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きまぐれ星のメモ
星 新一
目 次
1 生活する
クマのオモチャ
夏の日の事件
カモイの高さ
名 前
眼鏡について
壁の品々
モルヒネ
ホテルぐらし
消夏法
ふとりすぎ
忙しい季節
2 仕事場
古い月、新しい月
本棚の前で
創作の経路
ペンネーム
錬金術師とSF作家
執筆以外は
過飽和
出不精な作風
常識のライン
3 旅をする
終戦直後の頃
世界ひとめぐり
ニューヨークでのこと
犬 山
新婚の旅
旅館への提案
勿 来
へんな傾向
夏の箱根
4 あれこれ考える
ペニシリン
時計とカレンダー
テレビを眺めて
碁について
知識と空想
発明の流行
御中について
映画「鳥」を見て
女性への三つの意見
レジャーの問題
都市について
怪談のたぐい
宇宙不感症
コマーシャル
根付け
百 年
電話の雑談
時間と空間
科学の僻地にて
ナポリの弾痕
映画「審判」を見て
ライター
落語の毒
タイム・マシン
野球について
未来への障害
嘘とフィクション
平和について
金星ロケット
物質的
男性の空想
官僚について
趣味亡国論
5 味わう
私と酒
世界無味旅行
クワイ
台所について
ピ ザ
6 ちょっと頭に浮かぶ
スリルと乗り心地
人物の名
蚊
ジンクス
進 歩
二つの原因
円盤型の乗り物
憂いの種
屈折の廊下
考える人
わかりやすい悪徳
道路で
夏の光景
たたり
くすぐったい
新幹線
ロボット
奉 仕
ある日
陰 謀
国 境
手ごたえ
オモチャ
胃の容量
保険の計算
7 思い出
耳の奥の音
箱 根
自動車
おやじ
超光速
中学の頃
澄んだ時代
焼夷弾
追憶の一齣
物見高き男
あとがき論
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1 生活する
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クマのオモチャ
ここにオモチャのクマがある。私のものである。からだは黄色をしていて、黒く丸い小さな目で鼻が上向きかげんについている。身長はほぼ二十五センチ。
押入れの奥から見つけ出した。日光浴すなわち虫干しをさせてやっている。これは、私が生まれた時、祖父の友人がドイツからおみやげに買ってきてくれた。私が物心ついた時には、すでに私とともにあった。
「ベア」という名である。成長するに及んで、英語またはドイツ語でクマを意味する語であると知ったが、べつに変更する気にもならなかった。
子供の頃《ころ》には、いつもこれで遊んだものである。ラッパとかコマとか各種のオモチャで遊んだこともあるはずなのだが、それらは記憶にまるで残っていない。このクマだけだ。
夜は寝床に持ち込み、時には旅行にも連れていった。溺愛《できあい》と呼ぶにふさわしい。母にたのんで服を作ってもらい、着せてやった。いまでもシャツとズボンをつけ、毛糸であんだセーターを着せてある。人形用の椅子《いす》を買ってすわらせたりもした。いっしょにとった写真もたくさん残っている。私の幼年時代、少年時代を通じての象徴のようなものである。
眺《なが》めているうちに、限りなく追憶が湧《わ》いてくる。とっくに世を去った祖父母のこと。終戦の年までずっと住んでいた本郷の家のこと。そのあたりは空襲で焼け、いまは昔日の面影は残っていない。その寸前に強制疎開になったので、私たちは戦災には会わなかった。
私の生まれたのが大正十五年だから、四十年近い昔の品ということになる。それに散々いじりまわしたのだから、手や足や鼻の先などの部分はすりむけ、似たような布で補修してある。服を着せてある下には、まだ明るい黄色の毛が残っているが、顔のあたりは薄黒くなってしまっている。
このオモチャのクマには二つの特徴がある。一つは腹を指で押すとクウと音を出すこと。もう一つは、尻尾《しつぽ》を動かすと首が動く点である。首のほうを動かすと、尻尾を振る。
驚くべきことには、現在でも音は出るし、首も動くのである。ドイツ製品がいかに優秀であるかを、これで知ることができる。ずいぶん乱暴に取扱ったこともあったのだが、かくの如く健在なのである。
内部はどうなっているのかわからないが首を動かすしかけは鉄製にちがいない。それが四十年たっても銹《さ》びつかないのは、驚異的なことではないだろうか。
音を出すのは触感から察するに、バネの応用らしいのだが、いまだに弾力を失っていない。表面はウール製らしいが、少しも虫に食われない。あとで補修した布は虫に食われてほころびているが、もとからの部分はなんともないのである。
こうなってくると、神秘的でさえある。私がこれだけかわいがったのだから、クマのほうも感応しているのだと言えないこともないが、やはり出来がよいからなのだろう。私はドイツ人の知りあいを持たず、外国旅行の時もドイツには寄らなかったが、この一事だけでドイツを全面的に信用している。
日本のオモチャ製造業者も、これを見習うべきだと思う。いまや日本製品は世界中に進出している形だが、根づよい不信感がまだどことなく存在している。
映画やテレビを見ているとメイド・イン・ジャパンを皮肉ったシーンが時どき出てくる。アメリカの「マッド」という風刺的漫画雑誌には、こんなのがのっていた。日本のカラテの紹介である。精神を統一して手で鉄製品をなぐりつけると、たちまちこわれる。しかし、その破片に「メイド・イン・ジャパン」と書いてあるのだ。
私たちにとっては、面白くないことだが、こんなギャグが通用しているのは、不信感が広くあることを示している。
この不信感はどこから発生しているのだろう。日本製のカメラやトランジスターの優秀性は、どこでも知られている。日本製の機関車が事故を起したり、日本技師の作った発電所や橋がこわれた話も聞かない。頭では優秀性をみとめているのだが、心の底には不信の念がある形である。
これは安物のオモチャのせいではないかと思う。遊んでいるオモチャがすぐこわれたり、それでけがをしたりしたとする。子供が悲しんでいると、親が「日本製だからだ」と口にしたとする。こんな会話は成人になれば忘れてしまうものだが、不信のムードだけは心の奥にひそんで残る。理屈で割りきれない気分といえよう。
私のドイツ製品に対する信頼感と逆である。たかがオモチャという考えがあるとしたら、これは最もいけない。この点をドイツ人が意識しているのかどうかは知らないが、いずれにせよ、いい意味での恐るべき民族である。
ついでに、最近のオモチャについての、ちょっとした不満を書く。子供のためにゼンマイで動く自動車を買おうとしたのだが、デパートの売場にないのである。みな電池式になってしまった。なぜこんなことになったのか理解に苦しむ。
ボタンを押すことで動いたり止まったりするのは、ゼンマイ式よりたしかに便利であろう。しかし、オモチャに便利さは必要ないはずだ。子供はゼンマイを巻くという作業と、走るという結果とを関連させ、そこから喜びを感じとるのではないだろうか。
そのうち、ボタンを押せばオリガミを折ってくれるオモチャ、自動的にアヤトリをやってくれるオモチャが出現しかねない。子供にとっていいことであろうか。
さて、オモチャのクマの話にもどる。英語ではテディ・ベアという。テディとはエドワードかテオドールの愛称である。どちらが語源なのかは知らないし、また、なぜこう呼ぶことになったのかも謎《なぞ》である。そのうち、だれかが教えてくれるだろう。
欧米ではテディ・ベア産業は大変な売上高を示しているようだ。その理由について、私は推察をしてみた。
第一、幼い女の子の遊び相手には各種のお人形があるが、男の子はそうはいかない。男の子がお人形遊びをしたり、寝床にお人形を持ち込んだら異様である。つまり、クマ以外にないことになる。
第二、欧米ではわが国とちがって、子供たちに早く独立の寝室を与えるため、仲間としてのクマが必要なのであろう。最近はわが国でも、子供をひとりで寝かせるようになりつつあるらしいが、その点だけまねてクマを与えないと、人格の形成になんらかの影響が残るかもしれない。
第三、国民性や習慣のちがいである。わが国ではデパートに行くと、ぬいぐるみでは犬のオモチャが圧倒的に多い。雑誌のグラビヤなどで若い女優さんの室の写真を見ると、犬のオモチャがたくさん並んでいる。
犬とクマでは同じようなものだと思う人が多いかもしれないが、大きな差がある。犬は手足が固定していて動かないが、テディ・ベアは手足が動く。つまり、眺めるオモチャと、いっしょに遊ぶためのオモチャとの差なのである。
手足が動くためには、四つ足の動物では困る。といって、猿《さる》では人間に似すぎていて、感覚的にどうもうまくない。そこでクマに落着いたわけであろう。
ニューヨークの世界博を見物して気がついたことだが、アメリカ関係の展示館はすべてが目まぐるしいほど休みなく動きつづけている点だった。それにくらべ、日本館は静止しているのが特徴である。アメリカ人は物を動かして楽しむのが好きで、日本人は物を静止させて真価を味わおうとする。どちらがいいとはもちろん断言できないが、考えてみると面白い。狩猟民族と農耕民族という、文化の発生のちがいがもとかもしれない。
アメリカの漫画に「わんぱくデニス」というのがある。幼い男の子を主人公にした漫画だが、このデニスの所有に属する品というのが、ゴムのパチンコとテディ・ベアである。眠る時も、罰として室のすみにすわらされる時も、いつもクマといっしょである。
私はアメリカ漫画を集めるのが趣味だが、大の男がクマのオモチャを抱えていれば、精神的に未発達であることを示す。たとえば、患者を診察し終わって一休みしている精神分析医が、クマを抱いているという構図のがある。医者の不養生の心理学版ともいうべきユーモアである。
あまりにも有名なのは、A・A・ミルンの書いた童話「クマのプーさん」であろう。不朽の名作となっている。幼い男の子とテディ・ベアを主人公にした物語である。ストーリーの卓抜なことはいうまでもないが、このシチュエーションの設定はじつにすぐれている。
普通の作者だったら、本物のクマを主人公にしてしまうところであろう。だが、それでは夢もなければ、面白くもない。男の子にとって、オモチャのクマは本物のクマとは全くの別もので、人生における最初の友人なのである。指摘されればそうだと気づくが、ここを発見したミルンは、やはり相当な人物だ。
彼は自分の男の子に話して聞かせるためにこの童話を作ったそうだが、クマを抱えながら目を輝かして聞き入る子供の姿が、目に見えるようだ。私も奮起して、このような童話を書くべきだ。
外国製のテディ・ベアは、私のもそうだが黄色いのが多い。黄色いクマなど聞いたことがないし、おそらく存在しないのだろうが、それでいいのである。むしろ、そのほうがいいとさえいえる。「クマのプーさん」にヒントを得たのかどうかはわからないが、SFにはもっと大がかりなのがある。アンダーソンとディックという二人の合作の「トーカ星」シリーズという物語である。
この星の住民というのがふるっている。子供の無垢《むく》な想像力と成人の体力を兼ねそなえた人種だが、容姿はテディ・ベアそっくりというのである。
すなわち、身長は一フィートたらず、ずんぐりしたからだは全身が金色の柔毛でおおわれていて、目は小さく黒いのである。ここに不時着した地球人の青年と各種のさわぎを巻き起すという話である。
野球大会をやったり、西部劇ごっこ、外人部隊ごっこなどをやっている。楽しいのを通り越して、たわいないという印象を受ける。テディ・ベアの国の王様になったようなものだ。しかし、けっこう評判になり売れたらしい点から想像するに、アメリカにも少年の日へのノスタルジアを存分に味わいたい大人が多いわけであろう。
これとは逆に、スタージョンという作家は、薄気味わるい話を書いている。テディ・ベアに変身した怪物が子供をいじめるという筋である。かわいい極端と不気味の極端との組合せという発想の上に、暗い独特の文章のため、異色な作品となっている。
これらのほかにも、探せばいろいろあるかもしれない。私もひまがあれば、テディ・ベアについての文献を調べたり、統計をとったり、各国における特徴なりを研究してみたいと思っている。それを整理分類し、歴史的、心理的、社会的、その他あらゆる方面からまとめたテディ・ベア論を書いてみたいような気がするのである。
大変にユニークな論文になると思うのだが、はたして読んでくれる人があるかどうかとなると、保証の限りではない。この程度でやめておくほうがいいかもしれない。
かくの如く、私はオモチャのクマに異常な興味を持っているのである。したがって、デパートに行くと、オモチャ売場に寄って舶来国産を問わず、ついクマを眺めてしまう。買い集めてコレクションをはじめてもいいのだが、たちまち室が一杯になってしまうだろう。それに、来客がどう思うかわからない。
といって、買ったからには処分もできない。クマのオモチャを捨てることは、私に言わせれば殺人に匹敵する罪悪である。こんなわけで、私は買いたい心をぐっと押え、オモチャ売場のクマの頭をなでて帰宅する習慣になっている。
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夏の日の事件
少し前の出来事である。夏の日のことだった。暑いと食欲が出ず、といって空腹のままでいるのも面白くない。ヒヤムギを食べることにした。
家内に電話させて、ソバ屋から取り寄せることにした。まもなく、配達されてきた。当り前のことである。ソバ屋とは注文された品を配達するのが営業の一つである。
私たちはそれを食べた。やがて集金にやってきた。ヒヤムギ二つ分の代金百八十円だかと、容器とを渡した。これまた当り前のことである。代金も払わず、容器も返さなくていいとなると、世の中は混乱してしまう。
ここまではなんということもなかったわけだが、それにつづいて想像もしなかったことが起った。ソバ屋が集金にやってきたのである。
「容器と代金をちょうだいにあがりました」
と言う。家内が応対して
「さっきお渡ししたはずだけど」
「いえ、まだいただいていません」
「そんなはずないわ」
「本人の私が言うのですから、まちがいありません」
こんな問答を聞いていると、妙な気分になってきた。夏の午後の暑さのため、だれかの頭がおかしくなったのかもしれない。
ソバ屋が夢遊状態か健忘症にでもなったのであろうか。私たちのほうが、幻覚に襲われているのであろうか。
いささか興味|津々《しんしん》たることになってきたぞと、期待が高まったのだが、やがて、謎《なぞ》がとけてきた。まず、玄関のかげから、さっき渡した容器が発見されたのである。さっきの男が金だけを持って消えたのだ。つまり、集金詐欺だったということが判明した。ソバ屋の話だと、時たまあることだそうである。
しかし、それにしてもじつに不思議な犯罪である。これをおこなうには、物かげにひそんでいて、どの家になにが配達されるかを見ていなければならない。これは根気のいることである。どこの家で注文するかを、あらかじめ知ることはできないのだ。あるいは、ソバ屋のそばで待っていて、配達のあとをつけるのだろうか。しかし、これだと気づかれるおそれもあり、自転車のあとを追うのは大変なことだ。
そして、配達されたのを見きわめたら、適当な時間を時計を見ながら待たなければならない。おそからず早からずの時間をみはからって、出現する必要がある。食べ終わらないうちでもいけないし、といって、本物の集金の来る前でなくてはならない。暑さのなかで、これまた相当な忍耐である。
また、白いうわっぱりを着ていなければいけない。わが家も、そんなのを着ているから信用してしまったのだ。アロハシャツだったらいちおう怪しむにきまっている。そのうえ、人前に顔をさらすのである。人相を覚えられる可能性は大きく、同じ家を相手に二度とはやりにくい手口である。
こんなことまでして、二百円たらずの金を詐取しようという心理は理解に苦しむ。一日を費やして何回か成功したとしても、金額はしれている。つかまったらどうするのだろう。あきらかに計画的な犯罪であり「つい出来心で」という言いわけは通用しないはずである。
警察の要注意人物のリストにのせられるだろうし、罪も重いかもしれない。どうみても苦心の割に引きあわない犯罪である。私が考え込んでいると、ソバ屋は
「店をくびにされ、ソバ屋にうらみを持つ者のしわざかもしれません」
と解説した。時たまあるそうである。そんなところであろうか。採算を度外視した執念といったものがなければ、やれないようなことだ。
大犯罪については私も、ノンフィクション、フィクションで各種おなじみだが、これなどは最小の犯罪と呼ぶべきであろう。珍しい体験をさせてもらったことになる。しかし、こんな体験はあまり身につかないであろう。同じ手でやられたら私はまたひっかかるにちがいない。
結局、同情してくれたのか、ソバ屋は代金を取らないで帰った。私のほうも、今後その店をひいきにすることにした。この場合、本来なら落度は当方にあり、ソバ屋には責任がないわけで、支払う義務があるのだろうが。
ひとさわぎが終わって、私はミステリーの短編を書いた。弁舌さわやかな勧誘員があらわれ、加入をさせるが、そんな保険会社は実在しなかったという案に、ちょっとひねったストーリーをくっつけて出来上った。
いつもならアイデアを得るのにかなり苦しむのだが、この集金詐欺のおかげで、わりと簡単に書けたのである。どう考えても、私は被害者という気がしないのである。
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カモイの高さ
一年ほど前に家の一部を改築した。私は空想的なものには興味があるが、衣食住といった現実的なことには、それほど関心がない。すべては家内と業者に一任した。だから完成するまで、どうなるものかわからなかった。
そして二階の二室が私のものとなったのである。南に四畳半の和室、北側に約八畳の洋室。洋室のほうに机を置き、そこで原稿を書く。もっぱら仕事は夜なので、採光などはどうでもいい。和室のほうには小型テレビを置き、横になって頭を休めたり、英気を養ったりするのに使っている。この中間にあるカモイを高くすることだけが、私の出した唯一の注文であった。おかげで仕事に行詰ってぼんやりと歩いたり、ふいにアイデアを思いついて机に飛びついたりする時、一七九センチという長身の私の頭がぶつからないですむのである。
しばらくアパート生活をしたことがあったが最も困ったのはこの点であった。若い人びとの身長が急激に伸びているのに、新しい住居でもカモイが低いという現象は理解に苦しむ。カモイの低さが日本人の肉体や精神に、なんらかの悪影響を及ぼしつづけているように思えてならない。
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名 前
いままでに短編をずいぶん書いてきた。私の場合は、半分ぐらいまで書き進んできた頃《ころ》に、適当な題名が浮かんでくることになっている。しかし、浮かんでこないままに小説ができてしまった時は一騒動である。苦心|惨憺《さんたん》、妙に凝ったあげくに、わけのわからない題をつけてしまうことになる。
このあいだ子供が生まれ、その命名でこれと似た経験をした。女の子と早くからわかっていれば、そうあわてはしなかったろうが、誕生以前には性別の予想がつけられないものらしい。科学の進歩も意外に跛行的《はこうてき》である。まず「名前のつけ方」という本を買ってきて、邦子とか桃子といった、可もなく不可もない名をいくつか用意した。しかし、そこに一人の悪友があらわれ、それはよくない、あれもよくないと、片っぱしからけちをつけはじめた。なにごとによらず、批評するほうは面白くても、されるほうは面白くない。そこで私は心機一転し、あらゆる意味で必然性のある名前をつけようと決心して、いちおう友人を追い払った。
といっても、どこから手をつけたものか見当がつかない。仕方がないので、生まれ月をもとに考えはじめることにした。七月は英語でジュライだが、これは使えない。ドイツ語だとユーリ、季節の花である百合にも通じ、こちらは使えそうである。ユーリ、ユーリ。どこかで聞いたような気のする名前である。
ユーリ・ガガーリン。この名を忘れてはばちが当る。彼が飛んでくれたおかげで、私も宇宙小説をだいぶ書かせて頂いたわけである。この恩人の名を使わせてもらうのはいいのだが、星ユリとなると、三流女優的な安っぽい響きがしないでもない。ユリコとしたい誘惑にかられたが、それをやると、東宝の一流スターから盗作呼ばわりされないとも限らない。私も作家として困った立場になる。
そこで、語尾をスペイン語の女性名詞的に変化させ、ユリカとしてみた。家内の名、香代子から一字を使ったことにもなって、ちょうどいい。ユーリカとひきのばして発音すると、アルキメデスだかピタゴラスだかが、原理をみつけた瞬間に叫んだギリシャ語となる。「われ発見せり」という意味で、曰《いわ》くありげな感じでもある。また、NHKテレビで二年ほど私が原作をつづけた「宇宙船シリカ」の記念にもなる。
つぎに漢字をきめる番である。佐藤春夫先生の詩にちなんだ夕梨花《ゆりか》としたいのだが、梨の字が命名に使えない。もっとも、こんな楚々《そそ》とした中国美人のような字や、百合香という小唄《こうた》でもやりそうな字を使うと、美人に育たなかった場合に、羊頭狗肉《ようとうくにく》の現象をひきおこすおそれがある。いっそ片仮名のままにしておくか。片仮名だとアラン・ポーを連想させる雰囲気《ふんいき》がないでもないし、あとから本人にあわせて、適当な漢字をあてはめる余地もあるわけである。かくして届出の締切りに間にあった。
「……というわけだ。サ行が含まれていないから、歯を使わずに発音できる」
ふたたびやってきた友人に私は説明し、相手は恐れいったらしい。それとも、ついた名前はけなさない主義なのかもしれない。
「いいでしょう。で、将来どんなふうに成長して欲しいと思っているんだ?」
この質問には、私はすぐに答えられる。
「まあ、大きくなって幸田文さん、森茉莉さん、室生朝子さんのような女性になってくれれば本望です」
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眼鏡について
小学生の頃《ころ》は私の視力もきわめて健全であった。視力表を上から下まで、全部読みとることができた。もっとも、その年齢の頃はだれでも記憶力のいい時期で、その程度を暗記するぐらい簡単なことだ。
視力表のカタカナの配列には数種があるらしいが、まことにふしぎな文句である。呪文《じゆもん》のような響きがある。これだけ意味のない語で、これだけ親しまれている語も少ないのではないだろうか。
私もまた暗記できたが、事実よく見えもしたのである。近視とは無縁、というより近視をうらやましがったものだ。授業中に退屈した時、近視の友人はメガネをはずして、いじったりのぞいたりして遊んでいる。こっちは遊び道具が少ないわけで、つまらない気分だった。
近視の友人のメガネを、たのみこんで貸してもらい、それをのぞいてみる。すべての景色が小さく見え、別な世界にいるような感じだ。神秘的でもあり、そんな世界にいつも接している者に嫉妬《しつと》さえ覚えた。小学生の頃はなにしろ考え方が独特だ。
未開人がはじめてレンズを見た時も、やはりこんな感じを持つのではないだろうか。物の姿を大きくしたり小さくしたりするのだから、驚異にちがいない。
こんな小話があった。はじめてテレビを見た未開奥地の住民が、感心したように叫ぶ。
「首をちょん切って小さくするのは、われわれにもできる。しかし、これはもっとすごい。生きたまま小さくして、こんな箱に押しこんでしまうのだから」
江戸川乱歩の「鏡地獄」や「湖畔亭事件」には、レンズや鏡やプリズムに偏執的に熱中する男が登場する。いずれも名作となっているが、これらの品に対する神秘感が、私たちの心の奥底にあるからかもしれない。
西欧の怪奇物語には、魔力を持つメガネの話が多い。一例の荒筋を記すと、ふとしたことで手に入れたメガネ。それをかけると、他人の運命がわかるのである。しかし、なにげなく鏡をのぞくと、自分の悲劇がわかってしまう。原型はこんなところで、この変形がじつにたくさんある。一分野ともいえるほどで、怪奇作家はたいてい一作ぐらい書いているようだ。
ものの本によると、レンズは古代中国の発明品のようだ。当時は水晶で作られ、持主の地位の象徴でもあったという。
さて、中学二年の頃だが、体格検査の時、右眼が少し近視になっていることがわかった。視力表が下に移るにつれ、ぼやけているのである。いかに目をこらしても、はっきりしない。最初は眼病にでもなったのかと心配したが、これが近視だと教えられた。
さっそく勇躍してメガネを買った。しばらくは珍しく面白かったが、近視といってもたいしたことはないのだし、左は完全に正常なので、かける必要はなかった。ポケットに入れているほうが多かった。メガネをかけると、度がかえって進むとかいう説もあったようだ。しかし、メガネはかけるものであって、ポケットに入れておくものではない。運動のはげしい年代のため、ツルをまげたり、レンズを割ったりしたものだ。
右だけが近視になった原因は、はっきりしている。私は寝床に入ってから本を読むくせがあった。毎晩のように右を下にして横になり、雑誌や本を読んだのである。冒険物、時代物など、夢中になって読みふけった。
勉強のやりすぎではない。勉強しすぎなら、どちらかというと左眼が近視になるはずだ。それに、当時は今とちがってのんびりしており、あくせくしなくても上級校にはなんとか入れた時代だった。
私の父も右眼が悪かったが、これとは関係ないであろう。父の幼時に、友人と遊んでいて吹矢が当ったためである。昔は危険な遊びが多かったようだ。今は危険な遊びはへっているが、交通事故というさらにぶっそうなものがひろまっている。どっちがいいかはなんともいえない。
右の目が近視になりかかったことを知った私は、ひそかな計画をたてた。ひとつ、この度をもっと進めてみようというのである。毎晩の床に入ってからの読書の時、右眼をページに意識して近づけた。その効果はあらわれ、近視がどんどん進んできた。成長期においてこんなことをすると、結果はいちじるしい。面白いように度が進んだ。
気ちがいざたのように思われるだろうが、その頃の私には、私なりの遠大な計画があったのである。徴兵検査で不合格になってやろうとたくらんだわけである。銃を射撃する時、狙《ねら》いをつけるのは右眼だ。それが近視だと不合格になるという話を聞いていたからだ。
検査の時になって、急に「視力表が読めません」では、いくらなんでも怪しまれ、へたをすれば徴兵忌避で罰せられる。しかし、中学時代から実績を作っておけば、正々堂々たるものである。
といって、私に愛国心がなかったわけでも、命が惜しかったわけでも、兵隊がきらいだったわけでもない。子供はあまり命を深刻に考えないものである。また、戦前の男の子で心からの兵隊ぎらいはほとんど存在しなかったはずだ。
ただ、私は団体生活、規律ある行動というものが性格的に好きになれなかったのである。これは生まれつきのもののようだ。自分でも努めてなおそうとしたことがあったが、いまだに、他人に命令することも、他人から命令されることもきらいである。素朴なる無政府主義者といったところだ。
いま作家でなんとか暮らせているのは、じつにありがたいと思う。会社づとめをしたら、たちどころにくびになるか、たちまちノイローゼになるかのどちらかであろう。下役にもなれず、上役にもなれない性質なのである。
この遠大なる近視計画は、もちろんだれにも話さなかった。そんなことを口外したら、ひどい目にあう時勢でもあった。また、決して口外できない自分ひとりの秘密を持っていることは、楽しいものである。
私はこの計画をさらに巧妙にするため、射撃部に入った。なぜそんなことをしたかというと、この部に入っていると教練の点がよくなるからだ。反戦的な気分の持主と思われないですむのである。私は左の目で狙い、実弾射撃でけっこういい成績をあげた。
銃を肩にし、実弾射撃場へ行くのは、なかなかいい姿であった。その頃の人は尊敬の目つきで眺めてくれた。未来の戦士なのである。私たちもいい気分だった。
このおかげで、私は今でも射的は得意である。動く的は苦手だが、静止した的なら小さくても百発百中であり、温泉地などで人形やキャラメルを取ることができる。また、銃をかまえた姿勢もぴたりと型にはまっている。若い頃にやったことはなんでも身につく。
一方、右眼の近視はどんどん進み、視力表の上の字が二つぐらいしか読めないようになった。左は依然として正常。度をあわせる時、眼科医は
「ふしぎですな。なぜ右だけこうなるのでしょう」
と言った。たしかに、普通では考えられないことであろう。私は黙っていた。医者はあとで文献をひっくりかえして頭を抱えたかもしれない。
かくして昭和十九年、旧制高校の二年の時だが、私は徴兵検査を受けた。しかし、なんたることであろう。予期に反して第一乙種合格となった。甲種のつぎではあるが、適格という判定なのである。平時ならべつだろうが、戦局がひどくなり、足腰の立つ者ならば、ほとんど合格という時期だったのである。
長い年月をかけた、私の苦心したひそかな計画も、なんら効果をあげなかったわけだ。子供の考えた計画というものは、いかに巧妙なつもりでも、うまくいかないもののようだ。大きくなったらなにになる、などと子供が志を立てても、大部分は不成功に終わるのが一般であろう。
検査に合格はしたものの、私は理科系の学生であったため、徴兵猶予の特典があった。それですぐ入隊せずにすみ、そのうち、翌二十年の八月に終戦となってしまった。なにもかも無意味。右の目が近視になっただけ損だったことになる。
それだけではなく、終戦後しばらくして、悪事のむくいがあらわれてきた。左の目も近視になりかけてきたのだ。左眼によけいな負担がかかったためかもしれないし、映画を見すぎたためかもしれない。当時は娯楽といえば映画ぐらい。年に百本ほど見た。よく見たものだ。この頃は映画館にはほとんどごぶさたで、昨年は五本ほど見たろうか。
かくして、両眼とも近視になってしまった。現在、外出の時だけメガネをかける。交通事故にあってはつまらないからである。自宅ではかけない。原稿を書く時、メガネがあるとうるさくてしようがない。原稿用紙の範囲は不自由なく見えるし、ほかの光景はぼやけ、よけいな気が散らなくて能率的だ。
アンブローズ・ビアスという、十九世紀末アメリカの特異な作家は、望遠鏡についてこんなことを言っている。「遠くへだたった事物をはっきりさせ、とるにたらぬ事柄で我々を悩ますことを可能にする装置。耳に対する電話と同様である。しかし、電話とちがって、むりやり呼び出すベルがついていないだけ幸いである」
これに似た状態である。室の汚れだとか、本棚《ほんだな》の乱れなどそう気にならず、原稿に精神が集中できるのである。少しはなれたところにいる人物が不美人だろうが、しかめつらの男だろうが、顔がぼやけていれば、私にとってはどうでもいいのである。
全国民を強制的に近視にし、メガネを与えないようにしたらいいかもしれない。他人の行動や顔色を気にするという島国根性だけは改善されると思われる。
私は近視になったことを、そう後悔していない。ある種の仕事には、近視もいい効果をあげるようである。マリー・ローランサンという女流画家は強い近視だったそうだ。そんな感じの画風である。視力が健全だったらまったく別なタイプになったにちがいない。
ブラッドベリというアメリカのSF作家がいる。私の好きな作家の一人で、幻想的で抒情《じよじよう》的な作風だが、これまた強度の近視である。読んでいるうちに、霧に包まれたような気分にさせられる。
遠くがぼやけて見えるということは、想像力を刺激する。そこになにがあるだろうと、あれこれ考えるためである。遠視だったら、なにもかもはっきり見え、空想の湧《わ》く余地が少なくなるのではなかろうか。
「虹《にじ》をつかむ男」の作者ジェームス・サーバーは特にひどい近視である。夢のような寓話《ぐうわ》や、個性の強いユニークな風刺の物語を得意とする。自分と自分のそばの周囲だけが確実な実在で、その他のものは幻影のようなものだとの感覚が、その作風の形成にひと役買っていると思う。
近視の者が実務家や政治家になるとまちがいをしないとは限らないが、想像力を発揮するには適しているように感じるのである。
結婚してわかったことだが、私の家内は近視であった。コンタクトレンズを使用していたのだが、近視の私には見わけられなかったのだ。いささか複雑な話である。
家内は家にいる時は普通のメガネをかけ、外出の時は美容上かコンタクトレンズになる。私はその逆で、家ではメガネをかけず、外出の時にかける。うちの子供はふしぎに思っているにちがいない。まだ幼稚園前で、レンズの作用を説明するわけにいかず、メガネの用途について判定しかねているようである。
子供が成長したら、近視になるであろうか。私のは前述の如く人工的なものであり、遺伝はしないだろうと思う。無理に勉強はさせない予定でいるが、昔とちがっていまは勉強しないとテレビに熱中するであろう。どっちが目のためにいいかとなると、なんともいえなくなってくる。変な時代になったものだ。
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壁の品々
私の書斎で最も目立つものは、壁の一ヵ所にかけてある江戸時代の両替屋の看板である。幅は四十センチほど、長さは一メートルちょっとで、硬い木の板だ。黒檀《こくたん》のようなものでフチどりがしてある。
〈両替・渡世・相模屋〉
の文字が達筆に記されてある。両替屋とは、くわしくは百科事典をひけば出ているが、早くいえば昔の銀行である。
江戸時代、この看板をかかげた店を舞台に、金銭にまつわるドラマ、喜劇は少なく悲劇が大部分だろうが、それがくりひろげられたことだろう。それらを演じた人びとはみな死に、いまここに看板だけ残る。むなしさと金銭欲のまざった妙な感じを私に与える。
まったく、金銭という存在は人間にとって悩みのたねである。私はかつて、貨幣を最初に発明した原始人の物語を書いたが、考えてみると、これほどとんでもない奴《やつ》はないわけである。
こんな作品を書いたのも、看板の発する妖気《ようき》にあてられたおかげかもしれない。
また、べつの壁には、やはり江戸時代の傘《かさ》屋の看板がある。つぼめたカラカサの形をした木製の板で、表には〈かさ・傘〉と書いてあり、裏には〈丁ちん〉と書いてある。チョウチン屋も兼業していたわけである。
私はこれを古道具屋で買い、にこにこ顔で帰宅した。だが、家内は見て
「なんだか薄気味が悪い」
と言う。そういえば、暗い所で眺めると、オバケみたいな形でもある。カラカサのオバケというのがあるが、この二つのあいだに形の上の相似があり、それが発生の理由かもしれない。
私の友人の博識きわまる男の話によると、カラカサのオバケは日本独特の存在だそうだ。外国の怪談には出てこないようだ。
そうかもしれないなと思っていたが、先日、外国の子供漫画を見ていたら、コウモリガサのオバケが登場していた。この作者、日本の絵本からヒントを得たらしい。
しかし、このコウモリガサのオバケは、開いた形でゆらゆらと空を飛ぶ。日本とはちょっとムードがちがう。ユーモラスな感じもするが、実際に夜道を歩いている時、こんなのが飛んできたら、ショックで気を失うか、腰が抜けるかすることだろう。
両面に字の書いてある看板は、壁にかけると一方しか眺められないわけで、もったいない。この傘屋の看板を二つに切り、表と裏とに分離したらいいと考えついた。ひとつをだれかに売れば、もとでが回収できる。
そこで、出入りの大工が来たついでにたのんでみたが「やり損じたら、もともこもなくなります」と、やってくれない。仕方ないので、時どきひっくり返し眺めている。
ひっくり返すといえば、丸い板で表に〈大〉、裏に〈小〉と書かれた品も、私の書斎の壁を飾っている。
この用途は説明を聞かないとわからない。つまり、大の月には〈大〉のほうを出し、〈小〉の月には小を出しておくのである。質屋や商店などが、日割りの利息計算をまちがえないために用いたものだそうである。財をなすには、かくの如く細かい点まで気をくばらねばならぬものらしい。
私もそれにならい、月が変わるたびにひっくり返している。大の月には三十分の一だけ仕事がのんびりできるという計算になるのだが、あまり実感がともなわない。
将棋屋の看板らしきものもある。王将と桂馬《けいま》の駒《こま》を組合せてある。ただし、これはひっくり返せない。看板となると王将を使わなければならず、裏に〈金〉とも〈と〉とも書けないからであろうか。
私の室への訪問者は、なんでこんな古くさい物を飾っているのだと、妙な顔をする。星雲か土星の写真などのほうがふさわしい、と思っているようだ。
しかし、私はあまり天体写真には興味がない。SFを書くのに必要なのは、空間をではなくむしろ時間を越える空想力なのである。
アメリカの幻想的SF作家にジャック・フィニーという人がいる。たぶんその作品だったと思うが、こんなのがあった。
主人公の男が、古い上品な机を買ってくる。掃除をしながら引出しを開けてみると、未使用の古い切手と、便箋《びんせん》や封筒などのレター・セットが出てくる。
面白半分に、そこに記されてあった女性の名と住所とを宛名《あてな》に書き、手紙をしたため、古切手をはってポストに入れる。
すると、その返事が来るのである。しとやかで古風な文章。時をへだてた恋文のやりとりが開始される。しかし、やがて終わりが来る。悲しいことに、古切手もレター・セットもつきてしまうのである。
しかし、高まった男は自分の心を押えきれない。意を決して、その住所を訪れてみる。相手の女の名も出ていた。だが、墓石に刻まれて……。
私もこんな夢のような経験をしてみたいと思い、高山に行った時、古い文書箱を買ってきた。二年ほど前の夏のことだった。
友人と大阪からの帰りなのだが、列車が京都を過ぎてしばらくした頃、どちらからともなく
「飛騨の高山へ寄ってみよう」
「それは面白い。行こう」
と話し合い、途中下車して寄り道をしたのである。いささか気まぐれであった。しかし、新幹線がスピード第一で走る時代となっては、もうこんなこともできなくなる。
その時に古道具屋で箱を買った。帰京してくわしく調べてみると、底のほうから古ぼけた紙が出てきた。なにやら墨で文が書いてある。
胸をときめかせて解読したのだが、借金の証文であると判明した。不粋なことである。小説の如きロマンチックな現象は、そうそう起りえないものとみえる。
こういった古い箱にも私は大いに関心があり、いくつか持っているが、困ったことに場所をとる。したがって、蒐集《しゆうしゆう》はもっぱら壁に飾れる物を対象としている。これならかさばらず、目を動かせばすぐに眺められる。
また、日本のものに限定しているわけではない。西部劇にでてくる、古風な酒場の看板もいくつかかけてある。ただし、これらはイミテーション。本物は高価で、とても旅行者などには買えない。
首のない女の絵に〈SILENT WOMAN ENTERTAINMENT〉と書いてあるのはなかでも傑作である。おしゃべりでない女性の接待というのが、キャッチ・フレーズになっているわけだ。こわいもの知らずの西部男たちも、女のおしゃべりには歯《は》がたたなかったのであろうか。わが家を訪れる女性編集者は、これを見てたいてい顔をしかめるようである。
ニューヨークに行った時、私は滞米中の妹に案内してもらい、古道具市《アンティック・ショー》に出かけた。アメリカではこの種の趣味がじつに盛んである。日本の美術館ほどある広い会場いっぱいに、百人あまりの商人が品物を並べている。
私はここで、アンタッチャブル時代の郵便局の私書|函《ばこ》を買った。ランドセルぐらいの大きさの木製のもので、ダイヤル錠がついている。壁にとりつけると、おもむきがある。ギャング映画のシーンなどが頭に浮かんでくる。密造酒販売の連絡文が、これを利用して受け渡しされていたのかもしれない。それとも、オー・ヘンリーの短編に描かれているような、ほのぼのとした恋物語でもまつわっていただろうか……。
この古道具市でいまだに残念でならないのは、大きなネジ回し屋の看板を買えなかったことだ。形も面白く、十ドルという手頃な値段だった。しかし、大きすぎて日本に持ち帰る方法がない。あきらめざるをえなかった。
この私の妹は、インディアンの民芸品に熱中していて、妙な人形などを集めている。そのなかに壁をかざる品があったら巻きあげようと思ったが、なんにもなかった。そういえば、映画などで見ると、壁のある住宅で暮らしているインディアンはあまりない。いたし方のないことである。
外国ではどこの国でも古い品を大事にしているが、わが国ではそうでない。先日、むかし和菓子を作るのに使った木型を、ただのような値で買ってきた。ヒモをつけ壁にかけたわけだが、四季の草花を彫刻したくぼみは、なつかしいムードを出してくれる。
オートメーションによる清潔な菓子を食べるのはそれでいいが、感情まで単一になることはない。文化とはバラエティーに富むことである。デパートにはじつに多様な商品が並んでいて、たしかに文化の向上を示しているが、その多様さを時間的にも拡大してこそ、真の文化であると思う。
アメリカ文化という言葉から、多くの人は新しさと機能だけを目ざしたものを連想し、軽く考えるようである。しかし、事実は逆で、日本のほうがよっぽど古い物を粗末にしている。この浅薄化の傾向は憂うべきことのように思えてならない。
古物で壁を飾るこの私の趣味も、友人たちにしだいに知られてきた。このあいだは
「近くの古道具屋に太政官の制札が出ているぞ」
と電話してきた友人があった。それは悪くないかもしれないと、出かけていった。たしかに制札は制札なのだが、どうも木や墨の色が新しい。考えたすえ、やめてしまった。ひょっとしたら、映画撮影用のものではないかと思えたからだ。
その店では、アオイの紋を記した板を買った。なんに使った品かわからないが、壁にかけて眺めていると、殿様気分にならないこともない。
かくして、しだいに壁面が埋まりつつある。最近の掘出し物は、版木である。徳川時代以前のものらしい。仏像が彫刻されている。寺院でオフダを刷るのに用いたものらしい。店の主人は
「これで刷ったものを香奠《こうでん》がわりに持って行けば、葬式の時に礼を失しなくてすみます。おとくでしょう」
と、妙な解説をつけた。昔はそんな風習もあったのであろう。現代ではそうもゆくまいが。
木には虫食いのあとがあり、墨がしみこんでいて黒ずんでいる。これまた妖気じみたものを発散している。
私の蒐集も、ここらあたりを限度にしておいたほうがいいのかもしれない。これ以上のげてもの[#「げてもの」に傍点]に手を伸ばすと、他人から頭がおかしいのではないかと思われないとも限らない。それでなくても、SF作家はいくらか異常と思われている。本当はその逆なのに。
私は小説の発想を得るため、いつも部屋のなかを歩きまわる。ここが最も苦痛の時である。発想が楽に湧《わ》いてくるものなら、こんないい商売はないが、事実は四苦八苦である。歩きまわりながら、壁を飾るこれらの物を眺め、昔を想像するのである。それから、その想像を未来のほうに逆転させる。未来人は私たちのことを、どう想像するだろうかと。
たとえば、ステンレス製のペーパーナイフが土中に埋まり、未来人の手に残ったとする。紙や印刷文化の消滅した未来人たちは、なんに使われた品と思うだろう……。といった調子で発想の糸がほぐれはじめる。このがらくたたちも、けっこう私に実利をもたらしてくれているわけである。
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モルヒネ
ある日突如として背中に激痛がはじまり、徐々に高まってきた。
その痛いこと、忍耐心にては自負している私も、うめき声をあげた。原因がわからないと、いっそう不安である。さては惜しまれつつ世を去ることになるか、と思った。臨終に際して、なにか気のきいた文句のひとつでも口にしなければ、体面にかかわる、と考えはじめた。世の中で死ぐらいいやなことはない。いつもはそう感じ、その時になったらさぞ見苦しさを発揮するだろうと思っていたが、いざとなると、かくも妙なことを頭に浮かべる。
だれでもそうだろうか。私は自分で考えている以上に悟っているのであろうか。あまりの突然さで気が動転していたのであろうか。ものすごい痛みだが、死ぬ病気ではないと心の底で考えていたためだろうか。やはり、この最後の場合のようである。それにしても、本当の死の時も、こんな調子でありたいものだ。
かけつけてきてくれた医者の注射で、ぴたりとおさまった。ジンゾウ結石とやらの診断であった。モルヒネの効果はじつにすばらしい。
痛みが消えるばかりか、霧に包まれた無重力状態の気分。羽化|登仙《とうせん》と呼ぶにふさわしい。その日は原稿の締切りを控え、普通ならいてもたってもいられない時をすごさなければならないのだが、まったく気にならない。
私は二十世紀は電気の時代、二十一世紀は薬学の時代と考えているが、モルヒネのこの効力だけを残し、副作用と習慣性を除くことも、そろそろ完成してもいいのではないだろうか。そうなればタバコより健康的であり、ひき逃げの原因となる酒より安全である。第一、麻薬密輸団が消滅するだけでも世の中のためだ。そのご、通院して注射をすることにより、結石はなおったらしい。いまのところ再発はしていない。
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ホテルぐらし
このあいだ二週間ほど、ホテルにこもって仕事をした。はじめての経験である。
そもそも私は、自分の書斎の、しかもいつも使っている机を前にしないと、原稿が書けぬ性質である。おそらく、今までそのようにして書いてきたのだから、この机の前だと同様に書けるはずだという安心感のためであろう。
旅行先で書いた原稿はない。もっとも、ニューヨーク博を見物した時、一回だけ取材記事を書いたが、机が変わったせいか四苦八苦だった。
このような私がホテルで仕事をせざるをえなくなったのは、家の前ではじまった地下鉄工事のためである。この物音たるや、筆舌につくしがたい。
地面に鉄のクイを打ち込むのである。これに使う蒸気ハンマーとかいう品は、太い鉄の棒で二十メートルほどある。これを蒸気の力で持ちあげ、落下させる。窓を閉め切り、座ぶとんでふさいでみたが、地面を伝わってくる震動は防ぎようがない。家じゅうがビリビリふるえる。
工事前に建設会社の人がやってきて、了承してくれとのあいさつとともに、写真をとっていった。家のどこかが破損したら弁償するというのである。
震動ではどこもこわれなかったが、ずっと使っていた井戸がかれてしまった。しかし、これは写真にとってなかったので、文句もつけにくい。
それに、工事完成の暁にはすぐそばに地下鉄の駅ができるわけであり、その利点を考えると立腹もできず、いたしかゆしだ。
さてホテルは家からタクシーで十分ほどのTホテル。室に入ったはいいが、どうも勝手がちがって能率がまるであがらぬ。乱雑な書斎とちがって、まわりがきちんとしすぎているためかもしれない。やたらとシャワーをあびたりする。
友人の作家のなかには、ホテルのほうが書きやすいというのが多いが、うらやましい性格である。
このTホテル、悪くはないのだが、ベトナム帰休の米兵がよく宿泊しているのが欠点である。背広服で一見それとはわからないが、思わぬところで判明する。
ある晩、夜中じゅう隣室で、ラジオのボリュームを一杯にあげて音楽を鳴らしつづけたのには弱った。壁を通して聞えてくるのである。
ふたたび激しい戦場にもどる前夜ともなると、孤独と不安とでいたたまれなくなり、そうでもしなければいられないのであろう。同情し、その心境をあれこれ想像していたら、原稿が少しも書けなかった。もっとも、「うるさい」とどなったら、殺気だっている相手がなにをするかわからぬ。
わが国はのんびりと平和でありがたい。原稿の書けないぐらい、ぜいたくな悩みだ。
ホテルでは、もうひとつ困ったことをひきおこした。私はヤニ取り装置のついたパイプでタバコを吸っているのだが、その掃除をしようとし、ヤニが飛んで壁にべっとりついてしまった。こんなことは今まで一度もない。やはり、ホテル生活で精神に変調を来していたためであろう。
あわてて紙でこすったら、その黒いベトベトがひろがってしまった。これはいかんとばかり、石けんをつけ水でこすったら、こんどは壁紙ににじんでしまった。大きなしみあとができた。
地方での宿泊なら、つぎの日にそしらぬ顔で出発することもできるが、宿泊カードに本名を記し、住所が近いとなると、そうもいかない。まさに進退に窮した立場である。
弁償となると、いくらぐらいかかるであろうか。よごれた部分だけ壁紙をはりかえても、他の部分とのバランスがとれない。一部屋ぶんの壁紙はりかえ代を請求されるだろうか。こんな苦悩にさいなまれた人は百万人に一人あるかないかだろう。
しかし、できるだけの手はつくすべきだ。薬局へ行って、シミ抜きの方法を聞くのも一案だ。
そのために外出しようとし、フロントで鍵《かぎ》をあずけた。
その時、係が私に言った。
「恐れ入りますが、お部屋を移っていただけませんか……」
