星 新一
きまぐれ遊歩道
目 次
T 人びと、雑学的な
歴史と人びと
U 生活、エピソード風の
[#この行2字下げ]ロマンス/ 人生/ アスピリン/ 日付/ 天才たち/ タバコ/ コースター/ 近所のネコ/ 落語/ コペルニクス/ 歯あれこれ/ 会話とお茶
V 回想、断片的な
[#この行2字下げ]学校/ やっと、いま……/ 音楽との出会い/ アナトール・フランスの短編/ 農芸化学科を出た私/ はじめての酒/ 高輪/ 空想の楽しさ/ 一〇〇一編
W 金銭問題、たまには
[#この行2字下げ]悪魔/ 小説作法/ 発想のもと/ 経済問題/ ひまへの対策/ 流行とは/ すべてインフレのせい/ 香港/ 演出/ ネパール銀座
X 世の中、あれこれ
[#この行2字下げ]テディ・ベアとの長いつきあい/ イスラムとは/ 思考の泡*/ 思考の泡**/ 鴎外の作品について/ 懐古の流行/ 隣席の少年/ 友人/ ある明治の女/ マンローをめぐって/ 遍路
あとがき
[#改ページ]
T 人びと、雑学的な
「波」という雑誌に「話のたね」という題で連載した。主な資料は『官吏学摘要』だ。大正十三年の私の父・星|一《はじめ》の著作。各国の官吏制度の分類だが、サービス的な部分もまざっている。
なお『世界伝記大事典』や平凡社『大百科事典』や小学館『日本大百科全書』も参照し、そこからの引用もある。
歴史と人びと
フランスでは官職の売買が目にあまり、十八世紀に官吏採用試験の制度ができた。中国の科挙の例を参考にして。そのため、合格者の多さが、学校の良否の基準になった。
科挙の害は、試験に無関係の本を読まなくなったこと。焚書《ふんしよ》と同じ結果。
長岡藩の家老、河井継之助は、収賄した武士を呼んで聞いた。
「生活に、扶持米が何石たりないのか」
恐縮、反省。以後はよく働いた。
ローマ時代の役人リュキロスは、ぜいたくきわまる生活をした。ローマの堕落のきっかけの人として、歴史に名を残した。
インドのジャハーン王は、愛妻のためにタジ・マハール寺院を作ったが、どんな政治をしたのかは、ほとんど知られていない。
ナポレオンへの世界での評価は各様だが、権力保持のために作った法典だけは、歴史的に重要視されている。
哲学者ショーペンハウェルは、その処世訓に書いている。とにかく日常生活の安定がないと、自我の集積どころじゃないと。
ローマ時代の政治家、哲学者キケロの残した名言。
「知者は理により、凡人は経験により、愚人は必要により、鳥獣は本能により動く」
フランスでは文化が爛熟し、なまけて道楽にふけるのが理想となった。詩人グールモンは、自分の一本の指のほうが、国土より大切と言った。
しかし、第一次大戦の開始で、みな愛国者に一変した。
イギリスのピーボディは、貧しい家に生れ、大銀行家として成功した。晩年、その私財を投じて、ロンドンに建物を作り、安い家賃で二万人の貧しい人を住まわせた。
その葬式は国王、大政治家、大芸術家なみで、ウェストミンスター寺院に埋葬された。
古代中国、斉《せい》の桓公《かんこう》は賢臣たちを登用し、天下をおさめ、国を富ませた。しかし、家庭的に恵まれず、病気となると後継者あらそいで看病する者がなく、餓死。さらにほっておかれ、死体にウジがわいた。
アメリカのブレインは、人格識見のある人物。大統領選に三回も出たが、いずれも落選。弟子のつまらない男ハリソンを候補にしたら、23代の大統領に当選。しかし、その評価は、はなはだ低い。
ブレインの晩年は、財産もあり、家庭的に恵まれ、よい友人も多かった。
イギリスの心霊心理学界は、多くの現象を記録している。サッフォルドの学者としての業績はしれていたが、十歳の時に、答が三十六ケタになる掛け算を一分間で暗算し、名を残した。
また、ある少年は六歳の時、父と散歩しながら、生れた時から現在までの秒数を、頭だけで計算した。二回の閏年《うるうどし》を含めて。これらの能力は、成長すると低下する傾向にある。
フランスの数学者ポアンカレーは「体験上からだが、新しい発見をする時は、自分以上の力が作用するようだ」と言っている。
孫子の兵法は、戦術哲学として、現在でも通用する。しかし、彼はそれを実戦で試みたことはなかった。
アダム・スミスは子供のころ、ジプシーにさらわれたが、すぐ救出された。大学を出て学者となり、哲学を研究し、さらに『国富論』を刊行し、経済学の祖となった。しかし、実務は苦手《にがて》だった。
ある職についた時、公文書へのサインのやり方を知らなかった。秘書が前任者の書類を参考に見せると、そこに前任者の名前をサインした。天才なんでしょうね。
毛利|元就《もとなり》は推薦状を持って面会に来た、明智光秀を見た。その人相に反抗的な印象を持ち、金を与えて帰ってもらった。
阿倍|飛騨守《ひだのかみ》という天文学者が、戦国時代にいた。草とりをしている木下藤吉郎という青年の顔を見て、話しかけた。
「あなたは、やがて天下を取りますね」
「とんでもありませんよ」
「でも、決意はあるのでしょう」
「天下を取ったら、ああしよう、こうしようと、よく空想はしますがね」
「やはりだ。その時は、一万石を下さい」
その通りになった。会う人ごとに言ってたのかどうかは不明だが。
かつてロンドン大学に、特別就職担当員がいた。外見のスマートさ、センスある会話、上手な字、ほどほどの品行方正を指導。学業は問題外だが、採用先からは感謝された。
フローベルには、結婚を約束した女性があったが、挙式を引きのばし、ついに先に死んでしまった。彼女に残した手紙の内容。
「私より、私の芸術のほうを愛すべきだ。それは決して、あなたの心から離れない」
賛否両論があるだろう。
アメリカ海軍の内規の、礼砲の数。
大統領21。外国の君主か大使21。副大統領19。各省長官、州知事、州議会議長17。総領事9。
そのほか、音楽の演奏の長さ。礼服か正服か。艦上での兵員の並べ方、旗の種類など、少しずつ差がある。アメリカでも、けっこううるさいようだ。
ドイツ帝国は一八七一年に成立。プロシャ王が皇帝となったが、実体は連邦制。三つの共和国、四つの王国、五つの公領、六つの大公国、七つの侯国で構成されていた。
公爵はデュークだが、語源のラテン語では、下級指揮官の意味である。侯爵はマーキス。マークは印だが、国境線の意味もある。その守備役からきた呼称。
伯爵はアール、アングロサクソンの長老の人名である。子爵のバイカウント、男爵のバロンは、それぞれラテン語の州知事、助役といった意味からとの説がある。
大正時代のはじめ、リヨン大学の教授は、訪れた日本人に言った。
「お国は日露戦争に勝ったが、そのあと、生活向上の実績がない。フランスは普仏戦争でドイツに負けたが、ここリヨン地方では果樹栽培に努力し、英独へ輸出し、みな豊かになった」
まもなく、第一次大戦となり、ヨーロッパ各国は戦火にやられ、日本は史上はじめて好景気を体験した。
古代中国では、西の山地からは将(武人)が出て、東の平地からは相(政治家)が出ると言われた。
イタリアのシシリー島は、エトナ山脈で東西に分れる。東は農業に適し、生活も楽だが、犯罪も多い。西は土地改良に努力するまじめ人間。自作農が多いためのようだ。
イギリスの経済学者で、自由貿易論を進めた人たち。マルサス、ミルは僧侶の出身。リカードは株屋。コブデンは破産者。ブライトは木綿商。ビヤーズは弁護士。共通点は立場が自由だったこと。
第一次大戦前、ベルリンの電車内の広告の八割以上は、ノイローゼ関連の薬だった。
ローマ時代、党派の争いが高まり、共和制の末期には、選挙の戸別訪問が大がかりになった。これをアムビチョと称した。英語のアンビションのもとだ。適当な日本語は野心だろうが、これを「大志を抱け」と訳した人がいて、好ましいと感じる人も多い。
一九〇〇年ごろ、アメリカ東部の都市の、町工場の実状はひどかった。夫婦と五人の子が作業員。三階の二部屋をつなげ、仕事、炊事、食事、睡眠のすべてをそこでやった。
洗面も掃除もせず、そのため製品の服はよごれて安売り。視察に来た役人は、食品のくさった臭気で、病気になった。
トルストイは貴族なのに、最も貧しい人たちと同じ生活をしようとした。あるアメリカ人は「立派なことだが、それで貧乏は理解できない。金品の不足ではなく、今後の生活への恐怖が貧乏なのだから」と言った。
大正の初期、日本の懲役の囚人数は世界一。英や仏の二倍のドイツより、さらに多い。それが低賃銀の一因となっていた。
エジソンの発明の蓄音機は、二年後の一八七九年(明治十二年)に日本に持ち込まれた。筒状のロウに録音する。
展示の時、最初に吹き込んだのが東京日日新聞社長の福地源一郎。声はすぐに再生され「こんな時代になると、新聞社が困るぞ」と音を出した。
葦《あし》はイネ科の植物。パスカルの「人間は考える葦である」で有名。葦はいずれ枯れるのを知らないでいるが、人間はそれを知っている点がちがうとの意味である。
パスカルの父は官吏で「数学なんか勉強してもむだだ」と言い、むすこは好奇心を抱き、まず、その分野で業績を残した。
古代中国の道士の秘薬の金丹は砒素《ひそ》、臭素、アワビの粉末と、主成分の赤い酸化水銀をまぜたもの。抱朴子《ほうぼくし》と号する人物は、その入手に出かけたが、代金不足でむなしく帰った。そのためか、病弱なのに長生きした。
英国の思想家カーライルは「あなたの医者は」と聞かれ「馬」と答えた。乗馬をやっているので健康との意味。彼の著作は、新渡戸稲造の生涯の愛読書。
一八五〇年ごろ、英国のキリスト教に、腕力派がはやった。けんかに割って入り、実力で仲裁し、神の教えを説いた。
第一次大戦で、参戦国が失った国富のパーセント。英46、仏56、伊42、露45、独45。米国は10を少し下回る。
「戦いは万物の父」とはギリシャの哲人ヘラクレイトスの言。ニーチェは「戦争は博愛より大きな仕事を成就した」と言い、シュタインメッツは「戦争は神が定めた裁判法」と言った。
ベルグソンの「人生とは、あらゆる障害を突破して進む軍隊なり」は、人生訓だろう。
世界最初の最低賃銀法の制定は、一八九四年ニュージーランドで。本国の英国では、その十五年あと。
大都市への人口集中は好ましくないと、セオドア・ルーズベルトは地方振興を主張し、ドイツのウィルヘルム皇帝もその政策をとった。日本では田中角栄元首相。
クラブのはじまりは、ギリシャ時代のアテネ人から。男女や子供が集り、持ちよった飲食物で、夜おそくまで社交を楽しんだ。老人は不参加だったが、遠慮したのか、くだらぬと思ったのか。
スパルタ人のクラブは、武芸のあとの飲食。ローマ人のは豪華パーティーで、大混浴場や牛乳風呂まで作られた。
時代がたち、英国で知識の交換や人格向上など、形のととのったものが定着した。
芥川龍之介の自殺は、睡眠薬によってでなく、コカイン。その作用を調べた上でだったのだろうか。
俳句の呼び名は、子規がひろめた。以前は俳諧。この語は『史記』のなかで使われ「口先のうまい」の意味である。
鮨《すし》は千年も前の中国の宮廷で食された。魚や貝を酢につけて蒸したもの。日本に伝わって、米飯との混合の試みがなされ、にぎりずしは、文政年間(一八二〇年ごろ)江戸両国の与兵衛の作ったのが最初。
コメ。稲の栽培は、エジプト文明期、ナイル河のそばでが最初である。
大正元年(一九一二)ごろの一人当りのGNPの比較。日本を10とすると、伊は38、独は42、仏は63、英は83、アメリカは120。
哲学の祖、ギリシャ時代のターレスは天文、数学にもくわしく、七賢人のひとり。ある人から「賢人なら金持ちのはず」と言われ、オリーブ投機で大もうけをしてみせた。また「なんじ自身を知れ」との名言を残した。
後世のオスカー・ワイルドは「なんじ自身たれ」が今後の生き方だと言った。個性の自覚だけでなく、その発展が大事との意味。
一七〇〇年代のスイス。流体力学の分野の祖、数学者ベルヌーイは、両親も数学が得意だった。その一族七二八人を調べると、四八人を除いて、みな数学の才能があった。
一九〇〇年のアメリカ。J・エドワード一族一三九四人を調べると、大学教授、医師、軍の士官それぞれ六〇、判事など法律関係者は八〇、牧師一〇〇、副大統領、知事、議員、文筆家、市長、公使など。犯罪者はゼロ。
パリの橋に名を残すミラボーは、王室の腐敗で革命が起るのを防止しようと、政界で活動し、才能も実力もあった。
しかし、青年期の派手な遊びが有名で、民衆の支持が得られず、流血革命となった。晩年、後悔が高まり衰弱して死んだ。
ローマ時代、皇帝カリギュラの死後、その愛馬が執政官の一員の地位を得た。会議には出なかったが、象牙製の入れ物から草を食べ、金の容器でワインを飲むなどの、いい待遇を受けた。
イスタンブールに電気をと、トルコ皇帝に臣下が進言した。それにはダイナモ(発電機)がいるとの説明を、皇帝はダイナマイトの同類と思い、実現は三年もおくれた。
封建時代の英国。領主たちは国に軍隊を供給する義務があったが、金銭を払ってすませることもできた。それをソリッジと称し、ソルジャー(兵士)の言葉の起源。
古代ローマ。共和制だが、非常事態の場合、一時的に全権を持つ者を、元老院が任命できた。ディクタトルで「これが命令だ」の意味。独裁者の語源である。
外敵に攻められた時、ある将軍がその地位につき、勝利のあと、すぐ退任。わずか十六日間。
いわゆるストライキは、一三二九年、ドイツのブレスラウの皮帯職工たちのが、最も古い。日本では『徒然草《つれづれぐさ》』の書かれたころ。
ストライキの言葉は、一八〇九年ごろのアメリカで普及した。各産業で発生したのだ。スト破り、つまり休まない者をなぐるのも、そのころから。
英語だとキャサリン、フランス語だとカトリーヌ、ロシア語だとエカテリーナ。
中国の唐の制度、それにならった日本の大宝律令では、身分が高ければ、刑が軽い。
ただし、悪逆、非道、不義などは例外。そうでない犯罪って、あるのだろうか。
スマイルズの『西国立志編』にとりあげられた成功者は、二六六人。金持ちの子は一六人、貧しい家の生れが二五〇人。
徳川時代の儒学者七二人のうち、貧しい家の出が六一人、金持ちの出は四人、あとの七人は不明。
シェークスピアは、悪名高いシャイロックというユダヤ人を作り上げた。しかし、当時の英国にはユダヤ人を締め出す法律があり、純粋のユダヤ教信者のユダヤ人を、彼は見ていなかったはず。
一一〇〇年、英国の王にヘンリー一世が即位。その孫がヘンリー二世。その孫がヘンリー三世。その子がエドワード一世で、二世、三世とつづく。
やがてヘンリー四世が王となる。その子が五世。その子が六世。その異父弟の子が七世。その子の八世はローマ法王の支配下から独立し、王の権力を確立した。一五三四年。
日本を開国させたペリーは、奴隷をアフリカに戻す船を動かし、建艦工場の長もやり、アナポリス兵学校の設立につくした。ロシアからは艦隊司令官にとの話もあった。
幕末、幕府の使節がポーハタン号に乗り、勝海舟の操る咸臨丸《かんりんまる》をしたがえ、渡米した。
ポーハタンは、インディアンの大|酋長《しゆうちよう》。その娘が英国系の男と恋愛し、結婚したため、酋長の存命中は平和関係がつづいた。
凧《たこ》で有名なフランクリンは、アメリカ独立への援助を得ようと、フランスに滞在した。知名度と人柄のため、みなに好かれた。国王ルイ十六世も、自由な精神を支持し、そのあげくやがて王位をおりるはめになった。
アメリカの独立戦争の時、植民地軍の一隊が餓死した。ペンシルバニア州の農民が、現金払いの英軍のほうに食料を売ったから。フランクリンが議員をしていた州。彼の実利的な商売を、みならってか。
五千年も昔にサッカラに最古のピラミッドを作った建築家、イムホテップの名は残っている。しかし、古代のバビロニアや中国での建築家の名は、知ることができない。
ナポレオンは科学者を好きだったが、文科系の学者とは話さなかった。つまらん説ばかり作ると。
ルードウィッヒ・ヴァン・ベートーベンのヴァン≠ヘ、貴族的な印象を与えるが、ただの名前の一部にすぎない。
大指揮者でもあり幻想交響曲≠作曲した、フランスのベルリオーズは、楽器を熱心に習ったが、演奏できたのはフルートとギターだけ。
シベリアを東に進み、発見した海峡に名を残すベーリングは、デンマークの探検家である。
ドイツの物理学者ブラウンは、マルコーニと同時にノーベル賞を受けた。ブラウン管の発明者として名を残している。
アメリカ旅行中に第一次大戦となり、捕虜あつかいされ、ニューヨークで死去。
画家のクレーは音楽家の息子で、彼もバイオリンの名手だった。いかにもと思うが、スイス人と聞くと、それらしくない。
ドイツ人の画家グロスは、辛辣《しんらつ》な言葉のためナチに追われて渡米。ほっとし、平凡な画風になってしまった。
三浦|環《たまき》は日本はじめての、世界的なオペラ歌手。幼時に踊り、琴、長唄を習う。東京音楽学校で滝廉太郎にピアノを習う。欧米で活躍し、カルーソーと共演。『蝶々夫人』の作曲者、プッチーニに絶賛された。その上演は二千回。
昭和二十一年、死去。長い人生のようだが、その時、六十二歳。
ジェンナーはイギリスの医師。農民が牛痘にかかることで、天然痘にならずにいるのを調査し、種痘法を確立した。この予防法は、東洋から伝えられたもの。
若いころ、彼はキャプテン・クックにさそわれた。船医となって、太平洋へ行く気はないかと。
サントリオは、中世のイタリアの医師。振り子を利用した、脈をはかる器具を作った。体重測定に熱心で、目に見えない形での汗の発散があるとの説を立てた。
ジェームズ一世は、スコットランドの王(在位一四〇六―三七)で、貴族の力を押え、善政につとめた。
二百年ほどあと、子孫のジェームズ六世は、イングランドの王になり、ジェームズ一世と称した。礼儀しらずの名を残した。
コネチカット州の裕福なコルト家の息子は、ひ弱さをなおせと父に言われ、東洋航路の船員となった。ふとアイデアが浮かび、リボルバー式|拳銃《けんじゆう》を発明した。
対インディアンに有効とわかり、工場で大量生産し、大富豪になった。
中国の詩人、李白は幼時から学問にすぐれていたが、剣も巧みで、任侠《にんきよう》の仲間に入り、殺傷事件も起している。神仙にもくわしく、小鳥を数千羽も操った。明るい性格で、むやみと女性にもてた。商家の出で、科挙を受験できなかったが、高官の娘と結婚した。
しかし、出世がうまくいかず、各地を旅し、詩を作り、酒を好み、才能をねたまれ、入獄するなど、異色な人生。日本からの留学生、阿倍仲麻呂も友人のひとり。
ジョン・ケイは、産業革命の時のイギリスの人。紡績機械の大改良の案を思いついた。しかし、資本家は金を出し渋り、職人たちは仕事がなくなると押しかけてきた。フランスへ逃げたが、貧困のうちに死んだ。
[#改ページ]
U 生活、エピソード風の
ロマンス
サラエボは現在、ユーゴスラビアの都市。一九一四年の六月、この地でオーストリア・ハンガリー帝国の皇太子、フランツ・フェルディナントが暗殺された。
このハプスブルグ家は、ルイ十六世の王妃のマリー・アントワネットや、ナポレオンの二番目の妃のマリー・ルイーズも一族。
フランツは子供の時からおとなしく、孤独を好み、聖職者に教育され、まじめな性格だった。宴会があっても、婦人と会話をかわすことがない。三十歳を過ぎても独身。
候補として、何人もの王女の名があがったが、その気にならない。皇帝は伯父に当り、その息子の自殺、つづいてフランツの父の死。それで皇太子になったという立場を考えてか、ウィーンの宮廷生活をきらってか、各説ある。
そのうち、フランツはフレデリック大公の家を、しばしば訪問するようになった。王女が多くいる。だれかを好きになったのなら喜ばしいと、関係者はほっとした。
しかし、フランツ皇太子が明らかにした女性は、ゾフィー・ショテク。その家で召使いの仕事をしていた。彼女の父は外交官で、伯爵の称号を持っていたが、貧しい家。美人かもしれないが、さらに美しく、格式の高い家柄の王女は、ほかにたくさんいる。皇帝も大公もがっかりし、大臣も反対、国民も驚いた。
それでも、フランツの心は変らない。前例がないので、皇族どうしの宮中での儀式はおこなえない。皇太子はそれを無視し、一九〇〇年に結婚となった。フランツ、三十六歳。
ゾフィーは魅力ある女性で、思いやりもあり、頭もよく、世俗的な欲望も少かった。うわさはひろまり、すばらしい妃殿下と呼ばれた。
三人の子が生れる。絵にかいたような、しあわせな家庭。恋はみのったのだ。
フランツ皇太子は、国のために働いた。ドイツだけと友好するより、ロシアとも協調し、外交的に安定した関係を築こうとした。国内の改革も、計画していただろう。陸軍総監という、要職についた。
しかし、これに反対するテロ・グループは、オープンカーに爆弾を投げた。それは避けたが、車に飛び乗った者が拳銃を発射。ゾフィー妃が身をもって防いだが、第二発目が皇太子に命中。二人とも死亡。ちょうど、十四回目の結婚記念日だった。
これがきっかけで、第一次大戦に発展し、暗い時代に入る。
人生
M・E・シュブルールは、フランスの科学者。一七八六年、地方都市で生れた。フランス革命の起ったころで、七歳の時にギロチンによる処刑を見ている。
十七歳になり、パリへ出て、化学を勉強。指導教授は、ボークラン。彼は農民の子だが才能をみとめられ、薬店で働き、学者となった。各種の色を作るクローム元素の発見者である。シュブルールは藍《あい》(インジゴ)の研究もやった。
二十三歳になり、脂肪の化学的性質を調べ、多くの成果をあげた。石鹸を化学工業で量産できるようになったのは、その応用だ。
国内情勢は革命の混乱のなかで、ナポレオンが支配力を持ち、外交にも腕をふるい、やがて、皇帝ナポレオン一世となった。
シュブルールは、つぎに脂肪酸を原料にロウソクを作る方法を、友人と共同で確立し、特許をとった。それまでのにくらべ、固く、明るく、煙や臭いも少く、使いやすく、画期的な品だった。しかし、当時は液状の油での照明のほうが安かった。教会でも多くは使わず、そうは利益があがらなかった。
また彼は、糖尿病患者の尿を分析し、ブドウ糖と同一の成分と証明した。しかし、この病気の解明は、さらに一世紀あとのこと。
ナポレオン皇帝は、調子に乗ってロシアに遠征。敗退し、退位。流されたエルバ島から戻るが、百日天下。王政の時代となる。シュブルールは教授になり、四十歳で科学アカデミーの会員となる。世界初の有機物分析法の著書を出した。
染色工場の管理をしながら、色彩の効果についての本も出した。色の分布についての学説だ。その影響を受けたのが、点描派の画家、スーラである。
学問上の友人に、アメリカ人のヘアーがいた。水素と酸素で高熱を出す溶接用ランプ、石灰を使う劇場の照明のライムライトなどの発明者。しかし、晩年に心霊学に熱中し、そのための装置を設計したりした。シュブルールは忠告のため、科学的な見地から、心霊現象の解説書も書いた。
彼は老化現象の分野の開拓者であり、適任者だった。自分自身を研究材料にすればいい。九十歳をすぎると、老人の心理についての論文を書いた。
百歳の誕生日を友人たちに祝われ、大喜びした。革命百年にちなむパリのエッフェル塔が建設され、彼はさらに生き、百三歳の天寿をまっとうした。
アスピリン
人体内の血管。白血球はそこを流れている。食細胞とも呼ばれ、細菌やビールスが侵入すると、包み込み、無害なものとする。その時、体温を高める物質を放出する。
こんなことは、本を読むまで知らなかった。ひとつ利口になった。
「カゼをひいたのかな。熱がある」
正しくは、体内で治療作用が進行中なのだ。しかし、いい気分でないので、解熱剤を飲む。アスピリン含有のもあろう。私は頭痛しらずで、そのためには使わないが。
ギリシャ時代には、ヤナギの樹皮の抽出液の、解熱鎮痛の作用が知られていた。暗黒時代が終り、十八世紀になり、ロンドンの王立研究所は、それを確認した。やがて化学者によって、有効成分が判明した。主なのが、アセチルサリチル酸。
一八九九年、ドイツの化学者が合成に成功。胃への刺激を押える成分を加え、商品化した。バイエル・アスピリンである。薬店での、超ロングセラー。
解熱や鎮痛を必要とする人は、そんなに多いのか。しかし、売れてるってことは、効果があるからなのだろうな。しかし、発見のいきさつから、なぜきくのかとなると、まだ説明がついていないらしい。
容易に入手できるので、管理がルーズになる。四歳以下の幼児が何錠も飲み、危ない状態になることが多いらしい。作用が未解明なので、症状からアスピリンのせいと、すぐに判明しないのだ。
少し昔の本には、危険性があるかもしれないと書いたのもある。体質に合わず、ショック死もありうると、おどかしている。作用が不明だと、どんな説でも出せる。
飲みすぎならと思っていた。それが、ここへきて、連用は心臓疾患に有効との説が出た。本当なんでしょうね。統計上、そうなったということなのだろうか。
人体ほど、未知な世界はない。ほかの動物にくらべ、個体差も大きい。この分野を調べようとすると、泥沼にふみこむことになる。
その体験で、敬遠が賢明と思っている。健康法の本も、熱中して読んだりはしない。
アスピリンの連用がいいとすれば、私なりの仮定だが、生活が規則正しくなるのだろう。水だって、飲むだろう。また、無理はやめようと、注意するようにもなるだろう。
それに、健康になるのだと思いつづける。こういったことが日常生活にいいのだとは、私も信じている。
日付
発明王のエジソンの誕生日は、二月十一日。日本では祝意を示すため、休日となっている。アメリカへのお世辞も、日本が経済大国になっては、あまり意味ないか。
偶然の一致だが、話のたねにと頭に入れておいて、話題にすることもある。しかし、私にとっては、ひっかかる点もある。
私の父の命日は、一月十九日。しかし、父の最後について書くと、一月十八日、ロサンゼルスの病院にて死去となる。
やっかいだ。ドイツで出た『20世紀全記録』という本。日本語訳の厚いのによると、太平洋戦争の開始は、こうなっている。十二月七日、真珠湾攻撃。八日、日本が宣戦布告。わずかな時間差でも、一日差のだまし討ちと取られかねない。
開戦日を、日本ばかりでなく東洋の各国は、八日としているだろう。その限界は、西のどのあたりまでだろう。英連邦の一員の、オーストラリアの歴史教科書では、どうなっているのか。終戦については八月十五日に統一されているらしいが。
昔の日本の旧暦も、扱いにくい。明治五年十二月二日の翌日を、六年一月一日にした。私の母方の祖父の少年の時で、十二月十四日の誕生日が消えてしまった。太陽暦へ換算してみたりしたらしい。
やがて、月おくれの行事もあるが、月や日をそのまま移すのが定着した。吉良家への討入りは旧の十二月十四日だが、太陽暦のその日が義士祭。偶然かどうか。この祖父の墓は泉岳寺にある。
三十一日の部分には、旧暦時代の事件の記入はありえない。閏月も、やっかいだ。四月なら四月が、つづいて重なるのだ。十日に死んで、二十日に斬られた人も出現する。
もう、私の頭はかなり混乱している。思いついて書きはじめたからではなく、以前から気になっていたのが、ずるずると出てきたという感じ。おそらく大部分の人は、なんとか日常に適合させ、深く考えないのだろう。
健康法も日本語も、整理しようとして手をつけると、かえってごたつかせる。
社会だって、雑多な意見の持ち主が集っていて、なんとか運営されている。そのへんを考えると、人間とはふしぎでもあるが、うまくできているらしいと感心する。
天才たち
カメラとは、ラテン語で箱の意味。
暗箱の面にピンで穴をあけると、景色が逆になって、一方の内壁にうつる。この現象は、レオナルド・ダ・ビンチのノートに残っている。問題は、この像を保存する方法だ。十八世紀の初めごろから、研究する人が出た。
フランスに、ダゲールという画家がいた。手描きでなく、その映像を化学的に定着する方法を確立した。
一八三九年八月十九日。パリで大ぜいの聴衆を前に、写真機の説明がなされた。熟練なしに、だれにも可能だと。それはすぐに売り切れ、一時間後には、撮影する人が各所にみられた。理屈だけの学者では、こうはいかない。感覚ばかりか頭もすぐれていた。
しかし、大型で、三脚が必要で、一枚しかとれない。その改良をしようとしたのが、アメリカ人のイーストマン。彼は紙にゼラチンをぬり、それに感光させる方法を考え、巻き取り式のものを作った。
たまたま、ビリヤードの球で象牙に代る材質を、ある会社が賞金一万ドルで募集した。ハイアットという男が合格品を作り、金を手にした。セルロイドの出現。それを薄くすれば、現在のフィルムである。現像もしやすいし、複製も簡単だし、小型にもできる。
当時のアメリカは、大衆向け量産時代。イーストマンは「コダック」という、百枚どりのカメラを作った。店に持参すれば、フィルムを入れかえて、焼きつけた写真を買えるというしかけだ。この「コダック」に、とくに意味はなく、シャッターの音に関連し、おぼえやすいと、商品名にした。
売れに売れ、彼は利益を各大学へ寄付した。ずっと独身ですごし、財産を残す気もなかったのだろう。
このフィルムに目をつけたのが、エジソン。九十九パーセントの努力と、一パーセントのひらめきの主は、活動写真、つまり映画を作り上げた。写真にこだわっていたら、その発展はなかったろう。白熱電灯を発明した彼は、結びつけを考えたのだ。
エジソンの白熱電灯のおかげで、写真の分野も進歩した。暗くても、自由に撮影できる。小型になって、フラッシュつきのも出現。
これらの天才たちはすごいが、なにもかも、買って利用したがる大衆あってこそだ。この本質に気づいた人は、そのうち、なにかをやる可能性を秘めている。
タバコ
いま、なにげなく年表を開いたら、こんな一文が目に入った。
「一八五六年。紙巻きタバコが、クリミア戦争に参加した人たちにより、ロンドンにもたらされ、クラブにひろまった」
新大陸でのタバコの吸い方、クリミア戦争、当時の栽培地。調べたくなる事項はふえてゆく。書店に行っても、いまはタバコの本などない。
紙巻きで吸うのは、ロシア人がはじめたことになる。どんな人が、どんなきっかけでか、知りたいものだね。これは弱々しい印象を与えるとされていたらしい。しかし、便利が優先と、イギリスで工業化が開始された。
アメリカ西部劇のタバコは、そのあとというわけか。西部開拓史、映画史も調べたくなる。
コースター
写真家の向田直幹さんが『世界のビアコースター』という本を出した。ビールのグラスやジョッキの下に敷くもの。冷えているので水滴がつく。それがテーブルにしみるのを防ぐためで、水を吸いやすい紙製である。
向田さんは多くの外国をまわり収集し、人物、植物などの分類をしてまとめた。風格のある、レトロ感覚のものが多い。ビール工場の内部の、絵や写真のついたのもある。
