TITLE : きまぐれエトセトラ
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本
作文の成績
葉 巻
右手の症状
多彩な宗教の国ぐに
不眠症二十五年
モリス家
私とSFの二十年
会 話
数について
ハーバー
と し
あの時の私
敬称の問題
ビール
道
高齢化社会の小説
作家の日常
解 明
体験的笑い論
わが町
髪の毛について
なんとなく作家が存在している国
中国東北部の旅
酒あれこれ
UFOの警告
日常の断片
速度と感覚
父と翼賛選挙
ショートショートの面白さ
教育への私案
たとえば一例
映画「雲ながるる果てに」について
いわんとすること
移り変り
学習・コレステロール
あとがき
本
本、すなわち書物というものは、私にとってふしぎな存在である。なぜか、捨てる気にならないのだ。週刊誌や雑誌のたぐいだと、平気で読み捨てにできる。いや、正確にいうと、掲載されている私の文章、あるいはかなり興味をひかれた記事、それらを切り取り、あとは近所の人などに、お読みになりたければと進呈するのである。旅行の時に車中で読んだ週刊誌などは、とまったホテルで、なんのためらいもなく捨ててしまう。
しかし、本となると、そうはしない。いささか大げさになるが、捨てたりすると、なにかたたりがあるような気がしてならないのだ。たとえ漫画やクイズの本であってもである。いったい、本と雑誌と、どこがちがうのか。雑誌にはたくさんの人が執筆しているが、最近はいろいろなアンソロジーが出ていて、これはあきらかに本である。そして、その本の体裁になってしまうと、もう捨てることができなくなってしまうのである。わけがわからん。
アメリカのSF作家のレイ・ブラッドベリに『華氏四五一』という作品があり、映画化もされ、テレビで放映もされた。映像文化が世を支配し、文字を読むのが禁止された未来が舞台で、本の所持が発覚すると、それらはガソリンをかけて焼かれるのである。強烈な印象のシーンだったが、古新聞や古雑誌のたぐいは、まざっていなかった。あの場面は、本でなくてはならないのだ。
どうやら私ばかりでなく、一般の人もそのようである。よく道などで、古雑誌をたくさんつんだトラックを見かける。製紙工場行きなのだろう。だが、よくのぞいて見ると、本はまざっていない。いまだかつて、大量に捨ててある本を見たことがない。わが国では、かなりの数の本が毎日のように出版され、買われているそうだが、最終的にはどうなっているのだろうか。
私も書斎を作った時、壁にかなり大きな書棚を作ったが、すぐにびっしりになった。小型本を前に並べ、二列にしてみたが、それも、あっというまに一杯になってしまった。
ついに意を決し、近所の古本屋さんに来てもらい、まあ二度と読まないだろうと思われる本を、百冊ずつ二回にわたって引きとってもらった。翻訳物のミステリーが大部分である。犯人を知ったら終りとはいうものの、まったく別れがたい思いがした。あの古本屋さん、いくらかの利益を得てだれかに売るのだろうが、結局、最後はどうなるのだろう。
古本は私も買うが、買ったとなると、どうにも捨てられないのである。しかし、こんな程度の処分では、焼け石に水。わが家の本は間断なくふえつづけている。組立式の物置きを敷地の一部に立てて押しこんだが、なんということなく、ぎゅうづめになった。
かくなる上はと、三年ほど前に家を大改造し、書庫を作った。これにはかなりの費用をかけた。つまり床にレールを敷き、その上を移動する書棚を、三台入れたのである。いささか、いい気分だった。さあ、こいだ。ちょうど時代物に手をひろげた時期で、いい気になって買い込んだ。また、祖父のことを書くため、資料になる本を集めた。
たちまち、むくいを受けた。みるみる一杯になってしまったのである。あわてて、書棚を二台追加した。そのため、いくらか余裕ができたが、いつまでつづくことか。寝室の枕もとにつみあげてある本も、かなりの量である。これを運んで並べたら、もうそれで埋りそうな見当で、こわくてやれないでいる。自分ではそう読書家と思っていないのに、このありさまである。これからの私の人生は、ふえつづける本をどうするかで、悩みつづけになるらしい。それにしても、読書家やほかの作家たちは、どうしているのだろう。
昨年、某所に別荘を建てた。たいしたしろものではないが、日当りの悪い部分を利用して、大きな書庫を作った。これだけあればというのが最近の心境だが、そうのんきなことではないと、遠からず思い知らされるにちがいない。いったい、ほかの人は、どうしているのだろう。なぜ、だれも論じないのだろう。まったく、本は愛すべき恐るべき怪物である。
作文の成績
小学生時代からの学校での試験答案や作文などが、いくつか残っている。戦災にあわなかったおかげである。写真のたぐいがあまりないのは、戦時というフィルムの入手困難の時期のためで、やむをえない。
そんな古いものを入れてある箱をあけたら、小学三年(昭和十年)ごろの作文が、まとめてごそっと出てきた。かなりの数である。小学生時代にずっと担任だった村重先生が国語の専攻だったためか、作文の授業に力を入れ、私もたくさん書かされたというわけである。
こんな機会にそのいくつかを掲載するのも一興と思って読みかえしてみたのだが、これほどひどいものだったのかと、びっくりした。一例をあげれば、こうである。
散 歩
夕ごはんがすんでから、そこらを散歩してこようと思つて公園の方へ行つたら、へんな道をみつけた。その道をずんずん上つて行くとケーブルカーのせんろのそばへ出た。公園上から向かふへわたつて、えきの中を通つてかへつた。
これで終りである。春か夏の休みにおける箱根の別荘生活のひとこまを書いたものだが、これが作文なのかである。先生が赤いインクで、末尾に〈その道は、どんな道でしたか〉と書き加えている。
こんなのもある。
ラヂオはくらん会と時計
四月二十九日に、ぼくはお家《うち》のはしら時計がこはれたので時計屋へ電氣時計を買ひに行つた。はじめに二かいへ行つて見た。金や銀のおさらやカップがならんでゐた。それから下へ下りて電氣時計を買つた。初めに大きくてくろいのがあつたが、高いから小さいのにした。
それから電氣はくらん会へ行つた。きかいがあつて、きかいときかいの間に手をやると、そばにおいてあるべるがりんりんなります。かばんラヂオはかばんになつてゐて外のほうがよくきこえ、夜は満洲國の新京のまで聞えるさうです。
ねこがあつたので、なでてみるとそばにある電氣がぱつとついたので、まぶしかつた。へんな機かいがあつたので、そのそばに手をやると、さいれんみたいな音でなりました。それから色色な物を見ました。今日の一日はとてもゆかいでした。
家族と出かけたらしいのだが、そこもはっきりしない。デパートなのかどうか。ラジオ博覧会なのか、電気博覧会なのか。それはどこでやっていたのか。なにがなんだか、さっぱりわからない。電気についての驚きがわずかにうかがえるだけである。
村重先生はなんとか私の文章力を向上させようと〈楽しかったでしょう〉などとはげますと同時に〈もっと詳しく、工夫して書くように〉とか〈感想を入れるように〉とか、適切きわまる評を、そのたびごとに記して下さった。また〈もっと字をていねいに書くように〉ともある。私は不器用で、絵も字もへたなのである。
それに、なにを書いても短いのである。当時の作文用の原稿用紙は15字詰6行、それが表と裏に印刷してある。私の作文は、それを使って一枚ちょっとで終っているのだ。たまに三枚ぐらい書くと〈長く書いたところがよろしい〉と、ほめられている。
いつだったか、同窓会で先生にお会いした時、こう言われた。
「綴《つづり》方《かた》(そのころ作文のことをこう呼んでいた)の時間の星君には、困ったよ。ちょっと書くと、もうこれでいいんだと、席を立って、どこかへ行ってしまうのだから……」
私にはぜんぜん記憶がないが、たぶん事実だったのだろう。短くてもできがよければいいが、どうしようもない内容である。そして、いくら評をされ、注意されても、まったく向上しないのだ。
いま私が読んでみても、こんな作文を書くようでは、将来が思いやられるという気がする。しかし、先生は私を低脳あつかいせず、よくもこれほどというぐらい、たえずはげましつづけて下さった。それは、国語の試験の成績が、きわめてよかったからかもしれない。まちがえても一個所である。つまり、ほとんど満点に近かったのだ。それなのに、このへたくそな文章。先生の目には、私がふしぎな少年にうつったにちがいない。
中学の時の作文も残っている。少しはよくなり、将来の作家の芽を感じさせるものがあったら、この際なにかの参考に掲載しようかと読みなおしたが、やはり同様。ろくなものはないのである。
国語の教師であり、担任の一人でもあった鎌田先生の激励と評とが終りに書き加えてあるが、出来は、ぱっとしないのだ。もっとも、漢字と旧かなの文字づかいは正確である。
ついでにと、旧制の東京高校時代の作文を読みかえそうとした。戦時中で授業時間が少なかったため、あまり数はない。しかし、まず28点という惨《さん》憺《たん》たる点数が目に入り、飛びあがって中止した。
「これを読んだら、本質的に文を書く才能などないのだと、思い知らされることになる」
と、つぶやきさえした。学校における私の作文は、かくのごとく、どうしようもなかったのである。じつは、もう少しましかと期待していたのだが。
いずれも私にとってはなつかしい記録であり、捨てるつもりもないが、とても他人にお見せできるようなしろものではない。
「いったい、なぜ、少年時代の私は、かくも作文がへただったのだろう」
検討すべき問題でもあり、しばらく考えているうちに、やっと気がついた。中学の時の成績表を見るに、図画工作がだめ、音楽がだめ、体操がだめ、教練がだめである。一方、英数国漢、および理科は、まあ水準以上となっている。つまり私は、作文を熱を入れて勉強する対象と考えていなかったのだ。他の課目については、いい点を取ろうと努力した記憶があるが、作文となると、それがまったくない。いつも、おざなりだったのである。
中学時代には、かなり小説のたぐいを読んでいる。国語の成績はよかったのだから、読むのに不自由はなかった、そして、理解もし、面白がりもした。なぜ、それを作文に反映させなかったのだろう。よく言えば、人まねがきらいだったとなるが、正直なところは、作文を二の次、三の次に思っていたのである。そのころの私は、体系をなしていない学問の分野を、軽く見ていたようだ。
それが現在、作家を業とするようになってしまったのだから、自分でもおかしくてならない。私が今日あるのは、理科系を主とする分野での勉強と、そのあいまに読んだ小説のおかげである。作文がとくいだったことは、一回もない。
小学中学高校で、作文で私よりよい点を取った連中は多いはずだが、彼らはどんなものを書いていたのだろう。読みくらべられないのが、残念である。
戦後の〇×式採点法はよくない、試験に作文を採用すべきだ、との意見に時たま接する。もっともなことだと思っていたが、それをいち早くやられていたら、私など、どこかの段階で脱落していたかもしれない。あるいは、作文とはかくも重要な課目かと考えなおして勉強し、それむけの、型にはまった文章を身につけていたかもしれない。いずれにせよ、私は運がよかったのである。
学校における作文教育はどうあるべきかなど、私にはまったくわからない。そもそも、考えたことさえなかった。いったい、現在それはどうなされているのだろう。
そういえば、時たま、こんな手紙が舞い込むことがある。
「ぼくは作文が好きで、とくいです。将来、作家になりたいと思いますが……」
これからも来るかもしれない。まさに、答えに窮してしまうのである。
葉 巻
幼年時代、私は祖父にかわいがられた。その祖父の唯《ゆい》一《いつ》の好物は葉巻だった。夕食のあとに、ゆっくりとふかすのである。
葉巻には、小さな紙の帯が巻きつけてある。赤、金、白の配色である。祖父はいつも、その紙の輪をそっとはずし、私の指にはめてくれた。小さな指輪。ローマ字が書かれてある。私の人生において、最初に接した“外国”であった。それをいくつも集め、アルバムにはったりもした。いま手もとにないが、そのうち押入れの奥あたりから出てきて、私をなつかしがらせてくれるかもしれない。
デザインや配色もスマートとはいいがたく、なぜか現在に至るも、あまり変っていない。そこがいいのだろう。なにか貫録めいた印象を与えてくれる。
あの葉巻の帯をかたどった金の指輪を売っていないかとさがしているが、まだお目にかからない。いい趣味とはいえぬが、ひそかにはめてみたい気がするのである。
右手の症状
今年になって以来、右手のぐあいがどうもよくない。ひどい時には万年筆が持てなかった。量産している作家ならべつだが、そんな事態が私の身に起こるとは、予想もしていなかった。昨年夏のクーラーがいけなかったのかもしれない。ボールペンで下書きし、清書するという習慣がいけなかったのかもしれない。これは、指定枚数ぴしゃりというショートショートの注文をこなしてきた時に身についてしまった癖である。セルロイドの下敷きをはさみ、硬い万年筆で原稿用紙を突き刺すように力をこめて書かないと、満足感が得られない。困ったことだが、いまさらどうにもならない。
また、考えてみると、作家になって二十年ちかい。年齢もあり、疲労もあり、心理的なものもあり、さまざまな要素が重なりあって、こうなったもののようである。すぐ休養すればよかったのだろうが、やむをえない仕事があり、軟らかい万年筆を使い、紙に軽く当たるようにして書いた。すると、無意識のうちに人さし指に力が加わっていて、そこがしびれはじめた。なぜか、手のひらに汗をかく。暑くもないのにハンカチがびっしょりになる。
こんなに、いらいらすることはない。才能が枯《こ》渇《かつ》したのならあきらめもつくが、書きたくても字が書けないのである。手紙の返事が、最も苦痛だ。多くの人に不義理をしている。
やむをえず、大はばに仕事をへらした。カイロプラクティックという、こういう症状の原因は姿勢の悪さにありとする療法も受けている。背骨への指圧といった感じである。最初から助けを求め、いまもつづけているのにハリとキュウがある。そして、なんとか月に二十枚の短編を二つほど書いている。一編を書くのに五日がかり。書き終わって、ぐったりである。
なってみてわかったことだが、こういう症状に対して、現代医学はまったく無力である。すなわち命にかかわらない症状の研究は、二の次、三の次となっている。たとえば、肩こり、はげ、いびき、不眠、老眼などで、いかに多くの人が悩んでいても、治療法は確立していないのである。寿命をのばしてもらうのはありがたいが、日常生活に支障のある症状の分野にも、医学はもっと手をひろげてもらいたいものだ。社会的な損失も、合計したら、かなりのものになっているはずである。
それでも、一時にくらべたら、かなりよくなりつつある。ハリがきいているらしい。私のような作家がハリに通っているのを似つかわしくないと思う人もいようが、たしかにききめはある。人体の各所にツボという個所が存在し、そこにハリなりキュウなりで刺激を与えると、症状が快方にむかうのである。
私は知的好奇心の持ち主で、なぜきくのか知りたくなり、それに関する本を買ってきて読んでみた。そして、きもをつぶした。ツボとはなにかは、現代医学ではまったく解明されていないのである。関連のあるツボを線で結んだのを経絡といい、何条もあるのだが、その人体図を眺めていると、異様な気分になる。地図に町々があり、それが結ばれているのだが、その線のところへ行ってみると、道どころか、既知の交通機関、電線、水道管などはなんにもないという、SF的な状態なのである。
一笑に付したくなる人もいようが、げんに私をはじめ、ハリで症状のおさまっている人は、かなりの数にのぼっているはずである。これが現実。こうなると、発想の大変換を迫られざるをえない。いったい、ツボと症状とは、どう関連しているのだろう。こんなどえらい問題が残されていることを、はじめて知った。
邪《や》馬《ま》台《たい》国《こく》が人びとの興味をそそっているようだが、いまの私には人体のツボと経絡のほうに、はるかに関心がある。このなぞは、いつ、どう究明されるのだろう。なにかひとつ仮説をたててみたいと思っている。
多彩な宗教の国ぐに
東南アジア諸国を旅してみて、認識をあらためさせられたのは、その近代化のすばらしさである。
たとえばシンガポールだが、海上遊覧船から眺めた時など、ニューヨークを連想した。しかも、ビルのデザインの新しい点など、ニューヨーク以上である。高層ビルがずらりなのだ。
また、どの都市も自動車の洪水である。東京の車の渋滞を見ている者でさえ、びっくりさせられる。つまり、自動車の普及率も高いのだ。もっとも、この現象は地下鉄が未完成のためで、その建設計画の話も聞いたし、地盤の関係でそれができないところでは、モノレールが作られるという。モータリゼーションの次の時代に入りかけているのだ。
インドネシアの古都、ジョクジャカルタでは、朝はやく近郊の遺跡を見物し、空港へとむかった。午前七時ごろである。その時、街へ出勤する人たちの無数の自転車の列を見て、一種の感動のようなものをおぼえた。暑さを避けてというためでもあろうが、そんな時刻から職場にむかい、みなが仕事にとりくんでいるのである。
どの国でも、一年中が日本の真夏と同じ気候である。そんな条件下で、向上と繁栄をめざして努力している実情は、もっと知られていいと思う。日本も、うかうかしてはいられないという気分にさせられる。
それどころか、経済成長で日本のおかした失敗に注意している点、なかなかのものである。すなわち、都市にたくさんの緑が残されている。熱帯だけあって、その緑は色濃く、美しい。うらやましい限りである。
また、日本からの旅行者にとって最も印象的なのは、宗教が日常生活のなかに、とけこんで生きている点である。わが国にも神社仏閣があり、参《さん》詣《けい》者《しや》も多いが、それが生活と密接に関連しているとは、いいがたい。
バリ島は回教国インドネシアにおける、例外的なヒンズー教の地域である。そのため独特の観光地となっているわけだが、その宗教的行事も、観光客むけという、うわべだけのものではない。ケチャック・ダンス(猿の踊り)は民族舞踊でショーとなっているが、演ずる多くの若者たちの歌声には、陶酔がこもっている。
道の交差点には、石の神像が立てられている。砂岩のため風化しやすいが、そうなったら、また建てなおすのである。多くの住居には、鬼門に当るところに小さなほこらが作られており、花などのささげ物がおいてある。まさに神々とともにいるのだ。
時間の関係上、ジャカルタは短時間の市内観光だけだったが、同じく回教徒の多いマレーシアのクアラルンプールでは、ゆっくりできた。市の中央部には、近代的なつくりの巨大なる礼拝堂があった。
回教徒は豚を食べず、ヒンズー教徒は牛を食べない。そのため機内食の多くはトリか魚であった。聞くところによると、どうやら本当に食べないらしい。わが国では僧職にあってさえ、こっそり肉食をする人が多く、まただれでもそれを容認している。
しかし、これらの地方の信者たちは、その戒律をきびしく守っているのだ。街でハムサンドを食べることはできなかったし、チキンパイはあるが、ミートパイはなかった。そして、回教徒のほとんどが、一生に一度のメッカへの巡礼を、おこなっているという。
タイは仏教の国。日本のとはだいぶちがうが、むやみと寺院がある。バンコックの近郊には、カラフルな新しい寺院が多かった。人口の都市集中にともない、それらが建てられたというわけだろう。黄色いころもをまとった僧も目立つ。みな仏教を信じて生きているのだ。
そして、フィリッピンはカソリック。暑い日ざしのなかのクリスマス音楽はぴんとこないが、ほとんどの人が、心の底からの信者なのだ。教会も多い。
経済的に日本に追いつくには、まだいくらかの年月を要するかもしれない。しかし、東南アジアの人たちは、精神面においては、私たちよりはるかに豊かなのである。そこが旅行者にとっての大きな魅力のひとつである。
どの国においても、その宗教の上に独自の文化が築かれ、伝統となって、いまなお息づいている。文化とは本来、そうあるべきものなのかもしれない。となると、日本文化なるものは、なにによって支えられているのか。なにやら大変な問題をつきつけられたという思いがする。
不眠症二十五年
私の持病のうち最もやっかいなのは不眠症であって、もう二十五年以上もつづいているのである。こう打ちあけると、
「それは苦痛でしょう」
となぐさめてくれる人も出るだろう。同情していただければありがたいが、してくれなくてもいいのである。なにしろ、自分が不眠症であることを、ふだんは忘れているのだ。
睡眠薬を飲めば、それで眠れるのである。〈注意・習慣性あり〉と書いてある。その通りで、かくも長くつづいている。もっとも、量はふえない。ここが、われながらふしぎな点である。時たま薬を変えるせいかもしれない。現在は、ベンザリン三錠。
そして、この薬がないと、えらいことになるのである。いつか近所の医者に内臓の検査のため、ある薬を飲まされた。
「明朝また来て下さい。それまでは、酒も睡眠薬も飲まないように」
と念を押された。その夜は、まったくひどいものだった。眠ろうとすればするほど、頭がさえ、もう典型的な不眠症である。朝まで完全に一睡もできなかった。
だから、旅行の時は必携品として、最優先で確認する。しかし、一回だけ大失敗をやった。
オーストラリアへ行った時である。持参はしたのだが、機内持込みの鞄《かばん》に入れ忘れた。夜の便である。眠ろうとしたのがいけなかった。香港、ダーウィンで乗り換え、プロペラ機でアリススプリングスという小さな町へ着くまで一日半ほど、ぜんぜん眠れなかった。頭のなかが熱くなり、愚にもつかない妄想がつぎつぎにわき、これまた、どうしようもなかった。
苦しかった思い出は、この二回ぐらい。薬さえあれば、それこそバタンキュー。短編小説ひとつも読み切れない。もしかしたら私は、不眠症なんかじゃなく、これが就眠儀式なのかもしれない。
だから、信用できる医者が、これは最新の睡眠薬、こっちに切り換えたらと、ウドン粉の錠剤をくれたら、私はそれで、まにあってしまうのではなかろうか。
北杜《もり》夫《お》さんにこんな状態だと話したら、
「それぐらいなら、いいほうですよ。ぼくのははるかにひどい」
と軽くあしらわれた。がっかりしたものやら、安心したものやら、妙な気分だった。
薬を連用するようになってから、たぶんそのせいだろうが、夢というものを、ほとんど見なくなった。それ以前はいろいろな夢を見たもので、その点いささか残念である。
よく、小説のアイデアを夢から得ますかと聞かれるが、私はいつも否定している。なにしろ、夢そのものを見ないのだ。その代償作用として、私は幻想的な短編を書いているのかもしれない。そんな気がしてならない。
いいか悪いかはなんともいえないが、これが私の運命なのである。
モリス家
新《に》渡《と》戸《べ》稲《いな》造《ぞう》は、すぐれた学者で、教育者でもあった。台湾での砂糖産業の創始、旧制一高の校長、国際連盟の事務次長などの業績で知られている。少年時代、札幌の農学校で、クラーク博士の間接的な感化を受けてキリスト教の信者となり、さらにアメリカに留学する。明治十七年のことである。
そして、フィラデルフィアで、やはり熱心な信者で、日本びいきでもあるモリス家の人たちと親しくなる。モリス家は月に一回、日本からの留学生を自宅に呼び、聖書を読み、祈《き》涛《とう》をし、夕食をともにする会を開いていた。
新渡戸はその家で、メリー・エルキントという女性と知りあい、のちに結婚するに至るのである。
それはそれとして。
私の亡父、星一《はじめ》が野口英世と知りあったのも、フィラデルフィアにおいてである。野口の渡米が明治二十三年の暮だから、その翌年ということになる。
亡父が晩年に語り、大山恵佐がまとめた『星一評伝』によると、日本びいきのある夫人の家においてとある。なんとなくモリス家を連想させるが、この本にはその名前までは書かれていない。
私が亡父の少年期および青年期を『明治・父・アメリカ』という本にまとめる時、ここでかなり迷った。強引にモリス家にしてしまいたい誘惑にかられたのである。野口英世に関しては奥村鶴吉著、エクスタイン著の二冊が有名だが、そのいずれにものっていない。
そもそもの執筆目標が、年代などのまちがいを正しておきたい点にあり、事実をもとにとの方針だったので、ちがっていた場合を考え、そうはしなかった。
しかし、そのあと講談社から『野口英世――その生涯と業績』という全四巻の本が出版された。丹《たん》実《みのる》という野口英世の研究家によるもので、第一巻には新資料にもとづく伝記が収録されている。
そのなかに、野口英世はフィラデルフィア時代、児玉という人の紹介で、モリス夫人宅での日本人会に招待されるようになったとあった。
やはり、そうであったか。
ほっとするような気分になれた。やっと、なぞがとけたのである。それにしても、このモリス家は、ずいぶん長期にわたって日本からの青年たちの面倒をみてくれたものだ。
英語の苦手な私の手にはおえない。どなたかアメリカに行かれ、時間的な余裕のあるかたがおいでだったら、フィラデルフィアのモリス家を調べて下さるとありがたいと思う。のちに有名になった人の名が、ぞろぞろ出てくるはずである。
初代の北大総長の佐藤昌介、内村鑑三、そのほか、さまざまな人が世話になっている。はじめのころ、このような優秀な人たちが集ったため、日本人への好感が一段と高まり、野口英世も私の亡父も、そのおかげをこうむったといえるわけである。
モリス家が日本びいきになったきっかけも、知りたくなってくる。近代日本の築かれた過程のなかにおける、かくれたる恩人のひとりというべきではなかろうか。子孫の人たちは、どうしているだろう。
亡父は野口とも交友がつづき、新渡戸にも一生を通じて指導を受けた。その双方がモリス家との縁を持っているのが面白い。また、この二人は戦後、記念切手に描かれた人物という共通点もある。
第三者にはどうということもない話だろうが、私にとっては最近におけるちょっとした収穫である。人というものは、意外なところで関連しているのだなと知らされたのだ。
私とSFの二十年
早いもので、もう二十年になる。そのころ私は、空飛ぶ円盤研究会なるものに入っていた。いまでこそUFOブームだが、当時は偏見を避けながらの存在だった。その会員の柴野拓美が言い出し、私も賛成し「宇《う》宙《ちゆう》塵《じん》」というSF同人誌のできたのが昭和三十二年。その第二号に書いた作品が江戸川乱歩先生編集時代の「宝石」に転載された。
たまたま亡父から引きついだ会社の営業不振による大混乱がおさまり、社を人手に渡した時だったので「どうやら、これで食ってゆく以外にないらしいな」と、この道に入りこんだ。しかし、前途がどうなのか、まるで見当がつかなかった。
仁木悦子の乱歩賞受賞によって推理小説がさかんになり、作家も続出したが、短編しか書けず、しかもSFの私は、いささか取り残された形だった。それでも、こつこつ書きつづけた。たくさんある月刊誌のどこかには、SFに好意的な編集者が、ごく少数だがいたのである。また折にふれてSFを声援して下さった、扇谷正造さんほか何人かのかたたちの恩を忘れるわけにはいかない。
そんな状況のなかで、小松左京、筒井康隆などが独自なものを持って出現してきた。福島正実によって「SFマガジン」が創刊され、アメリカ、ソ連でSFは広大な読者層を持っていることを知り、かなり力づけられた。
作家になって四年後の昭和三十六年、ガガーリンの乗った人間衛星が、はじめて大気圏外へ飛んだ。いくらか、SFに光が当たりはじめた。しかし、新奇な流行現象に接する目つきによってである。
回想すると、SF作家は、ずいぶん妙な使われかたをされてきた。新聞の元日特集号、PR誌、埋草的なあつかい、などである。みな「おかしな注文が多くて困るよ」とこぼしながらも、力を抜いて書いたことはない。それは、だれのでもいいからSF短編集をお読みいただければ、わかることである。こういう体験によってきたえられたと、いえないこともなさそうだ。
福島正実はSFへの偏見を打破するため、機会あるたびに議論をいどんでいた。文字どおり身命をなげうってである。しかし、SF作家の総意というわけではなかった。書くこと自体に喜びを持っていたのだ。注文があるということは、読者が存在するからである。本を出せば、大部数とはいかないまでも、ある部数は売れる。その手ごたえは、うれしいものであった。そうでなかったら、とても割の合う仕事ではない。
世の繁栄とともに、人びとは未来に関心を持ちはじめ、未来論の流行となり、それはバラ色の未来論ブームとなり、四十五年の万国博で絶頂となった。ガガーリンから九年の年月がたっている。それにつれて、SFも徐々にみとめられてきた。
といって、SF界がそれに便乗したわけではない。ほかの連中もそうだろうが、私の作品で、寓《ぐう》話《わ》的なものはべつだが、安易に未来を礼賛したものは一作もない。その前年のアポロ月着陸によって宇宙熱はさめ、ついでバラ色未来論も消えた、熱しやすくさめやすい国民性をまざまざと知らされた。
しかし、SFは存続しつづけた。もともとそれらのブームとは、別物だったのである。その九年間に、私は殺人的な忙しさというものを経験していない。すすめられるまま、亡父を主人公に『人民は弱し官吏は強し』を書いたり、自分から売り込んで、アメリカひとこま漫画の紹介の『進化した猿たち』を書いたりしていた。四十歳前後という若さのせいもあるが、かなりの余裕もあったのだ。
万国博のあと、それまでの反動で灰色未来論、暗黒未来論、さらに終末論が流行した。こういう陰気な事柄がブームとなるなど、まことに奇妙なことなのだが、現実にそうだったことは、おぼえておいでのかたも多いだろう。ふしぎな国民性である。
