星 新一
きまぐれフレンドシップ PART2
目 次
手塚治虫――独自な世界――
フレドリック・ブラウン――独自の宇宙――
和田誠――彼との縁――
高齋正――飛行船への夢――
山川方夫――抑制がきいた余韻――
福島正実――シャープなジョーク――
川端康成――「心中」に魅入られて――
アルフレッド・ヒッチコック――「北北西に進路をとれ」など――
ジョン・ウインダム――イギリス的な作風――
伊藤勇輔――追憶の記――
北杜夫――同世代、同じ山の手生まれ――
広瀬正――タイムマシンにまともに取り組む――
司馬遼太郎――『峠』について――
大伴昌司――追憶――
池波正太郎――男の理想的な人生――
畑正憲――人間わざとは思えない――
山本有三――『米百俵』について――
イーデス・ハンソン――新鮮で多様な笑い――
杉山龍丸――砂漠に取り組む人――
山藤章二――山藤さんの真価――
新井素子――ユニークな出現――
藤井旭――私設天文台――
秋竜山――ショックのあとに笑いが……――
ハーバー一族――ふしぎな縁――
梶尾真治――SFと育った作者――
田中武次郎――長いつきあい――
シラノ・ド・ベルジュラック――架空対談――
かんべむさし――活字で笑わせる名人――
田中光二――熱気を秘めた才能――
田中靖夫――個性の強いブラック・ユーモア――
森田拳次――抜群のヒトコマ物――
西丸震哉――原始社会を身近に――
横田順彌――『天使の惑星』――
谷沢永一――『「正義の味方」の嘘八百』――
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手塚治虫
――独自な世界――
「鉄腕アトムの表情は、単純で変化にとぼしい」と指摘した人があった。言われてみるまで気のつかなかったことだった。ロボットなのだから、おおげさに表情が変ってはおかしいわけだ。
しかし、アトムは読者の心のなかに、喜怒哀楽をふんだんにもたらし、興奮の印象を残している。なまじっかな人間以上に生き生きとした主人公なのだが、ページをめくりなおして表情だけをながめなおすと、顔に感情はさほどあらわれていない。
魔術のようなふしぎさだが、ここに手塚さんの才能がある。シチュエーション、構成、ストーリーの展開、小道具のアイデア、会話のひとつひとつにいたるまで、すべてがからみあって物語をきずきあげているからだ。アトムの活躍は、これらの総合の効果なのである。こてさきのごまかしではない。
年季のはいった名人の古典落語を聞くのと、相通ずる価値である。表情をひかえめにしながら、聞く者を話に引きこむのだ。才能のない芸能人には、これができない。そのため、オーバーな顔つきや身ぶりで笑わせようとしたり、借り物のギャグでその場を切り抜けようとする。
手塚さん以後、その亜流としての漫画がずいぶん出たが、いまだにそれを抜く人はあらわれていない。その秘密は、ここにあるのではないかと私は思う。
部分的な会話で、手塚さん以上の刺激を示す人はあるかもしれない。しかし、それは、こてさきにすぎない。ストーリー、絵、アイデアを調和させ、ひとつのヒューマニズムを描きあげるという点では、手塚さんに及ぶ者は将来もなかなか出現しないのではないだろうか。
たしかに、ロボットを主人公に漫画に描くについては、たいへんな決意を必要としたにちがいない。表情で感情をあらわさず、物語のうちに示さなければならないのだ。手塚さんがこのテーマを選んだのは、安易さにおぼれないように、自己に課したきびしさのあらわれといえよう。
だからこそ、外国にも堂々と通用するのである。私は外国のコミック・ブックを大量に収集している。ストーリー漫画の薄い本のことだ。それらとくらべても、手塚さんのははるかにすぐれている。手塚さんがディズニーの影響を受けて出発したことは事実だが、そのきずいた世界は独自なものである。外国とは、物まねの通用しないところなのだ。
最近、手塚さんは一コマ漫画をも描き、既成の人にない新鮮なアイデアをだしている。器用さだけではない個性が、そこにある。このごろ思うのだが、もし手塚さんが出現しなかったら、現在の日本の文化はずいぶんちがうものになっていただろうという点だ。手塚さんは時の流れを巧みに泳ぐ人ではなく、時の流れをみずから作りだした人なのである。
[#地付き](『手塚治虫全集』第12巻 小学館 昭和44年6月)
――現在がいちばんつらい=\―
あれは筒井康隆さんの結婚式の時だから、もう十年ほど前のことだ。それへの出席のため、SF作家たちが関西に集まった。手塚さんも多忙な時間をさいて、あらわれた。
披露宴が終った時、来客のだれかが手塚さんと気づいて、アトムの絵をせがんだ。そのとたん、あっというまに数十人の行列が出来てしまったのである。私には百人ちかくいたように見えたが、それは少しオーバーかもしれない。とにかく大変な人数だった。
それに対して、手塚さんは面倒がるような表情を示さず、サインペンを使って、その注文にいちいち応じていた。私も時に色紙へなにかとたのまれることがあるが、作家は文字以上のものをたのまれることがなく、そうやっかいなことではない。しかし、アトムの絵となると、字のように簡単にはいかないのである。
かなりの時間がかかり、その行列はやっと片づいた。手塚さんは、その絵を手にすることによって予期しなかった喜びにひたる子供たちの顔を頭に浮かべながら、それを一枚ずつ描いていったのであろう。そのサービス精神には、ただただ感心させられた。
手塚さんの忙しさは、だれでも想像がつく。そのことを説明して断れば、それでも無理にと要求されることは、ないだろう。それなのに、仕事のスケジュールにくいこむ時間を忘れてアトムを描きつづけた姿は、いまだにきのうのことのようにおぼえている。
私事にわたるが、私は大正十五年(一九二六)の生まれ。少年時代に「のらくろ」に親しんだとはいえ、漫画は量的にはなはだ少なかった。もっぱら読書、活字の世界にひたって成長した。大学の一年生の時に終戦。検閲がなくなったので、いっそう活字媒体に親しんだ。それ以外の娯楽となると、もっぱら映画だった。
そんなわけで、手塚さんの存在を知ったのは、昭和三十年ごろ、SF作家になりかけたころである。類は友を呼ぶで集まったSF好きの連中が、なにかというと「手塚治虫」という名を口にする。そして、十年も前からSFの分野で活躍している、偉大なる才能の主を知ったしだいだ。
やがて、手塚さんも私と同じころの生まれと知った。本来なら、活字世代に属しているべき人である。それなのに、終戦後まもなく、漫画の世界に独自な作風でゆるぎない地位を築いた。そこがふしぎである。
戦前にも長編漫画はないことはなかったようだが、完成度や洗練さにおいて満足感には遠かった。そこに手塚さんが出現し、その分野の幕あけをやってのけた。この功績は、もっと評価されていいはずである。
手塚さんの作品の特徴は、ストーリーの構成のしっかりしている点にある。ユーモアもギャグも、決して構成を崩したりはしない。この『鳥人大系』においても、それを随所に見ることができる。これはつまり、手塚さんが活字によって小説作法を完全に自分のものとし、それを漫画のなかに展開しているからではなかろうか。
ほかの漫画家の作品には、ムード優先、ストーリーは二の次というのもある。それも悪くはないが、手塚さんのみごとな構成の作品は、よりはばの広い読者層を持つのである。また、時間的にもいつまでも読みつづけられるのだ。
うちの二番目の娘は中学三年だが、なんと『鳥人大系』を読んでいるではないか。解説の参考になるかと思い「どこが面白いか」と聞いてみたら「理屈ぬきで面白いじゃないの」との答がかえってきた。それこそ、すぐれた作品の条件なのである。解説を読んで、ああそうかとうなずくのは、たいてい愚作である。
いまさら説明するまでもないが、手塚さんは医学部を出て、学位も持っている。そこがSFを書く上で、この上ない強味になっている。もちろん、SFは科学とちがう。しかし「いくらなんでも、これはおかしい」と感じさせたら興ざめである。また、くどいのも困るのだ。手塚さんはその処理がじつにうまい。読者はなにげなくページをめくっているだろうが。
手塚さんはこの世界に入って、三十三年になる。私は約二十年。それより十年以上も長く仕事をし、高いレベルを維持している。いかに大変か、よくわかるのだ。しかも、ブレーンを使わず、重要なアイデアはみなご自分でうみ出している。短編も長編も自在にこなすし、テレビはもちろん、さまざまなアニメーション映画まで製作している。まさに非凡な人だ。
先日、手塚さんと会えたので、ひとつの質問をした。
「三十三年のうち、最もつらかったのは、いつですか」
「いまですよ。現在ですよ」
ぜんぜん予期しなかった答。しかし、非凡とか天才という形容とはちがった、人間味あふれる言葉であった。天分はもちろんだが、あの膨大な作品群は、毎回毎回の全力投球の苦しみによってうみ出されたものなのだ。その連続が三十三年、さらにまだまだつづくのだ。考えただけでも気が遠くなり、それ以上の質問をする気になれなかった。
[#地付き](『鳥人大系』解説 大都社 昭和53年7月)
――偉大な人――
そういえば、ニューヨークの世界博にいっしょに行ったのは、二十五年の昔か。
同年齢なのでよくわかるが、手塚さんが戦後すぐ、劇画の活動をはじめたのは、大変なことだった。そんな発想や夢を、よく持てたものだ。劇画のパイオニアどころか、現在の日本文化の大きな部分は、手塚さんの影響下に形成されたといっていい。
手塚さんの後輩として出発した人たちは、各分野に大活躍。劇画雑誌の発行部数の合計を考えたら、気が遠くなる。あらためて惜しいと思い、偉大さをかみしめる。活字のSF第一世代の作家は、くらべられたら、穴にかくれたくなる。
手塚さんの活躍四十年のパーティで「少し仕事をへらしなさいよ」と言ったら、元気よく「とんでもない、これからですよ」と大きな声がかえってきた。
天国がもしあるとすれば、そこの光景に最もふさわしい人だろう。
[#地付き](「SFマガジン」 平成元年4月号)
平成元年二月九日死去。六十歳。
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フレドリック・ブラウン
――独自の宇宙――
これはあとがきであって、解説ではない。それは序文でブロックによって書きつくされている。それ以上になにかを書いたら、それは書いた人の創作である。作家の内面など、第三者にわかるものではない。他の職業の人でもそうである。私たちは野球選手や芸能人について、情報を知ることができる。しかし、内面まではふみこめない。これが作家となると、なおやっかいだ。私が保証する。書いた当人ですら、いかにしてアイデアを思いついたかなど、説明できない。
ブラウンの名を見ると、ただただなつかしさを感じる。もうはるか昔のことなのだが、昨日のことのように思える。昭和三十年、あるいは三十一年だったかもしれない。ブラウンの『発狂した宇宙』の翻訳が元々社から出た。これを高く評価する人もいるが、私はさほどに感じなかった。訳文のせいかもしれない。むしろブラッドベリの『火星人記録』(あとで『火星年代記』と改題)の詩的ムード、シェクリイの『人間の手がまだ触れない』の発想に感心させられた。と書いてきて、いずれも短編集であることに気がついた。私が短編作家になった一因は、そこにあるのか。だから、作家の内面など解説のしようがないのだ。
ブラウンの長編『火星人ゴーホーム』を読んだのは、昭和三十三年の春ごろである。私はすでに、作家業に入りかけていた。これを読んだ時は、もう頭のなかをかき回されたぐらいに驚いた。こんなのを書く人の存在に対し、ぐうのねも出ないぐらい感嘆した。
以上あげてきた各作品、私の感想を書いているので、いまの若い人が同様に受け取るとは思っていない。本書のなかの「星ねずみ」のなかでブラウンは、人類の宇宙進出は二、三千年先だろうと言わせている。そういう状況のなかで書かれたのだ。
私は短編を書きつづけるのに全力を集中し、外国の作品を原文で読むひまなどなかった。翻訳雑誌がいくつもあって、それを読めばよかったのだ。そのうち都筑道夫さんの編集する「エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン」で、ブラウンのごく短いものがいくつか紹介され、こういうのをショートショートと称すると紹介された。
たまたま私も短いものを書いており、日本におけるショートショート作家とされてしまった。幸か不幸かは、なんともいえない。幸のほうは、それによって日本で一時期、ショートショートの流行があったこと。不幸のほうは、ショートショートはSF的なものとの印象を広めたことである。
ブラウンの短編集で最初に訳されたのは『スポンサーから一言』である。ブラウンがかくもたくさん書いているとは知らなかった。つづいて長編推理小説がいくつも訳された。彼の名を高めたという『シカゴ・ブルース』は、あまりしっくりこなかった。しかし『彼の名は死』は、各章の題名が凝っていて、なかなか面白かった。それと『三、一、二とノックせよ』で、これはテレビでも放映され、荻昌弘さんがそのノックをやってみせたのまでおぼえている。あと何作か読んだが、あまり心に残らない。『火星人ゴーホーム』のショックの余波である。
ブラウンのショートショートも、つぎつぎと訳された。私はそれらを読み、むしろ私との差異を感じた。作風がかなりちがうのである。彼は、あまりストーリーをひねらない。もともと推理小説から出発した人で、推理小説的な短編はかなりひねっているが、SF的なショートショートとなると、筋はあっさりしている。意識してだろう。アイデアで勝負していて、ストーリーの展開で面白さを補足する必要がないからだ。スケールの大きい発想を、短いなかにおさめている。
多くのアイデアを、どうやって得たか。しかも、短編への待遇のよくないアメリカで。さきにのべたごとく、この解明は不可能で、以下は私の想像である。ブロックは序文で、「長距離バスの旅行中に」と書いてあるが、これは長編の構想のためだろう。生活の基盤は長編にあるのだ。『火星人ゴーホーム』の最初の部分は、アイデアに苦しむ作家を描写しているが、長編を一冊ひきうけたためとなっている。
そういう苦しみのあいだの、リラックスのなかからふっと湧《わ》いてくるアイデアをつかまえたのではなかろうか。ショートショートに関する限り、彼は楽しみながら書いているように思える。タイプはぜんぜんちがうが、ヒッチコック的である。ひとを「あっ」と言わせることに、生きがいを感じているみたいだ。しかし、なぜ彼に限って、ふっと湧いてくるのか。私にはわからない。だれにもわからない。こういうことに関心があり、好きであり、湧いては消えてゆくなかから、ものになりそうなのを、見分け、つかまえる才能があったからだろうという当り前のことしかわからない。
本書のなかの「実験」など、よくもまあと言わざるをえない。奇妙な思いつきである。短編SFの原点はなにかを日本の読者に教えてくれたのは、シェクリイとブラウンで、その作品数はブラウンのほうが圧倒的に多い。
さて、ブラウンを翻訳するという作業だが、最初に話を持ちかけたのは、常盤新平さんである。昭和三十五年ごろか。たぶん「週刊朝日」だったと思うが、毎号、短い外国作品がのっていて、その仕事をまわしてもらったのだ。本書収録の「おそるべき坊や」がそれである。
べつにかくすこともないので告白するが、私は戦時中に旧制高校を出て、戦後に大学で理科系を学んだ。英語の化学文献を読みはしたが、これは術語さえ知っていれば大要はわかり、語学の向上にはならない。つまり、英語は苦手なのである。作家になりたてのころ、独身でひまがあり、今日泊亜蘭さんの家へ出かけ、ブラッドベリの『刺青《いれずみ》の男』をテキストに、学習したことを思い出す。そのあとの雑談が楽しみでもあったが。
一回ぐらいブラウンの原文に接してみるかと思い、引き受け、持っていった。「週刊朝日」の編集部へである。すると「これでは枚数が不足だ、あと五枚ほどふやせ」と言われた。当時はまだかけ出し作家で、編集者には勝てない。しからばとばかり、私はそれをやってのけた。原文、あるいは他の人の訳と対比しなければ、どこをふやしたか気づかぬはずである。アイデアさえあれば、長さなど加減できるのだ。ショートショートの原稿料を一考すべき好例である。
そのうち「SFマガジン」編集長だった福島正実さんから、ブラウンの短編集を一冊ぶん訳さないかとの話が持ちかけられた。ブラウンとなると、星新一と結びつけたくなる人が多いらしいのだ。作風はちがうのに、第三者から見ると短いという共通点が目立ってしまうのだろう。
そして早川書房から出たのが『さあ、気ちがいになりなさい』である。森優(いまの筆名は南山宏)さんに手伝ってもらったが、最終的には私が仕上げた。ブラウンは訳者泣かせの作家ではなかろうか。表題作の原文は"Come and go mad"だが、come のあとで切っても go のあとで切ってもいいよう、二通りの意味を含めているらしい。「シリウス・ゼロ」も、日本語ではシリウスとシリアスとを使いわけているので、説明がいる。説明つきでは笑いにならない。
作風のちがいは、そこなのだ。語呂あわせなど、私はめったにやらないが、ブラウンは言葉あそびが大好きなのだ。私ごときにわからぬ個所で、かなりそれをやっているらしい。序文で触れているように、ブラウンの特徴のひとつはそこにある。英語圏以外で、かなり損をしているはずだ。どうにも訳しようがない。仕方ないので、そこはそのまま、別な個所で試みるということをやってみたりした。
そのご昭和四十年から、それまで趣味で収集していたアメリカのヒトコマ漫画を整理し「進化した猿たち」の連載をはじめた。膨大な量の漫画とキャプションを手がけた。こういうのの英文はそうむずかしくなく、辞書さえあれば、内容はわかる。しかし、直訳したのでは、面白さをぶちこわすばかり。半分以上は創作的な作業だった。翻訳能力は少しも上達しない。
それが一段落したあとは、小説に専念。場ちがいなことは、なるべく避けてきた。
そこへ山野浩一さんから、サンリオのこの文庫の翻訳の話が持ち込まれた。いつのことかは書かない。あまりに伸び伸びにしてしまったからだ。ペーパーバックで三百ページを越す厚さ。考えたね。大仕事だ。作風はちがうというものの、アイデアとはなにかを教えてもらった恩人でもある。親近感がある。福島さんにすすめられて訳したのが、三分の一ほど占めていて、この際、生かしたい。
しかし、ためらいもあった。すでに、ほとんどの作品が訳されているのだ。その訳者のお名前をここに記すと、
中村保男、小西宏、稲葉明雄、福島正実、森優、吉田誠一、井上一夫、秋津知子の各氏である。
なかには、二人の訳者によって訳されている作品もいくつかある。それらを使い、必要とあらば私がブラウンへの賛辞をつければ、すぐに出来るではないか。
そう言うと、やってきたサンリオSF文庫の人は「星さんの訳が欲しい」と言う。調子の統一があったほうがいいからだろうが、それには時間がかかるのを覚悟してもらわねばならない。
いずれにせよ、前記の諸兄の訳を参考にさせていただく結果となり、ここに厚くお礼を申し上げる。
最初の難関は、「狂った星座」だった。邦訳で読んで面白がった時から、なんと年月がたったことよである。批判を一身に受けるつもりで、加筆により古さをなおせないかと考えた。しかし、結末をしめくくる部品の名称だけは、お手あげである。代案はあるが、いくらなんでも、そこまでは手を出せない。まいったね。一時的に意欲が減退した。
しかし、何回か読むうち、SF史の一資料として貴重な作品なのだろうと考えた。ブラウンの死後、ブロックがこれを選んだ理由は、それしか考えられない。執筆されたのは一九四五年、すなわち昭和二十年で、日本が戦いに敗れた年である。その時期のSFの傑作だったのだろう。アメリカにおいて。
しかし、現代の日本の読者には、その意味が通じるかどうか。そこで頭に浮かんだのが筒井康隆さんの「色眼鏡の狂詩曲」である。あれは地理的な距離による、思い込みのちがいを強調した傑作である。その地理的を時間的になおせば、ブラウンの本意ではないにしろ、少しは面白くなるのでは。そう考え、原文の許す限り、そんなふうに訳してみた。
やがて、またも難関に出会い、しばらく筆が進まなくなった。数、とくに掛け算のまちがいが、多すぎるのである。主人公が異変に巻きこまれ、そのあたふたぶりを示すものかと、ちょっと思った。しかし、地の文にも多い。新聞社の校正部にいたはずなのに。
わけがわからないというのは、いやなものだ。そのうち、ある発見をした。かつて二人の訳者によって訳された作品で、同じように掛け算がちがっていた。原文に忠実な訳である。それが今回、正しい形になおっている個所がある。三カ所ほど。ということは、版が変る時に、作者、あるいは出版社によって校正されたわけである。
ということは、なおしていいのだろう。本書では、すべて正しいものになおした。数字に弱いブラウンの一面を示すご愛嬌《あいきよう》としてそのまま残してもいいのだが、訳者、出版社の不注意と思われては、応答をいちいちしなければならない。
それにしても、本国版でかくも多く、かくも長期間にわたって計算ちがいのままなのは、どういうことなのか、アメリカ人のおおらかさか。もちろん、そんなことを気づかせない、ブラウンの筆の運びのためであることはいうまでもないが。
「星ねずみ」では、博士のひとりごとが、すべてドイツ語なまりなのである。アメリカ漫画にもドイツ語なまり、フランス語なまりのキャプションが、時たまある。日本で「SFマガジン」にのった時は、井上一夫氏がそれを九州的方言で訳し、えらく好評だった。ひとつの試みである。ここでは未熟さを強調して訳したが。
かつて日本語なまりの英語のギャグを売り物とした芸人がアメリカにいたらしい。rとlとが同じなのである。ハワイや西海岸を舞台に、日本なまりの言葉の出てくる小説があるのではないかと思う。そういうのを日本語に訳す時、どんな形にすればいいのか。
最後に、SF界の先輩、翻訳の名手、矢野徹さんになにかと疑問点を答えていただき、感謝している。
あとは、現代の若い人が、この本を読んで面白く思うのを期待するだけである。少なくとも、かつてアメリカにかくも異色な作家がいたことを知っていただくだけでもいい。
[#地付き](『フレドリック・ブラウン傑作集』訳者あとがき サンリオSF文庫 昭和57年2月)
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和田誠
――彼との縁――
和田さんとはじめて組んだのは、今江祥智さんが編集していたリーダーズ・ダイジェスト発行の「ディズニーの国」とかいう幼年雑誌だったと思う。たぶん「あーん、あーん」という作品だった。しかし、その時はイラストを描いてもらったというだけの関係である。
そのうち、本人がわが家へやってきた。板に孤島漫画を描いたのを持参した。これは将来において珍品になるだろうと、大切に保存している。
「絵本を出したいと思いますので、ストーリーを書いて下さい」
と言う。スマートでおとなしそうな青年だった。たばこ「ハイライト」のデザインをした人とは、その時は知らなかった。近くヨーロッパへ行くというので、私は自分の体験から、
「カメラを持っていって、とりまくってくることですな」
と言うと、なんと、
「カメラは持っていきません」
とのこと。これはただならぬ人間のようだとの印象を受けた。もっとも、画家はそういうものなのかもしれない。
絵本の構想を聞いていると、どうやら原稿料なしらしい。いまや私も原稿料にこだわらない心境に達したが、当時はPR誌の全盛期で、ショートショートを枚数計算とはなにごとであるかと、値上げ交渉に熱中していた時期であった。
たまには、ただ原稿もいいだろう。
なんとなく、そんな気分にさせられた。そして書いたのが「花とひみつ」である。わりと気楽に書けた。いまでも気に入っている作品である。
その私家版の絵本は、朝日新聞の学芸欄でとりあげられた。いまや幻の本となっている。私はもらった本を、気前よく友人たちにくばってしまい、いま二冊しか残っていない。来年の四月にフレーベル館から新版のが出るが。
まもなく、それがきっかけとなったわけだろう、朝日新聞の日曜版への短い童話の依頼がきて、三十回ほどつづけた。イラストは和田さんにお願いした。全国紙に定期的に作品を書いたのは私もはじめてで、たぶん和田さんもそうだったのではなかろうか。
つづいて、日経新聞でも、和田さんと組んで日曜版にショートショートを連載した。これは日経で単行本になり、のちにロマンブックになり、いまは新潮と講談社の文庫に入っている『盗賊会社』である。いずれも和田さんのイラストつきで、そのたびに、新しく描きなおしてもらっている。つまり、四回ずつ。お手数をかけるとは、まさにこのことだ。朝日の童話『きまぐれロボット』もほぼ同様である。
余談になるが「花とひみつ」のストーリーは、岡本忠成さんによってアニメーション映画となり、内外の多くの賞を取った。
それ以来、ずっと今日に及んでいる。文句のつけようのないイラストである。私は執筆中はそれだけに専念するが、書き終ってから「イラストの人は困るだろうなあ」と、いつも思う。和田さん、真鍋さんはその処理がまことに巧妙で、なかなかほかの人にたのむ気にならない。
本の装幀もよくお願いする。真鍋さんのおかげで年配の人に読者がひろがり、和田さんのおかげで中学生あたりまで読者がひろがり、おかげで私は大いに助かっている。
私の今日あるのは、和田さんの力によるところが多い。もとはといえば「花とひみつ」である。名はあげないが、調和しないイラストレーターと組んで損をしている作家もかなりいるようである。
作家とイラストレーターの交際は、一般の人の想像するほど、ひんぱんではない。好きな形容ではないが「心でつながっている」といった感じなのだ。
しかし、たまにはということで、和田さん、真鍋さん、小松左京と私の四人で、香港《ホンコン》へ出かけることになった。こんなことは、はじめてである。
その出発の日が、この原稿の締切りの日。本誌の編集部の人も、この企画を一カ月のばしたら、なにか和田さんについての新発見の内容の原稿を私からもらえたのに。
[#地付き](「月刊絵本」 昭和53年1月号)
――『落語横車』――
世の中には解説を先にのぞく人がいるので、まず書いておく。和田誠というイラストレーターを主な業とする多才な人物に関心のあるかた、落語をお好きなかたは、決して損をなさらないと保証します。書店でお迷いのかたは、すぐにお買い下さい。
あなたが、すでに買って順に読んできて、最後に解説を今お読みになっているのなら、それでいいのです。ね。面白かったでしょ。最初の「時そばの時刻」というエッセイ。そうだったのかと、だれかに教えたくなるでしょう。
考えてみると、わからなくても笑わせてしまうところに、落語のふしぎさがあるのだ。あまりにうまく出来た話で、ラストの調子がよく、思わず巻き込まれてしまう。そもそも、ナンセンス狙いの話なのではなかろうか。江戸時代、こんな時刻に商売になるほど人が歩いていたのだろうか。なぞはなぞを生む。
それはそうと、和田さんを含めてイラストレーターは、みな研究熱心である。「時そばの時刻」など、まさにそのあらわれ。作家だったら、時代ものは書かんとか、SFはどうもとか勝手だが、イラストレーターはいかなるものにも絵をつけなくてはならない。また、小説を読みこなしていないと、ふさわしい絵がつけられない。
うまくて当り前、どこかおかしいとクレームがつく。想像以上に大変な仕事である。イラストレーター志願者は多いが、プロとなると、ごく少ないのだ。才能という言葉を軽々しく私は使いたくないのだが、エジソンのいう「九九パーセントの努力と一パーセントの……」という意味での才能がなくてはならない。それに個性もだ。これは和田さんの絵だと一目でわかるし、だれもがいい印象を抱くはずである。その人柄のよさもあるが、観察と苦労のつみ重ねがあってこそだ。
幸運という言葉も使いたくないが、和田さんの場合、時代の流れを見とおせるので、現代人にぴたりなのだ。ただ絵がうまいだけでは、ぬきん出た存在になれない。本書はそういった、絵ではない和田さんの魅力を知ることができる。
さて、私は落語が好きであり、和田さんと知りあってイラストをお願いするようになってからかなりになる。だから、この本の解説の依頼が講談社からあった時、気楽に引き受けた。単行本で読んで面白かったのも覚えていた。しかし、そろそろ書くかなとあらためて読みなおし、腕を組んで、ため息をついた。軽率だったかなと。
つまり、私が和田さんより、ずっと年長なのである。落語に馴れすぎてしまっている。そして、この文庫を読まれるかたは、たぶん若く、落語に新鮮な笑いを求めている。その落差は、ずいぶんあるのではなかろうか。
最近になって気づいたことだが、いまの若い人はノアの箱船を知らない人が多いらしい。西洋や中国の有名な(と私が思っていた)昔話も、ことわざも、有名でなくなっているらしい。
そういうのをふまえて書いた作品がいくつかあり、知った上で読んでくれればと残念なのだ。いつのまにか、としをとってしまったというわけ。先日、それについて原稿を書き、なかで江戸川柳を引用した。
そうめん冷食すずしいかな縁
縁側もみかけなくなったし、とつけ加えた。うちへ来た編集者、そこを読み、縁側はわかるんですがと考え込んだ。
巧言令色|鮮《すくな》いかな仁《じん》
論語の有名(だった)一節なのである。すごいパロディなわけだが、現代ではおごそかにして高級なものがなくなってしまったので、適当な例がない。すぐ通用しなくなる、コマーシャルのパロディぐらいしか成立しない。
そんなことを悩みはじめ、小説は今後どうなるのか、文化はどう変るのだろうなど、まじめに考え込んでいた時なので、ここでどう書くか困ってしまった。
しかし、この本を買おうとしたかたは、少なくとも落語のなんたるかを知っている人のはずであった。そのあげく、やっと気がついた。和田さんのこの本こそが、古典落語そのものへの、みごとな解説書なのである。解説書の形をなしていないが、なまじ正面から論じたものより、落語の本質を若い世代へ、すんなりと伝えている。
となると、自分の思い出に脱線してもいいわけだ。私も小学校のころから落語に親しんでいた。昭和十年ごろからだ。東京の山の手に住んでいたので寄席はほとんど知らないが、ディナーショウとホール落語をまぜたようなものが、上野の精養軒などで催され、よく連れていってもらっていた。名前を並べてみたくなるところだ。
ラジオはNHKの前身だけだったが、週に何回も放送していたし、戦争中も変らなかった。落語を活字にした本もあった。ほかに楽しみはなかったともいえた。
そして、終戦後。
虚脱状態の一時期をべつとすれば、昭和二十年代、日本の娯楽文化は空前の隆盛を迎えた。それまでの抑圧を取りかえそうと、なにしろ活気にみちていた。
アメリカをはじめ外国から映画がつぎつぎと入ってきた。日本映画だって、各種各様なのが作られた。日劇のショウもすごかったし、軽演劇もはなやかだった。たしか有楽座だったと思うが、エノケン主演の舞台「らくだ」を見たのを覚えている。ひたすらおかしかった。映画化されたかもしれない。
理髪店のラジオで、志ん生の「ぞろぞろ」を聞いたのも覚えている。場所が理髪店ということもあり、すっと頭に入ってしまった。のちに私がSFショートショートを書くようになったのは、こんなことのつみ重ねがあったからかもしれない。どんな話かは、お知りになるまでのお楽しみ。
寄席にも歌舞伎にもよく行った。スマートボールやビンゴというゲームがあったが、しだいにパチンコが主流となる。ラジオの連続ドラマは、主婦たちをとりこにした。進駐軍放送(いまのFEN)はアメリカ音楽を流していた。小説雑誌は傑作ぞろいで、新聞連載小説は、私など記事より先に読んだ。野球では川上哲治選手が少年たちのあこがれで、キャバレーは美人ぞろいで……。
つまり、衣食住は劣るが、娯楽については湧き立つような時代だったのだ。和田誠少年は、そんななかで成長した。なにもかも強烈であり、あざやかで、珍しく、熱狂したくなるものばかりだった。和田さんの多才さは、そこからきているはずである。
和田さんには、週刊文春の表紙も、小説のイラストも、映画についてのエッセイも、あのよき時代のフィーリングとエッセンスとを自分なりに消化し、つぎの、生れた時からテレビで育った世代の人むきに表現しようという感じがある。オリジナルなものを生み出しながら、時代の微妙なずれを埋めてもいるのである。
本書の「空海の柩」など、落語を知らないごく若い人がはじめて聞かされても、とまどうことなく「面白いSFだなあ」と笑うはずである。そこで「これは落語だよ」と教えれば、新しい落語ファンもふえるというわけだ。つまり、本書は入門書でもある。
ただ、本書のなかの「こうして落語が好きになった」という座談会の記録は、昔を知らぬ人には、わからない部分があるかもしれない。落語には、とめどなくのめり込んで話し合いたくなる、なにかがあると感じていただければ、それでいいのだと思う。
そもそも、落語の歴史はかなり古い。「東海道中|膝栗毛《ひざくりげ》」を読むと、現在の話に使われている笑いがたくさんある。さかのぼれば、はるか以前に至るのだろう。それが語りつがれ、いまも生きている。驚くべきことである。それは、時代時代の変化に対応し、少しずつの手直しがなされてきたからである。チャップリンやヒッチコックの後継者はいないが、落語の分野は途切れることがないのである。忠実な継承でなく、個性を出しての語り伝えがいいのだろう。親子ともに落語家というのはあるが、芸は大きくちがっている。
落語の将来について、危機感を抱いている人もあるようだ。その気持ちは、よくわかる。私だって、小説の将来を心配しているのだ。しかし、落語はそのしたたかな性格で、生きのびていくのではないだろうか。テレビで見ていたら、日常生活から消えていった品物などについて、巧妙な処理で笑わせていた。みな、くふうをしているのだ、その一方で、本書のような新しい落語が生れていけば、大丈夫だろう。危機感を持たなかったら、映画界のようになってしまう。全盛期は今の十倍のさわぎだったのに。
とまあ、こんなところでかんべんしていただく。和田さんの本業はイラストレーターであり、その周辺にあるのが落語であり、映画であり、ショウであり、音楽であり、エッセイであり、文体模写であり、ショートショートの作家でもあるのだ。その全体像の解説となると、きりがない。
とにかく、読んで楽しく、あと味のよかったことだけは、たしかでしょ。
[#地付き](『落語横車』解説 講談社文庫 昭和59年2月)
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高齋正
――飛行船への夢――
人はみな、心のなかに願望というか、なにか夢を託せるものを持っている。高齋さんにおいて、そのひとつが飛行船。
それをどう作品化し、読者を楽しませるかが、SF作家の腕のみせどころ。この作品では、メカニズムについて入念な描写をつみ重ねるという前例のない手法が使われている。高齋さん独自の作風である。
それでいて、とっつきにくさはまったくない。読み進むにつれ、ロマンにみちた巨大な姿のイメージが、あざやかに伝わってくるのだ。それは、ふしぎなムードをともなっていて、飛行船が親しい友人のように思えてくる。
[#地付き](『超飛行船PZ‐1翔《と》ぶ』推薦文 祥伝社 昭和53年10月)
SF作家クラブは、なんとなしに集まるというやり方でやってきたが、人数もふえたことだしと、会長を置くことにした。そして、なんとなしに私が初代の会長にされてしまった。二年の任期ということで。
そして、事務局長に高齋さんがなった。じつに周到というか、細心というか、運営の才能のある人で、名目上の会長として私が恥をかかずにすんだのは、彼のおかげである。ものごとのけじめを、きちんとつける人なのだ。多趣味な人でもある。
