけなんじゃないの?」
痛いところを突かれて、ついムッとなる。
「そういう星野はどうなんだよ」と僕は言った。「一晩寝ただけで、相手の男の何がわかったっていうんだよ」
「私の話なんかしてないよ。だいたい私の場合は、彼が好きでそうなったわけでも、そもそも長くつき合ってるわけでもないもの。でも和泉くんのとこはそうじゃないでしょ?」
「・・・・・・・・」
「もしかしてさ」星野がフン、と鼻を鳴らす。「かれんさん、わざと焦《じ》らしてるんじゃないの? 年上の余裕でさ」
「ばか言えよ」
「そうかな。和泉くんの目が曇っちゃってるだけかもよ。言っちゃ悪いけど、あの人ってちょっとそういうタイプだもん」
「そういうってどういう」
「男に媚《こ》びるっていうかさ」
「星野」
「和泉くんとかマスターとか、あと中沢《なかざわ》さん? とかから見れば、あの天然っぽいとこがたまんないのかもしれないけど、あんなの天然でも何でもないわよ。はたから見てたらわざとらしくて鳥肌立っちゃうことあるもの。男ってほんっと単純。ああいう楚々《そそ》とした美人がちょーっとドジだったり、ちょーっとトロかったりするだけで、ころっとまいっちゃってさ。マタタビ嗅がされた猫じゃないんだから、もうちょっとシャンとしろって感じ? こいつは俺が守ってやらなきゃとか思うんだろうけど、ああいう人ってほんとは誰よりしぶといのよ。殺しても死にゃしない図太い神経してるくせに、わたしは虫も殺せません〜蚊に刺されても倒れます〜、みたいなふりしちゃって、計算高いっていうかしたたかっていうか、どうすれば男にチヤホヤしてもらえるかよく知ってるのよ。そのうえで、上手に可愛くふるまえる。いい年して今さらブリッコもないでしょうに、あれが芸能人だったら真っ先に女性週刊誌でバッシングにあう・・・・タイ・・・・プ・・・・」
すうっとロウソクが消えるように、星野が黙った。
僕の視線に、ようやく気づいたのだ。
「や・・・・」口を半開きにした彼女の顔が、みるみるうちに青ざめていくのがわかった。「やだ、ご・・・・ごめん、和泉くん・・・・」
唇が、おかしいくらいわなわなと震える。
「ごめんなさい。こんなこと言うつもりじゃ・・・・ほんとに、こんなつもりじゃ・・・・」
「・・・・・・・・」
「こんなこと、ほんとは思ってないの、信じて。かれんさんが素敵な人だってことくらいわかってる。和泉くんが好きになるの当たり前なくらい、素敵な人だって・・・・わかってるんだけど、なんかすごくむしゃくしゃして、和泉くんのいやがることいっぱい・・・・」
両目に涙が満々とたまっていく。
「ねえ、なんで?」
下唇をかみしめながら、星野は口で息を継ぎ、悲鳴のように言った。
「私だって好きなのに! ううん、かれんさんなんかより私のほうがずっとずっと和泉くんのこと好きだよ。気持ちじゃ絶対負けないよ。なのに、なんでなの? なんでダメなの?」
何も、言えなかった。体じゅうがひりひりする。もしかしたら星野の言うとおりなのかもしれない。かれんが僕を想ってくれる気持ちがどの程度のものなのか、僕にはいつも実感できなくて、だから自信が持てなくて・・・・。
「ああもう、やだ」星野は洟《はな》をすすり上げた。「こんな気持ちぶつけたって和泉くんのこと困らせるだけなのに・・・・お願い、嫌いにならないで」
言ったとたんに、星野ははっとなった。
「――じゃなかった、何言ってんだろ私。なっていいよ、嫌いになっていい。最初からそのために来たんだった、あははは・・・・」
かろうじて笑っているといえるのは、大きく開けた口の形だけだった。あははは、と棒読みのように言いながら、星野はまるで親とはぐれた子どもみたいに大粒の涙をぼろぼろこぼして泣いていた。ほんとうに、全身の血を絞るようにして泣いていた。
言ってることは支離滅裂だけれど、星野がそれを僕の気をひくためにしているのでないことはもうわかっていた。百歩譲って、たとえ少しはそうだったとしても、だからどうだというのだろう。僕だって、もしもあの時かれんが僕の気持ちを受け入れてくれなかったら、今ごろは星野のようになっていたかもしれない。大きくふくれあがりすぎた感情をおさえこんでおくことが出来ずに、望みもしない形で爆発してしまっていたかもしれないのだ。まるで原子炉の事故みたいに。
こみあげる嗚咽《おえつ》を、星野はひとつひとつ飲み下すようにして泣き続けている。
その足もとから、僕はマグカップを取って立ちあがった。僕が見ていないほうが星野も泣きやみやすいんじゃないかと思ったのだ。
キッチンへ行って、二人ぶんのコーヒーをいれなおす。新しい豆から挽《ひ》いて、ゆっくり丁寧に落とし、やがて戻ってみると、星野は大きく息を吸ったり吐いたりしながらてのひらで頬をぬぐっていた。
元の場所にコーヒーを置いてやろうとかがんだ僕に、かすれた声で言う。
「・・・・お砂糖とクリームもいれて」
「めずらしいな。どんくらい?」
「いっぱい」