もはやばれたのかと、私はどきりとした。
ばれていないとしても、他の部屋に移されては、薬品による方法を試みるひまもない。絶望的になった時、係がさらに言ったのである。
「……じつは、きょう、あの室の壁紙をはりかえることになっておりますので」
とても信じられない現象だが、事実だった。もしかしたら神は存在するのではないかと、私はそれ以来ひそかに思いはじめている。
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消夏法
人いちばい寒がりのほうで、冬は石油ストーブのほか、電熱器までそばにおくほどだが、暑さのほうはそれほど苦にならない。大学を出るまでに、十何回かの夏休みをくりかえしてきたため、夏は楽しいものという意識が、できあがってしまったせいではないかと思う。私ばかりでなく、夏といやな思い出とが結びついている人は、おそらく少ないのではないだろうか。
夏は入学、卒業などの試験期でなく、会社の決算期や各種のストもあまりない。映画館はすいているし、少しくらい仕事をなまけても大目に見てくれる。都会の人びとにとって、じつはもっとも平穏な季節であるらしい。その夏枯れをうめるために、ニュースは例年より何度高いなどとつげ、コマーシャルは夏ヤセだ、避暑だと呼びかけてくる。だが、その催眠術に巻きこまれさえしなければ、服装に気を使わないでもすみ、気楽なものである。私の持病の神経痛も、おさまっていてくれる。
昨年はそれでも、七月末の数日を避暑に出かけたが、旅館は大混雑、おまけに運わるく東京が涼しい日で、友人にからかわれ、ばかをみた。ことしはずっと自宅にいて、昼はコーラ類、夜はビールと、夏でなければわからないつめたさを味わうつもりである。
それで浮く金で天体望遠鏡でも買い、太陽の黒点だとか、氷点下二百度の海王星でもながめることにしようと思う。また、日ごろ手あたり次第に買っておいた怪奇的、超自然的な本を何冊か読むことにする。そのうち暑さも去ってしまう。涼しくなると「ああ、夏も終わりか」と残念がる人が多いが、夏がまんざら悪くないことを示す、いい例ではないだろうか。
夏がたまらないのは、暑さではなく、ハエやカなどの虫のほうであろう。これには全くネをあげる。なにかいい消虫法はないものだろうか。
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ふとりすぎ
現在の私のからだで最大の悩みは、ふとりかけてきたことである。原因はわかっている。運動不足である。作家になりたての頃はそう忙しくもなく、よく外出できた。もったいないからとタクシーには乗らず、たいてい国電と徒歩だった。
しかし、昨今は忙しくなり、ほとんど書斎に閉じこもりきりである。散歩といっても近所のタバコ屋まで行く程度。時間の節約と収入がふえてきたのとで、外出の時はほとんどタクシーに乗ってしまう。これでは、ふとるのが当然といえよう。
少し前には高層アパートの十一階で暮らしたことがあった。その時は、なるべくエレベーターを利用せず、階段をのぼるように努めたものだった。しかし、普通の家屋である今は、それもできない。
毎日通勤している人とちがって、作家は、運動不足になるものだ。そのうえ、私のように空想的な小説を書くのには、歩きまわって資料を集めなくてもすむ。ますます条件が悪くなる。
資料不要とはいうものの、発想を得るのは大変な苦痛である。机にむかったまま何時間も考えこむ。頭というものは、いくら酷使してもエネルギーの消費にならないようだ。気分としては、身を削りやせる思いなのだが、現実にはふとる一方だ。
なんとか書き終えると、頭がさえてなかなか眠れない。そこで寝酒の習慣がついてしまったが、アルコールはカロリーであり、これもいけないようだ。
私の友人の作家たちも、みなふとりつつある。三十歳前なのに、いつも新しいズボンをはいているのもある。買い換えないと、からだがはいらなくなるのである。歩くのがおっくうになり、自動車を買ったりという悪循環である。
明治以来の伝統もあり、外見で判断したがる国民性もあって、わが国では作家はやせていないと体裁が悪い。細い体格で、深刻そうな顔をしていなくてはならないのだ。テレビ・ドラマや映画に登場する作家は、みなこのタイプである。情ないほど安易な演出だが、おかげで本物の作家たちは、なんとなく居心地が悪い。統計をとったら、作家たちの平均体重は、一般水準よりはるかに大きいのが現実のはずなのだが。
肥満化傾向は将来ますます大問題となるだろう。自動車の国アメリカ人が、ダルマのごとくふとり、中共に簡単に負けるという漫画があった。人類が滅亡するとすれば、肥満のためであろうと予想する。完全な近代都市が完成したとたん、人びとが倍にふとり、すべてご破算という短編を書いたことがある。
こんなことをやっても焼け石に水だろうが、ウデタテフセをやることにした。テレビのコマーシャルのあいだを利用してやるのである。しばらくつづけたが、下腹はそのままで、胸に肉がついてきた。困ったことである。
タバコやコーヒーが害らしいからやめようとも考えているが、そのためふとるのではないかと思うと、それも恐怖である。こんなことで悩むようになるとは、戦時中には夢にも思わなかったことだ。平和の代償というべきなのだろうか。
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忙しい季節
十一月から十二月にかけては、一年じゅうでもっとも気候のいい頃であろう。くだもの屋の店さきがいっせいに明るい黄色に変わり、天候が定まって静かな日和《ひより》がつづく。
このあいだ外国旅行をした時、ほうぼうで大いに晩秋の日本を宣伝してきた。サクラを観光の看板にするのは、あまり感心しない。春先の日本は天候が変わりやすく、ふんいきも雑然としていて、頭のおかしくなる者も発生する。どうも推奨する気になれないのである。
かつて、この時節に、私は空飛ぶ円盤を一目でいいから見たいものだと思い立ち、毎日一時間ほど空を眺《なが》めつづけたことがあった。だが、澄んだ高い空を飛行機雲をひいたジェット機が飛ぶばかり。あげくのはて「円盤よ、あらわれ給え」と祈ったり「やい、出てきてさらってみろ」と念じたりしたが、いっこうに効果はなかった。そして、夜になると月や星を眺めた。人魂もまた見たい存在なのだが、お目にかかれたことはない。仕方がないので、読書にふけることになる。読書の候ともいうだけあって、この季節に接した本は、もっとも印象に残るようだ。
このように、本来はのんびりした季節であるべきなのだが、作家になってからは最悪の時期になってしまった。なにしろ忙しいのである。年末年始に印刷所が休業する関係で、各雑誌の締切りがくりあがってくるからだ。十二月発売号のと、正月発売号のとの原稿の締切りが、十日ほどしか差がなくなる。平常の二倍の忙しさとなるわけである。
しかし、これだけなら他の作家も同様なのだからとくにグチもこぼせないが、SFという分野をやっているため、テレビやラジオや新聞から、新年企画の同じような依頼を受けるのである。百年後の生活はどうなっているだろう、というたぐいのテーマである。
一昨年までは「テレビ電話が普及するでしょう」といった常識的な意見を発表していたが、昨年はそれをひとひねりし「テレビ電話は完成しても、だれもつけたがらないでしょう」というぐあいに、常識を裏がえした説をとなえてみた。
さて、本年はどんな趣向を打ち出したものか。十一月末になると頭を悩ましはじめるのである。それに、あっちこっちで同じことを発表するのは気がとがめる。少しずつ差異をつけ、矛盾しないよう調整するのは楽なことではない。
また、年賀状を用意する時期でもある。宛名《あてな》を書くだけで丸二日つぶれる。七五三の行事もあり、ことしは長女が三つになるので知らん顔もしていられない。
普通の職業についている友人たちは、そんな事情を察してくれず、クラス会がこの頃に集中しやすい。なんとなく昔がなつかしくなる季節だからであろう。結婚式や出版記念会なども割り込んでくる。いくら秋の夜長といっても、ひどい時間不足である。
かつては晩秋から初冬にかけ、物思いにふけりすぎてノイローゼ気味になったこともあったが、最近ではアイデアが出つくしてのノイローゼになる。しかし、なんだかんだといいながらも、どうにか切り抜け、年末から正月一杯を、なにもせずにぼんやりとすごすのが、近年の例となってしまった。
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2 仕事場
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古い月、新しい月
「月はいつも片側だけを地球にむけている。なぜそうなったのか知っているかい……」
これは十年ほど前に私が作った、自家製の神話である。
「……天地創造のとき、天使たちができたての月にいたずら書きをしてしまった。神様は困ってしまい、その部分を人間たちの目にふれさせないようにと、地球から裏がのぞけないようにしてしまったのだ」
われながらうまくできた話と思い、当時は友人たちによく語ったものである。
また、こんな話もしゃべった。月の環状噴火孔は、その成因について、噴火孔説と隕石《いんせき》のぶつかった跡だとの二説があるが、私は第三の仮説を考えついたのである。
地球にはかつて、文明が高度に栄えた時期があった。核弾頭つきのミサイルを持っていた。その試射の標的として月面を利用したので、あれはその跡である。しかし、そういうものをもつと、なんとなく戦争をやりたくなる。そのあげくが、貯蔵庫の事故かなにかで、アトランティス文明は海底へと沈んでしまった、といった説である。
いずれもしゃべるばかりで、作品にはしなかった。宇宙進出が想像以上のスピードで進行しそうに思えたからだ。軽々しく書いて、あとで恥をかかないほうがいいのである。
あんのじょう、たちまちソ連の打ち上げた宇宙ステーションによって、月の裏側が写真撮影され、天使のいたずら書きのないことが判明してしまった。前述の話をいまさらしても、だれも少しもおもしろがってくれない。
さらに、アメリカのロケットがつぎつぎに月に到達し、くわしい写真をとったり、地質調査を開始している。噴火孔の成因のわかるのも時間の問題であろう。原爆の孔という珍説も、引導を渡されることになる。
とくに大さわぎするほどの恥でもないが、自分の作品の影が目の前で薄れてゆくのはあまりいい気持ちではない。
アメリカにラインスターというSF作家がいる。実力経歴ともに一流の作家だが、その彼が腕によりをかけ、最新の科学資料をできうる限り集め、ひとつの作品を書いた。ロケットに乗り、弾道飛行で大気圏外に出た最初の男の物語である。発射前の不安と期待の心、船内の装置、窓からの眺めなど、くわしく巧みに描写された小説だった。
しかし、書かれてから半年もしないうちにガガーリンがそれを実現し、つづいてアメリカでもシェパードやグレンが敢行した。どうもこうもない、いかにすぐれた作品でも、事実の記録とくらべられては迫力を失ってしまう。
作者のラインスターのがっかりした心境が、私にはよくわかる。銀座のスキヤ橋を舞台にした小説を書き、その橋がなくなったのとはちがうのである。SFに特有の悲しさといえよう。
これまでは、月の表面は昼夜の激しい寒暖の差がくりかえされてきたため、ぼろぼろに風化し、宇宙船は砂塵《さじん》をあげてめりこむだろうというのが定説になっていた。そのような描写のSFがずいぶん書かれていたが、この説もいまやくつがえされてしまった。
宇宙進出の夢が着々と実現してゆくのはうれしいことだが、同時に、私の心の片隅《かたすみ》では一種の葬送曲が響いているのである。
月が大むかしから持っていた神秘的な、ロマンチックなムードは、現在において急速に失われつつある。月からやってきたカグヤ姫の物語、羽衣で地上に舞いおりてきた天女の話。その他、月にまつわる神話や伝説のたぐいが、色あせていくことだろう。
目鼻のついた月が空で笑っている画や、モチをついているウサギなども、子供の本から消えてゆくにちがいない。科学的知識の身についた子供が、まちがいだとさわいだら、説明のしようがないからである。
童話の感覚と科学的事実はちがうのだといっても、それはおとなの言い分だ。子供には無理なのではないだろうか。月からの実況をテレビで眺め、あとで天女の本を読み、はたしてなんの抵抗もないだろうか。両親も教師も、その解説にはてこずるにちがいない。
その意味で、月への発展は科学的に画期的なできごとであるばかりでなく、人間の物の考え方にも、大きな変化をもたらしつつあるわけであろう。
満月の夜に月の光をあび、狼《おおかみ》に変身する狼男の伝説も、その神秘性がなくなってしまうだろう。
私はこれを扱ったショート・ショートを書こうと思っていた。こんな話だ。
親友と満月の宵に会っていると、とつぜん狼に変身して襲いかかってくる。逃げるにはおそすぎ、銀製の杖《つえ》という、対抗できる唯一の武器を持っていない。絶体絶命、覚悟をきめたとき、なぜか相手は人間にもどる。わけがわからない気分で空を見あげると、そこでは月蝕《げつしよく》がはじまっていた……。
悪くないアイデアと思い、書こう書こうと考えているうちに、いまや時機を失した形になってしまった。月はもはや、幻想的な奔放な夢を展開するのにふさわしい舞台ではなくなったようだ。
月についての珍説も最近はめっきり少なくなったが、このあいだ傑作な話をひとつだけ読んだ。アメリカの女子大学生が、こともなげにこういったというのである。
「あら、月って、昇るときはまんまるで、空の中央あたりにくると半かけになり、西の空では三日月になるのじゃなかったの」
実話かどうかは知らないが、女子学生の学力の低下をからかった話である。しかし、実感がこもっている。
私も東の地平線から三日月の出てくるのを見たことがない。そういわれると、なんとなくこの言葉が事実に思えてくる人が多いのではないだろうか。
月への知識がふえつつあるといっても、その反面、テレビをはじめ娯楽の洪水で、むかしのようにセンチメンタルな気分にひたって夜をあかす人もなくなってきた。古い迷信にかわって、このような新型の迷信が広まる余地のできてきたことは、ちょっと愉快な現象でもある。
私もいまでは、月に対して怪奇な幻想をひろげることができなくなった。そこで少し方向を変え、もし月が何時間かの周期で自転する天体であったらどうだろう、といった想像を試みたりするのである。
科学はギリシャ時代において、かなり発達していた。地動説をとなえるものもすでにあった。しかし、ついに宗教の力に負け、その支配に屈して長い沈滞の時期にはいった。
ガリレイが「地球は動いている」と口にするのさえ命がけだった。しかし、そんなとき空で月がぐるぐる自転していたら、ずいぶんようすがちがっていただろうと思う。人びとはその納得できる説明を求めたがり、宗教によっては合理的な解答を与えられないのではないだろうか。
となると、科学は休むことなく進んでいたにちがいない。千年以上にわたる科学の暗黒時代をすごさなくてすんだのである。そんな歴史をたどっていたら、現代は驚異的な科学の世界となっていたかもしれない。
月どころか、火星や金星までとっくのむかしに到達し、さらには他の太陽系まで訪れていたにちがいない。また、不老長寿の法だってきわめていたかもしれないのだ。
いささか残念なことだが、あるいは科学が発達しすぎて自滅していなかったともいえず、人類が地球上から絶滅した可能性だってある。
こう考えてみると、月がぐるぐる自転していなかったことは、私たちにとって感謝すべきことでもある。もしかしたら、これは天地創造のときの神のおぼしめしなのかもしれない。
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本棚の前で
趣味として孤島をテーマにした漫画を集めはじめ、和洋あわせてほぼ三千種に達した。どうせついでだからと集めかけているのが、精神分析を扱った漫画である。分析医と長|椅子《いす》に横たわった患者とで構成された図柄のもので、三百種ばかりになった。両者とも大まじめな顔つきで、とんでもない内容の会話をかわしている点にユーモアがあり、おもしろさでは孤島物にまさる。国産のが全くないのが、残念だが、精神分析の普及してないことと、皆がこの種の感覚になれていないためであろう。わが国でまだSFが珍しがられるのと、その原因に共通したものがありそうだ。科学知識の普及が過渡期にあり、それを戯画化する余裕ある気分になじめない段階なのである。
私の本棚《ほんだな》にはこれらの蒐集のほか、SF関係の本が多いのは当然だが、怪談集、夢学、奇行集成、神呪《しんじゆ》秘伝、妖怪《ようかい》年鑑といったたぐいの本がある。また毒々しい彩色のアメリカの子供むけ怪物漫画も大量に並んでいる。これらにまざって、フランコ将軍の伝記がある。その一冊が目立つらしく、たいていの来客は指さして「また妙な本を読んでいるな」と言う。ほかの本は妙な印象を与えないらしく、妙な現象というべきであろう。
となると私も「じつは独裁体制になった未来社会を小説にしようと思って、ムソリーニ、フランコ、ヒトラー、スターリン、カストロという系列を調べているのだ」と、雄大な構想の一端を打ちあけなくてはならなくなる。相手は感心してくれて
「SFを書くのも、けっこうたいへんなんだな。で、未来の独裁者にはどんな人物がなる」
「雪男みたいな人相の男らしい」
「なぜ」
「いまあげた系列で予測できるように、しだいにヒゲが物々しくなる傾向がある」
これは私が近頃考え出したとくいの小ばなしである。もっとも独裁時代の未来物を書く計画の点までは冗談ではない。
この小ばなしを私が来客のたびに話すのは、相手をひっかけていい気分にひたるだけが目的ではない。相手の反応をひそかに観察し、統計をとっているのである。いっしょに笑ってくれる人が多いが、まじめに聞いていたのにと不快げな顔になる人もあるわけである。一段とひとの悪い行為といえるかもしれない。
SFにはいろいろな要素があり、各人の主張は多様だが、私は事態を全く別な角度から見なおさせてくれる作品に接するのを好む。「素晴らしい風船旅行」という映画以来、空中からの写真が雑誌によくのるようになった。日常見なれているものが新鮮な姿の一面を示してくれ、たのしさが味わえる。それと似たような感じである。
また、SFは文明批判を主眼とすべきか、という議論がある。私の意見としてはそれが理想的な形だと思い、それへの努力は怠らないでいるつもりである。しかし実際問題となると、外国のどんな一流SF作家をもってしても、社会への警鐘を乱打するような説を次々と新しく展開することは不可能に近い。オリンピックの全種目に日の丸をあげるのは理想だろうが、ちょっとむずかしいのではないだろうか。
SFも現状では、型にはまりきった生活習慣や思考からの一時的な脱出に少しでも役立てば、それでいいのではないかと思う。脱出のたのしさを味わってもらえればありがたい。だが脱出したからには毎回大発見を見せてくれ、とせがまれては困ってしまうのである。
さっきの私の統計によると、きまった型から出たがらない、思考の開放恐怖症の人があるわりあいで存在することはたしかである。まずその殻を破る作戦をねり、同時に小説を書かなければならないのだから、SF関係者はまだ当分は苦労を覚悟すべき状態のようである。
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創作の経路
ほかの作家の場合はどうなのか知らないが、小説を書くのがこんなに苦しい作業とは、予想もしていなかった。よく「いまだに試験の夢を見る」などという人があるが、私は学生時代の試験がなつかしい。試験ならいよいよとなれば白紙を出せばいいが、原稿ではそうもいかない。しかも、つねに合格点であることを要求される。また、私の書く分野が調査や資料を要しない純フィクションであるため、他人からは気楽そうに思われ、どうも損な気がしないでもない。
締切りが迫ると、一つの発想を得るためだけに、八時間ほど書斎にとじこもる。無から有をうみだすインスピレーションなど、そうつごうよく簡単にわいてくるわけがない。メモの山をひっかきまわし、腕組みして歩きまわり、溜息《ためいき》をつき、無為に過ぎてゆく時間を気にし、焼き直しの誘惑と戦い、思いつきをいくつかメモし、そのいずれにも不満を感じ、コーヒーを飲み、自己の才能がつきたらしいと絶望し、目薬をさし、石けんで手を洗い、またメモを読みかえす。けっして気力をゆるめてはならない。
これらの儀式が進むと、やがて神がかり状態がおとずれてくる。といっても、超自然的なものではない。思いつきとは異質なものどうしの新しい組合せのことだが、頭のなかで各種の組合せがなされては消える。そのなかで見込みのありそうなのが、いくつか常識のフルイの目に残る。さらにそのなかから、自己の決断で最良と思われるのをつまみあげる一瞬のことである。分析すれば以上のごとくだが、理屈だけではここに到達できない。私にはやはり、神がかりという感じがぴったりする。
この峠を越せば、あとはそれほどでもない。ストーリーにまとめて下書きをする。これで一段落、つぎの日にそれを清書して完成となる。清書の際には、もたついた部分を改め、文章をできるだけ平易になおし、前夜の苦渋のあとを消し去るのである。あいだに一日か二日おければ、なお理想的である。
今日までに三百五十ほどの短編を書いてきたが、初期の数作を除いて、全部この過程を通っている。そのうちになれて楽になるかと期待していたが、いっこうにその気配はない。生きているあいだに、あと何回この苦痛を耐えなければならないかと考えると、とても正気ではいられない。だから、それは考えないことにしている。考えるのは、締切りが最も近い一作だけである。
書く題材について、私はわくを一切もうけていない。だが、みずから課した制約がいくつかある。その第一、性行為と殺人シーンの描写をしない。希少価値を狙《ねら》っているだけで、べつに道徳的な主張からではない。もっとひどい人類絶滅など、何度となく書いた。
第二、なぜ気が進まないのか自分でもわからないが、時事風俗を扱わない。外国の短編の影響ででもあろうか。第三、前衛的な手法を使わない。ピカソ流の画も悪くはないが、怪物の写生にはむかないのではないだろうか。発想で飛躍があるのだから、そのうえ手法でさらに飛躍したら雑然としたものになりかねない。私の外観はぼそっとしているが、精神的にはスタイリストであり、江戸っ子なのである。
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ペンネーム
宇宙を舞台にした小説などを書いているため、それにふさわしくつけたのだろうと思われているが八十パーセントは本名である。本名は星親一。私の父は若い頃米国に留学し、各工場に安全第一の標語が記してあるのを知った。それにヒントを得て親切第一という語を考えつき、帰国してからの事業のモットーに使い、ついに息子の名にもとりつけたわけである。
星という姓は父の郷里の福島県南部に多いが、理由はわからない。かつてその地方に大|隕石《いんせき》でも落ちたのであろうか。だが、いずれにせよ、この姓によってSFへの意欲が、幼時から潜在意識のなかで育ってきたことはたしかなようである。
友人が時たま、名前を逆に読み「まさに一新星だ」と、おせじを言ってくれる。だが、当方は複雑な気分になる。なぜなら、新星とは恒星の寿命がつき大爆発を起した状態のことだからだ。あるいは、その逆なのだから縁起がいいと考えるべきなのだろうか。
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錬金術師とSF作家
錬金《れんきん》術の歴史を記した本を読むと、いろいろな意味で興味津々たるものがある。
そもそも、黄金を人工的に作ろうと考えるとは、なんたる飛躍であろうか、と言いたいところだが、この点は飛躍でもなんでもない。風が欲しいと思って扇を作ったのと、あまり差はない。黄金の価値を人びとがみとめると同時に、自然発生的にうまれた案であろう。それが人間というものだ。
したがって、錬金思想の起源はおそろしく古いにちがいない。古代のエジプトにおいて、すでに金属の着色やメッキの方法の研究がなされていた。これを錬金術と呼ぶのはまちがいだとの説があるが、安価な金属を黄金として通用させようというのだから、狙《ねら》いはまあ同じことだ。
金そのものを作り出そうという、いわゆる錬金術の発想は紀元前二世紀ごろにあらわれ、四世紀ごろに至って目立つような形となり、その後ずっとつづくのである。
錬金術の実験室には、さまざまなものが持ちこまれた。初歩的ではあるが実証的な化学技術。生物学。四元素説をはじめとする哲学。あらゆる種類の学問や宗教。怪しげな呪術《じゆじゆつ》に至るまで考えうるすべてが集中され、こねまわされた。人類史上、最も長期にわたって大量の精神エネルギーが注ぎこまれたのは、錬金術であるといえるかもしれない。
異質な分野どうしの接触があると、アイデアがうまれる。これこそアイデアの本質でもある。錬金術においてその好例を見ることができる。
そのひとつ、「金は地中で成長する」という説など、まことに卓抜なものだ。金は地中の樹であり、鉱脈は枝のようなものだというのである。枝を切り取っても幹を枯らさない法、あるいは栽培法を発見すれば、黄金の入手は思いのままとなる。
植物学や農学からのアプローチである。現代常識からの批判をべつにすれば、大変な想像力といっていい。しかし、アウグスティヌスという神学者などは「無益で好奇的な研究欲のあらわれにすぎぬ」と非難している。一分野の専門家にとって、このようなとらえどころのない考え方は、うさんくさくて面白くないものであったろう。
「賢者の石」という妙な物質を空想したのも錬金術の関係者たちだ。これにふれると、低級な金属が金に変わるというのである。触媒作用の発見者は十九世紀のスウェーデンの化学者ベルセリウスだが、彼の頭の片隅《かたすみ》に賢者の石の知識があったにちがいない。これまた偉大な予見である。
その他、錬金術師たちは宇宙の設計図だとか、寓意《ぐうい》の詩だとか、精霊の図解だとか、奇術のやり方だとか、各種の副産物をもたらした。どれも、直接にはあまり実用的でないものばかりだ。
また、万物融化液という、なんでもとかしてしまう液があれば金への変成が可能と考え、その開発に熱中した者もある。この研究は十八世紀の中頃までつづいたが、だれかが「そんなものができても入れる容器がないはずだ」と、いじの悪いことを言い出し、いつしか幕となってしまった。
これは私の想像だが、いったい彼ら錬金術師たちが、金の生成についてどれくらい確信を持っていたのか、いささか疑わしい。何世紀にもわたって試みられ、思わしい成果があがらなかったのだから、賢明な人間ならいいかげんであきらめるところである。
彼らは賢明であり、しかし、あきらめなかった。あるいは、金の生成など彼らにとっては二の次となってしまい、分野を異にする学問を組合わせ、新説を立てる面白さにとりつかれていたのではないだろうか。どうもそんな気がしてならないのである。
実利が目的なら、こうはならない。金の探鉱法の改良でもいいはずである。化学の応用が好きなら収穫を高める肥料の研究のほうがてっとり早い。しかるに、彼らはそうしていない。空理空論にひたる魅力は、実利ごときの比ではない。実利を追うことはだれにでもできるが、空理を楽しむのはある程度以上の頭脳を要する。なんという優越感。
錬金術師たちは、奇妙なことに大弾圧を受けることもなく、意外に安泰だった。自由というか異端というか、いかなる議論も許されていたようだ。その理由はなんであろう。空理空論の徒と見破られ、無害のレッテルをはられたためであろうか。支配者にとっての高級雑談の相手として、適当に刺激的で新鮮で、ちょうどよかったためであろうか。
それとも、錬金術師のほうが一枚うえで、危険視される一歩手前で巧妙にふみとどまるこつを身につけていたのかもしれない。彼らの書いた寓意の詩など、あいまいとしていて突っつきようのないのが多い。
これらの点については他にも考えられるが、要するに常識の治外法権の地区が成立していた。そこを目ざして、志願者たちが絶えることなくつづいていたのである。
ここでちょっと話を横道にそらす。前述の万物融化液のことだ。容器の点でゆきづまり、その後は錬金術の本から消えてしまった。しかし、容器ができないからといって、液そのものの存在まで否認してしまうというのは、どうであろうか。
錬金術師として、少し情ない。ここが私に不満であり、なにか解決法はないものかと考え、そのあげく、ひとつ思いついた。
すなわち、宇宙の無重力空間に実験室を作り、そこで最終の反応をおこなうのである。空中に浮いたままだから、容器など不要。つぎにそれを冷却するのである。氷結して固体にしてしまえば、それはもはや万物融化液[#「液」に傍点]ではない。
これを魔法ビンにつめて地上に持ち帰ればいいわけである。ビンの口を電熱にしておき、必要に応じて液にもどし、ふりかければいい。金の生成はできないが、銀行の扉《とびら》ぐらいは破れるはずである。
容器の点にこだわり、万物融化液の存在を笑う常識人にふりかければ、完全犯罪も成立する……。といったわけで、あまり名作ではないがSFがひとつ出来たことになる。
さて、話を本題にもどす。なぜ錬金術についての紹介やら私見などを書いてきたかというと、SFとどこか共通するものがあるような気がしてならないからである。
その第一。学問の専門化が進むにつれ、各分野のあいだの垣根《かきね》がしだいに高くなりつつあるが、それがSFでは無視されている点である。
吸血鬼伝説と血液銀行を組合わせたSFはよくある。電子計算機に呪文を作成させる話もある。マルサスの人口論と犯罪シンジケートの問題を組合わせ、おそるべき人口処理の物語となる場合もある。
SFの大部分はこのようにして発想されている。SFに限らず、アイデアとはこのようなものであり、組合わせるものがかけはなれていればいるほど、飛躍の効果は大きいのである。
世の中には、余暇に和歌を作る物理学者もいるし、高等数学を趣味としている政治家もある。しかし、それらはあくまで趣味であり、重点の置きどころはきまっており、両者を結びつけてまったく新しい分野を開発しようとはしない。
ここがSF作家とちがう。SFの場合、重点は飛躍の効果であり、そのためには、とんでもない分野どうしを適当に結びつけてしまう。その専門の人にしてみれば「無益で好奇的な試みにすぎぬ」と言いたくもなろう。
錬金術師たちは、天文学だの、薬草だの、呪術だのを手当りしだいに組合わせて新説を立てていた。よくいえば自由奔放、悪くいえば盲蛇《めくらへび》におじずである。この二つの言葉、結局は同じことではないだろうか。
私は大学時代に農芸化学科を専攻した。その時の講義で、腐敗と発酵との区別を習った。現象は同じなのだが、結果的に人間の役に立たぬ場合が腐敗であり、役に立つ場合が発酵なのである。かたくるしい科学のなかにも、味な定義があるものだ。
呼び方の点は、他人にまかせればいいことで、当事者の気にすべきものではない。
共通点の第二。実利を圧倒する奇妙な魅力の点である。錬金術師たちにとっては、その知識と熱中さとを有効に使えば、もっと容易に利益をあげえたにちがいない。
現代SFの開祖であるアメリカの作家ガーンズバックは、一九一一年に「ラルフ」という作品を書いた。そのなかには、自動販売機、蛍光《けいこう》灯、金属|箔《はく》包装、翻訳機、壁面発光、マイクロフィルム、睡眠学習などが登場する。テレビジョンという語を最初に用いたのも彼であり、レーダーは第二次大戦で出現したそれと同じ原理で空想している。レイヨンの描写は、特許権所有者ではないかと思えるほどだとの評がある。いずれも、当時は世に影すらなかったものばかりだ。
ガーンズバックがもし発明家をこころざしていたら、巨万の富を築いていたかもしれない。しかし、そうなるのに必要ななにかが欠けていたためかもしれない。あるいは、現実の利益を放棄したから空想の翼がはばたけたのかもしれない。ここがまた微妙なところだが、つまり空想の魅力にとりつかれていたのである。なお、彼は最近になって再評価され本の売行きはいいようだが、存命中は雑誌の運営で債権者に追われどおしであった。
SF作家のなかには、発明家になるべきなのに道を誤ったのではないかと思えるのが多い。私自身もまた、発明家になっていれば今ごろは収益のあがる特許権をいくつか持つに至っているのではないかと考えることがある。しかし、その道は選ばなかったろう。それにはかんじんなものが欠けているし、新しい発想によるあやしげな作品を書きあげた時の、形容しがたい満足感の味をしめてしまったからである。
だから推察するのである。錬金術師も金への変成の奇想天外な新説を思いついた時は、会心の笑いを浮かべたにちがいない。現実のひとかけらの黄金など、どうでもいいことなのだ。
もし平凡な支配者がいて、錬金術師たちを実務部門に配置転換していたら、彼らはなにひとつできなかったろう。もちろん卓越した説も出ない。SF作家の場合も、他から動かされ、または自分で心機一転し発明家をめざしたら、そのとたん空想力は消えうせ、あわれな状態におちいるにちがいない。飛躍した空想とはそういうものである。
共通点の第三を論じてみる。一種の治外法権的な安全地帯についてである。錬金術師たちはその場所にいた。
おそらく、彼らは教会や支配者にとっても、危険きわまりない説をも口にしたにちがいない。宇宙の組織図とか、ビンのなかで人間を発生させる法などがそれである。しかし、錬金術師狩りはおこなわれなかった。
「いまに本当に金を作るかもしれない」という世の期待があったかもしれないが、「錬金術師とはああいうものさ」ということで見のがされていたわけであろう。論難しようにも、各分野をわける垣根の上のネコのようなものだったから、手も出しにくかった。
ここにひとつの歴史がある。ケプラーは望遠鏡で天体を眺め、太陽系の惑星は太陽を中心とした軌道上を運行していると確認した。一六○九年にそれを印刷物として刊行している。
しかし、ケプラーは神秘主義を看板とする占星術師。音楽的調和のある宇宙論の確立に熱中していた。こんな発見は、大理論構築のための一副産物にすぎない。そこで、望遠鏡をもらったお礼にと、これを友人のガリレイに知らせた。
ガリレイはそれにもとづき、その二十七年後に「新天文対話」という本を刊行し、地動説をとなえた。これが問題となり、ガリレイは宗教裁判にひっかけられ、さんざんな目にあわされた。
ケプラーは栄光をガリレイにゆずった形だが、迫害のほうもまぬかれた。安全地帯にいた者と、そのそとにいた者との差である。どちらが賢明かは、なんともいえない。科学史的には、ケプラーは惜しいことに神秘論にとりつかれていたとの評になるわけだが、ケプラー自身は惜しいなどとは考えもしなかったろう。なお、ケプラーは惑星軌道を楕円《だえん》と算出し、ガリレイは円と算出し、現実はケプラーのほうが正確なのである。
SF作家もこれと同じく、一種の安全地帯にいるようである。アメリカのSF作家のなかには、神を冒涜《ぼうとく》するような作品を書く者がある。わが国の如き無神の国とちがって、大変なことにちがいないのだが、べつにどうということもないようだ。ローマ法王庁によって禁書に指定されたSFはまだない。
科学の進歩に反抗する作品もある。普通の人が主張すれば一波乱あるところだろうが、SFならそのまま通る。
共産主義まがいのも、ファシズムまがいのも共存している。ブラッドベリは「華氏四五一度」という作品を書き、幻想的な書物がすべて焼かれる未来を描いた。マッカーシズムへの反抗だという評があり、そのせいか、ソ連でも出版された。すると彼は、「じつはあれはソ連批判の書だった」と言い出す。作者の頭のなかでは一連の体系となっているにしても、普通の人ならそうは言わない。人びとは面くらうばかりである。なんと愉快なことではないか。しかも、ブラッドベリは依然として、最も温厚な作家とみなされ、危険分子のあつかいはされていないのである。
まさしく安全地帯である。これは作家と社会とのあいだに、暗黙の了解があるためであろう。「SF作家とはああいったものなのだ」という周囲の理解であり、「もしかしたら、とてつもない発明をやるかもしれない、やらせておこう」との期待である。錬金術師におけるのと似ているのだ。
SF作家のアシモフは、独創力のない人がアイデア発生に協力する場合、なにをしたらいいかと書いている。その答えは許諾である。批判でも賛成でも激励でもないのだ。好きなようにさせておくのが一番だというのである。錬金術師たちのような状態であろう。実利だとか、栄光だとか、宗教裁判だとか、世俗的なものが加わると、ろくなことにならない。
最近は飛躍的な思考が求められているらしく、創造力開発ばやりで、その原理などを書いた本がたくさんでている。
じつは私も、そんな便利な方法があれば身につけたいものだと思い、時には買ってのぞくことがある。しかし、たいていがっかりする。条件さえととのえば、想像力はいとも簡単に出てくるように書いてあるのだ。
私はSFを書くため、死ぬ思いで四苦八苦し、そのアイデアを得ているのだが、そんな自分がばかに思えてきてしまうのである。そうは認めたくないため、著者の説に反抗してみる。想像力とは、条件とか統計とか教育法とかの枠外にあるものではないのか、と。
エジソンというと、人は発明王と規定し、名案を雲の如くに湧《わ》かせた人物と思いこんでいる。エジソンがいくら「発明は一パーセントの才能と、九九パーセントの努力より成る」と力説しても、そこは軽く見すごされてしまう。精神的苦行の度合を他人に伝達する方法がないうちは、想像力の分析は不可能なのではないだろうか。
飛躍とは解明できない衝動かもしれない。新説を得たい、そのためには他のことはどうでもいい、そこに喜びを見出すことである。錬金術師以来、いやもっと古代から、人類の心の底を流れつづけ、安全地帯でふきあげつづけているものである。それがあとでどう現実に活用されるか、あるいは笑いものになるかは別問題だ。
ところで、飛躍をめぐる現状はこれでいいのだろうか。私はまあ、こんなところでいいのではないかと思う。みなが揃《そろ》って変に飛躍に好意的になったら、困ったことになる。飛行船が発明された時、大勢が常識的保守的だったからいいようなものの、そうでなかったら、現在の航空機時代ははなはだしくおくれたにちがいない。
また、飛躍的な思考の禁止令も当分は出そうにない。ただ、最も心配なのは、現実の延長と空想との混同である。この二つはまったく異質なものだ。箱をつみ重ねて天井にさわるのと、飛びあがってさわるのとのちがいであろう。この点についてだけは、多くの人に理解してもらいたいものである。
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執筆以外は
あるテレビ局にベテランで魅力的な女アナウンサーがいる。私は前から画面を通じて、心にとめていた。そんなわけで、その番組へのゲスト出演の話があった時、のこのこと出かけてみた。
そして、その魅力の秘密に接することができた。彼女に会ってみると、だらんという形容詞がぴったりな、力のない無表情をしていた。しかし、それが一旦《いつたん》テレビ・カメラがむけられると、一瞬のうちに表情がよみがえり生気あふれる魅力が発散するのである。
テレビのタレントとは、みなこのようなものなのだろうか。私は世事にうといのでよく知らないが、大いに感心した次第であった。
昨今はごぶさたしているが、私の友人に異常なほどセックスの好きな男があった。エネルギッシュな精力絶倫な外見かというと、さにあらず。半分眠ったような目つきで、ゆっくりと歩き、少し急げばホームの電車にまにあう場合も、絶対に走らない。他のことに力を消費したくないのである。いざという際には、さぞ勇壮なのであろう。
また、ある友人は無類の酒好きで、それ以外のことには一円も使いたがらない日常であった。数えはじめると、このたぐいの人物はけっこういるようだ。
私もまた、これと同様である。小説を書くこと以外に、ほとんど関心が湧《わ》かないのだ。かつてあれほど熱中した碁も、最近はわざわざ出かける気にならない。時たま推理作家仲間の碁会に出席する程度である。碁はやらなくても腕が落ちないので、なんとかかっこうがつく。しかし、上達はしない。
私はテレビのニュースをめったに見ない。国会の乱闘や野球の勝負を少し早く知ったところで、どうということもない。少し待てば新聞で読めるではないか。もっとも、その新聞も熟読はしない。株が暴落しようが、どこかで革命が起ろうが、私の小説には関係ない。また、現実のロケットがどう成功しようと興味もないが、これは新聞社などからの電話で迫られるので、適当に答えておく。こんなことに思考力を使っては損だ。むかしはよく足を運んだ映画館、美人のいるバーもよくよくのことがない限り出かけない。
かくしてエネルギーを蓄積し、それを小説のアイデア獲得に費やすのである。無から有を抽出するのだから、楽なわけがない。吐くものがなくなって吐気だけ存在する如き苦しさである。
アイデアというと、天来の啓示の如く出てくると思っている人があるが、私に言わせれば、得られるものでなく、育てるものである。雑多な平凡な思いつきを整理し、選択し手を加えることに精神を集中してつづければ、なにかが出てくるのは確実である。
この発生過程はいささか興味ある現象で、くわしく研究してみたい誘惑を感じるが、今は試みる気はない。なぜなら、小説を書く以外のことに属するからである。
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過飽和
テレビの連続ドラマに「愛染かつら」というのがあり、夜中に延々とやっていた。まことにお粗末な作品である。
しかし、むかし見た同題の映画はよかった。いまだに印象に残っている。また、主題歌は私のような年齢の者にとって、なつかしのメロディーである。
そんなわけで、「くだらん」とつぶやきながらも、仕事に疲れた頭を休めるため、つい見てしまうことが多かった。もっとも、頭が仕事で疲れているのはいつものことで、あまり理由にはならない。
やがて、このながながとつづいたドラマが最終回となった。なごり惜しい気分は少しもないが、やはり、いつもよりは注意をして見物した。
種々の事情でさまたげられていた男女が、やっと結ばれる。二人は愛染かつらの木の下で寄りそい、「おたがいに長い長い廻《まわ》り道をしたが、もう決してはなれない」と愛を誓うのが幕切れ。またも高らかに響く主題歌、といったところである。
はなはだ感動的なシーンだが、その時、私の腹がむずむずした。そして、文句になった。長い廻り道をしたからこそ、これだけのドラマになったんじゃないのか。すべてが順調に進展したら、単発ドラマにもならねえ。
それから机にむかい、さて、なにかいいSFのアイデアはないものかと、例によって苦行に入ったわけだが、さっきの感情が頭から消えない。消えないどころか、そのまわりに、いろいろなものが結晶し、ストーリーに成長した。かくして書きあげたのが、オール読物にのせた「宇宙の英雄」である。
未読の人のために荒筋を記すと、遠い星から地球にSOSがもたらされる。友人たちの「ほっとけ」との言葉を振り切り、ひとりの青年がその星にむかう。途中、かずかずの苦難をのりこえ、ヒューマニズムの塊となって、満身|創痍《そうい》となりながらも、やっとたどりつく。住民たちは大歓迎し「私たちは真実の冒険談に飢え、退屈で死にそうだったのです。さっそくお話を聞かせて下さい」
これで作品がひとつ完成したわけである。本当は作品の成立の内幕など発表すべきではないのだ。自己の秘密を発表して好結果になった例など、ひとつもない。今後は決してやらないつもりだ。しかし、論を進めるために、あえてその一端を記したしだいである。
ここで問題になるのは、「愛染かつら」の最終回を見なかったら、この作品は出現しなかったかどうかの点である。たしかに、その夜においては思いつかなかっただろう。しかし、永久に陽の目を見なかったとは思えない。頭のなかが、この種の感情で漠然《ばくぜん》とだが過飽和の状態になっており、「愛染かつら」はその結晶化の刺激作用となっただけのような気がするのだ。
この時には書けなくても、少し遅れて放映された「忠臣蔵」の終幕の刺激でも、その他のなにかでもよかったのではないだろうか。あとからつけた理屈だから、断言はできないが、時間の問題だったように思えるのである。
このへんが微妙なところだ。エジソンがいなかったら電灯は出現しなかったかどうかの問題にもなるのだが、私は彼がいなくてもいずれは出現しただろうと思う。
以上のことを、私はSFを書こうとする人に、参考のために提供した。といって「愛染かつら」を見ろとか、SF以外の分野に視野をひろげろとか、使い古された訓示をたれるつもりではない。「愛染かつら」を見たからといって、だれもが「宇宙の英雄」のようなストーリーを得るとは限らない。
作品を書くためには、頭のなかをもやもやしたもので過飽和にするのが先決だと言いたいのである。それなくしては、いかにヒントの林にかこまれていても、作品はうまれてこないはずである。うまれたとしても、形骸《けいがい》だけのものとなる。ブラッドベリが「私は自分の潜在意識を信頼している」と言ってたようだが、このことではないだろうか。
では、その過飽和状態はどうやって作るのかという問題になるわけだが、これは簡単には説明しにくい。また私の最高機密でもある。
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出不精な作風
サンデー毎日に「ノックの音が……」ではじまる短編を十四回連載した。よく「さぞ大変だろう」と質問されたが、私は「死ぬほどの思いだ」とか「それほどでもないよ」とか答えたりした。矛盾した話だが、いずれも正直な答えである。
楽でないことはいうまでもない。作家はだれでも同じことだろう。私も今までに相当な数の短編を書いてきたが、苦労せずに書けたのは初期の三編ほどだ。あとはアイデアをしぼり出すため七転八倒である。その陣痛が週一回ずつ割り込んできたのだ。おかげで読書の時間が大幅にへり、SFの新刊などだいぶたまってしまった。これからせっせと読まなくてはならない。
しかし質問の意味が「ノックの音ではじまり、一室内で物語を完結させるのは大変だろう」というのだったら、この点は私にとってそれほどの苦痛ではない。むしろ書きやすいタイプなのである。あちこちと舞台を変えるほうがつらい。
そのかわり、さしえの村上豊さんは苦心したにちがいない。こんなタイプの小説に、二枚ずつちがった絵をつけなければならなかったのだから。
そもそも私の作品の登場人物たちは、どれもこれも飛びまわるのがきらいである。おそらく作者の性格の反映であろう。
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常識のライン
私たちのあいだ、つまりSFを書く連中のあいだでだが、妙な言葉が流行している。
「命みじかし、たすきに長し」とか
「涙かくして尻《しり》かくさず」だとか
「女房が病気で、坊主を上手に書いた」
といったたぐいである。そのほかたくさんあるのだが、ふわっとうまれ、一方の耳からもう一方の耳へ抜けるだけ、頭にあとをとどめないので、すぐには思い出せない。
支離滅裂というか、ナンセンスというか、ばかばかしい限り。しかし、そこが面白いわけで、げらげらと笑う。笑うのは健康にいいそうだから、少しは有益といえるかもしれない。
時たま、なにかのつごうで、SF関係者以外の人がいっしょにいることがある。その人はどう反応していいのか、大いにとまどう様子である。そして自分も笑いながらも
「SFの連中は頭の変なのばかりだ」
という感想を抱き、さらには知人にふれまわることになる。まあ無理もないことで、かくしてSF作家変人説がひろまってゆく。
変人説のひろまることの是非については、私たちのあいだでも論議がある。変人と思われるのは正気な人間にとって楽しいものではなく、非とするのももっともである。だが、是とするのももっともである。まともきわまるSF作家が看板では、どこに魅力があるというのだ。だれにだってわかることだ。パラドックスめいた現象である。
ところで実際はどうなのであろうか。答え、みなきわめて常識的な人間である。むしろ一般の人以上に常識を持ちすぎ、持てあましている形である。そうでなかったら、前述の言葉のたぐいを連発し、また、そのおかしさを感受して笑うことができるだろうか。
つねに常識外のことだけを作品にする点に気がついてもらいたいものだ。常識内のことは決して書かない。これは常識なしでできることであろうか。本当の変人や子供には、SFは書けない。常識が狂っているか、常識がないからである。
しかし、こういったことは、ほかの人には理解しにくいらしい。小説でもテレビ・ドラマでも、SF作家というと子供っぽい本当の変人にされてしまっている。あんな調子で書けるものなら、世の中こんな気楽なことはない。
酒に酔った時にSFの発想は得られない。夢からアイデアを得ることもない。LSDを飲んでも同様であろう。子供の発言も、精神病の本もヒントにはならない。