その大変な偏食から、神経質な人と想像する人もあるだろうが、『この超飛行船……』は、ゆったりした印象を与えてくれる。執筆もマイペースで、はたから見て、うらやましい。
「オール読物」昭和五十二年十一月号のグラビア「仲人《なこうど》の関係」(平井和正、豊田有恒、高齋正の三氏)へのコメントの文を、ここに収録しておく。
いまや三人とも、独自の作風と根づよい読者層を持つ中堅作家。その媒酌人をつとめたのかと思うと、われながら悪い気はしない。しかし、当時はみなSF界の新人であり、この分野の将来性への保証はまったくなかった。その点いささか心配だったが、杞憂《きゆう》となり、まことに喜ばしい。
高齋氏は十三日、金曜、仏滅という日をえらぶという怪挙をやってのけた。おかげで私は、前夜、就眠剤を飲みすぎ、寝タバコでふとんが燃え、やけどをするという災難にみまわれた。まさか、仲人にたたるとはねえ。
私は寅《とら》年、彼ら三人はひとまわり下の寅年である。といって、SF界に虎協会派という派閥を作る動きがあるわけではない。
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山川方夫
――抑制がきいた余韻――
ショートショートを書く時、多くの人がやる失敗。それは、どうですこのアイデア、結末の見事さをごらんなさいというとくいげな感じが表面化する点だ。気づいている私でさえ、押さえきれなくて時にそれをやる。だが山川さんの作品はその抑制がきき、しっとりとしたものが全編にみなぎり、静かな余韻が読後にひびくのである。こう書くのが本当かもしれないなと、作品集を読みかえしてみてあらためて思った。
読みかえして気がついた点のもうひとつは、夏から秋にかけての季節を扱ったものがいやに印象的なことである。彼はこの時期が好きなのであろう。暑さで、すべてのものが膨張した夏。夏の記憶はだれでも大きく感じる。にぎやかさ、からさわぎ、不徹底、いいかげんな責任、怠惰、それらが雑然と集まった夏の記憶をうしろにしょいこみ、すべてが凝縮するすずしい秋へとむかう瞬間。
秋の到来を神経に知らせる風。その秋風に肌をなでられた感じが、山川さんの掌編に秘められている。出かかった笑いはひっこみ、たるみかかった内臓は目ざめさせられ、人生のきびしさを告げられ、こうしてはいられないとの念に人をかりたてるのである。
山川さんの掌編を読みかえしての驚きは、さらにひとつある。どれも、少しも古くなっていない点である。この目まぐるしい時の流れのなかで、新鮮さを失っていない。風俗にごまかされず、彼は見るべきものを見ている。
[#地付き](『山川方夫全集』推薦文 冬樹社 昭和45年5月)
山川さんとは、とくに深いつきあいではなかった。正しくいうと、深いつきあいになりかけた時に死去してしまった。
彼の名前は、ずっと前から知っていた。何回も芥川賞の候補になったからである。文学ひとすじの人生だった。彼は昭和三十五年、旧「宝石」誌に短い作品を発表。私は「ヒッチコック・マガジン」の編集長だった中原弓彦氏の紹介で知り合った。その翌年の私の出版記念会には、発起人のひとりになってくれた。
そのうち、山川さんはショートショートをつづけて書きはじめ、本にまとまった。そのあとか、彼はサントリーのPR誌「洋酒天国」の編集をやるようになった。外国の奇妙な味の短編と、孤島漫画の特集号を出したいと、私のところへ来て話した。
そのころ、すでに私は孤島漫画の収集に手をつけていた。いまから思えばたいした数ではないが、それを貸してくれと言う。企画を通すために、見本がいるらしかった。コレクターならおわかりだろうが、かえしてもらうまで、気が気じゃなかった。
銀座で飲んだことが、一回だけある。また大磯へ行った時、彼の家まで足を伸ばし、酒を飲みながら、あれこれ話しあった。なくなられたのは、それからまもなくである。
昭和四十年二月二十日、自宅付近、二宮の道路で事故死。三十五歳。
大伴昌司さんの死後しばらくして、大伴さんのお母さんから「うちの子は一時期、山川|方夫《まさお》さんと親しくしていただき、家族どうしのつき合いでした」との手紙をいただいた。
山川さんが生きていたら、ショートショートの分野も、もっと多彩なものとなっていただろう。しかし、私の好きなのは、中編の「最初の秋」である。新婚そうそうの楽しさがあふれていながら、形容しがたい結末である。独自のものをつかんだ。その翌年の事故死なのだから、運命とは非情なものだ。
たしか、山川さんは「科学朝日」にショートショートを毎号書いていた。その死後、筒井さんが引きつぎ、しばらくつづけていたような記憶がある。
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福島正実
――シャープなジョーク――
執筆以外すべていいかげんという主義の私とちがって、福島さんは何事にも全力投球する人だった。万国博の三菱館が大成功だったのも、福島さんの力によるところが大きい。
その時のことで、いまだに印象に残っている会話がある。何回目かの打合わせの席で、未来の海底シーンをどう構成するかが問題になった。
「月並みだが、巨大なタコでも出すか」
と私が言うと、彼はこう応じた。
「コワイカニも出そう」
そのとたん、私は目を丸くし、絶句してしまった。こんなジョークが彼の口から出るなど、予想もしてなかった。いま思い出しても、キツネにつままれたような気分である。
機先を制して、くだらない発言をしかねない私の口を封じようとしてか。福島さんの紳士的、硬骨漢的な面ばかり見ていて、ユーモラスな面に私がそれまで気づかなかったためか。
あるいは、巨大なカニを出現させようと、本気で考えたのかもしれない。かず多くのSF映画があるが、それだけはまだ使われていないらしいのである。
いまとなっては聞きようがないが、どう受けとめても、シャープな頭脳の持ち主だったことに変りはない。
[#地付き](福島正実『日本SFの世界』所載 角川書店 昭和52年5月)
福島さんの簡単な年譜を書いておく。
昭和三十二年 ハヤカワ・ファンタジイ・シリーズ(のちのハヤカワ・SFシリーズ)
第一巻、J・フィニイ『盗まれた街』を刊行。
三十四年 「SFマガジン」創刊。初代編集長。
三十八年 SF作家クラブを作る。
東宝映画「マタンゴ」の脚色を私と共作。
五十一年 四月九日、死去。四十七歳。
「マタンゴ」の時も、私はあまりお役に立てなかった。映画界は肌が合わない。このラストシーン、すごくショッキングなのだが、これだと理屈が通らない。
とにかく、福島さんは日本にSFを普及させた人なのだ。そのための苦労は、想像するにあまりある。そして、それを決して口にしなかった。いさぎよさがあった。
早川書房ではじめて私のショートショート集を出してもらう時、五十編ばかりを持っていった。新潮社も、そうつづけては出してくれなかったのである。
福島さんはそれをあずかり、SF、ミステリー、ファンタジーと分類し、大体の排列まできめてくれた。なんだかんだと、かなり手間をかけさせてしまった。徹夜になったかもしれない。申しわけないことをした。そのたぐいは、私だけではあるまい。
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川端康成
――「心中」に魅入られて――
かつて、ある夜『掌《てのひら》の小説』を寝床に入って読みはじめ「子の立場」という作品に至って、鉛筆でそのページのはじに丸印を書き、紙片をそこにはさんで本を閉じた。それから「ううん」とうなる。私はいちじるしく自分の好みにあった短編にであうと、いつもそういう反応を示すのである。
具体的な人物描写がまったくないにもかかわらず、すべての情景が浮かびあがってくる。登場する三人は年齢不詳、容姿不明、まるで説明がなく、一切の形容が抑制されているのだが、三人の表情ははっきりと私の頭に見えてくる。表情ばかりか、服装や動作のすみずみまで。こんなことをいうと変かもしれないが、その家の間取りさえも見えてくるようなのである。
しかも、この短さ。ひとつも理屈をこねず、作者は物かげに身をひそめ、軽く指摘しているだけ。それだからこそ感情を抽象的に裁断する作者の視線が、強くこちらに押し寄せてくる。しかし、このような分析をこころみてもしようがないし、意味のないことである。「ううん」とうなる以外にない。
短編を読んで、こう「ううん」とうなったことは、何回ぐらいあったろう。アナトール・フランスの「海のキリスト」を読んだ時もそうだった。『幻異志』のなかの「胡媚児」に接した時もそう。ジェイコブスの童話「ちびちびっと」やボーモントの「魔術師」や「淑女のための唄《うた》」などもそう。その他いくつか。客観的な評価は知らぬが、私は理屈もなにもなく、ただうなってしまうのだ。
本当をいうと、うなるだけではない。寝床の上で私は足をばたばたさせ、手でもふとんをたたくのである。だれかが見たら、正気のさたとは思わないにちがいない。子供がむりなおねだりをして、だだをこねている姿である。事実、私もまたそれと同じようなことをつぶやいているのだ。「どうして、ほかの人に、このようなインスピレーションをお与えになっているのだ」と運命の神にぐちをこぼす。そう言いたくもなるではないか。
これらの本は私の書斎の本棚にある。ばらばらの場所だが、どれがどこにあるのか暗やみでもわかるほど私の頭に入っている。それらがいつも私を監視している。私のほうも、そいつらを監視している。時どき本棚から抜き出し、ほとんど暗記しているにもかかわらず、読みかえすのである。かつて読んだのが夢でなかったことをたしかめ、それらがそこにあることを点検しなければならぬのだ。
『掌の小説』のなかの「子の立場」も、つまりそんなふうであった。それからだいぶ期間がたってからだが、ちょっとひまになった夜、例の点検のために『掌の小説』を引っぱりだし、「子の立場」のつぎのページを読みはじめた。
「心中」である。私の読書のスピードは大変におそい。ページをめくる前に、もう一回視線でなでなおすせいである。うなずきながらのそのなでなおしに、最後の一行がひっかかった。「そして不思議なことには彼女の夫も枕《まくら》を並べて死んでゐた」の文章。
そして、その夜私は不眠になった。うなりもせず手足をばたつかせることもしない。手足をばたつかせるなどというのは、親近感のあらわれである。いつの日かインスピレーションにめぐまれれば自分にも、という甘えにもつながっている。しかし「心中」となると、もうどうしようもないのである。
友人の都筑《つづき》道夫氏は異常な短編を読むたびに「うまれつきなさけ容赦もなく人間ばなれした性格か、いっぺん気が狂うかしないとこのような凄絶《せいぜつ》な作品は書けないのではないか」とつぶやくそうだが、「心中」から受けた私の印象はそれ以上。二回や三回狂ってみたって、とても書けない。何度うまれ変ったって、これだけはむりなようだ。異次元を漂流し巡礼を終えて帰ってきたって、やはり同じにちがいない。
最後の一行と、その前の一行との間。その深淵《しんえん》の空間に、ほうりだされた思いである。ここに架橋するには、どうしたらいいのだろう。あれもだめ、これもだめと、ここをつなぐ仮説を私なりに十通りぐらいは考えてみた。いずれもだめなのである。
しかし、虚心に読みなおすと、なんの抵抗もなくそこを越すことができる。理屈さえ捨てればすらっと頭に入り、ぶきみに完成された独自な世界がすこしの矛盾もなくそこにある。これ以外の結末のありえないことも、わかりすぎるぐらいにわかる。こんな作品が古今東西ほかにあるだろうか。存在すべきでないものを見た思い。その夜、睡眠薬をずいぶん飲んだにもかかわらず、私は眠れなかった。
そのご、ずっと悩まされつづけ。「心中」の前にある作品の「子の立場」は私をうならせ、そのあとの「龍宮《りゆうぐう》の乙姫」もおそるべき神秘をひめている。掌の小説群のなかでここにひとつの頂があり、「心中」は先端を雲のなかに突っこんでいる。すなわち必然の作品であり、決して偶然による効果ではない。この一瞬、作者の頭のなかでどのような火花が飛びかったのであろう。知りたくてならない。だが、あまりつきつめて考えると、自分の脳がぼろぼろに崩れそうな恐怖を感じてしまうのである。
この「心中」という作品にこれだけ魅入られている人は、私のほかにもいるのだろうか。もしかしたら、ほかの人たちは即座に受け入れることができていて、例外として私だけがいらいらしているのかもしれない。いったい、どうしてこんなことになってしまっているのだろう。大正十五年の作品とある。もしかしたら、私のうまれた日の前後に書かれたのかもしれない。
[#地付き](『川端康成全集』月報 新潮社 昭和44年10月)
『掌の小説』の百編を収録した巻の月報に書いた。読んだことのない人は、身辺のスケッチ的なものと想像し、敬遠している人が多いのではなかろうか。
そうではないのだ。ストーリーがみごとで『伊豆の踊子』や『雪国』にはるかにまさる。さすがノーベル賞作家。近いうちに、このほうが有名になるだろう。
ブラック・ユーモア的なのもある。新潮文庫に入っているから、容易に手に入る。
川端康成氏は昭和四十七年四月十六日、ガス自殺。七十二歳。私は会話をかわしたこともない。
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アルフレッド・ヒッチコック
――「北北西に進路をとれ」など――
映画「北北西に進路をとれ」の原題は"North by northwest"である。しかし、このような言葉はない。北北西という場合はNorthwest by northが正しい。この点について、私たちのあいだでいろいろな議論があった。「ノースウェスト航空で北へ」というシャレが入っているのではないかとの説もあり、いかにももっともらしかった。
しかし、ヒッチコック自身の解説によると、主人公の混乱した精神状態をあらわしているのだそうだ。邦題も「北西北へ進め」とか「西北北へ進め」とかしたほうが、このムードが出せたかもしれない。あわてふためいて、わけのわからない方角をかけまわる気分である。私たちにはピンとこなくても、英語国民には、この原題が奇妙な印象を与えるらしい。ヒッチコックの芸の細かさとユーモアには、敬服させられる。
そもそも、犯罪そのものは、本質的に面白くもおかしくもない存在である。これにどう色づけをするかが作者の腕である。活劇に仕立てるのを好む人もあり、悲劇性を強調する人もあり、なぞをときほぐす型にする人もある。抒情詩《じよじようし》的に描く変り者もあり、人間性をこねまわす者もあり、社会と関連させたがる者もある。エロと残酷にたよるのが最も安易で低級な型であるのは、いうまでもない。そして、ヒッチコックの特徴はユーモアである。
ヒッチコック哲学の五原則というのがあり、彼はこう記している。
一、殺人は、きれいなものではない。
二、暴力は、正当な理由がなければ退屈だ。
三、本当の気むずかし屋は、一人もいない。
四、犯罪は引き合わないが、楽しいものであることはたしかだ。
五、遊びが大切だ。
このなかでも五が最も重要だと主張している。これは彼の映画、テレビ、雑誌編集において一貫して流れている方針だ。それだけに、遊び即ちユーモアの点では、他にくらべて群を抜いている。
ミステリーとユーモアの組合わせを試みる人は他にもあるが、ヒッチコックのはそれが高度なのである。どこに差があるかというと、他の人においては、気のきいた会話とか、とっぴな行動とか、末梢《まつしよう》的なユーモアだが、ヒッチコックのはストーリー自体から発生し、にじみ出るものである。真の意味のユーモアといえる。表面的な技巧ならまねされやすいが、こうなってくるとイミテーションは出てこない。
この映画のラスト近くに、リンカーン大統領の顔の大彫刻を舞台にした活劇がある。ヒッチコックの打明け話によると、この鼻のなかに逃げこませ、ケーリー・グラントに猛烈なクシャミを連発させるというギャグを使いたかったのだが、内務省の反対で実現できなかったそうである。普通のドタバタ喜劇なら大痛手だろうが、構成がしっかりしているヒッチコックの作では、使えなくても特に影響はない。
彼の作品では、サスペンスによってユーモアを高め、ユーモアによってサスペンスを高める手法が、じつに巧みに使われている。怪奇映画の途中、かんじんなシーンで観客が笑い出す現象がよくある。出現した怪物がチャチである場合もあるが、演出の失敗でもある。ひたすら恐怖を盛りあげようと熱中するあまり、観客が緊張の連続にたえられなくなることの計算を忘れているのだ。
だが、ヒッチコックはここを心得ていて、クライマックスの少し前に息抜きを作る。観客を軽く笑わせておいて、そこへ一段と激しいつぎの場面をつづけるのである。観客はもはや笑わず、効果的に引きずり込まれてしまう。この映画では、広い農場での活劇の前に、この手法が生かされていた。
このコツも指摘するのは簡単だが、現実に活用する段になると容易ではない。名医が病人に対して、微妙な特効薬を過不足ない適量だけ与えるようなものだ。生まれつきの才能のうえに、あくなき勉強と、年齢を加えてはじめて可能となる。
「殺人の舞台には、日光の輝く場所が適している」とは、ヒッチコックの有名な言葉だ。薄暗い地下室とか、深夜の古ぼけた家を舞台にすれば、いちおうミステリー映画はできあがる。これを白昼の街なかに移すのは、成功すれば強烈だが、へたをすれば大失敗になる。だが、彼は悠々と実行するのである。よほどの自信がなければ、できないことだ。
この言葉に挑戦してか「太陽がいっぱい」というフランス映画が作られた。主演のアラン・ドロンや美しい地中海の風光によって好評だったが、ヒッチコックの作品とくらべると、監督の年齢の差が感じられた。どちらがいいというわけでもないが、すいも甘いもかみわけた大人と、若い才能との差である。
ジャンルはちがうが、私はヒッチコックと落語の柳家小さんとの間に共通点を見出す。小手先のギャグにたよらず、どぎつい強制も、気おいもなく、さりげないうちに自己の世界へ人びとを導入してしまう。ゆるぎない地位に達するには、なにごともやはり年季を入れなければならないのだと考えさせられてしまうのである。
[#地付き](『英和対訳シナリオシリーズNO22』 南雲堂 昭和41年5月)
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ジョン・ウインダム
――イギリス的な作風――
ジョン・ウインダムは一九〇三年に生まれ、戦前にも短編SFを発表している。戦争中から戦後にかけて内務省関係の役所につとめたため、作家活動は中断した。しかし、一九五〇年に「コリヤーズ」誌に連載した『トリフィドの日』により一気に名をあげ、イギリスSF界においてクラーク、ラッセルと並ぶ三大作家としての地位を占めた。
ウインダムの作品を読んで感じるのは、構成がじつにしっかりしている点である。ほかの作家だったら、どうです、すごいでしょうと、はなばなしくストーリーを展開し、派手に仕上げるところだが、彼は極力それをセーブし、どちらかというとじっくり書き進めるタイプである。そのため、迫力がそれだけこもってくるのである。どの傾向がいいかとなると、それは作家の性格や読者の好みにもよるわけで、簡単に判定はつけられないが、ウインダムの作風がイギリスの国民性を反映していることは、たしかである。
H・G・ウエルズの伝統をついでいて、文明批判、人類の持つ欠点への風刺、苦いユーモアが秘められている。また、本書が書かれて以来、宇宙からの侵略があり、その経過をマスコミ関係者が追うという型式の映画がいくつも作られた。それを最初に作り上げたウインダムは、やはり傑出した才能と呼ぶべきであろう。
この作品の発表は一九五三年、私の訳で早川書房から日本訳の出たのが一九六六年(昭和四十一年)。それから、かなりの年月がたった。今回、文庫収録に際し、文字づかいをなおしながら読みかえしたが、名作である貫録を失っていない。古典のひとつとして残るのではないかと思う。ジョン・クリストファーの『草の死』のなかに、本書の影響を受けたと感じさせる部分がある。さりげない形で、さまざまな問題を提起しているのが、ウインダムの特徴といっていい。
もっとも、本書のなかの深海潜水記録は、そのごにおいて、更新されている。アメリカ海軍のトリエスト号は、世界最深地点であるマリアナ海溝の南のチャレンジャー海淵で、一万八百メートルの海底に達した。現代の人類は深海について、本書の執筆された時にくらべ、はるかに多くの知識を持っている。しかし、海はいまだにミステリーである。真空の宇宙空間というとすごみがあるが、われわれ日常生活とは一気圧の差でしかない。海面下何メートルの水圧を考えると、その条件ははなはだしく強烈なのである。
訳文については、なるべく読みやすいようにと心がけた。そのため、本来は息の長いウインダムの文章のムードを、いくらかそこねたかもしれない。また、ヤード、ポンドの単位もメートル法になおした。これまた英国ムードをそこなっているかもしれないが、わかりやすくなったはずである。さらに、会話の場合は必ず改行するようにした。これは私の年来の主張である。
ウインダムと私とは、作風がまるでちがう。しかし、この作業をして、なにかと得るところが多かった。福島正実氏は、それによって私が長編をも書くようになるのを期待したのかもしれないが、彼はすでにこの世になく、真意はもはやたしかめようがない。そして、私は依然として短編ばかりを書いている。
なお、翻訳に際しては斎藤伯好氏にひとかたならぬ助力を得た。心から感謝するしだいである。
[#地付き](『海竜めざめる』訳者あとがき 早川文庫 昭和52年10月)
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伊藤勇輔
――追憶の記――
銀座の小さな画廊で、伊藤さんが個展をなさったことがあった。その時、はじめてお会いしたのだった。
そのころ絵の個展なるものに、あまり関心がなかった。案内状が来ても、よほどの友人のでない限り出かけたことがない。街を歩いていて、個展をみかけても、入ったりしたことがなかったのである。
しかし、伊藤さんの場合は、わざわざ出かけたのだった。案内状に印刷してあった絵が、私にとって、とても魅力的だったからだ。こんな気分になったのは、はじめて。もっとほかの絵も見たいと思った。
その個展で、いくつかの作品を見た。どれもよかった。私は自分に美術鑑賞眼があるなど思っていない。好きかきらいしかない。リアルでどぎつい絵はきらいである。といって、わけのわからない幻想的なのも好きになれない。伊藤さんの作品はそのどちらでもなく、私の好みにあっていた。来場者名簿に名を書いて出ようとすると、声をかけられた。
「星さんですか」
それが伊藤さんだった。少し話をした。
「こまかい線をこれだけたくさん描くのは、さぞ大変でしょう」
などと、しろうとっぽいことを私は言った。伊藤さんは、ひかえ目の性質の人のように思えた。そのほか、どんなことを話しあったか、よくおぼえていない。絵の印象だけが私の心に残った。
その時はべつに、私の小説のさしえをたのもうとは考えなかった。さしえに関しては、雑誌の編集者にまかせる方針でいる。もっとも「結末を絵にしないように」との念は押すが。意見を聞かれると、真鍋博か和田誠の名をあげることにしている。この二人は私の作風をのみこんでいて、決して悪いようにはしてくれない。安心感がある。
個展からしばらくたって、伊藤さんから画集を送っていただいた。画集と呼ぶべきものかどうかわからないが、伊藤さんたちのグループの何人かの絵を集めたものである。
たまたま私は「オール読物」へのせるべく「魅惑の城」という短編を書きあげた時だった。編集部の松浦さんが原稿を取りにみえた。その画集を見せて、私は言った。
「この伊藤さんのさしえはどうでしょう」
松浦さんも乗り気になった。画集がなく、伊藤勇輔という名を言っただけでは、こうは進展しなかっただろう。しかし私は、内心、ひきうけてもらえるものかどうか心配だった。あれだけこまかい多数の曲線で構成された絵となると、描くのが大変なのではないかと思ったからだ。やがて、松浦さんから連絡があった。
「描きたいそうですが、いまは病気でむりだそうです」
「それだったら、この画集のなかの絵を使わせてもらえるといいのですが」
その了承をえて、伊藤さんの作品が私の短編のさしえとなり「オール読物」にのった。こんないきさつとは、読者も気がつかなかったはずである。内容にぴったりで、作者の私でさえ満足だった。デリケートであり、現実と非現実のトワイライト・ゾーン(たそがれの国)の光景を感じさせる。
それからまもなくして、伊藤さんの死亡を聞いた。
松浦さんの話だと、「オール読物」のさしえを見て、ほうぼうの雑誌社から、絵の依頼をしたいと、伊藤さんの住所と電話番号についての問合わせがあったという。伊藤さんがそのことをお聞きになったかどうか、そこは知らない。残念としか言いようのない気分だった。あと数年でも生きられて、存分の活躍をしていただきたかった。この分野に新風をもたらしたにちがいない。
惜しみてもあまりあるとしか言いようがない。本当に、これからという時になくなられたのである。病気がなおられたら、またさしえをおたのみしたいと思っていたが、それも不可能になってしまった。あまりに残念なので、「魅惑の城」を含めた短編集『なりそこない王子』を講談社から出すに際し、出版部の宍戸《ししど》さんに相談した。各短編に伊藤さんの絵を入れ、装幀もそうするわけにはいかないかと。
宍戸さんは熱心に奔走して、松下井知夫さんのお宅から絵をお借りしてきて、いい本を作って下さった。その本を手にするたびに、ただただ残念な思いがこみあげてくる。その時まで私は、伊藤さんの初期の漫画風の絵を知らなかった。どのようなきっかけで、画風を独自なものに高めたのか、いまになってはもうお聞きできない。色彩をどう使うのかも質問したかったひとつだが、その返事もえられなくなってしまった。
考えてみると、伊藤さんとは数分間の会話を一回しただけのつきあいである。それなのに、一生忘れられない印象が残った。私にとって伊藤さんは、異次元の世界からふとあらわれ、そして、たちまち異次元へと帰っていった人なのである。
[#地付き](『伊藤勇輔作品集』所載 私家版 昭和48年1月)
伊藤勇輔。昭和六年、東京池袋生まれ。漫画家松下井知夫に師事。昭和四十五年十一月二十八日死去。三十八歳。
よく説明できないが、ムンクをさらにモダンにして、ていねいに仕上げたような画風。幻想的なぶきみさにみちていた。
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北杜夫
――同世代、同じ山の手生まれ――
かつては私にも、いろんな詩集に読みふけった時期があった。作家になる前のことである。かんじんのその本がどこかへいってしまい、どなたの作で、どんな題なのか思い出せず申しわけないが、そのなかの一節に「マンボウのように眠ったら……」というのがあった。
その時、さすがは詩人、ふしぎな形容をするものだと感心し、ずっと頭にひっかかるというしだいになった。また、こんな形容に使われる妙な魚もいるのだなあと思ったものだ。
だから、マンボウと自称する作家があらわれた時、おかしな人がいるものだなという印象を受け、なんだか知らないが、愛読者にさせられてしまったのだ。
しかし、そもそもマンボウなるものがどんな魚なのか、私はまるで知らないのである。頭の片すみにマンボウの一語がひっかかりつづけだというのに、いままで百科事典をひいてみるということをやらなかった。これは、うかつであり不勉強である。
さっそくページを開いてみる。幼魚から成長する時、複雑な変態をすると書いてある。歯は上と下に一個ずつだともある。縦に平べったく、尾びれがないとも書いてある。写真を見るに、なるほど妙な姿をしている。これでも魚なのかという感じを受ける。しかし、なぜか前方からの写真がない。どの程度に平べったいのか、よくわからない。説明とか解説とかは、たいてい、このようにどこかが抜けているもののようである。まあ、そんなことはどうでもいい。
北さんの小説で最も好きなのは『幽霊』である。正直いうと怪奇小説かもしれないと思って入手したのだが、読みはじめて、そうでないことがわかった。普通なら、ここで腹を立てるところだろうが、そうはならなかった。みごとな小説なのである。新鮮であり、夢幻的であり、どうもうまく説明できないが、久しぶりにいい小説を読んだ、という印象を受けた。そして、ひとにも『幽霊』はいいよと、すすめたものだ。
しかし、北さんの作品のなかで、何回も読みかえしたものとなると『楡家《にれけ》の人びと』である。大変な力作であることは、だれしも認めている。大長編でありながら、構成にゆるぎがなく、手を抜いた部分がまったくない。これを書きあげるにはかなりの年月を要したはずであり、そのあいだ、よく精神の緊張の持続ができたものだと敬服させられた。
何回も読みかえすのは、それがすぐれているという点以外に、もうひとつ理由がある。北さんと私とは、ほぼ同年齢。正確には私がひとつ年長である。同じように東京の山の手に生まれ、そこで育った。『楡家の人びと』のなかに出てくる、その時代の事件、風俗、生活、それらがなつかしくてならないのである。
そればかりではない。とくに箱根の別荘生活の描写が、私の心をとらえてはなさないのである。当時、別荘地といえば鎌倉か軽井沢であり、箱根で夏をすごす者はあまりいなかった。箱根の別荘地といえば、強羅《ごうら》の近くに限られていた。そして、じつは私の父もその地に別荘を持っていたので、私も毎年のようにそこへ行っていた。だから、おそらく散歩に出かけた時など、何度かすれちがったことがあるはずだ。
昭和十年代の前半の箱根の夏。そこにおける少年の自分。これは私の追憶のなかで、最も楽しく美しく輝いている。タイムマシンがあれば、第一に訪れたい目標である。あの楽しさだけは、もう一回あじわってみたい。そんなわけで『楡家の人びと』のその部分を、なにかあるたびに読みかえしてしまうのだ。これからも何度もそれをやるだろう。
そういう特別な関連を除いてしまっても、北さんの作品には、読者をとらえてはなさない力がある。考えてみると、何回も読みかえしのできる本というものは、あまりない。どうやら、北さんはその点、特異なものの所有者と言っていいようである。
私の書斎の本棚の、最も手のとどきやすいところに『どくとるマンボウ小辞典』が入れてある。発想がゆきづまると、私は動物園のシロクマのごとく、部屋のなかを歩きまわるのだが、なんということなしに、それを取って開いている自分に気づくことが多い。
とくに有益なことが書いてあるわけではない。そこからヒントを得たこともない。しかし、なぜかいらいらがおさまり、執筆がうまくはかどるのである。北さんの文章にはある種のメロディーのようなものがあり、その作用のような気もする。
ほかの本ばかりほめていてはしようがない。本書の解説にかからねばならない。さて、この本に収録されている「第三惑星ホラ株式会社」だが、私は雑誌に掲載になった時に読み、単行本になった時に読み、いままた読みかえし、そのたびに楽しい気分にさせられた。
なぜ、何回読んでも楽しいのか。それは、ユーモアがあるからである。しかし、これでは解説にならない。そもそもユーモアとは、その人の内面からにじみ出してくるもののことである。つまり、北さんの個性が特異で魅力的だということなのである。しかし、これもただの言いかえであり解説にならない。なんとか私なりに、その秘密に迫るこころみをしなければならない。
『楡家の人びと』で、北さんの持つどえらいエネルギーを知らされた。ユーモアとは力強さの裏付けがあって、はじめてそれがいきいきとしてくるものではなかろうか。ユーモアの本場はイギリスで、かつて、大英帝国に日の没することなしと誇った国である。そういう余裕の上にうまれてくる。
「第三惑星ホラ株式会社」を雑誌ではじめて読んだ時は、びっくりさせられた。書き出しの一行にもあるが、こんな小説が存在しうるのかという印象を受けたのである。短編小説というものに対して、ばくぜんと持っていた概念を、まったく無視している作品だった。
そして、その雑誌にはほかに有名作家の作品がいくつものっていたが、北さんの作品が最も面白かったのである。これより以前、このような作品を書いた人はいなかったはずだ。コロンブスの卵。このような作品をのせた編集者もえらいが、それよりもこのような作品を北さんが書いたという点が画期的である。
これを書く時、北さんの内部にためらいがあったにちがいない。こんな小説を書いていいのかという。しかし、それを押し切り、これでいいのだ、あえて書くと決意させた、さらに強いものがあったからこそ、この作品が世に出現したのである。
大胆に似ているが、少しちがう。勇気、自信とも似ているが、ちょっと適切でない。理性による検討の結果というものでもない。洞察というとやや近いようだ。しかし、直感といいなおすと、ひらめきとなり、偶発的なものと思われかねない。
話がややこしくなったが、早くいえばこうである。個性というものは、だれでも持っている。問題はそれを、どういう形で表現すれば、百パーセントに近いものになるかだ。北さんはそれを発見した。だから、作品はつけ焼刃でなく、北さんの内面からにじみ出るものが、そのままそこにあらわれている。
それから、これはあらためて書くことでもないかもしれないが、ユーモアをうみだすもう一つの条件は、常識である。常識のない人が、いくらおかしなことを言っても、それはユーモアでない。北さんは、まったく博学な人である。それは本書のいたるところにあらわれている。また、常識とは、とらわれない正確な観察眼のことでもある。その独自な視線によって、社会のあちこちにあるひずみ、つまりおかしさを指摘し、私たちを面白がらせてくれる。北さんはうまれながらの発見家といってもいい。
そのくせ、自分には強さもなく、知識もとぼしく、発見の才能などまるでないといったたぐいのことを書いている。そして、読んでいて、まさにそうだなあなんていう気分にさせられてしまうのだから、こっちがひとがいいというべきか、北さんが大変なくせものなのか、どっちかである。
北さんの書くものの特徴には、品のよさがある。これについてはどなたかが論じていることだろうし、省略する。簡単に片づければ、品のある文章、すなわち、北さんの作品なのである。
私は同世代ということがきっかけで愛読者になったわけだが、北さんのファンは年少の人から年配の人まで、じつにはばがひろい。この事実は、解説など蛇足であるということを示している。
北さんは量産をしない。それでいいのである。愛読者にとって新しいものを早く読みたいことはいうまでもないが、いまの調子でいいのである。みな、いままで出た本を読みかえすことで、その待つ時間を楽しんですごしているのだから。
[#地付き](『あくびノオト』解説 新潮文庫 昭和50年3月)
――北さんと――
北さんはSFをかなり読んでいる。そして、ご自分でも何作か書いている。しかも、その第一作はかなり早い時期で、小松さんや筒井さんよりも早く、どうやら私とどっちが先かといえるほどである。
一般にSFをあまり読まない作家がSFを書くと、まことにみじめな出来あがりで、本人も途中で気づきながらも、これはSFなんだからいいかげんでいいのだと仕上げてしまう。読んでいて、まったく不快な気分になることがしばしばである。しかし、北さんの作品には、そんなのがない。
もう十五年以上も昔のこと。まだSFは翻訳物ばかりだったころ、ある小さな雑誌の座談会でいっしょになった時、北さんはこんな発言をした。
「日本の文芸誌にのっている短編なんかより、アメリカのSFのある種のもののほうが、はるかにすぐれている」
北さんのSFはロシア語に訳されているし、最近は英語にも訳され、アメリカのアンソロジーに収録された。日本のSF界の発達史を語る時、北さんの名は決して欠かせないものとなっている。