つっけんどんではあっても、なんとか普通に口をきいてくれたのがありがたかった。これだって、だいぶ無理をしてるんだろう。
黙って再びキッチンへとって返し、彼女の望み通りにして戻ってみると、星野はティッシュを箱ごと引き寄せたところだった。何枚も引き抜き、畳にぺたんと座ったままものすごく派手な音をたてて洟をかむ。
以前の僕だったら、こういう時、単純にかれんと比較してしまっていたかもしれない。あの大晦日の夜、僕の前で泣いたあと、同じように洟をかんで照れ笑いをしたかれんを思いだして、それに比べると星野はやっぱり少々がさつだよな、などと――。でも、そうじゃないんだ、と僕は思った。こういう時にあえて盛大な音をたててみせるのが、星野りつ子流の照れ隠しなのだ、たぶん。男の前で洟をかむのが恥ずかしくないんじゃない。それ以前に男の前で泣いてなんかいる自分が恥ずかしくてたまらないから、へんに同情されるのがいたたまれないから、互いの間にシリアスな空気が漂うのを邪魔するようにわざと必要以上に音をたてて洟をかんだりしてしまうのだ。たぶん、そういうことだ。
ふいに何かこう、脇腹のあたりを指でつつかれるような感覚がこみあげてきて、何かほかに欲しいものはないか、と訊いてやろうとして寸前で思いとどまった。うっかりそんな訊き方をして、また「じゃあ和泉くん」とか答えられても困る。
用心深く言葉を選んで、僕は言った。
「そういえば星野、メシ食ったのか?」
星野が、微妙な首のかしげ方をする。
「なんか作ってやろうか」
彼女は黙ってかぶりを振った。そして、ひとつ洟をすすっておずおずと言った。
「いっこだけ、わがままきいてくれる?」
「内容による」
「・・・・じゃあやっぱりいい」
「何だよ。言うだけ言ってみなよ」
すると星野は、僕のほうを見ないまま、思い切ったように言った。
「背もたれになって」
「は?」思わず聞き返した。「背もたれ?」
「そう。ちょっとの間だけでいいから。ほんとに、五分でいいの、和泉くんに寄りかかってぼうっとしてたいの。和泉くんは何にもしないでじっとしててくれればいいから。それだったら別に、かれんさんを裏切ることになんないでしょ?」
「・・・・・・・・」
「やっぱ、だめか。いいの、言うだけ言ってみろって言うからためしに言っ・・・・」
「星野」
「え?」
「――ほんとに、五分だけだからな」
星野が、泣き笑いの顔で僕を見た。左手で描いた似顔絵のような、くしゃくしゃの顔だった。
ごそごそと畳の上を移動して、小さな体を僕の立てた膝の間に割りこませると、彼女はおとなしく背中を向けてそっと体重を預けてきた。頭のてっぺんのつむじのあたりを、僕の喉もとに押しつけるようにして見上げてくる。
「なんか、もたれ心地がイマイチなんですけど」
「悪かったな」と僕は言ってやった。「ふかふかのが好みなら、出腹のオヤジにでも頼みな」
星野がくすっと笑うと、僕の両腕を取って、シートベルトみたいに自分の前に回させた。これでも、〈和泉くんは何もしないでじっとして〉るうちに入るんだろうか。
「私ね・・・・」
僕の右手をひろげ、まるで手相を見るようにしげしげとのぞきこみながら、星野はつぶやいた。
「人を好きになるって、もっと幸せな気持ちのするものだと思ってた」
僕は、黙っていた。
「いいかげん忘れなきゃって自分でも思うのに、どうしてうまくいかないんだろ。ねえ、忘れるってどうやるのかな。今の今まで好きで好きで好きだった気持ちを、クリアボタン押すみたいにぱっと消すことなんてできないよ。箱にしまってカギをかけても、その箱はずっと私の中にあるの。いつも箱のありかを意識しちゃう。それを忘れようって思うのは結局、思い出してることと同じなのに、どうやって忘れればいいんだろ・・・・」
ヴ・ヴ・ヴ・ヴ・ヴ、と再びキッチンで携帯が鳴り始める。
でも、星野も僕も、今度は何も言わなかった。
きっちり五回のコールのあと鳴りやむまで、僕は壁にもたれ、彼女は僕にもたれたまま、ただぼんやりその音に耳を澄ましていた。
こんもりと緑生い茂る岬の丘の上で、あのなつかしい女神像が両手を空へとさしのべている。
遠くの水平線をゆっくりと移動するのは、赤さび色と黒に塗り分けられた大型タンカー。砂浜はゆるやかに湾曲しながら続き、子ども連れの家族の笑い声が響き、犬を連れた人が散歩を楽しみ、板をかかえたサーファーがてのひらをかざして波の具合を眺《なが》めている。青くきらめく大海原には、今日も釣り船が点々と浮かんでいた。
もう何度目になるだろう、この海を見に来るのは・・・・。
最初にかれんの後をつけてきて彼女の秘密を知り、子どもみたいに泣きじゃくる細い体を抱きかかえて時を過ごした場所――僕はいま、その同じ場所に腰をおろしてかれんを待っている。彼女の行き先がおばあちゃんのいる老人ホームなのも、僕の背中にあたる防波堤が熱を持っているのも、午後の日ざしが砂に反射してまぶしいのも、あの時とまるきり同じだ。