想像力とは、知識と体験と常識をつみ重ね、さめきった頭で処理するところに発生する。現実の物語を書くのにくらべ一段と孤独な作業なのではないだろうか。
そして、常識外の空間になにかを作りあげる。確信をもって現実ばなれと言いきれるものをである。ひとが常識はずれと感じるのは当然のことだ。しかし、大多数の人はその作者までそうだと思ってしまうのである。
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3 旅をする
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終戦直後の頃
終戦後まもなくの頃《ころ》、私は北海道へ旅行した。遊びに出かけたのではない。そもそも、そんなのんきな時代ではなかったのだ。父が仕事で出かけるのに、荷物持ちをかね、大学の一年生だった私が同行したのである。
交通事情はきわめて悪かった。列車はよごれていて、乗客はすしづめ。スピードはおそく、上野から目的地の釧路まで丸三日かかった。途中で買えるものといえば、駅の売店の新聞ぐらい。
退屈でもあり、夜があけるたびに、私はホームにおりて新聞を買った。しかし、どこで買っても、紙面の記事はみな同じだった。つまり、その頃は、新聞は東京で印刷され、地方に送られていたのである。それを私が、つぎつぎに買いつづけたというわけだった。いまの人には理解しにくいことかもしれない。
青森から函館への連絡船には、広島の原爆被災者が何人か乗っていた。話している会話から、それと知れた。広島でやられ、北海道の知りあいをたよって行く人びとらしかった。だれも青ざめて生気がなく、ぐったりと横になったままだった。私はなんとなく恐ろしく、また気の毒でならなかった。
当時は放射能をあびるとどうなるのか、だれもよく知らなかったのである。被爆者の人たちは、きっと不安だったにちがいない。からだがどうなるのか、どう手当てしたらいいのかわからないのだから。ただ、おたがいに力づけあい、はげましあっていた。
その声や光景は、時がたつにつれ、私の頭のなかで鮮明になってくる。放射能のこわさがわかるとともに、あの人たちは、その後どうなっただろう、と思い出すのである。
現代では羽田からジェット機で、札幌や釧路まであっというまに着いてしまう。先日、私はそれに乗った。しかし、海峡を見下したとき、かつての思い出がよみがえり、あの被爆者たちが快方にむかったことを祈らずにはいられなかった。
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世界ひとめぐり
地球は果たして丸いのであろうか。このような疑念を抱きはじめたということは、SFに熱中しすぎてのノイローゼの初期かもしれない。早いところこの目で確認し、治療してしまうに限る。さっそく羽田を飛び立った。
渡航自由化による外貨流出。これに水をかけるための見せしめとして、黒い手によって時限爆弾が仕掛けられているおそれ、なきにしもあらず。気にしていると機がガタンと揺れ、ひやりとした。だがこれは日付変更線を乗り越えたせいだったようだ。ハワイに着くと昨日の日付。タイム・マシンから出た気分も味わえる。一日もうけたのか損したのか、よく議論の種になるが、うやむやに終わることになっている。見物の方が大切である。
外国に着くと、時間ばかりでなく、次元のずれにも直面する。右側通行の慣習である。日本人の旅行者はキョロキョロしすぎるとの評があるが、道路横断のさい本能的に右を警戒し、あわてて左を見る。当然ではないか。これは笑うほうが失礼だ。慣れるまでに十日はかかる。
ハワイは映画で見るとおりの常夏《とこなつ》の花の島。もっとも、映画では若い男女ばかりが登場するが、現実はのそのそ歩く老夫婦の観光客が大部分。ハワイばかりでなく、これはアメリカ全部に共通した印象だった。どこにでも若者があふれているわが国と、いい対照である。もう一度日米戦争をやったら、わが国が勝ちそうだという錯覚がおこってもくる。
この現象は、親のスネをかじって遊ぶという慣習のないためらしい。ロサンゼルスのディズニーランドも同様だった。平日のせいもあったろうが、やはり他州からの旅行者らしい老夫婦が目立つ。子供の泣き声ひとつせず、老人の笑い声で満ちているこの清潔な大遊園地は、いささか異様に感じられた。
その近くにゴースト・タウンがある。直訳すれば幽霊町。幽霊との対面を期待していたのだが、古い西部の町を再現し、娯楽的要素を兼ねた民俗博物館。非常に興味深い。わが国でもディズニーランドの模造品ばかり作らず、この種のものを作るべきだ。科学ランドは趣向がすぐに古びるが、これにはその心配がなく、また観光客も喜ぶ。
ロスは着々と世界一の大都会になりつつあるが、高層建築はほとんどなく、むやみとだだっ広い。手塚治虫氏に言わせると「人間を栽培する畑」である。特徴といえば完備した自動車道路。
しかしスピードの発達は、あっという間に通りすぎる標識の地名を読みづらくしている。表音文字ローマ字の不便さだ。綴《つづ》りの最初と最後の字だけを見てすませるこつを、だれもが身につけている。すでにフリー・ウェイはFrwyと記されてある。こうなるともはや表意記号だ。文明の進歩は新しい漢字を要求している。ロスでの発見の一つだった。
あとはサンセット通りを通過すれば、見物は終わる。名所旧跡はなく、健康きわまる都市といえる。私は知りあいの一世の人に案内してもらったのだが「ディズニーランド行きは、これで二百回目だ」と打ちあけられた。観光ブームのしわ寄せである。恐縮し、その忍耐心に感嘆した。だが、そう苦痛でもないらしい。こう刺激の少ない都市では、やっかいな来客も、ひとつの楽しさであるらしい。
考えてみれば、ハリウッド人種の離婚ゴシップなども、自他をおもしろがらせるための行事なのかもしれない。これが失われたら完全に無色透明の都市になってしまいそうだ。
ニューヨークとなると世界博が話題である。飯沢匡、手塚治虫、三好徹、真鍋博の各氏と顔があい、お互いにその規模と費用の巨大さに感嘆した。だが本質をせんじつめると、コマーシャルつきの教育番組である。それを見るために延べ一億人が押しかけるのだそうだから、まさに気ちがいざただ。いや、狂っているのはこっちかもしれない。アメリカがあまりにも健全なのである。日本でも世界博をという声があるが、それを成功させるためには、ほかの刺激的な遊び場を一掃するのが先決だろう。さもないと、大欠損は確実だ。
友人の案内で数軒のバーをまわった。東京なら浅草にあたるタイムス・スクエアの裏通りである。どの店もホステスはいず、年金暮らしらしい老人客ばかり。安酒をなめながら、ぼそぼそ話しあっている。陰々滅々、はしごをするたびに酔いがさめる。楢山ムードを追い払おうと、ジューク・ボックスに貨幣を入れたら、じろりとにらまれた。これがニューヨークの典型的なバーらしい。これを異様に感じるのは、私の不健全さのためであろう。
ありふれた名所は省略し「不自由の男神」を報告する。ロックフェラー・センターにある、地球をささえているアトラスの像のことだ。女性のシリに敷かれているアメリカの男性の象徴に見えるのである。夜のグリニッチに出現するビート族も新しい観光物。妙な服装で奇声をあげているが、みな、きわめておとなしい。これならば日本の若い者は、ほとんど全部が超ビート族だ。こんなものが有名になるのだから、いかに健全かが察せられる。
E・A・ポーが三年ほど住み、多くの詩を書き、妻を失ったという家を訪れた。小公園となっている。せまい家のなかの家具には、ポーのにおいがにじんでいる。だが、そとへ出るともういけない。絵ハガキでもあるかと思って、道をへだてた食堂にはいって聞いたら「ポーって、なにをしたやつだ」といった顔をされた。しかし、健全さもこう徹底すると気持ちがいい。ポー・キャンデーなどを売っていたら、かえって幻滅である。
ポーは難をまぬかれているが、故ケネディとなるとそうはいかない。ワシントン市に行くとケネディ・ブームである。墓や未亡人邸には他州からの観光客が押し寄せ、絵ハガキやメダルや演説レコードは売店を埋めている。彼の死で利益を得たのは、どうやら観光業者のようだ。そして、墓地へ列を作る人びとの表情は、あくまで見物であって哀悼や参詣《さんけい》ではない。やはり健全さのためであろう。
さて、あこがれのCIA(中央情報局)。郊外の林の奥にあり、もちろんなかへは入れてくれない。門にはアメリカでは他で見られない「撮影禁止」の札もでている。おそらく、出入者の顔を撮《と》られたくないのだろう。ただ不思議でならないのは、ペンタゴン(国防総省)やFBI(連邦捜査局)をも容赦しないあの観光客の波が、CIAには及んでいないことだ。自分たちには直接に関係のない役所だと、割り切って考えているせいかもしれない。
国内よりも外国で話題になるという点で、わが国の禅に共通している。アメリカでは何度となく、またローマではイタリー人からも「ゼン」と呼びかけられた。そのたびに私はきょとんとし、相手は不思議がる。
健全さばかり列挙したが、黒人問題となると……。いや、やめておこう。「他国のことより、自分のとこの区会議員の心配をしたらどうだ」といわれそうだ。なにしろ、やつらは健全な常識と論理の持主なのだから。
旅の楽しさの最高は飛行機のなかにあるのではないかと思う。ひとつの都会にあきて離れ未知の土地への期待で胸がおどっている。ドンファンの気持ち、宇宙冒険物の主人公の心境だ。といったことを考えながら大西洋を越え、パリに着いたのだが、どうもいけない。あまりにも期待にそいすぎている。
東京で江戸情緒を写真にとるのは大変だが、ここではどこへカメラをむけてもパリ情緒である。セーヌ川の舟にのれば、両岸には恋人の組が適当に配置されてあり、地下鉄への地下道には、多すぎず少なすぎない程度にこじきがいる。完全無欠、文句のつけようがない。十九世紀の後半に知事であったオスマン男爵の計画の成果だそうだ。彼こそは史上最大の演出家と呼べる。さぞ楽しい作業だったにちがいない。有名な政治家、芸術家、文豪に関係のある建物を全市にちりばめ、その仕上げとして大看板娘にすえてあるのが、ルイ十四世とナポレオンの二人である。
欧米の漫画や小話には「おれはルイ十四世」とか、または「おれはナポレオン」と主張する妄想《もうそう》患者ばかりが登場する。他の症状の存在しない理由がやっとわかった。ルイ十四世のつくった壮麗なベルサイユ宮殿、赤大理石の巨大なナポレオンの棺とくらべたら、ほかは引き立て役の形である。もっとも、ルイ症状とナポ症状と医学的にいずれが重症で、いずれが多いのかの解答は知り得なかった。残念である。
パリ、そしてローマも同様だが、歴史と伝統を巧みに演出し、外国人を幻惑している術には敬服せざるをえない。見習うべき点だと思った。しかし同時に、では現在や未来はどうなんだ、という意地の悪い言葉をつぶやきたくもなる。ドゴールなどもこの点に苦悩しているのであろう。おせっかいなことだが、私としては「首都を移したらいかがです」との意見を呈したい。考えてみると、京都から東京へ首都を移したことは大英断だった。このふんぎりがつかないでいるのが仏伊両国という印象である。植民地をあれほど気前よく手放したくせに、この執着は強いものらしい。だが、うかうかしていると西独に引き離されてしまうだろう。
それにしても、パリには日本からの旅行者が多い。旅行記を書く気力が減退した。むしろ旅行記批評家という、新分野を開拓したほうが有望そうである。観光バスには、ボタンを押すと録音による日本語の説明が聞けるしかけがついている。関西弁のがあり、予期しなかったおもしろさを味わえた。
さて「パリのお店でショッピング」とは魅力あふれる文句だが、これが実に一苦労。金さえあれば語学は心配ない。問題は数学的才能のほうだ。まず値を知るためフランを円に換算してみる。そして代金を払うのはドルの小切手。トラベラーズ・チェックだと二割引きにしてくれる店が多い。つり銭はフランで渡される。その確認。頭の疲れることおびただしい。すんだとたん、ほっとして品物を忘れるという失敗をやってしまった。
足をのばしてベルギーのブリュッセルに寄った。有名な小便小僧は、横町の地蔵さまといった感じである。しかしここは、欧州原子力センターの所在地でもある。旧植民地のコンゴがウランの産出地だった関係らしい。一九五八年の万国博で建てた、原子核型の巨大な建物もある。内部は一般むけ原子力の解説展示館。程度は予想以上に高く、入場者も多い。西欧が過去の栄光に恋々としているだけでない一面に、ここで接することができた。
雑誌で見るパリやローマのカラー写真。風景に関しては真実を伝えているが、人物のほうは作りものである。パリモードやイタリアンモードは外貨獲得の輸出品、と割り切っているのだろう。ほめようのない物への苦しい賛辞に、個性的という便利な形容詞がある。シックなることばも、ちょうどそれだ。だれの服装もぱっとしない。また上品な美人を見かけることも、ほとんどない。保守的なカソリックの国民性は、良家の子女に盛り場をうろつくようなことをさせないためだそうだ。いささかがっかりし、もっと高級な問題に目をむけることにした。
たとえばキリスト教、というわけなのだが、知識はふえても本質を実感することは不可能だった。カタコンベ(地下|墓洞《ぼどう》)という遺跡がある。四世紀ごろ迫害されたキリスト教徒がローマをのがれ、郊外で文字通り地下にもぐった跡である。長野県に残る大本営用の防空ごうどころのさわぎではない。アメリカの原爆用のシェルターさえも見劣りがする。地下五層にわたって、天井の高い部屋つきの地下道が掘り抜かれている。信徒の墓や秘密の礼拝堂に使用され、全長五百キロにおよぶそうだ。東京と名古屋の間より長い。このおそるべき執念とエネルギーは、私の理解力を越えた次元での現象である。なお、このそばの寺院には、処刑後に幻となって出現したキリストの足跡が祭られてある。宗教に理屈で取り組もうとすると、てこずるばかりだ。
気分を変え、イタリーに来たのだからマフィア(一種の秘密結社)ごっこのオモチャでも買おうと思ったが、なにもない。これも国外においてのみ有名な存在らしい。消息通に聞いたら、ムソリーニに一掃されてしまった、ということだ。
ムソリーニもいいことをやっている。ナポリへの観光バスに乗ると、途中に四十五キロ一直線の道路があり、彼の名がつけられてある。彼はこの近辺の沼地を緑の農地に仕立てあげた。澄んだ小川が流れ、並み木が美しい。この道路の終わるあたりに、彼の横顔そっくりの山がある。茶目っけもあった人物らしい。しかしローマへの帰途べつな道を通ると、そこには第二次大戦で最大の激戦地だった山がある。米軍の日系部隊をはじめ無数の戦死者が出た。十字架は白い林となって山頂までおおっている。明るい空の下だけに、いっそう悲劇感が高まり、息がつまる。
このムソリーニの功罪をイタリー人がどう判定しているかは、興味ある問題だ。だが満足できる答えは得られなかった。なにしろシーザー以来の二千年の古さを持つ国民だ。彼のごとき歴史の新入生は、あと数百年かけて採点すればいい、といったような考え方をしているらしい。イタリー人はのんびりしている。それでいて経済水準が、勤勉きわまるわが国より、現在まだ上であるというのも不可解である。あるいは、結論を急がず、目先の変化を追わないことは、ある意味でひとつの生産的な要素なのかもしれない。
ところで、有名なナポリ。短時間の見物なので即断になるが、観光客を待ちかまえるクモの巣といった印象である。すさまじい物売り。わけのわからない掛け値。日本人と見ると、トランジスター・ラジオかガス・ライターを売ってくれとせがむ。景色は悪くはないのだが、それを味わうには太い神経が必要だ。ロマンチックなあこがれだけで出かけると、ナポリを見たとたんに死にたくなる。
英会話の能力を即座に倍にする方法がある。外国旅行を思案中の人にとって耳よりな話題ではないだろうか。しかも全くのでたらめではない。外国へ出ての第一日目は、もちろん緊張で舌がもつれる。だが黙っていてはどうしようもない。必要に迫られ羞恥《しゆうち》心を追い払うと、自動的に五割増しの能力が発揮されるのだ。あとの五割は身振りを加えることで増強される。テレビに英会話の番組があるが、出演者はどうして、ああそろいもそろって無表情なのだろう。世界博で見たディズニー作のロボットのほうがまだましだ。実際に接する外人は、もっと生き生きしている。海外観光やオリンピックのために一夜づけの能力を身につけたい人は、ジェスチャーという番組を見るほうがはるかに有効である。
手塚治虫氏とニューヨークを散歩しているとアメリカ人から「サボイ?」と声をかけられた。首をかしげていると、紙に画を書きはじめた。手塚氏はゴミ箱と判断し、私には日本家屋と見えた図である。しかし下部に丸が四つ書き加えられるにおよんで、やっと地下鉄《サブウェイ》の乗り場をたずねられたことがわかった。妙な気分である。旅行には英和・和英の辞書を持参したが、使ったのは一回だけ。絵ハガキに書く文章の漢字を調べるためにである。辞書よりもメモと鉛筆のほうが役に立つ。身振りや図解での失敗談はいろいろとおもしろく伝えられているが、それは、その他の場合すべて成功しているという証明だ。
語学への不安は予想ほどでないが、予想せぬ苦痛はみやげ物である。日本からの旅行者はこの強迫観念で、みなノイローゼになる。なにか買って帰らなければならないのだが、目ぼしい商品はほとんど輸入されていて、日本のデパートでも買うことができる。となるとスーベニールのたぐいだが、これまた悲しくなるほど全世界共通。エンパイヤ・ビルやエッフェル塔の模型、キー・ホルダー、寒暖計、スプーン、ワッペン……。しかも大部分が日本製、ちょっとした残酷物語だ。ローマでこれならと選んでセン抜きとヨウジ入れを買ったが、よく調べてみたら西独製だった。
それにしても世界は観光時代にはいりつつあるというのに、スーベニール産業の開発は実におくれている。新しいアイデアの品の特許権は個人やメーカーでなく一つの都市が所有すべきだと思う。またスーベニール学も今後は重要な研究テーマとなるだろう。オリンピックを当てこんで各種の品が量産されてるのだろうが、アメリカ人の観光客はなんらかの点で実用性がないと買わない、という傾向ぐらいは知っておかないと危険である。
珍品の紹介をひとつ。ニューヨークで買った品だが、コールガールの身分証明書、アル中クラブ会員証など六枚のセットである。ふざけた文章、もっともらしい書式、いかにもユーモア好きのアメリカ人が作りそうな品だ。
しかし、外貨を余して帰るのもしゃくだ、なにか買ってやろう、と不心得な心境で香港着。オリエンタル・ムードがニューヨークのチャイナタウンに劣るのは意外だった。二十四時間の滞在である。せまい島とはいえ、ひと通り見物すると、そう落着いてもいられない。物価は安いといっても高級品に限る。あわてて不用品を買うのはばかげているし、お気に召さぬ時はお取り替えにも行けない。夜景をながめながら、ゆっくり中国料理を味わうほうが賢明である。買い物は結局、万年筆一本だけにとどまった。
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ニューヨークでのこと
海外旅行の時、とくにこれといった失敗談はなかったが、ニューヨークでの勘ちがいはまだ印象に残っている。日銀のニューヨーク支店に中学時代の同級の友人が勤務している。電話をかけてあいさつすると
「よく来た。寄ってくれれば、昼食をごちそうするよ。場所はウォール街のチェイス・マンハッタン・ビルの五十八階だ」
と言う。さっそく出かけることにした。タクシーを利用しようかと思ったが、それはやめた。金もかかるし、車で街を素通りしては異国の体臭に接することができない。
地図をたよりに地下鉄を利用した。ニューヨークの地下鉄は薄汚れていて、東京や名古屋のほうが、よほど立派である。
さて、駅から地上に出ると、目の前の高いビルにチェイス・マンハッタン銀行の大きな看板が出ている。ほっとしてなかに入り、エレベーターに乗ると二十七階でおろされた。さらに上の階に行くエレベーターに乗り換えなければならない。だが、どうも見当らないのである。うろうろしていても解決しないので、近くのドアを開けると、そこは小さな事務室で二人の青年がいた。
「ちょっと伺いますが、もっと上に行くにはどうしたらいいのでしょう」
こう私が質問すると、彼らは実に異様な顔つきになった。形容しがたい表情で口もきかず、私をじっと見つめるばかり。私はいささか立腹し、また薄気味悪くもなった。仕方なく、またエレベーターで一階に戻り、そこの受付であらためて聞いた。その答えは
「日銀でしたら、もう少し先のチェイス・マンハッタン・ビルのなかです」
つまり、看板は出ていても、ここは支店だったのである。高層ビルを見なれていないと、ちょっと仰いだだけでは何階建てか見当がつかない。教えられた通りに歩きながら、今のビルをふりかえって数えると、なんと二十七階建てであった。
二人の青年が妙な顔をしたのも、むりもなかったわけだ。ビルの最上階にやってきて「もっと上に行きたい」と大まじめで主張したのだから。
欧米では想像以上に禅が話題になっているが、あるいは私のような旅行者が気づかぬうちにその種子をまいているのかもしれない。あの二人の青年も、あれ以来、会う人ごとに話題にし、宣伝につとめているのではないかと思う。「日本人は、ふしぎなことを言う。あれが禅というものだろう。じつは……」と。
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犬 山
犬山は最近かなり有名になった。修復が終わった国宝犬山城、サルの研究をするモンキー・センター、開村したばかりの明治村。この三つのためである。そして面白いのは、この三つに共通点があることだ。
第一に意義のあること。第二に大金をかけたこと。城には国家が、モンキー・センターと明治村には名古屋鉄道、すなわち名鉄が、いずれも相当な費用をつぎ込んだ。
そして第三に、どれもいささか浮世ばなれがしている点だ。つぎこんだ金がすぐさま役に立つたぐいではないのである。都会では、やれ住宅難だ、中小企業の危機だ、なんだかんだと目先のことに熱くなっている人の多い今日、こんなことに大金が使われていると知ったら、逆上する連中がいないとも限らない。しかし、そんな連中にかまっていたら、文化というものは一歩も進まない。騒音をよそに清い木曾川のほとりで、長い目で価値判断すべき事業が進行中なのは、気持ちがいいことではないか。そう考えれば、こせこせした現代における清涼鎮静剤としての、貴重な役割も浮かびあがってくる。
まず、犬山城。市の中央に急坂の丘がそそり立ち、その上に小さな城がのっかっている。宮城や名古屋城を見なれた者は、あまりのかわいらしさに驚くだろう。しかし、デモンストレーションとしてでなく、実用的な見地からすれば、大変すぐれた城といえよう。息をきらせて坂をあがり、さらに天守閣にのぼってみるとよくわかる。守るに易く、攻めるのは困難だ。
それに眺《なが》めもいい。眼下には戦災にあわなかった落着いた町並み、さらに限りなく広がる平野が見渡せる。また、近くには夕暮れ富士の称がある形のいい伊木山から、遠く雪で白い伊吹山。別な方角には、小牧山や木曾の上流の山々が連なる。この城を持つ犬山市民は幸福である。なぜなら、近代的とかいう不恰好《ぶかつこう》なタワー展望台のたぐいを作らなくていいからだ。
この城は信長の叔父の織田信康が初代城主で、あとは城主が転々としたあげく、徳川時代に成瀬正成のものとなり、以来今日に及んでいる。ということは、現在においても成瀬家の子孫の所有なのだ。だが、個人では大修理は手にあまるので、管理権を市にまかせ国費で修復された。その苦労の裏話はいろいろあったらしいが、三年がかりでそれがやっと完成したわけである。早くいえば新装開店となる。壁はまっ白に輝き、塗りは黒々、石垣《いしがき》も新しい。興亡の哀話を秘めた気分がちょっと薄い。しばらく年月がたてば、石垣も苔《こけ》むし貫禄がそなわってくることだろう。しかし、内部はひんやりとし、太い柱や陳列品には古い匂《にお》いが立ちこめ、時間の流れのよどみに身を置ける。いずれにせよ、由緒ある城の崩壊を防げ、復元できたことは喜ばしい。なお、夜間には照明が当てられ、夜空に鮮かに浮彫りになる。この美しさは一見の価値がある。
犬山城から木曾川に沿って少しさかのぼると、その珍妙さで一見の価値を有するものがある。桃太郎神社だ。桃太郎が祭ってあり、犬山という地名はお供の犬にちなんだのだというわけである。川で洗濯《せんたく》をしたお婆さんの足跡の残る石があり、夫婦仲のよかったのにあやかって、山の木は根から二本ずつ並んで伸びるそうで、事実その通りになっている。
「鬼ヶ島」から持ってきた宝をおさめた館があり、入ってみたら土器が並んでいた。キビダンゴを作ったキネやウス、鬼のツノ、さらには桃太郎のうまれた桃の化石とやらもある。ふしぎとしか言いようがない。ローマ郊外のクオ・ワディス寺院で、幻として出現したキリストの足跡の残る石を見たのを思い出した。私はこの種の、伝説にひっかけた嘘《うそ》ともつかず本当ともつかぬ現象は大好きであり、おおらかなユーモアを感じる。だが、ここの原色のペンキで彩色した桃太郎とお供や鬼のセメント像はどうかと思う。だれもが知っている絵物語であり、こうどぎつくすることはあるまい。
桃太郎の伝説が残っているほどだから、かつてはサルの生息地だったらしい。すぐそばにモンキー・センターが設置されているのもその理由からである。所員のかたに話をうかがってみる。
「設立の由来は?」
「京都大学の動物学関係者が、ウマやシカの研究をいちおう終わり、つぎにサルに焦点をむけたのです。群れとしてのサルを調べるため、ここに放し飼いをして観察をはじめました。名鉄の応援を得て財団法人モンキー・センターができました。所長以下十一名。といっても、実験室に閉じこもる研究とちがい、つねに半分は各地に出かけて生態観察をやっています」
かくして開拓されたサル学なるものでは、日本は世界で最も進み、最も高度な地位にあるそうだ。日本人のやることというと欧米のサルまねが多いが、このサル学に関してだけは例外なのだから快挙というべきだ。辺地に出かけて観察をつづけている若い研究員たちの労苦は大変なものらしいが、先駆者としての誇りと情熱があればこそであろう。しかも、米英のほうも「日本に追いつき、追い越せ」と馬力をかけてきているそうだから、なおのことである。
「サルの生活というと、ボスザルという言葉をすぐ連想しますが?」
「サルは集団的に移動するものですが、その中心になるサルです。理由なく子分をいじめることはなく、その地位争いもめったにありません」
めったにないからこそニュースになり、人間はそれを人間社会にあてはめて話題にする。ボスザルという名称は誤解をまねくから、最近はリーダーと呼ぶことにしているそうである。人間のボスのおかげで、サルのほうはいい迷惑だといったところか。
サル学の全貌《ぜんぼう》を紹介するのは不可能だから、ひとくち知識的にいくつか記す。日本のサル人口は約三万匹。日本のサルは平均気温二十度以北に住む珍しい例外種。犬とサルとは普通はお互いに無視しあうものである。雪男は手長ザルの一種ではなかろうか。サルがきらいな物はネズミとヘビだが、特にショックを与える物はサルの毛皮。サルには貯蔵本能がないから、サル酒という話はいささか怪しい。
サル対サルの争いは、早く相手の背中に組付いたほうが勝ち。勝負はそれまでで、流血に及ぶことは少ない。これによる順位が確立していて、時どき意味もなくこの行為をくりかえし、順位の確認をやっているそうだ。スポーツやゲームの発生かもしれない。二匹のサルが出あうと、強いほうの尾がしぜんに上がり、弱いほうのは下がる。礼儀の発生かもしれない。また、時には特定のなんということもない石を、サルたちが交代で舌でなめる現象も見られるそうだ。宗教の発生かもしれない。
研究者たちが最近とくに注目しているのは、ヒトリザルという現象だそうだ。オスのサルのなかに、わけもなく集団から離れて一匹だけで行動をはじめるのがある。心理学、生態学から解明が試みられているそうだ。反体制や疎外の発生ででもあろうか。
「知的興味を刺激されることばかりですね。大いに頑張《がんば》って下さい」
「若い研究者たちばかりだから、活気があります。しかし、新しい分野なので老大家がいず、予算獲得では困ります」
実力あるボスの必要性は人間社会におけるほうが大きいらしい。
さて、サルの見物をしなければならぬ。すぐそばに野猿公苑があり、山の斜面に百三十匹のサルが放し飼いになっている。注意の立札があり「逃げるな、にらむな、こわがるな」と書いてある。暴力団地区にでも迷いこんだ気分になる。だが、それほどびくびくすることはない。係員に聞いたが、餌をやり惜しんでかまれたのが、ごくたまにあった程度だそうだ。サルはかむ動物であり、ひっかく動物ではないらしく、またひとつ利口になった。
入園の客は一袋二十円のピーナッツを買い、投げ与えて楽しんでいる。若い女性などは肩に乗っかられキャーキャー叫び声をあげているが、帰ろうともしない。われわれが万物の霊長であるとの種族的偏見が充分に味わえ、まことにいい気分にひたれる。一方、サルのほうは餌をねだる時だけ人間と接触し、あとは人間を無視して自分勝手に遊んでいる。サルとはどうやらドライきわまる動物のようだ。親ザルが餌をひとりじめにし、子ザルに与えないのを見て「子供を甘やかさないのはえらい」と感心する客もあるそうだが、それはただのエゴイズムのためである。外形が似ているために気をまわしすぎという現象がおこり、そこにサルの面白さもあるわけであろう。
サルの放し飼いは、ライン・パークという名鉄経営の大遊園地の一画でもおこなわれている。ここのは外国産の種類だ。さらに、手長ザルや類人猿《るいじんえん》のも作る計画とのことだ。人間たちはサルの群れを、サルたちは人間の群れを身近に観察できるようになるのである。石などをぶつける下等人類は、ここでは徹底的に締出すように願いたいものだ。
またモンキー・アパートというのもあり、各種のサルが飼ってある。ほぼ五十種、世界でも一、二を争うバラエティーだそうだ。小さいのから大きいのまで、実にさまざま。インド産のグレーの奴《やつ》は神秘的であり、白と黒の毛の美しい奴もある。
冬になると餌を求めて、サルが町に出没し、ちょっとした騒ぎをおこすこともあるらしい。犬山城にたてこもったとか、旅館でのまじめな会合を混乱させたとか、話題は多い。しかし、町の人たちは不満を持ってはいないようだ。客を呼寄せてくれるマネキネコならぬ、マネキザルだからであろう。
ライン・パークは広く清潔で、遊戯施設も揃《そろ》っているが、旅行者にとっては特にどうということもない。ただ一つ必見のものは、猿二郎コレクション館である。豊沢猿二郎という文楽座の人が六十年にわたって蒐集《しゆうしゆう》したサルに関するコレクションであり、約一万点が陳列してある。上品な作りの建物のなかに、各種のオモチャ、民芸品からマッチのペーパー、切手に至るまでが並べられている。
同氏はその裏手に住んでおり、温厚な老人であった。氏はサル年の生まれであり、十代の時に猿二郎を襲名し、それを機会にこれに熱中しはじめたとのこと。非常にサル好きで話好きのかたである。
「これだけのことをなさるには、ほかの遊びどころではなかったでしょう」
と聞くと
「いや、私も若い頃は極道の猿二郎と呼ばれるほどでした。しかし、他の遊びはすぐ飽きましたが、サルだけはべつです」
おそるべき執念である。このコレクションは氏とともにモンキー・センターに引きとられた形で、氏は嘱託となっている。科学研究団体にしては、実に気がきいたことで、私は心から感服した。これは国外においても有名で、外人客の姿も見うけられた。
なお、この近くには瑞泉寺という寺があり、尾張随一と称する鐘楼には、左甚五郎作と伝えられるサルが彫ってある。まさにサル、サル、サル。観光客はいつのまにかサルに洗脳されたような気分になってしまう。
開村したばかりの明治村は、犬山からちょっと離れた人造湖ぞいにある。明治時代の建造物を各地から集め、保存しようというのである。意義とアイデアはすばらしく、各新聞、週刊誌などで紹介されたばかりで、今さらくわしく書いてもはじまらない。そこで、ちょっと批判的なことを記すことにする。
やはり新装開店なのである。ペンキの塗りは新しく、期待していた郷愁ムードは少ない。明治の人がさまよい出てくるのではないかとの感じは薄い。漱石邸は畳や壁が新しく、家具は何もなくガランとしている。建売り住宅のような印象を受ける。もっとも、これは私が幼年時代に本郷に住んでいて、実物を見ているための贅沢《ぜいたく》かもしれない。
私の手を引いて散歩に出た祖父は、「これが猫《ねこ》の家だよ」と言い、私は、「景気のいい猫なんだね」と答えたものだった。「吾輩は猫である」を読む前のことで、今はなつかしい思い出である。あの本郷の環境から切離されて一軒だけここに移された姿には、同情したくなるものがある。だが、近よって雨戸の戸袋などをなでていると、やはり時間を越えた感触がよみがえり、伝わってくるようであった。
そのほか古い教会、兵舎、役所などもある。しかし、どうも物足らなさを感じるのは、内部がからっぽなためのようだ。お客は建築への興味ではなく、明治の生活に触れたくて来るのである。内部の陳列品を豊富にしたらいいのではないだろうか。意義のあるものだから感心しろ、では困るのである。もっと演出にくふうがあっていいようだ。そのかわり、ここまで見物に来るからには、入場料がもっと高くてもいいのではないか。子供の遊び場とはちがうのだから。
大きなスピーカーで最新の流行歌を流している神経はわからない。レストランやみやげ物店には重点を置かない方針とかだが、遠慮することはないと思う。ただし、明治調であくまで統一し、目だけでなく、耳や舌までも含めた情緒をあふれさせてほしい。
どうも勝手な意見をのべたが、今後の充実を祈ればこそである。今は開村そうそうであり、やがては私の願い以上の村になるにちがいない。開村にまにあわせるための努力、解体、運搬、再現には新築以上のさわぎだったそうだ。また、企画を立て、実現までこぎつけた関係者と、資金の応援をした名鉄の功績は文句なしにたたえられるべきであり、私たちは長い目で見まもるべきであろう。
最後にライン下りを試みた。日本のライン川である木曾川の清流を楽しむことである。上流から小舟に乗り、犬山までほぼ一時間半。急流や淵《ふち》や奇岩が連続し、夏には絶好の行楽であろう。いまは渇水期のためか、のどかなもので、それほどのスリルはない。だが、それでいいのである。スリルが目的なら、都会で神風タクシーかジェット・コースターにでも乗ればいい。この犬山一帯は俗塵《ぞくじん》をはなれ、あわただしい時間の流れから脱出し、なにかを考え、なにかを感じるのにふさわしい地方なのである。それを求める人だけが訪れるべきであろう。
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新婚の旅
結婚をするに際し、プラネタリウムを買い切り、最良の星まわりを作りあげ、そこで挙式するという趣向を考えついた。しかし、PR臭が強すぎるように思え、やはり平凡におこなった。奇をてらうのは、小説のなかだけにとどめておくべきで、実生活に及ぼしてはいけない。
新婚旅行はまず熱海。熱海はいい。新婚さんの仲間が大勢いて目立たないし、旅館側も扱いなれている。へんぴな山奥へ出かける人もあるようだが、じろじろ見られて照れくさくはないのだろうか。
つぎの日は名古屋で乗り換え、伊勢の皇大神宮に参拝した。小学生のとき以来、二十年ぶりだ。なにごとの、おわしますかは知らねども、かたじけなさに涙こぼるる。アインシュタインの、相対性原理の解説を聞かされるときと、同じような気分である。
それはともかく、ここの神域はすがすがしい。妙なタワーもなければ、広告の看板もない。スピーカーで、流行歌を流してもいなければ、澄んだ五十鈴川には、魚がたくさんおよいでいる。
すべて、都会とは逆なのだ。また、二見ヶ浦の夫婦岩を見ておくのも、意義があるというものだ。
二日ほど志摩湾のそばですごし、紀伊半島を南にむかった。ここで思いがけぬ歓迎を受け、大満足であった。どの駅にも小旗がいっぱいに飾ってあり、音楽も流れている。
実情は、この南|廻《まわ》りの鉄道が全線開通し、そのお祝いだったのである。しかし、新婚の私たちへのお祝いと受取ったところで、べつに文句もあるまい。
勝浦ははじめて訪れた土地だが、雄大な海の眺めは印象的であった。ここのみやげ物屋で、磨《みが》いた美しい小石を買ったが、今でも私の机の上にあり、文鎮の役目をはたしている。
それから白浜をまわり、大阪から汽車で帰京した。これが私たちの、第一回の新婚旅行である。
第二回というわけでもないが、このあいだ、家内とともに世界を一周したとき
「新婚旅行ですか」
とたびたび話しかけられた。日本人は若く見られるのかもしれない。まんざら悪い気持ちでもない。
しかし、パリではショックを受けた。真鍋博と同じホテルにとまったのだが、彼はボーイから
「あの二人は、あなたのパパとママか」
と聞かれたそうである。わけがわからん。瞬時に三十年も年をとった気分である。日本人は神秘的に見られるのかもしれない。
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旅館への提案
私がまだ小学生だった頃《ころ》だから、昭和十年前後ということになるだろう。私の祖父母が、気候のいい時期を選んで毎年一回、どこかへ旅行をするのを習慣としていたことを覚えている。その行先は南房総のこともあれば、北海道、山陰、四国などのこともあった。旅先からの絵ハガキを、幼い私は楽しみに待っていたものである。また当時は各地のみやげ物も、現代のように画一化されていず、手に取って眺《なが》めていると、限りない想像をかきたてられた。しかし、戦争の影が濃くなるにつれ、いつしかそれどころではなくなってしまった。
夫婦での旅行というと、新婚旅行がまず頭に浮かぶが、老夫婦の旅もそばで見てほのぼのとするものであり、もっと盛んになっていいのではないだろうか。
海外をまわってみると、老人の観光旅行客がいやに多いのに驚かされる。これに反し、わが国では旅行というと、修学旅行の子供か、若者か、会社の団体などが多い。老夫婦という単位はあまり見られず、異端者扱いされているようだ。いい傾向とはいえないような気がする。
旅館やホテルの宣伝パンフレットが時どき送られてくるが、若人むきの設備ばかりが強調されている。ダンスホールだ、ボーリング場だ、プールだ、といったぐあいである。私は軽薄な曲を大きな音で響かすスピーカーを連想し、出かける気をくじかれてしまう。老夫婦がひっそりと旅行し、ともに長く過してきた人生を語りあう旅などはお断わり、といった印象を受けてしまう。
これらの老夫婦という客層を開発し、それを主眼とする旅館が各地に一軒ずつぐらいあってもいいのではないだろうか。そんな旅館をとまり歩きたい。べつにまだ老境に入ってはいないが、私が旅に出るのは都会の雑然さや騒音からのがれ、静かな環境に身を置きたいからである。さわがしい雰囲気《ふんいき》ならば、わざわざ旅に出なくても、東京の盛り場で充分に味わうことができる。
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勿 来
四月十九日 晴。午後、上野駅で常磐線に乗り、福島県の勿来《なこそ》にむかう。その地の青年会議所から講演をたのまれたからである。私のようなそうポピュラーでない作家を講師に呼ぶとはいささか粋狂だが、これにはわけがある。
勿来は亡父の出生地であり、父は戦前から戦後にかけて、ここの選挙区から出て代議士を数期つとめた。その名前の残影とを合計すれば、なんとか一人前の講師として通用するらしいのである。
そういえば、二ヵ月ほど前、私にこんな電話がかかってきた。福島県の飯坂温泉、そこの旅館の人からである。
「とつぜん妙なことをおたずねしますが、しばらく前におとまりいただきましたか」
「いや、ずっと行ったことはありませんが……」
と答えながら事情を聞くと、私と称して宿泊した者があったらしいとわかった。そんなことをしても、他の地ではなんの利益にもならぬだろうが、福島県では少しはいいことがあるのかもしれない。
しかし、こっちにとっては迷惑なことだ。なにをやらかしたのか気になり、好奇心も湧《わ》き、おそるおそる聞いてみた。
「どんな被害をお受けになったのですか」
「いや、財布をお忘れになったので……」
まったく変な事件である。そのニセモノ氏は私になりすまして、酒を飲みながら未来ビジョンでも展開したのであろうか。案外、本人よりも立派なことを喋《しやべ》ったかもしれない。そのあげく、いい気になって、出立の時に財布を忘れていったものとみえる。
ニセモノ氏、あとで気がついたが、取りに戻ろうにも、本人であることを証明する方法がない。泣く泣くあきらめたのであろう。その心境を察すると、おかしいやら気の毒やらで、笑いがこみあげてくる。と同時に、ちょっと残念だった。適当に答えて印鑑証明でも送ったら、財布が手に入ったかもしれない。
これを小説に仕上げたら、ユーモラスな傑作になりそうだ。だが、私は身辺のことは題材にしない主義であり、その種の描写も不馴《ふな》れである。また、なんとか書いたとしても、どうせフィクションと思われるにきまっている。
列車はすいており、のんびりと窓外の景色を楽しめた。霞ヶ浦、丘陵、海、松林、それに葉桜が点在している。久しぶりの旅である。そもそも私は大の出不精であり、めったに腰をあげない。しかし、このところ書斎の畳がえをする必要に迫られており、この際それも片づけようというわけであった。
この旅行には、いとこの鈴木俊平といっしょに出かける予定だった。彼の家はこの地方の古い酒造業、その跡取りなのだが、作家になって東京に住みついてしまった。「酒のことならまかせておけ、いくらでも飲ませてやる」との彼の言に期待を抱いていたが、あいにく急用ができてだめになり、私ひとりの旅となってしまった。
五時半ごろ勿来駅につく。ここで下車するのは、考えてみると、父の法事のとき以来である。十五年ぶりということになる。すっかり近代的な街になり、昔のなごりはほとんど残っていない。
出迎えの車に乗り、会場である新築のレストランに行った。ここの青年会議所の常連は四十名ほど。大部分は中小企業の若旦那《わかだんな》といったところである。みな育ちがよさそうでまじめで、若々しい。
平均年齢は三十一歳とかだそうだ。じつはこのことをあらかじめ確認していたからこそ、安心してやってきたのである。私は不肖の息子であるとの意識がはなはだ強く、父を知っている人の前ではなにも喋れない。これが年配の人の集まりだったら、口実を作って辞退し、絶対に出席しなかったはずである。
その点、若い人の集まりだ。父についてなにか具体的な印象を持っている者は、聴衆のなかで二人ぐらいのようだった。十五年という年月の力は偉大である。時の流れは徐々に私を解放してくれつつある。それにしても、こんな感情は神経質すぎるというべきであろうか。
JC(青年会議所)とJC《イエス・キリスト》をひっかけたブラウンの軽妙な短編などを例にあげ、想像力を主軸にした小説分野について一時間半ばかり話した。みな熱心に聞いてくれたが、小説の話を少なくし、空飛ぶ円盤のような現代の怪異や、技術革新についてもっと触れたほうが、さらに満足してもらえたかもしれない。
旅館に着く。東京から来ると、地方の小都市はじつに静かだ。また、海が近いため空気の味がいい。明日は親戚《しんせき》にあいさつに寄ったり、近くを散歩したりするつもりである。
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へんな傾向
あまり旅行はしないほうだが、五月の上旬に一週間ほど、ある雑誌の人と岩手県の見学に出かけた。まず羽田から飛行機に乗ったのはいいが、あいにくの曇天。視界ゼロの雲と雨のなかの空の旅というものは、あまりいい気持ちではない。とつぜん、なにものかが雲のなかから出現し、それと衝突するのではないだろうか。こんな被害|妄想《もうそう》的なサスペンスを、いやというほど味わいつづけた。
帰りは東北本線を利用した。その時は、しゃくにさわるほどの、おだやかな天気。
「こんなことなら、国鉄ででかけて、帰りを飛行機にすればよかった。そうすれば、空からの眺《なが》めが楽しめたのに」
と、車内で同行の人と残念がったわけである。ところが、帰って新聞を見ると、仙台空港での事故の記事が大きくのっていた。旅程を逆にしていたら、ちょうど乗っていたはずの便である。
このことを、次の日の会合で友人たちに話した。だが、友人たちは
「よかったな」
と簡単に片づけた。私のほうも
「よかったよ」
と簡単に答えて、それでおしまい。現代においては、この程度の運命の交錯では、だれもべつに驚かない。私もまた、大勢を集めて幸運祝いをする気にもなれない。いまや、みなが不感症になっている時代である。そのうち
「どこかの国で、貯蔵の水爆が暴発したそうだ。日本でなくてよかったな」
「よかったよ」
と、あっさり感情が整理されてしまうことにもなりそうだ。「なげかわしい傾向だ」と論ずる人も多いらしいが、その人たちも内心は、おそらく同じような状態にちがいないのだから、たしかに奇妙な世の中なのであろう。
この岩手の旅行のとき、陸中海岸の宮古に寄った。ここから海ぞいの道を少し北に進むと、一昨年の異常乾燥で発生した、日本史上最大の山火事のあとを見ることができる。村落も山林も、すべてが焼けた一帯である。しかし、完全な意味での丸焼けではない。小さな山の頂きに、数本の木が焼けずに残っている。
「まるで、床屋の刈り忘れのようだ。どういうわけなのです」
と聞くと、自動車の運転手は、いとも平然と教えてくれた。
「あそこに、神社があったからですよ」
目をこらすと、山頂の木にかこまれて小さな社がある。ふもとの村落を通ると、その神社の所有者という家だけが火災をまぬかれ、ほかの家々は新築なのに、一軒だけ古いままであった。
神さまのお助けとしか呼びようがなく、持ちあわせの科学知識では説明のつかない現象である。だが、あまり驚きは感じなかったし、怪奇現象という感じもうけなかった。どうにも説明のつけようがない現象でも、明確に存在してしまうと、もはや怪奇という雰囲気《ふんいき》を失うものらしい。
数年まえに、平野威馬雄さんからお聞きした話を思い出す。赤坂の豊川稲荷に、お客の持っている紙幣の番号を、見ないであてることのできる易者が、月に二回ほど店を出す。平野さんは自分で十回ほど試みてから、ある週刊誌に電話で知らせたそうである。
「珍しい能力です。とりあげる価値があるでしょう」
しかし、その答えは
「そんなことは、ニュースになりません。いまは、東京タワーが傾いているという噂《うわさ》のほうが大問題です」
とかいうことだったらしい。考えてみると、ずっと存在している易者には、だれもニュース性を感じない。大衆の要望を代表する編集者としては、たしかにこう判断するにちがいない。もっとも、その易者がニセ札の犯人をつかまえでもすれば、最大のトップ記事になるのだろうが……。
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夏の箱根
このところ、七月末から八月の初めにかけて、家族で箱根へ数日間出かけるのが毎年の例となっている。思い立ってふらりと出かける旅もいいが、夏の箱根はおいそれと旅館がとれない。年中行事ときめておいて、早く手配しておいたほうがいいのである。それに、原稿の予定もそれにあわせて調節できる。
家内が車を運転し、私と二人の娘が乗る。
私は運転の未経験者ではない。終戦のつぎの年、私は大学生だったが、なんにもすることがないので自動車の運転をやろうと思った。ぼろの小型車をかり、原っぱで動かしてみると、三十分ほどでなんとか覚えた。
そこで鮫洲の試験場へ出かけ、免許をもらったのである。当時は、試験官の前で車を動かせればそれで合格。口頭試問も、ばかにもわかるようなのが一問だけ。あとは五円を払えばそれで終わり、簡単なものであった。
いまの人が聞いたら、目を丸くしそうな話だが、その頃はそれでよかったのである。道はがらすきで、ぶつかろうにも他の車などめったになかった。人身事故だって、かんじんの歩行者もほとんどいない。
かくして、しばらく私も車を動かしていたのだが、ある日ひやりとする目にあった。私鉄の踏み切りで止まってしまったのである。電車がむこうからやってくるし、車は動かぬ。あわてて飛びおり、車を押して危機一髪ことなきを得た。
腕が未熟だったのか、車がぼろだったためかわからない。最近の車だったら、こんなことはないであろう。しかし、私はいささか運転恐怖症におちいった。
そのうち免許の更新をおこたり、今日に及んでいるしだいだ。あらためてとりなおしてもいいのだが、家内がやってくれるとなるとそれですんでしまう。といったわけで、私はハンドルを握らないのである。
小田原をすぎ、湯本から有料の新道に入る。道はすいているが、霧が濃くなる。