それなら、小松左京の『日本沈没』はどうなのだとの反論も出るだろう。これまでの経過でおわかりのように、SF作家は連帯意識が強い。仲間ぼめと言われるのを承知で書く。つまり、あれは壮大なウソなのである。
アメリカのアシモフは、科学者にしてSF作家、とくにロボット物を得意とする人だが、読者に答えて「あんなロボットなど、出来るわけがない」と言っている。SFとは、そういうものなのだ。架空な物語のなかにこそ、むしろ真実、迫力、面白さ、考えさせる力、その他のなにかが存在するのだ。神話、伝説、民話をごらんなさい。それが本来の小説のあるべき姿なのである。
などと、いまさら力説することもない。読者は着実にふえており、SF界の若手の新人も、つぎつぎに出現している。そしてありがたいことに、ブームにならない。SFは一作ごとに趣向をこらさねばならず、そうそう書きとばせるものではないからだ。
先日ある新聞に、ある高校の国語の先生が、いまの若い者はSFのたぐいを読んで、太宰治の『人間失格』のような古典を読もうとしない、と書いて、嘆いていた。もはや太宰も古典の時代か、この人、面白いことは悪であるとの、明治以後の伝統的感覚の持ち主らしい。
私も古い世代に属し、音楽はクラシックしかわからぬが、ビートルズの曲が後世まで残るとの説には、決して反対はしない。
しかし、昨今、悩みがないわけではない。ひとつはオカルトの流行である。正直なところ、私にとってかなりSFが書きにくくなった。自分でも関心を持ちかけているから、なお困る。その調整をなんとか考えねばならない。それと、あの国語の先生のような頭の固い人たちが、少数派に転落した場合である。ある政党への皮肉ではないが、SFはいつまでも、うさんくさげに見られる異端の少数派でいたいのだ。それにしても、こんなぜいたくの言える時代になったとはねえ。
会 話
このところ、歯の治療にかよっている。知人の紹介による歯科医で、私も信頼しており、まあ満足している。
しかし、一般に歯科医に対する評判は、あまりよくないようである。料金が不明瞭だの、もうけすぎているだの、手当がいいかげんだの、いろいろである。
いったい、なぜ不評なのかと原因を考えてみて、気がついた。すなわち、会話の不足である。これが他の部分の病気なら、診察中や治療中に、医師との会話がかわせる。
「どうなんでしょう」とか「なぜ、こうなったんでしょう」とか「全快まで長びきますか」とか「今後の注意は」など。
そして、医師は答え、患者は精神的になっとくするのである。患者というものは、内心、医師の言葉を求めているのだ。
しかるに、歯科医となると、そうはいかない。口をあけたまんまなのだ。抜きましょうと言われたら、うなずく以外にない。ほかに方法はとか、治療方針はとかの質問は、どうもしにくいのである。聞けば答えてくれるのだろうが、待合室にいる人たちのことを考えると、つい言いそびれる。つまり、なんとなく問答無用という感じになってしまう。それが患者の不満となってしまうのだ。
行為と金銭の交換がなされながら、これほど会話の少ない職種は、ほかにないのではなかろうか。その点、私は歯科医に対し、きわめて同情的である。しかし、ではどうしたらいいのかとなると、その方法もないのだ。
空想的なアイデアではあるが、各種の質問を吹きこんだ押しボタン装置でもそなえつけたら、少しは改善されるのではないかと思う。テレパシー装置でもできれば、もちろん申しぶんない。どなたか、ほかに現実的な案をお持ちのかたはいませんか。
数について
午なんて字は、午前、正午、午後ぐらいしか使わない。一日が二十四時間それを二つに分け、一時間は六十分。一分は六十秒。まことに妙な分け方だが、生活にぴったりで、すばらしい知恵である。十進法にあらためろなどとの声はまったくない。
元号問題は賛否両論あるが、西暦だと「イッセンキュウヒャク」と口にしなければならず、たまったものじゃない。私は二千元年までは、元号論者である。学校の歴史の授業では西暦が用いられているらしいが、気の毒でならない。1825年は「イッパチの二十五年」と呼ぶようにすべきだ。703年は「ゼロナの三年」でいい。「イッセンナンビャク」のおかげで、われわれはかなりの混乱と、精神エネルギーのむだをやっているにちがいない。西暦論者も1978年を「イッキューの七十八年」と言ってくれたら、私はいくらか好意的になるだろう。
ハーバー
年末、函館の深瀬さんから電話がかかってきた。どういうかたかの説明は、のちほど。こういう内容だった。
「ハーバーさんが二十八日ごろ、ロンドンから来て、東京のプリンス・ホテルに宿泊されますよ」
「なんで、こんな時に」
「国際会議があるとかで」
それが本当なら、あいさつをかわしたい。私はそういうことにくわしい友人に、面会できるよう依頼した。つまり、ホテルへメッセージを入れてもらったのだ。ハーバーさんには、ちょっとしたつながりがある。
彼の父は、フリッツ・ハーバー博士。平凡社の『大百科事典』と、アシモフ著の共立出版『科学技術人名事典』をもとに、どんな人だったかを紹介する。一八六八(明治元)年うまれのドイツ人。
ゆたかな家庭だったらしい。成長するにつれ、理科的な分野、とくに化学に興味を持ち、ベルリン大学をはじめ多くの大学で学び、学位を取り、大学教授となる。さらに、カイザー・ウイルヘルム研究所が創立されると、物理化学および電気化学の部門の所長となる。学術のみならず、組織運営の才能もそなえた実際家だったのだ。
ハーバー博士の業績の最大のものは、 空中 窒素固定法の発明である。それ以前、窒素化合物の原料は、南米チリからとれる硝《しよう》石《せき》しかなかった。肥料や火薬を作るには、それにたよる以外にない。
しかし、窒素そのものは、大気中にいくらでも存在している。なんとかならぬものか。世界の化学者たちは、その方法を求めていた。だれが先になしとげるかである。
そんななかでハーバー博士は、高圧下で鉄を触媒とし、窒素と水素を結合させ、アンモニアにする方法をみつけ、一九〇八年、その実験に成功した。
チリの硝石は有限である。一方、窒素化合物への需要は高まる一方、早くいえば、人類と文化の救い主ということになる。
ところが一九一四(大正三)年に、第一次大戦がはじまった。ヨーロッパの各国、入り乱れての戦争である。イギリスは敵であるドイツの息の根をとめるため、海軍力を動員し、硝石の入手を妨害した。
そうすればドイツの火薬類は原料不足で底をつき、降伏となるはずだった。しかし、ドイツは窒素の生産を高め、火薬に不自由しなかった。なにしろ、原料は大気なのだ。
肥料と火薬。火薬かならずしも戦争用とは限らないが、対照的な取り合わせである。飛躍した発明には、有益と危険の両面がともなうものなのかもしれない。
戦争への利用に関し、ハーバー博士は悩んだりしなかった。心の底からの愛国者だったのだ。自分の発明が祖国のために役立つのを見て、満足感を味わった。
また、ガス戦の計画をたて、推進し、戦線での指導までした。毒ガスという非人道的な兵器で、のちに国際法で禁止されるに至ったが、当時においては新戦術だったのだ。
ハーバーの弟子にベルギウスという化学者がいた。彼は石炭や重油を水素で処理し、ガソリンにする方法を発明した。さらに、木材を分解し、糖分やアルコールを作る方法も。
つまり、ハーバー博士を中心とする頭脳集団は、ドイツの戦力に大きく貢献したのだ。しかし、一九一八(大正七)年力つきてドイツは降伏。ベルサイユ条約に調印。多額の賠償金の支払いの義務をおわされた。その時、彼は国のためにと、海水から金《きん》を採取する研究をおこなった。もっとも、不成功に終ったが。
敗戦国の人とはいえ、とにかく偉大な学者である。戦いが終ったあと、ハーバー博士はノーベル賞を受けた。
ここで、私の亡父、星一《はじめ》に話を移す。星はアメリカへ渡って苦学して大学を出て、帰国、製薬事業をはじめ、明治四十年には株式会社にし、内容を充実させていった。
それからの事業は、順調をきわめた。まず、イヒチオールの国産化、そのあと、モルヒネの国産化。いずれもドイツから高値で輸入していた薬品である。
少し横道にそれるが、国民性の差を科学と産業の面で見ることができる。イギリスは蒸気機関の発明による産業革命で、驚くべき成果をあげた。ドイツの医学はいうまでもないが、化学についても炭鉱に恵まれているためか、高い水準を示していた。そこへゆくと、アメリカは電気である。広大な国土での通信という必要のためであろう。
そこで、大戦。日本は日英同盟を理由に、ドイツに対して参戦。大陸のドイツの利権を奪い南洋諸島を占領、いい気分だった。一時的な経済不況はあったものの、たちまち輸出が増大し、あらゆる産業が高利益をあげはじめた。成金という言葉も、この時にできた。
星製薬も同様。輸出品ではないが、ドイツからの薬品の輸入がとだえ、内需の大部分を引き受ける形になったのだ。
やがて、戦いが終る。時の政界の大物、後藤新平は、若いころドイツで医学を学んだことがあった。その時期の友人、ゾルフが駐日大使として着任。会った時、敗戦ドイツの悲惨な実情を聞かされた。
後藤は星にそのことを話した。
「気の毒でならない。すぐれた学者たち、なんの研究もできないでいるらしい」
「なんでしたら、わたしがドイツの学界に寄付をしましょう」
星製薬としては、大戦のおかげでもうけたともいえるのだ。この前後については、私の『人民は弱し官吏は強し』という本で詳述した。
まず、八万円が送られた。中堅会社員の給料が三十五円ぐらいだった時代である。ドイツの学者たちは、喜んでくれた。なにしろ、賠償の取り立てを狙う国ばかりというなかでのことだ。あまりよくなかった対日感情も好転した。
そして、大正十三年の十月、ハーバー博士が来日した。ノーベル賞の化学者、また星の寄付した資金を管理する学術後援会の会長でもある。この会はのちに、日独文化協会となる。
答礼をかねた、学術交流のための文化使節。そんな形での来日と思っていたが、昭和六年に岩波書店から出版された『ハーバー博士講演集』を読みかえしたら「星一氏の招待による」とあった。二ヵ月間の滞在、私の父は北海道から、箱根、関西まで案内した。意気投合し、たえず論じあっていたらしい。
まあ、そういった関係だったのだ。
『講演集』はそう厚くはないが、充実した内容である。当時の日本の各分野でのアンバランスの指摘など、まさにその通り。批判すべき点は、遠慮なくやっている。しかし「日本もドイツも、アメリカとちがって資源が少ない。教育の向上によって、国を富ませるのがいい」と、すぐれた忠告もしている。空中から窒素を取り出した人の話だと、説得力がある。
しかし、亡父の事業は、後藤新平の勢力を弱めようとの政治的な陰謀に巻き込まれ、それまで順調だったのがうそのように、たちまちゆきづまり、昭和八年ごろまでの長い苦難の時期をすごすことになる。
一方、ハーバー博士も同様。典型的な愛国者だったのに、ユダヤ系であった。そのため、ヒトラーが政権を取ると、地位を追われた。昭和八年、イギリスに移ったが、そこの生活になじめず、スイスに行き、翌年、失意のうちに世を去った。
さて、最初に書いた函館の深瀬鴻一郎さんについて説明する。本業はお医者さんで、絵を趣味とし、郷土史の研究もなさっている。以前、とつぜん私のところへ、電話がかかってきた。自己紹介のあと、
「星さん、あなたのお父さんが来日したハーバー博士を、北海道へ案内しましたね。わけをご存知ですか」
「さあ……」
広大な北海道の開拓への案を求めて、といった想像しか浮かんでこなかった。
「博士の叔父さんの墓が、函館にあるのですよ」
「それは知りませんでした」
つづいて、資料が送られてきた。
幕末の安政元年、幕府は外国の力に屈し、下田を開港。つづいて六年、神奈川(横浜)、長崎、箱館(函館)を開港、各国の領事館ができる。
ドイツがいつから函館に領事を置くようになったのか不明だが、明治七年二月、ルードウイッヒ・ハーバーが着任した。三十二歳の独身の青年外交官。
前任地の熱帯でマラリヤに感染し、しばらく静養をつづけた。八月十一日、気分がよくなったと、函館の町の散歩に出た。これが不運のもととなる。
旧秋田藩士の若者が、この地に来ていた。学んできた国学は、文明開化の世では、なんの役にも立たない。廃藩置県で、武士の価値はなくなる。いばれるのは、薩長土肥の者だけ。下級士族の不満の高まっていた時代である。
こうなったのも、外国のせいだ。まさに短絡だが、人間、思いつめると、なにをやるかわからない。だれでもいいから外国人をひとり殺すことで、世に訴えようと考えた。
たまたまその目標にされたのが、ハーバー領事。いくら同情しても、しきれない。その死体についての報告書を書いたのが、深瀬さんの祖父とのこと。
函館開港以来の事件だが、計画的なものが背後にあったのではなく、犯人の私憤ということで、ドイツは寛大な扱いをしてくれ、加害者の処刑だけで解決。
さわぎたてられたら、明治政府は青くなったところである。
遺体は函館の外国人墓地に埋葬された。死後五十年には、そばに碑が建てられた。大正十三年で、来日したハーバー博士によって除幕がなされた。いろいろと新知識をえた。
深瀬さんは、そのご上京の時に、拙宅に寄られ、お会いできた。そして、今回、ハーバー博士のむすこさんの来日を知らされたというわけ。
連絡がとれ、私はホテルに出かけた。西谷君という、英語のうまい友人とともにである。こみいった会話となると、手におえないのだ。
最上階のバーにいると、ご本人があらわれた。背は私と大差ない。やせぎみの、白髪の多い、おとなしそうな、にこやかなかたである。
博士の叔父と同じく、ルードウイッヒという名。略してルッツと呼んでくれという。
大ざっぱに暗算し、私はかなりの年配の人だろうと思っていた。
「おいくつですか」
「五十七歳です」
私より五つ上だ。家系図を書いて説明してくれた。ハーバー博士の二度目の夫人とのあいだにできた、一男一女の一男に当る。一女はスイスで存命。前妻とのむすこ、つまりルッツさんの兄に当る人は、だいぶ前にパリで死亡。
「函館でなくなられたかたは、博士の伯父さんですか、叔父さんですか」
「さあ、わかりません」
知らないのだ。兄か弟かにこだわるのは、東洋の風習である。深瀬さんの文には叔父とあり、当時の新聞には伯父とある。
ルッツさんは、持参の写真を出した。
「あげましょう」
複写して引き伸したもの。ハーバー博士、夫人、私の父がうつっている。夫人を連れての来日だったのだなと、気づく。外国ではそれが普通なのだ。
大きな頭、はげあがっている。丸顔、口ひげ、背は私の父と大差ないが、かっぷくがよく、軍服のほうが似合いそうだ。夫人は若々しい。ルッツさんをうんでまもなくという計算になる。ハーバー博士はこの時、五十六歳。
私の亡父は思い出す限りでは、みごとな白髪だが、この写真だと黒さがいくらか残っている。五十一歳の時だ。
「ふしぎな縁ですなあ」
と私。西谷君がどう訳したか知らないが。
ルッツさんはウイスキーのストレートを小さなグラスで飲み、あとは水だけ。
経済と統計を専攻し、化学関係の会社などにつとめ、現在は大学教授。一月五日から、静岡で国際会議があるのだそうだ。元日には、浅草へ着物姿の女性を見に行くとのこと。
かなり前にも、来日しているようだ。
「その時の函館には、碑がありませんでした」
終戦の少し前、ドイツが連合国に降伏すると、軍の手によって埋められてしまった。社会が落ち着いてから、掘り出され、ふたたび日の目をみるようになったのだ。
写真を見ていて、思いついて質問した。
「奥さんは……」
「背骨の病気で、ロンドンにおいてきました」
夫人は再婚で、連れ子がいるとか。私は持参してきた、ジャパン・タイムス社刊の英訳短編集をさしあげた。
「おお、サイエンス・フィクション。ファンタスティック……」
喜んでもらえた。また『人民は弱し官吏は強し』をおずおず差し出すと、そういう本ならぜひ下さい。だれかに読んでもらいますと、受けとってもらえた。
いい気になって書いてしまったが、こんな話、私以外の人にとって、どこかで面白さを感じてくれただろうか。
と し
戦前は、新年になるたびに、としがひとつふえた。私はいまだに、その感覚にとらわれている。年があけると「ああ、またとしをとったなあ」と思う。
現在では、誕生日でとしをとる。娘がケーキを買ってくるので、としをとらされてしまうのだ。
というわけで、年に二回、としをとらされている。半分ずつ二回というべきか。あんまりいいものじゃ、ありませんな。自分が何歳なのか、とっさに答えられないことがある。
まったく、としをとったものだ。二十代の若手作家が続出しているのを見ると、うならされる。親子ほどの年齢差だ。
そのくせ、自分じゃあ若い気でいるのである。作家には、昇進ということがない。またSFとなると、自己の宇宙にとじこもりがちである。社会体験をつみ重ねることも少ない。停年があるわけでもない。としをとったという実感が薄い。
軽い近視のため、昔は原稿用紙に目をすれすれに近づけて執筆していた。それが、老眼が進行し、紙と目の間が三十センチ。背すじがまっすぐ、いい姿勢。他人が見たら、若々しく感じるだろう。いい気なものだ。
しかし「としだなあ」と思い知らされることがふえてきた。義理でやむをえない仕事が、ふえてきたのだ。ここ三ヵ月ほどのうち、そんな例をあげてみる。
岩手県の水沢市から、講演をたのまれた。大部分「苦手ですので」とお断わりしているが、後藤新平の生地で、死後五十年記念館の完成祝いとあっては、仕方ない。亡父がひとかたならずお世話になっており、私も人物伝を書かせてもらっている。往復十二時間。かなりへばったが、いくつかの新発見の収穫もあった。
講演といえば、それと前後して、文芸春秋の主催で、福島、栃木をまわった。作家になってはじめて注文をくれた編集者の印南さんからの依頼となると、断われない。それに、いわき市は亡父の出生地。小さな銅像が作られていて、年に一回、供花をする。この際それを兼ねてと、いささか横着をきめこんだ。
長部日出雄さん、山崎朋子さんといっしょで、なかなか楽しい旅となった。白河では、河出書房「星の手帖」誌の依頼の、藤井旭氏の天文台の見学もやれた。
角川小説賞の、選考委員のひとりにもされている。とても、そんな大それたことはという気分だが、やむをえない。作家が年齢を実感するのは、こういう賞の選者にさせられた時ではなかろうか。
候補作を数冊読むことで三日はつぶれたが、参考にもなった。今回の賞は谷克二氏。日本人ばなれしたスケールの作風だ。
SFの仲間、高斎さんが飛行船を扱った長編を書き上げた。推《すい》薦《せん》文を書く。義理があり、読んで傑作というほど、ありがたいことはない。つづいて、十七歳のSF新人、新井素子の初の作品集の解説。昨年の「奇想天外」誌の新人賞の選考の時、私が強力に推《お》した作者である。将来が期待される。その「奇想天外」の本年の予選通過作品が、どさりととどけられた。入念に読まねばならぬ。予選をした人は大変だったろうな。
京都へも行ってきた。今江さんに「一生のお願い。講演を」とたのまれた。そんな義理もあるのだ。いい季節で、倉本聰さんとお会いでき、行っただけのことはあった。
そのうち、講談社の募集したショートショートの予選通過作品が、どさりとくるはずである。五千編も集まったというから、驚異だ。五百編ちかく読むことになるだろう。百ぐらいなら楽しい仕事なのだが。
もともと私は量産タイプの作家ではないが、こういうこともあろうかと予想し、いくらか受注をへらしていたため、あまりあたふたしないですんでいられるというわけ。
あの時の私
ついうっかり、こんな欄の原稿を引き受けてしまった。作家になったころの話は、すでに書いている。そのほか、未発表のめぼしい追憶談は、ほとんど残っていない。
戦時下の旧制高校のいやな思い出は、まだ書いてないが、その気になれないし、なったとしても、この枚数にはおさまらない。
たね切れなのである。小説なら「他人の思考を読みとれる才能のあったころ」とか作れるのだが、そうもいかない。
現在の私には、以前の私となにかちがった点はないか。こういう正攻法的な思考は好きでないが、やむをえない。そして、思いついた。ひとつの大変化があった。
机の上から、灰皿とライターが消えた。つまり、タバコと縁を切ったのである。「別冊小説新潮」に書いたが、昭和五十三年の春、断食なるものを試みた。その期間は禁煙で、それを機会にやめてしまった。
戦時中、することがないので配給のタバコを吸ったのがはじまり。つまり、三十五年の交際ということになる。これがやめられるものとは、夢にも思わなかった。だから、吸っていたころの私を考えると、なんだか別人のような気がする。もともと、体質が合わなかったのかもしれないとさえ思う。
いまや、他人がそばで吸っていても平気である。むしろ、食後ひとり書斎の椅子にかけた時、むしょうに吸いたい衝動に襲われる。それも三十秒ほどでおさまり、そう感じることも少なくなってゆく。
その前年、書斎を改築し、冷暖房完備にした。快適にはなったが、煙がこもるのだ。換気装置はあるが、フル回転させると、冷暖房の効果が落ちる。矛盾である。なにか解決方法はないかと無意識のうちに考えていて、禁煙以外にないという気になったからか。
こんな時期にやめると、嫌煙権の声に押されたみたいで不本意なのだが、自分に対する嫌煙権である。こもった煙のなかでの深呼吸は、からだによいとは思えない。
絶対という言葉は好きでなく、週に一回ほど銀座へ出るので、バーで一本もらって吸ったりした。だんだん、うまくなくなってきた。なんで、こんなものを愛用していたかである。最近では、吸って吸えないことはないが、めんどくさいという気分。
しかし、なにかで読んだことだが、タバコをやめると、なぜか酒の量がふえる。飲みかけのグラスを枕もとに、いつしか眠っていたりする。としのせいかな。
タバコを吸いながらだったら、なにかに燃え移り、大事になっていたかもしれない。以前に、それに似た体験をしているのだ。それを考えると、ぞっとし、タバコをやめていてよかったと思う。そのために酒量がふえたので、これまた一種のパラドックス。
副作用といえるかどうかわからないが、それ以来、小説中の人物もタバコを吸わなくなった。時たま、気がついて吸わせたりして。
敬称の問題
わが国では依然として、手紙の書き方なるものを、学校で習うということはないのである。つまり、どう書いたものかわからない連中が、つぎつぎと社会へ送り出されているわけだ。教えれば型にはまるというのも一理だが、せめて基本的なことぐらいは。
このあいだ、ある小さな雑誌で漫画の募集をやり、審査をたのまれた。とじこみのハガキに描かせたのである。片面にその社の所在と社名と「漫画係」と印刷されている。それに御中と書き加えてないのが半分あった。
それらは無条件で落してしまった。非礼であり、こういう神経では創作をする資格がない。家庭、学校のしつけ不足を、こういう機会におぎなってやらなければならんのか。中学生ならまだしも二十七歳、公務員なんてのがそれではね。
どこかの段階で、ひとこと教えておいてくれればいいのだ。むずかしいことではない。
しかし、いまの世の中、誤解のもとが多すぎるのだ。まず、マスコミがよろしくない。新聞の記事の文章である。たちの悪い事故を起した場合は、運転手田中何某であり、忘れ物をとどけた場合は、田中何某運転手となる。職名を下につけると、高級なあつかいになるのは、どうしてなのだ。
カーター大統領、大平総理となると、なんとなく敬称で呼んだような気分になる。鈴木社長、宮下部長、やはり、敬称ムード。山田係長も同様だ。それなら、漫画係も、それだけでいいじゃないかと思うやつもあらわれる。
新聞は簡略第一を方針としているから、こういう矛盾が起るのだ。しかし、肩書のない星野という男がいて、よそから来た人に「星野庶務係はどこです」と言われたら、いやな気分になるはずである。
そばにあった新聞を開いてみる。個人営業で肩書きのつけにくい人は、旅館経営のなんとかさんと「さん」づけである。どうにも割り切れないのは、暴力団どうしの撃ち合いである。殺したほうを呼び捨ては当然だが、やられたほうは「さん」づけである。
それから、氏をつける場合もある。「さん」と「氏」はどうちがうかとなると笑い話だが、微妙な使いわけがあるらしい。ちなみに死亡記事の男性は、みな「氏」をつけられている。
それがスポーツ面となると一変、ただの呼び捨てである。しかし、写真説明となると、なんとか選手と、「選手」を敬称みたいにくっつけている。
もう、なにがどうなっているのか、基準がさっぱりわからん。かと思うと、政界解説記事などの最後に(文中敬称略)なんてくっついていたりする。幹事長だの書記長を姓につなげれば、敬称になるのか。
ある必要があって、大正時代の新聞を読んでみた。犯罪の容疑をかけられた社長が、警察に連行された記事がのっていた。逮捕された〇〇氏は青ざめ、といったふうに、氏がくっついている。有罪判決までは人権尊重の時期もあったのかとも思った。
しかし、さにあらず。記事の下のほうを見て、驚いた。身分の低い者の場合は、加害者、被害者、善意の人も、みんな呼び捨てなのである。あきれはてたが、基準が存在していたことは、たしかなのだ。無茶とはいえ、はっきりしている。
それが戦後、民主主義の時代となり、迷ったあげく、職名を敬称あつかいにすることにしたのだろう。しかし、すべてに通用するわけではない。山本弁護士ならさまになるが、星作家と書かれた場合、少なくとも私は楽しくない。
運転手が敬称あつかいになるのは、それが一種の資格だからか。医師、牧師なんて師のつくのはいい。しかし、漫画家、詩人のたぐいは、姓名にくっつけても敬称ムードにはならない。
関取は呼び捨てである。「あの強い北の湖さん」なんて文は、見たことがない。「山口百恵歌手は」というものもない。しかし、なぜか長島監督、黒沢監督なのである。
まったく、日本語というのは、やっかいである。もっとも、その微妙なところに、なんともいえないよさがあり、心のどこかでそれを楽しんでいるのだろう。
ドイツ語には物の名に男性、女性、中性の別があり、冠詞がちがい、それが使われ方によって変化する。大変なことだと思うが、ドイツ人が持てあましているということは聞いたことがない。
それはとにかく「あて名のなんとか係には御中を書き加えろ」ぐらいは、理屈ぬきで教えておくべきだろう。
かなり前だが、ある人から聞いた話。そのかたはある企業につとめていて、宣伝のため映画の試写会を開催した。広告をすると、申し込みのハガキがどっと集った。そのかたは御中とついてないのは独断で除き、残ったうちから抽選で入場券を発送した。
そして、当日。満員の会場は、それまでとうって変った上品なムードでみちていたという。そういうものなのだ。
ビール
先日、大学のクラス会があった。卒業して三十年を越える。このところ、年に二回ほど集まる。いつもは都内を会場にしてやるのだが、今回は趣向を変え、宇都宮のビール工場の見学をかねてやろうということになった。農学部農芸化学科のクラス会なのである。発酵関係もそれに含まれる。そこの工場長も級友というわけなのだ。
上野から一時間半ほど、ここの工場は、新しく完成したばかり。最新の設備であり、見学者のためのバスがあり、案内嬢もおり、記念のみやげ品まで売っている。
ビールの製造については、講義で教えられたし、原理は単純である。大麦を発芽させると、その芽が炭水化物を糖分にする作用を持つ。それで糖分の液体となったあと、酵母を入れると、糖分がアルコールに変る。ホップを入れると、出来上りである。しかし、見学で新知識を得た。大麦だけを使うのかと思っていたが、コーンスターチや米も加えて使っているのである。米を使っているとは、ぜんぜん知らなかった。
浄水装置も完備している。
「ここがそうで、排水は完全な真水にして川へ流しています」
との説明。私は言った。
「ビールのカスなら、魚は真水より喜ぶんじゃないですか」
私は、ビールのカスから作るエビオス錠《じよう》を愛用し、調子がいいのだ。そのうち、工場長が説明。
「イギリス人が飲み、ほめてくれました」
そこで、また私。
「ビールは輸出産業じゃないから、外国人のことより、日本むきの味を作るほうがいいんじゃないんですか」
同級生だから、勝手なことが言える。それに、私はぜんぜん別な分野に進み、不勉強も平気なのだ。工場長が答えにつまったりし、幹事が「星に変なことをしゃべらせるな」と大声をあげたりした。
それにもおくせず、私はさらに大疑問を提出した。
「いったい、ホップというもの、なんのために入れはじめたのだ」
ホップとは、苦味のもとである草。驚いたことに、だれも知らなかった。少なくとも、日本ではこの分野にくわしい仲間たちなのに。盲点というわけか。
討論のために集まったのではなく、旧交をあたためる会である。市内の高級バーに会場を移し、飲み、歌い、夜の列車で帰京。つぎの日、百科事典で調べてみる。ビールの起源は紀元前四千年、メソポタミア時代とのこと。下ってエジプト時代、ビールは国家の管理で、大きな産業だったそうだ。
それにホップを加えはじめたのが、八世紀ごろのドイツに於てで、その栽培が広がってゆく。なぜそうなったのかは書いてない。
ホップ入りがビールの条件なら、歴史は数千年なんて言えないわけだ。それにしても、ホップなしのは、どんな味なのだろう。
ほろにがさがビールの特徴で、たしかにうまいと思う。しかし、それは、その味になれてしまっているからではなかろうか。はじめての人にビールを飲ませると「にがくて、うまくない」というのが、正直な反応だろう。なぜ、わざわざ、こんな味をつけたのだ。
タバコだって、はじめはうまいものじゃない。それなのに、アメリカ新大陸からもたらされ、たちまちひろまったのは、ステータス・シンボルあつかいだったからとのこと。ホップ入りのビールもそうだったとは、思えない。ビールほど格差のない飲み物はないだろう。
先日、酒にくわしい開高健さんに会った時に聞いたら「防腐作用のためじゃないかな」と言っていた。しかしホップの防腐作用など、どの本にも書いてない。
