星 新一
きまぐれフレンドシップ PART1
目 次
フワフワしたもの――私との深い関係――
古き本郷――幻郵便局――
山田浩一――はるかな歳月――
江戸川乱歩――私の乱歩体験――
藤浪光夫――よき時代の小学生――
横山隆一――良質な笑い――
宮坂作平――ブラック・コーヒー――
花井忠――父とその会社の恩人――
長谷川甲二――彼がターザンを訳すまで――
荒井欣一――なつかしい円盤――
柴野拓美――わが国のSFの発祥――
大下宇陀児――先生のおかげでSF作家に――
今日泊亜蘭――本物の科学小説――
他殺クラブ――ひところのグループ――
佐野洋――『見習い天使』のころ――
矢野徹――無条件に面白い『カムイの剣』――
河野典生――若くしてハードボイルド派の旗手――
久里洋二――パワフルなスーパー・ナンセンス――
丸谷才一・開高健・小松左京――書斎派と現地接触派と構築派と――
小松左京――情報を食事のように楽しむ人――
城昌幸――『怪奇製造人』とのめぐりあい――
筒井康隆――狂気へのあこがれと努力――
レイ・ブラッドベリ――『火星人記録』のころ――
平井和正――未来観の変革――
真鍋博――ザラ文明批判――
眉村卓――足が地についている実力派――
今江祥智――京都での今江さん――
豊田有恒――洗練さが加わった秀才作家――
都筑道夫――幅の広いショートショート作家――
稲垣足穂――好きな詩――
生島治郎――冒険小説の最高傑作――
南條範夫――極上のタイムスリップ小説――
竹取物語――現代語訳をしてみて――
石井代蔵――相撲の世界――
戸川昌子――異作な『悪女の真実』――
青木雨彦――コラムの名手――
赤川次郎――作者と読者――
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フワフワしたもの
――私との深い関係――
フワフワしたものが好きなのである。理屈もなにもない。しいて原因をあげれば、幼い時に与えられた、ドイツ製のクマのぬいぐるみがもとのようだ。もの心つく前から、それをかわいがっていた。オモチャに対して、かわいがるという形容が使えるのかどうかわからないが、現実にそうだった。幼年期のみならず、少年期においてもそうだった。旧制高校に入学し、寮生活をせざるをえなくなって、はじめてそれと別れて寝た。
さいわい空襲に焼かれることなく、それはいまだにわが家に現存している。私にとって最も貴重な品で、箱に入れて大切に保存している。こうなっては、もはやいじって楽しむわけにはいかない。
もうかなり前になるが、小松左京とオランダへ旅行した時、私だけドイツのデュッセルドルフまで飛行機で出かけ、クマのぬいぐるみを買ってきた。このたぐいはドイツ製に限るのだ。かくして、現実でもその感触を味わうことができる。ネコの背中をなでるのも悪くないが、ぬいぐるみには及ばない。ミンクもまた、しかりである。
ある大ホテルの地下アーケードの店で、魚の形のマクラのようなものにさわった時、そのあまりのフワフワさに、反射的に買ってしまったこともある。これは居間のソファーの上にあり、横になって頭をのせると、まさになんともいえないいい気分である。
ジェット機の上からながめる雲もいい。手をのばしてさわれればいいなあと思う。あんな感じの物が作れても、いいのではなかろうか。フワフワした毛布もいいが、使う時にはシーツを間にはさまなければならず、いささか残念だ。日常生活では、むしろバスタオルである。だから、金に糸目をつけず高級なものを使用している。それくらいのぜいたくは、したっていいだろう。
甘党でないので食べることはないが、綿菓子を見ているのも好きだ。子供のころ、大きな綿菓子のようなもののなかに入ってゆく夢をよく見たものだ。亡父から生前、あの機械を日本にはじめて持ち込んだのは自分だという話を聞かされた。最近になって、調べ魔である推理作家の椿八郎さんから、それが事実であることを教えられた。明治三十八年(一九〇五)にアメリカ生活を切り上げたのだから、たぶんそのころのことであろう。父も、フワフワしたものが好きだったのかもしれない。
私の二番目の娘もフワフワが好きで、ぬいぐるみをいくつも持ち、大きな犬のやつなどは、外国旅行にまで連れてゆくほどである。遺伝であろうか、私が買い与えてやったためであろうか。
フワフワしたお菓子は多いようだが、料理となるとさほどでもない。しかし、いくつかある。いっこうに名をおぼえないが、中華料理でこれこれこういうものと注文すると、それが出てきて、私は満足する。洋食にもある。あるレストランのメニューのどのへんのやつとしかおぼえていないが、大好物のひとつである。そのうち、フワフワ的な料理を、もっとさがし出してみようと思っている。
大学の時の私の専攻は、微生物であった。消毒したシャーレのなかのゼラチン状の培地の上で、ペニシリン用のカビを培養したのである。保温器に入れて数日たつと、おとぎ話の小人の国のジュウタンのような、えもいわれぬ美しい緑の、視覚的にフワフワした円状のものが出現する。
それに魅せられ、必要もないのに各種のカビを培養し、さまざまな色の変化を楽しんだものだ。ひまができたら、またやってみたいことのひとつ。赤カビの美しさなど、いまだに忘れられない。
読者には意外と思う人もいようが、私はフワフワ愛好者なのである。
[#地付き](「野性時代」 昭和51年7月号)
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古き本郷
――幻郵便局――
ジャック・フィニイの短編に、地下鉄の駅で迷い、過去へ行ける道を発見する話がある。主人公はためらうが、それを聞いた友人は本当に行ってしまい、そこから手紙をくれるのである。私だったらどうするか。魅力は感じるが、戻れないとなると決心がにぶり、やはりやめてしまうだろう。
しかし、五十歳にもならずに死んでしまったSF作家の広瀬正だったら、なにもかもなげうって、自分の少年期の昭和十年ごろの東京へ行ってしまったにちがいない。過去にのめり込むような作風だった。彼は死んだのでなく、過去へ戻って行ったのではないかと思うこともある。そして、昔の本郷の写真をいっぱいとって、私に送ってくれたらなあと。
私は本郷の曙町《あけぼのちよう》に生まれ、育った。としをとるにつれて、そのころへのノスタルジアが強くなる。昭和八年、お茶の水にあった東京女子高等師範学校(翌年大塚に移転し、戦後お茶の水にないくせに、お茶の水女子大学と改称)の付属小学校に入学した。自宅からそこまでの、当時の市電の停留場名を並べてみる。
吉祥寺町、本郷|肴町《さかなまち》、蓬莱町《ほうらいちよう》、追分町、一高前、大学正門前、赤門前、本郷三丁目、本郷一丁目、湯島。
東大医学部を定年でやめ名誉教授となったが、研究室へ通いつづけていた母方の祖父、小金井良精《こがねいよしきよ》に連れられて、幼かった私は通学したものだ。いまや電車もなく、これらの地名も大部分が変えられてしまった。
大通りはべつとして、道をひとつ裏に入れば、どこも落ち着いた静かな町だった。かなりあとになって気がついたことだが、赤ん坊の泣き声、子供の叫び声のない町だった。下町のようにあけっぴろげでないため、この家にはどんな人が住んでいるのかわからず、想像力をかきたてるムードがあった。
犬山の明治村には、鴎外《おうがい》そして漱石《そうせき》が一時期住んだ家が残っている。もと本郷にあったのを移したのである。ごらんになったかたは、わりと粗末な家だなと思われただろう。本郷は東大や一高などによって、明治時代に発展した地区である。ふえてゆく学校関係者たちのために、いまでいう建売り住宅がつぎつぎに作られた。そんなひとつと見るべきなのだ。だから、そのころは新開地といった感じだったはずである。
それが年月とともに適当に古び、庭の樹木は大きくなり、一種の風格を持つようになった。私の少年期の本郷は、そんな最もいい時期だったのではなかろうか。
戦争の末期、下町が空襲でやられはじめたころ、これが本郷の見おさめになるかもしれないと、私は各所を歩きまわったものだ。
そして、終戦の年の二月ごろ、私たち一家は品川のほうへ越した。しかし、本郷との縁が切れたのではない。その年の四月に東大農学部(もとの一高のあと)に入学し、通学したのである。やがて本郷も大部分が焼け、八月に終戦となった。のちの大学紛争で有名になった安田講堂で、私は終戦のラジオを聞いたのだった。
大学に三年、大学院に二年。私は生まれてから二十三年ほど、本郷とつきあったことになる。それから父が死んだり、作家になったりで、かなりごぶさたしている。しかし、時たま、なつかしい思いにかられて、用もないのに訪れることがある。十年ぐらい前には、カメラを持って出かけ、昔のおもかげの残るものをとりまくったこともあった。
出かけるたびに、古いものが消えている。そして、大きなマンションなどが出現している。現在では、東大の赤門、正門、レンガ塀、吉祥寺の門など、古いものは数えられるほどしか残っていない。さきに書いたように本郷は明治期の建売り住宅が大部分で、歴史的な建造物があまりなく、積極的に保存する意味が弱く、中途半端なのである。変化は防げない。それが本郷の宿命のようである。
少年時代に目に焼きつけたはずの光景も、年月とともにぼやけてしまった。しかし、歩きまわっていると、なつかしさがよみがえってくる。坂が多いからである。旅に出て東京以外の町へ行くと、ああ東京は坂が多いのだなとあらためて感じさせられる。その東京で、本郷周辺は丘あり谷ありで、とくに起伏の多い一帯といえる。追憶が、足のほうからよみがえってくる町なのだ。江戸時代には、きっといい風景だったにちがいない。
グラビアの撮影のため、農学部の門をくぐった。若い日をなつかしみながら、農学部農芸化学科の発酵生産学の部屋に入った。内部はほとんど変っていない。私の大学院生時代、蓑田《みのだ》君という一年か二年後輩のスマートな学生が、すぐそばの実験台で卒論の研究をやっていた。その彼が、いまやすっかり貫録がついて、教授室におさまっていた。時の流れを、まざまざと感じさせられた。
じつはこの文で、本郷へのノスタルジアを浮き彫りにしようと思ったのだが、どうもうまくまとまらない。なぜだろうと考えて、やっとわかった。自己のノスタルジアを予備知識のない他人に伝えるには、かなりの枚数を必要とするのだ。北杜夫の『楡家《にれけ》の人びと』にしろ、広瀬正の作品にしろ、いずれも長編である。別の機会にゆずったほうがよさそうだ。
かつて私はある雑誌に、戦前の本郷、できうれば白山上近辺の町並みの写真が見たいと書いたことがあったが、反応はなかった。考えてみれば、いつも見なれている町並みを、写真にとろうとする人などいないのだ。そのうちに年月がたち、気がついた時にはすでに手おくれとなってしまい、おぼろげな回想のなかにかすんでしまう。人生もまた、そのようなもののようだ。
そんなわけで私は、来るあてのない過去からの郵便を、むなしく待ちつづけているのである。
[#地付き](「野性時代」 昭和51年7月号)
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山田浩一
――はるかな歳月――
なにもかも、はるか遠いかなたにかすんでいる。入学が昭和二十年、卒業が二十三年。当時、山田先生は助教授であって、講義はなさらなかった。しかし、実験指導を受けた。とくに地下のエーテル蒸留室でのは、なぜか印象に残っている。
農芸化学の講義はすべて理解できたが、私は化学合成のたぐいがまるで苦手で、卒論は朝井研究室(発酵生産学教室)で書いた。製薬会社をやっていた父が以前から発酵に関心を持っていて、私に大学院(旧制)に残れと言った。いまにして思うと、なにか大発見をしてくれないかと期待したのだろう。
というわけで、二年ちかく山田先生のおそばで微生物と取り組んだ。いつもにこにこなさっていて、気やすくお話しいただけるかただった。
正直なところ、それだけしか思い出せないのだ。父の健康が思わしくなく、会社を手伝い、その経営の悪化に驚き、昭和二十六年の一月に父が死亡。そのあとしまつは、まさに悪戦苦闘。人間不信におちいった。
なんとか一段落。そのころ、たまたま書いた小説がもとで注文が来はじめ、これで生きる以外になさそうだと、全力を集中した。発酵と直接のかかわりのないまま、年月がすぎていった。
作家となってから、二十数年。過去をふりかえると、よく締切りをこなしてきたものと思う。そのむこうは、倒産の整理の体験。つまり、回想のなかで、朝井研究室へかよっていたころが、長い戦争が終ったあとでもあり、私の人生のなかで最もほのぼのとしていた時期である。その気分が、山田先生の温厚な表情と、ちょうど一致しているのだ。タイムマシンがあれば、あの時代を再訪してみたい。(昭和二十三年――二十五年、在籍)
[#地付き](『EINWANDFREI――山田先生追悼録』 昭和57年1月)
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江戸川乱歩
――私の乱歩体験――
ほかのかたも書いているので、私も「乱歩体験」を書かせていただく。いつのまにかこのような呼称が発生し、通用するようになったのだから、いかに大きな存在かわかる。
私は大正十五年(一九二六)に東京の本郷に生まれた。そして、女高師の付属小学校へかよった。つまり、山の手育ちである。そのうち、級友たちのようすのおかしいことに気づいた。なにやら私にわからぬことを、話しあっている。
しかし、やがてわかった。それまで買ってもらっていた講談社の雑誌「幼年|倶楽部《クラブ》」を「少年倶楽部」にかえてから。みな「少年探偵団」の連載について話しあっていたのだ。私の少年期は、この雑誌とともにあったといえる。
一般とはちがった小学校だったし、住んでいたのは屋敷町。放課後しばらくは学校で遊ぶが、帰宅してからは、することがない。近所に遊び相手はいなかったのだ。受験勉強など、とくにしなくてもいい時代でもあった。ラジオは日本放送協会の一局で、子供むけの番組は日に三十分ぐらい。活字に接する以外に時間のつぶしようがなかったし、それは楽しいことだった。
「のらくろ」あり、ユーモア物、冒険物、時代物と各種の連載があり、どれも面白かったが「少年探偵団」シリーズは、まさに群を抜いていた。買ってきた日の夜、ふとんに入ったまま読む。大通りから引っこんだところなので、物音ひとつしない。物語のなかの世界に没入できた。その、ぞくぞくする一種の快感は、しびれるようだった。
つまり、私は雑誌連載で読んだ世代なのである。乱歩さんの執筆と同時進行という形で読んでいたわけだ。「少年探偵団」はあの時代の東京が舞台である。小林少年の年齢も私と大差ない。西洋館なるものも知っている。完全な臨場感。乱歩体験もそれだけ強烈だった。この点に限れば、いい時期を生きたといえる。
だから、乱歩さんの少年物の単行本は、ほとんど買わなかった。連載で読んだのである。雑誌は父の書棚の片すみに押しこんであった。学校から帰ると、そこから一冊を抜き出して読みふける。内容はほとんど暗記してしまっているほどだが、それでも読むと楽しかったのだからふしぎである。
あのころ、全国の各地で、数えきれぬほどの少年が、それぞれ乱歩体験をしていたのかと思うと、妙な気分になる。しかし、なぜかそれを語り合おうとしない。小学、中学、高校、大学のどのクラス会に出ても、乱歩体験が話題になったことがない。自己の内部で、そっとしておきたい性質のもののためか。あるいは戦争と同じく自明すぎる現象で、あらためて口にするまでもないことなのか。
それに、語りようがないのである。さっきまでは、書きはじめたらとめどなく出てくるのではないかと思っていたが、結局は、ぞくぞくしたことの追憶につきてしまうのだ。それだけは鮮明をきわめている。忘れられぬ夢といったところか。
中学に入ってから野村|胡堂《こどう》の「銭形平次捕物百話」のシリーズを愛読した。箱根の別荘にその何冊かがそろっていたのだ。なぜ、それがそこにあったのかわからない。晩年の父には、娯楽として小説を読む趣味はなかった。とにかく、私はそれを読み、これまた面白がったのだ。
そのあたりでシャーロック・ホームズにのめりこめば、ミステリー・マニアになったのだろうが、そうはならなかった。英語の時間に原文で「まだらの紐《ひも》」を読まされたのはおぼえている。読まされたのがいけないのか、推理的なことへの興味の欠如か、対米関係が悪化の一途をたどり軍国化の風潮が高まっていたためか。
戦争中、勉強は二の次で、勤労動員で工場へかよわされた。小説を読む以外、どうしようもなかった。たまたまうちにあった、いわゆる円本、日本と世界の文学全集をつぎつぎに読んだ。そうでなかったら、「金色夜叉《こんじきやしや》」や「椿姫《つばきひめ》」は読まずじまいだったろう。谷崎潤一郎のよさを知ったのも、このころのようだ。終戦の日は、満十九歳になる少し前。
戦後しばらくして、私は第二次の乱歩体験をした。戦争中は絶版だった乱歩さんの短編集が、入手可能になったのである。「屋根裏の散歩者」をはじめとする、少年物でない作品群に接した。いわゆる内外の名作とくらべ、どっちが面白いかとなると、正直なところ、こっちである。他人にむかってそう口に出来ないから、その思いは内にこもった。
それから、父が死んだり、身辺にいろいろなことが起った。孤軍奮闘で、気ばらしは次の三つである。
むやみやたらに映画を見た。碁をおぼえ、しばしば碁会所へ出かけた。独身でもあり夜の時間を持てあまし、月刊誌の短編小説を二日に一冊というペースで読んだ。いま考えると、乱歩さんのような作品を求めてといった気分もあったようだ。
もっとも、そのころ、私は作家になるつもりなど、まったくなかった。娯楽として小説を読んでいたのである。いや、正しくは、映画も碁も読書も、現実からの逃避だったのだ。なにしろ、父から引きついだ会社が営業不振、借金の山、目も当てられぬ日常だった。
やがて、整理を他人にまかせ、一段落。
そして、あるきっかけで柴野拓美さんと知りあい、SF同人誌「宇宙塵《うちゆうじん》」を作り、それに「セキストラ」という作品を書いた。昭和三十二年のことである。
それが大下|宇陀児《うだる》さんの目にとまり、江戸川乱歩さんが編集に乗り出してまもなくの「宝石」誌に転載されることになった。これから先は大下先生、江戸川先生と書くべきなのだが、乱歩体験がからんでくると、先生はおかしい。微妙である。
この時はじめて、私は作家になろうと思った。それ以外に道はないのだ。会社をつぶした男を、まともな会社がやとってくれるわけがない。あこがれたあげく、作家になったのではない。ほかの人とちがう点である。やむをえずなったのだ。背水の陣ではあったが。
柴野さんに連れられて、乱歩さんのお宅にあいさつにうかがった。やっと、本物の乱歩さんにお会いすることになったのだ。しかし、なぜか、その時のことがほとんど思い出せない。
緊張のせいか、ご多忙で時間が短かったせいか、つぎに訪れる大下さんのことを考えてか、原因も思い出せない。大下さんはにこやかで、構想中の作品の出だしの部分を話された。このほうは、よくおぼえている。
というわけで、私の作品が雑誌にのった。乱歩さんのルーブリック(紹介文)つきである。私は宝石社へ出かけ、谷井正澄編集長に「乱歩さんのルーブリックの原稿を、記念に下さい」と図々しく申し出てそれを手に入れた。
それには文字を消したあとや、書き込みがあり、海のものとも山のものともわからぬ新人のため、これほどまでと感激した。いまや、これが私にとって最も貴重な品である。
あのルーブリックは、ほかの人が書いているのだとのうわさもあったが、少なくとも新人登場の場合は、ご自分で書かれていたのだ。
乱歩さんの、推理小説界への熱意はすごかった。宝石社でお目にかかったこともある。陣頭指揮という感じだった。宝石社は木製のぼろビルの三階にあり、その二階では、城昌幸さんの悠然たる姿をよく見かけた。城さんが社長だったのである。
まもなく探偵作家クラブ(のちの日本推理作家協会)に入会させていただき、ほかの作家たちに紹介していただいた。私は定期的な会合に出るようになり、末席から乱歩さんを眺め、その声を聞いたわけである。
温厚な人格者という印象。それが「少年探偵団」以来の異様なる作家のイメージと重ならなくて、しばらく違和感を持てあましたものだ。そういえば、昔は作家の写真をむやみとのせなかった。
学習雑誌から長目の作品の注文が来て、参考のためにと、乱歩さんの少年物を読みかえした。そして、あらためて感心した。少年期の回想とつながっているためだけではない。同様に胸をわくわくさせたはずの「少年倶楽部」のほかの作品には、再読すると首をかしげたくなるのもあるのだ。乱歩さんは少年ものの読み物の分野で、ひとつの頂点をきわめた人である。
乱歩さんの多くの功績のひとつに、奇妙な味≠ニいう命名をあげることができる。サキ、コリアといった、読後に未解決の部分を残す作風である。その翻訳が、毎号のように「宝石」誌にのった。いうまでもないが、私のそのごの作風に大きな影響を及ぼした。
たしか新人ばかりの座談会の時だったと思うが、私が「サキやコリアが好きです」と発言すると、乱歩さんに「きみ、それは推理作家じゃないよ」と、すぐ指摘された。推理小説なるものについて、ご自分なりの基準をきちんとお持ちになっていた。その上で、他の分野についての理解もはばひろく持っておいでだったわけである。もっとも、私は内心、乱歩さんの本質は奇妙な味に近いものではないかと思うのだが。
わが国に、奇妙な味のような系列がなかったわけではない。城昌幸さんがずっと前から折にふれて書きつづけていた。お二人はかなり親しい仲であった。城さんとくらべたら、乱歩さんの作は正統になってしまう。そのせいかもしれない。
城さんの掌編集『みすてりい』(桃源社)の巻末で、乱歩さんが解説を書き、その一部に「四十年前城君が登場して以来戦争まで怪奇掌編専門の作家は一人も出ていなかったが、戦後には星新一というショートショート作家があらわれ」とあり、城さんもいい後継者に恵まれたと結んでいる。
私は作家になってから、いつだれがその点を指摘するかと、内心で気にし、待っていた。そして、乱歩さんの書かれたこの文が最初である。評論家的というか、実体を見抜く才能においても、人なみはずれたものをお持ちだった。
最後になってしまったが、戦後まもなく、矢野徹という青年が上京し、乱歩さんの援助で占領下の日本からアメリカへと渡っていった。SFの研究のためである。それがのちになって、わが国にSFを根づかせるもととなった。いまや矢野さんはSF界の大長老。もし乱歩さんなかりせば、である。
こう書いてきて、私の人生と乱歩さんとの関連を、あらためて考えさせられた。
[#地付き](『江戸川乱歩全集』第25巻解説 講談社 昭和54年5月)
昭和四十年七月二十八日、死去。七十歳。
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藤浪光夫
――よき時代の小学生――
私たちが女高師の付属小学校へ通学したのは、昭和八年から十四年までだった。在学中、来日したヘレン・ケラー女史が学校を訪れたり、アメリカの学校と人形の交換をやったりして、まあ、おだやかな時代だった。クラスは、男女それぞれ十五人で編成されていた。
光夫《てるお》君はひとことでいえば、上品な少年だった。いたずらをして先生に怒られるといったことは、まったくなかった。そのためか、成績がよかったためか、一年生の終りの時だったと思うが、総代となって、クラスを代表して修業証書を受け取った。彼はみごとにその役目をはたした。私だったら緊張でかたくなって、へまをやったかもしれない。ずっとあとになって、彼は幼いころから芝居を見ていたので、役をこなすこつを知っていたのかなと思ったものだ。
小学校のころの思い出となると、私の場合、ぽつんぽつんと鮮明に記憶している部分があり、その前後がぼやけているという感じのものなのである。その点在のなかの、光夫君に関するいくつかを拾いあげてみることにする。
夏休み中の作品として、光夫君がオタマジャクシを学校へ持ってきたことがあった。しだいに成長し足がはえ、カエルになるまでを、一匹ずつアルコールづけの標本にしたものである。みんなで試験管八本ぐらいあっただろうか。しばらく教室にかざってあった。
しかし、たまたま私が掃除当番の時、その二本ほどを落して割ってしまい、悪いことをしたと、いまだに思っている。
いつだったか、浅黄|悳《のぼる》君と私の二人を、光夫君が自宅によんでくれたことがあった。いろいろな小道具のしまってある倉のなかを見せてくれた。彼の家はこういう仕事をしているのかと、その時はじめて知った。印象に残っているのは、切腹用の短刀である。しかけがしてあって、なにかに当てて押すと、切先が刀身のなかにはいってゆくのである。その時、彼は私に軍服を着せ、立派な軍刀を持たせ、写真をとってくれた。そして、あとでそれをくれた。いまでもわが家に残っているはずである。
また、鎌倉の別荘によんでもらったこともあった。広々とした芝生の庭が、すばらしかった。トマトをごちそうになった。なぜトマトが印象に残っているのか、わからないが。夏休みになると、光夫君はそこからハガキをくれた。返事のあて名は「鎌倉、大仏裏」だけでとどくのだった。
小学校から私の家までは市電で駕籠町《かごまち》のりかえで帰るのだが、光夫君といっしょの時には春日町《かすがちよう》のりかえで帰宅した。いろんな話をしたはずだが、二つぐらいしか思い出せない。ひとつは彼が「柔道を習いたいなあ」と言ったことである。講道館がそこにあるのを知らないみたいだった。もうひとつは「スモウを見たことがあるかい」と聞かれたこと。私は見てなかったが、そう答えるのが恥ずかしいような気がして、あいまいな返事をした。あの時「見たことがないよ」と答えたら、私を連れていってくれたのではないだろうか。あとで残念に思ったりした。
光夫君は決してでしゃばらない、心のやさしい性格で、みなに好かれていた。同級生に画家の樺島勝一《かばしまかついち》のむすこさんの倫夫《みちお》君というのがいて、ずば抜けて絵がうまかった。もし彼がいなかったら、光夫君の画才が目立ったはずである。
卒業してちがう中学に通うようになり、会うこともまれになった。卒業したのが昭和十四年、日本が中国との戦いをはじめたのが、その二年前の七月七日である。私たちは古きよき時代の最後の時期に小学生として学んだのであった。強烈な思い出も持たないかわりに、とげとげしい性格にならずにすんだ。いわば温室そだちで、私はそのうめあわせの形で、社会に出てからえらい苦労をした。光夫君の場合もそうだったのではないだろうか。
[#地付き](『四代目・藤浪与兵衛』所載 私家版 昭和51年4月)
藤浪家は明治以来、小道具を仕事としてきた。ヨロイ、カブトをはじめ、舞台の上、映画、テレビなど、演劇に使う品々を作り、保存し、その使用料を収入とするのである。
光夫《てるお》君の父、三代目与兵衛は良心的な人で、この裏方に徹した道にはげんだ。ひとに「お客の目は昔ほど高くないのだから、質を落しても」と言われたが、自己のなっとくのゆく品を作りつづけた。一方、趣味の広い人だった。
しかし、戦争は藤浪家に大きな悲劇をもたらす。早稲田高等学校へ進んだ光夫君は、学徒出陣で入隊、死に直面する体験もする。昭和二十年八月、終戦で帰宅すると、下町にあった家屋、倉庫、工作物が全焼していた。いくらかの品が地方へ疎開してあったので残りはしたが。
昭和二十二年、東大経済学部へ入学。この追悼録のなかで、西武百貨店の社長、堤清二氏が「私は大学時代の三年間を、彼と共に活動家≠ニして過ごした」と書いている。その時も派手な面ではなく、地味な裏方のほうを受け持ったらしい。
私は農学部で少し離れていたが、たまたま正門前を通った時、ビラをくばっている彼を見かけ「なにをしてるんだい」と声をかけた。すると照れた笑い顔になり、結局、ビラはくれなかった。彼が活動家だとは、少しも知らなかった。
その一方、光夫君は病気の父にかわって、小道具の仕事もおこなった。で、大学を卒業したのが昭和二十八年、六年がかりである。
父の病気は、精神的なもの。戦災の痛手が大きすぎた。また、名人かたぎの職人が少なくなったことをなげき、将来に絶望感を持った。そのあげく、昭和二十七年に自殺してしまったのである。
光夫君は四代目与兵衛を襲名し、その分野で活躍した。これが使命と思ってだろう。営業であると同時に、芸術的な創造でもあるのだ。近代化しにくい部分も多い。
私も父が死に、会社整理をやり、そのあげく作家になった。おたがい忙しく、たまに開かれるクラス会を別にすれば、彼とは二回ぐらい銀座で飲んだことが思い出せるだけだ。ある時、不意に電話をしてきて「火を使わずに炎らしく見せる方法はないかな」と質問してきたりした。
だから、新聞で死亡記事を見た時は、びっくりした。昭和五十年五月七日。四十八歳。クモ膜下出血によってである。
死後一年目の命日をめざし、関係者たちの手で追悼録が作られた。その小学校時代のことを、私が書かされた。
この本には、主として演劇関係の人が、さまざまな思い出を書いている。戦争の被害、戦後の伝統芸術軽視の一時期、インフレ、小道具にたずさわる人たちの生活の確立、テレビ時代の開始。苦労の連続だったことを、はじめて知った。壮絶である。小学校時代の育ちのよさを知っているだけに、その思いはひとしおである。本来なら国が保護し、補助すべき対象なのではなかろうか。
彼は仕事のかたわら『芝居の小道具―創意と伝承―』という厚い本を日本放送出版協会から出した。労作であり、第九回長谷川伸賞を受賞した。
その記念会が吉原松葉屋においておこなわれ、私も出席し、盛会ぶりに驚かされた。光夫君はじつに楽しそうだった。まさか、その一年後に死んでしまうとは。
未亡人と、幼い娘さんが二人あとに残った。小道具の仕事は、弟の隆之《たかゆき》さんが引きついでつづけている。
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横山隆一
――良質な笑い――
いつだったか横山隆一さんについて一文を依頼された時、外国のアンソロジーに収録されていること、欧米で流行しているゼンは、このような感じで受け取られているのではないかと書いた。
つまり、いわくいいがたしという笑いである。そこへゆくと、アメリカのヒトコマ漫画には、理屈っぽさがある。こうだから面白いのだと、説明のつく笑いだ。
最近、たまたま新聞を見ていたら、山藤章二さんの、漫画を描くことがいかに大変な作業かという文章が目にとまった。強い好奇心と、広い知識、独自の感覚。それに容赦なく迫る締切り。さらに加えて、深刻なものを上位に置きたがる風潮がある。甘やかされることなどないのだ。
横山隆一さんの業績など、とっくに文化勲章を受けていて当然なのに。あるいは、あんなつまらぬものをさしあげては失礼というわけか。
私は戦前に少年期をすごしたが、ものごころのついた時から、横山さんの四コマ漫画を新聞で見ていた。はじめは「江戸っ子ケンちゃん」だった。そして「フクちゃん」である。アラクマさんという、ふしぎなるおじさんがよく登場した。
そして、戦後もさまざまな主人公により、新聞漫画がつづけられた。これがいかに驚くべきことか、私は考えただけで、気の遠くなる思いがする。一回たりと、いいかげんなものは作れないのだ。
また、聞くところによると、漫画の稿料の値上げについて、戦前、長く地味な努力をなされた。それ以前は、スペースを原稿の字数に換算し、それで支払われていたという。漫画の分野をめざす人がふえてきたのは、この値上げのおかげともいえるのだ。
横山さんの四コマ物には職人芸のみごとさがあるが、そのあいまに発表されたヒトコマ、あるいは長めのものには、わくにとらわれないおかしさがある。強烈さも、奇をてらったところも、お色気もないのだが、独自な宇宙がそこに展開される。
スイカの皮をリンゴのようにむくなど、見せられれば「あっ」である。むりにひねらなくても、笑いというものは、どこからでも出せるのだなあと思わされる。漫画にはストーリー的発想のと、視覚的発想のとがあるが、横山さんはその両方の才能をかねそなえている。
じつは、横山さんは引退され、悠々たる生活なのかと思っていたのだが、こんな本が出た。ほとんど書きおろしであるとのこと。依然としてご健在と知り、うれしくなった。一段と風格が加わり、自在の境地である。
と書くと、らくらくとお描きになっていると思う人もあるだろうが、そういうことはない。笑いというものは、精神の緊張をふまえてでないと、にじみ出てこない。汗のようなものなのだ。すなわち、相変らず若々しい思考をなさっておいでなのだ。
劇画ならいざしらず、この種の作品は論じようもないし、論ずべきものでもない。ごらんになれば、良質の笑いが伝わってくる。横山さんの作品には、なにかふわふわしたものがただよっており、私はとくにそこに酔いしれてしまう。
もっとも、横山さんの漫画に、幼年期からずっと接してきたためかもしれない。戦争もあったし、いやなこともあった。そんな時代の新聞のなかで、横山さんの漫画がいかに大きな救いだったか。そういう思いを抱いている人は多いはずである。
いまの若い人がどう受け取るかは、わからない。しかし、本書のなかの「残った人」など、なんともいえない大悲喜劇で、すぐれた古典落語に通じるものがある。横山隆一さんの作品群は、魅力を失うことなく、後世に残るだろうと思う。
[#地付き](横山隆一『百馬鹿』付録 奇想天外社 昭和54年1月)
