新潮文庫
世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 2
[#地から2字上げ]村上春樹
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目 次
21 ハードボイルド・ワンダーランド
(ブレスレット、ベン・ジョンソン、悪魔)
22 世界の終り(灰色の煙)
23 ハードボイルド・ワンダーランド
(穴、蛙、塔)
24 世界の終り(影の広場)
25 ハードボイルド・ワンダーランド
(食事、象工場、罠)
26 世界の終り(発電所)
27 ハードボイルド・ワンダーランド
(百科事典棒、不死、ペーパー・クリップ)
28 世界の終り(楽器)
29 ハードボイルド・ワンダーランド
(湖水、近藤正臣、パンティーストッキング)
30 世界の終り(穴)
31 ハードボイルド・ワンダーランド
(改札、ポリス、合成洗剤)
32 世界の終り(死にゆく影)
33 ハードボイルド・ワンダーランド
(雨の日の洗濯、レンタ・カー、ボブ・ディラン)
34 世界の終り(頭骨)
35 ハードボイルド・ワンダーランド
(爪切り、バター・ソース、鉄の花瓶)
36 世界の終り(手風琴)
37 ハードボイルド・ワンダーランド
(光、内省、清潔)
38 世界の終り(脱出)
39 ハードボイルド・ワンダーランド
(ポップコーン、ロード・ジム、消滅)
40 世界の終り(鳥)
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21 ハードボイルド・ワンダーランド
[#ここから6字下げ]
――ブレスレット、ベン・ジョンソン、悪魔――
[#ここで字下げ終わり]
クローゼットの奥には前に見たときと同じように|暗《くら》|闇《やみ》が広がっていたが、やみくろの存在を知るようになったせいか、それは以前よりも深く冷ややかに感じられた。これほどまでの|完《かん》|璧《ぺき》な暗闇というものにはまず|他《ほか》ではお目にかかれない。都市が街灯とネオンサインとショーウィンドウの照明を使って大地から闇をひきはがすまでは、世界はこのような息も詰まるほどの暗黒に|充《み》ちていたはずなのだ。
彼女が先に|梯《はし》|子《ご》を下りた。彼女はやみくろよけの発信機を|雨《あま》|合《がっ》|羽《ぱ》の深いポケットにつっこみ、肩かけ式の大型フラッシュ・ライトのストラップをはす[#「はす」に丸傍点]に体にかけ、|長《なが》|靴《ぐつ》のゴム底をきしませながら一人で素速く闇の底へと降りていった。しばらくすると流れの音にまじって「いいわよ、降りてきて」と下の方から声が聞こえた。そして黄色い|灯《ひ》が揺れた。私が記憶しているよりその奈落の底はずっと深いようだった。私は懐中電灯をポケットにつっこみ、梯子を下りはじめた。梯子の段はあいかわらず湿っていて、注意しないと足を踏みはずしてしまいそうだった。梯子を下りながら、私はずっとスカイラインに乗った男女とデュラン・デュランの音楽のことを考えていた。彼らは何も知らないのだ。私が懐中電灯と大型ナイフをポケットにつめて、腹の傷を抱えながら、闇の底に下降していることなんて。彼らの頭の中にあるのはスピード・メーターの数字とセックスの予感だか記憶だかと、ヒットチャートを上がっては落ちていく無害なポップソングだけなのだ。しかしもちろん、私には彼らを非難することはできなかった。彼らはただ知らないだけなのだ。
私だって何も知らなければ、こんなことをしないで済ますこともできたのだ。私は自分がスカイラインの運転席に座り、隣に女の子を乗せて、デュラン・デュランの音楽とともに夜中の都市を疾走しているところを想像してみた。あの女の子はセックスをするときに左の手首にはめた二本の細い銀のブレスレットをはずすのだろうか? はずさないでくれればいいな、と私は思った。服を全部脱いだあとでも、その二本のブレスレットは彼女の体の一部みたいにその手首にはまっているべきなのだ。
しかしたぶん、彼女はそれをはずすことになるだろう。|何《な》|故《ぜ》なら女の子はシャワーを浴びるときにいろんなものをはずしてしまうものだからだ。とすると、私はシャワーを浴びる前に彼女と交わる必要があった。あるいは彼女にブレスレットをはずさないでくれと頼むかだ。そのどちらが良いのかは私にはよくわからなかったが、いずれにせよなんとか手を尽して、ブレスレットをつけたままの彼女と交わるのだ。それが肝要だった。
私は自分がブレスレットをつけたままの彼女と寝ている様を想像してみた。彼女の顔がまるで思いだせなかったので、私は部屋の照明を暗くすることにした。暗くて顔がよく見えないのだ。|藤《ふじ》|色《いろ》だか白だか淡いブルーだかのつるつるとしたシックな下着をとってしまうと、ブレスレットが彼女が身につけている|唯《ゆい》|一《いつ》のものとなった。それはかすかな光を受けて白く光り、シーツの上で軽やかな心地良い音を立てた。
そんなことをぼんやりと考えながら梯子を下りていくうちに、雨合羽の下で私のペニスが|勃《ぼっ》|起《き》しはじめるのが感じられた。やれやれ、と私は思った、どうして|選《よ》りに選ってこんなところで勃起が始まるんだろう? どうしてあの図書館の女の子――胃拡張の女の子――とベッドに入ったときは勃起しないで、こんなわけのわからない梯子のまん中で勃起したりするのだ? たった二本の銀のブレスレットにいったいどれだけの意味があるというのだ。それも世界が終ろうとしているようなときに。
私が梯子を下りきって岩盤の上に立つと、彼女はライトをぐるりとまわして、まわりの風景を照らしだした。
「たしかにやみくろがこのへんをうろついているようね」と彼女は言った。「音が聞こえるわ」
「音?」と私は聞きかえした。
「|鰓《えら》で地面を|叩《たた》くようなぴしゃっぴしゃっていう音。小さな音だけど、注意すればわかるわ。それから気配と|臭《にお》い」
私は耳を澄まし、臭いを|嗅《か》いでみたが、それらしいものには気づかなかった。
「慣れないとわからないの」と彼女は言った。「慣れると彼らの話し声も少しは聞きとれるようになるわよ。話し声といっても音波に近いものだけどね。コウモリと同じよ。もっともコウモリとは違って一部の音波は人間の可聴範囲とかさなっているし、彼らどうしはちゃんと意思|疎《そ》|通《つう》がはかれるんだけど」
「じゃあ記号士たちはどういう風にして彼らとコンタクトしたんだろう? しゃべれなければコンタクトしようがないじゃないか?」
「そういう機械は造ろうと思えば造れるわ。彼らの音波を人間の音声に転換し、人間の言語を彼らの音波に転換するの。たぶん記号士たちはそういう機械を造ったんでしょうね。祖父だってそれを造ろうと思えば簡単に造れたんだけれど、結局造らなかったの」
「どうして?」
「彼らと話したくなかったからよ。彼らは邪悪な生きもので、彼らの語ることばは邪悪なの。彼らは腐肉や腐ったゴミしか食べないし、腐った水しか飲まないの。昔から墓場の下に住んで死んで埋められた人の肉を食べてたの。火葬になる前の時代まではね」
「じゃあ生きた人間は食べないんだね?」
「生きた人間をつかまえると何日も水に|漬《つ》けて、腐りはじめた部分から順番に食べていくの」
「やれやれ」と私は言ってため息をついた。「何がどうなってもいいから、このまま帰りたくなったよ」
それでも我々は流れに沿って前進した。彼女が先に立ち、私があとにつづいた。私がライトを彼女の背中にあてると、切手くらいの大きさの金のイヤリングがきらきらと光った。
「そんな大きなイヤリングをいつもつけていて重くないのかい?」と私はうしろから声をかけてみた。
「慣れればね」と彼女は答えた。「ペニスと同じよ。ペニスを重いと感じたことある?」
「いや、べつに。そういうことはないな」
「それと同じよ」
我々はまたしばらく無言のうちに歩きつづけた。彼女は足場を知りつくしているらしく、ライトでまわりの風景を照らしながらすたすたと前に進んだ。私はいちいち足もとをたしかめながら、苦労してそのあとを追った。
「ねえ、君はシャワーとかお|風《ふ》|呂《ろ》に入るときにそのイヤリングをとるの?」と私は彼女においてきぼりにされないためにまた声をかけた。彼女はしゃべるときだけ歩くスピードを少し落とすのだ。
「つけたままよ」と彼女は答えた。「裸になってもイヤリングだけはつけてるの。そういうのってセクシーだと思わない?」
「そうだな」と私はあわてて言った。「そう言われれば、そうかもしれないな」
「セックスってあなたはいつも前からやるの? 向いあったまま?」
「まあね。だいたいは」
「うしろからやるときもあるんでしょ?」
「うん。そうだね」
「それ以外にもいろいろと種類があるんでしょ? 下になるのとか、座ってやるのとか、|椅《い》|子《す》を使うのとか……」
「いろんな人がいるし、いろんな場合があるからね」
「セックスのことって、私よくわからないの」と彼女は言った。「見たこともないし、やったこともないし。そういうことって|誰《だれ》も教えてくれなかったの」
「そういうのは教わるもんじゃなくて、自分でみつけるものなんだよ」と私は言った。「君にも恋人ができて彼と寝るようになればいろいろと自然にわかるようになるさ」
「そういうのあまり好きじゃないのよ」と彼女は言った。「私はもっと……なんていうか、圧倒的なことが好きなの。圧倒的に犯されて、それを圧倒的に受け入れたいの。いろいろと[#「いろいろと」に丸傍点]とか自然に[#「自然に」に丸傍点]じゃなくてね」
「君はたぶん年上の人と一緒に長くいすぎたんだよ。天才的で圧倒的な資質を持った人とね。でも世の中って、そういう人ばかりじゃないんだ。みんな平凡な人で、暗闇の中を手さぐりしながら生きてるんだ。僕みたいにさ」
「あなたは違うわ。あなたならオーケーよ。それはこの前に会ったときにも言ったでしょ?」
しかしとにかく、私は頭の中から性的なイメージを一掃しようと決心した。私の勃起はまだつづいていたが、こんな地底のまっ暗闇の中で勃起したところで意味はないし、だいいち歩きにくいのだ。
「つまりその発信機はやみくろの|嫌《いや》がる音波を出しているんだね」と私は話題を変えてみた。
「ええそうよ。この音波を発信している限り、連中は私たちからおおよそ十五メートル以内には近づけないの。だからあなたも私から十五メートル以上離れないようにしてね。でないと、彼らにつかまって巣につれていかれて井戸に|吊《つる》されて、腐ったところからかじられるわよ。あなたの場合はおなかの傷から先に腐っていくわね、きっと。彼らの歯と|爪《つめ》はすごく鋭いの。まるで太い|錐《きり》をずらりと並べたみたいにね」
私はそれを聞いてあわてて彼女のすぐうしろまで寄った。
「おなかの傷はまだ痛む?」と娘が|訊《たず》ねた。
「薬のせいで少しはマシになったみたいだな。激しく体を動かすとずきずきするけれど、普通にしているぶんにはそれほど痛くはない」と私は答えた。
「もし祖父に会うことができたら、彼が痛みを取り去ってくれると思うわ」
「おじいさんが? どうして?」
「簡単よ。私も何度かやってもらったことあるわ。頭痛なんかがひどいときにね。意識の中に痛みを忘れさせる信号をインプットするの。本当は痛みというのは体にとっては重要なメッセージだから、あまりそういうことしちゃいけないんだけど、今回は非常事態だからかまわないんじゃないかしら?」
「そうしてもらえるとすごくたすかるな」と私は言った。
「もちろん祖父に会うことができればの話だけれど」と娘は言った。
彼女は強力なライトを左右に振りながら、しっかりした足どりで地底の川を上流に向けて上りつづけた。左右の岩壁には割れめのようにぽっかりと口を開けた枝道や不気味な横穴が方々についていた。岩のすきまのところどころから水が|浸《し》みだして小さな流れをつくり、そのまま川にそそいでいた。そんな流れに沿って、ぬるぬるとした|泥《どろ》のような|苔《こけ》が密生している。苔は不自然なほど鮮かな緑色だった。光合成のできない地底の苔がどうしてそのような色になるのか、私には理解できなかった。おそらく地底には地底の摂理というものがあるのだろう。
「ねえ、やみくろたちは今我々がこうしてここを歩いているのを知ってるのかな?」
「もちろんよ」と娘は平然とした口調で言った。「ここは彼らの世界よ。地底で起っていることで彼らの知らないことはないわ。今も彼らは私たちのまわりにいて、私たちの姿をじっと見ているはずよ。さっきからずっとざわざわした音が聞こえるもの」
私は懐中電灯の光をまわりの壁にあててみたが、ごつごつとしたいびつな形の岩と苔の他には何も見えなかった。
「みんな横穴か枝道の奥の、光の届かない闇の中にひそんでいるのよ」と娘は言った。「それから私たちのうしろからもついてきているはずよ」
「発信機のスウィッチを入れて何分たった?」と私は訊ねた。
娘は腕時計を見てから「十分」と言った。「十分二十秒。あと五分で滝に着くから大丈夫」
ちょうど五分で我々は滝に到着した。音抜きの装置はまだ作動しているらしく、滝は前と同じようにほとんど無音だった。我々はフードをしっかりと頭にかぶって|顎《あご》のひもをしめ、ゴーグルをかけて、無音の滝をくぐった。
「変ね」と娘は言った。「音抜きが作動しているということは、研究室が破壊されていないということだわ。もしやみくろたちがここを襲ったんだとしたら、連中は中を無茶苦茶に破壊しているはずよ。彼らはこの研究室のことをすごく憎んでいたから」
彼女の推測を裏づけるように、研究室の|扉《とびら》にはきちんと|鍵《かぎ》がかかっていた。もしやみくろが中に入りこんだのだとしたら、彼らは出るときに鍵をかけなおしたりはしない。やみくろ以外の誰かがここを急襲したのだ。
彼女は長い時間をかけて扉のナンバー錠をあわせ、それから電子キイを使って扉を開けた。研究室の中はひやりとして暗く、コーヒーの|匂《にお》いがした。彼女は急いで扉を閉めて錠をかけ、扉が開かないことをたしかめてからスウィッチを押して部屋のあかりをつけた。
研究室の中のありさまは、上の事務所や私の部屋が追い込まれた極限的な状況とだいたい同じようなものだった。書類が床じゅうにとびちり、家具がひっくりかえされ、食器が割られ、カーペットがむしりとられ、その上にバケツ一杯ぶんくらいの量のコーヒーがばらまかれていた。どうしてこんな大量のコーヒーを博士が沸かしていたのか、私には見当もつかなかった。いくらコーヒー好きとはいえ、これだけのコーヒーを一人で飲みきれるものではない。
しかしこの研究室の破壊は、他のふたつの部屋の破壊とは根本的に違っている点があった。それは破壊者が、破壊するものと破壊しないものとをきちんと区別しているということだった。彼らは破壊するべきものは完膚なきまでに破壊していたが、それ以外のものには指一本触れてはいなかった。コンピューターや通信装置や音抜き装置や発電設備はそっくりそのまま残されていて、スウィッチを入れるときちんと作動した。大型のやみくろよけ音波発信機だけはプラントをいくつかもぎとられて使いものにならないようにされていたが、それも新しいプラントを埋めこめばすぐにでも動きはじめるようになっている。
奥の部屋の状況も同じようなものだった。一見救いようのないカオスみたいだが、すべてが入念に計算されている。|棚《たな》に並べられた頭骨はそっくり破壊をまぬがれているし、研究に必要な計器類は残されていた。買いかえのきく安物の機械や実験材料だけが派手に|叩《たた》き壊されていた。
娘は壁の金庫のところに行って扉を開け、中をたしかめた。扉には鍵がかかっていなかった。彼女はその中から白い灰になった紙の燃えかすを両手にいっぱいかいだして、床にばらまいた。
「非常用の自動燃焼装置はうまく働いたようだね」と私は言った。「連中は何も手に入れることができなかった」
「誰がやったんだと思う?」
「人間がやったんだ」と私は言った。「記号士だかなんだかがやみくろと結託してここにやってきて扉を開け、人間だけがここの中に入って部屋の中をひっかきまわしたんだ。彼らはあとで自分たちがここを使うために――たぶんここで博士の研究をつづけさせるためだと思うんだけれど――大事な機械類はそのままにしておいた。そしてやみくろに荒されないようにまた扉の鍵をかけておいたのさ」
「でも彼らは大事なものを手に入れることはできなかったわけね」
「たぶんね」と私は言って部屋の中をぐるりと見まわした。「しかし彼らはとにかく君のおじいさんを手に入れた。大事といえばそれがいちばん大事なものだろう。おかげで僕の方は博士が僕の中に何をしかけたのか知るすべもなくなってしまった。もう手の打ちようもない」
「いいえ」と太った娘は言った。「祖父はつかまったりしてはいないわ。安心して。ここにはひとつ秘密の抜け道があるの。祖父はきっとそこから逃げ出したはずよ。私たちと同じやみくろよけの発信機を使ってね」
「どうしてそれがわかるんだい?」
「確証はないけれど、私にはわかるのよ。祖父はとても用心深い人だし、簡単につかまったりはしないわ。誰かが扉の鍵をこじあけて中に入ろうとしていたら、必ずそこから逃げ出すはずだもの」
「じゃあ博士は今ごろはもう地上に脱出しているわけだ」
「いいえ」と娘は言った。「そんなに簡単な話じゃないの。その脱出口は迷路のようになっていて、やみくろの巣の中心へとつながっているし、どんなに急いでもそこから抜け出すのに五時間はかかるのよ。やみくろよけの発信機は三十分しかもたないから、祖父はまだその中にいるはずだわ」
「あるいはやみくろに捕えられたかね」
「その心配はないわ。祖父は万一の場合に備えて地底の中でも絶対にやみくろの近寄れない安全な避難場所をひとつ確保していたの。祖父はたぶんそこに潜んで、私たちが来るのをじっと待っているんじゃないかしら」
「たしかに用心深そうな人だな」と私は言った。「君にはその場所がわかる?」
「ええ、わかると思うわ。祖父は私にもそこに着くまでの道筋をくわしく教えてくれたから。それにこの手帳にも簡単な地図が|描《か》いてあるの。いろんな注意するべき危険なポイントとかね」
「たとえばどんな危険?」
「たぶんそれはあなたは知らない方がいいんじゃないかと思うんだけど」と娘は言った。「そういうのを聞いちゃうと必要以上にナーヴァスになる人っているみたいだから」
私はため息をついて、この先自分の身にふりかかってくるはずの危険についてそれ以上の質問をすることをあきらめた。私は今だって相当ナーヴァスになっているのだ。
「そのやみくろの近づけない場所に着くにはどれくらい時間がかかるんだい?」
「二十五分から三十分でその入口には着くわ。そこから祖父のいる場所までは一時間から一時間半。入口についてしまえばもうやみくろの心配はないけれど、入口に着くまでが問題ね。相当急がないと、やみくろよけのバッテリーが切れてしまうから」
「もし我々の発信機のバッテリーがその途中で尽きてしまったら?」
「あとは運にまかせるしかないわね」と娘は言った。「懐中電灯の光を体のまわりにぐるぐるとまわして、やみくろが近づけないようにしながら逃げ切るのよ。やみくろは光を浴びせかけられるのを嫌がるから。でもほんの少しでもその光のすきまができたら、やみくろはそこから手をのばしてあなたや私を捕えてしまう」
「やれやれ」と私は力なく言った。「発信機の充電は終った?」
彼女は発信機のレベル・メーターを読み、それから腕時計に目をやった。
「あと五分で終るわ」
「急いだ方がいいな」と私は言った。「もし僕の推察が正しければ、やみくろたちは記号士に僕たちがここに来たことを通報しているはずだし、そうすると|奴《やつ》らはすぐにでもここに引き返してくるからね」
娘は|雨《あま》|合《がっ》|羽《ぱ》と|長《なが》|靴《ぐつ》を脱いで、僕の持ってきた米軍ジャケットとジョギング・シューズに着替えた。「あなたも着替えた方がいいわよ。今から行くところは身軽じゃないと通り抜けられないから」と彼女は言った。
私も彼女と同じように雨合羽を脱いでセーターの上にナイロンのウィンドブレーカーを着こみ、首の下までジッパーをあげた。そしてナップザックを背負い、ゴム長を脱いでスニーカーにはきかえた。時計は十二時半近くになっていた。
娘は奥の部屋に行ってクローゼットの中にかかっていたハンガーを床に|放《ほう》り出し、ハンガーをかけるステンレス・スティールのバーを両手でつかんでくるくるとまわした。しばらくそれをまわしているうちに、歯車のかみあうかちん[#「かちん」に丸傍点]という音が聞こえた。それからもなお同じ方向にまわしつづけていると、クローゼットの壁の右下の部分が縦横七十センチほどの大きさにぽっかりと開いた。のぞきこんでみるとその穴の向うには手にすくいとれそうなほどの濃い暗闇がつづいているのが見える。冷ややかなかび臭い風が部屋の中に吹きこんでくるのが感じられた。
「なかなかうまく作ってあるでしょ?」と娘がステンレス・スティールのバーを両手でつかんだまま、私の方を向いて言った。
「たしかによくできてる」と私は言った。「こんなところに脱出口があるなんて普通の人間じゃ考えつかないものな。まさにマニアックだな」
「あら、マニアックなんかじゃないわよ。マニアックというのはひとつの方向なり傾向なりに固執する人のことでしょ? 祖父はそうじゃなくて、あらゆる方面に人より優れているだけなのよ。天文学から遺伝子学からこの手の大工仕事までね」と彼女は言った。「祖父のような人は|他《ほか》にはいないわ。TVやら雑誌のグラビアやらに出ていろいろと|吹聴《ふいちょう》する人はいっぱいいるけれど、そんなのはみんな|偽《にせ》|物《もの》よ。本当の天才というのは自分の世界で充足するものなのよ」
「しかし本人が充足しても、まわりの人間はそうじゃない。まわりの人間はその充足の壁を破って、なんとかその才能を利用しようとするんだ。だから今回のようなアクシデントが起るんだ。どれだけの天才でもどれだけの|馬《ば》|鹿《か》でも自分一人だけの純粋な世界なんて存在しえないんだ。どんなに地下深くに閉じこもろうが、どんな高い壁をまわりにめぐらそうがね。いつか誰かがやってきて、それをほじくりかえす。君のおじいさんだってその例外じゃない。そのおかげで僕はナイフで腹を切られ、世界はあと三十五時間あまりで終ろうとしている」
「祖父がみつかればきっと何もかもうまく収まるわ」彼女は私のそばに寄って背のびし、私の耳の下に小さくキスをした。彼女にキスされると私の体はいくらかあたたまり、傷の痛みもいくぶん引いたように感じられた。私の耳の下にはそういう特殊なポイントがあるのかもしれない。あるいはただ単に、十七歳の女の子に口づけされたのが久しぶりだったせいかもしれない。この前十七歳の女の子に口づけされたのは十八年も前の話である。
「みんなうまくいくって信じていれば、世の中に怖いものなんて何もないわよ」と彼女は言った。
「年をとると、信じることが少なくなってくるんだ」と私は言った。「歯が擦り減っていくのと同じだよ。べつにシニカルになるわけでもなく、懐疑的になるわけでもなく、ただ擦り減っていくんだ」
「怖い?」
「怖いね」と私は言った。それから身をかがめて穴の奥をもう一度のぞきこんだ。「狭くて暗いのは昔から苦手なんだ」
「でももううしろには引き返せないわ。前に進むしかないんじゃないかしら?」
「理屈としてはね」と私は言った。私はだんだん自分の体が自分のものではなくなっていくような気分になりはじめていた。高校生の|頃《ころ》バスケット・ボールをやっていて、ときどきそういう気分になったことがあった。ボールの動きがあまりにも速すぎて、体をそれに対応させようとすると、意識の方が追いついていけなくなってしまうわけだ。
娘はじっと発信機の目盛りをにらんでいたが、やがて「行きましょう」と私に言った。充電が完了したのだ。
前と同じように娘が先に立ち、私があとにつづいた。穴に入ると娘はうしろを向いて、入口のわきにあるハンドルをくるくるとまわし、扉を閉めた。扉がしまるにつれて正方形のかたちに|射《さ》し込んでいた光が少しずつ細くなり、一本の縦の線になって、やがては消滅した。前より一層完全な、これまで経験したことのないような濃密な|暗《くら》|闇《やみ》が私の体のまわりを|覆《おお》った。懐中電灯の光もその闇の支配を破ることはできず、ただその中に心もとないささやかな光の穴をあけるだけだった。
「よくわからないんだけど」と私は言った。「どうして君のおじいさんはわざわざやみくろの巣の中心に通じるような脱出路を選んだんだろう?」
「それがいちばん安全だったからよ」と娘は私の体をライトで照らしながら言った。「やみくろの巣の中心には彼らにとっての|神聖地域《サンクチュアリ》が広がっていて、彼らはその中に入ることができないの」
「それは宗教的なもの?」
「ええ、たぶんそうだと思うわ。私自身は見たことがないんだけれど、祖父はそう言ってたわ。信仰と呼ぶにはあまりにもおぞましいものだけれど、それが宗教の一種であることには間違いないだろうって。彼らの神は魚なの。巨大な目のない魚」彼女はそう言うとライトを前方に向けた。「とにかく前に進みましょう。時間もあまりないから」
|洞《どう》|窟《くつ》の天井はかがんで歩かなければならないほどの低さだった。|岩《いわ》|肌《はだ》はおおむねなめらかで|凹《おう》|凸《とつ》は少なかったが、それでもときどき張り出した岩のかどに思い切り頭をぶっつけることがあった。しかし頭をぶっつけてもそれにかまっているような時間の余裕はなかった。私は懐中電灯の光を彼女の背中にしっかりとあて、その姿を見失わないように死にもの狂いで前に進みつづけた。彼女は太っているわりには体の動きが|敏捷《びんしょう》で、足も速く、耐久力もかなり持ちあわせているようだった。私もどちらかといえば丈夫な方だが、中腰で歩いていると下腹の傷がずきずきと痛んだ。まるで氷の|楔《くさび》を腹に打ちこまれているような痛みだった。シャツが汗でぐっしょりと|濡《ぬ》れて、冷たく体にまつわりついていた。しかし彼女を見失って一人で闇の中にとり残されることに比べれば傷の痛みの方がずっとましだ。
進むにつれて、私の体が私に属していないという意識はますます強まっていった。たぶんそれは自分の体を見ることができないせいだろうと私は思った。手のひらを目の前まで持ってきたとしても、それが見えないのだ。
自分の体を見ることができないというのは何かしら奇妙なものだった。ずっとそういう状態にあると、そのうち体というものがひとつの仮説にすぎないのではないかという気になってくるのだ。たしかに頭を天井にぶっつければ痛みを感じるし、腹の傷は休むことなく痛みつづけている。足の裏には地面を感じる。しかしそれはただの痛みや感触にすぎない。それはいわば体という仮説の上に成立している一種の概念にすぎないのだ。だから既に体は消滅していて、概念だけが残って機能しているということだって起り得なくはないのだ。それはちょうど手術で脚を切り落とされた人が、切り落とされたあとでもまだ指先のかゆみを記憶しているのと同じことなのだ。
私は何度か自分の体にライトをあててそれがまだ存在していることをたしかめようとしたが、結局彼女の姿を見失うのが怖くてやめた。体はまだちゃんと存在しているさ、と私は自分に言いきかせてみた。もし私の体が消滅して、そのあとに私の魂とでもいうべきものだけが存続しているのだとしたら、私はもっと楽になっていいはずだった。もし魂が腹の傷や|胃《い》|潰《かい》|瘍《よう》や|痔《じ》|疾《しつ》を永遠に抱えこまなければならないのだとしたら、いったいどこに救済があるというのだ? 魂が肉体から分離したものでないとしたら、いったい魂にどんな存在理由があるというのだ?
私はそんなことを考えながら、太った娘の着たオリーヴ・グリーンの戦闘ジャケットとその下からのぞくピンク色のぴったりしたスカートと、ピンク色のナイキのジョギング・シューズのあとを追いかけた。彼女のイヤリングが光の中でキラキラと光りながら揺れた。それはまるで、彼女の首のまわりでつがいのホタルが飛びまわっているように見えた。
彼女は私の方をふりかえりもせず、じっと口をつぐんだまま前進をつづけた。まるで私が存在していることなんか念頭から消えてしまったかのようだった。彼女はフラッシュ・ライトで枝道や横穴を素速く点検しながら前に進んだ。わかれ道にくると彼女は立ちどまって胸のポケットから地図をとりだし、ライトで照らして、どちらに進めばいいのかを確認した。そのあいだに私は彼女に追いつくことができた。
「大丈夫? 道はあってるかい?」と私は|訊《たず》ねてみた。
「ええ、大丈夫よ。今のところはね。ちゃんとあってるわ」と彼女はしっかりした声で答えた。
「どうしてあっているってわかるんだ?」
「だってあってるんだもの」と彼女は言って、足もとをライトで照らした。「ほら、地面を見てごらんなさい」
私は腰をかがめてライトで照らされた円形の地面をじっとにらんでみた。岩のくぼみに銀色に光る小さなものがいくつかちらばっているのが見えた。手にとってみると、それは金属製のペーパー・クリップだった。
「ほらね」と娘は言った。「祖父はここを通ったのよ。そして私たちがあとを追ってくると思って、ここにしるしを残しておいたのよ」
「なるほど」と私は言った。
「十五分たったわ。急ぎましょう」と娘は言った。
その先にもいくつかわかれ道があったが、そのたびにペーパー・クリップがまかれていたので、我々は道に迷うことなく進みつづけ、それだけでも貴重な時間を節約することができた。
ときおり深い穴が地面にぽっかりと口を開けていることもあった。穴の位置は地図の上に赤いフェルト・ペンでしるしがつけられていたので、そのあたりに近づくと我々はいくらかスピードを落とし、ライトで地面を確かめながら前進した。穴の直径はだいたい五十センチから七十センチといったところで、とびこえるか|脇《わき》をまわりこむかして簡単に通過することができた。私はためしに近くにあったこぶしほどの大きさの石を中に落としてみたが、どれだけ待っても何の音もしなかった。まるでそのままブラジルだかアルゼンチンだかにつき抜けてしまったようなかんじだった。足を踏みはずしてそんな穴に落ちてしまうことを想像しただけで胃がしめつけられるような気分になった。
道は左右に|蛇《へび》のように曲りくねり、いくつもの枝道にわかれながら、下方へ下方へと向っていた。急な坂こそないが、道は一貫して下りだった。まるで一歩一歩地表の明るい世界が私の背中からはぎとられていくような思いだった。
途中で一度だけ我々は抱きあった。彼女は突然立ちどまり、うしろを振り向き、ライトを消して私の体に両腕をまわした。そして私の|唇《くちびる》を指先でさがし求め、そこに唇をかさねた。私も彼女の体に腕をまわし、そっと抱き寄せた。まっ暗闇の中で抱きあうというのは奇妙なものだった。たしかスタンダールが暗闇の中で抱きあうことについて何かを書いていたはずだ、と私は思った。本のタイトルは忘れてしまった。私はそれを思いだそうとしたが、どうしても思いだせなかった。スタンダールは暗闇の中で女を抱きしめたことがあるのだろうか? もし生きてここを出ることができたなら、そしてまだ世界が終っていなかったとしたら、そのスタンダールの本を探してみようと私は思った。
彼女の首筋からはメロンのオーデコロンの|匂《にお》いはもう消えていた。そのかわりに十七歳の女の子の首筋の匂いがした。首筋の下からは私自身の匂いがした。米軍ジャケットにしみついた私の生活の|臭《にお》いだ。私の作った料理や私のこぼしたコーヒーや私のかいた汗の臭いだ。そういうものがそこにしみついたまま定着してしまったのだ。地底の暗闇の中で十七歳の少女と抱きあっていると、そんな生活はもう二度と|戻《もど》ることのない幻のように感じられた。それがかつて存在したことを思いだすことはできる。しかし私がそこに帰りつく情景を頭に思い浮かべることができないのだ。
私は長い時間じっと抱きあっていた。時間はどんどん過ぎ去っていったが、そんなことはたいした問題ではないように私には感じられた。我々は抱きあうことによって互いの恐怖をわかちあっているのだ。そして今はそれがいちばん重要なことなのだ。
やがて彼女の乳房が私の胸にしっかりと押しつけられて、彼女の唇が開き、柔かな舌があたたかい息とともに私の口の中にもぐりこんできた。彼女の舌先が私の舌のまわりを|舐《な》め、指先が私の髪の中を探った。しかし十秒かそこらでそれは終り、彼女は突然私の体を離れた。私はまるで一人宇宙空間にとり残された宇宙飛行士のように、底のない絶望感に襲われた。
私がライトをつけると、彼女はそこに立っていた。彼女も自分のライトをつけた。
「行きましょう」と彼女は言った。そしてくるりとうしろを向いて、前と同じ調子で歩きはじめた。私の唇にはまだ彼女の唇の感触が残っていた。私の胸はまだ彼女の心臓の鼓動を感じることができた。
「私の、なかなか良かったでしょ?」と娘はふりかえらずに言った。
「なかなかね」と私は言った。
「でも何かが足りないのね?」
「そうだね」と私は言った。「何かが足りない」
「何が足りないのかしら?」
「わからない」と私は言った。
それから五分ばかり|平《へい》|坦《たん》な道を下ったところで、我々は広いがらんとした場所に出た。空気の臭いがかわり、足音の響き方がかわった。手を|叩《たた》くと、まん中がふくらんだようないびつな反響がかえってきた。
彼女が地図を出して位置を確認しているあいだ、私はライトでまわりをずっと照らしてみた。天井はちょうどドーム型になっており、部屋もそれにあわせたような円形だった。あきらかに人為的に手を加えられたなめらかな円形である。壁はつるつるとしていて、くぼみもでっぱりもない。地面の中心に直径一メートルばかりの底の浅い穴があって、穴の中にはわけのわからないぬるぬるとしたものがたまっていた。きわだった臭いというほどのものはないが、口の中に酸味があふれてくるような|嫌《いや》な感触が空気の中に漂っていた。
「ここが聖域の入口らしいわ」と娘は言った。「これで一応はたすかったようね。やみくろたちはその先には入りこめないもの」
「やみくろが入りこめないのはいいけど、我々が抜けだすことはできるのかな?」
「それは祖父にまかせればいいわ。祖父ならきっとなんとかしてくれるもの。それにふたつの発信機をくみあわせれば、やみくろをずっとよせつけないようにできるでしょ? つまりひとつの発信機を動かしているあいだ、もう一方のを充電させておくの。そうすればもう怖いものはないわ。時間のことを心配する必要もなくなるし」
「なるほど」と私は言った。
「少しは勇気が|湧《わ》いてきた?」
「少しね」と私は言った。
聖域に入る入口の両わきには、精密なレリーフが施されていた。巨大な魚が二匹で互いの口と|尻《しっ》|尾《ぽ》をつなぎあわせて円球を囲んでいる|図《ず》|柄《がら》だった。それは見るからに不可思議な魚だった。頭はまるで爆撃機の前部風防のようにぽっかりとふくれあがり、目はなく、そのかわりに二本の長く太い触角が植物のつるのようにねじまがりながらそこから突き出ていた。口は体に対して不つりあいなほど大きく、まっすぐに|鰓《えら》の近くにまで切れこんでいて、そのすぐ下にはつけね近くで切断された動物の腕のようなずんぐりとした器官がとびだしていた。最初のうちそれは吸盤のような働きをする器官かと思えたが、よく見るとその先には鋭利な三本の|爪《つめ》が認められた。爪のついた魚なんて目にしたのははじめてだった。背びれはいびつな形をして、うろこはとげ[#「とげ」に丸傍点]のように体から浮きあがっている。
「これは伝説上の生きものかな? それとも実際に存在しているものなのだろうか?」と私は娘に訊ねてみた。
「さあ、どうかしら」と娘は言ってかがみこみ、地面からまたペーパー・クリップをいくつか拾いあげた。「いずれにせよ、私たちはどうやら道を間違えずにすんだようね。さ、早く中に入りましょう」
私はライトでもう一度魚のレリーフを照らしてから彼女のあとを追った。やみくろたちがこんな|完《かん》|璧《ぺき》な暗闇の中であれほど|精《せい》|緻《ち》なレリーフを彫ることができたということは、私にとってちょっとしたショックだった。たとえ彼らが暗闇の中で物を見ることができるということが頭の中でわかっていても、実際に目にしたときの驚きがそれで減じられるわけではないのだ。そして今、この瞬間にも彼らは暗闇の奥から我々の姿をじっと|見《み》|据《す》えているかもしれないのだ。
聖域に入ると道はなだらかな上り坂に転じ、それにつれて天井もどんどん高くなり、やがてはライトを向けても天井を認めることはできないようになってしまった。
「これから山に入るわ」と娘は言った。「登山には慣れてる?」
「昔は週に一度は山にのぼってたよ。暗闇の中でのぼったことはないけれどね」
「たいした山じゃないみたいね」と彼女は地図を胸のポケットにつっこんで言った。「山というほどの山じゃないわ。丘っていってもいいくらいよ。でも彼らにとってはこれが山なんだって、祖父は言ってたわ。地底の|唯《ゆい》|一《いつ》の山。聖なる山なの」
「じゃあ我々は今まさにそれを|汚《けが》そうとしているわけだ」
「いいえ、逆よ。山はそもそもの最初から汚れているの。すべての汚れはここに集約されているのよ。この世界はいわば、|地《ち》|殻《かく》に封じこめられたパンドラの|匣《はこ》なのよ。そして私たちはこれからその中心を通り抜けようとしているわけ」
「まるで地獄みたいだな」
「ええ、そうね。たしかにここは地獄に似ているかもしれない。そしてここの大気は下水や様々な|洞《どう》|窟《くつ》やボーリングの穴をとおして地表にも吹きだしているの。やみくろは地表に上ることはできないけれど、空気は上ることができるの。そして人々の肺の中に入りこむこともね」
「そんな中に入りこんで、|僕《ぼく》らが生きのびることはできるのかな?」
「信じるのよ。さっきも言ったでしょ? 信じていれば怖いことなんて何もないのよ。楽しい思い出や、人を愛したことや、泣いたことや、子供の頃のことや、将来の計画や、好きな音楽や、そんな何でもいいわ。そういうことを考えつづけていれば、怖がることはないのよ」
「ベン・ジョンソンのことを考えていいかな?」と私は訊ねてみた。
「ベン・ジョンソン?」
「ジョン・フォードの古い映画に出てくる乗馬のうまい俳優さ。すごくきれいに馬に乗るんだ」
彼女は|暗《くら》|闇《やみ》の中で楽しそうにくすくす笑った。「あなたって素敵ね。あなたのことすごく好きよ」
「年が違いすぎる」と私は言った。「それに楽器ひとつできない」
「ここを出られたら、あなたに乗馬を教えてあげるわ」
「ありがとう」と私は言った。「ところで君は何について考える?」
「あなたとのキスのこと」と彼女は言った。「そのためにあなたとさっきキスしたのよ。知らなかった?」
「知らなかった」
「祖父がここで何を考えていたか知ってる?」
「知らない」
「祖父は何も考えないのよ。彼は頭をからっぽにすることができるの。天才というのはそういうものなの。頭をからっぽにしていれば、邪悪な空気はそこに入ってくることはできないのよ」
「なるほど」と私は言った。
彼女が言ったように進むにつれて道はだんだん険しくなり、ついには両手を使ってよじのぼらなくてはならない切りたった|崖《がけ》になった。そのあいだ私はずっとベン・ジョンソンのことを考えていた。馬に乗ったベン・ジョンソンの姿だ。『アパッチ|砦《とりで》』や『黄色いリボン』や『|幌《ほろ》|馬《ば》|車《しゃ》』や『リオ・グランデの砦』に出てくるベン・ジョンソンの乗馬シーンを私はできる限り頭の中に思い浮かべた。荒野には太陽が照りつけ、空には|刷《は》|毛《け》で引いたような純白の雲が浮かんでいた。バッファローが谷間に群れ、女たちは白いエプロンで手を|拭《ぬぐ》いながら戸口にその姿を見せていた。川が流れ、風が光を揺らせ、人々は|唄《うた》を唄った。そしてベン・ジョンソンはそんな風景の中を矢のように駆け抜けていた。カメラはレールの上をどこまでも移動しながら、彼の雄姿をフレームの中に収めつづけていた。
私は岩をつかみ足場をさぐりながら、ベン・ジョンソンと彼の馬のことを考えつづけていた。そのせいかどうかはわからないが、腹の傷の痛みは|嘘《うそ》のように収まってきて、自分が傷を受けているという意識にわずらわされることなく歩けるようになった。そう考えてみると、意識にある特定の信号をインプットすれば肉体の痛みは緩和されるという彼女の説もあながち誇張とは言えないのかもしれない、と私は思った。
登山という観点からすれば、それは決して困難なロック・クライミングではなかった。足場はたしかだし、切りたった絶壁もないし、手をのばせば手ごろな岩のくぼみをみつけることもできた。地上の基準からすれば初心者向け、それも日曜日の朝に小学生が一人でのぼっても危険のない程度の簡単なルートだった。しかしそれが地底の暗黒の中となると、話は変ってくる。まず第一に、言うまでもないことだが、何も見えない。この先に何があるのか、あとどれだけ上ればいいのか、今自分がどのような位置にいるのか、足もとから下がどんな具合になっているのか、自分が正しいルートを進んでいるのかどうか――それがわからないのだ。視力を失うということがこれほどの恐怖をもたらすということを、私は知らなかった。それはある場合には価値基準とか、あるいはそれに付属して存在する自尊心や勇気のようなものまでをも奪いとってしまうのだ。人は何かを達成しようとするときにはごく自然に三つのポイントを|把《は》|握《あく》するものである。自分がこれまでにどれだけのことをなしとげたか? 今自分がどのような位置に立っているか? これから先どれだけのことをすればいいか? ということだ。この三つのポイントが奪い去られてしまえば、あとには恐怖と自己不信と疲労感しか残らない。私が現在置かれている立場がまさにそれだった。技術的な難易というのはそれほどの問題ではない。問題はどこまで自己をコントロールできるかということなのだ。
我々は暗黒の山を上りつづけた。懐中電灯を手に持って崖をよじのぼることはできなかったので、私はズボンのポケットに懐中電灯をつっこみ、彼女もストラップをたすきのようにかけて、ライトを背中にまわしていた。おかげで我々は何ひとつ目にすることができなかった。彼女の腰の上で揺れるライトが、|空《むな》しく暗黒の宙を照らし出すだけだった。私はその揺れる灯を目標にして黙々と崖を上りつづけた。
私が遅れていないことを確認するために、彼女はときどき私に声をかけた。「大丈夫?」とか「もう少しよ」とか、そういったようなことだ。
「唄を唄わない?」としばらくしてから彼女が言った。
「どんな唄?」と私は|訊《たず》ねた。
「なんでもいいわよ。メロディーがあって歌詞がついてればいいの。何か唄って」
「人前では唄わないんだ」
「唄いなさいよ。いいから」
しかたなく私は『ペチカ』を唄った。
[#ここから2字下げ]
雪の降る夜は 楽しいペチカ
ペチカ燃えろよ お話しましょ
昔々よ
燃えろよペチカ
[#ここで字下げ終わり]
そのあとの歌詞は知らなかったので、私は適当な歌詞を自分で作って唄った。みんなでペチカにあたっていると|誰《だれ》かがドアをノックするのでお父さんが出てみると、そこに傷ついたとなかいが立っていて「おなかが減っているんです。何か食べさせて下さい」というのだ。それで桃の|缶《かん》|詰《づめ》をあけて食べさせてやる、といった内容だった。最後はみんなでペチカの前に座って唄を唄うのだ。
「なかなかうまいじゃない」と彼女がほめてくれた。「拍手できなくて悪いけど、すごく良い唄ね」
「ありがとう」と私は言った。
「もう一曲唄って」と娘が催促した。
それで私は『ホワイト・クリスマス』を唄った。
[#ここから2字下げ]
夢みるはホワイト・クリスマス
白き雪景色
やさしき心と
古い夢が
君にあげる
僕の贈りもの
夢みるはホワイト・クリスマス
今も目を閉じれば
|橇《そり》の鈴の音や
雪の輝きが
僕の胸によみがえる
[#ここで字下げ終わり]
「とてもいいわ」と彼女が言った。「その歌詞はあなたが作ったの?」
「でまかせで唄っただけさ」
「どうして冬や雪の唄ばかり唄うの?」
「さあね。どうしてかな? 暗くて冷たいからだろう。そういう唄しか思いつかないんだ」と私は岩のくぼみからくぼみへと体をひっぱりあげながら言った。「今度は君が唄う番だよ」
「『自転車の唄』でいいかしら?」
「どうぞ」と私は言った。
[#ここから2字下げ]
四月の朝に
私は自転車にのって
知らない道を
森へと向った
買ったばかりの自転車
色はピンク
ハンドルもサドルも
みんなピンク
ブレーキのゴムさえ
やはりピンク
[#ここで字下げ終わり]
「なんだか君自身の唄みたいだな」と私は言った。
「そうよ、もちろん。私自身の唄よ」と彼女は言った。「気に入った?」
「気に入ったね」
「つづき聴きたい?」
「もちろんさ」
[#ここから2字下げ]
四月の朝に
似合うのはピンク
それ以外の色は
まるでだめ
買ったばかりの自転車
|靴《くつ》もピンク
帽子もセーターも
みんなピンク
ズボンも下着も
やはりピンク
[#ここで字下げ終わり]
「ピンクに対する君の気持はよくわかったから、話を先に進めてくれないかな」と私は言った。
「これは必要な部分なのよ」と娘は言った。「ねえ、ピンク色のサングラスってあると思う?」
「エルトン・ジョンがいつかかけていたような気がするな」
「ふうん」と彼女は言った。「まあいいや。つづき唄うわね」
[#ここから2字下げ]
道で私は
おじさんに会った
おじさんの服は
みんなブルー
|髭《ひげ》を|剃《そ》り忘れてるみたい
その髭もブルー
まるで長い夜みたいな
深いブルー
長い長い夜は
いつもブルー
[#ここで字下げ終わり]
「それは僕のことかな?」と私は|訊《き》いてみた。
「いいえ、違うわ。あなたのことじゃない。この唄にあなたは出てこないの」
[#ここから2字下げ]
森に行くのは
よしたがいいよ、あんた
とおじさんは言う
森のきまりは
獣たちのためのもの
それがたとえ
四月の朝であったとしても
水は逆に
流れたりはしないものだ
四月の朝にも
それでも私は
自転車で森へ向う
ピンクの自転車の上で
四月の晴れた朝に
こわいものなんて何もない
色はピンク
自転車から降りなければ
こわくない
赤でもブルーでも茶でもない
まっとうなピンク
[#ここで字下げ終わり]
彼女が『自転車の唄』を唄い終えた少しあとで、我々はどうやら|崖《がけ》をのぼりきったらしく、広々とした台地のようなところに出た。我々はそこで一息ついてから、ライトでまわりを照らしてみた。台地はかなり広いらしく、テーブルのようなつるりとした平面がどこまでもつづいていた。彼女は台地ののぼりぐちのところにしばらくしゃがみこんでいたが、そこでまた半ダースほどのペーパー・クリップを見つけた。
「君のおじいさんはいったいどこまで行ったんだい?」と私は訊いた。
「もうすぐよ。この近く。この台地のことは祖父から何度も話を聞いているからだいたい見当がつくの」
「君のおじいさんはすると以前にも何度もここに来ているわけ?」
「もちろんよ。祖父は地底の地図を作成するために、このあたりは|隅《すみ》から隅までまわったの。ここのことなら何でも知ってるわよ。枝穴の行く先から秘密の抜け道から、何から何までね」
「一人で歩きまわったの?」
「ええ、そうよ。もちろん」と娘は言った。「祖父は一人で行動するのが好きなの。もともとは|人《ひと》|嫌《ぎら》いとか他人を信用しないとかいうんじゃなくて、ただ他の人が祖父についてくることができないからなんだけれど」
「わかるような気はするね」と私は同意した。「ところでこの台地はいったい何なんだろう?」
「この山にはかつてやみくろたちの祖先が住んでいたの。|山《やま》|肌《はだ》に穴を掘って、みんなでその中に住んでいたわけ。今私たちが立っているこの平らな場所は、彼らが宗教的な儀式を行なっていたところなの。彼らにとっての神が宿る場所よ。ここに祭司だかまじない師だかが立って、暗黒の神を呼び、いけにえを|捧《ささ》げたのね」
「神というのはつまり、あの気味のわるい|爪《つめ》のはえた魚のことだね?」
「そうよ。彼らはあの魚がこの暗黒の地をつかさどっていると信じているの。この地の生態系や様々なもののありようや理念や価値体系や、生や死や、そういうものをね。その昔、彼らのいちばん最初の祖先が、あの魚に導かれてこの地にやってきたというのが彼らの伝説」彼女はライトを足もとに向け、地面に掘られた深さ十センチ、幅一メートルほどの|溝《みぞ》のようなものを私に示した。その溝は台地の上りぐちから一直線に|闇《やみ》の奥へと向っていた。「この道をずっと|辿《たど》っていくと、昔の祭壇に行きつくはずよ。そして祖父はたぶんそこに隠れていると思うの。なぜならこの聖域の中でも祭壇はもっとも神聖なもので、たとえ誰であろうとそこに近づくことができないから、そこに隠れている限り絶対に捕まる心配はないの」
我々はその溝のようなまっすぐな道を前に進んだ。道はやがて下り坂になり、それにつれて|両脇《りょうわき》の壁はどんどん高くなっていった。まるで今にも両方の壁がせり寄ってきて我々の体をはさみこみ、ぺしゃんこに|潰《つぶ》してしまうんじゃないかという気がしたが、あたりはあいかわらず井戸の底のようにしんとしていて、物の動く気配はなかった。私と彼女のゴム底靴が地面を踏む音だけが壁と壁のすきまに奇妙なリズムを響かせていた。私は歩きながら、無意識に何度も空を見上げた。人は|暗《くら》|闇《やみ》の中にいると、ごく自然に星や月の光を捜し求めてしまうものなのだ。
しかしもちろん私の頭上には月も星もなかった。暗黒が幾重もの層をなして、私の体にのしかかっているだけだった。風もなく、空気はどんよりとして同じ場所にとどまっていた。私をとりまく何もかもが以前よりずっと重く感じられるようになった。私自身の存在さえ重みを増しているような気がした。吐く息や靴音の響きや手の上げ下げまでもが、|泥《どろ》のように重く地表に引き寄せられているようだった。地底深くにもぐっているというよりは、宇宙のどこかのよくわけのわからない天体におり立ったみたいだ。引力や空気の密度や時間の感覚が、私の記憶しているものとは何から何までまるっきり異っているのだ。
私は左手を上にあげてディジタル時計のライトをつけ、時刻をたしかめた。二時十一分だった。地底におりたのがちょうど真夜中だから、まだ二時間と少し暗闇の中にいたにすぎないのだが、私としてはもう人生の四分の一を暗黒のうちに過してしまったような気分だった。ディジタル時計のささやかな光でさえ、それを長く見ていると目の奥がちくちくと痛んだ。おそらく私の目は少しずつ暗闇に同化しつつあるのだろう。懐中電灯の光も、同じように私の目を|射《さ》した。長いあいだ暗闇の中にいると、暗闇というものが本来あるべき正常な状態であって、光の方が不自然な異物のように感じられてくるものなのだ。
我々は口を閉ざしたまま、その深く狭い溝のような通路を下へ下へと歩きつづけた。道は|平《へい》|坦《たん》な一本道で頭を天井にぶっつける心配もなかったので、私は懐中電灯のスウィッチを切り、彼女のゴム底靴の響きをたよりに前に歩きつづけた。歩きつづけているうちに、自分が目を開けているのか閉じているのかがだんだん不確かになってきた。目を開けているときの暗闇と目を閉じたときの暗闇が、まったく同じなのだ。私はためしに目を開けたり閉じたりしながら歩いてみたが、最後にはどちらがどちらなのか、正確に判断することができなくなってしまった。人間のあるひとつの行為と、それとは逆の立場にある行為とのあいだには、本来ある種の有効的な差異が存在するのであり、その差異がなくなってしまえば、その行為Aと行為Bを隔てる壁も自動的に消滅してしまうのだ。
私が今感じることができるのは、私の耳に響く彼女の靴音だけだった。彼女の靴音は地形とか空気とか暗闇とかのせいで、とてもいびつな響きかたをしていた。私は頭の中でその響きぐあいをなんとか音声化してみようとしたが、それにはどんな音声もうまくあてはまりそうになかった。まるでアフリカか中近東の、私の知らない言語のような響きだった。日本語の音声の範囲内ではどうしてもうまくそれを規定することはできないのだ。フランス語かドイツ語か英語でなら、なんとかその響きに近づけるかもしれない。私はとりあえず英語でためしてみることにした。
まず最初それは、
Even-through-be-shopped-degreed-well
と聞こえたような気がしたが、実際に口にしてみると、それは靴音の響きとはまるで違っていることがわかった。より正確に表現すると、
〔Efgve'n-gthouv-bge-shpe`vg-e'gvele-wgevl〕
という風になった。
まるでフィンランド語みたいだったが、残念ながら、フィンランド語について私は何ひとつ知らなかった。ことば自体の印象からすると「農夫は道で年老いた悪魔に出会った」といったような感じがするが、それはあくまで印象にすぎない。根拠のようなものは何もない。
私はいろんなことばや文章をその靴音にあてはめながら歩きつづけた。そして頭の中で彼女のピンク色のナイキ・シューズが平坦な路面を交互にふみつけていく様を思い浮かべた。右のかかとが地面に下り、重心がつま先に移行し、それが地面を離れる前に左のかかとが着地する。それが際限なくつづいた。時間の流れ方はどんどん遅くなっていった。まるで時計のねじが切れて、それで針がなかなか前に進まないような感じだった。ピンク色のジョギング・シューズがぼんやりとした私の頭の中でゆっくりと前に行ったりうしろに行ったりした。
〔Efgve'n-gthouv-bge-shpe`vg-e'gvele-wgevl〕
〔Efgve'n-gthouv-bge-shpe`vg-e'gvele-wgevl〕
〔Efgve'n-gthouv-bge……〕
と靴音は響いていた。
フィンランドの田舎道の石の上に年老いた悪魔が腰を下ろしていた。悪魔は一万歳だか二万歳だかで、見るからに疲れきっていて、服も靴もほこりだらけだった。|髭《ひげ》さえもがすりきれていた。「そんなに急いで、お前どこに行くんだ?」と悪魔は農夫に声をかけた。「|鍬《くわ》の刃がかけたんでなおしにいくんだ」と農夫は答えた。「急ぐことないさ」と悪魔は言った。「まだ日はじゅうぶん高いし、そんなにあくせくすることないじゃないか。ちょっとそこに座って、|俺《おれ》の話聞いてくれよ」農夫は用心深く悪魔の顔を見た。悪魔なんかとかかわりあうとロクなことがないということは農夫にもよくわかっていたが、悪魔はひどく見すぼらしくて疲れ果てているように見えた。そこで農夫は、
――何かが私の|頬《ほお》を打った。やわらかくて|扁《へん》|平《ぺい》なものだ。やわらかくて扁平で、それほど大きくなくて、なつかしいものだ。何だっけ? 私が考えをとりまとめているあいだに、それはもう一度私の頬を打った。私は右手をあげてその何かを振り払おうとしたが、うまくいかなかった。再び私の頬が打たれた。私の顔の前で、何かギラギラと光る不快なものが振られていた。私は目を開けた。目を開けるまで、私は自分が目を閉じていたのに気づかなかった。私は目を閉じていたのだ。私の目の前にあるのは彼女の大型のフラッシュ・ライトで、私の頬を打っているのは彼女の手だった。
「よせよ」と私はどなった。「すごくまぶしいし、痛い」
「何を|馬《ば》|鹿《か》言ってんのよ! こんなところで寝ちゃって、どうなると思うの! しっかり立ちなさい!」と娘が言った。
「立つ?」
私は懐中電灯のスウィッチをつけて、まわりを見まわしてみた。自分では気がつかなかったのだけれど、私は地面に腰を下ろして壁にもたれかかっていた。たぶん知らず知らずのうちに眠りこんでいたのだ。地面も壁も水に|濡《ぬ》れたようにぐっしょりと湿っていた。
私はゆっくりと腰をあげ、立ちあがった。
「よくわからないな。いつの間に眠りこんじゃったんだろう? 腰を下ろした覚えもないし、眠ろうとした覚えもないんだ」
「奴ら[#「奴ら」に丸傍点]がそういう風に仕向けているのよ」と娘は言った。「私たちをこのままここで眠りこませようとね」
「奴ら[#「奴ら」に丸傍点]?」
「この山に住むものよ。神だか|悪霊《あくりょう》だかなんだか知らないけれど、とにかくそういう存在。私たちの邪魔をしようとしているのよ」
私は首を振って、頭の中に残っているしこりのようなものをふるい落とした。
「頭がぼんやりとして、目を開けているのか閉じているのかがだんだんわからなくなってきたんだ。それに君の|靴《くつ》が妙な響き方をしたものだから……」
「私の靴?」
私は彼女の靴の響きの中から、どんな具合に年老いた悪魔が登場してきたかを話した。
「それはまやかしよ」と娘は言った。「催眠術のようなものね。私がもし気づかなかったら、あなたはきっとここで手遅れになるまで眠りこんでいたわね」
「手遅れ?」
「ええ、そうよ。手遅れ」と彼女は言ったが、それがどのような種類の手遅れなのかは教えてくれなかった。「たしかあなたナップザックにロープを入れてたわね?」
「うん、五メートルほどのロープだけどね」
「出して」
私はナップザックを背中からおろし、その中に手をつっこんで|缶《かん》|詰《づめ》やウィスキーの|瓶《びん》や水筒のあいだからナイロンのロープをひっぱりだして娘にわたした。娘は私のベルトにロープの端を結びつけ、もう片方の端を自分の腰に巻きつけた。そしてロープをたぐり寄せて、お互いの体をひっぱってみた。
「これで大丈夫」と娘は言った。「こうしておけばはぐれっこないわ」
「両方が眠りこまなければね」と私は言った。「君もあまり眠っていないんだろう?」
「問題はつけこまれないことよ。もしあなたが睡眠不足だということで自分に同情しはじめたら、悪い力はそこからつけこんでくるのよ。わかる?」
「わかるよ」
「わかったら行きましょう。ぐずぐずしてる時間はないわよ」
我々は互いの体をナイロンのロープでつなぎあわせたまま前進した。私はなるべく彼女の靴音に注意を向けないように努力した。そして懐中電灯の光を娘の背中にあて、オリーヴ・グリーンの米軍ジャケットを見つめながら歩いた。私がそのジャケットを買ったのはたしか一九七一年のことだった。まだヴェトナムで戦争がつづいていて、あの不吉な顔をしたリチャード・ニクソンが大統領をやっていた|頃《ころ》のことだ。その当時は|誰《だれ》も彼もが髪を長くのばして、汚ない靴をはき、サイケデリックなロックを聴き、背中にピース・マークをつけた米軍払い下げの戦闘ジャケットを着て、ピーター・フォンダのような気分になっていた。|恐竜《きょうりゅう》が出てきそうなほど大昔の話だ。
私はその当時に起ったことをいくつか思いだしてみようとしたが、ひとつも思いだせなかった。それで仕方なくピーター・フォンダがバイクを走らせている場面を頭の中に思い浮かべてみた。それからその場面にステッペンウルフの『ボーン・トゥー・ビー・ワイルド』をかさねてみた。しかし『ボーン・トゥー・ビー・ワイルド』はいつのまにかマービン・ゲイの『悲しいうわさ』に変ってしまっていた。たぶんイントロダクションが似ているせいだ。
「何を考えてるの?」と前の方から太った娘が声をかけた。
「べつに何も」と私は言った。
「|唄《うた》でも唄う?」
「唄はもういいよ」
「じゃあ、何か考えなさい」
「話をしよう」
「どんな話?」
「雨ふりの話はどう?」
「それでいいわ」
「君はどんな雨ふりを覚えてる?」
「父と母と兄弟が死んだ日の夕方雨が降ったわ」
「もっと明るい話をしよう」と私は言った。
「いいのよ。私は話したいんだから」と娘は言った。「それに、あなたの|他《ほか》にそんな話をできる相手もいないしね。……もしあなたが聞きたくないんなら、もちろんやめるけれど」
「話したいのなら話せばいいさ」と私は言った。
「降っているのかいないのか、よくわからないような雨だったわ。朝からずっとそんな天気がつづいていたの。空がぼんやりとしたグレーに|覆《おお》われたままぴくりとも動かないの。私は病院のベッドに寝たまま、ずっとそんな空を見あげていたわ。十一月のはじめで、窓の外にはくすの木がはえていた。大きなくすの木。葉はもう半分くらい落ちていて、その枝のあいだから空が見えるの。木を|眺《なが》めるの好き?」
「さあどうかな」と私は言った。「べつに嫌いなわけじゃないけど、あまり注意深く眺めたことはないね」
正直に言って、私にはしい[#「しい」に丸傍点]の木とくす[#「くす」に丸傍点]の木の違いもわからないのだ。
「私は木を眺めるの大好きよ。昔からずっと好きだったし、今でもそう。暇があると木の下に座って、幹にさわったり枝を見あげたりしながら、何時間もぼんやりしているの。そのとき私が入院していた病院の庭にあったのも、ずいぶん立派なくすの木だったわ。私はベッドに横になって、なんにもしないで一日じゅうそのくすの木の枝と空を見てたの。最後にはその枝の一本一本をぜんぶ覚えちゃったくらい。ほら、ちょうど鉄道マニアが路線の名前とか駅なんかをぜんぶ覚えちゃうみたいにね。
それから、そのくすの木にはよく鳥がやってきたわ。いろんな種類の鳥。|雀《すずめ》とか、もずとか、むくどりとかね。あとは名前をしらないきれいな色の鳥。ときどきは|鳩《はと》もやってきたわ。そんな鳥がやってきて、しばらく枝の上で休んで、またどこかに飛び立っていくの。鳥たちは雨ふりに対してとても敏感なの。知ってた?」
「知らない」と私は言った。
「雨が降っていたり、雨が降りそうだったりすると、鳥たちはぜったい木の枝には姿を見せないの。でも雨が降りやむとすぐにやってきて、大きな声で鳴くのね。まるで雨があがったことをみんなで祝福しあうみたいに。どうしてだかはわからないわ。雨があがると虫が地面に出てくるせいかもしれない。それとも単に鳥たちは雨あがりが好きなだけかもしれない。でもそれで、私は天気の具合を知ることができたの。鳥の姿が見えなければ雨だし、鳥がやってきて鳴けば雨はあがったのよ」
「長く入院していたの?」
「ええ、一カ月かそこら。私は昔、心臓の弁に問題があって、それを手術でなおさなくちゃならなかったの。とてもむずかしい手術だっていうことで、家族のみんなは私のことを半ばあきらめていたくらいなの。でも不思議ね。結局私だけが生き残って健康そのもので、他の人はみんな死んじゃったわ」
そのまま彼女は黙って歩きつづけた。私も彼女の心臓やくすの木や鳥のことを考えながら歩いた。
「みんなが死んだその日は、鳥たちにとってもひどく忙しい一日だったの。なにしろ降っているのかいないのかわからないような雨が降ったりやんだりしつづけていたわけだから、鳥たちもそれにあわせて出たりひっこんだりを繰りかえしていたの。とても寒い、冬のさきぶれのような一日で、病室には暖房が入っていたから、窓ガラスはすぐに曇ってしまって、私は何度もそれを|拭《ふ》かなくちゃならなかったわ。ベッドから起きあがって、タオルで窓を拭いて、また|戻《もど》ってくるの。ほんとうはベッドを離れちゃいけなかったんだけど、私は木や鳥や空や雨を見ていたかったの。長く病院に入っていると、そういうものが命そのもののように見えてくるのね。病院に入院したことある?」
「ない」と私は言った。私はだいたいにおいて春の|熊《くま》のように健康なのだ。
「羽が赤くて頭の黒い鳥がいたわ。いつもつがいで行動しているの。それに比べるとむくどりはまるで銀行員みたいに地味な格好をしているの。でもみんな、雨がやむと同じように木の枝にやってきて鳴いたわ。
そのとき私はこう思ったの。世界って、なんて不思議なものだろうってね。世界には何百億、何千億っていう数のくすの木がはえていて――もちろんくすの木である必要はないんだけど――そこに日が照ったり雨が降ったりして、それにつれて何百億、何千億という数のいろんな鳥がそこにとまったりそこから飛び立ったりしているのね。そういう光景を想像していると、私はなんだかとても悲しいような気持になったわ」
「どうして?」
「たぶん世界が数えきれないほどの木と数えきれないほどの鳥と数えきれないほどの雨ふりに|充《み》ちているからよ。それなのに私にはたった一本のくすの木とたったひとつの雨ふりさえ理解することができないような気がしたの。永遠にね。たった一本のくすの木とたったひとつの雨ふりさえ理解できないまま、年をとって死んでいくんじゃないかってね。そう思うと、私はどうしようもなく|淋《さび》しくなって、一人で泣いたの。泣きながら、誰かにしっかりと抱きしめてほしいと思ったの。でも抱きしめてくれる人なんて誰もいなかった。それで私はひとりぼっちで、ベッドの上でずっと泣いていたの。
そのうちに日が暮れて、あたりが暗くなり、鳥たちの姿も見えなくなってしまったわ。だから私には雨が降っているのかどうか、たしかめることもできなくなってしまったの。その夕方に私の家族はみんな死んでしまったわ。私がそれを知らされたのはずっとあとのことだったけれどね」
「知らされたときは|辛《つら》かったろうね」
「よく覚えてないわ。そのときは何も感じなかったんじゃないかっていう気がするの。覚えているのは、私がその秋の雨ふりの夕暮に誰にも抱きしめてもらえなかったということだけ。それはまるで――私にとっての世界の終りのようなものだったのよ。暗くてつらくてさびしくてたまらなく誰かに抱きしめてほしいときに、まわりに誰も自分を抱きしめてくれる人がいないというのがどういうことなのか、あなたにはわかる?」
「わかると思う」と私は言った。
「あなたは愛する人をなくしたことがある?」
「何度かね」
「それで今はひとりぼっちなのね?」
「そうでもないさ」とベルトに結んだナイロンのロープを指でしごきながら私は言った。「この世界では誰もひとりぼっちになることなんてできない。みんなどこかで少しずつつながってるんだ。雨も降るし、鳥も鳴く。腹も切られるし、|暗《くら》|闇《やみ》の中で女の子とキスすることもある」
「でも愛というものがなければ、世界は存在しないのと同じよ」と太った娘は言った。「愛がなければ、そんな世界は窓の外をとおりすぎていく風と同じよ。手を触れることもできなければ、|匂《にお》いをかぐこともできないのよ。どれだけ沢山の女の子をお金で買っても、どれだけ沢山のゆきずりの女の子と寝ても、そんなのは本当のことじゃないわ。誰もしっかりとあなたの体を抱きしめてはくれないわ」
「そんなにしょっちゅう女の子を買ったり、ゆきずりで寝てるわけじゃないさ」と私は抗議した。
「同じことよ」と彼女は言った。
まあそうかもしれない、と私は思った。誰かが私の体をしっかりと抱きしめてくれるわけではないのだ。私も誰かの体をしっかりと抱きしめるわけではない。そんな風に私は年をとりつづけているのだ。海底の岩にはりついたなまこ[#「なまこ」に丸傍点]のように、私はひとりぼっちで年をとりつづけるのだ。
私はぼんやりと考えごとをしながら歩いていたせいで、前を行く彼女が立ち止まったのに気がつかず、そのやわらかい背中にぶつかってしまった。
「失礼」と私は言った。
「しっ!」と彼女は言って、私の腕をつかんだ。「何か音が聞こえるわ。耳を澄ませて!」
我々はじっとそこに立ったまま、暗闇の奥からやってくる響きに耳を澄ませた。その音は我々の|辿《たど》る道のずっと前方から聞こえてきた。小さな、注意しなければ気がつかないような音だ。かすかな地鳴りのようでもあり、何かどっしりとした重い金属がこすりあわされる音のようでもある。しかしそれが何であれ、音は途切れることなくつづき、時間がたつにつれてほんの少しずつその音量はあがってくるようだった。大きな虫がじわじわと背中をはいあがってくるような、不気味で冷ややかな感触のする音だった。人の耳の可聴範囲にやっと触れるほどの低い音の響きだ。
まわりの空気さえもが、その音の波にあわせて揺れはじめたようだった。どんよりとした重い風が、水に流される|泥《どろ》のように我々の体のまわりを前から後へとゆっくり移動していった。空気は水をふくんだようにじっとりとして冷たかった。そして何かが起りつつあるという予感のようなものがあたりに充ちていた。
「地震でも起るのかな」と私は言った。
「地震なんかじゃないわ」と太った娘が言った。「地震よりずっとひどいものよ」
22 世界の終り
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――灰色の煙――
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老人の予言したとおり、煙は毎日のように立ちのぼった。その灰色の煙はりんご林のあたりからのぼって、そのまま上空のどんよりとした厚い雲の中に|呑《の》みこまれていった。それをじっと見ていると、まるでりんご林の中ですべての雲が作りだされているような錯覚に襲われた。煙が上りはじめる時刻は正確に午後の三時で、いつまでつづくかは死んだ獣の数によって変化した。激しい吹雪の翌日や冷えこんだ夜のあとには、山火事を思わせるような太い煙が何時間もつづいた。
人々がどうして彼らを死から|免《まぬか》れさせるための方策を講じないのか、|僕《ぼく》にはそれがわからなかった。
「なぜどこかに小屋のようなものを造ってやらないのですか?」と僕はチェスのあいまに老人に|訊《たず》ねてみた。「どうして獣たちを雪や風や寒さから守ってやらないのですか? たいしたものじゃなくてもいいんです。屋根とちょっとした囲いがあるだけでずいぶん多くの命が救えますよ」
「それは|無《む》|駄《だ》というものだよ」と老人は盤面から目を離さずに言った。「もしたとえ小屋を造ってやったところで獣たちはそんなところには入らん。彼らは昔から変らず大地の上で眠るものなんだ。たとえそのために命を落とすとしても、彼らは外で眠る。雪や風や寒さを身にまとってな」
大佐は僧正を王の正面に置いて、強固なブロックを固めた。その両わきにはふたつの|角《つの》が火線を張っていた。彼は僕が攻めこんでくるのを待っているのだ。
「獣たちはまるで進んで苦痛や死を求めているように聞こえますね」と僕は言った。
「ある意味ではたしかにそうかもしれん。しかし彼らにとっちゃそれが自然なんだ。寒さや苦しさがな。彼らにとってはあるいはそれが救済なのかもしれん」
老人が黙りこんだので僕は|猿《さる》を壁のわきにもぐりこませた。壁の動きを誘うつもりだった。大佐はそれにのりかけたが、はっと思いなおし、かわりに騎士をひとつうしろに下げて防御範囲を針山のように縮めた。
「君もだんだんずるさを身につけてきたようだな」と老人は笑いながら言った。
「あなたにはまだまだかないませんがね」と僕も笑って言った。「しかしあなたの言う救済というのはどういう意味なんですか?」
「死によって彼らは救われておるのかもしれんということさ。獣たちはたしかに死ぬが、春になればまた生きかえるんだ。新しい子供としてな」
「そしてまたその子供たちが成長して、同じように苦しんで死んでいくのですね? どうして彼らはそんなに苦しまなくちゃならないんですか?」
「それが定めだからさ」と老人は言った。「君の番だ。私の僧正を|潰《つぶ》さん限り君に勝ち目はないぞ」
雪が三日のあいだ断続的に降りつづいたあとに、うってかわったような晴天がやってきた。太陽が白く|凍《い》てついた街にひさかたぶりの日差しを注ぎ、そのあいだあたりは雪溶けの水音と|眩《まぶ》しい輝きに|充《み》ちた。樹木の枝から雪のかたまりの落下する音がいたるところに響いていた。僕は光を避けて窓のカーテンを閉ざし、じっと部屋の中にとじこもっていた。すっかり窓をおおった厚いカーテンの背後にいくら身をかくしたところで僕は光から逃れることはできなかった。凍りついた街は精巧にカットされた巨大な宝石のようにあらゆる角度に陽光を反射させ、その奇妙に|直截的《ちょくせつてき》な光を部屋に送りこんで、僕の目を射た。
僕はそんな午後にはずっとベッドにうつぶせになって|枕《まくら》で目を|覆《おお》い、鳥の声に耳を澄ませた。様々な種類の様々な声の鳥たちが窓辺にやってきては、またべつの窓に去っていった。官舎に住む老人たちが窓辺にパン|屑《くず》をまいておくことを鳥たちはちゃんと知っているのだ。老人たちが官舎の前の日だまりに腰を下ろしておしゃべりをしている声も聞こえた。僕一人だけが暖かい太陽の恵みから遠ざけられていた。
日が暮れると僕はベッドから起きあがって冷たい水ではれた目を洗い、黒い眼鏡をかけ、雪の積った丘の斜面を下って図書館にでかけた。しかし眩しい光に目を痛めた日には、僕にはいつものように多くの夢を読むことができなかった。ひとつかふたつの頭骨を処理すると、その古い夢が発する光のせいで僕の眼球はまるで針で刺されたように痛んだ。そして目の奥のぼんやりとした空間が砂でもつめられたように重くなり、それにつれて指先がいつもの微妙な感覚を失っていった。
そんなときには彼女は|濡《ぬ》れた冷たいタオルで僕の目をもみほぐし、薄いスープかミルクをあたためて飲ませてくれた。スープもミルクも妙にざらざらとして舌ざわりが悪く、味もやわらかみに欠けたが、何度も飲んでいるうちに口が少しずつ慣れ、それなりのうまさを感じることができるようになった。
僕がそう言うと、彼女は|嬉《うれ》しそうに|微笑《ほ ほ え》んだ。
「それはあなたがだんだんこの街に慣れてきているということなのよ」と彼女は言った。「この街の食べ物は|他《ほか》のところのものとは少し違っているの。私たちはほんの少しの種類の材料でいろんなものを作っているのよ。肉のように見えるものは肉じゃない、卵のように見えるものは卵じゃないし、コーヒーのように見えるものはコーヒーじゃないの。ぜんぶそれに似せて作ってあるだけ。そのスープは体にとても良いのよ。どう、体があたたまって少し頭の中が楽になったでしょ?」
「そうだね」と僕は言った。
たしかに僕の体はスープのおかげであたたかみをとり|戻《もど》し、頭の重みもさっきよりはずっと楽になっていた。僕はスープの礼を言って目を閉じ、体と頭を休めた。
「あなたは今何かを求めているんじゃないかしら?」と彼女が訊ねた。
「僕が? 君の他に?」
「よくわからないけれど、ふとそういう気がしたの。その何かがあれば、冬のせいで固くなったあなたの心が少しでも開くんじゃないかってね」
「僕に必要なのは太陽の光だよ」と僕は言った。そして黒い眼鏡をとり、布でレンズを|拭《ふ》いてからもとに戻した。「でもそれは無理だ。僕の目は日の光を受けることはできないからね」
「きっともっとささやかなものよ。心をときほぐすためのほんのちょっとしたこと。私がさっき指であなたの目をマッサージしてあげたのと同じように、心をときほぐすための方法がきっと何かあるはずなのよ。思いだせない? あなたの住んでいた世界では心が固くなったときにどんなことをしていたのかしら?」
僕はわずかに残っている記憶の断片を時間をかけてひとつずつ探ってみたが、彼女が求めているようなことは何ひとつとして思いだせなかった。
「駄目だね。何も思いだせない。僕が持っているはずの記憶の|殆《ほと》んどが失われているんだ」
「どんな小さなことでもいいのよ。思いついたら口に出してみて。二人で一緒に考えてみましょう。私は少しでもあなたの役に立ちたいのよ」
僕は|肯《うなず》いて、もう一度意識を集中して古い世界の埋もれた記憶を掘りかえしてみようと試みた。しかしその岩盤はあまりにも硬く、いくら力をふりしぼってみても、びくとも動かすことはできなかった。頭が再び痛みはじめた。おそらく影と別れたときに僕という自己は致命的に失われてしまったのだろう。僕の中に残っているのは不確かでとりとめのない心だけなのだ。そしてその心さえもが冬の寒さによって固く閉ざされつつあるのだ。
彼女は手のひらを僕のこめかみにあてた。
「もういいわ。考えるのはまたにしましょう。そのうちに何かふと思いだすかもしれないしね」
「最後にもうひとつだけ古い夢を読むよ」と僕は言った。
「あなたはずいぶん疲れているようだわ。つづきは明日にした方がいいんじゃないかしら? 無理することはないのよ。古い夢はいくらでも待っていてくれるもの」
「いや、古い夢を読んでいる方が何もしていないよりは楽なんだ。夢読みのあいだは少くとも何かを考えずに済むからね」
彼女はしばらく僕の顔を見ていたが、やがて肯いてテーブルを立ち、書庫の中に消えた。僕はテーブルに|頬《ほお》|杖《づえ》をついて目を閉じ、|暗《くら》|闇《やみ》の中に身をひたした。冬はどれくらいのあいだつづくのだろうか。長くつらい冬、と老人はいった。そして冬はまだ始まったばかりなのだ。僕の影はその長い冬をもちこたえることができるのだろうか? いや、僕自身この|絡《から》みあった不安定な心を抱えたままこの冬をのりきることができるのだろうか?
