目次
太郎物語 高校編
太郎物語 大学編
太郎物語 高校編 解説(矢代静一)
太郎物語 大学編 解説(鶴羽伸子)
太郎物語 高校編
第一章 青春の朝
1
高校二年生の山本《やまもと》太《た》郎《ろう》は、世の中の大ていのことに機《き》嫌《げん》のいい、典型的な都会っ子だが、一つだけときどき気分によって、気にくわないものがあった。
それは自分の名前なのである。
山本太郎の父親は大学の教授で、息《むす》子《こ》の名前についてきかれる度《たび》に、
「はあ、随分《ずいぶん》、いろいろと考えました末、太郎にしました」
などというものだから、中には、
「まあ、大学の先生がさんざんお考えになった挙《あげ》句《く》、太郎だなんて御冗談《ごじょうだん》ばっかり」
と相手にしない人もいるかと思えば、
「本当に珍《めずら》しいお名前ですわ。この頃《ごろ》、人間には珍しいのよ、本当。太郎って言ったら犬の名前ですわよ」
と、はっきりいう人まで出る始末であった。ところが、父親の山本正二郎《やまもとしょうじろう》は、どこか間《ま》が抜《ぬ》けたような人物で、相手の皮肉も嫌《いや》味《み》も、全く気づかぬかのように、
「はあ、太郎というのは、いい名前だと思います。第一、どんな職業にでも向きますからね。ラーメン屋の主人、役人、郵便局員、おわい船の船頭《せんどう》、代議士、役者、それはもう、何になってもおかしくない名前です」
などと真顔で言うものだから、誰《だれ》もが二の句がつげなくなるのである。
太郎は、自分の名前にあまりいい記《き》憶《おく》を持ったことがない。女の子が馴々《なれなれ》しく「タロちゃん」などと呼ぶと、それこそ犬になったような気がする。上級の女の子などが、「太郎がねえ」などと言っているのを聞くと、「へっ、そんなに気やすく言うな」という気にもなって来る。
師《し》走《わす》の或《あ》る日、山本太郎は、学校の帰りに、カバンを下げたまま毎朝、行き帰りにその前を通る銀行へ入って行った。
「普《ふ》通《つう》預金の通帳を作ってほしいんですけど」
太郎は言いながら、ズボンのポケットから綿ゴミと一緒《いっしょ》に、中国製百五十円也《なり》の小《こ》銭《ぜに》入《い》れを出した。
「五百円預けるんでもかまいませんか」
「はあ、結構でございます」
口では、結構といいながら、幾分迷惑《いくぶんめいわく》そうな行員の顔を、ざまあみろ、という思いで見返しながら、太郎はしかし、決してそれを表情に出しはしなかった。
「では、恐《おそ》れ入りますが、ここに御住所とお名前と御印を頂戴《ちょうだい》したいのですが……」
「あ、そうですか」
太郎はさらさらと書いた。
「大田区D町一ノ二ノ三 山本太郎」
これがお役所用の用紙になると、更《さら》に、
「昭和三十年一月二十三日生れ」
となるのである。そこに書かれている住所も生年月日も総《すべ》て本当なのだが、大ていの人は、あまりにも一、二、三、とゴロが合い過ぎている数字と名前に明らかに疑わしげな表情を示す。その日も行員は、
「あのう、見本の名前ではなく、本当の御自分のお名前を書いて頂きたいのですが」
と注意した。この銀行ではクレジット・カードや、預金通帳の見本に、山本太郎という名を使っているのである。
「見本じゃありません。本名です」
「あ、そうですか。どうも、失礼しました」
この一言を相手に言わせたいために、これで少なくとも一日は、常に乏《とぼ》しい小《こ》遣《づか》いの一部の五百円というものを釘《くぎ》づけにしたのだ、と思うと、太郎は自分がしみじみばからしくなって来る。
それにしても、山本太郎という名前から来るイメージは、それほど日本人の平均値的匂《にお》いがあるのだろうか。
恐らく、山本とか、渡辺《わたなべ》とか、佐《さ》藤《とう》とかいう、どこにでもありそうな姓《せい》を持つ人は、名前には太郎などという平凡《へいぼん》なものは避《さ》けるようにするのだろう。太郎も、時々、自分が、重信《しげのぶ》とか、明久《あきひさ》とか、義成《よししげ》とかいう重々しい名前だったらどんなにいいだろう、と考えることがある。太郎なんて、第一、幼名じゃねえか。
太郎が、親《おや》爺《じ》の趣《しゅ》味《み》を、まあ仕方ないや、と思えるのは、父親の命名の好みの中に、平均値的日本人になってほしい、という望みを感じるからである。
山本太郎は、小学校一年生から、学区の小学校に入れられた。小学校までは、歩数で計ってみると四百五十三米《メートル》であった。小学校が終ると、又《また》もや学区の中学校に入れられた。今度も歩数で計ってみたら、四百八十六米と出た。一足あたりの歩《ほ》幅《はば》は、中学になって伸《の》びた分だけ、ちゃんと修正してある。
「お父さん、僕《ぼく》いやになっちゃうよ」
「何だい」
山本正二郎は寝《ね》転《ころ》がって読んでいた本から目を上げて言った。太郎の印象では、親爺というものは、いつも本を読んでいるが、ただしそれは寝転がってである。その辺の光景がテレビ・ドラマに出て来る知的できちんとした大学教授の家と大いに違《ちが》う。
「五十歩、百歩って言うでしょう」
「何がだよ」
「僕の小学校と中学さ。僕のうちから小学校までの距《きょ》離《り》と、中学までの距離とさ。ほんとに五十歩くらいしか違わないんだからさ」
「けっこうな話じゃないか。運動靴《うんどうぐつ》が減らなくていいよ」
「ああ、オレは定期券持って通学したいよう」
太郎は喚《わめ》いた。
「いつまで経《た》っても、テクだぜ。越境《えっきょう》組はかっこいいわア。定期券持ってさあ、定期ありゃ、釣堀《つりぼり》行くのもタダだしなア」
「高校へ行ったら、多分定期もてる」
山本正二郎は一言で片付けた。
人間が平凡な生活から出発すること。平凡な生活の中から、学び得るものを引き出す癖《くせ》をつけること。たとえ他人より少しでも秀《ひい》でたところを持ち得たとしても、人間としての謙虚《けんきょ》さを失わないこと。タダの人間、タダの太郎であるという思いを片時も忘れないこと。それがオヤジの好みなのだということを、太郎はよく知っている。
もっとも、太郎はそんなことを、改まって父親から言いふくめられたことなど一度もない。一軒《けん》の家にいて、普通に喋《しゃべ》っていれば、それくらいのことは、いつの間にかわかっている。
しかし、平均値的日本人などというものは、本来あり得ない。言語的、概念《がいねん》的にはあり得ても平均通りの総ての要素を兼ね備えている人間などというものはあり得ないのである。
山本太郎は、銀行を出ると、地下鉄の駅へ出た。東京の高校には、学校群という制度があって、今通っている学校へは、割り当て《・・・・》られたのである。太郎の高校は学校群制度以前の女子高校であった。今でも、人数から言うと、女子の方が、三対二ぐらいの比率で多い。本当はそこへは行きたくなかったのだ。初めて、割り当ての結果を知った時、
「ひやあ、女便所ばかり多いんだろうな」
という感じであった。行ってみたら、そんなこともなかった。
次は校章がちょっと気にくわなかった。昔の女子高校の時からそのままだから、撫子《なでしこ》の花のデザインであった。太郎の母親は、男のように荒《あら》っぽいところがあるから、息子がひそかに気にしていることを決して避けてくれない。
「ふうん男のくせに、撫子学園だね」
と真顔で感想を述べた。そう言われてしまうと、逆に少し気にならなくなった。
「いいもんね。美人がいるもんね」
と自ら慰《なぐさ》めた。まだ美人がいるかどうか、調査するまで、手がまわりかねていた頃である。とにかく高校生になったお陰《かげ》でやっと、定期券が買えた。
太郎が地下鉄に乗り込むと、後ろから飛び込《こ》むように駆《か》け込《こ》んで来る気配があった。と同時に、ふっといい匂いがした。
石鹸《せっけん》の香《かお》り、だけでもない。それに健康な素《す》肌《はだ》の匂いがちゃんと混っている。
太郎は振《ふ》り向いた。一年上級の、つまり三年の五《さ》月《つき》 素《もと》子《こ》さんだった。
「あ」
太郎は、瞬間《しゅんかん》的にぱっと身を引いて、五月さんが乗り込みいいようにしてやった。五月さんは、軽く息を切らしている。おくれ毛が額《ひたい》に散っている。太郎はそれを見下《みお》ろしながら感動した。
「今日は、こっちですか?」
太郎は尋《たず》ねた。
「四月から引っこしたのよ」
五月さんは言った。
「どこへ?」
「J町」
「じゃ、すぐ近くだな」
太郎は、五月さんが美人だと思った。色は白くないが、はっきりした目鼻立ちをしている。五月さんは太郎が一年生のとき、茶《さ》道《どう》部《ぶ》の部長をしていた。
「僕、うちの学校へ入りたての時、実は茶道部へ入ろうと思ったことがあるんです」
「そう?」
五月さんは疑わしそうな表情をした。
「どうして、茶道部なんて入ろうと思ったの?」
「お菓子《かし》が食えると思ったからなんです」
「お菓子、出たでしょう?」
「ええ、あれはなんていうのかな、ほら、さつまいもを細く切って、砂糖にまぶしたのあるでしょう。あれとか、豆とか。豆は食べにくいですね。畳《たたみ》に落したのを拾いに行ったら、オコられるし……」
「それでやめたの?」
「いや、そうじゃないんです。山田さんておられるでしょう。山《やま》田《だ》初《はつ》枝《え》さん。あの人に、僕言われたんです」
「何て?」
「男なら、運動部へ入りなさいって。それでね、僕もその通りだと思ったもんですから、やめたんです」
「山田さん、よく見抜いてたじゃない?」
「はあ、そう、かも知れませんけど。僕、その時、五《さ》月《つき》さんのことを、ゴガツさんて言って、山田さんに叱《しか》られました」
五月さんはおかしそうに笑った。
「ゴガツはサツキじゃない」
「はあ、それはそうですが、しかし、僕はあんまり、文学的なほうじゃありませんから、ゴガツはゴガツです。鯉《こい》のぼりの泳いでいる五月です」
五月さんはおかしそうに笑った。太郎はふとその笑《え》顔《がお》が、彼の心臓《しんぞう》に近づいて来るように思った。
2
山本家は、この頃《ごろ》流行の核《かく》家族ではない。古い家に太郎の祖父母も一緒《いっしょ》に暮《くら》しているのである。ただし太郎には兄弟はない。太郎はいわゆる一人っ子である。
太郎の母親の山本《やまもと》信《のぶ》子《こ》は、戦前、商社員だった両親と共に、ロンドンで暮したことがある。そのために少し英語ができるので、翻訳《ほんやく》家《か》として多少名前が知られている。といってもディケンズや、ジョイスやフォークナーを訳しているのではない。彼女《かのじょ》は、もっぱら探《たん》偵《てい》小説の翻訳をしているのである。
その日も、太郎が帰ると、母は食堂の一部におかれた書物机に向って、近眼鏡をかけ、背を丸めて、せっせと、原稿《げんこう》用紙のマスを埋《う》めていた。
もう何年来となく見馴《みな》れた光景であった。
「お帰り」
母は、今日は何があった? などとは聞かない。昔《むかし》から聞かないのである。太郎が喋《しゃべ》れば聞くが、仕事に熱中していると、彼女はそんなことに気が廻《まわ》らないらしい。
「お母さん」
太郎は言った。
「僕《ぼく》、ラーメン食べるけど、お母さんお茶いれてやろうか」
「うん」
「お菓子《かし》は何を食う?」
「う? 何でもいい。どっか、そこら辺探してあるものを」
この女は、息《むす》子《こ》のことなんか忘れてるんだな、と太郎は思う。それにしても凄《すご》い集中力だ。四十前後の女が、仕事に熱中している有《あり》様《さま》を見ると強欲《ごうよく》で、無気味《ぶきみ》な感じがするな。
紅茶をいれ、母の分のバナナを皿《さら》にのせ、その間に煮《に》上《あが》ったラーメンを丼《どんぶり》に入れて、食堂のテーブルに持って来ると、太郎は、
「お茶だよ。ちっとは休みなよ」
と言った。
「ありがとう。太郎は親孝行だね」
母は食物が目の前に出て来ると、やっと仕事の手を休めた。
「今日は何枚できた?」
「まだ二十枚行ってないからね」
「おやじさんは?」
「今、本屋へ行ったよ」
「畜生《ちくしょう》!」
太郎は呟《つぶや》いた。
「どうしたの?」
「いや」
太郎は言葉を濁《にご》した。同じ陸上にいる三年生の小《お》川《がわ》次《つぐ》男《お》が、五月素子をしきりに追いかけていたのを思い出したのだった。明日からは、何としても五月さんにくい込《こ》まなきゃ……。
これが普《ふ》通《つう》のうちなら、母が息子のおやつを作ってくれる筈《はず》であった。山本家では、時々、いや屡々《しばしば》、そのルールが破られる。大体過去をふり返ってみても、母がにこにこ笑いながら、おやつを出してくれた記《き》憶《おく》なんて、あまりない。太郎は、自分で出して、自分で食べた。ガスに火をつけられないような小さな頃は、牛乳を冷蔵庫から出して飲んだものであった。
母は太郎の記憶にある限り、いつも眼《め》鏡《がね》をかけて――その眼鏡が又《また》いつも少しずつずり下っているから滑稽《こっけい》である――机の前にいた。
「ねえ、お母さん」
と学校の話をすると、「ふうん、ふうん」と聞いているふりをする。それも煩《わずら》わしくなると、
「ちょっと黙《だま》っていて。今お母さん、五時までが天下わけ目なんだから」
などと大仰《おおぎょう》なことを言う。何日かに一度ずつ、天下わけ目になどなる筈はないじゃないか、と思いながら、太郎はつい、
「ごめんなさい」
と謝《あやま》った。謝りながら、オレは少し、物わかりの良すぎる子供なんじゃないだろうか、と思うのであった。大体こういうものは力関係で、ふつうは親の方が物わかりいいものなのだが、うちのように、親が物わかりがわるいと、せめて子供の方で物わかりよくしなけりゃならないような気になるから、おかしなものだ。
山本正二郎は、五分ほどで帰って来た。今日は、大学の授業のない日なのである。そして彼が家からふらりと姿を消す時は決って、本屋なのである。
「ああ、今日は、オレ、よかったなあ」
太郎は、父親の顔を見ると言った。
「何だい」
「帰りに、五月さんに会えて、口きけたもんね」
「誰《だれ》だい、五月さんて」
「一年上の、茶《さ》道《どう》部《ぶ》なんかにいたこともある人さ」
「美人か?」
「決ってるよ。オレ面食いだからね」
「あなたたちの年には、年上の女がステキに見えるんでしょう」
母は眼鏡を人さし指でずり上げながら言った。
「ねえ、お父さん、よく女の子がさあ、男の子のどこに惹《ひ》かれますか、っていうようなジュニア雑誌のアンケートに、《眼《め》》なんて書いてるけど、あれてんで嘘《うそ》っぱちだよな」
「どうして?」
「だって眼は顔の真中《まんなか》についてるじゃないか。ぱっと眼を見れば、顔は全部見えるよな。だから、やっぱり初めに見るのは顔さ」
「スタイルはどうでもいいの?」
母が尋《たず》ねた。
「僕は顔だね」
「旧式だね、センスが」
母がバカにしたように言った。母はいつも言《こと》葉《ば》遣《づか》いが悪いのである。
「昔はそうだったのよ。顔が大きくて六頭身くらいでしょう。坐《すわ》ってお見合いすれば、見えるのは顔だけよね。だけど、今は、美の観念も違《ちが》うと思ってたのに」
「顔のいい人は、スタイルも悪くないよ」
「それはまちがい」
父は言った。
「木村の小母《おば》さん、戸田の小母さんを見てごらん。顔はずいぶんまずいが、スタイルはかなりいいぞ」
「そらあまあ、そうだけど」
「女を見るには三つの方法がある、ということを、僕は昨日、エッセイに書いて渡《わた》したばかりだ」
山本正二郎は言った。山本にはいわゆるタレント教授のような面もある。時々雑文などを書いて原稿料をかせいでいるのである。
「第一の方法は、コタツ型だ。久米《くめ》正《まさ》雄《お》という小説家の『破船』という小説を読めばわかる」
「どういう小説なの?」
太郎は小説というものを全くといっていいほど読まない。高校入試の時、或《あ》る私大の付属の試験を受けてものの見事に落第した。失敗の一つに、「次の作家と作品を結べ」というのがあって、作家が五人と、作品が五つ書いてあった。太郎はそれを次のように結んだのである。
「金閣《きんかく》寺《じ》――太宰治《だざいおさむ》
新生《しんせい》――三《み》島《しま》由紀夫《ゆきお》
斜陽《しゃよう》――島崎藤村《しまざきとうそん》
こころ――武者小《むしゃのこう》路《じ》実篤《さねあつ》
真《しん》理《り》先生――夏《なつ》目《め》漱石《そうせき》」
「これだけ完全にまちがえるのは、むずかしいやな。よくやった」
山本正二郎はその時、ホメてくれた。母は笑い転げていた。
「こころ――武者小路っていうのだけは、まちがいないと思ったんだけどなあ」
「何で、金閣寺が太宰治なんだ」
「だってさあ、何だか、そう思ってみると、そう思えて来ない?」
「私は、少なくとも明日くらいまでは、これを思い出す度《たび》に笑えるわね」
母が涙《なみだ》を拭《ふ》きながら言った。見ようによっては、母は息子が試験に失敗したことを嘆《なげ》いているように見えたかも知れなかった。
「そうかなあ、そんなに、この答案おかしいかなあ」
それ以来、太郎は、文学となると自信がない。
「コタツ型というのは、コタツの中で、他《ほか》の人には知られないように女の手を握《にぎ》ったりするやり方なんだ。つまり、近距《きんきょ》離《り》型さ。その場合は、顔より他に見る方法がない」
「その次は?」
「客間型だね」
「何という小説を読めばいいの?」
「そうだな。菊《きく》池《ち》寛《かん》の『第二の接吻《せっぷん》』かな、これは、客間で向い合うもんだから比《ひ》較《かく》的近くから、ちょっと腰《こし》つきなんぞも見る訳だ」
「へえ」
「その次は、広場型さ」
「『広場の孤《こ》独《どく》』という小説があったね。野《の》間《ま》宏《ひろし》だ」
太郎が先廻《まわ》りして言った。
「『広場の孤独』は堀《ほっ》田《た》善《よし》衞《え》だ」
山本正二郎は訂正《ていせい》してから言った。
「この場合は、もうこまかいとこは見えない。何となく、感じがいいか悪いか、安物でも何でも流行の服を着てるかどうかが問題になるだけだ」
「ふうん」
「自分は今、どのレンズで見ているか考えなさい。写真機だって、焦点《しょうてん》はその三通りに分れているんだから」
3
翌朝、太郎は珍《めずら》しく早く起きた。御多《ごた》分《ぶん》に洩《も》れず、太郎の母親も、朝飯《あさめし》に味噌《みそ》汁《しる》など作らない。山本家は、好むと好まないとにかかわらず、朝はパン食である。只《ただ》、母は、息《むす》子《こ》のためだけには、卵か、肉か、肉と卵か、何かお腹《なか》に保《も》つようなものを作る。
太郎は、洗面所から出た所で、卵を二つ手にダイニング・キッチンからやって来た七十二歳の祖母とすれ違《ちが》った。
祖父母は、まだ元気で庭にヤサイ畑など作っているので、(父の話では、二人は戦争直後の自給自足を最上のものとする道徳観が抜《ぬ》け切っていないのである)普《ふ》段《だん》は二人きりで、離《はな》れの小さな台所で好きなものを作って暮《くら》しているが、時々、塩を切らしたり、ソースがなくなったりすると、母《おも》屋《や》の方へこうして取りに来るのである。
「おばあちゃん、おはよう。おばあちゃん、美人だね」
太郎は祖母の肩《かた》を馴々《なれなれ》しくたたいた。
「何なの、その挨拶《あいさつ》は」
「一週間くらい前から、へンな練習を始めたんですよ、おばあちゃん。誰《だれ》にでも美人だ、美人だ、っていうんですよ」
母がダイニング・キッチンからどなった。祖母は少し耳が遠い。
「へえ。それが何の役に立つのかね」
「立つよう。だけどこれ、タイミングがむずかしいんだ。それで練習してるの」
「お父さんが、又《また》、ハッパかけるからいけないんですよ。お父さんは誰にでも《僕《ぼく》と結婚して下さい》っていうのが口癖《くちぐせ》だったんだから」
母がもう一度、どなった。
「あのね、おばあちゃん、こういうのは、レンコしなきゃいけないんだ」
太郎は言った。
「蓮根《れんこん》?」
「違いますよ。レンコ、ほら、選挙の時、やるでしょう」
「何回も言うんだね」
「何回もじゃないんだ。誰にでも、言うんですよ。おばあちゃん、美人だね、母さん、美人だね。五月さん、美人だね。こういう具合」
勿論《もちろん》、祖母は最後の名前はわからなかった。第一太郎も、五月さんにはとうてい、そんなことをいう勇気はない。言ったら、絶交されそうな気がする。
「おばあちゃん、つまり、こういうことは、誰にでもいうと、だんだん効果が薄《うす》れるのよ。だから、いいんだよ」
「下らないとこだけ、お父さんに似て、変な子だよ」
祖母はそう言い捨てて行ってしまった。入れ違いに父親が下りて来て太郎と一緒《いっしょ》に食卓《しょくたく》についた。山本はどんなに前夜おそくとも、とにかく朝食だけは息子と食べるのである。
山本正二郎は、決して美男ではない。背だけはかなり高いが、ガリガリに痩《や》せていて、ダボハゼが眼鏡《めがね》をかけたような顔をしている。
「おばあちゃんがあきれてましたよ」
母が父にことの次《し》第《だい》を御注進に及《およ》んだ。
「僕《ぼく》が大学の二年の時、初めて、女子学生が入って来てね」
山本正二郎は言った。
「もう嬉《うれ》しかったね。女の子が入るというだけで、わくわくしてね、早速《さっそく》上級生に知らせに行ったんだ。階段を三段ずつ飛んでさ。第一、その人の名前もよかったよ」
「何ていうの?」
「門脇《かどわき》志摩子《しまこ》さんていうんだ」
「大していい名前じゃねえよ」
太郎は水をかけた。
「ところが、僕にはすてきに思えた訳さ」
「上級生は何て言った」
「ばか、慌《あわ》てるな。オレはもう、身上調査してある。彼女《かのじょ》は、お前より三つ年上だ」
「お父さん、それで失望したんだね」
「しないさ。何しろ彼女は秀才《しゅうさい》だからね。志摩子さんにつきまとって損はない、と見《み》極《きわ》めたんだ」
「結婚して下さいって言ったの?」
「そんなこと、恐《おそ》ろしくて言えるもんか。そんなこと言ったら、ノートを貸して貰《もら》えなくなるからな」
そうだ、五月さんには参考書を借りよう、と太郎は心の中で考えた。
「だけど、とにかくつきまとった。講義の登録をする時も、志摩子さんのところへ行った」
「何故《なぜ》?」
「何でも構いません。同じ課目を取ります、って言ったのさ。その方がノート借りるのに便利です」
「志摩子さんどうした?」
「笑い転げてた」
「そうだよな、とにかく女ってのはバカ真面《まじ》目《め》だからね。野《や》郎《ろう》にはどうしても、あの真似《まね》はできないね」
そう言ってから、太郎は急に、
「あ、今日から、僕、十五分くらい、早目に行くから」
と立ち上った。
「何があるんだい」
山本正二郎は、コーヒー茶碗《ぢゃわん》から顔をあげて尋《たず》ねた。
「ちょっと、陸上部のことで打合せがあるんだ」
「ふうん」
「じゃ、いって来ます。母さん、美人だね」
「余計なこと言ってて、お弁当忘れても知らないわよ」
「はい、わかりました」
太郎が出て行くと、山本正二郎は、信子の顔を見て、
「あれは、五月さんと待合せるんだ」
と言った。
「そうかしら」
「まちがいない」
その頃《ころ》、太郎は、山本正二郎が言った通り、D駅のホームで五月さんを待っていた。駅まで、イダテン走りで、得意の駆《か》け足でやって来たのである。
ホームには五月さんの姿はなかった。太郎はうろうろと、貧乏《びんぼう》ゆすりをしながら待った。ホームに、悪書追放の「白いポスト」がある。家へ持って帰って子供に読ませたくない「悪書」はこの中に捨てて下さいという、おせっかいなポストである。そこに印刷物がつっ込《こ》まれているのを見ると、太郎は時間つぶしに引き抜《ぬ》いて見た。とたんに顔をしかめた。「都のお知らせ」と地下鉄債券《さいけん》の広告である。もう少し色気のあるものを期待していたので、太郎は顔をシカメて、もと通りに捨てた。もっとおもしろいものが、中に入っているだろうに、手が入らない。太郎は、電車を三台やり過した。
「遅《おそ》いなあ」
独《ひと》り言《ごと》も言ってみた。今日は五月さんは休みかも知れない。それを待っていて遅《ち》刻《こく》したら、オレはまったく笑いものだな、とも思った。もう二台やり過した時、やっと五月さんの姿が見えた。
「あ、おはよう」
あ、という、一言の言い方がむずかしい。びっくりした、という感じをこめられれば上出来なのだが、芝《しば》居《い》なれていないから、何となく不自然になったような気がする。
「おはようございます」
「僕、この前のに、ちょっとのところで乗り遅《おく》れちゃって……」
どうして、こう、男というのは、下らぬ嘘《うそ》をつかねばならぬのか、と太郎は考える。その愚《おろ》かしさたるや、まさに女みたいだ。
「山本君でも、乗り遅れることあるの? 脚《あし》が速いのに」
「いつも、この電車ですか?」
今度はうまく行った。さらりと聞けた!
「そうよ」
「これでも、間に合うんだな。じゃ、僕もこれにしようかな」
うまく行った! 太郎は天にものぼりたいような気持だった。爽《さわ》やかな朝であった。
第二章 身上相談
1
山本太郎の部屋《へや》は六畳《じょう》の洋室である。一隅《いちぐう》にタンスがつくりつけてあって、中に背広が一着と、ふざけたネクタイが、二、三本つるしてある。
背広は、背《せ》丈《たけ》が伸《の》びるのが停《とま》ってから買ってもらった。しかるべきところで、年に一、二回洋食を食べる機会があるので、母の命令でつるしの既《き》製服《せいふく》を買ったのである。
南に面した窓の戸袋《とぶくろ》の裏の部分には、本棚《ほんだな》がある。上の方が単行本で、下の方に雑誌類が突《つ》っ込《こ》んであった。
雑誌はさまざまなものがおいてある。「リング・サイド」「月刊・釣《つり》」「陸上ニュース」「考古学雑誌」「月刊・熱帯魚マガジン」
山本太郎は、本だけは、月々四千円までの範《はん》囲《い》で自由に近所の本屋から買っていい、という許可を貰《もら》っている。四千円の小《こ》遣《づか》いに、四千円の本代が加わるとかなり高額になるが、私立高校へやっていると思えば、それくらいのことは仕方あるまい、ということで、父の山本正二郎《やまもとしょうじろう》が認めたのである。
もっとも、四千円の範囲でなら何も報告しなくてすむという訳ではない。父は、月末に本屋のつけが廻《まわ》ってくると、ちゃんと内容を点検するのである。
「おい、信《のぶ》子《こ》」
「何です」
「お前、『月刊・社員食堂』っていう雑誌買ったか?」
父が聞いている。母は翻訳《ほんやく》の仕事の参考に時々おかしな本も買うのである。
「『月刊・社員食堂』? そんな本、私買いませんよ。本屋のまちがいじゃない? あそこの来たての店員、時々そそっかしいことやるから」
そこに至《いた》って、太郎は初めて他人の名《めい》誉《よ》を救うために声をかけねばならなくなる。
「僕《ぼく》だよ、買ったのは」
「何でこんなもの買ったんだ」
「あのね、よその会社の社員食堂で何食べてるか知りたいから買ったんだ」
「持って来てごらん」
ちえっ、めんどくせえなあ、と思いながら太郎はのろのろと雑誌の中から、目ざすものを引きずり出して茶の間に持って行った。
「何だ、メニューは大して出てないじゃないか」
「そうれね、お父さんだって興味あるじゃないか。僕はね、給食の機械類がみたかったのよ、たとえば、ほら、ここにギョーザの成型機ってのが出てるでしょう」
ギョーザの成型機の能力は、毎時、千二百から三千四百個である。コンクリート・ミキサーではないが、上にホッパーがついていて、そこに具を入れておくと、ベルトコンベヤーに乗せられたギョーザの皮に等量ずつの具が自動的に入り、後は型じめで、ちゃんとひだをとったギョーザができ上るようになっている。
「ふうん、大したものね」
母も感心して眺《なが》めている。
「お母さん、今に僕が偉《えら》くなったら、この機械買ってあげますよ。そうしたら、お母さん、一時間ヒルネしているうちに、三千四百も、ちゃんとギョーザができてるのよ」
「陸上ニュース」は太郎のもっとも愛読する雑誌である。
「かっくいいなあ」
などと言いながらひとりで眺めている。それから、「今年、勝ち抜《ぬ》くための、年間トレーニングのスケジュール」というような欄《らん》をぱらぱらと眺める。
《常に希望を大きく持とう》
「諸君の今年の目標は、数年後のさらに大きな目標のために活《い》かされねばならない」
太郎の目下のところの、百米《メートル》の記録は一一秒四である。日本百傑《ひゃっけつ》では、日大のJが一〇秒三、高校では、静岡のSが一〇秒六だ。ちと桁《けた》が違《ちが》う。いくら何年先に目標をおいても、自分の名前がこの雑誌に印刷されることはまずあるまい、と思う。悲《ひ》哀《あい》がちょっぴり胸を締《し》めつける。
《問題意識をもって常に練習法を反省せよ》
「へ、そんなこと言われなくったって、考えてらあ」
と太郎は内心思う。速くなるのは練習もあるけれど、それより、もっと大きいのは素質であることはわかり切っている。それだけに胸がツライのである。
父は太郎の買った雑誌を何でも見る。
「運動選手の写真というのは、ことごとく醜《しゅう》悪《あく》だね」
父は太郎に大《おと》人気《なげ》もないことを言う。
「男も女も、どうだ、この顔。人間の顔とは思えないね」
「そうかな、このフォーム、かっこいいわア」
「これは女か男か?」
正二郎は女子ハードルの写真をさしながら言った。
「女だよ」
「あられもない」
「お父さんの心情がエッチなんだよ」
「この方がまだいい」
百米決勝のゴールの写真であった。
「この阪《さか》田《た》さんという子はちょっといい」
「何だい、そんなのブスだよ」
「この荒本《あらもと》さんって子も、ややいい」
「イモ!」
「ちょっと太郎。ブスとイモとどう違うの?」
母が尋《たず》ねた。
「ブスはブス、イモはイモだよ」
ほんとうは太郎は彼女《かのじょ》らのことを悪く思っている訳ではない。しかし父親にハードルの三《み》浦《うら》 朱《あけ》美《み》さんのことをけなされたので、すっかりむくれてしまったのだ。
こういうばからしい会話が中断されたのは、間もなく父のところに、L社という出版社から、いつも山本家へやって来る岡《おか》谷《や》さんという編集者が訪ねて来たので、太郎は自分の部屋に引き下ったからであった。
「へえ、この『陸上ニュース』、これ」
岡谷さんの感にたえたような声が聞えた。
「これ、お宅の社で出してるんだよ」
正二郎は言った。
「それは知ってますが……正直言ってこんな雑誌誰《だれ》が買うのかと思ってました」
「うちの息《むす》子《こ》のような奴《やつ》が買うんだ」
「少なくとも、お宅で確実に一冊は売れてんだなあ。不思議なもんだなあ」
太郎は時々、大人の声を煩《うるさ》いなあ、と思いながら聞いている。
部屋には、古いベッドがある。スプリングが安物なのと、あまり昔《むかし》から使っているので、真中《まんなか》が凹《へこ》んでしまい、端《はし》の方で寝《ね》ようとしても、どうしても物理的に真中へ戻《もど》って来る。
壁《かべ》にはさまざまなものがはってあるが、中でも目立つのは、印《イン》度《ド》エレファンタのトリムールティ(ブラーフマー・シヴァ・ヴィシュヌの三面神像)のポスターである。これは航空会社の印度旅行の宣伝なのだが、気に入ったので貰って来たのである。太郎は文化人類学か、美術史にかなり本気で惹《ひ》かれている。だからこの七世紀のヒンドウの神々にも興味ない訳ではないのだが、時々このポスターをいろいろな風に使うのである。
この神々は、いずれも部厚い唇《くちびる》をしているのだが、その時々に、ちょっと大切なものをこの唇のところに画《が》鋲《びょう》でとめておく。たとえば、バスの回数券、耳鼻科の医院の診察券《しんさつけん》、明日友達に返さねばならぬ千円札などである。すると本当に、シヴァやヴィシュヌが、これらのものをくわえているように見える。
太郎はベッドにひっくり返って、このポスターを眺めた。すると、今日はその三面神が、思いなしか、三人の人間に見えて来た。
自分と小《お》川《がわ》次《つぐ》男《お》と、もう一人の男である。いずれも五《さ》月《つき》 素《もと》子《こ》さんをめぐる男たちである。
2
山本太郎は、二日ほど前初めて、五月素子さんの家を訪ねたのであった。
五月さんとコネクションをつけるには、いらなくなった参考書を借りるのが一番だと思って、前々から頼《たの》んであったのを、その日に持って来てくれるという約束《やくそく》だったのに、五月さんは学校を休んだのであった。
何の約束もなかったのなら、五月さんを見《み》舞《ま》う口実もなかったのだろうが、今日ならば見舞いに行っても不自然でないような気がする。
太郎は古本屋へ寄り、漫《まん》画《が》本《ぼん》を三冊買った。相手のことを考えずに自分の好きなのを買った。これが五月さんへのお見舞いである。
五月さんがどんな家に住んでいるかが、太郎の興味だった。少女雑誌に出て来るような家ではいやだな、と思った。太郎はなぜか洋館に住んでいる娘《むすめ》が好きではない。
何回か人にきいて、やっと探し当てた、五月さんの家は、思いがけず小さな木造の民間アパートの二階だった。
「あら」
と顔を出した五月さんの肩《かた》の後ろから、とり散らされたままの台所が見えた。玄関《げんかん》がダイニング・キッチンについているのだが、ダイニング・キッチンという空間は、常に緊張《きんちょう》してかたづけておかなければ、たちどころに乱雑な台所に堕《お》ちるという点で、まことに厄《やっ》介《かい》なものである。
「病気じゃなかったの?」
「違《ちが》うの。お父さんが悪くて、お母さんがちょっと出なきゃいけなかったもんだから。今ちょっと待ってて。私、お父さんに断わって来るから」
「うん」
太郎は、外の通路のところで待っていた。やがて五月さんが、赤いセーターに、モスグリーンと黄色とオレンジのチェックのスカートという姿で、手に参考書をもって出て来た。
「お父さん、ほったらかして来ていいんですか?」
「ちょっとくらいならいいのよ。只《ただ》、ひどいリューマチで動けないから、もし火事でもあった時、誰《だれ》かいないと困るでしょう。ごめんなさいね。うち、狭《せま》くて、お客さまをお通しするところもないのよ」
五月さんははずかしそうに、しかし、きっぱりと言った。
「うちもですよ」
太郎は言った。
「おふくろが、ダイニング・キッチンの一隅《いちぐう》でいつも、ずだ袋《ぶくろ》みたいなスカートはいて、頑《がん》張《ば》ってるしなあ。僕《ぼく》の友達《ともだち》来たって、《ほい、××君来たかア》って口の先で言うだけで、金儲《かねもう》けに熱中してて顔もあげやしないんだから」
「でもねえ、うちは暗いのよ。お父さんが病気してても、明るければいいんだけど。うちはね、いろいろと運の悪いことが重なったの。お父さん、病気する前に、叔父《おじ》さんの会社がつぶれかかってたの。お父さんは叔父さんのやっている小さな会社の共同経営者だったのよ。会社が倒《たお》れて間もなく、お父さんの病気でしょう。家も抵当《ていとう》に入れて、その挙《あげ》句《く》売ってしまったし、退職金なんてものも貰《もら》えないし、お父さんは働けないし……それですっかり希望を失っててね。男の癖《くせ》に時々ひどく泣くの」
「人生ってのは、暗いのが普《ふ》通《つう》でしょう。うちのおふくろは、いつもそう言いますよ」
「山本君は、だけど、今、ふしあわせじゃないでしょう」
「僕は、まあ、エゴイストですから、常に外界のことにあまり心を煩《わずら》わさないようにしてるんです。僕にとっては、親も外界だから」
「そう」
五月さんは、驚《おどろ》いたような眼《め》で太郎を見た。
「僕《ぼく》はね、こないだ、しみじみ考えたんです。親が死んだら悲しいだろうかって。そうしたら、あまり悲しくないような気がしました。それで僕は、おやじにも、おふくろにもそう言ったんです」
「そんなこと言ったの? 気を悪くなさったでしょう」
「うちの両親はドライですからね。けっこう、けっこう、と言ってました。要するにあの二人は、僕がいつ孤児《こじ》になってもいいように、それを唯一《ゆいいつ》の目標に、昔《むかし》から育てて来たんです。だから僕は、御期《ごき》待《たい》にこたえて言うんです。世界中の人が原爆《げんばく》で死に絶えても、僕一人は生き残りたいですって」
「生き残ってどうするの?」
「まあ、できる限り楽しくやります。工《く》夫《ふう》してね。石ころでゴルフの真似《まね》するとか、魚の死《し》骸《がい》を集めてシオカラを作るとか、イヴはいないけど楽園ごっこをするとか、せっかく町が壊《こわ》れたんだから新しい広大な都市計画を考えるとか」
五月さんはくすくす笑い出した。
「山本君は、本当に強いのね」
「仕方ないんですよ。何もかも仕方ないでしょう」
「忘れてたわ。これが参考書と問題集」
五月さんは、デパートの包紙《つつみがみ》できれいにカバーした本を何冊か渡《わた》した。
「すみません。これ、お礼の漫画の本です。五月さんにと思ったけど、お父さんに上げて下さい」
「ありがとう」
「古本なんですよ。それと問題集はまだ五月さんがいるんじゃないかな」
「いいの、私、大学へは行かないことにしたの」
五月さんは笑いながら言った。
「本当は、私、学校をやめて、今すぐにも働きに出ようかと思ったの。だけど、お母さんが、後一年くらいなら、何とかなるから、その間お母さんだけがアルバイトするからって言ってくれたの。誰にきいても、高校くらいは出ておいた方がいいって言うでしょう。でも、うちにはまだ、中学二年の弟がいるのよ。その弟は大学へやってやりたいわ」
「もったいないなあ、五月さんみたいにできる人が勉強しないのは」
「ううん、こういうことがあってから、自分でよくよく考えてみたら、私、学問そんなに好きじゃないってことがわかったの」
「そんなことはないよ、五月さんは勉強好きだよ。でも、勉強ってのは、何も学校へ行かなくてもできますよね」
「そうね。私、働き出して、少し馴《な》れたら、一年か二年遅《おく》れて、大学の夜間部へ行こうかとも思ってるの」
「夜間部はいいですね」
太郎はとたんに別の情景を思い出した。
「僕、時々陸上の練習おそくなって帰ろうとすると、うちの学校の門の所で、夜間部の学生とすれ違うでしょう。話をすることもあるんだけど、夜間部の人って金持ってますよね。タクシー乗りつけるのもいるもの。コックの修業してる人に話を聞いたんだけど、かなり高給とりらしいな」
五月さんは又《また》、げらげら笑い出した。
「山本君の話聞いてると、何だか私も今に、お金持になれそうな気がして来たわ」
「なれますよ。その節はどうぞ、僕におごって下さい」
太郎はひどく満足であった。
五月素子さんと、桜吹雪《さくらふぶき》の中を歩いたのだ。五月さんの家のあたりには、まだ所々に桜が残っている。自動車の排《はい》気《き》ガスで、並《なみ》木《き》もかなり枯《か》れたし、個人の家でも、敷《しき》地《ち》一ぱいに家を建てるのに邪魔《じゃま》だと、桜の老木でも平気で切ってしまうらしい、と五月さんは言っていた。
それでも、ところどころに桜はあって、桜の花なんて別にちっとも美しいとは思わないけど、五月さんの髪《かみ》に花びらが一つひっかかっていたのは悪くなかった。
山本太郎は、そこで、その一ひらの花について、かなり「哲学《てつがく》的な」考えをめぐらしたのであった。
花びらを、五月さんの髪からとってやるべきか否《いな》か、太郎は考えてとらなかったのである。西欧人《せいおうじん》なら、これをすぐにとってやるのではないか。しかし、太郎は自分は日本人だから、と思っていた。おまけに、時々、「オレは保守的だから」と思うこともある。他《ほか》の高校生は知らないが、保守的だと自負することは、進歩的だと自負するのと同じ程度に、誇《ほこ》りと関係があるのである。若いうちは保守的に、年をとったら進歩的に、というのも悪くはない。何でも、皆のやる通りやるなんてのは、どうもあまりすてきではない。これには父親の感化もかなりある。
「火《か》焔壜《えんびん》投げるようなのは、年とった後で必ず、組合をおさえるようなのになりますからなあ。お宅の会社でも、安心して採用なさるといいです」
と山本正二郎はとぼけた顔でずけずけ言う。その後で、本当に教え子のゲバ学生を一人、知り合いの小さな建設会社に押《お》し込《こ》んでしまった。
「何しろ、ここ何年て、もっぱらへルメットかぶって、角材もちなれてるんですから。お宅さんの会社で、すぐ山奥《やまおく》の現場へ叩《たた》き込んで、保《ほ》安帽《あんぼう》かぶらして測量の棒もたせても、役に立つと思いますよ。なあにスタイルまで同じなんだから」
そして驚いたことに山本正二郎は本当に感謝されたのである。使ってみたら気のいい子で、いそいそと働き、仲間うちからも評判いいというのであった。
とにかく、五月さんと一緒《いっしょ》に花吹雪の中を歩けた! 今日のことは一生忘れまいぞ、と太郎は感激《かんげき》したのである。
ところが、感激は二日と保《も》たなかった。
今日、太郎は陸上の練習の時、小川次男に呼びとめられたのである。
3
「五月さんとこへ行ったんだって?」
小川は太郎を見下ろすようにして言った。小川は百八十糎《センチ》も身長がある。
「行きました」
「実は、ちょっと弱ったことがある」
「何です」
「C組の祖父江《そふえ》正《ただし》って知ってるだろう」
「口をきいたことはないけど、顔は知ってるな」
「あいつが、五月のことについて悩《なや》んでるんだ」
「へえ」
何をひとの代りに悩むのだろう、と太郎はさっぱりわからなかった。
「五月さんは、進学をやめるそうだよ」
「そう言ってました」
せっかく、自分にだけ身上相談をしてくれたかと思ったのに、と太郎はちょっとがっかりした。
「祖父江はそのことについて悩んでる」
「へえ」
「何とかして、自分の力で、彼女《かのじょ》も進学させる方法はないかと考えてる」
「馬券でも買うのかな」
「ばか」
「すみません」
太郎はそこでやっと、事の重大さに気がついたのだった。
太郎は、今改めて、インドの三面神像を見つめる。五月さんは祖父江には何と言ったのだろう。五月さんは、祖父江のそういう気持を高く評価しているのだろうか。自分は五月さんから身の上話をされた時、祖父江のようには全く反応《はんのう》しなかった。「大変だなあ、五月さん、偉《えら》いなあ」と思っただけだった。自分はひどく幼《よう》稚《ち》なのだろうか。
太郎が瞑想《めいそう》を破られたのは、その時、下に聞き覚えのある声がしたからだった。それは女の声だった。L社の岡《おか》谷《や》さんは帰ってしまったらしい。中学も同じなら、高校も同じところにふり当てられた黒谷久《くろたにひさ》男《お》の母の声なのである。
「ごめんなさい、山本さん、こんな夜におじゃまして」
黒谷のおふくろのいい点は、太郎の母のことを、「奥《おく》さま、奥さま」などと言わないからである。名なしの権《ごん》兵衛《べえ》じゃあるまいし、ちゃんと名前を呼んだらいいのだ。
「どうなさったの?」
信子が客を通しながら聞いている。
「実はね。身上相談に上ったの」
何だ、あっちもこっちも身上相談じゃないか、と太郎は聞き耳をたてた。
「実はね、主人の会社の金沢支店の支店長さんが、一週間ほど前に、お酒飲んで酔《よ》っ払《ぱら》い運転して、電柱に頭ぶつけて死んだのよ」
「まあ」
主人の会社というのは、黒谷久男のおふくろの場合は主人の勤めている会社という意味である。
「お気の毒だ、って言い合ってたら、急に、そのポストが主人に廻《まわ》って来たの」
「あらまあ」
「主人はもう、明後日《あさって》立つのよ。それで、私たち家族もね、向うに社宅があるから移れ、っていわれてるんだけど」
「久男さんは動けないでしょう」
「あの子は、喜んで転校しますよ、なんて言ってるけど、今、世間で、そんなことなさるお宅ないわよ。高校二年生にもなって転校するなんて。それも、二月とか三月とかなら、新学期から編入の方法もあるかも知れないけど、四月二十日になって動けやしませんよ」
「じゃ、旦那《だんな》さま一人でおやりなさいよ」
「それがあの人、どうしてもいやなのよ。何しろ、我儘《わがまま》で我が家でお客をしたいんだから」
「じゃあ、子供を犠《ぎ》牲《せい》にするんだわね」
太郎の母は愛想《あいそう》がわるい。あまりにも歯に衣《きぬ》を着せなさすぎる。
「下の垣《つね》男《お》はまだ中一だから動かしてもいいですけどね。久男は困るわ」
「東京へ置いていらっしゃいよ。時々、うちでも様子見るから」
「その御相談に上ったのよ。昨日は、そのことを考えていて一晩よく眠《ねむ》れなかったわ」
その時、玄関《げんかん》がもう一度開く音がして、
「今晩は」
と黒谷久男の声がした。
「母さん、やっぱりここだな」
「おい、入れよ」
太郎は自分の部屋からどなった。
「あら、太郎君いらしたの?」
黒谷夫人は驚《おどろ》いて言った。
「そうよ、いたっていないふりして隠《かく》れてるんだから。うちはこういう点はなはだ躾《しつけ》が悪いの」
信子が言った。
太郎はズボンのベルトを締《し》めなおしながら茶の間に出て行き、そこで黒谷母子《おやこ》と顔を合わせた。
「小母《おば》さん、今晩は」
「まあ、どうも、おいででないのかと思ったわ」
黒谷夫人は太郎にそう言い、それから息《むす》子《こ》に向っては、
「よくここがわかったわね」
と言った。
「それくらい、勘《かん》でわかるよ。母さんが身上相談しに行くところなんて決ってるもの」
「久男さんは、どっちにしたいのよ。東京にいたいの、それとも……」
信子は尋《たず》ねた。
「僕《ぼく》はまあ、どっちでもいいんです」
太郎はその瞬間《しゅんかん》、黒谷久男とはっと目を合わせた。火花のように視線がとび散った。以心伝心であった。黒谷は親たちと離《はな》れて東京に居残りたがっていることが、太郎にはわかった。
「久男は東京があまり好きじゃないのよ」
「そうだよなあ、金沢へ行けばスキーできるもんね」
太郎が言った。
「それに、勉強もやっぱり東京の方がむずかしいっていうからな。オレ、楽な方がいいんだ」
黒谷久男はちら、と太郎の顔を見返しながら言った。
「県立へ入るのはむずかしいぞ」
「そうだな、まあ私立だな」
「石川県のどこかの学校だぜ、こないだ京都へ修学旅行に行ったとき、殴《なぐ》り合いしたのはな」
「うん、あれはおもしろかった」
母親たちは次《し》第《だい》に不安そうな表情を見せ始めた。石川県の学校が、「出入り」をしたなどということは、本当に二人とも知らないのである。東京の方が学力が高いというデータもないし、学力の高い方がいいとも思っていないのである。只《ただ》、それらの母親たちの引っかかりそうな心理の盲点《もうてん》をついた話をぺらぺらと並《なら》べると、架《か》空《くう》の話は、おそろしい現実感を持って来る。
「やっぱり東京へ置いておくべきかしら」
黒谷夫人は遂《つい》に言った。
「それは、やっぱりその方がいいと思います」
太郎がまともらしい口をきいた。
「うちはまあ、マンションだから」
黒谷夫人が言うと、久男が、
「豪邸《ごうてい》だから」
と言いそえた。彼はかねがね、自分の家のことを「豪邸だぜえ」と言いふらしていたのである。「豪邸だぜえ」といえば、相手も、「なあんだ、たかがアパートじゃねえか」と言いやすくなる。お互《たが》いに自分のことを誇《ほこ》り、相手に対してケチをつけて笑えるようになれば、それらのことはもはや深刻な意味を持たなくなった、ということで、だから、久男は図にのって、「豪邸だぜえ、おれんちは」と言いふらすことになる。
黒谷夫人は、息子をちょっと睨《にら》んでから、
「まあ、鍵《かぎ》を閉めて行けばいいんですから、自《じ》炊《すい》さえすれば、学校へ行けない、ということはないんですけどね」
「桃色遊《ももいろゆう》戯《ぎ》をするのに丁度だなあ」
黒谷が呟《つぶや》いた。
「いやあ、そんなことをしちゃいけないよ」
太郎がちらと久男の顔を見ながら先手を打って言った。
「しかし、麻雀《マージャン》や、花札《はなふだ》するには気楽だなあ」
「どぼんにもいいぞ」
「こないだ、オレ、十八円勝ってなあ。へへへ」
「そうだ、十八円、十九円までは点がつくけど、二十円はなかなか行かないね」
「いつも、ズボンのポケット一円玉でじゃらじゃらさ」
信子が息子たちに尋ねた。
「何で賭《か》けるの?」
「主《おも》にサイコロ」
「丁、半」
「馬券」
「ブリッジ」
「宝くじ」
「黒谷さん」
信子が言った。
「この子たちの手にのらないほうがよろしいわよ」
「そうね」
黒谷夫人もうすうす感づいたようだった。
「大体、口のやかましい連中は、あまり実行しないものよ。犯罪を犯《おか》すのは、いつも決って、あんなおとなしい子がっていうようなのばかりですもの。お宅にしても、うちにしても、宣伝ばかりだから」
「それは考えが甘いよ」
太郎が言った。
「うちの子に限って、というのが、まちがいのもとなんだぜ。警察へ行って聞いてみなよ。親のそういう思い込《こ》みが一番いけないんですよ。小母さん、『青少年犯罪』って雑誌、貸してあげましょうか。どういう家庭環境《かんきょう》が一番、犯罪化しやすいか、ちゃんと統計でてるんですよ。それによるとですね。極貧《ごくひん》の家庭と、富《ふ》裕《ゆう》階級の家庭の子供には意外と犯罪が少ないんです」
「とすれば、オレは大丈夫《だいじょうぶ》だな。うちは富裕階級だから」
黒谷がまたふざけた。
「一番危ないのは、中産階級の、それも、アッパー・ミドルと呼ばれている層です。犯罪の絶対多数がここから出ています」
当り前の話なのである。貧困家庭、富裕階級、共にそれほど数多くはないから、犯罪を犯す青少年の絶対多数も、中産階級に属する道理になる。
しかし太郎が、そのような本を読んだことがあるのは本当なのであった。山本信子はめんどうくさがりやで、自分で読んだ本を子供に話してやったりはしない。婦人雑誌に、「私はこうして夫の浮《うわ》気《き》を防いだ」などという特集でもでていようものなら感心して読んだ挙《あげ》句《く》、ぽい、と息子の方に本をよこして、
「読んでごらんよ、太郎」
と言うだけである。そのやり方のお陰《かげ》で、太郎は、中学生の頃から、「知り過ぎていた悲劇」とか「妻の情事の決算書」という記事も読んだ。
信子ばかりではない。山本正二郎も、息子に本を渡《わた》すのである。
「知能指数」という本もあった。「子供を秀《しゅう》才《さい》にするには」というのもあった。
「なるほど、こいつはいいや」
太郎は「子供を秀才にするには」という本を与えられた時には、思わず独《ひと》り言《ごと》を言ったものであった。親がその本を読んで子供を教育するよりは、子供に直接与えた方が手数がかからないに決っている。母親が薬をのんでそのお乳を赤ん坊に飲ませるより、子供に直接投薬した方が有効だというのと同じである。本当にさぼりやの親たちであった。子供が不良化しないためにといって、「青少年犯罪」という雑誌を買い与える類《たぐ》いだ。もっとも、問題の雑誌は、太郎がやはり自分で会費を払って、申し込んで、送ってもらって読んでいるのである。親たちは何と思っているのか知らないが、犯罪に興味がないといったら、心理学上、ウソになるから、犯罪を犯す代りに、こうしてよその奴《やつ》のやった悪いことを読んでいるのである。
「黒谷さん、とにかく久男さんは東京にお残しなさいよ。学校は大切だから。その代り誰《だれ》か適当なお目付役の人を同居させるのよ」
「そうするべきかしら」
黒谷夫人は不安そうに言った。
第三章 釣人《つりびと》の心境
1
将来の計画を考えねばならぬ時、山本太郎も人並《ひとなみ》に憂鬱《ゆううつ》になることがある。
「青年よ、大志を抱《いだ》け」などと言うは易《やす》いが、大志などというものは、まともに目を開けてあたりを見《み》廻《まわ》したら、そうそう簡単に抱けるものではない。一家ケン族が皆揃《みなそろ》って、日本の経済界を背負って立つような地位にある人なら、大志を抱いて、更《さら》に大きな仕事をしようと考えるのかも知れないが、山本太郎の場合、どっちを見廻しても、大したことにはなりそうにないのである。大志を抱くより、いかに小志を立ててそこに踏《ふ》みとどまるかが、現実である。
ごく小さい時、山本太郎は海に憑《つ》かれた。父の従兄《いとこ》が、三浦半島の海辺で寺を持っているので、よく、そこへでかけては、一日中、海で過したのである。あまり太郎が海が好きなので、山本家でも、そのうちに、寺の隣《となり》の土地を買って家を建てた。まだその頃《ころ》は土地が安かったのである。
寺に入りびたっている時に、山本太郎は浜《はま》で、一人のお兄ちゃんと知り合いになった。それが小《こ》堀《ぼり》流という日本泳法のうまい大学生だった。太郎はそのお兄ちゃんに、みっちり、ただで水泳をしこんでもらった。習い始めた年にもう、六百米《メートル》の湾《わん》を泳ぎ切った。日本泳法は早い速度では泳げないが、水の読み方を習える、という。つまり、さまざまな水流がそれぞれに持つ危険をあらかじめ発見できるような、水との対処法を習うのである。
泳ぎができると、太郎は両棲類《りょうせいるい》になった。一日中、シュノーケルをつけて海に潜《もぐ》っている。海中の世界の美しさにとり憑かれたのである。ついでに安いモリを買ってもらって、タコ、アイナメ、ベラ、メジナなどを突《つ》いて来るようになった。
太郎の父親の山本正二郎《やまもとしょうじろう》は大人《おとな》気《げ》のないところがあるから、息《むす》子《こ》が原始人のように日々の糧《かて》を稼《かせ》いで来るとひどく喜んでいる。
「結構だね。人間、何としても食いものを自分で探せるということが、第一だ。第一、経済的にもたすかる」
太郎は、父親にそそのかされて、とって来たタコもちゃんと料理するようになった。まず塩でもんで、その間にお湯を沸《わ》かす。お湯が煮立《にた》って来たら、タコの頭をつまんで、爪《つま》先《さき》の方をちょいちょいと、沸騰《ふっとう》しているお湯の面につける。すると脚《あし》が、くるりとカールして見ばのいい茹《ゆ》で上り方をする。
山本正二郎の友人に江藤忠作《えとうちゅうさく》という作家がいて、山本は彼を海の家へ招待したことがあった。
「このタコもメジナも太郎が突いて来たんだ。メジナは少し小さいが、夏が旬《しゅん》だから食ってくれ給え。それから、このアサリは、この先の、女優の花《はな》木由香《きゆか》さんの別荘《べっそう》の下の砂浜で太郎が掘《ほ》って来たものだ。花木由香さんのお使いになる水洗便所の水が適当に流れ込《こ》むところで育ったアサリだから、特にうまい。このサザエも、今日は折よく大潮《おおしお》だから、太郎が拾って来た。それから、このカキナのごまあえは、隣のドイツ人が飼《か》っている犬が決って糞《ふん》をする海岸の道に生えている。いい緑だろう。とにかくとりたてだ。さっき太郎に摘《つ》まして来た。カキナは胃《い》潰瘍《かいよう》によく効《き》くというから、うんと食ってくれ」
江藤忠作は、次《し》第《だい》に不愉《ふゆ》快《かい》そうな顔をし始めた。
「つまり、お前は、オレにごちそうすると言ったが、全部ムスコにタダで拾って来《こ》さしたものばかりじゃないか」
太郎は海の世界に憧《あこが》れた。小学校の低学年の頃は、魚屋か、大きな漁船の漁労長か、さもなくば魚の学者になろうかと考えていた。魚の学者になってウナギの産卵の場所を発見し、大儲《おおもう》けをするのも悪くないなあ、と思ったこともある。
魚屋になったら、とにかく正しい名前を商品につけようと思った。今の魚屋は、魚の名前を知らなさ過ぎる。アナゴとギンアナゴ、メバルとタケノコメバル、ホウボウとカナガシラの区別さえつかない店員もいる。つい腹が立ってまちがいを指《し》摘《てき》すると、「坊《ぼう》やよく、知ってるね」とごほうびをくれる魚屋もいた。「この子と行くと、トクだわ。今日もこのワカメただでくれたのよ」などと母親の信《のぶ》子《こ》は、いい気なものである。
太郎は、生れてこの方、自分の食べたことのある魚は、皆ノートに名前を書きつけてある。すでに百種をこえて、百四種類くらいの記録になっている。食べたことのない魚が、魚屋の店先のホーローびきの容器の中に、他《ほか》の有名な魚と一緒《いっしょ》に、一匹《ぴき》、二匹、混り込《こ》んでいると、「ねえ、これ買ってよ」とねだった。いつか築《つき》地《じ》の魚市場に、南方産の毒魚タルミがハタとして運び込まれて新聞のニュースになったことがあったが、その時は、母の信子の方が、太郎に尋《たず》ねた。
「太郎、あなた、タルミがまぎれ込んでいたらわかる?」
「わかると思う」
「よかったね。毒魚の鑑定人《かんていにん》にはなれるね」
女というものは就職の口さえあれば、安心するのである。
太郎が、その次になろうと思ったのは、考古学者であった。海からの帰り道で、土器の破《は》片《へん》を拾ったのがきっかけであった。
太郎はその破片に彫《ほ》り込まれた模《も》様《よう》が今でも新鮮に見えるのに驚《おどろ》いた。貝殻《かいがら》か木の枝《えだ》、竹の先などで彫り込んだ条痕紋《じょうこんもん》が数千年昔の人間の作ったものと思えないくらいである。その破片をじっと握《にぎ》っていると、太古の海と嵐の声が聞えた。当時、人々は、どこへ住んだかな、と太郎は思った。冬は日当りよく、夏は風のよく当る、食物の得やすい場所であろう。太郎は実際に、それに当てはまりそうな台地を探して歩いた。すると、そのような場所からは、さらに多くの土器の破片や、太郎が一人で磨《ま》製《せい》石器だと信じ込んでいる石ころや、このあたりには決してない筈《はず》の黒曜石などが拾えた。黒曜石は、鏃《やじり》の材料なのである。
両親は太郎の興味をとくに禁じようともしなかったが、父は、
「考古学なんて、しょせん、一生キャンプして土方するんだから。トロイの遺《い》跡《せき》を掘り当てたシュリーマンなんぞ、例外中の例外だ」
というのである。
「わかってますよ」
「それなら、うちの大学の史学科の連中が発《はっ》掘《くつ》に行くとき、その手伝いをしに行け」
それで、太郎は中学の一年くらいの時から、もう土方の真似《まね》ごとをやりに行かされたのであった。場所は多摩《たま》川《がわ》に面した丘陵地《きゅうりょうち》である。スコップを持つのは初めてなので、さすがに間もなくばてそうになった。それでも口惜《くや》しいので、太郎はどうにか日暮《ひぐ》れまで頑《がん》張《ば》った。住居跡《あと》は出たが、カメ一つ掘り出せたわけではなかった。おまけに着換《きが》えを持って来るのを忘れたので、太郎は泥《どろ》だらけになりすぎ、帰りのバスに乗れそうになかった。彼は約六粁《キロ》の道のりを歩いて帰った。
目下のところ太郎はまだ考古学者になる夢《ゆめ》を捨ててはいない。しかし決めた訳ではない。だから母が、
「おい、太郎、あなた大学どこ受けるのよ」
などと荒《あら》っぽい訊《き》き方をすると本当に腹が立つ。ひとの一生の重大問題を、そう安っぽく口に出さないでくれや、という気がして、太郎はどうしても不機《ふき》嫌《げん》になるのである。
2
夕食の時、山本正二郎は、
「今夜は八時に、山口君が来る」
と言った。
「又肩《またかた》が凝《こ》るんですか」
母の信子が言った。
「うん、どうもよくない」
「もう一度、老眼のテストして貰《もら》ったらどうですか?」
「してもらった」
「私の方が肩が凝るような仕事してるのにね」
「お前もマッサージしてもらったらいい」
「勿体《もったい》ないからやめますよ」
山口君というのは、かつて山本正二郎の大学の教え子であった。数年前、山本の勤めている大学がストをやった時、学生だった山口《やまぐち》百三《ひゃくぞう》は決然と、大学に見切りをつけることを山本に言いに来たのだった。
《先生、僕《ぼく》は、実に残念で仕方がないのです》
彼はその時言った。
《どう残念なんだね。残念なことはいろいろあるが》
山本は、自分が苦労して古本屋を安く買い叩《たた》いて集めた大学の図書館の、大正から昭和の初期の古い雑誌類を、たてこもった学生たちがトイレの紙に使っていると聞いた時も、もうほとほといやになったのであった。
《僕は他《ほか》の学部は、ストをしても仕方がないと思ったんです》
山口百三は言った。
《しかし、我々は創造学科の学生です。創造というものは、新しい試みじゃなくちゃいけない。他の連中のまねをするんだったら、そんなもの創造学科でも何でもないです。ストをしたければその内容を、めいめいが、めいめいの芸術的表現力によって、いかにあらわせるか、考えればいいんです。私は他の学部はしても、うちの科だけはストなんかしないだろうと思っていました。付和《ふわ》雷同《らいどう》してストするようなら、創造学科なんてつぶれちまえばいいんです。私はもうこんな愚《ぐ》劣《れつ》な大学なんか、さっぱりやめます》
《やめるのはいいがね。何をやって食べるつもりかね》
《私は、マッサージをやって食うことに致《いた》します。大学のストの間、せっせと働いてみまして、サラリーマンよりずっとましにやって行けることがわかりましたので》
家がマッサージ師だったので、彼《かれ》は早くから国家試験を受けていたのである。それ以来、山本は時々山口君に肩をもんでもらうようになった。
山口百三は、その夜、八時半頃《ごろ》にやって来た。
「お父さん、山口さんだよ」
太郎は、とりつぎに出た。
太郎は山口百三が何となく好きなのであった。第一、山口さんはいい男である。マッサージ師だから、へなへなしているだろう、などと思ったら大まちがいだ。一見ハンターのような感じである。皆が長髪《ちょうはつ》の時代に、髪《かみ》を短くしている。それでいて自分がいい男だということなど、気づいてもいないみたいだ。
「太郎ちゃん、今晩は。先生、遅《おそ》くなりました」
「いやご苦労さん」
太郎は用もないのだが、父が治療《ちりょう》を受けるために蒲《ふ》団《とん》の敷《し》いてある六畳《じょう》の茶の間に、何となく、居残った。
「その後どうだね」
「はあ、少し、体を鍛《きた》えに、東北の方へ行っておりました」
「スキーかね」
「いや、禅寺《ぜんでら》へ、座禅を組みに行っていたんです」
「あ、そうだったね」
その話はこの前の時に、百三から聞かされていたのだった。
「東北はまだ少し寒いんじゃないの?」
「はあ、大体禅寺というところはどこも寒々としてるんです」
百三は、柴犬《しばいぬ》に似た顔つきで、にこりと笑う。
「しかし、気持はさっぱり致《いた》しました」
「そらあまあ、そうだろうけど」
「実は正月に、皆の集まるお茶の会に出たんです。そうしましたら、昼食の弁当を使う段になって、駅で売ってるみたいなプラスチックの容器でお茶を出したんです。茶の精神なんて全く今の家元には失われていると思いました。千利休《せんのりきゅう》の頃には、秀吉《ひでよし》という人がいて、ちゃんと頭を押《おさ》えつけてたからいいんですけど、今は上に誰《だれ》もいませんからね。思い上って、権力におもねるばかりで、始末に悪いです。そういう世の中に生きていると時々、禅寺へでも行って精神の洗濯《せんたく》をしたくなります」
「そんなもんかね、今の茶《さ》道《どう》は」
「国民皆茶だなんていいましてね。新興宗教みたいなもんです。大声で茶の心なるものを唱和させたりしましてね。お茶をやるなら家元とか流派なんか問題にせずにやらなきゃだめですね。茶道じゃなくて、茶化していますよ」
「大賛成だね。茶の精神なんてのは、権《けん》威《い》主義から解き放たれた本当の自由人にしか、わかるもんじゃない」
太郎は黙《だま》って聞いていたが、そこで初めて口を出した。
「だから、僕の思うに、僕の一番好きなのはアイザック・ウォルトンという人なんです」
「へえ、だあれ? それは」
山口百三は初めてその名前を耳にした、という顔つきをした。
「アイザック・ウォルトンはですね、一五三九年、じゃなかった、一五九三年に生れた英国の人なんですけど、貴族じゃないんです。金物屋だったんだそうです。でも詩もよく書いて、僕みたいに人づき合いのいい人間だったんだそうですが」
偶然《ぐうぜん》か故意か、母の信子がひどく咳《せ》きこむ声が、机のところから聞えた。太郎はそれには答えず、
「ところが、この人は、気の毒なことに、子供が皆死んじゃうんですね。六人、いや七人……やっぱり六人かな、子供ができるんですけど、皆子供のうちに死んでしまって、遂《つい》には奥さんまで死んじまうんです。それで彼《かれ》はその淋《さび》しさを紛《まぎ》らわすために、釣《つ》りに熱中するんです。それで書いたのが、『釣魚《つりぎょ》大全』という」
「『釣魚《ちょうぎょ》大全』」
と山本正二郎が訂正《ていせい》した。
「あ、違《ちが》いました。つまりその『釣魚大全』という本なんです」
「へえ、僕、釣りしないからなあ、その本読んでないんだ」
山口百三は言い訳するように言った。
「読んでなくったって当然ですよ。僕だって随分《ずいぶん》考えた挙《あげ》句《く》に買ったんですから。二千五百円だったかな、かなり高い本なんです。駅前の本屋に一冊しかなくてね。僕買ったら、あの本屋のおやじさん感激《かんげき》してたもの。恐《おそ》らく三千部刷って、返本が二千五百部ぐらいじゃないかって……」
「いい加減なオクソクは言わないでよろしい」
山本正二郎は息《むす》子《こ》をたしなめた。
「それで、その本はどういう本なの?」
山口百三は尋《たず》ねた。
「つまり僕の思うところ、本当の自由人の釣師のための本なんですよね。自分が楽しむために暮《くら》している話ですよ。詳《くわ》しいことよく覚えてないんですけど、たとえば、この人はまず、魚の餌《えさ》から用意するんです。
つまり家蠅《いえばえ》の蛆《うじ》を飼《か》っておく訳なんだけど、それにはどうしたらいいかというと、乾《かわ》いた土をいれた容器の上に、獣《けもの》の臓物《ぞうもつ》の一片《いっぺん》を十字型の棒につるして、そこへ家蠅に卵を生ませる。蛆は土の中にぽとんと落ちて、そこで生きてるから、いつでも必要なときに持って行けるっていう訳です。
そして魚を釣りますね。本当にその日自分が食べる分だけ、一匹か二匹釣って終りにするんです。それから自分で料理にかかるんですが、これがまた傑作《けっさく》なんです。たとえば姫《ひめ》鱒《ます》を料理するとしたら魚をどういうふうに洗って包丁めをいれて、という説明があってから、その辺に生えている樹《き》の中から香料《こうりょう》に適当なものを集めて、レモンの皮や、迷迭香《ローズマリー》等を加えて上等のまきで煮《に》る、というような優《ゆう》雅《が》な生活をするんです。人生に手間ひまかけて生きている、という感じでしょう」
細部は少しデタラメかも知れないけど、まあ、こんなようなことだった、と太郎は思いながら言った。
「いいねえ。僕も、そういう生活が一番羨《うらや》ましいですよ」
と、山口百三が言った。
「きみは何かね。時間がありさえすれば、もっぱら座禅をくみにいくのかね」
山本正二郎は尋ねた。
「そうですね。禅もやりますが、僕は、細工物をするのが好きなんです」
「どんな」
「たとえば、田舎《いなか》家《や》のミィニアチュアーを作りまして、いろりの所で、煙草《たばこ》に火がつくように、ライターを、設置しておくんです。材料は全部野山で集めましてね。藁《わら》屋根を作る材料も、飛び石の石も、みんな拾ってくるんです。そういう材料集めに、山野を歩くと実に気分が壮快《そうかい》ですね」
「アイザック・ウォルトンも、そういう意味のことを言ってますよね。ディオゲネスが田舎のお祭りを見にいって、リボンだの鏡だの屋台でごちゃごちゃ売っているのを見て、言ったっていうんですね。《何てわしには用のないものばかりだ》ってね。彼は普《ふ》通《つう》の人と価値のあるものの見つけ方が違うわけです。ウォルトンの本には、そういうお説教調のところがあるのが、ちょっといやらしいのかも知れないけど」
「それはおもしろそうな本だな。僕も買って読んでみよう」
「買うことはないですよ。お貸ししますからどうぞ持っていらして下さい」
山本正二郎は、瞬間《しゅんかん》的に眠《ねむ》ったらしかった。
ズズー、ズズー、と鼾《いびき》の断続音が聞えて来る。母の信子が、「太郎、おとうさんに毛布かけて」と机の前から声をかけた。
「はい、だいじょうぶでございます。もうおかけしました」
山口が答えた。
ふと、「山口さんも、自分も、いい気なものだと、他人《ひと》には、言われるだろうなあ」と、太郎は思った。
人間の一生は、決してそんなに趣《しゅ》味《み》的なものではない、ということもよくわかっている。しかし、ウォルトンの生き方は、おろかではあっても人間の魂《たましい》の最も純粋《じゅんすい》な部分とどうしても深い関係があるように思えてならない。純粋と不純とその間のどの地点を通って生きるか、それを思うと、太郎は少しばかり憂鬱《ゆううつ》になるのである。
3
黒谷久《くろたにひさ》男《お》の両親が任地の金沢に向けて出発したということを、ある日太郎は久男から聞いた。
「よかったなあ。まあ」
と、太郎は黒谷に言った。
「うん、ほっとした」
「弟は、どうした」
「弟は、連れていった」
「送りに行ったか、駅まで」
「行ったさ。あんな、こっぱずかしいことはなかった。何べんもお辞儀《じぎ》ばかりしてなあ。発車のベルが鳴りだしたら、ほんとに万歳《ばんざい》三唱したやつがいるんでやがるの。おやじのやつ、汗《あせ》だらだらかいちゃってさ」
「ほんとにあれは、みっともないなあ。それで今ほんとに一人?」
「会社の青山さんて人が、泊《とま》ってくれてる。優秀《ゆうしゅう》な人でね。数学もできれば、英語もよくわかるし。掃《そう》除《じ》、洗濯《せんたく》、裁縫《さいほう》、すべてに、堪《たん》能《のう》だという触《ふ》れ込《こ》みなんだ」
「青山さんは男なんだな。親の推薦《すいせん》する人物だから、堅物《かたぶつ》なんだろうな」
「女遊びはしないと思うよ。だって婚約者が決っているんだそうだから。彼女は、左保子《さほこ》さんというんだ。青山さんは、二言目には、左保子さんがどうした、左保子さんがこう言ったって言うぜ」
「その調子じゃあ、そうとうイカレてるなあ」
「とにかく一度遊びにおいでよ」
「今晩でもいくか」
「七時すぎに来いや。六時には、青山さんが帰ってきて、二人で飯を作ることになっているから」
黒谷久男のマンションの部屋《へや》は、六階にあった。
「意外と立派なんだなあ」
と、太郎はあたりをじろじろ見まわしながら言った。玄関《げんかん》を入って、一番手前の洋室が、青山さんの部屋だった。その並《なら》びの洋室が本来ならば久男の部屋なはずだったが、両親がいないのを幸い、久男は、和室のほうに移っていた。
「なんていったって、和室のほうが感じがでるからな」
久男は二十畳《じょう》ほどの広い洋室の部分を抜《ぬ》けてその奥《おく》の和室のほうに、太郎を案内しながら言った。
障子《しょうじ》を開けると、安物の坐《すわ》り机があった。机の手前には、塗《ぬ》りのはげた脇息《きょうそく》が置いてあった。
「なんだい、こりゃ」
「脇息さ」
「お前のうちにあったのか」
「いや、古道具屋から、二千円で買ってきた。月々、五千円位までなら、茶碗《ちゃわん》とか、バケツとか、電球とか、家の運営にかかるものを、買ってもいいということになっている」
太郎は、机の前に坐り、脇息にゆったりと、身をもたせかけた。
「悪くねえなあ」
太郎はつぶやいてから、暗唱した。
「憐《あは》れむべし薄《はく》暮《ぼ》の宦遊《かんゆう》子《し》
独り虚斎《きょさい》に臥《ふ》して思ひやむなし
家を去りて百里帰るを得ず
官に到《いた》つて数日秋風起る」
「誰《だれ》だい、それは」
と、久男は尋《たず》ねた。
「高適《こうてき》さ」
太郎は言ってから、どうもこの間から、きちんとした職業につけない性格の人ばかりを好きになるわい、と思った。高適は渤海《ぼっかい》の人で、科挙の試験などものともせず、博《ばく》徒《と》などとばかり、つきあっていた、いわば遊び人であった。一生何もしないかと思っていたら、五十歳になってから、突如《とつじょ》として詩を作り始め、しかも、非《ひ》凡《ぼん》な才能を示した。夢《ゆめ》があっていい話だなあ、と太郎は思うのである。太郎は「ゲンコク」といわれる現代国語や現代文学は一向に知らないが、古典はひとりでよく読むのである。
「それにしても、腹がへった」
と、太郎が現実に還《かえ》った。
「僕《ぼく》もだ」
「青山さんという人が、帰って来るのを待っていたら遅《おそ》くなっちまうなあ」
「われわれで作るか」
「そうしよう」
「何を作ろうか」
言いながら太郎は、冷蔵庫を開けてみて、「しけてやがるなあ」と、呟《つぶや》いた。
めざしの焼きざましが二本入っているくらいで材料らしいものは、ろくになかった。
「何しろ、青山さんが買って帰ることになっているんだ」
「今日は、土曜日だぜ、どこをふらついているんだろう。あんまりあてにしないほうがいいと思うよ」
そう言いながら、太郎は、すばやく、あたりの戸《と》棚《だな》を開けて、いくつかの缶詰《かんづめ》を掘《ほ》り出した。
「鮭缶《さけかん》とコンビーフがあるじゃないか」
野菜かごの中には、人参《にんじん》と、ジャガイモと玉葱《たまねぎ》、それと、ひからびた長葱が二、三本あった。
「おあつらえ向きの材料だぜ」
「何を作る?」
「マヨネーズがあれば、鮭と、生玉葱のサラダさ。それから、ジャガイモと人参と長葱を入れて、それにコンビーフをぶちこんで、汁《しる》をつくる」
「玉葱は、塩でさっともんで水でさらしたほうがいいな」
久男も心得ていた。
「コンビーフの汁のだしは……」
「鰹節《かつおぶし》なんかないぜ」
「いらないよ」
「コンビーフでだしがでらあ。それでたりなきゃ、牛乳を少し入れればいいんだ。それとこのめざしも、腹の苦いとこは捨てて、小さくちぎって、煮《に》干《ぼし》の代りに、だしに使っちまおう」
太郎が何も言わないのに、久男は、大蒜《にんにく》の一かけをとって、小さくたたき、それを汁用の鍋《なべ》に入れてしまった。二人は、申し合わせたように、とんとんと働くので、食事の用意は、たちまちできていった。
「まったく、女なんて、何も知らねえよなあ」
太郎が言った。
「料理は男さ」
「うちのおふくろなんか、塩数の子の塩の抜《ぬ》き方も知らないんだ」
と太郎が言った。
「暮《くれ》のうちから、何日もかかって水に漬《つ》けているから、俺《おれ》が教えてやったのさ、米のとぎ汁につけておけば、あっというまに抜けますよって。そしたら数の子なんて高くてめったに食べないから塩ぬきの方法なんて知らなくていいとか、私は小さい時にイギリスにいたからとか、くだらない言い訳をしてさ」
「味噌《みそ》はあんまり入れるなよ、コンビーフが辛《から》いからな。それと、めざしも入っているし」
「さあ、これで出来上りだ」
二人が、茶碗や箸《はし》を、ガサガサと出し終ったところだった。玄関のベルが鳴って、久男がドアを開けると、一人の若い男が、蒼《あお》ざめた顔で、転がりこむように中に入ってきた。
「青山さん! どうしたの!」
久男はびっくりして、男の腕《うで》をとった。
「やられた」
と青山さんは言った。
「どこをやられたの」
久男が尋ねた。
「お昼に、天丼《てんどん》を食べて……それから吐《は》いてしばらく彼女《かのじょ》の家でやすんできたんだけれど、猛烈《もうれつ》胸が悪い」
青山さんは、呻《うめ》くように言った。
「そいつは大変だ、お医者さんを呼ぼうか」
「医者には行ってきたんだ」
「じゃあ、とにかく寝《ね》たほうがいい」
太郎が言った。
二人は、青山さんについて、彼の寝室《しんしつ》に入り、青山さんが服を脱《ぬ》ぐのを手伝った。
「青山さん、どんな、天丼を食べたのよ」
「蝦天《えびてん》です」
「安いのを食ったんじゃないのかなあ。僕も安ものの蝦天を食べてやられたことがある。あれは激烈《げきれつ》だ」
太郎が言った。
「左保子さんも当ったの?」
久男が尋ねた。
「彼女は当らなかったと思う」
「同じものを食べて?」
「ああ」
「そうなんだよ。女はいつだって悪いもの食べても平気なんだ」
青山さんはうんうん、と言った。賛同しているのか、唸《うな》っているのかわからなかった。
「少し熱がありそうだな」
「青山さん、少しでも胸がおさまったら、紅茶は飲んだほうがいい」
太郎が言った。
「今日は紅茶だけだな、さし当り」
「明日は日曜だから、大丈夫《だいじょうぶ》だ。僕が何でも作るから」
久男は言った。
「うちのおふくろは、カツブシを入れた野菜スープを作るんだ。カツブシと、人参と玉葱とジャガイモだけだ。味つけは醤油《しょうゆ》をちょっと入れて、あとは塩だ」
「お粥《かゆ》を煮るし、梅干《うめぼし》もあるから」
「トーストもいいぜ。バターはやめてジャムにするんだ」
その時、今度は電話のベルが鳴った。
「もしもし、こちら黒谷と青山でございます」
久男が言った。
「山本太郎ですか? ああいます。どなたですか? 五《さ》月《つき》さん? はい、ちょっとお待ち下さい」
太郎は轟《とどろ》く胸をおさえて、電話口に出た。
「ごめんなさい、出先まで追っかけて」
「いえ、どうかしたんですか?」
「どなたにお願いしたらいいかわからなくなったの。今日、うちに私ひとりだけなんですけど、あなた、これから、ちょっと来ていただけないかしら」
「行きます」
「ご飯食べたの?」
五月さんは優《やさ》しく尋ねた。
「今、黒谷と二人でちょうど食べようとしてたとこなんです」
「じゃ、ちゃんと済ませて来て下さいな」
「いいんですか、それで」
「大丈夫なの。お腹《なか》空《す》いてたら、人間、ろくなこと考えられないでしょう」
本当に五月さんはいいことを言うなあ、と太郎は胸が熱くなった。
「じゃ、かっこんですぐ行きます」
受話器を置いてから、太郎は大きな溜《ためいき》息をついた。
「呼び出しかい?」
「うん、何かあったらしい」
「忙《いそが》しいなあ、お互《たが》いに」
「うん、実に忙しい」
「飯を食う閑《ひま》もない」
「飯を食う閑は常にある」
太郎はさっさと飯茶碗にご飯をよそい始めた。
第四章 春の渚《なぎさ》
1
五《さ》月《つき》素《もと》子《こ》さんが、電話でわざわざ行先を探して呼んでくれた!
山本太郎は天にものぼる心地であった。途中、煌々《こうこう》と明るい駅前の広場を通りかかった時、伝言板の前の鏡のところにちょっと立ち寄って、己《おの》が姿を映して見た。それほど醜男《ぶおとこ》とも思わないが、鼻から下が、どうも少しシマらない。太郎は髪《かみ》を右の五本の指で掻《か》いて整えた。櫛《くし》を持っていないし、これで一週間くらい、髪を梳《くしけず》ったことがないのだから、どうしようもない。
それから、仲よしの本屋の前を通りかかると、店のおやじさんが、まだ頑《がん》張《ば》って店を開けていて、
「太郎ちゃん、何だか嬉《うれ》しそうだね」
と見抜《みぬ》いたようなことを言った。
「そうでもないす」
とテレて、わざとズボンのポケットに両手を突《つ》っこんで、貧乏《びんぼう》ゆすりをして見せた。
五月さんのアパートのドアを開けると、五月さんがエプロンをかけて、にっこり微笑《びしょう》しながら顔を出した。いつもの穏《おだ》やかな五月さんだったが、睫《まつ》毛《げ》が涙《なみだ》でよれて、頬《ほお》にケロイドのように線になった、涙《なみだ》の乾《かわ》いた跡《あと》があった。
「どうしたの」
「ごめんなさいね。呼び寄せて。忙《いそが》しかったんでしょ」
低い声である。
「ううん、ヒマでヒマで、しようがないから、黒谷んとこで料理作ってた」
こう言わなければ、男がたたないのである。
「あのね、実は、私、これからお医者さまのところへ、薬とりに行くから、その間、うちで留守《るす》番《ばん》してて下さらない」
「ああいいですよ。薬なら、僕《ぼく》、とって来てあげようか。夜だし、四粁《キロ》や五粁ひょいひょいひょいと走って行って来ますよ」
山本太郎は、中学生の頃《ころ》から陸上をやっている。もともとは短距《たんきょ》離《り》の選手だから、マラソンが得意という訳ではないのだが、それでも、四粁、五粁、乗りものに乗らずに行くことは物の数でもない。
「ううん、大丈夫《だいじょうぶ》なの。ずっと明るい道ばかりだから。それに、私、少し外を歩きたいの」
あ、五月さんはここのところ、ずっと学校を休んで、家にばかりいるんだな、と太郎は思った。
「お母さんがね、お勤めに出たのよ」
太郎の気持を察したように五月さんが言った。
「四十過ぎた女の人って、案外、働く口ないんですってね。お母さんも、何も特技ってないのよ。だけど、知り合いのうちで、お婆《ばあ》さんが中気で倒《たお》れて困っているからって、頼《たの》んで来たから、そっちへつきそいに行くことにしたの。夜帰るのが、九時なのよ」
「立派なもんじゃないか」
「私も昨日、郵便で、休学届を出したわ」
五月さんは言った。
「そいつはいいや」
「どうして?」
「来年、僕たちのクラスへ落っこって来てよ」
「山本君って、いつも、楽しいように楽しいように考えてくれるのね」
五月さんはもう一度涙ぐみそうになったが、それを怺《こら》えるのに成功したようだった。
「実はね、さっき、私がちょっと夕食のお菜《かず》を買いに出て、帰って来てみたら、ガスの臭《にお》いがしてるの」
五月さんは囁《ささや》くような、小声で言った。
「どうしたんですか」
「父が、自殺しようとして、ガス栓《せん》を開けたんじゃないかと思うの、それで、弟は今、修学旅行中だし、父を一人では置いとけないから」
「いいですよ。行って来て下さい」
五月さんは小さく頷《うなず》くと、改めてやや大きな声で、
「山本君、こっちへ上って」
と奥《おく》の部屋《へや》の父にも聞えるような声で言った。
「お父《とう》さん、山本君が遊びに来たの」
「ああ、そう。こんな病人がいて、気分悪いだろうけど」
少しばかり暗い、しかし優《やさ》しい声が聞えた。太郎は部屋の入口で、のっそりと立ったまま、
「山本太郎です」
と、小ざっぱりした白キャラコのカバーをかけた蒲《ふ》団《とん》に寝《ね》ているゴマ塩頭の人に挨拶《あいさつ》した。
「太郎君、悪いけど、私、これからちょっとお医者さままで行くから、帰らないで、待っててくれる?」
「どうぞ、僕、何時間でも待ってますから」
「お父さん、山本君のお話聞くと、いいわよ。いろんなおもしろい話してくれるから」
「そうだね、こんな病人相手じゃ話し甲斐《がい》ないだろうけど」
「そんなことないです。うちじゃ、大体、母が、いつも忙しがってて、僕の話なんか聞いちゃくれないんですから」
太郎は五月素子さんが出て行く様子を背後に聞きながら言った。
「そうですか。それは、うまくいかないね。僕のうちでは、私は子供たちから、いろいろ話をして貰《もら》いたいと思っているんだが、子供たちは一向に喋《しゃべ》らないんだ。私を心配させないようにしてるんだろうけど」
「あのう、話っていうものはですね、話せ話せ、って言うと、喋りたくなくなっちゃうものなんですね。僕たち、ずっと、親に反抗心《はんこうしん》あるでしょ。だから、うちの母みたいに、僕がちょっと、学校の話すると、ウルサイねえ、黙《だま》っててよ、なんて言うと、なお喋りたくなるものなんです」
「なるほど、それは、わかるな。僕の若い時にも、形は違《ちが》うけど、そういう気持あった」
「うちの親は、大人《おとな》気《げ》ないんです、二人とも。だから、僕が小さい時だって、ムスコのために、おいしいおかず残しておいてくれるなんてことは全然考えないんですね。おいしいものあると、ムスコと競争で食べちゃう。僕、大体一人ムスコなんですよ。それなのに、そうなんだから。だから、僕としても、ヤムなく自衛手段で、どんどん、ぱかぱか食べるようになったんです。子供が食べない、食べない、って言う親がいるでしょう。あんなのなおすの簡単なんだな。親がどんどん食べちゃえばいいんですよ。そうすると、子供の方で、親に食われちまわないような手をいろいろ考えますよ」
「どういうふうに」
「たとえばですね。秋に松茸《まつたけ》のおつゆがでるでしょう。もっとも、そんなものでるのは、うちでは一年に一回か二回ですけどね。うちのおふくろは目算《もくさん》が悪いから、鍋《なべ》に四ハイ分、作るんです。三人家族なのにです」
「なるほど、最後の一ぱいを誰《だれ》が食べるかだな」
「おはずかしいんですけど、僕は松茸のおつゆ、とても好きなんです。ところが、おやじも狙《ねら》ってるんです。おやじは『俺《おれ》は一家の中で一番老い先短い。だからおつゆを貰う』というんですね。それで僕も負けずに言うんです。僕は今のところ、考古学をやろうと思ってますので、つまりそんな学問したら、一生、経済的には恵《めぐ》まれっこない訳です。それで、『僕は将来、貧乏する予定で、そうなると、もう松茸のおつゆなんて、一生飲めないから、今のうちに頂戴《ちょうだい》よ』というんです」
「それで、最後の一ぱいはどうなります?」
「うちのおやじは、そんな時、大人気ないから、本気で考えるんですね。それで、『うん、そうだ、お前の方が確かに松茸にはありつけなさそうだ。仕方がない。やろう』というんです。それで、僕はちょっと悪くなるんだなあ」
「お宅は、おもしろそうだね、生活が」
「下らないことを楽しんでるだけです。一ぱいの清汁《しる》がこれだけ問題になるんですから」
「私は、この頃、気力がなくなって困りますよ。リューマチはあまりよくなる望みなさそうだし……」
「自殺でも考えていられるんですか?」
太郎はさらりと言い、病人の眼《め》が一瞬《いっしゅん》きらりと光った。
「そう思うこともありますよ」
「おじさん、僕は、自分の両親に、一つだけ感謝してることあるんです」
「何です?」
「それは、あの二人が、自殺だけはしなさそうだ、ということなんです」
五月氏は声にはならず頷《うなず》いた。
「とにかく一生、耐《た》えて生き抜いた、ということが、親が子供に見せてくれる最大の手本でしょう。僕、心理学の本も少し読むんです」
「ほう」
「もっとも生齧《なまかじ》りですから、少し解釈違うかも知れませんけど。それによると、自殺は伝染するんです。親が自殺すると、子供も、何か困難に出会うとすぐ、『ああ、お父さんやお母さんみたいに死んじまえばいいんだ』って思うようになるんですって。ですから、僕は或《あ》る時両親に頼んだんです」
「何て?」
「お願いですから、自殺だけはしないで下さいって。第一、僕、迷信《めいしん》深いですからね。あの二人にうっかり死なれたら、もうその家に気持悪くて住めないです。お化《ば》け出そうで。家を壊《こわ》しても、そのあとに、どろどろ出そうでしょう。ほんとにはた迷惑《めいわく》ですよ。
第一、自殺なんて芝《しば》居《い》がかってて、みっともないからなあ。きれいな女優さんか何かが死んでるんなら、おまわりさんも喜んで見にとんで来るでしょうけど、うちのおやじが、毛《け》脛《ずね》出して、ガニ股《また》になってひっくり返ってたって、皆、うんざりするだけですよ」
「なるほど、それはそうだ」
「おじさんは、病気になられる前、どんなお仕事をしておられたんですか?」
「印刷所をやっていたんですよ」
「印刷はおもしろいでしょうね。ボク、ニセ札《さつ》刷ってみたいな」
2
もし、地方と都会と、それぞれの土地に育った人間の一般《いっぱん》的な性格の上に違《ちが》いがあるとすれば、それは、苦《く》悩《のう》の処理法についてではないか、と太郎は思うことがあった。
都会人は軽薄《けいはく》だという。それは、苦悩を苦しんで見せることを、潔《いさぎよ》しとしないからだ。苦しみがないことはない。しかし、都会人はそれを何とかして、別の表現にすりかえようとする。
髪《かみ》をかきむしり、哲学《てつがく》書《しょ》を読み、にこりともせず議論をし、苦悩にうちひしがれている様子を見せるよりは、じっと耐《た》え、さりげなく考え、できたら笑いに紛《まぎ》らわせるという形で昇《しょう》華《か》しようとする。
笑っているからといって、苦しみがない訳ではない。むしろ、もっと厳しい自己抑制《よくせい》や、自己との戦いがある。それを只《ただ》、ナマな形で人の眼《め》にふれさせないだけだ。人目にもわかるように苦悩することこそ、甘《あま》えだと思う。
太郎が、そういうふうに対立的な感情になるのは、祖父江《そふえ》正《ただし》という、三年C組の、五月さんの自称たった一人の友達という男の顔を見る時で、彼《かれ》はどこかの地方育ちで、高校の時から東京へ移り住んだのであった。
五月さんに言わせると、祖父江もよく見舞《みま》いに来るのだが、「僕《ぼく》も大学へ行くのはやめて、何とか働いて素子さんを助けます」の、「こんな社会では、人間は生きながら葬《ほうむ》られているようなものです」とか口走るのだという。それで、五月氏も、話しているうちにだんだん暗くなる。他人の息《むす》子《こ》の大学進学を遮《さまた》げてはいけないと必死に説得するのだが、祖父江は、
「こんな状態で勉強しても、別に僕にも希望はありませんから」というのだという。
そんなの、ほっとけやあ、と太郎は心の中で思う。五月氏は数年前ニセの千円札《さつ》を作った犯人はどんなに印刷工として腕《うで》がよかったかを話してくれた。話しているうちに五月氏は元気づいて来た。太郎も大変ためになった。五月氏は病床《びょうしょう》で、自分はその道のベテランであることを思い出し、太郎は、ニセ札犯人の技術にほとほと感心したのである。
大体、山本太郎は、自分の行動なんか実に下らないと思っている。白《はく》痴《ち》化に役立っていると思う。高校生の生活にとっておもしろいのは、その下らない要素だけかも知れないと思う。minus habens――少し足りない人。下らなさを認められない人には、高校生活のおもしろさはわからないだろう。いや、老成した言い方をすれば、人生のおもしろさもわからないのではないかと思う。
太郎は、五月の爽《さわ》やかな緑を、教室の窓に見ながら坐《すわ》っていた。
突然、上田という数学の教師が、黒板に式を書き終え、ふり向きざま言った。
「暑いね、山本、その窓を開ける」
太郎は反射的に、答えた。
「いいえ、僕は窓を開けていません」
皆がどっと笑った。ヘリクツをこねたのではなかった。この頃《ごろ》、英文法をやり過ぎているので、日本語の文章まで、文法通りに正確に厳密に考える癖《くせ》がついてしまっている。
「日本語の通じが、悪いね。窓を開けて下さい、という意味だ。命令形だ」
「はあ、わかりました」
山本太郎は、この頃、授業を実によく聞くようになった。しかし、そのために、却《かえ》って妙《みょう》に精神が集中してしまう。隣《となり》の岸本という男が、授業中に弁当を食う。これもかなり勉強する学生だった。授業中に食う弁当というものは、教師の話を注意して聞いていないと、食べられないものなのである。つまり、教師が、生徒に背を向けて黒板に何かを書いている間に口に入れるのだから、前後のつながりから判断して、どれくらいの時間後ろ向いていそうか、わかっていないと、そのタイミングが掴《つか》めない。
時々、岸本は、授業の波に合わせて、急いでかっこむ。
「そんなに早く食うと、消化によくないがなあ」
しんとした教室に太郎の独《ひと》り言《ごと》がよく通った。あれは失敗だった。山本太郎はこの頃独り言を言う癖がついてしまった。
授業をよく聞いていると言っても、倫《りん》理《り》社会の時間に、幾何《きか》の問題を解いたこともあった。その時も、思わず「わかった!」と呟《つぶや》いたのが聞えてしまった。
「うまくないよな、ボク、この頃、よく教師に睨《にら》まれるもんね」
太郎は帰ると、夕食の時に、思い出して父に言った。
「お前にあまり言っていいことではないが」
山本正二郎《やまもとしょうじろう》は前置きをして言った。
「お父さんの高校時代に、タヌフンという教師がいた」
「タヌキのフンドシだね」
「そいつが、漢文の教師で、目をぎゅっとつぶって講義をする癖がある。何しろ漢文だからね。大ていの詩なんかは、本を見なくても、暗唱してるんだ。僕はタヌフンのすぐ机の下に坐っていた。あまり無念無想なものだから僕は試してみたくなってだな、机の上に躍《おど》り上って、ドジョウすくいを踊《おど》ってみた。その間、タヌフンは、堂々と講義し続けて気がつかなかった」
「皆も笑わなかったの?」
「声をたてないのさ」
「そのタヌフンての、立派だね」
「それは凄《すご》いもんだ。昔《むかし》は、そのほかにも、おっとりした先生がいたね。お父さんの友達《ともだち》のあの東《あずま》の小父《おじ》さん」
「ああ、大阪で食堂やってる人ね」
「あの小父さんは、いつも、ぽけんと空ばかり見てるんだ」
「僕みたいだ。空見て聞いてるんだよ。そういうのは」
「チビ下駄《げた》という国語の教師がいた。あんまり東が空ばかり見てるもんで訊《き》くんだ。
『東君、ノートをとっておられますか?』
すると東が答えるんだ。
『はあ、書きよりますウ』」
「何だか下らないけど、うっすらとおかしいね」
「関西の味だろう。よくだしとうまみのでた、うどんみたいな味さ」
太郎はこういう話をした後、決って、胸の奥《おく》のどこかが、ちょっと痛くなるような気がすることがある。この感じは、ひとにはなかなか説明しにくい。明るい話をした後に限って、胸がふさがる思いになる。強《し》いて言えば、未来には、ろくなことがないような気がするのである。それが青春なのだと言われれば反《はん》駁《ばく》のしようはない。自分の人生だけ、自分の青春だけ特別なのだ、と思うことは、太郎の誇《ほこ》りが逆に許さない。
そんな時、太郎は時々、五月さんの父のことを考えた。五体満足でも、将来が不安なのだから、五月さんのお父さんは、やはりどんなに生きることに不安を持つだろう。
太郎は、或《あ》る日、五月さんの家に見舞いの電話をかけた。
「どうですか、お父さんはその後」
「今、ちょっとアレですから、又《また》あとで手の空いた時にかけます」
電話がお父さんの枕許《まくらもと》にあるので、言いたいことも言えないのだろう。十五分ほどすると、電話が鳴って、公衆電話らしい音と五月さんの声が聞えて来た。
「この間は、本当にありがとうございました。お父さん、とても喜んでたのよ」
「そう!」
「ニセ札犯人の話なんか、一生懸命《いしょうけんめい》きいてくれたのは、山本君だけですって」
「ボクね、それだけの印刷技術もってるのに、ニセ札なんか刷ってるの、勿体《もったい》ないと思ったんだ」
「あの日は、もう死にたいなんて言わなかったし、とても元気だったの。だけど、二、三日すると、もうだめね。祖父江さんの来てくれた日なんか、なおよくないの」
「あのね、一日くらい、日曜日にどこかへ行きませんか? 日曜なら、弟さんがいるでしょう」
「そうね、行きたいわ」
「三浦半島へ行きましょう、僕、あの辺、わりと詳《くわ》しいんです。近々、計画書を持って行きますから」
「計画書?」
「だって女の子が外出する時、親はひどく心配するものなんでしょ。だから僕、途中《とちゅう》で何度か連絡《れんらく》できるようなスケジュール作りますから」
3
太郎は綿密に計画を練った。どこから、どこまで何粁《キロ》、徒歩約八分、魚屋の店を覗《のぞ》いて雑談五分くらいの予定、などと書き込《こ》んだ。○○寺で休息七分、その間必要ならば、東京へ電話をいれる、という項目《こうもく》もあった。費用はわざと割りカンを申し入れた。五月さんの家が不遇《ふぐう》だと言う時に、自分がおごったりすると、失礼になりそうだと思った。
「母さん、お願いがあるんだけど」
「なあに」
「あのう、一生に一度のお願いですから、息《むす》子《こ》のために少し余分に、つまり二人前分くらい、弁当というものを作ってくれませんか」
「いいわよ。サンドイッチにしようか?」
「何でも文句は言いません。それから熱い紅茶を魔《ま》法壜《ほうびん》にいれて下さい。お母さんの紅茶は日本一おいしいからね」
「そんなにわざとらしくおだてなくてもいいわよ。弁当なんて、もう何百回と作って来たんだから」
これで、外食をする必要もなくなった。かかるのは、純粋《じゅんすい》に電車賃と電話代くらいである。それに母の作るチキン・サンドイッチは、外で食べるハムや卵のサンドイッチより、ずっとおいしいのである。
太郎はこそこそと、デートのため品物を集めた。トマトジュースの缶《かん》づめ、チョコレートとチューインガム、腰《こし》を下ろすときのちょっとした敷物《しきもの》、自分がかぶって行くための古いピケ帽《ぼう》、これで降《ふ》ったら目も当てられないなあ、と思った。ところが、天気は晴であった。太郎は、約束《やくそく》よりも十五分も早目に駅に着いてしまった。
「五月さんは、どんな恰好《かっこう》をしてくるかな」
と、太郎は若い娘《むすめ》が、前を通る度《たび》に比《ひ》較《かく》しては考えていた。なんだか五月さんの顔を忘れてしまったような気がした。駅前の銀行の時計が約束の時間の三分前になった時、五月さんは、並《なみ》木《き》の向うから、蜂蜜色《はちみついろ》のシャツに、栗色《くりいろ》のスラックスをはいて、目にしみるような真白な運動靴《うんどうぐつ》で足早に歩いてきた。あっ運動靴を買ったんだな、と太郎は思い、運動靴の新しいのをはくなんて趣《しゅ》味《み》がいいな、と思った。
「今日、お父さんは、とても機《き》嫌《げん》がいいの。遅《おく》れないように行きなさい、なんて、私をせかしてくれたりしたのよ。今日はお天気がいいから、機嫌もいいの。雨が降ると、とたんに、気がめいるらしいわ」
五月さんは電車の中で言った。
「僕《ぼく》なんかだって、そうですよ。雨が降ると、いろんなとこがかゆくなるしな。頭とか背中とか、足の裏とか」
「ほんとに、雨が降ると、かゆいの?」
「かゆいです」
「お風呂《ふろ》入ってないんじゃないの?」
「はあ」
太郎は曖昧《あいまい》に言葉をごまかした。実は風呂に入ることは入るが、あまり垢《あか》を落し過ぎると美容上よくない、という口実のもとに、三日に一度くらいしか、石鹸《せっけん》をつけて洗わないのである。
「山本君は、海が好きなのね」
「山と比べたら、です。僕はあまり思《し》索《さく》的ではありませんからね。考えるより体動かすの好きですから」
二人は横《よこ》須賀《すか》線を逗子《ずし》で下りた。そこからわざと海岸線をバスに乗ったのである。
春の海であった。水平線がはっきりしない。海も青くはない。一番、海の美しくない季節だ、と太郎は残念に思った。このあたりも海が男らしくなるのは冬である。西風が吹き、松《まつ》が海風を受けて身《み》震《ぶる》いし、富士がくっきりと相模《さがみ》湾の向うに浮び上って見える冬の海に向うと、太郎は魂《たましい》を奪《うば》われるような気がするのであった。
二人はバスを、三戸《みと》入口というバス停で下りた。それから、キャベツと、西瓜《すいか》の若苗《わかなえ》が植わっている畑の道を、海の方へ向った。途《と》中《ちゅう》の畑の中の木に、トビがとまっているのを見つけると、太郎は素《す》早《ばや》く小石を拾って、それをトビに向って投げつけた。
「可《か》哀《わい》そうじゃないの」
五月さんは、きっとした表情になった。
トビは飛び立ち、親羽を一枚はらりと散らして行った。
「ほら、落した」
太郎は、土の上の羽根を拾いに行った。
「大丈夫《だいじょうぶ》、最初から当らないように、ちゃんと狙《ねら》ってるんだから。只《ただ》、羽だけ一枚寄付して貰《もら》えばいいんだ」
太郎は、それを帽子のリボンにさした。
「こいつが山鳥の尾《お》だったら、もっときれいなんだけどなあ」
二十分ほど、人《ひと》気《け》のない道を歩いて、二人はやっと浜辺に出た。
「この辺で、僕はよく泳ぐんです」
海は寝《ね》息《いき》のように静かな音をたてて引いたりさして来たりしていた。
「五月さん」
太郎は、ちょっと立停《たちどま》って言った。
「お父さんのことだけど、僕は、絶対に死なないと思いますよ」
「死ぬ、死ぬ、という人は死なないって言うんでしょう」
「まあ、そうも言いますけど、お父さん、死にたくはないから、死ぬ死ぬ、と言うんだと思うんです」
「そうかも知れないわね」
「でも、万が一、本当に死んでも、気にしないで下さい」
五月さんは、ほっとしたように、太郎の顔を見た。
「手を尽《つく》しても、防ぎ切れない、ということもあるかも知れませんからね。実は僕の知り合いにそういう人、いたんです。そのおじいさんは、病気でもなかった。孤《こ》独《どく》でもなかった。いい奥《おく》さんがいて、娘夫婦と、孫と、一つの家に暮《くら》していました。すごい金持という訳でもないけど、生活に困らなかったんです。だけど、その人、もし妻に先だたれたらどうしたらいいだろう、と言って、自殺未《み》遂《すい》を何度もやったんだって」
「人間ってどこまででも不幸になれるのね」
「一家は交替《こうたい》で、そのおじいさんを監《かん》視《し》してね、ほとほと疲《つか》れちゃったんですよね。それでおじいさんの誕生日《たんじょうび》を祝って、その日はとても機嫌よくしているから、安心して、その日に限って、皆で眠《ねむ》ったんですって。そうしたら、その日の明け方に、裏の古井戸にとび込じゃったんだ」
「そういう例もあるのね」
「だから僕、思うんだけど、或《あ》る場合まできたら、死んでも傷つくのはやめた方がいい。
死ぬということくらい、本当は卑怯《ひきょう》なことはないでしょう。もう、何と言おうと相手の言うことを聞かない、というやり方に出る訳だから。だから、親であろうと誰《だれ》であろうと、そういうことで傷つけられないで下さい」
「ありがとう、そこまで心配して貰って……」
「そうです。僕たちには、まだやること一ぱいあるんですよ」
太郎は心の中に、鈍《にぶ》い怒《いか》りのようなものがこみ上げて来るのを覚えながら、それを隠《かく》すために、サングラスを掛《か》けた。
「飯にしましょうか、ここで」
「ええ。私もお弁当持って来たのよ」
「僕もおふくろが作ってくれました」
場所を作り、太郎は、弁当の包みを開けてから、
「やられたア!」
と叫《さけ》びながら、両脚《りょうあし》を空に向けてひっくり返った。
「どうしたの?」
「うちのおふくろって、これだから、いやになるなあ」
「どうして?」
「サンドイッチを作ってくれ、と言ったのに、サンドイッチの材料だけ入れやがった」
箱《はこ》の中には、銀紙でくるみ、バターとカラシを塗《ぬ》った薄《うす》いサンドイッチ用のパン、蒸《む》した鶏《とり》を薄《うす》くスライスしたもの、レタス、マヨネーズ、塩、胡椒《こしょう》などが、きちんと詰《つ》め合せてあった。
「あら、きれいに入ってるじゃないの」
「うちのおふくろに言わせると、その場で、めいめいが好みの味つけと量で合わせて食べた方がいいって言うんだけど、これじゃサンドイッチじゃないよなあ」
「こっちの方が本当に親切なのよ」
「嘘《うそ》だよ。この方がやっぱり手が抜《ぬ》けるんだわい」
「私のは、おむすびなのよ。梅干《うめぼし》とタラコの入ったお握《にぎ》り」
「僕そっちを食おう」
「じゃあ、私がちゃんとサンドイッチに作ってあげるわ」
「うちのおふくろは、本当に怠け者なんですよ。何をするんだって手を抜き放題でね。僕が怒《おこ》ると、母親ってのはこういう方がいいんだって言うんです。僕のところへ来るお嫁《よめ》さんが、その方が楽だって言うんだけど、そんなの言い訳だよな」
「山本君だって、普《ふ》段《だん》から、料理がうまいって自《じ》慢《まん》ばかりしているんなら、材料をサンドイッチに合わせるくらい、自分ですればいいじゃないの」
二人が、サンドイッチとお握りをたいらげ、熱い紅茶を飲んでいる時だった。
波打際《なみうちぎわ》を一組の男女が通った。明らかに、それはこの土地の若者たちではなさそうだった。女は緑色のスーツに踵《ヒール》のある靴をはき、男はカメラを肩《かた》にぶら下げて深刻な表情をしていた。
山本太郎は、その男の方の顔を見た時、どこかで見た顔だなあ、と思った。陸上の関係者にしては、体が貧弱すぎる。
次の瞬間《しゅんかん》、《あ、エビ天だ!》と思った。黒谷久《くろたにひさ》男《お》の家に同居していてエビの天ぷらにあたった青山さんだということがわかったからだった。しかし太郎は声をかけなかった。
サングラスをかけていることもあって、先方は、太郎に気がついていない。しかも、二人は決して和《なご》やかに連れ立って歩いているようには見えないのだった。
青山さんが、何か言いかけても、女のひとは青山さんの方を見もしなかった。青山さんは海際の方を歩いていた。そこへやや、大きな波が来た。女のひとはちらりと沖《おき》を見て、その波のことを見ていたようだったが、少しもよけてやらないので、彼女を突《つ》きとばして逃げる訳にも行かなかった青山さんは、波に捉《とら》えられてしまった。
灰色の波の泡《あわ》が、青山さんの両足をすっぽりととり囲んだ。青山さんは少しズボンの裾《すそ》を持ち上げるようにした。それから爪先《つまさき》立つような恰好で、ぐんぐん歩いて行く彼女《かのじょ》の後方を廻《まわ》るようにして、砂浜の小高いところへ行った。それから、青山さんは気の毒にもふらふらしながら、片脚ずつ逆に足をあげて、靴の中へ入った水を出そうとした。女はわざとふり返らず、のろのろ先を歩いていた。
「ちぇっ、肩ぐらい貸してやりゃいいのになあ、あの女!」
太郎が呟《つぶや》いたのを、五月さんは、ごく一般的に、知らない二人連れに対する感想だと思ったらしく、後《おく》れ毛を顔に散らしたまま、困ったように、心持ち悲しげな表情で、眩《まぶ》しさに眼《め》を細めながら見つめていた。
第五章 秘《ひ》密《みつ》の猟場《りょうば》
1
太郎が校庭で陸上の練習をしていると、黒《くろ》谷久《たにひさ》男《お》が、それとなくやって来て、
「おい、青山さんが、失恋《しつれん》したんだ」
と言った。
「ふうん」
そうだろう、と太郎は思ったが、それ以上は口にしなかった。三浦の海岸での青山さんに対する彼女《かのじょ》の冷たいしうちを考えれば、あの頃《ころ》から、もう二人の仲には決定的なヒビが入っていたのだろう。
「それで青山さんはどうしてる?」
「とにかく、ぼんやりして、飯もあんまり食わない」
「自分が、飯食わないんじゃ、君の飯も作らないだろう」
「だから、もっぱら僕《ぼく》が作って青山さんに食べさしてるけど」
カントク兼炊事《けんすいじ》の面倒《めんどう》をみてもらうという約束《やくそく》で、黒谷の両親は青山さんを置いて行ったのに、実は、何の役にも立たないどころか、逆に息《むす》子《こ》が青山さんをみていると知ったら、黒谷の両親は、ずいぶんフンガイするだろうが、まあ、つまり具合の悪いことは、親たちには知らせなければいいのだ、と太郎は思った。いつの間にか、本当に親を心配させるようなことは何も言わなくなってしまっている。或《あ》る日、
《オレ、親に心配させるようなことは言わないんだ》
と言ったら、おふくろの奴《やつ》、
《けっこうだね。ぜひそうしてよ》
と言ったが、これはまあ、世の中でもかなり図々《ずうずう》しい親だけが言うことであろう。
「それで青山さん、仕事には行ってるんだろ」
「会社へはね、行くけどね。凡《およ》そ下らないことを口走ってるよ。彼女は謝《あやま》ったら許してくれるでしょうかね、なんて」
「情けないな」
「だから、オレ言ってやったんだ。女なんて掃《は》いて捨てるほど、いらあ、ってさ」
「そのセリフは古すぎるぜ」
「とにかく、青山さんは、心ここにないんだ。けさも彼女のことをぐじゅぐじゅ言いながら味噌《みそ》汁《しる》の中に納豆《なっとう》をつっこんでいたからなあ」
「情けないなあ。どうしようもないよ。ほっとけよ」
「まあ、自殺するような心配はないと思うけどね」
五《さ》月素《つきもと》子《こ》さんから太郎のところに電話がかかってきたのは、その夜のことであった。
電話の主な趣《しゅ》旨《し》はピクニックに連れていってもらってありがとうということであったが、その他《ほか》にも、何か五月さんは言いたいことがあるらしく、
「今、練習やなんかでとても忙《いそが》しいの?」
と、太郎に聞いた。
「いや、そういうことはありませんけど」
「今度の日曜日にお母さんが久し振《ぶ》りに手をあけて家にいるっていうのよ。だから、ちょっとどこかで会えないかしら」
「いいですよ。どこへ行こうか」
「T公園でも行きましょうか。お天気がよかったら」
「じゃ、午後の一時に公園の藤棚《ふじだな》の下で待っています」
土曜日は朝から天気が、くずれかげんだった。鉛色《なまりいろ》の雲が低く飛んで、空気には、湿《しめ》った苔《こけ》のような匂《にお》いが混っていた。山本家ではテレビを見ない。テレビの機械がない訳ではないが、一年に二十日位つけるかつけないかである。
「テレビのおかげで、余計生活が複雑になったわよ。昔《むかし》は台風だって津《つ》波《なみ》だって、来るまではわかんなかったものよ。なまじわかるから食べ物の買いだめをしたり外出をとりやめたりろくなことないわ」
太郎は黙《だま》って聞いているが、母のこういう態度を実に非科学的だなあと思う。しかし太郎自身、小学校三年生の頃から、テレビ無しで育ってしまったから今さら見たくもないのである。初めはテレビを禁じられたことに、ひどく反発した。友達《ともだち》が皆見ているのだから自分も見せてもらわなければ困ると泣きわめいた。その当時も、太郎の家には、古いテレビがあるにはあったのだが、ある日太郎が、
「テレビ無しでなんか生きられないよう」
とだだをこねると、山本正二郎《やまもとしょうじろう》は、突如《とつじょ》として、テレビを持ち上げるや、庭の敷石《しきいし》に向って、それを叩《たた》きつけた。
「テレビが無いと生きていられないかどうかやってみろ!」
父があのように重い物を、あれほど軽々と持ち上げたのを太郎が見たのはその時が初めてで最後である。母は、その出来事に対してとりなしてくれもしなかった。おまけに彼女は、物ぐさだから、庭にちらかった醜怪《しゅうかい》きわまるテレビの残骸《ざんがい》をなんと一カ月近くもとりかたづけなかったのだ。太郎は毎日家に帰ってくると、庭にちらかっているガラスの破《は》片《へん》がキラキラ光るのを見ながらおやつを食べていた。悲しかった。あんな物わかりの悪い親なんか死んじまえばいいとも思った。しかし、そのうちに、太郎は、あの箱《はこ》の中に映しだされる、幻《まぼろし》のようなものにあんなにも執着《しゅうちゃく》していた自分がふとおかしくなった。と同時に、母達まで、テレビが見られなくなったことを太郎は少し気の毒に思った。
「ごめんよね。母さん」
太郎はある日縁側《えんがわ》にねそべりながら母の信《のぶ》子《こ》に言った。
「なにが」
「家にテレビがなくなっちゃってさ」
「私は、あんなもの見ているヒマないから、あったって、なくったって同じだね。太郎もかわいそうだけど、どこの家だって、何かが揃《そろ》ってないものなのよ。太郎がテレビがほしかったら、早く自分で稼《かせ》いで、物わかりの良い嫁《よめ》さんもらって、テレビを五台でも十台でも買って、何日でもぶっつづけで、見たいだけ見ておいでよ」
母は、そう言ってからあらためて太郎に尋《たず》ねたのであった。
「テレビが無いと学校へ行って本当に友達と話に困る?」
「それほどでもないやな。僕、逆に聞いてやることにしたんだ。『へえ、その月光《げっこう》仮《か》面《めん》てなんだい』」
本当に太郎はその通りやってみたのだった。実はテレビの流行くらい、テレビを見なくても、床《とこ》屋《や》へ行った時に、死にものぐるいでマンガを読んでくれば、おおよそ察しがつくのである。それでもなお、知らない振りをするとかえって太郎はちょっと優越感《ゆうえつかん》を感じることがわかったのだった。
「ああ。だけど、退屈《たいくつ》だなあ」
太郎は、その頃時々そういってくどいた。テレビがないと、時間つぶしが出来ないのである。
「退屈が大切なんだよ。退屈にしときゃ、子供は自然に退屈でない方法を見つけるのよ」
今にしてみると太郎は親たちの手にのったような気はするが、確かに退屈のあまり彼はしょうこと無しに本を読んだのである。
今ではもう太郎は食事の時に、テレビが鳴っていると、煩《うるさ》くてたまらないようになった。外は荒《あ》れ模《も》様《よう》だというのにテレビをつけずに、
「ねえ。ねえ。母さん、明日は晴れると思う」
としつっこく聞いた。
「明日なんなのよ」
「五月さんと、午後一時にT公園の藤棚の下で会うことになっているんだ」
それまで話を聞いているのか聞いていないのかわからなかったような山本正二郎が、突如として尋ねた。
「今、あそこの藤は満開だろう」
「そうだろうと思うんだ。初めて五月さんと会ったのが、桜《さくら》の頃だったからなあ。藤は何も役がつかないから、これから先会うのは牡《ぼ》丹《たん》と紅葉《もみじ》と、萩《はぎ》の見頃だよ」
太郎はそっと両親の顔を見た。気がついているかどうかわからないが、花札《はなふだ》にかけて言ったのである。萩と牡丹と紅葉というのは猪《いの》鹿蝶《しかちょう》という手《て》役《やく》である。花札の発想のもとは、「枕草子《まくらのそうし》」なのだが、その発想のつながりをあまり明確にすると馬鹿《ばか》にされそうなので黙っていた。
夜中に豪《ごう》雨《う》が過ぎたおかげで翌日は、気持よく晴れた。太郎は、五月さんに会えると思うと、昼《ひる》御《ご》飯《はん》に何を食べたかもよくわからなかった。
藤は盛《さか》りより、やや散り頃であった。しかし、まだ、充分《じゅうぶん》にその色《いろ》香《か》は残っている。藤という植物は、どことなく病的な感じがしないでもない。藤には精神病者の夢《ゆめ》みる美がありそうにも思う。
五月さんはなかなかやって来なかった。藤棚のところには、もっと年とったアベックが入れ替《かわ》り立ち替りやって来るので、却《かえ》って太郎は落ちつかなくなった。
太郎は席を立って、藤棚の見えるベンチまで行って、そこで待った。五月さんは十五分ほど遅《おく》れてやって来たが、その顔色はひどく悪かった。
「ごめんなさい、待たせて……」
「どこか、具合が、悪いんですか?」
太郎は立ち上りながら、当惑《とうわく》して尋ねた。
「いいえ、そうじゃないの。ちょっとごたごたしたもんですから」
「お父さんは?」
「この頃、少し元気になったの。クイズに応《おう》募《ぼ》する趣《しゅ》味《み》を覚えたから、一日中テレビを見ていて、葉書でテレビ局に応募すると、賞品をくれるのがあるでしょう。あれを、するようになったの」
「そいつはいいや。それで、何か当ったの?」
「うん、カレー粉と、エプロンと、サラダボールが来たの。お母さんは、こんなもの、という顔しているけれど、私は、とっても感謝したの。そしたら、お父さん、喜んでもっといろんなもの当てようと思うようになったらしいわ」
「それは、とてもいい傾向《けいこう》だね。少し歩こうか?」
太郎は五月さんを誘《さそ》った。藤の下にいれば人に見られ、藤を見ようとすると、その下の二人連れも、ついでに目に入って、あまり感じよくなかった。
「実はね、山本君にこうして会ったら、ちょっと改まって聞きたいことがあるの」
五月さんは太郎の顔を見ないようにして言った。二人は公園を抜《ぬ》け、多摩《たま》川《がわ》の河原の方に向って、坂を下り始めていた。
「何ですか」
「ちょっと、聞きにくいことなんだけど」
五月さんは心もち顔を赤らめ、それから、或る厳しい目つきをした。それは捨身な目の色で、太郎はぞくぞくするほど美しいと思った。
「僕はわかってることなら、何でも答えます」
「あなたたちにとって、性《セックス》ってどれほどのものなの?」
太郎は一瞬《いっしゅん》黙ったが、それはむしろ、野球のボールを、確実にグラヴに捉《とら》えた時のような、満ち足りた充足《じゅうそく》感を感じていたからだった。
「どれほどのもの、って、世間で言われているほどのものじゃないことだけは確かだな」
太郎は答えた。
「そりゃ、僕だってエロ本読みますよ。でも僕たちは、据《す》え膳《ぜん》食うは、男の恥《はじ》っていう感じですね。婚前交渉《こんぜんこうしょう》賛成なんて女の子が出て来たら、少なくとも僕はおっかないからスタコラ逃《に》げるな」
五月さんは、なおも考えているようだった。
「急に、何か、あったんですか?」
「祖父江《そふえ》さんがね、昨日、私に或ることを言ったの」
太郎は少し当惑したが、それでも少しどぎまぎしただけで尋ねることができた。
「それ的《てき》なことを言ったんですか?」
「祖父江さんは決して、押《お》しつけがましいことを言う人じゃないのよ。一般《いっぱん》論なの。だけど……今の彼《かれ》にとっては、とても苦しい、って言うの」
「奴は変ってるよな。第一、それは口実だよ。僕は信じない」
「そう」
「それは昔からの迷信《めいしん》だよ。同情することはないですよ。そんなことさえも、自分で解決できなかったら、何だって、できやしないんだから」
「そう思う? 私、少し安心したわ。だってね。そういうことは、誰《だれ》だってどうにもしてあげられないことでしょう?」
「祖父江の奴、甘《あま》えてるんだよ。ねえ、五月さんはそう思いませんか。僕たちはまあ、大体、人並《ひとなみ》なんですよ。人並なくせに、何事でも自分一人耐《た》えられないと思うのは、僕は嫌《きら》いだな」
太郎はそう言うと、突然《とつぜん》、「オヤ」と呟《つぶや》いた。
「あそこにおかしいものがあるぞ」
それは、お稲《いな》荷《り》さんの西に面した傾斜《けいしゃ》地《ち》であったが、その刈《か》ったばかりの雑草の生えている土の上に、何か壊《こわ》れた植《うえ》木《き》鉢《ばち》の一部のようなものが見えたからだった。
「どこに?」
「あそこに、ほら、昨日の雨で流されたみたいな土の部分に、何か破片みたいなものが突《つ》き出ているように見えるでしょう」
五月さんは暫《しばら》くしてやっとそれを見つけた。
「あれ、鉢か何かの壊れたんじゃないの?」
「ちょっと、わかりませんね。そうかも知れないし、そうでないかもしれない。行ってみましょうか」
太郎は言いながら、斜面をそちらの方へ登って行った。そして、幸運なことに、極《ご》く自然に、五月さんの手をとることができた。
「やっぱり、そうだ」
太郎は近寄ってから言った。
「円筒《えんとう》ハニワだ!」
彼は夢中で土をかき起した。
「本当にそう? 只《ただ》の植木鉢みたいに見えるけど」
「これはまちがいないです、だってここにこういう模様と凸帯《とつたい》があって……ほら、これは壊れてるけど、すかし孔《あな》のあとが、こうやって一部残ってるもの」
「ほんとね。これは何世紀頃のものなの?」
「円筒ハニワはむずかしいんですよね。四世紀にも五世紀にもあるんだから。しかし、ここは、つまり昔は古《こ》墳《ふん》だったってことなんだな」
太郎は、急に感動がよみがえって来るのを感じた。円筒ハニワは一種の土留《どど》めだから、こうした古墳の端《はし》っこの土を保つためにはまさにあるべきところにある、という感じである。しかしそれにしても、ちょっとした植木鉢くらいの大きさのハニワが、よくも千五百年以上もの間、生き残っていたものだと思う。
「山本クンは、よく、こんなもの見つけるのね」
「僕、拾いものうまいんですよ。鏃《やじり》でも土器の破片でも、何でも、そういうものはぱっと見えるんです」
「大した才能じゃない?」
「ところがうちのおやじはそう言わないんです。土器などを拾えるのは、人間が退化している証拠《しょうこ》だっていうんです。つまり何千年前の人間と同じような感覚と精神構造しか持っていないから、そういうものが見えるんだ、っていうんです。わかっちゃいないよな、全く。僕は、金拾うんだって、けっこううまいんですよ。T駅前のバス乗場んとこ、あそこに、格《こう》子《し》になった下水の蓋《ふた》あるでしょう。あの辺で皆バス代出そうとするから、あの中によく小《こ》銭《ぜに》が落ちてるんだ。僕小学生の時はよく拾ったな」
「拾ったら交番に届けなきゃいけないでしょ」
「僕は一時、交番へ拾いもの届けに行くのの、チャンピオンだったんですよ。小学校の低学年まではね。三日にあげず届けに行ってた」
「何をそんなに拾ったの?」
「入れ歯でしょう。べんとう。万年筆。定期。へヤーピン。自動車のホイール・キャップ。ホイール・キャップなんて、五つも六つも拾ったなあ。あれ、皆、今頃、僕のものになってるんだけど、使いようないなあ」
五月さんはついに笑《わら》い出した。
「しかし、一番困ったのは、お婆《ばあ》さん拾った時だったなア」
「お婆さん?」
「そうなんですよ。中学になってからだったけど、駅から真直《まっす》ぐの道を、五十米《メトール》ほど入ったところで拾ったんだけど、ここは、どこだね、って言うだけなんですよ。お婆さんどこへ行くんですか、って聞いたって、ここはどこだね、の一点ばりでへたり込んでるから、僕は遂《つい》にお婆さんをおんぶして交番へ連れてったんですよ。そしたら、顔なじみの若いおまわりさんがね、又《また》、届けに来たのか、なんて、言ってね。でも親切でいい人なんですよ」
「お金拾っても届けるの?」
「お金はね、僕うまいことして届けないんだなあ」
「どうして?」
「あのね、一回に五十円までなら届けなくていいんだ。だから、六十円落ちてるとするでしょ。そしたら、まず、五十円拾って、一度、ぐるりとそこらへん歩いてくるんですよ。それから、もう一度来て、残りの十円拾うんだ」
「五十円までなら、本当に届けなくていいの?」
「というふうに聞いてるんです。僕が違《ちが》ってたら教えて下さい」
太郎は、やっと円筒ハニワの中に詰《つま》っていた土をあらかたほじり出した。指は泥々《どろどろ》になって、もう五月さんに手を貸せなくなってしまった。
「これは、五月さんにあげませんよ。学校の社会科資料室におくから」
「そうするべきだわ」
「お父さんのおみやげには、これから、クレッソン(西洋水ぜり)を摘《つ》みに行きましょう」
「そんなもの、この近くにあるの」
五月さんはびっくりしたように言った。
2
クレッソンの生えている流れは、太郎の秘《ひ》密《みつ》の猟場《りょうば》であった。そこは、L渓谷《けいこく》と昔《むかし》呼ばれた小さな渓流のある所なのだが、もちろん今は、その面影《おもかげ》はない。又《また》水も汚《よご》れて、澄《す》んだ水の中にしか生えないクレッソンは、とうてい育たない。しかし、その一部に渓谷に面した高台の家の地下から流れ出る自然の水道《みずみち》があって、そこに誰《だれ》も気が付いてはいないがクレッソンが茂《しげ》っているのである。
山本太郎は、ある日、ジョギングに行ってふとその流れを見下ろし、クレッソンがみずみずしく繁《はん》茂《も》しているのに気が付いたのであった。
「ねえ、母さん、クレッソン一束《たば》いくらで買ってくれる?」
彼《かれ》は値段の交渉《こうしょう》をしたが、母の信子は、
「クレッソンなんて高いから家では使わないよ」
と言うだけであった。それから二度ばかり、それでも太郎は渓谷に下りて、このクレッソンを摘《つ》んだ。クレッソンというやつは、本当に、水の中に生えているから、足をぬらさずに取るのは、ひどくむずかしいのである。しかし採りたてのクレッソンのうまさは、又たとえようもないので、太郎は、母の作ったサラダの上に、採ってきたクレッソンをちょいちょいとちぎってばらまいた。富士には月見草がよく似合《にあ》う、と言ったのは太宰治《だざいおさむ》だそうだが、クレッソンのサラダには、蟹《かに》の缶詰《かんづめ》がほんとによく合う。そして蟹の缶詰というやつは――これだから世の中がいやになるのだが――ケチして安物を買うと、これも蟹かと思う位まずい。だからどうしてもある程度以上の品質の物を買わなければならない。太郎は、渓谷に近付くと五月さんに、
「足が濡《ぬ》れるから、五月さんは上で見てなさいよ」
と言った。しかし五月さんは、
「なんだって、手を汚してみないとわかんないって言うじゃないの」
と答えた。だから五月さんて好きなんだ、と太郎は思っている。
幸いにも、クレッソンは健在であった。太郎は運動靴《うんどうぐつ》のまま、浅い水の流れに、ズブリと足をめり込《こ》ませ、あ、ひやりと気持いいな、と思いながら、五月さんの方に手を伸《の》ばした。
「根はできるだけ残していって下さい。また繁《は》えるから」
「採ったのはここに入れるといいわ」
五月さんはハンカチを泥《どろ》の斜面《しゃめん》に置いた。
二人がそうして、摘み草を始めて、暫《しばら》くした時だった。
突然《とつぜん》、崖《がけ》の上の方から、ドドドドド、というような軽い地《じ》響《ひび》きがして、どこかで見たような若者が一人、太郎達の方へ下りてきた。
太郎は一瞬《いっしゅん》、自分が盗みを働いている現場をとりおさえられたような気がした。しかし、考えてみれば、私有地へ立ち入った訳でもなし、何も悪いことではない筈《はず》だと、居直った時に、崖から下りてきた青年は、「やあ」と太郎に言った。
同じ学年の藤原俊《ふじわらとし》夫《お》だった。
「クレッソン採ってんの?」
藤原は言った。
「うん。君もか」
「いや」
藤原は曖昧《あいまい》に答えた。
「君は、よく知ってたなあ。クレッソンがここにあること」
太郎が言うと藤原は、ちょっと恥《は》ずかしそうな顔をした。
「だって、俺《おれ》がここにクレッソンの根植えたんだもん」
「ヒェ、おどろいた」
太郎は、おもわず、採りかけのクレッソンから手を離《はな》し腰《こし》を上げた。五月さんも同じように採るのをやめてしまった。
「じゃ悪いな。僕《ぼく》は自然に生えているんだとばかり思ったんだ。もっとも採りに来たのは今までに三回位だけれど」
「いいんだよ。ここは別に誰《だれ》の土地という訳でもないんだもの」
「だけど、君は、よくこんな場所を見つけたなあ、クレッソンていうのは、気むずかしいからなあ、ちょっとでも水が汚れてたらもうだめだろう。君の家は、クレッソン食べないの」
「食べないことはないんだけど、ここに生えるクレッソンは、おふくろは信用しないんだ」
「どうして?」
「水にどんな悪い物が入っているかわかんないからだってさ、僕の家は、この上なんだ」
「へえ」
太郎は、あらためて、木立の間から見える白いベランダを持ったスペイン風の建物を見上げた。
「ここのクレッソンは信用できないって、他《ほか》で売っているのならいいのかな」
「おふくろには、買いつけの店があるんだ。そこの物なら、なんでも信用する」
俊夫が、そう言い終った時だった。家の方から「俊夫、俊夫」と呼ぶ女の声が聞え、それを耳にすると、藤原は、ピクリと恐《おそ》れたように体をたて直した。
「俊夫、又、そこにいるの」
「今、友達《ともだち》とクレッソン見てるだけさ」
声の調子は急に優《やさ》しく改まった。
「お友達がいらっしゃるなら、そんなところにいないで上って頂《いただ》きなさいよ」
「上ってかない?」
藤原は言った。
「立派なうちだものな。上ってこうよ。黒谷なんか、自分のマンションのこと、豪邸《ごうてい》だ、豪邸だ、って言ってるけど、こういううちが、本当の豪邸だものな」
太郎は乗り気になった。
藤原は、先に立って崖を上って行った。彼は、母が厳しい声で彼を叱《しか
》った時、そこに太郎がいたことで、ほっとしているらしかった。五月さんはとっただけのクレッソンをハンカチに包んで後に続いた。
上ったところは広い芝《しば》生《ふ》だった。泳ぐには全く役に立たない西洋梨型《せいようなしがた》の小さなプールがあり、今は水が入っていなかった。
藤原の母はまだ若かった。太郎の母と違《ちが》って、よそ行きかと思うようなきれいなワンピースを着て、トルコ風の靴をはいていた。
「どなたなの?」
と息《むす》子《こ》にきいた。
「同級の山本君と……」
「五月さんです」
後半は、太郎が素子さんを藤原夫人に紹介した。
「まあ、クレッソンとってらしたの?」
「はあ」
太郎はまだ盗みを働いたような気分が続いているので力なく答えた。
「あのクレッソン、俊夫が播《ま》きましたのよ」
「今、初めてうかがいました」
「あんなことばかりうまくてね、困りますわ」
藤原夫人は、ちょっと眉《まゆ》をひそめてみせると、「さ、どうぞ」と彼らを食堂から家の中に上げようとした。驚《おどろ》いたことに、藤原の家は、靴のまま上るのだった。思わず、太郎はためらった。あまりにも、足は泥だらけで、濡れていた。
「僕《ぼく》、靴脱《ぬ》があ」
太郎は言った。
「いいよ、そのままで」
「しかし、何としても、これは合理的でないからな。僕は脱ぐ」
太郎は言った。
「私も」
五月さんも、少し足を濡らしていた。二人はプールの端《はし》についている水道の栓《せん》で足を洗い、それから濡れたまま家のところまで来て、そこで女中さんから、雑巾《ぞうきん》とスリッパを貸してもらった。三人は、それから、俊夫の部屋ではなく、食堂に行った。そして、そこで暫く、あちこちの棚《たな》に飾《かざ》られているものの品さだめをしていると、女中さんが、洋《よう》菓子《がし》と紅茶を持って来てくれた。
「ちょうどおやつだ。いいタイミングだな」
太郎は言った。自分の家ではこういうふうに、魔《ま》法《ほう》の如《ごと》く、お茶のでて来ることなんてあり得ない、と太郎は思っていた。
「君んち、のおやじさん、何屋?」
太郎は、藤原夫人の姿が遠ざかった時を見確かめて言った。
「うちはお祖父《じい》さんの代から、五井系の会社なんだ」
俊夫はうっとうしそうに言った。
「兄弟いるの?」
「兄貴と弟」
「じゃあ、みんな五井のどれかの会社に入ることになるんだね」
「そう親爺《おやじ》は望んでるだろうな。だから、おふくろは、僕が、クレッソンなんか作ると、機嫌《きげん》悪いわけだ。僕は、園芸何でも好きなんだけどな」
「クレッソンはいけないけど、バラや蘭《らん》ならいいんじゃない?」
五月さんは言った。
「うん、そうじゃないかと僕も思う」
太郎も言った。
「だけど、僕は、花、好きじゃないんだ」
「へえ」
「椰子《やし》の木なんか植えるんならいいけど、花は嫌《きら》いなんだ」
藤原俊夫は、小さい時、父親の任地だったシンガポールにいたことがあった。
「学校で、園芸クラブ入ってたっけ?」
太郎は尋《たず》ねた。
「あんなもの」
藤原は少し笑《わら》いながら言った。
「僕はもう少し、クロウトだから」
その日、太郎は五月さんとクレッソンを半分ずつ分けた。そして夕飯の時間にすべりこみで家に帰りつくと、さっそくそれでサラダを作った。
「ねえねえ、お母さん。僕はクロウトだ、って言った時の藤原の目付ってよかったよ。だけど、あいつ、かわいそうになあ。いつも、クレッソンなんかのことで、おふくろに絞《しぼ》られてるらしいんだ」
太郎はこの夜、夕食の時、母に言った。
「それとね、僕、今日、初めて上流階級と中流階級の区別わかったな」
父の山本正二郎が初めて、皿《さら》から顔をあげて尋ねた。
「どういうふうに違うのかね」
「上流はね、必ず、靴のまま家の中に上るの、靴脱いで上るうちはね、どんなに豪邸でも中流」
「それは、おおむね正しかろう」
山本は言った。
「オレ、今日、初めて、上流の家庭に招《よ》ばれたもんね」
「バカ、そういうのを招ばれた、とは言わんのだ」
「そうかなあ、お母ちゃんが出て来て、どうぞ、と言ってくれたんだけどなあ」
太郎は不服だった。五月さんと二人、裸《はだ》足《し》だったことは、ちょっとサマが悪かったけれど、洋菓子も紅茶もおいしかった。
「このクレッソンがそれか?」
山本は尋ねた。
「そう、うまいでしょう」
「新しいのが何よりよ。香《かお》りが違うわ。これからも時々採って来て?」
「ちえっ、タダだと思うと、すぐ図にのるからなあ」
太郎もぱくぱく食べた。五月さんの白い指が摘《つ》んだクレッソンだな、と心に噛《か》みしめていた。
太郎は、一週間ほど後に、再び同じく渓谷の前を自転車で通った。夕方ではあったし、その日は下りて摘み草をするヒマはなかった。しかし、太郎は何気なく秘密の畑の健在を確かめるためにそちらの方に目をやりながら、はっと息を飲んだ。
誰かが、鍬《くわ》か何かで、荒々《あらあら》しくあの水道《みずみち》を掘《ほ》り起したらしく、クレッソンの黒ずんだようなしっとりした緑の色は、あとかたもなかった。
第六章 犬の床《とこ》屋《や》
1
七月、休みに入ると間もなく、西東京選手権の日がやってきた。
山本太郎は、小学校の低学年の頃《ころ》は、運動が決して達者な子ではなかった。それよりさらに小さい時は、多摩《たま》川《がわ》の河原の崖《がけ》の斜面《しゃめん》をかけ下りることさえできなかった。おまけに太郎は、右の胸骨の一部が、左にくらべて多少へこんでいる。つまり、軽い奇《き》形《けい》なのである。
「僕《ぼく》、治るかなあ」
太郎は心配して父の山本正二郎《やまもとしょうじろう》に尋《たず》ねた。
「運動をやれ、そうすれば治るかもしらんし、治らんかもしらん」
「治らなかったら僕困るよ」
まだ幼なかった太郎は、少しばかりなさけなさそうな顔をした。
「僕の小さい頃、同じ組に、心臓が右にある奴《やつ》がいた」
と山本正二郎は言った。
「そいつは、俺達《おれたち》に、右の胸に耳をあてて、心臓の音を聞かせる度《たび》に、五銭ずつ取ったもんだ」
「五銭で何か食えるの?」
太郎は尋ねた。
「五銭じゃ何も食えないけど、三人に聞かせて十五銭になれば、ライスカレーが食えるからな」
「それでお父さんも、聞いたんだね。五銭だして」
「聞いたさ」
「まったくくだらないね」
「くだらないけど面白《おもしろ》いじゃないか。だからお前の胸の歪《ゆが》んだのだって、治らなかったら皆に見せて、十円ずつ取りゃいいんだ」
「昔《むかし》はよかったなあ。三人に見せて三十円じゃ、今はラーメンも食べられないよ」
とにかく太郎は頑《がん》張《ば》ったのであった。
父親とキャッチボールをし、日曜ともなれば二人で自転車で遠乗りにでかけた。
陸上競技に打ち込《こ》みだしたのは、中学の時からであった。スポーツと名の付くものは、一応なんでも嫌《きら》いではないが、どちらかというと、チームを組んでやるものより、個人競技の方が、性《しょう》に合っていた。一人で、黙々《もくもく》と記録を更新《こうしん》するのが楽しいのである。
「他人と一緒《いっしょ》にするのは、嫌《いや》だなんて、思い上っているんじゃないの?」
母の信《のぶ》子《こ》は、太郎のその好みを聞くと、さっそくそういって急所を衝《つ》いてきた。
「そうじゃないと思うけどなあ。そうかも知れないなあ。でもそうでも許してよ。それならそうで、必ず一生、自分一人で責任持って生きるからさあ」
太郎は百米《メートル》を専門にやるようになった。母に記録のことを話しても、いっこうにピンとこないらしく、
「一秒以下なんて、どうやって正確に計るんだろうねえ」
などというばかりであった。
太郎の中三の時の記録は一二秒四である。
「速いのかねえ」
母は、国家予算の数字を聞いた時くらいピンとこない顔をした。
「いやになっちゃうなあ。そんな奴に言ったってしようがないよ」
「かけっこで食えるの? 将来も」
「まず無理だろうね」
「何かやるんだったら、それで生きていく、という心構えになりなさい」
「そんなこといったって無理だよ。ああ、せめて僕が奈良県に生れてたらなあ。もしかしたら国体に出られるんだけどなあ」
太郎はそう言ってから、
「まあ、いいや、高校になったら、必ず足を洗って、勉強に専念しますから」
と母の肩《かた》をたたいていた。
それにもかかわらず、未《いま》だに太郎は足を洗わないのである。
「先生がねえ。急に運動を止《や》めると、体に悪いって言うから、秋までやります」
目下のところ、そう宣言してある。
試合の日は、太郎は六時には、もう目を覚《さ》ましていた。すでに、外は、爽《さわ》やかに明けている。試合の前日は、興奮《こうふん》して寝《ね》つきが悪いので、ウイスキーを飲んだのだが、そのからのコップが散らかし放題の机の本の間に倒《たお》れていて、ひどく、自堕《じだ》落《らく》な感じがする。高校生が酒を飲むことはいけない、と言われているのだが、山本正二郎は、中学生の頃から、太郎に酒をつきあわせた。ただし、条件づきで、未成年のうちは、決して外では飲まぬこと、という制約がついている。なまじっか、酒を禁じると、酒に対して甘《かん》美《び》な感情を抱《いだ》くようになり、酒に飲まれる人間ができてしまう。酒なんか、たいしたものでないと思えるようにするために、正二郎は、わざと、早々と、息《むす》子《こ》に、酒の味をおぼえさせたのである。
今日は、五《さ》月素《つきもと》子《こ》さんを試合に招待している。「勇姿」をみせられればいいのだが、どうしても、人生は、裏目、裏目と出るものだから、太郎は今日に限って、いい記録が出る訳がないような気がしていた。ベッドの足元には昨夜のうちから、ちゃんと用意した必要品が鞄《かばん》につめてある。ジャージー一着、ランニングパンツ、スパイクシューズ、スパイクの針、レンチ、タオル、スターティング・ブロック、木《き》槌《づち》、ばんそうこう、サロメチール、女の子からもらった布製の豚《ぶた》のマスコット。この女の子は、同級生で、本当は別にそれほど好きではないのだが、マスコットが一つも無くては、しまらない《・・・・・》ような感じがして、しのばせておいたのである。
いつもの通り、朝ご飯を済ませてから出かけるまでの時間を、太郎はこれらの基本的な必要品の他《ほか》に、さらにちょっとばかり、趣《しゅ》向《こう》をこらすことに使った。まず着ていくものだが、あまりくずすのは、かえって不愉《ふゆ》快《かい》であった。黒の学生ズボンに、ごくありきたりの半袖《はんそで》のYシャツ、靴《くつ》はアップシューズをはく。ただ頭にだけ、西部劇に出てくるような、テンガロン・ハットをかぶった。これは、二千二百円もするので、こんなふざけたものは、家で買ってくれないから、小《こ》遣《づか》いで賄《まかな》ったのである。
テンガロン・ハットの下に、むき出しの顔をさらすのは、あまりにも、健全な西部劇スタイルなので、そこでちょっと陰影《いんえい》をつけるために金縁《きんぶち》のサングラスをかける。これが千三百円である。
さてこのままにほうっておくと、どうしても外人の物《もの》真似《まね》になるから、なにか日本的なものでひきしめる必要がある、と太郎は思った。それには扇《せん》子《す》がいいのである。太郎の家の箪《たん》笥《す》の小引出しの中には、古くなって端《はし》がケバケバになったのやら、隅《すみ》の方に宣伝用の名前がはいった男物の扇子が何本かある。そのうちの一、二本は、父のでさえなく、祖父の使い古しである。その中から、わざと一番やぼったい、墨《すみ》絵《え》の露草《つゆくさ》の絵のついたのを選んだ。
テンガロンにサングラス。その前で扇子を拡《ひろ》げて、田舎《いなか》の村会議員風にわざとパタパタやってみる。我ながら、軽薄《けいはく》だなア、と思う。
しかし、軽薄ということは厳にいましめるべきことか。太郎はそうは考えない。はっきりと意識しつつ軽薄になること、の裏にはそれ相応の心理的模《も》索《さく》があった証拠《しょうこ》なのである。
たとえば、この場合、人間、如何《いか》によそおうか、という命題がかかって来ている。裸《はだか》でいる訳にはいかない以上、何かを着なければならないのだし、何を着るかということは、一瞬《いっしゅん》の表現の問題になって来る。
もちろんこのようなことに永遠に妥《だ》当《とう》な答えの出るものはない。しかし、でき得《う》る限り、個性的な見ばのいい服装《ふくそう》をしたいと思っても、さらに複雑な人間の心理はそれをぶち壊《こわ》すような働きに出ることもある。
人間の羞恥《しゅうち》というものは、自分とは異なった他人の存在を認めているという証拠《しょうこ》で、そこには、潜在《せんざい》的に価値の混乱があるということを承認しているからこそ、自分の判断に自信が持てなくてはにかむのである。しかしこのはにかみというのは大変大切なもので、逆に自分の決定に、疑いもなければ、不安も覚えない、という荒《あら》っぽい独善的な人間は決してはにかむことがない。
人間らしさの一つの表われには、そのようにして無限に迷《まよ》うことが含《ふく》まれると思うのだが、そうそう迷っていては結局何もできないから、「エイッ」と気合をかけて、自分の好きなやり方を取るのである。只《ただ》、必ずしも、その決定が最善と思っているのではない、という印に、太郎の場合は、どこか破れ目をつくっておく。カウボーイ風のテンガロン・ハットに、村会議員の扇子パタパタというポーズは、いただけないことは、わかっているが、つまりこの様にして自分を信じていませんよ、と意思表示することは、それも、れっきとした他人への尊敬と、慎《つつ》ましさの表われなのである。
五月素子さんは、時間より五分早く現われた。こういうところが太郎は好きなのである。いらいら待たせる女なんて最低だからな、と思うのだ。
「昨日は、遅《おそ》くまで練習したの?」
五月さんは尋ねた。
「まあ、軽く一時間位ね。あんまりやらないんだ。軽いかけ足して、ちょっと体操やって、バウンティングと称する跳躍《ちょうやく》運動をやって……。試合の前の日には、ウエイトトレーニングや、スクワット系の運動はやらないんですよ。だけど、やっぱり、落ち着かないですね。食欲もないし、体がだるくてしようがないや」
2
太郎は、五月さんと競技場の入口で別れた。別に人目をしのぶわけではなく、それまでにもさんざん知り合いに会ったから、太郎が「女連れ」で競技場にやってきたことなどはとっくに知られてしまったのである。ことに、L高校の浜《はま》田《だ》は、ライバルの一人なのだが、その彼《かれ》は、太郎と五月さんを追いこしざま、わざと、腰《こし》を一ひねりして、後ろも振《ふ》り向かずに歩いていった。
競技場に入ると、太郎はまず、大会旗をちらと眺《なが》めた。よく新聞記事などに、競技場の旗が翩翻《へんぽん》と翻《ひるがえ》り、などという表現があるが、翩翻と翻るほど風に吹《ふ》かれては、全く、お手上げなのである。さりとて、旗がだらりと、たれ下るほどの無風状態も好ましくない。追い風二米《メートル》までは、かまわないのだから、多少はそよそよ、と後ろから吹いてもらいたい。もっとも、この風が、正面から吹いてきたら、これも又《また》、困りものだ。向い風に強いのは、デブばかりで、こういう奴《やつ》に限って、肩《かた》の中に首がめり込んでいる。高校生の短距《たんきょ》離《り》の選手の中には、「百」と円盤《えんばん》とか「百」と砲丸《ほうがん》とかをやるのがいて、こういうのになると、鎖《さ》骨《こつ》まで上にずり上っているように見える。その鎖骨の上にすさまじい筋肉がのっかっており、その間に坊主頭《ぼうずあたま》が、めり込んでいたりするのを見ると、太郎は、「こんな奴なら、そうとうの風にだって吹きとばされないだろうなあ」と憂鬱《ゆううつ》になるのである。
その日、コールがかかって、準備のためにコースに入りながら、太郎は、この気分だけは五月さんにわからないだろうな、と思った。
何日も、何時間も走り続けたのは、これからやってくるほんの十秒ほどのためである。走って、走って、試合の時も走って、そして、走って別にどうなるというのでもないこの虚《むな》しさを思うと、それだから、こういうことをやるんだなあ、という気になるのである。
「普《ふ》段《だん》ぐずぐずしているくせに、十分の一秒を速いの遅《おそ》いのと言っているなんておかしいわね」
などと、母は言うが、そんなことを言ってしまったら、何だって意味はなくなってしまう。山本信《やまもとのぶ》子《こ》においては重量挙げなどという種目は、最も愚《おろ》かしい競技で、「フォークリフトがある時代に、力だめしもないものよ。あんな重い物持ち上げたら背は低くなるし、背骨に悪いこときまっているじゃないの」ということになる。
太郎は、コースの中で、上着のジャージーだけさっと脱《ぬ》いだ。それから、靴下《くつした》も気持よくとって、スパイクシューズをはいた。本当に雲が白く、光がまぶしかった。少し離《はな》れた所で、浜田がやはりスパイクシューズをつけているのを、ちらりと横目で見た。浜田のバカは靴下を片方だけ脱いで……、つまり逆にいえば片方しかはいていないのである。これはもっぱらげんをかついでいるからであった。それから太郎は立ち上って、両手を腰に当て、これから自分が走るべきトラックを眺めた。
やったことのない人には、わからないだろうが、体の調子の悪い時や、なんとなく意気阻《そ》喪《そう》している時は、真平《まったい》らなトラックが、なんとかすかな、上り坂に見えるのだ。幸いなことに、今日は、トラックは海のように平らに見える。
その時、後ろの方から人声が聞えた。
「おい、××! 今日、山本太郎と一緒《いっしょ》だなあ。あいつ、速いのか?」
太郎は体中を耳にして聞いている。
「なあに、たいしたことはないさ、あいつは、一一秒六だからな」
太郎はいらいらした。こういうデリケートな時になって不愉《ふゆ》快《かい》な話が聞えてしまった、といって自分の記録は、一一秒四だと、わざわざ訂正《ていせい》しにいく程《ほど》のことはない。だいいち相手も、もしかしたら、わざと太郎の精神状態を不安定にさせるために、こういう会話を聞かせているのかも知れない。
実に、なんと多くのくだらない心理的な緊《きん》張《ちょう》と闘争《とうそう》に耐《た》えて、スタートにまで、持っていかねばならないことか。試合の当日ともなれば、あたりはもう神経的に、ベトナムのゲリラの出没《しゅつぼつ》地帯にいるようになってくる。なんでもないことが、ことごとく神経を、逆なでするような不快感になってつきささってくる。ウオーミングの時、なんの理由もなく、シューシュー音をたてながら走るのがいる。屁《へ》をするのもいる。スパイクシューズを脱いで、ボリボリと足の裏をかくのもいる。余《よ》裕《ゆう》のあるところを見せるために、わざと教科書や単語帳を拡《ひろ》げるのもいる。何事も気にしまいと思いながらすべてが気になり、そのような感情の高まりに耐えていかに自分を保てるかが問題になってくるのである。
太郎はもう一度空の白雲を仰《あお》いだ。これから前の組がスタートすると、すぐに、スターティング・ブロックを打ち込まなければならない。これも自分の心理との戦いであった。ブロックの位置を決めるまでに、長い奴は、四分やそこらかかる。これを打ちそこなって、体が前につんのめった瞬間《しゅんかん》にスターターが鳴った時など悲《ひ》惨《さん》だ。
試合は、積極的にやれば、バカみたいだ。どちらかというと消極的レースの方が粋《いき》だと太郎は考えている。強い選手はだいたい平均して各組にわりふってあるから、八人ずつ一組で走る予選では、太郎くらいの速さになると、わざと二着に入るように走る方法もあるのである。尤《もっと》も粋であろうとしすぎると、しゃれたつもりがキザになり、ろくな結果にならない。一時、太郎は、わざと長い長い鉢巻《はちまき》をしめて走っていたことがあった。インディアンの鉢巻どころではない。先っぽが風にたなびいて、一米も後方に届いているようなやつである。ところがそれが、ある時、足にまきついた。太郎はつんのめりそうになり、大《おお》恥《はじ》をかいたのである。それ以来、こういう見えすいたキザはやらない。余裕を見せようとして、観客席に手をふりながら走る、などというテクニックもあるが、これも粋の度を越えてしまう。
太郎はゆっくりと、タイツをぬいだ。長いスパイクをつけたまま、タイツを破かずにぬぐのは、これでかなりの熟練を要するのである。太さ五十二糎《センチ》の筋肉でごりごりの太腿《ふともも》が現われた。
スタートに着くと、太郎は、ふと、あたりがひどく整理されたような気がした。いっさいの雑物のない茶室の静謐《せいひつ》の真中にあるようならしくない《・・・・・》感じであった。これは悪くない徴候《ちょうこう》だった。太郎は、スターターの音を飲み込むような思いで走りだした。すぐ横にL高の轟《とどろき》という男が、すさまじい競《きそ》い方でついて来るのが見えた。ゴールに入ると、轟がすぐに通告の席の補助員に、記録を聞きにいったのを見ながら、太郎はゴール近くにいる五月さんの方にはわざと目もくれずに、スタートラインの方に戻《もど》りかけた。轟は全力をあげて、めいっぱいに走っているから、それでタイムが気になるのだが、予選でそんなに力を出し切っても、決勝で、うまくいく筈《はず》はないのである。スタートラインに戻るのは、ぬぎすてたジャージーを拾いに行くためで、中には部員の女の子やマネジャー等に拾わせるのもいるが、太郎はそういうやり方はきらいなのである。準決勝は全部で三組しかなく、その各組から二着までを取り、さらに記録のいいのを二人つけ加える。この八人が、決勝に残るのである。
準決勝でもふたたび太郎は二着取りをねらった。太郎は第一組であった。今までのところ作戦は、計画通りいっているように見える。スタートラインにもう一度戻りながら、太郎はふと、今が一番充実《じゅうじつ》した快感を味わっているのだ、と思った。第一組を走って、二着までに入って、残り二組の走るのを悠々《ゆうゆう》と見ている。こんな爽《さわ》やかな、自然な、平和な、満ち足りた時がこの世にあることを他《ほか》の人々は知っているのだろうか!