私が前に書いた文とは「フクちゃん論」で、角川文庫『きまぐれ博物誌・続』に収録してある。
なお、この『百馬鹿』は昭和五十四年度の日本漫画家協会の大賞を受賞した。おめでとうございます。
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宮坂作平
――ブラック・コーヒー――
昭和二十三年、私は東大の農学部、農芸化学科を卒業し、大学院へと進んだ。卒論を書いた朝井研究室(発酵生産学)に残ったわけである。
現在の大学院生は授業を受けたりしているらしいが、当時のは、月謝を払って研究の指導を受けるだけといった程度だった。
毎週、外国の文献の翻訳紹介の会合があり、時たま私にも番が回ってくるので、英会話の教習所にかよったりもした。しかし、英会話と学術文献とはあまり関係がなく、ついにどっちつかずで終ってしまった。
映画もずいぶん見た。父はまだ存命だった。急いで働き口をさがす必要もなく、私の人生においては、いま思うといい時期だった。戦後の混乱もいくらかおさまり、赤い羽根の募金なるものがはじまったのも、この年である。回想すると、なつかしくてならない。
そのころ、私は研究室へアメリカ製の缶入りのコーヒーを持っていった。だれかからもらったものだっただろう。もちろん、インスタントではない。その出現はずっとあとだ。
理科系の研究室であり、実験用のガラス器具はそろっている。ガスのバーナーもある。コーヒーをいれるのにこと欠かない。もっとも、つぐのは普通の茶わんであった。私は近くの希望者についで回った。
「甘さは適当に……」
砂糖は入手可能な時代になっていたような気がするし、そうじゃなかったとしても、研究室には微生物培養用の糖分材料があった。また、合成した人工甘味料を持っている者もいたのだ。
「そんなもの入れるの、やめなさい」
声の主は宮坂作平さん。彼は東京工大を卒業したが、家業が酒造業であるため、しばらくここに籍をおくことにしたのだ。人あたりがよく、他人を笑わせるのが好きな性格である。だから、なにかの冗談かと思った。
「なんにも入れずに飲むのか」
「ああ、そうだ……」
彼は説明をはじめた。コーヒーというものは、口にふくんでじっくり味わえば、それ自体の持つなんともいえない甘味がわかる。それを感じとってやらないと、自然界に対して申しわけがない。
そして、そのまま飲んだのである。冗談めいたものは、少しもない。これには私も驚いた。戦前の少年時代、また戦後になってふたたび飲めるようになってからも、コーヒーとはミルクと砂糖、少なくとも砂糖は必ず入れるものと思い込んでいたのである。
しかし、彼の言い分にも一理ある。それに、心からの忠告といった感情がこもっていた。私はその時、生まれてはじめて、よけいなものを入れないコーヒーを飲んだ。その微妙なる味というものを感知してやろうと。
それをきっかけに、私はコーヒーにはなにも入れないことにした。しかし、身についた反射神経というものは強く、コーヒーのかおりをかぐと、やがて口に入る甘さを考えてしまう。その連想が切れ、コーヒーとは砂糖で味つけをしたものでないとの実感を持つまで、半年以上はかかったようだ。
物好きと言われるかもしれないが、それだけではない。宮坂さんとは、微生物の液内培養による酵素生産というテーマで、共同研究をやっていたのである。なにかの縁。ひとつぐらい趣味を同じくしようと思ったのだ。
その実験結果はまとめられ、宮坂さんと私との連名で農芸化学会誌にのった。私の唯一《ゆいいつ》の科学的業績である。
とにかく、それ以来、私は紅茶やコーヒーに砂糖を入れない。体質的に甘党でないのだ。紅茶は毎朝、一ポットを飲む。
コーヒーは外出した時に飲むが、じつにさまざまな味がある。アメリカンだとがぶ飲みだが、わが国ではヨーロッパ風が多い。とくに好みはなく、店によるちがいを楽しんでいる。
世にコーヒー通なる人がいるらしいが、ミルクと砂糖を入れたら、信用しかねる。味の差がわかるとは思えない。もっとも、コーヒー好きのかたは、どう飲まれようと自由である。
私がブラックで飲むので、なにも無理してと思う人がいるようだが、かくのごとく、もう三十年にもなることなのだ。
宮坂さんもいまは宮坂醸造の経営者である。そこの作る「真澄《ますみ》」という日本酒は、まことに評判がいい。伝統のある酒を後世に伝える人は、味には敏感なのだなあと、コーヒーを飲んだり、テレビのコマーシャルを見たりする時、昔をなつかしみながらふと思う。すなわち「神州一」というみそも、彼のところの製品なのである。
[#地付き](「宝石」随筆欄 昭和53年10月号)
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花井忠
――父とその会社の恩人――
私の亡父・星一《ほしはじめ》は製薬会社の経営者だった。明治末の創業で、まずイヒチオールの国産化に成功し、順調な成功をおさめた。さらに、台湾においてモルヒネの国産化に成功した。これには元台湾民政長官・後藤新平の応援があり、そのおかげでもあった。
また、大正三年(一九一四)に第一次大戦がはじまり、ヨーロッパからの薬品輸入がとだえたこともあり、つぎつぎに利益をあげ、星製薬は急激に成長していった。
大正十二年、関東大震災で京橋の本社ビルは焼けたものの、経営にはほとんど影響を受けなかった。しかし、翌大正十三年になり、突如として思いがけない災厄にみまわれることになった。いわゆる阿片《あへん》事件である。これについては、私が『人民は弱し 官吏は強し』という作品に書いた。
その時に弁護していただいたのが、花井卓蔵先生であり、花井忠先生にもご助力いただいた。これが私の父と花井先生との出会いである。
おかげで最終的には無罪の判決を受けられたが、それまでの二年間における事業の損害には、はかりしれないものがあった。壊滅にちかい打撃を受けた。世の人は、星製薬は再起不能との印象を持ったようだ。
そのあと、これを機会に事業を乗っ取ろうとする、債権者のひとり芝という人の動きが活発になった。役員のひとりを抱きこみ、登録商標を担保に入れた書類を作らせ、返済金の一部としてそれを取得し、同一の製品を大阪で製造し、市場に出した。
星製薬は、それを阻止すべく裁判で争った。いわゆる商標権事件である。法律にしろうとの私にはどちらに理があるのかわからない争いだが、花井先生の弁護によって「商標権は営業権と不可分なもので、営業権とともにでなければ譲渡できない」という、星製薬に有利な判決を得ることができた。
たまたま、そのころの父の日記が出てきたが、判決前はよほど気になったらしく、花井先生をしばしば訪れていたことが書かれている。
しかし、債権者の芝一派は、まだあきらめない。それではと、破産の申し立てをし、昭和七年の暮に、星は法人、個人ともに破産の宣告を下された。いま手もとに資料がなく、商標権事件とどっちが先かはっきりしないが、連続して裁判に巻き込まれていたのである。
話は少しそれるが、先生のご長男、孝君と私とは、同じ小学校にかよっていた。学年は同じだが、クラスはちがっていた。三年生ぐらいの時だったと思う。同じ学年の者たちがそろって、裁判所の見学に行ったことがある。一種の校外授業である。そして、傍聴をした。全員となるとかなりの人数だから、あるいは二回に分けてだったかもしれない。
それは花井先生のお世話で実現したのである。なにか気の毒な状況で被告にされてしまった、老婦人についての事件だった。あ、こういう人たちのために弁護士が必要なのだと、幼かった私も感じたものである。
これはどなたかがお書きになるだろうが、先生が最も残念だったのは、広田|弘毅《こうき》元首相を東京裁判で軽い刑にできなかったことではないだろうか。占領下のことで、どうにもならなかったのだろうが。
私の父は、人生のほぼ半分を、なにかと花井先生のお世話になってきたのである。戦争中、大政翼賛会の推薦からはずされたにもかかわらず、代議士に当選できたのは、その時に先生に応援していただいたのが原因のひとつになっている。
父の死去したあとも、いろいろとご相談にうかがった。星薬科大学も運営が最も苦しい時期に、理事長という大役をお引き受けいただいた。銀行からの借入金に対して、理事長として保証人になってもいただいた。
私は日本学術会議会長、元気象庁長官の和達清夫先生のご媒酌で結婚したが、その披露宴の席上、花井先生にはありがたいご祝辞をいただいた。そんな縁でお二人は知りあいになられ、花井先生は、異常気象による高温と犯罪に関する論文をお書きになった。なにごとにも広く関心をお持ちになっておられたのである。
父の死後、十五年祭だかが郷里のいわき市で催された時、先生には追悼講演にわざわざお出かけいただいた。
書きはじめると、とめどなく思い出がわき出てくる。父が戦前に外遊した時、横浜の船の上でいっしょにとった写真も残っている。父の存命中に、どのようにお世話になったのか、順序だてて聞いておくのだったと、いまになって残念でならない。
[#地付き](花井忠先生追悼録刊行会編『花井忠』 中央大学出版部 昭和52年12月)
花井忠先生は、いまや伝説的な名弁護士、花井卓蔵氏の次女と結婚し、養子となった。ベルリン大学に留学。卓蔵氏の死去の後、その法律事務所を引きつぐ。
神兵隊事件、ゾルゲ事件などの弁護をした。戦後は国家公安委員、検事長、検事総長を歴任、昭和四十年には勲一等に叙せらる。
温厚な人柄で、それゆえに弁護士と検察との双方の仕事に功績が残せたのである。講演では、外国のパーティに紋付きとハカマで出席し、人びとに珍しがられ喜ばれたことを好んで話された。
昭和四十八年十月五日死去。七十九歳。
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長谷川甲二
――彼がターザンを訳すまで――
本書の訳者の長谷川甲二さんと知りあったのは、昭和二十四年ごろのことである。新憲法下の第一回の参議院選挙で、私の父は当選し、議員となった。そして、私はいちおう秘書という肩書きで、時たま国会に出かけた。大学院に在籍しており、気楽なアルバイトみたいなものだった。山本有三氏の作った緑風会が最大の党派であったことから知られるように、良識の府というムードがあった時代である。
国会内で会いながら、私たちは政治の話はぜんぜんしなかった。やがて長谷川さんが文学青年とわかり、太宰治の作品について話しあったりした。観念的な文学論でなく、すなおに共鳴できるもので、私はひそかに感心したものだ。
そのうち、長谷川さんがラブレーの『ガルガンチュワ物語』とアナトール・フランスの『鳥料理ロオヌ・ベドオク亭』の二冊を貸してくれた。ほかに娯楽の少ない時代で、私はたちまち読んでしまった。それを返す時、
「どっちが面白かったか」
と聞かれ、私は、
「アナトール・フランスのほう」
と答えた。当時、ラブレーのよさのわかるほどの、精神的な余裕がなかったせいであろう。長谷川さんは意外そうに、
「あなたは理性の人ですなあ」
と言ったものだ。私はものごとに熱中しやすいところがあり、それをきっかけに古本屋をまわったりしてアナトール・フランスの長編を何冊か買い、短編については白水社版の全集をそろえ、愛読するにいたった。
それは、いまの私の作風に、なにがしかの影響を与えているはずである。正直なところ、モーパッサンよりも好きである。つまり、長谷川さんは私に文学の手ほどきをしてくれた人たちのひとりということになる。もし、あの時、ラブレーのほうにのめりこんでいたらと思ってみたりもする。
そんな交友も、長くはつづかなかった。昭和二十六年の一月、私の父が死亡し、国会へ行くこともなくなったからだ。私は膨大な借金をしょいこんだ会社の整理という、いまになってみれば貴重な体験をするはめになった。
そのご、長谷川さんがどんな仕事をしていたかは、よく知らない。進駐軍相手に、なにかのセールスをやっているような話を聞いたこともあった。野坂昭如や五木寛之がしきりに回想記を書いている、あの混乱期である。さまざまなことをしたに、ちがいない。
それでも、時たま手紙をくれた。なんの用件もなしに、それが舞い込んでくるのだ。浮世ばなれした内容で、ユーモアにあふれており、なんともいえぬ面白いものである。読みなおし、何回も大笑いした。
こと手紙に関しては、彼にまさる人を知らない。この調子で小説を書いたら、きわめてユニークなものが出来るんじゃないかと思ったものだ。この考えは、いまでも変らない。作家としての才能のある人なのだ。
いまになって思うと、あの手紙は混乱状態のなかであたふたしていた私をはげますものだったのかもしれない。とすれば、まことに親切な人である。
そして、数年前、また手紙をもらった。今回は内容のあるもので「翻訳の仕事をしたい」とあった。なぜそんな気になったのか知らないが、ほかならぬ長谷川さんのことである。なんとかしてあげたい。
しかし、私には翻訳の部門のことはよくわからない。それに、彼の語学力の程度も知らないのだ。こうなると、矢野徹さんに相談する以外にない。
かくかくしかじか、みこみのあるものなら指導してあげてもらえないか。そう矢野さんに電話すると、こころよく承知してくれた。矢野さんもまた、親切な人である。
矢野さんの指導よろしきを得てか、長谷川さんの才能と努力もあってか、何冊かの少年物の翻訳が出され、ここにはじめて長目のものが一冊になって出版されることになったのである。
一般の人は翻訳者の苦労をあまり知らない。私もそうだったが「翻訳の世界」という雑誌を事情があって何冊か読み、かくも大変な作業かとびっくりした。小説を書くほうが、はるかに楽のようだ。すぐれた小説となると、話はべつだが。
私がここに一文を書くことになったのも、なにかの因縁であろう。
[#地付き](『勝利者ターザン』解説 早川文庫 昭和53年6月)
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荒井欣一
――なつかしい円盤――
『UFO年鑑』という本がある。一九七七年版で、その年に報道されたUFOに関する情報を、荒井欣一さんがまとめたものだ。自費出版の限定版だから、たぶん、入手はもはや不可能な資料なのである。
私が購入の送金をすると、この本とともに「あまりに大変な仕事で、気力がつづきません」との手紙がとどいた。思いついてやったはいいが、量の多さにねをあげたのだ。したがって、年鑑といっても、これが最初にして終りというわけである。
ページをめくっているうちに、感無量という気分になってくる。いまや、まさにブーム。あきられるけはいもなく、社会に定着しそうだ。こんな時代になるとはねえ。
巻末にのっている小史によると、荒井さんが「日本空飛ぶ円盤研究会」を作ったのが、昭和三十年七月。私の入会がいつかはっきりしないが、その年の秋ぐらいか。朝日新聞に小さな紹介記事がのり、その本部がすぐ近くと知り、出かけていった。人間、なにがきっかけで人生が展開するか、わからない。つくづく、そう思う。
本部といっても貸本屋で、当時、荒井さんはそこの主人だった。よく書くことだが、その会員のなかのSF好きが「宇宙塵」という同人誌を作り、そこから私たち作家が出たのである。
荒井さんは、私より三つの年長。その性格について、あまり知られていないのではなかろうか。ひと口で言えば、人徳のある人なのだ。こういう人は、めったにいない。
そのころ、空飛ぶ円盤なんて口にしたら、常人あつかいされなかった。その研究会の会長だから、かなり奇人であってもいいし、そう想像していた人も多かったと思う。それが、ぜんぜん逆だったのだ。あらためて、ふしぎな気分になる。
常識円満で、我欲というものがなく、自己主張をしない。なんで、こんな人が円盤に夢中に、である。かなりあとで、お子さんがストマイの副作用で難聴になり、もし宇宙人が来て手を貸してくれればと思って、ということを知った。
そして、日本最初の研究会が生まれた。もし、売名や金もうけ主義の人がやっていたら、よからぬイメージを残し、どんな方向に流されていたかである。
それでいて、荒井さんも私も、いまだに円盤を見ていない。もしかりに、荒井さんがまぢかに目撃し、その記録を発表したら、どうなるかだ。実在説が決定的になる。私だって、無条件で信用する。
UFOが荒井さんを避けているという珍説にも、いくらかの真実性はあるのだ。
[#地付き](「潮」随筆欄 昭和54年1月号)
荒井さんは現在、五反田と品川の中間の場所で、マンションを経営している。その最上階はUFO資料室となっていて、関係のある本や資料がそろっていて、関心のある人は利用できる。
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柴野拓美
――わが国のSFの発祥――
「宇宙塵」発刊二十周年について、心からお祝いを申しのべます。まことによろこばしい。かくも多数のかたにお集まりいただいたことが、なによりの証明でありましょう。
なぜ、よろこばしいか。それは日本SF界の現状が作家にとっても、読者にとっても、きわめて満足すべきものだからです。もし不満だらけだったら、だれがこんな会を考えついたり、実行したりするでしょうか。
ものごとの発展には、なにかのきっかけが必要であります。花が咲くには、たねがまかれなければなりません。しかも、ふさわしい時期に、ふさわしい場所にです。季節はずれであったり、コンクリートの上にでは、育たないわけです。
二十年前に柴野さんが「宇宙塵」という同人誌を発刊しました。そのころ柴野さん自身も、将来こんなにまでSFが発展するとは夢にも考えなかったでしょうが、いまになってみると、じつに適当としか言いようのない時だったのです。もう五年早かったらどうだったでしょう。もう五年おそかったらどうだったでしょう。どちらも、いい結果をもたらしたとは思えないのです。
また、柴野さんの人柄も、欠点を含めてですが、これまたすばらしいものでした。どの作家も適当に議論しながら、自己の作風を発見確立してきました。柴野さんが問答無用の性格であっても、物わかりがよすぎても、ぐあいが悪かった。少なくとも、私に関してはそうなのであります。
柴野さんがいなくても日本にSFは出現したでしょうが、いまより好ましい形であったとは、考えられません。
おめでとうございます。これからもよろしく。楽しくやりましょう。
[#地付き](「宇宙塵」二十周年記念大会の祝辞 昭和52年5月22日)
この大会、思いついたのは私だけど、実現させたのは小松左京、野田宏一郎、そのほかのかたたちである。
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大下宇陀児
――先生のおかげでSF作家に――
私が今日あるのは大下先生のおかげです、という意味のことを、ほうぼうで喋《しやべ》ったり書いたりしている。先生は「そんなことはないよ」とおっしゃるが、もし、先生との関係がなかったら、私は作家にはなっていなかったかもしれない。
柴野氏の編集している「宇宙塵」というSF同人誌に書いた「セキストラ」が先生の目にとまり、「宝石」に転載していただけたのだ。今から五年ほど前のことだが、懸賞に応募したのとちがって、全く予期しなかったことで、その時の興奮はいまだに忘れられない。なおりかけていた胃の工合が、またもおかしくなったほどであった。
すぐに柴野氏と、池袋の先生のお宅にお伺いした。それまでは、大下先生については、小説の作品を通して、またラジオの人気番組「二十の扉」の声によって接していただけであった。先生の作品にも、お声にも一種透明な明るさを感じていたが、はじめてお会いしたその時にも、その通りの印象を受けたことが鮮かに思い出される。
また先生とお会いしている時はいつも、青年時代にはさぞ美男子であったろう、と心のなかで考えてしまう。だが、それを口にしないのは、永遠の青年という感じの先生に対して、適切な言葉ではないからである。
ところで、私は時どき「宝石」に書かせてもらえるようになってから、しばらくして書くことに自信を失い、文筆の修業をしていなかったためか、どう書いていいのかわからなくなった。その頃、先生に、その悲鳴のようなことを手紙のなかで洩《も》らしてしまったが「そんなことを気にせず、思い通り書きなさい」とのはげましの御返事をいただけた。そして、私はふたたび書きつづけることになったのである。
私は、いろいろと妙なことを考え、妙なことを小説に書いてきたが、この時の大下先生のはげましがなかったら、既成の手法にとらわれ、大部分の作品は平凡なものになっていたものと考えている。
[#地付き](旧「宝石」 昭和37年5月号)
もし大下先生なかりせば、私の人生は……。
時たまそう思うたびに、そこで私は思考停止症状になってしまうのだ。この仮定への答は、なんにも出てこない。
私の場合、ほかの人のように、なにか職についていて、かたわら執筆し、これならと見とおしつけて作家になったのではない。また、心底からの文学青年で、石にかじりついてでも作家をめざす生き方をつづけてきたわけでもない。
なくなられたのが昭和四十一年八月十一日、七十歳。
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今日泊亜蘭
――本物の科学小説――
最近は科学小説の分野もしだいににぎやかになってきたが、その普及はほかの分野にくらべて、まだまだおくれている。これを一時の流行に終らせず、わが国にしっかりと根をおろさせるには、つぎの条件がみたされなければならないだろうと考えていた。本格的な長編が多くの人によって書かれること。もっと日本的な風土にあった作品のでること。正しい文章であること。この三つである。今日泊さんの『光の塔』はこのすべてをそなえていて、実にうれしい。じっくりと構成がねられ、サスペンスの効果を十分にあげている。書きとばした文章でなく、科学小説の手法が借り物でなく生かされている。この作品がでたのをきっかけとして、この分野もさらに多くの人に好まれるだろうと期待している。
[#地付き](『光の塔』推薦文 東都書房 昭和37年8月)
今日泊さんは、ご本人そのものもふしぎな人である。各国語にくわしく、博識である。そして、話が面白い。
柴野さんの紹介で知りあった。当時、私はまだ独身で、家もそう遠くでなかったので、よくたずねていった。そのうち、英語力を高めようと弟子となり、週に一回、ブラッドベリの『刺青《いれずみ》の男』をテキストに、一編ずつ読んでいった。翻訳の出る前である。原文も流麗で、人気のもとはこれだなと知った。
北杜夫さんの家へ連れていってくれたのも、今日泊さんだ。その時、初版の『幽霊』をもらった。また、尾崎|秀樹《ほつき》さんにも紹介してくれた。北さんもまじえて、座談会をやったこともある。そういえば、座談会へ出たのは、あれがはじめてだ。
今日泊さんの家では、光瀬さんといっしょになることがよくあった。光瀬さんが近くの高校の先生をしていたからだ。柴野さんの家も近くで、つまり、日本SFにゆかりの地となると、目黒近辺ということになる。
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他殺クラブ
――ひところのグループ――
性格なのか、としのせいなのか、私は執筆以外のこととなると、忘れっぽい。心に残るのはムードだけとなる。気がついてみたら「他殺クラブ」に入会していたという感じだ。しかし、なんとか思い出してみよう。
ことのおこりは乱歩先生編集の「宝石」の初期のことである。「宝石」と「週刊朝日」が共同で推理小説の短編を募集した。その入選者に佐野洋と樹下太郎があり、二人は授賞式のあと、喫茶店でおそくまで話しあったという。ここらあたりが「他殺クラブ」の芽だったのではなかろうか。
そのころ、多岐川恭は乱歩賞を受け、執筆を本業とするようになっていた。河野典生はテレビドラマの脚本コンテスト当選をきっかけに、竹村直伸とともに「宝石」の常連執筆者となっていた。私は大下宇陀児先生の紹介で、作品をいくつかのせてもらっていた。
柳さんといったと思うが、ニッポン放送の人がいた。ラジオでミステリー・ドラマをやりたいから、以上の人たちに脚本をたのむつもりだと言ってきた。私は書こうと努力したのだが、その才能のなさにたちまち気づき、とうとうものにならなかった。ほかの人たちは書いたのだろうか。
その柳さんの世話で、打合わせ会なるものが開かれ、みなが集まった。だれも作家になったばかりであり、この世界では孤独だった。むやみと大きな希望をいだいている反面、はたしてやって行けるのかどうかという、心細さを持っていた。もっとも、これは私の個人的な回想による推察である。
そんなことからか、一回きりで別れるのが惜しく、また集まろうということになった。提唱者は佐野洋だったと思うが、みな賛成した。
当時、水上勉は独自な作風の社会派推理の作品を精力的に発表していた。また、結城昌治は「エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン」のコンテストに入賞し、人間味あるユーモラスな分野を開拓した。その二人をも加えて、第一回の会合が開かれた。
集合した場所は、新宿の風月堂だった。それから大きなお好み焼き屋へ行って食べ、かつ飲んだのだが、その店の名も場所も思い出せない。古い手帳をめくれば日時の記入はあるだろうが、意味ないことだ。つまり、そんな時期だったのである。
席上、会名について、各人がいろいろ案を出した。私は「エイト・ピーチェス」はどうです、なんて言った。そのころ日劇ダンシングチームにやはり八人より成るその名称の踊り子のグループがあったからだ。くだらない発言をしたものだ。つまらんことだけ、私はおぼえている。
あれこれ話しあったすえ、多岐川恭の提案の「他殺クラブ」に決定した。スチーブンソンの作品「自殺クラブ」をもじったものである。私は内心、その名になじめなかったが、そのうち親しみがもててきた。悪い名ではなかった。会員たちのその後の活動が、会名のイメージを上げたためかもしれない。
代表者として多岐川さんがきまり、以上の八人でなく、会員をふやそうということになった。順序が前後しているかもしれないが、会員たちに名をつらねた人の名をあげておく。
笹沢左保、新章文子、大藪春彦、都筑《つづき》道夫、三好徹、高橋泰邦、佐賀潜、梶山季之《かじやまとしゆき》、生島治郎である。関西在住の黒岩重吾がゲストとして会に出席したことがあるそうだが、その時、私は欠席していた。その後、水上さんはあまりの多忙のためか、出席の余裕がなくなってしまった。そのほか、例会に来なくなる人が二、三でた。
例会は何回ぐらいやったろう。警視庁の死体見学が今でも語り草になっているが、私は死体がきらいで行かなかった。普通は、なんとなく集まって、しゃべり、飲食し、別れていた。碁の会が三回ほど開かれた。
ある時期、定期的な会がおろそかになった。そのとき幹事役を買って出たのが佐賀さんである。ものすごい執筆量なのに、本当に世話好きな人だった。個人的に相談に乗ってもらった人も多かったのではなかろうか。私も、作品があるところで模倣された件につき、彼にあいだに入ってもらい、手数をかけた。
佐賀さんのおかげで、会合がまた定期的なものとなった。法律関係者など各分野の人を呼び、話を聞いたりもした。会員が直木賞、日本推理作家協会賞をもらうと、「他殺クラブ」でその祝宴をやったりもした。
残念なことに、佐賀さんはなくなられてしまった。葬儀には、一人を除いてみな参列した。その一人とは私である。当日、国際SFシンポジウムなるものが京都で開催され、抜けられなかった。
「他殺クラブ」とは、いったいどんな会なのだ。こう聞かれると、返答に困る。こういったことにでもなろうか。乱歩先生が、わが国における推理小説の水準向上と、定着とを念願とし晩年、そのことに多くの力をそそがれた。それにこたえて出現してきた作家たちといった感じである。
また、各人それぞれ個性的な作風で、おたがいに影響しあうことがなかった。そのあたりに長つづきした原因があったのかもしれない。みな自分の宇宙を持っている。私も、だれかに対してライバル意識を持ったなどということはない。
書いているうちに思い出した。私の結婚式の時、会員たちが出席してくれた。多岐川さんが「結婚してもホーム・ドラマなど書かないように」と妙なスピーチをしてくれた。ずいぶんと昔のことである。
しかし「他殺クラブ」の名が出ると、私は新人時代を思い出し、あのころの希望と不安とが心によみがえる。初心忘るべからずの助けになっている。ほかの人たちも、そうなのではないだろうか。意義があったとすれば、そのへんだと考えている。
[#地付き](「増刊・推理」 昭和47年12月)
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佐野洋
――『見習い天使』のころ――
佐野洋さんについて書こうとすると、私の追憶はすぐ時をさかのぼり、昭和三十年代の前半に戻ってしまう。私も若かったし、彼も同様。なにもかもなつかしい。
港区に宝石社があり、木造のぼろの建物だった。江戸川乱歩先生が私財を投じ、推理小説専門誌「宝石」にてこ入れをなさった。のちに資金的にゆきづまり、その誌名は光文社に移り、内容も変ってしまったが、乱歩先生の功績は、多くの作家を世に送り出したという形で、後世に残されたのだ。
あのころが、推理小説界のルネッサンスだったのではなかろうか。まず、仁木悦子さんが乱歩賞『猫は知っていた』で、人びとの関心を推理小説に集めた。昭和三十二年(一九五七)の夏のことである。松本清張さんの短編集『顔』もこの年に出版され、推理作家協会賞を受ける。その年末の号の「宝石」に、私の作品がはじめてのった。
佐野洋さんはその翌年に「週刊朝日」と「宝石」の共同募集に入選し、すぐ「宝石」の常連執筆者となった。ごく初期の短編「不運な旅館」を読んだときは、みごとな結末だなあと、心から感心させられた。
佐野さんと同時に入選したのが樹下太郎さんであり、次回の乱歩賞が多岐川恭さんであり、大藪春彦さんが若くしてデビューしたのもそのころである。当時を思い出してみて、だれもライバル意識は持たなかったようである。それぞれ、独自の作風を持ち、好きなように書いていたのだ。
なぜ、いっせいに個性的な作家が出現したのか。中間小説雑誌なるものが、広く読まれていた時期である。テレビ普及の前であり、読書の楽しみは、主としてそこに求められていた。うまく、面白く、すぐれた短編が並んでいた。しかし、もうひとつ、なにかがあっていいのではないか。試みられていい分野が残されているのではないか。読みながら、そんなことを考える。自分を例にして書いているわけだが、ほかの人たちも大差ない心境だったのではなかろうか。
そこへ、乱歩さんの「宝石」によって、活躍の舞台が与えられた。才能が開花した。全力投球ができたし、ある種の満足感もあったし、未来への夢もあった。まもなく、専業の作家となって書きつづけるのが、いかに大変かを思い知らされるわけだが。
この『見習い天使』は、佐野さんが三十四、五歳のころの作である。週刊読売の読切り短編で、新潮社で本になった。私もその少し前に新潮社からはじめての短編集を出しており、それと同じ小さめの変形版だったので、とくに思い出があるのだ。
今回、あらためて読みかえして、そのうまさを再認識した。天使のつぶやきを前後に入れる手法など、みごとなものだ。読み切り連作となると、たいてい同一の主人公でと考えるものだ。しかし、それをやると、結末の意外性に枠がはめられ、あっという効果を上げられない。天使の声で、さらに大きなどんでん返しをやった作品もある。
再認識は、ほかにもある。古びていないのだ。風俗描写は不要と、切り捨てているためである。そして、バラエティのはばの広さである。「アンケート」など、ほかのにくらべてかなり異質なのだが、この本におさまって調和を乱していない。昨今、小説教室のたぐいが各所に出来ているらしいが、本書など、推理小説を書こうという人への、最適の教材になるのではなかろうか。
小説は手法よりも、まずは読者へのサービスの精神である。どの一編も、そのいい実例といっていい。
また、なににも増して驚かされるのは、作家となってから推理小説ひとすじ、今日まで休むことなく書きつづけ、一定の高水準を保っていることである。これは、気の遠くなるような航跡なのだ。雑誌などで、佐野さんの短編がのっていると、つい読んでしまう。そして、ああ面白かったと思う。
読者が裏切られたと感じることはないのだ。さすが佐野さんの才気と片づける人もいようが、それがどれだけの苦労の産物か、同じ文筆業者として、ただただ敬服する。その苦労のあとを作中に残さないのも、苦労のひとつなのである。
佐野さんは執筆について、三つの信条を持っているとのことだ。@小説としての面白さ。A一貫性と構成美。B先人の試みへの挑戦。
そして、それを実作でやってのけているのだから、感嘆のきわみ。推理小説のひとつの完成を示した中興の祖と、後世において評価されるのではなかろうか。
なぜ、中興なのか。問題はBなのである。時は流れる。佐野さん自身がいまや先人となり、新人はそれへの挑戦をやらなくてはならないのだ。これは、ただごとではない。乗り越えるべき対象の山脈としてみて、はじめてどんなに大変な存在かわかる。
佐野さんの作風について、強烈な個性がないとの感想を持つ人もいるらしい。それなら、亜流が出てきてもいいはずだが、それらしき新人はいない。佐野洋の世界が、独自性を持ち、いかに高い所にあるか、こう考えてやっと気づくのである。