彼女は頭骨をテーブルの上に置き、いつものように湿った布でほこりを拭きとってから、乾いた布で|磨《みが》いた。僕は頬杖をついたまま彼女の指の動きをじっと|眺《なが》めていた。
「私が何かあなたにしてあげられることはあるかしら?」と彼女はふと顔を上げて言った。
「君はとてもよくしてくれているよ」と僕は言った。
彼女は頭骨を拭いていた手を休めて|椅《い》|子《す》に座り、正面から僕の顔を見た。「私が言っているのはそういうことじゃないの。もっととくべつなこと。たとえばあなたのベッドに入るとか、そんなことね」
僕は首を振った。「いや、君と寝たいわけじゃないんだ。そう言ってくれるのは嬉しいけどね」
「どうして? あなたは私を求めているんでしょう?」
「求めているさ。でも少くとも今は君と寝るわけにはいかないんだ。それは求めるとか求めないというのとはまたべつの問題なんだ」
彼女は少し考えこんでいたが、やがて再びゆっくりと頭骨を磨きはじめた。僕はそのあいだ首を上にあげて、高い天井とそこに|吊《つる》された黄色い電灯を見ていた。たとえどれだけ僕の心がこわばりつこうと、たとえどれだけ冬が僕をしめつけようと、今ここで彼女と寝るわけにはいかないのだ。そんなことをすれば僕の心は今よりずっと混乱してしまうし、僕の喪失感はもっと深まっていくことだろう。おそらく街は僕が彼女と寝ることを望んでいるのだろうという気がした。彼らにとってはその方がずっと僕の心を手に入れやすくなるのだ。
彼女が磨き終えた頭骨を僕の前に置いたが、僕はそれには手を触れずに、テーブルの上にある彼女の手の指を見た。僕はその指から何かの意味を読みとろうとしてみたが、それは不可能だった。それはただの細い十本の指にすぎなかった。
「君のお母さんの話が聞きたいな」と僕は言った。
「お母さんのどんな話?」
「なんでもいいよ」
「そうね――」と彼女はテーブルの上の頭骨に手を触れながら言った。「私はお母さんに対して他の人たちに対してとはべつの気持を持っていたような気がするわ。もちろんずっと昔のことだからうまく思いだせないんだけど、なんだかそんな気がするわ。その気持は父や妹たちに対してとは違っていたんじゃないかってね。どうしてだかはわからないけれど」
「心とはそういうものなんだ。決して均等なものじゃない。川の流れと同じことさ。その地形によって流れのかたちを変える」
彼女は微笑んだ。「そんなのって不公平みたいだけれど」
「そういうものなんだ」と僕は言った。「それに君は今でもお母さんのことが好きなんじゃないの?」
「私にはわからないわ」
彼女は頭骨をテーブルの上でいろんな角度に変えて、それをじっと見ていた。
「質問が|漠《ばく》|然《ぜん》としすぎているのかな?」
「ええ、そうね。たぶんそうだと思うわ」
「じゃあもっとべつの話をしよう」と僕は言った。「君のお母さんはどんなものが好きだったか覚えてるかい?」
「ええ、よく覚えてるわ。太陽、散歩、夏の水遊び、それから獣の相手をするのも好きだったわ。私たちは暖かい日にはずいぶん散歩したものよ。街の人は普通散歩なんてしないものなの。あなたも散歩は好きよね」
「好きだよ」と僕は言った。「太陽も好きだし、水遊びも好きだよ。他には何か思いだせないかな?」
「そうね、母はよく家の中で独りごとを言っていたわ。それが好きなことと言えるのかどうかはしらないけれど、とにかくいつも独りごとを言っていたわ」
「どんなことについて?」
「覚えていないわ。でもそれは普通の意味での独りごとじゃないの。私にはどうもうまく説明できないんだけれど、それはたぶん母にとってはとくべつなことだったみたいね」
「とくべつ?」
「ええ、何かとても奇妙なアクセントで、言葉をのばしたり縮めたりするの。まるで風が吹いているような具合に高くなったり低くなったりして……」
僕は彼女の手の中の頭骨を見ながら、ぼんやりとした記憶の中をもう一度まさぐってみた。今回は何かが僕の心を打った。
「|唄《うた》だ」と僕は言った。
「あなたにもそれを話すことができるの?」
「唄は話すんじゃない。唄うんだ」
「唄ってみて」と彼女は言った。
僕は一度深呼吸をして、何かを唄ってみようとしたが、僕には一曲として唄を思いつくことができなかった。僕の体の中からは|全《すべ》ての唄が失われていた。僕は目を閉じてため息をついた。
「駄目だ。唄を思いつけない」と僕は言った。
「どうすれば思いだせるかしら?」
「レコードとプレイヤーがあればいい。いやそれはたぶん無理だろうな。楽器でもいいよ。楽器があれば音を出しているうちに何かひとつくらい唄を思いつけるかもしれない」
「楽器というのはどんな形をしたものなの?」
「楽器には何百という種類があって、ひとくちには説明できないんだ。種類によって使い方やでてくる音が変ってくる。四人がかりでやっと持ちあがるものから手のひらに載るものまで、大きさも形もみんな違う」
そう言ってしまってから、僕は記憶の糸が自分の中でほんの少しずつではあるけれどほぐれつつあることに気がついた。あるいはものごとは良い方向に向って進みつつあるのかもしれない。
「ひょっとしてこの建物の奥の方にある資料室にそういうものがあるかもしれないわ。資料室とはいっても、今はただ古い時代のがらくたが詰めこんであるだけで、私もちらりとしか見たことはないの。どう、捜してみる?」
「見てみよう」と僕は言った。「どうせ今日はもうこれ以上夢読みをできそうにないしね」
我々は頭骨のずらりと並んだ広い書庫を抜け、べつの廊下に出て、図書館の入口と同じ体裁のくもりガラスの入ったドアを開けた。|真鍮《しんちゅう》のノブにはうっすらとほこりが付着していたが、|鍵《かぎ》はかかっていなかった。彼女が電灯のスウィッチをひねると、黄色く粉っぽい光がその細長い部屋を照らし、床に積みあげられた様々な物体の影を白い壁の上に映しだした。
床にあるもののおおかたはスーツケースか|鞄《かばん》だった。中にはケースに入ったタイプライターやテニス・ラケットのようなものもあったが、それは例外的な存在で、部屋のスペースの大半は大小様々の鞄によって占められていた。おおよそ百はあるだろう。そしてその鞄はどれも宿命的とでもいえそうなほどの量のほこりに覆われていた。それらの鞄がどのような経緯を経てここに|辿《たど》りついたのかはわからなかったが、ひとつひとつ開けてまわるには大変な手間がかかりそうだった。
僕は床にかがんでためしにタイプライター・ケースのふたを開けてみた。白いほこりがまるで|雪崩《な だ れ》の雪煙のように宙に舞った。タイプライターはレジスターのように大きくてキイが丸い、古い型のものだった。長く使いこまれたらしく、ところどころ黒い塗料がはげていた。
「これは何だか知っている?」
「知らないわ」と彼女は|僕《ぼく》のわきに立って腕ぐみしながら言った。「見たことのないものね。それが楽器?」
「いや、タイプライターだ。字を印刷するものさ。とても古いもんだな」
僕はタイプライター・ケースのふたを閉めてもとに戻し、今度はとなりにあった|籐《とう》のバスケットを開けてみた。バスケットの中にはピクニックのセットが入っていた。ナイフとフォーク、|皿《さら》とカップ、そして変色して黄ばんでしまった白いナプキンが一セット、きちんと整理されて詰められていた。これも古い時代のものだ。アルミニウムの皿やペーパー・カップが登場してからは|誰《だれ》もこんなものは持ち歩かない。
豚皮の大きな旅行鞄の中には主に衣類が入っていた。スーツ、シャツ、ネクタイ、|靴《くつ》|下《した》、下着――おおかたのものは虫に|喰《く》い荒らされて見る影もない。服のあいだに洗面用具入れとウィスキーを入れるための平たい水筒があった。歯ブラシも|髭《ひげ》|剃《そ》りブラシも硬くこわばりつき、水筒のふたを開けても何の|臭《にお》いもしなかった。それ以外には何もない。本もノートも手帳もない。
僕がいくつか開けてみたスーツケースや旅行鞄の中身はだいたいこれと同じようなものだった。衣類と最少限の雑貨――それはひどく急いで気まぐれに詰めこまれた旅仕度のようだった。それぞれには旅行をする人間が普通身につけているはずの何かが欠けていて、それが見るものにどことなく不自然な印象を与えるのだ。誰もが衣類と洗面用具しか持たずに旅行にでかけるわけではない。要するに、鞄の中にはその所有者の|人《ひと》|柄《がら》や生活を感じさせるようなものがひとつとして見当らないのだ。
洋服もどちらかといえばありきたりのものばかりだった。とりたてて高級なものもなく、とくにみすぼらしいものもない。それぞれに時代や季節や男女、年齢による種類やスタイルの差こそあれ、そこにはとくに印象に残るものは見受けられなかった。臭いまでがほとんど同じだ。大抵は虫に喰われている。そしてどの服にもネームはついていなかった。まるで誰かの手でひとつひとつの荷物からそれぞれの名前や個人性が丹念にはぎとられてしまったようだった。あとに残っているのは、それぞれの時代が必然的に産出する名前のないおり[#「おり」に丸傍点]のようなものにすぎなかった。
僕は五つか六つスーツケースや鞄を開けてみたが、あとはあきらめてやめた。ほこりがあまりにもひどすぎたし、そんな鞄のどれかに楽器が入っているとはどうしても思えなかったからだ。もし楽器がこの街のどこかにあるとしても、それはここではなくまったく違った場所であるような気がした。
「ここは出よう」と僕は言った。「ほこりがひどくて目が痛くなってくる」
「楽器がみつからなくてがっかりした?」
「そうだね。でもまたどこかべつのところを探してみるさ」と僕は言った。
彼女と別れて西の丘を一人で上っていると、うしろから強い季節風がまるで僕を追いこすように吹きあげ、林の中で空を裂くような鋭い音を上げた。振りかえると半分近くまで欠けた月が、時計塔の上にぽつんと浮かび、そのまわりを厚い雲のかたまりが流れていた。月明りで見る川の水面はまるでタールでも流したように黒々としていた。
僕はふと資料室のトランクの中でみつけたあたたかそうなマフラーのことを思いだした。虫の喰ったあとがいくつか大きな穴になって残っていたが、何重かに巻けば十分寒さはしのげそうだった。門番に|訊《き》けばいろんなことがわかるだろうと僕は思った。あの荷物の所有者が誰で、その中のものを僕が使っていいかどうかということがだ。マフラーなしで風の中に立つと、耳がナイフで切り裂かれるように痛むのだ。明日の朝門番に会いにいくことにしよう。僕の影がどうしているかも知る必要がある。
僕は再び街に背を向け、官舎に向けて凍りついた坂道を上った。
23 ハードボイルド・ワンダーランド
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――穴、|蛭《ひる》、塔――
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「地震なんかじゃないわ」と彼女は言った。「地震よりずっとひどいものよ」
「たとえばどんな?」
彼女は何かを言おうとして一瞬息を吸いこんだが、すぐにあきらめて首を振った。
「今はちょっと説明している暇はないわ。とにかく思いきり前に走って。それしか助かる道はないのよ。おなかの傷は少し痛むかもしれないけど、死ぬよりはましでしょ?」
「たぶんね」と私は言った。
我々はロープでお互いの体をつなぎあわせたまま、全速力で|溝《みぞ》の中を前方にむけて走った。彼女が手にしたライトが彼女の歩調にあわせて大きく上下に揺れ、溝の両側に切りたったまっすぐな高い壁に折れ線グラフのようなぎざぎざの模様を描いた。私の背中ではナップザックの中身ががらがらと音を立てて揺れていた。|缶《かん》|詰《づめ》や水筒やウィスキーの|瓶《びん》や、そんないろいろなものだ。できることなら必要なものだけ残してあとはぜんぶ|放《ほう》りだしてしまいたかったが、立ち止まる余裕はとてもなかった。私は腹の傷の痛みについて思いを巡らす暇すらなく、彼女のあとについてひたすら走りつづけた。ロープで体をつなぎあわせている以上、私の方だけ適当にスピードを緩めるというわけにはいかないのだ。彼女の吐く息の音と私のナップザックの揺れる音が細長く切りこまれた|闇《やみ》の中に規則ただしく響きわたり、やがてそれにかぶさるように地鳴りの音が高まってきた。
我々が前に進むにつれて、その音はより大きく、より明確になってきた。我々が音源に向って一直線に突き進んでいることと、音量自体が少しずつ巨大化していることがその原因だった。はじめのうち地の底の地鳴りのように思えたその音は、やがては巨大な|喉《のど》から|洩《も》れる激しいあえぎのようなものに変った。肺からしぼりだされた大量の息が喉の奥で声にならない声にかわるときのあの音だ。そしてそれを追いかけるように固い岩盤が|軋《きし》むような音が続き、地面が不規則に震えはじめた。何かはわからないが、我々の足もとで不吉なことが進行しつつあり、それは今にも我々を|呑《の》みこもうとしているのだ。
その音源に向って走りつづけるのは身のすくむ思いだったが、娘がそちらの方向を選んだ以上、私には|選《え》りごのみすることはできなかった。とにかく行けるところまで行ってしまうしかないのだ。
幸いなことに道には曲り角もなければ障害物もなく、路面はボウリング・レーンのように平らだったので、我々は余計なことに気を使わずに走りつづけることができた。
あえぎは徐々に間隔を狭めていった。それは激しく地底の闇を揺さぶりながら、ある宿命的なポイントに向って突き進んでいるようだった。ときおり巨大な岩と岩が圧倒的な力で押しつけられてこすりあわされるような音も聞こえた。闇の中に押しこめられていたありとあらゆる力が身もだえしながらそのくびきをはずそうと苦闘しているかのようだった。
音はひとしきりつづいたあとで突然とまった。一瞬の間があり、そのあとに何千人もの老人があつまってみんなで歯のすきまから息を吸いこんでいるような奇妙なざわめきがあたりに|充《み》ちた。その|他《ほか》には何の音も聞こえない。地鳴りも、あえぎも、岩のこすれあう音も、岩盤の軋みも、すべてがやんでいた。ひゅうひゅうひゅう[#「ひゅうひゅうひゅう」に丸傍点]というその耳ざわりな空気音だけが暗黒の闇の中に鳴り響いていた。それはまるで獲物がもっとそばに近づくのを力をたくわえながらじっと待ち受けている獣のひそやかな歓喜の吐息のようにも聞こえたし、無数の地底の虫が何かの予感に駆られてその不気味な体を|手《て》|風《ふう》|琴《きん》のように伸縮させているみたいにも聞こえた。いずれにせよ、それは私がこれまでに耳にしたこともないほどの激しい悪意に充ちたおぞましい音だった。
私がその音についていちばんおぞましく思ったことは、それが我々二人を拒否するというよりは手招きしているように感じられたことだった。彼らは我々が近づいていることを知っていて、その喜びに邪悪な心を震わせているのだ。そう思うと、私は走りながら背筋が凍りついてしまうような恐怖を感じた。たしかにそれは地震なんかではなかった。彼女が言うように、地震よりもっとずっとおそろしいものなのだ。しかしそれが何であるのか私には見当もつかなかった。状況はずっと以前から私の想像力の領域を超え、いわば意識の辺境へと至っていた。私にはもう何も想像することはできなかった。ただ能力の極限にまで肉体を行使し、想像力と状況のあいだに横たわる深い底なしの溝をひとつひとつ跳び越えていくしかなかった。何もしないよりは何かをしつづける方がずっとましなのだ。
ずいぶん長いあいだ我々は走りつづけたような気がするが、正確なところはわからない。それは三、四分程度のものだったような気もするし、三十分か四十分だったかもしれない。恐怖とそれのもたらす混乱が私の肉体の中の正常な時間の感覚を|麻《ま》|痺《ひ》させていた。どれだけ走っても、私は疲労感を覚えなかったし、腹の傷の痛みは既に意識の|隅《すみ》にものぼらないようになっていた。両手の|肘《ひじ》が妙にこわばりついているような気がしたが、私が走りながら感じることのできた肉体的な感覚はそれだけだった。走りつづけているという意識さえ私の中にはほとんどと言っていいほど存在しなかった。脚はごく自然に前に踏み出され、それが地面を|蹴《け》った。私はまるで濃密な空気のかたまりに背後から押しだされるように前方へ前方へと走りつづけた。
そのときの私にはわからなかったのだけれど、私の両肘のこわばりは耳から派生していたものなのだと思う。私はそのおぞましい空気音に意識を傾けまいとしてごく自然に耳の筋肉を緊張させ、それがこわばりとなって肩から肘へとつづいていたのだ。そのことに気がついたのは私の体が彼女の肩に激突し、彼女を地面に押し倒し、その上を乗り越えるようにして前方に転がったときだった。彼女が大声で叫んだ警告を私の耳は聴きとることができなかったのだ。たしかに何かが聴こえたような気はしたのだが、私は耳の聴きとる物理的な音声とそこから何かしらの意味をよみとって認識する能力とのあいだをつなぐ回路にふたをしていたので、彼女の警告を警告として認識することができなかったのだ。
私が硬い地面に頭からぶつかるように放り出された一瞬に考えついたのはまずそのことだった。私は無意識のうちに聴力を調節していたのだ。これはなんだかまるで「音抜き」みたいじゃないか、と私は思った。極限状態に追いこまれると、人間の意識というものは様々な奇妙な能力を発揮するものらしかった。あるいは私は少しずつ進化に近づいているのかもしれない。
次に――というより正確に表現するならそれにオーバーラップするようにということになるが――私が感じたのは圧倒的とでもいうべき側頭部の痛みだった。私の目の前で暗闇がはじけるように飛び散り、時間が歩みをとめ、その時空の|歪《ゆが》みに私の体がねじこまれてしまったような気がした。それほどの激しい痛みだった。頭の骨が割れるか欠けるかへこむかしてしまったに違いないと私は思った。あるいは私の|脳《のう》|味《み》|噌《そ》がどこかに吹きとんでしまったのだ。それで私自身はもう既に死んでいるのに、私の意識だけが寸断された記憶に従ってとかげの|尻《しっ》|尾《ぽ》みたいに苦痛に|悶《もだ》えているのだ。
しかしその一瞬が過ぎてしまうと、私は自分が生きていることをきちんと認識することができた。私は生きて呼吸をつづけ、その結果として頭部にすさまじい痛みを感じることができるのだ。私の目からは涙がこぼれていて、|頬《ほお》を|濡《ぬ》らすのが感じられた。涙は頬をつたって硬い岩盤の上に落ち、|唇《くちびる》の端にも流れてきた。これほどひどく頭を打ったのは生まれてはじめてのことだった。
私はよほどそのまま気を失ってしまおうかと思ったが、何かが私をその苦痛と暗黒の世界につなぎとめた。それは私が何かをやりかけている途中だったというぼんやりとした記憶の切れはしだった。そう――私は何かをやりかけていたのだ。私は走っていて、その途中でつまずいて転倒したのだ。私は何かから逃げようとしていたのだ。私はここで眠りこんでしまうわけにはいかないのだ。記憶はみじめなくらい|漠《ばく》|然《ぜん》としたぼろぼろの切れはしだったが、私は全身の力をこめてその切れはしに両手でしがみついた。
私は本当にそれにしがみついていたのだ。しかしやがて意識が回復するにつれて、しがみついているものが単なる記憶の切れはしではないことに私は気づいた。私はナイロンのロープにしっかりとしがみついていたのだ。一瞬自分が風に吹かれる重い|洗《せん》|濯《たく》ものになったような気がした。風や重力やその他のあらゆる力が私を地面に|叩《たた》き落とそうとしているのに抗して、自らの洗濯ものとしての使命を果すべく努力しているのだ、と私は思った。どうしてそんなことを思いついたのか、自分でもよくわからなかった。たぶん自分の置かれた状況を様様な便宜的な形に置きかえる癖が身についてしまったからだろう。
その次に私が感じたのは、私の下半身が私の上半身とはかなり違った状況に置かれているという事実だった。正確に言うと、私の下半身にはほとんど何の感触もないのだ。私は自分の上半身の感触をそれなりにきちんと統御することができるようになっていた。私の頭は痛み、私の頬と唇は冷たく硬い岩盤に押しつけられ、私の両手はしっかりとロープをつかみ、私の胃は喉のあたりまで上昇し、私の胸は何かのでっぱりのようなものにひっかかっていた。そこまではわかるのだが、それから下の体がいったいどうなっているのか、私にはまるで見当もつかなかった。
私の下半身はもうなくなっているのかもしれない、と私は思った。地面に投げ出されたショックでちょうど傷口のあたりから私の体はふたつにちぎれ、下半身がどこかに吹きとんでしまったのだ。私の脚――と私は思った――私の|爪《つま》|先《さき》、私の腹、私のペニス、私の|睾《こう》|丸《がん》、私の……、しかしどう考えてみてもそれは不自然だった。下半身を全部|失《な》くしていたとしたら、私の感じる痛みはこの程度で済むわけがないのだ。
私はもっと冷静に状況を認識するべく試みることにした。私の下半身はちゃんと存在するのだ。それはただ何かを感じることのできない状況下にあるだけなのだ。私はしっかりと目を閉じて波のようにあとからあとから押し寄せてくる頭の痛みをやりすごし、神経を下半身に集中した。存在しないかのように感じられる下半身に神経を集中しようとする努力は、なんだか|勃《ぼっ》|起《き》しないペニスを勃起させようとする努力に似ているような気がした。それは何もない空間に力を押しこめているようなものなのだ。
私はそうしながら図書館で働いている髪の長い胃拡張の女の子のことを考えていた。やれやれ、なんだって私は彼女とベッドに入ったときにうまく勃起することができなかったのだろう、と私はまた思った。あのあたりからすべての調子が狂いはじめたのだ。しかしいつまでもそんなことを考えているわけにもいかなかった。ペニスを有効に勃起させることだけが人生の目的ではないのだ。それはずっと昔にスタンダールの『パルムの僧院』を読んだときに私が感じたことでもあった。私は勃起のことを頭の中から追い払った。
私の下半身は何かしら中途|半《はん》|端《ぱ》な状況に置かれているのだ、と私は認識した。たとえば宙ぶらりになっているような……そう、私の下半身は岩盤の向う側の空間にぶらさがり、私の上半身がそれが落下するのをかろうじて阻止しているのだ。そして私の両手はそのためにしっかりとロープを握りしめているのだ。
目を開けるとまぶしいライトの光が私に向けられているのがわかった。太った娘がライトで私の顔を照らしているのだ。
私はロープをつかんだ手に思いきり力をこめて、下半身を岩盤の上にのせようと努力した。
「早く」と娘がどなった。「早くしないと二人とも死んじゃうわよ」
私は足をなんとか岩盤の上にかけようと試みたが、それは思ったようにうまくいかなかった。足をのせようにも、ひっかかりというものがないのだ。しかたなく私は手に持っていたロープを思いきって離し、両肘をしっかりと地面につけ懸垂の要領で体全体を上方にひきあげることにした。体はいやに重く、地面は血で濡れたみたいに妙にぬるぬるとしていた。どうしてぬるぬるとしているのかわからなかったが、そんなことを気にするほどの余裕もなかった。腹の傷が岩のかどで擦れて、まるでもう一度あらためてナイフで裂きなおされているような痛みを感じた。|誰《だれ》かが|靴《くつ》の底で私の体を思いきり踏みつけているみたいだった。私の体と私の意識と私の存在を、粉々になるまで踏みつぶそうとしているのだ。
それでもなんとか私は自分の体を一センチずつ上に引きあげることに成功しているようだった。ベルトが岩盤の端を|捉《とら》え、それと同時にベルトに結ばれたナイロンのロープが私の体を前方にひっぱろうとしているのが|判《わか》った。しかしそれは現実的には私の作業を助けているというよりは、腹の傷を刺激して私の意識の集中を妨げていた。
「ロープをひっぱるな!」と私は光のやってくる方に向ってどなった。「なんとか自分でやるから、もうロープはひっぱらないでくれ」
「大丈夫?」
「大丈夫さ。なんとかなる」
私はベルトのバックルで岩盤の端を捉えたまま全身の力をふりしぼって片足を上に持ちあげ、そのわけのわからない暗黒の穴から脱出することに成功した。私が無事に穴から|脱《ぬ》け出したことを確かめてから、彼女は私のそばにやってきて、私の体の各部がちゃんとついているかどうか確認するように私の体に手をまわした。
「ひっぱりあげてあげられなくてごめんなさい」と彼女は言った。「二人とも下に落っこちてしまわないように、そこの岩にしがみついているのが精いっぱいだったものだから」
「それはいいけど、どうしてこんな穴があることを前もって教えといてくれなかったんだ?」
「教える暇がなかったのよ。だから|停《と》まってって大きな声でどなったでしょ」
「聞こえなかった」と私は言った。
「とにかく一刻も早くここを抜けなきゃ」と娘は言った。「ここには沢山穴があるから、注意してここを通り抜けるの。そうすれば目的地はもうすぐだから。でも早くしないと血を吸いとられてそのまま眠りこんで死んでしまうわよ」
「血?」
彼女はさっき私が|危《あやう》く落下しそうになった穴にライトをあてた。穴はまるでコンパスを使って描いたような|綺《き》|麗《れい》な円形で、直径は約一メートルというところだった。彼女がライトをまわすと、それと同じような大きさの穴が地面に見渡す限り並んでいることがわかった。その格好は巨大な|蜂《はち》の巣を思わせた。
道の両側にずっとつづいていた切り立った岩の壁はすっぱりと消滅し、前方にはその無数の穴の開いた平面が広がっていた。穴と穴のあいだを縫うように、地面がつづいていた。いちばん広いところで幅一メートル、狭いところでは三十センチほどのあぶなっかしい通路だったが、注意さえすればなんとか渡っていくことはできそうに見えた。
問題はその地面が揺れて見えることだった。それは奇妙な|眺《なが》めだった。しっかりとしているはずの硬い岩盤が、まるで流砂のようにくねくねと身をよじらせているみたいに見えるのだ。最初私は自分が頭を強く打ったせいで目の神経がおかしくなってしまったのだと思った。それで懐中電灯の光で自分の手を照らしてみたのだが、手は揺れもせず、よじれてもいなかった。それはいつもどおりの私の手だった。とすれば私の神経が損なわれているというわけではないのだ。本当に地面が動いているのだ。
「|蛭《ひる》よ」と彼女は言った。「穴から蛭の大群が|這《は》いあがってきたのよ。ぐずぐずしていると血をぜんぶ吸いとられて抜けがらみたいになっちゃうわよ」
「やれやれ」と私は言った。「これが君の言っていた大変なこと[#「大変なこと」に丸傍点]なのかい?」
「違うわ。蛭はただの先ぶれにすぎないのよ。本当に|凄《すご》いことはこのあとにやってくるの。急いで」
我々は体をロープで結びあわせたまま、蛭だらけの岩盤の上に足を踏みだした。テニス・シューズのゴム底が無数の蛭を踏みつけるぬるぬるとした感触が脚から背中へと這いあがってきた。
「足を踏みはずさないでね。この穴に落ちたら最後よ。この中には蛭の大群がそれこそ海みたいにたまっているから」と彼女は言った。
彼女は私の肘をしっかりとつかみ、私は彼女のジャケットの|裾《すそ》を手に握りしめていた。幅三十センチほどしかないぬるぬるとして滑りやすい岩盤の上を暗闇の中で|辿《たど》っていくのは実に至難の業だった。踏みつぶした蛭のどろどろとした体液が靴の裏にゼリーのようにぶ厚くこびりついて、そのせいで足場をしっかりと固めることができないのだ。さっき転倒したときに服についたらしい蛭が首筋や耳のまわりにはりついて血を吸うのがはっきりと感じられたが、私にはそれを振り払うこともできなかった。私は左手で懐中電灯を握りしめ、右手で彼女の服の裾をつかんでいたし、どちらの手をも離すわけにはいかないのだ。懐中電灯で足場をたしかめながら歩いていると、いやでも蛭の群をじっと眺めることになった。そこには気が遠くなりそうなほどの数の蛭がいた。そしてそんな蛭の群があとからあとから、暗黒の穴を這いあがってくるのだ。
「きっとやみくろたちはその昔いけにえをこの穴にほうりこんだんだろうね」と私は娘にたずねてみた。
「そのとおりよ。よくわかるわね」と彼女は言った。
「その程度の見当はつくさ」と私は言った。
「蛭はあの魚の使者だと思われていたのよ。要するに手下のようなものね。だから彼らは魚にいけにえを|捧《ささ》げるように、蛭にもいけにえを捧げていたの。血や肉のたっぷりとついた新鮮ないけにえをね。だいたいはどこかで捕えられてつれてこられた地上の人間がいけにえにされたんだけど」
「今ではその風習はなくなったんだろうね?」
「ええ、たぶんね。彼らは人間の肉は自分で食べて、いけにえのしるしとして頭だけを切りとって蛭と魚に捧げるようになったんだと祖父は言っていたわ。少くともこの場所が聖域になってからは、誰もここには入ってこなくなったの」
我々はいくつもの穴を越え、おそらく何万という数のぬるぬるとした蛭を靴で踏みつぶした。私も彼女も何度か足を踏みはずしそうになったが、そのたびに我々はお互いの体を支えてなんとか難をしのぐことができた。
ひゅうひゅうというあのいやな空気音は暗い穴の底の方から|湧《わ》きあがってくるようだった。それは夜の樹木のように穴の底から触手をのばし、我々のまわりを完全にとりかこんでいた。耳をじっと澄ませると、それはひょおうひょおう[#「ひょおうひょおう」に丸傍点]という音に聞こえた。まるで首を切りとられた人々の群がぽっかりと開いた|喉《のど》|笛《ぶえ》を鳴らしながら何かを訴えかけているようだ。
「水が近づいているのよ」と彼女は言った。「蛭はその先ぶれにすぎないの。蛭がどこかに姿を消してしまったら、その次には水がやってくるわ。この穴のぜんぶから今に水が吹きだしてきて、このあたり一帯は沼になってしまうの。蛭はそれを知っているから穴から抜け出そうとしているわけ。水の来る前になんとか祭壇にたどりつくのよ」
「君はそのことを知っていたんだろう?」と私は言った。「どうして前もってそれを教えておいてくれなかったんだ?」
「実をいうと私にもはっきりとはわからなかったの。水は毎日出るってわけじゃなくて、一カ月に二回か三回っていうところなの。まさかよりによって今日がその日だったなんてね」
「悪いことはかさなるものなんだよ」と私は朝からずっと考えていたことを口に出した。
穴の縁から穴の縁へと、細心の注意を払いながら我々は前進をつづけた。しかし歩いても歩いても、その穴は終らなかった。地の果てまでそれは延々とつづいているのかもしれない。靴の裏にはもうほとんど足で地面を踏む感触がなくなるくらいにたっぷりと蛭の|死《し》|骸《がい》がこびりついていた。一歩一歩に神経を集中していると頭の|芯《しん》がぼんやりとして、体のバランスをとるのがだんだんむずかしくなってくる。肉体の能力は極限状態にあっては往々にして伸長されるものだが、精神の集中力というものは本人が考えているよりはずっと限定されたものなのだ。それがどのような危機的な状況であろうと、同じ質の状況が延々とつづけば、それに対する集中力は必然的に低下しはじめる。時間が経過するにつれて危機に対する具体的な認識や死に対する想像力も鈍り、意識の中の空白が目立つようになってくる。
「もう少しよ」と娘が私に声をかけた。「もう少しで安全な場所に逃げこめるわ」
私は声を出すのが|億《おっ》|劫《くう》だったので、何も言わずに|肯《うなず》いた。そして肯いてから、|暗《くら》|闇《やみ》の中で肯いても何の意味もないことに気づいた。
「ちゃんと聞こえてる? 大丈夫?」
「大丈夫。吐き気がするだけなんだ」と私は答えた。
吐き気はずいぶん前からつづいていた。地面にうごめく蛭の群や、彼らの放つ異臭や、ぬるぬるとした体液や、不気味な空気音や、暗闇や、体の疲れや眠りへの欲望や、そんなものが|渾《こん》|然《ぜん》一体となって、私の胃を鉄の輪のように締めつけていた。むかむかとした|臭《にお》いのする胃液が舌のつけねのあたりまであがってきていた。私の神経の集中力はどうやらその限界に近づきつつあるようだった。三オクターブぶんしかキイがなくて、五年も調律をしていないピアノを弾いているような気分だった。|俺《おれ》はいったいもう何時間この暗闇を歩きまわっているんだろう、と私は思った。外の世界は今何時なのだろう? 空はもう白んでいるのだろうか? 朝刊は配りはじめられているのだろうか?
私には時計に目をやることすらできなかった。懐中電灯で地面を照らしながら両足を片方ずつ前に送っていくだけで精いっぱいだった。私は少しずつ白んでいく夜明けの空が見たかった。そしてあたたかいミルクを飲み、朝の樹木の|匂《にお》いをかぎ、朝刊のページをめくるのだ。暗闇や蛭や穴ややみくろはもううんざりだった。私の体の中のすべての臓器と筋肉と細胞は光を求めていた。どんなにささやかな光でもいい。どんなみじめな切れはしでもいいから懐中電灯の光なんかじゃないまともな光が見たかった。
光のことを考えると私の胃は何かに握りしめられたように縮みあがり、口の中が|嫌《いや》な臭いのする息で|充《み》ちた。まるで腐ったサラミ・ピツァのような臭いだ。
「ここを抜ければ好きなだけ吐かせてあげるから、もう少し我慢して」と娘が言った。そして私の肘を強く握りしめた。
「吐かないよ」と私は口の中でうめいた。
「信じなさい」と彼女は言った。「これはみんな過ぎていくことなのよ。悪いことはかさなるものかもしれないけれど、いつかは終ることなのよ。永遠につづくことじゃないわ」
「信じるよ」と私は答えた。
しかしその穴は永遠につづくように私には思えた。まるで同じところをぐるぐるとまわっているような気さえする。私はもう一度刷りたての朝刊のことを考えた。指にインクのあとがついてしまいそうなほど新しい朝刊だ。中に折り込みの広告が入っていて、とてもぶ厚い。朝刊には何もかもが載っている。地上の生命の営みについての何もかもだ。首相の起床時間から株式市況から一家心中から夜食の作り方、スカートの丈の長さ、レコード評、不動産広告に至るまでの何もかもである。
問題は私が新聞をとっていないことだった。私は三年ほど前に新聞を読む習慣をやめてしまったのだ。どうして新聞を読まなくなってしまったのか自分でもよくわからないが、とにかくやめてしまったのだ。たぶん私の生活が新聞記事やTVの番組とは無縁の領域で進行していたせいだろう。私は与えられた数字を頭の中でこねくりまわして別の姿に転換させるという部分だけで世間とかかわり、あとの時間は一人で古くさい小説を読んだり、昔のハリウッド映画をヴィデオで|観《み》たり、ビールやウィスキーを飲んだりして過してきた。だから新聞や雑誌に目をとおす必要というものがなかったのだ。
しかしこの光を失ったわけのわからない暗闇の中で、無数の穴と無数の蛭に囲まれて、私はひどく朝刊が読みたかった。日のあたる場所に腰を下ろして、新聞を|隅《すみ》から隅まで|猫《ねこ》がミルクの|皿《さら》を|舐《な》めるみたいに一字残らず読みつくすのだ。そして太陽の下で世界の人々が営みつづける生の様々な断片を体の中に吸い込み、細胞のひとつひとつをうるおわせてやるのだ。
「祭壇が見えてきたわ」と彼女が言った。
私は目を上げようとしたが、足が滑ってうまく顔を上にあげることができなかった。祭壇がどんな色をしてどんな形をしていようが、とにかくそこに|辿《たど》りつかないことには話にならないのだ。私は最後に残った集中力を結集して注意深く歩を進めた。
「あと十メートルかそこらよ」と娘が言った。
ちょうどその彼女のことばにあわせるように穴の底から吹き上ってくるひょおうひょおう[#「ひょおうひょおう」に丸傍点]という空気音が消えた。それはまるで地面の底にいる誰かがよく切れる巨大ななた[#「なた」に丸傍点]をふるってその音源を一刀のもとに断ち切ったような、不自然で唐突な終り方だった。何の前ぶれもなく、何の余韻もなく、長いあいだ地を圧するかのごとく地の底から吹きあげていた耳ざわりな空気音は一瞬のうちにかき消えてしまったのだ。それは音が消えるというよりは、その音を含んでいた空間自体がすっぽりと消滅してしまったような感じだった。その消え方があまり唐突だったせいで、私は一瞬体のバランスを崩し、危く足をすべらせてしまうところだった。
耳が痛くなってしまいそうなほどの静寂があたりを|覆《おお》った。暗黒の中に突然出現した静寂はどのような不快で不気味な音にもまして不吉だった。音に対しては、それがどのような音であれ、我々は相対的な立場を保つことができる。しかし沈黙はゼロであり、無である。それは我々をとりかこみながら、しかもそれは存在しないのだ。私の耳の中に空気の圧力が変化するときのような|漠《ばく》|然《ぜん》とした圧迫感が生じた。私の耳の筋肉が突然の状況の変化にうまく対応できず、その能力のパワーを上げて、沈黙の中に何かしらの信号を読みとろうとしているのだ。
しかしその沈黙は完全だった。音は一度途切れたきり、二度とは浮かびあがってこなかった。私も彼女もそのままの姿勢で静止し、沈黙の中に耳を澄ませた。私は耳の圧迫感をとるために口の中の|唾《つば》を|呑《の》みこんでみたが、あまり効果はなく、プレイヤーの針をターンテーブルのかどにぶっつけたときのような不自然に誇張された音が耳の中に響きわたっただけだった。
「水は引いてしまったのかな?」と私は|訊《き》いてみた。
「これから水が吹き出すのよ」と娘は言った。「さっきの空気音は曲りくねった水路にたまった空気が水圧で押し出される音よ。それがぜんぶ押しだされちゃったから、あとは水を妨げるものは何もないわ」
娘は私の手をとって、最後のいくつかの穴を越えた。気のせいか岩盤の上を移動する蛭の数は以前よりいくぶん少なくなっているような気がした。五つか六つの穴を越えたところで我々は再びがらんとした平地の上に出た。そこにはもう穴もなく、蛭の姿もなかった。蛭たちは我々とは逆の方向に避難したらしかった。私はなんとか最悪の部分をのりきることができたのだ。たとえここで出水に襲われて死んでしまうにせよ、蛭の穴に落ちて死ぬよりはずっとましだ。
私は|殆《ほと》んど無意識のうちに手をのばして首筋にはりついた蛭をはがそうとしたが、娘が私の腕をつかんでそれを止めた。
「それはあと。先に塔に上らなきゃ|溺《おぼ》れ死ぬわよ」と彼女は言って、私の腕をとったまま急ぎ足で先に進んだ。「五匹や六匹の蛭くらいで死にはしないし、それに蛭を無理にもぎとったら皮膚まではがれちゃうわ。知らないの?」
「知らなかった」と私は言った。私は水路標識灯の底についたおもり[#「おもり」に丸傍点]のように暗く愚かなのだ。
二十歩か三十歩進んだところで彼女は私を押しとどめ、手にした大型ライトで我々の眼前にそびえたった巨大な〈塔〉を照らしだした。〈塔〉はのっぺりとした円筒形で、一直線に頭上の闇に向ってそびえたっていた。それはちょうど灯台と同じように基部から上部に向けて少しずつ細くなっているように見えたが、実際にどの程度の高さのものなのかは私にはわからなかった。隅から隅までライトをあてて全体の構造を|把《は》|握《あく》するにはそれはあまりにも大きすぎたし、我々には確かめるに十分な時間の余裕はなかった。彼女は〈塔〉の表面にざっと光をすべらせただけで、あとは何も言わずにそこまで走りより、〈塔〉のわきについた階段のようなものをつたって上にのぼりはじめた。もちろん私もあわててそのあとを追った。
その〈塔〉は少し離れたところから不十分な光で見るぶんには、人々が長い年月と驚嘆すべき技巧をかけて築きあげた|精《せい》|緻《ち》かつ壮麗なモニュメントのように思えるのだが、実際にそばに寄って手を触れてみると、ごつごつとしていびつなただの岩塊にすぎないことがわかった。自然の|浸蝕《しんしょく》作用が作りあげたただの偶然の所産にすぎないのだ。
やみくろたちがその岩塊のまわりにねじ山のようにらせん状に刻みこんだ階段も、階段と呼ぶにはいささかやくざすぎる|代《しろ》|物《もの》だった。|不《ふ》|揃《ぞろ》いで不規則で、やっと片足を置けるほどの幅しかなく、ときどき一段ぶんなくなっていたりもした。欠けているぶんは手近な岩のでっぱりに足をかけて代用するわけだが、我々は転落しないように両手で岩をつかんで体を支えていなければならなかったから、懐中電灯の光をあてていちいち階段の次のステップを確認することもできず、踏み出した足が何も足場を|捉《とら》えずにそのまま下につき抜けてしまいそうになることもしばしばであった。暗闇でも目の|利《き》くやみくろたちはともかく、我々にとってはおそろしく|厄《やっ》|介《かい》で不便な代物である。岩壁にぴったりとはりつきながら、一歩また一歩と我々はとかげのように注意深く歩をすすめなくてはならなかった。
三十六段のぼったところで――私には階段の段数を数える癖があるのだ――足もとの闇の中で奇妙な音が響きわたるのが聞こえた。まるで|誰《だれ》かが巨大なロースト・ビーフをのっぺりとした壁に思いきり投げつけたときの音のようだった。|扁《へん》|平《ぺい》で湿り気があって、しかも有無を言わせぬ決意のようなものがこめられた音。そしてそれから、ドラマーが振り下ろそうとしたスティックを宙でとめて一拍置くような|暫《ざん》|定《てい》|的《てき》とも言えそうなかんじの一瞬の沈黙があった。いやにしん[#「しん」に丸傍点]とした不気味な一瞬だった。私は何かがやってくるのを待って、両手でしっかりと手もとの岩のでっぱりをつかんで、岩壁にしがみついた。
次にやってきたのは紛れもない水音だった。我々が通り抜けてきた無数の穴から上にむけて水が|一《いっ》|斉《せい》に吹きあげる音だった。それも生半可な量の水ではない。私は小学生の|頃《ころ》にニュース映画で見たダムの開通式の場面を思いだした。知事だかなんだかがヘルメット姿で機械のボタンを押すと水門が開き、水煙と|轟《ごう》|音《おん》とともに、|遥《はる》かなる|虚《こ》|空《くう》にむけて太い水の柱が吹きだすのだ。まだ映画館でニュース映画と漫画映画が上映されていた頃の話だ。私はそのニュース・フィルムを見ながら、もし自分が何かの理由でその圧倒的な量の水を吹きだすダムの下にいたとしたらどんなことになるものかと想像して子供心にぞっとしたものである。しかしそれから約四半世紀の歳月を経て、実際に自分がそういう立場に置かれることになるかもしれないなんてなかなか思いつくものではない。子供というものは自分が世間に起りうる大抵の種類の|災《さい》|厄《やく》からある種の神聖な力によって最終的には保護されていると考えがちなものなのだ。少くとも私の子供時代はそうだった。
「いったいどのあたりまで水は上ってくるんだろう?」と私は私の二歩か三歩上にいる娘に声をかけてみた。
「かなり[#「かなり」に丸傍点]よ」と彼女は手短かに答えた。「助かりたければ少しでも上に行くしかないわ。とにかくいちばん上までは水は来ないわ。私にわかっているのはそれだけ」
「いちばん上までは何段くらいあるんだろうね?」
「ずいぶん[#「ずいぶん」に丸傍点]よ」と彼女は答えた。立派な答だ。想像力に訴えてくる何かがある。
我々は可能なかぎりのスピードで〈塔〉のねじ山を上りつづけた。水の音からすると、我我のしがみついているその〈塔〉はがらんとした平面のまん中に直立していて、そのまわりをぐるりと蛭穴がとりまいているようだった。とすると、我々はちょうど巨大な噴水の中央に建てられた装飾的な棒のようなものを上へ上へとのぼりつめていることになる。そして彼女の説が正しければ、その広場のようながらんとした空間は沼のように水びたしになり、その水面のまん中に〈塔〉の上半分だか先端だかが島としてとり残されることになるのだ。
ストラップで肩からかけた彼女のライトが腰の上で不規則に揺れ、その光線が闇の中に|出《で》|鱈《たら》|目《め》な図形を描きだしていた。私はその光を目標に階段を上りつづけた。ステップの数は途中でわからなくなってしまったが、とにかく百五十か二百は上ったはずだった。最初のうち足もとの岩盤を|叩《たた》きつける激しい音を立てて空中から落下していた水はやがて|滝《たき》|壺《つぼ》に落下する水流のような音に変り、そのころにはもうふたをかぶせられたようなごぼごぼというくぐもった音に変化していた。水位は確実に上昇しているのだ。足もとが見えないせいで、水面がどのあたりまで来ているのかはわからなかったが、今この瞬間にひやりとした水が私の足首を洗ったとしても何の不思議もないような気がした。
何から何までが悪い気分のときに見る悪い気分のする夢に似ていた。何かが私を追いかけているのだが、私の足はうまく前に進まず、その何かは私のすぐうしろにまで迫っていて、私の足首をぬるぬるとした手でつかもうとしているのだ。夢としても救いようのない夢なのに、それがまるっきりの現実となれば事情はもっとひどかった。私はステップを無視して両手でしっかりと岩をつかみ、それにぶらさがるような要領で体を前へと進めた。
いっそのこと水につかって水面を泳ぎながら上までのぼったらどうだろう、と私はふと思った。その方が楽だし、だいいち落下する心配もない。しばらく頭の中でその思いつきを検討してみたが、私の思いつく考えにしては質はそれほど悪くなさそうに思えた。
しかし私がその考えを伝えると、彼女は即座に「それは無理よ」と言った。「水面の下にはかなり強い水流が|渦《うず》|巻《ま》いているし、そんなのに巻きこまれたら泳ぐどころじゃないわよ。二度と浮かびあがってはこられないし、もしうまく浮かびあがれたとしても、こんなまっ|暗《くら》|闇《やみ》の中じゃどこにも泳ぎつけないわ」
要するにどれだけもどかしくとも一歩一歩のぼりつめていくしか手はないのだ。水音はモーターが少しずつ減速していくように刻一刻とその音程を低め、音の響きは鈍いうめきのようなものへと変化していった。水位は休むことなく上昇しつづけているのだ。まともな光さえあれば、と私は思った。どんなささやかな光でもいい。まともな光さえあればこんな岩場は楽に上りきることもできるし、水がどのあたりまで来ているのか確かめることもできる。そしてとにかくいつ足首を|捉《とら》えられるかわからないという悪夢の中の恐怖に支配されることもないのだ。私は心の底から暗闇というものを憎んだ。私を追いつめ駆りたてているのは水ではないのだ。それは水面と私の足首とのあいだに横たわる暗闇なのだ。その暗闇が私の体の中に冷ややかで底しれぬ恐怖を吹きこんでいるのだ。
私の頭の中ではまだニュース・フィルムがまわりつづけていた。スクリーンの上の巨大なアーチ状のダムはその眼下のすり|鉢状《ばちじょう》の底に向けていつまでも放水をつづけていた。ムービー・カメラは様々な角度から|執《しつ》|拗《よう》にその光景を捉えていた。上方から正面から、そして真横から、レンズは舐めつくすようにそのほとばしる水流に|絡《から》みついていた。ダムのコンクリートの壁に水流の影がうつっているのが見えた。水の影はまるで水そのものであるかのようにその姿をのっぺりとした白いコンクリートの上に踊らせていた。その影をじっと見ていると、やがてそれは私自身の影に変っていった。私自身の影がその湾曲したダムの壁の上で踊っているのだ。私は映画館の|椅《い》|子《す》に腰かけ、そんな私自身の影をじっと|眺《なが》めていた。それが私自身の影であることはすぐにわかったが、映画館の一観客である私にはそれに対してどのように行動すればいいのかがわからなかった。私はまだ九歳か十歳の無力な少年だった。あるいは私はスクリーンにかけよって私の影をとり|戻《もど》すべきだったのかもしれなかったし、あるいは映写室にとびこんでそのフィルムを奪いとるべきだったのかもしれない。しかしそうすることが正当なことなのかどうか、私には判断できなかった。それで私は何もせずに、じっとそのまま私自身の影を眺めつづけていた。
私の影はいつまでも私の眼前で踊りつづけていた。それはまるで|陽炎《かげろう》に揺れる遠くの風景のように静かに不規則に身をくねらせていた。影は口をきくこともできず、手まねで何かを伝えることもできないようだった。しかしその影はたしかに私に何かを伝えようとしていた。影は私がそこに座って彼の姿を見ていることをちゃんと知っているのだ。しかし彼もまた私と同じように無力だった。彼はただの影にすぎないのだ。
私以外の観客は誰もそのダムの壁にうつった水流の影が実は私の影であることに気づいてはいないようだった。私のとなりには兄が座っていたのだが、彼もそれが私の影であることには気づいていなかった。もし気づいていたとしたら、彼は絶対にそのことを私に耳打ちしていたはずだ。なにしろ映画を見ながらうるさいくらい耳打ちする兄だったのだから。
私の方も誰にもそれが私の影であることを教えたりはしなかった。彼らはおそらく私の言うことを信じないだろうという気がしたのだ。それに影は私にだけ[#「私にだけ」に丸傍点]その何かしらのメッセージを伝えたがっているように見えた。彼は違う場所と違う時間から、映画のスクリーンという媒体をとおして、私に向って何かを語りかけているのだ。
湾曲したコンクリートの壁の上で、私の影は孤独で、誰からも見捨てられていた。彼がどのようにしてそのダムの壁にまでたどりついたのか、そしてこれからどうするつもりなのか、私にはわからなかった。やがて闇がおとずれ、彼はその中にのみこまれてしまうのだろう。あるいは彼はその奔流に押し流されて海にたどりつき、そこでまた私の影としてのつとめを果すのかもしれない。そう思うと、私はひどく|哀《かな》しい気持になった。
じきにダムのニュースは終り、画面はどこかの国の王様の|戴《たい》|冠《かん》|式《しき》の光景にかわった。飾りものを頭のてっぺんにつけた何頭もの馬が美しい馬車を引いて石敷きの広場を横切っていた。私は地面の上に新たなる私自身の影を求めたが、そこには馬と馬車と建物の影しかうつってはいなかった。
私の記憶はそこで終っていた。しかし私にはそれが本当に私の身にかつて起ったことなのかどうか判断することはできなかった。なぜなら私は今ここでふと思いだすまで、一度としてそんな事実を過去の記憶として思い浮かべることがなかったからだ。あるいはそれは私がこの異様な暗闇の中で水音を聞きながら勝手に作りあげた心象風景なのかもしれなかった。私は昔、心理学の本の中でそのような|類《たぐ》いの心理作用について書かれた文章を読んだことがある。人間は極限状態に追い込まれたとき、往々にして荒々しいリアリティーから自己を防衛するために白日夢を頭の中に描き出すことがある――というのが、その心理学者の説だった。しかし作りあげられた心象風景というには、私のその目にしたイメージはあまりにも克明で生々しく、私の存在そのものにかかわってくるような強い力を持っていた。私はそのとき私をとりかこんでいた|匂《にお》いや音をはっきりと思い起すことができた。そして九歳か十歳の私が感じたとまどいや混乱やつかみどころのない恐怖感を身のうちに感じとることができた。誰が何と言おうと、それは本当に私の身に起ったことなのだ。それは何かの力によって意識の奥に封じこめられていたのだが、私自身が極限状態に追いこまれたことによってそのたが[#「たが」に丸傍点]が外れ、表面に浮上してきたのだ。
何かの力?