私は、箱根の特徴はこの霧にあるのではないかと思っている。山の姿、温泉、樹々の緑、セミの声など箱根の風物はたくさんあるが、私は霧を見ないと箱根に来た気になれないのだ。
午後の四時だというのに、車はライトをつけている。峠のへんでは、霧が渦を巻いている。私は大喜びだが、運転している家内のほうは、神経を使うらしい。
芦の湖へと下り、箱根神社をすぎ、「山のホテル」へつくと、霧はなくなった。今夜は湖水祭りで、花火大会がある。遊覧船に乗り、見物する。
山にかこまれた湖での花火大会とは、だれが考えたのかしらないが、いいアイデアだ。花火が水に反映するばかりか、音が山々で微妙に反響し、神秘的なムードを高める。
ドイツ人らしい若い旅行者の一団が「ゼン、ゼン」と話し合っている。禅のことである。欧米では、かなり禅という語が流行しているのである。
禅について、私は少しも知っていない。おそらく、禅を口にする外人だってなにも知っていないはずである。自分の常識を越えたものを「ゼン」と呼んでいるにすぎない。
わが国ではSF的という言葉がよく使われている。奇妙にモダンな住宅、ガシャガシャッと動く電子計算機、妙な装置、すべてをひっくるめてSF的と形容する。考えてみれば、なんとなくわかる便利な言葉だ。
これを逆にしたのが「ゼン」なのであろう。外国人にとっては、寺の鐘の音だろうが、鳥居の形だろうが、花火だろうが、東洋的な珍しく思えるものは、みなゼン的なのである。やはり便利な語だ。仏教の禅と結びつけ、われわれが喜んだり、やきもきしたりすることはないようだ。
家族で箱根へ避暑というと、それは優雅なことで、と言う友人が多い。だが、とんでもないことで、小さな子供二人を連れてとなると大変なさわぎ、家で原稿を書いているほうがはるかに楽だ。
たえず遊び相手になっていなければならないのである。心身ともに疲れてしまう。ブランコに乗るだの、ホテルのゲーム装置で遊ぶだの、湖の舟に乗るだのである。
舟も大型の遊覧船からモーターボート、オールでこぐボート、自転車のようにペダルで動かす舟と、各種にのりたがる。けっこう金がかかる。
芦の湖畔に湖尻という舟着場があるが、ここは散歩道が完備していて、まことにいい。林のなかの道もあるし、ひらけた眺めのいい道もある。しかも舗装されていて、花のせわも行きとどいている。観光地のなかの模範といっていい。
子供を勝手に歩かせることもできるし、車は車で歩行者の心配なく走らせることができる。これからの観光地は、車道だけでなく、いい散歩道がなければならない。
ロサンゼルスのことを思い出す。ハリウッドのそばに天文台のある丘があるが、そこにじつにいい散歩道があった。小川が流れ、岩が適当に配置され、樹がしげり、とても大都市のなかとは思えない。
ロサンゼルスは車と道路の街といっていいほどだが、それに加えてこのような散歩道を作るとは、こまかい心づかいだ。わが国も早くそうなってほしいものである。
夜になると、湖のむこうの山に、自動車道路の照明が点々と見え、美しい。また、朝になると、薄く霧のかかった湖面を、数羽の白鳥が静かに泳いでいる。
私は子供の頃から箱根にはよく来ており、いろいろな思い出がある。ロープウェイができたり、ホテルがふえたりで変化が多いが、さほど俗化していないのがいい。年一回のこの旅行の行事を、もう一回ふやしたい気にもなっている。
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4 あれこれ考える
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ペニシリン
ペニシリンという名前も、いまや新鮮な響きを失ってしまった。しかし、私およびそれ以上の年齢の者に対しては、いろいろな意味でなつかしさを感じさせるのではないだろうか。戦後のごたごたした一時期に、善悪を超越して輝いた霊薬であった。むかしの孝子物語にあらわれる朝鮮|人蔘《にんじん》の再来であり、密輸や闇《やみ》取引の王者、平和科学の象徴、性的混乱の拍車、また、あらゆる会社の工業化競争の的でもあった。だが、やがて値下げ争いに移り、ショック死のニュースで一段落する。そして次の帝王、テレビに座をゆずるのである。ここに焦点をあわせて、「ペニシリン・エイジ」といった記録を書いてみたい気にもなっている。
イギリスのフレミング博士が、青かびのまわりでは、ほかの細菌が生育しないという現象を観察した。彼は青かびが殺菌性の物質を出しているのだろうと考え、ペニシリンを発見し、ノーベル賞を得た。これは多くの人が知っていることだが、私はもう少し知っている。私は昭和二十三年に農芸化学科を卒業したが、ペニシリンが卒論のテーマだったからである。
当時ひまを見て、日本の古い学会誌を調べてみた。こんな簡単なことに、今まで、だれも気がつかなかったのだろうかと思って。学生時代には不遜《ふそん》なことを考えるものである。すると果たせるかなそれがあった。フレミング博士以前に、この現象の報告がのっていた。だが、そのひとは別な考え方をしていた。青かびが早く栄養分を吸収してしまうので、まわりの細菌が成長できないのだ、と。もうほんのちょっと、ひとひねりだけしていれば、この発見は日本のものとなっていたかもしれない。わずかではあるが大きな差。この時の強烈な印象は、いまだに忘れられない。夕陽のさしこむ静かな大学の図書室で、私はそのページをみつめつづけたものである。
卒論用として与えられた研究題目は、まことに変わっていた。ペニシリンは青かびを液体のなかで培養して製造されているが、その逆の検討である。つまり、わが国古来のコウジを作る方法のように、固形物に生育させてみたらどうか、というわけである。緑色の煙となってたちのぼる胞子や異様な臭気に悩まされたり、適当になまけたり、友人の作った怪しげなドブロクを飲んだりしながら、半年ほど単調な実験をつづけた。そして、実用にはならないという結論を得た。
これでなんとか卒業できたわけだが、私は大学院の学生として研究室に残った。とくに学問への情熱に燃えていたためではない。就職する気がしなかったからである。そのとき属した研究グループのテーマが、ちょうどこれの逆。すなわち、コウジ菌を液体内で培養し、澱粉《でんぷん》を分解する酵素ジャスターゼを生産することはできないか、というものであった。私は父が死亡したりして二年ほどで抜けてしまったが、その後この研究はつづけられ、現在では生産化されているそうである。
ペニシリンにまつわる学生時代のこれらの経験が、いまの私の性格に一つの影響を及ぼしているようである。常識の逆をすぐに検討してみたくなる癖である。あまのじゃくや反抗心といった感情的なものではなく、身についてしまった習慣と称したほうがいい。こういった傾向が、いいことか悪いことなのかはわからないし、他人にすすめようとも思わないが、私の場合は小説を書く上にいくらか役立っているらしい。
アメリカのスタージョンという作家の短編に、扇風機をぶつけられて立腹し、反射的に相手をとっつかまえ、扇風機めがけて投げつけるという性質の男が登場するのがある。ほかの小説のどんな主人公にもまして、親近感を覚える人物である。
考えてみると、ペニシリン・エイジの余波も、いろいろな形で残っているものである。
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時計とカレンダー
街を歩いていると、どうも面白くないものが目にとまる。それは時計である。銀行などのビルの外側についている、数字が電光で示される仕掛けのものである。内心、不便なものを作ったな、と感じている人は私だけではあるまい。
すべての人はその数字を眺《なが》め、つぎに頭のなかで時計の針を思い浮かべ、はじめて時刻を認識しているにちがいない。ふつうの時計にくらべて、よけいな手数がかかっているわけである。
ひとに時間をたずねたとき、何時何分と数で教えられるよりも、時計を見せてもらったほうが、はるかにピンとくる。答えだけでは満足せず、わざわざのぞきこもうとする人も多い。時間の単位が十進法になっているのならべつだが、何時まであと何分あるか、ということは、時計の針を見ながらのほうが、はるかに計算しやすい。短針の百八十度が六時間、長針だと三十分と、まったく頭を使わなくてすむ。
人類が時計を発明したことは、画期的な事件である。時間という抽象がかったわかりにくいものを、針の角度という視覚的な形に変化させるのに成功した点である。それによって、日常の生活が区分しやすくなったわけである。
人間が時間を感じるのは五官ではなく、まだはっきりしていないらしい。時間というものが実にとらえにくい存在であることは時計なしで半日もすごしてみるとすぐわかる。テレビに出てみてもよくわかる。「あと五分」「あと三分」などと書いた紙片を目の前でふりまわされても、それがどれくらいなのか、実感がわかない。腕時計をのぞくわけにもいかず、その度に冷汗をながす。
したがって、時を数字であらわそうと試みるのは、逆行としか思えない。そのうちこの調子だと、液が上下する寒暖計にかわって、数字があらわれる寒暖計も作られることと思われる。そして、これもまた実感のともなわない困った装置となるだろう。
困ったというのは、不便という点ばかりでなく、このような不便な物を作り出して、得意になっている頭についてでもある。世の中は変わった物を作り出すのに急である。まあ、婦人帽のたぐいならそれでいいのだが、新奇な物、かならずしも一段と進歩した物ではないのである。
コップや電気スタンドなど、かっこうはよくてもすぐに倒れるものが多い。吸いかけのタバコを乗せられない灰皿《はいざら》もある。優美な曲線の椅子《いす》もいいが、坐《すわ》り疲れて姿勢を変えようにも身動きのできないのは困る。踏台に使えないのは仕方ないとしても、人間はくつろぐ時には椅子の上で、各人各様じつに変わった姿勢をとりたがるものである。少し前のアメリカの「マッド」という風刺雑誌には、モダン家具を徹底的に皮肉った漫画がのっていた。家や家具の分野は、買った人の反応のあらわれ方に比較的時間がかかる。作るほうがじれったくなる気持ちもわかるが、あまり独走されては浮きあがってしまう恐れがあるようである。
ところで、再び時計にもどるが、数字式の時計を作るくらいなら、針のついたカレンダーを案出してもらいたいと思う。今日が一年のうちの、どの季節のどの位置にあるか、夏からどれくらい離れ、冬にどれくらい近づいているのか、また一月のうち、週のうち、どれくらいの所にあるか、などがいっぺんにわかるカレンダーがあると便利にちがいない。これがあると、生活に対する感覚がもっと計画的になるにちがいない。
私たちの生活は、時計の支配下の一日間は非常に計画的だが、カレンダー単位の生活については、まだそれほどでないようである。
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テレビを眺めて
テレビの出現以来、茶の間における一家|団欒《だんらん》という現象は大幅に失われた。画面を眺《なが》めるほうが忙しいからである。いいの悪いの言ってみても仕方がない。これが時の流れというものだ。悪くもないというのは、茶の間でつのつきあわせる率もまた、大きくへっているにちがいないからである。
しかし、全家庭がそうなってしまったわけではない。わずかに例外が残っている。どこにかというと、皮肉なことにテレビのホームドラマに登場する家庭である。
その人物たちは、普通ならテレビを眺めてすごすべき時間を、そんなものがあったかなと、そしらぬ顔をして生活している。老若男女すべてテレビに興味のない者ばかり、こんな家庭は現代において、きわめて異常というべきではなかろうか。
一般家庭の一家団欒を代行しなければならぬ、呪《のろ》われた運命にとりつかれた家族のわけだから、まあやむをえないことであろう。また、もしホームドラマの人物たちが食事をしながらテレビを眺めていたら、視聴者にとってこんなやりきれないことはない。おのれのみにくい姿を鏡にうつしているようなものである。
現代を舞台とした小説を読んでも、テレビ局の出てくるのはあるが、視聴している人物を描写した文にお目にかかることはめったにない。あるいは、テレビ視聴は非常に恥ずべき行為であり、良識ある作家は公然と描写するのを避けているのかもしれぬ。変な時代になったものだ。
番組製作者たちはこのところを巧妙にぼかしているのだが、一度この矛盾というかパラドックスというかを気にしはじめると、頭にひっかかってしようがない。
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碁について
碁を打ちはじめたのは大学三年の頃《ころ》である。今とちがって若さにあふれ、何かしないではいられない年齢であった。といって、世の中は今とちがって終戦後まもなくの時代で、遊ぶものなどなにもなかった。
たまたま隣の家に、等力《とうりき》さんという碁の強い人が住んでいた。私が退屈をもてあましているのを見て、母が「碁を等力さんに習ってみたら」と、すすめた。母は碁というゲームに子供の頃あこがれていたらしいが、父(すなわち私の祖父)に許されなくて、未だに残念がっている。もっとも、大正時代のことでは女の子が碁に熱中するわけにもいかなかったのであろう。そんなわけで、私に碁をすすめたわけである。
等力さんは兄弟とも大変に強い人で、弟さんのほうは現在は戸越のほうで碁会所をやっておられる。お二人とも、石の生死さえろくに知らなかった私に、ていねいに教えて下さった。私の碁が妙な自己流に固まらないですんだ点は、等力さん兄弟に習ったおかげである。「味方の強いほうに、敵を追いあげる気分で打て」という指示など、未だに身についている。「打つ場所が考えつかぬうちは、石を握るな」も同じである。
ある程度覚えてくると、だれかと打ってみたくなる。大学の友人の碁の好きなのをつかまえ、試合を求めた。等力さんに習ったおかげで、布石のあたりまでと、対局態度はまあ人並みであり、相手は目をみはった。しかしながら、悲しいことに実戦の経験がまるでない。中盤で攻め合いなどに入ると、別人の如く弱くなり、哀れをとどめた。相手はまたも目をみはったわけである。
まことに面白くないので、ひまさえあればその友人に碁の試合を求めた。卒業論文の実験などそっちのけで、最終学年をすごしてしまった。農芸化学科という理科系を出ていながら、その友人は新聞社に入社し、私は作家などになってしまった。その遠因は実験をなまけて碁に熱中したためであるかもしれない。
定石などを夢中になって覚えようとしたのもその頃である。小目に対する高目がかり、大斜などを暗記した。私の蔵書のなかで最も汚れているのは定石集である。当時は太宰治の本なども愛読したが、ボロボロさ加減では、碁の本に及ぶものはない。たえず枕《まくら》もとに置いておいた。もっとも、今では殆《ほと》んど忘れてしまっている。
有楽町のガード下にある碁会所に行きはじめたのは、昭和二十九年ごろだったろうか。はじめて入ったのがそこで、現在までほかの碁会所にはあまり行かない。大勢の客がいて、すぐに適当な相手がみつかるから、都合がよいのである。
私の親戚《しんせき》にも碁の好きなのがいるが、どうも親戚や知人と打つのは好まない。闘志がにぶるせいであろうか。その点、碁会所の見知らぬ人とやるのは、お互いに容赦しないからいい。
その碁会所にはずいぶんかよった。行くたびに石を一つずつ、ズボンの折目にかくして持ち帰っていれば、今ごろは三組ぐらい家に揃《そろ》った勘定になる。もちろん、私はそんな悪いことはしない。
行きはじめの頃は七級だったと思うが、数年のうちに二級になり、それからは上達の速度がぐっとにぶった。
有楽町の碁会所のもう一つのいい点は、銀座に近いことでもある。いいかげん疲れたところで、そこを出て映画館に入り最終回を見る。十時ごろ映画が終わり、それからバーに寄って飲み、帰宅する。このような日課をだいぶくりかえした。いま考えれば、申し分のない状態であった。私はどちらかというと、多くの友人とドンチャンさわぎをするのは好きでなく、単独行動を好むたちで、できうればこの日課を一生つづけたいものだと思っていた。
しかしながら、昨今は心に任せない事態である。結婚をしたのがその原因の一つ。独身時代のように、あまり出歩くわけにいかない。原因のもう一つ。執筆はどうしても来客が帰り、家人の寝しずまった夜中になってしまう。さればといって、昼間から碁会所に出かけては、帰ってから仕事がしたくなくなる。かくして、最近は対局回数が激減した。
佐野洋さんはよく、推理小説のエッセイに碁を引用している。ある棋士が指導碁を打った時に、形勢がいいにもかかわらず長考をした。その理由をたずねると「黒石で相手に石ドウロウを作らせたいが、それを完成させる最後の場所に置かせるにはどうしたらいいか」と答えたという話である。佐野さんは実話だと言っているが、私は小咄《こばなし》ではないかと思う。しかし、いずれにせよ佐野さんの好きそうな話である。
読者を知らず知らずのうちに、作者の思うツボに引きこんでしまう、つまり高度の技術による人工の美といった点で、佐野さんの推理小説観と一致しているようである。佐野さんと対局する時には、大いにハメ手に注意しなければなるまい。
私が碁から得る楽しさはこれとは少しちがい、盲点をついたり、つかれたりする点である。強い人からは邪道と思われるだろうが、私程度の者の碁の醍醐味《だいごみ》は奇想天外な一発を放ち、放たれるのが、最大の楽しみではないだろうか。相手に目をパチパチさせれば、私は負けたところで満足感を味わえる。
新聞の碁などで高段者の譜を眺めていると、布石や中盤で、予想もしなかった石が置かれ、それでいて盤面がひきしまる一石がある。これには外国のすぐれた短編小説を読む楽しさと共通したものがあるように思える。アメリカの新しい作家、ボーモントやスレッサーの短編に接してうなるのと同じ感情である。碁においても、小説においても、一流になるには容易なことではない。
私の書く作品は宇宙や未来が出てくるのが多い。しかし、電子計算機というものは、それほど書いていない。どうもこの機械が、碁の楽しみを人間から奪いかねないような気がして、あまり好きになれなかったせいである。
このあいだ、ある数学雑誌の座談会でその道の大家にお会いしたのを機会に、おそるおそるこの質問を呈してみた。すると、必勝の計算機を作るには碁の全部の変化、つまりほとんど無限のデータを記憶させねばならず、まあ当分は不可能とのことであった。いちおう安心したわけである。
そのうち、人間とロボットが碁を打ち、人間が勝って「そこが機械のあさはかさ」と、からかう未来小説でも書こうと思っている。
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知識と空想
大人ものをも含めて、SFへのはなはだしい誤解が広まっている。空想科学という訳語のためもあろうが「SFは科学知識の普及につくすべきだ」と主張する人が多い。なかには本心から、SFとはそういうものだと思い込んでいる人もある。
私は機会あるたびに、SFの本質はそんなものではないと主張しているのだが、啓蒙《けいもう》好きのわが国民性のためか、なかなか誤解はとけないようだ。啓蒙小説というたぐいは、他人には推薦したくなるが、自分では決して読みたくならない代物《しろもの》だ。世の中にこれほどつまらない読み物はない。SFの本質が啓蒙にあるのだったら、現在これほどまで、小説の一分野として確立しているはずがない。
かつて私の原作がテレビ化された。他の遊星人が親子三代にわたって宇宙旅行をつづけ、やっと地球にたどりつく話。最初の情熱も三代目にはすっかり消えることを風刺したものだ。だがテレビ化されたのを見て驚いた。番組の終わりに天文学者が登場し、宇宙旅行についての解説をやったのだ。どうもしっくりしない。イソップのお話のあとで、動物学者が解説をするのと同じではないか。
啓蒙の必要は私も認めるが、それならそれで小説の形などとらず、科学解説書としたほうがすっきりする。また、読む側でも理解しやすいと思う。外国に比し、わが国にはすぐれた科学解説書が少ない。いかにも副読本的で、知的興味で引きずり込むのが少ないのである。この空白をSFに押しつけられたのでは、とんでもない重荷である。
「想像力は知識よりも重要である」とはアインシュタインの言葉だが、科学の本質は合理的な思考と想像力の二点につきると思う。私はアメリカの子供向けSF漫画本を大量に蒐集《しゆうしゆう》しているが、どれも奔放をきわめている。悪魔や妖精《ようせい》、荒唐無稽《こうとうむけい》な宇宙人、怪物が続出している。科学のために物語性を無視するのでなく、物語性のためにある程度、科学のほうを犠牲にしている形である。さすがの私も首をかしげることがあるが、これでいいのだろう。未知へのあこがれをまず植えつけ、知識はあとで、との方針のようだ。
わが国とは逆だが、結果としてアメリカのほうが科学水準が上のようだから、ちょっと考えさせられる。もっともアメリカの子供漫画も、科学解説を目的とした号は、じつにわかりやすい図解をふんだんに使い、その目的をはたしている。わが国でも、解説と物語とは分離させるべきではなかろうか。原子力やロケットなど、政治や文学や感傷との関連でなければ論じられない成人ばかりふえたら、科学の進歩のブレーキにもなるだろう。
先年、晴海の博覧会に出かけたことがあった。全国の児童から募集した宇宙の空想画の展覧が同時になされ、それに大いに期待していたのだ。だがみごとに失望させられた。新聞や雑誌でおなじみの、宇宙ステーションの忠実な模写ばかりなのである。描写は上手ではあるが、そこには空想のひとかけらもない。このたぐいがずらりと並んでいる光景は、寒々とし、ぞっとするぐらい悲しいものだった。現代の子供がこんなにも夢を失っているとは知らなかった。
「最近の子供はすごい。月の火山の名前をみな知っているのがいる」など言う人がある。私にはなにがすごいのかわからない。昔の子供が東海道の駅名を暗記したのと、本質的に同じことである。こんな子供が成人したところで、偉大な創造をやるとは思えない。そんなことよりも、宇宙や未来、人類の可能性などへの強い興味とあこがれとを、漠然《ばくぜん》とした形ででもいいから持つべきであろう。
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発明の流行
このところ発明に熱中していましてね。こうだれかがいったとする。耳にしたほうは相手の顔をまじまじとみつめ、こいつ変人じゃないかと思い、内心で複雑に笑う。こういった感情を持っている人が多いのではないだろうか。
それに迎合し、発明マニアをからかったり冷笑しながら、面白おかしく書く方法もあるのだろうが、私はやらない。どうせなら、おれこそまともな標準人間だと信じこんでいる人をからかうほうが、私の趣味にあっている。少し前までは、宇宙に関心を持っているなどと口にすると、いいとしをしてパーじゃないかと思われたものだ。そんな体験があるので同情的になるのかもしれない。
聞くところによると、俳優、芸術家など各分野の知名な人のなかに、かなりの発明ファンがいるとのことだ。しかし、みなそれをかくしている。むりもない。深刻な演技をし、美しい詩を発表しても、あいつは発明狂だとの噂《うわさ》がひろまったら、人気が低下しかねない。これがわが国の環境なのである。このムードにはなんの根拠もなく、ヒノエウマや仏滅に匹敵する迷信といえよう。
なんでこんな風潮になったのだろうか。歴史を調べてみると、その原因がわかる。特許制度の起源は十四世紀の英国。工業をさかんにするため外国から技術者を呼び、ひきとめておく優遇策として、一定期間、製品の独占権を与えた。なかなか効果があり、他国もまねをしはじめたのである。
わが国では、まったく逆。徳川時代には「物品や菓子などの新規な考案を禁ずる」というおふれが出された。怪しげな考案は危険思想。この空気をひろめ、長期支配を確立した徳川のお役人は、それはそれでみごとなものだが、おかげで現在かくの如し。
ぐちはこれくらいにしよう。このあいだアメリカの「マッド」という漫画雑誌をのぞいたら、食事関係の珍発明特集として、こんなのがのっていた。サクランボの実などを入れたカクテルがある。しかし、グラスの底のそれをどうやって食べるのがエチケットなのか、だれも知らず、あんないまいましい存在はない。これをすくいあげるために、一端に小さな網をつけたマドラー(カクテルをかきまわす棒)を作ったらいいという考案だ。
また、スパゲッティを食べる時のために、フォークの下にハサミをつけ、適当に切断できるようにしたらとの考案。スープを音もたてず、すばやく一滴も残さず飲むために、スプーンの裏にストローを組合せた図もでていた。そのほか、アメリカには特許庁や弁理士を扱った漫画がずいぶんある。ということは、それだけ特許についての知識が一般に普及しているわけであろう。
だが、漫画に多いからといって、発明をたわいないものと思ったら大まちがいだ。どぎもを抜かれるような例をあげる。ルイ・マーカスという人物である。世界のオモチャ王と称せられるアメリカ人で、むかしは台湾住民の遊びからヒントを得てヨーヨーを作った。昭和初期の大流行を、年配の人は覚えておいでだろう。彼はつぎに、オーストラリア原住民の武器であるブーメランのオモチャをはやらせようとしたが、これはさほどでなかった。
そして、フィリピン人の遊びからヒントを得て、フラフープを作った。これほど短時日のうちに世界を席巻した現象は、人類史上で空前絶後だったのではないだろうか。むかしの伝染病だって、今のビートルズや007だって、足もとにも及ばない。
それでいて、日本における需要をまかなったプラスチック・メーカーは、マーカスのきびしい契約のため、ほとんど利益にあずかれなかった。マーカスひとり、もうけにもうけ、日本国内だけで何十億円という金を手にした。
ところが、困ったことにこの金をアメリカに持って帰れない。しかし、マーカスは政界の上層部に働きかけ、ついに許可をとって移してしまった。運動費やリベートが流れ、この問題をめぐって曲折があり、それが安保騒動から岸内閣退陣に至る大きな原因であったとの噂《うわさ》がある。
どこまで本当なのか、私は知らない。政界の裏話など、どうでもいい。私が興味を抱くのはマーカスの頭のほうである。いくつの脳細胞が動いてフラフープとなったのかわからないが、それが全世界をさわぎに巻き込んだのである。まさに神秘としか形容できない。
発明にまつわる神話は数多くある。先端に穴のあいたミシンの針、その発明権利者に対して、シンガー会社が毎年二十万ドルずつ払っていたという話がある。そのほか、チューインガム、安全カミソリ、コカコーラなど、気の遠くなる利益をうみだした。この種の神話にとりつかれ、熱狂的になって一生を棒にふった人のあったことは、私もみとめる。しかし、最近はようすがだいぶ変わってきている。
この変化はあるていどは発明コンサルタント豊沢豊雄氏のおかげでもある。私は氏を訪れ、話を聞いた。氏は戦後に代議士を二期つとめたが、政界から足を洗い、以後ずっと発明の大衆化運動をつづけてきた。その気持ちはよくわかる。泥沼を泳いで政界上層部に達するより、ルイ・マーカスの側に立ったほうが、どんなに気分がいいかわからない。
東京の住人は、東京12チャンネルのテレビで、氏の顔を見ることができる。この『アイデア買います』という番組は、いろいろな考案品をくらべあうショーで、氏は審査員のひとり。三角パンティとか、こじあけると「泥棒」と叫ぶ錠前とか、バラエティーにとんだ品が並び、感心させられる。
豊沢氏は各地で発明講習会を開き、何冊も本を出している。神話を近づきやすいものにし、夢にうなされた人の熱をさまし、無縁だった人の関心をよびおこし、目のつけ方、アイデアのみつけ方、それを売る方法などを知らせてきた。それによって、無一文から年一億円以上の売上げのある会社の社長になれた人が何十人、百万円以上のアイデア料を得た人が何百人、毎月数万円の収入の加わった人が何千人も出たという。眉毛《まゆげ》につばをつけたくなるような話だが、おそらく事実であろう。
たしかに、静かなブームがはじまりかけているようだ。特許庁の外郭団体である発明協会の推定によると、わが国の発明ファンの数は百万人にのぼるそうだ。べつな推定だと、六百万人という説もある。ちょっとした驚きだ。この調子だと、やがては発明に興味を持つ人が大部分になるかもしれない。そうなったら、関心のない連中を、みんなで変人あつかいしてやろうではないか。
それは冗談だが、年間の特許出願件数において、昭和二十五年ごろにはアメリカ、西独についで三位であった日本が、いまや年間三十万件と、他をはるかに引きはなし世界一となっている。もちろん豊沢氏ひとりの力ではなく、各種の原因があるわけだが、この急上昇ぶりは注目に値する。そして、現実に輸出の雑貨などで、大いに価値を発揮してもいる。たとえば、針先の箇所《かしよ》を照らす豆ランプのついたミシン。需要者の要求で輸出高が四倍にものびた。
件数の増大はいいが、これを処理する特許庁はたまらない。審査官は書類の洪水に溺《おぼ》れ、アメリカの審査官の三倍の能率をあげながら、なお五十万件の未処理をかかえている。申し訳ないが、アメリカの三倍も働いている官庁が日本にあるとは、私は今まで知らなかった。
先日の新聞には、実用新案の審査は民間にまかせ、役所の荷を軽くしようという特許法改正案のことが出ていた。さらには、実用新案の制度は廃止すべきだとの極端な主張もある。なお、特許とは新規な製品のことで、実用新案とは既存のものに改良を加えた考案のことである。しかし、この改正は反対が多く、当分は実現しそうにない。
特許庁の審査第一部長の高田忠氏も、人員不足をなげいていた。人員といっても頭かずだけ揃《そろ》えてもだめで、処理能力をそなえた人でなければならない。いいかげんな処理をしたら、あとで大変なことになる。
なんとか一人前に養成するのに、三年かかるそうだ。そのとたん、民間から引き抜きの手がのびてくる。なぜ狙《ねら》われるかというと、最近の技術革新の波で、産業界がパテントの重要性にめざめ、争って迎えるのである。特許の本質を身につけ、技術の進歩の動向を知り、アメリカの三倍の能率で働く人材なら、たしかに有用にちがいない。破格の優遇で迎えるのも当然だ。
私はひそかに考えた。利口な青年は特許庁に就職すべきだと。能力を身につけ、ゆっくりと機会を待って、民間に移るのである。最初からその会社に入るより、はるかに出世の近道ではないだろうか。
特許庁としてはいい迷惑だろうが、国家的には悪くないことのように思う。特許庁の予算を大幅にふやしたらどうだろう。優秀な大学卒が大勢集まるだろうし、民間に引き抜かれたとしても産業の向上に役立って決してむだにはならない。
しろうとの政策論を展開し、いささか恥ずかしくなったから、まじめな問題に移る。
日本と外国との質のちがいはどうであろうか。高田部長の話だと、やはり一段の差で欧米が高いそうだ。わが国のは飛躍のしかたが少なく、早いところ勝負をしないと価値のなくなるものが多い。
また、わが国の会社で外国の会社と技術提携しているのはずいぶんある。それはそれでいいのだが、外国との提携を広告宣伝に使いたがる。外国では絶対にないことである。そして、日本国内の会社どうしが技術提携をすることは、ほとんどない。島国根性で、後進国で、欧米崇拝で、仲間割れが好きで、なんとなく悲しくなってくる。
もはや戦後は終わった、産業日本の世界的水準に自信を持とう、などとだれかがいい、私たちもそう思っているが、それは外国との技術提携の上に築かれたものである。これを数字であらわせば、外国にパテント代として払う金額が年に五百億円、反対にもらう金が十七億円。ちょっと差がありすぎる。
万国博もいいし、オリンピック用に水泳選手の底辺をひろげるのもいいが、この分野の底辺をひろげるほうが大問題ではなかろうか。
特許庁の一階に発明相談所がある。はじめての人に出願書類の書式などを教えるところで、一日に六十人もの相手をし、同じような説明をくりかえさなければならないという。ここには手|廻《まわ》しよく「こういう発明は出願してもムダ」というパンフレットが用意されてあり、公知のものの主な例を記してある。
これがなかなか面白い読み物だ。マッチの軸の両端に発火薬をつけたもの。ツマヨウジ兼用のマッチ。魚がかかるとランプのつくウキ。広告文を印刷したトイレット・ペーパー。はずした王冠がくっつく磁性をおびたセンヌキ。フィルムに露出データを記録するカメラ。これはすばらしいと思ってやってきて、このパンフレットを渡されてがっかりする人も多いことだろう。
また、権利はとれても、商売にならない発明もある。痴漢におそわれた時に鳴らす小型ベル、置き忘れたら音を立ててくれるカバンなどのたぐいだ。痴漢におそわれることを予期している女性はなく、置き忘れることを念頭にカバンを買う人はない。
最初の一発で命中させる人は少ないだろうし、それでは話がうますぎるが、思いつきを育て、苦心しながら問題点を解決し、ものにした時はさぞ楽しいことであろう。SFの作品中にでてくる発明品も、作者にとってはひとつものにするのも大苦労だ。それが現実の品となったら、なみたいていのことではあるまい。私が発明家に同情的な理由は、ここにもある。しかし、この苦労と快感に魅力を感じる発明ファンはふえつつあり、女性もかなりの数になっているという。
この傾向に対し、もちろん批判もある。小さな発明をいくらやっても、技術や産業の進歩のたしにはならない。本格的な発明は、現代では技術者集団によってのみ開発されるという主張で、もっともな説である。
論点は底辺の拡大が上部の充実につながるかどうかである。釣マニヤがふえても漁業の振興には関係ないだろうし、美術ファンがふえれば偉大な画家の出現をうながすだろうか。発明はどうであろうか。断言しにくい。
しかし、かつては不便に直面すると、がまんすることで解決していた今までの国民性。それが不便ととりくみ具体的な解決をつけ、あわよくば金をもうけてやろうというまでに変化してきた。喜ぶべき現象と思う。
妻子を泣かした発明狂のイメージは過去のものになりつつある。新しい発明ファンは、高給で中小企業の嘱託になったり、主婦は商品の専属モニターになったりで、けっこううまくやっているらしい。企業のほうも、それで利益をあげている。
また、弁理士は現代で最高の収入を誇る職業だそうだ。特許庁は多忙で活気があり、七年審査官をやれば、無試験で弁理士になれる。
これがすべて、無からうまれたパテントという考案で成立っているのである。幻影のまわりで踊っているようなものじゃないかと、顔をしかめる人があるかもしれない。しかし私は、ここにこそ人類の特徴を感じる。文明だって、社会だって、しかけは同じだ。穴のなかに住んでいた原始人が、宇宙に行けるようになれたのも、このたぐいのことに熱中しつづけ、くりかえしつづけてきたからであろう。
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御中について
若い人むきの雑誌で読者からコントを募集することがあり、時たまその選考を依頼される。いくらかの誤字の存在は仕方ないことであり、文字もわりとていねいであり、作品の出来は想像以上に水準が高い。その点は喜ばしいのだが、問題は封筒の表記である。
「投稿係」とだけしか書いてないのが大部分であり「投稿係行」や「投稿係いき」や「投稿係|宛《あて》」といったたぐいがまざり、「御中」と書き加えてあるのには、まあめったにお目にかかれない。
私が古風な性格のためなのかもしれないが、それらのいい作品が、なんだかむなしく感じられてしまうのである。いつだったか、ある編集者に聞いてみたことがある。
「あて名で呼び捨てにされて、気になりませんか」
「気にしていたら、仕事になりませんよ」
子供雑誌の編集部に行ってみると、その事情がよくわかる。大量の投書はどれも「様」や「御中」なしである。そのなかには、なにかを問い合わせる往復はがきがまざっているが、往信のあて名は「○○係行」であり、自分への返信のほうのあて名が「○○様」となっていたりしている。
テレビに懸賞つきコマーシャルを出している企業でも、その担当者のところには「○○係行」というはがきが山をなしていることと思う。自分を呼び捨てにした発信人に向け、ありがたがりながら、せっせと賞品を発送している人たちの心境を聞いてみたいものだ。
おそらく、新聞社などにも「投書係行」という封筒がたくさんとどいているのではないだろうか。そして、その内容は世相の荒廃を憂え、人間はお互いにもっと尊重しあうべきだ、といったたぐいのものかもしれない。そんなのが掲載になり、読まされているのではないかと考えると、まったく複雑な気分になってしまう。
これらと逆の場合もある。ある雑誌を見ていたら「投稿は○○係御中にお送り下さい」と記してあるのがあった。その担当者の気持ちはよくわかるとはいうものの、やはり変なものである。
この現象は日ごろ最も気になってならないことなのだが、しかし私はべつに腹を立てているわけではない。本人の悪意によるものではなく、無知のためだからだ。だれも教えないからである。小学校の授業で十分間ほど費やして一回だけ教えれば、だれでもすぐ理解し、一生のあいだ身につくエチケットのはずである。だが、どういう事情かそうなってはいないらしい。
もっとも皆無ではなく、個人的な発意で生徒に注意している先生もあるようだ。私はかつてあるテレビ局の、小学校むけ理科番組に関係していたことがあった。局への投書のなかで、ある学校の児童たちからのはがきだけはみな「御中」と書き加えてあったのである。このような先生についた児童は幸福である。社会へ出てから恥をかくことが一回だけ少なくてすむからだ。
といったことを気にしながら考えつづけているうちに、ひとつの仮定を思いついた。書いている当人たちは、係という字を敬称の一種と信じているのではないだろうか。社長とか部長とかの語を敬称と思っている人は多く、その理屈をおし進めると、係も同様という結論になるのである。
たしかに会話の場合には、ことの正否はべつとして、社長のあとに「様」や「さん」をつけないことが多く、そのほうがスマートでもある。それが文字の面にも及びはじめているのかもしれない。
あるいは、係という字が現実に敬称として定着しつつあるのが時の流れなのかもしれない。
「そのとおりだ」と国語審議会が発表してくれれば、私もさっぱりするのだが、そんな問題は討議してくれない機関のようである。
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映画「鳥」を見て
残酷映画とやらにはあまり関心がないが、恐怖映画となると大いに興味がわいてくる。この二つのちがいを、私は自分なりに次のごとくつけている。残酷とは、肉体的なものにしろ、心理的なものにしろ、常識内での出来事である。
これに反し、恐怖は常識外の出来事であろう。私たちの日常は、生活も精神もすべて規格品によって占められている。これは便利で必要なことにはちがいないが、同時に、規格外の存在は許されない、ありえないのだ、という信仰を持つに至ってしまう。
ヒチコックの「鳥」は来襲だから、数が多いから、また不意の事件だからこわいのではない。常識外の現象だから恐怖なのである。私たちは「鳥」を見ながら知識を動員し、なにかと関連づけようと努める。しかし、あてはまるモノサシの持ちあわせのないことに気がつき、そこではじめて真の意味での恐怖を味わう。寓意《ぐうい》などがちらつくようでは、純粋な恐怖ではない。
政治や思想、科学や文学、スポーツや恋愛法、さらには、もろもろの通念とか称するたぐい。いずれも人間の作った数の知れた規格の型である。「鳥」はこれらのそとにある無限のバラエティーの一端を、ちらりとのぞかせてくれた。常識のべッドで安眠中、一瞬ゆり起されたような状態である。だが、人はそのことのほうを悪夢として片づけたがるものだ。
すぐに寓意を求めようとする私たち人間を主人公にした、皮肉きわまる寓話と呼ぶべきではなかろうか。
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女性への三つの意見
私がもっぱら書いている小説は、空想的な分野である。宇宙人、ロボット、悪魔、幽霊のたぐいはよく登場させるが、熱烈な恋愛はめったにあらわれない。他の作家とちがって、女性研究に頭を使わなくてもすむ。この点、しごく気楽である。したがって、観察も浅く、女性に関してあまり発言する資格もないわけだが、思いついた意見を三つほどあげてみることにする。
まず、ヘア・スタイルの問題。現在の型が悪いというのではなく、流行のままに、あまりに画一的すぎるような気がしてならないのである。外国婦人の場合なら、画一的でもかまわない。なぜなら、ブロンドだの、赤っぽいのだの、さまざまな色彩の変化があるからである。しかし、日本人の髪は黒一色。だからこそ、各人が特に心がけて、個性を発揮し、バラエティーにとんだヘア・スタイルにくふうをこらす必要がありそうだ。
そんなことが原因になっているのだろうが、私はパーマをあまり好まない。これは私ばかりでもなさそうだ。なにかの雑誌で読んだ統計だが、若い男性の多くは長い髪の女性にひかれる、との報告がでていた。ちょっと古風で純情という感じを受けるからであろう。
男の好みが保守的で封建的のせいもあろうが、映画やテレビ・ドラマの影響でもある。登場する女性のうち、長髪のほうは純情な役で、パーマのほうはドライな役という定型ができている。その逆はあまりないようだ。どうも安易きわまる手法だが、たえずくりかえされると印象が定着すること、コマーシャルと同様といえよう。
パーマのほうがたしかに活動的ではあろうが、男性獲得のためには考慮があってしかるべしである。じつを言うと、私が家内と結婚する決意を持つに至ったのは、彼女の髪が長かったことがその理由の一つである。短かったらしなかったにちがいない。思わぬ時に思わぬ影響があらわれるものだ。
さて、第二はユーモアの問題である。ユーモア不足の点では、わが国では男性だってあまり威張れたものではないが、やはり女性において著しいようだ。
新聞や雑誌などに女性の投稿が多くのるようになったのはいい傾向である。どれも目のつけどころは悪くないし、文章も洗練されている。しかし、深刻なのや、憤るのや、しみじみした調子のものばかりで、笑いをもたらしてくれるものには、あまりお目にかからない。
アメリカの雑誌にもよく婦人の投稿がのっているが、ユーモラスなものが多い。個人用の日記ならべつだが、他人の目に触れるために発表するのだから、ここを考えて欲しいものである。書いた本人だけが満足しているだけでは困る。読んだ相手を楽しませ、それで自分も満足するという気持ちが底になくてはならない。
しかし、最近は若い女性もけっこう男性を笑わせる術を身につけてきたようだし、将来に期待すべきだろう。主婦の投書にユーモアがあらわれはじめたら、それは各家庭に精神的な余裕ができたバロメーターであり、名実ともに先進国となれるわけである。
第三には教育の問題である。ちかごろは女性の大学進学がさかんになった。文学部などは、女性が大部分を占めている学校が多いそうだ。これもまた喜ぶべき現象であろう。
しかし、そこで学んだことが、あとでどの程度に活用されているのだろうか。結婚と同時に、すっかり縁を切ってしまう人が多いように思えてならない。卒業してから結婚するまでの数年間の会社づとめ。それだけに役立たせるとしたら、おそるべき無駄《むだ》である。学問というものは、教えるにも習うにも、けっこうエネルギーがいる。また、費用もかかる。日本じゅうで合計したら、相当な量になるだろう。それがあまり役に立つことなく、どこかに失われてしまうとしたら、もったいないことだ。
といっても、私は女性の進学反対を主張しているわけではない。家庭の主婦におさまってからも、細々でもいいから学校で興味を持ったことを延長させることはできないものだろうか。生活が合理化されるにつれ、レジャーがうまれる。それを娯楽に費やすのも、もちろんいいが、自己を発展させることにも、また、別種の面白さがあるはずだ。
長い一生である。それをつづけているうちには、思わぬ収穫があり、社会への貢献もなしうるかもしれない。
わが子に対する教育熱心の母親が多くなったらしい。「勉強せよ、勉強せよ」とせきたてるのが、よく問題にされている。人間の本質は怠け者だから、その必要はあるだろう。しかし、母親自身がなにか対象を持ち、知的な自己開発の楽しみを味わっている姿を示すほうが、子供に対してははるかに効果があるのではないだろうか。話が抽象的になってしまったが、これは私が書斎にとじこもってばかりいるせいである。
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レジャーの問題
レジャーのスペルを調べようとして、はたと困った。和英の辞書のどの語をひけばいいのかわからないのである。だが、なんとかたどりつきレジャーの項目をみると、ひまでぼそっとしている状態のことらしい。となると、レジャー・センターとはのんびりした人が集まり、あくびコンクールでもやっている場所のはずなのだが、あにはからんや、人びとは必死の表情で、せかせかとパチンコなどのゲームにはげんでいる。
先日、私の書斎にある小型テレビが故障を起した。もう一台あるのだが、妻子とチャンネル争いをするのも大人げない。かくして十日ほどの無テレビ生活を体験した。最初は、この精神的絶食によって生活のリズムが乱れ、禁断症状でもおこりはせぬかと心配だったが、現実には逆だった。
原稿の能率はあがるし、読書量はふえるし、いいことのほうが多い。テレビは現代生活に不可欠なものだとの説がある。たしかにちょっとした装置にはちがいないが、なくたってべつにどうということもないようだ。
人びとは年に数回、テレビなしの生活をすべきである。といっても、それは容易でない。そこで私は、ある装置を思いついた。スプレー入りのペンキである。シュッと吹きつけると、ブラウン管の表面にくっつき、画像が見えなくなるのである。このペンキは特殊なもので、十日間は絶対にとれないというものにしておく。
意外と需要があるかもしれない。私の如くなすべき仕事がありながら自制心のない男とか、受験日を控えた子供のある家とかがけっこう買うにちがいない。そして、その十日間に、なにかしらプラスをもたらしてくれるだろう。
本を読み疲れると、することがなくなった。本来の意味のレジャー状態である。そのうち私は、人生とはなんであろうかといった、きわめて高尚なことを考えはじめているのに気づき、われながら驚いた。ひまが思索をうみ、人類文化はこんなところから向上してきたのかもしれぬ。忙しく動きまわりながら深く考えることは、人間にはできない。
ゲームや行楽に私たちが熱狂的なエネルギーをそそぐ愚かさについては、多くの人が指摘している。そろそろ、その分析がなされていい頃ではないか。乞食《こじき》が馬をもらったように、レジャーの扱い方がわからず、なれていないためかもしれない。よく学びよく遊べのことわざのように、ぼそっとしているのを罪悪と感じる国民性のためかもしれない。ぼんやり考えていると、からだでも悪いのか、自殺でもしやしないか、犯罪計画でもねっているのかと思われかねないのが一般である。
娯楽産業連合が裏面工作をし、その風潮を助長し、遊ばざる者は生きるべからず、との社会体制を作りあげてしまった。いまや一億みなレジャー教の信者である。理屈は言うな、熱烈に遊べば至高の幸福にたどりつけるというのが教義。信じないとばちが当たる。ぼんやりしていると、なんとなく良心がとがめるのである。やがては、レジャーを遊びに費やすことが、納税や投票とともに国民の三大義務となるかもしれない。
そうはいうものの、いわゆるレジャーにも限界があるのではないだろうか。私は昨年の夏に北海道へ旅行したが、知床半島へのバスのなかで、一団の学生のなかのひとりが「もうあきた。どこへ行っても森と湖と牧場があるだけだ」とねをあげていた。他の客が顔をしかめるような放言だったが、考えてみれば、まったくその通り。実感である。
北海道などまだいいほうだが、独特の観光地などあるだろうか。完備されてきた自動車道路と、新築の旅館。旅館には規格化された食事と、みやげ物売場と、娯楽室とがくっついている。どこへ行っても大差ないのだ。
「しかし、ほかにすることがないじゃないか」と反論されるかもしれない。いったい、なぜなにかをしなければならぬのか。することがなければ、しなければいいではないか。スポーツをやるのはいいことかもしれないが、散発的にやって、はたしてどれだけの効果があるだろう。これで健康が保てるとの幻覚が得られるだけだ。
なんにもしないでいれば、思いがけない発見が得られる。ちょうど、夕食の時の突然の停電で、予期しなかった一家だんらんが現出したりするように。金銭では買えない収穫がある。
それなのに、多くの人は無為の時間をきらう。それは不安のためであろう。一日を働くか遊ぶかで埋めつくさないと不安なのである。空白への恐怖。自己を直視するのをさけたがっている。なにもやましい点はないのに。けっこう面白いことなのに。