映画の世界を例にとれば、ある時期まで、すぐれた映画にはストーリーの完成があった。それが現在、スペクタクル・シーンを売り物にし、ストーリーのおかしなのが大部分になってしまった。いろいろな事情があるのだろうが、私としては残念でならない。まともに佐野さんに挑戦できる新人は、はたして出てくるのだろうか。
佐野さんと同じ分野を進まなくてよかったと、私はあらためて、ほっとしている。競争していたら、とっくに息切れしていただろう。
意外な結末という一点では、おたがい共通している。しかし、根本的に、ちがった性質のものなのだ。
佐野さんは、最後の幕切れのために、全精力を集中している。なっとくのゆく驚きを作り上げるために、佐野さんは自作を建築にたとえているが、一カ所も手を抜けない苦心であろう。そこへゆくと、私のショートショートでは、まず読者を非日常の世界に引き込もうと、導入部で苦心する。そこがなんとかなれば、結末で苦しむことはない。
佐野さんの導入部は日常的な世界であり、徐々に読者を引き込む。佐野さんのを読みなれている読者は、こうなるのでは、ああなるのではと、予想するのではなかろうか。それに対し、作者はその先を用意しなければならない。こうなると、自分との競争でもある。しかも、はじめての読者のいることも念頭においてである。こう条件をあげてみると、まったく大変なことなのだ。
佐野さんは作品中に笑いを持ち込まない。風俗描写をほとんどしないように、意識して排除しているにちがいない。笑いそのものは好ましいのだが、一面、安易におちいる危険性もある。落語のある種のオチは、落語だからこそ許されるのである。推理小説の正道を進むのは、こうまできびしいことなのだ。
と書いてきたが、私なりの意見である。作家の内面など他人にはもちろん、当人にだってよくわからないもので、本来の意味での解説など不可能と思っている。だから、この一文が、読者の楽しみのさまたげにならなかったことを祈るのみである。
[#地付き](『見習い天使』解説 徳間文庫 昭和58年2月)
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矢野徹
――無条件に面白い『カムイの剣』――
いま、この本を読み終えられた読者は「ああ、面白かったなあ」と大きくため息をついていられることと思う。また、この解説のほうを先に読むかたがあるかもしれないが、あとでこの感想をいだくことは、私が保証します。『カムイの剣』は日本人によって書かれた冒険小説のベスト・ファイブに入れていい傑作と思う。本書がいままで、さほど評判にならずに放置されていたことは、まことに残念なことと言っていい。しかし、今回この文庫に収録されることになった。多くの読者を楽しませるはずであり、喜ばしい。
読みだしたらやめられないとは、このような小説のことである。つぎのページでどんな展開がなされるのか、予想もつかない。そして、最後まで引っぱってゆかれてしまう。
この作品のすばらしさは、構成に乱れがない点である。それは奔放なロマン長編に最も大切な条件だ。一カ所でも安易なごまかしがあると、たちまちそらぞらしいものになるのだが、これにはそれがない。矢野さんの作家としての、なみなみならぬ力量があらわれている。また、時代考証のみごとさも、この作品を成功させている原因のひとつである。よくもここまで調べたと感心させられ、しかも、それが作品中にこれみよがしに出てこないところがいい。
矢野さんに聞くところによると『カムイの剣』を執筆するに際し、まず『論語』や『孟子《もうし》』を書きうつすということをやったという。『論語』と『孟子』は徳川時代の人びと、とくに武士階級の思考の源である。当時の人になりきってみるために、矢野さんはそんなことまでやったのだ。時代物を書く人は多いが、そこまで徹底した試みをやった人はいないのではなかろうか。たぶん、そのほかにも執筆の上で、いろいろと苦心をしたにちがいない。作品中の登場人物が、すべていきいきとしている。
よく矢野さんは「古今の小説の最高傑作は『モンテ・クリスト伯』ではないだろうか」と口にする。小説は面白くなければならないのだとの考えなのである。本書はそれへの挑戦であり、その亜流としてでなく、独自な形で成果をあげた。エロチックな描写や残酷さなどは、つとめて押さえられ、しかも読者をあきさせない。冒険小説の本道を歩みながら、新鮮さとスマートさを加えているのである。
私が矢野さんと知りあったのは、昭和三十年ごろ。日本ではじめてのSF同人誌「宇宙塵」を作ろうという話しあいの席であった。当時はSFという言葉が一般化していず、私だってその時に知ったくらいだったが、矢野さんは外国のSFにじつにくわしかった。
矢野さんは終戦後、神戸で青春の一時期をすごした。廃墟と焼けあとの時代で、面白いことはあまりなかった。そんななかで、矢野さんは米軍兵士の読み捨てたペーパーバックのSFを入手して読みふけった。そして、その魅力にとりつかれたのである。その魅力はさらに、矢野さんを行動にかりたてた。SFにもっと近づこうと上京し、江戸川乱歩先生に「いずれはSFの時代が来る」と話して紹介状をもらい、どういう手段でか貨物船に乗り込み、アメリカへと渡った。当時は渡米の自由な時代ではなかった。また、金銭的な余裕もなかったはずである。それに、終戦後さほど年月がたっていず、むこうでの日本人への感情もよくなかったのではなかろうか。
そして、矢野さんは興隆期にあったアメリカのSF界の実情を、身をもって知った。滞米中には楽しいこともあったろうが、また、ただならぬ苦労も重ねたにちがいない。このアメリカ行きの青春期の体験が『カムイの剣』の主人公に投影されているような気がしてならない。
帰国後、矢野さんは建築会社につとめながら、ラジオドラマを書いたり、小説を書いたりした。テレビ時代となり、国産のSF連続ドラマが放映されるようになったが、その最初の脚本は矢野さんの手になるものだった。私が知りあったのは、そのころである。
やがて「SFマガジン」が創刊されたり、SFの翻訳長編が少しずつ出版されるようになった。矢野さんへのその翻訳の依頼がふえていった。この分野で矢野さんにまさる人はいなかったのである。SFを知り、英語に強く、こなれた文章が書ける。三拍子そろった人なのだ。そして現在まで、矢野さんの訳した本は二百冊を越えるというし、そのなかにはベストセラーになったものも多い。
また、仕事ぶりが慎重である。私は語学力がなく、必要に迫られて英文を読む時、お手あげになることがよくある。そんな場合、矢野さんに電話で聞く。語学のできる人にとっては、わかりきった文章のはずなのだが、矢野さんは必ず一回電話を切って、何種類かの辞書を調べた上で教えてくれるのである。この、自分の返答には万全を期して責任を持とうとつとめる態度には、いつも感心させられる。
矢野さんはSFばかりでなく、アリステア・マクリーンなどの冒険アクション物の翻訳まで仕事のはばをひろげた。それをやりながら、面白い小説とはなにかの技法を知ったようだ。この『カムイの剣』が日本人ばなれしたスケールの大きさを持つのも、矢野さんのそのような蓄積のあらわれかもしれない。
翻訳家としての矢野さんの名は、SFに興味を持つ者なら、だれでも知っている。あまりにも有名なのである。そのため、創作は余技と思われ、損な形だった。しかし、いいものはいいのだ。このように無条件で面白い本は、めったに出ない。
矢野さんが本書を執筆する前、取材のため北海道へ出かけたが、その時、私も同行した。そして、知床半島まで足をのばした。その少し前に森繁久弥主演の映画「地の果てに生きるもの」がここを舞台に作られ、その時に森繁が即興で自作したのが「知床旅情」である。バスの美人ガイドがそれを歌ってくれた。いい曲だなと思い、なぜはやらないのかふしぎに感じたものだった。
それから数年後「知床旅情」は加藤登紀子によって歌われ、多くの人の心をとらえ、だれもかれも知床を訪れるようになったのである。私たちが行ったのは、そうなるはるか前だった。
本当にすぐれたものは、このような経過をたどるものかもしれない。『カムイの剣』も文庫本になったのを機会に、じわじわと読者をひろげ、わが国の時代物長編のなかで正当な地位を占めるようになるはずである。北海道ブームも下火になり、忍者ブームも去り、明治百年さわぎも終った。本書がきわものでなかったことの認識がなされるのは、これからであろう。
矢野さんは友人の私たちや、後輩のみんなにきわめて親切で、人徳がある。また、自己宣伝の好きでない性格の人である。そこで、解説者である私がそこをおぎない、読者におねがいします。もし仲のいいかたがあったら『カムイの剣』は面白いよと、すすめて下さい。いい本を教えてくれたと、あとでお礼を言われるのではないかと思います。
[#地付き](『カムイの剣』解説 角川文庫 昭和50年7月)
矢野さんとのつきあいも古い。柴野さんが「宇宙塵」を作った時、仲間に入れたはいいが、扱いに困ったらしい。会員名簿の最初が矢野さんで、二番、柴野、三番、私、四番、斉藤守弘という順である。
当時、アメリカのSFについてまったく知らなかった私たちにとって、会合で矢野さんの話すひとことひとことが、どんなにすばらしく響いたことか。
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河野典生
――若くしてハードボイルド派の旗手――
江戸川乱歩先生が「宝石」の編集にみずから乗り出してまもなく、新しい作家がつぎつぎと出現した。まず仁木悦子で、私もそうだが、佐野洋、大藪春彦などが前後し、ほんの少しおくれて河野典生が登場した。
たしか「ゴーイング・マイウェイ」という作品によってだった。ある自動車会社がテレビ上映用にと「宝石」と共同で募集したものの第一席になったのだ。その時、河野さんは二十四歳。若くして世に出たのだ。
昭和三十八年、この『殺意という名の家畜』を書き上げた。二十八歳。雑誌連載だったが、私はまとまってから読み、ただただ感嘆させられた。
星村という妙な姓の女性が出てくるし、わが家から遠からぬ品川あたりに事件が及んだりしている点にまず興味をもったが、たちまち引き込まれた。文章がいいのである。
「何か言葉自身が勝手に逃げて行くような口調……」
「人間の顔で、最も醜悪なものは、告白することになれていない男が告白を始めた時の表情かも知れない」
そのほか、みずみずしい感性が、各所で読む者をひきつけるのだ。それ以前の推理小説界では、トリックに熱中するあまり、文章のほうがおざなりになっている作品がまかり通っていたのである。まさに画期的なことといっていい。
その一方、全体の構成が、じつにみごとである。私は長編ミステリーを書いてないので大きな口はきけないが、よく読むと、無理を感じさせられるのによくお目にかかる。また、つまらないミスが目についたりする。それらは、たいていの場合、ねり直しによってなんとかなるもので、早くいえば努力をおこたっている結果なのだ。
この作品は翌年の日本推理作家協会賞を受賞した。その時のほかの候補作がすごい。
佐野洋『蜜《みつ》の巣』、三好徹『風は故郷に向う』、黒岩重吾『廃墟の唇』、中薗英助『密航定期便』、結城昌治『夜の終る時』。
結局、河野、結城の二名受賞となったのだが、いかに完成された作品か、衆目の一致した結果だったのである。河野典生は三十歳にならない年齢で、わが国ハードボイルド派の旗手ということになった。
しかし、それからしばらくし、長いスランプの時期をすごすことになる。どうやら、若くして文名が高まると、その試練に耐えねばならぬものなのかもしれない。その逆の例が佐賀潜で、かなりの年齢で乱歩賞を取り、驚くべき量の執筆をやってのけたものだ。
とにかく、あれだけの才能を持ちながら、作品を書かないというのは惜しいことだ。あるパーティで会った時「河野さんの文章は、じつにいい。もっと読みたい」といったようなことを話しかけた。はげましになればと思ってである。その時、たまたまそばにある作家がいて、自分への批難かと勘ちがいし、私にからんできて、これには困った。
彼のスランプの原因については知らないし、当人に聞いたこともない。軽いスランプなら私にも経験があるが、自分でもわからないしろものである。
その一因は、この『殺意……』があまりにも完成された作品だったためかもしれない。適当に妥協し、程度を下げての量産という方法があるが、性格的にそれができなかったからかもしれない。また、わが国ではハードボイルドと暴力小説とが混同されている。そのための書きにくさもあっただろう。理解のない編集者も多かったはずだ。
それがいつのことか知らないが、やがて河野さんは新宿で「SFマガジン」編集長の福島正実と口論をし、なにか原稿を書かざるをえないはめになったとのことである。河野さんがブラッドベリやディックを読み、そういう傾向への意欲が高まっていた時で、いまはなき名編集長の福島さんがそれを感じとったためかもしれない。
そして、河野さんにとっての新しい傾向の一連の作品が生まれるようになった。それらは好評でいつのまにかSF作家クラブの会員にしてしまった。
昔はSFというと科学小説であった。それが社会科学をも包み込み、さらにもっとはばの広いものとなっている。独特な異色のイメージを示した作品が、今後の主流になりそうである。その点、当人は意識しなかったのだろうが、先駆的な仕事をしていたのだ。
河野さんの短編には、妙なストーリーで、異様な結末、形容しがたいムードがある。
そのひとつの里程標が『ペインティング・ナイフの群像』である。河野さんはこれを掌編組曲と称している。さまざまなタイプの小品六十二編より成る。これを一年間でやったという点、とても人間わざとは思えない。わが国において、前例のないことである。これは直木賞候補になったが、受賞するに至らなかった。そもそも、そういう俗な尺度ではかれるものでないのだ。
このなかで、私は「最初の家族」というのが好きである。原稿用紙一枚におさまってしまう短さだが、新鮮な神話といった充実さがある。そういえば、河野さんの作品は、原稿料なるものをぜんぜん感じさせない。金銭のために書いたといった印象を受けない。自己に忠実なのである。
『殺意……』と『ペインティング……』をくらべると、まさに両極端である。しかし、いずれも河野典生なのだ。今回『殺意……』を読みかえして、共通する部分を発見して、私は一段と面白かった。
ジャズについて私は門外漢で、その方面からの解説不足になってしまったが、とにかく多くの可能性を秘めた人である。いま、さらに新しい分野を手がけているらしい。またまた驚かされることになるのだろう。日本には珍しい作家といえる。
[#地付き](『殺意という名の家畜』解説 角川文庫 昭和54年5月)
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久里洋二
――パワフルなスーパー・ナンセンス――
この本に収録されているものは、すべて久里さんの新作である。再録はない。一貫したものがあって、新しい境地へ進んだなと感じさせる。そのエネルギーに敬服する。ヒトコマ物のたぐいがいかに大変かは、私も短い小説を書くので、察しがつくのだ。彼は永遠の青年である。
内容もすごい。さすがと叫ばずにはいられない。ナンセンスの迫力の強さ。と同時に、わかりやすさ、普遍性。外国の賞を数え切れぬほどもらっているのである。大ベテランの手腕としかいいようがない。さらに、そこに盛られた独自の風格。ただただ感嘆のほかはない。
しかし、こんなふうにさわいでいただけでは、解説にならない。ファンレターと大差なくなる。やぼかもしれないが、久里洋二的な宇宙の形成について、若い人のために一文を書かせてもらう。
久里さんと会うたびに、若々しいなあと思うのだが、彼は昭和三年(一九二八)の生まれである。私より二つ下。漫画界の現役では、上はほとんどいないのでは。以下、美術出版社刊(昭和五十四年)の久里洋二『人間動物園』を参考にさせていただく。それには自伝ものっているのだ。
久里さんの出生は福井県の鯖江《さばえ》市。山にはさまれた地である。父親は軍人。そのころの軍人というものは、まじめきわまるもの。その子が将来、このような絵を描くようになろうとは、周囲のだれひとり予想しなかっただろう。
あるいは、なにか目に見えぬ力が久里さんに作用したのだろう。幼稚園のころから絵が好きで、小学校に入ってからその才能を発揮しはじめた。絵のコンクールに参加して、しばしば賞をもらった。
才能という言葉を安易に使いたくないのだが、この場合は天の与えたものかなと考えざるをえない。私は子供の時、作家になろうとは夢にも思わなかったが、物語を読むのが好きで、その気になれば本はどこからか借りられた。しかし、絵となると、さほど豊富な環境ではなかったように思うのだ。
教育方針もいまとちがって、文章も絵も、写実的なものがいい点をもらえた。久里さんは写生もうまく、図画の時間、あっというまに自分のを描いてしまう。そこで他人のを手伝って、それぞれちがったタッチで仕上げたそうだ。また、夏休みの宿題の一日一枚の絵を、最後の日にまとめて、架空の風景画を本物らしく描いたというから驚きだ。
天才少年。世の中にそういうのの存在していることはたしかだが、たいていは、やがてただの人となる。久里さんは、その例外的な、本物だったのだろう。
中学に入ると、戦局も悪化し、とても絵どころでなくなり、軍需工場へ動員されて働かされた。多感な少年期を好ましくない状態ですごしたわけだが、無形のプラスになっているのかもしれない。
やがて空襲で街は焼け、終戦となり、戦後の生活難の時期となる。このあたりのこと、いまの若い人は写真や映画フィルムで見ることはあっても、実体は想像もつかないだろう。空腹、いや、あらゆるものへの飢餓感は、強烈なものだった。久里さんは青年期に入りかけていた。このままではいけないと、迷い悩んだにちがいない。
現代ではハングリー精神が失われていると、なげく人がいる。これだけ満ち足りた社会にあって、それを求めるのは無理だろう。久里さんは、望んだわけではないのに、やむをえずそれを体験させられた。それゆえに、豊かさの裏を見とおせるようになったのだ。
混乱の社会でもあった。それゆえに、管理社会の逆をも知りつくしたのだ。その混乱のなかで、絵への情熱だけは失わなかった。そして、久里さんは横山泰三の漫画と出会った。人生の転機である。
泰三漫画の全盛期を知る人は、いまやもうあまりいないだろうが、もう飛び抜けてユニークだった。長期間にわたっての人気となると兄の隆一漫画のほうが上だろうし、親しみやすさとなると、長谷川町子「サザエさん」のほうかもしれない。しかし「プーさん」シリーズでの泰三漫画は、人間ばなれしたもので、高度なナンセンス性をおびていた。娯楽に飢えていた大衆の敏感さと、ぴたっと一致したからかもしれない。
「プーさん」は市川崑監督により映画化された。私も見てはいるのだが、よく思い出せぬ。出来はともかく、これをきっかけに市川監督は独自の本質を発揮しはじめたと評する人もある。泰三漫画は、そういう衝撃力をも秘めていたのだ。
久里さんは、絵をやるとしたら漫画の分野でと決心する。自伝のなかで「絵描き志願者の少い時代にそれを志したことが、幸運だったと思います」と書いている。イラストレーターなんてしゃれた呼称すらなく、職業としての将来性など見当もつかなかった。幸運ではなく、勇気であり、パイオニア精神である。そして、実質的なイラストレーターの元祖となるに至るのだ。
かくして、久里さんは昭和二十五年に上京し、泰三先生の住む鎌倉に近い藤沢に下宿する。二十二歳。希望と不安のまざった日々がはじまる。紹介状もなしに、先生を訪ね、絵を見てもらったりする。
各誌への投稿もつづけ、ついに日本近代漫画界の先駆者、近藤日出造氏の運営する「漫画」という雑誌に採用され、はじめての収入となり、世に名を知られるようになる。
各方面から注文が来るようになる。広告の部門も手がけ、二科展にも入選する。マンガ・ブームの時代がはじまりかけていて、二十九年には「文春漫画読本」という雑誌が出て、それがさらに勢いをつけた。
私に関してだと、江戸川乱歩さんに作品をみとめられ、旧「宝石」誌に第一作ののったのが三十二年。その時に、さし絵を描いてもらったのが久里さんである。編集部のきめたことだが、なにか共通点を感じてか。
その翌年に、久里さんは文春漫画賞を受ける。売れっ子となるわけだが、そこで久里さんは、またも新しい分野に挑戦する。アニメーション映画だ。そして「人間動物園」を制作したはいいが、だれもみとめない。
だめなのかと、あきらめかける。その時、東京の映画祭で作品不足とたのまれ、上映したら好評で、外国の映画祭を含めて、十一の賞を受けた。自己に忠実だったからこそである。はじめから当てようとしてだったら、そうはならない。
やがて、テレビ用の子供むけ劇画アニメが続出し、劇場用のも作られた。それなりに人気があり、利益も出したろうが、外国で賞を取ったという話を聞いたことがない。久里さんは毎年のように、世界のどこかで賞を受けているのだ。
久里さんは、アシスタントを使わず、なんでも自分で作り上げる。テレビ番組「11PM」のために、週に一回のアニメ映画を、十四年間も製作しつづけた。もちろん、カレンダー、ポスター、各種の作品を描き、個展では動きまわる妙なものを展示しながらである。
本書ではおわかりいただけないが、色彩のみごとさも、みなさんご存知だろう。北陸という風土のため、鮮かなものへのあこがれがあったためかと、ご自分でも書いている。
最近は、小説の分野まで手をひろげ、短編集を送っていただいたところだ。本業をおろそかにすることなく、活躍の場をひろげる。
というわけで、久里さんは実績をふまえて今日まで仕事をしてきた。たまたま時流に乗って、出現したのではない。
現代の漫画や劇画の世界は、はばが広がり、競争もはげしい。そのため、ある限られた世代とか、限られた|好み《フイーリング》の主とか、そういう読者に支えられて存在している作者が多い。子供に対象をしぼっている作者もいる。それはそれでいいと思うが、久里さんとなると、それらとは別格だということがはっきりする。
あらゆる世代、国内にとどまらぬ普遍性をそなえたナンセンスなのである。これがどんなにすごいことか。異議のあるかたで「この人がいる」と、だれかの名をあげられますか。ベテランにして、永遠の青年なるがゆえの、スケールである。
永遠の青年とは、外見だけでなく、その思考の柔軟さである。久里さんにとっては、人体も、核兵器も、ウンコも、地球も、液体も、花も、機械も、動物も、なにもかもが序列にとらわれずに生きているのだろう。それぞれ、自由自在に変形させられ、本質すら飛躍させられてしまう。そこに笑いが生まれる。これは簡単そうで、とてつもなくむずかしいことなのだ。ひとつや二つなら、まぐれということもあるが、こうも継続してとなると、ただの人ではない。
本書では性に関するものや、ブラック・ユーモアものが目につく。これも、昔はともかく、現在では扱いにくい分野である。アメリカで性的な規制がなくなるにつれ、性的な漫画が活力を失った。本国版プレイボーイのなど、笑いようがない。ブラック・ユーモアものも、書きつくされた感じである。
そのむずかしいジャンルで、これだけの驚きをぶちまけている。パワーの薄れかけている漫画界の現状に対して、身をもっての批判をしている。そうかどうかは推察だが、私にはそれが感じられるのだ。さりげなく描いていながら、まさにスーパー・ナンセンス。
画風がちがったら、いやらしくなったり、ブラックだけになりかねない。その巧みな処理は、久里さんの人柄によるものだろう。見る側の程度に応じ、それ相応のユーモアとなるのだ。深みがあるといっていいだろう。
要するに、なにやらふしぎきわまる人物の、本書はその一部を示しているのである。実力の成果とは、そういうものなのだ。いまさらかもしれぬが、国際的に評価されることになるだろう。
[#地付き](『久里洋二のユーモア世界』解説 思索社 昭和59年6月)
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丸谷才一・開高健・小松左京
――書斎派と現地接触派と構築派と――
「おそるべき感度でとらえ、無類の饒舌《じようぜつ》で語る文明放談」、本書はそういうねらいでまとめられた三人集である。
私は丸谷さんとはあまり交際がなく、つまりそういうチャンスがなかったというわけだが、エッセイも時たま雑誌で読む程度だった。今回、解説のために通読したところ、びっくりさせられた。
読みはじめた時は、さほどでなかった。気どりのない平明な文章で、まことにとっつきがよかった。さりげないとは、こういうことをいう。いつしか引き込まれてしまった。面白くて読むのをやめられないのである。こういう本があったとは知らなかった。もっと早く読んでおけばよかった。しかし、この機会に接することができたのだから、幸運というべきだろう。
多くの読者も、そう思われたにちがいない。しかし、こんなことを書いていたら、それは読後感であって、解説にはならない。私の驚いた点が重要である。なかなか面白いぞと読みつづけていたわけだが、私も文章を業としている者、この面白さはどこから来ているのかと考え、つぎに自分にもこういったものが書けるかなと考え、そのとたんに衝撃を受けたのである。とても私には書けない。丸谷さんの博識に驚嘆させられた。ビートルズが出てくるかと思えば、古い和歌の引用がなされ、シャネルの五番の由来に移り、ミステリーの名作にことよせての随想ともなる。そのスマートな飛跡が面白さの要因なのである。
世には学をひけらかす人が多いが、それは博識でないのである。知っていることを全部さらけ出したがるのは、知識の貧しさを示すものだ。
丸谷さんは本当の博識であり、それが名人芸と呼んでもいい語り口で出てくる。新人の落語家のはなしを見るに、むやみとりきむところがあり、それがかえって泥くさく、笑えなくなっている。もはや故人になってしまったが、志《し》ん生《しよう》や可楽《からく》となると、たくまずしてその世界に引き込まれてしまう。すなわち洗練である。
「アコーデオン・プリーツの話から食べもの占いの話になりました」という章のラストの一行のみごとさを味わって下さい。まさに洗練である。それを支えているひとつが、随所で感じさせられる、丸谷さんの鋭い言語感覚である。かつて新聞で何回かにわたり、国語教科書の批判をなさっていたが、それを言えるだけのものを持っていればこそである。
「怪女モリー」のなかで、台風に女性の名のつけられていた時期をなつかしみ、ネス湖の怪獣も「ネッシー」の愛称あればこそと指摘している。それにつづく「一世多元のすすめ」になると、言語感覚というものは、その感覚だけでなく、時代感覚の裏付けがなければならぬのだと知らされる。つけ焼刃では、どうしようもないのだ。
こういう教訓めいたことを書くのはどうかと思うが、一つの文章がいかに多くのものの集積の上に成立しているかを、読みとってもらいたいものである。若い人たちから、よく「どうしたら文章がうまくなるでしょう」と質問されるが、これからは「丸谷さんのエッセイを読め」と答えることにしようかと思う。文章だけうまくなれる法など、ないのだ。古くさい言葉だが「文は人なり」である。それだけの知識と洗練と個性とがなければならぬことを、わかってもらえるにちがいない。
はばの広い水準の高い知識を持っていて、それを自在に個性的に組合わせることが、人をひきつける。その実例が本書である。
丸谷さんばかりに限らない。開高さんとはいっしょに講演旅行に出かけたことがあるが、これまた大変な博識である。国際情勢のすべてどころか、内外の小咄《こばなし》までむやみと知っていて、つぎつぎと話してくれるのである。小松さんとはしょっちゅう会っている間柄だが、筒井康隆さんによる評のごとく「彼は知識の大箱をいくつも持っていて、それを持ち出して、つぎつぎにぶちまける」ほどの博識である。だから、この三氏の饒舌は、ただのおしゃべりでなく、人を引きつけてはなさない無限性を持っているのである。
また話が少しそれるが、日本の教育における暗記の強制は困ったものだ。つめこみ主義のこと。むりにつめこもうとするから、ますますいやになる。押し込まれた記憶だから、それを組合わせてみようなどという、余裕がうまれない。つまり、役に立たないのである。
知識の断片を頭に入れておくことが、どんなに楽しいことか、どんなに人を魅力的にするか、まず、それを教えるべきである。だから、学校を出て社会に入って、役に立つことを習わなかったと不満を感じ、そして、かなりたってから「ああ、学生時代にもっと知識を身につけておけばよかった」と後悔する例が多い。そこがうまくいっていたら、丸谷、開高、小松の三氏まではむりかもしれないが、それに近いところまでは、だれでも到達できるはずである。
つぎに教養の傾向について触れてみる。丸谷さんは書斎派とでも呼ぶべきか。主に書物によって知識を得ているようである。印刷物の普及により、現在はいながらにして、世界の事情を知りうるのである。そのミステリー趣味にみられるごとく、丸谷さんの文からは理知的な印象を受ける。一方、開高さんは旅をし、現地に行って知識を得ている。文章には実感とか情といったものがにじみ出てくることになるのである。
開高さんは中学三年の時に終戦。占領下の戦後の混乱のなかで、青春期をすごした。広い意味での戦争は、いやというほど体験している。しかし、せまい意味での戦争、つまり戦いの現場は体験していないのだ。そこに関心を抱いた。戦争とはなにか、その追究が開高さんの目的のひとつとなる。戦争を目で見、鼻でかぎ、肌で感じてその本質をさぐろうというのである。
開高さんは「裸の王様」という作品によって、集団と個人という主題をはじめてとりあげた。集団と個人、そのからみあう最大の悲劇が戦争である。しかし、われわれの接する報道、評論の大部分は、戦争についての大局的な面、つまり集団のほうからなされている。そんななかで開高さんは、個人の側から迫ろうとしている。人間的なやさしさをもって。これは非常に困難な作業である。複雑な迷路にふみこんだような形になる。目をそむけ、自己への忠実さを捨て、集団の視点に立てば、解明は容易で簡単である。しかし、開高さんは決してそれをやろうとしないのだ。公式的な見解という、おざなりをやらない。
正直なところ私は、国際事情にうとく、ベトナム戦がなにによって発生したのか知らない。また、ナイジェリアの戦いの原因も知らない。それでも、開高さんのルポには引きつけられてしまう。細部の描写がリアルなためである。肌の汗、におい、人びとの表情、そんなものが明確に伝わってくる。また、戦いに無縁な光景を挿入することで、その悲惨さを一段と浮きあがらせる。
そのため、情勢をよく知らぬ私は、なにか悪夢のなかにいるような気分にさせられてしまうのである。そんな迫力がある。開高さんはあくまで観察者であって、それらの戦いの当事者ではない。しかし、なんとか当事者たちの内面に入りこもうと、努力を惜しまない。不可能なことなのだが、開高さんはそれを越えようと、肉迫をつづけるのだ。その結果、ある意味では、当事者以上に深くのめりこんでしまっているともいえる。
いつだったか開高さんが小松さんに「文学とは、助けてくれ、の一語につきるんじゃないだろうか」と話しているのを聞いた。開高さんの戦争ルポも、その一語に要約できる。「助けてくれ」は当事者の声というより、それを手のつけようもなく観察していなければならない、彼自身の声なのである。さめることのない悪夢のなかにいるのだ。
個人と集団の問題は、手をつけはじめたら、とめどがない。たまにはすかっと割り切れたものに接したい。しかも、公式的なものでなく。開高さんが小咄を好む原因は、そこにあるのかもしれないと想像する。じつに数多く知っているのである。これがどんなに大変なことかは、自分でおぼえようとしてみれば、すぐにわかる。好きでなければ、できないことだ。開高さんの好きな小咄を紹介したいところだが、それは礼を失する。本人の口から聞くべきものだろう。
開高さんのもう一つの側面に、釣りがある。私にその趣味がないから解説のしようがないが、彼のように人間の存在にのめりこみすぎたままだと、頭がおかしくなりかねない。時には人ごみからはなれ、大自然のなかに身を置く必要も出てくるわけだろう。それによってふたたび新鮮な目で人間を見なおすことができ、さらに深い洞察が可能になる。これが開高健の世界なのである。
丸谷さんを書斎派、開高さんを現地接触派とすれば、小松さんはなんと呼ぶべきか。構築派と呼びたいような気がする。「ライフワークの発見」のなかで、なにかの組織を作ったり、イヴェントを計画することへの関心を書いているが、現実にそれをやってのけてもいるのである。
万国博の時のシンボルであった太陽の塔、テーマ館の内部の地下の部分は、彼が受け持って作りあげたのだ。生命の発生から進化して人間に至る過程、さらに生活や文化のめばえまでを取りあげ、視覚的に面白く、しかも科学的にも正確に展開してみせた。小松さんは京大のイタリー文学の出身である。作家としての才能は知っていたが、こういうものを作りあげる人とは知らなかった。人を使うのやなにやら、かなり苦労もあったらしいが、彼は楽しみながら学び、指揮し、作りあげてしまった。まさに新しい型の作家である。
それにつづけて、国際SFシンポジウムを開催した。米英ソの各国から、何人もの作家を呼び、会議を開いたのである。みごとに成果をおさめたのも、小松さんの力があればこそである。そのほかにおいても、さまざまなことをやっている。