それはおそらく私のシャフリング能力をつけるための脳手術に起因しているに違いない。彼らが私の記憶を、意識の壁の中に押しこんでしまったのだ。彼らは長いあいだ私の記憶を私の手から奪い去っていたのだ。
そう考えると、私はだんだん腹が立ちはじめた。誰にも私の記憶を奪う権利なんてないのだ。それは私の、私自身の記憶なのだ。他人の記憶を奪うことは他人の年月を奪うのと同じことなのだ。腹が立つにつれて、私は恐怖なんてどうでもいいような気分になってきた。何はともあれとにかく生き延びるのだ、と私は決意した。私は生きのびてこの気違いじみた暗闇の世界を脱出し、私の奪われた記憶を洗いざらいとり戻すのだ。世界が終ろうがどうなろうが、そんなことはどうでもいい。私は完全な私自身として再生しなければならないのだ。
「ロープよ!」と突然娘が叫んだ。
「ロープ?」
「ねえ、早くここに来てみて。ロープがさがってるわ」
私は急いで三段か四段階段を上り、彼女のそばに行って、手のひらで壁面を|撫《な》でてみた。そこにはたしかにロープがあった。それほど太くはないが登山用の|頑丈《がんじょう》なロープで、その先端が私の胸のあたりにぶらさがっていた。私はそれを片手でつかんで、用心深く少しずつ力を入れてひっぱってみた。それは手ごたえからするとしっかりと何かに結びつけてあるようだった。
「きっと祖父よ」と娘が叫んだ。「祖父が私たちのためにロープをたらしてくれているのよ」
「念のためにもう一周上ってみよう」と私は言った。
我々は足場をたしかめるのももどかしく、〈塔〉のねじ山を一回転した。ロープはやはり同じ位置に垂れ下がっていた。ロープには三十センチおきに足をかけるための結びめがついていた。これが〈塔〉の先端まで本当につづいていたとしたら、我々はずいぶん時間を節約できることになる。
「祖父よ。間違いないわ。すごく細かいところに気のつく人なの」
「まったくね」と私は言った。「ロープはのぼれる?」
「もちろんよ」と彼女は言った。「ロープのぼりは子供の頃からすごく得意だったのよ。言わなかった?」
「じゃあ先にのぼって」と私は言った。「君が上りついたら下に向けてライトを点滅してくれ。そうしたら|僕《ぼく》が上りはじめる」
「そんなことしてたら水が来ちゃうわ。二人で一緒に上った方がいいんじゃない?」
「山のぼりでは一つのロープには一人の人間というのが原則なんだ。ロープの強度のこともあるし、一本のロープに二人がしがみつくとそれだけ上りにくくて時間もかかる。それにたとえ水がやってきても、ロープさえ握っていればなんとか上までたどりつけるだろう」
「あなたって見かけより勇敢な人なのね」と彼女は言った。
私は彼女がもう一度キスしてくれるかもしれないと思って暗闇の中でなんとなくじっと待っていたが、彼女は私にはかまわずにするするとロープを上りはじめた。私は両手で岩をつかんだまま、彼女のライトがふらふらと|出《で》|鱈《たら》|目《め》に揺れながら上にのぼっていくのを見上げていた。それはまるで|泥《でい》|酔《すい》した魂がよろめきながらとっかえつっかえ空に戻っていくような眺めだった。それをじっと見ていると私はウィスキーがひとくち飲みたくなったが、ウィスキーは背中のナップザックの中だったし、不安定な姿勢のまま身をひねってナップザックを外し、ウィスキーの|瓶《びん》をとりだすのはどう考えても不可能だった。それで私はあきらめて、自分がウィスキーを飲んでいるところを頭の中に想像してみることにした。清潔で静かなバーと、ナッツの入ったボウルと、低い音で流れるMJQの『ヴァンドーム』、そしてダブルのオン・ザ・ロックだ。カウンターの上にグラスを置いて、しばらく手をつけずにじっとそれを眺める。ウィスキーというのは最初はじっと眺めるべきものなのだ。そして眺めるのに飽きたら飲むのだ。|綺《き》|麗《れい》な女の子と同じだ。
そこまで考えたところで、私は自分がもうスーツもブレザーコートも持っていないことに気づいた。あの頭のおかしい二人組が私の所有していたまともな洋服をナイフでぜんぶ切り裂いてしまったのだ。やれやれ、と私は思った。私はいったい何を着てバーに行けばいいのだ。バーに行く前にまず洋服を作る必要がある。ダーク・ブルーのツイードのスーツにしよう、と私は決めた。品の良いブルーだ。ボタンが三つで、ナチュラル・ショルダーで、|脇《わき》のしぼりこまれていない昔ながらのスタイルのスーツ。一九六〇年代のはじめにジョージ・ペパードが着ていたようなやつだ。シャツはブルー。しっくりとした色あいの、少しさらしたようなかんじのブルー。|生《き》|地《じ》は厚めのオックスフォード綿で、|襟《えり》はできるだけありきたりのレギュラー・カラー。ネクタイは二色のストライプがいい。赤と緑。赤は沈んだ赤で、緑は青なのか緑なのかよくわからない、|嵐《あらし》の海のような緑だ。私はどこかの気の|利《き》いたメンズ・ショップでそれだけを|揃《そろ》え、それを着てどこかのバーに入り、スコッチのオン・ザ・ロックをダブルで注文するのだ。|蛭《ひる》もやみくろも|爪《つめ》のはえた魚も、地下の世界で好きなように暴れまわればいい。私は地上の世界でダーク・ブルーのツイードのスーツを着て、スコットランドからやってきたウィスキーを飲むのだ。
ふと気がつくと水音は消えていた。水はもう穴から吹きあげるのをやめたのかもしれない。あるいは水位が高くなりすぎて、水音が聞こえなくなっただけなのかもしれない。しかしそれは私にとってはどうでもいいことのように思えた。水が上ってきたいのなら上ってくればいい。何があろうと生きのびようと私は決意したのだ。そして私の記憶をとりかえすのだ。もう誰にも私をこづきまわすことはできないのだ。私は世界じゅうに向けてそうどなってみたかった。もう誰にも私をこづきまわすことはできないのだ、と。
しかしこんな地の底の暗闇の中で岩にしがみつきながらどなってみたところで何かの役に立つとは思えなかったので、私はどなるのをやめ、首をねじって上の方を見上げてみた。彼女は私が予測したよりはずっと上の方に進んでいた。何メートルほどの距離があるのかはわからないが、デパートの階数にすれば三階か四階ぶんはありそうだった。婦人服売り場か呉服売り場か、そのあたりだ。いったいこの岩山はぜんぶでどれくらいの高さがあるのだろう、と私はうんざりした気分で考えてみた。これまでに彼女と二人で上ってきたぶんだけでも相当な高さになっているはずなのに、この上にまだずっとつづきがあるとしたら、全体としてみれば相当に高い岩山であるに違いない。私は一度気紛れに高層ビルを26階ぶん歩いて上ったことがあるが、今回の岩のぼりもそれくらいののぼり[#「のぼり」に丸傍点]ではあるような気がした。
いずれにせよ暗くて下が見えないのはかえって幸いだった。いくら山のぼりに慣れているとはいえ、何の装備もなく普通のテニス・シューズをはいてこんな高いところに危っかしくはりついていたら、怖くて下を見られたものではない。高層ビルのまん中あたりで命綱もゴンドラもなくガラス|拭《ふ》きをしているのと同じことなのだ。何も考えずにやみくもに上へ上へと上りつづけているうちはいいが、一度立ちどまってしまうと高さのことがだんだん気になりはじめてきた。
私はもう一度首をひねって頭上を見上げてみた。彼女はまだ上りつづけているらしく、ライトが同じようにふらふらと揺れているのが見えたが、それはさっきよりはずっと上の方に遠ざかっていた。たしかに本人が言うように、彼女はロープのぼりが得意であるようだった。それにしてもずいぶんな高さだ。実に|馬《ば》|鹿《か》馬鹿しいほど高い。だいたいなんだってあの老人はこんな大仰な場所に逃げこんだりしたんだろう、と私は思った。もっとあっさりとした簡単な場所で我々が来るのをじっと待っていてくれたら、こんなひどい目にあわずにすんだのだ。
そんなことを考えながらぼんやりしていると、頭の上の方から誰かの声が聞こえたような気がした。見上げてみると黄色い小さな光が飛行機の尾灯のようにゆっくりと点滅しているのが見えた。どうやら彼女はやっと頂上にたどりつけたようだった。私は片手でロープをつかみ、もう片方の手でポケットの懐中電灯をひっぱり出し、上に向けて同じような合図を送った。それから私はついでに光を下に向けて水面がどれくらいまで上ってきているのかたしかめてみようとしたが、私の電灯の弱い光ではほとんど何も見とおすことはできなかった。暗闇が濃すぎて、よほど近くに寄って見ないかぎりそこに何があるのかまるでわからないのだ。腕時計は午前四時十二分を指していた。まだ夜は明けていない。朝刊も配られてはいない。電車も動いてはいない。地上では人々は何も知らずにぐっすりと眠っているはずだった。
私は両手でロープをたぐり寄せ、一度深呼吸してから、ゆっくりと上りはじめた。
24 世界の終り
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――影の広場――
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三日間つづいた見事な晴天は、その日の朝目を覚ますともう終っていた。空は暗い色をしたぶ厚い雲に一分の|隙《すき》もなく|覆《おお》いつくされ、そこをとおり抜けやっと地上にたどりつくことのできた太陽の光はその本来の暖かみと輝きのあらかたを奪いとられていた。そんな灰色にくぐもった冷ややかな光の中で、樹木は葉を落としたむきだしの枝を空に向けてまるでひび[#「ひび」に丸傍点]のような形にのめりこませ、川は固くこわばった水音をあたりに響かせていた。いつ雪が降りはじめてもおかしくなさそうな雲ゆきだったが、雪は降っていなかった。
「今日はたぶん雪は降らんだろう」と老人が|僕《ぼく》に教えてくれた。「あれは雪を降らせる雲じゃない」
僕は窓を開けて空をもう一度見上げてみたが、どれが雪を降らせる雲でどれが雪を降らせない雲なのかは見わけられなかった。
門番は大きな鉄のストーヴの前に座り、|靴《くつ》を脱いで足を温めているところだった。ストーヴは図書館にあるのと同じ型のものだった。上部にふたつやかん[#「やかん」に丸傍点]か|鍋《なべ》をのせるための台がついていて、いちばん下に灰をとりだすひきだしがついている。前部はキャビネットのようになっていて、大きな金属の|把《とっ》|手《て》がついている。門番は|椅《い》|子《す》に座って、両足をその把手の上にのせていた。部屋の中はやかんの蒸気と安もののパイプ|煙草《た ば こ》の|臭《にお》い――それもおそらく代用品の煙草なのだろう――のおかげでむっとする湿り気に|充《み》ちていた。その中にはもちろん彼の足のにおいも混じっていたはずだ。彼の座った椅子のうしろには大きな木のテーブルがあって、その上には|砥《と》|石《いし》といっしょになた[#「なた」に丸傍点]や|手《て》|斧《おの》がずらりと並べてあった。どのなた[#「なた」に丸傍点]もどの手斧も握りの部分がすっかり変色してしまうくらいよく使いこまれていた。
「マフラーのことです」と僕は切りだした。「マフラーがないと首筋がとても冷えるんです」
「まあ、そりゃそうだろうな」と門番はもっともらしく言った。「それはよくわかるよ」
「図書館の奥の資料室に|誰《だれ》も使っていない衣類があるんです。それでもしその一部を使うことができればと思って」
「ああ、あのことか」と門番は言った。「あれならどれでも使っていい。あんたならかまわないよ。マフラーでもコートでもどれでも好きなのを持ってっていいよ」
「持ち主はいないんですか?」
「持ち主のことは気にせんでいい。もし持ち主がいたとしても、そんなもののことはとっくに忘れてるさ」と門番は言った。「ところであんた、楽器を捜してるようだね」
僕は|肯《うなず》いた。彼は何でも知っているのだ。
「楽器というものは原則としてこの街には存在しない」と彼は言った。「しかしまったくないわけではない。あんたも|真《ま》|面《じ》|目《め》に仕事をしていることだし、楽器くらい手に入れてもべつに不都合はなかろう。発電所に行ってそこの管理人に|訊《き》いてみるんだな。そうすればたぶん楽器はみつかるよ」
「発電所?」と僕は驚いて言った。
「発電所くらいあるさ」と門番は言って頭上の電球を指さした。「いったいどこからこの電気が来ると思ってたんだ? りんごの木になるとでも思ってたのかね?」
門番は笑いながら発電所に行く道筋を地図に|描《か》いてくれた。「川の南側の道をずっと上流に向けて歩くんだ。すると三十分ほどで右手に古い穀物倉庫が見えてくる。もう屋根がなくて|扉《とびら》もとれてるやつだ。その角を右に曲ってしばらく道なりに歩くんだ。すると丘があり、その丘の向うが森になっている。森に入って五百メートルほど進めば発電所だ。わかるかね?」
「わかると思います」と僕は言った。「しかし冬の森に行くのは危険なことなんじゃないんですか? みんなそう言っていますし、僕自身もひどい目にあいました」
「ああ、そうだったな。そのことをすっかり忘れていたよ。あんたを荷車にのせて丘の上まで上げたんだ」と門番は言った。「もう具合はいいのかね?」
「大丈夫です。どうもありがとう」
「少しは|懲《こ》りたかね?」
「ええ、そうですね」
門番はにやりと笑って把手の上に載せた足の位置を入れかえた。「懲りるのは良いことだ。人は懲りると用心深くなる。用心深くなると|怪《け》|我《が》をしなくなる。良い|樵《きこり》というのは体にひとつだけ傷を持っているもんさ。それ以上でもなく、それ以下でもない。ひとつだけさ。|俺《おれ》の言ってることはあんたわかるよな?」
僕は肯いた。
「しかし発電所のことは心配せんでもいい。森のすぐ入口にあるし、道も一本で迷いっこない。森の連中にも会わずに済む。危険なのは森の奥と壁のそばだ。そこさえ避ければ心配するほどのことはない。ただし絶対に道をそれちゃいかんし、発電所の奥にも行っちゃいかん。行くとまたひどい目にあうことになるよ」
「発電所の管理人は森に住む人なのですか?」
「いや|奴《やつ》はそうじゃない。奴は森の連中とも違うし、街の人間とも違う。|半《はん》|端《ぱ》な男さ。森にも入れんし、街にも|戻《もど》れん。害はないが、度胸もない」
「森に住むのはどんな人なんですか?」
門番は首を曲げ、黙ってしばらく僕の顔を見ていた。「たしか俺は最初にあんたに言ったよな、何を訊くかはあんたの勝手だけど、答える答えないは俺の勝手だってな」
僕は肯いた。
「まあいいさ。とにかく俺は答えたくない」と門番は言った。「ところであんたずっと自分の影に会いたいって言ってたな。どうだい、そろそろ会ってみるかね? 冬になって影の力もいくぶん弱ってきたし、もう会わせても不都合はなかろう」
「具合が悪いんですか?」
「具合は悪かないさ。ぴんぴんしてるさ。毎日何時間かはそとに出して運動もさせているし、食欲だって立派なもんさ。ただ冬になって日が短かくなり寒さが増すと、影というのはどんな影だって調子を落としてくるものなんだ。それは誰のせいでもない。ごくあたりまえの自然の摂理ってもんさ。俺のせいでもなきゃあんたのせいでもない。まあ会わせてやるから本人とじかに話すんだね」
門番は壁にかかった|鍵《かぎ》|束《たば》をはずして上着のポケットにねじこみ、あくびをしながらがっしりとした皮の編みあげ靴をはいた。ひどく重そうな靴で、靴底には雪の中を歩けるように鉄のスパイクが打ってあった。
影の住んでいる場所は街と外の世界のいわば中間地点だった。僕は外の世界に出ることはできないし、影は街の中に入ることはできない。だから〈影の広場〉は影を失った人と人を失った影とがめぐりあえる|唯《ゆい》|一《いつ》の場所ということになる。門番小屋の裏口を出たところに影の広場はあった。広場といってもそれは名前だけのことで、とくに広い敷地があるわけではない。普通の家の庭を少し広くした程度のもので、まわりは厳重な鉄の|柵《さく》に囲まれている。
門番はポケットから鍵束を出して鉄の扉を開け、僕をまず中に入れ、それから自分も入った。広場はきちんとした正方形で、つきあたりは街をとり囲む壁になっている。|片《かた》|隅《すみ》に古い|楡《にれ》の木があり、その下に簡単なベンチが置いてあった。生きているのか死んでいるのかわからないような、白ちゃけた楡の木だった。
壁の隅に|古《ふる》|煉《れん》|瓦《が》と廃材で間にあわせにこしらえたような小屋が建っていた。窓にはガラスはなく、はねあげ式の板戸がついているだけだ。煙突がないところを見ると、たぶん暖房の設備もないのだろう。
「あそこにあんたの影が寝とまりしてるんだ」と門番は言った。「見た目ほど居心地は悪くない。いちおう水も出るし、便所もある。地下室もあって、そこならすきま風も入らない。まあホテルなみとはいかんが、雨風は十分にしのげる。入って見てみるかね?」
「いや、ここで会うことにします」と僕は言った。門番小屋の中のひどい臭いのする空気のせいで、僕の頭は痛んでいた。少々寒くても新鮮な空気の吸えるところの方がずっと良かった。
「いいとも、今ここにつれてくる」と門番は言って、一人で小屋の中に入っていった。
僕はコートの|襟《えり》を立てて楡の木の下のベンチに座り、靴のかかとで地面をほじくりながら影がやってくるのを待った。地面は固く、ところどころに凍りついた雪が残っていた。壁の足もとには、日陰になったぶんだけ雪がそのまま溶けずに残っている。
しばらくあとで門番が影をつれて小屋の中から出てきた。門番は靴底のスパイクで凍った地面を押しつぶすように|大《おお》|股《また》で広場を横切り、そのあとをゆっくりと僕の影がついてきた。僕の影は門番が言うような元気そのものという風には見えなかった。彼の顔は以前よりいくぶんやつれ、目と|髭《ひげ》がいやに目立っていた。
「少し二人きりにしといてやろう」と門番は言った。「まあつもる話もあるだろうしな。ゆっくり話すがいい。でもそれほど長くはだめだ。何かの加減でくっついちまうとまたひっぱがすのに時間がかかるしな。それにそんなことしたって何の役にも立たない。お互い面倒なだけだ。そうだろ?」
そうだ、という風に僕は肯いた。たぶんそのとおりなのだろう。くっついたところで、またはがされるだけだ。そして同じことをもう一度はじめからやりなおさなくてはならない。
門番が扉に鍵をかけて小屋の中に消えていくのを僕と僕の影はじっと目で追っていた。ざくざくというスパイクが地面を|噛《か》む音が遠ざかり、やがて重い木の扉が音をたてて閉まった。門番の姿が見えなくなってしまうと、影は僕のとなりに腰を下ろした。そして僕と同じように靴のかかとで地面に穴を掘った。彼はごわごわとした目の粗いセーターに作業ズボン、それに僕の与えた古い作業靴といった格好だった。
「元気かい?」と僕は訊いてみた。
「元気なわけはないさ」と影は言った。「寒すぎるし、食事もひどい」
「毎日運動しているって聞いたけど」
「運動?」と言って影は不思議そうに僕の顔を見た。「ああ、あれは運動なんていうものじゃないよ。毎日ここからひっぱり出されて、門番が獣を焼くのを手伝わされるだけさ。死体を荷車に積みあげて門の外に出てりんご林の中に運び、油をかけて焼くんだ。焼く前に門番が獣の頭をなた[#「なた」に丸傍点]でちょん切るんだ。君も彼のあの素晴しい刃物のコレクションは見ただろう? あの男はどう見てもまともじゃないね。事情さえ許せば世界中のあらゆるものをちょん切ってまわりたがってるみたいだ」
「彼も街の人間なのかな?」
「いや、違うね。あいつはたぶん雇われているだけだ。奴は獣を焼くのを楽しんでいる。街の人間はそんなことは考えない。冬になってからもうずいぶん沢山焼いたよ。今朝は三頭死んだ。これから焼くんだ」
影は僕と同じように靴のかかとで凍った地面をしばらく掘りかえしていた。地面は石のように固くこわばっていた。冬の鳥が鋭く鳴いて楡の木の枝から飛び立っていった。
「地図はみつけたよ」と影は言った。「思ったよりよく描けているし、説明の要領もいい。ただしちょっと遅すぎたけどね」
「体をこわしていたんだ」と僕は言った。
「そのことは聞いたよ。でも冬が来てからじゃ遅すぎたんだ。もっと前に欲しかった。そうすれば物事はもっと円滑に進んだし、計画だってもっと早く立てられた」
「計画?」
「ここから逃げだす計画だよ。決まってるじゃないか。それ以外にどんな計画がある? 君はまさか俺が暇つぶしのためにこの地図を欲しがったと思ってるんじゃなかろうね」
僕は首を振った。「僕はこの奇妙な街が持つ意味を君が教えてくれるんじゃないかと思ったんだ。何しろ君は僕の記憶の|殆《ほと》んど全部を持っていってしまったわけだからな」
「それは違うね」と影は言った。「たしかに俺はあんたの記憶のおおかたを持ってはいるが、それを有効に使うことはできないんだ。そうするためには我々はもう一度一緒にならなくちゃいけないんだが、それは現実的に無理だ。そんなことをしたら俺たちは二度と会えなくなるし、それでは計画そのものが成立しない。だから俺は今一人で考えているんだ。この街の持つ意味というものをね」
「何かわかったかい?」
「少しはわかったが、それはまだ君には言えない。細部をきちんと補強しないと説得力がないからね。もう少し考えさせてくれ。もう少し考えれば何かがわかりそうな気がするんだ。でもそのときにはもう手遅れってことになっているかもしれない。何しろ冬がやってきて以来俺の体は確実に弱りつづけているから、このままじゃ脱出計画が完成しても体力がなくて実行できないっていうことにもなりかねない。だから俺はこの地図を冬が来る前に欲しかったんだ」
僕は頭上の楡の木を見あげた。太い枝のあいだに細かく区切られた冬の暗い雲が見えた。
「でもここからは脱出できない」と僕は言った。「地図はよく見ただろう? 出口なんてどこにもないよ。ここは世界の終りなんだ。もとには戻れないし、先にもいけないんだ」
「世界の終りかもしれないが、ここには必ず出口がある。それは俺にははっきりとわかるんだよ。空にそう書いてある。出口があるってね。鳥は壁を越えるよな? 壁を越えた鳥はどこへ行くんだ? 外の世界だ。この壁の外にはたしかにべつの世界があるし、だからこそ壁は街を囲んで人々を外に出さないようにしているんだ。外に何もなきゃわざわざ壁で囲いこむ必要なんてない。そして必ずどこかに出口はあるんだ」
「あるいはね」と僕は言った。
「俺は必ずそれを見つけ、君と一緒にここを|脱《ぬ》けだす。こんな|惨《みじ》めなところで死にたくはない」
影はそう言うと黙りこんで、また地面を掘りかえした。
「最初にも君にそう言ったと思うが、この街は不自然で間違っている」と影は言った。「それは今でもそう信じている。不自然だし、間違っている。しかし問題は不自然で間違っているなりにこの街が完成されているっていうことなんだ。何もかもが不自然で|歪《ゆが》んでいるから、結果的にはすべてがぴたりとひとつにまとまってしまうんだよ。完結してるんだ。こんな風にね」
影は靴のかかとで地面に円を描いた。
「輪が収束しているんだ。だから長くここにいて、いろんなことを考えていると、だんだん彼ら[#「彼ら」に丸傍点]の方が正しくて自分が間違っているんじゃないかって気になってくるんだ。彼ら[#「彼ら」に丸傍点]があまりにもぴしりと完結しているみたいに見えるからね。俺の言ってることはわかるかい?」
「よくわかるよ。僕もときどきそう感じることがある。街に比べると、僕が弱い矛盾した微小な存在じゃないかってね」
「でもそれは間違ってるんだ」と影は円のとなりに意味のない図形を描きながら言った。「正しいのは俺たちで、間違っているのは彼らなんだ。俺たちが自然で、奴らが不自然なんだ。そう信じるんだね。あらん限りの力で信じるんだ。そうしないと君は自分でも気がつかないうちにこの街に|呑《の》みこまれてしまうし、呑みこまれてからじゃもう手遅れってことになる」
「しかし何が正しくて何が間違っているというのはあくまで相対的なものだし、だいいち|僕《ぼく》にはそのふたつを比べてみるにも尺度とするべき記憶というものが奪い去られているんだ」
影は肯いた。「君が混乱していることはよくわかるよ。しかしこう考えてみてくれ。君は永久運動というものの存在を信じるかい?」
「いや、永久運動は原理的に存在しない」
「それと同じさ。この街の安全さ・完結性はその永久運動と同じなんだよ。原理的には完全な世界なんてどこにも存在しない。しかしここは完全だ。とすれば必ずどこかにからくりがあるはずなんだ。見た目に永久運動とうつる機械が何らかの目には見えない外的な力を裏側で利用しているようにね」
「君はそれをみつけたのかい?」
「いや、まだだ。さっきも君に言ったように俺は仮説を立ててはいるが、まだ細部を補強しなくちゃならないんだ。それにはもう少し時間がかかる」
「その仮説を教えてくれないか。僕にも少しは君のその補強作業を手伝えるかもしれない」
影はズボンのポケットから両手を出し、それにあたたかい息を吐きかけてから|膝《ひざ》の上でこすりあわせた。
「いや、君には無理だろう。俺は体を痛めてるが、君は心を痛めている。何よりも先に君はそれを修復するべきだ。そうしないと脱出する前に二人とも|駄《だ》|目《め》になっちまう。俺は一人で考えるから、君は君自身を救うために手をつくすんだ。それがまずだいいちだ」
「たしかに僕は混乱している」と僕は地面に描かれた円に目を落としながら言った。「君の言うとおりだ。どちらに進んでいいのかを見定めることもできない。自分がかつてどういう人間であったのかということもだ。自己を見失った心というものがはたしてどれだけの力を持てるものなんだろう。それもこれほど強い力と価値基準を持った街の中でだ。冬がやってきて以来僕は自分の心に対して少しずつ自信を失いつづけているんだ」
「いや、それは違うね」と影は言った。「君は自己を見失ってはいない。ただ記憶が巧妙に隠されているだけだ。だから君は混乱することになるんだ。しかし君は決して間違っちゃいない。たとえ記憶が失われたとしても、心はそのあるがままの方向に進んでいくものなんだ。心というものはそれ自体が行動原理を持っている。それがすなわち自己さ。自分の力を信じるんだ。そうしないと君は外部の力にひっぱられてわけのわからない場所につれていかれることになる」
「努力してみるよ」と僕は言った。
影は肯いてしばらく曇った空を|眺《なが》めていたが、やがて何かを考えこむように目を閉じた。
「俺は迷ったときはいつも鳥を見てるんだ」と影は言った。「鳥を見ると自分が間違っていないということがよくわかる。街の完全さなんて鳥には何の関係もない。壁も、門も、角笛も、何の関係もないんだ。君もそんなときは鳥を見るといいんだ」
|檻《おり》の入口で門番が僕を呼ぶのが聞こえた。面会時間が過ぎたのだ。
「このあとしばらくは俺に会いに来ないでくれ」と別れ|際《ぎわ》に影が耳うちした。「必要なときは俺の方が君と会えるように細工する。門番は疑り深い男だから、俺たちが何度も会っているときっと何かあるんじゃないかと用心するし、用心されると俺の作業がやりにくくなる。もし訊かれたら俺とあまり話があわなかったってふりをするんだ。いいね?」
「わかった」と僕は言った。
「どうだったね?」と小屋に戻ると門番が僕にたずねた。「久しぶりに自分の影と会えて楽しかったかね?」
「わかりませんね」と僕は言って否定的に首を振った。
「そういうもんさ」と門番は満足したように言った。
25 ハードボイルド・ワンダーランド
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――食事、象工場、|罠《わな》――
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ロープの上りは階段を使って上るのに比べれば格段に楽な作業だった。しっかりとした結びめがきちんと三十センチおきについていたし、ロープ自体もちょうど|手《て》|頃《ごろ》な太さでよく手になじんだ。私は両手でロープを握り、体をいくぶん前後に揺らせてはずみをとりながら、一歩一歩と上にのぼっていった。なんだか空中ブランコ映画のシーンみたいだった。もっとも空中ブランコで使うロープには結びめなんてついていない。結びめのついたロープを使ったりしたら観客に軽く見られてしまうからだ。
私はときどき上を向いてみたが、ライトがまっすぐにこちらに向けられていたので、|眩《まぶ》しすぎて距離感がうまくつかめなかった。たぶん彼女が心配して、私がのぼってくるのをじっと上から見ているのだろうと私は思った。腹の傷は心臓の鼓動にあわせてまだずきずきと鈍く痛んでいた。転倒したときに打った頭もあいかわらず痛かった。ロープを上るのに支障があるというほどのものではないが、それでも痛いことにかわりはない。
頂上に近づくにつれて、彼女の手にしたライトが私の体や私のまわりの風景をだんだん明るく照らしだすようになった。しかしそれはどちらかといえば余計な親切だった。私は|暗《くら》|闇《やみ》の中をのぼるのにもうすっかり慣れてしまっていたので、光で照らされると逆に調子が乱れてしまい、何度か足をすべらせてしまった。光のあたる部分と影になった部分との距離的なバランスがうまくつかめないのだ。光のあたる部分が実際以上にとびだして見え、影になった部分が実際以上にへこんで見えた。それに眩しすぎる。人間の体はどんな環境にもすぐに慣れてしまうのだ。ずっと大昔に地下に潜ったやみくろたちが暗闇にあわせて体の機能性をかえてしまったとしても何の不思議もないような気がした。
ロープの結びめを六十か七十のぼったところで、私はやっと頂上らしきものに到達することができた。私は岩のふちに両手をかけて水泳選手がプールサイドに上るような格好で上によじのぼった。長いロープの上りのせいで腕がすっかり疲れ果てているらしく、体を岩の上にのせるのにかなりの時間がかかった。まるでクロールで一キロか二キロ泳いだあとのような気分だった。彼女はベルトをつかんで私が上によじのぼるのを手伝ってくれた。
「危いところだったわね」と彼女は言った。「あと四、五分遅かったら私たち二人とも死んでいたところよ」
「やれやれ」と私は言って平らな岩の上に身を横たえ、何度か深呼吸をした。「水はどのあたりまで来たのかな?」
彼女はライトを地面に置いて、ロープを少しずつたぐり寄せた。そして結びめを三十個ぶんばかり引きあげたところで、そのロープを私に握らせた。ロープはぐっしょりと|濡《ぬ》れていた。水はかなりの高さまで上昇していたのだ。たしかに彼女が言うように、ロープに|辿《たど》りつくのがあと四、五分遅れていたら危いところだった。
「ところで君のおじいさんはみつかったのかい?」と私は|訊《たず》ねてみた。
「ええ、もちろんよ」と彼女は言った。「奥の祭壇の中にいるわ。でも足をくじいているの。逃げるときにくぼみに足をつっこんでしまったんですって」
「でも足をくじきながらここまで辿りつけたんだね?」
「ええ、そうよ。祖父は体が丈夫なの。私の家系はみんな体が丈夫なのよ」
「らしいね」と私は言った。私もかなり丈夫な方だと思うが、彼らにはとてもかないそうにない。
「行きましょう。祖父が中で待っているわ。あなたにいろいろと話したいことがあるんですって」
「こちらもさ」と私は言った。
私はナップザックをもう一度背負い、彼女のあとについて祭壇のある方に向った。祭壇とはいっても、ただ単に岩壁に丸い横穴があいているだけのことだ。横穴の中は広い部屋のようになっていて、壁のくぼみにガスボンベ式のランプが置かれ、黄色いぼんやりとした光が中を照らしだしていた。|不《ふ》|揃《ぞろ》いな|岩《いわ》|肌《はだ》が奇妙な形をした無数の陰影を作りだしていた。博士はそのランプのわきに毛布にくるまって座っていた。彼の顔半分は暗い影になっていた。光のせいで目がすっかり落ちくぼんでしまったように見えるが、実際は元気そのものと言ってもいいくらいだった。
「やあ、危いところだったらしいじゃないですか」と博士は|嬉《うれ》しそうに私に言った。「水が出ることは私もちゃんと知ってたんだが、もう少し早く見えると思っておったもんであまり気にかけなかったですよ」
「私、街で道に迷っちゃったのよ、おじいさま」と太った孫娘が言った。「それで丸一日近くこの人に会うのが遅れちゃったの」
「まあいい、まあいい。もうどちらでもいいです」と博士は言った。「今となっては時間がかかってもかからんでもどちらでも同じことです」
「いったい何がどう同じことなのですか?」と私は質問してみた。
「まあまあ、そういうややこしい話はあとにまわして、とりあえずそこに座んなさい。最初にその首についた|蛭《ひる》をはがしてしまいましょう。|放《ほ》っとくと跡がついちまうですよ」
私は博士から少し離れたところに腰を下ろした。孫娘が私のとなりに座ってポケットからマッチをとりだし、火をつけて、私の首筋にはりついた巨大な蛭を焼いて落とした。蛭はたっぷりと血を吸って、ワインのコルク|栓《せん》くらいの大きさに膨んでいた。マッチの炎をつけるとじゅっ[#「じゅっ」に丸傍点]という湿った音がした。地面に落ちた蛭はしばらくのあいだそこで身をくねらせていたが、彼女がジョギング・シューズの底でそれを踏み|潰《つぶ》した。皮膚には|火傷《や け ど》のあとのようなひきつった痛みが残った。首を思いきり左に曲げると皮膚が育ちすぎたトマトの皮みたいに簡単に裂けてしまいそうな気がした。こんな生活をつづけていたら一週間もたたないうちに体全体が|怪《け》|我《が》の見本帳みたいになってしまうことだろう。薬局の店頭にはってある水虫の症例写真みたいに、きれいなカラー図版にしてみんなに配るのだ。腹の切り傷、頭のこぶ[#「こぶ」に丸傍点]、蛭に吸われたあとのあざ[#「あざ」に丸傍点]――それから|勃《ぼっ》|起《き》不全というのもいれた方がいいかもしれない。その方が|凄《すご》|味《み》がある。
「何か食べるものを持っておられませんでしょうかな?」と博士が私に言った。「何しろ急いでおったもので、食糧を十分に持ち出す暇がなくて、昨日からチョコレートしか食べておらんのです」
私はナップザックをあけて|缶《かん》|詰《づめ》をいくつかとパンと水筒をとりだし、缶切りと一緒に博士にわたした。博士はまず水筒の水をうまそうに飲み、それからワインの年を調べるみたいに缶詰のひとつひとつを子細に点検した。そして桃の缶詰とコンビーフ缶を開けた。
「あなたがたもひとついかがですかな?」と博士は我々にきいた。いらない、と我々は言った。こんなところでこんなときになかなか食欲がでるものではない。
博士はパンをちぎってそこにコンビーフのかたまりをのせ、いかにもうまそうにもぐもぐと食べた。それから桃をいくつか食べ、缶に口をつけてずるずると|汁《しる》を飲んだ。そのあいだ私はウィスキーのポケット|瓶《びん》を出して、二口か三口飲んだ。ウィスキーのおかげで体のいろんな部分の痛みはいくぶん楽になった。痛みが減少するというわけではないのだが、アルコールが神経を|麻《ま》|痺《ひ》させるせいで、その痛みが私自身とは直接関係のない一種の独立した生命存在であるかのように感じられてくるのだ。
「いや、実に助かったですよ」と博士は私に言った。「いつもはここに非常用の食糧を二、三日困らんくらいのぶんは用意しておくんですが、今回はたまたま油断して補充しとらんかったのですな。我ながら情ないことです。安逸な日々に慣れるとどうしても警戒心が散漫になる。良い教訓ですよ。晴れた日に|傘《かさ》を|貼《は》って雨の日に備えよ。昔の人はなかなかうまいことを言うですな」
博士はしばらく一人でふおっふおっ[#「ふおっふおっ」に丸傍点]と笑っていた。
「これで食事も済んだことだし」と私は言った。「そろそろ本題に入りましょう。まず最初から順番に話してくれませんか。いったいあなたは何をしようとしていたのか? 何をしたのか? その結果どうなるのか? 僕は何をすればいいのか? ぜんぶです」
「かなり専門的な話になると思うですが」と博士は疑わしそうに言った。
「専門的なところは|噛《か》み砕いて簡単に済ませて下さい。だいたいのアウトラインと具体的な方策がわかればそれでいいんです」
「ぜんぶ話しちまうと、あんたはたぶん私に対して腹を立てるんじゃないかと思いまして、それがどうも……」
「腹は立てない」と私は言った。今さら腹を立てても何かの役に立つというものではない。
「まず最初に私はあんたに謝まらねばならんでしょうな」と博士は言った。「いかに研究のためとはいえ、あんたをだまして利用し、ひいてはあんたをのっぴきならん状況に追いこんでしまった。これについては私も深く反省をしておるです。口先だけではなく、心から申しわけないと思っておる。しかしですな、私のやっておった研究というのは、これはちょっと比類のないほど重要かつ貴重なものであって、このことだけはどうしても御理解いただきたい。科学者というものは知の鉱脈を前にするとそれ以外の状況が眼中になくなってしまうきらいがあるです。またそれなればこそ科学も間断なき進歩を遂げてきたわけだ。科学というものは極言するならば、その純粋性の|故《ゆえ》に増殖するのであって……えーと、プラトンをお読みになったことはあるですかな?」
「ほとんどありません」と私は言った。「でもとにかく話の要点に移って下さい。科学研究の目的の純粋性についてはよくわかりました」
「どうも失礼、私はただ科学の純粋性というものがときとして多くの人々を傷つけることがあると言いたかっただけです。それはあらゆる純粋な自然現象がある場合に人々を傷つけるのと同じことです。火山の噴火が街を埋め、|洪《こう》|水《ずい》が人々を押し流し、地震が地表の一切を|叩《たた》き潰す――しからばそのような|類《たぐ》いの自然現象が悪かと言えば……」
「おじいさま」と太った孫娘が横から口を出した。「少しお話を急がないと間にあわないんじゃないかしら?」
「そうそう、お前の言うとおり」と博士は言って彼女の手をとり、ぽんぽんと叩いた。「ところで、あー、どこからお話すればよろしいですかな? 私はどうも状況を縦に順番に|把《は》|握《あく》するというのが苦手なたちでして、何をどう話せばいいものやら」
「あなたは私に数字をわたしてシャフリングをやらせましたね? あれにはどういう意味があるんですか?」
「それを説明するには話を三年前までさかのぼらねばならんですな」
「どうぞさかのぼって下さい」と私は言った。
「私はその当時『|組織《システム》』の研究所につとめておりました。正式な研究員というわけではなく、いわば個人的な別働隊のようなものです。私の下に四、五人のスタッフがいて、立派な施設を与えられ、金は使い放題でした。私は金なんぞはどうでもいいですし、人の下で使われるのはまっぴら御免という性格だが、それでも『|組織《システム》』が研究用に与えてくれる豊富な実験材料は|他《ほか》ではちょっと手に入らんものだし、何よりその研究の成果を実践に移せるというのはたまらない魅力でしたな。
その頃『|組織《システム》』はかなり危機的な状況にありました。つまり彼らが情報保護のためにあみだした様々な方式のデータ・スクランブル・システムがことごとくと言っていいほど記号士たちに解読されておったわけです。『|組《シス》|織《テム》』がその方法を複雑化すれば、記号士たちもより複雑な方法でそれを解読する――そういう繰りかえしでした。これはまるで|塀《へい》|建《た》て競争のようなものですな。一方の家が高い塀を建てれば、隣家もそれに負けじともっと高い塀を建てる。そしてそのうちに塀はあまりにも高くなりすぎて、実用性を失っていく。しかしだからといって一方が手を引くわけにはいかん。手を引けば負けだからです。負ければ負けた側の存在価値はなくなってしまう。そこで『|組織《システム》』はまったく別の原理に基づく、単純にして解読不能なデータ・スクランブルの方式を開発することにしたわけです。そこで私がその開発スタッフの長として招かれたんですな。
彼らが私を選んだのはまさに正解でありました。|何《な》|故《ぜ》なら私はその当時――もちろん今だってそうですが――大脳生理学の分野では最も有能にして最も意欲的な科学者であった。研究論文を出したり学術会議で講演したりするような|阿《あ》|呆《ほう》なことはやりませんでしたから学会では終始無視されておりましたが、脳に対する知識の深さで私にかなうものは一人もおりませんでしたな。『|組織《システム》』はそのことを知っておった。だからこそ私を適任者として選んだわけです。彼らが望んでおったのは完全な発想の転換でした。既成の方式の複雑化やソフィスティケーションではなく、根本からのドラスティックな転換でした。そしてそういう作業は大学の研究室で朝から晩まで働いて下らん論文書きに追われたり給料の計算をしておるような学者にはできっこないです。真の独創的な科学者というものは自由人でなくてはならん」
「しかし『|組織《システム》』に入ることによって、その自由人たる立場を捨てたわけですね」と私はたずねてみた。
「そうです、そのとおり」と博士は言った。「あんたのおっしゃるとおりです。そのことについては私も私なりに反省しておるです。後悔はせんが反省はしておるです。しかし弁解するわけじゃないですが、私は私の理論を実践に移せる場が欲しくてたまらなかったのです。そのときの私の頭の中にはきっちりとした理論のようなものは既にできておったのですが、それを実際的にたしかめる手だてがなかった。そこが大脳生理学の研究の困った点でありまして、他の生理学のように動物を使って実験を進めるということができん。何故なら、|猿《さる》の脳には人間の深層心理や記憶に対応することができるほどの複雑なファンクションが備わってはおらんからです」
「それであなたは」と私は言った。「我々を人体実験に使ったわけですね」
「まあまあ、結論を急がんで下さい。まず私の理論を簡単に説明します。暗号に対する一般論があります。つまり『解読できない暗号はない』というやつですな。これはたしかに正しい。何故ならば暗号というものはある種の原則によって成立しておるからです。原則というものはそれがどれだけ複雑かつ|精《せい》|緻《ち》なものであれ、究極的には多くの人間に理解できる精神的共通項のごときものです。だからその原則が理解できれば、暗号も解ける。暗号の中でもっとも信頼性の高いのはブック・トゥー・ブック・システム――つまり暗号を送りあう二人が同じ版の同じ本を持っておってそのページ数と行で単語を決めるシステム――ですが、これだって本がみつかってしまえばおしまいです。だいいちいつもその本を手もとに置いておかなきゃならんです。危険が大きすぎる。
そこで私は考えました。|完《かん》|璧《ぺき》な暗号というものはひとつしかない。それは|誰《だれ》にも理解できないシステムでスクランブルすることです。つまり完璧なブラックボックスをとおして情報をスクランブルし、それを処理したものをまた同じブラックボックスをとおして逆スクランブルするわけですな。そしてそのブラックボックスの中身や原理は本人にさえわからない。使用することはできるが、それがどういうものかはわからない――ということですな。本人にもわからないから、他人が力ずくでその情報を盗むこともできない。どうです、完璧でしょう?」
「つまりそのブラックボックスとは人間の深層心理であるわけですね」
「そう、そのとおり。さらに説明させて下さい。こういうことです。人間ひとりひとりはそれぞれの原理に基づいて行動をしておるです。誰一人として同じ人間はおらん。なんというか、要するにアイデンティティーの問題ですな。アイデンティティーとは何か? 一人ひとりの人間の過去の体験の記憶の集積によってもたらされた思考システムの独自性のことです。もっと簡単に心と呼んでもよろしい。人それぞれ同じ心というのはひとつとしてない。しかし人間はその自分の思考システムの|殆《ほと》んどを把握してはおらんです。私もそうだし、あんたもしかり。我々がそれらについてきちんと把握している――あるいは把握していると推察される部分は全体の十五分の一から二十分の一というあたりにすぎんのです。これでは氷山の一角とすら呼べん。たとえば簡単な質問をしてみましょう。あんたは剛胆ですかな、それとも|臆病《おくびょう》ですかな?」
「わかりませんね」と私は正直に言った。「あるときには剛胆になれるし、あるときには臆病です。ひとくちじゃ言えません」
「思考システムというのはまさにそういうものなのです。ひとくちでは言えん。その状況や対象によってあんたは剛胆さと臆病さというふたつの極のあいだのどれかのポイントを自然にほとんど瞬間的に選びとっておるのです。そういう細密なプログラムがあんたの中にできておるのですな。しかしそのプログラムの細かい内訳や内容についてはあんたは殆んど何も知らん。知る必要がないからです。それを知らんでも、あんたはあんた自身として機能していくことができる。これはまさにブラックボックスですな。つまり我々の頭の中には人跡未踏の巨大な象の墓場のごときものが埋まっておるわけですな。大宇宙をべつにすればこれは人類最後の|未知の大地《テラ・インコグニタ》と呼ぶべきでしょう。
いや、象の墓場という表現はよくないですな。何故ならそこは死んだ記憶の集積場ではないからです。正確には象工場[#「象工場」に丸傍点]と呼んだ方が近いかもしれん。そこでは無数の記憶や認識の|断片《チ ッ プ》が|選《よ》りわけられ、選りわけられた|断片《チ ッ プ》が複雑に組みあわされて|線《ライン》を作り、その|線《ライン》がまた複雑に組みあわされて|束《バンドル》を作り、そのバンドルがシステムを作りあげておるからです。それはまさに〈工場〉です。それは生産をしておるのです。工場長はもちろんあんただが、残念ながらあんたにはそこを訪問することはできん。アリスの|不思議の国《ワンダーランド》と同じで、そこにもぐりこむためにはとくべつの薬が必要なわけですな。いや、ルイス・キャロルのあの話は本当によくできておるです」
「そしてその象工場から発せられる指令によって我々の行動様式が決定されているというわけですね」
「そのとおりです」と老人は言った。「つまり……」
「ちょっと待って下さい」と私は老人の話を押しとどめた。「質問させて下さい」
「どうぞどうぞ」
「話の筋はわかります。しかしですね、行動の様式を現実的で表層的な行為の決定にまで|敷《ふ》|衍《えん》することはできない。たとえば朝起きてパンと一緒にミルクを飲むかコーヒーを飲むか紅茶を飲むか、これは気分しだいではないのですか?」
「実にまったく」と言って博士は深く|肯《うなず》いた。「もうひとつの問題は人間のその深層心理が常に変化しておることです。たとえて言うならば、毎日改訂版の出ておる百科事典のごときものですな。人間の思考システムを安定させるためにはこのふたつのトラブルをクリアする必要がある」
「トラブル?」と私は言った。「それのどこがトラブルなんですか? 人間のごく当然な行為じゃありませんか?」
「まあまあ」と博士がなだめるように言った。「これを追究していくと、神学上の問題になるです。決定論というか、そういうことですな。人間の行為というものが神によってあらかじめ決定されているか、それとも|隅《すみ》から隅まで自発的なものかということです。近代以降の科学はもちろんその人間の生理的スポンタニアティーに重点を置いて進められてきた。しかしですな、自発性とは何かと|訊《き》かれても、誰にもうまく答えられんです。我々の中にある象工場の秘密を誰も把握してはおらんからです。フロイトやユングが様々な推論を発表したが、あれはあくまでそれについて語ることができるだけの術語を発明したにすぎんです。便利にはなったが、それで人間のスポンタニアティーが確立したかというと、そんなことはない。私の目から見れば心理科学にスコラ哲学的色彩を|賦《ふ》|与《よ》したというにすぎんですな」
そこで博士はまたふおっふおっ[#「ふおっふおっ」に丸傍点]とひとしきり笑った。私と娘は彼が笑いおわるのをじっと待った。
「私はどちらかと申せば、現実的な考え方をする人間です」と博士はつづけた。「古いことばを借りるならば、神のものは神へ、シーザーのものはシーザーへ、ということですな。|形而上学《けいじじょうがく》というものは|所《しょ》|詮《せん》記号的世間話にすぎんです。そんなことにうつつを抜かす前に、限定された場所でなさねばならんことは山とある。たとえばこのブラックボックスの問題です。ブラックボックスはブラックボックスのままで手をつけずに置いておけばよろしい。そしてそのブラックボックス性をそのまま利用すればよろしいのです。ただし――」と言って博士は指を一本立てた。「ただし――さっき申しあげたふたつの問題は解決せねばならんです。ひとつは表層的行為のレベルにおける偶然性であり、もうひとつは新たなる体験の増加に伴うブラックボックスの変化です。これはなかなか簡単に解決する問題ではないですよ。何故かというならば、それらはさっきあんたがおっしゃったように、人間としての当然の行為であるからです。人は生きている限りなんらかの体験をするわけだし、その体験が一分一秒ごとに体内に蓄積していくものです。それをやめろというのは人に向って死ねというのと同じことです。
そこで私はひとつの仮説を立てた。ある瞬間に人間にその時点におけるブラックボックスを固定してしまったらどうかとね。その後にそれが変化するのなら、それは好きに変化すればよろしい。しかしそれとはべつにその時点におけるブラックボックスはきちんと固定され、コールすればそれがそのままの形で呼び出されるわけです。瞬間冷凍に似ておるですな」
「ちょっと待って下さい」と私は言った。「それは一人の人間の中に二種類の違った思考システムを内蔵させることになりますね」
「まさにまさに」と老人は言った。「まさにおっしゃるとおり。あんたは理解が速い。私の見こんだだけのことはある。おっしゃるとおりです。思考システムAは常に保持されておる。それがもう一方のフェイズでは|A《’》、|A《”》、|A《'"》[#※この部分、Aダッシュ、Aダッシュ×2、Aダッシュ×3]……と間断なく変化しておるわけです。これはズボンの右のポケットにとまった時計を入れ、左ポケットに動く時計を入れておるのと同じことでありますな。必要に応じて、いつでも好きな方をとりだせる。これで一方の問題は解決します。
同じ原理でもう一方の問題もかたづけることが可能です。オリジナル思考システムAの表層レベルでの選択性をカット・オフしておけばいいわけです。おわかりになりますかな?」
わからない、と私は言った。
「要するに歯医者がエナメル質を削るのと同じように表層を削ってしまうわけです。そして必然性のある中心的なファクター、つまり意識の核だけを残すのです。そうしておけば誤差というほどの誤差は生じません。そしてその表層を削りとった思考システムを冷凍して井戸の中に|放《ほう》りこむんですな。どぶん、とね。これがシャフリング方式の原型です。私が『|組織《システム》』に入る前にうちたてておった理論はだいたいこういうものです」
「脳手術をするということですね?」
「脳手術は必要です」と博士は言った。「おそらくもっと研究が進めば、手術の必要性はおいおいなくなってくるでしょう。ある種の催眠術のようなもので外郭操作によってそのような状態を作りだすこともできるようになるでしょう。しかし今の段階ではそこまではできんです。脳に電気的刺激を与えるしかない。つまり脳のサーキットの流れを人為的に変えてしまうわけです。これは何もとくに珍しいことではない。精神性てんかん患者に対して現在も行われておる定位脳手術をいくらか応用したにすぎんです。脳のねじれから生ずる放電をそれによって|相《そう》|殺《さい》するわけですが……専門的なことは省いてもよろしいですかな?」
「省いて下さい」と私は言った。「要点だけでいいです」
「要するに脳波の流れにジャンクションを設置するわけです。分岐点ですな。そのわきに電極と小型電池を埋めこむ。そして特定の信号でかちんかちんとそのジャンクションが切りかわるようにしておく」
「とすると|僕《ぼく》の頭の中にもその電池と電極が埋めこまれていることになりますね?」
「もちろん」
「やれやれ」と私は言った。
「いや、それはあんたが考えるほど怖いことでも特殊なことでもないです。大きさだって|小豆《あ ず き》|粒《つぶ》程度のものだし、それくらいのものを体に入れて歩きまわっておる人は世間にいっぱいおるです。それからもうひとつ申しあげておかねばならんことはオリジナル思考システム、つまりとまった時計の方の回路はブラインド回路であるということですな。その回路に入ると、あんたは自分の思考の流れを一切認識することができんということです。つまりそのあいだあんたは自分が何を考えて何をしておるのか、まるでわからんのです。そうしておかないと、あんたが自分でその思考システムを改変してしまうおそれがあるからです」
「それから、その表層を削りとった意識の純粋な|核《コア》の照射の問題もあるわけでしょう? 手術のあとであなたのスタッフの一人からその話を聞きましたよ。その照射が人間の脳に強烈な影響を与えるかもしれないってね」
「そうです。それもあるですな。しかしそのことについては確定した見解があるわけではありませんでした。その時点ではひとつの推論にすぎんでした。ためしてみたわけではなく、ただそういうこともあるかもしれん、ということですな。
さきほどあんたは人体実験のことをおっしゃっておられたが、正直に申しあげて、我々はいくつかの人体実験をやったです。最初から貴重な人材であるあんたがた計算士を危険な目にあわせるわけにはいかんですからな。『|組織《システム》』が適当な人間を十人ばかりみつけてきて、我々はその人たちに手術を施し、その結果を見ました」
「どんな人たちですか?」
「それは我々には教えんかったですな。とにかく十人の若い健康な男性です。精神的な病歴がなく、IQが120以上というのが条件でした。どんな人たちをどういう風につれてきたのか、それは我々にはわからんです。その結果は、まずまずというところでした。十人のうち七人まではジャンクションがうまく働きました。三人はまるでジャンクションが機能せず、思考システムがどちらか一方になるか、あるいは混合したりしました。しかし七人は大丈夫でしたな」
「混合した人はどうなったんですか?」
「もちろんちゃんともとに|戻《もど》しましたよ。害はないです。残りの七人の訓練をつづけるうちにいくつかの問題点があきらかになりました。ひとつは技術的な問題であり、もうひとつは被験者側の問題でした。まずジャンクション切りかえのコールサインがまぎらわしいという点です。最初我々は任意の五|桁《けた》の数字をそのコールサインにあてたのですが、どういうわけか中に何人か天然|葡《ぶ》|萄《どう》ジュースの|匂《にお》いでジャンクションが切りかわってしまうものがでてきました。昼食に葡萄ジュースを出したときにそれが判明しました」
太った娘がとなりでクスクスと笑ったが、私にとってはそれは笑いごとではなかった。私にしたところでシャフリングの処置を受けたあと、いろんなものの匂いが気になってしかたないことがあるのだ。たとえば彼女のメロンの匂いのするオーデコロンを|嗅《か》ぐと頭の中で音が聞こえるように感じるのもそのひとつだ。何かの匂いを嗅ぐたびに思考システムが入れかわったりしたら、たまったものではない。
「それは数字のあいだに特殊な音波をはさみこむことで解決しました。ある種の|嗅覚《きゅうかく》反応がコールサインによって生じる反応によく似ていたわけです。もうひとつは人によって、ジャンクションが切りかわっても、オリジナル思考システムがうまく作動しないことがあるという事実でした。これはいろいろと調べてみた結果、被験者のそもそもの思考システムに問題があったことがわかりました。被験者の意識の核そのものが質的に不安定で希薄であったわけです。健康でちゃんとした知力もあるのだが、精神的なアイデンティティーが確立しておらんのです。また逆に自らに対する統御が足りないという例もありました。アイデンティティーそのものは十分にあるのだが、それに対する秩序づけがなされていないことには使いものにならんです。要するに誰でも手術さえ受ければシャフリングができるというわけではなく、やはり適性というものがあるのだということが明らかになったわけです。
そんなこんなで残ったのは結局三人でした。その三人はきちんとジャンクションが指定されたコールサインで切りかわり、凍結されたオリジナル思考システムを使って有効かつ安定した機能を果すことができました。そして一カ月彼らを使って実験をかさね、その時点でゴー・サインが出たんですな」
「その次に我々がシャフリングの処置を受けたわけですね?」
「そのとおりです。我々は五百人に近い計算士の中からテストと面接をかさね、しっかりとした精神的独自性を有し、しかも自己の行動と感情を規制できるタイプの健康で精神的病歴のない男性を二十六人選びだしました。これはひどく手間のかかる作業でした。テストや面接だけではわからん部分もありますからな。それから『|組織《システム》』はその二十六人一人ひとりについての詳細な資料を作りあげました。生いたち・学校の成績・家族・性生活・飲酒量……とにかく|全《すべ》ての点についてです。あんたがたは生まれたての赤子のように|綺《き》|麗《れい》に洗いあげられたわけですな。だから私もあんたについてはわがことのようによく知っておるです」
「ひとつわからない点があります」と私は言った。「僕の聞いた話ではその我々の意識の核、つまりブラックボックスが『|組織《システム》』のライブラリーに保管してあるということでした。それはどのようにして可能になるのですか?」
「我々はあんた方の思考システムを徹底的にトレースしました。そしてそのシミュレーションを作りあげて、メイン・バンクとして保存することにした。そうしておかないことにはもしあんた方の身に何かがあったときに身動きがとれんですからな。保険のようなものです」
「そのシミュレーションは完全なのですか?」
「いや、完全とはもちろんいかんですが、表層部分が有効に削除されておるぶんトレースは楽になっておるですから、機能的にはかなり完全に近いものですな。くわしく言うと三種類の平面座標とホログラフによってこのシミュレーションは構成されておるです。従来のコンピューターではもちろんこんなことは不可能だったが、今の新しいコンピューターはそれ自体がかなり象工場的機能を含んでおるからそのような意識の複雑な構造に対応していけるのです。要するにマッピングの固定性の問題ですが、これは話が長くなるのでやめましょう。ごく簡単にわかりやすく説明するとトレースの方法はこういうことです。まずあんたの意識の放電パターンをコンピューターにいくつもインプットします。パターンはその場合場合によって微妙にずれています。ラインの中のチップが組みかえられ、バンドルの中のラインが組みかえられているからです。その組みかえの中には計測上無意味なものもあれば、意味のあるものもあります。コンピューターがそれを判断します。無意味なものは排除され、意味のあるものが基本的パターンとして刻みこまれていく。それを何度も何度も何度も百万回単位で繰りかえす。プラスティック・ペーパーをかさねていくみたいにです。そしてこれ以上ずれが浮かびあがってこないことをたしかめてから、そのパターンをブラックボックスとしてキープするわけです」
「脳を再現したわけですか?」
「いや、違うです。脳はとても再現できんです。私のやったことはあんたの意識のシステムを現象レベルで固定したにすぎんです。それも定まった時間性の中でです。時間性というものに対して脳が発揮するフレキシビリティーに対しては我々はまったくのお手上げです。しかし私のやったことはそれだけではありません。私はそのブラックボックスを映像化することに成功したのです」
博士はそう言って、私と太った孫娘の顔をかわりばんこに見た。
「意識の核の映像化です。そんなことはこれまでに|誰《だれ》もやったことがない。不可能だったからです。私が可能にした。どうやったと思います?」
「わかりませんね」
「被験者に何かの物体を見せ、その視覚によって生じる脳の電気的反応を分析し、それを数字に置きかえ、それからまたドットに置きかえます。最初はごく単純な図形しか浮かびあがってこないが、何度も補整し、細部をつけ加えていくうちに、それは被験者が見たとおりの映像をコンピューター・スクリーンに描きだす。口で言うほど簡単な作業ではないし、とてつもない手間と時間がかかるですが、簡単に言っちまえばそうなります。そして何度も何度もそれをかさねていくうちに、コンピューターはパターンをのみこんで脳の電気的反応から自動的に映像を映し出すようになってくるわけです。コンピューターというのは実に|可愛《か わ い》いものですな。こちらが一貫した指示を出す限り、必ず一貫した仕事をやるですよ。
次にいよいよそのパターンをのみこんだコンピューターの中に、今度はブラックボックスを入れてみるわけです。すると実に見事に意識の核のありようが映像化されるという次第ですな。しかしもちろんその映像は極めて断片的で|混《こん》|沌《とん》としており、そのままではとても意味をなさない。そこで編集作業が必要になってくる。そう、まさに映画の編集作業ですな。イメージの集積を切ったり|貼《は》ったり、あるものをとりのぞいたり、いろいろと組みあわせたりするわけです。そして筋をとおしたひとつのストーリーに組みかえる」
「ストーリー?」
「それほど不思議なことではないですな」と博士は言った。「優れた音楽家は意識を音に置きかえることができるし、画家は色や形に置きかえる。そして小説家はストーリーに置きかえます。それと同じ理屈ですよ。もちろん転換をするわけですから、真に正確なトレースではないですが、意識のおおかたのありようを理解するには実に便利です。いくら正確でも混沌としたイメージの|羅《ら》|列《れつ》を|眺《なが》めていたのではなかなか全容をつかみきれませんですからな。それから、べつにそのヴィジュアル版を使って何かをするわけではないから、|隅《すみ》から隅まで正確であらねばならんという必要もないわけです。このヴィジュアル化はあくまで私の個人的な趣味としてやっておったのです」
「趣味?」
「私は以前、もう戦前のことですが、映画の編集助手のようなことをやっておりまして、そんなせいでその手の作業が非常に得意なのです。要するに混沌に秩序を|賦《ふ》|与《よ》するという作業ですな。だから私は他のスタッフを使わずに自分の研究室にとじこもって一人でその作業をつづけました。私が何をやっておったかはみんな知らんはずです。そしてそのヴィジュアル化したデータを私物としてこっそりと家に持って帰りました。私の財産です」
「二十六人ぶん全部の意識を映像化したわけですか?」
「そうですな。一応ぜんぶやりました。そしてそのひとつひとつにタイトルをつけて、そのタイトルは一人ひとりのブラックボックスのタイトルにもなりました。あんたのは『世界の終り』でしたな」
「そうです。『世界の終り』です。どうしてそんなタイトルがつけられたのか常々不思議に思っていたんですがね」
「そのことはあとで話しましょう」と博士は言った。「とにかく私がその二十六個の意識の映像化に成功したことは誰も知らなかった。私も誰にも教えなかった。私はその研究を『|組織《システム》』とは関係のないところで進めたかったわけです。私は『|組織《システム》』から依頼されたプロジェクトを成功させたし、私が必要としていた人体実験も済ませた。それにこれ以上他人の利益のために研究するのもうんざりでした。あとはもう自分の好き勝手にあちらに手をつけこちらにも手を出すという気ままな研究生活に|戻《もど》りたかった。私はどうもひとつの研究に打ちこむというタイプではないのです。様々な研究を並列的にやる方が性にあっておるのです。あちらで骨相学、こちらで音響学、それと同時に脳医学という具合にね。しかし他人に使われる身とあってはなかなかそうはいかんです。それで私は研究が一段落したところで、もう自分に与えられた使命は終ったし、あとは技術的な作業にすぎんから、そろそろ辞めたいと『|組織《システム》』に申しでた。しかし彼らはなかなかそれを許可してくれんかったですな。|何《な》|故《ぜ》なら私はそのプロジェクトについて知りすぎておったからです。今その段階で私が記号士たちのもとに走ったら、シャフリング計画は|水《すい》|泡《ほう》に帰してしまうかもしれんと彼らは考えたわけです。彼らにとっては味方でないものは|即《すなわ》ち敵ということになるのです。三カ月待ってくれ、と彼らは私に頼みました。その研究所の中で自分の好きな研究をつづけてくれ。仕事は何もしなくていい、特別なボーナスも払う、ということでした。三カ月のあいだに厳重な機密保持システムを完成させるから、出ていくのはそのあとにしてくれ、とね。私は生まれつきの自由人ですから、そんな風に自分の体が束縛されるというのは非常に不快だったですが、まあ話としては悪くないです。それで私は三カ月そこで好きなことをしてのんびりと暮すことにしました。
しかし人間のんびりするとロクなことはせんもんです。私は暇にまかせて被験者――つまりあんたがたですな――の脳のジャンクションにもうひとつべつの回路をとりつけることを思いついた。三つめの思考回路です。そしてその回路に私の編集しなおした意識の核を組みこんじまったわけです」
「どうしてまたそんなことをしたんですか?」
「ひとつにはそれが被験者にどういう効果を及ぼすか見てみたかったということがあるですな。他者の手によって秩序づけられ編集しなおされた意識が被験者の中でどのように機能するか、ということを知りたかったわけです。人類の歴史の中でそういう明確な例はひとつもありませんからな。もうひとつは――これはもちろん付随的な動機ですが――『|組《シス》|組《テム》』が私を自分たちの好きなように扱うなら、私もまた自分の好きなように扱ってやろうと思ったわけです。彼らの知らない機能をひとつくらい作っておきたかったのですな」
「それだけの理由で」と私は言った。「あなたは我々の頭の中に電気機関車の線路みたいなややっこしい回路をいくつも組みこんだわけですか?」
「いや、そう言われると私も面目ないです。実に面目ない。しかしあんたにはおわかりにならんでしょうが、科学者の好奇心というものはなかなか抑えきれんものなのです。ナチスに協力した生体学者たちが強制収容所で行なった数々の生体実験を私ももちろん憎んでおるですが、心の底ではどうせやるならどうしてもう少し|手《て》|際《ぎわ》良く効果的にやれなかったのかとも思っておるのです。生体を対象とする科学者の考えておることは心の底ではみんな同じようなものです。それに私のやったことは決して生命を危険にさらすようなことではない。二つあるものを三つにしただけのことです。サーキットの流れをちょっと変化させるだけで、べつに脳の負担が増えるわけではないです。同じアルファベットのカードを使って、べつの単語を作るというだけのことです」
「しかし実際には|僕《ぼく》以外のすべてのシャフリング処置を受けた人間が死んだ。これはどうしてですか?」
「それは私にもわからんです」と博士は言った。「たしかにあんたのおっしゃるように二十六人のシャフリング処置を受けた計算士のうちの二十五人までが死んだです。みんな判で押したように同じ死に方です。ベッドに入って眠り、朝になったら死んでおるのです」
「じゃあ僕にしても」と私は言った。「明日そういう風に死んでしまうかもしれないわけですね?」
「ところが話はそう簡単でもないです」と毛布の中でもじもじと体を動かしながら博士は言った。「というのは、その二十五人の死亡時期は約半年間に集中しておるのです。つまり処置後一年二カ月から一年八カ月のあいだです。その二十五人は残らずその期間に死んでおるです。ところがあんただけは三年と三カ月過ぎた今も、何の障害もなくシャフリングをつづけておる。となると、あんただけが他人にはない特別な資質を持っておると考えざるを得んのです」
「特別[#「特別」に丸傍点]というのは、どういう意味で特別なのですか?」
「まあ待って下さい。ところであんたはシャフリング処置後、何かしら奇妙な症状に襲われませんでしたかな? たとえば幻聴、幻覚、失神、などといったような?」
「ありませんね」と私は言った。「幻覚もないし、幻聴もありません。ただある種の匂いにはひどく敏感になったような気がします。だいたいは果物の匂いのようなものであることが多いですが」
「それは全員に共通したことですな。特定の果物の匂いがジャンクションに影響を及ぼすのです。どうしてかはわからんが、そうなっておるです。しかしその結果として幻覚・幻聴・失神がもたらされるということはないわけですな?」
「ありませんね」と私は答えた。
「ふうむ」と博士はしばらく考えこんだ。「|他《ほか》には?」
「これはさっきはじめて気がついたことですが、隠されていた記憶が戻ってくるような気がすることがあります。これまでは断片のようなものだったのであまり気にもとめなかったのですが、さっきのははっきりとしていて長くつづきました。原因はわかっています。水音で誘発されたんです。でも幻覚じゃありません。きちんとした記憶です。それはたしかです」
「いや、違うです」と博士はきっぱりと言った。「あんたには記憶のように感じられるかもしれんですが、それはあんた自身が作りあげた人為的なブリッジです。要するにあんた自身のアイデンティティーと私が編集してインプットした意識のあいだには当然のごとく誤差があってですな、あんたはつまり自らの存在を正当化するべくその誤差のあいだにブリッジをかけようとしておるわけです」
「よくわからないな。今までそんなことは一度も起らなかった。それがどうして今になって急に出てきたんですか?」
「私がジャンクションを切りかえて第三の回路を解放してしまったからです」と博士は言った。「しかしまあ、話を順序に沿って進めましょう。そうせんことには話しづらいし、あんたにもわかりづらいでしょう」
私はウィスキーの|瓶《びん》をとり出してまたひとくち飲んだ。どうやら想像していた以上のひどい話になってきそうだった。
「最初の八人がたてつづけに死んだとき『|組《シス》|織《テム》』から私に呼びだしがかかりました。死因を究明してくれというわけです。私としちゃ正直言ってもうあそことは|関《かかわ》りあいになりたくはなかったが、私の開発した技術でもあるし、人の生き死にの問題でもあるので、見捨てておくわけにもいかんです。とにかく様子を見に行くことにしました。彼らは私に八人が死んだ経緯と脳解剖の結果を説明してくれました。さっきも申しあげたとおり、八人はみんな同じ死に方をして、みんな死因は不明でした。体にも脳にも何ひとつ損傷はなく、みんな静かに眠るがごとく息を引きとっておりました。まるで安楽死のようにです。顔にも|苦《く》|悶《もん》のあとひとつなかったですな」
「死因はわからなかったのですか?」
「わからんかったです。しかしもちろん推論なり仮説なりを立てることはできます。なにしろ八人ものシャフリング処置を受けた計算士がたてつづけに死んでおるですから、これは偶然では片づけられんです。なんとか方策を講じねばならんです。これは何はともあれ科学者の義務ですからな。私の推論はこういうものでした。つまり脳にセットしたジャンクションの機能がゆるむか焼けるか消滅するかして思考システムが混濁し、そのエネルギーの力に脳機能が耐えられなくなったのではないか? それともジャンクションに問題がないとすれば、意識の核をたとえ短時間にもせよ解放すること自体に根本的な問題があるのではないか? それは人間の脳にとって耐えがたいことなのではないか?」博士はそう言って首のところまで毛布をひっぱりあげたまま、しばらく間を置いた。「これが私の推論です。確証はないが、しかし前後の状況をいろいろと考えてみるとそのふたつのいずれか、あるいは両方かもしれんが、それらが原因であると推測するのがいちばん妥当なように私には思えるですな」
「脳解剖をしてもそれはわからないのですか?」
「脳というのはトースターとも違うし、|洗《せん》|濯《たく》|機《き》とも違うです。コードやらスウィッチやらが目に見えるわけではないです。目には見えん放電の流れを変えるだけのことですから、死んでからそのジャンクションをとりだして検証するというわけにはいかんのです。生きている脳に異常があればそれはわかるが、死んだ脳では何もわからんです。もちろん損傷や|腫《しゅ》|瘍《よう》があればわかりますが、それもありません。まったくきれいなものです。
それで我々は生きている被験者十人ばかりを研究室によこしてもらい、再チェックをしてみました。脳波をとり思考システムの切りかえをして、ジャンクションがうまく働いているかどうか調べてみました。くわしい面接もして、体に異常があったり幻聴や幻覚がおこったりしないかとも|訊《き》いてみました。しかし問題といえるほどのものは何もありませんでした。みんな健康で、シャフリング作業も順調に進められていました。それで我々は死んだ人々はおそらく先天的に何か脳に欠陥があったかして、シャフリングには向かなかったのだろうと考えました。それがどのような欠陥かはわからんが、それはおいおいに研究を進めて解きあかし、第二世代にシャフリング処置を施す前に解決をすれば良いわけです。