ホップの原産地は、どこなのだろう。そのあたりをまず調べる必要がありそうだ。たぶん、薬理作用があると信じて入れ、飲みつづけ、そのうちその味になれた。案外、この推察が当っているのではなかろうか。しかし、どんなききめを期待したのか、見当がつかない。そもそも薬草という考え方は、中国にはじまる東洋医学的なものだ。
もしかしたら、ビールの味なるものは、これがうまいのだと、後天的に教え込まれたものなのかもしれない。本当にうまければ、もっと早く飲料に入れていたはずだ。何千年もの年月があったのだから。
コーヒーも、あれ、かけねなくうまいものなのか。ムードのせいじゃないのか。ミルクと砂糖抜きで、子供に飲ませればわかる。この、後天的な美味を作り、楽しむのが、つまりは文明というものなのかもしれない。
こう考えてくると、日常生活で当然のように見ているもののなかに、けっこうなぞのひそんでいることがわかる。
道
道とはなにかなど、私はめったに考えたことがない。車の運転をしないせいであろう。執筆が職業で、通勤ということもない。国道ぞいに住んでいながら、考察の対象にならないのである。
十年ほど昔になるが、加藤秀俊(現・学習院大教授)に、イラストレーターの真鍋博といっしょに引っぱり出され“道”をテーマに座談会をやったことがある。
吉川英治『宮本武蔵』の魅力の「求道」をはじめ、茶道、柔道など、日本文化のなかの道についての感覚が話題になった。道路についてはもちろんだが、あげくのはて、道具とか道楽とか話はひろがる一方だった。
その時は、道具なんて、道とどうつながっているのか、さっぱりわからなかった。しかし、二年ほど前に韓国に行ってみて「ああ、道はこういうものだったのか」と、あらためて認識させられた。
かの地に出かけてごらんになった人は多いだろうが、最も印象的だったのは、いわゆる三十八度線の板門店への道路だった。万一の場合には、増援部隊を進行させる。しかし、戦局が有利に展開するとは限らない。後退する場合だってある。その対策は。
各所に大きな門が作られている。なにかと思ったら、内部の火薬を爆発させ、道路上の障害物とし、侵攻軍の速度をおくらせるわけである。橋も同様。だから、見学のバスに乗っていても、緊張の連続。まちがって、どこかでボタンが押されたら、一巻の終りだ。道というものは、危険かつ不便でなくてはならない場合もあるのだ。
慶州という古都からソウルまで、バスに乗り、みごとなハイウェイを走った。これもご存知のかたが多いと思うが、ところどころ中央分離帯のない個所がある。
非常の際に、そこを戦闘機の滑走路に使うためである。平穏に三十数年をすごしてきた私たちには、きびしいものだなあと感じさせる。そういえば外国映画で、ギャングたちが飛行機を乗っ取り、建設中の道路に着陸させるというシーンがあった。普通では思いつかぬ盲点だが、韓国ではそれが日常的な常識となっているのである。
そして、いうまでもなく、人間や物資の輸送に利用されている。道というものは、使いかたも関連しているのである。道具という語も、そんな意味があってかもしれない。
たまたま韓国の政界の人と話す機会にめぐまれ、道路の完備についてほめたら、動乱のあと米国の援助資金で、なにはさておきと道路を作ってしまったとのこと。
「だから、舗装は薄いんです。将来、走行車両がふえればそれにつれて厚くしてゆけばいいわけです」
なんとも利口なやり方だ。立体交差も多いが、日本とちがって地震がないので、そう大金をかけずに作れたのだろう。韓国の驚異的な経済成長は、この道路なしには考えられない。自動車の生産も伸び、道路の補修も進めてゆける。
わが国の場合、明治維新、開国、文明開化の時、国策としてまず、鉄道網が全国に作られた。先見の明のある政治家がいたわけだ。あれよあれよというまに進行。軍事的な意味もあったが、それによって産業が振興し、近代国家へ変身できた。
そのため、道路の発達がおくれたともいえる。明治時代には、東京の中央部においてすら、道路はひどいものだった。雨が降ったら、まさに泥沼だったのである。
そのかわり、道は多種多様な面を示していた。子供の遊び場でもあり、露店の並ぶ場所でもあり、大道芸人の舞台でもあり、物売りが通り、社交の場でもあったのだ。いまや、それらはすべて失われ、マラソンをする人を見て、あ、こんな利用法もあったかと思うぐらい。
道が多目的でなくなるにつれ、別種の道がふえてきた。新幹線は貨物を運ばず、あれは新種の道である。地下鉄の線もふえた。空には航空機の道。あれは道でなく、路だとだれかが言っていた。そういえば、電子回路とはいうが、電子回道とは呼ばない。
こう考えはじめると、道の本質はなにかがつかみにくい。そのせいか、未来の道路も想像しにくい。SFではよく、動くベルト道路が登場するが、そうなるかどうか。最近の作品には、あまり描かれない。
道には、神秘的なものが含まれているのではなかろうか。道祖神などの風習も、そんな感覚からうまれたのだろう。
人体内にも、血管、リンパ管と、さまざまな道がある。そして、私がいま最もふしぎに思っているのは、ハリ、キュウの経絡である。ツボとツボをつないだ線のことで、その図をごらんになったかたも多いだろう。たしかに存在しているらしいのだが、なんでどう連絡しているのか、いまだに説明がつかないのである。未知なことは多い。
高齢化社会の小説
このところ、生命保険のしつっこい勧誘がこなくなった。営業方針がソフトになったのかなと思い、よく考えて気がついた。つまり、私がとしをとったということなのだ。先日、地下鉄内で席をゆずられかけ、ぼうぜんとなった。白髪がふえたせいである。シルバーシートなどの名称のごとく、一般の人は髪の白さで年齢を推定している。もっとも、私は十数年前からSF界の長老と呼ばれており、名実ともにそうなったというだけだ。
としをとるのは、時間の流れている限り仕方のないこと。問題は、それをみとめ受け入れるかどうかである。気づかないまま、以前の意識を押し通そうとすると、無理が生じ不自然となる。このことは、やさしそうでなかなかむずかしい。
日本はいま、高齢化社会にむかいつつある。いや、すでにそうなのだ。統計の数字などで知ってはいても、身にしみて理解している人の割合は、ずいぶんと少ない。といって、年金について論じようというのではない。
こと小説に関してである。娯楽小説の主人公は、係《けい》累《るい》の少ないことが望ましい。カミサンが会話中に出てくるコロンボは例外、あれは主人公が安全とわかった上だからである。ヒーローの条件は独身、両親なしである。
欧米社会なら、親は親、子は子で、とくに説明しなくてもすんでいる。しかし、その小説の手法をそのまま現代日本に持ち込もうとすると、困ったことになるのだ。
これを主題にショートショートを書いてみたが、現実にそうではないか。若い主人公を大冒険に出発させたい。語学、知識、運転、運動の能力をひととおり持っていてとなると、両親がいて大学を出ていないとおかしい。この過保護時代、両親が許すわけがない。両親がらみ事件に巻きこまれる形にすると、ますますやっかいだ。
安易ではあるが、両親をいっぺんに事故死させる書き方がある。ストーリーの展開のため、作者によって死なされている人物はふえていると思う。いちおうの解決だが、祖父母のうち何人かが生きている場合も、多いはずだ。
ある現代小説を読んでいて、驚いた。その作者、登場人物に係累のないのをそろえたかったらしく、ある人物の両親を事故死させ、ある人物のは自殺させ、ある人物の両親はあいついで病死し、ある人物のは蒸発と、いちいち書いていた。こうなるともう、作者の意図がどうあれ、のろわれた人物たちの織りなす怪奇小説となってしまう。
親の意見など知ったことかという、かつての赤軍派のようなたぐいならいいわけだが、広い読者を引きつける主人公にはしにくい。女性主人公でも同じことで、自由、気ままに動かしにくい。不可能ではないが、特異な性格にしなければならないわけだ。
こうなったのも、高齢化社会と中流意識層の拡大のせいである。平均寿命が短く貧しさが日常的だった時代物、社会の変化を察してくれる未来SFならいいのだが、現代が舞台となると、リアリティーが出しにくい。登場人物の一覧表などのメモを作りながら読むと、どこかでおかしくなってくる。
現代のわが国では、昔のままの物語つくりは通用しないのではないか。手法の変化を迫られているようだ。では、どう変るか。係累があってもなくてもいいような設定。あるいは、それに触れなくてすむようなストーリー。読み出したとたん、ぐいと作中に読者を引き込み、よけいなことを考えさせない筆力。そのほか、あれこれ。
私としては当分、ショートショートしか書かない。読者が考え込む前に終わらせてしまうのだ。長めのものを書いてみようという気もあるが、すぐこの点に頭がいってしまい、筋がいっこうに発展しない。
そこまで気にしたら、小説は書けませんよと、ある編集者に言われた。そうかもしれない。現代小説を読んでいて、この人物の両親は、祖父母はと、いちいち気を回していてはいけないのだろう。うん、これこそ、私の老化現象のあらわれにちがいない。
作家の日常
そもそも作家なんてものは、かっこいい日常をすごしてはいないのだ。出版パーティーなんかの写真を見て、うらやましいような気分になる人もあろうが、あれはわずかな時間の仮の姿。ぐ《ヽ》だ《ヽ》ぐ《ヽ》だ《ヽ》なんて形容詞があるかどうかは知らないが、大部分はそんな感じで日をすごしている。
私の場合、夜型のほうだが、完全なる昼夜逆転型ではない。午前十一時半ごろ、寝床のなかで目をあける。目をあけるが、すなわち目ざめというわけではない。眠る前の寝酒の作用が残っているのだ。
目をあけたということは、さし迫っているいないにかかわらず、締切りが一日だけ近づいたことを意味する。それを思うと、やれやれである。
といって、さわやかな朝がぜんぜんないというわけではない。予定を立て仕事を整理しての外国旅行。あれはいい。さっと目ざめる。現金なものだ。
茶の間へ行き、すみにおいてあるソファーの上に横になり、新聞を読む。約一時間。おもむろに朝食にかかり、のろのろと新聞を読みながら食べる。歯をみがき、ひげをそる。二時ごろになる。まだ、すっきりしない。
このとしになって、なにがいやかというと、知人や親類の死である。死ぬのはいいのだが、告別式というやつ、なぜかほとんどが午後の二時からなのだ。それに出るには早目に起きねばならず、まことにつらい。午後二時からの式というのは、多くの人の公務の時間をつぶしているわけだ。公然と仕事をはなれるのがいいのかもしれないが、退社時間後、たとえば午後五時半ごろにできないものだろうか。
それはともかく、私は三時ごろ書斎に入る。調子がよければ、原稿の清書をしたりする。しかし、郵送されてきた雑誌や印刷物に目を通すことのほうが多い。
日の短い季節には四時半ごろ、長くなると五時すぎ、近所へ散歩に出る。世に作家ぐらい、運動不足になりやすい職業はない。すらりとスマートな作家は、数えるのに苦労するほどである。もっとも、この散歩がどれくらい役に立っているかは、なんともいえぬ。
真夏はべつとして、まあたそがれ時である。なにやらムードのある語句だが、私にとっては逆である。からだに活気がみなぎりはじめ、頭もしだいにはっきりしてくる。なにかせざるをえない現実をみとめる感じ。しかし、すぐ仕事というわけではない。散歩から帰って、まもなく夕食。なぜか私は、食事がゆっくりだ。たあいないテレビを見るからである。たあいないからいいので、これが充実して深刻だったら、消化に悪い。
そして、八時半か九時ごろ、書斎の机にむかうのである。アイデアをメモする時もあれば、ストーリーをねる時もある。この数時間は、自分でもふしぎなほど密度が高い。必要があって百科事典をひいても、さっと頭に入ってしまう。そんな時間を持っているからこそ、生きている意味があるわけだろう。
午前二時半ごろ、ひと区切りとなる。頭がさえわたっている。風呂に入ったり、顔を洗ったり。まだ頭は緊張している。寝酒のくせがついたのは、そのせいである。話し相手がいるわけじゃないから、量がふえる。
音楽で頭が休まるかと、ステレオセットを買い込み、ヘッドホーンで楽しもうとしたら、メロディーが頭のなかをかけめぐり、かえって興奮してしまい、逆効果だった。
まだしも活字のほうがいい。そのための本が枕もとに用意してある。そして、飲みかけのグラスをそばに、いつしか眠っている。
かなり前から「朝起きてからの一連の行動がすべて就眠儀式」というアイデアで短編を書こうと思いながら、いまだにものにならないでいる。ということは、どうやら自分の日常が、そのたぐいだからだろう。私の作風は、日常性と離れたところに特徴があるのだ。
解 明
昭和二十年八月十五日、すなわち終戦の日、私は東大の安田講堂であの放送を聞き、そのあと、なにか起こってるのではと、皇居前へ行ってみた。ところが期待に反し、あの広い場所に、三人ほどがぼんやりと歩いていただけ。みんな虚脱状態なのだなと思い、友人の家をまわって帰宅した。しかし、終戦の日の二重橋前という写真やニュース映画がある。ふしぎでならぬ。ヤラセだとの説を、なにかで読んだこともある。
そして、本年八月、例によってTVは終戦番組を放映し、そのフィルムとともに撮影関係者の談話も見せられた。うそと思えない。たまたま文芸家協会の月報から原稿をたのまれており、私はその疑問に触れ、終戦の日の皇居前について、活字媒体による記録はないものか、あったらお教えいただきたいと書き加えておいた。
そのうち、山田風太郎さんから本が送られてきた。尊敬する先輩作家であるが、著作を送りあうほどの仲ではない。なんだろう。
『同日同刻』という立風書房刊の本で「太平洋戦争開戦の一日と終戦の十五日」という副題がついている。つまり、あの大戦のはじまりと終わりについて、内外をとわず、ありとあらゆる資料に当り、それを同時進行で構成した珍しいノンフィクション。政治家、軍人、学生、庶民に及ぶ立体的な構成。
山田さんの手紙で、その記録ののっていることを知る。もと朝日新聞の記者で、情報局総裁になった下村海南の文の一部。
「放送会館を引上げる時。二重橋前は大変なんですよという。……群衆のあとが絶えない。……そこにもここにも嗚《お》咽《えつ》泣《きゆう》哭《こく》の声が広場に限りなく聞えている」
文は明治天皇ご重態の時の回想に及んでいる。ニュース映画撮影者の話と同じである。山田さんの手紙には、あなたはそのあとに行ったのでしょうともあった。
私が行ったのは、二時半ごろである。そう解釈するのが、妥当なようである。ヤラセは、靖国神社の光景のほうだろう。本殿のずっと手前で人びとがすわり、おがんでいるのである。本殿の前は撮影禁止だったので、こういう不自然なことになる。もっとも、当時はだれも不自然とは思っていなかったが。
そんなことを書いた礼状をお送りしたのが、十月三十日。
その翌日、私は日本経済新聞を読んでいた。株に関心がなく、購読料も高い。しかし、かつて日曜版にショートショートを連載した。その文庫本『盗賊会社』はいまも売れており、その義理の意味でとっているのだ。クールな報道ぶりがいい。
日経の最終ページに「私の履歴書」という連載の欄があり、各界の長老が、交代で自分の回想を書いている。どの人のも面白く、ずっと読んでいる。
その時は木内信《のぶ》胤《たね》氏の執筆。このかたの父上に、私の亡父が青年時代に指導を受けたことがあり、特に興味ぶかく感じていた。
木内氏は正金銀行に入り、戦争中は南京支店の副支配人として経済面で業績をあげた。終戦の半年前に、東京支店副支配人となる。男性行員は軍務にとられ、ほとんどが女子行員。そして、八月十五日。
「……誰が何といったでもないのに、みんな二重橋に向かって歩いて行った。皇居に向かって土下座して……」
とあった。やはりである。丸の内あたりにつとめていた人は、午後の仕事をする気にならず、多くの人が行ったのだろう。しかし、暑さのなか、なげきつづけというわけにもいかず、二時すぎにはだれもいなくなったというところが、真相のようだ。遠くから出かけてくるといった体力や気力は、だれにもなかった時代である。
長いあいだのなぞが、やっととけた。それにしても、こう連続して関連のある文に接しられたのも、なんだか妙な気分である。
体験的笑い論
そもそも、笑いとはなんであるか。考えてみると、これまで考えたこともなかった。ものはためしと、百科事典を引いてみる。なんと、その項目があるではないか。読んでみるに、なにがなにやら、さっぱりわからん。面白くもおかしくもない。
笑いとはまことにありふれた存在で単純のようだが、定義や分析となると、複雑きわまる。大コンピューターをもってしても、笑いは作り出せないだろう。さまざまな要素が、からみあっているのだ。
というわけで、どう書いたものか、見当もつかない。しようがないので、これまでの人生での笑いと私とのかかわりあいをとりあげてみようと思う。
私は大正十五年の生まれである。父は苦学しながらもアメリカの大学を出ており、そとでは社交的でユーモアを使いこなしていたらしいが、家ではそうでなかった。当時、どこの家庭も、笑いとは無縁であったのではなかろうか。
小学校時代には「少年倶《く》楽《ら》部《ぶ》」という雑誌を読みふけっていた。サトウ・ハチローのユーモア連載がのっていたように思う。また、漫画の「のらくろ」や「冒険ダン吉」ものっていた。われわれの世代は、この雑誌の影響甚大である。
しかし、だれも言及していないが、最も面白いのは、投稿のページだった。滑《こつ》稽《けい》和歌とかいう欄もあった。うろおぼえだが、ひとつ引用する。
凸《でこ》坊が自分の部屋を片づけりゃ
しだいにちらかる押入れの中
また、メチャラケクチャラケ博士、略してメ博士というのが回答する欄もあった。読者がとんでもないナンセンスな質問を、つぎつぎにぶつける。それを、いとも簡単に答えてしまうのである。
ウイットと活気のあるページだった。こういうのに投稿する少年たちは、どんな人なのだろうと、うらやましく思ったものだ。
そのせいか、私も教室でなんとかユーモアを示そうとした。なにかの時「カメがウサギに勝ったのは、形が流線形だったからだ」との新説を主張したこともあった。当時、空気抵抗の少ない流線形の車が流行したのだ。思い出すと冷汗もので、担任の先生はたぶん内心で苦笑したことだろう。
田河水泡の『凸《でこ》凹《ぼこ》黒兵衛』という漫画の本も愛読した。「のらくろ」とちがって上品で、なかなかよかった。黒ウサギが主人公。
また、講談社は「少年講談」という本をシリーズで出していて、そのほとんどを読んだ。立《たち》川《かわ》文庫の新版といったところだろう。豪傑たちの活躍する内容だが、各所にだじゃれがちりばめられていて、面白かった。『東海道中膝《ひざ》栗《くり》毛《げ》』も、たぶんそれで読んだような気がする。
読書ではないが、上野の精養軒というレストランや、丸の内の工業倶楽部というビルで、定期的にいまでいうホール落語会が催され、父に連れられて、よく出かけた。父がとくに落語好きだったわけではないが。
そんなことで、私は山の手育ちで寄席へ行ったことはないが、落語や漫才に親しんだ。そして、ラジオでも聞くようになった。
現在の娯楽の洪水とくらべたらまことに微々たるものだが、昭和十年ごろも、けっこう笑いはあったのだ。玉石混交でなく、ある水準以上のものという点においては、恵まれていたといえるかもしれない。未熟な芸は売り物にならなかったのだ。
それから、新聞の四コマ漫画の横山隆一の作品。「江戸っ子ケンちゃん」から「フクちゃん」である。それ以前にも新聞の漫画はあったが、現在に続いている四コマの形式は、彼によって確立された。
この横山漫画についてなら、いくらでも書ける。戦後の混乱期をへて高度成長にまでつづくのである。ひとつの昭和史だ。もし私に笑いの感覚がそなわっているとすれば、横山漫画によるところが大きい。私ばかりではあるまい。漫画界、いや、日本文化の大功労者といっていい。
中学時代、大陸での戦争ははじまっていたが、のんびりした校風で幸運だった。私はたまたま自宅にあった杉村楚《そ》人《じん》冠《かん》全集の一冊をなにげなく読み、その文章に魅せられ、全部を読み、何回も読みかえした。
楚人冠は本名、杉村広太郎、朝日新聞の社員で「アサヒグラフ」を創刊したり、整理部を作ったりした人。博学で、国際感覚が豊かで、底に強いものを秘めている。読みやすく、抑制のきいた文章だった。短いエッセーが多いが、風刺も巧妙だった。あとになって、あれこそ良質のたくまざるユーモアだったのだなと、気づいた。私にすさまじい描写ができないのは、この人の文章を読みすぎたせいだろう。
昭和十八年に旧制高校入学、二十年三月卒業、四月、大学入学。もう、ひどい時期である。しかし、級友どうしは、おたがい冗談をかわしあっていた。
余談だが、私の世代の連中は、どういうわけか、みな背が高い。同年の手塚治虫《おさむ》、少し上の遠藤周作、ひとつ下の北杜夫、みな高い。私が小学校から大学までのクラス会に出ると、みんな高い。私は一七八センチと高いつもりでいるが、クラス会へ出ると普通になってしまう。そして、だれもユーモアを解する。高いのを恐縮しているせいか「大男、総身になんとか」で、どこか抜けているためか。少しあとの疎開世代との大きなちがいである。
さて、終戦。
どっと入ってきたアメリカ文化のなかで、なにに驚かされたかというと、喜劇映画である。アボットとコステロ、ローレルとハーディ、ホープとクロスビー、マーチンとルイス。どのコンビのもすごかった。
満員の映画館が、観客の笑い声で、一分間に何回かの割でどよめきつづけだった。私はそれらの全部を見ているはずである。あのころがなつかしい。
十年ほどたって、それらはテレビで放映されたが、笑いはかなり弱まっていた。これは映画館で見るべきものなのだろう。もはや、ああいうスターの時代は終わったのか。
映画といえば、チャップリンの「殺人狂時代」も印象的だった。新作であり、配給会社は喜劇として宣伝した。戦前のを知らぬ若い観客は、話だけで知っていたチャップリンの笑いを期待した。しかし、予想外のもので、どこで笑っていいのか、とまどっていた。
あとになってみると、ブラック・ユーモアの先駆的な作品だったのである。そのご「毒薬と老嬢」や「マダムと泥棒」など、一連のその系統の映画が作られ、それなりに楽しかった。
漫画では、アメリカから「ブロンディ」がのりこんできた。しかし、日本に定着しなかった。生活があまりにちがっていたのだ。
日本独自の形式である新聞の四コマ漫画。横山隆一をはじめ、すぐれた描き手が全力投球。とくに長谷川町子の「サザエさん」や加藤芳郎「まっぴら君」が笑わせてくれた。
そのころの笑いといえば、エノケンに触れなくてはならないのだが、私はその舞台をあまり見ていず、また論じている人も多いので、ここでは省略させていただく。
ユーモアのある小説となると、獅《し》子《し》文《ぶん》六《ろく》ぐらいだった。はなはだ少ない。なぜそうだったのか、いま、やっとわかった。新聞の四コマ漫画が、あまりに面白すぎたのである。当時、作家にとってのひのき舞台は、新聞連載だった。そこで笑いをテーマにしようとすると、その四コマ漫画と争わなければならなくなる。書きにくいし、新聞社としても、笑いは四コマのほうでまにあっていると感じていたのだろう。
さて、私が作家になったのは、昭和三十二年。ふとしたことで、江戸川乱歩編集の旧「宝石」誌の常連執筆者になれたのである。
それは映画監督ヒッチコックの全盛期でもあった。スリラー、サスペンスのなかに、笑いを巧みにとり入れた人である。
また、テレビが普及しはじめ、毎週「ヒッチコック劇場」という三十分番組が放映され、みごたえのあるものだった。番組の前とあととにヒッチコックが登場し、人をくったひとことを、けろりとしゃべるのである。殺人や犯罪との、奇妙な組み合せだった。「犯罪ドラマにこそ遊びが大切だ」というのが彼の主張だったのである。
ちょっとしたヒッチコック・ブーム。「ヒッチコック・ミステリー・マガジン」の日本語版も出た。じつに気のきいた短編が多かった。私もそれに毎号のせてもらうことになったが、それらとの競争で、えらい苦労をした。もっとも、SFや怪奇仕立てにすれば、真正面の勝負は避けられた。いい修行だった。
たまたま、落語好きの漫画家、境田昭造と知りあいになり、ホール落語にしげしげと出かけるようになった。なかば勉強である。可楽、文楽、志ん生などの一流を聞いておいてよかった。
戦後のアメリカ文化の氾《はん》濫《らん》のなかで、講談と浪曲はかげが薄れたが、落語だけは根づよく残った。日本という固有の土壌から発生したものだからだ。庶民の生活感覚に密着している。とにかく、どえらいしろものだ。
おなじみの話のなかから例にあげれば、まず「あたま山」だろう。このようなラストは、外国にもない大ナンセンスである。また「こんにゃく問答」も名作だ。ドラマは誤解から発生するというのが原則だが、それをかくも拡大できるとは。あと私の好きなのは「錦《きん》明《めい》竹《ちく》」の言葉のあそび。難解な術語を使いたがる連中への風刺でもあり、いまも生命力を持っている。
チャップリンもヒッチコックも、たしかにすぐれた才能の主である。しかし、その後継者となると、どうかである。その芸を後世に伝えるといった社会背景がない。そこへいくと、われわれの持つ落語なるものは、すばらしいものなのだ。古典とはいうものの、演者が客席の反応により、たえず新しいくふうを試み、つねに時代に適合させている。
「ヒッチコック・ミステリー・マガジン」と前後して「文春漫画読本」という月刊誌が創刊された。昭和三十五年のことである。外国の漫画をつぎつぎに紹介し、新鮮な内容だった。
それに刺激されてか、その前からか、私はアメリカのヒトコマ漫画を集めはじめていた。精神分析とか、死刑とか、マリッジ・カウンセラーとか、怪しげな予言者とか、日本にはないテーマのが目についた。やがて、それらを分類し、紹介文を加え、私は『進化した猿たち』という本にまとめた。
それだけのめりこんだ上での結論だが、ヒトコマ漫画の個々の出来ばえとなると、日本の漫画家によるもののほうが、はるかにいいのである。私も日本人ということもあろうが、アイデア、描き方のていねいさ、個性、どの点でもまさっている。ヒトコマ漫画は、日本ではあまりいい待遇を受けていない。それなのに、アメリカの水準を上まわっている。
森田拳次という漫画家が、アメリカに渡り、ためしにと「ニューヨーカー」誌その他に作品を持ち込んだら、つぎつぎと採用になった。この一例だけで、説明は不要だろう。
異才の漫画家、秋竜山が孤島漫画一千点に挑戦した。金銭を度外視してである。その個展を見たが、ただただ感嘆させられた。ギネスブックにのっていい記録である。
赤塚不二夫そのほかの漫画家を論じはじめたら、きりがなくなる。漫画の分野では、もう輸入品を必要としなくなった。日本人の器用さということもあろうが、もともとそなわっていた笑いの感覚が、生活のゆとりという環境の変化で、実体化したといえる。
そういえば、いまや外国製のお笑いテレビ番組は姿を消した。ゴールデン・アワーに再進出ということは、考えられない。
では、小説については。
私の仲間の筒井康隆は作家になってからさまざまな試みをしたあげく、ドタバタSFを手がけた時期があった。マルクス兄弟の喜劇映画的なものから出発しながら、しだいに独自な個性を示し「関節話法」など、あまりのおかしさに、私は息がつまったほどだ。「裏小倉」も、前例のないふしぎな笑いを含んでいた。
かんべむさしは少し後輩だが、短編でさまざまな笑いを追究している。小さな国語辞典を百科事典がわりに使おうとする「水素製造法」も、やはり読みながらせき込みさせられた。
横田順彌も若い作家だが、ハチャハチャSFなる分野を作り出し、徹底的に楽しませてくれている。
適当な例として身近な作家をとりあげてしまったが、小説の笑いでも、ついに外国を抜いたのではないかという気がしてならない。その思想性などまで含めたら話は変ってくるが、難解な笑いなど、どんなものだろう。まず、無条件におかしくなければ意味がない。
そこで、あらためて『東海道中膝栗毛』が見なおされることになる。明治以後さまざまな事情で遠まわりをしたが、この原点への回帰がなされつつあるのだ。新しさと質の向上をともなって。
『東海道中膝栗毛』を読みなおして、あらためて感心した。パロディ、プラクティカル・ジョーク、ナンセンス、言葉あそび、なぞなぞ、めちゃくちゃな論理、だましあい、かつぐつもりでかつがれる、楽屋落ち、スカトロジー、エロチック・ユーモア、見立てちがい、でまかせ、シニカル・ジョーク、くそまじめ、ブラック・ユーモア……。
ちょっと並べただけだが、笑いについての、じつにさまざまな手法が使われているのだ。しかも、その連発である。読みかけた読者は絶対にはなさないぞとの熱気が、伝わってくる。執念である。
つい最近まで、ユーモア小説というと、軽く見られてきた。それは書く作者にも責任があった。ユーモア小説だからと、あきらかに手を抜いた作品が多かったのである。それを読者が喜んでくれるわけがない。
しかし、いまや十《じつ》返《ぺん》舎《しや》一《いつ》九《く》の心意気が、現代によみがえりつつある。小説界でも大きな変化が起こりつつあるのだ。
わが町
本郷からこの品川区戸《と》越《ごし》へ越してきたのは、昭和二十年の三月。戦争末期である。なぜこのあたりに移ったのかというと、父の経営する製薬会社と、創立した薬学の学校が近かったせいであろう。私が十八歳の時。
爆撃の火災で一時は覚悟をきめたこともあったが、運よく類焼をまぬがれた。そして、八月に終戦。あたり一面、焼け野原。そのころの光景だけは、なぜか時たま夢に見る。現在からは想像もつかぬものである。
昭和二十三年に卒業。さらにしばらく本郷の大学の研究室にかよったりしていたが、二十六年の一月に父が死亡。会社のあとしまつに数年をついやした。これに関して書くと長くなるので、いまはやめておく。
結婚して一年半ほど一の橋に住んだが、またこの地に戻り、つまり、計三十五年ほど住んでいるということになる。