3
その日の太郎の決勝の記録は、一一秒三であった。
「一番なの?」
と母は尋《たず》ねた。自己の記録を0.1更新《こうしん》したというだけでもうそんな風に思うのだから、母親の反応《はんのう》はやりきれない。
「決勝で五位だよ」
「何人中の?」
「八人中のさ」
「じゃ、たいしたことないじゃないの」
うちのおふくろさんていうのは、運動バカなんじゃないだろうか、と太郎は考えた。確かに世の中には十秒台を走る高校生はいくらでもいるが、さりとてこの記録が、そうざらにあるというものでもないのである。果して、テキは、
「それで、せっかく運動をやるなら、オリンピックぐらいになんとか出られないの」
ときた。女には、オリンピックと国体の区別がどうしてもつかないのである。
「それは無理だよ。せめて、『陸上ニュース』に名前が出ればなあ」
太郎はため息をついてみせた。
「『陸上ニュース』に太郎の写真が出たらお見せ」
母はまだむちゃなことを言った。
「写真じゃないんだよ。名前と記録が、小ちゃく小ちゃく出るか出ないかなんだよ」
スポーツに関して、家《うち》の母親は知りもしないくせに虚栄《きょえい》型なんだな、と太郎は思った。
「陸上ニュース」に息《むす》子《こ》が走っている姿が出たら、それをいつか黒谷のおふくろにでも見せようというのだろうか。すると黒谷のおふくろも又《また》、
「まあ。顔をしかめて、歯をむき出して、本当になんて立派な男らしい恰好《かっこう》でしょう」
などと、見当違《ちが》いなほめ方をするに違いない。
世の中の母親どもは、子供がスポーツをすることについて虚栄型か、実利型か二つに分れるのではないか。つまりスポーツをすれば正義感にもえ、決断心が早くなり、他人と協調して、事を成すのがうまくなり、体が鍛《きた》えられ、性格が明るくなるという。しかし、それらは、どれも実質的でない期待である。
スポーツは、正義感を養うにいいというより、むしろ闘争《とうそう》そのものである。それも非常に単純な判断の形態をもとにしての闘争だ。正義感どころか、スポーツマンの中には、権《けん》威《い》に弱い俗物もいっぱいいる。
決断が早くできるようになるというのも、もしかすると、深く考えない、という、愚《おろ》かしさの結果であるかも知れない。ハムレット型の人間は、確かに運動には向かないが、ハムレットは、ハムレットであるからこそ、哲《てつ》学《がく》的な人生を掘《ほ》り下げうるのだ。そのような単純なスポーツマンに果して本当の意味での協調ができるかどうか、太郎は疑うのである。協調とは、なんでもいいから相手をうのみにすることではない。相手の性格の奇々《きき》怪々《かいかい》さに辟易《へきえき》し、恐《おそ》れをなしつつなお、人間の尊重のために涙《なみだ》をのんで、自他ともに生きる道を探すことである。
スポーツが健康にいいかにいたっては、父の山本正二郎は、むしろ完全に懐《かい》疑《ぎ》的であった。
「早死にするようなやつに限ってスポーツマンであった」
と山本は言うのである。
「腎臓《じんぞう》、肺臓、なんでもとにかく酷《こく》使《し》することはよろしくない」
「だってお父さん、僕の小さい時、スポーツやれって言ったじゃないか」
「アマチュアスポーツはよろしい。要するにスポーツは、へたでなければいかんのだ」
確かにスポーツマンには性格の明るい人間は多いようである。しかしハムレットは、暗く、それより単純な人間は、やはり単純に希望を持ちうるであろう。
健全なる肉体には健全な精神が宿らない、という言葉が、カンドウという有名なフランス人の神父にあるくらいだ。
要するに、太郎に言わせれば、スポーツは、ただ楽しいからやるだけのことだ。しいて言えばその中に、人生の縮図《しゅくず》のような苦渋《くじゅう》があるから、というだけなのである。
「ねえ。ねえ。母さんこれどう思う?」
それでも太郎はその夕方、母親にまつわりつきながら賞状を見せた。
「『栄光を讃《たた》える』としか書いてないっていうのはどう思う」
「簡潔《かんけつ》でいいと思うよ」
信子はお愛想《あいそう》でもなさそうに言った。
「五月さんもそう言うんだ」
太郎は帰りに五月さんとスパゲッティを食べてきた。試合中は、緊張《きんちょう》しているし、口が乾《かわ》くので、ほとんど食事がとれない。生レモンの汁《しる》をのみ、友達《ともだち》が持ってきたトマトときゅうりのサンドイッチをほんの少し食べた。スパゲッティを食べている時も太郎はムッツリしていた。いい記録がでた時には、なんとなくムッツリしていないと恰好がつかないのである。
「何か怒《おこ》っているの?」
と五月さんは言い、
「いや、別に」
と答えて太郎はまだムッツリしていた。五月さんはちょっと心配そうだった。その時の気分がなんともよかったのだ。
太郎は夕飯を済ますと、「床《とこ》屋《や》へ行ってくらあ」と母に言った。試合の後の解放感があった。床屋は駅のすぐ近くで、本屋の隣《となり》である。床屋の親爺《マスター》は古顔で、太郎の父の山本正二郎の髪《かみ》も昔《むかし》から刈《か》っている。
「○○さんの奥《おく》さんは昔よくうちへ来て、椅《い》子《す》の上でおもらししたもんだ」
などと喋《しゃべ》り散らす趣《しゅ》味《み》があるから油断はならない。
太郎についてもこのマスターは、ちゃんと弱点を握《にぎ》っているのである。太郎は小さい頃《ころ》から、もっぱら、この店でマンガを読むことにしており、そのために又、人に順番を先へ先へとゆずってねばったのであった。当然マンガ本はすぐ底をつき、太郎はマスターに談判した。
「親《おや》爺《じ》さん、マンガ本買ってこいよ」
「そのうちにね」
親爺さんは渋々《しぶしぶ》答えた。
「今すぐ買えよ。隣が本屋じゃないか。いい本はすぐ買う癖《くせ》をつけなきゃいけないってうちのお父さんは言うよ」
まったくすごい息子さんですな、と彼は山本正二郎にこのことを告げ口したのである。
その日も太郎が椅子の上に坐《すわ》るとマスターは、
「お父さんは元気かね」
と太郎に尋ねた。
「さあ。畳《たたみ》の上にひっくり返ってたけど」
「年だよなあ。お父さんも、昔は、はりねずみみたいに、髪がおったってたもんだが、この頃《ごろ》は毛がショボショボして、扱《あつか》いよくなっちゃって。へへへ」
この最後のへへへは心から嬉《うれ》しそうな笑《わら》いであった。マスターは、禿《はげ》である。他人が禿げて来たり毛が薄《うす》くなったりすることについては、全く、快さそうな笑いをもらすのである。或《あ》る人の不幸は必ず他人の幸福の種になっていることをしみじみ思わせる笑いだが、全く悪気がない。
その時、後ろから、
「おい山本」
と太郎に声をかけるものがあった。
太郎は鏡の中をのぞいた。密《ひそ》かにクレッソンを栽培《さいばい》していた藤原俊《ふじわらとし》夫《お》だった。
「あれから、クレッソン採りにいった?」
藤原は尋ねた。
「いや。ちょっと通りかかったら、荒《あら》されてたもんだから。あれで全滅《ぜんめつ》しちゃったかな」
「ああいう風に、ひっくりかえさせた人がいるもんでね」
藤原は、マスターが聞いていることを充分《じゅうぶん》に意識して、曖昧《あいまい》に言った。
「もし君が、あそこをまだあてにしていたんなら、悪いことをしちゃったけど」
藤原の母がやったのだ、と太郎は察した。彼女は藤原の好みを認めていないから、そのきっかけになるものを、ことごとく破《は》壊《かい》しようとしたに違いないのだ。しかし藤原は大人《おとな》びた落ちつきで言った。
「実は僕《ぼく》、面白《おもしろ》い人に会ったんだ。地主さんといってね、自動車会社の輸出部かなにかの仕事をしている人なんだけど、椰子《やし》きちがいなんだ。世界中で椰子の写真を撮《と》って歩いてる。それを見せてもらいに行こうと思うんだけど君も行かないか」
「どこにいるんだ、その人」
「軽井沢」
「ふうん」
「明日からうちは軽井沢へ行くんだ。地主さんも、休暇《きゅうか》をとって、奥さんたちのいる軽井沢の別荘《べっそう》へ行くらしいんだ。向うで椰子の写真の整理をするから、その時みせてやる、と僕に言うんだ。よかったら君もおいでよ」
「君んちへか」
「いいじゃないか、君がきてくれる日を決めさえすれば、うちじゃあ、待ってるから」
「じゃあ、早いとこがいいなあ、しあさって行くよ」
「今、地図を書いておこうか、その方が早いよね」
床屋から帰ると、太郎は、母に、
「ねえ、ねえ、母さん、僕、本当に、上流階級の家に招《よ》ばれたんだよ。僕、しあさって軽井沢へ行ってくらあ」
と報告した。
「軽井沢のどこへ行くの?」
「藤原の別荘だよ、行っちゃいけない?」
「いいわよ。向うさんがいいっておっしゃるなら」
「黒谷のやつに教えてやろう。あいつは上流階級と知り合いがないから、軽井沢なんか行ったことないだろう」
太郎は電話のところへ飛んで行った。青山さんが出て、黒谷は出かけている、と答えた。
「どこへ行ったんですか」
「さあ。どこかわからないんですけど」
「いつ帰ってきますか、夕飯は家で食べるんでしょう?」
「それもわかんないんです」
「僕、しあさってから軽井沢へ避暑《・・》に行きますから」
と太郎は避《ひ》暑《しょ》というところに力を込《こ》めて言った。
「それまでに帰ってきたら、黒谷に電話をくれ、と言って下さい。彼は金沢へは帰らないんですか」
「さあ。来月になったら帰るって言ってましたけど、この頃、よく、出かけるんです」
「どこへ?」
「最近知り合った女性の犬の美容師さんに犬の毛の刈り方習いに行ってるんだそうです。今日もそこへ行ったかどうかは知りませんけど」
「へえ」
太郎は、電話を切ってからも暫《しばら》くそのことについて考えていた。黒谷が趣味人であることはわかっているが、何も犬の床屋まで始めなくてもよさそうなものだ、と思った。
「母さん、どうも黒谷のやっていることはおかしいな」
太郎は母に言った。
「どうおかしいのよ」
「そうだな。考えてみると別におかしくもないな」
人間の床屋も犬の床屋も、その技術においては、特に差があろうとは思われなかった。
「だけど、やっぱりおかしいよ。もしかするとあいつ……」
「なんなの」
「いや、別に」
もうそこから先は、母親という種族には言わない方がいいということを太郎は知っていた。母には言わなかったが黒谷が彼女に近づいて行く理由は決して、犬の理《り》髪《はつ》術を習うのではないような気がしてならなかったのである。
第七章 椰子《やし》と情事
1
山本太郎は、約束《やくそく》通りの汽車で軽井沢に着き、迎《むか》えに出ていてくれた藤原《ふじわら》と会った。
藤原家の別荘《べっそう》はいわゆる旧軽井沢にあった。カラ松の林の奥《おく》に、期待とは別に、古い日本風の家があった。
「ようこそ。俊《とし》夫《お》がお待ちしてましたのよ。ボロ屋ですけど」
藤原の母親に言われて、山本太郎は、
「お世話になります」
とかしこまって挨拶《あいさつ》し、それから、母に持たされた洋《よう》菓子《がし》の包みをさし出した。
「これ、母からです」
「まあ、ありがとうございます。こちらへ来ると、一番ほしくなるのが洋菓子ですのよ。こちらでは、いいお菓子屋さんがないんですもの」
藤原夫人はそう言ってから、
「山本君は、軽井沢はよくいらっしゃるの?」
と尋《たず》ねた。
「いいえ、初めてです。一度だけ、汽車が軽井沢駅で二十分くらい停《とま》ったもんですから駅でおそば食べたことがあるだけです」
「お母さん、今日、夜は僕《ぼく》たち地主さんの所へ行くから」
「そう、行っていらっしゃい。地主さんのおじさまにいろいろよその国のお話伺《うかが》うと為《ため》になるわよ」
それから、太郎は内玄関《うちげんかん》の傍《そば》の六畳《じょう》に案内された。
「こんな部屋でごめんね」
「上等過ぎらあ」
「隣《となり》の四畳半に、戸《べ》次《つき》さんて大学生がいる。僕《ぼく》が勉強を習わせられることになっている人なんだけど」
「家庭教師か」
「ということになってるけど、二人して共謀《きょうぼう》して遊んでる。それから、うちの母の言うこと、あまり当てにしないほうがいい」
藤原は小声で言った。
「どうして?」
「君が持って来てくれた洋菓子屋、夏の間はちゃんと、こっちへ出店を出してるんだ。だから、買えないなんてことはちっともない」
「うへー」
「でも、うちの好物だってことはまちがいないんだ」
「地主さんって人は、そんな椰子気《き》狂《ちが》いの癖《くせ》に、君のお母さんに妙《みょう》に信頼《しんらい》されてるんだね」
「地主さんの勤めてる自動車会社は、五井系の資本だしね。地主さんは血は続いていないけど、うちと、遠い姻戚《いんせき》に当るんだ。いわば身内だから」
「つまりお家柄《いえがら》なんだな」
「お家柄ってこともないけれどね。だけど、地主さんって人は奇妙《きみょう》な人物さ」
「どういうふうに奇妙なの?」
「会ってみりゃ、わかるよ。それよか、荷物おいたら、庭へおいでよ。お茶を飲む時間だから」
「よし行こ。君んちの紅茶はうまいからな」
自然の林の一部を切り開いて、そこに素《そ》朴《ぼく》な木のテーブルと椅子《いす》ができており、その上に不似合いなほど上品な、白地に金の縁《ふち》どりをしたティーセットが出されていた。
太郎はそこで、戸次さんに紹介され、最初から、お互いに秘《ひ》密《みつ》を持ち合ったような挨拶を交わした。
「ここのお宅のお茶おいしいですね」
太郎は藤原夫人に言った。
「うちの母のいれた紅茶は、ほんとうに情けなくなるほどまずいんです」
「東京のお水は悪いのよ。うちでは東京では壜詰《びんづめ》の水を使ってますもの」
「はあ」
太郎は少し考えてから、
「いや、うちの紅茶がまずい理由は、母がお茶の葉っぱをケチるからだと思います。ひどいんですよ。うちの母は、朝、紅茶を飲む時、ティーバッグで三ばいいれるんです。色がつきゃいいと思ってるんだから」
「日本に輸入されてるお茶はどれもまずいっておっしゃる方もあるのよ。うちのはアッサムのでね。印度《インド》から直接送って頂いてるの」
そこへ、林を抜《ぬ》けて、一人の中年の女の人が入って来た。もう少し白髪《しらが》がまじっている年なのに、紺《こん》と白の縞《しま》のスラックスに赤いセーターを着ている。それが決して似合わなくないのが不思議だった。
「あら、東《あずま》さん!」
藤原夫人が娘のような声をあげた。
「本当に何年ぶりかしら。私共、一昨日《おととい》来ましたのよ」
「うちもよ!」
「去年みたいにかけ違《ちが》ってお目にかかれないかと思っていたんですけど、今、買物に行く途中《とちゅう》で覗《のぞ》かせて頂《いただ》いたら、雨戸が開いてるじゃない。嬉《うれ》しくなって……」
東さんはそれから、テーブルでもじもじ坐《すわ》っていた太郎たちの方を向いて、
「行《ゆき》夫《お》ちゃん?」
と尋ねた。
「いいえ、行夫はもう大学生よ。これが、俊夫」
藤原の母は、俊夫の肩を抱《だ》くようにして言った。
「まあ、もうこんなになられたの お兄ちゃまと勘違《かんちが》いしたわ」
「東さんの小母《おば》ちゃまよ。知ってるでしょう」
「はい、知ってます」
「もう、本当に青年ねえ」
東夫人は言った。
「いいえ、なりばかり大きくて、まだほんとうに子供なのよ。一人前にご挨拶もできなくて……」
「あら、男の子なんて、それでよろしいわよね」
太郎はその時、何の気なしに藤原の顔を見上げた。そして、彼が母の期待にこたえるべく、わざと甘ったれた、腑抜《ふぬ》けみたいな表情をしているのを見た。
そうだ、世の中の親が子供に期待することの半分は、腑抜けになることなんだ。
「お茶をあがっていらしてよ」
藤原夫人は言った。
「いいえ、だめ! これから買出しをして、早く家に帰ってメシ炊《た》きをしないと、うちには飢《う》えたる者共がひしめいてるから」
「そう? じゃあ、又《また》、日を改めて……」
「そうさせて頂くわ」
藤原夫人は東夫人を、広い邸内《ていない》の林を抜けて送って行った。
「東さんて、感じのいい人だね」
太郎はほめた。
「昔からの知り合い?」
「五井銀行の人さ、旦那《だんな》さんは。東夫人のお父さんって人も、共同造船の会長だから」
「あの女《ひと》のざっくばらんさを見てると、本当に育ちのいい人のざっくばらんって気がするね」
(うちのおふくろのざっくばらんは、自然発生的ざっくばらんだけど)と太郎は言いたかったのだが、黙《だま》っていたのだった。
「ああ、あの女《ひと》は、本当に上流階級だよ」
「ふうん?」
「あの人は、社交が嫌《きら》いなんだ。いつも早く起きて家の中にいる。外出は必要最低限しかしない。うちのおふくろさんみたいに、昼間は必ず家にいないような女は、だめだね」
戸次が「くっくっ」と笑った。
2
地主さんの家は、当世風の山小屋スタイルだった。壁《かべ》の板が節だらけだと思ったが、わざとそういう板を選んで装飾《そうしょく》的に張っているらしい、ということが間もなくわかった。
「その後、どうだね」
地主さんは四十七、八で、なかなか男前だった。ゴルフで鍛《きた》えているらしく、体つきも締《しま》っていた。それに比べて、地主さんの奥《おく》さんを紹介された時、太郎は驚《おどろ》いてしまった。
地主夫妻はどうしても姉と弟くらいに見えた。しかも、奥さんは、おでこが出ていて、眼《め》鏡《がね》をかけており、マッチ棒のように痩《や》せていて、むしろ醜女《しゅうじょ》だった。
「小父《おじ》さん、なかなか、軽井沢へ来にくいんでしょう」
太郎たちは、燃えている暖《だん》炉《ろ》の傍《そば》に通された。暖炉などというものは、太郎にとっては「モルグ街《がい》の殺人」を読んだ時くらいしか印象がないのである。
「まあね。小母《おば》さん一人で来りゃいいんだけど」
「暖炉ってのは、しかし便利だな。焼却炉《しょうきゃくろ》がうちの中にあるようなもんだから」
突然《とつぜん》、太郎は感心して言った。
「そう思うでしょう。僕《ぼく》もその主義でね。インスタント・ラーメンの袋とか、マーケットで買って来た煮《に》豆《まめ》の包みとかみんな燃しゃいいと思うんだけど、小母さんはそれを許さないんだ。ここはマキを燃すところで、ゴミ燃し場は外にあるんですから、って言うんだ。男と女の考え方の違《ちが》いかな」
地主さんがそう言ったので、太郎は、
「そうでしょうね」
と賛成しておいた。
「透《とおる》君は?」
藤原は尋《たず》ねた。
「下田の方へ学校から行ってる。あさって、こちらへ来る予定なんだけどね」
地主家も、やはり一人息《むす》子《こ》で、透は中学三年なのだということが、まもなく太郎にもわかった。
「この間は、どこへ行ったの?」
藤原は尋ねた。
「カリブ海と、中米へね」
「日本の自動車って売れるんですか」
「国によっていろいろ差はあるけど、まあ有望だね」
「どうして?」
「反米感情はあるし、日本の車は安いし、小さい道に向いてるし、舗《ほ》装《そう》してない路面にも強いし、何より最近アメリカの車はあちこち故障するし……」
「へえ、アメリカの車は壊《こわ》れにくいのかと思った」
「労働力の不足というか、労働力を省きすぎた結果だね。日本人も働かないことばかり考えてると、今に、そういう形でガタが来る」
「それで、写真とれた?」
「今、持って来る。俊ちゃんが来る、っていうんで、昨日の夜、小母さんと二人で十二時までかかって整理した」
「今度の収穫《しゅうかく》はどれ?」
「場所が場所だからね、コペルニシアが多いよ。いわゆるキューバン・スピイシイーズという奴《やつ》だ」
「これはすごいね」
俊夫は数分間くい入るようにアルバムをめくり続けたあとで、幹の部分にミノをつけたような椰子《やし》をさして言った。
「これはなに? コペルニシア・リジダ? でもないね」
「コペルニシア・コウエリというんだ。リジダとトレアナの中間ぐらいの奴だけど。トレアナは知ってる?」
「うん、フェアチャイルドの熱帯植物園にある写真みたことある」
「コウエリはフェアチャイルドにもなかったと思うよ」
「どこでこの写真とって来たの?」
「グテレスという、トリニダッドの富《ふ》豪《ごう》の家でさ」
「ふうん。これは?」
「これがトレアナの幹を剥《む》いたところさ」
「剥かない方がいいね、スカートをむりにとらせた女の人みたいで、すごみがないよ」
地主さんがおかしそうに笑った時だった。
「お汁《しる》粉《こ》はいかが?」
と地主夫人がききに来てくれた。
「はい、頂《いただ》きます」
太郎が、藤原より先に答えた。
「お餅《もち》はいくつ?」
「大きいんですか、小さいんですか」
「小さいわ。切手大くらいのサイコロに切ってあるの」
「じゃあ、三つ」
「俊夫ちゃんは?」
「僕《ぼく》は二つ。夏でもお餅あるんですか」
「冷凍《れいとう》庫《こ》に入れてあるから、一年中あるのよ。お餅を冷凍庫に入れとくといいって教えて頂いたのは、多分、俊夫ちゃんのお母さまからよ」
「そうですか。何だか感じ悪いな」
地主さんはおもしろがって、くっくっ笑った。
「君は、少し進学のこと考えた?」
地主さんは藤原に尋ねた。
「時々ね。でもまだ何も決めてない。行夫兄ちゃんは荒《あ》れてるからな。あんなになりたくないし」
「今でも荒れてるか」
「ひどいもんです。酒乱だな。ぜったい家族と一緒《いっしょ》の行動はしないんだから。大学へ入るときから、もうまちがっちゃったんだよね。彼は文学やりたかったんだ。いい詩を書いてるよ。それを裏口入学で、法学部へ入れたんだからね、母さんが。行夫兄ちゃんは、法律なんて何の興味もないんだ。だから、酒飲んで、大学は行かないし、ついこないだは、喫《きっ》茶《さ》店《てん》の女の子の部屋に二カ月くらい転がり込《こ》んでたのを、母さんが見つけ出して、お金やって手切らせて、連れて帰って来たんだ」
「弟の……あれは何て名前だっけ」
「秋夫? あいつは何も言わない。うちへちゃんちゃんと帰って来るけど、寝《ね》るまでに、一言くらいしか言わない。多分、学生運動か何かやってると思うけど、僕にも詳《くわ》しくは言わない。彼《かれ》の行ってる高校、学生運動やってるの多いしね」
「まあ、それらのことを、あれこれ考え合せた上で、どういう道に進むか、決めるんだね。親に復讐《ふくしゅう》するだけが青春の目的だなんてのも情けないからな」
「それは僕も考えてるんだ。そんなことを言うと、恵《めぐ》まれてるのに、バチ当りだって言われそうだけど、孤児《こじ》ってのは、ずいぶんしあわせだね。行夫兄ちゃんが、もし孤児だったら、ずいぶん明るく、しっかりやって行くと思うよ」
「親がいたって、孤児だと思ってやればいいじゃないか」
「それができないから、不幸なんだよ。親は決して、放してくれないもの。子供は親を諦《あきら》めることはできるよ。しかし、親は決して子供を諦めないんだ。子供の骨までしゃぶり尽《つく》すよ」
「おやじさんはどうなんだ」
地主さんは尋ねた。
「相変らず、夜、遅《おそ》く帰って来てね。秋夫なんかだって、目を伏《ふ》せて、おやじさんの傍《そば》を通ってるよ。だって言うことったら《勉強してるか?》だけだからね。全く、あの程度の頭で、よく商売して行けると思うよ」
「世の中は辛《から》いようで甘《あま》い。甘いようで辛い」
そこへ丁度、頃合《ころあい》よく、お汁粉が出て来た。一人前ずつの小さな塗《ぬ》りのお盆《ぼん》に、汁粉椀《わん》がのせられてあり、傍にちゃんと、シソの実の辛く煮たのも、そえられてあった。
「ほんとだ。甘くて、辛いよ」
藤原は笑《わら》った。それから、ふと思いなおしたように言った。
「小父さんに改まって変なことを訊《き》くけど、小父さん、椰子好きなの?」
地主さんは一瞬《いっしゅん》考えているようだったが、にこにこ笑いながら答えた。
「はっきり言って好きじゃないね」
その日は月の澄《す》んで見える晩だった。地主さんの家を出たのは十時少し過ぎだったが、カラ松の梢《こずえ》に下《か》弦《げん》の月がかかっていた。
一匹《ぴき》の犬がどこからか出て来て、太郎たちについて来た。太ったお尻《しり》の丸い雑種の犬だった。犬が自由に道を歩いている光景を普《ふ》段《だん》みないので、太郎はおかしな気分になった。それで犬に、「ウシ!」と一声かけながら、足でずどんと大地を踏《ふ》んでやると、犬は耳を後ろになびかせて、丸くなって走って行った。太郎は、西部劇に出て来る男が、馬に一ムチくれて追い返した時みたいないい気分になった。
「地主の小母さんって、みっともない人だろ」
藤原が言った。
「まあな。眼鏡のずっこけてるところは、うちのおふくろによく似てら。だけど、よく気がついて、家の中をきちんとしてるよな。その点は違うな。あの人はさ、つまり典型的な良妻賢《けん》母《ぼ》だな」
「そう見えるだろ」
藤原は言った。
「違うのか」
「あの小父さんは、あの小母さんで、苦労しっ放しなんだよ」
「どういうふうに」
「外国にいた間、あの夫婦は、息子を東京のおじいちゃん、おばあちゃんの家に預けて行ったんだよね。それで夫婦二人っきりだった。あの奥さんは、その間、ずっと男狂《おとこぐる》いさ」
「まさか」
「パン屋の小《こ》僧《ぞう》でも、花屋の配達人でもいいんだって」
「まさか」
「地主の小父さんは、僕にだけうちあけてくれた」
「別れちまえばいいのに」
「息子に、そういう母親の姿を知らせたくないっていうんだ。離婚ということになれば、当然、何で別れるか、ということが問題になって来るからね」
「そんなものかな。そんなにしてまで、労《いたわ》らなきゃいけないことかな」
「だから、先刻《さっき》、僕訊《き》いたろう。椰子が好きかって。好きじゃない、ってはっきり言ったじゃないか。地主さんは只《ただ》、自分を救うために、椰子にうち込んだだけなんだ。椰子なんて、エキゾチックでもロマンチックでもないって。あれは植物の爬虫類《はちゅうるい》みたいに気味が悪いもんだって、あの人言ったことあるんだ」
3
太郎は東京へ帰ってからも、軽井沢のことはあまり言わなかった。せっかく「上流階級」に招《よ》ばれたのだから、どんなにいいもてなしをして貰《もら》ったか、言おうとしても、軽井沢で一番強い衝撃《しょうげき》を受けたのは地主さんのことなので、それを言わないでおこうとすると、つい口が重くなるのだった。
それにしても、あの藤原の奴《やつ》、おふくろが《この子はなりばかり大きくて、まだ子供なので》などと言った時、何と御期《ごき》待《たい》にそうべく、甘《あま》っちょろい表情をして見せたことか。子供どころか、藤原は地主さんが誰《だれ》にもうち明けられない秘《ひ》密《みつ》を、ちゃんとうち明けられているではないか。そして、その内情を訊いた太郎も、決して、それを両親にだって言わずに、こうしてひとりで心の中にしまっておいているではないか。
「藤原の家は、全く、進学が大変だよな」
太郎は、親たちのホコ先をかわすために、そんなふうに言った。
「夏休みの先まで、ああして家庭教師という人がびったりついて来てるしね。もっとも、家庭教師のほうは、あんまり教える気なさそうだけど」
「そういううちじゃ、家庭教師の先生を、傭《やとい》人扱《にんあつか》いにするでしょ」
母の信《のぶ》子《こ》が言った。
「そう、よく知ってるね。僕《ぼく》のことお客さんに紹介しても、戸《べ》次《つき》さんって人のことは紹介しないものね」
「教育なんてもんじゃないわね」
「ああ憂鬱《ゆううつ》だなあ」
いろいろと、うっとうしい思いが一時におし寄せて来たからなのだが、
「なぜ?」
と母に訊かれると、説明するのがひどくめんどうくさく感じられた。けれど答えないと、またとっちめられるので、
「軽井沢でいろんなもの見ちゃったからさ」
とつくろっておいた。
「何を?」
「ねえねえ、父さん、ほら、軽井沢へ行くと、いろんなところで、若い男と女がさア、抱《だ》きあったり、ひっついたりしてるでしょう。僕も、そろそろその年頃《としごろ》になったんだけど、ああいうこと、やって楽しいもんかねえ」
「楽しいことなんかあるもんか」
山本正二郎《やまもとしょうじろう》は苦虫をかみつぶしたような表情で言った。
「初めは、どうもしっくりしないんだけど、これも浮き世の義理だと思ってやってるんだ」
「そうだろうねえ。僕この頃、この世のこと、何でもそんなに楽しくないんだっていうこと、わかって来たよ」
「それが肝心《かんじん》よ」
母の信子が脇《わき》から口を出した。
「その見《み》極《きわ》めがないと、ろくなことにならないのよ。女の子にはふられるもの、学校は落ちるもの、スポーツは負けるもの、と思ってりゃいいのよ」
「そう思っちまうと、この世はそれよか少しましだよね。僕だって、勝つこともあるもんね」
太郎はやっと僅《わず》かばかり幸福感を覚えた。
太郎は翌日、黒谷久《くろたにひさ》男《お》のマンションへ様子を見に行った。一向に音《おと》沙汰《さた》ないので、どうしたのかと心配になったのである。
丁度、日曜日であった。青山さんが縞《しま》のパジャマを着て、のっそりと立ち現われた。
「久男君、金沢へちょっと帰りました」
「そうですか」
「お宅へ電話するように言ったんだけどなあ」
「いいんですよ、そんなこと。あいつも僕も大体いい加減なんだから。青山さんは夏休みはとらないんですか?」
「とってもねえ、行く当てもないんです」
「じゃあ、今日、これから思い切って泳ぎに行きませんか」
太郎は、本当にその場で思いついて言った。
「これから?」
「却《かえ》って朝早くない方が混《こ》まなくていいんですよ。僕んちの別荘《べっそう》へ行きましょう」
別荘は別荘に違《ちが》いないのだが、六畳《じょう》と四畳半の二《ふた》間《ま》で、ことに夏はまわりが煩《うるさ》いと言って山本正二郎は近頃ではあまりこの家を利用しない。むしろ秋口などに、書きものを持って泊《とま》り込《こ》むことはある。
「別荘ってどこにあるの?」
太郎は場所の名前を告げながら、じっと青山さんの顔色を窺《うかが》った。はたして青山さんは青くなり、それから赤くなった。
「海はいや?」
「いやってことないけど、あそこは思い出が悪いからなあ」
「ふられたの? 彼女《かのじょ》にでも」
「そう。最後に二人で遠出したの、あそこだった」
「じゃ、なおさら行こうよ。失恋《しつれん》の地を見るのも悪くないじゃないですか」
太郎は何とか、青山さんを納得《なっとく》させて、それから鍵《かぎ》をとりに家へ駆《か》け戻《もど》った。
「ちょうどいいわ。家に風をいれに行かなきゃ、と思ってたの」
母は言った。
「わかったよ」
「それから魚屋の魚友さんに借りを残して来てるから、それを払《はら》って来てね」
「わかった」
「泊って来るの?」
「青山さんが今日中に帰るって言うから、お風呂《ふろ》わかして二人で入って帰ってくるよ」
太郎の思惑《おもわく》はあたって、正午近くなって海へ向う電車は、そう混んでもいなかった。駅からバスに乗り、それから十五分ほど歩くと、それが「山本家の別荘」で、ちょうど藤原別荘の茶室くらいの大きさだった。
「思い出すよ」
青山さんが言った。
「偶然《ぐうぜん》、この道を来たんだよ。彼女と一緒《いっしょ》に」
「一本道だからな、この道より歩きようないさ」
太郎がわざと邪険《じゃけん》に言っているのも、青山さんはわからないくらい興奮《こうふん》していた。
「彼女があの船のところに、ネッカチーフをかけて髪《かみ》をとかしたんだ。それから二人であの岩のところでオレンジ・ジュースを飲んだ」
「なぜふられたの? 青山さん」
「わからない。僕といると夢《ゆめ》がないって言うんだ」
「女なんてバカだからさア。口先だけ、いいようなこと言ってやればいいんだよな」
「僕はそういうことはできない」
太郎は青山さんをせき立てて、家の鍵を開けた。むっとした熱い空気が家の中にこもっていた。
「ここで服着換《きが》えて行こうよ。海の家利用するより、安いからな」
そう言いながら太郎は、ふと、台所の入口から、あき地ごしに魚屋の魚友の家をのぞいた。魚屋といっても、こんな小さな部落の中だから別に看板など上げている訳ではないのである。主人は、高橋友吉というので、皆がなんとなく魚友というようになっただけである。太郎がのぞいていると、庭先で、おけを洗っていた魚友と、はっと目が合った
「今日は。ごぶさたしました」
太郎は、台所の戸を開けてどなった。
「いつ、来たかね」
「たった今」
「今年は、父さんも、母さんも来ないのかね」
「変人だからね。二人とも、皆が喜んで行くような時にはよりつきもしないんだ」
「夕飯に何か持ってってやろうか」
「ちょっと待って」
太郎はそう言うと、海水パンツのまま裏口から飛び出した。一時は、魚の学者になろうとしたほどなのだから、「おみつくろい」で夕飯のおかずを持ってきてもらうなどということは、どうしてもいやだった。
太郎は、魚友の店先に置いてある三つばかりの樽《たる》のうち二つを丹念《たんねん》にのぞきこんだ。一つは、伊勢《いせ》蝦《えび》を飼《か》っている樽で、伊勢蝦は高いから全く買う気はなかった。
一番目の樽には、カワハギと金《きん》目《め》鯛《だい》が入っていた。
「ちえっ。金目鯛か」
と太郎は言った。
「夏の金目鯛なんかまずくて食えたもんじゃねえや」
「全くな」
魚友は相槌《あいづち》をうった。
「夏の金目ときたらな。スカみたいなもんよ」
太郎は第二の樽をかきまわした。イサキとスズキと、メジナが入っていた。
「メジナは、旬《しゅん》だよなあ」
太郎が言った。
「冬のメジナは食えたもんじゃねえけどなあ」
まだ三十そこそこの魚友は嬉《うれ》しそうに言った。
その時、通りの方から、五つくらいの女の子の手を引いた派手なショートパンツ姿の奥《おく》さんが、店の中へ入ってきた。
「今日は何があるの?」
彼女は尋ねた。
「エへへ。まあ、樽の中にあるようなもんで」
魚友は、ニコニコと意地悪をした。
「あら、金目鯛があるじゃないの。これもらおうかしら」
魚友は瞬間《しゅんかん》、太郎の方に片目をつぶってみせた。黙《だま》っていろという合図である。
「へえへえ。かしこまりました」
「それからおじいちゃんが、カワハギが好きだから、お煮《に》つけ用に一匹《ぴき》ちょうだいね」
「はい、はい」
魚友は、くわえ煙草《たばこ》で魚を作りにかかった。こきみのいい手つきで、カワハギの皮をきゅっとむくと、下から鮮《あざ》やかな、銀色がかったうす桃色《ももいろ》の身が現われた。
「奥さん、肝《きも》も入れておきますか」
魚友は、ショートパンツの方を向いて尋ねた。
「肝なんか、気持悪い、いらないわ」
「へえい、へえい」
魚友は、わざと、顔をしかめて深刻な表情をしてみせた。
ショートパンツが帰っていくと、太郎は小さな声で魚友に言った。
「かわいそうじゃないか、肝取りあげたりして。あそこの家のおじいさん、一番うまいとこ食べそこねたんだぜ」
「だいじょうぶだよ、あの女、入れといたってすてちまあ」
「東京の人は何も知らないからなあ」
太郎は言った。
「僕達《たち》には、イサキを一匹ずつもらうよ」
「誰と来てるのさ」
魚友は尋ねた。
「失恋したばかりの男さ。かわいそうなんだぜ」
「バカ言え。そんな奴、海の中につき落してやれ」
魚友はそう言うと、口にくわえていた吸いかけの煙草を、ポイと勢いよく地面の上にはじき飛ばした。
第八章 お茶の時間
1
「青山さんの恋人《こいびと》って、どういう人だったの?」
山本太郎は、海で、一泳ぎすると、砂浜《すなはま》に寝《ね》そべりながら言った。
「銀行に勤めてたんだ。しっかりした娘《むすめ》だったんだけどなあ」
「そりゃ、気の毒したね。僕《ぼく》もどっちかって言うと、しっかりした女が好きだもんね」
「だから僕は、実に具体的に、将来の生活設計の話なんかしてたんだ。そしたら、あなたって、そんなことしか考えていないの、って言われたんだけどね」
「そりゃ、そうさ」
「どうして」
「だって、その人、銀行員でしょう。いつも会社で計算ばかりさせられてるんだもの。家へ帰ったら、せめて、夢《ゆめ》を語りたいんだと思うよ」
「そうかなあ。そんなもんかなあ」
「だけどそのうちに、又《また》、別のいい人がでて来るよ」
「そうは思えないよ、あれほどの人はねえ」
「青山さん、女なんて、ふられるより、追っかけられる方が、どれだけおっかないか、知れないぜえ」
それだけ言うと、太郎はのっそりと立ち上り、浜の方へ腕《うで》を振《ふ》り振り歩き出した。
彼《かれ》らはかなり沖《おき》に泳ぐ人が休むために浮かしてある古い和船のところまでいった。それから船の上に、「ちょっといいネエちゃん」が二、三人休んでいたので、二人も上に上った。そして青山さんと太郎は、幾分《いくぶん》物ほしげに、彼女たちの廻《まわ》りを二、三回うろうろと歩き廻ったが、彼女らがお喋《しゃべ》りに夢中《むちゅう》で一向に振り向いてくれそうにないので、あきらめて、ざぶんと飛び込《こ》むと岸へ向って泳ぎ出した。
「何だい、あいつら!」
と青山さんは言った。
「まわりにどんな人間がいるか、目にはいらないんだから」
「目にはいってるさ。はいって意識してるから、わざと目にはいらないようにしゃべくってるんだと思うよ」
二人はそれだけで、ひたすら浜をめざして泳いだ。
家へ戻《もど》ると、青山さんが、風呂場《ふろば》でシャワーを浴びている隙《すき》に、太郎は米をといで電気釜《がま》にかけ、魚友の店まで、いさきを取りに走った。いさきのついでに、胡瓜《きゅうり》一本と、青ジソの葉も二枚貰《もら》い、太郎は胡瓜を手早くきざんだ。胡瓜の酢《す》のものも、青ジソの葉が一枚あれば、味が生きて来る。
青山さんが浴室から出て来たところで、太郎は手早く魚に塩をふって金串《かなぐし》にさし、青山さんにバトンタッチした。
「うまそうだなあ」
青山さんは魚を見ると舌なめずりしそうになった。
「青山さん、料理好き?」
「まあね。それほど好きじゃないがね」
「僕、好きなんだ。食物の本、ずいぶん読んだよ。僕がそういう本読んでると、おふくろは、ドストエフスキーくらい読め、って言うけどね。僕、ドストエフスキー長すぎて読めないんだ。それくらいなら、僕は茶《さ》経《けい》を読みます――」
「茶経って何だい」
青山さんはプロパン・ガスの台の前に立ちながら言った。
「中国のお茶に関する本ですよ。陸《りく》羽《う》って人が書いたんだ」
「へえ、文庫本で読めるの?」
「さあ、どうかな。原本はとにかく大英博物館にあるそうですよ。全三巻でね。これすべてお茶に関することだって……」
青山さんに魚焼きをまかせたのは、まずいことをした、と思った。果して、身をこまかくくずしてしまったのである。しかし、要するに食べられればいいので、彼らは食卓《しょくたく》の埃《ほこり》を払《はら》って、茶《ちゃ》碗《わん》や箸《はし》を並《なら》べた。
「青山さんなんか納得《なっとく》しないだろうけどさ、うちの隣《となり》の魚友なんて人の暮《くら》し方、日本一贅《ぜい》沢《たく》だぜ」
太郎は飯を頬《ほお》張《ば》りながら言った。
「どういうふうに贅沢なのさ」
「一年中、窓越しに海を見てさ。朝はちょっと早く起きるけどね。海へ出てた村の人が、やがてとれた魚を魚友に売りに来るのさ。それを買い上げながら、朝食さ」
「ふうん」
「何を食べてると思う? いつか僕が見たら、さといもの味噌《みそ》汁《しる》に鯵《あじ》のたたきなんか食べてるんだ」
「さといもの味噌汁がそんなにすごいご馳《ち》走《そう》か?」
「だって、ただの味噌汁じゃないんだぜ。カワハギの身で、だし《・・》をとって、身のほうはぽいと捨てちまってさ、そこへさといもをいれて作った奴《やつ》なんだ。鯵のたたきの方は、とれたてで、身がぴんぴんそり返ってるような奴。それに地味噌をいれて、たたくんだ」
「ふうん」
「魚友が飯食ってると、窓の外に波の音が聞えてらあ。飯が終ると、彼はそれから一っ走り市場にでかける」
「出荷《しゅっか》するんだね」
「出荷して、仕入れる。帰って来て、少し、村の船持ってない連中に魚売ったり、寄り合いの相談なんかしてると、それでもう、昼飯。とれた魚の中で、一番うまいもん食ってるからね。甘鯛《あまだい》の子の天ぷらとか、舌ビラメのフライとか、常《とこ》ぶしの煮《に》つけとか。それで腹いっぱいになると、爪楊《つまよう》枝《じ》くわえて、ごろりと昼寝さ。三時間くらい寝て、むっくり起き出すと、角力《すもう》の時間だからな。魚友はカラー・テレビ真先に買ったんだぜ。それから、カラー・テレビ見ながら、少し上《うわ》の空《そら》で魚売って、それで夕飯」
「今度は何を食うんだ」
「そうだな。冬ならハマチの刺《さし》身《み》、いや、ブリのあら《・・》と大根を煮た奴だね。これは絶品だよ。夏ならスズキのあらいか、あわびの水貝。うん、魚友の自《じ》慢《まん》は、めざしなんだ。魚友はボロ船持ってるんだ。それを沖の方へと停《と》めてよ、その上で作っためざしと、イカの一塩《ひとしお》干《ぼし》、こいつはうめえよ」
太郎は、次《し》第《だい》にこの土地の方言になりながら言った。
「なぜ、沖で作ったイカの干物とめざしは、おいしいんだろ」
青山さんは冷静で科学的だった。
「清浄《せいじょう》野菜、じゃなかった、清浄干物なんだって。蠅《はえ》は一匹もたからないし、猫《ねこ》は来ねえしよ。天下一品だよ」
感じを出すと、どうしても土地の言葉になる。
「夕飯、食った後は何するんだ?」
「夏は野球、冬は映画。いずれにせよ、テレビよ。若い美人のおかみさんにお茶をいれさせてさ。さし向いでテレビさ。テレビが終れば寝るんだけど、月の光が、胸のあたりまでさして来るってよ。波を子《こ》守唄《もりうた》だからね」
「うん、うん」
「そう言っちゃなんだけど、青山さんの生活よか、ずっと上等だと思うよ」
「うん、うん」
「青山さんの心がけが悪いんじゃないよ。大学なんかへ行っちゃうから、ろくなことにならないんだよな、皆」
「だって君だって、大学へは行くだろ。行かない勇気はないだろ」
青山さんは切り込んで来た。
「ねえ、キザな返事していいかな」
太郎は言った。
「どんなふうにキザなんだ」
「ぶん殴《なぐ》られそうにキザなんだよ」
「言ってみろよ。ぶん殴らないから」
「僕ね、この頃《ごろ》、学問、本当に好きになって来ちゃったんだ。だから……つまり勉強するのが、何だか好きになっちゃったから、オレ、大学へ行っても、いいんじゃ、ないか、って、思う、んだ、けど」
2
世話になったお礼を言いに行くなどというまともな気分ではないが、太郎は、東京へ帰って、二、三日すると、藤原《ふじわら》家《け》へ遊びに行った。幸いにも、藤原夫人はでかけた後だったので、太郎は何となくほっとして、二階の俊《とし》夫《お》の部屋に上って行った。
「きれいに片づいてるな」
太郎は落ちつかなく、青色の厚ぼったいカバーのかかったベッドのあたりを見《み》廻《まわ》しながら言った。
「こんなにきれいだと、僕《ぼく》なんか、物考えられないな。まさか、自分でやるんじゃないんだろ」
「ナミちゃんがやってくれる」
ナミちゃん、というのは、お手伝いさんのことらしかった。
「おふくろに言わせると、きれいなところで暮《くら》させないと、人間はきれい好きにならない、って言うんだ」
「へえ、なるほど、それで、僕はきれい好きにならない訳だ。うちはおふくろがうち中散らかしてるから」
「弟の秋夫ね。今あいつは、学生運動なんかしてめちゃくちゃだけど……それでおやじもおふくろも、ひどく心を痛めてるけど、あいつの小さい時は悲《ひ》惨《さん》だった」
「どんなふうに?」
「秋夫《やつ》は弱かったもんだからおふくろが、完《かん》璧《ぺき》に育てようとしたんだ。清潔にしてね。ちょっとでも、汚《きた》ないものにふれると、『バッチイことしちゃいけません』って金切声《かなきりごえ》あげてね。だから、秋夫は中学生くらいまで、ひどかったんだぜえ。完全にノイローゼだね。十分に一度、手を洗いに立つんだ。食事の時、箸《はし》がちょっと袖口《そでぐち》にふれると、もう洗わなきゃ気が済まないんだ。自分の下着を干してある下を、或《あ》る日、八百屋《やおや》が野菜届けに入って来た。僕と秋夫《やつ》とそれを偶然《ぐうぜん》見てたんだけどね。八百屋が、手で秋夫のシャツを、ひょいとどけて入って来た。そしたら、秋夫は血相変えて、八百屋をどなりに行った」
「八百屋はわからなかったろうね。何のためにどなられたか」
「わからないだろうよ。別に泥《どろ》だらけの手をしてた訳じゃないんだ。只《ただ》通路に、洗濯物《せんたくもの》がひらひらしてるから、それをひょい、とくぐるのに、洗濯物をかき分けただけなんだ」
「そんな神経質じゃ、学校へ行けないだろ」
「まず、無理だね。電車に乗れば、吊皮《つりかわ》や棒やシートがバイ菌《きん》の巣《す》だ。学校の便所なんて汚ないしな」
「うん、あれはひどい」
「毎日行くとすぐ、学校の自分の机を拭《ふ》いてたりしたこともあったけど、それでも、他《ほか》の奴《やつ》がちょっとでも、机に触《ふ》れたりすると、すぐ、秋夫が怒《おこ》るわけだ。それでケンカになるだろう。だんだん学校へ行けなくなるよな」
「おふくろさん、それで黙《だま》ってるの?」
「『秋夫ちゃん、そんなこと言っちゃいけません』なんて言うだけだしな」
「オレの弟なら、なおすの簡単だがな」
「どうする?」
「田舎《いなか》へ連れて行って肥《こ》え溜《だめ》の中に叩《たた》き込《こ》んでやる」
「今はもうなおったんだけどね。とにかく、奴は修学旅行に行ったことないよ。乗物、宿屋の風呂《ふろ》や寝《しん》具《ぐ》や食事、万事汚なくて恐《おそ》ろしくて、とうていでられやしないさ」
「どうして、それがなおったんだい」
「学生運動さ。やってることは幼《よう》稚《ち》だけど、初めて奴は、只生きるための安全を確保することではない、もっと積極的に生きる味を覚えたんだ。ところが、おやじやおふくろは、そんなことを見つけたら、大変さ。おやじは只もうどなり散らす、おふくろはヒステリーだから、泣いたり、気を失ったりする。秋夫の奴、冷笑してたよ。それ以来、もう親には何も言わない。僕にだけはごくたまにひそかに夜、自分の書いたポスターの文案見せたりする。文章はうまくないけどな。ちょっと楽しいぜ」
「それで、バイ菌ノイローゼはとれたんだな」
「凄《すご》いもんだ、完璧になおった。今じゃ山《さん》谷《や》のドヤ街で、あやしげな飯食ったりなんかしてるらしい。僕には、そっとそんなことを、うち明ける時もあるんだ。
僕、こんなこと言ったら、親にも、社会にも怒られると思うけど、秋夫の奴が、学生運動やり出して、つくづくよかった、と思うことあるんだ。警察にあげられたって、物の数じゃないさ。もっとひどいこと言うと、僕は奴が、その結果、人殺しをしてもいいと思うことあるんだ」
「ふうん」
「だって、その方がまだしも人間らしいからな。学生運動をしない前の秋夫なんて、只、生きてただけさ。息をして、バイ菌や病気に脅《おび》えて……。勿論《もちろん》、人殺しがいいなんてことはないけど、別の言い方をすれば、人殺しやる人は、人間としておかしい、ダメな、ひどい奴さ。ところが秋夫は人間ですらなかったんだからな」
「わかるわかる」
「ところが、僕が一度だけ、今みたいにおふくろに言ったことがある。そしたら、おふくろは、その晩、自殺をはかりかけた」
「まさか」
「本当なんだ。何という恐ろしいことを言って平気なんでしょう。私は今まで正しく生きて来たつもりです。決してそんな非常識なことを、教えたつもりはありません。私はもう子供たちを教育する自信を失いました、ってね。僕は、それ以来、もうおふくろに、本心は一切言わなくなったんだ」
「何で自殺しかけたの?」
「睡眠薬《すいみんやく》と酒さ。酒をのむと効き目が早いんだってことをどこかで聞いてたんだね。ところが酒に強くないもんで、酔《よ》って殆《ほとん》ど薬を吐いちゃった。だから、その時の病状は、急性アルコール中毒ということだけさ」
「別におふくろに、教育上の信念なんか持って貰《もら》わなくていいよな。おふくろなんてものは、うまい飯作って、井戸《いど》端《ばた》会《かい》議《ぎ》の内容でもおもしろおかしく聞かしてくれて、昼《ひる》寝《ね》でもしててくれりゃ、たくさんなんだ」
その時、玄関《げんかん》のベルが鳴った。
「誰《だれ》? おふくろさん?」
太郎は、何となく恐ろしくなって言った。
「いや、おやじだ」
「へえ、意外と帰り早いんだね」
「第三土曜の午後は、ゴルフなんぞにも決して行かずに早く帰ってくるさ」
「何で?」
「子供たちと語り合う日なんだってさ」
一カ月の義理を、一日で果そうというのか、と太郎は呟《つぶや》きそうになって黙った。
「じゃ、今、迎《むか》えにでよう」
「いや、いいんだ。おやじはこれから、シャワー浴びたり何かして、我々と喋《しゃべ》る話題のメモを作る。それから三時半に食堂に集合、という約束《やくそく》なんだ」
「じゃあ、オレ、そろそろ帰らあ」
太郎は、又《また》もや恐ろしくなって言った。
「いいんだ。おやじはむしろ君を歓迎《かんげい》すると思うよ」
「そうかな」
「自分が、いかに教育にきちんと心を砕《くだ》いているか、ということを、他人に知ってもらうのは悪くないんだ」
「その後、地主さんはどうしてる?」
太郎は、腰《こし》を落ちつける覚《かく》悟《ご》を決めて言った。
「その後、ろくろく会っていないけどね。地主さん、奥《おく》さんに言ったんだって」
「何て?」
「浮《うわ》気《き》はもう、どうしようもないかも知れないけど、子供に感づかれるようなことをしたら殺すってね」
「うん」
「殺せやしないよ、地主さんは。しかしそうでも言って、奥さんをおどしておかないと、奥さんは底なしだからね」
間もなく食堂の方で、ちりりん、ときれいな澄《す》んだ鐘《ベル》の音がした。
「集合ベルだ」
「学校みたいだな。しかし、音がむちゃくちゃにいいや」
太郎は、俊夫について部屋を出た。そして例の食堂に入ったところで、背の高い、中高《なかだか》な顔をした中年の男と、にきび面《づら》の高校生とに顔を合わした。
「お父さんだ」
俊夫は小声で言い、
「お父さん、学校の山本君」
と紹介した。
「ようこそ、こないだは軽井沢の方へも来て下さったそうですね」
「はい。おじゃましました」
「私がどうにも、手が抜《ぬ》けなくてね。お目にかかれなくて残念でした。秋夫も、初めてか」
「はあ」
太郎は、弟の秋夫にもちょっと頭を下げた。
「行《ゆき》夫《お》はどうした」
藤原氏は長男のことを気にしているようだった。
「まだ帰ってないね」
俊夫が、ティー・ポットを持って入って来たお手伝いのナミちゃんに言った。
「まだ、お帰りになっておりません」
「仕方がないね。今日のことはちゃんとわかっている筈《はず》なのに」
藤原氏はそう言ってから、
「今日は、家内が葬式《そうしき》にでておりまして、でられないのが、残念ですが……そうだ、ナミ、私が買って来たメロンをちゃんと切って出しなさい。今日のお茶のために、わざわざ買って来たんだから」
彼らは、儀《ぎ》式《しき》でも始めるように、楕《だ》円形《えんけい》のテーブルに向き合って坐《すわ》った。
「その後、どうだね。ちゃんと勉強してるか?」
藤原氏は二人の息《むす》子《こ》たちを等分に眺《なが》めながら言った。
「秋夫はどうだね」
太郎は秋夫がにやにやするのではないかと思ったが、案に相《そう》違《い》して、彼《かれ》はにこりともせず、
「はいやってます」
と答えた。
「俊夫はどうだね」
「僕は軽井沢以来ほとんどやってないなあ」
「まあ、たまには遊ぶのはいいが、人間は、勉強しなければどうにもならん。勉強は決して楽しいものではない。しかし、やれば必ず楽しくなってくる」
太郎は、嘘《うそ》だわい、と心の中で思っていた。太郎は幾何《きか》がにがてである。いくらやっても決して楽しくならない。ただ、浮き世の義理で勉強を続けているだけである。
「お父さんの会社に、田中というのが二人いる。田中進、といって同姓《どうせい》同名だ。しかも二人とも同じ年度に会社へ入ってきた。もっとも、一人の田中は経済の出で、もう一人は法律だ。それで、田中法と田中経と皆は言っているがね」
藤原氏はそこで大変面白《おもしろ》い話をした、という表情で一人で笑ってみせた。
「田中法も、田中経も、どちらも大学の成績はかなりよろしい、しかし入社以来八年経《た》ってだいぶ差がついてきた。田中法は、実によく勉強する。しかし経はそうでもない。田中法は皆がのみにいく時でも、家に帰って毎日必ず二時間ずつ読書をするそうだ」
そのうちに彼は、きちがいになっちゃうんじゃないの、と太郎は思ったがもちろん黙っていた。
「まあ、おまえ達《たち》が、勉強が今のところ多少嫌《きら》いでも、そのうちに好きになると私は信じているよ」
太郎は、ナミちゃんが四分の一に切ったメロンを持ってやってくるのに注意をうばわれていた。
「大森の順一郎君、あの人も一年浪人《ろうにん》して親《しん》戚《せき》中で評判のできない子だったが、ともかく東大へ入った。鵠沼《くげぬま》の恒造《こうぞう》叔父《おじ》さん、あの人などは、スポーツをやりながら、東大に入ってまだ野球をやって、昔《むかし》はピッチャーとしてかなりならしたもんだ」
藤原氏は突然《とつぜん》、太郎の方を向いて尋《たず》ねた。
「お父さんは、大学何年のご卒業ですか」
「ええと、ええと、昭和二十年です」
「君んちのお父さん、どこの大学?」
俊夫が尋ねた。
太郎が答える間もなく、藤原氏がその問いをひきとって答えた。
「大学といえば東大のことなんだよ。東大以外の大学は初めから、なになに大学というふうに名前をいうものなんだ」
「おじさんにうかがいますが、しかし東大にだって、変な人もいるでしょう。それと同じように、なになに大学にだって、本当に勉強している秀才《しゅうさい》はいると思うんです」
「もちろんそうですよ。数ある学生の中には気《き》狂《ちが》いもでましょう。泥棒《どろぼう》もおりましょう。しかし、日本を動かしているのはやはり、東京大学の卒業生です。私の知人が映画監督《かんとく》になりたいと思って、かの有名な仏文のK先生に相談に伺《うかが》った時、先生は、おっしゃった。いいでしょう。東京大学の学生が、その仕事をやるようになった時に初めて、その仕事は社会で、まっとうなものとして評価されるようになる。これは本当ですな」
太郎は、おへその奥《おく》のあたりから何かジェット噴流《ふんりゅう》のようなものがふき上げてくるように感じたが、それを整理して藤原氏に言うことはできなかった。
「メロンをいただいていいでしょうか」
太郎は、腹の中のジェット噴流をなだめるためにそう言った。
「どうぞ、どうぞ、うっかりしておりました。さあ、俊夫も秋夫もお食ベ。第三土曜日にこうしてみやげを買って帰って子供達と、一、二時間、ゆっくり話をするというのは実に楽しみなもんでしてね。お宅のお父さまのようにしじゅうお家にいらっしゃる方はお感じにならぬでしょうが、私のように、なかなか家にいられない者は、こういう時が、実に貴重に思えましてね」
3
「ねえ、ねえ、お父さん。お父さんはつまり、藤原んちなどから見ると、半失業者だと思われているのよ」
その夜太郎は家へ帰ると、さっそく父親にそう言って報告した。
「俺《おれ》もそう思う時あるね。昼間から、チャンバラ映画なんか見にいっていると、やっぱり映画見に来ている男をみて、あいつも失業者なんだなあ、と思うからね」
「だけど、東京大学の卒業生ってどうしてああ馬鹿《ばか》なんだろう」
太郎は、思い出しながら言った。
「何が馬鹿なのさ」
「いくらなんでも、息《むす》子《こ》達《たち》のみやげに、メロン買ってくるこたあないでしょう。僕《ぼく》達は食べざかりなのよ、アンタ」
母の信《のぶ》子《こ》が、
「太郎、普《ふ》通《つう》の言葉遣《づか》いでお話し」
と注意した。
「高いものがいいもんだと思っているんだよ。あのバカは。僕位の年で、メロンが大好きなんて、思うようになったら、もう終りだぜ。もっとも僕は、メロンが好きだけどさ。うちでめったに食わしてくれないからね」
太郎は、小学校二年生位の時、母に連れられて、母の同級生の家に行き、そこでメロンをごちそうになった。その時太郎は、
「母さん、これがメロンていうものなの。僕生れて初めて食べた」
とろくでもないことを喚《わめ》いたので、母親におしりをぶんなぐられた記《き》憶《おく》がある。
「とにかく、東京大学の卒業生ってああも人間の気持がわからないものかと感心したよ」
太郎はまだ悪意にもえて言い続けた。
「それに、皇帝や王様じゃあるまいし、一カ月に二時間、子供と話をする時間が楽しみだなんて、まったく、わざとらしいよなあ」
「東京大学の学生が、そんなに秀才《しゅうさい》ばかりだと思ってたか」
山本正二郎《やまもとしょうじろう》は、嬉《うれ》しそうに太郎に言い返した。
「おまえがそう思う方がずっと甘《あま》い」
「そんなもんかなあ」
「もちろん無茶苦茶に頭のいい奴《やつ》もいる。しかし、情緒《じょうちょ》欠損みたいのだっているんだ。お父さんの同級生に、大学に入るころになってまだふとんのたたみ方を知らない奴がいた。家に泊《とま》りにきて、朝になると敷《し》きぶとんをのり巻きみたいに、ロールに巻いて押入《おしい》れにつっこもうとしたんで驚《おどろ》いたもんさ。そいつが、何を専攻したと思う」
「心理学かな。心理学をやるべきだよ」
「ところが、そいつは社会学をやったんだ。あっと驚いて、息をのむよな。ふとんのたたみ方を知らない奴が社会学をやるんだから」
「藤原の家、かわいそうだったよ」
「どうして」
「きいてたら、一族の中に、裁判官とか弁護士とか学者とか、そんなのがごろごろしているらしいんだ。だから藤原の父ちゃん、息子達が東大へ入らなきゃ、人間じゃないと思っている。かわいそうだわあ」
「何もかわいそうなことはないさ、社会とか家族とかいうのは、だいたい不法なものにきまっとる」
「藤原の父ちゃん、一人で演説ぶっちゃってさ、二時間のうち一時間四十八分は一人で喋《しゃべ》ってたよ。後の八分を僕が喋って残りの四分のうち三分は藤原のやつが喋ったかなあ。弟は一言、ほんとに一言喋っただけなのよ。あとはニコリともせずに聞いている。あれ、あくびしたり居《い》眠《ねむ》りしたりするのよりもっと悪いよ。あくびしたり居眠りしたりする位ならまだしも、無害なわけよ。だけどあの弟のもったいぶったうやうやしい顔つきったら、決して父親を許していないし、うらみを持っているけど、そのうらみを顔に出すことも恐《おそ》ろしくてできないという感じだね。そんなこと位東京大学でてても、あの父ちゃんには、わかんねえのかなあ」
「わからないともさ、かいかぶるな」
「藤原はもう進学のことで、ギリギリいびられてんのよ。かわいそうに」
「太郎はまだ考えていないのか」
「そりゃ、少しは考えているけど、まあ、秋か十二月だね。それまでは決められないよ。それよか父さん、僕達の日本史の教師、本当にいやんなっちゃうんだ」
「どういう風にさ」
「本当にこの頃《ごろ》の教師ったら、不真面目《ふまじめ》でいやになるよ。ちっとも教える意欲がないんだから」
台所に立っていた母の信子が突然《とつぜん》、アハハと笑い声をたてた。ずっときいていないふりをしていればいいのに、おかしくなるとあの女は、知らん顔ができないのだ、と太郎は思いながら、
「なんだよう」
とどなった。
「きいたことあるようなせりふだからよ」
「固有名詞を変えただけさ」
太郎はどなり返した。
「どういう風に不真面目なんだ」
山本正二郎は尋《たず》ねた。
「大学卒業以来、同じノートをずっと読んでるっていう手は、ないだろう。それに、僕達が質問すると、そんなことは直接関係ないっていうんだ。あんな奴教師の資格ないと思うね」
「バカを言うな」
山本正二郎はすさまじい勢いで言い返した。
「おまえらのような奴に、そんなに懇切丁寧《こんせつていねい》に教えてられるか。それに高校にもなったら、自分で調べりゃいいんだ。勉強はしょせん独学と思え。私なんか、中学以来、身についたのは、全部独学によってだ」
「わかったよ」
太郎はぷう、とふくれた。
「おい、太郎」
とダイニング・キッチンから母親の信子が男のようによんだ。
「今日は二十枚もやって肩《かた》がこっちゃったよ、少し代って書いてくれない?」
「いやだ」
太郎は言った。
「書いてよ。頼《たの》むから。お母さんだってつらい思いして働いてるんだから」
そうれ、お涙頂戴《なみだちょうだい》みたいに出てきやがった。
太郎はしかたなく、母の仕事場に行き「どいた、どいた」と母を追い出しながら机の前に坐《すわ》り、母が口述する通り書き取り始めた。
「人々が教会から立ち去った後、神《しん》夫《ぷ》は、苦《く》脳《のう》にみちて祭壇《さいだん》の方へよろめきながら近づいて行った。彼《かれ》はひざまずき、十字架《じゅうじか》のキリストを迎《あお》ぎながら、目をつぶった。今、彼は、誰《だれ》一人、彼の心の中を見ていなかろうと彼は、ジェイムスを裏切った事を自覚していた」
太郎が書いていると、山本正二郎が、なに気なくよってきて、後ろからその原稿《げんこう》をのぞき込《こ》んだ。
「面白い字だね。しんぷは、夫じゃなくて父と書くんだがね。苦悩の悩は、月《にくづき》じゃなくてa《りっしんべん》なんだがね。仰《あお》ぎが迎《むか》えになってる。教師の悪口を言う前にまず自分が誤字を書かないようにしなさい」
太郎はまたぷう、とふくれた。
第九章 町の匂《にお》い
1
五《さ》月素《つきもと》子《こ》さんから、山本太郎に電話があったのは、夏休みもそろそろ終りの頃《ころ》であった。太郎は、暇《ひま》をもてあましていた。顎《あご》の下に、五、六本、ツマヨウジの先を植えつけたような鬚《ひげ》が伸《の》びていて、母の信《のぶ》子《こ》は、それを剃《そ》るように、二言目には言うのだが、何だかむしゃくしゃして、言われた通りにするのもいまいましかった。
「ああ、ごぶさた致《いた》しました」
太郎は五月さんの声を聞くと言った。そして五月さんとのことも、残暑にまみれて、少しだらけているな、と思った。
「その後、お父さん、いかがですか?」
五月さんがかけているのは公衆電話かららしかったので、太郎は安心して聞くことができた。
「相変らずじれて、時々カンシャク起してますけど」
「そうですか」
太郎は、受話器を握《にぎ》ったまま、縁側《えんがわ》の方へそろそろと体をずらして行って、空を見上げた。力ない、夏の白雲が浮いていた。青春なんだな、これが、とふと思った。しかし特別に楽しくはなかった。
「実はね、私、今度、勤めに出ることにしたの」
「どこへ?」
「渋谷《しぶや》に《マウイ》って喫茶《きっさ》店《てん》あるでしょう。ハワイ・チェーンの。あそこに勤めることにしたの」
「レジ?」
「ううん」
「いいな。僕《ぼく》、今度、行くよ。知り合いのいる喫茶店なんてかっこいいもんな」
「お金のため、もあるけど、そればかりじゃないの、私」
「そう?」
「お父さん相手に暮してるとね。息が詰《つま》って、だんだん、こっちまで死にたいのが、伝染《うつ》って来そうだから」
「親は適当な時に、捨てろ、って言ったじゃないか」
太郎は受話器を持ったまま、縁側に、ごろりと寝《ね》そべりながら言った。丁度、母の信子が通りかかったが平気だった。
「五月さんが、つぶれちゃったら、やっぱりお父さんは不幸になるんだよ」
「そう思ってね、昼間は、お父さん一人を、置いて行くことにしたの。お父さんを置いて行くの、本当は心配なんだけど」
「大丈夫《だいじょうぶ》だよ、まず死にゃしないよ」
「だから、よかったら遊びに来てね。私の働いてるとこ、山本君に見て貰《もら》いたいのよ」
「五月さんにコーヒーなんて運んで貰《もら》ったら悪いなあ」
「何言ってるのよ。来てくれたらお客さまだわ」
「僕、女の人がかいがいしく働いている姿見ると弱いんだ」
太郎はにやにやしながら電話を切った。ふと、大人の男たちが、知り合いの女の人のいるバーへ喜んで行く気持がわかるような気がした。
「しかしなあ、喫茶店の名前のつけ方なんて策がないよなあ」
太郎は母の信子をつかまえて言った。
「どこの喫茶店?」
「五月さんが勤めることになった喫茶店さ。初め、新宿に、ハワイって店出したら、それがすごく当ったのさ。そこで、ハワイ・チェーンをやろう、っていうことになってさ。渋谷や、高田馬場《たかだのばば》なんかに支店出すのに、ハワイ諸島の島の名前つけ出したのよ。ハワイ本店の次が《カウイ》でしょう。それから、《マウイ》。《ラナイ》ってのもあったかな。《モロカイ》だけはつけないと思うんだけどね」
「ああ、有名な癩《らい》病院があるからね」
「あら、案外とよく知ってるじゃないの」
「ダミアンという神父がいたところよ」
「じゃあ、一つ質問。あの島は有名な小説書きと関係がありますが、それは誰《だれ》でしょう」
「煩《うるさ》いわね。それくらいは英語の本読めば、知ってるのよ。ロバート・ルイス・スティーヴンソンですよ」
「僕思うんだけどね。スティーヴンソンはモロカイにいたマザー・マリアンヌっていうカトリックの尼《あま》さんに惚《ほ》れてたんじゃないかと思うんだ。だって彼《かれ》は度々《たびたび》訪ねて来て、島の病気の子供たちに、ピアノなんか贈《おく》ってるんだものね。ところがよく調べてみたら、僕の勘《かん》はあんまり当ってなかったな」
「どうして?」
「だって、マザー・マリアンヌは、スティーヴンソンより十四歳《さい》くらい年上なんだもの」
「ばかばかしい」
「それで僕のモロカイについての知識は終り。スティーヴンソンが、マザー・マリアンヌを好きだということが証明されれば、文学史上の新説になったと思わない」
「新説じゃなくて、珍説《ちんせつ》の部類だと思うわね」
「そうかなあ」
友達《ともだち》が、社会人になる。そのことで太郎は軽い興奮《こうふん》を覚えた。悪くないな、と思った。今にあらゆる職業に知人ができる。大学を出て二十年か三十年経《た》つと、レストランの経営者とか、電気屋のおやじとか、大会社の重役クラスに知人がいっぱいできることになる。すると、皆が貧乏学者の太郎を憐《あわ》れんで、飯を食わせてくれたり、電気器具をおかみさんに内緒《ないしょ》で安くわけてくれたり、会社の費用で新橋の料亭《りょうてい》に連れて行って芸者をあげて遊ばせてくれたりするのである。悪くはない。他人の出世を羨《うらや》んで、自分が貧乏学者であることを嘆《なげ》くことは少しもない。
それより、もう少し実質的に考えたらどうだろう。そうだ、皆に、将来一カ月ずつ、居《いそ》候《うろう》をさせてくれるように、交渉《こうしょう》したらどうであろう。
三日後が二学期の登校日であった。太郎は早速この計画を実行に移した。
「どうだろう、将来、オレ、食いそこなったら、一カ月だけ食わしてくれないか」
太郎は手始めに、久しぶりに会った黒谷久《くろたにひさ》男《お》に言った。
「何だい、急に」
「大学進学のこととか何とか考えたら、急に心細くなったから頼《たの》んでるのさ」
「一カ月だけでいいのか?」
黒谷は、深刻に計算しているらしくちょっと生真面目《きまじめ》な表情になって言った。
「ああ、一カ月でいい」
「一カ月でいいんだな」
「ケチ」
太郎は言い返した。
「一カ月でいいけど、三年間に一度ずつ一カ月だけ養ってよ」
「三年に一度はすぐ廻《まわ》って来るだろうな。一カ月経ったら、しかし必ず出て行くだろうな」
「当り前よ。そのために、四十人から約束《やくそく》をとりつけるんだから」
「四十人の名《めい》簿《ぼ》が揃《そろ》ったら、一口のってやらあ」
黒谷久男は、渋々《しぶしぶ》という顔をして見せた。反応《はんのう》はさまざまであった。こういう相談を持ちかけると、女の子はすぐ本気にして、おろおろするからつまらない。
「結婚してるから、ハズがいいと言ったらね」
などという答えをする女の子に会うと、ほんとに女って奴《やつ》はユーモアがわからないバカだなあ、と思う。
「おいてやるが、働くだろうな」
というのもいた。金子という料亭の息子《むすこ》である。
「ああ、働く」
「掃《そう》除《じ》、洗濯《せんたく》、炊《すい》事《じ》、いっさい手伝うだろうな」
「ああ、やる」
「それは、けっこうだね、今日からでも来いよ」
「やめた」
「なぜ」
「お前のうちへ行くと、そのままずっとタダでこき使われそうな気がする」
笑っているが、そろそろ、方針を決めねばならない時期に来ていることが、胸の中で、重い石ころのようにしこっているのである。
コックになろうかなあ、と思ったこともあった。しかしそれを父親に言うと、山本正二《やまもとしょうじ》郎《ろう》は即《そく》座《ざ》に言った。
「二十年、フランスで修業するか」
「フランス……」
女の子じゃないからフランスなど、別に行きたくはなかった。
「コルドン・ブルーという料理学校がある。そこでみっちりやる気があるか」
「やる、気、もまだ、ないけど」
「二十年やって帰って来て、店を開いても、死ぬまで、一日も店を空《あ》けないでいることができるか?」
「一日も……。夏、釣《つ》りに行くとか……」
「ダメだね。レストランは、責任者が現場を離《はな》れたらとたんにまずくなる。そしてコックは七十になったら、もう第一線を引かなきゃいけない」
「どうして?」
「人間の老化は味覚から始まるんだ。まず舌バカになって来る。旨《うま》味《み》の中で、最後までわかるのは、甘《あま》味《み》だけだそうだ。だから、コックは七十歳になったら、自分ではまだ若いつもりでも、勇退しなけりゃいけない」
「キビシイね」
太郎は、そこでコックを諦《あきら》めた。体操の教師という手を考えたこともあるが、体を動かすと同時に、本を読むことも嫌《きら》いではないので、半分ではつまらないや、という気になった。
しかし、それにしても、この人生をやりなおせないということは、何という不合理であろう。いったい世の中の人たちは、何で、自分の職業や進路を決めたのか。
「所詮《しょせん》、世はアミダだ」
と言ったのは、やはり同じクラスで「アミダの沢」と呼ばれる沢一《さわかず》樹《き》である。彼は何でも、ことを、アミダくじで決めようとする。
「戦争だって、死んだ人と生き残った人とは運だよな。総理大臣になるかならないかだって運だよな。自動車に轢《ひ》かれるか轢かれないかだって運だよな」
アミダの沢はそれから「運だよな」という歌を作ってレコード会社へ売り込《こ》むつもりだと言っていたが、それが流行したという話は聞かないから、つまりは「運がわるくて」買ってもらえなかったらしい。太郎は沢の話を聞くと本当にそうだなあ、とは思うのだが、さりとて、万事、隅《すみ》から隅まで運だと思うわけにも行かず、少しばかり努力をしてみては、あまりうまい結果がでないと「やっぱり運だよなあ」と思うことにしているのである。
そして太郎はそう思う時、自分が骨の髄《ずい》まで、「光栄ある一般《いっぱん》大衆」の一人だなあ、と思うのであった。なぜならそのようにして、絶えず現実からいささかの逃《とう》避《ひ》をすること、原因と結果の筋道《すじみち》を、ともすればごちゃごちゃにしようとすること、それこそまさに、優《やさ》しい庶民《しょみん》の感覚なのだと思うからであった。
2
太郎が、黒谷久男と年上の女が歩いているのを見かけたのは、それから暫《しばら》くしてからであった。
彼ら二人は、駅前のスーパー・マーケットで買物をしていたのである。女は二十二、三にはなっているだろうが、物語のお姫《ひめ》さまみたいに、お河童《かっぱ》に髪《かみ》を切り揃《そろ》えていた。二人はブドウ売場の前に立って、バカみたいに青いブドウがいいか、緑色のブドウがいいか迷《まよ》っていた。太郎はじっと遠くから、その様子を見ていたが、黒谷の奴《やつ》が、ブドウの種類なんか全く信じていない癖《くせ》に、いかにも、それが重大な問題かのような顔つきをして、つき合っているので、バカバカしくなった。黒谷という男は、決して勘《かん》が悪くはないのだが、カマボコとチクワの区別がわからなくて、或《あ》る時、太郎を唖《あ》然《ぜん》とさせたことがある。
ブドウを買ってから、どうするのかと思っていると、二人はそこで別れてしまった。それで、太郎は、後ろからどかんと、黒谷の肩《かた》を叩《たた》いた。
「ああ、びっくりした」
「見たぞ、見たぞ」
太郎は言った。
「あれが、あれか?」
「あの人、小《こ》菅《すげ》さんて、犬の美容師なんだ」
「お前んとこ、犬いるのか?」
「いないけど。オレ、今、あの人と仲いいんだ」
「犬の美容師になるつもりか?」
「つもりも、あったけど、そっちの方は諦《あきら》めた。なぜかって言ったら、犬の毛刈《か》るところにいると、僕《ぼく》は決って鼻アレルギーで鼻みずが出て来るんだ。だけどあの人を今、青山さんに紹介しようと思ってる」
「見合いさせるの?」
「今日が見合いなんだ」
「どこで?」
「僕んちでさ」
「け! じゃあ、お前、立ち会わなきゃいけないじゃないか」
「小菅さんが、二人っきりの方がいいって言うんだ。青山さんが、今日は早目に帰って、何かおいしいもの作ってる。小菅さんがそこへ行って、手伝って、二人でさし向いで夕食を食べる。そういう約束《やくそく》なんだ。二人とも子供じゃないんだから、勝手に会ったらいいよ」
「うまく行くといいね」
「小菅さんは、初めあまり乗り気じゃなかったんだ」
「どうして」
「ついこの間まで、妻子ある人と恋愛《れんあい》してたのさ。だからその思い出があまり強烈《きょうれつ》で、次の人に会えない、って言うんだ」
「そんなこと! 十年経《た》ちゃ、お笑い草さ」
「オレもそう言ったんだ。青山さんも失恋したばかりだって言ってやった。一ぺん失恋すると、後、お互《たが》いにとてもさばさばしていいもんだ、って言ってやった」
「すると、君は、今日は家へ帰れない訳だな」
「二、三時間はね。それ以上、長く二人でおいとくと、シメシがつかないから、僕は帰る、と言ってある」
「じゃあ、うちへ来て、夕食を食ってけよ」
家へ帰ると、太郎は勝手口に走り込《こ》んで、
「母さん、母さん、黒谷を連れて来たよ。どうせろくなものはないだろうけど、夕飯食わしてやってよ」
とどなった。
「いいよ、ちょうどお父さんから電話で、教授会が長びいて帰れないそうだから。黒谷君、いらっしゃい!」
母の信子は、フランス製の古い圧力鍋《あつりょくなべ》の前を動かずに、大声を出した。
「今日は何? おかず」
「ラフティを煮《に》たよ」
ラフティというのは、沖縄《おきなわ》料理で、豚《ぶた》の安い三枚肉を使うのである。太郎がダイニング・キッチンへ入ると、圧力鍋はガス台の上で、ひゅうひゅう口笛《くちぶえ》を吹《ふ》くような音をたてていた。
「おもしろい鍋だね」
黒谷も入って来て、興味深げに見ながら言った。
「こいつを使うとすごく早く煮える。ことに豆なんか煮る時にいい」
「もう長く使ってるの?」
「十年にはなるよな、母さん」
「これ一つあったら、何でもできるだろうな。お赤飯も炊《た》けるだろう。サツマイモふかすのも早いだろうね」
「あなたたち、ずいぶん女性的なのね。お鍋に興味あるなんて」
信子が言った。
「別に。純粋《じゅんすい》に科学的興味ですよ」
食事の席では、信子が、二人の男の子たちのためにビールを一本つけてやった。
「小菅さんとはどこで会ったのさ」
太郎は尋《たず》ねた。
「電車の中」
「へえ、定期券か何かわざと落したの?」
「いや」
小菅さんに会ったのは国鉄の順法闘争《とうそう》の頃《ころ》だと黒谷は言った。
「ちょっと、あなたたちに訊《き》くけど、順法闘争って、どんなふうに感じられるの? とにかくやたらに混《こ》むの?」
信子は、ラッシュアワーに乗合せたことのない人種らしい質問をした。
「新聞に書いてあるような単純なものじゃないよな」
太郎が黒谷に言った。
「うん。やたらに電車が続いて来るかと思うと、来なかったり、めちゃくちゃなんだよな」
その頃に、黒谷たち高校生は、一つのレジスタンスを思いついたのである。組合員の駅員を、わざと巻き込んで、電車の中に乗せてしまうのであった。
「君たちやらなかった?」
「やった、やった!」
太郎は思い出して、床《ゆか》の上で足を踏《ふ》み鳴らした。
「いったい何をするのよ?」
信子は、まだ、息《むす》子《こ》たちのやっていることがわからないらしかった。
「ほら、ホームにお尻《しり》おしの駅員がいるのよ。そいつらの中でさ、管理職のロートルじゃなくて、若い組合員さ、腕章《わんしょう》つけてるの、そいつを、わざと駆《か》け込んで乗るふりして、一緒《いっしょ》に電車の中に巻き込んで乗せちゃうのさ」
「あいてて、あいてて、なんて言いながら、わざと相手《そいつ》の足なんか踏んじゃってな」
「あれは、中央線の連中が、初めに考え出した手なんだ。三《み》鷹《たか》で押《お》し込んじまえば、否応《いやおう》なしに、新宿まで、持ってかれちゃうからな」
「悪い人たちね。でも管理職かそうでないかははっきりわかるの?」
信子は尋ねた。
「わかるよな。腕章だろう。バッジだろ」
「腕章の色は、所属している車庫によって、色が違《ちが》うんだな」
「無理に乗せられた駅員さん、電車の中でどうしてる?」
「間の悪そうな顔してるよ。だけど、小菅さんはいったい、その時、どこにいたんだ?」
太郎は尋ねた。
「オレ、つまり、その時アップシューズはいてて、駅員の足、わざと何度も踏んだつもりだったのさ。そしたら、オレの胸の辺で、『あなた、私の足踏んでるのよ』という女の人がいたんだ。それが小菅さんだ」
「彼女は、お前のやることを知ってたんだな」
「そういう時、普《ふ》通《つう》の女の人はすぐカンカンに怒《おこ》るだろう。だけど、小菅さんは怒らなかったね」
「いいないいな」
太郎は言いながら愉《ゆ》快《かい》になって、椅子《いす》の下の足を踏み鳴らした。
「オレ、思わず謝《あやま》ったもんね。『すみません』って。そしたら、にこっとして、小さな声で『したくて闘争してる人ばかりじゃないのよ』って言ったんだ」
「本当だな」
「オレ、あやうく、小菅さん好きになりそうになったけど、その時、閃《ひらめ》いたのが、青山さんのことさ」
「うん」
「青山さんに紹介するのに、いい人だと思って、すかさず、取り入ったんだ」
「その日、すぐ?」
「翌日、待ち伏《ぶ》せた。そして、昨日は大変教えられました。だから、お弟子《でし》にして下さいと持ちかけたんだ」
「小菅さん、要心したろ」
「勿論《もちろん》さ。だから僕は言ったんだ。僕はまだ年が若いから、当分、結婚の意志はありませんから、って。そしたら、小菅さん、笑い出した」
「そうだよな。本当のこと言うと、怖《こわ》いのは男の方だぜ。女の方から言い寄られるくらいおっかないことはないからな」
それは山本正二郎の常日頃からの持論なのだが、太郎はそれをうけ売りしているのであった。
「そうだよな、女はすぐズブリと刺《さ》すからな」
「何言ってるの、あなたたち。この頃、別れ話を持ち出されて、包丁ふりまわすのは、どっちかと言うと、男の方なのよ」
山本信子は、けろりと言いながら、息子たちのお椀《わん》に、二はい目のあさりの味噌《みそ》汁《しる》をよそってやった。
3
そんな経緯《いきさつ》があったので、太郎は、五月素子さんの勤めている《マウイ》へ行くのに、つい、黒谷久男を誘《さそ》ってしまった。
《マウイ》はまだ新しい店で、ニッパ椰子《やし》の葉でふいたようなテラスの部分が、道に沿ってひらけていた。
太郎は店へ入る時、ちょっと緊張《きんちょう》し、五月さんが、今日は休みだといいな、というような気もした。けれど、間もなく銀色のお盆《ぼん》を持ってやって来たウエイトレスが、五月さんだとわかると、太郎はまごまごした。
五月さんは、オレンジ色のワンピースのユニフォームを着て、緑色の小さなエプロンをかけていた。何だか、オレンジが人間になったみたいだった。髪《かみ》には、オレンジ色の、小さな髪覆《かみおお》いのような布をしていた。それは、平《ひら》のウエイトレスの印《しるし》で、少し偉《えら》くなると、緑色の髪覆いになるらしかった。
「よく来て下さったわね」
五月さんは、水のコップを二人の前に置きながら言った。
「お待ちしてたの」
「黒谷です」
太郎は堅《かた》くなって紹介した。
「知ってるわ。お顔。何になさる?」
五月さんは優《やさ》しく尋ねた。
「コーヒー」
黒谷は慎《つつし》んで言った。
「僕《ぼく》、紅茶」
と太郎は言った。
「ミルク? レモン?」
五月さんは尋ねた。
「五月さんは、どっちが好きですか」
「私はレモン」
「じゃ、僕もレモンにする」
「無理しないでいいのよ」
「いいんです。僕、レモン好きなんです」
五月さんは、わざと鼻柱の上に、にたっと皺《しわ》を寄せて笑って見せてから立ち去った。太郎と黒谷はバカみたいに黙《だま》って向い合っていた。何だか五月さんに圧倒《あっとう》されていたのだった。「たけくらベ」の主人公が、美登利《みどり》に会っていたら、こんな感じかな、と太郎は思った。
「いやに、職業的だな」
黒谷が、やっと感想を洩《も》らした。
「仕事の時間には、自分の友達《ともだち》が来てもべちゃくちゃ喋《しゃべ》らないんだな」
「そこが五月さんらしい、ところさ。あの人、すぐ、緑色のへヤー・バンドになっちゃうよ」
五月さんは、間もなく、二つの飲物を持って来たが、ついでに友達を一人連れて来た。
「この人、小柳静《こやなぎしずか》さん、って言うの」
五月さんは言った。
「初めまして」
小柳さんはぴょこんと挨拶《あいさつ》した。
「あなた達と同じ年なのよ、小柳さんは」
小柳さんは、本当に小柳みたいな人だった。オードリー・へップバーンにちょっと似てる、と太郎は思った。太郎はへップバーンが好きなのだが、母に「年《とし》増《ま》趣《しゅ》味《み》だね」とけなされてから、あまり言わないようにしていたのだった。小柳さんは、髪をセシール・カットにして、細い肩《かた》をしていた。背も五月さんより、更《さら》に五糎《センチ》は低かった。
「小柳さんは、身上相談があるのよ。あなたたちにも聞いてほしいんですって」
「お願いします」
と小柳さんにぴょこんと頭をさげられて、太郎は困ってしまった。
「身上相談なんて、僕たち、無責任だよなあ、黒谷」
女が身上相談をしかけて来たら、その男に気がある証拠《しょうこ》だ、といつか山本正二郎が言ったことがあるのを、反射的に思い出したのである。黒谷も驚《おどろ》いてもじもじしていると、五月さんは、
「小柳さん、或《あ》る人がめちゃくちゃ好きになってるの。でも、彼《かれ》のうちの方で、それを許さないんですって」
と説明した。
「そんなこと、一向に構わないよな」
「そうさ、駆《か》け落ちしちゃえばいいじゃないか」
「だけど、小柳さんだって、まだ若いし、相手の彼も学生なの」
「うん」
「小柳さんは、彼を好きだけど、彼のじゃまをしたくはない、とも思ってるの」
「それじゃ、むずかしいよなあ」
黒谷は責任を回《かい》避《ひ》するように言った。
「とにかく、こんな所で、話もできないから、あなたたち、一度よかったら、小柳さんの下宿に行ってあげてくれない?」
「でも、その男の人、いるんでしょう?」
太郎は殴《なぐ》られはしないかと、反射的に恐《おそ》れながら尋ねた。
「彼は今、いません。家に帰ってるんです」
「じゃ、行くよ」
太郎は、猛烈に《・・・》、小柳さんの部屋を見たくなった。
「私の部屋、入るかしら」
小柳さんは、心配そうに五月さんに尋ねた。
「あの三畳《じょう》……」
「三畳もあれば、充分《じゅうぶん》ですよ……」
太郎は言った。
「いつにする?」
「五月さんと私は、木曜ならいいんですけど。お待ちしてます」
「じゃ、木曜の帰りに行きます。どこなんですか、アパートは」
「横浜なんです」
「あなたたちの学校の帰りに、私が駅で待ってるわ。そして一緒《いっしょ》に行きましょう」
五月さんが言った。
「いいですね」
「お喋りしてごめんなさい。後で又《また》、連絡しますから、コーヒーをあがってよ」
「失礼しました」
小柳さんも小鳥のように挨拶して引っこんだ。
「どんな、身上相談だと思う?」
黒谷が深刻な表情で言った。
「そうだな、わからない」
「まさか、子供ができた、なんてことじゃないだろうな。それなら、僕の組の佐々木の兄貴が産婦人科の医者だ」
「まさか」
「借金の申し込みかな」
「金はないよ、オレたち」
「何もないよな、気楽なもんだ」
黒谷はやっと安心したらしく、砂《さ》糖《とう》壺《つぼ》の中の砂糖をばさりとコーヒー茶《ぢゃ》碗《わん》に入れた。
約束《やくそく》の日には、風に秋の匂《にお》いがした。小柳静は決してオレの趣《しゅ》味《み》じゃないと思いながら、五月さんと一緒に町を歩ける嬉《うれ》しさで、太郎はそわそわしていた。太郎は町を好きだ、と思った。太郎は町で生れたから、町が好きだった。田《い》舎《なか》に生れた少年が自然を好くように、町は太郎にとって不可欠のものだった。もし考古学や人類学をやるとすると、太郎は、自然の中に出て行く《・・・・》だろうが、一仕事終って年をとったら、やはり町に帰って来よう、と思った。
太郎は、町の灯《ひ》が好きだった。騒音《そうおん》が好きだった。変化も楽しかった。その中に包含《ほうがん》されている限りない矛盾《むじゅん》、限りない冷酷《れいこく》さも好きだった。町こそ、人間の思い上りを許さない。町の生活は、人間の小さな個性など埋没《まいぼつ》させてしまう。町の中でこそ、人間は限りなく、優しく、謙虚《けんきょ》になる。
五月さんは少し太ったみたいだった。太郎は女の成熟を感じた。五月さんも町の中にいると元気づくのだな、と思った。
「横浜なんて、いい町に住んでるな」
電車の中で黒谷が言った。
「行ってみればいいとこかどうかわかるわ」
三人は横浜で電車を下り、それからバスに乗った。かなり乗ってから、かなり歩いた。横浜は港だ、などと思っていたのだが、もうそのあたりには海の匂いもなかった。その代りドブ川の匂いがした。事実、川があった。
「何て川かな?」
太郎が五月さんに尋ねた。
「大岡川だと思うわ」
「海は遠いね」
「埋立《うめたて》地《ち》のずっと向う」
あたりにはごみごみした家が立ち並《なら》んでいた。自動車の修理工場、砂《じゃ》利《り》置場、小さな印刷工場、連れこみ宿。どこからともなく、煙《けむり》がたなびいて来る。煙にはゴムの匂いがした。路地からは、その匂いにかぶさるように、魚を焼く脂《あぶら》っぽい煙も流れて来た。
「サンマだ」
と黒谷が言った。
「サンマは高いんだぞ」
「まだ遠い?」
三人は新聞配達の少年を追い越した。その子はのろのろと、まるでわざと配達時間を遅《おく》らせるような歩き方をしていた。彼もあまり楽しくない人生を送ってるんだな、と太郎は思った。
「すぐそこ」
路地の奥《おく》の、私道をさらに入ったところだった。夕闇《ゆうやみ》の中に古ぼけたアパートがあった。三人はつま先がやっと引っかかりそうな急な階段をどたどたと登って行った。
第十章 十八歳《さい》以上お断り
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四人は小柳静《こやなぎしずか》の三畳《じょう》の部屋《へや》の真中《まんなか》にようやく体をくっつけ合うようにして坐《すわ》った。
「狭《せま》くてごめんなさいね」
静は謝《あやま》った。
「君が謝ることじゃないさ」
山本太郎は言った。五《さ》月素《つきもと》子《こ》さんは何か訊《き》きたそうにしていたが、結局何も言わなかった。
「コーラを買っておいたの」
静は等身大の西洋人形みたいな体つきで、三人の脇《わき》を通りぬけると、入口の踏《ふみ》込《こ》みの傍《そば》にある、小さな冷蔵庫から、四本のコーラを出して来た。
「いいわね。一人で住むって楽しいでしょうね」
五月さんは、コーラの栓《せん》を抜《ぬ》いて、黒谷や太郎に渡《わた》しながら言った。
「僕《ぼく》も大学へ入ったら、必ず下宿する」
黒谷はせっかく親と離《はな》れて暮《くら》している癖《くせ》にまだ不足らしく、言った。太郎は、五月さんのことを考えていた。ああいう家庭だったら、本当にどんなに外へ出たいだろう、と思った。
「実はね、静ちゃん、今、とっても困ってることがあるのよ」
五月さんが切り出した。
「静ちゃん、自分で言った方がいいわ」
「じゃ、話します。私、ずっとこの部屋で、ついこの間まで、男の人と暮していたんです」
太郎も黒谷も、勿体《もったい》ぶった表情でその話を聞いていた。大体、どんな顔でそういう話に相槌《あいづち》をうったらいいのか、わからないのだ。
「その人とどこで知り合ったんですか?」
太郎はそれでもつつしんで聞いているばかりが能ではない、と思って尋《たず》ねた。
「お店で――」
「へえ」
「とっても淋《さみ》しそうな人だったんです。あんまり笑わないし、ひとりでじいっと坐って、コーヒー一ぱい飲みながら黙《だま》って、外を通る人や、店の中のお客さんを見てるんですよね。初め気がつかなかったんだけど、或《あ》る時、ふっとその人のことを気にしだしたら、何だかひどく忘れられなくなっちゃったんです」
太郎は、全くその話の真剣さを乱すようなことを考えていた。それは父の山本正二郎《やまもとしょうじろう》が或る日、バーでもてる《・・・》法というのを話してくれたことがあったからだった。
《バーでもてるには、ちゃんと法則があるのだ》
父は言った。
《お金がなきゃだめなんだろう。とすればお父さんは絶望的だね》
太郎はすかさず答えた。
《金も金だが、まず、バーへ行ったら、あまり笑ったらいかんのだ》
《へえ》
《酒はいくら飲んでもいいが、物はあまり食ったらいかん。つまり憂《うれ》い顔の騎士《きし》という表情をしていなければいけない》
《お父さんみたいに、大口開けて笑ったり、むしゃむしゃ食べたりしたらいけないんだね》
《そうだ。憂愁《ゆうしゅう》を絵に描《か》いたような顔をしないといけない。すると、水商売の女というのは、決って(私は苦労してる)と思ってるから、憂い顔の騎士を見ると、同志的な親愛感《しんあいかん》を持つんだな。自分がバックアップしてやらなきゃ、この男はどうにかなっちゃうんじゃないかと思うような気分になって来る。大体、水商売の女性には男から金を絞《しぼ》る気でいながら、実は、男をかわいがって金を貢《みつ》ぎたがる性格のが多いんだ》
なるほど、しからば、いざ食うに困ったら、そういう女の人に養ってもらえばいい訳だ、と太郎はひそかに考えていたのだが、そう口に出しては言わなかった。しかしその時、聞き流していたことが、どうも真理らしいと太郎は考えていた。
「何回か彼《かれ》が来て――彼はいつもできるだけ隅《すみ》っこの方に坐るの」
「あ、それ、自意識過剰《かじょう》の奴《やつ》の癖なんだ!」
黒谷久《くろたにひさ》男《お》は軽々しく口を出して、太郎に背中をつっつかれた。
「私、それで、とうとう聞いたんです。『学生じゃないんですか』って。そしたら、『学生は学生だけど、学問をしていない学生です』って言うの」
「じゃ、僕と同じだ」
黒谷久男は、まだ性《しょう》こりもなく、雑音を入れた。もっともそれは、ぶつぶつ言うような小さな呟《つぶや》きだった。
太郎が静を少し無気味に感じたのは、そんなふうに黒谷にじゃまをされても、まるで鏡のように透明《とうめい》に、不愉《ふゆ》快《かい》な顔一つせず、彼女が話を続けることだった。
「その人、詩人なんです」
静はまるで、胸の中の腫物《はれもの》をとり出して見せるような言い方をした。
「私、詩なんてわからないんだけど……詩なんて、自分がいいと思えばいいんでしょう?」
「そうだよな」
太郎は賛成した。
「私、彼の詩がとっても好きなんです。彼は絵も描くの。絵を描いて、それに詩をつけて一冊、私に絵本を作ってくれたの。《ズボン吊《つ》りをつけたカンガルー》とか《休日の動物園》とか、とてもかわいいの。でも、彼は詩を書いたら、家で叱《しか》られるんですって。だから彼は自分が書いた詩を、みんな私のアパートに預けるようになったの」
「いったい、そこのうちはどういううちなのさ」
「さあ、私もよくは知らないんですけど。彼のお父さんは、一流の銀行だか商社だかの偉《えら》い方らしいんです。とにかく、彼は長男なの。下に弟が二人いるんだけど……あ、思い出したわ。そのうちの上の方の弟さんが、五月さんや、皆さんたちと同じ、学校なのよ」
「誰《だれ》だろう」
黒谷久男は無邪気《むじゃき》に訝《いぶか》しげな声をたてたが、太郎は、途中《とちゅう》から、或る予感にうたれて黙ってしまった。
「藤原さんって言うの」
静は、その名前自体に無限のいとおしさをこめているような言い方をした。
「藤原俊《ふじわらとし》夫《お》だよ」
太郎は小さな声で言った。
「俊夫じゃないわ。彼は行《ゆき》夫《お》というの」
静さんは訂正《ていせい》した。
「弟の方は俊夫なんだ。お兄さんって人、法科か経済でしょ」
「法科へ行かされたの。法律なんて、何も興味ないのに」
「なんで、そんなところへわざわざ行ったのかな?」
黒谷は素《そ》朴《ぼく》な質問をした。
「そりゃ、あんた、浮き世の義理っつうものよ」
太郎は解説した。
「お父さんが、法科へ行ったら、ほかの我儘《わがまま》は全部許すって、はっきり言ったことがあるんですって。別に、他《ほか》の我儘、全部許してもらおうと思ったわけじゃないけど、それほど、親の望むことなら、そうしようと思って、そして法科に籍《せき》をおいて詩を書いていたら、或る日お父さんに、ひどく叱られたんですって。詩を書いたりすることは、それだけでもう人生に落《らく》伍《ご》することだって。法科を出ていい会社へ入れば、いい家から嫁《よめ》が来るけど、詩を書いていたら、決していい家とは縁組《えんぐみ》できないって」
「そうかなあ。いい家かどうかわかったもんじゃないじゃんか。計算高い家から、功利的な娘《むすめ》が、金に釣《つ》られて、金を目当てで来るだけだと思うがなあ」
太郎は思わず口を出した。
「彼は約束《やくそく》違《い》反《はん》だと思ったけど、その時は黙っていたんですって。詩なんてものは、こっそり書いていられるんだし、こっそりペンネームで書いていれば、何もお父さんを悲しませることもないと思ってね。でも、やっぱり法律の勉強はあまりしなかったの。しないとお父さんにやっつけられる。うちにいるとおもしろくないから、自然、うちを出て、私のこのアパートで暮すようになったの。
私、行夫さんの家は見たことないの。でも大きなお家《うち》なんですって。庭で、ゴルフの練習ができるんだって言ってたわ。そんなうちに住んでる人が、私のこのアパートの方が休まるって言うの。何もしてあげたわけじゃないの。むしろ私が帰って来ると、彼は私のためにご飯炊《た》いて待っててくれたわ。うちにいれば、お手伝いさんが何もかもやってくれるというのにね。私、行ちゃんに、勉強しなきゃだめって言ったの。そしたら、彼は本当に、ここでは法律の勉強してたのよ。私がいない間、学校へ行ったり、家で本読んだりして、夕方になると、近所のマーケットで、お魚やさつまあげを買って、待っていてくれたの。二人とも、とっても楽しかった。勉強したり、働いたりして、彼は声をたてて笑うようになった位なの」
それが長くは続かなかった。息《むす》子《こ》が家を出たまま帰らず、行先も秘《ひ》し隠《かく》しているということで、藤原家では、何とかして、その生活の場をつきとめようとした。初めは父親が、息子に会いにクラスのドアの外で待っていた。
「彼は《お父さん、心配しないで下さい。僕は新学年になってからは、こうしてちゃんと授業へ出てますから》って言ったんですって。そうしたら《授業にでてるだけじゃいけない。体面というものがあるから、家へ帰りなさい》と言われたの。それでね、彼が初めて、《それは約束が違《ちが》います。法科へ入りさえすれば、どんな我儘でもきいてやるって言ったじゃありませんか》って言ったらしいの。でも私のことを、彼の口から聞くとお父さんは《それはいかん、別れなさい》って、言うだけなんですって。それで、行ちゃん、すごく怒《おこ》って、私と結婚するつもりだ、って言い捨ててお父さんと別れて来たんですって」
深刻な話だなあ、と太郎は思いながらにやにやしていた。辛《つら》い話を聞く時に、反射的に不真面目《ふまじめ》になるというのは、太郎の子供の時からの習性である。深刻な話というものは、実際重大なことだから、軽率にではなく、慎《しん》重《ちょう》に考えてかからねばならない。とすれば、最初からそれに溺《おぼ》れそうになるのを防ぐために、ずるずる引き込《こ》まれないようにわざと不《ふ》誠実《せいじつ》になっておくのである。深刻な話どころではない。藤原一家の生活方式に関しては、太郎はとっくにキモが煮《に》えそうな思いになっている。しかし、今ここで興奮《こうふん》してはいけない。男が興奮するのは、ずっと後でいいのである。この不《ふ》遜《そん》、この冷酷《れいこく》さ、この非情さが、男にとって必要だということを、目下のところ、太郎は信じていたいような気がしているのである。
「それで、藤原のお父さん、どうしたの?」
黒谷は、小説の筋《すじ》でも聞きたがるような表情で言った。
「彼はここのことを決して言わなかったんだけど、或る日、お父さんが、会社の、警察官上りの守衛《しゅえい》さんか何かを使って、後をつけさせて発見されてしまったの」
「その男がここへどかどか入って来たんだな」
黒谷は言った。
「いいえ、その人はそんなことしないの。ここを見届けて、すっと帰ってしまったらしいのね。私は何も知らなかったの。その晩も、とっても楽しく、行ちゃんとお喋《しゃべ》りして、……だって行ちゃんが心配するな、僕は決して家へ帰らないって、いうから……そして翌朝《よくあさ》も、二人で一緒《いっしょ》にここを出ました。行ちゃんは学校へ行って、私はお店へ出たの。その晩、私はいつものように、家へ帰って来たんです。そしたら、この部屋に電燈《でんとう》がついてないの。でも行ちゃんに何か都《つ》合《ごう》があって、お友達《ともだち》とでも遊んでいるんだろう、と思って、夕飯作って待ってたの。私、十時半まで食べないで待ってたわ。何か事故が起ったんじゃないかって、すごく心配になった頃《ころ》、電報が来たんです。《帰れなくなった。許してくれ》って。私、その時、はっとわかったの。あ、行ちゃんは、家へ連れ帰されたんだな、って」
「それっきり?」
黒谷が尋ねた。
「それから十日間ほどは音《おと》沙汰《さた》なかったの。そしたら、或る晩、自動車に乗った女の人がここへ来たの。行ちゃんのお母さんだって言ってました。冷たい感じの人だったけど。そして行ちゃんと、私を結婚させるなんてことは考えられないことだから、考え違いをしないで頂戴《ちょうだい》と言われたんです。藤原家に生れた行ちゃんは、私のような女と結婚したら、決してしあわせになれないんだ、っていうことをよくわかって欲《ほ》しい、とはっきり言ったんです」
「ひでえなあ」
黒谷は憤慨《ふんがい》して言った。
「自分のことをいったいどんだけ偉いと思ってるんだろ」
「だって、私は漁師の娘ですもの。行ちゃんのうちとは比べものにはならないの」
「勝手にそう思ってるだけだよ。家柄《いえがら》を誇《ほこ》る奴に限って、家柄しか自《じ》慢《まん》するものはないんだ」
太郎は言った。その瞬間《しゅんかん》、太郎は、五月さんの視線を熱く感じた。
「それから、私考えたんです。一度、家の人の目を盗《ぬす》むようにして、行ちゃんが、お店へ電話かけて来ました。もう学校へも行かず、勉強もしてないって言ってました。詩も書いてない、って言ったから、私、なぜ詩だけは書かないの? って訊《き》いたの。そしたら、生きる希望が、この世に何もないから、もう詩も書けないんだ、って言ってました。私ね、それまで、詩が、生きることと結びついてるんだってことさえ、わからなかったの。ほら、よく《死》について詩書く人いるじゃない。でも、行ちゃんと喋ってるうちに、どんな絶望的な詩でも、詩が書けるうちはまだ、《生》に向う気力があるんだな、ってことがわかったの」
静は涙《なみだ》ぐんでいた。
「それで、その時藤原のおふくろさんには何て言ったんですか?」
太郎は尋ねた。
「私、考えてみます、って言ったんです。だって、とっさにそれ以上、言いようがないですもの。そうだわ。そしたらお母さんが《あなたは、行夫を愛してるんですか?》って言ったわ」
「愛する資格はないって言うんだよな」
黒谷は悪意に燃えて先まわりして言った。
「私、《勿論、愛してます》って言ったの。そしたら、お母さんは、《愛してるなら、行夫のしあわせのために別れて下されるわね》って言ったわ」
「畜生《ちくしょう》!」
黒谷はくやしがった。
「それから、《もし別れてくれるんなら、お金をあげますから、あなたもそれを貰《もら》った方がトクよ》って言われたの。お母さんに言わせると、私はまだ若いでしょう。だから、今、そのお金を貰えば、ずいぶんおもしろおかしく暮せるっていうの」
「ふうん」
「でも、結局、小柳さんは、藤原の兄さんと別れたんでしょ」
太郎は冷酷な目つきをしようと努めながら言った。
「ええ、一応はね」
「どうして? お金ほしかったの?」
「そうじゃないわよ」
「でもお金も受けとったんでしょ」
「いつか又《また》彼が帰って来て、お金に困ることがあったら、彼がそのお金を使えばいいと思ったの」
「それは、言い訳だよな。言い訳でもいいけど」
太郎は言った。
「お金というものは動かしがたいものでしょう。もらっておいて、実はああだった、こうだった、って言ってもムダだよな。お金を貰ったということは、つまり小柳さんが、藤原の兄さんと別れることを承知したってことだな」
「でも、そういう気持じゃないの、私、彼が好きですもの。それにお金だって、彼のためにとったのよ。あそこのうちは、子供が、自分の思い通りにならないと、必要なお金だって、やらないんですもの」
「それは言い訳だよ。甘《あま》いよ。そんなことがなり立つんなら、泥棒《どろぼう》だって無罪にしなけりゃならないよ」
太郎は、その比喩《ひゆ》をそれほど心理的に計算した上で口にしたのではなかったが、小柳静が明らかに腹を立てたのを見ると、「怒るのも当り前かな」と思った。しかし、女が怒ったから、と言って、今言ったことを引き下げるつもりはなかった。
「私、そんなふうに、言われるとは思わなかったわ」
小柳静は、柳眉《りゅうび》をさかだてる、という表情になった。
「どう言うと思った?」
太郎は少しもひかないという気構えを見せながら言った。
「だって、私、自分が、そのお金を何か自分の楽しみのために貰う気だったんじゃないんですもの。そんなことくらい、わかって下さるかと思ったの」
「君は、自分のやり方を他人に承認させてさ、そりゃ、そうだ、そりゃごもっともだ、と言ってほしいために、わざわざ我々を呼びつけたんだな」
太郎は言った。
「僕たちは、身上相談だって聞いたよ。相談なら当然、君とは反対の意見でることだってあるよ」
「五月さんが、あなたは、そんな人じゃないって言ったのよ」
静は、蛇《へび》のような眼《め》になりながら言った。
「どんな人じゃないんだろ?」
「苦労してる人間の気持がわかる人だって言ったわ」
五月さんは困ったように、太郎を見た。
「私――」
「いいよ、五月さん」
太郎は制止した。
「だけど小柳さんの理論の中には、どこかに苦労してる人間はみんな正しい。貧乏《びんぼう》は正義のあらわれだ、というような感じがあるな。僕はそれはいやだ。藤原の家みたいなのを、僕は好かないけど、だからと言って、藤原の家のやり方は非人道的で、君のは、全部正しい、とは言えないさ。しかも、君は僕達を利用して、その正しいことを証明させようとしているみたいだよ。そういうやり方は、女の、もっとも薄汚《うすぎた》ない小細工だと思うな。金をとりたかったら、誰《だれ》に何と言われようと、堂々とおとりよ。彼のためだと思ってるなら、世界中がそのことについて誤解しようと、敢然《かんぜん》としておやりよ」
「わかって下さらないんなら、いいわよ」
小柳静は、言い放った。太郎は立ち上った。
「僕は帰る。黒谷、帰ろう」
「僕は……」
黒谷はうろうろした。今、太郎と一緒に帰ると、小柳静に対して、山本太郎と同じように裏切者と思われるのを恐れてでもいるみたいだった。
「いいから帰ろう」
「私は残ります」
五月さんは言った。
「どうぞ。もう、道はわかりますから」
アパートを出ると、黒谷の靴《くつ》の紐《ひも》はまだ結んでなかった。
「ちゃんと紐を結べよ」
太郎はそう言い、かがみ込んだ黒谷を待ってやりもしないで、先へ歩き続けた。黒谷は、泳ぐように太郎に追いついて、
「何も、あそこまで言わなくたっていいぞ」
と言った。
「オレはいやだ。オレはあの女嫌《きら》いだ」
「だって、彼女はあの年まで苦労して来たんだぞ。それを同情してやらないのかよ」
「だからどうしたってのさ。金持でいやらしいのもいれば、貧乏でいやらしいのもいる。中間でいやらしいのもいる。金に苦労している人間はヒイキしろ、というのは、それだけで差別じゃないか。オレはそんなことはしないよ」
太郎はやっと歩調を弛《ゆる》めた。空を仰《あお》いだが、星は一つも見えなかった。
2
太郎は、翌日になって、自分のやったことはどうも少し大人《おとな》げなかった、と思った。小柳静が、
「あの人、ブルジョア根性丸出しだわ」
とか何とか言っているかと思うと、猛烈《もうれつ》不《ふ》愉《ゆ》快《かい》だった。
この頃《ごろ》、太郎は、時々ひどく苛々《いらいら》する。母の信子が「年頃ね」などと言うと、その一言で、又《また》、腹が立った。もの《・・》の本ではこういう状況は、「性的な欲求不満」だなどとわかったようなことを書いているので、太郎は又いやになる。
一体大人たちは、男の子の性的な問題をそれほど重要に考えているのだろうか。欲求不満を認めながら、週刊誌の裸《ら》体《たい》写真は見せちゃいけないの、ポルノ映画は十八歳《さい》未満は入場お断りなどという制度を作るのはおかしくないか。
山本太郎は時々ヌード写真のついた週刊誌を買うことがある。山本家では、月四千円までなら、太郎がどんな本を買ってもいいことになっているが、そういう週刊誌だけは、自分の小《こ》遣《づか》いで払《はら》う。親にヒミツにしたいからではないが、ヌード写真を親に買ってもらうのは「不健全」だからである。ヌード写真は一応親にかくして買わねばいけない。ただし太郎は整理整頓《せいとん》が悪くて、そういう雑誌を机のあたりにほうり出しておくから、母の信《のぶ》子《こ》がすぐ発見して掃《そう》除《じ》の時などに感心して眺《なが》めている。
「太郎、太郎、あんたどの子がいいと思うの?」
などと訊《き》くこともあるので、太郎はおふくろの肩のあたりから顎《あご》を出して「これがいいもんね」などとつい二人してヌードを見ることになってしまう。こういう光景もやはりいやらしい。
太郎は学校の帰りに、ポルノ映画を見に行くこともあるのである。もっともスパイ映画と三本立ての場合でも十八歳未満はお断り、と書いてあったが、見て悪いと思わないから、堂々と切符を買う。向うも商売だし、断わられたことはない。
小柳静の下宿へ行った翌日も太郎が見たセックスものは、イタリー製であった。凄《すご》いシーンの連続だというから、多少期待していたのだが、カンジンカナメのところは、税関で消してあるので、もやもやである。
「ねえ、ねえ、おやじさん、ポルノ映画って退屈《たいくつ》だなあ。消し過ぎてあって、近眼と遠視と老眼が一度にかかったみたいだよ」
太郎は、その夜、食事の時、父親の山本正二郎に言った。
「うん、あれはもともと、全く退屈なもんなんだ」
「十八歳未満に見せても、どうってことないと思うけどな。むしろ、十八歳以上のいい年した大人が見るもんじゃないと思うけどなあ」
「十八歳以上お断り、か。それもいいね」
「今日は、おかしかったよ」
太郎が言った。
「何が?」
「電車ん中で、女の子たちが、がやがや言ってるのさ。聞いてたら、トマトの皮の剥《む》き方について、試験にどう書くかってことなのさ。驚《おどろ》いちゃうね。女の子って、トマトの皮の剥き方も知らないのかな」
「女の方が当然知ってるべきだと思うようなことを、女は知らないのさ」
「だけどさ、聞いてたら、いやになったよ。只《ただ》、お湯をかける、じゃいけないんだって。ヘタをとる、ってのも書かないと点を引かれるんだって。全く下らないよ」
本当は太郎は、それを聞いていて思わず、
「くだらねえなあ」
と呟《つぶや》いて、それが女の子たちに聞えてしまって、きゅっと睨《にら》まれたのだけれど、さすがにそのことまでは、父親に言わなかった。
太郎は何とかして、笑おうとしていたのだった。おかしなことを見つけ、世の中はいかにいい加減でもすむかということを考えて、気を楽にしたかったのだ。夕刊には丁度、花火工場の爆発《ばくはつ》事故のニュースが出ていた。
「ねえねえ、母さん、花火の、四〇パーセントは中国製だってこと知ってる?」
太郎は食後にモナカを食べながら母親に言った。
「知らないわ」
「何も知らないんだな。上海《シャンハイ》茶土産《みやげ》進出公司《コンス》って書いてあるよ。アミダの沢はさ、花火がどかんと鳴る度《たび》に、《毛沢東バンザイ!》って叫《さけ》ぶんだぜ。それだけ中国製が売れたわけだから、毛沢東が喜んでるだろうってさ」
モナカを食べ終ると、太郎は、さまざまな木の実のまざった缶詰《かんづめ》を持ち出して来た。アーモンド、カシュウ、クルミ、ピーナッツ、あと太郎の名前の知らないのもある。太郎が食べていると、山本正二郎も手を出す。とたんに太郎は、「選ばない! 目つぶる!」と叫んだ。大きい、おいしい木の実からなくなって行って缶の底に南京《ナンキン》豆《まめ》ばかり残るのを防ぐためである。もっとも太郎自身は、太りすぎの女みたいに身のしまらないアーモンドが嫌《きら》いで、それくらいならむしろ小《こ》粒《つぶ》のピーナッツの方を、よほどおいしいと思う。
太郎は一しきり食べ終ると、わざと父親のYシャツの袖《そで》あたりで、塩で汚《よご》れた指先を拭《ふ》き、それから立ち上って屁《へ》をすると、まじめくさってその風を両手であおいで父親の方に送った。
「バカ、臭《くさ》い、やめろ」
山本正二郎は叱《しか》った。
それでも気分はちっともすっきりしなかった。あほなことをすればするだけ、胸の中のしこりは重くなるような気がする。
太郎はなおも、その辺をうろうろした。
「今日、おもしろい話を聞いた」
山本正二郎が母の信子に言っているのを、充分《じゅうぶん》に、両耳で聞きながら太郎は、夕刊を読み続けた。
「教授会の後で話が出たんだが、昭和十年以後の生れの人間には、専門家がきわめて少ないそうだ」
「そうかしら」
「映画の畑でもダメだそうだね。小説の世界も、きわめて弱いそうだ。皆で、何故《なぜ》だろうということになった」
「昭和十年なんて言うと、もう間もなく四十じゃありませんか。それじゃ三十代の前半の人はもうダメなんですか」
「昭和十年というと、終戦の時、十歳だ。つまり、中学も高校も完全に新制でやってのけた連中だ。どうも新制の教育には、何か欠けてるんじゃないだろうか、ということになった」
「でも、俳優《はいゆう》なんかは若い人もいる訳だから」
「文字による表現の世界に関係しているところから、まずプロが出なくなったんだ。やっぱり国語教育の問題と関係があるかどうかということだね」
「太郎、ちょっと、聞いた?」
信子が言った。
「ちょっと簡単な話じゃない。今の時代では、日本語さえ、まともに読み書きできれば、何かのプロになれるらしいわよ」
太郎はこういう母の言い方が嫌《きら》いだった。暗に太郎の日本語ができないことを当てつけているのと、日本語さえできれば何とかなるなどということを、信子自身信じてもいないからだった。
「僕《ぼく》はダメだよ。どうせ日本語できないから」
「無気力ねえ」
「どうせ、僕は無気力だよ」
父に言われても何ともないのだが、全く理由もなく、母親に何か言われると、太郎は腹が立った。
「何の分野ででもプロがいなくなると、日本はどうなるんでしょう」
信子が言った。
「煩《うるさ》いなあ」
太郎はもう我《が》慢《まん》ならない、と思った。
「何もわかっちゃいないんだな。教えてあげるけど、今の時代はね、プロでなくても食える時代なんじゃないか。それが大きな特徴《とくちょう》なんだよ」
「それはいいデフィニションだと思うよ」
と信子が英語を使って言った。イギリス育ちの信子は《定義》というよりは《デフィニション》と言うほうが、ぴったり来るのである。
「ただしお気の毒な時代ね。プロというのは楽しみも深いものだからね。アマには苦しさもない代り、本当の味もわからないのよ。
それから太郎に言っておくけど、自分の不安の本質を見《み》極《きわ》めないで、八つ当りするのだけはよしなさい。不安なことに真正面からぶつからないのは、卑怯《ひきょう》よ」
母はにこにこしながら、一矢《いっし》報いた。
第十一章 藍色《あいいろ》の午後
1
中学生に成りたての頃《ころ》、山本太郎は、自分が、魚の学者に成るべきか、それとも考古学者に成るべきか、半々位の確率で、わからないと思っていた。もはや、鰻《うなぎ》の産卵の場所をつきとめよう、というほどの野望はなかったが、魚を狩猟《しゅりょう》のように取ることは、時代遅《おく》れで、あくまで、人間の手で整備された海中で、牧畜《ぼくちく》と同じように飼《か》って殖《ふ》やさなければならないと考えていた。「海はいいなあ」中心になるのはそんな気分であった。
しかし考古学のほうも捨てがたかった。
「人間ていい加減だもんね」
太郎は時々そんな言い方をした。この言葉と考古学とどう結び付くかは普《ふ》通《つう》の人にはわからない。太郎の気持では、人間は外《げ》界《かい》によってどんなにでも変るので、その変り方を見るのは面白《おもしろ》いということなのである。
「しかし、なあ、文学部じゃ食えないからなあ」
太郎は父の山本正二郎《やまもとしょうじろう》の前で大きな声で独《ひと》り言《ごと》を言う時もあった。
「文学部が食えないって?」
山本は太郎の言葉をとらえて言った。
「文学部が食えないなんてことは、一時代前の概念《がいねん》だね」
「そう? 皆ちゃんとオマンマ食べてる?」
太郎は尋《たず》ねた。
「オマンマ食べてるどころじゃないさ。もう五、六年前になるけど、お父さんの同級の佐藤っていうのが、慢性腎臓《まんせいじんぞう》になって、ずっと、血を洗い続けなければいけなくなったんだ」
「それは、大変なんだよ、お金がかかって。僕《ぼく》、なんかで読んだことがある」
「それで、金集めの幹事役になったのが、広《ひろ》部《べ》吉《よし》太《た》郎《ろう》さ」
「ああ。あのイラスト描《か》く人ね。彼、高校の時からお絵描きうまかった?」
「お絵描きうまいかどうか、そんなこと気付いたこともなかったがね。とにかく、広部が言うのさ、法科、経済のやつにも一応は声をかけてみるけど、まず、金持ってるのは、文学部だな、って言ったのがおかしかったね」
「そりゃあ、イラスト描きゃ儲《もう》かるけどさ、考古学やって儲かった人なんて聞いたことねえやあ。アンドレ・マルローみたいに、アンコールワットか、どっかの遺《い》跡《せき》からレリーフぶっかいてきてさ、それを骨董《こっとう》屋《や》に売り払えば、金もできて文化大臣ぐらいに成れるかも知れないけどさ」
太郎は、マルローについて、詳《くわ》しく知りもせず、世間の定説というのも又《また》、当てにならないことを知ってはいたが、調子に乗って軽《けい》薄《はく》な言い方をした。
山本太郎は、父の正二郎が、本当は、人類学をやりたかったということを、知ってはいるのである。どうして、知ったのかは忘れてしまった。母の信子がそう言ったのかも知れないし、父の口から直接聞いたのかも知れない。しかし、人生の決定というものは、どこか気《き》恥《は》ずかしいとこがあるから、たとえ、父のことでも太郎は忘れようとしたのかも知れない。
山本正二郎が、何故、自分の希望を果さなかったかというと、それは、山本家が決して裕福《ゆうふく》でなかったからである。
この数週間ほど太郎は、実は、考古学をやめて人類学をやろうかと思い始めている。決して、父親のできなかったことをしようなどという殊勝《しゅしょう》な、あるいは思い上った気持ではない。高校に入った時、環境《かんきょう》調査表に、考古学が好きだと書き込《こ》んだ。それが、今にいたっても、特に変っているわけではないから、そのまま続けて只《ただ》、生きている人間を対象にした方がおもしろいかな、と思い出したのである。
国立を受けて、かりに入ったとしても文三の教養課程を比《ひ》較的《かくてき》いい成績を取り続けなければ志望の科に入れないかと思うと、太郎はぞっとする。その間に、読みたい本が、沢山《たくさん》読めるのに、全く冗談《じょうだん》じゃない、と思う。
十月の初めに、個人面接があった。珍《めずら》しく、青空の高い日であった。
「どうだね。そろそろ、方針は決めたかね」
担任は山田といって、山本正二郎くらいの年齢《ねんれい》の物理の教師である。
「はあ。まあ決めました」
「どこだね」
「北川大学を受けようと思うんです」
「北川大学? なんだ、それは、すべり止めかね」
「いえ、そんなことはないんです。そこだけしか受けないつもりなんです」
「北川大学ねえ……名前は聞いたことがあるが。どこにあったっけ」
「どこでもいいです。まあ西の方です。ずっと」
態度が悪いように見えるだろうと思ったが太郎にすれば照れているのであった。
「なんだって、北川大学なんて受ける気になったんだ」
「それは、つまり、日本史の教科書をずっと見て、さし絵の写真に出ている土器やなんかを、どこが一番多く持っているかと思って、数えたら、つまり、北川大学だったんです」
喋《しゃべ》っているうちに太郎は、ああ、こんな風にして、人間の一生は決っていくんだなと不《ふ》思議《しぎ》な気持になった。その一瞬《いっしゅん》前までの太郎は、もし他人から、北川大学の人類学科を受けるつもりだろうと言われれば「そんなことはまだわからないです」とかなり大《おお》真面目《まじめ》で否定したに違《ちが》いないのだ。しかし今、受持の教師に、こうして自発的に喋っていると、それはあたかも沢山のデータをもとにして、太郎が冷静に迷《まよ》うことなく選び取ったかのように聞えてくる。
太郎にしてみれば、北川大学に入れるか入れないかさえ、大きな問題であった。
「ねえ。ねえ。母さん。僕一年浪人《ろうにん》するからね。その間、あんまり邪魔者扱《じゃまものあつか》いにしないでうちに置いてくれる? さもないと僕、首つっちゃうよ」
と脅《おど》かした。
「浪人はしなさいよ、遠慮《えんりょ》しないで」
「えらく物わかりのいいこと言うんだね」
「はしかでも、疱瘡《ほうそう》でも、やる時期っていうものがあるわよ。四十になって浪人したって、もう青春の挫《ざ》折《せつ》でもないもんね。せっかく学生をやるんなら、浪人もした方がいいわよ」
しかし、そう言われてみると、太郎はなおさら浪人はしたくないような気がした。それにこういうことは、うっかり世間に公表すると、ろくでもない使われ方をするのである。母の信子が、なにかというと、土木作業や、重い荷物を運ぶことを太郎にさせたがるのは、彼が考古学志望だということを表明してからである。発掘《はっくつ》には体力がいる、とわかるや否《いな》や母は安心して太郎を使い出したのだ。
「うちの子は行儀《ぎょうぎ》はしつけてはありませんけど、労務者だけはできるようにしつけてありますのよ」
などと、知人に電話で喋っているのを聞くと、太郎は「いったいどうなっちゃっているんだろう」と不愉《ふゆ》快《かい》な気持になる。女という人種には学問はついぞわからなくて、ただ、世の中のあらゆることを何に使えるかという、極《きわ》めて功利的な態度だけが身に付いているように思う。
毎日、毎日、気温が冷えていって、ある日とうとう、太郎は寒さに一晩中、うつら、うつらして過してしまった。階下まで蒲団《ふとん》をとりに行くのが面倒《めんどう》くさかったので、パジャマの上からトレーニングシャツを着て急場をしのいだ。翌日、さっそく、蒲団を出しておいてもらおうと思ったが、太郎はあわてていて又忘れてしまった。そんなことが、二晩、三晩続いてから、太郎はやっと母に言った。
「ねえ。お願いだから、僕にかけ物頂戴《ちょうだい》よ」
「ああ、そうだ。何をあげようかしら、離《はな》れのおばあちゃんが、あんまり、蒲団がボロボロになったっておっしゃったから太郎のを流用したのよ」
「よしてくれよう。僕、この寒さを毛布一枚で我《が》慢《まん》してるんだよ」
「どっちみち、蒲団、買わなけりゃ、いけないんだから、太郎に安物の毛布買ってきてあげるわよ」
「安物でなくていいよ。高いのでいいよ」
太郎は決してかなえられそうもない望みを口にした。
「蒲団のことは気になってたんだけどね」
と母は言った。
「太郎が、ひいひい言うまで、わざとほっといたのよ。いつも、暑さ寒さに対して充分《じゅうぶん》に用意ができてるのに慣れてしまうようじゃ、あなたの商売にさしさわるもんね」
「ずるいよう」
太郎は言いながら、タイボクシング風に、両手をかまえて信子を蹴《け》っ飛ばすふりをした。この頃ではもう、これが太郎の挨拶《あいさつ》の一つのパターンになってしまっている。
2
十一月の最初の日曜日の朝、太郎は、母の信子に、あわただしく、叩《たた》き起された。その前にすでに、階段をかけ上る音が聞えていた。うるさいなあ、と思い、ガラリと部屋の襖《ふすま》を開けられた時は、毛布をひっかぶったまま、「ノックもせずに、失礼だ」と半覚醒《はんかくせい》のまま怨《うら》めしく思っていた。
「太郎、ちょっと起きなさい」
「なんだよう。火事かよう」
太郎は、やっと目を開けて、不機《ふき》嫌《げん》に言った。
「藤原《ふじわら》さんのうちで、大変よ」
太郎はぱっと目を開けた。
「どうしたの?」
「藤原さんの一番上のお兄さんが、女の子を刺《さ》して、自分も自殺をはかったの」
太郎は母親の手から新聞をもぎ取った。
藤原の長兄の行《ゆき》夫《お》が、小柳静《こやなぎしずか》と心中をはかって、自分も首の近くを刺し、死に切れないままに倒《たお》れている所を、たまたま静の部屋を訪ねて来た静の同僚《どうりょう》に発見されたのだった。静は病院へ運ばれて間もなく死んだ。もっとも小柳静は二十歳未満だからA子としか書かれていなかったが、太郎は、すぐに経緯を憶《おく》測《そく》することができた。
「あなたに知らせたって仕方のないことだけどね」
信子は言った。
「うん」
太郎はそれから、
「母さん」
とまじめな顔で母に尋《たず》ねた。
「あのアパート、どうなるんだろうね」
「死んだとこ?」
「うん。いくら畳《たたみ》とり換《か》えたって心中のあった部屋なんて気味悪いよな。大家怒《おこ》ってるだろうね」
「それが最初の印象?」
「知るもんか」
太郎はむっとして言った。一番喋《しゃべ》りいい部分から喋っただけなのに、そういうこともわからず、まるで情緒《じょうちょ》の欠陥《けっかん》を発見したような顔をする母こそ、何もわかっていない、と思った。
「僕《ぼく》は、この刺された小柳って女きらいだ」
太郎は言った。
「可《か》哀《わい》そうに。死ぬのいやかも知れなかったのよ」