逆に、もっと現代的なのもあっていいのにと思い、考え、あとがきを読んでわかった。ヨーロッパでは、ビールの銘柄とセットになっているのだ。ビールの醸造元は、ドイツだけで二千社ある。誇りを持ち、伝統のコースターを示したくなる。その地方のビアホールは、それを使うわけだ。
で、日本のはとなると、直営のビアホールを除き、ある銘柄を描いたのにはお目にかかれない。ホテル、銀座のバー、レストランをとわず、そこの店名の入ったコースターが使われている。言われてみればでしょう。
じつは大差ないのに、銘柄に好みがあり、最近は外国ビールも輸入されていて「なにになさいます」と聞かれたりする。店名入りのを使うのが無難だ。
思わぬところに、文化のちがいがあるものだ。アメリカには店名入りのがありそうだが、方針なのか、この本にはのっていない。現実はどうなのか、私は観察力、記憶力が弱い。
日本では、実用よりも、ザブトンのように儀礼的な意味を持つようだ。ビールのグラスに、細長くて下がワイングラスのような、柄《え》つきのもある。底はひえないからと、コースターなしにしたら、客は不快がるだろう。
ホットウイスキーだって、グラスの下にはコースター。飲み方がへたで、こぼされると困るのでねと、子供あつかいか。それを気にして不平を言った人は、いないだろうな。
十年ほど前に、銀座に「星」というバーがあり、何回か入り、コースターを十枚ほどもらい、自宅で来客用に使ったことがある。
近所のネコ
東京も地区によるのだろうが、わが家の近くでは、ネコがふえているようだ。マンションだらけでなく、一軒家、アパートなどが混在しているためか。
子ネコが生れても、ほっとく人ばかりなら、冷酷かもしれないが、成長もしないだろう。しかし、心やさしい人がふえたのか、物あまりか。餌をやる人がいるらしい。残飯を捨てるのならと与えているのか。
そのため、たくましく動きの早いノラネコとならず、おっとりしている。自動車の抜けられない裏道など、わがもの顔にのそのそしている。
玄関をあけると、入りたがるのには驚いた。なれなれしい。窓からの侵入対策も必要となる。べつに、魚をかっさらうつもりもないらしいが。
塀の上とか、ひさしの上とか、日当りのいい場所に、うずくまっている。南洋の家屋の、宗教的な飾りのようだ。駐車場のそばで、ふみつけそうになった。
イヌはフンの被害で、監視の目が光っているが、ネコは無難。こんなことになろうとは、以前に想像もしなかった。
今後どうなるのか。かつて、愛らしい動物がふえ、人類は気がゆるみ、滅亡にむかうSFを書いたが、これはそれに近い。イヌを食べる国があるようだが、ネコの肉はうまいものではないらしい。
自動車の多い道路へ出て、ひかれるのもいるだろう。しかし、食料がもらえ、異性とも会いやすいとなると、動く範囲もせまくなる。ネコの密度は、高まる一方。
某国の陰謀なら、ある日、とつぜん細菌作戦の開始となる。ペスト菌の仲間は、この状態でなければ、ひろまらない。専門家の意見を聞きたいが、にくまれたくないので、当りさわりのない答えだろうな。
私としては、ただ静観しているだけ。あるいは、ある日を境に、一匹もいなくなるかもしれない。そうなると、すぐに避難するつもりだ。大地震かなにかの、前兆かもしれないではないか。それぐらいの役には、立ってもらいたいね。
当分は、これがつづくわけか。ほかの動物、ウサギ、タヌキ、コアラ、パンダでは、こうはいかない。都会の盲点にいて、ふえる才能はないだろう。
ネコと人間との関係については、語り、書きたい人も多いだろう。私はくわしくないが、長いつきあいの生物であるのは、たしかなようだ。
落語
カゼがはやっているので、町内で「風の神送り」をやり、追い払うことにした。
「送れ、送れ、風の神。どんどん送れ」
鳴り物入りで、声をあわせ、町の道を大ぜいで進む。小さな声がまざる。
「おなごり惜しい」
とんでもないやつだ。調べると、薬屋の若旦那。
とにかく川岸まで進み、これでやっと追い出せたと、ひと安心。しかし、夜に舟で網を打つと、なにかかかる。風の神だ。
「ああ、夜網につけこんだな」
落語の「風の神」で、オチは「弱み」の語呂あわせ。細菌などの知られなかった時代では、見えない存在と扱うしかなかった。
明治の初期も、ペストの流行の時、このようなことがなされた。町から追い出せば、となりの町が困るわけで、衝突してのけんかも発生した。当時の人は、わらにもすがりたい気分だったろう。現在から見ると、素朴でユーモラスな光景だが。
古典落語は、十返舎一九《じつぺんしやいつく》の『東海道中|膝栗毛《ひざくりげ》』あたりをもととし、長い年月をかけて、話芸として洗練を重ねてきた。伝統がある。パロディも、漢学をふまえたものが多く、聞く方のレベルも高かったようだ。
明治以前から、大衆娯楽の大きな部分を占めてきた。第二次大戦後も、みなは笑いを求めて、寄席も繁盛し、民放ラジオでさらにファンをふやした。テレビの普及によっても、安定した番組であった。出版も多く、昭和四十年ごろ、全集が何種か出た。
しかし、生活や社会の変化が激しく、若い人に通じない部分がふえてきた。長屋、横町の隠居、付き馬、へっつい、岡ぼれ。形容詞で「一杯ひっかける」や「お茶をひく」などだ。説明してては、テンポが乱れる。
他星人と会う『未知との遭遇』も、日本で作れば「こんにゃく問答」をふまえていないと、しっくりこない。『花見酒の経済』などと、うまい題の本も売れた。
小説を書くにも、演出をするにも、お笑いがらみになると、落語の手法や感覚を身につけていなければならない。愛好者のへるのを、なんとか防ぎたいものだ。
失ってはじめてわかる、貴重な日本文化のひとつだろう。「まんが日本むかしばなし」のような形ででも、試みる方法はないものか。私はかなり本気で、心配をしているのだ。
コペルニクス
必要もあり興味もあったので、世界史年表、およびアシモフ著『科学技術人名事典』のページをめくった。入手可能かどうか知らないが、共立出版のアシモフのこの本は、私のそばの書棚《しよだな》にある。今回も、いろいろな新発見をした。
ヨーロッパの一四〇〇年代の後半は、さまざまな人間が生れ、ひと仕事している。著者のあげた順で、その人名を書いてみる。
コロンブス、ダ・ビンチ、コペルニクス、マゼラン、数名をとばして、ガリレオ。ダ・ビンチは大天才だが、別分野なので除外し、あとの四人を眺めてみると面白い。
マゼランはコロンブスより西へ進み、インドに到達してみせると、南米の南を回り、フィリピンに着いた。そこで原住民と争って死ぬが、部下のカノがあとを指揮し、とにかく船は世界を一周したのである。
ガリレオは「それでも地球は動く」との言葉で、ドラマチックな人物となった。しかし、その地動説はコペルニクスのほうが先であるとは、調べればすぐわかる。
いったい、当時の人は、地球についてどう考えていたのだろう。航海者に資金を出すからには、スペインの王や女王、その側近たちは、地球の丸いのをみとめた上でだ。しかし、ローマ法王から注意を受けてもいない。
変じゃないかだが、それは現代人の疑問であって、当時の大衆にとっては、どうでもいいことだったのではなかろうか。地球が丸でも四角でも、シルクロードの先になにがあろうが、日常生活に関係はなかった。
字の読める人は、めったにいなかった。神父の話はわかりやすいし、教会は適当な社交場だ。いつ病気にかかるかわからないし、医学も薬もない。一日がぶじにすごせれば、星がどう動こうが、知ったことかだろう。あの無茶きわまる魔女狩りは、百年後の一五〇〇年代の後半からはじまり、何次にもわたってくりかえされる。
ヨーロッパ的合理主義なんていうが、矛盾もいいところ。植民地支配のために、他民族を軽視する気分のことだろう。
捕鯨反対は、科学そっちのけ、まさに理屈なしの魔女狩りである。日本も科学的な議論だけで対抗しようとせず、その底流を見ないとならない。諸外国は公正でも寛大でもないのだ。個人的には、鯨肉が好きというわけではないが。
さて、とら年になって、やっと百科事典でトラの項目を見る余裕ができた。私のエト。「アジア産のネコ科中最大の猛獣」とある。これも、あまり合理的な分類とは思えないね。
まずネコという種類があり、その仲間で巨大化して凶暴になったのがトラなら、なっとくするが、どうなのだろう。事典にものっていず、この件は知りようがない。オオカミの項には、イヌ科とある。
外国への航空便は、国内で区分けされているのだろうか。USAとひとまとめにしたって、ハワイ、アラスカ、ニューヨークと、いろいろである。それぞれの便につみ込んだほうがいいはずだ。
「中国・遼寧大学」だけの宛名でとどくのだからすごいが、これも区分けは日本でか。ひとまとめで北京へではあるまい。となると、中国にくわしい人がやっているのか。知らぬことが多いね。
郵便の話だが、官製ハガキの場合、四角のなかに郵便番号をていねいに書けば、かなりの省略が可能のようだ。げんに私は東京の某区内に住んでいるが、区内は三つに分れ、つまり番号も三種ある。番号で分類され、区名は不要なのである。
関西の知人に話して、信用させるのに苦心した。いいからやってみろで、それはちゃんととどいた。しかし、自宅の住所は、ゴム印でも全部を記すのが礼儀だろう。どこらの人か、見当をつけにくい。
東京が1ではじまり、北海道が0ではじまるぐらいしか知らない。統一性も法則性も、ないらしい。北海道のどこかに007があっていいはずなのに、ない。ふざけやがって。作成者も困ったろうね。あればあったで、ふざけやがってだ。
観光用ミニ独立国ばやりだが、北海道のどこかで、この番号のを作ってみたらどうだろう。JAPAN・007で、世界から妙な文書がどっと送られてくるかもしれない。
気のせいかもしれぬが、ゴキブリを見ることが少くなったし、たまに見ても、動きがのろくなったようだ。何億年とつづいてきた昆虫である。それがここへきて変化したとなると、どういうことなのか。
なにかの前兆なのかもしれないぞ。
歯あれこれ
ご存知のかたもあろうが、私の母方の祖父の小金井良精は、東大医学部の解剖学の教授を長くつとめた。日記が出てきたので、私はそれを本にまとめた。
祖父は人類学にも興味をもち、晩年は歯についての研究をやっていた。定年になり、名誉教授室にかよってである。現職でないので、発掘した骨を洗うのも、ひとりでしなければならなかった。昭和十年ごろのことで、私は小学生だった。その部屋に遊びにいったこともよくある。
古代人の齲歯《うし》統計とか、抜歯風習とかの論文が残っている。なんで歯に関心を持つようになったのかは、わからない。そして、最後にとりくんだのが、咬合《こうごう》論文である。なんと、七年の歳月を費している。老後の仕事でもあり、べつに急ぐ必要もなかったせいか。
肉食獣やサルにおいては、上下の歯が毛抜きのように衝《つ》き合っている。人類も石器時代人や原始的な生活の人たちも同様。しかし、文明人では下の歯が後方にずれて、たとえればハサミである。歯が武器として使われなくなり、調理方法が発達すると、そういう傾向をたどるのではないか。
大量の標本や資料を調べ、大論文にまとめあげたのである。それだけ努力したということは、それ以前にこの現象について、だれも手をつけていなかったのだろう。学者というものの一面を見る思いだ。文筆家なら、エッセイで片づけてしまうところだろう。
論文はまずドイツ語で書かれた。日本語でのパンフレットは各方面に送ったが、聞きつたえて、ある歯ミガキ会社の人がもらいにきた。学術的なものなのに、理解してなにかに役立てたのだろうか。
私は父の遺伝で、上の歯の前歯と犬歯のあいだの永久歯が生えない。乳歯のままの小さいのが、二本ずつ並んでいた。
それを知った時の祖父は、自分の仮説が正しい証明のひとつだと、喜んでくれた。とくに不便ということはなかったし、祖父の死んだあとも、ずっとそのままだった。
私は童顔だと言われるが、その原因のひとつは、たぶんこれだ。それらがだめになったのは、四十五歳ぐらいの時か。ブリッジにしたわけだが、前歯と犬歯のあいだがあきすぎているので、やはり二本ずつの人工歯がとりつけてある。あんまり例はないのではないだろうか。
ふつう気づかれないが、説明すると、そういえばとふしぎがられる。つまり、進化した人類なのだ。もちろん、親知らずも生えない。この年で生えたら面白いのだが。
娘二人はどうかなと思っていたら、ちゃんと生えかわったし、上の娘は親知らずが生えかかっているという。どういうことなのだ。歯の変異は、男の子に出現するのか。色弱のように。近視となると、女の子に出やすいようだ。なにかあるのだろうが、私は学者ではないのだ。
私は主にSFを書いているが、とくにサイエンスを心にとめてはいない。読者の大部分がそうであるのと同じく、早くいえばただの人だ。だから、勝手な発言をする。
歯科の治療となると、技術的には非常な進歩をとげているようだ。しかし、根本的な点となると、不明な部分も多いのではないか。生命現象すべてがそうなのだが。
歯となると、それが原因で死ぬことはあまりない。しかし、心理的、さらに社会的に、問題は小さくない。関係者は、もっと強調していいのだ。それは患者の気持ちでもある。
老眼、はげ、水虫、不眠、いびき、肩こり。これらも死と無縁なので、残念ながら、軽くみられている。二十一世紀へ向けての医学は、これらの分野に重点がおかれるだろう。
歯がいくらでも生えてくる生物もあるらしい。人間は二回きりだ。ある種の刺激によって、もう一回生やすことは不可能か。ツボにハリをうったりして。そうなると、歯医者さん、もうけにくくなるか。
このあいだ、ブラジルの地方都市を旅行する機会にめぐまれたが、大通りを散歩して、歯科医の多いのには驚いた。周辺の農村から来る患者のためだが、砂糖がたくさんとれるからだろう。この国のコーヒーの、甘ったるさといったらない。
そういえば、私も戦時中は虫歯にならなかった。若かったし、歯ミガキ粉も不足していたのに。やはり、砂糖がなかったせいか。
こうはっきりしていたら、対策も立つのではないか。歯につく糖分がいけないのなら、それを除去するウガイ薬。体内の余分な糖分がいけないのなら、それをなんとかする飲み薬。糖分は分解されてアルコールになり、それは炭酸ガスと水になる。それを早める薬なんて、できないものか。
以前になにかで読んだが、歯につめた金属の作用で、ラジオを聞いた人がいたとのこと。となると、エレクトロニクスは、その高性能のを作らないとも限らない。さらには、補聴器をも。
そうなると、ポケットベルどころではない、指示から逃げようがなくなる。目ざましのように鳴ったりして。
もうけるのなら「歯でわかる運勢」なんて本を出すことだ。こういうのが売れる時代である。アイドル歌手をごらんなさい。八重歯が多いでしょう。
口が小さくなったせいらしいが、なぜ日本人がそうなのか。食事に関係があるのか、それとも日本語のせいなのか。かわいらしく見えるのか。そういうわからぬことと、占いを結びつけると、うまくゆく。いい運勢の歯に整形してくれなんて若い人も、出てくる。まさかだが、そんな世の中なのだ。
ナチの戦犯のなかには、処刑前に、歯にうめておいた毒薬で自殺したのがいる。それなら、かわりに有益な薬品だって使えるはずだ。ゆっくり溶けるようにしておけば、たとえばある種のミネラルなど、不足しないですむ。定期的に補充すればいい。富山の配置薬と同じだね。
会話とお茶
お茶についてとはね。なんとなく原稿の依頼を受けたが、私は茶道についてなにも知らぬのである。そこで、生活とお茶について書くことにする。
起きるのは午前十時ごろだが、新聞に目を通してから、朝食となる。洋風で、紅茶をポットに一杯は飲む。砂糖なし。この習慣は、三十年以上もつづいている。
コーヒーはめったに飲まない。外出し、喫茶店にひとりで入る時は、たいていホットミルク。夜になってからの酒となると、話はべつ。
仕事関係の人、たいていは編集者、時には作家仲間だが、そんな人たちの来宅も多い。応接間で、紅茶を飲みながら、話をする。
考えてみると、お茶のたぐいが人類にもたらしたものは、会話の促進ではないだろうか。香港《ホンコン》なんかで、中国の人がお茶を飲みつつ話をしているのを見ると、そう思えてならない。ただの水では気が乗らないし、酒では調子に乗りすぎてしまう。
その会話も、ある限られた人数による空間内において、うまく成立する。お茶とコミュニケーションとの関連を調べたら面白いような気もする。国によっては、コーヒーの場合もあるわけだが。
無知ゆえの想像だが、茶道の発生のそもそもも、ここにあるのではないだろうか。こころよい空間と時間とを作ろうとして。
来客に紅茶を出す時、私のははじめから砂糖ぬきだが、お客用受け皿には小さな袋をそえる。たいていの人は使うし、たまに半分だけの人もある。
ある時、私は思いついた。カロリーのずっと低い甘味剤が売られている。ふとるのを気にする人もあり、それの用意されている喫茶店もある。
そこで、うちでもと、しゃれた容器に普通のと二種を用意し、お好みのをどうぞと試みた。
結果は意外だった。来客はどちらも使わないのだ。私が使わぬせいかもしれない。たいていの場合、私が年長ということもある。先に使っては失礼と思うらしい。いちいち説明するのも、やっかいである。
そこでそれをやめたら、もとに戻った。私が砂糖を入れないのに気づく人もなく、使う人は使う。接待のルールとは、このようにして落ち着くものかと実感した。
会話であるからには、そこに面白さがなくてはならない。せっかくの来客であり、そのための時間である。相手の楽しがりそうな話題を、いくつか持っていなければならない。それも、もてなしのひとつである。
作家とは孤独な仕事なので、普通の人より会話が少い。そのため、より貴重なものに思える。こちらからのサービスが多めになるのは、このせいかもしれない。その時間を、より充実させたいのである。
第三者を話題にするのには、注意がいる。回り回って本人の耳に入っても、なにかプラスになるものでなくてはならない。
話題によっては、相手の興味からずれてる時もある。それとなく、べつなことに切り換える。会話というものは、おたがいに楽しんでこそ意義がある。そのへんの気の使いかただが、なれてくると、こつのようなものがあるとわかる。簡単には説明しにくいが。
来客も、多くの人は、なにかの用件でくるのだし、それについてなら共通点があるわけで、気まずくなることはない。
しかし、遠い親類と称するのが、地方から出てきて上り込まれるとことである。なにを話していいのか、まるでわからぬ。話のひろげようがない。コアラなら、眠っているのを眺めてもらうだけでいいのだが。
日本ではあまりはやらぬが、たぶん相手も知らない小話を、何種類かしゃべる用意もあるのだ。いざという場合にだが。
とにかく、あの人と会話をすれば、なにか楽しい時をすごせる。利口になったような気分になれる。そう思ってもらいたいのだ。つまり、それは小説を書く心がまえでもある。ぼやっとテレビを見ているのとは、ちがうのだ。
これをお茶なしでとなると、ぎこちないものになるのだろうな。タバコは代用になるが、このところ旗色がよくない。私は、かなり前にやめた。
考えてみると、会話の手法もむずかしいものだ。さらにふみ込むと、各人の個性ということになりそうだ。それがないと、会ってもつまらない人というわけだ。
個性が大切とか、個性を伸ばせなどいわれている。なぜかとなると、以上のようなことからである。
個性のある人と話すのは楽しい。しかし、それにはこちらもひとつの個性を持たなければ、会話が成立しない。人生を豊かにするためには、そういった努力がいるのではないかと思う。
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V 回想、断片的な
学校
昭和八年の春、私は今でいう、お茶の水女子大学付属小学校に入学した。当時は、お茶の水にあった。入試の前に、抽選がある。
その当日、市電(路面電車)で行けばよいものを、家族は自動車で行くよう準備した。かえって、手ちがいが起りやすい。あやうく、おくれてしまうところ。
現在も商店街の福引きで使われている、玉の出る器具だ。回してと言われ、私は握りを手に、ぐるぐる動かした。悪気があってではない。一種の不器用なのである。
玉が、ポンポン飛び出した。予期しなかった出来事に、立会いの人も、どれが最初かわからなかった。当りの玉もまざっていたのだろう。抽選はそれで通過した。
中学は、いまの筑波大学の付属である。その頃は大塚にあった。バスケットボール、柔道などの部に入ったが、疲れるのはいやだ。動かずにすむ射撃部に入った。小銃と実弾を持ち、戸山原の射撃場へ出かけて、ぶっぱなした。妙な世だった。
配属将校はお飾りで、退役の陸軍准尉が助手の役をした。射撃部の担当でもある。人のいいのに乗じ、おべっかを使い、なれなれしくした。おかげで、教練の点はよかった。ほかの部員も、そうだったろう。
旧制中学は、五年制だった。三年生の十二月に、米英へ宣戦。旧制高校の入試に英語の課目はあるまいと、大ヤマを張った。うまくゆけば、四修で合格となる。
それが的中し、現実のものとなった。しかし、その次の昭和十九年には英語の課目もあったのだから、ひやりとした。入試に関しては、とくに英語排斥もなかったのだ。
入試の少し前に、数学の先生が、関連のない変った問題を出した。視点をずらすものだ。なんと、それに似たのが入試に出た。
文部省の直轄の学校なので、先生も傾向変更の委員だったのではなかったか。ほかの級友たちは、なんとも感じなかったのだろうか。その時、とくに四修合格者が多かったわけもなかった。
勝手な思い込みかもしれないが、すでになくなられたその先生の恩は、忘れられない。
四修入学で得意になっていいのに、どうにも暗いものだった。戦局悪化もあったが、授業についていけないのだ。
一年前期の成績は、さんたんたるもの。後期も同様だと、留年になる。猛勉で丸暗記という手もあるが、物理となると、そうはいかない。テストの日は迫る。参ったね。
よく自殺しなかったものだが、どっちにしろ戦死の可能性が高かったので、腹がすわっていたのだろう。
その物理の先生、寸前に教科書のページ数を言い「この例題は、よく復習するように」と、つぶやいた。八問ぐらいあったか。
わらをもつかむ気分。物理学科を出た親類を訪れ、この八つだけ解答を教えてくれとたのんだ。ふしぎがられたと思うが、やってもらえた。
それを丸暗記。それのできる、最低の学力はあったのだ。テストの日、用紙を見ると、そのなかの四つが、そのまま出題されている。先生も、留年が多くては責任になるので、それとなくサインを送ってくれたのだろう。そこに気づかなかったのもいるらしく、留年も出た。私の物理は満点だったが、頭にはなにも残っていない。
旧制の高校は三年制だったが、戦時のため、二年に短縮。二年生の時は工場へ動員され、授業は週に一回。うまいことに、ツベルクリン反応が陽転した。結核感染者というので、特別あつかい。
出勤はおそく、帰りは早い。ガラガラの映画館に入ったりした。家に帰れば、古典名作を読んだ。断わっとくけど、細工して陽転反応を作ったのではない。
「なぜ、農芸化学科に入ったか」
と聞かれるが、昭和二十年のはじめだから「なぜ、東京の大学を受けたか」のほうが問題だ。八月に戦争が終り、死なないですむなど、予想もつかなかった。
同級生には、地方の高校から来たものも多かった。死ぬなら東京でと、やけぎみだったのか。私だって住居が下町だったら、入学の前の三月に死んでいただろう。
八月に終って、ほっとした。授業は理解できたが、実験となると、簡単な合成すらできない。たまたま抗生物質の時代となり、微生物の分野をやったので、なんとかぼろを出さずにすんだ。
実験用の薬用アルコールが飲めて、面白かった。量にすれば、しれたものだが。
きわどい綱渡りだったが、それで優秀な一名が割をくってたとしたら、申しわけない。そのあげく、学歴無用の文筆業なのだ。
やっと、いま……
つい執筆を引き受けて、いまになり、しまったと思っている。
父について書くといっても、男の場合と、女の場合とでは、大きくちがう。女性なら、手ばなしでのめり込み、とめどなく書けるだろうし、例はいくらでもある。
しかし、男性となると、まあ、いやに書きにくいのが普通ではなかろうか。ましてや、礼賛の文となると、筆が鈍るはずである。うちは娘ふたりで、男の子がいないが、かりに息子がいて、父の日などにプレゼントなどされたら、むずむずしそうだ。それとも、いまどきの男の子は女性化していて、いちおうさまになるのだろうか。
私についていえば、父の人生をノンフィクション的に小説に書いている。若いころについてが『明治・父・アメリカ』で、事業をはじめてからが『人民は弱し官吏は強し』である。そのあとの晩年については、いずれはと手法を考慮中なのである。
『人民は弱し……』のほうを先に書いた。挫折の記録なので、まだ書きやすかった。しかし『明治……』のほうは立志苦学編なので、どうにも書きにくかった。
それでも、とにかく書いてしまったということは、他の人と条件がかなりちがうからではないだろうか。
まず、私は父が五十二歳のときに生れたこと。そして、私が二十四歳のときに死去したこと。少年期、母方の祖父母の家に同居していたため、弟妹が生れると、祖父母にかわいがられたこと。父の死後、家業を継いで順調に来たのではないこと。
つまり、かなり客観的に見ることができた。『人民は弱し……』は大正時代のことで、私の生れる前。第三者の気分であり、父親を書いているという実感があまりなかった。
少年時代の記憶といっても、強い印象として残っているものはない。なにしろ父は仕事の鬼で、家でともにすごした時間は、あんまりないのだ。帰宅のおそい日が多かった。酒もタバコもやらなかったが、話し好きで、よく他人をもてなした。日曜や休日も、地方へ出張したり、だれかの家を訪問したり、代議士もやっていたので、郷里の福島県いわき地方へ出かけたりだった。来客と話していることも多かった。
そのかわり、年に何回かの本当になんにもない日曜日には、もう、むやみとかわいがってくれた。レストランへ食事に連れていってもらうこともあったし、予期しない品物を買ってもらったりした。そういう吉日は、まったくなんの予告なしに訪れた。
どなられたこともないし、いやな顔をされたこともない。中学二年のころ、理科の一学期の成績が悪かった。そのとき、人さし指を立て、
「基本だ、最初からやり直せ」
と、夏の半日を、机をあいだにつきあってくれたことがあった。面白がっていたようだった。実際には、これといって教えてくれたものはないが。
それでも私は、その通りにした。夏休みの何日かをかけて、一年生のときの理科の教科書を読みなおしたのだ。戦前だから、そうむずかしい内容ではない。つぎの学期、いい点がとれた。
まあ、いい教訓だった。それ以後、私はなにかに迷うと、もとへさかのぼって考えなおす性格になった。ごまかして進むことが、できないのである。手間はかかるが、正しい理解ができる上に、必ずなにか新発見がある。どこがどうわからなかったのかも、新発見のひとつではないか。
父の苦労を理解したのは、死後、かなりたってからである。借金のあと片づけをすませた私は、なんとなく、作家になった。そのうち、母方の祖父の小金井良精の日記を発見し、また、父の断片的な日記など、いろいろな資料が集ってきた。
それによると、昭和十年ごろまでは、会社の運営が大変だったのである。社債の支払いが不能となり、破産の宣告が下された。いまなら会社更生法の申請ができるが、当時はそんな法律がなく、債権者の過半数の同意をとりつけての運営という道しかなかった。
そのため東奔西走、また売り上げ低下を防ぐため、全国を回りつづけだった。私と遊んでくれたのは、そのスケジュールをやりくりしての一日だったのである。
頭からは、仕事のことが離れなかっただろう。どう相手していいかわからず、手ばなしでのかわいがりかただったわけだ。会社では、しょっちゅう社員をどなりつけ、雷のような存在だったそうだ。それと、家庭内での父とが、うまく結びつかない。
父親に甘やかされたら、男はだめになってしまうのではなかろうか。これは他人の判断することだが、私は自分で、とくにだめ人間とは思っていない。高校時代が戦争と重なっていたためかもしれない。それと、世の中は苦難に満ちているという父の思いが、無形の波動となって少年の私に伝わっていたのかもしれない。
音楽との出会い
音楽について書くのは、たぶんこれがはじめてである。
中学の時、醍醐《だいご》忠和という同級生がいた。いまでも、つきあっている。私に名曲鑑賞なることを教えてくれたのが、彼である。あと二人ほど仲間をこしらえ、日曜日に学校の音楽教室のプレイヤーを使わせてもらい、彼の持ってきたレコードを聴いた。そのころはプレイヤーなどとはいわず、電気蓄音機と呼んでいた。
ほかに、たいした娯楽のなかった時代である。何回かつづけているうちに、音楽とはいいものだなと思うようになった。最初に聞かされたのは、チャイコフスキーだったようだ。醍醐はそのファンで、とくに『悲愴』交響曲を絶賛していた。
そんなことがきっかけで、私も父母にねだってプレイヤーを買ってもらい、こづかいをためてレコードを買うようになった。友人たちとレコードの貸し借りをするようにもなり、いろいろな名曲に接しはじめた。
シューベルトの登場する映画『未完成交響楽』も醍醐といっしょに見に行った。音楽会にも時たま行った。貸し借りをするレコードは交響曲が多かった。だれでもはじめは、そのへんからであろう。また、中学生の思考として、同じ値段なら大ぜいで演奏している盤を買ったほうがとくだ、ということもあっただろう。
ベートーベンの『田園』は、明るくて楽しいし『英雄』は、いわずもがな『第七』には、躍動感があり『第八』は、小品である点が面白い。いささか疲れさせられるが『第九』は名作である。
しかし『運命』だけは全曲を通して聞いたことがないのである。もちろん、あの発端の部分は知っているが、その先は知らないのである。友人が貸してやると言っても、断わった。あまりに有名すぎることへの抵抗である。あまのじゃく的な性格が、そのころからあったようだ。今日にいたるまで、いまだに『運命』を聞かないでいる。こんな人間は、珍しいのではないだろうか。
モーツァルト、ブラームス、『新世界』のドヴォルザーク。こういった名に接すると、反射的に中学時代を思い出す。レコード屋にすすめられ、ラロの『スペイン交響曲』を買ったこともあった。どんな作曲家かよく知らないが、いやに新鮮な印象を受けた。真紅のジャケットも美しく、友人たちに貸して好評だった。もっとも、これは正確にはバイオリン協奏曲である。