小松さんがなぜこんな性格になったのか、まだ聞いたことがないし、当人にも答えようがないことかもしれない。しかし「廃墟の空間文明」あたりに出発点がありそうである。戦争によって周囲が廃墟となり、終戦によって時の流れが進む方向を変えた。開高さんと同じく、中学三年の時である。それははなはだしく印象的であったにちがいない。
廃墟の上に、混沌《こんとん》の時期がはじまった。あらゆる価値観が変動し、なにかがくっつきあい、あるものはこわれ、あるものは形をとってゆく。原始の海で生命が発生し進化してゆくのに似たありさまを、最も感受性の強い年齢の時に、見聞し、頭のなかに焼きつけてしまったのである。
組合わせによって、自分なりの宇宙を作りあげる。それへの興味を知ってしまったのだ。組合わせる材料は、もう無限といっていいほど存在する。また、組合わせかたも無限である。作りあげるといっても、それは万博のような形のあるものばかりとは限らない。思考実験でもよい。この楽しさを知ってしまうと、やめられない。生きがいとなるのである。
その点、小松さんは幸運である。いまの若い人は、廃墟も混沌も知らない。自分なりに、なにかの手がかりをつかんで、知的好奇心を育てなければならない。それが無理なら、小松さんの文によって、触発されてもらいたいものである。
好奇心が強くなり、思考実験の楽しさを知ると、さきにのべた知識の断片を頭に入れることも、苦労どころか楽しくなる。また、その組合わせもいくらでもこころみられる。しゃべりだしたら、この場合は書き出したらだが、いくらでも発展が可能なのである。
「宗教の未来」などは注文で与えられたテーマなのだろうが、たちまち頭のなかの知識を動員し、自分なりの組合わせをやってのけ、だれも考えなかった新しい説を作りあげてしまうのである。
また「『体験的情報論』のこころみ」は、善光寺の戒壇めぐりを出だしに使って読者を引きつけ、高野山にのぼった話になり、コミュニケーション・デザインに無理なく移り、DNAが関連し、新しい情報伝達の可能性への提案となるのである。この組合わせの多彩な点では、ダーウィン以上といえる。
世の中には観光案内業というのがある。興味ぶかい各所へ連れていってくれる人のことだ。小松さんは知的空間のそれである。ここと思えばまたあちらと、読者を連れまわり、満足を与え、これまで知らなかった新鮮な思いにひたらせてくれる。ある意味では、現実の旅行よりはるかに刺激的である。
饒舌とは、ただの長話とちがうことが、小松さんの場合にもいえるのである。一行一行、予想もしなかった世界を作りあげてゆく。そして「愛の進化≠ノついて」のなかの猿の母子の愛情のような、ほのぼのとした世界をも織りこんでくれ、生命のかよったものに仕上げてくれる。
読者のなかには、圧倒感をおぼえる人もあるかもしれない。しかし、ただ驚き感嘆し面白がるだけでなく、願わくば、小松さんの発想の秘訣である、知識を集め、それを組合わせて新しい世界を構築する手法を知り、自分なりに試みる気になっていただきたい。
発想とは頭に浮かんでくるのを待つのでなく、みずから作りあげるものであることが、これで理解できるのではないかと思う。
[#地付き](『日本教養全集』第10巻解説 角川書店 昭和49年10月)
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小松左京
――情報を食事のように楽しむ人――
小松さんについての解説をするのは、これで四回目である。第一回目には、彼と私の作風のちがいについて書いた。私の作風はどちらかというと閉鎖的で自己の小宇宙を作りあげたがる傾向を示しているが、彼のは逆に開放的で、周囲の殻をぶちこわし、とめどなく広がる傾向を持っているのである。たぶん読者の大部分は、私の作品についてはどう完結するかを期待しているだろうし、小松さんのには、どこまで発展してゆくかの興味で接しているにちがいない。
太宰治の短編「猿面|冠者《かじや》」の冒頭に「どんな小説を読ませても、はじめの二三行をはしり読みしたばかりで、もうその小説の楽屋裏を見抜いてしまったかのように、鼻で笑って巻を閉じる傲岸不遜《ごうがんふそん》の男がいた」という文がある。世の中にはたくさんの小説を読み、そのたぐいの才能が自分にあると思っている人もいるようである。しかし、そんな人も小松さんの作品についてはお手あげのはずだ。どこへ連れて行かれるのか、読み終るまで見当がつかない。そこに面白さがある。
007の作者イアン・フレミングはベストセラーを作る秘訣は「読者にページをめくりつづけさせるようにすればいい」と言っている。まさにその通りなのだが、フレミングの場合は、これからどうなるのか想像がつかないことはない。しかし、小松さんの作品では、まさに数ページ先がどうなっているのか、まるでわからないのである。
これまで私は、小松さんのかなりの作品を読んでいる。それをもとに、こうなるんじゃないかと予想がつけられていいはずなのに、それができないのだ。変幻自在の極致である。
こういうのは明治以後、いや、さらにさかのぼっても、日本には存在しなかった型の小説ではなかろうか。私の知る限りでは、外国にも例がないようだ。日本のSF作家はみな外国、とくにアメリカの作品の影響を受けているが、小松さんはその手法を完全に消化し、それ以上の飛躍をやってのけているのである。
すなわち、小松さんのエッセイが机上の空論にとどまらないものだと言いたいのだ。そういえば、できもしないことをもっともらしく論じる人のいかに多いことか。小松さんの未来への洞察は、そういう確実なものをふまえた上でのものなのである。ただ奇をてらっているだけでなく、また、つけ焼刃でもない。
彼の長編『日本沈没』は驚異的な数の読者を持った。映画やテレビを含めたら、日本中の人がそれに接したといっていい。これは日本列島が沈むという、とてつもないテーマ。この種の物語は本来、日本人にはむかないもの。それがあれほど多く読まれたということは、作品の内容の力である。筆力だけではない。文章だけがいかに巧妙でも、あれだけの迫真性は描き出せない。それをささえる地質学、地球物理学などの科学的な知識を動員した結果である。こんなことのできる作家は、現代の日本にはない。おそらく外国にも。
それにしても、小松さんの頭には、どうしてこのような膨大な量の知識がおさまっているのだろう。だれしもいだく疑問だが、私はこう推察している。かつて日本は戦争という、文化的に鎖国の時期を持った。型にはまった限られた情報しか得られなかった。それが終戦によって終りとなる。
小松さんはその時、中学の三年生。育ちざかりで肉体的にも飢餓であったが、それ以上に好奇心ざかりで知的にも飢餓状態であった。そこへ、さまざまな思考方法、文化的な情報が流れ込んできたのである。吸収、吸収、吸収、彼にとって、この上ない快感であったにちがいない。
終戦時に彼がもう少し年長であったら、過去の価値観にとらわれ、吸収にためらいがあったかもしれない。また、もっと年少であったら、それほど強烈に感じなかっただろう。社会と個人との運命的なふれあいである。
だから、一般の人にとって知識の吸収はある程度の努力を必要とするが、小松さんの場合はそれが楽しみなのだ。目から耳から、たえず情報を吸収している。しかも高度なものを。われわれが食事を楽しむごとく、小松さんは情報を頭に入れるのを楽しんでいる。それに、好ききらいがないのである。前衛的な外国の小説を読んでいたかと思うと、天文学の本を軽く読みあげる。こうなると、ほかの者のかなうわけがない。食事だと消化されたあと排泄《はいせつ》されるが、大脳に入ってきた情報はそこにとどまり、蓄積される。かくして彼は博識きわまる人間となり、現在もとどまることを知らぬ形で、それが進行しているわけだ。
知識や情報のなかには、小説の構成というものも含まれる。小松さんは楽しみつつ多くの小説を読みあさったあげく、SFとめぐりあった。彼自身も語っているが「これだ」という印象を受けた。SFという形式によってなら、過去、未来、宇宙、科学といったものばかりでなく、ありえたかもしれない過去、おこりかねない未来、人間というものへの新しい観察、極端な状況、未知の感情、つまり、なんでもそこに持ち込めるのである。もちろん、いままでの小説でとりあげられていた事象も。
このめぐりあいも、また運命的である。小松さんはその頭のなかの膨大なものを、SFという形で他人に伝えることをはじめた。彼にとっては、これも快楽なのである。作家にとって執筆とは、一種の苦痛をともなう作業だが、小松さんの場合はちがう。うらやましい体質と性格の主と、いわざるをえない。
そうでなかったら、ああも大量な作品を書きつづけられるわけがない。小松さんとは長いつきあいだが、いまになって気がついたことがある。作家になって以来、彼はスランプの時期を持ってないのだ。また、ほかの作家は新しい分野に手を染める時、あれこれ迷ったり、調べなおしたりしたあげく、一大決意をしてとりかかるのだが、小松さんはいとも簡単にそれをやってしまう。ふしぎな人物であり、こんなどえらい作家は二度とあらわれないのではないかと思う。
そういえば、あれだけ作品を書いていながら、小松さんからマンネリという感じを受けたことがない。ユーモアSFを書く一方、シリアスSF、ハードSFも書き、さらに同時に大作『日本沈没』を書き進めていたのである。
小松左京はもっと評価され、もっと論じられていいはずだとの不満の声が、読者のなかに多い。私もそう思う。しかし、考えれば無理もない。すなわち、彼について論評のできる人がいないのだ。
ひとつの参考として、ここ一カ月のあいだの、小松さんの活動についての私の知りえた範囲の状態を書く。彼は平安朝を舞台にした紫式部や清少納言の登場する歴史ミステリーを書いた。そのために『源氏物語』や『枕草子《まくらのそうし》』を原文で読み、その時代に関する文献を読みあさった。そして書きあげたのである。そのあと、ロボット物のこれまでの常識をひっくりかえしたものを書いた。これはその分野の大物SF作家、アイザック・アシモフの全作品をふまえた上でなければ書けないものである。それにつづけて、ハードボイルド物のパロディにとりかかった。ハードボイルドのなんたるかを知らなければ、書けるわけがない。
普通の作家だったら、それぞれに何カ月もかけるところだろう。第一、ぜんぜん異る分野ではないか。それをあっという間にやってのけているのだから、人間わざではない。これらのほかにも短編やエッセイを書いているはずだし、講演や会合へも出席しているはずである。さらに『日本沈没』の続編の構想をねっている。
まったく、あいた口がふさがらない。ちゃんとした小松左京論を書ける人など、いるわけがない。
[#地付き](『時間エージェント』解説 新潮文庫 昭和50年5月)
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城昌幸
――『怪奇製造人』とのめぐりあい――
まず少し私事を書かせていただく。昭和二十八年ごろのことである。亡父の会社を引きついだはいいが、営業不振と借金の山で、どうしようもなく、整理を他人に一任した。なんとなく世の中がいやになり、現実逃避したい気分だった。
そんなこともあり、「日本空飛ぶ円盤研究会」なるものに入会した。いまでこそUFOといえば一種のブームでうんざりするほどだが、当時はそのたぐいを話題にしたら常人あつかいされなかった。会長は荒井さんといい、会誌や事務など一切をひとりでやっており、本業は貸本屋で、私はよくそこへ行って円盤について話しあった。
探偵小説専門誌、旧「宝石」を読むようになったのも、そのころである。推理小説がまだ市民権を得ていない時期であった。それに時たまのる城さんの作品に心をひかれた。こんな小説もあったのかという思いだった。城さんの作品をまとめた『怪奇製造人』という本のあることを知り、それを読みたくてならなくなった。発行所の宝石社に電話をしたが、絶版で在庫はないという。しかし、あきらめきれない。
しょうがない。荒井さんのところへ行って円盤の新情報でも聞いて、気ばらしをするか。そして、話しながらふと貸本の棚をみると、そこに『怪奇製造人』があるではないか。その時のことは、きのうのことのように、あざやかに思い出せる。ふしぎとしか、いいようがない。
そのうち、円盤の会員のなかからSF同人誌を出そうとの動きが起り、私もそれに参加し、作品を持ちこむことになった。最初の一作を除き、いずれも短い作品であった。あきらかに城さんの影響を受けている。城さんの亜流と評されるのを覚悟の上で書いた。そのうち作品が江戸川乱歩さんの編集による「宝石」誌に転載され、作家を業とするようになった。もし円盤の会がなく『怪奇製造人』にめぐりあうことがなかったら、私の今日はどうなっていたかわからない。
翻訳誌「エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン」の編集長の都筑さんがショートショートの呼称と、外国の作品の紹介に力を入れたのも、そのころである。おかげで多くの掌編を読めたが、それらにくらべて、城さんのが少しも劣らないことを知らされた。
荒井さんには、その後しばらく会っていない。そのうち、なにかのことで会った時「荒井さんが、五反田から品川への道の右側に店を移した時のことだけどさ」と私が言い、そして「そんなとこで商売をしたことなんかないよ」との答がかえってきたら……。
それこそ、城さんの作品の世界である。生きてきたこと、生きていることの不確実性とでもいったものが、そこにある。じわっとしたぶきみさがある。実作者の体験からいえば、あっという結末をつけるのは第三者が想像するほどむずかしいことではない。しかし、じわっとしたぶきみさとなると、技法でできるものではなく、内部からにじみ出てくるものがなければ書けないのだ。
作品がすばらしければ、それでいいのだ。本書によって城さんに魅せられ、かつての私のごとく、もっと読みたいと街をうろつく人があらわれるのではなかろうか。
[#地付き](『のすたるじあ』解説 牧神社 昭和51年9月)
――小伝風に――
城昌幸について書こうとすると、どこからはじめたものか、ずいぶん迷う。いまや、知らない人が多いはずだ。
それでなくても、人物を語ることはむずかしい。現存の、いっしょに酒を飲む作家の解説だって、容易でないのだ。とくに作家は、やっかいである。むしろ、政治家のほうが分析しやすいのではなかろうか。
また、作家のなかにも、自分についてのエッセイを書く人と、まったく書かない人がいて、城さんは後者のほうである。資料的なものといえば、晩年にまとめた『城左門全詩集』(左門は詩の時の筆名)にはさんだ簡単な略歴と、昭和三十八年に桃源社から出した自選集『みすてりい』の乱歩さんの跋《ばつ》(あとがき)ぐらいしかない。
私の場合、まず頭に浮かぶのは、推理作家関係のパーティの城さん。ひとりだけ、いきな和服姿。白髪だし、悠然としていたので、目立っていた。
『若さま侍捕物帳』というシリーズの作者なのだが、若さまの知名度はどのくらいか。乱歩さんは銭形平次、人形佐七と並ぶスターと称しており、大変な人気の時期もあったのだ。私もテレビでのカラーのシリーズを見ている。
雑誌「宝石」は、いま光文社の発行だが、その前は岩谷書店発行の推理専門誌で、城さんはその運営にも関係していた。私の作品がのりはじめたころ、最後のページに編集人、あるいは発行人として城さんの本名、稲並《いなみ》昌幸の名があり、なつかしい思い出だ。
その社屋は今のホテル・オークラの近くだったが、内部に「詩学」という雑誌の編集部もあり、その責任者でもあり、自作を発表なさっていたようだ。詩の分野を、私はよく知らない。少し前、北杜夫さんが「私の若いころに書いた詩学にのった作品をご存知のかたは」と、「週刊新潮」の告知板に書いていた。
そして、怪奇的な掌編の作者としての城さんである。私は作家になりたてのころ、城さんの掌編集『怪奇製造人』を苦心して入手し、熟読したし、非常に参考になった。正しくは、はげましになったというべきか。これだけの数を書く人がいるのだから、自分にも可能と思ったのだ。あとになって、二十数年間の自選集と知ったわけだが。
この作品群が再評価されるべきだと、私が編者となり、文章表記をなおし、三十二編を集めた『怪奇の創造』を、有楽出版社から刊行した。それがきっかけとなり、城さんの未亡人の千枝子さんとお会いでき、思い出話をうかがえた。二人の妻に先立たれ、三番目の夫人なので、結婚前のことはまた聞きになるわけだが、珍しく多才で、独特の人生をすごされたかただと、私は感心した。それを少しだけ紹介したい。長く書きたい気もするが、城さんをご存知ない人もいるだろうし。
城さんは明治三十七年、神田駿河台に生まれた。父は東大理学部を首席で卒業。八幡製鉄に技師として勤務。母は幕臣の娘で、のちの江戸趣味はそこから来たらしい。
幼時、父の仕事のため中国の武昌へ移り住み、六歳ぐらいまでそこで育つ。そのころ中国語が話せたとの回想もしていたとのこと。帰国し小学校へ、さらに京華中学へ。
大正の初期というわけだが、当時の中学生はカスリという生地の着物が普通。ハカマをはくのが何人か。足にはゾウリである。そのなかにあって昌幸少年だけは、つめえりの服に、靴。ハイカラの先端だったのだ。晩年のようすからは想像もつかない。
四年生の時に、胸の病気のため休学。読書と詩作に熱中する。父は叱《しか》る。城左門という筆名も、投稿を知られないために用いた。
家出したこともあった。アパート暮しとなったはいいが、することもなく百科事典を読んでいると、詩の仲間の堀口大学がやってきて、金に困ってるだろうと、二十円を貸してくれた。タバコのバットが六銭のころである。晩年になって城さん、堀口大学に、
「あの時の二十円を思い出した」
と大まじめで渡したそうである。作品にはあまり出ていないが、ユーモアの大好きな性格だった。
当時とすれば、余裕のある家庭である。弟たちはまともな道を進みそうだ。昌幸は長男だが、病弱だし好きなようにさせてやるかとなったのだろう。独学でフランス語を学び、ヴィヨンの訳詩や、自分の詩集を刊行した。父の応援なしには不可能である。大正デモクラシーのモダン文化のなかで、青春をすごしたことになる。
乱歩さんは「城君とは大正末期の探偵小説|勃興《ぼつこう》期からの僚友である」と前記の跋に書いている。また、詩と怪奇掌編の、高踏的な作家とばかり思っていたともある。はじめは、深いつきあいではなかったようだ。大正末期といえば、二十歳になるかならないかである。
若くしてみとめられた。昭和初期の作家活動については不明である。短編だけで食えたのか、ほかになにか仕事をしてたのか、親のすねかじりか、断定できない。
昭和十年に江戸川乱歩編の『日本探偵小説傑作選』が春秋社から出た。私は現物を知らないが、乱歩さんが、探偵小説ではないが怪奇幻想の作家と紹介し「人生の怪奇を宝石のように拾い歩く詩人」と賛辞を書いたとのこと。名作の多くは、このころのものらしい。
そのころ、父上が死去。
昭和十三年、「週刊朝日」に『若さま侍』の連載をはじめる。これも詳細不明である。才能をみこんでとなると、すごい編集者がいたということになる。経済的に安定したためか、その年に結婚している。満三十四歳で、おそいほうだ。それ以前の女性関係については、あの世の城さん以外に知る人はないわけだ。
捕物帳に進出したことは、生活上かなり幸運だったことになる。昭和十二年が、日中が交戦状態に入った年。乱歩さんの『少年探偵団』を私が「少年倶楽部」で愛読していたころだが、やがて探偵小説のたぐいは、書きにくい時代となる。しかし、捕物帳はおかまいなし。映画化されていたかもしれない。
昭和十六年、日米開戦。そのころ国民歌謡なるものが作られ、ラジオで全国に放送された。島崎藤村の「椰子《やし》の実《み》」の歌も、そのひとつである。とくに軍国調であったわけではなく、戦意低下だけがタブーだった。城さんの「太郎よ、お前はよい子供」という歌も、電波に乗った。私と同世代の有楽出版の峯島さんは、その第一節を思い出しながら歌った。聞いたことがあったような気になる。城さんの作った詩とは知らなかった。
そのころ、城さんは南千束に住んでいた。いわゆる城南で、東急の沿線である。十八年の三月、妻が死去。五年間の結婚生活だった。戦局は悪化しはじめていた。
そして、二十年の四月、再婚。東京大空襲の翌月ということになる。城さんの家は無事だった。再婚のいきさつも、いまは知りようがない。母の面倒をみきれないためか、おたがい好きになってか。あるいは世の終りと思ってか。そのころ、ひそかに詩集を自費出版しているのである。
興味ぶかいのは、名が先妻と同じくキクエであること。こういう例はほかにないのでは。
その八月、戦争が終る。
戦争とは無縁の『若さま侍』で知られた作家であり、戦後も読者は変らずついていた。まだ四十一歳。執筆活動もさかんだった。
昭和二十一年、岩谷書店にまねかれて「宝石」誌の編集に当る。探偵小説とはなにかは、心得ていたわけだ。「詩学」の前身の「ゆうとぴあ」も創刊。若さまの映画化もあっただろう。混乱の時代だが、忙しく、働きがいもあった。乱歩さんとも一段と親しくなった。乱歩さんは、こう書いている。
……詩人で高踏的な作家と思っていたが、大衆の心をつかむ若様侍で天下を取ると、いきに和服を着て、美女にとりかこまれ、商家の若旦那のごとくチヤホヤされ、彼の捕物帳のなかで酒を飲んでいるような錯覚に……
しかし、うらやましいことばかりではなかった。二十三年、母上が死去。二十四年に妻が死産。その妻も、二十五年の十一月に死去。結婚生活は、またも五年。
城さんの掌編に「宿命」というのがある。好きになり、結婚するたびに妻に死なれ、三人目の女性を愛しはじめるという発端。うまく出来た話だなと思ったが、体験にもとづくものと知ると、なにか胸につまる。
城さんに「早春」という詩がある。
月、細し
靄《もや》、流れ
今宵
ものの芽の芽立ちを感ず
(以下略)
珍しく明るいなと思った。千枝子未亡人の話では、二番目の奥さんが身ごもった時の作ではないかとのこと。
全詩集を読みなおすと、ある時期を境に、傾向が変ってくる。死であり、菊であり、悲哀であり、むなしさであり、酒と書かずに菊正と書いてもいる。こういう読み方は邪道なのだろうが、小説に書けない、他人にも語れない内心の悲しみが伝わってくる。仏教が主題となってくる。しかし、入手しにくい詩集であり、詩人としての城さんについては、この程度にとどめておく。
孤独な人生。収入はあれど、家族はなし。もともと好きだった酒の量が、さらにふえる。銀座のバーを飲み歩き、午前三時ごろ、新橋の橋の上で眠り込んだこともあったらしい。当時は川があり、橋があったのだ。
友人たちが見かね、ひとり暮しではと、見合いをさせた。春陽堂という出版社の社長の姪、千枝子さんとである。
まず城さんは「病気をしたことありますか」と聞き、つぎに「着物ぬえますか」と聞いたそうだ。一目ぼれしたのだろう、四日後にイエスの返事があり、正式な結婚となり、以後二十五年ちかい仲むつまじい、優雅な人生をすごすことになる。
しかし、結婚四年目、夫人が甲状腺の病気で手術をすることになった時には、かなり心配したそうだ。当然のことだが。
城さんはこの結婚で、人生をやりなおす決心をしたらしい。不幸のつづいた南千束の家は処分することにし、新婚の一時期、等々力《とどろき》(東急沿線)に仮住いをした。夫人は以前、占い師に「珍しい人と結婚する」と言われたことがあった。専業作家は、そう多いものではない。どんな仕事ぶりなのかとのぞいてみて、驚いた。
城さんは、原稿用紙の裏に設計図を描くのに熱中していた。立体的な絵ではなく、専門家レベルの正確さで、カネ尺単位による図面である。いつこんな勉強をしたのか、いまになっては知りようがない。京都が好きで、時代考証にくわしかった点まではわかるが、想像を絶した才能である。
「模型」という掌編そのものだ。
昭和三十年、やはり城南の馬込《まごめ》に土地を買い、みずからの設計による家が完成。夫人は大川橋蔵主演の「若さま侍」で家が作れたと語っているが、何本も映画化されているのだろう。テレビも、私はカラーになってからの新之助(いまの団十郎)主演のシリーズを見ているが、モノクロ時代に中村芝雀(現・時蔵)主演のもあったとのこと。大変な人気の時期がつづいたのだ。
建築には、惜しげもなく金をつぎ込んだ。子供を作らないことにした代償行為であろうか。増築もなされる。
この家を其蜩庵《きちようあん》と呼んだ。ある書評で、これはソノヒグラシとも読むしゃれと指摘され、私は自分のうかつさを嘆いた。夢野久作の父の政界の奇人・杉山茂丸の号が其日庵と知っていたのに。
それをひねったのかどうかは不明。やがて、茶室の入口の上に「寂陽」と木に彫って飾った。静かな光という、悟りの境地を思わせる。城さんは気に入っていたという。じつは、寂《じやく》は若《じやく》であり、陽《よう》は様《よう》であり、若様となるのだ。死後の戒名は、寂陽院吉祥日幸居士なのである。
とにかく、凝りに凝った家なのだ。借景、つまり塀のそとに木が見えるといいと、盛り土をし、山桜や松を植え、その内側に上塀を作った。植えたのは所有地、すなわち、境界ぎりぎりの塀ではないのだ。ぜいたくきわまる。
庭にはさまざまな植物を植え、トウロウなどを配置した。ガラス戸はいっさい使わず、電気器具は照明のためのもののみ。その電灯も、茶の間だけが中央で、あとは少しずらしたりし、陰影を作らせた。電話、冷蔵庫、テレビ、冷暖房などは置かない。夫人の協調があってこそである。
長火鉢には、四季を通じて鉄瓶に湯がわいている。客間の天井には志村画伯の元禄花見踊りの絵。その人物のひとりに自分をまぎれこませてある。鶴下画伯の絵の部屋もある。ふすまの引手もいちいち特注で、陶器製のもある。好きな俳人、蕪村の書を飾り……。
私は夜に一回うかがっただけ。夫人からの話を書きつらねているのだが、いまの人にはわからぬ名称を続出させねばならぬので、惜しいけれど切りあげる。
さて、そこでの生活。
朝おきると、まず風呂。それから仏間。亡き二人の妻、生まれなかった子、それらへのあいさつである。茶の間へ移って、すぐにビールを一本。朝食はトースト、オートミール、ベーコンエッグと、意外にも洋風。
十時から仕事。書斎に入る。来客用の座敷の床柱は竹だが、ここのは黒タン。執筆の日もあっただろうし、詩や俳句を作ることもあっただろうし、電話のないため手紙を書いたし、読書にふけったことも多かっただろう。
昼すぎに一段落。酒と軽い食事。四時から六時半まで散歩。大森駅まで歩いて十分、国電で大きな書店まで行ったこともあろうし、ビアホールなどでひと休みもしただろう。帰って風呂、七時より夕食。
外出先で知人と会い、そとで食事となることもある。八時まで帰らなければ、そう思ってくれときめてあった。なにしろ電話がないのだ。八時ちょっと前の帰宅の時は困ったと、夫人の思い出話。
結婚の時、夫人が「アイスクリームが好き」と答えたので、買って帰るのが日課となり、買えなかった時はあやまったそうだ。また、夫人には一日に三回、着物を変えさせ、ムードの変化を楽しんでいた。
夕食の酒は銅壺《どうこ》でおかんをし、コレクションの杯台を毎日べつなのにし、飲む。辞書にものってないが、茶わんのうけ皿に当るもので、現在では買えない。料理は刺身を含め和食で、いつも七品、お客のある時には十二品。面白い話で笑わせろとせがみ、夫人もなかなか大変だったようだ。
城さんは話し好きで、そとでの出来事をこと細かに話すのだった。音楽は邦楽より洋楽。フォスターの「夢みる人」を歌い、夫人と合唱もした。ラジオのFMでチャイコフスキー、グリーク、ビゼーなどのクラシックを聞くことが多かった。
夫人と二人での夕食だが、いつも席をひとつあけておく。突然の来客への用意である。それが、なんと宇宙人なのである。
夫人には「どんな外見でも驚かないように」と注意を与えていた。四季いつも、雨戸と障子をあけ、庭を眺めながらの酒である。雨の日など、雨のない星の人だと、早くふいてあげるのだと言い、言葉は通じなくてもと、洋楽を流していたのである。
幽霊とか幻想的なものではなく、本気でそう思っていたらしい。だから、軽々しく登場するSF的なものは、一編も書いていないのだ。稲垣足穂《いながきたるほ》のように天文学への趣味があり、そのあげくというわけだろう。
城さんが「乱歩さんは懐疑主義で、自分の生きてることも信じてないんだからなあ」と言うのを聞いたことがあるが、そのご本人がUFOの実在を確信していたとは。
九時四十分に就寝。酒好きだが、タバコは一日に十二本ときまっていた。以上が城さんの標準的な一日。
城さんは「宝石」の編集や運営に加わっていた。千枝子夫人の話によると、出勤は週に一回ぐらいだったとのこと。月給はずっと二万円、交際費なし。
城さんは、洋服を一着も持っていなかった。和服はタンス一|棹《さお》に五十着。ほとんど松屋で買った。生地は、老婦人用の模様の目立たぬもの。角帯。足には白タビ。コハゼの多いもので、一日に四回もはきかえる。その洗濯だけでも、夫人は苦労したという。
下着は肌ジュバン。結婚の前に「着物ぬえますか」と聞いたのは、もうそれを売っているところがなくなったからだ。冬は重ね着といって、黄八丈で作ったものを、着物の下に着る。これは、ぴたりと合ったものでなければならず……。
と、これも現代の人に通じにくい用語を並べなくてはならぬ。凝ったよそおいなのだ。外出用にしばらく使うと、それを自宅での日常着とする。
雑誌「宝石」の行き詰りには困惑したらしい。乱歩さんが乗り込み、多くの作家が育ち、それでいて経営不振となったのである。原因について私はよく知らないが、運営についての城さんの日記的メモは残っているとのことである。
ある日、城さんは帰宅し「この家も手放さねばならぬかもしれぬ」と言った。それなりの責任はとるつもりだったらしい。その時、松本清張氏の口ききにより、光文社がその誌名を負債とともに引き取る話がまとまり、破局をまぬかれた。城さんはずっと感謝しつづけだったという。
その一件を除けば、好ましい生活だった。満足のゆくまで考えて作った家。障子はあけっぱなしで、暑さ寒さはあれど、四季の移り変りを味わえた。雨の降る日、しだれ桜の満開の日、満月の夜、静かな雪の日など、親しい友を呼び、好きな酒をくみかわす。
「地球上でいちばん気の休まるのは、ここだけだよ」
と、つねに言っていた。夫人に対しては「きみを愛しているよ」と日に何度も言い、たえず手を握り、外出の時にはキスをしたとのこと。日本人ばなれした人というべきではなかろうか。
城さんには「春また春」など、いくつかの歌曲がある。作曲家に友人も多かった。オーケストラによる歌曲と詩のコンサートを開くのが夢だったという。夢と知りつつ話していたのかもしれない。
入院生活四十日。昭和五十一年十一月二十七日、死去。七十二歳。
夫人への最後の言葉は「長いこと、いろいろどうもありがとう。感謝します」だった。
最後に作った句は、
すみれ草 十ほど摘んで 捨てにけり
だったそうだ。解釈の分れるところだろうが、さまざまな分野を試みたなあとの意味ではなかろうか。建築、酒までも含めて。
城さんを知らぬ人が多いだろうから、ほどほどにしておくが、このような作家がいたということを記させてもらった。
ここまで書いてきた時、アメリカから小包みがとどいた。松坂美和子さんという、戦後に移住した、私と同年ぐらいのかたからである。夫人と親しく、古い時代をお好きらしい。城さんの死の翌年、日本へ戻った時、兄とともに其蜩庵をはじめて訪れた。入ったとたん「わが夢の家がここに」と感じ、シャッターを押した。その写真の数十枚が送られてきたのだ。『怪奇の創造』の私の解説文で、保存不能により消失したと知り、こんな残念なことはないとなげいていた。
なにかの因縁。おかげで私はそれを見ることができた。京都の建築のエッセンスをみごとに集めたといったところ。作ろうなど考える人はもう出ないし、作れもしない。東京の、外人むけ観光コースに加える価値は充分にあった。だれもが感嘆したにちがいない。城さんは夢の世界を現実化し、そのなかで晩年をすごした。ひとつの人生である。
[#地付き](「推理小説研究」 昭和58年9月号)
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筒井康隆
――狂気へのあこがれと努力――
本書に収録してある「お助け」が、筒井康隆の商業誌第一作である。江戸川乱歩編集の「宝石」に掲載された作品。この幕切れは、はなはだしく残酷である。だれにも気づかれることのない一瞬という時間のなかで、じわじわと救いのない死におちいってゆく。
世に残酷物語は数々あれど、これでもか式であったり、サディズム的であったり、扇動的であったり、政治的であったり、さまざまな、よけいな色彩がくっついている。それらとちがって「お助け」には純粋な残酷がある。無色透明な残酷である。
無色であるがゆえに、読者はどう受けとめたものか迷い、寓意《ぐうい》をはかりかね、妙にいらだたしい気分にさせられる。彼の作品の特色のひとつが、すでにここにあらわれている。
また「きつね」もごく初期の作品に入る。二人の少年の心をよぎった恐怖を、あざやかに描きあげている。恐怖物語というと、こけおどしになりがちなものだが、そういう低俗さがまるでない。
その他、いずれもみごとな発想にもとづいている。既存の作家になかったアイデアだ。アイデアというと抽象的偶発的なもののように思っている人が多いだろうが、そうではないのだ。個性と引き離しえないものである。外国の作家、たとえばシェクリイ、ブラウン、スレッサーなども、その作品のアイデアには、それぞれの特色が一貫して流れている。借り物が通用しない世界だ。