しかし、やがては外向的娯楽の限界に気づき、画一性にあき、内向的なものへとむかうこととなろう。レジャー利用の先進国アメリカで禅などが流行するのも、このひとつのあらわれかもしれない。観光地を自己の内面に求めて旅をするのである。もちろん内面が空虚で観光資源にとぼしい人もあり、そんな連中が幻想薬のLSDにたよるわけであろう。
いずれにせよ現在の私たちは、レジャー利用があまりに外向的娯楽に偏しているように思えてならないのである。
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都市について
北欧に住むレミングというネズミに似た小動物は不可解な習性を持っている。ある時とつぜん集団行動をおこし、群れをなして海へ押し寄せ、つぎつぎに溺《おぼ》れ死んでしまうのだ。しかし、これと同じ現象は私たちのまわりでも進行中である。二十年ほど前には二百五十万の人口にすぎなかった東京が、今では四倍以上になってしまった。そして、とどまるところを知らない。レミングを下等動物と笑うわけにいかなくなる。
先日の新聞に、富士山周辺に国会、中央官庁、国際会議場、大学院などを移したらとの意見が報道されていた。はたして災害や気象といった点からも最適地なのかどうかは、この地方に利害関係のない専門家たちの検討に任せるべきだが、首都の移転や分散はみながもっと関心を集中していい問題のように思われる。都民としては断水や事故、騒音やスモッグの減少がもたらされるのなら、首都をよそへ移されても愛惜の念を持たない人が多いのではないだろうか。昨今は政治家から小学生まですべてに「目先には敏感だが大局的な思考がない」との批判が当てはまるようだが、当人たちに罪はない。大都会というごたごたした環境の責任である。進駐軍はいろいろなものを押しつけていったのに、なぜ都市計画だけは押しつけてくれなかったのかと、うらめしくなるほどである。
交通難のためローマではついに車両の昼間の通行が禁止された。最近の外電と思う人もあるかもしれないが、二千年前のシーザー治下の記録である。車が利用されはじめて以来、いかに改造を重ねても混雑をまぬかれ得た都市は存在しなかった。これは全部のビルを脚柱で持ちあげ、地面をすべて道路と駐車場にしても解決できない計算になるそうだ。
アメリカは都市づくりの先進国のはずだが、都市のマンモス化の恐怖はだれもが予感しているとみえ、SFには未来都市の悲惨な光景がよく登場してくる。たとえば、発ガン性物質の濃い空気のなかで人びとは鼻にフィルターをつけ、ただ医療費をかせぐためにのみ働いている生活。あるいは、交通の取り締まりが手におえなくなり、ひき逃げの犯人にはリンチが公然と許される話。また、自分の一生のみか幼い息子の将来の給料まで担保に入れ、わけもなく消費しつづける主人公もある。異常者ばかりがうろついている街。一斉停電とか急性伝染病のたぐいで、昔なら予想もしなかった大混乱に発展する小説も多い。いくらかましなのには、電子計算機の指示で整然と行動する毎日をくりかえす話もあるが、これとても生きている実感のない点では同じであろう。こんなにまでしても都会に集まらなければならないのだろうか。
もっともSFのなかには、読んですがすがしくなる作品もある。シマックという作家の長編「都市」は、都市の消滅した未来を描いている。人びとは田園に散り、警官たちがさびれた街のあき家を焼き払う時代のことだ。単なる夢物語としてではない。すなわち、ヘリコプターによる通勤が普及し、いっぽう食料生産が工業化されて農地が不要になり、安価な住宅地に変わる。こうなればだれが都会に住むものか、というのである。さらに核ミサイルは目標とすべき密集地帯がないため、はじめて平和が訪れるというおまけもついている。
考えてみると、この条件はすでにととのいかけてもいるわけである。東海道新幹線は東京と大阪を三時間で結んだ。浜松あたりなら通勤してもおかしくない時間だ。テレビにより瞬間にニュースを知りうることはいうまでもないし、電話の全国ダイヤル即時通話もまぢかい。写真や書類を電送する事務器も普及しつつある。新聞を各家庭に電送する方法も、近い将来には実現しそうである。こんな時代にビジネスセンターとしてビルが密集しているのは、科学という宝の持ちぐされとも言える。現代の百キロは昔の五キロよりもはるかに近い距離となっているのだが、その現実がのみこめないだけなのかもしれない。
頭の固まった老人は仕方ないとして次代の若い者に期待したい、と言いたいところだが、これもまた心もとない。子供雑誌の口絵を開くと、毎号のように「夢の未来都市」と称する怪しげな図が、真に迫って美しく印刷されてある。のせる側もこれに疑問をいだかず、見る側は無批判となると、都市集中の暗示は高まるばかり。まさにレミングの自殺行進と同じである。
しかし、先頭に立つ者が気がつきさえすれば、都市の分散へと方向転換することは、そう困難ではないように思える。まず交通網と通信網を整備し、政府関係が率先して移る。つぎに都会の最大の魅力、刺激的な遊び場を一掃し「どこに住んでも同じことだ」という気分をひろめる。そうなれば計画は案外簡単に進行しはじめるかもしれない。
ベルギーを旅行した時、あまりの閑散さに「これが日本より人口密度の高い国か」と、信じられない気分だった。だが、わが国をそう変えることも決して不可能ではないはずだ。といっても、都会に集まって押しあいへしあい、付和雷同することのほうに生きがいを覚えるのが私たちの国民性であるとしたら、これは問題外、どうしようもないことである。
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怪談のたぐい
夜中におきて便所にゆくとき、時間のことを考えないように。もし、ふと「何時かな」と考えたりすると、うしろから「二時だよ」と声が聞えてくることがあるから。
これは私の好きな怪談のひとつ。たとえ声がしたって、生命財産に影響はないが、なんとなくこわい。ありえなくて、いかにもおこりそうなところが、なんともいえない。
怪談ばかりでなく、ぞっとするような経験談も好きだ。バーに行っても、女の子たちにそんな話を聞きまわる。こんなお客は少ないらしく、いささか変人と思われるが、それでも彼女たちはエロチックな話題には食傷しているのか、いろいろと珍しい話をしてくれる。
「人魂にあったとき、呼んじゃいけないって言われてるけど、やってみたことがあるのよ。来い、来いって言ったら、スーッと飛んできて。あの時はあわてたわ。あれが足の間をすりぬけたら、大変なんですって」とか「夜、空家に鏡を持ってって、ロウソクの灯でのぞくと、自分の未来の姿が見えるのよ。伯母がやって、その通りになったわ。私も田舎にいた時、やってみたらね……」
私はこんな話を聞きながら、えつに入って酒を飲むわけである。新聞は事故や泥棒ばかりのせて、どうしてこんな記事をのせてくれないのだろう。多くの人びとはずいぶん奇妙な経験をしている。じつにうらやましい。好きな私には、残念ながら、こんなぞっとするような経験がないのだ。だが、ひとつだけ、どうも割りきれないことがある。
しばらく前だが、テレビの仕事のため家を出ようとした時、見知らぬ青年がたずねてきた。
「どなたです」と聞くと
「こちら星さんでしょう。さきほどお電話したT大学の大村という者ですが」
「電話だって。知らないな。それに、電話があったのなら、きょうは用事があるから、そう言ったはずだよ」
すると、相手の青年も首をかしげ
「おかしいな。二時間まえに電話したときには、ここへの道順を教えて下さったじゃありませんか」
と、うそをついている様子もない。だが、その時刻なら、私は電話機のそばの机にむかっていたが、そんな記憶はない。
「いずれにしろ、きょうはテレビ局の本番に行かなくてはならない。悪いけど、あしたにでも」
と、ふしんげな青年をあとにタクシーに乗ったが、どうも少し薄気味がわるい。
もしかしたら、番号ちがいでかかった先で、いいかげんに答えたのでは。だが、道順を教えることなど、できはしまい。局の仕事が終わって、さっそくこのことを話題にすると
「そいつは一種の精神病さ。自分で空想したことを、事実と思いこんでしまっているのだ。よくあるよ」といとも簡単に片づけられた。
なるほど、それならありうることだろうと、いくらか不安も薄らいだ。そのご、その青年はやってこないので、こう解釈しておく以外にはなさそうである。
しかし、時どき思い出して、こう考えてみることもある。やはり電話はかかってきて、私が道順を教えたのではなかったのかと。人間にはだれにも、一日のうちに何十秒か何分かの短い、精神の空白の時間というものがあって、その間のことは、全く記憶に残らないのではないかと。
社会が複雑化するにつれ、頭を使うことが格段にふえる。そうなると、小さな着物を着た時ツンツルテンになってどこかにハダがでてしまうように、精神活動も一日じゅう連続できなくなり、切れ目ができはじめるのではないだろうか。そして、この空白の時間というものは、気がつかぬうちに、すべての人において、少しずつ長くなっているのではないだろうか。
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宇宙不感症
人間が初めて宇宙散歩に成功したとの大々的なニュースに接した。だが私はべつに興奮もしなかった。少しは感激しないと悪いような気がしたが、この種の光景は映画やテレビですでにおなじみ。もっとすごい場面に何度も感情移入をくりかえしてきているので、今さらどうということもない。
また、こんなことであわてるようでは、SFを商売としていられるわけがない。死者に対して平然としていられる坊さん、裸の女性を見ても驚かない婦人科医のようなものであろうか。私は六年ほど前から、いつ現実となってもいいように、太陽系内を舞台とする宇宙小説は書かない方針をたてている。そもそもSFとは、科学の進歩のおそさにもどかしさを感じた先人たちが作り出した分野である。この精神を忘れたら失格であろう。ウェルズやベルヌ以来、一貫して流れる基調であり、大げさに驚いてみせる科学解説物語とは根本的にちがうのである。
電話をかけてきて私に感想を求めた人があった。お座なりの文句がすぐに浮かばず、つい正直に答えてしまった。相手も困ったらしく
「少しは驚いてくれませんか」
「申しわけがないが、こればかりは」
喜怒哀楽ならつごうできるが、驚きとなると不可能だ。ふと世界一周をした時のことを思い出した。はじめてロサンゼルスに着いた時は何を見ても驚きだったが、アメリカからヨーロッパに渡るころはもうなれて、ある都市では案内してくれた友人に「もっと驚いてくれよ」とさいそくされるしまつだった。西まわりの一周だったら、ロサンゼルスの知人に同じさいそくをされたにちがいない。
これは私ばかりでなく、大多数の人の感情なのではないだろうか。前ぶれのなかった人工衛星第一号とガガーリンの時には感嘆しなかったら異常であろう。しかし、プログラムが順調に進展している途中で驚きつづける者があるとすれば、これまた異常ではないだろうか。つぎに本当に驚くのは、月や火星からなにか新発見がもたらされた時である。それと、おこってはほしくないが不幸な事故が発生した場合であろう。
事実、このニュースで衝撃を覚えた人が、わが国にはたしてどれぐらいいただろう。子供のなかには、人類はとっくに月に到達していると思いこんでいる者が多い。科学関係者は技術的な点で興味は感じても、飛び上がったりはしまい。老人はあまり関心がなく、女性はなにごとにも驚かないものであり、中年の男性は他のことに忙しすぎる。つまり、だれも驚かなかったわけで、平然としていたことで良心をとがめる必要はないのである。
といって、私が奇をてらって宇宙進出を冷笑し、けちをつけているのではない。かえって、これが正常でいい傾向だと思っている。人類の宇宙発展という大事業が日常化しつつある証拠だからだ。むしろ、競争意識で神経過敏になり、一喜一憂して大さわぎをする米ソの国民のほうが特殊といえそうだ。これに巻きこまれることはない。
驚きというものは同一路線の延長上には存在しない。別な新しい次元に接した時の感情だ。たとえば、各国が持ちよった主張や資料をもとに、電子計算機がベトナム問題解決法をみごとに算出したとしたら、これは相当なショックだろうが……。
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コマーシャル
こんな江戸|小咄《こばなし》がある。
男が押入れの奥に貧乏神をみつけた。叩《たた》き出そうとすると、貧乏神は頭をさげ
「追い出さないで下さい。そのかわり私を庭のすみに祭って下されば、大もうけをさせてさしあげます」
とても信じられないと思いながらも、貧乏神大明神を祭ると、大勢の参拝者がきて、おさいせんをあげる。ふしぎがって聞くと、貧乏神は
「参拝に来ないとこっちから押しかけるというビラをくばりました」
私の知る限りで、コマーシャルの極致である。
SFにはよく途方もないコマーシャルがでてくる。空の星を動かして商品名に並べてしまうという雄大なものから、すきまなくCM網を張りめぐらすという手のこんだのまである。これは、朝ベッドをおりると、それでスイッチが入ってCMが流れ出し、ヒゲをそるカミソリからCMが流れ出し、蛇口《じやぐち》をひねってもガラスにふれても、といった調子なのだ。全人類がCM中毒になった形である。
このあいだ私は、友人のSF作家の小松左京氏とこんな計画を話しあった。南米へ出かけ、亡命しているかもしれないヒトラーを探し出そうというのだ。もちろん、CMタレントとして売り込むためである。演説の天才だったそうだから、相当な効果をあげて働いてくれるだろう。
さらに空想を飛躍させ、タイム・マシンを完成しさえすれば、もっとすごいことになる。聖徳太子や小野小町、徳川家康からジェームス・ディーンに至るまで、なんとか交渉してCMを喋《しやべ》らせる。効果絶大、うけるにちがいない。だれをどの産業むけに使うかは、みなさまの想像におまかせする。
タイム・マシンは不可能としても、ラジオなら声だけでいいから、霊媒を利用すればすむかもしれない。マリリン・モンローの霊を呼び出し、「心残りなのは、シャネルのかおりをかげないことだけよ……」といわせれば……。
最後にたいへん現実的な希望をひとつ。どこかでこんなCMをやらないだろうか。
「当社の製品への苦情は、ご遠慮なくお申し出下さい。一時間以内に係員が参上し、解決いたします……」
そして、電話番号をくりかえすのだ。こういいきれる社があったら、私は即座にファンになるだろう。とくに、電気製品は、その社以外のは絶対に買わなくなるだろう。他社がいかに費用をかけ、美辞麗句をあやつったCMをやってもたちうちはできまい。
冷静に考えれば、これこそ現代における理想のコマーシャルと称すべきではないだろうか。
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根付け
とくに趣味として熱中しているわけでもないが、私は根付けに興味を持っている。江戸時代に流行した小さな彫刻品のことで、印籠《いんろう》や煙草《たばこ》入れの紐《ひも》につけ、帯にはさむのに使用された。今日でも女の子たちが、財布に小さなコケシなどをつけているが、そのたぐいである。さらに現代的な形容をすれば、キー・ホルダーといったところであろうか。現に私の弟は、これに自動車のキーをつけて使っている。
ほぼ三十ぐらいを所有している。動物の形のが多いが、十二支にちなんだためだろう。だが、カエルやツルベなどもあり、バラエティーが多い。なかでも「出目」と作者の銘の入ったハンニャの面、「正直」の銘の入った猫《ねこ》は、精巧をきわめ、ほれぼれする作品である。また長い舌の出る三番叟《さんばそう》、じゃれあっている犬もあり、すべてに共通する特徴として、ユーモラスと機智《きち》が感じられる。泰平のつづいた江戸時代の庶民の気質がしのばれる。手の上にのせて眺《なが》めていると、この持主はどんな商売で、どんな人柄だったのだろうと、空想が限りなく湧《わ》いてきて、まことに楽しい。
もう一つの特徴は、作りが実にていねいな点である。普通では見えない部分にまで、丹念《たんねん》に手が加えられている。製作者の職人気質のせいだろうか、買うほうの要求のためだろうか。おそらく、両方が原因だったにちがいない。日本人の凝り性は、鎖国によってエネルギーの外部への発散が閉ざされ、細部に集中したために形成されたという説があるが、根付けを見ていると、なるほどという点がないでもない。
「根付けとはまた、SF作家にふさわしくない物を趣味にしたな」と、時どき来客に評される。根付けへの興味は祖父の影響で、幼時からのものなのだ。このコレクションも祖父の形見をもととして買い足したわけである。
子供の頃は本郷駒込の曙町に住んでいた。祖父は私たち孫を、団子坂の縁日などによく連れていってくれた。名物の菊人形の美しかったことは、いまだに印象に残っている。道ばたに店を出している古道具屋を相手に、祖父が話しているのを聞いて、ニュウという言葉も覚えてしまった。道具類のキズのことで、これを題にした落語がある。茶席に招かれた半可通の与太郎が、口のなかを火傷し「口にニュウができた」というのがオチで、あまり一般的な用語ではない。私もそれと、ちょうど同じような失敗をやり、笑われてしまったことの記憶がある。
根付けを取り出すたびに、この祖父のこともなつかしく思い出される。この蒐集《しゆうしゆう》をさらにふやしたいと思い、骨董《こつとう》店などに寄ることもあるが、最近は目ぼしいのが、めっきり少なくなってしまったようである。
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百 年
そもそも、百年とはどれくらいの長さなのだろうか。まずそれをよく知らなければならないのだが、これが意外とやっかいである。
各国それぞれ、民族や国情によって、受取り方が大いにちがっているはずである。南太平洋やハワイのように、年間の気温がほとんど一定の地方では、季節感がなく、したがって一年という単位など頭で理解しているだけではないだろうか。
また、未開の原住民のなかには、日時の計算がタブーとなっているのがあるという。元旦も紀元節も革命記念日もありえない。こう徹底すればさぞすがすがしいことだろうが、そのかわり文明も進歩しない。文明とは計算である。
計算といえば金銭である。数字を見ると、だれしも無意識のうちに金銭の単位をつけてみたくなる。数という抽象的なものを、具体的な形で感受しようとする本能であろう。
百という数字から、日本人はまず百円を連想し、アメリカ人は百ドルを連想し、イギリス人は百ポンドを連想するのではないだろうか。使いでの点で、だいぶ差がある。タクシーに乗るにしても、百円分と百ドル分と百ポンド分とでは、距離にけっこう差がある。金銭単位を年におきかえた場合でも、これに似た感覚の差があるように思える。
銀河が一回転するのには、二億年かかるそうだ。戦前の子供の頃にそれを知った時、私は気の遠くなるような悠久《ゆうきゆう》さを感じたものだが、億や兆という数が毎日のように新聞にあらわれる今日では、心が少しも動かない。たったの二億か、である。インフレのおかげで銀河も安っぽくなったものだ。米英の人たちは銀河に対して、私たち以上に悠久さや神秘さを感じているのではないだろうか。この見地から、私はデノミネーション賛成論者である。
それでなくてさえ、時間というものは実感しにくい。私は文章を書くのが商売であるため、原稿用紙の収容量にはなれている。十枚の作品ならどれくらい、二十枚ならどれくらいと勘でわかり、物語をほぼそれにおさめる自信がある。しかし、時間となるとまるで処置なし。テレビに出演すると〈あと一分〉とか記したカードを目の前で振られる。そんな時、急いだものなのか、ゆっくりすべきなのか、てんでわからず、ただキョロキョロとあわててしまうのである。時計なしで半日ほどすごしてみたことがあったが、たよりないことおびただしい。
この程度の時間感覚の持主が百年を論じようとするのは、いささかおこがましい。もっとも放送関係者のような特殊な職業人を除けば、私の如き人が多いのではないだろうか。もう少し、百年をあらわすことにくふうをこらしてみなければならない。
カタツムリが百年間、休むことなく歩きつづけたとしたら、どれくらいの距離になるだろうか。世の中には物好きな人がおり、フランスのカタツムリ評論家カダール氏によって、平均分速は七センチとみとめるのが妥当であろうとの研究発表がなされている。これに百年をかけると、約三千六百キロメートル。
東京から西南にむかえば、香港から少し先のあたり、東にむかえばハワイまでの半分ちょっとの地点に当たる。これがカタツムリにとっての、百年の世界の限界である。それっぽっちと思う人もあるだろうし、そんなに多いのかと思う人もあるだろう。百年とはかくの如くとらえにくい。
では速度の最高である光速をもとにし、地球を中心に百光年の半径で宇宙に球を描いたら、そのなかに星はいくつ含まれるであろうか。東京天文台の話だと、ほぼ六千個の恒星が存在するという。多いと呼ぶべきか、少ないと呼ぶべきか、これまたわからないが、これが人間にとっての百年の世界の限界である。
このそとの宇宙で、どんないやなことが発生しようが、どんな面白いことが起ろうが、百年間はまったく感知できず、無縁のことなのだ。なお、参考までに記すと、われわれの銀河系を構成する恒星の数は、ざっと二千億個。また、ある仮説によると、地球の如き文明を持つ惑星のある可能性は、恒星千個について一個ぐらいの割ではないかと推定されている。
そのほか、百年に関連した変化を、順序不同であげてみる。真珠の玉は貝のなかで一年に径を二・五ミリずつますから、条件さえととのえば、百年で直径二五センチの玉ができることになる。あわれなのは、極北の環境の悪い地方の松の一種、百年のあいだに三十センチたらずしか伸びなかったという。
会社づとめのよく働く女性の場合、いまの生活を百年間つづけるとすると、ハイヒールのかかとを六メートルすりへらす。週刊誌を毎週一冊ずつ買い、いまの厚さがつづくとすると、百年間には重ねて三十六メートルの高さになる。この三十六メートルのなかに、いかなる記事がおさめられることになるのだろうか……。
いまひとつ、べつなたとえをあげる。地球ができてから今までの時間を、東京タワーの高さであらわすとする。その上に本を立てる。この十センチあまりの高さが、人類発生以来の年月という比率になるのである。その本の上に一枚の貨幣をのせると、この厚みがエジプト時代以後、すなわち文明の歴史ということになる。さらに、科学技術と呼べるべきものを持ってからの年月となると、その貨幣の上にのせた一枚の切手の厚みに相当するのだそうだ。英国のSF作家クラークの計算である。
まったく、とるにたらない瞬間なのだ。これから百年たつということは、地球の年齢にとっては、東京タワーが切手の厚さの半分ほど高くなることなのである。時間的にみると、どう考えてもたいしたことではない。
しかし、質や内容となると、過去のどの時代ともくらべようのないほどの重大さが、ぎっしりとつまっている。過去百年のあいだに、どんなに大きな変化がおこっただろうか。
百年ほど前においては、人びとのまわりには、電話、蓄音機、ラジオはもちろん、電気器具はなにもなかった。染料も自動車も進化論もなかった。飛行機もビタミンもなかった。ごくひとにぎりの人たちが、それらの言葉を会話に登場させていたにすぎない。電波というものがあるらしいと予言されたのが一八六五年、実験で存在が確認されたのが一八八八年なのである。
蒸気機関車からロケットまで、速力は飛躍的に高まった。これだけの短期間にこれだけの進化をとげたものは、地球の歴史を通じてはじめてである。
あれよあれよと声をあげるしかない。東京タワーの高さほどの過去を持ちながら、切手の厚さ以下の未来を予測しようにも、方程式の作りようがないのである。どうやら、私たちはとてつもなく変な時代に生まれあわせてしまったようだ。喜ぶべきことか、悲しむべきことかわからない。これが宿命なのだ。まあ、このとんでもない時期の変化を見物する楽しみを持てたことで満足しよう。
話は少し横道にそれるが、まもなく明治百年とかの記念切手が発行されることだろう。私はその図柄のひとつに東京タワーを入れることを提案したい。薄手の紙で作ればなおいい。以上のべた如く、あらゆる意味で象徴的ではなかろうか。
このところ、未来を論ずる人がふえてきた。なぜふえたかというと、未来を知りたがる人がふえたからである。なぜ知りたがる人がふえたかというと、だれにも見当がつかなくなったからであろう。
恐竜の時代はのんきだったにちがいない。未来予想家の恐竜がいたとして、仲間から「百年後はどうでしょう」と質問されたら、ほとんど正確な答えができたにちがいない。
エジプト時代の予言者だって「百年後も現在の体制はつづいているでしょう」といえば、たいてい的中していた。このように、過去においては未来をすっきり見渡せたのだが、しだいに霧がかかりはじめ、濃くなり、ついにまったく見とおしがきかなくなってしまった。
ある朝、目がさめて新聞を見たら、ガンの薬の完成を報ずる記事がのっているかもしれない。それとも、目がさめることなく、核爆発によって地球の全生物が消滅してしまうかもしれない。そんなことはありえないと、だれにも断言はできないのだ。こうなると、みな気になり、未来のことを知りたがる。
そこで各人各説、さまざまな未来ビジョンが描かれるということになる。このたぐいのはしりは、私の記憶によれば、数年前にソ連で出た「二十一世紀からのレポート」という本である。来世紀になれば超小型の個人用電話を、だれもが携帯するようになるだろうと書かれてあった。だが現在ではもはや内容が古びてしまった。その品を来世紀まで待つことはないのである。
この本をきっかけとして、多数の類書が紹介された。しかし、それらに共通する最も不満の点、そして未来を予想する際に最もやっかいな点でもあるのだが、それは将来においてどんな画期的な発明品が出現するか、だれにも手のつけようがないという問題である。
だれかがいま、なにかを思いついたとする。それがすばらしい物であった場合、昔とちがって研究組織がととのっているから、たちまちのうちに試作品ができてしまう。また、大量生産の設備も、輸送能力も、広告販売技術も進んでいるから、昔なら数十年かかったことが、あっというまに普及する。
二十年前において、だれが今日のテレビの普及ぶりと白痴化とを、大まじめで予想したであろうか。将来なにかが普及するとしたら、その何分の一かの早さのはずである。
現在どこかでだれかが、家庭用の小型性格改造機の理論をメモしているかもしれない。相手にそれと気づかれることなく使用できる、携帯用|嘘《うそ》発見器の設計が進んでいるかもしれない。薬品の作用の幻覚のなかで勝負を争うという、いかなる遊びをも圧倒する面白いゲームのヒントを得た人がいるかもしれない。
そして、こういったものが世に出たら、一瞬のうちに今までの未来ビジョンが、はかなくも大幅に修正されてしまうのである。たとえば、性格改造機。これまでは人間一代の性格はほぼ不変であり、それがよくも悪くも大変化への一つのブレーキとなっていた。だが、その歯止めがはずされ、あまのじゃくや頑固《がんこ》さや保守性が失われると、ちょっとしたきっかけで大暴走が開始される。
このように、未来はほとんど予測しがたい。この傾向は文明の持つ宿命なのかもしれない。それでも、いや、だからこそ、人びとが未来ビジョンを求めつづけているのである。たしかに、どうしようもない妙な時代だ。
このあいだ精神病のやさしい解説書を読んでいたら、躁病《そうびよう》と鬱病《うつびよう》との説明がのっていた。躁病の患者は爽快《そうかい》で陽気で、過去のいやな思い出はすべて忘れ、未来は楽観と安易だけでみちているのだそうである。障害はあっても解決可能で、いかなる大計画もすらすら実現できると信じこんでいる。
なお、これも余談だが、梅毒の場合にも多幸症というこれに似た症状があらわれるという。バラ色の夢をいい気になってしゃべるのである。といって、立候補者の公約を皮肉るつもりではない。
これに反し鬱病患者にとっての未来は暗澹《あんたん》としたもので、なにか悪いことが必ず起らなければならないのである。私を含めたSF作家の描く未来は、大部分がこれに属する。
このところ、躁病的未来ビジョンを偏って摂取した人も多いことだろうから、バランスをとるためにも、ここでSFにあらわれた今後百年以内に起りそうな不祥事をいくつか列記することにする。
まず、極端な人口の増加。医薬の進歩と法秩序の確立により、百歳以上の老人集団が世界を支配し、若い連中は一日じゅう悪夢のようなラッシュアワーのなかで、年をとるのだけを唯一の希望として生きている。考えることといえば、いかに老人にごまをするかと、法をくぐって年齢の水ましをはかることだ。
これがさらにひどくなれば、行きつくところは、同性愛か、とも食いか、生存停年制である。
人口をなんとか調節すれば、製品の大量生産を消費しなければならない。コマーシャルが現在の百倍以上にふえている。起きている時はもちろん、眠っている時も、世界じゅうくまなく、たえまなくコマーシャルが叫びつづけている。そして買わされるものはといえば、コマーシャルを快く感じるための薬といったたぐいであろう。そんなものを買うために、まだ生まれていない息子の未来の月給まで担保に入れ、月賦を払いつづけているのである。
テレビの番組がしだいにどぎつくなり、拷問や殺人シーンの実況中継が普通になる。これは古代ローマでは王様だけの楽しみだったが、いまや消費者こそ王様、つまりみながそうなのだ。
世のスピード化についてゆけず、外界との接触を断ち、自分の殻に閉じこもる自閉症患者の激増。本当はこのほうが正常なのだが、スピードこそ進歩なりと信じる狂人の群れにはたちうちできず、いたしかたない。
汚水の化学物質の刺激で怪魚が発生し大繁殖、海中の魚を食い荒らす。退治法が見つからず、海の食糧資源は全滅する。
通信機と翻訳機の発達により、世界の犯罪者のシンジケートが成立し、スラッシュ団が現実のものとなり、地球を征服せんとする。
これに対抗するために巨大な電子頭脳に世界支配をまかせる。汚職や犯罪が消滅したのはいいが、面白いことはなにひとつなくなる。人間は食って寝ていればいいし、それ以外の行動は許されない。
火星から持ち帰ったビールスにより、食欲神経が異常に高まり、人間は今の三倍にふとる。住宅や家具は全部作りなおさなければならなくなり、家を木と紙で作っておけばよかったと後悔する。
性転換が大流行し、男はみな女となり、女はみな男となり、ふたたび徹底した男尊女卑の時代を迎える。
かねて研究中だった、対立国の貯蔵原爆を遠くから爆発させる方法が開発される。この最終兵器の秘密をスパイに盗まれたらとりかえしがつかなくなるため、完成と同時に大急ぎで使用する。
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電話の雑談
電話による雑談を悪いことのように言う人が多い。特に女性どうしのそれが、よく槍玉《やりだま》にあがる。アメリカの短編ミステリーには、そのために犯罪にまきこまれてしまうという話がある。だが、私はそれほど電話の雑談に否定的な意見は持っていない。統計によると、電話の一回当りの使用時間は男女にそう差がないそうだ。それなのに、なぜ女性が問題にされるかというと、公衆電話などで男はつぎの人を待たせての長話をしないが、女はおかまいなしだからであろう。これはエチケットの問題である。
かくの如く時、所、相手をわきまえず、他人に迷惑をかける長話の困ることはいうまでもないが、気のきいた雑談はむしろ必要ではないかと思う。
出勤して仕事をする人にはわからないだろうが、家にとじこもって原稿を書いていると、時どきむやみに人と話をしたくなるものである。といって、締切りが迫っていては外出するわけにもいかない。こんな時ほど電話がありがたく思えることはない。作家の友人に電話をかけ「どうもいい話が考えつかない。そっちはどうだ」などと聞く。たいていの場合、相手も同様である。
苦しんでいるのは自分だけでないと安心し、お互いにつまらない冗談を言いあっているうちに、頭のなかのつかえがとれる。そして、とどこおっていた筆も再び進みはじめるわけである。
おそらく、家庭の婦人もこれと似たような状態ではないのだろうか。最近は新聞、雑誌、ラジオからテレビに至る、外部から入ってくるコミュニケーションがむやみにふえた。このままでは、むかしの言葉でいう腹ふくるる気分、今の言葉ならモヤモヤした気持ちになってしまう。なにかで自分の意見を発表したくなるのは、一種の生理的な要求といえよう。このような点を理解しないで、つとめ先で同僚と充分なお喋《しやべ》りのできる男性たちが、家庭婦人の電話の雑談を非難するのは、いささか勝手なような気がする。
しかしながら、同情的な私も、度をこした長話までを好ましいと思っているわけではない。電話による雑談のエチケットと技術とを、みなで高めあうようにする必要があると思うのである。用件だけを正確に伝えることなら、なれればすぐに身につくが、短い時間のなかで相手を楽しませ、同時に自分もスッキリする個性ある雑談というものは、そう簡単ではない。しかし、これこそ私たちの生活で最もおくれている分野ではないだろうか。
用件を伝えるためだけの装置なら、電話機は単なる機械にすぎない。これを人間の口、耳、そして心の延長とよべる存在にするためにも、もっと雑談の技術を身につける必要があると考えている。
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時間と空間
小説を書くのは、まったくエネルギーを要する仕事だ。机の前にすわりつづけ、自家製のタイム・マシンやロケットを操って想像の国をかけめぐり、なんとか発想をひっぱり出す。新しい学説では、物質を構成する素粒子なるものは、エネルギーによって無から生まれてくるとかいう話だが、SFもまた同じようなものらしい。
子供ができてから、その仕事の能率が少し落ちた。せまいアパートぐらしでは、泣けばうるさいし、きげんがいいと一緒に遊んでしまうからである。そのため、子供のねむるのを待って机に向かい、目ざめると私がねむる、といった生活であった。だが、やっと書斎のある家屋に引っ越すことができ、いまや事態は正常にもどりつつある。子供とのあいだに空間的な距離ができ、時間的な距離をもうける必要がなくなったわけである。いつもは宇宙のしくみについて、万事理解しているような顔をよそおっているが、時間と空間とのこの関連を実感したのは、正直なところ、これがはじめてである。
書斎に落着いてみると、いったい、時間と空間との価値はどちらが上なのだろうか、という疑問がわいてきた。SFの仲間にいわせると、こんな発想をSF的と称するのだそうだ。時間の移動は無料だが、空間の移動には費用がかかり高価のように思える。たとえば、国電ラッシュが限界にきて時差出勤が叫ばれているのは、空間的余裕がなくなり、安あがりな時間にしわ寄せされている現象と呼べそうである。
オリンピックの時には、外人に恥をさらすな、が合いことばになった。石炭ガラ輸出事件では、なつかしい「国辱」という語にお目にかかれた。空間的にへだたった人に対してはかくも気を使うのに、時間的にへだたった相手、つまり子孫や未来人に対して恥ずかしい行為は、だれもあまり指摘しない。後進国を軽べつするような発言は注意ぶかく自制するが、先祖や過去人をけなすのはおおっぴらである。時間不感症といった病気が広まっている感じである。
不感症どころか、時間虐待が現代の常識らしい。泥棒はしない人でも、パーキング・メーターは平然とごまかし、列車の席を取るため、駅で長時間待つのは平気である。土地の収用はわずかな面積でも大さわぎし、大金を得ることができるが、十年裁判や誤審の補償については、ほとんど騒がれない現状では、時間の価値はゼロに近いらしい。弱きもの汝《なんじ》の名は時間、となぐさめてやりたくなってくる。
多くの人は、よく宇宙の果てを話題にするが、時の果てへの興味を示さない。最後の審判の概念がないせいであろうか。小説を書いても評価や原稿料は枚数、すなわち空間的な量によって計算され、書くに要した時間は考慮されない。
まあ、こんな愚痴はどうでもいいが、かかる状態に至った理由はどこにあるのだろう。おそらく、人間がふえて一人当りの空間が少なくなり、いっぽう寿命が伸び、生活が合理化され、一人当りの時間が多くなったためではないだろうか。需要供給の原則である。この傾向はますます大きくなるかもしれない。とすると、困ったことだが、SFの前途への手放しの楽観はゆるされないことになる。読者に空間的な想像を求めるノン・フィクションの分野はさらに流行しても、時間的な想像を求めるSFを普及させるには、よほどの努力を必要とするからである。
いま時間が優位を示しているのは、わずかに小説くらいなものである。空間を支配するテレビの視聴より、時間を支配する読書のほうがいくらか高級に思われているらしい。また同じ読書でも、一挙に大量を売って消える書物は軽んぜられ、少しずつでも長期間にわたって売れつづけている本は古典と呼ばれる。しかし、この優位もいつまで保てるものだろうか。まもなく空間優勢の風潮に圧倒されてしまうのではないだろうか。レジャーの時間で、時間について考え、平等な形で扱う人がふえてくれないものであろうか。
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科学の僻地にて
僻地《へきち》の科学のことではない。科学の僻地で生活している、私の隣人たちの話である。
ソ連が人類はじめての人工衛星スプートニク一号を、突如として打ちあげた時には、ずいぶんと、いろいろな会話を楽しむことができた。「月と火星とでは、どちらが遠くにあるのですか」と聞いてきたのは、ある一流電機会社の課長クラスの人であった。もっとも、技術畑の人ではない。多くの人が私に、この種の率直な質問を気軽に話しかけてくる。科学者や技術者といった、重々しい肩書きを持っていないせいだろうか。それとも、理知的な人相をしていないせいだろうか。だが、いずれにしろ、相手に恥をかかせることだけはしない。私は頭をかき、どもりながら答えた。「さあ、ぼくもよく知っているわけではありませんが、火星のほうが遠いようですよ」
また当時、ある一流新聞社の相当な地位の人とも会った。もっとも、科学欄の人ではない。その人とも、こんな調子で誘導|訊問《じんもん》めいた会話をしたあげく、相手の抱いている意外な説を聞き出すことができた。つまり、人工衛星とは海上を走る船の如くに、大気圏の上の表面を航行している存在だ、と理解していたのである。
なぜこのような試みをし、それをなぜ今日まで覚えているのか、不思議に思われるかもしれない。その理由は、私の仕事に密接な関係があるからである。すなわち、未来や宇宙を舞台にした小説を書く時に最も気になる点が、科学関係者でない人びとが科学に対して抱いている常識、および科学に対して抱いている正直な感情だからである。これを無視したら、途中で読者にそっぽをむかれることを覚悟しなければならない。ほかの分野の作家には想像もつかないことだろうが、この問題には神経質なほど敏感にならざるを得ないのである。
人工衛星に関してはそれ以来数年がたち、現在ではいくらか誤解も減りつつある。しかし、その他においては、いまあげた例と大差ない。さきごろ、時代の先端の産業である広告代理店関係の人と、電子計算機を見学した。その中年の人は「退職金で電子計算機を一台買って、老後の商売をすることは可能でしょうか」と、まじめな口調で私にささやいた。計算機について持っているイメージは、まさしく各人各様だが、この感想はその日本的である点において、実に傑出していた。
先日、あるテレビ局の座談会に出席し、未来の食事に話題が進んだ時、私はなにげなく「味のいい低カロリー食、さらには、すばらしい味のゼロ・カロリー食が普及するでしょう」と喋《しやべ》った。セックスが生殖を目的としていたのから娯楽化したのと同じように、と言いたかったが、それは場所柄を考えて思いとどまった。若い出席者たちは「早くそうなるといい」と賛成してくれたが、年配の司会者はあわてた様子だった。あとで聞くと、未来の食事は一粒で満腹といった形になるものとばかり思っていて、それで番組の進行を予定していたのである。戦前の人と戦後育ちとの感覚の差を知ることができ、思わぬ経験となった。
そのほか主婦、坊さん、商店の旦那《だんな》、酒席の女性、だれであろうと私は会うたびに、この人の頭のなかでは科学がいかなる形をとっているのかを、知りたくてならなくなる。そのあげく、なにかにことよせて、さぐりを入れてしまう。私にとっては、現代の科学技術なるもののアウトライン、また未来においてあるべき姿と同じ程度に、いやそれ以上に、大衆の頭のなかの科学の形に興味と関心があるのである。
あるいはすでに、この件の大がかりな調査が行なわれていて、その結果を私が知らないでいるのかもしれない。だが、知ったとしても、あまり信を置く気になれないであろう。多くの人びとの科学に対する感情には、コンプレックスに似た相当にデリケートなものがある。そこへもってきて、無遠慮に硬い質問を並べ、事務的に統計を作りあげても、正確な報告と思えないからである。親しみのない科学用語は、かなり心をかき乱すものである。たとえばエントロピーという語に接した時、かすかだが表情のこわばる人が多いのではないだろうか。これは私自身の気持ちからの類推なのだが。
科学用語はそれぞれ、ある雰囲気《ふんいき》を持っている。本来、抽象めいた科学用語が雰囲気を発散するはずはないのだが、一例をあげると、放射能と書くのと放射線と書くのとでは、まるでちがった印象を与えるようである。私の小説のなかで使う場合に、恐怖と嫌悪《けんお》の情を高めたい時には放射能と書き、輝かしい平和利用を描写する時には放射線と書く。そのため正確さがずれることもあるが、どうにも仕方がない。もっとも、科学解説的な文を書く時は正しい用法を使うように心がけていることは、いうまでもない。
わが国における、大衆の科学への感情は、このようにいささか文学的なところがあり、時には宗教的とも思える場合もある。音楽や習字が苦手とは平気で口にできるが、科学を苦手と言うには、どことなく抵抗がある。もし科学に対する呪《のろ》いの言葉を、だれはばかることなく叫ぶことができたら、キー・パンチャーなどの職種の精神緊張も、だいぶほぐれるのではないだろうか。しかし、それができないムードのひろまっている点、神への信仰に似ているような気がしてならない。
アメリカではロケットに奇妙な愛称をつけたり、小説や映画のなかではよく、電子計算機にむかって悪態をつく場面が登場するが、日本にはむかない風習のようである。したがって私も、小説のなかではなるべくこのたぐいの行為を避けるようにしている。そういえば、台風を女性の名で呼ぶ方法も、いつのまにか廃止になってしまった。また、アメリカでは原子力や宇宙旅行の報道とともに、その原理的な解説の記事が多く読まれるらしいが、わが国では、その意義についての記事のほうが好まれる傾向にある。国民性のちがいなのであろうが、さらにほかの国々では、この特徴がどうあらわれているのか、もっとくわしく知りたくてならない。
そして、このような、私の周囲における科学の僻地の状態は、今後の科学の発展につれて、どう変化して行くのであろうか。私にとって、ますます心をひかれる問題である。
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ナポリの弾痕
イタリーの港町ナポリ。新しい都という意味のネオ・ポリスがその名の由来だそうだ。「ナポリを見て死ね」との文句で有名だが、これは昔、ここを攻撃した指揮官の言葉である。本当の意味は「決死の覚悟でナポリを占領せよ」といったところらしい。後世、観光政策のために巧みに利用されたのである。
それはともかく、ナポリは美しい。地中海の水の色は独特である。沖のカプリ島の眺《なが》めもいいし、街の中世風の建物もいい。だが、住民は観光客ずれしており、私はどうも感心しないが、そこは人の好き好きであろう。「あれを買え、これを買え」としつっこくつきまとわれないと、観光地へ来た気分にならないという人だってあるにちがいない。
ナポリにはもうひとつ名物がある。裏町の洗濯物《せんたくもの》だ。建物の窓から窓へひもを渡し、一面に洗濯物が干してある。わが国の団地で恐縮し気にしながら干しているのとちがい、堂々としていて、かえって壮観である。しかし、南イタリーは貧しい地方なので、やむをえないことであろう。
だが、そんなことより、最も私の目をひいたものは、街の建物の至るところに残る弾痕《だんこん》である。丸く小さなくぼみが、外側にむやみとあいている。
第二次大戦において、連合軍が上陸する時、独伊の軍隊とのあいだに激戦が展開されたためである。おそらく、多数の人が死んだにちがいない。明るい青空と、いちじるしい対照をなしていた。戦争の悲劇をまざまざと感じさせられた。
しかし、考えてみると変なものである。ナポリも戦争に巻きこまれただろうが、東京をはじめ日本の多くの都市もそうなのだ。空襲でやられた人命や家屋や財産は、こっちのほうがはるかに多い。
それなのに、日本国内ではそんな感慨にひたれないのである。いうまでもなく、建物が石造りであるのと木造であるのとのちがいである。石造りだと弾痕として残るが、木造はすっかり焼けてあとをとどめず、その後に新しく建てられるものは平和そのものだ。
この点、ヨーロッパ人と私たちとのあいだには、戦争のイメージに関して大きな差があるのではないだろうか。日本のいまの若い人は、もちろん戦争の悲惨さを知らない。そして一方、年配の者は知りすぎるほど知っている。だが、その感情の伝達ができないのである。
ナポリの人たちは、若い人に戦争のことを質問されれば、建物の弾痕を指さして語ることができるし、おそらく現実に語りついでいるのだろう。そして聞かされるほうは、想像を身近なものとして受け取り、これはたまらないと肌《はだ》で感じているのではないかと思う。
だが、東京に住む私は困るのである。どこへ連れていって、なにを指させばいいのか、まるで思いつかない。戦争を描いた映画やテレビ番組はあるが、景気のいいのも悲惨なのも、しょせんは作りもので永続の迫真力となるとたよりない。
都会が美しくなるのはいいことだが、無言のうちに戦争の悲劇を証言するなにかをいくつかは残しておいてもよかったのではないだろうか。といっても、いまさらこんな提案をしてもあとの祭りである。
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映画「審判」を見て
だれしも独身時代には、結婚について、あれこれ想像したり論じあったりする。しかし、それがどんなものかは、結婚してみるまではわかりっこない。結婚してみてはじめて考えていたことと、だいぶ違っているのに気がつく。そして、こんどは独身者を相手に、その差を知らせようと試みる。しかし、それがまたむずかしい。正確に告げようとすればするほど、相手はなっとくしないという形になってしまう。
裁判もまた、それに似ている。小説や六法全書をのぞいて、頭で理解しているつもりなのだ。だが、ひとたび裁判に巻きこまれてみると、それといかに異質なものであるかが、身にしみてわかってくるというしかけなのである。
大学を出てまもなく、私の父は突然死亡し、会社の責任者に引っぱり出された。順調な状態ならばまあよかったのだろうが、大量の借金の山が控えていた。その大部分が個人の金貸しからのものであった。待ってくれ、まけてくれの話し合いがのびると、相手は訴訟をおこしてくる。事情を知らない友人は
「整理すればいいだろう。それで払えなければ仕方ないじゃないか。悪いことではない」
などと言う。それはその通りなのだが、独身者が離婚問題に対し、いとも明快な結論を下しているようなものである。苦笑いする以外にない。
そう簡単なものならば、裁判になどなるものではない。貸借の時の事情、合法非合法の利息の計算、抵当権に及ぶと他の債権者に関連してくる。ごうを煮やした相手は、刑事問題を追加してくる。刑事事件というと、黒白がぴたりと解決するものと思っていたが、この種の裁判はそうはいかない。多くの訴訟がからみあい、なにがどうなっているのかわからない形で、延々とつづくのである。
テレビで見ると「では、明日まで休廷」などと、裁判長は調子のいいことを言う。だが私の経験では、数ヵ月おきに開廷し、いつ果てることなくくりかえされた。
映画の「審判」では、アンソニー・パーキンスが裁判に巻きこまれたとたん、やっきとなって解決を急ごうとする。まえに彼の出演した「サイコ」の影響が残っていて、あれ以来、狂いっぱなしじゃないのか、と感じる人もあるだろう。だが、こうなるのが正常なのである。私もそんな気持ちであった。「裁判」という大怪獣の手につかまったら、新人はだれもそうなる。
主人公のK以外の被告、つまり旧人先輩たちはもはやそんなまねはしない。じたばたしても無駄《むだ》と悟ったからである。「審判」を見終わってからも重い迫力が去らないのは、その旧人たちがみなKと同じ経過をたどり、しかも生き残り、ああ無表情な心境に至ったという点を、あらためて考えなおさせるためであろう。