握った砂を手から手に移しかえながら、とんびの舞う空を見上げる。あたりの風景はまったく変わらないように見えても、海や空の色、そして雲のかたちは、記憶にあるのとどれも少しずつ違っている気がした。思えば、秋のさなかに鴨川《かもがわ》を訪れるのは初めてなのだ。
〈今度の週末、ショーリは何か予定ある?〉
あの晩――つまり、星野《ほしの》りつ子《こ》が帰っていった後、ということだが――かれんは電話でおずおずとそう言った。着信履歴を確かめるとやはり二度ともかれんからで、まだぎりぎり起きているだろうと、急いで僕からかけ直したのだ。
彼女は自分のかけた電話のタイミングの悪さをひどく気にしていて、そんな彼女に向かって、
〈ごめんごめん、風呂から出てビール飲んだらついうたた寝しちゃってさ〉
などとしらじらしく言い訳しながら、僕は自分の舌をつかんで引っこ抜きたくなった。
星野りつ子の〈背もたれ〉でいたのは、本当にたったの五分か、六分か、どんなに多く見積もっても十分は超えなかったはずだと思う。でも僕は、その行為以上に、それをかれんに言えずにいることが後ろめたくてたまらなかった。後ろめたいから、よけいに言えない。言えないから、さらに後ろめたい。――悪循環の見本みたいな出口のなさだ。
〈べつに予定なんてないよ、全然。どこへだって付き合うよ〉
と僕は請け合い、それでこうして鴨川まで一緒に来ることになったのだった。
後から思うと、この週末はいいかげん何かバイトを見つくろって面接を受けなければと考えていたはずだったのだが、あの夜の僕にそんなことにまで思い至る余裕などあるわけがなかった。たとえかれんからどれほどの無理難題を持ちだされようと、一も二もなく引き受けてしまっていただろう。
あれは、いつの頃からだったか・・・・そう、たしか星野りつ子に少しでも何か食べさせようと外で一緒に食事するようになった頃からだと思うけれど、僕の背中をせきたて始めたあの焦燥感の正体が、今になってようやく見えてきた気がした。
――秘密は、増殖する。
いったん作ってしまったが最後、必ず雪だるま式に、いやネズミ算式に増えていく。僕のなけなしの本能だか理性だかは、あの頃からそれを忠告してくれていたのだ。
気をつけなきゃいけない。後ろめたさのせいでやたらと冷たくなるタイプと、やたらと優しくなるタイプがいるとしたら僕の場合はおそらく後者だろうし、うっかりしていると、何かの拍子にまたしてもかれんから〈浮気してる男の人ってこんな感じなのかな〉などと指摘されかねない。冗談でも今そんなことを言われたら、顔色を変えずにいる自信はなかった。そしてそのことが、かれんと僕との間に培われた何か大事なものを決定的に損なってしまう危険性を考えると、ほんとうに身がすくむ思いがした。
大事なもの。
大事なひと。
それらを決して傷つけたくない、ただそのためだけに作ったはずの秘密が、いつのまにかかえって危険な時限爆弾に変わってしまうなんてあんまりじゃないか・・・・。
砂に投げ出していた脚を引き寄せ、膝にひたいを押しあてて、長いため息をつく。目を閉じると、波の音が急に大きく感じられた。
何でこうかな、と苦笑がもれる。これでも、出来ることはしてるつもりなのに、何でこう秘密ばかりが増え、無力感ばかりが積もっていくんだろう。
流されているばかりじゃいけない。どこかで線を引かなくちゃいけないってことくらいよくわかっている。だからこそ、星野にだってあれから言うべきことは言ったのだ。
あの二、三日あと、学生部の前でばったり会ったとき星野は、照れ隠しの仏頂面でウス、と男の子みたいに挨拶し、目を伏せた。
〈こないだは、その・・・・ごめんね。迷惑かけちゃって〉
僕は、わざとからかうように言ってやった。
〈一応、自覚はあるんだ?〉
〈ふん、ちょっと下手に出ればこれだもんね〉
くしゅっと気まずそうに笑って、それから星野は遠慮がちに言った。
〈駄目って言われてもしょうがないんだけど・・・・これからも、その、時々はあの部屋に遊びに行っていい? もう絶対、無茶なこと言ったり、泣いて困らせたりしないから〉
予想、していた言葉だった。次に星野に会ったらたぶんそう言われるんじゃないかとは思っていた。
だから僕は、用意していた答を口にした。
〈ごめん。悪いけど、それは駄目〉
刃物で刺されたかのように身をすくませた彼女に向かって、僕は急いで続けた。
〈来られるのが嫌だって意味じゃないんだ。星野のことはほんとに大事に思ってる。だけど――俺にも、どうしても傷つけたくないやつがいるんだ。こんなふうに言うことで星野のことを傷つけてるのはわかるし、出来るならこんなこと言いたくないよ。でも、やっぱり、両方の手は取れない〉
〈・・・・べつに、私の手を取ってって言ってるわけじゃないよ?〉と、星野は言った。〈こないだも言ったけど、ほんとに、一番の女友だちでいたいだけなんだよ?〉
雑踏にかき消されてしまうくらいの小さな声だった。
〈わかってるよ。俺だってそう思ってるよ〉
本当に心からからそう思っているのだということが、どうか星野に伝わればいいと願いながら、僕は彼女をうながして人通りを少し脇へよけた。