「母さんもそうだけどね。日本人はみんな死ぬといい人にしちまうんだよ。僕はそういうの嫌《きら》いだ。死のうが生きようが、インチキな奴《やつ》はインチキだよ」
「どういうふうにインチキなの?」
「小柳はね、藤原の兄さんと別れる約束《やくそく》をして、手切金を貰《もら》ってるんだぜ。心中するなら貰わなきゃいいんだ。手切金貰っておいて又相手に心中させるような気を起させるなんて踏《ふ》んだり蹴《け》ったりじゃないか。結果から見たって、藤原の兄さんに人殺しはさせる。大家には迷惑《めいわく》をかける。いいことなしさ……」
「藤原さんとこも大変ね。この行夫さんて人、無事生きてくれるといいけど、それでも心中の片割れということになると、一生、そういう意識がつきまとうでしょうしね」
「自《じ》業《ごう》自《じ》得《とく》だよ」
太郎はガバと起き上った。
「腹が空《す》いた」
本当に空腹感がきゅうと襲《おそ》って来た。太郎は階下のダイニング・キッチンへ下りて、自分でコンビーフの缶を開けた。ジャガイモを小さく切って、フライパンに、サラダオイルを充分《じゅうぶん》に熱し、煙が立つほど熱くなったらジャガイモを生のままいれて狐色《きつねいろ》になるまでいためる。それから、ジャガイモの味が生きる程度にコンビーフを加えるのである。
太郎はジャガイモを切りながら、考えていたのだった。オレは存外見栄《みえ》坊《ぼう》なんだな、と太郎は思う時がある。事件について驚《おどろ》いて我を忘れるほど考えている、というさまは外に見せたくない。それでジャガイモを切ることにしたのだ。付和《ふわ》雷同《らいどう》。これだけはしたくない、と思う。五月さんや藤原俊《ふじわらとし》夫《お》に、新聞読んでとんで来た、と思われないようにしてタッチするにはどうしたらいいか。
ジャガイモは我ながら感心するほどいい色にでき上った。油の温度がちょっとでも低い時にジャガイモをぶちこんだりすると、決してこういう幸福な色が出ない。ところが女の子共《ども》ときたら、揃《そろ》いも揃って油から煙《けむり》が出そうになるほど熱くすることに罪悪感を覚えているらしい。信子はジャガイモはうまくいためるけれど、太郎に言わせれば、コンビーフの量の目測がわかっちゃいないのである。子供かわいさなのだろうか。肉を多く入れすぎる。ところが、太郎風コンビーフ・ハッシは、決してコンビーフが全体量の半分以上をしめたらおいしくないのである。コンビーフというものは、日本のおかか《・・・》に当るだしとりだと思えるし、その証拠《しょうこ》には、これをぶちこんで味噌《みそ》汁《しる》を作ると、実においしい牛汁《ぎゅうじる》になる。
「ねえ、ねえ、母さん」
太郎はオフクロがダイニング・キッチンへ入って来たのを見ると言った。
「僕がもしかして、北川大学へ入れるとするでしょう。そうしたら、僕、大学の寮《りょう》へ入るのはいやだよ」
「へえ」
「僕ね、二つ無駄《むだ》づかいがしたいんだ。一つは、毎週日曜に京都へ通いたいんだ。日本をよく見たいからね」
「車もいるの? 買ってあげる、と言ってるわけじゃないけど」
中古ぐらいなら必要とあれば買ってくれそうな顔つきで信子は言った。
「車はいらない。僕は町歩くの好きだから。だけど、僕どこかへ一人で下宿したいんだ」
「下宿するでしょうよ、皆」
「でもマカナイつきなんていやだ。つまりさ、ちょっと贅沢《ぜいたく》だけど、ちゃんと台所のついたアパート借りたいんだ。そこへ、小さくていいから、天火買ってよ。天火ないと、僕、料理できないもんね。あとは、机やベッドくらいで、何もいらないよ」
五《さ》月《つき》さんには、夜でも会いに行ってみよう。「犯行」の行われたのが、昨夜十時だというから、それから知らされると――今頃は多分いまい。藤原には、電話をかけたくもなかった。藤原家は上を下への大騒動《おおそうどう》で、おふくろは恐《おそ》らく半狂乱《はんきょうらん》で病院の息《むす》子《こ》の傍《そば》につめ切っているか、医者に鎮静剤《ちんせいざい》をうたれて眠《ねむ》っているかだろう。世間はすべて、彼らを土足で踏みにじりに来る敵だとしか思えないだろうから、そういう時には、太郎は近づかないことにしている。只《ただ》、藤原には会いたい。藤原とは決して親しい間柄《あいだがら》とは言えなかったのに、いつの間にか心を開いて語る面ができて来てしまった。行夫の入院している病院は書いてあるから、そっちの方へでも知らん顔をして行ってみれば、或《ある》いは俊夫と連絡《れんらく》をとることもできるかも知れないが……。
朝食が終っても、しかし太郎は何もしなかった。何の行動も起さず、どこへも電話もかけなかった。代りに、縁側《えんがわ》で爪《つめ》を切った。太郎はどうしてか、爪を切ると、必ずその匂《にお》いをかぎたくなる。ナルシシズムかなあ、と思うが、あのたまった垢《あか》の匂いは、決して不愉《ふゆ》快《かい》なものではない。爪を切ること、鼻毛をぬくこと、火を燃すこと、料理を作ること、便所に入ること。それらの一見、日常的な目的を持つ行為が、実は物を考える準備に非常に適していることを、大人たちはちゃんと認識《にんしき》しているのかどうか。
太郎は、のたのたと午前中を過す。漫《まん》画《が》を読み、来週は川越へ町並《まちなみ》と石仏を見に行こうか、などとぼんやり考えた。漫画は太郎は大ていのものを読んでいる。下手《へた》な小説より、ずっとまじめに、甘《あま》くなく、この世の悲しさをとらえているものが多いのに、どうして、世間の大人たちは、寄ってたかって目の敵《かたき》にするのかなあ、と思う。もっとも、太郎は、下手な小説もあまり数多く読んではいないから、上手な小説がもしこの世に一ぱいあるとすれば、漫画よりいいかなあ、とも思うのである。
それから太郎は縁側に寝《ね》そべって空を見ていた。ふと、藤原の兄は、ああいう形で、親に復讐《ふくしゅう》したのではないかな、と太郎は思った。詩も女も、凡《およ》そ好きなものは総《すべ》て遠ざけられ拒否《きょひ》され、他人なら、そのまま絶交して別れて行くことも、口出すなと言って反対した当の相手を刺すこともできるのだが、親であるばかりに、彼はそうもできなかった。その結果、彼は自分を刺すことで、親にふり上げるべき力の処理をしたのだ。自分を殺すことで、親と別れようともしたのだ。そういうことを、あの「東大出」のおやじはちゃんとわかっているかな。
太郎は、そのうちについ陽《ひ》だまりでとろとろと眠った。息子が居眠りしていても、何か着せかけてくれるようなおふくろではないから、間もなく寒くて眼《め》が覚《さ》めた。どたばたと音がしたから昼飯だな、と思った。
しかしそうではなかった。玄関《げんかん》の方で、声がした。藤原だ! とわかったので、太郎はとび出して行った。
3
藤原は、寝不《ねぶ》足《そく》のような顔をしていた。顎《あご》にヒゲがツンツン伸《の》びていた。
「やあ!」
と太郎は笑った。
「うん」
藤原も微笑《びしょう》して頷《うなず》いた。
「上れよ」
「うん」
足どりが少しぼんやりしていた。
「君んちへ連絡《れんらく》とろうとも思ったんだけど」
「ダメだよ。警察の人が五、六人来てる。それに親《おや》爺《じ》の会社の人もたくさんいるから」
「お母さんは?」
「病院にいる」
「兄さんどうなの?」
「多分、大丈夫《だいじょうぶ》だと思うんだ。もう、意識も戻《もど》って来たから。だけどおふくろがね、殺人犯として行夫ちゃんがカンゴクに入れられるんなら、私は行夫ちゃんを殺してそれから死にます、なんて警察の人の前で喚《わめ》いたもんだから、今はずっと見張りがついてる」
「今日はな、逆上してるからな」
「うちへ帰って寝よう、と思ったんだけど、家中ごたごたで落ちついて部屋にいることもできないから、君んちへ逃《に》げて来ちゃった」
「よく来てくれたな。うちのおふくろはサービス悪いけどさ。ここはのんびりしてるからな」
太郎はそう言ってから、
「君は、昨夜《きのう》からろくろく食べてないんだろ」
と言った。
「今ね、お昼できるから、一緒《いっしょ》にあがってね。黒谷君もよく来てくれるのよ」
母がダイニング・キッチンから大きな声で言った。
「すみません。だけど僕――よかったら、食べるより、眠《ねむ》らしてくれないか?」
藤原は言った。
「いいとも! オレのベッドで寝ろよ」
「ちょっと、待って」
信子が言った。
「食べるより寝る方が大切っていう気持はよくわかるからやすまれた方がいいけど、その前に藤原さんはお宅に電話をなさらなけりゃだめよ」
藤原は、それに、抗《こう》議《ぎ》しようとして口を開きかけたが、信子の柔《やわ》らかな威《い》厳《げん》におされたように「はい」と答えた。
「今、お宅では、それは、それは、子供達《たち》のことを心配していらっしゃるから、居場所ぐらいは明かしておかなければいけません」
「ナミちゃんにでもちょっと言っとけよ」
太郎はとりなすように言った。
藤原が電話をかけている間に、太郎は起き出したままのベッドをなおしに行った。太郎の祖母の表現によると、その乱雑さは、「牛のお産場」のようだ、というのである。太郎は、牛のお産するところは見たことないが、そう言われてみると、確かにそれくらい汚《きた》ないような気がする。脱《ぬ》ぎっぱなしのパジャマのズボンが、床の上に牛の糞《ふん》のように、盛《も》り上っているのを太郎は拾い上げてから、今藤原に必要なのは、夜のような静けさだと思って、太郎は、雨戸を閉め始めた。毎日閉めなければいけないと言われているのに面倒《めんどう》くさいのでめったに閉めないものだから、雨戸は反り返って、引き出すのに、ひどい苦労をした。
藤原が二階へ上ってきたので、「寝《ね》巻《まき》、俺《おれ》のを着るか?」と尋《たず》ねたが、藤原は、
「いいよ、このままで」
と答えた。
「じゃあ、とにかく寝ろよな」
「ああ、ありがとう」
太郎は、鼻歌を歌いながら階下に下りて行った。今日が決して特別な日ではなく――もちろん決して幸せな日ではないにしても――何年かたって考えたら、よくある程度の悪い日だった、と藤原に思わせるような雰《ふん》囲気《いき》を太郎は作っておきたかったのだった。
それから太郎は、母と差し向いで食卓《しょくたく》についた。
「焼飯にしたよ」
と母は言った。体裁《ていさい》のいい言い方だな、と太郎は思った。焼飯にしたという言い方は、いかにも、もっともらしいが、つまり、それは残りものをいっさい片付けた、ということなのである。あるいは、今日は、肉の買い置きもなく、しかもわずかばかり残り物があり、そして新しく買う意志はないという、意思表示を「焼飯にした」と言うのである。
「お父さんは、どこへ行ったの?」
「さあ、よくわからないけど、伊庭《いば》さんがイギリスから帰っていらしたんで、久し振《ぶ》りに会いに行ったみたいよ」
「のんきだね、あの人は」
「太郎に言っときますけど、縁側《えんがわ》で昼寝する時は、どっちか一方に片寄って寝てよね。大の字になって寝られると、全く交通妨害《ぼうがい》だわ」
「ああ、僕は本当に、浪人しないで北川大学へ入りたいよ」
「そんなに浪人するのがいやなの? 見栄《みえ》っ張りだね」
信子は言った。
「違《ちが》うんだよ。早くうちを出て下宿したいんだよ。そうすれば、どこへ寝たって、文句言われないからな」
「それは、そうだわね」
「でもね。母さん、僕がもし予定通り、再《さ》来《らい》年《ねん》、北川大学へ入るとするでしょ。そうすると僕は、最低八年位は向うで勉強するから、もう事実上このうちを出るようなもんだよね。つまり一家離《り》散《さん》っていうわけよ。僕がこのうちにいるのも、もしかしたらあと一年と数カ月なんだけど、母さんそのことを悲しいと思う?」
「そうだね。全く悲しくないって言ったら嘘《うそ》だけど、たいして悲しくもないね。よく子供の夢《ゆめ》を見る時は、いつも子供が小さい時の夢ばかり見るっていう人がいるけど、私は、もうあんたを早くから諦《あきら》めているのよ」
「僕どういう風に諦められているの?」
「所詮《しょせん》は全く別の生き方をする他人だという風に思っているの。十数年間一緒に暮《くら》した他人よね。楽しかったし、すばらしかったけど……だけど、その後は母さん知らない、と思うことにした」
「冷たいんだねえ」
太郎はわざと行儀《ぎょうぎ》悪く、ガチャガチャとスプーンで皿《さら》を鳴らしながら食べた。ふと気がつくと焼飯の肉は、ベーコンとコンビーフである。コンビーフは朝食用に太郎が開けたものだから、つまり、太郎は二食、コンビーフを食べさせられた訳である。
しかし、文句は言えない。もし人類学をやって、アラスカのエスキモーでも調査することになったら、太郎は来る日も来る日もカリブーの肉を生で(それも、少しベトベトに腐りかかったやつを)食べなければならないのだ。食べ物についての文句を言えば、母はたちどころに、このような論理で逆襲《ぎゃくしゅう》してくるから、太郎はこの頃《ごろ》では、ひたすら、耐《た》えることに決めてしまったのだ。
しかし太郎は、ほんの少しだけ、気分がよかった。それは、ちょっと説明するのがむずかしい程《ほど》のささやかなことなのだが、母が、今、この時にあたって、決して藤原家のことを話題にしないことを「たすかった」と思ったのだった。
今、太郎と母が話したことは、ことごとく遠いどこかで、藤原家の問題につながっていることなのである。しかし、他人の生活を軽々に、断じることはできない、と信子はよく知っている。
太郎は、今しがた、交わした母との会話をふと、これは案外高級な会話なんじゃないだろうか、と思ったのであった。もっとむずかしそうな道徳的なことでも、その底に極《きわ》めて通俗的な部分が潜《ひそ》んでいる、というタイプの会話を太郎は何度か聞いた覚えがあるような気がする。
午後三時頃には、母は風呂《ふろ》を沸《わ》かし、買物に行って、藤原のためにステーキ用の肉を買ってきておいたのだが、藤原は、四時になっても五時になっても起きなかった。
「あいつ、死んじゃったんじゃないの」
太郎は母に言った。
「疲《つか》れているのよ。六時まで寝かしてあげなさい。それから皆で夕食をしましょう」
太郎はじりじりしながら待った。六時十五分前になると、太郎はたまりかねて、
「おい、藤原起きろよ」
と言いながら、部屋《へや》に入っていった。
「今、何時?」
藤原が尋ねた。
「六時近く、夜のだよ」
「朝かと思った」
「眠ったんだな」
太郎は電燈《でんとう》をつけた。
「うん。ここは静かだね」
「静かじゃないけどな。おふくろがどなるからな」
「人の話し声っていうのは物によっちゃ聞えてた方がいいよ」
その言葉を聞いて太郎は、「あ、藤原はだいぶ落ち着いてきたな」と思った。
「風呂へ入れよ。それから飯にしよう。親爺がいないから、三人でのんびり食える」
「うん」
藤原はぼんやりと立ち上った。
「さっき、きみのうちへ来た時は、何か一生《いっしょう》懸命《けんめい》考えようとしてたんだけど、霞《かすみ》がかかったような気がしてたんだ。今はずいぶん違う」
あんな大きな家に住みながら藤原にはろくろく寝る場所もなかったんだな、と太郎は気の毒になった。
「僕は、何かあったらまず寝ることにしてるんだ」
太郎は階段を先に立って階下へ下りながら言った。
「藤原君、お風呂お入んなさい。それから、がっちりご飯食べるのよ。お腹《なか》がへってちゃ、何もできませんよ」
「おふくろはばかだからな。あいつは、何かあると、まずがつがつ飯を食うんだ」
太郎は藤原にささやいた。
そして二人は、赤い電球の灯《ひ》が燈《とも》された、ごちゃごちゃとちらかった食堂に下りて行き、事件のことをまるで悪《あく》夢《む》ではないかと思うほど、静かな夕方の風景を窓の外に見たのであった。
「事件は誰《だれ》から知らされて来たの? 警察?」
太郎は、そのことに触《ふ》れないのも又わざとらしいと感じて尋ねた。
「下宿の人らしかったよ。行夫兄ちゃんが、あのアパートに出入りしてた頃、中に一人だけ親しくしてた学生がいて、その人に、うちの電話、教えてたらしいんだね。その人が、部屋から兄ちゃんたちが運び出される時、顔ちらと見て、すぐにおふくろんとこへ知らせたんだけど、おふくろは信じなかったんだ」
「もうあの女のとこへは行く筈《はず》はない、と思ってたの?」
「とにかく、喫《きっ》茶《さ》店《てん》の女の子なんかとは、長続きする筈はない、必ず別れさせられる、という絶対の自信持ってたんだな」
「絶対、というものはないもんな、この世に」
だから青年たちは皆苦しむんじゃないか、と太郎はガラス戸越しに、青ざめた夕《ゆう》暮《ぐ》れの気配を、身を引き締《し》められるような思いで見つめた。
第十二章 果物《くだもの》の大皿《おおざら》
1
藤原俊《ふじわらとし》夫《お》は、風呂《ふろ》はいらないといい、太郎からタオルを借りて顔を洗うと、五本の指で髪《かみ》を撫《な》でつけ、山本家のダイニング・キッチンの夕食のテーブルに就《つ》いた。
「静かだね」
彼は言った。
「うん、まあな」
太郎も言った。
「何もないのよ」
母の信《のぶ》子《こ》は、大きな深皿《ふかざら》に豚《ぶた》の骨つきのアバラ肉と、パイナップルを煮《に》たものを鍋《なべ》からとり分けた。それとサラダと豆腐とワカメの味噌《みそ》汁《しる》、手製のコブの佃煮《つくだ》と糠《ぬか》みそに漬《つ》けたカブとキュウリがテーブルの上に並んだ。
「ごちそうじゃないか」
太郎が言った。
「いつもはこんなに賄《まかな》い、よくないぜ」
藤原はちょっと笑った。
「それで、兄さんの傷の方は太丈夫《だいじょうぶ》なの?」
太郎はごく自然に、話を事件の方に戻《もど》した。
「ごく軽いと思う。精神的には知らないけど」
信子は何も言わず、只《ただ》、藤原の皿にたっぷりと骨つきの肉をとってやった。
「僕《ぼく》は、ふっと思ったんだけど」
藤原は言った。
「行《ゆき》夫《お》兄ちゃんは、親に対して面《つら》当《あ》て自殺したんだと思う」
「だろうな」
太郎はほんの一秒間ぐらい考えた後でさらりと言った。
「うちにはね、いつの頃《ころ》からかわからないけど、何だか、お互《たが》いにどうにもならない重苦しいものが、家の中にできちゃったんだ」
「どういうの?」
「君んちにはないから、わからないだろうけど、つまり、お互いがお互いの顔見ると、何とも不愉《ふゆ》快《かい》になるんだ。僕もそうだ。つまりおやじやおふくろの顔を見ると、どうにもならないようないやな気分になっちまう」
「うん、うん」
「何か、どこかで出発点がまちがってしまったという気がする」
「まちがった理由はわかる?」
母の信子が突然《とつぜん》口を出した。
「いいえ、わからないんです」
藤原はちょっと改まってから聞き返した。
「何か理由あると思ったら教えて下さい」
「お互いの過大期待よ」
「そらあ、そうかも知れないよ。僕なんか、母さんに殆《ほとん》ど何も期待してないものね」
太郎はにやりと笑いながら言った。
「僕は、ひょっとしたら、行夫兄ちゃんは、あの小柳《こやなぎ》なんて人を全然、好きじゃなかったんじゃないかって気がする。好きなら、二人で逃げ出して暮《くら》しゃいいもんね。だけど彼《かれ》は小柳さんと死ぬ必要あったんだ」
「なぜ?」
「うちの両親が彼女を嫌ってたからさ。嫌ってる奴《やつ》と心中するってのは、しかえしとして完璧《かんぺき》だからな」
「うん」
「僕ら、兄弟はね、物心ついてからずっと、親に復讐《ふくしゅう》することを目標に暮して来たんじゃないか、と昨日ふと思った」
藤原は笑おうと努めているように顔をひん曲げながら言った。
「弟の秋夫だって、僕は、本当は学生運動なんて信じちゃいないんだと思うんだ。只、あいつは……」
「それをやれば確実に親がいやがるからな。その手《て》応《ごた》えがほしいんだろう」
「うん、それでうっぷんを晴らしてるんだ。現に直接にはしかえしできないから……」
「そうじゃないさ。それも一種の甘《あま》えというか求愛かも知れないぜ。親に憎《にく》まれるという形で、親にかまって貰《もら》いたがってる……」
太郎は今、瞬間《しゅんかん》的にこんなふうに考えついた自分が不思議《ふしぎ》だった。
「それは信じられない」
藤原は果してそう言って唇《くちびる》を噛《か》んだ。
「はっきり言えば、僕たちは、もし孤児《こじ》だったら、ずいぶんうまく行ってたと思うんだ。行夫兄ちゃんも、秋夫も、僕も、ずいぶん人の好いとこあるしな。わりとどんな社会ででも、うまくやってくだろう、と思うんだ」
「そうそう、三人でけなげに助け合って行く兄弟、なんて同情も惹《ひ》いちゃってな」
太郎もふざけた。藤原は笑いながら、涙《なみだ》を拭《ふ》いた。
「それがいつの頃からか、ダメになっちゃったんだ。何だかスタートでまちがってしまったような気もする。だけど或《あ》る時、気がついてみたら、僕たちは皆、黙《だま》っちゃってたんだ。お互《たが》いに何か本当のことを言ったら、ダメになりそうな気がしたんだ。本当のことを言ったら、母さんはすぐ泣くしな、親《おや》爺《じ》は怒《おこ》るし、そういうことはまず煩《わずら》わしいし……それから、親を悲しませたくないっていう気持もあるし……」
「親がわかってくれっこない、という絶望もあるしな」
「ちょっと待って頂戴《ちょうだい》」
信子が言った。
「親がわかってくれないって、親は子供のこと、わからないのが当り前なのよ。そんなに何もかもわかる親がいたら気味悪いじゃない」
「まあ、いいよ。わかってるよ」
太郎はあわてて母をおしとどめ、そのついでに、豚のアバラ骨をふり廻《まわ》したので、どろどろしたソースが、藤原の頬《ほお》のあたりにまで、飛んでしまった。
「しかしさ、つまり、君んちの場合、君がそこまでわかってれば、大したことないよね。そうでしょう」
太郎は藤原と母と両方に意見を求めた。
「わかっていれば、君はそこから抜《ぬ》けられるよ」
「そうだろうか」
藤原は小声で呟《つぶや》いた。
「母さんはどう思う?」
太郎は信子に言った。
「よそのお宅のことを、わかったつもりで何か申しあげることはできないけれど……」
「いいよ、遠慮《えんりょ》するなよ」
太郎がけしかけた。今、何か重々しい気分になってしまうより、むしろ軽薄《けいはく》な気分になる方が、ずっと願わしいような気がしたからであった。
「子供は誰《だれ》だって親に怨《うら》みを持つと思うわよ」
信子は言った。
「お父さん、お母さんが絶対に正しくて好き、という人もいるかも知れないけど」
突然、太郎はきゃあ! と叫《さけ》んで椅子《いす》の上からとび上り、今度はソースを飛ばすくらいでは収まらず皿をひっくり返した。
「どうしたの? 一体」
「何でもない、或ることを思いついたんだ」
「何を?」
皿をひっくり返した以上、本当のことを言わなきゃいけないと思って、太郎は渋々《しぶしぶ》言った。
「何でもないけどさア。母の日に、お母さんありがとう、って作文書いたり、花束捧《はなたばささ》げたりするのあるよなあ。あれ思い出したら、いたたまれなくなったんだよ」
太郎は、あれこそ、残酷《ざんこく》物語だと思っていた。白々《しらじら》しさの極《きょく》だと考えた。テレビにそういう催《もよお》しがうつったりすると、ブリキの皿をスプーンで引っかいた音を聞いた時のように歯が浮きそうになった。母と子なんてものはお互いにさりげなくなくちゃいけない。感謝してても、していないような顔をしていなきゃいけない。どうしてもあらわしたいなら、人の目につかないところでやらなくちゃいけない。
「憎《にく》み合っている親子というのも、世の中では意外と多いと思うのよ」
信子は太郎に「骨を拾いなさい」と命じただけで続けた。
「ただ、親子の間の憎しみっていうのは他人に対する憎しみみたいに単一じゃないから、それで苦しむのよ。でも、もし憎んでいるとしたらね、藤原君が。そしたらそういう親にはうんと感謝した方がいいと思うわ」
「どうして」
太郎が藤原に代って尋《たず》ねた。
「だって、本当の憎しみを教えてやれる人なんて、人生にそうそういないの。そして愛によって教えられるのが一番いいんだけど、もしそれが不可能だったら、憎しみによっても、同じものを教わるのよ。そこがおもしろいところよ」
藤原俊夫は、骨つきの肉にかじりついていた。それは一見、本気で喋《しゃべ》っている信子に対して、失礼な行動のように見えるが、実は決してそうではないことを太郎は知っていた。
藤原は心の動揺《どうよう》を隠《かく》そうとしているのだった。自分の心がくずれるのを、アバラ骨に噛《か》みつくことで、滑稽《こっけい》なものに変えてしまおうとしていた。
2
その日藤原が、太郎のヒゲソリをかりてさっぱりとし、背中を伸《の》ばして帰って行くのを見送って、二時間ほどすると、山本正二郎《やまもとしょうじろう》が帰って来た。
「コーヒーでもいれますか?」
信子は風呂《ふろ》から上って来た正二郎に言った。
「ああ、いれてくれ」
山本正二郎は答えるが、実は妻につき合っているに過ぎない。コーヒーをいれますか?
ということは、山本家では、それを言った人間が私はコーヒーがのみたいんです、ということと同じ表現なのである。
「藤原君が来たんだって?」
太郎が水にふやけた野球のボールのような表情になって食卓《しょくたく》にやって来ると正二郎は尋《たず》ねた。
「うん」
太郎はコーヒーをめったに飲まない。代りに自分でカルピスをいれて、氷の音をかりかりさせながら飲んだ。
「皆、そろそろむずかしい年頃《としごろ》だな」
正二郎は言った。
「その刺《さ》された女の子は、美人か?」
山本は尋ねた。
「知らねえ。世間はきれいって言うかも知れないけど、あんなの、全然よかねえや」
太郎は最低の言い方をした。
「女は怖《こわ》いぞ」
山本は言った。
「父さんもそう思う?」
「ああ、昔《むかし》からすごく怖かった」
「女は男の方が怖いっていうけどな」
「太郎たちくらいの年から暫《しばら》くの間は、年上の女がよく見えるもんなんだ」
「うん、うん、鹿《かの》子木《こぎ》悦《えつ》ちゃんステキだもんね」
「何なの? 鹿子木悦ちゃんてのは」
母が尋ねた。
「北川大学で、ハードルやってる人だもんね。一四秒一。僕、その人がいるから北川大学受けるもんね」
少しオーバーだが、気分としてはこんな感じであった。
「年上の女も危険なの?」
母は眼《め》鏡《がね》をずり上げながら言った。
「或《あ》る意味じゃ危険だけど、殺すほどには思いつめないからね」
山本が言った。
「じゃあ、僕、年上の女に手を出そう」
「知ってるか? 求愛の仕方が男と女じゃ違うんだ。男の求愛の一番独善的な形は、《殺すぞ》、ということになる。ところが、女は男にふられそうになると、《私、死んでやる》ということになるんだ」
「へえ、そういうのもあるの? それも怖いね」
「怖いさ。昔、父さんをちょっとばかり好きな女子大生がいた」
「へえ」
「ところが、こっちがそういうことには一向に気づかないふりをしてたんだ。そしたら、二月、三月経ってその女《ひと》が、或る日《私は遠い所に行くことにしたの。遠い所から、あなたのしあわせをお祈りしてるわ》って言い出したんだ。僕は恐《おそ》ろしくて、オシッコがでそうになったね」
「それで、父さん、どうしたの?」
「しかし、そこで気がついたふりしたら、事はいよいよ深刻になるからな。何も気がつかないような顔で言ったさ。《へえ、遠いとこって、どこか北海道へでも行くの?》」
「無理したね、ずいぶん」
「そうさ、おっかないから死にもの狂《ぐる》いさ。それから数日間は、毎朝、新聞見るの怖かったね。本当に彼女《かのじょ》が自殺してんじゃないかと思って。新聞の三面記事ぱっと開けられないんだ。端《はし》の方から、そうっと開けてみる。《老《ろう》婆《ば》、電車にとび込《こ》み自殺》なんて書いてあるとね、ほっとしたよ。あああれは、老婆じゃないから、なんて思ってさ」
「それで、つまり結局、死ななかったんでしょ」
「そうさ。三週間くらい経って、何事もないと、ちょっとがっかりしたような感じだね」
「死なないもんなんだね、案外」
「まあ、死なないね、普《ふ》通《つう》は」
「僕は婚前交渉《こうしょう》したいと思うね。いけないかな」
「未婚の父になるぞ。女が生んだ赤ん坊、お前の下宿の前に捨てて行くかも知れないぞ」
「僕思うんだけどね。未婚の母っていうより、未婚の父の方がイカスと思うけどね」
「まあ、そっちのことは何でもいいからよく考えてやってくれ」
山本正二郎はめんどうくさそうに言った。
「僕、今、婚前交渉してるもんね」
太郎は言った。
「誰《だれ》と?」
「モデルやテレビ・タレントだよ。でも名前は教えない。週刊誌にかぎつけられるとめんどうだからな」
太郎はキック・ボクシングの真似《まね》をしながらにこりともせずに言った。
「デートしてるの?」
と信子は尋ねた。
「してるよ。競技場その他でね。会えばおはよう、って言うもんね」
「なるほど確かにそれは婚前交渉だ」
山本正二郎は言った。
「僕だってアパンチュールを楽しみたいもんね」
「アバンチュールというのだ。アンパンみたいなこと言わんでくれ」
「この子は少し耳がおかしいのよ。小さい時は、コンプレックス(劣等感)のことを『僕、コンフレークス感じちゃう』ってしきりに言ってたもの」
信子が言った。
「母さんだって、パンダのことをいくら教えてもバンダちゃんて言うじゃないか」
「バンダってあの動物、気持悪い顔ね。あれどうみても、覆面強盗《ふくめんごうとう》よ」
信子はまだまちがいを訂正《ていせい》しなかった。
「クー・クルックス・クランだよ」
太郎はそう言ってから、
「藤原の兄ちゃん、立ちなおれるかな」
と独《ひと》り言《ごと》のように呟《つぶや》いた。
「ひとの家のことを、とやかく言うことはできないけど」
正二郎は言った。
「藤原家は一家を解散した方がいいんだ」
「そうかな」
「歯車が狂って廻《まわ》り出すと、停《とま》らないんだ」
「藤原もそういう意味のことを言ってた」
「だけど、藤原家の息《むす》子《こ》たちは、決してまだこの世の中全体に絶望した訳じゃあるまい」
「多分ね」
「親だって失格者になることもあるさ。責めちゃいけない。只《ただ》その時は謙虚《けんきょ》に敗退すればいい。そして自分の手にあまった子は、社会に放流してやる。鯉《こい》と同じだ。小さな池で死にかかっていたら、大きな池に放してやるといいんだ」
「それで生き返るかな」
「生き返る率が非常に多い」
「だけど父さん、僕はますます、藤原のおやじさんに腹が立って来た」
太郎は言った。
「世間は子供を捨てる親ばかりを残酷《ざんこく》だって言うだろ。だけど、藤原は現にさっきも言ったんだぜ。僕たち兄弟三人は、孤児《こじ》ならずっとうまく行ったんだって。僕それ本当だと思う。新聞なんか何だい、そんなこと一つもまともに考えて書いてないじゃないか」
「しかし捨てるのも残酷は残酷だからね」
山本は言った。
「親子ってのはやり切れないわね。両方が善意なんだから」
信子は呟いた。
「父さん、僕は善意の悪って、悪意の悪よりずっと始末に悪いと思うよ。だから僕は善人なんて嫌《きら》いだ。神さまみたいな奴《やつ》なんて信じない。傍《そば》によるのもいやだ。そこへ行くと、悪人はいいよな。悪人なら、こっちはあらかじめ逃《に》げ出すこともできる」
「それも極論だがね」
「父さん、僕、北川大学受けるのね、はっきり言うと、世の中の、藤原のおやじみたいな奴に反対するためなんだ。僕、今日はっきりわかった。学歴でしか物を考えられない人間に、僕は人間なんてそうでないことを、何年がかりかで、一人で抵抗《ていこう》してちゃんと見せてやる」
信子は太郎の顔をちらと見たが、何も言わなかった。
「入《いり》江《え》明光って詩人がいる。知ってるか?」
山本は言った。
「今日、久しぶりで、入江に会った。飲んべえだけど、いい奴だ。立派な詩《し》魂《こん》を持ってる奴だ。それも一筋縄《ひとすじなわ》ではない、ね。その入江に、お前が北川大学を受けるという話をした。そうしたら、あいつは反対だった」
「どうして?」
「入江は、北川大学へ講演をしに行ったことあるんだそうだ。その時初めてあの大学の構内へ入った。そして彼《かれ》の言うことには、あの大学には、去勢されたような顔つきをした学生がうろうろしてた。あんな大学はろくなとこじゃない」
「独断だよ! そんなことわかるもんか。構内を一度歩いたくらいで、そんなことわかる訳がないじゃないか」
太郎は心から怒《おこ》っていた。
「詩人とはそういうもんだ。詩人が理論で物を言うようになったら、それはもう、その才能は枯《こ》渇《かつ》している証拠《しょうこ》だ」
父親の言葉に押《お》されて、太郎は黙《だま》っていた。
「そうかも知れんな、と私は言った。北川大学ばかりじゃない。入江は今の大学を知らんからそう言うんだ。どこにも去勢されたような、本当に自分の目的を知らない学生がうろうろしてる」
「僕は決して決心を変えないよ。僕はひとが夢中《むちゅう》で行きたがるような大学なんか決して行かない」
「そう誰もが思うんだ。或る青年は、むずかしい試験に失敗するのがいやさに、わざとやさしい所を受験する」
「僕は違うよ! 一年浪人《ろうにん》すれば、大ていのところは何とかなると思う」
「まあいい。皆が行きたがり、しかもむずかしいから東京大学を受ける。それも一つの若気のあやまちだ。しかしそのような行《こう》為《い》がおろかしいから、藤原のおやじのようなものの考え方をする連中の鼻をあかすために、わざと別のところを受ける。それも一つの若気のあやまちだ」
「――――」
「どっちにしても、あやまちだ。つまり人間は、若気のあやまち以外の道を歩くことはできない、ということだろう。それがお前にわかっていさえすれば、それでいい」
「僕はね、何もかも考えてるよ。いつか話したじゃないか。東大以外は、大学じゃないと思ってる連中から、一生出身校のことで差別されるかも知れないってこと、そんなことも何もかも万事考えた上で僕は一人で、そういう常識に反抗するんだ」
太郎はそう言って唇《くちびる》を噛《か》んだ。涙《なみだ》が溢《あふ》れた。
「いいよ、太郎。革命をやろうとする人はね、一人で一生かけて静かにやるべきなのよ。たとえそれがささやかなもので一生やっても何の効果もでなくてもいいの」
母の信子が言うと、太郎はいたたまれなくなって、立ち上った。二階へかけ上り、襖《ふすま》を閉めた。ベッドの上にひっくり返り、寝《ね》巻《まき》で顔を拭《ふ》くと、しかし静かな夜の気配はあけられた窓ごしに聞えて来た。
「今日は、何人もお集まりでした?」
母の声が聞えた。
「ああ、七人ばかりいた。入江も年とってね、総義《そういれ》歯《ば》になったそうだ。しかもそれを旅にでる度《たび》に忘れるんでね」
「義歯は高いから、それは大変ね」
「いや、それで奥さんの発案で歯医者に、住所、氏名と電話番号を彫《ほ》り入れさせたんだそうだ。それ以来、忘れても、かならず出てくる」
「そりゃ、そうでしょう。あんなものこそ、置いて行かれたら、気味悪いばかりですものね。それより、今日お隣《となり》のおばあちゃんが教えて下さったんですけど、うちの梧桐《あおぎり》の枝《えだ》に、鳩《はと》が巣《す》を作ってるそうよ」
「へえ、ずいぶん落ちつかない所に作ったもんだね。あれは伝書鳩の野生化したもんじゃないか」
「さあ、もう雌《めす》が卵抱いて坐《すわ》ってるんですって。何日ぐらいで孵《かえ》るのかしら」
「さあ、僕は、動物、植物はほんとにわからん」
「日本茶もいれましょうか」
「そうだな。日本茶がいいな」
太郎はいつの間にか、鳩のことを考えていた。ヒナが孵ったら見たいと思っていた。イエバトとキジバトの違《ちが》いもわからないなんて、おやじもどうかしている、とも思った。
3
その翌日、太郎が家に帰ると、
「五月さんから電話がかかって来て、よかったらお店の方へ電話下さいってよ」
と母が言った。
「わかったよ」
すぐかけたかったのだが、わざとちょっとめんどうくさそうな表情をした。
「どうだった? 今日、学校で」
「藤原のことなんか、誰《だれ》もあんまり話題にもしないよ。あんなこと、分析《ぶんせき》してみりゃ、よくある話だもんね、今さらのことじゃないよ」
「騒《さわ》ぐのは週刊誌だけ、ってことかしらね」
「週刊誌だって、あんな話追っかけてるようじゃ、売れやしないよ。母さん、僕《ぼく》たち案外よくわかってんだよ。週刊誌なんてさ、ばからしくてデタラメなほど売れるんだからさ、なまじっか大まじめなこと書いたりしてると、アミダの沢なんかさア、《今週の週刊××は不真面目《ふまじめ》だ》なんて言ってるもんね。ガセネタ多くなきゃ売れないってことは、つまり買って読む人の方にもダマされたい気持があるってことなんだなあ……そういうこと、女の子なんてほんとにわからねえんだなあ。女性週刊誌に書いてあること、あれみんな本当のことだと思ってんだね」
それくらい喋《しゃべ》って余《よ》裕《ゆう》のあるところを見せてから、太郎はおもむろに電話機の方へ歩み寄った。
「コンニチハ」
太郎は、五月さんの声を聞くと言った。
「今日は遅番《おそばん》ですか」
「ええ」
「うちの梧桐《あおぎり》に鳩《はと》が巣《す》をつくったんだ。ヒナが孵《かえ》ったら見せてあげるよ」
太郎はわざとのんびりと言った。
「それどころじゃないわ。今日、静《しずか》ちゃんの葬式《そうしき》だったのよ」
「だろうね、そんな日どりになるもの」
「昨日の晩、静ちゃんのお父さんが田舎《いなか》から出て来て、お酒のんで、酔《よ》っ払《ぱら》って大変だったの。静が死んだから、今まで毎月三万円ずつ送って貰《もら》っていたのも貰えなくなったし、慰藉料《いしゃりょう》をとるまでは、藤原さんの家の玄関《げんかん》の前に坐《すわ》り込《こ》んでてやる、なんて言って……」
「へえ、そりゃ又《また》、威《い》勢《せい》がよくていいなあ」
「あなた、今夜は忙《いそが》しい」
「いや、いつでもヒマですよ」
「もしよかったら」
「店まで行きましょうか? 閉店直前に。僕もうまいコーヒー飲みたいから」
「そう? じゃ八時半に来て下さる?」
「いいですよ」
太郎は電話を切った。母の信子がすぐ後ろにいると思っていたのに、姿はなく、代りに、ダイニング・キッチンの方でざあざあ、水道の水を流す音がした。
「母さん、母さん僕、今夜は夜遊びに行くからね」
「そう?」
「母さん、僕が女の人と電話する時は、少しは盗《ぬす》み聞きしてさ、ムスコが不純性交遊をしないかどうか、気をつけなさいよ」
「モヤシを洗いあげておくのを忘れたからね。早く洗って乾《かわ》かしておかないと、水っぽくなるから」
「今晩なに?」
「豚肉《ぶたにく》とニラともやしいため」
「けっきょっきょ」
余ハ満足デアル、という意思表示の代りなのである。
「豚肉とニラともやし、か。それにとき芥子《がらし》だね。ゴマ油と。この組み合せを考えたのは中国人かな、母さん」
「そうでしょうよ」
「しかし天才だね。僕、ほんとに、その人、天才だと思うよ」
「どこへ夜遊びに行くの?」
母親に言われて、やっと太郎はほんの一瞬《いっしゅん》豚肉とニラともやしいための方に奪《うば》われていたのから、また五月さんの方に戻《もど》って来た。
「五月さんが、遅番で九時に終るっていうから、八時半までに《マウイ》へ行って、コーヒー一ぱい飲んで待ってるよ」
「コーヒー代あるの?」
「なければ出してくれる?」
「いいえ」
「それくらいはあるんだ」
「喫《きっ》茶《さ》店《てん》でコーヒー飲むの楽しい?」
「そりゃあね、青春だもんね」
太郎は、夜風に吹《ふ》かれて家を出た。靴《くつ》はアップシューズである。身が軽くて、風に浮き上りそうだった。
渋谷《しぶや》の雑踏《ざっとう》を歩いている時であった。彼は突然《とつぜん》、向うから歩いて来る二人連れの娘《むすめ》とはっと目が合った。
一人はハードルの板東《ばんどう》キヨ子でもう一人はハイジャンプの岩松恭子《いわまつきょうこ》で、二人とも代田高校の二年生である。
モデルやテレビ・タレントとつき合っている、と太郎が言ったのは、まさにこの二人のことなのだが、テレビ・タレントといっても、板東キヨ子がNHKの学校放送の常連だということである。眉《まゆ》の濃《こ》い日本的な顔立ちで成績も悪くないから、いつもきちんとNHK向きの答えをするのである。そこへ行くと、岩松恭子の方は多少ずっこけていてチョコレート会社の専属モデルになっている。
「やあ、どこへ行くの?」
太郎は言った。
「お友だちのうちでお誕生《たんじょう》祝いがあったの」
「今度の都の新人戦のエントリーした?」
太郎は尋《たず》ねた。
「したわよ。山本君は?」
「僕、まだしてない。いろいろとり込みがあってね。コーヒー飲もうか、と思ったけど」
太郎は誘《さそ》った。
「行きましょう」
岩松恭子が言った。
「だけど、まずいことがあるんだ」
太郎は言った。
「どうしたの?」
「僕、自分の分のお金しか持って来てないんだ。何せ月末なもんで」
「あら、そんなこと心配いらないわよね。ワリカンにすればいいもの」
「ごめんね。だけどいいやね。二人の方が僕と違《ちが》って稼《かせ》いでるんだから」
二人の女の子たちはけらけら笑った。
「どこの喫茶店へ行くの?」
「《マウイ》」
「そこがいいの?」
「そこで、ちょっと知り合いに会わなきゃいけないんだ」
「へえ」
三人は店の中に入った。
向うに五月さんの姿が見えたから、太郎は手をあげたが、五月さんは仕事があるらしく、一向にこちらへやって来なかった。店じまいまでにはまだ時間があるから、太郎たちは注文を聞きに来た別のウエイトレスにそれぞれ、コーヒーやレモネードを頼《たの》んだ。
「誰《だれ》とデートなの?」
「さあね」
太郎は五月さんが姿をあらわさないのを幸いに、にやにや笑っていた。
「女の人?」
「決ってるじゃない」
「じゃ、いじわるして帰るのよさない。ずっとついて行こうか」
「いいよ。別に」
「本当に帰らないわよ、私たち」
「いいよ、本当に一緒《いっしょ》に来いよ」
女の子がまわりにいっぱいいるということは、果物の大皿の中に坐っているような気がする、と太郎は思った。
第十三章 不安定
1
五《さ》月《つき》さんの姿は、遠くからちらと見えていたのだが、太郎たちのテーブルは、彼女の受持ではないと見えて、五月さんはなかなか近寄って来なかった。しかしその間に、太郎は、板東《ばんどう》キヨ子と岩松恭子《いわまつきょうこ》に、五月さんのことを白状させられてしまった。
「そうなの! じゃ、私たちついて来て悪かったじゃない?」
「いや、いいんだ。彼女《かのじょ》、終るまで、僕《ぼく》どっちみち待たなきゃいけないんだから」
「じゃあ、気の毒だから、終りまでお相手してあげるわね」
それで三人は、時間ぎりぎりまで喋《しゃべ》り、それから夜風の中に出たのであった。
「じゃあね」
太郎は二人に先へ帰ってもらうために手をあげて言った。
「ごゆっくり」
二人の娘《むすめ》たちは、細い肩《かた》を並《なら》べて帰って行った。
太郎は五分間ほど、店の前に立って待っていたが、やがて奥《おく》の方から出て来た五月さんを
見かけると、「こっち!」と手をあげた。
「どこへ行く?」
太郎は尋《たず》ねた。
「家へ帰るわ」
五月さんは事務的な口調で答えた。
「家へ帰るまでに話をしろっていうの?」
太郎は明らかにちょっと不服そうな顔をした。
「どこかで、お茶、のもうよ」
「今、飲んだでしょう」
「じゃ、どこかで何か食べよう」
太郎は食い下り、ようやく二人は「ホット・ドッグ、アメリカン・ドッグ、ハンバーガー」と書いた店に入った。父の山本正二郎《やまもとしょうじろう》が「何だね、アメリカ犬の焼肉を売っているんじゃあるまいな」と言った店である。
店はこの時間でもかなり混《こ》んでいたので、二人は丸い柱のまわりにとりつけたドーナツ型のテーブルに面した、高いスツールに並んで腰《こし》を下ろした。
「さっきの二人、お友達《ともだち》?」
「そう。一人がハードルで、もう一人がハイジャンプ。二人とも代田高校だけど」
「静ちゃんのこと、大変だったのよ」
五月さんは、やっと話を今日の本題に戻《もど》した。
「そうだったろうね。今日お葬式《そうしき》済んだんでしょ」
太郎は言った。
「済んだわ。あなたもお葬式に来てくれるかと思ったけど」
「僕? 僕は、行かないよ、あの人、初めから嫌《きら》いだもの」
「だけど、可《か》哀《わい》そうじゃない」
「どうして」
太郎は尋ねた。
「だって、あんなにして殺されてしまって」
五月さんは涙《なみだ》ぐんだ。
「殺されたって……死ぬのを承諾《しょうだく》したんだろ」
「いくら承諾したってよ」
「そうかな、僕は、ずっと、殺させられた方が可哀そうだと思うな」
太郎は言った。
「だって、藤原《ふじわら》さんは、生き残ったじゃないの。勇気がなくて、自分が死ぬ時には、手が鈍《にぶ》ったじゃないの」
「しかしね、人一人殺すのは大仕事だぜ。自分の時になったら、僕でも疲《つか》れ果てて腕《うで》が鈍ると思うね」
太郎は言ってから、しまった、と思った。太郎はいろいろなことを考えた挙《あげ》句《く》にこういう感慨《かんがい》を抱《いだ》いたわけなのだが、その過程を説明しないことには、無防備な無茶な論理だと言われても反発する方法がない。
果して、五月さんの顔色はまだらになった。
「静ちゃんは、藤原さんに同情したから死ぬことを承諾したんだと思うの。それなのに藤原さんが生き残っていると知ったら、あの世でどんなに怒《おこ》っているか知れないと思うわ」
「あの世なんてあるもんか」
太郎はそう言ってから、
「でも、さあ」
と、ごまかした。
「そりゃあ、藤原の兄さんは、自分をやる時に手がにぶったか知れないけど、これから、生きていくのに、あの人は大変だぜ。人一人殺したことは一生涯《いっしょうがい》つきまとうし、若い時にこんな事件を起せば世間は常識的だからさ、結婚にだって、就職にだって、きっとさしつかえると思うんだ」
「でも、藤原さんなんか、就職できなくったって、何ができなくたって、別に少しも困らないじゃない。うちにお金があるんですもの」
「そうかな、いくらお金があったって、一生好きな仕事も勉強もできないんだったら、その人は本当に不幸だと思うな。僕は藤原の兄弟は昔《むかし》から本当にそういう面で、かわいそうだと思っていたよ。だってあそこのうちは、子供達に好きな道を許さないんだからな。生きながら希望を取りあげられてるんだ。それはね、本当に、本当に無残なことなんだ、と僕は思うよ。女の人にはわからないかも知れないけど」
「でも、それは、言わば自《じ》業《ごう》自《じ》得《とく》なんじゃないかしら」
五月さんは、微笑《びしょう》してはいたが、つき放した感じが、にじみ出るような口調で言った。
「どうして? 藤原の兄さんはそれ程《ほど》悪い事したかな」
「違《ちが》うの。お父さんがそうなんでしょ。でもね、それはつまりあの人達の階級の体質の問題だと思うの。あの人達の階級がそういう人生の評価をしちゃうのよ。だからそれは、自分の考えの結果でそうなっただけでしょう。外から気の毒がることはないと思うの」
「お言葉を返すようですけど、僕は人間のことを、どの階級に所属してるかで、決めたくはないと思うんだ」
太郎が言うと、五月さんは、微笑を固定させたままだったが、その中には微《かす》かな侮《ぶ》蔑《べつ》の色が含《ふく》まれているように、太郎は感じた。
「僕は階級意識っていうの、決して否定しはしないんだよ」
太郎は五月さんにばかにされるのが悲しかったので、一生懸命《いっしょうけんめい》説明し始めた。
「人間が階級意識をさあ、全く持たないでやっていけると思ったら、それこそ大嘘《おおうそ》だよな。アメリカの黒人社会のこと書いた本読むとさ、とにかく彼らは黒人だっていうだけで、絶対きらわれているんだからな。理由も何もないのさ。虫が好かないみたいな嫌い方よね。だけど僕はそれわかったね。承認したというわけじゃないけど、嫌いだっていうものしようがないと思った。
だけど、日本の社会にはそんな階級というほどのものがあるだろうか。藤原のお父さんは会社のどんな役目の人か知らないけど、やっぱりサラリーで食っているんだし」
「でもね。意識が違うんだと思うの。自分だけは特別だっていう意識ね」
「それ持っちゃいけないかな」
太郎は聞き返した。
「私は嫌い」
五月さんは言い切った。
「その当人が思った通りのことを、他人も承認するかどうかは別としてさ、僕は、それのない人間はないと思うな。少なくとも、僕はその意識を持ちたいと思う。金や階級じゃない。何かでね……つまり、スポーツとか、学問とか、何でもいいけど、このことだけは自分は他《ほか》の人間よりちょっとばかり違うんだっていう意識は持ちたいね」
「スポーツや学問ならいいけど、あの人達には、自分達以外の人間は、人間でないみたいな物の考え方があるのよ」
「ふうん」
太郎は、「ハンバーガー」をほおばりながら考え込《こ》んだ。
「お金に不自由したことのない人には、本当の人生はわからないと思うの。本当の悲しみなんかわかりっこないと思うわ」
「それも一種の階級意識だな」
太郎はできるだけ穏《おだ》やかに言ったつもりだったが、五月さんは、その言葉に、少したじろいだように見えた。しかし、そのままには引きさがらずに、五月さんは続けて言った。
「でもこんなこと、山本君にもわからないと思うの」
「どうして?」
「だって、山本君だって、お金の苦労したことないでしょ」
「そりゃあ、まあね」
「山本君のうちなんかも、やっぱり、現代では、ブルジョアだと思うの」
「ちょっと、待ってよ。僕ねえ、ブルジョアっていうのよくわかんないんだけど、働かずに利子で暮《くら》している人のことだって聞いているんだよ。だけど、うちの親たち二人は、まあだらだらだけど、二人とも働いているしさ。親《おや》爺《じ》は手の骨が、変形しちゃってる。それ程字を書いているとは思えないんだけどね。おふくろの方は、これは腰掛《こしかけ》だこ。それもすごいやつ。女が綺《き》麗《れい》だとか、ロマンチックだとか、優《やさ》しいだとか、そういう観念をいっさい吹《ふき》飛《と》ばすようなすさまじいやつ。まあ坐《すわ》って煎餅《せんべい》食べてるうちにだって、坐りだこは大きくなるんだけどね。とにかく二人は働いて食っているから労働者ですよ。うちでね、働かないで食っているブルジョアは僕だけ」
「そういう意味じゃないのよ。まあ、山本君なんか幸せだから、世の中の暗い面なんてわかんないでしょうけどね」
太郎は胸の中に熱いものを感じた。それでも彼は、まだ五月さんを怒らせたくはなかった。
「そうね。僕は、幸せだな」
太郎がそう言うと、五月さんは、満足したように笑った。
2
五月さんは、何故《なぜ》あんなに人のことを簡単に幸せだとか、不幸せだとか決めるのだろうか。太郎は、その日から、悶々《もんもん》と考え続けた。五月さんはいつからあんなに単純な考え方をするようになってしまったのだろうか。あなたは幸せだから、という言葉を太郎は、時々思い出した。五月さんは、あんなに、階級意識はいけないと言っているくせに、人間というもののとらえ方を、そもそも間《ま》違《ちが》ってしまっているのではないか、と太郎は思う。五月さんの論理には、明確な一つの間違いがある。それは、幸福な人間が、この世にいるという概念《がいねん》である。それは女独特のものの考え方なのだろうか。とすれば太郎はそれを非難することはできないと思う。しかし、ブルジョアには人間の悲しみがわからない、と言ったり、よく知りもしない相手のことを誰《だれ》それは不幸で、誰それは幸せだというような荒《あら》っぽい人間のとらえ方しかできないとしたら――そしてそれが、女の特性とするならば――正直なところ、女とは、人間ではない。
「お父さん、僕《ぼく》は、もしかすると結婚なんてしないかも知れないよ」
太郎は、ある日曜の朝、父親に言った。
「したくなきゃあ、しなきゃいいさ。でも何故さ」
「女なんてくだらなさすぎるよ。お父さんは、僕くらいの時から、ちゃんと結婚するだろうと思ってた?」
「思わなかったね」
山本正二郎は、パンにチーズをのせて、かぶりつきながら言った。
「ちょうど高等学校の時、煙草《たばこ》の空箱《あきばこ》に、『僕は将来とも決して結婚しません』という誓約書《せいやくしょ》を友だちに書いた」
「それが、どうして結婚することになっちゃったのさ」
「そうだな。つまり、飽《あ》きたのさ。一人でいることに。人間何にでも飽きるからな。それと一生一人でいようが、いなかろうが、つまりたいしたことはできないってことがわかってきたんだ。いつか、農学部の遺伝を研究している先生に会ったんだがね、日本で稲《いね》の品種改良の研究をしようと思っても、自分が生きている間に本当にいくらもできないんだってさ。そらあ、そうだね。三十歳《さい》から毎年実験をやりつづけたとしても六十までに、三十回、代を重ねることができるだけなんだ」
「僕だってそうだと思うよ。二十代の終りから、やっと少し学者の卵として、使い物になったとしてもさ、何年がかりの調査を一生にいくつできるかと思うと、知れたもんだよな」
「まあ、それだけわかっていればいいだろうけど、とにかく、実にくだらんことで結婚するんだ。ことに、私達《たち》の時代は食べ物のない時だからね。女の人の家で、めしを一回食わしてもらうと、もうただ逃《にげ》げ出すのは悪いような気になるんだ。あの頃《ころ》は、皆、餌《えさ》でつられたもんだ」
「今だってそうだよ。金子なんて料亭《りょうてい》の息《むす》子《こ》なんだぜ。それなのに金子が好きな女の子がさ、自分で作った弁当を持ってきたんだ。そしたら、とてもまずかったんだってさ。金子はいつもうまい幕《まく》の内《うち》弁当ばっかり持って来るのさ。ところが、その女の子が作った弁当ったら、ぐじゃぐじゃなんだって。だけど、なまじっかいつもいいものばかり食べてるだけにそういう時悪いから、つい食べちゃうでしょう。そしたらなんだか、ひどく、借りができたような気がするんだって」
「おや?」
山本正二郎は、急に桐《きり》の木の方を見上げた。
「鳩《はと》の卵がかえったらしいよ」
「望遠鏡を持って来る!」
太郎はそう言ってかけ出した。山本一家には覗《のぞ》き見の趣《しゅ》味《み》があるから、船の船長が持つような大きな望遠鏡をいつでも出せるように釘《くぎ》にかけてあるのである。山本正二郎は旅に出る時、カメラは持っていかないが、必ずこの望遠鏡を持参する。いつの間にか太郎もそれを見習うようになり、望遠鏡は京都や奈良の古い寺の美術的な細部を見るのにかくべからざるものだと思うようになった。
太郎は望遠鏡を父親に渡《わた》した。そして山本正二郎が、ねらいをつけて梧桐《あおぎり》のてっぺんに近い葉の茂《しげ》みをねらっていると、脇《わき》から、
「どう、どんな子がいる?」
と尋《たず》ねた。
「見てみろ、ひどい器量だ」
山本は言いながら望遠鏡を息子に返してよこした。
「うへえ、すごい顔だな。こいつはみっともねえや」
太郎も言った。雛《ひな》は結構大きかったが、赤っぽい地《じ》肌《はだ》の上に、枯《か》れ枝《えだ》をさしたように、ちょぼちょぼにうす汚《ぎた》ない毛が生えかけていた。
「母さん。ちょっと見てみろよ」
太郎は言いかけて振《ふ》り向き、母の信《のぶ》子《こ》が食《しょく》卓《たく》にいないのを発見した。
「おや、どうしたんだろう」
太郎は呟《つぶや》いてから「母さん、母さん」とどなった。その呼びかけには答えがなかったが、しばらくして、信子が、ダイニング・キッチンの方から力なく出て来る姿が見えた。
「どうしたんだね」
山本正二郎は尋ねた。
「この頃、何か食べようとすると胸が悪くて」
信子は言った。そう言えば、彼女は、紅茶を一杯《ぱい》飲んだだけで、トーストも卵も何も食ベてはいないのだった。
「いつ頃からそうなのかね?」
山本はさらに尋ねた。
「半月くらい前に、ちょっとそういうことあったんですけど、ラーメンの油にあたったんだろうと思って気にしなかったのよ」
「医者に行ってきたらどうだね」
「そうね。私も年頃が悪いですからね」
信子はつとめてさりげなく言った。
「とにかく、明日病院に行きなさい」
山本は命令するように言った。
「そうね。今みたいにはっきり、吐《は》き気があったのは、初めてだから」
太郎は、「悪阻《つわり》じゃないの」とふざけようとして、さすがに黙《だま》っていた。三人はそれ以上もう、その事にはふれず、太郎は目玉焼きの黄身がさらに広がったのをきれいにパンにつけて、こすりとるようにして食べてしまったが、世界がちょっと揺《ゆ》れたような気がした。
「パチンコに行ってくらあ」
太郎は、母親に言った。
「パチンコに行って、問題集取ってくるもんね」
「パチンコ屋で問題集まで景品出してるの」
「何にも知らないんだなあ」
太郎は、実は一人になりたかったのだった。ここのところ、なんとなく胸の中が重苦しいように感じられるのは、いろいろなことが一挙に起きてきて、それに対して自分が完全な処置をとれないという実感があるからである。例《たと》えば五月さんの、ああいう反応に対して太郎はどう解釈したら自分に対しても、五月さんに対しても誠実《せいじつ》でありうるのか。五月さんの考え方を変えさせようと太郎は思っているのではない。しかし五月さんの解釈の仕方に太郎はどうしてもついていけない。いささか「短絡《たんらく》」的な言い方になるが、一生人間の暮《くら》しというのは、こういう風に、ぎつばた《・・・・》して生きることなのかなあ、と思うと、うんざりしないでもないが、そんなことにまた、女々《めめ》しくなるというのも、なんともいただけない自分の精神構造だと思う。世の中とはまさに偏見《へんけん》と、独断に満ち満ちたところであって、それに、いちいち、怖《お》じ恐《おそ》れていては、生きていられないのである。
太郎は、小《こ》銭《ぜに》入《い》れを握《にぎ》って、玄関《げんかん》を出た。都会の冬の日ざしは、乾《かわ》いていて、悪くない。ふとおふくろが死んだらどうなるかなあ、と太郎は考えた。いつか、自分は親が死んでも、たぶん、泣かないのではないかと言ったことがある。その気持は今も変らない。しかし、おふくろのいない後の生活を考えると、ちょっとうんざりした。親《おや》爺《じ》と自分とが、毎日台所へ出て、何かを作らねばならないからである。食事が終ると、親爺は一人でおふくろの裁縫箱《さいほうばこ》などを持ち出して、ワイシャツのボタンのとれたのをくっつけようなどとしている。それが見ていてもあまりうまくいかない。それでつい、小学校の時から、家庭科が点は悪くても嫌《きら》いではなかった太郎が、出動することになる。親爺のワイシャツのボタンをつけてから、ついでに自分の靴下《くつした》の破れをつくろおうと思うが、それは面倒《めんどう》くさいので靴下の方は、ついそのまま屑籠《くずかご》の中につっこんでしまう。
おふくろがいるうちだったら、太郎は、ちょっとでも爪先《つまさき》が破れたら、もうその靴下は捨てるのが逆に当り前だと思っているのである。何故なら、おふくろは、しじゅう、書き物に忙《いそが》しくて、息子の靴下をつくろっている暇《ひま》などないから、同じ色の安物を、半ダース単位ぐらいで買って来ておいて、「破れたら捨てなさいよ」などとすましているのである。それが、おふくろがいなくなると、とたんに何となくそれでは恰好《かっこう》がつかないような気分になってくる。
しかしおふくろはちっとも痩《や》せていないからなあ、と太郎は思う。あんなに顎《あご》やおなかに肉がついて癌《がん》ということもあるまい。
太郎はパチンコ屋に入り、結局は、二百円をすってしまった。あっさり負けたのならまだしも時間の経済だが、一時間もかかって、あげくの果てに、こういう成り行きである。パチンコで問題集を安く手に入れよう、などという根性が、そもそも、さもしいのだが、こうして、その結果をつきつけられてみると、またなんとなく、自己《じこ》嫌《けん》悪《お》にかられて来る。勉強する気もなく、遊んでも面白《おもしろ》くない。どこへも行きたくなく、さりとて、うちへ帰りたくもない。
太郎は近くの公衆電話から黒谷久《くろたにひさ》男《お》を呼び出した。
「今、暇?」
太郎は言った。
「いや、忙しいよ」
黒谷は、すげない言い方をした。
「じゃあ、またにすらあ」
「青山さんと、その婚約者の人と、三人で今『神経衰弱《すいじゃく》』やってるんだ」
「婚約したの、二人は」
「まあな」
その声には俺《おれ》がまとめたんだ、という黒谷のちょっとしたきおいが感じられた。
「よかったら君もおいでよ」
黒谷は太郎を誘《さそ》った。
「うん、そうしようか」
太郎はバスを二駅乗り、間もなく黒谷の家に着いた。青山さんは婚約者が決ったので、すっかり心理的に落ち着いてしまったらしく、くわえ煙草《たばこ》でトランプをくばりながら、
「やあ、君か、こっちへ入れよ」
などと、自分の家のような言い方をしていた。それから太郎は例の犬の美容師をしているという小《こ》菅麗《すげれい》子《こ》さんという人に、改めて紹介された。
「やっと結婚を承諾《しょうだく》してもらったんだからさあ、あんまり、旧悪を言うなよ」
青山さんは太郎に注意した。
「そう言われると言いたくなってくるなあ」
「そんなに旧悪があるの」
小菅さんは、尋ねた。
「そうなんですよ。いつか、青山さんと二人で三浦半島へ行ってさ……」
太郎がそこまで言いかけると、青山さんはちょっと顔色を変えた。
「青山さんと二人で海の中泳いで行ったら、漁船がつないであってさ。そこへ休みに上ったんだよな。そしたら女の子が三人いたもんだから、青山さんと二人して、何となく気を引いてみたんだよな。それなのに、向うは、気がついてて見ない振りなんかしちゃってさ」
「僕はあんなのに興味なかったぞ。うろちょろしてたのは太郎だけじゃないか」
「そうかなあ」
「私達に、旧悪なんてないと思うわ。青山さんだって、あたしだって一生懸命失恋《いっしょうけんめいしつれん》してきたんですもの」
小菅さんは言った。
「一生懸命失恋したってことはいいことだね」
太郎は言った。
「青山さんだって、私の前に会った人に一生懸命誠実にしてたんだし、私なんか相手が世帯持ちだったから好きだなんてことは顔にも出さなかったの。今時ばかだって皆に言われたけど、ばかなことしてきたからこそ、こんなこと青山さんの前で言えるのよね」
青山さんは、内心嬉《うれ》しくてしようがないのに、男の威《い》厳《げん》の見せどころと思ったのか、まだくわえ煙草でしかめつらをしていた。それから徐《おもむ》ろに煙草を口から離《はな》し、
「おい、久ちゃん、お茶をいれようや」
と、催促《さいそく》した。
「あら、お茶なら私がいれるわ」
小菅さんが言った。
「いいよ、いいよ、僕がいれるよ。勝負はまだついていないんだろうから」
太郎が言いながら立ち上った。
「悪いねえ。お菓子《かし》は、小菅さんが持って来てくれたのがあるんだ」
黒谷は、少しもすまないとは思っていない口調で言った。太郎は、水の量をよく考えて、薬《や》缶《かん》を火にかけた。細長い老舗《しにせ》のものらしい包紙《つつみがみ》をかけた菓子折が冷蔵庫の上にのっかっていた。開けてみると、中には、上等な桜餅《さくらもち》が入っていた。
「うわあ。桜餅だ。だけどこんな冬まで桜の葉っぱをどうやってとっておくんだろう」
三人は、勝負に夢中になっていて太郎の問いには答えなかった。太郎は目の前のガラス棚《だな》から小《こ》皿《ざら》を四枚出し、一つずつ桜餅をつけた。それから、そのうちの一つの皿を取り上げて匂《にお》いをかいでみた。春から保存してあったにしては、いい香《かお》りだった。
「芳《ほう》香《か》族《ぞく》化合物だ。 、ベンゾイル基だ」
太郎は呟《つぶや》いた。菓子の中に、人工的な匂いがつけてあるなと考えていた。
「何言ってるの?」
小菅さんは聞きとがめた。
「いや、いい香りだって言ったんです」
太郎は重い心で答えた。
3
翌日、太郎は、家を出る時、
「今日は病院へ行く?」
と母の信子に尋《たず》ねた。
「今日は、いいような気がするんだけど」
「行って来《こ》いよ」
「そうするわ。めんどうだけどね」
「恐《おそ》らく何でもないよ」
「そう思うわ」
「多分、精神的なもんだよ」
「それほど仕事多くないけどね」
「こないだ、小平《こだいら》の叔母《おば》さんが来て、このうちは、家《うち》ん中が汚《きた》ない、って言ったろ。あれを母さん気にしてるんじゃない?」
小平の叔母さんというのは、典型的な社交マダム風の、父の末妹であった。
「そんなこと、この年になって気にするもんですか」
「まあ、それほどデリケートじゃあないと思うけどね」
太郎は、母の信子が父方の係累《けいるい》にけっこう悩《なや》まされていることを知っていた。父は次男なのだが、長男が死んだので、跡《あと》つぎ同様の気分になっているし、おまけに、父の姉妹が上下に五人もいて、それぞれ気のいい人たちなのに、けっこう口煩《くちうるさ》いのである。彼女たちは、皆、まっとうなサラリーマンの女房《にょうぼう》たちで、堅実《けんじつ》に、家事に専念しているので、母の信子のように内職をする女などというのは、何となくうさんくさく感じているのである。一週間程《ほど》前にも、叔母の一人が来て、「ここのうちに来ると、何となく埃《ほこり》っぽいから、私、喉《のど》が悪くなるのよ」
というようなことを冗談《じょうだん》めかして言い、母の信子はそれに対して、
「すみませんねえ、うがいのお水つくりましょうか」
などと応じていたが、内心では、やはり、この年になっても、小姑《こじゅうと》からこんなことを言われなければいけないかと、うんざりしていたかも知れないのである。
太郎は、そういう反応が不満だった。どんな生き方をしたって、めいめいの勝手だと思う。ひとに迷惑《めいわく》をかけさえしなきゃ、家中が埃だらけだって、一向に構わないと思う。家の中も綺《き》麗《れい》にして勉強の時間も作る、というのはどこかに嘘《うそ》がある。遊べば勉強時間が減るように、母が仕事をすれば、家事は当然おざなりになるのである。それをひとに言われたからと言って気にする、というのは、つまり他人にいい子に思われたいからに他《ほか》ならないのであって、自信のある行《こう》為《い》とは言い難《がた》い。
太郎は、セーターのまま制服の上着を持っ《・・》て《・》家を出た。生徒規則には「登校時に制服着用のこと」と書いてある。太郎はその文章をねじまげて考える。校門を入る時だけ、上着を着るのである。校門を一歩入れば、もう脱《ぬ》いでもかまわない。制服を制定すべきかどうかについて、時々生徒会で議論がおきるが、制度をすべてやめても、学校の生徒であるという束縛《そくばく》は束縛として残るのだし、規則があっても、それをかいくぐるという方法もあるのだと思う。規則をかいくぐるのがいいことだと思っている訳ではないが、すぐめくじらたてて反対したり怒《おこ》ったりするよりも、冷静に考えて、よくあたりを見《み》廻《まわ》せば、案外息《いき》抜《ぬ》きの穴のあいていることもあるのである。
太郎が校庭を横切って建物に入りかけようとした時であった。
一年生の女子生徒の一人が、待っていたように太郎の方へ寄って来た。
「山本さん」
「なあに」
相手の顔は知っているが、名前には記《き》憶《おく》がなかった。
「あのこれ……」
小さなリボンをかけた箱《はこ》があった。
「なあに?」
「また、近々試合あるんでしょう?」
「うん」
「これね、山本さんが試合に勝つようにと思って……」
「僕にくれるの」
「そう」
「だけど、そんなもの貰《もら》っちゃ悪いよ」
「いいの。ちょっとバザーで見つけただけなんですから」
「そう、どうもありがとう」
あまり長く立ち話をしている時間もなかったので、太郎はそれをポケットに入れて歩き出した。
どうやら、これはちょっとほんわかとする贈《おく》り物であった。太郎は教室へ入ると、箱を開けてみた。一年一組「小《こ》島雪《じまゆき》枝《え》」というのが贈《おく》り主の名である。革細《かわざい》工《く》の縞馬《しまうま》で、「この姿は山本君に似ています」という札を首からぶら下げている。
太郎はそれを、またもと通り、箱にしまった。それから、にやにやしないように気をつけて校庭へ出て行った。太郎はもう、完全に母の病気のことなど忘れていた。この数日の間の不愉《ふゆ》快《かい》なことも忘れていた。太郎は陸上の仲間の顔が見えると、手を挙《あ》げてそちらに向って歩き出した。
第十四章 そして誰《だれ》もいなくなった
1
一年生の小《こ》島雪《じまゆき》枝《え》のくれた縞馬《しまうま》には、緑色のビーズの目玉がついていて、それがおもしろいことに、どちらから見ても、太郎の方をじっと見ているように見える。
あれ以来、五《さ》月《つき》さんからは、何の音《おと》沙汰《さた》もない。あの時、話し合ったことで五月さんは怒《おこ》っているのかと思う。あれはあれとして、太郎は五月さんに会いたいと思う。しかし、多少とも、拒否《きょひ》的な態度をとっている五月さんに、こちらから、曲げてつき合って下さいというのもいやだ。
この縞馬は、今、この、うっとうしい、宙《ちゅう》ぶらりんの太郎の生活をじっと見つめているように思う。どうして、青春というのは、こうも腹だたしく、すべてが未来型に不安定なのだろう。青春が輝《かがや》いたものだ、などと書けるのは、それだけで、その人が、既《すで》に青春を終った人である証拠《しょうこ》ではないかと思う。
縞馬の贈《おく》り主である小島雪枝は、新人戦の前日になって、又《また》もや、こっそりと手製のハチマキをプレゼントしてくれたのであった。それは、緑や黄、オレンジ等のサラセン模《も》様《よう》の、女物のスカーフをちょん切って、自分で縫《ぬ》ったものであった。
「山本さん、ハチマキに煩《うるさ》いって聞いたから」
「煩いわけでもないけど」
とは言ったものの、本当は煩いのであった。
山本太郎は、家へ帰ってから、そのハチマキの長さを測ってみた。きっかり一米《メートル》あった。それが胸に快い衝撃《しょうげき》を与えた。理由はないのだが、山本太郎は、一米きっかりという折り目正しい長さが、ハチマキとしては好きなのである。
太郎は、試合の当日、そのハチマキを締《し》めた。曇《くも》り日で無風であった。自分ではわからないが、恐《おそ》らくそのどんよりしたグラウンドに、太郎のハチマキは、燃えるような原始的な色彩を見せて映《は》えたに違《ちが》いない。そんな突《とっ》拍子《ぴょうし》もないハチマキを、自分で作るバカはいないから、それは、女の子から贈ってもらったものだ、ということは一目瞭然《いちもくりょうぜん》であった。それがいけなかったのだ。
太郎は何となく、代田高校の岩松恭子《いわまつきょうこ》か板《ばん》東《どう》キヨ子かどちらかが、スターティング・ブロックを打つ手伝いをしてくれそうに思っていたのだが、二百米の決勝のコールがかけられて集まってみると、岩松恭子が同じ代田の福留隆一《ふくとめりゅういち》のスターティング・ブロックを持って出て来たのが見えてしまったのである。二人は同じ代赭色《たいしゃいろ》のトレーニング・スーツを着て、これ見よがしにぺちゃぺちゃ喋《しゃべ》っている。岩松恭子は一度、明らかに太郎の方を見たのだが、すいと視線をジャンプさせてしまった。
太郎は全くやる気をなくしてしまった。ハチマキのことは、確かに、《オレはもてているのだぞ》という暗黙《あんもく》の示威《しい》運動ではあったが、それだからと言って、こうも急に、冷たく袖《そで》にされるとは思わなかったのだ。太郎は仕方なく自分でスターティング・ブロックを打ち始め、ふと気がついてみると、左右を逆に打っていた。
そんなこともあって二百米は六位で、二三秒〇であった。初めから、これは本気で走る種目ではないのだから、と思っていたが、これはどうみても、あまり香《かん》ばしい成績でなかった。
今年の試合も、これで終りか、と太郎は思った。この程度の成績で終るのは何としても虚《むな》しかった。
太郎は百米に賭《か》けた。《鬼《おに》のように》なったのである。女などには目もくれないことにした。するとその気分がきっちり決って、悪い成績ではなかった。二位で一一秒一である。席へ戻《もど》りながら、これで、日本高校百傑《ひゃっけつ》にぎりぎりのところで入れるかなあと考えた。日本の高校生の百人の中の一人に入れるかも知れないと考えると、胸《むね》の奥《おく》に、熱い塊《かたまり》のようなものがぶすぶす燃えて来る。
それで――ということはないが、太郎は帰りに、例の代田高校の女の子たち二人のうちどちらかが、まだ待っていてくれるかも知れないと最後の期待をかけていたのだが、ふと気がつくと、二人とも代田の連中と帰ってしまっていて、ベンチはモヌケのからであった。
やがて、雨もぽつぽつ降って来た。日本高校百傑の実感も、考えてみれば空《むな》しいような気もして来る。例のハチマキはボストン・バッグにしまい、太郎は仲間と談笑《だんしょう》しながら帰《き》途《と》についたのだが、喋ったり笑ったりするほどに、何だか気は重くなって来た。岩松にも板東にも、どうも完全にふられたらしい。ハチマキ一本で、これほど強烈な反応を示すなんて、女というのは、実にバカなものだと太郎は自分のしたことは棚《たな》に上げて腹を立てていた。
駅前まで来ると、砲丸《ほうがん》の井上が、
「おい、ちょっと、お茶飲んで行かないか」
と誘《さそ》った。
「飲んでも悪かないけど」
太郎はしかし、例によって試合直後は何も食欲はなかった。
「ちょっと寄ろうよ。おれ、煙草《たばこ》吸《す》いたくなった」
太郎たち四人は駅前の《ヨガ》という喫《きっ》茶《さ》店《てん》に入った。体重九十キロの井上は、サンドイッチと紅茶を注文し、他の二人もチョコレート・サンデーや、ケーキと紅茶などを注文した。
「山本、お前は?」
井上が尋《たず》ねた。
「レモン・スカッシュ」
本当に何も飲みたくはないのだが、つきあいが一つと、井上には前に貸しがあるので、この辺で、とり返しておいてもいいと思ったのである。
井上はうまそうに煙草に火をつけた。トレーニング・スーツを着ていると、社会人に見えるな、と太郎は思った。
「煙草はうちでも吸うの?」
太郎は尋ねた。
「いや、あまり吸わない」
「隠《かく》してるの?」
「隠してるわけじゃないけど、それほど普《ふ》段《だん》吸いたくないから。今日は、二週間くらい禁《きん》煙《えん》してたあとだからちょっと吸いたいけど」
「うちは、おやじとおふくろが、酒を飲ますよ」
太郎は言った。
「もっとも、親子三人でビール一本だからな。かわいいもんだけど」
酒や煙草をなぜ、目の敵《かたき》にする親がいるのだろう、と太郎は思う。それは、子供たちに、それらをおいしく思わせるためだろうか。それならよくわかる。隠れて飲む酒は、大っぴらに口にする酒よりうまいに違いない。しかし、うっかりそれらを厳禁すれば、若い者は、必要以上にそれらを甘《かん》美《び》なものと思ってしまうではないか。井上に目の前でこうして明らさまにすぱすぱやられると、太郎自身、煙草など煙《けむ》いばかりだと、実感をもって思うのである。
「そう言えば、山本、昨日、お前の五月さんに会ったよ」
槍《やり》投《な》げの三本が言った。《お前の》ということはない、と思ったが、太郎は、
「へえ、どこで?」
と尋ねた。
「電車の中で」
「ふうん」
「祖父江《そふえ》正《ただし》と立ってた。電車が混《こ》んでたから、二人はこう、何というかなあ、わりと寄りそって立っておった……」
「へえ」
「どうなってんの? あの深刻な二人」
「知んねえ」
太郎は言った。それから、井上の前に運ばれて来たサンドイッチの皿《さら》から、素早く酢漬《すづ》けの胡瓜《きゅうり》の小さな一切れをかっ払《ぱら》って口に入れた。
2
翌朝、やっと母が病院へ行くことになった。
もっと早く行けばいいのに、ちょっと具合のいい日があると、よくなりかけたようだと言っては延期し、又《また》様子が悪くなると、病院へ行くなら、紹介をして貰《もら》ってから、と凡《およ》そ優柔《ゆうじゅう》不《ふ》断《だん》な反応《はんのう》を示して、だらだらと日が経ってから、やっと信《のぶ》子《こ》は腰《こし》をあげたのだった。
「悪くない、となったら、安心して暴飲暴食しろよ。いつまでもお粥《かゆ》なんか食べ続けてたら、悪くない胃《い》でもおかしくなっちまうよ」
太郎は言い、母は、
「わかってる、わかってる」
と言った。だからその日、太郎が、出がけに母に、
「じゃあな」
と言ったのは《本当に行って来《こ》いよ》という意味を含《ふく》んでいたのだった。世話をやかせる、と太郎は思った。親から見れば、子供が《・・・》世話をやかせるのだと思っているのだろうが、世間的に見たら、親に手をやく子供だってけっこういるのである。それにじっと耐《た》えて、つまり「大人《おとな》気《げ》」を出しているのが、子供というものなのだ。
試合の翌日は、調整練習がある。
放課後、太郎は服を着換《きが》えてグラウンドに出た。ふと、おふくろの奴《やつ》、もう病院から帰って来たかな、と思った。電話をかけてみようか、と思わないではなかったが、それはほんの一瞬《いっしゅん》だけで、太郎はそういう想念を頭の中から追い払《はら》った。電話一本かけてもかけなくても、事実は何ら変化を起すというものでもない。
練習のあいまに、太郎は背後から声をかけられた。
「山本さん!」
小島雪枝だった。
「昨日、成績よかったんですって」
「ああ、ありがとう。二百は何だか投げちゃったけど、百はわりとうまくいった。君のくれたマスコットのおかげだよ」
「そんなことはないけど。実は、ちょっと相談したいことがあるんです」
「なあに」
太郎の中に、女の身上相談にのったら、後が大変だ、という気分と、そう言った雰《ふん》囲気《いき》を楽しみたい、という気分とが重なり合ったのだが、結局のところ、その誘惑《ゆうわく》には勝てなかった。それに、マスコットやハチマキを貰ってしまった以上、その義理がある、と太郎は考えた。
「実はね、私、今、茶《さ》道《どう》部《ぶ》にいるんですけど、何となく、あそこの雰囲気と合わないんです」
「そう? 僕は、わりと嫌《きら》いじゃないけどね」
「そうですか? 私、お父さんやお母さんが茶道部がいいんじゃないかと言ったから、入ったんですけれど、もう少し、体動かすことが好きなんです。ですから、もし、陸上に入れて貰えたら、入りたいんですけど……只《ただ》、私才能がないから……」
「才能があるかないかはわからないけど……やめた方がいいんじゃないかな?」
「どうしてですか?」
「もし、君の言う通り、本当に才能ないとするだろう」
太郎は小島雪枝の顔をしみじみと見た。かわいい眼《め》と唇《くちびる》をしているが、鼻の先が妙《みょう》に丸まっちいのが玉に傷《きず》だ。しかし肌《はだ》はおおむね白くてよろしい、と言っても、白い肌は太郎の趣《しゅ》味《み》ではない。
「もし、才能がないとしたら、いつも試合で負けてなきゃいけない。負けっ放しの試合にばかりでることは、つまらないよ」
「だけど、スポーツは参加することに意義があるんでしょう?」
「ああいう言葉は、ギ、ゼ、ン!」
太郎は言った。
「下手《へた》の横好き、ならいいよ。でも意義なんてものを求めるんだったら、勝たなきゃ」
ああ、オレは又余計なことを言ってしまった、と太郎は思った。
「もし、君が実は才能があるんで、どんどん強くなるとする。そうすると試合には勝つだろうけど、スタイルが悪くなるから、まずまあ、おすすめしないね」
「そうですか。スタイルはもともと悪いから」
小島雪枝は小声で言った。
「それが、今よりもっと悪くなるからさ。そうなると大変だろ」
言ってから、太郎はしまった、と思った。《今はきれいだから、スポーツなんかするなよ》と言えばよかったのだ。それをこんな言い方したら、いかにも小島雪枝が不《ぶ》恰好《かっこう》だということを、肯定《こうてい》したみたいに聞える。雪枝は決してみっともない娘《むすめ》ではないのだが、それでも、カモシカの如《ごと》く、或《ある》いは野《の》菊《ぎく》の如くスラリとしているという訳にはいかない。
果して小島雪枝は多少、ショックを受けたらしく、
「じゃ、少し考えてみます」
と言った。
山本太郎は暗くなってから家へ帰った。
玄関《げんかん》でつぶれたコッペパンのような靴《くつ》を乱《らん》暴《ぼう》に脱《ぬ》ぎ捨て、
「母さん、母さん!」
と呼びかけながらダイニング・キッチンへ入って行った。
「どうだった?」
母は後ろ向きになって、ミートローフをこね上げていた。
「何でもなかったらしいよ。レントゲンを撮《と》ったけどね。神経性の胃《い》炎《えん》らしいよ」
「そう、よかったね」
太郎は母の背中をどんと叩《たた》きながら、《こっちも心配してやったんだから、ちったあ、よかったって顔しろよ》と思った。
「安心したら、気分よくなったでしょう」
「そうね、こんなもの作ろうという気になったからね」
「たすかったよ。長い間、うちのまかない悪かったもんね」
太郎は言ってから、ふと、外食や、できあいのおかずも、決してまずいもんじゃないぞ、と思った。これから、いつもいつも、がっちりうちで作ったもの食わせられたら、えらい災難だ、とも思った。
その夜、母は久しぶりで、他《ほか》の家族と同じものを食べた。
「何、食べたっていいんでしょう?」
太郎は尋《たず》ねた。
「食べたいものを食べていい、って言われたわ」
「じゃ、今度、一度どこかへ食事に行くか」
父はひっつぶれたような笑い顔を見せて言った。
「そうね、ずいぶんそういうことしなかったわね」
「久しぶりで、《若菜》へでも行くか」
《若菜》というのは、父の知人の知人だという女の人が、文京区の音《おと》羽《わ》町でやっている西洋料理屋であった。その人は、いわゆる土地持ちのいい家のお嬢《じょう》さんで、パリへフランス文学の勉強に行ったのだが、もともと食いしん坊なので、食べ歩きや、自分でも料理を習いに行ったりしているうちに、とうとうフランス人のコックを連れて帰って来て、遺産として残された自分の敷《しき》地《ち》にビルを建て、その地階に、《若菜》というレストランを開いてしまったのであった。
太郎は、《若菜》へは、一度しか連れて行ってもらったことがなかった。こんな静かないわゆるお邸町《やしきまち》みたいなところにレストランなど建てて、よく流行《はや》っていると思うが、けっこう客は入っている。駐車場《ちゅうしゃじょう》がきちんとしているのと、おいしいものを折り目正しくしつらえた場所で食べさせれば、必ずはやるという証拠《しょうこ》のようなものである。
太郎は、本当のことを言うと、西洋料理のレストランへ行くよりは、朝鮮風焼肉の方が好きなのだが、おふくろはフランス料理がこの世で一番おいしいということを、幼い時の外国生活以来、信じているし、ごくたまにレストランへ行く、ということは、父親の方針でもあるので、しぶしぶ承諾《しょうだく》した。
果して、約束《やくそく》の土曜日には、太郎は背広を出し、ネクタイを締《し》めねばならなかった。背広は一年に一回着るか着ないかだから、まだま新しいが、困ったのは靴であった。
太郎が日本で買ってはける靴は一種類しかない。足が地面に叩きつけた肉の塊《かたまり》のように長さも長く、幅も広い。O製《せい》靴《か》が出している合成皮《ひ》革《かく》の、最大級に足幅《あしはば》の広いのが、一種類あるだけである。それをしかも乱暴にはくものだから、踵《かかと》のあたりが破れかかっている。
「母さん、上はきちっとしてるけど、靴がひどいよう」
「今、でる時になって、そんなこと言ったってどうにもならないじゃないの。破れたのはいて行きなさい」
「レストランのボーイってのは意地悪だから、僕の靴が破れてるの気がつくだろうね」
と太郎は言いながら、ずるずると靴をつっかけて玄関を出たが、実は本気で気にしているわけではなかった。
《若菜》はフランス風であった。細い豆電球のついたシャンデリアがあり、壁紙《かべがみ》は銀色で鈍《にぶ》い光沢《こうたく》がある。別にそうしなければいけないと思っている訳ではないけれど、こういう所へ来ると、母は落ちつき払って先に入り、その次に父が続く。太郎は一番しんがりから靴を引きずってついて行く。
若菜さんが、テーブルに挨拶《あいさつ》に来た。若菜さんは、黒髪をひっつめにして、なかなか個性的な表情をしている。鼻の恰好《かっこう》がギリシャ風だ。黒い服を着て、目の上を蒼《あお》くそめて、神《しん》秘《ぴ》的である。
「ねえ、ねえ、あの人の苗字《みょうじ》、何ていうの? 何若菜っていうの?」
太郎は父に尋ねた。メニューは父が太郎の分も決めてしまった。太郎はカタツムリと野菜のスープと、牛の胸腺《きょうせん》の煮《に》こみを食べさせられることになったのである。カタツムリも胸腺も太郎は知らないが、この世で食べられないものはないという確信があるので、太郎は父が自分に食べさせたいものに従っている。それに、知らないものが出てくる、というのは、ちょっとしたスリルでもあった。
「若菜ってのが姓《せい》さ」
「へえ、すてきな苗字あるもんだね。名前はじゃあきっと平凡なんだろうね。良《よし》子《こ》とか和《かず》子《こ》とか」
「名前は知らん」
「ねえ、父さん、あの若菜さんっていくつくらい?」
幸いにも彼らのテーブルは、一番端《はし》であった。
「さあ、若く見えるけど、案外、三十四、五にはなってるかも知れない」
「若菜さん、独身?」
「ということになってる」
「この建物全部、若菜さんのものなの?」
「そうらしい。上は、いろんな事務所になってる」
「僕、若菜さんに結婚申し込《こ》もうかな。若菜さん婿養《むこよう》子《し》にしてくれないかな。ここのうちへ養子に来たら、始終うまいもん食えて、お金あって、楽だろうね」
「父さんもそういうこと、よく考えたものなんだ」
「ほんとう?」
「或《あ》る年まで、来ると、男の子も、漠然《ばくぜん》と、夢《ゆめ》がなくなる予感がするからね。楽ができてワリのいいとこないかと思うもんだ」
「僕、夢はあるんだよウ。父さん、今、地球上で、広大な領土を持つ植民地がまだ、残ってるの知ってる? 僕、人類学やったら、そういう所へ調査に行って、総督《そうとく》の娘にとり入って、恋愛《れんあい》して、そこの婿養子になろうかと思ってるんだ」
「アフリカかどこかか?」
「そう。まず、ポルトガル領ギニアというのがあるけど、これは名前が悪いから、ちょっと敬遠します。大きいのは、ポルトガル領アンゴラだけど、これは、大半が未開なジャングルなんだ。ベンゲラというのが、一番有名な港町なんだけど、そこへはザイールからの鉄道が銅鉱を積んで来るんで、これもあまり夢がないよね。
その点、ポルトガル領モザンビークは海に面していて、悪くない。
だけど何と言っても、素《す》敵《てき》なのは、スペイン領サハラさ。名前がいいもんな。面積の狭《せま》いのが玉に傷だけど、スペイン領サハラ総督の娘と恋《こい》をして、白《はく》堊《あ》の総督府の中で、入り婿になって暮《くら》すのは悪くないなあ」
「そういう場合、人類学の調査をやる前に、まず、総督に娘がいるかどうかを調べることだね」
母の前には朝鮮アザミが、父と太郎の前にはカタツムリが、半ダースずつ運ばれて来たので、太郎は早速《さっそく》、ニンニクがたっぷりかかったカタツムリを食べながら、朝鮮アザミを一切れかすめとって試食してみた。
「太郎もそろそろ、人生の虚《むな》しさがわかって来たの?」
「僕この頃《ごろ》、評判よくないもんね。代田高校の女の子には束《たば》になって逃《に》げられちゃうし、下級生の僕のファンには失言するし、五月さんは祖父江のバカ野《や》郎《ろう》とよりを戻《もど》すし……」
「そういうふうに、好きな女の子にふられると、胸がきゅっと苦しくなるもの?」
母の信子は、何か科学的な質問でもするように言った。
「他《ほか》のひとは知らないよ。しかし僕の場合は違うね」
「失恋して自殺したくなるなんて気持、よくあるって言うでしょう。太郎はわかる?」
「僕は正直言ってそういう気持、てんでわからないね」
「昔《むかし》から、天丼《てんどん》三ばい食えばなおる、という奴《やつ》はいたもんだ」
父は言った。
「なおる、って、何が? 恋が?」
「恋でも、失恋でもさ」
「天丼三ばいは安くていいわね」
母は笑い出した。それから、
「太郎、肘《ひじ》をテーブルから下ろしなさい」
と注意した。
太郎はしぶしぶ言われた通り従ってから、
「ああ、だけど、何だか急に、まわりから、女の子が遠のいたっていう、感じだなあ」
「そういう時もあるさ。新潟《にいがた》高校の寮歌《りょうか》にこういうのがあった。《ああ、若き日はかくしてぞ、音もえ立てず、消え行くか》音もえ立てず、のえ《・》は可能の副詞だ、わかるか」
「わかるよ、それくらい」
本当に、五月さんとは、もうこれっきりなのだろうか。太郎は信じられなかった。もともと初めも終りもありそうな出会い方をしたわけではないから、当り前だとは思うのだが、それにしても、このまま、あの人と別れてしまっていいのだろうか。
3
それは、或《あ》る乾《かわ》いた冬の午後であった。
太郎は風邪《かぜ》ぎみで体がだるかったので、学校を休んで、近くの医者へ見てもらいに行った。明日から期末テストに入る。朝、太郎が、
「学校へ行こうかなあ、休もうかなあ」
とぐずぐずしていると、山本正二郎が、
「休め、休め」
と言ったのである。山本正二郎には、いつも学校へ行くよりも、家でがっちり本を読んだ方がましだ、という肚《はら》があり、山本信子は、太郎の背が百七十糎《センチ》どまりなのは、太郎があまり病気をせず、従って寝る時間が少なかったからだと信じている。
太郎はスキーのアノラックを着て、家を出た。何となく背中のあたりがすかすかするのは、少し熱があるせいかも知れないと思う。
この頃《ごろ》の医者が困るのは、待合室が、老人の社交場になったことだ、と太郎は思う。七十歳《さい》以上は、医療《いりょう》費《ひ》が全額タダになったとかで、主におばあさん連は、ちょっとどこかが悪いと、たちまち医者にやって来る。いくら待たせられても、忙《いそが》しくないのだから一向にこたえない。嫁《よめ》のワル口、近所のかげ口、体の故障《こしょう》自《じ》慢《まん》と、元気あふれている。太郎はたっぷり一時間近く待たせられてやっと診察《しんさつ》を受けた。
いずれにせよ、大したことはないのである。注射を一本して貰《もら》ってから、粉薬をもらい、太郎は医院を出た。
ふと、昨日、母にハガキをもらいに行ったら、ない、と断わられたことを思い出した。あの女は、全く至《いた》れり尽《つく》せりの逆で、絶えず家の中でいろんなものがなかったり壊《こわ》れたりしっ放しだから、当てにできない。
葉書と、切手を貰っておこう、と太郎は思いつくと、郵便局の方へ歩いて行った。
郵便局は、最近建てなおしたばかりだった。もとは古めかしい木造だったのだが、今度は総ガラス張りのレストランのような建物になった。
師《し》走《わす》に入ると、どうして、人間も物資も右往左往するのだろう。郵便局では、小荷物の窓口にも、郵便の口にも短い列ができていた。
ふと、二、三人前に、五《さ》月素《つきもと》子《こ》さんが立っているのを見て、太郎はどきっとした。五月さんは後ろをふり向こうとはしないから、勿《もち》論《ろん》、太郎のことには気がついていない。
太郎は、心臓が高鳴るのを覚えながら、じっと五月さんの後ろ姿を見ていた。五月さんは、えりが筒《つつ》みたいになったハーフコートを着ていた。髪《かみ》は長いのを、へヤーピンで、後ろにまとめてあげている。
その筒型のくりの大きいえりから、背の高い太郎は、五月さんの首筋《くびすじ》を見下ろすことができた。
太郎は今、初めて、五月さんの背中を覗《のぞ》いたのであった。それは息づまるような肉感的な衝撃《しょうげき》だった。
五月さんの背中には、ぽってりとした肉がついていた。軽い、あるかなきかの嘔《おう》吐《と》のように、太郎の胸を嫌《けん》悪《お》感《かん》が走った。
そうだ、五月さんはいつの間にか、少女から、胸の悪くなるような女になっていたのだ。
太郎はそう思い、たまらなくなり、そして微《かす》かに惹《ひ》かれそうになった。しかしやはり、青い観念的な嫌悪感の方が強かった。
骨の上にすぐに、弾力《だんりょく》性にとんだ皮膚《ひふ》がぴんと張りつめてかぶっているというような、痩《や》せ細った背中が少女の体というものなのだ。
五月さんは背中から肉がついて来て、そして遠い、彼方《かなた》の世界へ行ってしまった。そうだ、自分が五月さんを捨てたのだ、と太郎は思った。それはふられそうになった仕返しにそう思うのでもなく、自分のけちな誇《ほこ》りを守るために、ふられたのではなくふったのだと言っているのでもなかった。
いっさいの精神、社会的な理由、そういったものの介在《かいざい》なしに、只《ただ》、青春の湧《わ》き上るような生理的な波動が、或るものを許せない、と横暴に思いつめることがある! 今の場合、まさにそうなのだ。五月さんの物の考え方が自分はいやだと思った瞬間《しゅんかん》はあったけれど、それは口実にすぎない。物の考え方が、人間の総《すべ》てを決定すると思うほど、それにこだわるところまでまだ自分は行っていない。ということを太郎は自覚している。
太郎は息をひそめるようにして、列をはなれ、二、三歩、後ずさりした。それから見てはいけなかったものを見てしまったように、くるりと廻《まわ》れ右をして、郵便局から逃《のが》れ出た。
太郎は何かから逃れようとするように歩いた。彼は歩き続け、いつの間にか、藤原《ふじわら》の家の下の渓谷《けいこく》のところまで来ていた。
車通りもなく、人も歩いていず、流れにはけっこうゴミも落ちたまま、しずまっている。太郎は、いつか荒《あら》されたクレッソンの谷の前で立ち停《どま》った。
藤原の兄さんはどうしているだろう。
太古の人間、未開社会の人間、にとって、人間を殺すことは、一つの日常茶《さ》飯《はん》事《じ》的な行《こう》為《い》であった。藤原の兄さんは、その、或る意味では、言葉にもあらわし難《がた》い「人間的」な行為をやってのけたのだ。「人間的」というとすぐ今の人たちは、よい事だけを人間的なことだと思う。
しかし、人間的な属性の中には、さまざまな、身の毛もよだつ、おぞましい要素も含《ふく》まれているのだ。それに目を塞《ふさ》いで、物を言うのは決してフェアなことではない。
藤原の兄さんは、まさに、その「人間的」であることの極限にほうり込まれたのだ。微《かす》かに太郎は、その立場を同情し、嫌悪し、そして羨《うらや》む。自分には、まだ、何もわかっていないという虚《むな》しさが襲《おそ》って来る。
太郎は、ふと気がついて目を凝《こ》らした。
例の斜面《しゃめん》の様子が、どことなく違《ちが》う。もしあのまま藤原が放置しているのだったら、そこは夏の間に、又、雑草に覆《おお》われてしまった筈《はず》である。しかし今、そこは黒土の色だけが鮮《あざ》やかであった。
藤原の奴、何かを又、植えやがったな、と太郎は思った。今は冬で、葉は枯《か》れているから、藤原がそこに植えたものが、再びあのクレッソンなのか、それとも何か他《ほか》のものなのか、太郎にはわからない。
しかし藤原は諦《あきら》めていないのだ。そこにはたとえほんの僅《わず》かな面積ではあっても、古代から脈々と続いた堂々たる人間の農耕の気配がささやかに、おかしく匂《にお》って来る。
太郎はじっとその斜面を見つめていた。藤原はもちろん、今日学校へ行っているに違いない。「あいつも……」と思った。その下の言葉はついに口に出ず、太郎はアノラックの背を心もち丸めながら、薄《うす》い冬の日にうたれていた。
太郎物語 大学編
第一章 南海幻想《げんそう》
1
高校三年生の山本《やまもと》太《た》郎《ろう》は、ベッドの中に寝《ね》たまま、薄《うす》目《め》を開けて、自分の体から五米《メートル》以内にあるものを見《み》極《きわ》めようとした。
明け方から、寒い寒いと思って、寝ていたが、気がついて見ると、一番上にかけていた蒲《ふ》団《とん》がいつの間にかずり落ちて床《ゆか》の上に移動していた。そのほかあらゆるものが、机の上にあるのと同様に《・・・》、床の上に置いて《・・・》ある。雑誌、ノート、十円玉、ズボン、ぬいだ靴下《くつした》の一方は東の端《はし》に片方は雑誌の上にある、かんで丸めたハナ紙、トランペット、トレーニング・スーツ。母の信《のぶ》子《こ》を初めとして、あらゆる人がこのような状態を、乱雑だ、整理の悪さだ、と言うのだが、山本太郎にすれば、それらは、きわめて、人間的な、宇宙の法則にも似た荘重《そうちょう》な理由を持ってそこに存在しているのである。
山本太郎は、何か特別の理由がない限り、雨戸というものを閉めなかった。第一にめんどうくさいし、昼になっているのに、人工の夜を作ることは、汚ない《・・・》ような気がした。もっとも、そのおかげで、或《あ》る年、南側の戸袋《とぶくろ》の中には、蜜蜂《みつばち》が巣《す》を作ってしまった。太郎の母の信子は、小さい時英国暮《ぐら》しをしたことがあって、多少英語ができるので、家でも毎日翻訳《ほんやく》のアルバイトをしている。その結果、息子《むすこ》に手がまわらないことおびただしい。大ていの母親なら、蜜蜂の巣くらい、息子が学校へ行っている隙《すき》に取り払《はら》っておいてくれるものだが、山本家では、そうはいかない。太郎は自分で、戸袋の中の蜂の巣を取ることを母に命じられ、うまくやったつもりでいて、やはり、二個《か》所《しょ》ばかり刺《さ》されてとび上った記《き》憶《おく》が今でもなまなましいのである。
太郎は、実はもう九割方、目覚《めざ》めていた癖《くせ》に、今日に限って、《オレはまだ眠《ねむ》っているんだゾ》と自分に言い聞かせようとしていた。実は、今日は、東京で受験した明倫《めいりん》大学文学部の入試の発表がある日である。しかし太郎は、実は見に行くまい、と心に決めかけているのだった。つまり、受かっているだろう、という自信が全くないのである。親には言ってないが、太郎は明倫の試験の時、本当は地理を選んでいたのだが、まず出ないだろう、と思っていた中国が出たので、諦《あきら》めて、急遽《きゅうきょ》その場で日本史に切り換《か》えたのである。
中国が出ないだろう、と思ったのは、日中国交回復の年に、中国を問題に出すのは、あまりにも軽薄《けいはく》だから、明倫ともあろうものが、まさかそのようなジャーナリスティックな反《はん》応《のう》は示すまい、と思っていたのである。もう一つには、中国は、社会的な統計を発表していないから、まともな地理の問題は作れる訳がない、とも考えたのである。しかし現に明倫大学は、照明が当っているように見えて実は、あまりよくわかっていない中国を出題した。大人って奴《やつ》は、いい加減なもんだ、と太郎は自分のできないことを棚《たな》に上げでむくれていた。
つまり山本太郎は、今日は起きても何もすることがないのであった。太郎は、昔《むかし》から、人より睡眠時間が短くていい。五時間眠れば、一応充分《じゅうぶん》であった。六時間ずつなら、何日でも保《も》つ。七時間も眠ろうものなら、眼《め》玉《だま》が蕩《とろ》け出しそうである。
それでも、太郎は、空腹に耐《た》えかねて、ついに起き上ってしまった。山本家は、私大の教授である父親と、英語の翻訳をしている母親、それに、一人息子の太郎の三人である。離《はな》れに、父方の祖父母が住んでいる。太郎の父の山本正二郎《やまもとしょうじろう》は、たとえ前夜、いくら遅《おそ》くなっても、朝食だけは、一家が一応揃《そろ》って食べるべきだという考え方を持っていた。そう聞くと、いかにも律《りち》義《ぎ》な家風に見えるが、朝食に起きて来た両親の顔を見ると、太郎はいつも、《ひとには見せられねえや》と思うのであった。父も母もガウンのままである。太郎に至っては、パジャマの上に、床の上に落ちていたトレーニング・スーツの上着を着て、すうっとダイニング・キッチンの食卓《しょくたく》に坐《すわ》った。「おはよう」も言わなかった。
「何で、そんなに機《き》嫌《げん》が悪いの?」
母の信子は言った。
「何でもない」
「試験に落ちてると、そんなにショックなの?」
「ショックじゃないよ。只《ただ》ね、僕《ぼく》たちは今、感情不安定な年頃《としごろ》なのよ。わかんないかなあ。ちょっと気にくわない言い方をされただけで、ズブリと相手を刺すような年頃なんだよ」
太郎は言いながら情けなかった。多分入っていないと思われる大学入試の発表の朝のうっとうしさを表現するのに、今の言葉は実に不適当であった。太郎としては、親に一歩譲《ゆず》って、自分の心情を説明してやったつもりなのだが、これでは、何だか上機嫌のように見えるし、こんなことを言う人間に限って、かっとなって人を刺すこともできないということを、自ら告白しているようなものである。
「実は、今日、発表見に行かないつもりなんだ」
太郎は告白した。
「どうして?」
「だって入ってる可能性殆《ほとん》どないんだもん」
「ずっと見に行かないの?」
「明日行くよ。ホケツの発表明日あるもんね」
山本太郎は、大学を二つ受験していた。二つとも私立で、一つは名古屋の北川大学、一つは東京の明倫大学である。二つを比べれば明倫の方が世間通りはいいが、太郎は、高校の初めから北川大学に行きたいと思っている。人類学科に入って、一生、儲《もう》からない《人類学》という学問をやりたいのである。試験も、初めは北川一本にしぼろうと思ったのだが、さすがに、それは無《む》謀《ぼう》だと周囲に言われて、明倫を受けることにしたのである。
「ねえ、ねえ、万が一、明倫に入ってたら、ちゃんと入学金払ってくれる?」
太郎は母に言った。北川大学の発表は、ずっと後だから、明倫の入学申し込《こ》みをしないでおいて、北川も落ちていたら、太郎は行く所がなくなるのである。
「だって、太郎は、明倫へは、あんまり行きたくないんでしょう。北川だけしか自分の入る大学はない、と思いつめてるんでしょう」
母はわざと芝《しば》居《い》がかった言い方をした。
けち! と太郎は心の中で悪態をついた。大ていの母親は、かなり生活が苦しくったって、息子が大学へ入るか入らないかの境目には、保険金のつもりで、使わないかも知れない入学金くらい払ってくれるものなのだ。それを、この家では何万円かが惜《お》しいとなると、息子に浪人《ろうにん》さえ、させる気なのである。
「仕方なかろう」
それまで黙《だま》っていた父の正二郎が言った。
「他《ほか》のことに金を出すのとは違《ちが》う。明倫にそれだけ寄附《きふ》をすると思えば、ムダな金じゃない。学校側にしても、半ば、当てにしてる金だ」
正二郎は、自分の出ている大学のことを思い出してか、助け舟《ぶね》を出してくれた。
山本太郎は、さりげなくしていようとは思ったが、何としても、間が持てなかった。このもわっとした気分をとり除くには、体を動かすことがいいことはわかっている。山本太郎は、陸上競技で百米を走っていて、受験準備中も、毎日のように、トレーニングを続けていたのだから、今日も、四、五粁《キロ》走ってくれば、かなり気分が爽快《そうかい》になるだろう、ということは目に見えていたのであった。わかっているのに、それができない理由は、もしかすると、一緒《いっしょ》に明倫を受けた黒谷久《くろたにひさ》男《お》が、何か知らせて来るかも知れないと思ったからである。
《おい、今、見て来たけどなあ》
太郎は、黒谷から電話がかかって来ることを想像する。
《お前の、入ってたぞ》
この科白《せりふ》は、
《お前のなあ、一応見て見たけど、見当らなかったようだぜ》
でもいいのである。黒谷が、太郎の受験番号を覚えているかどうかわからないが、ちょっとその話をしたことはあるのである。太郎の受験番号は「一一五七四」であった。
「イイコトナシ」と読めないでもない。黒谷は「四三七一四《ヨサナイヨ》」というのであった。
走りに行って、その間に、黒谷から知らせのあった場合のことも、太郎は想像するのだった。
《あら、そう。やっぱりだめなのねえ。久男君は入ったの? よかったわねえ。太郎はきっと羨《うらや》ましがると思うわ。太郎はね、本当は浪人するのが恐《おそ》ろしくてたまらないの》
お袋はそんなふうに言うに違いない。あの女は、何でも本当のことを言いさえすればいいと思っている。もちろん、太郎は、母が、
《まあ、そうでしたの。ご親切に。ええ、もう、うちの子は初めから、明倫はダメだって諦めてましたのよ。うちの子、それほど頭よくないんですもの》
などと言われたら、それも《嘘《うそ》つけ》という感じになるだろう、と思う。
太郎は何となく、今日一日は現場に居合せなければいけないような気がしていた。外から帰って来て、母から《太郎、あんただめだったらしいわよ》などと聞かされるのは、どう考えても心臓に悪いように思う。
黒谷は、しかし、まず、こちらの受験番号など覚えていないだろう。「イイコトナシ」なんていう番号は「イミナイヨ」などと覚え違えているに決っているのだ。
階下でベルが鳴った。太郎は、体中でその気配を聞いていた。
「いいえ、違いますよ。うちは内山じゃありませんよ」
つっけんどんではないが、女としたら、およそ愛想《あいそう》の悪い母親の声が聞えて来た。かけまちがったのは向うが悪いのだが、あんな声を聞いたら、相手は今日一日人生に絶望感を抱《いだ》き続けるだろう。
今年、明倫と北川を落ちたらどうするか。一応来年をめざして、自分はやるだろう。来年も明倫と北川を落ち、さらい年も同じような運命になったらどうするか、だ。
すると、突然《とつぜん》、山本太郎の目には、一見何の脈絡《みゃくらく》もないような一つの光景が見えて来るのだった。それは夕《ゆう》映《ば》えの鮮《あざ》やかな南の海であった。波は珊瑚礁《さんごしょう》にさえぎられているのか、ほとんど、ないに等しかった。水は青くすらなく透明《とうめい》で、その間に、魚が群れをなして泳いでいた。
太郎はクリ舟に乗って夕《ゆう》陽《ひ》に向っていた。それが、あらゆる試験に失敗した、自分の、なれの果ての姿なのであった。ここには人間の生をおびやかす寒さもなかった。永遠に滔《とう》々《とう》と過去から未来に流れる自然以外、何ら人《じん》為《い》的な刺《し》激《げき》もなかった。太郎は南海の漁夫なのであった。彼《かれ》はパンツ一枚しかはいていなかったのだ。彼の日常にとって、パンツ以上のものは、殆ど何もいらないと言ってよい。魚は自分が食べるだけと、あとほんの少し、市場で現金に変える分だけを捕《と》る。それ以上捕っても、冷蔵庫もなければ、出荷する場所もないのだ。
太郎は、あたかも夕陽を捕《とら》えようとするかのように、ぱっと網《あみ》を投げた。数匹《すうひき》の極彩色《ごくさいしき》の魚がとれた。太郎は魚をしぶしぶ引き上げる。そして舟の中に仁《に》王《おう》立《だ》ちになりながら、ふとはるか昔、自分が受験勉強に苦しんでいた頃を思うのだった。自分はあらゆる試験に落ちた。日本の社会は、試験に落ちた者には冷酷《れいこく》だった。いや、たとえ大学に入れても、程度の悪い大学では、就職も思うままではないというのだ。
それで、自分は南海へ流れて来たのだった。なぜ、北へ行かなかったか。南なら衣服がいらないし、バナナが生えている、と思ったからである。バナナ、という植物は、実に偉《い》大《だい》なものらしい。太郎は必ずしもバナナが好きではないが、それでも地球が飢餓《きが》に苦しむようになったら、バナナがたやすく生える南に行こうとは思っている。また、なぜ漁夫になったか。それは、太郎が、泳ぎが上手で、魚とりにも自信があるからであった。
夕陽はますます赤く輝《かがや》き出した。そうだ、かつて或る人間が生きられなかったことなどないのだ。アフリカやインドでは、飢《う》えに死ぬ人がないとは言えない。しかし、多くの土地では、人間は、どうやら働いて食物を得ることはできる。それが生きる、ということの原型だ! 決して、人聞きのいい大学に入り、日本風の出世をすることだけがこの世ではない。
太郎の空想はそこで突然《とつぜん》、うち切られた。階下では再び電話のベルが鳴っていた。クリ舟はひっくり返り、夕陽は消えた。太郎は、乱れたベッドに引っくり返って、目の前には、疲《つか》れた力ない、セピヤがかった都会の冬の空があった。
「もしもし」
母の信子の声が聞えている。
「ああ、木戸さん」
木戸さんというのは、母が、もっぱら推理や探偵《たんてい》小説の翻訳をしている巴書房《ともえしょぼう》の、母の係りの編集者の青年なのであった。
「寒いわね。風邪《かぜ》なおりました?」
木戸さんはまだ二十代の若い人だが、くしゃみとハナミズがとまらないので、もしかすると見合いをする相手から、ふられるかも知れない、と母が言っていたのを、太郎は思い出した。
「それはよかったわね。え? 本のこと? あら、そんなに出たの? 信じられないわね。お宅の仕事をするようになって初めてじゃないかしら。二万五千部? すごいわねえ。今までの最高が、ウッドワードの『垣《かき》の向うの人』ですよ。そう、もう大《だい》分《ぶ》前《まえ》。あれが、一万六千部出たの。ええ、夢《ゆめ》のように売れたのよ。でも今度は最高ね」
母の信子は、ごく最近、アメリカの若い作家のウィリアム・モロウという人の『魂《たましい》の溶《と》ける夜』というのを訳したのだった。《オカルトかね》と父は言い、太郎は《エロかな》と考えていた。それはアメリカの中西部の平《へい》凡《ぼん》な一家を次々に襲《おそ》う平凡な悲劇の物語だった。そんな地味な話が、どうやら、巴書房としては信じられないほど売れ行きがいい、というのである。
小説か何か知らないが、読む方は他人の不幸を喜んで読んで、それで儲けた母もにこにこしている。厚かましいもんだ。太郎は、ふっといやな気がした。一家の中にそうそう、いいことばかりはないものだろう。母の翻訳した本がもし売れる、とすれば、必ず、自分が大学に落ちる、というようなバランス・シートが待っているものなのだ。
2
山本太郎は、ついに午後二時を少し過ぎると、たまりかねて階下に下り、いつものように仕事机に向っている母の信子に声をかけた。
「僕《ぼく》ちょっと、行って来らあ」
「そう、行っておいで」
母は翻訳《ほんやく》の仕事から眼《め》も上げなかった。《どこへ行くの?》と訊《き》かれたら、《うるせえなあ。ちょっとそこら辺までだよ》と答えるつもりだったが、訊かれないと、又拍子《またひょうし》抜《ぬ》けした。
「おやじさんは? 大学へ行ったの?」
「知らないよ。今日はそうじゃないと思うよ。ちょっと、本屋まで行くって言ってたから」
「あんた、あんたの旦《だん》那《な》さん、浮気してるかも知れないよ。気になんないの?」
と太郎はおふくろに言ってみた。
「ちょっと、黙《だま》ってて。今、それどころじゃないんだから」
太郎は気勢をそがれた。
「映画見て、夕飯までには帰って来るよ」
又、心ならずも、きちんとした息子《むすこ》になってしまった、と太郎は思いながら、そう母親に声をかけて出た。太郎は決して、そんなに律《りち》義《ぎ》にはなりたくなかった。只《ただ》、おふくろが時間ぎりぎりまで翻訳して、それから大急ぎで野菜を切ったり、肉を焼いたりして、少しも心をこめない《・・・・》夕食を恐《おそ》ろしい手早さで用意して、それで自分が帰らないと、おふくろが水にもどした干《ほし》ずいきみたいなぼんやりした顔になる様《よう》子《す》が目に見えるようなので、辛《かろ》うじて太郎は筋を通してしまうのであった。
太郎は町の雑踏《ざっとう》の中に入ると生き返ったような気がした。タバコは、ニコチンの味がうまいんだ、と言っているおかしな男が、いつか父の所へ出入りしていたことがあったが、太郎にすれば、公害が町の味なのであった。排《はい》気《き》ガスの匂《にお》い、スモッグ、騒音《そうおん》、不《ふ》潔《けつ》な街路。これが町中、公園みたいにきれいに掃《そう》除《じ》され、あたりは音もなく、空気が澄《す》んで、東京のどこからでも秩《ちち》父《ぶ》連山なんかが見えるようになったら、じいさん、ばあさんは喜ぶかも知れないが、若い太郎は虚《むな》しくてたまらないだろう、と思う。映画を見るにも、ゴーゴーを踊《おど》るにも、喫《きっ》茶《さ》店《てん》に入るにも、自分は町の真只中《まっただなか》におり、秩父連山なんかこの世にあることを忘れていられるからこそ、楽しいのである。しかし公害がいいなんて言うと後ろから殴《なぐ》られそうだから、太郎は決して、そんなことを口にはしない。
太郎はすぐ近くの繁《はん》華《か》街《がい》まで、約一駅を歩いた。この頃《ごろ》、三粁《キロ》や四粁のところは必ず歩くことにしている。間もなく東京ともお別れかな、という気もするし、そんなにうまいこと北川大学へ入れている、と当てにすることも甘《あま》いような気がする。
Jには映画館が二軒《けん》あった。うち一軒は、今はポルノ映画館である。ここのところ、試験が終ってから、たてつづけにポルノを二本見たらすっかり食傷したので、今日はもう一軒で、やくざ映画を見ることにした。ちょうど入れ替《か》えの途中《とちゅう》で、太郎は、二十人ちょっとくらいしか見物人のいない、寒々とした映画館のかなり端《はし》の方を選んで坐《すわ》った。これは、純粋《じゅんすい》に心理の問題で、彼《かれ》は映画を見る時、何となく、斜《なな》めから見ているのが好きなのである。
ジイジイと開幕ベルが鳴って、照明が暗くなる一瞬《いっしゅん》に、便所に一番近いドアから入って来て客席のど真中《・・・》あたりに席を占《し》めた男の姿を見ると、太郎は思わず、小さな声で、
「ついてねえなあ」
と呟《つぶや》いた。入って来たのは、父親の山本正二郎であった。実に映画の楽しさが半減した感じである。「お父さまと二人して」、やくざ映画を見るなんて、みっともなくて、ひとにも言えたもんじゃない。太郎はこのまま出て行こうか、とも思ったが、なけなしの小《こ》遣《づか》いをまるまる捨てるのは、何とも惜《お》しいような気がした。太郎は、予告とタイトルが終るまでの間、落ちつかない思いで坐っていたが、ついに、決心を決めると、父の隣《となり》の席に移って、どかんと坐った。
「何だって、こんな映画に来たんだよう」
太郎は呟いた。
「お前こそ、何で来たんだ」
正二郎は笑った。
「ポルノは退屈《たいくつ》だもんね。あんなもの、十八歳《さい》以下のガキの見るもんだわさ」
承認したわけではないが、太郎は状況《じょうきょう》を致《いた》し方ない、と思うことにした。太郎が好きなのは、バクチ場の場面である。今日のは違《ちが》うが片肌《かたはだ》脱《ぬ》いだ壺《つぼ》ふりの江《え》波杏子《なみきょうこ》が、「入ります」というところが何ともいえないのである。
「ねえねえ、おやじさん」
太郎は、親分の家に集まった紋《もん》つきの男たちが目をつり上げて凄《すご》むのを見ながら囁《ささや》いた。
「いま、おもしろいこと思いついたよ」
「何だ」
「ギャングでも、マフィアでも、スパイでも、悪い奴《やつ》の親玉には、普《ふ》通《つう》の映画じゃ、決して奥《おく》さんが出て来ないね」
「そうだな」
「ゴッド・ファーザーみたいな芸術映画は別なんだろうけどさ、やっぱり、ばっさり殺すときに、殺す相手が人間的だと困るんだろうね。おかみさんを出すと、いくら悪親分でもちょっとは女房《にょうぼう》に、やさしい目つきなんかしちゃうだろ。そういう人間が、悪い奴だと思わせるのもむずかしいし、悪い奴でも、残された奥さんが可哀想《かわいそう》だわァ、ということになるとまずいんだよ、きっと」
「まあそうだろうね」
別に、おやじとなんか喋《しゃべ》りたいわけではないが、太郎は、思いつくと、口にしたくなる。これは一種の精神の垂れ流しなんじゃないだろうか、と自《じ》戒《かい》しているが、喋ることで、気持の上の整理をつけたいのである。
映画が終ると、その代り太郎は、父親を置き去りにして、とぶが如《ごと》く、外へ出た。映画館は地下一階なのだが、階段を三段ずつとび上った。そうなると、陸上競技で鍛《きた》えた脚《あし》だから、太郎より早く、入口を出る者はなかった。太郎は、入口に立って、じっと出て来る人々を待ち、やがて父親と顔を合わせた。
「何があったんだ」
山本正二郎は、別に驚《おどろ》いてもいない表情で尋《たず》ねた。
「何でもないけどさ、僕ね、やくざ映画から出て来る人の恰好《かっこう》見るのが好きなんだよう」
「なぜ?」
「皆、まだ、興奮さめやらぬ顔してさ、自分がやくざになったみたいに、ガニ股《また》になって歩いてるもんね」
父子《おやこ》は滑《すべ》り込《こ》みで夕食に間に合った。
「今日は、ホンヤク何枚やったの?」
太郎は本当はそんなことには興味なかったのだが、母に対するご機《き》嫌《げん》とりのつもりで尋ねた。
「十六枚半」
「まあまあだね」
本《ほん》音《ね》は何がまあまあだか、さっぱりわからなかった。まあまあ、とは、日本的ないい表現だと思う。まあまあ、とは英語に訳すと何と言うのかな、と考えていた。
「実はね、お父さんにも、今日、ちょっと本気で相談しようと思ってたんだけど」
信子は言った。
「何?」
太郎は受けた。
「リコンの相談?」
これも、不機嫌から来る、精神の下痢《げり》 症《 しょう》状《じょう》であった。
「太郎が名古屋で住む場所のことだけどね」
「まだ、名古屋へ行けるかどうかわからないじゃないか。縁《えん》起《ぎ》でもないこと言わないでよ」
太郎は、自分の中にも、図々《ずうずう》しさと目を当てて見られない小心さが、同居しているのを感じる。名古屋の下宿の予定など立てたが最後、北川大学は必ず落ちると思うのである。世の中はそう言ったものなのだ。予定たてた通りにことがなるのだったら、日本経済の発展に関して現在までのところ希望に満ちて悲観的な見方を続けて来たマルクス経済学者たちも、デモ隊がどういう動きをするかわからないので待機している機動隊員たちも、すれ違いのドラマを書くテレビの脚本家《きゃくほんか》たちも、あらゆる学生、あらゆる技師、あらゆる親たち、そしてあらゆる政治家も、全部いらないのだ。
「私は太郎と違って、そんなに感傷的じゃないのよ」
母の信子が言った。そんなことわかってますよ。ズダ袋《ぶくろ》みたいなスカートはいて、眼鏡をずっこけさせて、毎日毎日内職している女が、太郎の好きなオードリー・へップバーンみたいに繊細《せんさい》で感傷的だなどということは、誰《だれ》も期待しちゃいないんだ。
「これは、太郎に改めて聞きたいんだけど、太郎は本当に、名古屋で、勉強する気があるんだろうね」
太郎は七面鳥になったような気分だった。赤くなり、青くなりして、怒《おこ》りたかった。
「本当に勉強したいんなら、この間から、考えていたことなんだけど、太郎には、住む所に、法外な贅沢《ぜいたく》をさせてやってもいいと思っているの」
「どういう、ふうに?」
「下宿の部屋借りるのもいいけど、アパートを買って上げてもいい」
父母はそのことについて、もう再三、再四話し合ったのだった。
「あなたには言わなかったけどね、この間、本田の悌《てい》四《し》郎《ろう》さんがうちへ来た時、ちょっと相談したのよ」
本田悌四郎というのは、父方の従弟《いとこ》で、ミシン会社に出ていたが、名古屋支店次長になって、半年ほど前から名古屋に単身赴《ふ》任《にん》していた。先月だか先々月だかたまたま、「ういろう」の箱《はこ》を下げてやって来たのである。
「悌四郎さんに言わせると、太郎が最低で四年間、もしかしたら大学院まで名古屋で過すんなら、部屋借りるより、アパート買って、太郎が東京へ帰る時は、売って来ればいい、と言うのよ。その方が、大して儲《もう》かりゃしないだろうけど、気分のいいところにいられるだけトクだって言うの。でも、悌四郎さんが来た時には、まだ、ちょっとのことで、そんな気分にならなかったのよ」
「この人、お金あるの?」
太郎は人差指で、父親の肩《かた》のあたりを指しながら、しかし決して父親の顔は見ずに、母に尋ねた。太郎は何だか、そういう話にふれるのが恐ろしかった。
「楽々、ひょいと買えるというわけにはいかないけどね」
信子が言った。
「そりゃ、少しは貯《たくわ》えらしいものはあるわよ。二人で働いてるんだもの、うちは。だけど、アパートを買ってもいいかな、って思ったのは、世田谷のお祖母《ばあ》ちゃまがお金を少し残してくれたでしょう。あれと、今度の本が売れたからね、少し」
世田谷のお祖母ちゃんは、母方の祖母である。母の兄、つまり伯父《おじ》一家と暮《くら》していたが、この春、七十九歳《さい》で亡《な》くなったのである。祖母にはとくに財産らしいものもない。それにすっかり惚《ぼ》けてしまってから十年間近く、面《めん》倒《どう》を見て来てくれた兄と嫂《あによめ》に、恩義こそあれ、母は遺産の分け前があるとも期待していなかった。
《うちの父母《ふたり》は、金銭的に淡々《たんたん》としてるんだね》
太郎はその時、言ったのだった。すると信子は、おっかない顔をして目を剥《む》いて言った。
《要するに面倒なことは、お父さんも私もふるふるなんだよ》
真相はわからないが、世田谷では伯父が数年前に家を建てなおした。しかし、土地は祖母の名義である。それをそっくり伯父が受けついだことになると、母に何もやらぬ訳にもいかない、と伯父は言って、三百万円ほどをくれたのだ、という話を、太郎は聞かされたのであった。
《伯父さん、三百万円作るの大変だったろうね。伯父さんだってしがないサラリーマンだものね》
太郎はその時、同情した。伯父は自動車会社に勤めて、課長だか、部長だかなのである。
《だけど、貰《もら》ったものは時価で行くと、四千万円くらいにはなるから、いいのよ、それくらいこっちに渡《わた》しても》
とその時信子は言ったのであった。
「翻訳はいくらくらいになるの?」
太郎は母に尋ねた。
「百万ちょっとかな。足りない分は、お父さんに出してもらえばいいの。でも名古屋は東京よりは、アパートも安いんだって」
太郎は、急におろおろし始めた。金額の大きさに圧倒され、自分に負わされる責任の重さにへどが出そうだった。
「僕はさあ、そういうところに入ると、いい気になって、酒飲んだくれてさァ。毎日、学校に行かずに桃色遊《ももいろゆう》戯《ぎ》をやるかも知れない」
「そう思ったら、およし。金を出さないことならこっちはいつでも賛成なんだ」
正二郎は言った。
「終りまで聞けよ。桃色遊戯をするだろう、って、皆言うだろうね」
「他人のご期待にそうことは一切《いっさい》ないよ」
母は男言葉で言った。
「本当に勉強するなら、勉強しやすいような環境を作ることに、ひとの思惑《おもわく》なんか考えることないのよ。だけど勉強しないんなら、うちは人《ひと》並《な》みな金も出す気はない」
「わかったよ」
太郎はむっつりと言った。
「悌四郎氏は名古屋はどうだって? 気に入ってるようかね」
父は尋ねた。
「夜の早い町ですってね。ろくろく飲むとこもないんですって」
「あの男は、もともとけちだから、そんなに飲みやせんだろう」