北さんとは一昨年のソ連旅行で、二週間ほど行動をともにした。どうだったかは「マンボウ周遊券」に書かれている。そのころ、彼は鬱《うつ》の状態だったようで、かなりつらそうだった。この本のなかで、私は夢遊病にされている。こっちはなんにもおぼえていないのだから、あるいはそうなのかもしれない。しかし、普通の人は、夜にトイレに行ったことなど、翌朝に思い出せるのだろうか。
そのうち、北さんのまねをして私は「夢遊病につき面会謝絶」と札を出して、原稿を断る口実にしようと思っているが、たぶん、うまくいかないのだろうな。
ソ連旅行の時、モスクワでクレムリンを見学した。私はいささか緊張ぎみだったが、そばをふらふら歩いている北さんが、不意にこう言った。
「われわれは、いま、どこにいるのですか」
こっちは、びっくりした。ソ連で最も権威のある場所。そのへんで立小便でもやられたら、どえらいことになる。もっとも、クレムリンとは一般の予想に反し、あんがい開放的なところではあったが。
その旅行のなかば、レニングラードのエルミタージュ美術館で、北さんは下痢ぎみなのか、トイレへ行ってくると言った。そして、しばらくして戻ってくると、いやに元気になっており、それからあとは万事順調だった。あそこのトイレには、なにか神秘的な作用があるようである。
バクーへむかうため、朝はやくうすぐらい時間にレニングラードの空港へ行った。そこで日本人の若い男女の二人連れに、北さんは話しかけられた。
「北さんですね。愛読しています」
外国で同国人に声をかけられるのは楽しいもので、いささかうらやましかった。まったく、北さんの読者はどこにでもいる。私は自分をなぐさめた。彼はテレビのCMに出ているので顔を知られているのだと。
あのCMでは、私も迷惑をこうむった。「北さんが出て、なぜ星さんが出ないのか」との手紙が何通も来たのだ。どうやら、いまの若い人は、CMに出るかどうかで作家を評価しているようである。
『楡家の人びと』のなかに、強羅の大文字焼きで火が延焼して小さな山火事になる光景が出てくる。私もそれを見て面白がった記憶がある。祖父の日記で調べたら、昭和十二年八月十六日のことであった。
[#地付き](『北杜夫全集』第12巻 月報 新潮社 昭和52年4月)
――『人工の星』――
北さんが主席にして元首であるマブゼ共和国から、私は文華勲章をもらっているのである。この国は昭和五十六年の一月一日に成立し、勲章の授章式は二月十六日だった。前日までとはうって変った、雲ひとつないすばらしい日だった。
晴れがましいことなので、上の娘を共和国へ連れていった。つまり、世田谷の北さんの自宅のことなのだが。奥野健男さん、尾崎秀樹さんも賞をもらい、園遊会が催された。とにかく楽しい一日だった。
これを書くについて、娘にあれはいつだったかなあと聞いたら、この年月日をすぐに教えてくれた。大学へ進む年だったから覚えているのだという。しかし、日付けまでとなると、記憶力がいいのか、よほど印象的だったのか。
北さんと親しくなったのは、いっしょにソ連へ旅行してからである。英語も通ぜず、文字も妙なのばかりとなると、心細く、とても議論などしていられない。おたがい内心で、あいつ、とんでもないことをやりはせぬかと、心配しあっていたのかもしれない。
授章式のあと、しばらくして、北さんはうつ状態に入ってしまった。「うつ」を漢字で書いてもいいのだが、ごちゃごちゃしていて、こっちまで気が沈んでしまうのでやめておく。
ということは、その前年には躁状態だったのだ。第何次かは知らないが、私ははじめてそれに接した。「いんなあとりっぷ」誌の大坪直行氏の企画で対談をした。服の下にパジャマを着用し、水筒持参でたえず水を飲みながら、しゃべりつづけるのである。よく疲れないものだと、私は妙なことに感心した。
マブゼ共和国の高額紙幣をばらまき、特別デザインのセブンスターを販売していた。いずれも、私のところに保存してある。私はすでにタバコをやめていたのだ。タバコをやめると、酒量がふえる。北さんは私をアル中と思い込んでいるようだ。
株の売買にも手を出したらしく、かなりの損をしたらしい。あとになって、マブゼ共和国でなく、マブゼ株式会社を正式に作っておけばよかったのにと思った。会社を作ってやっておけば、赤字が残せ、持ち越せる。個人での行為だと、次年度はそんなことを無視して、あらためて所得税がかかってくるのだ。
本書の最初の作品「第三惑星ホラ株式会社」というアイデアを、すでに出しているのにだ。そうはいっても、躁状態の時には、損をするなど少しも頭に浮かばないものだろう。
「第三惑星……」という作品については、以前にいかにユニークな小説であるかをくわしく書いてしまったので、ほどほどにしておく。読みかえすこともあるまいと思ったが、読みかけたらつい引き込まれてしまった。なんど読んでも面白い作品なんて、めったにないことなのだ。
じつは私、なぜいまさらマブゼ共和国を作るのかと、首をかしげたこともあった。その少し前に二人の有名な作家が、それぞれ日本国内での独立というテーマの長編を仕上げ、評判にもなった。それを追っかけるように、北さんが「父っちゃんは大変人」で独立テーマ物を書いたので、パロディのつもりかと思ったものだ。
それが「第三惑星……」を読みかえして、私は「あっ」と叫んだ。日本からの独立というテーマは、ここですでに書かれているのだ。これは北さんのかなり初期の作品で、いかに先駆的な作品か、あらためて再認識させられた。じつは私も、ショートショートで独立物を書いているが、北さんの影響だったのだなあと、気づいたしだいだ。
北さんとしては、独立というアイデアは自分が元祖だと、示しておきたかったのだろう。ここで、はっきりさせておこう。現在の日本各地に、たくさんの共和国と称する地区があるが、もとは北さんなのだ。ご本人は言いにくいだろうから、代って私が明記しておく。自称共和国の元首たちは、マブゼ国に貢物《みつぎもの》を持ってゆくべきである。
北さんも、どえらいアイデアを、さりげなく書いたので目立たなかったのだ。そこに、驚歎すべき真価がある。
書名となった作品「人工の星」は、今回はじめて読んだ。北さんの本はわりと読んでいるほうだが、この作品については知らなかった。あとがきによると、ごく初期の作品である。
福竜丸事件に触発されて書いたとある。いまや説明を必要とする、昔のことになってしまった。昭和二十九年、太平洋でのアメリカの原爆実験により、日本の漁船の福竜丸が放射能の灰により被害を受け、乗員のひとりが死亡した。ショッキングなニュースだった。
それをふまえ、未来小説を意識して書いたとなると、これはまた日本における画期的な出来事なのである。当時を思い出して、私などただ驚くのみ。
なにしろ、SFなる分野がなかった時代。SFという用語すらなかった。たぶん、まだ空飛ぶ円盤研究会も出来ていなかった。私がその会に入ったのが昭和三十年ごろ。そこで知り合った柴野拓美さんに「SFの同人誌を作ろう」とさそわれ、私は「SFってなんだ」と聞き、空想科学小説(サイエンス・フィクション)の略だとはじめて知ったわけである。
いまや伝説的存在の、元々社の翻訳シリーズの出たのが、昭和三十一年。これだってSFと銘うたず、最新科学小説と称している。ソ連が世界初の人工衛星を打ち上げたのが、三十二年の九月、ガガーリン少佐の乗った初の人間衛星は三十六年なのである。そういう社会背景を考えると、大変な先駆的な作品なのである。
そして、これが芥川賞候補になったというのも、はじめて知った。候補作を選ぶ人たちのなかに、これをみとめた人たちがいたわけである。北さんはやがて、べつな作品で受賞した。SF的な作品では、少しして今日泊亜蘭さんが、そして私、つづいて小松左京、筒井康隆と直木賞の候補になったが、いまだに受賞なしである。
今日泊さんの名が出たが、私を北さんの家へ連れていってくれた人である。私たちはその日、宇宙人や未来社会について、声をひそめて話し合った。SFはそのころ、秘密めいた、やましいような、刺激的なものだったのだ。三十三年の夏ではなかったか。
ただ先駆的であるばかりでなく、作品そのものもすぐれている。ストーリーを追うと、どうなっているのかと迷う人もいよう。しかし、場面場面の描写は、未来に対しての感覚にみちている。ただの異様さではなく、あるいはこのような日が来るのではないかとの、浅い眠りでの悪夢のようなのだ。作者が若かったせいか、みずみずしい迫力で、不安感がすなおに伝わってくる。
まだごらんになっていないかたには通じないかもしれないが、映画「ブレード・ランナー」の夜の街のシーンを、ぼんやりと眺めているような気分なのだ。いずれTVで放映されるだろうから、その時はぜひごらん下さい。「人工の星」は、新鮮さを失っていないのである。
もちろん、はるか以前にベルヌ、ウエルズ、ハックスリーなどが未来を舞台に小説を書いていた。日本では手塚治虫さんが、劇画でSF的なものを描いていた。しかし「人工の星」は、そのいずれともちがい、ひとつの個性的な世界を作り上げている。
現代の若い人がどう感じるか私にはわからないが、ブラッドベリはいまでも世界的に好まれており、劇画でもデリケートで不確定なものが人気を得ていたりしているわけで、受け入れられるのではないだろうか。
とにかく、北さんは独自なものを持っている。「人工の星」と前後して『幽霊』を自費出版しているのである。現在では評価が高い。はば広い才能といえるが、同時に、読者に媚《こ》びていない点に注目したい。作家になりたがっている人は多い。しかし、その大部分は、どう書けばほめられ、雑誌にのるのかの、傾向と対策を気にしている。そういう人たちは、世に出られないし、出ても消えてゆく。
作者とは、個性なのである。北さんは『どくとるマンボウ航海記』を書き、大ベストセラーになったが、そうなることを狙って書いたのではないのは、いうまでもないことだ。「第三惑星……」も中間小説誌にのったものだが、場合によっては「なんだ、これは」と没になったかもしれないタイプのものだ。
北さんは自分の書きたいように書き、それが結果としてすぐれた作品となっている。もちろん、人に知られぬ努力もあったろうし、時代的なめぐりあわせもあるだろうが、個性があった上でのことである。
本書のなかの「うつろの中」と「童女」は「SFマガジン」誌にのったものである。当時の編集長の福島正実さんが、有名な昔話と関連させたSFファンタジアというシリーズを企画し、作者たちに依頼した。私は「羽衣」と「ジャックと豆の木」を扱ったものを書いた。
それらの小品はいちいち説明を加えることもないし、それぞれ面白い。北さんの好ましい人柄があらわれていて、いい印象だ。
ただ「活動写真」という作品は、そんな時代があったと理解していただくほかない。テレビの普及する前は、映画館なるものが、ある種の魔力を持っていた。内部に入った者は画面につながる別世界の人間になれ、その酔いは帰宅したあとも残るのである。古きよき時代。ある年齢以上の作家が、映画についての思い出を本に書きたがるのは、そのためである。
それは、すなおに面白がるという感覚だろう。それから各分野で、さまざまな変化があった。実験的なものとか、性的なものへ走るとか、大げさとか、さわがしさとか、小説も映像もいろいろなものが出た。しかし、北さんにはその原点がある。だからこそ、世代を問わず、多くの読者が存在するのだ。
[#地付き](『人工の星』解説 集英社文庫 昭和59年6月)
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広瀬正
――タイムマシンにまともに取り組む――
この本の解説を書く者として、私がふさわしいのかどうか、はなはだあやしい。第一に、生前の広瀬正ととくに親交が深くなかった。彼と知りあったのは、昭和三十三年ごろだった。同人誌の「宇宙塵《うちゆうじん》」ができて、一年ほどのころである。彼が入会してきた。風格のある人というのが、第一印象だった。風格とはなんだとなると、説明に困る。とにかく、子供っぽさの抜けた感じである。ふとった人だった。昨今は肥満体の人が多く、それにくらべればどうということはないが、当時は目立っていた。広瀬正はずっとその体格だったが、そのころの若かった連中は、体重の点で、みな彼を追い越してしまった。彼の体格はコンスタントだった。すなわち風格である。
ちょうど、私の作品が商業誌に売れだしたころであった。うれしさもあったが、それはつらさをも意味する。締切りの日のために、作品を書きあげる。その苦痛は、体験者でなければわからないことだ。銀座で飲んでいる流行作家を見て、のんきな商売と思う人が多いらしいが、いい気分で飲んでいる人など、ひとりもいないだろう。筆の速いので有名な作家が、随筆で書いていた。バー遊びに没入できたことはない。つねに酔った自分を見つめている、冷静なもうひとりの自分がいると。
まして私は筆がおそい。目前の締切りを片づけるだけで、年月がすぎていった。いつのまにか結婚し、いつのまにか子供ができていたという感じである。あっというまに十年ほどがたった。
「宇宙塵」の会合にも、あまり出席しなくなった。義理を欠いたとの気分が残ってならないが、締切りとは非情なものであり、作者の作品制作への執着は、身勝手といわれようと、なんといわれようと、一種の本能といえる。しかし、そのうち私はこつを身につけた。受注のほうを調節するのである。精神的な余裕を身につけることができ、そう不義理を重ねなくてもすむようになれた。
広瀬正は「宇宙塵」の会合に、こまめに出席しつづけていたという。すれちがいといったところ。彼が『マイナス・ゼロ』を出版してから、何回かつづけて会うようになった。
広瀬正は私より少し年長だが、同じ東京うまれの東京そだち。少年期だった昭和十年ごろへのノスタルジアがある。それを話題にしようとしたのだが、なんだかしっくりしなかった。下町そだちの彼と、山の手そだちの私との差なのかなと思ってもみた。
いまになって、やっと気がついたしだいである。作品の締切りの苦痛に、彼が内心であえいでいたのだなと。ゆっくり雑談などできる心境ではなかったのだ。私が自身で体験しておきながら、他人に対してとなると、その配慮が失われる。まったく、作家になりたての時期というものは、常識での想像が不可能だ。新人作家の言動をあれこれ評するのは、つつしむべきだな。
その時期を、私は三十代という若さでなんとか乗り切れた。広瀬正は、四十代でそれをやらねばならなかった。社会体験がそれだけ豊富という利点はあっただろうが、体力の点での不利はどうしようもない。筆の速い人でもなかった。そのあげく、気の毒な結果となってしまった。
彼がその時期を乗り越え、精神的な余裕をもって、二人で心ゆくまで古きよき時代の東京を語りあいたかった。残念としかいいようがない。時間のもつ冷酷さ、最後まですれちがいであった。
しかし、交友のあるなしなど、解説とは関係のないことだともいえる。鴎外《おうがい》や漱石《そうせき》を論じる若い評論家は、鴎外や漱石と同時代の空気を吸ったことすらないのである。作家や作品を論じるのに、交友など不要である。交友なんか、ないほうがいい。作品こそ作家の生命であり表情である。作家は作品を通じて理解すべし。
時たま、愛読者と称するのが面会を申し込んでくるが、私はいつも謝絶である。作家の実体を見たいと思ってのことだろうが、実体は本人とちがうのだ。来客むけのあいそ笑いと、適当なうけ答をしている本人は作家とはべつな存在。かえって誤解をますばかりだろう。にこやかに執筆している作家など、この世にいるわけがない。
それなら、解説者として不適任とはいえないじゃないか。こう言われるかもしれない。しかし、やはり私は不適任なのである。すなわち、タイムマシン物をほとんど書いたことがないからだ。かなりの短編を書いてきたが、タイムマシンをあつかった作品は、一パーセントあるかないかである。
タイムマシンの発明者は、イギリス人のH・G・ウエルズ。架空の装置ではあるが、発明者と呼んでもどこからも文句は出ない。歴史上に厳然として名の残る発明者である。
ウエルズは「タイムマシン」という作を一八九五年に発表した。その以前にも「クリスマス・カロル」とか浦島太郎のたぐいの、時を越えるファンタジー的な物語は存在したが、時間というものを移動可能な状態物としてとらえた点、画期的なアイデアである。サイエンス・フィクションの祖であるゆえんだ。
いかに卓越しているかは、アインシュタインの相対性理論の発表が一九〇五年であることだけで充分だろう。アインシュタインは時間を次元構成の一要素として、はじめてみとめた。もっとも、アインシュタインはそのヒントをはるか以前に思いついていたそうで、どちらが先かとなると、なんともいえない。二十世紀の初頭には、時間への関心の高まっていた風潮があったのかもしれない。
ウエルズの発明により、タイムマシンはSF界に流行しはじめた。なにをいまさら、そんな当り前のことをと言われそうだが、私の気になる点がひとつあった。流行したからには、二作目を書いた人がいなければならず、その作者は盗作したことになるのではなかろうか、である。著作権問題がうるさくなかったとはいえ、ここはどうなっているのだろう。
この疑問を持ちつづけだったのだが、福島正実があるところに書いた文で、半分ほどわかった。ウエルズが「タイムマシン」を発表してから四年後、マーク・トウェーンが、『アーサー王宮廷のコネチカット・ヤンキー』を書いている。
あるアメリカ人が、気を失ったのち、六世紀のイギリスへ出現する物語である。過去へ行って大活躍してみたいとの空想を満足させてくれる、時間をさかのぼるというテーマ。
トウェーンはアメリカ人。現代のように情報機構の発達していない時期だが、時間旅行による興趣をよく生かしている点から、「タイムマシン」を読むか聞くかして着想をえたのではないかと、福島正実は推理している。ただし、トウェーンの作品に、タイムマシンなる装置は出てこない。
よし、トウェーンより、もっと娯楽的なそのたぐいのやつを書いてやるぞ。しかし、気を失ったのちでは、めんどうだ。ウエルズが便利なものを考え出してるではないか。タイムマシンを使ってやれ。
問題はこの作者だが、それは不明。時の勢いというべきか、ウエルズの黙認のおかげというべきか、かくしてタイムマシンは普及した。ウエルズの評価はさらに高まった。SF作家はだれも、何回かはそれを使わせてもらっている。
しかし、素朴な冒険用の小道具としてのタイムマシンなら、なんということはない。やがて、これらの持つ本質的なパラドックスに直面させられることとなる。最も単純な形で示せば、タイムマシンで過去へさかのぼり、自分の実の親を殺したらどうなるかである。これにまさる難問はあるまい。まともに考えはじめたら泥沼である。
じつは私、作家になる前、今日泊亜蘭氏から、いろいろと指導を受け、大いに参考となり、いまでも感謝している。しかし、ひとつだけ忠告に従わなかった。彼はこう言ったのである。
「SF作家になるには、看板を持ったほうがいい。アシモフはロボットをとくいとし、それで名をあげた。きみもなにか、そんなのを持ったほうがいい。タイムマシンがいい。おやんなさい」
しかし私は、タイムマシンの泥沼的な危険を予感し、かえって避けるようにした。非常に魅力のある泥沼なのである。現実のみにくさや住みにくさから逃避させてくれる世界が、そこにある。私だって好きである。だからこそ避けた。ありふれた文句だが「好きだからこそ遠ざけた」のである。広瀬正は、そこへふみこんでいった。
ウイリアム・テンの作品に「ぼくとわたしとぼく自身」というのがある。学者が男をやとい、タイムマシンに乗せ、過去へ調査のために送り出す。男が戻ってきたはいいが、過去を変えたがため、現在の学者の立場がおかしくなっている。そこで、もと通りになおしてこいと、ふたたび過去へ送る。すなわち、〈過去〉に同一の男が二人、出現してしまうことになる。事態はさらに進展し、三人にふえ……。
ややこしくなる。ハインラインの「輪廻《りんね》の蛇」は、自分と自分とのあいだに、自分が出生するという話である。性転換が自由にできるようになった未来からやってきたという設定によって。彼には『時の門』という、このたぐいの最高傑作がある。その掲載された号の「SFマガジン」のキャッチ・フレーズにはこうある。
「彼は未来から戻って彼自身と会い、その彼自身と戦うのだ。だが、その双方をじっとみつめる彼もまた彼なのだ」
巧妙に複雑に、架空論理で構築した世界である。広瀬正はこれに大感激し、長い論評を「宇宙塵」にのせたものだった。のめりこみはじめたら、きりのない世界。広瀬正はそれを心ゆくまで楽しんだ。その点、私は彼をうらやましいと思う。
しかし、泥沼は泥沼だ。そのなかで、どう動くかが問題である。
ブラウンは私の好きなSF作家だが「実験」という、非常に短い作品を書いている。学者が小さいタイムマシンを作る。そして、どうにも矛盾せざるをえない状態を作り、パラドックスの実験をやってみるのである。みごと成功。タイムマシンは健在。しかし、博士を含めた全宇宙が消失してしまう。
才気あふれる作品で、『時の門』とは逆の、極端な処理といえよう。広瀬正には、この影響を受けた点もある。しかし、一方にハインライン、一方にブラウン。そのあいだにあって、彼は自己をどう定着させるかに、大いに悩んだにちがいない。
適当にはぐらかすことのできる性格であれば、それなりの進路をみいだしたかもしれない。しかし、彼はまじめにとりくんだ。本質的に作家だった。
そのあげくに到達したのが、傑作『マイナス・ゼロ』である。ハインラインでもなく、ブラウンでもない、まさに広瀬正の独自性を示す世界がひらけた。本書の作品群は、それに至る経過を示すものといえよう。
私の手もとにSF同人誌「フォーカス」の七号がある。どういうかたか存じないが、田原浩二氏が「辺境的SF論」と題し、宮沢賢治との類似点を指摘しながら、広瀬正をこう論じている。
「彼は確かに未来にひとつの修羅――終末≠観《み》ていたのではあるまいか。(中略)未来に終末を観た人間にとって、この世においてできうることは何があるだろうか。(中略)彼は、小説のなかで必死になって、自己の歴史を改変させようとした。近代合理主義の終末を予知したからこそ彼は、もうひとつの過去へ自己を埋没させ、無限の生を得ようとしたのではあるまいか……」
こう理解してくれる読者のいることは、広瀬正にとって幸福である。だからといって、私はべつにこの論を支持もしないし、反対もしない。小説を通じてそう理解すれば、その人にとってそれが正しいのである。
私は同業の作家。執筆の意図など、わからないものと考えている。作家にとって「どういうつもりで、この作を書いたのか」という質問ぐらい困るものはない。潜在意識に関連したことで、当人にだってわからない。説明できるとしたら、それはあとからのこじつけである。できちゃったのだから仕方ない。それだけだ。人間の誕生と同じことであろう。
しかし、そう言ってはみもふたもない。少しだけ感想を加えることにする。広瀬正と同じ年齢になってきたためか、時どき、私もふとこんなことを考えるのだ。なにがゆえに、自分はここにこうしているのだろうと。これもまた難問である。過去をなでまわし、現在の自分をたしかめるこころみをやりたくなる。こんな思いにかりたてられる要因について論じはじめたら、これまた泥沼になるので、あえて略す。
広瀬正のタイムマシンが過去へばかり行くのは、そのためのようだ。彼をノスタルジアの作家と評する人もある。人間だれしも少年期へのノスタルジアを持つが、彼の作品にはふしぎなくらいブラッドベリ風の感傷がないのである。
どちらかといえばジャック・フィニィの作風に近いが、さらに淡々としている。タイムマシンにあれほどのめりこんだのに、ノスタルジアにさほどのめりこんでいないのだ。ほぼ同じ時期を舞台にした、北杜夫の『楡家の人びと』ほか一連の作品とくらべてみると、その差がよくわかる。
広瀬正の作品においては、自己の確認が目的であり、タイムマシンも、昭和初期も、その手段ではなかったかと私は思うのである。いいかえれば、タイムマシンにふりまわされる立場を脱し、タイムマシンを使いこなす立場になった。このような使い方をした作家は、彼の以前になく、独自の分野を開拓した。彼の死が惜しまれるゆえんである。私も〈タイムマシン搭乗者〉と書かれた彼のひつぎを、別れがたく見送った一人である。
タイムマシンを自由自在に運航させうる技術を、やっと身につけた。だれもこころみたことのない運航術をである。
技術の未熟による事故死、すなわち凡作を書いての作家失格なら、あきらめもつく。だが、これからというやさきの病死。かけがえのない作家がこの世から消えた。まさに惜しみてもあまりある。これは、あくまで私なりの惜しみかたではあるだろうが……。
[#地付き](『タイムマシンのつくり方』解説 河出書房新社 昭和48年3月)
――東京人のノスタルジア――
ことし、つまり昭和五十二年が「宇宙塵」の二十周年に当る。柴野拓美さんのはじめた日本最初のSF同人誌である。私もそれに発表した作品によって作家になったわけでもあり、ふりかえってみると、まさに感慨無量だ。
最近の田中光二さん、山田正紀さんに至るまで、わが国のSF作家はほとんど「宇宙塵」に関係している。こんなに作家を出した同人誌は、ほかにないのではなかろうか。
筒井康隆さんは、そもそもは家族同人誌「NULL」で名を知られるようになったのだが、一時期「宇宙塵」に作品を書いていた。彼はコンスタントに注文を受ける作家になるまで、意外と長い苦闘時代をすごしているのである。知らない人が多いだろうが。
これは一例。いちいち書いていたら、思い出はとめどなく広がる。すんなりと作家になった者もあり、苦しみの時期を持った者もあるが、いまやみな順調である。こんな時代になろうとは、創刊の時には夢にも考えなかった。そして、あれこれ回想し、最も残念でならないことの第一が、広瀬正さんの死去である。現在のSF作家たちの多忙さを見るにつけ、私はいつも思うし、言いもする。
「広瀬さんが生きていてくれたらなあ」
彼が執筆をつづけていたら、ほかのどの作家にもない個性を発揮し、この分野を一段といろどりのあるものにしてくれたはずである。
しかし、私と広瀬さんとは、生前とくに親しかったわけではない。昭和三十五年ごろ、私はすでに一流誌とはいえないまでも、原稿の注文がかなりあるようになり、翌三十六年には新潮社から最初の短編集が出るまでになった。したがって「宇宙塵」の月例会合、これは非常に楽しいものであったが、毎月出席とはいかなかった。
広瀬さんが「宇宙塵」に加入し、しばしば顔を見せるようになったのは、その少し前である。つまり、私とは入れちがいといった形になってしまったのだ。そして、彼は「宇宙塵」に「もの」というショートショートを発表した。たぶん、これが彼の最初のSFではないかと思う。
この全集に収録されるから、内容についてはふれないが、読んだとたん、まことに奇妙な気分になった。ここまでとほうもなさに徹するのは、容易でない。そして、日本的なところがよかった。
「あれはすごい作品だぜ」
私は会う人ごとにそう言ったし、あるいは「宇宙塵」の投書欄に賛辞を送ったためか、それが広瀬さんに伝わった。つぎの年の年賀状には、こう書きそえてあった。
「星さんにほめていただいて、とてもうれしく思いました」
その作品は「ヒッチコック・マガジン」に転載されもした。そこまではいいのだが、結果的に彼のためには、気の毒なことになったのではないかと、後悔しないでもない。
広瀬さんはタイムマシン物の短編を「宇宙塵」にしばしば書くようになったのである。そして、それらがつぎつぎと商業誌へ転載とはいかなかった。そもそも、タイムマシン物の短編というやつは、量産できるものではないのだ。へたをすると泥沼におちこみかねないのである。つまり、それだけ魅力もあるわけで、広瀬さんはそれにとりつかれてしまった。
広瀬さんは自分のタイムマシンの活躍の場所をどのへんに置こうかと、タイムマシンと取り組み、楽しみ、悩み、模索しつつあった。
それからしばらくして「宇宙塵」に「マイナス・ゼロ」が長期にわたって連載された。私は月刊の連載というのは読む気になれず、そのままにしていた。題名から、時間パラドックスをこねまわした内容かと思っていた。
それをまとめて読んだのは、さらに何年かたってからである。かなり改稿されたそうだが、とにかく私が読んだのは河出書房の単行本によってだ。
そして、まさにびっくりした。かくもすばらしい作品だったのか、である。もっとも、それ以前に、それに匹敵するショックは小松左京さんの『日本アパッチ族』によって受けてはいた。
SFを長編で書く場合、いかに日本の風土に適合させるか。私はその問題への解答がみつからず、長編を書けず、書かずにいた。『日本アパッチ族』を読み、ああ、こういう方法があったのかと思った。
そして『マイナス・ゼロ』を読み、こんな手法もあったのかと、またまた感心させられた。お読みになっておわかりのように、SF界に限らず、日本人によって書かれた小説のなかで、きわめてユニークな作品である。直木賞の候補になったのも当然である。
タイムマシンが、じつに無理なく活用されている。広瀬さんは長く迷ったあげく、ついに独自なその利用法をつかんだのだ。これによって彼は、自分が長編型の作家であることを知り、二作目、三作目へと歩みはじめた。
彼の出版記念パーティの時、私ははじめて彼に年齢を聞き、私より二つ上の大正十三年うまれであることを知った。
「じゃあ、兵役はどうだったんです」
「大学は工学部にいましたから、徴兵延期がありました」
広瀬さんがジャズの分野で活躍していたことは知っていたが、工学部卒業とはその時に知り、まったく意外な感じがした。それがなぜジャズの道に入り、さらに小説執筆へ専心しはじめたのか、そのあたりをもっと聞いておきたかったと、いまになって残念でならない。
そのあと、「週刊読売」で広瀬さんの「エロス」の連載がはじまった。私はそれも、本になるまで読まずにいた。題名からエロチックなものを想像し、彼らしくないことをはじめたなと思ったものだ。どの作品にも共通しているが、彼は題名のつけ方で損をしていたのではなかろうか。内容を暗示させる、もう少し親しみやすいものを考え出すべきだった。
しかし、単行本になったのを読むと、たちまち引きこまれた。『マイナス・ゼロ』もそうだったが、私の場合、昭和十年ごろの東京が舞台となると、なつかしさもあって、もう夢中になってしまうのである。
『エロス』もまた、そのたぐいの作品だったのだ。なんと、本郷|曙《あけぼの》町がでてくるではないか。そこは、私が生まれ少年期をすごした土地なのである。自分自身がタイムマシンで運ばれ、昔に戻ったような気分だった。
曙町付近の描写が不足で残念だが、それでいいのだ。そこまでくわしくやられたら、それこそ私はうんざりし、大切な宝を他人に持ち去られたような気分におちいっただろう。
しかし、共有していい宝、すなわち銀座をはじめとする描写はすばらしく、その時代のざわめき、空気のにおいまで感じさせてくれた。
昭和十年代に書かれた風俗小説はたくさんあるが、いまはほとんど読まれていないらしい。古びてしまったのだ。しかし、広瀬さんの作品は、いずれも新鮮なのである。おそらく、将来においても古びないのではなかろうか。まさに、空前の手法といっていいと思う。
あの古きよき時代も、まさか数十年後に、このような作家の手によってよみがえさせられようとは、予想もしなかったにちがいない。
その点、北杜夫さんの『楡家の人びと』とともに、貴重な作品といっていいと思う。もっとも北さんは山の手育ち、広瀬さんは銀座育ちと、そこにおのずとちがいがあらわれているが。
かつて私は、広瀬さんをブラッドベリやフィニィの系列と書いたことがある。ノスタルジアの作風から。しかし、それらとも微妙にちがうことに気づき、それはなぜかの判定が下せないでいた。それが、最近になって、やっと気づいた。アメリカと日本のちがいなのである。
日本、とくに東京においては、爆撃によって大部分が焼けあとと化し、そのあとに出来たものは、以前と似ても似つかぬ風景なのだ。もはや古き東京は、なにもない。回想すればあまりに痛切で、ありふれたノスタルジアだのセンチメンタルだのでは処理しきれない。ニューヨークやシカゴとはちがうのだ。広瀬さんの作品には、感傷がなまであらわれていない。
その消え去った過去を、広瀬さんは彼なりに再建しようとした。彼の専攻が建築だったと知って、なるほどと思った。できるだけくわしく再建することにより、一段と深みのあるノスタルジアを示そうとしたのだ。そして、それは成功している。しかし、これはとほうもない大計画であり、大作業である。なにかの時、彼が言った。
「あのころの銀座の店の並びを、すっかり調べましたよ」
これには驚かされた。しかも、銀座だけにとどまらず、当時に関するあらゆることを調べていたのである。そのころの「アサヒグラフ」も大部分を集めたようなことも言っていた。
時を越えてのSFとなると、どれもこれも激動の時代にねらいをつけている。しかし、広瀬さんは過去のおだやかな時代という前例のないことを考えついた。作者も楽しみながら書いているなと感じさせる。SFらしさが強く出ていないのもいい。理屈なしに、その作品世界に入ってゆけるのである。
それにしても、惜しい死である。彼はいくつかの構想をたてていたという。それを完成させることなく、いなくなってしまった。そのなかには、戦前の東京を舞台にしたものも含まれていたらしい。もっともっと、それを読ませてもらいたかった。
広瀬さんの作品は、人柄を反映して、どぎつさが少なく、ゆったりしたものが流れている。その一方「宇宙塵」のパロディ版「宇宙鹿」を出したりしたこともあり、かなりのユーモア精神を持っていた。そして、そのユーモアは品がよかった。
本来なら、もっと解説らしい文を書くべきなのだろうが、ひとつの解釈を読者に押しつけるのは、どうかと思う。とくに広瀬さんの作品の場合、さまざまな受け取り方があるのではなかろうか。そのため、あえて彼についての思い出を書いた。彼の作品の生まれるに至った経過の参考として、お読みいただければありがたい。
[#地付き](『マイナス・ゼロ』解説 河出書房新社 昭和52年3月)
広瀬正は、河出書房の龍円正憲という編集者と親しかった。いかなるきっかけか知らないが、直木賞の候補になった三作とも、河出から出た本である。
広瀬さんは昭和四十七年三月九日、赤坂の路上で、心臓の発作で急死した。四十八歳。彰義隊の資料のことで、文藝春秋へ行く途中だったとのこと。
死後、龍円さんにたのまれて、短編集『タイムマシンのつくり方』の解説を書いた。彼の短編には出来にむらがあり、それぞれについては触れなかった。
そのご、全集を出すことになり、また依頼された。解説を二回書くのは、むずかしい。生きている作家なら、新分野を手がけたりしているので、まだなんとかなるが、広瀬さんは人生を完結させている。
しかし、けっこう書くことが残っていた。
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司馬遼太郎
――『峠』について――
いつだったか関西へ小松左京をたずねた時、彼に連れられて司馬さんのお宅におじゃました。予想に反し、たいへんユーモアあふれるかただった。あらためて作品を読みかえしてみると、その底に抑制されたユーモアが流れているのに気づいた。司馬作品の人気の要因のひとつがそこにあるのだなと、考えさせられたしだいである。
その夜は、司馬邸にて酒をごちそうになり、小松左京が酔って大気炎をあげたが、司馬さんは終始にこにこなさっていた。そのどさくさに乗じ、私は葵《あおい》の紋のある〈紀州家御用〉と書いた看板をいただいた。
あとでお礼状と私の作品集をお送りしたら、長い感想文をいただいた。ご多忙中、まるで畑ちがいの私の作品などお読みになることもないのにと、恐縮してしまった。なんでも吸収してしまおうという、大変な好奇心の持ち主のようである。
このところ私は、母方の祖父、小金井良精《こがねいよしきよ》の一生を書く仕事にとりかかっている。日本の最初の解剖学者、人類学者である。越後長岡藩の出身。前宣伝ばかりやっていて、いっこうにはかどらない状態にある。