バイオリンやピアノの協奏曲も、かなり聞いた。毎日のようにレコードをかけていた。あとは読書ぐらいしかすることがなかったのだ。昭和十六年に日米開戦。いい時代だったとはお義理にもいえないが、おかげで私は名曲に親しむことができた。
高校(旧制)に入ってから、好みに変化が起った。『運命』を除いて、シンフォニーを聞きつくしたのである。友人にすすめられ、シューベルトの『鱒《ます》』のレコードを買った。ピアノと四つの弦楽器による室内楽である。わかりやすく親しみやすく、ずいぶんくりかえして聞いた。それからしばらく、モーツァルトやベートーベンの弦楽四重奏のたぐいに熱中し、つぎにベートーベン、シューマン、ショパンなどのピアノ曲に興味を持った。
そのうち、どういうわけかドビュッシーのピアノ曲が面白くなった。それまでのと変った傾向のものだったからだろう。
こう思い出してみると、名曲とともにすごした時間は、けっこう多かったわけだ。シューベルトの『冬の旅』もなつかしい。しかし、歌劇はあまり好きになれなかった。序曲はいいのだが、あの声は私の肌にあわない。
クラシックと呼ばれるものは、いずれも名作である。しかし、欲にはきりがない。まだ聞いてないなかに、これこそ名作中の名作と呼べる音楽があるのではないか。そう思いながら鑑賞をくりかえしているうちに、ついにそれにめぐりあった。
ベートーベンの『大公三重奏曲』である。こんな名曲があったのかと、感嘆させられた。神韻|縹渺《ひようびよう》とは、このようなものへの形容だなと知らされた。当時は漢字制限などなかったのだ。なんともいいようのない、すぐれたおもむき、という意味だが、これだけは漢字で書かないとムードが出ない。
難解なところは、まったくない。ベートーベン特有のあの力強さが押えられ、限りない深みを作り出している。高貴にして明瞭、美の林のなかをさまよっているような気分になる。聞くたびに、ため息が出た。
ピアノがコルトー、バイオリンがティボー、チェロがカザルス。いずれも、たぐいまれな名手である。そのせいもあろうが、人類の作った芸術のなかで、この曲にまさるものはないのではなかろうかとさえ思った。
戦争の末期である。東京への空襲も多くなった。そんななかで、私は毎日のようにこのレコードをかけ、聞いていた。いつ死ぬかわからぬ情勢。しかし、生きているあいだに、このような名曲にであえたのだと思うと、ひとつのなぐさめにもなった。
さらに聞きつづけていたら、あるいはあきたかもしれないが、まもなく戦争が終ってしまった。私のクラシックとのつきあいも、これで終りとなった。だから「クラシックのなかで最も好きな曲は」と聞かれると、ためらうことなく、この『大公三重奏曲』をあげる。もっとも、あまりそんな質問をされることはないが。
戦後という、がさがさした時代となった。進駐軍むけのラジオ放送が開始された。それに「ユア・ヒットパレード」という番組があるのを知った。アメリカで人気のある歌謡曲をやるのである。きれいなメロディーの曲が多かった。混乱の時期のなかで、これはいやに印象的だった。「ツリー・イン・ザ・メドウ」「モナリザ」「マニアナ」などの歌である。それらの歌詞を知りたくて、進駐軍払い下げの、それらの楽譜を集めたりした。闇市《やみいち》のなかに、そんなのを売る店があったのだ。表紙には「ヒットキット」と書いてあった。
大学一年の夏に終戦。級友たちは私と同様、音楽といえばクラシックと寮歌と軍歌しか知らないのが多かった。変な世代である。なにかの折、私が入手した「センチメンタル・ジャーニー」のレコードを聞かせたら、みんな呆然《ぼうぜん》となった。これまで禁断であった種類の音楽に、はじめて接した、とまどいと驚きである。
突如として、私は楽器をいじってみたくなった。空襲で焼かれないようにと、よそにあずけておいたピアノが戻ってきたのである。ひいてみたくもなるではないか。級友の紹介で、音楽学校の女の人に週に一回きてもらうことにした。
正攻法である。まさに涙ぐましいほどの努力をした。素質がなく二十歳を越して、ピアノをはじめたのである。いま考えると、正気のさたじゃない。われながら、よくやったと思う。ついにバイエルを卒業し、つぎに一段上のチェルニーに入った。そして、その十番にいたって、とうとう力つきた。
あまり面白くないのだ。楽譜を見て、その通りにキーをたたくだけ。英文タイプを打っているようなもの。やはり、楽器というものは幼いころからはじめないとだめなようだ。
マリリン・モンロー主演の『ナイアガラ』という映画が来た。その主題歌の「キス」あるいは「テネシー・ワルツ」などの楽譜を買った。やさしい曲なのである。なんとかひけるようになったが、楽譜がないと、まるでだめ。自動ピアノ人間である。友人の家で、ひいてみせることができない。
そのうち、父が死亡し、音楽どころのさわぎでなくなった。それが片づき、私は作家になった。どうやら、こっちのほうがむいていたらしい。
「小説家とは、ふしぎなものだ。どうして、ああつぎつぎと作品が書けるのだろう」
と時たま言われるが、私にいわせれば、ピアノをひく人がかくも多く存在していることのほうが、はるかにふしぎである。あれほど私が苦心し、できなかったことなのに。きっと、やつらの神経は、うまれつきどこか私とちがっているにちがいない。
ゆっくりと鑑賞しなおしをと思うが、なかなかその気にならない。
これでいいのかもしれない。環境も年齢も、終戦前と現在とは、まったく変ってしまっている。あの心を洗われるような感激が、よみがえってくるとは限らないのだ。追憶のなかで『大公三重奏曲』は星々よりも美しくきらめいている。そっとしておこうか。
アナトール・フランスの短編
思い出の本について、少し書く。
戦時中、旧制高校のドイツ語の時間、シュトルムの短編を読まされた。四苦八苦だが、いいムードだった。
時代はばんと飛ぶが、先日ドイツのジャパノロジストがわが家に来て、ドイツの作家の話になった。私はそんな話をし、怪奇作家ホフマンにも触れた。さらに言った。
「昭和二十年代に青春をすごした者は、ヘルマン・ヘッセ好きが多いようです」
そんな感じだし、私も長編を二つほど読んでいる。すると、相手は意外という表情になった。ドイツでの評価は低いのか。彼の好みでないのか、わからんものですなあ。
戦後まもなく、私は隣家の人に碁の手ほどきを受けた。そして、それにのめり込み、十年にわたる碁会所がよいがはじまる。そのころ何回も読みかえしたのが、碁の定石集。まさに青春の書なのだが、いくらなんでも、それではすむまい。作家になってからは、性格的に両立が不可能とわかって、熱がさめた。
ほかになにかと考えたら『アナトール・フランス短編小説全集』の名が浮かび上った。これはまとめて買ったのではない。古書店で一冊ずつ買っているうちに、全巻がそろってしまったのである。全七巻だったかな。なぜか一巻だけ、大きさが少し小さかった。
もちろん、戦前の出版である。小さめのは、戦争中の物資不足の時のだろう。やがて古書店に本が出まわるようになった。神田神保町や東大前の古書店街が戦災にあわなかったせいか、地方都市で手ばなす人が出たためか、さがすと、いろいろな本を手に入れることができた。
いま書斎の棚にある『モルナアル短編集』は昭和四年の刊であり、今日出海編の『現代仏蘭西短編集』は十四年の刊である。出版洪水なんてなかった時代のものだ。
友人にすすめられて、アナトール・フランスの長編を読み、それがきっかけと思うが、短編はどうかなと買って読み、気に入って全巻をそろえてしまったのだ。そして、何回も読みかえした。
彼は一九二四年に八十歳で死去。パリっ子で、ルーブル美術館、ノートルダム寺院の近くで育ち、怪奇と幻想の感覚を身につけたらしい。魅力のひとつは、そんなところにあったのかもしれない。そこはかとなく、古きよき時代をただよわせている。
短編としての構成もいい。訳文を通じてだが、すなおな文章である。ものものしさがない。
彼の短編のなかに、芥川龍之介の「河童《かつぱ》」の原形と称されるものがあった。読みくらべてみたが、そう似ているとも思えなかった。
とくに私の好きなのは「海のキリスト」と「聖母の軽業師」である。名短編だなあと、ため息をついたものだ。作家になってから好きな短編はとのアンケートに、この作品を答えたことがあった。
宗教的な、わかりやすい結末。戦後しばらくして、キリスト教的なものが、いやに新鮮に感じられた時期があった。私の青春期と一致している。
皮肉と風刺が特色で、思想的には懐疑的な合理主義と解説した文も見た。どんな主義なのかわからぬが、私にもそんな傾向があるということかな。とにかく、私の持っている外国作家の全集は、これだけなのだ。
文学史的にみて、フランスにおいて、日本において、アナトール・フランスがどうなのか、私は知らない。彼を愛読しているという人にも、会ったことがない。現在、どこかでこれらの作品を読めるものなのか。
全集はずっと書斎にあったが、改築の際、ほとんど頭に入っているからと、組立て式の倉庫に入れたのが運のつき。さがすのが大変で、だからこんな文章になってしまった。
私が短編を主とする作家になり、なんとかつづけてこれたのは、アナトール・フランスのおかげかもしれない。すっかり忘れていたが、回想してみると、そうなってしまう。運命的な出会いか。なつかしい思いのなかで、感謝の念をささげたくなった。
何回も書いたことだが、SFに関心を持ったきっかけはブラッドベリであり、発想や技巧のすごい作家のをいくつも読み、影響も受けた。しかし、それらの先にアナトール・フランスがいたのだ。
そうだったんだよなあ。これも、あまりに親しみすぎたせいなのだ。
農芸化学科を出た私
「私と化学」について書くのだが、弱ったね。まるで無縁なら、おかしなことも書けるのだろうが。
SF以外の私の作品をお読みのかたはご存知だろうが、私の亡父は、戦前に製薬会社をやっていた。アルカロイドの分野では、日本の先駆者である。
で、私は農芸化学科を卒業したわけ。いまなら、バイオで大人気の学科。しかし、当時は戦後で、抗生物質が脚光を浴び、ほとんどの級友は、ペニシリン関連へ就職した。
その構造式だけは、暗記した。やっかいなものでしたな。現在、作家のなかで、構造式を見てアレルギー反応を示さないのは、私ぐらいではなかろうか。
父の会社は爆撃でやられ、主な営業は台湾でのキニーネ製造だったので、運営不振になり、父の死後は借金の整理で、えらい苦労をした。そこで仕方なく、作家となった。
級友たちは、薬品会社の重役クラスになっているが、みな、そろそろ定年。文筆業をしたいと言うのがいるが、私としては、妙な気持ちである。
なるつもりもなく作家になったが、文学部へ行かず、有機化学をやっていてよかった。それもひとつの特色だろう。担当教授、後藤格次先生は講義で「アルカロイドという語の響きに魅せられて、この分野に進んだ」と、まず話された。
古代史、建築、天文などとも、少しちがったロマンがある。そのうち、わかりやすく、タテ書きで、その感じを伝える本を書きたいと思っている。しかし、進歩についてのずれは、とり戻せないかな。
飛躍した題材の物語、つまりSFでは、古典の「透明人間」以来、秘薬のたぐいがよく使われた。私も書きはじめて三十年になるが、話を進めるのに、各種の薬を出した。
カゼ薬など、妙案だった。カゼの薬ではない。飲むとカゼの症状をもたらす作用。ずる休みに適当ではないか。思い出し薬も使った。ある量を飲むと、それに相当する過去にさかのぼって、記憶が鮮明になるのだ。
グチを押える薬などできたら、多くの家庭は助かるのではないか。これまでは病気治療の薬が多かったが、今後はもっと、はばの広い薬が開発されるのではないか。
イビキ防止、食欲と空腹感をなくす、ダイエット薬。色白になる、ヒゲの伸びない薬などだ。二十世紀は電気の発達の時代だったが、二十一世紀は薬品の時代ではなかろうか。
私は寝つきが悪く、就眠剤を使っている。不眠で死んだ人はないが、生活の乱れは不便である。そういえば、睡眠薬自殺の記事を見なくなって、ずいぶんになるなあ。確かに進歩しているのだろう。
先日、健康法の本を読むうち、コレステロールにのめり込んだ。矛盾が気になり、何冊も買い、ついに一万円の論文集まで買った。式が読めなければ、途中でやめたのに。
その体内での形成は、かなり解明されている。しかし、ある部分は、まったく不明。コレステロールには、いいのと悪いのがある。いいのをふやす方法となると、お手あげ。健康法の本のいいかげんさが、よくわかった。その件でエッセイも書けたし。
このあいだ、雪を調べようと百科事典をひいたが、悪文でうんざりした。そばにユーカリの項目があり、その成分の構造式が出ていて、驚いた。
専門家にとっては、いまさらだろうが、私のような半可通の者には、ふしぎな形。完全なしろうとは、なぜ驚くのかわからないだろう。とにかく、コアラについて考えなおした。これで生きているとはね。
パンダの好きなササの項を見たが、その成分は出ていなかった。かぐや姫の伝説もあることだし、なにかあるのではないか。やがて、かわいらしさの薬なども出現するかな。
麻薬患者をなおす薬、非行を防ぐ薬。なんでも薬での時代がくる。SFにはいいテーマだが、現実の研究となると、とてつもなく奥深いものだろう。
ペニシリンも、あるきっかけがなかったら、出現と普及は二十年ほどおくれたろう。モルヒネだって、ケシの実に傷をつけた部分の汁からなんて、神秘といったほうがいいようだ。頭だけでは、考えられない。
コレステロールの件だけでも、人体の複雑さを実感させられた。もしかしたら、生命現象は、宇宙より多くのなぞを含んでいるのかもしれない。
漢方医のハリ・キュウの療法を受け、参考にと調べかけて、たちまち壁にぶつかった。正攻法では、どうにもならない。
超能力に好奇心を持った時も、そうだった。予感というものは存在するのだが、それへの仮説すら立てられないでいる。
まあ、徐々に試行錯誤で研究の進むのが面白く、人間らしいのだろうと思う。
はじめての酒
話すと多くの人が驚くのだが、私は二日酔いになったことがない。飲む量が少いわけではない。
アル中に近いと思う人もいようが、そんなこともない。そもそも明るいあいだは、飲みたい気にならない。夕食後に原稿を書くのだが、しらふである。酔っての執筆は、一枚もない。
午前二時ごろに一段落し、洗面か入浴のあと、一本のビールからはじめる。家族が眠っているので、ひとりでの酒、量もふえるよ。
夕方からのパーティーの時は、延々と飲みつづけ、二次会、三次会、帰宅。そして、また飲む。就眠儀式でもあるのだ。
生れつき、酒好きだったわけではない。そもそも父が、酒もタバコも一切やらなかった。相談相手の先輩の影響か。明治の人物には、酒のだめな人が多かったようだ。たとえば、後藤新平。そのほか、リストを作ったら面白いだろう。
そんなわけで、少年時代は酒と無縁。昭和十年ごろに小学生だ。当時は、酒屋の前を通ると、独特のにおいがした。ミソも扱っていたせいかもしれない。いいにおいではなかったが、回想すると、失われた日本のかおりである。いまでは、なつかしい。
当時、遠足の時、綿にアルコールをしめらせた容器を持参した。消毒用の、小さなもの。それを吸ったら、珍しい味がした。酒と同成分とは、知るわけがない。富士登山をし、その山頂でお神酒《みき》をちょっと口にしたようだ。そのあたりが、最初の酒か。
私の入った旧制中学は、むやみと健全明朗だった。かくれての酒やタバコなど、見たこともない。タバコも酒も、高価なものだった。タバコ好きの成人も、一日に六十本なんて、ほとんどなかったのではないか。
それから戦争中になり、タバコも酒も配給制となった。旧制高校時代、ほかに楽しみもなく、一日数本の父への配給のタバコを吸いはじめ、当分つづくこととなる。
昭和二十年、大学一年の時に終戦。農芸化学にいたのが、運命の分れ目である。実験用の純アルコールが、自由に使えた。お茶で割ったりしたものは、いつでも口にできた。しかし、現実には三カ月に一回ぐらいで、量もしれていた。
アルコールをびんに入れて、友人を訪れ、サイダーで割って飲んだらいやにうまく、帰ろうとしたら、腰が抜けたように立てなかった。危険性も知ったわけだ。
あれこれあって、作家になったが、酒もよく飲んだ。もっとも、自宅では飲まなかった。
しかし、ある時、酒の会社のPR原稿を書き、ウイスキーを何本ももらった。ひと仕事すませた夜中、なにげなく飲んだのがよくない。寝酒のくせがついてしまった。
父方の祖父について、取材に出かけたことがある。福島県の海岸ちかくの村長だったが、酒豪だったらしい、酔って帰ってまた飲むのだから、いまの私と同じである。
父は飲まなかったのか、飲めなかったのか、知りようがない。若くしてアメリカに渡り、十二年をその地ですごした。当時を知る人は、とっくに世を去っている。大いに飲んだとの説もあるが、確実ではない。私の弟は一滴もだめだから、おかしなものだ。
高輪
母方の祖父の墓は、泉岳寺にある。そのため、私は東京人にしては珍しく、時おりそこへ出かけるのだ。
見物ではないから、帰りにそのへんの道を曲ってみたりする。歩いているうちに、どこか広い道に出るので、迷うことはない。戦災にあっていないので、古めかしい家や店があって、なつかしい気分にひたれる。
警察や消防署のある通りは、静かな商店街だ。その感じのよさを分析すると、この一帯が高台だからかもしれない。古い教会もある。手入れがいいので見すごしかねないが、百年以上もたっているらしい。
議員宿舎のほうへ歩くと、古い店とモダンな店とがまざり、それがうまく調和している。京都にも、そんな部分があるようだ。いずれはみな新しくなるのだろうが、消防署やお寺を含め、がんばっているようなところがあり、内心で声援したくなる。
右へ曲れば桜田通りという角に、オキュルスという画廊がある。ミステリー作家の大先輩、渡辺啓助さんのお嬢さんがやっていて、たびたび案内状がとどく。
高輪のあたりへよく出かけるようになったのは、そのためである。いまの私の家が戸越なので、地下鉄浅草線で二駅目が高輪台。降りずに乗っていれば、銀座へ行ける。
こんなところで画廊とはと、はじめはふしぎがったが、いまやシックな一画となった。高輪プリンスにつづいて、その新館もできたからだ。昔のおもかげは、あまりない。三十年ぐらい前、私は耳の治療のために、ここの船員保険病院に何回かかよったことがあるのだ。当時は、品のある地味な通りだった。品川駅前のホテル・パシフィックも、そう遠くない。
距離はあるのかもしれないが、つい歩いてしまうのだ。たしかに、散歩するのにいい。若がえるような、ロマンチックな道。生活臭がにじみ出てない。高級なマンションもあるが、赤ん坊の泣き声のようなものとは、ぜんぜん無縁なのである。
お高くとまっているようだが、そんな場所もあっていい。戦前の本郷の屋敷町にも、そういうムードのとこがあった。
雨の一日、明治学院のそばの裏道を歩いてみた。しっとりとした緑が多い。このへんは白金になるが、人通りも少く、あまり車も通らない。高級住宅地なのだろうが、高級さをひけらかさないところがいい。
表の桜田通りは、タクシーで都心に出る時にいつも眺めているので、親しみを持っている。とくに明治学院記念館は、明治二十三年(一八九〇)に建てられた西洋館で、エキゾチックだ。下の石垣に、つたが茂っていて、いい演出効果をあげている。
そのそばには、加藤清正ゆかりの、清正堂がある。ふつう清正公《せいしようこう》と言う。入試合格のごりやくがあるという。ずっと昔、私が中学の試験を受ける時、父がお守りを買ってきてくれた。合格のお礼に、参拝に来た思い出がある。そのころにくらべ、道路拡張のため、境内がせまくなったようだ。
高輪台から五反田のほうに下る坂には、神社やお寺などが、けっこう多い。マンションだらけという傾向のなかで、宗教的なものがあるのは、息抜きになる。それも高台だと、なおさらだ。
いずれ、もっと裏通りを歩いてみるか。お地蔵さまとか、お稲荷さんとか、大きな樹木とかが、ひっそりと存在していそうだ。それも、街を歩く楽しみである。
原宿のように、若い人のうろつく場所も必要だろう。その一方、高輪のように、おとな好みの空気も貴重である。都内にあまりないのではないか。
住んでみたい街と聞かれ、あれこれ考えたあげく、高輪となった。灯台もと暗しというところかな。
空想の楽しさ
空想にひたるのは、ひとつの楽しみだ。
私は読者に、その面白さを味わってもらうような小説を書いてきた。文庫本が売れつづけているということは、成長の過程で、そのようなものに興味を持つ時期があるということだろう。
成長しても、つづいているようだ。映画の『E.T.』は大ヒットしたし、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』も、観た人はかなりいたようだ。いい時代である。
昔の話がどのくらい通じるかわからないが、私の若かった戦争中など、ひどいものだった。あしたを想像するのが、せい一杯。生きることしか、頭になかった。
死とむかいあっていたわけだが、死後の世界とか、霊魂とか、だれも空想しなかった。生活に余裕がないと、考えはひろがらないものだろう。
戦争が終ったあとも、食うのが最優先。野坂昭如さんなど、いまだに書きつづけている。いまになると、悪夢のようなものだった。悪夢のなかにいては、楽しい夢どころではない。
そのころは、私も作家になるつもりはなかった。しかし、空想的な小説を読みたい気分はあった。アメリカのSFがたまに紹介されたが、売れゆきはよくなかった。
なにか面白い対象はないかと思っていた時、空飛ぶ円盤の記事が新聞にのった。いまでいう、UFOである。本当は、こんな非科学的な報道はしたくないのだが、といった扱いだった。
あとになってみると、アメリカでは、みなが話題にしていたと知った。ジョークのネタにも使われていた。だれかを傷つけることがないので、便利なのだ。余裕があると、そこまで気を使う。
しかし、当時の日本では、あまり情報が入ってこない。そのため、同好者といっていいのか、関心のある者が集って会を作った。空飛ぶ円盤研究会である。ああでもない、こうでもないと、話し合うのは楽しかった。正体不明なのだから、テーマはいくらでもふくらむ。なつかしい思い出だ。
しかし、いつまでもなぞでは、ものたりない。小説にしたらと、何人かが集って、SFの同人誌を出した。そこから、私は商業誌に書く作家になれた。「宇宙塵」という誌名だった。
昭和三十三年ごろで、世の中も、SFめいたものを読む風潮になったのだ。小松左京、筒井康隆から、現在の新井素子まで、この流れはつづいている。途中の作家は省いたが、あまりに数が多いからだ。
一方、円盤研究会のほうはとなると、開店休業の状態になってしまった。少年雑誌などが、多くの目撃例をのせるようになり、それを読めばよくなってしまったのだ。
現在も、なぞのまま。実在しているのかどうか、なんともいえない。しかし、私はそれで作家になれたのだし、感謝の念のようなものは持っている。
超能力が流行したこともあった。最近は、それと活劇を組み合わせた小説が多いが、作者はそれをきっかけにしたのだろう。半信半疑あたりが、適当なのだ。盲信するのは、どうかと思う。
各種の占いにも、ある時、関心を持った。あったら面白かろうと、新しい占いを小説にいくつも登場させた。信じ込んでいなかったわけだ。余裕を失ってはならないと思う。
天中殺を有名にし、足を洗った人の本を読んだ。いいかげんなのが多いようだ。幸運のツボを、大金を出して買う人がいるらしい。本物なら、売り歩く人なんかいないよ。
最近の血液型ブームは、どうかと思うが、遊びとして、はやっているのかもしれない。
なっとくする的中率なら、外国の学者がほっておかない。エリザベス・テイラーは何型で、相手の男性は何型ならいいのか、そんなニュースが入ってきていいのに。
小説の話に戻そう。
「あんな話を書いてて、のんきですね」
などと言われることがあった。いまも内心で、そう思っている人もいよう。コメディアンは、自宅でもふざけているかだ。
小説のアイデアを考え出すのは、四苦八苦である。どれだけ大変かは、ショートショートで私の亜流が出ていないことでおわかりだろう。ぎりぎりの段階まで、考え抜かなくてはならない。
そんな苦労を、なぜしたかとなる。他人には書けまいという作品を仕上げ終えた時の気分は、なんともいえない。それと、読者と空想を共有しているという、満足感がある。空想は、ぽかりとは出てこない。
ニュートンが、リンゴの実の落ちるのを見た。その時は夕方で、月が昇っていた。そこで、ニュートンは考えた。月にもリンゴを落す力はあるだろうか。そこでまとめたのが、万有引力の発見である。
私の訳した『アシモフの雑学コレクション』(新潮文庫)にのっている一例。リンゴの落ちるのを見た人、月を見た人は、限りなくいる。
しかし、引力の法則を発見したのは、ニュートンまでなかった。彼の頭のなかで、さまざまな仮説が、形になりかけては消え、まとまりかけては崩れる。そのあげくの、リンゴの実である。
空想を生みだすものは、まず関心。
それを、好奇心をもって見る。メダカなんて、どうってこともない魚。しかし、だ。
「メダカって、いい条件で育てたら、どれぐらいまで大きくなるんだろう」
あるレベル以上の人は、耳を傾けてくれるだろう。心にひっかかる。なにかで調べてきて、教えてくれるかもしれない。こういう交友も、いいのではないか。
百科事典に、それは出ていませんよ。そばの項目に、メタ燐酸がのっていた。どうって薬品じゃないけど、その構造式の変な形には驚いた。ひとつ利口になった。
アメリカでは、禁煙運動がさかんである。いいことだ。しかし、なぜ、もっと危険な麻薬の取り締りに手ぬかりがあるのだろう。大量のドルが、外国へ流れ出ているのだ。
もう少し調べると、アメリカ社会の特色を知ることができるかもしれない。覚せい剤は、日本だけである。外国の人にわけを聞かれ、答えられない。
学問のもとは、好奇心だろうと思う。
つめ込み教育、丸暗記でなく、好奇心を育てるようにしておけば、すぐれた人物も、しぜんに育ってくるのではないか。
しかし、どうやればいいかとなると、不明である。私の小説も少しは役に立っていると思うが、それだけではない。いい方法がみつかるといい。
現状では、やむをえず受験勉強はするが、折にふれて好奇心を持つようにつとめるのが望ましい。世界的な学者にはなれないが、話題のゆたかな、個性的な人とみとめられる。
あるいは、反対する対象をみつけるのも、ひとつの方法かな。見まわせば、新聞やテレビを見れば、反対したくなることが多い。しかし、その時に、必ず代案を考え出すこと。
私の作品で、そういうやり方でアイデアをみつけたのも、いくつかある。飛躍した形になってしまったことが多いが。
代案の思考で作り出された、人類のユニークな発明品は、神かもしれない。生きていて不満が消えない。どう解決したらいい。神を受け入れる態勢は、一方で作られつつあったのだ。
キリスト以前の地中海のギリシャ文明には、神はなかった。神話はあったけれど、そう生活にかかわっていなかった。
そんなどえらいものでなくても、人間として生れてきたのだから、思考力を使わないでいては、もったいない。
グルメ・ブームは定着したようだ。空腹を知る世代にとっては、けっこうなことだと思う。自由に、好みの味を口にできるのだ。
ヘルシー・ブームも、いいことだと思う。戦争もないのに、ふとりすぎで命をちぢめては、これまた、もったいない。
空想も、そうなのだ。
本、劇画、テレビなど、受ける一方でも悪くはない。しかし、その楽しさを少しでも提供するのは、もっと充実感にひたれる。ほんのちょっとの、ある努力だけで。
笑い好きの人も、あっていい。しかし、読んだジョークを、二つか三つ覚えておいて、会話にまぜる。最初から、フタケタ、つまり十以上を覚えろとはいわない。それは、むりである。
それを一回でもやったら、人生の一段上を歩けるわけだ。また、あのジョークと言われたって、ゼロの人より、魅力ではまさるのだ。そうなってほしいね。
なんだか理屈っぽくなったが、空想も単なるアハハで片づけられないものを含んでいると、知ってもらいたかったのだ。
一〇〇一編
昭和六十年の秋に、私の短編の数が一〇〇一になった。本当はあと十数編あるのだが、スランプ時代の作品なので、短編集から除外してある。
そのパーティーが開かれた。ひとつの記録だろうとは思うが、とくに感銘といったものはなく、飲んで楽しくお開きとなった。ふしぎに思う人がいるかもしれない。
王貞治さんが、ホームランの記録を作った。その瞬間、大感激だったかというと、さほどでもなかったのではないか。ご本人に聞いてみたわけではないが。
私の千編も、それと同じである。それ以前のいくつもの作品があってこそ、そこにたどりつけたのだ。この上ない満足感は、一作を仕上げるたびに、ひそかに味わってきた。それらをまとめて、また大喜びしろといっても、笑い顔は作れても、内心まではね。
考えてみると、すらすら書けたのは、ほとんどない。三年に一回ぐらいは、あったかな。三十年がかりだから、合計して十編ぐらいだろう。ほかはどれも、苦しんだあげくの産物である。
私の作風は、異様な発端で読者をひきつける点にある。そのあたりを、私なりにアイデア部分と思っている。独自のキャラクターをPRし、そんな本が売れることも、書いて楽なことも知っている。しかし、作品そのもので勝負しようと思っているのだ。
アイデアのコツなんか、あるわけがない。あるのだったら、すでにマンネリになっているはずだ。
机の上に白い紙をひろげ、頭のなかに浮かぶことを、メモにとる。くだらないものが、大部分だ。そのなかから、ものになりそうなのを、いじってみる。うまく発展すればいいのだが、途中であきらめることも多い。
アイデアというものは、ひらめくといった形容は似つかわしくない。みっともないぐらい、不器用で、泥くさい作業のつみ重ねである。それに耐えるのが、才能なのだろう。
そのあげくの、いいアイデアとなると、単純にしてスマートな形となる。大科学者を論じる資格はないが、アルキメデスも、そうだったろう。説がまとまる前は、ああでもない、こうでもないと、頭のなかに描いては消していった。しかし、なにかあるはずだと。
アルキメデスは「われ発見せり」と叫んで、裸で町を走り回った。当時のギリシャは、男の裸は珍しくなかったらしいが、大声のほうは、注目をあびただろう。考えたあげくにつかんだ結論。だからこそ、大喜びしたのだ。