「ビールの水割りですものね。ビールの中に、じょぼじょぼ、じょぼじょぼ、って水入れるから、本当におしっこみたいになっちゃう。それを日本酒飲むみたいに、ちびりちびり舌の先で飲むんだから、本当にいじましくて」
そうは言うが、母は、この悌四郎氏と気が合うのであった。
「それと、名古屋には、今、本坊《ほんぼう》さんがいるから、いろいろと面倒みてくれると思うの。アパートを買うことになっても、本坊さんが手伝ってくれるわ」
本坊さんと言うのは、母の学校時代の同級生である。ご主人が、銀行の支店長になって、名古屋のどこかの支店にいるので、一男一女の子供を引きつれて、名古屋に移り住んだのであった。
太郎は、黙々《もくもく》と鶏《とり》のモツ焼きに噛《か》みついていた。本坊夫人は母と気が合うだけあって、男みたいな性格だし、悌四郎氏は確信に満ちてみみっちいところに太郎は深く尊敬を覚えているのだが、だんだんこうしていると親共の監《かん》視《し》の網《あみ》が張りめぐらされていくような気分になって、憂鬱《ゆううつ》でないこともない。それよりも、話がここまで来たからには、北川大学はまちがいなく落ちているのだ、という確信に似たものが再び太郎の心を重くとざした。
3
翌朝、起きると雨が降っていた。寒さはゆるんでいたが景気の悪い天気だった。
昨日は何も考えないことにしていたのだが、同級の黒谷久男から、ついに何も電話がかかって来なかったのは、いったい、どういうことだったのだろう、と山本太郎は考えた。黒谷が明倫の受験の発表を見に行って、自分だけは入っており、太郎は落ちていることを発見したとしよう。それで労《いたわ》って、何も言わなかった、ということがあるだろうか。
それは、てんで黒谷らしくない、と太郎は思った。奴《やつ》はそれほど湿《しめ》っちゃいないだろう。そういう場合、奴はむしろ意気揚々《ようよう》と電話をかけて来て、
《うん、おれはもう、これで身のふり方が決った。明倫の経済学部に入れれば、まあ一生安泰《あんたい》だしな。重役になれるかどうかは別として、多分、妻子のために、四十になるまでには家の一軒《けん》くらい、建てられると思う。しかし太郎、お前の受験番号は、どうも、見当らんかったようだなあ》
くらい言いそうな男なのだ。とすれば、彼はやはり昨日は見に行かなかったのかも知れない。
山本太郎は、朝飯の間中、試験に落ちた場合のことを考えていた。又《また》、予備校に行かねばなるまいか。太郎は夏休みの間だけ、予備校というものに行った。大人が考えるほど、切《せっ》羽《ぱ》つまった雰《ふん》囲気《いき》はなかった。最大の収穫《しゅうかく》は、そこで、つけ睫毛《まつげ》のつけ方を覚えたことであった。授業中、太郎の隣《となり》にいたねえちゃんが、たっぷり三十分はかけて、両方の眼《め》のつけ睫毛をつけなおしたのである。日本史の時間であった。彼女《かのじょ》はまず、そろそろと両方の目から、ニセの睫毛を引っぺがした。太郎は誘惑《ゆうわく》に耐《た》えかねて、思わず、その顔を覗《のぞ》き込《こ》んだ。
《この明暦《めいれき》の火事は、本郷《ほんごう》から火の手が出て芝増上寺《しばぞうじょうじ》から、更《さら》に南の芝口の海まで来て、やっと燃えるものがなくなって火はしずまった。本郷より海まで六十余町、ただ一面の焼野が原、目を遮《さえぎ》るものもなくなった》
ははあ、と太郎は教師の声を聞きながら思った。つけ睫毛をとった娘の顔は、ぺろんとしていて明暦の大火直後の江戸のように見通しがよかった。彼女は、その睫毛の根元にはりついた、ゴムのようなものを、長く伸《の》ばした爪《つめ》でしきりにとっている。
《この火事で、焼け残ったのは、一石橋と浅《あさ》草橋《くさばし》のみであった。新しく馬場先門、両国橋などがかけられたが、両国というのは武蔵《むさし》と下総《しもうさ》を結ぶから、そのような名前をつけられたのである》
ねえちゃんも講義をきいてはいるんだなあ、と思ったのは、教師が橋の話をするとつけ睫毛の娘《むすめ》は、睫毛を橋の形に、ひょいひょいと曲げるからであった。
太郎は、今朝も、朝食に食べるものを自分で作らねばならなかった。というより、なぜか、テーブルに向うと、親たちと同じものを食べる気がしなくなるのである。母の信子は、冬になるとオートミール党である。塩をよく効かせた、ミルクの多いオートミールを作ってぽちょぽちょ食べている。男の癖《くせ》に、父の正二郎はホット・ケーキが好きであった。アメリカ風に、ごく薄《うす》くやいたパン・ケーキ二《ふた》重《かさ》ねに、とろりとろとろとメープル・シロップをパン・ケーキが泳ぐくらいかけて、必ず大コップ一ぱいの牛乳をそえる。
《ホット・ケーキと牛乳というのは、実にいい調和だ》
もっともホット・ケーキはシロップが安くないから一週間に一度くらいである。
太郎は暫《しばら》く考えた挙《あげ》句《く》、立ち上って、インスタント・ラーメンを作りに行った。母の信子は、面倒《めんどう》見《み》のよくない女だから、こういう時、息子《むすこ》のためにラーメンを作りに立ってやることなど考えもしない。それに、太郎にすれば、インスタント・ラーメンくらい、料理の腕《うで》によって、うまくも、まずくもなるものはないのだ。水を入れすぎて煮《に》くたらかしたそばを作る奴もいる。袋《ふくろ》に書いてある処方通りにしたって、いいというものではないのだ。その点、太郎は、母親を初めとして、世間の誰《だれ》をも信用しない。そういう意味でなら、自分は、ひどく思い上っていると思う。
「何時に発表見に行くの?」
信子は太郎に尋《たず》ねた。
「十時、半。いや十一時」
十時の発表なのだが、傘《かさ》ごしに、押《お》し合いへし合いして見るのはいやであった。それから、今日は発《ほっ》作《さ》的に、ラーメンの汁《しる》を飲むのがうっとうしかったので、太郎は、そばだけをすくって食べ終ると、思い立って黒谷の家に電話をかけた。
「太郎です」
電話口に出たのは、黒谷のおふくろであった。本当はおやじの転任にともなって、金沢に行っている筈《はず》なのだが、息子の入試の間だけ、「家政婦」に来ているのだ、と黒谷は説明していた。
「あら、山本君? 昨日、明倫、いかがでした?」
「それが、僕《ぼく》、見に行かなかったんです。久男君は、行かれました?」
「ちょっとお待ち下さい。今、久男が来ましたから」
「おい、どうだった?」
太郎は、代って電話口に出た黒谷に尋ねた。
「おれ、まだ見に行ってないんだ」
「おれもなんだ。今日、行くだろ」
「ああ」
「一緒《いっしょ》に行こか」
ちょっと幼《よう》稚《ち》だ、とは思ったが、そう誘《さそ》ってしまった。
「そうしようか」
二人は駅で会う時間を約束《やくそく》した。黒谷は十時きっちりに向うへ着くように行く、と言うのだった。
「試験の発表というものはさ、押し合いへし合いして見るもんだからさ」
「そう、そうだな」
太郎はすぐ納得した。
黒谷は三校受けていた。神田大学の法学部が本命だったが、これには失敗していた。後の一校は、これは全く今となっては行く気のなくなっている大学であった。
「国立、受けなくて、千頭さんにばかだって言われたろ」
電車に乗ると、黒谷は太郎に言った。千《ち》頭《かみ》慶《けい》子《こ》は、ここ一年ばかり、山本太郎が最も親しい同級生、ということになっていた。
「さあね、おれ、あんまり、そう言うことにはふれないようにしてるもんね」
それでも太郎は、あらゆる試験の結果が出ると、慶子とは、どうしても一度、正面切って話し合わなければいけないだろう、とは思っていた。
「千頭さんは、あの人、もう決ってるんだろ」
黒谷は確かめた。
「ああ、聖マリア女子大学に推薦《すいせん》で入ってるから、優《ゆう》雅《が》にお暮《くら》しだった」
何を喋《しゃべ》っても、本当におもしろくはなかった。駅を下りると傘の匂《にお》いがした。太郎はいつも、生きて行くということは、湿った傘の匂いの中で生活することなんだな、と思うのであった。
校門を入ると、黒谷久男は、太郎に尋ねた。
「どっちから見る?」
太郎は時計を見た。十時、五分過ぎであった。
「押し合いへし合いして、見る方から見ようや」
「そうだな」
しかし、大して押し合い、へし合いはなかったので、太郎は拍子《ひょうし》抜《ぬ》けした。明倫は、建物と建物をつなぐ長い通路兼《けん》ギャラリーのような空間を持っていて、そのガラスの内側に、学部別にずらりと貼《は》り出された補欠入学者の一覧表《いちらんひょう》を、外から見られるようになっていた。ギャラリーは長いし、しかも学部別の上、補欠入学なので、それほど人だかりがしている、というふうにも見えなかった。
「じゃあ、三分後に、真中のベンチんところで落ち合おう」
太郎は黒谷とそう言って別れながら、「児《じ》戯《ぎ》に類したこと」を自分に言いきかせていた。表に出ていなくたって絶望することはないんだぞ。もしかすると、全くの幸運で、正規の入学者の中に、入っているかも知れないんだから。
太郎はゆっくりと表のある場所を探し、一一五○○番台を探した。一一五五九、が見つかった。一一五六二、一一五七○、一一五七三、一一五七四。イイコトナシ。あったのだ! 太郎はもう一度見つめた。補欠入学である。あまりいい気分ではないが、とにかく、入れはしたのだ。
太郎は素《す》早《ばや》く、約束の場所に戻《もど》った。暫《しばら》くすると黒谷が向うからやって来る姿が見えたが、その歩き方だけで、太郎は、黒谷も「悪くない気分」でいることがわかった。
「あったか?」
黒谷の方から尋ねた。
「うん」
「おれもだ。正規入学の方の表も見てこうか」
「誰か知った奴がいるのか?」
「いや、もしかしたら、あっちにも出てるかも知れないからさ」
「ばか」
太郎は言ったが、そういうことは、あり得ない訳でもないだろう、と思った。それで二人は、講堂入口の方に貼り出してある正規の合格者の名《めい》簿《ぼ》を見に廻《まわ》った。
「やっぱりないな」
黒谷は経済学部の入学者発表を見て言った。
外へ出ると得意そうに大きなハトロン紙の封筒《ふうとう》を持った奴が歩いていた。中には、入学申し込み用紙や、入学案内など一式入っている。それを持っているかいないかで、一目で合格者と不合格者がわかるのであった。
それは魔《ま》法《ほう》の袋で、その袋を貰《もら》ったが最後、新聞社のカメラマンを満足させるために、にこにこしなければならないような、不思議な力を持っているようだった。そのために、太郎はふとその封筒を貰いたくはないような気がした。
そうだ、今の気分を、他人に聞かれたら、何と説明しようか、と太郎は考えていた。本当に取り組んで勝ったのではないのだから、補欠は不戦勝と言うべきか。悪い運ではなかった。しかし爽《さわ》やかでもなかった。
「学校へ行ってみようか」
駅まで来ると、黒谷が言った。
「今日は、おれは帰る」
「そうか」
「桶川《おけがわ》先生に、明倫のことだけ報告しといてくれないか」
「いいよ」
太郎は途中《とちゅう》で黒谷と別れたが、そのまま家へ帰りはしなかった。只《ただ》、太郎は、乗り換《か》えた駅の公衆電話から、家へ電話をかけた。呼出しの音はかなり長く鳴っているにも拘《かかわ》らず、母はなかなか出て来なかった。
「どうしたんだよう。何してたの?」
太郎は文句を言った。
「今ね、古い林《りん》檎《ご》で、焼林檎作ろうと思ったのよ。もう大分古くなって、ぽかぽかして来たから。バターとお砂糖で手がべとべとになってたもんだからね」
「あのね、補欠、入ってたよ」
「そう! そりゃよかったね。久男君は?」
「あいつも、補欠に入ってた」
「これで、二人とも、一応、身のふり方が決ったじゃない」
「そんなことわかるもんか」
「あら、そうなの」
母はそれ以上、何も言わなかった。
「そういう訳ですけどね。今日は、僕《ぼく》、夕方まで多分、家に帰りませんからね」
「そう。どうぞ、ごゆっくり」
電話を先に切ったのは、信子の方だった。
太郎は落ちつかなく電話の傍《そば》を離《はな》れた。それから、まるで何かに狼狽《ろうばい》したように駅の改《かい》札口《さつぐち》を出た。まだ外は雨だった。何か考えなければならないことがある、と太郎は思った。自分はまだ自分の心理の一部を、とり出してゆっくりと改めていない。そこにスポット・ライトを当て、観察し、その臭気《しゅうき》を嗅《か》いでみていない。
太郎は近くの喫《きっ》茶《さ》店《てん》に入ることを一瞬《いっしゅん》考えてみた。しかし、喫茶店や図書館で物を考える、というのは、いかにも自分を甘《あま》やかしているようでいやだった。太郎は駅前にある大きなパチンコ屋に入った。いつものように玉を二百円分買い、それから、何台かのパチンコ台のバネの具合を見てから、一台の前に落ちつき、猛烈《もうれつ》な早さで、玉をうちながら、やっと考える姿勢に入った。
いったい何が落ちつかないのだろう。自分は今日、何度目かに明倫大学のキャンパスを歩いた。そして、全く根拠《こんきょ》のない理由なのだけれど、その風景のどこにも、自分の居場所を感じなかったのだ。たとえ、田舎《いなか》の、ろくでもない駅弁《えきべん》大学でも(今は駅弁の値上りと共に駅弁大学も、だんだん高《たか》嶺《ね》の花にはなったけれど)その構内に生える一本の木に親しみを覚えれば、自分は、その木によりかかろう、と思うだろう。あの坂道、あのベンチ、あの教室、に自分の姿を置いてみて、そこに何らかのやさしい、ふさわしいものを覚えれば、自分はその大学につながれて行くのだ。
しかし、現実に明倫に入ってどうなるだろう。あそこには考古学も人類学もない。しいて近いところを探せば、社会学科があるだけだ。それとても、教養課程でいい成績をとらねば、それこそ哲学《てつがく》か、倫《りん》理《り》か、梵文《ぼんぶん》学科に廻される。寺もないのに、梵文やって、それがムダであるのはいいとしても、他《ほか》に好きな道があるのに、そこへ行かないというのは、何とも無念な感じがする。
気がついてみると、太郎の手《て》許《もと》には玉が十個くらいしかなくなっていた。やはり心をいれずに何かをやって、うまく行くわけはないのである。太郎は十個を素早く片づけようとして、又うち始めたが、二、三回じゃらじゃらと出て来てしまったので、始末するまでは、二、三分かかった。
太郎は再び、雨の中へ出た。それから、ズボンのポケットから、ゴミと一緒に、十円玉を一枚つまみ出した。店頭の公衆電話の前で、太郎は立ち停《どま》り、傘をすぼめ、もう暗記している電話番号を廻した。それは、千頭慶子さんの家であった。
「僕、山本太郎です」
彼女の声だとは思ったが、お母さんだといけないので、一応慎《つつま》しく名のった。
「今日、うち? 実はね、ちょっと相談したいことがあるんだけど、これから一時間ばかりしたら、お宅へ行っていいかしら」
4
「ここのうちに来ると、何となく、落ちついて、ほっとするね。何だか、いかにも家庭ってこういうもんだという気がするな」
千頭慶子の家の八畳《じょう》の座《ざ》敷《しき》に通された時、山本太郎は言った。床《とこ》の間《ま》の床柱には太郎流に言うと、「燻製《くんせい》にしたような」竹筒《たけづつ》がかけてあり、そこに銀色の芽をふいた猫柳《ねこやなぎ》と赤い椿《つばき》がいけてあった。
「太郎君のうちは、そうじゃないの?」
「うちのおふくろは、情緒欠損症《じょうちょけっそんしょう》だからね」
太郎は言った。
「花をいけると、枯《か》れた時、捨てなきゃいけないのが面倒《めんどう》くさいなんて言うんだ。人形もおかないしね」
太郎は違《ちが》い棚《だな》の木目込《きめこ》み人形を見ながら言った。
「どうして?」
「人形はキビが悪いんだって」
「それは、太郎君のお母さんが有能な人だからよ。うちのお母さんなんて、レース編みしたり、お花いけたりするほか、することないんだもの」
「このテーブル・センターもお母さん編んだの?」
「お母さんと私。これね、小さい四角を編んでって、つなぎ合わせればいいの」
「うちのおふくろなんか、てんで有能じゃないよ。スカート丈《たけ》、出したり縮《ちぢ》めたりするの、考えただけでいやなんだって。だから、ひどい時には、田舎《いなか》から来た友達をうちに泊めて、その人にスカート丈つめさせて、自分はいい気になってお茶なんか飲んでぐでぐでしてんだよ。翻訳《ほんやく》すると、目が疲《つか》れるから、裁縫《さいほう》まで手を伸《の》ばすと、健康によくないなんて言ってるけど、あれ、てんで口実なんだ」
そこに、慶子さんのお母さんが、お茶とお菓子《かし》を持って来てくれた。
「お煙草《たばこ》あがるんでした? 太郎さんは」
セーターとスカートを着ているのに、和服を着ているような感じのお母さんはきいた。
「いいえ、僕《ぼく》は、かけっこやってますからのみません」
「灰皿《はいざら》を忘れてしまって……」
「明倫、お受かりになったんですって。おめでとうございます」
お母さんに言われて、太郎はいよいよかしこまった。
「いえ、補欠ですからまだわからないんです」
「でも、大てい大丈夫《だいじょうぶ》でしょう。明倫なら、大したもんですわ。お父さまもお母さまもさぞかしご安心でしょう」
「いえ、実は、そのことで、慶子さんに、身上相談しに来たんです」
「あら、そうですか。慶子にはお答えする能力なんかないでしょうけど、どうぞごゆっくり」
お母さんが持って来てくれたのは、大きな黒いうるしの菓子皿、というより、菓子板の上にのせてある、蜜《み》柑《かん》の干したみたいなものだった。
「なあに? これ」
身上相談をいっとき忘れて、太郎は菓子に気をとられた。
「これね、能登《のと》のゆべしなの。大きなゆずの中に、モチゴメのふかしたのを詰《つ》めて、シベリヤから吹《ふ》いて来る風の中においといて、又《また》ふかして、又干して、という具合にして作るんですって。こんな小さくなってるけど、もとのゆずは、信じられないくらい大きいんですって」
「おいしそうだな、食べていい?」
「どうぞ」
太郎はちょっと考えてから、一番外側の一切れをつまんだ。果して、ゆずの香《かお》りは、その部分が一番強烈《きょうれつ》だった。
「格調高い菓子だよなあ。うちと違うなあ」
「太郎君のお母さん、どんなお菓子あがるの?」
「うち? かりんとう、ハッカ糖、揚《あ》げせんべい、のしいか、ピイナッツ」
「おいしそうなものばかりじゃない」
「うん、まあね。農協風だけどね」
毎日、ゆべしばかりでもたまらない、と思いながら、太郎は二切れ目に手を出した。
「実はね、明倫、入れてくれたとしても行ってもしようがないな、という気もしきりにし出したんだ。補欠入学がわかるまでは、行けたらいいような気もしてたんだけど」
「どうして?」
「だって、本当に勉強したい科目はないしね。それに、一番ひっかかるのは、わりと有名大学だってことなんだ」
「どうして、それがいけないの?」
「何か他《ほか》の理由があればいいよ。でも、有名だから行くっていうんじゃ、動機が不鮮明だろ」
「お母さんの従兄《いとこ》の息子《むすこ》って、あんまりできがよくなかったの。継母《ままはは》が来たりしたこともあって、途中《とちゅう》でぐれてたこともあったのよ。その子が明倫入った時、その継母が嬉《うれ》しくてぽろぽろ泣いたんですって。ここまで、よくやってくれたって。そしたら、それまで、一度も、継母の名前を呼ばなかったその子が、《お母さん!》って言ったんですって。太郎君からみたら、おかしい話だと思うけど、明倫って、それくらいの大学なのよ。世間じゃ」
「おかしかないよ。そうだとは思うけど、僕にとっちゃ、どうしても、よくはないんだ」
その瞬間《しゅんかん》、太郎は、もう一つの先刻《さっき》から胸にしこっていた感情の本質にぶつかった。それは、補欠、ということだった。その大学で、つまり山本太郎は、大してお呼びではない、ということなのである。資格はないが、場所があまったから、入れてやるかもしれない、ということなのである。
「僕ね、それに、入るんなら、やっぱり、自分の実力相応のところがいいと思うんだ」
太郎は力なく千頭さんに言った。
「あら、入れたんなら、実力相応じゃないの」
「だけど、補欠じゃあね。僕は背のびして、お慈悲《じひ》で入れて貰《もら》おうとは思わないな。仕事だって、そうだ。お前を使ってやってもいいなんてとこはご免《めん》だ。お前がいるから、来い、と言ってくれる所に行く」
「そんなに別に肩《かた》張《は》らなくったっていいじゃない」
「肩なんか張ってないよ。むしろ僕の方が、僕を必要としてくれる所なら、どこでも行きます、って言ってるんだ。だけどあまり欲《ほ》しがってもいない所に行ったら、悪いじゃないか」
「私は女だから、男のひとの一生について、何も言える立場じゃないけど」
千頭さんは、そこで、ちょっと太郎をうっとりさせるような、弱々しい表情を見せた。
「今日の山本君は、少し興奮してると思うの。まだ、二、三日あるんでしょう。ゆっくり考えるといいと思うわ」
「そうだな、そうするよ。僕は大体、最初から、慎重《しんちょう》にしてかつ深遠《しんえん》な思想に辿《たど》りついたことなんかないもんね」
太郎はいつもの調子に戻《もど》っていた。
二日目の夜、夕食がすむと、母の信子は、小さな塗《ぬ》りの三段引出しから、銀行の封筒《ふうとう》に入ったものをとり出した。
「明日、明倫に出すお金ね。今日用意して来ておいたよ。明日は又、ちょっと忙《いそが》しいから、朝、銀行になんか行ってる閑《ひま》ない、と思ったから」
「いいんだよ」
太郎は言った。
「何がいいの?」
その時、玄関《げんかん》のベルが鳴った。太郎はとび出して行った。
「黒谷ですけど、太郎いますか?」
「何だ、君か」
太郎はドアを開けると、
「入れよ。二階へ行こ」
と気ぜわしく言った。黒谷との話を、今、あらゆる意味で、おふくろに聞かれたくはなかった。
「梅《うめ》の匂《にお》いがするな」
散らかった太郎の部屋に入ると、黒谷は言った。
「ああ、窓の外に、白梅があって、花が咲いてる」
犬みたいな鼻をした奴だ、と太郎は思いながら窓を閉めた。
「どうしてた、あれから」
黒谷は尋《たず》ねる。
「どうってことない」
「千頭さん、とこへ行ったんだって?」
「ああ、ゆべしの王さまみたいな奴を食って来た」
「千頭さんが言ってた。山本君は迷ってみせてるけど、落ちつくべきとこに落ちつくでしょう、って。だから、僕は、そりゃ、そうだろう、って言ったんだ」
「どういうことなんだろう」
「明倫に入って、迷ってみせる、ってことはポーズだって言うんだ」
「ばかだな」
思わず太郎は言った。
「それで、僕は千頭さんに言ってやったんだ。僕だって、明倫やめて、浪人《ろうにん》するつもりなんだから、太郎も落ちつくべきとこに落ちつくだろうって」
「本当か?」
「ああ、法律やりたいのに、経済入ったってしようがないからな。今朝、決心したんだ」
「千頭さん、どんな顔してた?」
「きょとんとしてたよ。あいつも女だよな」
「うん」
大学のことなんか、何もわかっちゃいないんだから、と太郎は思った。それが千頭さんのよさであり限度だったのだろうか。太郎は古風だから、髪《かみ》の長い女の子に弱いのである。千頭さんは、かぐや姫《ひめ》みたいな髪をしている。その髪と、やや甘《あま》い表情の眼《め》もとを見ると、太郎の胸は揺《ゆ》すぶられるのであった。
黒谷が三十分くらいで帰ると、太郎は、又、茶の間で、アイロンをかけている母のもとに行った。
「ねえ、僕ね、金いらないよ」
「何を言ってるの」
信子は丸太のように太い腕《うで》で、ぐいぐいとアイロンを台の上で滑《すべ》らせながら言った。
「黒谷も明倫やめるって言うから、おれも行がね《・・》」
「黒谷君がやめるなら、太郎は出しておおき」
「なぜ?」
「引っぱられて、やめよう、と思うような人間は、又、引っぱられて、行きゃよかった、と思うものなんだよ」
母は太郎の迷いなど相手にしてもいないようだった。
太郎はその夜九時には眠《ねむ》り、翌朝、四時にはもう眼をさましていた。まだ暁《あかつき》の気配さえなかった。今日、起るべきことを考えるのがいやさに、太郎は電燈《でんとう》をつけて社会人類学者、J・G・フレイザーの「金《きん》枝《し》篇《へん》」を読み返し始めた。これはマリノウスキーに人類学を学ばせる動機となった名著なのだが、太郎は受験中に、ほぼ、日本語の訳にあるだけは読み終えていたものの、もう一度は、読みなおそう、と思っていたのだった。
「たれかターナー描《えが》く『金枝』という絵を知らぬ者があろう」
という名文句で、それは書き出されるのである。もっとも、太郎はターナーの絵などてんで知らない。知らなくても心配はないのである。フレイザーはちゃんと説明してくれる。
「この絵はネミの小さな山の湖――古人のいわゆる『ディアーナ(ダイアナ)の鏡』の夢《む》幻《げん》的な想像図であって、画面は幻《まぼろし》の金色の輝《かがや》きをもって隈《くま》なく覆《おお》いつくされ、ターナーの聖なる心はこよなく麗《うるわ》しい自然の姿をすら深く染めて、それを神々《こうごう》しいものに変えている。アルバの山の緑の窪《くぼ》地《ち》にたたえたあの静寂《せいじゃく》な湖を見た者は、永久にそれを忘れることはできまい。この湖の畔《ほとり》に眠る二つの特色あるイタリアの村も、湖面にまで崚《けわ》しく降《くだ》る雛壇《ひなだん》式庭園のあるイタリアの宮殿《きゅうでん》も、決して風景の幽寂《ゆうじゃく》と孤《こ》独《どく》のおもむきを妨《さまた》げはしない。ディアーナは今もなおこの淋《さび》しい湖《こ》畔《はん》をしたい、いまなおこのあたりの森林に出没《しゅつぼつ》するのではあるまいか」(永橋卓介訳)
このフレイザーの著書は、全篇これ、甘い詩的な、原始的な人間の生活から溢《あふ》れて来るういういしさに満ちている。
「サラワクのバンティンの海ダイヤク族では、男たちが遠方で戦っている間、女たちは一定の複雑な掟《おきて》を厳格に守らねばならない。この掟のあるものは消極的なものであるが、すべて同じように呪術《じゅじゅつ》的類感または隔感《かくかん》の原理によって基礎《きそ》づけられている。そのうちのあるものを次にあげてみよう。女たちは非常に早く起きて、暁の光が現われるや否《いな》や、窓を開けねばならない。これを怠《おこた》ると出征《しゅっせい》中の夫たちは眠りすぎてしまう」
太郎はそこまで読むと、がばと起き上って窓を開けた。サラワクの海ばかりでなくちょうど東京にも暁の光が現われる頃《ころ》だった。今日は晴れているらしい。それほど寒くもない。太郎は深呼吸をした。自分が早寝をしたことも忘れて、どうして、みんなこんなにいつまでも眠っていられるのだろう、と思った。
母が明倫の入学手続きをしろ、と言うのだから、そうすることになろう。
太郎は九時になると、金を貰《もら》い、気が変らないうちに、大学に出かけた。手続きをして校門を出る時、太郎は、ぱっとふり返って、もう一度、大学の全景を眺《なが》めた。金を払《はら》ったのだから、急に執着《しゅうちゃく》がでて来てもよさそうに思えたのだった。
それから彼《かれ》は、公衆電話で、千頭さんを呼び出した。
「今、明倫にいます」
太郎は言った。
「入学金払いに来たんだよ」
「でしょう? あなた、そうすると私思ったのよ」
千頭さんの満足そうな声が聞えた。
「何かわからないけど、悪《あく》魔《ま》に魂《たましい》を売り渡《わた》したような感じだよ」
「え? なにに売り渡したんですって?」
「いや、いいんだ。何でもない」
悪魔などという言葉を思いついたのは、フレイザーを読んでいたからだ、と思った。
「まあ、これで、四方円満だよな」
「そうよ、北川入れたって、明倫の方がいいに決ってるんですもの。北川なんて大学、知らない人だって多いわよ」
「だから、乙《おつ》なんだけどなあ。まあ、いいや」
「明日は、私、学校へ行くわ」
「じゃ、僕も行こう」
太郎は電話を切った。自分がいつもになく狼狽《ろうばい》しているのが感じられた。自分が自分らしくなくて、太郎は、手足の関節が、ばらばらにはずれそうだった。
5
一通の電報は、少しの劇的な要素もなく、太郎の手《て》許《もと》に届けられた。昼食の直前で、鶏《とり》のフライを揚げていた母の信子が、さも面倒《めんどう》くさそうに、玄関《げんかん》に出て行ってそれを受け取った。
「太郎、電報よ、自分で開けてごらん」
太郎が二階から下りて来た時、母は早くも天ぷら鍋《なべ》の所に戻《もど》っていた。
「ゴウカク」キタガワ」ブンジン」
ブンジン、というのは文学部人類学科の略である。
「弱っちゃったなあ」
太郎は台所へ入って行った。
「入り組んで来ちゃったよ。ことが」
「入ったの?」
「まあ、そういうこと」
「お父さんに知らせなさいよ」
「この前の時は知らせなかったよ」
「まあ、何でもいいから」
太郎は仕方なく言われた通り大学に電話をかけた。そして、果して研究室には父親がいなかったので、よく父の話に登場する黒田さんという助手が代りに出たのに、
「あのう、大したことじゃないんです。おやじが戻って来たら、《人類学の本、ありました》、と伝えて下さい」
と言って電話を切ってしまった。
「太郎、ご飯にしよう」
母の声が聞えた。
「僕《ぼく》、食べたくない」
学校へでかけるから、早昼《はやひる》を食べさせてよ、と注文したのは、太郎だった。
「何で急に食べたくなくなったの」
「考えたいことがあるんだ。学校へも行かない」
「病気でないんなら、ご飯食べてから、ゆっくり考えなさい。二日でも、三日でも、一週間でも構わないから。お腹《なか》空《す》かしてて、いい考えは泛《うか》ばないよ」
それは母の信子の「持論」であった。《私は単純で人間が浅ましいからね。お腹空いてたり、疲《つか》れたりすると、まず、ろくな方には物事を考えないの。だから、とりあえず、眠《ねむ》って、よく食べることにしてる。そうすると、どこかから光が見えて来るよ》と太郎は聞かされるのであった。
太郎は、そのまま、二階の部屋へ引き上げた。自分が《生涯《しょうがい》の岐路《きろ》》に立っていると思うだけで、体が重くなったようだった。いつもは、トレーニングのつもりもあって、二階への階段はかけ上ることにしているのだが、今はそんなことをしようにも、心臓が錘《おもり》のように胸にしこっている感じである。
太郎は、冷静に、計算高く、事を決めたい、と思った。もうこの年になっているのだから、理想や夢《ゆめ》に、そうそうかかずらわってもいられないのである。太郎は、不純、ということが好きであった。十八にも十九にもなっていて、純粋《じゅんすい》な人間がいいようなことを世間が言うから、幼《よう》稚《ち》で困る若者がふえるのである。
大学なんぞ、何も教えちゃくれんぞ、と、父はよく言った。父の同僚《どうりょう》の岡《おか》田《だ》さんという人は酔《よ》っ払《ぱら》うと《おい、太郎。大学つうものはだな。教師よりできなくて当り前と思うな。教師より、できる学生でなきゃ、本当は大学へ行く意味ないんだぞ》と無茶苦茶なことを言った。ということは、大学は、物を教わりに行くところと言うより、最低四年間、学問に専念する、という「執行猶《しっこうゆう》予《よ》期間」を保証されるところ、と考えていいのだろう。とすれば、大学はどこでも同じなのだ。
明倫に行けば、とにかく万事、ロスが少ない。入学金もムダにはならなかった。何よりいいことは、明倫へ行っているといえば、世間は、山本のうちの息子《むすこ》は、まあまあできがいいらしいよ、と言ってくれるかも知れないことだ。さらに、もっといいのは、明倫というのは、役人以外の社会では、実に、横にも縦にもつながりがあることだった。太郎は、どこかちょっとした会社の係長くらいになっている自分を想像した。すると、上にも下にも、右にも左にも、明倫出がごろごろしていた。ゴルフ場へ行って、よその会社の男に紹介されると、その男も明倫出だったりした。《何年のご卒業ですか》《昭和五十五年? いや私は一九五五年の生れです》なんて下らないことを言っているだけで、話がすいすいと通じる。さらにゴルフ場のマネジャーも明倫なのだ。田舎《いなか》に行けば旅館の旦《だん》那《な》、料亭《りょうてい》の若主人、バス会社の専務、みんな明倫である。楽器メーカーにも、冷蔵庫会社にも、室内装《そう》飾《しょく》会社にも、靴《くつ》屋《や》にも、バーにも私立学校の理事長にも、明倫の卒業生はくまなくいるから、電話一本、紹介状一つでピアノが安く買えたり、カーテン屋がサービスしてくれたり、バーで顔がきいたり、娘《むすめ》を私立学校に入れるのに手心を加えたりしてもらえる。
それらのことを、バカにできるほど、山本太郎は高級な人間か。決してそうではない。山本太郎が将来カミさんに《うちのお父ちゃん、面倒見がいいのよ》とほめられたり《あら、そんなことなら、うちのパパにおっしゃって下されば、何とかご便《べん》宜《ぎ》をおはかりしますわよ》といい気分になってもらえたりするのは、恐《おそ》らく、太郎自身の能力というより、彼の持っている交友関係によるのだ。そしてそれは、恐らく、もう少し別の見方――哲学《てつがく》的というのか、宗教的というのか、太郎にはわからないが――をしても、恐らく正しいのである。人間は他《ほか》の人間によって生かされている。
明倫に行けば、あの十万円近くの入学金もむだにならない。名古屋のアパートもいらない。そこまで来て、太郎はぞっとした。この六畳《じょう》の、梅《うめ》の香《か》のする部屋には、決して文句を言えた義理ではないが、実はこれ以上住むのもうんざりしているのである。部屋住みとは、実にいい表現だ。あの親も、標準から行けば少し粗《そ》暴《ぼう》なだけで、決してとくに物わかりがわるいとも思ってはいないけれど、それにしても、これ以上ぴったり、来る日も来る日も顔を合わせているのはうんざりであった。
太郎は、考えあぐねるとフレイザーの続きを読んだ。すでに、文庫本の二冊目を読み終ってしまっているから、この分だと、今夜中に、第三巻、明日の朝に第四巻が終るから、明後日中には五巻まで終ることができるかも知れない。
夕飯はスキヤキであった。太郎は、やはり空腹に耐《た》えかねて下りて行った。
「まだ、お腹すかないの?」
母は尋《たず》ねた。
「あんまりはね」
太郎は体裁《ていさい》を考えて言った。
「学校へ行かなかったのね」
「うん」
「何してるの?」
「本読んだり、いろいろとね」
「おもしろい本、あるか」
おやじはトンチンカンな質問をした。正二郎のおもしろい本というのは、洋の東西を問わず、チャンチャンバラバラ戦う話であったり、漫《まん》画《が》だったり、社会学や経済や数学の本だったりした。
「ない」
「今、何読んでるんだ」
「フレイザー」
「金枝篇か」
「あの本、初めんとこと、終りんとこすてきだよなあ。僕も将来、本を書く時は、初めと終りをうんとべたべた飾《かざ》ってすてきにするんだ」
太郎は言った。
「どんな終りなの?」
母は尋ねた。
「だがネミの森林は今なお太古そのままの緑であり、日がその上を西に傾《かたむ》いて落ちるころ、アンジェラスの鐘《かね》の音が風のまにまにアリキアの寺から聞えて来る。アヴェ・マリア! 快く荘重《そうちょう》に遠くの町から鳴りひびき、広いカムパニアの平野の彼方《かなた》に殷々《いんいん》と消えて行く。王さまは死んだ、王さま万歳《ばんざい》! アヴェ・マリア!」
太郎は諳《そら》んじた。
「何だって?」
信子が尋ねた。
「王さまは死んだ? 王さま万歳?」
「だって、そう書いてあんだよう。レ・ロイ・エスト・モールト、ビーべ・レ・ロイ、ってさあ、ちゃんと原語ででてるのよ」
「ラテン語かと思ったよ」
母の信子が言った。
「おれもだ」
おやじが言った。
「ル・ロワ・エ・モール、ヴィーヴ・ル・ロワ、と言うの、フランス語じゃ」
「で、わかるだろう」
「ちっとも、何を言ってるか、わからないわね、私には。わかるような気がする、ってことはわかることと違《ちが》うからね」
「わかるようでいて、わからないところが、すてきなんじゃないかよう」
太郎はしかし、おもしろくなかったので、素《す》早《ばや》く二階へ引きとった。
太郎はその夜遅《おそ》く、再び愚《おろ》かしくも、同じ問題点に立ち戻って来た。
北川は、「お前はおいで」と言ってくれた。明倫は「まあ入ってもいいよ」という顔をした。求められている所に行くべきだ。それがどんなに小さなポジションであろうと、人間は、自分の居場所と存在意義がはっきりわかる時に、納得するのだ。もちろん、大学は一人一人の学生に、そんなデリケートな意味をこめて、合格通知を出したりしているのではないことも、よくわかっている。しかし補欠ということは、この大学の学力には、充分《じゅうぶん》でない、という表現である。太郎ははっきり言って、明倫の学力についていけないと思わない。しかし、それくらいにしか自分を評価しなかった大学へなぞ、行ってやるものか、という気分にはなって来る。どんな社会にだって、どんな立場にだって、それぞれ、評価の方法と自由はあるのだ。大学も受験生を存分に評価すればいいが、受験生の方も、大学を評価して構わない、と思う。何でも、ありがたがって、尻尾《しっぽ》を振《ふ》って、入れて頂きます、という受験生ばかりではなく、日本中の大学は一つとして気にくわないから、どこへも行かない、という若者がいてもいいのではないだろうか。少なくとも、自分があらゆる大学を落ちたら、そう思うだろう。山本太郎は、どう考えても天下の秀才《しゅうさい》ではない。しかし、使いようによっては、日本の社会で、一応まともに役に立つ駒《こま》ではある。それを、どの大学も見抜《みぬ》けない、と言うなら、オレは大学なしでやる、と思えばいいのだ。
太郎は、背《せ》筋《すじ》のあたりがすかすかして来た。自分を本当に自由人とするためには、たった一人で、傷つくことを覚《かく》悟《ご》しながら、勇気をもって、既《き》成《せい》の体制と戦わねばならぬ、という公式をわかってはいるのだが、思っただけで、背筋がすかすかするのは、あながち夜が冷え込《こ》んで来たばかりでもあるまい。
太郎は、再び朝五時前には、目を覚《さ》ましてしまった。そして、昨夜中断したままになっていた、「思い上り」について考え続けた。
求められているところにしか行きたくない、ということは、思い上りばかりではないように思えた。太郎は別に、キリスト教徒でも、仏教徒でもないが、「運命」ということについては思いを致《いた》すことがあった。運命には、「殉《じゅん》じる」という言葉がつきまとっていた。たとえ損でも、殉じるということの美学がありそうであった。
トクをしようとして、うろうろするさもしい人間にだけはなりたくない、と太郎は思った。それくらいなら「大きいパンより小さなパンをとる」方がまだはるかにしゃれている。
太郎は六時十五分になると、もう階下に下り、わざとがたぴし戸を鳴らしながら洗面所に入った。うがいをする時にも、できるだけ轟音《・・》を立てるようにした。それから太郎は、台所でやっとガスに火をつけたばかりの眠そうな母親に言った。
「おはよう。おそいね」
「煩《うるさ》い子だねえ、おちおち、眠れないわ」
「僕、そんなに煩い? じゃま?」
「あんまり早く起きると、お嫁《よめ》さんの来手《きて》がないよ」
そこへ、父親も、もっさり起きて来た。
「お父さん、おはよう」
「ああ」
「あのね、僕、ちょっと聞きたいことがあるんだ」
太郎は言った。
「何だい」
山本正二郎は、食堂の椅子《いす》にのんびりと坐《すわ》りながら尋ねた。
「あのね、改めて訊《き》くけど、僕ね、大学について世間の常識にとらわれなくていいかな」
「役人になるならね、今でも学歴に対する常識が通用するだろうがね。学問をするなら、最終的には実力だけだろう。少なくともその他の要素はきわめて稀《き》薄《はく》になるような方向に世間は動いて行くだろうな」
「じゃあ、僕、決めたいんだ。僕、明倫は行かない。北川へ行かしてよ」
「賛成よ」
信子が言った。
「私は、初めっから北川がいいと思ってた」
北川でいい《・・・》、と母が言わなかったところを、太郎は覚えていた。
「だって、母さんが、明倫に入学金払っておけ、って言ったじゃないか。あれムダしたよう。惜《お》しいことしたよう」
「入学金を捨てても、北川へ行こうと思うくらいじゃなきゃ、本物じゃないからね。本当にもったいないお金だったけど、それに引っ張られるような性格なら、明倫の方がいいと思ったのよ」
「お父さん、北川でいい?」
「よかろう」
その一言は、太郎に重味を感じさせた。とびつくように、いい、というのではなかったが、それは深い熟した大人の納得を感じさせた。
太郎はいきなり電話をかけ始めた。
「どこへかけるの? まだ、六時半よ」
母が注意した。
「いいんだよ、あそこのうちは起きてるんだから」
山本太郎は、千頭さんの家の電話番号を廻《まわ》した。お母さんが、うちは私も慶子も、六時には起きますの、と言ったからだった。しかし、電話口には長い間、ひとの出て来る気配はなかった。一分近く鳴らして、やっと受話器がとられた。
「山本太郎ですが、慶子さんお目ざめですか」
「ちょっとお待ち下さい」
まちがいなくお母さんの声だが、ちょっと不機《き》嫌《げん》な表情があった。やっぱり起きてなかったんだな、と太郎は思った。自分の方が少なくとも、千頭家よりは早く目を覚ましていたのだ。
「あのね、僕、明倫やめて北川へ行くことにした」
「そう」
思いなしか、慶子さんは気のない声を出した。
「それを知らしたくて、電話したんだ」
「山本君がいいんなら、それが一番いいじゃない」
その言葉の裏には、冷やかで無関心なものが、音を立てて流れていた。明倫の山本太郎になら千頭さんは興味を示し、北川に行った太郎はもう彼女の世界の外にいるように思っているみたいだった。
第二章 都落ち
1
山本太郎は、新幹線の席におやじとおふくろを並《なら》んで坐《すわ》らせると、自分は数列前の席へ行った。
「太郎の席は並んでないの?」
信《のぶ》子《こ》は尋《たず》ねた。
「別なんだよ」
「一緒《いっしょ》に買っても、別なの?」
「うん」
と言ったが、実は買う時に、わざと操作したのである。緑の窓口で切《きっ》符《ぷ》を買う時、太郎は、初め二枚買い、それから、駅をぐるりと一廻《まわ》りしてから、又《また》一枚買ったのであった。父ちゃんと母ちゃんと並んで汽車に乗って、蜜《み》柑《かん》買ってもらって食べるわけではない。これから名古屋で一人で暮《くら》そうという時には、新幹線も本当は一人で乗りたいのであった。
金は出すから、一人で下宿を見つけておいで、と言われれば、太郎は自分で何とかするつもりである。しかしアパートを買うとなると、その責任は負いかねた。
太郎は新幹線に乗る度《たび》に、いまだに感動を覚えるのであった。新幹線ができる時に日本の識者たちは何と言ったか、太郎はやや早熟なところもあったから、一部覚えているのである。日本人は何でも反対すれば、「男」も「女」も立つ国民らしい。あの時、皆はこぞって悪口を言ったのである。新幹線について、あれを心から賛成した具《ぐ》眼《がん》の士は、全くいなかった訳ではないだろうが、殆《ほとん》ど目立たないくらいだった。
おおかたは何と言ったか。モータリゼーションの時代に、鉄道を作るなどというのは時代に逆行するものだ。しかしそれにも拘《かかわ》らず、新幹線は外国に対して日本の発展を示す、もっとも視覚的な表現の代表にもなった。富士《ふじ》山《やま》は雲がかかれば見えないし、ゲイシャに会うことは金がかかりすぎる。しかし、新幹線は日本に観光に来たどの外人も乗ることができる。地面に足をつけたまま、一時間二百粁《キロ》のスピードで移動できるという感激を味わえる。
あれから十年、新幹線は延べ七億五○○○万人の人を運んだ。しかも無事故だった。その偉《い》大《だい》さについては、人は何も言わない。讃《ほ》めもしない。自分のような、半大人だけが、心から偉《えら》いと思っている。
「先生!」
突然《とつぜん》、誰《だれ》かが、頭の上で太郎を呼んだ、と、少なくとも太郎は思った。しかし、先生、と呼ばれる当てはなかったので、太郎は、目を上げて、太郎の目の前に立っている男を見上げた。まだ、二十代の初めの、もみ上げの毛を長く伸《の》ばし、サングラスをかけ、ダッフル・コートを着た青年である。
太郎は素《す》早《ばや》く、このあたりで「先生」と呼ばれるにふさわしい男たちを探した。
「先生、申しわけありません」
若い男は言った。サングラスをかけているので、いったい、誰に向って言っているのか一向に視線の落ちゆく先がわからなかった。
三人掛《が》けの席の、太郎は一番通路際《ぎわ》にいた。その隣《となり》は、空席で、一番窓際には、太郎風に言うと「ガキ」が一人坐っていた。十五、六歳。癖《くせ》毛《げ》で、ちょっと甘《あま》ったるい顔つきをしている。黒いオーバーを着て今まで、ずっと景色を見っ放しだった。ダッフル・コートの青年は、その「ガキ」に向って、言っているように見える。
「グリーン車の方、ずいぶん探したんですが、どうしても、今日は満席なんだそうです。名古屋からならあくかも知れないんだそうですけど」
「じゃあ、仕方ないよ。名古屋からは頼《たの》んでおいてくれた?」
「それはもう、頼んで来ました」
「ごくろうさん、もういいよ、坐れよ、君も」
「はあ、どうも、すみません、こんな席で」
その間に、太郎は頭の中で、目まぐるしく芸能週刊誌の頁《ページ》をめくっていた。どうも、どこかで、見たことがあったような気がしていたが、恐《おそ》らく、この「ガキ」は最近売り出しの中学生歌手だったような気がする。来年になると「××君もいよいよ高校生!」とか何とかいう記事が出て、女の子たちはいよいよ熱狂《ねっきょう》的にファンになるのだ。
太郎の隣席《りんせき》に、「ガキの先生」のつき人のダッフル・コートが坐ったのをきっかけに、太郎は、ぷいと席を立ってしまった。母たちの並びの、通路をへだてた反対側の席があいていたので、太郎はそこに坐った。
「どうしたの?」
信子が訊《き》いた。
「おもしろくもねえなあ。何が、こんな席にだよ、おれだって坐ってるんだぜ。あんな奴《やつ》こそ、グリーン車へ行っちまえ」
「誰かが、そんなこと言ってるの?」
「そう、バカ野《や》郎《ろう》がいるんだよ」
「その人、きっと、年のせいか、体のどこかが悪いのよ。体の悪い人は、ちょっとシートの具合が悪くても、こたえるものらしいよ。私も年とったり、病気になったりしたら、ぜったいグリーンに乗って楽するからね」
「勝手に乗れよ」
あの「ガキ」は子供の癖に、精神も体も老人なんだな、と太郎は思うことにした。
親子は、名古屋駅前の、太郎が受験の時に泊《とま》ったホテルに入った。
「悌《てい》四《し》郎《ろう》さんには、夜、会うことにして、私は本坊さんに電話をするわ」
母は言って、すぐに親友を呼び出した。
「ええ、とうとう来たのよ。仕方ないでしょう、落ちつくまでは」
母は珍《めずら》しく、女言葉で話している、と思ったら、間もなく、
「そう? 本当に、ホテルまで迎えに来てくれるの? 悪いね」
ということになった。第一にするべきことは、北川大学へ行って、入学金を納め、それからアパートを探すのである。
本坊菊《ほんぼうきく》子《こ》は、中背でがっしりした体格をしていて、ひどいおんぼろ車に乗ってやって来た。
「太郎ちゃん、もう大学だって、生意気ねえ」
というのが、彼女の洩《も》らした唯一《ゆいいつ》の感想だった。
「男は後ろへ乗ろう」
と太郎はホテルの地下駐車場《ちゅうしゃじょう》で本坊の小母《おば》さんの車に乗るとき提案した。
「その方がいいわ。お母さんと私はお喋《しゃべ》りするから、前にかたまった方が、まだしも少し静かだわ」
菊子が言うと、山本正二郎《やもまとしょうじろう》は、
「いや、どこにいても、賑《にぎ》やかは賑やかですがね」
と笑った。
「太郎ちゃんも、ついに、この町で暮《くら》すことになったかねえ」
車を町へ乗り出すと、本坊菊子は感慨《かんがい》深げに言った。
「この町は、いかがですか?」
太郎は尋ねた。
「いいところもあるのよ。少なくとも、東京よりはおいしいものあるから。東京だって、お金出し放題の人は知らないわよ。でも、うちはそうはいきませんからね。安くておいしくないと困るのよ。だけど、その他《ほか》の点では、ここは大きな田舎《いなか》だわ」
「僕《ぼく》は、くだるのやくだらないのや、いろんな本を読むんですけどね。その本の中に、こういうのがあったんです。或《あ》る人間が、或る土地に愛着を感じているうちは虚《きょ》偽《ぎ》的だ、って」
「へえ」
「つまり、その土地と深く係《かか》わりを持たないうちは、無責任に愛していられるんですね。その典型は、旅人、つまり観光客なんです。しかし、愛してだけいられるのは、その土地について、何も責任がないからなんだ。本当にその土地に住んで、その土地の人と商売をしたり、一緒に何か仕事やったりすると、必ず、相手を憎《にく》むようになって来る。憎みながら愛する、愛しながら憎む、どっちでもいいんですけど、そうならなきゃ、本当にその土地とその人とのつながりが出来たことにはならない。だから小母さんは、本当にこの土地に住んだっていう資格ができたんです」
「へえ、そういうもんかしら」
「少なくとも、僕たちが、将来、やる仕事の分野ではそうだと思います。只《ただ》、ほめてだけいるなんてことは、あり得ないし、もしあったら、その人はその土地について、現実に見てない証拠《しょうこ》だと思うんです」
「いっぱしなことを言うわね。太郎ちゃんも」
「そうよ、この子は、口が一番達者なの」
信子は少しも労《いたわ》りのないことを言った。
北川大学は、丘《おか》の上にあった。
「ねえ、ねえ、おやじさん、どうして大学って丘の上にあるんだろうね」
太郎は、前の席の女たちの会話の邪《じゃ》魔《ま》にならないように小声で言った。
「初めは土地が安かったからさ。平地は高いからね。しかしこれはあんまり大きな声じゃ言えないけど、低い所にある大学は、どうもあまりよくならない」
「心理学かね」
「わからん。それと、緑のない大学もだめだね」
「どう、だめなの?」
「学生がすぐ、ケンカするんだ。大学なんてものは、容器《いれもの》さえあればいいようなもんだから、銀座の真中のビルでだってできそうなもんだけど、それをやると、必ず破《は》壊《かい》的な行動に出る」
「単純なもんだね、人間て」
「まあね」
「そういう因果関係、って、しかし軽くみちゃいけないんだろうね」
「文化人類学さ、それが」
太郎は、わかったような気分にさせられた。
名古屋という所は、いつ、いかなる理由によって、こうなったのか、まだ太郎にはわからないが、昭和区の一部に、名大をはじめとする大学が集められていた。北川大学はその一番はずれにある。
本坊夫人が、正門の傍《そば》の駐車場に車を乗り入れて停《と》めると、母が言った。
「お父さんと、行っておいで、私たちはここで待ってるから」
「うん」
太郎は多少、ほっとしながら言った。それから、父に向って、
「金、持った?」
と確かめた。
「まず、合格を確かめてからだ」
と父は言って歩き出した。
左手に礼拝堂《チャペル》らしい塔《とう》が見えた。
「宗教が基《き》盤《ばん》になっている、ということは強いもんだ」
父はちらと横目で、礼拝堂の方をうかがいながら言った。
「ヨーロッパでは、まず病院には必ず礼拝堂《チャペル》がある。薬で病気をなおす以外に、心をいやさねばならんからな。死ぬ人間には、死ぬ準備をさせなきゃいかん。大学にも礼拝堂のあるところは多い」
「信者でなくても、あそこに入っていいんだろうか」
「構わんだろう。あそこは瞑想《めいそう》の場所だ。神と人間の対決の場所だからな」
「そういう場所のあることはいいね。瞑想なんて言葉、今の日本にはあまりないけど」
しかし、構内は、神と人間の対決の場所ばかりではなさそうだった。事務室のある本館の横の壁には、「反動内閣撃滅《げきめつ》」「米帝主義打《だ》倒《とう》」「大資本のアジア侵略《しんりゃく》を許すな」という大きなスローガンが赤や黒で書きつけられているのが見えた。
太郎は、自分の受験番号を、もう一度、掲《けい》示《じ》板《ばん》で確かめてから、ちらほらとしか人気のない窓口に行き、十七万八千円ばかりの金を納めた。
「静かだね、この大学は。だけど見た?」
手続きをおえて外へ出ると、太郎は父親に言った。
「今の建物、G・B・カーターのデザインなんだよ。カーター設計事務所って、頼むとすごく高いんだってね」
「高くったって、ろくでもない設計もあるけどね」
「僕はね、カーターの作品って少し記《き》憶《おく》あるんだ。あの人のね、数寄屋《すきや》、感心したことあるんだ。外人が数寄屋いじくるとね、実に不安定になる時もあるけど、カーターの作品は、妙《みょう》に腰がすわっててね、外人しか創《つく》れない数寄屋にしてるんだ。もっとも、ビルヂ《・》ングの方は感心しないのもあるけど」
「この建物は好きか?」
太郎は、陽《ひ》ざしの中を振《ふ》り返ってもう一度全景を眺《なが》めた。
「あんまりね。ただ、僕は、大学にはすごく貧乏《びんぼう》でもへっちゃらだという精神と、贅沢《ぜいたく》好みと両方いると思うんだ。だから、建物にお金かけるなんて好きだな」
嫌《きら》いだっていいんだ、と太郎は思っていた。少なくとも北川には、こうして心にひっかかるものがある。しかし明倫には、何もなかった。それだけのことなのだ。
車の所に戻《もど》ると、本坊夫人と母は、礼拝堂の方から戻って来る所だった。
「ちょっと、神さまにご挨拶《あいさつ》して来たのよ」
母が言った。
「ここで、太郎が、四年間、お世話になるんだから」
母はそこまでは、しおらしい言い方をしたが、突如《とつじょ》として声を張り上げた。
「しかし、あの本館の建物の、あのスローガンは何よ」
「知らねえよ」
「太郎、この大学へ入ったら、あんな薄汚《うすぎた》ないもの、梯《はし》子《ご》かけて上ってって消しておいで。米帝主義反対もけっこう。大資本は今さらアジア侵略を考えるほどバカでは商売できないと思うけど、反対するならそれも大賛成。書くなら、ちゃんと、掲示板なりなんなり書くべき所があるよ。公共の建物を、自分たちの勝手な思想で、汚《よご》すなんて何事です」
「おれに言ったって、しようがないよ。そう思うのは、年《とし》、年《とし》」
太郎はおろおろした。信子は何も気がついていないらしいけれど、どうしてもこの大学の、教師か事務の人としか見えないような男が、こちらへ近づいて来ていて、信子の声はもう充分《じゅうぶん》、彼《かれ》の耳に届きそうだったからだった。
「お父さん、どこの大学もそうなんですか」
「まあ、そうだろうね」
「なぜ、消さないんです」
「消そうとしたら、殺されちまわあ」
太郎は少しオーバーだとは思ったが、物わかりの悪いおふくろを黙《だま》らせるには、その方が有効だと思って言った。
「情けないね。なんて皆、勇気がないんだろう。私が学生だったら、断然、上って行って消してやるわ。私は、高い所平気なんだから」
「わかったよ。もういいから、アパート探しに行こう」
やっぱり親を大学の構内に入れたのはまちがいだった、と思いながら、太郎は、おふくろを、本坊さんの車の中に押し込《こ》んだ。
2
一行が北川大学の本館前の駐車場《ちゅうしゃじょう》に停《と》めてあった本坊さんの車に乗り込むと、山本太郎は、やっとほっとした。
「太郎ちゃんのすみか《・・・》のこと、手紙で、ご意向伺《うかが》いましたから、主人とも相談してみたんです」
本坊夫人は山本正二郎に言った。
「アパートの適当なところを、ということでしたでしょ」
「学生ですから、本来なら下宿をさせればいいことなんですが、カミさんの訳した本が少し当って、あぶく銭《ぜに》が入ったらしいので」
「アパートは確かに東京よりは多少お安いのよ。それだって、場所によりますけどね。太郎ちゃんは、盛《さか》り場の近くで、つまり本山とか今池とかに住みたいみたいな話だったけど、あの辺はてんで高くてだめよ。だからもう少しはずれの方で探して、ボロ自動車でも買って通うつもりになったらどうかしら」
「あのう、僕《ぼく》は、自動車の運転はしたくないんです」
太郎は口を出した。
「僕、自転車で通いますから、自転車で大学から三十分以内くらいのところが、希望なんです」
「自転車で三十分というと、どれくらいの距《きょ》離《り》になるの?」
本坊夫人が尋《たず》ねた。
「十数粁《キロ》だと思います」
「外から見ただけですけど、あちこちに『入居者募集《ぼしゅう》』という幕をかけたアパートがありますな。あの中から、手《て》頃《ごろ》なのを探せばいいと思って来たんですが」
山本正二郎は言った。
「それがね、山本さん。名古屋は、いわゆる本居・永住ということじゃなくて、お仕事のための、一時転勤組が多いでしょう。その人たちのためにアパートは賃貸《ちんたい》が殆《ほとん》どなんですよ」
本坊夫人は説明してくれた。
「なるほど、それは困りました。借りるなら学生課で紹介してくれる下宿の方が、ずっと経済的でしょうしね」
「それで分譲《ぶんじょう》アパートのちらしを、デパートの住宅相談室へ行って貰《もら》って来ておいたんです。うちでとってる新聞のさし込み広告で入って来たのもあるし」
「それはどうも、たすかりました」
本坊夫人は、一束《ひとたば》のちらしを車のポケットからとり出した。
「太郎ちゃん、一人でアパート住いをするとなると、ご飯も自分で作るわけ? それとも外食するの?」
「自分で作ります。僕、たくさん食べるでしょう。ご飯だって一回に二合ずつだし、おかずの量も多いから、外で食べてたら、やってけない、と思うんです。僕、掃《そう》除《じ》、洗濯《せんたく》、炊《すい》事《じ》、別にいやじゃないんです」
「私のしつけがいいからよ」
母の信子が本坊夫人に言った。
「お宅も、どうせ、そうなるわよ。あなただって面倒《めんどう》見《み》がいい方じゃないから」
「この広告を見ると、もう完成してて、しかも空き間があるっていうんじゃないんですね」
広告の紙に眼《め》を通しながら尋ねた。
「そうですわね。やっぱり何カ月か、後にできるのを待って、お買いになるほかはありませんわ」
「私が買うんじゃありません。女房《にょうぼう》が買うんです」
何を思ったか、山本正二郎は本坊夫人に訂《てい》正《せい》した。
「どちらでもかまいませんわよ」
「よろしかったら、この中でいくつか、モデル・ルームのあるのを見に出かけたいと思うんですが」
「これから早速《さっそく》まいりましょうよ。そのつもりでいたんです」
太郎は車の中で急に心がおとろえるのを感じた。それは、忘れかけていた或《あ》る感覚に似ているように思ったので、太郎はじっと眼をつぶって、その源泉になっているものを思い出そうとした。それはまだ自分が小学生の低学年の頃《ころ》だった。或る日太郎は、母に、子供服売場に連れて行かれた。太郎はそこで、セーターでも学生服でもない、既《き》製服《せいふく》のチェックの上着と半ズボンを試着させられそうになった。それは太郎にとって、紛《まぎ》れもない屈辱《くつじょく》だった。自分が望みもしない、自分の生活に不用なものを、無理やりに身につけられそうになる。太郎は後ずさりし、喚《わめ》いた。
《僕ね、本当に、いらないんだよ。僕、服なんかいらないんだよ。僕、パンツだけあれば何もいらないんだよ!》
今の心境は、その時とは多少違《ちが》う。太郎はできれば、狭《せま》いアパートには住みたくない。せめて、本が二百冊くらいは置ける空間をほしい。しかし、身分不相応な暮《くら》しもまた、恐《こわ》いのである。
「どこから見ますか?」
本坊夫人が聞いてくれた。
「この中で、買えるかも知れない範《はん》囲《い》の部屋があるのは、この二つですな」
山本正二郎は本坊夫人に、二枚のちらし紙を渡《わた》した。
「東山公園と上社《かみやしろ》ね」
「東山公園はダメだよ」
太郎は口を出した。
「どうして?」
「あそこは、いい住宅地だもの。そんな所のは高くてだめだ」
「じゃ、上社から見ていらっしゃいよ。そっちのから見て、東山公園に戻《もど》ったらいいわ」
母たちが喋《しゃべ》り続けている間、太郎はじっとあたりの風景を見ていた。
東山公園を抜《ぬ》けると、道は広々と明るく乾《かわ》いて来る。太郎には、このあたりの土地が、十年前にはどんなだったのか、想像もつかない。広い道の両側には、アパート群、ドライヴ・イン、レストラン、自動車会社などが並《なら》んでいる。ただ、附《ふ》近《きん》には、殆ど木らしい木が一本もない、と言ってもいいのだ。照葉樹《しょうようじゅ》林文《りんぶん》化《か》圏《けん》に属するという日本は、どこへ行っても、朽《くち》葉《ば》が土に還《かえ》る時の湿《しめ》った匂《にお》いがついて廻《まわ》る。しかし、このあたりには、そのような陰湿《いんしつ》なものは何一つないのだった。あくまで乾いており、明るく、陰影《いんえい》がなかった。
それは新開地だった。新しく「市民」を生かすために作られた、人《じん》為《い》的な土地だった。そして、そのような土地に住むことを考えてみたこともなかったために、今、太郎は微《かす》かなとまどいを感じていた。
上社は、地下鉄の終点より一つ手前の駅だった。地下鉄とは言っても、高《こう》架《か》になっている駅の建物は、高々と、宙に浮いて見えた。東名高速道路もすぐ近くに灰色の帯のようになって続いている。アパートとそのモデル・ルームは、地下鉄の高架線をくぐったところにあった。もっとも建物はまだ、地下の基礎《きそ》を掘《ほ》っている段階だった。
「とにかく、モデル・ルームを見ましょうよ」
太郎はいつの間にか、靴《くつ》を引きずって歩いていた。これは、母から厳に戒《いまし》められていることだったが、或る種の衰《おとろ》えた心理状態になると、シャックリとか、貧乏《びんぼう》ゆすりとかと同様、とめようとしてもとめられない癖《くせ》になるのだった。
モデル・ルームはすぐ近くの、まばらな商店街の間の空き地に、一戸建ちの家のように出来ていた。
「ごめん下さい。お部屋見せて頂けます?」
本坊夫人が声をかけると、中から、社員らしい男が出て来て四足分のスリッパを並べた。
「どうぞ、お入り下さい」
それは広大なフラットのモデルだった。太郎たちは十四畳《じょう》はたっぷりあると思われるリビング・ダイニング・キッチンに通された。
「こんなの、どうしようもないよ、おやじさん」
太郎は小声でうろたえた。
「これを買うとは言ってないよ」
そういう会話が聞えたと見え、太郎たちの前に素早く、本式のパンフレットがさし出された。
「もう少し、こぢんまりしたのをお望みでしょうか」
「そうですね、本当は一DKを、と思ってたんです。六畳一間に、六畳のダイニング・キッチン、というようなのがあれば、と思いましてね」
山本正二郎は正直に言った。
「お客さまは、失礼ですが、東京の方でいらっしゃいますか」
「そうですが」
「もちろん、絶対にない、というわけではありませんが、名古屋でいわゆる分譲マンションをお探しの場合、一DKというのはきわめて少ない、と思うんです」
「そうですか」
「最低で、この私共のマンションにございます二DKですね。六畳二間とダイニング・キッチンです。このあたりに賃貸のアパートがいくらでもありますが、それでも特殊《とくしゅ》なものを除いて、大ていは、六畳二間と、六畳くらいのダイニング・キッチンというのが多いですから」
「それは、そうなのよ」
本坊夫人が口を出した。
「やっぱり、知り合いの人がアパート探すのに、ついて歩いたことあるの。それが大体、そういうタイプなのね。それでお家賃が、三万円ちょっとくらいかしら」
「そんなものでしょうね」
マンション屋の社員が頷《うなず》いた。
「名古屋っていうのは、やっぱり東京よりのんびりしてて、夫婦と子供なら、それくらいの面積いるだろう、っていう考え方なのかしらね。それと、たとえば、玄関《げんかん》なんてのも、何となく間のびしてて、そこに一坪《つぼ》分くらいの板の間がついてたりするの。そういうとこはいいんだけど、もう少し狭くてもいいから、安い家を探そうという場合には少し困るのよ」
「只今《ただいま》、四区画だけ、この小さいのが空いております。そのうち二つが、西南向きで……」
「大分西にふってますね。きっと西《にし》陽《び》は暑いよ」
信子が言った。
「そうですね。午前十時頃からは陽が当ると思いますが……。冬は暖いと思います」
「幾《いく》らなの?」
太郎は尋ねた。
「七百八十万円です」
「母さん」
太郎は言った。
「もし、無理してこれを買ったとして、心臓悪くならない?」
「心臓?」
「身分不相応な買いものすると、よく心臓の発作起して、ころりと死んじまうんだってよ」
「ご冗談《じょうだん》を」
マンション屋の男は、こんな会話を目の前で聞かされたことはないらしく、そう言い捨てると、新しく入って来た客を迎《むか》えるふりをして、これ幸いとばかりそちらの方に立って行ってしまった。
3
山本太郎は、モデル・ルームのリビング・ダイニングの応接セットに腰《こし》を下ろしながら一、二分の後に、居なおるような心境になり、アパート屋の男がくれたカタログの中から、一番小さい区画だと言われたものの間取りをじっと眺《なが》めた。
「これにするか」
と呟《つぶや》いてみると、本当に罰《ばち》が当りそうな気がして、太郎は又《また》、胸がどきどきした。
「ねえ、ねえ、母さん、伯父《おじ》さんがくれた三百万円じゃ、とても、これ買えないよ」
太郎は小声で言った。父と本坊夫人はモデル・ルームの風呂場《ふろば》を見に行っていた。
「お父さんから、二百万円出させよう」
「あの人、それくらい、あるかねえ」
「それから、私の印税が入るから」
「でも足りないだろ」
「その分は、ローンにするか、銀行から借りるよ」
「度胸があるんだね。僕《ぼく》は親の遺言《ゆいごん》で、借金して物買うのはいけない、って言われてるんだけどね」
太郎は母の顔色をうかがいながら言った。
「それより、カタログで間取りや通風なんかをよくごらん」
「見た」
「悪くないと思う」
「西《にし》陽《び》が当るのは僕、平気なんだ。僕は暑さに強いし、冬は、いつまでも暖かくて、燃料の節約になる」
「火事の時の逃《に》げ道は? それから、最上階かその下か」
「僕、非常口の真前《まんまえ》の部屋がいいよ」
「六畳《じょう》一つが、洋間で、一つが畳《たたみ》だけど、それでいいの?」
「僕、畳の部屋はいらない」
「便利なのにね」
母の信子は言った。
「狭《せま》い家は畳に限るのに」
「でも僕、胡座《あぐら》かけないんだ。正座なら出来るけど」
「お風呂場を見て来よう。お風呂場は、このモデル・ルームと同じなんだから」
太郎は、父たちと入れ違《ちが》いに、浴室と洗面所と手洗いの集まっている部分を見に行った。手洗いは西洋風で、浴室は、浴槽《よくそう》と、浴槽に入る足場の部分と、流しが一続きにうちぬかれているプラスチック製だった。
「いいね、こういうの」
合理的なことが、けっこう好きな信子は、うっとりして、浴室を眺めた。
「プラスチックが割れない限り、これじゃあ水《みず》漏《も》れしない。うちのお風呂場、タイルの下が腐《くさ》って往生《おうじょう》したものねえ」
太郎は別のことを考えていた。彼は浴室が巨大なプラスチックの容器に見えはじめたのだった。
「いつかね。黒谷の奴《やつ》が、どこだったかの駅《えき》弁《べん》買って来てくれたんだ。あれ母さんに見せなかったかなあ。ここんところに、飯が入ってるだろ」
太郎は浴槽をさした。
「この足場のとこに、すごくうまい山菜の漬《つけ》物《もの》がちょびっと入ってて、この流しのとこ全体にタラの煮《に》つけみたいなのが詰《つ》めてあったんだけど、あれ、うまかったなあ」
「どこの駅弁?」
「忘れた」
太郎は洗面所の鏡の前に立ち、指で前髪《まえがみ》を撫《な》でつけた。とは言っても、実はこれで、三日くらい、櫛《くし》をなくしたので、髪をとかしていないのだった。
「母さん、こんなアパートに住まわしてくれるんだったら、夢《ゆめ》みたいだけど、本当に、お金のことで心臓病おこしそうだったら、やめてよね」
太郎は念を押《お》した。
「わかってるよ。必ずしも、太郎のために買うんじゃないんだから」
「へえ、何のため?」
「これでも、値上りするかも知れないじゃないの。儲《もう》けようと思ってるのよ、働かないでお金儲かったら楽だものね」
「うん、うん」
父と本坊さんは、けろりとして、買うか買わないかわからないのに、芝《しば》居《い》の舞《ぶ》台《たい》みたいな応接セットに坐《すわ》って、アパート屋の出してくれたお茶を飲んでいた。
「原則として、気に入ったわ」
母の信子が言ったので、太郎ははらはらした。そう簡単に言ってしまって、定価のようなものが書いてあるから、いいようなものの、これが話にきいた外国のように、お互《たが》いに死力をつくして値切る習慣のある国だったら、一たまりもなく、高く売りつけられるに決っている、と思った。
「でも、僕は少し考える」
「それもよかろう」
父はあっさりと言った。アパート屋は不安に陥《おちい》ったようだった。
「決してご無理におすすめするわけではないんですが、先刻も申しましたように、この小さい所は、もう四戸しか残っておりませんし、売れる時はどうしても、こういうお手《て》頃《ごろ》のから売れて行きますので」
「そうでしょうね」
母はお人《ひと》好《よ》しな返事の仕方をした。
「考えるったって一晩ですよ」
「さよでございますか。では、お買上げの節は、ご希望の向きの部屋をおとりできた方がよろしいので、一刻も早くお電話下さい。私はこういう者でございます」
男は名《めい》刺《し》をさし出した。
本坊夫人は、外へ出ると、
「どうする? 東山公園のアパートも見る?」
と尋ねた。
「僕思うんだけど東山公園のは見たってしようがないと思う。値段も高いし、管理費が一《ひと》月《つき》、一万五千円なんて、ふざけてるよ。その代り、僕、その辺の賃貸アパート見たいや。もし何だったら、買わずに借りりゃいいんだから」
「そうね。それこそ、勉強のために見て行きなさいよ。太郎ちゃん、社会学やるんでしょ。それだったら、アパートのことだって知っとくべきだわ」
本坊夫人は、いくら言っても、人類学と、社会学をごっちゃにしていた。
「じゃあ、どれでもいいのね。中を見るのは」
「どれでもけっこうです」
本坊夫人は表通りを、市内の中心に向って走り始め、やがて、道を左折した。前方にできそこないの南欧風《なんおうふう》のテラスをつけたアパートが高台に見え本坊夫人は「あれなんかどう?」と後ろをふり向いた。アパートの外側には、大きく、入居者募集《ぼしゅう》の垂れ幕がかかり、テラスには、蒲《ふ》団《とん》や洗濯物《せんたくもの》が一せいに干されていた。
「ねえねえ、僕いつも思うんだけど」
太郎はいつもの言い方で話をすすめようとした。
「外国じゃあ、洗濯物を外に干すのは、貧民《ひんみん》のやることだってね。僕、本で読んだんだけど、母さんは、赤ん坊もいないのに、今でも古い金網《かなあみ》のおむつ干し拡《ひろ》げてストーヴの傍《そば》に置いてるでしょ。あれなんか、外国じゃ、ぜったいにしてはいけないことなんだってね。洗濯物を干していいのは、浴室の中だけなんだって。だけど、日本人がやるのはなぜでしょう」
「私は湿《しつ》度《ど》と、床《ゆか》の上に寝《ね》るせいだと思うの。つまり蒲団は湿《しめ》りやすいのよ。だから、ああいうふうに、いつもいつも蒲団を日に干す気になるんだと思うわ」
本坊夫人が代って答えた。
「僕はそう思わないんです」
太郎は、反対の意見を述べた。
「うちのおふくろなんか見ててもわかるんですけど、フトンを仕舞《しま》うっていうのは、何となく心理的にいやなものらしいですね。一つには押《おし》入《い》れの構造がよくないんです。上段に入れようとすると、力を入れて持ち上げなきゃいけないでしょう。下段はかがまなきゃいけないでしょ。テラスに干すのは、押入れに入れるより楽だから、あそこへ仮仕舞するんですよ」
「そういう面も確かになくはないわね」
「それと、日本の家ってやっぱり寒いでしょう。北海道をのぞいた日本の北の方の家は、人間がごく普《ふ》通《つう》に住んでいる家の室内温度の低さとしては、世界有数なんです。つまり、エスキモーだって、もっと室内はあったかくしてるってことです」
「そうでしょうね。北国《きたぐに》の旧家のお座《ざ》敷《しき》なんかに通されてごらんなさいよ。震《ふる》え上るくらい寒いから。急いでガス・ストーヴなんかつけてくれるけど、天井《てんじょう》は高いし、欄《らん》間《ま》はすけすけだし、そういう家に招《よ》ばれて、寒いからオーバー着せといて頂きます、という訳にもいかないしね」
「つまり日本の家庭は、全体的に暖房《だんぼう》費《ひ》けちってるでしょう。だから、せめてタダの太陽でフトンあっためよう、って魂胆《こんたん》なんですよ」
「一人が貧乏《びんぼう》たらしくすると、競争で、洗濯もの干すようになるんだわ」
「東京で、一つだけ、それに成功したアパートがあるんです。話を聞いただけなんですが、そのアパートは、とくにデラックスっていうわけでもないんです。ですけど、同じアパートに、三軒《げん》、心を同じにする友達が住んでいた。そこで実験をやったんですね。まわりがいかに、おむつや靴下《くつした》干そうとも、その三軒だけは、テラスをいつもきれいにしようって。結局その三軒は、花を植えたんです。それと、ツタみたいなのを……何て言うのか正確な名前は知らないんですけど、そういうのを生やした。そしたら、そっちの方の流行がそのアパート中に拡がったんです。だんだん、皆が負けじとばかり、テラスに花を作るようになって、洗濯物は奥《おく》に引っ込んでしまって、今、そのアパート、建物は古いですけど、とても風格のある建物になってるんですよ」
「それ、生きた社会学ね」
本坊さんはアパートの前で車を停《と》めた。母が、「太郎、管理人室を探しておいで」と言ったので、太郎は、どたどたと靴を鳴らしながら、空室を見せてもらえるように頼《たの》みに行った。
管理人は若い奥さんだった。
「来月になると、もう二部屋ばかり空くんですけど、今は二階のだけなんですよ」
「どこでもいいんです」
四人は一列になって二階に上った。
家具が何一つないせいか、部屋の中はがらんとして、ひどく広く感じられた。入ったところが、七畳半くらいのダイニング・キッチン。その奥に、六畳が二間ある。
「中はずいぶん広いね」
太郎は、あたりを歩き廻《まわ》った。
「これで、部屋代、おいくらですか」
「三万三千五百円です。それに権利金と、敷《しき》金《きん》が……」
太郎は和室の入口に立っていた。六畳は二間とも、テラスの開口面に向って、長く開いていた。日当りも風当りもよさそうだった。只《ただ》、太郎はまだそれほど汚《よご》れているとも言えない畳を見ていた。それは銀ラメの入った緑色の縁《ふち》がついていた。
「父さん」
太郎は小声で言った。
「このアパート広すぎるし、バチ当りなくらいだけど、僕……」
「どうしたんだ」
「何だか落ちつかないんだ」
「初めて、家以外のところに住む時は、誰《だれ》でもそんなもんだ」
「そうじゃないんだ。このキンキラの畳の縁とね、それから、このお風呂のタイルとガラスが困るなあ」
太郎はいよいよ小さな声になりながら言った。
「このタイルの色、水色と小豆《あずき》色《いろ》と黒と緑でしょう、僕、困るんだよ。それと、ガラス窓。曇《くも》りガラスに桜《さくら》の花びらが散ってる。このアパート、死にもの狂《ぐる》いで、南欧風に見せかけてるんだよ、外観は」
「そんなこと言ったって仕方ないんだ」
「僕、もっとボロでいい。銀のラメが入っていなけりゃ……只の無地の布《きれ》の縁で、模《も》様《よう》がなくて、ふつうの曇りガラスなら、それでいい……」
父は黙《だま》っていた。
「じゃあ、やめるか」
「ごめんね、僕、本当に自分がふざけてると思うよ。我儘《わがまま》で、苦労知らずで、いい気なもんだと思うよ。だけど、ここに住むくらいなら、僕、もっとひどいとこでいい」
「じゃあ、行こうか」
父は声を高めて言った。
「奥さん、ありがとうございました。又《また》考えて出なおします」
太郎は再びうちひしがれていた。
「ねえ、母さん」
本坊さんの車のところへ来ると、太郎は、母の肘《ひじ》の所を、指でつまんで引き止めるようにした。
「母さん、先刻《さっき》のアパート、買ってくれられる?」
「いいよ、少し無理すれば何とかなる。無理のない暮《くら》しなんて、ないからね」
「僕、買ってほしくなっちゃった」
「私も、あのアパート賛成だわ」
本坊夫人も言った。
「あそこ、地下鉄の駅から、一分ですものね。今に必ず値上りするわよ。それに、内装《ないそう》だって、愛想が悪くて堅実《けんじつ》でいいわ。無地のクロス貼《ば》りの壁《かべ》と寄せ木の床じゃ、嫌《いや》味《み》になりようないわ。私そういうものに対する感覚って、わりと大切だと思うわ」
「じゃあ、今から、あそこへ戻《もど》るか?」
母は太郎の顔を見た。
「太郎がお決め」
「買って下さい。地《じ》獄《ごく》に落ちそうな気がするけど」
太郎は心が弱るのを感じながら言った。
「じゃ、戻りましょう。お父さん、いいですか?」
「ああ、よかろう。お前が買うアパートだ」
「変な人ね、うちのお父さんは」
信子はぶつぶつ言いながら、車に乗り込《こ》んだ。
太郎は疲《つか》れ果てていた。運動が足りないせいか、心理的に大きな責任を引っかぶりそうになった現実のせいか、太郎は首と肩《かた》が凝《こ》り始めていた。
「あのね、僕、一生、あのアパートに住むよ」
「そうしなさい」
信子は言った。
「二部屋あれば、奥さんと子供二人くらいまでは住める筈《はず》よ」
「結婚仕《じ》度《たく》ができちゃったじゃないの。ないのはお嫁《よめ》さんだけね、太郎ちゃん」
本坊夫人も言った。
《ジョウダンじゃないよ》というだけの気力すら失って、太郎は車の座席に、はまり込んでいた。
4
少しばかり家に金があるのをいいことに、学生の身分不相応なアパートを買ってもらい、そこでいい気になって、女の子を連れこんで、乱交パーティ、麻雀《マージャン》大会ばかりやる、という光景を、想像しながら、
「母さん、とにかく、今日のところはやっぱりホテルに帰ろう」
と本坊さんが車を出すより前に、山本太郎は言った。
「今晩一晩、考えて、明日の朝もやっぱりその方がいいと思ったら、アパート屋へ電話しようよ」
「方角のいいのは売れちまうかも知れないわよ」
母は言った。太郎はその言葉を歯どめのない車みたいだと思った。
「いいよ、いい所《とこ》なくなったって、それはそれで仕方ないんだ」
「じゃ、ホテルへ送るわ。今夜は、残念だけど、その代り、明日、待ってるわね」
本坊夫人に、今夜は、本田悌四郎と会うので、遊ぶのは明日だと母は初めから手紙で知らせてあったのだった。
ホテルの前で、本坊夫人に車から落してもらうと親子三人は、むっつりして、エレベーターを待った。
「僕《ぼく》ね、今日、悌四郎さんに会わなきゃいけないかな」
太郎は言った。
「そうね、これから世話になる人だからね」
「僕ね、何だか、しんどくなったよ。これ以上、人に会うの」
風呂《ふろ》に入ってから、ひとりで駅の地下街に行き、そこで、豚《とん》カツでも食べて、パチンコをしたい、と太郎は痛切に思った。
「どうしても、会いたくないんならいいよ、会わなくて」
父は言った。
「あなた、そんな甘《あま》いこと言っちゃだめですよ。人間いやでも努めなければいけないこともあるわよ」
「いいよ、いいよ、努めんでよろしい。オレは努力して無理するのは好きでないんだ」
父が言った時、エレベーターが来た。他人《・・》が、二、三人乗り合せたので、太郎はさすがに深刻な話を続ける気にはならなかった。
「とにかく僕、一応部屋に帰るよ。それからお風呂に入って、又《また》、電話する、そっちの部屋七一一号室だね」
太郎は親たちにそう言うと四階で降りた。一人部屋は、どうも四階の裏の、景色の悪い側にかたまっているらしいのである。ドアを後ろ手に閉めると、太郎は靴《くつ》のままベッドの上に寝転《ねころが》った。
あらゆることに図太くあることが、太郎の理想なのだが、大ていの場合うまくいかない。図太くあるということは、しかもどういうことなのだろう。生れつき図太いという人間がもしいるとしたら、それは、鈍感《どんかん》ということなのだと思う。本当は感じているのだが、いろいろ考えてジタバタしてみても仕方がないので、じっと軽挙妄動《けいきょもうどう》せず、かつ、或《あ》る程度、あきらめてしまうことが、図太くなる道だ、というふうに、目下のところ、太郎は考えている。
靴をはいたまま、ベッドの上に倒《たお》れこむ、というのは、ちょっと感じがよかった。この動作は、かなり男性的なものだと思う。自分の家では、靴のまま寝室《しんしつ》に入る、ということがないから、この「雰《ふん》囲気《いき》」は出せないのである。とは言っても、太郎は、自分が靴の汚《よご》れた部分を、ちゃんとベッドカバーに触《ふ》れないように、横っちょにつき出しているのを感じていた。本当は映画のシーンでみるように、靴の埃《ほこり》など気にもしない、というふうにふるまいたいのだが、ホテルの経営のことを考えると、それができないのである。太郎は、こういう自分の小心さがいやだった。これは、あのおやじから受けついだものでもあると思う。おふくろも、根っからケチな奴《やつ》で、旅館へ行っても、子供の太郎が、壁紙《かべがみ》にさわっていると怒《おこ》るのであった。壁紙というものはふ《・》れてしまう《・・・・・》のは致《いた》し方ないとしても、さわっていていい、というものではないというのである。壁紙などにさわれば、こちらの指も不潔になるし、壁紙も汚れるという。太郎は、そのようなおふくろの発想に、時々ひどく苛《いら》々《いら》した。良心的で、合理的みたいなように見えるが、いつもいつも、それを守らされるのは、息がつまりそうであった。もっとはっきり言えば去勢されそうであった。男には、つじつまの合わない、めちゃくちゃなところが必要なのである。たまには無《む》謀《ぼう》なところがないと、精神が萎縮《いしゅく》する。
太郎は、本田悌四郎を決して嫌《きら》いなのではなかった。父方の親戚《しんせき》の中では、むしろ好きなタイプであった。第一に、本田悌四郎は威《い》勢《せい》が悪い。水割りのビールをちびちびすするような表現は、見栄っ張りの正反対なのである。太郎がなぜ、見栄っ張りを嫌うかというと、多くの見栄っ張りは弱いからであった。本田悌四郎のもう一つ立派な点は、人間や世の中を見る目が確かなことである。外界が、穏《おだ》やかに、しかもよく見えると、人間は自然に、落ちついて、肩《かた》の力を抜《ぬ》くことができるものらしい。つまり精神が、もっとも、その人らしくふるまえるようになる。本田悌四郎には、そういう姿勢があって、太郎は決して嫌いではないのだが、今日は、ただ、誰《だれ》であろうと顔を合わせたくない、心境であった。
しかし、いやなことはせんでいい、と言った父親の言葉を思い出すと、太郎は心のひるむのを覚えた。《いやなことをするのは、誰もいやだからな》と父はよく言う。そう言われると、太郎はアマノジャクにも、またその通りになっていてはいけないように思うのであった。太郎は、自分を決して秀才《しゅうさい》だなどとは思っていない。世間通りのいい説明の仕方をすれば、東大なんぞは、受けようとも思わなかった程度の高校生である。しかし、「いやなことは全くしない」ほどの弱い性格でもない。それに本田悌四郎に会うことじたいは、「いやなこと」ではない。
太郎はだらだらと起き上ってシャワーを浴びることにした。本当は太郎は、日本風に「風呂につかる」ことがこよなく好きなのだが、洗い場でざあざあお湯を浴びる快感を楽しめない西洋風の浴室では、もっぱらシャワーを浴びることに決めている。
太郎のシャワーは、三分もかからなかった。ずぶ濡《ぬ》れのままとび出すと、太郎はバスタオルを腰《こし》に巻きつけて、浴室にある電話をとって、父と母のいる七一一号室を呼び出した。
「あのね、悌四郎さん見えた?」
太郎は尋《たず》ねた。
「まだよ。でも間もなくいらっしゃると思うよ」
信子は答えた。
「あのね、僕、シャワー浴びたら、さっぱりしたから、これから行くよ」
「ああ、来るならおいで」
「それから、僕、今、生れて初めて風呂場から電話をかけたんだよ」
「下らないわね」
本当は最後の一言が言いたくて、わざわざ予告したのである。
靴下の片方が見つからなくなっていたのを、ベッドの下からやっと探し出すのに手間どったりして、太郎が七階へ上って行ったのは、それから、二十分近くも経《た》ってからだった。本田悌四郎は、もう来ていて、ベッドの上にあぐらをかいていた。
「やあ、よかったな」
悌四郎がにやりと笑うと、前歯のかけているのが見えた。
「どうも、又、いろいろお世話になります」
太郎はそう言ってから、
「歯をどうしたんですか?」
と尋ねた。
「実はね、柱にぶつかって折ったんだ」
「何でまた……」
「夜中に目がさめて、お便所は大体こっちの方角だと思って起きて歩き出したら、東京の我《わ》が家ではなかったもんでね」
「もうこっちで暮《くら》すようになって、かなりになるんでしょうに、まだ馴《な》れませんか」
信子は感心して言った。
「その日だけ、ふっと、そう思ったんだね」
「会社の連中も理由訊《き》くだろう」
父も言った。
「さすがに体裁《ていさい》悪いからね。カチ栗《ぐり》食べようとしてぶっかいた、って言ったら、又皆笑ったね。何でだろう」
「カチ栗が悪いのよ。もう少し、しゃれたもの食べたことになさればいいのよ。せめてキャンデーとか、ビフテキとか」
「なるほど」
悌四郎は考え込《こ》んでいたが、
「それなら、これから食事に行きましょうか」
とベッドの上から脚《あし》を伸《の》ばした。靴をはくためである。
太郎が悌四郎を頭のいい人だと思うのは、たとえば人を招《よ》ぶ時にも、決して、身分不相応なところへは招かないことだった。親子三人が連れて行かれたのは、栄《さかえ》の繁《はん》華《か》街《がい》の裏手の、どうみてもあまりきれいとは言いかねる小料理屋だった。
「すんませんね。あんまりきれいなうちじゃなくて」
悌四郎は、そこのうちの、おかみさんだか娘《むすめ》だかわからないような洋服の女の人が、お絞《しぼ》りを出している真前で、平気で言った。店にはカウンターが六、七人前分、それに、日本風に坐《すわ》る席が、二卓《たく》分しかなかった。四人はその卓の前に、坐った。
「いつも、ここであがるの?」
母が尋ねた。
「うまいものがあるもんですからね」
「酒を飲まなきゃ悪いんだろうな、こういううちじゃ」
父が言った。
「いやあ、いいんですよ。好きにすりゃ。飲まずに食べてだけいたって、決してここの親《おや》父《じ》は文句言いませんよ」
しかし悌四郎自身は飲まずに食べているだけではなかった。彼はまず、「お酒」と言い、それから、「何を食べますか?」と太郎たちに尋ねた。
「何でもあるな」
「私は、お刺《さし》身《み》をまず頂くわ」
母は張り切った。
「それから後は、また考えますから」
「僕はおでんを頂きます」
太郎は言った。
「遠慮《えんりょ》するなよ」
悌四郎が言った。
「大きな声じゃ言えないけど、ここはかなり安いんだ。安いのがトリエなんだから」
それはけっこう大きな声だった。
「いや、遠慮じゃないんです。お刺身なんてそう言っちゃなんですけど、魚さえ新しかったら、大体、同じ味ですよね。しかしおでんは違《ちが》いますからね。味出すの技術ですから」
太郎は、おでんの中で、牛のスジとジャガイモと竹《ちく》輪《わ》を頼《たの》んだ。
「ここのうちも、名古屋の人?」
父は小声で悌四郎に尋ねた。
「違いますよ。金沢の人ですよ。ですから、わりと夜遅《おそ》くまでやってんですよ。名古屋の店はふつうだと九時にはもう閉めちゃうんだから」
「どうして、そんなに早いんだろう」
「さあ、電燈《でんとう》がもったいないからじゃないですか」
聞きようによっては、悌四郎は、名古屋人が怒るような言い方をした。
「うちの会社だって、皆、社員は早く帰っちゃうんだなあ。残業なんてほとんどしやしないんだから」
「残業した方がもうかるんじゃないの?」
父が尋ねた。
「帰った方がもうかるんですよ。皆、トリ飼《か》ってんだから」
「え? トリ?」
「ニワトリ。ほら、ここは名古屋コーチンの本場でしょう。どこのうちだって、ニワトリ副業にうんと飼ってて、そっちの方でかなりいい収入あるんですよ。会社へは、アルバイトに来てるだけ」
「まさか」
信子は笑った。
「本当ですよ。ニワトリ飼ってないのは、ボクとね、あと一人だけなんだから」
悌四郎はかなりいい機《き》嫌《げん》だった。
「五時になるとね。彼ら、急いで会社から帰っちゃうんですよ。帰りにビール一ぱい、ということもないんだね。なぜかって言うと、ニワトリを、何百羽、じゃない、何千羽って飼ってるところもあるから、早く帰って餌《えさ》作らなきゃならない」
「だって夜は暗くなったら、ニワトリは餌は食べないでしょうに。五時に餌やりに帰ったんじゃ遅すぎないんですか?」
母が原始的な質問をしかけたので、太郎はその素《そ》朴《ぼく》さを訂正《ていせい》しようとしたが、口をぱくぱくさせただけで、結局は黙《だま》っていた。
「今はね、ニワトリ小屋は、二十四時間、照明してるんですとさ。まあ、眠《ねむ》らない動物ってのはないんだろうから、いつかは眠るんでしょうけどね。とにかく、できるだけ早く、大きくしなきゃならないんだから、いつも昼なんですよ。うちの連中はそういうわけで五時に会社を出て、家へ帰って餌をやるでしょう。それから飲みに行こうって気にはならないんだよね」
「そらあ、まあそうだな」
父は相槌《あいづち》をうった。
「それに、ニワトリって奴は朝も早いですからね。会社に来る前に、ちゃんと餌作って来るんだよね。だから、いきおい人間の方も夜は早く寝《ね》ちまうわね」
「それで、名古屋の夜はさびれてるんですね」
「タロちゃん、こういう解釈はどうだね、当ってるかね?」
「わかりませんけど、多分、丸っきりはずれてるということはないと思います」
「名古屋はいい所だよ。まじめでね、食いものだってけっこううまいし。只《ただ》、服装《ふくそう》の趣《しゅ》味《み》だけはひどい。色彩音《おん》痴《ち》みたいなのばっかし……」
「そうですか。さっきここへ来る時、はっとするほど趣味のいい、スーツの女の人いましたよ」
「そういうのは、多分、東京から来た人だよ」
「あのう、僕、鯛頭《たいがしら》の煮《に》たの、ごちそうになっていいでしょうか」
太郎は話が危なくなって来たので、悌四郎の暴走を防ごうとして言った。
「いいよ、食べてくれよ。オレ、鯛のカブト煮好きだっていう奴見ると、ほろりとするんだ。あの味わかるってことはさ、思想がわかるくらい嬉《うれ》しいもんだものねえ」
第三章 巣立《すだ》ち
1
山本太郎は、東京へ帰ると、自分の部屋の襖《ふすま》に、アパート屋からもらって来たパンフレットの、間取り図を張り出した。上の空白の部分には「太郎家、大マンション」と書き加えた。あれこれ考えても仕方がないので、当分の間、高速道路に土地を取られて、俄《にわ》かに何億という金を握《にぎ》った東京近郊《きんこう》の農家のバカ息子《むすこ》のように、有頂天《うちょうてん》になろうと思ったのだ。
太郎は早速《さっそく》、黒谷久《くろたにひさ》男《お》にながながと電話した。
「実に、エレベーターもついたちゃんとしたマンションだ」
「五階まで、あるんだろう」
黒谷は言った。
「まあな、一部はな」
「五階以上あったら、どんなアパートだってエレベーターつけなきゃいけないんだぜ」
「おれはいろいろと考えたんだけど、昔はばあやつきの大学生というのはよくいた。一軒《けん》構えてさ。今はばあやの代りに、洗濯《せんたく》機《き》だ」
「おれ、時々、名古屋へ行くからな」
「来いよ。何しろ、二間だからね。いくらでも泊《とま》れる」
太郎は、二間、という所に、わざと力をいれてみせた。
「アパートができるまでは、どこにいるの?」
入居予定は十月末であった。
「わりと近くにね、まあまあ手《て》頃《ごろ》のが見つかった。端《はし》っこの北向きの部屋なんだけど、比《ひ》較《かく》的安かったから、十月までということで契《けい》約《やく》して来た」
それは民間の賃貸《ちんたい》アパートの、四階の端の一室であった。六畳《じょう》一間に、台所という名の板敷《いたじき》が一畳分ついている。身動きもままならぬほどにしても、浴室もあるのが気に入って、太郎はそこを借りることになったのだった。
《もっと安いとこあんじゃないの?》
太郎はその時、小声で父に言った。
《学生課の前の掲《けい》示《じ》板《ばん》でちょっと見たんだけど、もっと安いのあったよ》
《学生課が世話してるのは、最低一年借りるということで、家主も安くするようにしてるんだ。十月までで出るような人間が、ジャマするもんじゃない》
父は非常に多くの場合、大学側に立って物を言うことが、癖《くせ》になっていた。
何が嬉《うれ》しいと言ったって、好きな時間に眠《ねむ》り、誰《だれ》にも邪《じゃ》魔《ま》されずに本を読み、黙《だま》っていたい時に喋《しゃべ》りかけられなくて済む、という生活がこれからできるのかと思うと、太郎は胸が躍《おど》った。しかし、同時に、そのようなあまりにも自由な生活に、自分が耐《た》えられるだろうか、という不安もあった。人間は不自由の中にいてこそ、自由を想《おも》うのであって、自由の中にいると、食べすぎた後の胃袋《いぶくろ》みたいな気分になるかも知れないのである。
太郎は、或《あ》る日ついに、千《ち》頭慶《かみけい》子《こ》さんにも電話をかけてしまった。
「太郎です」
「あら」
「二、三日前にね、名古屋から帰って来たものですから」
「そう」
千頭さんは言ってから、やっと思いなおしたようにつけ加えた。
「どうだった?」
「うん、アパート買ってもらった」
「そう」
よかったわね、と祝福するようなニュアンスはなかった。
「六畳、六畳、に六畳のダイニング・キッチンのがあってね。少し広すぎるんだけど……」
「そう」
「何考えてるの?」
太郎は聞き返した。
「何でもないわ」
「何でもない、っていう返事じゃないな」
太郎は思った通りに言った。
「そうかしら」
「思った通りを言えよ」
千頭さんは、数秒間考えた挙《あげ》句《く》に言った。
「そりゃ、太郎君の家がどんなことしようと、それは自由よ。だけど、大学生の癖にアパート買ってもらうなんてすごい贅沢《ぜいたく》でしょう。だから、私、何て言っていいかわからないのよ」
「つまり、君は、それを倫《りん》理《り》的に判断してるわけ?」
「判断なんかしてないわ。山本君のうちのことですもの。でも、私だったら、お金があっても、そんなことしてもらわない、と思うわ」
「君んちの方が、恐《おそ》らく、僕《ぼく》のうちより金もちだろうと思うよ。もっとも、そんなこと、どっちがどうだって、子供の知ったことじゃないけど」
「だから、私は別に何も言ってるわけじゃないのよ」
「そう? じゃあ、喜んでよ、僕は嬉《うれ》しがってるんだから?」
「そうね」
予期していた通り、千頭さんの言い方は冷たいものだった。
「聖マリアはどうだった? 行ってみて」
太郎は、むしろ千頭さんが、後で自分の言った言葉によって、太郎《・・》が傷ついたのではないかと心配になるのを恐れて機《き》嫌《げん》よく言った。
「前からよく知ってるから、とくにどうってことないわ。従妹《いとこ》は小学校から聖マリアだし」
「違和《いわ》感《かん》がないってことはいいね。僕は知らない町で暮《くら》して、全く今まで知らない大学へ行くんだから、初めはちょっとぎつばた《・・・・》すると思うんだ」
「あら、だって、それは山本君が望んでしたことじゃない。明倫へ行ってれば、少なくとも住む場所に違和感なんか持たずに済んだんだわ」
「そうだね」
太郎は肯定《こうてい》した。
「僕はさ、自《じ》業《ごう》自《じ》得《とく》でやってんだよ。じゃあね、又《また》ね」
「ええ、さよなら」
太郎はがしゃりと電話を置くと、仕事机の前で、原稿《げんこう》用紙に向っている母のところまで来た。
「あーあ」
太郎は信《のぶ》子《こ》の前で大きく背伸《せの》びをした。縮《ちぢ》んでしまっているセーターはそのままもち上り、ずり下ったズボンとの間に、おへそが覗《のぞ》いた。
「どうしたの?」
「女って奴《やつ》はなあ……」
「女がどうしたの?」
「知らねえ」
太郎は言葉を呑《の》み込《こ》んだ。たとえ、どのようなことを感じていようと、母親の前でそれを言うことはない、という気がしていた。
太郎は男だけあって、あのアパートができ上った日に、それをどのように整えるか、などということについては、考える興味もなかった。今自分が使っている傷だらけの机とベッドを運んで行き、スチール製の本棚《ほんだな》を二つ三つさし当り買わねばなるまいか、と考えていた。
ベッドと机は、新しいアパートには汚《きた》なすぎてそぐわないかも知れないが、太郎にすれば、手馴《てな》れた安心感があるのだった。机には、いくつかの文字が彫《ほ》り込んである。それらの最初のものは、小学校五年生の時に好きになった或る女の子の名前の頭《かしら》文字《もじ》である。その頃の太郎はまだ、アルファベットなど知らないから、「バカ」と彫ったのである。好きになった女の子は、馬場香代子《ばばかよこ》という名前だったから、仕方がない。《うまくないなあ》とは思ったが、親の目をくらますには絶好だった。これらの落書き、傷あとがあって、かつ赤インキ、青インキ、色とりどりのマジック、手《て》垢《あか》などで汚《よご》れていてこそ、机というものは安定するのである。
ベッドの方も、これもかなり年代ものであった。つまり太郎はベビー・ベットから離《はな》れるや否《いな》や、この大人用の寝台《しんだい》に寝かされた訳だから、十五、六年使ったのである。その間に、友達が来ると、スプリングをずどんずどん鳴らして、とび上ったりはねたりして遊んだものだから、マットレスの下のバネが、どうもおかしくなりかけているらしい。それでも別のカチンとした新品ベッドが来たら、太郎は又、落ちつきが悪くなるのではないかと思う。つまり、ベッドのマットの沈《しず》み方と体の恰好《かっこう》とは、どちらが原因で、どちらが結果だかわからない相関関係にあって、マットレスに言わせれば、太郎の体の形に凹《くぼ》んだと言うだろうし、太郎からみれば、マットレスの凹みに合わせて寝てやっている、という感じなのである。
母の信子が時々、名古屋行きの用意について喋っているのを聞きながら、太郎は生返事をしていた。もっとも聞かなければならないほどのことは、何一つなかった。母は、《食器もお鍋《なべ》も、うちにある古いのを持って行きなさい》という程度のことしか言っていないのである。どうせ茶碗《ちゃわん》や皿《さら》は、かけて数の足りなくなったものとか、魚屋や寿司屋《すしや》の名前入りのとか、そんなものしかくれないに決っているし、太郎は本当にほしいもの――鉄製の片手のついた中華鍋《ちゅうかなべ》とか、蒸籠《せいろう》とかいうもの――は、必ず将来自分で買う気なのである。
「一カ月に一度は、名古屋へ掃《そう》除《じ》に行ってあげようか」
母は言った。
「いらねえ。自分のことは自分でするよ」
答えてから、太郎は尋《たず》ねた。
「母さんにちょっと訊《き》くけど、母さんはどっちかって言うと、本当に掃除に来たいの? つまりさ、世の中には、息子の世話やきたくて仕方のない親が一ぱいいるでしょ。だから、僕が《掃除は大変だなあ、洗濯は辛《つら》いなあ》と言ってやる方がしあわせ?」
信子はいい年の大人とは思えない真剣さで一瞬《いっしゅん》考えこんだ挙《あげ》句《く》に言った。
「手のかかるのは、やっぱりごめんだわね」
「そう」
「やっぱり、ほっとける方がいいよ。私は忙《いそが》しいんだから」
「じゃあ、二人とも意見の一《いっ》致《ち》を見たわけだ。でもね、僕、病気になったら来てもらうよ。熱があるのに、一人で起きて飯作るのしんどいもの」
「ぜったいに手伝いに行かない、という訳じゃないけど、一人でやるとなったら、少しくらいの病気でも一人でおやり」
「そうだな。それが独立するってことだものね」
「何が独立よ。お金を親から持って行っていながら、独立も何もないでしょ」
「うん」
太郎は、これでいいのだ、と思った。一見無意味に見える会話だが、親も子も共に、はっきりと見《み》極《きわ》めるべき時と状態がある。子供がひとり立ちしてくれることを望むようなことを言いながら、ベとべとと世話をやきたがったり、親の所からは巣立《すだ》ったのだ、と口先では言いながら、何かと必要があれば、親を使うことを当てにしたりすることは、共にフェアではない。この世に「適当に」などということはないのだ。常にどちらかを選ぶしかない。
名古屋から帰って来て、一週間ほど経《た》って、或る日の午後、太郎が出かけようとしていると、母が階下から上って来た。
「太郎、どこへ行くの?」
「ちょっとね。おデート」
「行くのやめてくれない?」
その言い方がいつもになく、思い詰《つ》めたように聞えたので、太郎は思わず聞き返した。
「実はね、お祖父《じい》ちゃまたちのおうちの方に、高田《たかだの》馬場《ばば》の伯母《おば》ちゃまが見えてるのよ」
高田馬場の伯母というのは、父のすぐ上の姉で、小学校校長の妻であった。
「名目は、お祖父ちゃまとお祖母《ばあ》ちゃまのお見《み》舞《まい》ということになっているけど、実はそうじゃないみたいなの」
律《りち》義《ぎ》な小市民風の父の姉妹たちは、決して悪意ではないのだが、その常識でもって、時々、太郎たち一家と対立することがあった。
「だって、今……お祖父ちゃんとこにいるんだろ」
「今はね。だけど、先刻《さっき》、後でちょっとお話がありますということだったの。お世辞笑いかなんかしてたけど、何か言うことがあって見えたんだと思うわ」
「ボク、おデートなんだけどなあ」
母が悲しそうに黙ったので、太郎はつい言ってしまった。
「ま、いいや、電話かけて断わるよ」
大して会いたいデートでもなかった。只《ただ》、太郎は、千頭慶子さんにまだ希望をつないでいて、もう一度話せば、あんなに木で鼻をくくったような言葉が返って来ることはなくなり、もう少し意思の疎《そ》通《つう》が行われるのでないかと思っていたのだった。
「断わらなくてもいいわ。行きたいんだろうから行きなさい」
「いいんだよ。明日にしてもらうから」
太郎は、その通りにした。太郎は、母が母一人では受けかねるように感じている大波が向うから押し寄せてくるさまを想像していた。しかし伯母はなかなか、こちらの家へやって来なかった。祖父母の家からは、伯母のわざとらしい笑い声が聞えて来た。
「何かご用でしたら、さっさと言って下さい、って呼んで来ようか」
「よしなさい。そんなことをしたら、なお刺《し》激《げき》するだけだから」
たっぷり一時間は待たせた挙句、やっと伯母は重々しい足どりでやって来た。
「ごぶさたしましたね」
年とっても、はっきりしすぎるほどの二《ふた》重《え》眼瞼《まぶた》だった。それがギョロ目だと言いたくなるほど、伯母の眼《め》を大きく見せていた。
「一度、伺《うかが》おう伺おうと思いながら、遅《おそ》くなったのよ」
伯母は紡錘型《ぼうすいけい》の体に和服を着て、堂々としたよちよち歩きの足どりで、ダイニング・キッチンの椅子《いす》に坐《すわ》った。
「実はね、太郎ちゃんの名古屋行きの準備のこと、お祖母ちゃんからいろいろ聞いたもんだからね」
「そうですか」
母はやむなく答えた。
「それでね、マンションを買う件も聞いたの。びっくりしましたよ、本当に。私、初め、お祖母ちゃんの聞きまちがえだろう、って言ったの。そしたら、やっぱり、太郎ちゃん用にマンションを買うだか、買っただか、って言うじゃありませんか。伯父《おじ》さんもびっくりしてね、開いた口がふさがらなかったの」
2
「改めて聞きますけどね、そういう高価なマンションを買うことにしたっていうのは、本当なの?」
高田馬場の伯母《おば》は、ぼっちゃりとした手を肉づきのいい膝《ひざ》の上に組み合せながら尋《たず》ねた。
「はい、今のところは、そうしようと思っています」
母は答えた。
「今のところは、って、つまり買うんでしょう」
「はい」
「教育上、そんなことがいい訳ありませんよ。男の子を甘《あま》やかして、そんな所に入れてごらんなさい、何をするかわかったものじゃありませんよ」
麻雀《マージャン》、シンナー遊び、バクチ、不純性交遊ということだな、と太郎は考えていた。
「そういう甘い親の息子《むすこ》が、どんなことになるか、週刊誌なんかに、よく出ているのを知らないわけじゃあないでしょう」
「はい、ですけど、私共の息子に限ってそういうことはない、と思ってます」
母はにっこり笑った。
「皆、私共の息子に限って、と思うんですってよ」
「そうでしょうか」
母は、そういう話を聞くのは初めてだ、というような表情を見せた。太郎は「おや」と思った。母の信子と、この手の話をしたことはいくらでもあるのである。母が「うちの息子に限って」というような、使い古された言葉遣《づか》いを素直にすることもおかしければ、そういう考え方をする親こそ危ないという現実を知らないわけではないのである。すると母は常套《じょうとう》的な伯母の非難に対して、わざと常套的な返事をしているように見える。
「もちろん、お宅がどんなお金の使い方をしようと、私が口を出すことではありませんよ。けれど、普《ふ》通《つう》の常識があれば、学生には質素な生活をさせるのが、教育にもいい、ということは、わかり切っているじゃありませんか。それを何百万円も出して子供のためにマンションを買うなんて、気狂《きちが》いざたですよ」
「私には私の考えがありまして……」
母はちょっと改まって言った。
「私たちは、息子に、これでも賭《か》けているんです。普通のお宅のように、有名校へ入ってもらいたいとか、大会社に就職させたい、ということじゃありませんけれど、学問が好きなら、それを身につけさせるために、全力をあげたいんです。ですから、お金は、残すことを考えないで、太郎のために全部使った方がいいと思ったんです」
「それはまあ、理くつでしょうけどね、正直なところ、やっぱりちょっと甘やかしだと思うのよ。ここの家は、お離《はな》れだって、この母《おも》家《や》だって、もうかなり古いでしょう。お金があったら、家を建てなおす方に使うべきですよ」
太郎は聞いていて、ははん、と思った。つまり伯母は暗に、自分たちの父母、太郎からみて祖父母の住んでいる家を建て替えたらどうだ、と言っているのである。老人たちを、ボロ屋に住まわせ、太郎にマンションを買うとは何事か、ということなのである。
母は伯母の言葉の裏にあるものを感じているのかどうか、まことに、のんびりした答えをしている。
「ええ、ですけど、家はまだ使えますし、私は、太郎には、お金に強い人間になってほしいと思ったものですから。お金に強い、というのは、多少、恵まれていても、そのことでいい気にならずに、気をひきしめてきちんと使えるということでしょうから。ですから、アパートを買ってもらって、いい気になるようでしたら、まず大学へ行く資格なんかないと思うんです」
「そうなったらどうするの?」
伯母は意地悪な訊《き》き方をした。
「アパートも売って、大学もやめさせます」
「口ではそうおっしゃるけどね、できっこないのよ。私の周囲に何人もいるのよ。週刊誌だけじゃありませんよ。別に女を引き入れたとか、何とか言うんじゃありませんけどね。東京で買ってやったマンションが、麻雀屋と同じになってたっていうのが一人。もう一例は、お嬢《じょう》さんで、これは、はっきりおっしゃらないけど、大学中退でやめて北海道へ帰られたところを見ると、――噂《うわさ》だけど、バーテンか何かをそのアパートに住まわせて一緒《いっしょ》に暮《くら》してたらしい、って言うのね。お母さんに問いつめられたら、そのお嬢さん《だって彼からは、ちゃんと間代とってるのよ》って言ったとか言うの。そんなことがあって、もう危険で置いておけなくなったんでしょう。遂《つい》に北海道へ強制的に連れ帰ったのよ」
「ばっかじゃないのかなあ」
太郎は思わず、独り言のように言った。
「何ですって?」
伯母は訊き返した。
「いや、そういうのは、北海道へ連れて帰ったって、おんなじだと思ったんです」
「まあ、太郎ちゃんは、違《ちが》うと思いますよ。でもね、不思議と、人間は環境《かんきょう》に引きずられるんですよ」
「そうだろう、とは思いますが」
母は口ごたえをした。
「そういうお宅は、余《よ》裕《ゆう》がある中で、アパートをお買いになったんだと思うんです。うちの場合、お金は、何というんでしょうか、事業所得、じゃなくて、勤労所得なんです。私が、背中丸めて、原稿《げんこう》用紙に向って稼《かせ》いだものと、お父さんが大学へ行って頂いて来たものだということを、太郎はよく知っているんです。ですから、うちのお金は、お札《さつ》に汗の匂《にお》いがしみてますから」
太郎はあやうく笑い出しそうになった。この大時代なものの言い方は、決して母の思いつきではない。ちゃんと出典があるのである。昭和の初期に流行《はや》った佐々木《ささき》邦《くに》というユーモア小説家がいた。田《た》中《なか》比左良《ひさら》という軽妙なさし絵画家がいて、その人と名コンビを組んでいた。この言葉は彼の作品のどこかに出て来るのである。
もちろん伯母はそんなことを知らないから、むっつりしている。
「まあ、そう思っていらっしゃるなら、私の出る幕じゃないのよ」
伯母は不愉《ふゆ》快《かい》そうに言って、やがて帰って行った。
「伯母さん、あれ、どういう気で来たんだろう」
伯母の草《ぞう》履《り》の音が、再び、祖父母の家の方へ遠ざかって行った時、太郎は母に言った。
「さあね。じゃあ、お父さんに相談しますとか、考えなおします、とか言うと思ったんじゃない」
「母さんは折れない人だね」
太郎は言った。
「折れないことは、決していいことじゃないけどね。子供のことは、最終から二番目には、親にしか責任がないのよ。だから、周囲を全部敵に廻《まわ》しても、いいと思うことはがんばる他《ほか》はないんだよ」
「最後は、誰《だれ》なのよ」
太郎は、答えはわかっているつもりだったが、一応確かめるために尋ねた。
「子供自身よ」
「そう言うだろうと思った」
「ダラクしたら、第一の責任者は子供なのよ」
「わかってるよ」
「全面的に親のせいにしてほしくないね」
「わかったよ」
「世の中で悪いものは、色気だね」
母は独り言のように言った。
「イロケ?」
「よく思われようとすることよ」
「いけないかね」
「いけないわね」
「僕は、よく思われたいなァ。五月《さつき》さんにも、小島さんにも、千頭さんにも、よく思われたいなァ」
羅《ら》列《れつ》した名前は、ふられた「過去の女」たちのつもりだった。
「あんたの好きなようにすればいいけどね。世間からよく思われよう、親戚《しんせき》の評判をよくしよう、と思ったら、もう自分がめちゃくちゃになるよ。子供にも、そのあおりが来るわね。桜井《さくらい》さん、って私の昔《むかし》の友達の話したっけ?」
「ええと、ええと、何だか聞いたことあるような気はするけど。うちへ来たことある? その人」
「ううん、ない。あんまり昔から気の合う人じゃなかったから」
「じゃあ、その人、多分、母さんと違って、ちゃんとした人なんだね」
「うん」
母は太郎の言ったことに笑いかけたが、すぐ言いなおした。
「ちゃんとしたみたいだけど、恐《おそ》ろしい人だったのよ」
「どういうふうに?」
「その人はね、昔、ちょっと、東京の私たちの女学校に転校して来てたことあるんだけど、間もなく郷里の町へ帰ったのよ。あれは、山《さん》陰《いん》だったか北陸だったか忘れたけど、とにかく旧家のお嬢さんだった。山持ちでね」
「いいなあ、金持ちなんだね」
「そうよ、戦後、不在地主の農地はとられたけど、山は残ったからね。その女《ひと》はしかるべき釣《つ》り合いのいい名家のお医者さんの家へ早々とお嫁《よめ》に行ったの。女学校も中退でね。だから、私たちより、うんと若く子供を持ったの。若い頃《ころ》は美人だったよ」
「へえ」
「そこで生れた子は太郎なんかより、生きてれば多分、五つくらい上の筈《はず》なんだけど……」
「死んだの?」
「そう。その息子さんは、文科へ進みたかったんだって。だけどそこの家では、先祖代々十何代と続いた医者でしょう。医者になること以外、許されないわけよ。その子が新聞記者か何かになりたい、と言った時、一族は総力をあげて、反対したんだって。本家には呼び出される、父親はどなる。その間に立って、私の友達は、おろおろするだけだったらしいね。
結局、あんまり煩《うるさ》く言われて、その子は、文科へ進むのを諦《あきら》めたみたいにみえた。そして、又《また》、試験受けたら、一度で、東大の理三へ入ったんだって」
「ふうん」
「それまではらはらし通しだった、私の友達は、急に一族の中で、立場がよくなったんだろうね。本家からは、《ご苦労でしたね》って言われるし、町の人たちも、やっぱり、桜井さんとこの坊《ぼっ》ちゃんはできがいいって言われて……」
「そんなの、当てにならないんだよ」
太郎は、口をとがらせた。
「それで、東京へ出て来たのよ、その秀才《しゅうさい》の息子は……。ところが、一年経《た》って自殺したの」
「へえ」
「勉強が少しもおもしろくない、って。《これだけ努めたんですから、もうやめてもいいでしょう》って書いてあったんだってよ。もちろんお母さんはよく知らないのよ。只《ただ》、ほら、あの石井さんの小母《おば》さんが、どういう訳か桜井さんと気が合って親しくてね。そういう騒《さわ》ぎの間、いろいろ近くで力づけてあげてたらしいよ。何しろ、あととり息子だったし。お嬢さんは下にいたらしいけど」
「だから一人息子は大切にしないといけないんだよ。大切にしないと、ボクだって自殺しちまうかも知れないじゃないか」
「冗談《じょうだん》言いなさい。外側から少しくらいいじめられて、自殺するようなら、本当は生きてく資格ないんだよ」
「それはね、まあ、大体、僕の意見と一《いっ》致《ち》してはいるけど」
「でもね、私はその時、考えたのよ。子供も弱いけど、母親も弱いって」
「そうだ、そうだ」
「その時、一族の圧迫の防《ぼう》波《は》堤《てい》になればよかったのよ、お母さんが。本家が何を言おうと、お前の好きな道にお進み、と息子に言えればよかったのよ」
「そういう奴《やつ》は、そうしてやっても死んだかも知れないよ」
「しかしね、母親まで、寄ってたかって、息子のいびり役になることはないもの。その時、母親が、一族から悪評を立てられて憎《にく》まれさえすれば、子供の自由を或《あ》る程度はおしすすめられたんだから。それでも息子を自由にしてやる方が、お母さんは好きだね」
「大丈夫《だいじょうぶ》だよ、母さんはもう、とっくに、評判は悪いんだから」
「そう思ってるのよ。アパートは本当は、買わなくてもいいのかも知れない。しかし、それなら、その時は、世間の常識や、親戚に言われたからやめるんでなくて、太郎にとってよくないからやめるんじゃなきゃね」
「伯母さんから、ああ言われて、母さん少しは動揺《どうよう》する?」
太郎は尋ねた。
「若い時ならね、じゃあ、やめます、と言ったかも知れないけど。今の母さんは、中年になってね、憎たらしい年なのよ。アパートのことは思いつきで決めたんじゃない。思いつきで買える金額でもないしね。ただ、これは、よくよく考えた上のことですなんて、あんまり言って、太郎を心理的に圧迫はしたくない、と思うこともあるわ」
「もう、充分《じゅうぶん》、圧迫されたよ」
「そう、それならそれも結構」
「僕の家《・・・》だけ、新しくなって悪いね」
「いいのよ。私、お祖父ちゃんと、お祖母ちゃんには、言ったことあるんだもの。家が古いとすき間風がひどいから、建て替えましょうか、って。そしたら、お祖母ちゃんが《いいえ、私は建て替えの手間が煩《わずら》わしいから、この家で充分です》っておっしゃったのよ」
「そういう気持わかるね」
「皆、自分のいいのが一番いいのよ。その代り、したことの責任はとるべきだけどね」
母の信子は、そう言ってから、急に幼《よう》稚《ち》な表情になって目を輝《かがや》かせた。
「そうだ、今日、又、例の本、増刷になったよ」
「どれだけ?」
「三千部」
「よかったね、ローン分が少し減るよね」
何となくみみっちい会話だと思いながら、太郎は慰《なぐさ》めるように母の肩《かた》を叩《たた》いた。
3
引っ越しのためのかたづけと荷造りが始まった。太郎は使っている机の引出しの中のものを整理し始めたが、いやいややっているので、なかなか捗《はかど》らなかった。それと言うのも机の中からは、実にさまざまなものが出て来るので、いちいちそれにかかずらわっていると、いっこうにはかが行かないのである。
ことにどうしていいかわからないのは、女の子たちからの手紙であった。中には「この手紙、読んだら必ず焼いて下さいね」というのもある。しかし焼いてしまったら、読み返せないので、太郎はとっておいたのであった。読んだら、すぐ焼け、なんて、女は身勝手だと思う。すぐ焼かねばならぬような内容なら、紙に書いたりしないことだ。もっとも、大仰《おおぎょう》な命令の割には、内容は大したことではない。ただ、今となると、その一人一人が懐《なつ》かしい。都落ちすると、もうめったに会えないと思う。もしかすると一生でもう会うこともない、という人もいるのかも知れない。
太郎が、そういうロマンチックにして本質的な予感におののいていると、それをぶち壊《こわ》すかのように、母の声が聞えて来た。
「太郎、さっさと、やりなさい。もっと集中してやるのよ!」
勝手にしろ! と太郎は心の中で、腹を立てた。集中して考えているからこそ、判断がつかなくなっているのである。太郎はそのうちに名案を思いついた。大きなダンボールの箱《はこ》の中に、とにかくエロ本でも何でも、そのままそっくりワタごみまで入れて、取っておくことであった。これならほんとうに一瞬《いっしゅん》でできた。
「終ったよ」
十分後には、太郎は涼《すず》しい顔をして母に言った。
「急に早くなったのね」
「SMの本と言えども、ボクの財産だから、勝手に捨てないでね」
太郎は言った。
「SM? 蒸気機関車の本?」
母の信子は何を聞き違えたか尋《たず》ねた。
「母さん、英語できないね。SMですよ。空想科字小説(SF)じゃないのよ。サド・マゾの方」
この手の雑誌はもうとっくに、親共に見られているものであった。よく母親たちが、おろおろして、《お父さん、あんなもの、どうしましょう》と、大事件でも勃発《ぼっぱつ》したように報告する、あれである。母の信子は、その時、縛《しば》られている女の写真を《ふうん》と感心して眺《なが》めた挙《あげ》句《く》、
《おもしろい?》
と太郎に尋ねたのであった。
《ああ、おもしろいよ。こういうの見たいよ》
太郎は答えたものの、
《でも二つ、三つ、読めば、どれもおんなじだな。倦《あ》きそうだな》
と告白したのであった。別に母親を安心させようと思って言ったのではない。実感だったのである。
太郎から見れば、母の荷造りこそ散文的であった。二つ三つ、ダンボールの箱に必要と思われるものを詰《つ》めては、又《また》、思い出したように台所に立ったりしている。太郎は時々覗《のぞ》いて、
「いらねえよ、こんなもの」
とつまみ出すことにした。
「どうして、布《ふ》巾《きん》がいらないの? お茶碗《ちゃわん》拭《ふ》かないつもり?」
母は尋ねた。
「拭くよ、僕はちゃんと拭くけどね、布巾では拭かないんだ」
「何で拭くの?」
「タオルで拭くよ。それが一番、水分を吸収するじゃないか」
「この布巾どこかでお土産《みやげ》に貰《もら》ったのよ。だから、太郎が使えばいいと思ったのよ」
「母さんに言っとくけどね。この家でいらないものだからって、あんまり趣《しゅ》味《み》的に何でもかでも入れないでよね。僕、大ていのもの、いらないんだから」
「鍋敷《なべしき》もいらないの?」
「いらない」
「どうして」
「だって、おれ、週刊誌買うから、その上に置くよ」
「花《か》壜《びん》は?」
「いらねえ」
「スリッパは?」
「いらね」
それから太郎は急に思い出した。
「母さん、いつか、おもしろいこと読んだよ。スリッパについて、外人が書いてるの」
「何て?」
「日本人てどうしてこうスリッパはき換《か》えるのが好きなんだろう、って。玄関《げんかん》入ってスリッパはいて三歩歩くと座敷だからスリッパ脱《ぬ》ぐでしょう。それから、お便所へ入ろうとすると、二歩スリッパはいて歩いて、今度はトイレ用のにはき換えて、中で一歩歩いて用たして、又、外のスリッパにはきかえて、二歩歩いて座敷へ戻《もど》るんだって。箱庭の中を歩いているようだってよ。だから、僕のうちも、まずスリッパいらない」
「鏡は?」
「鏡?」
太郎は考えてから、
「鏡もいらないね」
と答えた。ヒゲは手さぐりで剃《そ》れるのである。どうしても気になったら、地下鉄の駅に行けば、どこかしらに鏡があるから、それに写して見て剃り残しは、携帯用《けいたいよう》のヒゲ剃りでちょこちょこと補って剃っておけばいい。
「母さん」
太郎は、あちこちに散らかった小物を、ちょいちょいとまたぎながら歩き廻《まわ》っている母に言った。
「何だか、おかしいけどね、高田馬場の伯母《おば》さん来てから、僕は、あのアパートのこと、却《かえ》って気が楽になったよ。あの女《ひと》はさ、僕の教育に気を配ってくれてるみたいだけど、今まで、何も言わなかったものね。つまり、普《ふ》段《だん》やらないでおいてさ、何かの時だけ出て来るのはダメってことだよ」
「相手が具合悪くなってる時、というか、運命の下り坂になってる時にだけ、手助けをすることができたら、それはすばらしいね。母さんは一生に一度でいいから、そういう役をやってみたいよ」
信子はややとんちんかんなことを言った。
「僕、ひとに悪口言われながら何かやるの、わりと嫌《きら》いじゃないんだ。褒《ほ》められながらやるのは、しんどいけどね。だけど悪口というのは、安定していていいよ。僕は却ってさばさばしたな。母さんも、さばさばしたんじゃない?」
信子はむっとした表情をした。
「この世でさばさばすることなんか、ないのよ。人間一人生きてるだけで、必ず誰《だれ》かに迷《めい》惑《わく》をかけてるんだから」
かなり早目に頼んだつもりだったのに、引っ越し荷物を持って行ってくれる会社は、なんのかんのと、なかなか日を決めてくれなかった。
三月は引っこしシーズンだと言うのである。
「母さん、やっぱり、ああいう連中は、僕の引っ越し荷物がぱっとしないこと知ってるんだろうね」
太郎は、何回目かの交渉《こうしょう》の後、不機《ふき》嫌《げん》になって言った。
「やっぱりさ、運ぶならまちっと、劇的なものを、やりたいだろうしね」
「どんなものが劇的なの? 爆発物とか死体とか?」