しかし結局それは間違っておった。何故なら次の一カ月に更に五人が死に、そのうちの三人は我々が徹底的に再チェックした被験者だったからです。再チェックして何も問題はないと判断された人々がその直後にあっさりと死んでしまったわけです。これは我々にとっては大きなショックでありました。原因のわからないままに二十六人の被験者のうちの半数が既に死んでしまったのです。こうなると適不適というよりはもっと根本的な問題になるですよ。つまりふたつの思考システムを切りかえて使用するということが脳にとってはもともと不可能であったということになりますな。それで私は『|組織《システム》』にプロジェクトの凍結を提案した。生き残った人々の脳からジャンクションをとりのぞいて、シャフリング作業を中止するわけです。そうしないと全員死亡ということにもなりかねませんからな。しかし『|組織《システム》』はそれは不可能だと言った。私の提案は拒否されたわけです」
「どうして?」
「シャフリング・システムは極めて有効に働いているし、今ここでそのシステムを全部ゼロに戻すことは現実的に不可能ということでした。そうすると『|組織《システム》』の機能が|麻《ま》|痺《ひ》してしまうのです。それに全員が死ぬと決まったわけではないし、もし生き残った人間がいたら、それを有効なサンプルとした次の研究を進めればよかろう、と彼らは言いました。そこで私は降りたです」
「そして僕一人が生き残った」
「というわけですな」
私は頭のうしろを岩壁につけ、ぼんやりと天井を眺めながら手のひらで|頬《ほお》にのびた|髭《ひげ》をこすってみた。この前にいつ髭を|剃《そ》ったのかうまく思いだせなかった。たぶんひどい顔をしていることだろう。
「じゃあどうして僕は死ななかったんですか?」
「これもあくまで仮説です」と博士は言った。「仮説に仮説をつみかさねておるわけですな。しかし私の勘では、これはそれほどは的を外れてはおらんだろうと思うです。こういうことです。つまりあんたはもともと複数の思考システムを使いわけておったのです。もちろん無意識にですな。無意識に、自分でもわからんうちに、自己のアイデンティティーをふたとおり使いわけておったんです。先刻の私の|比《ひ》|喩《ゆ》を使うならズボンの右ポケットの時計と左ポケットの時計をです。もともとの自前のジャンクションができておって、それであんたは精神的な|免《めん》|疫《えき》が既にできとったということになります。これが私の立てた仮説です」
「根拠のようなものはあるんですか?」
「あるです。私は先ほど、二、三カ月以前のことですが、二十六人ぶんのヴィジュアル化したブラックボックス=思考システムを全部見なおしてみました。そしてあることに気づいたのです。それはあんたのぶんがいちばんよくまとまっておるし、|破《は》|綻《たん》もないし、筋もとおっておるということでした。ひとことで言えば|完《かん》|璧《ぺき》なのです。そのまま小説や映画にしても十分通用するほどのものです。しかしその他の二十五人のぶんはそうではないのです。みんな混乱し、混濁し、まとまりがなく、どれだけ手を入れて編集しても筋もとおらんし、おさまりも悪い。夢をただつなぎあわせたという程度のものです。あんたのものとはぜんぜん違う。これはもうプロの画家の絵と幼児の絵を比べるほどに違うのです。
どうしてそんなことになるのかと私はいろいろと考えてみたが、結論はひとつしかなかったです。つまりあんたは自分の手でそれをまとめあげたのです。だからそのぶん極めてはっきりとしたストラクチュアがイメージの集積の中に存在しておるのです。また比喩を使うと、あんたは自分の意識の底にある象工場[#「象工場」に丸傍点]に下りていって自分の手で象を作っておったわけです。それも自分も知らんうちにですな」
「信じられないな」と私は言った。「どうしてそんなことが起り得るんですか?」
「いろんな要因があるです」と博士は言った。「幼児体験・家庭環境・エゴの過剰な客体化・罪悪感……とくにあんたには極端に自己の|殻《から》を守ろうとする性向がある。違いますかな?」
「そうかもしれない」と私は言った。「それで一体どうなるんですか? もし僕がそうだとしたら?」
「どうにもならんですよ。何もなければあんたはこのまま長生きするでしょうな」と博士は言った。「しかし現実的には何もないというわけにはいかんでしょう。あんたは好むと好まざるとにかかわらずこの|馬《ば》|鹿《か》|気《げ》た情報戦争の|趨《すう》|勢《せい》を決する|鍵《かぎ》のような立場におるのです。『|組織《システム》』は遠からずあんたをモデルとした第二次のプロジェクトを開始するでしょうな。あんたは徹底的に解析され、いろいろといじくりまわされることになる。具体的にどうなるかは私にもわからんですよ。しかしいずれにせよいろいろと不快な目にあうことは間違いない。私はたいして世間を知らんが、それくらいのことはわかる。私としてはなんとかあんたを助けてあげたかったのだが」
「やれやれ」と私は言った。「あなたはもうそのプロジェクトには参加しないのですか?」
「私は何度も言っておるように他人のために研究を切り売りすることは性にあわんのです。それにこの先何にん人が死ぬかわからんようなものに加担したくはない。私もいろいろと反省させられるところがあったです。そんな何やかやが面倒になってこんな地底に研究室を作り人を避けるようになったんですな。『|組織《システム》』だけならともかく記号士たちまでやってきて私を利用しようとするものですからな。私はどうもああいう大組織は好かんです。なにしろ自分たちの都合しか考えんですからな」
「じゃああなたはどうして僕に対して妙な細工をしたんですか? |嘘《うそ》をついて僕を呼び寄せてわざわざ計算をさせたりして」
「私は『|組織《システム》』や記号士たちがあんたをつかまえて変にいじくりまわさんうちに、私の仮説をためしてみたかったんです。それが解明できれば、あんただってそれほど無茶苦茶な目にあわされずに済みますからな。私があんたにわたした計算データの中には第三の思考システムに切りかわるためのコールサインが隠されておったです。つまりあんたは第二の思考システムに切りかえたあとで、もうひとつポイントを切りかえ、第三の思考システムで計算を行なったことになりますな」
「第三の思考システムというのはあなたがヴィジュアライズして編集しなおしたシステムのことですね?」
「まさにそのとおりです」と博士は|肯《うなず》いた。
「しかしどうしてそれがあなたの仮説を証明することになるのです?」
「誤差の問題です」と博士は言った。「あんたは自分の意識の核を無意識のうちにきちんと|把《は》|握《あく》しておった。だから第二の思考システムを使用する段階においてはまったく問題がなかった。しかし第三の回路は、これは私が編集しなおしたものであって、当然そのふたつのあいだには誤差が生じておるです。そしてその誤差はあんたに対して何かしらの反応をもたらすはずなのです。私としてはその誤差に対する反応を計測してみたかったというわけです。その計測結果から、あんたが意識の底に封じこめておるもの[#「もの」に丸傍点]の強さや性格やその成因をもう少し具体的に推測できるはずだったのです」
「はずだった?」
「そうです。はずだったのです。しかし今ではすべてが|無《む》|駄《だ》に終りました。記号士たちがやみくろと組んでやってきて、私の研究室を破壊しつくしていきおったです。すべての資料も持ち去られた。私は|奴《やつ》らが引きあげてから一度研究室に戻ってたしかめてみたです。重要なものは何ひとつ残っておらんかったです。あれではとても誤差計測などできんです。奴らはヴィジュアル化したブラックボックスまで持っていきおったですよ」
「そのことと世界が終ることとがどう関係しているのですか?」と私は質問してみた。
「正確に言うと、今あるこの世界が終るわけではないです。世界は人の心の中で終るのです」
「わかりませんね」と私は言った。
「要するにそれがあんたの意識の核なのです。あんたの意識が描いておるものは世界の終りなのです。どうしてあんたがそんなものを意識の底に秘めておったのかはしらん。しかしとにかく、そうなのです。あんたの意識の中では世界は終っておる。逆に言えばあんたの意識は世界の終りの中に生きておるのです。その世界には今のこの世界に存在しておるはずのものがあらかた欠落しております。そこには時間もなければ空間の広がりもなく生も死もなく、正確な意味での価値観や自我もありません。そこでは獣たちが人々の自我をコントロールするのです」
「獣?」
「一角獣です」と博士は言った。「その街には一角獣がおるのです」
「その一角獣とあなたが僕にくれた頭骨とは何か関係があるのですか?」
「あれは私の作ったレプリカです。よくできておるでしょう。あんたのヴィジュアル・イメージをもとに作ったんだが、なかなか苦労したですよ。べつにとくに意味があるわけではなく、骨相学に興味があるのでちょいと作ってみただけです。あんたにプレゼントしますよ」
「ちょっと待って下さい」と私は言った。「|僕《ぼく》の意識の底にそういう世界があるということは一応わかりました。そしてあなたはそれをより明確な形に編集しなおして、僕の頭の中に第三の回路としてインプットした。次にコールサインを送りこんでその回路に僕の意識を送りこみ、シャフリングをさせた。そこまでは間違いありませんね?」
「間違いないです」
「そしてシャフリングが終った時点でその第三回路は自動的に閉鎖され、僕の意識はそもそもの第一回路に戻った」
「それが違うです」と博士は言って、首のうしろをぽりぽりと|掻《か》いた。「そういけば事は簡単ですが、そうはいかんのです。第三回路には自動閉鎖機能がないのです」
「じゃあ僕の第三回路は開きっぱなしになっているのですか?」
「まあそういうことですな」
「でも、僕は今こうして第一回路に従って思考し、行動していますよ」
「それは第二回路に|栓《せん》をしてあるからです。図にするとこういう仕組になっておるです」と博士は言って、ポケットからメモとボールペンをとり出して図を書き、それを私に手わたした。
「ということですな。これがあんたの通常の状態です。ジャンクションAはインプット1に、ジャンクションBはインプット2に接続されておる。ところが今はこうです」博士は別の紙にまた図を描いた。
「わかりますか? ジャンクションBは第三回路につながったまま、ジャンクションAを自動切りかえで第一回路に接続しておるわけです。であるから、あんたは第一回路で思考し、行動することが可能であるわけですな。しかしこれはあくまでかりそめのものです。早急にジャンクションBを回路2に切りかえねばならん。|何《な》|故《ぜ》かといえば第三回路は正確にはあんた自身のものではないからです。|放《ほう》っておけばその誤差のエネルギーが生じてジャンクションBを焼き切り、恒久的に第三回路につながったままになり、その放電でジャンクションAをポイントAにひきよせ、ついではそのジャンクションをも焼ききってしまうからです。私はそうなる前にその誤差エネルギーを計測し、ちゃんともとに戻すはずだったです」
「はずだった?」と私は訊いた。
「私の手ではそれができんようになったのです。さっきも申しあげたように、私の研究室は馬鹿どもの手で破壊され、大事な資料はすべて持ち去られてしまったです。だから申しわけないとは思うが、私にはなんともしてあげられんのです」
「そうするとですね」と私は言った。「私はこのままでいくと第三回路の中に恒久的にはまりこんでしまい、もうもとには戻れないというわけですか?」
「そうなりますな。世界の終りの中で暮すことになりますな。気の毒だとは思うですが」
「気の毒?」と私は|茫《ぼう》|然《ぜん》として言った。「気の毒で済む問題じゃないでしょう。あなたは気の毒って言っていればいいかもしれないけれど、いったい僕はどうなるんですか? もとはといえばあなたが始めたんじゃないですか。冗談じゃないですよ。こんなひどい話は聞いたことがない」
「しかし私も記号士とやみくろが結託するなどとは夢にも思わんかったですよ。|奴《やつ》らは私が何かを始めたことを知って、シャフリングの秘密を手に入れようとして襲ってきたのです。そしておそらく今では『|組織《システム》』もそのことを知っておるでしょう。我々二人は『|組織《システム》』にとっては両刃の剣なんです。わかりますかな? 連中は私とあんたが組んで、『|組織《システム》』とは別のところで何かを始めたと考えておるでしょう。そしてそれを記号士たちが|狙《ねら》っておることもつかんでおる。記号士たちはそれをわざと『|組織《システム》』に知れるように仕向けたのです。そうすれば『|組織《システム》』は機密を守るために我々を|抹《まっ》|殺《さつ》しようと計る。どちらにしても我々は『|組織《システム》』を裏切ったわけだし、たとえシャフリング方式が|一《いち》|頓《とん》|挫《ざ》するにせよ、彼らはそれでも我々を切ろうとするでしょうな。我々二人は第一次シャフリング計画の|要《かなめ》だし、我々が一緒に記号士たちの手に落ちれば大変なことになってしまうからです。一方記号士たちにしてみればそれが狙いだ。我々が『|組《シス》|織《テム》』に抹殺されてしまえばシャフリング計画は完全に終息するし、それを逃れて彼らのもとに我々が走れば、それはそれでいうことはない。いずれにしても彼らの失うものは何もないのです」
「やれやれ」と私は言った。私のアパートにやってきて部屋を荒し、私の腹を切ったのはやはり記号士たちなのだ。彼らは『|組織《システム》』の注意をこちらに向けさせるためにあのどたばた芝居を仕組んだのだ。とすれば私は完全に彼らの|罠《わな》の中にはまりこんでしまったことになる。
「そうすると僕はもうお手あげということになりますね。記号士たちからも『|組織《システム》』からも追われ、このままじっとしていれば僕という今の存在は消滅してしまう」
「いや、あんたの存在は終らんです。ただ別の世界に入りこんでしまうだけです」
「同じようなものですよ」と私は言った。「いいですか、僕という人間が虫めがねで見なきゃよくわからないような存在であることは自分でも承知しています。昔からそうでした。学校の卒業写真を見ても自分の顔をみつけるのにすごく時間がかかるくらいなんです。家族もいませんから、今僕が消滅したって|誰《だれ》も困りません。友だちもいないから、僕がいなくなっても誰も悲しまないでしょう。それはよくわかります。でも、変な話かもしれないけど、僕はこの世界にそれなりに満足してもいたんです。どうしてかはわからない。あるいは僕と僕自身がふたつに分裂してかけあい万歳みたいなことをやりながら楽しく生きてきたのかもしれない。それはわかりません。でもとにかく僕はこの世界にいた方が落ちつくんです。僕は世の中に存在する数多くのものを|嫌《きら》い、そちらの方でも僕を嫌っているみたいだけど、中には気に入っているものもあるし、気に入っているものはとても[#「とても」に丸傍点]気に入っているんです。向うが僕のことを気に入っているかどうかには関係なくです。僕はそういう風にして生きているんです。どこにも行きたくない。不死もいりません。年をとっていくのはつらいこともあるけれど、僕だけが年とっていくわけじゃない。みんな同じように年をとっていくんです。一角獣も|塀《へい》もほしくない」
「塀じゃなくて壁です」と博士が訂正した。
「なんだっていいです。塀でも壁でも、そんなものはいらないんです」と私は言った。「少し怒っていいですか? あまりないことなんですが、だんだん怒りたくなってきた」
「まあこの際だ、仕方ないでしょう」と老人は耳たぶを|掻《か》きながら言った。
「だいたいこのことの責任は百パーセントあなたにあります。僕には何の責任もない。あなたが始めて、あなたが|拡《ひろ》げて、あなたが僕を巻きこんだんだ。人の頭に勝手な回路を組みこみ、|偽《にせ》の依頼書を作って僕にシャフリングをさせ、『|組織《システム》』を裏切らせ、記号士に追いまわさせ、わけのわからない地底につれこみ、そして今僕の世界を終らせようとしている。こんなひどい話は聞いたことがない。そう思いませんか? とにかくもとに|戻《もど》して下さい」
「ふうむ」と老人はうなった。
「この人の言うとおりよ、おじいさま」と太った娘が口をはさんだ。「おじいさまはときどき自分のことに夢中になりすぎてしまって、それで人に迷惑をかけちゃうことになるのよ。あの足ひれの実験のときだってそうだったでしょ? なんとかしてあげなくっちゃ」
「私は良かれと思ってやったんだが、いかんせん状況が悪い方へ悪い方へと流れてしまったです」と老人はすまなそうに言った。「そして私の手ではどうにもできんところに来ちまったです。私にもどうにもできんし、あんたにもどうにもできん。車輪はどんどん回転を速めており、誰にもそれを|停《と》めることはできんのです」
「やれやれ」と私は言った。
「しかしあんたはその世界で、あんたがここで失ったものをとりもどすことができるでしょう。あんたの失ったものや、失いつつあるものを」
「僕の失ったもの?」
「そうです」と博士は言った。「あんたが失ったもののすべてをです。それはそこにあるのです」
26 世界の終り
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――発電所――
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夢読みの終ったあとで|僕《ぼく》が発電所に行く話をすると、彼女は暗い顔をした。
「発電所は森の中にあるのよ」と彼女は赤く燃えている石炭をバケツの中の砂に埋めて消しながら言った。
「森のほんの入口だよ」と僕は言った。「門番だってべつに問題はないって言ったよ」
「門番が何を考えているかは|誰《だれ》にもわからないわ。ほんの入口と言ったって、やはり森は危険なところなのよ」
「でもとにかく僕は行ってみるよ。どうしても楽器をみつけたいしね」
彼女は石炭をぜんぶ出してしまうと、その下の引きだし口を開け、そこにたまった白い灰をバケツにあけた。そして何度か首を振った。
「私もついていくわ」と彼女は言った。
「どうして? 君は森に近づきたくないんだろう? それに僕だって君をまきこみたくない」
「あなたを一人でやるわけにはいかないからよ。あなたは森の怖さをまだ十分には知らないもの」
我々は曇り空の下を川沿いに東に向けて歩いた。まるで春の到来を思わせるような暖かい朝だった。風もなく、川の水音もいつもの冷ややかな|明《めい》|晰《せき》さを失ってどことなくくすんで聞こえた。十分か十五分歩いたところで僕は手袋をとり、マフラーを外した。
「春のようだね」と僕は言った。
「そうね。でもこんな暖かさは一日しかつづかないの。いつもそうよ。またすぐに冬が|戻《もど》ってくるわ」と彼女は言った。
橋の南岸にまばらに並んだ人家をとおり越してしまうともう道の右手には畑しか見えなくなり、それにつれて丸石敷きの舗道も狭い|泥《どろ》|道《みち》に変った。畑の|畝《うね》のあいだには白く凍りついた雪が|掻《か》き|傷《きず》のようなかたちに何本も残っていた。左手の川岸には柳が並び、やわらかな枝を|川《かわ》|面《も》に垂らしていた。小さな鳥がその不安定な枝にとまり何度かバランスをとるように枝を揺すってから、あきらめてべつの樹木へと飛びたっていった。太陽の光は淡く、やさしかった。僕は何度か顔を上に向けて、その静かなあたたかみを味わった。彼女は右手を自分のコートのポケットに入れ、左手を僕のコートのポケットに入れていた。僕は左手で小型のトランクを持ち、右手でポケットの中の彼女の手を握っていた。トランクの中には我々の昼食と管理人にわたすみやげものが入っていた。
春が来れば様々なものごとがもっと楽になるに違いない、と彼女のあたたかい手を握りながら僕は思った。もし僕の心が冬を乗りきり、影の体が冬を乗りきることができれば、僕は自分の心をもっと正確なかたちでとり戻すことができるだろう。影が言うように僕は冬に打ち勝たねばならないのだ。
我々はまわりの風景に目をやりながら、ゆっくりと川上に向って歩いた。そのあいだ僕も彼女もほとんど口をきかなかったけれど、それは話すことがないからではなく、話す必要がないからだった。大地のくぼみに沿って白くのこった雪や、赤い木の実をくちばしにくわえた鳥や、ごわごわとして肉の厚い畑の冬野菜や、川の流れがところどころに作りだす小さな澄んだ|淀《よど》みや、雪に|覆《おお》われた尾根の姿を我々はひとつひとつたしかめるように|眺《なが》めながら歩いた。目にうつるありとあらゆる事象が、突然やってきた|束《つか》の|間《ま》の|温《ぬく》もりを胸いっぱいに吸いこみ、体のすみずみにまで|浸《し》みこませているように見えた。空を覆った雲にもいつものような重苦しさはなく、我々のささやかな世界をやわらかな手でそっと囲んでいるような不思議な親密感が感じられた。
枯れた草の上を獣たちが食べ物を求めてさまよっている姿にも出会った。彼らは白みを帯びた淡い金色の毛皮に包まれていた。その毛は秋よりはずっと長く、そして厚くなっていたが、それでも彼らの体が前に比べて|遥《はる》かにやせこけていることははっきりと見てとれた。肩の上には古いソファーのスプリングのようにくっきりとした形の骨がとびだし、口もとの肉はだらしなく見えるまでにたるんで下に垂れ下がっていた。|眼《め》には生彩がとぼしく、|四《し》|肢《し》の関節は球形にふくらんでいる。変っていないのは額から突き出た一本の白い角だけだった。角は以前と同じように、まっすぐに誇らしげに空を突いていた。
獣たちは三頭か四頭で小さなグループを組み、畑の畝をつたって小さな茂みから茂みへと移り歩いていた。しかし木の実や食用に適したやわらかな緑の葉はもう|殆《ほと》んど目につかなくなっていた。高い樹木の枝にはまだいくらか実は残っていたが、彼らの背たけではとてもそこまでは届かず、獣たちはその|樹《き》の下で地面に落ちた実を|空《むな》しく探し求めたり、鳥がそれをついばんでいくのを|哀《かな》しそうな目でじっと見上げたりしていた。
「どうして獣たちは畑の作物に手をつけないんだろう?」と僕は|訊《き》いてみた。
「それはきまっていることなのよ。どうしてかは私にもわからないわ」と彼女は言った。「獣たちは人間の口にするものには決して手をつけないの。もちろん私たちが与えれば食べることはあるけれど、そうでない限りは食べないの」
川岸では何頭かの獣たちが前脚を折り畳むようにして身をかがめ、淀みの水を飲んでいた。我々がすぐそばを通りすぎても、彼らは顔ひとつあげずに水を飲みつづけていた。淀みの水面には彼らの白い角の姿がくっきりと映っていたが、それはまるで水底に落ちた白い骨のように見えた。
門番が教えてくれたように、三十分ばかり川岸を歩いて東橋を過ぎたあたりに右に折れる小さな道があった。普通に歩いていれば見逃してしまいそうなほどの細い小さな道だ。そのあたりにはもう畑はなく、道の両側には丈の高い草が茂っているだけだった。そんな草原が東の森と畑とのあいだを隔てるように広がっているのだ。
草原のあいだの道を|辿《たど》っていくと、少しずつ上り坂になり、それにつれて草もまばらになっていった。そして坂は斜面になり、ついには岩山になった。もちろん岩山とはいっても何のとりかかりもない岩山をよじのぼるわけではなく、そこにはかなりきちんとしたステップがついていた。岩は比較的やわらかな砂岩で、ステップのかどは足に踏みならされて丸くなっている。十分ばかり歩いたところで、我々はその丘の頂上に出た。全体の高さとすれば僕の住んでいる西の丘よりは少し低いくらいだろう。
丘の南側は北側とはちがってなだらかな下り坂になっていた。枯れた草原がしばらくつづき、その向うに黒々とした東の森が海のように広がっている。
我々はそこに腰を下ろして息を整え、しばらくまわりの風景を眺めた。東側から見る街の風景は僕がいつも目にしている眺めとはずいぶん印象がちがっていた。川はおどろくほど直線的で、|中《なか》|洲《す》はひとつもなく、ただまっすぐに水が流れている人工的な水路のように見えた。川の向う側には北の湿地がつづき、湿地の右手には川を隔ててとび地[#「とび地」に丸傍点]、のような格好で東の森が大地を|浸蝕《しんしょく》している。川のこちら側の左手には我々が通りすぎてきた畑が見えた。見わたす限りに人家はなく、東橋もがらんとしてどことなく寂しげだった。目をこらせば職工地区や時計塔を認めることもできたが、それはなんとなくずっと遠くから送られてくる実体のないまぼろしのように思えた。
ひと休みしたあとで、我々は森に向けて坂を下った。森の入口には底の見える浅い池があり、その中央には骨のような色に枯死した巨木の根もとだけが立っていた。そこに二羽の白い鳥がとまって我々の姿をじっと眺めていた。雪は固く、我々の|靴《くつ》はその上に足あとひとつ残さなかった。長い冬は森の中の風景を一変させていた。そこには鳥の声もなく、虫の姿もなかった。巨大な樹木だけが生命の力を凍りつくことのない深い地底から吸いあげ、暗く曇った空にのばしていた。
森の中の道を歩いているうちに奇妙な音が耳につくようになった。それは森の中を舞う風の音に近かったが、あたりには風の吹いている気配はまったくといっていいほどなかったし、それに風の音にしてはあまりにも単調でピッチの変化がなかった。音は前に進むにつれてより大きくより明確になっていったが、それが何を意味するのかは我々にはわからなかった。彼女も発電所の近くまで来るのは初めてのことだったのだ。
太い|樫《かし》の木があり、その向うにがらんとした広場が見えた。広場の一番奥に発電所らしき建物があった。もっともそうはいっても、その建物には発電所という機能を示す特徴はひとつとしてなかった。ただの巨大な倉庫のようなものだった。何か変った設備があるわけでもないし、高圧線が出ているわけでもない。我々の耳にした奇妙な風音のようなものはどうやらその|煉《れん》|瓦《が》づくりの建物の中から聞こえてくるようだった。入口にはしっかりとした両開きの鉄の|扉《とびら》がつき、壁のずっと上の方には小さな窓がいくつか見えた。道はその広場のところで終っていた。
「どうやらこれが発電所のようだね」と僕は言った。
しかし正面の扉には|鍵《かぎ》がかかっているらしく、我々二人が力を合わせても扉はぴくりとも動かなかった。
我々は建物をぐるりと一周してみることにした。発電所は正面よりは奥行の方がいくぶん長く、そちらの壁にも正面と同じように高く小さな窓が一列に並び、窓からあの奇妙な風音が聞こえていた。しかしドアはない。のっぺりとした何のとりかかりもない煉瓦の壁がそびえているだけだ。それはまるで街をとり囲むあの壁と同じように見えたが、近寄ってみるとこちらの方の煉瓦は壁を構成している煉瓦とはまるで質の違う粗雑なものだった。手でさわった感触もざらざらしているし、ところどころが欠けたりもしている。
裏手には建物と隣接して同じ煉瓦づくりのこぢんまりとした人家が建っていた。門番小屋と同じ程度の大きさのもので、ごく普通のドアと窓がついていた。窓にはカーテンがわりに布の穀物袋がかかり、屋根には|煤《すす》で黒ずんだ煙突が立っていた。少くともこちらの方には人の生活の|臭《にお》いのようなものが感じられた。僕は木の扉を三回ずつ三度ノックしてみたが、返事はなかった。扉には鍵がかかっていた。
「向うに発電所の入口があるわ」と彼女が言って僕の手をとった。彼女の指さす方を見ると、たしかに建物の裏手の|隅《すみ》の方に小さな入口がついていて、その鉄の扉は外に向って開いていた。
入口の前に立つと風音は一層大きくなった。建物の内部は予想していたよりずっと暗く、目が暗さに慣れるまでは両手でおおいを作ってじっと中をのぞきこんでも、そこに何があるのか見当もつかなかった。中には電灯ひとつなく――発電所に電灯がひとつもついていないというのはなんとなく不思議だった――高い窓から|射《さ》しこむ弱い光はやっと天井のあたりにとどまっているだけだった。風音だけが我がもの顔にがらんとした建物の中を舞っていた。
声を出しても誰にも聞こえそうにもなかったので、僕はそのまま入口に立って黒い眼鏡を外し、目が|暗《くら》|闇《やみ》に慣れるのを待った。彼女は少し離れて、僕のうしろに立っていた。彼女はできることなら建物には近寄りたくなさそうに見えた。風音と暗闇が彼女を|怯《おび》えさせているのだ。
いつも暗闇に慣れているせいで、僕の目が建物の床のまん中あたりに立っている男の姿をみとめるのに、それほどの時間はかからなかった。やせた|小《こ》|柄《がら》な男だった。男の前には幅が三メートルか四メートルある太い鉄の円柱がまっすぐに天井までそびえていて、男はじっとその円柱を眺めていた。その円柱の|他《ほか》には設備らしい設備、機械らしい機械はひとつとしてなく、建物の中は室内乗馬場のようにがらんとしていた。床にも壁と同じように煉瓦が敷いてあった。まるで巨大なかまどだ。
僕は彼女を入口に置いて一人で建物の中に入っていった。入口と円柱のまん中あたりまで進んだところで、男は僕の存在に気づいたようだった。彼は体を動かさずに顔だけをこちらに向け、僕が近づいていくのをじっと見ていた。若い男だった。たぶん僕よりいくつか年は下だろう。彼はあらゆる面で門番とは対照的な外見をしていた。手脚と首筋はすらりと細く、顔の色は白かった。|肌《はだ》はなめらかでほとんど|髭《ひげ》のあともなく、髪のはえぎわは広い額のいちばん上まで後退していた。服装もこざっぱりとしてととのっていた。
「こんにちは」と僕は言った。
彼は|唇《くちびる》をしっかりと結んだままじっと僕の顔を見つめ、それから小さく|会《え》|釈《しゃく》をした。
「お邪魔じゃありませんか?」と僕は|訊《たず》ねてみた。風音のせいで大きな声を出さねばならなかった。
男は首を振って邪魔ではないことを示し、それから僕に向って円柱についた葉書ほどの大きさのガラス窓を指さした。その中をのぞいてみろということらしかった。よく見ると、ガラス窓は円柱についた扉の一部だった。扉はしっかりとボルトで固定されている。ガラス窓の向うでは地面と平行にとりつけられた巨大な扇風機のようなものが激しい勢いで回転していた。それはまるで何千馬力というモーターが軸を回転させているかのようだった。おそらくどこかから吹きこんでくる風圧でファンを回転させ、その力を利用して電気を起しているのだろうと僕は想像した。
「風ですね」と僕は言った。
そうだ、という風に男は|肯《うなず》いた。それから彼は僕の腕をとって入口の方に向った。彼は僕よりは頭半分ばかり背が低かった。我々は仲の良い友人のように肩を並べて入口に向った。入口には彼女が立っていた。若い男は彼女に対しても僕に対するときと同じような小さな会釈をした。
「こんにちは」と彼女は言った。
「こんにちは」と男も答えた。
彼は我々二人を風音のあまりとどかないところまでつれていった。小屋のうしろには森を切り|拓《ひら》いた畑があった。そのいくつか並んだ切り株の上に我々は腰を下ろした。
「すみません。私はあまり大きな声が出ないんです」と若い管理人は弁解するように言った。「あなたがたはもちろん街の方ですね?」
そうだ、と僕は答えた。
「ごらんになったように」と若い男は言った。「この街の電力は風の力でまかなわれています。ここの地面には大きな穴がぽっかりと口を開けていて、そこから吹きあげてくる風を利用しているわけです」
男はしばらく口を閉ざして足もとの畑を見つめていた。
「風は三日に一度吹きあげます。このあたりの地下には|空《くう》|洞《どう》が多いんです。その中を風や水が|往《ゆ》き|来《き》しています。私はここで設備の保全をしています。風のないときにファンのボルトを閉めたり、グリースを塗ったりしているんです。あるいはスウィッチが凍りついたりしないようにね。そしてここで起した電気は地下ケーブルで街に送られます」
管理人はそう言って畑を見まわした。畑のまわりを森が壁のように高く囲んでいた。畑の黒い土は丁寧に整えられていたが、そこにはまだ作物の姿はなかった。
「暇なときに少しずつ森を拓いて、畑を広げているんです。一人ですからもちろん大がかりなことはできません。大きな木は|迂《う》|回《かい》して、なるべく手をつけられそうなところを選んでいるんです。でも自分の手で何かをやるというのは良いものです。春になれば野菜もできます。あなたがたはここに見学にいらっしゃったんですか?」
「そんなところです」と|僕《ぼく》は言った。
「街の人はまずここにはみえません」と管理人は言った。「森の中には|誰《だれ》も入ってこないんです。もちろん配達の人はべつですがね。週に一度その人が食糧とか日用品を届けにきてくれるんです」
「ここにずっと一人で住んでいるんですか?」と僕は訊いてみた。
「ええ、そうです。もうずいぶん長くですね。音を聞いているだけで細かい機械の調子までわかるくらいです。なにしろ毎日機械と話をしているようなものですからね。長くやっていればそれくらいのことはわかるようになります。機械の調子が良ければ、私自身もとても落ちつくんです。それから森の音もわかります。森はいろんな音を立てるんです。まるで生きているみたいにです」
「森に一人で住んでいるのはつらくありませんか?」
「つらいかつらくないかというのは私にはよくわからない問題です」と彼は言った。「森はここにあるし、私はここに住んでいます。それだけのことです。誰かがここにいて機械の様子を見ていなきゃならないんです。それに私がいるところは森のほんの入口ですからね、奥のことはよくわからないんです」
「他にあなたのように森に住みついている人はいるんですか?」と彼女が訊ねた。
管理人はしばらく考えこんでいたが、やがて小さく何度か肯いた。
「何人かは知っています。もっとずっと奥の方ですが、何人かはいます。彼らは石炭を掘ったり、森を拓いて畑を作ったりしています。でも私の会ったことのあるのはほんの数人だし、それもほんの少ししか口をきいていません。私は彼らに受け入れられていないからです。彼らは森に住みついていますが、私はここで暮しているだけですからね。奥の方にはもっとたくさんそういう人たちがいるんでしょうが、それ以上のことは私にもわかりません。私は森の奥には行かないし、彼らは入口の方までは殆んど出てはこないんです」
「女の人を見かけたことはありませんか?」と彼女が質問した。「三十一か二くらいの女の人」
管理人は首を振った。「いいえ、女の人は一人も見かけませんでしたね。私の出会ったのは男ばかりです」
僕は彼女の顔を見たが、彼女はそれ以上は口をきかなかった。
27 ハードボイルド・ワンダーランド
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――百科事典棒、不死、ペーパー・クリップ――
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「やれやれ」と私は言った。「本当に何も打つ手はないのですか? あなたの計算では今の状況はどのあたりまで進行しているのですか?」
「あんたの頭の中の状況のことですかな?」と博士は言った。
「もちろんです」と私は言った。|他《ほか》にいったいどんな状況があるというのだ。「|僕《ぼく》の頭の中はどのあたりまで壊滅しているんですか?」
「私の試算によれば、あんたのジャンクションBは既に、だいたい六時間ほど前に、溶解しておるでしょう。この溶解[#「溶解」に丸傍点]というのはもちろん便宜上の用語であって実際に脳の一部が溶けておるということではなく、つまり――」
「第三回路が固定されて、第二回路が死んだわけですね?」
「そういうことです。だからさっきも申しあげたように、あなたの中で既に補整ブリッジングが始まっておるのです。要するに記憶が生産されはじめておるのですな。|比《ひ》|喩《ゆ》を使わせていただけるならば、あなたの意識下の象工場の様式の変化にあわせて、そこと表層意識のあいだをつなぐパイプが|補整《アジャスト》されておるのです」
「ということは」と私は言った。「ジャンクションAもきちんとは機能していないということなのですか? つまり意識下の回路から情報が|洩《も》れているということでしょう?」
「正確にはそうではないです」と博士は言った。「パイプはもともと存在しておるのです。いくら思考回路を分化するといっても、そのパイプまで|遮《しゃ》|断《だん》するわけにはいかん。というのはあんたの表層意識――つまり回路1はあんたの表層下意識つまり回路2の養分を吸って成立しておるからです。そのパイプは樹木の根であり、アースでもあるわけです。それがないことには人間の脳は機能せんです。だから我々はそのパイプを残してあるです。必要最低限、正常な状態ならば不必要なリークや逆流がない程度にですな。ところがジャンクションBの溶解によって起った放電のエネルギーがそのパイプに正常ならざるショックを与えたですな。それであんたの脳がびっくりして補整作業を開始したというわけです」
「そうすると、この記憶の新たなる生産はこれからもどんどんと続くわけですね?」
「そうなりますな。簡単に言えばデジャ・ヴュのようなものです。原理的にはあまり変らんです。そういうのがしばらくつづくでしょう。そしてそれはやがてその新しい記憶による世界の再編へと向う」
「世界の再編?」
「そうです。あんたは今、別の世界に移行する準備をしておるのです。だからあんたが今見ておる世界もそれにあわせて少しずつ変化しておる。認識というものはそういうものです。認識ひとつで世界は変化するものなのです。世界はたしかにここにこうして実在しておる。しかし現象的なレベルで見れば、世界とは無限の可能性のひとつにすぎんです。細かく言えばあんたが足を右に出すか左に出すかで世界は変ってしまう。記憶が変化することによって世界が変ってしまっても不思議はない」
「それは|詭《き》|弁《べん》のように聞こえますね」と私は言った。「あまりにも観念的にすぎる。あなたは時間性というものを無視している。そういうことが実際に問題となるのはタイム・パラドックスにおいてのみです」
「これはある意味ではまさにタイム・パラドックスなのですよ」と博士は言った。「あんたは記憶を作りだすことによって、あんたの個人的なパラレル・ワールドを作りだしておるんです」
「とすると、僕の体験しているこの世界は本来の僕の世界からは少しずつずれているというわけですね?」
「それは正確にはわからんし、|誰《だれ》に証明することもできんです。ただそういう可能性もないではないということを私は言っておるですよ。もちろん私はSF本のような極端なパラレル・ワールドのことを意味しておるわけではないです。あくまでそれは認識上の問題です。認識によって|捉《とら》えられる世界の姿です。それは様々な面で変化しておるだろうと私は思いますな」
「そしてその変化のあとでジャンクションAが切りかわり、まるで別の世界が現われ、僕はそこで生きることになるのですね? そしてその転換を僕は避けるわけにはいかない、座してそれを待つだけだと?」
「そういうことです」
「その世界はいつまでつづくんですか?」
「いつまででも」と博士は言った。
「わかりませんね」と私は言った。「|何《な》|故《ぜ》いつまででも[#「いつまででも」に丸傍点]なんですか? 肉体には限りがあるはずです。肉体が死ねば脳も死ぬ。脳が死ねば意識も終る。そうじゃありませんか?」
「それが違うのです。思念には時間というものがないのです。それが思念と夢の違いですな。思念というものは一瞬のうちにすべてを見ることができます。永遠を体験することもできます。クローズド・サーキットを設定してそこをぐるぐるとまわりつづけることもできます。それが思念というものです。夢のように中断されるということはない。それは百科事典棒に似ています」
「百科事典棒?」
「百科事典棒というのはどこかの科学者が考えついた理論の遊びです。百科事典を|楊《よう》|枝《じ》一本に刻みこめるという説のことですな。どうするかわかりますか?」
「わかりませんね」
「簡単です。情報を、つまり百科事典の文章をですな、全部数字に置きかえます。ひとつひとつの文字を二|桁《けた》の数字にするんです。Aは01、Bは02、という具合です。00はブランク、同じように句点や読点も数字化します。そしてそれを並べたいちばん前に小数点を置きます。するととてつもなく長い小数点以下の数字が並びます。0・1732000631……という具合ですな。次にその数字にぴたり相応した楊枝のポイントに刻みめを入れる。つまり0・50000……に相応する部分は楊枝のちょうどまん中、0・3333……なら前から三分の一のポイントです。意味はおわかりになりますな?」
「わかります」
「そうすればどんな長い情報でも楊枝のひとつのポイントに刻みこめてしまうのです。もちろんこれはあくまで理論上のことであって、現実にはそんなことは無理です。そこまで細かいポイントを刻みこむことは今の技術ではできません。しかし思念というものの性質を理解していただくことはできるでしょう。時間とは楊枝の長さのことです。中に詰められた情報量は楊枝の長さとは関係ありません。それはいくらでも長くできます。永遠に近づけることもできます。循環数字にすれば、それこそ永遠につづきます。終らないのです。わかりますか? 問題はソフトウェアにあるのです。ハードウェアには何の関係もありません。それが楊枝であろうが二百メートルの長さの木材であろうがあるいは赤道であろうが、何の関係もないのです。あなたの肉体が死滅して意識が消え朽ち果てても、あなたの思念はその一瞬前のポイントをとらえて、それを永遠に分解していくのです。飛ぶ矢に関する古いパラドックスを思いだして下さい。『飛ぶ矢はとどまっている』というあれですな。肉体の死は飛ぶ矢です。それはあなたの脳をめがけて一直線に飛んできます。それを避けることは誰にもできません。人はいつか必ず死ぬし、肉体は必ず滅びます。時間が矢を前に進めます。しかしですな、さっきも申しあげたように思念というものは時間をどこまでもどこまでも分解していきます。だからそのパラドックスが現実に成立してしまいます。矢は当らないのです」
「つまり」と私は言った。「不死だ」
「そうです。思念の中に入った人間は不死なのです。正確には不死ではなくとも、限りなく不死に近いのです。永遠の生です」
「あなたの研究の本当の目的はそこにあったんですね?」
「いや、そうじゃないです」と博士は言った。「私も最初はそれに気がつかなかった。最初はほんのちょっとした興味本意で始めた研究でした。しかし研究を進めるうちにそれにぶつかったのです。そして私は発見した。人間は時間を拡大して不死に至るのではなく、時間を分解して不死に至るのだということをですよ」
「そして僕をその不死の世界にひきずりこんだのですね?」
「いや、これはまったくの事故です。私にはそんなつもりはなかったです。信じて下さい。本当です。あんたをそんな風にしようというつもりはなかったですよ。しかし今となっては|選《え》り|好《ごの》みはできんようになった。あんたが不死の世界をまぬがれる手はひとつしかないです」
「どんな手ですか?」
「今すぐ死ぬことです」と博士は事務的な口調で言った。「ジャンクションAが結線する前に死んでしまうのです。そうすれば何も残らない」
深い沈黙が|洞《どう》|窟《くつ》の中を支配した。博士が|咳《せき》|払《ばら》いし、太った娘がため息をつき、私はウィスキーを出して飲んだ。誰もひとことも口をきかなかった。
「それは……どんな世界なんですか?」と私は博士にたずねてみた。「その不死の世界のことです」
「さっきも申しあげたとおり」と博士は言った。「それは安らかな世界です。あんた自身が作りだしたあんた自身の世界です。あんたはそこであんた自身になることができます。そこには何もかもがあり、同時に何もかもがない。そういう世界をあんたは想像できますか?」
「できませんね」
「しかしあんたの表面下の意識はそれを作りあげておるのです。それは誰にでもできるということではないです。矛盾したわけのわからんカオスの世界を永遠に|彷徨《さ ま よ》わねばならんものもおるのです。しかしあんたは違う。あんたは不死にふさわしい人なのです」
「その世界の転換はいつ起るのかしら?」と太った娘が|訊《たず》ねた。
博士は腕時計を見た。私も腕時計を見た。六時二十五分だった。もう夜はすっかり明けている。朝刊も配り終えられている。
「私の試算によれば、あと二十九時間と三十五分というところですな」と博士は言った。「プラス・マイナス四十五分くらいの誤差はあるかもしれんが、まず間違いはないでしょうな。わかりやすいように正午にセットしておいたんです。明日の正午ですな」
私は首を振った。わかりやすいように? そしてまたウィスキーをひとくち飲んだ。しかしどれだけ飲んでも体内にアルコールが入ったような気配はまるでなかった。ウィスキーの味さえもしなかった。まるで胃が石化してしまったような変な気分だった。
「これからどうするつもりなの?」と娘が私の|膝《ひざ》の上に手を置いて訊ねた。
「さあ、わからないな」と私は言った。「でもとにかく地上に出たい。こんなところで成り行きを待っているのは|嫌《いや》だ。日の出ているところにでるよ。次のことはそのあとで考える」
「私の説明はこれで十分でしたかな?」と博士が訊ねた。
「十分です。ありがとう」と私は答えた。
「怒っておられるでしょうな?」
「少しはね」と私は言った。「でも怒ってどうにかなるというものではないし、それにあまりにも|突拍子《とっぴょうし》もないことなので、まだ現実的にうまく|呑《の》みこめないでいるんです。もっとあとになれば、もっと腹が立ってくるかもしれない。もっともその|頃《ころ》には僕はもうこちらの世界では死んでいるんでしょうがね」
「私は本当はこんなに詳しい説明をするつもりはなかったのです」と博士は言った。「こういうことは知らなければ知らんうちに終ってしまうものですからな。あるいはその方が精神的にも楽だったのだろうが。しかしですな、死ぬわけではないですよ。意識が永久になくなるだけです」
「同じようなもんです」と私は言った。「しかしいずれにせよ事情は知りたかったですね。少くともこれは僕の人生ですからね。知らないうちにスウィッチを入れかえたりされたくはない。僕のことは僕が自分で処理をします。出口を教えて下さい」
「出口?」
「ここから地上に出る出口です」
「時間がかかるし、やみくろの巣のそばを通ることになるがかまわんですかな?」
「かまいません。こうなると怖いものなんてもうあまりありませんからね」
「よろしい」と博士は言った。「ここの岩山を降りて水面に出ます。水はもうぴたりとおさまって静かになっておるから、楽に泳げるです。泳ぐ方向は南南西です。方位はライトで照らしてあげるです。そちらにまっすぐ泳いでいくと、向う岸の壁の水面の少し上あたりに小さな穴が開いておるです。そこをつたっていけば下水道に出ます。その下水道がまっすぐに地下鉄の軌道に通じておるです」
「地下鉄?」
「はい、そうです。地下鉄銀座線の|外《がい》|苑《えん》|前《まえ》と青山一丁目のちょうどまん中あたりですな」
「どうして地下鉄なんかに通じているんですか?」
「やみくろたちは地下鉄の軌道を支配しておるからです。昼間はとにかく、夜になると|奴《やつ》らは地下鉄の構内を我がもの顔に|跋《ばっ》|扈《こ》しておるです。東京の地下鉄工事がやみくろたちの活動範囲を飛躍的に|拡《ひろ》げたというわけです。なにしろ奴らのために通路を作ってやったわけですからな。彼らはときどき保線工を襲って食ったりもするですよ」
「どうしてそれが明るみに出ないんですか?」
「そんなことを発表したらえらいことになるからです。そんなことが世間に知れていったい誰が地下鉄に勤めますか? いったい誰が地下鉄に乗りますか? もちろん当局はそのことを知っておって、壁を厚くして穴を|塞《ふさ》いだり、電灯を明るくして警備しておるですが、それしきのことでやみくろたちが防げるというものではない。奴らはひと晩で壁を破り、電気のケーブルを食いちぎるのです」
「外苑前と青山一丁目のまん中あたりに出るとなると、このあたりはいったいどこなんですか?」
「そうですな、明治神宮の|表参道《おもてさんどう》寄りといったところではないですかな。私にも正確な地点はよくわからんが。とにかく道は一本です。かなり曲りくねった狭い道で多少時間はかかるが迷うことはないでしょう。あんたはまずここから|千《せん》|駄《だ》ヶ|谷《や》方面に向います。やみくろの巣はだいたい国立競技場の少し手前あたりにあると承知しておって下さい。そこで道は右に折れておるです。右に折れて、神宮球場の方に向い、そこから絵画館から青山通りの銀座線に出るわけです。出口までは約二時間というところでしょう。おおよそのところはおわかりになりましたかな?」
「わかりました」
「やみくろの巣のあたりはできるだけ速かに通り抜けて下さい。あんなところでうろうろしておるとロクなことはないです。それから地下鉄には気をつけて下さい。高圧線もとおっておるし、電車もひっきりなしに走っておる。なにしろ今はラッシュアワーですからな。やっとの思いでここを抜けだして電車に|轢《ひ》かれてもつまらんでしょう」
「気をつけましょう」と私は言った。「ところであなたはこれからどうするんですか?」
「脚もくじいておるし、今外に出たところで『|組織《システム》』や記号士に追いかけられるだけだ。しばらくここに隠れておるですよ。ここにおれば誰も追ってはこれん。幸い食料も頂きましたしな。私は少食だから、これだけあれば三、四日は生きていけるです」と博士は言った。「どうぞ先に行って下さい。私の心配はいらんですよ」
「やみくろよけの装置はどうするんですか? 出口まで行くには装置がふたつ必要だし、そうすればあなたの手もとには装置がひとつも残らないことになる」
「孫娘を一緒につれていきなさい」と博士が言った。「この子があんたを送ってからまた|戻《もど》ってきて私を連れだしてくれるです」
「それでいいわよ」と孫娘が言った。
「でももし彼女の身に何かがあったらどうするんですか? もしつかまってしまうとか、そんなことになったら?」
「つかまらないわ」と彼女は言った。
「心配はいらんです」と博士は言った。「この子は年のわりには実にしっかりとしておる。私は信用しておるです。それにいざとなれば非常手段がないわけではない。実は乾電池と水と薄い金属片があれば、即席のやみくろよけができます。原理的にはまあ簡単なものでして、装置ほどの強い効力はないが、私はここの地の利に通じておるから、奴らをふりきるくらいのことはできるです。私はここまでくる道筋に、ほら、金属片を|撒《ま》いておったでしょうが? あれをやっとくとやみくろが嫌がるわけです。効力は十五分か二十分程度しかつづかんですが」
「金属片というのはあのペーパー・クリップのことですか?」と私は|訊《き》いてみた。
「そうそう。ペーパー・クリップがいちばん適しておるのです。安いしかさばらんし、すぐに磁気を帯びてくれるし、輪っかにして首にかけていくこともできる。なんといってもペーパー・クリップがいちばんですよ」
私はウィンドブレーカーのポケットからペーパー・クリップをひとつかみだして博士に手渡した。「これだけあればいいでしょう?」
「これはこれは」と博士はびっくりしたように言った。「これはまったく助かるです。実は|往《い》きの道で少々撒きすぎましてな、数が足らんのではないかと思っておったところです。あんたは本当に気が|利《き》く方だ。いや実におそれいります。これほど頭の働く方も珍らしい」
「そろそろでかけるわ、おじいさま」と孫娘が言った。「もうあまり時間もないしね」
「気をつけてな」と博士は言った。「やみくろというのはこすい奴らだからな」
「大丈夫よ。ちゃんと戻ってくるから」と孫娘は言って博士の額に軽く|唇《くちびる》をつけた。
「それからあんたには結果的に実に申しわけないことをしたと思っとるです」と博士は私に向って言った。「かわれるものなら私がかわってあげたいくらいのものです。私の場合はもうたっぷりと人生を楽しんだし、思い残すこともありませんからな。あんたにとっては少し早すぎたかもしれん。急なことで心の準備もできておらんだろうし、この世界にやり残しておることもいっぱいあるでしょう」
私は黙って|肯《うなず》いた。
「しかし必要以上に|怖《おそ》れんで下さい」と博士はつづけた。「怖れることはありません。いいですか、これは死ではないのです。永遠の生です。そしてそこであんたはあんた自身になれるのだ。それに比べれば、この今の世界はみせかけのまぼろしのようなものに過ぎんです。それを忘れんで下さい」
「さ、行きましょう」と言って娘が私の腕をとった。
28 世界の終り
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――楽器――
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発電所の若い管理人は我々二人を彼の小屋に入れてくれた。彼は小屋の中に入るとストーヴの火の具合を調べ、それから湯の沸いたやかんを持ってキッチンに行き、茶を入れてくれた。我々は森の寒さのせいですっかり凍えきっていたので、温かい茶を飲めるのはとても|有《あり》|難《がた》かった。我々がそれを飲んでいるあいだもずっと風音はつづいていた。
「森でとれるお茶なんです」と管理人は言った。「夏のあいだずっと日陰干ししておくんです。そうすれば一冬これが飲めます。栄養もあるし、体もあたたまります」
「とてもおいしいわ」と彼女は言った。
香ばしく、味に素直な甘さがあった。
「なんていう植物の葉なんですか?」と|僕《ぼく》は|訊《たず》ねた。
「さあ、名前まではわかりません」と若者は言った。「森にはえている草です。香りが良いのでためしにお茶に使ってみたんですよ。緑色の丈の低い草で、七月|頃《ごろ》に花が咲きます。その頃に短かい葉をつんで干すんです。獣たちはその花を好んで食べます」
「獣もここに来るんですか?」と僕は|訊《き》いた。
「ええ、秋の初めまでですがね。冬が近づくと彼らはばったりと森には寄りつかなくなります。暖かいときには何頭かずつグループになってやってきて、私と遊んだりしてくれます。私も食糧を分けてやったりしますからね。でも冬は|駄《だ》|目《め》です。食べ物をもらえるとわかっていても、彼らは森には近づかないんです。だから私も冬のあいだはずっとひとりぼっちです」
「よかったら御一緒に昼食でもとりませんか?」と彼女が言った。「サンドウィッチと果物を持ってきてるんですが、二人で食べるには多すぎるみたいなの。いかがです?」
「ありがたいですね」と管理人は言った。「|誰《だれ》かに作ってもらった料理を食べられるなんて久しぶりです。私の方には森のきのこで作った煮込みがあります。召しあがりませんか?」
「いただきます」と僕は言った。
我々三人は彼女の作ったサンドウィッチを食べ、きのこの煮込みを食べ、食後に果物をかじり茶を飲んだ。食事のあいだ我々はあまり口をきかなかった。黙りこんでいると風音がまるで透明な水のように部屋にもぐりこんできてその沈黙を埋めた。ナイフやフォークや食器の触れあう音も風音に混じると何かしら非現実的な響きを帯びているように聞こえた。
「森から出ることはないんですか?」と僕は管理人に訊いた。
「ありません」と言って彼は静かに首を振った。「そう決められているんです。ここにずっといて発電所を管理するんです。いつか誰かがやってきてこの仕事をかわってくれるかもしれません。いつになるかはわかりませんが、もしそうなれば私も森を出て街に|戻《もど》ることができます。しかしそれまでは駄目です。森から一歩も外に出ることはできません。ここで三日ごとにやってくる風を待っているわけですね」
僕は|肯《うなず》いて茶の残りを飲んだ。風音が始まってからそれほど長い時間は|経《た》っていない。まだ二時間か二時間半くらいはこの音がつづくのだろう。じっと風音を聴いていると、少しずつそちらの方に体がひっぱっていかれそうな気がした。森の中のがらんとした発電所で一人でこの風音を聴いているのはきっと|淋《さび》しいものなのだろうと僕は想像した。
「ところであなたがたは発電所の見学のためだけにここにいらっしゃったんではないでしょう?」とその若者が僕に訊いた。「さっきも申しあげたように街の人はまずここまでは来ませんからね」
「我々は楽器を探しに来たんです」と僕は言った。「あなたのところにうかがえば楽器がどこにあるかわかると教えられたんです」
彼は何度か肯いて、|皿《さら》の上にかさねるようにして置かれたフォークとナイフをしばらく見つめていた。
「たしかに楽器ならここにいくつかあります。古いものなので使えるかどうかはわかりませんが、もし使えるものがあればお持ちになって下さい。どうせ僕には何も弾けません。並べて|眺《なが》めているだけです。ごらんになりますか?」
「そうさせていただければ」と僕は言った。
彼は|椅《い》|子《す》を引いて立ちあがり、僕もそれにならった。
「どうぞこちらです。寝室に飾ってあるんです」と彼は言った。
「私はここにいて食器を片づけてコーヒーでもいれておくわ」と彼女は言った。
管理人は寝室に通じるドアを開けて電灯をつけ、僕を中に入れた。
「ここです」と彼は言った。
寝室の壁に沿って様々な種類の楽器が並んでいた。その|全《すべ》ては|骨《こっ》|董《とう》|品《ひん》といってもいいくらい古びたもので、大部分は弦楽器だった。マンドリンやギターやチェロや小型のハープなんかだ。弦のおおかたは赤く|錆《さ》びつき、切れ、あるいはまったく紛失していた。この街ではその代替品をみつけることはできないだろう。
中には僕の見たことのない楽器もあった。まるで|洗《せん》|濯《たく》|板《いた》のような形をした木製の楽器で、|爪《つめ》のような金属の突起が一列に並んでいた。僕はそれを手にとってしばらく試してみたが、音はまるで出てこなかった。小さな太鼓をいくつか並べたものもあった。専用の小さなスティックもついていたが、それでメロディーを|奏《かな》でることは不可能なようだった。バスーンに似た形の大型の管楽器もあったが、僕には扱いきれそうになかった。
管理人は小さな木製のベッドに腰を下ろして、僕が楽器をひとつひとつ調べていく姿を眺めていた。ベッド・カバーも|枕《まくら》も清潔で、きちんとメイクされている。
「何か使えそうなものはありますか?」と彼が声をかけた。
「さあ、どうかな」と僕は言った。「なにしろみんな古いものですからね。調べてみますよ」
彼はベッドを立って戸口に行き、ドアを閉めて戻ってきた。寝室には窓がなかったので、ドアを閉めると風音が小さくなった。
「私がどうしてそんなものを集めているか気になりませんか?」と管理人が僕に訊ねた。「この街じゃ誰もそんなものに興味を持ったりはしません。この街の人間は誰ももの[#「もの」に丸傍点]になんか興味を持たないんです。もちろん生活に必要なものはみんな持っています。|鍋《なべ》や包丁やシーツや服なんかはね。でもそれだってあればいいんです。用が足りればいいんです。それ以上のものは誰も求めたりはしません。ところが私はそうじゃないんです。私はこういうもの[#「もの」に丸傍点]にとても興味があるんです。どうしてかは自分でもよくわかりません。でもこういうものにひきつけられるんです。こみいった形のものや、美しいものにね」
彼は枕の上に片手を置き、もう一方の手をズボンのポケットにつっこんでいた。
「だからほんとうのことを言えば、この発電所のことも好きなんです」と彼はつづけた。「ファンやいろんな計器や変圧装置なんかがです。私の中にもともとそういう傾向があって、それでここに送られることになったのかもしれません。あるいはここに来て一人で暮しているうちにそういう傾向がでてきたのかもしれません。ここに来たのはもうずっと昔のことなんで、それ以前のことはすっかり忘れてしまいました。だからときどき私はもう二度と街に戻れないんじゃないかっていう気がすることがあるんです。私にこんな傾向がある限り決して街は私を受け入れてはくれないでしょうからね」
僕は二本しか弦の残っていないバイオリンを手にとって、指で弦をはじいてみた。乾いたスタッカートの音がした。
「楽器はどこから集めてきたんですか?」と僕は訊いた。
「いろんなところからです」と彼は言った。「食糧を届けてくれる人に頼んで集めてもらったんです。いろんな家の押入れの中や|納《な》|屋《や》にはときどき古い楽器が埋もれていることがあるんです。おおかたのものは使いみちがないままに|焚《た》き|木《ぎ》がわりにされてしまいましたが、少しはまだ残っていました。そういうものをみつけて持ってきてもらったんです。楽器というのはみんな良いかたちをしています。私には使い方もわからないし、使おうという気持もないのですが、見ているだけでその美しさは感じられます。こみいっていて、しかも無駄がありません。いつもここに座ってぼんやりと眺めています。それだけで満足なんです。こういう感じ方っておかしいと思いますか?」
「楽器というのはとても美しいものです」と僕は言った。「べつにおかしくはないですよ」
僕はチェロと太鼓にはさまれたところに転がっている|手《て》|風《ふう》|琴《きん》に目をとめて、それを拾いあげてみた。昔風に|鍵《けん》|盤《ばん》のかわりにボタンがついている。|蛇《じゃ》|腹《ばら》の部分は固くこわばってところどころに細いひびが入っていたが、見たところ空気は|洩《も》れていないようだった。僕は両側のベルトに手を入れて何度か伸縮させてみた。思っていたより大きく伸縮させなければならなかったが、キイがうまく働けばなんとか使えそうだった。手風琴というのは空気さえ洩れていなければ故障の少ない楽器だし、それに空気が洩れていても比較的簡単に修理することができる。
「音を出してみてもいいですか?」と僕は訊ねた。
「どうぞ、構いませんよ。そのためのものですから」と青年は言った。
僕は蛇腹を左右にのばしたり縮めたりしながら、下の方からキイを順番に押さえてみた。キイの中には小さな音しか出ないものもあったが、一応きちんとした音階になっていた。私はもう一度上から下に向けてキイを押してみた。
「不思議な音ですね」と青年は興味深そうに言った。「まるで音が色を変えているみたいだ」
「このボタンを押すと波長の違う音が出てくるんです」と僕は言った。「みんなそれぞれに違います。波長によってそれぞれに合う音と合わない音があります」
「合うとか合わないとかいうのはよくわかりませんね。合うというのはどういうことなんですか? 求めあっているということですか?」
「そんなところです」と僕は言った。僕は適当なコードをひとつ押さえてみた。音程はきちんと正確にではないにせよ、耳ざわりでない程度には合っていた。しかし|唄《うた》を思いだすことはできなかった。コードだけだ。
「それが合っている音なんですね?」
そうだ、と僕は言った。
「私にはよくわかりません」と彼は言った。「それが不思議な響きだという以上のことはね。そんな音を聞いたのははじめてのことです。なんて言えばいいのかはわからないですね。風の音とも違うし、鳥の声とも違うし」
彼はそう言って|膝《ひざ》の上に両手を載せ、手風琴と僕の顔とを見比べた。
「とにかくその楽器はあなたにさしあげます。好きなだけ手もとに置いて下さい。こういうものは使いみちを知っている方が手にしているのがいちばんですからね。僕が持っていたって仕方ありません」彼はそう言うとしばらく風音に耳を澄ませた。「私はもう一度機械の調子を見てきます。三十分ごとに点検しなくちゃならないんです。ファンがちゃんとまわっているかとか、変圧器が問題なく作動しているかとかね。あちらの部屋でお待ちいただけますか?」
青年が出ていってしまうと僕は食堂兼居間に戻り、彼女の入れてくれたコーヒーを飲んだ。
「それが楽器なの?」と彼女が訊いた。
「楽器の一種だよ」と僕は言った。「楽器にはいろんな種類のものがあって、それぞれに違う音が出るんだ」
「まるでふいご[#「ふいご」に丸傍点]のようだわ」
「原理は同じだからね」
「触っていいかしら?」
「もちろん」と言って僕は彼女に手風琴をわたした。彼女はまるで傷つきやすい動物の赤ん坊でも扱うように両手でそっとそれを受けとり、しげしげと眺めた。
「なんだか不思議なものね」と彼女は言って不安そうに|微笑《ほ ほ え》んだ。「でも良かったわ、楽器が手に入って。|嬉《うれ》しい?」
「ここまで来たかいがあったというものだね」
「あの人はうまく影を抜くことができなかった人なの。ほんの少しだけど、まだ影が残っているの」と彼女は小さな声で言った。「だから森の中にいるの。森の奥に入れるほど心も強くないけれど、街に戻ることもできないわ。気の毒な人」
「君のお母さんも森の中にいると思うのかい?」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」と彼女は言った。「本当のことはわからないの。ふとそう思っただけ」
青年は七分か八分で小屋に戻ってきた。僕は楽器の礼を言い、トランクを開けて中のみやげの品物を出してテーブルに並べた。小型のトラベル・ウォッチとチェス盤とオイル・ライターだ。僕はそれを資料室の|鞄《かばん》の中からみつけてきたのだ。
「これは楽器のお礼です。受けとって下さい」と僕は言った。
青年は最初固辞したが、結局はそれらを受けとることになった。彼は時計を眺め、ライターを眺め、それからチェス|駒《ごま》のひとつひとつを眺めた。
「使い方はわかりますか」と僕は訊ねた。
「大丈夫です。その必要はありません」と彼は言った。「眺めているだけで十分美しいし、使い方もそのうちに自分でみつけるでしょう。なにしろ時間だけはたっぷりとありますものね」
そろそろ失礼しなくては、と僕は言った。
「お急ぎなんですか?」と彼は寂しそうに言った。
「日が暮れる前に街に戻って、ひと眠りしてから仕事にかかりたいんです」と僕は言った。
「そうですね」と青年は言った。「わかります。表までお送りしましょう。本当は森の出口までお送りしたいところなんですが、仕事中でここを離れることができないんです」
我々三人は小屋の外で別れた。
「またいつかここに来て下さい。そしてその楽器の音を聴かせて下さい」と青年は言った。「いつでも歓迎します」
「ありがとう」と僕は言った。
発電所から遠ざかるにつれて風音は少しずつ弱まり、森の出口に近づくころには消えた。
29 ハードボイルド・ワンダーランド
[#ここから6字下げ]
――湖水、|近《こん》|藤《どう》|正《まさ》|臣《おみ》、パンティー・ストッキング――
[#ここで字下げ終わり]
私と太った娘は泳ぐときに|濡《ぬ》れないように荷物を小さくまとめて予備のシャツにくるみ、それを頭の上に固定した。見るからに妙な格好だったが、いちいち笑っているほどの暇はなかった。食糧やウィスキーや余分の装備はあとに残してきたので、荷物の|嵩《かさ》はそれほどはない。懐中電灯とセーターと|靴《くつ》と財布とナイフとやみくろよけの装置くらいのものだ。彼女の方の荷物も同じ程度のものだった。
「気をつけてな」と博士は言った。暗い光の中で見ると、博士は最初に見かけたときよりずっと|老《ふ》けてみえた。皮膚にははり[#「はり」に丸傍点]がなく、髪は間違った場所に植えられた植物のようにぱさぱさとして、顔のところどころには茶色いしみが出ていた。こうしてみると、彼もただの疲れた老人のように見えた。天才科学者であろうがなかろうが、人はみな老い、そして死んでいくのだ。
「さよなら」と私は言った。
我々は|暗《くら》|闇《やみ》の中をロープをつたって水面まで降りた。私が先に降り、降りたところでライトで合図をし、彼女がやってきた。暗闇の中で体を水につけるのは何かしら不気味で気が進まなかったが、もちろん|選《え》り|好《ごの》みをしている余裕はなかった。私はまず片脚を水に入れ、それから肩まで水につかった。水は凍りつくように冷たかったが、水自体にはとくに問題はないようだった。ごく普通の水だ。混じりものもなさそうだし、比重も同じようだった。あたりは井戸の底のようにしんと静まりかえっていた。空気も水も闇も、身じろぎひとつしない。我々の立てる水音だけが、何倍にも拡大されて闇の中に響いていた。それはまるで巨大な水生動物が獲物を|咀《そ》|嚼《しゃく》しているような音だった。私は水に入ってから傷の痛みを博士に治療してもらうことをすっかり忘れていたことに気がついた。
「ここにはまさかあの|爪《つめ》のはえた魚が泳いでいるんじゃないだろうね?」と私は彼女の気配のする方に向って|訊《たず》ねてみた。
「いないわ」と彼女は言った。「たぶんね。あれは伝説のはずよ」
それでも私は突然巨大な魚が底から上ってきて私の脚を食いちぎるのではないかという思いを頭から追い払うことはできなかった。暗闇というのは様々な恐怖を助長するものなのだ。
「|蛭《ひる》もいない?」
「どうかしら? いないんじゃないかしら?」と彼女は答えた。
我々は互いの体をロープで結びあわせたまま荷物を濡らさないようにゆっくりとした平泳ぎで〈塔〉をぐるりとまわり、ちょうど裏側のあたりで、博士の照らす懐中電灯の|灯《ひ》をみつけた。灯はかしいだ灯台のようにまっすぐ闇を貫いて水面の一カ所を淡い黄色に染めていた。
「あの方向にずっと進んでいけばいいのよ」と彼女は言った。つまりその水面にあたった光と懐中電灯の光が一列にかさなるようにしていればいいわけだ。
私が前を泳ぎ、彼女がうしろを泳いだ。私の手が水をかく音と彼女の手が水をかく音とが交互に響いていた。我々はときどき泳ぎをやめてうしろをふり向き、方向を確かめ、進路を調整した。
「荷物を水につけないようにね」と泳ぎながら彼女が私に声をかけた。「装置を濡らしちゃうと使いものにならなくなるわよ」
「大丈夫さ」と私は言った。しかし正直なところ荷物を水につけないためには私はかなりの努力を払わねばならなかった。何もかもが暗黒に包まれているせいで、どこに水面があるのかもわからないのだ。ときどき自分の手が今どこにあるのかもわからなくなってしまうほどだった。私は泳ぎながらオルフェウスが死の国に|辿《たど》りつくために渡らねばならなかった|冥《めい》|土《ど》の川のことを思いだした。世界には数えきれないほどの様々の形の宗教や神話があるが、人人が死について思いつくことはみんな大抵同じなのだ。オルフェウスは舟に乗って闇の川を渡った。私は頭に荷物を結びつけて平泳ぎで渡っている。そういう意味では古代ギリシャ人の方が私よりはずっとスマートだった。傷のことが気になったが、気にしたところでどうなるものでもなかった。幸い緊張しているせいか痛みはそれほど感じなかったし、縫いめが開いてしまったところで、死に至るほどの傷でもないのだ。
「あなたは本当に祖父のことをそんなには怒ってないの?」と娘が訊ねた。暗闇と奇妙な反響のせいで、彼女がいったいどの方向にどれくらい離れているのか、私にはさっぱり見当がつかなかった。
「わからないよ。自分でもわからない」と私は適当な方向に向って叫んだ。自分の声さえも変な方向から聞こえてきた。「君のおじいさんの話を聞いているうちに、もうどうでもいいような気がしてきたんだ」
「どうでもいいって?」
「たいした人生じゃないし、たいした脳じゃない」
「でもあなたはさっき自分の人生に満足してるって言ったわよ」
「言葉のあやだよ」と私は言った。「どんな軍隊にも旗は必要なんだ」
娘はしばらく私の言った意味を考えこんでいた。そのあいだ我々は黙って泳ぎつづけた。死そのもののような深く重い沈黙が地底の湖面を支配していた。あの魚はどこにいるのだろう? と私は思った。あの不気味な爪のはえた魚はきっとどこかに実在しているに違いないと私は信じはじめていた。魚は水の底にじっと眠っているのだろうか? それともどこかべつの|洞《どう》|窟《くつ》の中を泳ぎまわっているのだろうか? あるいは我々の気配をかぎつけて今こちらに向って進んでいるところなのだろうか? 私は魚の爪が私の足を|捉《とら》えるときの感触を想像して身振いした。近い将来に私が死ぬなり消滅するなりするにせよ、少くともこんな|惨《みじ》めなところで魚に食べられることだけは避けねばならなかった。どうせ死ぬのなら、見なれた太陽の下で死にたい。冷たい水のせいで私の両腕は重く疲れきっていたが、それでも懸命に力をこめて水をかいた。
「でもあなたとても良い人なのね」と娘は言った。娘の声には疲れの|片《へん》|鱗《りん》もうかがえなかった。|風《ふ》|呂《ろ》にでも入っているときのようなのんびりとした声だった。
「そう考えてくれる人は少ない」と私は言った。
「でも私はそう考えるわ」
私は泳ぎながらうしろを振りかえってみた。博士の照らす懐中電灯の灯はずっと背後に遠ざかってしまっていたが、私の手はまだ目指す岩壁に触れなかった。なんだってこんなに遠いんだろう、と私はうんざりした気分で思った。こんなに遠いなら遠いとひとこと言ってくれればよかったのだ。それならそれなりに私だって覚悟して泳いだのだ。魚はどうしただろう? まだ私の存在に気づかずにいてくれているだろうか?