昭和三十年ごろか、五反田に空飛ぶ円盤研究会なるものがあると知り、貸し本屋の若主人の荒井欣一さんが会長とわかった。そこへ入会したのが作家となるきっかけだった。結婚前のことである。先日ふらりと立ち寄ったら、五階建てのビルとなっていて、最上階がUFO資料室で、荒井さんが主宰していた。
作家になってからは、だれでもそうらしいが、回想すれば執筆の苦痛ばかり。短編作家においては、とくにひどいのではなかろうか。このへん一帯がどうなっているのか、あまり気にしなかった。というわけで、ようすがわかりかけてきたのは運動不足を感じて散歩を日課とするようになった、ここ数年のことである。近所に戸越銀座なる商店街がある。地方都市ならいざしらず、東京でなんとか銀座とはむずかゆい気がするが、改めようという動きはないようだ。商店街として歴史が古く、由緒ある名なのかもしれない。できた当時は東京市内ではなかったのだ。
いつもどこかで商店の改築がなされていて、美しくはなっているのだが、とりすました感じはない。一年を通じて道の両側に飾られているセルロイドの造花のせいかもしれない。ぴらぴらと風にゆれ、ある種の親しみを抱かせる。裏道に入ると、民営アパートがけっこう多いのに気づく。気どりのない、生活の町なのだ。
商店街を十分ほど歩くと戸越八幡がある。狭い境内だが、大木があって静かで、東京にいることを一時的に忘れさせる。さらに歩くと戸越公園。年少者の遊び場である。戸越に限らないが東急の沿線は桜の木が多くその季節はちょっとしたもの。大岡山あたりまで花を見にゆく。
家の前が第二京浜国道である。昭和十年代に作られたものらしいが、当時としては、かなりモダンなものだったようだ。両側にグリーンベルトがあり、樹木が植えられてあった。それが交通量の増大に伴って除かれたのは昭和三十年のころか。
そのうち、すぐそばに高速道路の出入り口が出来た。金はかかるが、タクシーでどこかに行くのに便利この上ない。一方、排ガスの濃度が気になり、近所の医院で思いつくたびに質問するが、それが原因の患者はほかにくらべ特に多くないとのこと。もう都内なら、どこも条件に差はないというわけか。
もはや私となんの関係もないが、亡父のやっていた製薬会社のあとに建ったのが、東京卸売りセンター(TOC)のビル。時たま散歩がてら、なかへ入ってみる。なぜか感無量とならない。あまりの変化のせいか、年月のせいか、作家になりきってしまったせいか。
地下鉄、都営浅草線の戸越の駅も近い。これもまことにありがたいことで、都心と直結である。元祖のほうの銀座のバーで、かなりおそくまで飲んでいられる。タクシー乗り場の行列を横目に新橋から乗れば、二十分たらずで家にたどりつけるのだ。これで新幹線が品川駅に停車してくれれば、もう、なにも言うことないのだが。
髪の毛について
髪型については、私の場合、平凡そのものである。注文はつけぬ。近くに一軒ある。のぞいて混んでいたら、少し先のへ行く。
作家になる前は月に一回だったが、専業になってからは二ヵ月に一回。少し短か目に刈り、うるさいなと気になる長さになったら出かける。テレビに出ないことにしているので、おしゃれの必要などないのだ。作家は作品こそ命。なんて書くと、照れくさいし、いやらしいな。つまり、めんどくさいのだ。
髪を刈られながら時たま考えるのだが、ものみなすべて合理化の世の中で、理髪師も作家も、昔から少しも変っていないのだ。自動瞬間整髪機なんてのも、SFにもほとんど登場しない。自助執筆機もまた。
数年前、ためしにと、長髪にしてみようと試みたことがある。手入れをしつつ、徐々に伸ばしていった。ところが、くびのうしろあたりに至り、左半分が激しく巻き上った。逆流せんばかりの勢いである。こんな体質とは、まるで知らなかった。床屋さんに「パーマをかけたら」と言われたが、一生つづけるのかと考えただけでうんざりし、ふたたび普通の髪型に戻してしまった。
問題は白髪《しらが》がふえたことである。遺伝なので仕方ないのだろうが、シルバー年齢を自覚させられる。染めればいいらしいが、月に二回は行かねばならず、これまためんどくさい。いっそ、全部を剃って、アデランスにしようかと思う。自宅にいる時は、はずしていればいい。名案のはずなのだが、いまのところ賛同してくれる人はいない。
そこで、帽子に関心を持ちはじめた。しかし、あいにくと頭脳巨大のため、既成品ではまにあわない。銀座の婦人帽の専門店、ベル・モードに特注して作ってもらう。もう、二つ目だ。私のひそかな、たのしみ。いったい、なんで話がこんなことまで……。
なんとなく作家が存在している国
ソ連に行った時、モスクワ駐在のある日本人が案内してくれた。彼が言うには、
「日本にはあらゆる主義があるけど、ただひとつないものがある」
考えたが、わからない。思想や言論は自由であり、物好きがそろっているのに。すると、教えてくれた。
「シオニズム」
ユダヤ人国家建設主義である。イスラエルの成立によって一段落だが、いまだにこの言葉が日常的に使われているらしい。日本は均一人種の国なんだなあと実感させられた。
逆に最近、私がよく話題にすること。
「日本にだけあって、外国にないもの」
私はそれほど外国旅行をしていないし、出かけても仕事を忘れるのが目的だから、現地調査をして回ったりはしない。しかし、たぶん、この指摘は当っているはずだ。
なんだと思います。日本的なものは料理だの、おしぼりだの、たいてい外国でお目にかかる。では、なにか。意外と思われるだろうが、中間小説雑誌なのである。「小説新潮」、「オール読物」、「小説現代」のたぐい。
娯楽小説が主で、エッセーあり、漫画あり、美女の写真あり、座談会あり、碁将棋、読者投稿の和歌や俳句。そして、その小説も私小説、企業小説、推理小説、時代物、ユーモア物、エロチックなもの、シリアスなノンフィクション、政界内幕物、SFと、バラエティに富んでいる。
しかも、何誌も出ているのだ。この話をしたら、某誌の編集者も言った。
「そうなんですよ。外国の人にどんな雑誌を作っているのかと聞かれ、説明するのに、ひと苦労でした。なかなか信じてくれない」
つまり、現実にはかくも珍しい存在なのである。小説雑誌を奇異と感じないのが、日本人というわけだ。性格的に小説が好きなのだ。教育が普及し、みな字を読めるからでもある。また、冒険小説を読み終り、つづいて純愛小説があっても、抵抗なくそれに移れる。われわれのものわかりのよさの原因も、こんなところにあるのだろう。
こういう妙なもののあるおかげで、作家なるものも存在していられる。聞くところによると、欧米で小説を書いてそれだけで食ってゆくのは、大変なことらしい。人数も少ないらしい。もっとも、ソ連では作家として登録されると、一定の収入が保証されるしくみになっているとのこと。
アメリカの短編作家ロアルド・ダールの作品が日本に紹介された時、そのすばらしさに驚かされた人は多かった。しかし、その後、ほとんど書かず、日本に来た時はスパイ映画の台本の手伝いとかで、生活は楽でないらしい。
欧米ですごい短編作家が時どき出現するが、数年ぐらいで書くのをやめてしまう。一方、日本では私など作家になって二十年以上だし、もっと長く書きつづけている人もたくさんいる。どこで、このようなちがいが出てきたか。
それも、中間小説誌の有無の差である。外国では作家と出版社の間にエージェント(仲介業)がいるが、日本にはいない。担当編集者が直接やってくる。
大作家に対しては、
「先生のお作で巻頭を飾りたいので」
売れっ子に対しては、
「書ける時に、ばりばり書くべきですよ」
新人に対しては、
「機会をのがしては、いけませんよ」
まことにありがたい言葉だが、じつは、なに、雑誌のページを埋めなくてはならないのだ。作家も書けば収入になり、双方の利益が一致し、原稿が生産されてゆく。読者という需要があればこそだが。
エージェントが介在していると、そうはいかない。作家の利益、自分の利益を考え、原稿料をつりあげたはいいが、出版社に「あいつは高くなって、執筆をたのめない」とされている作家もいるらしい。日本だと、直接交渉。編集者がやってきて言う。
「このところ、おひまのようですね。ひとつ、気軽になにか」
「よし、やってみるか。損得を考えずに、書きたいものを書く」
息をふきかえすのである。うまいしくみに、なっているのだ。
こういう社会のため、なにかことがあると、すぐ作家にコメントを求めてくる。だいぶ前になるが、宇宙船からの遊泳が成功した時、新聞社から電話がかかってきた。
「すばらしいことですね」
「やっとこさ実現といったとこです」
「少し感嘆してくれませんか」
何十年も前からSFで描きつくされたことなのだ。“SF作家もびっくり”との返答を期待したのだろう。たび重なると、ひねくれてみたくもなる。試験管ベビーの時もそうだった。
「ヒットラーが何万人もできますね」
「ひとりだからこそ、独裁者なのです。マリリン・モンローの名をお忘れか」
そのあと、ノーベル賞学者の精子の販売の時には、たまたま旅行中で答えないですんだ。さんざん使い古されたアイデアなのだ。
その方面の専門家に聞けばいいのにと思うが、中間小説の作家のほうがポピュラーであり、みなはその答えのほうを面白がるらしい。しろうとっぽさが、求められているのだ。
「野球、どこが優勝すると思いますか」
わかるわけないよ、私のような作家に。佐藤栄作が首相をやめる時、新聞記者をきらい、テレビだけを相手にしゃべりたがった。その時、どういうわけか私のところに、どう思いますかとの電話がかかってきた。昼間はテレビをつけない習慣なので、なにが起ったのか、よくわからん。
「佐藤さんの気持ちもわかりますなあ」
と答えておいたら、翌日の新聞にそのままのった。べつに反論の投書はなかったらしい。
先日の新聞のコラムで、中島梓《あずさ》という若い才女作家が、電話でのコメントの多さにねをあげ、怒った文章を書いていた。こういうのはすべて、私のように答えておけばいいのだ。
「〇〇さんの気持ちもわかりますわ」
結婚するタレント、離婚するタレント、引退する選手、麻薬を吸った音楽家、汚職役人、慈善事業家、反公害運動家、たいていの場合にあてはまるのだ。まともに考えて答えようとしたら、執筆どころでなくなる。中島梓さんの怒る気持ちはわかるよ。
三島由紀夫の自決のあと、私はヨーロッパへ行った。パリで日本のある通信社の駐在員と会い、話題がそれに及ぶと、彼は、
「東京の本社から、ここでの反響を知らせろとの指示には弱りました」
野蛮な行為とのコメントが欲しかったのだろうが、パリもロンドンもローマも、江戸や京都などよりはるかに血みどろの歴史を持っている。来ればわかるのだが、帰ると忘れ、日本的にコメントを集めようとする。
駐在員、適当に作り上げておけばいいのだ。ある作家、ある教授、主婦、街の人の声とでもして。
「芸術家とは、割り切れないことをするものです」
「社会のひずみのせいでしょう」
「よほど思いつめたあげくでしょうね」
「東は東さ。ドゴール派の将来のほうが心配だね」
こういうのこそ、日本の新聞の読者の求めているものだ。私も在京のまま、パリやモスクワの駐在員を開業しようか。現地産以上のものを、作成してごらんに入れる。芸能界の奇才、タモリほどまではいかなくても。
この種のコメント、待っていても来ない場合もある。ポルノ裁判の有罪判決について聞いてもらいたいのだ。こう答える。
「当り前です」
「しかし、ポルノ解禁は世界の大勢……」
「あなたの口調だと、ソ連、中国、イスラム、ヒンズー圏は、世界の一員じゃないことになりますね」
「いや、決して……」
と相手はあわてるにちがいない。そして、これはもうどうしようもない現実なのである。東西文化についての注文で、すぐ西どなりの韓国の歌曲のメロディーを賛美した内容のを渡したら、困った顔をされるはずである。
先日、旅行会社の若い女子社員たちの集まりで、マレーシア、シンガポールの魅力についての講演をたのまれた。治安がよく、清潔で、熱帯であり、エキゾチックで、ショッピング、料理と、若い女性むきの二国である。しかし、私はこう切り出さざるをえなかった。
「ヨーロッパへのあこがれは、既定の現実としてみとめる以外にない。パリだ、ギリシアだと、女性雑誌で毎月どこかでとりあげて特集をやられては、異をとなえようがない。行きたがるのを、とめることはありません。すすめてください。そのかわり、新婚旅行にはこの二国が絶好のルートだと、折にふれてつけ加えておくことです……」
妥当な方法だと思っている。
東京などの公共乗物のアナウンスについて、だれかが、「くどすぎる、うるさい」と書いていた。私は通勤生活でなく、たまに地下鉄で都心へ出かけるぐらいだが、ある時、ひとつの光景に出くわした。
白い杖の目の不自由な人。乗りなれているらしく、その動作はほれぼれするぐらい軽やかだった。ホームの白線の手前に、丸い点の部分があり、どこへ立っていればいいのかわかる。しかし、どこ行きかを知るには、アナウンスしかないのである。
あれを「うるさい」ときめつけた人に「あなたは、目の不自由な人のひとりの外出に反対なのか」と聞くと、たぶん「いや、決して」との答えがかえってくるはずなのだ。
「あやまちを改むるに、はばかることなかれ」だ。よく知らないが、こういう国民性はあんまりないんじゃなかろうか。なぜ論争にならないのかと聞かれても、説明のしようがない。
最初に書いたソ連への旅行は、北杜夫さんと、アラスカ生活十年の大庭みな子さんとであった。そして、大庭さんにこう言われた時、北さんも私も答えに窮した。
「北さんも星さんも、なぜそとを歩く時、あたしと腕を組んでくれないの」
これこそ差異。うまく説明できる人がいますか。
日本人は「ウサギ小屋」に住んでいると言われたが、だれも反論をしなかった。住みたくて住んでるのじゃない。地震があるためである。その心配さえなければ、居住空間は三倍にもできるのだ。地震のない国の人に、それのある国の人の感情は、説明してもわからないと思ってだろう。
さっきも書いたが、日本特有の「作家」なるものに原稿を依頼すると、このようにとりとめのないものとなる。中間小説誌的だ。まあ、そこがいいのだろう。論理を一貫させようとする学者の書いた文に、面白いものはない。だいいち、知りたいことは、ちっとも解説してくれないのだ。
欧米の人たちは、暗算が不得手とよく言われる。たしかに、買い物などの時、お釣りのくれ方がもたもたしてる。
それが、チップとなると、ちがってくる。彼らは、多すぎも少なすぎもしない額を払っているらしい。加減はだめだが、乗除となると、日本人より暗算がうまいというわけか。いや、そんなものでなく、生活しているうちに、なんとなく、ほどほど、まあこれぐらいでおだやかにといった知恵が身につくというのか。なれあい社会だ。気前がよすぎるというのも、その程度が日本人に理解できぬからだ。
私にも、さっぱりわからん。わからないことだらけだからこそ、小説が書けるのだし、読んでくれる人の種もつきないのだろう。
中国東北部の旅
中国へ行ってきた。
TBSテレビの大山勝美プロデューサーから電話がかかってきて「中国へ行きませんか」と言われた。即座に、わっと飛びつく気にはならなかった。あこがれの地なら、とっくに行っているところだ。
「どっちの方面です」
と聞くと、東北地方、すなわち旧満州とのこと。少し心が動いた。シルクロードとなるとTVでも見たし、SF界にも行った人が何人もいて、いまさらだ。一方、旧満州となると、なにやら不鮮明な魅力がある。いまのうちが、いい機会かもしれない。若者たちがどっと押しかけ、俗化してからでは、おそいのだ。
さらに、この地方は明治以来の日本の歴史と、密接にかかわりあっている。日露戦争の戦場にもなったし、伊藤博文はここで殺されたし、強引に独立国をこしらえたし、対米戦の遠因もそれにあったし、敗戦後の悲劇は限りない。
私の世代ならそのあらましを知っているが、現実に見たことがないので、もどかしさが残っている。ここでの歴史を読みかえすにも、百聞は一見にしかずである。
そして、これこそ最大の理由だが、頭の休養である。それなら、家でねそべっていればいいだろうと思う人もいようが、そうはいかない。新聞は見てしまうわ、TVはつけてしまうわ、本はのぞくわ、ついにはアイデアをメモしてしまう。作家を業とする者は、無意識のうちに頭を使って、仕事と関係のあることをやっている。休養は必要なのだ。
もちろん、自費である。無料の招待であとで義理が生じるのは、好ましくない。
かくして、大山さんを団長とする「日本文化芸術放送友好訪中団」なる計九人のグループが結成された。各人については、いずれのちほど。なお「芸術」の中国的略字がすごい。芸は草かんむりに乙であり、術はなんと、木の右上に点を打っただけである。
七月二〇日(月)。九時四五分、日航機で成田発。六時に家を出た。私の夜型を知る人は、同情してくれるはずである。頭のなかが、ぼやーんとしている。巨大なる北京空港におりたのは、午後の三時(時差一時間)。マイクロバスで北京飯店ホテルへ。部屋割りがなされ、中日友好協会理事・文遅さん主催の夕食会へ行く。友好協会所属のレストランでだ。酒が入り、いくらか頭が働きはじめた。
杖をついた痛々しい感じの、年配の人も同席。いかにも四人組の犠牲者といったところ。もっとも、私は四人組がなにをやらかしたのか、よく知らない。
かなりの美人が、給仕をしていた。中国は美人ぞろいとお思いのかたも多いだろうが、旅行してみてその逆と知った。ぞくっとくるような美人は、めったにいない。しかし、生れつきの美人の出現率の少ないことは、どこの国でも同様だろう。そこを化粧や髪型、アクセサリーや服で、まあまあの水準にしたり、個性を強調しているのが一般なのだ。中国も余裕が出来れば、そうなるだろう。
翌二一日。二派に分れ、テレビ評論家の志賀信夫さんなど再訪の人は、中央高視台(TV局)へ。私や文春の東真史さんなど四名は、マイクロバスで万里の長城の見物。
ガイド兼通訳の李青年は感じのいい人だが、発車したとたん、カバンから日本語の問題集を出して私に質問した。けっこう複雑である。「他人の前で足を出すのは失礼だ」とか「費用がたりなくて足を出した」など、妙に似た文が並んでいて、私もとまどう。
李青年は日本の山陰に留学し、一年ほどブロイラーを実習したとのこと。会話もほぼ完全。朝食でミソ汁を飲む習慣がついてしまったとのこと。まだ独身。育ちがいい感じ。文化大革命に話が触れると、答えにくそうな口調になる。年齢的に、ひとさわぎした世代のようだ。文革にも、いくらかの理はあったのだろう。現実に、あれだけの動きがあったのだから。
道路の両側は、並木がつづいている。道路の並木はこれ以後、各地で見た。毛沢東の指示だと聞いたことがあるが、みごとな成果である。四車線の時代となったらどうなるのか気になるが、まあ、それは先のこと。
二時間ほどで、万里の長城へ。正確にはその一部である。全長は六千キロ。東京・京都間が五百キロと私の頭のどこかにひっかかっているので、あらためて驚く。私たちの来たのは八達嶺という地らしい。絵ハガキを買ったら、中国語、英語と並べて、日本語で書いてあったのだ。
かなり精巧な工事である。ご存知のように何人も並んで歩けるはばがあり、一定の間隔で砦《とりで》がある。日ざしは暑いが、砦のなかは涼しい。とにかく大建造物。ピラミッドを連想させるなにかがある。
つまり、これはただの防御のためでなく、精神的な安心感を求めてのものらしい。権力でおどして作らせたものだったら、手抜きが多くなり、こうもみごとに作れない。そう思いついた理由は、なぜこんな作り方をという点からである。
長城はいくつもの山脈のうち、最も高い山脈の頂にそって作られている。他の場所は知らないが、このあたりは急斜面で、騎馬集団がかけ上ることなど、とても不可能。長城がなくても、石をなげれば撃退できる。
偵察と監視をおこたらず、敵の狙いそうな地点での効果的な防備、作戦と訓練という方法をとっていたほうがよかったのではないか。まあ、そうしなかったところが、中国的なのだろう。完全主義というか、形式主義というか。
休憩所で、李青年が憤慨していた。
「ああいうサービスでは、よくないです」
私は気づかなかったが、少女がひとり椅子にかけ、扇風機の風に当っている。お客でなく、ここの係となると、たしかにひどい。そもそも、サービスとは何かを知らぬのだ。
長城を見つづけていても、きりがない。バスで戻る。道の両側の並木のむこうは、トウモロコシ畑。あまり人は出ていない。この暑さに無理に働いても、無意味なのだろう。
少し寄り道をし、明《ミン》の十三陵なるところへ寄る。明の王朝(十四世紀―十七世紀)が北京へ都を移してからの十三代の皇帝の墓。ほどほどに豪華。地下墓所や博物館も見物したのだが、なにも思い出せぬ。暑さのせいだ。
そばの食堂で昼食。友好協会のおかげか、かなりの品数。しかし、ついビールを飲んでしまう。それは、たちまち汗となる。
なにはさておき、観光である。どんなものがあるのか、案内まかせ。故《こ》宮《きゆう》博物館に着く。実体は、むかし紫禁城と呼ばれた明《ミン》、清《シン》の時代の皇帝の宮殿である。
周囲に堀をめぐらし、城壁あり、部屋の数は九千。謁《えつ》見《けん》のための建物がいくつも並び、屋根瓦はすべて皇帝しか使えぬ黄色。大理石がふんだんに使われ、その広大さに圧倒させられる。まあ、この実感が収穫なのだろう。
強い日光が上から照りつける。ついに耐えかね、休憩所に入り、コーラを買って飲む。そこの売り場に美人がいた。お客のためにと化粧をすれば、きれいになれるのだ。
そこを出て歩けど歩けど、建物につぐ建物。ついに庭園にたどりつく。この宮殿自体が博物館なのだ。これを戻るのかと気が重くなったが、車はこっちの出口に回してあり、ほっとした。
ホテルへ戻り、TV局へ行った者と合流し、食事。そとへ出ると、すぐそばが王《ワン》府《フー》井《チン》という繁華街。とくに明るくもなく、商店に入る人もあまりないが、道は押すな押すなの人出である。いささか異様だが、クーラーが普及していないための夕涼みと気づく。クーラーは、日本人の風習を変えてしまったなあ。夕食後の散歩など、だれもしなくなった。
若い人が多い。第一印象は暴動になりかねないのかだったが、みな物静かである。道ばたでスイカが売られている。
自転車が多い。以後、どこの町でも、村でも、自転車の列を目にすることになる。坂のないおかげである。私は中学時代、自転車通学をした時期があり、東京にいかに坂が多いか実感している。
大山さんの部屋に集る。団長格だけあって大きな部屋で、ソファーがある。私は成田空港でウイスキーを買ってきたが、訪中経験者はブランデーである。なぜかというと、中国に氷がないのだ。水道の水は硬水のため飲めず、各部屋には湯ざましの水がポットで置いてある。ウイスキーのぬるま水割りを、ぱっとしないと感じる人が多いのだ。
「星さん、疲れたでしょう」
「ぜーんぜん」
アイデア捻《ねん》出《しゆつ》のほうが、いかに重労働か。きょうは、むしろ快い解放感である。
ほどほどに酔って、自室へ帰る。私は料金が高くなってもいいから一人部屋にと、希望しておいた。他の人もそのようだ。一行のひとり、森さんの実力のおかげかもしれない。
森さんは満州で終戦を迎え、いろいろな体験ののち、貿易船専属の通訳をやり、現在は東光徳間という会社で、映画など映像関係の日中貿易の仕事をなさっている。
ベッドに横になり、歴史の重みについてぼんやり考えているうちに眠った。
翌二二日。気温36度とのこと。昨日は最高40度はあったと聞かされる。百年に一度の暑さだそうだ。
雍和宮へ行く。ラマ教の寺院。案内書に出ていないことから、最近になって公開されたのかなと思う。赤や黄で採色された建物。黄金仏や巨大な立像。ひざまずいておがみ、百円玉をそなえた。横尾忠則氏の好きそうなマンダラが、いくつもある。
いわれについては、まるでわからぬ。珍奇なしろものだなあだ。名所というものは、それでいいのだ。
そのあと、友誼商店へ行く。これについて私は勘ちがいをしていた。ソ連や東欧のドルショップと同じと思っていたのだ。ドルショップなら、西側外貨さえあれば、だれでも高級品が買える。
しかし、友誼商店で通用するのは中国円である。衣料の模様などバラエティに富んでいるようだが、べつに買う気もない。あるのは印材、スズリ、民芸品である。メノウの飾りを少し買った。
「玉杯がいいよ」
とだれかが言うと、女の店員が言う。
「玉杯、メイヨー」
メイヨー(没有)は「ない」だそうだ。ここでの慣用句。不快がる森さんに、私が「ただ無《む》といわれるよりましでしょ」と言ったら「むっとしますものね」
それにしても、女店員が客そっちのけでアイスキャンデーをなめているのは、いただけない。関係はないが、むかしバージニア・メイヨーというアメリカ女優がいたなあ。おえらがたのコネでこの職場につけたのだろうに、これではね。横浜の中華街のほうが、気持ちよく買えるのではないか。
そこを出て、北京ダックの店へ行く。有名でも大きくもないが、美味という。まず、アヒルの肉だの、脳みそ、尻尾という珍しい部分が出た。そして、いよいよ焼いた皮となる。ああ、なんということ、ネギがなく、キュウリで代用である。時季でなく、輸送の問題もあってだそうだが、惜しいことだ。
手帳に「アヒルネ」とメモしてある。志賀さんあたりがしゃべった、だじゃれだろう。
食事を終り、飛行場へ。やっと気がついたが、車も飛行機も、車体の右側の文字は、右から左へと書いてある。「中国民航」も右から左へである。漢字は自在に使えるところに、特色があるのだ。
三時二〇分発。ハルビンへ。五時着。そのあいだ、私は熟睡した。飛行中の涼しさのためだろう。志賀さんが感心していた。
正しくはHARBINで、ハルビンである。私は少年時代に、ハルピンと聞かされていた気がしてならず、ほかの人も同様だった。哈爾浜と表記してたためか。
東方大廈というホテルに入る。ここでも大歓迎の夕食会。日中友好についてのあいさつがあり、友好をユーフォーと発音するのだと知った。私はユーフォーと叫びつつ乾杯した。この私の変化に大山団長が気づき、わけを知って困ったような表情になった。
もっとも、旅の終りには李青年も知るに至った。ピンクレディーも中国で公演したかったらしいが、刺激的すぎると中止になったらしい。なお、歌手の加藤登紀子はここハルビンの生れで、数日前に公演に来て好評だったとのこと。
なにしろ食事の量が多い。満腹のことをポーラと言うらしい。あまりの量に、私は「おれを殺す気か」と口走ったらしい。こういうのは通訳されないわけである。
夕食後、夜の町へ散歩に出る。日本にくらべれば、はなはだしく暗い。人がぞろぞろと散歩している。それで、警戒心をまったく感じさせないのだから、あらためていいなあと思う。私たちを、好奇の目で見るわけでもない。こんな国はめったにないのではないか。
なんとはなしに、駅にむかう。そこで、だれかが叫んだ。
「あ、ヤマトホテル」
一行のうち画家の富山妙子、作曲家の冬木透の両氏はこの地方で幼時をすごし、思い出が多いのだ。
日本が満鉄を所有していた時代に各地に作られた大和ホテルの名は、私も父から聞かされたことがある。知る人にはなつかしい存在だろうが、いまとなっては、たいした建物ではない。幼時の記憶というものは、すべてが大きく見え、印象が強いのだとの説も出た。
ホテルへ戻る。風通しがよく、窓をあけておくと涼しく、寝苦しさはない。
翌二三日、朝食後、物品館へ。ここ黒竜江省の産物を集めてあり、充実していた。
ついで公園のようなところに案内され、児童列車に乗った。少年少女によって運営されている。彼らは白の上着、少年は紺の半ズボン、少女は赤いスカート。いずれも赤いスカーフを首に巻いている。一般の子供とは段ちがいに、上等の服装である。かわいらしく、いかにも利発そうである。
「日本のみなさま、ようこそ……」
小学四年生という女の子が通訳する。丸暗記じゃないのかとの話も出たが、それにしてもすごい。切符を売り、手を取って車両まで案内してくれ、動き出すと検札にも来る。ホームでは敬礼。
なんとも奇妙な気分である。一点豪華主義と形容した本もある。あとで「倒錯的だね」との感想も出た。子供をかわいがる行為の逆という意味だろうが、みな変にませているので、背中がむずむずしたのはたしかだ。
またも街を散歩。ロシアによって発展しはじめた都市のせいか、レンガ造りの建物が多い。街にゴミはなく、清潔である。アイスキャンデーを食べたが、くしの投げ捨てはためらわれ、くず捨て箱まで持っていった。くしまで食ってしまったように見せる手品ができたら、見た人はさぞ驚くだろうと話しあった。なお、アイスキャンデーは二分、日本円にして約三円。驚くべき物価の安さ。
いつ話題になったか忘れたが、ここに書いておく。中国語で「ありがとう」は謝(シェ)だが、私はもしかしたら「おそ松くん」で一時的に大流行した「シェー」も、もとはこれではと指摘した。赤塚不二夫は旧満州の生れのはずだと言う者もあった。赤塚さんの、潜在意識の産物のようだ。
またも、ヤマトホテルのそばを通る。鉄道関係の宿舎になっているらしい。明るさのなかでは、ますますわびしい。
道ばたに自転車が置かれている。しかし、東京周辺の駅前のように集中的に置かれるのでないから、そう気にならない。
ホテルで少し休む。講談社文庫、田辺聖子『古川柳おちぼひろい』を持参してきたので、ベッドに寝そべって読む。山藤章二さんのイラストつきで楽しい。帰りに李青年に進呈しようかと考えたが、やめといたほうがよさそうだ。江戸時代の生活を知らぬと、わけがわかるまい。
二時半、船での松花江めぐり。大きくはないが、豪華な観光船。褐色の巨大な河で、水量は中国で三番目とのこと。岸を離れると、風が涼しい。
冬には氷が張り、トラックが通れるそうだが、いまは夏、岸で水遊びする人が多い。短い夏を楽しんでいるのだ。それに割り込んで申しわけないのだが、百年に一度の暑さとはねえ。
アイスクリームに近い味のアイスキャンデーが、つぎつぎに出る。スイカの切ったのも。ここの人は、お客に食わせるのが好きのようだ。