太郎がお腹《なか》にいる時、母の信子は、イヴ・モンタンの主演する『恐怖《きょうふ》の報酬《ほうしゅう》』という映画を見たのである。生れて来る子供にアザができるといけないから、火事も見てはいけない、というのに、母は、その手の映画ばかり見て、コナン・ドイル全集を読み返した。それ以来、母の貧しい想像力は、ニトロ・グリセリンと死体、或《ある》いは密輸品に固まってしまったのである。
「違《ちが》うよ。ルーブル美術館から借りた唐三彩《とうさんさい》とかローマングラスのすごい奴《やつ》とか、カイロ博物館貸出しのミイラとかさ」
本当は、「モナリザ」と言おうと思ったのだが、あの絵は、大して、壊れそうにないし、壊れやすいもの、と言うと、こんなものしか思い当らなかった。
「ミイラねえ、ミイラは案外、固いんじゃないの? 干鱈《ほしだら》くらいには、固いかも知れないよ」
信子は考えて言った。
「ミイラは別にして、いつか、オレ、ダイナモだかリアクターだか、何でもとてつもなく大きくて重くて長いもの運ぶ話読んだよ。そういう人たちは、僕の机運ぶような人たちと違って、特別な技術者なんだよね」
「長物重量って言うんでしょう」
「一種の輸送作戦なんだね。夜中、車通りのなくなった頃《ころ》を見計らってやるんだって。電線切ったり、道を保護するために、畳《たたみ》敷いたりして……。一時間数百米《メートル》から、一、二粁《キロ》くらいしか進めないんだよ。そしてそのダイナモが、しらじらと明けそめる朝の港に着いてさ、そこから遠く、アフリカかどこかへ運ばれて行くんだ」
「しらじらと明けそめる、というのは、安っぽいね。製作費けちった文部省推薦《すいせん》映画みたいだよ」
「とにかく、おもしろいよな、そういうのなら。だけど、オレの机運ぶのはつまんないものな」
「何も同情することはないわよ。仕事というのは、誰だって九○パーセントまでつまらないんだから。運がよければ、一○パーセントおもしろい目に会えるだけよ」
「ねえ、ねえ、そのダイナモ運んだ人がさ、朝の港に着いた時、ダイナモに思わず小さくチョークで、T・Yって自分の名前書くんだよ。見つからないような隅《すみ》っこにさ。ダイナモはその名前つけたまま、アフリカへ船積みされて行くんだ。すてきだろ。そういうふうに僕は記《き》憶《おく》してるんだけど、その部分は、僕の空想だったかしらん」
とにかく、どうにもならなかった。トラックが来てくれるのは朝だと言うが、積み出したら、その午後には向うへ行って受けとらねばならない。
太郎は落ち着かない毎日を過した。しかし或《あ》る日、遂《つい》に、三日後の朝、積み込みの予定だという通知が来た。
「オレ、積み込んでから、急いで向うへ立つよ」
太郎は言った。
「無理するな。ここは、おれが出してやる」
父の正二郎《しょうじろう》が言った。
「お前と母さんは、朝早い新幹線で行って、向うで受けとる準備をしていなさい」
「悪いね」
「何もいらない、ったって、何かいるものがあるかも知れないから、母さんが行ったらいい」
「今は、仮住居だから、何もいらないんだけどね」
太郎は、それから友だちの所を経めぐった。千頭さんの所へは、行きたくもあり、行きたくもないような気分だったので、電話で挨拶《あいさつ》をすることにした。
「いよいよ、明日、都落ちすることになりましたから」
太郎は、千頭さんに言った。
「あら、そんなことはないわ」
「まあ、又、ちょくちょく帰って来ますから、元気でいて下さい」
「山本君もね」
本当に、こんなに冷たくて、単純で、見栄っ張りの女のどこがいいかと思うのだが、太郎は一瞬、千頭さんから遠い所へは行きたくない、という思いに捕《とら》えられた。
その夜、太郎は、家での「最後の晩餐《ばんさん》」にも出ず、ほっつき歩いて、夜、九時頃になって帰って来た。
家の生垣《いけがき》の所を通りかかると、中から父母の話し声が聞えたので、太郎は立ち停《どま》って耳を澄《す》ました。
「信子、翻訳《ほんやく》の仕事の方はどうなってるんだ?」
父は、母のアルバイトに、普段からかなり無頓着《むとんちゃく》であった。
「今ね、又、かかったところよ、百頁《ページ》くらい進んでますけどね」
「〆《しめ》切《き》りは、ゆっくりでいいのか?」
「まあ、大体いつものテンポね。三カ月と思ってるの。先が長いようだけど、油断してると、あっという間だから」
「じゃあ、名古屋から帰って来ても、いつものテンポだな」
「そうね、太郎がいなくなったって、別にどうということないわね」
「息子がいなくなると、てきめんに夕食のおかずが粗《そ》末《まつ》になるそうだ。それはやめにしたいね」
「そうね、私食いしんぼうだから、そんなことにはならないと思いますけどね」
太郎は、ふと父母の中に老夫婦の顔を見た。
4
山本太郎は、十月まで住むことになったアパートの四階の部屋まで、一気に鍵《かぎ》を持ってかけ上った。階段はあまり明るくないし、しかも、一段一段が急で高いので、母の信子はふうふう言いながら上って来る。
太郎は先に立ってドアを開けようとした。鍵が途中で、ちょっと引っかかった。鍵という奴《やつ》は、人間に似ている、と思った。初めは大てい違和《いわ》感《かん》があり、神経にこつんとこたえる。それを扱《あつか》い馴《な》れた時「悪馴れ」がしている。
「いい運動だね」
母は、そう言いながら入って来た。
「太郎なんか、息切れしないんだろうね」
「こんなことで、いちいち切れてたら、どうすんだよ」
太郎は落ちつかなかった。家具のない部屋というものは、どこへ坐《すわ》ったらいいか、わからない。母は寒そうに、外套《がいとう》も脱《ぬ》がなかった。何しろ、北向きの部屋であった。
「太郎、ちょっと、そこら辺へ行って、牛乳か何か買っておいで」
母は言った。
「今、すぐかあ」
いくら何でも、今、上って来たばかりである。自分が息を切らすくらいの階段なのに太郎は身軽だからと言って、そうそう人使い荒《あら》く上り下りさせるのは納得がいかない、という感じで太郎はふくれたが、母が、
「いやなら、私が買いに行くよ」
と靴《くつ》をはきかけたので、仕方なく、
「いいよ、行ってやるよ」
と狭《せま》い玄関《げんかん》の三和土《たたき》から、母を押《お》しのけた。ていのいい、脅迫《きょうはく》である。あちこちにしみのついたナイロンのアノラックをはおると、フードが、襟《えり》の中にたくしこまれたのがわかったが、太郎は着なおそうともしなかった。いつも母に、シャツの裾《すそ》がズボンから出ているの、ボタンが一つずつずれているのと注意ばかりされているが、きちんとした着方をしない、ということも一つの表現であった。それに、これは偏見《へんけん》以外の何ものでもない、ということを自覚しているからあまりひとには言わないが、男で服装《ふくそう》がいつもきちんとしている人に、本当の大人物を見たことがない、と太郎は内心思っているのである。
太郎は初めての町を歩き出した。新開地、郊外、ベッド・タウン、何と呼ぶべきかわからないが、とにかく盛場《さかりば》からはずれた、新しい、陽《ひ》当《あた》りと排水《はいすい》のよさそうな、風のよく吹《ふ》き抜《ぬ》ける町だった。陽ざしは強かったが、風は冷たかった。近くの酒屋の自動販売《はんばい》機《き》で、太郎は、コーラを一缶《かん》と、グレープ・ジュースを一缶買った。コーラは若者の飲物で、年《・》寄り《・・》にはジュースがいいことを知っていたからだった。
太郎は、今度は、どすんどすんと足音を立てながら階段を上った。部屋では母がすでに名古屋駅で買って来た駅弁《えきべん》を、包みから出して並《なら》べていた。
「今のうちにお腹《なか》ごしらえをしとこう」
母は言った。
「この部屋は、やっぱり北向きで寒いわね」
太郎は黙《だま》っていた。
「暖房《だんぼう》がなくて大丈夫《だいじょうぶ》?」
「何とかなるよ」
母はそれ以上何も言わなかった。駅弁の蓋《ふた》を開ける前に、太郎は立って行って改めて景色を眺《なが》めた。
今太郎の目に見えるのは、なだらかな起《き》伏《ふく》のある、樹《き》のない土地に建てられたアパートと広い道だった。アパートは初めの一瞬《いっしゅん》は、巨大《きょだい》な墓石のように見えやがて巣《す》箱《ばこ》に見え始めた。太郎は、その巣箱の中の一匹《いっぴき》の虫として、彼《かれ》らの仲間入りをしたことに光栄を感じた。その窓の数だけ、人間の生活があるかと思うと、太郎は居ずまいをただしたくなった。しかしそんなことは母にけどられたくなかったので、太郎は弁当の前でぎごちなく正座した。
「何て坐り方をしてるの?」
母は言った。
「知ってるだろ。ボクは、胡座《あぐら》がかけないんだ」
太郎は弁当の蓋を開けてから、
「こんなつまらない弁当買っちゃってさ」
と呟《つぶや》いた。
「どうして? 汽車弁嫌《きら》い?」
「汽車の中で食うなら好きだけど、こういうとこで食べるなら、もっとおもしろいものがよかったなあ」
太郎は呟いた。
「どんなものがいいの?」
「マーケットで売ってる鶏《とり》の丸焼きみたいなものあるじゃないか。ここは鶏の本場なんだよ」
「ゆっくり明日から食べることね」
「北向きってのは、景色はいいんだよ。知ってる? 茶室の庭ってのは、北向きなんだ」
「お茶席なんて行ったことないけど、そういうことらしいわね」
「夢《む》窓国《そうこく》師《し》の歌にさ、“かくせとて庭をば柴《しば》のおちばにて、わが住む宿とひとに知らすな”と言うのがあるんだよな。一見、山奥《やまおく》の自然の中に埋没《まいぼつ》しちまってるのを美としてるように見えるけどさ、実は戦国時代には、どこに住んでるかわかると危険だって面もあったんだよな。陰湿《いんしつ》だろ」
「でも、初期の茶庭ってのは、そんなのばかりじゃないでしょう。もっと明るいのもあった筈《はず》よ」
「そう、只《ただ》の芝庭《しばにわ》もあったし、古《ふる》田《た》織《おり》部《べ》みたいに露地《ろじ》にタンポポ植えた奴《やつ》もある。斎藤道《さいとうどう》三《さん》の庭には、築山《つきやま》に桜《さくら》がいっぱいだったってね」
「悪くないわ」
「でもね、この部屋からの眺めくらい雄大《ゆうだい》なおもしろい茶庭の景色持ってた奴はいないからな。泉水だの、飛石だの、コケだのって、小せえよ。夢窓国師でも雪舟《せっしゅう》でもびっくらこいたと思うよ。もっとも利休《りきゅう》なんて奴には、このおもしろさ、わかんないかも知れないけどさ」
トラックは三時少し過ぎに着いた。それまでの間に、母の信子は近くの店に、鍋《なべ》やおたまじゃくしと酒粕《さけかす》と砂糖とお茶を買いに行った。それで即席の甘酒を作るのである。
「甘酒を入れるコップはどうするの?」
「食器をまとめてある箱はわかるから、それをすぐ開ければいいのよ。薬《や》缶《かん》もその箱に入ってるから、甘酒飲んでてもらう間にお茶を沸《わ》かせるから」
トラックが着いたことを知らせる人を見た時、太郎はえらいことになった、と思った。二人は背の大きな痩《や》せと、背の低いデブのコンビで、しかもどちらもかなり高齢《こうれい》だったのである。
「はい、どうもご苦労さんでした。僕もすぐ手伝いに行きます」
と言いながら、太郎が踵《かかと》を踏《ふ》みつぶしたままの運動靴をつっかけて駆《か》け出そうとすると、後ろから母の声が飛んで来た。
「太郎! 靴をちゃんとおはきなさい。事故のもとよ」
太郎はトラックの所まで駆け下りた。
「僕やりましょう」
太郎は敬老精神と、スポーツで鍛《きた》えた体に対する自信に溢《あふ》れていた。こんなロートルにまかせておいたら、男がすたる、と思った。
「いいよ、坊《ぼっ》ちゃん、わたしらがするから」
デブのちびの方がベッドの台を地上に下ろしながら言った。太郎は坊ちゃん、と言われたことで頭に血がのぼっていた。坊ちゃん、などと言われる筋《すじ》合《あ》いはない。いかに自分は坊ちゃんでないか、見せねばならない、とも思った。
「本当に僕、手伝います」
「やってみるかね」
痩せのノッポが言った。太郎をあまり信じていないことが、顔にありありと見えていたので、太郎は奮起した。
「じゃあ、先に上りなよ」
太郎は後ろ手に台を持ち、急な階段を上り出した。するとかなり爺《じい》さんに見えていた痩せのノッポが、下からぐいぐいと押し上げて来るのがわかった。太郎は押しまくられ、膝《ひざ》が躍《おど》り上りそうだった。これでは台を持ち上げているというだけで、太郎自身が痩せのノッポに押してもらっているみたいだった。
四階まで来た時、太郎は、ぎつばたしていた。息が切れたのでもない。重くて辛《つら》かったというのでもない。それよりもっと悪い、役に立たなかった、という思いが身にしみていた。ぎっくり腰《ごし》にならなかったのだけがめっけものであった。太郎のような力のかけ方では、後おしのノッポが逆にひどく疲《つか》れる筈《はず》であった。
四階の部屋までベッドを入れると、太郎は、
「どうもすみませんでした」
とノッポに謝《あやま》った。
「却《かえ》って、ごめいわくをかけますから、僕は小物を運びます」
「ああ、そうしてくれよ」
「太郎、食器の入った箱をこの次あげてね」
信子は命令した。母は甘酒に気をとられ始めると、そのことばかり考えているのである。
太郎は、何度も紐《ひも》をかけた本や、風呂《ふろ》敷包《しきづつ》みを持って上り下りした。何回目かに四階の部屋へ上ると、母はティシュー・ぺーパーにお金を包みながら、
「太郎、何か書くものない?」
とうろうろしていた。
「あるよ」
太郎は、ボストン・バッグの中から、ボールペンを持ち出した。母はちょっと考えていたか、紙の上に、
「高い階段ご苦労さま、山本」
と書いた。
「本当はね、こういう時のためにお祝儀袋《しゅうぎぶくろ》くらい用意して来るべきなのよ」
信子は言った。
「知ってはいるんだね」
「そうよ、朝起きた時までは覚えてたのよ。だけど、忘れて来ちゃった」
「よく忘れるね、母さんは」
「忙《いそが》しいからね。とは言っても、それが口実で、万事済むとは思ってないのよ。だけど、忘れちゃう。恥《は》じてはいるんだけどね」
「母さん、母さん、こういう時は、もう少し何かさ、別のちゃんとした言葉書くべきなんじゃない? たとえば……寿《ことぶき》とか、寸志とかさ」
「寿はちょっとおかしいけどね。私は思った通り書くことにしてるの。第一、できあいの言葉じゃ気持をあらわせないような気がすること多いもの。階段申しわけないと思ったことをあらわすんだからね。あれで根性の悪い人たちだと、こんなに階段ひどいと思わなかった、とか何とか聞えよがしに言うものよ」
「あの人たち、年寄りだけあって、プロなんだね」
「そうだろうと思う」
「フランスの喜劇映画に出て来る二人組みたいだけど、立派だね」
「心じゃ、きっと、今日はひどい目に会ったって思ってるよ。それが、人間の自然だもの。只、口に出すか出さないかだけよ」
母はいつも、こうして、夢《ゆめ》をうち砕《くだ》くようなことを言うのだった。
「僕、いつも京都駅や、東京駅で思うんだけど、年寄りの赤帽《あかぼう》さんに、荷物持たすべきかそうしない方がいいのか、迷っちゃう」
「あれは本当に一瞬迷うね。でも、私は人間年とっても仕事を持たす名《めい》誉《よ》を与えるべきだと思うよ。何でも人使って楽すりゃいい、というんでなくて、自分が本当に重かったら、持ってもらったらいいよ」
間もなく、ガラクタの引っ越しは終りになった。
「どうぞ、こっちへ上って、甘酒いっぱい上ってって下さい」
信子が言った。
「甘いもの、おいやだったら、お茶だけですけど」
「いや、二人とも大好物だよ」
デブちびと痩せノッポは上って来て、荷物の間に坐った。
「兄《にい》ちゃん、大学かね」
「そうです」
「勉強、好きかね」
「ええ、まあ、わりと好きなんです」
「じゃあ、いいよな。せいぜい勉強しなよ」
「ありがとうございます」
「この人はね、小学校でると、すぐ、この仕事始めたんだよ」
ノッポが、ちびデブを指して言った。デブはにこにこしていた。
「あんまり小さい時から、重い物持ったんで背が伸《の》びなくなっちゃったんだよ、な、そうだな」
「まあ、そう言うとこだ」
相変らず、デブは嬉《うれ》しそうに笑っていた。
「兄ちゃん、何か運動してるの?」
「はあ、槍《やり》と百米《メートル》です。でも、ああいうスポーツは、こういう時にちっとも役に立たないですね」
「なあに、ちょっと練習すりゃ、他の人より早くうまくなるよ。こつだからね」
「そうでしょうか」
「さあ、甘酒、上って下さいね」
母はコーヒー茶碗《ぢゃわん》にスプーンをそえてさし出した。
「お代りもして下さいね」
「甘酒なんて久しぶりだね。この頃は何かと言うとインスタント・コーヒーだからね」
デブが言った。
「おれたちの世代じゃ、やっぱり、汁《しる》粉《こ》とか甘酒の方があったまる感じだよな」
「うんうん」
ノッポが賛成した。
二人の男たちは間もなくお祝儀の紙包み《・・・》を受けとって帰って行った。
後は足の踏み場もない感じだった。
「母さん聞いた?」
太郎は言った。
「あの二人、初め僕のことを、坊ちゃんなんて言ってたんだよ。だけど、僕がわりとよく働いたでしょ、素人《しろうと》としては。だから帰りには、兄ちゃん、って呼んでくれたよ」
「そうだったね」
「それから、働かしておいて早く追い出すつもりじゃないけど、早く帰る算段した方がいいと思うよ。東京までけっこうかかるしね。ここは僕があと一人で何とかするから」
「今日は、駅前のホテルにでも泊《とま》って、明日少し足りないものを、買ってから行こうかと思ったんだけど」
「いいよ、ボク、全部一人でやるから。お金だけ置いてってよ」
太郎は手をふってみせた。
5
山本太郎は、母が帰って行くのを、アパートの四階の階段の上まで見送った。
「じゃあな」
太郎は言った。
「階段から落ちないようにしろよな」
「そうだね。ここで落ちたら、大損だものね。ゆっくり下りるわ」
「父さんによろしくね。又《また》いろいろ連絡する」
「うん」
母の靴《くつ》のヒールの音が、のろのろと遠ざかって行った。かんかんと、と言いたいところだが、歩き方が下手くそなので、何となく、どすんどすん、という響《ひび》きになって聞える。人間の能力には、基本的なものが幾《いく》つかあって、その最も大切なものの一つは、つっ転ばないで歩く、ということなのだと太郎は思っているのだが、母にはそれができない。今までに三回くらい階段から滑《すべ》り落ちて、その度《たび》に、背骨をひどくいためている。つまりおふくろという人間は、まともに歩くこともできない欠陥《けっかん》動物なのである。
太郎は部屋へ戻《もど》って来ると、やれやれとばかり、散らかったままの荷物の間に腰《こし》を下ろした。なぜ、おふくろを追い返したかと言うと、彼女がいる限りこの引っ越し荷物を、整理させられることが目に見えていたからである。女というものは、どうしてこう頭が並列《へいれつ》的にできているのだろう。引っ越し荷物は、すぐ整理する、と考えるのが、太郎の神経にはわからないのである。
太郎は、当分、これらの荷物を開ける気はなかった。何も、張り切って、思いつめて、やることはないのである。毎日毎日、いるものだけを引きずり出していれば、いつかは片づくはずで、一カ月も二カ月も使わないものは、つまりいらないのである。
太郎は、胡座《あぐら》をかけないので、ベッドによりかかり、脚《あし》を組んで、本当に一人になったことを考えていた。一人になるとはいかなることか。
すると、反射的に、太郎は、自分のジーパンのポケットに手がいった。そこには、つい今し方、帰りがけに、母が当座のお金にと言って置いて行った、十五万円の紙《し》幣《へい》が二つ折りになって入っている。十五万円は二つ折りにすると、三十万円分のどっしりとした手《て》応《ごた》えであった。
生れてから、こんな大金を手にしたのは初めてである。明日は、これと三文判を持って銀行に行き、山本太郎名義の銀行口座を作るのだ。銀行のおトクイになるのである。さし当り今日は、まず必要な自転車を買わねばならない。自転車を買うことは、おやじも承認ずみなのである。
太郎は暫《しばら》くすると、鍵《かぎ》を持って立ち上った。が、考えて鍵をかけるのはやめた。あれだけ運送会社のノッポとデブの二人組が苦労して運び上げたくらいだから、何もただで、それを又持って下りる、というようなバカなことをする人があるとは思えなかったのである。
ここらあたりは、新開地だから、自転車屋があるとは思えない。太郎は地下鉄で東山公園まで乗り、表通りをぶらぶらした。町の表情は、妙《みょう》に心にしみ通らないようでもあり、けっこう自分は町に溶《と》け込《こ》んでいるような感じでもあった。
ようやく太郎は小さな自転車屋を見つけた。何でもいい、軽くて、乗りやすくて、払《はら》える範《はん》囲《い》ならそれでいいのである。通学買物用の自家用車なのだから、籠《かご》をつけ、金を払うと、急にポケットのふくらみが減って感じられた。札《さつ》に羽が生えて飛んで行く、という感じが、実によくわかった。
《自転車は危ないよ》と言ったおふくろのことを太郎は思い出した。名古屋の歩道は、自転車のりのために、角をなだらかなスロープにしてある。信子はそういうことも知らないし、運動神経がないから、自転車をすてて自分だけ飛び下りるという芸当もできないのである。しかし太郎から見れば、何らとくに危険はない。
太郎は、買ったばかりの自転車でわざと表通りを避《さ》けて、裏通りをくるくると走りぬけた。一刻も早く町を知る必要があった。スーパーマーケットらしい建物に、「××町ショッピ」と書いてあるのを見ると、太郎は自転車を停《と》めた。東京にもおかしな名前の店は多いが、名古屋にも、太郎程度の語学力では、ついて行けない名前が多い。名古屋駅前の「名鉄メルサ」というデパートのメルサとは何語なのだろう。あそこを歩いている人のうち、それに答えてくれられる人は何人いるだろう。そして今また、ショッピである。これは恐《おそ》らくショッピング・センターの略に違《ちが》いない。しかし、それにしても恐るべき簡略化である。
もっとも、太郎は、今日は何をみてもみずみずしく、おもしろく感じられてならなかった。これから誰《だれ》もいない家に帰る。まず風呂《ふろ》を焚《た》いて……太郎は風呂を沸《わ》かして、という言葉がいやだった。別に薪《まき》を燃すわけではないが、風呂はやはり焚くものだった……それから、今日だけは、どこか外で、ちょっとましなものを食べよう。その後で、家へ帰って何よりほしくなるのは、多分、紅茶だから、紅茶だけは買って行こう。
それともう一つ、太郎は、風呂に入れるためのノボピンを買いたかった。前から、何となく便所くさいような、この薬をいれたくて仕方がなかったのだが、東京の家では、父の山本正二郎が、頑《がん》として入れさせないのである。
《どうして? 嫌《きら》いなの?》
太郎は尋《たず》ねたことがあった。
《うん、まあ、嫌いだ》
《どうして? 匂《にお》いが嫌いなの?》
《匂いは好きだ》
《じゃ、いいじゃないか。オレ、家庭温泉の感じ、味わいたいわァ》
《名前から連想される奴《やつ》が、いやなんだ》
《へえ》
《昔《むかし》、中学に、てんで文学のわからん国語の教師がいてさ、そいつが佐藤登というんだ。しかも、いつも風呂上りみたいな、てかてかした赤ら顔してるのさ。そいつのアダ名がノボピンだった》
《ノボピンに、悪い点つけられたんだね》
《こんなに国語できるのにね、七○点さ、ひどいもんだ。中学の国語で七○点以下とるのはむずかしいんだ》
今夜から、誰にも気がねなく、ノボピンを入れた風呂にも入れる。太郎は人におされてショッピの中に入った。一隅《いちぐう》に、みたらし団子と、焼ソバを売っている。昼食を自分で作るのが面倒《めんどう》な主婦たちが、ここで手軽な昼食《・・》をひとに作らせて食べるらしい。
太郎は紅茶には、ミルクもレモンも入れなかった。ただひたすら紅茶の香りを楽しむことにしている。紅茶は青《せい》磁《じ》色《いろ》の昔ながらのデザインの箱《はこ》が好きであった。砂糖を一キロ買い、よく気がついた、という思いで、茶こしと、安ウイスキーを一本買った。しかしノボピンはなかった。他の入浴剤は売っていたが、上品そうな名前がついていたので、やはりノボピンを探すことにした。
薬は三軒《げん》目の薬屋にあった。店を出ると風が藍色《あいいろ》に冷たくなっているのが感じられた。
どこへ行って夕飯を食べたら、うまいものがあるのか、それさえもまだわからない。町の存在が、やはり身にしみない感じであった。ふと、太郎は、自分が、巨大《きょだい》な芝《しば》居《い》のかき割りの町を歩いているような気がした。それを打ち消すものが、必要だと太郎は思った。財《さい》布《ふ》をなくすとか、金を拾うとか、ドブに片脚をつっ込むとか、何か後に残るような実感が必要だった。
これが、長い間、憧《あこが》れていた、一人で暮《くら》すこと、の実態か、と太郎は自嘲《じちょう》的に思った。もちろん、まだうまくはない。うまくないことはわかり切っている。だから、すべてのことが、なめらかに行かない。
太郎は店を出た。気を紛《まぎ》らすために、再び裏道をぐるぐると廻《まわ》った。
すると、一軒の鯛焼《たいやき》屋《や》があった。デパートでやっているような自動的ベルトコンベヤー・システムではなく、おばさんががちゃがちゃ型を鳴らしながら焼いていた。太郎は自然にその前で自転車を停めた。
太郎の前に先客があった。太郎と同じ年ぐらいの若い青年だった。買うのか買わないのかじっと見ている。太郎は同好の士がいるように感じた。鯛焼の尻《しっ》尾《ぽ》の部分に、アンコがはいっているのがいいかどうか、という論争のあったことがある。安藤鶴《あんどうつる》夫《お》という人が「尻尾の方までずっぱとアンの入った鯛焼」の心意気を書いた随筆《ずいひつ》を、太郎はどこかで読んだ記《き》憶《おく》がある。しかし、太郎は必ずしもそうは思わない。尻尾は尻尾であった。尻尾には実《・》がない方が香《こう》ばしかった。
太郎の前の青年は、二、三分、焼けるのを見ていたが、やがて、
「三つ」
と声をかけた。
「一番後の列の左から二つと一番前列の右から四つめと合計三つくれないか」
魚の切身の大きさを選んでいる奥さんには、よく出会ったことがあるが、鯛焼まで、選《よ》って買う男を見たのは初めてであった。
えらい土地へ来た、と太郎は思った。
「そっちの兄ちゃんは?」
太郎はおかみさんに声をかけられて一瞬《いっしゅん》考えた。
「僕は、いらない。見るだけ」
その声を聞くと、三匹《・・》買った奴は、じろりと後ろを見た。鼻が団《だん》子《ご》っ鼻で、唇《くちびる》がおそろしく部厚い。太郎は、その視線の中に侮《ぶ》蔑《べつ》的なものを感じた。たった三匹《・・》くらい買ってでかい顔するな、と太郎は思った。
鯛焼は好物だった。アイス・クリームにパンチがきかなかったので、本当は、鯛焼で満腹感の最後の仕上げをしたいところだったが、先刻《さっき》から、あまり浪《ろう》費《ひ》したので、太郎は諦《あきら》めることにした。
今度は一直線に寄り道をせず、下宿に乗りつけた。階段を上って、自分の部屋に行けばいいことはわかっている。しかし、まだ、そこが我《わ》が家という感じは稀《き》薄《はく》で、太郎は、何か暗闇《くらやみ》に乗じて見知らぬ他人の家にしのび込むような気がしてならなかった。
うつむいて階段を上りかけると、後ろから人の気配がした。
「今晩は」
太郎は疑われるのが怖《こわ》さに声をかけた。
「今晩は」
黒いオーバーを着た二十二、三くらいに見える女の人だった。
「僕、今度、四階に引っ越して来ました」
「そう? 私、三階にいるんです。松沢っていいます」
「どうぞよろしく」
「学生さん?」
「ええ、北川大学です」
松沢さんの声が澄《す》んできれいだったのと、笑うと眼《め》の細くなる優《やさ》しさがよかったので太郎は胸の中が暖かくなった。おかしなことに、その瞬間、太郎は、この見知らぬ大きな町に、初めて自然なつながりを感じた。
6
天井《てんじょう》の眺《なが》めが違《ちが》うがなあ、と思いながら、太郎は眼覚《めざ》めた。一瞬《いっしゅん》、病院かな、と太郎は考えた。自分では何も覚えてはいないけれど、昨日、交通事故で頭でも打って、病院へ運びこまれたのかも知れない。
太郎は、枕《まくら》の上で首をふり、やっと状況《じょうきょう》を確認した。新しい下宿で、第一日目の朝が明けたのであった。
東京の家の太郎の部屋の天井には、パレット形の雨もりのしみのあとがあった。このアパートの天井は灰色で、しみなどない。母の信子の訳した探偵《たんてい》小説に、誘拐《ゆうかい》された子供が、監禁《かんきん》された家の天井のしみの形を覚えていて、それから犯人を割り出すという話があったけれど、こうまっさらな天井では誘拐されたガキでも手が出なかったろう。
太郎は、頭の下に手をつっこみ、それからごしごし頭をかいた。これで、髪《かみ》を十日くらい洗っていない。洗いすぎるとフケが出るから、と言いわけしているが、実は髪を洗うのも面倒《めんどう》くさいのである。枕の上で、頭をかくと、フケが枕の上に、花びらのように《・・・・・・・》散るさまが見えるようだった。実は、枕に枕カバーもかけていない。きちんと洗濯《せんたく》したやつを、おふくろは最低二枚は、荷物に入れてくれた筈《はず》なのだが、それが、昨夜のうちに見つけ出せなかったので、そのまま寝《ね》てしまったのである。
髪を洗うには、石けんかシャンプーを買わねばならない、と思った。石けんも確かに、どこかに入れてくれたと聞いてはいるが、そんなもの、いざという時には、出て来ないものなのである。昨夜は実にいろんなものがなかった。石けんもタオルもなかったのである。それでも風呂には入った。洗い桶《おけ》もなかったが、何とかなった。人間の手というものは、実に想像を絶して便利なものである。
そこまで、考えて、太郎ははたとかなり重大なことに気がついた。朝飯に食べる固型物を買っておくのを忘れたのである。太郎は、かねがね、自分のことを、用意周到《しゅうとう》、細心にしてデリケート、ぬかりない人間と思っていたが、それは幾分《いくぶん》、錯覚《さっかく》であったか。紅茶だけ飲んでおく、という手もないではないが、何か、腹に力がこもらない感じである。昨日はやはり、いつもになく動転していたのであろう。紅茶を買えば、茶こしから砂糖まで揃《そろ》えるくらいよく気がついていたのに、朝食のことを忘れたというのは、不覚であった。
この時刻に、どこで食物を手に入れられるか。太郎は腕《うで》時計を見た。六時二十五分であった。何ともよく、長く眠《ねむ》ったものである。寝過ぎると頭の具合はよくない。どうしてお腹《なか》を一ぱいにしたらいいのか考えるために、二、三度、首をふった。すると、だらけ切っていた脳《のう》味噌《みそ》の隅《すみ》に、辛《かろ》うじて、血が廻《まわ》るような気がした。
モーニング・サービスをやっている喫《きっ》茶《さ》店《てん》に行く外はないであろう。朝飯を食ってから、銀行へ行って、口座を開き、金を下ろして(これもおかしな考え方だということがすぐにわかった。必要な金は手《て》許《もと》に残して、預けなければいいのである)もう少し必要なものを買わなければなるまい。
太郎はのろのろと起き上って、ジャングルのように、六畳《じょう》のあらゆる平面に散らかっている品物の間から、自分で東京から携行《けいこう》して来た布製のボストン・バッグを掘《ほ》り出した。その中に入っている筈の山本という三文判を確認したのである。母の信子が、現在使っていない、一番古くて汚《きた》ないハンコをくれたのだが、縁《ふち》のあたりが、青かびが生えたような色になって、しかも縁が欠けている。印相学から言うと、こういうハンコを使っている限り、金は決してたまらない、ということになっている。
太郎は、八時まで、本を読んで過した。新聞もテレビもないと、本を読むほかはなかった。それから、服を着て、顔も歯も洗わずに家を出た。
町をぶらぶらと歩いて行くと、やがて煤《すす》けたような喫茶店があり、コーヒー・モーニング・サービス二百円という札《ふだ》が出ていた。何だか、便所の匂《にお》いがしそうな店だとは思ったが、太郎は扉《とびら》を押《お》して入った。
眠そうな表情の女が、《いらっしゃい》とも《お早う》とも言わずに、険《けん》のある眉《まゆ》根《ね》の奥《おく》から太郎を睨《にら》むように見た。その目つきに押されて、太郎は思わず、
「コーヒーを下さい」
と言った。言ってから、太郎は微《かす》かな自己嫌《けん》悪《お》にとらえられた。黙《だま》って坐《すわ》ればぴたり出て来るのがモーニング・サービスというものじゃないだろうか。それなのに、自分は、いくらこういうことをしたことがないからと言って、朝飯に二百円も出すことに動転して、どうも態度がなめらかでなくなっている。
女はのろのろと、太郎の前に、茹《ゆ》で卵一個と、薄《うす》いコーヒーの入った部厚いコップを置いた。ゆっくり置けばいいのに、かちゃんと放り出すようにするものだから、薄いコーヒーはばしゃりと受け皿の中にこぼれた。コーヒーは、うんと熱くもなかった。
「どういう気なんだろうな」
太郎は一人ごちた。コーヒーをいい加減にあたためることと、うんと熱くすることの間には、それほどの労力の差はない筈である。一人前のコーヒーなら、数十秒火に長くかけるかどうかの差だ。要するに、この女は、経営者だか従業員だか知らないが、つまりやる気がないのである。そして太郎は、こういう人間に会うと、この頃《ごろ》は少しばかりほっとするのであった。皆がこれくらいしか努力しないなら、自分は、喫茶店をやっても食って行ける、と思ってしまうのである。
パンだけは焼きたての厚切りトーストが二枚で、真中の方にだけ、マーガリンが塗《ぬ》ってあった。こういう、インチキくさい塗り方に、悪意を持っていたので、太郎は砂糖をざぶりと上からふりかけた。嫌《いや》がらせの意味もあるが、こういう食べ方も昔《むかし》から決して嫌いではないのである。それにしても、これでモーニング・サービスという言葉を使うのは、いささか厚かましい、と言うものではないだろうか。
太郎は、砂糖をのせたパンを食べながら忙《いそが》しく金の計算を始めた。朝から外食をして、たとえ二百円なりとも浪《ろう》費《ひ》したことは、ひどく気がとがめている。電気釜《がま》や魚焼きの網《あみ》など、必要なものはいくつかあるが、なくてはいられない、というもの、それを買わないことによって、みすみす、他の出費がうんとふえるというもの以外はテレビも買わないことにしようと思う。
太郎は二枚のトーストをきれいに食べ上げて店を出た。そして、ポケットをおさえ、札《さつ》束《たば》がまだかなりの厚い手《て》応《ごた》えであるのを確かめてから、銀行の方へ歩き出した。
その午後、太郎は自転車でかけ廻った。電気釜を買えば、米も買わねばならない。
米を買えば、おかずを作らぬ、というわけにも行かない。昼のためには豚《ぶた》とにらともやしのいためもの。夜の分には、塩鮭《しおざけ》の切り身と、それから胡瓜《きゅうり》の酢《す》のものを作ろうと思う。豚ともやしをいためれば、塩や油はもちろん、ソースと胡椒《こしょう》は不可欠になって来る。調味料だけではない。フライパンがなければいためものはできないのだが、やはり買うとなれば、テフロンのフライパンということになる。胡瓜の酢のものには、一人暮しの佗《わび》しさを払《はら》いのけるために、しらすぼしなども少し入れたい。
せい一ぱい頭を働かして買物を終った時、太郎は今更《いまさら》ながら、財布の減り方にがっくりした。罪悪感のようなものさえ感じられた。小学校から、ずっと公立で通して来たので、金を出すのに馴《な》れていないのだ、と思った。太郎は自分の小心さがいやだった。びくびくしないで、使わないでいる、という境地がほしかった。実は、懐《ふとこ》ろに、もう五百円ちょっとしかないのである。明日は初めて大学へ行く日で、何か金がいるかも知れないから後でもう一度、銀行へ行って、出して来ておかねばならない。
こんなに金を使いながら、このままでは極度のケチになりそうな気がして、太郎は午後から、再びふらりと外へ出た。受験の時、気ばらしにやっただけで、まだこのパチンコの本場で、あまり実力を試していないのである。店を選ぶ余《よ》裕《ゆう》もあまりないので、東山公園の表通りの店に入った。試験に受かってから、太郎はパチンコに関する本を三冊、買って読んだ。「パチンコ必勝法」「パチンコ入門」「パチンコ台の科学的解剖《かいぼう》」である。その結果、文献を読むことによるプラスは、ほとんどないことがわかった。むしろ、それより効いたのは、元金の総額二千円分だけ、いくら勝っても景品をとらないで、もっぱら打って投資したことだった。
昨日からの中ぶらりんな落ち着きの悪い気分を一掃《いっそう》してくれるかのように、今日の太郎の当りはまことによかった。玉は三十分ほどで一ぱいになり、太郎はそれを持って、精算所へ行った。
係りの女の人は、紺色《こんいろ》の上着を着て、遊びに来た仲間らしい女とお喋《しゃべ》りに夢中《むちゅう》だった。そして太郎が、景品に何を貰《もら》おうか考えていると、彼女は太郎の顔も見ずに、一握《ひとにぎ》りのボールペンをさっと出した。
語学力がなくても、英語のエロ本ならわかるように、太郎はとたんにその意味を解した。それは未開人の宝貝《たからがい》のように、一種の通貨なのであった。太郎はそれを握って店を出た。歩きながら数えると十九本あった。しかし太郎は、それが、どこで金に変るのかわからなかった。
「まあ、後にしよう」
太郎は独り言を言って、銀行に行くことにした。懐ろが少し暖かくなったような感じだった。未開人も、宝貝を手にした時はこんな気分だったのだろう。
銀行の前へ行くと、すでにシャッターが下りていた。太郎は時計を見た。三時十五分だった。太郎は狐《きつね》につままれたような気がした。今日は土曜日でも日曜でもないのだから、銀行が早く閉るわけはない、と思った。幸いその時、銀行の裏手から、女の人が出て来たので、太郎は思い切って尋《たず》ね、
「ちょっと伺《うかが》いますが……銀行は今日はどうして閉ってるんでしょう」
「だってもう三時過ぎでしょう。銀行は三時に閉るんですよ」
女の人は、太郎を、うさん臭《くさ》そうな目つきで見た。
きっと、オレのことを、たった今、何年ぶりかで、精神病院から出て来た男だと思ったんじゃないかな、と太郎は考えた。今まで太郎は、銀行が三時に閉ることを知らなかったのだ。母の代りに、お金を下ろしたり入れたりしに行ったことは……考えてみると、なかったのである。
太郎は、途《と》方《ほう》にくれて、自転車の所に戻《もど》った。金をどうするか。明日は大学へ九時に集合だから、とうてい金を下ろして行くヒマはない。太郎ははたとボールペンのことを思い出した。あの「宝貝」はまさに、このような事態が発生することを見越して、神が与えてくれたもの、としか思えない。
太郎は、再び自転車で、パチンコ屋の前まで戻った。それから、ズボンに手を突《つ》っこんでうろうろしていると、安っぽい背広を着た男が何本かのボールペンをポケットに突っこみながら、出て来るのが見えた。
太郎はできるだけさりげなく、その男を尾《び》行《こう》し始めた。男は間もなく、細い道を曲り、アパートや、小さな家の立て込んだ横丁を、タバコをふかしながら歩き始めた。
もしこの男は、只《ただ》単に、家へ帰るとか、女を訪ねて行くんだったら、とんだお笑い草だ、と太郎は不安になった。しかし、五、六百米《メートル》も歩くと、男はつと右へ曲った。そこは横丁でも何でもなかった。男が曲ったところはちょっとした空き地じみた駐車場《ちゅうしゃじょう》になっており、軽自動車やけちな小型車が三、四台停《とま》っていた。その駐車場の奥に、カラートタン葺《ぶ》きの、これ又、何の変哲《へんてつ》もない、普《ふ》通《つう》の住宅が建っていた。
たった一つ、この家が、普通の家と変っているとしたら、それは駐車場に面した裏口のドアのすぐ脇《わき》に、小窓があって、先の男が、そこへボールペンを出しているのが見えた。
太郎は男をやりすごしてから、例の小窓の所へ行った。
おもしろい高さであり、小ささだった。中の人の顔は、全く見えないようになっている。太郎がむんずと一握りのボールペンを出すと、荒《あ》れた女の手が、それを引っつかみ、目にもとまらぬ早さで、たちどころに三千八百円の現金が突き出された。
7
山本太郎が、北川大学の正門に至る坂道を上って行った時、陽《ひ》ざしのわりには、風はかなり寒く厳しかった。今日は新入の一年生だけが集まる日なので、皆、歩きっぷりがどことなく、ぎごちないように見える。入学者の名前が貼《は》り出されていた渡《わた》り廊《ろう》下《か》の掲《けい》示《じ》板《ばん》で、集まるべき教室の番号を見つけると、太郎は早目に中に坐《すわ》っていることにした。
それは小型の階段教室であった。西陽が当ると、やや明るいのだろうが、朝は薄暗《うすぐら》い。まだほんの、二、三人しか来ていない教室の、一番後ろの端《はし》に、太郎は席をとった。太郎はいつも、何事によらず、遅《おく》れるということができないばかりか、むしろ早く来てしまうのである。何しろ異常なくらいの早起きだから、目《め》覚《ざま》し時計などいらない。目覚しのベルがジリと鳴った瞬間《しゅんかん》に飛び起きるショックが怖《こわ》くて結局、それよりはるか以前から、起きている、ということになる。
今、ここで、同級生になる人たちに会うわけだが、美人はいるかなあ、と太郎は考えていた。美人なら、相当頭が悪くてもいい、と実はひそかに思っているのだが、そんなことを言うと、ぶちのめされそうだから他人には決して言わない。しかし文化人類学の新入生のうち七割は女なのだから、希望は大いにもてるわけである。
太郎は、父親が大学の教師だけあって、どうしても物事を、大学側に立って考える癖《くせ》がついている。女子学生というものは、大学にとって、なくてはならぬお客なのである。彼女らは、大学の現在と未来を支えていた。月謝はちゃんちゃんと払《はら》ってくれるし、しかもその大多数は、殆《ほとん》ど学問とは関係ないから、男の学生たちの進路を妨《さまた》げることもない。しかも講義では、きちんとノートを取ってくれるから、借りる方としては、この上ない安心感をもてる。
しかし一般《いっぱん》に、女子学生というものは、世間が考えるのより、ずっと荒《あら》っぽい。或《ある》いははるかに幼《よう》稚《ち》である。これでよく大学に入れた、と思う程度の知識しかないのに、どういう訳か大学生面《づら》をしている。思うに彼女らには本当の知識欲もなく、知識のしみこむ精神の土壌《どじょう》もないらしい。しかしその場をとりつくろうのはうまいから、何とか大学へ入って来る。
《昔《むかし》、お父さんが、つき合っていた女の子がいた》
山本正二郎はいつかこんなふうな言い方をしたことがあった。
《何しろZ大学の学生だから、実によくできる筈《はず》なんだ。だけど何となく、話題がしっとりしないんだ。来週、長瀞《ながとろ》へ行こう、なんて言うと『私だめよ、来週は生理だから』なんてけろけろ言うような女だった》
《そういうのよくいるなあ》
太郎も思い当る節があって言った。
《それで、父さんは、或《あ》る日心にもなく、女の着物が好きだ、と言うようなことを言ったのさ。そしたら、大《おお》真面目《まじめ》で聞いてた》
《父さんに気があったんじゃないの》
《そうに違《ちが》いないと、思ったさ。なぜって、彼女はその次の正月休みに会った時、着物を着て来たんだ。それがいやはや》
《サンタンたるものだったんだね》
《いや、向うにすればサンタンタルものじゃないんだ。ただ帯の模《も》様《よう》がね……》
《何だったの? 梅《うめ》に鶯《うぐいす》? 竹に虎《とら》? 波に日の出かボタンにイノシシ?》
《それならまだいいんだよなあ》
《何だったのよ》
《三角定規《じょうぎ》に円錐《えんすい》と円筒《えんとう》の模様だったんだ》
《ひえ。父さん恥《は》ずかしかった?》
《恥ずかしくてもそういう顔をせんところが、父さんのエライところさ》
《そうかね》
《知的な模様だね、とほめたよ。そしたら、私がデザインして染めさせたのよ、ということだった。デザインなんてもんじゃないよな》
《三角定規、デザインしたのは、ピタゴラスかね。いや、違《ちが》うよな。ピタゴラス以前の古代エジプトの坊《ぼう》主《ず》か何かだろ。しかし父さんも、いろいろと苦労したんだね、女では》
《当り前さ。大学の先生になってからだって、女子学生にもてて困ったもんだ》
《追いかけられたの?》
《或る時、和服着て歩いてるとこに駅でぱったり会ったんだ。卒業の謝恩会の後だったかな》
《待ち伏《ぶ》せしてたんじゃないの?》
《そうかも知れん》
《それで?》
《やむなく一緒《いっしょ》に国電に乗った。父さんくらい背のある、でかい子だった。相手の顔が目と鼻の先にある。前髪《まえがみ》を垂《た》らしてて、よく見えなかった顔をとくと見たら驚《おどろ》いたね》
《どうしたの?》
《スキイに行ったらしくて、眼鏡《めがね》猿《ざる》さ。眼のまわりだけ真白だった。驚いたね。その顔で脚《あし》踏《ふ》んばって、腕《うで》組みしてるとね。和服着てても迫力あるぞ》
太郎はふと現実に引き戻《もど》された。あたりは大分、人が入っていた。もっとも、映画館の客と同じで、一人で入って来た客は、見知らぬ相手と隣席《りんせき》になるのを避《さ》けるように、バラバラに坐っていた。何人か集まって、すっかり馴《な》れた感じでぺちゃくちゃ喋《しゃべ》っている女の子たちは、北川大学の附《ふ》属《ぞく》の高校から入って来た連中に違いなかった。
その娘《むすめ》たちの方を見ようとして、太郎は、一瞬たまげた《・・・・》のである。彼女たちの席と太郎との間に、やはり「一人で来た客」らしいのがいて、その顔を見た時に、太郎はまざまざと、一昨日《おととい》のことを思い出したのだった。
それは、あの鯛焼《たいやき》屋《や》で、大きさを選んで三匹《びき》買った奴《やつ》であった。まちがいない。二日前と同じセーター、同じズボンである。
太郎は二、三秒ためらっていたが、この道では、見知らぬ人間に声をかけるのを躊躇《ちゅうちょ》するような奥床《おくゆか》しさは大敵だと、思い返して立ち上った。太郎はつかつかと相手の傍《そば》に行き、すぐ隣《となり》の席に腰《こし》を下ろした。
「一昨日さあ、鯛焼買ったろ」
太郎は、わざと、初めまして、とも、僕はこういう者ですが、とも言わなかった。それで相手の性格がわかると思った。
「ああ、買った」
「あそこの、うまかった?」
「さあね、でも三年見てるだけだったから、入学祝いに買ったんだ」
「え?」
太郎は、何か自分が聞きまちがったのではないか、と思いながら尋《たず》ねた。
「三年、見てたって」
「毎日、あの店の前通って高校通っていたからさ」
「それで一度も買わなかったの」
「高校のうちは買わんと決めた」
「すげえな。僕は、小学校の時から、コロッケの買い食いしてたがな」
太郎はそう言ってから、
「僕は、山本太郎です」
とやっと名のった。
「僕は、大西土《おおにしつち》之《の》介《すけ》」
やっと、挨拶《あいさつ》のところまで漕《こ》ぎつけた。と思った時、前の席で今まで髪《かみ》しか見えなかった女子学生が、くるりと後ろを向いて、
「私、東京の代田高校から来た、三《み》吉杏子《よしきょうこ》です」
と笑った。
「先刻《さっき》から誰《だれ》にも、挨拶するきっかけがないんですもの、いらいらしてたの」
「何でまた、東京くんだりから来たんだろ」
太郎は言い、三吉杏子は、
「山本君だってそうじゃない」
と言い返した。その時、人類学科の受持ちになる茂呂《もろ》通義《みちよし》先生が入って来た。首の太い、ぎょろ目の、髪の毛がやや薄くなりかけた、皮肉そうな男である。
太郎はいつも、こういう説明会のような公的な場所に耐《た》えられなかった。なおざりにしているわけではないが、オリエンテーションが数日あった後の入学式というものにも多分出る気にはならないような気がしている。パチンコで稼《かせ》いだ三千八百円はあるが、まだ、どうにも買わないと暮《くら》せないものがあるので、銀行の開いている時間に行って、金を下ろして来なければ、と思った。そして、昨日も一昨日も、あんなに部屋を開けっ放して出た癖に、家庭状況調査表などが配られて来る間に、通帳とハンコをどこへ隠《かく》そうか、と考えていた。
友達の黒谷久男が一人で暮していた頃《ころ》(と言っても青山さんという親《おや》父《じ》の会社の人が一緒だったが)黒谷も、アパートの部屋で一生《いっしょう》懸命《けんめい》、ハンコと通帳の隠し場所を考えていたことがあった。黒谷もかなりいい場所を思いついていた。一つは、電話機の下である。もう一カ所は、傘《かさ》立《た》ての底である。写真のフィルムをいれるアルミの缶を十個ぐらい並《なら》べておき、その一つをハンコ入れにしていたこともあるが、それはいつも、黒谷自身がどこに入れたかわからなくなる弊害《へいがい》が出た。
太郎は無限に隠し場所を考え出せる。靴《くつ》の中、ツリザオのケースの中、台所においた牛乳壜《びん》の中……。
事務的なレンラクが済んで、キャンパス案内ということになった時、太郎はひそかに逃《に》げ出すことにした。
「僕帰る」
太郎は三吉さんと、大西に言った。
「私も帰るわ」
「おれは残る」
大西は言った。三吉さんとは、もうかなり親しくなっていた。代田高校では、ハイジャンプの岩松恭子《いわまつきょうこ》とハードルの板東《ばんどう》キヨ子を知っていたから、彼女らの噂話《うわさばなし》をしているだけで、昔からの知り合いのようになれたのである。
「僕ね、まず、金がないから銀行に行きたいんだ」
校門を出ると太郎は言った。
「山本君、カード持ってないの? 銀行の」
「持ってない」
太郎は、さすがに、三時で銀行が閉ることさえ知らなかったことは隠していた。
「カードもらえば、引き出しの時間も長くなるのよ」
「じゃあ、そうしよう」
三吉さんは、髪を短くしていた。本当は、太郎は髪の長い女に弱いのだけれど、三吉さんの横顔の、とくに鼻の恰好《かっこう》がよかったので、太郎は《髪の毛なんか、伸《の》ばしゃ伸びるものな》と思いかけた。
「しかし、それにしても、あの大西って、おかしいよなあ」
「そうね」
「さっき聞いてなかった? 彼はさ、高校の間ずっとあの鯛焼食べたいと思いながら我《が》慢《まん》して、大学へ入ったから、祝いに三匹買ったんだって。ところがよく聞いたら、彼の家族八人なんだってよ。八人でどうして三匹で済むのかな」
「睨《にら》み鯛《だい》ってあるでしょう」
「そうかな。とにかくすごいケチだよな。ああいうのに限って、もの凄《すご》い金持ちだと思ったら、果してそうだった」
「そう言ってた?」
「東名高速道路が、彼のうちの土地を五百米《メートル》近い長さで走ったんだって。その補償《ほしょう》だけでも、凄いだろうなあ」
「山本君は、どこにおすまい?」
「僕アパート。三吉さんは?」
「私、北川大学の女子寮《りょう》。修道女たちが舎監《しゃかん》なの。クララ寮って言うの」
「男は行っちゃいけないの?」
「そんなことはないわよ。只《ただ》、ロビイで話すことになってるけど」
二人はまず、銀行へ行った。銀行の人は、カードを作る用紙を渡しながら、「ここに、暗号の番号をお決め下さい」と言った。
「できるだけ、皆《みな》さま方の、生年月日になさることをおすすめしておりますが」
太郎は、余計なお世話だ、という気になった。太郎の誕生日《たんじょうび》は、昭和三十年の一月二十三日だから、仮に○一二三とでも書いたら、相手は又《また》、「見本と違う番号でよろしいんですが」というようなことを言うに決っているのである。
太郎は、さらさらと一二一五と書いた。あんなに東京で冷たくされたのに、それが千頭慶子さんの誕生日なのだった。
「これね」
太郎は、三吉さんが訊《き》かないのに言った。
「これ、僕の憧《あこが》れの人の誕生日」
「何となく、きれいな番号ね、私みたいに、九月十七日、なんていうのより、いいわ」
「そうだな」
太郎は言ってから、
「でも、九月十七日だって、いい感じだと思うよ」
と下手《へた》くそな慰《なぐさ》め方をした。
それから、二人は外へ出た。表通りから離《はな》れる方向に向って歩いて行くと、静かな露路《ろじ》に面して、寺があり、墓が並んでいた。
「ずいぶん、たくさん、死んでらあ」
太郎は言った。
「ああ、僕は、三千年くらい生きたいなあ」
「三千年?」
「そう。今の人生百年とすると、その三十倍だよな。僕、かりに大学に八年間いるとすると、その率で行くと二百四十年大学生活送るわけよ。そうすると、……大変だなあ、あらゆる研究は終りにならないよね。データーはどんどんふえて来てさ、結論でないよな、社会人類学なんてのは、全く成立しなくなるよなあ」
「三千年は生きすぎよ」
「今、かりに僕が、大学の最後の年とするでしょ。そうすると、僕が北川に入ったのは、二百四十年前だから、一七三○年頃か。そうすると、吉宗《よしむね》の時代でしょ。荻生《おぎゅう》徂《そ》徠《らい》はもう少し後かなあ。忘れた。オレ、入学した時は、チョンマゲでよ、なんて言っちゃってさ、昔一《いっ》揆《き》と言うたものが、今のストよ、しかしあの頃の百姓は痩《や》せとった。今のストは太っとる、なんて言うんだろうな」
三吉さんはくすくす笑い出した。
「山本君、いつもそんなこと考えてるの?」
「考えてるよ。考えるから、けっこう大変なんだよ。憂鬱《ゆううつ》になる種もふえるしさ。本当にボク、大変なのよ」
言いながら、太郎は慌《あわ》てて、銀行で下ろした、一万円札《さつ》とハンコと通帳を、左右それぞれのズボンのポケットに、ふり分けにして入れてあるのを確かめた。そうだ、通帳は、焼き捨てるか、お袋《ふくろ》に送り返してしまおう、と太郎は思った。
8
今、山本太郎の正座した膝《ひざ》の前には、天丼《てんどん》用のドンブリの中に、奇《き》怪《かい》な色をしたどろりとしたものが、たっぷりと盛《も》られていた。奇怪というのは、他人が見たら奇怪と思うだろう、ということであって、太郎から見れば、決してあやしげなものではない。
太郎は、タン・シチューを煮《に》たのである。なぜこのような料理を作ることになったかと言えば、三吉杏子を、ずるずるとクララ寮まで送って行って、その入口に、あまり大きくはないけれど、月桂樹《げっけいじゅ》の木を見つけてしまったからだった。
《あ、月桂樹でやがら》
太郎は言いながら立ち停《どま》った。
《シチューに使うとうまいのになあ。ここの人知ってんのかなあ》
《もらってけば?》
三吉杏子は言った。もちろん、そうしても、誰《だれ》も見とがめるような雰《ふん》囲気《いき》ではなかった。しかし、そこが、太郎の臆面《おくめん》もないところだった。太郎は杏子と中へ入って行き、入口にいたシスター・矢野という修道女に紹介され挨拶《あいさつ》をしたのである。
《私は、今度、北川の人類学科に入れて頂いて三吉杏子さんと同級になった山本太郎と申します》
太郎はそう自己紹介をした。
《今、三吉さんを送って来たんですけど。門のところに、月桂樹の木があるのご存じでしょうか》
《月桂樹? いいえ》
《ええ、葉っぱをオリンピックや料理に使う奴《やつ》です》
どうもおかしな言い方になったが、しかたがなかった。
《いいえ、存じませんわ》
シスター・矢野は堂々とした体格である。修道女だから、お化粧《けしょう》っ気はないし、眼鏡をかけているが、声は暖かくて感じ悪くない。
《あれ、料理にお使いになった方がいいと思います。普《ふ》通《つう》、干したのを売ってますけど、あれより、こちらの方が香《かお》りがいいに決ってますから》
《お炊《すい》事《じ》のシスターにそう言っておきましょう》
太郎はその木をシスター・矢野に教えてやった。
《あなたは、植物に詳《くわ》しいのね》
シスターは言った。
《いいえ、そんなことはないんです。友達のうちにあって、そこの家へ遊びに行く度《たび》に、葉を摘《つ》んでは、母のところへ持って行ってたもので、この木だけ知ってるんです》
《地味な木ね、ちょっとサカキかモッコクみたいだわ》
《クスノキ科です》
《山本さんは、名古屋の方?》
《いいえ、三吉さんと同じ東京です》
《じゃあ、お母さまに、この葉っぱを持って行って上げることもできないわね。下宿なんでしょう》
《でも、自分で自炊してるものですから》
《じゃあ、採っていらっしゃい》
《よろしいでしょうか》
太郎は言った。
《山本君、何をつくるの?》
三吉杏子は尋《たず》ねた。
《タン・シチュー》
それで、このような按配《あんばい》になったのである。摘んだ十枚の葉っぱを、服のポケットにつっ込《こ》み、太郎は帰りに寄り道をした。この数日の間に、早くも「牛豚《ぶた》内臓」と書いた肉屋を見つけてあったのである。この手の店は、少なくとも、東京の、太郎の住んでいる附《ふ》近《きん》にはない。およそ、肉の中で、一番おいしいのは、内臓であるということを、日本人はあまり承認しない。
太郎はそこで、牛の舌を三百グラム買った。一切れの厚さを、七ミリにしようか、一センチにしようかと考えた挙《あげ》句《く》、七ミリに切ってもらうように頼《たの》んだ。これは、恐《おそ》らく心がおとろえていた証拠《しょうこ》だと思う。煮上ってみると、七ミリのタンの切れは、薄《うす》っぺらくなり、パンチがきかなくなっていた。やはり一センチにして、肉の層の内側に、ドミグラス・ソースの味がしみていないように感じられる部分が残るように、配慮《はいりょ》をすべきであった。
しかし、その他《ほか》の点は、大体において、うまく行ったのである。内臓屋の帰りに、例のショッピに寄って、この春と言うのに、真っ赤に熟《う》れて、あちこちいたみかけている、奇《き》妙《みょう》なトマトを一箱《はこ》買った。一箱しか売らないのだから仕方がないが、本当はこういう赤い熟れすぎのトマトこそ、最上なのである。タンは三百グラム買っても三百六十円だから、そんなにべらぼうに高価な料理ではない。タンをよくよくいため、あまり多量でない水で煮る。その時、この月桂樹の葉っぱをいれるのである。トマトは本当は皮も種もとりのぞくのだが、そのままほうり込んで、あとで、よれよれになった皮だけ、しゃくい上げても何とかなる。
ドミグラス・ソースは、これは、アメリカのH社のものに限った。太郎は自分でも何度か作ろうとしてみたのだが、とうてい手ばかりかかって効果が少ないので、今はもっぱら缶詰《かんづめ》の中から、茶色いこってりしたソースを出して、こちょこちょと、何だかカンニングをしているような気分で加えることにしている。玉葱《たまねぎ》は、本当は小さな、一口でがぶりとやれるのを買うべきなのだが、それは高価につくし、ニンジンは、面をとって、見た目にも柔《やわ》らかに仕上げなければいけないのだが、それをするとムダがでるので、ごりごり、ゴリラの餌《えさ》風に切ったままである。
正座して食べ出そうとしているのは、決して慎《つつし》んでいるのではなかった。アグラがかけない脚《あし》の構造だし、机の上はまだ荷物置場になっていて、とうてい食器を置ける状態ではない。第一、タン・シチューを作っても、まだスープ皿《ざら》が出て来ていないのである。スープ皿は、それこそ、ハンパになった模様のを、三枚ばかり母が入れておいてくれた筈《はず》なのだが、どういうわけかまだ食器の箱からは出て来ていない。食器の箱が総計で、幾《いく》つあるのか、太郎は知らないのだから、この日本伝来の、伊万里《いまり》風の天丼の丼《どんぶり》に、シチューを盛りつけて食べる、ということになったのである。
太郎は、食卓《しょくたく》に花やテーブル・クロスがないと淋《さび》しいと思うたちではなかった。第一この点では親たちの躾《しつけ》がなっていなかった。母の信子は、子供の時、外国生活を体験しているから、テーブル・クロスや花は、決してブルジョア的なものではなく、どのようなささやかな庶民《しょみん》も、それなりにいとおしんで整えるものだということが身にしみているようである。
しかし、父の正二郎は違った。あの男には情緒欠損症《じょうちょけっそんしょう》のようなところがあって、食卓には花などない方がいいのである。ごくまれに、隣《となり》の祖母が庭の桔梗《ききょう》などを一りん、小さな壺《つぼ》に入れて持って来てくれたりする。母はそれを、食事の時、塩と胡椒《こしょう》の容器の傍《そば》に置くのだが、食べ始めて、一、二分もしないうちに、父はさっさと花の壺だけを端《はし》の方の、誰《だれ》にもじゃまにならない所に移してしまう。そういう夫を、お袋《ふくろ》はどう思っているのか知らないが、反対も唱えない。ぞっこん惚《ほ》れている、わけでもないだろうから、多分あきらめているのだろう、と太郎は推測《すいそく》している。そして太郎は、お袋に、ぜったい割れないといわれるフランス製のガラスのコップ(これは日本の安食堂にあまねく普及《ふきゅう》している)や扱《あつか》いが簡単であることが唯一《ゆいいつ》の美点と思われる皿で日常暮《くら》させられているおかげで、実は、本当は(誰も信じてはくれないだろうが)豪華な食器で食事をすることにも《いいなあ》と憧《あこが》れているのである。
太郎は、一口シチューを食べてみて、なかなかいい味だ、と思った。大都会でなければ、シチュー屋をやっても食っていけそうだ、と思った。しかし、一人で正座して、飯とシチューを黙々《もくもく》と食べるのは、何とも虚《むな》しい感じがしたので、彼はこの際、食事に合っていそうな読みものをもって来ることにした。
月《つき》並《な》みだが、それはブリア・サヴァランの「美味《びみ》礼讃《らいさん》」でその中の《聖ベルナルド修道院の一日》と題する部分である。
「朝の一時近くだった。夏の美しい夜であった」
書き出しはこんな具合である。
「わたしは当時ある素人《しろうと》楽団の指揮《しき》者《しゃ》をしていたが、仲間はみな若さと健康とに伴《ともな》う、あらゆる美点を備えた愉《ゆ》快《かい》な面々だった。ある日のこと、サン―シュルピスのひとりの坊《ぼう》さんが食後わたしを片かげに呼んで、聖ベルナルドの祭りの日に演奏に来てはくれまいかと言った」
彼らは明け方近く、山の頂きにある修道院につく。そこはモミの林に覆《おお》われ、一度大風が吹《ふ》いた時には三十七万本の松が引っくり返ったという土地である。彼らの到着《とうちゃく》を待ってすでに朝餐《ちょうさん》が用意されている。
「大きなテーブルのまん中に、寺院のように大きなパテがそびえ、その回りを、北側は仔《こ》牛《うし》の冷肉の一かたまり、南側は巨大《きょだい》なハム、東側は膨大《ぼうだい》なバタの玉、西側は胡椒ソースをかけたアーティチョークが、それぞれとり囲んでいた」
アーティチョークはチョウセンアザミと言われるもので、日本人は高級食品扱いするが、世界中で必ずしもそうだとは言えないようであった。
「なおその他に、諸種の果実、小皿、ナプキン、ナイフ、かごの中に入った銀器などが並《なら》び、テーブルの端には修道士や寺男などが、まだ眠《ねむ》そうな顔ながら、お客さまのお給仕をつとめようと控《ひか》えていた。食堂の片すみにはお酒のびんが百本ばかり並べられ、自然の噴《ふん》泉《せん》が《おお、バッカスよ》とつぶやきながら、それにそそいでいた。モカのかおりがわれわれの鼻を喜ばさなかったのは残念だったが、まだ当時はこんなに朝早くコーヒーをとる習慣がなかったからである」
彼らは食後眠り、聖餐奉献式《せいさんほうけんしき》のときには交《こう》響楽《きょうがく》をやる。聖体奉挙の時はモテットをうたったのである。そして夜になる。食事は十五世紀風のごちそうだった。アントルメなんか出ず、いきなり、すばらしいシチューが出る。
「それに第二コースで、実に十四皿もローストが出たことを知ったら、このような場所にどれほどの豊かさがみなぎっていたか、想像できようというものだ。
デザートはとりわけすばらしかった。この高地では生育しない、低い土地から取り寄せたくだものが、つまりマシュラズの庭園、モルフラン河、ヴィユ、シャンパーニュ、その他、熱い太陽のさんさんとふりそそぐ地方から取り寄せたくだものが、その大部分を占《し》めていたからである」
太郎は丼の底でかちゃかちゃとスプーンを鳴らしながらシチューを食べ終った。
「リキュール類も不足しなかった。だがコーヒーのことはここに特筆しなければならない。
そのコーヒーは澄《す》んでいてかおり高く、すばらしく熱かった。だが特にそれは、セーヌ川の左岸であつかましくもタッス《・・・》(茶碗《ちゃわん》)と呼ばれるような、あんな堕《だ》落《らく》した器に入れては出されなかった。美しく深い、お坊さんたちの厚い唇《くちびる》が思うさまはいるようなボールに入れて出された。お坊さんたちは暴風の前の二匹の抹香鯨《まっこうくじら》みたいな音をたてて、その興奮飲料を吸い込んだものである」
太郎はここのところが好きなのであった。男が物を食べる時は、このように厚顔《こうがん》でありたいと思う。このコーヒーはどんなブレンドなのか。それとも、モカだけなのか、いずれにせよ、インスタント・コーヒーを安もののコーヒー茶碗(これもタッスという奴か!)に入れて飲む、というのは衰弱《すいじゃく》したやり方なのだ。
楽士たちの一日は、これで終らない。更に晩祷《ばんとう》に列席し、聖歌を演奏する、寺に戻《もど》るとかなり遅《おそ》くなっていた。九時に再び夜食が出た。
「宴《えん》たけなわなる頃《ころ》、誰かが、大きな声で叫んだ。《まかない主任さま、あなたのごちそうはどこに?》《なるほど、ご催促《さいそく》はもっともじゃ。(とその神父さんは答えた)まかない主任僧と名のるからにはちとごちそうを出さずばなるまい》
そしてちょっと引っこんだと思うと、三人の従僧を連れて現われた。ひとりはおいしいバタつきトーストを運び、あとのふたりは食卓の上に砂糖のはいった強いブランデーの樽《たる》をのせてかついできた。それは当時、まだ殆《ほとん》ど知られていなかったが、ほぼ今日のパンチに似たものだった。皆は歓呼してこれを迎え、トーストを食べ、舌を焼くようなその酒を飲んだ。そして寺の鐘《かね》が夜半を告げると、一同はそれぞれの房《ぼう》にひきとり、一日のお勤めの報《むく》いとして安らかな楽しい眠りを与えられた」
太郎は本をぱたりと閉じ、食べ終った食器を流しに運んだ。しかしすぐ洗う気にもならなかった。
これから眠るまで、どうして過そうか、と太郎は思った。物を片づける気もない。パチンコへでも行こうか、と思った。ここ数日、おかしな状態が続いている。常に、今、自分のしていることが、当を得ていないような気分なのである。パチンコをしていると、映画が見たくなり、映画を見ていると、本を読むべきだった、と悔《くや》んでいた。そのどれもが嫌《きら》いでないのに、何をやっても落ちつかなかった。この聖ベルナルド修道院のくだりには、いささかお人《ひと》好《よ》しなくらい、甘《あま》い、みちたりたものが感じられる。腹いっぱい、ごちそうが食えたからって、おいしいコーヒーや、おそらく極度に薄焼きに違《ちが》いない香《こう》ばしいトーストを食べたからって、それで人間の魂《たましい》が救われるということはないのだ。それなのにこの連中は丸いふくらんだ腹をして、モミの林の中の修道院の中で眠っている。
何だかおかしな気分であった。別に聖ベルに憧れているわけではないが、この世界の方が実で、現在の太郎の生活の方が虚のような気がした。少しおかしくなっているかな、と太郎は思った。あたりは音があるようでいて、太郎に関係のある音は何一つなかった。
しかし、その中で、太郎は何となく聞き覚えのあるような足音がコンクリートの廊《ろう》下《か》を近づいて来るのを錯覚《さっかく》のように聞いていた。
9
太郎は足音を聞き、その特有の足音を立てる男を連想し、まさか、と思った。その男は今どき、名古屋にいる訳はなかった。錯覚なのだな、と太郎は自分に言い聞かせたが、それでも足音は、廊下のどんづまりの太郎の方へ近づいて来るのだった。
ベルが鳴った。
「はい」
太郎はドアは開いているのに、と思いながら、
「おやじさん?」
と声をかけた。
「そうだ」
やはり、父の山本正二郎であった。
「どうしたの? おふくろさんとケンカして家出して来たの?」
太郎は突《つ》っ立ったまま尋《たず》ねた。
「いや、ちょっと、こっちに用事があったもんでね」
「僕《ぼく》何も悪いことしてないよ。警察から呼び出される筈《はず》はないからね」
太郎は先廻《さきまわ》りして言った。
父はさっさと靴《くつ》を脱《ぬ》ぐと、オーバーをとりながら、今しがた太郎が坐《すわ》ってタン・シチューを食った所へどっかりと腰《こし》を下ろした。それが畳《たたみ》の上にまともに坐れる唯一《ゆいいつ》の空間だったので、太郎はやむなくベッドの上に避《ひ》難《なん》した。
「高等学校で一緒《いっしょ》だった菊盛三郎《きくもりさぶろう》という男のこと知ってるだろ」
父は息《むす》子《こ》に向っても、同僚《どうりょう》のような話し方をした。
「うん」
「そいつが、急にノイローゼで動けなくなった」
「動けなくなった、って、どうなったの? ヒステリーで立つことも歩くこともできなくなる人がいるってことは、よく聞いているけど」
「どういうんだか、詳《くわ》しくはわからん。只《ただ》、前から不眠症《ふみんしょう》になっていたらしかったんだけどね。状態がひどくなったもんで、奥《おく》さんが入院させて、今、睡眠療法《すいみんりょうほう》をさせてるらしい」
「睡眠療法って、例の、何日間か、ぶっ続けに眠《ねむ》らせる奴《やつ》?」
「多分、そうだろうと思う。それで、菊盛は名古屋の榊原《さかきばら》女子短大に週に一日ずつ来てたんだ。学長の小《こ》峰《みね》さんが、又《また》我々の高等学校の先輩《せんぱい》でさ。それで、もう新学期は始まってるし、誰《だれ》かが、菊盛の穴《あな》埋《う》めをしなきゃならなくなったんだ」
「それで、お父さんが来るの! 毎週」
「心配するな、こんな汚《きた》ない所へは泊《とま》らん。ちゃんとした高級なホテルに泊めてもらう約《やく》束《そく》だ」
太郎は黙《だま》っていた。父親にひんぴんとこの町に出入りされることは、何か領土を侵《おか》されるような感じがしないでもない。
「どうだね」
「こんなもんだよ。見ればわかるでしょ」
「夕飯には何を食ったんだ?」
「タン・シチューだよ」
「わりとまともなものを食ってるじゃないか」
「そうだよ。僕は甲斐《かい》性《しょう》があるからね」
「榊原女子短大って知ってるか」
「知ってるよ、マークは鶴《つる》がついてて、日本航空のできそこないみたいなの。頭が悪くて、器量も悪くてさ、お辞儀《じぎ》だけうまいような奴ばかりがいるとこだよ」
太郎は、父親が毎週やって来るということにショックを受けていて、今、何にでもケチをつけたい心境になっていた。
「当節、お辞儀もまともにできないのが多すぎるからね。短大出て、お辞儀だけでもできるようになれば、大したもんさ。しかしよく、校章まで知ってるな」
「ボク、名古屋の大学と短大の校章知ってるもんね。本当は東京の高校は全部知ってるんだ。いつか、《私の特技》ってテレビの番組に出ようと思って応《おう》募《ぼ》したことあるんだ。出演の依《い》頼《らい》は来なかったけどね」
太郎はそれを高校の時、大学受験案内を見ていて覚えてしまったのだった。
「おふくろさんは、生きてる?」
「ああ」
「やっぱり翻訳《ほんやく》してる?」
「ああ、例の何とかいう本、ベスト・セラーになりかかっている奴が、また五千部増刷になったって、きのうはビフテキを買って来た」
「あの女《ひと》も、小人《しょうじん》だね。本が売れないと、怖《こわ》くてニューヨーク・カットのステーキなんか買えないんだよな」
「ニューヨーク・カットじゃなかったよ。小さなヒレだった。まわりにベーコンを巻いた奴だ」
父は大人げなく訂正《ていせい》した。
「あの女《ひと》は、本当に英語できるのかね」
「さあね、馴《な》れてはいるんだろうね」
「僕全然、英語できないんだ。いつかおふくろさんとラヴ・アフェヤーの意味について討論したんだ」
「どんなふうに」
「僕はね、レンアイという意味と、情事という意味と二つある、って思ってたんだ。そしたら、おふくろはレンアイの意味は全くないって言うんだ。情事ということだ、って言うんだな。誰かと誰かが、つまり、わりと純真な二人が恋愛してさ、それがちょっとした話の種になってるようなことも、ラヴ・アフェヤーって言うんじゃないかと思ったらさ、そんなことはないんだって、おふくろは言うのさ」
「大学の同期生で大阪で化粧品《けしょうひん》屋《や》やってる落合さんっているだろう」
「ああ、知ってる。水商売の人とみると、やたらに化粧品安く売ってやっちゃう人だろ」
「ああ。あの人がいつか、安いキャバレーに連れてってくれた。《ビールはな、高いとこで飲んでも、ここで飲んでも、味はいっしょや》ってさ」
「そりゃ、そうだ」
「そしたら、そこに連れ込《こ》み宿のマッチがあった。《メイク・ラヴ・しまひょ》と書いてあった」
「うん、それを聞くとわかるな」
「ま、そういうもんだ」
ちょっとした沈黙《ちんもく》が訪れたので、太郎は、おやじに、
「飯食った?」
と尋ねた。
「ああ、一応は学長の小峰さんと食った」
「だけど、まだいくらかは食えるんだろ」
「そうだな。日本料理ってのは、腹もちが悪いからね」
「飯にタン・シチューぶっかけて食いなよ」
太郎は言った。
「ご飯がまだ少し残ってるしさ。シチューはあっためなおすから」
「そうしようか」
太郎は自分が食べたままになっている丼《どんぶり》を洗い、それからシチュー鍋《なべ》を火にかけた。音を立て始めたところで飯をたっぷり一膳《ぜん》分くらい、丼によそい、その上にシチューをぶちまけた。
「ドミグラス・ソースをけちったから、少し色が悪いけどさ」
「うん、水っぽい色だ」
「でも味は悪くないでしょ。トマトだって、ちゃんと熟《う》れた生のトマトだしね」
「うん、うん」
山本正二郎は、渡《わた》されたスプーンで真剣にシチューかけ飯を食い始めた。その姿は小学生のようだった。おやじは飯を食うという行《こう》為《い》に関しては、年をとらなかったのだ、と太郎は思った。
太郎の違和《いわ》感《かん》は、日が経《た》っても、あまり好転しなかった。さし当って何かが不満なのでもない。料理はお手のものだし、裁縫《さいほう》だってボタンつけくらいは何でもないのだから、不自由で困る、ということもなかった。交友関係も、三吉杏子さんには会えたし、鯛焼《たいやき》の大西土之介も、ちゃんとアパートに遊びに来たし、三階にいる松沢さんという二十二、三の女の人とは、めったに会わないけれど、会えば、必ず《今日は》とか《お部屋かたづいた?》とか言ってくれる。つまりよく言う、新しい土地になじまず、その土地から浮き上ることの悲劇、になどは全く悩《なや》んでいないのである。
大西は或《あ》る日、太郎と一緒にやって来た。下駄《げた》ばきであった。水虫のためにこの方がいいのである。
散らかった部屋に入ると、大西は、両手をズボンのポケットにつっこんだまま、じろじろ、あたりを見《み》廻《まわ》した。
「ベッドに寝《ね》るんか」
大西は言った。
「ああ」
太郎は答えた。何しろ相手は睨《にら》み鯛《だい》の大西だから、ちょっとやそっとの答え方をしたって、別に驚《おどろ》いたり、へこたれたりするわけはないのである。
大西は、それから、太郎のベッドの上に河《か》馬《ば》の内臓のようにめくれ返っている蒲《ふ》団《とん》をじろじろ見た。ちら、と見るのではなく、じっくり、じろりじろりと見た。しかしさわるのも不潔と思ったのか、手は出さなかった。
「こういう掛《か》けもので寝るんか」
「ああ、そうだよ」
「おれは、どしんと重い蒲団でないと寝たような、気せんな」
「うちのおふくろは、蒲団、縫《ぬ》えんのだ」
太郎は言った。
「だから買うだろ。買うと化《か》繊綿《せんわた》で軽くなっちまうからな」
「机と椅子《いす》で勉強するんだろ」
「そうだよ。脚《あし》が曲らないから」
「おれは伸《の》びないんだ」
「ふうん」
同じ日本人のくせにこうも違《ちが》うものかと思う。
太郎はその日、それからマーケットに買い出しに行き、大西に夕食を食べさせることにした。あまり手をかけていられないので、少し高価だが、スモーク・サーモンの切身を一つとレモンを買った。この鮭《さけ》の燻製《くんせい》は生のまま薄《うす》切《ぎ》りにして、本当は生玉葱《なまたまねぎ》の輪切りと、レモンとケーパーと呼ばれるへんな酢漬《すづ》けを散らして食べる。ケーパーは、辞引きでひくと地中海沿岸に産するフウチョウボクとなっており、その蕾《つぼみ》を酢づけにしたのが、つまりケーパーなのだという。
しかし、フウチョウボクなどというものを、睨み鯛に食べさせたってもったいないので、それは省き、あとはこの男を驚かすために、レバー・ステーキとキャベツのバター煮《に》を作ることにした。
「これは生鮭か、生鱒《なまます》か」
大西は太郎が、畳の上に、どうにか二人分の食器を並《なら》べると聞いた。
「生鱒だ。ジストマがいるかも知らん」
本当は鮭なのだが、太郎はわざとそう言って、相手の出方を見た。大西は太郎の並べたナイフとフォークには手もふれなかった。彼は半切りのレモンに箸《はし》をつき刺《さ》して、その汁《しる》を振《ふ》りかけ、輪切りの玉葱を適当に配分して、わっさわっさと食べ始めた。
「まずいか?」
太郎は尋ねた。
「うまい」
ジストマのことなど気にもしていないようであった。
「もうないのか」
「もう少しある」
値段も知らずに、横暴な奴だ! と思ったが太郎は感じよかった。太郎は変に遠慮《えんりょ》する人間は嫌《きら》いであった。
「残ったのを、焼いてくれんか? 魚焼きの網《あみ》あるだろ」
「ジストマが怖《こわ》いのか?」
「いや、さぞかし焼いたらうまかろうと思うんだ」
太郎は、黙って言われた通りにした。スモーク・サーモンを魚焼きの網で焼いた奴なんて、あまり例がないだろうが、向うがそう言うのだからその通りにしてやろうと思ったのである。それは、サラダをちょっと煮てくれ、というのに似ていたが、それはこっちの知ったことではなかった。
太郎は、サーモンを火にかけている間にメイン・ディッシュのレバーの焼いたものを出した。
「これは何だ、まぐろか」
大西は訊《き》いた。
「レバーだ。牛の肝臓《かんぞう》。好きか?」
「食べたことないから、わからん」
道理である。
大西はザブリと醤油《しょうゆ》をかけてから、一口頬《ほお》張《ば》った。
「うまいな」
日本原人《アボリジン》だ、こいつは、と太郎は思った。しかし何となく押《お》されていた。
「キャベツも食えよ」
「キャベツに油揚《あぶらあ》げは入っておらんな」
「その代りにバターをいれたんだ」
こいつはきっと代用に入れたんだと思っているだろう。油揚げがないので、バターでごまかしたと思っているに違いない。しかし、考えてみれば油揚げと煮たキャベツと、バターを入れて蒸《む》し煮にしたキャベツとは、日本料理と西洋料理の差はあっても、同じことを狙《ねら》ったのである。
その間に鮭は焼け上った。太郎はこの無茶な料理法を見て、鮭をいたいたしく感じた。彼は皿《さら》にぽいと焼魚をほうり込み、睨み鯛の前に据《す》えた。
「お前も食えや」
大西は言った。
「僕はいらん」
太郎は、どんな味になってたって知らんよ、と思った。そんな危なかしげな料理、口にしたくもなかった。
「じゃ、一人でもらわあ。おれ、塩鮭大好きなんだ」
どうせ、こいつの口は、塩鮭と、味噌《みそ》汁《しる》と、胡瓜《きゅうり》の漬物か何かが、最高にうまいと思うようになってるんだ、太郎はそう思いながら大西を見ていた。
「うめえ」
大西は呟《つぶや》いた。
「本当にうめえや。こんなうめえ鮭食ったことねえなあ」
太郎はその言葉を聞いてむらむらした。そんなことはない、と思いながら、彼は大西の前の切身から一っぺらをかすめとって食べてみた。それは太郎も知らなかった妙《たえ》なる味であった。
10
文科人類学科の、新入生歓迎《かんげい》コンパは、四月末の或《あ》る日、大学の近くの梅《うめ》乃家《のや》という家で行われることになった。
「山本君、行くでしょ」
三吉さんに言われて、太郎は、行かなきゃなるまいなあ、と心の中で考えていたが、多少おっくうであった。
「梅乃家って何屋だ? トンカツ屋かな」
「大西さんに訊《き》いたら、季節料理だって」
「変なうちでやるなあ」
太郎は、それにも違和《いわ》感《かん》を覚えた。東京ではそういう所ではやらない。中国料理がごく普《ふ》通《つう》である。朝鮮焼肉という場合もある。
「何が出るんだ?」
太郎は、大西に或る日尋《たず》ねた。
「出るって、何が?」
「梅乃家さ」
「ごく普通のものだろ。刺《さし》身《み》、酢《す》のもの、それにカシワの料理がでる」
「ふうん鶏《とり》料理なのか、そのうちは」
「トリやない。カシワさ」
太郎は又《また》、エキゾチシズムを感じた。東京では鶏肉はどれもトリという。しかし名古屋ではトリとカシワがある。ブロイラーはトリで、昔《むかし》ながらのうまいコーチンの肉はカシワである。
「何で、そんな季節料理なんて家でやるんだ」
「何で?」
大西は不《ふ》審《しん》そうに言った。
「畳《たたみ》に坐《すわ》らんと、落ちつかんやないか」
「ひええ」
太郎は、目を廻《まわ》した。
「畳に坐ったら、オレ、とたんに飯うまくねえや」
「宴会《えんかい》はなあ、蛸《たこ》酢《す》もないと感じがでん」
「タコス?」
「蛸と胡瓜《きゅうり》の酢のものよ」
「蛸と胡瓜」
太郎は二の句が継《つ》げなかった。太郎は泳ぎももぐりも上手だったから、勝手のわかっている三浦半島の海ではよく蛸を突《つ》いた。大蛸に体中からみつかれて、皮下出血だらけになったこともある。そのような苦労をしてつかまえた蛸は充分《じゅうぶん》に塩で洗って、太郎自ら茹《ゆ》でても、母の信子は、実に冷淡《れいたん》なのであった。
《これがイカなら、いいんだけど》
信子は無茶なことを言った。
《イカなら、ウニ焼きでも、煮《に》つけでも、天ぷらでも何でも使えるんだけどねえ。蛸ばかりは、使いようがないわね。酢のもの、タコヤキ、あとは、里芋《さといも》と煮るのもあるらしいけど。第一、タコヤキなんて、小指の先くらいずつ、使ってったって、とうていこの蛸一匹《ぴき》食べられるもんじゃないわ》
《イカもタコも似たようなもんだよ。小さく切って、玉ねぎとカキ揚《あ》げにしてごらんよ》
とにかく、太郎にとって、蛸はあまりありがたみのないものであった。それを大西は蛸の酢のものがないと宴会のかっこうがつかない、と言うのである。
驚《おどろ》いたことに、梅乃家という店のすぐ後ろが、本田悌四郎の勤めているミシン会社の社宅だった。それは、こぢんまりした四階建ての鉄筋《てっきん》アパートで、外壁《がいへき》にでかでかとそこの会社で売り出しているミシンの名前が書いてあった。
山本太郎が、梅乃家のコンパの席を抜《ぬ》け出して、本田悌四郎の名《めい》刺《し》が、気のない調子で張りつけてあるドアの前に立ったのは、午後八時少し過ぎだった。悌四郎の部屋は二階だった。
「はい」
力ない返事が中から聞えた。
「あのう、山本太郎です」
「はいはい、わかりました」
鍵《かぎ》を開けるのに、まだいろいろごたついている感じである。
「あのう、お隣《となり》まで、来たもんですから」
やっと開けてもらって、太郎はぺこりと頭を下げた。
「隣へ来たって? 山内さんとこ?」
悌四郎は、同じ社宅の隣人《りんじん》のことを考えているらしい。
「いえ、梅乃家に来たんです」
「ああ、あの田舎《いなか》料理屋か、まあ入れ」
悌四郎は、名古屋人が聞いたら、怒《おこ》るようなことを言った。
「何かあったの? 梅乃家で」
「コンパです。いてて」
まだ、足がしびれているような感じだった。
「畳の上に坐らされて、脚《あし》つきのお膳《ぜん》でしょう。全く野《や》蛮《ばん》だよなあ」
太郎は言いながら、あたりを見廻した。何もない、というわけではないのだが、どことなく、殺風景《さっぷうけい》な部屋だった。
「まあ、簡易生活をしてるんだ」
悌四郎は、ちょっと言い訳がましく言った。
「世帯が二つになるってのは、金のかかるもんでね」
「そうでしょうね」
小さな冷蔵庫と、一人分用の、ままごとのように小さい電《でん》気《き》釜《がま》もあった。
「何もかも二ついるんだけど、会社はその費用を出してくれないからね」
「つまり、家族を呼び寄せればいい、ということでしょう」
「そうらしいね。六畳《じょう》と四畳半にダイニング・キッチンだから、ここで、子供二人までは暮《くら》せる、っていう計算なんだ。文句は言えないけどね。しかし、うちの遊《あそぶ》は、やっと私立中学に入れたんだ。これで高望みしなければ、どうやら、あの大学でいいなら出してくれるからね。今、とうてい転校できたもんじゃない。大体、勉強なんか嫌《きら》いな子なんだから」
親が、遊などという名前をつけておいて、勉強しない、もないのである。
「それで、金がないから、万事、つましくやってる。テレビも白黒だ。だから、おもしろくないから、あまり見ない」
「その代り、水割りのビールですか」
「コンパはどうだった?」
「皆、まじめくさって一人前ずつのお膳に向ってるのには驚きました」
「ここの連中はね、いい若いもんでも、ちまちましてやがんのさ。学生でも盃《さかずき》の献酬《けんしゅう》やったろ」
悌四郎は口が悪かった。
「それも、驚いたんです」
「何がさ」
「僕はね、ああいう時、只《ただ》、お酌《しゃく》して廻ればいいんだと思ったんです。そうしたら、相手の盃もらうんですね」
「そうか、そういうことも知らなかったか」
「いや、知らなかったわけではないすけど」
太郎は、ちょっと言いわけした。
「ヤクザ映画見てますから」
「蛸の酢のものが出たろ」
「出ました!」
「あれには弱るよ。チューインガムより、まだ悪い。あれで、義歯が一つ壊《こわ》れた」
「しかし、ここの人は、あれが出ないと、宴会の気分が出ないらしいです」
「うん、うん」
悌四郎は、我《わ》が意を得たというふうに頷《うなず》いた。
「よく来てくれたよ、一度、様《よう》子《す》を見に行こうと思ってたんだ」
「まだ、何も片づけてないんです」
「そのほうがいいだろ。片づきすぎてるよりは健康だ」
悌四郎は安物の卓袱《ちゃぶ》台《だい》の上にあった小さな紙箱《かみばこ》を開けた。
「大福を食うかい?」
「いや、今はいっぱいです」
「おれはもう二つ食べたんだ」
「水割りビールに、大福ですか」
「ああ、まんざらいけないこともない」
悌四郎はそこで、威《い》勢《せい》の悪い蒼《あお》い顔を見せた。
「何しろ、本当は金はかかってないんだ」
「そうですか」
「飯は一階の食堂で朝晩出してくれる。朝はパンかご飯かちゃんと選べるようになっててね。ご飯と言えば、生卵と紙のように薄《うす》い塩《しお》鮭《ざけ》もつく。それで月に一万円も食費に出してない」
「名古屋は食費が安いです。でも、一軒《けん》もつと金はかかります」
「ここではね、おれが一番貧乏《びんぼう》よ。独身者の引っ越しなんてすごいぜ。洋服箪《だん》笥《す》はある、ステレオはある、ギターもある、ゴルフ・セットも、カラー・テレビも、電子レンジまで持ってる奴もいる」
「しかるに支店次長は……」
「箪笥なし、カラー・テレビなしさ」
悌四郎はそう言うと、
「君は買ったの? カラー・テレビ」
と尋ねた。
「いえ、そんなもの買ってません。テレビは白黒も買ってません」
太郎はちょっと胸を張って答えた。
11
太郎は問題を自分で解決しなければならない、と感じていた。アパートの部屋の中が、片づかないのが気になるのでもない。家事が重荷になっているのでもない。料理などはむしろ、どちらかというと、おもしろいくらいだった。雨の降る日など、暖房《だんぼう》設備のない部屋の中は、まだしんしんと冷えるように思われる時もあるが、蒲《ふ》団《とん》もあればアノラックもあり、それらにくるまっていれば、この地球上の、寒さに悩《なや》む人類としては、かなり恵《めぐ》まれた方だという実感の方が強かった。
太郎は落ちつかないので、せっせと授業に出た。大しておもしろい訳でもないが、こんな大学へ入ってしまって当てがはずれた、という失望を味わっているわけでもない。
それなのに、太郎はとにかく落ちつかなかった。本を読む時は、わりと集中力があると思っていたのに、活字を眼《め》で追いながら、他《ほか》のことを考えている自分に、気づくこともあった。
間もなく、四月末の連休であった。
或《あ》る朝、太郎は電話局に行き、東京に電話をかけた。
「お早う、どうかしたの?」
母は、太郎が電話をかけて来たというだけで、何か異常なことが起きたのだ、と思ったらしかった。
「どうもしないよ」
「毎日の暮《くら》しが大変なの?」
「いや、別に」
自分でも、何のために電話をかけたのかわからなかった。
「お父さんは、もうでかけてるのよ」
「いいんだよ、別に用はないんだ」
「連休が終ると、例のピンチヒッターで、毎週そっちへ行くようになるらしいけど、ね」
「ふうん」
できるだけ、素《そっ》気《け》ない声を出した。
「太郎」
「何よ」
「あなた、北川大学へ入ったこと後悔《こうかい》してるの?」
「そんなことはない」
「学校が合わないと思ったら帰っておいで。一人で名古屋で暮すことが、何となく辛《つら》ければ、出なおしたらいいよ」
「別にそんなことないんだ」
「私は、固定観念が嫌《きら》いなのよ。人間は皆まちがえるからね。やってみて、まちがいだと思ったら、あっさりカブトを脱《ぬ》いで、でなおしたらいいよ。太郎は体力もあって、性格もわりと開けっぴろげで、皆と共同作業しても、何とかうまくやっていけるかと思っていたけど、そうでないなら、考えなおしたらいいよ。生きてく方法は何でもあるからね」
「別にそんなところまで、行ってるわけじゃないんだよ」
「思い上るのだけはやめなさい。一つことやり始めたら、やり遂《と》げるのがいいっていうのも、程度問題だからね」
太郎は、頭がへンになりそうになった。父親も母親も確か以前に、何かやるのなら、一生そのやりかけたことの「現場」から離《はな》れるな、と言って、太郎をキョウハクしたことがあるように思うのである。それが突如《とつじょ》として、頑《がん》張《ば》るな、と豹変《ひょうへん》したのである。
「わかったよ。大丈夫《だいじょうぶ》だよ」
「連休は帰るの?」
「帰らない」
帰ったら終りだ、という気がしていた。
「どっか旅行するよ。金のかからない旅行するよ。せっかく、日本の真中辺に引っこしたんだからね」
「それなら、そうしなさい」
「じゃあ、またね」
太郎は、軽い後悔を覚えながら電話局を出た。何も言う気はなかったのに、おふくろの手にのって、自白を強要された気分だった。男は自白などするものではない。そうそう軽々に、自分の手のうち、心のうちを、たとえ親にでもさらすものではない、と思う。
太郎はぶらぶらと歩き始めた。緑の少ない町ではあったが、今、新緑とさつきは、ほんの所々に僅《わず》かではあっても燃え立つように鮮《あざ》やかだった。昔《むかし》、五月素子さん、という一年上級生に、微《かす》かな憧《あこが》れを抱《いだ》いていたことも思い出した。太郎は五月さんの人間にぶつかって、この図式的な判断に失望した。同級生の千頭慶子さんにも夢中になった。しかし千頭さんも、太郎の太郎らしさについては全く認めてくれなかった。
太郎は、まだ一度も歩いたことのない裏道を、のろのろ歩きながら、ふと一軒の洋《よう》菓子《がし》屋《や》の店先に立ち停《どま》った。
ショウ・ウインドウの中には、小さなフランス風の一口菓子が並んでいる。太郎はその模《も》様《よう》と恰好《かっこう》に見覚えがあった。それは東京でも麻《あざ》布《ぶ》かどこかに一カ所しか売っていない菓子屋で、母の信子も太郎も好きなものだった。店の主人は、長い間フランスで修業して来た人だという。生クリームをいっぱい使って、香《かお》りに入れた洋酒の質がいいのだと思う。しかも、あまり甘《あま》くない。今、ガラスの向うに見える一口菓子は、それと全く同じデザインなのであった。
太郎は店の中に入った。こういうものは、体積の割に、値段が高いことを知っているから、太郎は、初めから用心して、四つだけ頼《たの》んだ。
「袋《ふくろ》でいいです。僕《ぼく》、今、歩きながら食べちゃいますから」
「そうですか」
白いエプロンをかけた、若い女の人は、ちょっと残念そうな表情を見せた。恐《おそ》らく、お菓子の上に描いてある模様がくずれると思ったのだろう。
「ちょっと伺《うかが》いますけど、こちらは、東京の麻布の……」
「はい、主人は、あちらで修業して来たんです」
白いエプロンの女の人の顔が輝《かがや》いた。
「道理で、お菓子の恰好が同じだと思った」
「東京からいらしたんですね」
「そうです。うちではね、母も僕も、あそこのお菓子好きだったんです」
「そうですか。見ただけでそうおっしゃって下さるお客さま、まだ、二人目なんですけど、主人は喜ぶと思います」
若い奥さんは、そう言いながら、袋の中に五つ入れてしまった。
「あのう、僕、四つってお願いしたんですけど」
「一つおまけです。又《また》、いらして下さい」
「すみません」
太郎は外へ出た。すぐ袋に手をつっこんで一つつまみ出した。
四つなら、家へ帰り着くまでに、全部、食べ上げられそうな気がしたが、五つになると、急に自信がなくなって来た。おまけに、その一口菓子は、何もかもどんどん小さくなって行く世の中で、思いなしか、東京の菓子よりも、一まわりずつ大きかった。
太郎はそこに、名古屋を感じた。東京ではない都市の、安らかさを感じた。それにはもはや、マニキュアをした長い指でつまみ上げられるべき一口菓子独特の、あの洗練された、シャープな、気取ったものはなかった。その代り、その菓子には、ふくよかな、滋味《じみ》にみちた温かさがあった。
太郎は三つを食べて、二つ残った菓子のあどけない重さを掌《てのひら》に感じながら歩いた。そしてまるで幻《まぼろし》のようにではあったが、太郎は、自分が今はまりかけているちょっとした溝《みぞ》から、這《は》い上る方法を見つけたように感じた。
第四章 聖なる旅
1
山本太郎は、親たちに宣言した通り、旅に出ることにした、それも、できるだけ、苛《か》酷《こく》な旅が望ましかった。どこへでもいい、行ったことがない所へ行ってみたかった。
太郎は朝五時に起きた。ボストン・バッグに着換《きが》えと本とノートを詰《つ》めこみ、六時前には早くも、地下鉄の一社《いっしゃ》の駅の階段を下りていた。どこでもいいのだが、さし当り、北陸という所には一度も行ったことがないのでそっちへ行ってみようと思った。
名古屋駅へ着くと、ちょうど、美濃《みの》太《おお》田《た》までの電車があった。一応、各駅停車なのだが、岐阜《ぎふ》までは快速ということになっている。とりあえず乗り込《こ》んでから、ゆっくりと汽車の時刻表を眺《なが》めると、太田で一時間ほど待てば、高山《たかやま》までの快速電車があることがわかった。幸いにも、まだ朝飯を食べていないので、一時間のヒマつぶしに、食事は太田でとることにした。
こういう急行券も何もいらない列車に乗っている限り、連休の影響《えいきょう》を受けることも殆《ほとん》どない。駅に停《とま》るごとに車内の人の話し声や笑い声が、のんびりと手に取るように聞える。
太田では、朝日の当る駅前の食堂で、キツネうどんを食べた。夜明けから動いていて、それだけでは物足りないので、太田の駅弁《えきべん》を買い込んで電車に乗り込んだ。
富《と》山《やま》で一まず下りようか、金沢まで行こうか、と太郎は考えた。高山で又《また》、一時間ほどあって、今度は完全な各駅停車に乗ると、午後三時ちょっと過ぎには、もう富山に着いてしまう。汽車に乗ったのは朝七時だから、それでは僅《わず》か、八時間くらいしか乗ったことにならない。
太郎は、渓谷《けいこく》の眺めを汽車の窓に見ながら、今は、体がつぶれるほど、汽車に乗りたい、と思っていた。心が虚《むな》しくなった時、じっとしていずに、体を使うとかなり気分が落ちついて来るということは、陸上競技をしている時に覚えたのである。もちろん、体を使い尽《つく》しても、まだ残る虚しさもこの世にはあろうと思われる。しかし、太郎程度の単純な生活では、体を使うことは、大ていの憂鬱《ゆううつ》さの持つ毒を消してくれる。こんな単純なからくりさえも大人たちの中には知らない人がいる。
汽車に乗るのはいいけれど、食い物代がかかるなあ、と太郎は思った。太郎の前には、太郎より十歳《さい》くらい年上かと思われる小《こ》柄《がら》な青年が坐《すわ》っていて、やはり渓谷を見ていた。飛騨《ひだ》の高山へ行く奴《やつ》だろうな、と太郎は思っていた。太郎は高山で下りる気がしない。女性週刊誌で、「日本再発見の旅――あなたもふるさとに巡《めぐ》り合えます――」なんて見出しつけた記事に、うかうかと乗せられた女の子が下りる駅だという気がしてならないのである。その女の子たちを釣り《・・》に、飛騨の高山で下りる奴がいると、自分にはできないだけに《ちょっと心理的に引っかかる》のである。
高山では、駅を出て、コーラの缶《かん》を買い、一番近い店でパチンコをした。多分出ないだろうと思ったのだが、意外とよく当って、太郎は時間きりきりまでに、チョコレートを七箱《はこ》かせいだ。
高山始発の、のろのろ電車に再び乗り込んだ時、太郎は、その若い男をまた車内に見た。今度は彼は、太郎から、三つほど離《はな》れた反対側のボックスに坐っていた。太郎が、又もや高山で買った駅弁を食べているにも拘《かかわ》らず、彼はじっと景色に見入ったまま、身動きもしなかった。
《あいつは、きっと、駅前で、カツカレーか何か食って来たに違《ちが》いない》
と太郎は思った。
太郎は、富山駅に下り立った。今度こそ、あの男は、ここで下りるだろう、と思って、太郎はその後ろ姿を目で追っていたが、予想に反して、彼は改札口の方へ出る気配はなかった。それのみならず、その男は、太郎の行先を見抜《みぬ》いたように、上り線のホームに歩いて来て、しかもホームのうんと端《はし》の方でしぶとく列車を待つつもりでいるらしかった。
それは太郎の乗り方でもあった。この男のために、先頭か最後尾のハコに乗るという慣習を変えるわけにも行かず、太郎も彼にくっついてホームを歩いては来たものの、わざとその男には背を向けて立っていた。これは太郎にとって、聖なる旅であった。野《や》蛮人《ばんじん》が、神の住む山の頂きに向って行くような、重い意味を持った、ひそかな旅であった。それだから、太郎は、普《ふ》通《つう》の旅行者の乗らないような汽車ばかりを選んで乗った。それと同じように乗っている男が、他《ほか》にもいると思うと、それだけで不愉《ふゆ》快《かい》であった。
しかし、今までのところは、まだ、彼の列車の選び方は、それほど異常ではない。つまり彼が、真実、金がないか、性格的にけちであるとして、急行券を買わないで済まそうと思えば、今までのような乗り方をするほかはない。そして、そうとすれば、富山で、太郎は完全に、彼をふり切れる。なぜなら、七分程《ほど》で、富山発の福井行きの快速電車が来る。ということはこの男が、文なし、或《ある》いはけちでも、彼は普通料金で乗れるこの快速列車に乗るに違いない、ということなのだ。そして、太郎はといえば……わざわざその後の各駅停車に乗るつもりなのである。
電車が入って来た時、太郎は期待をもってちらと男の方を眺めた。しかし、「悪い夢をみているように」彼はこの電車には乗らず、あたりをぶらぶら歩き廻《まわ》っていた。
《もしおれがノイローゼだったら》
と太郎は考えた。
《それも、かなり重症《じゅうしょう》だったら、さだめし、あの男は、おれをつけている、と思うとこだ》
太郎は、精神病や精神分析学《ぶんせきがく》の本を読むのが好きだったから、精神分裂症《ぶんれつしょう》の典型的な症状の一つは、自分は見張られている、隠《かく》しマイクや隠しカメラがとりつけてある、まわりが全部自分を見張ったり、覗《のぞ》いたり、噂《うわさ》したりしている、ということだということを知っている。その手の主《しゅ》訴《そ》の一つに、尾《び》行《こう》されている、というのは、なかったかなあ、と思ったが、そういう記《き》憶《おく》はなかった。
快速が出たあと、八分ほどで、直《なお》江津《えつ》発の米原《まいばら》行きの各駅停車が来た。もうけっこう、長いこと走って来たように、車室の中は、人《ひと》臭《くさ》かった。太郎が先に乗り込み、後から乗った男は、太郎の思惑《おもわく》など、丸っきり意に介《かい》してもいないように、直前の席に坐った。
汽車はすぐに発車した。この男さえいなければ、富山でもう一つ弁当を買って今頃《いまごろ》は食い出していたかも知れないのに、と思うと、太郎は不愉快だった。
「よく、一緒《いっしょ》になりますね」
太郎は、わざと図々《ずうずう》しく声をかけた。
「そうですね」
あまり感情のない声であった。公共の乗物なんだ。ずっと乗り合せる破目《はめ》になる人間もいるだろう、と言いたげな表情である。
「どこまで、行かれるんですか?」
「金沢へ、行こうかと思ってね」
太郎はいよいよ、うっとうしくなって来た。これでは分裂症でなくても尾行されている、と信じたくなる。
「僕も金沢へ行くんです」
「僕は金沢でなくてもいいんですけどね。金沢はいい町らしいから」
「遊びですか?」
太郎は尋《たず》ねた。
「いや」
「お仕事ですね」
「いや、そうじゃないんです。実はね、家を出て来たもんでね」
「家出ですか」
太郎は驚《おどろ》いて言った。
「いや、蒸発した、と言ってるでしょう、今頃は」
若い男はけろけろしていた。
「ご家族がいらっしゃるんですね」
「いますよ。妻子がいるんですよ。それと、僕の母とが、折り合いが悪くてね。あんまり、両方で、我儘《わがまま》勝手を言うから、置いて逃《に》げて来たんですよ」
太郎は驚いて黙《だま》っていた。
「大体、気が合わなかったら、同居しなきゃいいでしょう」
男は太郎の年齢《ねんれい》を、かいかぶっているのか、全く同年輩《どうねんぱい》の男に話すような言い方をした。
「うちは、経師《きょうじ》屋《や》でしてね」
「キョウジ?」
「ほら、襖《ふすま》や障子《しょうじ》張ったり、掛軸《かけじく》の表装《ひょうそう》したりする仕事あるでしょう」
「はあ、わかりました」
「僕は、姉と僕と姉弟《きょうだい》二人だけです。父も職人でしたけど三年前死にましてね。姉の夫も、同じ仕事してます。というより、父は、うちで働いていた腕《うで》のいい職人と、姉を結婚させたわけなんだな」
「なるほど」
「母は姉夫婦と住んだらいいと、僕は思ってたんですよ。同居するにしてもとにかく自分の娘ですから、気が楽でしょう。ところが、母は、僕が結婚したら、我々夫婦と住むと言ってきかないんです」
「昔風《むかしふう》なんでしょう?」
こういう時、日本原人の大西なら、もっと重々しく、しかもしっくりした受け答えができるのだろうに、と思いながら、太郎は心許《こころもと》ない声を出した。
「果して、姑《しゅうとめ》と嫁《よめ》の間で、ごちゃごちゃですよ、お互《たが》いに言語道断だというようなことを言うから、それなら、別居しようと僕は言ったんですよ。その方がもともといいと思ってるんだから」
「僕もその方がいいと思いますけどね」
太郎は、自分でも、やや、おせっかいだと思うような返答をした。
「そしたら、女房《にょうぼう》は、今、ここで家を出たら、店を姉夫婦にとられる、と言うんだね。とる、とられるというほどの店じゃないんですよ、うちなんかは。それなら、おふくろに、今、一応、姉たちの所へ行っていて下さいって、頼《たの》んだんだけどね。おふくろはおふくろで、ここは私の家だから、何で出て行かなけりゃ、いけないことがある、とこうでしょう」
「なるほど」
「もうこれで、たっぷり一年以上、僕は、あらゆる調停をやったですよ。しかし、女ってのは、ばかだね、つくづく思ったよ」
「そうですか。そうでしょうね」
「こうなったら、後はもう、二人が直接にやればいいと思ってね、僕は、一昨日《おととい》、ふらりと家を出ちまったんですよ」
「それで、名古屋に一泊《ぱく》したんですか?」
「仕事仲間の知り合いが一人いたもんでね。そこへ泊《とま》って、かねがね、高山線に乗ってみたいと思ってたから、今日は、ゆっくり心ゆくばかり乗りましたよ」
「実は僕も同じなんです」
「あんたも、蒸発して来たんですか」
「いや、違います。高山線に乗りたかったんです。僕はまだ、学生ですから」
男は初めて、太郎の年齢を、現実に近いところまで引き下げて確認したような目つきをした。
「僕も実はどこへ行ってもいいんです。汽車に乗るのが目的ですから。それで、蒸発したからには、当分、家へ帰らないおつもりですか」
「当分はね。それに、僕は、どこででも働こうと思えば働けるですからね」
「ことに金沢なんかいいんじゃありませんか。古い町というのは、あなたのような仕事の需要多いでしょう」
「まあね。只《ただ》そういう所では、身《み》許保証《もとほしょう》もなしに、どれだけ使ってくれるかわからないけど、僕はもう、ややこしい人間関係には、うんざりした。女房も、おふくろもないですよ。あれだけいやな思いをさせられると、一人でいるっていうことは、実に、さわやかだと思えますね」
「しかし、お宅では探されてるでしょう、今頃」
「いい気味だね。それも、考えると楽しいですよ。それほど僕が必要なら、初めからそんなに、僕を困らせなきゃいいんだからね」
「男にとっちゃ、家庭の煩《わずら》わしさというのはこたえるでしょうね」
「ばかばかしいですね。係《かかわ》り合いになるだけ、気分悪いですよ」
太郎には、この男が、どれだけ、変っているのか、それとも、あらゆる男には、このような要素があるのかわからなかった。太郎は思いなおして駅の名前を読んだ。小《こ》杉《すぎ》という所であった。次は越中大門《えっちゅうだいもん》である。この各駅停車の列車は、石動《いするぎ》、倶利伽羅《くりから》なども通る筈《はず》であった。
ふと太郎は、今の自分を思った。自分は、既《すで》に、合法的に家出をし、蒸発して、親のもとを離れたのであった。蒸発も家出も、一度すれば、更《さら》にその先から再度試みることはない。この男が、体を張ってやったことを、太郎は既にして来たのである。
太郎は、人生の重味を体中に感じた。この聖なる旅の意味するものも、恐《おそ》らく、そこらへんの本質を見《み》極《きわ》めることにあろう、と考えながら、太郎は初めてみる、燃え立つような北国の新緑の堆積《たいせき》の中に、自分の心を委《ゆだ》ねていた。
2
太郎は、金沢駅で電車を下りた。既《すで》に五時を少し過ぎていた。経師《きょうじ》屋《や》の「蒸発男」とも、何となく、連れ立っているような、そうでないような恰好《かっこう》で、一緒《いっしょ》に改札口《かいさつぐち》を出た。
古い駅舎かと思ったら、電燈《でんとう》のきらきらしたビルが建っていた。
「どこへお泊《とま》りですか?」
と太郎は尋《たず》ねた。
「まあ、どっか見つけて泊りますわ」
そうだった、蒸発した男に行先を訊《き》いてはいけないんだった、と太郎は思った。男の方も通告されることを恐《おそ》れて言わないのかも知れない。
「じゃあ、お元気で」
と太郎は言った。
「ああ、どうも」
太郎はちょっと立ち停《どま》って考えた。あの男は、多分、駅前のなんとか旅館というような名前の商人宿に泊りそうな気がしたのである。実は太郎の趣《しゅ》味《み》も駅前の商人御宿なのだが、せっかく蒸発した男と、またもや旅館の廊《ろう》下《か》でぱったり顔を合わせて、「や、又《また》お会いしましたね」というのも、何ともさまにならないように思われたので、太郎はホテルに泊ることにした。
とは言うものの、太郎は、今、ホテルに泊るには、あまり適しない恰好をしていた。よれよれの黒のジーパンに、黒のセーター。それにカーキ色のボストンを下げている。足許《あしもと》は、ズックのアップシューズだった。
太郎は昔《むかし》、大阪の梅田駅前のホテルへ、父と泊りに行き、部屋がないと断わられはしなかったが、前金をとられたことがあった。それは父子《おやこ》が二人とも、やや薄汚《うすよご》れたアノラックを着て、手に小さいカバンを一つ持っていただけだったからである。
《ねえ、ホテルっていうものは、いつも先にお金をとるの?》
まだ小さかった太郎は訊《き》いた。
《人相、風ていの悪いの、それと荷物の少ないのからはね》
と父は答えた。
《僕《ぼく》たちはどっち?》
《どっちもだろ》
父は怒《おこ》りもせず、こだわりもしなかった。むしろ、
《ホテルのフロントの男ってのは、一般《いっぱん》には人間を見る目があるものさ》
と解説した。
《このホテルの人は?》
《ちょっと目がないね。第一に、僕はちゃんと金を持っている。第二は、荷物が少ないのをいいことに宿賃を払わずに行くようなつもりはない。その二つとも見抜《みぬ》けなかったわけだから》
爾《じ》来《らい》、太郎はホテルマンというものに対して二つの印象を持ってしまったのである。一つは、一目見ただけで、相手の職業から財布の中身までずばりと言い当てるような目のある人。もう一つは、他人の表面だけ見て、何ら本質のわからない通俗的アキメクラ。その両方のいるのがホテルだと思うと、今の服装《ふくそう》はちょっと心もとなかった。
ホテルは町中に一つと、駅前に一つある。駅前の方がバス・ターミナルの真前でもあり、安い部屋もありそうだったので、太郎はそちらに電話をかけた。
「ええと、僕は山本といいますが、今夜一泊《いっぱく》、部屋はないでしょうか。ええ、できれば、安い部屋の方がいいのです」
安い部屋をはっきりと注文する方が、イキであって、決してばかにされることにはならないことを太郎は知っている。
結局、最低から二番目という部屋が予約できて、電話を切ると、太郎は、やおら、地下道にかけ下りた。おまわりがいたら、泥棒《どろぼう》でもして今、逃《に》げまくっているところと思われたかも知れない。この駅前広場の構造は、やや虚《きょ》偽《ぎ》的で、地表を横切って向う側に達することがあまり便利にはできないようになっている。人間は、地下道を通れということなのだ。太郎は三段ずつ階段をかけ上り、ホテルのあるビルに飛びこむと、素《す》早《ばや》くエレベーターを呼んで、フロントのある階まで一挙に上った。
「僕、予約してある、山本ですけど」
太郎は言った。果して相手はびっくりしたような表情を見せた。
「どこから、おいでになりました」
「すぐそこからです」
部屋がないとは言わせない。予約したんだからな、と太郎は居なおるような気分だった。
太郎はその夜は、駅ビルの地下の食堂で、焼魚定食というのを食べた。運ばれて来てから、やっと思いついて、お酒を一本とった。
太郎は酒というものを好きになりそうな予感がしていた。日本酒は盃《さかずき》や猪《ちょ》口《こ》が西洋のグラスと比べて小さくて丈《たっぱ》が低いせいか、何となく庶民《しょみん》的で、地面にへたばりこんだようで、悲しくてたまらない。これはもしかすると、小さい時に受けた「意識下のなんとか」のせいではなかろうか、と太郎はじいんと、胃ではなく脳《のう》味噌《みそ》にしみ通るように酒の味を楽しみながら飲み続けた。実は太郎は赤ん坊の時、時々離れにいる祖母に抱《だ》かれたり、オンブをされたりして育ったのである。そんな時祖母の歌う歌は三つだけだった。
「ねんねんころりよ、おころりよ」と「ここはお国を何百里」とそれから、どういうとり合せか、「酒は涙《なみだ》か溜息《ためいき》か」という往年の流行歌であった。「ここはお国を何百里、離《はな》れて遠き満洲《まんしゅう》の、赤い夕日に照らされて、友は野《の》末《ずえ》の石の下」という戦友の歌は、満洲が中国に還《かえ》った今、太郎には何の感慨《かんがい》も与《あた》えない。反戦的軍歌としても、長々しくて、威《い》勢《せい》が悪すぎる。しかし、「酒は涙か溜息か」の方は、くり返しくり返し聞かされると、まだコテージ・チーズのようにふわふわして無垢《むく》だった太郎の大脳に、いつの間にか、酒は涙、というような通俗的印象を刻みこんで行ったのではないか、という気がしてならない。
太郎は定食を食べ終ると、二、三軒《げん》先の店で、洋《よう》菓子《がし》三個を買って部屋に帰り、たちどころに全部平らげた。酒も嫌《きら》いではなく、菓子も好きだった。これはどうしたことだろう。とにかくその両者は、太郎の胃の中で、実にしっとりと融合《ゆうごう》した。太郎はベッドの上に寝《ね》転《ころ》がってしきりにお腹《なか》を撫《な》でていたが、やがて、思いなおして着換《きが》えをすると、殆《ほとん》どぶっ倒れるように眠《ねむ》ってしまった。
翌朝は、太郎は五時にはもう眼を覚《さ》ましていた。今日は又、忙《いそが》しい一日にするつもりであった。まず起きぬけに、兼六園《けんろくえん》を見ようと考えていた。六時に食堂が開くや否《いな》や、太郎はホットケーキとミルクを取り、それから駅前でバスに飛び乗った。まだ出勤以前という時間である。バスは新しいビルと古い老舗《しにせ》が這《は》いつくばったように並《なら》んでいる町中を走りぬけた。
太郎は名古屋から、兼六園の解説書を持って来ていた。初代加賀《かが》藩主《はんしゅ》、前《まえ》田《だ》利家《としいえ》が、金沢城に入城したのは天正《てんしょう》十一年だが、兼六園は、二代藩主利長の時代から造られたという。
その昔、武士たちが馬で上り下りしたという幅《はば》の広い石段を持つ蓮《れん》池《ち》門址《もんあと》から太郎は入ることにした。藩主の登城《とじょう》にも、参勤《さんきん》交代の出発にもこの門が使われたという。
大らかでたっぷりした石段であった。右に折れると、日《ひ》暮橋《ぐればし》がある。この橋は青と赤の戸《と》室石《むろいし》で作られている。あまり景色がいいので、この橋の上に立っていると、日暮になるというほどではないにしても、妙《みょう》にこせこせとしないでいて、実は、計算がゆき届いている庭だと思う。
名物の枝垂桜《しだれざくら》はもう殆ど終りだった。不思議な桜もあるものだ、と太郎はあきれていた。上から下へ咲き下るのである。池の向うには翠滝がある。この水音を出すために、二代から十一代藩主までの間に六回も石組が変えられたのだという。
下らぬことに、情熱をもやすなあ、と太郎は考えていた。いつの間にか、その思いは、加賀藩主たちのことではなく、自分のことになっていた。本当に、人生とは何だか見当はつかないが、誰《だれ》もかも、他人から見れば、下らぬことに情熱をもやして一生を終えるのだ。
滝の音なんていうのは、まだしも余《よ》裕《ゆう》があって、いい道楽だ。しかし文化人類学とはどうだろう。一生に、いい滝の音を出すほどにも、はっきりとまとまったものが出ないに違いない、と思う。
太郎は、育った家に、風流なるものを愛するという気分が皆《かい》無《む》だったので、こういう名園のよさなど、丸っきりわからないのではないか、と思っていたが、案外、ぞくぞくするほど、おもしろくて好きこのみがはっきりわかったので、我ながら、意外であった。ことに太郎は、橋が好きだった。とりわけ一枚の巨大な青戸室石を使った黄門橋というのはいいと思った。こうやって眺《なが》めていると、小細工のないもの、大らかで強いものの方が、倦《あ》きが来ないと思う。世間には、こまごまとした小さな趣向をこらしたものを愛好する人がいるが、太郎は大きくて単純で強い表現を持つものに感動した。
橋がいいの、燈籠《とうろう》がいいのというと、爺《じい》さんくさい気はするのだが、片方に単純きわまりない黄門橋があると、もう片方に雁行橋《かりがねばし》というのがあるのも、太郎は気に入った。それは曲水《きょくすい》にかかっている飛石がつながったように見える橋で、将棋《しょうぎ》の駒《こま》の形をした石がごく自然に組み合わされている。曲水には水が流れの幅一ぱいにとうとうとしていた。それが小気味よく、造園をした人の、強い審《しん》美《び》的な意図を感じさせた。乾《かわ》いた部分を残す川などというものは、みずみず《・・・・》しくない。
太郎は、ベンチを見つけると、暫《しばら》く坐ってあたりを眺めることにした。するとセーターを着た五十少し過ぎくらいに見える男の人が、まだらのある灰色の猟犬《りょうけん》のように見える犬を引いて現われた。彼は片手に恐《おそ》らく犬のウンコを入れるためと思われる、紙袋《かみぶくろ》を持っていた。
その人はまだ、決して老いぼれているとは見えなかったが、太郎のいるベンチの所まで来ると、犬を引いている革《かわ》ひもを、近くの木に結びつけ、やれやれ、というように、太郎のべンチに並んで腰《こし》を下ろした。
「いやあ、今日は爽《さわ》やかだな」
その人は言った。独り言のようでもあり、太郎に言っているようでもあった。
「気持いいですね」
太郎も思わず言った。
「旅行ですか」
相手は、太郎の言葉から土地の人間ではないと思ったらしく尋ねた。
「ええ」
「どちらからです?」
若造とみても、言葉はくずさない。太郎はそこが、気分よかった。
「名古屋からです」
「ほう」
太郎は、自分が、東京です、と言わなかったことに、ちょっと驚いていた。
「あなたも、ここの方じゃないでしょう」
太郎は言い返した。昨夜ついたばかりだが、地下の食堂で、周囲のひとの喋《しゃべ》っているのをじっくりと聞きながら飯を食ったので、大体、ここの方言がわかるような気がしたのだった。
「そうですね。まあ、違いますね。わかりますか?」
「わかります。僕も本籍《ほんせき》は、東京です。名古屋の大学に行ってるもんですから」
「僕も東京なんです。かみさんがここの女でね。それと僕の仕事が、今一時的に、こっちになってるもんだから」
何の仕事かはわからなかった。
「ここはどんな土地ですか?」
太郎は尋ねた。
「どんな土地に見えます?」
「昨日の夜、着いたばかりですから、わかりませんけど、三百何十年も前からすでにこんな庭作って遊んでるんですから……」
「こういう言い方があるの知ってますか。転勤族が言う言葉ですがね。景色が良くて、食い物のうまいところに、人間のいいのがいたためしがない……もちろん、この場合の悪い人間、というのは……」
「わかります。不親切とか不誠実とかいうことじゃなくて、むしろその逆の……何て言うのかな、きちんと折り目正しいために、権力主義者だったり、何かするという……」
「文化がね、ここにはあり過ぎるんですよ」
「そうでしょう。この兼六園を見ただけでそう思いました。聞きしにまさる、でした」
「向うの方に、氷《ひ》室《むろ》の跡《あと》があるんですよ。見ていらっしゃい」
「ヒムロ?」
太郎は、案内書をそれほどよく読んでいなかった。
「ヒムロ、つまり氷室ですよ。冬の間に雪をぎっしり溜《た》めるでしょう。それを旧暦《きゅうれき》の六月一日に出して、江戸の藩邸《はんてい》まで届けたと言うんです」
「へえ。しかし、ほんとにそんなに保《も》つのかな」
「総桐《そうぎり》三重の長持《ながもち》に入れてね。八人の脚《あし》の早いのを選んでかつがせた、と言ってますがね」
「そういうムダが、文化というものなんでしょうね」
「まあ、おもしろいでしょうね。皆、おもしろがったと思うな」
「おもしろがれば、いいですよね。人だすけですよ」
犬は初めはあたりを嗅《か》ぎまわっていたが、そのうちに退屈《たいくつ》したように、革ひもを引っ張り始めた。
「じゃあ、まあ、ゆっくりしていらっしゃい。外からの旅行者には、実にいいとこですよ」
「ありがとうございました」
太郎は立ち上って、男のあとを見送った。男は犬に引かれてふうふう言っている。奥《おく》さんに追い出されるようにして、やむを得ず犬を散歩に連れ出した、という感じだった。彼自身が猟犬を使いこなしている人物とは思えなかった。
食い物と景色のいい町で、人間のいい所はない、か。太郎は呟《つぶや》いてみた。なかなか味のある言葉だった。それは将来、おおいに、太郎の「商売」にもかかわって来そうな言葉だった。もっとも太郎は、他の人たちのように、「人間のわるい人」を嫌《きら》いではなかった。それは逆に人間であることのあかしだった。むしろ「人間のわるい人」になるには素質がいると思った。太郎は、これから長い一生に、どれだけ「人間のわるい人」に会えるだろうか、と思った。すると理由もなく、楽しみがこみ上げて来て、太郎はベンチから立ち上った。
3
太郎は三日目の夜遅《おそ》く、名古屋に帰り着いた。地下鉄の座席に坐《すわ》りながら、太郎は、これで、東京まで帰らなきゃいけない、ということになってたら、うんざりだったな、と考えていた。かりに、新幹線を利用しても、家まで、更《さら》に、三時間の行程である。東京は遠いな、と思った。改めて、名古屋が、日本列島の真中あたりにあるのを、感謝したい気分になった。
金沢から彦《ひこ》根《ね》へ出て、それから、京都に行き、今日は京都から、又《また》各駅停車の電車で帰って来たのである。
太郎は疲《つか》れ切って、アパートへ辿《たど》りつくと、四階までの階段を上った。部屋のドアをぱっと開けようとして、太郎は顔をしかめた。鍵《かぎ》をかけて出て来たのである。鍵はあんなにかけないことにしていたのに、つい母から手紙が来て、部屋を開けっ放しにして泥棒《どろぼう》にでも入られたら人迷惑《めいわく》だから、社会的責任を果すためにも少しは用心をしなさい、というようなハガキが来たので、ついうかうかと鍵をかけて出たのである。
太郎は、ズボンのポケットから、ゴミと一緒《いっしょ》に鍵を引きずり出し、鍵穴に入れて廻《まわ》そうとしてから、もう一度、顔をしかめた。鍵はびくとも動かなかった。
大体、ドアの錠《じょう》をかけるのをよそうと思った一つの理由は、この鍵の具合にもあった。管理人の夫婦から鍵を貰《もら》った時から、この錠は時々機《き》嫌《げん》が悪い。本当に、開かないかと思ったことも度々《たびたび》なのである。
おふくろの言うことをはいはいと聞いたのが、運のつきであった。鍵は閉めないにこしたことはない。物を盗《と》られまいという情熱ほど人間を縛《しば》るものはないと太郎は思う。
太郎は時計を見た。午後十一時であった。恐《おそ》らく、この札《ふだ》つきの錠前のことだから、前にもこの手の事故はあった筈《はず》である。管理人は馴《な》れていて、彼なら開けられるのかも知れないが、彼らの部屋の前には、貼紙《はりがみ》がしてあって、「午後十時以降のご用は翌日にして下さい」と書いてあるから、この時間では声もかけられなかった。
しかし太郎は、内心あまり困っていなかった。ちゃんと、このようなこともあろうかと思って(というのはウソだけれど)ドアのすぐ隣《となり》に開いている台所の流しに面した小窓は、鍵をかけずに出て来たのである。天網《てんもう》カイカイ、ソにしてモラサズというが、この場合モラシテあったところが上出来であった。果して押《お》してみると、小窓は小指一本でするすると開き、太郎はボストン・バッグを中にほうり込《こ》んでから、自分がよじ登った。