〈それでも、やっぱりさ。星野があの部屋に出入りしてるの知ったら、彼女が何も思わないはずはないし。これが星野じゃなくたって、誰か女の子が一人で男の部屋に出入りしてりゃ、はたからはそういう関係にしか見えないんだよ。こういうことって、理屈じゃないだろ?〉
星野はうつむき、バインダーと教科書を胸のところに抱きしめるようにしながらしばらく黙っていたあと、ようやくかすかにうなずいた。
〈・・・・わかった〉
〈ごめんな〉
星野が、力なく首を振る。
〈だからさ。――今度来るなら、一人じゃなくて、誰かと一緒に来いよ〉
バネ仕掛けのように彼女が顔を上げた。
〈それと、来る時は前もって電話くれよな。いきなりってのはパスだかんな〉
〈で・・・・でも和泉《いずみ》くん、あの部屋のことはほとんど誰にも言ってないって〉
〈うん。だからまあ、来るとしたら必然的にあの先輩と一緒でよければってことになるけど〉
大きくみはった彼女の目の中を、いくつもの感情のかたまりがよぎっては消えるのを、僕は同じくらい複雑な気持ちで見ていた。
やがて、ようやくそれらの感情を瞳の奥にしまいこむことに成功すると、星野は口をへの字に曲げ、とても彼女らしい仕草で肩をすくめて言った。
〈なんか、究極の選択よね、それって〉
――以来、星野とは話していない。大教室で一度、クラスの子たちといるところを見かけたけれど、彼女は遠くから僕に向かって遠慮がちに微笑んでみせただけで、そばに来ようとはしなかった。
原田《はらだ》先輩と一緒、という強烈な縛りがあっても、それでも星野はあの部屋に来るのかな、と僕は思った。
先輩は、星野の僕に対する気持ちを知っているし、僕がずっとそれを受け入れてやれずにいたことも、今ではその理由も知っている。星野のほうだって、先輩がそれらすべてを知っているということを知っている。そんな相手に向かって、「和泉くんのところへ遊びに行きましょうよ」なんて平然と切り出せるものだろうか。それより何より、星野にとって、誰かと一緒にあの部屋に来ることに意味はあるのだろうか。好きな相手をただ眺めているだけで幸せ、なんていう告白未満の片思いならともかく、星野の場合、僕に対してはあくまで一対一の関係を求めてるんじゃないかと考えるのは、こっちの勝手な自惚《うぬぼ》れなんだろうか・・・・。
「あ、いたいたショーリ!」
びくっとなって体を起こすと、すぐ後ろで、まぶしそうに目を細めたかれんが僕を見おろしていた。
紺色のボートネックのニットに、飾りボタンの並んだ白いパンツ。ゆるやかに波打つ髪を小さな水玉のスカーフでたばね、薄手のピーコート風ジャケットを脱いで腕にかけた彼女は、なんだか新米の水兵さんみたいだった。
「あら。もしかして寝てたー?」
柔らかなアルトが、歌うように言う。
「寝てないよ。なんで?」
「だって、おでこのとこ赤くなってる」
僕が慌《あわ》てて額をこするのを見て、かれんはすまなそうに言った。
「ごめんね、うんと待たせちゃって」
「いいよ全然。お前こそ疲れたろ。腹は?」
「大丈夫、向こうでお茶とお菓子ごちそうになったから。ショーリは?」
「俺もさっき、パン買って食った。海見ながらのアンパンと牛乳、最高だったぞ」
かれんは風になびく後れ毛を片手でおさえながら、ますますすまなそうに微笑《ほほえ》んだ。
「ほんとにごめんね。あとで何か、おいしいもの食べよ?」
「気にすんなって。それより、園長先生、なんだって?」
「・・・・ん。私のほうさえよかったら、いつからでも来て下さいって」
僕の隣にそっと腰をおろして、かれんはふっと息をついた。
「でもそうは言っても、学校のほうを途中で投げ出すわけにはいかないし、実際にはどんなに早くても四月頃からってことになると思うけど。あとのことはもう一度改めてご連絡させて下さいってお願いして、今日のところは待って頂いたの」
「――そっか」
僕は、無理をしていることがバレないように、何とか自然な笑顔を作った。
「やっぱ、そういう話だったか。じゃあ、寮の空《あ》き部屋とかの件はクリアできたわけだ?」
「それが、寮はやっぱり空きそうにないんだけどね、かわりに園長先生のお知り合いの方が、ここしばらく空き家になってた家を貸してもいいって言って下さってるんですって。しっかりした造りだから取り壊すにはもったいないけど、人が住まないでいると不用心だし、傷《いた》むばっかりだからって。なんでも、昔ながらの古民家でね、庭にはきれいな水の出る井戸もあるんですってよ?」
バッグの中をごそごそと探し、かれんは僕に向かって、
「ほらっ」手書きの地図らしきものをひろげてみせた。「駅からバスに乗って、ほんの十五分か二十分くらいですって」
「つまりそれは、」と僕は言った。「これからさっそく行ってみようっていうお誘いなわけだよな?」
かれんが、例によってアヒルのくちばしのように唇を結んでコクコクとうなずく。
僕は苦笑して立ちあがり、ジーンズの尻の砂をはらった。