これに関し、司馬さんの作品『峠』からの一部引用を思い立ち、さきの面識をたよりにお願いの手紙を出したら、こころよく許可して下さった。
河井継之助《かわいつぐのすけ》は陽明学者で、藩の統一をはかる。その反対派に朱子学者の小林虎三郎があった。虎三郎は佐久間象山《さくましようざん》の弟子だが、殿のご勘気をこうむり、謹慎中。その虎三郎の家が火事で焼けた。妻の実家に仮ずまい中の虎三郎を、継之助が見舞い品を持っておとずれ、大議論となるのである。
友情と、主義のちがいの交錯した、私の好きな部分である。もっとも私の場合、虎三郎の妹の次男が小金井良精(当時六歳)という関係で、その引用をお願いした。
小林虎三郎については山本有三氏の戯曲「米百俵」がある。その本には「隠れたる先覚者」として略伝がのっている。「米百俵」は敗戦後の心がまえをテーマにしたもので、昭和十八年という戦争中に、よくこんな作品をお書きになれたものだと、いま読んでみて、山本有三氏に敬服しなおした。
この山本有三氏の作、そのほか虎三郎に関する資料を見ると、病身のため病翁《へいおう》と号し、一生独身となっている。となると『峠』のなかの、妻の実家に仮ずまいという部分は、どういうことなのだろう。おそらく、司馬さんの小説的操作ではないかと思った。
ところがである。先日、新潟の安沢順一郎という方から、虎三郎論が送られてきた。お礼かたがた、右の疑問を呈したら、小林家の系図の複写をいただき、ごく短期間だが、虎三郎の結婚していたことを教えられた。殿のご勘気をこうむったのを機に、離婚したのではないかと推察できる。生涯独身という山本説もあやまりではないが『峠』のその部分は、さらに正確で当然な描写である。
たった一行だが、そこまでお調べになっていたのかと、私はきもをつぶした。調査の上でなく、小説的操作でそうなったのだとすれば、大変な直観力である。偶然の一致とすれば、たぐいまれな幸運にめぐまれているかたである。そのいずれであるか、この件について質問したいのだが、私はしない。作家に対し非礼な行為であるし、司馬さんにはずっと神秘の世界にいていただきたいからだ。
[#地付き](『司馬遼太郎全集』月報 文藝春秋 昭和47年1月)
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大伴昌司
――追憶――
去る者は日々にうとしとか言われるが、大伴昌司氏(以下は通称だった伴《とも》さんと書く)だけは例外である。われわれSFの仲間たちは、会えば必ず彼を話題にし、古びることのない新鮮ななつかしさにひたる。
賞賛の言葉ばかりが、かわされるわけではない。伴さんは決して、優等生的な人間ではなかった。人格円満、欠点がないということは、空気と同じ、人間として意味がない。そう実感させられるこのごろである。
いつも地味な服を着ていた。あまり金回りがよくないんじゃないか。彼について、そう思っていた人が多かった。しかし、死後かなりの資産家の一人息子とわかり、びっくりした。不動産鑑定士の資格を取ったとか話しているのを聞いたことがあった。私たちは内職にブローカーでもやっているのかと想像していたが、あにはからんや、資産管理の必要上からのことだったのである。
最も印象に残っているのは、国際SFシンポジウムの時のことだ。伴さんはなにかが乗り移ったかのごとく、熱狂的になり、だれかれかまわずどなりつけた。「なんだと、こんちくしょう」と内心で立腹した者も多かったはずだが、いまやだれもがそのことを楽しく追憶する。彼がいたから無事に成功したことを知っているからであり、にくめない性格の持ち主だったからである。
SF作家クラブの事務局長としてもよく働いてくれた。「伴さんも小説を書きなさいよ」とすすめる者もあったし、作家が本業でないため軽く見られもした。映像関係の分野で大変な業績をあげているのを、知らない者が多かったからだ。睡眠時間を極度に切りつめて仕事に打ちこんでいたと知り、ぜんそくという持病を秘めていたと知り、みな意外な感にうたれたものだった。
男の生きがいは仕事にある。それを彼は、身をもって示した。おそらく、伴さんにとっては,悔いのない人生だったろう。
彼の父上はアメリカで成功されたかたである。そのため伴さんのなかには明治≠ニアメリカ≠フ良さが濃くみなぎっていたようである。努力と開拓精神。私は先日、野口英世の一生を調べているうち、伴さんとの重なりを感じた。野口英世は温厚の人とはいえないが、生活を仕事に賭《か》け、そして、そのなかに消えていった。伴さんも、本質はかなり男性的だったといえる。
伴さんはあまり小説を書かなかった。しかし、これまでに書かれたどんな小説にも、彼のような個性的、印象的な人物は存在していない。本人そのものが小説だったといえそうだ。だからこそ、忘れられない人なのである。逸話をあげたいが、きりがない。友人たちは「まだ伴さんの死が信じられない」と話しあう。まさしく彼は、芸術作品の古典。それゆえに、いつまでも新しい。
あした、みなで一周忌の墓参に行く。
[#地付き](「キネマ旬報」 昭和49年3月上旬号)
大伴昌司。昭和四十八年一月二十七日、日本推理作家協会の新年会会場で、心臓発作のため死去。
伴さんについては、死後すぐ、「日本推理作家協会報」に回想の文を書かされた。また「SFマガジン」からも書けとたのまれたが、それをそのまま転載した、私のエッセイ集『きまぐれ暦』のなかに収録されている「大伴さんの思い出」がそれである。
これは白井佳夫さん(当時「キネマ旬報」編集長)から依頼されて書いた。死後一年目、白井さんも、なにかをふと思い出したのだろうか。
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池波正太郎
――男の理想的な人生――
池波さんの作品の特色のひとつに、さりげない書き出しという点がある。きおったところも、けばけばしさもなく、多くの場合、よくある日常生活のところから、幕があがるのである。そして、いつしか読者はあざやかなロマンの世界に引きこまれ、ストーリーの展開に胸をおどらせられ、酔わされている自分に気づく。
読むのを途中でやめられる人は、いないはずだ。この点、推理小説に似ていないこともない。しかし、推理小説はいかなる名作も、一回読めば終りである。なかには、読み終ったあと、ひどいものだなという失望が残るのもある。これに反し、池波作品で失望することはない。日をおき、また読みかえしたくもなる。
それは、構成がしっかりしているからだと気づかされる。池波さんは、かなりの余裕をもって執筆されていると聞く。締切り寸前のやっつけ仕事がない。それだけじっくりと、とりくんでいるわけである。
また、普通だと構成の妙を前面に押し出したくなるものだが、そのようなことも決してやらない。だから、読後感も一段とさわやかなものとなる。池波さんは芝居に長く関係しておられたし、外国映画の通でもある。それらによって身についた定石を、自由にあやつって、独自な世界を作りあげている。
定石という言葉を使ってしまったが、池波作品を読んでいると、高段者の打つ碁を連想してしまう。おおらかな布石があり、定石を知りつくしていながら、それにこだわることがない。やがて布石が意味を示しはじめ、いつしか中盤で優位を占める。はめ手のような見えすいたことをせず、寄せにいたるまで手を抜かない。まさに名局である。
池波さんの作品には、調和がある。会話と地の文とが、流れるようにつながっている。また、作者の意見や史実も、必要にして充分な量にとどまっている。意見や史実をむやみと書きたがる時代作家があり、それはそれでいいのだろうが、あまりに多くなると、小説の枠を越えたというべきではなかろうか。池波作品のテーマは人間の織りなすロマンであり、ハーモニーによってそれがうたいあげられている。
この『戦国幻想曲』は一人の豪傑の物語である。どうも豪傑というと、私たちにはある種の先入観がある。すなわち、なにやら人間ばなれした怪物で、たけだけしいばかりで、粗野で浅慮で、気が変りやすく、なんとなくつきあいにくいというタイプ。講談によって作りあげられた虚像である。しかし、この作品はそれをくつがえしてくれた。こういう試みは、時代物のなかで本書がはじめてではなかろうか。といって、卑小な人間にするという安手な裏がえしでなく、みごとなドラマとして成功させた。
主人公の渡辺勘兵衛は、べつに生まれつき特異な豪傑の天分に恵まれているわけではない。とくに頭脳が優秀なわけでもない。それがわれわれの共感できる喜怒哀楽を発散しつづけながら、しだいにすぐれた武将へと成長してゆく。きわめて魅力的な人物で、しらずしらずのうちに声援をおくってしまう。
といって、勘兵衛はありふれた平凡人でもない。男の夢、男の意地といったものを、少しだけ多く持っており、ずっと持ちつづけている。そこなのだ、問題は。それゆえの不運な時期もあるが、また幸運にもめぐりあう。ただの偶然による幸運でなく、みずから引きよせたものであり、男性としての、ひとつの理想的な人生が描かれている。
この作品に限らず、池波作品では男の世界がいきいきと浮き彫りにされているが、それは女性描写のうまさの結果である。女性を描く点において、時代物、現代物をとわず、池波さん以上の人はあまりいない。そして、その女性たちは決してみずから主人公になることなく、男を引き立たせてくれる。主人公の男が魅力的になってしまうのも、当然といえよう。
池波作品の主人公の男は、まったく、うらやましい限りである。たいてい、愛らしい女がそばにいる。なにも、女ばかりでない。傍役《わきやく》として登場する人物もまた、子供から老人にいたるまで、人間味あふれた連中ばかり。あと味がいいのだ。
作者の人柄の反映といえよう。人物を見るあたたかい視線が感じられる。それはユーモアとなって、各所にあらわれている。ユーモアとは性格からにじみ出るものであり、これは頭だけでは作れない。いままでの時代物に欠けていたそれを、池波さんはつけ加えてくれたのである。
この『戦国幻想曲』の舞台となった時代は、日本史上もっとも劇的な時期である。幕末維新のころもそうだが、外国の勢力や知識という要素が加わってくる。そこへゆくと、戦国時代はまさに日本的な一大ドラマである。信長、秀吉、家康をはじめ、大スターが並んだ。この時期を歴史として持っている私たちは、幸福といえるかもしれない。すべてが無事に片づいていたら、つまらないの一語につきる。本書のような作品を読むこともできなかったわけだ。変な話になってきたが、オーストラリアという平穏で退屈な国へ行ってみての実感である。
しかし、徳川時代に入ると、大スター不在の時期となる。封建制度が確立する。現代常識が通用しない、ふしぎな社会。私は徳川時代を、一種の異次元の世界と思っている。そんな興味から、池波さんの『にっぽん怪盗伝』や『仇討ち』などの短編集を読むようになり、いつしかファンとなってしまったというのが正直なところだ。
まったく、少し金を盗んだだけでも首をはねられる。また、仇討ちというものは、親が殺されただけでも悲劇なのに、どこへ逃げたかわからない犯人逮捕まで、当然のこととして命じられる。奇妙な通念が支配していた世の中であった。
それを舞台にしても、池波さんは多くの秀作を書いている。封建制度の下での哀歓が描かれ、最後にうならされ、いい小説を読んだという気分が残るのである。
徳川時代という異次元世界への興味ということもあり、私はある編集者にそそのかされ、時代物を書いてみた。しかし、読むのはたやすいが、書くとなると容易でない。その時、池波さんにいろいろと教えていただいたのであった。わが家から歩いて十分ぐらいのところにお住いとは、それまで知らなかった。
池波さんは、博識なかたである。温厚な表情であれこれ話されるのを聞いていると、ふと「この人は江戸時代を生き抜いてきた不死の人かもしれない。あるいは、タイムマシンで過去をのぞいてきたのかもしれない」などと思ったりする。
そもそも私なんか、江戸時代にほうり出されたら、一日だって生きてゆけない。時間の呼称もわからず、なにを食べたものか、米がいくらするのか、第一、貨幣がどんなものかも知らない。しかし、池波さんは、それらをすべてご存知だ。いつだったか、NHKの教養番組で、箱根の関所をとりあげたことがあり、池波さんが出演し、くわしい解説をしていた。
SFを書くのも楽ではない。しかし、他の星や未来社会なら、好きなように作り出せる。これに反し、徳川時代となると、そうはいかない。時代物を書くのがいかに大変かは、やってみてはじめてわかった。まして、すぐれた作品となると、なおさらである。しかし、池波さんはそれをつぎつぎに発表している。ただただ感嘆するばかり。これが私の実感である。
[#地付き](『戦国幻想曲』解説 角川文庫 昭和49年1月)
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畑正憲
――人間わざとは思えない――
畑さんとは、数日間いっしょに旅行をしたことがある。山陰地方の各市で開催された、文藝春秋の講演会に出かけたのだ。その時、畑さんはあまり元気がなかった。胃の手術をしたあとだとかいう話だった。夜、講演が終ってからの酒は、私は大好きなのだが、畑さんはあまり飲まなかった。
それが、講演となると一変するのである。畑さんの講演を聞こうと、各市の市民館の講堂は満員になった。もっとも、なかには他の二人、岡部冬彦さんや私の話がめあての人も、いくらかはまざっていたかもしれない。とにかく、若い人たちのあいだで、畑さんの人気は大変なものなのだ。
そして、畑さんの講演がまたすばらしい。会場を「わっ、わっ」と沸かせつづけなのである。話題も面白いが、話し方が絶妙なのである。歯の抜けた口で、よくああしゃべれるものだと感心させられた。最後のほうで、いろいろな動物の鳴きまねをやる。これがまたみごとで、私はもう自分の話しべたにいやけがさして、講演をやる気がしなくなってしまった。
まさに熱演としか、いいようがない。宿泊の旅館での元気のなさが、うそのようだった。お客さんたちのためには、不調を無理してでも全力をつくす。サービス精神の強い人だなあと感心させられた。
畑さんの胃のぐあいの悪いのは、神経性のもののようである。これは私も体験している。最近は仕事の量をへらしているので起らないが、原稿用紙にむかうと、きりきり痛み、どうしようもないほどつらいものだ。
畑さんの書くものは、どれも面白い。こんな解説など不要なくらいだ。しかし、雲のわくがごとく発想が浮かび、筆がしぜんに進んでこのような作品になっているのではない。読者は畑さんが楽々と書いているように思うかもしれないが、そうではない。執筆がそんなに簡単にできるものだったら、畑さんが胃を悪くしたりするはずはないのだ。
原稿用紙にむかい、どう書いたら読者が面白く受け取ってくれるかと、神経をすりへらして畑さんは苦心をしている。それまでの私は、畑さんの書いたものから、この人は一種の天才じゃないかと想像していたのだが、胃痛が持病と知って、やはりエジソンと同じく、霊感は一パーセントで、あとの九十九パーセントは汗で作りあげているのだなあと親しみをおぼえた。
話は少しそれるが、この旅行中、畑さんが駅の売店で「棋道」という碁の雑誌を買い、車内に持ちこんで読んでいるのを見た。畑さんが麻雀《マージヤン》にとてつもなく強いことは知っていた。だが、碁にも関心があるとは気がつかなかったので「どれくらい打つのですか」と聞いてみた。すると、私の目の前で片手を開いた。
なんと、五段である。思わず「えっ」と声をあげてしまった。じつは私も碁を打つ。二段の免状を持っているのである。このていど打つようになると、一段の差がどれほど大きいものか、身にしみてわかっている。畑さんは作家のなかで、一、二を争う打ち手ではないだろうか。五段になるには、実戦の体験も必要だが、布石をはじめ各種の定石を覚えなければならない。どれだけたくさん覚えるかが、強さをきめる。九十九パーセントの汗とは、決して容易なことではないのだ。
碁のことから、話題は将棋のことになった。畑さんは「将棋もやっているんですよ」と言った。「どれぐらいですか」と聞くと「今年になってはじめ、半年で初段になりました」との答。これにはまたまた驚かされた。私は将棋となると、駒《こま》の動かし方ぐらいしか知らない。強くなろうとも思わない。しかし、畑さんは青年期を過ぎているのに、それを志し、きわめて短時日のうちに上達した。ひたすら定石を覚えこんだにちがいない。やりはじめて半年で初段になった人など、聞いたことがない。本書のなかの「人体賛歌」の主人公のような話である。
知的好奇心が強くて、とことんまで追究しなければいられない性格なのだろう。そして、それには、ただならぬ努力が必要なのである。長期間にわたる気力の持続というものがいかに大変かは、なにかをはじめて三日坊主で終りにした体験者には、よくわかることである。
私はいつも友人の小松左京が大量の本を超スピードで読み、みんな頭のなかに入れてしまうのを驚異の目で見ている。しかし、小松さんはみるからにエネルギッシュで、あいつならやりかねないという気分になるが、畑さんはやせていて、精力的なものを感じさせない。だから、ふしぎでならないのである。本書のなかに書かれているが、ATPのしくみが特別なのかもしれない。
麻雀の強い人なら、世の中にかなりいるだろう。碁の五段もありうることだ。半年で将棋の初段になった人もいるだろう。しかし、その三つを兼ねている人となると、めったにいないのではなかろうか。しかも、畑さんは講演の名人である。その上、これはいうまでもないことだが、面白い作品を大量に書き、どれも好評なのである。いったい、これが人間わざでできることであろうか。
本書は最初、毎日新聞社から出版されたものだが、その本の目次のつぎのページを見て、またびっくりさせられた。「装幀イラスト・著者」と印刷されている。どれもユーモラスな絵である。こんな才能も持っているのだ。
畑さんは本書を書きあげたあと、北海道の釧路の海岸ぞいの原野に居を移し、動物たちの王国を作った。みなさんもご存知の通りである。その経過については、送っていただいた『ムツゴロウの絵本』という写真入りの本で知ることができた。クマや馬をはじめ、さまざまな動物を相手に、大活躍をしているのである。そのため執筆量がへるかと思ったら、そんなこともない。よくあれだけのことができるものだ。もしかしたら、畑さんは地球人でないのかもしれない。
さて、これは私の持論なのだが、文章を書く上で最も重要なことは、どのようにすれば自己を百パーセント表現できるか、その発見にあるのではなかろうか。畑さんはそれに成功した。借りものの構成や文体ではないのである。どの一作をとっても、そこに畑さん自身がいる。そして、独自の喜怒哀楽があらわれ、読者の共感をさそう。新鮮であり、みずみずしい。魅力はそこにあるのだ。個性がそのまま、すなおに文になっている。この点に注目してもらいたいと思う。
また、目をみはらされるのは、その対象のはばの広さである。ふつう動物≠ニいうと、いわゆる哺乳《ほにゆう》類を考えてしまうが、畑さんのとりあげるものは、サナダ虫、蚊から、魚、鳥と、あらゆる生物に及んでいるのである。さらには人間まで含め「ルナールに寄せて」では、詩的な世界にまでひろがるのである。
畑さんの作品を読んで感心させられるのは、どれも現実の体験をふまえて書いていることである。私の書いているたぐいは大部分がフィクションだから、楽ではないにしろ、たくさん書けてふしぎではない。
しかし、畑さんのは一作一作が体験なのである。あれだけたくさん書くには、それだけの体験がなければならない。多彩な行動と鋭い観察眼の所有者なのである。碁のような抽象的なゲームに強い畑さんと、生物と汚物を共有する畑さんとを同一の人としてイメージを重ねるのに苦労する。じつに多くの面をかねそなえた人なのである。きっと、知られざる面をまだまだ持っているにちがいない。
読者は畑さんの文によって、自然という微妙な調和のとれた世界を認識させられる。また、それぞれの生物が人間の常識では判断できぬような、それでいて、ひとつの整然とした秩序を持っていることを知らされる。すなわち、私などがよく使う言葉でいえば、異次元の世界なのである。人間には異次元に接したいという内心の欲求がある。われわれの持つ常識とはちがったルールの支配する世界をのぞきたいのである。その欲求に応じて作られたものの一つがSFである。SF作家たちは、それを空想で作りあげようと、みな知恵をしぼり、苦しんでいる。
そう苦心しなくても、そんな異次元だったら、ここに現実に存在しているよ。畑さんの作品から、私はそんな印象を受け、いささかくやしく思う。将来アイデアが枯渇したら、畑さんから知恵を借りるつもりだ。なにかの生物の習性を、どこかの星の住民の習性にあてはめれば、もう立派なSFとなるのだ。
イソギンチャクも、メダカも、その他もろもろの生物は、畑さんの文によると、みなそれなりの独特な秩序の異次元の住民なのである。そして、数えきれぬ種類のそれらが関連しながら組み合わされ自然界が形成されている。どえらいことなのだなあと、つくづく感じさせられる。
このような感想を抱かされる本は、これまでになかった。工業化による自然界の荒廃をなげく人は多い。動物愛護を主張する人もいる。清潔が大切だとの説をなす人もいる。有名無名の人によってさまざまな形で語られ、私たちはマスコミによってそれを目にし、耳にしている。しかし、そのほとんどが不勉強、気まぐれ、その人の好み、時流への便乗、そういったたぐいの上に立ってのものであることを、畑さんの本で知らされた。
「月とゴキブリ」の末尾の「もし雑菌がすむ環境でなくなったら、人類も生きてはいけなくなるだろうなあ」という指摘も、これだけならひとつの仮定として読みとばすところだろうが、畑さんのほかのものを読んだ上でだと、ただの思いつきでなく、説得力のある発言となって、うなずかされてしまうのである。
多くの人のほとんどが、自然界について無知である。私もそうだ。そんな世の中に、畑さんのような人がいてくれるのは、まったくありがたいことである。
[#地付き](『続々ムツゴロウの博物誌』解説 文春文庫 昭和50年10月)
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山本有三
――『米百俵』について――
『米百俵』は、私の母方の祖父を扱った作品『祖父・小金井良精の記』のなかに要約引用させていただいた。本になったら山本有三先生にお送りし、折をみてお話しにうかがおうと思っていたのだが、その少し前になくなられ、残念でならない。
この主人公の小林虎三郎が、小金井良精の伯父すなわち母の兄に当るのである。そんな関係で、私は『米百俵』を熟読した。昭和十八年六月に発行された新潮社版の本によってである。奥付によると、五万部印刷したらしい。
この年の四月に連合艦隊司令長官、山本|五十六《いそろく》がソロモン上空で戦死。五月にはアッツ島の日本守備兵が玉砕。太平洋戦争で、日本の優位にかげがさしはじめた時期である。
そんなころに、こんな内容の本が五万部も出版できたということは、ちょっとふしぎでもある。その疑問を口にしたら、ある人が山本有三先生は近衛文麿《このえふみまろ》と親しかったからだと教えられた。そんな事情も、あったのかもしれない。また、当時の検閲担当の関係者も、戦意高揚のプラスにもならないが、さして害にもなるまいと軽く考えて出版を許可したのだろう。
作品完成後も山本先生は各地をまわり、『米百俵』の心がまえについて、講演をして回られたらしい。そして、その後の経過はだれでも知る通り、日本は米空軍の爆撃により、多くの都市は焼けあとと化し、敗戦となり『米百俵』とまったく同じ状態におちいってしまうのである。
恐ろしいまでの予見の書である。終戦以前に書かれた小説で、これほど的確に来るべき世への警告を訴えた作品は、ほかにない。読めば読むほど、感嘆させられる。
私は『祖父・小金井良精の記』を大山柏氏の遺族のかたにお送りした。柏氏は日露戦争の時の陸軍総司令官、大山|巌《いわお》の嗣子である。軍人の道を歩みはじめたが、良精との交友がきっかけで考古学の道へと人生を変え、晩年には『戊辰役《ぼしんのえき》戦史』を書いたという異色の人物である。夫人は近衛文麿の妹。
すると、故柏氏の令息、大山梓氏からお手紙をいただいた。さまざまな昔話に触れ、最後にこう書かれてあった。「敗戦焦土のなかでの義務教育の三年延長は『米百俵』に類似しています」
まさにその通りなのである。敗戦によって、日本は強国の座から転落した。当時は四等国という言葉さえ使われた。食糧危機の状態は連日だった。そんななかで教育振興の政策が実行できたのも、この『米百俵』があったからではなかろうか。かつて『米百俵』を読んだことのある人は、一字一句まで、痛烈に頭のなかによみがえってきたはずである。
その教育振興が、そのごの繁栄をうみだしたといっていいと思う。そのあげく、教育ママが出現し、塾が問題となっている現状だが、それは知的教育偏重のためである。ここらあたりで、『米百俵』の原点に立ち戻り、なんのための教育かを考えなおすべきかもしれない。そんな意味でも、まさに『米百俵』は空前絶後の作品である。
しかし、こんなふうに非文学的な面からばかり論じていたら、読者の誤解をまねくかもしれない。いくらか目先がきいていて、それがたまたま的中しただけのことではないのか。そういった作品は好きでないと。
しからざることを、祖父の日記によって証明しておく必要がありそうだ。昭和十六年六月七日の部分にこうある。
「山本有三氏来る。虎三郎のことにつき知ることを話す。戊辰談」
そのころ私は中学三年、山本先生の新聞連載小説を読んでいた。ある日、祖母が、
「山本有三さんがみえましたよ」
と言っているのを聞き、好奇心が高まり、玄関のそばのフスマを少しあけて、のぞいた記憶がある。薄暗かったので印象は深くないが、先生の姿を見てはいるのだ。
まあ、そんなことはどうでもいい。この年月日にご注目いただきたい。日米開戦以前なのである。戦争の回避される可能性のあった時期である。方針をたてた上での取材のための訪問だから、山本先生が虎三郎に関心を持ちはじめたのは、それよりずっと前のことになる。
作家として純粋な気持ちで、執筆の題材に取り上げたいと思ってとりかかったのである。同年七月四日には「幕末血涙史、見あたり、山本有三氏に貸す」とあり、十二月六日には「山本有三氏より幕末血涙史を返却さる。根岸錬次郎氏への紹介の名刺を書く」とある。
そして、その二日後が日米開戦。このように『米百俵』は時勢とは関係なく、執筆が進行していた。
昭和十七年三月十三日には、こうある。「山本有三氏、虎伯父につき聞きに来る。深き勤王家なりというは如何《いかが》と。格別参考になること言えず。遺憾」
虎三郎が勤王家だったとすれば、非常に書きやすくなる。大衆に受けることは、まちがいない。一方、私の祖父も困ったにちがいない。虎伯父の名を高める、絶好の機会である。ふさわしいエピソードをでっちあげれば、そのまま作品に盛り込まれただろう。しかし、まじめな学者で、そんなことのできる性格ではなかった。どう回想しても、勤王家だった点は浮かんでこない。遺憾の二字には、その思いがこもっている。
作家にとって、作品をどう仕上げようと、それは自由である。山本先生もかなり悩まれたのではなかろうか。しかし、決心をなされ、あえてむずかしいほうの道を選び、勤王家だったという点にはまったくふれず、におわせもせず、書き上げた。まさしく真の作家である。なまじっか予見しようとしたって、そんなことは、できるものではない。自己への忠実さこそ、作品の生命を永らえさせる唯一《ゆいいつ》の要素である。時勢や大衆への迎合ほど、みにくいものはない。
戦時中に文学報国会から発行された『辻小説集』という本がある。多くの作家たちの戦争協力をテーマにした短い小説を集めたものである。さすがに永井荷風や川端康成は書いていないが、まさかこの人がという名前が何人も並んでいる。復刻版が出たら、ひとさわぎおこりかねないような本である。もっとも発表舞台が極度に少なかった当時において、そんな企画は、砂漠のなかで水を配給するようなもの。つい書いてしまった作家たちの心理はよくわかり、とても批難する気にはなれない。
山本先生はすでに芸術院会員であり、全集も出しており、近衛文麿というバックがあり、同列に扱うべきでないかもしれない。しかし、作品は作家の生命である。私は『米百俵』を読みかえすたびに『辻小説集』と対比してしまい、作家のあり方というものを、あらためて考えさせられるのである。
[#地付き](『山本有三全集』第3巻 月報 新潮社 昭和51年11月)
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イーデス・ハンソン
――新鮮で多様な笑い――
じつは、さほどの期待をいだかずに読みはじめたのだが、何ページかめくるうちに、たちまち奇妙にしてむちゃくちゃで、ユーモラスな世界へと、なんの抵抗もなく引きこまれてしまった。そこでは時間も空間もどうでもよくなり、読者は新鮮で多様な笑いのサービスを味わわされる。こんな楽しい小説には、めったにお目にかかれない。ユニークな作家の出現である。
こういうタイプの長編小説は一見やさしそうだが、現実に書くとなるときわめてむずかしいものなのだ。本書の成功は、物語のみごとな構成、柔軟な思考、鋭い感覚、快調なテンポ、そして、それらの苦心と努力のあとを感じさせない点にある。
かつて私たちは、まじめ尊重で深刻愛好の国民性といわれていた。最近はかなり笑うようになってきたというものの、電波媒体に限られていた。それがこの作品によって、小説の分野にまで拡大された。電波媒体のなかで活躍しながらも、周囲を醒《さ》めた眼で観察しつづけてきたハンソンさんの才能の結実といえそうである。
また、この種の作品のおちいりがちな泥くささがまったくなく、洗練されていて、全編におおらかな品のよさがただよっているのは、その人柄のせいであろうか。
[#地付き](『花の木登り協会』推薦文 講談社 昭和51年5月)
ハンソンさんとは、ずっと前、あるテレビ番組にいっしょに出て、あいさつをかわしただけの仲である。
週刊誌での対談など、面白く読ませていただいていた。それが小説を書いたのだから、ただただびっくりした。日本育ちならべつだが、昭和三十五年に日本に来て、独学で日本語をおぼえ、漢字まで書けるようになった。
駅の表示が役に立ったそうである。駅名がローマ字、ひらかな、漢字の三種で表記してある。しかし、天性の才能だろう。小松さんに言わせると、小説のなかで、東京、京都、大阪の言葉を使いわけているとのこと。
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杉山龍丸
――砂漠に取り組む人――
まず、杉山龍丸さんにお会いし、お話をうかがうことになったいきさつを書く。
二年ほど前から、私は亡父と関連のあった明治・大正期の人たちの紹介をかねた小伝を雑誌に書いてきた。張り切ってはじめたものの、だんだん苦しくなってきた。大量の資料を読まねばならず、締切りはたちまち迫ってくる。
それに専念できればいいのだが、SFと両方となると、とてもつづけられない。次回の「別冊小説新潮」で亡父の人生での最大の恩人、杉山茂丸をとりあげれば、ちょうど十人。それで一段落にしようと思った。
いまの人は杉山茂丸の名など、だれも知らないだろう。いくらか知っている人も「あの右翼の」という程度である。しかし、そう簡単に片づけられない人物なのだ。
国会開設の詔勅の出たのが明治十四年(一八八一)。その時、杉山はかぞえ十八歳。維新だ新政府だといいながら、政治の実権は薩長《さつちよう》の藩閥がにぎっていて、したいほうだい。福岡うまれの杉山には、がまんのならない事態だった。薩長以外のそんな不満の声は、自由民権運動となって高まっていた。
しかし杉山は、わめくだけではなんの役にも立たないと知る。理想主義者であると同時に、現実主義者でもあったのだ。世の中を変えるためには、資金が必要。それには福岡の地下に多量にある石炭を掘り、輸出すべきだと考え、実行した。開国後に日本が輸出した商品として、絹についで二番目なのではなかろうか。
その仕事で、香港へ何回も渡った。そして、その地において文明開化、自由民権の本場であるヨーロッパ系の人種が、東洋人に対してどんなことをやっているのかの事実を知ったのである。
ああ、アジアよ。日本よ。それはかなり衝撃的なものだったにちがいない。彼は経済というものの重要さを知る。香港において、それについて学ぶ。経済学をではない。経済というものの実体と実務についてだ。英語についても、ある程度は読み話せるようになった。
冷静な目で国内政治を見ると、藩閥政治の横暴もさることながら、政党というものの正体もよくない。政党は夢のような出まかせを看板に、地位や権力をねらっているだけだ。くらべてみると、藩閥政府のほうが、まだましかもしれない。
そこで杉山の、東奔西走の日々がはじまる。
もともと杉山は、年長者に「こいつ、ちょっと面白いやつだな」と思われるタイプの人間だった。さらに、弁舌がさわやかで、経済感覚があり、それでいて私心がない。話に説得力があるのだ。
それを武器として、政府の大物たちを手玉にとった。後藤|象二郎《しようじろう》、伊藤博文、山県有朋《やまがたありとも》、児玉源太郎、後藤新平。名をあげたらきりがない。また、アメリカにも何回か渡り、産業振興のための外資導入の交渉もやっている。やることのスケールの大きさには、ただただ驚かされる。
同郷人ということで頭山満《とうやまみつる》とも親しく、右翼団体のはじまりとされる玄洋社の人たちとも交友が広かった。しかし、中国の革命をなしとげた孫文、インド独立の志士ラスビハリ・ボースにも力を貸し、レーニンにも間接的な応援をしている。当時、帝政ロシアの民衆は、悲惨な生活をしいられていたのだ。それをなんとかしなければという、レーニンの意気に共鳴したのである。広い視野の持ち主だった。
日露戦争を乗り切れたのは、杉山の力によるところが多い。そんな話ははじめて聞くという人が大部分だろうが、杉山は一生なんの官職にもつかず、表面に立ちたがらなかったので、どのように尽力したか歴史書では省かれてしまっているのである。
こうなってくると、信じるか信じないかの問題だ。私は亡父が現実に世話になっているので、信じる側の人間というわけだ。
私も父に連れられて、幼かった時にお会いしたことがある。昭和十年、七十二歳で死去。その長男が筆名・夢野久作。
あ、その名なら知っている、という人は多いのではなかろうか。超大作『ドグラ・マグラ』への評価はさまざまだろうが、短編ミステリーの作品群は読みやすく、いまでも新鮮さを失わない。日本における異色作家の第一号で、独自の文学世界を開拓した。SFと呼べるような作品もある。
その長男が、杉山龍丸さんなのである。
戦後、まだ私の父が存命中、会社で何回かお会いしている。もう二十五年以上も前のことだ。
そのご、私を引き立てて下さった推理作家の大下|宇陀児《うだる》先生の葬儀の時にも、お目にかかった。茂丸さんのお孫さんがなんでここに、と一瞬ふしぎに思い、あらためて夢野久作のお子さんでもあることに気づいたものだ。それ以来、お会いしていない。
杉山茂丸は『俗戦国策』という半生記をはじめ、何冊かの著作を残している。また、夢野久作には「父・杉山茂丸を語る」という文章がある。さらに龍丸さんも『わが父・夢野久作』という本を書いている。資料としてはそれで充分、多すぎるくらいだ。
そんな時、龍丸さんから、あいさつ状がとどいた。生家を夢野久作記念館として福岡市に寄付したこと、また、インドで緑化事業をしていることなどが、印刷されてあった。
資料引用の了解もえておきたいし、なつかしさもあり、上京の時にはお会いしたいと電話で話し、それが実現することになった。
ところが、考えてみると聞くことがないのである。杉山茂丸の明治・大正期の活躍を、龍丸さんも直接にはご存知でないのだ。