誰《だれ》かに見られていれば、まちがいなく、泥棒と思われる行《こう》為《い》である。しかし、廊《ろう》下《か》には人影《ひとかげ》もなかった。人に見つかる泥棒というのは、本当に運の悪い男である。
その夜は疲れて、そのまま、倒《たお》れ込むようにして眠《ねむ》ってしまったが、翌朝は再び五時には目が覚《さ》めた。充分《じゅうぶん》な眠りのあとの快い充足感があった。太郎は久しぶりに本を読みたいという衝動《しょうどう》に駆《か》られた。それは、初めてこのアパートに泊《とま》った夜、ひどく緊張《きんちょう》しながら、「本が読める!」と思ったのと、かなり違《ちが》うニュアンスを持っていた。今、太郎は、緊張も発奮もしていなかった。夜は明けかかっていて、物音もあまりせず、太郎はごく自然に、「時間つぶしに」本を読もうかと思ったのだった。
太郎はタイラーの「文化人類学入門」を読み始めた。砂地に水を撒《ま》いたように、中身は太郎の頭の中にしみ通るようであった。
太郎は、マルコ・ポーロが、十三世紀にダッタン地方を旅して、フビライの貨《か》幣《へい》が印章を押したクワの樹《じゅ》皮《ひ》片《へん》であったと書いていることを知る。「東方見聞録」は読んだことがあるのだが、マルコ・ポーロがそんなことを言っていたかどうか、てんで記《き》憶《おく》がない。しかしここにでて来るダッタン地方というのは、どこのことかは正確にはわからないのである。
太郎は霊界《れいかい》についてタイラーが書いているところまで来ると、それは全く自分の現在の気持のように思えた。
「では、このように眠りや失神状態や死において、去ってゆきまた帰ってくるこの霊魂《れいこん》、あるいは生命とはなんであろうか。未開の哲《てつ》学者《がくしゃ》にとってこの疑問は、みずからの感覚の証拠《しょうこ》によって答えられるようにみえる。眠っていた人が夢《ゆめ》からさめたとき、かれは、自分がどういうわけか実際に遠くへ行ってしまっていたと、あるいは、ほかの人々がかれの許《もと》にやって来たのだと信ずる。しかし人間の身《か》体《らだ》はこれらの旅に出かけはしないということが経験からよくわかっているので、当然その説明は、あらゆる人間の生きている自己、すなわち霊魂は、かれの幽霊《ゆうれい》かイメージであって、それはかれの身体から出てゆき、夢のなかで、見、かつ、見られることができるということになる。白昼めざめている人でさえ、ときどき、幻影《げんえい》または幻覚とよばれるもので、これらの人間の幽霊をみる。かれらはさらに霊魂は肉体とともに死なないで、肉体を離《はな》れたあとでも生きつづけるのだと信ずるにいたる。なぜなら、人は死んで埋葬《まいそう》されるかもしれないけれど、かれの幽霊のすがたは夢や幻影の中で生きている人のところに現われつづけるからである。
人間が、自分の一部としてそのような実体のないイメージを持っているということは、ほかの点でも、未開の哲学者にとっては親しみ深いものである。かれらは静かな水面に映った自分の影を見、あるいは、影が後からついて来て、消えてはやがて、ほかのどこかで再び姿を現わすのを見るし、いっぽう、ときどき、しばらくの間、自分の生きている息が、まだそこにあるということが感じられるにもかかわらず、かすかな雲となって消えてゆくのを見てきたからである」
現代人は果して進化しているのだろうか。少なくとも霊魂《アニマ》の世界に関する限り、太郎は、これらの感情から、一歩も出ていないのである。
太郎は終りまで一息に読み続けるつもりだったのに七時近くになると、空腹で耐《た》え難《がた》くなった。太郎は起き出し、米を二合炊《た》くことにした。それから生卵と海苔《のり》と、わさび漬《づけ》と佃煮《つくだに》を机の上に並《なら》ベ、ワカメの味噌《みそ》汁《しる》を作り始めた。
一日一冊ずつの本を読むことは軽そうに見えた。一冊読めても、年間、三百六十五冊である。十年で三千六百五十冊。太郎は、暗澹《あんたん》とした。自分がすでにかなりの年寄りで、今から急いでも、人生にとうてい追いつかないようにも思えた。
太郎は、やや躁病《そうびょう》的な心理状態にとらわれた。
連休が終った最初の日から、太郎はきちんと大学の授業に出始めたが、その手初めに、自分で作った弁当を持って行くことにした。小さなサラミ半本、国産のチーズを一ポーション、フランスパン、牛乳、それにオレンジ一個である。
学生食堂の飯がまずい、というのではない。しかし、太郎は、学生生活というものは、もう少し個性的なものであっていい、と考えていた。正直言って、学食の方がずっと安くつく。しかし、太郎は大食いなので、ごく普通の一人前を食べていたのでは、三時までも腹が保《も》たないのである。
太郎が弁当を持って行って坐るのは、通称土手と言われる道の斜面《しゃめん》で、ちょっとした桜《さくら》の並《なみ》木《き》にもなっていた。上の方にはベンチもあるが、そこはやや人通りが多いから、太郎はよりつかない。
斜面のかなり下の方に、柳《やなぎ》の大木があって、その下に太郎は坐ることにしていた。
弁当を食べ出した初めは一人だった。すると三日目から、大西がそれに加わるようになり四日目からは、桜岡一郎《さくらおかいちろう》と、笹塚茂《ささづかしげる》の二人がやはり弁当を持って来るようになった。桜岡は父親が土木の技術者で、笹塚は洋品屋だった。
大西はいつも大きな握《にぎ》り飯を三個持って来た。
「よう、そんな乾《かわ》いたものを、食えるな」
大西は、山羊《やぎ》の顔でも見るように、フランスパンを噛《かじ》っている太郎に言った。
「握り飯なんか食ってて、腹空かないか」
太郎も言い返した。
「どうして腹が空くんか。三つあるで」
「含水炭《がんすいたん》素《そ》は、腹もちが悪いんだ。ビフテキを食えば、一食抜《ぬ》いてもいいけど、米の飯だけだと、三時間しか保たないな」
「中に鮭《さけ》と、タラコも入ってるがな」
「そんなもんじゃ足らんのよ」
太郎は初めは牛乳だけだったが、今では、魔《ま》法壜《ほうびん》にお湯を詰《つ》めて持って来るようになった。そこにティー・バッグを入れて、たっぷり五分間はおき、それから砂糖を入れて甘《あま》い紅茶を飲むことにしていた。
四人はそこで、自然に人類学科の女子学生たちの品定めをするようになった。
「アンパンはやっぱり、スタイルが悪いからなあ」
「ちらり《・・・》は、センスはいいけど」
「そうかあ」
太郎は言った。
「今、テニスとゴルフやる奴《やつ》は、つまらねえなあ。はやりのものやる奴、嫌《きら》いだ」
ちらり《・・・》というのは、テニス服のスカートがちらりと翻《ひるがえ》る瞬間《しゅんかん》から来た綽《あだ》名《な》なのである。
「白熊は顔が悪すぎるだろ」
「おれ、嫌いじゃないな。あいつこないだ、女の命のハンドバッグ忘れました、なんて言ってたもの」
太郎は言った。
「杏《あんず》ちゃんはどうなんだ?」
三《み》吉杏子《よしきょうこ》さんのことである。
「髪《かみ》が短いから、マイナス一点」
太郎はまずけなした。
「頭よさそうだから、ノート借りるのに便利だろ、プラス一点」
桜岡が言った。
「化粧《けしょう》が下手くそだからプラス一点」
大西も言った。
「してもしなくても同じだからマイナス一点」
太郎が又引き下げた。
そこに集まった四人は、まだ日も浅いのに、何となく、本気で学問をやろうとしている連中だということがお互《たが》いにわかったのだった。彼らの中では、笹塚が一浪、桜岡に至《いた》っては、名大の工学部の二年までやって、又、北川大学へ入りなおしたのだった。従って四月三日生れの桜岡は一番年長で、早生れの太郎より三つも年上だった。
太郎は或《あ》るとき桜岡が、本当は人類学をやりたいんじゃなくて、他《ほか》の、たとえば外国語学部に入れそうになかったから、仕方なく人類に来たんだ、というような連中とは、口をきかない、と言うのを見て、彼が好きになったのだった。学問は神聖だ、などと言うつもりはない。神聖ではないが、ひたむきなものだと思う。彼の場合、土木屋のおやじのたっての望みで、工学部に入った。しかし、やはり、本当に勉強したいのは、人類学だとわかって、桜岡ははっきりと方向転換《てんかん》したのだった。名大にいれば、月謝も安い。北川大学は、私学としては金はかからない方だが、それでも、やはり親の負担は大きい。おまけに二年間を棒《ぼう》にふったのである。桜岡は、我儘《わがまま》を通す以上、学費は親に心配かけない、と言った。
「自分で稼《かせ》ぐって何やるつもり?」
太郎は、桜岡に尋《たず》ねた。
「まあ、何かあるだろう、と思うんだ。家庭教師の口もあるし」
桜岡のように、理数と英語とが同時にできるのは確かに少ないだろうから、それは一般《いっぱん》的に考えれば、いい案だと言うべきだった。
「家庭教師はやめなさいよ」
太郎は言った。
「どうして?」
「僕《ぼく》はアルバイトにあまり賛成じゃないんだ。勉強しようと思ったら、アルバイトする閑《ひま》なんかないよ」
「それはそうだけど、そうも言っとれんのだ。山本んとこと違う」
「それだったら夏休みに働いたらどう? まとめて。デパートの配送係でも何でもしてさ。だけど、家庭教師は、毎週確実に時間とられるしさ。それと、いろいろ聞いてみると、相手が女の子だと、本当によく捕《つか》まっちゃうからなあ。危ないんだよ。僕の中、高の女の同級生で、家庭教師の学生と結婚したの、何人もあるもの。それくらいなら、塾の先生しなさいよ、桜岡さんなら教えられるんだから」
太郎は時々、桜岡を先輩《せんぱい》として意識した。
「僕は今日はボウリングに行くけど」
と太郎は言う日もあった。
「オレも行く」
笹塚は言った。
太郎はボウリングがおもしろくてたまらなくなっていた。十日間で、アベレージが百四十くらいになったのである。
ボウリングは、今、太郎にとって、大切な振《ふり》子《こ》の一方の極のようなものであった。本ばかり読んで、体を動かさずにいると、太郎は不健全さを感じた。心理の発散をする破れ目のようなものが必要だった。
「桜岡《サク》さんは行かない?」
太郎は言った。
「行かない」
大西は、初めから加わらなかった。何しろ睨《にら》み鯛《だい》はケチだから、玉ころがしに金つかうようなおろかしいことは、全くする気がないのである。
太郎はボウリングをした後の爽快《そうかい》な気分がこたえられなかった。汗《あせ》を流し、体中に血がめぐっているのがよくわかる。手足が、一秒の何分の一かの呼吸で、きっちりと端正《たんせい》に動き、ボウルが、言いふくめてやった意図通りに走って行く。或《ある》いは、意図を全く裏切って、ある現実を見せつける。
ボウリング場を出ると、太郎は心身共に軽くなってマーケットに寄って、夕飯のおかずを買って帰った。そろそろ初鰹《はつがつお》も出始めた。ちゃんとたたき風に、まわりに焦《こ》げ目をつけた奴である。それを一人前買って帰ると、太郎は特製のタレを作った。ニンニクをたっぷりとおろし、ニラとネギをうんと細く刻んだのを混ぜて、そこに醤油《しょうゆ》をかけて、少なくとも、二、三十分はおく。それはもはや醤油の原型を感じさせず、むしろ、こってりとしたソースというべきであった。たとえ、鰹が少しまずかろうと、その臭気《しゅうき》ふんぷんたるソースはその分だけ、鰹の味をカバーした。
太郎は、まだ台所の脇《わき》の小窓から出入りしていた。別に不自由はないし、こうやっておけば、母の言う通り、戸締りはしていることになるし、管理人に言いに行く手間は省け、ひどく安定のいい状態だったからであった。
4
山本太郎は、時々、自分にはテレパシイの力があるのではないかと思うことがあった。一時、念力でスプーンの柄《え》を曲げることのできる少年が評判になったが、決してそれほど高級なことではない。
山本太郎は、自分のアパートの入口のベルが鳴ると、どういうわけか、鳴らしている相手が見えるような気がしてきたのである。
その第一は、NHKの集金であった。朝のことであった。台所脇の小窓も開けてないのに、ベルの音がすると、太郎はまるで透《とう》視《し》能力でも持っているように、鉄《てっ》扉《ぴ》の外に、痩《や》せた老人の集金人が立っているのが、見えるように思えたのである。
困ったことに、その時、太郎は、財《さい》布《ふ》の中に四十円しかなかった。家の中には、もう少しあると思われるのだが、(それは太郎の計画の一つだと自称しているのだが、ちらかった部屋の床《ゆか》のあちこちに、ごく稀《まれ》に百円玉、主に十円玉と一円玉が転がっていて、いざという時に、何とかなるようになっている)それを集めても、相手の要求額に達するかどうかは疑問だった。これから出がけに、銀行に寄ってお金を下ろして行こうと思っていた矢先だったのである。
太郎は反射的に息をひそめた。実は、NHKの集金には、一度、悪さをしたことがあるのである。その時は、太郎は友達とこの部屋にいた。太郎は、ちょっと悪ぶりたかったのだった。
《NHKは見ないことにしてるんですよ》
太郎は集金人に言った。言いながら、これは、皆が言いそうな月《つき》並《な》みな科白《せりふ》だと思った。
《うちの父親は、東海テレビに出てるもんですから》
でたらめである。その時の集金人は、老人ではなかったが、中に、五、六人の若者がいる気配を見ると、あきらめたのか、帰って行ってしまった。
太郎は今日、息を殺して、居留守《いるす》をよそおい続けた。ベルは、二度鳴った。それから、やがて力ない足どりが、遠ざかって行った。
それがNHKだということは、太郎が、五分後に、何くわぬ顔をして、階段を馳《か》け下りる時に、その男と一緒《いっしょ》になったから、わかったのである。男は手に、NHKの受取証を持って、とぼとぼと手すりにつかまりながら、階段を下りて行ったのである。
五月十日の夕方、六時頃《ごろ》、ベルが鳴った時、太郎は小さく舌うちをした。流しの脇の小窓を開けてみるまでもなく、それが、おやじとおふくろだろう、ということがわかったからであった。
太郎は、小窓からひょいと顔を出すと、唇《くちびる》をとんがらした。
「まずいんだよう、今」
太郎は言った。
「何がまずいんだ。どんな悪いことしてるんだ」
おやじの声はかなり大きかった。ニセ札《さつ》を刷っているのか、バク弾《だん》を作っているのか、とでも言いそうな感じだった。
「太郎、とにかく、戸を開けなさいよ。来ちゃったんだから」
母の信《のぶ》子《こ》がいった。
「戸が開かないから、まずいんだよう」
「どうしたの?」
「あんたが言った通り、カギをかけたのよ。そしたら、開かなくなった」
太郎はおふくろに言った。それからひらりと、小窓から外へ飛び下りた。
「まあ、仕方ないから、入りなさいよ。この窓から」
「いつ壊《こわ》れたの?」
おふくろは尋《たず》ねた。
「先月」
おやじがまず、窓に首を突《つ》っこんだ。運動神経がない方ではないが、張り切って調子をつけてとび上ったので、首のつけ根が、鈍《にぶ》い音をたてて、ぶつかった。
「気をつけなさいよ。年なんだから」
太郎は後ろから、おやじの尻《しり》を押《お》してやった。あまり激《はげ》しく押すと、今度は頭から、流しの中に転落する恐《おそ》れがあるので、ゆっくり、そろそろ持ち上げた。
「あんたも入る?」
おやじを押し込《こ》んだところで、太郎は、母に尋ねた。
「入らないわけには、いかないわね。入りたかないけど。ズボンはいて来てたすかったわ」
おふくろくらいの年になると、スラックスという言葉がなかなか定着しないのである。
太郎は、又《また》、尻おしをして、そろそろと小窓の穴から、おふくろを押し込んだ。それから自分は、全く馴《な》れた体つきで、ぴょいと台所にとび込んだ。
「なぜ、なおさないんだ?」
おやじは尋ねた。
「なぜってこともないけどさ。とくに不自由を感じてないからさ」
「これで不自由でないの?」
母の信子が言った。
「とくに」
「火事の時、焼け死ぬわよ」
「何で来たの?」
おやじの、名古屋通いが始まることはわかっていたが、おふくろまで来たのは意外だった。
「北川から、PTAの会があるっていうから来たの。それと、例のアパート屋から内装変《ないそうへん》更《こう》についての最終的なうち合せをしたいって言って来たから」
「ふうん」
「天《てん》火《ぴ》を入れてほしいんじゃないの?」
「ほしいよ。大変、ほんとに、うんとほしい」
「それなら、それで、手続きをするようにしてよ」
「するよ」
「どう? 生活は」
「何てことないよ」
「飯は食ったか?」
父は尋ねた。
「これから、作ろうかと思ってたんだ」
「どこかへ食べに行こうか。安くてうまい所へ案内してくれよ」
「いいよ」
太郎は、二人を、今池のごみごみした、人《ひと》懐《なつ》っこい細い通りにある、焼肉屋へ連れて行った。
「ここ、二度ほど来たんだ」
「よさそうな店ね」
母は小さな畳《たたみ》のスペースに上り込むと、あたりを見《み》廻《まわ》しながら言った。
「僕《ぼく》は別に、形式とか格とかを重んじるわけじゃないけどね、やっぱり、栄《さかえ》あたりで、僕たち学生が食べるっていうのは、自然じゃないと思うんだ。栄は東京でいうと銀座だからね。あそこは少なくとも、サラリーマンの町だよね、自分で金、稼《かせ》いでる。僕は、脛《すね》かじりの身だから、それはしたくないんだ」
「えらく、わかったようなこと言ってるのね」
母の信子は言った。
「何て言うんだか知らないけど、あの、チューインガムみたいに、噛《か》み切れないとこは注文しないでね。モツは大歓迎だけど」
「それで、PTA行ったの?」
「行ったよ」
信子は男言葉で答えた。
「大学でPTAやるなんてなあ」
「でもね、いろいろと、北川という大学がわかって、けっこうだったよ」
「どんなこと言った?」
「精神性を重要視する、ってこと言われた。それは、学問に有効なものだと言われたのは、大賛成だったね。大学は、学問やるところだと、皆思ってるでしょ。だけど、その裏付けになる精神がないと、どれだけ、学問したって、それは定着しないから」
「へえ」
「PTAのあとに、クラスごとに、分れて、説明会があったの」
「じゃ、茂呂《もろ》ハゲが出て来たろ」
「うん」
と母は答えた。
「そこではどうだった」
「あの先生はお気の毒みたいだったわね」
「どういうふうに?」
「二、三十人、父兄がいたんだけど、質問と言ったら、就職のことばかりだったわね」
「本当かあ」
「二、三年生の親ごさんもいたらしいけど、人類学科をでたら、どれくらい、どんな所に就職できますかって、まるで、職業学校みたいだったわね。あんなものなの? 他《ほか》の大学でも」
父親がガスの火加減に気をとられていて答えないので、太郎が代りに言った。
「まともな所へ勤めたいんなら、人類学科なんか、来なきゃいいんだよ」
「そうは思わんね。これから、使い道は多くなると思うよ。あらゆる形で、地域社会と、どういう融合《ゆうごう》の仕方をしたらいいかということが必要な所だったら、必ず人類学的な見方が必要になって来ると思うね」
父は言った。
「そうかね」
「まあ、正直なところ、つくづく、大学の先生って、お気の毒だと思ったわね。私なんか頭が古いから、大学は、学問しに来る場所だと思ってるからね。就職の資格とる所だと割り切られると辛《つら》いわ」
「学問しようなんて奴《やつ》は、何パーセントもいやしないさ」
やっと、最初の一切れの焼肉をお腹《なか》に収めた父が、少し余《よ》裕《ゆう》のある声を出した。
「じゃあ、大学は減らして、各種学校をもっと作った方がいいですよ。その方が、ずっとべテランを養成できるわ」
「そんなことを言ってみろ、当節のされちまうから」
「学問が高級という者え方が頂けないのよ、私は」
母は言った。
「学問は、好きでやる人がやるだけでね。その人は、別の見方をすれば、社会で他の仕事にたずさわる人に、食わせてもらってるんだから。どれが上も下もないじゃないの。皆、責任の分野が違《ちが》うだけで……」
「あんたは、僕が、勉強嫌《ぎら》いだったら、どうした?」
太郎は母に尋ねた。
「早く、働かせるわね。その方が、お金も儲《もう》かるし、出世もするわよ。平山さんが、ニュージーランドへ行った時の話したっけ?」
平山さんというのは、母の知人で、婦人雑誌の編集長だった。
「どんな話?」
「住宅地をいろいろ見せられたんだって。そしたら、沖仲《おきなか》仕《し》の家と、大臣の家と、大学教授の家と、皆、おんなじくらいの大きさなんだって」
「どれくらいの大きさなの?」
「敷《しき》地《ち》は三百坪《つぼ》くらいで、建物が五十坪くらいかしら、って言ってた」
「土地が約千平方米《メートル》ね」
太郎は、おふくろの古めかしい言い方を訂《てい》正《せい》した。
「とにかく、ニュージーランドっていうのは、人手不足で、お手伝いさんとか、庭師とか全くいないんだそうよ。だから、工場労働者も、会社の社長も、一切自分のことは自分でやらなきゃいけない。そうなると、家族だけで掃《そう》除《じ》できる家、お父さんが刈《か》れる芝《しば》生《ふ》の面積ってのは、どこも同じになっちゃうでしょう」
「それはいいことだね。僕、そういう社会制度っていいと思うね」
「平山さんは、その中の或《あ》る家を見学させてもらったんだって。その人は、現在は、港湾《こうわん》労働者なんだけど、昔《むかし》は高校の先生でね。だけど、子供がふえて、お金がかかるようになったもんで収入のいい仕事に移ったんだって」
「へえ、つまり、先生より、労働者の方が金が儲かるわけね」
「そうらしいわ」
「日本も今に、そうなると思う?」
「そうなるわよ。今だってそのきざしはあるんだから」
信子は言った。
「学問するなんて、生き方の一部よ。向いてればすればいい。しかし、向いてないのに、したって何もいいことない、と思うんだけどね。学問に対する不当な尊敬があるから、学問するふりをするのよ」
「僕もそう思うね」
「人類学なんてやったって、何の技術も身につかないのよ。だから、それで就職しよう、って言ってる人の気が知れなかったわ。社会科の先生にでもなるの?」
「ここは、なかなかうまい」
父は言った。
「だろ」
「飯をもう一ぱいもらってくれ」
父は丼《どんぶり》をたちまち空にしてつき出した。
「丼一ぱいで足りないの?」
「うん」
「すごいね、いい年して。腹が出っ張るよ」
「僕は、飯というものが好きなんだ。それも白い銀シャリが好きなんだ」
「古いことを言うね」
戦争中、食物のない時に、純白のまざりもののない米の飯のことを《銀シャリ》と言ったのだということを、太郎は知っていた。
「それで、茂呂ハゲはどんな返答していた?」
「就職はあまり、希望ないようなこと言ってらしたわよ」
「あの人はね、人生いつも希望ないようなことを言ってるのよ」
太郎は言った。
「そういうのが、いい教師なんだ」
山本正二郎《やまもとしょうじろう》は言った。
「そうすると、学生の方が見るに見かねて発奮する。それほどでもないような感じして来るしね」
「僕、精神性ってのは、よくわかるんだ。精神がないと、しぶとくならないからね。僕、この頃、時々聖書、読んでるのよ」
太郎は言った。
「おもしろいか?」
「おもしろいよう。キリストってのはしぶといよね。神かどうか知らないけどごまかしなし、底の底まで、ぶちまけて、洗いざらいにして、しかも、水に流しっこなし、という感じだよね。あれは、砂《さ》漠《ばく》の考えかね、僕、人類学に入れなかったら、神学、やってもよかったと思うよ。あ、すみませんけど、タンをもう一皿《さら》下さい。それから、キムチも……」
太郎は通りかかった店の「お姐《ねえ》ちゃん」に言った。今池という町では、金もうけも学問も、神もキムチも、みそもくそも、何もかもごっちゃになりそうな、小気味よい自然な空気があった。
5
その翌朝、山本太郎は、おやじとおふくろを、
「じゃあね」
と嬉《うれ》しげに送り出した。とは言っても、例によって、アパートのドアは開かないのだから、自分がまず先に、例の台所の傍《そば》の小窓から抜《ぬ》け出し、親共がやっさもっさと脱出《だっしゅつ》するのを手伝ってからである。
親が帰るというのは、こんなにも爽《さわ》やかな気持のいいことだったのか、と太郎は暫《しばら》く、廊《ろう》下《か》の風にさらされながら考えていた。親が憎《にく》いのでもない。とくに気が合わないのではない。しかし、とにかく安全に帰ってくれるとほっとする。
ちょうど、その日の授業は、午後二時からであった。それなら、これから、アパート屋へ行こうか、と太郎は思った。台所内部の仕様変更《へんこう》はもう先方に言ってはあるのだが、そこにどのような器具をつけるのかは、まだ決めてないのである。
現場の近くにできているモデル・ルームの中におかれている事務所に行くと、そういう器具の買いつけに関してなら、栄《さかえ》にある支店に行け、という。太郎はついでに、今に自分が住むことになっている、超豪華《ちょうごうか》大マンションを一巡《いちじゅん》することにした。コンクリートの外《がい》壁《へき》が、大体でき上った所であった。太郎はそこに、たくさんの本棚《ほんだな》をつけ、一点か二点美しい(ということは高価という意味ではない)ものをおいて、あとは、うんと下品に暮《くら》そうと考えていた。下品ということは、文化人類学の素材として、充分《じゅうぶん》に意味のあることなのである。どのようなものを下品というかというと、いわばおていさいやの人々が恥《は》ずかしがるようなものである。つまり、縮《ちぢ》みのステテコをはいて、椅子《いす》の上にあぐらをかき、ちびた安タバコの吸いさしを耳にはさんで、競馬新聞を読む、というようなポーズである。実は、本当に下品と言われるべきものは、ステテコでもなく、競馬新聞でもなく、安タバコでもなく、全く別のところにあることは承知の上なのだが、多少とも、新しく体裁《ていさい》よく見えそうなアパートに、すてきに住むのは逆に何としても気がひけるのである。
太郎は、栄までのこのこでかけて行った。ビルの一階にあるアパートの売り主の会社に行くと、青い背広に、ピンクのシャツを着た、痩《や》せて、背の高い男が現われた。太郎が用件を言うと、相手は、まるで大変な難問題を与えられたように、関係書類をとり出して来て、無言のまま眺《なが》めていた。
「それで、どういうふうになさろうというんですか」
その男の言葉には、そのようなむずかしいことを言っても、そうそう叶《かな》えられるということはないぞ、という調子が、言外ににじみ出ていた。
「今、言ったように、このふつうの調理台の代りに、天火が組みこまれたのをつけてほしいんです」
男は返事の代りに、針筆《えんぴつ》のお尻《しり》でとんとんと書類の上を叩《たた》いた。
「ここを天火にお変えになるわけですか」
太郎は、今度ばかりは返事をしなかった。
「ここを天火になさるとですね、米びつや壜《びん》類《るい》をいれたりする収納場所がうんと減ると思うんですけどね」
「いいんです」
太郎は言った。
「僕は米も食いませんし醤油《しょうゆ》も使わないんです」
相手は明らかにうさん臭《くさ》い表情をしたが、太郎は澄《す》ましていた。こういう相手には、普《ふ》通《つう》の言い方では通用しないことが感じられたからであった。
「天火はどの型のをおいれしますか」
「できればアメリカ製のがいいんですけど」
太郎はそう言ってから、慌《あわ》てて言いそえた。
「もちろん日本製でもいいんです」
母はアメリカの天火を、セコハンで買って来て備えつけていた。それは、アメリカの料理の本を使って作るには、まことに便利なのだった。天火内の温度が華氏で示されているからである。アメリカの料理の本のよさは、バカでもその通りやればできるということだった。たとえば仔《こ》牛《うし》のミート・ローフを作るには、一ポンド半(アメリカは断じてキロだのグラムだのは使わない)の仔牛のひき肉と同量のブタひきを使い、それに卵二つ、ミルク四分の一カップ、クラッカーの粉一カップ、オリーヴの実のきざんだもの半カップ、玉ねぎのみじん切り四分の一カップ、胡椒《こしょう》四分の一さじ、バター大さじ一ぱい、ケチャップ半カップ、グルタミン酸ソーダ一さじを、くちゃらくちゃらとまぜ合せ、二クォート入る平ったいベーキング皿《ざら》に入れて、三五○度で(ただし華氏)一時間四十五分、焼くというわけなのである。これは、この通りやれば、本当に誰《だれ》にでも、まちがいなく、ミート・ローフができるというよさがある。
「アメリカ製ねえ、アメリカ製はサイズが違《ちが》いますからねえ」
「だから、日本のでいいんです」
「じゃ、向うにうちがおいれする筈《はず》の電気の展示場があるから、見て来てくれませんか」
同じビルの同じ階に、そういう売場があるのである。太郎は、ほっとして言われた売場にでかけて行った。台所の内部様式の、いろいろなサンプルが作られている。
そこでは、太郎は中肉中背の、エネルギーに満ち溢《あふ》れた若い店員に迎《むか》えられた。アパートを作っている電鉄会社の方で寸法の入った仕様書をくれたので、太郎は店員にそれを見せた。
「その寸法では、ちょっとオーヴンつきのはないですね」
家電メーカーの社員である中肉中背は言った。
「ないですか」
「ええ、ありません」
「――――」
「うちは、これとこれとこれを三つセットでおいれしてあるわけです。その長さを合わせたものが、この壁面の長さで、そのうち一つをオーヴンつきのにすると、壁面が足りなくなって、この部分で十五糎《センチ》、出っぱることになるんですけど」
太郎は黙《だま》っていた。背中に、みみずが一匹《いっぴき》這《は》っているような不愉《ふゆ》快《かい》な感じだった。
「お宅の製品全部のカタログをくれませんか」
「あげますけど、その寸法のはありませんよ。はみ出してもよければ別ですけどね」
はみ出してよくはないのである。そんなことをしたら、水道の蛇口《じゃぐち》が流しの上に来なくなる。水道の蛇口の取付位置まで、変えなければならないのは大事《おおごと》だ。
店員からカタログをもらうと、太郎は我に還《かえ》った。改めてゆっくりとそこに並《なら》べてあるさまざまのコンビネーションの調理台セットを見て歩いた。すると、その中に一つ、まさに太郎の望んでいる寸法の鶯色《うぐいすいろ》に塗《ぬ》ったオーヴンがあった。
太郎はゆっくりと、寸法を確かめてから、中肉中背を呼んだ。
「あのう、僕は、このタイプの白にしますから」
相手は明らかに不愉快そうな顔をした。
「白はないですね。色はこれだけです」
太郎は完全な優越感にかられる。
「本社に電話しなさいよ。白があるから」
太郎は言った。パンフレットに、色は鶯、黄、白、と書いてあるのである。
「白はないんです」
相手は言い張った。
「売り切れ?」
「いや、最初からないんです」
最初から、白を作らない調理台セットというのは、外国製品ならいざ知らず、日本ではまだあるわけがないのである。日本人はまだまだ、台所といえば白と思うくらい保守的なのである。
「いいから、一度聞いて下さい」
中肉中背は返事をしなかった。彼はしぶしぶ電話の所に行き、ダイアルを廻《まわ》した。
「もしもし、栄営業所の三浦ですがね」
と彼は言った。
「R三六○型の白っての、あるかな。オーヴン、そう、ないだろう。僕はみたことないんだけどね」
中肉中背の三浦は、ひたすら太郎の希望の品がないことを希望しているみたいだった。先方は電話をちょっと待たしていた。太郎は、意地悪な情熱に燃えながら、店員の傍にくっついていた。
「もしもし、そう。あ? R三六○型だよ。白、あるの? そう。うちは、いつも色つきばかりなんだ。そう。じゃ又《また》、後ではっきり頼みます。どうも、お世話さんでした」
電話をおくと、中肉中背は一言、
「あるそうです」
と言った。
「そうですか」
太郎はおうように言った。
「じゃあ、設計変更で、これをもらうと思いますから、それはアパートの係りの人からお宅に注文してもらうことになります」
「はあ、わかりました」
太郎は、ショウ・ルームを出た。それから、二人つづけて、あまりにもよく似た精神構造の若い男たちが出て来たことを考え続けていた。
二人とも、現状維持《いじ》が大好きなのだった。どうしたら、客が満足するか、というような点については、何の意欲もないのだった。中肉中背に至っては「テメエの店」の商品のカタログさえ、満足に読んだことがないのだった。それでいて、ないと言いさえすれば、済むと思っていた。
「全くなあ」
太郎は小声でひとりごちた。
「全く、ひでえもんだよなあ。しかしありがたいなあ」
太郎は、その時、耳許《みみもと》で、くすっと笑われたような気がした。初めそれは、錯覚《さっかく》かと思い、次に太郎は本当にとんと肩《かた》を叩かれた。
「何がありがたいのよ」
それは三吉杏子だった。太郎は独り言を聞かれてしまったのだった。
「あんな奴《やつ》でも一人前に月給取ってるんだからなあ。自分んとこの商品について、客に配るためのカタログさえ読まなくてよ。売らない算段だけしてやがっても、会社は月給くれるんだからな。オレ、希望持てて来たな」
太郎は簡単に、経緯を話した。
「そう、実は今朝から太郎君に電話しようかと思ってたの」
「へえ、なぜ」
「おいしい干菓子《ひがし》もらったの。だから食べに来ないかと思って。松《まつ》屋《や》鶴亀《つるかめ》のすごい立派な干菓子なの」
「へえ」
なんだい、干菓子なんて少女趣《しゅ》味《み》、と言おうとして太郎は言えなかった。実は太郎は干菓子が大好きなのであった。
「その辺でお茶飲む代りに、ちょっと寮《りょう》へいらっしゃいよ。私がいいお茶いれてあげるから」
「行こうか」
どうせ、例のロビイで飲ましてもらうだけだが、太郎はその気になった。
太郎は内装変更を決めてその手続きをすると、三吉杏子とすぐ又、地下鉄に乗った。
「マンションなんてったってさあ、本当に体裁だけであきれるよ。乾燥《かんそう》機《き》なしで洗濯《せんたく》ものを外に干すのは僕、合理的で好きだけどさ、オーヴン入れてくれ、ってうち、一軒《けん》もないって言うんだよ、アパート屋の奴。皆、どんな料理してるのかね」
「きっと皆、すごくお金持ちなのよ」
「――――」
「キャセロール料理なんかしないでさ、毎日サーロイン・ステーキとか、とろの刺《さし》身《み》とか鮎《あゆ》の塩焼かなんか食べてるんじゃない? キャセロール料理ってのは、つまり庶民《しょみん》料理だから」
「本当におっしゃる通りだよ。この連中、貧《びん》乏《ぼう》の仕方も知らないんだな」
「私ね、下らない賭《かけ》して、干菓子巻き上げたの」
「へえ、どんな賭?」
「友達が女子医大入るか入らないかだったの。彼女自身ダメだと思ってたのに入ったのよね。入ったら、三千五百円の干菓子の箱《はこ》買わせる、って約束《やくそく》したの」
「へえ、豪勢だな」
「三千五百円もする干菓子の箱なんて、普《ふ》段《だん》手に入らないじゃない。だから、せしめたのよ。私、松屋のお菓子好きだから」
「いいねえ」
「新茶は母に送ってもらったの」
「いいなあ。ハッパけちしないでいれてよね。うちのおふくろときたら、一生、けちし続てるもんで、今までに一回だって、本当にうまいお茶、いれてくれたことがないんだから」
「いいわよ」
二人は間もなくクララ寮に着いた。シスター・矢野は、初めは姿を見せなかったが、やがて、お湯が沸《わ》く頃に下りて来た。
「お早うございます」
太郎は立って挨拶《あいさつ》した。
「朝っぱらから、三吉さんに会って、干菓子をごちそうになりに来ました」
「干菓子?」
「彼女が賭に勝って、巻き上げたものなんだそうです。シスターも、召《め》し上って下さい」
「ありがとう」
シスター・矢野は、急に思い出したように言った。
「いつか山本さんが教えて下さった庭の月桂《げっけい》樹《じゅ》ね、スペイン人のシスターに言ったら、もうとっくに使ってますって。食べるために植えたんだそうよ」
「でしょう。僕もそう思いました」
「そういうところ、外人は達者ね。片目つぶって、食べるために植えた、って言ってたわ」
「いいですね」
やがて、三吉杏子がお茶道具と、まだ手をつけてないお菓子の包みを持ってロビイに下りて来た。
「シスターもお誘《さそ》いしたよ」
「どうぞ、どうぞ、太郎君、その間に包みを開けて、食べていて」
太郎は言われた通りにした。中からは、いろいろなしおりが現われた。太郎はそれらの紙っぺらを全部集めて数えてから、思わず呟《つぶや》いた。
「十一枚もあらあ。《このお菓子は名古屋で作ったものではありません》だって。失礼しちゃうよなあ、全く」
6
本《ほん》田《だ》悌《てい》四《し》郎《ろう》が、太郎の下宿をふらりと訪ねて来たのは、その翌晩のことだった。
「ああ、いらっしゃい」
太郎は言い、
「あのう、ドアからでなく、窓から入って下さい」
と言いそえた。悌四郎は、やっこらさ、と窓から這《は》いつくばるようにして入って来ながら、
「おかしなアパートだね」
と一言だけ感想を洩《も》らした。
「ええ、でも秋からは、豪《ごう》華《か》マンションに移りますから」
と太郎は言いそえた。
「どうだね、その後」
「いつぞやは、お邪《じゃ》魔《ま》しました」
と太郎は言い、
「あのう、ビールの水割りなど上りますか?」
と尋《たず》ねた。
「いいね、もらおうか。できるだけ薄《うす》い奴《やつ》をね、頼《たの》むよ」
「ええ」
「実はこの前、君が来た時さ」
「はあ」
「何だか、ぎつばたしてたみたいだったからその後どうしたかと思ってね、寄ってみたのさ」
鼻のいい人だと思った。あの時、太郎は、何もとり立てて言った覚えはない。
「ええ、少しぎつばたしてたんですけど、もう、大丈夫《だいじょうぶ》になりました」
太郎は、うっすらと、「このお菓子《かし》は名古屋で作ったものではありません」などと書かれた紙の入れられた干菓子《ひがし》の包みを見ると、微《かす》かな不愉《ふゆ》快《かい》ささえ覚えるようになった自分のことを思い出していた。
「今は、本もよく読めるようになったし、ボウリングもパチンコもしてるんです」
太郎はビールの水割りを作って悌四郎に出し、自分は生のままでコップに注いだ。
「君の生活のこと、僕《ぼく》はあまりよく知っているわけじゃないんだけどね。こないだ話した感じで、ちょっと気になることがあるんだ」
「どういうことですか?」
「君はちょっと、禁欲的なとこがあり過ぎるんじゃないかと思ったんだよ」
「そうでもないと思いますけど」
太郎は一瞬《いっしゅん》考えこんだ。こういうまじめな話を、社交的なものとしてごまかすのは、いやであった。
「僕なんか、ずいぶん甘《あま》い方だと思います。昨日だって、今度買うマンション中でもあまり注文がないくらいの、オーヴンをつけてもらうように頼んで来たんですから」
「それは、そうだろうけどね」
悌四郎は景気の悪い声で言った。
「まだ、この部屋にはテレビないのか」
「実はそうなんです。NHKが集金に来ると《うちのおやじは東海テレビに出てますから》なんて断わってますけどね。本当はテレビの機械そのものがないんです。大ていの集金人はテレビないことを信じないんですよ」
「おれんとこさ、黒白のテレビ買ったらさ、うつり悪くて困ってるけどさ。君もテレビくらい買えや」
「その方がいいですか?」
「一人暮《ぐら》しはね、飯の時、侘《わび》しいんだよな。チクオンキはあるの? このうちには」
悌四郎や父くらいの年齢《ねんれい》になるとチクオンキとか、木戸銭とか、活動写真とか、古い言葉を平気で使うのだった。
「チクオンキもないです。ラジオはあります。ラジオだって聴取料とられるんでしょう。それではらはらしてるんです」
「テレビくらい買えや」
「考えてみます」
「本当に意外にストイックなんだね」
「ストイックじゃないんですよ。趣《しゅ》味《み》なんです。食物なんか、すごく贅沢《ぜいたく》なんですから」
「自動車とか、ステレオとか、ギターとか、人《ひと》並《な》みなものに興味ないのかな」
「自動車は、免許とりに行くひまないんですよ。鳴りものは、欲《ほ》しいんですけど、まあ、どっちかって言うと、天火の方が欲しいから。全部手に入れるってのは、よくないでしょう。僕は気が小さいから、欲しくっても、ぎりぎりのところまで買わないんです。僕はストイック、って言うより、ない方が自然だと思ってるんです」
「根がけちなんだよ」
「そうです」
「あんたのおふくろがそうだ」
「おやじもです。あの人、自分の結婚式の時、買った靴《くつ》をまだはいてるんですから」
「ワイセツな奴だ」
悌四郎は小声で言った。水割りビールに酔《よ》って来たらしかった。
「とにかくテレビくらい買えよ」
「考えてみます。ずっとなしでは済まないとは思ってますけど……」
悌四郎は、それから一時間ばかり、自分が女房《にょうぼう》や娘《むすめ》たちから、いかに理解されていないかを、ぶつぶつ喋《しゃべ》って帰って行った。
酔っぱらった悌四郎を、台所の小窓から、押《お》し出すのは一苦労だった。
「気をつけて下さい。階段から落ちて死んじまう人だっているんですからね」
太郎は先に立ってアパートの階段を下りながら言った。
「わかってるよ。水割りぐらいで酔うもんか」
当り前だが、知らない人が聞いたらウイスキーのことだと思うに違《ちが》いない。前の道で悌四郎を送り出すと、太郎は星の鮮《あざ》やかに見える夜道に立って、悌四郎を見送った。そしてふと、今夜の悌四郎の訪問は、父か母の指金《さしがね》だったのではないかと思った。太郎が一人で、食事をしていることを、親たちはかわいそうだと思っている。太郎からみれば、それは少しも憐《あわ》れまれることではないのだが……。太郎は一生懸命《いっしょうけんめい》うまいものを作って、一生懸命に食っている。別に雑音《・・》がなくても、それはそれとして満たされた行《こう》為《い》なのだ。面と向って息子《むすこ》が欲しがってもいないテレビを買えとも言えない両親が、それとなく悌四郎を通じて、買うように言ってやってくれ、と頼んだのかも知れない。太郎は思いついて、ズボンのポケットをさぐった。幸運にも、小《こ》銭《ぜに》入《い》れを持っていた。太郎は百米《メートル》ほど離れた所にある公衆電話のボックスまで歩いていった。
「ボクです」
出て来たのは母であった。
「どうかしたの?」
「どうもしないけど、今、悌四郎さんが来て水割りのビール飲んでった」
「そう? 相変らず、しょぼくれた話ね」
「ねえ、僕、テレビ買う方がいいと思う?」
太郎はさぐりを入れた。
「自分でよく考えて、いると思ったらお買い」
「あのね、悌四郎さんが、しきりにテレビくらい買えってすすめるんだ」
「すすめられてもらわなくても、自分で決めればいいことじゃない」
何とも情緒《じょうちょ》がない言い方であった。親が心配してくれているのだが、面と向って言えず、悌四郎にそれとなく《・・・・・》伝えてもらうように頼んだ、というふうに察していたのは、とんだ思いすごしだったかも知れない。母は少なくともそんな繊細《せんさい》な心遣《こころづか》いをする女ではないらしい。
「あのね、僕はね、今、ムダ遣いしないようにして暮してるんだ。四月以来、ずいぶん金使ったもんね」
「そう?」
「気がないねえ。よくできた息子だと思わないの?」
「まあね。そっちがよくできた息子なら、こっちもよくできた親よ」
「ちえっ! お休み!」
「もしもし、当分、帰らない?」
「帰らないよ」
「そう、それなら、まあ気をつけてね」
太郎は、気の抜けたようなさばさばした思いで、受話器を下ろした。話しながらも、十円玉をいれていたので、玉は派手な音を立てて戻《もど》って来た。
7
それは爽《さわ》やかな朝であった。
髪《かみ》もくしけずらず、相変らず台所の小窓から這《は》い出て来た太郎の姿を見た人は、一向に爽やかな光景とは思わなかったろうが、太郎の自覚の中では、それは心躍《おど》るような朝であった。
理由はないのである。恋《こい》をしているわけでもない。何か幸運が舞《ま》い込《こ》んだというのでもない。それでもなお、青春には、そうした、野《の》放《ほう》図《ず》に輝《かがや》いて見える朝というものがあるのである。
そういう時、太郎が思い出すのは、有名な人類学者レヴィ=ストロースが「悲しき熱帯」という本の中で書いている《旅への断章》の冒頭《ぼうとう》のところである。彼《かれ》はそれまでは、むしろ優秀《ゆうしゅう》な若い哲学者《てつがくしゃ》であった。そしてブラジルで原始的インディアンの生活にふれるうちに、彼は人類学者になって行ったのである。
「私がその後生きていくことになった人生の行程は、一九三四年秋のある日曜日、朝九時に電話のベルで幕をあけた」
これは有名な泉《いずみ》 靖一《せいいち》氏の訳である。えら《・・》い違い《・・・》であった。天気はきわめて爽やかなのだが太郎の所には誰《だれ》からも電話などかからなかった。第一、電話がないのだから、かかるわけがない。
「電話は当時高等師《し》範《はん》学校の校長をしていたセレスタン・ブーグレからであった。彼は数年来私に、いくぶん距《きょ》離《り》をおいた控《ひか》えめな好意を寄せてくれていた。それはなによりもまず、私が高等師範の出身ではなかったからであり、ついで、そしてとくに、もし出身者であったにしても、私が彼の一門に属していないからであった」
実にさりげなく書かれてはいるが、太郎はこのような文章にも、爽やかさを感じるのであった。世間というものを、太郎は知っているわけではないが、恐《おそ》らくは、奇妙《きみょう》な人間関係にべたべたと貼《は》りつき、くっついて自分を支えているに違いない。しかし、この数行の文章には、緑の風にも似た学問そのものの香《こう》気《き》があった。
「一門の学生にたいして、彼はあからさまに、他《ほか》の者とは区別した感情を示していた。ほかに適当な人間を思いつかなかったからであろう、彼は出しぬけに私にこうたずねた。
『君はいまでも、民族学をやりたいという気持をもっていますか』『もちろんです!』『それなら、サン・パウロ大学の社会学の教授の願書を出しなさい。サン・パウロの近郊《きんこう》には、インディアンがたくさん住んでいる。君は週末にインディアンのところへ出かけられますよ。ただし昼までにジョルジュ・デュマに君の最終的な返事をしてください』
ブラジルも、南アメリカも、私にとってたいした意味をもってはいなかった。しかしながら、この思いがけない申し出がただちに呼び起したイメージを、私はいまでも、このうえなく明瞭《めいりょう》に思い浮べることができる。これら未知の異国は、私たちの国の反対物であるように思われた。対蹠地《アンティポード》(地球の反対側の地点)ということばは、私の思考のなかで、このことばがほんらいもっている内容以上に、ゆたかでしかも素《そ》朴《ぼく》なひびきを帯びていた」
一般《いっぱん》に人間は、アンティポードを好まないのである。実際の地球上の土地としても好まないし、人間の心としてはなお好まないのである。しかし心が若く伸《の》びやかだということはアンティポードに下り立つことが可能だということだ。
太郎は自転車に乗りながら、レヴィ=ストロースだって、太郎くらいの年に、決してまだ輝かしい人類学者の道など見えていなかったことを考えていた。人生は大きく廻《まわ》り道をする。そしてそれらは決してムダではない。
レヴィ=ストロースはその頃《ころ》、まだパリ大学にいて、法学部と文学部の講義を聞いていた。臨床《りんしょう》心理学や精神分析学《ぶんせきがく》に興味を持っていた。愛読書はルソーであった。
太郎は大学の横門から入った。その日の気分と時間で、門を決めるのである。
この道は長い雑木の繁《しげ》みと、かなり急な坂がある。坂の下で太郎は自転車を捨てた。歩いて行きたかったのである。
はるか左手の方に、教授たちの「官舎」が見えている。あたりは木の匂《にお》いがして気持ちがいい。
ふと太郎は、繁みの中に一瞬《いっしゅん》、黄色い羽の色を見た。あまり美的でない鳴き声と、どたどたと下草を縫《ぬ》って駆《か》け下りる気配も聞えた。
「コジュケイだ」
と太郎は思った。思った瞬間、身をかがめて石を拾っていた。父の山本正二郎に言わせると、明確な意識なくして、人間が行動に移るなどということは、本来、決してあってはならぬものなのである。「犯罪でさえそうだ」と父は言う。「できごころでやりました、とは何だ。やるなら、計画的に、やれ」
無茶なオヤジである。これでは刑が重くなるばかりだ。しかし、人間とは本来そのようなものである、と言う。だから、酒を飲むのはいいが、酒を飲んで我を失うのは、それを目的とした日以外はルール違《い》反《はん》だと、きつく言われている。
もう一度、ばさばさと下草が揺《ゆ》れて音を立て、まるでイタチか野兎《のうさぎ》のように見える羽毛の塊《かたまり》が、アワくったように斜面《しゃめん》の下に向って這っているのを見た時、太郎はもう一度人間を失った。
太郎は、その動くものめがけて石を抛《ほう》っていた。
一発目は、青い草の葉を千切《ちぎ》って繁みの中に消えた。太郎は間髪をいれず、二発目を投げた。それは、不思議な手《て》応《ごた》えがあった。他人が聞いたら嘘《うそ》というだろうが、太郎は原始的な石の弾丸《だんがん》が、柔《やわ》らかい肉に当り、それに吸いこまれて行くのが、まるで感覚の残像現象のように掌《てのひら》に残ったのが感じられたのである。
しかし、同時に、まさか、と太郎は思った。それでも、彼は繁みの中に向って、半信半疑で歩き出した。
太郎は、猟犬《りょうけん》になったような気分で、ヤブの中に入って行った。すると、一羽のコジュケイが、下草の中に斜《なな》めになって体をひくひくふるわせているのが見えた。
太郎は、一瞬、ぎょっとして立ちすくんでいた。昔から、太郎は人《ひと》並《な》みに、いろいろなものを殺して、成長して来た。トンボ、セミ、カマキリ、バッタ、蜂《はち》、アリ、捨てられていた生れたばかりの仔《こ》猫《ねこ》。親猫の方も、殺してやろうと思って、ある日、学校のプールにほうり込んだのだが、猫の奴《やつ》は、きれいに泳いで、向う岸へ渡《わた》ってしまった。
今、太郎は、生涯《しょうがい》で最大の獲《え》物《もの》を、ヤバン人のように石でしとめたのだった。こいつはおふくろに報告しなきゃ、と太郎は思った。おふくろは、太郎がドイツ語で、Aをとるよりも、もしかすると、石でコジュケイをしとめたことを高く評価するかも知れないのである。
太郎は足許《あしもと》のトリをさらに見やった。人間風に言うと、もう意識はないのだろうが、それでもひくひくするのが憐《あわ》れであった。太郎は、傍《そば》にある石をとって、トリの頭に一ぱつくらわせた。あまりいい気持ではなかったが、「これが男の生きる道」という心境であった。
本当はこのままじゃいけないんだ。首のところを切って、血を出してしまわなければいけないんだがなあ、と思いながら、太郎はコジュケイの両脚《りょうあし》をぶらさげて歩き出した。通学の途中《とちゅう》に、晩のおかずがとれるとは思わないから、ナイフ一ちょう持っていないのである。これが、都会人というものの脆弱《ぜいじゃく》さなのだ、と太郎は思う。男たるもの、本当はいつもナイフ一本くらい持っているべきなのだが、そうするとたいていのPTAは、「それでケンカでもする気? およしなさい」と目をつり上げるのである。男を骨《ほね》抜《ぬ》きにしたのは、そのような、小心なPTAなのである。
追いこして行く学生が、太郎の手のコジュケイをふり返って見て行くのに気がついてようやく太郎は少し得意になって来た。今日は帰って、これを心ゆくばかり料理しよう。太郎はそう思ったとたん、うんざりした。天火がないのである。天火さえあれば、こんなもの料理するのは何でもない。ブリア・サヴァランにも多分、料理のしかたは出ていると思うが、要するに、中をきれいに出して、内臓を、パン、卵、セロリー、玉ねぎ、西洋キノコ、べーコンの小さく切ったもの、と一緒《いっしょ》に詰《つ》めこめばいいのである。もちろん、塩、とりわけ胡椒《こしょう》はたっぷりふらなければならない。
どこかで、天火を借りようか。シスター・矢野の所へ行って、クララ寮《りょう》のスペイン人のシスターにオーヴンを使わせてもらおうか。理由を話すと、あの人たちは、充分《じゅうぶん》わかってくれそうな気がする。
その時、太郎は後ろから、とんと肩《かた》を叩《たた》かれた。
「やあ」
同じ人類学科の三年生の石坂という学生であった。
「お早うございます」
太郎は挨拶《あいさつ》した。
「どうしたんだ、このトリ」
「今、そこで、石抛ったら、当っちゃったんです」
「コジュケイだな」
「そうだと思います」
「うまそうだな」
「そうですね」
太郎はしょんぼりと目を落した。日本語で《うまそうだな》ということは《おれに食わせろ》ということだとわかっていた。
「食べますか?」
「くれるか?」
「僕は一人で一羽は食い切れませんから」
「悪いな」
悪いと思っているような表情では全くない。コジュケイはあっさりと、石坂の手に渡った。
太郎はその日、一日おもしろくなかった。コジュケイは太郎の中で、一刻一刻大きく、太っていた。太郎にとって料理は芸術の一つなのだから、その材料をとり上げられると、ウラミも深いのである。
天火もコジュケイもないというのに、太郎は家へ帰ると、やはり、ブリア・サヴァランの「美味《びみ》礼讃《らいさん》」を拡《ひろ》げて見ずにはいられなかった。自分が勝手に思いついたコジュケイの料理法とサヴァランを比べてみたかったのである。
コジュケイというのはないので、太郎は「雉《きじ》」の料理法を参考にすることにした。
「雉は一つの謎《なぞ》であって、その秘《ひ》密《みつ》は特別の人たちにしか明かされていない。ただ、かれらだけが雉のほんとうのうまさを味わうことができるのである。
物にはそれぞれの食べごろというものがある。あるものはほんとうに生長成熟しないうちのほうがうまい。ケーパー、アスパラガス、灰色のやまうずらの雛《ひな》、雉鳩《きじばと》などがそうである。ところが他のものは十分に発達を遂《と》げてからでなければうまくない。メロン、大多数のくだもの、羊《ひつじ》、牛、やぎ、赤いやまうずらの類がそうである。かと思うと、あるものは分解を始めてからがよい。さんざしの実、山しぎ、ことに雉がそうである。
この雉は死後三日以内に食べたのでは何のことはない。若鶏《わかどり》ほどの味もないし、うずらのような香味もない。ただちょうどよいころに食べると、実に柔らかですばらしくおいしい。まったく、飼鳥肉《かいどりにく》のようでもあり、猟獣《りょうじゅう》肉《にく》のようでもある」
コジュケイは、どうなのかなあ、と太郎は考えた。ヒナじゃないし、何だか、山ドリとかコジュケイとかは多少腐《くさ》りかかってからがうまい、という感じに思えてならない。
「このころあいの時というのは、雉が分解を始める時である。その時、油の中に何とも言えない香味が出てくるのだが、それには油が少し発酵《はっこう》してこなければならないのである。ちょうどコーヒー豆をいって、油を出させる時に初めて香気が生じるのと同じ理《り》屈《くつ》である。
この時期は、ふつうの人にはごくかすかなにおいと腹の色の変化によってわかるのだが、その道の人にはただ勘《かん》でわかる。(中略)雉はそういう時期を見さだめて、初めて羽を抜《ぬ》かねばならない。早すぎてはいけない」
ザマアミロ、と太郎は思った。石坂の奴、泡《あわ》くって今日のうちに食うから、きっと肉はこちこちで、うまくも何ともないに違いない。
それから、料理法だが……太郎はその先の頁《ページ》に眼《め》を走らせて、ぱちんと、指を鳴らした。《そうであったか!》という気持である。ベーコンも香味野菜も合っていたし、上等のトリュッフを入れろ、と書いてあるけれど、トリュッフというのはキノコの一種だから、マッシュルームでもいいのである。もっとも、トリュッフとマッシュルームでは《高貴な感じ》が大分違う。トリュッフは、太郎の知る限り(ということは少し違っているかも知れないが)松林の中の、地下三十糎《センチ》くらいのところに生える。従って、どこに生えているか、人間が肉眼で発見することはできない。その所在を唯一《ゆいいつ》に嗅《か》ぎ出すのは、牝《めす》ブタだということになっている。人間は牝ブタを引いてあるいて、トリュッフを探すのである。
しかし、太郎式の詰めものでは、根本的に一つ足りないものがあった。それは蒸気で蒸《む》した牛の骨髄《こつずい》を刻んでいれることであった。これはかなり大切なものだろう、と思う。それとアンチョビーもいれるといい、と書いてある。
石坂の奴、どうして食っているのかなあ、と太郎は気になってならなかった。あいつも、いずれどこか、山奥《やまおく》の生れなのである。ニンニクをおろし込んだ醤油《しょうゆ》かなんかをつけて、只《ただ》、山賊《さんぞく》のように焼いているのではないか。
太郎はいまいましくなった。太郎は学生名《めい》簿《ぼ》をとり出し、石坂の家の電話番号を探し出すと、十円玉ではち切れそうになった小《こ》銭《ぜに》入《い》れを握《にぎ》って、公衆電話のボックスまで、電話をかけに行った。
「もしもし、僕、北川大学の山本と申しますが、良勝さんはおられますでしょうか」
「ちょっと、待って下さいね」
お母さんらしい女の声が引っこみ、やがて石坂良勝の、中年男のような声が聞えて来た。
「ボク、太郎です」
「ああ、君か」
「どうですか、コジュケイ、うまかったですか」
石坂は一瞬おいてから言った。
「ああ、実にうまかった」
「どんなふうにして食べました」
「それはだなあ、いろいろとタレを作ってなあ。醤油や、砂糖や、卵や、いろいろあるだろ」
「へえ」
変なタレだと、太郎は思った。
「卵を使ったんですか」
「当り前だ、トリと卵はつきものだからな」
「親子丼《どんぶり》ですか」
「アホ、他人丼だ」
石坂は、そう言ってから、急に声をひそめた。
「実はな、そうやって、食うつもりだったんだけどな」
「どうしたんです? 猫にでもとられたんですか?」
「猫ならまだあきらめがつくがな。茂呂《もろ》ハゲにとられたんだ」
石坂は、太郎からコジュケイをとり上げたあと、意気揚々《ようよう》とトリをぶらさげて歩いていた。第一時間目は茂呂ハゲの時間だったので、彼は、わざと前から三列目くらいの席に陣《じん》どり、コジュケイを机の上においた。
《石坂君》
と茂呂ハゲは言った。
《はあ》
《それは、何というトリですか》
《コジュケイのようです》
《実はね、今日は、我々の結婚記念日なんだ》
《それはおめでとうございます》
あたりから笑声《わらいごえ》が起った。
《ついては、結婚祝いに、そのコジュケイをくれよな》
《は、それはもう》
「というわけさ」
石坂は言った。
「やられましたね」
「やられた。奴は、奥さんにプレゼントもやらないし、レストランにも連れてかないで、おれから、ただのコジュケイを巻き上げて、それで、ごまかそうという腹だ」
「僕からですよ、もとを正せば……」
「まあ、そうだが、もとはあまり正さんでいい」
「どうやって食ったかなあ。僕心配なんですよ。あれは、うまくやれば、とてもおいしくなるんですけどね、茂呂先生の奥さん、料理うまいかなあ」
「わからんね」
「僕聞いてみます」
「勝手にしろよ」
太郎は、名簿で、茂呂ハゲの電話番号を探した。
「私、北川大学で先生にお世話になっている山本です。今日、お宅で召《め》し上っている筈《はず》のコジュケイをとったものですが」
「まあまあ、ごちそうさま、ちょっとお待ち下さい」
奥さんの声が、電話口を離《はな》れ、遠くで、
「お父さん、お父さん、コジュケイの贈《おく》り主からですよ……早く出て、お礼をおっしゃいよ」
と言っているのが聞えた。
「ああ、もしもし」
「あのう、山本太郎です。コジュケイを石でとった山本太郎です」
「おかしいな、石坂君が、くれたんだけどな」
「石坂さんに、巻き上げられたんです。本当は僕が石投げてとったんです」
「君」
茂呂はもうかなり飲んでいるようだった。
「今から、コジュケイ取り返しに来ても遅《おそ》いぞ。あいつはもうトリ鍋《なべ》にして食ってしまった」
「いいんです。取り返しゃしませんけど、うまかったですか。それを伺《うかが》いたかったんです」
「ああ、うまかったよ。何しろ、今日は、女《にょう
》房《ぼう》の誕生日《たんじょうび》だから」
「結婚記念日じゃないんですか」
「あなた! ちょっと代って下さい」
奥さんの声がもう一度聞え、茂呂はぶつぶつ言いながら奥へ引っこんだ。
「茂呂の家内でございます」
「今日はお誕生日、おめでとうございます」
太郎は慎《つつし》んで言った。
「いいえ、それが、誕生日でも何でもないんですのよ。茂呂はすぐでたらめ言いますの。結婚記念日や自分の誕生日が、年に四、五回ずつありますから、これからも用心なさってね。いつかなんか自分のお母さままで、引きあいに出して、《おふくろの祥月命日《しょうつきめいにち》だ》なんて言うんですから、本当に困るんです」
「お母さまは……」
「まだ健在なんですのよ」
「わかりました。でも、コジュケイは、それとは、無関係です。召し上って頂けてよかったです」
「今日は、いい機《き》嫌《げん》でしたの。自分で羽むしりましてね。これから鍋にして一ぱい飲む、って……ありがとうございました」
「いえ」
「よく、とれましたのね、あんな野鳥」
「石抛ったら当っちゃったんです」
「大したものだわ。とてもおいしかったんですよ、ひなびた味でしたけど」
「それならよかったです」
太郎は、テレながら電話を切った。それから改めて、東京の母を呼んだ。
「おふくろさん、こんばんは」
「どうしたの?」
「今日ね、僕ね、石ほったら、コジュケイに当っちゃったの。脚持って歩いてたら、上級生に、《それ寄こせ》ってとられてね。そいつは、更《さら》に、茂呂ハゲにとられちゃったの」
「コジュケイは遅いからね。あれは助走するスペースがないと、飛び上れないのよねえ」
「ねえ、おふくろさん、世の中、民主主義なもんかよね」
「どうして」
「だって、僕の捕《つかま》えたコジュケイ、上級生に奪《うば》われて、それを又、教師が横どりしちゃったんだよ。民主主義どころか、ここは典型的な中根千枝先生がおっしゃるタテ社会なんだよウ」
「まあ、そういうもんでしょう」
「僕、生れてはじめて、タテ社会ってものが身にしみてわかったよ。じゃあね、お休みなさい」
太郎は一方的に電話を切った。
第五章 対決
1
山本太郎は、今や金の亡者《もうじゃ》になりかけていた。買いたい本が山のようにあるのである。
父の山本正二郎《やまもとしょうじろう》は、二週に一度名古屋にやって来ると、毎回ではないが、太郎の下宿を訪ねて来る時があった。
「大分本が増えたな」
正二郎は、太郎の内心も知らず、みすみす蜘蛛《くも》の巣《す》に飛び込《こ》む蝶《ちょう》のようなことを言う時もあった。
「大して増えてないよ。先立つ物がないからね」
太郎はわざと、しょんぼりした顔をして見せた。
「もう銀行に金が無くなったのか?」
父は単純な反応《はんのう》を示した。
「金はあるよう。一週間前に十万円送ってもらったもんね。でもね、それ使いたいだけ使っていいってもんじゃないでしょ」
「当り前だ」
「僕《ぼく》ね、今名古屋の近江屋《おうみや》書店に、すごい本注文してんのよ。オックスフォード・ユニバーシティー・プレスから出ているのでね、イバン族の社会構成について、イエンセンっていう人が書いている本なんだ」
「へー、イバン族っていうのはどこにいるんだ?」
正二郎も、さすがに聞いたことがないらしかった。
「北ボルネオのサラワクにいる種族なんだよ。明倫《めいりん》大学の常盤《ときわ》さんていう先生《ひと》が、このイバン族について、とってもおもしろい本書いてんだ。それ読んだら、急にイエンセンのも読みたくなってさ。あれ夏休み前に送って来ないと、つまんないな。そういう本て、めっぽう高いんだ。わかる?」
「わからんではないがね」
「ああ、僕、本当に今お金欲《ほ》しいのよ。誰《だれ》かお金持ちの女の人のヒモ《・・》にでもなろうかしらん」
山本正二郎は、下らんというように返事もしなかった。
「僕ねえ、ある意味ではアパートできるの本当に嬉《うれ》しいんだ。本がきれいに収まるもんね」
太郎は父親の機《き》嫌《げん》をとるような口調で言った。
「そのことで、おふくろさんが言ってたよ。書棚《しょだな》だけは、ちゃんと作ってもらった方がいいから。寸法を決めておけって」
「いいよ、わかったよ。だけどさあ、その前に、僕どうしても三冊ばかり欲しい本があるんだ。古本屋で見つけてね、ここ三日ぐらい買おうか買うまいか悩《なや》んでんのよ」
「いくらなんだ?」
正二郎は、気の無さそうな調子で言った。
「一万二千円、いや一万三千八百円くらいになるかな」
本当は、一万五千円以上になるのであった。しかし太郎は、その金額の大きさをまともに言うことに耐《た》えられなかったし、二、三千円の差は、どこかで何とかして、家計費からひねり出そうと考えていた。
「じゃあ、まあ、仕方がない。一万円だけ出してやる。あとは、生活費の中から出しなさい」
父親が内ポケットから財《さい》布《ふ》を出して、札《さつ》を引き抜《ぬ》く時、太郎は首をのばして中を見ようとした。しかし正二郎は、素《す》早《ばや》くそれを隠《かく》してしまった。太郎は、一万円札を受け取ると、わざと肘《ひじ》を張って、父親の前に平蜘蛛のように平伏《へいふく》した。
夏休みが近づいているというのに、近江屋書店には一向に本が届かなかった。七月一日に太郎が店に行くと、小生意気な顔をした店員が、
「誠《まこと》に申し訳ございませんが、御注文の御本は品切れでした」
と言った。
「品切れということがわかるのに、二カ月もかかったんですか」
太郎は嫌《いや》味《み》を言った。
「何分にも、遠い所なもんですから、調べて返事をもらいますと、それだけかかるんです」
「それじゃあ、こないだ頼んだ『水稲《すいとう》文化の起源と発達』はもう来てますか?」
「申し訳ございません。これは、もう間もなく来ると思いますが、もうちょっとお待ち頂きたいんです」
「東京は遠いですからね、やっぱり品切れがわかるのに二週間はかかるんでしょうね」
これは更《さら》に明確な嫌味だったが、相手は、やはり平気な顔をしていた。
「もう数日で参ると思いますから、来ましたら早速《さっそく》お電話致《いた》します」
太郎は、むさくさして盛《さか》り場《ば》に出た。父がよく、欲しい本が近所の本屋に無いとなると、都心の出版社までわざわざ買いに行っていた気持がわかるような気がした。本というものは欲しいとなったら、火がついたように欲しいものである。
太郎は、いつも立ち寄る二、三軒の古本屋を歩いたが、気持はてんでさっぱりしなかった。オックスフォード・ユニバーシティー・プレスの本は、もう一度東京で当ってみるとして、イバン族に関しては、クチンのサラワクの博物館から出しているので、もう一冊読みたいのがあった。
サラワク博物館は、元サラワクのイギリス人の酋長《ラージャ》だった、サー・ジェームス・ブルックによって建てられたものである。
ブルックの生涯《しょうがい》も、山本太郎にとっては憧《あこが》れの一つであった。ブルックは、一八○三年にインドのヒンドウ教の聖地でガンジス河にのぞむベナレスに生れた。勉強が嫌《きら》いでグラマー・スクールを出ると、十六歳《さい》でベンガルの東インド会社に入ってしまった。しかし、第一次ビルマ戦争で、重傷を負うと、彼《かれ》は傷病兵として、イギリスに送還《そうかん》された。彼がボルネオの地にやって来たのは一八三九年、父親の死によって、莫大《ばくだい》な遺産を相続し、それによって、帆船《はんせん》を一隻《せき》買ったからである。
ブルックは、ボルネオの北西岸に上陸し、ブルナイのスルタン、ムーダ・ハッシムに受け入れられた。ムーダ・ハッシムは、後にブルナイのサルタンになった。彼の政治に助言を与え反乱を鎮《しず》めたブルックはその功績によって、サラワクの曾長《ラージャ》になったのである。後に彼は、サラワクの近くの英領、ラブワン島の総督《そうとく》になり、ボルネオ全島の総領事と弁務官に任ぜられた。一八五七年、中国系市民の襲撃《しゅうげき》にあった時、ブルックは、辛《から》くもクチンの自宅を脱出《だっしゅつ》し、川を泳いで逃《に》げた。
そのジェームス・ブルックは、イバン族の高貴さと野《や》蛮《ばん》さを共に高く評価していた。
「彼らは、私の見た他のどのダヤク族よりも整った顔立ちをし、体格もしっかりしており、性格も良い……。唇《くちびる》は薄《うす》く、目は小さくて鋭《するど》く、体つきは痩《や》せている。そして彼らは、野性的でしかも独立した人々らしい雰《ふん》囲気《いき》を持っている……。彼らは、その種族の中で最も野蛮である。略奪《りゃくだつ》と首《くび》狩《か》りが好きで、それは海でも陸地でも、両方で行われる」
もちろん今のイバン族は変って来ている。彼らは、ロングハウスと呼ばれる高床式《たかゆかしき》の長屋に共同生活を営み、体中に刺青《いれずみ》をし、陸稲を植えている。
太郎は、何とかしてクチンの博物館から、その本を取り寄せたくなった。本を買うにはどうすればいいか。太郎はいつも何でも元から考えることにしている。要するに、金を送って、本を送ってもらえばいいのだ。金は、日本円を送っても仕方がない。ドル紙《し》幣《へい》があればいいのだが、銀行に行っても、ドル紙幣を売ってくれそうにもない。
太郎は欲求不満の塊《かたまり》のようになって歩いていた。いつの間にか、太郎はクララ寮《りょう》に向っていた。三《み》吉杏子《よしきょうこ》はいないだろう、と思ったが、太郎はシスター・矢野に相談するつもりであった。
クララ寮の入口で太郎が呼び出すと、シスター・矢野はすぐに編みかけのセーターを持って現われた。彼女は朝の雑用をかたづけたあと、やっと編物の時間を見つけた所らしかった。
「三吉さんは、学校よ」
シスターは太郎の顔を見ると言った。
「シスターにご相談があって来たんです」
「どうぞ、お入りなさい」
太郎は、女子学生の姿の全くないロビイに入れてもらった。
「実は本を買いたいんです」
太郎は経緯《いきさつ》を話した。
「何だか急に欲しくなってしまったみたいで、軽薄《けいはく》に見えるかも知れないんですけど、決してそんなに思いつきじゃないんです」
「いくら、おいりになるの?」
「十五ドル、いや十八ドルあったら多分、間に合うだろう、と思います」
「ちょっと待っていてね、シスター・テレサ・イネスが、もしかするとドルを持っていらっしゃるかも知れないわ。ついこの間、スペインへ、休暇《きゅうか》でお帰りになったばかりだから」
「譲《ゆず》って頂いていいんでしょうか。その場合、僕今、それだけのお金持ってませんから、すぐ現金をとって来ます」
シスター・テレサ・イネスは、ドルを持っていた。それも、くちゃくちゃのお札で十八ドルきっかりあった。
「僕、急いで、お金とって来ます」
「明日でよろしいわ。私がシスターにたてかえておきますから」
「いえ、まず取って来ます。僕、気が小さいもんで、そういうことができないんです」
太郎は、クララ寮をとび出して、銀行まで行き、カードで現金を一万円引き出し、その日のドルの相場を外国為替《かわせ》の係りの人に確かめると、すぐ、クララ寮に引き返した。そしていざ清算する段になると、シスター・テレサ・イネスの言う額は、太郎が考えていたのより少し安かった。
「それだと二百円ちかく、僕の計算より安くなっちゃうんです」
シスター・テレサ・イネスは日本円の強い時にドルを買ったのだろう、と太郎は考えていた。シスター・矢野は、修道院の建物に電話をかけて、スペイン語でしきりに交渉《こうしょう》していたが、やがて電話を切ると、
「まあ、けっさくだ」
と独り言を言った。
「シスター・テレサ・イネスは、ぜったいに五一四八円しかいらないんですって。その値段で手に入れたんだから、それ以上であなたにあげたら、お金もうけをしてしまいますって。だから、シスターの魂《たましい》の平安のために、五一四八円おいていって下さらない?」
太郎は五一五○円でかんべんしてもらった。顔を拝んだことはないが、すごいスペイン人の婆《ばあ》さんだと思った。婆さんではないのかも知れないが、イネス、などという名前を聞くと、太郎は、婆さんに違《ちが》いない、と思い込んでしまうのである。婆さんにしても、とにかく真正直ですさまじい迫力である。修道院の奥《おく》にこもりっきりで、一度も顔を合わせないし、金利とか為替相場なんてものがこの世にあることさえ知らないらしいが、これだけの影響力《えいきょうりょく》をひとに与えることができる人物もいるのである。
太郎は、早速アパートに帰ると、レポート用祇をひろげて、サラワクの博物館あてに英語の手紙を書き始めた。英語の手紙などというものは、まちがいを気にさえしなければ、わりとさらさら気楽に書けるものである。本当は日本語をホンヤクしながら書いているのだが、書き上った英文を、さらにもう一回日本語になおすと、恐《おそ》らく次のような文章になるかと思われた。
「拝啓《はいけい》
私は日本の学生です。あなたに、このようなことでお手数をかけるのこと、まことに申しわけないと思いますが、ほかに方法が見つからないので、ごかんべんして下さい」
多分、所々にまちがいがあるだろうと思われるから、これくらいの感じである。
本の値段が正確にはわからないから、大体のところで計算して十八ドルをいれる。郵便料は、万国共通の切手で二千円分いれるが、それでもし航空小包で送ってもらえるなら、その方がいい。なぜならば一刻も早く読みたいからである。しかし、それで足りなければ、船便でかまわない。
という意味だけはまあ通じるだろう、と太郎は考えた。札が中に入っている、と思わせないために、太郎は、五枚の紙幣と切手をスコッチテープで、レポート・ぺーパーの手紙の中に、丹念《たんねん》に貼《は》りつけた。
住所は簡単なものだった、「サラワク・ミュージアム、クチン、サラワク、マレーシア」それだけである。
太郎は封をすると、すぐ郵便局へでかけて行った。
「マレーシアです。いくらですか?」
太郎は百円玉を二つ、財布からつまみ出して構えていた。
「六十円」
ぶっきらぼうな調子の局員が、カウンターの向うで言った。
「え? まさか」
「十グラム、ちょっきりだからね、六十円」
「あのう、ちょっと伺《うかが》いますけど、東京まで封書で速達出すと九十円なんですよ。マレーシアはそれよりずっと遠いんですけどね」
「とにかく、アジアのこの地域は六十円です」
「変なの!」
太郎は思わず、呟《つぶや》いた。
「じゃあ、これから、オレ、マレーシア経由で東京へ速達出そ!」
若い局員は明らかに不愉《ふゆ》快《かい》そうな表情を見せたが、太郎は決して、目の前にいる若い局員をいじめるつもりはなかった。しかし、どう考えても、日本の郵便料は理解できなかった。
いや、もしかすると、わかっていないのは、大人のやっているあらゆることなのだろう、という気が、郵便局を出る時になって太郎はし始めた。太郎だけでなく、あの局員も、大人のでたらめの犠《ぎ》牲《せい》になっているのだと思うと、むしろ太郎は言葉にはならない共感を覚えていた。
2
もう夏休みは目と鼻の先にぶら下っていた。本当は京都に行きたかったのだが、金を使いすぎるので、太郎は考えていた。親という名のスポンサーに顔を立てて、いちおう東京へ帰って、京都に行くのは、九月前にしようと太郎は思わざるを得なかった。それに、梅雨《つゆ》があける前から、名古屋は、すさまじい暑さになって来た。暑いから、帰京するわけではないが、とにかく名古屋でないところの方が、少しは涼《すず》しそうに思えた。
そう決心すると、太郎は東京の、親の家にではなく、庭続きで隣《となり》に住んでいる祖父母の家に、電話をかけた。
「お祖母《ばあ》ちゃん、僕《ぼく》、太郎です」
「どうしたの? 隣のうちが、出ないの?」
「ううん、そういうわけじゃないんだ。今日は、どっちの電話番号廻《まわ》そうか考えていたんだけど、何となく、そっちへかかっちゃったんだ」
「そう」
「あのね、僕ね、来週の火曜日に帰りますから」
「そう?」
「本当は、京都へ寄って帰りたかったんだけどね。お金使い過ぎちゃったから、まっすぐ帰るよ。僕ね、今、本代にかかってしかたないんだ」
「まあ、本にお金を使うなら、お父さんも少しは無理しても出してくれるでしょ」
「そうかなあ、僕、心配なんだ。とにかく、おやじさんとおふくろさんに、火曜中には帰るって言っておいてよ。夕食はいらないって。何時に家に着けるか、わからないから」
「わかりましたよ」
ちょっとしたテクニックなのだが、これで祖母は大喜びである。地方の大学へ行っている孫が初めて、夏休みで帰省するという、その喜ばしい大ニュースを、最初に知らされたのは自分だという満足で、数日の間にこにこしている。おふくろはドライな女だから、こういう時、《あら、どうしてお祖母ちゃんの方に先に言って寄こしたのかしら》などと、女らしくひがむようなことはしない。
太郎は、約束《やくそく》の通り、火曜の夜、七時少し過ぎ頃《ごろ》、家に帰りついた。
「只今《ただいま》」
太郎は、両親が、さし向いで夕食を食べているところへ入って来た。
「お帰り」とも言わず、母の信《のぶ》子《こ》は、
「夕飯は?」
と尋《たず》ねた。
「新幹線の中で、弁当《べんとう》食べて来たけど、夕飯なあに?」
皿《さら》に並《なべ》べられたものが、あらかたカラになっていたので、太郎は尋ねた。
「新鰊《しんにしん》をさっと焼いて、お醤油《しょうゆ》かけたのと、精進《しょうじん》あげと、味噌《みそ》汁《しる》」
「老人食だね」
と太郎はけなしてから、
「でも、鰊うまそうだから、少し焼いてよ」
と言った。それから鰊が焼けている間に、隣の、隠居所《いんきょじょ》の方へ挨拶《あいさつ》に行った。祖父は早くも眠《ねむ》ってしまっていたが、祖母が、
「よく帰って来たね」
と言ったので、太郎は、
「よく帰って来たんじゃないんだよ。帰るところがないから、帰って来たんだよ」
と訂正《ていせい》した。
「ご飯は?」
「これから食べる。じゃあ、またね」
太郎が言うと、祖母は、
「ちょっとお待ち」
と停《と》めた。
「何よ」
「東京で本屋へ行くんでしょう?」
「行くよ。それ以外、ろくな楽しみないもんね」
太郎は、わざと、オーバーな言い方をした。
「これを持って行きなさい」
祖母は、帯の間から、自分の帯の残り布で作った財《さい》布《ふ》を出し、中から一万円札《さつ》を出した。
「いいよ。遠慮《えんりょ》しとくよ」
太郎は体中で、ノドから手が出そうな表情をして見せた。
「そんなに遠慮しなくて、いいのよ」
「そうだね、このうちで、お祖母ちゃんは資本家だもんね」
「何が資本家なの。変なことを言う子だね」
祖母は、いわゆる小金を持っていた。うちでガスと電気を使うからと言って電力会社とガス会社の株を昔《むかし》から少し持っているのである。祖母が株を選ぶ発想はまことに日常的であった。貝柱の缶詰《かんづめ》って、おいしいね。こんなにおいしいんなら、さだめし皆買うだろうね。だからこの水産会社の株買おうかしら、という投資のやり方である。
「お祖母ちゃん。お祖母ちゃんは知らないだろうけど、マルクスの言う資本家っていうのはね。お祖母ちゃんみたいに、純粋《じゅんすい》に利潤《りじゅん》で食ってる人のことを言うんだよ。うちじゃね、お祖父《じい》ちゃんとお祖母ちゃんと僕が資本家、おやじさんとおふくろさんが労働者。覚えときなさいよ。でも悪いね、こんなに貰《もら》って」
本当に言葉というものは、どこまで白々《しらじら》しくなれるものかと太郎は思いながら、素早く札をズボンのポケットに収めた。かくあることを期待して、祖母の方へ、先に帰京を知らせたのである。家へ帰ると、ちょうど鰊が焼けたところだった。
「こないだ、母さんと、魚《うお》河岸《がし》へ買出しに行って買って来た鰊だ」
父の山本正二郎が言った。
「そうなの、こないだ行って病《や》みつきになっちゃったの。早くもお馴染《なじみ》の店ができてね」
母が言った。
「素人《しろうと》が、カンサツなくても入れるの?」
「入れるよ。我々のことは、会社の寮《りょう》の賄《まかな》い人の夫婦と思ってるらしい」
「ふうん。朝、何時に行ったの?」
「九時ちょっと前だ。母さんと、両手に持てるだけ持って帰って来た。いい運動だった」
「二人ともヒマだねえ」
太郎はあきれたように言った。
「そうよ。そういうことが楽しみで、この世を生きてるんだものね」
母が言った。
「志が低いねえ。もうすこし、親《おや》父《じ》さんも、高望みしたら? たとえば、大学の総長になるとか、文部大臣になるとか……」
「今が、最高級の生き方だ」
父が言った。
「うまいものは食ってる。本は読んでる。夏休みも二カ月ある。組織のいやらしさと愚《おろ》かしさも骨身にこたえて知っていて、殆《ほとん》どその境地から脱《だっ》しかけている。こういうのを、本当の自由というのだ」
「まあ、勝手にしろよ。この鰊もかなりうまいけどね。僕はもっとおいしいもん食ってるなあ」
「どんなもの食べてるの?」
「たとえば鯉《こい》こく。二百円で、胴《どう》切《ぎ》りにした鯉が名古屋では四切れもあるのよ。それを白味噌と信州味噌と豆《とう》腐《ふ》のつぶしたのとを混ぜたもので、こってり仕上げて、七《しち》味《み》とうがらしをふるの。そういうものうまいんだよう」
「わりとましなもの食べてるのね」
「僕が帰って来て、嬉《うれ》しい?」
太郎は催促《さいそく》した。
「世間では皆、さぞかしお母さまが、お喜びでしょう、って言ってると思うよ」
「あなたが帰って来たほうが、生活は緊張《きんちょう》するけど、部屋をとっちらかされるのと、汚《よご》れ物がふえるのは、かなわないわね」
太郎が翌日、早速《さっそく》、神田へ行こうとしていると、十時頃の便で、一際《ひときわ》、部厚な包みが届いた。太郎はそれを、父か母のどちらかのところへ来たものだと思っていた。父も、たまには外国から本を買うし(もっともその場合は、日本の書店を通じて取り寄せることが多かったが)母も翻訳《ほんやく》をしているので、イギリスにいる友達などが、母の頼《たの》んだ本を送ってくれることはあった。
しかし、包みの宛《あて》名《な》を見て、太郎は驚《おどろ》いた。それはミスター・タロー・ヤマモトとなっており、差出人はサラワク博物館であった。
「来た!」
太郎は躍《おど》り上った。
「来た! 来た! 来た!」
「静かにして」
と母の信子が言った。
「このうちは根太《ねだ》が所々腐《くさ》りかけているんだから」
「でも、お母ちゃん、カンゲキだよう。東京から、名古屋まで、二週間経っても来ない本もあるのに、ボルネオからは、二週間と二日で来ちゃったよう。見て! 見て!」
「やかましい子ね」
母はイバン族の本をおざなりで覗《のぞ》いていたが、写真の頁《ページ》をめくると、次《し》第《だい》に本気でおもしろくなり始めたらしかった。
「この人たちは、回教徒?」
母は尋ねた。
「違うよ。豚《ぶた》飼《か》ってるじゃないか。豚食う回教徒なんていないよ」
「じゃあ、何なの? 原始宗教?」
「一応は、キリスト教徒」
「焼畑農業やるの?」
「違うんじゃないかなあ。まだそこまでよくわからないけど、ボルネオのジャングルって、すごい湿《しっ》気《け》でしょう。だから、火つけても一《いっ》般《ぱん》的には燃えないんじゃないかと思う。このイバン族の住んでるところは知らないけどね」
「本当に女はお腰巻《こしまき》にトップレス。男はフンドシねえ」
「これね、必ずしも、そうじゃないんだ。僕の読んだほかの本によるとね。もっと、つまらない服装《ふくそう》してるよ。シャツとズボンなんかもいる筈《はず》だよ。シャシンにとるとね、こういうシャシンばかりになるんだろ」
「しかし、本当に清らかなトップレスね。邪《じゃ》念《ねん》を持つほうが、恥《は》ずかしくなるようなトップレスだわ」
「母さんもそう思う?」
それは恐《おそ》らく、まだ十五、六歳《さい》と思われるイバン族の娘《むすめ》が、川のせせらぎの中を歩いて来るところだった。額の生《は》え際《ぎわ》は丸く、愛らしかった。水浴のあとで、黒髪《くろかみ》はきりりと束《たば》ねて、後ろに垂らしているのか、真正面からの写真では見えない。病的な白さではなく、比類なく健康な小麦色に、堅《かた》くしまって盛《も》り上った乳《ち》房《ぶさ》の清らかさが、モノクロームの写真でもよくわかる。
「かわいい顔してるけどさ」
太郎はまだ母を相手に言った。
「だけど、見てごらん。石だらけの川の中をこうして、ひょいひょい裸足《はだし》で歩いて来るんだからね、彼女《かのじょ》のあしのうら見たら、きっと僕たちおったまげると思うよ」
「いつか誰《だれ》かが、フィリピンの土地の人の話をエッセイに書いてるの読んだことがあるわよ。田舎《いなか》で会った或《あ》るフィリピン人が片方のアシノウラのひび割れの間に入った小石の粒《つぶ》を、木の枝で、ひょいひょい、と弾《はじ》き出しているのをその人が見るのよね。その時、その人は理由もなく、フィリピン人がこわくなる、という話だった」
「その気持わかるね」
「私が小さい時、あなたをしきりに裸足で歩かせようとしてたの覚えてる?」
「ううん、あまりよく覚えてない」
「だけど、まず、あなたがイヤがったのよ。初め芝《しば》生《ふ》の上歩かしたら、ちくちくしていやだって泣いたの」
「僕、そんなに惰弱《だじゃく》だったかなあ?」
「そうよ。それから、皆も反対したの。破傷《はしょう》風《ふう》になったらどうする、って言われてね。それでこの計画はおじゃんよ。第一、当人がしたがらないことを教育するのは、まず不可能と言っていいものね」
太郎は、ちょっと具合が悪くなって来たので、
「じゃあ、僕、これから神田へ行って来らあ」
とごまかした。
「それにつけても、お金、頂戴《ちょうだい》」
祖母からもらったことは、図々《ずうずう》しく黙《だま》っていた。
「僕、本当に、お金ないんだ。今財布の中に、四百五十円くらいしかない」
「ちゃんとお金くらい、銀行から出してくればいいのに」
「名古屋の預金は減らしたくないもんね。何となくたくさん使ったように思われるもの」
「おんなじよ。そんな錯覚《さっかく》にごまかされないわよ」
「そうかなあ」
母は五千円くれた。
「あああああ!」
太郎は叫《さけ》んだ。
「どうしたの?」
「これで、どれだけ古本が買えるか、普《ふ》通《つう》の人は知らないから、胸が痛くなるんだ」
「どれだけ買えるの?」
「普通で一冊半。高い本なら半冊」
母はしぶしぶもう一枚五千円札を出した。
「半分買うわけにもいかないから、仕方ないけど、決算報告は出しなさいよ」
太郎はにっこりした。
暑さは、東京も名古屋も似たようなものになったが、古本屋が盛《さか》り場《ば》になくて、神田という少しはずれの町にかたまっている、という点では、確かに東京は名古屋と違った。太郎は、二、三軒《げん》の本屋をゆっくりと見たが、やはり、最後は大正堂書店という店に落ちついた。
そこで太郎は、総計一万五千円で、四冊を買った。店主は、まだ若い男だった。額が広くて、いい意味で、知的な人間らしいインケンな感じを持っていた。太郎が持って来た布製のズダ袋《ぶくろ》を出してその中に、大切に本を収めていると、彼は丁寧《ていねい》な口調で言った。
「遠くからおみえですか?」
「ええ、新幹線に乗って買いに来たんです」
すると男は、さらに静かな声で言った。
「中本先生はこの頃、お元気でしょうか。暫《しばら》くお見えにならないんですが」
中本次彦と言えば、泣く子もだまる京都大学の人類学の教授である。若い店主は太郎の買った本と、新幹線に乗って来たという言葉から、太郎を一方的に京都大学の学生と思いこんだらしかった。それで太郎はちょっといたずらしたい気分になった。
「ええ、もう、ぴんぴんすぎて皆困ってるみたいですよ」
太郎は大まじめで知りもしないくせにデタラメを言った。
3
太郎は東京の家で、例によって朝早く眼《め》が覚《さ》めると、一瞬《いっしゅん》、おや、ここはどこだったかな、と思うようになっていた。その次の瞬間に思うのは、なぜか、いつも《ドヤだ!》という答えだった。
自分の育った家に帰って来て、毎朝《ここはドヤか》と一瞬にせよ、思うというのは、どういうことかと太郎は考えた。つまりいつの間にか、太郎にとって、あの名古屋のアパートが本居になっていたのだ。
太郎はこれで三日も、歯を磨《みが》いていなかった。もともと、ひどく古びた歯ブラシを使っていたのだが、太郎が名古屋へ行くや否《いな》や、おふくろは、その歯ブラシを、大喜びで捨ててしまったらしいのである。普《ふ》通《つう》の専従の母親ならば、そこで彼女《かのじょ》は早速《さっそく》、新しい歯ブラシを買いに行き《太郎チャンは何色が好きだったかしら。ブルーかしら、緑かしら》なんてたっぷり三十秒は柄《え》の色まで考えて、新品を備えておいてくれるものなのだ。ところが働いている母親というのは、何でもすぐ忘れ、いつも《忙《いそが》しかったから》とか《私に、そんなくだらない用事までおしつけないで》などと言うのだ。
歯ブラシを買うという仕事は、実際くだらない仕事だから、太郎もやらない。それ故《ゆえ》、これで三日も、太郎は歯を磨いていないのだが、荒《あら》っぽいおふくろは又《また》、その事実にも、気づいていないのである。
歯ブラシ一本は大したことではないが、太郎は、実際ごく自然に東京の生活からはみ出てしまったのだった。言葉を変えれば、場を失っていたのである。
「何だか落ちつかないねえ、この子は」
母も、そこまでは気づいたようだった。
「何だか目の前で、大きなゴミがちらちらするような感じ?」
「丸めた新聞紙が、部屋の中に転がってるみたいね」
「僕《ぼく》もだよ。本当にこのうちは、管理が悪いんだもの」
なぜ居心地悪いかを説明するには、具体的な事例がいる、と太郎は思った。
「どういうふうに悪いの? 掃《そう》除《じ》は確かにいい加減だけどね」
母は言った。
「だって。庖丁《ほうちょう》はといでないだろ。かつぶしけずりはないだろ。フライパンの油気は切れてるだろ、洗いすぎるから」
「何だか、油虫がつきそうでね、気持悪いのよ」
「あんなに油切らしちゃあ、何もできやしないよ」
「だけど、誰《だれ》だって、自分の生活方式が一番いいのよ」
「庖丁は切れる方がいいと思うけどねえ」
東京へ帰ってから、太郎は、誰にも帰京を知らせなかったのだが、それでも、女の子から、「太郎はいつ帰って来ますか?」という問い合せがあったと聞いて、まんざら悪い気もしなかった。
一人は運動部の後輩《こうはい》で、太郎に縞馬《しまうま》のマスコットをくれた小《こ》島雪《じまゆき》枝《え》だった。もう一人は千《ち》頭慶《かみけい》子《こ》さんだった。
「そうかあ、千頭さんからもかかって来た?」
太郎はにこにこした。
「それから他《ほか》に、誰からかかって来た?」
「あとはね、黒谷《くろたに》君に、藤原君」
「男じゃなくてさ、女の子からは?」
「女の子はその二人だけよ」
「おかしいな、もっとある筈《はず》なんだけどな」
てんであてはなかったが、太郎はそう言ってみた。
「じゃあ、まず黒谷んとこへ電話してみるか」
黒谷とは、一度、三浦半島へ泳ぎに行く約《やく》束《そく》ができていた。それをいつにするか、という打ち合せの電話をかけねばならないのである。
そうこうしているうちに、玄関《げんかん》のベルが鳴った。曇硝子《くもりガラス》越しにうつる姿だけで、太郎は高校のときの同級生で、いまは浪人《ろうにん》している藤原俊《ふじわらとし》夫《お》だということがわかった。ほんの一瞬のことだった。藤原は本気に内側から人が出て来るのを待たずに、放心したようにうろうろと、あたりの植《うえ》込《こ》みか何かを見ていたようだったが、太郎はそういう藤原のま抜《ぬ》けたような姿勢が何となく好きだった。
「やあ」
太郎は言った。
「もう、軽井沢へ行ってるかと思ったぜ」
太郎は何気なく言った。詩を書きたかった俊夫の長兄が、無理やりに法科にいれられた後、家をとび出して、喫《きっ》茶《さ》店《てん》の細っこい女の子と同棲《どうせい》し、あげくのはてに心中をくわだてて、女の子だけが死んだ事件によって、金と地位と「一家一門」の学歴の名《めい》誉《よ》に支えられていた藤原家には、大きながたが来た後ではあった。
「その後、どうしてた?」
太郎はガランドウになった二階の自分の部屋へ藤原を通した。
「今年はね、もう、軽井沢へ皆が集まるような状態じゃないんだ」
藤原は言った。
「兄《にい》さんは、今は?」
「病院へ入ってる。あの後ずっと、死ぬ死ぬの言い詰《づ》めなんだ。それで、公判にはなってるんだけど、病院にいる」
「そんな具合じゃ、心神喪失《そうしつ》か何かで、無罪放免《ほうめん》なんじゃないの?」
「死刑にしてほしいんだよ、彼《かれ》は」
藤原は、語調を強めて言った。
「そんなにあの女、好きだったのかなあ。何だか、あんまり、おもしろいひととは思えなかったけどね」
「女なんか、好きじゃないと思う。しかし、これで兄ちゃんは、以後永遠に、親《おや》爺《じ》やおふくろのご希望にこたえるような生き方はできなくなったんだ」
「東大法学部卒ではないしね」
太郎は呟《つぶや》いてから、
「ご希望にはそえなくたって、生きてりゃおもしろいこともあるのになあ」
と実感をこめて言った。
「僕は、おやじに、言ったんだ。死ぬ死ぬと言ったって、死ぬには勇気がいるし、本当に死ぬかどうか、試してやればいいのに、って。僕たちは、ずっと選択《せんたく》できないように育てられてきたからね。今、兄ちゃんは、半ば以上、強制的に病院におしこめられてる。理由はなくはないし、その方が裁判に有利なんだろうけど、僕は、それでも死ぬか、やはり死にそびれるか、兄ちゃんに選ばせてやれよ、とおやじに言ったんだ」
「おふくろさんは、どうしてる? おやじさん以上に、大変だったろ」
「彼女は、今、出家《しゅっけ》しようと思って夢中《むちゅう》だ」
「まさか。息《むすこ》子三人のうち長男が未決、次男も三男も左《さ》翼運動《よくうんどう》に入るかも知れない、って時にか?」
「ああ。おふくろはもう、てんでダメなんだ。今度の事件で、おやじに十五年来の女がいることもわかったしね。自分は女房《にょうぼう》失格・母親失格だ、というんだ。だから、別れて尼寺《あまでら》へ行く、と言うんだ」
「尼寺へ行くくらいなら、子供たちの面倒《めんどう》をみりゃいいんだ。それも高級なことはしていらんさ。お手伝いさんに任せっぱなしにしないで、掃除、洗濯《せんたく》、飯作りすりゃいいんだ」
「うちのおふくろは、何でも、そのことが、立派にできないと、ダメなんだ。どうやらできた、とか、悪い点でパスした、なんてのはだめなんだ。彼女にとっては、おやじが、一生自分に対してだけ関心をもって、子供たちが、皆一族に対しても顔向けのいいような大学を出てくれた時にだけ、自分の人生は承認できるんだ」
「まずく行ったから、子供たちも捨てて出家かあ。そんなにしてまでいい評判とりたいのかなあ」
太郎はごろりと畳《たたみ》の上に寝《ね》転《ころ》がった。
「今はそういう形で、評判を挽回《ばんかい》しようと思ってるらしい」
「評判なんか、どうでもいいのにな」
「うん」
藤原も素直に頷《うなず》いた。
「評判なんか食えないしな」
「君もなあ、しかし、抜けたな」
太郎は呟いた。
「抜けた? 何から」
「藤原家の、いろいろな毒からさ」
太郎は起き上った。
「五カ月くらい会わない間に、君は変ったな。強情《ごうじょう》になったよな」
「変りゃ、しないよ」
藤原はテレてみせた。
「昔から、君は強かったけど、ということは君や、君の家にとって、あまり名誉にならない話でも平気でできたけど、もっと平気になってるからな。或《あ》ることについて、ひとと話せるようになったら、もうそれは客観的になった証拠《しょうこ》だからな。客観的ということは、その渦中《かちゅう》にいない、ということだから」
「あの事件の最中に、うちの近くの女の人が言った言葉があるんだ」
「何て?」
「あそこのうちは、どんな事件が起ったって、金があるから救われている、って言ったんだって」
「バカな」
「しかし、僕はその通り思おうとした。そしてそう思えた」
「冗談《じょうだん》言うな。君んとこは、金があるから、こんな目に会ったんだ」
「おれ、その時以来、ひとが、何言っても、少しも怒《おこ》らずに聞き流せるようになった、本当に、無理してんじゃないんだ。水が流れる音聞くみたいに、ひとが僕のうちに対して言ってることを、聞いてられるようになった」
「まあ、とにかく、一度、遊びに行かんか。この前は、君の軽井沢の別荘《べっそう》へ行ったから、今度はおれの、海のうちへ来いよ」
とは言うものの、大分、大きさが違《ちが》うがなあ、と太郎は考えていた。向うは敷《しき》地《ち》は百倍、家は十倍という感じである。
「予備校、少しは休んでもいいんだろう」
「ああ、かまわないんだ。僕は今、何でも、自由にできる。親爺もおふくろも、子供を投げてしまったから」
「そいつは絶好のチャンスだ」
太郎は心から、そう思った。
4
本当は、太郎は千頭慶子さんから電話をもらったことにいたく心を動かされていたのだが、そこを無理して、わざとすぐにはかけ返さなかったのだった。千頭さんとは、喧《けん》嘩《か》別れではないにしても、天下に名だたる明倫大学へ行かずに、北川大学へ行ったということで、ケイべツの眼《め》で見られたような印象がある。それならそれで、決然と彼女のことなど考えなければいいのだが、そこがやはり髪《かみ》の長い女の子に弱いので、筋《すじ》を通せないのである。
黒谷久男と藤原俊夫と、海へ行く約束をしてから、太郎はおもむろに千頭さんに電話をかけた。
「山本太郎です」
「あら、今日は」
「電話もらってて、すぐかけようと思ったんだけど、いろいろと帰ったばかりで、ごたごたしてたもんだから」
別にごたごたなどしていないのである。むしろ太郎は東京では時間をもてあましていた。
「お元気?」
「まあね。本ばかり読んでます」
瞬間《しゅんかん》自分でも、キザだな、と思ったのだが、そう言ってみたい気分には勝てなかった。
「名古屋はいかが?」
「大きな田舎《いなか》町だよ」
太郎はまず、千頭さんの気にいりそうなことを言った。
「ただ、生活は東京よりずっと楽ね。おいしいものもあるし」
「それはよかったわね」
「そっちはどう? 聖マリアは」
「ええ、とっても楽しいの」
「そう」
とっても楽しい人生ってあるのかなあ、と太郎は考えていた。
「夏休みはどうするの?」
太郎は尋《たず》ねた。
「八月の終りに、北陸のお祖母《ばあ》ちゃまの家に遊びに行くつもりなんだけど、それまでは東京にいるの」
「黒谷と藤原とさ、三浦半島の僕《ぼく》のうちへ行こうと思ってるんだ。よかったら行かない?」
「いいわ。私ね、聖マリアのお友達で、杉山《すぎやま》美《み》幸《ゆき》さんって人がいて、おうちが、横《よこ》須賀《すか》のお医者さまなのよ。どっちみち彼女《かのじょ》の家に遊びに行くことになってるから、彼女も一緒《いっしょ》に誘《さそ》っていい?」
「いいよ」
「実はね、山本君に、お願いがあるのよ」
「なあに?」
「統計学って、あなた取ってる?」
「うん、取ってる」
「夏休みにレポートがでちゃったの。ちょっとわからない所あるから、見て下さらない?」
「いいよ。わかるかどうか、わからないけど。統計学って、僕、一番自信ないものなんだ」
「でも、山本君のできないのは、私ができるっていうのよりずっとできるから」
「そんなことないけど、いいよ」
電話を切ってから、太郎は受話器の前で暫《しばら》く考えていたが、やがて古ぼけたジンベエを着て、これも古びて、紐《ひも》の籐《とう》がほどけかかった寝椅子《ねいす》に横になっている父親のところへ来た。
「ああ、おれ、ダメだなあ」
太郎は父親の足許《あしもと》をうろうろ歩きながら言った。
「どうダメなんだ」
「だってさ、オレ、決然と別れたつもりだったのにさ、千頭さんから電話がかかって来て、『夏休みの宿題手伝って』などと言われたら、又《また》うろうろと承知してしもうた」
「男というのは、そういうもんだ」
「へえ、誰《だれ》でもそうなのかねえ」
「お父さんなんか、もっと下らないことで、つられたもんだ」
「そう? どんなことで?」
「アップルパイ焼いたから、食べに来ない?なんて言われるとさ、つい、でかけて行くんだなあ。戦争のすぐ後で食糧《しょくりょう》不足だったからね」
「その人とは、やっぱりケンカ別れしてたの?」
「一方的にさ」
「お父さんの方から」
「いや。遠まわしに、別のボーイフレンドができたから、というようなこと言われて、ああ、そうか、と思ってふられてたんだ。女ってのは、自分がかつて言ったことを、都《つ》合《ごう》の悪い時には、きれいさっぱり忘れられるもんだからな」
「うん、それはあるな。男だったら、恥《は》ずかしくて、忘れられないようなことでも忘れられるね」
「アップルパイならまだましだけどね。終戦後まもなくの時は、もっとひどいもんでも釣《つ》られたね」
「どんなもの?」
「古靴《ふるぐつ》さ。アメリカの駐留軍《ちゅうりゅうぐん》の放出物資さ」
「へえ」
「その頃《ころ》、坂本さんって、妙《みょう》に生活力の旺盛《おうせい》な女の子がいたんだ。B大の学生で。その人にお父さんは、『アタマが悪い』と言ったもんで、怒《おこ》ってつき合ってくれなくなってたんだ」
「ふん」
「そしたら、一年くらい経《た》って、或《あ》る日急に電話がかかって来た。
《正二郎さん、アメリカの古靴いらない? 安く手に入るんだけど》
って言うからさ。
《いる、いる》
って言ったのが運のつきさ。古靴でも、男なんか、簡単に釣られるんだ」
「クロダイって奴《やつ》はバカでさ。西瓜《すいか》の青いとこでも釣れるっていうけど、お父さんもクロダイ並《な》みだね。だけど、その坂本さんって人は、何だって、より《・・》を戻《もど》そうとしたの?」
「彼女は下宿を移らなきゃならなくなったんだ。それで、引っ越しをできるだけ安上りにしようと思ったんだろ」
「レンタカー?」
「その頃、レンタカーなんかあるもんか。彼女はリヤカーを借りて来たんだ。それを引く人手がいったんだ」
「何粁《キロ》くらい離《はな》れてるの?」
「十粁かな」
「それで、やったの?」
「古靴の恩があるからな。途中《とちゅう》で坂があるんだ。そこは大変だった。お父さんが引いて、坂本さんが押《お》すのさ。そしたら、途中に変な爺《じい》さんがいて、《夫婦して力を合わせりゃ、あんたらは今に必ず金持ちになる》って言うのさ。だからお父さんは《夫婦じゃないよ。後ろのは姉さんだよ!》ってどなり返したら、又坂本さんにうんと叱《しか》られた。坂本さんは、一つ年下なんだ。リヤカー引かせられた挙《あげ》句《く》に叱られてさんざんな目に会った」
「本当に、男ってバカだね」
「しかし、とにかく、不思議と、若いうちは女にもてるんだ」
「今はもてないの? お父さん」
「うんまあな。信じられないくらいだ」
「色《いろ》香《か》は衰《おとろ》えてないと思ってる?」
「無論さ。それなのに、女というのはバカだからな。いつかも詩人の入江と五《ご》反《たん》田《だ》のバーに行った」
「銀座じゃないのね」
「そう、銀座じゃなくて、五反田だ。女はどこへ行っても女だし、ビールはどこで飲んでもビールだ。そしたら、入江とおれの間で、ホステスが大あくびしてるんだ」
「へえ」
「入江がすぐに聞いたんだ。
《何だって大あくびなんかしてるんだ》
ってね。そしたら、
《何か、おもしろいことないかなあ、と思ってるのよ》
って言うんだ。入江が、
《おもしろいこととは何だ。おれたちは客なんだぞ》」
「入江さん、もちろん、本気で怒ってるんじゃないんでしょ」
「あいつはね、冗談《じょうだん》の時でも、むっつり言ってみせるから、ちょっとわからないけどね」
「そしたら、そのホステス、何て言った?」
「《そうよ、お客だから、こうしてガマンしてあげてんじゃないの》と言ったんだ」
「ひどいもんだね」
「全くひどいもんだ」
「お父さんも落ちぶれたもんだね」
「うん。今、もてるとしたら、金だけだ」
「お父さんは、金もあまりないだろ」
「ないけど、それがああいう連中の浅はかさでね。ひょっとすると、金持ってるんじゃないかと思うんだ。だから、五反田の彼女みたいでなくて、にこにこ愛想よくしてくれる女に会うと、お父さんは反射的に彼女らがさだめし頭の中で、パチパチ算盤《そろばん》はじいてんだろうな、と思うね」
「パチパチ算盤なんて古いよ」
太郎は言った。
「ピコピコだよ」
「何だ、そのピコピコというのは」
「電気計算器の音だよ」
太郎は、或る朝、黒谷と藤原と三人ででかけた。駅で会った時、藤原の顔には暗いものが泛《うか》んでいるように見えたが、電車が東京から遠ざかるにつれて、明るい表情がよみがえって来るように感じられた。
「おい、太郎、この海岸はだんだんさびれて来たな」
黒谷は、山本家の海の家の近くの駅で私鉄を下りると言った。
「ここは自動車で走る距《きょ》離《り》がないから、はやらんのさ」
太郎は言った。
「車もったカッペ(田舎っぺ)は、浜《はま》名湖《なこ》へ行くんだ」
車を持っていない太郎は悪口を言った。
三人は、錆《さび》つきかけた山本家の別荘《べっそう》の鍵《かぎ》を力まかせにこじ開けた。何しろ一年近く誰も開けていないのだから、中は虫の巣《す》と、虫の死《し》骸《がい》だらけだった。
「ありがたいことだ」
黒谷が言った。
「これが人間の死体だったら、腐《くさ》ってえらいこった」
「虫の死骸は何で腐らないのかな」
藤原が言った。
「やっぱり水分がないんだろ」
縁側《えんがわ》の外も、夏草がひどい繁《しげ》りようだった。
「今年は、マムシが大発生してるって言うから、気をつけろ」
黒谷が草を抜《ぬ》いていると、太郎が縁側からどなった。
「無茶言うなよ。気をつけろったって、このひどい草じゃ何も見えないよ」
「大丈夫《だいじょうぶ》だ。噛《か》まれたら市民病院までは担《かつ》ぎこんでやる」
途中で、腹が空《す》いて来たので、三人はインスタント・ラーメンを食べた。そして、腹がくちくなったら、今度は働くのもいやになったので、家の中の掃《そう》除《じ》も、庭の草とりもやめて海へ行った。
三人はまず、百米《メートル》ほど沖《おき》につないである漁船のところまで、泳いで行った。初めて水に入ったので、太郎もふうふう息を切らした。三人はへたりこむようにして漁船の上に上った。
「オレ、年とったと思うなあ」
太郎が言った。
「体がなまって来てら」
それだけではなく、太郎は、毎年毎年、この船の上に来ては、「美人のネエちゃん」がいないかなという期待に燃えて、あたりを見《み》廻《まわ》したことを思い出したのだった。そのような夏を何回過したろう、と思うと、太郎はそら恐《おそ》ろしいような気分になった。
そこで、三人は同級生の噂話《うわさばなし》を始めた。
「田村せい子な、あれ、結婚したの、知ってるか?」
黒谷が言った。
「へえ、誰と」
「何だか、税務署へ出てる人とだってさ」
「よくもらったな。だってさ、あいつさ。スカート鍵ざきにしたら、裏から黒い紙にボンド糊《のり》つけて、それで貼《は》っつけて、ずっとはいてんだよ」
「だけどな、結婚すると、何だか一段偉《えら》くなったみたいだな」
「社会人だものな」
「五月《さつき》素《もと》子《こ》さんに会った?」
黒谷が突然《とつぜん》言った。
五月素子は、太郎たちより一年上のクラスで、かつての太郎の憧《あこが》れの人であった。しかし、父親が病気で学校をやめて喫《きっ》茶《さ》店《てん》に勤《つと》め出してからは、太郎は五月さんと喋《しゃべ》っていても、キザな言葉で言うと価値観の相《そう》違《い》に苦しむようになった。
「あの人、今でも喫茶店に勤めてるの?」
「いや、やめたらしいよ」
「やめて、どこへ行った?」
「わからない。だけど、たぶん、ホステスになってると思う」
「ふうん」
「オレが渋《しぶ》谷《や》の駅で会ったの、夕方、五時頃だものな。眼の上を青くそめてさ。オレ何も知らないから、《今日は、今から出勤?》って訊《き》いたんだ。そしたら、ちょっとバカにしたようにオレの顔みて《私ね、銀座にいるのよ》って言った。銀座にいるってことはさ、銀座郵便局に勤めてるってことじゃないだろ」
「そりゃ、そうだ」
藤原が言った。
「何て言う店?」
「その時、そんな所まで、気が廻らなかったんだってば」
太郎は微《かす》かな悲しさを覚えながら黙《だま》っていた。しかし反射的に、太郎は、或る日、そのバーの客になって行っている自分を想像していた。五月さんは、眼の上を青く染めて、太郎の傍《そば》に坐《すわ》り、少しお酒に酔《よ》ってけたけた笑っていた。彼女は、二十糎《センチ》もあるような長いシガレット・ホルダーで煙草《たばこ》を吸っており、時々、太郎にしなだれかかった。するとその度に、太郎の後頭のあたりで、何か奇妙《きみょう》な音がした。
それは、ピコピコという電算器の音であった。それは、五月さんの頭《ず》蓋骨《がいこつ》の中で鳴っているのだということがわかった。太郎はしらけた思いになった。総《すべ》ては空想なのだから、何もしらける必要はないのだが、太郎は妄想《もうそう》をふり払《はら》うために立ち上った。
「オレ、泳ぐぞ!」
太郎がざんぶと飛び込むと、二人も慌《あわ》てて後を追って飛び込んだ。
5
千頭慶子とその友達の杉山美幸は翌日の午《ひる》少し過ぎに来ることになっていた。
前の日は、いくら太郎が号令をかけたつもりでも、あまりはかばかしく働かなかった黒谷と藤原が、その日は朝から、人が違《ちが》ったように作業をし始めた。
「六畳《じょう》の方を、女の子たちに明け渡《わた》してやろう。女の子は荷物が多いしな」
黒谷が言った。彼の言う通りにするとすれば、太郎たち三人は、四畳半に押《お》しこめられる訳である。何しろ二間こっきりの大別荘《・・・》なのだから、それ以上のもてなしはできない。しかし誰《だれ》も文句を言う者はなかった。藤原は前の日に、黒谷が放《ほう》棄《き》した庭の草を抜《ぬ》き始めた。太郎はひとに働かせておいて、自分は、ぼんやりと、縁側《えんがわ》の上から、藤原が陽《ひ》にやけた赤い首すじを見せて、草と格闘《かくとう》している姿を見ていた。
《俊夫ちゃん、あなた何してるの?》
それは、もしここにいるとすれば、当然、聞えて来そうな藤原のおふくろの声であった。軽井沢の藤原の別荘《べっそう》で会った時、藤原のおふくろは、ラヴェンダー色のジョーゼットの服を着ていた。袖《そで》は、先がつぼんでいなくて、むしろフレヤーがとってあってひらひらしているような奴《やつ》だった。太郎の感じでは、藤色の服の似合う女というのは、皆危機感を含《ふく》んでいる。藤色の決して似合わない女は、――その代表がおふくろだが――これは夢《ゆめ》も希望もない。
《俊夫ちゃん、いけませんよ。おやめなさい。マムシに噛《か》まれたら、どうするんです! そんな危ない仕事はひとにやっておもらいなさい!》
藤原の根源的な不幸は、何者にも立ち向えなかったことだ。マムシに噛まれても、人間は死ぬことはない。うまく行けば軽くすみ、まずく行くと一週間苦しむだけだ。しかし、一週間後に立ちなおった時、その人間はマムシに勝ったという経歴をふやしたことになる。それは一見下らないことのようだが、男の子にとっては、かなり意味のある体験だ。
どうやら家の中が片づき、三人が、鯨肉《げいにく》の缶詰《かんづめ》とトマトで昼飯を食べ終った頃《ころ》、表に自動車の音がした。
「あ、来たぞ!」
「来た!」
自動車からは三人の人間が下りたった。やや小太りで、頭が少し禿《は》げた男と、リボンのついた帽《ぼう》子《し》が二つだった。久しぶりに千頭さんに会えたということよりも、太郎は娘《むすめ》たちが、帽子をかぶって来たことに感動していた。
「どうぞ、お入り下さい。広い方の部屋を明けてありますから」
太郎は挨拶《あいさつ》もそこそこに言った。広い方の部屋もへったくれもなかった。家の中に入れば一目で家中が隅々《すみずみ》まで見《み》廻《まわ》せた。
「千頭さんとご一緒《いっしょ》におじゃますることになってしまいましてね。杉山美幸の父です」
「美幸です」
美幸は千頭さんより少し小《こ》柄《がら》だったが、色が黒くて、秋田犬みたいな顔をしていた。三人の男の子たちは、かしこまって挨拶した。
「太郎君たちは?」
「こっちの部屋にいますから、六畳の方をお使いになって下さい」
「だってそれはおかしいわ。三対二で、私たちが四畳半を使います」
「いいんですよ。もう、そう決めたんだから」
「本当です。もうそのつもりになっちゃいましたから」
黒谷も言った。
「海が近くていいですね」
杉山氏が言った。
「ええ、歩いて一分です」
「送り届けたら、すぐ帰ろうかと思ったけど、海を見たら、一泳ぎして帰ろうかな」
杉山氏が言った。
「ええ、そうなさって下さい。風呂《ふろ》はすぐ沸《わ》きますから」
黒谷が自分の家のような言い方をした。
「風呂なんか夏は大していらんですよ。私は毎日、水ばかり浴びてますからね」
それでも、黒谷がすぐ風呂番になり、皆が仕《し》度《たく》をしている間に、生ぬるい程度にまでしておいて、それで海へでかけることになった。
「美幸さんは、泳ぎうまいんですか?」
太郎は海への道で、父にともなく娘にともなく尋《たず》ねた。
「きれいにも、早くも泳げませんけどね。昔《むかし》から、海へほっぽり出しましたからね。とにかく、浮くももぐるも自由ですわ。海辺育ちですからね」
太郎は杉山氏のその言い方に、好感を覚えた。
「海辺の人って、却《かえ》って泳げないのが多いんですね」
「私はほっておく主義でね。これの下が弟二人ですけど、三人まとめて、浜《はま》へ連れてって、ほったらかしといたんですよ。そしたら、あっぷあっぷやってましたが、何となく水に馴《な》れますね」
「もし何だったら、磯《いそ》の方へ行こうか。うまくすると、ベラかカサゴくらい突《つ》けるかも知れない」
「アワビは?」
「あまりいないよ。サザエならね」
「水中眼鏡《めがね》とイソガネだけは持って来たんです」
美幸は手に持っている小さなバスケットを示した。
「じゃあ、僕《ぼく》も取って来ようかな。ねえ、皆先へ行っててよ。僕すぐおっつくから」
太郎は、家へかけて帰ると、シュノーケル、水中眼鏡、フィン二対、ヤス一本、それに腰《こし》につける水中ナイフを持って来た。
先に行った人たちは、砂浜《すなはま》にいた。
「千頭さんは、それほど泳ぎがうまくないらしいから、まず浜で少し泳ぎましょう」
紡錘形《ぼうすいけい》の体つきをした杉山氏が言った。幸いにも、水は澄《す》んでいた。数日前までひどい赤潮で、味噌《みそ》汁《しる》のような海だった、というのから見れば、信じられないくらいきれいだった。
皆は一せいに海にとびこんだが、千頭さんは、背《せ》の立たないところは怖《こわ》い、と言って、波うち際《ぎわ》から、五、六米《メートル》のところにいた。髪《かみ》を短く刈《か》った美幸は、犬のように達者に泳ぎ始めた。太郎はクロールと称する抜手で泳いだ。何しろ、習ったのが小《こ》堀《ぼり》流の日本泳法だから、どうしてもスマートにはならないのである。すぐ前を、杉山氏の肉づきのいい丸い肩《かた》がゆうゆうと進んでいくのが見えた。
心優《やさ》しい藤原は、千頭さんにつきあって、波うち際に残っているらしかった。
「本当に泳ぎうまいね」
太郎は追いついて杉山美幸に言った。
「違うの、水に馴れてるだけ。山本さんもうまいのね」
「僕はね、体力があるだけ。でも、浜ってのは、おもしろくないね」
「そうね。私も磯が好き」
「あとで、磯へ行こうか」
「行きましょう」
「父上のビールの肴《さかな》、探さなきゃな」
「あら、父は何もいらないの。胡瓜《きゅうり》にお味噌つけて、食べてるわ」
若者たちは、間もなく上って、砂浜でぺちゃぺちゃ喋《しゃべ》り出した。すると杉山氏は、五米ばかり離《はな》れたところにあお向けに寝《ね》転《ころ》がって、顔の上に麦ワラ帽をのせ、間もなく軽い鼾《いびき》をかき始めた。
「いやだわ、お父さんたら、鯨《くじら》みたい」
美幸は言った。
「いい気持そうだね、できるだけ起さないでおいてあげよう」
「起さなかったら、大変ね」
千頭慶子が、美幸の顔を覗《のぞ》きこみながら笑った。
「どうして?」
「だって、毎日、二時間はたっぷり昼寝するんですもの。午前中の診療《しんりょう》が十二時まででしょう。それから一時まで、ゆっくりご飯食べて、お腹《なか》いっぱいになったところで、三時までぐうぐう寝るの」
「優《ゆう》雅《が》な生活だね」
太郎は思わず言った。
「僕も一生、ゆっくり昼ご飯食べて、昼寝できるような商売したいなあ」
「ずいぶん怠《なま》け者なのね」
千頭さんが、ちょっと非難するような調子で言った。
「だってさあ、望みっていうのは、現実とは別に持っていいものだろ」
若者たちは杉山氏が起きるのを待っていられなかった。
「先へ行ってろよ。僕はここで、待ってて起きたら、磯の方へ案内するよ」
藤原が言った。他《ほか》に名案もなかったので、一行は藤原の提言に従うことにした。藤原が中で一番、泳ぎが上手でない、ということもあった。
「適当な時に起して下さいね」
美幸が言うと、藤原はわかったというふうに手をあげてみせた。
磯では、太郎と美幸がせっせと潜《もぐ》り、浅《あさ》瀬《せ》で黒谷と千頭さんが遊ぶような組み合せになった。
美幸は潜りの名手で、太郎は間もなくとうていついて行けないことがわかった。言葉を交わせない世界で、美幸は鮮《あざ》やかに、沈《しず》んで行き、時々、太郎の視界から消えた。太郎は暫《しばら》くの間、張り合っていたが、やがて諦《あきら》めて息を切らしながら岩の上へ上って来た。
「彼女《かのじょ》、すごいや」
太郎は黒谷たちに言った。
「大丈夫なのか? 一人でおっぱなして来て……」
「ついてけないんだよ」
「美幸ちゃん、潜りで食えるんだって言ってたわ」
千頭さんが言った。
間もなく、彼のいる岩場のすぐ近くに美幸が顔を出して、手を振《ふ》ってみせた。
「太郎君! ナイフ貸して……」
「いいよ」
太郎はすぐに腰《こし》のベルトから、ナイフを抜いてやった。
美幸はすぐ沈んで行ったが、間もなく、手に小さい石のようなものを持って上って来た。
「これ、とっておいて!」
「何だ」
「アワビだぞ!」
それは大して大きくはなかったが、ともかくも、アワビには違いなかった。
「すごいね、彼女の腕前《うでまえ》」
黒谷は感心した。
「太郎、お前は海に馴れてるとか何とか言ってても、アワビなんかとって来たことないじゃないかよ」
「トコブシは取ったぞ。アワビも一回だけとったことある」
太郎は力なく言った。
「よっぽど、まぬけなアワビなんだな」
「よし!」
と太郎はヤスを持って立ち上った。
「おれは、タコをとって来るぞ」
そんなふうに宣言する日に限って、必ずタコさえもいないものなのであった。太郎は絶望感にうちひしがれながら、アラメの林の間を探して歩いた。何回も息をしに上り、もう諦めよう、と思った瞬間《しゅんかん》、太郎はゆらいでいるアラメの間に、小さく動かないものを見つけた。太郎はヤスを構えた。
ヤスの先に小さなウニみたいなものが、絡《から》みついて来た。それほどそれは小さなタコだったが、ともかく、タコには違いなかった。
「おい! とったぞ!」
「小さいなあ」
黒谷は近づいて来て言った。
「しかし、とにかくタコはタコだ」
「まあ、夜の酢《す》のものには充分《じゅうぶん》だろう」
「杉山さんは?」
「アワビ三つとって、まだ潜ってる」
太郎はうんざりして岩に上った。
「それはそうと藤原の奴、どうしたんだろう」
「まだ先生は眠《ねむ》ってるんだろう」
「よく寝るな」
「暑くて、干《ひ》上《あが》っちゃうだろうにな」
若者たちは、それで再び、杉山氏のことを忘れてしまった。美幸が上って来て、もうこれ以上、アワビは見つかりそうにない、と言ったからだった。
「お父さん、あきれたわ。もういい加減起して来るわ」
「いいよ、僕が呼びに行って来る」
浜までは一本道なので、太郎は途中《とちゅう》で行き違いになることはない、と安心していた。太郎は、もしかすると二人は近くの海の家で、氷水くらい飲んでいるのではないかと思ったが、杉山氏が相変らず同じ所で眠っているのには驚《おどろ》いた。
「暑かったろ」
「いや」
藤原は真赤になっていた。
「ちょっと水に入って来いよ」
「うん」
藤原は言われた通りにした。杉山氏の体の上には、藤原が近所で拾って来たらしい古いダンボールの破《は》片《へん》が、日よけに置いてあった。
二人が交わす小声の会話に、杉山氏の眠りは浅くなったらしかった。藤原が海に消えたあとで、杉山氏は、もぞもぞと頭の上の麦わら帽子をとりのけて起き上った。
「いやあ、よく眠ってしまった」
「暑かったでしょう」
太郎は言った。
「皆、どうしました?」
「磯の方に移動したんです。つい二分前まで藤原がここに残っていてくれたんですが、あまり暑そうなので、今、体冷やしに行ってます」
「今、何時です」
「四時十五分前です」
「いやあ、驚いた。よく眠りました」
「美幸さんのお話によると、毎日たっぷり昼寝なさるそうですね」
「これがこの世のしあわせでしてね」
杉山氏は言った。
「しかし、藤原君は暑かったろうな」
「大丈夫です。僕たちの方は美幸さんが、アワビを三匹《びき》とりました。僕は小ダコを一匹。夜、胡瓜の酢のものにします」
「けっこうけっこう。人間、とにかく自分の食いぶちくらいは自分で見つけるべきです。私は美幸をそういうふうにしつけました」
藤原が海の中から、それこそ茹《ゆ》でダコのようになって上って来た。
6
杉山氏は、その日は午後の診療《しんりょう》を、一週に二日外からやって来る、若い医師に任せられる日だったので、別に急いで帰る必要はなかったのだが、「おかみさん」から、いい気になって若い人たちにじゃま者扱《あつか》いされないようになさい、とこんこんと言い含《ふく》められて来ていたので、いったん日《ひ》暮《ぐれ》と共に帰らねばならないような風《ふ》情《ぜい》を見せていた。しかし、やはり、太郎たちから夕食に誘《さそ》われると残る気になり、夕食にビールを飲んでしまうと、酔《よ》いがさめるまではハンドルは握《にぎ》れない、ということになった。
「いやあ、このうちは実にいい。何がいいったって、電話がないのがいい。さしものうちの奥《おく》さんも、早くお帰りなさい、なんて催促《さいそく》できないわけだ」
杉山氏は若者に還《かえ》ったつもりらしかった。夕食は大してごちそうがあるわけではなかった。杉山美幸のとったアワビの刺《さし》身《み》が一口ずつ、イサキの塩やき、太郎のとったタコと胡《きゅ》瓜《うり》の酢《す》のもの、トマトの切ったもの、ジャガイモの味噌《みそ》汁《しる》、缶詰《かんづめ》の福神漬《ふくじんづけ》という献立《こんだ》てであった。それでも胡瓜の酢のものには、たっぷりと紫《むらさき》のシソの葉が入っていて香《こう》ばしかった。太郎が近くの農家の軒先《のきさき》に生えていたのを、もらって来たのである。