オーソン・ウェルズの弁護士が「おれにまかせれば、うまくやってやる」と威張るのを見て、奇異に感じる人もあると思うが、これが典型的なものである。といって、弁護士が怠慢なのではない。裁判関係者はみなそれなりに、職務に忠実なのである。
しかし、一刻も早くさっぱりしたいとだけ願う、新人の被告にとっては、とても満足できない。例えば、マラソン選手と百メートルの選手とがいっしょに走るようなものである。ウサギとカメの、ウサギの気持ち。
ソ連のSFに、時間の経過のおそい星から来た生物が、地球人と会う話があった。早く正体を知りたいと焦る地球人がユーモラスだが、実際には笑えたものではない。
裁判をドラマとスピードにあふれたものと印象づけた責任者は、テレビである。メースン弁護士、プレストン弁護士のように胸のすくものではない。現実は結核との闘病のように、陰気で退屈なものである。架空を現実にして広めてしまうところに、テレビの問題がある。
といって、現実そのままをテレビや映画にしたら、だれも見ない。私だって見る気にはなれないだろう。見せようもないと思う。
しかし、映画「審判」は、その見せようもない存在を、みごとに見せてくれた。弁護士をはじめ、裁判所、被告などのムードは実に正確である。ほかの映画やテレビの法廷物が、いかに変形されたいいかげんな物かは、くらべてみるとよくわかる。
「審判」には裏面からの仲介屋みたいなのが出ている。私の場合も「原告に話をつけてやる」という正体不明の人物があらわれた。Kでなくても、望みをたくしたくなる存在である。また、美人との交際。裁判で頭が一杯の男性と、情欲で一杯の普通の男性。この差異を、女性は魅力と勘ちがいするためである。
神にもすがりたくなるし、やけをおこしたくもなる。小さな女の子の群れにつきまとわれるような、無邪気で華やかな一瞬もあるが、そんなのにかまう心境ではない。映画では巨大な事務所が出てくるが、これがまた心にくい。
自分だけが浮きあがり、他がみな生気を失ったように見える感じが、そのまま出ている。
また、屋内体操場に大勢の集まるシーンもあったが、それは、最初のうちは他人も関心を持ってくれる、というのを表現していると思う。
裁判に関しては、他人はなんの役にも立たない。調べてみたわけではないが、人が集まり、ニュースとなるのは、第一回の時と結審の時だけであろう。そのあいだは、孤独だけしか存在しない。
主人公のKが無残にも殺されるラスト・シーンは悲劇的な形だが、私はそうは考えない。喜びのあらわれである。
裁判進行中は、人間はまさしく死人と同じである。それからの解放は、マイナスにマイナスを掛ける形でしか表現できないわけである。やっと普通の生活へ帰れるのだ。キノコ雲ぐらいの花火を打ちあげたくもなる。
私もまた、数年間このような経験をし、なんとか解放された。そのため「審判」を見て身につまされる思いがした。私ばかりでなく、なんらかの形で裁判という怪物と直接に触れたことのある人は、同じように思うはずである。もっとも、カフカについての変な先入観を捨てて見た場合のことである。
「カフカもいいが、側近連中のご託宣がいやだ」と言う人が多いが、そんな側近は気にしないほうがいい。皇室と宮内庁の役人のような関係なのだから。
まさしく、身につまされる映画である。そのほか、覚えのない税の督促状の舞い込んだ者、あるいは入るはずの入試に落ちて、浪人したことのある者……。
受動的ばかりでなく、官庁に対してなにかを申請し、許可を待ったことのある人も、みな似たように身につまされると思う。悲恋物や母もの映画は、身につまされても架空であるがため、まだまだ弱いと知らされる。
このように、「審判」という映画は、まさしく大衆の生活そのものである。中小企業の経営者などは、特に大きくうなずく映画と思う。少しも難解なものではない。
難解だと感じるのは子供か、傍観者として頭だけで生きてきた人だけではないだろうか。この二者に対しては、正確に説明しようとすればするほど、相手はなっとくしない形になってしまう。
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ライター
子供の頃から、私はライターなるものに特にあこがれを抱いていた。父はタバコを吸わず、私は長男。つまりタバコにあまり縁のない家庭というわけで、家にはライターが存在しなかった。
応接間には来客用の灰皿《はいざら》とマッチがあるだけだった。友人の家にあり、わが家にないことが、はなはだ面白くなかった。といって、ねだったところで父母が買ってくれるわけがない。人一倍あこがれが強かったのも当然といえよう。
私がやっと大学に入りタバコを吸うようになった頃は、あいにく戦争末期で、ライターどころではなかった。タバコは一日に五本ほどの配給で、それに硫黄《いおう》くさいマッチで火をつけたものだった。
こんなわけだから、終戦後になってはじめてライターを買った時は、大感激であった。しかし、はなはだ粗雑な製品だったし、おまけに怪しげな油を入れたため、もうもうたる黒煙が立ちのぼって閉口したものである。
いったい、なぜ人はタバコを吸いたがるのであろうか。時どきこう考えてみる。ニコチンの作用のせいでもあろうし、煙を吸ったりはいたりが面白いからでもあろう。また、唇《くちびる》への感触を楽しむためでもあろう。しかし、最大の魅力はタバコを炎に近づけて火をつける一瞬にあるのではないかと思う。
この時が、タバコを吸うという行為中の最高の楽しみであろう。あらゆる俗事も、いかなる悩みも、心から消えてしまう瞬間なのである。そうでない人は、まあいないだろう。
旧約聖書の創世記によれば、神は天地創造の最初に「光あれ」と告げたという。神もその時には、私たちがタバコに火をつける際の如く、全知全能を静かさのうちに統一したのではなかろうか。
炎を眺めていると、人は郷愁に似たなつかしい感情を覚える。太古以来の長い人類の生活がそのなかにこもっているためかもしれない。
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落語の毒
先夜、人形町の末広へ出かけた。建物は古めかしい和風のつくりであり、座ぶとんにすわる。客席は七分の入り。数人づれの大学生をはじめ、つとめ人など若い人の割合が圧倒的に多く、これが特徴的だ。
私はイイノ・ホールで一月おきに開かれる精選落語会にずっと行っているが、最初の頃は客もまばらだった。それが昨今では毎回、若い人でほとんど満員である。女性客もけっこう多い。聞くところによると、各大学の落語研究会とかいうサークルは、かなりの会員を集めているらしい。
ブームというほどではないが、落語の魅力が若い層を静かにとらえつつあるようだ。映画の不振といい対照である。寄席《よせ》では客の反応がすぐ演者にはねかえり、くふうをうながす。だが映画はこれに時間がかかり、体質改善に手間どるためかもしれない。
映画には「芸術だ、衝撃的だ、人間の探究だ」と称しながら、内容は安易なエロというのが多い。これに反し、落語は芸術だなどとご大層な看板はかかげないが、内容ははるかに充実し新鮮で人間性にとんでいる。面白さの発見に敏感で熱心な若い人たちが、ここに気づきはじめたためかもしれない。
週刊誌のスキャンダル記事も楽しいが、それは読んでいるあいだだけのこと。そこへゆくと落語はあとになにかが残り、経済的でもある。
高座では「犬の眼」という古典落語をやっていた。犬の目玉を人に入れてしまっておこる混乱の話である。人の目をくり抜いて石けん水で洗うくだり。考えればどぎついショッキングなシーンだが、とぼけた調子で軽妙に語る。ヒチコックのよく使う手法だが落語のほうが先輩であり高度である。そのために強まる刺激と笑い。となりの高校生らしい少年は、息もたえだえに笑いころげていた。私も同様。今日これだけ無我で純粋に笑えるところがどこにある。日常のもやもやが一掃できるのだから、四百円の入場料も高くはない。
落語は庶民の反抗精神の産物だという説があるが、私はそうは思わない。もっとドライなアンチ・ヒューマニズムというべきものが底にあるようだ。落語には毒があるのである。うすのろをばかにし、死者をからかい、失敗をあざ笑い、病人に非情である。昔から語りつがれているうちに洗練されてきたが、本質はこの毒にあるのではなかろうか。極度に洗練された毒である。もっとも、洗練されていない毒だったら聞くにたえない。
殿様や武士を笑いものにした落語は多いが、支配階級だからからかったのではない。性格に欠陥のある殿様、いなか者の武士だから嘲笑《ちようしよう》しているのである。反体制とかいう公式はあてはまらない。善悪や理屈以前の、人間がどうしようもなく持てあましている本質に根ざしたもののように思われる。
いつの世にもヒューマニズムが叫ばれているということは、人間がいわゆるヒューマンでないからこそだ。人間は本来それほどヒューマンでないことを直視し、その上に社会を築こうとするほうが、かえって賢明なような気がしてならない。現代は、毒にも薬にもならないなまぬるさが世をおおっている。だからこそ、落語の持つ毒が活力剤として効用を発揮するのではなかろうか。
しかし、この毒はテレビを通しては接しられない。電波に乗ったとしても、ひまな主婦が投書し、お利口な文化人がむずかしく論じ、スポンサーが首をかしげ、角が丸くなってしまうのである。この枠《わく》があるためブームにはなりえず、ひそかな愛好者がふえるという形になるわけであろう。したがって時たま寄席に出かけねばならない。
春風亭柳橋が高座にあがった。さすがに年季をつんだ貫禄を感じさせる。若い演者たちはどうも肩に力が入りぎみである。そこへゆくと、柳橋は肩の力をすっかり抜いていながら、人を引きつける。だらしないともいえる楽な姿勢でいた聴衆のほうが、すわりなおして肩に力を入れてしまうのである。国会の先生方も、このコツを見習うといいと思う。といっても、そう簡単に身につくものでもない。サービス精神と長い勉強によってしか得られないものだ。
桂小南は「ぜんざい公社」という新作をやった。官庁がしるこ屋を経営する話である。申し込み書を作れ、ハンを押せ、八番窓口で書類作成代を納入してこい。健康診断書だなんだかんだと、建物内を上下左右さんざん走りまわらされる。カフカの「審判」のパロディみたいな感じで、ちょっとした傑作であった。客は聞きながらアハハと笑う。まったく官吏とは手のつけようもなくばかげた存在だ。と同時に、民衆のほうもそれに劣らず永久にいいかげんな存在のようである。
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タイム・マシン
この宇宙ができてから、百五十億年ほどたっているのだそうである。子供の頃は天文学の解説書でこのたぐいの記事を読むと、いいしれぬ興奮にひたったものだ。その頃の定説では、宇宙や地球の年齢も現在よりもっと少ない数だったように記憶している。
しかし、最近は巨大な数字にあまり驚かなくなった。原因のひとつは貨幣価値の変動であり、もうひとつはSFを読みつけたためである。何千万光年の星などと聞いても、ちょっと遠いなぐらいにしか感じない。
長い時間には驚かなくなったが、短い時間に対しては、私も薄気味わるさを感じる。新しく発見されたなんとかという粒子は、百億分の一秒という寿命なのだそうだ。写真乾板に残る三センチの痕跡《こんせき》が手がかりとなり、存在が確認されたという話だ。
三センチというとちょっとした長さだが、光速での三センチである。ほぼ月までの距離に相当する三十万キロを、一秒で達する速度。それで三センチだけ飛んで崩壊してしまうのだ。
はかないといった情緒的ムードではない。アッという間とか、一瞬といった形容詞でもおっつかない。人間の感情に訴えようがない存在というものは、一種の恐怖である。
これより、もっと寿命の短い素粒子も、たくさんあるそうだ。そんな短い時間のあいだに、どんな過程をふんで崩壊に至るのであろうか。
こんなことを考えはじめると、自分がきょう一日をなんとか生きのびたことが、大変なぜいたくであり、申しわけないような気分になってくる。さらに進むと、高いビルの上から地上を見おろした時のような、ムズムズしたものを感じはじめる。
科学解説書を読んでいたら、時間の収縮効果のことが出ていた。速度が早くなると、時の流れがおそくなることで、SFにはよくでてくる。高速ロケットで宇宙へ出て帰ってくると、地球では長い年月がたっていたという現象である。このことは知っていたが、現在では回転しているレコードの外側のほうでは、中心部にくらべて時の流れのおそくなる事実を検出できるのだそうである。ズレは一兆分のいくつというそうだが、どんなふうにして測定するのであろうか。
SFの愛好者における共通な特徴は、時間への感情が特に鋭い点にあるようだ。時間の観念とはちがうのである。たいていの者は、一度は「時間とは何ぞや」との疑問にとりつかれた経験を持っている。この議論に熱中し、つい帰りの終電に乗りおくれてしまった者もある。SFの時間への感情は、いわゆる時間感覚とは別個なのである。
SFの開祖は英国のH・G・ウェルズだが、その世に認められた第一作が「タイム・マシン」であることは象徴的だ。乗り込めば過去へも未来へも行ける装置のことだが、この着想の斬新《ざんしん》さには敬服させられる。アインシュタインが時間や空間の理論を発表する何年か前のことなのだから。
なお、この作は映画になったが、ポスターの宣伝文が妙だった。「八十万年後の世界へ五日間で往復」と大書してあった。タイム・マシンなのだから、出発した次の日へも帰れるのだから、一日で往復もできるのである。いまだに気になってならない。
タイム・マシンを扱った作は、今では一つのジャンルにまで成長した。すでに無数に書かれており、現在も続々と書かれている。私もいくつか書いた。しかし、こうなった最初は、ウェルズの模倣をやってのけた人物がいたわけだ。それがだれで、ウェルズが許可したのか、文句を言ったが押えられなかったのか不明なのである。これまた気になることだ。
気になることの最高は「親殺しのパラドックス」である。過去へ戻って、自分の生まれる前の親を殺したらどうなるか、との問題だ。禅問答にも似たようなのがあるが、考えはじめるとやっかいである。私も時たま考えているのだが、スマートな解決はなかなか思い浮かばない。
アメリカの短編に、その瞬間に全宇宙が消滅するという、とほうもない結末のがあるが、現在のところ、これが最高のようだ。
SFはどこかで時間の要素とからんでいる。冷凍冬眠で未来に行く。不老長寿の成分を発見する。広大な宇宙の距離を征服し、他星人と出会う。催眠術で遠い過去の記憶をさぐる。いずれも、時の壁へ挑む心がこもっている。そして、すぐれた作品を読むと、時の流れが肌《はだ》で感じられるような描写がしてある。ここがSFを書く秘訣《ひけつ》のようだ。
時間について考える時、私がいつもふしぎに思うことがある。ガリレイの発見した振子の等時性である。今から約四百年の昔のわけだが、こんな簡単なことが、エジプト文明やギリシャ時代にも気づかれず、なぜ近世まで知られなかったのだろう。ターザンの如く木から木へ飛び移った未開の時代でも、容易にわかりそうなものだが。
これは、人類が時を意識し、時への挑戦を開始してから、まだまもないことを意味しているのかもしれない。いまにSF的空想のかずかずも、しだいに現実のものとなってゆくのであろう。
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野球について
ヨーロッパの市民はどんなスポーツをやっているのだろう。パリに行ったとき、ふとこんな疑問を持った。しかし、滞在中に目にはいったのは、公園の一|隅《ぐう》でやっている鉄の球を投げるゲームだけだった。何人かずつにわかれ、交代で数メートルほど投げている。フランスのもっとも一般的なスポーツなのだそうだが、そばで見ていて少しもおもしろくなかった。しかし、ルールは単純でも、これに勝つには複雑な技術や駆け引きを要するのだそうで、やっている本人たちはけっこう楽しいのだろう。
フランス人は野球を好まないのだろうか。聞いてみて理由がわかった。本質的にきらいではないらしいが、野球はアメリカのごとく広い土地のある国でやるものだというのが、大多数の意見のようだ。道路や公園でバットやボールを使うと、公衆道徳が許さない。だから、他人に危険を及ぼすことの少ないフットボールのほうが盛んである。公園での鉄球遊びもごく一画に限られ、決してわがもの顔にのさばらない。
いささかうらやましい気がした。東京の公園や道路はひどいものだ。禁止の制札などおかまいなく、バットを振りまわし硬い球を投げる。他人の迷惑おかまいなしで、まさに鬼畜だ。他人がそれで痛い目にあっても、反省すらしない。スポーツはすべてに優先するとでも思っているのだろうか。そんな説が通用するのなら、やつらを銃で射撃してみたらどうだろう。射撃だってりっぱなスポーツだ。
子供むけテレビ番組には、よく広場で野球をやるシーンがでてくるが、これも感心しない。大げさに言えば、反社会的行動の是認である。もっとも、そんな広場など今の都会に現実に存在はしないのだが。
といって、私はプロ野球否定論者ではない。盛んになるのは大賛成だ。他人に危害を及ぼさない場所で、選ばれた一流選手がプレーをし、それを見物するのに文句をつけるほうがおかしい。りっぱな娯楽であり、時には芸術ですらある。
興行収入の範囲内で選手がどんなに高給を取ろうが、けちをつける筋もない。むしろ、もっと高給を出し、もっといいプレーを要求すべきであろう。野球は見るスポーツであることに、選手も社会ももっと徹底していいのではないだろうか。
スポーツは自分でやるべきものだという説があるが、野球に関しては賛成できない。過密化した都市ではどうにもならない。最近はボーリング場がふえ、そこでゲーム性のあるスポーツを楽しみ、自宅のテレビで野球見物する人が多いが、必然的ないい傾向だと思う。ボーリング場を不良化の温床だなどと言う人があるが、公共の場所でバットや硬球といった準凶器を使うほうがはるかに悪質といえよう。
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未来への障害
ある週刊誌に、毎週いろいろな人が自分の一週間の食事を記し、それを医者が批評するページがある。なぜこんなページがあるのだろう。人には他人がなにを食べているのか知りたがる欲求があるからだろうか。
あんまり高級な興味とも思えないが、といって怒るほどのこともない。私にもその原稿の依頼があった。私は一週間の食事を書き、それに「澱粉《でんぷん》質を好むので、このところふとりつつある。あまりふとりすぎたら、医者にたのんで腹の脂肪を除去してもらうつもりである」と付記した。いずれにせよ、読み物である。読者も変わった意見に接したいだろう、と思ったからだ。
すると、その医事評論家と称する人は「脂肪を取る手術など、絶対にできない。たわごとだ。そんなことをやる医者は存在しない」と、えらい勢いで評した。ユーモアもそっけもない調子である。
私はふしぎでならなかった。脂肪除去の手術は、私のただの空想ではない。以前、私たちの作家グループで、ある有名な整形外科の病院を見学したことがあった。
その時、その可能性を説明され、除去した脂肪分のびんづめ標本をも見た。私は「あの脂肪をもう一回食うことはできませんか」と妙な質問をしたものだ。また、二重まぶたにする手術も見た。あまり気持ちのいいものではないが、いやにあっけないものだった。脂肪がいとも簡単に出て、はれぼったい目がなおる。
このような知識があったからこそ書いたのである。スタイルをよくするには、運動や食事調整によるほうがいいのは当然で、決して手術は奨励すべきことではないであろう。また、現在においては問題点もあり、だれでもやっていいとはいえぬ段階かもしれない。
しかし、近い将来においては可能になるはずである。脳や心臓の手術よりは、今でもはるかに危険性の少ないものであろう。遠からず、盲腸の手術や抜歯と同程度に容易になるのではないだろうか。
それを、絶対不可能と断定してしまうのはどうであろうか。専門家の名のもとに、大衆の常識に枠《わく》をはめてしまう行為である。
似たような話だが、友人の真鍋博がこんなことをこぼしていた。彼は画家であるとともに、未来に対して独自のビジョンを持っている男である。
「未来においては、ミルクが水道のごとくパイプによって家庭に配達されるだろうと、絵にかいた。すると、科学評論家のある人が、そんなことをしたら途中でミルクがチーズになってしまうと非難した」
どんな専門家なのか聞きもらしたが、それをしゃべる時の、いかにもこざかしい表情が目に見えるようではないか。せせら笑う顔だったにちがいない。
真鍋氏は「そうかもしれないが、未来にはミルクの消費量がふえる意味を絵で語りたかったのだが」と、遠慮しながら話してくれた。しかし、遠慮などすることはないのだ。それを可能にする方法はあるはずだし、それを目標にして努力するのが専門家なのではないだろうか。
史上最初の機関車が走った時、ある専門家は「時速五十キロのスピードで走ったら、人間は窒息死してしまう」と大まじめで主張したそうである。
エジソンが白熱電球を完成した時、社会的地位のある著名な専門家たちは、実用価値皆無と報告した。
ライト兄弟が飛行機を作った時も同様。
「いかなる物質と、いかなる機械と、いかなる動力を結びつけても飛行機械は製造不可能」と著名な天文学者が言った。そして、飛んだら飛んだで「少しは飛ぶかもしれないが、輸送手段としては決して利用できない」と主張したという。
世の進歩をはばむものは、大衆の無理解ではなく、専門家と称する人の保守性のほうにあるようである。大衆の無理解がさまたげになった例は、ほとんどない。
専門家の保守性もやむをえないことだとは思う。彼らがまっさきに立って珍奇な説を支持したら、世の中は混乱しかねない。しかし、自己の権威に酔って、一刀両断的にみもふたもない反対をするのを、さしひかえてもらいたいと思うだけである。
最近は未来ブームとかで、想像力尊重のムードがあるようだが、実情は私や真鍋氏の体験のように、以前とあまり変わらず、障害はちっともなくなっていないのである。
世は未来ブームとともに万博ブームでもあるようだ。先日、私のところへ万国博本部から手紙が来た。印刷されたものだから、各方面に相当な数を出したものだろう。内容は
「貴下に万博のモニターになっていただき、お知恵を借りたい。無報酬だが、いずれなんらかの形で謝意を表します」
とあった。専門家だけでは手におえないので、広くアイデアを求めたいというのだろう。無報酬とはひどいと思ったが、その時はさほど腹も立たなかった。
私が顔をしかめたのは、数日後である。新聞を見ていたら、万博長者の写真特集がのっていたからである。
万博会場のために土地を提供し、大金を得て豪華な邸宅を作った人たちである。その人たちはそれでいい。先祖伝来の田畑や山林を手放したのだから補償をもらうのは正当であろう。
しかし、土地の提供者には大金を払い、頭脳を提供させようという人には無料。あまりに大きな相違である。万博の上層部にどんな人がいるのかは知らないが、頭脳の働きには一円も払う必要がないという考えの持主なのであろう。
このような調子なのだから、日本の未来はあまり楽観を許さない。
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嘘とフィクション
いうまでもなく、嘘《うそ》は悪である。不治の病気を患者に告げない医者の場合を除いて、同情の余地は少しもない。事情によっては仕方ないなどと弁護する人は、世間知らずで被害者になったことがないのであろう。一回でも不渡手形をつかんでみれば、身にしみてわかる。そのあとでも嘘に同情できる人があったら、私は大いに尊敬する。
なんだか、きわめて当り前の文章になった。少しは変わった説を述べねばなるまい。
嘘つきというと政治家と結びつける人があるが、これに私は異論がある。政治家は嘘つきではない。なぜなら、嘘をついているとの意識がなく、とんでもないことを本気でそう信じているらしいからである。そうでなかったら、ああぬけぬけとはできない。一種の精神異常と呼ぶほうがいいのではなかろうか。
非行少年の親は、よく「うちの子に限って」と言うが、これが嘘つきでないのも同様であろう。親馬鹿《おやばか》という精薄なのである。これらの人には、私も同情している。
気の変な者が相手では、いかなる嘘つきもたちうちできない。わが国でまともな嘘が発達しないのは、ここに原因の一つがあるのかもしれない。まともな嘘とは、他人に迷惑をかけないたぐいのものだ。さらに楽しみをもたらすものなら、それに越したことはない。
フィクション、すなわち虚構のことである。私は今までにずいぶん短編を書いたが、現実的なことを書いたのは一つもない。べッド・シーンを書かないのも、それが現実的なことだからである。また、友人との雑談で、無茶な大ぼらをふく。しかし、私は嘘つきと呼ばれたり、うらまれたりしない。明らかなフィクションだからである。
いつか、こんなことがあった。私が以前、高層アパートに住んでいた時のことだ。東京タワーのそばなので、窓からよく見える。来客があると、それを指さして言うのだ。
「こんなに近いと電波が強く、眠っていてもコマーシャルの夢を見る」
たいていの人は面白がるが、なかに
「そうでしょうね」
と感心した人があった。本気で信じたらしい。これには私もあわて、急いで打ち消し、冗談であることの解説に大汗をかいた。
フィクションの楽しさが成立するには、いろいろな条件がある。第一に関係者が正気でなければならない。無知であってはならず、健全な常識の持主でなければならない。そのほか、技術もけっこう必要だ。
だが、それで成立するフィクションは楽しい。現実はただ一つの次元にすぎないが、架空の世界は多彩であり、そこから現実を見なおすこともできる。
小説を読むと、フィクションの技術ではアメリカがいかに進んでいるかを感じさせられる。テレビのホーム・ドラマを見ても、日米に大きな差がある。同じほのぼのとした印象を主題にしていても、アメリカ物は架空な事件を導入してそれを描き、国産のは現実的な物語にその色づけをしようとする。
なんでこんな差異が発生したのだろうか。その原因の一つに、作文教育があるのではないかと思う。わが国では遠足の光景を「目に見えるように」書くといい点がもらえる。だが、アメリカの子供は、友だちどうしのパーティーで、面白い物語を話した者が人気者になれる。日本の作家が描写中心であり、アメリカのが物語中心であるのは、このためではないだろうか。
わが国では文章を見て、その作者を当てることができる。これに反し、アメリカの作品はストーリーを知れば作者の推定ができるのだ。物語の発想と構成それ自体のなかに、作者の個性や人生観や主張が秘められているわけである。だからこそ読後「いかにもこの作家らしい話だ」という種類の感想がわいてくる。
アメリカ人はフィクションを作るのがうまいが、法廷で宣誓して証人となると、ほとんど嘘をつかない。これに反し、わが国の裁判では、証言はあまり重視されない。嘘とフィクションのけじめがないのである。
他人に迷惑の及ぶ嘘と、楽しむためのフィクションをはっきりわけるべきだ。そうすれば、世の中ももっと面白くなるはずである。
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平和について
しばらく前から気になってならないことがある。だれも発言せず、あるいはタブーなのかもしれないが、内心の不安を消すには告白するのが最良の方法だ。といっても、第三次大戦というありふれた不安ではない。その逆の米中和解についてである。「なにが不安だ、けっこうなことではないか」と怒る人が多いかもしれない。しかし本当にそれが実現し、米中間がすべて直通になったら、国中が虚脱と混乱におちいるような気がしてならないのである。
この私の不安の源は、昭和十四年の独ソ不可侵条約にあるようだ。まだ純真な子供の頃であり、防共のための日独伊三国同盟はいいことだと学校で教えられていて、あるあさ新聞を見たら、独ソの協約がのっていた。まさかと思い、いかによその国がいいかげんなものか心に刻みつけられ、ひどいショックだった。それにくらべれば八月十五日の終戦は、もちろん悲劇を感じたがショックではなかった。戦い、敗れたわけであり、その経過は一貫していた。
独ソ条約には政府も驚いたとみえ、平沼内閣はすぐに退陣した。その時に残した名文句である「複雑怪奇」という新聞見出しの大活字は、いまだに覚えている。いまでもこの四文字を見ると、一瞬のうちに当時の回想につながってしまう。米中和解の臨時ニュースがはいったら、政府はどうするのだろうか。
「流動的」とか言って退陣するのだろうか。それともかつての経験をいかし、今回はあわてることなく、さっと用意の政策を出してくれるだろうか。どうも後者とは思えない。また野党のほうも、気抜けすることなく審議をやってくれるのだろうか。
「米中和解などありえないさ」と多くの人は笑うかもしれない。だとしたら、世の中にたちこめる平和への声や運動はどういうことになるのだろう。だれもかれも実現不可能と理解しきったうえでやっていることになる。世の中には、怪しげな事業計画書を持ち歩き、それで金を集め毎日を食べている連中がある。それとどことなく似ているように思えるのである。
このへんのところがタブーの原因なのかもしれない。平和をめざす時にその先のことは考えるな、という形のようだ。戦時中には、勝つこと以外は考えるな、であった。そういえば、熱烈な恋愛中は、結婚後の生活設計など、まともに頭に浮かばない。人間の特性なのかもしれぬ。出世や栄光を夢みる男は、その座についてからあとのことは考えないものだ。それを考えることが非現実的な行為に思え、考えまいと努めるためでもある。考えないほうが現実的だとは、変な現象である。
ここで米中和解後の未来図を作ってみたらどうであろう。かんじんな個所を逃げている二十一世紀ビジョンなどより、はるかに重要なことのような気がする。もちろん両国の首脳はそれぞれ、和解後の現実的な青写真を持っているにきまっている。しかし、それを発表できる立場や状態にない。
その点、日本は自由な立場だから、やってもいいのではないだろうか。対立より和解のほうが、両国にとって、アジアにとって、世界にとって、どれだけ利益が多いかを明らかにするのである。最初はばかげた気分だろうが、やっているうちに、現実の対立のほうのばかばかしさが浮き彫りになってくると思う。しかし、今までだれもやらないのは、なにか理由があるからにちがいない。
私はこれまでに、願望が手にはいったとたんにがっかり、という型の小説をけっこう書いてきた。また、急所がなく、とらえどころのない怪物という、きわめて扱いにくい存在を作品にしたこともある。すなわち、絶対の平和はすばらしいにちがいない。だが、その環境にはいってから適応するまでには、想像もしなかったような苦難の山をいくつも越えねばならぬことだろうと思うのである。危機という急所のはっきりしたものとの共存のほうが、はるかに容易かもしれない。
「つまらん心配はするな。世界は適当に戦争をやってゆくよ」と悟った人から忠告されるかもしれない。それが事実かもしれない。平和という目的地そのものより、それまでの旅のほうが楽しいのだ。人類は平和に対して、じつは対処する自信がなく、恐怖を感じ、無意識あるいは意識して、だれもかれも足ぶみをつづけているのではないだろうか。こんな妄想《もうそう》に悩むとは、SFに熱中して私の頭がおかしくなったためであろうか。
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金星ロケット
ソ連の金星4号ロケットが金星に軟着陸し、大気の状況を送信してきた。
そのデータによると、生物は存在していそうにない。むかし、金星には大ジャングルがあり、恐竜がいるという空想画がよくあった。シャベルのような口をしたカバとか、七種の性を持つ生物とか、SFにはむやみと変なのが登場した。数年前のソ連映画「金星応答なし」では、文明の遺跡をロボットのアリがはっていることになっていた。
これらの可能性が否定されたわけである。しかし、そうと知ってがっかりする人も出ないだろう。SF作家のほうだって、そんなものがいると本気で思って書いた者は、一人もいなかったのだ。危機一髪、主人公が毎回うまく大活躍するスパイ映画と同じことで、フィクションと理解し合ったうえでの娯楽である。
だが、考えてみると、人類のやっているこの宇宙進出も、形を変えた一種の娯楽のようである。これまで宇宙につぎこまれた金は、合計したら気も遠くなる額である。しかも、これからもつづく。一方、どんな必要性があるのか、どんな利益があるのか、だれもはっきり答えられないのだ。益の少ないことはみな知っている。気象衛星で台風の予測ができても、被害がなくなるわけではない。それでいて、宇宙開発反対の声は、あまり表面化しない。人類の趣味、あるいは娯楽だからこそであろう。娯楽とはそういうものなのだ。
もちろん、長い目で見れば、有益といえないことはない。こんな計画もある。金星の大気の組成や温度を知り、そこで繁殖するような微生物を地球から送り込む。炭酸ガスは分解され、酸素と炭素になる。かくして「温室効果」はなくなって気温が下がり、人類の新天地に改造される可能性もでてくる。もっとも、数百年はかかるそうだ。
しかし、それを意識して考えている人も、まあいないだろう。新型の夢というべきで、やはり娯楽である。宇宙関係の産業は、娯楽産業に分類すべきだろう。純粋科学に関連した部分はごく一部で、あとは先陣争い、主導権争い、スパイ、報道合戦と、人間くさいショーが大部分である。
べつに、ふざけて言っているのではない。人間が実利で動いていた時期が去り、知的興味で行動しはじめる世紀に移りつつあるので、これは意義のあることと思えるのだ。自動車はすでに、輸送機関でなく、娯楽用品化しつつある。航空機の乗客は、ビジネスの客と観光客とどっちが多いだろうか。いずれどうなるかは、目に見えている。大きな変化である。面白い時代に生まれ合わせたものだ。
そして、面白いだけでなく、おそらくこれはいい傾向なのであろう。人類はもともと、知的好奇心によって生きるべきものなのだ。いままでは事情が許さなかっただけなのであろう。鹿《しか》を追う猟師山を見ずで、目前の利益で生きると、ろくなことはない。人間の過去の失敗は、すべてそれであった。
精神的余裕と知的興味を先行させて生きるようになると、大きな間違いはおかさないものだ。また、かえって予想もしなかった大きな利益を、往々にして発見するものである。こう考えてくると、人類がはじめて本来の生活軌道に乗ったともいえる。いまや、新しい文明期のドアが開かれつつあるわけである。喜ぶべきことだ。
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物質的
昨今の新聞のニュースは暗い記事が多い。その大部分は精神的なものと、物質的なものとの不均衡によるものであることがわかる。乗り物などの機械に任せきったための事故。物質への欲望が強すぎるための犯罪。金銭を得るために手段を選ばないための汚職。すべて、機械や物質や金銭を信仰の対象にしてしまい、前後を忘れてしまった結果といえそうである。
森鴎外の歴史小説にこんなのがあった。役人にひどい目に会わされた一家の女の子が、それでも「お上《かみ》のなさることに、まちがいはございますまい」と、つぶやくのが幕切れとなっている。封建時代の哀れさとともに、皮肉が痛烈に描かれている。
これを読んで私たちは、「ひどい時代もあったものだ。役人を神の如く信仰するとは」と、もどかしく感じる。
しかし、ひるがえって現代を眺《なが》めると、これと大差ないようである。
「科学のやることは……」とか
「お金さえためれば……」
と信じている人があまりに多い。そのためにごたごたが発生するわけである。科学や金銭は人間が使用するもので、信仰すべきものと別なことを気がつかない形である。
科学の発達はめざましい。その進歩はさらに速力をますかもしれない。そして、それによる混乱も予想される。そのたびに、どうしたらいいのかと、いちいちうろたえていては頭が疲れる一方である。機械に使われる形になりかねない。
あっちへうろうろ、こっちへうろうろして一生を送るのでは、あまりにも情ない。医学によって寿命は延びることになっても、イライラしながら生きているのでは、長生きするだけ損ということにもなる。死んで初めてほっとするのでは、人間がなんのためにあるのだか、わけがわからなくなってしまう。
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男性の空想
家庭電化の普及で主婦にひまができた。彼女たちが午後のテレビのよろめきドラマを、ひとりでじっと見つめている光景を想像するとぞっとする、という男がいる。
しかし、そう大さわぎするほどのことではないと思う。よろめきを妄想《もうそう》しているにはちがいないが、ドラマとは見る者が作中人物に共感し、同一化するようにできているものなのだ。
いいとしをした男だって同じこと。スパイ物のテレビや映画を見る時は、主人公に自分の魂がのりうつり、自分自身が人をぶっ殺したり、ビルを爆破しているような気分でいるのである。このことを女性が知ったら、あきれかえるだろう。異性への批判は、どっちもどっちだ。
しかし、いずれにせよ、あらぬ妄想をするのはいいことだ。現実と区別がつかなくなり、実行に移すのはもともと異常者。ひとりで妄想にひたるのは健全であり、向上意欲のあらわれの一種とみてもいいであろう。
各種の妄想を蒐集し、整理分類し、妄想論をまとめたら面白いだろうと考えている。だが、同じ妄想や空想でも、男性と女性とのあいだに差があるようである。女性の空想はつねに現実とどこか一点でつながっているが、男はその点が切れ、とめどなく飛躍する。
十年ほど前、私は空飛ぶ円盤研究会なるものに入っていた。女性会員もごく少数あったが、会合に集まるのは男ばかり。大学生とか、つとめ人とか、商店主とか、予想以上にまともな人たちであった。
「円盤はどの星から、なんのために来ているのであろうか」
「どんな動力で飛んでいるのだろう」
「宇宙人に、乗らないかとさそわれたら、ためらうことなく乗るつもりだ」
などと、大まじめで論じあっていたものだった。女性たちが集まって、こんな現実ばなれした話題に熱中することは、まああるまい。
まことに、男性の空想はどこへ飛んでゆくか見当がつかない。アメリカでSFが流行している理由について、こんな説がある。宇宙への冒険とは、女性の象徴である母なる地球から、脱出したいという欲求のあらわれだという説である。
わが国でも、女性の力がもっと強くなってくれるとありがたい。なぜなら、SFを読む男性がふえ、私がうるおうからである。
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官僚について
こんなSFはどうであろうか。超大型の電子計算機を作って、官庁事務を全部まかせようというアイデアだ。役人たちの抵抗もあるだろうが、民衆の力がそれを押しきる。官吏についての要素やデータを、すべて計算機にうえつけるのである。
そして待ちに待った完成の日。驚異的な能率化が実現するだろうとの期待に反し、さっぱり動かない。どうしたのだろうと機械に質問すると、こんな答えがかえってくる。「もっと予算をよこせ」とか「もっとていねいな口調でたのまないと、なにもやってやらん」とか「いずれ調査のうえ善処してやる」とかで、少しも役に立たない。
これはどういうことだと徹底的に調べ、原因がわかる。電子計算機は与えられた全データから、官庁機構の本質は非能率と浪費にあると見抜き、それが自分の役目だと判断し、ひたすらその特性を発揮したのだったというわけ。
昭和二十五年頃だったと思うが、大学を出てまもなく、私は役人になろうと思った。べつに国家再建の使命感に燃えたからではない。私の如くなまけ者で、他人におせじが言えず、口先だけで実行力がなく、能率的でもないという、性格に欠陥のある人間は、とても民間の会社にはむかないだろうと考えたからである。
友人から、それには人事院の国家公務員試験を受けなければだめだ、と教えられた。その結果、受験者八千人中の三百番という通知が来た。私はだらしない人間だが、こと受験に関してだけは、特殊な才能を示すのである。これでよし。役人になれば、あとは失敗さえしなければ、なんの業績をあげなくてもくびになることはなく、給料にありつけるはずだ。
内心で大いに喜んでいたわけだが、その年は大変な行政整理があり、いくら待っても、どこからも口がかからない。そのうち、これがおやじにばれて「役人なんかになるな」とさんざん怒られ、生木を裂かれてしまった。
かくの如く私にとって、役人は初恋の相手のようなものであり、いまだに面影が忘れられず、時とともに心のなかで美化されてゆくのである。
高級官僚がうまいことをするニュースに接すると、ああうらやましいと思う。平日の昼間のデモがみな公務員であると知ると、なんとのんきな職場があるのだろうとため息が出る。官吏あがりの人の随筆を読むと、尊大でユーモアがなく、自己の手柄ばかりで失敗については決して書かない。こんな神経になれたらいいなあと、残念でたまらなくなる。
この私みたいな人が、かなり多いのではないだろうか。もっともっと官僚批判が出てもいいはずだし、出なければならぬはずなのだが、たいてい散発的で表面的なまま終わってしまう。
その原因は、だれもが官吏に内心であこがれているからにちがいない。初恋の人を徹底的にけなすことはできないものだ。そんなのにあこがれていた自分をけなすことになってしまうからである。
官吏を意味する古語の臣《おみ》は御身であり、司《つかさ》は高い所のことで、常人よりすぐれたとの呼称である。たしかに古代はすぐれた者が官吏になったのだろうが、いまや官吏だからすぐれているというわけで、巧みなスリカエである。
官吏ほど、このスリカエや身のひるがえし方のうまい者はない。米価値上げや補償要求を圧力団体と非難する人は多いが、官吏集団ほど強大な圧力団体はないはずである。それなのに、だれにもそうと気づかせぬ点、絶妙としか呼びようがない。もっとも、これは私たちが盲のせいかもしれない。
黒い霧のたぐいの責任は、すべて代議士に押しつけられ、官吏はいつも清潔である。自分の選挙区に橋や道路を優先して作らせ、あれこれ言われる代議士があるが、代議士の口ききでどうにでもなる側があればこそではなかろうか。どことなく変だ。官僚機構とは強いばかりでなく巧妙で不死身の怪獣である。民衆の手におえるのは、せいぜいママゴンとかいった程度の小怪獣ぐらいである。
私は最近、対米開戦論をとなえている。勝てるとは思っていないが、それでいいのである。やがて進駐軍がやってきて、行政改革をやってくれるかもしれないからだ。怪獣ヤクショザウルスを退治できるのは、それ以外にないにちがいない。
しかし、まあこんなことは起りえない。官吏は永久に安泰である。電子計算機が発達しても、そのための官庁がふえるだけだ。まったく、いい商売だ。私は官吏になれなかったことを、一生後悔しつづけることだろう。
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趣味亡国論
趣味亡国論を展開してみようと思う。念のために解説するが、亡国が私の趣味だというのではない。現在における趣味の流行が憂うべきだという趣旨である。「趣味はなんですか」とか「趣味のある生活を楽しみたい」とかのことばをよく耳にする。その風潮に反対しようというのだから、私はよほどのアマノジャクのようだ。
いったい、アマノジャクとは日本特有の現象らしいが、なぜなのだろうか。このあいだ考えてみた。欧米においては社会が種々雑多な主義や思想や人種から構成されており、お互いの差異をみとめあった上で、なにか一致点を見出そうと努めている。このような状態ではアマノジャクも発生しようがない。
これに反しわが国では、だれもかれも感じ方から考え方までほとんど均一。となると、むりにも差異を作ってみたくなる。このへんに原因があるのではないだろうか。私も趣味に熱中する人も、この点では共通している。変なものだ。
落語に「寝床」というのがある。五色の声をはりあげて他人をなやます地主の旦那《だんな》の、義太夫道楽の話である。おれのを聞かなければ、店の者はくびにし、長屋の住人は追い出すという、むちゃくちゃなさわぎ。だれでも大笑いするが、さて自分のこととなるとことがちがってくる。
乗り物のなかに小型ラジオを持ち込み、音楽や野球放送を響かせている人がある。おそらく本人は、はた迷惑になっているなどとは少しも考えず、イヤホンで自分ひとりで楽しんでは申しわけないと思っているのだろう。寝床の旦那と同じである。
趣味の問題点は、自分が好きだから他人も同じだろうと独断してしまうところにある。たとえば酒の強要。こんなうまいものをなぜ飲まない、遠慮するな、さあ飲め、という論理である。かかる光景をみると、下戸《げこ》の人が気の毒でならない。この論理のいいかげんなことは酒を麻薬に置き換えればすぐにわかる。
趣味がビジネスとからんでくると、これまた困ったことになる。上役や取り引き先のためにマージャンやゴルフをつきあわされる悲哀は、小説や漫画ですでにいろいろと語られているが、いまだにあとをたたない。上役や取り引き先の人だって日常は健全な常識の持主なのだろうが、こと趣味となると盲目になる。
犬や猫《ねこ》をかわいがるのはいいことなのだが、他人よりも自分のペットのほうが大事となると、これはもはや精神異常である。徳川時代の犬|公方《くぼう》のたぐいであろう。最近、車の免許には医師の鑑定書が必要になったらしいが、ペットを飼うのにも適用すべきだ。
道路や公園など公共の場所で、わがもの顔にキャッチボールをやる連中も正気ではない。競馬や碁・将棋に熱狂し、しかも家庭に不満をわかせない亭主はまあいないだろう。そんなことを非難する婦人も、教育ママすなわち子供を仕込む趣味となると、ほかのことは考えなくなる。となりかまわず楽器をならす者、地元のことなど考えもせず山で遭難する青年……。あげればきりがない。
商業主義とマスコミの共同戦線が、趣味を持たざる者は人にあらずとのムードを作りあげたのだ。事故や犯罪の統計をとると、趣味に起因するものが驚異的な率を占めているにちがいない。諸悪の根元は趣味にあり、である。
「趣味は」と聞かれ「お恥ずかしいが読書ぐらいです」と恐縮する人があるが、大いばりで答えればいいのだ。無趣味とは他人に迷惑をかけていない善良な社会人のことである。
かつて聖戦という体裁のいい旗印のもとに、私たちはひどい目にあった。いまや、趣味というニシキの御旗《みはた》によって、私たちは悲惨な状態におちいりつつあるように思えてならない。
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5 味わう
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私と酒
「学校ではなにを専攻していたのですか」
と、時どき聞かれる。科学的ともつかず、非科学的ともつかない、要するにわけのわからない話を書いているせいか、いくらか興味の対象になるらしい。そこで、仕方なく
「酒です」
と答えるが、相手はにやりと笑い、それでわかりましたといった表情になる。勉強をしないで、酒ばかり飲んでいたのだろうと、判断したわけである。しかし、実際はその反対で、勉強ばかりして、酒はほとんど飲まなかった。
大学一年の時に終戦になった。私は農学部農芸化学科の学生であった。酒などほとんどない時代で、あまり飲むことができなかった。そして、授業ではいかなる微生物のいかなる働きでアルコールが作られ、人体内ではどんな酵素によって分解されるか、などと坂口謹一郎先生から教えられていたのである。女性を知らない若者が、性科学の本を読んでいるようなもので、まことに変な状態であった。性科学の本を読めば少しは興奮もするが、発酵学の参考書は、いくら読んでも酔ったような気分にはならない。酒と女の本質的な差異は、このあたりにあるようである。
卒業論文は朝井勇宣先生の発酵生産学教室で書いた。その頃になって、友人たちとやっと酒にありつけるようになった。もっとも、酒と呼べるような代物ではなかった。どこからともなく薬用アルコールを手に入れてきて、不可思議なる薬品で味をつけたのを、夜の研究室でビーカーについで飲んだわけである。いま考えれば、おそらく酒税法違反の行為であろう。だが、当時はそんなことは知らず、したがってアンタッチャブルに追われるアル・カポネ的なスリルも味わわず、残念であった。
イモを糖化してドブロクまがいの物を作った友人もあった。すっぱいのや、苦いのや、舌のヒリヒリするのや、なにしろ奇妙な酒をいろいろと口にした。青春の味としか呼びようがない。
その頃、一回ひやりとしたことがある。そんな酒を飲んで家に帰り、夜中に目がさめた。枕《まくら》もとの電気スタンドのスイッチをひねったが、部屋は暗いままなのだ。