そのうち、緑化事業のパンフレットがとどいた。読んでみると、これが興味しんしん。こんな分野で努力している人がいたのかと、びっくりした。
「こんな雄大な構想を実行しているとは」
だれかまわず話していると「ギャラントメン」誌の、編集部の人が言った。
「星さん、対談にして下さい。その速記を取りましょう。適当にまとめて下さい。掲載しますから」
このところ飛びこみの原稿はすべて断っているのだが、これは引き受けることにした。亡父の義理からではない。ひとりでも多くの人に、地球の砂漠化という大問題と、それをなんとかしようとしている人の存在を、知ってもらいたいからである。
速記の原稿を読むと、インタビュアーとして、いかに私の質問が散漫かがわかり、いやになったが、パンフレットを参考に、なんとか整理してみたのが以下の文である。
杉山龍丸さんは、大正八年うまれ。現在、五十八歳。夢野久作は茂丸死去の翌昭和十一年に死去。はたち前に父を失ったというわけ。
軍人を志し、陸軍航空技術将校となる。祖父は政治、父は文学の世界に没入した。その三代目。時勢として軍人になるのはわかるが、軍令軍政とはまるで関係のない、技術部門をめざした点が変っている。
「妙なつながりかたですね」
「そこが、杉山家の家系の特徴なんです」
満州(現・中国東北部)、のちにフィリッピンに移動。終戦時には少佐だった。戦後の混乱期には、いろいろと苦労もあったらしい。胸の病気で「あと六年の命」と宣告されたこともあったという。
しかし、福岡の近郊に、広い農園を持っていた。うけついだ唯一の遺産である。大陸からの引揚者をそこに収容したり、アジア各国からの留学生を宿泊させて面倒をみたりした。
昭和三十年、インドのネール首相が、大陸中国に平和五原則を呼びかけた。独立につくしたボース、マハトマ・ガンジー、孫文などのことを思い、龍丸さんはそれに共鳴した。祖父から受けついだ、血のせいであろう。
しかし、当時の中国はソ連系と毛沢東派との対立があって、安定まで年月がかかりそうだ。駐日インド大使と会った際、龍丸さんはこう話した。
「政治や外交は、じいさんの代でこりています。この大戦争で、アジア各国はいちおう独立したじゃありませんか。それよりも国内の産業技術の向上、経済的自立のほうが大事ですよ。それだったら、お手伝いしてもいい……」
そう言ったのが運のつきでねと、龍丸さんは笑う。かくして、三十六歳でインドとかかわりあうことになる。
それから、来日するインド人たちに農器具、竹細工、陶器などの技術を教え、帰国させるという仕事に専念した。七年がたち、その人たちに呼ばれて、龍丸さんははじめてインドを訪れることになる。昭和三十七年。
「驚きましたねえ。お釈迦《しやか》さまによる仏教発祥の地は山紫水明のすばらしいところと想像していたんですけど、行ってみると、森林のまるでない半砂漠状態なんですよ。その古代文明発生の地方において、飢饉《ききん》はとくにひどい。これには、あっけにとられましたね」
それ以前に、龍丸さん、東南アジアは旅行していた。インドは行ったことがなかった。緑の多い東南アジアと大差ないのではと、なんとなく考えていたとのこと。
写真でしか知らないが、そういえばエジプトもバビロニアも、いまや砂漠のなかの遺跡である。
文明とは、生活を豊かにするもののはずだ。それが、なぜ。龍丸さんはそこに疑問を持ち、自分なりに考え、検討し、いままでだれも指摘しなかった結論を導き出した。
「火です。人類が火を発見したのが、そもそものもとなのです……」
火を手中におさめてから、人類の飛躍がはじまった。これがわれわれの教えられた知識である。たしかに、火は寒さを防ぎ、調理にも応用できる。また、陶器を作り、銅器、鉄器の時代へと発展した。
しかし、そのためには燃料がいる。当時としては、木材しかない。木は切り倒される。植えた苗が育つには、何十年、何百年とかかる。人びとは、そんな先のことは考えない。徐々に環境は破壊され、岩石は風化し、砂漠化し、その地域は放棄されるにいたる。
目前の利益に目を奪われていると、いつのまにか破滅がもたらされる。この原則を、何千年ものあいだに体験していながら、人びとは気づかずにきたわけである。龍丸さんは「文化による公害」という言葉を口にした。
モーゼとか釈迦とか、偉大な宗教の創始者は、自然との調和の必要性を理解していたらしい。しかし、それが宗教として形が完成してゆき、あとの世代へと伝えられるうちに、植物へのいたわりの部分が切り捨てられてしまった。木を植えよと教えている宗教は、ない。
インド文化の最盛期にアソカ王朝、つぎのグプタ王朝は仏教を手あつく保護したにもかかわらず、やがて信者はへり、現在は数えるほどしかいない。龍丸さんはその原因を、土地の荒廃化にありとしている。
そして、こう考えた。かつては緑ゆたかな地であった。だから、やりようによっては復元できるはずだと。
インド北西部のパンジャブ州の知事は、龍丸さんに言った。
「インドに対する、なにか提案はないか」
「木を植えることです」
「どういう木がいいか」
「早く育つのがいい、ユーカリかなんか」
とりあえず、そんな形で着手された。砂漠の緑化のいちばんの障害は、植樹したはいいが、たちまち牛やヤギに食べられてしまう点である。そこへゆくと、ユーカリの葉は食べられないため、適当といえるのだ。
砂漠地帯では、室内でも気温が四十度になる。
「かなりの距離を、車で走った時のことですよ。暑さのためか、鼻の奥の血管が切れた。しかし、乾燥しているため、血がこびりついて出血とならない。そのあと、ホテルへ入ってシャワーをあびた時、がばっと血を吐きましたが、鼻血だったわけですね」
すさまじい自然条件である。
首都デリー市は、古いデリー地域と、イギリス統治時代に作られた樹木の多いニューデリーの地域より成る。そして、ニューデリーのほうが温度が約十度低い。植物は、それだけ気温をやわらげてくれるのだ。
龍丸さんは、よく学者と議論をするらしい。その発想の根本が、ちがうのである。
「木を植えれば、水がふえる」
と主張すると、こう反論されるという。
「木は、水がなければ育たない。水によって生長するものだ」
学者は、現実を知らないのである。砂漠といっても、まったく雨が降らないわけではない。ところが、その降った水は、そのまま地下へ、遠くへと流れていってしまう。事態は、いつまでたっても変らない。
しかし、木があると、根がその水分を吸収する。また、木は地面にかげを作り、地表からの水分の蒸発を防ぐ。やがては地下水の水位もあがってくる。樹林による壁である。日本では日照権が問題になるが、砂漠では日かげが貴重なのだ。
この学者のような意見が、かなりのブレーキになっているらしい。先進国が援助をしようとすると、たいてい自国の常識を規準にして、方針をたててしまう。ダムを作り、水をため、それによって植物を育てようということになる。
しかし、ダムとなると、大金がかかる。また、作ろうにも、作りにくい地形が多い。龍丸さんは、植物に雨水をキャッチさせ、復元の形で緑化を進めようという考え方なのだ。
パンジャブ州の道路の両側にはユーカリが植えられ、十五年後の現在、みちがえるような光景になったという。
しかし、ユーカリが乾燥地において早く育つからといって、そればかり植えてもしようがない。あまり役に立つ木ではないのだ。
龍丸さんは、つぎの段階をどうすべきか考え、十年がかりで、ワサビ科に属するモリンガという植物を選び出し、ユーカリと組み合わせて植えることにした。これも成長が早い。写真を見せられ、私は感心した。
「これだけ育てば、すごいものですね」
「一年で、これだけになるんですよ……」
二年で七メートルほどに生長するという。花のつぼみは、カリフラワーのような味なのだそうだ。若芽や若葉も食用になる。葉は家畜用の飼料になる。幹はパルプ材料。根は香辛料になる。
幹を輪切りにしたものも見せられた。かなりかたく、建築材料にも燃料にもなりそうだ。二年で直径三十センチ。まったく、すばらしい植物があったものだ。
「こういうぐあいに、現地の人の生活に直結した方法でなくてはだめなんです。植えればいいことがあるんだと、現実に示してやらなければね。いまでは、かなりの人が進んで植えているわけです」
「土質も変化しますか」
「そのために、豆科の植物を併用して植えるのです。これをやると、土壌中の有機物がふえてゆきます。実験的にこころみた土地は、最初はまったくの荒地でした。だから、池を作っても、水苔《みずごけ》も発生しない。しかし、植物がふえ、土のなかの有機物がふえるにつれ、水苔ができてくる。魚も育つようになる。虫もやってくるし、鳥もくるようになる。そして、自然のサイクルが、つながってくる。エコロジーといいますか」
「生態系ですね」
「緑化するには、そういうきっかけを作ることが必要なんですよ」
パンフレットのなかに、ポリエチレンのパイプの利用ということが出ており、なんのことやらわからなかったが、その説明を聞くと、なるほどである。
つまり、非常に長い管で、各所に穴があいている。そもそもは日本において、湿地帯の排水用のために作られた。ブルドーザー的な小型の車につみこみ、みぞを掘りながら進み、そのパイプを地下に埋めてゆく。多すぎる水分が、これによって除去できる。
龍丸さんは、それを砂漠において逆に利用した。地中にパイプを埋めこむという点は同じだ。一時間に五キロメートルも埋設できる。パイプの穴のところに、苗を投げこんでゆく。終ったら小さなダム、池、あるいは川からなかに水を送ってやる。これで、苗への水分の補給が可能となる。
ある程度に木が育つと、パイプを引き抜いてしまう。あとは木の根が自力で地下水を吸いあげる。まさに、名案としかいいようがない。安あがりでもあるし、地下パイプでの給水なら、蒸発その他による損失もなく、水が有効に利用できるというわけだ。パイプの材質は太陽熱に弱いが、四十センチぐらいの地下だから問題はない。
このようにして、緑の地域がひろがりつつある。いまやインドの人は、木を植えれば地下水があがってくることを、体験で知ってきたというわけだ。
こんなふうに書いてくると、龍丸さんがただがむしゃらに取り組んできたような印象を与えるかもしれない。しかし、実際には慎重な計画の上に進められてきたのである。
インド全域をくまなく旅行し、砂漠のタイプや成因などについて調査した。その結論の一部を要約する。
一、インドにおいては、はてしなく広がる砂漠や荒地はほとんどなく、植物のある地域と混在している。そして、たいてい森林のない山がそばにある。
二、泉、ワジ(枯れた河)など、水分のある地点がどこかにある。また、地下水脈もある。
三、気流によって、空気中の水分が運ばれてくる。
四、降雨量は少ないが、一年の中には雨季がある。
すなわち、サハラやゴビの砂漠とちがって、回復可能と判断したのだ。山や高地の木を切ったため、降った雨がいっぺんに流れ、砂漠の地下に入ってしまう。そうなる寸前のラインに並木を作り、水を吸い上げようというのだ。
ダムを作ったり、地下水をくみあげる方法も考えられるが、とてつもない費用がかかる。現地の事情に合った方法をとらなければならない。
「だいいち、まともな農器具さえないんですからねえ」
包丁も不充分だという。これは私も初耳だった。
「なぜ、そうなんです」
「インドの鉄鉱は、マンガンの含有率が高いんですよ……」
マンガンが多いと、かたく摩擦に強い鉄で、それむきの製品、たとえば鉄道のレールなどにはいいが、そのかわり、もろいという欠点がある。そんなクワで畑をたがやすと、石に当ってかけてしまう。日本製のクワだと、すりへってはゆくが、十年は使える。
そんな初歩的な研究も、なされていないのだそうだ。独立後の社会態勢が、まだととのっていないのである。インディラ・ガンジー前首相(ネールの娘)が「貧乏を追放する」と公約したが、具体的なプランとなると、はっきりしていない。
「そして、そのクワも、絶対に自分でにぎっちゃいかんのですね」
われわれに理解しがたい、カースト制のためである。人種、宗教などによって複雑な社会構造が形成されており、指導者だの、働く者だの、職業が規制されているのだ。
日本に留学してきたので、龍丸さんが世話をしたはいいが、それが上層階級のやつ。実習なんかは自分のやることではないと主張し、留学を二年のばしたが、ついに学位を取れなかったとか。
そのへんをよく知ってないと、ことがうまくはこばない。多くの日本人は気が短く、えいめんどくさいと、自分でやってみせる。そうなると農奴階級にされてしまい、指示に従わせようとしても、だめなのだそうだ。
「日本から助手を連れていったのですか」
「いいえ、すべて現地の人を使いました。そうでなかったら、技術は定着しませんから」
「航空の技術将校の体験は、役に立ちましたか」
「ジェネラル・エンジニヤリング。つまり、なんでも屋ですよ。メカニックなことから、陣地の構築までやらされたわけです。で、このことはどう調べればいいかといったコツが、身についたのです」
とにかく、パンジャブ州の荒れはてていた地区を、インドで最も豊かな土地に仕上げた。そのほか二カ所を手がけた。
そして、これはモデルであって、広大な土地の緑化が完成したわけではない。しかし、その成功がきっかけとなって、大きな動きがはじまりかけている。いまや多くの州が、それにならって植林を命じているのだ。
やがては、インドもふたたび数千年前の緑の亜大陸となることだろう。内陸部に砂漠をかかえていて、ガンジス川の河口のバングラディシュが、毎年のように洪水《こうずい》で悩むなんてことがおかしいのだ。
これだけ深くインドにかかわりあっているから、龍丸さんの話には真実性がある。
「イギリスは、よく統治したと思いますよ。植物園、農事試験場、博物館などを完備した。残忍な搾取もした一面、良心的なピューリタニズムも示しています。大英博物館を見ると、七つの海と広い植民地を支配した底力を感じさせますね。これが文化や福祉の分野にむかえば強いと思いますが、そうなるかどうか」
また、
「農村を逃げ出し、都市へ出てきて餓死寸前の人がたくさんいますが、ああいうのには手を貸さない。金など、決してやらない。大地にかじりついている連中こそ、未来を築くエネルギーなんです。ものごとの成功、不成功は、やっぱり人間の問題ですね」
私は聞いた。
「インドに、愛着をお持ちなんでしょうね」
「ありませんね。じいさん(杉山茂丸)以来の宿命的なもので、こうなったんです。世話好きの遺伝もありますかね。まったく、あの国民性は手におえない。ぬけめのなさで知られる中国系商人も、インドにだけは進出できなかったんですから。しかし、面白さの点では、これぐらい面白い国はないでしょうね」
どう面白いのかを聞きそんじたが、その解説となると、長いものになってしまうだろう。
「インドの将来性は、どうなんでしょう」
「ありますね。この植林計画が完成したら、すばらしい国になると思いますね。それに、底辺の人たちは、ものすごく働く。あの暑さのなかでね。日本人なんかと、くらべものにならない。しかし、上のほうの連中はぜんぜん働かないし、天狗《てんぐ》になっている。あの連中は、もう少し謙虚にならなければいけませんね」
頭のなかでは、インドの理想的なイメージができあがっているようだった。
龍丸さんは現地であれこれやる一方、日本の政治家たちに砂漠緑化の重要性を説いてまわった。そのなかで、最初に関心を示してくれたのが佐藤栄作だった。
「おまえのその仕事は面白いから、世界に公表してみろ。金とバックアップは、おれのほうでなんとかするから」
とすすめられて「グリーン・レボリューション(緑の革命)とは何か」というパンフレットの英語版を作成した。
佐藤栄作はいまのところ人気はないが、龍丸さんの話だと、なかなかの人物だったらしい。
「吉田首相が佐藤を指揮権発動で助けたあと、インドに二カ月ほど行ってこいと追っ払った。だから戦後の首相のなかで、頭はよくないが、アジアは大事だと考えていたのは、彼だけですね」
佐藤栄作の夫人は、松岡|洋右《ようすけ》の娘。杉山茂丸が死の寸前、松岡をくどいて満鉄総裁就任を承諾させた。そのことを読んで知っている私は、なにかの縁といったものを感じた。
その佐藤栄作も、パンフレットができたとたん死去。龍丸さんは仕方がないので、それを各国に送った。世界で砂漠に悩んでいる国は、五十九カ国ある。そんなこともあり、国連の討議対象となり、昨今さまざまな話題になっているのである。
また、学者たちに軽く見られていた龍丸さんの仕事を、東大名誉教授の福田仁志博士がみとめ、これは本物と声援してくれることとなった。農業土木について世界的に有名なかたらしい。国連の主催による会議で、大いに発言なさるとのこと。
こまかな分野での学者はたくさんいるが、砂漠相手となると、総合的な学識がなくてはならない。砂漠学、砂漠対策の研究は、これからの課題なのだ。
海外に出かける日本人は多い。留学する人もあるし、あてもなくうろつく人もある。そして、企業に属して活躍している人も、かなりの数になる。
しかし、この杉山龍丸さんのような人は、珍しいのではなかろうか。妙なことからインドに出かけることになり、火の文明のもたらした結果のまちがいを発見し、それをなんとかしようと自分なりに考え、試行錯誤を重ねながらも、一歩一歩よい方へと改善をすすめている。利益はまるで考えず、そのために祖父から伝わる農園の大半を手放して平気なのだ。
「一生を、これに捧《ささ》げてしまいそうですね」
「国連のトレーニング・センターを作るという計画が具体化し、軌道に乗ったら、それを眺めて絵でも描いてすごしたいのですが、そううまくゆきますかどうか」
「お子さんは……」
「いま大学生で、生物学をやっています。これを引き継がせるつもりは、ありません。杉山家は代々、親の仕事は継がないのです。なにか別なことをやるでしょう」
龍丸さんは砂漠緑化で名声を得ようなど、ぜんぜん考えていない。地味な人柄だ。もっと知られていい人なのに。
先日、テレビをつけたら、砂漠化の問題をとりあげていた。学者たちが論じていたが、おざなりで迫力がない。テレビ関係者も学者も、龍丸さんのことを知らないらしい。視聴した人も、
「そういうものかな。日本人にはぴんとこないなあ。まあ、いずれ、どこかのだれかが、なんとかしてくれるだろう」
といった程度の受け取り方だろう。そのだれかが、杉山龍丸さんなのである。
[#地付き](「ギャラントメン」 昭和53年1月号)
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山藤章二
――山藤さんの真価――
えらい原稿を引き受けてしまった。
そもそも、イラストレーターぐらい論じにくい存在はないのだ。中間小説には、たいてい絵がついている。これは個人的な意見だが、いくら読みかえしても情景の伝わってこない純文学にこそ絵が必要。読めばわかるように書かれている中間小説には、なくてもいいのではなかろうか。
そういう小説に絵をつけるのだから、簡単なことと思う人もいようが、逆に容易ならざる仕事である。たとえば、ミステリー。たいていの場合、新人が描くとオチを割ってしまう。いかに絵がうまくても、これではぶちこわしである。また、クライマックスを絵にしたい気分もわからぬでもないが、これも好ましいことではない。映画産業がだめになったのは、あっというシーンを予告編で見せてしまうようになってから。
だから、その小説を理解し、自分なりに消化した上でなければ、絵がうまれない。その点、なまじっかな書評家、編集者などより、はるかにすぐれた小説の読み手である。
原稿のおそいので有名な作家のイラストをやっている人に「さぞ大変でしょう」と聞いたことがある。すると「いや、大体の目当はついてますからね」と答えられ、うならされた。すべてお見とおし、こうなると作家本人以上である。
本の表紙のデザインにしても同様。目をひき、手に取らせ、買う気を起させなければならない。さらには、読後によかったとの印象を残さなければ。これも内容をふまえた上でなければ、不可能だ。また、苦手な物品があってはならず、ゲームやスポーツなど、いちおうは知っていなければならない。頭のなかの蓄積は、ふえる一方。
そのあげく、はけ口を求めて、文章を書くイラストレーターも出てくる。かけ出し作家のエッセイなんかより、うまいのは当然だ。もっとも、この段階まで達するには、大変な努力を要し、何人もいるわけではない。しかし、まあ、そのへんまではなんとか想像し、感嘆することもできる。
ところが、この山藤さんとなると、絵と文とが渾然《こんぜん》一体となって、ユニークな世界を作り上げてしまうのである。私たちはそれを見て、ため息をつき、笑い、驚き、考え込み、あっと叫び、そのほか、さまざまな感情をおぼえる。理屈もなにもない。
それ以上、なにをつけ加えればいいのか。まさにそうなのだが、解説をたのまれ「わあ、面白かった」だけでは、文筆で食っている者として、あまりに無責任だ。はかなき試みとは知りながらも、なにやらそれらしきものを書かねばならない。
山藤さんはまず、アメリカの画家ベン・シャーンに魅入られた。人物を主に描く人。その作品を収集するため、神田の古書街で何千冊もの洋雑誌をめくった時期があったという。戦後、アメリカに対して、物質的なあこがれから、文化的な関心へと移行しつつあった時代であろう。ベン・シャーンを手本に習作を重ね、その本質をつかんでしまう。昔風にいえば、免許皆伝である。これは、創作活動をする人に多く見られる体験のようである。名作のさわりを書きうつしたことのある作家は、多いみたいだ。
げんに、私も同様。運よく作家になったはいいが、コンスタントに書きつづける自信がなかった。その時、ヘンリー・スレッサーという短編作家を知り、熱狂的に読んだものだ。日本版の『ヒッチコック・マガジン』誌で何回も読み、短編集となってからも読みかえした。結末がわかっているのに、なぜ何回もと、われながらふしぎに思ったりした。しかし、そのあげく、ストーリー作りのコツが身についた。ことアイデアに関しては、いまだに七転八倒だが、そのあとの短編への仕上げでは、そう苦しんではいないのである。
ベン・シャーンの芸術的評価については知らない。スレッサーを礼賛する作家は、日本で私ぐらいだ。いずれも、なにかの縁といえるだろう。あまりに偉大な人にほれ込んでしまうと、乗り越える目標にふさわしくなく、へたすると挫折《ざせつ》しかねない。
話が横道にそれた。山藤さんは昭和三十五年(一九六〇)に武蔵野美術学校デザイン科を卒業。ナショナル宣伝研究所に入社、かたわら、テレビタイトルの仕事をする。そのなかにNET(現・テレビ朝日)の「お気に召すまま」のシリーズもあった。私が作家になってまもないころで、いくつか原作に使ってもらったことがあり、なつかしい番組だ。
こう書いてくると、いやに詳しいなと思う人もいようが、なにをかくそう、美術出版社発行の『山藤章二戯画街道』という本をそばに置いてあるのだ。この「ブラック=アングル」に至る、初期からの作品がまとめてあり、その変化のあとをたどれる。
しばらくはポスターだの、いわゆる小説のイラストの仕事をつづけ、昭和四十四年に『週刊文春』で野坂昭如さんの連載エッセイ「エロトピア」と組み、そこでついに独自の分野を切りひらいた。
ご本人も「挿絵と漫画しかない当時のジャーナリズムに、挿絵でも漫画でもない絵を持ち込もうと気負っていた。そうしたら皮肉なことに、挿絵賞(講談社)と漫画賞(文春)をもらってしまった。この仕事『エロトピア』で〈オレの絵〉の尻尾《しつぽ》をつかまえた」と書いている。
開花。長い模索をへて、才能を百パーセント近く発揮できる形式を見つけたのだ。それ以前の絵とくらべると、驚くべき変貌《へんぼう》である。なぜそうなったのかは、説明のしようがない。ただ、膨大な蓄積と執念の結果としか、いいようがない。まあ、こんなところでとの妥協の心があったら、ここまで到達できなかったろう。ジャンルはちがうが、王貞治が一本足打法にたどりついたのと、どこか共通しているかもしれない。
挿絵でも漫画でもない。その新しさのひとつは、文字を加えた点にある。ごらんのように、山藤さんの字は個性的で、うまいのである。山藤さんから手紙をもらうと、字そのものに圧倒されてしまい、文筆業者はどっちなんだと、われながら情なくなる。字のうまいのは、天成のものだろう。絵の分野で活躍するのなら、サインだけでいいのだ。その文字の才能が、これを世に問うてみてくれと、無意識のなかで呼びかけていたせいかもしれない。
空前の試みである。外国のヒトコマ漫画には、キャプションといって字の部分のくっついたのが多いが、それは登場人物の話している言葉で、それ以上のものではない。一方、挿絵に文字を書き加えるなど、それまではだれひとり考えなかった。
週刊誌の、野坂さんの、連載エッセイ。これらの条件もよかったと思う。第一回目のには、字は出現していない。やがて、ためしにといった感じで少し字が入り、たちまちのうちに文章へと成長する。そして、その文章が画期的なしろものとなったのだ。
エッセイと組み合う絵に、文章が加わり、もとのエッセイの面白さを高め、時にはそれを圧倒したりする。また、文章を加えることにより、普通では並べて書きにくい異質なものをも、すんなりと絵にしてしまう。表現のはばが、ぐんと広がる。これは、じつに大変な革命なのである。
しかし、ただ文章を加えればいいというものではない。個性があり、博識であり、リズムがあり、切れ味がよく、面白く、しかも絵との調和がなければならない。これについては解説不能で、その必要もあるまい。
翼を得たとでもいった形で、山藤さんの大活躍がはじまった。その代表的なのが『夕刊フジ』の一〇〇回シリーズ。さまざまな筆者と組んで、それをやった。普通なら絵をつけるというところだが、同じ比重で存在し、時にはこっちのほうが面白かったりする。
私は通勤の生活でないので、『夕刊フジ』はめったに読まない。『戯画街道』にのっている抜粋を眺めているが、エッセイの部分がなくても充分に面白い。筒井康隆さんの『狂気の沙汰も金次第』は本をもらったので、全部を読み、両氏の対比の妙を楽しんだ。
また、青木雨彦さんとの『にんげん百一科事典』は外国旅行に持ってゆき、ゆっくりと味わった。これには各界の人物がとりあげられていて、山藤さんは似顔につけて、名前をタネにした文を作った。たとえば「|ピ《ヽ》ノキオみたいな、|ン《ヽ》(運)動で、|ク《ヽ》り出すレコードみな百万、|レ《ヽ》イが六つもつくヒット、|デ《ヽ》モこのままじゃあやつりの、|イ《ヽ》トが何年もつだろう」といった調子。その批評眼もしたたかである。
山藤さんのこれらの文章を見ていて、あらためて感服した点がある。誤記がまるでない。作家でさえ、誤記をやる。明治期の文豪以来、その逸話は多い。私の作品など短いもので、いまだに清書をしてるし、そのあと念のためにと読みなおす。それでも、年に二、三回は校正に関して雑誌編集部から電話がかかってきて、まちがいに気づくことがある。精神的な空白というか、正しく書いたつもりなのが、ちがっていたりする。活字ならその段階で訂正できるが、山藤さんの場合はそうはいかない。ずいぶんと神経を使っているのだろう。
そして、昭和四十七年から二年間『週刊朝日』の表紙を手がける。持ってゆくと、編集長は感嘆しながらも、毎回、困った顔をしたという。斜《しや》にかまえたのが特色の山藤さんにとって、表紙はふさわしくなかったのか。ご当人は「女性にモテなかった」と書いているが『戯画街道』にのっているのを見ると、損な使われ方をされたためである。上のほうに内容の見出しを大活字でごたごたと並べ、さらには斜《ななめ》に見出しを書き込むなど、逆効果でしかない。それらのついていない、絵だけの、たとえばライザ・ミネリ、ソルジェニーツィンなど、ほれぼれする出来なのだ。
しかし、その『週刊朝日』のうしろのほうの一ページに舞台を移し「ブラック=アングル」がはじまる。昭和四十九年にテスト版を六カ月、二年後から本格的な連載となり、好評のうちに現在もつづいており、つまり、この本に収録されている作品である。
この移動が編集部の意見によるのか、山藤さんの申し出によるのかは知らない。いずれにせよ、好ましい結果となり、表紙時代の苦労がすべてプラスの方向へと化した。
ここで山藤さんは、またも大きな転機を持つことになったのだ。
それまでの『夕刊フジ』一〇〇回シリーズのたぐいでは、他人と組んでの仕事だった。エッセイのほうが先に出来てくる。それをタネに笑いを増幅したり、逆手に取ったり、みごとな作品を作ってきた。しかし、おのずと枠《わく》は存在していた。
山藤さん、しだいにそれを感じてきたわけだろう。さらに自由に完全に、自分の個性を発揮したいという欲求が高まってきた。作家のような、タイプの定まったものを相手にでなく、社会や世界といったとらえどころのないものを相手にしたい。
また、表紙をやっていて、予期していない活字に割り込まれるのも、不満だったのだろう。いろいろと考えたあげく、その新分野へと進んだ。テスト版を試みるなど、あくまで慎重だった。
それは成功し、苦労のはじめとなる……。
ご存知のかたも多いと思うが、私は作品中に時事風俗に関連するものを、ほとんど持ち込まない。わけを話すと長くなるが、自分なりの方針である。その点「ブラック=アングル」とは対極にあるといえる。しかし、無からアイデアを生み出して勝負をするという点では、大差ないのだ。現代において、いかに各種のことが起っているか。一週間分の新聞、テレビ、その他の媒体で送り出されている情報は、無限に近い。このなかから、なにかを選別して取り上げ、組み合せ、あっと言わせるのは、頭をぎりぎりまで使い果たさなければならない作業である。
もっとも、程度が下っていいというのなら、その苦しみは大きく減る。しかし、自分の設定した水準を守るとなると、ことだ。自身との闘いになってしまうのである。締切り寸前の山藤さんを想像すると、同情にたえない。だれも助けてくれない、孤独な作業なのだ。私の場合より、さらにつらいだろう。安易な手法という誘惑が、目の前をうろちょろしているのだ。たとえば、ストレートに首相をからかう構図など。
そして、それらの苦労のあとを、作品中に残してはいけないのだ。『戯画街道』の余白でちらともらしている感想。
――高邁《こうまい》で深刻な芸術というのは、考えようによってはラクな仕事だ。理解されなくても本人は傷つかないからだ。そこへいくと、笑わせようと企んで失敗したら、瞬間、この世から消えてなくなりたいとさえ思う――
だから、この巻のなかの本日休業の二枚について、逃げたなと思う人もいようが、私は見て胸のつまる印象を受ける。考えに考え抜き、そのあげくの産物だからだ。
といって、アイデアに苦しんでいるのは、山藤さんだけと言うつもりはない。四コマ漫画では横山隆一さん、長谷川町子さん、加藤芳郎さんなど、なまじっかな賛辞では片づかない仕事を残しておいでだし、劇画では手塚治虫さんをはじめ、多くの人がいる。いずれも、ぎりぎりの精神活動の成果である。
しかし、山藤さんは前例のない独自の形式を創造し、あえてこう宣言した上での仕事である。
――僕は野暮を嫌う。ヒトコマは粋《いき》で、コマ漫画は野暮、劇画は野暮の骨頂だと思っている――
日本特有の四コマ漫画を私は野暮とは思わないが、漫画の原点はヒトコマにありと信じている。だからこそ、かつてアメリカのヒトコマ漫画の収集に熱中した。珍しい趣味だな、ひとつ自分もと考える人が出現しても、現在では不可能である。全盛期が終ってしまったのだ。一九五〇年代から六〇年代へかけてで、絵は上等でないが、単純ななかに文句なしの笑いがあり、ひたすら陽気で、古き良き強大なアメリカの余裕を示していた。
それらは、徹底して時事風俗と無縁だった。広い国土、全国紙のない国での漫画となると、ヒトコマではそうならざるをえないのだ。しかし、パロディ漫画がないわけではない。『MAD』という雑誌がそれである。最近はどうなっているか知らないが、ある時期にはなかなかの水準だった。しかし、ヒトコマで処理しきったのはなかったと思う。多人種、多宗教、さまざまにまざった国では、どこかに説明的な部分がくっつく。
というわけで「ブラック=アングル」は日本ならでは、山藤さんならではのものなのである。
……と、ここまで書いてきた。すらすらではなく、考え考えで、中休みを重ねてである。いま、やっと求めていた一語をつかまえた。それは「宵越しの銭《ぜに》は持たねえ」である。粋とは、このことを言わんとしていたのだ。目の前の一枚に全力をそそぎこみ、読者にサービスをする。すべては、そこに要約集中されているのだ。
いまごろ気づいたのかと、あきれる人もいるだろう。あいにく私は『週刊朝日』をつづけて買っていず、しかも本のあとがきということで、思考が固定していたのだ。閃光としての一瞬にこそ、価値がある。
まとめて本にするなど、念頭にしないで描いた作品であり、そんなことを考えてではいけないのだ。ここに一冊にまとまったのは、副産物にすぎない。
では、本にしたのは無意味かというと、それがそうでないのだから、なんとも奇妙である。ひとえに、社会が複雑になったせいだ。とくに昭和三十五年(一九六〇)ごろから、世の変化がテンポを早め、多面化した。
ある時、私は自分の回想をもとに、日本のSFの流れを書いておこうかと思ったことがある。いずれは書くかもしれない。適任じゃないかなといい気になりながら、構想をねりかけて、これは片手間ではできないぞと思い知らされた。
たとえば、昭和三十二年に、私は第一作を書いた。問題はその時代背景である。自分では知っているつもりでも、当時を知らぬ者に描写して伝えるとなると、どれだけの枚数を要することか。東京の光景だけでも大変だ。都電がいたるところを走り、羽田の空港ビルなど小さなもので、六本木あたりは静かな地区だった。
テレビが普及しはじめたのもそのころで、笠置《かさぎ》シヅ子が歌っていた。あいだのコマーシャルは、プロ野球の順位は、人気作家はとなると、いつまでたってもSF史に入っていけない。SF界の発展は、経済の高度成長と深くかかわりあっている。史上、類のない時代を生きているのだなあと、あらためて実感する。
たとえば、昭和三十九年(一九六四)の十月。一日に新幹線が走りはじめ、十日には東京オリンピックで、その開催中の十六日にフルシチョフ首相退陣で、同じ日に中華人民共和国が核爆発の実験に成功。まさに、山藤さんがその時代にやっていたらなあである。
そのころからすでに、年月、時間というもののとらえ方を変えなくてはならなくなっていたのだろう。それは流れではなく、ある人の写真集の題名を借りるが「瞬間の累積」としてとらえるべきなのだろう。デジタル時計がかくも普及したのは、そのせいかもしれない。流れでなくなったから、つぎになにが起るのか予測もつかないのだ。
「ブラック=アングル」は『週刊朝日』の一ページ。見てアハハである。しかし、そこにおさまっている情報量は驚くべきもので、文字で書くと一冊ではすまないかもしれない。とにかく、こういう瞬間の累積のなかを、多くの日本人が生きてきたのだ。いいかたを変えれば、時代が山藤さんを求め、山藤さんがそれを察知したというわけだろう。いい悪いの問題ではない。現実の社会が、そうなってしまったのだ。
私は谷内六郎さんの絵も好きだが、あれは静止した追憶の世界。山藤さんは動きつづける社会なるものの、スナップ写真をとりつづけている。今後の高齢化社会では、こういうほうになつかしさを感じるだろう。
というわけで、この本は貴重な資料でもあるのだ。一瞬の燃焼のためにエネルギーをつぎ込んだことが、その時の狙いとはまるで別な形で価値を示してくるとは……。
なんだか、妙な一文になってしまった。あるいは私に対し、もっと軽いものを期待しての依頼だったかもしれない。しかし、とりかかってみると、不可能とはわかっていても、私なりに山藤さんの核心に迫ってみたい気になってきた。また、なぜ面白いかの考察もしたくなり、まともに取り組んでしまったのだ。野暮のきわみかもしれないが。
最後に『戯画街道』にのっている「ブラック=アングル」への山藤さんの書いている意気ごみを引用しておく。