苦しみに費した気力の量が大きければ、喜びも大きい。かりに私が、超能力的なものを持っていたら、小説を書いても面白いことはなく、書く気にもならないだろう。このへんの説明が、もっとなされてていいと思う。才能と運の二つで、多くのことの解説は可能だが、だめな人はだめとなってしまう。
「短いと、原稿料が割に合わないだろう」
よく言われたものだ。そうなのだが、一作を仕上げた満足感は、金銭にはかえられない。そのうち、何作かたまり、本になり、ユニークだなんておだてられると、調子に乗ってやってしまうものだ。
小さいが、充実した気分の連続だった。働き盛りの四十代には、かなり書けた。いまとなっては、そうはいかない。気力や体力の問題でもある。あのころの苦心が、なつかしくさえある。
人生に、そういう時期を持つべきだろうと思う。むりな努力をしなくても収入を得られるからと、力を抜いた毎日では、あとになって回想するものがない。それのない晩年なんて、さぞつまらないだろう。
千編を意識したのは、八百編ぐらいになった時だ。年齢での体力のおとろえもある。目の前の一作に全力をが信条だ。あくまで結果の問題とはいえ、そうなってくると、気にしないわけにはいかない。迷いのようなものも、なかったわけではない。
さいわい、病気することもなく、なんとかなった。ほっとした気分はあった。で「今後は作品が出来たら、売り込む」と宣言したが、その数は知れている。レベルを落したくないからでもある。
現在は繁栄の時代。執念や意欲のようなものはなくてもいいし、むりすることもないと思う人も多いだろう。しかし、他人とちがったことに挑戦し、苦しんだあげくに極上の楽しさのあることも、知っていいのではないか。本業より趣味と言う人も多いらしいが、趣味で、そんなに面白さにひたれるものなのだろうか。
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W 金銭問題、たまには
悪魔
「わたしは悪魔です。死後に魂をくださる約束をしていただければ、三つの願いをかなえてさしあげます」
幻想的な短編に、よくある発端である。いくつも読んでいるが、きわめつきの傑作はない。そのかわり、しろうとが書いても、なんとか仕上る。
掌編募集をやると、たいてい何作か予選に残る。しかし、私が選者だと、入選になる可能性は、ほとんどない。
自分でも書いているが、最初の数十編のころは書かなかった。プロ作家で、いい案の浮かばない時にだけ許されるものという感じである。それも、五十に一つ以下の割で。
その、三つの願いだが、たいてい金銭がからむ。インフレ進行中には、金額を示せなくて困った。いまだって、いくらなら満足かに、適切に答えられる人はいまい。
必ずもうかる運営の才能をと、もうひとつの願いを追加しなければならない。それだって、一週間後に死んでは、なんにもならない。長寿をと、三つ目が出てしまう。
これでと思うだろうが、長い一生、そのために頭を使いつづけ、遊ぶひまなし。損だったのでは。でも、話がひとつできた。
すばらしい異性をとも、願えるのだ。あなただったら、三つのうち、どれを引っ込めますか。権力のある地位だって、なって悪いものではない。だが、それを望むと、また、なにかを引っ込めなければならない。
長寿をあきらめる人は、いまい。名声より金銭を選ぶ人が多いのだろうか。そもそも、人生における金銭の格付けは、どのへんなのか。学校では、そういったことを教えているのだろうか。教えにくいだろうな。
金銭で幸福を買えるとは限らない。しかし、不幸はかなり防げる。当り前だな。公理とは、そんなものだろう。
いまの若い人たちは、男性を含めて、おしゃれに金をかけているらしい。それが幸福であり、そのために金銭があるわけか。私には、ちょっと理解しにくいことだが。
このくらいにして、また悪魔の話に戻る。私の書いたのに、こんなのがあった。
「まず、悪魔にくわしい友人を持ちたい」
金銭にとらわれていると、話が面白くならない。話が横道にそれるが、利殖のご案内の電話セールスが効果をあげないのは、すぐ利益のことに触れたがるからだ。
いい友人は、宝である。話していて楽しいし、時には情報をもたらしてくれる。かなり昔になるが、ある友人がひそかに情報を教えてくれ、いくらかの利益をあげた。いまになれば、しれたものだが。
「なぜ知らせてくれなかった」
と周囲から私に文句が出た。私が他人に話さないと信用してくれたからこそ、そっと教えてくれたのだ。
新聞などに、政界の情勢についての記事がのる。それを読むたびに、政治家たちは、つねに口の固さをためされているのだなと、あらためて感心する。
いつだったか、先輩の、ある製薬会社の社長に、つまらん料亭へ連れていかれた。なぜか、けちが自慢で、その割りかんの請求書が、私のところへとどいた。いやいや払い、二度とつき合いたくない気分だった。
食塩のとりすぎが問題になっている。ナトリウムがよくないのだ。すると、重曹を含んだ胃の薬はどうなのだ。以前から気になっており、それを私は話題にした。
相手を専門家と思ってだ。明快な説明をしてくれれば、私は満足し、割りかんだって気持ちよく払い、お役に立つことがあれば、どうぞとも言ったろう。
自社の製品について答えられないなら、請求書を回すな。けちな江戸っ子とは、かくもいやらしい印象を残すものなのか。こんなぐあいに、交友の楽しさを知らずに人生をすごし、どこがいいのだろう。
現代では、友人を作りにくいのか。金こそ、たよれる友人なのだろうか。それとも、友人はいらないのか。
追憶になるが、私が四十歳ぐらいのころ、SF仲間がなにかと集って、酒を飲みながら、ばかげた話をして、笑い合った。過激な空想が、いくらでも作れた時代だった。頭のなかのマッサージをやり合った。あんな面白いことは、もうないだろう。飲み食いに金を使ったが、あの追憶は、金銭にかえられない。
ついでだ。悪魔の話を仕上げてしまうか。
「悪魔さん。ぼくをあなたの親友にしてくれませんか。おたがい、助け合い、不利や不快なことは、決してやらないといった」
これひとつですますのが、アイデア感覚ではなかろうか。その先を書くのは、ヤボというもの。
小説作法
ショートショートの選評で、よくこう書き加える。
「投稿の前に、だれかに読んでもらえ」
この簡単なことが、なぜかできない。ひとに見せれば、すぐわかる欠点。誤字。しかも、すぐなおせる個所なんだからなあ。そりゃあ、気持ちはわかるよ。ひそかに書き送って、入選となり、知人を驚かす。ごきげんだろうが、落ちれば万事休す。
新井素子という、作家がいる。高校生の時に応募作品を書き、選者のひとりだった私が絶賛し、それからは順調な活躍。すばらしいことだ。
彼女、中学の時から、お話を書いて友人に回覧させるのが好きだった。ああだこうだと、反応がわかり、ストーリーもうまくなる。そう、それしか秘法はないのだ。
金銭にも、それと似たようなところがあるのではないか。まずは、だれかに相談しろだ。そりゃあ、ひそかに財産をふやしたい気持ちも、わかる。そのかわり、損をしたって、同情はされない。
悪徳商法にひっかかって、泣くは、わめくは、訴えるはのニュースを見る。お気の毒にと思うだけ。事前にだれかに相談すれば、あんな目に会わなかっただろうに。
悪徳友人では困るが、いちおう、地位、信用、財産のある人の意見を聞けば、常識によって迷いからさめ、深みにはまる災難は避けられたはずだ。
いまの社会には、気のおけない、口のかたい相談相手が必要なのかもしれない。だが、無料ではいけない。また、万能でなくてもいい。株価の予想には「それは、あなたの判断で」でいい。あまり助けにならぬが、明白な悪徳商法で、大金を失うのは防げる。
落語に出てくる長屋の住人たちは、楽しい世界だ。「大家さん、家賃が払えない」から「金を拾っちまった」や「富くじに当った」まで、なんでも話してしまう。こうなると、だましようがない。会話の重要さだ。
日本で精神分析医が商売にならなかったのは、個人的な悩みを、友人、上役、親類などにしゃべっていたからだ。ストレスも消え、アドバイスも受けられる。しかも、無料。時にははげまされ、酒をおごられる。
しかし、社会は変りつつあるようだ。そのうち、有料の話し相手が出るだろうと思うのは、そのためである。新しい宗教のなかには、その役を果しているのが、あるようだ。
話かわって、古い貨幣の話。昭和十年ごろの十銭ニッケル貨は、なつかしい。少年のころの思い出と、結びついている。デザインも、当時としては新鮮だった。現在の百円貨なんか、ひどいものだ。金銭へのありがたみも、へってしまう。
ニッケル貨を手にしたくなり、コイン店で買った。現在では、四百円ぐらいかな。よみがえる追憶の代金としてなら、安い。
そう口にしたら、そこの主人、コイン投資の一面について、あれこれ話してくれた。少し利口になり、それももうけのうちか。
十銭が、現在では四百円。大変な利殖のように思えないこともない。持ちつづけていればだが。しかし、当時は十銭あれば、中華ソバの一杯を食べられたのだ。
現在、十銭ニッケル貨では、それを食べられない。まず、古銭商に売らなければならない。いくらで買ってくれるか。二百円以下だろう。代金には不足である。
よほど大量で、良好な保存でないと、もうかるという額にはならない。また大量では、売ろうとして、買いたたかれる。
つまり、利益をめざす対象としては、適当でない。
通用のコインが新しいのに変る時、私は何枚か封筒に入れ、とっておいた。その程度が、ほどほどだろう。
小判など、先祖から伝わっていればとも思うが、伝える苦労は大変だろう。また、昔のほうが、使いでもあったのではないか。江戸の土地が、どれくらい買えたか。
その十銭ニッケル貨。どこかで聞いた話だが、日本にその資源が少い。万一にそなえて輸入し貯蔵したら、外国に警戒される。そこで貨幣として流通させ、必要な時に回収した。大蔵省にも、頭のいい人がいる。
と知ると、やりようによってはと思う人もいよう。なら、どうだ。いまの一円玉は、原価が二円。大きな地下室を作り、何トンとためこむか。確実な財産保全だが、その気になれますか。
しかし、産出量の少い金属、たとえばタングステンでコイン形に作り商品としたら。その相場はわからないが、ささやかな投機が楽しめるかもしれない。アルミほど、場所はとらないだろうし。
しかし、将来どうなるかは、保証できない。第一次大戦の時、イギリスは海軍力によって、火薬の原料に使っていた硝石が、ドイツに入るのを防止した。しかし、その時、ドイツではハーバー博士が、空気中からチッソを取る方法を生産化し、火薬の原料としていた。
テレビを見ていたら、日本の資金がニューヨークの不動産を、つぎつぎに買収しているのを紹介していた。夜の番組では、コカインを加工した麻薬での、中毒者のふえ方を報じていた。上流、下層の区別なく、犯罪組織も警察も手におえない。治療法もないらしい。
麻薬汚染地域が拡大したら、不動産の価値は下らないのか。薬の売り手は、ウォール街にも出没している。放映したの、同じテレビ局じゃなかったかな。どうなのだろう。
発想のもと
高校あたりの図書部が、年に一、二回ほど会報を出す。だれかが思いつき、現役作家にアンケートを出そうと言い、やってみる。ありえないことではない。
かつて私も、新人時代には、何通か返事を書いた。数がふえそうなので、自分で一問一答を作り、コピーを用意したら、あまり来なくなった。
そのうち、この種のものに作家はだれも答えてないのを知り、私もそうすることにした。無料サービスの時代ではない。
それが、ここへきて、急にふえた。すべて捨ててるので数えてないが、五十通に近いようだ。「ご多忙中と思いますが」とあるが、それなら期待するなだ。
ワープロを使い、ごたごた質問を並べ、終りに「ありがとうございました」と書き、そのコピーを送ってくる。見ただけで、うんざりする。
いかなる現象か。相手の立場を察する能力が、失われたのだろう。それを制止しない教師は、やはり失格だ。そんな連中に、私の小説を読んでもらいたくない。
ワープロ公害かもしれない。人間性の、ある部分を変えてしまう。筆記具の一種と思えばいいとの説がある。そうかもしれぬが、毛筆、万年筆、ボールペンと移るにつれ、なにかが変ったことは、たしかだろう。
少し利口な生徒なら、こう考えるはずだ。返事がひとつもこない。たぶん、作家も応対に困っているのだろう。まして無料ではね。全国の高校や中学に呼びかけるか。
その時、ワープロやコピーを使うのはいい。ある量になったら、まとめて作家に手紙を出す。充分な謝礼を条件に。それを各校に売ればいい。ちがう学校だから、同じ記事でさしつかえない。小さな通信社というわけ。
求人や催物などの情報誌も、それに似たような出発だったのではないか。それを試みるのが、全国にひとりもいないとは。教育が悪いんだろう。つまり、新しい事業を思いつく才能が、育ちにくいのだ。
明治の中期だが、私の亡父はアメリカに留学し、学費かせぎに、それに似たことをした。下宿のおばさんは、日本を知らせる通信社だねと、英文の手直しをしてくれた。
無料のアンケートには、答えないのが、答えとして最良と思うようになった。
こう書くと、かえって本が売れたりして。
アンケート代行業は先の話だ。しかし、大学祭のすべてを請負う会社があるのを知り、驚き、感心した。講演や音楽まで、交渉をやってのける。企業の研修やセミナー、関連パーティーなどを引きうける会社のあるのは知っていた。
現在は禁止されたが、以前は株主総会で手腕を示す、総会屋なるものがあった。あるいは、そのなかの頭のいいのが、潮時とばかり、セミナー業に転向したのかもしれない。合法的な存在だ。それとなく、総会だって手伝っていい。かどうか知らないが、そうとしたら、私は尊敬するね。アイデアで利益をあげるのは、すばらしいことだ。
用心棒はガードマンのはじまり。金貸しが金融業のはじまりだ。とらわれた思考は、しないように。
むかし、友人と「いくらあれば人間は満足するだろう」と話し合ったことがあった。その友人は名解答で「思った金額に、もう十万円」と言った。現在では、物価が十倍で、もう百万円、といったところか。
同感の人も、多いのではないか。そうなると、一種の中毒ではないか。働き中毒が、利殖中毒に変っただけ。楽しいものだろうか。巨額の財産を築いた小佐野賢治氏。あの一生を、うらやましがるべきなのか。
将棋のプロが、株について語る。よく見かけるが、これも、ちょっとおかしい。将棋で、プロとアマのちがいがいかに大きいか、ご当人は、よく知っておいでのはずだ。
しかし、株については、アマではないか。株のプロはどうなのか知らないが、その分野で頭を使いつづけの人以上とは、とても思えない。占い師の助言で株をやるのと、大差ないのではないかな。
私は大学時代に碁をおぼえ、作家になるまでは熱中したものだ。それがさめたのは、エネルギーは作品に集中すべしと思ってだ。
所得減税は、実現するのだろうか。これまでの累進課税は、高額所得者に、あまりにひどい。彼らは高収入でなく、正直な申告者なのだ。間接税の割をふやせば、クロヨンの不公平が、いくらか減るはずだ。
所得への高率課税は、金持ちの慈善心を失わせる。恵まれぬ人は、払った税金で救えと。寄付は、経費で落せる団体に対してしか、しない。乾いた社会になってしまった。
経済問題
先日の夢枕獏さんを励ます会は、盛大だった。帰りに筒井康隆さんとバーへ寄り「われわれSF作家は、知的水準がほかより高いのではないか」と、話しあった。映画、劇画を含め、SF界はにぎやかである。
いま夢枕さんの人気はすごいが、執筆量が意外に少いので、首をかしげる人がかなりいた。水準を保つことが、ベストセラーに必要なのだ。当り前だがね。
で、経済の話。アメリカが日本に、コメの輸入自由化を迫っているらしい。国際価格の何倍もを、消費者が払っているとか。農協を窓口に輸入したら、だれもいくらか得をするかな。農家にも、利益配当があるわけだ。
なんとか自由化を進めたとする。すると、国内で、農業にかかわる人員と場所が、あまってしまう。ほっておくのもつまらないと、水田を整地し、工場をたて、なにか製品を作りはじめるとする。
それが輸出されたら、現在以上の事態にならないか。場合によっては、それは兵器かもしれない。米ソ製のより高性能のが量産されたら、どうなる。
そんなことへの対策の解説には、お目にかかっていない。だれもが考える、疑問ではないか。それとも、気にしない人が多いのか。
日本人に高い米を食わせておいて、変なことを防いだほうが、いいのではないか。国内で「コメが高くて」という声を聞かない。米価の季節になると、主婦みたいなのが「高すぎる」なんてテレビで言っているが、帰宅すれば、ダイエットを考えて、コメはほとんど食べていないのではないか。
水田の工業化をやめ、新種のバイオ作物の栽培に切り換えるかもしれない。コーヒー以上の味で、ビタミンを含み、無害だが習慣になりやすい植物成分だと、どうなる。南米経済は、大さわぎだろうな。
経済記事は、ものたりない。そこが面白いのかな。昨年にブラジルへ行ったが、あの国がなんで大赤字なのか、その解説も読んだことがない。
食料は、ありあまっている。鉱物資源も、かなりある。武器の輸出国でもある。戦争もしてない。不勉強の私は、あとなにが不足なのだと、ふしぎがったものだ。
中産階級がないという、社会構成のためらしい。しかし、それを言うと内政干渉になるのだろうか。としたら、経済記事は、裏を読まなくてはならない。貧富の差は、カソリックの国に多いようだ。なぜなのか。
東京の都心の地価が、急上昇した。大きな報道。本当に大問題なら、政府も急いで動くべきなのに、そのけはいもない。どういうことなのだ。
高額な土地を買うと、回収し利益をあげるために、高層ビルをたてなくてはならない。それが立ち並ぶと、巨大な重量となり、地下を圧迫する。
直下地震の引き金となりかねない。新宿などの山の手なら、地盤がかたいが、調査不充分な地域は、なんともいえない。
計算上は大丈夫といっても、それは学説上のこと。手抜き工事があったら、倒れるビルも出るし、となりのにぶつかる。それを受けとめる計算までは、してないだろう。
こわれたビルの捨て場となると、東京湾しかない。埋め立て地が、かなりふえる。交通に便利で、そう高価でもあるまい。その時に買って、災害を忘れるころまで待っていたら、利益は確実。
だれにもわかる解説をしないと、こういう話が、もっともらしくひろがるぞ。新聞は、だからあの時に大きく扱ったのだと、あとで弁明するのだろうな。
まあ、大地震はあっても、死者はあまり出ないだろう。休日もふえたし、火災防止にだけは、かなりの注意が払われていると思えるからだ。しかし、大きく傾けば、こわすほかはあるまい。
狂乱地価なんてさわいでも、大衆は実感で異常とは思っていないのではないか。異次元のさわぎを見物しているみたいだ。
折あるたびに書いているのだが、なぜ日本がデノミをやらないのだ。あまりにケタが大きいと、実感できず、ひとごとになってしまう。
そりゃあ、科学にも極大や極小の数値がある。しかし、すぐれた解説者は、それなりの形容をする。一例をあげる。恐竜の時代が一億数千万年。原始的な人類が出現して、数百万年。文明らしきものを持って、一万年たっていない。人類があと十万年はつづいても、恐竜にくらべたら、はるかに劣る。
なるほどとなる。だが、こと経済現象となると、こういうたとえには、あまりお目にかからない。巨大な数字のせいだ。みなさん、記事を読んで、本当にわかっているのかなあ。
世界で、米英を除いた多くの国が、デノミをやっている。日本も敗戦、新憲法、再建をやってのけた。デノミができないほど、知的水準が低いはずがない。
インフレ進行中は、タブーだった。これだって、なんの説明なしにだ。日本人の保守的性格を気にしてにすぎない。円高といっても、一ドルに対する円の数字が低くなっているのにという人も、まだ多いのだ。
正しい形で、一円がいくらという表記をする新聞が、ひとつはあっていいのではないか。かりに、それがコンマ何セントでも。
百円か千円を、1ジャパン・ドルと呼ぶ、新デザインの紙幣とコインを政府が作り、ディズニーランドと、どこかのデパートで実験的に流通させたらどうだろう。
日本人の多くが、海外旅行をしている。これを不便だと感じる人は、いないだろう。日本語が通じるのだし、換算だって簡単だ。新鮮で面白いという人がふえるのではないか。もちろん、その場所には1J$が米ドルでいくらとの、表示が出ている。
やがて、全国に普及させる。日本人は略称が好きだから、しぜんにそれが発生する。ジルあたりが定着するかな。それに、適当な漢字をあてればいい。なければ作る。「峠」のように、日本製の漢字だって、あるのだ。
ひまへの対策
クラス会が多くなった。働きざかりの年代の時には、あまりやらなかったのに。定年になったり、別な会社へ移ったりで、連絡をとりあってといった感じの集りとなる。みな、戦後の大変化を体験しているので、話はつきない。さまざまな人生である。
そのなかの、ひとり。
彼は学力優秀というわけではなかったが、適当に大学を出て、ある自営業をはじめた。当初は運営が苦しかった。そのあげく、近郊へ店を移した。
たまたま、近くに大団地ができ、多忙となる。仕事も面白く、やりがいがある。そのへんの名士となる。むすこ二人は、大学を出たが、家業をつごうとせず、大企業に就職。自営業の大変さを知ったわけだ。とにかく、一段落。
そこで、彼は考えた。充分に働いた。これからは、ゆとりのある人生を楽しもう。不動産の大部分を処分した。いままでの財産と合計すると、とんでもない金額。あなたの想像より、たぶんヒトケタ多いだろう。
十何年か前に、彼は私に聞いた。
「なにか、いい投資はないかな」
「金《きん》なんか、どうだろう」
と私はなにげなく答えた。当時は不勉強で、値は下るまいと思ってたのだ。何年かして聞いたら、本当に買い、二倍になった時に売っ払った。想像より、ヒトケタ多い量だから、下ってたら、私はうらまれたろう。
しかし、休業して半年もすると、困ったことになった。時間のすごしようがないのだ。ゴルフだって、知人は土日しか、つきあってくれない。私は知らぬが、ゴルフはひとりでやったら、つまらぬものらしい。
金を出すからと、平日の同行者を求めても、その人は負けてくれるにちがいない。楽しくもないだろう。
「ハッピー・リタイアなんていっても、いざそうなってみるとね」
まさに、実感のこもった声だった。よくわかる。私も千編を書き終り、しばらくの休養に入った。たまたま券をもらい、五日ほど、ひとりでグアム島へ出かけた。で、ホテルへ着いたとたん、食欲がばったりとなくなった。
暖かくおだやかな地なので、海へ入り、プールのそばの椅子《いす》にねそべり、ビールを飲む。肉体的には休養だが、精神的には落ち着かない。ついに読書をはじめ、さらには、翌々月に中国でやる、日本文学についての講演の草稿まで作ってしまった。
その中国旅行だが、三人の経済学者といっしょだった。私は経済を知らず、三人は小説を知らないが、なぜか気が合った。どっちも、いいかげんな世界だからか。また、案内の日本語のうまい中国人の男性もいい人で、一週間を気持ちよくすごせた。
帰って気がついたが、なんと私は、毎日、三度の食事をちゃんととっていた。一流の食事でなく、大学食堂の教授クラスていどなので、飽きたりしなかった。こんなことは、日本にいては、めったにない。
人生について、考えさせられる。あの大金を用意した友人も、ストレスの処理にてこずってるのだろうな。クィーン・エリザベスU号での世界一周など、ひとりだと、三日ともつまい。
なにかアドバイスしてあげたいが、思い浮かばない。普通なら、悪徳商法に狙《ねら》われるところだが、クラスの友人に相談すれば、だまされない。少しひっかかり、裁判を趣味にするのも、ひとつの方法かもしれないが。
まあ、私は作家なので、パーティーの案内などあると「雑用がふえるね」などと言いながら、出かけてゆく。内心は楽しんでいるのだ。雑談するのは、いいものだ。
また、雑誌を変えて、エッセイを書く。特定の雑誌を舞台に、長期にわたって書いている人もいるが、どうだろう。感覚が、固定してしまうのではないか。
執筆も、へたに調子に乗ると、命を縮めかねない。勢いづいて徹夜したりすると、若くはないのだから、むりを重ねてしまう。ほどほどがいいのだ。
政界や実業界の長老が、なかなか引退しないのも、わかる。ほどほどにやっていればいい。寝てるのを起されたり、おそくまで引きとめられることもない。手に負えぬとなれば、だれかに押しつければいい。窮地におちいったら、入院すればいい。
天国だね。好ましくないことだろうが、いかにも日本的だ。
ゲートボールも、私はよく知らぬが、程度の差はあれ、似た部分もあるのだろう。勝負に熱中し、けんかに至ることもあるらしい。それなら、やらなければと思うが、集ってなにかやるのが魅力なのだろう。
パチンコ屋に行かなくなって久しいが、老人専用の店や機種はできないものだろうか。ひまがあり、友人が少く、金もいくらかある人には、ぴったりだ。
私は事業家ではないが、老人むけ娯楽産業なんて、成長産業なのではないかな。新聞をにぎわした悪徳商法も、短期間に巻きあげたから悪なのだ。二十年がかりで、夢を与えながら徐々に金を出させれば、立派な産業だと思うのだが。
つまり、日本人は、なにもせず時をすごす法を知らないのだ。古くからの、社会のしくみのせいかもしれない。落語に出てくる御隠居だって、若い連中の相談に乗って、いい気分になっている。
長期バカンスを楽しむ欧米人の金持ちと、神経がちがう。将来はこれが問題になるだろうし、げんに私も友人も、その体験をしているのだ。若い人は、思ってもみないだろうが。
私の亡父は明治時代にアメリカで学んだせいか、よく「日本では金銭のため方ばかり教え、使い方を教えないのがよくない」と言っていた。勤倹こそ美徳という時代だったので、私も子供のころ奇異に感じたものだ。
亡父は、ある時もない時も、新事業に金を使い、事業を楽しんでいた。社員も、取引先の人たちも、活気にみちていた。
生きていて現在を見たら、大声でどなりたくなるだろう。日本に金がないわけではない。そして、内需拡大と言いながら、だれもがためこみ、ふやすことを考えている。
こういう時こそ、低利の金を借り、事業をはじめ、陽気にやるべきだ。これは国民性のためか、教育のまちがいか。欧米人は、そこをふしぎがり、いらだっているのだ。そして、私たちは、そこに気づかないでいる。
流行とは
金銭のこととなると、およそ文学的でない世界である。SFは文学と距離があるらしいが、その私がそう感じたのだから、かなりのものだ。
それでいいのだろう。利殖を趣味の人が大文学を書いてはおかしいし、文学の鬼が株でもうけては変だ。
北杜夫さんの株体験は、経済関係の新聞や雑誌で、何回も読んだ。株を身近なものに感じさせようというわけか。この段階で、編集感覚がずれている。
たぶん、北さんも「もう書いてますから」と断わるのだろうが、たのむほうは「読者層が違《ちが》ってますから」とか、承知させてしまう。北さんも、原稿料になるし、それにプロの作家だから、ユーモラスに仕上げてしまう。本心は別だろうが。しかし、編集者はにっこり、満足感。
だが、実状は、かなりの悲劇なのである。私も間接的に聞いているが、そこが躁《そう》状態。普通の人の参考にならない、珍しい例外である。ひとごとだから、笑えるのだ。
ご存知かどうか知らないが、作家の場合、出版社からいくら払ったと、所轄税務署へ通知がゆく。つまり、収入をごまかせず、国税、地方税がばっちり押えられる。
その残った金での投機である。損をしたら、現実には何倍にも相当する額だ。友人や家族がやめさせようとするのも当然だ。
私も忠告したことがある。
「せめて、マブゼ株式会社でも作ってやったら、どうなんだ」
勉強不足で知らないが、法人なら、赤字が次年に持ち越せるのではないだろうか。個人だったら、損は損、翌年の所得に税は完全にかかってくる。
株で損をした大長編を書いて、損をすべて必要経費でみとめろといっても、だめだろうな。
だから、北さんの文を賢明な人が読めば、手を出さないのが安全と感じるはずだ。配偶者だって、へそくりは平凡に無難にと思うだろう。つまり、内容は株は危険との警告なのだ。それをのせる神経がわからんね。
そういえば、証券界出身の作家って、いないのではないか。マスコミ出身は多い。坊さんでなったのもいる。イギリスでは最近、政治家でベストセラー小説を書いた人がいる。農芸化学は私ぐらいだろうと思っていたら、宮沢賢治という大作家が、そうだとのこと。
安部譲二さんは、安藤組から刑務所体験をした人だ。むかし、安部さんのバーに行ったが、そんな経歴とは知らず、ユーモラスで感じのいい人だった。
執筆とは別の世界だ。毎年、所得番付に並ぶ作家がいるが、作品の本が売れての収入である。利殖なんか考えていたら、収入はがたべりだろう。
それに、なっとくのゆく作品を書いたあとは、金銭にかえられない喜びである。だれに損をさせたわけじゃないし。
時たま、つまらん電話がかかる。
「利殖のご案内ですが……」
「おれの仕事を知った上でだろうな」
ニセ札づくりのほうが楽だからなと答えるつもりなのだが、相手は「検事さんですか」と、あわてたりする。内心、なにかやましいものがあるのだろうか。
昨今の混乱は、収入と利殖とを混同している点にあるのではないか。いかなる職種であれ、自分の仕事に熱心に取り組み、給料をもらい、ボーナスに期待するのが本来の姿ではないのか。信用という、なにものにもかえられない資産もできる。
株価を気にし、イヤホーンで短波を聞くのがいたら、私が上司なら、すぐお払い箱にするだろう。まず、金のありがたみを、身につけなくてはだめなのだ。
書店に入ると、株でもうける本が並んでいる。あてになるのだろうか。金もうけの極意は、欲のある人から金を取れだ。
出版では、かつて『英語に強くなる本』や『頭のよくなる本』が大ベストセラーになった。あれを買って、英語が上達し、頭のよくなった人がいたかどうか。
占いの『天中殺』で、幸運をつかんだ人がいるのだろうか。金もうけとは、かくもきわどい世界なのだ。
私だって『だれにも書けるショートショート』という本を書けば、けっこう売れるはずである。しかし、それを買ったって、たぶん一作も書けないだろう。それに、自分の信用だってあるし。
株の本もそうだろう。これが値上りすると書く人は、かなり買い込んだ上でと思うのが当然だ。むなしいね。
流行というものは、いつかは幕となる。たまに映画館に入ると、昔のことが、うそのようだ。封切り三日目で、座席に七人なんてのがある。