川にかかった長い鉄橋を、SLの引く貨物列車が走っていった。いいタイミングで、みな歓声をあげた。
同船している当地のTV関係の人、突如として大声をあげ、手を振り、大演説をはじめた。なにごとならんと思ったが、李青年は淡々と「何回も洪水に悩まされましたが、ついに堤防を完成させました」と訳す。なあんだだが、この市にとっては記念すべきことなのだろう。川岸の公園には、その完成記念塔が建てられている。洪水に関する感覚は、日本人にはわからないものかもしれない。
陸に戻り、街の中央部あたりで、絵や書の展覧会を見させられる。もう、なにもかも見せちゃうといった感じ。美人画でモダンな色気にあふれたものがいくつかあった。いささか意外。
このあたり、富山さんにとって思い出のあるところらしく、街を歩きたがる。レコード屋に入ったが、童謡ばかりで、ほかは売り切れ。漢方薬の店が多い。街路樹が大きく、一種のムードがただよっている。
夕食後、この地で制作したTV番組を見てくれとのこと。全国むけに張り切って作ったもの。ビデオのスイッチが入る。
青年が主人公で、炭鉱の仕事につくべきか悩む。もっと楽な道もあるのではと。そこに若い女性がからむ。私はとたんに眠くなった。途中に変化はあれど、青年は労働を選び、二人は結ばれるにきまっているのだ。終り近くで目をさますと、そうなっていた。
とにかく、美男美女すぎるのだ。女優になってもおかしくない(事実、女優なのだ)ほどの美女である。意見を求められたこちらテレビ関係者、苦しい発言。
「映画制作の手法でテレビドラマを作った点が、問題のようです」
そんなところだろう。しかし、日常的リアリズムを持ち込んだら、どうにもならぬ。まあ、試行錯誤で進むしかあるまい。社会の状態がちがうのだから、技術や構成を論じてもしようがないのではなかろうか。
二四日。朝はやく起こされた。寝酒の酔いも残っていて、頭はぼんやり。街の市場で朝食をとるためである。六時半にそこへ行く。なぜこんなに早くと文句をつけると、もう少しあとだと、一般の人で混むからだそうだ。珍しい体験も、容易なことではない。
簡易食堂のようなのに入る。揚げた長めのパンを豆乳にひたし、砂糖(甘《かん》蔗《しよ》とちがう)をつけて食べる。中国料理つづきだったので、さっぱりしてよかった。
それから、芸術学院。中学程度の年齢の学校である。芸術といっても、実技が主で、生徒たちのそれを見せてくれた。
体操というのか曲技というのか、若い女の子たちの空中回転。二人の大人が手伝うので危険はないが、ひねり回転、最後には六回連続回転。ひとりだけ十回連続回転をやらされたのがいて、さすがに終って青ざめていた。こんな学校があるのだから、中国も女子体操で上位進出するようになるわけだ。
つづいて、バレエ。若い男女たちの、みごとな踊りである。ひきしまったからだ。きびしい訓練の成果があらわれている。
つぎが音楽。珍しい楽器を使っての合奏である。ここで、ついに私は睡魔に襲われた。大きな音だから目がさめるというものじゃない。時どき意識がうすれ、がくりと前のめりになる。なにしろ、最前列だ。曲名を告げる女の子、よほどおかしかったらしく、笑いを押さえるのに困っていたそうだ。あとで知ったことだが。
小劇場へ移り、京劇を見る。前半のラブ・コメディはいねむり。後半の活劇物は説明不要で面白かった。乱闘シーンは型が完成しているらしく、これまた訓練の成果を感じさせられた。ブルース・リーの作り上げたカンフー映画の源泉を見る思いだった。
博物館へ寄る。ホテルと駅との中間にあり、何回も前を通っている。人魚の絵の看板があり、げてものめいている。入ってみると、中国の南方の海でとれるジュゴンの標本が飾ってあった。伝説の人魚の正体はこれだというわけ。意外に大きい。恐竜の骨だの、北方の虎だのが並べてある。
いくつかの部屋の壁を使って、ロシアによる中国領土の侵略史が図解してあった。日本も出るかとひやひやだったが、それはない。しかし、沿海州はもちろん、カラフト全島まで中国固有の領土とは知らなかった。ロシアはけしからん。そのくせ、松花江岸の人でにぎわってるのはスターリン公園なのである。
日本人の私たちは、大陸での過去の行為については大いに反省すべきである。しかし、おわびしつづけることは、ないのではないか。永久に許されないというのは困るし、中国の人たちの本意でもあるまい。前むきに友好を考えたほうが、いいと思う。
博物館の近くに商店があり、休憩をかねてそこに入る。志賀さんがどういうつもりか、シャブシャブのセットを買った。真《しん》鍮《ちゆう》製で彫刻のあるもので、箱に入れると、かなりの大きさである。陳列品のなかで、ひときわ目立つ品であったことはたしかだが。
この店でか、ホテルの売店だかで、NHKのプロデューサーの吉田直哉さん(「未来への遺産」シリーズの製作者)が、西遊記のお面の四つひとそろいを買った。依託品だったらしく、ていねいな細工で、これは掘り出し物。
ハルビン駅は伊藤博文の暗殺された場所だが、拡張工事でその跡ははっきりしない。
十二時半、私たちの列車は発車。南西の長春へむかうのである。
中国の道路は右側通行だが、この鉄道は左側通行。日本の作った満鉄のなごりがそれである。
李青年には持参した私の文庫本の、短編集のセットを進呈しておいたが、いくらか読んだらしく「面白いですね」と言っていた。列車のなかでも読んでいる。しかし「さっぱり」などという形容には迷うらしい。「さっぱりした性格」と「さっぱりわからない」に、共通性がないからだろう。
どちらの窓から眺めても、遠くに山ひとつなく、ただ地平線がつづくだけ。夕日の沈むのが美しいとのことで、期待した。一回沈み、さらにもう一回沈むという。しかし、雲が動いたり、進行方向が変ったり、小さな丘があったりで、その瞬間は見られなかった。それでも、夕焼けの色の美しさは、みごとである。二回にわたって沈むというのは、残光が雲に強く輝くためかもしれない。
七時ごろ、長春着。
ホテルに入る。南湖賓《ひん》館《かん》。豪華というより、大スケールといったホテルで、部屋も寝室も広い。地価が安いせいかなと思ってしまう。
翌二五日。朝食後、まず映画撮影所。
製作状況の説明のあと、セットでの撮影の見学。時代物のようだ。それから映画上映。
眠くなるかと思ったら、意外といい発端。「紅《べに》牡《ぼ》丹《たん》」という題で、一九三〇年ごろの時代設定。雪のなかで、少女が母親と死に別れる。形見のかんざしを手渡されて。その少女、街でサーカス団の親方にみとめられ、引きとられ、芸を身につける。この団長、じつは少女の父なのだが、おたがいに気づかぬ……。
ロケーションも美しく、雄大な展開になりそうだなと身を乗り出したら「まあ、こんなぐあいです」と中断。理屈なしに面白く、上映されて評判もよかったらしい。
門の内側の、巨大な毛沢東の像の前で、記念撮影。この像は、なぜか白ぬりで、ケンタッキー・フライドチキンの看板を連想させる。なお、この撮影所は満州国時代には満映と称した。関東大震災のごたごたにまぎれて無政府主義者の大杉栄を殺した甘《あま》粕《かす》憲兵大尉は、出所後ここで働き、終戦の日に自殺した。
といったことを書きはじめたら、きりがない。長春は旧名が新京、満州国の首都で、関東軍(満州駐在の日本軍)の司令部ほか、当時の政府機関の建物が残っていて、学校などに転用されている。
マイクロバスは親切にそれらを回ってくれたが、はじめて来た私には、なんの感慨もわかない。はあ、そうですかである。
もっとも、ほかの人はちがう。冬木さんはこの地で、小学生時代をすごした。そこをたずねあてると、警察学校になっていて門から入れない。建物はレンガにペンキはぬられたものの、当時のままとのこと。眺めて、万感こもごもであろう。
一行中の村木良彦さん(テレビマン・ユニオン代表)は、熱心に各所の写真をとっている。あとで知るところによると、ご両親がこの地方で長く生活なさったとかで、おみやげ用とのこと。
私にとって印象に残った建物。いまは博物館と称されているが、旧王妃の宮殿。入ったとたん、ガラス箱入りのミイラが並べてあった。しばらく前に新聞で報道された、楼《ろう》蘭《らん》で発見された美少女のミイラである。六千年前とさわがれたが、あとでそれほど古くはないと訂正されたしろものである。それに、ここでお目にかかれるとは。
そばにかわいい少女がいて、こっちは生きている。日本語が出来るから、なかを案内させてくれとのこと。二階へ上ると「ここは四番目の奥さんの寝室、ここは化粧室……」といった調子。第四夫人というわけではなく、前の三人とはうまくいかなかったらしい。くわしい説明はしてくれなかったが、昭和十五年ごろ「皇帝の夫人は麻薬中毒」とのうわさを耳にしたことがある。
戦後すっかり忘れかけたころ、皇帝・溥《ふ》儀《ぎ》の一族の女子大生が伊豆山中で心中し、話題となった。昭和三十二年ごろ。
その女性の顔と、いまここにいる子の印象に、共通したものがある。一族ではないかという気がしてならなかったが、この地方の美人に共通するタイプなのかもしれない。吉田さんは持参のポラロイド・カメラで撮影してあげ、喜ばれていた。
バスで移動し、五階建てのデパートに入る。最上階が友誼商店。買う気をさそう品はあまりなく、屋上へ出てみる。ハルビンもそうだったが、ここ長春も緑が多い。各所に森があるといった感じである。
下の階へとおりてゆく。高級品はないが、品不足ということはなく、活気がある。台湾製と大きく書いてテレビを売っていたのには驚いた。書物売場にはエラリー・クインの訳本があり、さらには、『ジャパン・アズ・ナンバーワン』の訳本もあった。志怪のたぐいの中国怪談の本もかなりあり、出版の規制はあまりないようだった。
夕方、長春駅へ。大連をめざすのである。
一昨日ここまで乗ってきたのは、北のチャムス始発の特急で、私たちはそれにハルビンから乗り込み、ここ長春で下車した。それに丸二日おくれて乗り継ぐ形である。
上等車両から外人の団体がおりてきて、そのあとに私たちが乗り込む。どうやら、西ドイツ人の団体らしい。東南アジアでも見かけたが、彼らの旅行熱はすごい。
普通車のほうは超満員。上からの指示で家族が別の地方で働くことも多く、年に一回はある期間ともにすごせるようになっていて、そういう乗客も多いらしい。あと、仕事上の出張、帰省の学生など。
することもなく、雑談しながら、ブランデーやウイスキーを飲む。大山さんは夜の一時半、瀋《しん》陽《よう》で途中下車し、半日ほどおくれて大連へむかう。彼はその地で少年期をすごしたのである。旧地名は奉天。
見送るべきなのだろうが、私は眠くなり、寝台に横になった。なかばあけた窓から風が入り、涼しく、いつのまにか眠りについた。
二六日。目ざめれば、まもなく大連。七時半に駅に着く。むしあつい。中国東北地区は湿気のあまりないのが特色といわれているが、ことしはどこも、百年に一度の例外なのだそうだ。
なお、ここの地名だが、旅順と大連が合併し、旅大市となった。旧版の旅行案内書には、呼び方に注意とあった。しかし、本年になって再び、大《だい》連《れん》市と正式に改称された。いい傾向である。東京の大田区は、大森と蒲田をくっつけたもので、なんの意味もない。
中国は落ち着くにつれ、歴史的な地名を復活させるようになるのではなかろうか。どの町も人民広場、解放通り、労働公園、勝利通りばかりでは、あじけない。それに、乱用は意味の強さを失わせる。
ロシア語のタワリーシチ(同志)も、いまや演説中では「さて」か「ところで」といった意味で、前を行く人に言えば「もしもし」という感じだそうだ。
熱烈歓迎の英訳表記は、ウエルカムである。大げさな表現は逆効果だ。中国語にくわしい森さんによると、今回の通訳は優秀で、やわらかい日本語にしているとのこと。
話が横にそれてきた。
暑さをおもんぱかってか、私たちは市街からはなれたリゾート地といった感じの、東山ホテルに案内された。窓をあけると、いい風が入ってくる。今回の旅行の救いであった。
シャワーをあびる。なぜか、バスルームのビニールカーテンについて考えはじめる。ハルビンでも長春でも、ビニールカーテンがなく、いつも床を水びたしにした。ホテルを建ててから、ずっとそうなのか。ビニールがまだ貴重品なのか。しかし、さすがにここ大連のにはついている。
ところでだ、ビニールなるものは、戦後の発明品である。いったい、それ以前はなにを使っていたのだろう。気になるが、仕方ない。小松左京といっしょではないのだ。
食後、腹ごなしに散歩に出る。ふと横を見ると、濃い緑の草むらに、ひとりの兵隊が銃を持って立っている。ぎょっとする。身ぶりで、先へ行ってもいいかとたずねると、うなずいた。しばらく歩いてふりむくと、こっちを見ている。一発やられたら、それで終りだ。
あとでわかったが、重要人物がそのあたりの建物に避暑に来ていたためらしい。せみの声がつづいている。さらに歩くと眼前がひらけ、小さな海水浴場があらわれた。脱衣所兼休憩所用の二階建てビルがあり、三百メートルほどの浜。かなりの人出である。きょうは日曜だからだろう。
ホテルへ戻って昼食。日に三回ずつ中国料理を食べている。しかし、そうふとらない。中国料理は大ぜいでテーブルを囲む。少しだけ食べていれば、わからないのだ。時には皿に取り分けてくれるが、少しだけ食べてあとはそのままにしておくと、いかにも大量に食べているように見える。ビールや酒というカロリーのある物が好きなので、とくに注意している。
バスで街へ出る。ロシアの支配下にあったこともあり、港町ということもあり、アカシアの並木の大きな葉の緑がきれいで、ムードがある。エキゾチックなのは、ギリシア正教の寺院のドーム状の屋根のせいだろう。
大連賓館、つまり昔のヤマトホテルに入る。ここの地下道を案内されるのだ。地階への階段を下りると、すごい美人が立っていた。ふっくらと丸顔で、色は白く、目は涼やかで、きびしさもある。どうでもいいことだが。
ボタンが押され、床板がずれ、地下道への入口となる。ひんやりとしている。電灯がともっており、壁は白く、地下道は延々とつづく。全長は想像できない。横道がいくつもあるが、その長さは見当もつかない。敵が侵入した時に狙い撃つ、小さな穴。敵軍を防ぐ、回転式プロペラ状のもの。なんだか、おとぎの国のよう。
売店、トイレ、自転車置場、郵便局、浄水場などがある。核攻撃への準備とのことだが、これで助かるのなら、東京の地下鉄のほうがさらに安全だろう。どうみても、ここはそう深くないのだ。岩盤をくり抜いているのが強みだが。
そして出たところが、デパートのなか。地底の美女ともお別れである。中年の男性の案内だったら、興味半減だったろう。
富山妙子さんの小学校をたずねてみる。戦前の建物がそのまま残っていて、高等中学となっていた。なつかしさ、ひとしおのようである。
港の乗船場、海への駅とでもいうべきところへ行く。戦前からの建物らしい。ここを、さまざまな人生が通り抜けていったというわけだろう。
少しはなれて、国際船員クラブのビル。これは新しいもののようだ。屋上からの眺めはいい。ここも緑の多い街だ。
夕方、大山さんがホテルに着く。瀋陽で多くの思い出にひたれたらしいが、東京以外に住んだことのない私には、想像しようのない感情である。だれも「追憶のなかに、そっとしておいたほうがよかったような、見て精神的にひと区切りついたような」などと感想を口にしているが……。
翌二七日、小型バスで約一時間、海ぞいの道を走って、水産公司を訪れる。途中、極端な大雨にあう。百年に一度とか。
水産業についての説明を受け、防寒服をつけて冷凍室を見学、付属の魚網工場を見る。そして、応接室で招宴。
いったい、なぜこんなところへ来たのだ。文化芸術とどんな関係がある。隣席の吉田さんにこう話しかけたが、やがてわかってきた。
この上なく美味なのである。新鮮そのもののサシミがある。小さなカニがある。貝の料理がある。エビの天ぷらもある。料理こそ芸術の根源、美的感覚のはじまり、文化が最終的に目ざすもの。ユーフォー、ユーフォー。私は別のテーブルの人に酒をついで回った。自分でもかなり飲んだ。
そのため、つぎの訪問先、山の上のテレビ局では眠くてたまらない。もっとも、私はテレビ関係者でないので、意見を求められることもない。
また市内へ戻り、繁華街の見学。歩行者天国があり、大混雑。しかし、大連はほかの市ほど人の多いところではない。市場でジャガイモを山のように売っていた。どうやって食べるのだろう。ジャガイモの中華料理に、お目にかかったことがない。
夕食は、船員クラブでの宴会と告げられる。そうは食えぬと言いながら、時間をおくらしてもらい、近くの友誼商店をのぞいて時間をつぶす。
北京以外では、店員の応待も悪くはない。しかし、能率はよくない。日本を基準にしては、まちがいなのかもしれないが。
料理はクラブの主任、郭さんの手になるもの。のり巻きあり、サシミあり、赤飯もある中華料理で、みな、けっこう食べている。
ホテルへ戻ると、大雨で空港に支障ができ、北京へ戻るには十八時間の汽車によるしかないかもしれぬとの話を聞く。それには早く起きぬとならぬ。あけ方、またも大雷雨。
翌二八日。起きたはいいが、出発の予定がたたない。大雨のため、鉄道も途中が不通になったとか。本当に百年に一回のことらしい。天候は回復しているが。
仕方ないので、そばの海岸へ出かけて泳ぐ。前に散歩で見たところだ。時間が早いため、すいている。大粒の砂がきれいで、少しだけ採集。
ホテルへ引きあげ、昼食、ビール。北京からの特別機が唯一のたより。午後、それを待ちながら、部屋で休む。中国のホテル、どこも安心感がある。ドアのカギも、かけなかったりする。つまり、各階に担当の女の子がおり、注意しているからだろう。
飛行機が来そうだと、荷物をまとめてバスに乗る。ただし、旅順の軍用空港からの出発である。
二〇三高地らしいのがあるが、だれも知らない。それらしいが、少し高すぎる。三〇三高地かもしれない。
一時間ほどして空港につくと、小型機が来ている。なかなか出発とならぬ。やがて妙な一団が、バスで到着。あとで知るところによると、東方歌舞団で、少数民族の舞踊で各地を回っていて、有名らしい。その立往生のために特別機が出され、私たちが便乗できたのかもしれない。とにかく、これで北京へ行けるのだ。
離陸してまもなく、客席内に白煙が満ちはじめた。あらかじめ聞かされていたからよかったが、そうでなかったらびっくりする。冷房用のドライアイスのためである。荷物棚の一部はひえすぎ、村木さんの上に水滴が落ちてくる。まるで雨もりだ。
かくして、北京空港へ。友好協会の文遅さんが待っていてくれた。ホテルはまたも北京飯店。ここはクーラーがきいている。おそい夕食後、大山団長の室で最後の夜の酒をくみかわす。
そして、二九日、中国民航機で離陸。途中、上海に一時間とまって、成田へ。
帰った日はぐったり。なにがあったのか、ひとつも思い出せぬ。つぎの日も同様。しかし、作家とは生れつきの性格か、体験を整理してみようとの気になった。せっかく頭を休めるために出かけたのに。
安カメラによる二巻のフィルム。旅行案内書。日程表。簡単なメモ。エハガキ。それらをたよりに組み立てたのがこの一文。一部に記憶ちがいがあったろうし、省略もあるが、まあ、こんなところである。
いい旅だった。
自費とはいうものの、友好協会のおかげは大きい。はじめての国だし、ある程度の警戒心を持っていた。批判的な記事も読んでいた。お役所仕事あつかいも予想していた。しかし、それらはたちまち消えてしまった。すれちがう人から、いやな視線ひとつ受けなかった。暑ささえなつかしい。好印象だけが残っている。
酒あれこれ
時のたつのは早いもので、私が大学を出てから、かなりの年月がたってしまった。それでも、若いころの思い出は鮮明である。
昭和二十年(一九四五)の四月に東大農学部の農芸化学科に入学した。農産食品関係、つまり土壌、肥料、食品加工、栄養のたぐいである。私はこのソフトな感じの分野が好きだった。
醸造学の坂口謹一郎教授の講義も受けた。八月に終戦で、娯楽というものが世の中になかった時代で、せっせと大学にかよい、ノートもとった。われながら、よく勉強したものだなあ。なお坂口先生は、超ロングセラー、岩波新書『世界の酒』の著者でもある。
実験用アルコールが各所にあった。エチルアルコールが飲用に適し、メチルアルコールが有害なことぐらいは習っていた。
みな若く、旧制高校の出であり、地方の造り酒屋の息子もいる。となると、成り行きである。アルコールをうすめ、なにやらまぜて色をつけて飲んだというわけだ。これが、私のはじめて飲んだウイスキーということになるだろう。
考えてみると、戦前の日本では、ウイスキーがあまり飲まれなかった。私の父はある年齢で酒をやめ、飲まなかったが、家に人を呼んで他人に飲ませるのは好きだった。そんな時、お客に出すのは日本酒がほとんどで、時にビールが加わるといった程度だった。
ウイスキーに代表される蒸溜酒の普及は、戦後にいちじるしい。アメリカ文化の流入のせいもあるが、おかんだの、つまみだのを考えずにすみ、手軽に飲めるのだ。
そのうち、どぶろくを作るやつも出た。農芸化学科の建物が一大密造所(というほどでもないが)と化し、飲もうと思えば、どこかにアルコール飲料があった。もっとも、みな酒びたりというわけでなく、なにかの会合の時、他の学部の連中とちがい、酒に不自由しなかったといったところである。
なつかしい思い出だ。まさに、手づくりの酒である。現在では、面倒くさくて、そんなことをする学生はいないだろうが。
ある時、友人がジンとサイダーを入手してきた。それをまぜると、いやに口当りがいい。気がついてみると、腰が抜けたみたいで、立てなくなっているのには驚いた。
話はそれるが(エッセーとなると私は構成など考えないのだ)人類は火の利用法を身につけることで、はじめて文化的な向上をたどりはじめた。
火で土器、陶器、銅器を作った。穀物も火を使ってこそ、はじめて食用となる。ワインなど果実酒は直接には火を使わないとはいえ、容器がないと作れない。ビール、日本酒など穀物からの酒となると、火の助けを借りなくてはならないのだ。
そして、年代ははるか下るが、蒸溜酒なるものを、火の利用によって発明した。濃度が高く、保存がきくのである。だれがどんなつもりではじめたのか、興味ある問題である。たぶんアルコールの蒸溜が最初で、それがきっかけとなって、化学工業の大進歩と発展したのである。
これだけ酒と関係の深い学科を出ながら、私たちのクラスで酒造会社に入ったのがいない。たまたまペニシリンという抗生物質が外国から入ってきて、その国産化が急がれ、みなその関連の会社(なぜか製菓会社が多かった)に引っぱられたのだ。酒より薬という時勢だった。
ペニシリンを作るアオカビも、日本酒の第一段階で使うコウジカビも、同類といっていいぐらい近いのである。最近、ある必要があって調べてみて、人間と、微生物とのかかわりあいの深さをあらためて知り、天の配剤といった気分になった。
作家になったのは三十二歳の時だが、それまでは外で飲んでも、家では飲まなかった。ところが、ある日、あけ方ちかくだが、苦心して作品を書きあげ、なにげなくウイスキーを飲んで眠りについた。
それがきっかけとなり、寝酒の習慣がついてしまった。作家がひと仕事をすませた時は、たいてい夜中で、頭がさえていて、すぐには眠りにつけないのだ。
またも突如として話が飛躍するが、私はタバコをやめて二年半になる。一時期はつらかったが、いまやなくて平気である。
内心ではよくやったと思っているが、予想もしなかった事態が発生した。酒量がぐんとふえたのだ。バーに行っても、タバコを吸っている間は、少なくとも酒を飲まない。その手持ちぶさたをおぎなうため、無意識のうちにピッチが上ってしまうのだ。酒はカロリーであり、肥満防止を考えると、そのぶん糖分や炭水化物をひかえねばならない。
だから、昨今はほどほどにと心がけている。それでも、平均的な人にくらべたら、かなりの量なのだろうと思う。
UFOの警告
UFOの警告。こう題名を書いてみて、からだのどこかが、むずむずする。怪しげな内容と思われはしないか、便乗売名と思われはしないか。一方、総合雑誌へこのような題で文章が書ける時代になったことへの、今昔の感もある。
もっとも、そういうのは私の気の回しすぎで、現代っ子にとってUFOはあって当然という風潮なのかもしれない。ピンクレディーというコンビの女性歌手によるこの題名のレコードが、ミリオン・セラーを記録したのだから。
しかし、私がこの奇妙なしろものに興味を持ったのは、ずいぶん前だ。
ことの起りは一九四七(昭和二十二)年にアメリカの青年実業家のケネス・アーノルドが自家用機を操縦して飛行中、編隊を作って飛ぶソーサー(コーヒーの受け皿)状の九個の物体を目撃し……。
当時、事情を知らぬ友人たちに説明してまわったので、このあたりは暗記してしまった。いま、年代確認のためにと平凡社の百科事典の最新版をひいたが、空飛ぶ円盤(フライング・ソーサーの和訳)の項にも、ユーフォーの項にものっていない。まあ、どうでもいいことだけど。
そのニュースを読んだ空軍兵士のなかには「そういえば、戦争中にも妙な飛行物体を見た」と言い出すのが出た。なかには、日本から米国にむけて放たれた風船爆弾の誤認もあったのではなかろうか。ペスト菌を積まれた場合のパニックを恐れ、アメリカ政府は報道管制をしいていたのである。
アメリカでは、円盤が人びとの話題となっている。そんな記事が日本の新聞に載りはじめたのは、昭和二十五年ごろか。やがて、アダムスキーの『円盤同乗記』の邦訳の本が出て、本当だろうかと首を傾けつつも、興奮させられた。
そして、昭和三十年に日本にも空飛ぶ円盤研究会が出来、私がそれに入会したのはその翌年である。東京の五反田に本部(というほどの規模ではなかったが)があり、私の自宅からそう遠くなかったので、散歩がてら時たま立ち寄った。新聞は円盤の存在を頭から無視し、そのたぐいの情報に接するには、ここしかなかったのだ。荒井欣一会長は温厚な人物で、いまも研究活動をつづけている。
しかし、現在は休会の状態である。やがて若い人むけの週刊誌が競ってその目撃情報をのせはじめ、会報の読者がへったことも一因だった。
あのころの会員には、全面肯定論者はほとんどいなかった。といって、否定論者や無関心派がわざわざ入会するはずもない。好奇心おうせいな、半信半疑の者が大部分だった。会報に「一信九疑論」という文を書いた人がいたが、平均的会員の意見を代表していた。九疑の疑は否定の意味でなく、宇宙人の乗り物でなかったらなんだろう、といったところである。私もまた、そんな気分だった。
昭和三十二年、会員のなかの有志がSFの同人誌を出そうと集り「宇宙塵」の発刊となり、私はそれによって作家への道をたどりはじめた。円盤の会にも、機会があれば出かけていった。
未確認飛行物体、略してU《ユー》F《エフ》O《オー》とアメリカで呼ばれていることは知っていたが、私は空飛ぶ円盤という名になつかしさを感じる。
時がたち、ユーフォーと発音し、このようなブームになるとは予想もしなかった。私はずっと一信九疑で、気がむくと空を眺める。しかし、いまだにお目にかからない。
もっとも、似たものなら見ている。ある晴れた日の夕方、日没時の西の空に鋭く光る点を見た。見つめていると、ギザギザの形に動き、雲のなかに消えた。周囲はすでに暗いが、上空には日光の直射があり、正体はたぶん小型機ではなかったか。ギザギザ運動は目の錯覚だろう。しかし一瞬、UFOかなと思ったものだ。未確認だから、本来の意味でのUFOである。最近「この写真の物体は、コンピューター分析で本物のUFOと確認」という言葉を見聞するが、どうなっているのだ。
私ばかりでなく、日本のSF作家の大部分は、UFOを見ていない。見ていないからこそ、作品中に登場させられるのだ。存在を信じ込んでいたら、風俗小説になってしまう。といって、否定派や無関心派でもない。なにかあるかもしれないと、内心で思っている。
よく引用されるが、アメリカのSF界の長老アイザック・アシモフは否定論者で「私は実在を信じないし、そんなことを信じている人は頭がおかしいと思う」と、堂々と書いている。自分のSFには登場させるが、それは童話作家が、ウサギとカメの対話を頭から信じないで書いているのと同様だとたとえて。
アシモフは一流の生化学者でもあり、自然科学全般に関してきわめて博識で、その科学エッセーはすばらしい。啓蒙的で読みやすく、この分野で彼以上の人を私は知らない。
彼は、UFOは心霊術や占星術と同様に、科学の扱うジャンルに属さないというのだ。疑うことから出発するのが科学だという。台風の予測を占星術にたよるか、気象衛星にたよるか。
そのころの一九五〇年代のアメリカにおいて、UFOが大流行し、宇宙人ジョークとともに、たえずだれかが口にしていた。そんな傾向に対し、科学者の立場として言うべきことは言っておこうとの考えの、あらわれだったのだろう。
アシモフは最後に「しかし、SF作品のなかには今後も登場させるだろう。それを精神分裂症状というのなら、それを利用させていただくまでだ」と書いている。科学とSFとのちがいは、ここにある。
そこへゆくと、日本の科学者はものをはっきり言わない。世の風潮に迎合し、曲学阿世のことしか発言しない。国情の差、時代の差もあろう。日本では昭和二十五年から三十年の前半にかけ、空飛ぶ円盤はおろか、宇宙旅行までタブーだった。原田三夫、徳川夢声、北村小松などの各氏が、宇宙旅行への先駆者である。興味を持ったら、変人あつかいされた。
それがどうだ、ソ連が人工衛星を打ちあげ、米ソの宇宙レースが開始されると、どこからともなく学者たちが出現し、活字にテレビに、もっともらしいことを言い出した。
いまやマスコミはUFOブーム。否定論は主張しにくい。批判の出にくいブームが好ましくないことは、政治その他と同様だと思うのだが。
なにやら長々と書いてきたが、それは私が、軽率にこの文を書いているのでないことを知ってもらいたいからこそだ。私もアシモフと同様に、作品中には何回も登場させたが、小説の形でなくまともに取り上げたのは、昭和三十二年、円盤研究会の会報に書いて以来のことである。