――からかい、ぼやき、にくまれ口。言葉遊びに筆遊び。パロディ、ナンセンス、カリカチュア。持ってる芸のすべてを動員して、毎週読者のご機嫌を伺う芸人|冥利《みようり》の勝負舞台。ちっとやそっとのことじゃ、やめられねェ――
その通り。やめてはいけないのだ。やめることは許されない。いかに苦しくなろうとも。
[#地付き](『山藤章二のブラック=アングル3』解説 朝日新聞社 昭和57年7月)
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新井素子
――ユニークな出現――
新井素子は昭和五十二年に「奇想天外」誌が募集した、SF新人賞によって世に出た。SF界において新人コンテストは五年ぶりということもあり、千編を越す作品が集まった。大盛況である。
数次にわたる予選を通過し、最終的に十四編が残った。私は選考委員のひとりとして、それらを熟読した。千分の十四だから、粒ぞろいであっていいのに、首をかしげざるをえないのが多かった。
散文詩まがいのものを、私は採らない。SFを書きつづけてくれると思わないからだ。新人賞は、新人をみつけ出すのが目的である。また、SFにはなっているが、短編のテーマを、無理に規定枚数に引き伸したものも多かった。同情はするが、結果的に散漫になってしまい、合格にできない。
いささかうんざりしかけた時「あたしの中の…」にめぐりあった。まず、これはちょっとちがうぞという印象を受け、たちまち作品の世界に引き込まれた。
私は全候補作を、三回ずつ読みかえした。選ぶということは、それだけの責任がある。見おとしていた長所を発見したり、やはりだめだと確認したりした。
そのあげく「あたしの中の…」が第一位と判断し、選考会に出た。しかし、他の委員の意見との相違もあって、私の望んだような形ではなく、佳作五名のひとりということで、入選、掲載となった。いかに私が強力に推したかは、座談会の記録となって残り、「奇想天外」誌にのっている。
なにしろ、文章が新鮮であった。この世代ならだれでも書くという説もあるが、小説に活用したのははじめてだろうと思う。今後だれかが試みれば、新井素子の亜流となってしまうのだ。また、この模倣は、安易そうだが、けっこうむずかしいのではなかろうか。
つぎに、ストーリーの巧妙さである。最後まで読者をあきさせない。それに、一編としてのバランスがとれている。その点でも、候補作のなかで群を抜いていた。引き伸しを感じさせず、最後でかけ足にもならない。勢いにまかせて筆を進めたのでは、こうならない。じっくりと構成を計算した上で書かれたのだ。だからこそ、文章が生きてくる。
それに、いかにもSFらしい作品である。まっ正面から取り組んでいる。そこにも好感が持てた。
とにかく昭和五十二年に新井素子が十六歳でこの作品を書いたということは、SF界にとって画期的な出来事であった。
話はそれるが「いんなあとりっぷ」という雑誌をやっている大坪直行という人物がいる。江戸川乱歩先生の編集の旧「宝石」時代、私がはじめて作品をのせてもらってからのつきあいだから、もう二十年以上ということになる。新井素子の人生より長いのだ。
「すごいのがあらわれたぞ」
と話した。彼は「あたしの中の…」の掲載誌がまだ発売になっていず、つまりどんな作品かを読みもせずに、「奇想天外」の曽根編集長から住所を聞き出して、原稿を依頼してしまった。大胆というか、おっちょこちょいというか、それだけ私を信用しているのか……。
いささか心配だった。才能はあると思うが、長いもののほうがむいているのかもしれないのだ。そして書かれたのが「ずれ」である。第二作がすぐに雑誌にのったのには、こんな事情があった。
そのころは、まだ新井素子がどんな女性か、見当もつかなかった。女性みたいなペンネームを用いる男だっている時代だ。SFは私小説じゃないのだから、手がかりはなにもない。宇宙人が乗り移っているわけでもあるまい。
そもそも、SF界は慢性的な作家不足。へたをすると編集者にわっと押し寄せられ、せっかくの才能をだめにしてしまうのではと、気になりはじめた。
「毎日新聞」の学芸部の福田淳さんにも、大変な新人が出ましたよと話した。特集記事が作られることになり、新聞社の人が新井素子を連れて、わが家へ来るということになった。これで、ご本人に会えるわけだ。
そこで、意外な展開となる。
その前日の夕方、電話があった。
「大学でいっしょだった、新井ですが……」
急にまた、なんの用だろうと思ったが、なんとそれが父親とわかって、まさかと、びっくりした。夢にも思わなかった。大学の同クラスには新井という姓のが二人いたせいでもある。
驚いたというより、敬服した。新井君は地味な性格である。卒論の分野がちがい、大の親友というわけではなかったが、三年間、同じ講義を聞いた仲だ。普通の人なら、予選通過の段階で、連絡をつけたくなるのではなかろうか。しっかりした家庭である。そうと知っていたら、選考委員会で私はああまで強く推さなかった。情実がからんでいない、ひとつの証明である。あれは演技だとあくまで疑う人もいるだろうが、なみの神経で、出来るものじゃあありません。
新井君が講談社に勤めていることは知っていた。しかし、仕事上でのつきあいはなかった。教育出版局の理科部門である。なにしろ私は出不精で、編集者と会うのは好きだが、出版社へ行くことはほとんどない。講談社へ行った記憶がないのだ。ずいぶん本を売ってもらっているのに。信じられないと言う人もあろうが、つまり寄ったついでにあいさつということもなかったのだ。
やがてクラス会があり、聞いてみた。
「農芸化学を出て、なんで出版社なんかへ入ったんだい」
卒業が昭和二十三年、抗生物質ペニシリンが一種のブームを呈していたころで、級友のほとんどがそんな関係の社に就職していたのだ。異色であり、考えてみると、ふしぎである。
新井君の父上は、講談社の創立者の野間清治と同郷の群馬県の出身。そんな関係で、同社に入り、社の発展にずいぶんつくしたらしい。晩年は講談社の図書館長になった。
「蛙《かえる》の孫は蛙ってとこですね」
と言うところをみると、文章も書かれたかただったようである。親子二代にわたる講談社づとめなのだ。講談社の私の担当者に新井君のことを聞くと、こんな答。
「大変な勉強家ですね。昼食の時間も惜しんで、本を読んでいます」
大学時代にも、前のほうの席でノートを取っていた。奥さんも講談社に勤務とのこと。本とは縁の深い一家。本人の才能こそが問題とはいうものの、新井素子の出現には、それだけの背景があったのである。
新井君は背が高く、丸顔でむかしから眼鏡をかけている。素子ちゃんは小柄で、うりざね顔で、かわいらしい。お母さん似なのだろう。
とにかく、ひと安心。変な注文を引き受けすぎ、だめになることもないだろう。
「毎日新聞」にのった新井素子談を、少し引用。
「マンガ『ルパン三世』の活字版を書きたかったんです。SFとか小説を書いているという意識もなくて、楽しんで書いた。好きなシシュウをしているのと同じですね」
読書傾向は、ゆきがかり上、私の名が先に来てしまっているが、太宰治、平井和正、半村良、井上ひさし、北杜夫、トーマス・マン、萩尾|望都《もと》、大島弓子が同一線上にある乱読派、音楽もビートルズ、クイーン、ショパンが同居。入選作執筆中のBGMはチャイコフスキーの「くるみ割り人形」だった。
SFにも新しい世代という形の結びであった。話を聞くと、とくに平井和正のファンのようである。
第二作の「ずれ」は、お読みの通りである。奇妙なストーリーで、巧妙な手品を見せられたような読後感が残る。文章も快調。
なぜだかわからないが「莫迦《ばか》」という語を多用している。戦前派の私には、なつかしいものだ。「馬鹿」でも「バカ」でも「ばか」でもない。軽い親しさといったものが含まれている。
各作品に共通して、けっこうむずかしい字を使いこなしている。誤りなしに、語感がぴたりとおさまっている。本人の才能なのか、そういう世代なのか、ちょっとした驚きである。
そして最新作が「大きな壁の中と外」である。まさに力作。核戦争後の未来を舞台にした、凝った構成の作品。これで実力がはっきり示された。
三作に共通していることだが、作者と大差ない年齢の女性を登場させ、それに語らせる形式をとっている。手法としてすなおで、むりに背のびをしているという印象を与えず、品のよさも保たれ、どぎついシーンもさらりと処理できる。また、本来の意味のユーモア、内部からにじみ出るもののことだが、それもただよわせられるのだ。
ひとつの利点であり、存分に活用すべきである。早い話が、田辺聖子さんだって、佐藤愛子さんだって、いや男性作家にしろ、だれもがやっていることなのだ。もちろん、さまざまな実験もあっていい。要はその作品が、読者を楽しませるかどうかである。
本書は意義のある一冊だ。しかし、これが記念碑になってしまっては困るわけで、よりよいものへの出発点なのである。期待している人も多い。あせることなく、着実に進んでもらいたいと思う。
[#地付き](『あたしの中の…』解説 奇想天外社 昭和53年12月)
――またも解説――
この本の出版社の曽根さんから、電話があった。
「新井素子さんの新作の解説を、書いてくれませんか」
「やってみるかな」
つい引き受け、しばらくして、しまったと思った。そのことは、回想のあとに書く。彼女の第一短編集『あたしの中の…』で、私は解説を書いた。
ちょうど十年前、しばらくの休刊前の「奇想天外」誌で、新人賞の募集があった。最終選考で、小松、筒井両氏を相手に、これぞ将来性のある、すぐれた新人と私が新井さんを強力に推した。
議論になってしまったが、それは古くからの仲間だから、他人行儀でなく、言いたいことが言えたのだ。それに、根本的な問題で対立したのではない。
ただ、両氏は「文章がどうも」と難色を示し、私はこの文章にユニークな個性を感じただけである。この点については、私たち三人、現在の文章をお読みになればわかるように、自分の主張を通している。
その席に、同誌の編集長としてそばにいたのが、曽根さんである。彼としても「奇想天外」が復刊となり、なつかしい思いだろう。私もそうだった。
しかし、しまったなのだ。その時は、私も勢いに乗って解説を書いた。少しでも多くの人に読まれるよう期待してだ。で、現在となってみると、事情はすっかり変ってしまった。なにも、私が解説することもなくなってしまった。
新井さんの本については、私よりも多く読み、より深く共感している人が、圧倒的に多いのだ。やりにくいね。私も十歳の年齢が加わり、新井さんの読者層の平均年齢との差は、開く一方。
デビューのあと、気になるので本が出るたびに読んだものだ。とくに『…絶句』は、力作だった。その構成の妙に感心させられた。これで安心と思った。それから『結婚物語』のような分野にも、手をひろげた。これも、読者のほうがくわしいだろう。私は参考にしようにも、そうもいかず、目を通した程度である。
「SFアドベンチャー」誌の別冊で、新井素子の特集号が出た。そのなかで、私へのインタビューがあった。私が答えて、彼女の文体には読者個人に語りかける感じがあると、私は言っている。
この文を書いている時、太宰治展が開かれていて、語りかけ文体が特色との解説を見かけた。そのもとは、ここなのだ。新井さんの愛読書のなかに、太宰の本があるのを知り、気づいた。新井さんが出てこなかったら、私も太宰の文体の秘密を知らないままだったろう。簡単そうでいて、亜流の出ない点も同様である。
ひとつのメロディー。強烈さの競争で忘れられかけていた、普遍性のあるメロディー。そう言いかえてもいいだろう。いずれ、太宰メロディー論も出てくるだろう。
それと、新井さんの支持者の厚さは、読者に対して、すなおなところに原因があるのだろう。自分に対しても、正直なのだ。まともに面白い作品を、提供している。
いまの世に、サイバーパンクという用語が、わけもなく歩きまわっている。なんのことなのか、わけがわからない。けちをつけたのは、私が最初かな。
新井さんの出る少し前には、ニューウェーブという用語がうろついていた。それはすっかり忘れ去られ、だれひとり文字にしない。こういうさわぎに巻き込まれたら、作家もだめになる。もともと、売れない人のやっかみなのだ。
あと、これは断言的には言えないのだが、新井さんの作は、マル字時代にふさわしいものかもしれない。応募原稿の印象と重なっているせいもあろうが、感性として関連がありそうだ。
現在の新井さんは、ワープロで清書し、筆跡を見る人は少いだろうが、一行アケの部分に、なにかのマークを入れるところなど、なごりを見ることができる。ということは、時代がうんだ作家ともいえる。
小説は、最終的には活字媒体によるもので、当り前のことだ。しかし、いろいろと選者をやっていると、文字との関連もあるような気がする。万年筆、細書きサインペン、ボールペンと、私の文体も変ってきたようだ。時代のせいかもしれず、ワープロの普及を考えると、深く論じにくいが。
これも現時点での話だが、俵万智の短歌が大変なブームである。私もかなり早い段階で買ったものの、こう一時代を築くとは思わなかった。
新井さんの作品が広く読まれているのを下地として、こういう短歌が出現してきたようにも思える。
俵短歌を高く評価したがらない古い人もいるだろうし、新井さんの作についても同様だろう。時代から生れたものは、そうなる。太宰だって、とくに高い評価を受けてきたわけではない。
今回の中編について、曽根さんは「あたしの中の…」の共通点を口にした。そういえばと思った。つまり、自己確認への心の動きである。
これは、ほかの作品についても、いえそうだ。多くの人の関心をひくテーマだろう。書きやすいともいえるが、小説として読まれるには、かなりの才能を要求される。
読者に、こうなるのではないかと予想させながら、意見をはさみ、展開させる。その意見に対して、賛成する人も、反対する人もいよう。しかし、それに参加できるよう、明快に表現してくれているのがいい。
先日、ひまをみて老荘思想の本を何冊か読んだ。ある学者の文章で、ご本人にもわかっていないのではないかというのを読んだ。こういうのは、困りますなあ。なにか、気の毒になってくる。
もう一作の「ネプチューン」は昭和五十六年に「SFマガジン」誌に発表され、翌年に星雲賞を受けた作品とのこと。
論じてもいいけど、お読みになれば、解説もいまさらだろう。構成もいいし、遠い別世界への思いが、伝わってくる。そういえば、この二作とも、ラストがいい感じですね。心に残るものがある。
ハインラインは死去するし、サイバーパンクはあだ花だし、SF界はどうなるのだろう。スピルバーグは、どこまでがんばるか。なんらかの形でルネッサンスが起るのか、それを見たいものだ。
当分は、各人の個性で読者を引きつける時代だ。だれでも知ってるわけだが。漫画も「ぼのぼの」がヒットし、杉浦日向子のレトロ物が受賞する。予想しにくいのは、集団の時代でなく、個性の時代のためだろう。
こういう世の中で、新井さんのように、安心してその世界に接することのできる存在は、多くの人にとってうれしいことだ。
[#地付き](『今はもういないあたしへ…』解説 大陸書房 昭和63年7月)
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藤井旭
――私設天文台――
河出書房のR氏が、白河へ星を見に行きませんかという。見るのはいいが、わざわざ出かけて行くのもおっくうである。執筆多忙というわけではないが、作家生活が長くなると、また五十歳を越えると、わけのわからん義理のある雑用がふえてくるのだ。
そのうち、ある出版社から講演の依頼が来た。最近は講演ぎらいになっているのだが、その依頼をしてきた人には、以前かなり世話になっている。どれだけ引き立ててもらったことか。そのころ書かせてもらったショートショートが、いま文庫で売れつづけている。ことわれないのだ。
場所はと聞くと、日立、いわき、白河、今市である。いわきは亡父の出生地。銅像が立っており、毎年、べつに日はきめてないのだが、花を供える行事をすることになっている。ついでに、それをすませることにしよう。
といったようなわけで、白河へ立ち寄ることになった。六月十五日。星という姓は福島県から新潟県に多いが、白河はとくに多い。また、日立やいわきほどだだっ広くないので、なかなかの盛会だった。講演が終ると、女子中学生が大ぜい寄ってきて、時ならぬサイン会。悪い気分ではなかった。
ここの講演会はロータリー、ライオンズ、両クラブの後援。私はその人たちに言った。
「天文台を見学するつもりです」
「そんなもの、ありませんよ」
わけがわからん。しかし、旅館に着くと、河出の人と、初対面の藤井旭さんが迎えに来てくれた。車に同乗する。本当にあるんですかと聞くと、藤井さん、
「私設のものです。関心のない人に来られると困るので、ほかの人に場所を教えないで下さい」
そういうことだったのか。私は方向音痴というわけではないが、容易なことでおぼえられる道順ではない。行きついてみると、しゃれた別荘兼天文台があった。午後の三時ごろだったか、まだ明るい。
屋上には、大小さまざま、各種の望遠鏡がそなえつけてある。地球の自転に合わせて動く装置。つまり、ひとつの星を自動的に追いつづけられるのだ。私の天文への知識たるや、それに驚くほどとぼしいのである。
太陽の黒点を見せてもらう。黒点とは、十一年周期で現われたり消えたりするもので、ガリレオがはじめて望遠鏡を作って観測したあと、しばらく黒点は非常に少ない時期があったとのこと。これも私には新知識。
金星も見た。三時半に金星が見えるとは。かくも明るい星なのだ。UFOと誤認されることがあるのも、むりもない。半月状をしていた。
ここは、すばらしい場所である。白い花をつけた山ぐみの木が各所にあり、美しい。ウグイスが鳴いている。遠くに那須の山々。視界が広く、なるほど天文台の適地だろう。
いったん白河の町に戻って講演し、ふたたび天文台を訪れる。あいにくと曇っている。藤井さんは、ご自分では飲まないのに、ビールを出して下さった。それを飲んでいると「ちょっと雲が切れそうですよ」と呼ばれ、わずかな時間だが、月面のクレーターを見ることができた。
「ブラックホールを見たいですね」
ばかげたことを言うのは、私の癖なのである。もっとも、まともなことも聞く。
「どんな点が魅力ですか」
「銀河系のなかで、宇宙に浮いているってことを実感しますねえ」
これは印象に残る言葉だった。藤井さんは、天体写真集の本を出版している。星の散らばった写真を見て、これはどの方角と、すぐわかるそうである。私のような門外漢は、またまた敬服する。
その夜は地元の人との宴会の約束もあり、あきらめざるをえなかった。帰京してから、藤井さんのエッセイ集を読んだ。面白い内容である。感覚がすなおに読者に伝わってくる。こういうのを名文というのだ。また、絵もうまく、ユーモラスである。
考えてみると、SF作家のなかに、天文にくわしい人はほとんどいない。私もひどいものだが、多くはそれ以下である。同じ星でも、天体の星と、SFのなかの星とはちがうのだ。
藤井さんは熱心だし、天文ファンはかなり多いらしい。人をひきつけるものがあるらしい。しかし、それに引き込まれると、おそらくSFは書けなくなるだろう。
「スター・ウォーズ」も「宇宙戦艦ヤマト」も、SFの星である。なまじ天文の知識があったら、ああまで奔放には作れなかっただろう。
私はある雑誌の企画で、香港と台湾で四柱推命、つまり中国古来の星占いを取材し、なにかあるような気がしはじめている。たぶん、天文ファンの人には笑われるだろう。
天文ファンは、宇宙の実体を正視する。うらやましいほど純粋である。天体は人を裏切らない。おそらく、足をふみこんだら、やみつきになるだろう。
あいにくの雲で、太陽系しか見えなかったというのは、まだ私にSF作家であれということなのかもしれない。しかし、いずれ、私も大型の望遠鏡を買うつもりだ。
その時になって、なぜもっと早くと後悔するか、やっぱりSFが書けなくなったとつぶやくか、どっちだろう。
[#地付き](季刊「星の手帖」 昭和53年秋季号)
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秋竜山
――ショックのあとに笑いが……――
秋さんの漫画は、文句なく面白い。
しかし、こういったアイデアをひとつでも出せるかとなると、ほとんどの人はお手あげだろう。
その点は、私だって同様。これなら笑ってくれるだろうという図柄は、ぜんぜん頭に浮かんでこない。作家であるため、思いつきが小説的になってしまうせいもあろう。
漫画の専門家の頭の構造のちがいを、あらためて知らされ、異様な気分になってくる。しかし、なにもそこまでつきつめて考えることはない。見て面白がればいいのだ。秋さんだって、それを目標に描いたのである。
銀座の資生堂で、秋さんの孤島漫画千点の個展が開かれた。
壮観であり、才能の乱舞といった感じでありながら、人びとは楽しげなムードにひたっていた。
私はアメリカのヒトコマ漫画、とくに孤島物を収集しているが、わが国のほうがはるかにレベルが高い。多民族、多宗教の集合国家のため仕方ないのだろうが、アメリカのヒトコマ漫画は発想がアマチュア的で、絵に個性がない。もっとも、アメリカ人の平均的思考を知る参考にはなる。
アメリカの孤島物は小道具(タイプライターなど)や人間関係(上役と下役など)にたよるのが多いが、秋さんのに、そういうのはあまりない。気づいた点である。
とにかく、こういう分野では、秋さんはわが国においてずば抜けた才気の持ち主である。ヒトコマ漫画は日本では発表舞台も少なく、なげかわしい。それにもめげず、千点の快挙をなしとげたことに敬服する。数の点ではギネスブックにのって当然であり、内容的にはいずれ本にまとまれば、未来における古典となるだろう。
[#地付き](『秋竜山のロビンソン・クルーソー』解説 大陸書房 昭和53年12月)
秋さんの漫画は、まずショックで、そのあとに笑いが来る。ぶきみな漫画を描く人はけっこういるが、ショックとなると、ほかにいない。まことに珍しい才能である。
それに、なによりもすごいのは、その量産ぶりである。ヒトコマ、あるいは数コマの漫画は、劇画とちがって、ひとつひとつに新しいアイデアを必要とする。それを、時事風俗に関連させず、つぎつぎとこなしているのだから驚きだ。
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ハーバー一族
――ふしぎな縁――
年末、函館の深瀬|鴻一郎《こういちろう》さんから電話がかかってきた。どういうかたかの説明は、のちほど。こういう内容だった。
「ハーバーさんが二十八日ごろ、ロンドンから来て、東京のプリンス・ホテルに宿泊されますよ」
「なんで、こんな時に」
「国際会議があるとかで」
それが本当なら、あいさつをかわしたい。私はそういうことにくわしい友人に、面会できるよう依頼した。つまり、ホテルにメッセージを入れてもらったのだ。ハーバーさんには、ちょっとしたつながりがある。
彼の父は、フリッツ・ハーバー博士。平凡社の『大百科事典』と、アシモフ著の共立出版『科学技術人名事典』をもとに、どんな人だったかを紹介する。一八六八年(明治元年)うまれのドイツ人。
ゆたかな家庭だったらしい。成長するにつれ、理科的な分野、とくに化学に興味を持ち、ベルリン大学をはじめ多くの大学で学び、学位を取り、大学教授となる。さらに、カイザー・ウイルヘルム研究所が創立されると、物理化学および電気化学の部門の所長となる。学術のみならず、組織運営の才能もそなえた実際家だったのだ。
ハーバー博士の業績の最大のものは、空中窒素固定法の発明である。それ以前、窒素化合物の原料は、南米チリからとれる硝石しかなかった。肥料や火薬を作るには、それにたよる以外にない。
しかし、窒素そのものは、大気中にいくらでも存在している。なんとかならぬものか。世界の化学者たちは、その方法を求めていた。だれが先になしとげるかである。
そんななかでハーバー博士は、高圧下で鉄を触媒とし、窒素と水素を結合させ、アンモニアにする方法をみつけ、一九〇八年(明治四十一年)、その実験に成功した。
チリの硝石は有限である。一方、窒素化合物への需要は高まる一方、早くいえば、人類と文化の救い主ということになる。
ところが一九一四年(大正三年)に第一次大戦がはじまった。ヨーロッパの各国、入り乱れての戦争である。イギリスは敵であるドイツの息の根をとめるため、海軍力を動員し、硝石の入手を妨害した。
そのあげくドイツの火薬類は原料不足で底をつき、降伏となるはずだった。しかし、ドイツは窒素の生産を高め、火薬に不自由しなかった。なにしろ、原料は大気なのだ。
肥料と火薬。火薬かならずしも戦争用とは限らないが、対照的な取り合わせである。飛躍した発明には、有益と危険の両面がともなうものなのかもしれない。
戦争への利用に関し、ハーバー博士は悩んだりしなかった。心の底からの愛国者だったのだ。自分の発明が祖国のために役立つのを見て、満足感を味わった。
また、ガス戦の計画をたて、推進し、戦線での指導までした。毒ガスというと非人道的な兵器で、のちに国際法で禁止されるに至ったが、当時においては新戦術だったのだ。
ハーバーの弟子にベルギウスという化学者がいた。彼は石炭や重油を水素で処理し、ガソリンにする方法を発明した。さらに、木材を分解し、糖分やアルコールを作る方法も。
つまり、ハーバー博士を中心とする頭脳集団は、ドイツの戦力に大きく貢献したのだ。しかし、一九一八年(大正七年)力つきてドイツは降伏。ベルサイユ条約に調印。多額の賠償金の支払いの義務をおわされた。その時、彼は国のためにと、海水から金《きん》を採取する研究をおこなった。もっとも、不成功に終ったが。
敗戦国の人とはいえ、とにかく偉大な学者である。戦いが終ったあと、ハーバー博士はノーベル賞を受けた。
ここで、私の亡父、星一《ほしはじめ》に話を移す。星はアメリカへ渡って苦学して大学を出て、帰国、製薬事業をはじめ、明治四十年には株式会社にし、内容を充実させていった。
それからの事業は、順調をきわめた。まず、イヒチオールの国産化、そのあと、モルヒネの国産化。いずれもドイツから高値で輸入していた薬品である。
少し横道にそれるが、国民性の差を科学と産業の面で見ることができる。イギリスは蒸気機関の発明による産業革命で、驚くべき成果をあげた。ドイツの医学はいうまでもないが、薬品についても炭鉱に恵まれているためか、高い水準を示していた。そこへゆくと、アメリカは電気である。広大な国土での通信という必要のためであろう。
そこで、大戦。日本は日英同盟を理由に、ドイツに対して参戦。大陸のドイツの利権を奪い南洋諸島を占領。いい気分だった。一時的な経済不況はあったものの、たちまち輸出が増大し、あらゆる産業が高利益をあげはじめた。成金という言葉も、この時にできた。
星製薬も同様。輸出品ではないが、ドイツからの薬品の輸入がとだえ、内需の大部分を引き受ける形になったのだ。
やがて、戦いが終る。時の政界の大物、後藤新平は、若いころドイツで医学を学んだことがあった。
後藤は星にそのことを話した。
「気の毒でならない。すぐれた学者たちがなんの研究もできないでいるらしい」
「なんでしたら、わたしがドイツの学界に寄付をしましょう」
星製薬としては、大戦のおかげでもうけたともいえるのだ。この前後については、私の『人民は弱し官吏は強し』という本で詳述した。
まず、八万円が送られた。中堅会社員の給料が三十五円ぐらいだった時代である。ドイツの学者たちは喜んでくれた。なにしろ、賠償の取り立てを狙《ねら》う国ばかりというなかでのことだ。あまりよくなかった対日感情も好転した。
そして、大正十三年(一九二四年)の十月、ハーバー博士が来日した。ノーベル賞の化学者、また星の寄付した資金を管理する学術後援会の会長でもある。この会はのちに、日独文化協会となる。
答礼をかねた、学術交流のための文化使節。そんな形での来日と思っていたが、昭和六年に岩波書店から出版された『ハーバー博士講演集』を読みかえしたら「星一氏の招待による」とあった。二カ月間の滞在、私の父は北海道から、箱根、関西まで案内した。意気投合し、たえず論じあっていたらしい。
まあ、そういった関係だったのだ。
『講演集』はそう厚くはないが、充実した内容である。当時の日本の各分野でのアンバランスの指摘など、まさにその通り。批判すべき点は、遠慮なくやっている。しかし「日本もドイツも、アメリカとちがって資源が少ない。教育の向上によって国を富ませるのがいい」と、すぐれた忠告もしている。空中から窒素を取り出した人の話だと、説得力がある。
しかし、亡父の事業は、後藤新平の勢力を弱めようとの政治的な陰謀に巻き込まれ、それまで順調だったのがうそのように、たちまちゆきづまり、昭和八年ごろまでの長い苦難の時期をすごすことになる。
一方、ハーバー博士も同様。典型的な愛国者だったのに、ユダヤ系であった。そのため、ヒトラーが政権を取ると、地位を追われた。昭和八年、イギリスに移ったが、そこの生活になじめず、スイスに行き、翌年、失意のうちに世を去った。
さて、最初に書いた函館の深瀬鴻一郎さんについて説明する。本業はお医者さんで、絵を趣味とし、郷土史の研究もなさっている。以前、とつぜん私のところへ、電話がかかってきた。自己紹介のあと、
「星さん、あなたのお父さんが来日したハーバー博士を、北海道へ案内しましたね。わけをご存知ですか」
「さあ……」
広大な北海道の開拓への案を求めて、といった想像しか浮かんでこなかった。
「博士の叔父さんの墓が、函館にあるのですよ」
「それは知りませんでした」
つづいて、資料が送られてきた。
幕末の安政元年(一八五四)、幕府は外国の力に屈し、下田を開港。つづいて六年、神奈川(横浜)、長崎、箱館(函館)を開港、各国の領事館ができる。
ドイツがいつから函館に領事を置くようになったのか不明だが、明治七年(一八七四)二月、ルードウイッヒ・ハーバーが着任した。三十二歳の独身の青年外交官。
前任地の熱帯でマラリアに感染し、しばらく静養をつづけた。八月十一日、気分がよくなったと、函館の町の散歩に出た。これが不運のもととなる。
旧秋田藩士の若者が、この地に来ていた。学んできた国学は、文明開化の世では、なんの役にも立たない。廃藩置県で武士の価値はなくなる。いばれるのは薩長土肥の者だけ。下級士族の不満の高まっていた時代である。
こうなったのも、外国のせいだ。まさに短絡だが、人間、思いつめるとなにをやるかわからない。だれでもいいから外国人をひとり殺すことで、世に訴えようと考えた。
たまたまその目標にされたのが、ハーバー領事。いくら同情しても、しきれない。その死体についての報告書を書いたのが、深瀬さんの祖父とのこと。
函館開港以来の事件だが、計画的なものが背後にあったのではなく、犯人の私憤ということで、ドイツは寛大な扱いをしてくれ、加害者の処刑だけで解決。
さわぎたてられたら、明治政府は青くなったところである。
遺体は、函館の外国人墓地に埋葬された。死後五十年には、そばに碑が建てられた。大正十三年で、来日したハーバー博士によって除幕がなされた。いろいろと新知識をえた。
深瀬さんは、そのご上京の時に、拙宅に寄られ、お会いできた。そして、今回、ハーバー博士のむすこさんの来日を知らされたというわけ。
連絡がとれ、私はホテルに出かけた。西谷君という英語のうまい友人とともにである。こみいった会話となると、手におえないのだ。
最上階のバーにいると、ご本人があらわれた。背は私と大差ない。やせぎみの、白髪の多い、おとなしそうな、にこやかなかたである。
博士の叔父と同じく、ルードウイッヒという名。略してルッツと呼んでくれという。
大ざっぱに暗算し、私はかなりの年配の人だろうと思っていた。
「おいくつですか」
「五十七歳です」
私より五つ上だ。家系図を書いて説明してくれた。ハーバー博士の二度目の夫人とのあいだにできた、一男一女の一男に当る。一女はスイスで存命。前妻とのむすこ、つまりルッツさんの兄に当る人は、だいぶ前にパリで死亡。
「函館でなくなられたかたは、博士の伯父さんですか、叔父さんですか」
「さあ、わかりません」
知らないのだ。兄か弟かにこだわるのは、東洋の風習である。深瀬さんの文には叔父とあり、当時の新聞には伯父とある。
ルッツさんは持参の写真を出した。
「あげましょう」
複写して引き伸したもの。ハーバー博士、夫人、私の父がうつっている。夫人を連れての来日だったのだなと、気づく。外国ではそれが普通なのだ。
大きな頭、はげあがっている。丸顔、口ひげ。背は私の父と大差ないが、かっぷくがよく、軍服のほうが似合いそうだ。夫人は若々しい。ルッツさんをうんでまもなくという計算になる。ハーバー博士はこの時、五十六歳。
私の亡父は思い出す限りでは、みごとな白髪だが、この写真だと黒さがいくらか残っている。五十一歳の時だ。
「ふしぎな縁ですなあ」
と私。西谷君がどう訳したか知らないが。
ルッツさんはウイスキーのストレートを小さなグラスで飲み、あとは水だけ。
経済と統計を専攻し、化学関係の会社などにつとめ、現在は大学教授。一月五日から、静岡で国際会議があるのだそうだ。元日には、浅草へ着物姿の女性を見に行くとのこと。
かなり前にも、来日しているようだ。
「その時の函館には、碑がありませんでした」
終戦の少し前、ドイツが連合国に降伏すると、軍の手によって埋められてしまった。社会が落ち着いてから、掘り出され、ふたたび日の目をみるようになったのだ。
写真を見ていて、思いついて質問した。
「奥さんは……」
「背骨の病気で、ロンドンにおいてきました」
夫人は再婚で、連れ子がいるとか。私は持参してきた、ジャパン・タイムズ社刊の英訳短編集をさしあげた。
「おお、サイエンス・フィクション。ファンタスティック……」
喜んでもらえた。また『人民は弱し官吏は強し』をおずおず差し出すと、そういう本ならぜひ下さい。だれかに読んでもらいますと、受けとってもらえた。
いい気になって書いてしまったが、こんな話、私以外の人にとって、どこかで面白さを感じてくれただろうか。
[#地付き](季刊「明日の友」 昭和54年春季号)
この一文は『きまぐれエトセトラ』にも収録。手ちがいが重なったためで、ご容赦ください。
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梶尾真治
――SFと育った作者――
梶尾真治のこの一連の短編を読み終って、いま私は、すごくこころよい気分にひたっている。久しぶりに、すっきりしたSF短編に接したからである。
といって、ほかの作家たちのが、すっきりしていないというのではない。しかし、最近の傾向として、短編においては、個性を強調したものが多いのである。また、世界的な傾向として、作品が長くなりつつある。短編の比率がへり、中編、長編がふえている。そんな状況もあってこのような作品は、すがすがしさを示す。
先日、なにかの帰りに銀座のバー「まり花」へ寄ったら、「SFマガジン」編集長の今岡さんがいて、そばの青年を私に紹介した。
「梶尾真治さんです」
「それはそれは」
われながら、妙なあいさつだった。そのうち、今岡さんが言った。
「彼の短編集を出すことになったので、解説を書いてくれませんか」
「やりましょう」
引き受けてしまった。しかし、内心、どんな作風なのか、ぜんぜん思い出せない。私は梶尾氏に聞いてみた。
「前にお会いしましたっけ」
このとしになると、こういうことが平気で聞けるのです。
「これで二回目です」
一回目がいつだったのか、記憶にない。というわけで、酔っていたせいもあるが、さほど面識のない人の解説を「いちおう読んでから」との条件もつけず、引き受けてしまったのである。
それには理由がある。梶尾真治、略してカジシンの呼称は、好ましい印象をもって、私の思い出のなかに存在しているのだ。それがあったからだ。私もさほどのお人よしではない。
やがて、略歴が送られてきた。私のはじめて知ることも多く、読者も興味を持つだろうと思えるので、それを引用することにする。