アイデアというと安っぽい語感があるから、新しい発見といいかえたほうがいいかもしれない。その当人の目を以てしなければ、見出せぬもののことだ。「きつね」のシチュエーションを、筒井康隆以外のだれに発見できようか。彼の存在のユニークさである。
世の中には、出発点においてうさんくさい作家がある。そういう人の作品を私はなかなか信用できず、いつまでも警戒し、そのうち読む気がしなくなってくる。しかし、筒井作品は安心して読めるのである。彼のファンは多いが、意識しているいないは別として、この安心感を魅力のひとつとして受けとっているのではなかろうか。
筒井康隆は筒井康隆であって、それ以外の数十億の人類のだれでもないのだ。筒井亜流が出現してもよさそうで、雑誌社などそれを期待しているのではないかと思えるが、おそらく永遠にあらわれまい。彼の個性の独自さである。
かくのごとく基礎がしっかりしているので、あとは自由自在である。いくらでも奔放になれる。私の場合、作品の古びるのをきらって時事風俗を扱うのを避けているが、彼はそんなことをしない。しかし、それでいて、けっこう年月がたっても、いっこうに流行おくれにならず、いつまでもいきがいい。ふしぎでならず、また、しゃくにさわる存在でもある。
これはつまり、彼の基礎がびくともしないものであり、その上に建築された柔構造の超高層ビルだからではあるまいか。いかに外部の気象が変ろうが、いかなる天変地異がおころうが、びくともしない。旧式の剛構造のビルにくらべ、地震の際には揺れ方が大きく、そこの住人にとっては「大変だ、大変だ」なのだが、決して崩壊はしないのだ。
すなわち安心感であり、筒井ビルに住んでいる限り、スリルは味わえ、それでいて災厄で死ぬことはなく、窓のそとの面白い光景を楽しむことができるのである。そのビルの居住志望者、筒井ファンのことだが、それのふえるのも当然といえよう。
もっとも、決して崩壊できないということは、いいことかどうか。彼の作品に対し、異様さにみちているとの感想をもらす人が多い。この短編集のなかにもそんなのがあり、しだいにその特色を色濃く示す傾向にある。これこそ崩壊への欲求である。かりに全人類が発狂するという事態にたちいたっても、ただひとり筒井康隆だけはとり残され、狂えないのではなかろうか。想像するに、彼はうすうすこのことに気づき、狂気へのあこがれが高まり、あたふたしはじめているのではなかろうか。
だから彼は、なんとかして狂えることを示そうと、いろいろとくふうをこらし、それこそ必死の努力をこころみる。筒井康隆には音楽的才能があり、絵の才能もあり、演劇の才能もある。だから狂える才能もあるはずだと。しかし、それだけは無理なのだ。
だが彼は、あきらめることなく、自己の正気を持てあまし、いらだち、麻薬によるようなまがいものの狂気の世界でない、真正の狂気の彼岸《ひがん》にたどりつこうと努力する。
その努力たるや、涙ぐましいほどまじめである。まじめさは、この短編集の各所で知ることができよう。それは、自己のまじめさをも持てあますことになるのである。彼は本質的に、いいかげんになれない性格なのだ。
狂気へのあこがれと、まじめな努力、この二つの要素が複合し、筒井康隆の宇宙が成立している。悲劇的なる喜劇。軽い笑いでなく、深刻なるドタバタがそこにある。だからこそ、たぐいまれなる空間なのだ。
ゆえに、その空間に入ったお客は、狂気を充分に楽しむことができる。私もそうだし、他の読者もそうであろう。しかし、作者である当人は、さめた頭と大変なエネルギーとで、ビルを揺りうごかすというサービスをしつづけているのだ。当人は照れくさく、汗なんかちっともかいてないよと、さりげなくよそおっているが。
崩壊できないことは、いいことか。読者にとっては、もちろんありがたいことだ。なぜなら、何回も手を変え品を変えた、狂気の世界を楽しめるからだ。また、人工の極致ともいえるこの狂気の世界は、もしかしたら現実の狂気をはるかに追い抜いてしまっているのかもしれない。
彼の軽薄へのあこがれも、これまた、ただならぬものがある。世の中には、筒井康隆を本当に軽薄だと思っている人もあるらしい。しかし、本書のなかの「幸福ですか?」を読めば、すぐにわかる。いわゆる軽薄なる現象に対する、この皮肉なからかいこそ本音なのだ。筒井康隆は絶対に軽薄になれない人間であって、それゆえに彼はいっそう軽薄になろうとするのだが、ありふれた軽薄にでくわすと、そのばかさかげんに反発する。
そのあげく、彼は作品のなかに理想的な軽薄の世界を作りあげざるをえなくなる。そして、それはもう前例のない軽薄で、すなわち絶後でもあって、こうなると軽薄と呼ぶべきものとは異質だと私など思うのだが、当人はあくまで、これでいいのだと主張するにちがいない。話がくどくなるかもしれないが、筒井康隆が本当に軽薄人間になってしまったらことで、作品からすばらしさが失われてしまうだろう。彼の軽薄は現実の軽薄をはるかに追い抜いたものなのだ。
と、まあ、私なりの分解をこころみたわけだが、本質をついているかどうかとなると、なんともいえない。他人の内面など簡単にわかるものでなく、まして作家となると、ひとすじなわではない。読者もあまりあてになさらぬほうがいい。
筒井康隆に至っては、全身が急所のごとく、また、急所がまるでないようでもある。はたしてどうなのかは、読者の各人が急所をさがしてみるべきであろう。彼ほどの批評家泣かせの作家は珍しいのではないだろうか。どうほめたものやら見当がつけにくく、へたにけなすと、わが身のセンスのなさをさらけだしてしまう。当らずさわらずに扱いたくなるのではなかろうか。
しかし、作品そのものは議論も形容もなく、あきらかに面白い。ということは、もしかしたら筒井康隆こそ、わが国はじめての真の意味の「大衆」作家なのではないかと思えてならない。
[#地付き](『にぎやかな未来』解説 角川文庫 昭和47年6月)
――ぼけかけた頭をめざめさせる人――
もし筒井康隆なる人物が存在しなかったら、世の中は今とくらべて、はるかにあじけないものだろう。大げさに言えば、彼が次になにをはじめるかが楽しみで生きている。
いつもは気づかずにいるが、筒井さんの本質は、生まれつきの演劇人と呼ぶべきなのかもしれない。それがなにかのかげんで、小説の分野にまぎれこんでしまった。演劇的な小説がかなり多い。とくに最近は、本来の姿を示そうとしている。話題作『虚人たち』は、あまりだれも触れないが、演劇の本質を突いた作だと思う。
それに反し、私はまったく演劇に縁がない、もちろん、筒井さんの上演作品はみんな見ているが、それ以外となると、数えるほどである。二十代のころに歌舞伎《かぶき》をよく見たが、これも合計したら寄席《よせ》には及ばないだろう。そのほうに、私はむいていないのだ。
「戯曲を書きませんか」と依頼してきた出版社があった時、形だけ借りて、じつは小説を書いた。文庫となって売れつづけているから、つまらなくはないのだろう。上演のことなど考えもしなかった。
それを上演しようという物好きが出るたびに「せりふを自由にお直し下さい」と念を押すことにしている。せりふがどうあるべきかも、私は知らぬのである。念を押したのに一回はそれを怠って妙なものとなり、もう一回は脚色者がねをあげ、中止となった。
つまり、私は活字人間なのである。映画よりも好きである。「ローズマリーの赤ちゃん」を映画でしか知らぬ人を気の毒に思う。「二〇〇一年宇宙の旅」も「未知との遭遇」も、よさがわからない。つまり、私は感覚が古いのだろう。
演劇に縁のない私には、演技ということがぜんぜんできない。ただただ感嘆あるのみである。楽器をやる人、外国語をあやつる人、パイロットなどと同じく、別の種族のように見える。これは私の短編が、ほとんど三人称形式であることの原因かもしれない。演技のできないことの、あらわれである。
そういう私に筒井芝居を論じさせようというのは、どだい無理である。まずは作風を分析すべきだろうし、強烈さとか毒とか、現代とのからみとか、新しい意欲とかも書かなければならない。そして、はなはだやりにくいことは、つねに変化しつづけている点である。『アフリカの爆弾』と『虚人たち』とをいっしょには語れないし、笑いの要素はもちろんのこと、風刺、孤独感、リリシズムまで、自在にこなしてしまうのである。
だから、筒井論ぐらい書きにくいものはないのだ。七瀬シリーズだって、各編それぞれテーマがちがっており、とらえどころのない作家であることが、魅力のひとつになっているのだ。
私など二十年一日のごとく、ほとんど作風を変えていない。第三者から見るといくらか変っているらしいのだが、筒井さんとくらべたら、同一には論じられない。
それはともかく、筒井さんの芝居は見ていて楽しく、見終っても楽しい。結末に極度の残酷性のあるものが多いが、それをあと味の悪いものでなく仕上げているところなど、ただならぬ手腕というべきなのだろう。
なぜ面白いか。理屈なしに面白いところがいいのである。このところ痛感しているのだが、現代は解説≠ニいうしろもので、だれもかれも頭がぼけかけているのではなかろうか。テレビをつければスポーツ番組も、映画も解説のしゃべりつづけ。マジック・ショーやサーカスにも解説がついたのには驚いた。出現したのがハトでありカラスでないこと、空中ブランコは危険なショーであるぐらい、教えられなくたってわかっている。
新聞を開けば、政治、外交、経済、お肌の手入れまで解説がのっている。
筒井作品は、そのぼけかけている頭をめざめさせてくれるのだ。
[#地付き](「三月ウサギ」上演に際して 現代演劇協会機関誌第82号 昭和56年10月)
――超克についてひとこと――
はるか昔「宇宙塵」というSF同人誌が、月刊のペースで発行されていた。いま思えば「よくそんなことが」でしょうがね。広瀬正さんの『マイナス・ゼロ』の大連載だってのってたのだ。
その五周年の号あたりに、三島由紀夫さんの短い文章がのった。私も同じ「日本空飛ぶ円盤研究会」の会員で、機会はあったのだがなぜかすれちがいで、ついにお話しすることがなかった。たまたま柴野さんは空を眺める会で一緒になり、たのんだら原稿がいただけたというわけだろう。
当時の三島さんの名声といったら、光り輝いたものだった。若く天才的で、小説、戯曲、映画と、無限の発展性を秘めた存在だったのである。
そんな人から激励の文をいただいたというので、関係者一同、どんなにありがたがったことか。なにしろ、当時のSF界といったら、うさんくさい目で見られていたのだ。推理作家からも。
まあ、私はなんとか、どこかの雑誌で月に二作ぐらいの割で書かせてもらっていた。面白い話だから、のせてみるかで、正当に評価され、将来性をみとめてではなかった。早くいえば、埋草あつかいである。
そんなわけだから、あの三島先生がお気にかけて下さっておいでとはと、まさに感激のきわみだった。事実、それが正直な反応だったのだ。
そのなかに、こんな個所があった。
「私は近代ヒューマニズムを超克するのは、SFによってではないかと思っている」
なにやら、われわれは大変な期待をかけられているらしい。しかし、これが具体的にどういうことかとなると、よくわからない。同人のだれにもわからない。しかし「わからない」などと口に出すこともできない。
ご本人に聞くなど、とんでもないことだった。昨今だと、自己の無知をさらけ出して問い合わせたりするのがいるが、当時は自分なりに解釈しようと努力したものだ。
私もまた、わからなかった。考えたあげく、こう思ったりした。書いたご本人にも、わかってないのではないかと。現在なら、作家がそう書いたからには、なにかわけがあってと知っているが。
アンチ・ヒューマニズムなら、奇妙な味、ロバート・ブロック、日本での流行は少しおくれてだが、ブラック・ユーモアの系列がある。三島さんは知っていたはずだ。そもそも江戸川乱歩さんの短編のなかにも、そういう傾向のはあった。
げてもの映画「獣人ゴリラ男」を面白がった、三島さんの文を読んだことがある。主役らしき二枚目が、はじまってまもなく殺されるという、妙に印象的な部分もあるストーリー。のちに文化人ゴリラとなったのも、そのあたりに一因があったせいか。
ノン・ヒューマニズムなら、バイオレンス小説がある。三島さんが大藪春彦さんの熱心な支持者であったことは、知る人ぞ知るであった。
アンチでもない、ノンでもない、なにか新しいものがあっていいと、漠然と考えていたのではなかろうか。
といった状況を、そばにおいといて……。
そのうち、筒井さんが「ベトナム観光公社」という短編を発表した。いまの人にはわからぬだろうが、あのころはベトナム反戦に浮かれてる連中が多く、よくもこんな内容のを書く勇気があるなと、仲間たちはみな思った。また、痛烈に面白いことも、みとめざるをえなかった。
その翌年だが、こんどは「アフリカの爆弾」という短編が発表された。これも強烈な笑いに充《み》ちていた。
やがて、その路線のものを、いくつも世に送り出すことになる。そして私も、近代ヒューマニズムの超克とは、もしかしたらこのことかもと気づきかけた。
小松さんの作風には、ヒューマニズムがからんでおり、私のもアンチを意識して使うことはあっても、超えたといえるものはない。
筒井さんは確実に、それまでの目に見えぬ壁でかこまれた空間から自由になった。ヒューマニズムを知りつくした上で、はじめて可能なことである。
それが三島さんの心に描いていたものに近いかは別として、飛躍がなされたのだ。時すでにおそしではあったが。
時期的には、筒井さんの一連のものを読めたわけだ。しかし、あのような形での人生の幕引きのスケジュールに入っており、頭のなかはそれが優先していたのだろう。担当編集者に、筒井作品をすすめる人もいなかったようだ。
もし三島さんが存命だったら、筒井さんも、なにか大きな文学賞がとれたはずである。ここに全集は完結するし、はば広い読者の支持はあるし、なにをいまさらだろうが。
しかも、超克路線は一面にすぎず、少し休んでとすすめたいが、筒井さんはますます張り切り、さらに新しい分野で人びとを驚かすつもりでいます。その活躍を祈って。
乾杯。
以上が、先日の筒井さんを祝う会の乾杯の時の、私のあいさつである。省略が多く、説明不足の点もあったので、ここに文章としたしだい。
三島と太宰の研究では第一人者の、奥野健男さんも会に出席していて、あとで「そうだね」と賛成の意見を私にささやいた。
で、三島由紀夫のSF観となると、多くの問題点がある。「宇宙塵」への一文のなかで、ブラッドベリを、太宰と同様にむきになってけなしている。
さまざまな受け取りかたがあるが、つまり、それだけ関心があり、熱心に読んだというわけだ。なにしろ、この二人はいかにも亜流が出そうで、いまだに出ない。特異な才能で、画期的である。本当にくだらないというのなら、論ずるにたらずと無視するのが普通である。
SFめいた三島作品には『美しい星』という長編がある。人類についての会話の部分は、かなりの迫力で、ヒューマニズムの超克への努力はなされているのだが、全体としての評価はさだまっていない。私には、最後の一行がよくわからない。どうなっているのだ、である。れいの悪い癖で、本人も困ったあげくと片づけたくもなる。
かなりあとで、理解の手がかりとなったのは、大友|克洋《かつひろ》さんの短編劇画「宇宙パトロール・シグマ」である。こういったところを狙っていたのだろうかと。
スケールの大きな虚構と笑い。それを試みたかったのだろう。しかし、三島作品をお読みになればわかるが、笑いの部分がまったくないのだ。ご本人にはユーモア感覚があったということだが。
また、現実から飛躍した作となると、苦手だったようだ。代表作はみな、社会との関連のあるものである。
ご本人も飛躍へのあこがれがあったようで、死の前年、強力に推して稲垣足穂氏を第一回日本文学大賞の受賞者にしている。絶筆となった連載エッセイ「小説とは何か」のなかで、クラークの『幼年期の終り』への感想を少し書いている。ああいうのを書きたかったのかなと思う。
せめて、もう少し生きて、筒井作品を読んでの感想を聞きたかった。とくに演劇的なことでの論も知りたかった。
三島予言者、筒井スーパースターの図式を示したかったのだが、笑いについての個性の差があまりに大きく、説得力を欠くものとなってしまった。
いつも書くことだが、個人の内面、とくに作家の内面となると、第三者にはわからない。自分自身にだってわからないのだ。
しかし、このお二人を同じ時代に活躍させたらと空想するのは、私だけではないのではないか。
[#地付き](筒井さんの全集完結を祝うパーティでの祝辞 「SFアドベンチャー」 昭和60年8月号)
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レイ・ブラッドベリ
――『火星人記録』のころ――
そばの書棚に元々社版の『火星人記録』が並べてある。机の上に持ってきて奥付けを見ると、昭和三十一年十月二十五日の発行とある。ブラッドベリの作品の邦訳第一号である。タイムトンネルをさかのぼったようだ。巻頭の著者の写真の若々しいこと。最近のとくらべ、まさに別人。
当時は、すべてが若々しかったのだ。読んだ私も若かったし、世の中も戦争の傷あとを乗り越えて未来への希望があったし、空飛ぶ円盤もマスコミ商策に利用されず手あかがついていなかったし、SFという呼称も一般的でなかった。宇宙、月でさえ未知で新鮮で、なぞめいていた。
そんな時に私は、この本にめぐりあった。
終戦までは家にあった文学全集(古典)以外に読むものはなく、それを読んでいた。戦後、各種の雑誌が出はじめ、テレビ時代以前ということもあって、われながらよく読んだものだ。新聞連載小説も、数作を並行して読んでいた。
そんな日常で、とくに鼻についてきたということもなかったのだが、この『火星人記録』にめぐりあった時は、心の洗われるような思いがした。それまで読んできた小説が、すべて地上の人間関係のごたごたに関連したものだったせいだろう。
少しあとになって「この題名はおかしい、誤訳である。火星年代記が正しい」との説をなす者が出たが、訳者が気づかぬわけがない。そのころの状況にあっては、書店で手にとってもらうには火星人≠ニついていなくては、ならなかったのだ。出版社と訳者の合意の結果だろう。
巻頭の「火星の女イラ」の発端の文章はすばらしく、何回も読んでいるうちに、一ページ分くらいはおぼえてしまった。訳者については女性であること以外にぜんぜん知らないが、いわゆる翻訳調という感じをあまり受けず、そこにすんなりと共感できた一因があったのかもしれない。
もっと読みたいと思ったが、ほかに訳されてはいないようだし、つづけて出そうなようすもない。どこでだか忘れたがブラッドベリの『イラストレイテッド・マン』つまり『刺青の男』の原書のポケット版のを入手した。少し読んでみると、なかなかいいムードのある文章。いくらか語学力もあったわけだ。
すでに今日泊亜蘭さんとは知り合いになっていた。ということは「宇宙塵」の同人になっていたことになる。なにしろ独身でひまを持てあましていた時なので、週に一回、これをテキストに今日泊さんのところで英語を習うことにした。年月のたつのの早い昨今にくらべると、うそのようにのんびりしていた。一編がすむと雑談となる。
とにかく、全部を読んだはずである。原文に接すると、ブラッドベリを読むと訳したくなる気持ちが、よくわかった。一種のメロディーのようなものが流れていて、それに酔わされてしまうのだ。そういった特色は『刺青の男』という短編集のなかで、よく発揮されている。
彼は長編作家ではない。
『世界のSF文学・総解説』のなかの『火星年代記』の項を見ると、これを長編あつかいして、要約をやっている。その労は多とするが〈火星人、水痘瘡《みずぼうそう》で全滅す〉なんて小見出しがくっついている。地球人の持ち込んだのに感染したわけだが、これではウエルズの『宇宙戦争』の安手のパロディと思われてしまう。買う気も起らないだろう。
私の好きな太宰治の「ダス・ゲマイネ」の筋を要約しても、どこがいいのやら、さっぱりわかるまい。独特な太宰|節《ぶし》の文章が魅力なのである。こういうタイプの作品を好まぬ人もいるだろう。げんに三島由紀夫がそうである。小説のなかの音楽的な要素を感じとれない性格の持ち主。私は三島作品を建築家的にすぐれたものと評価するが、一カ所もユーモアのないというのも異様である。
ブラッドベリにしろ太宰治にしろ、音楽的要素を持つ作家というのは生まれつきのもので、まねのしようがない。この両作者、いかにも亜流が作れそうで、決して出来ないのだ。私もやろうとしたが、どうもうまくいかない。
それでいて、自分も書いてみようかなという気にさせるなにかを持っている。『火星人記録』を読まなかったら、私は作家にならなかったか、なったとしてもかなりおくれていただろう。間接的だが恩人のひとりである。
ブラッドベリはSFに新境地を築いた、あるいは、SFの領域をひろげた。アメリカに彼のファンの多いのは、ふしぎな気がする。いわゆるアメリカ的なのと逆なのだ。
また、ソ連旅行の時に通訳兼ガイドの役をつとめてくれた、モスクワ大学の日本語科の女性エレナ・レジーナさんも、話がSFになった時、ブラッドベリが好きと言い、これも意外だった。
いま読みなおしてみると、私がSFに関係しはじめたころのことが、つぎつぎと思い出される。まさに、わが青春のブラッドベリである。私はいい時期に彼の作品と出会ったといえるだろう。そういう意味でも、ノスタルジアの作家なのだ。
[#地付き](「別冊・奇想天外」第14号 昭和56年4月)
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平井和正
――未来観の変革――
本書をいま読み終えられたかたは「ああ、読みごたえのある小説に接したなあ」との感想をいだかれたと思う。
本書はサイボーグ人間が主人公となっている。私はサイボーグ物を書いたことがないし、今後も書かないだろう。このような力作が書かれていては、とてもそれ以上のものは出来っこないからである。
いまさら説明は不要だろうが、サイボーグとは脳だけが人間で、ほかのすべては高性能のメカニズムなのである。科学の進歩のうみだした成果である。成果といっても、いい面ばかりをもたらしているわけではない。ロボットとは大きくちがうのである。人間としての、感情と判断と追憶とを持っている。しかし、人間とは別個な存在なのである。疎外された存在であり、死から呼びもどされた存在でもある。
人間であるということは、どういうことなのだ。このテーマを追究するのに、適切な題材なのである。ありとあらゆる角度から、人間そのものへの問いかけがなされている。作品中に引きこまれるSFは多いが、本書のように、引きこまれると同時に考えさせるSFはそう多くない。
これまでSFにおいて未来≠ニいう言葉は、さっぱりとして清潔で、整然としていて乾いていて、明るい世界というイメージを持っていた。事実、そのようなSFが多かった。世界破滅テーマの作においても、そうなのである。
アンブローズ・ビアスは『悪魔の辞典』のなかで、未来について「われわれの日常の仕事がうまくゆき、友人たちも誠実で、幸福が保証される一時期」と皮肉をこめて書いている。われわれが未来に対して抱いているこの種の幻想は、強力なものである。
昨今、公害だの終末論だの、暗い未来論が流行しているが、上滑りしている。それはつまり、未来においては人間関係がうまくゆく、いやなやつはいないという幻想があるからであろう。排気ガスよりも、肌のあわぬやつのほうが、もっとたまらん。これが正直な実感なのである。
その幻想を、平井さんは本書において、みごとに変革した。この点において、私は『サイボーグ・ブルース』を画期的な作品として、高く評価する。これだけ人間くさく、やりきれないSFは、外国においてもこれまでに書かれていないはずである。まさに悪夢としか言いようがない。衝撃を受けた読者も多かったのではなかろうか。
まるでジャンルはちがうが、私が悪夢を読まされたものに、開高健さんの戦争ルポがある。個の人間の側に立って戦争という巨大な、とらえどころのないものと真剣に取り組み、追究にかかると、解明不能の泥沼にあがかなくてはならなくなり、必然的に悪夢になってしまうのである。人間とは図式で割り切れるものではないのだ。
平井さんも「公害の最たるものは人間の存在である」と、なにかに書いていた。好ましからぬ社会現象を追究すると、それを構成している個人の内部にまで入りこんでしまうのである。人間がどうしようもなく持てあましている矛盾を、直視しなければならない。
といったことは、読者も感じ取られたことだろうし、私がここでこれ以上、感想文を書いても意味がない。私がいつも言っていることだが、SFにおいては、作品そのものが作者についての最も適切な解説なのである。
平井さんとはよく会い、酒も飲み、ばかげた話をする仲である。共通の友人である故・大伴昌司氏の存命中には、三人でしばしば横浜へ出かけたりもした。だから、よく知っているつもりだったが、解説をたのまれ、さて経歴はとなると、とまどってしまった。私は、あまり他人の過去を聞きたがらない性格なのである。それを察して、平井さんは長い手紙を送ってくれた。
彼の手紙を書く才能は、本人は意識していないだろうが、大変なもの。全文をここにのせたほうが、私の解説などよりいいように思えるほどだが、長くもあり、事情を知らぬ者にはわからぬ部分もあり、割愛することにする。
平井さんは昭和十三年のうまれ。寅《とら》年である。ついでながら、私は大正十五年のうまれの寅年である。ひとまわりちがうことになる。そして、それぞれ戦争の影響を受けた。私と彼との作風の差もそこにある。
私の少年期は、戦前もいいところ。暗い時代とはいうものの、少年の日常生活の周囲には静かさがあった。だから私にとっては、戦後の激動が幻のように思えてならないのである。それにつづく繁栄も、そして現在も、未来も、幻のような気になることさえある。
平井さんは、戦後の混乱期に少年時代をすごした。彼の場合、それをあるがままに受け入れなければならなかったのである。そんな時期を知らない人がふえつつあるが、混沌とした社会だった。
中学二年の時、平井さんは手塚治虫のマンガの影響を受け、二百枚という長編SFを書き、同級生たちに読ませて喜ばせたという。現在こんな少年があらわれたら、周囲がほっておかず、たちまち話題にされ、おもちゃにされ、だめにされてしまうのがおちである。しかし、|さいわい《ヽヽヽヽ》混乱の時期であった。彼は他人を楽しませ、自分も書いて楽しむという喜びを知った。いい出発といえる。
そして、神奈川県立横須賀工業高校の電気科に入学。これもはじめて知らされた。国語と社会以外はいい点でなかったと言っているが、学校へ出席し、授業を聞いていれば、いやおうなしに頭に入るし、その年齢のころにおぼえたことは、なかなか忘れない。作品中の科学的描写が子供だましでなく、迫真性を持っているのは、ここに理由があった。
大学は中央大学の法科。あまり出席しなかったというが、全単位を取って卒業。その在学中に、中大ペンクラブに属し、チャンドラーに陶酔し、マッギバーンを読みふけり、ハードボイルド小説を書きまくった。
中学二年に目ざめて以来、彼は書くことに楽しみを見いだしている。この点、うらやましくてならない。私は書くのが苦痛である。なんのために書いているのかといえば、書きあげた瞬間の快感を味わうためである。だから私は本質的に短編作家であり、平井さんは長編においてその資質をあらわすことになる。
そして、SFコンテストに応募し、雑誌に作品がのる。作家としてのスタートだが、運命は彼を横道に引っぱった。「エイトマン」という漫画の原作をやることになり、それはテレビでも放映され、「鉄腕アトム」と競って、まさに一世を風靡《ふうび》した。
その時期、それにつづく不運なトラブルによる悲劇の時期に、彼は苦悩の月日を送った。私も作品執筆に多忙な時期であり、その事情はまた聞き程度であったが、今回の手紙ではじめて詳細を知ったしだいだ。
その説明をするとなると、大変な枚数を要する。いつの日か、平井さんが書くべき題材と思える。また書かなくても、それは作品中にあらわれている。人間によって構成されている社会の持つ恐怖である。
「エイトマン」もサイボーグが主人公であった。映像だと内面描写がしにくいが、小説となるとそれが充分に可能となる。彼はこの『サイボーグ・ブルース』が最初に単行本となった時のあとがきで、エイトマンへの鎮魂歌としてこの連作長編を書いたと記している。つまり、この作品は漫画、テレビ、活劇といったものの反対の極にある。それが、これをすぐれたものにしているのである。
平井さんは内にデリケートなものを秘め、外面は強情であるが、友情に厚い。
この解説は、いささか物たりない形であろう。彼からの手紙をもとに、その心の軌跡を紹介したいところだが、あえて省いた。作品より作者のほうが魅力的になってしまうべきでないと思うからである。
『サイボーグ・ブルース』の結末も、完結でなく、さらに大きな問題を残したままである。だからこそ、読後感も印象的なのである。平井和正の人間像も、なぞを残しておいたほうがいいと思うのである。
[#地付き](『サイボーグ・ブルース』解説 角川文庫 昭和49年9月)
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真鍋博
――ザラ文明批判――
真鍋博の活躍ぶりは、大変なものである。異色のイラストレーターとして出発したわけだが、アニメーションを製作し、ニューヨーク世界博では日本館の壁画を描き、大阪万博では三菱パビリオンの演出に参加し、未来論ではユニークな一家言を持ち、最近ではテレビ、ラジオでさかんに奔放な発言をしている。さらに文章も書き、本書はそのエッセイ集というわけである。
このなかに「ザラ紙・ザラ管・ザラ文明」と題し、TVを論じた章がある。ザラ紙とは「少年マガジン」のたぐいの雑誌用紙のことで、ツカ(厚さ)をふやすのと安価が目的の雑誌の意味。それとテレビ文化との共通点を指摘しているのである。
著者は「ジョージ秋山の『アシュラ』にしても、あれをアート紙に刷ったらおそらく見るに耐えないだろう。つまりザラ紙ゆえの鬼気迫る迫力なのである」と言い、テレビの普及しはじめた初期の、映像の乱れが多かったブラウン管にうつった、あの稚拙な演出の番組が持っていた熱気を回想して、それの失われた現在を惜しんでいる。
言われてみると、まったくその通りなのだが、一般の人は言われてはじめて気がつく点だろう。著者がイラストレーターであり、各種の紙質と毎日とりくんでいるため、実感のにじみ出る発言となっている。
われわれ一般の大衆は、品質向上のカラーテレビを見て、アート紙に昇格したような錯覚を抱いているが、真鍋博の鋭い感覚の目によれば、テレビは依然としてザラ感のメディアを脱していないのである。
テレビ関係者はそこに気づき、ザラ紙雑誌への理由なき優越感を捨て、独自の文化を創造すべきであろうと彼は主張する。
「お色気番組はストリップのテレビ化であり、奥様ショーは婦人雑誌のテレビ化であり、学校放送は通信教育のテレビ化であり、視聴者参加番組は、雑誌のあの読者のページのテレビ化である」と書いている。テレビははじまって以来、すでにあるものを画面におさめる作業だけをやってきたにすぎない。
「本物より、テレビのほうが本物以上によくうつる」素材であったのである。
ザラ文明の象徴ともいうべき、万博がおこなわれた時、テレビは活動しなかった。カラーテレビで万博を見ようとした大衆の夢をうち砕き、一方、会場は大混乱で、来場者に欲求不満を与えた。テレビ関係者の怠慢に、文句をつけている。
イラストレーターであり、万博の演出参加者であり、テレビ出演者であり、すぐれた感覚の視聴者であるこの真鍋博だからこそ、発言に説得力がある。テレビ時代といわれながら、テレビ独自の映像的価値体系がいっこうに確立していないと、かなり辛らつな一文である。
それでいながら、この種の評論によくある、ひねくれた皮肉っぽさがまるでない。ものごとの進行中は口をつぐみ、終るやいなや結果論的にいやみを書く社会評論家の存在ほど世にいやなものはないが、真鍋博にはそれが全然ないのである。彼独特の陽性の人柄のせいである。
陽性というと、どこかが抜けている語感だが、彼の画風でわかる通り、こまかな神経をそなえた上での陽性なのである。
彼はこれまでにも『二〇〇一年の日本』をはじめとして、未来に関する画文集を何冊も出している。それらには、正確さと調査と、大変な勉強とを感じさせるものがあった。
本書は、過去のそれらの著書の傾向から離陸し、自由自在に飛びまわりながら、各現象を論じている。
文体もそれにふさわしく、理屈っぽさを排除した飛躍と活気にみちている。だが、未来についての大量の情報をふまえた上でのものなので、口から出まかせという印象を与えない。
以上、TVの項目を例にあげたが、本書にはこのほか、創造力、性、国土、産業、レジャー、車、都市、公害、マンガなど、現代文明の各断面についても、それぞれ複眼的な観察をおこない文明批評を展開している。
なお、本書には収録されていないが、真鍋博の生活行動についての随筆も、またべつな面白さを持った類のない文章である。いずれ「真鍋博の生活と意見」として、それらも一冊にまとめてもらいたいものだと期待している。
[#地付き](『真鍋博の複眼人間論』書評 「流動」 昭和46年8月号)
――イラストレーターの先駆――