「祖父のことを弁解するわけじゃないんだけれど」と娘は言った。「祖父には悪気はないの。ただ熱中しちゃうとまわりのことが目に入らなくなってしまうだけなの。これだってもともとは善意で始まったことなのよ。あなたが『|組織《システム》』に変な風にいじりまわされる前になんとか自分なりにあなたの秘密を解明してあなたを救うつもりだったの。祖父は祖父なりに『|組織《システム》』に協力して無理な人体実験をしたことを恥じているのよ。あれは間違ったことなんだわ」
私は黙って泳ぎつづけた。今更間違っていたなんて言われても、どうにもならない。
「だから祖父を許してあげてね」と娘が言った。
「|僕《ぼく》が許しても許さなくても、そんなことは君のおじいさんにとってはきっと関係ないと思うよ」と私は答えた。「でもどうして君のおじいさんは途中でプロジェクトを|放《ほう》りだしたりしたんだろう? それほど責任を感じているんなら『|組織《システム》』の中でこれ以上犠牲が出ないようにもっと研究を進めるべきじゃないのかな? いくら大組織の中で働くのが|嫌《いや》だといっても彼の研究の延長線上で人がばたばたと死んでいるんだからね」
「祖父は『|組織《システム》』そのものを信用できなくなったのよ」と娘は言った。「計算士の『|組織《システム》』と記号士の『|工場《ファクトリー》』は同じ人間の右手と左手だと祖父は言っていたわ」
「どういうこと?」
「つまり『|組織《システム》』も『|工場《ファクトリー》』もやっていることは技術的には|殆《ほと》んど同じなのよ」
「技術的にはね。でも我々は情報を守り、記号士は情報を盗む。目的がまるで違うさ」
「でもね、もし」と娘は言った。「『|組織《システム》』と『|工場《ファクトリー》』が同じ一人の人間の手によって操られていたとしたらどう? つまり左手がものを盗み、右手がそれを守るの」
私は暗闇の中でゆっくりと水をかきながら彼女の言ったことについて考えをめぐらせてみた。信じられない話だが、まったくありえないことではなかった。たしかに私は『|組織《システム》』のために働いてはいたが、それでは『|組織《システム》』の内部がどういう仕組になっているかと|訊《き》かれても私にはまるでわからなかった。それはあまりにも巨大であり秘密主義によって内部の情報が制限されていたからだ。我々は上からの指示を受け、それをひとつひとつこなしていくだけの存在にすぎなかったのだ。上の方がどうなっているかなんて、私のような末端の人間には見当もつかない。
「もし君の言うとおりだとしたら、ひどく|儲《もう》かる商売になるだろうね」と私は言った。「両方を|競《せ》りあわせることによって、値段をいくらでもつりあげていくことができる。力を伯仲させておけば値崩れする心配もない」
「祖父は『|組織《システム》』の中で研究を進めているうちにそのことに気づいたのよ。結局のところ『|組織《システム》』は国家をまきこんだ私企業にすぎないのよ。私企業の目的は営利の追求よ。営利の追求のためにはなんだってやるわ。『|組織《システム》』は情報所有権の保護を表向きの看板にしているけれど、そんなのは口先だけのことよ。祖父はもし自分がこのまま研究をつづけたら事態はもっとひどいことになるだろうと予測したの。脳を好き放題に改造し改変する技術がどんどん進んでいったら、世界の状況や人間存在はむちゃくちゃになってしまうだろうってね。そこには抑制と歯止めがなくちゃいけないのよ。でも『|組織《システム》』にも『|工場《ファクトリー》』にもそれはないわ。だから祖父はプロジェクトを降りたの。あなたや他の計算士の人たちには気の毒だけど、それ以上研究を進めるわけにはいかなかったのよ。そうすれば先に行ってもっと沢山の犠牲者が出たはずよ」
「ひとつ訊きたいんだけれど、君は最初から最後まで事情をぜんぶ知っていたんだろう?」と私は訊いてみた。
「ええ、知っていたわ」と少し迷ってから彼女は告白した。
「どうして最初にそれをすっかり教えてくれなかったんだ? そうすればこんな|馬《ば》|鹿《か》|気《げ》たところにわざわざ来る必要もなかったし、時間だって節約できた」
「あなたに祖父に会って事情を正確に理解してほしかったからよ」と彼女は言った。「それに私が教えても、あなたきっと信用しなかったんじゃないかしら?」
「そうかもしれない」と私は言った。たしかに第三回路だの不死だのと急に言われてもなかなか信じられるものではない。
それから少し泳いだところで私の手の先が突然固いものにあたった。考えごとをしていたせいで最初はそれがいったい何を意味するのかわからず頭が一瞬混乱したが、やがてそれが岩壁だということに気がついた。我々はなんとか地底の湖水を泳ぎきったのだ。
「着いたよ」と私は言った。
彼女も私のそばに来て岩壁を確認した。うしろを振り向くと懐中電灯の光は星のように小さく闇の中に輝いていた。我々はその光のラインに従って十メートルばかり右に移動した。
「たぶんこのあたりね」と娘が言った。「水面から五十センチほど上に横穴が開いているはずなんだけど」
「水面の下に入っちゃったんじゃないのかい?」
「そんなことはないわ。この水面はいつもきちんと同じなの。どうしてかはわからないけれど、とにかくそうなのよ。五センチと変らないわ」
私は荷物をばらばらにしないように注意しながら頭の上に巻きつけたシャツの中から小型の懐中電灯をとりだし、片手を岩壁のくぼみに置いて体のバランスをとりながら、五十センチほど上を照らしてみた。黄色い|眩《まぶ》しい光が岩を照らしだした。目がその光に慣れるまでにずいぶん時間がかかった。
「穴なんてないみたいだな」と私は言った。
「もう少し右に移動してみて」と娘が言った。
私は頭の上をライトで照らしながら岩壁に沿って移動した。しかし横穴らしいものは見当らなかった。
「本当に右の方でいいのかい?」と私は訊いた。泳ぐのをやめて水の中でじっとしていると水の冷たさが体の|芯《しん》にまでひしひしと|浸《し》みこんでくるような気がした。体じゅうの関節が凍りついてしまったように固くこわばり、うまく口を開けてしゃべることができなくなってしまう。
「間違いないわ。もう少し右よ」
私は震えながらまた右に移動した。やがて岩壁に沿って|這《は》わせていた左手が奇妙な感触の物体に触れた。|楯《たて》のように丸く盛りあがったもので、全体の大きさはLPレコードほどだった。指先でたどってみると、その表面に何か人工的な細工が施されていることがわかった。私は懐中電灯の光をそれにあてて詳しく調べてみた。
「レリーフね」と彼女は言った。
私は声を出すことができなくなっていたので黙って|肯《うなず》いた。それはたしかに我々が聖域に入るときに見かけたのと同じ|図《ず》|柄《がら》のレリーフだった。二匹の気味の悪い爪のはえた魚が|尻《しっ》|尾《ぽ》と口をつなぎあわせて世界を包んでいる。丸いレリーフはまるで海に沈みかけた月のように上三分の二を水面の上にだし、残りの三分の一を水の中にもぐらせていた。先刻見かけたのと同じように実に|精《せい》|緻《ち》な彫りものだった。こんな不安定な足場しかない場所にこれほど見事な細工を施すにはずいぶん手間がかかったに違いない。
「そこが出口よ」と彼女は言った。「たぶん入口と出口にはみんなそのレリーフがあるんじゃないかしら。上を見てみて」
私は懐中電灯の光で岩壁を上にたどってみた。岩が多少前に出ているせいで陰になってはっきりとは見えなかったが、どうやらそこに何かがあるらしいということはわかった。私は懐中電灯を彼女に手渡し、上にのぼってみることにした。
レリーフの上にはうまい具合に両手をかけることのできるくぼみがあった。私は全身の力をこめてこわばった体をひっぱりあげ、レリーフの上に足をかけた。それから右手をのばして岩のでっぱりの角をつかみ、体を上にあげて岩の上に首を出した。そこにはたしかに横穴の口が開いていた。暗いせいで定かには見えなかったが、|微《かす》かな風の流れが感じられた。ひやりとして縁の下のような|臭《にお》いのする嫌な|雰《ふん》|囲《い》|気《き》の風だったが、とにかくそこにトンネルがあるらしいことはわかった。私は岩のでっぱりに|両肘《りょうひじ》をかけ、足をくぼみに置いて、その上に体をひっぱりあげた。
「穴があったよ」と私は傷の痛みを抑えながら下に向ってどなった。
「助かったわ」と彼女は言った。
私は懐中電灯を受けとり、彼女の手を握って上にひっぱりあげた。我々は穴の入口に並んで座って、しばらくそこでがたがたと震えていた。シャツもズボンもたっぷりと水を含ませてから冷凍庫に入れて凍らせたみたいに冷たかった。まるで巨大な水割りグラスを泳いで渡ったような気分だった。
それから我々は頭の上から荷物を下ろしてほどき、シャツを着替えた。私はセーターを彼女に譲った。濡れたシャツと上着は捨てた。下半身は濡れたままだったが、ズボンと下着の予備までは持ってこなかったのでどうしようもない。
彼女がやみくろよけの装置をチェックしているあいだに、私は懐中電灯の光を何度か点滅させて、〈塔〉の上にいる博士に我々が無事横穴に到着したことを知らせた。|暗《くら》|闇《やみ》の中にぽつんと浮かんだ黄色い小さな光もそれにあわせて二、三度点滅し、そして消えた。その光が消えてしまうと、世界は再びもとの|完《かん》|璧《ぺき》な暗闇に|戻《もど》った。距離も厚みも深さも測りしることのできない無の世界だ。
「行きましょう」と彼女は言った。私は腕時計のライトをつけて時刻を見た。七時十八分だった。TV局が|一《いっ》|斉《せい》に朝のニュース番組をやっている時刻だ。地上の人々は朝食をとりながら天気予報や頭痛薬のCMや自動車の対米輸出問題の状況の進展についての情報をまだ眠りの覚めきらない頭に押しこまれているはずだった。しかし|誰《だれ》も私がひと晩かけて地底の迷路をさまよい歩いていることは知らない。氷水の中を泳いだり、蛭にたっぷりと血を吸われたり、腹の傷の痛みを抱えて苦しんでいることも知らない。私の現実世界があと二十八時間と四十二分のうちに終ろうとしていることも知らない。TVのニュース番組では誰もそんなことは教えてくれないからだ。
穴はこれまでに我々が通り抜けてきたものよりずっと狭く、ほとんど這うくらいに身をかがめてしか前に進むことができなかった。おまけにまるで内臓のように上下左右に曲りくねっていた。|竪《たて》|穴《あな》のようになったくぼみに下りてまたよじのぼらねばならないこともあった。まるでジェットコースターの線路みたいに複雑なループを描いていることもあった。おかげで前進するのにひどく時間と手間がかかった。おそらくこれはやみくろたちが掘ったのではなく、自然の|浸蝕《しんしょく》作用によって生じたものなのだろう。いくらやみくろでもわざわざこんな|厄《やっ》|介《かい》な通路を作ったりはしないはずだ。
三十分進んで、やみくろよけの装置をとりかえ、それからまた十分ばかり歩いたところでその曲りくねった細い通路は終り、突然天井の高い開けた場所に出た。古いビルディングの玄関のようにそこはしん[#「しん」に丸傍点]として暗く、かび臭いにおいがした。通路は丁字形に右と左に伸び、ゆるやかな風が右から左に向けて流れているのが感じられた。彼女は大型のライトで右手にのびる道と左手にのびる道とを交互に照らした。通路はまっすぐにそれぞれの先にある闇の中に吸いこまれていた。
「どっちに行けばいいんだろう?」と私は訊いた。
「右よ」と彼女は言った。「方向としてもそうだし、風もこちらから吹いているもの。祖父が言ったようにこのあたりが|千《せん》|駄《だ》ヶ|谷《や》で、そこから右に折れて神宮球場の方に行くんじゃないかしら」
私は地上の風景を頭に思い浮かべてみた。もし彼女の言うとおりだとしたら、この上あたりに二軒並んだラーメン屋と|河《かわ》|出《で》書房とビクター・スタジオがあるはずだった。私の通っている床屋もその近くにある。私はもう十年もその床屋に通っているのだ。
「この近くに行きつけの床屋があるんだ」と私は言った。
「そう?」と彼女は興味なさそうに言った。
世界が終ってしまう前に床屋に行って髪を切るというのも悪くない考えであるような気がした。どうせ二十四時間かそこらで何かたいしたことができるわけでもないのだ。風呂に入ってさっぱりとした服に着替え、床屋に行くくらいが関の山かもしれない。
「気をつけてね」と彼女が言った。「そろそろやみくろの巣に近いらしいわ。声が聞こえるし、嫌な臭いもするわ。私から離れないようにぴったりくっついていてね」
私は耳を澄まし、臭いを|嗅《か》いでみたが、それらしい音も臭いも感知できなかった。ひゅるひゅるという奇妙な音波が聴こえたような気もしたが、はっきりとそれを知覚することはできなかった。
「|奴《やつ》らは僕たちが近づいていることを知っているのかな?」
「もちろんよ」と彼女は言った。「ここはやみくろたちの国よ。彼らが知らないことはないわ。それでみんな腹を立てているのよ。私たちが彼らの聖域をとおり抜けて巣に近づいていることに対してね。おそらく私たちをつかまえたらひどい目にあわせることでしょうね。だから私から離れちゃ|駄《だ》|目《め》よ。少しでも離れたら暗闇から腕がのびてきてあなたをどこかにひきずりこんじゃうでしょうからね」
我々はお互いを結びつけたロープをずっと短かくし、五十センチほどの距離を保てるようにした。
「注意して。こっちの壁が|失《な》くなってるわ」と娘が鋭い声で言って、ライトを左手に向けた。彼女の言うように左側の壁はいつの間にか消え失せ、そのかわりに濃密な闇の空間がその姿を見せていた。光は矢のように一直線に闇を貫き、先の方でより深い闇にすっぽりと|呑《の》みこまれていた。闇はまるで生きて呼吸をし、|蠢《うごめ》いているように感じられた。ゼリーのようにどんよりとした不気味な闇だった。
「聞こえる?」と彼女が訊いた。
「聞こえるよ」と私は言った。
やみくろの声は今では私の耳にもはっきりと聴きとれるようになっていた。しかし正確に言えば、それは声というよりはむしろ耳鳴りに近かった。闇を切りすすみ、ドリルの刃のように鋭く耳を突く、無数の羽虫のうなりだった。それはあたりの壁に激しく反響し、私の鼓膜を妙な角度にねじ曲げていた。私はそのまま懐中電灯を放りだし、地面にしゃがみこんで両手でしっかりと耳を|塞《ふさ》いでしまいたかった。まるで体じゅうの神経という神経に|憎《ぞう》|悪《お》のやすりをかけられているような気がしたのだ。
その憎悪は私がそれまでに体験したどのような種類の憎悪とも違っていた。彼らの憎悪は地獄の穴から吹きあがってくる激しい風のように我々を押しつぶし、ばらばらにしようと試みていた。地底の闇をひとつにあつめて凝縮したような暗い思いと、光と目を失った世界で|歪《ゆが》められ|汚《けが》された時の流れが、巨大なかたまりとなって、我々の上にのしかかっているように感じられた。私はそれまで憎悪がこれほどの重みを持つことを知らなかった。
「足を止めないで!」と彼女が私の耳に向けてどなった。彼女の声はからからに乾いていたが、震えてはいなかった。彼女にどなられてはじめて、私は自分の足が止まっていることに気づいた。
彼女は腰と腰を結びあわせたロープを思いきりひっぱった。「止まっちゃ駄目。止まったらおしまいよ。闇の中にひきずりこまれちゃうわ」
しかし私の足は動かなかった。彼らの憎しみが、私の足をしっかりと地面に押さえつけているのだ。時間がそのおぞましい太古の記憶に向って逆戻りしているような気がした。私はもうどこにも行けないのだ。
彼女の手が暗闇の中で思いきり私の|頬《ほお》を打った。一瞬耳が遠くなってしまうほどの激しさだった。
「右よ!」と彼女のどなる声が聞こえた。「右よ! わかる? 右足を出すのよ。右だったら、この|頓《とん》|馬《ま》!」
私はがくがくと音を立てる右足をようやく前に出すことができた。彼ら[#「彼ら」に丸傍点]の声にかすかな落胆が混じるのが感じられた。
「左!」と彼女がどなり、私は左足を前に進めた。
「そうよ、その調子よ。ゆっくり一歩ずつ足を前に出すのよ。大丈夫?」
大丈夫、と私は言ったが、それが本当に声になったのかどうかは自分でもわからなかった。私にわかるのは、彼女が言うようにやみくろたちが我々をその濃密な闇の中にひきずりこみとりこもうとしていることだった。彼らは恐怖を我々の耳から体にもぐりこませてまず足をとめさせ、それからゆっくりと手もとにたぐり寄せようとしているのだ。
一度足が動きはじめると、私は今度は逆に走りだしたいという衝動に駆られた。一刻も早くこのおぞましい場所から脱出したかったのだ。
しかし彼女は私のそんな気持を察したかのように、手をのばして私の手首をしっかりと握りしめた。
「足もとを照らして」と彼女は言った。「壁に背中をつけて、一歩ずつ横に歩くの。わかった?」
「わかった」と私は言った。
「絶対に光を上にあげちゃ駄目よ」
「どうして?」
「やみくろがそこにいるからよ。すぐそこよ」と彼女は|囁《ささや》くように言った。「やみくろの姿を絶対に見ちゃ駄目。見るともう歩けなくなってしまうから」
我々は懐中電灯の光で足場をたしかめながら、一歩一歩横に歩いた。ときおり冷たく頬を|撫《な》でる風が死んだ魚のような嫌な臭いをはこんできて、そのたびに私は息が詰まりそうになった。内臓がはみだして虫のわいた巨大な魚の体内にはまりこんでしまったような気分だった。やみくろの声はまだつづいていた。それはまるで音の存在するはずのないところから無理矢理音をしぼりだしているような不快な音だった。私の鼓膜はねじまげられたままの形でこわばり、口の中にすえた臭いのする|唾《だ》|液《えき》が次から次へとたまった。
それでも私の足は反射的に横に進んでいた。私は右足と左足を交互に運ぶことにだけ神経を集中した。ときどき彼女が私に何か声をかけたが、私の耳は彼女の言っていることをうまく聴きとることはできなかった。生きている限り彼ら[#「彼ら」に丸傍点]のこの声を記憶から消し去ることはできないだろうと私は思った。彼らの声はいつか再び深い闇とともに私に襲いかかってくるだろうと。そしていつか必ず、彼らのぬるぬるとした手が私の足首をしっかりと|捉《とら》えるだろう。
この悪夢のような世界に入りこんでからどれくらいの時間が経過したのか、私にはもうわからなくなってしまっていた。彼女が手にしたやみくろよけの装置はまだ作動中の青いランプをつけていたから、それほどの長い時間は|経《た》っていないはずだったが、私にはそれが二時間にも三時間にも感じられた。
しかしそのうちに空気の流れがふっと変るのが感じられた。腐臭がやわらぎ、耳にかかった圧力が潮が引くように弱まり、音の響き方も変化した。気がつくとやみくろの声も遠い海鳴り程度のものになっていた。最悪の部分を乗り切ったのだ。彼女がライトを上にあげると、その光は再び岩壁を照らしだした。我々は壁にもたれて深いため息をつき、手の甲で顔にべっとりとついた冷たい汗を|拭《ぬぐ》った。
彼女も私も長いあいだ口をきかなかった。やみくろたちの遠い声もやがて消え、再び静寂があたりを包んだ。どこかで水滴が地面を打つ小さな音だけが|虚《うつ》ろに響いていた。
「彼らは何をあれほどに憎んでいるんだろう?」と私は彼女に|訊《たず》ねてみた。
「光のある世界とそこに住む者をよ」と彼女は言った。
「記号士たちが奴らと手を組むなんて信じられないな。たとえどんなメリットがあるにせよさ」
彼女はそれには答えなかった。そしてそのかわりに私の手首をもう一度ぎゅっと握りしめた。
「ねえ、私が今何を考えているかわかる?」
「わからない」と私は言った。
「あなたがこれから行くことになる世界に私もついていくことができたらどんなに素敵だろうって思っているのよ」
「この世界を捨てて?」
「ええ、そうよ」と彼女は言った。「つまらない世界だわ。あなたの意識の中で暮す方がずっと楽しそう」
私は何も言わずに首を振った。私は私の意識の中なんかで暮したくない。誰の意識の中でも暮したくない。
「とにかく先に進みましょう」と彼女は言った。「いつまでもここでぐずぐずしているわけにはいかないわ。出口になっている下水道を探しあてなくちゃね。今何時|頃《ごろ》かしら?」
私は腕時計のボタンを押して文字盤のライトをつけた。指はまだかすかに震えていた。震えがとれるまでにはしばらく時間がかかるだろう。
「八時二十分」と私は言った。
「装置をとりかえるわ」と娘は言って新しい機械のスウィッチを入れて作動させ、これまで使っていた方を充電状態に切りかえてから、シャツとスカートのあいだに無造作につっこんだ。これで横穴に入ってからちょうど一時間|経《た》ったことになる。博士の説によればもう少し前に進むと絵画館の並木道の方に向けて左に曲る道があるはずだった。そこまで行けば地下鉄の線路はもう目と鼻の先である。そして少くとも地下鉄は地上の文明の延長線上にある。これで我々はなんとかやみくろたちの国から抜け出すことができるのだ。
ひとしきり進んだところで道は案の定直角に左に折れていた。どうやら我々は|銀杏《いちょう》並木に出たのだ。季節は秋のはじめだったから、銀杏はまだ青い葉をしっかりとつけているはずだった。私はあたたかい太陽の光と緑の芝生の|匂《にお》いと秋の最初の風を頭の中に思い浮かべてみた。私はそこに何時間も寝転んで空を|眺《なが》めたかった。床屋に行って髪を切り、その足で|外《がい》|苑《えん》に行き芝生に寝転んで空を眺めるのだ。そして思いきり冷たいビールを飲むのだ。世界の終る前に。
「外は晴れているかな?」と私は前を行く娘に訊いてみた。
「さあどうかしら? わからないわ。わかるわけないでしょう?」と娘は言った。
「天気予報は見なかった?」
「そんなの見なかったわ。だって私は一日中あなたの家を探しまわっていたんだもの」
私は昨夜家を出たとき空に星がでていたかどうか思いだそうとしたが、駄目だった。私が思いだせるのはスカイラインに乗ってデュラン・デュランをカー・ステレオで聴いていた若い男女の姿だけだった。星のことはまるで思いだせない。考えてみればこの何カ月というもの星を見上げたことなんて一度としてないのだ。もし三カ月ばかり前から星が全部空から引き払っていたとしても私は全然それに気づかなかったにちがいない。私が見たり覚えたりしているのは女の手首にはまっていた銀のブレスレットとかゴムの木の|鉢《はち》の中に落ちていたアイス・キャンディーの棒とか、そんなものばかりなのだ。そう思うと、私は自分がとても不十分で不適切な人生を送ってきたような気がした。私はユーゴスラビアの田舎で羊飼いとして生まれ、毎晩北斗七星を眺めながら暮すことだってできたんじゃないかとふと思った。スカイラインもデュラン・デュランも銀のブレスレットもシャフリングもダークブルーのツイードのスーツも、何かしらずっと遠い昔に見た夢であるように思えた。まるで高圧プレス機で車をまるごと一枚の鉄板に押しつぶしてしまうみたいに、様々な種類の記憶が奇妙に|扁《へん》|平《ぺい》になった。記憶は複雑に|絡《から》みあったままクレジット・カードくらいの薄さの一枚の板のようになっていた。正面から見ると少し不自然な感じがするなという程度なのだが、横向きになるとそれは|殆《ほと》んど意味のない細い一本の線にすぎなかった。そこにはたしかに私の|全《すべ》てがつめこまれているのだが、それ自体はただのプラスティックのカードにすぎない。それを解読するために作られた専用の機械のスリットにさしこまない限りは、それはまったく何の意味もなさないのだ。
たぶん第一回路が薄まりつつあるのだろうと私は想像した。それで私の現実的な記憶がこんな風に扁平で|他《ひ》|人《と》|事《ごと》のように感じられるのだ。私の意識はだんだん今の私自身を離れつつあるのだろう。そしてその私のアイデンティティー・カードは今よりもっともっと薄くなって紙のようになり、やがてぷつりと消滅してしまうのだろう。
私は彼女の後について機械的に歩を進めながら、スカイラインに乗っていた男女の姿をもう一度思いだしてみた。どうして彼らのことにそれほどこだわるのか自分でもよくわからなかったが、それ以外に思いつけることといっても何もなかった。あの二人は|今《いま》|頃《ごろ》何をしているのだろうか、と私は考えてみた。しかし朝の八時半に彼らが何をしているのか、私にはまったく想像できなかった。まだベッドの中でぐっすりと眠っているかもしれないし、あるいは通勤電車でそれぞれの会社に向っているかもしれない。そのどちらなのかは私にもわからない。現実世界の動き方と私の想像力とがうまくコネクトしないのだ。TVドラマのライターなら適当な筋書きを作りあげてしまうにちがいない。女はフランスに留学中にフランス人の男と結婚したのだがやがて夫が交通事故に遭って植物人間になった。そしてそんな生活に疲れ果てて夫を捨てて東京に|戻《もど》り、ベルギーだかスイスだかの大使館に勤めている。銀のブレスレットは結婚の思い出の品だ。ここで冬のニースの海岸のカットバックが入る。彼女はいつもそのブレスレットを手首につけている。|風《ふ》|呂《ろ》に入るときもセックスをするときもだ。男は安田講堂の生き残りで『灰とダイヤモンド』の主人公みたいにいつもサングラスをかけている。TV局の花形ディレクターで、よく催涙ガスの夢を見てうなされる。妻は五年前に手首を切って自殺した。ここでまたカットバック。とにかくカットバックの多いドラマなのだ。彼は彼女の左手首で揺れるブレスレットを見るたびにぱっくりと割れて血に染まった妻の手首を思いだすので、彼女にそのブレスレットを右の手首にかえてくれないかと頼む。「|嫌《いや》よ」と彼女は言う。「私はいつも左手にしかブレスレットをつけないの」
『カサブランカ』風にピアニストを一人出してきてもいい。アルコール中毒のピアニストだ。ピアノの上にいつもレモンをしぼっただけのストレートのジンのグラスが置いてある。彼は二人の共通の友人で、二人の秘密を知っている。才能のあるジャズ・ピアニストだったのにアルコールで身を持ち崩したのだ。
そこまで思いついたところでさすがに|馬《ば》|鹿《か》馬鹿しくなって私はそれ以上考えるのをやめた。そんな筋書きは現実とは何の関係もないのだ。しかしそれでは現実とはいったい何かと考えはじめると、私の頭は余計に混乱した。現実は大きなボール紙の箱にぎっしりと詰まった砂のように鈍く重く、そしてとりとめがなかった。私はもう何カ月も星の姿さえ見ていないのだ。
「もう我慢できそうもないな」と私は言った。
「何に対して?」と彼女が|訊《き》いた。
「|暗《くら》|闇《やみ》やかび臭いにおいややみくろや、そんな何もかもに対してさ。|濡《ぬ》れたズボンやら腹の傷やそんなものにも。外の天気さえわからないんだ。今日は何曜日だ?」
「もうすぐよ」と娘は言った。「もうすぐ終るわ」
「頭が混乱してるみたいだ」と私は言った。「外のことがうまく思いだせない。何を考えても変な方向に行ってしまう」
「何を考えていたの?」
「|近《こん》|藤《どう》|正《まさ》|臣《おみ》と中野良子と|山崎努《やまざきつとむ》」
「忘れなさい」と彼女は言った。「何も考えないで。もう少しでここから出してあげるから」
それで私はもう何も考えないことにした。何も考えないでいるとズボンが脚のまわりに冷たくからまっているのが気になった。そのせいで体が冷えて、腹の傷がまた鈍く痛み始めた。しかしそれほど体が冷えているにもかかわらず、私は不思議に尿意を覚えなかった。この前最後に小便をしたのはいったいいつのことだっただろう? 私は洗いざらいの記憶をかきあつめてひっくりかえしてみたが駄目だった。いつ小便をしたかが思いだせないのだ。
少くとも地下に降りてからは一度も小便をしていない。その前は? その前は私は車を運転していた。ハンバーガーを食べ、スカイラインに乗った男女を見た。その前は? その前私は眠っていた。太った娘がやってきて私を起した。そのとき小便はしただろうか?たぶんしていない。彼女は荷物を|鞄《かばん》に詰めこむみたいにして私をたたき起し、そのまま連れ出したのだ。小便をする暇もなかった。その前は? その前に何があったのか私にははっきりと思いだせなかった。医者に行ったのだ、たぶん。医者が私の腹を縫いあわせた。しかしどんな医者だ。わからない。とにかく医者だ。白い服を着た医者が私の陰毛のはえ|際《ぎわ》の少し上あたりを縫いあわせたのだ。その前後に私は小便をしただろうか?
わからない。
たぶんしていないだろう。もしその前後に小便をしていたとしたら、私は小便をするときの傷の痛み具合をはっきりと覚えているはずだ。それを覚えていないからには、私はきっと小便をしていないのだ。そうすると私はずいぶん長いあいだ小便をしていないことになる。何時間だ?
時間のことを考えると私の頭は夜明けの鶏小屋のように混乱した。十二時間? 二十八時間? 三十二時間? 私の小便はいったいどこに消えてしまったのだろう? そのあいだ私はビールも飲んだしコーラも飲んだし、ウィスキーも飲んだのだ。そんな私の水分はいったいどこに行ってしまったのだろう?
いや、私が腹を切られて病院に行ったのは|一昨日《おととい》のことかもしれない。昨日はそれとは違うぜんぜん別の日であったような気もする。しかしそれでは昨日がどんな日であったかということになると、私には皆目見当がつかなかった。昨日というのは|漠《ばく》|然《ぜん》としたひとつの時間のかたまりにすぎなかった。それはまるで水を吸って膨んでしまった巨大な|玉《たま》|葱《ねぎ》のような形をしている。どこに何があるのか、どこを押せば何が出てくるのか、何ひとつとして定かではないのだ。
いろんな出来事が回転木馬みたいに接近したり離れたりしていた。あの二人組が私の腹を裂いたのはいったいいつのことだったのだろう? それは私が明けがたのスーパーマーケットのコーヒー・スタンドに座っていたより以前だったのだろうかあとだったのだろうか? 私はいつ小便をしたのだろうか? そして私は|何《な》|故《ぜ》小便のことをそんなに気にするのだろうか?
「あったわ」と彼女が言ってうしろを振り向き、私の|肘《ひじ》のあたりを強くつかんだ。「下水よ。出口よ」
私は小便のことを頭から追い払い、彼女の懐中電灯が照らし出す壁の一郭を眺めた。そこには人間一人がやっともぐりこめるくらいのダスト・シュートのような四角い横穴が開いていた。
「でもこれは下水じゃないぜ」と私は言った。
「下水はこの奥にあるのよ。これは下水に通じる横穴なの。ほら、どぶの|臭《にお》いがするわ」
私はその穴の入口に顔をつっこんでくんくんと臭いをかいでみた。たしかになじみのあるどぶの臭いがした。地底の迷路をめぐりめぐってやってきたあとでは、そんなどぶの臭いさえなつかしく親密に感じられた。はっきりとした風が奥から吹いてくることもわかった。やがて地面がぴりぴりと細かく震え、穴の奥から地下鉄の電車が線路の上を通りすぎていく音が聞こえてきた。音は十秒か十五秒つづいてから、水道のコックをゆっくりと閉めるときのようにだんだん小さくなり、消えてしまった。間違いない。これが出口なのだ。
「やっと着いたようね」と彼女は言って私の首筋にキスをした。「どんな気持?」
「そんなこと訊かないでくれ」と私は言った。「なんだかよくわからない」
彼女が先に横穴に頭からもぐりこんだ。彼女のやわらかそうな|尻《しり》が穴の中に消えてしまってから、私はそのあとを追って中に入った。狭い穴がまっすぐにしばらくつづいた。私の懐中電灯は彼女のお尻とふくらはぎしか照らし出さなかった。彼女のふくらはぎは私に白くてつるりとした中国野菜を連想させた。スカートはぐっしょりと濡れて彼女の|太《ふと》|腿《もも》に身寄りのない子供たちのようにぴったりとまつわりついていた。
「ねえ、そこにちゃんといる?」と彼女がどなった。
「いるよ」と私もどなった。
「|靴《くつ》が落ちてるわ」
「どんな靴?」
「男ものの黒い皮の靴。片方だけ」
やがて私もそれをみつけた。靴は古いものでかかとがつぶれかけていた。靴先についた|泥《どろ》は白くなって固まっている。
「どうしてこんなところに靴があるんだろう?」
「さあ、どうしてかしら。やみくろにつかまった人の靴がこのあたりで脱げちゃったのかもしれないわね」
「あるいはね」と私は言った。
私は|他《ほか》にとくに見るべきものがなかったので彼女のスカートの|裾《すそ》を観察しながら前進した。スカートはときどき太腿のずっと上までめくれあがり、泥のついていない白いふわりとした|肌《はだ》が見えた。昔でいえばガードルのとめ金具がついているあたりだ。昔はストッキングのトップとガードルのあいだに肌の露出するすきまができたのだ。パンティー・ストッキングが出現する以前の話である。
そんなこんなで、彼女の白い肌は私に昔のことを思いださせた。ジミ・ヘンドリックスやクリームやビートルズやオーティス・レディングや、そんな時代の頃のことだ。私は口笛でピーター・アンド・ゴードンの『アイ・ゴー・トゥー・ピーセズ』のはじめの何小節かを吹いてみた。良い|唄《うた》だ。甘くて切ない。デュラン・デュランなんかよりずっと良い。でも私がそう感じるのは私が年をとってしまったせいなのかもしれない。なにしろそれが|流《は》|行《や》ったのはもう二十年も前の話なのだ。二十年前にいったい|誰《だれ》がパンティー・ストッキングの出現を予測できただろう?
「どうして口笛なんか吹いてるの?」と彼女がどなった。
「わからない。吹きたいからさ」と私は答えた。
「なんていう唄?」
私は題を教えた。
「知らないわ、そんな唄」
「君が生まれる前に流行った唄だからね」
「どんな内容の唄なの?」
「体がバラバラになってなくなってしまうっていう唄さ」
「どうしてそんな唄を口笛で吹くの?」
私は少し考えてみたが、理由はわからなかった。ふと頭に浮かんだだけのことなのだ。
「わからない」と私は言った。
私がべつの曲を思いだしているあいだに、我々は下水道に行きあたった。下水道とはいっても、それはただの太いコンクリートのパイプにすぎない。直径は一メートル半ほどでその底を二センチほどの深さで水が流れていた。水のまわりにはぬるぬるとした|苔《こけ》のようなものがはえている。その先の方から何度めかの電車の通過音が聞こえてきた。音はいまではうるさいほどにはっきりとして、|微《かす》かな黄色い光さえ見ることができた。
「どうして下水が地下鉄の線路につながっているんだ?」と私は|訊《たず》ねた。
「これは正確には下水じゃないのよ」と彼女は言った。「このへんの地下の|湧《わき》|水《みず》をあつめて地下鉄の|溝《みぞ》に流しているだけよ。でも結果的に生活排水もしみこんでいるから水が汚ないのよ。今何時?」
「九時五十三分」と私は教えた。
彼女はスカートの中からやみくろよけの装置をひっぱり出してスウィッチを入れ、これまで使っていたものと交換した。
「さあ、もう少しよ。でもまだ油断はしないでね。地下鉄の構内にだってやみくろの力は及んでいるのよ。さっきの靴は見たでしょ?」
「見たさ」と私は言った。
「ぞっとした?」
「かなりね」
我々はコンクリートのパイプの中を水の流れに沿って進んだ。靴のゴム底が水をはねる音が舌なめずりのようにあたりに響き、それにかぶさるように電車の音が近づいては去っていった。地下鉄の進行音がこれほど|嬉《うれ》しく感じられたことは生まれてはじめてだった。それはまるで生命そのもののように生き生きとして騒々しく、輝かしい光に|充《み》ちているように感じられた。そこには様々な人々が乗りこみ、新聞やら週刊誌やらを読みながらそれぞれの場所へと向っているのだ。私はカラー刷りの|吊《つ》り広告や、ドアの上の路線図のことを思いだした。路線図では銀座線はいつも黄色いラインで示されている。どうして黄色なのかはわからないが、とにかくそれは黄色と決まっているのだ。だから私は銀座線のことを思うたびに黄色のことを考える。
出口に着くのにそれほどの時間はかからなかった。出口には|鉄《てつ》|格《ごう》|子《し》がはまっていたが、それはちょうど人が一人出入りできる程度に破壊されていた。コンクリートが深くえぐりとられ、鉄の棒がすっぽりと抜きとられていた。明らかにやみくろたちの仕業だが、今回に限っては私は彼らに感謝しないわけにはいかなかった。もし鉄格子がはまったままだったとしたら我々は外界を目の前にしながら身動きできなくなるところだったのだ。
丸い出口の外に信号灯と器具の収納庫のような四角い木の箱のようなものが見えた。線路と線路を隔てるコンクリートの黒ずんだ支柱が|杭《くい》のように等間隔に並んでいた。支柱についたランプが構内をぼんやりと照らしだしていたが、その光は私の目には必要以上に|眩《まぶ》しく感じられた。長いあいだ光のない地底にもぐっていたせいで目がすっかり暗闇に同化してしまったのだ。
「少しここで待って、目を光に慣れさせましょう」と彼女は言った。「十分か十五分でこれくらいの光に慣れるわ。それに慣れたら少しまた先に進むのよ。そしてまたそこでもっと強い光に目を慣らすの。でないと目が見えなくなっちゃうの。それまでは電車が通っても絶対に見ちゃ駄目よ。わかった?」
「わかった」と私は言った。
彼女は私の腕をとって、コンクリートの乾いた部分に私を座らせ、そのとなりに並んで腰を下ろした。そして体を支えるように私の右腕の肘の少し上あたりを両手で握った。
電車の音が近づいてきたので、我々は下を向いてしっかりと目を閉じた。|瞼《まぶた》の外側で黄色いギラギラとした光がしばらく点滅し、やがて耳が痛くなるような|轟《ごう》|音《おん》とともに消えていった。眩しさのせいで、目から大粒の涙がいくつもこぼれた。私はシャツの|袖《そで》で|頬《ほお》に落ちた涙を|拭《ぬぐ》った。
「大丈夫よ、すぐに慣れるわ」と彼女は言った。彼女の目からも涙がこぼれて頬に筋をつくっていた。「あと三本か四本電車をやりすごせばいいのよ。そうすれば目も慣れるから駅のすぐそばまで行けるし、そこまでいけばいくらやみくろでももう襲ってはこれないわ。私たち地上に出られるのよ」
「前にもこれと同じことをした覚えがある」と私は言った。
「地下鉄の構内を歩いたの?」
「まさか、そうじゃないよ。光さ。眩しい光で涙をこぼしたことさ」
「そんなの誰にでもあるでしょ」
「いや違う。それとは違うんだ。特殊な目で、特殊な光なんだ。そしてとても寒い。僕の目は今と同じようにずっと長いあいだ薄闇に慣れていて光を見ることができないんだ。とても特殊な目なんだ」
「もっと他に思いだせる?」
「それだけだよ。それしか思いだせない」
「きっと記憶が逆流しているのよ」と彼女は言った。
彼女は私にもたれかかっていたので、私は腕に彼女の乳房のふくらみを感じつづけていた。濡れたズボンをはいているせいで、体は冷えきっていたが、その乳房のあたる部分だけが暖かかった。
「これから地上に出るけれど、あなたには何か予定があるの? どこに行くとか、何をしたいとか、誰かに会いたいとか、そういうの」彼女はそう言って、腕時計をのぞいた。「あと二十五時間と五十分」
「家に戻って|風《ふ》|呂《ろ》に入る。服を着替える。それから床屋に行くかもしれない」と私は言った。
「それでもまだ時間があまるわ」
「あとのことはそのあとで考えるさ」と私は言った。
「私も一緒にあなたのお|家《うち》に行っていいかしら?」と彼女が|訊《き》いた。「私もお風呂に入って着替えたいわ」
「かまわないよ」と私は言った。
二台めの電車が青山一丁目の方向からやってきたので、我々はまた顔を下に向けて目を閉じた。光はあいかわらず眩しかったが、前ほどは涙が出なくなっていた。
「床屋に行くほど髪はのびてないわ」と娘が私の頭に光をあてて言った。「それにきっと長い方が似合うわよ」
「長いのには飽きたんだ」
「でもいずれにせよ床屋に行くほどのびてはいないわ。この前いつ床屋に行ったの?」
「わからない」と私は言った。床屋にこの前いつ行ったかなんて、私にはとても思いだせない。私には昨日いつ小便をしたかさえロクに思いだせないのだ。何週間も前のことなんてまるで古代史みたいなものだ。
「あなたのところに私に合うサイズの服はあるかしら?」
「どうかな、たぶんないね」
「まあいいわ、なんとかするわ」と彼女は言った。「あなたベッド使う?」
「ベッド?」
「つまり女の子を呼んでセックスするかっていうこと」
「いや、そんなこと考えなかったな」と私は言った。「たぶんしないと思う」
「じゃあ、そこで眠っていい? 祖父のところに|戻《もど》る前にひと眠りしたいの」
「べつに構わないけれど、|僕《ぼく》の部屋には記号士やら『|組織《システム》』の人間やらが押しかけてくるかもしれないぜ。なにしろ僕は最近突然人気がでてきたみたいだし、ドアには|鍵《かぎ》もかからないからね」
「そんなの気にしないわよ」と彼女は言った。
たぶん本当に気にしないのだろう、と私は思った。人それぞれ気にすることの対象が異っているのだ。
渋谷の方向から三台めの電車がやってきて、我々のすぐ前を通り過ぎていった。私は目を閉じて頭の中でゆっくりと数を数えた。十四まで数えたところで、電車の最後尾が通過していった。目はもう|殆《ほと》んど痛まなくなっていた。これでやっと地上に出るための第一段階をのりこえることができたのだ。これでもうやみくろにつかまって井戸に吊されることもなく、巨大な魚に食いちらされることもないのだ。
「さあ」と言って彼女は私の腕から手を離して立ちあがった。「そろそろでかけましょう」
私は|肯《うなず》いて立ちあがり、彼女のあとについて地下鉄の線路に下りた。そして青山一丁目の方向に向けて歩きはじめた。
30 世界の終り
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――穴――
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朝目覚めたとき、森の中の出来事は何もかも夢の中で起ったことのように感じられた。しかしそれが夢であるはずはなかった。テーブルの上には古い手風琴が衰弱した小動物のように身を縮めて小さく横たわっていた。すべては現実に起ったことなのだ。地底から吹きあがる風で回転するファンも、不幸そうな顔をした若い管理人も、その楽器のコレクションも。
しかしそれとはべつに|僕《ぼく》の頭の中では妙に非現実的な音がずっとつづいていた。それはまるで僕の頭の中に何かが突きささっているような音だった。音は休みなくつづき、休みなく僕の頭の中に何か|扁《へん》|平《ぺい》なものを突きたてていた。頭が痛いわけではない。頭はしごくまともだった。ただ非現実的なだけだった。
僕はベッドの中から部屋を見まわしてみたが、部屋にはとくにかわった点はなかった。天井も四方の壁も少しいびつに|歪《ゆが》んだ床も窓のカーテンも、いつもと同じだった。テーブルがあり、テーブルの上には手風琴があった。壁にはコートとマフラーがかかっていた。コートのポケットからは手袋がのぞいていた。
それから僕は自分の体の動きをひとつずつためしてみた。体のいろんな部分はきちんと動いた。目も痛くはない。何ひとつとしておかしなところはなかった。
それにもかかわらず、その扁平な音はまだ僕の頭の中でつづいていた。音は不規則で、集合的だった。いくつかの同質の音が|絡《から》みあっているのだ。僕はその音がどこから聞こえてくるのか見定めようとしたが、いくら耳を澄ませてみてもその音がやってくる方向はわからなかった。音は僕の頭の中から発しているように思えた。
しかし念のためにベッドを出て窓の外を|眺《なが》めてみたとき、僕はその音の原因をやっと理解することができた。窓のすぐ下の空地で、三人の老人たちがシャベルを使って大きな穴を掘っているのだ。音はシャベルの先が凍って固くなった地面に食いこむときの音だった。空気がひりひりとしているせいで、その音が奇妙な舞い方をし、それが僕を戸惑わせたのだ。様様な出来事がつづけざまに起ったせいで、僕の神経がいくぶんたかぶっていたということも原因のひとつかもしれない。
時計の針はもう十時近くを指していた。そんな時間まで眠っていたのははじめてのことだった。|何《な》|故《ぜ》大佐は僕を起さなかったのだろう? 彼は僕が熱を出しているときをべつにすれば一日として欠かすことなく僕を九時には起し、二人分の朝食をのせた盆を部屋に運びこんだのだ。
十時半まで待ったが、やはり大佐はあらわれなかった。僕はあきらめて下の台所におりてパンと飲み物をもらい、部屋に|戻《もど》って一人で朝食を済ませた。長いあいだ二人の朝食に慣れていたせいか、朝食はどことなく味気なかった。僕はパンを半分だけ食べて、残りを獣たちのためにとっておくことにした。そしてストーヴの火が部屋を十分にあたためるまで、コートにくるまってベッドの上に腰かけてじっとしていた。
昨日の|嘘《うそ》のような暖かさはやはり一夜にして消え去り、部屋の中はいつもどおりの重くるしい冷気に|充《み》ちていた。強い風こそ吹いてはいなかったが、あたりの風景はすっかりもとどおりの冬に逆戻りし、北の尾根から南の荒野にかけての空には雪をたっぷりとはらんだ雲が息苦しいほどに垂れこめていた。
窓の下の空地では四人の老人たちがまだ穴を掘りつづけていた。
四人?
さっき僕が見たときには老人の数はたしか三人だった。三人の老人たちがシャベルを使って穴を掘っていたのだ。しかし今、老人たちは四人いた。たぶん途中から一人加わったのだろうと僕は想像した。それは何も不思議なことではなかった。官舎には数えきれないほどのたくさんの老人がいるのだ。四人の老人たちは四つの場所にわかれてそれぞれの足もとを黙黙と掘りつづけていた。ときおり気まぐれに吹く風が老人たちの薄い上着の|裾《すそ》を激しくはためかせていたが、その寒さは彼らにはそれほどの苦痛ではないらしく、|頬《ほお》を紅潮させながら休むことなくシャベルを地面に突き立てていた。彼らの中には汗をかいて上着を脱ぐものさえいるほどだった。その上着はまるで脱けがらのように木の枝にかかって、風に揺れていた。
部屋があたたまると僕は|椅《い》|子《す》に腰を下ろしてテーブルの上の手風琴を手にとり、|蛇《じゃ》|腹《ばら》をゆっくりと伸縮させてみた。自分の部屋に持ちかえって眺めてみると、それは最初に森で見たときの印象よりずっと精巧にしあげられていることがわかった。キイや蛇腹はすっかり古ぼけた色に変っていたが、木のパネルに塗られた塗料は一カ所としてはげた部分がなく、縁に描かれた|精《せい》|緻《ち》な唐草模様も損なわれることなく残っていた。楽器というよりは美術工芸品として十分に通用しそうだった。蛇腹の動きはさすがにいくぶんこわばってぎこちなかったが、それでも使用にさしつかえるというほどではなかった。おそらくそれはかなり長いあいだ人の手に触れられることもなく放置されていたのに違いない。しかしそれがかつてどのような人の手によって奏され、そしてどのような経路を経てあの場所まで|辿《たど》りつくことになったのかは僕にはわからなかった。すべては|謎《なぞ》に包まれていた。
装飾の面だけではなく、楽器の機能性をとってみてもその手風琴はかなり凝ったものだった。だいいちに小さい。折り畳むとコートのポケットにすっぽりと入ってしまう。しかしだからといって、そのために楽器の機能が犠牲になっているわけではなく、手風琴が備えているべきものはそこには全部きちんと|揃《そろ》っていた。
僕は何度かそれを伸縮させて、蛇腹の動き具合を手によくなじませてから右手のキイを順番に試し、それにあわせて左のコード・キイを押してみた。そしてひととおりの音を出してから手を休め、あたりの物音に耳を澄ませてみた。
老人たちが穴を掘りつづける音はまだつづいていた。彼らの四本のシャベルの先が土を|噛《か》む音が、とりとめのない不揃いなリズムとなって妙にはっきりと部屋の中に入りこんできていた。風が時折窓を揺らせた。窓の外にはところどころに雪が残った丘の斜面が見えた。手風琴の音が老人たちの耳に届いているのかどうか、僕にはわからなかった。たぶん届きはしないだろう、と僕は思った。音も小さいし、風向きも逆になっている。
僕がアコーディオンを弾いたのはずいぶん昔のことだったし、それもキイボード式の新しい型のものだったから、その旧式の仕組とボタンの配列になれるにはかなりの手間がかかった。小型にまとめられているせいで、ボタンは小さく、おまけにひとつひとつがひどく接近していたから、子供や女性ならいざしらず手の大きな大人の男がそれを思うように弾きこなすのはかなり|厄《やっ》|介《かい》な作業だった。そのうえにリズムをとりながら効果的に蛇腹を伸縮させなくてはならないのだ。
それでも僕は一時間か二時間かけて、いくつかの簡単なコードをその場に応じて間違いなくとりだすことができるまでになった。しかしメロディーはどうしても僕の頭には浮かんではこなかった。繰りかえし繰りかえしキイボードを押さえてメロディーらしきものを思いだそうとしても、それはただの無意味な音階の|羅《ら》|列《れつ》にすぎず、僕をどのような場所にも導かなかった。ときどきいくつかの音の偶然の配列が僕にふと何かを思いださせようとするのだが、それはすぐ空気の中に吸いこまれて消えてしまった。
僕が何ひとつとしてメロディーをみつけだすことができなかったのには、老人たちのシャベルの音のせいもあったような気がする。もちろんそれだけではないが、彼らの立てる音が僕の神経の集中を妨げていたこともたしかだった。彼らのシャベルの音はあまりにもくっきりと耳もとで響いていたので、僕はそのうちに老人たちが僕の頭の中に穴を掘っているのではないかという気がしはじめたほどだった。彼らがシャベルを使えば使うほど、僕の頭の中の空白がどんどん大きくなっていくように思えた。
昼前になって風が急激に勢いを増し、中に雪が混じるようになった。窓ガラスに雪の粒があたるぱらぱらという乾いた音が聞こえた。氷のように固くしまった小さな白い雪の粒が|窓《まど》|枠《わく》の上に落ちて不規則に並び、やがて風に吹き落とされていった。積る雪ではないが、おそらくそのうちにもっとたっぷりと湿気をふくんだ大粒のやわらかい雪に変るだろう。それがいつもの順序なのだ。そしてやがて大地は再び白い雪に|覆《おお》われることになるのだ。固い雪は常に大雪の前触れだった。
しかし老人たちは雪のことなど気にもとめない様子で穴を掘りつづけていた。彼らはまるで雪が降りだすことなどはじめから承知していたといわんばかりの様子だった。|誰《だれ》も空を見上げず、誰も手を休めず、誰も口をきかなかった。木の枝にかかった上着さえ、そのままの位置で激しい風に吹かれていた。
老人たちの数は六人に増加していた。あとから加わった二人はつるはしと手押し車を使っていた。つるはしを持った老人は穴の中に入って固い地面を砕き、手押し車を持った一人は穴の外にかきだされた土をシャベルですくって車にのせ、それを斜面に運んでいって下に捨てた。穴はもう彼らの腰のあたりまで掘り下げられていた。強い風の音も、彼らのシャベルとつるはしの音を消すことはできなかった。
僕は|唄《うた》を探すことをあきらめて手風琴をテーブルの上に|放《ほう》りだし、窓のそばに行って老人たちの作業をしばらく眺めた。老人たちの作業にはリーダーらしきものの存在は見受けられなかった。誰もが均等に働き、誰も指示をしたり命令を下したりはしなかった。つるはしを手にした老人は素晴しく効果的に固い土を砕き、四人の老人はシャベルで土を外にかきだし、もう一人は手押し車で黙々と土を斜面にはこんだ。
しかしその穴をじっと見ているうちに僕はいくつかの疑問を抱きはじめた。ひとつにはそれがごみを捨てるための穴にしては不必要に大きすぎることであり、もうひとつには今まさに大雪が降りだそうとしていることだった。あるいはそれは何かとくべつな目的のための穴なのかもしれない。しかしそれにしても雪はその穴の中に吹きだまって、明日の朝までにはおそらくすっぽりとそれを埋めてしまうことだろう。それくらいのことは雲ゆきを見れば老人たちにもわかっているはずだった。既に北の尾根の中腹あたりまでが降りしきる雪に覆いかくされてかすんでいるのだ。
考えをめぐらしたところで老人たちの作業の意味はわからなかったので、僕はストーヴの前に戻って椅子に座り、何を思うともなく石炭の赤い火をぼんやりと眺めていた。おそらくもう唄を思いだすことはできないのだろうと僕は思った。楽器があってもなくても、どちらでも同じことなのだ。どれだけ音を並べてみても、そこに唄がなければそれはただの音の羅列にすぎないのだ。テーブルの上に置かれた手風琴は単に美しい物体[#「物体」に丸傍点]でしかなかった。僕にはあの発電所の管理人の言ったことばがよくわかるような気がした。音を出す必要はありません、見ているだけで美しいのです、と彼は言ったのだ。僕は目を閉じて窓に打ちつける雪の音を聞きつづけた。
昼食の時間になって、老人たちはやっと作業をやめて官舎の中に戻っていった。あとにはシャベルとつるはしが地面にそのままのかたちに残されていた。
僕が|窓《まど》|際《ぎわ》の椅子に座って人影のない穴を眺めていると、隣室の大佐がやってきて僕の部屋のドアをノックした。彼はいつもの厚いコートを着て前にひさしのついた作業用の帽子を深くかぶっていた。コートにも帽子にも白い雪の粒がべったりとついていた。
「どうやら今夜あたりはずいぶん積りそうだね」と彼は言った。「昼食を持ってこようか?」
「ありがたいですね」と僕は言った。
十分ばかりあとで、彼は|鍋《なべ》を両手にかかえるようにして戻ってきてそれをストーヴの上に載せた。それからまるで|甲《こう》|殻《かく》動物が季節のかわりめに|殻《から》を抜けだすような格好で帽子とコートと手袋をひとつひとつ慎重に脱いでいった。そして最後に指でもつれた白い髪を|撫《な》でつけ、椅子に腰を下ろしてため息をついた。
「朝食に来ることができなくて悪かったね」と老人は言った。「何しろ朝から仕事に追われて食事をする暇もなかったものでね」
「まさか穴を掘っていたわけじゃないんでしょう?」
「穴? ああ、あの穴のことか。あれは私の仕事じゃない。穴掘りは|嫌《きら》いではないがね」と言って大佐はくすくす笑った。「街で仕事をしていたんだ」
彼は鍋があたたまると料理をふたつの|皿《さら》にわけてテーブルの上に置いた。|麺《めん》の入った野菜のシチューだった。彼はそれを吹いてさましながら|美《う》|味《ま》そうに食べた。
「あの穴はいったい何のための穴なのですか?」と僕は大佐に質問してみた。
「あれは何でもないよ」と老人はスプーンを口にはこびながら言った。「彼らは穴を掘ることを目的として穴を掘っているんだ。そういう意味ではとても純粋な穴だよ」
「よくわかりませんね」
「簡単だよ。彼らは穴を掘りたいから穴を掘っているんだ。それ以上の目的は何もない」
僕はパンを|噛《か》みながら、その純粋な穴について考えをめぐらせてみた。
「彼らはときどき穴を掘るんだ」と老人は言った。「たぶん私がチェスに凝るのと原理的には同じようなものだろう。意味もないし、どこにも辿りつかない。しかしそんなことはどうでもいいのさ。誰も意味なんて必要としないし、どこかに辿りつきたいと思っているわけではないからね。我々はここでみんなそれぞれに純粋な穴を掘りつづけているんだ。目的のない行為、進歩のない努力、どこにも辿りつかない歩行、素晴しいとは思わんかね。誰も傷つかないし、誰も傷つけない。誰も追い越さないし、誰にも追い抜かれない。勝利もなく、敗北もない」
「あなたのおっしゃっていることはわかるような気がします」
老人は何度か|肯《うなず》いてから皿を傾けてシチューの最後のひとくちを飲んだ。
「あるいは君にはこの街のなりたちのいくつかのものが不自然に映るかもしれん。しかし我我にとってはこれが自然のことなのだ。自然で、純粋で、安らかだ。君にもきっといつかそれがわかるだろうし、わかってほしいと私は思う。私は長いあいだ軍人として人生を送ってきたし、それはそれで後悔はしていない。それはそれなりに楽しい人生だったよ。硝煙や血の|臭《にお》いや銃剣のきらめきや突撃のラッパとかのことは今でもときどき思いだす。しかし私は我々をその戦いに駆りたてたものをもう思いだすことはできんのだ。名誉や愛国心や闘争心や憎しみや、そういうものをね。君は今、心というものを失うことに|怯《おび》えておるかもしらん。私だって怯えた。それは何も恥かしいことではない」大佐はそこで言葉を切って、しばらく言葉を探し求めるように宙を見つめていた。「しかし心を捨てれば安らぎがやってくる。これまでに君が味わったことのないほどの深い安らぎだ。そのことだけは忘れんようにしなさい」
僕は黙って肯いた。
「それはそうと街で君の影の話を耳にしたよ」と大佐はパンでシチューの残りをすくいとりながら言った。「話によれば君の影はずいぶん元気をなくしておるようだ。口にしたものはあらかた吐いてしまって、地下のベッドに三日も寝たきりらしい。もう長くはないかもしれん。君さえ|嫌《いや》でなければひとつ会いに行ってやってはどうかね? 向うの方では君に会いたがっておるらしいから」
「そうですね」と僕は少し迷うふりをした。「僕はかまいませんがはたして門番が会わせてくれるでしょうか?」
「もちろん会わせてくれるさ。影が死にかけているんだもの、本人は影に会う権利がある。これはきちんときめられたことなんだ。影の死というのはこの街にとっちゃ厳粛な儀式だからね、いくら門番といってもそれを邪魔するわけにはいかんよ。邪魔をする理由がない」
「じゃあこれからでも行ってみることにします」と僕は少し間を置いてから言った。
「そうだな、それがいい」と老人は言って僕のそばにより僕の肩を|叩《たた》いた。「夕方になって雪が積らんうちにな。なんのかのと言っても、影というのは人間にとってもっとも近しいものだ。気持よくみとってやった方があと味がいい。うまく死なせてやりなさい。|辛《つら》いかもしれんが、それは君自身のためだ」
「よくわかっていますよ」と僕は言った。そしてコートを着て、マフラーを首に巻いた。
31 ハードボイルド・ワンダーランド
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――改札、ポリス、合成洗剤――
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パイプの出口から青山一丁目の駅まではそれほどの距離はなかった。我々は線路の上を歩き、電車が来ると支柱の陰に隠れてそれをやり過した。我々の方からは電車の中がはっきりと見えたが、乗客の方は我々を見向きもしなかった。地下鉄の乗客は|誰《だれ》も外の景色を|眺《なが》めたりしないのだ。彼らは新聞を読んだり、ただぼんやりしたりしていた。地下鉄というのは人人にとっては有効に都市空間を移動するための便宜的手段にすぎないのだ。誰も心を踊らせて地下鉄に乗ったりはしない。
乗客の数はそれほど多くはなかった。立っている乗客は|殆《ほと》んどいなかった。ラッシュアワーも峠を越したとはいえ、私の記憶している限り朝の十時すぎの銀座線はもっと込みあっているはずだった。
「今日は何曜日だっけ?」と私は娘に|訊《き》いてみた。
「わからないわ。曜日のことなんて考えたことないもの」と娘は言った。
「平日にしてはどうも乗客が少なすぎる」と私は言って首をひねった。「ひょっとして日曜日かもしれない」
「日曜日だとどうなるの?」
「どうにもならない。ただ日曜日だっていうことだけさ」と私は言った。
地下鉄の線路は思ったよりずっと歩きやすかった。広々として|遮《さえぎ》るものもなく、信号もなく自動車も通らない。街頭募金もないし、酔払いもいない。壁の|蛍《けい》|光《こう》|灯《とう》が適度の明るさに足もとを照らし、空調のおかげで空気も新鮮だった。少くともあの地底のかび臭い空気に比べれば文句のつけようがなかった。
我々はまず銀座方面行きを一台やりすごし、それから渋谷行きをやりすごした。そして青山一丁目の駅のそばまで行って支柱の陰からプラットフォームの様子をうかがった。地下鉄の線路を歩いているところを駅員につかまったりしたら大変なことになってしまう。どう言いわけすれば信じてもらえるのか見当もつかない。プラットフォームのいちばん手前に|梯《はし》|子《ご》が見えた。|柵《さく》は簡単に乗りこえることができそうだった。問題は駅員にみつからないようにすることだけだ。
我々は銀座方面行きの電車がやってきてプラットフォームに|停《と》まり、ドアを開けて乗客を吐きだし、新しい乗客を乗せてドアを閉めるのを支柱の陰からじっと見ていた。車掌がプラットフォームに出て乗客の乗り降りを確認してからドアを閉め、発車の合図をするのが見えた。電車が消えてしまうと駅員もどこかに去っていった。反対側のプラットフォームにも駅員の姿は見えなかった。
「行こう」と私は言った。「走らないで何気ないふりをして歩くんだ。走ると客に怪しまれる」
「わかった」と彼女は言った。
我々は柱の陰から出てプラットフォームの手前の端まで速足で歩き、それからこんなことは毎日やり慣れていて|面《おも》|白《しろ》くもなんともないという風を装って鉄の梯子をのぼり、木の柵を越えた。何人かの乗客が我々の方を見て不思議そうな顔をした。いったいこの連中は何ものなのだろう、と彼らはいぶかっているようだった。我々はどう見ても地下鉄の関係者には見えなかった。全身|泥《どろ》だらけで、ズボンとスカートはぐっしょりと|濡《ぬ》れ、髪はぼさぼさで、照明の|眩《まぶ》しさに涙を流していた。そんな人間が地下鉄の関係者に見えるわけはない。しかしいったいどこの誰が好きこのんで地下鉄の線路の上を歩いたりするものだろうか?