その時は、会員のなかに救世主待望ムードの人があまりに多く、バランスを取る必要があるのではと、敵意の持ち主かも知れないぞとの内容だった。これは訂正する。攻撃的な相手だったら、地球はとっくにやられていたはずだ。
とにかく、私はUFOに関心を持ちつづけてきた。UFOの本も、つとめて読んだ。UFOの研究家にはとても及ばないが、一般の人よりはいくらか多く読んでいるつもりである。そして、議論というか、仮説というか、新説というか、そのあたりについてあまり進歩のあとのないのが気になりつづけだった。
たしかに目撃例は多いし、その数もふえる一方である。しかし、そのつみ重ねから、これといった主張は、まだ出ていないのだ。
それゆえに、私もひとこととなった。
といって、アシモフのように一刀両断的な意見にはならない。個人的な性格もあろうが、私が円盤研究会から出発して、SFの分野に入ったせいも多分にあろう。なお、ご存知ないかたのために書いておくが、私は大学で農芸化学科を学び、旧制だが大学院にしばらくかよった。さて……。
UFOは宇宙からの飛来者か。
これが通説となっている。多数決できまるものではないが、アメリカではこの支持者のほうが多くなっているらしい。もちろん、ばかげているという否定論の人のいることも知っている。しかし、見た人の報告によると、人間の作ったものとは思えない。
目撃さわぎが最近にはじまったものなら、どこかの国の新兵器ともいえる。しかし、一九四七年、あるいはそれより以前にさかのぼるのだ。そんな人工物は存在しなかったはずだ。
だから、他星人の乗り物。
いちおう筋は通っている。しかし、この説の最も弱いところは、どこだかわからないが、その星との距離の問題だ。あまりに遠すぎる。他の恒星系の惑星となると、地球から月や火星に行くのとは、わけがちがう。近所の散歩と外国旅行以上の差がある。
そのため、光より速いものはありえないとの現代物理学をみとめるとなると、行ける可能性のある恒星は限られてくる。往復はできても、容易なことではない。
しかし、それでは宇宙を舞台とするSFの書きようがないので、小説でも映画でも、ワープ航法なるものがしばしば使われている。宇宙空間にゆがみを作り、そこを抜けるのだ。早くいえば近道である。
このところ話題のブラック・ホール。その全容が解明され、人工的に創造、コントロールするといった形であろう。夢のような話で、まさかと思うが、なんらかの方法で超光速の移動をやってのけないとの断言はできない。百年前、われわれの生活がどの程度であったか考えてみれば……。
とにかく、距離の問題についてはなんの結論も出ていないが、いいかげん論じつくされている。可能か不可能かは、各人の判断にまかされているわけだ。私もここで、むしかえしようがない。
しかし、うやむやのまま先に進むのを好まない人も多いだろう。宇宙船乗員の人工冬眠を含め、なんらかの方法で大幅に距離が克服できるとの仮説に立つことにする。
そして、たぶんだれも論じていないはずのアプローチで、UFOを考えてみる。生物の進化、さらにさかのぼって地球史の分野からである。
せんだって、ソ連科学アカデミーの資料提供による恐竜展が、日本の各都市を巡回して開催された。私もそれを見物し、帰宅してから、もらってきたパンフレットをのぞいた。シベリアの北部あたりでも、けっこう恐竜の化石が発見されているらしい。
そのパンフレットのなかで面白かったのは、地球が出来てから現在までの約五十億年を、一日二十四時間に圧縮した図である。そもそもの最初は内部からしぼり出された水による海と、岩だけの陸地。大気は火山活動で作られた二酸化炭素(炭酸ガス)がかなりの割合をしめ、あとはチッソ(N)。殺風景なものだったにちがいない。
そのチッソが、生命の源泉アミノ酸になくてはならない元素である。海のなかで簡単なアミノ酸がつながったり切れたりし、より高度なものが形成されるに至る。しかし、すんなりと進行したわけではない。
午前七時になって、海水中に原始的な生命が発生。すなわち十四億年もかかったことになる。生命といっても単細胞の植物性バクテリアで、ただひたすらふえ、生命活動をつづけてゆく。
植物であるため、光合成をやる。太陽光線をエネルギーとして利用し、二酸化炭素から炭素をとりいれ、水(H2O)の水素(H)と結びつけ、生命体を作る。余分となった酸素(O)は空中に放出される。大気中の酸素はこうして出来たのだ。はるかあとになって動物の出現する条件が、作られてゆく。
なお、その原始植物が生命活動を停止し、海底に沈んで堆積し、地殻の変動で埋没したのが石油である。石油に微生物を作用させ、動物の飼料とする石油蛋《たん》白《ぱく》の生産計画案があった。人びとの拒絶反応にあってつぶれたし、その感情はわからないでもないが、石油はもともと植物であったことを知らないせいである。PRの不足であった。
この海中原始生物の時代が、延々とつづく。地球史を二十四時間に縮めた割合で、午後の八時十分ごろまでである。そして、やっと海中に多細胞生物が出現。クラゲ、サンゴのたぐいである。
九時すぎ、原始的な動物、三葉虫が海の底を動きまわりはじめる。生物の進化史の話はたいていこのへんからはじまるが、その前段階に、気の遠くなるような時間をふまえているのである。
夜の十時ごろ、海中のはじめての脊《せき》椎《つい》動物、ヤツメウナギの祖先が出現、各種の魚へと種類がふえてゆく。一方、植物も少しずつ高等になり、海岸や沼から陸地へ進出し、それにつれて昆虫もふえはじめる。進化の早さとお思いのかたもいようが、一時間がほぼ二億年であることもお忘れなく。
さらに少しおくれて両生類、爬《は》虫《ちゆう》類が出現し、十一時ごろからあの恐竜の時代となる。恐竜は太古の生物にちがいないが、地球史的に見ると、夜の十一時になってのお出ましなのだ。そのころ、哺《ほ》乳《にゆう》類もあらわれている。
その恐竜の時代も、四十分で終る。といっても、一億数千万年の期間ではあるが。
そして、人類の祖先の出現が、十一時五十九分。すなわち、真夜中の一分前なのだ。
この図表を見ていて、考えさせられた。感無量である。もっとも、はじめて知った驚きではない。ずっと以前にも、地球の歴史を東京タワーの高さとすれば、人類の時代はその上にのせた一冊の本の厚さで、文明となると紙一枚分というたとえをなにかで読み、エッセーに引用したこともある。日常生活に関係がないので、ふだんは忘れているのだ。
地球史を一年に圧縮しても、いくらかゆとりはあるとはいえ、原始人類の発生は十二月三十一日の午後になってから。歴史らしきものは最後の一分。バビロニア文明が真夜中の約三十秒前、ローマ帝国が十三秒前、ルネサンスは六秒前、科学の進歩のはじまったのが一秒ちょっと前となる。
とにかく、そういう割合なのだ。
現在からふりかえってみて、過去の地球の平均的状態となると、海中で植物バクテリアが生存しているという状態である。二十四時間のうちの十三時間に相当するのだから。
この銀河系のなかには、地球型の惑星が何百万個もあるという。たいていの人は、読むか聞くかしているはずだ。調子のいい学者は、だから地球外にも生命があると口にする。そこが混乱のもとなのだ。
かりに、どこかに地球型の惑星があり、なんらかの方法で、そこへ行けたとする。そこで出会う生命体は、海中の単細胞植物である確率が最大。へたをして、もう少し若い状態だったら、生命発生以前で、水と二酸化炭素だけ。ごくごく運がよくて、恐竜に会える。知的で言語と科学技術を持った生物にめぐり会える比率がいかに少ないかは、地球史とくらべてみれば、おわかりいただけるだろう。
他星で宇宙人と会うSFをいくつも書いているくせにと言われるだろうが、私もまたアシモフと同じ答えをする以外にない。SFのFはフィクション。私は現代のイソップ、寓《ぐう》話《わ》として書いているのだ。
というわけで、地球型の惑星があっても、人類のようなのはめったにいないのだ。人類も宇宙へ進出できるようになった、だから他星から飛来しても、との考え方がある。しかし、これこそ人類の自己中心的な発想である。
また、文明のある星は電波を出しているはずだとして、それを受信しようという計画が実行された。電波の発見と利用は、地球史を一年として、最後の一秒である。それを期待してだったら、正気のさたじゃない。もっとも、電波天文学、通信技術など、なにかの面で収穫があったとすれば、むだとはいえないが。
地球を中心としての百光年の範囲の球状空間内には、ほぼ六千個の恒星がある。そのなかで地球型惑星を持つのはいくつぐらいか。一割として六百、一パーセントとして六十。大まけにみて六百としても、文明の存在はたぶんゼロ。われわれは孤独なのだ。
なんだか、UFOすなわち他星からの飛来という説に、水をかけてしまったような気分になった。事実、UFOそのものを黙殺している人も多いのだ。私がただの否定論者だったら、ここでやめればいいし、あるいは最初から書く気も起らなかっただろう。
しかし、はじめに触れたごとく、私は一信九疑論者である。円盤の報道に接してからずっとだ。文明の進んだ星からの飛来の可能性を、捨てきれない。
それには、ここまでの論理を訂正しなければならない。可能なのか。容易ではないが、訂正できる部分があるのだ。それは……。
さっきから、現在までを基準に、地球史を考えてきた。しかし。将来においても地球は数十億年と存在しつづけるのだ。人類もまた心がけしだいで数億年はつづくかもしれない。
そうなれば、地球型惑星の平均的状態での文明期の割合が高くなる。惑星間文明の交流もありうるということになる。それがむしろ自然な姿である。
本気でそう思っているのかと、反論されそうだ。一般の人はせいぜい一週間単位の思考。政治家は次の選挙のことぐらいしか考えない。未来について発言する学者だって、せいぜい百年先である。しかし、そのはるか先を考えてみたっていいはずだし、私はそういう人のふえることを望んでいる。
しかし、あまり差があっては議論にならないから、人類をとりあえず十万年だけ生き延びさせる方法を考えよう。
強引な手段で原始時代へ引き戻せば、十万年はもつだろう。しかし、知的な生物としてではない。文明を維持しながらだって、可能なのではなかろうか。
私たちは終末意識のようなものに、とらわれすぎているようだ。脅威と軍備拡大の悪循環という大浪費に、気づかずにいる。ちょっとだけ思考を変えれば、十万年はなんとかもつのではなかろうか。
それがUFOのメッセージである。そんな例は確認されていないと言う人もいよう。しかし、UFOなるものはその出現自体がメッセージであり、警告なのである。内容はもう、いうまでもない。
「地球人よ。なぜそう滅亡を急ぐ。脳の小さかった恐竜だって、一億年以上は存続したのに。げんに、われわれが……」
なぜ気づかぬかと、もどかしがっているかもしれない。
つまらぬ争いをやめ、人口のコントロールに成功すれば、十万年分の物資やエネルギーは、太陽系内にあるはずである。先は長いのだ、なにも急ぐことはない。もちろん、相応の犠牲や代償を払うかもしれぬが、長期安定の計画は立てられる。その第一次十万年計画にむけて、なんとか進みかけた時……。
そうなってはじめて、UFOは正体を明らかにするだろう。正式な交流をはじめるか、あるいは「もう大丈夫だな、つぎは自力でこっちの星へおいで下さい。歓迎します」と言って立ち去るか。
文明の進んだ他星人が乗っているのなら、なぜ人類の向上に手を貸してくれないのかと思っている人も多いだろう。救世主の待望である。しかし、それこそ自分勝手というものだ。いや、自主性のなさというべきか。
第一次十万年計画を進めるとなると、かなりの忍耐を必要とする部分もあろうし、それになれる必要もある。だれもがなっとくする計画なら、そうなるだろう。
かりにいま、他星人が堂々と出現し「おまえらのやること、見ちゃいられん。正しい方法を教えてやる。その通りにやれ」と告げ、それを強行したらどうなる。心からの善意であっても、理屈で正しくても、ほぼ大部分の人類は反感を持ち、恐怖をおぼえるだろう。そして、その通りにしようとはせず、なんの効果ももたらさない。
巧妙にソフトな指導をといっても、人類はやはり警戒するだろう。われわれは知的であるがゆえに、それにともなう欠点も多く持っているのだ。何種かの病気を例外として、人類にはもはや天敵はない。落ち着いて未来を考えていいのだが……。
効果という言葉からの連想だが、ウラシマ効果という用語を作ったのは、私が円盤研究会からSF同人誌にかけての時期に知りあった友人、柴野拓美氏である。ウラシマ伝説にもとづく日本特有の表現。光速に近い速度で宇宙旅行をしてくると、当人はとしをとらないが、地球上では長い年月がたっているという現象である。現在の物理学では、そうなるらしいのだ。
恋人が宇宙旅行に行く。その留守中、一方は冷凍冬眠で待っているといったSFは、かつてよく書かれた。はるか未来にも、恋愛感情が重視されているかどうかだが。
しかし、人類社会が長期安定になれば、宇宙的行動範囲は、ぐんと広くなる。宇宙船に乗った当人にとっては七年だが、地球では五万年なんてことがあっても、そう違和感なしに行って帰れるわけである。
光速の限界は依然としてあり、しかも他星人が飛来している。この二つをみとめるとすれば、その星の社会は、私のいう超長期安定タイプでなければならないのだ。くりかえすが、UFOそれ自体が警告であり、忠告なのである。
これまたくりかえしだが、私はUFOを目撃しておらず、全面的肯定論者でもない。一信九疑で、かりに他星人の飛来と考えればかくもあらんかと、この文を書いてきた。
あるいは他星人でないかもしれない。
では、UFOはなんなのだと、すぐ質問されるだろう。
ある近未来を想像していただきたい。数百年後といったところか。無計画にすごしてきた人類は、なにもかもゆきづまり、滅亡を目の前にしている。
原因はいろいろある。資源の使いはたし。人口コントロールの失敗。生態系のバランスの崩れ……。
気がついた時には、もはや手おくれ。犠牲者をいかに出そうが、人類の生き延びる手段はなにもない。
その時、人びとはだれも反省するのではなかろうか。心の底から。ああ、こうなる前に、別な進路を選ぶべきだったと。その念は時をさかのぼって、まだ手の打ちようのある時代へと伝わるものではなかろうか。
なんとしてでも伝えてみせる。ちょっとSF的な形にする。生物が時をさかのぼるのは不可能だが、映像なら過去へ送れる装置を作れないものか。宇宙船や電波に光速を越えさせるのと、どっちがむずかしいか。
そんなわけで過去へ映像を送るとしたら、どんな形を選ぶか。とんでもないものでは、蜃《しん》気《き》楼《ろう》か幻覚と思われてしまう。しかし、他星からの来訪者らしいものにすれば、長期安定タイプの社会の必要性を、連想してくれるだろうと思うのではなかろうか。
時間というものの実体は、まだ解明されていない。未来からの警告で進路を変更することができるのかどうか、よくはわからない。
SFめいているが、私はその可能性も捨てきれないのだ。UFOの出現と、話題としてのひろまりは、第二次大戦の終了を境としている。それから現在までの科学の進歩は、驚くほどである。こういう時期こそ、慎重さが求められる。ジンギスカンの時代、ナポレオンの時代にUFOを出現させても、五万、十万年後への影響力はほとんどない。われわれの時代に出現していることに、意味があるのだ。
UFOが空間を越えて来るのか、時間を越えてくるのか、いずれにせよ、メッセージはひとつ。長期安定をめざせとの警告である。
われながら、長期安定にこだわりすぎていると思う。しかし、地球史をふりかえると、その気持ちが押さえきれない。
原始生命が海中で、悠久きわまる時間をかけて、大気を酸素の多いものに変えた。そのあと、さまざまな植物、動物が進化し、そのあげくに人類をうみ出した。地球の自然が人類を作ったのである。大気中、土壌中の微生物ですら、人類を支える生態系の一部なのである。
海中の植物性バクテリアをプランクトンが食い、それを大型のプランクトンが食い、それを小さな魚が、それを大きな魚が、最終的には人間が食う。食い残しは微生物が分解し、自然へ戻す。落葉も腐るからこそ自然なのである。デリケートに組み合わさっている。
その地球の作り上げた傑作である人類が、あと数百年で滅亡とする。知的生物が知的生物たる価値を発揮した期間が、花火のように一瞬ということになってしまい、あまりにひどい。夏のセミでさえ、十年以上の地中生活のあと、何日間かは鳴き、飛び、子孫を次代に残せるのだ。それ以下になってしまう。感情的になってしまうが、どうにも承知できないし、なっとくできないし、みとめたくない。自業自得で勝手に滅亡することは許されないのだ。
これは私だけではないのではなかろうか。UFOは人類の無意識の産物という説もあるらしい。それは長期安定への願望以外に原因は考えられない。早く、それをみとめるべきなのだ。
といって、私は現在の人類こそ、地球の知的生物の最終形態と思い込んでいるわけではない。より高度の新人類の出現ということも考えられる。しかし、進化にはかなりの年月を必要とする。また、その進化があるとしても、現在の人類と無関係には起りえない。対立や争いの段階をへずに、平穏なうちにそれがなされなければならない。双方が全力で争えば、地球は原始の海まで逆行する。新人類が軌道へ乗るのを見きわめてからなら、人類も心おきなく滅亡できる。それならいいのだ。
どのような考え方をしても、UFOの意味するところは、十万、百万年の単位での展望を持てである。そんな先のこと、知ったことかとの考えもあろう。しかし、その人はUFOについて、どうこう言う資格はない。
おそらく、十万年先のことなど、想像もしないでいる人が大部分だろう。しかし、その年月はいずれは必ず経過するのだし、それまでに数えきれぬほどの人類が存在するはずなのだ。そして、その存否をきめるハンドルがわれわれにまかされているのは、たしかなのだ。知的生物なら、ここでそれを考えてみるべきではなかろうか。
日常の断片
作家になってからをふりかえってみると、執筆に苦しんでいる自分の姿しか浮かんでこない。どうやら、これはどの作家にも共通したことのようだ。私も何回かは、海外へ出かけている。取材でなく見物だから、のんきなもので、その時は楽しい。しかし、そんな思い出は、すぐ薄れてしまうのである。
これまたよく書かれることだが、バーで飲んでいても、どこか一点、さめている。第三者は「ほどほどに仕事を」と思うのだろうが、そういかないのが作家であり、そんなことでいい作品の出来るわけがない。一種の中毒。現役作家の死が壮烈に見えるのは、執筆にのめりこんだあげくだからだろう。
このところ気がついてみると、雑用が驚くほどふえている。ある年齢を過ぎると、長年の義理のからんだ件がふえてくる。しかも、この雑用には一種の魅力があるから、なおいけない。それを果たすことで、執筆を怠ける自己弁護になりかねないのだ。自戒しよう。
というわけで、テレビ、ラジオに私はほとんど出ない。局から電話があると、まず「電波媒体はおことわり」と告げることにしている。出演すると、なにかひと仕事したような気分になるが、あとにはなにも残らぬのだ。
出ると、局の企画に従わねばならない。しゃべる時間だって限られている。また、依頼の電話には、出してやるといった感じがこもっているように思えてならないのだ。
先日、ある出版社から、後輩作家の本の推《すい》薦《せん》文をたのまれた。もっと知られていい作家なので、ゲラを読んで書いて渡した。
やがて本が送られてきて、オビを見て驚いた。赤に白抜きで「星新一氏激賞!」と、スポーツ紙の見出し的な大活字。ごていねいにも、裏表紙、背に当る部分にも。推薦文のほうは、かすんでしまう小活字。
二日ほど考え、これは抗議すべきだろうと判断した。この著者、無名の新人でなく、独自の作風を確立し、ファンも多いのだ。著者に失礼であり、こういうあくどい名前の利用のされ方は、私の感覚にあわぬ。
その社には、かつて有名誌の編集者だった人がいると聞き、文句を言ったが、その人は「小出版社なので、流通機構にのせるためには」とくりかえすばかり。小さいから、なにをやっても許されていいとの口ぶり。なさけなくなった。
結局、返本、再出荷の時に別な形のにつけかえることになったが、当分、私は推薦文を書く気がしないだろう。
似たような体験は、以前にもあった。官能小説の大家たちがよく書いている雑誌から、随筆をたのまれた。この雑誌の随筆ページは、わりと充実している。そこで、なんとなしに書いた。
そのうち某氏から電話があり、国電内の吊広告に私の名が大きく使われ、あたかも私が官能小説を書いたかのような印象を与えるものだという。吊広告とはねえ。たぶん私のほかにも、気づかぬまま、そんなふうに名を利用されている人がいるのだろう。その社の雑誌には、もう二度と書かないつもりだ。
ちょっとちがうが、そのころ、あまり聞かない誌名のところから、随筆の依頼があった。「どんな雑誌です」と聞くと「女性むけの雑誌です」との返事。たまたまスケジュールがあいていたので、つい引き受けた。
やがて送られてきた雑誌を見ると、ホステスさんむけの専門誌。まんまとひっかかったわけだが、意外にまじめな内容。お客を一人でも多く、一回でも多くよぶ方法のようなことものっている。風俗小説を書く人なら、大いに参考になるのではなかろうか。
それならそれで、そう説明してくれればいいのに。執筆が一段落してからの、自宅での寝酒がいちばんうまいと書いてしまった。しかし、見本を見てからだったら、たぶん断わっていただろうな。
かつて私の愛読者だった人が、大学を出て社会人となる。編集者になる人も現れるわけだ。一流出版社なら社員教育をするから起りえないことだろうが、PR誌関係となると、やっかいである。いとも気やすく、小説を依頼してくる。十五歳ほど若がえらせてくれるのなら、喜んで書くだろうがね。
新聞の勧誘の人が来るたびに、いやな気分になる。物品をちらつかせてか、おどし調である。女の人ならふるえあがるほどのもある。体験した人は多いはずだ。
金品とおどし。日本的性格は、かくして形成されてゆく。そんな新聞が選挙の買収を非難しているのを読むと、むなしくなる。
テレビコマーシャルで安さを宣伝している新聞のほうが、はるかに好感が持てる。
発想とは気力である。満足のゆくなにかが得られるまで、考え抜く以外に方法はない。そして、気力とは体力である。その体力というやつは、年齢に関係があるのだ。
昔は気にならなかったが、昨今、やっとアイデアを手にすると、ひどく疲れてしまう。そこで、つい寝酒の量がふえてしまい、つぎの日まで酔いを持ち越したりする。どうも困った状態なのだが、こればかりは仕方ない。
よく、書斎のなかを、いつのまにか歩き回っている。自問自答をやっているのである。そのことに、最近になって気がついた。発想の前段階といったところか。なにを自問自答していたのかとなると、ぜんぜん思い出せない。無意識の部分を引っぱり出す、ひとつの手段なのかもしれない。
道を歩いていてそれをやったら、交通信号に気づかぬかもしれない。私の作品のほとんどが書斎からうまれたというのも、そのせいだろう。
もしかしたら、昭和初期から今日までの変化は、室町時代から昭和初期までの長期にわたる変化より、はるかに大きいのではなかろうか。変化を測定する単位がないから、どうと断定はできないが。
となると、私はありがたい時代を生きてきたわけか。戦いで死んだ人が気の毒でならない。
本の宣伝や雑誌の目次で“何百枚の労作”という語が使われるが、枚という単位が四百字づめの原稿用紙のことであると、どれくらいの人が知っているだろう。
げんに私は、作家になるまで知らなかった。中学時代の学校での原稿用紙は、六百字づめだった。百枚がどの程度の長さか、一般の人にはぴんとこないはずである。そのうち私がぴたり十枚のショートショートを書くから、目次で“珠玉の十枚”とでも見出しをつけたらどうだろう。理解促進のため。
この、四百字という原稿用紙の形式。明治初期にすでに使われていた。おそらく、徳川時代にさかのぼれるのだろう。いつごろ、だれがきめたのか。版木師との関連か。
数年後のグリーンカードという制度、総背番号制コンピューター管理のきっかけとなるのではなかろうか。はじまれば、いくらでも範囲はひろげられるのだ。いつかはと予想していたが、こんなところからとはね。
先日、ある小さな会合に出た。私が主賓のような形である。そして、世の中には飲み物をつぐことが唯一の敬意のあらわし方と思っている人が、いかに多いかを知った。相手の立場を考え、ビールを少し飲むと、そこにつがれる。そんなしだいで、何人ものために、かなりの量を飲んでしまった。酒には強いから平気だったが。
たまたま、政治関係の人物も同席していた。その人は酒を受けつけない体質。ジュースを私のビールと同じぐらい飲んでいた。それを見て、政界の人も、はたで考えるより苦労しているんだなあと同情した。作家なら、こんな文で一種の発散ができるのだが。
速度と感覚
先日、文芸春秋社主催の講演会で鹿児島へ行った。飛行機で二時間たらず。着いて食事をしているうちに、ふと気がついた。
西郷隆盛をはじめとするこの地の維新の志士たちは京都、江戸に出没し、活躍していたのである。なんの乗り物もない時代。いったい、どれくらいの日時を要したかである。瀬戸内海を舟に乗ったとしても、江戸まで一ヵ月以上はかかったらしい。幕府側でないから、早馬で駆けるわけにもいかない。二本の足で歩いてだ。
そこを考えると、もう、それだけでため息が出る。やはり幕末だが、若かった伊藤博文は仲間とともに、密航して英国へ渡った。スエズ運河はまだ出来ていず、四ヵ月がかり。到着して数ヵ月、英国艦隊が長州を攻撃するらしいと新聞で見て、和解させようと帰国する。三ヵ月をかけて。
まだ無電のない時代だったから、まにあうとは考えられない。それをあえて帰った。いらいらのしつづけだったろう。現実は、攻撃開始にはまにあったものの、和解不成立で戦いとなった。
私の子供時代、父は仕事のことでしばしば台湾へ出かけた。東京駅へ見送りに行ったのをおぼえている。東海道線で神戸へ、そこから船で二日がかり。大旅行である。
現在なら、台湾まで数時間で行ってしまう。比較にならない。「戦争体験を語り伝えよう」と時どき言われるが、それはずいぶんとむずかしい。戦争以外の日常生活ですら、このように大きく変っているのだ。
話はずれるが、父は汽車の旅では、いつも一等車に乗ることにしていた。鈴木商店の支配人、金子直吉(その一代記は城山三郎氏が書いている)に影響されてらしい。つまり、一等車だと各界の名士に会え、事業にプラスになる。むだではないのだ。
そのころの一等車は後尾についていて、最後尾の車両として展望車があった。応接間といった感じで、一等客の専用。まあ、動くサロンといったところ。そこで、さまざまな会話がかわされたわけであろう。
現在の乗り物は、速度の点で驚異的に進歩した。しかし、移動のみの機関となり、人間味だのムードなどは、消えてしまった。失われたそれを惜しむ人もいるが、これはもう仕方のないことであろう。問題は、それにかわるものを、どこかに作り上げられるかではなかろうか。
父と翼賛選挙
いずれ私の亡父、星一《はじめ》の晩年を小説にしようと思っている。それには翼賛選挙のことをもっと知りたいと願っていたが、少しずつ解明されつつあるようでうれしい。
大政翼賛会からの推薦なしに出馬し、なんとか当選した。そのおかげで戦後、公職追放にもならず、政治活動をつづけられた。もっとも、軽い中風にかかり、占領下ということもあって、たいしたことはできなかった。食糧難の時代で、イモの増産と加工の研究所を作ろうと奔《ほん》走《そう》していたのを覚えている。
それから、第一回の参議院の全国区に立候補し、最高点で当選し、人生の最後を飾れた。その父の案内で、新憲法の衆議院の通過を見学した記憶がある。芦田均の報告、尾崎行雄の演説など、いまだに印象に残っている。
と書いてきて、参議院制は新憲法の結果であり、その時はすでに成立していたはずで、考えるとおかしくなる。戦後史のくわしい年表を調べればいいのだろうが、SF・ショートショートの締切りに追われて当分そんなひまはなさそうだ。あるいは、新憲法による議員によっての追加承認ということだったのだろうか。あれは夢だったのかとも思えてくる。年月はかくも早くたつものか。
父は昭和二十六年の一月に死去。そのころ私は、やがて作家になるなどぜんぜん考えていなかった。いまになってみると、生前にもっといろいろ聞いておけばよかったという後悔ばかりだが、まあ仕方のないことだ。
非推薦で代議士に立候補した時の実情を調べておこうという気になったのも、ごく最近である。父の出生地・福島三区のいわき市へひまを作って出かけたが、当時を知る人もごく少なくなっていた。
出てくる話も「わけもなく警察へ呼び出された」や「すぐ弁士中止と注意された」や「尾行がついた」といった程度。
唯一の収穫は、荻《おぎ》州《す》立兵と書くらしいのだが、師団長の経歴のある陸軍大将が応援演説に来てくれた話だ。歴戦の将軍で、福島県出身者の多くがその部下だったという。在郷軍人たちが会場に大ぜいつめかけ、官憲も困ったらしい。気骨があるというべきか、警官のひとりが「弁士中止」とやり、将軍とどなりあいになったとのこと。
文書活動は自由だったようだ。若いころからの友人、元首相の広田弘毅が推薦文を書いてくれた。それに名を連ねているのに、右翼の大物の頭山満、当時の革新官僚の勝間田清一(のちの社会党委員長)などの名もある。知人総動員といった形だ。
翼賛会に推薦されなかった最大の原因は、若いころに渡米し、苦学しながらコロンビア大学を出たためだろう。あと、やはりアメリカで身についた性格で、なにかというと役人と論争をしたがったためか。
「週刊新潮」の告知板のページで、なにかご存知のことをと書いたら各地のかたからご返事をいただいたが、どれも「ひどい圧迫だった」という漠然たるものばかり。全国的な干渉があったわけである。