「はいはい。どこへでもお供しますよ、お姫さま」
あの晩、かれんがめずらしく二度も電話してきたのは、その日買ったばかりの携帯が嬉しかったからでも、夕方別れたばかりの僕の声がもう一度聞きたかったからでもなかった。ただ単に、鴨川のホームの園長先生から、会って話したいと連絡があったからだった。
介護の職員枠に欠員が出たら教えてくれるよう頼んであるのだという話は、僕もこの前かれんから聞かされたばかりだったが、それに対して向こうがすぐに返事できずにいたのは、手が足《た》りていたわけじゃなく、ただ職員寮に空き部屋がなかったためらしい。限られた予算の中から支払われる給与の額は、世間一般の標準的なそれと比べて決して多いものとは言えず、もちろん住宅手当が別に出るわけでもない。となると、自宅から通える一部の職員以外は、原則としてホームに併設されている寮に入ってもらう以外にない、というような事情だったのだ。そこへ、今回の貸家の話がふってわいたというわけだった。
原則はあくまでも原則だし、ホーム自体も民間の施設だから公的機関に比べるとわりに融通がきくのだろうけれど、そういったあれこれを差し引いて考えても、園長先生がかれんのためにそこまで親身になってくれるというのが僕にはちょっと不思議だった。彼女が学生時代からボランティアで通っていたこととか、その後も何度にもわたってホームを訪ねたり手伝ったりしていたことがプラスに働いたのはわかるけれど、それにしてもずいぶん見込まれたものだなと思っていたら、
「じつを言うとね」
鴨川の駅から乗ったバスの中で、かれんはぽつりぽつりと僕に打ち明けた。
「園長先生にだけは、前に仕事の件をお願いした時に、ほんとのことお話ししてあったの。あのおばあちゃんが間違えるくらい、私があのひとの娘に似てるのは、偶然なんかじゃないんだってこと。それと、おばあちゃんをここに預けた人が、私の実の兄さんだってこと。今の花村《はなむら》の家族のことや、どうして教師をやめて介護福祉士を目ざそうと思うようになったかってことも、ひととおり全部ね」
昼をまわったばかりのこの時間、バスはすいていて、いちばん後ろの席に座った僕らのほかには前のほうに男の子を連れた若い母親と、とても良く似たおばあさんが二人並んで揺られているきりだった。途中で乗ってくる人もいない。休日でこれなら平日はどんなだろうと心配になるくらいだった。
「そりゃね、ずいぶん迷いはしたのよ」
早々と刈り入れの終わった田んぼを窓から眺めやりながら、かれんは言った。
「おばあちゃんとの関係を打ち明けることで、あのホームで働きたいのは単におばあちゃんのそばにいたいからじゃないかって誤解されるのはいやだったし。だけど、あそこに長く置いてもらうつもりでいる以上、そのあたりの事情を隠したままなのはもっといやだったから・・・・それで、思いきって全部正直に打ち明けてみたの。『ずっと黙ってて、皆さんに嘘をつくようなことになってごめんなさい』って謝ったらね、園長先生が――ご本人ももうだいぶお年を召したオヒゲのおじいちゃんなんだけど――笑ってこうおっしゃったの。『人には誰もいろんな事情があるものだよ』って」
かれんは思い出してちょっと微笑んだ。
「こうして私が言うと当たり前の言葉にしか聞こえないと思うけど、モショモショの白いオヒゲの陰でそう言われると、なんだか不思議と説得力があってね。ほかの職員さんの中にも、自分の家族をあそこに預けながら働いてる人はいるし、みんなに公平に接することさえ気をつけてもらえば何も問題ないって。身内に対して親身になるのと同じ気持ちをほかの人たちにも向けるようにすればいいんだから、そういう事情はかえって大歓迎ですって言って下さって・・・・」
かれんが話している途中で、若い母親は子どもを抱いて降りていき、それからしばらくして僕らの降りる停留所の名前がアナウンスされた。よく似たおばあさん二人はもっと山の奥のほうに用があるのか、顔を寄せてひたすら話し込んでいた。あるいは家へと帰っていくのかもしれない。
僕らの降り立った停留所には、簡単な雨よけの小屋の下に、色|褪《あ》せた赤いベンチが置かれているほかは何もなかった。あたりを見まわしても目に映るほとんどは山と林と田んぼばかりで、その田んぼの中の一本の細道が少し上り坂になって何軒かの家々へと続いていた。
古びた家もあれば、新築工事まっただなかの、まだ骨組みだけの家もあった。奥のほうに見える黒っぽいトタン張りの屋根は、おそらく昔は茅葺《かやぶ》きの民家だったんだろう。今では屋根を葺く技術のある人もほとんどいなくなったと聞くし、腐らせないためにはああして覆《おお》っておくしかないんだろうなと思って眺めていたら、
「もしかして、あれがそうじゃない?」
かれんが地図と見比べながら指さしたのが、まさにその家だった。