彼らが彼らなりの結論に到達する前に我々はさっさとプラットフォームを抜けて改札口まで歩いた。そして改札口の前まで来たときに切符を持っていないことにはじめて気づいた。
「切符がない」と私は言った。
「|失《な》くしたことにしてお金を払えばいいでしょ?」と彼女は言った。
私は改札口にいた若い駅員に切符を失くしたと言った。
「よく探してみました?」と駅員は言った。「ポケットはたくさんありますからね。もう一回探してくれますか?」
我々は改札口の前で服のすみずみまで探すふりをした。そのあいだ駅員は我々の格好を疑わしげにじろじろと見ていた。
やはりない、と私は言った。
「どこから乗ったんですか?」
渋谷、と私は言った。
「幾ら払いました、渋谷からここまで?」
忘れた、と私は言った。「百二十円か百四十円かそういうあたりだと思うけど」
「覚えてないんですか?」
「考えごとをしてたもので」と私は言った。
「本当に渋谷から乗ったんですか?」と駅員が訊いた。
「だってこのフォームは渋谷始発でしょ? ごまかしようもないよ」と私は抗議した。
「あっちのプラットフォームからこちらに来ることだってできるんです。銀座線ってけっこう長いですからね。それにたとえば津田沼から東西線で日本橋まで出て、そこで乗りかえてここまで来ることだってできるんです」
「津田沼?」
「たとえばの話です」と駅員は言った。
「じゃあ津田沼からいくらなんですか? そのぶんを払いますよ。それでいいんでしょう?」
「津田沼から来たんですか?」
「いや」と私は言った。「津田沼なんて行ったこともない」
「じゃあどうして払うんですか?」
「あなたがそう言ったんじゃないか」
「だからたとえばの話だって言ったでしょ?」
そのとき次の電車がやってきて、二十人ばかりの乗客が降り、改札口をとおって外に出ていった。私は彼らが出ていくのを眺めていた。切符を失くした人間は一人もいなかった。それから我々は交渉を再開した。
「じゃあどこからのぶんを払えば納得してもらえるんですか?」と私は訊いた。
「あなたが乗ったところからです」と駅員は言った。
「だから渋谷っていってるでしょう」と私は言った。
「でも料金は覚えてない」
「そんなの忘れちゃうんですよ」と私は言った。「あなただってマクドナルドのコーヒーの値段覚えてないでしょう?」
「マクドナルドのコーヒーなんか飲まない」と駅員は言った。「あんなもの金の|無《む》|駄《だ》ですよ」
「たとえばの話だよ」と私は言った。「そういう細かいことってすぐに忘れちゃうものなんだ」
「とにかく切符を失くした人ってみんな少なめに申告するんです。みんなこっちのプラットフォームに来て渋谷から乗ったっていう。みんなそうなんです」
「だからどこからのぶんでも払うって言ってるんでしょ? どこからならいいんですか?」
「そんなこと私にわかるわけないじゃないですか」
どこにも|辿《たど》りつかない論争をつづけることが面倒臭くなったので私は千円札を一枚置いて勝手に外に出た。うしろから駅員の呼ぶ声が聞こえたが、我々は聞こえないふりをして歩きつづけた。もうすぐ世界が終ろうとしているというときに地下鉄の切符の一枚や二枚のことでこれ以上わずらわされるのはうんざりだった。よく考えてみればだいたい私は地下鉄に乗ってもいないのだ。
地上には雨が降っていた。針のような細かい雨だが、地面や木はぐっしょりと濡れていた。おそらく夜のあいだずっと降りつづけていたのだろう。雨が降っていることは私の心をいくぶん暗くした。今日は私にとって最後の貴重な一日なのだ。雨なんか降ってほしくない。一日か二日からりと晴れてくれればそれでいいのだ。そのあとでJ・G・バラードの小説に出てくるみたいな大雨が一カ月降りつづいたって、それは私の知ったことではないのだ。私はさんさんと陽光の降りそそぐ芝生に寝転んで音楽を聴きながら冷たいビールを飲みたいのだ。それ以上の何かを求めているわけではないのだ。
しかし私の思いに反して雨の降り|止《や》む様子はなかった。ビニール・ラップを何重にもかぶせたようなぼんやりとした色の雲が一分の|隙《すき》もなく空を|覆《おお》っていて、そこから間断なく細かい雨が降りつづけていた。私は朝刊を買って天気予報を読みたかったが、新聞を買うためにはまた地下鉄の改札口の近くまで行かなくてはならなかったし、改札口まで行けば駅員とのあいだにあの無益な論争が再開することは目に見えていた。それで私は新聞を買うのをあきらめることにした。あまりぱっとしない一日のはじまりだった。今日が何曜日かもまだ判明していないのだ。
人々はみんな|傘《かさ》をさして歩いていた。傘を持っていないのは我々二人だけだった。我々はビルの軒先に立ってアクロポリスの|遺《い》|蹟《せき》でも眺めるみたいに長いあいだ街の風景を|茫《ぼう》|然《ぜん》と眺めていた。雨に濡れた|交《こう》|叉《さ》|点《てん》を色とりどりの車の列が|往《い》ったり来たりしていた。この足もと深くにあのやみくろの奇怪な世界が広がっているなんて、私にはとても想像できなかった。
「雨が降っていてよかったわね」と娘が言った。
「どうして?」
「だってもし天気が良かったら眩しくてしばらくは地上に出られないところだったのよ。良かったでしょ?」
「まあね」と私は言った。
「これからどうするの?」と娘が訊いた。
「まず何か温かいものを飲もう。それから家に帰って|風《ふ》|呂《ろ》に入る」
我々は近くのスーパーマーケットに入って、入口近くにあるサンドウィッチ・スタンドでコーン・ポタージュをふたつとハムエッグのサンドウィッチをひとつ注文した。カウンターの中にいた女の子は我々の汚ない姿を見て最初はかなりびっくりしたようだったが、それには気がつかないふりをして純粋に職業的な口調で注文をとった。
「ポタージュをおふたつとハムエッグ・サンドをおひとつ」と彼女は言った。
「そのとおり」と私は言った。それから「今日は何曜日ですか?」と|訊《たず》ねた。
「日曜日」と彼女は言った。
「ほらね」と私は太った娘に言った。「合ってた」
ポタージュ・スープとサンドウィッチが運ばれてくるまで、私は隣りの席に残されていた『スポーツ・ニッポン』を読んで時間をつぶすことにした。スポーツ新聞を読んでも何かの役に立つとも思えなかったが、何も読まないよりはましだった。新聞の日付けは十月二日日曜日とあった。スポーツ新聞には天気予報はなかったが、そのかわり競馬のページにかなりくわしい雨の情報が載っていた。雨は夕方には降り止むだろうがいずれにせよ最終レースの重馬場にかわりはなく、かなり厳しいレース展開になるであろう、とあった。神宮球場ではヤクルト対中日の最終ゲームが行われて、ヤクルトが6対2で負けていた。神宮球場の真下にやみくろの大きな巣があるとは誰も知らないのだ。
娘がいちばん手前のページを見たいと言ったので、私はそのページをとって渡した。彼女が読みたかったのは「精液を飲むとお|肌《はだ》の美容になる?」という記事らしかった。その下には「|檻《おり》に入れられて犯された私」という読物記事が載っていた。檻に入れた女をどうやって犯すのか私には想像できなかった。きっとそれなりの|上《う》|手《ま》いやり方があるのだろう。しかしいずれにしてもかなり面倒な作業に違いない。私にはとてもできない。
「ねえ、精液を飲まれるのって好き?」と娘が私に訊ねた。
「べつにどっちでも」と私は答えた。
「でもここにはこう書いてあるわよ。『一般的に男はフェラチオの際に女が精液を飲みこんでくれることを好む。それによって男は自分が女に受け入れられたことを確認することができる。それはひとつの儀式であり認承である』って」
「よくわからない」と私は言った。
「飲みこんでもらったことある?」
「覚えてないな。たぶんないと思う」
「ふうん」と彼女は言って、記事のつづきを読みつづけた。
私はセントラル・リーグとパシフィック・リーグの打撃ランキングを読んでいた。
スープとサンドウィッチが運ばれてきた。我々はスープを飲み、サンドウィッチを半分ずつ分けた。トーストとハムと卵の白身と黄身の味がした。私は紙ナプキンで口もとについたパン|屑《くず》と卵の黄身を|拭《ぬぐ》い、それからあらためてため息をついた。全身のため息をあつめてひとつにまとめたような深いため息だった。これくらい深いため息は一生のうちにそう何度もつけるものではない。
私は店を出てタクシーを拾った。汚れたなりをしていたので|停《と》まってくれるタクシーにめぐりあうまでに結構時間がかかった。タクシーの運転手は髪の長い若い男で、助手席に置いた大きなステレオ式のラジオ・カセットでポリスの音楽を流していた。私は大声で行き先を告げると、背もたれに深く身を沈めた。
「ねえ、どうしてそんなに汚れてんの?」と運転手がバックミラーに向って質問した。
「雨の中でとっくみあいの|喧《けん》|嘩《か》したからよ」と娘が答えた。
「へえ、|凄《すご》いね」と運転手が言った。「でもさ、ひどい格好だよ。首の横にすごいあざ[#「あざ」に丸傍点]ついてるしさ」
「知ってるよ」と私は言った。
「でもいいんだよ、|俺《おれ》そういうの気にしないから」と運転手は言った。
「どうして?」と太った娘が訊いた。
「俺、若くてロック聴きそうな客しか乗せないんだ。そういう客ならべつに汚れてたって構わないんだ。これ聴いてんのだけが楽しみだからさ。ポリス好き?」
「わりとね」と私は適当に言った。
「会社はさ、こういうのかけちゃいけないって言うんだ。ラジオで歌謡番組流してろってさ。でも冗談じゃないよな、そんなの。マッチだとか松田聖子なんて下らなくって聴いてらんないよ。ポリスが最高だね。一日聴いてても飽きないね。レゲエもいいけどさ。お客さん、レゲエはどう?」
「悪くない」と私は言った。
ポリスのテープが終ると運転手はボブ・マーリーのライヴを聴かせてくれた。ダッシュボードにはぎっしりとテープがつまっていた。私は疲れきって寒くて眠く体の節々がばらばらに分解してしまいそうでとても音楽を楽しめるような状態ではなかったが、とにかく車に乗せてもらえただけでありがたかった。私は運転手がハンドルを握りながら肩でレゲエのリズムをとっているのを後からぼんやりと|眺《なが》めていた。
私のアパートの前で車が停まると、私は料金を払って車を降り、チップに千円札を一枚わたして「テープでも買いなよ」と言った。
「|嬉《うれ》しいねえ」と運転手は言った。「またどっかで会おうよ」
「そうだね」と私は言った。
「でもさ、あと十年か十五年したらさ、世の中のタクシーの多くがロック流しながら走ってると思わない? そうなるといいと思わない?」
「そうなるといいね」と私は言った。
しかし私にはそうなるとは思えなかった。ジム・モリソンが死んで十年以上になるが、ドアーズの音楽を流しながら走っているタクシーにめぐりあったことは一度もない。世間には変化することとしないことがあるのだ。変化しないことはいつまでたっても変化しない。タクシーの音楽もそのひとつだ。タクシーのラジオからはいつも歌謡番組か品の悪いトーク・ショーか野球中継が流れているものなのだ。デパートの拡声装置からはレーモン・ルフェーブル・オーケストラが流れ、ビヤホールではポルカがかかり、歳末の商店街ではヴェンチャーズのクリスマス・ソングが聴こえるものなのだ。
我々はエレベーターで上にあがった。私の部屋のドアはあいかわらず|蝶番《ちょうつがい》ごとはずれていたが、一見ちゃんとドアが閉まっていると見えるように|誰《だれ》かが戸口の|枠《わく》にすっぽりとはめこんでくれていた。誰がやったのかはわからないが、かなりの手間と力が必要だったに違いない。私はクロマニヨン人が|洞《どう》|窟《くつ》のふたをあけるみたいにスティールのドアをずらし、彼女を中に入れた。そして内側からまたドアをずらせ、部屋の中が見えないようにし、気休めにドア・チェーンをかけた。
部屋の中はすっかり|綺《き》|麗《れい》に|整《せい》|頓《とん》されていた。前日に部屋を破壊しつくされたことが一瞬私の思い違いであったように思えたほどだった。ひっくりかえされていたはずの家具はすべてもとどおりに修復され、床にちらばった食品はかたづけられ、割れた|瓶《びん》や食器の破片はどこかに消え去り、本とレコードは|棚《たな》に|戻《もど》され、服は洋服だんすにかかっていた。台所も浴室も寝室もぴかぴかに|磨《みが》きあげられ、床にはごみひとつない。
しかしよく調べてみると、破壊の傷あとはところどころに残っていた。TVのブラウン管は|叩《たた》き壊されたままタイム・トンネルみたいなかたちの穴をぽっかりと開けていたし、冷蔵庫は死んでいて、中身はきれいさっぱり空っぽになっていた。切り裂かれた服は全部捨て去られ、あとには小さなスーツ・ケースに詰めこめる程度の量のものしか残ってはいなかった。食器棚の中には|皿《さら》とグラスがいくつか残っているだけだった。掛時計もとまっていたし、電気器具で満足に動くものはひとつとしてなかった。誰かが使いものにならなさそうなものを|選《よ》りわけて処分してくれたのだ。おかげで私の部屋はとてもこざっぱりしたかんじになっていた。余分なものは何ひとつなく、実に広々としている。必要なものもいくつか欠けているはずだったが、いったい今の私にとって何が必要なものなのか見当もつかなかった。
私は浴室に行ってガス湯沸し器を点検し、壊されていないことをたしかめてから|浴《よく》|槽《そう》に湯を入れた。|石《せっ》|鹸《けん》も|髭《ひげ》|剃《そ》りも歯ブラシもタオルもシャンプーもみんなひととおり残っていたし、シャワーも大丈夫だった。バスローブも無事だった。浴室からもいろんなものが消えているはずだったが、私にはなくなったはずのものをひとつとして思いだすことができなかった。
私が浴槽に湯をためて部屋を点検しているあいだ、太った娘はベッドに寝転んでバルザックの『農民』を読んでいた。
「ねえ、フランスにもかわうそはいたのね」と彼女は言った。
「いたんだろうな」と私は言った。
「今でもいるのかしら?」
「わからない」と私は答えた。そんなこと私にわかるわけない。
私は台所の|椅《い》|子《す》に腰を下ろしていったい誰が私のごみためのような部屋をかたづけてくれたのか思いをめぐらせてみた。誰かが何かの目的のために手間をかけて|隅《すみ》から隅までかたづけたのだ。それは例の記号士の二人組かもしれないし、あるいは『|組織《システム》』の人間かもしれなかった。彼らがどのような基準にしたがって何を考えて何をするのか、私には想像もつかない。しかしいずれにせよ部屋を綺麗にしておいてくれたことについて私はその|謎《なぞ》の誰かに対して感謝した。清潔な家に帰るというのは実に気持の良いものだ。
湯がたまると私は彼女に先に風呂に入るようにと言った。娘は本のページにしおりを入れてベッドから下り、台所でするすると服を脱いだ。服の脱ぎ方があまりにも自然だったので、私はベッドに腰をかけたまま彼女の裸をぼんやりと眺めた。彼女の体は子供のような大人のような妙な体つきだった。普通の人間の体にまんべんなくゼリーを塗ったように白いやわらかそうな肉がたっぷりと付着していた。それはとても均整のとれた太り方だったので、よく気をつけていないと彼女が太っているという事実をふと忘れてしまいそうなくらいだった。腕も|太《ふと》|腿《もも》も首も腹のまわりも見事にふくらんでいて、|鯨《くじら》のようにつるつるとしていた。体の大きさに比べて乳房はそれほど大きくはなくほどほどにまとまりのある形をしていたし、お|尻《しり》の肉もきちんと上にあがっていた。
「私の体、悪くないでしょ?」と台所から娘が私の方に向って言った。
「悪くないよ」と私は答えた。
「ここまで肉をつけるのは大変だったのよ。ごはんだっていっぱい食べなくちゃならないし、ケーキだとか油ものだとか」と彼女は言った。
私は黙って|肯《うなず》いた。
彼女が風呂に入っているあいだに私はシャツと|濡《ぬ》れたズボンを脱いで残っていた服に着替え、ベッドに寝転んでこれから何をしようかと考えた。時計は十一時半に近くなっていた。残された時間はあと二十四時間と少ししかない。何をするかきちんと決める必要があるのだ。人生の最後の二十四時間をなりゆきにまかせてだらだらと過すわけにはいかない。
外ではまだ雨が降りつづいていた。ほとんど目にも映らないほどの細かく静かな雨だった。窓の上の軒をつたうようにして落ちていく水滴が見えなければ雨が降っているのかどうかもよくわからないところだった。ときおり車が窓の下を通りかかり、舗道を|覆《おお》った薄い水の膜をはねていく音が聞こえた。何人かの子供たちが誰かを呼んでいる声も聞こえた。浴室では娘がメロディーのよく聞きとれない|唄《うた》を唄っていた。どうせ自分で作った唄なのだろう。
ベッドに寝転んでいるとひどく眠くなったが、このまま眠りこんでしまうわけにはいかない。眠ってしまえば何もしないままに何時間かが過ぎてしまうのだ。
しかしそれでは眠らずに何をするかということになると、何をすればいいのか私にはさっぱりわからなかった。私はベッドのわきにあるライト・スタンドの傘の縁についたゴムの覆いを外し、しばらくそれで遊んでからまたもとに戻した。いずれにせよこの部屋にいることはできない。ここにじっとしていたって何も得るものはないのだ。たぶん外に出て何かをすることになるだろう。何をするかは外に出てから考えればいい。
考えてみればあと二十四時間しか人生が残されていないというのは何かしら妙なものだった。やるべきことは山ほどあるはずなのだが、実際にはひとつも思いつけないのだ。私はまたスタンドの傘のゴムを外して、それを指でくるくるとまわした。それからスーパーマーケットの壁に|貼《は》られていたフランクフルトの観光ポスターを思いだした。川があって橋がかかっていて白鳥が|川《かわ》|面《も》に浮かんでいるポスターだ。悪くなさそうな街だった。フランクフルトに行ってそこで人生を終えるのもなかなか悪くないように思える。しかし今から二十四時間以内にフランクフルトに到着することはまず不可能だろうし、もしそれが可能であるとしても十何時間も飛行機のシートにつめこまれて|不《ま》|味《ず》い機内食を食べさせられるのは問題外だった。それに実際に行ってみたらポスターで見た景色の方が良かったなんてことにならないとも限らないのだ。がっかりした気分で人生を終えるのだけはどうしても避けたかった。となると旅行は計画から外さなくてはいけない。移動に時間がかかりすぎるし、大抵の場合最初に期待するほど実際は楽しくないものなのだ。
結局私に思いつけるのは女の子と二人で|美《う》|味《ま》い食事をして酒を飲むことだけだった。その|他《ほか》にはやりたいことといっても何もなかった。私は手帳のページを繰って図書館の電話番号を調べ、ダイヤルを回し、リファレンスの係を呼んでもらった。
「もしもし」とリファレンス係の女の子が言った。
「このあいだは一角獣の本をありがとう」と私は言った。
「こちらこそどうもごちそうさま」と彼女は言った。
「もしよかったら今夜また食事でもしない?」と私は誘ってみた。
「食事」と彼女は反復した。「今夜は研究会があるの」
「研究会?」と私が反復した。
「河川の汚染についての研究会なの。ほら、合成洗剤による魚の絶滅とか、そういうの。みんなで研究してるの。今夜は私が研究発表することになってるの」
「有益な研究みたいだね」と私は言った。
「ええ、そうよ。だからもしできるなら食事の方は|明日《あ し た》にのばしてもらえないかしら? 明日だったら月曜日で図書館もお休みだし、ゆっくりできると思うんだけど」
「明日の午後にはもういないんだ。電話じゃくわしく説明できないんだけど、しばらく遠くへ行っちゃうものだから」
「遠くへ行っちゃう? それは旅行のようなもの?」と彼女が訊ねた。
「まあね」と私は言った。
「ごめんなさい、ちょっと待っててね」と彼女は言った。
彼女はリファレンスに相談に来た人の相手をしているようだった。日曜日の図書館のロビーの様子が電話口から伝わってきた。小さな女の子が大声を出したり、父親がそれをたしなめたりしていた。コンピューターのキイボードの音も聴こえた。世界は正常に動いているようだった。人々は図書館で本を借り、駅員は不正乗車に目を光らせ、競走馬は雨の中を走りつづけているのだ。
「民家移築についての資料は」と彼女が相手に説明している声が聞こえた。「Fの5番の棚に三冊ありますので、そちらを御覧になって下さい」
それから相手がそれに対して何かを言う声が聞こえた。
「どうもごめんなさい」と彼女が電話に戻った。「オーケー、いいわ。研究会はパスするわ。きっとみんなに文句言われると思うけど」
「悪いね」
「いいのよ。どうせこのへんの川なんてもう一匹も魚なんて住んでいないんだから、一週間くらい私の研究発表が遅れたって誰も困らないわ」
「まあそうだろうな」と私は言った。
「あなたのところで食事するの?」
「いや、|僕《ぼく》の部屋は使えないんだ。冷蔵庫が死んでるし、食器もほとんどなくなってるんだ。だから料理ができない」
「知ってるわ」と彼女が言った。
「知ってる?」
「ええ。でもずいぶんきれいにかたづいてたでしょ?」
「君がかたづけたの?」
「そうよ。いけなかったかしら? 今朝行きがけにべつの本をもう一冊持っていったらドアがはずれていて中がちらかっていたから掃除しておいたの。少し遅刻しちゃったけど、このあいだごちそうになったことでもあるしね。迷惑だった?」
「いや、ぜんぜん」と私は言った。「とてもありがたい」
「じゃあ夕方の六時十分ごろに図書館の前に迎えにきてくれる? 日曜日だけは六時閉館なの」
「いいよ」と私は言った。「どうもありがとう」
「どういたしまして」と彼女が言った。そして電話が切れた。
私が食事に着ていく服を探していると、太った娘が浴室から出てきた。私はタオルとバスローブを彼女に手わたした。娘はタオルとバスローブを手に持ったまま、私の前にしばらく裸で立っていた。洗い髪が額や|頬《ほお》にぴったりとくっついていて、先の|尖《とが》った耳がそのあいだから突きでていた。耳たぶには例の金のイヤリングがついたままだった。
「イヤリングをつけたままいつもお風呂に入るの?」と私は|訊《たず》ねてみた。
「ええ、もちろん、前にもそう言ったでしょ?」と娘は言った。「絶対に落ちないようになってるから大丈夫なの。このイヤリング好き?」
「いいね」と私は言った。
風呂場には彼女の下着とスカートとブラウスが干してあった。ピンクのブラジャーとピンクのパンティーとピンクのスカートと淡いピンクのブラウスだ。浴槽につかってそういうのを見ているだけで、両側のこめかみのあたりがずきずきと痛んだ。だいたい私は昔から浴室に下着やストッキングを干されるというのがあまり好きではない。どうしてかときかれても困るけれど、とにかく好きではないのだ。
私は手ばやく髪を洗い体を洗い、歯を磨いて髭を剃った。そして浴室を出てバスタオルで体を|拭《ふ》き、パンツとズボンをはいた。腹の傷の痛みはあれだけ|出《で》|鱈《たら》|目《め》な行動をつづけたにもかかわらず、昨日に比べるとかなりましになっていた。風呂に入るまで傷があることさえ思いだせなかったくらいだった。太った娘はベッドの上に座って髪にドライヤーをあてながらバルザックのつづきを読んでいた。窓の外の雨は依然として降り|止《や》む気配が見えなかった。風呂場に下着が干してあったり、ベッドの上で女の子が髪にドライヤーをあてながら本を読んでいたり、外に雨が降っていたりすると、まるで何年も前の結婚生活に逆戻りしたような気がした。
「ドライヤー使う?」と彼女が訊ねた。
「使わない」と私は言った。そのドライヤーは妻が家を出るときに置いていったものなのだ。私は髪が短かいからドライヤーなんて使う必要もない。
私は彼女のとなりに座ってベッドの背もたれに頭をのせて目を閉じた。目を閉じると、その|暗《くら》|闇《やみ》の中にいろんな色が浮かんだり消えたりした。考えてみればこの何日かのあいだ私はロクに眠ってもいないのだ。私が眠ろうとするたびに誰かがやってきて私を叩き起したのだ。目をつぶっていると眠りが私を深い闇の世界にひきずりこもうとするのが感じられた。それはまるでやみくろのように闇の底から手をのばして私をそこにひっぱっていこうとしていた。
私は目をあけて、両手で顔をこすった。久しぶりに顔を洗って髭を剃ったせいで、顔の皮膚は乾燥した太鼓の皮のようにこわばっていた。まるで他人の顔をこすっているみたいだった。|蛭《ひる》に血を吸われた部分がひりひりと痛んだ。二匹の蛭はよほど沢山私の血を吸いとっていったようだった。
「ねえ」と娘が本をわきに置いて言った。「精液のことだけど、本当に飲んでほしくない?」
「今はね」と私は言った。
「そういう気分じゃないのね?」
「そう」
「私と寝たくもないのね?」
「今はね」
「私が太っているから|嫌《いや》なの?」
「そんなことはない」と私は言った。「君の体はとても|可愛《か わ い》いよ」
「じゃあどうして寝ないの?」
「わからない」と私は言った。「どうしてかはわからないけれど、今君とは寝るべきじゃないような気がするんだ」
「それは何か道徳上の理由によるものなの?あなたの生活倫理に反するとか?」
「生活倫理」と私は繰りかえした。不思議な響き方をすることばだった。私は天井を眺めながらそれについて少し考えてみた。
「いや、違うな、そういうものじゃない」と私は言った。「もっとべつのものだよ。本能とか直感とか、それに近いものだな。あるいは記憶の逆流に関係しているかもしれない。うまく説明することができない。僕自身は今すごく君と寝たいと思っているよ。でもその何か[#「何か」に丸傍点]が僕を押しとどめてるんだ。今はその時期じゃないってね」
彼女は|枕《まくら》の上に|肘《ひじ》をついて私の顔をじっと見ていた。
「|嘘《うそ》じゃなくて?」
「こういうことで嘘はつかない」
「本当にそう思うの?」
「そう感じる[#「感じる」に丸傍点]んだ」
「証明できる?」
「証明?」と私はびっくりして訊きかえした。
「あなたが私と寝たがっているということについて、何か私が納得できるようなこと」
「|勃《ぼっ》|起《き》している」と私は言った。
「見せて」と娘は言った。
私は少し迷ったが、結局ズボンを下ろして見せてやることにした。これ以上の論争をするには私は疲れすぎていたし、それにどうせあと少ししかこの世界にはいないのだ。十七歳の女の子に勃起した健全なペニスを見せたからといって、それが重大な社会問題に発展するとも思えなかった。
「ふうん」と私の膨張したペニスを見ながら娘は言った。「それ触っていい?」
「|駄《だ》|目《め》」と私は言った。「でもこれで証明になるんだろう?」
「そうね、まあいいわ」
私はズボンをあげてペニスをその中にしまった。窓の下を大型の貨物トラックがゆっくりと通りすぎていく音が聞こえた。
「君はいつおじいさんのところに戻るんだ?」と私は訊ねてみた。
「少し眠って|洗《せん》|濯《たく》ものが乾いたらね」と娘は言った。「夕方までにはあの水も引いてしまうはずだから、そうしたらまた地下鉄から|戻《もど》るわ」
「この天気じゃ服が乾くのは明日の朝になるね」
「そう?」と彼女は言った。「でもどうすればいいのかしら?」
「近くにコイン・ランドリーがあるからそこで乾かせばいいさ」
「でも外に着ていく服がないわ」
私はしばらく頭をひねってみたが良い知恵は浮かばなかった。結局私がコイン・ランドリーに行って彼女の服を乾燥機に放りこむしかなかった。私は浴室に行って彼女の濡れた服をルフトハンザのビニール・バッグにつっこんだ。それから残されていた服の中からオリーヴ・グリーンのチノ・パンツとブルーのボタン・ダウン・シャツを選んで着た。|靴《くつ》は茶色のローファー・シューズにした。このようにして私に残された貴重な時間の何分の一かがコイン・ランドリーの|惨《みじ》めなパイプ椅子の上で無意味に消えていこうとしていた。時計は十二時十七分を指していた。
32 世界の終り
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――死にゆく影――
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門番小屋の|扉《とびら》を開けたとき、門番は裏口で|薪《まき》を割っているところだった。
「このぶんじゃ大雪になりそうだな」と門番は|斧《おの》を手にしたまま言った。「今朝は四頭死んだよ。明日はもっと死ぬだろうな。今年の冬の寒さはとくべつだよ」
|僕《ぼく》は手袋をとってストーヴの前に行き、指先をあたためた。門番は細く割った薪を束ねて倉庫に|放《ほう》りこみ、裏口のドアを閉めて斧を壁に|戻《もど》した。そして僕のとなりに来て、同じように指をあたためた。
「どうやらこれからしばらくは|俺《おれ》一人で獣の死体を焼くことになりそうだ。|奴《やつ》がいてくれたおかげでずいぶん楽をさせてもらったが、まあ仕方あるまい。そもそもが俺の仕事だものな」
「影の具合はかなり悪いんですか?」
「良いとは言えんだろうね」と門番は首を肩の上でぐるぐると回しながら言った。「良くはない。もう三日も寝たきりだ。まあ俺は俺なりに面倒は見ているつもりなんだが、寿命というのはどうにもできんものだからな。人ができることには限りがある」
「影に会うことはできますか?」
「ああ、できるよ。もちろん会える。ただし三十分くらいにしてくれ。三十分たつと俺は獣を焼きに行かなくちゃならんからね」
僕は|肯《うなず》いた。
門番は壁から|鍵《かぎ》|束《たば》をとり、その鍵で影の広場に通じる鉄の扉を開けた。そして僕の先に立って広場を足速やに横切り、影の小屋のドアを開いて僕を中に入れた。小屋の中はがらんとして家具ひとつなく、床は冷えきった|煉《れん》|瓦《が》のままだった。窓のすきまからは寒風が吹きこみ、中の空気は凍りついてしまいそうだった。まるで|氷《ひ》|室《むろ》だ。
「俺のせいじゃないぜ」と門番は弁解するように言った。「何も好きこのんで俺があんたの影をここに押しこめているわけじゃない。ここに影を入れて住まわせるというのはちゃんと決まっていることで、俺はただそれに従っているだけさ。あんたの影なんてまだいい方だぜ。ひどいときにはここに二つも三つも一度に影が押しこまれることだってあったんだ」
何を言っても始まらないので、僕はただ黙って肯いた。やはり僕はこんなところに影を置き去りにするべきではなかったのだ。
「あんたの影は下にいるよ」と彼は言った。「下に行きな。下の方がまだ少しは暖かいぜ。ただ少々|臭《にお》いはするがな」
門番は部屋の|隅《すみ》に行って、黒く湿った木の引き戸を開けた。中には階段はなく、簡単な|梯《はし》|子《ご》がついているだけだった。門番はまず自分が何段か下り、それから僕に手まねきしてあとについてこいと言った。僕はコートについた雪を払ってから彼に従った。
地下室に下りるとむっとする|糞《ふん》|便《べん》の臭いがまず鼻をついた。窓のないせいで、空気がこもったままどこにも抜けないのだ。地下室は物置き程度の広さで、ベッドがその三分の一を占めていた。ベッドの上にはすっかりやせこけた僕の影が顔をこちらに向けて横たわっていた。ベッドの下には陶製の便器が見えた。古い壊れかけたテーブルがあり、その上では古いロウソクが燃えていたが、その|他《ほか》には照明も暖房もひとつとして見あたらなかった。床はむきだしの地面で、部屋には体の|芯《しん》にまで|浸《し》みこみそうなじっとりとした冷気がこもっていた。影は毛布を耳の下までひっぱりあげたまま、ぴくりとも動かずに生気のない目で僕の姿を見あげていた。たしかに老人の言ったように、もう長くはなさそうだった。
「俺はもう行くからな」と門番は悪臭に耐えかねたように言った。「あとは二人で話すんだな。好きに話してかまわんよ。影にはもうあんたにくっつくだけの力も残っちゃいないからな」
門番が消えてしまうと、影はしばらく様子をうかがってから手まねきして僕を|枕《まくら》もとに寄せた。
「悪いけど上に行って門番が立ち聞きしてないか調べてきてくれないかな?」と影は小声で言った。
僕は肯いて梯子をそっと上り、戸を開けて外の様子を調べ、階上に|誰《だれ》の姿も見えないことをたしかめてから下に戻った。
「誰もいないよ」と僕は言った。
「話すことがある」と影は言った。「俺は見かけほど弱っていない。門番をだますために一芝居うったんだよ。かなり体が弱っていることは|嘘《うそ》じゃないけど、吐いたり寝たきりになっているのは芝居だ。まだ十分立って歩ける」
「逃げだすためなんだね?」
「もちろんだよ。でなくちゃこんな面倒なことしないさ。俺はこれで三日|稼《かせ》いだよ。三日のうちに逃げだすんだ。三日後には俺はたぶん本当に立てなくなっているはずだからね。この地下室の空気は体にひどくこたえるんだ。おそろしく冷えるし、骨がどうにかなっちまいそうだ。ところで外の天気はどうなってる?」
「雪だよ」と僕はコートのポケットに手をつっこんだまま言った。「夜に入るともっとひどくなる。ずいぶん冷えこむだろうな」
「雪が降ると獣が沢山死ぬ」と影は言った。「獣が沢山死ぬと門番の仕事が増える。俺たちはそのあいだにここを|脱《ぬ》けだすんだ。奴がりんご林の中で獣を焼いているあいだにさ。君が壁にかかった鍵束をとって|檻《おり》を開け、二人で逃げるんだ」
「門から?」
「門は|駄《だ》|目《め》だ。門には外から鍵がかかるようになっているし、それにもし逃げだせたとしても門番にあっという間につかまってしまう。壁もだめだ。壁は鳥にしか越えることができない」
「じゃあどこから逃げだすんだ?」
「それは俺にまかせておいてくれ。プランは十分すぎるくらい練りあげたんだ。俺は何しろ街についての情報はたっぷりと集めたからね。君の地図も穴の開くほど見たし、門番からもいろいろと話を聞いた。奴はもう俺が逃げだすことはないと思っていろいろと親切に街のことを教えてくれたよ。君が奴を油断させておいてくれたおかげさ。まあはじめに予定していたより時間はかかったが、計画そのものは順調に進んでいる。門番が言ったように俺にはもう君にくっつくほどの気力は残ってないが、外に出ることができれば俺も回復するし、そうすりゃまた二人一緒になれる。俺もこんなところで死なずに済むし、君も記憶をとり戻してまたもとどおりの君自身になれる」
僕は何も言わずにロウソクの炎をじっと見ていた。
「どうしたんだ、いったい?」と影が|訊《たず》ねた。
「もとどおりの僕自身とはいったい何だろう?」と僕は言った。
「おい、よせよ、まさか迷っているんじゃないだろうね」と影が言った。
「いや迷ってるんだ。本当に迷ってる」と僕は言った。「まずもとどおりの僕自身というものが思いだせない。果してそれは帰るだけの価値のある世界で、戻るだけの価値のある僕自身なんだろうか?」
影が何かを言おうとしたが、僕は手をあげてそれを押しとどめた。
「ちょっと待って。最後まで言わせてくれ。かつての僕自身が何だったかは忘れてしまったけれど、今の僕自身はこの街に愛着のようなものを感じはじめているんだ。図書館で知りあった女の子にひかれているし、大佐も良い人だ。獣を|眺《なが》めるのも好きだ。冬は厳しいけれど、その他の季節の眺めはとても美しい。ここでは誰も傷つけあわないし、争わない。生活は質素だがそれなりに|充《み》ち足りているし、みんな平等だ。悪口を言うものもいないし、何かを奪いあうこともない。労働はするが、みんな自分の労働を楽しんでいる。それは労働のための純粋な労働であって、誰かに強制されたり、|嫌《いや》|々《いや》やったりするものじゃない。他人をうらやむこともない。嘆くものもいないし、悩むものもいない」
「金も財産も地位も存在しない。訴訟もないし、病院もない」と影はつけ加えた。「そして年老いることもなく、死の予感に|怯《おび》えることもない。そうだね?」
僕は肯いた。「君はどう思う? 僕がこの街を出ていかなくちゃならない理由がいったいどこにあるんだろう?」
「そうだな」と影は言って毛布の中から手を出して、指で乾いた|唇《くちびる》をこすった。「君の言うことは一応の筋がとおっている。そんな世界があるとすれば、それは本当のユートピアだ。俺がそれについて反対する理由は何もない。君は君の好きにすればいいさ。俺は納得してここで死んでいくよ。しかし君はいくつかのことを見落としている。それもとても大事なことをだ」
影はそれからひとしきり|咳《せき》をした。僕は彼の咳がおさまるのを待っていた。
「俺はこの前君と会ったときに、この街は不自然で間違っていると言った。そして不自然で間違っているなりに完結しているとね。今君はその完結性と完全さについてしゃべった。だから俺はその不自然さと間違いについてしゃべる。よく聞いてくれ。まず第一に、これは中心になる命題なんだが、完全さというのはこの世には存在しない。この前も言ったように永久機械が原理的に存在しないのと同じようにだ。エントロピーは常に増大する。この街はそれをいったいどこに排出しているんだろう? たしかにここの人々は――まあ門番はべつだが――誰も傷つけあわないし、誰も憎みあわないし、欲望も持たない。みんな充ち足りて、平和に暮している。|何《な》|故《ぜ》だと思う? それは心というものを持たないからだよ」
「それはよくわかっているよ」と僕は言った。
「この街の完全さは心を|失《な》くすことで成立しているんだ。心をなくすことで、それぞれの存在を永遠にひきのばされた時間の中にはめこんでいるんだ。だから誰も年老いないし、死なない。まず影という自我の母体をひきはがし、それが死んでしまうのを待つんだ。影が死んでしまえばあとはもうたいした問題はない。日々生じるささやかな心の|泡《あわ》のようなものをかいだしてしまうだけでいいのさ」
「かいだす?」
「それについてはもう少しあとでしゃべろう。まず心の問題だ。君は俺にこの街には戦いも憎しみも欲望もないと言った。それはそれで立派だ。俺だって元気があれば拍手したいくらいのもんさ。しかし戦いや憎しみや欲望がないということはつまりその逆のものがないということでもある。それは喜びであり、至福であり、愛情だ。絶望があり幻滅があり|哀《かな》しみがあればこそ、そこに喜びが生まれるんだ。絶望のない至福なんてものはどこにもない。それが俺の言う自然[#「自然」に丸傍点]ということさ。それからもちろん愛情のことがある。君のいうその図書館の女の子のことにしてもそうだ。君はたしかに彼女を愛しているかもしれない。しかしその気持はどこにも|辿《たど》りつかない。何故ならそれは彼女に心というものがないからだ。心のない人間はただの歩く幻にすぎない。そんなものを手に入れることにいったいどんな意味があるっていうんだ? そんな永遠の生を君は求めているのかい? 君自身もそんな幻になりたいのか? 俺がここで死ねば君も連中の仲間入りをして永遠にこの街を出ることはできなくなってしまうんだぜ」
息苦しく冷たい沈黙がしばらく地下室を包んでいた。影がまた何度か咳をした。
「でも僕は彼女をここに残していくわけにはいかない。彼女が何であるにせよ、僕は彼女を愛しているし求めている。自分の心を偽ることはできない。今逃げだせばきっとあとで後悔するし、一度ここを出てしまえば二度とは戻れない」
「やれやれ」と言って影はベッドの上で身を起し、壁にもたれかかった。「君を説得するには相当に手間がかかりそうだな。古いつきあいだから君がずいぶん|頑《がん》|固《こ》な人間であることはよくわかっていたけれど、こんなぎりぎりになってややこしい問題を持ちだしてきたもんだね。君はいったいどうしたいんだ。君と俺とその女の子の三人でここを逃げだしたいというのならそれは|駄《だ》|目《め》だぜ。影のない人間は外では暮すことができないからね」
「それはよくわかっているさ」と僕は言った。「僕が言っているのは君が一人でここを逃げだせばどうかっていうことさ。僕も手伝うよ」
「いや、君にはまだよくわかっていない」と影は頭を壁にもたせかけたまま言った。「俺を逃がして君が一人でここに残ると、君は絶望的な状況に置かれることになる。そのことは門番が俺に教えてくれた。影というものはどの影もみんなここで死ぬものなんだ。外に出されていた影も死ぬときはここに戻ってきて死ぬんだ。ここで死ななかった影は、たとえ死んだとしても不完全な死しかあとに残さないんだ。つまり君は心を抱いたまま永遠に生きなくちゃならない。それも森の中でだ。森の中にはそういう有効に影を殺しきれなかった人々が住んでいる。君はそんな中に追いやられて、様々な思いを抱いたまま永遠に森をさまようことになるのさ。森のことは知ってるね?」
僕は肯いた。
「しかし彼女を森につれていくことはできない」と影はつづけた。「何故なら彼女は完全[#「完全」に丸傍点]だからだ。つまり心がないんだ。完全な人間は街に住むんだ。森には住めない。だから君はひとりぼっちになるし、それではここに残る意味もないだろう?」
「人々の心はどこにいくんだい?」
「だって君は夢読みなんだろう?」と影はあきれたように言った。「なのにどうしてそれを知らないんだ?」
「とにかく知らないんだよ」と僕は言った。
「じゃあ教えてやる。心は獣によって壁の外に運び出されるんだ。それがかいだすということばの意味さ。獣は人々の心を吸収し回収し、それを外の世界に持っていってしまう。そして冬が来るとそんな自我を体の中に|貯《た》めこんだまま死んでいくんだ。彼らを殺すのは冬の寒さでもなく食料の不足でもない。彼らを殺すのは街が押しつけた自我の重みなんだ。そして春が来ると新しい獣が生まれる。死んだ獣の数だけ新しい子供が生まれるんだ。そしてその子供たちも成長すると掃き出された人々の自我を背負って同じように死んでいくんだ。それが完全さの代償なんだ。そんな完全さにいったいどんな意味がある? 弱い無力なものに何もかもを押しつけて保たれるような完全さにさ?」
僕は何も言わずに|靴《くつ》の先を眺めつづけていた。
「獣が死ぬと門番がその頭骨を切り離す」と影はつづけた。「その頭骨の中にはしっかりと自我が刻みこまれているからだ。頭骨は|綺《き》|麗《れい》に処理され、一年間地中に埋められてその力を静められてから図書館の書庫にはこばれ、夢読みの手によって大気の中に放出されるんだ。夢読みというのは――つまり君のことだな――まだ影の死んでいない新しく街に入った人間が就く役目なんだ。夢読みに読まれた自我は大気に吸いこまれ、どこかに消えていく。それがつまり〈古い夢〉だ。要するに君は電気のアースのような役割を果しているわけだ。俺の言っている意味はわかるね?」
「わかるよ」と僕は言った。
「影が死ねば夢読みは夢読みであることをやめて、街に同化する。街はそんな風にして完全性の|環《わ》の中を永久にまわりつづけているんだ。不完全な部分を不完全な存在に押しつけ、そしてそのうわずみだけを吸って生きているんだ。それが正しいことだと君は思うのかい? それが本当の世界か? それがものごとのあるべき姿なのかい? いいかい、弱い不完全な方の立場からものを見るんだ。獣や影や森の人々の立場からね」
僕は目が痛くなるまで長いあいだロウソクの炎をじっと見つめていた。それから眼鏡をとって目ににじんだ涙を手の甲で|拭《ふ》いた。
「明日の三時に来るよ」と僕は言った。「君の言うとおりだ。ここは僕のいるべき場所じゃない」
33 ハードボイルド・ワンダーランド
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――雨の日の|洗《せん》|濯《たく》、レンタ・カー、ボブ・ディラン――
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雨の日曜日ということで、コイン・ランドリーの四台の乾燥機はぜんぶふさがっていた。色とりどりのビニール・バッグやショッピング・バッグがそれぞれの乾燥機の|把《とっ》|手《て》にかかっていた。ランドリーの中には三人の女がいた。一人は三十代後半の主婦で、あとの二人は近所の女子大の寮に住んでいる女の子のようだった。主婦は何をするともなくパイプ|椅《い》|子《す》に座ってTVでも見るみたいにじっと回転する洗濯ものを|眺《なが》めていた。女子大生は二人並んで『JJ』のページを繰っていた。彼女たちは私が入っていくとしばらくちらちらとこちらを見ていたが、そのうちにまた自分の洗濯ものと自分の雑誌に目を|戻《もど》した。
私はルフトハンザのエアバッグを|膝《ひざ》にのせて椅子に座り、順番が来るのを待った。女子大生たちは荷物を持っていなかったので、彼女たちの洗濯ものが既に乾燥機のドラムの中に入っていることがわかった。とすればその四つの乾燥機のうちのどれかがあけば、次が私の番ということになる。まあそれほどは時間はかかるまいと思って、私は少しほっとした。こんなところで回転する洗濯ものを眺めて一時間近くも時間をつぶすなんて考えただけで気が|滅《め》|入《い》ってしまう。私に残された時間は既に二十四時間を割っているのだ。
私は椅子の上で全身の力を抜いて、空間の一点をぼんやりと眺めていた。ランドリーの中には衣服の乾燥していく独得の|臭《にお》いと洗剤の臭いがいりまじった不思議な臭いが漂っていた。となりでは二人の女子大生がセーターの|柄《がら》について話しあっていた。どちらもとくに美人というわけではない。気の|利《き》いた女の子は日曜日の午後にコイン・ランドリーで雑誌を読んだりはしていない。
乾燥機は私の予想に反してなかなか|停《と》まらなかった。コイン・ランドリーにはコイン・ランドリーの法則というものがあって、「待っている乾燥機は半永久的に停まらない」というのがそのひとつだ。外から見ているともうすっかり洗濯ものは乾いているように見えるのだが、それでもドラムはなかなか回転をやめないのだ。
十五分私は待ちつづけたが、それでもドラムは停まらなかった。そのあいだにほっそりとした身なりの良い若い女が大きな紙袋を手にやってきて、洗濯機の方に赤ん坊のおしめをひとかかえ|放《ほう》りこみ、洗剤のパックの封を切ってその上にふりかけ、ふたをしめて機械にコインを入れた。
私は目を閉じて眠ってしまいたかったが、私が眠っているあいだにドラムが回転を停めてあとから来た|誰《だれ》かが先にそこに洗濯ものを放りこんでしまうかもしれないと思うと眠るわけにはいかなかった。そんなことになればまた時間が|無《む》|駄《だ》に費されてしまう。
何か雑誌を持ってくればよかった、と私は後悔した。何かを読んでいれば眠らずにすむし、時間も速く過ぎてしまう。しかし時間を速くすぎさらせることがはたして正しいことなのかどうか、私にはわからなかった。おそらく今の私にとって時間はゆっくりと経過させるべきものなのだろう。とはいうもののこのコイン・ランドリーの中でゆっくりと過ぎていく時間にいったい何の意味があるというのだ? それは消耗を拡大するにすぎないのではないだろうか?
時間について考えると私の頭は痛んだ。時間という存在はあまりにも観念的にすぎる。だからといってその時間性の中にひとつひとつ実体をはめこんでいくと、そのうちにそこから派生して生じるものが時間の属性なのか実体の属性なのかわからなくなってしまうのである。
私は時間についてそれ以上考えることをやめ、コイン・ランドリーを出てからどうするかについて考えてみることにした。まず服を買う必要がある。きちんとした服だ。ズボンをなおしている暇はもうないから、地底で心に決めていたようなツイードのスーツを作るのは無理だった。残念だがそれはあきらめるしかない。ズボンはこのチノ・パンツで我慢して、ブレザーコートとシャツとネクタイを買うことにしよう。それからレインコートだ。それだけあればどこのレストランにだって入ることができる。服を|揃《そろ》えるのに要する時間が約一時間半というところだろう。おそらく三時までには買物は終る。それから待ちあわせの六時までには三時間の空白があった。
私はその三時間の使い方について考えをめぐらせてみたが、良い考えはさっぱり浮かばなかった。眠気と疲れが私の思考を妨げていた。それも私の手の届かないずっと奥の方で妨げているのだ。
私が私の思考を少しずつときほぐしているあいだにいちばん右の乾燥機のドラムが停まった。私はそれが目の錯覚でないことを確認してから、まわりを見回した。主婦も女子大生もそのドラムにちらりと目をやったが、どちらもそのままの姿勢で椅子から立ち上がろうとはしなかった。私はコイン・ランドリーのルールにしたがってその乾燥機のドアを開け、ドラムの底にぐったりと横たわっているなまあたたかい洗濯ものを|扉《とびら》の把手にかかっていたショッピング・バッグに詰め、そのあとに私のエアバッグの中身をあけた。そしてドアを閉めてコインを入れ、ドラムが回転しはじめるのをたしかめてから椅子に戻った。時計は十二時五十分を指していた。
主婦と女子大生たちは私の一挙一動を背後からじっとうかがっていた。それから彼女たちは私が洗濯ものを入れた乾燥機のドラムに目をやり、次にちらっと私の顔を見た。私も目をあげて私の洗濯ものが入っているドラムを見た。根本的な問題は私の入れた洗濯ものの量が圧倒的に少なすぎることと、それが全部女ものの衣類と下着であることと、それがみんなピンクであることだった。いくらなんでも目立ちすぎるのだ。やりきれない気持になって私はビニールのエアバッグを乾燥機の把手にかけ、どこかべつのところで二十分時間をつぶすことにした。
細かい雨はまるで何かの状況を世界に|示《し》|唆《さ》するように朝とまったく同じ調子で延々と降りつづいていた。私は|傘《かさ》をさして町の中をぐるぐると歩いてみた。静かな住宅街を抜けるといろんな店が並んでいる通りがあった。床屋があり、パン屋があり、サーフ・ショップがあり――どうして世田谷区にサーフ・ショップがあるのか私には見当もつかない――、|煙草《た ば こ》屋があり、洋菓子店があり、レンタルのヴィデオ・ショップがあり、洗濯屋があった。洗濯屋の店先には〈雨の日にお持ちになりますと一割引きになります〉という看板が出ていた。どうして雨の日に洗濯ものが安くなるのか、私には理解できなかった。洗濯屋の中では頭のはげた主人が気むずかしい顔つきでシャツにアイロンをかけているのが見えた。天井からアイロンのコードが太いつた[#「つた」に丸傍点]のように何本か下がっていた。主人が自分の手でシャツにアイロンをかける昔ながらの洗濯屋なのだ。私はなんとなくその主人に好感を持った。そういう洗濯屋ならたぶんシャツの|裾《すそ》に預り番号をホッチキスでとめたりはしないだろう。私はそれが|嫌《いや》でシャツをクリーニングに出さないのだ。
洗濯屋の店先には縁台のようなものが置いてあって、その上に|鉢《はち》|植《う》えがいくつかならんでいた。私はそれをしばらく眺めていたが、そこに並んだ花の名前はひとつとしてわからなかった。どうしてそんなに花の名前を知らないのか、自分でもよくわからなかった。鉢の中の花はどれも見るからにありきたりの平凡そうな花だったし、まともな人間ならそんなものはひとつ残らず知っているはずだという気がした。軒から落ちる雨だれがその鉢の中の黒い土を打っていた。それをじっと見ているとなんとなく切ない気持になった。三十五年もこの世界に生きていて、私にはありきたりの花の名前ひとつわからないのだ。
洗濯屋ひとつとってみても、私にとってはいろんな新しい発見があった。花の名前にたいして私が無知であったというのもそのひとつだし、雨の日に洗濯ものが安くなるというのもそのひとつだった。ほとんど毎日この通りを歩いていながら、洗濯屋の前に縁台が出ていることにさえ私はそれまで気がつかなかったのだ。
縁台にはかたつむりが一匹|這《は》っていたが、私にとってはそれも新しい発見のひとつだった。私はそれまでかたつむりというのは梅雨どきにしかいないものだと思いこんでいたのだ。しかしよく考えてみれば、もし梅雨どきにしかかたつむりが現われないとすればそれ以外の季節にかたつむりがどこで何をしているというのだ?
私は十月のかたつむりを鉢植えの中に入れ、それから緑の葉の上にのせた。かたつむりはしばらくその葉の上でぐらぐらと揺れていたがやがて|傾《かし》いだまま安定し、じっとあたりを見まわしていた。
それから私は煙草屋にあともどりしてラークのロング・サイズを一箱とライターを買った。煙草は五年前にやめていたが、人生の終る最後の日に一箱くらい吸ったってそれほど害はないはずだった。私は煙草屋の軒先でラークを|唇《くちびる》にくわえ、ライターで火をつけた。久しぶりに煙草をくわえると想像以上に唇に異物感があった。私はゆっくりと煙を吸いこみ、ゆっくりと吐きだした。両手の指先が軽くしびれ、頭がぼんやりとした。
次に私は洋菓子屋に寄ってケーキを四個買った。どれも長いフランス語の名前がついていて、箱に入れられてしまうといったい何を買ったのか思いだせなくなった。フランス語なんて大学を出たとたんに全部忘れてしまった。洋菓子屋の店員はもみの木のように背の高い女の子で、|紐《ひも》の結び方がひどく下手だった。私は背が高くて手先の器用な女の子に一度もめぐりあったことがない。しかしそれが世間一般に通用する理論なのかどうか、私にはもちろんわからない。それはただの個人的なめぐりあわせにすぎないのかもしれない。
そのとなりにあるレンタルのヴィデオ・ショップはときどき私の利用する店だった。主人夫婦はだいたい私と同年配で、奥さんの方はなかなかの美人だった。店の入口に置かれたディスプレイの二十七インチTVはウォルター・ヒルの『ストリート・ファイター』を流していた。チャールズ・ブロンソンがベア・ナックルのボクサーに|扮《ふん》し、ジェームズ・コバーンがそのマネージャー役をやる映画だった。私は中に入って備えつけのソファーに座り、暇つぶしに試合のシーンを見せてもらうことにした。
奥のカウンターでは奥さんが一人で退屈そうに店番をしていたので、私は彼女にケーキをひとつ勧めた。彼女は|洋《よう》|梨《なし》のタルトを選び、私はレア・チーズケーキを選んだ。そして私はケーキを食べながらチャールズ・ブロンソンが頭のはげた大男と殴りあう場面を見た。観客の大多数は大男の方が勝つと予想していたが、私は何年か前に一度その映画を見ていたのでチャールズ・ブロンソンが勝つことを確信していた。私はケーキを食べ終えると煙草に火をつけて半分ほど吸い、チャールズ・ブロンソンが相手を完全にノックアウトするのを確認してからソファーを立った。
「もう少しゆっくり見ていけばいいのに」と奥さんが言った。
そうしたいんだけどコイン・ランドリーの乾燥機に洗濯ものを入れっぱなしなんで、と私は言った。ふと腕時計を見ると、時刻はもう一時二十五分だった。乾燥機はとっくの昔に停まっている。
「やれやれ」と私は言った。
「大丈夫よ。誰かがちゃんと外に出して袋に入れといてくれるわよ。誰もあなたの下着をとったりしないもの」
「まあね」と私は力なく言った。
「来週になるとヒッチコックの古いのが三本ばかり入るわよ」と彼女は言った。
私はヴィデオ・ショップを出て同じ道をコイン・ランドリーまで戻った。ランドリーの中にはありがたいことに人の姿はなく、私の入れた洗濯ものは乾燥機のドラムの底に横たわったまま私の帰りをじっと待っていた。四台の乾燥機のうち|稼《か》|動《どう》しているのは一台だけだった。私はバッグに洗濯ものをつめこみ、アパートに戻った。
太った娘は私のベッドの中でぐっすりと眠っていた。あまりにも深く眠りこんでいるせいで最初に見たときは一瞬死んでいるのではないかと思ったほどだったが、耳を近づけてみると|微《かす》かな寝息が聞こえた。私はバッグから乾いた洗濯ものを出してその|枕《まくら》もとに置き、ケーキの箱をライト・スタンドの横に置いた。できることなら私も彼女のとなりにもぐりこんでそのまま眠ってしまいたかったが、そういうわけにもいかない。
私は台所に行って水を一杯飲み、ふと思いだして小便をし、台所の椅子に座ってあたりを見まわしてみた。台所には水道の|蛇《じゃ》|口《ぐち》やガス湯沸し器や換気扇やガス・オーヴンや様々なサイズの|鍋《なべ》ややかん、冷蔵庫やトースターや食器|棚《だな》や包丁さしやブルックボンドの|大《おお》|缶《かん》や|電《でん》|気《き》|釜《がま》やコーヒーメーカーや、そんないろいろなものが並んでいた。ひとくちに台所といっても実に種々雑多な器具・事物によって構成されているのだ。台所の風景をあらためてじっくりと眺めてみると、世界を構成する秩序の有する不思議にこみいった静けさのようなものを私は感じとることができた。
このアパートに越してきた|頃《ころ》、私にはまだ妻がいた。もう八年も前のことだが、その当時私はよくこの食堂のテーブルに座って一人で夜中に本を読んだものだった。私の妻もとても静かな眠り方をしたので、ときどきベッドの中で死んでいるのではないかと心配したものだ。私は私なりに、たとえ不完全であるにせよ彼女を愛していたのだ。
考えてみれば私はもう八年もこのアパートに住んでいるのだ。八年前この部屋には私と妻と|猫《ねこ》が住んでいた。最初に去っていったのが妻で、その次が猫だった。そして今、私が去り行こうとしている。私は|皿《さら》のなくなった古いコーヒー・カップを灰皿がわりにして煙草を吸い、それからまた水を飲んだ。どうしてこんなところに八年も住んでいたのだろう、と私は我ながら不思議に思った。べつに気に入って住んでいるというわけでもないし、家賃だって決して安くはない。西日があたりすぎるし、管理人も不親切だった。それにここに住んでからとくに人生が明るくなったというわけでもないのだ。人口減少だって激しすぎる。
しかしいずれにせよ、あらゆる状況は終りを告げようとしているのだ。
永遠の生――と私は考えてみた。不死。
私は不死の世界に行こうとしている、と博士は言った。この世の終りは死ではなく、新たなる転換であり、そこで私は私自身となり、かつて失い今失いつつあるものと再会することができるのだ、と。
そのとおりかもしれない。いや、たぶんそのとおりなのだろう。あの老人は何もかもを知っているのだ。彼がその世界が不死であると言うのなら、それは不死なのだ。しかしそれでも私にはその博士の言葉は何ひとつとして訴えかけてはこなかった。それはあまりにも抽象的にすぎるし、あまりにも|漠《ばく》|然《ぜん》としすぎていた。私は今のままでも十分に私自身であるような気がしたし、不死の人間が自分の不死性についてどう考えるかなんて、私の想像力の狭い範囲をはるかに超えた問題だった。一角獣や高い壁が出てくるとなるとなおさらだ。まだ『オズの魔法使い』の方がいくぶん現実的であるような気がする。
いったい私は何を失ったのだろう? と私は頭を|掻《か》きながら考えてみた。たしかに私はいろんなものを失っていた。細かく書いていけば大学ノート一冊ぶんくらいにはなるかもしれない。|失《な》くしたときはたいしたことがないように思えたのにあとで|辛《つら》い思いをしたものもあれば、逆の場合もあった。様々なものごとや人々や感情を私は失くしつづけてきたようだった。私という存在を象徴するコートのポケットには宿命的な穴があいていて、どのような針と糸もそれを縫いあわせることはできないのだ。そういう意味では誰かが部屋の窓を開けて首を中につっこみ、「お前の人生はゼロだ!」と私に向って叫んだとしてもそれを否定できるほどの根拠はなかった。
しかしもう一度私が私の人生をやりなおせるとしても、私はやはり同じような人生を|辿《たど》るだろうという気がした。|何《な》|故《ぜ》ならそれが――その失いつづける人生が――私自身だからだ。私には私自身になる以外に道はないのだ。どれだけ人々が私を見捨て、どれだけ私が人々を見捨て、様々な美しい感情やすぐれた資質や夢が消滅し制限されていったとしても、私は私自身以外の何ものかになることはできないのだ。
かつて、もっと若い頃、私は私自身以外の何ものかになれるかもしれないと考えていた。カサブランカにバーを開いてイングリット・バーグマンと知りあうことだってできるかもしれないと考えたことだってあった。あるいはもっと現実的に――それが実際に現実的であるかどうかはべつにして――私自身の自我にふさわしい有益な人生を手に入れることができるかもしれないと考えたことだってあった。そしてそのために私は自己を変革するための訓練さえしたのだ。『緑色革命』だって読んだし、『イージー・ライダー』なんて三回も|観《み》た。しかしそれでも私は|舵《かじ》の曲ったボートみたいに必ず同じ場所に|戻《もど》ってきてしまうのだ。それは私自身[#「私自身」に丸傍点]だ。私自身はどこにも行かない。私自身はそこにいて、いつも私が戻ってくるのを待っているのだ。
人はそれを絶望と呼ばねばならないのだろうか?
私にはわからなかった。絶望なのかもしれない。ツルゲーネフなら幻滅と呼ぶかもしれない。ドストエフスキーなら地獄と呼ぶかもしれない。サマセット・モームなら現実と呼ぶかもしれない。しかし|誰《だれ》がどんな名前で呼ぼうと、それは私自身なのだ。
私には不死の世界というものを想像することはできなかった。そこでたしかに私は失ったものをとり戻して新しい私自身を確立するかもしれない。誰かが手を|叩《たた》き、誰かが祝福してくれるかもしれない。そして私は幸せになり、私の自我にふさわしい有益な人生を手に入れるかもしれない。しかしいずれにせよ、それは今の私とは関係のないべつの私自身なのだ。今の私は今の私自身を抱えている。それは誰にも動かすことのできない歴史的事実だった。
しばらく考えた末に、私はやはり二十二時間と少しあとに自分が死ぬ[#「死ぬ」に丸傍点]と仮定した方が筋がとおっているだろうという結論に達した。不死の世界への移行などという風に考えると話が「ドン・ファンの教え」みたいになって、おさまりが悪くなる。
私は死ぬのだ――と私は便宜的に考えることにした。その方がずっと私らしい。そう考えると私の気分はいくぶん楽になった。
私は煙草の火を消して寝室に行き、娘の寝顔をちょっと眺めてから、ズボンのポケットに必要なものが全部入っていることを確認した。しかしよくよく考えてみれば、今の私にとって必要なものなんてもう|殆《ほと》んど何も存在しないのだ。財布とクレジット・カード――その|他《ほか》に何が必要だというのだ? 部屋の|鍵《かぎ》なんて使いようもないし、計算士のライセンス・カードもいらない。手帳もいらないし、車を乗り捨ててきたからそのキイも不要だ。ナイフだっていらない。小銭だってもう必要ない。私はポケットの中にあった小銭を洗いざらいテーブルの上にあけた。
私はまず電車で銀座に出て、〈ポール・スチュアート〉でシャツとネクタイとブレザーコートを買い、アメリカン・エクスプレスで勘定を払った。それだけを全部身につけて鏡の前に立ってみると、なかなか印象は悪くなかった。オリーヴ・グリーンのチノ・パンツの折りめが消えかけているのが多少気になるが、まあ何から何まで完全というわけにはいかない。ネイビー・ブルーのフラノのブレザー・コートにくすんだオレンジ色のシャツというとりあわせはどことなく広告会社の若手有望社員という|雰《ふん》|囲《い》|気《き》を私に与えていた。少くともついさっきまで地底を|這《は》いまわっていて、あと二十一時間ほどでこの世界から消えていこうとする人間には見えない。
きちんとした姿勢をとってみると、ブレザーコートの左の|袖《そで》が右より一センチ半ばかり短かいことがわかった。正確には服の袖が短かいのではなく、私の左腕が長すぎるのだ。どうしてそうなったのかはよくわからない。私は右ききだし、とくに左腕を酷使した覚えもないのだ。店員は二日あれば袖を調節できるからそうすればどうかと忠告してくれたが、私はもちろん断った。
「野球のようなものをやっておられるのですか?」と店員がクレジット・カードの控えを渡しながら私に|訊《き》いた。
野球なんかやっていない、と私は言った。
「大抵のスポーツは体をいびつにしちゃうんです」と店員が教えてくれた。「洋服にとっていちばん良いのは過度な運動と過度な飲食を避けることです」
私は礼を言って店を出た。世界は様々な法則に満ちているようだった。文字どおり一歩歩くごとに新しい発見がある。
雨はまだ降りつづいていたが、服を買うのにも飽きたのでレインコートを探すのはやめ、ビヤホールに入って生ビールを飲み、生ガキを食べた。ビヤホールではどういうわけかブルックナーのシンフォニーがかかっていた。何番のシンフォニーなのかはわからなかったが、ブルックナーのシンフォニーの番号なんてまず誰にもわからない。とにかくビヤホールでブルックナーがかかっているなんてはじめてだ。
ビヤホールには私の他には二組の客しかいなかった。若い男女と帽子をかぶった|小《こ》|柄《がら》な老人だった。老人は帽子をかぶったままひとくちひとくちビールを飲み、若い男女はビールにはほとんど手もつけずに小さな声で何事かを話しあっていた。雨の午後のビヤホールなんてだいたいそんなものだ。
私はブルックナーを聴きながら五個のカキにレモン|汁《じる》をかけ、時計まわりの順番に食べ、中型のジョッキを飲み干した。ビヤホールの巨大な掛時計の針はあと五分で三時を指そうとしていた。文字盤の下には二匹のライオンが向いあって立ち、交互に身をくねらせながらぜんまいをまわしていた。どちらも雄のライオンで、|尻《しっ》|尾《ぽ》がコートかけのようなかたちに曲っていた。やがてブルックナーの長いシンフォニーが終り、ラヴェルの「ボレロ」に変った。奇妙なとりあわせだ。
私は二杯めのビールを注文してから便所に行ってまた小便をした。小便はいつまでたっても終らなかった。どうしてそんなに沢山の量の小便が出るのか自分でもよくわからなかったが、とくに急ぎの用事があるわけでもなかったので私はゆっくりと小便をつづけた。その小便を終えるのに二分くらいの時間がかかったと思う。そのあいだ背後では「ボレロ」が聴こえていた。ラヴェルの「ボレロ」を聴きながら小便をするというのは何かしら不思議なものだった。永久に小便が出つづけるような気分になってしまうのだ。
長い小便を終えると、私は自分がべつの人間に生まれかわってしまったように感じた。私は手を洗い、いびつな鏡に自分の顔をうつしてみてから、テーブルに戻ってビールを飲んだ。煙草を吸おうと思ったがラークの箱をアパートの台所に忘れてきたことに気づき、ウェイターを呼んでセブンスターを買い、マッチをもらった。
がらんとしたビヤホールの中では時間がその歩みをとめてしまっているように感じられたが、実際には時は刻々と移っていた。ライオンは交互にその一八〇度の旋回をつづけ、時計の針は三時十分のところまで進んでいた。私はその時計の針を|眺《なが》めながらテーブルに|片《かた》|肘《ひじ》をつき、ビールを飲んだりセブンスターを吸ったりした。時計の針を眺めながら時間を過すのはどう考えても純粋に無意味な時間の過し方だったが、それにかわる良い案も思いつけなかった。人間の行動の多くは、自分がこの先もずっと生きつづけるという前提から発しているものなのであって、その前提をとり去ってしまうと、あとにはほとんど何も残らないのだ。
私は財布をポケットから出して、中のものをひとつひとつたしかめてみた。一万円札が五枚、と千円札が何枚か入っていた。反対側のポケットには一万円札が二十枚クリップにはさんで入っている。現金の他にはアメリカン・エクスプレスとヴィサのカードが入っていた。それから銀行のキャッシュ・カードが二枚ある。私はその二枚のキャッシュ・カードを四つに折って灰皿に捨てた。どうせもう使いみちもないのだ。室内プールの会員券とレンタル・ヴィデオの会員券とコーヒー豆を買ったときにくれるサービス・シールも同じように捨てた。運転免許証はとっておいて、二枚の古い名刺を捨てた。灰皿の中は私の生活の|残《ざん》|骸《がい》でいっぱいになった。結局私に残されたものは現金とクレジット・カードと運転免許証だけということになった。
時計の針が三時半まで進んだところで、私は席を立って勘定を払い、店を出た。ビールを飲んでいるあいだに雨はもうほとんどあがっていたので、私は|傘《かさ》を傘立ての中に置いていくことにした。悪くない徴候だった。天候は回復し、私は身軽になりつつある。
傘を失くしてしまうと私はとてもさっぱりとした気分になって、どこかべつの場所に移りたくなった。それもなるべく沢山人のあつまっている場所がいい。私はソニー・ビルでアラブ人の観光客と一緒にずらりと並んだTVの画面をしばらく眺めてから地下に降り、丸の内線の切符を新宿まで買った。シートに座ったとたんに私は眠りこんでしまったらしく、ふと気がついたとき電車はもう新宿に到着していた。
地下鉄の改札口を出ると新宿駅の荷物預けに頭骨とシャフリング・データを預けっぱなしにしてあることを思いだした。今更そんなものが何かの役に立つとも思えなかったし預り証も持っていなかったが、他にすることもないのでそれをひきとることにした。私は駅の階段を上り、荷物の一時預けの窓口にいって荷物の預り証をなくしてしまったと言った。
「ちゃんと探してみました?」と係の男が|訊《き》いた。
よく探してみた、と私は言った。
「どんなものですか?」
「ナイキのマークのついたブルーのスポーツバッグ」と私は言った。
「ナイキのマークってどんなの?」
私はメモと鉛筆を貸してもらってブーメランが押しつぶされたようなナイキのマークを|描《か》き、NIKEとその上に書いた。係の男は疑わしそうにそれを見てからメモを片手に持って|棚《たな》を見まわし、やがて私のバッグを持って戻ってきた。
「これ?」
「そう」と私は言った。
「住所と氏名を確認できるものあります?」
私が運転免許証をわたすと係の男はそれとバッグについた札とを見比べた。それから札をとってボールペンと一緒にカウンターに置き、「ここにサイン」と言った。私はその札にサインをし、バッグを受けとって相手に礼を言った。
荷物をひきとることには成功したものの、ナイキのマークのついたブルーのスポーツバッグはどうみても私の格好にはそぐわなかった。ナイキのスポーツバッグをかかえて女の子と食事に行くわけにはいかない。|鞄《かばん》を買いかえることも考えてみたがその頭骨の収まる大きさの鞄といえば大型の旅行用スーツケースかボウリングのボールケースくらいしかなかった。スーツケースは重すぎるし、ボウリングのボールケースを持つくらいならこのままナイキのバッグを持っていた方がずっとましだ。
結局いろいろと考えた末にレンタ・カーを借りてその後部座席にバッグを放りこんでいくのがいちばんまともなやり方ではないかという結論に|辿《たど》りついた。それならバッグを提げて歩きまわる面倒もないし、服とのとりあわせを気にする必要もない。車はできることならシックなヨーロッパ車がいい。べつにヨーロッパ車が好きというわけではないのだが、これは私の人生にとってかなり特殊な一日なのだからそれなりに趣向をこらした車に乗っても良いような気がした。私は生まれてこのかた廃車寸前のフォルクスワーゲンか国産の小型車以外運転したことがないのだ。
私は喫茶店に入って職業別の電話帳を借り、新宿駅の近くにある四つのレンタ・カーの代理店のナンバーにボールペンでしるしをつけ、順番に電話をかけてみた。どの代理店にもヨーロッパ車はなかった。この季節の日曜日にはレンタ・カーはほとんど残ってはいないし、外車なんてそもそも置いてもいないのだ。四軒のうち二軒にはもう乗用車と名のつくものは一台も残っていなかった。一軒にはシビックが一台残っていた。最後の一軒にはカリーナ 1800GT・ツインカムターボとマークUが一台ずつ残っていた。どちらも新車でカー・ステレオがついています、とカウンターの女性が言った。私はそれ以上電話をかけるのが面倒になったので、カリーナ 1800GT・ツインカムターボを借りることにした。もともと車にそれほどの興味があるわけではないから、結局はべつになんだっていいのだ。新型のカリーナ 1800GT・ツインカムターボとマークUがどんな形をしているかさえ私は知らないのだ。
それから私はレコード店に行って、カセット・テープを何本か買った。ジョニー・マティスのベスト・セレクションとツビン・メータの指揮するシェーンベルクの『浄夜』とケニー・バレルの『ストーミー・サンデイ』とデューク・エリントンの『ポピュラー・エリントン』とトレヴァー・ピノックの『ブランデンブルク・コンチェルト』と『ライク・ア・ローリング・ストーン』の入ったボブ・ディランのテープという雑多な組みあわせだったが、カリーナ 1800GT・ツインカムターボの中でいったいどんな音楽が聴きたくなるものなのか自分でも見当がつかないのだから仕方ない。実際にシートに腰を下ろしてみると実はジェームズ・テイラーが聴きたかったということになるかもしれない。あるいはウィンナ・ワルツが聴きたくなるかもしれない。ポリスかもしれないし、デュラン・デュランかもしれない。それとも何も聴きたいとは思わないかもしれない。そんなことわからないのだ。
私はバッグの中に六本のテープを放りこんでレンタ・カーの代理店に行き、車を見せてもらい、それから運転免許証をわたして書類にサインした。カリーナ 1800GT・ツインカムターボの運転席は私のいつも乗っている車に比べるとまるでスペース・シャトルの操縦席みたいに見えた。カリーナ 1800GT・ツインカムターボに乗りなれている人が私の車に乗ったらおそらく|竪《たて》|穴《あな》|式《しき》住居のように見えるのかもしれない。私はボブ・ディランのテープをデッキにつっこんで『ウォッチング・ザ・リヴァー・フロー』を聴きながら長い時間をかけてパネルのスウィッチをひとつひとつためした。運転中にスウィッチを間違えて押したりしたら困ったことになってしまう。
私が車を停めたままスウィッチをひとつずつ確認していると私の応対をしてくれた感じの良い若い女性が事務所から出てきて車のわきに立ち、何かお困りのことがございますか、と私に訊いた。彼女の微笑はよくできたTVのコマーシャルみたいに清潔で気持が良かった。歯も白いし、|顎《あご》の肉もたるんでいないし、口紅の色もいい。
べつに困ったことはない、この先困ることがないようにいろいろ調べてるだけです、と私は言った。
「わかりました」と彼女は言ってまたにっこりと笑った。彼女の笑いかたは私に高校時代に知っていた女の子のことを思いださせた。頭の良いさっぱりとした女の子だった。聞いた話によれば彼女は大学時代に知りあった革命活動家と結婚し、子供を二人産んだが、子供を置いて家出したきり今では誰にも行方がわからないということだった。レンタ・カー事務所の女の子の微笑は私にその高校時代のクラスメイトを思いださせた。J・D・サリンジャーとジョージ・ハリソンが好きだった十七歳の女の子が何年か後に革命活動家の子供を二人産んでそのまま行方不明になるなんて誰に予測できるだろう。
「みなさんがそれくらい注意深く運転して下さると私たちもとてもたすかるんですけれど」と彼女は言った。「最近の車のコンピューター式のパネルって、慣れない方には扱いづらいですから」
私は|肯《うなず》いた。慣れないのは私だけではないのだ。「185の平方根の答はどこのボタンを押せばわかるんだろう?」と私は訊いてみた。
「それは次のニュー・モデルが出るまでは無理みたいですね」と彼女は笑いながら言った。「これボブ・ディランでしょ?」
「そう」と私は言った。ボブ・ディランは『ポジティヴ・フォース・ストリート』を|唄《うた》っていた。二十年|経《た》っても良い唄というのは良い唄なのだ。
「ボブ・ディランって少し聴くとすぐにわかるんです」と彼女は言った。
「ハーモニカがスティーヴィー・ワンダーより下手だから?」
彼女は笑った。彼女を笑わせるのはとても楽しかった。私にだってまだ女の子を笑わせることはできるのだ。
「そうじゃなくて声がとくべつなの」と彼女は言った。「まるで小さな子が窓に立って雨ふりをじっと見つめているような声なんです」
「良い表現だ」と私は言った。良い表現だった。私はボブ・ディランに関する本を何冊か読んだがそれほど適切な表現に出会ったことは一度もない。簡潔にして要を得ている。私がそういうと彼女は少し顔を赤らめた。
「よくわからないわ。ただそう感じるだけなんです」
「感じたことを自分のことばにするっていうのはすごくむずかしいんだよ」と私は言った。「みんないろんなことを感じるけど、それを正確にことばにできる人はあまりいない」
「小説を書くのが夢なんです」と彼女は言った。
「きっと良い小説が書けるよ」と私は言った。
「どうもありがとう」と彼女が言った。
「でも君みたいに若い女の子がボブ・ディランを聴くなんて珍しいね」
「古い音楽が好きなんです。ボブ・ディラン、ビートルズ、ドアーズ、バーズ、ジミ・ヘンドリックス――そんなの」
「一度君とゆっくり話したいな」と私は言った。
彼女はにっこり笑ってほんの少し首を傾けた。気の|利《き》いた女の子というのは三百種類くらいの返事のしかたを知っているのだ。そして離婚経験のある三十五歳の疲れた男に対しても平等にそれを与えてくれるのだ。私は彼女に礼を言って車を前に進めた。ディランは『メンフィス・ブルーズ・アゲイン』を唄っていた。彼女に会ったおかげで私の気分はずいぶん良くなった。カリーナ 1800GT・ツインカムターボを選んだかいがあるというものだ。
パネルのディジタル式の時計は四時四十二分を示していた。街の空は太陽を見失ったまま夕暮に向おうとしていた。私は込みあった道路をのろのろとした速度で私の家の方向に走らせた。雨の日曜日でただでさえ道が込んでいる上に、緑色の小型スポーツ・カーがコンクリート・ブロックを積んだ八トン・トラックの|脇《わき》|腹《ばら》に鼻先をつっこんでしまったおかげで、交通は悲劇的なまでに|麻《ま》|痺《ひ》していた。緑色のスポーツ・カーは空の段ボール箱に|誰《だれ》かがうっかり腰を下ろしてしまったみたいな格好に変形していた。黒いレインコートを着た警官が何人かそのまわりに立ち、レッカー車が車のうしろに鎖のかぎをひっかけているところだった。
事故現場を抜けるまでにずいぶん長い時間がかかったが、待ちあわせの時刻までにはまだ間があったので私はのんびりと煙草を吸い、ボブ・ディランのテープを聴きつづけた。そして革命活動家と結婚するのがどういうことなのかと想像をめぐらしてみた。革命活動家というのはひとつの職業として|捉《とら》えることが可能なのだろうか? もちろん革命は正確には職業ではない。しかし政治が職業となり得るなら、革命もその一種の変形であるはずだった。しかし私にはそのあたりのことはうまく判断できなかった。
仕事から帰ってきた夫は食卓でビールを飲みながら革命の|進捗《しんちょく》状況について話をするのだろうか?
ボブ・ディランが『ライク・ア・ローリング・ストーン』を唄いはじめたので、私は革命について考えるのをやめ、ディランの唄にあわせてハミングした。我々はみんな年をとる。それは雨ふりと同じようにはっきりとしたことなのだ。
34 世界の終り
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――頭骨――
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鳥が飛んでいるのが見えた。鳥は白く凍った西の丘の斜面すれすれに飛んで、|僕《ぼく》の視界から消えていった。
僕はストーヴの前で手と足をあたためながら、老人のいれてくれた熱い茶を飲んだ。
「今日も夢読みに行くのかね? このぶんじゃ相当に積ることになるし、丘を上り下りするのは危険だ。仕事を一日休むというわけにはいかないのかね?」と老人は言った。
「今日だけはどうしても休むわけにはいかないんです」と僕は言った。
老人は首を振って出ていったが、やがてどこかから|雪《ゆき》|靴《ぐつ》をみつけてきてくれた。
「これをはいていきなさい。これなら雪道でもすべらんですむ」
僕はそれを試してみたが、サイズはぴったりとあっていた。良い兆候だ。
時間が来ると僕は首にマフラーを巻き、手袋をはめ、老人の帽子を借りてかぶった。そして|手《て》|風《ふう》|琴《きん》を折り畳んでコートのポケットに入れた。僕はその手風琴が気に入っていて、一刻たりともそれを身から離したくないような気になっていたのだ。
「気をつけてな」と老人は言った。「今は君にとってもいちばん大切なときだ。今何かがあったらとりかえしがつかんよ」
「ええ、わかっています」と僕は言った。
予想したとおり、穴の中にはかなりの量の雪が吹きこんでいた。穴のまわりにはもう老人たちの姿はなく、その道具もきれいに片づけられていた。このぶんではおそらく明日の朝までには穴はすっぽりと雪に埋めつくされているに違いない。僕はその穴の前に立って、長いあいだその穴に吹きこむ雪を見ていたが、やがてそこを離れ、丘を下った。
雪ははげしく、数メートル先も見えないほどだった。僕は眼鏡をとってポケットにつっこみ、マフラーを目の下にまでひっぱりあげて丘の斜面を下りた。足の下で雪靴のスパイクが心地良い音を立て、時折林の中で鳥の|啼《な》く声が聞こえた。鳥たちが雪についてどう感じているのか、僕にはわからなかった。そして獣たちはどうなのだろう? 彼らは降りしきる雪の中でいったい何を思い、考えているのだろう?