《ごめん下さい》
シソの葉を見ると、太郎はつかつかと、その家の玄関《げんかん》まで歩いて行った。
《まことに申しわけありませんが、お宅の入口の所に生えている、シソの葉を二枚ほど頂けないでしょうか》
《シソ?》
相手はびっくりしたようだった。
《ええ、そうなんです。今日、夕飯に僕《ぼく》が胡瓜の酢のもの作ることになってるんですけど、新しいシソの葉があったら、どんなにおいしいだろう、と思ったもんですから。すみません》
《あんなもんでよかったらよ、いくらでも取って行きなさいよ》
農家の奥さんは、びっくりしたように言った。
《あんまり道傍《みちばた》にあるからよ。埃《ほこり》がたかって汚《きた》ならしいでしょ》
《いえ、そんなもの、洗えばいいんですから。じゃあ、済みません。三枚ばかり頂いて行きます》
初め二枚と言ったのを、素《す》早《ばや》く三枚に切り換《か》えた。
「お前なあ、ずいぶん図々《ずうずう》しくもらって来たな。何用かと思ったら、シソの葉三枚だから、向うも呆《あっ》気《け》にとられて断われなくなったんだ」
「だけど、ちょっとシソの葉が入ると、うまいでしょう。人見知りなんかしてたら、人類学なんて勤まらないんだから」
僅《わず》かなビールに、太郎は陶然《とうぜん》となった。
「ああ、僕、飯のあとかたづけしたくなくなったなあ」
「夕飯の仕《し》度《たく》は、男がしたんだから、あとかたづけは女だ」
杉山ドクターは言った。
「お父さんは何もしないの?」
美幸は一ぱいのビールで、すけすけの髪《かみ》の中まで、真赤になった父親を笑いながら言った。
「お父さんは、これから、うちまで車を転がして帰るという大事業が残ってる」
「ずるいわねえ」
美幸は笑った。
「おじちゃまは、何さしてもできないんだから、その方が無《ぶ》難《なん》よ」
千頭慶子が言った。
杉山氏は、やっと九時頃《ごろ》になって、みこしをあげた。
「これ以上帰らんと、お母さんが電報を寄こすからな」
杉山氏はぶつぶつ言いながら、ズボンのポケットから、車のキイを出した。
「じゃあ、皆さん、よろしく頼《たの》みます」
「明日は、今頃迎《むか》えに来てね」
美幸は父に言った。
「ああ、わかった」
「お休みなさい!」
太郎は手をあげ、黒谷は空き地に突《つ》っこんであった杉山氏の車がバックするのを「オーライ、オーライ」と誘導《ゆうどう》した。藤原は何も言わず、影法《かげぼう》師《し》のように立っていたが、杉山ドクターの車が、赤い二つの尾《び》燈《とう》だけを残して消えた時、太郎は藤原が、海の向うの低いところに光っている星を見ているのに気がついた。
「あれは、金星だろ」
「多分ね」
昼間は、生ぬるくなっていた海も、夜になると清浄《せいじょう》さを取り戻《もど》したように見えた。
「海はおっかねえや。本当に海はおっかねえぞ」
太郎は呟《つぶや》いた。藤原は黙《だま》っていた。
「ねえ、浜《はま》の方へ散歩に行かない?」
千頭慶子の声が、太郎たちの背後で聞えた。
翌朝、太郎が目を覚《さ》ましたのは、六時十分であった。昨夜は、皆が喋《しゃべ》っているのを、子《こ》守歌《もりうた》のように聞きながら、真先に眠《ねむ》ってしまったのである。黒谷が途中《とちゅう》で《おい、そんなに早く眠る奴《やつ》があるか。老人性だぞ》などと叫んでいるのを聞いたような覚えもあるが、睡《ねむ》りに引きこまれる楽しさには勝てなかった。
皆はもちろん、まだ眠っていた。太郎は、杉山美幸が、ピンク地にブルーと白の模《も》様《よう》のついたネグリジェを着ていたようにも思ったが、それは夢《ゆめ》だったかしらん、と考えた。美幸のネグリジェ姿など、見られるわけがないのである。
四畳《じょう》半に、敷《しき》布《ぶ》団《とん》を二枚敷き、そこへ三人の青年たちが転がっているのだから、雨戸も閉めてなければ、掛《か》けものもない。泥棒《どろぼう》が入って来たら、三人の男たちの上に足を踏《ふ》み入れてたまげるであろう。黒谷は向うを向いているから、見えないが、藤原は朝《あさ》陽《ひ》が顔にさしているので、こころもち表情をしかめている。青年はよく、顔に陽がさそうが、爪先《つまさき》が波に洗われようが眠っている、というような言い方を人々はするが、太郎に言わせれば、そのような状態はつまり鈍感《どんかん》なのである。
と思っていたら、藤原はぱっと目を開けた。
「雨戸を閉めときゃ、暑いしな」
太郎は、いきなり言った。
「うん」
藤原は、雨戸のことなど意に介《かい》していないように見えた。
「昨日、何時まで起きてた?」
太郎は低い声で尋《たず》ねた。
「十一時十五分くらいかな? 君が眠ってから、そんなには起きてなかったよ」
藤原は起き上り、くるりとうつむいて、枕《まくら》を胸の下に当てがうと、煙草《たばこ》を吸い始めた。灰皿《はいざら》は、どこで拾って来たのか、律《りち》義《ぎ》に蓋《ふた》を閉めたピースの空缶《あきかん》であった。
「煙草、いつから吸い出したの?」
「あの(兄ちゃんの)事件の直後」
「気持が休まっていいものだってな」
「うん」
「網膜剥《もうまくはく》離《り》って、眼《め》の手術あるだろ」
「ああ」
「手術後、何日間もじっと安静にしてなきゃいけないんだってな。皆、気持がおかしくなるらしい。その時、煙草を吸う習慣のある人は耐《た》えやすいんだって、誰《だれ》かがいつか書いてるのを、読んだことがある」
太郎は煙草を、目下のところは吸わなかった。運動をやっていて、体力の保持に腐《ふ》心《しん》していると、煙草を吸うことなど考えられなかったし、両親からも、酒は飲んでもいいけれど、煙草はやめとけ、と言われていたからだった。自分は飲まずに、他人にはすすめているのではない。あらゆるものは使い方だと太郎は信じているのだった。長兄が心中未《み》遂《すい》に終った時、一家のごたごたを耐えるには、藤原は煙草でも吸って、自分をだまかしてやる必要があったのだ。太郎は、今に、何か辛《つら》いことがあったら、やはり煙草を吸うことで耐えようと思う。
煙草を吸っている藤原の髪に、一本の白髪《しらが》がぎらりと光っていたので、太郎は、それを引き抜いた。すると普《ふ》段《だん》めったに感情のたかぶりを見せない藤原が、
「痛い! よせ!」
と怒《おこ》ったように言った。
太郎が何となく、足音を立てて動き廻《まわ》ったので、娘《むすめ》たちの部屋からも、七時少し過ぎには話し声が聞えた。黒谷一人がまだしぶとく眠っていたが、太郎が脚《あし》を蹴《け》っとばして起した。
五人は、六畳の宏大《・・》なリビング・キッチンで朝食をとった。昨夜と違って杉山ドクター一人が減っただけでも、部屋は少しゆとりが出たように感じられる。太郎は五人分の目玉焼きを作り、そのうちの一つの黄身をつぶした。
「あら、藤原君、顔どうかしたの?」
千頭慶子が言った。
「こっち側?」
藤原は、顔の右半分を掌《てのひら》でおさえて言った。
「そう」
「何だか、ぶつぶつ、湿疹《しっしん》みたいなのができちゃった」
「昨日までは何でもなかったでしょ」
「うん、何でもなかった。陽に当りすぎたのかも知れない」
「ねえ、誰かインスタント・コーヒーの壜《びん》、隠《かく》した?」
太郎は、藤原が、少しくらい陽にやけようが、湿疹ができようが、気にもかけていなかった。
しかし、昼過ぎになると、藤原の表情は少しずつはっきりと、違って来始めた。
「何だか、藤原の顔、めろめろになって来たな。具合悪いか」
黒谷まで言い出すようになって来た。
「いや、大したことないけど、右の耳が時々痛い。外《がい》耳《じ》炎《えん》になったのかも知れない」
「お医者へ行ったら?」
太郎も言った。
「電車で一駅行けば、わりと大きな病院がある」
「大丈夫《だいじょうぶ》だよ。外耳炎はやったことあるんだ。中耳炎だったら危ないけど、外耳炎なら時々つーんと痛いだけで大したことない」
藤原は、女の子たちから、化粧《けしょう》用の脱《だっ》脂《し》綿《めん》をもらい、それを小さくつまようじの先につけて、それにペニシリン軟膏《なんこう》をつけて、耳の中に塗《ぬ》った。
「もう海へ入るのは、やめろよな」
「うん」
藤原は午後中、家で寝ていた。
「藤原の奴、一人で家にいたりすると、又《また》、いろいろ考えていけないだろな」
黒谷は浜《はま》で太郎に言った。
「大体、あのうちの親は、子供に、迷惑《めいわく》をかけ過ぎるよ」
「構わないて。考えることがあったら、とことんまで考えりゃいいんだ」
太郎は、千頭慶子と、杉山美幸が海の中に腰《こし》まで漬かっている姿をちらりちらり見ながら言った。千頭さんの方は背は高いが、胸はぺちゃんこであった。美幸は健康そうな体つきをしている。腕《うで》に丸く、しっかりと肉がついているのがよかった。これから先、この地球上で何人の女の子に会えるかなあ、と太郎は考えていた。だれも皆、初めはよく見えるところが、どうもおかしい、とは思う。それに本当におかしいことには、女の子からは、何を頼まれても、いやと言う気にはならないことだ。同じことを、おふくろから言われたのだったら、うんざりするに決っている。
太郎は藤原のことも忘れて、六時近くまで浜にいた。一度、女の子二人をほったらかして、磯《いそ》に行き、黒谷と二人で小さなアイナメを一匹《ぴき》ずつ突いた。しかしそれでは夕飯のおかずには足りないので、帰りには、村で仲のいい魚友という魚屋へ寄った。
「久しぶりだったね。大学へ入ったんだろ」
昨日は留守《るす》だった魚友は、今日は家にいた。
「ああ、名古屋へ都落ちしてるんだ」
「今日は、イカのいいのがあるよ、刺身にどうかね」
「いいなあ」
「それと、オレの作ったメザシ持っていきなよ。安いんだから」
「いいねえ」
太郎が小気味よく思うのは、この浜辺に来ると、人間が献立てなどというものを立てなくなるからであった。ごく自然に、そこにあるものを食べる。細分化された流通経済の外にあって太古に戻《もど》り、とれたものを食べるという人間本来の姿になったような気がする。
「どうだった?」
太郎は、家へ帰ると、藤原に声をかけた。
「何だか、湿疹だんだんひどくなっちゃった」
藤原は、もっさりと縁側に立って来ながら言った。
「あら、それじゃあ、間もなく、お父さんが来たら、見てもらうといいわ」
美幸が言った。
「そうしろよ」
藤原は夕飯もあまり食べなかった。しかし丸っきり食べない、と言うのでもないので、太郎は気にしないでいた。
杉山ドクターは、若い仲間に入りたいらしく、九時頃、迎えに来る筈《はず》だったのに、早くも七時にはやって来てしまった。考えてみれば、その日は日曜であった。
「お父さん、夕食は?」
美幸が尋ねた。
「まだだ」
「図々しいのね。こっちでごちそうになる気で来たの?」
「何かありますよ」
太郎が言うと、杉山氏は、
「そう睨《にら》んで来たんだ」
と言った。
「今、茶碗《ちゃわん》もって来ますけど、藤原に湿疹ができたんです。どうしたらいいか、ちょっと見てやって頂けますか?」
太郎はそう言って、杉山氏のための茶碗や箸《はし》を揃《そろ》えた。杉山氏は暫《しばら》く、藤原の顔を眺《なが》めて、「ここ痛い?」などと訊《き》いていたが、やがて、
「これは、ちょっと簡単に済まない病気かも知れないから、藤原君は、我々と一緒《いっしょ》に帰った方がいいかも知れないよ」
と言った。
7
杉山ドクターの診断《しんだん》によると、藤原俊夫の皮膚《ひふ》のぶつぶつは、帯状疱疹《ほうしん》というのだった。
「何ですか、それは」
「ヴィールス性のものだけどね。とにかく、二、三日じゃなおらない。これから水疱《すいほう》が出て来ると思うよ」
「うつるんですか?」
藤原は言った。
「伝染性ではあるけどね。たちどころに傍《そば》にいた人が、かかる、というもんでもない。それに神経痛がでるからね。今、もう、既《すで》に少し痛いでしょう」
「ええ」
「それで、おれが、君の白髪《しらが》引っこぬいた時痛がったんだな」
太郎は思い当った。
「危険な病気ですか?」
黒谷は尋《たず》ねた。
「ガンの前兆だとか、以後ずっと内臓がおかしくなるとか」
それは山本太郎もよく使う手であった。離《はな》れの祖父母が、ちょっと胃にもたれる、などと言うと、太郎はすぐ《あ、それは癌《がん》だ》と機先を制して言うのであった。すると、祖父も祖母も《そんなことはないよ》と言ってくれるからいいのである。そうでないと、神経質な年寄りは、いくら周囲がそうでないと言っても《私は癌に違《ちが》いない》などと思いこむのである。
「残念ながら、そういう劇的な病気じゃないね。ただ疱疹ができるとね、お岩さんみたいになる」
「おもしろいじゃないか」
太郎は言った。
「ひとの病気だと思っておもしろがるなよ」
藤原も笑い出した。
「かかったものは、しかたないな。まあゆっくり寝《ね》ろよ」
太郎は慰《なぐさ》めたつもりだった。
「藤原君のうちには、今、人手がありますか?」
杉山ドクターが、おもしろい聞き方をした。
「家政婦会から来てる人がいます」
「お母さんはおられる?」
「今、山へ行っています」
山と言っても、まさか登山しているのではあるまい。父親の藤原氏は、事件以来、おおっぴらになった馴染《なじみ》の女の家から帰って来ないし、母親は離《り》婚《こん》して出家するための準備に、しじゅう滋賀《しが》県《けん》のお寺に行っているという。山というのは、恐《おそ》らく寺のことだろう、と太郎は察した。
「病気はちっとも心配なもんじゃないけどね、お母さんもおられないんだったら、うちへ来たらどう? 山を越すまでは君も不安だろうから」
「そうなさいよ」
杉山美幸も言った。
「おれも、そうしてもらうことをすすめるな」
太郎は言った。
「うちには、弟がいるだろう。事情を話して説明しておけばいい」
「うちで寝ていても大丈夫《だいじょうぶ》だとは思うけど」
藤原はまだためらっていた。
「オレ、一度入院てものしてみたいなあ」
太郎が言った。
「ボク、生れつき丈夫で、入院なんてしたことないんだ」
「おれは、蓄膿《ちくのう》と盲腸《もうちょう》の手術の時入院した」
黒谷が誇《ほこ》らしげに言った。
「私は何度もしたわ。小さい時、肺炎《はいえん》になったの。それからヴィールス性肝炎《かんえん》になったし、それから……」
千頭慶子も言った。
結局、入院の経験のないのは、太郎と美幸だけだった。
「じゃあ、お世話になります」
藤原が言うと、太郎はわざと、
「羨《うらや》ましいよう」
と言って見せた。
太郎はその次の次の日に、黒谷と二人で家に戸《と》締《じま》りをして引き上げた。
その間、何度か、杉山家に電話してみたところ、藤原は、「順調に」経過を辿《たど》っているということだった。
「大丈夫ですよ。まあ、一応、予想通りなんです。あの時、言いませんでしたけどね。実は、帯状疱疹というのは、かなり苦しむもんなんですよ。今日あたり、一番痛いんじゃないかと思うな」
杉山氏は、藤原の聞えない、診察室《しんさつしつ》の電話で言っているようだった。
「家にいるでしょう。大てい、あまり苦しむんで夜中に、家の人がおろおろして医者に電話かけて来るもんなんですよ。その点、こっちにおけば、本当に苦しい時だけ、軽い鎮痛《ちんつう》剤《ざい》もうってあげられるしね、点滴《てんてき》もできるし、安心だと思ったんですよ」
「本当にありがとうございます」
太郎は、受話器に向って、いつの間にか最敬礼をしていた。それから、美幸が出て来たので、太郎はくだけた口調になって訊《き》いた。
「今、藤原の奴《やつ》、どこに寝《ね》てるの? お宅、入院室はないんでしょう?」
「私の部屋にいるわよ。冷房《れいぼう》があって涼《すず》しいから」
「すごい! 特別待遇《たいぐう》じゃないか」
「パパは久しぶりに私と寝られるもんで喜んでるわ。今、親子で川の字になって寝てるのよ」
「弟氏たち、面倒《めんどう》がってるだろうな」
「ううん。私、おどかしたのよ。医学部へ行くつもりなら、いい勉強だから、ちゃんと看病しなさいって。だから、点滴の間そばについてたり、お手洗いに起きる時、手を貸してあげたりしてるわ」
「藤原の奴、よかったなあ。ついでに聞くけど、藤原のうちから寝巻やなんか届けて来た?」
「弟さんが、届けようか、っておっしゃったらしいのよ。でも、パパが、そんなものわざわざお届け下さるには及《およ》びません、って言ったのよ。うちには男の子が二人いますから、下着や寝巻の予備くらいありますからって」
「本当は、僕《ぼく》たちが届ければよかったんだ」
「いいのよ。うちのお母さん、弟たち用にバーゲンの時、どさっと買いこむの。だから本当に予備があるのよ」
「悪いなあ」
「あと、三、四日経《た》ってから、見《み》舞《まい》にいらした方がいいわよ。まだ、今日あたり痛くて、口がきけないと思うわ。神経痛がひどいのよ」
「じゃ、とにかくよろしく頼《たの》みます」
太郎は電話を切ってから、一間だけ冷房をつけてある母の仕事場に、どかどかと足音を立てて入り、慌《あわ》てて障子《しょうじ》を閉めたが、勢いよく閉めすぎたもので、却《かえ》って障子ははね返って、五糎《センチ》ばかり開いてしまった。
「ちゃんと閉めなさい」
母はいつも、太郎がそうしようと思っていることを、半テンポぐらい早目に言うので、太郎はいらいらするのだった。
「わかってる!」
太郎はどなってから、
「藤原のうちじゃよう、子供をさ、知りあいじゃなかった、あんまり知りもしないお医者んとこへ、捨てちゃってよう」
と喋《しゃべ》り出した。
「いいじゃないの。そんなに親切に言って下さる方があったら、私だって喜んで感謝して捨てるね」
「そりゃ、あんたはそうだろうけどさ」
太郎はいつもの言葉遣《づか》いで言った。
「人間、感傷的になることないのよ。両親が揃《そろ》って看病したって、そういう時の激《はげ》しい神経痛なんか救えやしないんだから。親よりお医者さまだよ」
「そりゃ、そうだろうね」
太郎は美幸に言われた通り、三日目に再び電話をかけた。
「一時、ずいぶん大変だったけど、もうかなり落ちついて来てるわ。今、電話にでられると思うわ」
美幸がとりついでくれた。
「もしもし」
藤原の声が聞えた。思ったより弱ってはいなそうだった。
「どうだ」
「うん、もうずいぶんいいんだ」
「いつ頃《ごろ》、帰れそう?」
「僕は、いつでもいいと思うんだけど、杉山先生が、もう少し落ち着いてから、って言われるもんだから」
「とにかく、玄人《くろうと》の意見には従った方がいいと思うな。どっちみち迷惑《めいわく》のかけついでに、もう数日、おいてもらったって、どうってことないよ」
「ああ」
「オレ、明日、見舞に行かあ」
「わざわざ、来てくれなくてもいいよ、遠いから」
「でも、オレだって、杉山先生にお礼言いたいからね」
「それなら、君に頼みがあるんだけど、弟を、君んちへ行かせるから、お金を持って来てくれないか?」
「そう? いくらくらい」
「よくわからないけど、さし当り七万円くらい」
「それなら、うちのおふくろに立て替《か》えさせらあ。後から、ゆっくり貰《もら》うよ。うちのおふくろ、今、それくらいの金、ある筈《はず》なんだ。何しろ、ベスト・セラーになってるんだからな」
「じゃあ、すみません。夏休みで弟も家にいるかどうか、実はあまり自信ないんだ」
藤原の家は崩壊《ほうかい》したんだな、と太郎は思った。しかしおふくろ風の言い方をすれば、それでも生きるべき人間は生きるのだから、感傷的になる必要はないのであった。
太郎は約束《やくそく》通り、翌日でかけた。杉山家は横《よこ》須賀《すか》中央駅から、歩いてほんの二、三分の、繁《はん》華《か》街《がい》から、一側裏通りに入った所だった。敷《しき》地《ち》がそれほど広くないので、一階が駐車場《ちゅうしゃじょう》、二階が診療室《しんりょうしつ》、三階と四階が家族の住居になっている。
太郎は美幸に、藤原の病室に通された。それは美幸の寝室《しんしつ》だった。チークのような感じの、がっしりしたベッドが置かれていて、あとは、ギターやドライフラワーやハニワのイミテーションなど、女の子としては、かなり個性的なものが飾《かざ》られていた。
「すごい、いい部屋だな」
「うん」
藤原は顔半分に包帯を巻かれて寝ていた。
「痛かったか?」
「いや」
「お岩さんみたいなのよ、今。腫《は》れて膿《うみ》もって、右《みぎ》眼《め》なんかてんで開かないのね」
「うん」
「それ、弟氏の寝巻か?」
太郎は訊いた。
「ううん、まだ誰《だれ》のでもないのよ、ママがバーゲンで買っといただけだから」
美幸が代りに答えた。
杉山氏がちょっと挨拶《あいさつ》に現われたが、診察中なので、ごゆっくり、ということだった。杉山夫人は買物にでかけたばかりだった。
「うちのママったら、何でも楽しんじゃう人だから、買物にでかけたらでかけたで、二時間くらい帰って来ないの。昔《むかし》、銭湯《せんとう》へ行ってた時も一時間かかったんですって」
美幸は言った。
「僕は、悪いことしたんだ」
藤原が言った。
「杉山さんの熊《くま》の足を、ねじ切ってしまった」
「熊?」
それは美幸のベッドの枕許《まくらもと》にあったらしい熊の玩具《テディ・ベアー》だった。痛みがひどい晩、藤原はその熊を握《にぎ》っているうちに、いつの間にか、メリメリ音がして、熊の足をもいでいたのだった。
「杉山さんの小さい時からの思い出の品だったんだよな、本当に悪いことをした」
「いいのよ、こんなもの縫《ぬ》いつければ、元通りになるんですもの。本当はこの熊、垢《あか》だらけで不潔なのよ」
「本当に垢色してら」
太郎は笑った。
「洗ってはいるんだけど、きれいにならないの、これだけ汚《よご》れると」
美幸も言いわけした。
「僕、実は、コアラの玩具《おもちゃ》ひとつもってるんだ。この熊の代りにはならないけど、癒《なお》ったらうちから取って来るから貰ってよ」
「コアラはすてきね。私ほしいな、と思ったことあるんだけど、高いから買えなかったの」
「じゃあ、丁度いいや」
少し話していると、派手な顔立ちで、やや太ったノンキ者らしい杉山夫人が帰って来た。そこで病人を混えて三人は、階下でお茶を飲むことにした。診察室を抜け出して来た杉山氏も、西瓜《すいか》の皿《さら》の前ににこにこしながら坐《すわ》った。
「藤原のカサブタのあとは残りますか」
太郎は杉山ドクターに尋ねた。
「少しは残るかも知れませんね。三年ぐらいたつと、自然に薄《うす》らいで来ますけどね」
「癩病《らいびょう》みたいだ」
太郎は笑った。
「派手な病気でしょう。とにかく、こいつは痛いんですよ。三《さん》叉《さ》神経に来れば目の玉が痛いし、肋間《ろっかん》神経にくれば息する度にアバラ骨が痛むんですよ。ついに、一晩だけ麻《ま》薬《やく》うったものな、藤原君も」
「その時、熊の足もいだんだな」
太郎は理解した。
「まあ、これが普通の経過なんだけどね。厄《やく》だったね。途中《とちゅう》で、予定を切り上げるわけに行かん病気でね。実を言うとヒフ科というのはあまり、夜中に叩《たた》き起されることはないんだけど、例外はこれですよ。痛くて、どうにもならん、見ていられない、と言って、呼び起されるんですよ。それくらいなら、叩き起されないうちに預かっちゃった方が楽だからね」
杉山氏が笑った。
「うちのパパは怠《なま》け者でオク病だから、ヒフ科になったんですって。ひと殺すの、おっかないけど、ヒフ科なら大丈夫だろうと思ってね。殺す気でお医者になったんだからひどいものよねえ」
杉山夫人が笑った。
「かわいそうだけど、藤原君、今日は、あんまり長く起きてない方がいい。初めてだから」
杉山氏がまもなくそう言うと、藤原は素《す》直《なお》に、「はい」と従って立ち上った。
「藤原、じゃあ又《また》な」
太郎は手をあげた。
「ああ。ありがとう」
「今、藤原君、お部屋に牛乳持ってってあげますね」
杉山夫人は言い、杉山氏は何か太郎に言いたいことがあるようだった。
8
「藤原さんのお宅を、私は知らんのでね」
杉山ドクターは、太郎に言った。
「私は、彼を預かった方が、まあ、あまり体力を消耗《しょうもう》させないで済むだろうと思ったもんで、そうしたんだけど、そのことが、却《かえ》って藤原君のご両親の気分を害したんじゃないだろうか、という気もし始めてるんですよ」
「それは、全くないと思います」
太郎は、真正面から、呑《のん》気《き》そうな杉山氏の表情を、見据《みす》えながら言った。
「そう言われるのは、藤原家からこちらに、お礼の挨拶《あいさつ》や電話がないからでしょうか」
「まあ、言ってみれば、そうなんですがね。ただ私は、礼も言って寄こさんと怒《おこ》ってるんじゃ全くないんですよ。私は、何でも、自分がしたいからしてるんですよ。藤原君を預かったのだって、預かりたいから預かったんだ。いわば私の趣《しゅ》味《み》道楽《どうらく》ですよ」
「それは、よくわかります。しかし、そうでしたか、藤原家からは、やはり何とも言って来ませんでしたか」
「ええ、まあね」
「電話一本もありませんか」
「ありませんね。苦しくて、かかって来ても出られなかったろうけど、《俊夫君、お父さんが心配して電話かけて来られたよ》と一言言ってあげたかったですね。他《ほか》の目的だったら何も必要ないんだ。うちには寝巻もいっぱいありますしね。一人や二人、いつも誰《だれ》かが来て飯食ってるんで、うちでは客には馴《な》れてるんです」
「藤原家は、本当に今、ぶっ壊《こわ》れてるんです。千頭さんから藤原の兄さんが心中未《み》遂《すい》した話はお聞きになったと思いますけど」
「ざっとはね。そんなこと、受けとめようによっちゃ、人生の大事件でも何でもないのになあ」
「そうです。少なくとも藤原俊夫には、何の関係もないことです」
「そんなこと言ったらどの家にも、不都《ふつ》合《ごう》なことは何かありますよ」
「藤原のお父さんは、事件以来、家庭にも息《むす》子《こ》にも絶望したのかどうか知らないけど、長いこと続いていた愛人の家に行って暮《くら》してるらしいです。お母さんは、あの女《ひと》もかわいそうにと言われたくて、出家しようとしてる。あそこの家は、一家中、耐《た》えるという才能に欠けてるんです。その点、藤原は立派です」
「実は私も、その点が言いたかったんだ」
杉山氏は言った。
「お宅の別荘《べっそう》へ伺《うかが》った日、私が少し浜《はま》で眠《ねむ》ったでしょう」
「少しじゃありません。かなり長い間でした」
太郎は訂正《ていせい》した。
「当り前だよ。僕《ぼく》は毎日昼寝したさに、医学部へ行って皮膚《ひふ》科を専攻してさ、こうして苦労して開業してるんだから」
杉山氏は、やんちゃ坊《ぼう》主《ず》のように、いい年をして居なおって見せた。
「僕はこれでも、眠りながら、藤原君が、ずっと僕についていてくれたことを、部分的には知ってたんだ。なぜ彼は海に入らないんだろうなあ、と思いながらね。そう言ったら、娘《むすめ》にひどく怒《おこ》られたよ。お父さん知ってるなら、なぜ、さっさと起きて、藤原君にあんなに長い間待たせるようなことをしなければよかったのに、ってね。だから僕は言ってやったんだよ。そういうことに気を廻《まわ》さないことが、昼寝のモラルというものでね。しかしとにかく、藤原君の誠実《せいじつ》さには、僕は頭が下った。ああいう美徳は、学校が計測しようとして用意しているテストの、いかなる網《あみ》の目にもひっかからない特性なんだ」
「藤原にとっても、この病気は、とくに悪くはなかったと思うんです。当人に聞いてみなきゃ、わかりませんけどね。無責任なようですが、苦しむことの実感みたいなものも、この世には、あると思うんです」
「さあ、あんな病気にどれだけ意味があったか、僕は口をさし挟《はさ》むことはできないけどね」
杉山氏は、意外にも沈痛《ちんつう》な面持《おももち》になった。
「そうだ、言い古されたことだろうけど、青春には、あらゆることが起るもんだ」
「どうか、藤原家の仕うちについては、気になさらないで下さい」
太郎は言った。
「尊大だから、御《お》礼《れい》を言わないんじゃないと思います。あそこのうちのおやじさんもおふくろさんも、自信を失ってしまったから、礼も言えないんだと思うんです。本当はむしろ反対で、今頃《いまごろ》、メロンを百個ぐらいトラックに積んで持って来るような感じの家なんです」
「気になんか全くしてやしないよ。うちにはメロンよりでかい西瓜がごろごろしてるし、ウイスキーもカステラも、卸《おろ》しに出したいほどあるんでね」
杉山氏は冗談《じょうだん》を言った。それから、まじめな表情に戻《もど》ってつけ加えた。
「鄭重《ていちょう》なゆきとどいたご挨拶を頂くような家庭があるなら、うちじゃ、お預かりする理由はなかったんだから」
藤原の退院は、結局、それから五日ほど後になってしまった。太郎は迎《むか》えに行き、改めて藤原のすさまじい、かさぶただらけの顔の半面を眺《なが》めた。
「わかった。お岩というのは、帯状疱疹《ほうしん》だったんだ」
「しかし帯状疱疹じゃ、ああ、髪《かみ》の毛は脱《ぬ》けないよ」
藤原は冷静に訂正《ていせい》してから、
「一つ困ってることがあるんだ」
と言いそえた。
「何だよ」
「先生が、入院料をどうしてもとってくれないんだ」
「うちは入院設備ないんだからとりようがないよ」
杉山ドクターは涼《すず》しい顔で答えた。
「いらないと言われたら、払《はら》わないでおいたら?」
太郎は言った。
「世の中には、いろんな形の金持ちっているもんだよ。君んちも金持ちだけど、杉山先生んとこも金持ちらしいから」
「あら、そういうことは考えられないけど」
美幸が傍《そば》から言った。
「私、小学校の時から、ずっと調査してみてると、クラスの人のもらってるお小《こ》遣《づか》いの額のいつも最低額を支給されてたのよ」
「当然だね。青春というのは、金がないものなんだ。金がもしありあまってる青春があったら、それは奇《き》型《けい》だ」
杉山氏は言った。
「とにかく、いいとおっしゃるものは、頂いておけよ」
「それでいいのよ。第一、うちのお父さん、頭禿《は》げてるくせに強情《ごうじょう》で、言い出したらきかないのよ」
「美幸、もっと日本語を正確に使いなさい。禿げてるくせに強情、とは、何だ」
「あら、そう感じない? 禿の人は、何となく、優《やさ》しくて、よく人に譲歩《じょうほ》しそうだわ」
その時、奥《おく》の方から、眼鏡をかけ、顎骨《あごぼね》の張った痩《や》せて背の高い青年が現われた。すると、藤原は、ぱっと反射的に立ち上り、
「ああ、お会いできてよかったです。今これから、失礼する所なので……お礼を言っていけないかと思ってたんです」
と頭を下げた。
「太郎君、こちら、大槻《おおつき》さん。お父さんの酒のみ友達なの」
「いや、大槻君は、まだインターンなんだけど、眼科なもんでね、時々、呼びつけて藤原君の眼《め》の方を見てもらってたんだよね。発疹が眼に来ると、怖《こわ》いからね」
「本当にありがとうございました」
藤原は大槻に頭をさげた。
「まあ、当分、無理するなよな。よく休んで体力つけるんだな」
大槻は言った。
「ええ、そうします」
「これは、どういう所で、伝染《でんせん》するんですか」
太郎は尋《たず》ねた。
「どこにでも、ざらにいるヴィールスなんだけどね。でも、聞いてみると、寝台車《しんだいしゃ》に乗ったとか何とかいう人が多いですね」
「僕は寝台車になんか、ここのところ乗ったことない」
藤原は呟《つぶや》いた。
「じゃあ、満員電車ん中でうつったんだ」
杉山ドクターは又《また》、口から出まかせのようなことを言った。
身一つで乗り込《こ》んで来たのだから、藤原の荷物は殖《ふ》えてもいなかった。玄関《げんかん》で盛大《せいだい》な見送りを受けて、歩き出して暫《しばら》くすると、藤原は呟くように言った。
「悪かったなあ、お金払わないだけじゃないんだよ。僕はあのうちで、新しい寝巻着せてもらったり、パンツの換《か》えもらったりして、それで、新品をかなり下ろしちゃったろ。悪いから、使ったものは、僕が頂いて行きます、って言ったんだ。そしたら、あそこの奥さん、いいえ、洗濯《せんたく》すれば何でもありません。それより、うちはバーゲンで買って、男の子たちに着せるつもりだったんですから、心おきなく、置いてって下さいって、僕、結局、使った衣類、おいて来させられちゃった」
「あの奥さん、女傑《じょけつ》だよな。医者でもない癖《くせ》に、本当に科学的だよな」
「あそこの家の人たち、実に傑物揃《ぞろ》いだよ。下の弟たち、先生がいくらおだてて《見ておけ》なんて言っても、僕の症状《しょうじょう》になんか興味ないんだ。無口で、あまり喋《しゃべ》らないけど、でも僕が何をしてほしいか、考えてるんだ。時々小さい声で《ブドー、うまいよ》なんて僕に食べさせようとして言ってくれるんだ。いい性格だね」
京浜《けいひん》線に乗ると、藤原は太郎に言った。
「君、今日、急ぐ?」
「ううん」
「僕ね、海が見たくなった。横浜で下りようか」
「かまわんよ」
「先生んとこに何も払わなかったからさ。いつか君が持って来てくれたお金、そっくり残ってる。あれで飯食って帰ろう」
「そんな元気あるの?」
「内臓は悪くない筈《はず》だから、只《ただ》、僕、今日、こんなカサブタだらけの顔してるだろう。だから、あんまり知らない店に行くのいやなんだ。変な病気だと思われて、追っ払われると困るからね。昔から顔なじみの支配人のホテルに行って、そこの一番上のグリルで食べると気楽なんだけど」
「いいね、オレ、レストランなんて所へ行ったのは……」
太郎は藤原と横浜駅から、電車で桜木町《さくらぎちょう》へ行き、そこからバスに乗り換えて、港の近くまで来た。そして、明らかに戦前からあったと思われる古いホテルに入った。
「ここ、知ってる?」
藤原が訊《き》いた。
「二度くらい、連れて来られたことある」
「ここは、うちの一家が……というより、おふくろなんかが、ヒスを起すと、逃《に》げて来る所なんだ」
「ふうん、誰かと一緒《いっしょ》に?」
「わからない。一人の時が多そうだけど。うちのおふくろは、男を漁《あさ》り歩く趣味はないんだ」
「だけど一人で、ここに来たって虚《むな》しいだろうね」
「あの女《ひと》はね、どうしても、虚しくなくなれない人なんだ。何をやっても不満なんだ」
「そういう人はよくいるね。それはね、多分生理学の問題だと思うよ。ホルモンだか、何だかが、そういうふうになってんだ」
支配人は、小《こ》柄《がら》な老人だった。遠くで見ていると、老人は孫が訪ねて来たような嬉《うれ》しそうな表情をして見せ、自分がわざわざついて最上階のグリルまで上って来てくれた。藤原は、何度も「どうもすみませんでした。本当にお手数かけちゃって」と謝《あやま》った。
そこは大桟橋《おおさんばし》を一望に見《み》渡《わた》せるすばらしい位置にあった。今日、桟橋にはソ連船が一隻《せき》ついているだけで、港は静かだったが、タグ・ボートだけが海の虱《しらみ》のように縦横に走り廻っているさまは、見ていても、気持よかった。
二人は、オニオン・グラタンのスープとピラフを頼《たの》んだ。
「実はね、太郎に言わせたら、きわめて通俗的だろう、と思うだろうけど、僕はあの杉山先生んとこにいる間に、美幸さんのことばかり考えてた」
「そうだろうな」
「杉山家は、ほんとに、僕のうちと違《ちが》って、自然であったかいしね。ことにあの父と娘ってのは、いいんだ。恋人《こいびと》みたいだったり、娘の方が父親のPTAみたいだったり、実にいいんだよね。僕は、危《あや》うく、美幸さんに、ちょっと、ハメをはずしたことを言いそうになった。だけど言わなかった」
「言やいいのに」
太郎は言い返した。
「いや、どうして言わなかったかというと、あの大槻さんなんだ。あの人は、美幸さんが好きで、あの家に来てる。僕にはわかるんだ。そこを杉山先生はうまく利用して、僕の眼を見させた。大槻さんにすれば、僕が、美幸さんのベッドに寝てたりして、さぞかし不愉《ふゆ》快《かい》だったろうと思う。しかしあの人、決して、そんな表情も見せなかった。あの人、朝と夕方と、悪い間は毎日二度ずつ来てくれたんだよ」
「美幸さんが目当てなら、オレだって行くさ」
「そりゃ、そうにしても……いや、やっぱりあの人は、僕のことを心配してくれたんだ。あの人、ちょっと蛙《かえる》に似てるだろう。眼鏡かけた蛙みたいな顔してるけど、あれで、とても自然でいいんだなあ。僕のこっちの眼、眼《ま》瞼《ぶた》が腫《は》れ上って、もう全然開かなくなってた。眼玉、みようにも、井戸の底探すみたいに、腫れた眼瞼を押《お》し開けるようにしないと、見えないんだ。そういう状態の時も大槻さんは、終って何分か必ず、僕の傍の椅子《いす》に坐《すわ》ってね、関係ないことを喋って行ったな。現実に関係ない話って、いいよね。僕、そのことに、今の今まで気がつかなかったし、本当に、大槻さんの優《やさ》しさがわかったよ。あの人は、立派な人だよ。決して教訓を垂れてるんでなしに、僕に、この世には、病気がなおったらおもしろいことが一ぱいあるってことを、それとなく思い出さしてくれたもんね。大槻さんの顔みてるうちに、僕は決して、美幸さんに何か言ったりするのは、よそうと思ったんだ。あの家には、大槻さんが必要なんだよ」
「遠慮《えんりょ》することはないよ」
太郎は言った。
「それはそれ、これはこれさ」
藤原は答えなかった。
9
太郎は、芯《しん》からあつくなっている残暑の名古屋に帰った。「帰った」という言葉が、少しも不自然でない感じであった。住んでいるアパートは、仮《かり》の宿だし、町が本当に好きになった、というわけでもない。しかし太郎は東京にも落ち着いていられなかった。その原因は、恐《おそ》らく親といることにあるのだろうと、太郎は考えていた。
実はそのことについては、太郎はかなりあからさまな会話を、母親と交わして来たのだった。
《太郎は何だか東京では落ち着いていられなくなったみたいね》
そう言い出したのは母の信子の方だった。
《何だかね、お客に来てるみたいな気分なんだ》
太郎は、敢《あ》えて説明しなかったが、東京にいる限り、太郎の生活の濃《のう》度《ど》は薄《うす》くなるような気がしてならなかった。机もあり、本もあり、一応歯ブラシも揃《そろ》った。歯ブラシの無いのを口実に歯を磨《みが》かないでいたら、さすがに十日目くらいに母に見つかって、否応《いやおう》なしに買わされたのである。家事に使う時間が無くなっただけ楽そうなものだが、元々炊《すい》事《じ》洗濯《せんたく》など少しも億劫《おっくう》だと思っていないので、時々は自分で台所に立ちたくなるのである。
《だけど、母さんの方でも僕《ぼく》がいるとめんどくさいだろ?》
太郎は思いついて尋《たず》ねた。
《そうね、沢山《たくさん》食べる人がいると、お炊事する張りあいはあるけど、あなたがいると、ものを散らすからね。時々ふっと、太郎がいなくなったら淋《さび》しくなると思う時と、随分《ずいぶん》楽になるだろうなあと思う時があるわね》
《ねえ、ねえ、親子っていうのは動物と同じで、ある時から相手に身の廻《まわ》りにいられるとうっとうしいと思う要素があるんじゃないの?》
《両方だろうね。傍《そば》にいられるのも良し、いないのも良し》
《僕、何だか憂鬱《ゆううつ》になって、死にたくなってきたなー》
《じゃあ、お死に》
《そう言われると、まだ死ななくてもいいような気がしてくるよう》
夏休みの最後は千頭慶子さんの統計学のレポートを書くことに費やされた。幸いにも太郎は、わからなくなかったので、ちょっと男を上げることができたけれど、千頭さんとつき合っていても、前のように胸がときめくということはなかった。なぜだかわからない。いつの間にか太郎は、心の一部で千頭さんとつき合うことができるようになってしまっていたのだ。それは不思議な感覚であった。今までは、太郎の若さは、何をするにも全身全《ぜん》霊《れい》で事に当ることができ、それは、まるで自分の意図した通りのいかなる運動も可能な、若々しい肉体の快さのようなものであった。しかしこの頃《ごろ》、時々、太郎は、自分の心理が一部後に残ることを感じることがある。駆《か》け出そうとしているのに足がもつれてころぶ時のように、何とも間の悪い分裂《ぶんれつ》した感じである。太郎は自分が不実になったのを感じる。それは、すれっからしの大人の生き方のようにも思える。
その上、名古屋へ帰る日になって、千頭家からは、デパートの包装《ほうそう》紙《し》に包まれた大きな箱《はこ》が送られて来た。
《何だろう、これ。まさか時限爆弾《ばくだん》じゃないだろうね》
と言いながら開けてみると、「御《お》礼《れい》」と書いた水引きのかかった牛肉の味噌漬《みそづ》けであった。太郎は心に違和《いわ》感《かん》を覚えながら、母親の所へ持って行った。
《おふくろさん、僕、心ならずも牛肉稼《かせ》いじゃったよ》
太郎はそう言ってから《しかし何だって礼なんか送って来るんだろうな》と呟《つぶや》いた。太郎はアルバイトでレポート書きを手伝ったのではなかった。千頭さんを、過去に大変好きであったし、今も多少は好きな筈《はず》だという感傷の残像現象のようなものが、太郎にその仕事をさせただけであった。だからそれがきわめて現実的に、「御礼」などになって返ってくると、太郎はちょっと淋しかった。
太郎は、早速《さっそく》、箱を開け、指をつっこんで味噌の中をかき廻した。すると、貴重品のように、中から六枚の肉の切身が現われた。
《六つか!》
太郎は、がっくりしたように言った。
《母さん、僕、統計学の知識で、牛肉六切れかせいだよ、たった六切れ!》
《何を言っているのよ。牛肉は今高いのよ。この頃、牛肉なんて食べたことありません、ていう家だって沢山あるんだから。ありがたく思いなさい》
そんなことがさんざんあってから、太郎は今、名古屋に帰って《・・・》来たのだ。太郎はアパートの郵便受けから溢《あふ》れて、三和土《たたき》にまで散らばった手紙の類を拾い集めた。区会議員の暑中見《み》舞《まい》やら、自転車屋が送りつけてきたカタログやらに混って、ほんの数通私信があったが、中に藤原俊夫からの手紙を見つけると、太郎は、まっ先に封《ふう》を切った。
「この夏はありがとう。僕はもう大《だい》分《ぶ》よくなりました。カサブタを無理にひっぺがしたので、眉《まゆ》の上の所にあばたが残ったが、弟はドスが効いていいと言ってくれています。
君と横浜で別れた翌日、まだ大分すさまじいカサブタの堆積《たいせき》がある時、僕は思いついて、一日渋《しぶ》谷《や》を歩いてみた。初め、僕の何でもない方の横顔を見た人は、僕がわざとカサブタだらけの半面を見せると、ギョッとしたような顔つきをしましたが、僕の病気の方を見てから健康な半面を見た人の中には、いかにもかわいそうに、という表情をして見せたのもいました。僕は癩病《らいびょう》に似てる、としきりに言っていたのですが、今どきこんな癩病が放置されていないことぐらい、ちょっと知識のある人は知ってるんだね。
そこで僕はわかったのですが、顔に痣《あざ》とか傷のある人の心理に対して、僕は随分《ずいぶん》今まで勘違《かんちが》いをしていた、ということです。お岩が芝《しば》居《い》の中の人物として鑑賞《かんしょう》に耐《た》えるのは、半顔が美しいからで、というより、半面があまりにもひどいと、片側は実際より遥《はる》かにすがすがしく見えるということです。僕が一生今のままの顔だったとしても、僕はなおさら、そのからくりを利用して生きていくのではないかと思う。とにかく、そういった人たちに対するピントの狂《くる》った同情からは、僕は少し解き放されたと思う。
弟と僕は、この頃わりと、しんみりいってます。二人で話し合って出た結論は、自分たちはどう考えても、それほど不幸だとは言えない、ということです。弟はコーヒーをいれるのがうまいので時々、その辺のコーヒー屋などではめったに味わえないような奴《やつ》をいれてくれるのですが、そんなのを、二人っきりで僕の部屋で飲んでは、よく喋《しゃべ》ったり笑ったりしている。僕に家庭がないなんて思わないでほしい。弟が《試験まで、しっかりな》とバックアップしてくれてるし」
太郎は、生れてこの方、いろいろな人から手紙をもらったが、これは中でもかなり、いい手紙だと思った。おふくろについても、おやじについても、何も書いてないところを見ると、二人とも、「家庭」に「復帰」してはいないらしいけれど、とにかく、俊夫と弟が、あの「家」を何とかやっているらしいことはよくわかる。「家庭」とは、読んで字の如《ごと》く家と庭で、庭のないアパート住居なんか家庭でない、なんてバカなことを書いていた医者がいたが、藤原家のように、堂々たる家と庭があっても、家庭なんかない家もある。あそこには、両親さえもいないけれど、それでも「家庭」は気の持ちようでできる、と藤原は書いているのだ。もっとも、この手紙を、先刻の医者に見せたら、やっぱり藤原家には、家と庭があるから、「家庭」があったんだ、と、実に筋《すじ》の通ったことを、おっしゃるかも知れない。
太郎は、その日の夕方早速、近く入居できる筈のマンションを見に行ったが、もう外壁《がいへき》も一応きれいにできて、何人かの男が、テラスの手すりをとりつけていた。
又《また》、引っこしに、気を遣《つか》うのはいやだから、何とか、睨《にら》み鯛《だい》の大西なんかを動員して気楽にやろう、と太郎が、考えながら、ちょうど四階のテラスを取りつけている男が半分身を乗り出して、半ば軽業《かるわざ》的な作業をしているのをぼんやりと見ていると、数米《メートル》離《はな》れた所で、太郎と同じような恰好《かっこう》をして、高い所の作業を眺《なが》めている女がいるのに気がついた。
それは、ビニールのつっかけサンダルをはいて、髪《かみ》を、スカーフで包んだ女だった。年はもう、三十を越していることは明らかだが、手に買物籠《かご》をぶら下げて、嬉《うれ》しそうというより、おもしろそうな顔つきで、建物を見上げている。身長百七十糎《センチ》の太郎と同じくらいはないにしても、かなり背が高くて、がっしりした肉づきをしている。
太郎が思わず、盗《ぬす》み見をやめて、はっきりとそちらに目を向けると、向うも、太郎の方を見ていた。そういう時、思わず、ぱっと視線をそらしたりするものだが、彼女《かのじょ》はそんなことはせず、にこにこしながら、太郎の方に近づいて来る。
「怖《こわ》いわね」
彼女は、言った。
「大丈夫《だいじょうぶ》なのかしら」
「僕もさっきから、見てたんですけど、あの人、ちょっと、ああいう危険な作業を楽しんでるようなところがあるみたいですね」
「いせな《・・・》な人なのね」
「え? 伊勢がどうかしたんですか?」
太郎は思わず訊《き》き返した。
「いせなな人って、よく言うじゃない。ほら、何ていうかな、イキな、っていうか」
「ああ、いなせですか」
「あら、ごめんなさい、日本語まちがっちゃって。あなた、若いのに、よく知ってるのね」
「そんなことないですよ。ボクだって、よくまちがうんです。昔とったキツネヅカなんて言うもんだから」
「あなた、もしかすると、このマンションに入る人?」
「そうです。奥《おく》さんもですか?」
「奥さんて、言わないでよ」
女の人は、ちょっと悲しそうに言った。
「すみませんでした」
「私ね、奥さんと、呼んではもらえないの。奥さんみたいなもんだけど、奥さんじゃないんだもの」
彼女は、暗くなりようがない調子で、そう言うと、
「あなた、何号室?」
と太郎に尋ねた。
「3Aです」
「私、2Cなの」
「じゃあ、ほぼ、上と下ですね」
「お宅とうちは同じ間取りじゃない? このマンション、AからEまでは、一番小さい区画でしょう」
「そうだと思います」
「あなた、家族の人と住むの?」
「実は、原則としては、僕一人なんです。時々、おやじが泊《とま》りに来るんですけど」
太郎が、自己紹介のつもりで説明すると、女の人は、大きな溜息《ためいき》をついた。
「あなたも、私も、お互《たが》いに贅沢《ぜいたく》ねえ」
「僕も、そう思ってるんです。僕なんかね、おやじが、三間《げん》分の本棚まで買ってくれたんです」
「三軒分て、どういう意味? 本棚って、一世帯あたり、どれだけ、って決ってるの?」
「そうじゃないんです。ほら、少し古い言い方だけど、約二米近くを、一間っていうような数え方あるでしょう」
「昔《むかし》は皆そう言ったのよ」
「だから、壁面を三間の長さの分だけ、書棚にするんです」
「高さは?」
「高さは、天井《てんじょう》まで、って言うか、一ぱい一ぱいです。でも、このアパート天井低いから」
「あなた、そんなに本持ってるの?」
「まだ、そんなに持ってませんけど、恐《おそ》らく一年か二年で略《ほぼ》一ぱいになるかとも思うんです」
「ということは、一年か、二年で、それだけ読むってこと?」
「必ずしも、全部じゃありませんけど……中には、大体、目は通してはあるけど、資料としては一部だけしか必要でない、ってものもあるでしょう」
「あなた、本の話する時、普《ふ》通《つう》の人がお金の話するみたいに、真剣になるのね」
「本てお金なんですよ。高くて、いやになっちゃう」
「すごいのね。私、義務教育しか出てないの。私の身の廻りにも、本を三げん《・・》分も持ってる人なんて、いやしないわ」
「その代り、僕、服なんか、丸っきり持ってないから。小さな引出し一つに、全部入っちゃう」
「あなたと知り合いになれて、よかったわ」
「僕もです」
「私ね。どうせ、わかっちゃうことだけど、つまりね、どう言ったらいいかしら。世間の人は二号さんと呼ぶような立場にいるの」
太郎は驚《おどろ》いて、ぽっとした。
「僕、光栄です。一度、そういう方と、お近づきになりたいと思ってたんですけど、どこで、お知り合いになれるか、わからないでしょう」
「ばかね、知り合ったってしようがないじゃない」
「うちの母親は、二号さんって人は、皆きれいで女らしいもんだ、って思いこんでるんです。僕は必ずしも、そうじゃないだろう、って言ってやったんですけど、おふくろは、どうしてもそうに違いない、って信じこんでるんです」
相手は、それに対して、抗《こう》議《ぎ》も弁解《べんかい》もせず、肯定《こうてい》もしなかった。はじらいもせず、ためらいもしなかった。
10
太郎は来《きた》るべき新たな生活――マンションに移り住むこと――を、吹聴《ふいちょう》するのに少しも遠慮《えんりょ》しなかった。太郎はある夜、わざわざ東京にまで電話をかけた。
「今日、お父さんは留守《るす》 ?」
「うん、何の用事だか知らないけど、いない」
母の信子が出た。
「こっちも特に用事なんか無いんだけどさ、アパートが随分《ずいぶん》できているから、ちょっとスポンサーに報告しておこうかと思ってね」
「そう」
「母さん、あのマンション、あれで意外と高級なんだね。僕《ぼく》そのことが、だんだんわかってきた」
「どうしてわかったの?」
母の信子は、こういう時に決ってちょっと底意地の悪い聞き方をするのだった。
「だって、僕のすぐ下の部屋に入ることになってるっていう、お妾《めかけ》さんと知り合いになったんだもの」
「へえ、どこで?」
「僕が、アパート見に行ったらさ、彼女も嬉《うれ》しそうな顔して、自分の部屋、道から見上げてたもん。ねえ、ねえ、お妾アパートって、やっぱり高級なんでしょ」
「さあ、そういうことになると、私はこれでも意外と無知なのよ。だから、自分で今後、調査したらいいわ」
「だけど僕、カンゲキだったなあ。お妾さんと、おつき合いして頂けるもんね」
「親しくし過ぎて、旦《だん》那《な》さんにぶち殺されないようにしなさいよ」
「わかってるよう、そんなこと。それがおっかないから、今後どういうふうにつき合おうかって、悩《なや》んでいるところなんじゃないか」
太郎はいつも自分がちゃんと考えていることを、先廻《さきまわ》りして母に言われるので、不愉《ふゆ》快《かい》になるのだった。
「とにかく、予定通り、二十日には移動するけどね、手伝いには来なくていいよ。せっかくの引っ越し、僕、自分で楽しみたいからね」
「わかったわよ。行かなくて済めば、本当にありがたいんだから」
太郎は、睨《にら》み鯛《だい》の大西と、三吉杏子さんには又《また》、別の宣伝のし方をした。
「実はいろいろ調査した結果、僕の真下の部屋は、二号さんだということがわかったんだ」
真下ではないのだが、そんなことはかまわなかった。
「へえ、どんな女だ?」
大西が尋《たず》ねた。
「どんなって……。まあ、三吉さんみたいな女じゃないってことだけは確かよ」
太郎は、思わせぶりな口のきき方をした。
「どうせそうに決ってるわ」
と、三吉さんはひがんでみせた。
「じゃあ、ほんとにお妾マンションだな」
「だから、引っ越しの日には手伝いに来てくれよな」
二人が返事をしないのは、賛成の意思表示と、太郎は思うことにした。もっとも、十月十日に前期の試験が終るまで、太郎は、引っ越しの用意どころではなかった。などと言うと、むちゃくちゃに勉強しているように見えるかも知れないが、そうではなかった。高校の時と比べると、大学の試験など楽なものなのである。なにしろ、ダラダラと二週間に亙《わた》って続くのだから、早くから勉強しておいても忘れてしまう。その前日になってやれば十分というものが多いので、太郎はしきりに、気楽な読み本を買って来て楽しんでいた。
おもしろかったのは「相撲《すもう》の本」という本で、そこには相撲について、ちょっと知っておくといい裏話や知識が、沢山《たくさん》書いてあった。例《たと》えば、巡業《じゅんぎょう》先では力士たちはランクに従って、宿舎を割り当てられる。A級旅館は、横《よこ》綱《づな》、大関、巡業部長、立行司《たてぎょうじ》。B級旅館は、幕内、十両。C級旅館は幕下以下の若い力士ということである。部屋の標準の広さも決っていて、横綱、大関は、床《とこ》の間《ま》付き十畳《じょう》、幕内、十両は、六、又は八畳で二人相部屋、若い者は畳二枚に一人、となっている。車は普《ふ》通《つう》、三役以上につけられる。
太郎は、相撲甚《じん》句《く》の歌詞も、初めて正確に知った。
アー アー 当地興行も本日限りヨー
アー ドスコイ ドスコイ
アー 勧進元《かんじんもと》や世話人衆
御見物なる皆様《みなさま》よ ハイ
いろいろお世話になりました
お名残《なご》り惜《お》しくは候《そうら》えど ハイ
今日はお別れせにゃならぬ
われわれ立ったるそのあとは
お家繁昌《はんじょう》 町繁昌 ハイ
悪い病の流行《はや》らぬよう
蔭《かげ》からお祈《いの》り致《いた》します
これからわれわれ一行も
一と先《ま》ず地方を巡業して
晴れの場所で出世して ハイ
又の御《ご》縁《えん》があったなら
再び当地に参ります ハイ
その時はこれに勝《まさ》りし御《ご》贔《ひい》屓《き》を
どうかひとえに
ヨー ホホホイ
アー 願います
アー ドスコイ ドスコイ
当節の力士たちは、チャンコよりカレーライスが好きで、雪《せっ》駄《た》よりはサンダル、ゆかたよりトレーパンが好きだということもよくわかった。呼び出しの足袋《たび》は、五つこはぜで、白扇《はくせん》は、毎場所十五本くらい篤《とく》志《し》家からのさし入れがあり、柝《き》は、桜《さくら》の木の芯《しん》の赤味が最高と言われるが、呼び出したちは、それぞれ自分の柝を大切に持っている。永《のり》男《お》の柝は山《やま》本《もと》五十六《いそろく》元帥《げんすい》の生家の裏に当る加治川堤《づつみ》の桜から採ったもので、斧《おの》で割っただけで作ったものだという。
少なくとも、これらの知識は、ドイツ語の格変化を憶《おぼ》えるより、ずっとしみじみと、日本人・山本太郎の心に定着するのである。
幸いにも、引っ越しの日は晴天であった。同級の笹塚《ささづか》 茂《しげる》のおじさんの家が土管屋で、その日の午前中だけは、小型トラックが空いているというので、わずかな御《お》礼《れい》で、笹塚がそれを借りて来てくれることになった。例の机とベッドは、太郎たち三人で運び降ろすことになったが、要領が悪いので、三人共散々あちこちに打ち身を作った。「文句を言わない、文句を言わない」と太郎は二人を叱《しっ》咤《た》し、大きな家具こそ持たせなかったが、三吉さんにも、せっせと荷物を持って、階段を上り下りさせた。かねがね三吉さんには、
「人類学、本気でやる気なら、荷物くらい持てなきゃだめだよ」
と言い含《ふく》めてあったのである。
引っ越しの日は、数カ月前からほぼ決っており、必要なものは、夏前におやじが名古屋に来た時、注文しておいてくれたにもかかわらず、御自《ごじ》慢《まん》の三間の本棚《ほんだな》は、後五日たたないとでき上らないということだった。食卓《しょくたく》セットとソファー二脚《きゃく》だけは、午後になると運び込《こ》まれる筈《はず》だったし、テレビと冷蔵庫は、すぐ傍《そば》の電気器具屋で昨日のうちに金を払《はら》って来たので、恐《おそ》らく間もなく取り付けに来るであろう。
太郎は、大きな家具が運び込まれると、早《さっ》速《そく》、電気釜《がま》で米を一升《しょう》磨《と》いだ。それから三吉さんに、
「悪いけどさ、豚《ぶた》こま三百と玉葱《たまねぎ》と、目ざし買って来てよ」
と頼《たの》んだ。
そして太郎は、あらゆる種類の貨《か》幣《へい》のごちゃ混ぜになったものを一握《にぎ》り三吉さんに渡《わた》した。それは最後に、前の下宿を引き揚《あ》げる時、家中のあちこちに散らばっていた小《こ》銭《ぜに》を拾い集めて来たもので、三つ四つ百円玉も入っているから(白っぽく見えるのは、ほとんどが百円玉ではなく、一円のアルミ貨だったが)恐らく全体で七、八百円はあるだろうと思われた。
笹塚は意外にも几帳面《きちょうめん》で、机を置く前に、その下を箒《ほうき》でちょいちょいと掃《は》いてくれたりしたが、大西に至《いた》っては、めちゃくちゃだった。ベッドも机も、大西の手にかかると、思いつきの角度に置かれることになった。
しかし、太郎はそれもおもしろいと考えていた。家具というものは、壁《かべ》に沿って平行か直角に置かねばならないと思うのは、既《き》成概《せいがい》念《ねん》に毒されている証拠《しょうこ》である。
そうこうするうちに、三吉さんも戻《もど》って来るし、電気器具屋が来て、冷蔵庫とテレビを付けて行った。テレビの状態を見るために、スイッチを入れてみると、何の番組だかわからないが、アフリカの猛獣狩《もうじゅうがり》をやっていた。そこで、三吉さんを除《のぞ》いた男たち三人は、片づけをさぼって、しばらくの間その番組を見た。
「この部屋は西《にし》陽《び》が当るねえ」
と、電気器具屋が言った。
「だから冬は午後中暖かいですよ」
と、太郎は答えた。
「しかし来年の夏は、暑くてすごいだろうね」
太郎はやっと、相手が、クーラーを売りつける気だということがわかった。
「夏は名古屋にいないから」
太郎は言った。
「東京に帰るんですか」
電気器具屋は家具の少なさから、だんだん、太郎が一人で名古屋に住んでいる学生だということがわかり出したらしい。
「ええ、夏はね、たいていハワイに行くから」
三吉さんが、クスリと笑いかけただけで、他《ほか》の二人はむっつりしていてくれたので、太郎は、やっと電気器具屋を追い払うことができた。
電気器具屋が帰って五分程《ほど》すると、今度は玄関《げんかん》の方で、「ごめん下さい」という声が聞えた。「何だろ」と小さな声で太郎は呟《つぶや》いたが、それは「煩《うるさ》いなあ」という意味でもあった。
「名古屋新聞ですが」
若い男が立っていた。
「名古屋新聞、とって頂けないでしょうか」
「お宅、何か景品持って来る?」
太郎は言った。
「景品ですか」
取り次ぎ店の男は、情けなさそうな、恨《うら》めしそうな目つきをした。
「とって頂いた方には、手《て》拭《ぬぐ》いはお配りすることにはなっているんですが」
「何かもうちょっとましなもの配ってないの?」
男は深刻に考え込んだ。
「数年前にザルを配ったことがあるんですが、それじゃいけないでしょうか。多分まだ残ってると思うんだけど」
「ザルは僕、いっぱいあるんだ。鍋《なべ》くらい持って来たらとってやるよ」
「鍋ですか。鍋なら、どんな鍋でもいいんですか」
「ああ、いいよ」
「じゃあ一旦《いったん》帰って、主人と相談して来ます」
ダイニング・キッチンの方に戻ると、三吉さんが太郎を、非難に満ちた目つきで眺《なが》めた。
「かわいそうじゃないの。あんないじめ方して」
「いいんだよ。ただとらないって言ったらつべこべ言う連中なんだから。あれは断わるための手口だよ」
豚汁《とんじる》はフツフツとうまそうに煮《に》え始めていた。カレーライスにしてもいいのだが、熱い飯に目ざしというのは、めっぽううまいので、それに合わせるためには、どうしても豚汁の方がいいのである。もっとも食卓がないので、床《ゆか》の上においたお盆《ぼん》の上に食器をのせて彼《かれ》らがものも言わずに食事を始めた時であった。今度は扉《とびら》を閉めてあった玄関のベルが、コロンコロンと鳴った。
「全く、千客万来《せんきゃくばんらい》だ」
と太郎が呟きながら出てみると、今度は五分刈《が》りに髪《かみ》を刈った首の太い男が立っていた。
「濃《のう》尾《び》タイムスですが」
男はドスの効いた声で言った。
「濃尾タイムス、とって欲《ほ》しいんだけどね」
言葉遣《づか》いの悪いのは気に入ったが、太郎は今度は何と言って断わったものか考えていた。
「あんたんとこ、いくら負ける?」
太郎は、いきなり言った。
「お客さん、新聞は定価なんだけどね」
「そんなことは知ってるよ、だけど当節、どこだって負けるからな。今、一番安いところのをとろうと思ってるんだ」
五分刈りの男は、一瞬《いっしゅん》虚《こ》空《くう》を睨《にら》むようにした。
「普《ふ》通《つう》は、そんなことはできないんだけど、特別に一割引いときましょう。但《ただ》し、周りの人には黙《だま》っててもらわなきゃね」
「一割なら、名古屋新聞と同じだ。そっちにするよ」
男は又、虚空を睨んだ。
「じゃあ、一割五分」
「二割にしろよ」
太郎は言った。
「二割引くんなら、売らん方がええわ」
男は目をギョロリとむいて言った。
「お客さんが引けと言ったから、無理して一割五分引いたんだよ。じゃあ、それでよろしいな」
今度は、太郎がちょっと押《お》された。あんなにもめちゃくちゃをやる気でいたのに、ことここに至って、太郎は信義を守らねばならないような気分になってしまったのだった。
「じゃあ、それでいいよ」
「どうもありがとうざんした。じゃあ、今日の朝刊から入れときますから」
「夕刊からでいいよ。古い新聞《・・・・》はいらないんだよ」
太郎は、男の後ろ姿に向って怒鳴《どな》った。
「本当に、阿《あ》漕《こぎ》ねえ」
三吉さんが言った。
「阿漕なこともしてみるもんだよ。世の中には、阿漕なことがれっきとしてあるんだから」
太郎は食べかけの飯を済ませた。すると再びベルが鳴った。
「ごめん下さい」
聞き憶《おぼ》えのある気の弱そうな声が言った。
「名古屋新聞ですが、鍋持って来ました」
第六章 生活、また生活
1
山本太郎は、「大マンション」に於《お》ける「山本邸《てい》」の生活を優《ゆう》雅《が》に楽しもうと思っていた。アパートは五階までしか無いのだが、その辺《あた》りは草一本無い荒涼《こうりょう》とした新開地の中でも、多少高い所なので、「堂々たる白《はく》亜《あ》の大殿堂《だいでんどう》」ではないにしても、薄茶色《うすちゃいろ》のちょっとした高層建築に見えないではなかった。建物はコの字型で、南側が三LDKと四LDKの大きな区画である。こちらには、丸く張り出したベランダが付いていた。
太郎は、朝五時にはたいてい目を醒《さ》ましていた。六時間眠《ねむ》れば充分《じゅうぶん》なのだから、十一時に眠っても、五時には目が醒めた。太郎はそれからすぐに電気釜《がま》のボタンを押《お》しに行く。朝からドッカリと米の飯を食いたいのである。そのまま六時半くらいまで、太郎は本を読み、それから、ワカメや、芋《いも》の味噌《みそ》汁《しる》を作る。太郎は日本旅館の朝飯というものに言いしれぬ憧《あこが》れをもっており、朝食に、うんと塩の効いた紙のように薄い塩ジャケとか、外側を桃色《ももいろ》に染めた蒲鉾《かまぼこ》二切れとかを付ける趣《しゅ》味《み》があるのである。母の信《のぶ》子《こ》は、生卵が好きで「どうして生卵って、こんなにおいしいんだろう」と言いながら毎回感動して食べているが、太郎は、そのような素《そ》朴《ぼく》なものは好まない。卵なら、ポーチド・エッグとか、カリカリに焼いたべーコンを添《そ》えたオムレツがいい。七時少し前には、太郎はもう朝食のテーブルに向っている。そして、三吉さんに言わせれば、天罰《てんばつ》のようにとらざるを得なかった二種類もの地方新聞を見ながら、一人満ち足りて飯を食うのである。
別に自分の家に入ったから、急にきれいにするというわけではないが、太郎は掃《そう》除《じ》もきちんとやってのけた。朝食が済むと、洗濯《せんたく》機《き》を動かすのだが、ちょうどその間に掃除機をかけると、一応埃《ほこり》はなくなってしまうのである。もっとも、大西が置いて行った家具の曲りは、まだそのままであった。彼は荷物を運んでやっただけで、半ば居住権ができたと思ったのか、始終やって来る。
「どうだね、住み心地は」
大西の問いの意図を知っているから、太郎はわざと、威張《いば》って答えた。この男は家中に和室も無ければ床《とこ》の間《ま》も無い家など、考えられないのである。床の間は、何の用にも立たないが、言わば人間のヘソのようなものであって、それがないと安定が悪い。大西に言わせれば、この箱型《はこがた》の居住空間は、総《すべ》ての点にわたって安定が悪いのである。事実、この西洋風の建物では、総ての重心が日本家屋と違《ちが》って上の方にある。畳《たたみ》にすわるところは、椅《い》子《す》に腰《こし》かけねばならないし、便所もしゃがむところが腰かけ式になっている。
しかし大西が、何かにつけてこの家にやって来るのは、岐阜《ぎふ》県の郡部にある彼の家と違《ちが》って大学に行くのに近いということだけではなかった。大西が、太郎にとって、日本原人《アボリジン》であるとすれば、太郎は大西から見て、都会性の無《む》国籍《こくせき》人間なのであって、その衣食住の一切《いっさい》の趣味が、大西にとっては、一種の観察の対象になり得るのである。
太郎は、書棚《しょだな》のまん中の部分の棚を一部取りはらって、そこにおやじの所からかっぱらって来た小さな馬の絵を掛けていた。別に馬が好きではないのだが、この絵は、日比《ひび》繁《しげ》太《た》郎《ろう》という、ちょっと有名な絵画《えか》きの若い時の作品で、少なくとも複製ではないから、これを掛けて、太郎は大西の言う「ヘソ」を作ったつもりであった。しかし、それよりも、太郎は三間分の書棚の空間の方が嬉《うれ》しかった。五日遅《おく》れて搬入《はんにゅう》されたその書棚は、さすがにあつらえただけあって、一分の隙《すき》もなく、ピッタリと壁面《へきめん》に収まり、太郎は、この貴重なスペースを、どのような本で埋《う》めていけるかと思うと楽しくなるのであった。目下のところ、手持ちの本は、全体の四分の一くらいで、しかもその中には、最近買ったエロ雑誌も入っている。エロ雑誌は、中学の頃《ころ》は感激《かんげき》して読んだのだが、この頃ではどれも同工異曲《どうこういきょく》なので、すぐ眠くなる。それでも性懲《しょうこ》りもなく買って来るところが、われながら莫迦《ばか》だと思うのだが、雑誌は棚の下の方にある扉《とびら》の付いた部分に入れておく。すると、大西や笹塚が勝手に持ち出して、それでもう帰って来ないというシステムである。
「ここには、どんな連中が住んでるかわかってるのか?」
大西が、ある日尋《たず》ねた。
「わからんねえ。全くわかんない。その点完全に都会型だな」
「知り合いになったお妾《めかけ》さんと、その後つき合ってるの?」
「いや、まだ忙《いそが》しくて」
太郎が彼女について吹聴《ふいちょう》して以来、いつの間にか彼女は、白っぽい和服の似合うきれいな人のように皆から思われているのであった。それは三吉さんが《テレビのレモン石鹸《せっけん》のコマーシャルに出て来るような人?》と聞いたからであった。その時、太郎は、レモン石鹸のコマーシャルを知らなかったので、敢《あ》えて否定しなかったのだが、カラー・テレビを買ってから、よく見てみると、なるほどそれらしい日本風の美人であった。あの二号さんは似ても似つかないとは思ったが、太郎はその点は秘《ひ》密《みつ》にしていた。
その時、ちょうど玄関《げんかん》のベルが鳴って、太郎が出てみると、まさに彼女が立っていたので太郎は、本当におかしな気分になってしまった。世の中のことわざというものには、随《ずい》分《ぶん》デタラメも多いが、「噂《うわさ》をすれば影《かげ》とやら」というのは、かなり当る確率の高いものである。
「ああ、やっぱりここだった」
彼女はスラックスを穿《は》き、顔には化粧《けしょう》っ気もなく、トックリ襟《えり》のセーターを着て、しかも腕《うで》まくりをしていた。
「あの時、立ち話をしただけだったでしょう。だから、あなたの家が3Aか3Bかわからなくなっちゃったのよ」
「僕もね、お伺《うかが》いしようと思ってたんですけど、押しかけるのはずうずうしいような気がしたもんだから。よかったらどうぞお入り下さい」
「どなたかお客さんなんでしょ」
「いや、いいんです。友だちで、今、もう帰るところなんです」
大西は帰るとも何とも言っていなかったのだが、太郎は、わざと聞えるように言うことで、大西に因《いん》果《が》を含《ふく》めたつもりになっていた。
「実はね、田舎《いなか》から、お母さんがちょっと出て来たのよ。それでね、いろんなもの、しょって来たもんだから、あなたに少し食べてもらえないかと思って」
「喜んで頂きます。とにかく、どうぞお入り下さい」
「じゃあ、ちょっとおじゃまするわ」
彼女はダイニング・キッチンの所まで入って来たが、太郎は、彼女を何と言って大西に紹介《しょうかい》したらいいのか、まだ名前もわからなかった。
「ええと、お名前は、何とおっしゃるんでしたっけ」
「山中です。山中良子よ。つまらない名前でしょう。小さい時、お嫁《よめ》に行ったら何とかなるだろうと思って、期待してたんだけど、それが、うまく行かないところが皮肉ね」
彼女は、手に持っていた風呂《ふろ》敷《しき》包みを食卓《しょくたく》の上に載《の》せた。
「私のおかあさんね、まだ五十五なんだけど、頭はてんで旧式なの。戦争中じゃあるまいし、今時、大風呂敷いっぱい食料持って来ることはないのにね」
「何と何をお持ちになったんですか?」
山中良子は、風呂敷を開け始めた。
「だから、それを持って来たのよ。これが衣《きぬ》かつぎでしょう。これが栗《くり》ね。これがさつま芋、これが梨《なし》よ」
それらは、できるだけすてきに見えないようにするつもりか、一つ一つクチャクチャの新聞紙に包んであった。
「このアルミホイルに包んであるのは何ですか?」
「ああ、それはね、お握《にぎ》りなのよ。お母さんたら、うちへ来るのに五人前くらいのお握り持って来るんだもの。あれ、どういう気なんだろ」
「お握りも、もらっていいんですか?」
「そうよ、食べてもらえたらありがたいのよ」
「お母さんは、今、お宅にいらっしゃるんでしょ?」
「ううん、あの人も苦労して来たもんだから、一刻《いっこく》もじっとしていられない貧乏性《びんぼうしょう》なのよ。伊勢《いせ》の方に、姉さんがお嫁に行っているの。そっちへもね、衣かつぎやおさつ半分届けるって、さっき、しょって出かけたところなの」
「おい大西、お前、握り飯好きだったな」
太郎は言った。
「うん、大好きだ」
「じゃあ、御馳《ごち》走《そう》になれよ」
「お握りだけでなくて、衣かつぎとおさつも食べてよ。栗以外は、ちゃんと茹《ゆ》でてあるのよ」
アルミホイルの包みは、子供の枕《まくら》くらいあった。それを開けると、まさに握りこぶしくらいの大きなお握りが八つ入っていた。
「ゴマのはね、ゴマだけ。海苔《のり》の張っ付いてるのは、中に塩ジャケが入ってるわ。それから何となくうす汚《よご》れて見えるのは、梅《うめ》干《ぼ》しとオカカをお醤油《しょうゆ》で捏《こ》ねたのをまぶしてあるの」
「ああ、俺《おれ》はそれが好きなんだ」
大西が言った。
「じゃあ、沢山《たくさん》食べてよ。お米もうちで採れたんだから、わりとおいしいのよ」
「ご郷里はどちらなんですか」
太郎は尋ねた。
「石川県と福井県の境の辺りよ。でもね、私は東京に十年くらい暮《くら》してたの。だから私の言葉は東京風になっちゃったでしょ」
「衣かつぎって言うのは、さと芋のことですか? それとも何か別の種類ですか?」
太郎は良子に尋ねた。
「さと芋の子芋のことだ」
大西が言った。
「あら、茹でたさと芋のことじゃないの? 生だと、さと芋で、皮ごと茹でると、衣かつぎになるのよ」
太郎は、立ち上って辞引きを引きに行った。そしてすぐ帰って来ると、
「どちらも正しいです。両方の意味があります」
と言った。
「あなた、ほんとに勉強好きなのね」
山中良子は感嘆《かんたん》したように言った。
「その三軒分《・・・》の本棚ってできたの?」
「あれがそうです」
太郎は、部屋の壁面を示した。
「あら、ほんとだ。あんまり大きいもんで目に入らなかったわ。あれがいっぱいになるまで本を買って読む気なの?」
「別に、頑《がん》張《ば》ってるわけじゃないんですよ。ただ本て、下らないのも混じるでしょう。僕の場合、漫《まん》画《が》本《ぼん》とか、ちょっとした雑誌の類とか、参考資料とか……」
「本を読む人の頭の中って、どんなになってるのかと思うわ。うちの旦《だん》那《な》も私も、活字見ると、すぐ頭痛くなる方なのよ。だけど私には、今生きてればちょうどあなたくらいの弟がいたのよ。とっても良くできた子だったけど、十二の時川で溺《おぼ》れて死んじゃったの。あの弟が生きていたら、やっぱり三軒《げん》分の本棚作ったと思うわ」
その間に大西は、せっせと握り飯をほお張っていたが、太郎に向って、
「おい、一つ食べてみろよ。これは本当にうまい握り飯だよ」
と言った。
「あら、そう。お母さん、それ聞いたら喜ぶと思うわ」
「太郎にはわからんだろうけど、握り飯というものは、必ずある程度飯の量が無いといかんのだ」
大西は言った。
「量が無いとな、力が籠《こ》もらんのだ」
「あなた、良くわかるのね。ほんとにそうなのよ。握り飯って、ぎゅっと握らなきゃいけないの。この頃よくインチキ握り飯があるでしょ。ご飯を型で抜《ぬ》いたようなの。あんなんじゃ食べても力が出ないわよね」
「僕は、衣かつぎを食べよう」
太郎は立ち上って食塩を持って来た。
「味塩なんか付けないでね、普通の塩がいいのよ。おさつやお芋には」
彼女はそう言ってから、もう一度書棚の方を眺《なが》めるようにした。
「そうなの。後何年かの間に、あなた、あそこにいっぱいになるくらい本を読むの!」
太郎は黙《だま》って衣かつぎの皮を剥《む》き、滑《すべ》らないように用心して口に運んだ。山中良子の言葉の中には溢《あふ》れるような憧れの響《ひび》きが感じられて、本当は太郎は、いつもになく感動していた。
「あなた、栗の茹で方わかる?」
山中良子は、太郎に尋ねた。
「茹でたら半分に切って、スプーンで食べたら一番簡単よ」
「僕、そんな単純なことしません」
太郎は威張って見せた。
「僕、栗きんとんを作るか、さもなければ、栗ご飯を炊《た》きます」
「あなた、そんなものの炊き方知ってるの?」
「わからなかったら、僕調べてやるんです。人に聞くより、本で調べた方が正確ですから」
「だから三軒分の本棚がいるんだわ。わかったわ!」
山中良子は、お茶を一杯《いっぱい》飲んで帰って行った。
「あれがレモン石鹸だ」
太郎は大西に言った。
「わかってる。コマーシャルに出て来るのよりずっと上等なレモン石鹸だ」
大西は答えた。
2
一人で暮《くら》していると、山本太郎は、ひとからの電話が、ひどく待たれるようになった。もともと長電話の年齢《ねんれい》だとは言われるが、ベルが鳴ると、とび立つ思いだった。
「もしもし」
それでも太郎は、自分の心情が、あまりにも素《す》直《なお》すぎる状態で吐露《とろ》されるのを、用心しようとしてはいたので、反射的に、声を低める癖《くせ》はついていた。
「私。千《ち》頭《かみ》です」
「ああ、今晩は!」
「転居通知頂いたから、電話かけてみたのよ」
「やっとね、安心して本が買えるようになった」
「よかったわね。そうそう、夏休みに手伝って頂いたレポート、返って来たけど、Aマイナスだったの。いい成績でしょ。ありがとうございました」
「適当によくできてなかったから、却《かえ》っていい点くれたんだよ。大学の教師って、そういうとこ、とても鼻がいいもんらしいよ。うちのおやじがよくそう言ってるもの」
「そうかしら。いずれにせよ、本当に助かっちゃったの」
「そう?」
太郎はちょっといい気分になりかけた。自分は男として、かなり下らない見えすいたお世辞にも、すぐいい気分になる方なんじゃないだろうか、と思いながらも太郎は、やめられなかった。
「もう試験終ったんでしょ」
「ええ、ここのところ、テニスに熱中してるの」
「そう」
「それでね、今日はちょっとお誘《さそ》いやら何やらあってお電話したの」
「なあに?」
太郎は、ぞくぞくした。クラシックの音楽会などあまり行きたくはないが、千頭さんが誘ってくれるなら、つまり彼女と並《なら》んで何時間かいられるなら、それも悪くはないと思った。
「松涛《しょうとう》テニス・クラブって知ってる?」
千頭さんは尋《たず》ねた。
「渋《しぶ》谷《や》にあるんだけど、名門で古いのよ」
「名前くらい聞いたことあるよ」
「偶然《ぐうぜん》、欠員が出て、私、今度、そこに入れてもらったの。そしたら、もう一人、いろんな理由で入れてもらえるかも知れないんですって。資格審《しん》査《さ》がきびしくて、なかなか誰《だれ》でも入れるってわけでもないらしいのよ。だから、いいチャンスだから、入っておかない?一生テニスするのに便利でしょ」
「うん、ありがと」
太郎は、さしあたり礼は言ったが、心が沈《しず》んで行くような気がしてならなかった。
「僕《ぼく》いいよ」
「どうして? テニス、嫌《きら》い?」
「嫌いじゃないけどね。もう馳《か》けっこもできなくなったから、時々、近所の子供と、軟式《なんしき》のテニスやってるけどさ」
「あら、軟式なんて、品が悪いじゃない」
「そうかな。運動に品がいいも悪いもないと思うけどね」
「そう、残念だわ。とても由緒《ゆいしょ》正しい感じのいいクラブなんだけど」
「そうだろうと思うよ」
太郎は一瞬《いっしゅん》のうちに、千頭さんに対して、優《やさ》しい許すような気分になれそうだった。
「わざわざ、そう言って来てくれて、ありがたいと思うけど、僕、何てったって、根拠《こんきょ》地《ち》が名古屋になっちまっただろ。東京へ帰るチャンスも少ないしさ。あまり利用しないのに、メンバーシップになるのは、お金も勿体《もったい》ないし、本当にそこを利用したいと思ってる人のじゃまをすることになると思うんだ」
「そんなに気にすることもないとは思うけど……。まあいいわ。もう一つ、山本君に教えておいてあげた方がいいと思ったのは、ここのところ、東京じゃ、お砂糖やトイレット・ぺーパーなくなって来たのよ」
「ああ、何だか、そんなこと言ってるの聞いた」
「あなた、一人で世帯持ってるんなら、洗剤とお砂糖とトイレット・ぺーパーくらい買っておおきなさいよ。男の人って、そういうことにうかつでしょ。だから、教えておいてあげた方がいいってお母さんも言ってるの」
「ありがとう」
太郎は素直に礼を言った。
「気をつけることにするよ」
友達の噂話《うわさばなし》を、二、三分して電話を切った後、太郎は、今しがたの千頭さんの言葉から受けたショックを、あれこれと考えていた。
父母の生活が今まで、大した特権というものを持たなかったせいかも知れない。太郎は、他人とは違《ちが》うことを得意と思う心情に何となくついて行けなかった。テニスは、もちろん大選手になれば、コートの整備の仕方一つで、試合の運び方も違って来るだろう、と思う。しかし、太郎くらいの、町のアマチュア・スポーツマンなら、正直なところ、テニス・コートくらい、本当にしたければ、どこかへもぐり込《こ》めるのだ。
千頭さんには、はっきり言わなかったが、テニスは平らな土地があれば、そこに棒《ぼう》切《き》れを二本、地面にさして、その間にヒモを張ってネットの代りにしても、やれないことはないのだ。地面が平らでなかったら、やりたいと思う連中が、ローラーを押《お》して地ならししてもいい。この地球上には、どこへ行っても、マラソン・コースがあり、バドミントン用のコ―トがあり、水泳の場所があると思うことの方が、太郎にとっては楽しいのである。
千頭さんが、電話をくれたもう一つの用件は、買い溜《だ》めの件だった。この奇妙《きみょう》な噂を、太郎が耳にしたのは、ほんの二日か三日前である。その時は、気にもしていなかったのだが、ああしてわざわざ、東京から情報が伝えられて来るところを見ると、かなり本気らしい。
太郎は、その点に関しても、迷《まよ》うところはなかった。砂糖というものは、塩のように料理の本質には関与していないから、なくても済むものなのである。洗濯石鹸《せんたくせっけん》は、今、使いかけのが一箱《はこ》あるだけだが、何も、洗濯機を使わなければ洗濯ができないというわけではない。おふくろが引っ越しの時に、貰《もら》いものの化粧《けしょう》石鹸を一ダースばかり入れておいてくれた。それを使って、下着を洗って行けば、当分、シラミがわくということもなかろう。
第一、太郎は、付和《ふわ》雷同《らいどう》ということが、ひどく嫌いだった。皆が砂糖を買いに走るから自分も走り、人が一袋《ふくろ》しか買えない時に三袋を買えたことで満足するという気持は、何と貧しいのだろう。それくらいなら、太郎は、ひとより三日先に、飢《う》えて死のうと思う。そのような心の貧しさがあっては、どんな学問をしても何もならない。砂糖は、今、砂糖壺《つぼ》にほぼいっぱいと、あと袋に半分ばかりある。そうだ。砂糖がなくなりかけているんなら、あれを全部使って、山中良子から貰った栗《くり》できんとんを作ってしまおう、と太郎は考えた。
その午後、太郎は、2Cの山中良子の部屋のベルを押した。表札《ひょうさつ》には、只《ただ》、山中、とだけ書いてあった。
「あら、いらっしゃい」
良子は、セーターの上に、チョッキを着て、どこから見ても、その辺のおかみさん族としか見えないような恰好《かっこう》をしていた。
「この間は、ごちそうさまでした」
「あら、手をどうしたの?」
良子は、太郎の手の甲のほうたいに目をつけて尋ねた。
「実は頂いた栗できんとん作ったんです。そしたら、あれ、ぶじゅぶじゅって煮《に》えながら、時々、はねるんですよね。それが手にかかって、火傷《やけど》しちゃったんです」
「でも偉《えら》いわねえ。よく自分できんとんなんか作ったわねえ」
「それで少し食べて頂こうと思って持って来たんです」
「お入りなさいよ」
山中良子は言った。
「入っていいんですか? 山中さんとおつきあいする時、あんまり図々《ずうずう》しくするとご主人に悪いから、初めに伺《うかが》っておいた方がいいと思うんです」
「平気よ。あなたのことは、旦《だん》那《な》にも言ったのよ。そしたらおもしろがってたわ。今度紹《しょう》介《かい》するわ」
中は、完全に日本風だった。
「同じ面積だと思うけど、日本風にすると、広く見えますね」
太郎は言った。
「僕も胡座《あぐら》さえかければ、見た目にも楽そうだから、和室の方が機能的だと思うんだけど」
「私はね、洋室のベッドに寝《ね》てみたいの。でもね、旦那が嫌いだから」
彼女は子供のような言い方をしてから、太郎が持って来た、プラスチックの容器を開けた。
「あら、いい色にできてるじゃないの」
「ちょっと、アンコの量が少な過ぎちゃったんだけど。栗がうんと少ないのも、みみっちいけど、アンコが少なけりゃいいってもんでもないですよね」
「あら、あなた、いいこと言うわね。お鮨《すし》がそうよね。お握《にぎ》りみたいにご飯が多いのもいやだけど、小指の先くらいしか、ご飯がないなんて、あれもお鮨じゃないわね。それにしても上手に作ったわ」
「こういうもの、ジャムでも何でも、気を長くしさえすればいいんですよね。急いだら、焦《こ》げつかすか、水いれなきゃいけなくなるから」
太郎は、いつ、良子が《お砂糖なくなりかけてるのに、こんな甘《あま》いもの作っちゃってよかったの?》と言うかと思っていたが、彼女は一向に、そんなことにはふれなかった。
「実は、皆、お砂糖を買い溜めしているんですってね。皆が、がしゃがしゃ言うから、僕、腹を立てて、ありったけの砂糖たたき込んで、これ作っちゃったんです」
「あら、本当に、あなたのとこのお砂糖、もう終りなの?」
「その予定だったんですけどね、まだ、少し残ってます」
「私も、ああいうもの、買わないの。何だかね、浅ましいでしょ」
「僕もそうなんです。第一、トイレット・ぺーパーなんて、もともと使わないっていう人が、この地球上に何億っているんですから」
「あら、本当」
山中良子は、興味津々《しんしん》という表情をしてみせた。
「どうして、始末してるの? 木の葉っぱ?」
「水ですよ。僕の読んだ限りでは、トイレに全部、水のホースがついてるんです。それで洗うんです」
「どの辺の人たちのこと? そういうの」
「僕も正確には知りませんけど、インドから西、アラブ諸国も」
「その方が、清潔ね。考えてみると」
「そうですよ。あのう、ビロウな話ですけど、そういう土地では、痔《じ》になってる人は、本当に少ないんだそうです。これはお医者さんの書いたものにありました」
「そうでしょうね、だけど、もう一つ、立ち入って質問していいかしら」
「どうぞ」
「水で洗うでしょう。そうすると、後、濡《ぬ》れちゃうじゃないの。布か何かで拭《ふ》くの?」
「拭く人もいるでしょうけど、拭かなくてもいいんですよ」
「拭かないの?」
「そうです、濡れっぱなし」
「あら、だって、寒いわ」
「原則として、こういう習慣はあまり寒くない土地で行われていることが一つ。もう一つは、着ているものの構造が違うんです。つまり、下着をあまりつけないから、濡れっ放ししといても、すぐ乾《かわ》くんです」
「ああ、それでよくわかったわ。こういう話ね、お上品ぶって途中《とちゅう》で質問やめとくと、永遠にわからずじまいなのよね」
「僕も、そういうの嫌いです。とことんまで訊《き》かなきゃ、落ちつきません」
「そうなのよ。トイレット・ぺーパーないくらいでおろおろすることはないのよ。水があるじゃないの!」
山中良子は急に威《い》勢《せい》よく言った。
「と、僕も思うんですけど」
「あなた。あなたみたいに学問のある人は、新聞か何かにそう書いて投書しておやりなさいよ。そうすると、少しは皆、頭を冷やすんじゃない?」
「でも、僕、それほど親切じゃないんです」
「どうして?」
「だって、皆、あわてふためいて買いだめるの、楽しんでるんだもの。その楽しみを奪《うば》っちゃいけないんですよ。そう考えると、僕はすごく親切なのかな」
「買いだめ、楽しいのかしら」
「楽しいんですよ。今、かりに五万円あったら、トイレット・ぺーパーと、お砂糖と、洗剤、山のように買えるでしょう。五万円で、それほどの量買えるものないんですよ。五万円で、人より抜《ぬ》きんでられるんですから、楽しいんですよ」
「そうかしらねえ」
「人間、いろんな楽しみ方知ってるんですよ。その点、とても偉いんだな。そんなこと、大きな声で言ったら叱《しか》られるけど、人間、戦争もかなり好きなんだと思うな。死ぬのはいやなんですよ。でも、死なない程度に怒《いか》りをかきたてて、組織的に、誰かと戦うってのは、かなり明確な情熱だと思うんです」
「あなた、おもしろい考え方するのね」
「ちっとも、おもしろくないですよ。根っからの平和好き、なんて人間、いるわけないんですよ。平和と戦争とどっちも好きなのが人間なんですよ。ただその割合はひとによって違いますけどね。勇敢《ゆうかん》な人と、小心なのといるでしょう」
「私ね、もしかしたら勇敢なのよ」
「女の人は大てい勇敢ですよ」
「男は違うの?」
「僕はね、実はとっても小心なんです。小心だから、あれこれ考えるんです。その点、おやじは僕のこと見抜いてます」
「そうなの?」
山中良子はそう言いながら、味見をするために、きんとんの中の栗を、指で一つつまみ上げた。
3
よその大学はどうなっているのか知らないが、北川大学は、父兄とのつながりを重んじる所らしくて、時々、北川通信というのが、送られて来る。
アパートができた時、太郎は、大学へ転居届けを出したのだが、その時、何をどうまちがったのか、太郎の親たちも、名古屋に移って来たと思われたらしく、山本正二郎《やまもとしょうじろう》様宛《あて》の北川通信は名古屋の太郎のアパートのポストにほうり込《こ》まれてあった。
「東京へ送ろうかと思ったんだけどさ。どっちみち、大して本気で見ないでしょ。だからとっといたんだ」
次の週に、山本正二郎が、名古屋へ講義にやって来て、太郎のアパートへ立ち寄った時、太郎は既《すで》に封《ふう》を切ってしまった北川通信を父親に手《て》渡《わた》した。
「別に大したことじゃないんだろ。寄附《きふ》とか……」
「じゃなさそうだよ」
「北川は、学費は安いよ。今くらいの人数でやってたら学生一人当り、最低八万円ずつは赤字になるかも知れないね」
「そんなかね」
「僕《ぼく》は、大学屋だからね。四月に太郎が払《はら》った学費と、学生の数と、教師の数を見りゃ、ぱっぱっとメノコで計算できるんだ」
「大学の赤字ってどうなるの?」
「それはね、校舎の建設費の積立をやめたり、研究費をけちったりして操作するんだ」
「しかし、内情を知らないで、学費値上げ反対を言うのは横暴だよな」
それから先を太郎は言わないことにしている。学問をするには、犠《ぎ》牲《せい》を払うべきなのだ。つまり、現実的には金を払わねばならない、ということなのである。しかし、目下のところ、社会は教育を受けるのは権利だなどと言っているから、この論理は通らない。金のある人間だけが、教育を受けられるとは何事だ、と出て来るのである。
金がある人間だけが教育を受けるのではない。本当に学問をしたい人間が、それだけの犠牲を払う場合にだけ学問は成立する。もっとも、金がなくても、学問に対する情熱があり、資質もある学生に対しては、どんなに家庭環境《かんきょう》がそれを許さなくても、国家なり、大学なりが奨学金《しょうがくきん》を出せばいい。太郎は、分不相応な支出をして貰《もら》っているから、そんな立場で何を! と言われると困るから言わないのだが、今、裸《はだか》でほうり出されても、何とか生活して、大学へ通う自信はある。奨学資金というものを見ていると、勉強しない奴《やつ》に限って、うまく使っているという感じである。それくらい制度はあちこちにあるのだし、就職口は肉体労働をいやがらなければ、いくらでもあるのだから、やれない筈《はず》はない。どんな方法にせよ、他人から教育のために金を出して貰うことはいい。しかし教育はタダという思想は、学問をダメにする。日本の教育がおかしくなったのは、「教育は権利だ!」と言い出した時からである。権利だなどと思っている奴に、学問などできるものか、と太郎は闘争《とうそう》的な気分になる。
「おやじさん、僕ね、その北川通信、読んだら、やっぱりユーウツになったよ」
「何で?」
「就職、内定、という欄《らん》あるのよ」
「ほほう」
山本正二郎は、太郎が示した頁《ページ》を開けてみた。
「ほら、デパートの杉山屋がトップでしょう三十四人」
「お父さんの友達で、大阪の有名なデパートに入って初めてパンツ売場に配属されたのがいる。京大の経済出た男だ。その男いきなり《さあ、いらはい、いらはい、パンツの大売り出し! 今日は特別大売り出しでっせ》とどなってね、うんと叱《しか》られた。うちは大手のデパートだから、大道商人みたいなことしなくっていいって。それでたちどころに宣伝部まわしさ」
「大人物だね、その人。出世するだろうね」
「出世してるさ、もう。……それで二位が信用金庫か。この三位のN・Uというのは何だ?」
「月《げっ》賦屋《ぷや》だよ。中京地区では一番大きいんだ」
「月賦はもうかるんだそうだよ。四位が、名古屋鋼材で、五位が、日本空港サービスか」
「これ、つまり小《こ》牧《まき》空港の番人よ。おやじさん知ってる? 小牧って国際空港なんだよ」
「どれも悪くないじゃないか。おっとり勤められて、近いとこから美人のヨメさん貰って、四季おりおり、うまいもの食って一生送れそうじゃないか」
「わかってるよ、そんなこと」
太郎は言った。
「ここの人たち、本当に、東京よりうまいもん食ってるんだよ。お父さんたちは、東京で、ザルに一山でいくらなんてようなひっからびたナシやリンゴ食べてるでしょう。ここの人はそうじゃないんだな。一山いくらで買っても、産地が近いから、ふるいつきたいくらい新鮮なんだよ」
「少しも、絶望的じゃないね」
「そうかね、じゃあ、僕が少し鬱病《うつびょう》なんだ。こないだの日曜日、自転車乗りに行ってさ、ずうっと行ったら、ウドの畑の傍《そば》に出ちゃってさ、何となくぞっとして、気が狂《くる》うかと思った」
「ウド?」
「そう、お父さんなんか、ウドの畑みたことないでしょう」
「ない」
「ウドの大木っていうくらいあってさ、畑の作物にしちゃ、何となく大きいんだ。僕の背《せ》丈《たけ》くらいある感じだもんな。だけど、林にしちゃ、何となくバサバサしてるのよ。この辺は東京と違《ちが》うよ。ちょっと走ると、そういう場所あるんだもん」
「ちょっと走る、ってどこまで走ったんだ」
「長野県。飯《いい》田《だ》の近くだよ」
「一日で行ったのか」
「そうだよ、自転車ってやつは一日で、二百粁《キロ》くらいはえらいけど走れないことはないもんね」
太郎が或《あ》る午後、町を歩いていると、何かおかしな気分に捉《とら》われた。町中、空気が稀《き》薄《はく》になっているような気がしたのである。
「青春というのは、内分《ないぶん》泌《ぴ》腺《せん》の具合が不安定になっている時だからね」と知ったかぶりを言うのはおふくろであった。「だから、理由もなく、希望にみち溢《あふ》れてみえたり、もうどうしようもないように思えたりするのよ」
理由もなく、というのは、この世にないことなのだ。あらゆる結果には原因がある。ただ、原因というのは、通常、無数にあるものだから、最後の一つまで、つきとめる事は不可能なのである。それで「何となく」とか「理由もなく」とかいう言葉が生れる。
今の目前の光景はSF的であった。「死の町」に似ている。原爆《げんばく》で人が死に絶えた後の死の町は――もちろんそれは映画でしか見たことはないのだが――もっと人数が少ない。これほども歩いてはいない。しかし、何となく、普《ふ》段《だん》と違う。
高校生の男子が走っている。ふざけながらではなく、真剣になって走っている。してみると、ゲンバクは、これから落されるのかしらん、と太郎は思うことにした。
「ショッピ」という不思議な呼び名を持つマーケットも、がらんとしている。
その中で、かん高いテレビの声だけがする。そして、おもしろいことに一昔前《ひとむかしまえ》のように、電気器具屋の店の前に、タダのテレビを見ようとしている人たちがたかっている。
しいて、SFの夢《ゆめ》を見ようと思っただけで太郎には、この白昼(と言っても三時過ぎだが)の人通りの少なさの理由は、もうとっくにわかっているのだ。
ペナント・レースの優勝が今日の中日・巨人戦で決るのである。
「ちえっ!」
太郎は歩きながら、舌うちした。町中が、自分とこの野球チームにうつつぬかして、町の機能が半減してるなんて、全く田舎《いなか》もいいとこだ。こんなに皆が、野球に夢中になってるんなら、空《あき》巣《す》にでも入ってやろうかしらん、と思いかけて、太郎は「ダメだ、ダメだ」と思った。さっきの高校生は、何故《なにゆえ》に走っておったか。あれは体を鍛《きた》えるためではない。一刻も早く帰って、テレビを見るためだ。テレビは大ていの家では茶の間に置いてあり、現金は殆《ほとん》ど茶の間のどこかにしまってあるから、この時刻は、空巣・イアキをやるには、最も適さない状態なのだ。
太郎は、鎖《くさり》がはずれてしまったらしい犬が珍《めずら》しく一人、いや、一匹《いっぴき》で歩いているのに、限りない親近感を抱《いだ》きながら犬と前後して歩いていたが、東山公国の近くまで来ると、何となく通りがかりの家から、ふわっとはじけるような音が聞え、その瞬間《しゅんかん》、大通りのデパートの壁《かべ》から、ハンケチが投げられたみたいに、白い垂れ幕がぱっと下ろされたのには驚《おどろ》いてしまった。
「祝、優勝、中日ドラゴンズ!」
その横に「秋期大売り出し」というのが見えるので、中日ドラゴンズが大売り出しされているように見えないでもない。更《さら》に百米《メートル》ほど歩く間に、太郎は、何となく聞き覚えてしまった「中日ドラゴンズの歌」が、あちこちから流れて来るのに気がついた。もうこうなったら、どんな人間も、中日ドラゴンズと関係なく生きることは、できないのである。
太郎は、アパートへ帰ると、クララ寮《りょう》に電話して、三《み》吉杏子《よしきょうこ》さんを呼び出した。
「知ってる?」
三吉さんはいきなり言った。
「何を?」
「ドラゴンズが勝ったのよ」
「よしてくれよう」
太郎は、喉許《のどもと》まで、何かがつかえたような気持になって言った。
「町を歩いてたから、知ってるよ。今、帰って来たとこなんだ」
「今晩はうちでも、皆でお祝いに今池へ行くことになってるのよ」
「おれはやだね」
「あなた、それでも人類学? コミュニティに入り切らないで、人類学できる気? 私なんか30番までの背番号の選手、皆無理して覚えたのよ」
「勝手にしろよ」
「じゃあね、又《また》ね」
がちゃんと電話を切られて、太郎は鼻白んだ。心の奥《おく》の奥の方で、一本とられたような気がしていた。三吉杏子は、実は本当は、プロ野球など好きではないのかも知れないのである。しかし、そんなことを言ってどうなる。いつか、太郎は、自分とは全く違う世界に入って行くだろう。蟻《あり》の煮《に》たものがおいしいといい、頭には神が宿るから子供の頭を撫《な》でてはいけないと思い、日本人が聞くとポコポコとしか鳴っていない太《たい》鼓《こ》が妙《たえ》なる音楽と感じる人々の間で暮《くら》すことになる。
その時、蟻なんか食えるか! と怒《おこ》ったり、あんなばかばかしい太鼓が音楽か、と腹を立てたりするようでは、決してその人々の心をわかることはできない。蟻のおいしさと、ポコポコのおもしろさをわからなければだめなのだ。
電話が再び鳴った。
「藤原です」
東京の藤原俊《ふじわらとし》夫《お》からだった。
「今、うち?」
太郎は尋《たず》ねた。
「いや」
「どこにいるんだよ」
「京都からなんだ」
「へえ、京都に何しに来た」
「おふくろを送りに来たんだ。一人も送ってやらないのは可哀《かわい》想《そう》だからな」
「そうか」
「実は、明日、東京へ帰るんだけどね、帰りに名古屋へ寄ろうかと思って」
「寄れよ。一晩、泊《とま》ってけよ。泊って悪いことはないんだろう」
「ああ、まあ、予備校一日休むことになるけど」
「今、京都のどこ?」
「都ホテルにいる。今夜はね、おふくろと二人だけで飯を食うことにしてるんだ」
「それはいいね。じゃあ、とにかく、明日待ってるよ。駅まで迎《むか》えに行ってやろうか」
「いや、何時に名古屋へ着けるか、よくわからないから、三時すぎに、君のアパートへ行くよ。いつか、道順書いてもらったろ。あの紙、持って来たから」
「じゃあ、三時過ぎに、オレ、部屋にいるようにすらあ。お母さんによろしくな」
「ああ」
太郎は電話を切ってから暫《しばら》く考えた。親と子とは変なものだと思った。親というものは、あった方がいいが、いつかははっきり別れてくれなくては困るのである。
その夜、太郎は再びパチンコをしに盛《さか》り場《ば》に出た。すると町中、あちこちでドラゴンズ優勝を祝って、イルミネーションがついていた。コーヒー屋では、《中日ドラゴンズ優勝祝い。今日、明日、コーヒー一ぱい五円!》と書いた貼紙《はりがみ》が出ていたので、太郎は中に入った。本当は太郎は、トクなことをするのは嫌《きら》いだったが、三吉さんにハッパをかけられたので、五円のコーヒーは、多少順番を待ってでも体験しておくべきだと感じていた。そして果してコーヒーはひどく薄《うす》くてまずかったので、太郎は安心して喫《きっ》茶《さ》店《てん》を出た。
4
本当はその日は茂呂《もろ》ハゲの授業がある日だったのだが、太郎は藤原が来るかも知れないので、授業をさぼって家に帰ることにした。
夕飯に、シチューでも煮《に》ようかと思い、チルド・ビーフを買いに、自転車で、太郎が東山公園の商店街を走っていると、向うから勿《もっ》体《たい》ぶって歩いて来る茂呂ハゲの姿が見えた。一瞬《いっしゅん》太郎は一切《いっさい》を忘れて、「あ、どうも」と会釈《えしゃく》したが、数歩行きすぎてから、
「君、君!」
と呼び停《と》めたのは、茂呂ハゲの方だった。
「はい!」
太郎は急ブレーキをかけ、それからおもむろにふり返った。
「君、僕《ぼく》の授業に出てる筈《はず》じゃなかったの」
太郎は忙《いそが》しく考え、それから謝《あやま》った。
「そうでした。どうもすみませんでした」
「いや、いいんだ」
茂呂ハゲはひどく物わかりのいい男という感じでそう言い捨てると、又《また》歩き出した。太郎は何だかおかしな気がした。どう考えても、どこかに論理のまちがいがあるような気がし、三秒ほど経《た》って、やっと、その理由を突《つ》きとめた。
《なんだ、あいつだって、自分の授業さぼってたんじゃないか》
太郎は、家に帰ると、早速《さっそく》シチュー鍋《なべ》に、肉と野菜をしかけた。
玄関《げんかん》のベルが鳴ったのは、それから一時間ほど後のことであった。
「やあ」
果して藤原であった。
「入れよ」
「うん」
今夜は藤原を、床《ゆか》の上に敷《しき》布《ぶ》団《とん》を敷いて寝《ね》かせるつもりであった。よく自分たちのベッドを明け渡《わた》す、というようなことが、欧米《おうべい》の小説などに書いてあるが、太郎は、自分が他人のベッドに寝るくらいなら、床の上に寝る方がましだと思っているから、藤原に明け渡す気はなかった。
「どう? おふくろさん、立った?」
「ああ。僕は寺までは行かなかった。向うは向うで世話してくれる人がいるから、ホテルで別れて来たんだ」
太郎は藤原の好みを訊《き》いてから、パチンコでとった景品のココアを、上手に入れてやった。紅茶とコーヒーとココアでは、心理学的に果す役割が全く違《ちが》う。一番デカダンなのはコーヒーで、一番やさしいのはココアだった。紅茶は男の緊張《きんちょう》のための飲み物である。
「結局、いろいろあったけど、おふくろも、もう、弱っているしね。したいようにした方がいい、と僕は思うんだ」
「しかし、そんなに心弱ってて出家なんかできないだろ」
「だめなら帰ってくりゃいい。そんなに先のことまで考える必要はない、と思うんだ」
藤原はぽつぽつと喋《しゃべ》り出した。
母が離婚し、寺に入ることについて、そこには何のいさかいらしいものもなかった。藤原の母の実家は、秋田の山持ちで、金はあったし、母の祖父母も健在であった。祖父が死ねば、母は、かなりの額になる山を相続することになるのだが、それでも、父は母の門《かど》出《で》を励《はげ》ますために、かなりのまとまった金を贈《おく》ることになった。
「出家するってことは、もう、そういうものは一切いらなくなりました、ってことじゃないの?」
太郎は尋《たず》ねた。
「しかしね。金はどんな世界でもいるんじゃないの?」
藤原にそう大人びた口調で言われると、太郎は何となく押《お》されてしまった。
藤原と母が、東京の家を立つ前日、父が急に、午後二時頃《ごろ》、会社から家へ帰って来た。
《何かお忘れ物ですか?》
母は尋ねた。急に帰って来たことをとがめているのでもない、只《ただ》、気のない、弱々しい喋り方だった。
《いや、只、明日は早く立つそうだから、お別れを言いに来たんだ》
《それは、わざわざ、ありがとうございました》
《第二の人生をやりなおす以上、元気でやりなさい》
《ええ、そうしようと思ってます。あなたもお大切に》
《ああ、私のことはね、気にしなくていい》
話はぎごちない、というのではなかったが滑《なめ》らかには続かなかった。
《もう、用意は全部できたのかね?》
《ええ、もう殆《ほとん》ど。明日からは、私がこの家にいたという痕跡《こんせき》もなくなりますから……あなたもお気兼《きが》ねなく》
《いや、長い間、よく尽《つく》してくれたよ。ご苦労さまも言いたくてね、こうして会社を抜《ぬ》け出して帰って来たんだ》
《こちらこそ、長い間、なんのお役目も果せませんでしたのに、ありがとうございました》
「二人はつまり、そこで、最後にしっくり行ったんだな」
太郎は何となくほっとして尋ねた。
「僕は馴《な》れてるから、あんなもんだと思ってるけど……」
藤原は冷静な口調で言った。
「君が聞いたら、異様な感じがしたと思う」
「どうして?」
「うちのおやじとおふくろ、というのは、君も知ってるけど、言葉の貧しい人たちなんだ。僕もそうだけど」
「君はそうじゃないよ」
「善《よ》く言えば、彼らは、それぞれに躾《しつけ》を受けすぎていたんだ。自分の思ったことを、言うんじゃなくてね、言うべきことを言うように育てられて来てるから」
「でもいいじゃないか。彼らなりに、つまりきれいに別れたんだろ」
「ああいうのをきれいと言うのかな」
「世間では、きれいと言うんだ。裁判にもち出したり、とっくみあいの喧《けん》嘩《か》したりしないからね」
「僕はね、とっくみ合いしたり、ののしり合ったりする喧嘩って、すばらしいと思うね」
藤原は言った。
「人類は、二百万年も、そんなことやって来たんだ。やらない方がおかしいと思わないか。おふくろは自分が出て行けば、すぐその後の部屋に、おやじの女が入って来ることを知ってるのにさ」
「君たち兄弟は、そのことに賛成したの?」
「賛成するもしないもないと思うな。おやじが望めば、そうしたらいいんだ。おやじだって、自分の生きたいように生きたらいい」
「僕は、そういうドラマチックな光景に出会ったことないから、わからないけど」
太郎は言った。
「君んちは、あんなきれいな家だろう。おふくろさんの使った部屋、淡《あわ》い藤色《ふじいろ》の壁紙《かべがみ》か何か貼《は》ってあったろ。ああいう部屋から、別の女が出て来たら、どんな感じがする?」
「別にどうってことないな。彼女《かのじょ》が、おふくろの部屋を緑色とか、黒と白に統一するように模《も》様《よう》がえをするって言っても僕は反対しない。これは変な比喩《ひゆ》かも知れないけど、大ていの病院のベッドは、その上で誰《だれ》か死んでるんだ。それと同じだ、と僕は思う。部屋の主が変っても、どうってことはない」
「じゃあ、その手で、おふくろさんは、最後まで、つまりご立派にふるまったわけだな」
昨日は、朝早い新幹線で、藤原とおふくろは東京を立った。おふくろの友人が、三人ばかり見送りに来ただけで、ひっそりした出発だった。京都駅には、昔《むかし》から、藤原家と深い関係にある五十嵐《いがらし》さんという地方銀行の人が迎えに来ていたが、その人が、母が今度寺に入ることについて、いろいろ準備や配慮《はいりょ》をしてくれていると言われていた。夜は、その五十嵐さんが円山《まるやま》公園の裏の料亭《りょうてい》に席をとっておいてくれたので、母とさし向いで飯を食べた。縁先にすすきの穂《ほ》が白く揺《ゆ》れていて、又、いい月だった。
「今生《こんじょう》のお別れという気がしたか」
太郎は尋ねた。
「おふくろはそう思っていたらしい。しきりに僕に詫《わ》びていた」
「弟氏は何故《なぜ》来なかったの?」
「あいつは、いやだ、と言ったんだ。おふくろの世界には係《かか》わりたくないって。本当は弟の方が情が濃《こ》いんだと僕は思ってる。僕は、何もあまり信じてないから……」
「何を信じてないんだ?」
「全部さ。おふくろも、一生寺にいるかどうかなんてこと、わかりゃしない」
「そりゃ、そうだ」
「だから僕は平気で、京都まで荷物持ちについて来てやったし、おふくろとさし向いで、料理屋の飯なぞ食えるんだと思う」
「悪い人じゃなかったのにね」
太郎は後半の部分をのみ込んだ。藤原のおふくろは、離婚するなら離婚して、どこかに六畳《じょう》一間くらいの小さなアパートでも借り、そこで、週末に子供達の遊びに来るのを待っていたり、病院にいる長男を見舞《みま》ってやったりすれば、どんなによかったろうにと思ったのだった。
さし向いの夕食というのも、変なものだったし、ホテルへ帰ってからも、これが母との最後の晩だなどという懐《なつ》かしさよりも、もっと落ちつきの悪いものと藤原は闘《たたか》っていた。おふくろが窓を開けると、月光は部屋の中までさし込《こ》んで来た。藤原は、そんなことにはかまわず、さっさと二つ並《なら》んだベッドに入って眠《ねむ》ってしまった。いや、眠ったふりをした。おふくろは途中《とちゅう》で、小声で《俊夫、眠ったの?》と言ったが、藤原は黙《だま》っていた。するとおふくろは向うを向き、声を殺して泣いた。月の光が閉じた瞼《まぶた》の向うに明るすぎて、藤原は眩《まぶ》しくてならなかった。
「飯を食おうか」
太郎はそこまで話を聞くと言った。
「うん、実は腹が減ってたんだ」
藤原も言った。
「京都にいると腹が減るよな。あんまり上品なものばかりだからな。精進《しょうじん》料理や、懐石《かいせき》料理の食い放題って店あるといいけどな」
太郎は藤原家の食卓《しょくたく》では、かつて一度もこんな乱雑な皿《さら》の並べ方はあるまいと思われるほどいい加減に食器を並べると、話しながらちょいちょいと煮てあった、チルド・ビーフのシチューを、こ汚《ぎた》なくよそった。
「うまいね」
藤原はがつがつ食べた。
「とにかくよかったよな。おふくろさんにしても、今はそれが一番、おさまりがよかったんだから。おやじさんも、若い彼女とでなおした方がいいし」
「うん、おれもそう思ってる」
二人は胃のあたりがふくらむほど食ベ、最後に、それぞれ台所の庖丁《ほうちょう》で、梨《なし》の皮を剥《む》いて丸ごと食べた。
「君、これから銭湯《せんとう》へ行かん?」
「いいよ」
藤原は大ていの場合理由を訊《き》かない。二人は一休みすると、手《て》拭《ぬぐ》いをぶらさげてでかけた。
「おれも、おやじも銭湯へ行く趣《しゅ》味《み》あってなあ」
太郎は湯《ゆ》舟《ぶね》につかりながら言った。
「うちのおやじなんか、わざわざ、新しい風《ふ》呂屋《ろや》ができるとバスに乗ってでかけたもんだ」
「おれも、大きい風呂好きだな。小さい頃《ころ》はお祖父《じい》さんが、修善《しゅぜん》寺《じ》の旅館の大風呂に入れてくれた。すごい岩風呂でさ。おれ、舟のおもちゃ持ったまま、岩の上で滑《すべ》って頭うってさ。お祖父さんはびっくりしたそうだ。おれの頭それ以来、悪くなったってことになってる」
藤原は艶々《つやつや》した顔色をしていた。あ、こいつは過去とうまく別れたな、と太郎は思い明るい気持になった。大きな声で言えることではないが、友達が女とうまく手を切ったのを見たような、軽い尊敬の念に、太郎はとらえられた。
浴槽《よくそう》の中では、五つくらいの男の子が、父親が止めるのもきかず、しきりに暴れて、周囲の人にお湯のしぶきを浴びせていた。皆迷《めい》惑《わく》そうな顔をしながらも、面と向って声を出して、制止したり叱《しか》ったりする人はいなかった。
太郎はこういう「ガキ」を許さないことにしていた。
「全くだよな、風呂ってのは、危険に満ちてるからな」
太郎はそう言いながら、湯の中でさっと脚《あし》を伸《の》ばして、暴れている「ガキ」の足をすくった。子供はふらついて倒《たお》れ、湯の中に一瞬沈《しず》んであっぷあっぷした。それから慌《あわ》てて浮び上ると泣き出したが、太郎は知らん顔をしていた。
二人が太郎のアパートに帰り着いたのは、九時少し過ぎだった。
「ビールでも飲むか?」
太郎は言った。
「いいね」
しかし、その夜、寝る直前になって、藤原はボストンの中から、小さなティー・バッグをとり出して、「お湯を沸《わ》かさせてよ。お茶淹《い》れて飲みたいんだ」と言った。
「何だい、それ」
「カモミーリヤという一種の野《の》菊《ぎく》の花のお茶なんだ。疲《つか》れた時とか、神経の高ぶった時によく眠れるって、ヨーロッパの人は言うんだそうだ。おふくろが、よく大きなコップにたっぷりいれて、夜持って来てくれた」
「おれ、いれてやるよ。家中で一番大きなカップになみなみと作ってやる」
その時だけ、太郎は、ふと、別れた人への藤原の、低い痛々しい思慕《しぼ》を感じた。
5
三吉杏子から、山本太郎の所へ電話がかかって来たのは、十二月の、寒い風の吹《ふ》く夕方であった。
「今日ね、忙《いそが》しいかも知れないけど、つき合ってくれない?」
杏子は言った。
《今日、おひまだったらつき合って》などと言われると、太郎は《ひまはないよ》などと言いたくなるのだが、《忙しいかも知れないけど》と言われると、いやとは言えなくなった。
「いいよ。しかし、つき合うって、どういうふうにつき合うの?」
太郎は、三吉さんでなければ、一言で愛想をつかされそうなことを言った。
「そうね、さし当り、ご飯食べるのに、つき合ってよ」
「いいよ、それくらいなら」
太郎はそう言ってから、
「ずいぶん会わなかったね」
とつけ加えた。
「そうなの、東京へ行ってたの」
「ふうん。東京か」
「とにかく、六時に、今池のいつもの果物屋の角で待ってるわ」
「ああいいよ」
太郎は、垢《あか》だらけのアノラックを引っぱり出して着た。もう少ししゃれたニセ皮のジャンパーなどもあるのだが、どういうわけか三吉さんに会う時にめかし込《こ》んで行っても、不自然でわざとらしいような気がするのである。おかしいことに、こういうことは、意志が伝わるらしく、三吉さんも、どうみても不《ぶ》恰好《かっこう》な赤いアノラックを着て、およそ色気のない、毛糸の手あみの帽《ぼう》子《し》などかぶっている。ローティーンの趣《しゅ》味《み》だぜ、と太郎は言おうとしたが、叱《しか》られるとおそろしいので、黙《だま》ってじっと我《が》慢《まん》していた。
「どうしたのよ」
太郎は尋《たず》ねた。
「どうしたってことないでしょ。ご飯ぐらい食べるのが、そんなに不思議?」
これは危険な徴候《ちょうこう》だぞ、と太郎は心の中で思った。
「別に、悪かないけどさ。何、食べる? 僕《ぼく》何でもいいから、君に合わせるよ」
太郎は、ハレモノにさわる思いだったが、それを気づかれると、又《また》からまれそうなのでできるだけ、さりげなくしていた。
「私も、どこでもいい」
「君が決めろよ、つき合ってやるよ」
「男が、それくらい、決めたらどう?」
三吉さんのきれいな目で、じろりと睨《にら》まれて、太郎は《おお恐《こ》わ!》と思った。
「じゃ、初めに焼肉へ行こう」
三吉さんは反対もせずについて来た。
「東京へ行って、古本屋歩いた?」
太郎はできるだけ、さりげない話題から始めた。
「ううん、いかない」
いかないなら、何してたか、ということを訊《き》いているのに、話はそこでぷつんとと切れる。
「おれ、この頃《ごろ》、東京へ行かないなあ」
「そう?」
「東京へ行ったって、何てことないだろ」
「そうかしら」
どうもうまくないのである。
「学校の連中には会って来たの?」
「あなた東京へ行くと、学校なんか行くの?」
「行くよ。おれが高校にいた時、うちの高校の運動部、一番よかったもんね。今でも、おれ、運動部のOBとしては、もてるよ」
「山本君て、本当にオクテね」
「ああ、そうだよ、オレはオクテだよ」
太郎は少しむくれた。
「私は、東京へ行ったら、もう少しましなことしてるわよ」
「へえ、そう」
「私ね、すばらしい人に会ったの」
「誰《だれ》?」
「踊《おど》りやってる人」
「へえ」
「その人のお稽《けい》古場《こば》へ連れてってくれた人がいたの、それで、その人の踊るとこみたら、しびれちゃったの」
「ばかだなあ。がらにもなくちゃんと坐《すわ》るからだよ。きどってないで、脚《あし》なげ出したらいいのよ」
三吉さんは一瞬《いっしゅん》、白々《しらじら》しく太郎の方を見たが、こんな情緒欠損症《じょうちょけっそんしょう》みたいな男に、説明してやるのは損をすると思ったのか、それ以上は言わなかった。
「太郎君は《連《れん》獅子《じし》》なんて知らないでしょ」
「知らない。歌舞伎《かぶき》って見たことないもの」
太郎ばかりではなかった。山本家では、おやじの正二郎も、歌舞伎に関しては、これが日本人かと思うような無茶を言った。つまりたとえば、女が自害して、刀を胸に突《つ》き立てたまま、髪《かみ》を乱して、長広舌《ちょうこうぜつ》をふるったりすると、《おかしいな、早く医者を呼びに行けばいいのに》とか《あれ、まだ生きてら》などと隣《となり》にまで聞えるような声で言うものだから、同行した母は、いたたまれなくなるのだと言う。
「連獅子って、知ってるよ。角《かく》兵衛獅子《べえじし》みたいな奴《やつ》だろ」
「まあ、いいわ、少し違《ちが》うけど」
三吉さんはあきらめたように言った。
「もちろん、お稽古場でだから、ハカマはいただけで、のんきにやっているんだけど、所作の決ったときが、すごいのよ。本当に男の色《いろ》香《か》ってあるのね」
「にやけ男だろ。歌舞伎にはさ、ほら、白粉《おしろい》、まっしろに塗《ぬ》って泥棒《どろぼう》かぶりみたいな恰好して、女の手を握《にぎ》って、夜逃《よに》げみたいに逃げてく芝《しば》居《い》あるじゃないか」
「あのね、言っときますけどね、連獅子ってのはね、そういう意味ではね、イロケ皆《かい》無《む》の踊りなのよ。何で、あなたの言う角兵衛獅子が、泥棒かぶりして、女の手握って夜逃げするのよ」
太郎は、おそろしいので、三吉さんの心理をはぐらかすためにお銚子《ちょうし》を一本取ったのだが、彼女《かのじょ》は、今やそれを一人で手酎《てじゃく》でぐいぐい飲み出したので、別の恐怖《きょうふ》にとらわれ始めていた。
「何て言うのかな。その人が、ぴっと静止すると、近寄り難《がた》いような威《い》厳《げん》があるのよ。あんな威厳なんて、今の時代にないわね」
「世の中に制服というものがなくなったからよ」
太郎は力なく反論した。
「軍隊でもあれば、そういうイロケ、あると思うぜ」
「それで、手脚が高脚《たかあし》ガニみたいにぴっと伸《の》びてるように見えるの」
太郎は、今や、何が何でも、相手の悪口を言いたいような気分だった。
「だって、歌舞伎の人なんて、どうせ、頭でっかちの六頭身だろ」
「何言ってるのよ、そちらだって、胴長《どうなが》のガニ股《また》のくせに」
三吉さんのいいところは、そういう悪口が何となく、上品でさらりとしているところである。
「太郎君に教えといてあげるけどね、西洋式に言うと、胴長の六頭身も芸が加わると、高脚ガニになるってことなのよ」
「そうだろうなあ」
そこで又、太郎は、いとも簡単に納得《なっとく》し、賛成してしまうのだった。
「それで何なの。その人にいかれたわけ」
「だからしびれた、って言ったでしょ」
「何とかして親しくなってお嫁《よめ》さんにしてもらえよ。何なら僕も力をかしてやってもいいよ」
「どうしようもないじゃないの。奥《おく》さんも子供もいるのよ」
「なあんだ、世帯もちか」
「シンパがいっぱいいるんですってよ。役者買いっていうのかしら。女子学生やら、奥さんやら、皆、その人に、奥さん子供いるの承知で、いろんなプレゼント持って来るんだって」
「じゃあ、君も、お得意の大学芋《いも》でも作って持ってけよ」
三吉さんは、太郎をじろりと睨んだだけでせっせと焼肉を食べ続けた。そして、太郎さえも、八割方、お腹《なか》がいっぱいになったと思われる頃、ぱたりと食べやめると、
「ここで一応やめとく」
と言った。
「まだ、どこかへ行く気?」
太郎は、三吉さんの機《き》嫌《げん》を損《そこ》ねないように言った。
「今日はね、とことんまで食べたいの」
「いいよ。とことんまで食べるのはいいけど」
「とにかく、別の所へ行かない?」
二人は、割カンで勘定《かんじょう》を払った。大ていの場合、太郎は、自分がたくさん食べているような、ひけ目を感じるのだが、今日ばかりはそうでなかった。
「何を食うのよ」
店の外へ出ると太郎は三吉さんに尋ねた。
「『大陸』へ行ってラーメン食べようか」
「いいよ」
太郎は、応じた。二人は百米《メートル》ほど歩いて、ニンニクの匂《にお》いがぷんぷんしている店に入った。
「私はチャーシューメン」
「僕は、ギョーザ」
「私思うんだけどね、つくづく、女っぽい女になりたかったわ」
三吉さんは、また、続きをやり始めた。
「あ、うちのおふくろも、そう言ってら」
「世の中にいるでしょう。おくれ毛一本かき上げても、いたいたしいような風《ふ》情《ぜい》を持ってる人」
「ああ、さわらば落ちん、という奴ね」
三吉さんは、先刻《さっき》から何回目かに太郎を睨んだ。
「ふれなば散らん、というの」
「そうか。同じようなもんじゃないか」
「そういう人になりたいのよ」
「うちのおふくろも、常々言ってるよ。第一に小《こ》柄《がら》でなきゃ、いけないって、女は」
「お宅のお母さん、大きいの?」
「でかいよ。女としたらでかい」
「私はそれより、小柄でしょう」
「中柄ね」
「私、力あるのよ」
三吉さんは悲しそうに言った。
「それだけ食っちゃな。だけど、うちのおふくろも、力あるんだ」
「あら、だって翻訳《ほんやく》なんかしてるんじゃ、ペンより重いものは持ったことないんでしょ」
「それが、そうじゃないんだな。彼女は強欲《ごうよく》だからね。じゃがいも一袋《ふくろ》あげるわ、なんて言われると、前後の見さかいもなく、《本当ですか。嬉《うれ》しいわ》なんて言っちゃう。どうやって持って帰るか、なんてことは考えないんだ」
「もらっちゃえば、何とかなるものね。どうにもならなかったら担《かつ》いで帰ればいいのよ」
「そういう思想だから、だめなんだよ。うちのおふくろとそっくりだ。今にあんたもあんなになるよ」
「私ね、とにかく、すてきな女の人に生れたかったわ。あの人が、踊っててみだれるくらい、私がすてきな女だったらどんなにいいだろうと思うの。一ぺん、そんな思いができたら、死んでもいいと思うわ」
「下らないなあ。オレはやだね。オレなんか長く生きぬいて、もっと飯食ってから死にたいね」
「私たち、死ぬまでにあと何食食べられるのかしら」
「七十八まで生きるとすると、あと六十年だろ。一年に千九十五食として、それの六十倍だと、六万五千七百食」
「今日みたいに、一食に二食ずつ食べると……毎食ではないにしても、十万食くらいは行くかもね」
「十万食か、いい手ごたえだなあ。十万食!」
食べ残すかと思っていたが、三吉さんは、太郎のとった老酒《ラオチュー》をちびりちびりかすめて飲みながら、丼《どんぶり》一ぱいのラーメンをもてあましているふうにも見えなかった。