ふりかえると、私が作家になってから二十六年、真鍋さんにイラストをお願いするようになって二十五年。ほんの数年前のことのように思えるが、四分の一世紀の歳月がたっているのだ。ありふれた形容だが、感無量としかいいようがない。
「おーい でてこーい」の絵が最初だった。それからずっとである。その九年後に和田誠さんと知りあい、和田さんと組むこともふえたが、量としては真鍋さんがずっと多い。編集者の好みで、お二人以外の珍しいかたの絵をいただいたこともあったが(一例をあげれば岩田専太郎画伯)、数はそれほどでもないのだ。
文藝春秋からそのころ出ていた雑誌「漫画読本」に、かなりの期間にわたってショートショートをのせてもらったが、その時も真鍋さんと組んでである。商業誌に書きはじめてからというわけで、真鍋さんの絵がついていて当り前という気分。いいの悪いのとか、特色についてとか、あらためて感想を聞かれても、なにも言うことがないのである。
知り合ってまもなく、絵入りの四国の民話集の本をいただいた。これが真鍋さんの出発点、あるいはそれに近いものらしい。これはかなりユニークで、強烈な印象を受けた。人によっては、波長が合わないかもしれないなとさえ思ったものだ。あとになって気づいたのだが、つまり、そういうものがないと世にみとめられないのだ。
イラストレーターなる呼称をだれが使いはじめ、若い人のあこがれの職業にしたのか、くわしいことはわからない。しかし、久里洋二さん、真鍋さん、柳原良平さんあたりが口火をつけたといえそうである。
私はへたくそだが、世の中には器用に絵の描ける人が多く、容易になれそうな気を起させるらしい。しかし、現実にそう呼ばれて通用している人となると、十人はいないのではないか。抜きん出た特色と、努力とがないとなれないのだ。
真鍋さんの絵はそのあまりに個性的な点で、やがてあきられるのではと、最初のうち心配したこともあった。もっとも、彼のほうも、星さんいつまでアイデアがつづくか、などと気にしていたかもしれない。
そのうち、ある婦人雑誌の目次を飾る、やさしく美しい絵を見た。なんと真鍋さんが描いていたのだ。これは大変な才能と感心し、以後はすっかり安心することになる。
これもごく初期のころの話だが、真鍋さんが結末に触れた絵を描いたことがある。私の作品だったかどうかは忘れたが、ミステリー的なものには困るので、編集部から注意があったらしい。当時からつきあいつづけの編集者の話では、真鍋さんほど他人のアドバイスに熱心に耳を傾ける人は少ないとのこと。
そのあと、真鍋さんは二度とそれをやっていない。なれない人はもちろん、有名な画家ですら、ミステリーの結末に関連したものを、つい描いてしまうものなのだ。その点、真鍋さんは信用できる。ミステリーの装幀やカバーを数えきれぬほど手がけているが、作者からの不満の声は聞いたことがない。
そして、驚くべき勉強家である。はじめて訪問した時だったが、自動車を買って地下のガレージに入れてあると言う。二十数年前は、いまのように車は普及していなかった。すごいなと思ったが、車を運転してみないとイラストが不正確になるからと聞いて、二度びっくり。ゴルフセットも持っていて、正しい握り方を描くためだとのこと。
真鍋さんの趣味に、ドライブやゴルフは入っていない。すべては絵のための出費である。ぼやかして描く画風でないので、その資料たるや大変なもの。軍艦の写真集もそろえたと話していた。ごく少数だが、まちがいにうるさい人がいるのである。
ある新聞の日曜版で、小松左京さんと私が交代でショートショートを書いていたころのことである。小松さんが麻雀《マージヤン》のからんだ話で、九連宝燈《チユーレンポウトウ》の役を登場させた。真鍋さんは麻雀をやらない。本を買って読み、なんとか仕上げた。小松さんはアポロの月着陸にひっかけ、筒子《ピンズ》のつもりで書いたのに、本にはたいてい万子《マンズ》のパイのが使われており、真鍋さんはそれを描いてしまった。小松さんは苦笑したが、ラストで一筒《イーピン》をつもる役など、戦前のもので、気づいた読者はほとんどいなかったろう。ここはむしろ、真鍋さんの勉強ぶりに感心すべきだろう。
麻雀がらみの話など、真鍋さんにはめったに回ってこないはずだ。だれかに聞いて片づけることもできるし、べつな絵柄で逃げることもできる。それをやらず、自分なりに調べて仕上げたところが、いかにも真鍋さんらしい。イラストレーターでありつづけるには、このようなことのつみ重ねが必要なのだ。適当に逃げる要領をおぼえたら、レベルが下る一方である。真鍋さんに企業からのポスターの依頼が多いのも、そこに一因があるのだろう。
そして、正確さだけですむものではない。作家のほうが楽というわけではないが、文章表現では「博士は奇妙な装置を作った」ですませることができる。しかし、それを絵にするとなると、それらしき形を考え出さねばならない。そういう困難な想像力も要求されるのだ。大変なことだと思う。私が締切りより早目に原稿を渡す習慣を自分に課しているのは、それを考えてである。ぎりぎりに渡す作家にくらべ、私へのイラストのほうが出来がいいようである。
ぎりぎりの場合が、私にもなかったわけではない。ソ連が人工衛星の新しいのを発射するとかで、ある週刊誌が特別増刊号を企画し、二日の期限でショートショートの依頼がきた。いまだったら頭からおことわりだが、そのころは若さがあった。なんとか書いて土曜の昼ごろ渡したわけだが、月曜には真鍋さんのイラスト入りで書店に出たのにはびっくりした。ひとつの思い出だが、余裕を持って書くほうがいいのは、いうまでもない。
とにかく、何百編もの作品に絵をお願いした。最初のうちはうれしさもあり、掲載誌は贈呈で送ってきたぶんのほかに一部を買い、保存しておいた。短編集用のために掲載ページを切り取って出版社に渡すと、手もとになくなってしまうからである。現在のようにコピー機が普及していなかった。
だから、保存用の雑誌はふえる一方、スチール製の組立て物置きのなかにたまり、ある段階をすぎると、どうしようもなくなった。掲載ページはイラストつきのまま出版社に渡り、私の手もとにはほとんど残っていない。
いつだったか、真鍋さんがその大部分を保存しているという話を聞いた。いずれ見なおしたいと思っていたのだが、私のショートショートが一〇〇一編となったので、そのイラスト傑作集を本にしたらと新潮社に持ちかけ、ここに実現したというわけである。
という次第で、私にとって、なつかしいものばかり。独自の個性の上で、さまざまな手法の変化を見せている。なかには、人物がどれも同じようだとお感じのかたもいようが、それは私の作風が、人物よりもシチュエーションとストーリーに重点をおいているからである。その気になれば、それも描ける人なのだ。
真鍋さんはまじめな性格で、酒を飲まない。その一方、私の作品にはバーを舞台にしたものが多い。しかし、それもうまく処理されている。私がバーを舞台にするのは、日本で異った職業の人が知り合うのは、そんなとこ以外にないからである。アスレチック・クラブでは健全すぎるし、病院の待合室ではぱっとしない。しかし、現実の銀座などには、そんなバーはめったにない。私は風俗小説を書いているわけでないので、バーに入れない未成年の読者には、真鍋さんのイメージのバーのほうがぴったりかもしれない。
また、いま見なおしてみると、二十五年の経過を考えさせられる。社会や科学技術の大変化である。私が書きはじめたころは、人類の宇宙進出など、はるか未来のことと思っていた。それが現実のものとなり、バラ色の未来学の時代となり、万国博という大きなお祭りがあり、公害があり、オイルショックがあり、悲観的な未来論もあった。電卓だって、こう高性能になるとは予想もしなかった。UFOや地球外生物だって、昔は話題にしたら変人あつかいされたものだ。
おたがい、そんななかをよく現役でありつづけたものだ。面白い体験だったともいえる。それなりの苦労もあったが、仕事のしがいもあった。真鍋さんの亜流が出てきそうで、ついにひとりも出てこない。私の亜流も、また同様。それは、こういう体験をふまえていない人たちの世代となったせいではなかろうか。
この呼称が定着するかどうかわからないが、最近SFアートという分野ができはじめた。リアルな空想画であり、小説とは独立したもののようだ。イラストの未来となると、これは私もお手あげである。
なお、この本ではそれぞれの絵に、私の作品の最初、あるいは最初に近い部分を少しだけ引用した。少しは関連の参考になるのではと思ってである。全文をのせたのも、何編かある。
私について少しくわしい人は「おーい でてこーい」で最初に組んだと書いていながら、その前の作品「ボッコちゃん」の絵も入っているのはなぜだと言うかもしれない。これは好評作品再録の特別号で描かれたものである。最初に雑誌にのった時は、絵がつかなかったように思う。
とにかく、これはそういう本である。真鍋さんはイラストのほかに、切手や記念タバコのデザイン、ポスターまではば広く仕事をしている。変形の自転車の試作もするし、文章が主体の本も何冊か出している。最近なさっているかは知らないが、講演もうまい。鈴のコレクションも有名である。簡単には論じられない。
いずれにせよ、お世話になっています。
[#地付き](『真鍋博のプラネタリウム』まえがき 新潮文庫 昭和58年10月)
――長いつきあい――
イラストのつけにくさの点で、私の作品にまさるのは少ないのではなかろうか。人物描写がなく、年齢不詳、それにクライマックスの結果を絵にされては困るのだ。それを真鍋さんは、二十年ちかくやってきてくれた。
その才能に感嘆し、まったく心から感謝する。あまり知られていないが、彼ほど研究熱心な人はいない。とにかく、世界に類のない画風を作り上げた人である。
[#地付き](「オール讀物」グラビアページ 昭和52年10月号)
こう長い関係になると、なにがなにやらわからなくなってくる。かつて冗談で「真鍋さんの絵に文をつけている星です」と言ったことがあるが、そんな心境、いや、それさえも通り越している。
とにかく、私の作品を最も理解してくれている人だろう。
[#改ページ]
眉村卓
――足が地についている実力派――
うちの上の娘はいま高一だが、中学時代から眉村さんのファンである。NHKテレビの夕方の連続番組の原作に、しばしば眉村さんの作品が使われたからである。ビデオ装置を買ったら、カセットを買うたびにその録画に使われてしまうという事態にもなった。
「眉村さんは若い人に人気があるらしいが、どこがいいんだい」
「出演している俳優が、いいからじゃない」
これでは解説に使えない。もう少しくわしく聞いてみると、
「最初はそうでもなかったけど、何回も放映されているうちに、だんだん人気が出てきたみたい」
眉村さんは学習誌でよく活躍した時期があり、名を知らぬ人はないはずだが、うちの娘は進学問題のないミッション系の学校。どうやら、テレビによって眉村ファンになった人も多いようだ。
日常生活にさりげなくまぎれこんでいる宇宙人、異次元人という設定が、戦争も戦後もまるで知らない世代にうけるらしい。
眉村さんをひとことで評すると、実力派の作家ということになる。俳優だけで視聴者を引きつけられるものではないし、いい俳優を起用できるというのは、テレビ局の原作への信頼があればこそである。眉村さんの人気は浮わついたものでなく、根づよいものなのだ。視聴率は知らないが、NHKによる全国放送である。眉村作品に接したことのある人の数を想像すると、おそるべきものだ。こんなSF作家は、ほかにいない。
こんな書き出しだと眉村さんは中学高校生むきの作家となってしまうが、そんなことはない。手がける分野のひとつにすぎない。この一例を見ても、眉村さんはなにをやるにも全力投球、少しも手を抜かないということがわかる。
その実力の秘密はなにか。
「SFマガジン」にのった矢野徹さんの眉村さんへの長時間インタビューを読みなおしてみて、興味ある点に気づいた。作家となるまでの人生についてである。
眉村さんは父上が和歌を趣味としていた影響を受け、高校時代に俳句をはじめた。俳句部というのに入り、多くの句を作った。周囲にレベルの高い人がいて、かなりしごかれたらしい。
渡り鳥空の一点よりひろがる
冬霧を集めて門に灯《ひ》がともる
前衛派である。しかし、古典的なものをふまえた上でないと、いいものは作れない。これらの句を高一の時に作ったと知り、あらためて眉村さんを見なおした。特異な感性がみなぎっている。
ここで、俳人としての眉村さんを論じるつもりはない。強調したいのは、同時に美術部にも属し、絵も描いていて、そこでも才能を発揮したことである。しかし、両方は無理ということで、俳句に重点を置くようになった。
そうしながら大阪大学の経済学部に入学したのだから、成績優秀だったわけである。
大学に入ると、俳句による表現の限界を感じて、小説を書きはじめた。芥川とか宮沢賢治のたぐいが好きだったという。その一方、柔道部に在籍し、なんと三段を取ったのだ。ただの文学青年とはちがうのだ。
卒業後、耐火レンガの会社に入社。上場会社であり、大企業のエリート社員となったわけである。そして、そのころSFの魅力にとりつかれた。発刊されたばかりの「SFマガジン」に投稿し、当時の編集長の福島正実さんにみとめられ、さまざまなアドバイスを受けた。やがて「SFマガジン」のコンテストに佳作入選。
午前の一時、調子がいいと三時ごろまで執筆し、翌日は会社でのつとめをはたす。まさに超人的としか、いいようがない。
やがて、最初のが出版される。ペンネームと本名が知られ、会社か執筆かのどちらかを選ばなければならない立場になり、退社。しかし、生活の基盤の必要を感じ、広告代理店の嘱託となる。生産会社と広告会社、この内容のちがう企業で働いたことが、いい体験となったらしい。そして、原稿の注文がふえるにつれ、作家専業となる。
一時期、ラジオのディスク・ジョッキーとしても活躍したことがあったが、いまはゲストとして時おり出演するだけだという。
四柱推命《しちゆうすいめい》という占いによると、二つのことを並行させてやらねばならぬ運勢というのがあるらしい。それに相当するだろうか。西洋の占星術によると、眉村さんは天秤座《てんびんざ》である。
眉村さんはこのように、何回も人生の選択の経験をへてきている。天秤にかけるというとあまりいい語感でないが、こと将来にかかわる問題である。そのたびに、深く悩んだことはたしかだろう。自己の適性の確認と、バランス感覚による決断といってもいい。それによって、作家としての眉村さんが存在するに至ったのだ。
たぶん、眉村さんは運命論者ではないだろう。判断力と意志とによって、SF界に入ってきた。実力派である。
余談になるが、そこへゆくと、私は逆である。のほほんと育ち、父の死後、山のような借金の会社の整理でうんざりし、そのあと、これからどうしたものか見当もつかなかった。その時、たまたま作品がみとめられ、これ以外にすることはないと夢中になっているうちに、作家になってしまった。ほかの人生など、想像もできない。だから私は、どちらかというと運命論者なのである。
眉村さんの最初の本は『燃える傾斜』で、昭和三十八年に出版された。現代の日本SF界の最初の長編である。短いものしか書いていなかった私は、ただただ感嘆するばかりだった。私は日本SFの草分けのように言われているが、それは短編に関してであって、長編についてなら眉村さんである。小松さんより早いのだ。
そんなことから、眉村さんは長編型の作家かと思ったこともあったが、短編も中編もいいものを書いている。とくに最近の雑誌における活躍はめざましい。この調子だと、作品数において、やがて私は追い抜かれてしまうかもしれない。
なぜ、そう書けるのか。それは眉村さんがストーリー展開において、なみなみならぬ技巧の持ち主だからである。どうして、この点を指摘する人が少ないのだろう。私が自分の体験から言うのだが、アイデアだけではどうしようもないのだ。ストーリーに展開してこそ作品なのだ。当り前のことだが、意外と気づかれていないことのようだ。
本書に収録してある作品群を例にとっても、そのバラエティに驚かされる。発想もテーマも多彩である。そして、物語がみなみごとにまとまっている。技巧を持たなかったら、できないことだ。
そこで眉村さんの作品群について論じなければならないのだが、ここまで書いてきて、そのむずかしさがわかってきた。私との差異を手がかりにすればと思っていたのだが。
さきに書いたように、作家になるまでの経過がちがう。眉村さんのは足が地についており、私のは宙に浮いている。私は時事風俗を書かないことにしているが、それは、その知識があやふやだからである。私の作品には運命論的なのが多いが……。
それぐらいしか思いつかない。小松さんが好んでとりあげるのは人類、私の場合は奇妙な状況における個人、眉村さんは社会。たしかに、社会という組織体は、眉村さんの作品の大きな主題である。しかし、そう簡単にはきめつけられない。若い人たちに人気のある学園SFはどうなのだとなってしまう。
私の短編は大部分が三人称形式であり、筒井康隆さんや豊田有恒さんはほとんど一人称である。ところで眉村さんはとなると、それを時に応じて自在に書き分けているのである。
SF作家は文体やムードにおいて、それぞれ個性を示している。本来はそこから論じはじめ、眉村さんの豊富な人生体験、しんの強い人生観、それらと作品とのつながりをさぐるべきなのだが、これは大変な仕事である。別の機会にしたい。
本書のなかの「美しい手」は最も短いが、私の好みからいえば最高である。まさに「やられた」だ。だれだ、眉村さんに社会派SFというレッテルをはったのは。一筋縄《ひとすじなわ》でとらえられないという点では、眉村さんはSF作家のなかできわだっているといえそうである。
といって、当人がくせ者的な性格というわけではない。眉村さんへの悪評というものは聞いたことがない。礼儀正しく、酒を飲んでも乱れず、せわ好きで、その人柄はだれからも好かれている。
[#地付き](『変な男』解説 角川文庫 昭和53年5月)
正確には『燃える傾斜』の前に、今日泊さんの『光の塔』が長編SFとして存在している。しかし、東都書房がSF部門を独立させての第一番がこれである。
当時、スペース・オペラはまったく紹介されていなかった。よくこれだけのものが書けたと思う。わが国、はつの宇宙SFというべきか。
だれかが、題名がなにを象徴しているのか気になり、聞き出し、私に教えてくれた。銀河系のことなのだそうだ。そういえば、アンドロメダ星系の天体写真は、そう見えなくもない。俳句の感覚なのだろうか。
[#改ページ]
今江祥智
――京都での今江さん――
十一月八日。京都から帰ったばかり。いい旅だった。暑からず、寒からず。天気はよく、紅葉もはじまりかけていたし……。
もっとも、見物はあまりしなかった。今江さん主催の会で講演をしてきたのである。それにしても、ことしの京都の暑さといったらなかった。用事があって京都、大阪へ行ってきたら、それだけでぐったり。もう来るものかと思ったりした。
やはり春か秋に限る。今江さんがずっと前からホテルを予約してくれていたので、その点はなんとかなったのである。
私が作家になりたてのころ、今江さんは「ディズニーの国」という雑誌の編集をやっていて、原稿を書かせてもらった。かなり古いつきあいだ。それによって、和田誠さんとも知り合いになれた。
水を飲む時、井戸を掘った人のことを思い出さなくてはいけない。昨今はやりの言葉である。私もその主義で、ことし、義理のある人のたのみで、苦手とする講演をやりに、二回も東北へ出かけている。というと立派みたいだが、あるいは私の老化現象のあらわれかもしれない。先週だれと会ったかなど、すっかり忘れている。
今江さんは京都で、児童文学講座というものを開催、ちょうど十年目で、ひと区切りにするのだとのこと。これに関してはほかの人が書かれるのだろうが、十年もつづけるというのは、なんでも大変なことなのだ。
会うと昔の話になる。
「そういえば『きまぐれロボット』も今江さんのおかげで、本になったのでしたね」
しだいに思い出してくる。朝日新聞に「新しい童話」というタイトルで連載したショートショート、三十一編。今江さんの紹介で、理論社から出版された。和田誠さんが色彩ゆたかな絵に書きあらためて、各ページを飾った。大判でケース入りの、豪華な本になった。私にとって、はじめてのことだった。いま見なおすと、定価七百円。インフレも進んだなあ。
この『きまぐれロボット』はのちに角川文庫に入り、いままで自分でも驚くほど売れたが、それも、かつて豪華本だった過去を持つおかげかもしれないと思ったりする。
今回の講師は、私のほかにシナリオ・ライターの倉本聰さん。前代未聞の奇妙なムードのテレビ番組「浮浪雲《はぐれぐも》」の台本を書いたかた。お会いでき、なかなか魅力的な人で、ひそかな収穫だった。
ふしぎな組合わせ。そこが、今江さんの敬服すべき点なのだ。児童文学のため、全力投球をつづけてきたことは、だれでも知っている。彼以上にやってきた人は、ほかにいないのではなかろうか。
その童話の世界にとって、SFもテレビも、手ごわいライバルである。なのに、その関係者を連れてきて、好きなことをしゃべれである。こっちが恐縮してしまう。
ティーンエイジャーのおかれている環境というものを、あらためて考えさせられた。もっと手ごわいのは、劇画かもしれない。そのほか、音楽、スポーツ、各種の商品。そして、最もどえらい問題は、受験である。くりかえし論じられるべきなのだろう。
講演の前夜と、終ったあとと、今江さんに京の味をたんのうさせていただいた。帰りついて、この原稿である。忘れていたわけではない。締切りのことは知っていたし、エッセイでいいのだとばかり思っていた。あらためて依頼状を見なおすと、作品論をとあった。
かつてサンリオ・ギフト文庫で解説を書いたことを思い出し、たしかめようと書庫に入った。うちのは雑然としていて、なかなかみつからない。今江さんの家の、整然とした書棚とくらべ、大いに反省する。いまさら反省したって、手おくれだが。
今江|祥智《よしとも》作・杉浦範茂絵の『そこがちょっとちがうんだ』という絵本が出てきた。ページをめくり、しきりに感心する。おおらかさとデリカシーがそこにある。
こういうのは、私に書けない。自分が活字人間であることを、あらためて知る。もはや、あらためようもないわけだが。
なんだかんだで、やっと、めざす文庫、今江さんの『朝日のようにさわやかに』がみつかった。私の解説がついている。短いものだが、今江さんの短編についての、私なりの賛辞である。お気がむいたら、そちらをお読み下さい。
[#地付き](「月刊絵本」 昭和54年1月号)
――ノスタルジアの作家――
お読みになっておわかりのようにこの本には、すばらしい作品が十編おさめられている。
私の場合、どこに感心したかというと、とても短くまとめていながら、どれも短さを感じさせない点だ。短い小説となるとストーリーだけになりがちなのに、今江さんの作品ではそのほかに、あざやかな風景があり、人物がいきいきとし、季節感までちゃんと伝わってくる。小説というより芸術品というべきだろう。
また、どの作品も幼年期、少年期へのノスタルジアをあつかっている。そして、これは本来、ちょっと考えると簡単そうだが、いざ書こうとすると非常にむずかしいテーマなのだ。どうやら最も書きにくいしろものらしいというのが、作家としての実感である。
書こうとすると、長くなってしまう。長くなると、テーマがぼやけてしまう。印象に残る作品となると、レイ・ブラッドベリのいくつかが頭に浮かぶ程度。それを今江さんは、さらに短い枚数で、さりげなく、みごとに描き上げている。
ああ、こういう書き方もあるのだなあと思い知らされる。そして、よし、その手法でやってみるかという気になっても、だれにもまねができない。まさに今江さん独自のユニークな世界なのだ。
しかし、わが国では現在のところ、こういう分野は残念ながら、まだ正当な評価を受けているとはいいがたい。その原因は、童話あつかいをしてしまう人が多い点にあるようだ。そもそも、ノスタルジアとは、ある年齢にならないと持てない感情。例をあげれば名作『星の王子さま』で、その底を流れるノスタルジアを感じ取れるのは、子供ではなく、おとななのだ。
今江さんを『星の王子さま』の作者と並べては彼も照れてしまうでしょうが、同じ分野に属することはたしかなのだ。この文庫に収録されたのを機会に、読者層のはばが広まり、今江さんの作品をみとめる人がふえれば、この分野に意欲をもやす作家もふえ、わが国の文学も、もっと多彩なものとなると思う。
[#地付き](『朝日のようにさわやかに』解説 サンリオ・ギフト文庫 昭和51年11月)
今江さんからは超大作を何冊かいただいており、読まなくてはと思いつつ、まだそのままになっている。つい短編のほうを読んでしまう。そのうち時間を作って読み、あらためて論じたい。
今江さんは多才な人であり、努力家であり、さまざまな形で児童物と取り組んでいる。それにひきかえ、私の場合、子供とは自分の子以外に知らない。のんきなものである。
[#改ページ]
豊田有恒
――洗練さが加わった秀才作家――
どういうわけか、このところ、おれはいやに忙しいんだ。月に百枚以上は書かない方針なのだが、ちょっと気をゆるめたため、原稿を引き受けすぎてしまったのである。また、作家仲間の会合が二つもつづいた。だから、手帳の締切りのリストを見るのが、こわいくらいだ。こんなことは考えたくないのだが、才能がおとろえてきたのかもしれない。
無理はやめ、少し仕事をセーブしたほうがいい。命あってのものだねだ。そう思っているところへ、角川文庫から、
「豊田有恒の短編集の解説を書いてくれ」
とゲラがとどいた。えらいことだが、仕方ない。作家は出版社に弱いのである。角川文庫は、おれの本も売ってくれている。やらざるをえない。なさけないことだ。
しかし、読みはじめると、おれは面白さに引きこまれた。何回もふき出したし、腹の皮がふるえるぐらい笑わされた。おれもはしくれではあるが、プロの作家だ。少しぐらいの変った手法に出あっても「ふん」と口にする程度。かなり、すれているのである。それが大笑いさせられたのだから、これはなかなかの作品集である。
と、まあ、変な調子で書きはじめてしまった。この本の文体に伝染したのだ。これまでにも多くの本の解説を読んだが、私の記憶している限りでは「おれ」という一人称で書かれたのには、まだお目にかかったことがない。もしかしたら、これは日本最初の試みかもしれない。あるいは、世界ではじめてかもしれない。外国語には「おれ」なんて言葉はないはずだから。
高級なる文学作品への解説をたのまれた時、まあ私の場合そんなことはあるまいが、それに「おれ」で押し通したやつを書いてみるとするか。担当者は窮地に立つかもしれないが、読者は喜ぶにちがいない。
すなわち、SF作家とは、そんなことをいつも頭のなかで考えているのである。既成の常識をひっくりかえし、これまでになかった世界をそこに展開し、読者に面白がってもらおうと心を砕いている。
本書の作品をお読みになったかたは、SF的思考のなんたるかを、おわかりいただけたことと思う。SFとは、ふしぎな世界である。具体的な例をあげることなしに、SFをいかに長く論じても、相手にはなにひとつ伝えることができない。作品そのものが、SFの解説なのである。だから、SFの解説をたのまれて困った人が、世の中には案外いるのではなかろうかと、私は想像している。
本書のなかの作品の大部分は、擬似イベント物であり、エクストラポレーションである。それはなんのことかと聞かれるにちがいない。答。つまり、これらの作品のようなものを称するのである。SFの解説は、かくのごとくむずかしい。
SFとは常識への挑戦である。しかし、これぐらい「言うは易《やす》く行うは難《かた》し」のしろものもない。戦うからには、まずその正体を知らねばならない。普通の小説なら、常識とはなんであろうかなど考えなくても書けるだろうが、SFとなると、そうはいかない。
「SF作家は、のんきでいい。とんでもない思いつきを、書き並べていればいいのだから」と思っている非常識な人が、世にはまだ多いのではなかろうか。しかし、実際は逆である。とんでもない話|ばかり《ヽヽヽ》を書けるということは、常識なるものをよく認識し、それをふまえた上でなくてはできないことなのだ。
たとえば、この豊田有恒。昭和十三年(一九三八)に前橋市に生まれ、群馬大学付属の小、中学校を出た。その地方がよく作品の題材になるのは、そのためである。それから、武蔵高校。慶応大学の医学部で三年間学ぶ。あらためて武蔵大学の経済学部に入学。卒論はECに関するものであった。
彼は秀才である上に、学問好きである。SF作家のなかで、小松左京に匹敵する勉強家。私なら適当にごまかして仕上げてしまうところを、小松、豊田の二人は、納得するまで調べた上で書く。本書のなかでそのあらわれを指摘してもいいのだが、それをやっては解説の行きすぎであろう。
また、豊田有恒は社会風俗への関心もとくに深い。私がその方面をあまり扱わないせいか、興味ぶかく読まされてしまった。いきいきと描かれている。それに、現実への観察も鋭い。「野蛮国」のなかの、日本には世界の情報が集中して入ってくるが、日本に関する情報はほとんど外国に伝わっていないという点など、言われてみて、なるほどである。その裏付けがあるので、この作品が成功作となっているのだ。
SF作家のつらいところは、それらの裏方の苦労を、そのまま、なまで作品に出せないところにある。あくまで、とんでもないお話に仕上げなければならないからだ。といって、同情は不要である。苦心をなまのままで出すのは、やぼというものだ。かいた汗のにおいを消し去り、スマートに完成させることに、SF作家の満足感があるのである。
本書に収録されている作品を読むと、豊田有恒はこのところ一段と洗練味を加えたという印象を受ける。「選挙エクスパート」の幕切れなど、みごとである。長く泥くさく書かれた、ある種の社会派推理小説への皮肉めいたものが、ここにひらめいている。
本書によってはじめて豊田有恒という作家に接した読者は、発想の才にめぐまれ、社会風刺の感覚のゆたかな、ストーリーテラーと思われたにちがいない。
しかし、彼の本質は、それだけではないのである。長編においても、その並々ならぬ手腕が発揮されている。『モンゴルの残光』などは、雄大なスケールを感じさせる巨編である。また『倭王《わおう》の末裔《まつえい》』は、古代日本を舞台にした、独自の調査と史観の上に描かれた歴史ロマンで、現在、その続編を執筆中である。完結したら、膨大なものになるにちがいない。
彼についての個人的なことにもっとふれたいが、それはまた機会もあるだろうし、ほかの人が書くかもしれない。自動車にくわしく、運転のベテランで、礼儀正しく、小さな折鶴を器用に作り、麻雀《マージヤン》がうまく、ピアノをひき……。
こうなってくると、人間像がかえってぼやけることになりかねない。SFの解説となると、かくもやっかいなのである。結局は作品ということになる。読者はこの本によって、新鮮な面白さを味わい、満足なさったことと思う。それでいいのである。
[#地付き](『長髪賊の乱』解説 角川文庫 昭和49年6月)
――古代史への関心の成果――
豊田さんは若いころから、マヤ、アステカ、インカなどの中南米の古代文明への関心を抱いていた。それらへ一種の神秘的な魅力を感じる人は多いが、そこを舞台にしたSFを書こうとした人はいなかった。
本書『パチャカマに落ちる陽《ひ》』は、その成果の作品群である。ほろびゆくひとつの文明に対する同情の心がこもっている。それとともに、第三者としての冷静な観察の視点も失っていない。この二つは作家、とくにSF作家には必要な条件なのである。それとともに、ストーリーの展開の巧みさも充分に発揮されている。
本書は豊田さんの初期の作品になるわけだが、いま読みかえしてみても少しも風化していないことに感心させられた。いまだに新鮮なのである。そして、そのごの作風の芽というべきものが含まれている。大きな歳月の流れ、異った文明の接触。そういうテーマへ目標をさだめることになるのだ。
これを書くのには、かなりの資料を調べなければならなかったはずだ。さぞ大変だったろうと思う。なにしろ勉強家なのだ。もはや、ここを舞台にしたSFは、だれも敬遠するのではなかろうか。さらにすぐれた作品は、他の者には書けない。
なお本書は、タイムトラベル物という面からも見ることができる。このたぐいはパラドックスの処理がやっかいで、私など苦手としているのだが、その点において破綻《はたん》を見せていない。タイムマシンというしろものは、時間を勝手に動きまわればいいのだと思っている人が多いかもしれないが、現実にはこれほど制約の多い分野は少ないのだ。ロボット三原則のほうが、はるかに扱いやすい。
その条件をふまえ、ミステリーの手法も駆使し、エンターテインメントに仕上げている。すごいテクニシャンだなあと、同業の作家として、あらためて腕前を見なおしたしだいだ。
豊田さんは本書のあと、舞台をがらりと変え『モンゴルの残光』という長編を書きあげた。ジンギスカンの意図した体制のつづく悪夢のような社会において、タイムマシンによって過去にさかのぼり、それを変更しようとする主人公の活躍する壮大な物語である。彼の作品のなかで、ひとつの頂点を示すものといっていい。
それによって、アニメ関係、翻訳といった方面の仕事をやめ、作家一本で進む決意をかためたようである。また、SF界に豊田有恒ありと知られるようになった。独自の世界がここに築かれたのである。
そして、昭和四十六年には『倭王の末裔・小説=騎馬民族征服説』を完成する。その本のオビには、こうある。