図書館に着いた時刻はいつもより一時間ばかり早かったが、彼女はストーヴで部屋を暖めて僕を待っていた。彼女は僕のコートに積った雪を払い、靴のスパイクのあいだにこびりついた氷片を落としてくれた。
昨日も同じようにここにいたはずなのに図書館の中の様子は僕にはこのうえなく|懐《なつ》かしいものに感じられた。すりガラスにうつる黄色い電灯の光や、ストーヴから立ちのぼる親密なぬくもりやポットのくちで湯気をたてるコーヒーの香りや、部屋の|隅《すみ》|々《ずみ》にまで|浸《し》みこんだひっそりとした古い時間の記憶や、彼女の静かで|無《む》|駄《だ》のない身のこなしを、僕はずいぶん長いあいだ失っていたような気がした。僕は体の力を抜いて、そんな空気の中にじっと身を沈めていた。そして僕がこの静かな世界を永遠に失おうとしていることを思った。
「食事は今とる? それとももう少しあとにするの?」
「食事はいらないよ。腹が減ってないんだ」と僕は言った。
「いいわ。おなかがすいたらいつでも言って。コーヒーはどう?」
「ありがとう、頂くよ」
僕は手袋をとってそれをストーヴの金具にかけて乾かし、その前で指を一本一本ときほぐすようにあたためながら、彼女がストーヴの上のポットをとってカップにコーヒーを|注《つ》ぐのを|眺《なが》めていた。彼女は僕にカップをわたし、それから一人でテーブルの前に座って自分のコーヒーを飲んだ。
「外はひどい雪だ。|殆《ほと》んど前も見えない」と僕は言った。
「ええ、これがあと何日もつづくのよ。空にとどまっている厚い雲が雪をぜんぶ降らせてしまうまでね」
僕は温かいコーヒーを半分ほど飲み、それを持って彼女の向いの|椅《い》|子《す》に腰を下ろした。そしてカップをテーブルの上に置いて、何も言わずにしばらく彼女の顔を見ていた。彼女をじっと見ていると僕は自分がどこかに吸いこまれていってしまうような|哀《かな》しい気持になった。
「雪が降りやむ|頃《ころ》にはきっとあなたがこれまでに見たこともないほどの雪が積っているでしょうね」と彼女は言った。
「でも僕にはそれを見ることができないかもしれない」
彼女はカップから目をあげて僕を見た。
「どうして? 雪は|誰《だれ》にでも見ることができるわ」
「今日は古い夢を読むのはやめて二人で話をしよう」と僕は言った。「とても大事な話なんだ。僕もいろいろと話したいし、君にも話してほしい。かまわない?」
話の行く先のわからないままに彼女はテーブルの上で両手の指を組み、ぼんやりとした目で僕を見ながら|肯《うなず》いた。
「僕の影が死にかけている」と僕は言った。「君にもわかるだろうと思うけれど、今年の冬はとても厳しいし、それほど長くはもちこたえられないだろうと思うんだ。時間の問題だ。影が死んでしまえば、僕はもう永遠に心を失ってしまうことになる。だから僕は今ここでいろんなことを決めなくちゃならないんだ。僕自身のことや、君に関することや、そんなあらゆることをね。考えていられる時間はもう殆んど残っていないけれど、もし仮に好きなだけ長く考えることができたとしても、出てくる結論はやはり同じことだと思う。結論はもう出ているんだ」
僕はコーヒーを飲みながら、自分の出した結論が間違っていないことを頭の中でもう一度たしかめてみた。間違ってはいない。しかしどちらの道を選びとるにせよ、僕は多くのものを決定的に失ってしまうことになるのだ。
「たぶん僕は明日の午後、この街を出ていくことになると思う」と僕は言った。「どこからどんな風にして出ていくのかは僕にはわからない。その方法は影が教えてくれる。僕と影は一緒にこの街を出て我々がやってきた古い世界に|戻《もど》り、そこで暮す。僕は昔やっていたのと同じように影をひきずり、悩んだり苦しんだりしながら年老いて、そして死んでいく。たぶん僕にはそういう世界の方があっているんだろうと思う。心にふりまわされたりひきずられたりしながら生きていくんだ。おそらく君には理解できないだろうけれどね」
彼女はじっと僕の顔を見つめていたが、それは僕を見ているというよりは僕の顔のある空間をのぞきこんでいるというように見えた。
「あなたはこの街が好きじゃないの?」
「君は最初に、もし僕が静けさを求めてこの街に来たのならきっとここが気に入ると言った。たしかに僕はこの街の静けさと安らぎが気に入っている。そしてもし僕がこのまま心を失ってしまえばその静けさと安らぎが完全なものになることはよくわかっている。この街には人を苦しませるものは何ひとつとして存在しない。そしておそらく僕はこの街を失ったことを一生後悔することになるだろうと思う。でも、それでも僕はこの街に踏みとどまることはできないんだ。|何《な》|故《ぜ》なら僕の心が僕の影や獣たちを犠牲にまでしてここにとどまることを許さないからだ。それでどれほどの平穏が得られるとしても、僕は僕の心を偽ることはできない。もしそんな心が近いうちにすっかり消えてしまうとしてもだよ。それはまたべつのことなんだ。一度損なわれたものは、それがまったく消滅してしまうとしてもやはり永遠に損なわれつづけるんだ。君には僕の言っていることがわかるかい?」
彼女は長いあいだ黙って自分の手の指をじっと見ていた。カップのコーヒーから立ちのぼる湯気ももう消えていた。部屋には動くものひとつなかった。
「もう二度とここには帰ってこないのね?」
僕は肯いた。「ここから一度出ていってしまえば二度とは戻れない。それははっきりとしている。もし僕が戻ろうとしても、この街の門はもう開かないだろう」
「あなたはそれでかまわないの?」
「君を失うのはとてもつらい。しかし僕は君を愛しているし、大事なのはその気持のありようなんだ。それを不自然なものに変形させてまでして、君を手に入れたいとは思わない。それくらいならこの心を抱いたまま君を失う方がまだ耐えることができる」
部屋が再び沈黙し、石炭のはじける音だけが誇張されたようにあたりに響いていた。ストーヴのわきには僕のコートとマフラーと帽子と手袋がかかっていた。どれもがこの街が僕に与えてくれたものだった。質素ではあるが、それぞれに心のなじんだ衣類だ。
「僕は影だけを外に逃がして一人でここに残ることも考えてみた」と僕は彼女に言った。「でももしそうすれば僕は森に追放されるだろうし、二度と君に会うこともできなくなってしまうだろう。君は森の中に住むことができないからね。森に住むことができるのは影をうまく殺しきれなくて、体の中に心を残した人々だけだ。僕には心があるし、君にはない。だから君には僕を求めることさえできないんだ」
彼女は静かに首を振った。
「そうよ、私には心はないわ。母には心があったけれど、私にはないの。母は心を残していたせいで森に追放されたの。あなたには言わなかったけれど、私は母が森に追放されたときのことをよく覚えているわ。今でもときどき思うのよ。もし私に心があれば母と一緒にずっと森の中で暮していたんだろうなって。それに心があれば私にもあなたをちゃんと求めることができるのよ」
「たとえ森に追放されても? それでも心があればいいと思うのかい?」
彼女はテーブルの上に組んだ自分の指をじっと見つめ、それから指を開いた。
「心がそこにあれば、どこに行っても失うものは何もないって母が言っていたのを覚えてるわ。それは本当?」
「わからない」と僕は言った。「それが本当かどうかは僕にはわからない。でも君のお母さんはそう信じていたんだろう? 問題は君がそれを信じるかどうかだ」
「私は信じることができると思うわ」彼女は僕の目をじっとのぞきこんでそう言った。
「信じる?」と僕は驚いて|訊《き》きかえした。「君にはそれを信じることができるの?」
「たぶん」と彼女は言った。
「ねえ、よく考えてみてくれ。これはとても大事なことなんだ」と僕は言った。「たとえ何であるにせよ、何かを信じるというのははっきりとした心の作用だ。いいかい? 君が何かを信じるとする。それはあるいは裏切られるかもしれない。裏切られればそのあとには失望がやってくる。それは心の動きそのものなんだ。君には心というものがあるの?」
彼女は首を振った。「わからないわ。私は母のことを考えていただけよ。その先のことなんて考えなかったわ。ただ信じることができるんじゃないかと思っただけなの」
「君の中にはたぶん心の存在に結びついている何かが残っているんだと僕は思う。でもそれが固くロックされて、外に出てこないだけなんだ。だからこれまで壁にもみつからずに来られたんだ」
「私の中に心が残っているというのは、私も母と同じようにうまく影を殺しきれなかったということ?」
「いや、たぶんそうじゃない。君の影はちゃんとここで死んで、りんご林に埋められたんだ。それは記録にも残っている。しかし君の中にはお母さんの記憶を媒体として、その心の残像か断片のようなものが残っていて、それがおそらく君を揺さぶっているんだ。そしてそれを|辿《たど》っていけばきっと何かに行きつけるはずだと僕は思う」
部屋の中はあらゆる音を外を舞う雪に吸いとられてしまったように、不自然なほど静かだった。僕はどこかで壁が息をひそめて我々の話に聞き耳を立てているように感じられた。あまりにも静かすぎるのだ。
「古い夢の話をしよう」と僕は言った。「日々生じる君たちの心はみんな獣に吸いとられて、それが古い夢になるんだね?」
「ええ、そうよ。影が死んでしまえば、私たちの心は残らず獣たちが引き受けて吸いとっていくの」
「とすれば、僕は古い夢の中からひとつひとつ君の心を読みとっていけるということになるんじゃないのかな?」
「いいえ、それはできないわ。私の心はひとつにまとまって吸いこまれているわけじゃないのよ。私の心はばらばらになって、いろんな獣の中に吸いこまれ、その断片は他の人の心の断片と一緒に見わけがつかないくらい複雑に|絡《から》みあっているのよ。あなたにはそのうちのどれが私の思いでどれが他の人の思いか|選《よ》りわけることはできないはずよ。だってあなたはこれまでずっと古い夢を読んできたけれど、どれが私の夢か言いあてることはできないでしょ? 古い夢とはそういうものなの。誰にもそれをときほぐすことはできないの。|混《こん》|沌《とん》は混沌のままで消えていくのよ」
彼女の言っていることはよくわかった。僕には毎日読みつづけても、その古い夢の意味を一片たりとも理解することはできなかったのだ。そして今僕に残された時間は二十一時間しかない。僕はその二十一時間のあいだになんとか彼女の心に辿りつかなければならないのだ。不思議なものだった。この不死の街にあって、僕は二十一時間という限定された時間の中にあらゆる選択をつめこまれてしまったのだ。僕は目を閉じて何度か深呼吸をした。|全《すべ》ての神経を集中させ状況をときほぐすための糸口をみつけなければならない。
「書庫に行ってみよう」と僕は言った。
「書庫?」
「書庫に行って頭骨を見ながら考えてみよう。何かうまい手を思いつけるかもしれない」
僕は彼女の手をとってテーブルを立ち、カウンターのうしろにまわって書庫に通じるドアを開けた。彼女が電灯のスウィッチをつけると、ほの暗い光が|棚《たな》に並んだ無数の頭骨を照らしだした。頭骨は厚いほこりをかぶったまま、その|色《いろ》|褪《あ》せた白さを|薄《うす》|闇《やみ》の中に浮かびあがらせていた。彼らは同じような角度に口を開き、そのぽっかりと開いた|眼《がん》|窩《か》で同じように前方の|虚《こ》|空《くう》をじっと|睨《にら》んでいた。彼らの吐きだす冷ややかな沈黙が透明な霧となって書庫に垂れこめていた。我々は壁にもたれて、そんな頭骨の列をしばらく眺めていた。冷気が僕の|肌《はだ》を刺し、骨を震わせた。
「私の心が本当に読めると思うの?」と彼女が僕の顔をみつめながら訊いた。
「僕には君の心を読むことができると思う」と僕は静かに言った。
「どんな風にして?」
「それはまだわからない」と僕は言った。「でもきっとできる。僕にはわかるんだ。きっとうまい方法がある。そして僕はそれをみつける」
「あなたは川の中に落ちた雨粒を選りわけようとしているのよ」
「いいかい、心というのは雨粒とは違う。それは空から降ってくるものじゃないし、他のものと見わけがつかないものじゃないんだ。もし君に僕を信じることができるんなら、僕を信じてくれ。僕は必ずそれをみつける。ここには何もかもがあるし、何もかもがない。そして僕は僕の求めているものをきっとみつけだすことができる」
「私の心をみつけて」しばらくあとで彼女はそう言った。
35 ハードボイルド・ワンダーランド
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――|爪《つめ》|切《き》り、バター・ソース、鉄の|花《か》|瓶《びん》――
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図書館に車を|停《と》めたのは五時二十分だった。時間はまだたっぷりあったので、私は車を降りて雨あがりの街をぶらぶら散歩することにした。カウンター式のコーヒー・ショップに入ってTVのゴルフ中継を見ながらコーヒーを飲み、ゲーム・センターでヴィデオ・ゲームをやって時間をつぶした。川を渡って攻めこんでくる戦車隊を対戦車砲で|殲《せん》|滅《めつ》させるゲームだった。最初のうちは私の方が優勢だったが、ゲームが進むにつれて敵の戦車の数はレミングの大群みたいに増えて、結局は私の陣地を破壊した。陣地が破壊されると画面が核爆発みたいに白熱光でまっ白になった。それから〈GAME OVER―INSERT COIN〉という文字があらわれた。私は指示に従ってスリットに百円玉をもう一枚入れた。すると音楽が鳴り響いて、私の陣地が無傷のまま再現した。それは文字どおり|敗《ま》けるための戦闘だった。私が敗けないことにはゲームはいつまでたっても終らないし、いつまでたっても終らないゲームになんて何の意味もないのだ。ゲーム・センターだって困るし、私だって困る。やがて再び私の陣地は破壊され、画面に白熱光があらわれた。そして〈GAME OVER―INSERT COIN〉の文字が浮かびあがった。
ゲーム・センターのとなりは金物店で、ショーウィンドウには様々な種類の工具が見映えよくディスプレイされていた。レンチやスパナやドライバーのセットに並んで電動の|釘《くぎ》|打《う》ち機や電動のドライバーの姿も見えた。皮のケースに入ったドイツ製の携帯用工具セットもあった。ケース自体は女性の持つパースくらいの大きさしかないが、中には小型ののこぎりからハンマー、検電器までぎっしりと詰めこまれている。そのとなりには三十本セットの彫刻刀があった。それまで彫刻刀の刃に三十ものバリエーションがあるなどと考えたこともなかったので、その三十種類|一《ひと》|揃《そろ》えの彫刻刀セットは私に少なからぬショックを与えた。三十本の刃はみんなそれぞれに少しずつ違っていたし、中の何本かはどうやって使えばいいのか見当もつかないような形をしていた。ゲーム・センターの騒々しさに比べると金物店の中は氷山の裏側みたいに静かだった。暗い店の奥のカウンターには眼鏡をかけた髪の薄い中年の男が座って、ドライバーで何かを分解していた。
私はふと思いついて店の中に入り、|爪《つめ》|切《き》りを探した。爪切りは|髭《ひげ》|剃《そ》りセットのとなりに、|昆虫《こんちゅう》標本のような格好できちんと並んでいた。中にひとつどうしても使い方のわからない不思議なかたちをした爪切りがあったので、私はそれを選んでカウンターに持っていった。それはのっぺりとした五センチほどの長さのステンレス・スティールの金属片で、どこをどう押さえれば爪が切れるのか想像もつかなかった。
私がカウンターに行くと店主はドライバーと分解しかけていた小型の電気|泡《あわ》|立《た》て器を下に置いて、私にその爪切りの使い方を教えてくれた。
「いいですか、よく見ていて下さい。これがいち[#「いち」に丸傍点]です。そしてに[#「に」に丸傍点]、です。次にさん[#「さん」に丸傍点]です。ほら爪切りになったでしょ?」
「なるほど」と私は言った。たしかにそれは立派な爪切りになっていた。彼は爪切りをまたもとの金属片に|戻《もど》して、私にかえした。私は彼のやったとおりにして、それをまた爪切りに戻した。
「良いものです」と彼は秘密を打ちあけるように言った。「ヘンケルの製品、一生ものです。旅行するときに便利なんですよ。|錆《さ》びないし、刃もしっかりしてます。犬の爪を切っても大丈夫です」
私は二千八百円払ってその爪切りを買った。爪切りは小さな黒い皮のケースに入っていた。私に|釣《つ》り|銭《せん》をわたすと、彼はまた泡立て器の分解をはじめた。たくさんのねじがサイズにあわせてそれぞれの白いきれいな|皿《さら》に区分されていた。皿の上に並んだ黒いねじはみんな幸せそうに見えた。
爪切りを買ってしまうと、私は車に戻り、『ブランデンブルク・コンチェルト』を聴きながら彼女を待った。そしてどうして皿の上のねじがあんなに幸せそうに見えたのだろうと考えてみた。あるいはそれはねじが泡立て器の一部であることをやめてねじとしての独立性をとりもどしたからかもしれない。あるいはそれは白い皿というねじにとっては破格ともいえる立派な場所を与えられたからかもしれない。いずれにせよ何かが幸せそうに見えるというのはなかなか気持の良いものだった。
私は上着のポケットから爪切りを出してもう一度組みたて、私の爪の端の方を少しだけためしに切ってみてからもとに戻してケースに入れた。切り心地は悪くなかった。金物店というのはどことなく|人《ひと》|気《け》のない水族館に似ている。
閉館時間の六時が近づくと図書館の玄関からたくさんの人が出てきた。そのほとんどは閲覧室で勉強をしていたらしい高校生だった。彼らの多くは私のと同じようなビニールのスポーツバッグを手にさげていた。じっと見ていると高校生というのはみんなどことなく不自然な存在であるように思えた。みんなどこかが拡大されすぎていて、何かが足りないのだ。もっとも彼らの目から見れば私の存在の方がずっと不自然に映ることだろう。世の中というのはそういうものなのだ。人はそれをジェネレーション・ギャップと呼ぶ。
高校生にまじって老人たちの姿も見えた。老人たちは日曜日の午後を雑誌閲覧室で雑誌を読んだり四種類の新聞を読んだりして過すのだ。そして象のように知識を|溜《た》めこんで、夕食の待つ我が家へと帰っていくのだ。老人たちの姿には高校生ほどの不自然さは感じられなかった。
彼らが出ていってしまうとどこかでサイレンの鳴る音が聞こえた。六時だった。そのサイレンの音を聞くと、私は実に久しぶりに空腹感を覚えた。考えてみれば朝からハムエッグ・サンドウィッチを半分と小さなタルトを一個と生ガキしか食べていないし、昨日はといえば|殆《ほと》んど何も食べていないようなものなのだ。空腹感は巨大な穴のようだった。地底で見かけた石を|放《ほう》りこんでも何の音も聞こえないあの暗くて深い穴みたいだ。私は|椅《い》|子《す》の背を倒して車の低い天井を|眺《なが》めながら食べ物のことを考えた。ありとあらゆる種類の食べ物が私の頭に浮かんでは消えていった。白い皿に盛ったねじのことも頭に浮かんだ。ホワイト・ソースをかけてとなりにクレソンをあしらうとねじもなかなか|美《う》|味《ま》そうに見えた。
リファレンス係の女の子が図書館の玄関から出てきたのは六時十五分だった。
「これあなたの車?」と彼女は言った。
「いや、借りものなんだ」と私は言った。「あまり似合わない?」
「そうね、あまり似合わないわね。こういうのってもっと若い人が乗る車なんじゃないかしら?」
「レンタ・カー会社にこれしか残ってなかったんだ。べつにとくに気に入って借りたわけじゃない。なんだってよかったんだ」
「ふうん」と彼女は言って品定めするように車のまわりをぐるりとまわり、反対側のドアから座席に乗りこんだ。そして車内を細かく検分し、灰皿を開けたりコンパートメントの中をのぞいたりした。
「『ブランデンブルク』ね?」と彼女は言った。
「好きなの?」
「ええ、大好きよ。いつも聴いてるわ。カール・リヒターのものがいちばん良いと思うけど、これはわりに新しい録音ね。えーと、|誰《だれ》かしら?」
「トレヴァー・ピノック」と私は言った。
「ピノックが好きなの?」
「いや、べつに」と私は言った。「目についたから買ったんだ。でも悪くないよ」
「パブロ・カザルスの『ブランデンブルク』は聴いたことある?」
「ない」
「あれは一度聴いてみるべきね。正統的とは言えないにしてもなかなか|凄《すご》|味《み》があるわよ」
「今度聴いてみる」と言ったが、そんな暇があるものかどうか私にはわからなかった。時間はあと十八時間しか残ってないし、そのあいだには少し眠る必要もある。いくら人生が残り少ないとはいえまったく眠らないでひと晩起きているわけにもいかない。
「何を食べに行く?」と私は|訊《き》いてみた。
「イタリア料理なんてどうかしら?」
「いいね」
「私の知ってるところがあるから、そこに行きましょう。わりに近くよ。材料がすごく新鮮なの」
「腹が減った」と私は言った。「ねじでも食べられちゃいそうだ」
「私もよ」と彼女は言った。「それ、良いシャツね」
「ありがとう」と私は言った。
その店は図書館から車で十五分ほどの距離にあった。くねくねと曲った住宅地の中の道を人や自転車をよけながらのろのろと進んでいくと、坂道の途中に突然イタリア料理店が姿を見せた。白い木造の洋風住宅をそのままレストランに転用したようなつくりで、看板も小さく、よく注意してみなければとてもレストランとはわからない。店のまわりは高い|塀《へい》に囲まれた静かな住宅街で、高くそびえたヒマラヤ|杉《すぎ》や松の枝が夕暮の空にその輪郭を暗く描いていた。
「こんなところにレストランがあるなんてとても気がつかないな」と私は車を店の前の駐車場にとめながら言った。
店はそれほど広くなく、テーブルが三つとカウンターの席が四つあるだけだった。エプロンをつけたウェイターが我々をいちばん奥のテーブルに案内した。テーブルの横の窓の外には梅の木の枝が見えた。
「飲み物はワインでいいかしら?」と彼女が訊いた。
「まかせるよ」と私は言った。私はワインについてはビールほどくわしくないのだ。彼女がワインのことをこまごまとウェイターと協議しているあいだ、窓の外の梅の木を眺めていた。イタリア料理店の庭に梅の木がはえているというのも何かしら不思議な気がしたが、本当はそれほど不思議ではないことなのかもしれない。イタリアにも梅の木はあるのかもしれない。フランスにだってかわうそがいるのだ。ワインが決まると我々はメニューを広げて食事の作戦を立てた。選択にはかなりの時間がかかった。まずオードヴルに|小《こ》|海《え》|老《び》のサラダ|苺《いちご》ソースかけと生ガキ、イタリア風レバームース、イカの墨煮、なすのチーズ揚げ、わかさぎのマリネをとり、パスタに私はタリアテルカサリンカを、彼女はバジリコ・スパゲティーを選んだ。
「ねえ、それとべつにこのマカロニの魚ソースあえというのをとって半分こしない?」と彼女が言った。
「いいね」と私は言った。
「今日は魚は何がいいかしら?」と彼女がウェイターに|訊《たず》ねた。
「本日は新鮮なすずきが入っております」とウェイターは言った。「アーモンドをあしらった蒸し焼きでいかがでしょう?」
「それをいただくわ」と彼女は言った。
「|僕《ぼく》も」と私は言った。「それにほうれん草のサラダとマッシュルーム・リゾット」
「私は温野菜とトマト・リゾット」と彼女は言った。
「リゾットはかなりのヴォリュームがございますが」と心配そうにウェイターが言った。
「大丈夫。僕は昨日の朝からほとんど何も食べてないし、彼女は胃拡張だから」と私は言った。
「ブラックホールみたいなの」と彼女は言った。
「お持ちいたします」とウェイターが言った。
「デザートには|葡《ぶ》|萄《どう》のシャーベットとレモン・スフレとエスプレッソ・コーヒー」と彼女は言った。
「同じものを」と私は言った。
ウェイターが時間をかけて注文を注文票に書きこんでから行ってしまうと、彼女はにっこり笑って私の顔を見た。
「べつに私にあわせてたくさん料理を注文したわけじゃないんでしょ?」
「本当に腹が減ってるんだ」と私は言った。「こんなに腹が減ったのは久しぶりだな」
「素敵」と彼女は言った。「私、少食の人って信用しないの。少食の人ってどこかべつのところでその埋めあわせをしてるんじゃないかって気がするんだけど、どうなのかしら?」
「よくわからない」と私は言った。よくわからない。
「よくわからない、というのが口ぐせなのね、きっと」
「そうかもしれない」
「そうかもしれない、というのも口ぐせなのね」
私は言うことがなくなったので黙って|肯《うなず》いた。
「どうしてなの? あらゆる思想は不確定だから?」
よくわからない、そうかもしれない、と私が頭の中でつぶやいていると、ウェイターがやってきて宮廷の専属接骨医が皇太子の|脱臼《だっきゅう》をなおすときのような格好でうやうやしくワインの|栓《せん》を抜き、グラスにそそいでくれた。
「『僕のせいじゃない』というのは『異邦人』の主人公の口ぐせだったわね、たしか。あの人なんていう名前だったかしら、えーと」
「ムルソー」と私は言った。
「そう、ムルソー」と彼女は繰りかえした。「高校時代に読んだわ。でも今の高校生って『異邦人』なんてぜんぜん読まないのよ。この前図書館で調査したの。あなたはどんな作家が好きなの?」
「ツルゲーネフ」
「ツルゲーネフはそんなたいした作家じゃないわ。時代遅れだし」
「そうかもしれない」と私は言った。「でも好きなんだ。フローベールとトマス・ハーディーも良いけど」
「新しいものは読まないの?」
「サマセット・モームならときどき読むね」
「サマセット・モームを新しい作家だなんていう人今どきあまりいないわよ」と彼女はワインのグラスを傾けながら言った。「ジュークボックスにベニー・グッドマンのレコードが入ってないのと同じよ」
「でも|面《おも》|白《しろ》いよ。『|剃刀《かみそり》の刃』なんて三回も読んだ。あれはたいした小説じゃないけど読ませる。逆よりずっと良い」
「ふうん」と彼女は不思議そうに言った。「それはともかく、そのオレンジ色のシャツよく似合うわよ」
「どうもありがとう」と私は言った。「君のワンピースもとてもいい」
「それはどうも」と彼女は言った。ダークブルーのヴェルヴェットのワンピースで、小さな白いレースの|襟《えり》がついていた。首には細い銀のネックレスが二本。
「あなたの電話があったあとで|家《うち》に帰って着替えてきたの。家が職場のすぐ近くだとすごく便利なのよ」
「なるほど」と私は言った。なるほど。
オードヴルがいくつかはこばれてきたので、我々はしばらくのあいだ黙ってそれを食べた。気取ったところのないさっぱりとした味つけだった。材料も新鮮だった。カキは海の底からひきあげたばかりみたいによくしまって母なる海の|匂《にお》いがした。
「それで一角獣のことはうまくかたがついたのかしら?」と彼女はカキをフォークで|殻《から》からはがしながら訊いた。
「まあね」と私は言って、口もとについたイカの墨をナプキンで|拭《ぬぐ》った。「いちおうのかたはついた」
「一角獣はどこかにいたの?」
「ここにね」と私は言って指の先で自分の頭をつついた。「一角獣は僕の頭の中に住んでいるんだ。群を作ってさ」
「それは象徴的な意味で?」
「いや、そうじゃない。象徴的な意味はほとんどないと思う。実際に僕の意識の中に住んでいるんだ。ある人がそれをみつけだしてくれたんだ」
「面白そうな話ね。もっと聞きたいわ。話して」
「それほど面白くない」と私は言って、なすの|皿《さら》を彼女の方にまわした。彼女はそのかわりにわかさぎの皿をまわしてくれた。
「でも聞きたいわ、すごく」
「意識の底の方には本人に感知できない|核《コア》のようなものがある。僕の場合のそれはひとつの街なんだ。街には川が一本流れていて、まわりは高い|煉《れん》|瓦《が》の壁に囲まれている。街の住人はその外に出ることはできない。出ることができるのは一角獣だけなんだ。一角獣は住人たちの自我やエゴを吸いとり紙みたいに吸いとって街の外にはこびだしちゃうんだ。だから街には自我もなくエゴもない。僕はそんな街に住んでいる――ということさ。僕は実際に自分の目で見たわけじゃないからそれ以上のことはわからないけどね」
「すごく独創的な話だわ」と彼女は言った。私は彼女に説明してから老人が川のことなんて一言も話さなかったことに気づいた。どうやら私は少しずつその世界に引きよせられつつあるようだった。
「でも僕が意識して作ったわけじゃない」と私は言った。
「たとえ無意識的にであるにせよ、作ったのはあなたでしょ?」
「まあね」と私は言った。
「そのわかさぎ悪くないでしょ?」
「悪くない」
「でもその話、私があなたに読んであげたロシアの一角獣の話と似ていると思わない?」と彼女はナイフでなすを半分に切りながら言った。「ウクライナの一角獣もまわりを絶壁に囲まれたコミュニティーの中で暮していたのよ」
「似てるね」と私は言った。
「何か共通点があるのかもしれないわ」
「そうだ」と私は言って上着のポケットに手をつっこんだ。「君にプレゼントがあるんだ」
「プレゼントって大好き」と彼女は言った。
私はポケットから爪切りを出して彼女にわたした。彼女はそれをケースから出して不思議そうに|眺《なが》めた。「なあに、これ?」
「貸してごらん」と私は言って、彼女から爪切りを受けとった。「よく見てて。これがいち[#「いち」に丸傍点]で、次がに[#「に」に丸傍点]で、そしてさん[#「さん」に丸傍点]」
「爪切りね?」
「そのとおり。旅行するときに便利なんだ。|戻《もど》すときは逆にやればいい。ほらね」
私は爪切りをまた小さな金属片に変えて、彼女に返した。彼女は自分で爪切りを組みたて、またもとに戻した。
「面白いわ。どうもありがとう」と彼女は言った。「でもあなたはよく女の子に爪切りなんかをプレゼントするの?」
「いや、爪切りははじめてだな。さっき金物店を眺めてたら何か欲しくなって買っちゃったんだ。彫刻刀セットは大きすぎたから」
「爪切りでいいわ。ありがとう。爪切りってすぐにどっかに行っちゃうから、いつもこれをバッグの内ポケットに入れとくことにするわ」
彼女は爪切りをケースに入れ、ショルダーバッグの中にしまった。
オードヴルの皿がさげられ、パスタが運ばれてきた。私の激しい空腹感はまだつづいていた。六皿のオードヴルは私の体の中の虚無の穴にほとんど何の|痕《こん》|跡《せき》も残さなかった。私はかなりの量のあるタリアテルを比較的短かい時間で胃の中に送りこみ、それからマカロニの魚ソースあえを半分食べた。それだけをかたづけてしまうと|暗《くら》|闇《やみ》の中にほのかな|灯《あか》りが見えてきたような気がした。
パスタが終ってからすずきが運ばれてくるまで、我々はワインのつづきを飲んだ。
「ねえ、ところで」と彼女はワイン・グラスの縁に|唇《くちびる》をつけたまま言った。おかげで彼女の声はグラスの中で響いているような妙にくぐもったかんじになった。「あなたの破壊された部屋のことだけど、あれは何かとくべつな機械を使ったの? それとも何人かがよってたかってやったの?」
「機械は使わない。一人の人間がやった」と私は言った。
「よほど|頑丈《がんじょう》な人みたいね」
「疲れというものを知らないんだ」
「あなたの知ってる人?」
「いや初めて会った人」
「部屋の中でラグビーの試合やったってあんなに無茶苦茶にはならないわよ」
「そうだろうね」と私は言った。
「それはその一角獣の話に関連したことなの?」と彼女が訊いた。
「たぶんしていると思う」
「それはもう解決したの?」
「解決はしていない。少くとも彼らにとっては解決していない」
「あなたにとっては解決したの?」
「しているとも言えるし、していないとも言える」と私は言った。「選択のしようがないから解決しているとも言えるし、自分で選択したわけじゃないから解決したことにはならないとも言える。なにしろ今回の出来事に関しては僕の主体性というものはそもそもの最初から無視されてるんだ。あしかの水球チームに一人だけ人間がまじったみたいなものさ」
「それで明日からどこか遠くへ行っちゃうのね?」
「まあね」
「きっと複雑な事件にまきこまれているのね?」
「複雑すぎて僕にも何が何だかよくわからない。世界はどんどん複雑になっていく。核とか社会主義の分裂とかコンピューターの進化とか人工授精とかスパイ衛星とか人工臓器とかロボトミーとかね。車の運転席のパネルだって何がどうなってるのかわかりゃしない。僕の場合は簡単に説明すれば情報戦争にまきこまれちまっているんだ。要するにコンピューターが自我を持ちはじめるまでのつなぎさ。まにあわせなんだ」
「コンピューターはいつか自我を持つようになるの?」
「たぶんね」と僕は言った。「そうすればコンピューターが自分でデータをスクランブルして計算するようになる。|誰《だれ》にも盗めない」
ウェイターがやってきて我々の前にすずきとリゾットを置いた。
「私にはよくわからないわ」と彼女はフィッシュ・ナイフですずきの身を切りながら言った。「図書館というのはとても平和なところだから。本がいっぱいあって、みんながそれを読みに来るだけ。情報はみんなに開かれているし、誰も争ったりしないわ」
「僕も図書館につとめればよかったんだ」と私は言った。ほんとうにそうするべきだったのだ。
我々はすずきを食べ、リゾットをひと粒残らずたいらげた。私の空腹感の穴はようやく底が見えるまでになってきていた。
「すずきは|美《お》|味《い》しかったわ」と彼女が満足そうに言った。
「バター・ソースの作り方にコツがあるんだ」と私は言った。「エシャロットを細かく切って良いバターに混ぜて、丁寧に焼くんだ。焼くときに手を抜くと良い味がつかない」
「料理を作るのが好きなのね?」
「料理というものは十九世紀からほとんど進化していないんだ。少くとも|美《う》|味《ま》い料理に関してはね。材料の新鮮さ・手間・味覚・美感、そういうものは永久に進化しない」
「ここのレモン・スフレもおいしいわよ」と彼女は言った。「まだ食べられる?」
「もちろん」と私は言った。スフレくらいなら五つだって食べられる。
私は葡萄のシャーベットを食べ、スフレを食べ、エスプレッソ・コーヒーを飲んだ。たしかに素晴しいスフレだった。デザートというのはこれくらいでなくてはならない。エスプレッソも手のひらにとることができそうなくらいしっかりとして丸味のある味だった。
我々が何もかもをそれぞれの巨大な穴の中に放りこんだところで、シェフがあいさつにやってきた。非常に満足したと我々は彼に言った。
「これだけ召しあがっていただけると、我々としても作りがいがあるというものです」とその料理人は言った。「イタリアでもこれだけ召しあがれる方はそんなにはいらっしゃいません」
「どうもありがとう」と私は言った。
シェフが調理場に戻ってしまうと、我々はウェイターを呼んでもう一杯ずつエスプレッソ・コーヒーを注文した。
「私と同じだけの量を食べて平然としていられる人はあなたがはじめてよ」と彼女は言った。
「まだ食べられる」と私は言った。
「私の家に冷凍のピツァとシーヴァス・リーガルが一本あるわ」
「悪くないな」と私は言った。
彼女の家はたしかに図書館のすぐ近くにあった。小さな建売り住宅だったが、それでも一軒家だった。ちゃんとした玄関があり、人間がひとり寝そべることができるくらいの庭もついていた。庭にはほとんど日があたる見込みはなさそうだったが、|隅《すみ》の方にはちゃんとつつじが植えてあった。二階までついている。
「結婚していたときにこの家を買ったの」と彼女は言った。「ローンは夫の生命保険で返したわ。子供を作るつもりで買ったんだけど、一人じゃ広すぎるわね」
「そうだろうな」と私は居間のソファーの上であたりを見まわしながら言った。
彼女は冷凍庫からピツァを出してオーヴンに入れ、それからシーヴァス・リーガルとグラスと氷を居間のテーブルにはこんでくれた。私はステレオ・セットのスウィッチを入れ、カセット・デッキのプレイ・ボタンを押した。私が適当に選んだテープにはジャッキー・マクリーンとかマイルズ・デイヴィスとかウィントン・ケリーとか、その手の音楽が入っていた。私はピツァが焼けるまで、『バッグズ・クルーヴ』とか『飾りのついた四輪馬車』とかを聴きながら一人でウィスキーを飲んだ。彼女は自分のためにワインを開けた。
「古いジャズは好き?」と彼女が|訊《き》いた。
「高校の|頃《ころ》はジャズ喫茶でこんなのばかり聴いてたな」と私は言った。
「新しいものは聴かないの?」
「ポリス、デュラン・デュラン、なんでも聴く。みんなが聴かせてくれるんだ」
「でも自分からはあまり聴かないのね?」
「必要がないから」と私は言った。
「彼は――死んだ主人のことだけど――いつも古い音楽ばかり聴いてたわ」
「|僕《ぼく》に似てる」
「そうね、たしかに少し似てるわ。バスの中で殴り殺されたの、鉄の|花《か》|瓶《びん》で」
「どうして?」
「バスの中でヘアー・スプレイを使っている若い男に注意したら、相手が鉄の花瓶で殴りかかってきたの」
「どうして若い男が鉄の花瓶なんか持っていたんだろう?」
「わからないわ」と彼女は言った。「見当もつかないわ」
私にも見当がつかなかった。
「それにしてもバスの中で殴り殺されるなんてひどい死に方だと思わない?」
「たしかにそうだね。気の毒だ」と私は同意した。
ピツァが焼きあがり、我々はそれを半分ずつ食べ、ソファーに並んで酒を飲んだ。
「一角獣の頭骨を見たい?」と私は訊いてみた。
「ええ、見たいわ」と彼女は言った。「本当に持ってるの?」
「レプリカだけどね。本物じゃない」
「でも見てみたいわ」
私は外に|停《と》めた車のところまで行き、後部座席からスポーツバッグをとって戻ってきた。十月のはじめのおだやかで気持の良い夜だった。空を|覆《おお》っていた雲はところどころで切れて、そのあいだから満月に近い月が見えた。明日はどうやら良い天気になりそうだった。私は居間のソファーに戻り、バッグのジッパーを開け、バスタオルにくるんだ頭骨を出して彼女にわたした。彼女はワイン・グラスをテーブルに置き、注意深くその頭骨を点検した。
「よくできてるわ」
「頭骨の専門家が作ってくれたんだ」と私はウィスキーを飲みながら言った。
「まるで本物みたい」
私はカセット・テープを停め、バッグの中から例の|火《ひ》|箸《ばし》をとりだして頭骨を|叩《たた》いてみた。前と同じくうん[#「くうん」に丸傍点]という乾いた音がした。
「それはなあに?」
「頭骨にはそれぞれの独自の音があるんだ」と私は言った。「頭骨の専門家はその音から様様な記憶をよみがえらせることができる」
「素敵な話ね」と彼女は言った。そして自分でもその火箸を使って頭骨を叩いてみた。「レプリカじゃないみたい」
「かなり偏執的な人間が作ったからね」
「私の夫の|頭《ず》|蓋《がい》|骨《こつ》は砕けちゃったの。だからきっと正しい音は出ないわね」
「どうかな、よくわからない」と私は言った。
彼女は頭骨をテーブルの上に置き、グラスをとってワインを飲んだ。我々はソファーの上で肩を寄せあったままグラスを傾け、頭骨を眺めた。肉をそぎおとされた獣の頭骨は我々に向って笑いかけているようにも見えたし、思いきり空気を吸いこもうとしているところのようにも見えた。
「何か音楽をかけて」と彼女が言った。
私はテープの山の中からまた適当なものをひっぱりだしてデッキに入れてボタンを押し、ソファーに戻った。
「ここでいい? それとも二階のベッドに行く?」と彼女が訊いた。
「ここがいい」と私は言った。
スピーカーからはパット・ブーンの『アイル・ビー・ホーム』が流れていた。時間が間違った方向に流れているような気がしたが、もうそれもどうでもいいことだった。時間なんて勝手に好きな方向に流れていけばいいのだ。彼女は庭に面した窓のレースのカーテンを閉め、部屋の電気を消した。そして月の光の中で服を脱いだ。彼女はネックレスをとり、ブレスレットの形をした腕時計をとり、ヴェルヴェットのワンピースを脱いだ。私も腕時計を外してソファーの背もたれの向うに放り投げた。それから上着を脱ぎ、ネクタイをゆるめ、グラスの底に残ったウィスキーを飲み干した。
彼女がパンティー・ストッキングをくるくると丸めるように脱いでいるところで曲はレイ・チャールズの『ジョージア・オン・マイ・マインド』にかわった。私は目を閉じて両脚をテーブルの上に載せ、オン・ザ・ロックのグラスの中で氷をまわすみたいに、頭の中で時間をまわしてみた。何もかもがずっと昔に一度起ったことみたいだった。脱ぐ服とバックグラウンド・ミュージックと|科白《せ り ふ》が少しずつ変化しているだけだ。でもそんな違いになんてたいした意味はない。ぐるぐるとまわっていつも同じところにたどりつくのだ。それはまるでメリー・ゴー・ラウンドの馬に乗ってデッド・ヒートをやっているようなものなのだ。誰も抜かないし、誰にも抜かれないし、同じところにしかたどりつかない。
「何もかも昔に起ったことみたいだ」と私は目を閉じたまま言った。
「もちろんよ」と彼女は言った。そして私の手からグラスをとり、シャツのボタンをいんげんの筋をとるときのようにひとつずつゆっくりと外していった。
「どうしてわかる?」
「知ってるからよ」と彼女は言った。そして私の裸の胸に唇をつけた。彼女の長い髪が私の腹の上にかかっていた。「みんな昔に一度起ったことなのよ。ただぐるぐるとまわっているだけ。そうでしょ?」
私は目を閉じたまま彼女の唇と髪の感触に体をまかせた。私はすずきのことを考え、爪切りのことを考え、|洗《せん》|濯《たく》|屋《や》の店先の縁台にいたかたつむりのことを考えた。世界は数多くの|示《し》|唆《さ》に|充《み》ちているのだ。
私は目を開けて彼女をそっと抱き寄せ、ブラジャーのホックを外すために手を背中にまわした。ホックはなかった。
「前よ」と彼女は言った。
世界はたしかに進化しているのだ。
我々は三回性交したあとでシャワーを浴び、ソファーの上で一緒に毛布にくるまってビング・クロスビーのレコードを聴いた。とても良い気分だった。私の|勃《ぼっ》|起《き》はガザのピラミッドのように|完《かん》|璧《ぺき》だったし、彼女の髪はヘアー・リンスの素敵な|匂《にお》いがしたし、ソファーもクッションこそ固いがなかなか悪くないソファーだった。しっかりとした作りの時代もので、古い時代の太陽の匂いがする。こういうソファーがごくあたりまえに供給された立派な時代がかつて存在したのだ。
「良いソファーだ」と私は言った。
「古くてみすぼらしいから買いかえようかと思っていたんだけど」
「このままの方がいい」
「じゃあそうするわ」と彼女は言った。
私はビング・クロスビーの|唄《うた》にあわせて『ダニー・ボーイ』を唄った。
「その唄が好きなの?」
「好きだよ」と私は言った。「小学校のときハーモニカ・コンクールでこの曲を吹いて優勝して鉛筆を一ダースもらったんだ。昔はすごくハーモニカが|上《う》|手《ま》くてね」
彼女は笑った。「人生というのはなんだか不思議ね」
「不思議だ」と私は言った。
彼女がもう一度『ダニー・ボーイ』をかけてくれたので、私ももう一度それにあわせて唄った。二度めにそれを唄うと、私はわけもなく|哀《かな》しい気持になった。
「行ってしまっても手紙をくれる?」と彼女は訊いた。
「書くよ」と私は答えた。「もしそこから手紙を出すことができるならね」
彼女と私は瓶の底に残った最後のワインを半分ずつわけて飲んだ。
「今何時だろう?」と私は訊いた。
「夜中よ」と彼女は答えた。
36 世界の終り
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――|手《て》|風《ふう》|琴《きん》――
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「そう感じるのね?」と彼女は言った。「あなたは私の心を読むことができると感じるのね」
「とても強く感じるよ。君の心はすぐ手の届くところにあるはずなのに、|僕《ぼく》はそれと気づかないんだ。その方法は既に僕の前に提示されているはずなんだ」
「あなたがそう感じるのなら、それは正しいことよ」
「でも僕にはそれをみつけることができない」
我々は書庫の床に腰を下ろし、二人で並んで壁にもたれて頭骨の列を見あげていた。頭骨はじっと黙したまま、僕に向って何ひとつとして語りかけてはこなかった。
「あなたが強く感じるということはそれが比較的最近に起ったことだからじゃないかしら」と彼女は言った。「あなたの影が弱りはじめてからあなたの身のまわりで起ったことをひとつひとつ思いだしてみて。その中に|鍵《かぎ》がひそんでいるかもしれないわ。私の心をみつけるための鍵が」
僕はそのひやりとした床の上で、目を閉じて頭骨たちの沈黙の響きにしばらく耳を澄ませた。
「今朝老人たちが僕の部屋の前で穴を掘っていた。何を埋めるための穴かはわからないけれど、とても大きな穴だった。僕は彼らのシャベルの音で目が覚めたんだ。それはまるで、僕の頭の中に穴を掘っているようだった。雪が降ってその穴を埋めた」
「|他《ほか》には?」
「君と二人で森の発電所に行った。そのことは君も知ってるね? 僕は若い管理人と会って森の話をした。それから風穴の上にある発電装置も見せてもらった。風の音は|嫌《いや》な音だった。まるで地獄の底から吹きあがってくるような音だ。管理人は若くてもの静かでやせている」
「それから?」
「彼から|手《て》|風《ふう》|琴《きん》を手に入れた。小さな折り畳み式の手風琴だ。古いものだが、ちゃんと音は出る」
彼女は床の上でじっと考えこんでいた。書庫の中は刻一刻と気温が下っていくように感じられた。
「たぶん手風琴よ」と彼女は言った。「きっとそれが鍵なんだわ」
「手風琴?」と僕は言った。
「筋がとおってるわ。手風琴は|唄《うた》に結びついて、唄は私の母に結びついて、私の母は私の心のきれはしに結びついている。そうじゃない?」
「たしかに君の言うとおりだ」と僕は言った。「それで筋がとおっている。たぶんそれが鍵だろう。でも大事なリンクがひとつ抜けている。僕には唄というものをひとつとして思いだすことができないんだ」
「唄じゃなくてもいいわ。その手風琴の音を少しだけでも私に聴かせてくれることはできる?」
「できるよ」と僕は言った。そして書庫を出てストーヴのわきにかかったコートのポケットから手風琴をとりだし、それを持って彼女のとなりに座った。両方の手をパネルについたバンドにはさみ、いくつかのコードを弾いてみた。
「とてもきれいな音だわ」と彼女は言った。「その音は風のようなものなの?」
「風そのものさ」と僕は言った。「いろんな音のする風を作りだして、それを組みあわせているんだ」
彼女はじっと目を閉じてその和音の響きに耳を傾けていた。
僕は思いだせる限りのコードを順番に弾いてみた。そして右手の指でそっと探るように音階を押さえてみた。メロディーは浮かんでこなかったが、それはそれでかまわなかった。僕はただ風のようにその手風琴の音を彼女に聴かせればいいのだ。僕はそれ以上のものは何ひとつとして求めないことに決めた。僕は鳥のように心をその風にまかせればいいのだ。
僕には心を捨てることはできないのだ、と僕は思った。それがどのように重く、時には暗いものであれ、あるときにはそれは鳥のように風の中を舞い、永遠を見わたすこともできるのだ。この小さな手風琴の響きの中にさえ、僕は僕の心をもぐりこませることができるのだ。
建物の外を吹く風の音が僕の耳に届いたような気がした。冬の風が街を舞っているのだ。その風は高くそびえる時計塔を巻き、橋の下をくぐり抜け、川沿いに並ぶ柳の枝をなびかせているのだ。森の木々の枝を揺らし、草原を吹き抜け、工場街の電線に音をたて、門に打ちつけているのだ。獣たちはその中で凍え、人々は家の中で息をしのばせているのだ。僕は目を閉じて街の様々な風景を頭の中に思い浮かべてみた。川の|中《なか》|洲《す》があり、西の壁の望楼があり、森の発電所があり、老人たちが腰を下ろしている官舎の前の日だまりがあった。川の|淀《よど》みでは獣たちが身をかがめて水を飲み、運河の石段には夏の青い草が風に揺れていた。彼女と二人で行った南のたまり[#「たまり」に丸傍点]をはっきりと思いだすこともできた。発電所の裏の小さな畑や、古い兵営のある西の草原や、東の森の|壁《かべ》|際《ぎわ》に残っていた廃屋と古井戸のことも覚えている。
それから僕はここで出会った様々な人々について考えてみた。隣室の大佐や、官舎に住む老人たち、発電所の管理人、そして門番――彼らは今おそらくそれぞれの部屋の中で、外を吹きあれる雪まじりの風の音に耳を澄ませているのだろう。
僕はそんな風景のひとつひとつ、そんな人々の一人一人を永遠に失おうとしている。それからもちろん彼女もだ。しかし僕はおそらくいつまでも、まるで昨日のことのようにこの世界とそこに住む人々のことを覚えているだろう。もしこの街がたとえ僕の目から見て不自然で間違っているにせよ、そしてここに住む人々が心を失っているにせよ、それは決して彼らのせいではないのだ。僕はあの門番をさえきっと|懐《なつか》しむことだろう。彼もやはりこの街の強固な鎖の輪にくみこまれたひとつの断片にすぎないのだ。何かが強大な壁を作りあげ、人々はただそこに|呑《の》みこまれてしまっただけのことなのだ。僕はこの街の中のすべての風景と人人を愛することができるような気がした。僕はこの街にとどまることはできない。しかし僕は彼らを愛しているのだ。
そのとき何かがかすかに僕の心を打った。ひとつの和音がまるで何かを求めているように、ふと僕の中に残った。僕は目を開けてそのコードをもう一度おさえてみた。そして右手でそのコードにあった音を探してみた。長い時間をかけて、僕はそのコードにあった最初の四音をみつけだすことができた。その四つの音はまるでやわらかな太陽の光のように、空からゆっくりと僕の心の中に舞い下りてきた。その四つの音は僕を求め、僕はその四つの音を求めていた。
僕はそのひとつのコード・キイをおさえながら、何度も四つの音を順番に弾いてみた。四つの音は次のいくつかの音とべつのコードを求めていた。僕は先にべつのコードの方を探してみた。コードはすぐにみつかった。メロディーを探すのには少し手間がかかったが、最初の四音が僕を次の五音に導いてくれた。そしてまたべつのコードと三音がやってきた。
それは唄だった。完全な唄ではないが、唄の最初の一節だった。僕はその三つのコードと十二音を何度も何度も繰りかえしてみた。それは僕がよく知っているはずの唄だった。
『ダニー・ボーイ』
僕は目を閉じて、そのつづきを弾いた。題名を思いだすと、あとのメロディーとコードは自然に僕の指先から流れでてきた。僕はその曲を何度も何度も弾いてみた。メロディーが心にしみわたり、体の|隅《すみ》|々《ずみ》から固くこわばった力が抜けていくのがはっきりと感じられた。久しぶりに唄を耳にすると、僕の体がどれほど心の底でそれを求めていたかということをひしひしと感じることができた。僕はあまりにも長いあいだ唄を失っていたので、それに対する飢えさえをも感じとることができなくなってしまっていたのだ。音楽は長い冬が凍りつかせてしまった僕の筋肉と心をほぐし、僕の目にあたたかいなつかしい光を与えてくれた。
僕はその音楽の中に街そのものの息づかいを感じることができるような気がした。僕はその街の中にあり、その街は僕の中にあった。街は僕の体の揺れにあわせて息をし、揺れていた。壁も動き、うねっていた。その壁はまるで僕自身の皮膚のように感じられた。
僕はずいぶん長いあいだその曲を繰りかえして弾いてから楽器を手から離して床に置き、壁にもたれて目を閉じた。僕は体の揺れをまだ感じることができた。ここにあるすべてのものが僕自身であるように感じられた。壁も門も獣も森も川も風穴もたまり[#「たまり」に丸傍点]も、すべてが僕自身なのだ。彼らはみんな僕の体の中にいた。この長い冬さえ、おそらくは僕自身なのだ。
僕が手風琴をはずしてしまったあとでも、彼女は目を閉じて、僕の腕を両手でじっと握りしめていた。彼女の|瞳《ひとみ》からは涙が流れていた。僕は彼女の肩に手を置いて、その瞳に|唇《くちびる》をつけた。涙はあたたかく、やわらかな湿り気を彼女に与えていた。ほのかな優しい光が彼女の|頬《ほお》を照らし、彼女の涙を輝かせていた。しかしその光は書庫の天井に|吊《つる》された薄暗い電灯のものではなかった。もっと星の光のように白く、あたたかな光だ。
僕は立ちあがって天井の電灯を消した。そしてその光がどこからやってくるのかをみつけることができた。頭骨が光っているのだ。部屋はまるで昼のように明るくなっていた。その光は春の陽光のようにやわらかく、月の光のように静かだった。|棚《たな》の上に並んだ無数の頭骨の中に眠っていた古い光が今|覚《かく》|醒《せい》しているのだ。頭骨の列はまるで光を細かく割ってちりばめた朝の海のように、そこに音もなく輝いていた。しかし僕の目は彼らの光を前にしても、もう何の|眩《まぶ》しさをも感じることはなかった。光は僕にやすらぎを与え、僕の心を古い思い出がもたらすあたたかみで|充《み》たしてくれた。僕は僕の目が既に|癒《いや》されていることを感じることができた。もう何ものも僕の目を痛めつけることはできないのだ。
それは素晴しい|眺《なが》めだった。あらゆるところに光が点在していた。透きとおった|水《みな》|底《そこ》に見える宝石のように彼らは約束された沈黙の光を放っていた。僕は頭骨のひとつを手にとって、指先でその表面をそっとなぞってみた。そして僕はそこに彼女の心を感じとることができた。彼女の心はそこにあった。それは僕の指先に小さく浮かんでいた。その光の粒のひとつひとつは|微《かす》かなあたたかみと光しかもたなかったが、それは|誰《だれ》にも奪いとることのできないあたたかみと光だった。
「あそこに君の心がある」と僕は言った。「君の心だけが浮きだして、あそこに光っているんだ」
彼女は小さく|肯《うなず》いて、それから涙に|濡《ぬ》れた目でじっと僕を見つめた。
「僕は君の心を読むことができる。そしてそれをひとつにまとめることができる。君の心はもう失われたばらばらの断片じゃない。それはそこにあって、もう誰にもそれを奪いとることはできないんだ」
僕はもう一度彼女の目に唇をつけた。
「しばらくここで一人にしておいてほしい」と僕は言った。「朝までに君の心を読みとってしまいたいんだ。それから少し眠る」
彼女はもう一度肯いて光り輝く頭骨の列を眺めわたし、それから書庫を出ていった。ドアが閉まると、僕は壁にもたれて頭骨にちりばめられた無数の光の粒をじっといつまでも見つめていた。その光は彼女の抱いていた古い夢でもあり、同時に僕自身の古い夢でもあった。僕は壁に囲まれたこの街の中で長い道のりを|辿《たど》ってやっとそれにめぐりあうことができたのだ。
僕は頭骨のひとつをとり、それに手をあててそっと目を閉じた。
37 ハードボイルド・ワンダーランド
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――光、内省、清潔――
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どれほどの時間眠ったのか私にはわからなかった。|誰《だれ》かが私の肩をゆすっていた。私が最初に感じたのはソファーの|匂《にお》いだった。それから誰かが私を起していることに対する|苛《いら》|立《だ》ちがやってきた。誰も彼もが秋のいなごのように私の豊潤な眠りを奪っていくのだ。
しかしそれにもかかわらず、私の中の何かが私に対して起きあがることを強要していた。眠っている暇はないのだ、と。私の中の何かが大きな鉄の|花《か》|瓶《びん》で私の頭を打っていた。
「起きて、お願い」と彼女は言った。
私はソファーの上に起きあがって目を開けた。私はオレンジ色のバスローブを着ていた。彼女は白い男もののTシャツを着て、私にのしかかるようにして私の肩を揺すっていた。白いTシャツと小さな白いパンティーだけをまとった彼女の細い体はまるで小さな不確かな子供のように見えた。ちょっと強い風が吹いただけでそのままちり[#「ちり」に丸傍点]になって崩れてしまいそうだ。我々の食べた大量のイタリア料理はいったいどこに消えてしまったのだろう?そして私の腕時計はどこに行ってしまったのだ。まだあたりは暗い。私の目がどうかしてしまったのでなければ、夜はまだ明けていないはずだ。
「テーブルの上を見て」と彼女は言った。
私はテーブルの上を見た。テーブルの上には小型のクリスマス・ツリーのようなものが載っていた。しかしそれはクリスマス・ツリーではなかった。クリスマス・ツリーにしてはあまりにも小さすぎるし、それに今はまだ十月のはじめだ。クリスマス・ツリーであるわけはない。私はバスローブの|襟《えり》を両手であわせたままそのテーブルの上にある物にじっと目をこらした。それは私が置いた頭骨だった。いや、そこに頭骨を置いたのは彼女だったかもしれない。私にはどちらがテーブルの上にそれを置いたのかは思いだせなかった。どちらでもいい。とにかくテーブルの上でクリスマス・ツリーのように光っているのは私が持ってきた一角獣の頭骨だった。光が頭骨の上に点在しているのだ。
ひとつひとつの点は微小なものだったし、光自体もそれほど強いものではなかった。ただその小さな光が頭骨の上にまるで満天の星のように浮かんでいるのだ。光は白く、ほんのりとしてやわらかだった。ひとつの光のまわりにもうひとつべつのぼんやりとした光の膜がかぶさっているように、その輪郭はやわらかくかすんでいた。そのせいか光は頭骨の表面で光っているというよりは、頭骨の上にぽっかりと浮かびあがっているように見えた。我々はソファーの上に並んで、長いあいだ無言でその光の小さな海を見つめていた。彼女は私の腕を両手でそっと握り、私は両手をバスローブの襟に置いたままだった。夜は深く、あたりには物音ひとつ聞こえなかった。
「これには何か、そういう仕掛けがあるの?」
私は首を振った。私は頭骨と一晩を過したが、そのときは頭骨は光ったりはしなかった。もしその光がある種の夜光塗料か|光苔《ひかりごけ》といったものに起因しているのであるなら、そのときどきによって光ったり光らなかったりするようなことはない。暗くなれば必ず光る。それに我々二人が眠りにつく前には頭骨は光ってはいなかったのだ。仕掛けであるわけはない。何か人為を超えたとくべつなものなのだ。どのような人為的な力もこれほどのやわらかくおだやかな光を作りだすことはできない。
私は右腕を握りしめていた彼女の手をそっとほどいてからテーブルの上の頭骨に手をのばし、それを静かに持ちあげて|膝《ひざ》の上に載せた。
「怖くはない?」と彼女が小さな声で|訊《き》いた。
「怖くはないよ」と私は言った。怖くはない。それはおそらくどこかで私自身と結びついているものなのだ。誰も自分自身を怖がったりはしない。
頭骨を手のひらで|覆《おお》うと、そこにはかすかな残り火のようなあたたかみが感じられた。そして私の指さえもが淡い光の膜に包まれたように見えた。目を閉じてそのほのかなぬくもりの中に十本の指を浸すと、様々な古い思い出が遠い雲のように私の心の中に浮かんでくるのを感じることができた。
「それはレプリカのようには見えないわ」と彼女は言った。「きっと本物の頭骨じゃないかしら? 遠い昔から遠い記憶を持ってやってきた……」
私は黙って|肯《うなず》いた。しかし私に何を知ることができるだろう? たとえそれが何であれ、それは今光を放ち、その光は私の手の中にあるのだ。私にわかっているのは、その光が私に向って何かを語りかけているということだけだった。私にはそれを直感することができるのだ。おそらく彼らは私に何かを|示《し》|唆《さ》しているのだ。それは新しい|来《きた》るべき世界のようでもあり、私があとに残してきた古い世界のようでもあった。私にはそれを十全に理解することはできなかった。
私は目を開けて、私の指を白く染めた光をもう一度|眺《なが》めてみた。私にはその光の意味するものを|把《は》|握《あく》することはできなかったが、そこに悪意や敵対する要素がまるで見受けられないことだけははっきりと感じることができた。それは私の手の中にすっぽりと収まり、私の手の中にあることに|充《み》ち足りているように見えた。私は指先でそこに浮かんだ光の筋をそっと|辿《たど》ってみた。|怖《おそ》れることは何もないのだ、と私は思った。自分自身を怖れるべき理由は何もないのだ。
私はテーブルの上に頭骨を|戻《もど》し、その指先を彼女の|頬《ほお》にあてた。
「とてもあたたかいわ」と彼女は言った。
「光があたたかいんだ」と私は言った。
「私もさわってみてかまわない?」
「もちろんさ」
彼女はしばらく頭骨の上に両手を置いて目を閉じていた。彼女の指もやはり私と同じように白い光の膜に覆われた。
「何かを感じるわ」と彼女は言った。「それが何かはわからないけれど、どこかで昔感じたことのあるもの。空気とか光とか音とか、そういうものよ。説明できないけれど」
「僕にも説明できない」と私は言った。「|喉《のど》が乾いたな」
「ビールがいいのかしら、それとも水?」
「ビールがいい」と私は言った。
彼女が冷蔵庫からビールを出してグラスと一緒に居間にはこんでくるあいだ、私はソファーのうしろに転がっていた腕時計を拾って時刻を見た。四時十六分だった。あと一時間と少しで夜が明けはじめる。私は電話機をとって自分の部屋の番号をまわしてみた。自分の部屋に電話をかけたことなんて一度もなかったので、番号を思いだすのに少し時間がかかった。誰も出なかった。私はベルを十五回鳴らしてから受話器を置き、またダイヤルをまわしてベルを十五回鳴らしてみた。結果は同じだった。誰も出ない。
あの太った娘はもう地底で待つ祖父のもとへ帰っていったのだろうか? それとも彼女は私の部屋にやってきた記号士か『|組織《システム》』の人間につかまってどこかにつれさられてしまったのだろうか? しかしいずれにせよ彼女はきっとうまくやっているに違いない、と私は思った。彼女は何があってもおそらく私の十倍くらいうまくそれに対処していけるはずだった。それも私の半分の|歳《とし》でだ。たいしたものだ。私は受話器を置いてから、もう二度とあの娘に会えないことを思って少し|淋《さび》しい気持になった。まるで閉館するホテルからソファーやシャンデリアがひとつひとつ運びだされているのを眺めているような気分だった。ひとつずつ窓が閉められ、カーテンが下ろされていくのだ。
我々は頭骨にちりばめられた白い光を眺めながら、ソファーに並んで二人でビールを飲んだ。
「あの頭骨はあなたに感応して光っているの?」と彼女が訊いた。
「わからないな」と私は言った。「でも、そんな気がするな。|僕《ぼく》ではないかもしれないけれど、何かに感応してるんだ」
私はビールののこりをグラスにあけて、ゆっくりと時間をかけて飲み干した。夜明け前の世界は森の中のように静かでひっそりとしていた。床のカーペットの上には私の服や彼女の服が脱ぎ捨てられてちらばっていた。私のブレザーコートやシャツやネクタイやズボン、彼女のワンピースやストッキングやスリップなんかだ。床に脱ぎ捨てられた服のかたまりは私の三十五年間の人生の帰結のひとつのかたちであるように感じられた。
「何を見てるの?」と彼女が訊いた。
「服」と私は言った。
「どうして服なんか見るの?」
「少し前までは僕の一部だった。君の服も君の一部だった。でも今はそうじゃない。違う人間の違う服みたいだ。自分の服のように見えない」
「セックスのせいじゃないかしら」と彼女は言った。「セックスをしたあとって人間はだいたい内省的になりがちなものだから」
「いや、そんなんじゃないんだ」と私は空のグラスを手に持ったまま言った。「内省的になってるわけじゃない。ただ世界を構成しているいろんな細かいことが目につくだけなんだ。かたつむりとか雨だれとか金物店のディスプレイとかさ、そんなものがすごく気になる」
「服をかたづける?」
「いや、あのままでいい。あの方が落ちつくんだ。かたづけなくていい」
「かたつむりのこと話して」
「|洗《せん》|濯《たく》|屋《や》の前でかたつむりを見たんだ」と私は言った。「秋にかたつむりがいるなんて知らなかった」
「かたつむりは一年じゅういるわよ」
「そうだろうね」
「ヨーロッパではかたつむりは神話的な意味を持っているのよ」と彼女は言った。「|殻《から》は暗黒世界を意味し、かたつむりが殻から出ることは陽光の到来を意味するの。だから人々はかたつむりを見ると本能的に殻をたたいてかたつむりを外に出そうとするのね。やったことある?」
「ない」と私は言った。「君はいろんなことを知ってるんだね」
「図書館で働いているといろいろともの知りになるのよ」
私はテーブルの上からセブンスターの箱をとって、ビヤホールのマッチで火をつけた。そしてまた床の上の服を眺めた。彼女の淡いブルーのストッキングの上に私のシャツの|袖《そで》が載っていた。ヴェルヴェットのワンピースはウェストの部分で身をくねらせるように折れまがり、薄い|生《き》|地《じ》のスリップが垂れた旗のようにそのわきに置かれていた。ネックレスと腕時計はソファーの上に|放《ほう》りだされ、黒い皮のショルダーバッグは部屋の|隅《すみ》のコーヒーテーブルの上に横向けになっている。
脱ぎ捨てられた彼女の服は彼女自身より彼女らしく見えた。あるいは私の服だって私自身より私らしく見えるのかもしれない。
「どうして図書館につとめたの?」と私は訊いてみた。
「図書館が好きだったからよ」と彼女は言った。「静かで、本がいっぱいあって、知識が詰まってるわ。銀行や貿易会社には勤めたくなかったし、先生になるのも|嫌《いや》だったし」
私は|煙草《た ば こ》の煙を天井に向けて吐き、その行方をしばらく眺めていた。
「私のことを知りたいの?」と彼女が訊いた。「どこで生まれたとかどんな少女時代だったとかどこの大学に行ったとかいつ処女を失っただとか好きな色だとか、そういうことを」
「いや」と私は言った。「今はいい。少しずつ知りたい」
「あなたのことも少しずつ知りたいわ」
「海の近くで生まれたんだ」と私は言った。「台風が去った次の朝に海岸に行くと、浜辺にいろんなものが落ちていた。波で打ちあげられたんだ。想像もつかないようなものが、いっぱい見つかる。瓶やら|下《げ》|駄《た》やら帽子やら眼鏡ケースから|椅《い》|子《す》・机に至るまでなんだって落ちているんだ。どうしてそんなものが浜辺に打ちあげられるのか、僕には見当もつかない。でもそういうのを探すのがとても好きで、台風が来るのが楽しみだった。たぶんどこかの浜に捨てられていたものが波でさらわれて、それがまた打ちあげられるんだろうね」
私は煙草の火を|灰《はい》|皿《ざら》の中で消して、空のグラスをテーブルの上に置いた。
「海から打ちあげられたものはどんなものでも不思議に浄化されているんだ。使いようのないがらくたばかりだけれど、みんな清潔なんだ。汚なくて触ることのできないようなものは何ひとつとしてない。海というのは特殊なものなんだ。僕は自分のこれまでの生活を振りかえるとき、いつもそんな浜辺のがらくたのことを思いだす。僕の生活というのはいつもそんな具合だった。がらくたを集めて自分なりに清潔にして別の場所に放りだす――しかし使いみちはない。そこで朽ちはてるだけだ」
「でもそうするにはスタイルというものが必要でしょ? 清潔にするためには」
「しかしそんなスタイルにいったい何の必要があるんだろう? スタイルならかたつむりにだってある。僕はただあっちの浜に行ったりこっちの浜に行ったりしているだけだ。そのあいだに起ったいろんなことはよく覚えているけれど、それはただ覚えているというだけのことで、今の僕には何ひとつとして結びついてはいない。ただ覚えているというだけのことなんだ。清潔ではあるけれど使いみちがない」
彼女は私の肩に手を置き、ソファーから立ちあがって台所に行った。そして冷蔵庫を開けてワインを出してグラスに|注《つ》ぎ、私の新しいビールと一緒に盆に載せて持ってきた。
「夜明け前の暗い時間って好きよ」と彼女は言った。「清潔で使いみちがないからね、きっと」
「でもそんな時間はすぐに終ってしまう。夜が明けて新聞配達やら牛乳配達やらがやってくるし、電車も走り出す」
彼女は私のわきにするりともぐりこんで毛布を胸までひっぱりあげ、ワインを飲んだ。私は新しいビールをグラスに注ぎ、それを手にしたまままだ輝きを失わないテーブルの上の頭骨を眺めた。頭骨はテーブルの上のビールの瓶や灰皿やマッチにその淡い光を投げかけていた。彼女の頭は私の肩に置かれていた。
「さっき台所から君がこっちにやってくるのを見てたんだ」と私は言った。
「どうだった?」
「脚がとても|綺《き》|麗《れい》だった」
「気に入った?」
「すごくね」
彼女はグラスをテーブルの上に置き、私の耳のすぐ下に|唇《くちびる》をつけた。
「ねえ、知ってる?」と彼女は言った。「私、ほめられるのって大好きなの」
夜が明けるにつれて頭骨の光は陽光に洗われるようにその輝きを徐々に失い、やがてはもとの何の変哲もないのっぺりとした白い骨へと戻っていった。我々はソファーの上で抱きあいながら、カーテンの外の世界がその|暗《くら》|闇《やみ》を朝の光に奪い去られていく様子を眺めていた。彼女の熱い息が私の肩に湿り気を与え、乳房は小さくやわらかかった。
ワインを飲みほしてしまうと、彼女はその小さな時間の中に身を折り畳むように静かに眠った。太陽の光がくっきりと隣家の屋根を染め、鳥が庭にやってきて、去っていった。TVのニュースのアナウンスが聞こえ、どこかで|誰《だれ》かが車のエンジンをかける音が聞こえた。私はもう眠くはなかった。いったい何時間眠ったのかうまく思いだせなかったが、いずれにせよ眠気は完全に消滅していたし、酒の酔いも残ってはいなかった。私は肩の上に置かれた彼女の頭をそっとわきにどかせ、ソファーを離れて台所に行き、水を何杯か飲んで煙草を吸った。そして台所と居間のあいだのドアを閉め、テーブルの上のラジオ・カセットをつけて小さな音でFM放送を聴いた。ボブ・ディランの曲が聴きたかったが、ディランの曲は残念ながらかかっていず、そのかわりにロジャー・ウィリアムズが『枯葉』を弾いていた。秋なのだ。
彼女の家の台所は私の台所とよく似ていた。流し台があり換気扇があり冷凍冷蔵庫がありガス湯沸し器がある。広さも機能性も使いこみ方も調理器具の数もだいたい同じようなものだ。私の台所との違いはガス・オーヴンがなく、そのかわりに電子レンジがあることだった。電動式のコーヒーメーカーもある。包丁は用途にあわせて何種類か|揃《そろ》っていたが、研ぎ方にいささかむらがあった。包丁をうまく研げる女性は少ない。調理用のボウルはぜんぶ電子レンジで使いやすいパイレックスで、フライパンにはきれいに油が敷かれていた。流し台の中のごみ受けもちゃんと掃除されている。
どうしてそんなに他人の台所の様子が気になるのか、自分でもよくわからなかった。べつに他人の生活の細部を|嗅《か》ぎまわるつもりはないのだが、ごく自然に台所の中のものが目についてしまうのだ。ロジャー・ウィリアムズの『枯葉』が終り、フランク・チャックスフィールド・オーケストラの『ニューヨークの秋』に変った。私は秋の朝の光の中で|棚《たな》に並んだ|鍋《なべ》や|鉢《はち》や調味料の|瓶《びん》の列をぼんやりと眺めていた。台所は世界そのもののようだった。まるでウィリアム・シェイクスピアの|科《せり》|白《ふ》みたいだ。世界は台所だ。
曲が終るとディスク・ジョッキーの女性がでてきて「もう秋ですね」と言った。それから秋に最初に着るセーターの|匂《にお》いの話をした。そういう匂いについての良い描写がジョン・アップダイクの小説の中に出てくる、と言った。次の曲はウディー・ハーマンの『アーリー・オータム』だった。テーブルの上のキッチン・タイマーは七時二十五分を指していた。十月三日、午前七時二十五分だ。月曜日。空はまるで鋭利な刃物で奥の方をえぐりとったように深くくっきりと晴れわたっている。人生をひきはらうには悪くない一日になりそうだった。
私は鍋に湯をわかして冷蔵庫の中にあったトマトを湯むきし、にんにくとありあわせの野菜を刻んでトマト・ソースを作り、トマト・ピューレを加え、そこにストラスブルグ・ソーセージを入れてぐつぐつと煮こんだ。そしてそのあいだにキャベツとピーマンを細かく刻んでサラダを作り、コーヒーメーカーでコーヒーを入れ、フランス・パンに軽く水をふってクッキング・フォイルにくるんでオーヴン・トースターで焼いた。食事ができあがると私は彼女を起し、居間のテーブルの上のグラスと空瓶をさげた。
「良い匂いね」と彼女は言った。
「もう服を着ていいかな?」と私は|訊《き》いた。女の子より先に服を着ないというのが私のジンクスなのだ。文明社会では礼儀というのかもしれない。
「もちろんよ、どうぞ」と言って、彼女は自分のTシャツを脱いだ。朝の光が彼女の乳房や腹に淡い影を作り、うぶ毛を光らせていた。彼女はその格好のままでしばらく自分の体を眺めていた。
「悪くないわね」と彼女は言った。
「悪くない」と私は言った。
「無駄な肉もないし、おなかにしわもないし、|肌《はだ》にもまだはり[#「はり」に丸傍点]はあるわ。まだしばらくはね」と彼女は言って両手をソファーの上につき、私の方を向いた。「でもそういうのって、ある日突然消えちゃうのね。そうじゃないかしら? 糸が切れるみたいに消えて、もうもとには戻らないの。そんな気がして仕方ないの」
「食事にしよう」と私は言った。
彼女は隣りの部屋に行って黄色いトレーナー・シャツをかぶり、古くなって色の|褪《あ》せたブルージーンズをはいた。私はチノ・パンツとシャツを着た。そして我々は台所のテーブルに向いあって座り、パンとソーセージとサラダを食べ、コーヒーを飲んだ。
「あなたはどこの家の台所にもそんな風にすぐに慣れちゃうの?」と彼女が訊いた。
「台所の本質というのはどこの家でもだいたい同じなんだ」と私は言った。「ものを作ってものを食べる。どこだって大きな違いはないよ」
「一人暮しが嫌になることはない?」
「よくわからないな。そんな風に考えたことは一度もないからね。五年間結婚生活をつづけたけど、今となってはそれがどんな生活だったかまるで思いだせないんだ。ずっと一人で暮していたような気がするな」
「二度と結婚したくないと思う?」
「もうどちらでもいいんだ」と私は言った。「どちらでも変りはない。入口と出口がついている犬小屋のようなものさ。どっちから出てどっちから入ってもたいした変りはない」
彼女は笑ってティッシュ・ペーパーで口の端についたトマト・ソースを|拭《ぬぐ》った。「結婚生活を犬小屋にたとえた人はあなたがはじめてだわ」
食事が終ると私は残ったポットのコーヒーをあたためて一杯ずつカップに注いだ。
「トマト・ソースはなかなかおいしかったわ」と彼女は言った。
「ベイリーフとオレガノがあればもっとうまくできたよ」と私は言った。「煮込みもあと十分足りなかった」
「でもおいしかったわ。こんなに手のこんだ朝ごはんって久しぶり」と彼女は言った。「今日はこれからどうするつもりなの?」
私は時計を見た。八時半だった。
「九時にここを出る」と私は言った。「どこかの公園に行って二人でひなたぼっこをしてビールを飲もう。十時半になったら僕は君を車でどこかに送って、それから出かける。君はどうする?」
「家に|戻《もど》って洗濯をして、掃除をして、それから一人でセックスの思い出にひたるわ。悪くないでしょ?」
「悪くない」と私は言った。悪くない。
「ねえ、私誰とでもすぐに寝ちゃうわけじゃないのよ」と彼女はつけ加えるように言った。
「知ってるよ」と私は言った。
私が流しで食器を洗っているあいだ彼女はシャワーを浴びながら|唄《うた》を唄っていた。私は|泡《あわ》のほとんどたたない植物性の油脂で皿や鍋を洗い、|布《ふ》|巾《きん》で|拭《ふ》いてテーブルの上に並べた。そして手を洗い、台所にあった歯ブラシを借りて歯を|磨《みが》いた。それから浴室に行って|髭《ひげ》|剃《そ》りの道具がないかと彼女に訊いてみた。
「上の右側の棚を開けてみて。彼が昔使っていたのがあると思うわ」と彼女は言った。
棚の中にはたしかにジレットのレモン・ライムのシェーヴィング・フォームとシックの
|剃刀《かみそり》が入っていた。シェーヴィング・フォームの|缶《かん》は半分ほどに減っていて、吹出し口には乾いた白い泡がこびりついていた。死とはシェーヴィング・クリームの缶を半分残していくことなのだ。
「あった?」と彼女が訊いた。
「あったよ」と私は言った。そして剃刀とシェーヴィング・フォームと新しいタオルを持って台所に戻り、湯をわかして髭を剃った。髭を剃りおえると私は剃刀とホルダーをきれいに洗った。私の髭と死者の髭が洗面器の中で混じりあい、底に沈んだ。
私は彼女が服を着ているあいだ居間のソファーに座って朝刊を読んだ。タクシーの運転手が運転中に心臓発作を起して陸橋の|橋《はし》|桁《げた》につっこみ、死んでいた。客は三十二歳の女性と四歳の女の子で、どちらも重傷を負った。どこかの市議会の昼食に出た弁当のカキフライが腐っていて、二人が死んだ。外務大臣がアメリカの高金利政策に対して遺憾の意を表明し、アメリカの銀行家の会議は中南米への貸付け金の利子について検討し、ペルーの蔵相はアメリカの南米に対する経済侵略を非難し、西ドイツの外相は対日貿易収支の不均衡の是正を強く求めていた。シリアがイスラエルを非難し、イスラエルはシリアを非難していた。父親に暴力をふるう十八歳の息子についての相談が載っていた。新聞には私の最後の数時間にとって役に立ちそうなことは何ひとつとして書かれてはいなかった。
彼女はベージュのコットン・パンツに茶色のチェックのオープン・シャツという格好で鏡の前に立ち、ブラシで髪をとかしていた。私はネクタイをしめ、上着を着た。
「その一角獣の骨はどうするの?」と彼女が訊いた。
「君にプレゼントするよ」と私は言った。「どこかに飾っておくといい」
「TVの上なんかどうかしら?」
私はもう既に光を失った頭骨を持って居間の隅に行き、TVの上にそれを置いてみた。
「どう?」
「悪くない」と私は言った。
「また光ることあるかしら?」
「きっと光る」と私は言った。そしてもう一度彼女を抱いて、そのぬくもりを頭の中に刻みこんだ。
38 世界の終り
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――脱出――
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夜明けとともに頭骨の|灯《ひ》はかすみ、薄らいでいった。書庫の天井近くに開いた小さな明りとりの窓から灰色にくぐもった朝の光が|射《さ》しこみ、あたりの壁をほのかに照らしはじめる|頃《ころ》、光は少しずつその輝きを失い、深い|闇《やみ》の記憶とともにひとつまたひとつとどこかへ去っていった。
|僕《ぼく》は最後の灯が見えなくなってしまうまで、頭骨の上に指をすべらせ、そのぬくもりを体の中に|浸《し》みこませた。夜のあいだに読みとることのできた光が全体のうちのどれほどにあたるのかはわからなかった。読むべき頭骨の数はあまりにも多く、僕に与えられた時間はあまりにも限られたものだった。しかし僕は時間のことは気にしないようにして、そのひとつひとつを丁寧に注意深く指で探りつづけた。僕はその一瞬一瞬、指の先に彼女の心の存在をくっきりと感じとることができた。僕にはそれだけでもう十分であるような気がした。数や量や割合の問題ではない。たとえどのように手を尽したにせよ、人の心の|隅《すみ》から隅までを読みつくすことはできないのだ。そこにはたしかに彼女の心があり、僕はそれを感じとることができるのだ。それ以上の何を求めることができるだろう?