梶尾真治は、昭和二十二年の十二月二十四日、つまりクリスマス・イブに九州の熊本市に生まれた。もの心つくころからSFに関心を抱き、手塚治虫の「メトロポリス」「鉄腕アトム」に熱中。また、家族にねだって「放射線X」「原子人間」「禁断の惑星」などを見たり、ジュブナイルSFを読んだりした。
そして、小学六年の正月に、お年玉で「SFマガジン」の創刊号を買った。たまたま目次を見て、わくわくするような題名にひかれたのだそうだ。それをきっかけに、のめりこみはじめる。
SFの単行本のこれ一冊となると、各人各様の答がかえってくる。しかし、雑誌についてとなると、多くの人がこの創刊号をあげるのではなかろうか。福島正実氏の最大の業績である。万人を引きつけるものがあった。そのご、どうかと首をかしげる号があっても、創刊号の感激を思い起し、買いつづけた人がかなりいたはずである。
版権などやっかいな問題もあるだろうが、覆刻版を出せないものか。短編集に収録されていない作品が多いのだ。
話が横にそれたが、中学二年の時に「宇宙塵」の同人となる。柴野さんから「最年少の会員でしょう」との手紙をもらったそうだ。当時においては、驚くべきことだったのである。
「宇宙塵」の創刊の時から同人に、光波耀子さんがいて、熊本に住み、いい作品を時おり発表していた。梶尾少年は彼女をたずねて、いろいろとSFの話をしたらしい。読後の感想もまじえてであろう。
福島氏は「SFマガジン」の刊行とともに、ある方針のもとに、長編SFの翻訳の出版も進めていた。それによって、順次にSFの名作に接していった人も多い。梶尾真治は、その世代の最年少ともいえるのだ。
現在ではスペース・オペラ、平井和正、小松左京、筒井康隆と、SFへの入口や経路はさまざまである。星新一のを読んだのがきっかけでという人もあるだろう。どちらがいいとは断定できるものではないが、昔は順序というものがあったのだ。
梶尾真治はやがて、福岡の舟越辰緒、松崎真治さんらとファンジンのはしり「てんたくるす」を結成。そこや「宇宙塵」に作品を発表しはじめる。そのころの「もっともな理由」という掌編を、私にほめてもらったことがあるという。
また、「SFマガジン」の裏表紙で、パイロット万年筆がスポンサーとなり、ショートショートの募集をやり、私が選者を担当したこともあった。月に百編以上も集まっていた。それにも入選したことがあるという。
つまり、私は本人をぜんぜん知らず、作品によってカジシンの名を知っていたのだ。そんなに年少とは知らず、社会人かと想像していたような気がする。
そのころ私は、いいなと感じたショートショートを読むと、賞賛の葉書を書きたくなるのだった。広瀬正の「もの」もそのひとつで、彼を喜ばせもしたが、そのため、長編作家という本質の発揮をおくらせることにもなってしまった。もっとも、世の中、SFは短編しか発表の舞台のない時期が長かった。
梶尾真治は、アポロ11号が月へ着陸した昭和四十四年、福岡大学経済学部を卒業。万国博の開かれたその翌年、本書に収録の「美亜へ贈る真珠」が「宇宙塵」から「SFマガジン」に転載された。抱負として「ヴィアンのセンス、シェクリイの風刺精神、フリードマンの描写力、アポリネールの詩情……」をめざすと書いている。
前後して登場したのに横田順彌、堀晃がいる。横田順彌はヨコジュンである。堀晃はなぜか、ホリアキラとつねにフルネームで呼ばれている。
この世代の三人とも、しばらくの休止期間を持つに至る。SFに熱中して成長し、社会へ出る。そこにはきびしい現実がある。二つを両立させるわけにいかず、仕事を優先させざるをえなかったのだろう。しかし、それがあとで役に立つのだ。
そして、昭和五十三年四月号の「SFマガジン」に「フランケンシュタインの方程式」を発表したのをきっかけとし、執筆意欲がよみがえり、コンスタントに作品がうまれるようになった。
一昨年の「宇宙塵」二十周年のパーティに参加、その時、私とはじめてあいさつしあったとのこと。堀、横田両氏の活動再開に刺激されたようだ。
ところで作品の解説だが、ああだこうだとつけ加える必要のあるような難解な点などない。お読みになればおわかりのように、一作ごとに新しいアイデアをいかし、それがバラエティに富んでいる。
「時空連続下半身」には、とくにびっくりさせられた。さりげなくユーモアを盛り込みながら、結末の壮大な意外性へと展開するのである。
「美亜へ贈る真珠」や「詩帆が去る夏」のリリシズムもいい。わりと短いが「さびしい奇術師」は私の好きなタイプである。
文章にくせがなく、品のある作品世界が形成されている。すんなりと伝わってくるなつかしさのようなものを、私は感じた。それはつまり、同じような順序をふんでSF作法を身につけた者同士だからであろう。
こういった作品はもう味わえないのかとあきらめかけていた。しかし、その書き手が熊本という地でひそかに純粋培養されていて、思いがけない出現となった。うれしくてならないのである。
この調子で書きつづけていってもらいたいとも思うし、徐々に独自の個性を示してくるのかもしれない。いずれにせよ、将来が楽しみだ。SF歴は長いが、まだ若いのだ。現在、三十一歳。
昼間は本業の仕事、執筆は夜とのこと。マイペースで書き進めている。その持続についての自信もあるようだ。地の利もあり、変な注文に追いまわされることもなさそうで、いい状態にあるといえそうである。好短編の書ける才能という点で、まことに貴重な存在である。
この第一短編集の解説を書かせてもらったことが、将来、私にとって光栄になるのではなかろうか。実力のある、さまざまな可能性を秘めた人なのである。
[#地付き](『地球はプレインヨーグルト』解説 早川文庫 昭和54年3月)
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田中武次郎
――長いつきあい――
このところ小松左京と私は、気分がさえない。電話で話しあっても、会って酒を飲んでも、さっぱりとしないのだ。というと、SF界になにやら厄介な問題が発生したと思われそうだが、そうではない。
すなわち、「小説新潮」の私たちの担当編集者である田中武次郎氏が、よその部へ移ることになった。すっかりなれ親しんだ人だけに、なごり惜しい。しばらくは調子が狂うのではなかろうか。
つきあいはじめて、どれくらいになるだろう。「小説新潮」から最初にやってきたのは、柳さんという若い人だった。ミステリーがブームになりかけ、「別冊小説新潮」が推理特集をやり、前代未聞の雑誌の増刷をやったころである。
柳さんはいつも車を運転して原稿を取りに来た。さほど車の普及してない時期で、出版社づとめはかくも収入がいいのかと、びっくりした。ガソリン代は社が出してくれるとのこと。あとで知るところによると、父上が広告代理店の社長。どうりでである。そして、まもなくその会社の仕事を手伝うため、新潮社をやめてしまった。
その後任が田中さんである。別冊の特集が昭和三十年の暮。そんな見当から、田中さんが担当になって、十五年は優に越している。
私よりいくらか年長で、地味な人というのが第一印象。校正部から「小説新潮」に移ったのだそうだ。この校正出身ということが、しだいに私を安心させていった。
いつだったか、他社で出した本を進呈したら、ぱらぱらとめくり、さっと誤植を見つけ出した。また、つまらぬ作家がつまらぬ雑誌に、旧かなの文をのせたことがあった。いやらしい上に幼稚で、私にもいくつかおかしな点が発見できた。それを田中さんに見せたら、たちまちその何倍かを指摘した。こういう人なら、原稿を渡して大丈夫というものだ。
仕事なら当り前と思っている読者が多いだろうが、誤植は意外にあるものなのだ。どういうつもりか、文字づかいを無断でなおされ、不快な気分にさせられたこともある。それをやった雑誌は廃刊になり、出版社のほうは倒産した。
また、ある雑誌で、結末のほうでいやに改行のふえたことがあった。変だなと思い、やがて、文章をページの終りに合わせるためと判明したりした。その雑誌では、さか立ちのイラストを、上下逆にのっけたこともある。バンザイの形になっている。読者は気づかなかったらしいが、大珍事である。
こういう例は、けっこうあるのだ。平気な作家もいようが、私は敏感。よそでの体験を重ねるにつれ、田中さんの価値がしぜんに高まってくる。たぶん各作家によって、それぞれ文字づかいの癖がちがっているはずで、それをのみこんでいなければならぬのだから、容易でない。
原稿を渡すと、二日後あたりに電話をかけてきて、いやあ、今度の作品のあそこはいいですねえと、どこかしらほめてくれた。いいはげましになった。とくにSFにくわしい人でないはずなのに、的はずれでない評なのだ。ならば一般読者もそう受けとってくれるだろうと、ひと安心する。
いつだったか小松左京に話したら、彼の場合もそうだとのこと。彼と私とは作風がだいぶちがう。「小説新潮」の小松さんの作品を読むと、田中さんはどこをほめたかなと思ったりした。
ほかの雑誌は編集長が交代すると、ばったり注文がこなくなったり、逆にわっとふえたりした。その点、「小説新潮」に関しては、十数年一日のごとく、定期的に短編を書かせてくれた。だから、おたがい気心のわかった仲になれた。
私の『明治の人物誌』の十編のうち八編は、「別冊小説新潮」にのせたもの。資料やイラストについて、あれこれ相談した。あの本にはあとがきがないので、ここに感謝の言葉を書いておく。田中さんが担当でなかったら、途中で休んでいただろう。
田中さんは某作家の担当でもあり、その作中人物にされたこともあるのだ。ひょうひょうとした人柄があらわれている。しかし、かなりデフォルメされていて、とんでもなく書かれている部分もある。編集者も大変だなと、これには同情した。
田中さんは校正部へ戻って、しばらくからだを休めるのだという。私みたいに紳士的で締切り厳守の作家ばかりじゃないから、胃も悪くなっただろう。
先日、アイトというドイツ人の版画家の個展へ行き、一枚を買った。その夫人が、田中さんのいとこに当るとのこと。それで案内状が来たのだ。幻想的な画風である。
作家が書いてから読者の目にとどくまでのあいだに、このような人が存在しているのである。
[#地付き](「日本推理作家協会報」 昭和54年6月)
[#改ページ]
シラノ・ド・ベルジュラック
――架空対談――
[#ここから1字下げ、折り返して3字下げ]
星 シラノさん。まったく、あなたはふしぎな人ですねえ。運がいいというか……。
シラノ ロスタンの作品中のわたしがか。
[#ここで字下げ終わり]
面会に先だって、岩波文庫版のエドモン・ロスタン作、辰野隆《たつのゆたか》・鈴木信太郎訳『シラノ・ド・ベルジュラック』を読んだ。旧漢字、旧かなづかい。また、なれないと戯曲は読みにくいものである。
しかし、さすが名作。また、ほめ言葉がないほどの名訳。私はたちまち引き込まれ、あっというまに読みおえた。以前に読んだせいかもしれない。また、映画化されたのを見たような気もする。
会話を進めてもいいのだが、未読の人のためにストーリーの紹介をしたほうが親切というものだ。
死にぎわに、自分のことをこう言っている。
「哲学者たり、理学者たり、詩人、剣客、音楽家、将《は》た天界の旅行者たり、打てば響く毒舌の名人、さてはまた私の心なき――恋愛の殉教者!――エルキュウル・サヴィニヤン・ド・シラノ・ド・ベルジュラック此処《ここ》に眠る、彼は全《すべて》なりき、而《しかう》して亦空《またくう》なりき」
文武両道の達人なのだ。しかるに、唯一にして最大の問題点。鼻が人なみはずれて大きく、みっともなかった。そのため、いとこのロクサーヌという美女に強い恋心を抱くが、どうしようもない。
シラノはそのころ軍隊に入っており、戦友にクリスチャンという美青年がいた。性格はいいのだが、詩や文学のセンスとなると、まるでない。ロクサーヌは、そいつに一目ぼれしてしまった。
悲劇でもあり、喜劇でもある。ここでシラノはどうしたか。自分が恋の勝利者になれそうにないと知り、ロクサーヌの幸福のためにと、クリスチャンの手伝いをする。つまり、暗がりにおいて、くどきの名文句を代弁してやったのだ。そして、二人は結ばれる。
まもなく出陣。手紙の代筆もしてやるが、クリスチャンは敵弾に当って戦死。シラノも傷つく。ロクサーヌは修道院に入り、思い出に生きる日々をすごす。
十五年後。シラノは落ちぶれたが、週に一回、修道院をたずね、その話術でロクサーヌをなぐさめる習慣はつづけている。
独自の信念のため、援助者は少なく、敵は多いのだ。その敵のひとりにやられ、重傷。それをかくして、ロクサーヌを訪れる。暗くなる庭で、戦場からの手紙を声を出して読みつづけ、彼女に「すべてはあなたが」と言われるのを否定しながら、死んでゆく。
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星 ほんとに名作ですねえ。文庫の解説に出ていましたよ。かつて、フランスの新聞が、女性読者に「最も親しみのある文学上の人物」というアンケートを求めた。一位がシラノで二八一七票。二位はダルタニアンで一六一五票。三位はジャン・バルジャンで一三三二票。また男性には「なってみたい文学上の人物」と聞くと、女性ほど大差ではないが、この二人を押さえている。モンテ・クリスト、ロメオ、シャーロック・ホームズなんかは、はるか下。
シラノ そうだろう、そうだろう。
星 男は内容。古今の真理のようですね。それにしても、あなたは作品中の人物でもあり、実在した人物でもある。
シラノ リアリティも出るというものさ。
星 しかし、現実には、ちょっと大きいといった程度の鼻じゃありませんか。ハンサムとはいえないけど。
シラノ 人間、死後は名声だよ。人なみの顔じゃあ、あのドラマは成立しない。男女をとわず、人気が集中。世は実力第一と、だれでも知ってるんだ。ハンサムなだけじゃあ、一流大学にも入れず、就職に有利でもなく、どうしようもない。せいぜい歌手だが、寿命はしれている。
星 あなたの人生は、一六〇〇年の前半。ドラマが書かれたのは一八九七年。二百五十年ほどあとで、ということになりますね。
シラノ それぐらいが、ちょうどいいんじゃないかな。虚実とりまぜた作品としては。
星 どこまでが事実か、それについての研究家も多いようですね。
シラノ 二百五十年のおかげさ。それへの興味と関心でも、人をひきつける。
星 文庫の解説文も、すべてあなたの紹介ばかり。作者のロスタンについては、まるで書いてない。こんなのは、珍しい。ほかにも作品はあるらしいけど、たいしたものではないようです。
シラノ 当り前だ。おれの霊魂がとりついて、やつにあれを書かせたのだから。
星 まさか。びっくりだ。しかし、それが本当とすると、ロスタンの業績は……。
シラノ なにも、気の毒がることなんか、あるものか。やつは、金持ちの家に生まれた文学青年。なんの苦労もしていない。才能だって、ありゃしないのさ。あったら、ほかに名作を書いてるよ。シェークスピアのようにな。あの英国人はすごいやつだ。しかし、これ一作の勝負となると『シラノ・ド・ベルジュラック』のほうが、観客動員力はあるんじゃないかな。
星 都筑道夫さんがよく引用する、佐藤春夫の「その時、その作家の頭上に、神さまがおとまりになった」という言葉。ロスタンは、そんな状態で書いた、いや、書かされた……。
シラノ ああ。しかし、やつだって、そのおかげをこうむっているよ。上演され、映画化されるたびに、名が出る。つまり、やつは『シラノ』の作者として、永遠に名が残るのだ。この一作のおかげで、忘れ去られないでいるわけだ。
星 想像してた以上の毒舌家ですねえ。
シラノ 真実には、そういう一面もあるものさ。初上演の時、おれの役をやったコクランという俳優。すばらしい出来で、いまに語り伝えられているらしいが、じつは、その時には、おれがそいつに乗り移っていたのだ。
星 モデルの人物の自作自演。しかし、まったく、すばらしいドラマですね。
シラノ 三十六歳で死んだんだぜ。せめて後世、それぐらいの賞賛は受けなくちゃあ。そもそも、生きているあいだ、だれもおれの文学的才能をみとめなかった。
星 そういえば、死ぬ少し前の場面にありますね。モリエールがその戯曲『スカパンの悪だくみ』のなかで、あなたの作品の一場を、そっくりいただいて使ったと。研究家によると、事実らしい。ドラマでは、そこが大受けに受けたと知り、あなたは言う。
シラノ それでよい。おれの生涯は人に糧《かて》を与えて、自《みずか》らは忘れられる生活なのだ。
星 まったく、名調子ですな。ひょっとすると、自作自演は本当なのかな。
シラノ 疑うのか。ぶっ殺すぞ。作品のなかでは、鼻の話をされるたびに、不快になって剣を振りまわすことになっているが、あれは、おれのハナシを信じないことへの反感のあらわれなのだ。疑惑の象徴。
星 そうでしたか。そのあと、鼻をテーマにした作品が、いくつも書かれるようになりましたね。その点でも、先駆者。
シラノ いい指摘だ。
星 ダルタニアンが出てきて、ひとことあいさつ、握手をして消えるというシーンがありますね。
シラノ そこが芸のこまかいところ。演出家はありがたがっている。芸はへたくそだが、義理があって出さざるをえない関係の役者というのの処理には、うってつけだろう。
星 この劇のテーマ、どうも日本人むきのように思えるんですが。耐える恋でしょう。『無法松の一生』のたぐいだ。それが、フランスで、かくもうけるとは。
シラノ うまくいかないから恋なのさ。調子よく展開する恋物語なんて、あるかい。おれの生きていたのは、日本においては、徳川家光が幕府支配の体制を固めたころだ。徳川時代に恋愛の自由なんかあったかね。
星 なかったでしょうね。
シラノ ヨーロッパだって、そうさ。だからこそ、シンデレラ物語なんかがうけてるわけさ。いまに至るまでね。障害をいかに並べるかだね。
星 制作の秘訣《ひけつ》ですね。
シラノ 名作は時代を超越しているんだ。いとこという近親婚へのタブー。おれとクリスチャンとのホモ的なもの。現代のやつらは、そんなもやもやしたムードを、勝手に想像して楽しんでくれる。
星 よく言うよ。ところで、この質問はどうかと思うのですが。
シラノ 言ってごらん。想像はつくがね。
星 ロクサーヌにモデルはあるんですか。後世の人たちは、さまざまな説を立ててます。
シラノ やっぱりだ。解説とやらでお読みと思うが、現実のおれは、とび抜けた文武の達人。美男とはいえないかもしれないが、まあ、普通の顔つきだ。人なみ以上にはもてたさ。
星 作家となると、知っている女性の長所ばかりをつなぎあわせて、理想的な女性像を作ったりする。そのたぐいですか。
シラノ いやいや、実在のモデルがいる。
星 ぜひ教えて下さい。系図を調べても、いとこに、それらしき人はいないとか。
シラノ それも当然。しかし、ヒントはちりばめてある。結婚はすれど、クリスチャンはその場から出征。戦死。修道院。プラトニック・ラブの物語だ。
星 それがなにか。
シラノ 信じるか信じないかの問題だよ。
星 信じますから、教えて下さい。
シラノ 宇宙人なのだよ。
星 ううん。結局、話はそこへ行ってしまうのか。
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講談社文庫のシラノ・ド・ベルジュラック著、伊東守男訳の『月と太陽諸国の滑稽譚《こつけいたん》』というのも読んでおいた。これは現代かなづかいで、まことに読みやすい訳文である。内容は「月の巻」と「太陽諸国の巻」とに分かれている。
訳者の解説により、この作品のたどった運命を知ることができた。
シラノはこれを書いて、なんとか本にして多くの人に読んでもらいたかった。しかし、実現しないまま死亡。そこで、戯曲にも登場している親友のル・ブレが、その望みをかなえてやろうと努力した。
だが、容易ではない。空想的な形とはいえ、とんでもない社会体制の描写があり、宗教無視の説が出てくるし、セックスを論じ、当時としては、危険思想にみちたしろもの。
ル・ブレは弁護士で、のちに司教になり、かなりの地位に進む。立場と友情との板ばさみだ。あれこれ考えたあげく、危険視されそうな部分を削除し、単なる宇宙冒険物語という形にし、出版にこぎつけた。著者にとっては不満だろうが、死人に口なしだ。
そんな状態が、二世紀もつづいた。しかし、二百年以上にわたって読みつづけられたわけだから、大変なことである。
戯曲のなかでも、本筋とあまり関係なく「天界の旅行者たり」という言葉が出てくるし、宇宙旅行の方法について、いくつもしゃべっている。ということは、大衆はシラノが宇宙小説の作者でもあったことを知っていたわけである。
やがて、社会の変化とともに、徐々に原作に近いものが出版されるようになった。訳者は一九三二年(昭和七年)版のを使ったが、まだ抜けている個所があり、戦後の版をも参照して完全を期したという。
その名は有名であったが、予言者にして異端の思想家、シュールレアリズムの先駆者として評価されるようになったのは、第二次大戦後のことだそうだ。
ストーリー性では、現代ではいささか単調である。「太陽諸国の巻」では、書き上げられたらしいのだが、原稿紛失のためか、中絶という形になっている。しかし、そんな点はどうでもいいのだ。
別世界についてのふしぎな描写と、奇説珍説の続出が特色となっている。文明や社会への批判が展開されるが、難解なところは少しもなく、形容しがたい魅力にみちている。ただならぬ人物だったのだ。
一六五〇年ごろの執筆である。
コペルニクスが『天体の回転』を書いたのはこの百年ほど前だが、ガリレイの『天文学対話』の出版は一六三二年。近代医学の最初の論文、ハーベイの『心臓と血液の運動』の書かれたのが一六二八年。スイフトの『ガリバー旅行記』は、はるかあと、一七二六年の出版である。
マスコミも教育も未発達の時代。宗教の支配力の強かった時代。よくこれだけのものが書けたと、敬服させられる。
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シラノ あの本を読んで、どう思う。
星 なによりもまず、SFで食っている連中を代表して、お礼を申し上げます。そりゃあ、ポーもウエルズもベルヌも偉大だが、あなたは、そのはるか昔に、月へ行く方法に思いをめぐらせた。
シラノ 見ていると、行きたくなるよね。ほかのやつらは、なぜそう感じないんだろう。
星 最初の、あなたの言葉がいい。「月に行けば、地球が月に見えるでしょう」なんて、あの時代に、よく頭に浮かびましたね。当時はまだ、SFなんてものはなかったけど、まさしくSFそのものです。
シラノ そういう思考が、好きだったんだ。
星 露を入れたガラスびんを、いくつもからだに結びつける。それが太陽熱で上昇するのを利用して浮かび、下降するには、びんを割ってゆく。水素気球の原理と同じだ。あなたは、その予言者でもあるのですよ。
シラノ わたしは、それで少しだが、本当に浮いたのだ。精神集中のせいかもしれんが。
星 ある本では、そのまま月へ行ったなんて書いてありましたよ。この日本語の全訳の出たのが二年前だから、仕方ないけど。
シラノ ひとまずカナダ(当時の仏領の地域)へ飛んだのだ。月へは、そこから。
星 火矢を六本たばねる。それを何段にも重ねて、下に火をつける。火薬は下のほうから、順次に爆発して上昇を助ける。これこそ多段式ロケット。アポロもそれで月へ行ったんですよ。すごいことを考えつきましたねえ。どう感嘆していいのかわからない。
シラノ それより、月とは行けるものなのだと、まず読者を説得しなければならず、そっちのほうが大変だったよ。天動説を信じる人が、圧倒的に多かったからね。
星 小鳥を中心におき、暖炉を周囲に動かして丸焼きを作るというのは、あほらしいとありますね。鳥のほうを回せばいいわけだ。短いなかに説得力を秘めた表現は、ほかにも各所ででてくる。あなたの才能のひとつ。感心させられます。
シラノ まあね。
星 アダムとイブのいた楽園は、月であったという珍説が出てくる。あっと言わされましたよ。箱船のノアの娘のひとりが、そこへ住みついたともあるし。
シラノ 人を驚かせるのが、なによりも好きでね。剣さばきで相手をふるえあがらせるのもいいが、文で驚かせるほうが楽しいものね。
星 神はアダムとイブを誘惑したヘビを、罰として人間の体内に封じこめた。それが腸のはじまりだなんて言い、それをポルノ小話に発展させたりして。
シラノ 神という言葉を耳にすると、すぐ茶化したくなるのが性格でね。
星 そんな文もありましたね。当時としたら、大変な危険思想。あなたは多くの人と決闘をし、戦争にも参加した。危険なことが好きなんですか。
シラノ そうかもしれない。
星 月の社会には二つの階級があるが、いずれも言語を持たない。一方はメロディーで会話し、一方は身ぶりで会話をする。よく、つぎつぎにアイデアが出ますね。気体食品といったものも出てくるし、通貨は自作の詩が通用……。
シラノ 面白いかね。
星 近代SF以上かもしれませんよ。また、独特の物質論の展開もしてますね。
シラノ ガサンディという人の門下生だったこともあってね。僧侶《そうりよ》ではあるが、科学のめばえといった唯物論を作り上げた人。そういうことに関心を持つ者はリベルタン(自由思想家)と呼ばれ、おれもそのひとりだったのだ。珍説をきそいあい、面白がったものだ。小さな声でだがね。
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一問一答形式では、非能率だ。語り口の面白さは本を読まなければわからないが、私の感心した個所のうちのいくつかを、取り上げてみる。
アメリカ大陸は、昔はなかったのだ。だから、ある時期まで、発見されなかった。
人間はそうならないが、キャベツははるかに大きなスピードでふえることができる。神がキャベツより人間のほうに好意を持っているなど、お笑いだ。
月の、ある地方では、町が旅行に出る。住宅は軽い材料で作られていて、下に車輪がついている。季節ごとに、町を移動させることができるのだ。大きな帆を張り、風力を利用してである。キャンピング・カー、トレーラー・ハウス以上の規模の話である。
月世界の本は、紙に印刷したものではない。箱形をしていて、ヒモのようなものに針を当てれば、メロディー、つまり月における言語が流れ出し、内容がわかるのだ。ポケットに入れることもでき、イヤリング状のものを耳につけて聞いてもいいとある。これには驚いたね。テープレコーダーの迫真の予言ではないか。
妙な時計のアイデアも出している。ひとに時間を聞かれたら、口をあければいい。歯が文字盤になっていて、そこに鼻の影が当って、時刻がわかるのである。ユーモアのつもりで書いたのだろうが、デジタル時計がこうも発達してくると、歯にとりつけることだって、いずれは可能なのではなかろうか。
土から木が出来、木から豚が出来、豚から人間が出来たのだから、自然界にあるものはすべて完成にむかう傾向があり、人間がこの最も見事な混合の結果であり……。
大変な飛躍だが、生命の発生と、進化論につながる考え方である。これも、すごい。ダーウィンの『種の起原』は、この二百年後に発表されたのだ。
想像力には、病気をなおす力がある。事実はやぶ医者でも、評判のいい医者にかかるべきだ。また、強力な薬も、想像力の助けがないと役に立たない。
これも卓見。事実、プラシーボ効果というのがある。「きくのだ」と医者に言われて飲むと、成分のない薬でもきくのである。彼の時代、まともな医術などなく、これはという薬もなかった。賢明な方法だったはずだ。
また、こんな説も。もしかりに、異教徒の肉を食べたとする。それは消化され、からだの一部になる。だから、宗教のちがいなんか、たいしたことはない。
現実には死後に出版されたのだが、小説では帰国して出版した『月世界旅行記』が大評判になったことになっている。
すなおに面白がる人。的はずれの個所に感心する人。ばか話のよせ集め、ぐにもつかないとけなす人。この各派の対立によって、一種のブームが出現する。はるかのちの、SF界の状況の描写としても通用する。
そして、太陽への出発となる。どういうわけかシラノは、ここで警察に追われる身となりつかまったり逃げたりのシーンがつづくのである。一種の読者サービスか。
それが一段落し、宇宙船づくりにとりかかる。四角い箱形だが、下面に穴があり、上部には二十面体の水晶の壺《つぼ》がついている。太陽光線が複雑に屈折し、空気の対流が生じ、上昇するというしかけなのだ。原理はともかく、そのもっともらしい描写は、ウエルズの『タイムマシン』に匹敵すると思う。
それにしても、月はともかく、太陽へ着陸なんて、非常識だ。題名を見て敬遠してしまう人の多い原因のひとつは、ここにある。しかし、シラノは火というものに対し、独自の考え方を持っているのである。その紹介をしたら長くなるが、火はついていてもロウソクそのものは熱くないといったようなもの。
黒いしみの部分は、温度の低い部分であると書いている。ガリレイが天体望遠鏡を作り、月に山のあること、太陽の黒点現象を報告したのは、その少し前。すかさず作品に取り入れたというところか。
妙な議論につきあわされているうちに、読者は太陽へと連れて行かれてしまうのだ。
そこの住人との会話だが、言葉なしで意志が通じあうのだ。いまでいうテレパシー。
そこの歴史を聞かされるが「未来を予知する人がいるのだから、記録のない過去を語れてもいいはずだ」と、ひと理屈を展開。
植物にも意識があるという説も、シラノが言いだしたものと、はじめて知った。また、アルカロイドのような、人間の意志を支配するさまざまな薬。
きりがないのでこの程度にしておくが、まさにSFの開祖である。
シュールな印象を与える描写もある。
荒野に一本の樹木。幹は金、枝は銀、葉や花や実は宝石類。果実のひとつを眺めていると、下方に足がはえ、手もはえ、小さな人間の形に変り、宙返りして地上におりる。そいつが声をかけると、樹木がばらばらに分解し、大ぜいの小さな人間となり、輪となって踊りまわる。
踊りのテンポが早まり、各人がくっつきあい、ひとりの美青年になる。とり残された、最初に出現した小さな人間、じつは王様なのだが、青年はそれを呑《の》みこんでしまう。王政批判の意味もあるのだろうが、久里洋二さんのアニメーションになりそうな動きではないか。
意外性の連続である。
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シラノ いやに考え込んでいるな。
星 ため息の連続ですよ。こんなにすごい内容とは、読むまで知らなかった。戯曲による先入観が強すぎたためですね。
シラノ それも、あるだろうな。
星 からっとしている点がいい。奇説の連発だが、こむずかしい感じを与えない。神や王政をからかうが、叛逆《はんぎやく》のいやらしさがない。怪奇ムードもなくて、さわやかですね。
シラノ 性格なんだな。陰にこもった文章など、おれには書けんよ。
星 珍奇なアイデアを、よくもまあ、つぎつぎと……。
シラノ どうやって思いついたなんて聞くなよ。しろうとが言うのなら仕方ないが、SF作家の口にすべきことじゃないぞ。
星 わかってますよ。賛辞と尊敬の言葉をつけ加えるつもりだったんですよ。あの時代、これが出版されていたらねえ。文化の流れを変えたのじゃないかな。出版社の臆病さ、編集者の人材不足、評論家の勉強不足、時代的にちょっとちがうかな。なにしろ、惜しいことでしたね。
シラノ それだけが心残りだ。
星 どこか外国で本にし……。
シラノ アメリカは、メイフラワー号で渡った人たちが開拓をはじめたころ。日本は鎖国。むりな話だな。
星 おかげで、科学の進歩は、百年はおくれたんじゃないかな。
シラノ 仕方ないよ。
星 ところで、物語は中絶の形になっていますが、いちおうは書き上げたのですか。
シラノ 仕上げたよ。他人に読ませたくない部分があり、それは自分で焼き捨てた。また、おれの死後だが、原稿を読んで「わ、すごい」と、その部分を持っていってしまったやつがいた。そして、なんと新学説として発表し、科学史上に名を残している。ばらしてもいいんだが、気の毒だね。だまっていよう。おれは、それで満足する男なんだ。
星 その、ご自分で焼き捨てた部分には、どんなことが……。
シラノ 霊魂となって残り、後世の人にとりつく方法のところだ。だから、ロスタンにあれを書かせることができたのだ。
星 あなたなら、やりかねないな。
シラノ こうやって、テレパシーによる対談もできたし。
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[#地付き](「ギャラントメン」 昭和54年1月号)
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かんべむさし
――活字で笑わせる名人――
このあいだ銀座のあるバーで飲んでいると、田中光二氏が入ってきて、雑談となった。
「かんべむさしの文庫の解説を書くよう、たのまれてね」
と私が話すと、こう言われた。
「彼の作品に、解説は不要だね」
まさにそうなのだ。解説不要とは、もちろんほめ言葉。そもそも私自身、自分の小説も解説不要と思い、それを誇りとしているのだ。
画白いものは文句なしに面白いし、解説されて「あ、そうか、なるほど」という小説では、作者か読者のどちらかの頭が悪いのだ。
つまり、私は以下、不要なる文章を書くわけだ。いったい、なにを書けばいいのか。
妙な書き出しだなと、お思いになるかたもおいでだろう。これすなわち、かんべ氏の作品からの影響である。まったく、彼はもう意表外きわまる書き出しをやってのける。
かんべ氏は昭和二十三年、金沢に生まれ、関西学院大学の社会学部に入学。その大学生活の思い出は『むさしキャンパス記』という本にまとまっている。
その最初の一行が、なんとも奇妙なのだ。こんな手法もあったのかである。
それを引用してもいいのだが、それをやるといつの日か『むさしキャンパス記』を買って読む人の楽しみを奪うことになるので、やめておく。
ミステリーの結末をばらすのは、エチケットに反する。それをご存知のかたは多いだろうが、最初の一行の引用をためらわせるたぐいのがあるとはね。かんべ氏は、読者を引きつけるためには、あらゆる手段を動員するのである。彼の作品には、最初の一行で驚かされるのも多いのだ。
かんべ氏は昭和四十八年に「決戦・日本シリーズ」という中編を書いた。「SFマガジン」の新人コンテストに応募したのである。久しぶりの催しだったので、かなりの作品が集まった。私は小松左京、筒井康隆、森優(当時の編集長で、現在の筆名は南山宏)の諸氏とともに選考に当った。「決戦・日本シリーズ」はプロ野球のファンの熱狂ぶりを扱った、ドタバタコメディ。
この異色きわまる作品は、第一次、第二次と予選を通過し、最終候補の十編のひとつとして残った。予選をやった連中が、選者がどう扱うかを知りたくて残したのではなかろうか。とにかく、議論の的となった。SFの枠にとらわれずに、書いているのだ。
そのころ、だれの命名か疑似イベント物≠ニいう呼称がはやっていたが、それにもあてはまらない。ひょっとしたら起りかねないかも、しれないのだ。個性的で面白さは抜群なのだが、コンテストの入選作にするにはSFらしさが不足だった。
いちおう上位の三編をきめたが、SF界は融通のきくところで「この十作、すべて順次に掲載しよう」ということにきまった。かくして「決戦・日本シリーズ」は昭和五十年に活字となった。なお、山尾悠子さんの作品も、同様な経過で掲載されたのだった。
いま考えると、かんべむさしというペンネームも、一種の効果をあげていたようだ。あとになって彼が、執筆は恥ずかしいことで、漢字のペンネームも照れくさいのでと語っているが、そういう感覚の上にドタバタが成立しているのは意外でもあり、一方、だからこそ読者に親しまれるのかなと思ったりする。
そのコンテストの選考の時、この作者は今後どんなのを書くのかが話題になった。雑誌にのった時、同様のをもっと読みたいと期待した人も多かったろう。しかし、第二作の「背で泣いてる」を読み、当時すでにSF作家になっていた連中は、驚きあった。「あれはすごい」と。