「さては、メチルで目がつぶれたにちがいないぞ」
と、いささかあわてた。しかし、落着いて調べてみると、たまたま停電中であったのである。しかし、そうとわかるまでは、文字通り目の前がまっくらになったような不安な気持ちだった。
私が作家になったのは、自由業なら、つぎの日の朝のことを心配せずに飲めるからいい、という考えが無意識のうちにあったのかもしれない。だが、なってみると案に相違していた。仕事が一段落するのが午前の四時頃で、飲みに行きようがない。仕方ないから、ひとりでウイスキーを飲むことになってしまう。最近はその量が少しずつふえている。アル中になるのではないかと心配だが、なかなかコントロールできぬ。節制とは容易なことではない。
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世界無味旅行
かつて、家内とともに世界一周の旅をした。ちょうど春で旅行には最適の季節であり、好天に恵まれ、なにもかも好印象、申しぶんなかった。
また、あらかじめ連絡しておいたため、各地の知人が親切に案内してくれて、大いに助かった。途方にくれるという目に会わなくてすんだのである。帰国してから当分のあいだ、おかげで随筆のたねにも困らなかった。
しかし、ある一点に関して、まことに心残りなことがあった。だれが悪いのでもなく、どうしようもない結果そうなったので、文句の持っていきどころもないのである。今までは心に秘めたままで文に書かなかったが、いつまでも秘密にしておくのは精神衛生上よくない。ここに記すことにする。
前おきが物々しくなったが、それは外国料理をほとんど味わえなかったことである。出発前には予想もしなかったことだ。
まず、ハワイ。外国の第一日となると、語学力の不足もあり、緊張もあり、なかなか言葉がうまくでない。見物のほうは案内人をたのんだので無事にすんだが、夕食となって、さてと考えた。
ホテルの食堂に辞書を持ち込むのも、みっともない。勇気を出せばよかったのだが、安易な道を選んでしまった。街へ出て日本人経営の料理屋に入ったのだ。刺身などの味は悪くなかったが、外国へ来てその地の料理を食べないのは、いささか情ない気分だった。
しかし、まだ先は長いのだと自分をなぐさめた。ハワイでこうまごついたのは、訪れる予定だった二世の人が、たまたま在郷軍人の訓練日に当って不在だったからである。だが、訪問したとしても、やはり日本食を口にすることにはなったろう。
ロサンゼルスでは私の亡父の友人である一世の人に世話になった。モテルを経営しており、そこへ泊めてくれて、車で市内を案内してくれた。「食事もここでしなさい、作ってあげる」と言われ、その好意に甘えることにしたが、やはり日本風の味であった。
市内見物をした時には、日本人街のスシ屋に連れてゆかれた。みそ汁つきのスシを出すので有名である。日本からの旅行者は、これはおかしいと異論をとなえ、経営者はこれでいいと主張するのが慣例となっているらしい。あるいは、話題を作るための一種のサービスかもしれぬ。
ニューヨークには二週間ほど滞在した。妹夫婦のアパートの一室に泊まったのである。妹は滞米五年ほど、その亭主は十年以上にもなり、地理や風俗にくわしい。また、子供が生まれてから、私の母が手伝いに来て滞在している。私にとっては自宅に帰ったようなもので、不便はない。母の作る料理だから、私の口にも合う。
しかし、ニューヨークの食事にはありつけないのである。街へ出てセルフサービスの食堂に入ったことはあったが、ひどい味だった。世の中にはこんなまずいものがあるかと思うほどの味だ。外見がうまそうなだけに、なおしゃくである。アパートの母の料理のほうが、はるかにいい。
ニューヨークでは旅行中の手塚治虫氏と会った。彼は「日本食がなつかしい、日本料理を食べに行こう」と言う。ホテル暮らしの彼は、そんな気分になるのだろう。私も同行し、五ドルの天丼《てんどん》を食べた。
手塚氏とはもう一回、こんどはレストランに入ったが、不運にも私はその時、下痢をしていてスープとパンだけにとどめておかなくてはならなかった。また、日銀支店に勤める友人に由緒あるレストランで昼食をおごってもらったが、この時も全快せず、節制しなければならなかった。残念でならない。
やっとなおり、ワシントン市へと出かけた。ここには大蔵省から国際通貨基金の本部に出向している友人がおり、家にとめてくれ案内もしてくれた。食事は奥様が心をこめて作った和風の料理である。
パリでも紹介状のおかげで、留学生が案内してくれた。お礼にごちそうすると言うと、日本料理店にばかり行きたがる。無理もないことだが、おかげで私は、外国における日本料理店の通になった。
パリ滞在の日をさいて、ベルギーのブリュッセルに行った。大使館につとめている友人がいるのである。ここでも泊めてもらい、奥様の手料理をいただいた。
なにもかも善意と必然の成行きであり、私も心から感謝しているのだが、どうも妙な気分である。
かくしてローマに入り、やっと少し落着いた。泊まったホテルが朝夕の二食つきというシステムであったせいもある。また、街へ出ていろいろと食べた。いいかげんな英語でも、イタリー人の前でなら、そう気にしなくてもすむのである。それに、ローマという街は風景のせいか、空気のせいか、いやに食欲を促進させられる。
日本料理店もあったが、ついに入らなかった。もっとも、日本からの団体旅行の貸切りバスに同乗し、ナポリ見物に行った時には日本料理の弁当が配られた。
ローマには十日ほど滞在し、イタリー料理をたんのうするほど食べ、なれてあまりありがたみがなくなった頃、南|廻《まわ》りの航空機で帰途についた。しかし、日航機であったため、たちまちサービスがはじまった。なつかしの日本料理をどうぞ、というわけである。
この旅行を回想すると、私のまぶたにはいろいろの光景が浮かび上ってくる。ハワイの花々、ディズニーランド、ニューヨークのビルの群れ、ケネディの墓、パリのマロニエの花、ウォーターローの古戦場……。
また、日本人の案内にはあきあきしているはずなのに、私たちを親切にもてなしてくれた知人たちの好意。しかし、味についての思い出は、ほとんど印象にないのである。
もっとも、完全に絶無ではない。一つだけある。ニューヨーク港のフェリーボートの上で食べたホットドッグである。つめたい海の風に当りながら食べたせいもあったが、温かくシンプルで、忘れられないうまさだった。まさに、その時に近くに眺めた自由の女神そのものであった。
こんど外国に行く時は、景色も見ない、買物もしない、知人にも迷惑をかけない、迷子になったり恥をかいたりしてもいい。ひたすら料理を味わうことに熱中するつもりである。
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クワイ
衣食住にはあまり関心がないので好物を聞かれるととまどってしまうが、考えたら一つだけあった。それはクワイ。調理法はなまのままおろしたものに、めりけん粉と卵を加え、丸めて油で揚げて作る。ソフトで上品で淡泊な味で、私の最も好きな食品といえる。ありふれた料理なのかもしれないが、いまだかつて自宅以外で食べたことがない。したがって私にとっては「母の味」である。
クワイの芽の部分は取っ手と称するのだそうだが、私はシッポと呼ぶ。普通は捨てるものだろうが、これもついでに油で揚げて添えられている。こっちのほうは複雑微妙、ホップの如きほろ苦い味がする。
幼い頃これを食べながら、クワイとはどんなものか質問し、祖母だか母だかに、泥のなかにあって足の先で収穫するのだと教えられた。子供心に非常に面白く思ったことを覚えている。
そんな追憶が味覚と結びついて、なつかしい味となってしまったのかもしれない。私は完全な都会育ちであり、現在においてもクワイがどんな植物で栽培法や収穫法がどんなか、それ以上の知識は持っていないが、知ろうとも思わない。このまま神秘の幕で包んでおくほうがいいような気もする。
クワイをそのまま煮たものや、薄く切って揚げたものは、料理屋などで時どき出される。しかし、いっこうにうまいと感じないし、きんとんにしたものはクリよりはっきり劣るのだから、味とはふしぎな存在である。
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台所について
大正十五年に生まれてから昭和二十年まで、私はずっと本郷に住んでいた。高台にあり、眺《なが》めのよい場所だった。豪華でも高級でもなく、古い作りだったが、けっこう広い家だった。
はずし忘れたガス灯のホヤが、そのまま天井からさげられている部屋があったり、めったに使わない部屋があったりした。物置き専用の部屋のなかには、明治時代の品物がいっぱいつまっていた。そんななかで、いろいろな空想にひたりながら、私の子供時代がすぎていったのである。
現在の住居にくらべれば、あらゆる点で不便で、暖房も行きとどかなかったが、しっとりした思い出を持つことができた。
台所もかなりの広さだった。子供の頃にはなんでも広く感じるものだろうが、十畳ぐらいはあったのだから、現実に広かったといえるだろう。床も天井も、板がすすけて黒くなっていた。
母や女中たちが、そこで食事を作った。私にとって、それがはなはだ神秘的な作業に思えてならなかった。米も野菜も魚も、材料のときのものと、調理されて食べられる形になったときとでは、子供の感覚においてはまったく異質である。しかも、いかにすればそのような変化をとげるものか少しもわからないのだから、感嘆するばかりだった。
私の生まれる前からの慣習らしいのだが、夏が終わりになる頃、毎年、その台所でジャムが作られた。軽井沢からブドウを大量に取り寄せ、それで作るのである。できあがると、いくつものビンに入れられ、とかしたロウで封をし、しまわれる。祖父の発案によってはじめられたことだったようだ。
その進行を、私たち兄弟はあきることなく見つめつづけたものだった。限りない尊敬の念を抱いてである。台所じゅうに魔力がただよっているように思えた。
こんなわけで、台所は神秘にして神聖な場所であるとの印象が私の心にうえつけられ、今日に至っている。さらに、それが女性への神秘感ともつながっているようである。男が女性に対して劣等感を持っているとすれば、料理ができないという点にある。
もっとも、現在の私は食品について無知ではない。大学は農芸化学科というのを出たからである。どんな食品はどんな成分で、蛋白《たんぱく》質はいかに変化し、澱粉《でんぷん》が体内でいかに分解してエネルギー源になるかを習った。ビタミンや味の素や酵素の構造式も習った。しかし、食品の原理についてはよく知っているのだが、自分で料理したことがないため、ただの知識にとどまっているだけなのである。
したがって、台所への神秘感はいまだに抱いている。しかし、心の底にこのような感情を残しているというのは、いいことなのではないだろうか。
昨今の子供たちはどうなのであろう。ダイニング・キッチンとやらで、目の前でインスタント食を作られたのでは、料理について神秘さを感じないのではないだろうか。
また、この頃は台所仕事をする亭主がふえたようである。皿《さら》洗いぐらいならするのもいいだろうが、料理までやるとなると、どうかと思う。夫人よりも料理の腕が上となったら、女性へのありがたみなど、大幅にへってしまうことであろう。いい傾向とは思えない。
聞くところによると、最近のアメリカでは合理主義だけの家庭生活への反省が高まり、古風な良い風習への再検討が真剣に論じられはじめたという。ドライな集団では家庭とは呼べぬと、あらためて気づいたのである。
多くの流行と同じく、日本にもやがてその波が及んでくることだろう。そしてまた、台所は子供や男性にとって、ふしぎで神秘的な、なぞを秘めたイメージを与える場所となることだろう。喜ぶべきことと思う。
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ピ ザ
夜の十時頃に電話がかかってきて、受話器を取ると「ピザを食おう」という声が出てくる。普通の人なら面くらうだろうが、これは私たちの合言葉である。すなわち、SF作家仲間の小松左京が上京し、いま仕事が終わったとこだとの意味なのである。
私はいそいそと家を出てタクシーに乗り、六本木のイタリー料理店に行く。そこには他の友人もやがて集まり、キャンティというイタリーの酒とともにピザを食う。これがずっと慣例になってしまっている。
このイタリー風お好み焼きともいうべき食物を、なぜ私たちがこうも愛用しはじめたのであろうか。思いかえしてみると、小松左京は京大のイタリー文学科の卒業であり、それならイタリー料理店にしようと、はじめて会った時に入ったのがきっかけであった。まことに単純なる理屈だ。SF作家だからいつも異様な発想をするとは限らない。
また、この種の店は夜おそくまでやっている点も、そこに定着した理由である。時には気分を変えようと赤坂へんのカニ料理店に移ったこともあった。しかし、カニそのものはいいのだが、ある時刻になると閉店で帰らなければならない。そこが不便で、いつのまにか、またピザの店に戻ってしまった。深夜営業というものは、原則的には感心しないことだが、生活時間のずれた作家にとってはありがたいのである。
一年ほど前、ある雑誌社が、彼と私のピザを食っているところをグラビヤにのせることにした。そこでまず赤坂のイタリー料理店に入って食べはじめたのはいいが、カメラマンがこの店は写真になりにくいという。そこで六本木の店に入りなおし、やっと写真がとれた。この噂《うわさ》が大げさにひろまり、ピザのはしごをやったそうだということになってしまった。
はじめてピザを食った時は、私の好みにあった味だと思ったが、こうたび重なると感激も薄れてくる。食傷気味なのである。私たちは店に入りテーブルにつくと「なんたるマンネリだ」と話し合う。しかし、それでもピザとキャンティを注文してしまう。
料理というものは、気楽に落着けて、安心した雰囲気《ふんいき》のなかで、気のあった友人どうし思うままにしゃべりながら食べるのが第一であろう。味はその次に重要なのである。この店に入ると、すぐに談笑のムードにひたれる。なれない店に入ると、ウイットやユーモアが出てくるのに時間がかかるし、終わりまで出てこないこともある。私たちはこれを場の作用≠ニ称している。
ローマへ旅行した時、コロシアムのそばの安っぽく小さな店で、ピザを食べた。それがまたなんともあわれなピザで、トマトケチャップをぬったオセンベといった感じだった。本場の品かならずしもすぐれていない一例である。しかし、イタリー人はしゃべり合いながら、けっこう楽しそうに食べていた。これにくらべると、日本人は食事の時に神妙すぎるようである。
イタリーでは冷した酒をよく飲んだが、東京のレストランでは用意していない。もっとも、冷すのは安酒の場合だとの説もあり、そんな注文はすべきでないのかもしれない。
SF作家はみな年齢が若く、消化器も丈夫である。ピザとともに、スパゲッティやオムレツやスープを口にする。時にはそのあと、近くの中華料理店に河岸を変え、アワビだのエビだのを食べることもある。金はかかるが、銀座のバーで飲むよりはるかに安上がりだ。
食べる楽しさというものは、心ゆくまでしゃべり笑いながら、好きなものを大量に食べる点にある。酔いの発散もよく、消化もよく、精神的にもいいはずだ。ローマ時代の貴族の気分である。もっとも、からだがふとる結果にはなるが、それはそれで仕方ない。食事を犠牲にしてスマートになってみたところで人生それほど面白くもないと思う。
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6 ちょっと頭に浮かぶ
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スリルと乗り心地
スリルはスピードに反比例しているのではないだろうか。たとえば、プロペラ機に乗っていると、窓のそとを雲が流れたり機体が揺れたりして、いかにも空を飛んでいる実感がある。しかし、ジェット機となると、雲の上に浮いているだけのような気分だ。おそらく、人工衛星に乗ったらスピード感などまるでなく、地球が遠くでゆっくりと回っているだけで、退屈きわまりないものにちがいない。
これと逆に、飛行機からおりてタクシーに乗ると、いつもは平気なのに、いまにもぶつかりそうなスリルを感じる。私は久しく自転車に乗らないが、とても乗る勇気はない。子供をのせたウバ車を押して通りを歩いたことがあったが、精神の緊張で疲れ、ぐったりとしてしまった。スピードのおそいものほどスリルにみちている。
だが、高速の乗り物の安心感は安全につながっていない。危険性ははるかにふえ、ちょっとした事故でも大惨事になる。いささか科学的な説明になるが、スピードがある限度を越すと、人体の神経伝達速度では制御できなくなるのである。すなわち、目で危険をみとめ、指でボタンを押してもまにあわない。
したがって、これからの乗り物は、操縦をすべて機械に一任しなければならなくなる。自分の感覚や手足よりも、機械のほうを全面的に信じ、まかせきりにする。スリルはなくなるだろうが、これにかわってじわじわとサスペンスが湧《わ》いてくるのではないだろうか。
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人物の名
小説を書くときに作家がいちばん困るのは、登場人物の名前らしいが、私たちの書く未来や宇宙を舞台にしたSFとなると、この問題には特に頭を悩ます。
いくらSFの本場がアメリカだからといって、こっちで書く物にまで、ジョンとかリチャードとかを登場させては見識を疑われる、というものだ。もちろん、書く方だっていい気持ちではない。
しかし、だからといって、銀色に輝いて宇宙のはてをめざすロケット操縦士が権三と助十では、困るだろう。これは極端だが、タナカ艦長とワタナベ操縦士としても、なんとなくシックリしないものがある。
そのような未来には世界の人種がまざり合って、だれもが今とはまったくちがった感じの名前を持つようになっている、と考えるせいかもしれない。
めざましく進歩をとげている科学の発達については、ある程度の予測が立てられるかもしれない。が、この点になると、ぜんぜん、見当がつかない。
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蚊
あまりありがたい昆虫《こんちゆう》ではないが、刺されたところをボリボリかくのは、じつに気持ちがいい。だが、科学の進歩は、いずれこの昆虫を一掃してしまうのではないだろうか。
そして、人びとがすっかり忘れてしまった未来に、だれかが「おい、皮膚に、かゆい所をこしらえ、そこをかくのは、すごい快感だぜ」と、偉大な発見を発表するかもしれない。
原始的で、刺激的なムードをよびさます
といったキャッチ・フレーズで、カユミ出しクリームが売り出されるわけである。
そのうちこった業者は超小型ヘリコプターに注射器をとりつけた新製品を売り出しはじめるにちがいない。
金持ちはこれを買い、室のなかを飛ばせ友だちを連れてきて自慢する。
「どうだ、すごいだろう。うちには、百台も飛ばせてあるんだ。さあ、どこでも、えんりょなく、刺させたまえ」
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ジンクス
私にはへんなジンクスがついているらしい。それは総選挙のたびにあらわれる。
いつも新聞を熟読し、政党、候補者についてまじめに検討し、そのうえで投票しているつもりなのだが、私の入れた人の当選したためしがないのである。
そればかりか、その候補者の所属している政党までが、それまでの議席を大幅に割ってしまうのだ。
自分の応援した者に勝ってもらいたいのは人情だが、私はいちども、その楽しみをあじわったことがない。
開票速報を見ながら、自分だけが世間の大勢《たいせい》から、仲間はずれにされたようで、情ない気分にひたるのである。おそらくは、この次もそうだろう。
しかし、このジンクスを聞きつたえ、いずれ、どこからか「ぜひ、わが党には、投票しないで下さい」と、ひそかに、買収にあらわれるのではないか、と思っている。これは罪にはなるまいから、応じてみるつもりである。
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進 歩
「近頃はウンチの話をするのが流行らしいから、きょうは、この問題をとりあげよう」
われわれSFファンの会合でも、「未来において、トイレはどう変わるか」の討議が、おこなわれた。
だが、歴史的にほとんど進歩していない部門の予想は、意外につけにくい。
「立体音響のカラーテレビがつく」
「いや、チエの輪のように、一人で静かに遊べるおもちゃのようなものが出現する」
そのうち話に調子がつき、飛躍した意見が出はじめた。
「人体に少し改造を加えれば、プラスチックで包んだタマゴのような形で、排泄《はいせつ》できるようになる。それをクズ籠《かご》に捨てればいい」
「出すことにこだわるから、そんな苦しい説になるのだ。食品を改良して、すべてが完全に吸収されてしまうものにすれば排泄≠ニいうムダな行為は不必要になる」
どうも未来はあじけないものらしい。合理化反対闘争もおこることだろう。
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二つの原因
人間は二つの原因から危険をおかす。ひとつは希望、ひとつは絶望である。
これは千五百年以上の昔のアウグスティヌスという人の言葉である。しかし、人間という生物はいつまでたっても進化しないものらしく、この言葉は現在においても立派に通用する。それどころか、証明ずみの公式と呼ぶことができそうだ。
危険と知りつつ乗り出してみじめな失敗に終わるという現象は、大は戦争から小は簡単なゲームに至るまで、すべて程度を越した希望か絶望かが原因となっている。推理小説にでてくる犯罪の動機には数えきれない種類があるようにみえるが、やはりこの公式にあてはまってしまう。成功のあかつきの夢のような結果に酔ってか、やけをおこして前後を考えないでかのいずれかである。もちろん、たまに精神異常による犯罪もあるが、それは特殊な場合で、正気な人間を危険に運びこむものはこの二つしかない。
ところで現在の社会は、子供や若い人を大いに甘やかすようなしくみにできているらしい。これにはいろいろな理由があるのだろうが、やがて成長して社会との接触がはじまった時に、そのしわ寄せをいっぺんに受けなくてはならなくなる。私にもその経験があるが、大きくふくらませられた希望と、冷酷な現実に直面しての絶望とが心のなかでぶつかりあうわけである。そして、多くの問題がうまれてくるが、その文句はどこへも持って行きようがない。
わが国では青年の自殺率が世界一であるといわれているが、その原因の一つはここにあるのではないだろうか。みなで考えなければならないことだと思う。しかし若い人たちが一度は通らなければならないこの大きな落差は、当分はなくならないにちがいない。それまではこの古人の言葉を頭の片すみにしまっておいて、自分でブレーキをかけるようにするほかはないようだ。
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円盤型の乗り物
空気を下に噴射して走る空とぶ円盤型の乗り物ができた。だが、このヒントになった宇宙からの訪問者の空とぶ円盤の方は、非常に魅力的ではあるが、いざ興味を持って調べてみると、報告の多いわりには実在の確信が持てる例が少ない。あるいは将来、幻覚か何かの見まちがえと明らかにされてしまうかもしれない。そうなると幻覚が新型の乗り物を作り出したとも言えることになる。
人類は多くの物を作り出したが、これを自然現象の模倣と、そうでない物との二つに分けることができる。科学の三大成果の原子力、人工衛星、オートメーションは、それぞれ太陽、月、生物体の人工による再現である。もう一方に属するものにはタバコ、野球、ゲーム、映画のたぐいがある。こう並べてみると生産的と娯楽的とに奇妙な対照を示している。円盤型の乗り物は、その中間的な存在になるのだろうか。
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憂いの種
世の中はなにを見ても憂いの種ならざるはない。いったい、なぜだろうか。きっと私が憂いブームに巻き込まれて憂えていないと時代におくれる、という精神状態になっているからにちがいない。おそらく他の人びともそうだろう。
そのうち「能率の良い憂い方」とか「あなたも最高に憂える」という本が出るだろう。皆それを手に、テレビの憂い特集番組を見つめつづける。機敏な本屋が「本当に憂えているのかどうかの見分け方」を出し、ベストセラーになる頃、全国のブームは絶頂になる。
だが、株でもフラフープでも無限に景気はつづかない。気のきいた連中は憂いブームに見切りをつけて、次の仕事にうつりはじめる。これを機会にブームは急激におとろえる。その頃になってやっと本当に憂うべきことが持ち上がるが、だれもかれもケロリとして感じない。どこかで聞いたような話だと思ったら「オオカミが来た」という童話に似ていた。
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屈折の廊下
突然のめまいと出血とで死をもたらす「赤き死」が世の中を荒しまわっている時、かたく閉ざされた城の中では豪華な舞踏会が行なわれていた。もちろんポーの作品である。この城の各室はきわめて不規則に配列されていて二、三十ヤードごとに急角度の屈折があるという不気味なものだ。
私は最近これに似たつくりの場所を見た。原子力研究所である。地下におりる階段は途中で向きをかえ、それにつづく廊下は折れ曲り、その奥がマジックハンドで扱われるコバルト60の照射室なのだ。万一の事故の時、こうなっていると照射線がさえぎれるためである。
将来、放射能という目に見えぬ死神が地上を荒しまわるようになったら、このような地下室にとじこもらなくてはならないわけであろうか。英国のウェルズは今世紀のはじめに原爆の発明を予言したが、ポーはそれ以前に予感していたのかもしれない。
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考える人
インテリを鼻にかけた者の話し相手になるのは面白いものではないから、そんな時に相手をやっつける秘法をお教えする。
「ロダンの彫刻に〈考える人〉というのがあるが、あれは何を考えているのか」というクイズを持ち出すのだ。「人生についてだ」とでも答えるだろう。「ちがう」と言えば、相手はもっともらしく頭をかしげて「哲学、科学」などと並べるだろうが決して当らぬ。
頃を見はからって「正解は、どうやったら考えているかっこうに見えるだろうと考えている、でした」と溜飲《りゆういん》を下げればいいのである。
インテリとは、いかにすればインテリらしく見られるかという術を身につけているだけである。また、どうすれば働いているように見えるかの術を身につけた〈働く人〉もある。〈偉い人〉はもちろん多い。ちかごろの雑誌には恋愛技法がさかんにのっているから〈恋する女性〉も多くなったにちがいない。
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わかりやすい悪徳
手もとにある金言集をめくり、女性に関するところを見て、きもをつぶした。虚栄心が強い、よく邪推する、嫉妬《しつと》心の塊であるなど、巧みな形容でぞろぞろ並んでいる。このような怪物が地球に生存しているとは知らなかった。
しかし、よく考えてみると、これらの悪徳はなにも女性だけの特質ではないようである。子供であれ、男であれ、人間ならばだれしも持っているものであろう。
ただし、子供の場合は、その現われ方が単純なので、笑って見すごされてしまう。また男性の場合には、その現われ方が大がかりのため、気がつかれないわけである。たまたま女の人は、それがわかりやすい程度なので、気の毒な状態にあるにちがいない。
マーク・トウェインのこんな言葉もまざっていた。「女性の側に立って弁護することはいくらでもできる。だが、攻撃するほうがずっと面白い」
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道路で
ある日、乗っていたタクシーがふいに急停車した。どうしたのかと思うと、交通のはげしいなかを、中年の女の人がゆうゆうと横断しているのであった。運転手さんがブツブツこぼすのを聞き流しながら、考えてみた。
たしかに、信号や禁止を気にしないで道を横断するのは、老若を問わず女のほうに多いようである。もちろん、男にもそんな人はあるが、男は気にしながらそれをやっている。
きっと、女の人たちは「車を運転しているのは大部分が男だから、あたしに気がつかないはずはない」と信じているからなのだろう。
もし将来、女性があらゆる分野を支配するような時代になり、運転する人も女性ばかりになったら、スタイルのいい青年たちは、目をつぶったままで道を横断できるようになるのではないだろうか。
こう空想しているうちに、タクシーは目的地についた。
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夏の光景
夏の光景で印象に残っているひとこまがある。昭和三十年のことだが、友人と高原の湖に出かけた。その頃はあまり混雑もしていず、乾燥した空気は夏草のにおいを含んで涼しく動き、都会での汗をぬぐってくれた。
夕方になると山々が黒くかげり、湖の上には、まわりの森からにじみ出てきたかのように、うすく霧がおおってきた。そのとき一人の青年がボートをこいで湖のなかほどにでていった。そしてサキソホンを吹きはじめたのである。静かな曲が水面をひろがり暮れてゆく陽を受けて、楽器はやわらかい金色に輝いていた。すべてが完全に調和していた。
なかなか味なことをするやつがいると、ため息をつかざるをえなかった。それからしばらくは、まねをしたくてしようがなかったが思いとどまった。身のほどをわきまえず、絵のなかの人物になろうとすることは、なにもかもぶちこわしてしまうにきまっている。
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たたり
夏といえば怪談であり、その代表的なのは「四谷《よつや》怪談」であろうか。そのヒロインがお岩さま。これを呼び捨てにすると、たたりを受けるとの言い伝えがある。
数年前のある夏の夜。友人の作家たちと集まったとき、「そんなことがあるものか」とばかり、お岩さまの悪口をさんざん並べたてた。とても文にできないような内容である。
タブーへの反抗とスリルと快感のまざった妙に刺激的な気分だった。だが、べつになんともない。
しかし、その翌日、みななんらかの形でお世話になっていた江戸川乱歩先生の訃報《ふほう》に接したのである。もちろん偶然には違いないが、どうもいい気分ではない。それ以来、私はお岩さまの悪口を言わないことにしている。勇気のある方は、ためしてみたらいかが。
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くすぐったい
がまんのできない度合において、私の場合、くすぐったいことにまさるものはない。
この夏、小松左京、矢野徹などSFの友人と札幌のホテルに泊まり、夜だべっていたら、室を間違えて美人マッサージ師が入ってきた。われわれも呼ぼうと電話で頼むと、入ってきたのが若い男のマッサージ師。二十歳前と見えた。
これが新米で未熟なうえ、私が特異体質のくすぐったがりやで、部屋中に響く笑い声をあげ、息もたえだえになり、ついには、べッドの上で悶絶《もんぜつ》寸前までに至った。もし、となりの室に宿泊者がおり、壁に耳をつけて聞いていたら、いかなる光景を妄想《もうそう》したであろうか。これは興味ある問題である。
くすぐられるのには無条件で降参である。私は、スパイにはとてもなれそうにない。なぜなら、つかまり、しばられ、くすぐられたら、たちどころに秘密もなにもかも白状してしまうだろうからである。
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新幹線
新幹線に乗った。東京と大阪を三時間。「通勤も可能」というのがうたい文句である。たしかに旅情的なものは影を消し、代わってビジネスライクな感じが支配的となっている。新時代の交通機関にふさわしい。いっそのこと、それをさらに徹底させ、車内における飲酒を禁止したらどうだろう。わが国には旅とは物見遊山であり、サービスとは酒を飲ませることとの固定観念があるが、終止符を打ってもいい頃であろう。準通勤列車に食堂車をもうける必要があったろうか。どうしても酒が飲みたい人や、ゆっくり旅情を味わいたい人は、今までの線を利用すればいいのである。
速力は時速二百キロ、欧米の水準をはるかに抜いた世界記録だそうだ。人によっては「航空機時代に入りつつある時、こんなものを作るのは万里の長城だ」との批評もあった。だが国土がせまく、人口や都市の分布の密なわが国では、あながちそうともいいきれない。東京―大阪間はニューヨーク―ロサンゼルス間とはちがうのである。新幹線はこれから社会に対し、大いに役立ってくれることと思う。
しかし欧米で超高速列車を走らせていない理由が、安全の限界を越えるからだとしたら、落着いてはいられなくなる。乗客の最大の気がかりもここにある。ちょっとした事故でも大惨事になるのだ。そのため「線路へのいたずらは懲役《ちようえき》一年以下」とかいう罰則ができたらしいが、あまりに軽すぎるようだ。まかりまちがえば瞬時に千人の死者をだしかねない行為である。安全の保障をこんな法律にたよっているのだとしたら情ない。
機械によるドライさが看板の新幹線なのだから、それにふさわしく常時ヘリコプターによるパトロールをおこない、現行犯は射殺するぐらいの勢いがあっていい。弁当の味やサービスは二の次でいいのだ。もし「そこまでは」といったためらいが当局にあるのなら、不経済でも空路のほうを選びたくなる。航空機の進路である空中に石を置くやつは、まだ当分あらわれそうにないのだから。
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ロボット
かつてNHKのテレビで、私の原案により「宇宙船シリカ」という連続人形劇をやったことがある。その時、脚色の人が手をくわえ「ロボット ロボット 訓練だ、毎日毎日訓練だ」という歌をつくり、ロボットたちに体操をさせた。また、食事ロボットと医者ロボットとを、ことあるごとに口げんかさせた。考えてみればおかしな話で、猛訓練したから性能が高まるわけでもなく口げんかもしないだろう。しかし、これが意外と好評で、人気を高めることになった。
人類が人造人間を空想したのは、遠くギリシャ神話にさかのぼり、それ以来たえることなく物語にあらわれ、今日に及んでいる。そして、私たちにユーモアやペーソス、風刺や恐怖を味わわせてくれている。と同時に、人間とはなにか、を考えさせてくれるのである。
科学の進歩によって、人間の仕事を機械がやってくれるようになりつつある。そして未来においては、なにも人間の形をしたロボットを作る必要はないとの説がある。たしかに、便利さだけなら機械らしい機械でたりるわけだが、ロボットはそれ以上のさまざまな感情を私たちにもたらしてくれる。
未来の世界では、各種のロボットが出現し、人間の生活をさらに楽しいものにしてくれるだろう。ロボットの研究も、この一見して相反する機械と娯楽性を結びつけるという点で、非常に未来的な重要な課題のように思えるのである。
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奉 仕
犯罪をおかした混血少年が「若い女性に好奇の目で見られるのがおもしろくなかった」といっていた。思春期の少年だから、とくに若い女性の目をそう意識したのであって、きっと多くの人が特殊な視線を注いだに違いない。
そのような人びとも共同募金などには協力し、すがすがしい気分になる。その集まった金のなかからは、混血児問題に献身奉仕する機関にもまわされるわけであろう。うまくできているような、どことなく変でもある感じだが、人間とは不完全な生物なのだから、やむをえないことなのであろう。
しかし、なるべく完全な形に近づけるよう努めたほうがいい。それは他人を尊重することと、自分の立場を知りさえすれば、そうむずかしいことではないはずである。
メーカーはよい商品を販売してくれさえすればいい。その上で大いにもうけ、テレビに面白さの高度な番組を提供してくれればなおいい。役所の窓口の人は、本心から相手の身になって親切に応対してくれているだけでいい。女店員は客ににこやかであればいい。公共の場所では他人に不快感を与えぬよう、だれもが注意するだけでいい。
ことさら社会奉仕など、しなくてもよいのだ。みんなが社会不奉仕的な行為さえしなければ、矛盾は大幅にへるに違いない。社会奉仕の語に犠牲的な悲壮感といった妙なムードがともなううちは、私たちの日常に不自然なひずみが存在しているといえそうである。
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ある日
十二時ちょっとすぎに起きる。起きたといっても目だけで、頭も心もまだ半分ねむっている。シャワーをあび、ひげをそる。私はシャワーが好きで、夏のあいだはほとんど風呂《ふろ》に入らない。少し目がさめかける。
それから朝食。家内と娘二人はいっしょに昼食をたべる。新聞を読み、世界情勢や社会問題にいろいろと腹を立てるが、五分もするとケロリと忘れる。この点は他の人びとと同じであろう。精神の健全な証拠だ。
子供たちが「遊ぼう」というのを振りきり、来ている郵便物をかかえて書斎に入る。コーヒーを飲みながら、それらを見る。
時たまファンレターがまざっている。〈ワンダー・スリーの主人公と似た名前で、ふざけたペンネームの作家がいるなあと思って本を買ったのですが、大変面白く読みました〉
ほめられているのだが、情けなくもなる。主人公の星真一という名は、手塚さんにたのまれて貸したのだ。こっちは生まれた時からの名前である。出来星の星とは星がちがう。テレビや子供物とかかわりあう時は、よほど注意しないと、あとで変なことになる。
PR誌にのっている他人のショート・ショートを読む。また、怪しげな治療器のダイレクトメールは特に熱心に読む。そのうち頭がしだいにはっきりしてくるが、子供が勝手に室に入ってくる。緊張がみなぎっていないので、仕事中でないとわかるらしい。
幼児雑誌の付録のスゴロクをつきあわされる。たいてい私が負ける。子供にはサイコロの目を自由に出す念力があるらしい。そうでなければ、確率や統計の点で理屈があわぬ。
そのうち私はスゴロクにあき、「タバコを買いに行く」と外出する。子供がついてくる。チョコレートのたぐいを買わされる。
帰ると夕刊が入っている。夕食がすみ、テレビの子供番組がすむと、子供たちは眠る。私はそのあと捕物帳のたぐいを少し見る。
夜がふけ、原稿を書いていると、電話がかかってくる。大阪の小松左京からである。「やってますか」とあいさつをする。How do you do ? の直訳である。くだらぬ雑談をする。CIAや紅衛兵が盗聴したら卒倒するような話である。
ストーリーの下書きができるとほっとする。軽い体操をする。健康のためである。それから睡眠薬を飲む。不健康のためである。歯をみがき、シャワーをあびてから、ウイスキーの水割りをたくさん飲む。酒税を負担し、国庫を豊かにするためである。
ねどこに入り、比較的高級な本を読む。きょうは無政府主義の歴史の本である。そのうち眠くなってくる。
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陰 謀
マネキン人形を作ってみようと思う。だが、ふつうの人形とちがうのは、少し歩けることと、なかにニトログリセリンという爆薬がつめてある点だ。一定以上の衝撃を受けると、大爆発をおこすしかけになっている。ころんだくらいなら大丈夫だが、人間なら致命傷となる程度の衝撃だと、すぐ爆発して車を吹きとばす。
その人形に道路を横断させてみようというのだ。老人や子供が道を横切るのを見るとハラハラするが、この場合は楽しいハラハラである。早くはねとばしてくれないかという……。
人を死傷させたドライバーは、いちように奇妙な論理を組みたてたがる。やったのは自動車であって、自分ではない、と。まことに恐るべき理屈だが、相手がそんな考え方をしてくれると、こっちも助かる。良心のとがめも、それだけ薄くなるからだ。なぜなら人形にぶつかって死んだからといって、それは人形のせいで、そんな物を作って歩かせた者のせいではないという理屈が成り立つからである。
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国 境
目に見える国境線については、だれもがたやすく議論する。38度線がどうのこうの。ベルリンの境界がどうのこうの。第一、国境というものは人類のおろかさの象徴ではないのか。われわれは好きなところに出かけることが許されていいはずだなどと。もちろん、その通りである。
しかし、目に見えない国境線については、だれも気がつかず、議論さえしない。人の作った国境以上に厳しい限界を、各自が頭のなか、心のなかに作りあげているのではないだろうか。その限界のそとにある、科学の法則以外のこと、決して行けはしない遠い星のこと、統計を無視した奇妙な事件、いわゆる健全なモラルのそとのこと、魔法使いや死後のこと。こんなことを考えるのはいけないことだ、うしろめたいことだなどと考えている人が多いらしい。
なぜ許されないことだと思いこんでいるのだろうか。われわれは火あぶりの行なわれる暗黒の中世に生きているのでもなければ、われわれの頭のなかには銃剣をつきつける独裁者だっていないのである。
それとも、限界のなかで鎖国をつづけ、かたい小さい殻にとじこもって満足しているほうが利口なのだろうか。
科学三行知識。生まれたときから無菌室のなかで育てたネズミは、健康に育つが、つまらない病気でコロリと死ぬ。
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手ごたえ
アメリカのある化学工業会社の統計によると、現在のカタログにのっている製品の四分の三は、十年前にはなかったものだそうだ。つまり、十年間のうちに三倍の新製品があらわれたわけである。
われわれが周囲を見まわしてみると、原爆、ジェット機からテレビ、ソフトアイスにいたるまで、数十年前にはこの世に影も形も、なかには概念すらもなかった物が数多く存在していることに気がつく。この調子でゆけば、数十年後には、われわれの今の頭では想像もつかないものが、当然のような顔つきで周囲の空間を占めるにちがいない。そのなかには当然、放射能騒音、テレビなどよりはるかに強烈に人間の心身に影響を及ぼす物だってあるだろう。
このような傾向がいいの悪いの、といってみてもはじまらない。科学技術はすでに爆発的な膨張をはじめてしまったのだ。だれもかれも、このような未来に向って発進し、そして、それに順応できるだろうか。
ある時、カメラ会社の人にこう聞いたことがある。「カメラをもっと軽くする研究はありますか」すると答えは「いずれはそうなるでしょう。だが、すぐはダメです。技術的な問題でなく、販売上です。大金を出して買ったからには、ズシリと手ごたえがないとお客さんがいやがりますので」
その感じはよくわかる。私だって金をためてカメラを買うからには、あまり軽くては失望を感じるにちがいない。自分では合理的な精神にみちているつもりでも、心の底には理屈でわりきれぬ古い感覚がひそんでいる。泥くさく、大げさで、延々と長い小説を力作と感じるのと同じである。
私はそんな小説に抵抗するつもりで、SFに手を出したのだが、ここにもどうにもならぬ感覚がある。たとえばロケット。最近のプラスチックの発展は目ざましく、将来は金属より優れたものになるにきまっているが、静寂の宇宙を飛ぶには銀色に輝く合金製でないと、なんとなくぐあいが悪い。ピンクのプラスチック製のロケットでは、読者も作者も気が乗らない。
だが、このような、どうにもならぬ古い感覚を持っていることは、人間として恥ずかしいことではない。自分がそんな矛盾を持っていることを認識して、事に処すればいいのである。自分には矛盾はひとつもなく、合理的な精神にみちている、と矛盾に気がつかなかったり、認めたがらない人間こそ、恐ろしく恥ずべき人間で、未来への旅行から脱落するのではないだろうか。
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オモチャ
このあいだテレビを見ていたら、主婦が「子供のオモチャが高すぎる」などと発言していたが、とんでもない話である。自分のオシャレ代、亭主の酒代にくらべれば、子供のオモチャなど安いものだ。しかも、子供にとって無形のプラスになることはわかりきっている。「高くてもいいから、安全で良い品を」と主張すべきであろう。そうすれば、利にさとい事業家たちは、なんとしてでも作り出してくれるにちがいない。
わが国でも、この分野の開発はもっとなされていいと思う。子供への愛情と、ちょっとしたアイデアさえあれば、そう困難なことではない。最近は発明主婦とかが流行しているらしいが、台所用品だのセンタクバサミのたぐいなどばかりねらわず、幼児オモチャに目をむけたほうがいいと思う。このほうが盲点であり、当れば大きいようである。
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胃の容量
きのう一日をふりかえってみることにする。十二時頃に起きた。いつも私はこの頃に起きる。朝食と呼ぶべきか昼食と呼ぶべきかわからない。雑炊《ぞうすい》とハムエッグと、砂糖なしの紅茶である。妙なとりあわせだが、私はべつになんとも思わない。
午後三時ごろに家を出る。ある雑誌社の、怪獣をテーマにした座談会に出席するためである。妙な企画もあるものだ。場所は銀座の日本料理屋。そこには小松左京のほうが先に来ていた。彼は週に一度の割で大阪から上京してくるが、そのたびに、必ずなにかで会うことになっている。
ビールを飲み、サシミ、ヤキトリ、柳川鍋《やながわなべ》、ウナギ、赤だし、お茶づけを食べた。怪獣を論じながらだと、食が進むようである。
六時半に終わる。小松といっしょにホテルの彼の室に行く。ルームサービスで、ビールとサンドイッチと、ポテトチップとパンを取り寄せ、雑談をつづける。議論を盛りあげるには、なにかを飲み食いしながらでなければならぬのである。
そのうち、電話連絡により、数人のSF作家が室に集まってきた。ますます雑談がはなやかになる。それは食欲を刺激する。だれかが「なにかを食いに行こう」と言い出す。
ソニー・ビルの上のイタリー・レストランは午前二時までやっているというので、そこへ出かける。飲み物はブドウ酒。スープを飲み、料理とスパゲッティをとり、パンのおかわりをし、デザートはアイスクリーム。
別れて帰宅したのが午前三時ごろ。もう何も食えぬ。ウイスキーをコップに半分ほど飲み、眠った。
もっとも、私も毎日こんなに食べているのではない。SFの連中と会うとこうなってしまうのである。
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保険の計算
人生の最後の銭勘定といえば、生命保険金の支払いであろう。保険会社どうしは、その支払いの迅速《じんそく》なことが自慢である。
「支払いの速いことは、当社が随一。月曜に死ねば、水曜日には小切手を相続人のかたにお渡しいたします」
「いや、わが社はもっと速い。エンパイヤ・ステート・ビルの上から身を投げると、下で小切手をお渡しいたします」
これは古い小咄《こばなし》。なぜ古いかというと、いまでは現実のことだからだ。エンパイヤ・ビルの上から、地面に落ちるまでが約九秒。これだけの時間があれば、電子計算機で支払い額を算出して、おつりがくる。つまり、小切手を落ちてくる人に、三十階あたりの窓で渡せるわけである。
しかし、この現実もやがては古くなるかもしれない。さらに性能が向上すれば、多くの統計資料を教えられた電子計算機は、事故のおこりそうな日時、場所、人物を予測するようになる。そして保険会社の人は、ビルの上に立った人を呼びとめ、こう言う。
「はい、あなたの保険金の小切手です。わが社では、死ぬ寸前にお渡しできるようになりました」
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7 思い出
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耳の奥の音
幼年時代に心にしみこみ、いまだに耳の奥に残っている音というものは、だれもが持っているにちがいない。私にもいくつかある。それを語ろうと思う。