なだらかな坂をのぼって近づいていく。建築中の家の前を通りかかると、真新しい木の香りが漂ってきた。かなづちの音と、のこぎりの音、それにきっと仕事中の職人たちが聴いているのだろう、ラジオから流れる何年か前のヒット曲・・・・。ここでは何もかもがのんびりしていて、どこかの庭先で吠える犬の鳴き声さえ眠たげに響く。
二軒並んだ古い農家の前を過ぎ、立派な石垣と垣根に囲まれたわりに新しい家の前を過ぎると、畑に十本ほど植わったミカンの木の向こうに、その黒いトタン屋根があらわれた。よっぽど分厚い茅葺きだったらしく、家そのものはほんの小さな平屋のはずなのにずいぶん大きく見える。実際、屋根のてっぺんまで含めると二階建てほどの高さがある。
「あ」と、かれんが嬉しそうな声をあげた。「雨戸、ほんとに開いてる」
「雨戸?」
「園長先生がね、ここの持ち主の人は今日は用事があって立ち会えないけど、雨戸とカギだけは何とかしてくれるように頼んでおいたから、もし開いてたら中も自由に見ていいですよって。ね、入ってみましょうよ」
「ええ? いいのかな、ほんとに勝手に入って」
「せっかくのご厚意だもの、甘えちゃお?」
のびた草を踏んで、かれんが先に立って入っていく。その背中が、見るからにいきいきと弾《はず》んでいる。
僕は、黙って後に続いた。
新しく始まるかもしれない生活への期待で、今はただ楽しくてしょうがないんだろうな、と思った。もともと楽天的にできている彼女のことだ。僕が普通に思いつく不安材料なんか――そう、たとえば街なかから離れたこんな場所で一人寂しくないのかとか、夜は安全なんだろうかとか、近所の人とうまくやっていけるのかとか、バスは一日に何本あるんだとか、そもそも料理もろくに出来ないのにメシはどうするんだとか――そんなこと、何ひとつ考えちゃいないに違いない。いったい彼女は、自分がけっこう何にも出来ない女だって現実をどう思ってるんだろう。
――でも。
広い庭と薄暗い家の中とをひととおり見てまわり、今は草に埋もれているたくさんの花木や、透《す》きとおった水を抱いた井戸や、昔ながらの土間やかまどや囲炉裏《いろり》などにいちいち歓声をあげた後・・・・縁側に僕と並んで腰をおろしたかれんは、ほうっと大きな息をついて言ったのだった。
「ここ、きれいに手入れしたら、びっくりするくらい素敵な家になるわね。暮らし始めて少し慣れてきたら、頑張って原付の免許くらい取ろうかな」
えっ? と聞き返すと、彼女は僕を見てにっこりした。
「雨の日以外は、バスで通うより気持ちいいと思うの」
「けどお前、免許って・・・・」
「だから、原付のよ。車はお金もかかるし、人ハネても怖いし」
「いや、そりゃそうだけど、それにしたってさ」
「私だって、そうやって出来ること少しずつ増やしいかないと。あ、そうだ、ショーリ。こんど暇な時でいいから、簡単なお料理いくつか教えて? ご飯とお味噌汁くらいは何とか作れるようになったけど、それだけじゃあんまり情けないし」
「・・・・・・・・」
僕が黙っていると、何を感じ取ったのか、かれんの瞳からすうっと笑みが消えていくのがわかった。
目を伏せて、庭先の井戸のほうを見やる。きっちりと積まれた古い石組みは、柔らかそうな苔《こけ》に分厚く覆われていた。
「・・・・ごめんね」
と、やがてかれんはささやいた。
「私ったら、一人ではしゃいじゃって」
「謝るなよ。俺こそ、せっかくの気分に水さしちゃってごめん」
「ううん、そんな・・・・」
「気にしないでくれよな。ただ単に、とっくにわかってることを改めて自分に言い聞かせてただけだから」
「わかってることって?」
「・・・・うん。つまり、もうすっかり決めちゃってるんだなあ、ってことさ。いや、いいんだほんと」何か言いかけようとしたかれんをさえぎって、僕は続けた。「今はまだ正直言ってちょっとしんどいけど、たぶんすぐに慣れるよ。べつに、会えなくなるわけじゃないんだしさ。毎週とはいかなくても、ちょくちょく来られると思うし。――っていうか、いいのかな、押しかけて来ても」
「そんな、何言ってるのよ」かれんが、目をみはった。「当たり前じゃないの、そんなこと」
「日帰りで、とか言わない?」
「え?」
「一人暮らしの女の家に男泊めるわけにはいかないとか言って、六時前の終電で追い返したりしない?」
「や・・・・やだもう、し、知らない」
急に赤くなって口ごもる。
「じゃあ、俺のぶんの布団くらい用意しといてくれる?」
「だから、知らないってば」
「まあさ、お前が布団はひとつでいいって言うなら、俺もつきあうけど」
「・・・・・・・・」
耳たぶどころか首筋まで真っ赤なのを見て、そのへんで勘弁してやることにした。
「お前もさ、ちょくちょく向こうへ帰ってくるだろ?」
かれんはうなずいて、思いきったように言った。
「私だって、たまにはショーリの部屋に遊びに行きたいもの。いいでしょ?」
「ヤだ」
「え?」
「たまにじゃヤだね」
かれんは赤い顔のまま横目で僕を見て、クスクスッと笑った。「駄々《だだ》っ子みたいなんだから、もう」
「けど――俺なんかよりさ。これから、おばさんたち説得するほうがもっと大変なんじゃないの」