前作とはがらりと変っていて、冒頭から異様なイメージが展開された、きわめて個性的な作品。そういえば「決戦・日本シリーズ」だって、前例のない作風。この二作で、才能が本物であると、だれもがみとめた。とてつもない幅を持った作家であることも。
それを機会に、彼はあれよあれよという活躍ぶりを示し、今日に及んでいる。私の場合は作品が雑誌にのってから最初の短編集が出るまで、三年以上もかかっている。小松さんも筒井さんも、注文の殺到に悩まされなかった。現状がいいのかどうかはなんとも言えないが、彼の世代のSFの書き手は大変だろうなと思う。実力がないと、こなしきれない。
とにかく、私の書斎の机のまわり、書庫のなかなどに、かんべ氏の本がむやみとある。長編作家ならいざしらず、主として短編をこのようなペースで書くのは、驚異である。短編作家である私が言うのだから、まちがいない。
そして、そのバラエティの豊富さもすごい。本書の「弾丸」など、こういうのも書けるのかと感心させられた。また、なにはさておき表題作の「水素製造法」だが、これは読みながら笑いを押さえ切れなかった。
その前に筒井さんの「関節話法」を読んだ時も、大笑いさせられた。あらためて考え、活字で笑わされたことは、それ以前になかったことに気がついた。他のことでの大笑いはある。昭和二十年代、私も若かったがアメリカのドタバタ喜劇映画で、映画館内の人たちとともに大笑いした。また、寄席の落語でも笑いころげた。
しかし、活字媒体でとなると、記憶にないのだ。感動、興奮、涙などは例をあげられるのだが。小ばなしでにやりという気分になったことはあるし、ユーモア物でほほえんだこともあるが、ひとり声をあげて大笑いといったことはなかった。それを筒井、かんべの両氏はやってのけている。天才という形容も、ただのおせじではないのだ。
というわけで、解説の無意味さを痛感させられる。読後に呆然《ぼうぜん》とさせられるのが、すぐれた作品なのだ。少なくとも短編においては。
ただ、ひとつだけ加えておくが、読者がかんべ氏を変な人物と想像してはまちがいである。いうまでもないことだが、非常識な発想とは、ありあまるほどの常識をふまえてこそ生まれてくるものなのだ。彼は心のやさしい、デリケートな紳士である。そして、内部に強靱《きようじん》なものを秘めている。
彼は先日、めでたく華燭《かしよく》の典をあげられた。楽しい家庭を築いてゆくことだろう。そして、お子さんが生まれ……。
といった状態のなかで、さらにすさまじくも面白い作品が書きつづけられてゆくのである。まったく、人間とはふしぎな生物だ。
[#地付き](『水素製造法』解説 徳間文庫 昭和56年2月)
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田中光二
――熱気を秘めた才能――
昭和五十一年の十一月、田中光二、豊田有恒の両氏とともに、私は東南アジアの各地を旅行した。太陽の強烈さ、熱さは想像以上だった。じつにあわただしい旅で、タイには二日ちょっと滞在しただけ。
本書に登場するチェンマイにも、プロペラ機によって日帰り見物をした。静かな古都で、お堀や石垣が残っており、遺跡も多く、ムードがあった。美人の産地で知られているが、学園都市でもあるのだ。
その時、田中さんはすでに本書の第一回の取材をしたあとで、せっかく来たのだから、メオ族の村を見たらとすすめ、同行してくれた。山奥なので、途中までジープ、それから少し歩いて小さな村に入った。いくらか観光地化した感じだが、家のなかでアヘンを吸っている人がいた。甘ったるい匂いである。
その、どろりとした黒い粘液をタバコの先につけてもらい、チェンマイの町まで持ち帰った。これがアヘンかと、しげしげ眺めた。私ははじめて見る。この主成分がモルヒネで、それを加工すればヘロインになる。アメリカの社会にいかに深く関連しているかは、ご存じの通り。
ものはためしとばかり、火をつけて吸ってみたが、どうということもない。あとで知ったのだが、アヘンでいい気分になるには、暗さや静かさが必要なのだそうだ。もっとも、モルヒネの注射だと、一発でいい気分になる。
大学時代、私はこの分野の権威・後藤格次先生の講義を受けた。人間にある種の作用を及ぼすこれらの物質を総称してアルカロイドというが、先生はその語の響きの美しさに魅《み》せられ専攻することになったと、最初に話された。薬にもなれば毒にもなる、人類とは縁の深いしろものなのだ。
私の亡父、星一《ほしはじめ》は大正時代に製薬業をやっていて、日本ではじめてモルヒネの精製に成功した。そのことは小説にしたが、当時、原料のアヘンの産地はインド、ペルシャ、トルコだった。ビルマ北部を主とする黄金の三角地帯の名を耳にしはじめ、なぜここがと疑問を持っていたが、それは本書を読んで知ることができた。歴史という時の流れが生みだした、悲しい矛盾である。小説の舞台としてふさわしく、現代的でもある。
田中さんはそのごも取材を重ね、長編にまとめあげた。いわゆる麻薬物というひとつの型が頭に浮かぶが、それを逆手にとった意表を突いた手法である。
さて、本書の解説をしなければならないわけだが、内容については、つけ加えることはなにもない。冒険小説として新鮮であり、すぐれている。そもそも、解説がいるような冒険小説では困るのだ。昭和五十四年に角川小説賞を受賞した。
田中さんはつづけて、朝鮮半島を舞台にした『黄金の罠《わな》』を書きあげた。それは昭和五十五年春に吉川英治文学賞の新人賞を受けた。その才能は、だれもがみとめる。
本人は「まだ新人あつかいか」なんて言っているが、世は高齢化社会になりつつあり、彼のような年代での、広い読者層にアッピールするエンターテインメントの分野での書き手がなかなか出現せず、相対的に若い世代とされてしまうのだ。
韓国への旅行も共にした。南北を分ける分断線の光景は心に訴えかけてくるものがあるが、そこを舞台にこんな小説を彼が書くとは、夢にも思わなかった。ひとひねりも、ふたひねりもしてある。
いっしょに旅行したり、バーで飲んだりで、気のおけない仲ではあるが、経歴となると、おおざっぱなことしか知らない。読者も知りたいだろうし、教えてくれた範囲内で過去を紹介する。
田中光二。昭和十六年二月、当時は日本統治下にあった朝鮮の京城(ソウル)に生まれる。その十カ月後に日米開戦。
十九年に内地へ引きあげ、静岡|三津浜《みとはま》に疎開して生活。戦争末期。疎開とは空襲でやられないよう、都会を離れることである。知らない人がふえる一方だから、書いておく。そして、二十年の八月に終戦。
小学三年の時、東京の世田谷に移り住む。その翌年の二十四年、父が死去。さまざまな苦労があったと思う。現代では考えられない、ひどい時代だったのだ。
やがて、NHKに勤務するようになる。その一方、早稲田大学第二文学部(すなわち夜間部である)の英文科に入り、六年がかりで卒業。
NHKでは、はじめは事務の仕事、やがて現場の担当となり、テレビ教養番組のプロデューサーを三年間つとめる。小松左京の出た番組にも関係したという。そして、四十六年の春に退社。
官僚的な機構がいやになったらしいが、それは寄らば大樹の陰という安泰な場所からの脱出をも意味する。自由を求めてだが、それには勇気を必要とする。よく踏み切ったものだと思う。
よりよいあてがあって、やめたのではない。気楽な生活が待っていてくれたのでもない。食わんがため、一年ほど電通の下うけの仕事をやった。東武デパートの有線館内テレビ(CCTV)の仕事をやった。
それをしながら、SF同人誌「宇宙塵」に加入し、創作「幻覚の地平線」を発表。未来のアメリカを舞台に、幻覚剤愛用の集団の登場する、異色な作品だった。
イメージが豊かで、文体も個性的、新しい才能の出現を感じさせた。当時「SFマガジン」の編集長は創始者の福島正実から森優(南山宏)に代っていたが、この作品はすぐそこに転載となった。
それを読んだ光文社の市川元夫氏から「別冊小説宝石」にと注文があり、第二作「男の塩」を発表。はじめての一般誌からの依頼で、忘れられない思い出となっているらしい。
つづいて、祥伝社から書き下し長編の依頼があった。印税を前借りして書き上げたのが『大滅亡』である。
それからは、ふさわしい活躍の場を得たという形で、つぎつぎに書き、映画化もされるし、読者もふえ……。
あとは不要だろう。しかし、こういう経歴とは、私ははじめて知った。田中光二は長身でスタイルがよく、スマートで、趣味も洗練されていて、スポーツ・カーを乗り回すし、スキンダイビングをやる。そんなところから、早稲田をすんなり出て、NHKに入り、さらにSF作家へ華麗な転身という図式を、ばくぜんと当てはめていた。多くの人がそうだろう。
しかし、現実は、右に書いた通りなのである。昨今、SF界はにぎやかであり、活況を呈している。なんとなく、SF作家というものは、育ちのいい連中の、サロン的な集《つど》いと思っている人が多いようだ。しかし、そう簡単になれた者は、ひとりもいない。少なくとも今までは。
みなに共通していえることは、新しい分野への情熱であり、地味な努力であり、自己の才能への信頼である。それと、逆境にありながら幸運を引き寄せる能力である。人事を尽したところへ来る天命のようなものか。
ここまで書いてきて、ある雑誌で彼の新しい短編「島へ」を読んだ。SFでも冒険小説でもなく、二十代前半の回想である。若さの明るさと影とを描き切った、いい作品である。これに匹敵する教養小説は、わが国にあまりないのではなかろうか。
いつだったか「SF作家に教養小説は書けない」というのが話題になった時、田中さんが「でかいビルデングを作る話を書けば、ビルドゥングスロマン(教養小説)になるんじゃないかな」と笑っていた。それでいて、挑戦といった固さのない「島へ」を書いてしまうのだから、感嘆させられる。
一時期、彼は父の田中英光の名を出されるのを、しきりにいやがっていた。よくわかる。私も作家になりたてのころ、亡父の名が出ると複雑な気分になったものだ。しかし、何年かして、ある新聞に亡父の名がのっていて、カッコして(SF作家・星新一氏の父)と注があるのを見て、ある感慨を抱いた。最近の田中さんも、似たような気持ちでいるのではなかろうか。
とにかく、すばらしい才能である。ストーリー展開のうまさだけでなく、底に熱気を秘めている。こういう無条件で面白い作品が、これまであまり尊重されなかった。しかし、その傾向は徐々に是正されつつある。それに大きく貢献しているのが彼自身なのだ。まだまだ伸びてゆく。
[#地付き](『血と黄金』解説 角川文庫 昭和55年5月)
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田中靖夫
――個性の強いブラック・ユーモア――
もうかなりの年月がたったが、私はアメリカのヒトコマ漫画を収集し、本にまとめたりしたことがあった。そのためか、その全部にくわしい人物と思われたりし、自費出版の本を時たまいただいたりする。
いまはもう、アメリカ漫画に関心はほとんどない。一時期は粗雑ななかにバイタリティがあり、集めがいもあったのだが、いまや全般的に低調である。その一方において、日本人の手によるもののほうが、はるかに水準が高くなり、世界的といっていいほどになった。自動車と同じなのだ。しかし、車とちがって発表舞台にめぐまれず、わが国のヒトコマを描く人は、気の毒である。そんななかでがんばっている人の情熱には、感心せざるをえない。田中さんも、そのひとりである。
絵というものを文字で論じようというのは、まことにむずかしい。まして私は美術評論家でなく、絵もうまくない。へたもいいところなのである。
話がそれかけたが、日本のヒトコマの水準は非常に高く、アイデアの秀抜さも、絵のうまさも、群を抜いている。しかし、形容しがたいムードとなると、ほとんどない。私が田中さんの絵に特に心をひかれたのは、その点である。高度なブラック・ユーモアなのだろうが、この形容詞は日本では変な使われかたをされていて、もう、当人独特の個性、田中靖夫の世界と称する以外にない。
人間のからだは、これほど見あきたものはないはずなのに、田中さんによって描かれると、なんとも異様なものに変貌《へんぼう》してしまうのである。一種の恐怖がみなぎっていて、それはオカルト映画より一段と深く心に迫ってくる。ぞっとではなく、じわじわと伝わってくるのだ。
田中さんの作品の愛好者も、じわっとふえてくれるといいと思う。われわれは日常、理解しようという思考にとらわれつづけである。それを忘れ、異様さを味わうのも大切だと思う。
[#地付き](『COUNT DOWN』寄稿文 砦《とりで》出版 昭和57年4月)
現在では、イラストレーターとして、大活躍である。
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森田拳次
――抜群のヒトコマ物――
漫画の原点、真髄はヒトコマ物にあると思っている。見たとたん、笑いの神経を共鳴させる。そうでなくてはならない。
日本では新聞という媒体を舞台に、四コマ物が昭和の初期あたりからはじまり、戦後の一時期、絶頂を築きあげた。横山隆一、長谷川町子、そのほかの人たちによってである。これが日本にふさわしいタイプで、定着するものと思っていたら、このところ少しかげりが感じられる。劇画という形式を、新しい才能の人たちがめざしたためかもしれない。
ここらで原点のみなおしをやってみるべきではなかろうか。私はかつてアメリカのヒトコマ物を集めたことがあったが、わが国のそれは決して劣っていないのである。アメリカのは必ずキャプションがついていて、見る小ばなしといった感があり、絵にもあまり個性がない。とくに原点中の原点であるヒトコマのサイレント物となると、このところ、アメリカ産のにはいいのがほとんどない。ヨーロッパ産のにも、めったにない。
しかし、わが国のそれらの描き手たちは、発表舞台に恵まれず、こんな惜しいことはないと、つねづね思っている。それなのに、みな、それぞれがんばっているのだ。とくに、この本の森田さんなど、その才能はすばらしい。アメリカへ出かけ、各雑誌に作品を発表した実績でもあきらかである。
ここに、こつこつと長期にわたって「ひとこま」に描きつづけてきた作品が一冊にまとまることになったのは、なにより喜ばしい。いまさらよけいな解説をつけ加える必要はない。ストレートに面白いのだ。一つ二つならまだしも、これだけの量である。ごらんになったかたは、あらためて感服されることだろう。このたぐいの本が、これ以前に存在していただろうか。
[#地付き](『一コマ1/2』序文 東京三世社 昭和56年5月)
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西丸震哉
――原始社会を身近に――
西丸さんとはじめてお会いしたのは、ある雑誌での平野威馬雄《ひらのいまお》さんを加えての座談会であった。怪奇特集号のたぐいで、平野さんが「お化けを守る会」に、熱中しておられるころだった。その会が現在どうなっているかは、よく知らない。
席上、西丸さんの幽霊との交友体験記を聞き、たちまち引き込まれ、驚かされた。本書のなかの「怪談」に書かれている釜石《かまいし》の幽霊についての部分である。どなたも、読んで奇妙に感じられるだろう。西丸さんは話術が巧みで、ぞくぞくした思いにさせられた。
世の中にはふしぎな人もいるのだなあと思った。名刺をいただくと、なんと農林省(現在の農林水産省)のお役人。もっとも、書類をいじくりまわす仕事ではなく、東京水産大学出身の科学畑の分野が担当であった。
その時、ニューギニアの原始人の食人風習などの現地調査をなさったとも聞き、後日、私の本『進化した猿たち』を郵送し進呈した。アメリカの漫画についての本で、そのなかで人食い人種テーマのヒトコマ物を、いくつも紹介しているからである。しかし、ツボで煮られる絵の、よくある構図は漫画だけのもので、現実ではないことは本書をお読みになればおわかりになるだろう。私も漫画のコレクションをしている時は、本当かどうかなど、あまり考えてなかったのだ。
つまり私はフィクションの面白さによって現象とかかわりあっているわけで、西丸さんのほうは現実に迫りつつ物を見るという科学的な態度である。いい例がUFOで、私は小説中に何回も登場させているが、内心は半信半疑どころか一信九疑といった程度。もっとも、これはSF作家に共通していることのようだ。
西丸さんはご自分で見ているせいもあって、宇宙人の乗り物と強く推察している。だからといって、論争に発展することはない。まだ結論の出ていないことだ。とにかく、異なる意見の存在をみとめあうというのが社会のルールの第一であり、また二人とも温厚であり、西丸さんは人間的魅力にあふれたかたなのだ。
話がUFOにそれるが、桐島洋子さんから送っていただいたばかりの本のなかで、アリゾナ州で白昼の空にそれを見て、同行のカメラマンが撮影したと、いともあっさりと片づけてあった。
しかし、私も無関心で頭から否定というわけではなく、日本に空飛ぶ円盤研究会が出来てかなり初期、つまり昭和三十一年ごろに会員になっている。なにかがあるらしいとは、思っているのだ。最近になって、あれは未来からのメッセージではないかとの仮説を持つにいたっている。
本書は山と原始人と幽霊についての、体験をふまえてのエッセイあるいは論文に近いものを集めたものである。どの分野にも、書き手がいないわけではない。しかし、それらを面白く読ませるとなると、そう簡単なことではないのだ。
原始社会については、外国の専門家の本の翻訳が何冊も出ているが、内容も文章も硬すぎてついてゆけないものが多い。それが、この本では、身近なものとして伝わってきて、興味深く楽しまされる。
原始人に対する共感のようなものが、秘められているからだろう。読者は西丸さんといっしょに、その地へ旅をしているような気分にさせられる。食人種の心のやさしさなど、印象的である。
また「原始社会の食生活」の章は、かなり長いが、わかりやすい人類史として、中学か高校の副読本としてすすめたいほどだ。これだけ要を得ていてわかりやすいものを、ほかに知らない。
本書の内容は、西丸さんが文筆にも活動範囲をひろげた初期のものが多い。ということは、お役所づとめをしていた時期ということである。これまた驚きだ。
なぜ驚きかというと、以前より私は、役人と学者のエッセイにろくなものはないとの説をとなえていたからである。大衆のレベルに身を置かずに書いているからだ。お高くとまっている。それと、自分の失敗について書けないのか書かないのか、つまりユーモアがないのである。私はこの説を取り消す気はなく、西丸さんを唯一の例外とすべきだろう。どうやら、もともと役所づとめにむいていない人だったようである。
とにかく、多才なかたである。絵がうまい。本書のなかのカットはほのぼのとしたムードのものだが、本格的な油絵も描き、銀座で個展を開いたりする。また、音楽も学生時代からやっておいでで、最近では、たちまちのうちにフルートを演奏できるようになってしまった。一般の人にない能力の持ち主であることは、たしかなのだ。
西丸さんは定年はまだまだの時に、役所づとめをやめられた。それをはげますパーティには、各界の人が集まり、会場はあふれんばかりだった。あんな盛会は、めったにない。そして、いまや自由業。西丸さんにふさわしい肩書きといえそうだ。単なる著述業の枠をも超えているのだ。世界の各地方、各分野が活動の舞台である。
お読みになっておわかりのように、個性のあるなめらかな文章である。かたくるしい文を書くよりどれくらいむずかしいことかは、やってみるとよくわかることだ。そして、読みとばせないような警告をも含んでいる。
実例をあげれば「原始社会の食生活」のなかで触れているが、弱者救済の人道主義についての部分など、信念がないと書けないことである。これについて、きれいごとで異をとなえるのは容易である。しかし、西丸さん以上のものをふまえてでないと、なんの説得力もない。
西丸さんの先祖には北欧バイキングの血がまざっているとかで、容貌もどことなくバタくさい。日本人ばなれした発想も、そこに関連があるのかもしれない。
思考の柔軟さが特色である。また、山好きだけあって、体力にも恵まれている。行動的になるわけで、文章にする材料はつきることがないと思う。つまり、読者はバラエティに富んだ本に今後も接しつづけられるのである。人生の楽しみが、ひとつふえたといえよう。
[#地付き](『山だ原始人だ幽霊だ』解説 角川文庫 昭和56年5月)
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横田順彌
――『天使の惑星』――
横田順彌さんは短編作家だが、本書でおわかりのように、文句なしに面白いのが特色である。ハチャハチャSFとは、たぶん本人のつけた名称だが、まさにその通りなのである。副次的に笑いがあるのでなく、笑いに重点がおかれている。
日本のSF界は、他の分野の小説にくらべ、ユーモアに富んでいる。そのなかでも、それぞれの個性によって、ちがいがある。小松さんの笑いと、筒井さんの笑いとでは、かなりちがう。私の作品で笑う人は、むしろウイットによってではなかろうか。
そこへゆくと、横田さんのは笑いそのもののかたまりというべきで、わかりやすく、いかなる手法をも動員している。言葉あそびが多いが、それにとどまっていない。
本書中の「ある変身譚」では、主人公が炬燵《こたつ》になってしまうところなど、ぎょっとする笑いだろう。すごいイマジネーションだ。この時の街の光景など、頭のなかに描こうとすると、妙な気分になってしまう。
この話の発端部分は、いまになってみると映画「ネバーエンディング・ストーリー」のパロディになっている。もちろん映画のほうがあとだが、珍しい例ではなかろうか。
こういう作家の解説は、けっこうむずかしいのだ。どんな順で書けばいいのだ。
「ヨコジュン」
いかん、伝染してきたぞ。しかし、やはりまず触れておかなくてはならないのが『日本SFこてん古典』という、大労作である。書棚から出して眺めなおしたら、全三冊、合計一三一一ページである。どえらいものだ。これをふまえてこそ、いまの横田さんがある。
明治の文明開化以後(江戸期にさかのぼることもあるが)現在の日本SFが定着する前までを、収集した本や雑誌をとりあげながら、紹介したものだ。
わが国のSFは、いうまでもなくアメリカのSFの影響を受けてはじまった。そのため、原書を早く読んだほうが大きな顔のできた時期もあった。いまの若い人にも、そういう傾向のがいるらしい。
そんな競争をしていたら優秀なのが何人もいるし、独自のものは築けないと、横田さんは、日本におけるSF的な流れを調べようとした。手がかりとなる入門書もない。なにもかも第一歩からで、古書収集への努力は、なみたいていのものではなかったろう。
現在では貴重なコレクションであり、それによって、横田さんはこの分野での先駆者となり、第一人者となってしまった。
まず「SFマガジン」に連載された。私もそうだが、みな待ちかねて読んだし、たぶん翻訳物より先にである。内容的には、時代はずれているし、へたをしたら論文調になりかねないものだ。
それをいかに面白く読ませるか、全力投球をした。話はそれるが、彼はドラゴンズのファンであり、このチームには伝統的にいい投手が出るのだ。もし、タイガースかジャイアンツのファンだったら、べつな現在となっていただろう。名投手の、配球の妙といった印象を受ける。
横田さんのサービス精神は、この作業のなかで、いつのまにか身についたといっていいだろう。もちろん、もともと素質があってのことだが。
日本文学の史的研究となると、深刻で、まじめで、マゾ的で、貧しい風俗との関連で、と思う人も多いだろう。たしかに、それは主流かもしれないが、その一方、じつにもう、とんでもない奇想の系譜もあったのだ。文学史からこぼれていた、それらの作品に陽を当てたのは、大きな意味がある。日本近代史は見なおしを迫られ、学者のなかにはノイローゼになるのも出るかもしれない。
たしかに、武士や官吏や大学教授は、立場上から大笑いできなかったかもしれない。しかし、大部分の庶民は、笑いを愛していたのである。
社会の変化が激しすぎ、物品の名前など現代の若者にどれだけ通じるかわからないが、古典落語はハイレベルでの笑いの完成を示している。なお、横田さんは大学時代、落語研究会に属していた。原点はちゃんと押さえてあるのだ。
日本の笑いのルーツは、狂言があり、さらにその昔があるわけだが、一例をあげれば十返舎一九の『東海道中膝栗毛』がある。その現代語訳を読んだが、ありとあらゆる笑いが並んでいる。思わず「なんだ、ヨコジュンのまねじゃないか」とつぶやいたが、考えてみたら、こっちのほうがずっと前だった。
そんなふうに、みごとにつながっているところが面白い。笑いについての、日本的感性というものがある。この伝統を、みつめなおすべきではなかろうか。
文芸論をやる人たちがこぞってほめる森鴎外の『渋江抽斎』など、読んで面白いと思った人がどれくらいいるだろう。私は若い時に読み、推理小説的な構成に特色を感じたが、いま読みかえす気にはならない。読んだことのある編集者だって、あまりいないのではないか。第一、その本も入手しにくい。
その抽斎の息子の、渋江保が明治期にSFを書いていたことを、横田さんはつきとめている。ジュール・ヴェルヌ的な話らしい。世の中、いろいろあるものですな。
横田さんは、温厚な性格である。そのため、ヨコジュンという愛称が使われているのだ。礼儀ただしい、まじめな人だ。
なぜ突然、こんなことを書くかというと、SF作家はどこか変人だと、ばくぜんと思っている人がいるかもしれないからだ。常識がないと、非常識な話は作れないと、私はたびたび書いている。
そりゃあ、仲間うちでは冗談を言い合うし、SF作家ともなれば、飛躍の度もちがう。座談会の発言は、あれは営業のひとつである。ぼやきは、まとめの段階で消されてしまう。楽なことばかりではないのだ。
横田さんが古書店をまわっていて、昭和初期の「子供の科学」という雑誌の一冊をみつけ、その一部をコピーして送ってくれたことがあった。私の亡父はそのころ製薬業をやっていて、いまでいう企業のPR的な文をのせたページである。親切な人なのだ。私はそれを知らぬまま、一生を終えるところだった。大げさかな。
それに、横田さんは、酒に弱い体質である。まあ、ほとんど飲めないといっていい。ちょっと興味のある現象である。日本では人を笑わすことに熱中する人は、酒に縁がない。作家では井上ひさしさん、小林信彦さんなどがそうだ。イラストレーターで笑いにくわしい、山藤章二さんもそうだ。だれかに話したら「そういえば」と、何人もの名があがった。
本書中の「屋台にいた男」のなかで、ゲーゲーにつづけて芸を出すなど、神経がこまかいというべきか、サービス精神というべきか、軽く読みとばしてしまいかねないところだ。しかし、つい飲んでしまった苦しみの体験での上となると、作家も大変なんだよねと言いたくなる。
酒を飲むと、笑いがほどほどにとどまってしまうのかもしれない。私は酒が好きだが、飲んで書いた原稿は一枚もない。酒と仕事は別なものらしい。
横田さんの書くものは、ほとんどが短編である。短編集を一冊まとめるには、長編を一冊しあげるより、はるかに多くのエネルギーを使う。これは私の実感の上でのことだから、まちがいない。
それに、笑いとなると、いまだに評価が軽い。こういった状況もいずれは変るだろうが、まだそうなっていない。そんななかでわが道を行く横田さんは、敬服すべき作家である。
末尾に収録の「医師との遭遇」は、ダジャレの連発。大笑いしたが、さて「こんなのが自分に書けるかな」となると、考え込んでしまう。あらためて、才能だなあと感じる。日本では、ほかにいないのではないだろうか。
[#地付き](『天使の惑星』解説 新潮文庫 昭和60年10月)
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谷沢永一
――『「正義の味方」の嘘八百』――
考えてみると、私はまだ谷沢さんとお会いしたことがないのである。賛辞を呈する義理はないのだが、一読して損はないと、読者におすすめする。もやもやしたものがすっきりする。
友人の小松左京さんとは親しいらしく、小松さんから「すごい人がいるぞ」と、その名を教えられた。
どの程度にかと、書店に入って『完本・紙つぶて』というのを買って読んで、びっくりした。大変な読書家なのである。関西の新聞の書評コラムに連載したもの、三百三十六編を収録。
そして、とりあげる範囲の広さにも驚かされた。本というものは、たくさん読んだからいいというものではない。ミステリーやSFの愛好家のなかには、とんでもない量を読んでいる人もいる。悪いことではないし、出版産業のいいお得意ではあるが、だからどうだとなると、趣味でとなってしまう。
しかし『完本・紙つぶて』では、単行本だけでなく、雑誌をとりあげるかと思えば、全集をも論じる。その視点も、とらわれることなく、自由自在であった。その上、面白いのである。素朴に考えると、読書と思考に、よく時間をさけたものである。すごい人だなと、ただただ感心した。その時に、文章力にも敬服すべきだったのだが、これはいくらかおくれてである。
そんなこともあって、谷沢さんの文を雑誌などでみかけると、つい読んでしまうようになった。あと、なにか一冊ぐらい本を買ったような気もするが、書名は思い出せない。なさけないね。
いいわけになるが、私は読書ぎらいではない。小説家を業としているからには、本と無縁ではいられない。小説、とくに短編となると、つとめて読んでいる。パール・バックやヘミングウェイにショートショートの作品があるなど、ほとんどの人は知らんでしょうな。ストーリーだって頭に入っている。しかし、その題名となると、あやふやなのだ。
どうやら、パターン認識の形をとっているらしい。選者をやっていて、すでにある発想やストーリーは、すぐに見抜ける。もちろん、自分が平凡な作品を書かないためにが第一だが。はやりの言葉でいえば、アナログ的か。
読書家のなかには、デジタル的な人もいる。書誌学的や比較文学的に読む人は、そうだろう。これもひとつの才能である。
谷沢さんは、その二つを兼ねていて、そこから独自の意見を創造するのだから、たぐいまれな人物である。本書を単行本で買ったのも、持説をもっと知りたかったからだ。私は谷沢さんより、三つ年長。昭和を生きてきた点では、同じようなものだ。副題が昭和史のバランスシート≠ニなると、これ以上に身ぢかなテーマはない。
読んでみて、なるほどそうだなと、うなずかされた。個々の事件については知っていても、底を流れるものとなると、どう関連づけたものか知らないことが多かった。本書では、時には明治維新、さらには江戸時代へもさかのぼるが、なかなかの説得力だ。
著者紹介で、関西大学文学部の教授と、はじめて知った。普通、大学教授の文章ぐらい、わけのわからぬものはない。読みやすさに関しては、週刊誌のライターのほうが、はるかにまさる。内容に関しては、話はべつだが。
これは私見だが、文章だけうまくなる方法などないのだ。書き手がいかにユニークな意見を持ち、それを読者に充分に伝えるために、頭のなかの知識をどう並べ、どう話を進めるか、その手法の問題である。口で言うだけなら簡単そうだがね。
私の作品は、読みやすいとよく評される。高校生にも書けそうにみえる。なら、やれるものならやってみろとなると、はじめて容易でないことがわかる。いまだに、私の亜流は出てないのだ。谷沢さんの文も同じである。驚異的な博学をふまえた上でのことだ。まねなど、できるわけがない。
本書はその読みやすさの点で、単に左翼知識人をからかったものと受け取る人もいようが、そんな底の浅いものではない。ただからかうのなら、体制に反対するだけの論者と同じくらい、たやすいことだ。新聞の投書欄のレベルである。この本は、結果的にそうとも読める形となっているが。
新しい発見にみちている。明治維新は会社更生法であり、発展途上国が日本の近代化に学ぼうとするのなら、明治維新に学ぶべきだとの指摘は、まさに卓見である。欧米に留学した者のほとんどが帰国し、発展の役に立とうとするかどうかである。
いわゆる「女工哀史」についての解釈も、もっともである。悲劇的であったことはたしかだが、当時の日本そのものが貧しかったのだ。ハワイや南米への移民もまた、苦難の生活をせざるをえなかった。現在では結核で死ぬ人がまれだから曲解されやすいが、貧しい者だけがやられたのではない。上流階級と称される連中も、大差ない率で結核で死んでいたのだ。
ソ連、東欧の社会主義国という異質社会を歩いてみて、しみじみと自由社会のありがたさを感じた。目につくのは、行列。需要なんか無視である。ホテルは一流でも、スタンドの電球はつかず、せっけんは粗悪、シャワーのお湯の出ないこともある。サービスは最低。笑いがなく、ぶあいそである。効率的でない経済が、いかに不便かわかる。
この一文は、先日の日本経済新聞の「大機小機」というコラムの要約である。たぶん、三十代の若い記者がはじめて旅行し、正直な感想を書いたものだろう。
一年ほど前か、あるテレビ局が日本人のソ連ぎらいを報じた時、バランスをとろうとしてか、ニュースキャスターが「わたしのモスクワ駐在は楽しかった」と言っていた。報道人として、欠陥があるぞ。ドル、円、マルクなどの外貨を持っての一時滞在は、一般大衆とくらべ、天国のようなものなのだ。
ドル・ショップでは、なんでも買える。サントリーもセブンスターも買えるのだ。戦後の米軍占領下の東京で、米兵が軍票を使い、PXという店でうらやましい物品を買うのを見た時のことを思い出した。ソ連の人は、これを屈辱と感じないのだろうか。軍備優先、欲しがりません勝つまではなのか。
本書の第一章で、某全国紙の偏向を論じている。いまさらだが、商業新聞であるが故の現象なのだ。戦後まもなく、戦争協力の過去をかわそうと、ある主張を示した。当時はそれでよかったかもしれない。
年月がたち、世の中は変った。しかし、方針を変える勇気がない。それをやったら、現在の購読者が逃げるかもしれないからだ。高齢化社会へ進行中で、確実な読者はつかまえておかなくてはならない。危険をおかしたくないまま、モデルチェンジができない。
そこへゆくと、日経新聞は現実的である。代金が高くても、読者はつく。社会主義経済の優越なんて記事をのせたら、すぐつぶれるだろうがね。企業につとめたら、日経を読んでないと仕事にならない。
笑い話になるが、戦後の日本は「暮しは前年にくらべてどうですか」と聞かれ、みなが「悪くなった」と答えながら、ここまで来てしまったのだ。日本人どうしなら、気分はわかるが、外国の政府にすれば「ふざけるな」だろう。
とにかく、本書は書名がすごい。私が買った一因でもある。たしかに日本人は、正義の味方が好きだ。テレビドラマをはじめ、アニメまで。しかし、それはフィクションのなかにしか存在しないことも、大部分の人は知っている。だから、実社会でそれをやろうとすると、そらぞらしさが浮き上るのだ。
最近は、スキャンダル事件のレポーターなど、目にあまる。プライバシーも、礼儀も、職業上知り得た秘密も、ふみにじられた。良識のある人は、顔をしかめるよ。
本書は面白いだけでなく、想像力もかきたててくれるし、思考の柔軟さとはなにかも教えてくれるし、率直な意見の立てかたも見せてくれる。そして、読後感がさわやかである。
最後の章で論じられているが、世代間の共通部分の消失傾向は、現代における大きな問題だと思う。いくらか偏向していても、知っていればまだしもだ。本書のなかに出てくる「三下半《みくだりはん》」も、そんな言葉は知らないよというのが、ふえつつあるのだ。
海図なき時代を進んでいる。この本が唯一の特効薬とまではいわないが、それへのひとつの役割りを果たしてくれるだろう。年配者の頭を整理し、若い人のなかに思考する楽しさと自由へのヒントの種子をまいてくれる。文庫化により、広く読まれるといいと思う。
[#地付き](『「正義の味方」の嘘八百』解説 講談社文庫 昭和60年11月)
この作品は平成元年四月新潮文庫版が刊行された。