むかしの東京は静かだった。むかしといっても、昭和の十年ごろのことである。静かだったのは、私が山の手に住んでいたせいかもしれない。本郷の高台、駒込の曙町というところである。屋敷町で昼間もあまり物音がしなかった。夜になると、上野駅を発車する汽車の遠い音を、けっこうはっきり聞くことができたりした。
私が最も親しんで耳にした音は、草ひばりという虫の声である。庭には一面に芝が植えてあり、その上にねころぶと、まわりに鳴声がただよっていた。
一センチにもならない小さな虫で、褐色《かつしよく》と灰色の中間のような、ぱっとしない色だ。リリリという澄んだ鳴声だが、かすかな音で芸のない単調なものだった。
しかし、それが無数に鳴くと、音のかげろうが立ちのぼっているようだった。最初は芝生の鳴く音ではないかと思ったものだ。
俳句の季題では秋の虫だが、一年じゅう鳴いていたような気がしてならない。すなわち、庭で遊ぶ季節、春から秋までずっとである。私は芝生に横になり、空を流れる雲を見つめながら、ひとり未来を空想して楽しんだ。また時には、生物には死というものがあるのに気づき、限りなくこわがったりした。
子供の頃に鈴虫を飼ったことがある。大きなカメのなかに入れ、キュウリなどをやった。結晶させた月光を家のすみずみまでまきちらすといった美しい声だが、あまりに見事すぎて、なんとなく親しみがない。私は草ひばりのほうが好きである。
忘れ得ぬ音のひとつに、祖母の声がある。私は毎晩、祖母といっしょに寝ることになっていた。
祖母は和歌を作るのが趣味で、私の寝るそばで、ノートに歌を鉛筆で書きながら、口のなかで何回も低く読みかえしなおしていた。最後にそれを清書するのである。
幼い私には文句も意味もまったくわからなかったが、くりかえされるその声を聞いているうちに、しだいに眠りにつくのだった。その韻律のようなものが、子守唄《こもりうた》の役目をしてくれたのである。
子守唄の効用はなにかよく知らないが、あまり静かすぎるのを防ぐために発生したのではないだろうか。静かな夜、古い木造の家だと、木材にひびの入る音か、原因不明の音がして、かえって神経がさめてしまう。
そばで正体のわかった音がしつづけてくれればいいのである。現代の都会のさわがしさのなかでは、子守唄も不要といえそうである。それはともかく、私が文章を書くようになったのは、祖母の声を聞きながら眠ったことに、いくらか原因があるかもしれない。
また、子供の頃、私は耳鳴りに悩んだ。父母にたのみ、耳の医者へ連れていってもらった。診察をしてもらい、異常なしと言われたのだが、私はやはり耳鳴りがすると主張し、しばらく医者へ通ったものだ。
すべて私の神経質のためで、だれでも少しは耳鳴りがするものだと知らなかったのだ。医者のほうも、きっとてこずったにちがいない。
しかし、そのうちに、他に気のまぎれるものがあらわれ、いつしか忘れてしまった。それがなんであったかは、いまや思い出せないが……。
この耳鳴りは今でも聞くことができる。音響メーカーにある無音室に入ったり、静かな場所で意識したりすると、すぐに聞えてくる。しかし、べつに気にもならない。子供心に悩んだことを、なつかしく思い出すだけである。
ひぐらしの声もなつかしい音である。カナカナと鳴くセミのことだ。箱根に別荘があり、夏になると毎年そこへ出かけていたからだ。
夏の箱根は、朝から夕方まで、山じゅうその声でみちている。その音をあびながら、山で遊んだり、蝶《ちよう》を追ったり、泉のつめたい水につかったりして少年の日々をすごした。
ひぐらしの声は数が少ないと哀調がめだつが、緑の夏の林で大量に鳴いていると、あまりそんな感じはしない。
哀愁を覚えさせるのは、秋が近づいて鳴くつくつくぼうしだ。心の皮膚の弱い部分を共鳴させられるような気持ちである。
私が世に哀愁の存在することを知ったのは、つくつくぼうしのおかげである。もしかしたら、人間にもののあわれという感情をうえつけたのは、このセミではないだろうか。私にはそう思えてならない。
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箱 根
私は東京生まれの東京育ち、他の地方のことを知らないが、東京以外の地をひとつとなると、箱根の強羅のことが、すぐ頭に浮かんでくる。そこに別荘があったからである。もっとも父が死亡したあと相続税、未納の財産税、利子税など税の総攻撃を受け、残念ながら手放してしまったが、少年時代の思い出は全部そこに集中し、なつかしくてならない。戦争末期はべつとし、年に三回ずつ家じゅうで出かけていた。冬休み、春休み、夏休みである。
別荘を持つとほかへ行けなくなる、とよく言われるが、たしかにその通りで、私はずっと、軽井沢や鎌倉などを知らなかった。
生まれた頃から箱根に出かけていたそうだが、記憶に残るのは小学生の時ぐらいからである。昭和の八年頃であろうか。当時は登山電車が湯本から出ていたので、小田原から湯本までは市電に乗らなければならなかった。その市電があまりにボロで、立派な登山電車との対比が奇妙に思えてならなかったものである。
電車が発車すると、弟たちと例によってトンネルの数をかぞえはじめる。だが、途中でいつも混乱してしまい、正確に数え終わったことがなかったようだ。電車が方向転換したといってさわぎ、耳が痛くなったといってさわいだ。その頃は、登山電車はいつもガラガラだった。あるいは、父母が混雑しない時刻を見はからって連れていってくれたせいだろうか。
強羅と二の平とのあいだに、赤っぽい石の川があった。夏はなまぬるい水が流れていて、絶好の遊び場となった。また、そのそばには冷たい泉があり、白く小さなカニがいたし、蛍《ほたる》狩りもできた。だが、このあたりは例の早雲山の崖《がけ》崩れで、今は見るかげもなく痛々しい。
別荘は強羅駅の近くにあった。まことに安普請のものだったが、空気の澄んでいるためなかなか汚れなかった。障子を張りかえたことがないのに、いつも真っ白のままだった。温泉は静かにあふれていて、一日に二度ずつ入り、竹細工の舟を浮かべたりして、なかなか出る気になれなかった。
温泉はフシを抜いた竹の筒で運ばれてきていて、大雨が降ったりすると、ぬるくなった。時どき出なくなり、そんな日は全く憂鬱《ゆううつ》だった。私の記憶では、子供の頃は赤っぽい色だったが、いつのまにか白濁した湯に変わってしまったようだ。湯の水脈に変化があったためだろうか。
強羅からケーブルカーであがった早雲山には、そのころ、まだカゴがあった。私も乗ってみたが、なんだかこわくて、すぐに降りてしまった。
いまでは自動車道路もロープウェイも完備しているが、そのころは自動車道路ができかけた時代である。現在はたしかに便利になり、急げば数時間で箱根の一周ができてしまうが、はたしてこれでいいのだろうか。景色を眺《なが》め、休み休みしながら、ゆっくりと山の小道を歩くほうが、どれだけいいかわからない。スピード観光用の交通機関とともに、静かな散歩道をもっと整備してもらいたいものである。去年だかちょっと通ったら、大涌谷から湖尻へ下りる道など、ひどいものだ。それとも、私のような考えは、もはや時代おくれなのであろうか。
大涌谷はオオワキダニと読むべきか、オオワクダニと読むべきかで、弟といつも議論をした。だが、大地獄と呼ぶほうがさらになつかしい。このあいだ、北杜夫さんの随筆を読み、やはり大地獄と称しているので思わず微笑をした。たしかに、粘土の山肌《やまはだ》が一帯にひろがっているなかで、煙と音をたてながら温泉が湧《わ》いているのは、子供心にも強烈だった。もっとも、最近は展望台などができ、大地獄といったおもかげが少なくなった。
いかに近代化されても、箱根から消えることのないのは霧であろうか。温泉についで忘れ得ないものである。音もなく窓から流れ込んでくる風情は、じつにいい。数ヵ月まえに東京のわが家に、窓から白い雲が流れこんできた。一瞬、箱根をしのんだのはいいが、なんとそれがスモッグだった。たちまち咳《せ》きこみ、あわてて窓を閉めた。霧とスモッグでは大ちがいである。
箱根の夏の風物詩は、芦の湖のトウロウ流しもいいが、明星岳の大文字焼きも印象に残っている。ある時、大の字の右肩のほうに延焼し、大さわぎになったことがある。もっとも見物しているほうは面白く、その晩はいつまでも起きていたものである。その後、右肩の焼け跡は何年も残っていた。
強羅ホテルが建ったのは、私の小学六年の時だから、昭和十三年頃ではなかったかと思う。それから戦争に入り、経営はあまり楽ではなかったのではないだろうか。終戦直前には強羅ホテルにソ連のマリク駐日大使が泊まっていた。広田弘毅氏がひそかに和平の仲介を交渉に来ていた。広田さんの沈痛な表情を思い出す。当時、私は高校生だったので、それほど重大なこととは思わなかったが……。
米国の推理作家ウールリッチは、都会のホテルの一室を舞台にし、さまざまなドラマを描いた連続短編の名作を書いたが、温泉地の一室においても、あらゆるドラマが展開しているわけであろう。
そういえば、戦争中には芦の湖の近くに、ドイツの水兵が大勢集まっていた。獅子文六さんの「箱根山」ではそれが発端となっていて、はしなくも昔を思い出した。
箱根の冬も悪くない。強羅公園の噴水が樹氷の如く凍り、朝陽に輝いている美しさはいまだに忘れられない。いまでも凍るのだろうか。
そのほか、竹を切ってきて作った水鉄砲、宮城野のトウモロコシ、だれがつけたともわからぬ林の小道、小鳥、いろいろの昆虫《こんちゆう》……。
回想しはじめると、とめどなく出てきて、限りがない。私もまた、少年時代への執着が強いようだ。あの頃はのんびりとしていたし、いまはむりやり才能をしぼり、小説を組立てなくてはならないからであろうか。
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自動車
子供の頃のことを回想すると、自動車についての思い出がかなりの部分をしめている。すなわち昭和の初期だが、私の父は大型のパッカードを愛用していた。朝になると会社から車が迎えにきて、父はそれに乗って出かけるのだった。
私が子供だったから特に大きく感じたのかもしれないが、事実けっこう大きかったような気がしてならない。流線形という言葉もまだなかった時代であり、四角い箱のような形でスマートとはいえないが、見るからに堂々としていた。
後部席と運転席とのあいだにはガラスがはまっており、開けたり閉めたりできた。補助|椅子《いす》が二つついていて、それを起せば後部だけで大人が五人は乗れた。さらに前にも乗れるのだから、かなりの人数を収容できた。
時たま日曜日などに、家族一同で弁当を持ち、郊外へ出かけたのを思い出す。なかなか楽しかった。父母と母方の祖父母、私と弟と妹、それに運転手だから、合計すると八人が乗ったことになる。親類の子がそれに加わったこともあった。
たしかに大きかったようだ。だから、補助椅子を倒しておくと、後部の席はいやに広々としていた。五歳ぐらいの頃、私はそこではしゃぎ、そのはずみでドアが開き、走行中の車から道路へ転落したことがあった。新宿の大通りでのことである。
父は青くなり、急いで私を病院にかつぎこんだという。私自身は、その事故を少しも覚えていないのである。しかし、ずっとあとまで、ひたいに小さな傷あとが残っており、それがその時の傷だと教えられ、話として知っているだけである。恐怖の体験は記憶に残りにくいものなのかもしれない。
だが、どういうわけか、転落の前にデパートの食堂でクリームをのっけたケーキを食べたことだけは、いやに鮮明に覚えている。そのためか、それ以来クリームつきのケーキがきらいになり、ずっとあとまでそうだった。いまでもあまり好きでない。ふしぎな現象である。
この事故があってから、父は子供を乗せる時は、電気のコード様のもので輪を作り、ドアの内側の取手にひっかけ、簡単に開かないようにした。いささかみっともない形だったが、安全のためには仕方なかった。
しかし、いずれにせよ軽傷でよかった。脳に少し異常がおこり、それで作家なんかになってしまったのかもしれないが、生命は助かったのだ。だが、現在そんなふうに転落したら、おそらく助からないのではないだろうか。道もすいており、スピードもゆっくりだった古きよき時代のおかげである。
こんな体験があるので、私は自動車のドアにはかなり神経質である。とくに子供と乗る時には気を使う。
やはり子供の頃のことだが、自動車の電気ライターをいたずらし、親指に渦巻状のやけどをしたことがあった。ニクロム線が赤くなくなったから、もう大丈夫だろうと指でさわったらまだ熱かったのである。また、弟がドアに指をはさみ、大さわぎをしたこともあった。いまでは、すべてなつかしい追憶である。
私の父は大変に自動車が好きであった。明治四十年に製薬業をはじめてから、昭和二十六年に死ぬまで、自動車を愛用しつづけた。車のナンバーは三七であった。日本で三十七番目なのかどうかはわからないが、かなりの初期から乗っていたわけであろう。
父は旅行の時を除いて、自動車以外の乗り物を利用したことは、ほとんどなかったようである。仕事の能率をあげるには自動車に限るとの主張を持っていた。いまでいえば当り前の話だが、自動車が乗り物ではなく地位の象徴のようなものであった大正時代においては、進歩的だったといえそうである。
父は四角な板に布をはりつけたものを、自動車のなかにそなえつけていた。それを台にしてメモを書いたり、書類に手を加えたりしていた。まあ、仕事の鬼といった形だった。
小学生時代に、私は郊外へのドライブを作文に書いたりしたため、友人たちからはブルジョアと思われたらしい。また、自分でもそんな気がしていたのだが、成長するにつれて知ったところによると、そのころ、父の会社は破産状態にあったのである。いまでいう会社更生法を適用されたような状態である。
個人資産もすべて競売され、そのため、母方の祖父の家に居候《いそうろう》のような形で私たちが住んでいたのであった。
しかし、会社の債権者たちも、自動車を売らせて債権に充当するよりも、自動車を使わせてそれだけ多くの仕事をさせたほうがいいと理解し、かくの如くになっていたのだ。いまならそう珍しくない考え方だろうが、その当時としては、債権者のほうも進歩的な考えの持主だったのではないだろうか。
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おやじ
星一《ほしはじめ》。明治六年福島県に生まる。同二十七年渡米。働きながらコロンビア大学に学ぶ。また英字新聞「ジャパン・アンド・アメリカ」を経営。同三十四年帰国、製薬事業に着手。衆議院議員……。昭和二十六年ロサンゼルスで脳溢血《のういつけつ》のため死去。七十七歳。
まず、父の略歴をうつしてみた。どう書いたらいいのだろうか。見当がつかない。これがいつもの架空な世界を舞台にした小説なら、もう少しましな書出しで、文章もすらすら進むところだろう。だが、父のこととなると、まことに書きにくい。万年筆がふいに重くなったようだ。また、心のなかの抵抗が筆の動きを乱しているようだ。
抵抗とはいっても、よくある物語のように、父親への反感といった形のものではない。むしろその逆で、さらにありふれた形のものだ。いま私が、作家となっていることにある。私に対して父が抱いていた期待を、裏切っているような気がしてならないのである。だが、これは思いすごしなのかもしれない。
幼い頃から、何度となく聞かされた言葉がある。
「親方にならなくてはいかん」
親方とは変な言葉だ。子供の時にはわけがわからなかった。だが、今では理解できる。危険や損害を恐れるな、責任をのがれようとするな、自己の判断で行動する立場に立て。このような意味を伝えたかったにちがいない。bossに対する適切な日本語訳があればよかったのだろうが……。
作家もbossの一種であると勝手にきめ、なんとか筆を進めることにする。このように、父は安全とか確実とかが大きらいであったようだ。したがって、銀行関係者とは肌《はだ》があわなかった。私の知る限り、一生金詰りで苦しんでいたのは、そのためである。
押入れの奥から古い写真帳を出してきて開くと、生まれたばかりの私を抱いて、父の笑っている写真があった。父は晩婚であり、私との年齢の差は五十三。これだけ差があると、一般に用いられている「おやじ」という語感がぴったりと当てはまらない。形容しにくいふんいきである。
後年、父の友人だった人から、独身時代の問答の思い出を聞かされた。
「結婚したらどうだ」と、その友人。
「そんなことは必要でない」と、父。
「しかし、病気になった時、親身に看病してくれる家族があったほうがいいだろう」
「病気には、ならないことにきめている」
「しかし、家族がないと、死ぬ時に寂しい思いをしなくてはならない」
「いや、死なないことにきめている」
といったものだったらしい。その独身主義が、なぜ心境の変化を来たしたものかわからない。聞いておけばよかったとも思う。だが、それを直接に聞けないようなふんいき。「おやじ」でない説明になっているだろうか。
病気をしないことにきめている、と言うだけあって、健康には極端に注意し、病気をした父を見たことがなかった。アメリカでの苦学中に身につけた心構えだったらしい。
「病気をするな。自分のからだは自分で注意しろ。病気になるのは怠け者だ」
これも、私たち子供がよく聞かされた文句だった。父の家系は代々、酒を飲みすぎ、四十代で脳溢血のために倒れている。父も若い頃は酒やタバコを大量にたしなんだらしいが、四十歳を境にまったくやめてしまったという話だ。したがって私は、禁欲主義者的な感じの父の姿しか知らないわけである。
もっとも、水虫には悩まされていたようだ。父については、日なたに足を出し薬をぬっている光景が、いちばん鮮かに思い出される。なまいき盛りの小学生のころ、「水虫は病気ではないのか」と、理屈をこねたことを覚えている。子供とは、たしかに扱いにくい存在だ。
病気には注意していたが、運命は恐れていなかった。戦時中に大陸からの飛行機が海中に墜落し、同乗の軍人の何人かが溺死《できし》する事故があった。救助されて帰ってきた父に、みなが心配して聞くと
「死なないことにきめている」
と落着いて答えていた。本当にそうきめていたのだろうか。
ほかの人とちがって、私には、父が遊び相手になってくれた記憶がほとんどない。平日休日を問わず、朝はやく家を出て、帰宅は夜おそかった。家にいる時は、書類や本を手にしているか、電話で長い話をしているか、なにかメモをとっているかだった。仕事の邪魔をしてはいけない、という空気が父のまわりにただよっていて、それをおかす気にはなれなかった。それが消えるのは、水虫の手当てをしている時だけ。もし水虫が存在しなかったら、父への親しい印象は、はるかに薄れたものになっていたにちがいない。
私たち家族は昭和二十年までずっと本郷の母方の祖父の家に、いっしょに住んでいた。祖父の小金井良精は東大医学部の名誉教授、祖母の喜美子は歌人だった。私はこの祖父母から精神的に大きな影響を受けているが、ここでは触れない。
昨今では母方の家に同居する例は珍しくないようだが、当時は変則的であり、子供の頃にそれがふしぎでならなかった。成長してから知ったことだが、その頃の父は破産状態にあり、個人財産を持てない状態にあったのである。そのため、それ以前の父に関する物品はなにも残っていない。
いや、正確にはただ一つある。大英百科事典を二段におさめた、ガラス棚のついた木製の本棚である。「子供のために、これだけは残す」と言って、なんとか金をつごうし、競売に付された時に買戻したという話である。事実、これは現在も私のそばにあり、ガラス扉《とびら》のはじには、差押えの紙片の一部がはりついている。石けんで強く洗えば落ちるのだろうが、それを試みる気にはなれない。父の愛情をストレートに感じることは、極端にいえば、これだけなのである。しかし、これだけで充分なのではないだろうか。男親が男の子に残す意志の表現として、ほかにどんな気のきいた形があるものか、私には思い浮かばない。
仕事の面における父の活動についての私の知識は、のちになって本を読んだり、ひとに聞いたりして得たものばかりである。
アメリカから帰国してからの事業は後藤新平伯の応援によって、想像を絶した勢いで発展したそうである。大正十二年には絶頂に達した。だが、政敵による後藤新平失脚の陰謀の犠牲となって、官憲の圧迫を受け、再起不能に近い打撃を受けた。いまでいう、でっちあげ事件である。それから六年間は裁判、負債などへの対策の連続。大審院により無罪は確定したが、それで旧に復するわけではない。なんとか方途を見出そうと努力をつづけたが、ついに果たせなかった。
簡単にまとめると、このようになるらしい。私の生まれたのが大正十五年だから、遊び相手になってくれなかったのも無理はない。また、私の大学卒業とほとんど同時に死亡したため、その苦労を直接に見聞したのは、ごくわずかである。だが、知るにつれ、普通の苦労ではなかったことがわかってきた。
しかし、父が弱音を吐くのを耳にしたことは一度もなかった。家庭で愚痴をこぼす男性はいないだろうが、あせりや憂鬱な表情をも見たことがない。おかげで私は、憂鬱な表情というものを知らずに成長し、いまだにその表情ができない。私に及んだ消極的な影響の一つである。
父のこの忍耐心、あるいは楽天的な性格は、アメリカにおいて形成されたものと思う。古きよき時代のアメリカで、どんな生活をし、なにを学んできたのかについても、やはり直接にはあまり聞いていない。もっと聞いておけばよかったと思うが、これも無理なことだったにちがいない。そのようなくつろぐ時間がなかったのだし、過去の追憶にふけるような性格でもなかったからである。
家庭における父は、いつも和服だったし、肉よりも魚が好物だった。アメリカで受けた影響は、性格と物の考え方についてであった。時どき来客などに話している「日本では金を貯めることばかり教え、金を使う方法はどこでも教えない」といった会話を聞き、そのような見方もできるなと、少年時代に感じたことを覚えている。
この、身についた思考方法が、よくも悪くも、父の一生につきまとっていたわけである。明治以来、アメリカへ留学してきた人数は相当な数にのぼっていると思う。しかし、すべてある限界につき当り、異質な存在であるという壁を抜けられなかったのではないだろうか。父の場合に限った問題ではない。そして、その事情は、今日でもあまり変わっていないのではないだろうか。
昭和十五年頃の事だったと思うが、父が国会で「一億円の懸賞金で、全国民から発明を募集すれば、あらゆる問題が一挙に解決する」という提案をした。私の中学生の頃で、例によって大|風呂敷《ぶろしき》、という新聞記事を読んだことがある。
後日、その速記録を読む機会があったが、政府委員の困った様子が、答弁によくあらわれていた。予算がない、善処するといった調子で、この奇妙な提案を押えようと必死である。その役人は国家のためにおこなうべきでない、と信じているわけであり、父は父で、創意の動員こそ国家のためである、と信じているわけである。越えがたい断層を見る思いがした。
これのみならず、父の奇抜な発言はいろいろと伝えられている。第一次大戦後に来日した、ドイツの空中窒素固定法の発明者、ハーバー博士とは、稲の促成栽培、合成食、ガス肥料などを論じあったそうである。また、ある学者と日本の微生物工業の未来を検討した時には、地球はカビから出来たのかもしれぬ、という珍説を展開したとかいう話だ。
このあたりに誤解の種もあったようだ。わが国では大風呂敷とか、奇抜なアイデアというと、どうしても才気、軽薄といった印象がともなってしまう。しかし、父は不器用きわまる人物のほうであった。
遊び相手になってくれた記憶もないが、勉強相手になってくれた思い出も、ただ一回しかない。中学生の頃だったが、私が数学でひどい点を取った時のことである。なんで気がむいたのか「おれが教えてやる」と、机のそばにすわらせられた。しかし、その内容がなんと、メートル法の度量衡の復習だった。小学生のやることだが、逃げるわけにもいかない。しばらくして「この基本さえ覚えておけば、あとは自分でどうにでも応用できるはずだ」で、やっと放免になった。さいわい次の試験が好成績だったからよかったものの、そうでなかったら、また、くりかえさせられたかもしれない。
だが、これと同時に聞かされたアメリカ留学中の体験談は、私の心に強く残っている。ある数の何乗だかの計算問題。対数表を利用すれば簡単なのを、その講義を聞きそこなっていたため、正直に掛算をくりかえして答えを出した。ものすごい時間を要したにちがいない。しかし、対数表を使うのと、白紙の答案を出すのとの、二つの方法しか考えられない場合に、父は奇想天外の第三の方法を完成したわけである。
留学中の初期のスクール・ボーイの生活の頃、働き先の家で植木|鉢《ばち》を割り、鏡をこわし、水まきのホースを持ったまま主人に呼ばれてふりかえり、連続二十五回もお払い箱になったそうである。父に関しての記憶で、器用さに感心したたぐいは一つもない。
郷里を同じくする野口英世とともにエジソンを訪問し、「失敗と努力と思索以外に、新しい発見はえられない」と意気投合した話は、人づてに知った。
父の発言や計画は、吸収した知識を自分なりの判断で基本から再編成し、その結論としてのものだったのである。いわゆる思いつきといったたぐいとは、本質的にちがっていた。そうでなかったら、死ぬまで、新しい計画を絶えず発言しつづけることができたはずがない。アイデアを得るための、この唯一の極意、これを伝授してもらえた私は、やはり幸運であると言うべきだろう。心からそう思う。
父に関する批評はいろいろある。おせじでは「理想家はだでありすぎた」となり、当りさわりのないのは「空想力が大きかった」となり、けなした言葉では「山師」となる。だが、そのどれも当っていないような気がしてならない。なぜ抵抗を受けるのかわからず、自分では、合理的な平凡な常識的な意見を、推し進めているつもりだったのではないだろうか。
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超光速
子供の頃に父と妙な議論をしたことがあった。父が私にむかって、こう言い出したのである。
「いいか、空の星はどんな遠くにあっても、そっちに目をむければ、すぐに実物を見ることができる」
なんでこんな話になったのか覚えていない。季節がいつだったのかも忘れてしまった。しかし、話題が星だけに、おそらく夏であり、たなばたの頃だったであろう。
これに対して、私は反論した。
「それはちがうよ。光の速さは一秒に三十万キロだ。だから、いま見ている星も、距離によっては十年前の姿、百年前の姿である場合もあるんだ」
私は少年むけ科学雑誌での知識を持っており、この際、父の誤った考えを正してあげようと思ったのである。もっとも、こんな誤解をといたところで、べつにどうってこともなかったわけだが。
理路整然と説明を進めたため、父はついに理解してくれた。しかし、最後にとんでもないことを言い出した。
「なるほど、見る場合はそうかもしれないな。しかし、考える場合はどうだ。いま地球のことを考えている。つぎに遠い星のことを考える。これにはなんらの時間を要しない。人間の思考は光より速いということになるぞ」
これには私も目を白黒させた。こんなことの解説は科学雑誌にのっていなかった。だからこそ、頭のすみに残っているのである。
このあいだ読んだ外国小話に、こんなのがあった。光速以上の速さは存在しないという話に、男がこう異議をとなえるのだ。
「きみが宇宙のはてで活躍中、地球上で妻が出産したとする。瞬時にパパとなる。光速以上の現象ではないか」
世の中には似たことを考える人もあるのだなと、私は父のことを、なつかしく思い出したわけである。
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中学の頃
私は昭和十四年に中学にはいった。現在の東京教育大学付属で、当時の名称は東京高等師範学校付属中学校。それにしても長い名前だ。書類に学歴を書くとき、むやみに手数がかかる。
のんびりした気風の学校だった。先生はたびたび私たちにこういったものだ。
「この学校では成績の順位をつけない。よそとはこの点がちがうのだ。だから、おおらかな気持ちで勉強しなさい」
それを聞き、私たちはいい学校に在学しているのだなと、大いにうれしくなった。もっとも、よその学校で、はたして成績順位を発表しているのかどうかは、だれも知らなかった。のんきなものである。
しかし、いずれにせよ、順位などつけないほうがいい。競争意識で追いたてられるように勉強するより、本人の自発的な意欲で勉強するほうが、はるかに身につくはずである。
しかし、意欲がわかなければ、どうしようもない。私がそうだった。バスケットボール部にはいり、それに熱中した。家に帰ると、江戸川乱歩の「少年探偵団」ばかり読んでいた。それを読みつくすと、谷崎潤一郎の本を読んだ。つまり、家での勉強をなんにもしなかったのだ。最近はテレビが普及し勉強しない子がふえたというが、テレビがあろうとなかろうと、する気がなければ同じことである。
そのうち二年生になり、化学の試験でひどい点をとった。なまけていたむくいである。この調子だと落第するのではないかと心配になってきた。成績順位は発表しなくても、落第となるとかくしようがない。落第して恥をかくくらいなら、死んだほうがいいとさえ考えた。学校とはそうむやみに落第させるところではないのだが、若い頃は、ちょっとしたことを思いつめるものだ。
だが、まだ落第ときまったわけではない。これではならぬとばかり、私は一年の教科書のはじめから読みかえすことにした。わからない部分があると、ひとり、わかるまで考えた。熱心に考えれば、なんとかわかるものである。
頭のなかがすっきり整理された気分で、つぎの試験にはいい成績がとれた。やがて化学が好きになり、大学では農芸化学科を選んだほどである。
この体験はいいことだったと思う。わからないまま丸暗記をつづけていたら、大変なエネルギーの損失となったにちがいない。勉強のコツを身につけたわけである。学問とは理解することであって、暗記することでないと今でも思っている。
私の中学時代には、教練という課目があった。兵隊となるための訓練である。軍人がやってきて教えた。兵隊ごっこみたいなもので気楽な時間なのだが、私はそうでなかった。
私の顔はふつうの時も笑っているように見えるらしく、「なにを笑っている」と、たびたびどなられ、これにはまいった。
「教練の点が悪いと、いい上級学校に進学できないそうだ」などと、おどかす友人もあった。事実そんな傾向もあったのだ。
私はひとつの計画を考えついた。バスケットボール部をやめ、射撃部にはいったのだ。そうすれば、それを指導する軍人教官ともしばしば顔をあわせることができ、これがふつうの顔とみとめてもらえるわけである。また、ごきげんもとりやすい。軍人教官はうるさいけれど、ごきげんもとりやすいものなのである。この計画は図に当って、私は信用を回復した。射撃部はいささか退屈だったが実弾射撃はおもしろかった。新宿の近くにコンクリート製のカマボコ型の射撃場があり、そのなかでうつのである。引金をひくと歩兵銃が反動でずしりと肩に当り、すがすがしい感じもした。
いま考えてみると、中学生が本物の銃と実弾とを持って町を歩いていたのだから、危険きわまりないことだったともいえる。成績が悪く死を考えているときだったら、一発ぶっぱなしていたかもしれない。
三年生の年末、すなわち昭和十六年の十二月八日、米英との戦いがはじまった。そのとき私は考えた。こうなると、高校の入試課目に英語はなくなるのであろうと。
大きなヤマをかけたわけで、英語はそっちのけで、他の学科に力を入れた。そのおかげで、私は四年修了で高校に入学できた。ふつうは五年卒業で進学することになっていたため、私は秀才ということになった。だが実情は、ヤマが当っただけのことなのだ。英語が入試課目にあったら、みごと落第である。
しかし、世の中、なにもかもうまくゆくわけではない。あとで英語の実力不足になやみ、大学時代に英語の塾《じゆく》に通ったものだ。あとになってからだと頭にはいりにくく、さんざん苦労をさせられた。変に利口に立ちまわった罪であろう。
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澄んだ時代
昭和十八年、私は東京の高等学校に入学した。もちろん旧制である。数え年で十八歳だから、満で十六歳だったことになる。戦争のさなかであった。
この頃のことを、暗く重苦しい時代、と片づけている人が多いようだが、私にとってはそうでなかった。私のみならず同年配の者は、おそらく同じような記憶を持っているのではないだろうか。
明るく、乾燥した毎日であった。台風の夜も、降りやまぬ梅雨もあったはずだが、思い出す日々は一年じゅうすべて、秋晴れの日だったような気がしてならない。
太宰治の小説「右大臣|実朝《さねとも》」のなかに、滅亡近い平家はその故に明るい、という形容があるが、真理のようだ。日本が破局に突入していたその頃も、やはり明るさがみなぎっていた。
明るい希望などという言葉は嘘《うそ》で、希望とは期待と焦燥で息苦しいもの、薄暗い暁に似ている。前途が悲観的な時こそ、みながそれに触れまいとして、澄んだ明るさを示す。ちょうど、美しい夕焼けの空。
ラジオはニュースと、そらぞらしい訓話と、音楽を少し放送するだけ。娯楽らしいものはなに一つなかったが、だれも退屈を感じなかったようだ。私は射撃部に入り、実弾を的にうちこむことを面白がっていた。もっとも、射撃は中学二年ごろからやっていた。運動神経の鈍い、怠惰な生徒が教練の点をよくするには、ほかに方法がなかったからである。
だが、その頃の銃は犯罪めいた匂《にお》いを、決してただよわせていなかった。柔道や蹴球《しゆうきゆう》のできない情ない少年たちの、唯一オモチャのようなものだった。
高校二年の時、勤労動員になった。亀有《かめあり》にある日立製作所である。熔《と》けた鉄がそばを流れ、重い部品が頭上を動いていたが、だれもけがをしなかった。
工場には、やはり動員されてきた女学生たちがたくさんいた。下町の女学校で、なかには、どことなくいきな女の子も何人かいた。ここで、淡い恋心が……とでもなればいいのだろうが、それは戦後の小説の産物。実際のところは、どこにおいても問題はなにもおこらなかった。
昨今の常識でいえば、未来の閉ざされた社会であり、また、教師たちの監督の行き届かない状態なのだから、なにかがおこってしかるべきなのに、すべてはひっそりと静かだった。
理屈をつければ、食糧事情による栄養の関係、とでもなるのだろうが、やはり、あまりに透明な時代だったせいにちがいない。
食糧どころか物資はなにもなく、身辺を飾ろうなどと考えもしなかった。しかし、清潔ではあった。虚栄心ゼロのあのすがすがしさも、鮮かな記憶である。
工場へ出かける時には、本を一冊ずつ持っていった。家の本棚に並んでいた文学全集をはしから読んでいった。
いま考えるとなぜだかわからないほど、小説の世界にすなおに入って行けた。ゲーテも読んだが、「椿姫」や「金色夜叉」も読んだ。時間は限りなくあるように思えた。鴎外の「澀江抽斎《しぶえちゆうさい》」は娯楽性の少ないので有名な作品だそうだが、それが無条件で面白かった。気の散ることがなく、本に没入できたせいなのだろうか。
もちろん、本ばかり読んでいたわけでなく、帰りには友人たちと、よく浅草へ寄って映画を見た。浅草もやはり明るく、崩れた暗い影など、どこを探しても見出せなかった。
上野の山の桜も見た。人影のまったくない上野の広い山で、桃色の綿菓子のように、ただ桜だけが音もなく咲き誇っているのは、忘れることのできない光景であった。ひっそりと静かで、人声どころか、鳥の声ひとつしない。道には紙屑《かみくず》もごみもなく、春だというのに、空はいやに青く澄んでいた。
ゆっくりと一時間ほど、あたりを歩きまわったのだが、だれにも出会わなかった。ほんの少しだが、妖気《ようき》めいた美しさを感じた。
たしかに、いま考えると、あの頃は特異な一年だった。もはや、だれも、二度と味わうことはできないにちがいない。
高校は二年で卒業となり、大学に入った年の八月に終戦となった。同時に、澄んだ明るさの時代は終わり、薄よごれた湿気を含んだ時代が始まったようである。
どんよりした曇天の日々がつづきはじめた。
そして現在あらためて四囲を眺めると、いつのまにか、じめじめしたごみっぽさは一層ひどくなっている。戦争という狂気の捨て場を失い、内にこもりでもしたかのように。
しかし、どちらが変則でむなしいのかの判断は、だれに正しく下せることができよう。また、私自身がとしをとったため、そう考えるのかもしれない。
ただ、私の青春と密着したあの時代が、望遠鏡をさかさにのぞいた眺めのように、遠くなつかしく、小さく、静かに、頭の片隅《かたすみ》に残っていることは事実である。
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焼夷弾
戦争中、米軍機からの焼夷弾《しよういだん》がバラバラとわが家に落下した。さいわい全部が不発だったため、焼けることなくて助かった。銀色をしている六角形の細長い棒状のものであった。近所の防火班の人たちが拾い集めて、どこかへ持ち去ったが、あとで探したら、まだ二本が残っていた。
たまたま遊びにきた北代という友人に、「一本やろうか」といったら、大喜びで自転車のうしろに乗っけて持って帰った。彼は好奇心の強い男で、なんとか発火させようと、地面に投げつけたりしてみたらしい。スリルとサスペンスにみちた行為だが、発火はしなかった。そのうち父親に見つかり「なんだ、それは」と聞かれて「焼夷弾」と答えたら、きもをつぶしたそうだ。当り前の話である。
いつだったか彼と会った時、私は聞いた。「そういえば、あの時の焼夷弾はどうした」「福井が来て、欲しいというのでやっちゃった。だが、あのあと彼の家は空襲で燃えちゃったから、その時いっしょに焼けたんだろう」あの頃の私たちは、妙なものを気軽にやりとりしていた。しかし、それにしても、焼夷弾が火事で焼けたとは、どことなくおかしな言葉である。
もう一本は、ずっと私の家にあった。現在の家に引っ越すときも、家財といっしょに何となく運んできてしまった。物置の片隅《かたすみ》に置いておいたのである。作家となってから大藪春彦君と知りあったとき、「きみは銃が好きらしいが、焼夷弾はどうだ。興味があるのなら進呈する」といったが、断わられてしまった。
こんなわけで所蔵していたのだが、三年ほどまえに、ふと気にしはじめた。万一、発火して火災になっても、これが原因では保険金がもらえないかもしれない。また、こそ泥が知らずに盗んでいったら一大事である。心配しはじめるときりがなくなり、ついに消防署に電話し引取りに来てもらうことにした。不法所持を怒られ、始末書ぐらい取られるかと思っていたが、やってきた若い署員は
「本当に焼夷弾なのですかね」
と、半信半疑でもっていった。からかわれていると感じたのかもしれない。まさに、戦時は遠くなりにけり、である。いまにして考えると、惜しいことをした。専門家にたのんで発火部分をとりはずし、外側を保存するという方法もあったろう。
戦争末期や終戦直後のころの思い出の品は、つい捨ててしまって、あとで後悔する。手放すと二度ともどらない。たとえば、ゲートルとか、タバコを巻く機械とか、金属製の紙巻きタバコ用パイプなどである。だれか、これらの品々を今のうちに一ヵ所に集めて、小さな博物館を作らないものだろうか。それをおさめる建物は、もちろん古材木を使ったバラックである。内部には当時の生活をしのぶ品々がならんでいるしかけだ。私たちのような年齢の者にとって、郷愁をかきたててくれる館であり、若い人にとっては、現在の繁栄を判断する尺度にもなるだろう。それに、史上最大の激変期の風俗なのだから、後世に残す意義もあると思う。
ロサンゼルス市のはずれに、通称ゴースト・タウンがある。開拓時代の西部の町を再現した小博物館。個人経営だが、けっこう繁盛していた。私もディズニーランドより、はるかに面白く感じた。わが国でこんな終戦博物館を作っても、欠損を出さずになんとか運営できるのではないだろうか。
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追憶の一齣
戦争中、することがないので私は映画ばかり見ていた。戦局が悪化の一途をたどっていた頃の、ある日の昼、私は神田の映画館に入ったが、気がつくと、なんと広い館内に観客は私ひとり。二階の最前列の中央にすわって眺《なが》めていた。
すると、休憩時に国民服姿にゲートルという中年男がステージの上にあらわれ、講演をはじめた。その日は大詔奉戴日《たいしようほうたいび》、すなわち毎月八日には開戦の決意を新たにするため、この種の行事があったのである。一人でも客がある限り、やめるわけにいかなかったのだろう。お互いに照れくさく、変な気分だった。
私はきりのいいところで映画館を出たが、そのあと無人の映画館のなかで画面だけがむなしく動きつづけていたのかと思うと、異様な気がした。SFの世界のような思い出であった。
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物見高き男
小学校に入ってまもなくの頃、父につれられて東郷元帥の国葬を見にいった。といっても、葬儀そのものをではない。東京郊外に出かけ、農家のそばの道ばたに立って、墓地へむかう車の列を眺めただけである。あっけないものだったが、いまだに印象に残っている。歴史的な一瞬を子供に目撃させてやろうという、父の思いつきのほうを、私が強く感じとったせいかもしれない。
中学時代に入ると、私はしぜんに、けっこう物見高くなった。同じような趣味の級友がいたからであろう。真珠湾突入の特殊潜航艇、九軍神の葬儀にも出かけた。日比谷公園だったように思う。白く細長い旗がひらめいていた。
五隻で九名とは計算があわず、ふしぎな気がしたが、だれもそれについては口に出さなかった。一名捕虜ということが、まったく考えつかなかったからである。大本営もどうせ発表に細工をするのなら、失ったもの四隻としておいてくれればよかったのだ。私たちも妙な疑問に悩まされないですんだはずだ。
加藤隼戦闘機隊長の葬儀にもいった。これは築地の本願寺だった。しかし、私は友人との待ちあわせ時間におくれ、行った時にはひつぎが出てしまったあとだった。
そのほか、山本元帥や古賀元帥の葬儀もあった。まるで葬式マニアのようだが、なにしろ戦争中、物見高い趣味を満足させてくれる、景気のいい集会はほかになかった。
八月十五日、終戦の放送を私は東大の安田講堂で聞いた。そのあとすることもないので、宮城前の広場に出かけてみた。放送をおえてお帰りになる天皇の車を見ることができるかもしれないと、ふと思いついたのだ。
しかし、夏の午後の陽がむなしく照りつけるばかりで、なにもない。ひろい広場は一台の車も通らず、人影といえばぼんやりと歩く三人ほど。徹底抗戦を主張する軍人でもやってくるかと期待したが、いくら待ってもなにも起らず、私は電車に乗って友人の家へ遊びにいった。
後日、大勢の人が泣きふしている、終戦の日の宮城前という写真を新聞などで見たが、いまだにふしぎでならない。私の帰ったあと夕方になって、ああいう光景が展開されたのだろうか。あるいは翌日のことであろうか。悲しみというものは、ひと晩ぐっすりと眠ってからのほうが強いものかもしれない。
戦犯の東京裁判も見にいった。強そうなMPに厳重な所持品検査をされたが、これは仕方ない。手榴弾《しゆりゆうだん》などほうりこむ奴《やつ》があったら、大混乱となる。東条大将はじめ戦時中の指導者の顔を、やっとじかに見ることができた。休憩中に被告たちは支給されたアメリカ煙草《たばこ》を吸っており、私はえらくうらやましく思った。まったく、つまらぬことをよくおぼえているものだ。
また、新憲法が衆議院を通過するのを傍聴することもできた。この日は尾崎行雄をはじめ、名演説ばかり。芦田均憲法委員長は「こんなすばらしい憲法はない」と心から叫び、傍聴席で私の前にすわっていた下町の主婦といった感じの女性は、感きわまって大声をあげ、衛視に注意されていた。
社会党を代表する片山さんは、いやいやながらだが賛成すると言い、共産党の野坂さんは「軍備のない憲法はナンセンスだ」と反対していた。今昔の感にたえない思い出である。
国技館でおこなわれた日本最初のプロレスも見た。どんなものやらさっぱりわからずに出かけたのだが、世の中にこんな面白いショーがあったのかと、ため息が出た。もちろん、外人選手ばかり。そのあと力道山がリングにのぼり「これから私はこの道を進みます」と決意を示し、あいさつをした。
たしかに私は物見高かったようである。そのうち、空飛ぶ円盤とやらを目撃することはできないものかと思い、その愛好グループに入ったりし、あげくのはてSFを書くようになってしまった。
しかし、その後は私のこの性癖もおさまった。皇太子の婚儀の馬車も見に行かなかったし、親切な友人がオリンピックの開会式の券をくれると言ったが辞退した。もはや、なにが起っても出かける気にはならない。その原因と理由はきわめて簡単、テレビ時代となったからである。
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あとがき論
あとがきとは、どうあるべきなのだろうか。これが私には、いまだによくわからない。
世の中には、あらゆる分野に評論家がいるが、まだ、あとがき評論家なるものにはお目にかかったことがない。また全集ばやりでもあるが、あとがき全集なるものもない。そういうたぐいが出現し、あれこれ論じてくれれば、模範的なあとがきの形式も確立することになるわけであろう。早くそうなってくれるよう祈っている。
長編小説のあとがきというのも、変なものだ。ちょうど、舞台でドラマが終わり、感激にひたっている時、ふたたび幕があがり、死んだはずの人や、今まで対立していた連中が、にこにこと頭を下げるのに似ているように思えてならないのである。
なぜ舞台には、こんな慣習があるのだろう。幕切れの感銘を、持ち帰りにくいようにしているように感じる。音楽会のアンコールを論じた文は時たま見るが、この慣習についてはない。だれか味わい方を解説してくれないものだろうか。
舞台なら、おじぎをするだけでいいが、あとがきとなると、なにか語らねばならない。どうしても、自分はこういう意図だったのだが、諸君にはそれがおわかりか、との演説になってしまうのである。いかに巧妙にへりくだってみせても、この匂《にお》いは消しにくい。私には苦手だ。
しかし、現にあとがきなるものが存在するからには、なにか意義があるわけであろう。それを知りたいものだ。
いや、知りたいとか苦手だとか言ってないで、そのうち私が研究してみるとするか。簡単なように見えて、じつはこれこそ、最もむずかしい文章形式なのかもしれない。となると、意欲も出てくる。新分野に手をつけるのは楽しいことだ。
最初に読まれてもよく、あとで読まれてもいい。てれてはいけないし、てれていないのもよくない。さりげなく作者の人柄をただよわせなければならない。容易ならざる修業を必要としそうだ。
そのうち私は、あとがきの本質を発見し、その名手になるかもしれない。あとがきを書きたくて、つぎつぎに本を出すというマニアになるかもしれない。文学史上初のあとがき作家の名称でもとってやるか。
だが、今回には残念ながら、まにあわない。
かつて私は「宇宙のあいさつ」という短編集を出した。その時、編集者にあとがきを書けと言われ、弱ったあげく「あとがき」という題の作品を書いてくっつけたことがあった。いざとなると、妙な知恵が浮かぶものである。それ以外、童話集はべつとして、私は小説の本にあとがきを書いたことがない。
アメリカのフレドリック・ブラウンというSF作家が、自分の短編集にとんでもない序文を書いている。日本のあとがきに当たるものだ。曰《いわ》く
「いったい、なぜ自分の本に序文が必要なのだ。その習慣の真相をここに暴露する。作家から稿料なしの文章を、少しでもふんだくってやろうと考えている編集者のせいなのだ……」
ショッキングな出だしだが、引きつけられて全部を読むと、それが面白いSF論になっているのである。心にくい作だが、人まねをするのもしゃくである。
この本は、私がこれまでのほぼ十年間に新聞や雑誌、その他に書いた随筆のたぐいをまとめたものである。随筆といえるか、まとめたといえるかもわからない。初期のものと最近のものとには、文章の不統一があり、重複したような個所がいくらかあるようだ。海外旅行ブームの今では、外国での見聞のところは、いささか気がひける。
それでも、なんらかの意味で面白いと思っていただける部分が、どこかにあるはずである。自信だか身勝手な妄想《もうそう》だかわからないが、それがなかったら、作家という仕事は一日もつづけられないものなのである。
本書には今日の人権意識に照らして不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、作品執筆時の時代背景や作品が取り扱っている内容などを考慮しそのままとしました。作品自体には差別などを助長する意図がないことをご理解いただきますようお願い申し上げます。
[#地付き](角川書店編集部)
角川文庫『きまぐれ星のメモ』昭和46年5月30日初版発行
平成11年4月15日40版発行