僕は最後の頭骨を|棚《たな》に|戻《もど》してしまうと、床に腰を下ろして壁にもたれた。頭上高くにある明りとりの窓からは外の天気をうかがい知ることはできなかった。その光の具合から、ただどんよりと暗く曇っていることがわかるだけだった。淡い闇がやわらかな液体のように書庫の中を静かに漂い、頭骨たちは再び訪れた深い眠りの中に沈んでいた。僕も目を閉じて、明け方の冷気の中に頭を休めた。|頬《ほお》に手をあててみると、指がまだ光のぬくもりを残していることがわかった。
沈黙と冷気がたかぶった心を静めてくれるまで、僕は書庫の隅にじっと座りこんでいた。僕の感じることのできる時間は不均一でとりとめがなかった。窓から射しこむ淡い光の色はいつまでたっても変化することなく、影は同じ場所にとどまっていた。僕の中にしみこんだ彼女の心が体内を巡り、そこにある様々な僕自身の事物と混じりあい体の隅にまでしみわたっていくのが感じられた。おそらく僕がそれをもう少しはっきりとしたかたちにまとめあげるには長い時間がかかるに違いない。そして僕が彼女にそれを伝え、彼女の体にしみこませるにはもっと長い時間がかかるだろう。しかしたとえ時間がかかるにせよ、決して完全なかたちではないにせよ、僕には彼女に心を与えることができるのだ。そしておそらく彼女は自分の力でその心をより完全なかたちに作りあげていくことができるに違いないと僕は思った。
僕は床から立ちあがり、書庫を出た。閲覧室のテーブルには彼女が一人でぽつんと座って、僕を待っていた。ぼんやりとした明け方の光のせいで、彼女の体の輪郭はいつもよりいくぶん淡く薄らいでいるように見えた。僕にとっても彼女にとっても、それは長い夜だったのだ。僕の顔を見ると彼女は何も言わずにテーブルを立って、コーヒー・ポットをストーヴの上に置いた。コーヒーがあたたまるまでのあいだ僕は奥の流しで手を洗い、タオルで|拭《ふ》いた。そしてストーヴの前に座って体をあたためた。
「どう、疲れた?」と彼女が|訊《たず》ねた。
僕は|肯《うなず》いた。体は|泥《どろ》のかたまりのように重く、手を上げるのもやっとというありさまだった。僕は休みなしで十二時間も古い夢を読みつづけていたのだ。しかし疲れは僕の心にまで浸みこんではいなかった。彼女が最初の夢読みの日に言ったように、たとえどのように体が疲れていたとしても、心の中にそれを入りこませてはならないのだ。
「家に帰って休んでいればよかったんだ」と僕は言った。「君はここにいる必要はなかったのに」
彼女はカップにコーヒーを|注《つ》ぎ、それを僕に手わたしてくれた。
「あなたがここにいる限り、私もここにいるの」
「それがきまりなのかい?」
「私が決めたのよ」と彼女は|微笑《ほ ほ え》みながら言った。「それにあなたが読んでいたのは私の心なのよ。私が私の心を置いてどこかに行ってしまうわけにはいかないでしょ?」
僕は肯いてコーヒーを飲んだ。古い柱時計の針は八時十五分を指していた。
「朝食の用意をする?」
「いらない」と僕は言った。
「でも昨日から何も食べてないでしょう?」
「食べたくないんだ。それよりは今すぐぐっすりと眠りたい。二時半になったら起してくれないか。それまでは僕のそばに座って、僕が眠っているのを見ていてほしいんだ。かまわないかな?」
「あなたがそう求めるのならね」と彼女は微笑みを顔に浮かべたまま言った。
「何よりもそう求めているよ」と僕は言った。
彼女は奥の部屋から二枚の毛布を持ってきて、それで僕の体をくるんでくれた。いつかと同じように、彼女の髪が僕の頬に触れた。目を閉じると耳もとで石炭のはじける音が聞こえた。彼女の指が僕の肩の上に置かれていた。
「冬はいつまでつづくんだろう?」と僕は彼女に訊ねた。
「わからないわ」と彼女は答えた。「冬がいつ終るかは|誰《だれ》にもわからないのよ。でもきっともうそんなに長くはつづかないはずよ。これが最後の大雪になるんじゃないかしら」
僕は手をのばして指の先を彼女の頬にあてた。彼女は目を閉じてしばらくそのぬくもりを味わっていた。
「これが私の光のぬくもりなのね?」
「どんな感じがする?」
「まるで春の光のようだわ」と彼女は言った。
「僕は君に心を伝えることができると思う」と僕は言った。「時間はかかるかもしれない。でも君がそれを信じていてさえくれれば、僕はいつか必ずそれを伝えることができる」
「わかってるわ」と彼女は言った。そして手のひらをそっと僕の目にあてた。「お眠りなさい」と彼女は言った。
僕は眠った。
彼女は正確に二時半に僕を起してくれた。僕が立ちあがってコートとマフラーと手袋と帽子を身につけているあいだ、彼女は何も言わずに一人でコーヒーを飲んでいた。ストーヴのわきにかけておいたおかげで、雪をかぶったコートはすっかり乾いてあたたかくなっていた。
「その|手《て》|風《ふう》|琴《きん》を預っておいてくれないか」と僕は言った。
彼女は肯いた。そしてテーブルの上の手風琴をとり、その重さを確認するようにしばらく手に持ってからまたもとに戻した。
「大丈夫よ。大事に預っておくわ」と彼女は肯いた。
外に出ると雪はもう小降りになり、風もやんでいることがわかった。一晩つづいた激しい吹雪はもう何時間も前に終ったようだったが、空にはあいかわらずどんよりとした灰色の雲が低く垂れこめ、再び本格的な雪が街に襲いかかろうとしていることを示していた。今は|束《つか》の|間《ま》の小休止にすぎないのだ。
西橋を北に向けて渡るころに、壁の向うからいつものように灰色の煙がたちのぼりはじめるのが見えた。最初は戸惑うように切れぎれに白い煙が立ちのぼり、それがやがては大量の肉を焼く暗色の煙となった。門番はりんご林の中にいるのだ。僕は|膝《ひざ》のすぐ下のあたりにまで積った雪に自分でも驚くくらいくっきりとした足あとをつけながら門番小屋へと急いだ。街はそのあらゆる音を雪に吸いとられてしまったように、ひっそりと静まりかえっていた。風もなく、鳥さえも|啼《な》かない。僕の|雪《ゆき》|靴《ぐつ》のスパイクが新しい雪を踏みしめる音だけが、あたりに誇張された奇妙な響きを立てていた。
門番小屋の中には人影はなく、いつもと同じすえた|臭《にお》いがした。ストーヴの火は消えていたが、つい先刻までのぬくもりがまだあたりに残っていた。テーブルの上には汚れた|皿《さら》とパイプがちらばり、壁には白く光るなたや|手《て》|斧《おの》がずらりと並んでいる。そんな部屋の中を見まわしていると今にも背後から門番が音もなく姿をあらわしてその大きな手を僕の背中に置きそうな錯覚に襲われた。刃物の列ややかんやパイプといったあたりの事物が、みんなで沈黙のうちに僕の背信を非難しているように感じられた。
僕は不気味な刃物の列をよけるように注意深く手をのばして壁にかかった|鍵《かぎ》|束《たば》を素速くはずし、それを手のひらに握りしめ、裏口のドアから影の広場の入口に出た。影の広場に積ったまっ白な雪の上には誰の足あともなく、そのまん中にぽつんと黒く|楡《にれ》の木がそびえているだけだった。一瞬僕にはそこが人の足で|汚《けが》すことのできない神聖な空間であるように感じられた。すべてが均衡のとれた静けさの中にうまく収まって、黄金律のごとき心地良い眠りに身をひたしているように見えた。雪の上には美しい風紋がつき、楡の枝はところどころに白い塊りを配したままその折れ曲った腕を空中に休め、動くものはひとつとしてない。雪はもうほとんどやんでいた。ときおり風が思いだしたように小さな音をたててとおりすぎていくだけだった。彼らは僕がその束の間の平和な眠りを土足で踏みにじったことを永遠に忘れないだろうという気がした。
しかしためらっている時間はなかった。今更あとにひきかえすことはできないのだ。僕は鍵束を手にとって、その四本の大きな鍵をかじかんだ手で順番に鍵穴にあててみた。しかし四本の鍵はどれも鍵穴には合わなかった。わきの下に冷たい汗がにじむのが感じられた。僕は門番がこの鍵を開けたときのことをもう一度思いだしてみた。そのときの鍵もやはり四本だった。間違いはない。僕はちゃんと数えていたのだ。このうちのどれかが必ず鍵穴に合うはずなのだ。
僕は鍵束をいったんポケットに戻し、手をこすりあわせて十分にあたためてから、もう一度鍵を順番にためしてみた。三番目の鍵がすっぽりと奥まで入り、大きな乾いた音を立てて回転した。|人《ひと》|気《け》のない広場に、はっきりとした金属音が鋭く響きわたった。まるで街中の人人に聞きつけられそうなほどの大きな音だった。僕は鍵を鍵穴に入れたままの格好でしばらくあたりの様子をうかがったが、誰かがこちらにやってくるような気配はなかった。誰の声も誰の足音も聞こえない。僕は重い鉄の|扉《とびら》を小さく開いてその中に体をすべりこませ、音を立てないようにそっと扉をもとどおりに閉めた。
広場に積った雪は|泡《あわ》のようにやわらかく、僕の足をすっぽりと|呑《の》みこんだ。足もとの|軋《きし》みはまるで巨大な生物が手に入れた獲物を注意深く|咀嚼《そしゃく》しているような音をたてて響いた。僕はまっすぐな二列の足形をあとに残しながら広場を進み、雪を高く積みあげたベンチのそばを通り抜けた。楡の木の枝は頭上から|威《い》|嚇《かく》するように僕を見下ろしていた。どこかで鋭い鳥の声が聞こえた。
小屋の中の空気は外よりも冷えびえとして、凍りつきそうだった。僕は引き戸を開け、|梯《はし》|子《ご》をつたって地下に降りた。
影は地下室のベッドに座って僕を待っていた。
「もう来ないんじゃないかと思ってたよ」と影は白い息を吐きながら言った。
「約束したんだ。約束はちゃんと守るさ」と僕は言った。「さあ、一刻も早くここを出よう。ここはひどい臭いがするよ」
「梯子が上れないんだ」と影はため息をつきながら言った。「さっきためしてみたが|駄《だ》|目《め》だった。|俺《おれ》はどうやら自分で考えていたよりずっと弱ってるみたいだ。皮肉なもんさ。弱っているふりをしているうちに自分がどれくらい本当に弱っているかを見わけることもできなくなっちまったんだ。とくに|昨夜《ゆ う べ》の寒さは骨にこたえたからね」
「ひっぱりあげてやるよ」
影は首を振った。「ひっぱりあげてもらってもそのあとが駄目だ。俺はもう走れない。とても脱出口までは行きつけそうもないよ。どうやらもうおしまいらしいね」
「君が始めたんだ。今更弱気を出すなよ」と僕は言った。「背負っていってやるよ。何があろうと絶対にここを出て生き延びるんだ」
影は落ちくぼんだ目で僕の顔を見ていた。
「君がそうするって言うんなら、もちろん俺はやるよ」と影は言った。「ただ俺を背負って雪道を急ぐのは骨だぜ」
僕は肯いた。「それほど簡単にことが運ぶとははじめから思ってないさ」
僕はぐったりとした影を梯子の上までひっぱりあげ、それから肩を貸して広場を横切った。左手にそびえる冷ややかな黒い壁が、我々二人の姿とその足あとを無言のままにじっと見下ろしていた。楡の木の枝が重みに耐えかねたように雪のかたまりを地上に落とし、その反動で揺れるのが見えた。
「足の感覚がほとんどないんだ」と影は言った。「寝たきりで弱らないようにずいぶん運動をしていたつもりなんだがね、なにしろ狭い部屋だったからな」
僕は影を引きずるようにして広場を出て、門番小屋に入り、念のために鍵束を壁に戻しておいた。うまくいけば門番は我々が脱出したことにしばらくは気づかずにいてくれるかもしれない。
「これからどこに向えばいいんだ?」と僕はもう火の気を失ったストーヴの前で体を震わせている影に|訊《き》いた。
「南のたまりに行くんだ」と影は言った。
「南のたまり?」と僕は思わず訊きかえした。「南のたまりにいったい何があるんだ?」
「南のたまりには南のたまりがあるのさ。俺たちはあそこにとびこんで逃げだすんだよ。こんな季節だからまあ風邪くらいはひくかもしれないけれど、我々の置かれた立場を考えれば|贅《ぜい》|沢《たく》は言えないからな」
「あのたまりの下は強い水流になっているから、そんなことをしたら地底に|呑《の》みこまれてあっという間に死んでしまうぜ」
影は身を震わせながら何度か|咳《せき》をした。
「いや違うね。出口はどう考えてもあそこしかないんだ。俺は何もかもを隅から隅まで考え抜いたんだ。出口は南のたまりだ。それ以外にはありえない。君が不安に思うのは無理もないが、とにかく今のところは俺を信用してまかせてくれ。俺だってひとつしかない自分の命を|賭《か》けているんだもの、いわれのない無茶はしない。くわしいことは道中で説明するよ。あと一時間か一時間半で門番が帰ってくるだろうし、|奴《やつ》は帰ってきたらすぐに俺が逃げだしたことを発見してあとを追いかけてくるだろう。ここでぐずぐずしているわけにはいかないんだ」
門番小屋の外に人影はなかった。雪の上には二種類の足あとがついているだけだった。ひとつは小屋に入る僕自身の足あとで、もうひとつは小屋を出て門に向う門番の足あとだった。荷車の|轍《わだち》のあともあった。僕はそこで影を背負った。影の体はやせてすっかり軽くなっていたが、それでもやはり背負って丘を越えるとなると、相当な負担になりそうだった。|僕《ぼく》の体は影を持たない身軽な生活にすっかりなじんでしまっていたから、その重みに耐えていけるかどうかは自分でも見当がつかなかった。
「南のたまりまではかなりの距離があるな。西の丘の東側を越えて南の丘をまわりこみ、|藪《やぶ》の中の道を進まなきゃならない」
「なんとかやれそうかい?」
「ここまで来たんだもの、やるしかないだろう」と僕は言った。
僕は雪道を東へと向った。道筋には|往《い》きに僕が残した足あとがまだくっきりと残っており、それはまるで僕が過去の僕自身とすれちがっているような印象を与えていた。僕の足あとの|他《ほか》には獣の小さな足あとがついているだけだった。うしろをふりかえると、壁の外にはまだ太いまっすぐな灰色の煙がたちのぼっていた。その直立した煙の柱は雲に先端を呑みこまれた灰色の不吉な塔のように見えた。煙の太さから見ると、門番の焼いている獣の数はかなりのものであるようだった。夜のあいだに降った大雪がこれまでにないほどの多くの獣たちを殺したのだ。獣たちの死体を全部焼きつくすには長い時間がかかるに違いないし、それは門番の追跡が大幅に遅れることを意味していた。僕には獣たちがその静かな死をとおして我々の計画を助けてくれているように感じられた。
しかしそれと同時にその深い雪は僕の歩行を妨げた。靴のスパイクにくいこんで固くこびりついた雪は僕の足を重くし、滑らせた。僕はどこかでかんじき[#「かんじき」に丸傍点]か歩行用スキーのようなものをみつけてこなかったことを後悔した。これほど雪の多い土地では必ずどこかにそういうものがあるはずなのだ。門番小屋の倉庫にならあったかもしれないと僕は思った。門番は倉庫の中にありとあらゆる道具を|揃《そろ》えているのだ。しかし今更小屋に引き返すわけにはいかなかった。僕はもう既に西橋の手前まで来てしまっていたし、引き返せばそのぶんの時間を失うことになる。歩くにつれて僕の体は熱く|火《ほ》|照《て》り、額には汗がにじみはじめた。
「この足あとじゃ俺たちの行く先は|一目瞭然《いちもくりょうぜん》だな」と影はうしろを振りかえりながら言った。
僕は雪の中に歩を運びながら、門番が我々のあとを追ってくる様子を想像してみた。おそらく彼は悪鬼のように雪の中を走り抜けてくることだろう。彼は僕とは比べものにならないほど強健だし、誰かを背中にかついでいるわけではない。それにおそらく彼は雪の中を楽に歩ける装備を身につけてくることだろう。僕は彼が小屋に|戻《もど》ってくる前に一歩でも先に進まねばならないのだ。そうしなければ何もかもが終ってしまう。
僕は図書館のストーヴの前で僕を待っている彼女のことを思い浮かべた。テーブルの上には手風琴があり、ストーヴの火は赤く燃え、ポットは湯気を立てているのだ。僕は|頬《ほお》に触れた彼女の髪の感触を思い、肩に置かれた彼女の指の感触を思った。僕はここで影を死なせるわけにはいかないのだ。もし門番に捕まってしまえば影は再び地下室につれ戻され、そこで死んでしまうだろう。僕は力をふりしぼって足を先へ先へと進め、ときどきうしろを振りかえって壁の向うに立ちのぼる灰色の煙を確認した。
我々は道の途中で数多くの獣たちとすれちがった。彼らは深い雪の中を乏しい食糧を求めて|空《むな》しく|彷徨《さ ま よ》っていた。僕が白い息を吐きながら影を背負ってそのそばを通りすぎていくのを、彼らは深く青い目でじっと見守っていた。獣たちは我々の行動の意味することを何から何まで承知しているように見えた。
丘の上りが始まると、僕の息は切れはじめた。影の重みが体にこたえ、雪の中で足がもつれるようになった。考えてみれば僕は長いあいだ運動らしい運動もしてこなかったのだ。白い息がだんだん濃くなり、目に再び降りはじめた雪片がにじんだ。
「大丈夫かい?」と影が背中から声をかけた。「少し休む?」
「悪いけど五分だけ休ませてくれ。五分あれば回復する」
「いいさ、気にするな。俺が走れないのは俺の責任なんだ。君の好きなだけ休めばいいさ。なんだかまるで何もかもを君に押しつけているみたいだものな」
「でもこれは僕のためでもあるんだ」と僕は言った。「そうだろう?」
「俺はそう思っているよ」と影は言った。
僕は影を下に下ろし、雪の中にしゃがみこんで息をついた。火照った体は雪の冷たさを感じることさえできなかった。二本の脚はつけねから|爪《つま》|先《さき》まで石のように固くこわばっていた。
「しかしときどきは俺だって迷うことはある」と影は言った。「もし俺が君に何も言わずに静かに死んでいれば、君は君なりにここで何の悩みもなく幸せに暮していけたんじゃないかってね」
「そうかもしれない」と僕は言った。
「それを俺が邪魔しちゃったわけだからね」
「でもそれは知るべきことだったんだ」と僕は言った。
影は|肯《うなず》いた。それから顔を上げ、りんご林の方向から立ちのぼる灰色の煙に目をやった。
「あのぶんじゃ門番が獣を焼き尽すのにはまだかなりの時間がかかりそうだね」と彼は言った。「それにもう少しで俺たちの上りは終る。そうすればあとは南の丘のうしろをまわりこんでいくだけだし、そこまで行ってしまえば一安心さ。門番はもう俺たちに追いつけない」
影はそう言って手でやわらかな雪をすくい、ぱらぱらと地面に落とした。
「俺がこの街に必ず隠された出口があると思ったのははじめは直感だった。でもそのうちにそれは確信になった。なぜならこの街は完全な街だからだ。完全さというものは必ずあらゆる可能性を含んでいるものなんだ。そういう意味ではここは街とさえもいえない。もっと流動的で総体的なものだ。あらゆる可能性を提示しながら絶えずその形を変え、そしてその完全性を維持している。つまりここは決して固定して完結した世界ではないんだ。動きながら完結している世界なんだ。だからもし俺が脱出口を望むなら、脱出口はあるんだよ。君には俺の言ってることがわかるかい?」
「よくわかるよ」と僕は言った。「僕もそのことに昨日気づいたばかりだ。ここは可能性の世界だってね。ここには何もかもがあるし、何もかもがない」
影は雪の中に腰を下ろしたまましばらく僕の顔を見つめていた。それから黙って何度か肯いた。雪は少しずつその勢いを増していた。新たな大雪が街に近づいているようだった。
「脱出口が必ずどこかにあるとすれば、あとは消去法ということになる」と影はつづけた。「門はまず最初に消そう。たとえ門から|脱《ぬ》け出せたとしても、門番はあっという間に俺たちを捕えてしまうことだろう。奴はあのあたりのことは枝の一本一本に至るまで精通している。それに門というのは|誰《だれ》かがもし脱出を計画したとすればまず最初に思いつく場所だ。出口というのはそれほど簡単に思いつけるものであるはずがない。壁も駄目だ。東の門もだめだ。あそこはがっしりと|塞《ふさ》いであるし、川の入口にも太い|格《こう》|子《し》がはまっている。とても脱けだせない。そうなると残るのは南のたまりしかない。川と一緒にこの街を脱けるんだ」
「確信はあるのかい?」
「確信はある。勘でわかるんだよ。他の出口はどこも厳重に塞がれているのに、南のたまりだけは手つかずのまま|放《ほ》ったらかしにしてある。囲いもない。妙だとは思わないか? 彼らは恐怖[#「恐怖」に丸傍点]によってこのたまりを囲ってるんだ。その恐怖をはねのけることができれば、俺たちは街に勝つことができるんだ」
「いつそれに気づいたんだ?」
「はじめてここの川を見たときさ。一度だけ門番につれられて西橋の近くまで行ったことがあるんだ。俺は川を見てこう思った。この川には悪意というものがまるで感じられない。そしてこの水には生命感が|充《み》ちあふれている。この水を|辿《たど》っていってその流れに身をまかせれば俺たちはきっとこの街を出て、本当の|生《いの》|命《ち》が本来の姿で生きている場所に戻ることができるってね。君は俺の言っていることを信じてくれるかい?」
「信じることができるよ」と僕は言った。「僕には君の言うことを信じることができる。たぶん川はそこに通じているんだろう。我々があとに残してきた世界にね。僕も今では少しずつその世界のことを思いだせる。空気や音や光や、そういうものをね。|唄《うた》がそんなものを僕に思いださせてくれたんだ」
「それが立派な世界かどうかは俺にもわからない」と影は言った。「しかしそれは少くとも俺たちの生きるべき世界だ。良いものもあれば、悪いものもある。良くも悪くもないものもある。君はそこで生まれた。そしてそこで死ぬんだ。君が死ねば俺も消える。それがいちばん自然なことなんだ」
「たぶんそのとおりだろう」と僕は言った。
それから我々はまた二人で街を見下ろした。時計塔も川も橋もそして壁も煙も、激しい雪にすっぽりと|覆《おお》いかくされてしまっていた。我々に見ることのできるのは滝のように空から大地へと降りていく巨大な雪の柱だけだった。
「君さえ良ければそろそろ先に進まないか?」と影が言った。「このぶんじゃ門番は獣を焼くのをあきらめて早めに引きあげてくるかもしれないからね」
僕は肯いて立ちあがり、帽子のひさしに積った雪を払った。
39 ハードボイルド・ワンダーランド
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――ポップコーン、ロード・ジム、消滅――
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私は公園に向う途中酒屋に寄って|缶《かん》ビールを買った。ビールの|銘《めい》|柄《がら》は何がいいのかと私が|訊《たず》ねると、彼女は|泡《あわ》がたってビールの味がすれば何でもかまわないと言った。私とだいたい同じ意見だった。空は今朝作ったばかりといった風にしみひとつなく晴れわたっているし、季節は十月のはじめだ。飲み物なんて泡がたってビールの味がすればそれでいいのだ。
しかし私は金があまっていたので輸入ビールの六本パックを買った。ミラー・ハイライフの金色の缶は秋の太陽に染まったようにきらきらと光り輝いていた。デューク・エリントンの音楽もよく晴れた十月の朝にぴたりとあっていた。もっともデューク・エリントンの音楽なら大みそかの南極基地にだってぴたりとあうかもしれない。
『ドゥー・ナッシン・ティル・ユー・ヒア・フロム・ミー』のユニークなローレンス・ブラウンのトロンボーン・ソロにあわせて口笛を吹きながら車を運転した。それからジョニー・ホッジスが『ソフィスティケーティッド・レディー』のソロをとった。
私は日比谷公園のわきに車を|停《と》め、公園の芝生に寝転んでビールを飲んだ。月曜日の朝の公園は飛行機が出払ってしまったあとの航空母艦の甲板みたいにがらんとして静かだった。|鳩《はと》の群がウォーミング・アップでもしているみたいに芝生のあちこちを歩きまわっているだけだった。
「雲がひとつもない」と私は言った。
「あそこにひとつあるわ」と彼女が言って日比谷公会堂の少し上あたりを指さした。たしかに雲はひとつだけあった。くすの木の枝の先に、まるで綿くずのような白い雲がひとつひっかかっているのが見えた。
「たいした雲じゃない」と私は言った。「雲のうちに入らない」
彼女は手をひさしがわりにしてじっと雲を見ていた。「そうね、たしかに小さいわね」と彼女は言った。
我々は長いあいだ何も言わずにその小さな雲の切れはしを|眺《なが》め、それから二本めのビールのふたをあけて飲んだ。
「どうして離婚したの?」と彼女が|訊《き》いた。
「旅行するとき電車の窓側の席に座れないから」と私は言った。
「冗談でしょ?」
「J・D・サリンジャーの小説にそういう|科《せり》|白《ふ》があったんだ。高校生のときに読んだ」
「本当はどうなの?」
「簡単だよ。五年か六年前の夏に彼女が出ていったんだ。出ていったきり二度と|戻《もど》らなかった」
「それから一度も会ってないの?」
「そうだね」と私は言ってビールを口にふくみ、ゆっくりと飲みこんだ。「とくに会う理由もないからね」
「結婚生活はうまくいっていなかったの?」
「結婚生活はとてもうまくいっていた」と言って、私は手に持ったビールの缶を眺めながら言った。「でもそんなのは物事の本質とはあまり関係ないんだ。二人で同じベッドで寝ていても目を閉じるのは一人だ。|僕《ぼく》の言うことはわかる?」
「ええ、わかると思うわ」
「総体としての人間を単純にタイプファイすることはできないけれど、人間が抱くヴィジョンはおおまかに言ってふたつにわけることができると思う。完全なヴィジョンと限定されたヴィジョンだ。僕はどちらかというと限定的なヴィジョンの中で暮している人間なんだ。その限定性の正当性はたいした問題じゃない。どこかに線がなくてはならないからそこに線があるんだ。でもみんながそういう考え方をするわけじゃない」
「そういう考え方をする人でもその線をなんとかもっと外に押し広げようと努力するものじゃないかしら?」
「そうかもしれない。でも僕はそうじゃない。みんながステレオで音楽を聴かなくちゃいけないという理由はないんだ。左側からヴァイオリンが聴こえて右側からコントラバスが聴こえたって、それで音楽性がとくに深まるというものでもない。イメージを喚起するための手段が複雑化したにすぎない」
「あなたは|頑《かたく》なにすぎるんじゃないかしら?」
「彼女も同じことを言ったよ」
「奥さんね?」
「そう」と私は言った。「テーマが明確だと融通性が不足するんだ。ビールは?」
「ありがとう」と彼女は言った。
私は四本めのミラー・ハイライフのプルリングをとって彼女にわたした。
「あなたは自分の人生についてどんな風に考えているの?」と彼女は訊いた。彼女はビールには口をつけずに缶の上に開いた穴の中をじっと見つめていた。
「『カラマーゾフの兄弟』を読んだことは?」と私は訊いた。
「あるわ。ずっと昔に一度だけだけど」
「もう一度読むといいよ。あの本にはいろんなことが書いてある。小説の終りの方でアリョーシャがコーリャ・クラソートキンという若い学生にこう言うんだ。ねえコーリャ、君は将来とても不幸な人間になるよ。しかしぜんたいとしては人生を祝福しなさい」
私は二本めのビールを飲み干し、少し迷ってから三本めを開けた。
「アリョーシャにはいろんなことがわかるんだ」と私は言った。「しかしそれを読んだとき僕はかなり疑問に思った。とても不幸な人生を総体として祝福することは可能だろうかってね」
「だから人生を限定するの?」
「かもしれない」と私は言った。「僕はきっと君の御主人にかわってバスの中で鉄の|花《か》|瓶《びん》で殴り殺されるべきだったんだ。そういうのこそ僕の死に方にふさわしいような気がする。直接的で断片的でイメージが完結している。何かを考える暇もないしね」
私は芝生に寝転んだまま顔を上げて、さっき雲のあったあたりに目をやった。雲はもうなかった。くすの木の葉かげに隠れてしまったのだ。
「ねえ、私もあなたの限定されたヴィジョンの中に入りこむことはできるかしら?」と彼女が訊いた。
「|誰《だれ》でも入れるし、誰でも出ていける」と私は言った。「そこが限定されたヴィジョンの優れた点なんだ。入るときには|靴《くつ》をよく|拭《ふ》いて、出ていくときにはドアを閉めていくだけでいいんだ。みんなそうしている」
彼女は笑って立ちあがり、コットン・パンツについた芝を手で払った。「そろそろ行くわ。もう時間でしょ?」
私は時計を見た。十時二十二分だった。
「家まで送るよ」と私は言った。
「いいの」と彼女は言った。「このあたりのデパートで買物をして一人で電車で帰るわ。その方がいいのよ」
「じゃあここで別れよう。僕はしばらくここにいるよ。とても気持がいい」
「|爪《つめ》|切《き》りどうもありがとう」
「どういたしまして」と私は言った。
「帰ってきたら電話をくれる?」
「図書館に行くよ」と私は言った。「人が働いている姿を見るのが好きなんだ」
「さよなら」と彼女が言った。
私は彼女が公園の中のまっすぐな道を歩き去っていくうしろ姿を『第三の男』のジョセフ・コットンみたいにじっと見ていた。彼女の姿が木のかげに消えてしまうと、私は鳩を眺めた。鳩の歩き方は一羽一羽微妙にちがっていた。しばらくあとで小さな女の子をつれた身なりの良い女がやってきてポップコーンをまくと、私のまわりの鳩はみんな飛びあがってそちらに行ってしまった。女の子の年は三歳か四歳で、その|年《とし》|頃《ごろ》の女の子がみんなそうするように両手を広げて鳩を抱きしめに行った。しかしもちろん鳩はつかまらなかった。鳩には鳩のささやかな生き方があるのだ。身なりの良い母親は私の方に一度だけちらりと目をやったが、それきり私の方を見ようとはしなかった。月曜日の朝の公園に寝転んで缶ビールの空缶を五つも並べているような人間はまともな人間ではないのだ。
私は目を閉じて『カラマーゾフの兄弟』の三兄弟の名前を思いだしてみた。ミーチャ、イヴァン、アリョーシャ、それに腹違いのスメルジャコフ。『カラマーゾフの兄弟』の兄弟の名前をぜんぶ言える人間がいったい世間に何人いるだろう?
空をじっと見あげていると、私は自分が見わたす限りの海原に浮かんだ小さなボートのように思えた。風もなく波もなく、私はただそこにじっと浮かんでいるだけだ。大洋に浮かんだボートには何かしら特殊なものがある、と言ったのはジョセフ・コンラッドだ。『ロード・ジム』の難破の部分だ。
空は深く、人が疑いをはさむことのできない確固とした観念のように明るく輝いていた。地上から空を見あげていると、空というものが存在のすべてを集約しているように感じられることがある。海も同じだ。ずっと何日も海を眺めていると、世界には海しかないように思えてくるものなのだ。ジョセフ・コンラッドもおそらく私と同じことを考えていたのだろう。船という擬制の中から切りはなされ見わたす限りの大洋に|放《ほう》り出された小さなボートにはたしかに何かしら特殊なものがあるし、誰もその特殊性から逃れることはできないのだ。
私は寝転んだままビールの最後の一缶を飲み、|煙草《た ば こ》を吸い、文学的省察を頭の中から追い払った。もう少し現実的にならなくてはならない。残された時間はあと一時間と少しなのだ。
私は立ちあがってビールの空缶を抱えてゴミ箱まで運び、それを捨てた。そして財布からクレジット・カードを出して、|灰《はい》|皿《ざら》の中で焼いた。身なりの良い母親がまた私の方をちらりと見た。まともな人間は月曜の朝に公園でクレジット・カードを焼いたりはしない。私はまずアメリカン・エクスプレスを焼き、それからヴィサ・カードを焼いた。クレジット・カードはとても気持良さそうに灰皿の中で燃えつきた。私はよほどポール・スチュアートのネクタイも焼いてしまおうかと思ったが、少し考えてやめた。目立ちすぎるし、それにネクタイを焼く必要なんて何もないのだ。
それから私は売店でポップコーンを十袋買い、そのうちの九袋を鳩のために地面にまき、残りの一袋をベンチに座って自分で食べた。鳩の群が十月革命の記録映画みたいにいっぱいあつまってきて、ポップコーンを食べた。私も鳩と一緒にポップコーンを食べた。ポップコーンを食べたのはずいぶん久しぶりだったが、なかなか|美《う》|味《ま》かった。
身なりの良い母親と小さな娘は二人で噴水を眺めていた。母親の年はたぶん私と同じくらいだろう。彼女を眺めているうちに私は革命運動家と結婚して二人の子供を産み、そのままどこかに消えてしまったかつてのクラスメイトのことをまた思いだした。彼女にはもう子供を公園につれていってやることすらできないのだ。私にはもちろん彼女がそれについてどう感じているかということはわからなかったけれど、自分の生活がすっかり消えてしまうという点に関しては彼女と何かをわかちあえるかもしれないという気がした。しかしあるいは――ありそうなことだけれど――彼女は私とその何か[#「何か」に丸傍点]をわかちあうことを拒否するかもしれなかった。我々はもう二十年近く顔をあわせたことがないし、その二十年のあいだには本当にいろんなことが起ってしまったのだ。それぞれの置かれた状況も違うし、考え方も違う。それに同じ人生を引き払うにしても、彼女は自分の意志で引き払ったが、私はそうではないのだ。私の場合は私が眠っているうちに誰かがシーツをひきはがして持っていってしまっただけなのだ。
彼女はおそらく私をそのことで非難するだろうという気がした。あなたはいったい何を選んだというの? と彼女は私に言うことだろう。たしかにそのとおりだ。私は何ひとつとして選びとってはいないのだ。私が自分の意志で選んだことといえば、博士を許したこととその孫娘と寝なかったことだけだった。しかしそんなことが何か私の役に立つのだろうか? 彼女はその程度のことで、私という存在が私という存在の消滅に対して果した役割を評価してくれるのだろうか?
私にはそれはわからなかった。二十年近くの歳月が我々を遠く隔てているのだ。彼女が何を評価し何を評価しないのかというその基準は私の想像力の|枠《わく》|外《がい》にあった。
私の枠内には|殆《ほと》んどもう何も残ってはいなかった。鳩と噴水と芝生と|母子《お や こ》連れが見えるだけだった。しかしそんな風景をじっと眺めているうちに、この何日かではじめて私はこの世界から消えたくないと思った。私が次にどこの世界に行くかなんて、そんなことはどうでもいいことなのだ。私の人生の輝きの九十三パーセントが前半の三十五年間で使い果されてしまっていたとしても、それでもかまわない。私はその七パーセントを大事に抱えたままこの世界のなりたち方をどこまでも眺めていきたいのだ。|何《な》|故《ぜ》かはわからないけれど、そうすることが私に与えられたひとつの責任であるように私には思えた。私はたしかにある時点から私自身の人生や生き方をねじまげるようにして生きてきた。そうするにはそうするなりの理由があったのだ。|他《ほか》の誰に理解してもらえないにせよ、私はそうしないわけにはいかなかったのだ。
しかし私はこのねじまがったままの人生を置いて消滅してしまいたくはなかった。私にはそれを最後まで見届ける義務があるのだ。そうしなければ私は私自身に対する公正さを見失ってしまうことになる。私はこのまま私の人生を置き去りにしていくわけにはいかないのだ。
私の消滅が誰をも悲しませないにせよ、誰の心にも空白をもたらさないにせよ、あるいは殆んど誰にも気づかれないにせよ、それは私自身の問題なのだ。たしかに私はあまりにも多くのものを失ってきた。そしてこれ以上失うべきものは私自身の他にはもう殆んど何も残ってはいないように思える。しかし私の中には失われたものの残照がおり[#「おり」に丸傍点]のように残っていて、それが私をここまで生きながらえさせてきたのだ。
私はこの世界から消え去りたくはなかった。目を閉じると私は自分の心の揺らぎをはっきりと感じとることができた。それは|哀《かな》しみや孤独感を超えた、私自身の存在を根底から揺り動かすような深く大きなうねりだった。そのうねりはいつまでもつづいた。私はベンチの背もたれに|肘《ひじ》をついて、そのうねりに耐えた。誰も私を助けてはくれなかった。誰にも私を救うことはできないのだ。ちょうど私が誰をも救うことができなかったのと同じように。
私は声をあげて泣きたかったが、泣くわけにはいかなかった。涙を流すには私はもう年をとりすぎていたし、あまりに多くのことを経験しすぎていた。世界には涙を流すことのできない哀しみというのが存在するのだ。それは誰に向っても説明することができないし、たとえ説明できたとしても、誰にも理解してもらうことのできない種類のものなのだ。その哀しみはどのような形に変えることもできず、風のない夜の雪のようにただ静かに心に積っていくだけのものなのだ。
もっと若い頃、私はそんな哀しみをなんとか言葉に変えてみようと試みたことがあった。しかしどれだけ言葉を尽してみても、それを誰かに伝えることはできないし、自分自身にさえ伝えることはできないのだと思って、私はそうすることをあきらめた。そのようにして私は私の言葉を閉ざし、私の心を閉ざしていった。深い哀しみというのは涙という形をとることさえできないものなのだ。
煙草を吸おうと思ったが、煙草の箱はなかった。ポケットの中には紙マッチがあるだけだった。マッチももう三本しか残っていない。私はその三本に順番に火をつけて地面に捨てた。
もう一度目を閉じたとき、そのうねりはどこかに消えていた。頭の中にはちり[#「ちり」に丸傍点]のように静かな沈黙が浮かんでいるだけだった。私はそのちりを長いあいだ一人で眺めていた。ちりは上にも上らず下にも降りず、じっとそこに浮かんでいた。私は小さく|唇《くちびる》をすぼめて息を吹いてみたが、それでも動かなかった。どのような激しい風にも、それを追い払うことはできないのだ。
それから私は今別れたばかりの図書館の女の子のことを考えてみた。そしてカーペットの上に積みかさねられた彼女のヴェルヴェットのワンピースとストッキングとスリップのことを考えた。それはまだかたづけられずにあの床の上に彼女そのもののようにそっと横たわっているのだろうか? そして私は彼女に対して公正に振舞うことができたのだろうか? いや、違うな、と私は思った。いったい誰が公正さなんて求めているというのだ?誰も公正さなんて求めてはいない。そんなものを求めているのは私くらいのものだ。しかし公正さを失った人生になんてどれだけの意味があるだろう? 私は彼女を好むのと同じように彼女が床に脱ぎ捨てたワンピースや下着を好んだ。それも私の公正さのひとつのかたちだろうか?
公正さというのは極めて限定された世界でしか通用しない概念のひとつだ。しかしその概念はすべての位相に及ぶ。かたつむりから金物店のカウンターから結婚生活にまで、それは及ぶのだ。誰もそんなものを求めていないにせよ、私にはそれ以外に与えることのできるものは何もないのだ。そういう意味では公正さは愛情に似ている。与えようとするものが求められているものと合致しないのだ。だからこそいろんなものが私の前を、あるいは私の中を通りすぎていってしまったのだ。
おそらく私は自分の人生を悔むべきなのだろう。それも公正さのひとつの形なのだ。しかし私には何を悔むこともできなかった。たとえ|全《すべ》てが風のように私をあとに残して吹きすぎていってしまったにせよ、それはまた私自身の望んだことでもあるのだ。そして私には頭の中に浮かんだ白いちりしか残らなかったのだ。
公園の中の売店で煙草とマッチを買うついでに、公衆電話から私は念のためにもう一度私の部屋に電話をかけてみた。誰かが出るとは思わなかったが、人生の最後に自分の部屋に電話をかけてみるというのも悪くない思いつきだった。そこでベルが鳴りひびいている様がありありと想像できる。
しかし予想に反して三度めのベルで誰かが受話器をとった。そして「もしもし」と言った。ピンクのスーツを着た太った娘だった。
「まだそこにいたの?」と私は驚いて言った。
「まさかまさか」と娘は言った。「一度行ってまた帰ってきたのよ。そんなにのんびりしてるわけないでしょ。本のつづきが読みたかったから帰ってきたのよ」
「バルザックを?」
「ええ、そうよ。この本とても|面《おも》|白《しろ》いわ。何か運命の力のようなものを感じるわね」
「それで」と私は言った。「君のおじいさんは助けだせたの?」
「もちろん。すごく簡単だったわよ。水はもう引いてたし、道は二度めだし。地下鉄の切符もちゃんと二枚買っておいたし。祖父はとても元気だったわよ。あなたによろしくって」
「それはどうも」と私は言った。「それでおじいさんはどうしたの?」
「彼はフィンランドに行っちゃったの。日本にいると面倒が多すぎて研究に集中できないから、フィンランドに研究所を作るんだって。とても静かな良いところらしいわよ。となかいなんかもいて」
「君は行かなかったの?」
「私はここに残ってあなたの部屋に住むことにしたの」
「|僕《ぼく》の部屋?」
「ええ、そうよ。この部屋すっかり気に入っちゃったわ。ドアもちゃんとつけるし、冷蔵庫とかヴィデオとかも私が買い|揃《そろ》えとくわよ。誰かが壊しちゃったんでしょ。ベッド・カバーとシーツとカーテンはピンクにしてもかまわない?」
「かまわない」
「新聞もとっていいかしら? 番組欄が見たいんだけど」
「いいよ」と私は言った。「でもそこにいると危険だぜ。『|組織《システム》』の連中とか記号士とかが来るかもしれない」
「あら、そんなの怖くないわ」と彼女は言った。「彼らの求めているのは祖父とあなたで、私は関係ないもの。それにさっきも変な大きいのと小さいのの二人組がきたけど追いかえしてやったわ」
「どうやって?」
「ピストルで大きい方の耳を撃ってやったの。きっと鼓膜が破れたわね。どうってことないわよ」
「でもアパートの中でピストル撃ったりすると大変な騒ぎになったんじゃないの?」
「そんなことないわよ」と彼女は言った。「一発くらい撃ったってみんな車のバック・ファイヤだと思うだけよ。そりゃ何発も撃てば困るけど、私は腕がいいから一発で十分」
「へえ」と私は言った。
「それでね、あなたの意識がなくなったら、私あなたを冷凍しちゃおうと思うんだけど、どうかしら?」
「好きにしていいよ。どうせもう何も感じないんだから」と私は言った。「今から|晴《はる》|海《み》|埠《ふ》|頭《とう》に行くからそこで回収してくれればいいよ。白い色のカリーナ 1800GT・ツインカムターボという車に乗ってる。車の型は僕にも説明できないけれど、ボブ・ディランのテープがかかってるよ」
「ボブ・ディランって何?」
「雨の日に――」と私は言いかけたが説明するのが面倒になってやめた。「かすれた声の歌手だよ」
「冷凍しておけば、祖父が新しい方法をみつけてまたあなたをもとに|戻《もど》してくれるかもしれないでしょ? あまり期待されても困るけど、そういう可能性だってなくはないのよ」
「意識がなくちゃ期待もできない」と私は指摘した。「それで、君が僕を冷凍するの?」
「大丈夫よ、安心して。私、冷凍するのは得意なの。動物実験で犬とか|猫《ねこ》とかをずいぶん生きたまま冷凍したもの。あなたをきちんと冷凍して、|誰《だれ》にもみつけられない場所に隠しといてあげるから」と彼女は言った。「だからもしうまくいって、あなたの意識が戻ったら私と寝てくれる?」
「もちろん」と私は言った。「そのときになってもまだ僕と寝たいと思うんならね」
「ちゃんとやってくれる?」
「技術の限りを尽して」と私は言った。「何年後になるかはわからないけど」
「でもとにかくそのとき私はもう十七じゃないわね」と彼女は言った。
「人は年をとるんだ」と私は言った。「たとえ冷凍されていてもね」
「元気でね」と彼女は言った。
「君もね」と私は言った。「君と話せてなんだか少し楽になったような気がするよ」
「この世界に戻れる可能性が出てきたから?でもそれはまだできるかどうかわからないし、とても――」
「いや、そうじゃないんだ。もちろんそういう可能性がでてきたことはとてもありがたい。でも僕が言うのはそういう意味じゃなくて、君と話せたのがとても|嬉《うれ》しかったっていうことさ。君の声が聞けて、君が今何をしているかというのがわかったことがね」
「もっと長く話す?」
「いや、もうこれでいいよ。時間があまりないからね」
「ねえ」と太った娘が言った。「怖がらないでね。あなたがもし永久に失われてしまったとしても、私は死ぬまでずっとあなたのことを覚えているから。私の心の中からはあなたは失われないのよ。そのことだけは忘れないでね」
「忘れないよ」と私は言った。そして電話を切った。
十一時になると私は近くの便所で小便を済ませ、公園を出た。そして車のエンジンを入れ、冷凍されることについていろいろと思いを巡らせながら港に向って車を進めた。銀座通りはビジネス・スーツを着た人々でいっぱいだった。信号待ちのあいだ私はその中に買物をしているはずの図書館の女の子の姿を探し求めたが、残念ながら彼女は見あたらなかった。私の目にうつるのは見知らぬ人々の姿だけだった。
港につくと私は人気のない倉庫のわきに車を|停《と》め、|煙草《た ば こ》を吸いながらオート・リピートにしてボブ・ディランのテープを聴いた。シートをうしろに倒し、両脚をステアリングにのせて、静かに息をした。もっとビールが飲みたいような気がしたが、もうビールはなかった。ビールは一本残らず公園で彼女と二人で飲んでしまったのだ。太陽がフロント・グラスから|射《さ》しこんで、私を光の中に包んでいた。目を閉じるとその光が私の|瞼《まぶた》をあたためているのが感じられた。太陽の光が長い道のりを|辿《たど》ってこのささやかな惑星に到着し、その力の一端を使って私の瞼をあたためてくれていることを思うと、私は不思議な感動に打たれた。宇宙の摂理は私の瞼ひとつないがしろにしてはいないのだ。私はアリョーシャ・カラマーゾフの気持がほんの少しだけわかるような気がした。おそらく限定された人生には限定された祝福が与えられるのだ。
私はついでに博士と太った孫娘と図書館の女の子にも私なりの祝福を与えた。他人に祝福を与えるような権限が私にあるのかどうかはわからなかったが、私はどちらにしてももうすぐ消滅してしまうのだから、誰かにこの先責任を追及されるおそれはまずなかった。私はポリス = レゲエ・タクシーの運転手もこの祝福リストに加えた。彼は|泥《どろ》だらけの我々を車に乗せてくれたのだ。リストに加えてはいけないという理由は何もなかった。彼はおそらく今もラジオ・カセットでロック・ミュージックを聴きながら、どこかの路上を若い客を求めて走りまわっているのだろう。
正面には海が見えた。荷を下ろし終えて|吃《きっ》|水《すい》|線《せん》の浮かびあがった古い貨物船も見えた。かもめが白いしみのようにあちこちにとまっていた。ボブ・ディランは『風に吹かれて』を|唄《うた》っていた。私はその唄を聴きながら、かたつむりや|爪《つめ》|切《き》りやすずきのバター・クリーム煮やシェーヴィング・クリームのことを考えてみた。世界はあらゆる形の啓示に|充《み》ちているのだ。
初秋の太陽が波に揺られるように細かく海の上に輝いていた。まるで誰かが大きな鏡を粉粉に|叩《たた》き割ってしまったように見える。あまりにも細かく割れてしまったので、それをもとに戻すことはもう誰にもできないのだ。どのような王の軍隊をもってしてもだ。
ボブ・ディランの唄は自動的にレンタ・カー事務所の女の子のことを思いださせた。そうだ、彼女にも祝福を与えねばならない。彼女は私にとても良い印象を与えてくれたのだ。彼女をリストから外すわけにはいかない。
私は彼女の姿を頭の中に思い浮かべてみた。彼女はシーズン初めの野球場の芝生を思わせるような色あいのグリーンのブレザーコートを着て、白いブラウスに黒のボウタイを結んでいた。たぶんそれがレンタ・カー会社の制服なのだ。そうでなければ誰もグリーンのブレザーコートを着て黒のボウタイを結んだりはしない。そして彼女はボブ・ディランの古い唄を聴き、雨ふりを|想《おも》うのだ。
私も雨ふりのことを考えてみた。私の思いつく雨は降っているのかいないのかわからないような細かな雨だった。しかし雨はたしかに降っているのだ。そしてそれはかたつむりを|濡《ぬ》らし、|垣《かき》|根《ね》を濡らし、牛を濡らすのだ。誰にも雨を止めることはできない。誰も雨を|免《まぬか》れることはできない。雨はいつも公正に降りつづけるのだ。
やがてその雨はぼんやりとした色の不透明なカーテンとなって私の意識を|覆《おお》った。
眠りがやってきたのだ。
私はこれで私の失ったものをとり戻すことができるのだ、と思った。それは一度失われたにせよ、決して損なわれてはいないのだ。私は目を閉じて、その深い眠りに身をまかせた。ボブ・ディランは『激しい雨』を唄いつづけていた。
40 世界の終り
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――鳥――
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南のたまりにたどりついたとき、雪は息苦しいまでに激しく降りしきっていた。それはまるで空そのものがばらばらに砕けて地表に崩れ落ちているかのように見えた。雪はたまりの上にも降り注ぎ、不気味なほどの深い青味をたたえたその水面に音もなく吸いこまれていった。白一色に染まった大地に、たまりだけが巨大な|瞳《ひとみ》のような穴をぽっかりと丸くあけていた。
|僕《ぼく》と僕の影は雪の中に立ちすくみ、長いあいだ声もなくじっとそんな光景を見つめていた。以前に来たときと同じようにあたりには不気味な水音が響きわたっていたが、雪のせいか音はずっとくぐもっていて、どこか遠くから聞こえてくる地鳴りのように感じられた。僕は空というにはあまりにも低すぎる空を見あげ、激しい雪の向うにぼんやりと黒く浮かんで見える南の壁に目を向けた。壁は僕に対してはもう何も語りかけてはこなかった。それは〈世界の終り〉という名にふさわしい荒涼として冷ややかな光景だった。
じっとしていると、雪は僕の肩と帽子のひさしに際限なく積っていった。このぶんでは我我の残した足あともすっかり消えてしまったことだろう。僕は少し離れて立った影の方に目をやった。影はときどき体の雪を手で払い落としながら、目を細めてたまりの水面を|睨《にら》んでいた。
「これが出口だよ。間違いはない」と影は言った。「これでもうこの街も|俺《おれ》たちを閉じこめておくことはできない。俺たちは鳥のように自由になれる」
そして影はまっすぐに空をあおぎ、目を閉じて、まるで恵みの雨を受けるように顔に雪を受けた。
「良い天気だ。空も晴れてるし、風も暖かい」と言って、影は笑った。まるで重い|枷《かせ》が取払われたように、影の体はその本来の力をとり|戻《もど》しつつあるようだった。彼は軽く足をひきずりながらも一人で僕の方に歩いてきた。
「俺には感じることができるんだよ」と影は言った。「このたまりの向うには外の世界があるっていうことをね。君はどうだ? ここにとびこむことはまだ怖いかい?」
僕は首を振った。
影は地面にかがんで、両方の|靴《くつ》の|紐《ひも》をほどいた。
「ここにつっ立っていると凍りついちまいそうだから、そろそろとびこむとしようじゃないか。靴を脱いで、お互いのベルトとベルトを結びあわせるんだ。外に出てもはぐれちまったら元も子もないものな」
僕は大佐に借りた帽子を脱いで積った雪を払い、それを手に持ったまま|眺《なが》めた。帽子は古い時代の戦闘帽だった。布はところどころですり切れ、色あせて白くなっていた。おそらく大佐は何十年も大事にその帽子をかぶりつづけていたのだろう。僕はもう一度きれいに雪を払ってから、それを頭にかぶった。
「僕はここに残ろうと思うんだ」と僕は言った。
影はまるで目の焦点を失ったようにぼんやりと僕の顔を見ていた。
「よく考えたことなんだ」と僕は影に言った。「君には悪いけれど、僕は僕なりにずいぶん考えたんだ。一人でここに残るというのがどういうことなのかもよくわかっている。君の言うように、我々二人が一緒に古い世界に戻ることが物事の筋だということもよくわかる。それが僕にとっての本当の現実だし、そこから逃げることが間違った選択だということもよくわかっている。しかし僕にはここを去るわけにはいかないんだ」
影はポケットに両手をつっこんだまま、ゆっくりと何度か首を振った。
「どうしてだ? 君はこのあいだここから脱出するって約束したじゃないか? だからこそ俺は計画を練り、君は俺を背負ってここまで来てくれたんじゃないか。いったい何が君の心をそれほどがらりと変えてしまったんだ。女かい?」
「それももちろんある」と僕は言った。「でもそれだけじゃない。僕があるひとつのことを発見したからなんだ。だからこそ僕はここに残ることに決めたんだ」
影はため息をついた。そしてもう一度空を仰いだ。
「君は彼女の心をみつけたんだな? そして彼女と二人で森で暮すことに決め、俺を追い払うつもりなんだろう?」
「もう一度言うけれど、それだけじゃないんだ」と僕は言った。「僕はこの街を作りだしたのがいったい何ものかということを発見したんだ。だから僕はここに残る義務があり、責任があるんだ。君はこの街を作りだしたのが何ものなのか知りたくないのか?」
「知りたくないね」と影は言った。「俺は既にそれを知っているからだ。そんなことは前から知っていたんだ。この街を作ったのは君自身[#「君自身」に丸傍点]だよ。君が何もかもを作りあげたんだ。壁から川から森から図書館から門から冬から、何から何までだ。このたまりも、この雪もだ。それくらいのことは俺にもわかるんだよ」
「じゃあ|何《な》|故《ぜ》それをもっと早く教えてくれなかったんだ?」
「君に教えれば君はこんな風にここに残ったじゃないか。俺は君をどうしても外につれだしたかったんだ。君の生きるべき世界はちゃんと外にあるんだ」
影は雪の中に座りこんで、頭を何度か左右に振った。
「しかしそれをみつけてしまったあとでは君はもう俺の言うことをきかないだろう」
「僕には僕の責任があるんだ」と僕は言った。「僕は自分の勝手に作りだした人々や世界をあとに|放《ほう》りだして行ってしまうわけにはいかないんだ。君には悪いと思うよ。本当に悪いと思うし、君と別れるのはつらい。でも僕は自分がやったことの責任を果さなくちゃならないんだ。ここは僕自身の世界なんだ。壁は僕自身を囲む壁で、川は僕自身の中を流れる川で、煙は僕自身を焼く煙なんだ」
影は立ちあがって、たまりの静かな水面をじっと見つめた。降りしきる雪の中に身じろぎひとつせずに立った影は、少しずつその奥行を失い、本来の|扁《へん》|平《ぺい》な姿に戻りつつあるような印象を僕に与えた。長いあいだ二人は黙りこんでいた。口から吐きだされる白い息だけが宙に浮かび、そして消えていった。
「止めても|無《む》|駄《だ》なことはよくわかった」と影は言った。「しかし森の中の生活は君が考えているよりずっと大変なものだよ。森は街とは何から何までがちがうんだ。生きのびるための労働は厳しいし、冬は長くつらい。一度森に入れば二度とそこを出ることはできない。永遠に君はその森の中にいなくてはならないんだよ」
「そのこともよく考えたんだ」
「しかし心は変らないんだね?」
「変らない」と僕は言った。「君のことは忘れないよ。森の中で古い世界のことも少しずつ思いだしていく。思いださなくちゃならないことはたぶんいっぱいあるだろう。いろんな人や、いろんな場所や、いろんな光や、いろんな|唄《うた》をね」
影は体の前で両手を組んで、それを何度ももみほぐした。影の体に積った雪が彼に不思議な陰影を与えていた。その陰影は彼の体の上でゆっくりと伸びちぢみしているように見えた。彼は両手をこすりあわせながらまるでその音に耳を澄ませるかのように、軽く頭を傾けていた。
「そろそろ俺は行くよ」と影は言った。「しかしこの先二度と会えないというのはなんだか妙なものだな。最後に何て言えばいいのかがわからない。きりの良いことばがどうしても思いつけないんだ」
僕はもう一度帽子を脱いで雪を払い、かぶりなおした。
「幸せになることを祈ってるよ」と影は言った。「君のことは好きだったよ。俺が君の影だということを抜きにしてもね」
「ありがとう」と僕は言った。
たまりがすっぽりと僕の影を|呑《の》みこんでしまったあとも、僕は長いあいだその水面を見つめていた。水面には波紋ひとつ残らなかった。水は獣の目のように青く、そしてひっそりとしていた。影を失ってしまうと、自分が宇宙の辺土に一人で残されたように感じられた。僕はもうどこにも行けず、どこにも戻れなかった。そこは世界の終りで、世界の終りはどこにも通じてはいないのだ。そこで世界は終息し、静かにとどまっているのだ。
僕はたまりに背を向けて、雪の中を西の丘に向けて歩きはじめた。西の丘の向う側には街があり、川が流れ、図書館の中では彼女と手風琴が僕を待っているはずだった。
降りしきる雪の中を一羽の白い鳥が南に向けて飛んでいくのが見えた。鳥は壁を越え、雪に包まれた南の空に呑みこまれていった。そのあとには僕が踏む雪の|軋《きし》みだけが残った。
参考文献
バートランド・クーパー著 牧村拓訳
『動物たちの考古学』三友館書房
ホルヘ・ルイス・ボルヘス著 柳瀬尚紀訳
『幻獣辞典』晶文社
底本
新潮文庫の100冊 CD-ROM版(1996)
世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド
村上春樹
校正等の参考にした版
世界の終りと
ハードボイルド・ワンダーランド
〈純文学書下ろし特別作品〉
著者 村上春樹
1985年6月10日 印刷
1985年6月15日 発行
発行所 新潮社
※ 単行本ではカタカナのルビ以外はルビはなさそうです。
また丸傍点ではなく普通の傍点が使われています。
※ 1巻の1071行「〈角瑞〉」は底本では「《角瑞》」ですが、青空文庫ルビとの兼ね合いから、「〈角瑞〉」としています。
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369〜375行にかけての〔 〕で囲まれた部分はアクセント分解で表記しています。
が、なんだか説明を読んでもよくわからないので、あんまりあてにしないように。
外字部分には注意したつもりですが、新潮文庫の100冊では特殊なフォントが使われて
いたり、未定義領域にも文字があるようで、うまく検出できなかった可能性があります。
そうだったらごめんなさい。