「そうね。・・・・そうかも」ふっと吐息をつく。「でも、まだ時間はあるから。わかってもらえるように、じっくり話してみる」
「どこまで話すつもり?」
「ん・・・・」
かれんは、うつむいて縁側のへりを指先で撫《な》でた。
「私もこのところ、ずっとそのこと考えてたの。おばあちゃんのこと――って言うか、私が自分の出生について全部知ってるってこと、いつかは花村の両親に打ち明ける日がくるのかなぁとは漠然と思ってたけど、来るとしても何となく、まだまだ先のような気がしてたのね。でも、もしかして、今こそがその時なんじゃないかって、そんなふうにも思うの。わざわざ教師を辞めて、ほかの仕事じゃなく介護福祉士って仕事を選んで、ほかのどこでもなく鴨川のあのホームで働きたいってことを母さんたちにわかるように説明してちゃんと納得してもらうためには、いちばん肝心なことを隠してるままじゃ難《むずか》しいだろうなって。ショーリは、どう思う?」
「まあ、確かにそうだろうな」と、僕は言った。「でもさ、お前はほんとにそれでいいのか? いったん話したらもう、後戻りはできないんだぞ。前にお前、おばさんたちを傷つけたくないって言ってたけど、そのへんの真意をきちんとわかってもらえるように話すのってけっこう至難の業なんじゃないの」
「そうよね。ほんとにそう」
かれんは片手を頭の後ろにやり、髪を束ねていたスカーフをするりと抜き取った。指に巻き付けたり、ほどいたりする。
「でもね、だからこそ迷っちゃうの。いちばん私がしたくないのは、母さんたちを傷つけること。それはほんとにそうなんだけど、改めて考えたら、いったい母さんたちのほうは、どういうことにいちばん傷つくのかなあって。わからないけど、もし私だったらね、大事なことをずーっと秘密にされてたのが後でわかったらきっと傷つくだろうなって思うの。それがたとえ、こちらを思いやってそうしてくれてたんだとしても、なんだか信頼してもらえてなかったみたいで悲しいじゃない?」
まるで自分のことを言われているみたいで、息苦しくなる。
「でもその一方でね、そう一概には言えないのかなぁとも思ったりするの。だって、私が花村の家の娘じゃないってことを父さんと母さんはずっと秘密にしてたわけだけど、それが後でわかった時、私は二人を恨んだりしなかったもの。それどころか、二人がどれほど細心の注意をはらって私に気づかせないように育ててくれてたかって思ったら――ね」
かれんが言葉を切ると、待っていたかのように空がすうっと曇った。後ろの林で、鳥が鳴き交わしている。鋭く澄んだ声の鳥だった。
僕は黙って、隣の畑で色づき始めたみかんを見ていた。
やがて、ぽつりとかれんが言った。
「きっと、秘密にも、いいのとそうじゃないのがあるのね。後ろ暗いだけのもあれば、優しいのも・・・・」
日が陰ったせいか、風がひんやりと冷たく感じられる。吹いてくる向きによって、ラジオの音が大きくなったり小さくなったりする。
さっきからしばらく聞こえていた題名のわからないスタンダードにかわって、今度は耳慣れたイントロが流れ始めた。『I Just Called To Say I Love You』。スティーヴィー・ワンダーの曲だ。ベースの奏《かな》でるゆっくりとしたリズムに、かなづちの音が陽気に重なって響く。案外若い大工なのかもしれない。
どこか平べったい感じの歌声に耳を傾けながら、僕は思わず苦笑いをもらした。
――愛していると言いたくて電話しただけ。
そういう言葉が、臆《おく》せず言えるのなら苦労はないのだ。
Loveだなんてすかした言葉を、照れずに口にできる欧米人がうらやましい。僕なんか、電話どころかこうして隣にいてさえ、肝腎の想いがなかなか伝えられないでいる。ほんとうに伝えたい気持ちほど胸に残って、かわりに、焦《あせ》りと、苛立《いらだ》ちと、ついでに優しいのかそうでないのかわからない秘密ばかりが溜まりに溜まっていく。そうして、隙あらば外に出せとせり上がってくる。もういいかげん限界だ。今すぐにでもあふれて噴きこぼれそうだ。
と・・・・。
小指に何か、ひんやりとしたものが触れた。
見ると――見なくてもわかっていたのだけれど――縁側についた僕の手に、かれんがそっと触れているのだった。
視線は庭のどこかそのへんに注《そそ》がれてはいるのだが、全身のアンテナが残らずこっちを向いているのがわかる。
ずっと黙りこくっている僕を気づかってくれたのだろうか。それとも、彼女自身が何となく心細くなったのだろうか。いずれにしても、横顔が相変わらず真っ赤なのがおかしい。
こらえたつもりだったのだけれどつい、くすっと笑ってしまった。
彼女は傷ついたような顔で、ようやく僕のほうを向いた。紅潮した頬がぷっくりふくらんでいる。
「笑うこと、ないと思うの」
「ごめんごめん」謝っておいて、僕はまたちょっと嘘をついた。「おかしくて笑ったんじゃないよ」
「じゃあ何よぅ」
「嬉しかっただけ。すごく」