「朝鮮半島に斯盧《しろ》・伯斉の国が興った二世紀の末、対馬《つしま》海峡を渡って筑紫《つくし》に上陸した騎馬の一族があった。卑弥呼《ひみこ》・神功《じんぐう》皇后・応神天皇とつづく古代の英雄群像=倭王の末裔たちの謎にみちた生涯を描き日本誕生に光をあてた雄大なロマン」
これには私の推薦文も印刷されている。
「読みはじめると、たちまちスケールの雄大な世界に引きずりこまれ、新しい驚きとロマンとに酔わされてしまうのである。しかも、資料と論理による裏付けがゆきとどいているので、リアルな迫力にあふれた、ドラマとなっている。SFの本質的な長所をそのまま保持しながら、著者の意欲がSFの枠を破った形で、みごとに結晶した作品といえる」
そういう作品なのだ。モンゴルのつぎは、古代の日本。こういったテーマとなると、他の作家ではとてもこなしきれない。
ずっと以前、私は古代中国の仙術に興味を持ったことがあり、左慈《さじ》という仙人の存在を知っていた。その名が作品中に登場したので、そこまで調べた上でとりかかったのかと、びっくりさせられた。膨大な資料をふまえた上で書かれたものなのだ。私のような戦前に歴史教育を受けた者にとっては、はなはだしくショッキングな結論も盛り込まれている。
さらに豊田さんは、東アジアの古代文化を考える会にも参加してしまう。邪馬台国《やまたいこく》とか古代の日本とかに興味を持つ人は多い。それに関連した地方を歩きまわる人も少なくない。しかし、豊田さんは韓国語を学び、現地に取材に出かけるのである。発想が普通の人と根本的にちがうし、そこまで徹底しているのである。
たしかに努力を惜しまない人である。しかし、こういうことをやってのけ、完全に自分のものに消化し、作品にするのだから、やはり頭のできがちがうのだろう。
こう書いてくると、読者は豊田さんを、調べ魔がとりえといった印象を受けるかもしれない。いや、もうそんな人はいないだろう。なにしろ、その一方でたくさんの短編を書き、毎月の雑誌の目次をにぎわしているのだ。SF界の売れっ子である。
それらの多くは、現代社会への風刺をテーマとした軽妙なもので、ユーモアにみちている。それらのファンの人も多いだろう。
軽妙というと安っぽい語感があるが、なにしろ彼の頭のなかには、比較文明論に関する大きな蓄積がある。だから、単なるユーモアでなく社会批判となっていて、量産にもたえられるのである。
いまや絶好調にある。そして、さらに新しい分野に挑戦するであろうし、読者もそれに期待していいと思う。
豊田さんとは、個人的なつきあいも長い。正月にはうちへやってきて麻雀をやるのが恒例となっており、折にふれて電話で「やりませんか」とさそってくれる。
田中光二も加えて、東南アジアの五カ国をいっしょに旅行したこともある。好奇心がおうせいで、小まめに見物してまわるし、その上、ホテルで小説の原稿を書いて日本に送る。そのエネルギッシュなのには圧倒させられた。
討論しなければならない時には、彼が英語でしゃべってくれるので、会話が苦手の私は大助かりだった。シンガポールでドイツ人の一団といっしょになった時も、近よっていってなにか話しかけていた。医学部にいただけあって、ドイツ語もわかるのである。万能選手なのだ。
帰ってきてもまもなく、豊田さんは「こんどはインドネシア語をおぼえます」と言い出した。これから、しばしば訪れるつもりらしい。「日本には、アメリカに関する情報を紹介する人はたくさんいます。しかし、一億五千万人いるインドネシア語圏についてとなると、どれぐらいいるでしょう」
言われてみると、まさにそうなのだ、彼の作家としての基盤の強さは、こういうところにある。インドネシア語をやることが、SFを書くのに直接なにかの役に立つとは、だれも考えないし、それが常識だろう。しかし、それによって異った生活習慣、宗教観などを知れば、これまでだれも手をつけなかった新発見がなされ、ユニークな作品がうまれてくるのだ。
急がばまわれ。ことわざは知っても、現実にそれを実行に移すのは容易でない。こういう作家がいる限り、SFも一時的な流行現象に終らないですむのである。貴重な人材というしかないのだ。
[#地付き](『パチャカマに落ちる陽』解説 集英社文庫 昭和53年2月)
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都筑道夫
――幅の広いショートショート作家――
そもそも私は、うまくできた短い物語が好きだった。子供のころ、佐藤春夫訳の中国の古い怪奇小説などを読みふけった。昭和二十年代、そういう作家は、日本では城昌幸さんぐらいしかいなかった。そんなわけで、昭和三十二年に同人誌から商業誌へと進出できた時も、城さんの影響のある作品によってであった。
都筑さんはそのころ「ミステリ・マガジン」の編集長をしていて、フレドリック・ブラウンの作品を翻訳し、ショートショートという名称を世に紹介した。「週刊朝日」の編集長だった扇谷正造さんも、コラムでしばしば取り上げて下さった。
これは私にとって、なによりのはげましとなった。そのころのわが国の一般的傾向として、外国がらみの裏書きがあると、存在がみとめられたのだ。このことがなかったら、なおしばらく、軽い扱いを受けつづけていただろう。あらためて、お礼を申しあげる。
かくして、一種の流行といえるほどになった。加藤芳郎さんが、さっそく漫画にとりあげたほどである。そして「ショートショートを書いて下さい」という注文がなされるようになった。
前述のように、私は自分の好きなように書いていればよかったわけだが、そうでない人は、かなりとまどったのではなかろうか。文の終りに(つづく)とくっついた作品まであらわれた。
中原弓彦さんが「ヒッチコック・マガジン」の編集をしていて、ショートショートの特集を何回かやった。しかし、外国物はミステリーがほとんどで、SFやファンタジーのはあまりなかった。
都筑さんがショートショートをはじめて書いたのは「洋酒天国」で、昭和三十四年の秋のことだそうである。それ以来、ずっと書いているというわけだ。
彼は昭和三十六年の一月に『やぶにらみの時計』を発表し、編集の仕事をやめ、作家ひとすじの生活となる。この長編本格推理の凝りようには、読んでびっくりさせられた。
なにしろ、都筑さんぐらい内外の小説にくわしい人は、あまりいない。いつだったか、こんなことを言った。
「作者の描写の文章が、一段とうまく、ていねいになる個所がある。そこが伏線の部分なんですよ」
よほど読みこんだ人でないと、そういうことまで気がつかない。指摘されれば、なるほどなのだが。
小説に関してのみならず、都筑さんみたいな物知りは珍しい。現在、ある雑誌で連載エッセイをやっているが、なにもかも私がはじめて知ることばかりである。世に雑学の大家というのはいるが、そういう人はどこか百科事典的である。しかし、都筑さんの場合は、知識どうしがからみあっていて、これも特異なタイプといえそうである。
推理・時代物・連作・怪談・スパイ物・SFと、都筑さんの手がける分野はさまざまである。どれも、ひとくふうもふたくふうもあり、凝り性という印象を抱いていたが、いつのまにか量産をこなす人に変身してしまった。なにげなく雑誌をひらいて、ここでも連載をやっているのかと、目をみはってしまう。もともと、それだけの実力のある人なのだ。
ある雑誌で一年半ほど前に対談をやり、都筑さんのショートショートが四百編を越えていることを知り、この時もびっくりさせられた。私は八百編ほど書いているが、長編といえるものは二編しかない。短いもの専業なのだ。そこへゆくと、都筑さんはあれこれやりながらの四百である。
専業なるがゆえに、私はそれを書くのがいかに大変かを知っている。いまだに難行苦行である。いくらかのこつは身につけたとはいえ、一編を書き上げるのに、かなりのエネルギーを費す。
対談の時に「レベル」の問題がとりあげられた。水準が重要なのである。程度を落せば、いくらでも作れる。それをやり、消えていった作家もあったようだ。また、作家のなかには、ショートショートとなると手を抜く人がある。
都筑さんの偉大さは、そこにあるのだ。彼は推理小説作法に関連し、自作の怪談「風見鶏《かざみどり》」の成立事情を書いている。最初は七枚半で某新聞の日曜版に書いたもの。福島正実編のアンソロジーに入れる時、三十枚の短編に書きなおし「電話のなかの宇宙人」と改題した。さらに新編の短編集にまとめる時、二十七枚に書きなおし、やっと満足したとある。
「電話の……」と読みくらべると、たしかにぐっとよくなっている。ここまで作品を大事にする人は、めったにいない。私も文庫に入れる時、読みなおしと手入れをやるが、そうまではやらない。いつだったか都筑さんに電話した時「ゲラの手入れをしているが、一日に五ページしか進まない」と言われ、耳を疑ったことがある。
都筑さんの短編は大部分が本にまとめられ、このように文庫にも入る。それが当然とおわかりいただけると思う。量産が可能なのも、これだけの修行があってこそである。
自伝的な作品も、ある雑誌に連載中である。本にまとまれば、過去の人生を知ることができる。ここで略歴を紹介することもあるまい。
都筑さんとは、パーティの時のほか、いっしょに飲むことは、あまりない。彼は新宿で、私は銀座。住居の所在と交通機関のつごうでそうなっているだけである。
さて、そろそろ、この本の解説に入らなければならない。感想なら簡単なのだが、作品を論じるのは容易でない。なんでこんなのを書いたのか、本人にもわからないことが多い。まして、第三者にはだ。
しかし、おたがい、ショートショートをかず多く書いているので、その差異の指摘となると、できそうである。二人とも自己の方針によって書いているわけで、差異があって当然で、もちろん優劣といったものではない。
「星さんのは読みやすすぎる」
と、いつだったか都筑さんが書いていた。私は読みやすさを執筆方針のひとつにしているので、そう言われると、やっぱりといい気分である。しかし、いつだったか平井和正に「読みやすい」と言ったら、少し気を悪くしたみたいで、申しわけないことをした。私は賛辞のつもりで言ったのだが。
私は他人の短編を読む時は、じっくりと熟読する。手法を見抜いてやるぞという心がまえなのだ。一方、作者にとって自分の作品が読みやすいのは当り前で、どうなのかなと思っていた。しかし、都筑さんにそう思われているとなると、事実そうなのだろう。
しからば、都筑さんのは読みにくいか。そんなことはない。とくにむずかしい文章を使っているわけでもない。しかし、一般の読者にとって、ページをめくるのに、私よりはいくらか多くの時間を要していそうである。
そのちがいは、どこにあるのか。あれこれ考え、やがて判明した。これも執筆方針のひとつなのだが、私の場合、どういう状況なのかできるだけ早く読者にわからせるようにしている。さあ、こういう事態ですと。
そこへゆくと、都筑さんの作品の多くは、なにがはじまるのか、しばらく待たされる。注意して読まなければならないことになる。
たとえば、本書のなかの「菊」だが、主人公が目をさますと、そばで男が妙なことをしている。やがて会話がつづいて、男は鍵《かぎ》をかけておいたはずのドアから入ってきた相手で、この場所は主人公の部屋と判明するのは、かなり読んでからである。
なんの用件でとわかるのは、それからさらに先である。そして、ミステリアスな盛り上りとなり、たちまち巧妙きわまる結末。いい作品だ。
かりに私がこのような物語を思いついたとしたら、ミステリアスな部分をできるだけ最初のほうに移し、そのあと作者として二、三の展開をこころみ、結末はもっとあっさりした形にするだろう。
作風の差である。都筑さんは序盤で楽しみ、私は中盤で楽しむ。楽しむというと誤解をまねくかもしれないが、特色の示しどころである。
終盤の部分は、比較のしようがない。ただ「紫陽花《あじさい》」や「死んで花実が……」のような終らせ方には、頭を下げるのみである。
いずれどこかの文庫に収録されるだろうが、都筑さんのショートショートに「参考人供述書」というのがある。思わず引き込まれるといった奇抜な状況でもなく、とくに変ったストーリーの展開もなく、あっという結末でもない。こんな紹介だと、どこが面白いのかとなってしまう。
しかし、形容しがたい異様な気分があとに残り、彼の作品のベスト・ファイブに入るものではないかと思う。こういうのは、私には書けない。そのうち、挑戦してみるか。
今回、この文庫に収録されるぶんを再読して気づいた点は、都筑さんの心情のやさしさである。時代が変っても、多くの人に読みつづけられる作品の本質は、昔から変っていないらしい。
[#地付き](『あなたも人が殺せる』解説 角川文庫 昭和54年3月)
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稲垣足穂
――好きな詩――
詩を書くことは、ひとつの宇宙を作ることだろうと思う。稲垣足穂氏はだれも知らぬ場所に、小さな都会を作りあげた。
そこでは無限の時間、静かな月光のシャワーが降りそそいでいる。その都会にはガス灯がともり、遠くをゼンマイじかけの木馬がたくさん走ってゆく。人びとはビンに星をつめ、月の光を集めて宝石を作り、石をぶっつけて星を砕きパンを作る。石だたみの上をそっと歩み寄ってくる黒猫は、ホーキ星が化けているのかもしれない。
『一千一秒物語』はこのような短い散文詩を集めたものだが、モダンさと幻想が錯綜《さくそう》したこのメルヘンの世界は、日本では珍しい感覚だと思う。
[#地付き](「マドモアゼル」 昭和36年12月号)
稲垣足穂という作家は、草下英明さんから教えられた。「宇宙塵」の初期のころである。貸してもらって読み、いいなと思った。そのうち小さな出版社の出した本を買い、何回も読んだ。
聞くところによると、三島由紀夫氏が死ぬ前に、ある文学賞の委員として強硬に主張し、稲垣足穂の本に賞を与えたとのこと。それによって、ひろく再評価がなされ、いま『一千一秒物語』は新潮文庫で容易に読める。
これは、そのはるか以前に書いたもの。
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生島治郎
――冒険小説の最高傑作――
この作品が発表されたのは、昭和四十年の秋であった。それを読み終った時の印象は、昨日のことのように思い出せる。読み終えたものの、本を手からはなすことができず、かなりの時間いじりまわし、その余韻を味わいつづけたものである。
生島治郎はその前年『傷痕の街』によって、長編第一作を世に問い、作家としてのスタートを切っていた。推理小説である。その作品にも私は感心していた。もっとも、私は長編を苦手とする作家なので、そのせいも多分にあったかもしれない。また、推理小説についてはSFほど精通していないので、どの程度の評価をしていいのか、わからないもどかしさもあった。
彼の長編第三作が、この『黄土の奔流』である。ここに至って、私はすっかり感嘆させられた。驚かされたというべきだろう。
「こんなどえらい作品が、ついに日本にも出現したのか」
とつぶやきもした。だれかれかまわず、会う人ごとに『黄土の奔流』はすごいぞと、話してまわったものだ。そういう癖が私にはあるのである。しかし、本人に話したかどうかは、おぼえていない。どうやら「受け取りようによっては、きたならしい印象を与えかねない題名だぜ」と私がからかったらしい。たぶん、そんなこともあったろう。
名作だ名作だとさわぐのが癖といっても、そうそうやるわけではない。これまで十五冊ぐらいであろうか。そのなかには翻訳もノンフィクションも含まれているから、日本人の作品となると、まさに数えるほどなのだ。
そんなふうに私のほめる条件の第一は、ユニークであること、第二はだれが読んでも面白いという点である。単純なことだが、すぐれた作品とは、それにつきるはずだ。いくら文芸評論家がしたり顔でほめても、つまらないものはつまらなく、作品は後世に残らない。
これはロマンにみちた雄大な冒険小説である。このたぐいの物語は、戦前にもないことはなかった。ただし、少年むけで、ストーリーもちゃちなものだった。おとなの鑑賞にたえうるものは、それまで私の知る限りではなかった。そこへもってきて、この『黄土の奔流』を読まされたのである。まさに盲点を突かれた思い。あ、こんなジャンルがあったのだな、である。
お読みになればおわかりのように、歯ブラシ用の豚毛を求めてという設定がいい。これがリアリティを作り上げている。少年期を上海《シヤンハイ》ですごした著者の、中国大陸へのノスタルジアも秘められている。
登場人物、物語の構成にくふうがこらされていて、つぎのページをめくるのが楽しい。いやらしいところがなく、読んだあとにすがすがしいものが残る。まだまだほめてもいいのだが、そうなると感想文となり、解説でなくなってしまう。
推理小説作家として出発しての第三作。当然ここではその延長上のものを書くべきところだが、意表をついて推理小説の枠を取っ払い、冒険小説をこころみ、しかも多くの人をうならせるものを書いた。
生島治郎はやがて直木賞を受賞するが、なぜ、この『黄土の奔流』で受賞しなかったのかと、いまだに残念でならない。そうなっていたら、日本の小説界の流れも大きく変っていたはずである。いうまでもなく、よりよい方向に。
文庫ブームの時代となった時、私は講談社の人に「あの『黄土の奔流』を早く文庫に入れろ。そして、解説を書かせろ」と言ったものである。いろいろと事情があってのことだろうが、さきに他社の文庫におさめられ、しかもSF界の親友、小松左京に解説を書かれたのだから、あの時はがっかりした。
本稿を書く前日、佐野洋と会ったので言った。
「生島治郎の『黄土の奔流』の解説を書くことになったよ」
「あれは彼の最高傑作だ」
推理小説を論じさせたら実作者として第一人者の佐野洋にもそう言わせる作品なのである。そのほか、多くの人が高く評価している。戦後に書かれたエンターテインメントのベスト・テンを選ぶことがなされたら、まちがいなくそのなかに入ると思う。
昭和五十一年に伴野朗が『五十万年の死角』で、江戸川乱歩賞を受賞した。これも私の好きな作品だが、もし『黄土の奔流』がそれ以前に存在していなかったら、はたして書かれたか、受賞したかと、考えさせられた。
現在SF界でも、田中光二や山田正紀が冒険アクション小説をさかんに書いている。いずれも独特の個性を発揮しているが、そういったものの受け入れられる素地は、はるか前に生島治郎によって作られたと言うべきだろう。
今後、この分野はさらに隆盛になると思われる。執筆当時、生島治郎にはそんな先駆者意識があったかどうか。書きたいことを自由に書いたわけだろうが、時代がたてばたつほど、この作品の意味が重視されてくるはずである。
生島治郎とのつきあいは、彼が作家になる以前、つまり「ミステリ・マガジン」の編集長だったころからである。スタイルのいい、なかなかの好青年だった。うちへやってきて、なにか書けと言う。そのしゃべり方はまったく独特で、割《わ》り箸《ばし》の先を綿でくるんで、ちょいちょい突っつかれるような気分にさせられる口調なのだ。私は言った。
「申しわけないけど、今回はかんべんしてくれ。なにしろ、来週、結婚するんだ」
そのころは私もまだかけ出しの時期で、原稿を断った珍しい例外である。もしあの時に引き受けていたら、私は新婚旅行中、銭形平次のパロディのストーリーを、あれこれ考えつづけなければならなかったはずである。くだらぬことを思い出した。
話はさらにさかのぼるが、彼と知りあったのは、同じ社で出している「SFマガジン」編集長の福島正実の紹介によってである。すでになくなられたが、福島正実は日本においてSFを採算のとれるものに定着させた功労者。その苦労たるや大変なものだったが、ここでは触れない。そんな時期、生島治郎も外国SFの選定や翻訳について、なにかと相談相手にさせられたらしい。
そのためか、作家になってからの一時期、生島治郎はSFも書いたことがある。つぼを心得たSFの書ける、数すくない推理作家のひとりである。当時、仲間を少しでもふやしたかった私は、提案した。
「生島治郎をSF作家クラブに入れよう」
しかし、福島正実の反対によって、それは実現しなかった。まだ海のものとも山のものともわからぬSF界に引き込むより、当人のめざしているハードボイルドの道を進ませるべきだとの配慮によってであろう。
結果としてはそれでよかったのかもしれないが、もしあの時に強引に加入させていたらなあと、考えることがある。これも、残念でならないことのひとつだ。
何年か前、たぶん「小説新潮」でだったと思うが、生島治郎の短編「エウゲニイ・パラロックスの怪」というのを読んだ時、世にも奇妙なものを書くなと、びっくりさせられた。編集者はわけもわからずのせたのだろうが、いまSF作家が、書きたいと思い、書こうとしてもなかなか書けず、苦しんでいるタイプの作品である。そんなのを、さらっと書いてしまう才能も持っているのである。
彼の短編を雑誌ですべて読んでいるわけではないが、読んで失望させられたという記憶は、考えてみるとないのだ。つまり、それは、アイデア、構成、文章の三つにおいて欠ける点がないからである。言うは易いが、実際にはこれほど容易でないことはない。乱作をしてレベルを落すなと、きびしく自己をいましめているわけだろう。
ハードボイルド作家としての生島治郎はすでにだれかが論じているだろうし、私はその分野の知識不足のため避けるが、ハードボイルドの肩書きによって、彼の持つユーモアの面が見のがされているのではなかろうか。とくに短編において、抑制された形でそれが発揮されている。時には、思いがけなかったようにあらわれ、おや、と感じさせられたこともあった。なにかのきっかけで、将来、まったく新しいユーモア作家に変身しないとも限らない。
なにしろ、多彩なのだ。このあいだ読んだ短編では、人生の悲哀まで、さりげなく書いていた。さまざまな面を持ちながら、器用といった安っぽい印象を与えないのだから、立派である。
上海で生まれ、そこで少年期をすごし、終戦によって日本に帰国。内地で育った者と、さまざまな意識のずれがあったはずである。環境の変化への対応。そのあたりに生島治郎の作品を解く鍵があるのではないかと思うが、私はあいにくと評論家ではない。作家は作品を読んで楽しんでもらえれば、それ以上なにも言うことないじゃないかと、彼も言うだろうし、私もその説の持ち主である。
この『黄土の奔流』を読んで、面白いと感じた。それだけで充分ではないか。小説とは本来、そういうものなのだ。
[#地付き](『黄土の奔流』解説 講談社文庫 昭和52年7月)
――えたいの知れない恐怖感――
これは生島さんの短編集である。そして、みごとな、読みごたえのある短編集である。読者は充分に楽しまれたことと思う。
生島治郎はなみなみならぬ短編の書き手であると、私は昔から主張してきた。その才能はただごとでない。しかし、世の人は多くが彼をハードボイルドの作家と思っている。そういう作品が多いし、本人もなにかというとハードボイルドについて論じたがるのである。また、短編をたくさん書かないせいでもある。それに、最近はだいぶ改まってきたとはいえ、長編すなわち力作としたがる傾向も残っているのだ。
この『あなたに悪夢を』は、昭和五十二年に桃源社より刊行された。雑誌で未読のものも多く、私はすっかり感心した。ある雑誌の読書メモのページで触れたこともある。
その時、特に印象ぶかい作品として「頭のなかの昏《くら》い唄《うた》」と「誰……?」をとりあげた。いま読みかえしても、やはりすごい。彼は存在の不確実さのようなものが好きらしく、現代人の不安もそこにあり、共鳴現象を起させるのだ。いわゆるおどろおどろしい怪談とは別種の、えたいのしれない恐怖感をもたらす。これこそ奇妙な味≠フ短編なのだ。
この名づけ親は江戸川乱歩さんだが、まさにぴったりの呼称である。乱歩さんには感覚的に、ずばり本質を見抜く才能があった。外国にはない形容ではなかろうか。
そもそもは、ジェイコブズの「猿の手」あたりがはじまりで、サキ、ジョン・コリアなど、私は翻訳で読み、うまいなあと舌を巻いたものだ。奇妙な味≠ニいうのも、私はそのころに知った。
それにつづいて、ロアルド・ダール、スタンリイ・エリン、チャールズ・ボーモントなどの作品で驚かされた。そんなふうに読者を喜ばせた雑誌「エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン」の編集長が生島さんだったのだから、こういう分野がうまいのも当然である。彼が藤子不二雄氏のホラー・ファンタジー劇画の解説で、そのころの思い出を書いている。
編集長としての仕事上、海外の短編を大量に読みあさらねばならず、やがて気がつく。本格推理小説を短編で書くのは不可能ではないが、かなりむずかしく、いわゆる奇妙な味≠フものこそふさわしいと知るのである。
おかげで、私たちはそれらの外国作品に接することができた。生島さんの功績だ。藤子氏をはじめ、意外なところに奇妙な味≠フファンがいて、ひと飛躍があったのだなあと思う。日本においてミステリーのはばが広まり、短編がより面白いものとなったのである。
話はそれるが、昭和三十年代はテレビの普及の時代でもあった。番組も最近のように平均化していず、玉と石がまざっていた。そのなかで珠玉の番組が、毎週一回、三十分の「ヒッチコック劇場」だった。奇妙な味の短編をつぎつぎと映像化し、私など楽しむというより、むしろ感嘆に近い思いを抱いた。まったく、アメリカってすごい国だなあとため息をついたものだが、あとで過去の蓄積をヒッチコックが片っぱしから使っていたのだと知った。ヒッチコックは、人がわるい。
そして、そのうち使いはたしてしまった。アメリカで、そういう作品がなくなったというわけではない。月に傑作がいくつもは出なくなっただけなのだ。わりと最近、オーソン・ウェルズやロアルド・ダールが似たような番組を作ったが、そう長つづきはしなかった。
こうなると、奇妙な味への欲求は、日本産でみたす以外にない。考えれば、日本にその伝統がないわけではない。川端康成氏の『掌《てのひら》の小説』という短編集のうち、そのいくつかはさすがノーベル賞作家である。城昌幸さんの短編も、ふしぎなムードである。山田風太郎さんの初期の短編は奇妙な味そのもので、もっと評価されるべきではなかろうか。
というわけで、外国作品が紹介されて、それを受け入れる土壌はすでにあったのである。生島編集長のやったことで後世に語りつがれると思われるひとつは、故|三遊亭圓生《さんゆうていえんしよう》の「百年目」という落語を「ミステリ・マガジン」にのせたことだろう。大胆なことをやったものだ。思考の柔軟さを示している。
そして、わが国でも奇妙な味を手がけ、個性的なものが書かれるようになった。吉行淳之介さんのにはすごいものがあるし、阿刀田高さんの最近の活躍はめざましい。また、私自身も奇妙な味は大好きで、そのたぐいをいくつか書いてきたつもりだが、そのたびにショートショートだ、SFだと区分けされてしまう。レッテルというものは、やっかいなものですねえ、おたがいに。
奇妙な味の説明と変遷とについてここまで書いてきたが、なぜか意をつくせない。本来、そういうものなのだろう。しいて定義をしようとすれば、余韻なのだろうが、これがまたやっかいな言葉なのだ。ほどほどにしておこう。実例で味わう以外にない。
生島さんのこの短編集を読んで、物ほしげなところのないのに気づかれただろうか。人間の低俗な部分に媚《こ》びたところがなく、金のために書き流したといういいかげんさもない。自己の好みのものを作りあげ、それがおのずと読者を楽しませるという、小説本来の姿がここにあるのだ。もっと量産をと言いたいところだが、そういかないところが長所なのかもしれない。なにしろ欲のない性格なのである。
[#地付き](『あなたに悪夢を』解説 講談社文庫 昭和57年1月)
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南條範夫
――極上のタイムスリップ小説――
昭和二十七年ごろのことだった。私はある用事で大阪へ行くため、東海道線に乗った。まだ新幹線はできていない。車内での時間つぶしのため、駅で雑誌を買った。
まず私事を書かせてもらうが、その前後十年間ほど、私はやたらと雑誌を読みあさっていた。ひまさえあれば読んでいた。まさに活字中毒である。テレビ時代、週刊誌時代の以前のことで、娯楽といえば雑誌のほかには映画ぐらいしかなかった。しかし、小説も映画も、あとあとまで強烈な印象を残すものとなると、めったにお目にかかれなかった。
とはいえ、活字中毒である。私はその雑誌を車内で開き「あやつり組由来記」という小説を読みはじめた。たちまち引き込まれ、夢中にさせられ、まさに時のたつのを忘れた。私はつぶやいたものである。
「小説というものを、こんなに面白くしてしまって、いいものだろうか」
その驚きは、いまだにおぼえている。なまじっかなことではなにも感じなくなっている私を、飛びあがる思いにさせてくれた。その誌名も、なんのために大阪に行ったのかも、ぜんぜん思い出せないが。とにかく、新鮮であった。それが南條さんの作品との最初の出会いである。
昭和三十二年、私はさそわれるまま、SF同人誌「宇宙塵」の一員となった。月に一回、同人たちが集まっていたが、その席上、よく南條さんの作品が話題になった。残酷物と呼ばれる一連の作品を発表なさっていた時期である。余談だが、私は「宇宙塵」に書いた作品がみとめられ、その年末に商業誌へ転載され、その道に進むことになった。
その翌年、講談社から新しく発刊になった雑誌で、南條さんの長編「わが恋せし淀君《よどぎみ》」を読んだのである。これも、むやみと面白かった。あれよあれよという感じのうちに読んでしまった。
現代人が過去へさかのぼり、大坂城へ出現する話である。SF的というべきなのだろうが、私たちはそうみとめなかった。みな、SFを純粋な形で、悪くいえばせまい考え方でとらえていたのである。私もまた、これを理屈ぬきで楽しめる作品と、頭のなかで勝手に分類していた。
作家になると、活字中毒がなおってしまうものらしい。執筆の時間が読書の時間を、大はばに奪い取る。それに、どうしてもSF関係の本が優先してしまう。月刊誌の数がふえたこともあり、私は雑誌の小説を精読しなくなった。南條さんの作品も、ほかの作家のかたより優先して読んだが、全作品をというわけではない。
昭和四十六年ごろ、よせばいいのに、私は時代物にも手をひろげた。そして、ある週刊新聞の依頼により「城のなかの人」という秀頼を主人公にしたものを書いた。「わが恋せし淀君」は雑誌で読んだため、単行本を買いそびれていて、その本も入手困難で、参考にできなかった。
そんなこともあり、なんとなく「わが恋せし淀君」が気になりはじめてきた。また、SF界にも多角化現象がおこり、筒井康隆によってドタバタSFという新分野が開拓された。そういえば「わが恋せし淀君」にも、その芽のようなものがあったようだ。
読みかえしたくてならなくなったが、あいにくと依然として入手困難なのである。それが角川文庫に収録されることになり、私は進んで解説を引き受けた。つまり、それだけ早く読めるというわけだ。
そして、再読してみて、またも面白がらされ、驚かされ、感嘆させられた。これはどえらい作品である。もっとも、私の場合、若かった日への回想とつながっているので、こういうオーバーな表現になってしまう。しかし、冷静になって割り引いても、これは一級の娯楽小説である。
まず、タイムスリップの小説として構成がきわめてすぐれていて、SFとしての欠点がまったくない。南條さんがSFを意識して書かれたのかどうかはお聞きしてないが、つぼをちゃんと押えている。普通、過去への移動は、それによって歴史の変更という事態が発生し、パラドックスとなる。その処理が大変なのだが、この作品においてはまことに巧妙にそれがなされている。
日本SF界の今日の隆盛は、小松左京、筒井康隆、それに私たちの努力によって幕があがったことになっている。それはそうなのだが、みながSFと取り組んで苦心さんたんしていたあのころ、南條さんが「あなたがたの書きたいのは、こんなたぐいだろう」と、ぽんと書いてしまったのである。
事実「わが恋せし淀君」は、それなのだ。あまりにもうまくできたSFのため、かえってそこに気づかなかった。再認識である。今後、日本SF史が論じられる場合、この作品は正当な位置づけをされなければならない。そうなると、じつは私たち、まことに困るのだが。
こんなことを告白できるのも、SF界に余裕のできてきたためであろうか。
日本史のなかで、時間移動をしてこの目で見たい時点はとなると、だれもが大坂の冬と夏の陣をまず考えるのではなかろうか。その絶好のテーマは、もはや書くわけにいかず、これ以上のものが書ける作家も出現しないだろう。
また、考証が完全である。私は「城のなかの人」を書くので、資料調べにひと苦労した。南條さんの頭には、それの何倍もの資料が整理されておさまっている。だからこそ、おふざけで脱線させてもいい部分と限界を、こころえておいでなのである。史実を無視したところがないため、時代物を読みなれた人をもとらえる魅力を持っている。
かりに「小説づくりのうますぎる作家」という番付けを作ったら、南條さんが上位にくることはまちがいない。努力なさってかどうかはわからないが、とにかく知識が豊富なのだ。どう展開しようと、自由自在。そのことに気づかぬ読者も多いのではなかろうか。