「その人が坐《すわ》ってたら、すぐ後ろにいた弟子《でし》の女の子が、そっと彼の肩《かた》についた、小さな塵《ちり》をつまんでやったの。その時の仕《し》草《ぐさ》が、また踊りなのよねえ」
「まだ、その話か!」
「そしたら、彼《かれ》が目ざとく、じゃなかった。そういう時、何ていうのかしら、耳ざとく、でもない、ヘンね、まあいいや、ぱっとふりかえって、しな作って、目《まな》ざしだけで礼を言うの。その目つきの冷酷《れいこく》なすてきさったらなかったわ」
「あんたや僕には、しょせん無《む》縁《えん》な話だよ。あきらめなよ」
「私、今からでも、弱々しい女になろうかしら」
三吉さんは、ラーメンの最後の一口分のソバを食べながら言った。
「やめてくれよ。キビが悪いよ。第一あんたの、唯一《ゆいいつ》のトリエは、食が太くて、重い物がもてて、体力があることなのよ。それがなくなったら、どうするんだよ」
「私、とりえがなくても、か弱い女になりたい」
「もういいから、家へ帰ろう」
「まだ、いや。今夜は悲しいから、もう少し食べる」
これだから、女の身の上話を聞かされるとロクなことにならない、と太郎は思った。
二人が、そこを出ると、夜風は、今年最初の本格的な寒さになっていた。
太郎が、その夜アパートへ帰りついたのは、九時少し過ぎだった。ベルトを緩《ゆる》めたのだが、胃はまだふくれ上っていた。
あれから、更《さら》に二人は、ホット・ドッグを一本ずつ食べた。そして、三吉さんは、寝《ね》る時に食べると言って、ヤキイモまで買って帰ったのだ。《あいつは偉《い》大《だい》だよ》と太郎は、独り言を言ってみた。それにも拘《かかわ》らず、胃は重さから、次《し》第《だい》に、質の悪い痛みに変りかけていた。
6
或《あ》る日、長い間ごぶさたをしていた本坊《ほんぼう》夫人から太郎に電話があった。
「あ、皆さん、お元気ですか?」
太郎はちょっと改まって言った。
「ええ、何度か、あなたの所へ電話かけたのよ。そしたら、でないか、お話し中かなの。そしたら主人が言うのよ。男の子はほっときゃいいんだって」
「ええ、本当にそういうとこだろうと思います」
「今日はね。あなたにばかにされるかも知れないことで、電話したのよ」
「何でしょうか」
「実はね、松茸《まつたけ》をほしければ取りに来てほしいと思って。そう言ったら、主人に又《また》言われたの。太郎君は松茸になんか執着《しゅうちゃく》あるもんか。オレだって松茸より豚《とん》カツの方がいい、ですって」
「おおむね賛成ですが、僕《ぼく》はちょっと違《ちが》うんです。実は僕、おはずかしいんですが、松茸わりと好きなんです」
「おはずかしいことないわよ。それよりか、今年になって、買った?」
「いいえ」
「外でも食べない?」
「いや、一度も」
「どう? よかったら、とりに来ない? 何をまちがえたかうちに恩があると思って下さった方が、大ザル一ぱい下さったの。明日日曜だから」
「行きます。自分で買えないものは頂きます」
太郎は松茸がどんな所に生えているのか見たことがなかった。大体、太郎は「××狩《がり》」と名のついたものをしたことがない。母の信子がそういうものを好かないのである。松茸狩の客をいれるために、適当な場所に松茸をセメントで植えておく、などという話を聞くと、ますます太郎はその気を失った。松茸がどこに生えるかは、子供にもうっかりは教えないという。或る強欲爺《ごうよくじい》さまはそのままおっ死《ち》んで、ついに遺族は、松茸山の場所がわからなくなってしまった。
松茸は又皮膚《ひふ》病《びょう》のタムシそっくりの生え方をするという話も聞いた。山のいただきのぐるりに丸く生えるのがタムシ、いや、松茸だという。太郎はまだタムシにはなったことがないので、松茸山の様《よう》子《す》も想像しにくい。
翌日の午後、太郎はおとくいの自転車に乗ってでかけた。
「こんちは!」
太郎は、本坊家の玄関《げんかん》に自転車を乗り入れながら叫《さけ》んだ。自転車には買物籠《かご》をつけて、松茸をいためずに持って帰れるようにしてあった。
「お入りなさい。今、お客さまだけど、構わないのよ」
太郎は昔《むかし》から遠慮《えんりょ》をしない子だった。母の客がいても、《あのね、僕ね》と傍《そば》にいて喋《しゃべ》りたがった。太郎は《人見知らず》であった。
「こちら、青木さんとおっしゃるのよ」
本坊夫人は、ほっそりとしてきれいな和服を着た奥《おく》さんを太郎に紹介《しょうかい》した。青木さんは一人ではなかった。太郎と背の高さの同じくらいな息《むす》子《こ》を同伴《どうはん》していた。
「辰彦《たつひこ》君なの、こちら」
本坊夫人に紹介されると青年はにっこり力なく笑った。
「高校ですか?」
太郎は社交的なところを見せた。
「ええ、本当は二年になってる筈《はず》なんですけど、実は学校へ行きたがりませんもんで、まだ一年なんです。今日は、本坊さんに、そのことでご相談にあがったんです」
青木夫人は、太郎には何という織物だかわからない着物を着ていた。それは、玄人《くろうと》風のところが少しもなくて、地味で感じよかった。
「学校なんて、誰《だれ》だっておもしろいもんじゃないですからね」
「あら、太郎ちゃんにも、登校拒否症《きょひしょう》的なところあった?」
「僕はね、ちょっと特殊《とくしゅ》事情なんですよ。うちにいると、おふくろに使われるでしょう」
「あらだって、お宅の母君はお料理何だって上手じゃない」
本坊夫人は言った。
「あれはね。食欲につられて一応は作るんですけど、後片づけはもういやなんですよ。皿《さら》洗う頃《ころ》になると、何のかんのと言うんです。翻訳《ほんやく》の原稿《げんこう》がはかどってないとか、書きものは腰《こし》が疲《つか》れるとか、私が死んだら皿洗い手伝っておけばよかった、って思うよ、とか、脅《きょう》迫《はく》めいたことまで言うんです。だから僕、使われそうで、恐《おそ》ろしくて、家にいられないから、やむなく学校へでも行くんですよ。その代り、僕は下校拒否症的なとこあったなあ」
「そういうものかしら」
青木夫人は考えているようだった。
「君、長男?」
太郎は辰彦に尋《たず》ねた。
「そうです」
「だろうな」
太郎は呟《つぶや》いた。
「そんなことわかりますの?」
「大体はね」
太郎は少々はったりだとは思ったが、言った。
「原理は簡単なんですよ。家が居心地よすぎるから、高校へ行かないんですよ」
「そうでしょうか。でも、この子は、うちは、ちっともいい家じゃない、って言ってますのよ」
「それは甘《あま》えでしょう。文句をつけても大丈《だいじょう》夫《ぶ》なような親だと思ってるんです」
「辰彦ちゃん聞いた?」
「ええ」
辰彦は、にやにや笑った。
「こうしてみると、ちっとも登校拒否症的じゃないじゃないの。うちの息子、娘《むすめ》共の方がずっと、愛想が悪くて、ぶすっとしてるわ」
本坊夫人が言った。
「登校拒否症の人って、皆、愛想いいですよ」
太郎は本坊夫人に言った。
「鬱病《うつびょう》の人は、社交的ですしね」
「どうしてそうなのかしら?」
「自分が世界をせばめるのが怖《こわ》いんですよ。ですから、本能的に、門戸を開こうとはしてる……そうだよな」
太郎は辰彦に言った。
「ええ、まあ、そうです」
辰彦は少しもさからわなかった。
「君、違うって言ったっていいんだよ。世の中、ひとにさからったって悪いこと少しもないんだ」
太郎は思わず、説教する立場になり、我ながら、らしくない、と思いながら言った。
「いや、その通りだと思います」
「辰彦ちゃん、今日、やけに素《す》直《なお》じゃない」
本坊夫人も言った。
「別に、迎合《げいごう》してるんじゃないんです。さからいたい、と僕思ってるんです」
「君の高校どこ?」
「猪高《いのたか》高校です」
「じゃ、うちのすぐ近くじゃないか。よかったら、暫《しばら》く、うちから学校へ通えよ」
太郎はそう言ってから、
「よろしいんでしょう? 辰彦君がどこから通おうと」
「ええ、それはもう行ってくれさえすればありがたいんです」
「じゃ、僕んとこへ、とりあえず、しばらくおいでよ」
「でも、ご飯なんかどうしますの? 外食ですか?」
青木夫人は、もうおろおろし始めた。
「どうしても僕ができない時は、外へ食いに行くか、ラーメンでも食べててもらいますけど、後は僕が、何とかして食べさせます。というより、二人で作りますから。だから松茸も二人分下さい」
「図々《ずうずう》しい人ね」
本坊夫人は笑った。
「大丈夫かしら」
太郎は青木夫人の狼狽《ろうばい》をおもしろく思いながら言った。
「飢《う》え死にした人はないんですよ」
太郎は、いともあっさりといい、本坊夫人も、
「そうね、そうしてみたら? 辰彦ちゃん」
と言いそえた。
「それじゃ、改めて、寝《しん》具《ぐ》やら何やら揃《そろ》えて……」
青木夫人が言いかけると、太郎がそれを遮《さえぎ》った。
「あのう、それをなさると、ダメになってしまうと思うんです。僕んとこにある寝具を使って、汚《きた》なければ、自分でカバーを洗って……」
「どう? 辰彦ちゃん、そうさせて頂く?」
母親は、おずおずと、息子のごきげんをうかがうような表情を見せた。
「アパートですか?」
辰彦は尋ねた。
「マンション、大マンションだよ」
太郎は答えた。辰彦の顔に、ちょっと食指が動いている、という表情が見えた。
「おもしろいわよ、辰彦ちゃん、太郎ちゃんとだったら暮《くら》してけるわよ」
「そうですね」
「登校拒否症の人って、大体、アタマいい癖《くせ》に、成績悪いんですよ」
太郎は言った。
「よくご存じですのね」
青木夫人はちょっと、驚《おどろ》いたように言った。
「下校拒否症もそうなんですよ。僕だって、模擬《もぎ》試験なんかはわりとよかったけど、学校の試験いつもよくなかったんです」
「そんなに学校がよかったの?」
本坊夫人が尋ねた。
「うちへ帰ると、あのおふくろが、眼鏡ずっこけさせて、内職やってるでしょ。《お帰り》とも言わないんだから」
「そこは少し青木家とは違うわね。青木さんも何があろうと子供の帰る時間には、家にいるけど、《お帰りなさい!》ってとび出して来る方でしょう」
「お言葉を返すようですけど、親ってのは、かまってくれなくてもいや、かまってくれてもいやなもんですよ」
「じゃ、どうしたらいいの?」
「どうしようもないです。したいようにして、どうしたって息子にはいいことできないんだ、って思えば、それでいいんです」
「変った人でしょう」
それは本坊夫人が、太郎について青木夫人に言った言葉だった。
「いえ、私、考えさせられました」
青木夫人は言った。
太郎はじっと聞いているだけで、黙《だま》っていればよかったのに、やはり一言余計なことをつけ加えてしまった。
「こんなことで考えさせられたりしてちゃいけないんですよ。そんなに誠実《せいじつ》にならずに、ひとの言うことなんか、聞き流しておく、という姿勢が大切なんです」
青木家は何でも、事を大ぎょうにしなければ、気がすまない性格らしく、太郎は何気なく、思いつきのように、辰彦と生活を共にすることを申し出たのだが、青木家では、そのことについて、「家族会議を開き」「本人の希望を改めて聞いた上で」「ぜひお願いしようということになり」「さし当りのものだけ持たせて」伺《うかが》うことにした、とこういうことになったのである。そのために、三日かかったので太郎は感心してしまった。
「いいけど、あんまりたくさん私物を持って来させないで下さい」
太郎は、青木夫人を電話でおどかした。
「本当は、フトンなんかよくないんです。フトンの柄《がら》みただけで、うちにいるような気になりますからね。茶碗《ちゃわん》や箸《はし》なんか、ぜひ僕のを使ってもらいたいんです」
太郎は青木夫人に、改めて、息子さんを大切には扱《あつか》いませんよ、と念を押《お》した。すると、学校へ行ってくれるなら、もうどんなことでも、と泣かんばかりであった。さらに青木夫妻は、太郎に挨拶《あいさつ》をする、というより、現場を見ないと不安だったらしく、連れだって息子を送りがてらやって来て、太郎は、海苔《のり》と羊羹《ようかん》の包みを貰《もら》ってしまった。
「さてと、どこかそのへん、好きなとこへ、机おいて、寝《ね》床《どこ》敷《し》けよ。人間、平らなとこさえありゃ、どこでも寝られるもんだからな」
親たちを追い払《はら》うと、太郎はほっとして言った。
「さてと、僕は君より二つ年上だ。少しいばることあるかも知れないけど、怒《おこ》るなよな、先輩《せんぱい》なんだから」
「よろしくお願いします」
「その押入れん中から、いいのを按配《あんばい》してフトンは敷いてくれよ。カバー汚なかったら、明日、洗濯《せんたく》機《き》で洗うといいや」
太郎がそう言い終らないうちに、玄関《げんかん》のチャイムが再び鳴った。
青木夫妻かと思って、太郎が心の中で構えながら戸を開けると、そこに立っているのは山中良子であった。
「あら、お客さま?」
「いや、同居人です、お入り下さい」
「そう? だって悪いじゃないの」
「いいえ、僕の弟分ですから、構わないんです」
「そう? じゃ」
「辰君!」
太郎はごく自然に、辰彦を辰君と呼ぶことに決めた。
「はい」
「君ね、紅茶いれてよ、僕たち話があるから。内密の話じゃないから、立聞きしていいんだよ」
「あのう、僕、紅茶いれたことないんです」
「いいわよ、お茶なんか」
良子が言った。
「じゃあ、僕が言うから覚えなさい」
太郎は辰彦に命令した。
「お湯をわかす、充分《じゅうぶん》に沸騰《ふっとう》さす。茶こしに、茶さじ二はい分たっぷりの紅茶をいれる。上からお湯を注ぐ、その際、茶こしを決して茶碗の中へつけない。そうするとアクが出てしまう」
「はい」
「これくらいのこと、高校生には必ずできる」
「ガスがつきません」
「ああ、そうだ、それは電池が切れてるんだ。電池はその小引出しの一番上に予備がある。さもなきゃ、マッチをすってつける」
辰彦は何となくうろうろしていた。電池を換《か》えたこともなければ、マッチをすってガスをつけたこともあまりないらしかった。その様《よう》子《す》を平然と見ながら、太郎は「今日は何かご用でした?」と大人のように良子に尋ねた。
7
太郎が青木辰彦と共同生活を始めて、改めて驚《おどろ》いたことは、辰彦が、大げさに言えば、飯の炊《た》き方も、お湯の沸《わ》かし方も知らないことだった。
「まず、そっちの方から勉強しろよ。生きてくには、その方が先だからね。東大へ入れたって、飯食わないと、死んじまうよ」
ガスコンロに火をつけたことがあまりない、ということも太郎には驚異《きょうい》だったが、その翌朝、塩鮭《しおざけ》を焼け、というと、辰彦はいきなり、魚の切身を火の上にのせようとした。
「まあ、どっちでもいいけどさ。網《あみ》を使った方が少し焼きいいよ」
太郎は言った。
「ああ、そうですか」
網を熱くしないで、ぱっと上へ切身を置いたが、太郎は知らん顔をしていた。火も強すぎて、やがて鮭は端《はし》から焦《こ》げ出したが、太郎はゆうゆうとその匂《にお》いを楽しんだ。塩鮭は、辰彦の弁当なのだから、多少こげくさくても、一向にかまわないのである。
太郎自身、彼に魚を焼かせている間に、せっせと掃《そう》除機《じき》をかけ、洗濯《せんたく》機《き》を廻《まわ》し、風呂《ふろ》の洗い場まで流してしまった。いつもはこれほどにしないのだが、今日だけは家事の下手《へた》くそな見物人がいるので、少しいいところを見せようと思ったのだった。
そうして働きながら、太郎が気になったのは、昨夜、訪ねて来た山中良子のことだった。自分は、辰彦のいる前でどんな話をしても何でもないと思ったのだが、それはやはり子供の心理だったのだろうか、良子は紅茶を飲み、二十分ぐらいお喋《しゃべ》りをすると帰ってしまった。
彼女が用事もなしにやって来るとは、太郎はどうしても思えないのである。彼女は何か太郎に言いたくて訪ねて来たのだが、見知らぬ辰彦という青年がいるのをみて、何も言わずに帰ってしまったに違いないのだ。
朝食が終り、弁当らしいものを詰《つ》め終ると、太郎は、自分の持っている鍵《かぎ》を一つ辰彦に渡《わた》した。
「何時には帰れる?」
「五時ちょっと過ぎです」
「帰りにさ、すまないけど、バター半ポンドと、パン一包み、買っておいてよ。バターは、マーガリンじゃないのをね」
「はい」
「じゃ、お互《たが》いにそろそろ行くとしようか」
太郎は、広大《・・》なアパート中にある暖房《だんぼう》器《き》のスイッチをさっさと停《と》めた。それから、二人は連れ立って家を出た。辰彦に、登技拒《きょ》否《ひ》の癖《くせ》があるなどということは忘れているみたいだった。
その日帰って来ると太郎は、辰彦に、
「学校、行ったの?」
と尋《たず》ねた。
「行きました」
「へえ、案外なんだね」
「だって、山本さんとこへ置いてもらえるのは、学校へ行くのを条件にだって、言われて来ましたから」
「律《りち》義《ぎ》だなあ。世の中、あんまり律義にならなくていいんだよ」
「はあ、そうですか」
「君が学校へ行きたくないのは、律義だからなんだぜ」
「どうしてですか?」
「お宅の親《おや》爺《じ》さん、学校の成績ずっといい人だろ」
「まあ、そうだったようです」
「おふくろさんも、高校で一番か二番だった」
「嘘《うそ》かも知れませんけど、僕《ぼく》らには、そう言ってます」
「ほんとさ。顔みりゃわかる。ああいうのは、おっかないくらいよく試験勉強するんだぜ」
「――――」
「それで又《また》、まずいことに、世間と、あんた自身が、メンデルの遺伝の法則なんてのを信じてるんだよな。だから、秀才《しゅうさい》のオヤジとオフクロからは、秀才が生れる筈《はず》だと思う。ダメよ、そんなこと信じちゃ」
「別に信じてません」
「君は信じなくても、親というのは期待するし、世間はもっと盲目《もうもく》的に信じてるからね。君はどうしても秀才にならなくちゃならない。ところが、秀才というものには、なかなかなれない。そうすると、こんな筈じゃなかった、と皆が思う。君もひどく不愉《ふゆ》快《かい》だ。君と同じ成績でも、もしオヤジさんが、昔の小学校しか出てないと、けっこうな成績だ、ということになるのになあ」
「僕は、本当にできないんです」
「まあ、そんなことはどうでもいいけど、君よく、政治運動しようと思わなかったね。偉《えら》いよ」
「ああいうのは、あまり気が合わないんです」
「君みたいに、不当な理由で挫《ざ》折《せつ》感を抱《いだ》くと、気の弱い奴《やつ》は、政治運動するんだよ。それで勉強のできない理由がみつかるし、男が立つし、見返してもやれるし、自分はヒューマニズムに反さないことをしてる、っていうニセの自覚を持てるし……」
「そうなのかな」
「みんな言いわけさ。それからみたら、君、ほんとに男らしくて強いと、オレは思うね」
「そんなことはないです」
「成績ビリに近い方?」
「さあ、下から四分の一くらいの所、だと思います」
「そんなにいいの! そんなにさぼってて」
「お情けで、そうなんだろうと思います」
「遠慮《えんりょ》すんなよ。しかし驚いたなあ。そんなにいいのか!」
「よくないんですよ。下から四分の一だから」
「オレがっかりしちゃったな。君が、ドン尻《じり》ぐらいだろう、と思ってたのよ。それなら、成績よくするのも楽だな、と思った。だけど、もう下から四分の一んとこにいるんだろ。しかも、君以下の奴は、ちゃんちゃんと学校へ行っててもそうなんだろ」
「一人、僕ほどじゃないけど、かなり休みの多いのがいるらしいんですけど」
「でも、君は本気でやったら、本当はすごい人なんだろね。できすぎるよ、きっと。そういう奴も、公害の一種なんだぜえ」
「まさか。僕はそんなことはないです」
「君はな、ビリだと思ってやれよ。つまり、クラスの最下位にいると思いなよ」
「いつも思ってます」
「そうすれば、学校へ行ってさ、皆が君のことバカにしたり、先生がこんなこともわかんないのか、って言ったりしても、大丈夫《だいじょうぶ》だよな。とにかく言われても仕方ないよな。君はビリなんだから」
「そうです」
「ビリの奴ってのは、大てい二、三十年経《た》ったら大物になってる率多いんでね、僕は、あんたに、その光栄あるポジションやりたくないんだけどね。まあ仕方ないや。とにかくビリに徹《てつ》しなよ。ビリはオレにしか勤まらんと思えよ」
「ええ、もう思ってます」
「それでと……夜は、食事と後片づけ済ましたら、僕は三時間はみっしりやるからね。喋りかけても返事せんよ」
「すごい集中力ですね」
「オレ、修業《しゅぎょう》したのさ」
太郎はいい気になってホラを吹《ふ》いた。
「うちのおふくろ、って煩《うるさ》い奴なのさ。しかもとにかく人づかいが荒《あら》いんだ。東京の家は狭《せま》いだろ。だから、オレ、人が何言っても聞かないように修業したんだ」
「それができればいいですね」
その夜、太郎は、辰彦に食事の後片づけをさせる間、自分は、ツマヨウジを噛《か》みながら、テレビを見ていた。そしていかにも、横暴な上級生という感じで、「へへへ」と一人でバカ笑いをしたり、「やった!」と手を叩《たた》いたりした。辰彦は仕方なく、コマネズミのように動き廻った。彼の仕事が終った頃《ころ》、太郎はパチンとスイッチを切り、
「さあ、これからは勉強勉強」
と背のびをした。何のことはない、辰彦にはテレビを見せないつもりなのである。
「一つだけ例外をもうけるよ。勉強のわかんないところの質問なら、途中《とちゅう》で、いくら訊《き》いてもかまわないよ」
太郎はそう言って、タオルで鉢《はち》巻《ま》きをし、机に向った。辰彦もあきらめ切った表情で、座《すわ》り机に向ったが、さすがに太郎の姿はあまり見たくないらしく、反対側の壁《かべ》の方を向いていた。
太郎は、ひとには口をきくな、と言った癖に、自分はけっこうやかましかった。鉛筆《えんぴつ》でこつこつ机を叩いたり、「そうだよなあ、そうこなくちゃうまくないよなあ」と独り言を言ったり、アクビをしたり、大きな音を立ててオナラをしたりした。その上、横暴なことに、時間が来ると自分の見たいボクシングだけは平気でテレビをつけて二十分ばかりじっくり観戦した。
十一時になると、太郎は、「おい辰君、風呂へ入って寝《ね》よう。お湯とって、湯加減見てくれや」と命令した。
十二月になって、風の冷たさが一際《ひときわ》きびしくなると、太郎は今池で、ニセ皮(つまりビニール)にニセ毛皮(つまりナイロン)の裏をつけたドスのきいた安物のジャンパーを買った。そして、これを着て帰った時のおふくろのうさん臭《くさ》い目つきを思いながら風の中を歩いていると、突然《とつぜん》、向うから、かっぽう着姿で小走りにやって来る山中良子に会った。
「あら、どうしたの?」
「そちらこそどうなさったんですか」
「私ね、今、勤めてるのよ」
声は低目だった。
「どこに?」
「すぐそこの蒲《ふ》団《とん》屋《や》さん。あなた蒲団買うんだったら、安くしてあげるわよ」
「でも、何だって……」
太郎が尋ねようとすると、良子は、
「すぐそこだから、ちょっと来てよ。そしたら、三十分ばかりヒマもらって、おいしいお汁《しる》粉《こ》ごちそうしてあげるわよ」
本当に店までは、もうそこから五十米《メートル》と離《はな》れていなかった。
「ずいぶん、ごぶさたしちゃって……」
太郎は汁粉屋に入ると、ひどく情緒《じょうちょ》的な気分になった。山中良子に女性を感じたと言うのは言いすぎだった。しかし、年上の女の人の、しかもお妾《めかけ》さんというような人と、冬の寒い日に、汁粉屋でさし向いになっている、というようなことが、すてきでなくてなんであろう。
「いつか、来て下さった時、辰君が来た晩でドタバタしてて、本当に失礼しました」
「いいのよ。あの子、その後どうした? やっぱり学校へ行ってない?」
「それが驚いたことに、大体行ってるらしいんです。三日ぐらい風邪《かぜ》ひいて休みましたけど、その日も、ごまかしたりせずに、堂々とうちで寝てましたから」
「どうして、行く気になったんだろ」
「劣等生《れっとうせい》でいいんだ、って言ったからじゃないですか。あの子は、優等生にならないと許されそうにないフンイキを感じて、それが果せそうにないから逃《に》げてたんですよ。でも、あいつは、劣等生じゃない。頭は実はかなりいいんです」
「でも、そう言っただけで、学校へ行くようになったの?」
「そうじゃないんです。うちにいると居心地悪くしたんです。茶碗《ちゃわん》洗わせて、掃《そう》除《じ》させて、風呂場のタイル磨《みが》きまでやらせたから。朝八時になると、暖房はびしっと停《と》めるしね。学校に行かずにいられないんですよ」
「あなたも、案外、ワルなのねえ。ところで御《ご》膳《ぜん》にする田舎《いなか》にする?」
「断然、田舎汁粉です」
「私も」
良子はウエイトレスに言ってから、
「実はね。旦《だん》那《な》の仕事の景気があまりよくないのよ」
と少し淋《さび》しそうに言った。
「それなら、それで、もう少し早く言ってくれれば、あんなアパート買わないでおいたのに」
「でも、それじゃ損したかも知れませんよ」
「彼はね、心配するな、って言うの。でも、私ね、わかるのよ。そして、とっても可哀《かわい》そうなの。お手当て全然もらわないと又、気にするから、五万円だけ受けとってるんだけど、それは貯金しておいて働きに出さしてもらったの。私が月給でもらってくるくらいのもの、どうにもならないかも知れないけど、たとえ、五万円のお金だって、私が受けとるんじゃなくて、出してあげられる立場になったら、彼も、少しは気持が慰《なぐさ》められるかも知れないもんね。よくなったら、私、断然又、もらっちゃうけど」
「山中さんは偉いですね」
「偉くはないのよ」
「だって、普通勤めるとしたら、水商売やった方が効率がいいんでしょ」
「私ね、どっちかって言うと、昼働くのが好きなのよ。夜はねえ、疲《つか》れてころりと眠《ねむ》るのが好きなの。あなた信じないかも知れないけど、うちの旦那だって、そうなのよ。私がそういう女だから、気にいって、こういうことになったの」
「それはそうでしょうね」
「それがね、そういう人が、この頃、お金をどうやって工《く》面《めん》しようかと思うと、夜眠れないんだって。可哀そうよ」
「そうでしょうね、僕、そういう意味のお金の苦労したことないから」
「相変らず、本読んでる?」
山中良子は、ウエイトレスのおいて行った、塗《ぬ》りのはげたお椀《わん》を、いとしそうに掌《てのひら》の中に抱いて口をつけながら言った。
「ええ、この頃、わりと読んでるんです。僕独学で、マレー語も始めたんです」
太郎は少しはにかんだ。
「何ですって、どこの言葉?」
「マレー語です。マレー半島や、インドネシヤ、ボルネオなんかで使われてる言葉です」
「へえ。よく、そんなもの覚えられるのね」
「マレー語はね、世界中でも易《やさ》しいんで有名なんですよ。“ベル”という言葉を名詞につけると動詞になるんです。たとえば、ジャランは通りです。ベル・ジャランと言うと、歩くという意味になります」
「日本語にもそういうのあるといいのにね。元気は元気のことで、ベル・元気というと元気になる、んだというのにね」
「なりますよ。辰君なんか見てると、今はベル・学校ですよ」
「学校へ行ってる、ってわけね」
「本心はまだ好きじゃないらしいですけどね、とにかく自分の能力が意外とあるのにたまげてるらしいですよ」
太郎は、良子より一息早く汁粉を食べ終った。
8
太郎は十二月の講義があらかた終っても、青木辰彦の高校の授業がある限り、それとなく名古屋に残っていた。
「意外とよく、勉強するんだなあ」
太郎はそう言って、時々辰彦のじゃまをした。
「そんなことありません」
「そうかなあ、しすぎだよ。だけど、君、思ったより粘《ねば》りあるんだね。それとも、僕《ぼく》の手前、いいとこ見せようと思って無理してるの?」
「そんなことはないです」
「じゃあ、ずいぶん成績よくなっちゃうよ、きっと。英語の基礎のできてないのがいけないけどね」
「今から、やったら、遅《おそ》いでしょうか」
「僕もね、実はそれやったのよ。後遺症ないわけじゃないけど、まあ、何とかならないではない」
しかし、多くの場合、太郎は辰彦の勉強には、何のたしにもならないような話しかしなかった。
「今さあ、これさえ言ってりゃ、まちがいないって言葉があるのよ。辰君わかる?」
「公害反対ですか?」
「それよりもっと完全なの。公害はね、まだ少し実際的なんだな。自動車は公害をまき散らす。しかし自動車を全面廃《はい》止《し》したら、輸送力の点で社会生活がくずれる、っていうジレンマがわかってる人も、かなりいるんだ。それは証拠《しょうこ》が出せるからさ。だけど、どうにもならないのがある」
「何ですか」
「非武《ひぶ》装《そう》中立、世界は一つ。この思想さ」
「日本は島国だからできるんじゃありませんか」
「非武装中立なんて、どこの世界だって悲しいかな考えられないだろ。考えてみろよ。現実問題として、そんなこと言ってて、安全の保障される国は一つもないのに、いい年したおっちゃんが、新聞で本気になって書いてるんだよ」
「新聞て、そんなものですか」
「そんなものだから、読んでて楽しいってこともあるけどさ」
太郎は言ってから、
「世界は一つ。全く甘《あま》いよなあ」
とつけ加えた。
「世界は一つになれませんか」
「百年や二百年はね、保証してもいいや。世界が一つでないことを、こと細かく証明するために、文化人類学ってのはあるんだから」
「はあ」
「高級なことでなくても、ヒンドウ教徒は牛肉を食べない。イスラム教徒は豚《ぶた》を食べない」
「僕はトリがダメです。肉は何とか我《が》慢《まん》できるけど、あの皮だけは気持悪いです」
「さし当り、残ってるのは、トリと羊《ひつじ》なんだ。だから世界政府作って、肉はトリと羊ということにしたら君どうする?」
「羊は父も母も臭《くさ》いって食べません。東京のレストランでいつか食べたら、後で、食道の裏側にべっとり冷えた脂《あぶら》がかたまったみたいになって、気持悪くて吐《は》いたそうです」
「それみろ。世界政府になって平気なのは、オレくらいなもんだ」
「何でも食べられますか?」
太郎は小さな声で答えた。
「ゴマあえ以外はね。オレ、ゴマあえ、全部気持悪いんだ」
「ゴマあえは、世界政府は採用しないと思いますよ。多分、スパゲッティとか、ハンバーグ・ステーキなどが残ると思います」
「ヒンドウ教徒にそんな統一メニューを食べさせてみろ。暴動が起るから」
「スパゲッティはどうでしょう」
「茹《ゆ》で方で、やっぱり暴動が起ると思うね。イタリー人は好みがそれぞれ決ってるんだ。沸騰《ふっとう》したところに入れて十一分半とか、十二分とか。ブランドと個人の好みで茹で方が違《ちが》う。自分の好みのものが供給されないと、再び、イタリー独立を叫《さけ》ぶ奴《やつ》がふえると思うね」
或《あ》る日、辰彦は言った。
「太郎君の話って、変ってますね」
「そうかな」
「少なくとも、うちの話とずいぶん違います」
「どういうふうに?」
「太郎君の話って、実際の生活と関係ないこと多いでしょう。うちのは、誰《だれ》がゴルフを始めたとか、誰のうちの息子《むすこ》と誰んとこの娘《むすめ》が結婚するとか、誰が家建てたらしいとか、そういうことです」
「オレ、そういう話知らないんだ」
「本居宣長《もとおりのりなが》って知ってますか」
「よくは知らないけど、おそろしく歌の下手な奴だろ」
「だけど、先生はそっちの方の大家みたいなこと言ってました」
「国文法の学者としては大したもんだろ。だけど歌はひどかないか」
「なんとかの大和心《やまとごころ》をなんとか、って歌を習いました」
「朝日に匂《にお》う山桜花《やまざくらばな》。観念的な歌ね」
「そう言われればそうです」
「あいつが新古今でいい、と言ってる歌、ほんとにひどいぜ。あんまりひどいんでまだ覚えてるのがある。《ふりつみし高根のみ雪とけにけり清滝川《きよたきがわ》の水のしらなみ》っていう西《さい》行《ぎょう》の歌があった。写生文だと思えばいいかも知れないけど、ほんとに何一つ胸をうたない。第一、宣長はさ、それについて、水のしらなみってのは、水かさが増して波が高いっていうことで、水が濁《にご》っていると思うのは解釈の誤りだ、ってわざわざ書いてあるんだけどさ。オレ反対だな。雪どけの川の水って信じられないくらい、赤茶色く濁ってるのが普《ふ》通《つう》なんだ。清滝川が特殊《とくしゅ》ケースなら知らないけど。だからなぜ、濁っていると解釈するのはまちがい、と書いたのか、そこんとこがてんでわからない」
「しかし、本居宣長といえば、偉《えら》い人でしょう。その人の書いたものを疑っていいんでしょうか」
「辰君に教えてあげる。その作品が、いいか悪いかを決めるのは簡単なんだよ。小説でも和歌でも、作者名を消してみればいいんだ。それで読んでみて、いいものはいい、悪いものは悪い。一人の作者でも、いい作品はいい、悪いものは悪い。総なめに、いいとか悪いとか、決めることはないさ。それともう一つ、決定的な批評というのはない。自分の眼《め》も、批評家の眼も、共に絶対に正しいと思うべからず」
「少し安心しました」
「それより、オレ、もっと心配なことがあるんだよう」
「何ですか」
「カモメのジョナサンって映画作るんだってね」
「らしいですね」
「まともに作ったら、どのカモメがジョナサンかわかるわけはないだろうに」
「そう言えば、そうですね」
「本当に心配だなあ。君、心配にならない?」
「心配です」
「よかった。僕だけじゃなくて、安心したよ。じゃ、いってらっしゃい」
青木辰彦は狐《きつね》につままれたような表情で、カバンを持って玄関《げんかん》に立った。
太郎は二十一日の早朝の新幹線で家に帰った。
「忙《いそが》しかったんだよ」
太郎は、どさりとボストン・バッグを置きながら言った。
「僕、意外と、義理がたいもんね」
「そうかしら」
母の信子は信じていないようだった。
「部屋の掃《そう》除《じ》はして来たし、クララ寮《りょう》のシスター達や、アパートの二号さんにも、チョコレートのクリスマス・カード置いて来たしさ。ねえねえ、それから僕、もうけちゃった」
「パチンコ?」
「違うよ、青木家から、下宿代にって、二万円ももらっちゃったんだよ。これだけじゃないんだよ。間に、牛肉の味噌《みそ》漬《づけ》や、シャケの切身や、車エビや、ずいぶん貰《もら》ったんだ。僕の買うものは、安いものばかりでしょう。だから、辰君にとうてい二万円なんて食わしてないんだよ」
「まあ、頂いておきなさい」
「もうかっちゃったな。僕、卒業したら、下宿屋のおやじになろうかしらん」
「藤原さんとこはお正月どうするの? 子供二人だけで、家政婦さん相手に、お正月するの?」
「おやじがね、後妻を引き込《こ》んだんだってよ。だから、その人が別にクリスチャンでもないのに、クリスマス・ツリー飾《かざ》って、夜中に靴《くつ》下《した》ん中に、プレゼントいれといてくれるらしいよ」
「まさか」
母は信じなかった。
「その意味では、あの出家したおふくろと後妻は、よく似てるんだって。だから藤原も、せい一ぱいご期待にこたえるために、夜中に継母《ままはは》が、プレゼントの靴下持ってこっそり部屋に入って来てるときは、薄《うす》目《め》を開けて寝《ね》たふりしてやってるんでしょうよ」
後半の部分はでたらめだが、その光景の持つ空気は、それほど異質ではなかろうと思われた。
「おふくろさん、それから、夕飯はいらない」
「どこへ行くの?」
「高校のそばのカツライス食いたいんだ」
一瞬《いっしゅん》、おやじに悪いかな、と太郎は思ったが、東京へ帰って来て、大都会の汚《よご》れた空気を肺一ぱいに呼吸《こきゅう》する魅力《みりょく》にはかえがたかった。
太郎は、それから、電話器の前に坐《すわ》り込んで、何本か電話をかけた。幸い黒谷は家にいた。
「藤原に電話をかけたか?」
「いや」
「お前んとこにも、今に連絡あると思うけど、おれたち、二十八日に、横《よこ》須賀《すか》の杉山《すぎやま》さんとこへ招かれてるんだぜ」
「へえ」
「つまり、それは美《み》幸《ゆき》さんと大槻《おおつき》さんって人の、婚約披《ひ》露《ろう》パーティでもあるんだ」
「藤原は行くかしら」
「行かなきゃ、ならないだろ。大槻さんにも世話になったんだから」
「美幸さん、学校やめるの?」
「やめないんだって。来年の春結婚して、ずっと続けるんだって」
「千《ち》頭《かみ》さん、何て言ってるかなあ。あの女、自分が一番先に結婚するもんだと思い込んでたんだろうに」
「千頭さんも、来るんじゃないか?」
「オレ……」
「何だ?」
「何でもない。ああ、そうそう、オレ、運転免許証とった」
黒谷は言った。
「安心しろよ。当分乗らんよ、オレは」
「藤原はこの間、乗ってくれたぜ」
「あいつは恐怖心《きょうふしん》というか、想像力が欠けてるんだ」
太郎はそう言って電話を切ったが、ふと、藤原は、車がぶつかって死ぬなら死んでもいいと思っているのではないか、と思った。
太郎は次に千頭慶《けい》子《こ》さんに電話した。慶子さんはいなかったが、おふくろが、社交的な調子で、名古屋の生活をいろいろと聞いた。
「一人で、マンションにお暮《くら》しですって……」
「ええ、まあ、何とかやってます」
「お偉いわねえ。お料理もなさるの?」
「僕、すごくうまいんです」
「まあ、大したものだわ。慶子が言っておりましたけど、北川大学って、だんだんむずかしくなるんですってねえ」
「いえ、地方の三流大学ですよ」
太郎は思い切って大安売りで謙遜《けんそん》してみせた。
「いいえ、太郎君がご卒業の頃《ころ》には、きっと、有名大学になってますわ」
「そんなことはありませんよ」
電話を切ってから、それがどうした、と太郎は思った。もうそういう計算だけは真っ平だった。
三本目は藤原だった。
「どうしてる?」
「うん、まあ、やってる」
「勉強はかどってる?」
「あんまりはかどりもしないけど」
「去年と同じに受けるの?」
一瞬沈黙《ちんもく》があってから、
「おやじは、反対してるけどね、僕は大田学園大学の自然環境《かんきょう》学科も受けようかと思ってる。おやじにすれば、植木屋になるつもりかというところだろうけど」
「地方公務員にはなれるよな。各県庁に公園課ってあるだろ」
「――――」
「杉山さんちへ行く?」
「ああ」
「美幸さん、婚約したの?」
「らしいよ」
「黒谷が、車で横須賀へ行こうと言ってた」
「うん」
「あんまり、あいつの運転信用するなよ」
答えはなかったが、太郎は藤原がにやりと笑うのが見えるような気がした。
四本目は、三吉杏子さんの家だった。ベルが鳴っている間に、母が、
「よくかけるわね」
と言ったので、太郎は、
「煩《うるさ》い! 黙《だま》っててよ」
と口をとがらせた。
「北川の山本と申しますが、杏子さん、お帰りでいらっしゃいましょうか」
「ああ、山本さんでいらっしゃいますか」
母らしい声の人が言った。
「いつも杏子がお世話になっておりまして」
「いいえ、僕こそ」
「杏子が、山本君はいつでも、どこへでも気さくにつき合って下さるんで、虫よけナフタリンの代りにとってもたすかるんだって、言っておりますのよ」
「はあ、いや……」
「今、杏子、二階で髪《かみ》洗っておりますけど、すぐ呼んでまいりますから」
杏子の母が引っこむと、太郎は、受話器を手でおさえて呟《つぶや》いた。
「虫よけナフタリンてことはないよなあ」
太郎は、かなり本気で不愉《ふゆ》快《かい》になっていた。
9
杉山家のクリスマスは、結局、二十四日でもなく、二十五日もやめて、二十六日の夜、ということになった。太郎は詳《くわ》しく説明はされなかったが、杉山ドクターや、大槻さんの都《つ》合《ごう》を考えると、その日が一番いい、ということになったらしかった。
「ねえ、お父さん」
その朝、太郎は言った。
「何だ」
「クリスマス頃《ごろ》はさ、バーとかキャバレーとか混《こ》んでるの?」
「さあ、よく知らん。二十四、五日はそうかも知れないけど、今日はもういいんじゃないか。今日から、三、四日間で御《ご》用納《ようおさ》めのところが多いから、それどころじゃないんじゃないか」
「そうかな」
太郎は何かを考えていたが、
「親《おや》爺《じ》さん、お金、くれない?」
と言った。
「金、ないのか?」
「東京で使う分は、できるだけ、持って来ないようにしてるんだ。そうでないと、名古屋の貯金、ひどく減り方が早いように思われるもんね」
山本正二郎は黙《だま》って立ち上ると、洋服箪《だん》笥《す》につるしてある背広のポケットから、一部分が窓のようになっている封筒《ふうとう》をとり出して来た。
「これだけやろう」
それはどこか民放の座談会に出た時の謝礼であった。太郎はちらと中を数えてみて、「悪いね」と言った。
「今日は僕《ぼく》、夕方から杉山さんちへ行くから、帰りはうんと遅《おそ》くならあ。鍵《かぎ》持ってくから、先寝《ね》ててよ」
太郎は、実は、親に内緒《ないしょ》の隠《かく》し金を持って来てはいた。一万円札を二枚、一枚ずつ四つに畳《たた》んで、身分証明入れの中に入れてある。但《ただ》しこれは、万が一の時、どうしても親に言いたくないことをする時のためである。
太郎は、父親の「労働の賜物《たまもの》」であるお金を、財《さい》布《ふ》に取り込《こ》んでから、隣《となり》の家に住んでいる祖父母の所へ出かけて行った。祖父は床《とこ》屋《や》に出かけているということで、留守《るす》であった。
「おばあちゃん、お早う。おばあちゃん、美人だね」
「まだ言ってるのかね、この子は」
「ほんとに美人だよ、おばあちゃんは。うちのおふくろは、エリザベス・テーラーと同い年だけど、彼女《かのじょ》より美人だし、おばあちゃんはデートリッヒよりきれいだよ」
太郎は、かねがね、人間全く心に無いことでも、白々《しらじら》と言う技術が無ければならぬ、と思い込んでいるので、こういう時にその練習をするのだが、今日はその他《ほか》にもう少し魂胆《こんたん》もあった。
「全く東京ってえのは、電車賃がかかって大変だよ。うちのおふくろさんは翻訳《ほんやく》ばかりしてて、買物は一番近いマーケットだから、殆《ほとん》ど電車なんか乗らないでしょ。それであの女《ひと》には、電車賃の高さなんか、てんで実感無いんだよな」
「名古屋はそんなに高くないかね」
「高いけどさ、たいていは自転車だもんな。東京でも自転車さえあれば、新宿だって銀座だって平っちゃらだけど。昨日なんか、僕お金足りなくなっちゃって、一駅歩いたんだよ。知ってる? おばあちゃん。一駅手前で降りると、二十円安くなるんだ」
「昨日は雨が降ってたろうに」
「降ってたってしかたがないんだよ。人間、金を儲《もう》ける時には、辛《つら》い思いもしなきゃならないんだ」
ほっそりした祖母は、そこで身軽に立ち上った。箪笥の一番上の引出しを開け、帯地の残り布で作った薄汚《すうぎた》ない財布の中から、五千円札を一枚引き抜《ぬ》いた。
「お正月にね、お年玉を上げようと思っていたんだけど、そんなにお金持っていないんなら、先に上げるよ。かわいそうに、雨の日くらいちゃんと乗って帰りなさい」
釣《つり》の言葉で、入れ食いというのがあるが、祖母を欺《だま》すのはまさに、餌《えさ》をぽんと入れると、途《と》端《たん》にぐいと手《て》応《ごた》えがあるという感じであった。
「いいよ、もらうのはやっぱり正月にするよ」
太郎は、口ではそう言いながら、もう手を出していた。
「いいよ、無理しなくたっていいじゃないの」
「どうも済みません」
と、さらりと受け取ってから、太郎は、このことはいつ親爺たちにばれるかな、と思った。
免許取りたての黒谷の車には、乗らないと言っていたのに、太郎は、やはり藤原と三人で喋《しゃべ》りながら行けることの魅力《みりょく》に「しぶしぶ」乗って行くことにした。
彼《かれ》等《ら》が杉山家に着いたのは四時頃だったが、既《すで》に千頭慶子さんは来ていた。大槻さんは、もう一時間半ほどしてから後で、という話だった。
「クリスマスったって、クリスマスの飾《かざ》りは何にもうちしないの」
美幸が言い訳するように言った。
「ありがたいなあ。僕、クリスマス・ツリーの恐怖症《きょうふしょう》なのよ。クリスチャンでもないのに、あれ飾っている奴《やつ》みると、ぞくぞくしちゃうよ」
太郎は、瞬間《しゅんかん》的に言い、それから千頭さんの顔を見て、「しまったことを言った」と思った。恐《おそ》らく、あの千頭家では、良妻賢《けん》母《ぼ》のお母さんが、信仰《しんこう》とは別に、クリスマスと正月を共にやっているのだろう、と太郎は思った。
「藤原君はその後、神経痛も出ない?」
杉山氏が尋《たず》ねた。
「ありがとうございます。お蔭《かげ》さまで、ほんとに僕、元気なんです」
「お母さんが、お寺に行かれたんだって?」
「ええ、そうなんです。あの人は昔《むかし》から、世の中が辛《つら》過《す》ぎた人なんです。だからいつもどこか逃《に》げ込む場所を捜《さが》してます。あれでちょうど良かったんじゃないかと思います」
「親というものは、全く子供に迷惑《めいわく》をかけるよね、どこの家でもそうだ」
杉山氏は言ったが、藤原は黙っていた。
「子供が育つ過程で、親にかける迷惑は邪《じゃ》気《き》がないからいいけど、親が子供にかける迷惑は、根があっていけない。しかし、僕はいつも美幸に言っているんですよ。迷惑をかけないようにしようとは思っているけど、多分かけるだろう。かけられても諦《あきら》めろ、ってね。親がかけなきゃ誰《だれ》かが又《また》、迷惑かけに来る。同じことですよ」
「本当にそうですね。僕は兄が、心中未《み》遂《すい》をやって気がおかしくなってから、本当に何事にも驚《おどろ》かなくなりました。その意味では、兄に感謝しているんです」
太郎はいつのまにか、台所に入り込んでいた。
「今日はどんなごちそうですか?」
太郎は、杉山夫人と美幸を手伝うことにした。
「鶏《とり》の丸焼きなんて、見かけだけでおいしくないでしょう。だから、今日は、杉山家風のお鍋《なべ》にしたのよ。その方が、私も手がかからないし……」
「いいですね。僕も賛成です」
太郎は、ちょっと監督《かんとく》するように、火の上にかかっている大鍋を開けてみた。中にはトリのガラではなくて、身のついたものが、丸ごと入っていた。
「いい、火かげんですね」
太郎は褒《ほ》めた。
「これをぐらぐら、煮立《にた》てたら、終りですよ」
「ほらね、藤原君も言ってらしたけど、山本さん、ってお料理に煩《うるさ》いのよね」
美幸が言った。その時、台所の入口から、大槻さんが顔を出した。
「やあ、何だ、太郎君か」
「又、台所をジャマしに来てるところです」
三十分後には、人々は、食堂のテーブルの所に集まった。杉山氏が「ビールはけちらないでくれよな」などと言い、更《さら》に、奥《おく》さんにも隠しておいたという、「ロイヤル・サリュート」という高級なウイスキーを出して来たりした。
「今日はね、うちの美幸を、大槻君がもらって下さる、ということになったもんでね、そのご披《ひ》露《ろう》もかねて、ごく内々で皆さんに来て頂いたんですよ。この頃は婚約式まで、ホテルなどでなさる方があるらしいけど、大槻君も金はないらしいし、僕が、うちのおばさんの手料理ならただで済むから、と言ったもんでね」
「おめでとうございます」
太郎が口火を切った。皆も口々におめでとうを言った。
「いやだわ。まだ、すぐ結婚する訳じゃないのに」
美幸は言った。
「早い方がいいよ」
太郎はすすめた。
「僕もそう思う」
黒谷が言った。
「同じじゃないか。どうせ、この家に住んでご飯はお母さんに作ってもらうんだから」
「僕もそう思うね」
杉山ドクターも青年たちに口を合わせた。
「母親という家政婦つきで、貰《もら》って頂くんですよ」
「そんなことはありません。僕は、悪いことしたと思ってるんです。杉山先生にはお世話になっておきながら、お嬢《じょう》さんを下さい、というのは、辛いことでしたから」
大槻さんはそこで初めて言った。
「なあに君、こっちこそありがたいよ。こんな娘《むすめ》、よくこそ貰って下さいましただよ。こうやって体裁《ていさい》のいい顔してますがね。部屋はとっ散らかし放題、襖《ふすま》は時々足であける……」
「お父さん」
美幸は父を睨《にら》んだ。
「今更言わなくても、おわかりだと思うけど、女ってのは、どんなに体裁よく見えても、多分そんなもんでしょうな。藤原君も、黒谷君も男兄弟ばかりだというし、山本君は一人息子だそうだから、教えてあげますけどね、うちの家内も娘も、女という奴はどれもこれも同じ。外はいいけど、内はめっちゃくちゃ。うちのおばさんが、家の中のことを少しできるようになったのは、四十を過ぎてからですよ。それまではひどいもんだ。夢《ゆめ》も希望も持っちゃいけません」
杉山氏は大分、アルコールが入っているらしかった。
その夜、大槻さんは美幸さんのピアノの伴《ばん》奏《そう》で、クリスマスの歌をいくつか歌った。杉山ドクターは、アコーディオンでそれに加わる、と言って、杉山夫人に止められた。太郎も、北川大学の男声合唱団が練習しているので憶《おぼ》えた『おお、ベトレヘムの小さな町よ』を歌うと名のり出て、黒谷に、お願いだからやめてくれと止められた。しかしそれにもかかわらず、杉山ドクターと太郎は、人々の反対を押し除《の》けてやり始め、初めは確かにベトレヘムの歌だったのだが、そのうちに、知っているあらゆる歌の、でたらめメドレーをやった。
太郎は、本当は酔《よ》っぱらっているわけではなかった。大騒《おおさわ》ぎの途中《とちゅう》で手洗いに立った時、太郎は腕《うで》時《ど》計《けい》を眺《なが》めた。既《すで》に八時半を過ぎている。今すぐこの家を出て東京に帰ったところで、十時近くになるであろう。太郎は親たちから散々金を巻き上げておいて、実は行きたい所があるのだった。
黒谷から聞いてあった五月《さつき》素《もと》子《こ》さんの出ているバーを訪ねてみようと思ったのである。それは決して、甘《あま》い夢を追うためではなかった。五月さんがまだ憧《あこが》れの上級生で、白粉《おしろい》気《け》もなく朝の風のように駅のプラットホームに立っていたあの時代が、も早かき消すように遠いものになった、その実感を味わうためであった。しかしいずれにせよ、今日はもう遅《おそ》過《す》ぎる。
九時近くなると、杉山氏が突然《とつぜん》、
「よかったら、みんなで海を見に行こう」
と怒鳴《どな》った。
「この寒いのに何です。第一、みんな酔っぱらってて、誰が運転するんです」
と杉山夫人が言った。
「うちの車は、お前が運転するんだ。もう一台はタクシーで行きゃあいい」
「行きましょう」
太郎がすぐ賛成した。人々は、アノラックやオーバーを着て、暖房《だんぼう》を消し、出かける用意をした。
「毘《び》沙門《しゃもん》の浜《はま》へ行ってくれ」
太郎は、杉山氏が杉山夫人に大声で言っているのを聞いた。大槻さんがタクシーを拾いに行き、二台の車は前後して走り出した。
月はまだ半月だったが、浜へ下りると、夜風はそれほど寒くはなかった。
「いい気持だな」
「いい気持ね。うちの部屋は、みんなが煙草《たばこ》吸うから、ひどく煙《けむ》たかったんだわ」
杉山夫人が、浜へ下りる坂を下りながら言った。人々は又、歌を歌い出した。坂の一番後から、小さな赤い煙草の火になって、藤原が下りて来るのが見えた。太郎は、自然に人々をやり過し、藤原と並《なら》んで歩き始めた。
「今日は何を考えていたかね」
太郎は小声で藤原に尋ねた。
「いろんなことをさ」
藤原が答えた。
「女なんて、命をかけるほどのもんじゃないだろ」
「僕は今、何もすることが無いのを知っているんだ」
藤原が答えた。
「何もすることが無いというより、何もしちゃいけない、ということがわかっているんだ。何もしないことだけで、人間は結構周りの人を穏《おだ》やかな気持にしておけるからね」
太郎は、藤原の言おうとしていることがよくわかった。藤原は、杉山美幸を黙って見送る他はない。どのような言葉も、どのような行《こう》為《い》も、それは杉山一家と大槻さんを不安にさせることになるのだ。
「それは随分《ずいぶん》高級な論理なんだぞ」
太郎は言った。
「高級過ぎちゃって、全く、二十歳のクリスマスに考えるにはもったいないくらいだよ」
10
雨が降ると、山本太郎は、動物のように気が滅入《めい》った。かねがね、母の信子から、「ものごとは逃げてるとダメなんだよ。逃げないで正《せい》視《し》しなけりゃ、何事も解決しないよ」と言われていたので、「ああ、僕《ぼく》は鬱病《うつびょう》なんだ。きっとそうなんだよう」と呟《つぶや》いてみたが、いくら正視してみても、心は少しも軽くならなかった。
太郎が茶の間で、コカコーラを飲みながら漫《まん》画《が》を読んで、時間をつぶしていると、客間に父を訪ねて来た、母子《おやこ》連れの客の声がどうしても、耳に入って来るのだった。
母は、太郎に、お茶を出す用事を押《お》しつけて、買物に行ってしまった。それで、太郎はたった今、すばらしい照りのいい紅茶をいれ、シュークリームをそえて持って行ったところだ。客は、大ざっぱに言うと、太郎みたいな大学生と、信子よりはずっと身なりのいいおふくろの二人連れだった。
襖《ふすま》をへだてているのだから、細かいことはわからないのだが、彼らの会話の特徴《とくちょう》というのは、間がべらぼうにあいていることだった。誰《だれ》かが一言言う。と残る二人が黙《だま》っている。あんなに喋《しゃべ》ることがないなら、さっさと帰りゃいいのに、と思っていると、又《また》誰かが、ぽつりぽつりと喋り出すのである。父の正二郎もしぶとい男で、沈黙《ちんもく》に耐《た》え切れなくなって心にもないことを喋り出す、などということは決してしない男である。
客が帰ったのは、それでも一時間後くらいであった。これ以上のいいタイミングはない、という感じで、玄関《げんかん》の戸が閉ると、入れ違《ちが》いに母が裏口から帰って来た。
「うまいものあった?」
太郎は尋《たず》ねた。
「塩鮭《しおざけ》のアラを買って来たよ」
「出してみせてごらん」
と太郎は母親に命令し、ものを点検してから、
「わりといいもんを買って来たね。大根とジャガイモいれた汁《しる》にするんだろ。具が多すぎないように注意しなよ」
と横柄《おうへい》な口調で言った。それから、
「おやじさん、今の陰《いん》気《き》な客、だれ?」
と尋ねた。
「学生さ。不眠症《ふみんしょう》で、学校がおもしろくなくて、学業を続ける気力ない、っていうんだ」
「ふうん。何年生?」
「太郎と同じだ。一年生だそうだ」
「やめた方がいいんだよ。大学なんて、そんな思いまでして行くとこじゃねえや。何科?」
「英文科だけどね。訊《き》いてみると、英語もとくに好きじゃないって言うんだ」
「じゃあ、何だって、英文科へ入ったんだろ」
「他《ほか》に行くところがないからさ」
「好きでもないのに、何で英文に入るんだろ」
「大学を出るためさ」
「僕ね、いつも思うんだけど、好きな科目のない奴《やつ》が、大学へ来るのは、本当にお互《たが》いに迷惑《めいわく》だよな」
「しらけムードと言うの、あるのか?」
正二郎は尋ねた。
「勝手にしらけたらいいんだよ。僕に関係ないね。僕の周囲の奴は、決してしらけてないよ、藤原だって、黒谷だって、失敗するかも知れないけど、自分の好きなものだけは、はっきりわかってる奴ばかりよ」
「太郎に訊《き》こうと思ってたんだけど、あなたが預かってた青木辰彦君っての、一月から先はどうするの?」
「知んねえ。一応、向うの母ちゃんは、お蔭《かげ》さまで、登校の癖《くせ》がつきましたから、一月からはうちから通わせます、なんて言ってたけど、僕は、実はダメだ、と思ってるんだ」
「どうして?」
「辰君は、心底、親たちが嫌《きら》いなんだよ。不当な要求して来て、できないと当るからさ。だから、今、彼《かれ》としちゃ、親に復讐《ふくしゅう》するのが、一番手近ではっきりした人生の目的になってるんだ」
「だから、又行かないと思うの?」
「思うね。彼にとっちゃ、それほど、痛快な、手《て》応《ごた》えのあることはないからね、親はひいひい言うし、おもしろくてしようがないよ」
「つまんない青春だね」
「ああそうだよ、おふくろさん。誰も彼も、わりと貧しい青春を過してるんだよ」
「ところで、何だって、太郎はそう金がいるんだ」
正二郎は尋ねた。
「お祖母《ばあ》ちゃんからまで、金巻き上げて、いったい何をするつもりなんだ」
早くもばれていたのである。
「お願い。今は聞かないでよ、必ず事後承諾《しょうだく》はもらいますから」
太郎は慌《あわ》てて言った。
発覚した以上、早く実行しないと、自分の計画がしぼんで来るように思って、太郎は、その夜、銀座へでかけることにした。
六時では早すぎる。できれば、八時頃《ごろ》《タマリスク》という、憧《あこが》れの上級生だった五月素子さんのいるバーに着きたいと思ったが、太郎はやはり、七時半には、もうスキヤ橋に着いてしまった。
黒谷が大体の場所は教えてくれていたにも拘《かかわ》らず、しかし太郎はバーを見つけることはできなかった。スキヤ橋公園という名ばかりの小さな公園の前を新橋の方へ行って、一本目の小さな袋小路《ふくろこうじ》を右に入ったところ、というのであったが、花札《はなふだ》を引っくり返したように掲《かか》げられた看板は、まるで迷彩《めいさい》のようで、どうしても、その中に「タマリスク」という字を発見することはできなかった。
太郎は、通りを一本まちがったのではないかと思って、少し先まで歩いてみた。しかし袋小路らしいものはなかった。太郎は再び、前の横丁の入口まで戻《もど》り、今度は少し顎《あご》を引くことによって、やっと「タマリスク」という、地面に置かれた紫《むらさき》と黄色の看板の灯《ひ》を確認した。
それは、小さな三階建てのビルの地階だった。二十六・五糎《センチ》ももある、太郎の大きな足では、階段の幅《はば》は、やっと踵《かかと》の部分が引っかかるほどしかない。太郎はお得意のガニ股《また》になり、それでも持ち前の運動神経に物を言わせて、強引《ごういん》に、井戸の底に下りて行くような階段を下まで駆け下りた。
底に、ほんの二歩くらい歩く面積があって、すぐそこに、一本の椰子《やし》の木とタマリスクという字が読めた。ドアを開けると、中にいた、青いドレスの若い女が、太郎の顔を見て怪《け》訝《げん》な顔をしたが、それでも、
「いらっしゃい」
と小さな声で言った。それから、落ち着き悪く、
「お一人?」
と訊いた。
「そうよ。いけない?」
「ううん、いいのよ」
太郎は、クソ落ち着きに落ち着いた。
小さな店であった。カウンターのほかにテーブルが、五つくらいしかない。太郎が腰《こし》かけると、青いドレスは、隣《となり》にぎごちなく坐《すわ》った。
「初めてでしょ、このお店」
「ああ、そうだよ」
「何飲む?」
「水割り」
この辺の呼吸《こきゅう》は、中間小説で覚《おぼ》えたのである。
「何でこの店に来たの?」
「友達に聞いたからさ」
太郎は言いながら、あたりを見《み》廻《まわ》した。すると、一番奥《おく》のカウンターに向うむきに客と坐っている、五月さんが見えた。
その背中こそ、いつか太郎が、そのぼってりとした、少女の日のすがすがしさを失った肉づきの故《ゆえ》に、微《かす》かな嫌《けん》悪《お》を覚えたものだった。今彼女《かのじょ》は、そのだらけた背中をわざと見せるような黒っぽい銀ラメ入りの服を着ていた。
「今でなくていいんだ」
太郎は、隣の女の子に言った。
「あとで、あの黒い服着てる女《ひと》を呼んで来てよ」
「あの人、知り合い?」
「とにかく、あの背中が気に入ったんだ」
「変な人ね、でもいいわ、言って来てあげる」
女の子は立って行った。彼女が五月さんの耳許《みみもと》で何か囁《ささや》くと、五月さんはふり返って太郎の方を眺《なが》めた。しかし、すぐに立ってこちらにやって来たりはしなかった。それどころか、五月さんは微笑《びしょう》さえしなかった。
「もうちょっとしたら、来るって」
青いドレスが戻って来て言った。
「そう、それでいいんだ」
「ねえ、あなた、幾《いく》つ?」
「年?」
「そう」
「二十歳」
「それでこんなバーへ来るの。よっぽど稼《かせ》いでるの?」
「おじさんに金持ちがいて、使い切れないほど小《こ》遣《づか》いをくれるんだよ」
太郎はデタラメを言ってから、
「タマリスク、って、オレこの店のこの名前困っちゃうな」
と思わず呟《つぶや》いた。
「どうして? 何も困ることないじゃない、椰子の一種だって、ママが言ったわよ」
「椰子じゃないよ。莓《ていりゅう》という、一種の柳なんだ」
「アブラハム、ベエルシバ柳を植え、永遠《とわ》にいます神エホバの名をかしこよりよべり」と創世記に書かれているのはこのタマリスクだというし、一説によれば、「天よりのマナ」と言われるのは、シナイ半島に産する莓をマナ虫という虫が刺《さ》し、その傷から集めた樹《じゅ》液《えき》を湯に入れて、布でこしたものだとも言う。
「あなた、植物詳《くわ》しいのね」
「植木屋に勤めてたことあるんでね」
太郎が口から出まかせを言った時だった。ようやく、一区切りつけたらしく、五月さんがこちらへやって来た。
「やあ」
太郎が言った。いらっしゃい、とも言わず五月さんがちょっと鼻白《はなじろ》んだ表情で太郎の傍《そば》に坐ると、青いドレスの子は代りに立って行ってしまった。
「何か飲みますか」
太郎は、又もや小説の場面を思い出しながら言った。
「そうね、私、ブランデー」
五月さんはバーテンに言った。
「元気?」
「ええ、おかげさまで」
「お父さんは?」
「ああ、父は、死んだのよ」
「どうして いつ?」
寝たっきりで、しきりに死にたがっていた五月素子の父のことを、太郎は思い出した。
「半年くらい前。肺炎になったの」
「そうだったの」
「ここは、誰に訊いたの?」
「黒谷に訊いたんですよ」
太郎は言った。しかし話は続かなかった。
「僕ね、今、名古屋にいるんだ」
「そうですってね、誰だったか、そんなこと言ってたわ」
「ここは、儲《もう》かる?」
「まあね」
「ごひいきのお客さん、いるんでしょう?」
「少しは」
「さっきの青い服の人、あの人、何て名前?」
「ああ、あれは、ナオミちゃんて言うの」
「かわいい子だなあ」
「そうね」
「やっぱり、こういう店の方が働きがいがある?」
「そうね。まあ、こっちの方がいいんじゃないかと思ってるの」
「お金もうかればいいよね」
「そうね」
太郎は、何とかして気をとりなおそうとした。
「ここの店の階段、あれ、危険だから気をつけた方がいいな」
「そうなの、時々お客さんが落ちるの」
五月さんの隣に、その時、別の客が割り込むようにして坐った。つまりその客と太郎は、五月さんを共有する形になった。
五月さんが、その男に媚《び》態《たい》を示すことを期待している自分に、太郎は気がついていた。五月さんが、どれほど露《ろ》骨《こつ》に女を売りものにしようと、太郎はもはや、驚《おどろ》かなかったであろう。そういうことに傷ついたのは、やはりもっと若い日の青い心であった。相手は太郎のように、金がないチンピラとも思えない。三十の半ばにさしかかっていると思われる、少し頭の禿《は》げかかった男だった。それは五月さんにとって、目の前に現われた生きた標的になり得るのだ。少なくとも、太郎が五月さんだったら、少しでも動くものには本能的にとびかかるというシャム猫《ねこ》のように、金を吐《は》き出すかも知れないその男に、積極的に近づくだろう、と思えたのだった。
太郎は二人の会話に耳を澄《す》ませた。
「君、どこに住んでる?」
太郎は、五月さんが千代田区一丁目一番地とか、何か嘘《うそ》をつくだろう、と思っていた。しかし五月さんが、本当のことを答えたのには驚いてしまった。
「日曜日には何してるのさ」
「大したことしてないわよ。お洗濯《せんたく》でしょう。それから、お肌《はだ》のパックをして……」
「今度どこかへ行こう」
男は小声で言った。
「いい所へ連れてってやるよ。ウナギが好きなら、ウナギのおいしいのごちそうしてやるよ」
何で突然《とつぜん》ウナギが出て来たのかわからないが男はとにかくそう言った。
「だめなのよ、私、お母さんと一緒《いっしょ》に住んでるんだから」
「そうか?」
男は興《きょう》ざめな返事をした。太郎は煙草《たばこ》の煙《けむり》の中に坐っていた。男も話題がなくなったらしく黙っている。やがて、彼が手洗いに立った時、太郎は、五月さんに小声で言った。
「五月さん」
「なあに」
「ここへ来たからにはさ。全力をあげて、男を騙《だま》しなさいよ」
五月さんは黙っていた。
「騙されに来るんだから、男たちは。そしてあんた方が受けとってるのは酒代だけじゃないのよ。騙し賃なんだから、騙してやってよ」
「――――」
「きれいになったよ、五月さんは」
太郎が言うと、そこで、初めて五月さんは少し笑った。
「僕は間もなく帰るけど、元気にしていて下さい。それから、僕は又すぐ名古屋に帰っちゃうから、お勘定《かんじょう》悪いけど、今払《はら》わせてよ」
五月さんは心もちむくんだような眼瞼《まぶた》の下から太郎を見つめた。
「そうお、私、ママに言って、特別に、学割にしてもらってあげるわ」
「ありがとう」
太郎はドアに描かれた椰子の莓を眺めていた。
11
名古屋の埃《ほこり》っぽい冬の間中、太郎は、青木辰彦が果して学校へ行ってるかどうかが気になったが、所詮《しょせん》、ひとの家の息子《むすこ》なのだから、口出しをすることもないやと思っていた。ただ、年賀状が来ただけで、音《おと》沙汰《さた》がないところをみると、太郎はあまりいい予感は持てなかった。
猪高《いのたか》高校の前を通りかかると、太郎はふと中に入って、辰彦が学校へ来ているかどうか確かめたいと思うことはあった。しかし、世間体を気にする青木家のことを考えると、太郎はさし出がましいことをするべきではないという気がした。
それでも太郎は遂《つい》に、二月の半ば近くなったある日、本坊夫人に電話をかけてみた。
「実は、辰君のことについて何か聞いておられますか」
太郎は、本坊夫人に尋《たず》ねた。
「それがね、向うさまからは、ちっともはっきりおっしゃらないんだけど、この間一言伺《うかが》ったら、『お蔭《かげ》さまで、時々行っております』ということだったの。それで私も、悪い予感がしてたのよ」
「それは、行ってないってことですね」
「せっかくあなたにお世話になったのに……」
「いいえ、僕《ぼく》も、あれくらいのことで、辰君が癒《なお》るとは、実は信じていないんです」
太郎は言った。
「僕は、辰君を信じてあげなきゃ、と思ってましたけどね。彼《かれ》は優《やさ》しいし、決して僕には嘘《うそ》をつかなかった。しかし、家へ帰れば、何も状況《じょうきょう》は変っていないことになるから」
「実はね、太郎君には迷惑《めいわく》かも知れないけど、私、青木夫人に、何なら、もう一度、太郎君の所へ預けたら、って言ったのよ。そしたら、青木夫人は、でももう少し家でやってみますからって……。つまり、これは私のカングリかも知れないけど、青木夫人は、辰君が、他人の家からだと、素《す》直《なお》に学校へ行くことに反感もってるみたいね。それで意地でも、お宅にはやれないんだ、と思ってるんじゃないかしら」
「それでいいんですよ。それをはね返せないのは、半分以上、辰君の責任なんだし……。誰《だれ》もどうにもできないんです」
太郎は、そう言って電話を切った。それから暫《しばら》くの間、辰彦の事件を契《けい》機《き》にした、或《あ》る水のような靄《もや》のような感慨《かんがい》にふけっていた。辰彦は性格も悪くなければ、能力がない訳でもない。只《ただ》、彼は、秀才《しゅうさい》の親の家に生れてしまったばかりに、凡庸《ぼんよう》であることが許されなくなってしまったのだ。親も凡庸であることを認めず、辰彦自身もそれで済むとは思っていない。そんな理由にもならないことのために、辰彦は、“やる気を失って”しまったのだ。今や、彼にとって、ふてくされることが、仕事であり、唯一《ゆいいつ》の意思表示であり、目下のところ手ごたえのある行《こう》為《い》なのである。しかし太郎は、青木の両親や、辰彦当人を、非難する気もなく、同情する気分にもならなかった。辰彦がこうなったのは、青木家の「向上心」という情熱の結果であった。誰もが何らかの形でおろかしい情熱を持っている。自分にとっては、それが必要欠くべからざるものと思い、それが他人の場合はばかばかしいものに見えるというだけのことである。
それよりか、むしろ青木の一家も太郎も学ぶべきは、人生というものは失敗して普《ふ》通《つう》なのだ、という現実であった。太郎や辰彦程度の青年が、一番思い上りやすい状態にいるのである。小学校以来、成績はよくなったことがなく、先生にも、めったに褒《ほ》められたことがない、というような生徒だったら、むしろ、うまく行かないことに馴《な》れて強くなるのだ。
自分のためには、むしろ辰彦がやはり学校へ行かなくなってしまった、ということを聞く方がどれだけ為《ため》になったかしれないのだろう、と太郎は考えた。そうでなかったら太郎は、自分は教育の天才ではないかと思い込《こ》んでしまったかもしれないのだ。状況を変えるということは、教育に関しては実に小さな要素でしかない。ある人間にとって、完全に勉強し易《やす》い状態を作るなどということはできないことだし、それはむしろ教育の目的とするところではない。教育はむしろ、どんなに勉強し難《がた》い状態でも勉強できるような人間を作ることにある。辰彦の家が、彼の向学心を打ち砕《くだ》くようなものならば、それによって彼は一層奮起すべきだったのである。それができないならば、それはやはり辰彦にとって、自《じ》業《ごう》自《じ》得《とく》と言うべきなのである。
夜が更《ふ》けると太郎は、散らかり放題に散らかった机の真中に、僅《わず》かばかりの平面を作って、そこで読書をした。かけるべき電話の相手も無く、本を読むより仕方がないからであった。藤原も黒谷も、受験の最後の追い込みに入っている。クララ寮《りょう》の三吉杏子さんに電話をすれば、六頭身の踊《おど》りのお師匠《ししょう》さんの話を聞かされるばかりだし、千頭慶子さんは、今でも美人だと思うが、話題はあらゆる面でくい違《ちが》いそうだった。約一年前のことを考えると、今こうやって好きな本を読んでいられるということは、どれだけ幸せかしれないと思う。今、太郎は、小宇宙にも似た自分の空間の中で、砂地に水が染《し》み込むように、読んだものが頭に入っていくのを感じる。何もしち難かしい本だけを読んでいるのではない。あらゆる雑学が堆《たい》肥《ひ》のように染み通って、自分を太らせているように思うのである。
その時、ベルが鳴った。ふと、それが強盗《ごうとう》でも、楽しく面白《おもしろ》いような気がして、太郎は覗《のぞ》き穴から相手を見確かめることも無くドアを開けた。山中良子が、自分で編んだらしい茶色のショールを肩《かた》にかけて、寒そうに背を丸くして立っていた。
「あ、今晩は」
太郎は言った。
「どうぞお入り下さい」
「お邪《じゃ》魔《ま》していい? 勉強中なんじゃないの?」
「いえ、勉強なんていつだってできるからいいんです」
「じゃあ、ちょっとお邪魔するわ。用事は無いんだけれど、一人で部屋にいると、あんまり虚《むな》しくなったから出て来ちゃったの」
「今日は、本当に冷たくて嫌《いや》な日ですね。今、僕一人でも、パチンコで取って来たココア淹《い》れようと思ってたところなんです」
太郎は、山中良子をダイニング・キッチンのテーブルに通した。
「今日は、御主人はいらっしゃらないんですか?」
太郎は尋ねた。
「この寒いのに、北海道へ金策に行ったらしいの。はっきりとは言わないんだけど、多分金策だと私は思うの」
「大変ですね」
「それもね、札幌《さっぽろ》じゃなくて稚内《わっかない》の方なのよ。稚内って、冬早く日が暮《く》れるんですって。午後二時になると、もう電燈《でんとう》をつけるんですって。そんな所へ、お金の工《く》面《めん》しに行くなんて、本当に辛《つら》いわよね」
「明るい土地には明るい土地のやり切れなさがあるんですよ。生れる子供がどんどん死んでしまったり、人間がうんと早く老《ふ》けてしまったり」
山中良子は、ちょっとびっくりしたような表情をした。
「それ、どこの話?」
「どこっていうことはありませんけど、インドでもいいし、南太平洋の島でも、場所によっちゃあそうですよ」
太郎は、ガスの火に薬《や》缶《かん》をかけた。
「それよりあなたは、冬休み楽しかった?」
太郎は、バー・タマリスクへ行き、五月素子さんに会った話をした。
「僕、生れて初めて、バーへ行ったでしょ。それで、ほんとにまずいことをしちゃったと思っているんです」
「なぜ? 恋人《こいびと》がホステスになっているのを見たから?」
「そうじゃないんですよ、僕、やっぱり、彼《かの》女《じょ》が本当のホステスらしく変身しているのを見ることを期待してたんだな。つまり、どんな職業にも、それなりの厳しさってものがあるでしょ。それなのに、五月さんて人、本当に怠《なま》け者なんですよ。お客にサービスもせずに、金だけもらうのが当り前だと思っている。僕、そのことが嫌だったな、ほんとに」
「でも、彼女がもっと変ってたら、あなたは又《また》、別の形で興醒《きょうざ》めだと思ったかもしれないわよ」
「そうなんです。それはわかってるんです」
太郎は喋《しゃべ》りながら、ココアの粉を冷たい牛乳で、ていねいに溶《と》いた。
「いずれにせよ、でも僕はこれからバーに行くでしょう、そうすると、どのホステスも五月さんくらい心の中で退屈《たいくつ》してて、やる気が無くて、そして家には病気のお父さんとか、失業している夫とか、気狂《きちが》いの姉さんとか、かかえているんだと思うと、その現実の重さに打ち負かされて、夢《ゆめ》醒めるばかりだと思うんです。つまり、誰だって、ホステスの家庭の事情くらい薄々《うすうす》察しているとは思うんですけど、その背景を現実の問題としては見たことないから遊べるんですよ。ホステスの方も死にもの狂《ぐる》いになって、現実から遊《ゆう》離《り》した自分を作ろうとするでしょう。だから大てい、ホステスのアパートの部屋《へや》ってのは洋風で、ロココ調の家具なんか入れてるんですよ。とにかく僕はもう、将来共、完全にバーのホステスに夢なんかを持てなくなっちゃったんだな」
「あなたの話を聞いてると、知ってていいってことって一つも無いみたいね。あらゆることは知らない方がいいみたい」
「そうなんですよ。本当にその通りなんです」
「それならなぜ学問するの?」
「本来は、割の合わないことをするためなんですよ。得しようと思って学問なんかしたって、だめだってこと、大ていの人がわからないんですよ」
太郎は、塩の味加減をよく見てから、沸騰《ふっとう》する直前に、ココアを沸《わ》かしている火を止めた。それから、母が入れてくれた二人前だけのイギリス製のコーヒー茶碗《ぢゃわん》に、ココアを注いで出した。
「お砂糖、足りなかったらお入れになって下さい」
良子は一口味わってみてから、
「とっても良く塩が効いてて甘《あま》い」
と不思議な褒《ほ》め方をした。
「塩、効き過ぎちゃったかな」
「いいえ、しょっぱいから甘いのよ。私、今の今まで、ココアにお塩入れること知らなかったの。だからココアって、薄ら甘くてピリッとしない飲み物だと思ってたわ」
良子は、そう言ってから、
「実はね、今日は、二回不愉《ふゆ》快《かい》なことがあったの」
と言った。
「何なんです?」
「一つはね、一階でよく見かける女の人なんだけど、年の頃《ころ》はそうね、四十代の半ばかしら。さっきいきなり私の所へやって来たの。そして、『あなたのような人がいるから、このマンションがお妾《めかけ》マンションなんて言われるんですよ。迷惑をかけないで下さい』って、いきなり言うのよ。私、そういう時、頭が働かないでしょう。だから黙《だま》って困ってたんだけど、後でとても悲しくなってきたの」
「なんだって、知りもしない人のことを、余計な口出しするんでしょうね」
「その奥《おく》さん、どういう人だか私も知らないけど、なけなしのお金かき集めて、このマンション買ったんじゃない。それだから、自分の買物に少しでもけちをつけるような人がいると、耐《た》えられないのよ」
「貧しいよね、そういうの。根性が本当に貧しいよ。もう一つのいやなことって何です?」
「それはね、知り合いの又知り合いに、殆《ほとん》ど寝たきりのお婆《ばあ》さんがいて、生活保護を受けてるって大分前に聞いたの。その人がお婆さんを訪ねる時に、あんまり気の毒だから、私も見《み》舞《まい》について行ったのよ。そしたら綿が切れたようなお蒲《ふ》団《とん》、誰も手入れしてくれないからって、こちこちのまま着ているじゃない。私気の毒になって、お店から柔《やわ》らかい肌《はだ》蒲団、一枚持って行ってあげたの。そしたら後で、その知り合いの人が言うじゃない。『山中さん、あんな蒲団上げて損しちゃったよね』って。どうしてかって言ったら、そのお婆さんの娘《むすめ》さんていう人が、気持のいいお蒲団一揃《そろ》いちゃんと持って行ってあげてるんだって。それを、お婆さんがわざと着ないで押《おし》入《い》れの中に突《つ》っ込んで、ボロ蒲団着て、自分は放ったらかされているって、言いふらしていたらしいのね。私の上げた蒲団も、自分で這《は》って行って、又、押入れの中にかくしてあったんですって」
「本当に、いろんな不思議な人がいて、あらゆることに裏があるもんなんだなあ」
太郎はつぶやいていた。
12
「この頃《ごろ》、うちの中は、ひどくきれいに片づいて静かです」
太郎は、母親からの手紙を、ベッドに寝《ね》転《ころ》がって読んだ。おふくろから手紙など来ることはめったになかったので、アパートの並《なら》んだ郵便受けにおふくろからの手紙を見た時には、おふくろが男を作って家出でもしたのか、と一瞬《いっしゅん》思ったほどであった。
「太郎が三月の休みに帰らないと聞いて、お祖父《じい》ちゃんとお祖母《ばあ》ちゃんは、少々がっかりしていられるみたいです。お父さんが《息子《むすこ》なんて鉄砲玉《てっぽうだま》みたいなものだから》としきりに言って納得《なっとく》してもらおうとしています。
私は、ここのところ、少し翻訳《ほんやく》を休んでいます。年かしらね。働くことは嫌《きら》いではないけれど、何もしないでいることにも耐《た》えなければいけないと思っています。それと一人で生きることにね。
太郎がいた頃は忙《いそが》しかったよ。お父さんが自分だけビール飲んで、私と太郎がそれぞれに『お勉強』している所へご機《き》嫌《げん》でやって来て、《万国の労働者諸君!》なんて言うものだから太郎に《煩《うるさ》いよう》と怒《おこ》られてた時代もあったのにね。
昨日、名古屋の本田悌四郎さんが、急に家へ訪ねて来ました。太郎の方にはご無沙汰《ぶさた》だけれど、まあ、無事なんでしょう、ということでした。
悌四郎さんが帰って来たのは、奥《おく》さんのお父さんが、脳軟化症《のうなんかしょう》で倒《たお》れて、その善後策を講じるためなんですって。そのおじいちゃまは今年六十八歳で、まだ、それほどの年でもないけれど、発《ほっ》作《さ》以来惚《ぼ》けて放っておけば、何でも食べてしまう。ナフタリン、蚊《か》取《とり》線香、お便所掃《そう》除《じ》の薬液を飲みかけた時は、もうダメかと思ったけれど、まあ助かった。しかし、二六時中、油断がならない。とうとう家中の人が疲《つか》れ果てて、病院へ預かってもらったけれど、やはり、尿器《にょうき》の中のオシッコを飲んでしまうのですって。しかし、それくらい食欲があるのだから、まだ、なかなか死にそうにない。
病院に入れて、つきそいさんをつけたら、あの家は破産しそうだそうです。目下のところ、兄妹皆でお金を出し合っているけれど、病人の奥《おく》さんって方は、完全に疲《ひ》労《ろう》でダウン。もうどうにでもしてくれ、と言っていられるそうよ。夫婦なんて、所詮《しょせん》はアカの他人ですってさ」
太郎は、あまりにも荒《あ》れ狂《くる》った汚《きた》ないおふくろの字に、時々顔をしかめながら読み続けた。
「昨夜は、お父さんも加わって、悌四郎さんと三人で飲んだ。その結果、悌四郎さんとお父さんが、同じことを言い出すのよ。動物には子供を育てるという習性はあるけど、親をみるということはない。人間だけが、本能に逆らって、親をみる、というような道徳を造り上げた。
しかし、太郎が中年になる頃、日本は四人に一人が老人ですってね。都知事は今日の新聞で、福《ふく》祉《し》は、どんなに金がなくても拡《ひろ》げるべきだと言っているけど、今に、そういう民衆へのごきげんとりは続かなくなる日が来るに決っています。四人に一人の老人を、物心共に太郎たちの世代がみるなどということは不可能ですからね。今はまだ、長生きしたものは、特権を要求できるけど、そのうちに高《こう》齢者《れいしゃ》は当り前ということになるのだから。
それで、悌四郎さんとお父さんは、危険思想に辿《たど》りついていたよ。自分たちは親をみるけれど、子供には、自分たちを捨てるように言おう。そうでなければ、次代は老人によってつぶされることは明らかだから、と言うのです。その考えは結構だけれど、私は黙《だま》っていましたよ。これは、大変な問題だからね。しかし、動物には、親をみる習慣はないというのは本当ですね。まだ誰《だれ》もあまり言ってないけれど。
太郎も、老いるのは間もなくだから、時間を惜《お》しみなさい。もっとも、どう生きたって、大した違《ちが》いはないけれどね」
おふくろの説教は、いつも最後のところで、こんな具合に力が抜《ぬ》けてしまうのである。しかし、人間が皆、親をみないことが当り前と思うようになるとしたら――そんなおもしろい変化が、ペストがはやるように拡まるとも思えないが、それは又《また》、それで、太郎は画《かっ》期《き》的《てき》な精神変革の時期に居合せたものだと思うだろう。
さし当り、太郎は、黒谷と藤原の入試が気になって、彼《かれ》らの試験の発表のある日を、カレンダーに、「藤」「黒」というふうに記してあった。もっとも、太郎の方から電話をかける気はなかった。このような劇的なことには、人それぞれに発表の方法があるから「どうだった」というような誘導尋問《ゆうどうじんもん》で、報告を受けるべきではないからである。
先に電話があったのは、黒谷からであった。
「オレだ」
地面の底から響《ひび》いて来るようであった。その声を聞いた途《と》端《たん》、太郎は「あ、入ったな」と思った。
「うまくいったな」
太郎は言った。
「うん、よかったのかどうかわからんけど」
「どこへ入ったって同じってことよ。自分で勉強する他《ほか》はないからな。うんとはめをはずして遊びたい心境か?」
「そうでもない。それ程頑《ほどがん》張《ば》ってないから」
太郎は、口に出しては言わなかったが、それが本物だと、心の中で思っていた。大学というところは、急に鎖《くさり》がほどけたような感じがある。どこへ行ってもいいし何をしてもいいので、それだけに恐《こわ》いのである。受験に受かった途端に、マージャンをして遊び出したなどという人の話を聞くと、そいつは多分、大変度胸《どきょう》のある男で、自分はずっと小心なのだろう、と思えて来る。
藤原からは、その二日後に電話があった。朝であった。最初の一声で、当落がわかる筈《はず》だと、太郎は思っていたが、藤原の声からはどんな結果も予想できなかった。
「どうだったかね?」
太郎は言った。
「うん、落ちてた」
「じゃあ、いよいよ植木屋になるか」
太郎は、うっとうしい声を出した。
「悪くないよなあ。とにかく一度受けないと、親《おや》爺《じ》さんが納得せんだろ」
「納得はどっちにせよしないだろうけど」
「周囲全部に納得してもらって何かやろうなんて、甘《あま》いんだよ」
「うん」
「正直言って、俺《おれ》、ほっとしたよ。君が経済なんか行かなくって。好きでもないことやったって、一生ろくなことないからな」
「まだ植木屋の大学の方だって、入れるかどうかわからないんだよ」
「後の方はいつ発表?」
「さ来週の月曜日」
「決ったら知らせてよ」
「うん、そしてできたらもう一回、君の所へ行くよ」
「そうしなよ。何だったら、紀伊《きい》半島の方へ一緒《いっしょ》に旅行しないか?」
「うん、いずれにせよ電話するよ」
「おふくろさんのところへは、どっちみち行くんだろ」
「わからない。行くかも知れないし」
「ここからは、どこへでも、たっこく《・・・・》行けるからさ」
太郎は何気なく言ってしまってから、
「たっこくってのはね、たやすくという意味」
と解説した。それから、思わず名古屋弁を使ってしまった自分を、いやらしく感じたので、更《さら》にわざと、
「ありがとね」
と名古屋人ふうに言って電話を切った。
一年が過ぎたのであった。
一年間に、皆、何をしたろう。大西の奴《やつ》はつい一週間ほど前に、中国から来た管弦《かんげん》楽団の楽器運びのアルバイトに行って、コントラバスの下《した》敷《じ》きになった。笹塚茂は京都のガイドの免許をとる試験を受けて通った。彼の予定では、東京の女子高の修学旅行の案内をたくさん手がけるつもりだったが、最初に引き受けさせられたのは、熊本県西瓜《すいか》組合のおっさんたちだった。
桜岡《サク》さんは一年間、東山動物園に通って、ドークラングールとつき合った。こいつは、アフリカのサバンナにいる猿《さる》であった。背中がグレイで、顔がオレンジである。性格はしっかりしていて、いわゆる檻《おり》の中で飼《か》われるようになっても、神経的にタフで、ノイローゼになりにくい。
太郎と桜岡《サク》さんは、そのほか、「つぶれそうなボウリング場を支える会」というのをやった。しかし太郎の場合、初めは天才的だと思われたスコアーは一向によくならないのだ。
太郎は台所からバナナを一本持ってきて食べながら、来年のことを考えた。又、どうせ大したことはないだろう。四月のコンパの時には、有名な人類学者や、考古学者たちのうち、何先生が今年中にくたばるだろうか、という予測を立てることが慣例になっている。しかし、今年は、誰も死ななかった。こういう生《なま》煮《に》えな一年を、平和というのだろうか。
いやだ、いやだ、と太郎は首をふって考えた。この世には、いやなものが一ぱいある。小《こ》銭《ぜに》、小《こ》暇《ひま》があって、それをちまちまと使っている奴。ヨーロッパ研修旅行というようなばかばかしい素人《しろうと》向きの団体旅行に加わって行く奴。もともと食えないことのわかっている人類学に入っておいて就職を心配する奴。
調合ゴマ油を買う女。ゴマ油と他《ほか》の油を合わせる必要があるんだったら、二種類を買えばいいのだ。子供に席をとらせるために、まだ乗客が下りないうちから、電車に子供をとび込ませる親。太郎は、こういうのにはダンコとして抵抗《ていこう》することに決めていた。入って来た子供の襟首《えりくび》を掴《つか》んで、自分が下りるついでに、ずっとはるか後ろの方へつまみ出してやるのである。
名古屋のベーコン。とにかくべとべとで、冷蔵庫で干してからでないと、ベーコンらしくならない。
京都か。同じようなコースで名所を歩いている奴がアベックで、行く先々で一緒になり、見せつけられるという屈辱《くつじょく》には、もううんざりだ。さりとて、三吉さんと歩いてみても、胸躍《おど》るわけではない。三吉さんは賢《かしこ》いし、健康だ。
千頭慶子さんと歩いたらどうだろう。美人と歩けば、男の虚栄心《きょえいしん》は多少満足させられる。しかし、それ以上のものではなさそうだ。太郎はふと、千頭さんの誕生日《たんじょうび》を、銀行のクレジット・カードの番号に決めた一年前の日々を思い出した。あの頃の太郎には、五月素子さんを失った後、千頭さんによりかからずにはいられなかった精神的な空白がひどかった。千頭さんに、あのカードを見せてやろうかしらん。そうすると、あの女は、太郎がそれほど、自分のことを考えてくれていたと思って、又いい気分になるだろう。
太郎は、今、そんなことでひとを喜ばせることができるなら、見せてやってもいいような気さえした。人間は錯覚《さっかく》によって生きている。
太郎は、バナナを食べ、牛乳を三百tほど飲んでから、外へ出た。
エレベーター・ホールの前まで来ると、階段の下の方から、山中良子の声が聞えて来たので、太郎は思わず耳を澄《す》ました。
「そうですか? そんなこと気がつきませんでしたけど」
「だって、そうだったんですよ。気をつけて下さいよ。白いシーツなら、まだしも、桃色《ももいろ》のシーツなんか、うちの窓先にちらちらされたら困るのよ」
「すみません。わざわざ、買って来たんじゃないんですけど、もらいものがありましたから、使ってたんです」
謝《あやま》っている方が、山中良子である。
太郎はドアの開いた空《から》のエレベーターをやり過した。
「いろいろ、奥さんにはご注意受けましたけど」
山中良子は優《やさ》しい口調《くちょう》で言った。
「都《つ》合《ごう》がありまして、私、四月末でこのアパートを出ることになりましたから、もうご心配おかけすることもないと思います」
「おや、そうですか?」
それは皮肉たっぷりの言い方だった。
「ですから、四月まではシーツも干さして頂きますけど」
「お宅がお宅のベランダを、どんなにお使いになろうと、それは勝手ですよ。ですけどうちの方へなびかないようにして下さいよ」
「はい、気をつけます」
ぷいと、相手が挨拶《あいさつ》もせずに遠ざかってエレベーターに乗る気配を聞いてから、太郎は階段を下り、廊《ろう》下《か》をとぼとぼと歩いて行く山中良子を後ろから呼びとめた。
「山中さん」
良子は振《ふ》り返った。
「本当に、ここを出るんですか?」
太郎は尋《たず》ねた。
「いろいろ考えてみたんだけど。私がここに住んでることに無理があるのよ」
「そうですか」
「私が明け渡《わた》してやりさえすれば、あの人、少しは楽になるんだから……バカだって言われたけど、私いやなのよ。そんな思いまでして、贅沢《ぜいたく》な生活したくないの。私、何したって、働けるんだから」
「どこへ行くんですか?」
「さし当り、田舎《いなか》へ帰るけど、でも、母と長くは暮《くら》せそうにないの。だから、東京へ行くかも知れない。平気よ。私これで案外、図太いんだから」
「帰るときは必ず、教えて下さい。送別会を開きますから。そして行先を知らせて下さい」
「ありがとう。このアパートには、何一つ、いい思い出なかったけれど、あなたに会ったことだけは楽しかったわ。弟を思い出せたの。これから、どこへ行くの?」
「ちょっと研究室へ行って、それから、本屋へ行って、いろいろ用事があるんです」
「行ってらっしゃい」
良子はそれから急に生き生きと眼《め》を輝《かがや》かせて報告した。
「この間、話した生活保護を受けてるごうつくばりのお婆さん。古い掛《かけ》蒲《ぶ》団《とん》の上に、おかゆひっくり返して、仕方なく、私の持ってった蒲団着てくれたの。そしたら渋々《しぶしぶ》、軽くて温かい、なんて言ってるんだってよ」
13
春休みに、当てにしていた、藤原俊夫と黒谷久男は、どちらもやって来なかった。藤原は、「育ちがいい」と世間の人がいうような礼儀正しい所があるから、向うの方から電話をかけて来た。
「君んとこへ行こうと思ったけど」
藤原は言った。
「植木屋大学の方の入学式はわりと早いし、今年は家にいることにするよ。義理のおふくろは、一生懸命《いっしょうけんめい》、家族団欒《だんらん》なんてことを考えてくれてるしね。兄貴のところへ始終訪ねて行くのに、一番、適してるのは僕だし、寺にいるおふくろの方は、もう、ほっといていいんだ」
藤原はいつも、少しずつ言葉が足りない。太郎は補って考える癖《くせ》をつけていたが、それは出家した母には、息子《むすこ》がどんな大学に入ろうと、大した問題はない筈《はず》だという公式論と共に、藤原の微《かす》かな、母への復讐《ふくしゅう》ではないか、と思われる要素も含《ふく》まれていた。藤原の兄貴の心中未《み》遂《すい》事件に関して、出家した母の方がまともにその責任をとったように見える。しかし、今となっては藤原は、それがそうでないことを知っているのかも知れない。ピントは狂《くる》っているかも知れないが、ともかくも、曲りなりにも、子供たちの父として踏みとどまったのは、おやじの方であった。おふくろの方は、筋を通して、「母親としての責任をとれなかったことに対して責任をとった」ように見えるが、それはおかしなことなのである。筋を通す、などということは、小人の思いつく美徳である。
「弟はどうしてる? 元気か?」
「ああ」
藤原はちょっと考えてから言った。
「こないだ、弟のやつ、チョコレートなんか、義理のおふくろにやったんだ。そしたら、おふくろさん、泣き出したりしちゃってね」
「嬉《うれ》しかったんだろうな。君たちにうけ入れられる訳はない、と思ってたから」
「うん」
「君んち、うまく行き出したじゃないか」
「こないだ、僕《ぼく》は、病院で、行《ゆき》夫《お》兄ちゃんに言って来たんだ。僕は大学出たら、できたらアメリカかどこかで、仕事をするよ、って。そしたら兄ちゃんも来ればいいじゃないか。もう藤原家がどうのこうの、という人が一人もいない世界で、仕事の地盤を作ったら、おいでよ、って」
「そしたら、兄貴、何て言ってた?」
「そうだな、植木屋の仕事は、人とあまり口きかなくて済むな、なんて言ってた。うちの一家は、弟もそうだけど、他人とうまいこと、社交して行くタイプじゃないんだ」
「いずれにせよ、東京にいようと思うのは、いいことだよ」
太郎はそれ以上は言わなかったが、踏みとどまるのは、藤原が、積極的に生きる姿勢を示してきたことだと思った。
太郎は、時々人生を感じることがあった。アパートのベランダから下の通りを見ていると、ようやく暖かくなり始めた春の陽《ひ》の中を、貧相《ひんそう》な犬を連れて歩いている和服姿のおじいさんがいる。おしゃまな七歳《さい》くらいの姉が、いつも四つくらいの弟を連れて歩いている。目下のところ弟は、何かと言えば、アメや、絵本や、おもちゃを、姉にとり上げられているが、そのうちに或《あ》る日、姉をつきとばして、積年の怨《うら》みを晴らすために、攻勢に転ずるだろう。もう一人、いつもゆっくりと、頭にスカーフを巻いて歩いている奥《おく》さんがいる。只《ただ》、単に太っているのではない。その粉《こな》をふいたような肌《はだ》の白さといい、首に三重の輪を巻きつけたようなたるみといい、恐《おそ》らくむくんでいるのだと思う。むくみをとるには、どうしたらいいか。太郎にはわからないが、いずれにせよ、あの人の体には、血も気力も、ちゃんとめぐってはいないのだろう。それでも人間なのだ、と思うと、太郎は恐ろしく、気の毒になる。
ろくろく眼《め》に入る緑もない窓からの眺《なが》めを、親たちは、「墓地《ぼち》のようだ」と言ったが、太郎はけっこう美しいと思う。ベランダには、太郎が、自分で魚屋から買って来て、一塩《ひとしお》をして干してあるマナガツオが、たった一匹《いっぴき》だが、物干しざおから、白旗のようにぶら下っている。あらゆる生活が、限りなく自然であった。
玄関《げんかん》のベルが鳴って、太郎はドアを開けた。山中良子が、スーツを着て立っていた。
「こんちは」
「お早ようございます。どこかへお出かけですか?」
「さよならを言いに来たの。実はね、昨日中に、荷物全部運び出しちゃったの」
「僕、何も知りませんでした! 昨日は、夜遅くまで、外に出てたから」
「いいのよ、万事、予定通り、うまく行ったのよ」
「月末までは、まだいらっしゃる筈じゃなかったんですか」
「そう思ったんだけど、私、気が短いでしょう。だから、どっちみち移るものなら、早い方がいい、と思ったの。今日はね、間もなく、旦《だん》那《な》さんが来て、最後のお蒲《ふ》団《とん》、二、三枚とスーツケース一つ積んでってくれるの」
「送別会をしようと思ってたんですよ。僕、料理うまいでしょう。だから、今まで一度も山中さんに食べさせたことなかったけれど、お得意のタン・シチューでもごちそうしようと思ってたんです」
「ありがとう。山本さんがそう言ってくれたこと、ずっと覚えてるわ。私ね、夕方や夜、さよならを言いたくなかったのよ」
「わかります」
「今日はこんな、きれいな日でしょう。だから、嬉しくなっちゃった」
「さし当り、どこへ行かれるんですか?」
「まだ、本当にわからないの。母の所へ行って一週間くらいはいるつもりだけど……。決ったら、手紙出すわよ」
「僕は多分、あと三年はここにずっといますから、いつでも寄って下さい」
「ありがとう。私ね、昨日、不思議なことがあったの」
「何があったんです」
「せっかく、もらった家を出て行かなきゃならないんだから、私は、不運を歎《なげ》いてもいいのに、昨日ね、私はとってもおかしな、楽しい気分になって来たの。これから、何が起るかわからないぞ、っていうような感じね。もちろん、不安もあるのよ。だけど、今までの生活が壊《こわ》れたからこそ、これから、何か起るかも知れないのよね」
「本当にそうです」
「そういう訳で、私は今、とっても、元気なのよ」
「少し上っていらっしゃいませんか?」
太郎は言った。
「ううん、そうはいかないの。もうすぐ車が来るから。じゃあ、さよなら」
山中良子は、握手《あくしゅ》をするために手をさし出した。太郎は、ちょっと考えてから、その手をとり、身をかがめて、その手の甲に接吻《せっぷん》した。
山中良子の手は、がっしりと大きくて暖かく、ほんの微《かす》かに、タクアンの匂《にお》いがした。
「どきどきしちゃうわ」
山中良子は言った。
「ひとの奥さんに対する挨拶《あいさつ》だそうです。本で読んだんだから不正確かも知れないけど」
太郎は言った。
「本当にすてきだったわ。私、こんなことされたことないから」
「礼儀正しい挨拶なんですよ。満座の中でしてもいい筈です」
「ありがとう、あなたもいい、大人になるのよ」
「はい、そうします」
山中良子は、顔をそむけて、ドアの外へ走り出した。
歴史は繰《く》り返す。
北川大学の校庭は、又、新入の一年生で溢《あふ》れていた。太郎は、意地悪く、彼《かれ》らの顔つきを見ている自分に気がついていた。北川の附《ふ》属《ぞく》高校から来た連中は、地元でもあり、わざと退屈《たいくつ》そうな、もの馴《な》れた表情をしている。
太郎や三吉杏子さんは、東京原人会を結成するために、春休みから、準備をすすめていた。大体、東京人は、県人会などという組織を、やや田舎《いなか》臭《くさ》いものと思っている向きがある。しかし、人類学者としては、その態度はよくないので、逆に、東京都《・》人会を作ることにしたのだが、字を一字だけ変えて、原人会としたのである。
その背《はい》後《ご》には、太郎自身の苦い想いもあった。誰《だれ》一人としてうちあけた相手もいなかったので、今では、コンクリートの土台に、埋《う》めこんだ感情の残《ざん》滓《し》のようになっているが、太郎自身、一年前の四月、五月は苦しかったのだった。理由はわからない。強《し》いて言えば、何とでも言える。東京から北川大学あたりへ「流れて」来る学生は、いわれのない、敗北感など持っているかも知れないのだ。或《ある》いは、初めて都会を離《はな》れて大西睨《にら》み鯛《だい》のような原始的日本文化に圧倒《あっとう》されるからかも知れない。いずれにせよ、それらは一過性のものだが、当人にとって苦しくないことはないのである。
「会歌を、決めるんだ」
太郎は三吉さんや、他に、二、三の原人共に言った。
「誰が作るの?」
「作らないのさ。 少し古い歌を使おうや。《ウナ・セラ・ディ・東京》あたりがいいな」
後ろ姿のしあわせばかり……と皆はそこで合唱し、会歌はたちどころに決った。
「第一回 東京原人会のお知らせ
会員資格 ジャパントローバス・トーキョウエンシス
会の説明 四月二十日(土)午後一時、噴《ふん》水《すい》前」
一年生の出そうな授業の黒板に、太郎たちは書いて歩いた。
「どんな原人がいるかね」
大西が聞いた。
「よかったら、見においでよ。調査の対象になるぜ」
笹塚も桜岡さんも来ることになった。
春の陽の中に、十七、八人が集まって来たので、言い出しっぺの太郎が挨拶することになった。
「諸君よく来てくれました。二年の人類の山本です。我々は当地における少数民族でありますから、男女共に、よくその特性を発《はっ》揮《き》する任務があると思います。
この附《ふ》近《きん》には山から来た原人はたくさんいる。しかし、コンクリート・ジャングルから来た原人は少ない。どちらかというと山岳《さんがく》文化が優勢を占《し》める中で、我々は自らをアダプトさせて行かねばならない義務を負っています。
どうですか、皆、馴れましたか?」
無表情なのが、何人かいた。顔が粉をふいたように見える。あまりいい徴候《ちょうこう》ではなかった。
「我々は今、ここで、自分が所属する世界を超越して、滝壺《たきつぼ》の向う側へ出なければならないんです。その時に、我々は自分の殻《から》を破って、しかも自分を保ったまま、より広大な社会へ踏み出せる。東京原人会の発会式に当って、我々は文字通り、滝の向う側へ出るために、水の下をくぐることにします」
顔に粉のふいた一人が立ち上った。このようなカリスマ的なものは、意味がないどころか、有用な場合もある。それを計算するのが人類学であった。
池はさして深くない。五十糎《センチ》くらいであろうか。そこに、高さ三米《メートル》くらいのラッパ型の台があり、そこから水が円型に周囲に吹《ふ》き上げている。太郎と一年生がまず池の中にざぶざぶ入った。これは人類学の洗礼でもあった。
一年生は、台座の下まで辿《たど》り着く間に、足を踏み滑《すべ》らせた。皆、わっと笑い、それをきっかけに、何かがくずれた。
太郎はそこにいた、十七、八人が、全部池の中にはいって、水をかけているのを見た。もしかしたら、火をつけたのは、山岳原人の大西かも知れない、と太郎は思ったが、それよりすでに騒《さわ》ぎは始まっていた。
通りがかりの学生の中でも、カバンを置き、セーターを脱《ぬ》いで走って来るのが現われた。名古屋原人の反撃だ! と太郎は思ったが、その瞬間《しゅんかん》、足をすくわれて、完全に池の中に転倒《てんとう》した。
「畜生《ちくしょう》!」
笹塚も、桜岡さんも加わっていた。そして驚《おどろ》いたことに、三吉杏子さんや、他《ほか》に、四、五人の女子学生まで、スラックスのまま、水の中で髪《かみ》を振《ふ》り乱していた。
「神父さん!」
誰かが、通りがかりの外人の神学の神父を呼んでいた。
「神父さん、今朝、顔、洗いましたか」
「洗ってないね、まだ」
「よし」
神父も池に引きこまれた。しかし、この人はラグビーの選手だったので、自分がやられたのの、三、四倍の人数の学生をたちどころに、水につっこんだ。
「暴徒」の数はいよいよ、ふえた。一年生が一番、熱心に、上級生にとびかかった。太郎はちらと、三吉杏子さんが髪ふり乱して「乱《らん》闘《とう》」しているのを見て、「あられもないなあ」と心の中で思っていた。
遠く道の方に、茂呂《もろ》教授と、四年生の石坂さんの姿が見えたので、太郎は池から、濡《ぬ》れた犬のようにとび上ると、二人の方に駆《か》け出した。この二人に、いつか太郎はコジュケイをとり上げられたのである。
「先生、大変です!」
太郎はどなった。
「どうしたんだ」
「暴動です」
「ようし、オレもやるぞ」
茂呂ハゲは一瞬立ち停《どま》って、学生たちの騒ぎを見守っていたが、突然《とつぜん》、服のまま駆け出した。
「先生! 先生!」
慌《あわ》てたのは、石坂の方だった。
「先生! 早まることはないですよ」
「石坂さん!」
太郎が呼んだ。
「先生、全く、大人《おとな》気《げ》ないよ! みっともないよ!」
「石坂さん!」
太郎は、石坂を引きこんで、水をばしゃりと浴びせた。
「こら、バカ、服が濡《ぬ》れるじゃないか」
弱そうに見える石坂さんが怒《おこ》ったので、太郎は恐ろしくなって逃《に》げ出そうとし、何回目かに池の中にひっくり返った。
太郎物語 高校編 解説
二人の太郎君―私立探偵《たんてい》の呑《のん》気《き》な推理―
矢《や》代静一《しろせいいち》
ケストナーの児童小説に、『二人のロッテ』という名作がある。父母が離婚したために、双生《そうせい》児《じ》の少女は幼年時代にそれぞれ別々に父と母に引取られる。だから、このルイーゼとロッテという少女は、国も違うし、姓も違う。ところがひょんなことから、二人はめぐりあい、双生児であることを知る。やがて二人は協力し、父母をめでたく再婚させるというのが粗筋《あらすじ》である。
私はこの本の解説を引き受けたとき、なんの予備知識もなかったので、虚心《きょしん》に読み出し、すこし読んで、「おやおや」と思った。曽野《その》さんの一人息《むす》子《こ》の名前が太《た》郎《ろう》君であることを思い出したからである。むろん『太郎物語』の主人公の太郎君は、曽野さんのお子さんの太郎君と同一人物ではない。まして、この本は所謂《いわゆる》私小説ではない。言ってみれば、あと味のとてもよろしい爽《さわ》やかなユーモア小説である。ベつの言い方をするなら、ドイツ語で言うビルドゥングス・ロマンである。教養小説だ。青春前期の若者の精神形成小説だ。作者の狙《ねら》いがそこにあると言っても多分間《ま》違《ちが》いないであろう。従って、太郎君がもう一人の太郎君でないことは明らかである。『二人のロッテ』を思い出した所以《ゆえん》である。
× ×
曽野綾《あや》子《こ》という小説家の存在を初めて知ったのは、昭和二十九年である。「三田文学」という雑誌に、曽野さんの小説『遠来の客たち』と私の戯曲《ぎきょく》『雅歌』が並《なら》んで載《の》ったからだ。親しく言葉をかわしたのは、私の処女戯曲集『壁《へき》画《が》』の出版記念会である。昭和三十年のことで、そのときのスナップ写真が残っていて、旦《だん》那《な》の三《み》浦朱門《うらしゅもん》と曽野さんが並んで写っている。いかにも新婚ホヤホヤの知的なカップルといった案配《あんばい》で、ついでにつけ加えると、曽野さんの目は笑っており、三浦の目はけだる気であった。もっとも、そのころは結婚して二、三年たっていたかも知れないし、太郎君が既《すで》に誕生《たんじょう》していたかも知れない。電話をかけてたしかめれば、すぐ分ることだが、この解説にはそんなことをたしかめる必要はないのだから、このままにしておく。ところで、私が太郎君を存じあげたのは――小説の主人公太郎君と混同して、わずらわしくなるから、以下、小説の方の太郎君のことは、「太郎君」にする――いまから六、七年前に、曽野さんといっしょに講演旅行に旅立つ朝であった。銚子《ちょうし》のカトリック教会から話をたのまれたのだ。乗物は、曽野さん運転するところの乗用車ということになり、私は、朝、田園調布の駅で落ちあう約束《やくそく》をした。定刻に曽野さんの車がやってきた。私が乗ると、「ちょっと待ってくださいましね」とおっしゃった。はて、どなたかもう一人連れがあるのかしらん? すぐに、高校生とおぼしき、長身のスラリとした気品のある顔立ちの男の子がやってきて、「はい、お待遠様《まちどうさま》」と言って、ケンタッキー・フライドチキンを二人前、曽野さんに渡した。近くの店まで、わざわざ買いに行ってくれたのだ。「うちの伜《せがれ》の太郎です」。「始めまして、矢代です」と私、「お早うございます」と太郎君。手を振って、上《じょう》機嫌《きげん》で別れた。
なぜこんなささいなことをよく覚えているかというと、私の子供は上二人が女の子で、やっと三人目に男の子が生れたからである。女の子と男の子は違う、それは当り前だ。そこで、女の子しか育てたことがない私は、そのころ、友人知人に男の子の育児法について尋《たず》ねたり、実際に友人知人の男の子を観察したりして、参考資料にしていたからである。それはいまでもそうだ。そういう私にとって、曽野さん夫婦はてれるかも知れぬが、太郎君はとてもこのましい男の子に見えたのである。そして、小説の「太郎君」と、あのころの太郎君の年齢《ねんれい》がほぼ似通っているから、友人である私には、どうしても太郎君と「太郎君」がだぶってしまうことになる。
× ×
私には、この山本正二郎《やまもとしょうじろう》、山本信《やもとのぶ》子《こ》、山本太郎という親子で構成されている家族が、大《おお》袈裟《げさ》に言うなら、聖家族のヴァリエーションのように感じられた。これは、なにも正二郎がヨゼフ、信子がマリア、太郎がイエスを模しているという意味ではない。この家族三人の心の底に流れている信頼感《しんらいかん》からくる明るさが、父であり夫であり、つまり一家の主である私には、たいそううらやましく思えたからである。ここには、現代日本の理想的な家庭が描《か》かれているのだ。作者である曽野さん自身も、かくありたしという理想的家庭を描こうと意図《いと》されたのではなかろうか。「人生とはなにか」、「人はいかに生きるべきか」という、言ってみれば野暮《やぼ》な命題を、ユーモアやエスプリのある文章でよく消化して提出しているのである。
ちょっと引用してみよう。小学校三年生の頃《ころ》、「太郎君」はテレビをみることを禁じられた。友達《ともだち》がみんなみているのだから、「太郎君」は当然反撥《はんぱつ》する。
〈「テレビ無しでなんか生きられないよう」
とだだをこねると、山本正二郎は、突如《とつじょ》として、テレビを持ち上げるや、庭の敷石《しきいし》に向って、それを叩《たた》きつけた。
「テレビが無いと生きていられないかどうかやってみろ!」
父があのように重い物を、あれほど軽々と持ち上げたのを太郎が見たのはその時が初めてで最後である。母は、その出来事に対してとりなしてくれもしなかった。〉
私はこういう父親に憧《あこが》れている。しかし、凡庸《ぼんよう》で親バカである私は、伜《せがれ》が小学生のころ、やはり同じような事件をおこしたとき、あわてて、こわれたテレビを修理させたものだ。それだけではない、映像《えいぞう》が不《ふ》鮮明《せんめい》だとワメカレタとき、月《げっ》賦《ぷ》で新しいテレビを買ってやってしまったほどである。
もう一箇《か》所《しょ》、引用する。「太郎君」が青山さんという青年と大学進学について話しあう。大学なんか行ってもろくなことはないなどと、今日只今《ただいま》では当り前のようになってしまった議論をたたかわす。高校二年生のときである。
〈「だって君だって、大学へは行くだろ。行かない勇気はないだろ」
青山さんは切り込《こ》んで来た。
「ねえ、キザな返事していいかな」
太郎は言った。
「どんなふうにキザなんだ」
「ぶん殴《なぐ》られそうにキザなんだよ」
「言ってみろよ。ぶん殴らないから」
「僕《ぼく》ね、この頃、学問、本当に好きになって来ちゃったんだ。だから……つまり勉強するのが、何だか好きになっちゃったから、オレ、大学へ行っても、いいんじゃ、ないか、って、思う、んだ、けど」〉
いまどき珍《めずら》しくしっかりした男の子だ。借物でない自分自身の考えを持っている。しかも、その言いまわしに柔軟性《じゅうなんせい》がある。こんな男の子が育っているかぎり日本の将来は安心だ。いま中学三年生のうちの伜も、すこしは「太郎君」を見習わなければいけない。そうだ、曽野さんにたのんで一つ、「太郎君」を伜に紹介してもらおう。私は「太郎君」が作中人物であることを忘れてしまったほど感情移入した。
× ×
三浦朱門は色紙をたのまれると、よく「妻をめとらば曽野綾子」と書く。これはむろん三浦がシャイだからである。「いくらアイしているとは言え、自分のカミサンののろけを綴《つづ》った色紙を人様に差上げるバカがいてよいものであろうか」と、マジメな人間が溜息《ためいき》をつくのを百も承知で、そうしているのである。更《さら》に心ある人間が、「三浦、おぬし、なかなかやるのう」と苦笑するであろうという計算も入っている。そういうデリケートな心の動きが、「太郎君」にはある。ひょっとすると、「太郎君」は、若き日の三浦朱門がモデルなのではないかと勘《かん》ぐりたくなるほどである。これは、むろん私の私立探偵《たんてい》的発想である。いけないことである。いけないことであるがたのしいことである。事実を取捨選択《しゅしゃせんたく》し、デフォルメし、そこから真実を描くのが文学であるなどと文芸評論家は言うが、倖《しあわ》せなことに私は、ただの曽野さんの小説の愛読者であるから、勝手きままにたのしく読む権利がある。
勝手きままついでにつけ加えるなら、テレビを庭の敷石に叩きつけるような立派な御主人を持った信子は、実に倖せな妻である。作者の曽野さんは、「太郎君」と同様に、正二郎にも惜《お》しみなくアイをそそいでいる。この正二郎こそ、三浦朱門その人に違いないと、私立探偵は推理する。つまり、「太郎君」も正二郎も三浦朱門の分身なのである。となると、この爽やか小説は中年にさしかかった夫婦のビルドゥングス・ロマンといってもよいことになる。
なにはともあれ、この小説には、ほかの作品ではめったにお目にかかれない曽野さんの心やさしい素顔がのぞいていたので、まったく心地よいひとときをすごさせてもらうことができた。
(昭和五十三年七月)
太郎物語 大学編 解説
鶴《つる》羽《は》伸《のぶ》子《こ》
人生には二回、精神が危機にさらされる時期があるという。第一回が青春期、第二回が更年《こうねん》期《き》である。男もしくは女になる時期と、男もしくは女でなくなる時期には、内分《ないぶん》泌《ぴ》腺《せん》の働きが一定せず、感情がアンバランスになるからである。
ところが運の悪いことに、日本の平均的家庭を眺《なが》めると、この二つの時期は親と子に重なって現われるようである。例えば、わが家では息子《むすこ》は十九歳で一浪《いちろう》中、娘《むすめ》は十六歳で高校二年生。二人はこの作品の主人公と同じく青春期のまっただ中にいる。親は共に四十八歳。いまや更年期の入り口にさしかかっている。わが家は、いわば全員が精神不安定の時期にいるわけである。
山本太郎は「僕《ぼく》たちは今、感情不安定な年《とし》頃《ごろ》なのよ。わかんないかなあ。ちょっと気にくわない言い方をされただけで、ズブリと相手を刺《さ》すような年頃なんだよ」と言うが、日夜、息子や娘のそういうまなざしにさらされている私には、この言葉、まことによく身にしみるのである。
しかし、ズブリとやりたいのは何も、青春期の子供だけではない。更年期の親の精神もまた不安定に揺《ゆ》れ動いているのである。しかし、さすがに五十近くなると攻撃性《こうげきせい》は、ズブリと刺すとか、火を放つとか、爆弾《ばくだん》を投げるといったように外には向わず、うつ病、自殺、せいぜいが蒸発といったような、内向的な、しょぼくれた現われ方をするようである。太郎の友人の藤原《ふじわら》の家は、長男の心中未《み》遂《すい》事件をきっかけに、父親の女関係がバレ、母親は出家し、一家は崩壊《ほうかい》の方向へ向って行くのだが、現実にはこのようなドラマティックな事件がなくとも(転居のようなささいなことからでも)、更年期の人間は初老性のうつ病を惹《ひ》き起したり、不眠症《ふみんしょう》になったりするようである。
その上に、母親にはもう一つの苦しみが加わる。子供との別れである。父親と母親とどちらが別れをつらがるかと言えば、むろん、それは母親であろう。父親にとっては、子供や家庭は仕事と並《なら》んで自分の人生を構成する一つのファクターに過ぎないが、多くの場合、母親にとってはそれらは即、人生と言ってもよいほど、重大なものであるからである。
男女の愛は二人の人間が一つになる愛であるが、母性愛は一つのものが二人の別の人間に別れる愛である。母性愛とは、別れと喪失《そうしつ》を最終目的にした悲しい愛なのである。はじめ、母と子は胎内《たいない》で一体である。出産により肉体は二つに分れても、両者は乳《ち》房《ぶさ》でつながっている。その後十数年をかけて子はしだいに成長し、独立した人間としての自我を獲得《かくとく》して、最後には親の保護の翼《よく》下《か》から飛び立って行くのであるが、青春期とは子供にとっては翔《と》び立つための助走期間であり、母親にとっては最愛の者を失う悲しい別れの時なのである。この母親としてのつとめの最終段階を全《まっと》うするためには、母親は愛する者を解き放つ能力、利己心や独占欲や支配欲を捨てて、代りに利他心を、与える能力を、愛する者の幸せだけを願い、お返しを望まぬ能力を身につけねばならない。この試練を突《とっ》破《ぱ》するのは実は、非常に難かしいことなのだ。少なくとも私のように無能な親は、定《き》まったセオリーもなく、その時の気分まかせに子供をどなりつけたり、反対に妙《みょう》に弱気になったり、とにかく一日一日が無事に過ぎることをのみ希《ねが》って今日まできたと言っていい。そういう私にとって、この『太郎物語』はまことに有用な本であった。親と子がこの時期を乗り切るためのいくつかの鍵《かぎ》がかくされているのを発見したからである。
太郎は一流大学の明倫《めいりん》大学と、少し落ちる地方の北川大学に両方とも入学できることになった時、よくよく考えて外聞のよくない方の北川大学を選んだ。明倫は大学としての格は上でも、太郎が本当にやりたい学問の講座がなかったからである。この決定を聞くと憧《あこが》れのガールフレンドはもったいないという顔をしたが、翻訳《ほんやく》の内職に明け暮《く》れている母親の信《のぶ》子《こ》は「賛成よ」と言った。「私は、初めっから北川がいいと思ってた」太郎は母親が、北川でいい、と言わなかったことを記《き》憶《おく》にとどめた。北川でいい、というのは譲歩《じょうほ》であり、北川がいい、というのは息子の決定に対する積極的な賛同である。太郎は母のその暖かい支持をす早く感じとったのである。
山本夫妻は息子に本気で勉強する気があることを見《み》極《きわ》めると、ぜいたくだとか、そんな金があるなら親の家を建てかえてやったら、というような外からの雑音にまどわされず、勉強がしやすいようにと、マンションを買うことにした。男の子を甘《あま》やかしてそんなところに入れると、ろくなことにならないと言う伯母《おば》の非難に、信子は「私共の息子に限ってそういうことはない、と思ってます」「私たちは、息子に、これでも賭《か》けているんです。普《ふ》通《つう》のお宅のように、有名校へ入ってもらいたいとか、大会社に就職させたい、ということじゃありませんけれど、学問が好きなら、それを身につけさせるために、全力をあげたいんです」と言う。一方では信子は太郎には「ダラクしたら、第一の責任者は子供なのよ」とダメを押《お》すことも忘れないし、世間からよく思われようとすることがどんなに人間を縛《しば》り、貧しくするかということを、友人の家を例に太郎に語ってやるのである。山本家には金があり余っているわけではない。大学教師の家で、母親が翻訳のアルバイトをしながら七百万円ものマンションを買うことは決して楽なことではないだろう。だが、汗《あせ》の滲《し》みた金を出すという親の好意と息子に賭けた信頼《しんらい》の深さを感じれば、太郎はもはや他人の期待に応《こた》えてダラクしてみせるわけにはゆかないのだ。
名古屋での太郎の生活は銀行の通帳つくりから始まった。米も買わねばならぬ。フライパンも必要だ。電気釜《がま》もいる。東京から来た太郎にとってこの地方大学で会う友だちはそれぞれに全く別の文化的背景を背負っていた。大西はスモーク・サーモンを焼いて、うめえなあと食い、畳《たたみ》に座《すわ》らないと落ちつかないと言う。
異質の文化に出会っていささかたじろいたのか、それとも新緑の頃に新入生を襲《おそ》うという五月病にかかったのか、太郎が心なえて電話をかけてきた時には、信子は敏感《びんかん》にその気配を感じとり、道をまちがったと思うなら帰っておいで。出なおしたらいい。人間はみなまちがえるものなんだから、やってみて、まちがったと思ったら、あっさりカブトを脱《ぬ》いで出直したらいい、生きていく方法は何でもあるから、と言う。ふつうの親なら、せっかく大学に入ったのにとか、高いマンションを買うことにしたのに、そんなことでどうするのかと、励《はげ》ますつもりで逆に息子を窮地《きゅうち》に追い込《こ》むのだが、このあたり、信子の言葉は息子を甘やかさず、追いつめず、聡明《そうめい》な心理学者のそれのように配慮《はいりょ》が行き届いている。
やがて太郎は猛然《もうぜん》と本を読み始め、名古屋の町にも徐々《じょじょ》に心を開いて行くようになる。誰《だれ》にとっても、自分と同質のものを理解するのは容易である。しかし、異質なものに心を開いてそれを受け入れ、理解するのは容易なことではない。それには柔軟《じゅうなん》な頭脳が必要である。それに、異《い》邦人《ほうじん》を愛せるか否《いな》かは、その人物が大人になるための一つの試金石でもあるのだが、太郎は自分とはちがうものを許容し、愛するコツをこの町で獲得《かくとく》して行くのである。
初めての夏休みに太郎と信子は再びいっしょに暮《くら》してみて、不思議な違和感を感じたのだ。太郎は親といると何だか落着かない自分を発見したし、信子は太郎のいる嬉《うれ》しさと嬉しくなさを同時に感じてとまどうのだった。
《ねえ、ねえ、親子っていうのは動物と同じで、ある時から相手に身の廻《まわ》りにいられるとうっとうしいと思う要素があるんじゃないの?》と太郎が言うと、信子は、
《両方だろうね。傍《そば》にいられるのも良し、いないのも良し》と答える。残暑の名古屋に帰った時、太郎は「帰った」という言葉が少しも不自然でないほどに、自分が親離《おやばな》れしたことを知ったのであった。秋には登校拒否症《きょひしょう》の高校生を預かったり、クリスマスには銀座のバーにかつての憧れの上級生を訪ねて、そのプロ意識のなさにがっかりしたり、同じマンションに住む二号さんに健全な友情を感じたりしながら、太郎はしだいに翼《つばさ》を拡《ひろ》げて広い大空へ向って力強く飛び去って行くのである。
三《み》浦朱門《うらしゅもん》・曽野《その》綾《あや》子《こ》夫妻には、この小説の主人公と同名の太郎君という息子がいる。現実の太郎君も名古屋の南山《なんざん》大学大学院で人類学を学んでいるが、三浦家の子離れ、親離れが、現実にはこの小説に於《お》けると同じように理想的に行われたのかどうか、私は知らない。しかし、現実の夫妻が息子を巣立《すだ》たせるに当って、悩《なや》み、苦しみ、考えた結論が、小説の背骨に使われていることは確かであろう。
わが家の息子と娘も数年中には巣を飛び立って行くであろうが、私は太郎に対してとった信子の態度を見習って、子供を巣立たせたいと思っている。子供を信じること。子供に賭けること。(むろん世間的な意味ではない)お返しを期待せず、飛び去った後も子供の幸せを希《のぞ》み、世間が何と言おうと、子供を支持し続けること。信子のとったこの態度は強い意志の力と明るい理性に裏打ちされて初めて生きるのであろうが、私にとってこの本は青春期の子供に接する際の親のとるべき態度を教えてくれた貴重な本であった。
若者よ。わからず屋の親がいたら、この本を読ませなさい。しかし、自分に対する第一の責任者は自分だということだけは忘れずに!
(昭和五十四年七月)