大阪万博の時に、ソ連からSF関係の小団体が来日した。裸の映画を見たいというので、連れていった。この上なくご満足だったが、帰国して考え込んだのではないか。客席はがらがらだったのだから。
すべてインフレのせい
品川区に住んでいるが、ここ数年で町工場を見かけなくなってしまった。仕事も働き手もなくなったのだろう。みな建てなおして、マンションになっている。
商店街も同様。上へ伸びるマンション化の建築が各所でなされている。こういうのを目にすると、一戸建ての入手は無理でも、マンション暮しなら、東京に住めそうだ。
目黒区や大田区も、同様だろう。まだまだ、かなりの人口を収容できる。しかし、いいことかどうかは、なんともいえない。地下鉄もふえ、過密はひどくなる一方だ。昔のSFの未来風景が、現実となる。
水資源は大丈夫なのか。テレビのニュースは、その時期になると「雨が待たれます」とか「節水を」ですませている。本格的に論じてみればいいのに。
都市問題の方針には、わからない部分が多い。役所を地方に分散させると言う。かりに文部省を筑波に移したとする。その建物が不要となったとする。こわして、公園にするのならいい。しかし、たぶん高層ビルを建てるだろう。より以上の、人ごみだ。
外国ではうまくいっていると思っている人もいようが、ブラジルのサンパウロを眺めると、まさに困ったもの。過密で、公園の割合は東京の何分の一かだ。広大な国土で、新首都のブラジリアがあるのにだ。
地価というと、とんでもない数字が頭に浮かぶ。しかし、インフレとの関連で論じた人は、いないようだ。ここ三十年で、初任給は十倍になっているのだ。
日本人が土地に執着するのは、ある年齢層の人にとって、インフレへの不安が消えないからだ。その保証なくしては、地価は安定しない。
野党は、財源を示さず、減税をやれと言い、政府もぐらつく。そうなれば、国債発行、インフレで解決となる。となると、ますます土地を売る人はなくなる。インフレ傾向については、この上なく敏感になっている。
ドルに対する比較で、ごまかされていた時期があったが、ドルもインフレだったのだ。現在の日本は、物価上昇率がきわめて低くなった。しかし、下ってはいない。やはりインフレは、おさまっていない。
円高による利益を言う人もある。しかし、それは、ほかの国の、よりひどいインフレのおかげであって、日本のインフレも進行中なのではなかろうか。
被害者は、そこまで疑り深くなっている。所有者は、もはや土地中毒。地上げ屋が強引にやろうとしたら、善良な人もかっとなり、殺人をやりかねない。
政府が景気対策など言ったら、インフレ恐怖は、ますますひどくなる。私鉄料金の値上げを認めてごらんなさい。やはりと、土地の売却はへるだろう。
相続税で放出させようとしても、銀行から借りられるだけ借りて払い、土地は手ばなさない。賃上げ、株高、美術品の高値。こういう文字が目に入るたびに、警戒心はひどくなる。
こういった心理を、だれか分析すれば、対策も立てようがあろう。戦後のだらだら傾向に、まだ完全な終止符は打たれていない。
くどいでしょうから、話を変える。
ただ首都を移したって、人が喜んで移るとは思えない。それだけの魅力がなかったら、意味がない。現実の地名はあげないが、ある県を特定し、有利さを与えるのも一案。
カジノを作り、その県の住民に限って、そこで遊ぶことができる。内容の最高な大学を作り、高給で世界から学者を集め、居住者しか入学させない。一流の病院を作り、やはり同様。犯罪者は、県外へ追い出す。
平等でないと言われるかな。しかし、いまの人口の首都圏集中は、このような条件をそなえているからだ。それ以上の魅力、利点、住みよさを、現実に味わわせなくては。
税制改革もそうだが、なにか案を示し、実行する気を見せなくてはならない。しかしね、国会議員の大部分は、東京出身ではないのだ。期待するほうが、おかしい。
一方、都民の意識も低い。早めに対策をたてるべきだった。あの時なら、まだ手が打てた。知事自身に才能がないのなら、土地対策のベテランを集め、強力に応援すればよかった。そのつけが、回ってきた。政治不信も、土地へ執着させる。
こんな話はどうかと思うが、私は東京以外に住んだことがない。戦前の東京も知っているし、爆撃による炎も見ているし、焼け野原の光景も知っている。
戦後に復興計画もあったが、うやむや。民衆のわけのわからない活気が、現在の東京を作り上げた。調和がないというが、それを無視したところに、魅力があるのだ。
東京駅を残せという声がある。なつかしい気分は、私にも強くあるが、周囲はすっかり変っているのだ。住民エゴだね。空襲の時に爆弾が落ちたと思えば、あきらめもつく。
日本の中心の駅なのだ。交通機関の利用者にとって、安全、便利、快適などの機能が最優先ではないか。古びたし、美しくもない。惜しむ人も減る一方だ。
映画の『ニューヨーク東8番街の奇跡』を見た。ニューヨークの古ビルの住人たちが、小型UFOの助けで、地上げ屋と戦う話。結局は勝ち、両側の巨大なビルにはさまれた形で残る。そのラストシーンの都会の光景は、奇妙なものだった。調和かね。郊外へ移すのが正解と思えてならないが。
平凡な駅ビルが多いから、慎重に検討するのはいいが。私は亡父からの後藤新平のファンだが、東京駅の大改造も、その霊を怒らせないだろう。さらに私は、日比谷公会堂にも執着はない。古い建物は、ニコライ堂ぐらいでいいのではないか。
香港
久しぶりに、香港を訪れた。
数年たつと、この都市の光景は、大きく変化していた。高層ビルの密度は東京以上で、デザインも新しい。SF映画の未来都市のようなのも。聞いてみたくなる。
「なんです、この二つは」
「香港上海銀行と、中国人民銀行です」
驚いたね。人民銀行は、文革時代に毛沢東万歳≠ニの幕がたれていた。それがこうも変るとは、うそのよう。東京でもお目にかかれないような外形。
この地には地震がないのだ。前に訪れた時に建築中のを見たが、鉄筋なんてなく、壁と床《ゆか》をとりつけ、上へ上へと作ってゆく。震度4ぐらいで、みな倒れるだろう。
昭和二十年ごろの住民は、五十万人ぐらいだった。映画『慕情』の少し前。それが共産党の政治から逃げ、ベトナムから逃げ、文革から逃げなどで、五百万にふくれあがった。
しかも、人手不足で、失業率はゼロ以下という。働けば食えるのだ。ビルもふえるわけだ。好況はいかなるしくみなのか、よくわからない。ソフトの著作権無視のためとしたら、いずれ問題になるだろう。
昼食は「飲茶《ヤムチヤ》」。シューマイや春巻など、各種が選べる。どこも大きな食堂だが、その話し声のうるさいこと。日本人は騒音に鈍感だなんていうが、その私たちもびっくりだ。
うるさいのが、好きなのか。中国語は異色だ。テレビのニュースの女性アナウンサーの声も、なにか怒られているような気分になる。日本でも昔、武士が漢語を使いたがり、威張った印象を与えた。日本語の美化は、このことを計算に入れなければ。
ドイツ語はごついと思っている人もいようが、ウィーンでささやくように会話をしているのを見て、さすが音楽の都と思った。
中華料理は、どれも熱が加えられている。サシミや生の野菜を食べる日本人との差だ。海の魚、サラダ用の野菜、同じことだと思うのだが。つまり、洗う水の問題なのか。
熱を加えるのはいいが、ビタミンCがこわれてしまうのではないか。何から摂取しているのか。こういうのに気づくのが、頭脳開発法のひとつ。
やがて、想像がついた。Cの摂取は食事の時に、むやみと飲むお茶によって。果実も食べてるのだろうが、主にお茶でだろう。うまくできている。水質の悪さが、中華料理とお茶を生んだ。お茶の普及前は、短命だったのかな。
だから、中華料理でビールばかりは、栄養上よくないだろう。香港ではビールを製造していないし、輸入税をかけているのではないか。無税だったら、かなり安くていいはずだ。密輸入しようにも、ビールはかさばって、やりにくいだろう。
タイガーバーム公園も、かなり変った。前は異様さが強かったが、かなりおだやかになった。色もきれいにぬり直され、迫力がへった。すぐそばに高層ビル群が出来ては、やむをえないか。
満漢全席という、日本でいえば会席料理に当るのを食べた。珍しいものが出る。「ツバメの巣」のもとの形は、わからない。ウズラの卵がついていたが、ツバメの卵と肉を使えば、完全親子丼になるわけだ。
「用紅焼菓狸」は、首を見せられたが、これも不明。日本文には「キツネの煮込み」とある。ばかされてるみたいだ。あとで英文を辞書で調べたら、ジャコウ猫とあった。それが正しいらしいが、猫と書いたら、日本人はいやがるだろう。
鶴と称する鳥も食べたが、足が短く、なんだったのか。考えてみると、日本料理の活造《いけづく》りのほうが、悪趣味かな。
つぎに訪れる時には、なにが変り、なにを食うことになるのだろう。
演出
このあいだ、遠い親戚の告別式に出かけた。九十歳にちかい。だれにも親切な性格で、惜しいとは思うものの、まあ、長寿である。
キリスト教による式だった。ご本人が信者とは、知らなかった。温厚なのは、そのためでもあったのだろう。
入口で、式次第の印刷物を渡された。賛美歌が流れている。少しおそ目に行ったのだが、まだ時間がかかりそうだ。
講堂に入ると、椅子にかけることになる。牧師が、神をたたえる説教をした。参列者の大部分は、仏教や神道の者だろう。いやに長く感じてしまう。
またも賛美歌。印刷物に歌詞と譜がのっているが、信者以外は手におえない。そこには故人の経歴ものっていて、それを読んで、ありし日をしのぶ。
そのあと、葬儀委員長を含む、三人の弔辞。原稿の朗読である。どれもが、故人の経歴をくわしく語る。もらったのにのっているのと、同じ内容。それから、ひとりひとりの献花となる。
一時間ですむと案内にあったが、倍ちかく延びた。これが仏教だと、お寺での葬儀が一時間。それにつづき、一般礼拝者はお経のなかで焼香し、そのまま帰れる。簡単に考えて来て、当日の予定の狂った人もいたろう。これでは、故人の霊も喜ばないのではないか。
私は入信するつもりもないが、なにかのきっかけで信者となっても、自分の葬式だけは、ごく簡単にといい残したい。アメリカなどでは、どうしているか。
今回は、手ぎわの悪さである。別な言葉を使えば、演出がへた。重複弔辞には、うんざりする。これからは、各分野において、演出が重要視される時代となろう。この葬儀委員長は、あきらかに失格である。
ある学会をのぞいたことがあるが、面白さがない。PRという言葉が日本語に入って久しい。いまや、その意味が弱まっている。
ある地方で、地域交通のシンポジウムを開いたが、成果なし。発言者で寸前にかけつけた人もいて、打合せがなにもなしだった。用意なしでは、まとめようもない。
じつは、その前座の形で、私が講演をしたのだが、終ったとたん、関係者以外のお客が、みんな帰ってしまった。
大橋巨泉の司会の番組は、徹底したリハーサルの効果らしい。タモリのは、自己をすばやく適応させるし、観客との暗黙の了解がある。双方で演出に気を使っているのだ。
あるホテルで、あるベテラン歌手のディナー・ショーがあった。はじめての試みだそうで、気になった。客層を広げようとして、若い歌手と組んだが、そのため人数はふえたらしいが、焦点がずれ反応が弱くなった。コンサートになってしまったのだ。
実名を出しにくい話ばかりだが、べつな歌手のディナー・ショーも見ている。独演で、客層もきまっている。何回もやっているので、運びも手なれたもの。試行錯誤で、演出法が身についたといえる。
文学賞のパーティーも、進歩がない。出席者はすでに、選評や受賞者の言葉を、活字で読んでいる。その同じことを、声によって聞かされる。演出を、考えようとしないのか。小説とは、ひとつの演出のはずだが。
国民性の差だろうが、レーガンの演説など、見ていて楽しい。演出が日常的になっているからか。日本の大臣答弁は、へたくそだ。失言への警戒からだろう。
国会中継のテレビで、野党の発言もつまらない。当人は見せ場を作ってるつもりだろうが、ひとりよがり。普通の人は、別な局にチャンネルを換えるよ。平日のお昼の時間帯。あんなの、だれが見るか。
このあいだ、ある先端企業の研究所の社員の会に呼ばれた。
若く優秀そうな人が、労働組合の委員長の名刺を出した。私は感覚のずれを埋めるのに、数分かかった。数十年前は、なにか活気のある印象をともなっていた。現在では、ダサイ、クライ、オトシヨリのムードだ。私は提案した。
「名称を変えたらどうです。組合はユニオノトピアとか、委員長はチーフリーダーとかにしたら、新鮮ですよ」
実現しそうだ。就任をいやがる人もへるだろう。現状に、なにか改良する点はないか。そう考える習慣が大切だろう。先日、発想法の本をまとめて読んだが、要点となると、その心がまえに落ち着く。
演出の代行会社など、出現してもいいのではないか。葬式、ディナー・ショー、シンポジウムなど、その気になって見て回れば、より面白くする方法など、わかってくる。急成長の企業になるぞ。私も若かったら、やるのだがなあ。
ソフトの時代だというのに、まだまだ盲点になっている分野が多いのだ。うちの近所の商店街に、なぜか薬局が乱立した。やむをえず、競争となる。お客も、自分に合った店を選ぶ。五円でも安いのがいいのか、お世辞のひとつもあるほうがいいのか。
フリードマンの短編「黒い天使たち」は、それがテーマだ。黒人の四人の庭師グループをやとう。いっしょに冗談を話しながら、楽しくやる。しかし、三日ほどで一段落し、再契約をしようとすると、高い価をつけられる。味をしめてしまうと、冗談料金を断われない。
銀行のキャッシュ・コーナーで、自動ドアの開閉のたびに「いらっしゃいませ」や「ありがとうございます」の声が出るのがある。最初は感心したが、なれれば、ただの音になってしまう。男女、年齢など、何種かの声を用意したらどうだろう。また、京や大阪など、方言をまぜ、今度は何かと期待させるのも面白いと思う。
それにもあきられたら、外国語を加えるか、どうせ、つけたりなのだ。同じ声だけより、効果はあるだろう。
そんな装置ぐらい、作るのは簡単だと言う人は多いだろう。しかし、現実には、まだお目にかかってない。考えてみた人がいないわけだ。地下鉄のアナウンスは、進行方角のちがいで、男と女の声にわけてある。名案だし、同じテープでも少し感心する。
企業たるもの、性能のいいものを作ればいいというわけではないと思う。お客さまを神様と思うのは芸能人だが、企業はお客は初心者と思うべきだ。
落語の与太郎のようなのを、少しやとったらどうだろう。マニュアルの文章を読ませ、装置が扱えるかどうかをためすのに使う。
医療器メーカーのPR誌の人がインタビューに来たので、その話をしたら、同感だとうなずいた。自分のとこは、どうなんだ。私は薬剤の効能書まで含めたつもりで、言ったのだぞ。
ネパール銀座
十二月にネパールへ行ってきた。秘境かと期待したのだが、現実は大ちがい。日本人の団体が、何組も来ている。
「ちょっと、見るだけね。安いよ」
など、物売りが声をかけてくるのだから、推して知るべし。旅行記を書こうなどという気も、消える。のんびりと見物を楽しむには、よかったわけだ。
首都カトマンズの国際空港。あわれな建物で、カバン運びのコンベアが故障して、手で動かす。それも、ひとつの思い出だ。しかし、清水建設により、新空港ビルが作られつつある。いずれ、各国のと同様な、変りばえのしないものになるだろう。
中学時代の友人の、現代建築の北代社長、同じく日本ヒルトンの副島社長などにさそわれ、十数人の小旅行団を作り、バンコク経由で入国したわけ。
ホテルへ荷物を置き、市内観光。大きな目玉の描かれた、最初に寄った丘の上の寺院のほかは、印象がうすい。
いかに歴史的であっても、ヒンズー教の寺院は、どれも似たようなものなのだ。トルコでの旅で、はじめはモスクや塔に感激したが、五つ以上となると、あきてくる。
日本への観光客が、京都の寺をほめるが、十ちかく見せたら、うんざりだろう。
そんな時、新鮮な楽しみをみつけないと、退屈する。たまたま、日本語のうまい現地のガイドが、その役に立ってくれた。
「わっ。タモリだ」
タモリさん、そっくりなのだ。レイバンのサングラス。なでつけた髪。えりのボタンをかけた、長そでのシャツ。動作や笑い方まで、その気で見ればウリふたつ。
親近感を持つね。本名はスダと称しているが、正しくはスダサン。スダサンさんと呼ぶべきなのだが、今回はタモリ。ネパール語で、変な意味がなければいいが。
リコー三愛の市村社長は、タモリ番組など見ていないだろうが、みなにつられて「タモリさん」と話しかけている。
午後に大通りを歩く。ネパール一の繁華街、つまりネパール銀座。かなりの人出で、これは予想外。ネパールの男性は、あまり働かないらしい。
「安いよ、百ドル」
青年がひとり、さっきからつきまとっている。祈り車の模型を持っている。百五十ドルからはじまった。ついたばかりなので、われわれも注意ぶかい。
ついに五ドルまでなったが、それでも買い手なし。これだけ日本人がいて、五ドルのがらくたも買えないのか。そう言いたくもなるでしょうな。ネパール語で、言ったかな。
あとで、つまらん品を買うようになったが、露店のようなところでだ。選択できるほうが、買う気を起させる。
タモリ氏の案内で、ネパール銀座を歩くとは、妙な気分だ。観光バスのなかで、民謡を歌ってくれたが、ハナモゲラ語の名人芸を思わせ、私は複雑な笑いを楽しめた。
戦前の日本ぐらいの貧しさで、乾期ということもあり、ほこりっぽい服の人も多い。人ごみの道なのに、ぶつかったり、触れ合ったりしないのは、完全な左側通行のためである。そういえば戦前の銀ブラも、子供の時の記憶だが、よき統一があったようだ。
また、気づいた点は、みなの姿勢のよさ。山岳民族のせいだろうか。あるいは平均寿命が短く、腰の曲るまで生きないのか。
北代社長がこの地に建築中のは、結核研究所である。そんな病気があったのかだ。この地に患者が多いらしい。食生活、住居、気候がからんで、解決も大変なのだろう。
来る前に考えてたより、ずっと暖い。少し西のポカラという観光地は、雄大な自然に恵まれていた。ヒマラヤ連峰は、飛行機で雲の上から眺めたが、さすがだ。とくに雪で輝く山々は、神々しい。
十二月から三月が乾期で、観光シーズン。十月に来た夢枕獏さんは、雪にテントをつぶされたとか。私たちのような観光客は、いい時に、いい面を見て帰る。きびしい自然の時期のほうが多いのだ。タモリ氏もシーズン外は、木彫りの仕事をしているそうだ。
SFの新人、谷甲州さんは、この地での青年協力隊の体験者。苦しい部分を、一冊の本にまとめてくれないものか。
「チベットからの難民に、毛布を送る運動がありましたが、日本からの新品が、末端に渡ったときには、ボロのになっていた」
そんな話を聞いた。そのほかにも、公然とは口にしにくい事情もあるらしい。大国や先進国からの援助も多いが、問題もあるようだ。あせるのも、よくないだろうし。
副島社長の話だと、かつてアメリカのヒッピーたちが入りこみ、知人の米国の高官の娘もそうなり、解決に困ったらしい。残党も、いくらかいるとか。物価は安いが、長くいても悟れそうにないね。
アメリカ映画の一部に、ここの寺がよく出るが、神秘的でエキゾチックに、見えるのだろうな。しかし、日本人には、なつかしさのようなものを感じさせる。
よくわからないが、ヒンズー教は、熱狂的信仰の宗教ではないようだ。日本も似たようなもの。この国は、科学の流入への抵抗も、あまりないのではないか。
山頂ちかくまで、急な斜面に、段々畑が作られている。雨期には、そこで米を育てるのだろうか。商品価値の高い、樹木を植えるほうがいいのではないか。コカとか。
麻薬でしたな。南米のアンデスを思い出してだが、ここは高地なのに、高山病の話を聞かない。コカの葉をかめば、ヒマラヤ越えも楽だろうに。この部分、翻訳を禁ずる。
一般的に貧しいが、スリやカッパライはないようだ。やりようによっては、向上の可能性を引き出せるのでは。グルカ族とか、シェルパ族とか、優秀な感じがする。たぶん小学生なのだろう。赤いセーターと、青いスカートか半ズボン姿の、子供たち。かわいらしいし、きちんとしている。
教育も普及しつつある。それに、なによりも、親日的である。なにも利害がからんでいないからだろう。
私がネパールへ行くと知って、スパイ物の取材と思った人もいるようだ。しかし、行ってみると、ふさわしくないとわかる。山また山では、移動するだけで、ひと苦労だろう。中国との国境がヒマラヤだから、戦車や軍隊が乗り越えてくるわけがない。
調査すれば、鉱物資源がみつかりそうだが、そんな話は聞かない。いずれ、すごい物が産出され、未来のある日、経済大国にならないとも限らない。
とりあえずは、ダムを作り、電力をインドに輸出する計画が進行中とのこと。雨期があり、谷が多ければ、適当だな。
日本へ帰り、夜の銀座へ出たら、漫画家の水野良太郎さんに会った。彼が言うには、尻《しり》をふく紙もないんじゃないのと。あるいは、地方の農村では、そうかもしれない。
「だろうね。ウォシュレットのトイレでも、大量に送ってあげたら、喜ばれるかもしれない」
軽いユーモアのつもりだったが、いい案のような気にもなった。観光客の意見など、いいかげんな部分が多いね。
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X 世の中、あれこれ
テディ・ベアとの長いつきあい
ずいぶん昔、私はエッセイで「クマのオモチャ」について書いた。幼年時代、祖父の教え子が、ドイツ医学の視察の帰途に買ってきてくれたものらしい。
もの心ついた時からそばにあり、なつかしい。そんな思い出と、外国の小説や漫画に登場する例をあげた。で、テディ・ベアの語源はなんだろうと、気になり、エッセイに書いた。
さて昨年の暮、アメリカのローリング・ユミという人からクリスマスカードがとどいた。
カタログ雑誌を見ていたら、語源が出ていたのでと、その切り抜きが同封してあった。米国人と結婚した日本女性で、一歳になった娘へのクリスマスのプレゼントに、テディ・ベアを買ったとあった。きれいな字。
もう、ご存知でしょうとあったが、じつは、まだ確認してなかったのだ。切り抜きを要約する。
大統領のセオドア・ルーズベルトは、大胆な政策を実行し、演説はどなるような迫力だった。しかし、ソフトな性格も持っていた。
一九〇二年の秋、狩猟に出かけ、動物をみつけた。しかし、かわいい熊の子で、銃をむけるのをやめた。
たまたま、そのようすを目にした漫画家が、絵に仕上げた。それは通信社によって多くの新聞社に流され、一面を飾った。あの人がねえと、話題になった。
営業不振だったオモチャ製造業者が、これに目をつけた。ビロードでぬいぐるみの子熊を作り、靴用のボタンを目につけるという早わざ。名づけて、テディのベア。テディはセオドアの愛称で、ベアは熊。
けっこう売れ、毛布業者が心配したそうだ。ふわふわ感覚をそれで楽しまれては、毛布の需要がへるのではと。
いい話だ。テレビ時代になりスマイル政治家ばかりになっては、強さの裏のやさしさなんて、めったになくなった。こんな形で名が残るなんて、幸運なことだ。
なお、私は長いあいだ、テオドールと読むものとばかり思っていた。古い印刷物にそう出ていたのか、亡父がそう発音していたためか。
ルーズベルト家はオランダ系の移民で、本来ならテオドールなのだろう。なお、ニューヨークは、昔はニューアムステルダムと呼ばれていた。
ユミさんからの手紙には、先日のテレビでもこの話をとりあげていて、一九〇二年のことと言っていたと。
セオドア大統領が愛好したからとの話は聞いたが、少年時代に買ったのだろうかと、ひっかかる点があった。大統領になってからの話となると、さもありなんとわかる。
確認のおくれたのは、イギリスのミルンの童話『クマのプーさん』のことがあったからだ。作品の最初のところで、エドワード・クマさんとの呼称が出てくる。
名をあげては悪いが、昭和三十六年に平凡社から『世界名作事典』という小型の本が発行されていて、よく利用している。
それによると『プーさん』の発表は、一九〇〇年とある。エドワードの愛称もテディで、このほうが先かもしれない。それが、なんと、誤植か誤記だったのだからなあ。正しくは一九二六年。
おかげで、結論がおくれた。監修者に、川端、壺井、三島などの名が並んでいる。どうしてくれると言いたいが、いまやどうにもならないしね。
岩波版の『クマのプーさん』で調べればよかった。この作者は推理小説も書いており、解説をたのまれた時に参考にと買ったのだ。面白くないのか、私の感覚に合わないのか、ほめにくかった。
お礼と返信をかね、ユミさんに、英語版ではどうなってるのだろうと手紙を書いた。すると、ミルン研究の、その部分のコピーが送られてきた。テディ・ベアは、セオドア・ルーズベルトの名に由来すると明記してある。
イギリスでは、エドワードの愛称(指小辞)である。ダンクリング著、佐々木謙一編訳の『ギネスの名前百科』(研究社出版)という本は、私たちの日常にはあまり役に立たぬが、雑学的な知識をえられる。
英国皇太子夫妻が訪米した時、レーガン大統領がダイアナ妃の名を読みちがえたと、いくつかのテレビが報道した。しかし、ダイアナは愛称的で、レーガンは原型の Diane と呼ぶべきかと、ふと迷ったのだろう。
アメリカでは、よくあること。とくに失礼というわけでもない。来日した大統領を、ジェイムス・アール・カーター・ジュニアと、本名で呼んだマスコミがあったか。もっとも、本人は知事時代からジミー・カーターでいいことにしていた。
その何代か前にハリー・エス・トルーマンという大統領がいた。ミドルネームのSは、略称ではない。ローマ字で書く時、Sのあとに一字分あけるが、点をくっつけてはいけないそうだ。
バースという野球選手がいたが、小さな男という意味だそうだ。私にしても先祖に、天文好きがいたわけではない。
この本によると、イギリスにはセオドアのような名はないらしい。エドワードの愛称は、エド、エディー、ネッド、テッド、テディなどがある。
だから『クマのプーさん』のなかのエドワード・クマさんという呼び名は、ぬいぐるみの熊と訳すべきではなかろうか。
本の題名となったフルネームは、WINNIE-THE-POOH である。ウイニーとは、ロンドンの動物園にいた熊の愛称。いかにも熊らしいというが、英語国民でないと、ぴんとこない。
エドワード・クマの名は、第一話、第二話の最初で、一回ずつ出てくるだけ。「このオモチャのクマ」といった使い方で、それを主人公にしたのが特色だし、さしえもそうなっている。
訳された時、テディ・ベアが一般化していなかったせいだ。そこは訳者の判断だから、これはこれでいいが。
一九二六年となると、私の生れた年である。ミルンは息子のために、その童話を作ったので、その子は私より少し年長ということになる。つまり、当時はすでに、男の子のオモチャとして、普及していたわけだ。
私の子供の時のは、かわいいだけでなく精巧で、おなかを押すと鳴き、しっぽを動かすと、首が動く。セオドア事件で誕生したのなら、かなりの急成長の産業である。男の子も買うようにしたのが、大きな原因だ。
『プーさん』をけなすつもりもなく、異色の作品と思うが、いまでいう便乗商法の先駆者で、それで多くの読者を得たともいえる。
現在では、便乗どころか、テディ・ベアの存在は定着した。ユミさんから同封されてきた新聞の切り抜きによると、昨今、この分野がさかんになりつつあるらしい。R・デービッドという人の文だが、要約すると、こうだ。
クリスマスへむけての生産は、大きく増加の傾向にある。ある人は「テディ・ブーム」と呼んでもいる。ニューヨークのマンハッタン地区だけでも、三万の在庫が準備されている。種類も三百以上あり、安いのは二ドルから、高価なのは二千ドルのもある。
プレゼント用として、バラの花束やシャンペンを追い抜こうとしている。「テディ・ベア|&《アンド》フレンド」という雑誌もあるらしく、その編集長は、メーカーも、より上の年齢層をねらいはじめたと語っている。
アンティークとしても、値上りしている。ロンドンの競売で千ドルで売れたのが、二カ月後には五千ドルに近い値がついた。収集研究家は「信じられぬ現象」と言っている。
いまやシンボル的な存在になっている。テレビのCMにも、かなり登場している。商品とは、なんの関係もないのに。
まさに、テディ・ベア時代。カレンダーは作られるし、本は出るし、コレクターの集会も開かれる。
ノスタルジアのせいか、物好きのせいか。かわいらしいのは、たしかだが。
えらい時代ですなあ。
アメリカも、やさしさが主流か。ミサイルのミニチュアの収集よりいいかもしれないが、いいとしの男性が、テディ・ベアを大事にしている光景は、あるいは異様かもしれない。
なら、おまえはどうなのかと、反論されかねない。三年ほど前に、「オール読物」のグラビアで、テディ・ベアとの写真をのせた。
かつて、小松左京とオランダへ行った時、デュッセルドルフまで飛んで買ったやつだ。当時は、ドイツのが最高と思っていたのだ。子供の時の印象が残っているのか。大型でないのがいい。
とにかく私は、日本におけるテディ・ベアのファンの先駆者なのだ。近くにおいてあるのは、それひとつだけ。値上りを待とうなんて、さもしい気はない。パンダやコアラまで手をひろげるつもりもない。もらっても、だれかにやってしまうだろう。
新井素子さんに「ぬいぐるみさんとの正しいつきあいかた」との文章があるが、私には私なりの思想があるのだ。大げさな。
誤植のおかげで、私はいくらかの新知識を得た。ユミさんの二番目の手紙の末尾を引用させていただく。
〈ところで妙なことですが、去年のクリスマスに買ったテディ・ベアを、四歳の娘(上の娘さんのことらしい)が、クーマと呼びはじめました。娘はベア=クマということを知りません。TVマンガに登場した架空の動物の名から拝借したらしいのですが、やはり面白い偶然だと思います〉
イスラムとは
私には、のめり込みやすい傾向がある。ほどほどにしなければな。宗教なんか、危険だろうな。信者の何倍もの努力で調べはじめ、命を縮めかねない。魂も救われずにだ。注意しなければ……。
となると、ちょっと手を触れてみたくなる。そこで読んでみたのが、つぎの二冊。
大島直政著『イスラムからの発想』(講談社現代新書)
曾野綾子著『アラブのこころ』(集英社文庫)
いやあ、面白かったな。近ごろ印象に残った本はと聞かれたら、この二冊だ。年齢とともに感覚もにぶったかなと思っていたが、びっくりさせられた。はるか昔、外国のSFを翻訳ではじめて読んだ時の気分が、よみがえった。知的な興奮である。