よくもそこまで統一的にと、ふしぎに思ったが、やがて気づいた。明治の第一回の選挙を除いて、つねに政権党がなんらかの形で、反対党に干渉を加えてきたのである。
大正時代、政友会、憲政党と政権が交代するたびに、反対党に有形無形の圧力が加わり、多くの犠牲者が出ている。戦前の内務省は全国を支配し、政権党に奉仕する機関になっていたのだ。それですら押さえ切れなかった場合が何回もあるのだから、日本の民衆はなかなかしたたかである。
戦前の日本の内閣は、重臣、枢密院、軍部などの力のバランスの上に成立していた。しかも、翼賛選挙は戦時下。会期は短かったし、発言の制止、報道の規制もできたはずである。それなのに大干渉のなかで衆院選をあえてやったのは、それが唯一の民意の反映という重みを持っていたからだろう。軽視できない行事なのだ。
現在は民意の反映方法が多すぎる。衆院、参院、知事、地方議員、さらにはデモ、文書、電波媒体、活字媒体。こうなると、なにがなにやら、ぼやけてくる。戦前にくらべればいいとはいうものの、緊張感がうすれているのではないだろうか。
ショートショートの面白さ
四月に講談社から季刊の「ショートショートランド」という雑誌が創刊され、まずまずの売れ行きらしい。その以前にも二回、一般から作品を募集し、予選通過の数百編を私ひとりが選考し、本にまとめるという試みがなされた。毎回、五千編を超える作品が集まるので、雑誌の実現となった。創刊号には入選優秀作十三編がのり、あとは既成作家の作品である。私が関連しているのは応募の選考までで、編集にはタッチしていない。なんとかつづいてくれるのを祈るだけである。
そのほかの雑誌も、ショートショートを時どき小特集的に掲載するようになってきた。小さな流行現象となった。もちろんブームというにはほど遠いし、そうなるとろくな結果にならないと知っているし、たぶんそうはならないだろう。しかし、なぜ久しぶりに陽光が当たりはじめたのか、わけがわからない。
私が作家になったのは、昭和三十二年。性格に合っているのか短い形式を選んだが、やがて当時の都筑道夫「ミステリ・マガジン」編集長が「そういうのをアメリカではショートショートと呼ぶのだ」と何かに書き、私がその専門作家ということになってしまった。
語感の耳新しさか、まず雑誌、つづいて新聞の日曜版、PR誌などが好んで掲載しはじめた。小松左京、筒井康隆、平井和正などまで書かされたのだから、今昔の感にたえない。そのためSFとショートショートとの混同が起こり、いまだに残っている。私自身はミステリアスな奇妙な味のものが好きなのだが、宇宙進出や未来予測が話題になってたころで、SF的なものの依頼が多かった。そんな傾向の絶頂が、四十五年の万博である。
そのうち、なぜか新聞の日曜版の編集方針が変わり、注文が少なくなる。四十八年には石油ショック。紙不足で雑誌が薄くなり、一編あたりの枚数が減るかと期待したが、そうはならなかった。一方、企業の減量経営のためPR誌が軒なみ休刊となり、ショートショートの発表の場は、まったくなくなる。
しかし、運よくというべきか、その前年あたりから文庫本の時代となり、かつて書いたショートショート集の文庫が売れはじめ、生活の心配はなかった。私もたまには変わったことをと、時代物や明治の実録的なものに手をひろげたりした。いい勉強になった。
依然として注文はこない。「十枚前後のを書かせてくれ」と編集者にたのんでも「せめて二十枚は」と言われる。当時の私は、安定した中堅作家とみられていたわけだろう。
しかし、ショートショートを書きたい気持ちが押え切れず、ちょうど筒井康隆が編集を引き受けていた「面白半分」誌に金銭を度外視して、毎号に書きはじめた。この雑誌はまもなくつぶれたが、あとで知るところによると、筒井編集の号は彼が自腹を切って稿料を払ってたとのこと。五十三年ごろに当たる。
そのころ、アイデアのもとは気力と、実感しはじめていた。気力は体力であり、年齢とともに弱まる。なんとか書けるうちに一編でも多く書いておこうという気になった。そこで勇気を出し、編集者に「短くていいのなら書く」と宣言した。すると「それでけっこう」となった。つまり、わがままの言える立場になれたのだ。私より年長で、アイデアを盛った短編をコンスタントに書いている作家はいないと思う。吉行淳之介さんのように、時おり、どえらいのを書く人はいるが。
五十三年の十月が、講談社の第一回コンテストの締め切り。そのあたりから、ショートショートの小流行が復活したようだ。応募者は平均二十歳。十代も多いが、優秀作の平均は二十五歳ぐらい。文庫本で活字の物語を楽しむ一方、ラジオのコント番組に親しみ、参加し、それにあきたらなくなった若者たちというわけであろうか。新鮮さがある。
質の上昇もさることながら、感心させられるのは毎回、新しい個性、新しい手法の作品が出現する。多様化である。私の作風の逆をねらったムード派にもいいのがある。この分野の今後に期待を持っていいのではないかと思えてくる。創造する面白さに気づいた人がふえている。底辺のひろがりといったものを感じるのだ。こういうことが刺激となって、現役作家も手がけてくれれば、ありがたい。はばのひろがりも望まれるのだ。
最も恐れるのは質の低下だが、それは編集関係者の努力に待つしかない。それと、長年の課題だが、目次面や稿料を含めての作品の優遇である。すぐ連想してしまうが、わが国のヒトコマ漫画である。世界的な水準にあるのだが、発表舞台など恵まれた状態にない。ショートショートの若い才能も、ふさわしい環境を作っておけば、出現し育ってゆくのではなかろうか。もちろん、速効性があるとも思っていないが。
教育への私案
ひとつ、問題提起をやる。この分野については研究不足だが、だからこそ、勝手な案が出せるのだ。
大赤字の国鉄は、どうやら民営化の方法しか手段は残されていないようだ。私は、それなら小学校も民営化したらどうだと思う。好成績なら、中学までも。教育は広い意味での情報の一種であり、正当な対価を支払うべきだという、本来の姿になおすのである。
すでに、開業医は頭の切れぬ息子を医大に入れるため、巨額の寄付で入学させている。一人前にするには、それだけの費用がかかるのである。この現実をみつめるべきだ。
子供を小学校に入れる時、選択の自由がほとんどないという状態は、好ましくないのではなかろうか。レストランも、病院も、小売店も、銀行も、好みに合ったのを選べるし、そこには競争と活気があり、サービスがうまれる。当然、月謝は払う。そのかわり、教育予算を大幅にへらし、減税してもらう。
文部省は「とんでもない」と言うだろう。しかし、明治時代のような富国強兵を指示する時代ではないのだ。義務教育の義務という字は、いやいや学習という感じである。「社会にふさわしい人を」とも言うだろう。しかし、社会がある種の才能や性格の人間を真に求めていたら、最終的には、自然にそこへ行きつくはずなのだ。そこに至る経過に、選択の余地があっていいと思う。よけいなおせっかいは、少ないに越したことはない。
日教組の先生がたも「とんでもない」と言うだろう。しかし、子供にイデオロギーを押しつけるのは、無理なのだ。聖職か労働者かよりも、まず教育という貴重品を売る商人に徹していただきたい。生徒になぐられる先生の記事はもはや日常的だが、塾の教師、生け花の師匠が教えていてなぐられたというニュースには、まだお目にかかっていない。
タダほど高く、かつ不合理なものはない。民営化により、江戸時代の寺子屋に戻すのだ。本質は知識の売買なのである。それゆえに、師弟の精神的なつながりも生じていたのではなかろうか。売買に価するものだからこそ、おたがいに大事に扱った。
子供が小学校に入る時期となる。親は、通学可能なもののカタログを取り寄せる。Aタイプ、Bタイプ、さらに電機メーカー系列、外資系もある。などと、せめて四つぐらいの学校のなかから選べるようになっていいはずだ。となれば、教える側も「おたくのお子さんは扱えない、よそへ移るか、月謝の値上げを」と言えるのだ。
だがねえ、日本人は均一化が好きらしいからなあ。と思いつつ、おくればせながら空前のベストセラー『窓ぎわのトットちゃん』を読んでみた。老いも若きも、感銘を抱いたわけである。戦前の古き良き時代の、トモエ学園というユニークな私立小学校の、楽しさにあふれたお話なのだ。つまり、それだけ、現代の画一的な教育を多くの人がいやがり、その打開を求めていることの現れである。
もっとも、描写不足の点が二つある。ひとつは、このすばらしきトモエ学園、相応の月謝を取っていたはずなのだ。しかし、現在の多くの家庭は、戦前の黒柳家の水準ぐらいに経済的負担力があるだろう。
もうひとつ、トモエ学園ではいわゆる授業をどう教えていたか不明だが、どの子もまあ上級校へ進み、社会的に落後した人はいないのだ。先生が、どれだけのことを教えればいいのか理解しており、最良と思う方法をとれば、教科書にこだわることはないはずだ。大変な仕事にちがいないが、それなりの報酬は受けられ、充足感もあっただろう。
無形なものへの対価、報酬。サービス全般がすべてそうだが、選択の自由があれば、おのずときまってくるはずである。
まあ、過疎地帯はどうか、貧困家庭はどうだとの、反論が出るだろう。もちろん、事情のあるところへ税金が使われるのには、だれも反対しないし、私も同様である。言いたいのは、いまの教育システムに、大きなずれがあるのではないかだ。そうでなかったら、トモエ学園に、かくも大ぜいがあこがれない。
日本人の教育好きは、江戸時代、明治大正と、ずっとつづいている。それはいいのだが、すべてが大きく変化した現在、昔ながらの方法ではいけなくなったのではないか。コンピューターも大いに導入し、一方、トモエ学園的な人間性を目ざめさせる。へたをすれば、国鉄の二の舞である。教育は収支計算がしにくいから、なおやっかいだ。改革するなら、早いほうがいい。
具体的にどうすべきか細部までの青写真は作れないが、話題のたねになればと、このあいだから頭のなかで浮かんでは消えている、思いつきを記させてもらった。
思いつきとはいっても、ただの出まかせではない。二十年ちかく昔に、私は「大学進学ローンを」と随筆に書いた。神聖な教育をどう考えていると怒られそうな空気のなかで、知識とは価値のある情報と規定してである。それが現在、いつのまにか実現し、だれもなんとも思っていない。
資料はないが、ローンでの大学生は、一段と学業に身を入れているのではないか。奨学金で学ぶ人よりも。利息を体験していれば、社会に出てサラ金で身をほろぼすことも少ないだろう。
行革は教育のKも。
たとえば一例
このあいだ、新聞にのった某出版社の新刊本二冊の大きな広告を見て、驚いた。
一冊は、地球は西暦二千年の手前で破滅するであろうという本。社会が複雑化し未来が予測しにくくなると、こういう明快な予言がうけるのだ。読んでみるかなと思う。
そして、でかでかと並ぶもう一冊は、健康食で九十歳ちかくまで生きようという本。たぶん、いいことが書いてあるのだろう。
しかし、いったい、どうなってるんだ。地球破滅後も、健康食品の愛好者は生きていられるのか。どっちかが、うそでなくてはならない。両方とも信用できかねるともいえる。
あるパーティーで、その出版社の人にこれを指摘したが、言われてはじめて気づいたといった感じだった。そばに、かつて滅亡予言の本で大もうけをした出版社の人がいて「じつは、うちでも長生きの本を企画中で」と、にが笑いをしていた。要するに、売ることが最大の目標という時代なのだ。一般の人で、あの広告を見て、変だなと感じた人がどれぐらいいたのだろう。
こういうことは、なにも出版界に限ったことじゃない。いまや、自分なりの判断力がますます必要になりつつある。私も世をまどわしてはと、企業の宣伝に利用されることは、つとめて避けている。
映画「雲ながるる果てに」について
昭和四十年代のはじめごろではなかったか。大阪万博の前の、好景気のころである。私はテレビで旧作映画「雲ながるる果てに」を見た。筋は知っており、なにげなく眺めていた。
すると、しだいに画面に引き込まれ、異様な気分になり、からだがふるえてきた。マックルーハンの「テレビはクールな媒体」との説が紹介され、そうかもしれぬとも思っていた。それなのに、かくも引きつけられるとは。もっとも、夜、ひとりで見ていたせいもあろう。そして、終ったとたん、心のなかでこう叫んでいた。
「こりゃあ、恐怖映画の最高傑作ではないか。これ以上のは、思い浮かばない」
ボリス・カーロフ主演の「フランケンシュタイン」も、ずいぶんこわかった。ヒッチコックの「鳥」もうまくできていた。カフカ原作の「審判」も、じわっと迫るものがただよっていた。私の好みのホラーは、血みどろでないものである。
しかし、この「雲ながるる果てに」から感じた恐怖は、くらべようもないほど強烈なのだ。そもそも、作りものの話ではない。不条理なんて、わけのわからんしろものでもない。ここでは登場人物のすべてが常識外の思考であり、それに疑問を抱きかける人物も、ついには同じく流されてしまうのだ。
見ていない人も多いだろうから内容に触れると、戦争末期の日本、動員された学徒兵たちによる、体当り特攻機の物語である。
昭和二十八年ごろの製作である。映画の全盛期で、私もひまであり、これは話題作であり映画館で見た。沖縄戦を描いた「ひめゆりの塔」の大当りにつづいて作られた。鎮魂と反戦の祈りをこめた、リアリズムの映画。当時は、それがすなおに伝わってきた。
その十年ちかく以前は、現実に戦争末期で、私は大学の一年生。新聞とラジオの報道によると、日本の劣勢がつづいており、危機感が高まる一方だった。
もともと私は集団行動がきらいで、できれば軍隊はごめんこうむりたいと、徴兵猶予のある理科系に進んでいた。しかし、呼び出され、操縦法を教えられて、
「ここに新鋭機がある。敵艦に体当りしてくれぬか」
と言われていたら、あるいは承知し、敢行したかもしれない。そういう環境だったのである。だから、この映画を見た時は、作品に共感できた。
それが、ある年月がたって、テレビなるもので見なおすと、ほかに類のない恐怖映画、ホラーになってしまっていた。そう気づいた時は、われながら驚き、感無量だった。思えば、おかしな時代を生きてきた。
そのご、戦争をテーマにした映画が、わが国でいくつか作られ、テレビではさらに多く作られた。しかし、私にとって「雲ながるる果てに」にまさるものはない。
あとの作になればなるほど、真実から遠ざかる。出演者の栄養がよすぎる。深刻さを強調したり、娯楽調に仕上げたり、なまじ戦争を知らぬ世代に教えようなど、よけいな手を加えるからだ。学徒兵に同情しすぎ、同行する少年兵を人間あつかいせず、不自然なものになっている。
戦争の真の恐ろしさは、殺人、飢え、破壊、死が発生するからではない。全員がいつのまにか画一化された思考になり、当然のことと行動に移すことにある。
戦争体験を語りつぐことのむずかしさは、そこにある。みなが正気じゃなかったのだ。なぜ逃げなかったのかという、まともな質問には、説明のしようがない。
話はぐっと変るが「バニシング・ポイント」という映画があった。物おぼえが悪くなり、いつの作品か、どんな筋かさえ忘れた。しかし、ラストの部分はおぼえている。激突による死である。人間の心の底には、こういう衝動に駆りたてるものがあるのだろうか。
この映画に関しては、どこが面白いのか、私にはまるでわからない。恐怖もスリルもない。これは私が若さを失ってしまったせいだろう。情報の波のなかで、おぼれ死んだというわけか。ばかげたことは、ほどほどにといった感想だが、これへの解説をだれかしてくれぬものか。ほかにも、似たようなラストの作品がいくつかあった。
「さらば宇宙戦艦ヤマト」には、わかりやすい形でそれがあった。館内の若い人たち、涙にむせんでいた。自己犠牲の賛美である。それでいいのだろうな。
「野性の証明」のラスト。主人公の心情は、これでいいのだろう。そばから常識ある人が出て、
「お待ちなさい。死ぬだけです」
なんて忠告し、それに従ったりしたら、お話にならぬものな。などと、自己をなっとくさせた人もいたのではないか。
大作「影武者」のラストも同様だ。映像として美しい作品で、それゆえに世界的な賞を取ったのだろうが、外国の人はどう受けとったのか。犬死になのに。義理もないはずだ。思い出に殉じたというわけか。
まあ、いいだろう。やけっぱちの死もありうるのだ。そんな結末の作品は、今後も作られ、生と死について、各人それぞれが、なんらかの形で考えるだろう。
そこには自由があり、選択の余地がある。理想的な社会とはいえぬまでも、あのころよりはましである。なにしろ、戦争の末期には、それがまったく欠落していたのだ。
テレビで見なおしてから、この映画について語りたかった。これを書いているのが八月ということもあり、昔を思い出しながらだ。
ここで、ふと考える。「雲ながるる果てに」を私が恐怖映画と感じたように、現代のありふれた部分をリアルに描いた映像に、何十年か先の人が異様さをおぼえるなんてことには、ならないだろうか。
いわんとすること
なぜか私の作品のいくつかが、国語教科書にのっているのである。作家になりたてのころ、当時かなり売れていたらしい成人むけのクラブ雑誌の編集者から、なにかの会で「星さんの作品は高級すぎて、うちの雑誌にはむきません」と言われたものだ。あれから二十数年、世の中は変ったものだ。
作品使用料は驚くべき安さだが、何パーセントかの波長の合う少年がいて、もっと読みたいという気になってくれればと期待し、承諾しているのだ。
実情は、一パーセント以下だろう。面白さを伝えないように教えているらしいのだ。作品のあとに、たいてい「作者がなにをいわんとしているのか考えよう」などと書き加えられているのだ。
エッセーと小説はちがう。いわんとしていることがあって小説、とくに短編を書いている人がどれだけあるだろう。むりにも答えろというのなら、ただひとつ。読者が面白がってくれるように、だけである。
初期のころ、宇宙人や未来人の視点で人類の不完全さを突いた作をいくつか書いたが、それも面白さの手段にしかすぎない。「おーい、でてこーい」を書いたころは、公害という言葉も概念もなかったし、書いた私も将来それが大問題になるなど、考えもしなかった。もっとも、発想は無意識から湧くもので、そこに不定形なものとしてあったのかもしれない。いまや「いわんとすること」は公害となり、ワッという面白さが薄れてしまった。
かつて、どこかの先生が生徒に私の作品を読ませたところ、各人がばらばらの受け取り方なので困ってしまい、ノイローゼ状態になって私に手紙をよこした。それが当然、それでいいのですと返事を書いた。このごろは、そういうことがない。先生の世代が交代したのだろう。私の作品を好まぬ先生も多いだろうが、こういう作品の存在を否定できない時代との理解は、持っていただけてるらしい。
しかし、教科書を作る会社のおえらがた、委員、執筆者、教育方針を示す文部省など、依然として頭が古いらしい。なぜそんなことに気づいたかというと、昨今の偏向教科書でとやかくいわれている二作を、ことあれ主義の新聞が掲載してくれたからだ。
読んで、いやな気分になった。内容が暗いからというのではない。一読「いわんとしていること」がすぐわかるのだ。統一解釈が作りやすい。先生の気に入る答案が書きやすい。つまり、国語教育によって、思考の画一化をめざしていることになる。
正解を求める教育は、算数の時間でやるべきことだ。小説がそういうものだと受け取られては、大変な誤解を子供の頭に植えつけることになる。
物語と「いわんとしていること」が関連していたのは、紀元前のイソップで終っているのだ。百科事典によると、彼は体制側の人となっている。ヨーロッパに限ったことではないが、民話や童話には、わけのわからぬ残酷さを秘めたものが多い。聞いていてぞくぞくするし、それこそ小説の本質のひとつであり、人生というものもまた、そういった面を持っている。
相手に聞いたり読んだりしてもらわない限り、ことは少しも進まないのだ。問題の「大きなかぶ」はロシアの民話だそうだが、本当だろうか。こんな「力を合わせればうまくゆく」という教訓たっぷりの話が、口から口へ伝わるはずがない。何回も聞かされたら、うんざりだ。こっそり刃物で、掘るように切ってゆくのが生きる知恵である。
かりに今日まで残っていたとすれば、封建時代の支配者が領内の農民に、定期的に教え込んだのかもしれない。一本の矢なら折れるが三本となると折れないという、毛利家の家訓が連想される。
貧困というテーマも議論の一因らしいが、いまの日本で貧困を理解できる子供がどれくらいいるだろう。貧困とは終りのない空腹であり、病気と死の多さであり、防ぎようのない寒さや暑さであり、娯楽のなさである。その実感がなければ、成立しない話である。
作家になってまもなく、私は日本では貧困の出てくる作品は読者に通じないと気づき、書くのをやめた。借金の山、浪費のつけ、ギャンブルへののめり込み、欲しいものが買えないというたぐいは、貧困とちがうのだ。
それなのに、教科書のなかに、いまだに存在していたとは。四半世紀のずれがある。教科書関係者がいかに高齢なのか、察しがつくというものだ。子供はとまどうばかり。教える先生だって、貧困の体験はないだろう。適当に片づけられているのではなかろうか。じつは、戦中派の私ですら、空腹の苦痛は忘れてしまった。
ほかの課目の教科書は知らないが、世界には餓死線上の人が億単位でいることがのっているのだろうか。たぶん、のっているのだろうが、子供は頭で「そうですか」と覚え込むだけだろう。喜ぶべきなのだろうが、一方で、ぞっとする。その、ぞっとの説明もできないのだから、ため息が出る。
もう十年ぐらい前になるか、私も高校生と話し合うひまを作れる体力のあったころ。ふと「太宰治は好きかい」と聞き、その答えが「教科書で読まされてきらいになりました」だった。ははあ、だ。「走れメロス」にちがいない。愚作であり、しかるがゆえに教科書むきなのだ。太宰らしさがちっともない。あのストーリーは古くからある。帝政ロシア時代の作家シチェドリンが『寓《ぐう》話《わ》』のなかで、結末に鋭く皮肉なひっくりかえしをつけ、読んでびっくりしたことがある。
太宰は「いわんとすること」のわからないのが、魅力である。その点「二十世紀旗手」は空前絶後の傑作と思う。あの「走れメロス」を読まされた少年、太宰のほかの作品群、いずれも気の毒である。すべては教科書関係者の、無神経のせいである。
第三者だから勝手なことが言えるのだろうが、極論すれば教えることは二つだけでいい。ひとつは漢字の正しい使い方である。ある機会があり、若い人の投稿原稿を見たことがある。驚いたのは、誤字、あて字のひどさである。文章の基本であるべきなのに。この乱れは、スポーツ紙の見出しのせいだと解説してくれた人があった。私はそれを読まないが、そうとすれば、新聞媒体が国語に関し、どうこう言えた義理か。偏向以前の問題だ。
もうひとつは、手紙の書き方である。これを徹底的に教えたらいいと思う。手紙となると、相手に伝えるべき内容、つまり「いわんとすること」が、頭のなかで整理されていなければならない。それを、どういう順序で並べれば効果的かを考えなければならない。どんな文章がいいのかも。
さらに、個性である。平凡なものでは、相手が終りまで読んでくれるかどうか。ユーモアの必要性だってわかってくる。相手の立場に立って考えるという、社会人に必要な感覚も育ってくる。たとえば、オーストラリアの日本語の読める人に、自分の生活を知らせる手紙という課題を出したら、いい勉強になるはずである。
いまは電話の時代だが、この手紙の基礎が出来ているかどうかで、差がつくのではないか。商品の説明だって、うまいへたがある。
いろんな企業から、さまざまなダイレクトメールがくる。いずれも、くふうをこらした文だ。一方、たまに官庁から文書がとどく。この読みにくさといったらない。地方自治体などから講演の依頼があったりする。すべておことわりしているが、どうせなら文面を一考すればいいのに。わが市にはかくかくの歴史があり、景色はよく、人情こまやかで、酒はうまく、などとあったら、人によっては腰を上げる場合もあろう。
学者の文章も、よく話題になる。学者は半年でも、民間の仕事をアルバイトでやってみるべきだ。経済学者なら証券業や商社に、法学をやるなら弁護士事務所、政治学なら選挙事務所でといったぐあいに。世間しらずの学者が、教科書の編集委員をやっているのがまちがいなのだ。
アメリカではキッシンジャーのように、学者になったり、行政官になったりだ。どっちをやっても説得力があるわけだ。わが国も、原子力発電だ、土地収用だと、役所の人もこのところ苦労を重ねる時代となったが、まず民衆レベルの感覚を身につけてとのシステムがあれば、はるかにスムースに進行しているはずである。
大学で文学を専攻したいという人は別として、高校までの国語教育は、社会人として通用することを目標とすればいいのではなかろうか。何回も書いたことだが、いまだに「御中」の使い方を知らぬのが、あとをたたぬ。
おそらく今日も、どこかでシャーロック・ホームズの短編を読み、読書帳の「作者のいわんとすること」の横に「悪事をするとつかまります。犯罪はやめましょう」と書いている生徒がいるのではなかろうか。そうでないことを充分に知りながら。
その本家のイギリスでは、子供たちは『マザー・グース』や『ふしぎの国のアリス』で英語を身につけている。これらの本の「いわんとすること」こそ重要なのではなかろうか。チャップリンもヒッチコックも、そこで育った。若き日のチャップリン、円熟したころのヒッチコック。そこからは多くの人を楽しませようという、すべての力の動員が伝わってくるのだ。
日英の優劣を論じるつもりはないが、少なくともイギリスの国会では、どなりあいだけはないようである。そもそも、コトバとは、そのためにあるものなのだ。
移り変り
昭和二十年代が映画の全盛期だった。名監督、名優、美男美女が国外国内に数えきれぬほどいて、どれを見ても面白く、金を払って損したと思ったことはなかった。
ちょうどそれが、満十八から十年間という私の青春期と重なっており、いい時代だったなあと、あらためて感じる。いまもテレビで見られるし、名作はビデオで商品となっているらしい。しかし、それは別物なのだ。
コンビによるギャグ喜劇物を私はとくに好きで、せき込むほど笑わされたのに、テレビで見なおしたら少しもおかしくなかった。なかには、編集でばさばさ切られているのもある。ストーリーを通すため、余分だが重要な個所をすべて削ってしまったのもあった。
このあいだ、なにげなく新聞の番組欄を見たら、昼間なのに「惑星ソラリス」を放映しているではないか。長ったらしいが名作である。スイッチを入れたのが終りの四分の一ぐらいのところ。すでに見てるのだし、あのラストシーンを味わえばいいのだ。しかし、それがなんと、ばっさりと消えていた。時間の関係なら、途中でいくらでも削れるのに。問題のある幕切れで、映画館で見たら帰りに友人たちと喫茶店に入り、話し合うところだ。
「おい、終りはどうなってるんだ」
すると、わけ知りのがくわしく説明してくれる。あるいは、プログラムを読みなおすと、こまかい活字でなるほどという文が書かれていたりする。そういう時代ではなくなったので、面倒だとばかり切ってしまったのだろう。ラストを放映し、局へ問い合わせの電話があったら、やっかいである。
ここ一年ぐらい見たなかで、最も印象に残っている映画は「ストーカー」だ。ほとんど話題にならなかったし、筋もひねくれているが、一貫して妙なムードに満ちていた。カフカ風のSF物である。結末がひねってあり、何通りの解釈もでき、うならされた。こうも考えさせられた映画は、めったにない。テレビに流れることもあるまいが、その時は同様にラストが切られるのだろうな。
一方、がっくりきたのは「スクープ――悪意の不在」である。前半までは、新聞などの映画紹介で知らされている展開。よく後半をバラさないなと感心し、気になるので出かけたのだ。そして、その後半だが、なにがなんだか、まるでわからない。ひとりで最終回のを見たのだが、終ったあとも例外的にプログラムを売っていた。解説を求める人が多かったわけである。私も買ったはいいが、いかに読んでも、そこに触れていない。入場料とプログラム代と費した時間をどうしてくれるのだ。ああ、昔はよかった。
映画館に私があまり行かなくなったのは、昭和三十三年ごろからである。テレビの出現もたしかに一因だが、作家の道に入ってしまったからである。生活において、執筆が最優先となったのだ。注文はすべてこなさなければならなかったし、読むべき小説が大きくふえた。熱中していた碁も、いいかげんになった。突然の配置転換のようなものである。
映画界そのものも、おかしくなりかけていた。ヌーベル・バーグという華やかなレッテルのついた作品をいくつか見たが、正直いってつまらなかった。第一線を引退していたある映画関係者に、その意見を述べたら、
「むこうで安く買いたたいて、そのぶんの金を宣伝に使っているのだからな」
と、うちあけ話をしてくれた。これで衰退にむかうのかなと、私は思ったものだ。何十年もかけて築いた信用が、いかに貴重なものか気づかぬのだ。それ以後、監督、出演者、原作者、友人の口コミによって選んで見るようになった。映画ならなんでもいい、ではなくなったのだ。
その少しあと、某映画会社がSF作家を集め、一席もうけて「ご意見拝聴」ということになった。私たち、協力への意欲はあるのだが、報酬がどうなのか知りたがり、それとなく口にするのだが反応がない。どうやら、この食事で企画のアイデアを、ただで聞き出すつもりでいたらしい。そうとわかって、しらけてしまった。
そんなことをやるより、小松さんの『日本アパッチ族』か筒井さんの『アフリカの爆弾』をていねいに映画化していたら、後世に残る作品になっていただろう。対応がうまくなかった。なぜか国鉄赤字を連想する。