明治四十一年(一九〇八)、東京の銀座の生まれ。家は代々、医者であった。三代以上もつづいた、完全な江戸っ子。洗練されているのである。洗練を看板にしている作家もいるが、南條さんはそこをもさとられまいとしている。論じようとして、こんなあつかいにくい作家はめったにいない。
ドタバタめいたところも、そのあらわれといっていいと思う。読むほうは笑っていればいいのだが、書くほうは、いや、この説明はしないでおく。せっかく楽しまれた読者にそんなよけいなことまで書いては、南條さんの意図に反してしまうだろう。
少し前に評判になったF・フォーサイスの『ジャッカルの日』は、ドゴールを暗殺しようとするグループの話である。現実にドゴールは天寿をまっとうしていることをだれもが知っていながら、読まされてしまう。南條さんははるか以前に、この作品において、それをやってのけているのである。
また、私の好きな短編のひとつにB・J・フリードマンの「芸能界への手づる」というのがある。それと似た場面が出てきて、おやと思い、執筆時期を調べてみたら、南條さんのほうが十年以上も早いとわかった。
こう、いちいち気づいた点を並べてみると、まったく、もう、どうしようもない。こういう先輩作家のいるおかげで、私などもいい年になりながら、心のどこかでまだ若輩という気分でいられるのだ。
南條さんは昭和二十四年以来、ある大学の政経学部の教授をなさっている。そして、年に四回は海外旅行に出かけている。それで、執筆量は専業の作家以上なのである。
教授になられる以前の南條さんの経歴も、じつに多彩で興味ぶかいのだが、その紹介はべつな文庫でどなたかがなさるだろうから、省略する。
私のいまの本心を言うと、この作品は文庫に入れてほしくないのだ。「わが恋せし淀君」を読む楽しさを、大ぜいの人に味わわさせず、自分ひとりで独占しておきたい心境になってきた。まさに、わが恋する「わが恋せし淀君」なのである。
[#地付き](『わが恋せし淀君』解説 角川文庫 昭和53年5月)
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竹取物語
――現代語訳をしてみて――
ひとつの試みとして、私なりの現代語訳をやってみた。心がけた第一は、できるだけ物語作者の立場に近づいてみようとしたこと。
なにしろ、わが国で、はじめての物語だ。その前に、なかったとは断言できない。しかし、わかりやすく、魅力的で、面白かったからこそ、この物語がその栄誉を与えられているわけだ。
もっとも、社会背景も変っている。原文に忠実なようつとめたが、自分なりのくふうも加え、章の終りごとに、ほどほどの補足も書いた。また、改行もふやした。
訳していて気がついたことだが、かぐや姫が天空の外の人であった点を除けば、なんの飛躍もない。竹からの出生、羽衣などは、それに付随したことである。
動物が口をきくわけでもなければ、神仏もこれといった力を示さない。龍だって現実には出現せず、霊魂もただよわず、ラストの不死の薬はぼかしたまま。
そこが、物語として、みごとなのだ。利益や出世の話だけだったら、つまらない話だ。といって、むやみに鬼を出し、化け物を出し、動物を動かしては、ごつごう主義になる。
そりゃあ、超自然的な民話も、ないわけではない。しかし、ごく短いものに限られる。少し長目になると、ルール無視でごたつきかねない。
『竹取物語』では、超自然的な発想はひとつだけで、あとは人間的なドラマである。だから、すなおに面白い。そのノウハウを知っていて書いたのだから、この作者はなみなみならぬ人物だ。しかも、前例となる小説がなかったのだから。
紙に筆で、この物語を一気に書きあげたのではないだろう。話すのが好きで、さまざまな物語を作って話し、その反応のなかから手法を身につけ、まとめて書き残すかとの気持ちになった結果と思う。このあとで多く作られたお姫さま物語の、さらに先をいっているようで、私は皮肉さを感じた。
また、描写を極端に控えているのも、特色である。四季の変化のゆたかな日本なのに、それに関連したのが、まったくない。中秋の名月で、私は少し加筆したが。
姫がいかに美人かの描写もなく、思いを寄せる男性たちの年齢、顔つきも不明。心理描写だって、簡単なものだ。最後の章など「泣く」の表現が多出する。
つまり、発想とストーリーとで、人を引き込んでしまうのだ。構成に自信あればこそだ。描写を押さえると、読者や聞き手は、自分の体験でその人のイメージを作ってくれ、話にとけ込んでくれる。
そのパワーが失われると、季節描写や心理描写に逃げ、つまらなくなる。新人の短編の選をやっていると、はじめの部分で夏の日の描写があったりする。読み終って、夏でなくても成立するのにと、点が悪くなる。美人だって、くわしく描写すると、好みじゃないねと、そこで終り。
蓬莱など、中国の神話を引用しているが、作者は信じていないし、それは聞き手も同様だったからだろう。仏教も、あまり関係ない。先駆者というものは、時代に恵まれるといえそうだ。
訳では、もっと熟語を使いたかったが、その限界がむずかしい。蓬莱の玉の枝の細工代の未払いの件。当時は金銭以外の物品でも支払われていた。原文は禄《ろく》だが、報酬が最も適当と思った。
ほかに原文では、返事とか功徳《くどく》とか、熟語もいくらか出ている。ふやせば読みやすくなるが、ムードをこわす。自分なりの判断でやるほかなかった。
最も参考になったのは、吉行淳之介訳『好色一代男』(中央公論社)で、訳文とは別に書かれた「訳者覚書」の部分は読んで面白く、まさに同感だった。
そのころの日用語を、対応する現代語になおしただけでは、つまらないものになる。また、なまじ現代でも通じそうな用語には、迷わされやすい。
吉行さんは「さもなき」の形容詞に悩んでいる。「それほどでもない」としたくなるが、調べてみると、むしろ「さも・なし」は強い否定の意味だったらしい。
この『竹取』でも、多くの人は「ともすれば」をそのまま使っているが、現代では意味がずれているし、あまり使われていないのではないか。
『竹取』が『一代男』より楽だったのは、前作がなく、パロディ的な扱いがなかったからだ。『一代男』に「兵部卿の匂い袋」なるものが出てくるが、だれもブランド名と思うだろう。それが源氏物語をふまえたものとはねえ。
吉行さんが、あえて『一代男』を手がけたのは、なぜか。作者の西鶴が花鳥風月に反逆し、面白さの原点に戻ろうとした点にあるらしい。
訳のむずかしさは、外国文の翻訳体験者がいろいろ書いているので、ほどほどにしておく。
それにしても、月とはふしぎな天体である。太陽系の惑星で、これほど大きな比率の衛星はない。しかも、見かけの大きさが太陽と同じ。そのため、日食や月食が起る。
中秋の名月の特色は、前日もその次の日も、月の出の時刻にあまり差がないこと。ほかの季節だと一日ちがうと五十分の差があることもある。
生命の発生も、大海のなかではなく、入江のような場所で、潮の満干によってではないかと思う。人体をはじめ、生物のバイオリズム(周期)は、月に関連している。
その満干だが、地中海では差がほとんどなく、エジプト文明、ギリシャ文明などでは、月の影響とは気づかなかった。メソポタミア文明も同じだが、なにかの力を想像してだろう、占星術をうみ出した。
しかし、有史前の日本では、マレー系、南方海洋系の渡来民族もまざっていたはずだ。理解とまではいかないが、なにかを感じていたかもしれない。貝塚が各地に残っているし。根拠のない仮説ではあるが。
いくらかでも月や宇宙や空想に、そして物語の世界に、親しみを抱いていただければと、あまり解説風でない文章を書いたわけです。
[#地付き](『竹取物語』解説 角川文庫 昭和62年8月)
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石井代蔵
――相撲の世界――
むかし私が小学生だったころ、つまり昭和十年あたりだが、子供の娯楽は限られていた。「少年倶楽部」という雑誌を読むのが流行だった。あと、ラジオで六大学野球、相撲の実況中継。それのある日は早く帰宅するのがいて、私も興味を持つようになった。
そのうち、ラジオでの落語、浪曲の面白さもわかるようになった。映画も成人となら見ることができたが、あまり印象に残っていない。シャーリー・テンプルなど、健全なものに限られていたせいか。
プロ野球もあるにはあったが、人気では六大学にはるかに及ばなかった。ラジオの中継もなかったと思う。
放送局もNHKだけだったから、どれぐらい聞かれているかの調査など、なかった。しかし、かなりの人が聞いていたようだ。とくに相撲の中継などは。だから、双葉山《ふたばやま》の驚異的な連勝がストップした日の夕方など、街がざわついている感じだった。
年間の場所数も少なかったし、一場所は十五日もやらなかったし、仕切りの制限時間もかなり長かった。そのため、勝負のひとつひとつが貴重だったし、話題性もあった。力士は人気のある職業だった。言論が不自由になりつつあったが、相撲についてはいくらでも話しあえた。
私の父は薬の会社をやっていて、新製品の売出しに新聞に大きな広告をのせ、そこに武蔵山《むさしやま》の写真を使った。なつかしい思い出である。
相撲は戦争中も、なんとか持ちこたえた。戦地の将兵の慰問に行ったのもいたのではないか。戦後のアメリカの占領政策もうまく切り抜け、今日まで隆盛をつづけている。時代おくれになりかねないのに、依然として人気がある。それは、日本人の心情とどこかつながっているからだろう。なぜ国技かとなると説明はしにくいが、だれもがなっとくしているのだ。
天皇がおでかけになり、熱心にごらんになるスポーツは、相撲だけである。プロ野球の天覧試合は、一回きりだったと思う。企業がからんでいるためもあろうが。
相撲人気の原因について考えたことはないが、勝負がつくという点だろうか。日本人はビジネスでも、家庭生活でも、交友関係でも、妥協によってまとめるのが習慣だ。日常での気分の発散を、土俵上に求めているのかもしれない。
ほかのことでもいいが、麻雀は勝ってはまずい場合もあるし、テレビでプロ野球を眺めるのは、けっこう時間をつぶす。碁や将棋はルールが複雑だし、上達には努力がいる。
そこへゆくと、相撲はわかりやすい。二人の力士が土俵内で争い、勝敗は容易にきまる。時には微妙なものもあるが、行司もいるし、いざとなれば取り直しできまる。単純といってもいい。
その一方、いや、そのためにか、土俵外でのドラマも、かず多く発生する。それぞれ、独自な個性を持っているからだ。だれもが生れつき体格がよく、力があり、技巧も身につけるのがうまく、人柄がよく、頭もいい。そんなことはありえない。
体重ひとつとっても、議論はきりがない。重いのが有利といっても、それは決して健康的ではない。そんなことからも、悲壮感がにじみ出てくる。
本書は、そういったさまざまな面を知らせてくれる。人生の原型といえるかもしれない。現代でも、この世界に入ろうとする少年たちが多いらしく、テレビでその光景を報じる。ひとつの魅力をみいだしているのだろう。彼らは、自分が生れた時の横綱や大関の名を知っているのかなと、思ったりする。
私が風俗小説を書かないのは、時の人気者を登場させるのはたやすいが、年月によって古びるのも早いからである。昭和二十年代の日本の娯楽産業には、湧《わ》きたつようなものが秘められていた。それらに関した本を読むのは好きだし、ノスタルジアにもひたれるが、自分で書いて若い人にわからせる自信はない。
「巨人、大鵬《たいほう》、玉子焼」という言葉も、何歳以上の人に通じるだろう。しかし、相撲の世界だと、固有名詞を知らなくても、なにか理解できるものがあるような気がする。さっきも書いたが、ルールの単純な勝負の世界であるために。
いま、高見山の名は記憶に新しい。しかし、こう流行の変化が激しいと、たちまち知らぬ世代がふえてくる。それでも、日系人でないハワイ生れのひとりの男が、この世界に入って努力とユーモアで多くの人に愛された物語は、古びることがないのではなかろうか。時代を超えたなにかが、相撲にはあるのだ。
個人の力が優劣をきめる分野は、きびしい。本書にも多くの力士の名が出てくる。しかし、その何十倍もの人数が、栄光に手を触れることなく、消えていっているのである。その人たちは、どうなったのだろう。ただ、番付に名前だけが残っている。そんな想像を残すところに、本書の奥深さがあるといえそうだ。
[#地付き](『土俵の修羅』解説 新潮文庫 昭和60年11月)
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戸川昌子
――異作な『悪女の真実』――
戸川昌子さんは『大いなる幻影』によって江戸川乱歩賞を受け、作家として登場した。それだけすぐれた推理小説であるのはもちろんだが、私にはべつな意味でも印象ぶかいものだった。
その舞台となったアパートにそっくりなのを、少年の日に見なれていた。大塚のある中学にかよっていたのだが、そのそばにあった。大戦前のことである。
のちに戸川さんについての紹介文で、青山で生れ育ったとあり、同一ではなかった。当時の東京には、そのようなのがいくつかあったのだろう。
現在ではアパートというと軽い響きがあるが、そのころはちがう。木造住宅が普通だった時代に鉄筋コンクリートの五階建てというと、立派で高級で、エキゾチックなムードがあった。どんな住人がいるのか、ミステリアスであった。乱歩さんの描く、古きよき時代のおもかげを残していた。古い話になってしまった。
それはともかく、デビューそのものも華やかだった。公募による乱歩賞の第一回が仁木悦子さんの『猫は知っていた』で、それにつづいての(五回あとだが)女流作家ということで、注目をあびた。しかも、若く美人で、シャンソン歌手ということもあり、ユニークだった。
そのころは、松本清張さんがミステリーの分野で新鮮な力作を発表し、推理小説界は活気をおびはじめていた。佐野洋、大藪春彦、陳舜臣の各氏が世に出た。私もまた、そうだった。それぞれが個性的で、いま考えると、いい時代だった。
女流作家の解説で時の流れを書くのはどうかと思うが、戸川さんはその時と変らないので、ふしぎでならない。パーティなどでお会いすると、時をさかのぼったようで、とすると私も若いのではという気にさせてもらえる。無形のサービスなのだ。
戸川さんはお姉さんと共同経営で、渋谷でクラブを開いている。最近のことは知らないが、筒井康隆さんが東京に住んでいたころは、たまに出かけた。戸川さんの歌も聞けたし、美輪明宏さんなど、知名人の顔をよくみかけた。にぎやかな空気だった。
ふと、小説はいつ書くのだろうと、気になったりした。作品はいいばかりでなく、さまざまなテーマにかかわる多彩さは、驚きだった。推理小説にとどまらず、超現実的な世界を扱ったものもある。かなり早い時期に、海外取材をし、小説にしている。そういった方向のものの先駆者といえるだろう。
マルチな才能というと栗本薫さんを連想する人も多いだろうが、その大先輩として、戸川さんが存在しているのである。
どうやら、女性のほうが思考が柔軟なようである。男の作家は、女性の心理を描こうとしても、ある限界がある。名手といわれる作家でも、そうなのだ。しかし、女性の作家は、男も女も自由に描けるのである。不公平なものですな。指摘されて、そう考える人も多いのではないだろうか。
そのうち、SF界も注文がふえ、執筆に追われ、戸川さんのに限らず、推理小説をまんべんなく読む時間が作れなくなった。雑誌で短編に目を通し、このごろどうしているかなあと、つぶやいたりする。あのころに出た作家は、短編で妙なのを書けるのだ。
何年か前になるだろうが、そんなふうに、戸川さんの短編で、ハワード・ヒューズらしき大富豪とピラミッド状の建物とを組合せた話を読んだ。異様な着想だなあと、心に残った。題名のほうは忘れてしまったが。
また、火葬場の近くのマンションを舞台にした短編で、私なりに面白かった作品もあった。戸川さんの住居がそうであり、じつは私もそこから遠くない場所に住んでいる。こうビルが立ち並んでしまうと、私など日常生活で、いつもすっかり忘れている。
いつでも寄れるわけだが、かえって訪れにくいものだ。タクシーの時代となると、距離の持つ意味が変ってくる。この解説を引き受けたので、電話して出かけようとも考えたが、思い出話がふくらみそうだ。楽屋おちになりかねず、読者に通じないことにもなる。いずれ、近いうちになにかの会でお目にかかるだろう。
それに、子育てで忙しいようだ。最近、ある雑誌で、戸川さんが自分の少女時代について書いている。家のなかでは気が強く、そとでは人みしりだったらしい。デリケートな性質だったのだろう。その文で、父と兄とが、東京の空襲で死亡と、はじめて知った。
さて、本書だが、どの一編かを雑誌で読み、こういう分野も手がけているのかと、感心したことを思い出した。ていねいな仕上げだった。解説の依頼があった時、この機にまとめて読めるなと承知したわけ。
やはり、どれも入念に書かれている。資料的にも調べがゆきとどいていて、読みごたえがある。時代考証となると、不自然にならないようにと、けっこう苦労する。私にも体験があるが、はじめてだと気を使う。戸川さんはほかに時代物を書いていないようなので、もったいない気もする。
読んでおわかりのように、悪名高い女性をとりあげて、その人生を物語っている。それぞれ特色のある、バラエティに富んだ本である。完全なフィクションでないせいか、作者の同情やいたわりがただよっていて、読後感が人間的でいい。
過去の、ある時代における女性は、運命にもてあそばれざるをえなかった。その第一は美しさである。生れつきの美しさが、いいほうに作用すればめでたしだが、それが逆となると悲劇である。善悪も、本人の手におえないものとなる。
どの主人公も、美女に生れついてお気の毒といったところだが、それでも、女は美しくなりたがり、男は美女を求めるのだから、さまざまな事件が発生してしまう。だから、世の中が面白いのだろう。
面白いとはなにごとかだが、最近のテレビをはじめとするスキャンダル報道を見ていると、それを実感する。本書の主人公を現代によみがえらせ、似たような事件を展開したとする。報道関係者、いかに張り切り、大衆がいかに喜ぶか、想像してみて下さい。
げんに「妲己《だつき》のお百」は、歌舞伎に脚色され、大当りとなったのだから、人間の本質はあまり変っていないのだろう。なお、妲己とは、古代中国の王、紂《ちゆう》の妃で、王をそそのかし酒池肉林の宴会や残酷な刑の見物で楽しんだという。
そういう外国の悪女にくらべると、日本のはどこか可憐である。中国に限らず、欧米の悪女には、やりきれないすごみがある。
各編、いちいち説明を加えるまでもあるまい。しぜんに話に引き込まれるし、読者それぞれ、自分なりの感想をお持ちになれば、それでいいのだ。
本書が文庫になる前のタイトルは『日本毒婦伝』である。私などにはなつかしい言葉なのだが、あまり見かけなくなった。薬物中毒かと思う人もいるかもしれない。これを機に改題となった。
年上のうるさい人は、悪女とは不美人の意味だと言うかもしれないが、辞書ではかなり前から、それはあとのほうになっている。いつだったか、フランス映画の日本語題名に使われてから、美女のイメージが加わってしまった。
そんなわけで、悪女という呼び方は定着した。この文庫により、かつての悪女たちがみなおされるかもしれない。それだけの内容のある一冊なのだ。
[#地付き](『悪女の真実』解説 双葉文庫 昭和61年1月)
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青木雨彦
――コラムの名手――
まず、青木雨彦さんは、コラムニストとして、大変な才能の持ち主である。きめられたスペースのなかに、すっきりした形でまとめなくてはならない。
山藤章二さんと組んでの青木さんの『にんげん百一科事典』をさらさらと読み終って、なにげなくページをめくりなおしたら、どの見開きのページも、字がぴしりと同じ量で占められているのである。最後の一行があいているという個所がないのだ。
これは容易なことでない。私もある時期、枚数ぴしりのショートショートを連作したことがある。ゆっくり話をはじめると、終りのほうでかけ足になってしまう。その逆もある。そこで、なっとくのゆく仕上げとなると、清書をせざるをえないのである。
新聞の朝刊の下にも、コラムがある。ニュース性を織り込んでだから、もっと困難と思う人もいようが、あれにはプラスマイナス三十字ぐらいの、はばが許されているらしい。それのあるとないのでは、大きなちがい。やった者でなければわからないだろうが。
現在の私は、ひと休みの状態。しかし、文章のこつを忘れてはと、コラムのようなエッセイを、月に二本の割で書いている。これも規定の枚数があって、あい変らず清書で調節をやっている。
ワープロなるものがあり、普及しつつあり、使っている友人作家もあり、いかに便利かも聞かされている。
それを使えば、文を作って行数が少し不足したら、途中のこのへんをふくらましてと、簡単にできる。その逆もだ。しかも、出来はきれいである。しかし、月に数十枚の程度では、導入するのもためらわれる。性能と価格も、よりよくなるにきまっているし。
ワープロ機器も、気の毒だ。本来ならこういう使われ方をしてもらいたいだろうに、月に何百枚という作家にだけ奉仕している。もう少し、がまんしていてくれ。
青木さんが清書をする人かどうかは知らない。しているとしたら、ごくろうさまである。してないとしても、頭のどこかでバランスの整理をしているわけで、苦労は同じである。書いているうちに、こつが身についたという人もあろうが、それは才能に加えて修行の成果としか表現できない。
そして、読者というものは、この種の苦心には気がつきにくいものなのだ。いや、苦心のあとをとどめないのが、筆者としての腕の見せどころだ。
コラムとは埋草。ショートショートもそうだが、雑誌や週刊誌で与えられるページはわずかなものだ。あえてそれを書く意地はなにか。軽く読まれ、すぐ忘れられるかもしれないが、となりのページの高級な小説、大論文にくらべ、目を通してもらう率ははるかに高いはずとの思い込みである。
なんだか、青木さんを利用し、自分の言いたいことを書いてしまった。これではいけない。私にまねのできない点にふれる。
青木さんは、インタビュアーとしてもすぐれている。人柄のよさもあろうが、聞き上手さ、まとめ方も感心させられる。ある種の品格のよさがある。テレビの午後のスキャンダル番組の、あの芸能レポーターのくふうのない無神経の質問とくらべると、よくわかる。あ、そんな低俗番組を私が見てるのが、ばれてしまった。まあ、休業中だから大目に見て下さい。人間のばかさかげんの研究というわけだ。しかし、さすがに最近はあきた。パターンがきまっているのだ。火のないところに煙を立て、関係者たちに火ではないと弁明させるだけなのだ。
多くの美女たちと対談できて、青木さんがうらやましい。私もそう思う。読者にそう思わせるところが青木さんの芸であって、しろうとにやれるものではない。自己を抑制できなければむりらしい。
青木さんの文章は、読みやすくていい。これはかなりの自信があればこそだ。読みやすくくだらない文のものも多い。なにやらもっともらしいが、読みづらい文のも困る。ほかに青木さんに匹敵する人がいるかとなると、まあ、いないといっていい。そこが個性なんだなあと、あらためて感じる。
じつは私の場合、青木さんの本は、海外旅行の時の必携品となっている。どこで区切ってもいいし、読みかえしたっていいのだ。
ふたたび、個人的な感想となる。青木さんは、好んでというより、ほとんど大部分のエッセイを、会社づとめの生活をふまえた形でお書きになる。そこに私は、つきせぬ興味を持つのだ。
知る人ぞ知るだが、私には会社づとめの体験がない。といって、生れてからずっと作家をやっているわけではない。大学を出てしばらく、研究室に残った。そのうち、いろいろあってなんとなく作家になった。
だから、普通の会社づとめとなると、まるで別世界を見るようだ。もしそのような人生をたどっていたらと、想像をかきたてられる。また、小説を書く上での参考になっている。社員の気分などで。
本書では、社内恋愛や浮気《うわき》がとりあげられているが、そういうものかと、ひたすら感心するばかりである。私も独身時代に異性の友人はあったが、これは別な話である。
作家となり、結婚し、いろいろな作家と友人になれた。SF界では、とくにみな仲がいい。しかし、だれそれさんの奥さんが美人だからといって、口説こうという気にはならぬ。新井素子さんも、魅力的な人だし、親しい間柄でもある。このあいだ結婚してしまったが、ご主人の目を盗んでの密会など、夢にも考えられない。
しかし、男女間に会社が介在したりすると、なにごとかが発生するらしい。本書中の掌編「結婚します」の結末もそうだが、ふしぎでならぬ。開業医だの、商店主などに、青木さんの本の読者が多いのではないか。
SF作家が変な目で見られてるようなものか。
掌編のなかの「深夜の電話」について。このなかにマティスンの短編「次元断層」が引用されている。SFの名作で、私も読んで印象に残っているが、いくらかのちがいがある。青木さんは幕切れの、夫妻のやりとりの場面が忘れられぬらしい。私の場合は、その発端の異様さについてである。
本当にすごいなあと思うのは、ミステリのなかのある部分の引用を、青木さんは自由自在に引用なさる点だ。私はシチュエーションとか、ストーリーの展開ばかりに気をとられ、男女の会話など、ほとんどおぼえていない。こういう読者がいると知ったら、作者たちは心から喜ぶだろうな。
ここまで書いてきて、青木さんの『男と女の集積回路』という本がとどいた。内容はなんと、現代の恋愛小説三十六編をとりあげ、さまざまなことを語っている。つまり、その何倍ものを読んだ上でということで、恐れ入ったと申すほかない。ただ読んだだけでなく、その底にある独自な視点がすごい。
さっきも書いたが、ある枚数ぴしりも名人芸だが、読んで面白くなければ、なんの意味もないのだ。多くの人を相手にしてである。
自分のために書くとか、特定の読者の理解だけでいいという純文学も、悪いとはいわぬ。しかし、大ぜいの人を楽しませることのほうが、よりむずかしいのではなかろうか。
そうだ、本書のなかで、私がカミュの作品からみつけた小話が引用されている。たぶん『シジフォスの神話』という長めの論文である。といっても、私はそんな本を愛読していると思われては困る。
昔、若くて時間があったので、つい目を通してしまったのだ。その時は、どこか波長が合ったんだろうな。しかし、思いかえそうにも、なにがなにやら、さっぱりである。だからこそ、あの小話が頭に残っているのだろう。まだ『異邦人』ならだが、青木さんは文学部出で、私はちがう。へた書くと、笑われかねない。
本書一冊ですら、じつに多様な人生が語られている。ほかに何冊もだから、ただものではない。そして、それらは人生訓でなく、ひとつの問いかけであり、多くは永遠に答えは出ないものである。人間のふしぎさだ。
これだけのものを秘めた人なのだから、思いきって、人生論に方針を変えたらどうだろう。独身社員用のハウ・ツー人生の雑誌が何種も、大部数が売れている。超売れっ子の書き手となるだろうが、たぶん、その気にはならないだろう。ななめから眺めるのを好む人だからだ。
これからの興味は、年齢を重ねての青木さんの変化である。時の流れは、とどめようもない。私も第一作から、あっというまに三十年ちかくたってしまった。青木さんの感覚は、どう変るのか。長生きして、それを知りたいものだ。内心そう考えている人も、多いのではなかろうか。こういう作家は、めったにいない。
[#地付き](『遠くて近きは……』解説 講談社文庫 昭和60年6月)
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赤川次郎
――作者と読者――
赤川次郎さんのショートショート集はこのほか『踊る男』も、同時に文庫となる。赤川さんは以前にある雑誌で、横田順彌さんと毎号、同じ題名での競作をした。その時、短いものの手腕に驚いたものだ。
超売れっ子作家、若い人むきとなると、それだけで食わずぎらいの人もいよう。しかし、せめてこの一冊ぐらいは、お買いになって損はないと思う。
どこから読んでもいいし、どこでやめてもいい。すらすら読めてしまうのである。ラストの意外性に、あっと言わされながら、つい次のを読み、気がついたら一冊を読んでいたとなる。これぞエンターテインメント。
ものたりないと思う人もいよう。しかし、書評でほめてあるので、つい買ったはいいが、読みにくい文章。三分の一で投げ出してしまう本もある。それをありがたがる人は、いまの世にはいないはずだ。
各種の文学賞も、売れない作家への、補助金となっている。いずれ、こういう不自然さもなくなるだろう。社会の変化は早いし、それも当然の流れを示している。
赤川さんの文は、まことに読みやすい。年配の作家のなかには、こうつぶやく人もいるだろう。
「若い世代には、こういう軽いのが好まれるわけか」
そこで思考をやめては、勉強不足。なぜ売れるのかまで検討しよう。『日本沈没』が売れたのは、テーマがショッキングだったからだ。『窓ぎわのトットちゃん』は、テレビの親近感のある作者で、さし絵もよかった。
赤川さんは、そのどちらでもない。それなのに、どの本も売れる。なぜだろう。
「さて、自分に書けるだろうか」
となって、考え込んでしまうのだ。そこなんだな。彼以外、だれにも書けない。いかにも亜流が出そうで、決して出ない。太宰治と、その点が同じなのだ。
まだ、ぶつぶつ言う人もいよう。だが、本書に収録の「仕事始め」など、O・ヘンリーの水準を抜いているのではないだろうか。こんな好ましい短編など、めったに書けるものではない。しかも、数え切れぬほどのベストセラーの長編を書きながらである。
作家をやっていて気づいたことだが、読みやすさとは、文章のみの問題ではないのだ。読者をいかに作品世界に引き込むかの、構成の技術である。そして、その世界が独自のこころよさに満ちていれば、読者は満足してくれるのである。
ところで、なぜショートショートという形式があるのか。赤川さんの場合、長編だけで充分なのに。あいまの息抜きだろうというのは、一編も書いたことのない人の考えだ。仕上げた喜びを味わう回数がふえるが、それはあくまで結果である。
サービス精神の、あらわれだろう。軽く読めるのと、軽く書いたのとは、ちがうのだ。赤川さんは、苦心のあとを、消している。これもサービス手法のひとつとは、書いた者でないとわかるまい。
となってくると、私の作品との対比ということになる。横道にそれるが、知りたい人もいるだろう。世の中では、私のタイプのをショートショートの典型と思っている人が多いらしい。しかし、現実はどうやら、私のほうが例外らしい。
ほかの人たちは、結末を考えてから書きはじめているようだ。赤川さんのも、ミステリー的で、同様である。逆に私は、物語のシチュエーション、つまり発端に思考エネルギーの大部分を費している。
そのため、比較がしにくいことになる。そこが作風であり、読者の好みでもある。似ているのは、どちらも大変という点だけ。
短編の妙味は、落差にあると思う。私は最初の部分で落差をつける。しかし、日常性の発端だと、終りのほうで大きな落差をつけなくてはならない。そのへんは内輪の話。面白く読んでもらえれば、それでいいのだ。
それにしても、このような時代が来るとは、三十年前には夢にも思わなかった。三十年前とは、私がはじめてものを書いた時期である。社会も小説も、こう変ろうとは。
あの『虚航船団』を書いた筒井康隆さんが、映画の試写の前夜祭で、深夜の映画館を若者で満員にしてしまった。新井素子さんは、ふしぎなムードの作品で、知らぬ人はない。たまたま仲間の名をあげたが、この二人もまた、まねしやすそうで絶対に不可能。赤川さんと同様である。
なにか突然変異のように感じる人もいようが、それぞれの読書歴を知れば、意外にオーソドックスなはずである。
そうでなかったら、多くの支持を得られるはずがない。自分なりに消化をしているので、どの影響と気づかれないだけのことだ。
そこに関しては、日本の小説はかなり進歩したといえると思う。すべての小説の平均となると、なんともいえないが、そういうことはどの分野にもあることだ。
[#地付き](『勝手にしゃべる女』解説 新潮文庫 平成元年2月)
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あとがき
この本は交友録であり、回想記である。本格的な自伝を書く気はないが、やるとしたら大変な仕事だ。戦前、戦中、戦後となると、社会背景の説明だけで、膨大な量になる。
SF作家になってからに限っても、容易でない。東京オリンピック、とくに思い出に残る大阪万博も、あのムードは文章で表現しきれない。
最初の二編を除いて、なんらかのつながりのあった人たちである。同世代の空気を呼吸した。文庫の解説の文が多い。好意か義理がないと、書く気になりにくい。つまり無縁の人はいないのだ。川端康成さんとはお話ししたことがないが、掌編小説の開祖である。
本書はかつて、奇想天外社で刊行し、集英社文庫に収録した。今回、新版発行について、そのごの文を追加した。一方、余分と思われる部分は削った。書評の文は、なるべくはずすようにした。解説と書評は、どこか調子がちがう。書評は、第三者的な形をとらなければならないせいか。
私の人生の一側面といったところ。楽しさのほうが、ずっと多かった。
[#地付き](平成元年二月)
この作品は平成元年四月新潮文庫版が刊行された。