トルコ国へ行って、モスクとミナレットを見た。モスクを訳せば寺院で、お寺のようなものかと思ったが、なにもかも大ちがいと知らされた。
イスラム教の世界では、こちらの常識が、まるで通用しない。SFにはよくあるテーマだが、ずれは、ひとつか二つにとどまる。それどころの差ではないのだ。
思考形態から、日常生活まで、私たちとかくもちがうものかだ。しかも、そういう人たちが、何億人も実在している。それに関し、あまりに無関心でいる。
両氏の本の、あとがきや解説には「これは決して反アラブでも、アラブびいきの本でもない」と記されている。
なんでこんなことをと考えたら、そういえば、かつてイスラム・ファンをよそおう、文化人がいたものだ。
ユダヤ人の国家イスラエルには、アメリカが力を貸しているようだ。それと戦う勢力は、正義である。やがて、イスラエルに友好的な国に対し、アラブ産の石油が値上げした。オイルショックで、生活がおびやかされた。もとはといえば、アメリカのせいだ。
イランでは民衆がパーレビ王朝を打倒し、国王は亡命、アメリカ大使館を占拠。これぞ、まさしく革命ではないか。
しかし、そのうち、ソ連がアフガニスタンに侵攻し、住民は命をかえりみず反撃し、やがて、イランとイラクが戦いはじめた。イスラムの大義とは、なんだったのか。
利口な文化人は、だまってしまう。新聞も解説しなくなった。マスコミというものは、ものごとをパターンで処理したがる。善とも悪ともきめにくいものは、報道しないのだ。かつて、ベトコンこそ正義と報道し、みそをつけてもいる。
一般の人の、興味もうすれた。石油が値下りし、生活と関係がなくなった。観光旅行なら、行先はほかにある。石油加工の大工場につぎこんだ金は、戻るまい。さわらぬ神に、たたりなしだ。
この私にしても、トルコ旅行のあと、知識の周辺をひろげようと読んだのが、きっかけである。それがなかったら、知らん顔のままだったろう。
熟読したのは、前記の二冊だけ。ほかにもその分野の本のあるのは、知っている。しかし、この両氏なら、信用できる書き手と思っているのだ。構成は理解しやすく、文章は読みやすい。また、あまりたくさん読むと、とめどなく深入りしかねない。
第二次大戦のあと、英国支配から独立し、インドとパキスタンの二国ができた。ヒンズー教徒はインドへ、イスラム教徒はパキスタンへと、それぞれ数百万の人が移動した。
その、すれちがう時に争いがあり、映画の『ガンジー』では、それを制止するクライマックスがあった。
なぜ対立なのかというと、ヒンズー教では火葬こそ霊魂の浄化と信じ、イスラム教では死者の尊厳を奪うもので許せない。いまも争っているが、私たちには理解できぬ。
日本人の遺骨観となると、場合によって、ずいぶんちがう。その法則性について論文を書いたらと思うが、大変だろうな。私は手を出さないよ。
そもそも、イスラエルとの対立から、ユダヤ教と相いれぬ宗教と思っている人が、大部分のようだ。しかし、唯一《ゆいいつ》の神について書かれた旧約聖書にのっとっている点では、キリスト教とともに、三つは同じなのだ。
神のお告げを受けた者、ノアやモーゼはみとめるが、キリストをみとめないのがユダヤ教。キリストこそ神の代弁者と信じるのがキリスト教。そして、マホメットを最後にして最大の、神の言葉を伝えた者と信じるのが、イスラム教。
マホメットが神、アラーの啓示を受けたのは、西暦六一〇年。日本では法隆寺が建立されたころ。釈迦《しやか》の生れたのが前五世紀ごろだから、かなりの差だ。
イスラム教徒たちは、ユダヤ教徒やキリスト教徒を、神を正しく理解していない気の毒な人だが、唯一の神の存在を信じている点は、まだましと思っている。
日本の学校では、宗教教育をやらないが、せめて知識として、旧約聖書のあらましぐらい、知らせてもいいのではないか。人類の十数億人は、この三つの信者なのだ。
かりにイスラエルと戦って勝っても、そこの住民に改宗を迫ることはしない。片手にコーラン、片手に剣とは、ヨーロッパ製の形容らしい。イスラムにすれば、十字軍が攻めてきたので、やむをえず戦ったのだ。『アラブが見た十字軍』という本が出て、話題になった。
しかし、ヒンズー教のような多神教となると、変ってくる。先に書いた、独立の時の信者の移動の時、対立の争いで、双方に数十万の死者が出た。そのうち『ヒンズーの見たイスラム』という、恐怖にみちた本が出るかもしれない。
現在のイスラム諸国に駐在する、ソ連の外交官、軍人、技術者の大部分は、ギリシャ正教のロシア派の信者と自称しているとのこと。よそおう方法は知っているのだ。
無神論者と軽々しく口にできるのは、日本ぐらいだろう。無神論者となると、神の存在しないという説を語らなければならない。中国人なら、だまっている。日本のは、めんどくさいだけのことで、ベンダサンのいう日本教徒の一派なのだ。
ところで、その一神教なのだが。
アラブ世界には暑い砂漠が多く、太陽はありがたがられない。朝日マークの商品は売れない。かわりに月が好かれる。トルコの国旗は、三日月と星。モスクの屋根にも、それがついていた。イスラム系の国旗には、そんなのが多い。アポロ宇宙船が月へ到達した時、月がけがされたと怒った人があったとか。
不勉強のせいだろうが、私の疑問点を書いてしまう。そのような地域で、なぜ一神教が生れたかだ。手近にあったので、村上重良著『世界の宗教』(岩波ジュニア新書)を開いてしまった。
古代の国家、文明は、メソポタミアとエジプトで発生した。メソポタミアでは、太陽神シャマシュが、崇拝の対象のひとつになっていた。
エジプトでは、太陽神ラアが最高の神とされた。やがてアメンホテップ四世の時、太陽神で唯一の神、アトンの信仰を命じた。長つづきはしなかったが、唯一神のはじまりとされている。
紀元前一二三〇年ごろ、エジプト内のイスラエル人の指導者モーゼは、みなをその地から脱出させ、神から十戒を受け、唯一の神ヤーヴェへの信仰をひろめた。そして、カナンという農耕地帯に住みつく。
どうやら、一神教は太陽と関係があるらしい。また、農業社会だったからでもある。それなら、インド、中国、日本などが一神教と無縁なのがわからない。容易に解明できそうにないので、保留しておく。
たぶん、エジプトや中近東も、紀元前三〇〇〇年ごろは、かなり緑に恵まれていたのではないか。土器の発掘地点の分布や、古代都市の跡などを見ると、よほどの植物がなくては、おかしいのだ。
シルクロードだって、古代には緑ゆたかな地方だったのだろう。現状を写真で見るから、ひとつの先入観ができてしまう。三蔵法師は苦しい旅の記録を残しているが、西暦六三〇年ごろになってだ。西域を舞台にした映画を、現地ロケで作ったら、ますます誤解が固定する。
杉山|龍丸《たつまる》さんの説、文明は火の利用によって砂漠をもたらしたというのは、正しいようだ。土器、レンガ、青銅器、鉄器を作るために木を切り、植林しなければ、砂漠となる。世界の人口が一億ぐらいだったから、ごくゆっくりではあったろうが。
これが一神教と関連しているのではないか。私の思いついた、ただの仮説である。
中近東の砂漠化が進む。アラビア半島は、もともと大部分が不毛の地だったそうだ。しかし、のちに聖地となるメッカは、商業都市だった。
それにしても、そんな状態のなかで、マホメットがなぜ、きびしい一神教の啓示を受け、その信者がふえていったのか。なぞだ。宗教は分析不可能なものなのだが。
曾野さんも、疑問に思った。
「イスラム教が、進歩をさまたげていると感じませんか」
アラブ圏でビジネスをしている日本人は、
「そうは思わない。この土地からそれを除いたら、人びとは魂を抜かれたようになるでしょう」
受け入れる態勢は、あったわけだ。
農耕地帯があり、遊牧民(ベドウィン)あり、遊牧から定着したトルコ系あり、商人もいた。それらに共通する、規準のようなものが求められていたのではないか。
イスラム教の特色は、精神面だけでなく、生活や行動までを指示している点にある。複雑化した社会に必要な「法」を、神と結びつけて制定した。その時代においては、きわめてすぐれた発想だったろう。本人の性格もあってか。
紀元前のローマ帝国には、法があった。しかし、それは、人間どうしの問題解決を、どうしたら最良かを規定したもの。中国の孔子《こうし》も、国や社会や行動は、どういうのが理想的かを語った。そこに神は存在しない。
つまり、イスラムの世界では、神と法が一体なのである。ユダヤ教徒も本来ならそうなるところだろうが、各国に分散したため、その国の法を無視するわけにはいかない。社会の法を身につけた。
ローマ帝国では、法がすでにあり、キリストは精神面を重視し、キリスト教徒は神と法を分けて考えることができた。
イスラム圏には、盗みをすると右手を切断される風習も残っている。現世で罰を受けておけば、天国での神の罰が軽くなる。本人のためだ。大島さんは、インテリ青年からこう説明され、驚いたそうだ。
それでも、トルコ国はケマル・アタチュルクが、超人的な政治力で、いちおう神と法を分けた。第一次大戦で惨敗し、宗教上の支配者でもある皇帝の無力がはっきりしたためだ。また、地理的に西欧に近く、もとは東洋系の民族ということもあった。
イランのパーレビ国王は、第二のトルコをめざす父からの近代化の方針を受けついだ。女性解放を進めた。さらに、宗教関係者支配内の、小作農解放に手をつけた。そこで、神の一派に反撃をくらった。
革命ではなく、実状は逆行なのだ。しかし、多数がそれを望んだのなら、まわりから口を出せない。
神の法しかないのだから、憲法のない国が多い。国そのものも、あいまいになる。宗教の分派と、ある部族の組み合わさったのが国なのだ。イラン・イラク戦争も、その争いである。
レバノンには、イスラム教二派、キリスト教二派がある。それぞれが政党を作り、国会で論じあえば片がつく。しかし、そういう習慣がないのだから、武器での争いとなる。
アフガニスタンのソ連軍への抵抗も、自衛とは少しちがう。部族の者が殺されたら、同じ人数を殺すのが、神の法なのだ。
曾野さんの本には、商社や企業の日本人の感想が、たくさん出てくる。話せばわかる相手ではない。同情、遠慮、反省の感覚がない。ゆずっても、ありがたがらない。
そんな例を並べてあるので、反アラブ的と見えるが、日本と尺度がちがうのだから、仕方ない。それなりに、もっともなのだ。
サウジの国王の暗殺事件は、テレビ塔の建設が、神の意に反するというのが動機だった。トルコではラジオを導入する時、コーランの声を伝えるから、悪い物品ではないとの説明に時間をかけた。
しかし、自動車や飛行機、つまり、マホメットの考えのなかになかった品は、問題なしである。クーラーは、おかまいなし。
それにしても、断食月《ラマダン》の習慣など、かなり守られているらしい。その期間は、昼間に飲食してはならないのだ。クーラーの普及は、それをやりやすくするのに役立つだろう。
メッカにむかっての礼拝、食事のタブーも守られている。まさに異次元の社会。教典のコーランも、翻訳されたら、ありがたみがなくなるのだから。
トルコ旅行の時、現地のトルコ人ガイドは「いいイスラム教徒は、天国を信じます」と、何回もくりかえした。天国の色は、ブルーとグリーン。つまり、水と緑に恵まれたところである。
いじらしくなる。その点に関してなら、日本人はずっと、天国で暮してきたわけだ。人生の悩みなど、ぜいたくなものだ。
ヨーロッパ的な思考だと、なんらかの方法で緑化を試みるだろうし、それなりの効果をあげるだろう。
内容紹介はほどほどにし、最後にひとつだけ、曾野さんの本からの引用を加える。
サウジの高級住宅地の日本人の話。
ふしぎなことに、子供たちをほっておくと、アメリカ人やイギリス人の子とは、言葉が通じなくても、いっしょに遊ぶ。しかし、アラブ人の子とは仲よくならない。親は、なんにも指図しないのに。
オモチャを交代で使おうとしないかららしい。アラブ人のなかでも、上流な家の子供なのに。
日本人の最も好きなイメージ。子供たちが人種の区別なく、純真に手をつなぎ、遊んでいる光景。それは理想であって、現実には容易ではないのだ。
思考の泡 *
死後の世界については、空想の根拠がない。科学的なデータがないので、仮説の立てようがない。前世があるかないかについても、同じこと。
人はいずれ死ぬのだから、その時に知ることができる。いざとなって後悔が少いよう、毎日の努力が必要だろう。天国があるのなら、そこへ行けるでしょう。
SF作家とUFOの関係に似ている。なにかあるらしいと信じていても、理解しているわけではない。だから、フィクションとして書けるのだ。
心霊とか、あの世とかでもうけている人がいるが、弱みにつけこんでいるようで、許せませんね。
あるオカルト傾向の雑誌からアンケートがきたので、このように返事を出した。もう少しサービスしてもよかったと思うが、現在の心境なのだから、仕方ない。たたりを清めるなどと金を取るやつは、地獄へおちろ。そこまで書くこともないが。
動物園の園長の西山登志雄さんも、似たような意見だった。内藤陳さんは「おれはゾンビなのだから、死後など考えない」と、珍答を書いていた。
死後は美しい世界との説も、多い。死んだ状態になったあと、生きかえった人がいる。その多くが、花の野原の光景を見たと話している。そんな体験を集めた本を一冊、読んだことがある。
しかし、この雑誌の特集、編集上でひとつの失敗をやっている。死後関連の話を集めすぎ、ある人物のこんな談話をのせている。
「科学的にも解明されつつある。死期が近づくと、脳内にエンドルフィンなどの物質が作られ、至福の世界にひたれる」
この物質は、頭のなかで分泌合成されるもので、人間の睡眠に関係があるといわれている。私は寝つきが悪いので、その解明を待っている。麻薬に似た作用だが、有害な副作用はない。
この説で、私はがっかりした。
美しい野原は、その作用というわけか。自殺のしそこないでは、分泌されないので、美しい記憶がない。自然な死は、その分泌が多量なので、安らかな感じがするのだろう。しかし、その先となると、手がかりはないのだ。あの世へ通じているとは限らない。
盲腸の手術の時、私は全身麻酔を受けた。酒や睡眠薬になれているので、なかなか麻酔がきかない。三種の薬が使われた。
美しいチューリップの野原を見た。すべての花が大きく近くなり、もとへ戻る。そのくりかえし。サイケ模様のはやっていた時代で、その影響だろう。
その前、結石の激痛の時、やはり強い麻酔薬を注射され、からだが宙に浮くような気分になった。
もっと複雑な手術だったら、自分は死後の世界を見てきたと、本気で話すだろう。うそをついているのでは、ないのだ。議論は成立しない。科学的な手法は、ここでは通用しないのだ。
また、だれもが前世を持つとの説もある。ロマンチックだし、作品に使ったこともある。しかし、世界人口の増加のグラフを見ていると、前世なしの人間が多くなっているような気がする。
その補給のために、UFOが飛来しているとの仮説もできるぞ。他星からの宇宙船でない説も、考えているのだ。
この繁栄の日本を体験してしまうと、生れかわりたい外国が、少くなってゆく。貧しい国に行かぬよう、祈祷《きとう》してさしあげよう。お金をお持ちになったかたにはね。どうも、この案では地獄におちそうだな。
苦痛のない死で、しばらく楽しい夢を見ていられ、そのうち、しだいに世界がぼやけてゆき、霧のように消えてゆく。このあたりが理想の形ではないだろうか。
話は変るが、以前から、ゴドウィンの古典的短編SF「冷たい方程式」への意見を書きたかった。それを書名にしたハヤカワ文庫で、伊藤典夫氏の訳により読める。とりあえず、お話の紹介。
宇宙空間の母船から、ひとりの男に操縦され、緊急任務の小艇が発進した。ある星へ、治療用の血清を運ぶのだ。
パネルの計器を見る。ほかに、だれかがひそんでいるようだ。条件の第八条。
〈この艇で密航者を発見したら、ただちに外部へほうり出せ〉
燃料は必要最小限なので、余分な物があると、減速に使いはたし、目標の星で墜落、船体も人間もこなごなになる。
「出てこい」
「見つかったわね。で、どうなるの」
倉庫にいたのは、あどけない少女。この小艇が、十年も会っていない兄の働いている星へ行くと知り、もぐり込んだのだ。
悪意でしたのではないが、規則は規則。見のがしようもない。ぎりぎりの時刻まで、母船と交信し、兄とも無電で会話をさせ、やがて真空の宇宙へと出てもらう。
はじめて読んだ時は、強烈な印象だった。それは私だけではない。これをふまえたバリエーションが、日本作家によっていくつか書かれた。結末まで明かして要約したのは、そのためだ。
これが書かれた時には、ハッピーエンドの作品が多かった。なんとか、この少女を助けられないのかと、読者の多くは考えたろう。そこが作者のねらい。宇宙のきびしさがテーマなのだから、悲劇でなければならない。
作者名はともかく、この短編だけは後世に残るだろうと思われた。しかし、逆に、かげが薄くなってゆくようだ。罪のない少女が、つぎつぎと死ぬ、ホラー映画の流行のせいか。いくらか関係あるかな。
サンダルばきの軽装。八歳で別れた兄に、会いたくてたまらないものか。戻ろうにも、母船とは四十光年の距離。これらの点は、あまり問題にしないでおこう。
それまでは慣性飛行で、減速に入ろうとして計器を見たのだろうか。気になってならないのは、母船から、どんな発進をしたかだ。
いくつかの仮定は考えられるのだが、その段階で密航の発見ができないのはおかしい。こだわると、ムードを味わえなくなる。
「なら、どうすればいい」
聞かれれば、私なりの答はある。短編といっても、わりと長いのだ。説明部分を削り、クライマックスに焦点をしぼり、四分の一に縮めていたら、みごとな仕上りになっていただろう。
エバン・ハンターの短編「ラスト・スピン」(都筑道夫訳)は、短いがゆえの名作だ。二人の少年。ロシアン・ルーレット。たちまち息のつまる思いにさせられ、終局。
警官がかけつけ、殺人罪で生き残りを逮捕、尋問となったら。そんな疑問の浮かぶ前に終ってしまう。さすが、一作だけでない作家。立会人を出したりしたら、作品のよさは消えてしまう。
しかし、リボルバーを使った殺人ゲームが、ロシアとどう関係してるんでしょうね。
思考の泡 **
先日、親類の紹介で、東大の小島圭二教授と対談した。地下開発の研究をなさっているかたである。
対談の前に、資料として、雑誌などの解説を読んだ。なかには、しろうとの書いた、とんでもないものもあった。たとえば……。
東京の都市景観で目ざわりなのは、高速道路だ。これが地下へ移れば、日照もよくなり、排気ガス公害もなくなる。
ここで、うんざり。地下道路の排気ガスは、最終的にどうするのかだ。こういうのって、困りますなあ。電線を埋めるのとは、質がちがうのだ。
専門の教授を相手に、こんな話をするわけにいかない。なるほどと感じたのは、地下開発をPRしたくても、特撮やアニメを作りにくいので困るとのこと。
宇宙空間の都市なら、みごとな絵になる。私は同情した。
「本来なら宇宙空間より、月に地下都市を作ったほうがいいんですけどね。隕石《いんせき》も防げるし、寒暖の差も調節しやすいし」
地球でも、地下の開発となると、建設費はいくらか多くなるが、地震への安全性は高まる。石油、水の貯蔵など、有益だ。
地下利用の先進国は、スエーデン。食品、石炭、太陽熱による温水、発電所、スポーツセンターまで実現している。地理的な条件もあろうが、ここは核シェルター国家をめざしているのだ。方針がきまっていれば、なんでも地下に作れる。フィンランドもそうだし、くわしくは不明だが、スイスも同様らしい。
飛行機から武器まで、地下にしまってある。難攻不落であり、永久の中立が可能なのだ。しかし、チェルノブイリの事故で、汚染の被害は受けている。なにごとも、ベストというのはむずかしい。
「なにか、地下の変った利用法はありませんか」
と聞かれ、こう言ってみた。
「刑務所に最適でしょう」
「それは、いけません。心が荒れます」
「専門家でしょう。地下は好ましい居住空間と、主張しなければ」
「話が逆になりましたな」
大笑い。やはり教授ともなると、あたふたしない。問題点をみとめ、改善案を考えれば、進歩となる。
地下は暗いとのイメージがあるのではと、気にしていた。洞穴の調査をすると、照明なしでは動けない体験かららしい。
しかし、私など、地下鉄や地下街で、暗さを考えたことがない。停電防止が徹底していれば、どうということもない。「万一の場合は」など、注意文を書いたら、パニックのもとだ。
そのうち、大気のオゾン層が弱くなり、紫外線をさけて、金持ちが地下へ住みはじめるかもしれない。となると、すぐ地下時代がくる。
だけど、そんなに大変か。オゾンは、酸素原子三つから成る。空気や水から作れるはずだ。バイオで安く作り、上空に放出すればいい。すると、オゾン公害か。
こういう会話って、楽しいものだ。席を銀座のバーに移し、延々と話しあった。そういえば、小説にベルヌの『地底探検』やキャロルの『不思議の国のアリス』もある。照明はどうなっていたかな。
どこか変なところが面白い。都心の地価が高いから、地下の大開発をやる。大量の土が出る。どこへ持ってゆく。東京湾を埋める。そこへビルを作るほうが安い。話はいつまでもつづくのだ。
少し前に、テレビでSF映画『ターミネーター』とかいうのをやっていた。未来から殺人ロボットがやってきて、ある若い女性の命をねらう。
近未来に核戦争が起り、地上は荒廃。世を支配しようとする機械たちが、人間狩りを進行する。
それへの抵抗運動の指導者が、なかなか手ごわい。機械側は、ロボットを過去へ送り、その母親を殺してしまおうとする。人類側も、その防止のため、やはり強力な人物を過去へ送る。
いかにやっつけても、動きをやめない人間そっくりのロボットのこわさ。それを見て楽しんでいればいいのだろう。しかし、過去へ人物を送るのなら、核戦争を防止するか、機械支配の社会を計画中の学者を始末したほうがいい。
しかも、ストーリーは、その男女が愛し合い、問題の子を作ってしまうのだから、パラドックスが発生しすぎる。
日本SF界の初期だったら、たちまち議論になった。その第一人者、広瀬正さんも、なくなってずいぶんたつ。世の中、変るものだな。
大伴昌司さんが世を去って、何年か。彼の名をつけた、テレビドラマの脚本新人賞ができた。すぐれた才能が生れるといいが。ハイビジョンのテレビ時代となった。しかし、画面にうつるのは、ニュース、音楽、スポーツだけでは、よろしくない。
この傾向がつづくと、テレビが人間をだめにする。教育水準を高めることはできても、創造性は育たない。ノーベル賞を受けた、利根川博士の発言は考えさせられる。
つきつめると、天才とアホのまざった社会と、同レベルばかりの社会と、どっちがいいかになってしまう。やっかいなことですなあ。
今回、気のむくままに書いているようだが、周囲にはけっこうアンバランスなもののあることを示したかったのだ。
若ければ、もっと話をひろげられたのだろうが、いまや無理がきかない。しかし、矛盾めいたものがあるというのは、社会に活力が残っている証明だろう。
すべてが整理され、平穏きわまる世になったら、それこそ生きている意味もなくなるのではないか。
先日、杉山|満丸《みつまる》さんが、福岡から上京し、わが家にみえた。三十代の好青年で、農業土木を学び、その分野の仕事をなさっている。父の龍丸さんが死去し、私が花をとどけた礼を兼ねてである。
龍丸さんとは、このところお会いしなかったが、古い知り合いである。インドの緑化運動に半生をささげた。その父親が『ドグラ・マグラ』の作者、夢野久作。
さらに、その父親が杉山|茂丸《しげまる》で、私の亡父がいろいろと世話になった。政界の黒幕でもあったが、渡米体験もあり、外交や金融の感覚もあった。私の著書『明治の人物誌』のなかに収録してある。
茂丸があまりに手をひろげすぎたので、その死後、夢野久作さんは整理に苦労なされ、若くしてなくなられた。
そんなこともあり、私は満丸さんに言った。
「あまり、無理をなさらないように」
古い商店の四代目なら、話は簡単だ。しかし、杉山家となると、代々、その分野がちがう。茂丸研究をしている、政治学者がいるという。相談にも来るという。よせばいいのに、私は話した。
「岩手県の水沢に、立派な後藤新平記念館があり、日記が残っているらしい。参考資料になるかもしれませんよ」
学者だけならまだしも、ご本人も同行となると、忙しくなる。おだてることになってしまうか。
また『ドグラ・マグラ』の映画化の打合せの仕事もあるらしい。それに、龍丸さんの緑化事業の仕上げもあるだろう。ほどほどにすればと思うが、いいかげんにとも言えないし。
異色な人物の家系も、それなりに大変なようだ。なお、夢野未亡人のクラさんも、前後してなくなられたとのこと。世の中、いろいろなつながりがあるものだ。
ところで、在米日系人からの手紙に、ホームステイのような国産英語は困るとあり、あるエッセイでそれに触れた。すると、ある人から編集部経由で手紙が来て、英語の辞書に出ていると教えられた。
で、あらためて日系人の手紙を読みなおしたが、彼の不満はカタカナ英語にあるのだ。渡米した皇太子(現・天皇)が、ライシャワー家に滞在した。この場合は、招待と書くべきだ。
留学生がある家に下宿し、正当な費用を払うのなら、それなりの用語がある。問題は、掃除などを手伝い、下宿代に充当する場合。ホームステイとは呼ばないのか。
これは上品に、オー・ペアとフランス語で呼ぶらしい。これが定着し、一般化している。その日系人には、日本女性が「ホームステイしてるの」と話すのが、ひっかかるらしい。日本語にだって、辞書にはあるが、使うのを控える語がある。
私の父は明治時代、アメリカで金持ちの家の手伝いをしながら、学校へかよった。『明治・父・アメリカ』を書く時、スクール・ボーイをしてと記したら、編集者がそんな言葉はないという。
おやじが自分で書いているのだが、それだけでは説得力がない。片山潜の伝記のなかに、その用語のあるのをみつけ出し、なっとくさせた。変化しつつあるんですな。
明治時代には、だれかが直訳し、学僕という字を当てたらしい。しかし、スクール・ボーイのほうが、しゃれていたんだろうな。
アルバイトとは、ドイツ語で労働の意味。戦争中、学生が工場へ動員され、そのことを称した。アルバイト・ディーンスト(勤労動員)の略である。
終戦後、大学生の資金かせぎの副業を、そう呼ぶようになった。当時、なにかひっかかった。もう、古い話だ。
いまや職業欄に「フリー・アルバイター」と書く人がいる。略して「フリーター」になる。日本でしか通じないもので、なげきたい人もいるだろうな。
まったく、困ったことだ。私など、時事風俗がらみを避けているので、よけい頭を使う。新聞で、若い人に「花鳥風月」の説明をさせたら、変なのが続出したそうだ。
「背に腹はかえられない」といった形容について、森田誠吾さんに聞いたら、同じなぐられるのなら、腹より背中のほうがましで、そこから発生したそうだ。
なるほどだが、目前の難事を処理するのに、いくらかの不法もやむをえないとの用法に、どう発展したのだろう。使わないほうが賢明か。
話はあちこち飛ぶが、中央公論社の『ラテン・アメリカの歴史』を読んだら、事実は文学のごとく面白かった。
独裁者が出ては消え、出ては消える。独裁者というとヒトラー、スターリンを連想しがちだが、そんな一貫したのは、南米には出ないのだ。
国そのものが、石油が出て成り金になったり、農産物があまって貧しくなったり、まさにマニャーナ(明日)のしれない状態。
歴史的な必然など、そんな思考は存在しない。戦争はあまりやらないが、対立勢力の暗殺など平気でやる。クーデターも、しょっちゅうだ。こんな歴史があったのかと、いささか驚いた。
初版がかなり古いので、最近のことにつながらない。巨大な債務、麻薬の栽培、密輸出など、その延長でとらえると、わかりやすいのだろうが。
もう少し若かったら、深入りしはじめるところだろう。明治以後、日本からの移民も多い。日本的な性格と、どこかに接点があるのか、気にもなる。
興味の対象は、どこにもひそんでいる。杉山満丸さんにでなく、自分にも「まあ、ほどほどに」と言いきかせていないと、からだによくないんでしょうな。
鴎外の作品について
森鴎外記念会から、講演をたのまれた。まいったね。適当に片づけるのは、さらにやっかいだ。
有名な短編を三つとりあげ、作家の立場から感想をのべた。
「高瀬舟」
まず、荒筋紹介。
徳川時代の京都。両親に早く死なれ、弟と二人で育った喜助《きすけ》。助け合って働き、北山の小屋のなかで暮している。喜助が三十歳の時、弟が病気になり、兄だけが働きに出る日々となる。
ある日、帰ってみると、弟は血だらけ。生きていては迷惑をかけるばかりだと、刃物で自分の首を刺したのだ。しかし、死にきれず、苦しんでいる。医者を呼んでくると言うと、弟は願う。むだだ。それより、首に刺した刃物を抜いてくれ。出血がよくなり、楽に死ねるだろう。
ついに、望み通りに刃物を抜く。そこを、病弟の世話に来た婆さんに目撃され、やってきた役人に喜助はつかまる。取調べのあげく、情状をみとめられ、遠島を申し渡される。
舟に乗せられ、運河である高瀬川を下る。それは宇治川につづくのだ。それに同乗したのが、庄兵衛《しようべえ》という中年の同心。桜の散る夕ぐれ。二人の会話。絵のような光景である。喜助のあまりにおだやかな表情を、庄兵衛はふしぎがる。
喜助は話す。自分には別れを悲しむ者がない。また、これまでは苦しいだけの人生だった。それがいま、島へ送られるについて、二百文をいただけた。返済しないでいいお金を持ったのは、はじめてです。
庄兵衛は、わが身とくらべてみる。老母、妻、子が四人の生活。妻はゆたかな商家の出で、金銭的なきりつめが下手で、いつも赤字。妻の実家からの金で穴埋めする。その日ぐらしのようなものだ。そこへゆくと喜助は、少額とはいえ、余分の金を手にして満足している。人間には、ほどほどという無欲、ゆとりの心が必要なのでは……。
順序を入れかえたが、これが大要である。鴎外はこの作について「高瀬舟縁起」という短文を書いた。高瀬川の説明、大阪まで送られること。この話は『翁草《おきなぐさ》』という本にある。二つの大きな問題を感じた。財産というものについての考え方。そして、楽に死なせるという意味のユウタナジィを考えさせられる。みとめるべき場合もあるのでは。
作者の「いわんとすること」まで追記されては、もう、それで終りである。教科書むきの作品といえそうだ。
しかし、私はちがう。まったく、妙な話だなあ。これが正直な感想である。はるか昔に読んだ時は、そんな気分にならなかったが。