言ってから、嘘なんかじゃなくてそっちが本当なんだと気づいた。
手をのばし、細い指先を握りしめる。かれんは、自分からももう少し手をのばして、僕の手をしっかり握り返してくれた。
見つめあうでもなく、ただ二人で同じほうを向いて手をつないでいるだけなのに、なんだかお互いの体に腕をまわして抱き合っている時よりも深くつながっている気がするのが不思議だった。
まだ経験のない僕にはわからないけれど、もしかすると星野が言っていたみたいに、体をつなぐことで初めてやり取りできるものもあるのかもしれない。いずれは僕らもそれを知っていくことになるのかもしれない。
でも、今こうして互いの指先を通じて流れ込んでくる想いを、それよりも薄いものだとか、弱いものだとか、そんなふうには思いたくなかった。
秋風に乗って、スティーヴィーの声がとぎれとぎれに届く。あれもなければこれもない、僕にあるのはただ君を想う気持ちだけ・・・・愛してるよと言いたくて電話しただけなんだ・・・・。
ふと思いついて、僕はつないでいないほうの手をポケットにつっこんで携帯を取り出した。
「どうしたの?」
「うん?」
「誰かからメール?」
「いや・・・・。ああ、助かった。圏外ってわけじゃなさそうだ」
「ちょっと、ご近所に失礼じゃない」
言いながらも、かれんのほうこそ噴きだしそうだ。
再びポケットに携帯をしまいながら、
「お前がここで暮らすようになったらさ」僕は、できるだけ明るく言った。「毎朝、電話で起こしてやるよ。いっくら目覚まし時計四つも五つもかけてたって、」
「失礼ね、三つしかかけてないわよ」
「いばれるかっての」
かれんの口がとがる。
「・・・・そんなに信用ないの? 私」
「ないない。全然ない」
しゅんとなった彼女の手を、僕は笑ってぎゅっと握りしめた。
「嘘だよ。そうじゃなくてさ。ただ・・・・」
「ただ?」
「毎朝一番に、お前にちゃんと伝えたいだけ」
「何を?」
僕は、握っていた彼女の手を強くつかみ、ぐっと引き寄せた。きゃ、と叫んで倒れ込んでくる彼女の体を抱きとめ、荒っぽく頭を引き寄せる。
そうして、耳元に早口でささやいてやった。今までずっと、胸の奥にはあっても、一度として口に出して伝えたことのなかった言葉をだ。
かれんのことを笑えない。言った僕のほうが、火を噴きそうだった。ほんとにめちゃくちゃ恥ずかしくて、体がよじれて死ぬかと思った。
二人そろって真っ赤な顔をして、ひたすら黙りこくって縁側に並んでいる僕らは、もし今ここに人が通りかかったとしたらどんなふうに見えるだろう。きっと、けんかでもしているように見えるに違いない。
ずいぶんたってから、僕はようやく少し気を取り直して言った。
「――半年あるもんな、まだ」
かれんが、こっくりうなずく。
「それまで、できるだけいっぱい会おうな」
「・・・・ん」
そしてかれんはひとつ洟《はな》をすすると、
「ショーリ」
「うん?」
「あの・・・・。私も・・・・あの、あ・・・・。あ・・・・」
「わかってるよ」と、僕は言ってやった。「無理すんな」
やがて、日がまた姿をあらわした。
雲の加減で、とくに庭先から道をへだてた向こうの田んぼはスポットライトが当たったように明るく照らされていて、畦道《あぜみち》に咲きかけの彼岸花が並んでいるようすはまるで薄紅をひいたみたいに艶めいてみえる。
この畦道が茶色く枯れ、再び緑色に芽吹く頃には、かれんはもうここの住人なんだな、と僕は思った。
何も特別なことじゃない。次の季節がめぐってくるだけだ。これまでも僕らの間にさまざまな季節がめぐってきたように、今度もまた、新しい季節がやってくるだけのことなのだ。
かれんがこれから本気で佐恵子《さえこ》おばさんや花村のおじさんたちを説得して、春からここに住むつもりなら、それまでに僕がしてやれることもいくつかある。バイトのない休日にはここに来て、庭の草を刈って、羽目板《はめいた》のゆるんだところを直して、井戸にもつるべをつけて、玄関の引き戸にはカギをつけてやって。その間に、かれんは床を掃き、ぱたぱたと走りまわっては雑巾がけをするだろう。ほこりっぽかった家の中はすみずみまでさっぱりときれいになり、そうして日が暮れかかる頃、僕らは台所に並んで夕飯の支度をする。相変わらず無器用なかれんのやつに、何か簡単でおいしい料理を教えてやりながら。
今はそんなふうに、できることのほうを数えていくしかないのだ。あきらめなければならないことをいつまでも未練たらしく数え上げているよりは、前を見たほうがずっといい。(わかっているならそうしろ!)
僕は、縁側のふちを握りしめた。わかってるだけじゃだめなんだ、行動にうつさなければ。こっちの曇った顔でせっかく輝いているかれんの顔まで曇らせてしまうなんて、それがお前の望みじゃないはずだろ。
そっと、隣を見やる。
かれんがかすかに微笑んで僕を見つめてくる。
やがて帰りのバスの時間がくるまでの間、僕らはもうほとんど何も話さずに、ただじっと縁側に並んで座り、草に埋もれた秋の庭を眺めていた。