舟は宇治川、淀川《よどがわ》と進み、大阪へ着く。それからどうなるのだ。時代物を書いたこともあるので、江戸での遠島が伊豆の島々とは知っている。佐渡の金山の場合もある。
私は会場の人たちに言った。
「ところで、この囚人。大阪からどこへ送られるのだろうか」
だれも手をあげぬ。会員のかたでもいいからとしたが、答えはなし。
虚心に読みかえした時、私はそこにひっかかった。時代考証の本を読むと、さすがに出ていた。まさかという島である。なんと、九州の天草《あまくさ》の島。ここは長崎奉行所支配下の、幕府直轄の地なのだ。他の藩の島では、その藩がどうしようと、文句をつけられない。
喜助は単独で護送されるわけではあるまい。京や大阪での遠島の刑の者が何人か集るまで、待たされる。それから、瀬戸内海のむこうの天草まで行くのか。大変な手間だ。途中で、海へ投げ込んでたんじゃないのかな。
それと、安楽死の問題。作品を読んで、そうだなあと思った人もいよう。鴎外も「高瀬舟縁起」のなかで、回復のみこみのない苦しんでいる者に、麻酔薬を投与して死期を早めてもいいとの考え方もあると書いている。しかし、それは病気の場合である。喜助のしたのは、自殺の手助けである。
切腹の時の介錯《かいしやく》という行為は、いつ発生したかは知らぬが、なぜなされるかはだれもが知っているだろう。安楽死についてはトーマス・モアの小説『ユートピア』に書かれたのが最初だそうだが、ヨーロッパでの実例はなかったのではないか。日本では、介錯に疑問はなかった。
戦国時代の、とどめを刺すという行為は、殺しを確実にすることもあったが、苦痛を長びかせてはとの念もあったのではないか。
もうひとつ、とりあげるか。庄兵衛の妻は、金まわりのいい商家の娘となっている。徳川時代にあっては、武家と商家の婚礼は異例のことだ。いいかげんなテレビ時代劇ならいざしらず、正式な結婚はむりである。
側室ならべつだが、あくまで陰の存在でしかない。階級の差の歴然としているのが、封建時代なのだ。幕末には旗本の株が売買されるようになったが、まさに末期的だったからである。
もし「高瀬舟」が教科書にのっていて、私が生徒だったら、以上の三点を質問する。教師だったとしたら、たぶん立ち往生。国語は、漢字の正しい読み書きができればいいのだと、そっちへ話をそらすだろう。
ついでに、構成として、どうも気になる点。婆さんに、弟の首から刃物を引き抜いたのを目撃されたのだ。ミステリー物で、おなじみのシーン。いかにして殺人でないとみとめてもらうかだ。喜助にとっては、絶体絶命の不利な状況である。
それがこの作品では、主張がすんなりと通っている。原作には「殆《ほとん》ど条理が立ち過ぎていると云っても好《い》い位である」となっている。現代の小説なら、だからこそ怪しいとなるところだ。せめて、兄弟の愛情の深さへの証人ぐらい、あっていいところ。
徳川時代だから、現代の審理とはちがう。喜助はどんな拷問にも、言うことを変えなかったのだろう、としておく。
妙な話だと思いませんか。この作品について、そのような疑問の出たのを聞いたことがない。ラストに出てくる文の「オオトリテエに従う外ないと云う念」と同じか。上役は正しいのだと、自分をなっとくさせるのだ。なお、英語ではオーソリティで、権威の意味。文豪にけちをつけるなか。
もしかしたら、私が「高瀬舟」を熟読した、最初の読者かもしれない。
「最後の一句」
やはり徳川時代の、元文三年。大阪の船主、桂屋太郎兵衛《かつらやたろべえ》に対し、三日間さらしものにしたのち、斬罪《ざんざい》に処すとの判決が出て、その高札《こうさつ》が立てられた。
太郎兵衛は船主で、船頭をやとい、東北から大阪へと、米を運ぶのを業としていた。元文元年、秋田から米を積んで戻る途中、能登半島付近で風波にやられ、航行不能となり、積荷の半分を失った。船頭は残った米を売り、大阪へ戻り、代金を太郎兵衛に渡す。そして、提案。
船がだめになったことは、どこの港でも知っている。この金は消えたものとし、新しい船を作る費用のたしにしましょう。
太郎兵衛は、ついその気になった。しかし、不審に思った秋田の人たちにより、ことは発覚。船頭は逃げ、こう判決が出たというわけ。
太郎兵衛には妻のほか、五人の子がある。長女いち十六歳。二女まつ十四歳。長太郎(あとつぎのため、妻の実家から生れてまもなく養子として迎えた)十二歳。三女とく八歳。初五郎《はつごろう》(実子)六歳。
死罪と知り、妻は気の抜けたようになる。しかし、長女のいちは夜になって決断し、弟妹たちに一案を話す。
父を死なせたくない。しかし、ただ願ってもだめだ。助命のかわりに、わたしたち子供を殺して下さい。もっとも、長太郎は実子でなく、あととりの養子なので、別にして下さい。こう申し出ましょう。
それを願いの書にまとめ、子供たちは朝早く出て、奉行所へゆく。あれこれあるが、昼すぎに白州《しらす》で奉行と会話することになる。
奉行に聞かれ、いちは他人の入れ知恵ではない、あくまでも自分の発案と答える。長太郎も、自分も死ぬと言う。六歳の初五郎だけが首を振って、ほほえみをさそった。
奉行はあきらめさせようと、こう言う。その申し出を受理したとする。お前たちは、すぐに殺される。父にも会えずにだ。言外に、父の助命の確認はできないよと匂わせて。
「よろしゅうございます。お上《かみ》の事には、間違いはございますまいから」
この言葉が題名になった、最後の一句である。奉行はじめ、そこにいた者たちは驚き、胸を刺される思いがした。鴎外はマルチリウムと書き、献身という訳語をつけている。殉教という意味もあるらしい。
奉行は扱いに困り、書類は上へ上へと回される。執行は一時停止。そのあげく、たまたま五十一年目に挙行された皇室の大嘗会《だいじようえ》にくっつけ、死一等を減じ、大阪より追放ときまり、太郎兵衛の家族たちは別れを告げることができた。
こんなストーリー。ご存知だったかな。読んだけど忘れてたかな。知らなかった人も、いるだろうな。
これも妙な話である。
なぜ、奉行が処刑を強行しなかったのか。地方の欲ぼけ米問屋をだましたのとは、ちがうのだ。当時、各藩とも農民を大事にしていた。禄《ろく》といって、武士の給料が米の量を規準としていた時代だ。被害者は藩である。つまりは、幕藩体制そのものへの反逆である。赤穂浪士より、もっと困る。刑をゆるめたら、ゆゆしきことのはずだ。
ただ、藩の財政が苦しく、太郎兵衛が金を貸してたのならべつだが、そんな伏線はなにもない。
いちの申し出も、わけがわからない。太郎兵衛にしたって、子供たちが殺され、自分の命が助かって、平然と喜ぶわけがない。また、あととりの長太郎は別にしてくれといっても、このような経済犯罪では、営業停止、家財没収となるはずだ。
それに、なんで長太郎を養子にしたのだ。大阪の商人なら、みこみのある青年を、むこ養子にするのが普通ではないのか。
結末はハッピーエンド的だが、無宿人となる太郎兵衛、残された家族、その後の生活を考えると、さぞ大変だろうな。
ただ、いちの異様なぶきみさが目立つ。文中には、奉行たちが反抗を感じたとある。しかし、なにへの反抗なのだろう。たしかに、父が処刑されるのは、たえられぬことだ。しかし、秋田の農民や藩士をだましている。無実や、巻き込まれとはちがうのだ。
鴎外は、徳川時代の役人はマルチリウムという洋語も知らず、と書いている。そりゃあ、洋語は知らんだろうが、殉教の実例なら、キリシタン信者に見られたし、主君への殉死の例もある。献身といえるかどうかだが、親のために身売りした女子の例は多かった。これらには、なっとくさせるものがある。
目的も理由もないから、いちが一段とぶきみな存在となってくる。ぞっとする小説と、いえるかもしれない。しかし、教科書や副読本で読まされたら、とまどうばかりだろうな。教えるほうも、深く考えたら困るのではないか。筋がわかりやすく、適当な長さだからと、安易にのっけているのだ。
おかしな点があるということは、親しみを感じるのに共通している。親しみこそ、小説の大きな要素ではなかろうか。
講演の時は「寒山拾得」についても話した。中学の時に教科書で読んだので、なつかしさもあった。しかし、あらためて読みなおし、新しい発見をした。権威をあざ笑う話なのだが、もっと奥深い。
少し前にある雑誌から「私の好きな異色短編」という短文をたのまれ、この作品をあげておいた。社会の二重構造をとりあげてもいるのだが、それだけではない。ラストの部分で、タブーをおかしたため、とんでもないことが起ることを暗示している。それがなにか、すべては読者にまかされている。
筋を紹介するのは、やめておく。哀れな二人の寺男が、普賢《ふげん》と文殊《もんじゆ》の化身なのだが、その説明をやったら、きりがない。その気になられたら、作品をお読み下さい。私は、明治以後の短編の、ベスト5に入ると思う。なまじの短編では驚かなくなっている私が、うならされたのだ。こんなのを書かれては頭を下げるだけ。
こんな読み方をした人は、いるのかな。
懐古の流行
なにしろ、このところ昔の東京がブームである。レトロ趣味というらしい。懐古か回顧か、そんな意味のようだ。
多くの雑誌が、特集をやっている。休日など、地方ナンバーの車に乗った若者が、それを求めてか、うろうろしている。その彼らにとっての昔とは、いつごろなのか。
昭和四十年ぐらいかもしれない。その前年に東京オリンピックがあり、エレキギターの大流行。いまの若者の両親たちが、そんなことを話題にしたのを、子供のころに聞いた。関心も持ちたくなるのだろう。
東京オリンピックで、都市の姿は一変した。とくに道路。高速道路が作られ、便利さを身にしみて感じた。
都電が消えはじめ、道路がひろげられたのも、そのころだ。先見の明のある役人もいたのだ。現在では、土地の収用だけでも、ほぼ不可能。
エレキブームは、日劇を若者で満員にした。その熱狂たるや、空前絶後ではなかったか。そのビルも今はない。日比谷映画の建物もない。つぎつぎに、スマートな高層ビルに代ってゆく。
昔の銀座として、まさに象徴的に残っているのは、四丁目交差点の、和光つまり服部《はつとり》時計店のビルぐらいか。あと、知名度は低いが、私の好きなのは三信ビル。日比谷公園の入口のそば。
地下鉄からの出口が、ここの地下街につながっている。古く、貫録のあるムードだ。とくに、トイレがいい。みな大型なのだ。
そのうち、このビルが名所になったりするかもしれない。これといった特色はないのだが、そこがいい。そとへ出る大きなガラスのドアの金具だって、古きよき時代の大型のままで、手入れもよくされている。内部の階段だって、いいムードだ。
しかし、ビル内の利用者がどうかは、わからない。もっと機能的なのをと、やがて改築されるだろう。いつ消えるか。そんな傾向が、レトロブームを支えているのだろう。
そのころ、私は働きざかりで、かなりの作品を書いていた。経済成長は順調で、昭和四十五年(一九七〇)の大阪万国博をめざし、未来論でにぎやかだった。アメリカのアポロは月をめざしていたし、前途は夢にあふれていた。だれも、昔のビルなど気にしない。
たしかに、万博のころが絶頂だった。宴《うたげ》のあと。同名の題の小説を書いた三島由紀夫が死に、その少し前に快人ジャーナリスト大宅壮一が死に、喜劇王エノケンが死に、作詞家の西条|八十《やそ》も死んだ。
この年が、ひとつの転機だった。この年に日本の戦後を集約させたら、面白いノンフィクションの作品になりそうだ。かなり厚い本だろうが。
アポロが月へ着くと、宇宙への熱もさめた。石油産出国の大はば値上げ、オイルショックが起り、公害も問題となり、未来は暗いのではないかとの説がはやったが、人間はなんにでもなれてしまう。
絶頂への上昇と下降を体験してしまうと、未来について、どう考えていいのか、わからなくなる。若い人たちに、老成を感じるようになってきた。
掌編小説の選考を毎月やっているが、中年ムードの作品を、二十歳前半の青年が書いて送ってくる。どんな心境なのか、知りたいものだ。たぶん、理解できないだろうが。
マスコミが、未来論よふたたびと、いろいろ企画を試みるが、盛り上らない。現状に安住。これでいいじゃないか、といったとこか。未来は考える対象にならない。
そこで、レトロ趣味。必然的にそうなったのか、小さな流れが集って目立つようになったのか、巧妙な仕掛け人がいたのか、興味がある。しかし、それを受け入れる態度もできていたのだ。
世界的な流れかもしれない。映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』も、それがテーマ。古いテディ・ベアが二万ドルで落札との外電も見た。
なるほど、過去の再開発とは、まさにすばらしい着想だ。営業にもなるし、宣伝への利用もできる。この方向でとなると、なんでも企画が立てやすい。
ひとくちに昔といっても、各人それぞれ、好きな時代を目標にできる。たとえば、なつかしのメロディー、石原裕次郎、山口百恵などの歌をなつかしがってもいいし、アニメの「ウルトラマン」でもいいし、さらには『青い山脈』でもいい。演歌となると、山のようにある。
どこかで、ひっかかってくれる。なつかしのアイドル写真集を買ってみた。吉永小百合が中心になっていて、彼女以後のは私の青春とは重ならない。しかし、それ以前は、見なおす価値があった。
世代の断絶はたしかにあるが、昔の話だと、いくらかの共通点を持てる。二十歳の若者が、子供の時のテレビの思い出を話しても、両親の世代が不可解ということはない。当時の社会背景の説明だってしてやれるのだ。
時代をずらせるが、私などは昭和十年ごろの東京が思い出の昔だ。小学生のころに当る。大震災と大空襲との、ちょうど中間。考えると、つかのまの満開だったようだ。
とくに銀座だ。アメリカやヨーロッパは、はるかに遠い。しかし、銀座には、それらにつながる、なにかがあった。いわゆる銀ブラ、そこの散歩も、エキゾチックな気分にひたりたかったからだろう。
銀座から電車で三十分以内のところに、東京の住民のほとんどがいた。
レトロが流行となると、それにうかれて、大正時代の特集をした雑誌も出た。調子に乗りすぎと思うが、高齢化社会になると、買う人もあろう。げんに、私も買ったのだ。
大正は十五年たらずだが、いろいろあった。第一次大戦での好景気。そのあとの関東大震災。永井荷風は、これで江戸のなごりが消えたと感じた。
永井荷風の作品は、ますます理解されにくくなる。戦争となり、私の世代にとっての東京の名ごりが、ほとんど消えた。遠く小さく、しかし明るさのある小さな宝。
そんな独占物のような気分でいたら、かくも盛大に、懐古ブームになってしまった。そうとはね。
まあ、悪いことではないのだろう。その日をすごして終りより、昭和史をふりかえるのも、なにかの役に立つ。それだけの、ゆとりが持てるようになったわけか。
たとえば、森田芳光監督の映画『それから』は、漱石の作品を原作とし、みごとな作品。あの若さで、よく作れた。
若い観客も、こんな世界もあったのかと、ひとつの新鮮さを感じたようだ。たぶん、主役たちに感情移入したのだろう。そこが、世代の差といえそうだ。
それが可能だったのは、ごく少数の人たちだ。現在のように金銭があり、そのまま昔の時代へ移れたら、たしかに優雅だ。そのあたりが、懐古趣味の流行の一因となっているようだ。
本当は、大部分がつつましく、結核のため若くして死ぬのが多かった。上流の人たちだって、いまから見ればだ。クーラーはなく、暖房だって知れていたし、蚊は出るし、道は悪いし、テレビもない。ラジオだって一局だけ。
趣味でのレトロとなると、そういう暗い面は消えてしまう。そのうち、大部分の低かった生活を論じる人も出ようが、そんな本が売れるかどうか。読む人がいても、切実感はわからない。仕方ないことだが。
これは私としての説だが、なつかしい時代においては、多くのものがすなおだった。とくに芸術作品で。小説も詩も、絵画も建築も、わかりやすく、美しく、楽しかった。
それが、しだいにひねくれてくる。前衛絵画だって、少数のすぐれた人はいるのだろうが、まあ、わからないのが大部分。建築だって、前衛的なのは、周囲との調和など、おかまいなしだ。
困ったことだ。すなおに面白がれるものが、大きく減ってしまった。香港製のカンフー映画など、だれが見ても楽しいと思うが、そういうのは評価されなくなってしまった。
かなり前から、私はアメリカのヒトコマ漫画を集めてきた。分類し、本にした。三流のがほとんどだが、著作権料は支払っている。それが、ここ十五年ほど、ほとんどみかけなくなってしまった。
減ったなあと感じ、アメリカから帰った漫画家に聞くと、ほとんど全滅ですとのこと。読売新聞で世界からヒトコマ漫画を募集し、元日号にのせているが、アメリカの低下が目立つ。東欧やトルコががんばっている。
なぜかと考えたが、アメリカの社会から、タブーがなくなったからではないか。タブーとされるものが日常的になったら、ショックも笑いも作りにくい。
これは、日本でも同様。小説の書きにくくなったのも、そこに関係がある。しかし、その説明となると、長くなる。
テレビ番組も、過去になかったような新手法となると、ないのではないか。あるのかもしれないが、考えようとする風潮にない。報酬も少いだろうし、当る予測もつかない。
そこで、ここ当分は、レトロ的な番組がつづくだろう。まずは、過去に食傷してみようではないか。そのあとでだね。
隣席の少年
秋になると毎年、私は亡父の出生地を訪れる。小さな銅像が立てられていて、故人をしのぶささやかな会合があり、それに出席するのである。
夜型の私は、夕方ちかくの列車に乗り、その地で一泊。当日の昼食を含めた集りのあと、夕方の列車で帰ることにしている。
ことしは、連休の前とあって、こんでいた。二十日前にグリーン車の券を買っていたので、席は安心。上野駅へ行くと、自由席では立っている人もいた。北へむかって海ぞいを走り、約二時間半。そこが下車の駅だ。
乗って席をさがす。窓ぎわだ。ひとりの旅だと、隣席が気になる。空席が理想だが、はっとする美女がいたなんて経験はない。タバコを吸わぬ人をと祈りたいが、自分はビールを飲むので、ぜいたくは言えぬ。
今回は、どんな人と並ぶのか。満席なのだ。そして、予想もしなかった人物。一種のとまどいを感じた。
少年。せいぜい中学か。どうやら、連れはないようだ。ふとりぎみで、ライオンズの野球帽をかぶっている。さらに、いやでも目に入るのは、左腕が首からの白布で、つるされていること。
その左手の先端は、異様なほどにふくれている。ギブスなのだろう。気になるが、なんとあいさつしたものか、すぐには思いつかない。私はバッグを網棚にあげ、席に身をもたせた。発車してしばらく、少しうとうとした。少年は劇画誌を読んでいた。
やがて、車内販売が来たので、私はビールひとつ買い、窓ぎわにおいて、少しずつ口にしていた。少年が声をかけてきた。
「ガム、食べませんか」
ありがたいがと、おことわりした。ビールにガムとはね。いやに、人なつっこい。こういう少年が普通になった時代なのか。
ちがうだろうな。どうやら、話をしたがっているらしい。しかし、私に相手がつとまるだろうか。自信がない。娘が二人いるが、もう大学卒だ。参考にならない。
下車駅まで、あと二時間はある。いずれは会話をすることになるのだろうな。そして、やがて、そうなった。
ビールを飲みおえたころ、少年はうとうとしていた。ひざの上から、ガムとチョコレートが床《ゆか》に落ちた。拾ってやらざるをえない。
「手をけがしていなければね」
と少年が言い、会話になり、私は聞いた。
「スポーツでかい」
「駅のホームから落ちてね。塾の帰りに」
その少年は人を話に引き込む、特別な才能を持っているようだった。さりげなく、強烈な言葉をつけ加えたのだ。
「……自殺行為じゃありませんよ……」
その真意は、はかりかねた。事情は、まるでわからないのだ。まあ、すぐには触れないのがいいのだろう。私はいちおう、塾の勉強の疲れがたまって、ホームから落ちたと理解したことにした。
「大変なんだろうね、塾って」
実状はよく知らないのだ。うちの娘は、幼稚園からのエスカレーター校だったし。
少年は話してくれた。月水金と週に三回、塾にかよう。火曜には、家庭教師が自宅へ来る。塾は五時十分前からはじまり、七時まで学習するとのこと。
「いま、何年生なの」
「五年生。六年になると、八時までだよ」
小学五年生と判明した。学校のあと、塾でそんなにとは、同情どころか、痛々しい気分にさせられる。
「おなかがすくだろう」
なにかを買って食べるのか、自宅に戻って食べて出かけるのか。そんなことより、私が奇異に感じたのは、塾での勉強を少しもきらっていないらしいのだ。宿題も多いのに。
小学校そのものを、かなりクールに見ている。塾では、学校の授業の先をやっているらしい。学校は、復習の場所。それにしても、自分の時間はどうなのか。日曜は……。
「日曜の午前は、少林寺を習いに行ってるんです。午後はなんとか……」
中国の拳法を身につければ、いじめの対象にされないわけか。しかし、少年は、いじめとは無縁のようだった。
あとで知ったが、この夜に放映される『メリー・ポピンズ』のビデオどりのセットをしてきたとのこと。そういうのを見て、数時間のくつろぎを楽しむのか。
「手のけがは、いつごろ」
「三週間前かな……」
少年の話し方が早くなった。骨折は、骨のひびよりは、なおりが早い。少林寺のけいこも出来ないので、連休におばあさんの家へ行くことにした。母もグリーン車なら変な人はいないだろうと、ひとりで行かせてくれた。いつかは、列車内に女子プロレスの人が乗っていて、子供たちにからかわれていたよ。
祖母のいるのは、私の下車駅より、さらに一時間も先。少年の家は、東京といっても、上野まで二時間はかかる近郊の都市。
小学五年生と話している気がしない。
少年は、上野あたりの幼稚園にかよったこともあるらしい。
「女の先生、ぼくたちの卒業の時に、小さな辞書をくれ、泣いたんだよ。変だね」
その辞書は、学校や塾へは持ってゆく気がしないとのこと。話したくないけどと言いながら、好きな女の子のいたことを口にした。どうも、追憶談を聞かされているみたい。
また、小学校の転校も体験しているらしい。前の学校では、乱暴できらわれ者だった級友と、仲よくつき合ったことがあるとか。
「いろんなことが、あったんだね」
口をはさむと、とめどなく話が流れてくる。いまの同級生には、大企業につとめる人の子もいる、社長の子もいる。べつに塾が好きなわけじゃないけど、そいつらに負けたくないからね。
私立大の付属をめざしているのか、塾がよいをつづけて東大を狙うのか。見当もつかぬ。それを察してか、少年は話題を変えた。
「おばあさんはね、身体障害者の免許を持っているんだよ」
認定を受けていることらしい。腰の筋肉をいため、歩行が自由でないという。その祖母に特にかわいがられているらしい。
突然、あしたが誕生日だと言った。毎年、なにか買ってくれるとのこと。前年も、ひとりで旅をしたわけか。
「あした、晴れるといいね」
私は亡父の法事に行くのだと話してあった。列車の窓には、雨滴がふりかかっている。
「おじいさんには、会えないかも……」
東京だと、セブンイレブンの店があるけど、地方にはないから不便だねとも言った。話は、あちこちへ飛躍する。祖父はどうなのか。知りたいが、なにか複雑な事情がありそうだ。
少し、整理をしたい。単純な、出発点から出なおそう。そこで、つい聞いてしまった。
「で、おとうさん、なにをしてるの」
「本当はね、やはりお医者なんだけど、離婚してしまったの」
あ、そうか。うっかり、とんでもない部分に触れてしまった。病院づとめの小児科医の母親と、マンションで生活。ひとりっ子らしい。母親は、小児科医なのに、ぼくにヒステリーを起すんだよ、とも言った。
少年は、頭のよさそうな顔つき。事実、頭と感覚の鋭さは、会話でも伝わってくる。そうだったのか。事態は理解できたが、そのような立場の少年の内心は、想像もつかない。
少しの沈黙のあと、少年が私に聞いた。
「お仕事、なんですか」
「小説を書いているよ」
私はバッグのなかの、筒井さんの文庫本にはさんである、SFフェアのチラシを出して渡した。そこには、私の作品名も書いてある。指で示したが、少年は私の名をはじめて見たようだった。生活のなかに、小説を読む時間の入る余地はなさそうだ。
「中学生になったら、読むだろうよ」
私は洋服の内側の、姓のぬいとりの部分を見せた。にせでないことを示したかったし、この姓は、この地方には割と多いはずだ。しかし、少年の知人にはいないらしい。たぶん、東京生れなのだろう。
「これ、もらえますか」
と聞かれ、私はうなずいた。だれかに見せれば、作家だと教えてくれるだろう。
私の下車駅が、近づいてきた。
この二時間ほどのあいだ、私はこの少年にとって、なんだったのか。夢の父親の役をやらされたのか。日常生活でまったくない会話を、無縁の他人と、こころゆくまでかわしたかったのか。いくらなんでも、作り話がまざっていたのではないだろうな。
このような小学五年生が、世の中にはいるのだな。考えたこともなかったが。
「もうすぐだ。元気でな」
「お仕事、がんばって下さい」
あくまで、礼儀ただしい口調だった。別れぎわまで、私は少年の右手のなかの、文庫本の広告のチラシが気になってならなかった。丸められたような形。左手が使えないのだから、それも仕方ないわけだが。
私の姿が見えなくなったら、それは捨てられ、そこで幕ということはないのか。たしかめようがない。停車し、ホームへおりると、迎えの人たちが来ていた。乗降の人も多く、階段もそばで、上らなければならない。窓ごしのあいさつもできなかった。
つぎの日は、みごとな青空。秋のためか、すみきっている。この下に、いろいろな人が生きている。
友人
たまには、私らしくないタイプの話を。
九月の中旬、夕刊の死亡欄で、Tの名を目にした。まさか、だ。うちでは三紙をとっているが、一紙にしかのっていない。しかし、彼の氏名で、住所も名簿と同じ。
Tとは、親しい仲。だが、とくにつきあいが深かったわけではない。彼について話せと言われても、肩をすくめるだけ。それが、なんで親しいのか。いくらかの説明がいるな。
つまり、Tは大学で同級だったのだ。昭和二十年の四月という、とんでもない時期に、東大の農芸化学科に入学した。その八月に、終戦である。
虚脱の時代ではあったが、みな、わりとよく出席していた。理科系には珍しく、六十名という多い人数だったが、なぜか和気あいあいのクラスだった。
大学のそとが、あまりにひどすぎた。しかし、校内では、少くとも、気楽に会話ができ、笑いあえた。
二十三年に卒業となるのだが、最後の一年間は、どこかの研究室に所属し、卒論用の実験レポートを作成しなければならない。
私は発酵生産学の研究室に入った。Tもまた、そこに所属した。だから、そのころは、普通の級友以上に、話す回数は多かったはずだ。内容は、まるで思い出せないが。
「なあ、星よ」
と呼びかけるのが、Tの口ぐせだった。「よ」にアクセントがつく。東京出身者が多いとはいえ、全国の旧制高校から集っているのだ。彼のは、なまりと感じさせなかった。
右手をあげ、手まねきするような動作で言うのが、Tの癖だった。じつに、人なつっこい印象を受けた。
卒業してまもなく、私は級友たちと、あまり会わなくなった。父が死に、あれこれあって、やがて作家となった。
それから数十年。それぞれ五十五歳ぐらいになって、たびたびクラス会が開かれるようになった。定年が近づいたりして、情報交換の意味もあったようだ。
なつかしさで、私も出席する。しかし、分野がちがうので、話の合わぬこともある。SF作家、新井素子の父も同級で、彼は出版関係の会社で、科学部門を担当している。選者のひとりとして強力に推したが、彼の娘さんだったとはね。よく決まるまで黙っていたものだ。
まあ、だれも三年間をともにすごした仲間である。酒を飲んで昔話をしているうちに、若かった学生時代のムードがよみがえる。
年に二回ぐらい、会合がある。
思い出はともかく、現実に若くはないのだ。二年ほど前に、Iが死んだ。会の時、自分が開発したネコヨラズを持ってきて、みなにくばっていた。
「売れ行きの見当がつかなくてね」
ミカン系のにおいにより、ネコを近づけない作用を持つのだそうだ。おとなしいが、妙にユーモラスな性格だった。そういえば、彼とも同じ研究室で卒論を書いた仲だった。
そして、今回はTだ。花をとどけることにし、ワイフに手配させた。
「でも、なんで喪主が姉さんなの」
記事に、そうある。一部上場の製薬会社の専務、子会社の社長も兼任。それなのに、私はなにも知らない。クラス会にはよく出ていたし、よく話したし、学生時代の姿も鮮明に頭にあるのに。
「わからない。とにかく、おくる立場にいるだけ、ありがたいと思おう」
べつに、手紙を書いた。翌日に北海道へ行く予定になっていたのだ。研究室時代のことしか、書くことはなかった。
旅から帰って一週間目。大学のクラス会があった。いつもと同じ有楽町の某所。マンネリだが、それだから簡単に何回も開けるのだ。いうまでもなく、その日の話題だ。
「Tへの黙祷をしよう」
そのあと、追憶談があった。社会人となってからも、交際の多かった者が語った。検査によって、国立がんセンターに入院し、手術もしたが、回復しなかったとのこと。
面会するほうも、されるほうも、いやなものらしい。医薬関係の仕事をしているので、病名はごまかせないだろうし。そばの友人に、私は聞いた。
「苦痛の激しいものだろうか」
「さあ」
なってみなければ、だろう。話はつづき、私は驚いた。
Tは広島の出身。そこの旧制高校を出た。その年の八月のはじめ、広島へ原爆が投下された。ひとりの姉を除いて、一家は全滅。その姉も、長く後遺症に悩むことになる。
東京にいたTだけは、難をまぬかれた。当時は八月でも、大学の講義はあったのだ。春に集団で農村の田植えの手伝いに行き、そのおくれを、とり戻すためだ。十五日の終戦の放送も、私は安田講堂で聞いた。
Tが、そんな悲劇的な立場にあったとはなあ。在学中、それに関し、Tはなにも話さなかった。同じ研究室の時代も、静かに明るく、暗いかげを感じさせなかった。
卒業し就職してからも、その姉さんの面倒をみなければならなかったらしい。金銭的のみならず、精神的にも負担となりつづけた。
その説明は、想像する以外にない。理屈ではないのだ。当人にしか、わからない。自分だけが無傷であったことへの、申しわけなさもあったらしい。
その結婚を仲介したという級友も、思い出しながら話した。
「世話好きな人がいてねえ、その女性のことを、まず、ぼくに持ちかけてきた。しかし、身長が不足。そこで、Tなら長身だからと紹介したら、進展し、結婚となった……」
創業は戦前らしいが、戦後に急成長し、首都圏ではきわめて有名な、ある企業の名が出た。そこの娘さんである。かなりの資産、不動産を所有。聞いただけで、私はきもをつぶした。現在の地価と結びつけてだが、それにしてもすごい。
結婚したのは、Tが三十歳ちょっとの時らしい。昭和三十年ぐらいか。しかし、まもなく破局となる。つづいた期間は、聞きもらしたが。
Tは、アメリカに研究のため赴任した。そのころは、エリート・コースでなければ、ありえないこと。しかも、一流会社。そういえば、Tはスタイルもよかったなあ。まじめな性質だし、勉強家だし、娘さんの結婚相手としては、申しぶんなしだ。
しかし、帰国したら、夫人は実家に戻っていて、それで終り。
外国への家族同行は無理な時代だったし、かりに可能だったとしても、同様だったろう。その話の先をつづけよう。
「……Tは収入のなかから、姉さんに金を送るんだからなあ。それだけはやめろと言ったのに。借金してでも、ほかになにかしてでも」
夫人にすれば、あたしと姉さんと、どっちが大事と言いたいだろう。実家がいかに資産家でも、亭主が姉に送る金の穴うめにでは、持ってくる気にはなれない。
どんな方法があったのか、見当もつかない。借金もいいが、返済のあてはない。アルバイトや株など、そんな器用さはない。出入りの業者からのリベートなど、そんな地位にはついてなかったし、やれる性格でもない。
「結婚式に、ぼくをよんでくれなかった。おぜん立てをしてあげたのに。ワイシャツ一枚を送ってきただけだ」
その友人は、しめっぽくなる気分を防ぐためか、冗談めかして、不平を言った。いくらかは、本心もあったかもしれない。
ことによると、式によびにくい事情があったとも考えられる。姉さんについての話が、どのくらい相手に話してあったかだ。あいまいなままだったのなら、その時に悲劇ははじまっていたのだ。子供のできないうちに、別れとなった。
そのあと、Tは仕事にはげんだのだろう。最後の地位は、容易につけるものではない。実力と努力によってである。その社の製品により、病気がなおり、寿命ののびた人は多いはずだ。
それで、人生を燃焼させてしまったとは。
女性関係のうわさも少しはあったらしいが、それ以上になることは、なかった。結婚に近い形になっても、同じ結末のくりかえしになるのは、目に見えている。
告別式に参列した級友の話では、姉さんは順が逆だと、なげいていたとのこと。姉の内心を察したら、なにも言えない。原爆による症状がどの程度のものであったのか、わからない。
なにもかも、はじめて知った。
「おい、星。なにか話さないか。同じ研究室で、仲がよかったじゃないか」
司会役の級友に言われたが、私は驚きつづけで、どうにもならない。Tについては、順調な人生をすごしているものとばかり、思っていたのだ。
「そうとはねえ……」
だれかが持ちこんだ、アメリカ産の焼酎の「霧のサンフランシスコ」をロックにして、ため息とともに飲み出すしかなかった。
ある明治の女
明治時代の日本は、維新や、開国があり、社会に大変動があった。さまざまな人物が活動し、話題はたくさん残っている。
お妻という芸者も、そのひとり。
新橋駅のそばの烏森《からすもり》。当時は高級な料亭が多かったらしい。明治二十五年の暮、そこに初登場。十九歳。大変な美人との評判が、すぐに流れた。ただし、その地帯だけ。
映画スターもアイドルもなかった時代。しかし、美人を見たがる人は、いつの世も同じ。東京の美人芸者の、写真によるコンテストがなされた。たぶん新聞社の主催で。
指定の日時に、撮影の場所に集らなければならない。お妻も参加することになっていたのだが、なにか用事があって、日本髪をととのえる時間がなくなった。
仕方なく、そのまま人力車で会場へ。もともと美人の上に、長くたらした黒髪。手を加えて飾り立てた女性たちのなかで、かえって目立ち、票を集め一位となった。写真も売れて「洗い髪のお妻」の名は、人びとに知られ、その写真は地方の人も見ただろう。
伊藤博文、井上|馨《かおる》など、政府の高官たちの宴席に呼ばれた。まさに、売れっ子となった。一般の人は、簡単には会えない。その点、現代のアイドルとちがう。
政治的な手腕もさることながら、伊藤博文は女好きでも有名で、くどいたこともあるだろう。どの程度まで進行したかは、この世界においては知りようがない。
本名は安達《あだち》ツマ。ツギと書いた本もあるし、こちらが正しいかもしれない。たぶん明治六年(一八七三)に対馬《つしま》に生れた。父の家柄はよく、江戸時代は対馬藩の朝鮮奉行をつとめていた。大陸との交易の要点で、重要な役職だった。母も同藩のいい家の娘。
しかし、明治五年、廃藩置県で長崎県の管下に移された。父親は前途を考えたのだろう、一家で東京へと移った。お妻が八歳の時。ほかに兄弟もあったのだろう。
十二歳の時、小田という人の養女となり、十五歳の時、その家の息子の義雄と結婚した。小田義雄は大学を出て文学士となり、鳥取の師範学校長になる。かなりの家と思えるが、私の持つ資料では知りようがない。
彼女は漢学や英語を学び、鳥取ではじめて洋服を着たハイカラ女性として、名士たちの注目を集めた。頭もよかったのだろう。それがなぜ、上京して芸者になったのか、ここもなぞである。
鳥取の隣の家に、伊原敏郎という作家が住んでいた。どんな作品を書いたのか。やがて東京で名をなそうと出てきた。そこで、お妻の写真を見て知った顔のようだなと考え、あの校長夫人と思い出し、驚いたそうだ。
伊原は現実は小説より奇と思ってかどうか、青々園と号し、劇評の分野で名をなした。そのいくつかは、大正時代の新聞で読める。
複雑な事情が、お妻にあったのだろう。
ここまでの話は、戦前に出版された、藤本尚則の『巨人 頭山満|翁《おう》』という本を参考にした。この人物も説明は容易でない。百科事典によると、明治、大正、昭和にかけての国家主義者で、政財界の黒幕とある。玄洋社という集りの、実質上の指導者。
福岡の出身。この藩は維新の時に不器用な動きをした。そのため、屈折した思考の人も多かった。長州と薩摩《さつま》はうまくやり、幕府にかわって権力をにぎった。攘夷《じようい》をとなえていたが、開国をやり、勝手すぎる。
そのため、国家主義者ではあっても、反権力的だった。外相の大隈重信に爆弾を投げ、片足を失わせた来島《くるしま》という男も、その一派。自由民権運動に加わったのもいる。ヨーロッパのファシズムとは別物なのだ。二・二六事件の反乱軍にも関連がある。
頭山さんには、私も子供の時に何回もお会いしている。白いひげの、ほとんどしゃべらない老人だった。私の父の昔からの友人、広田弘毅も福岡の人で、そんなことから訪問するのがはじまったのだろう。いつも父がしゃべり、頭山さんはうなずくだけ。
悩みを親身に聞いている。それだけで、人の心が救える。ほかの人には、しゃべりそうにない。頭山ファンが多かったのはそれだなと気づいた。日本には珍しい性格の人だ。
この頭山満が、お妻を見て、ほれてしまった。浜の家という料亭に、頭山は居候のような形で、寝とまりしていた。あいさつ回りに、そこに立ち寄ったお妻に、熱をあげたのだ。
二人は気が合った。そもそも頭山は、このような所に場ちがいの人物。スマートでなく、女性のあしらいがうまいわけではない。酒がまったくだめで、甘いお菓子が好きという、まあ野暮といっていい。
異色どうしで気が合ったのか、ひまがあるとやってきて、頭山と話をする。面白い会話とは思えないが。
たぶん、聞き役の名手の魅力だろう。普通では話せぬお妻の過去を、まじめに聞いてあげる。好意を持つようにもなるだろう。
こうなると、困ったのは、お妻をここまで仕上げた升田屋のおかみさん。現代風にいえば、プロダクションの社長といった立場。
総理大臣の伊藤博文、維新の大物の後藤象二郎、陸奥宗光《むつむねみつ》、財界の渋沢栄一。そういった人たちから、お妻を座敷へとお呼びがかかる。お得意さま。そこへと行かせるのが、大変なのだ。
ほかのことなら、手段もあろうが、反権力の頭山がついている。政府に不満な分子も多い。どうにも、やりにくい。周囲の者は、あれこれ気を使ったらしい。
お妻にねだられると、頭山は浜の家のおかみから金を借り、それを渡す。居候の上にそれだから、おかみもついにねをあげた。頭山ファンも、金には勝てない。
「もう、やりくりがつきません」
「そうか、外出してくるからな」
やがて戻り、二万円を渡した。下宿の相場が月四円の時代である。炭鉱の一つを売った金だという。驚いただろうな。
藤本著の伝記だと、頭山だけがもてたように書いてあるが、それでやっていけるわけがない。お妻は気が多く、金使いも荒く、美人とくる。新聞によると、かなりの数の男と浮名を流した。
米倉一平は大分の出身。幕府の長州攻めの時には兵糧係をつとめ、のちに勤王方についた。姓もその時に変えたのか。商才があり、明治になって銀行や商事会社を作り、京橋に米の取引所を作り、会長となる。
お妻は彼にとりいり、家を買ってもらい、かなり金をせびった。一方、歌舞伎の羽左衛門ともいい仲になり、力士の谷ノ音とのうわさも記事として残っている。
そのうち、男関係のもつれで、髪を切られるとのさわぎもあった。くわしい話はわからないが、美人のスキャンダルは、いつの世も読み物として好まれる。
頭山もスケールの大きい人物だが、お妻をよほど気に入ったらしい。しかし、子分に見張らせ、伊藤博文の席へ行かせないとなると、評判も落ちる。美人を扱うのは、やっかいなものだ。
お妻はやがて、だれかの出資によって独立し、築地に寒菊という芸者屋を作り、おかみとなった。何人かの芸者を抱え、それを使うことも兼ねたのだ。計画の上でか。
三十歳を越せば、当時としては、若さや美しさを売り物にはできない。しかし、女性を仕込み、運営する才能はあったわけだ。知り合った多くの知名人も、なにかと役に立ったことは、いうまでもない。
大正四年の五月三日に死去。脳出血というが、くも膜下出血か。四十二歳。惜しいと思うが、もっと若くして結核で死ぬ人の多かった時代だ。墓は大井町の駅のそばの大仏《おおぼとけ》という寺にある。
生前、頭山の家に、折をみてあいさつに出かけた。いつも食事が出る。お妻の話を、頭山は黙って聞き、にこにこしていた。金も使わせたし、何人もの男とのうわさが立った。そんな昔にこだわらず、話を聞き、無言のはげましをしてくれる。お妻は、帰り道には涙が出るような思いだったと話している。
ぼやけた写真を見るに、お妻はどちらかというと、健康的な美人だったようだ。しかし、無理もしたろうし、心労もあったろう。以前の栄光もせおっている。話し相手は、貴重な存在だった。まあ、頭山はざんげ僧になっていたわけだ。
めったにないタイプ。その政治的な動きには、批判もあるだろう。しかし、個人的には恐しい人ではなかった。
頭山さんは長生きし、太平洋戦争の末期に死す。空襲を避け、箱根の私の亡父の別荘にいたのだが、広田弘毅さんが泊りにくることになった。近くの強羅ホテルにいる、ソ連のマリク駐日大使と、終戦仲介の話し合いのためである。
同居では誤解されると、頭山さんは牛車で山梨のほうへ移る途中でなくなられた。私がその伝記を持ち、読んだのは、そんなこともあってだ。
先日、ある人が雑誌に、お妻が親類らしいので、なにか知りたいとの文を書いた。いくらかの資料はあると手紙を出したら、見たいとのこと。コピーを送ったが、受け取ったとの葉書もよこさぬ。使わないのならと、略伝めいたものを書いたというわけ。
お妻は不幸な時期を持ち、一種の裏の人生でもある。しかし、美しく才気があり、芸も身につけ、ある時期の支配層の男性たちを、奔放にあしらったのだ。ひとつの生き方だ。私は、みごとなドラマだと思うのだが。
マンローをめぐって
ニール・ゴードン・マンローは一八六三年、英国のエジンバラに生れる。医師となり、インドへ。さらに日本の横浜ゼネラルホスピタル病院にまねかれ、一八九三年(明治二十六年)に来日、院長となる。
日清戦争に軍医として参加しようとしたが、外国人のため不許可。日露戦争の終った明治三十八年には、日本へ帰化している。どういうつもりだったのか。
一方、日本の考古学の分野に興味を持ち、北海道へ先住民族アイヌの研究に行き、論文を書き、英国に送る。そのうち、病気と生活苦にあえぐアイヌの人びとを救おうと、病院を作り、医薬品を提供した。
晩年、第二次大戦となり、本国からの送金もなく、スパイあつかいされていやな目に会い、昭和十七年に死去。七十九歳。
こういう人も、いたのだ。
私が『祖父・小金井良精の記』を本にしたのは昭和四十九年。残された日記を調べていると、マンローの名が各所に出てくる。どんな人かわからず、除外しようかと思っていた時、その一生を調べている主婦のことを新聞で読み、それに触れた短い一章を加えることができた。
その主婦を、Kさんと書くことにする。医師と結婚して軽井沢へ旅した時、マンローの未亡人のチヨ(日本人)と会い、その伝記を書こうと思いたった。
それから、長い努力がつづけられた。
明治の開国の時、日本へ来た外国の学者には、アイヌに関心を持つ人が多かった。人類学者で大森貝塚の発見者のモースもその一人で、明治十一年に北海道へ出かけている。
ドイツ留学から帰国した良精は、医学部で解剖学の教授となったが、外国人ばかりにまかせてはいられないと、明治二十一年に北海道へ長期の調査旅行をした。
東京へ戻るとすぐ、森鴎外がドイツよりの帰国。いわゆる「エリス」なる女性の来日と、ごたついた。これは余談である。
そのKさんは、やっとマンロー伝を本にまとめた。それを見ながら、この文を書いている。おそらく、日本を含め世界で唯一の彼の伝記だろう。
かなりくわしく、思い入れも感じられるが、そのマンローの内的世界となると、いまひとつ理解できない部分がある。しかし親日的な人であり、アイヌたちへの献身的な行為はたしかで、現在その記念館が存在している。美点をたたえるのは、いいことだ。
良精のマンローとの出会いは、明治三十九年。横浜近郊で発掘した人骨について、意見を求められたのがはじまり。翌年にかけて、何回も会っている。人骨にくわしい良精の教えを受け、人類学上の教えを受けている。論文にも名を使っている。
そのころ、マンローは英文の『先史時代の日本』という本を出し、良精も一冊もらっている。かなりの大冊で、大和朝時代の遺跡も書かれているらしい。それらを、どうやって調べたのか。
日本に帰化し、十年以上の生活だが、日本語は一生、ほとんどだめだった。英国時代から考古学が好きで、インドでも短期間だが、遺跡の見学をしている。
英文により、日本の先史時代を世界に知らせた功績は大きい。しかし、だれかの協力がなかったら不可能だったろう。そのあたりは、なぞのままだ。
良精は横浜のマンローの家で、北海道で入手したという、ニセの土偶を見せられた。日記にも、エッセイにも書いている。
マンローより前に良精は北海道へ行っており、案内人からニセの土偶や土器の話を聞いている。需要があるので、作る人があり、かなりの利益をあげる。マンローも、それにひっかかった。考古学研究のむずかしさだ。
で、良精の説だが、アイノの表記が本来の発音〈人の意味〉に近いと、ずっとそれを貫いた。アイノは原日本人で、大陸や南方から移ってきた人たちとの混血により、日本民族が成立したと考える。
昭和二年の御前講演でも、そうお話しし、天皇も興味を持ち、いくつか質問をなさっている。最新の学説については、私はよく知らないが。
マンローはその人生で、四回の結婚をしている。まず、ドイツ人女性と。別れて帰化し、つぎに日本人女性と。そして、スイス人女性。最後にKさんの会った、チヨという日本人と。
忙しいし、当時としては珍しいことだったろう。最初の妻との間に生れた長男が、幼くして死ぬといった事情などあったらしいが。
どうも、家庭的な人ではなかったらしい。それだけ研究熱心だったのだろう。そこに同情した女性が結婚するが、家庭的でないのに不満を持つことになる、くりかえしか。
スイス人の夫人は、在日の貿易商の娘だった。別れる時には、マンローの借金の清算を負担している。性格に冷たさがあったらしいと、Kさんもみとめている。
マンローは、堀辰雄の小説「美しい村」の登場人物、外国人医師のモデルとされている。昭和五年のころで、軽井沢の病院にまねかれ、収入を得ていた。
小説によると、その医師は、わけもなく村人たちに憎まれていた。自宅が火災にあった時も、だれも消火に手を貸さない。放火とのうわさもある。このへんも、なぞ。
そこで、北海道への永住を考え、家を立てて住むが、またも火災。火に対して、不注意なのだろうか。木造の家は、イギリスの石造りのとはちがうのだ。研究熱心のためともいえるのだが。
この件、失火となると、損害のあった人へ弁済のため、金を払わなければならない。それを惜しんで、放火と主張した。Kさんも、やむなくみとめている。だれかがチエをつけたらしいとの仮説を立てて。
そのあと、チヨ夫人と結婚。
北海道のアイヌに関連のあるイギリス人には、バチェラーという先輩がいる。明治十年に来日、札幌に病院をたて、アイヌの医療につくした。そのかたわら、アイヌ語を研究し、辞書を作り、キリスト教の布教につくした。大戦寸前まで在日。
マンローは世話にもなったが、のちに熊祭りを映画フィルムにおさめ、公開しようとした。バチェラーはそれに反対した。
「野蛮な行事と思われてしまう」
マンローも反論。
「アイヌの風習を知ろうとせず、キリスト教を押しつけるのは、もっとよくない」
双方に一理あり。むずかしい話だ。マンローは『アイヌ、その信条と文化』という本を書いているので、気持ちはわかるが、バチェラーの業績も大きいのだ。
大戦になってもマンローはそこに住み、昭和十七年、シンガポール占領のニュースに、友人に「オメデトウ」と言い、まもなく死去した。
戦争中であり、食事、行動に不便きわまりなかったのに。あるいは、二十五歳の時に父が死に、インドへ出かけるまでに、祖国イギリスがいやになるなにかがあったのか。ヨーロッパ人の妻も、ドイツ、スイス系の女性だった。
単純な人では、なかったようだ。Kさんも、伝記を書こうとしてから、三十二年を要したと「はじめに」のページに書いている。
Kさんを実名にしてもいいのだし、調べる気になったら、だれでも可能。しかし、私はためらってしまう。二行ほど書かれているが「五年前に最愛の娘を失い……」本になるのがおくれたとある。死因は事故でなく、自殺で。原因は不明。
第一回は未遂。そのことで手紙をいただき、無事な生活に戻れそうとあり、はげましの手紙を出した。しかし、ふたたびなされ、不幸な結果になってしまった。どうにも、なぐさめようがなかった。
伝記の本は、昭和五十八年に刊行。お祝いの手紙を出し、たぶんだめと思いながらも、あるノンフィクション賞の候補に推した。
文通はすれど、お会いしていない。私のいとこ、良精の孫娘だが、和歌を通じての知りあいとのこと。なにかの縁か。
出版を祝う会が開かれなかったのは、Kさんの体調のためらしい。その翌年の年末、ある新聞にKさんと同姓同名の人の投稿がのった。まあ平穏な一年だったと。住所はちがうが、お会いした時の話題にと、切り抜いてとっておいた。
その次の年末。Kさんから喪中欠礼のハガキ。長男の死去。悲しみあふれた和歌があったと思うが、保存はしてない。
お気の毒でならないが、なんと、その次の年末には、ご主人から妻の死により喪中欠礼とのハガキがとどいた。もう、形容しようのない気分である。
本の巻末によると、Kさんは私より三歳上。まだ、さほどの年でもないのに。このような人生もあったのか。
マンローのせいだとは言わない。この不可解な部分の多い人の伝記を書くため、苦労もあったろうが、それなりに充実した日常でもあったろう。そう思ってあげないことには。
マンローの研究ノートの所在がわかり、それに手をつけたいと「あとがき」にある。その文の末尾は、和歌で終っている。
病みつつも超《こ》えねばならぬ修羅《しゆら》いくつ
灯《ともしび》消せばあふれくるもの
これ以上、書き加えることはない。
遍路
巡礼というと、きわめて宗教的な行為との印象を受ける。では、発生はいつごろなのか。原始的な宗教に、そんなものはない。
祖先の霊、太陽、大気の精。それらを崇拝しているのなら、べつに旅をすることもない。ギリシャ時代。都市国家ができた時、守護神をあがめた人たちがいたが、それは自分の町の神殿で、ことたりた。
エジプト時代は、王が神の代理であり、ピラミッドにおさまった。ユダヤの民にとって、エルサレムは聖地というわけだが、長期間、訪れようとしなかった。
イスラム教では、はっきりと聖地メッカへの巡礼が、義務づけられている。理屈などない。唯一の神の指示を、マホメットが告げた。だから、しなければならない。一生に一度だし、行った者は尊敬される。それでいいだろう。
インドでも、仏教の初期には、とくに巡礼という行為はなかった。そのあと、ヒンズー教の時代となって、大きな川がありがたがられはじめる。やがてはヒマラヤの霊山を訪れる人も出るが、一部に限られている。
キリスト教はとなると、エルサレムがイスラムの支配下となり、十字軍の遠征となるが、それまで巡礼の習慣を持っていたわけではない。ただの巡礼なら、妨害はされなかったはずだ。
近世、キリスト教の代表的な巡礼地は、フランスのルルド。ここの泉が、病をなおすという。ルルドに限らず、カソリック系には、聖母マリアの出現によって聖地となったのが多い。メキシコでは、インディオの前に出現している。
トルコ国に、聖母マリアの晩年の家が残っている。アメリカやドイツの観光客の団体がいたが、あまり信仰的には見えなかった。
ローマのピエトロ寺院への参拝は、巡礼といえるかどうか。
インドで発生した仏教は、中国へひろまった。中国の信者のなかには、仏教に縁のある地を訪れてこそ、悟りを得られると考える者がいた。
玄奘《げんじよう》三蔵の苦しい旅がそうである。そのほか、調べると多くの人がいるが、知名度がないので略す。旅も修行のひとつと思っていたのだろう。
現在に残る中国各地の大きい仏像を見ると、信仰の時期がしのばれる。由緒のある寺も各地に建立された。
仏教が日本に伝わると、中国本土のこれらの霊地を巡礼しようとする僧が出た。インドは遠すぎるし。最澄、空海、そのほかかなりの人数である。各種の経典を求めてでもあるが、修行でもあったのだ。
話をすっとばすが、明治の開国の時を連想する。優秀な人材は、国費でヨーロッパへ留学した。アメリカへ出かけた人もいた。
いかに頭がよく、原書が読めても、現地を訪れないと、望みは完成しないのである。そして、帰国し、国につくした。国民性なのか、日本の風土の持つなにかのためか。
なんでこんな話をしたくなったかというと、四国へ旅行したのが、きっかけである。タクシーの運転手さんが、寺を案内してくれた。ありがたいのだろうが、普通の寺では、驚くこともない。
「巡礼は、死出の旅でもあったわけでして……」
の説明も、うつらうつらと聞いていた。しかし、やがてこの言葉が、じわじわと強烈なものとなっていった。
巡礼というと、笠を頭にし、白衣を身につけ杖を持った若い女たちが、れんげ咲く春の野を歩く姿を頭に浮かべる。私ばかりでなく、同様の人も多いのでは。
修学旅行かピクニック、ストレス解消のいい運動。のんきですな。近世になってからは、金持ち娘の嫁入り前のきまま旅、財産家の物見遊山をかねたのもあったらしい。しかし、京都の近くか、紀伊あたりで、四国ではなかっただろう。
四国にある霊場八十八カ所を巡礼する者は、遍路と呼ばれた。ほかの地とは、明白にちがうのである。
四国で生れた弘法大師(空海)信仰の強さである。百科事典にも、他の宗教宗派に例を見ないとある。とくに、霊場巡礼の経路、服装の統一の点で。
菅笠《すげがさ》には「同行二人」の文字を書く。現在も大師はおいでになり、自分とともにいて下さるとの思いである。これなくしては、お遍路にならない。
「南無大師|遍照《へんじよう》金剛」
と唱える。
まず第一は、阿波《あわ》(徳島県)の鳴門市の霊山寺《りようぜんじ》。運転手さんからもらった、巡拝案内図には、こんな歌が印刷されている。
霊山の釈迦のみ前にめぐりきて
よろづの罪も消え失せにけり
つぎの極楽寺には、こうある。
極楽の弥陀《みだ》の浄土へ行きたくば
南無阿弥陀仏 口ぐせにせよ
それぞれ、寺の名が読み込まれている。
四国全土をまわり、三百里あまり、日数は約四十日という。かなりの旅だ。現在は、自動車道路が完備している。マイカー、タクシー、バスでも回れる。しかし、それは遍路ではない。
指摘されて注意して見ると、遍路道がわかる。そこを歩くべきなのだ。昔のままに、自然が残っている。私は秋に行ったので、高い枯草が茂っていた。
夏には緑が濃く、林のなかの道もあるわけだろう。運転手さんは信心ぶかいらしく、その体験があるという。
決して、楽なものではないだろう。急病で倒れれば、それまでだ。救急車が通れるかどうか。また、電話だってない。ひとり旅なら、どうにもならない。
まして昔なら、手当てだって限られている。残っている力を使って、草かげ、林かげに身をひそめる。道で倒れては、ほかの遍路に迷惑をかけてしまう。
そこで、死を待つ。そう時間はかからないだろう。うろたえることはない。大師さまと、ともにあるのだ。
近代医学の普及する前は、病気は不信心のあらわれとの思考があった。近所の邪魔物あつかいで、巡礼に出される。「楢山節考」と同じようなものだ。もちろん、信仰のための遍路も多かったが。
有名なのは、池田|勇人《はやと》。大蔵省に優秀な成績で入ったが、やっかいな皮膚病にかかり、休職となる。広島県の人なので、母親が四国の遍路へと連れ出した。ともに倒れるか、信心で救われるかの決意だったろう。
やがて、病気がなおった。もちろん、昇進はおくれた。しかし、日本は敗戦によって、公職を追放される者も出たが、池田はそれをまぬがれた。
のちに首相となり、日本の経済的繁栄の進路をさだめた。遍路との関連はここでやめておくが、なにか信念の人であったのはたしかである。
歳時記では、遍路は春の季語で、たいてい高浜虚子のこの句がのっている。
道のべに阿波の遍路の墓あはれ
これは昭和十年、松山市郊外の作という。いくつかの墓石のなかに「阿波の遍路の墓」とだけ刻まれたものがあった。無名のその人に同情し、この句を作ったが、三年後にはなくなっていたとの解説もある。
しかし、これは文字どおり、阿波の遍路道のそばに、だれかが建てた小さな墓らしいものを見たと受け取るべきではなかろうか。四国には「何々家の墓」のような名を書いた墓は少い。虚子は四国の人である。
すっきりしない点もあるが、人の心に訴えるものがある。大地という自然のなかに、信仰とともに戻っていった人。
ホスピスとか、臓器移植とか、安楽死とか、高齢化社会とか、論じられている。その原点が、遍路かもしれない。
大師さまは、いつまでもともにあってくれる。あの世までも。四国の人たちも、その風土のためか、心のこもった声をかけてくれる。なにか救いがある。現実には悲惨なものであったとしても。
江戸時代、四国に幕府直轄の地はなかったのではないか。関所がうるさかったら、自由な旅はできなかったろう。といった、巡礼しやすい背景もあったのではと思う。
この一文、私の気分で書いてきた。調査不充分なところも、かなりあるだろう。しかし、日本の特色の一面を感じさせるものが、底にあるような気がする。
春の季節、絵のような句も多い。
谷水をゆたかに引けり遍路宿   素十
松の間を清浄として遍路来る   正一郎
お遍路の静かに去つて行く桜   年尾
しかし、内心に悩みを持った旅人たちだったろう。秋の遍路もあったはずだし、そのほうが迫るものがある。
どうかと思う終り方だが、むしろ放浪の人、種田山頭火の短句のほうに、そのムードを重ねたい。四国とも縁の深かったその作品を並べる。
かなしき事のつゞきて草がえそめし
へうへうとして水を味ふ
まつたく雲がない笠をぬぎ
うしろすがたのしぐれてゆくか
この道しかない春の雪ふる
水音のたえずして御仏とあり
風の中おのれを責めつつ歩く
おちついて死ねさうな草萌ゆる
あとがき
としをとるのは、防ぎようがない。小説の発表は、大はばにへった。レベルを落したくないせいもある。
しかし、頭は活動していて、好奇心というか、ことの裏側を考えることが多くなる。すっきりしない説明を読むと、整理しなおしてみたくなる。
これまで多くの本を読んだし、小説も書いてきたので、問題点をさがすこつのようなものが、身についてしまった。定説や権威を気にせず、好き勝手に仮説を立てられる。
親しい友人を相手に、新説をしゃべりまくるぐらい、楽しいことはない。頭はこのためにあるという気分。
創造性が必要といっても、いまの教育、いまのマスコミ報道では、それを育てられない。たとえばニュースキャスター。自分の意見を言いたいらしい。しかし「困ったことです」と、あたりさわりのないことしか言えない。聞かされるほうは、なにを平凡なと思う。
そこで、かりにユニークな主張をしたら、批判が集中し、やめさせられる。いっそのこと、大勢迎合の意見を、押しつけるように言うといい。聞いたほうは、腹を立て、反論を考えるだろう。まさに各人各様の。
独自性の育てかただ。こういった手段も必要かもしれない。大新聞など、考えた上かどうか、そんな方向に行きつつあるようだ。
新説を読むのが好きだ。ほかの人もそうだろうと思う。となると、広い意味での新説を作るのが、作家としてのつとめだろう。新しさだ。小説もエッセイも同じこと。
好奇心とは、疑ってかかることだろう。そのままみとめていたら、コンピューターになってしまう。疑うことは、美徳なのだ。地動説、進化論、飛行機、疑って生れたものは、限りない。
しかし、科学だけに限ったものではない。新知識とは、面白いものなのだ。先日、テレビで知ったことだが、週休二日となれば、カレンダーで土日を右端にしてもいいとの説があり、現実に作られもしたらしい。しかし、キリスト教国では、日曜をあとに並べるのは、いけないことだそうだ。
ホリデーは日本語だと休日だが、本来は神聖な日のことだ。英語のこんな簡単なことを、いままで知らずにいた。少しでも利口になるのは、いい気分だ。
疑問提出や好奇心は大事であり、げんに面白いこともたしかだ。しかし、受ける一方でなく、供給側が成長しないと、バランスがとれない。どうすればいいかが問題だが、私にもまだわからない。実例を示そうと、少しずつ書いているわけだ。
この作品は平成二年二月新潮社より刊行され、平成七年六月新潮文庫版が刊行された。