当時、テレビは若々しい媒体だった。あのNHKが、海のものとも山のものとも評価しがたかった私に、連続物「宇宙船シリカ」の原作を依頼してきた。竹田人形座を使い、のちに有名になった声優を使い、自分でも驚いたほどの映像に仕上げてくれた。
昭和三十五年から十年間ぐらいが、テレビの全盛期だったのではなかろうか。外国製の「ヒッチコック劇場」や「ミステリー・ゾーン」のシリーズは、過去の蓄積を一挙に開花させた感じである。ミステリーとSFの名作短編を使いきったのだ。野球だって、完全中継が普通だった。
まあ、それはともかく、映画の面白いのが少なくなった。昔は予告編というのがあり、なにがなんだかわからないが、次を見たくさせた。じつに巧妙であり一時期のひとつの芸術品とさえいえる。
いまのはもう、どうしようもない。なんのくふうもなく、クライマックスの場面を見せてしまうのだ。安易きわまる。「ブッシュマン」の予告では、ラストシーンを見せてしまった。国産SFの名作「ブルー・クリスマス」も、テレビの予告でラストを流していた。こういうことが、どれくらい観客を減らしていることか。
だから、ミステリー映画となると、あわれをとどめる。予告、紹介文、批評文、そろって筋を割るのである。時には、犯人まであかしてしまう。映画そのものの自殺に、よってたかって手を貸しているのだ。
ミステリーのなんたるかを知らぬのだ。国産の特別試写会で、出演俳優が自分が役の上でどうなるのか、つぎつぎしゃべるのに二度ほど出くわした。これで、なぞを楽しめというのか。見ていてわかるように作られているのが、映画ではないのか。観客はばかではないのだ。「サイコ」のころがなつかしい。予告編も面白かったし、だれもが正直にラストの秘密を守っていた。いまのようになったら、いっそ、試写を全廃すればいいのに。
それと似たことで困るのが、テレビのサーカスとマジックショーのおしゃべりだ。さあという場面。音楽も小さくなる。満場いきをのんで注目する。その時に「危険でしょうねえ」とか「どうなるんでしょう」と声が入るのだ。この無神経には、泣きたくなる。言われなくても、そう感じるように演出されているのだ。
これらを不快がる人が少なく、むしろ望む人が多いのなら、私の期待する形での映画の復活、テレビの向上はなさそうだ。
少し前「エリザベス女王は、フォークランドに従軍している子息について、さぞご心配でしょう」との記事やコメントに何度も接した。大衆は、そこまで告げなければ理解しないということなのだろうか。そのうち「自動車事故で、一ヵ月の重傷です。さぞ痛かったことでしょう。仕事上の支障もあり、お気の毒です」というニュースになるわけか。これは皮肉だと、私も念を押しておく必要がありそうだ。
いやな傾向である。想像力だの感受性だのが、徐々にむしばまれてゆく。情報の時代だという。はるか昔に私は、雑事は電子頭脳が処理してくれ、人間の余裕のある生活の未来を空想したものだ。それがいま、小説も映画も感情も、気温や株価やカロリーと同じ情報あつかいである。知ればよかろうとの扱いで、じっくり味わうことなどできないのだ。宇宙船地球号などといわれるが、こと日本に関しては、全国民ハードスケジュールのセット旅行中なのである。
学習・コレステロール
晩春のある日。
おだやかであるべきだった。とくに私の場合、二ヵ月がかりで歯の大修理をすませたあとである。仕事に追い立てられる状態にもない。しかし、世の中、そんな時に限って異変が起るのだ。
散歩がてら、近所のO医院に寄った。
なお、このO医院は、五年ほど前に自費で二十日ほど入院し、十日間の水だけの完全断食を体験したところである。食事を徐々にもとに戻すのに、やはり十日かかるのだ。われながら、物好きなことだ。
収穫となると、一日に体重が約一キロへると知ったのと、災害で食料が入手できなくても、水だけでさほどの苦痛なしに、十日はもつと実感したことぐらい。
間接的な収穫は、それを機会にタバコをやめられたこと。やめたくてやめられずにいる人に、私は「二十日間、仕事を休めば可能ですよ」と言うことにしている。しかし、むしろ、その二十日間の休みのほうが、現代ではむずかしいかもしれない。私はタバコをやめたものの、じわじわ酒量が上り、よかったのかどうか、なんともいえない。
話が横道にそれたが、そのO医院で、なにげなく尿の検査をしてもらった。トイレを借りたかったせいかもしれない。別に異常なし。ついでに血圧もとなった。
「これは、かなり高い」
ショックだった。それより、信じられないという気持ち。これまで時たま測ってもらっていたが、そう診断されたのは、はじめてだ。しかし、ベテランの医師が測りちがえることはないはずである。
血液検査用にと採血され、心電図をとられた。たまたま、心電図の専門技師がいたのである。ショックのため大ゆれと思ったが、それは無関係のようで、とくに異常はみとめられない。胸のレントゲン撮影もされた。
血圧だけが高いとは、ぶきみである。
血圧降下剤ほか、何種もの薬をもらった。とにかく、驚きだ。原稿を書く気にはならぬ。やけ酒を飲んで寝た。酒もよくないのかもしれないが。
翌日、歩いて十五分ほどの大きな書店へ出かけ、そのたぐいの棚をさがした。そこで買ったのが左記の本。
西村薫著 『高血圧の食事献立』
主婦の友社
副題に「今日から使える」とあり、著者は栄養学が専門の女性である。
それにしても、こういう本を買うというのは、いい気分ではない。若くはないぞと声をかけられ、死神に一歩だけ近よられたようなものなのだ。その心境を延々と書いてみたいが、わからない人には決して通じないし、わかる人には説明無用だ。
さて、この本だが、読みやすく、わかりやすい。要点は二十六ページにおさまっている。あとは四季の献立例である。主婦むきの実用書だ。
まっ先に書かれていることは、食塩の摂取を減らせである。加工食品の普及に関連し、塩分が問題になっているとは知っていたが、わが身に関連していたとはね。
食品分類表ものっている。
好ましい食品
淡白な(白身の)魚。鶏肉のささ身。豆類やトウフ。野菜、海草、キノコ類。牛乳、ヨーグルト……。
毎日でなければの食品
淡白でない魚。貝、イカ、エビ。豚や牛の赤身肉。バター、チーズ……。
避けたい食品
魚卵(イクラ、カズノコ)類。脂肪の多い肉やレバー。砂糖の多い菓子。アイスクリーム……。
大体の見当がつく。しかし、塩分(NaCl)が最大の問題とはね。うちの料理用のを調べたら、減塩醤《しよう》油《ゆ》だった。さらに徹底させようと、薬局へ寄って、無塩醤油を買ってきた。これはナトリウム(Na)分をさらに大はばにへらし、カリウム(K)を使い、それらしき味にしたものである。世界に類のない発明品ではなかろうか。
なお、私は夜食に、プレーンヨーグルトにアミのツクダニをまぜ、めんつゆをかけて食べるのを習慣としていた。これを奇妙に思う人は多いようで、ある新聞の女性記者が近況を取材に来てそれを聞き、ふしぎがり、そこに重点をおいた記事となった。しかし、私はけっこううまい物と思っている。甘党ではないし、糖分はふとるもとだ。
ところで、なぜ、食塩がいけないのか。
ちょうど新聞にのっていたが、食塩を多くとると、NaとKのバランスが崩れ、血管細胞が水を吸ってふくれる。血の流れが悪くなるのである。食塩のとりすぎの害は、タバコの害よりはるかに明白である。専売公社も、立場が苦しくなりつつあるな。
しかるに、その後に気づいたことだが、高級料亭で無塩醤油を置いてある店を知らない。味が落ちると思ってだろう。板前さんが若いせいもあろう。だが、社長クラスには、塩分を気にする人も多いはずだ。いまに、財界人の宴会離れが起るぞ。高級ならざる店も、もちろん同様である。健康法ブームだというのに。
私はヨーグルトを、ノリと無塩醤油で食うことにした。Kは人体に必要なミネラルで、いいことなのだ。
ショックから数日後、O医院へ。胸のレントゲンはなんともない。そして、血液検査の結果を告げられる。はじめてではないが、知らされる時にはサスペンスを感じる。いつもは肝臓に重点をおいての検査だったが、今回は範囲を広げてのものだ。
「コレステロール値がかなり高い」
酒の飲みすぎと言われたのならわかるが、コレステロールとはなあ。そういうものがあるとは知ってましたよ。しかし、ねえ、この体内でねえ。またも書店へ。
桜井達男著 『コレステロールの知識と献立例』
有紀書房
著者は医学博士とだけあり、それ以上の紹介はない。しかし、わかりやすい文章で「一定量のコレステロールはむしろ必要」とはじめて、ついつい読まされてしまう。必要だが、とりすぎると血管の内側に付着し、流れを悪くする。つまり、血圧を高めるのだ。食塩のとりすぎは、それをさらにひどくする。
コレステロールの多い食品のベストテン。
鶏卵、魚卵、モツ、小魚、貝類、イカ、エビ、タコ、カニ、バター。
ははあ、そうであったかだ。
だいぶ前になるが、私はふとりすぎを気にし、減量をやった。それ以来、カロリーにだけは注意している。米飯など、めったに食べない。甘いケーキは、もともと好きでない。紅茶を起きてからの食事の時に飲むが、砂糖を入れたことがない。
米や糖分は高額紙幣のようなもので、余分にあると貯金にまわされ、皮下脂肪という通帳になる。アルコールもカロリーなのだが、これは貨幣のようなもの。そのぶん米や糖分をへらせば、ふとらない。
だから、カロリーがなければと、鶏卵、貝、イカなどをいい気になって食っていたのだ。そのむくいなのかもしれない。不注意だった。タバコをやめ、ふとっていなければよかろうとの、油断のせいである。作家という自由業だと、定期検診がないからこうなる。
うっかりしていたら、発《ほつ》作《さ》にまで至っていたかもしれない。
偶然、働きざかりの心と体の総合雑誌というキャッチフレーズの「壮快」の五月号が、動脈硬化の特集号をやっていた。こうなると、いやでも熟読する。
あとになって気づくのだが、これらの大衆むけ健康関連の文章、すべて「です」「ます」調なのである。小説でのこの文体はきらいだが、こういう場合には、話しかけられているような気分になるせいか効果的である。
少したって「婦人倶楽部」六月号の付録に“暮らしの健康知恵事典”というのがついた。小型だが、三百ページ近い。そして、見開き二ページに五つか六つの割で、健康記事が並んでいる。肥満の章を読んでみる。なるほど、なるほどだが……。
バターはすぐ燃焼するのに対して、植物油のマーガリンは皮下脂肪になりやすいので、パンにぬる程度なら、バターのほうがいい。
その一項目おいたあとの記事は……。
減量には動物性脂肪を制限し、植物油をとりましょう。それに含まれるビタミンEやFが、脂肪代謝を高めます。野菜いためをたっぷりとるとか……。
さらに何ページかあとには、植物油をいため物に使っては効果が少ない、生のままサラダに使うようにしましょう、つづいて、貝類にコレステロールが多いというのはウソで、いい効果があると書いてある。また、中年すぎたら、牛乳より牛肉の脂肪が安全とある。さらに、酒好きなご主人にはチーズやレバーをと……。
いったい、なにがどうなっているのだ。わけのわからない代表は鶏卵で、いい悪いの二説がある。食塩で味をつけるのがよくないのかなと思ったりした。
大ぜいの執筆者の手に成るこういう付録は、どうしても統一がとれない。おおらかな主婦とちがって、私のような整理好きの性格の男は、混乱してしまう。
あとになって、それぞれ一理あるとわかってくるのだが、まぎらわしい。監修者がいなくてはいけない。
まあ、とにかく、最初に買った『高血圧の食事献立』を読んできめた方針をつづけることにした。迷っている場合ではない。ほぼ菜食主義で、魚や鶏を時たま食べた。塩分をへらし、スパイスの種類をふやした。ソラマメの季節で、これなら安全だろうと、さかんに食べた。
そして、一ヵ月。
血圧は、かなり下った。降下剤のおかげかもしれない。降下剤を一日三錠《じよう》から一錠にへらし、やがては当分みあわせることになる。血液検査では、コレステロールがみごとにへっていた。ひと安心といったところ。
「食事療法はつらいでしょう」
と聞かれることがある。そりゃあ、好きなものを腹一杯に食いたいとは思うが、好ましいことではない。
四十代のはじめのころ、過食と運動不足で下腹がみっともないほどにふくれた。そこで決意し、前記の減量をやり、まあまあのスタイルを保持している。
肥満時代の腹を思い出すと、あれに戻るよりはと、美意識が食いすぎを押さえる。
人間の欲望は無限である。以前に読んだ、興味ぶかい本がある。
岸田秀、伊丹十三対談 『哺育器のなかの大人』
朝日出版社
人間は現実を知り得ないという、ユニークな内容である。動物には本能があり、生れながらに、食べられるもの食べられないものを知っている。しかし、人間は教えられた上で、それを身につけるのである。
どこかで、理性がからんでいるわけだ。通人がほめると、うまいような気になる。人間以外の動物、外見や味を楽しむなんてこと、やってるのだろうか。
いまや健康という条件が、からんできた。欲望は無限であるが、自己コントロールも可能なのだ。よくないとなっとくすれば、食わずにいられる。コレステロールの少ない食品でも、けっこうバラエティが作れる。もっとも、私の年代は戦中戦後の食糧難の時代を体験しているので、不満を押さえやすいのかもしれない。
一段落して余裕が出来ると、私の悪い癖が出てくる。これはもう、われながら、どうしようもないものなのだ。つまり、好奇心というやつ。
そもそも、コレステロールとは、いかなるものなのか。
こう火がつくと、とめようがないのだ。一年ほど前から、無理をしないようにと、原稿の受注をへらしている。その時間をまともな読書にあてるべきなのだが、こんな予想外のものが割り込んできた。本によるくいちがいが、どうもひっかかる。
またも本を買った。
五島雄一郎著 『食べ物とコレステロール』
女子栄養大学出版部
著者は慶応の医学部教授で、老人病センターの部長。読みやすい文章で、難解さはない。「壮快」にもよく書いている。
ここでも「ないと困るコレステロール」ではじまっている。人体細胞の、細胞膜の主成分である。胆《たん》汁《じゆう》酸に含まれていて、脂肪の消化や吸収をやる。副《ふく》腎《じん》皮質ホルモンも作る。かくも有用な物質で、食物からとり入れるだけでなく、その十倍ちかくを肝臓が作ってもいるのだ。
コレステロールは消化管内を流れ、血管内をも流れる。しかし、血中の量が多くなりすぎると、問題をひき起す。高血圧、心臓、肝臓、糖尿などの成人病で、それらとの関連が説明されている。
そして、この本では献立例ではなく、運動とか入浴とか、生活上の注意が書かれている。もちろん、食品中のコレステロール含有量のリストものっている。
たいていの本にはこの種のリストがのっているが、注意しないと妙なことになる。百グラム中のコレステロール量を示すリストは、扱いにくい。牛乳を百グラム飲む人はいようが、ねりウニをそれだけは食べられない。ウドンは含有量ゼロだが、塩味なしでは食えたものじゃない。
こうなると実用的でなく、簡単にすませたい人は「食事献立」を主にした本が便利である。さきにあげた以外に何種も出版されていて、内容にそう差はないようで、すなおに従っていれば間違いない。
なお、この『食べ物とコレステロール』という本には、巻末に外国での研究と統計結果がのっている。さまざまな例があるが、驚くべきことに少なくて三年、長いのは八年にわたっていて、その息の長さには感心した。よいと思われる食事を与えた場合、心臓への影響など一年で明白によくなっているのに、五年もつづけているのだ。
どうやら、私は深入りしすぎてしまったようだ。もっとも、それはあとになってのことで、当時は軽い予感ぐらいで、調べればわかるはずだと思っていた。
「壮快」の五月号には、草柳大蔵氏と森皎祐氏(慶応大学講師)の血圧についての対談がのっている。くわしく読みなおすと、森氏の気になる発言がある。
「やせ型で高血圧の人に、脳卒中が起りやすい。日本人の場合、コレステロールが少なすぎるのが問題でしょう」
といった内容。おやおやだ。たとえば、昔の東北地方の農民である。ふとった人はいなかった。米飯と塩分の多い副食物で、脂っこい肉類はあまり食べなかった。コレステロールが不足で、血管の細胞膜がそれだけ弱く、疲れやすかった。なるほどである。
献立例で鶏卵の扱いが一定していないのも、そのためのようだ。少なくなりすぎるのも、高血圧によろしくない。いくらかは食べさせておこうというわけか。
しかし、それで血管を丈夫にすると、破れにくくなったため、心臓のほうにしわ寄せがくる。かなわんなあ。
また、この号の「壮快」には、コレステロールに善玉と悪玉とがあるとの短い記事がある。運動すると、善玉がふえるとある。ますますミステリーだ。
そこで広告で見て、つぎの本を入手した。
中村治雄著 『誤解だらけのコレステロール』
マキノ出版
マキノ出版とは「壮快」を出している社である。著者は東京慈恵会医科大学助教授で、この分野にくわしく、「壮快」の常連筆者でもある。“「減らすほうが体にいい」という医学はもう古い”と、ショッキングな副題がついている。なぞは深まる一方だ。
いまや、東北の農民も、卵や魚や肉を充分に食べている。塩分のとりすぎと寒さという、高血圧発生の問題は残っているが。
コレステロールの内容が重要だというのである。悪玉とは血中コレステロールの量をふやすやつで、善玉とはへらすやつのこと。血中コレステロールをへらす、善玉コレステロールとはねえ。こうなると、ついて行けぬと投げ出す人もいよう。私はまだがんばるが。
コレステロールとは、分類上脂肪の一種である。これは、はじめて知った。注意食品のリストを見ると、イカ、エビ、卵など淡白な味で、カロリーの少ないものが多いではないか。
脂肪であるため、水分とまじりにくい。そこで、ほかの脂肪類とともに蛋《たん》白《ぱく》質と複合体を作り、水溶性となって血液中を流れるのである。複合体とは学術用語にないが、こう呼ぶとわかりやすいと思い、使わせてもらう。
このコレステロールのまざった複合体の粒子には、比重の低いLタイプ(正しくはLDL)と、比重の高いHタイプ(HDL)とがある。Lは体内の各部分に必要なコレステロールを運ぶ作用をし、その限りではなくてはならぬもの。しかし、血中で一定量を越えると、悪玉となる。
なぜ悪玉かというと、血管の壁に沈着し、血液の流れを悪くする。食塩のとり過ぎと同様のことになる。多くの人のコレステロールに抱いているイメージは、これである。また、沈着したのがはがれてどこかにひっかかると、血栓となり、一時的に血行を止め、その部分に悪い症状をひきおこす。代表的なのが脳血栓。
ゆううつになる話だが、救いは善玉のHタイプの粒子である。著者は「コレステロールの掃除屋」と書いている。余分な形で各所にたまっているのを回収し、正常に保つ作用をしているのだ。
そういうものかと、理解は進んだ。
なお、コレステロールとともに蛋白質と複合体を作る中性脂肪も、善玉悪玉に関連してくるわけだが、それに及んだら話はひろがる一方。この本では、肥満と脂肪のとりすぎを注意するにとどめている。
また、各種の成人病との関連も書いてある。善玉、悪玉のバランスの点からの説明である。
本の終りの方に、血液浄化法に関して書いてある。私も診断された時、人工透析のように、血中のコレステロールを除去する方法はないかと思ったものだ。そうやって悪玉を除くのは可能だが、一週間もするともとに戻ってしまうとのこと。たちまち肝臓が作り出し、現実には無理なのだ。
しかし、この本にのっているコレステロール食品のリストは、これまでに読んだのとかなりちがっていて、四種もある。
表1
鶏卵が最高で、かなり少ないもののなかに、霜ふり牛肉、コーンビーフ、牛乳、ヨーグルトが並んでいる。
表2
バターが最高に多く、牛乳、コーンビーフがつづき、低いほうに中華ソバ、タラコ、オイルサーディン、ハマグリがある。
表3
コレステロール値を高めるプラスと、低くするマイナスの区別である。プラス度の高いのはバターで、鶏卵がつづき、ヨーグルトも意外に高い。そして、マーガリンはなぜか双方の高い数字のところにある。マイナス度の高いのは、中華ソバや油あげ。
表4
コレステロール類似物質を除いて測定しなおした、新しい食品リストだそうで、鶏卵が最高。鳥のモツ、バターとつづき、ヨーグルトが最低。
こうなると、迷ってしまうぜ。
さまざまな資料の紹介はありがたいが、なにを食えばいいのか、わからなくなる。中華ソバがそんなに好ましい食品なのだろうか。コレステロールに限ってのリストで、塩分は別問題というのだろうか。
わが愛用のヨーグルトは、いいのか悪いのか。私は微生物の作用した食品はいいものと思い込んでいるのだ。
そのごの見聞によると、識者はまず最初に「コレステロールはむしろ必要」と、だれもがまず第一声を発する。先入観をひっくり返して驚かそうというわけだろうか、こう判で押したようにとなると、またかである。
そして、論旨が必要だからふやそうとなるのならわかるが、結局は要警戒と、食品リストを並べられては、とまどいが残るだけである。
砂糖や食塩は、とりすぎに注意。糖分も塩分も、人体にいくらか必要なことぐらい、あらためて言われなくても知っているよ。それと同様にとぐらい、付記しておいてくれればいいのに。
いつのまにか、とんでもない地点まで入り込んでしまった。
気にしすぎると、ストレスになるんじゃないか。ストレスはコレステロールを高めるらしい。そのコレステロールを考えてストレスになったなんて、お笑いである。しかし、笑ってはいられないのだ。
講演の依頼の電話は、すべて断わった。もともと好きではないのだ。出版社の主催のは時たま行っていたが、せっかく地方に出かけていっても、名物料理が食えないわけだ。
「申しわけないが、血圧が……」
と言うと、そこをなんとかと続ける相手はいない。便利といえば便利だが、べつにうそをついているわけではない。
高血圧の先輩、半村良さんに会った時に言った。
「ありゃあ、仮《け》病《びよう》と思われかねませんな」
彼はにやにやしていた。発作後、仕事を大はばにセーブし、適当にゴルフをやり、悠々としている。その必要があるのか、快方にむかっているのか、他人にはわからない。たぶん本人にだって、確実にはわかっていないのではないか。無理をしないのが第一なのだ。
なら、こんなことに熱中しはじめた私は、どうなるのだ。
気ばらしに、パーティーがあると出かけた。知人との談笑は楽しいのだが、食う物のないのには参った。コレステロールの少ないものは、たとえばハムなどだが、塩分を含んでいるのだ。嫌煙権を叫ぶ人も、嫌塩権については無神経である。思考しない人の多いのは、困ったことだ。日本人の体質、長いつきあいではあるが、塩には適応できないものらしい。
アメリカでは、加工食品中の塩分の量の表示がはじまっている。われわれ日本人は、そのアメリカ人の三倍ちかい量をとっているのだ。中毒である。死亡率でガンが一位になったというが、血管障害や心臓、つまり循環器系を合計したら、こっちが圧倒的に多いのである。
仕方ないので、ビールばかり飲んでいる。空腹を感じたら、帰りがけにソバ屋に入り、タヌキソバを注文し、ソバだけ食べて汁は残す。無塩醤油を持ち歩き、すしを食べればと思う人もいようが、すしの飯にはかなりの食塩が入っているのだ。
アメリカで健康食として、すしがブームだそうだが、まねはいけない。彼らはこれまで、動物脂肪と砂糖のとりすぎなのだ。すしが一部に入り込むのはいい。こっちでは、朝食にみそ汁、つけ物、たまご焼き、干物では、塩また塩になってしまう。
気にしていると、新聞や雑誌の記事も目にとまる。切り抜きが二種、手もとにある。
ひとつは新聞。関西医科大学ではラットを使い、コレステロールの多いエサで育てたグループは、そうでないのとくらべて大腸ガンの発生率が高いとの結論を出したとのこと。
もうひとつは「リーダーズ・ダイジェスト」誌の、医学界ニュース。昨年、アメリカの新聞で、血中コレステロールが低いとガンにかかりやすいと、かず多く報道された。断定するのは早いが、注意するに越したことはないとある。
いったい、どうなっているのだ。人目をひくためのコレステロール・サスペンスの手法が新聞でも流行しはじめたのか。
さらに迫ってみたくなる。なまじ大学時代に、有機化学や栄養学の単位を取っていたから、意気ごんでしまうのだ。若き日へのノスタルジアか。なにしろ、昭和二十年の入学だから、ずいぶん古い知識のわけだ。
「コンニャクは食べてもカロリーにならないから、同じ金を使うなら……」
などと知人に話したりした時代だ。いまやコンニャクはカロリーのないゆえの健康食品。栄養学も、コレステロールに関しては習わなかった。学問として、さほど研究もされていなかった。まして戦後の日本、コレステロール過多で死のうにも、そんな食品など、手に入れるのが不可能だった。
そこで私は、雑誌の担当者に、コレステロールの専門家に会って取材させてほしいと依頼した。疑問点への説明が得られれば、わかりやすくまとめられるのではないかと思ってである。
「予備知識として読んだらいい参考書があったら、聞いておいて下さい」
ともたのんだ。もはや、引きかえす気にはなれない。その準備として、私は二冊の本を買ってきた。
S・ローズ著 丸山工作訳 『生命の化学』
木原弘二著 『生命とはなにか』
いずれも講談社
ブルーバックスである。はじめて、健康のためでない本に出会った。タテ組み新書判ではあるが「です」「ます」調の文ではない。入門書なのだが、なにがしかの知識を必要とする。
『生命の化学』のほうには、ひんぱんにではないが、化学式が出てくる。はるか昔に習ったATPなる物質についても書かれていた。なつかしい。
人間が米やパンを食うと、体内で徐々に分解されて糖分となり、さらに分解されてアルコールとなり、それが燃えて(つまり酸素がくっついて)水と二酸化炭素(炭酸ガス)になり、カロリーを出す。
それによって、筋肉が動くのである。そのカロリーはいったんATPなる物質の形でたくわえられ、必要に応じて筋肉細胞を動かす。ははあ、ゼンマイ的な性質の物質だなと思ったものだ。ゼンマイが古ければ、蓄電池的としてもいい。この本では「細胞内のエネルギー通貨」と形容している。
そのしくみを理解した時、学問をしているんだなあと実感した。生命体とはうまくできている。科学の進歩もまた。
じっくりと読むべき本である。ただコレステロールについては、簡単に一ページしか触れていない。化学式がのっていて、ここではじめてお目にかかった。亀の甲が三つに五角形ひとつが組み合わさっている。ここでは引用しない。見るのもいやだというアレルギーの人もいるだろうし、あまり理解の助けにならないと思ってである。
序文で著者は、こう書いている。
「生化学それ自体は世界を説明するのに十分ではない。人間に限ってもそうである」
全面的な解明に至っていないし、今後の研究が期待されるとの意味である。謙虚な書き方だなあと感心した。その時は。
もう一冊の『生命とはなにか』は、主として遺伝子、このところさかんに話題になっているDNAについての解説が主である。
くわしくは本書でといいたいが、かなり高度である。DNAに初歩の人は、少年むきの本によったほうがいい。
コレステロールに触れた個所もある。細胞膜を形成する物質でもあるが、血液中の赤血球の外側の膜も、二五パーセントがコレステロールで出来ている。赤血球は体内に酸素を運ぶ役をはたしている。赤血球細胞は毎日、一千億以上もからだの各所の骨髄から作られ、同じ数だけ脾《ひ》臓《ぞう》で破壊されている。ふつう、人の赤血球の寿命は百二十日ぐらいとある。
とにかく、重要な物質なのだ。
もっとも、この本では、DNAの欠陥によって発生するコレステロール異常のひとつの例としてとりあげられ説明されている。DNAの働きの説明には、ちょうどいい例かもしれない。しかし、遺伝となると、よけいな不安を与えかねない。現実には、発生率は非常に少ないし、コレステロールを気にする年齢の人は、それまで生きていたことですでに無縁である。こういった本で軽々しく引用するのは、考えものだ。
この本のいわんとしていることは、体内での物質の分解や合成に関与しているさまざまな酵素と、その体系を情報として秘めているDNAの働きのみごとさである。生命体はたえず物質が入れ替っており、終始同一物質でつづいているロボットとは、根本的に違うことがわかる。無形科学に関心のある人はどうぞ。
ここで無形科学と呼んだのは、このところグラフィックな科学雑誌がふえており、図解でき、形としてとらえられるものだけが科学と思われているらしいからである。
食事に気をつけているうちに体重が四キロほどへった。以前のズボンがはけるようになった。
運動はといえば、目ざめた時の腹筋二十回と、夕方の散歩。さらに室内マラソン器で三百三十歩。これ、いまだにやっているのは、私ぐらいじゃなかろうか。こうもつづいているのは、日記と同じで、少なくてもという気分でやっているからである。最近は心がけて、寝る前にも三百三十歩を走るようにしている。運動が効果的と判明すれば、もう一回ふやせば千歩になるわけだ。
あと、青竹ふみをはじめた。私には書斎のなかを歩きまわる癖がある。同じことなら半分に割った竹の上でもとなり、この習慣はすぐに身についた。健康的だろうし、気のせいか頭の働きをよくするようだ。
西洋医学ではみとめていないが、東洋医学では足の裏のツボへの刺激になるのだそうだ。まあいずれにせよ、害はないのだ。
そのうち、担当の編集者が、どえらい本を持ってきた。
原一郎、内藤周幸編 『コレステロール』
医学書院
大判で、良質の紙で、一万二千円。手にすると、ずしりとくる重み。三〇五ページ。一九七八年の発行。横書きの論文調で、化学式や術語はふんだんに出てくる。執筆者は二十二名。各分野の一流の学者たちの手になるものだ。序文にこうある。
「一つの物質に限って見た場合に、その広がり、あるいは関係分野が広く、しかも重要である化学種で、コレステロールよりまさっているものは数少ないであろう」
生命活動で、これ以上に重要な物質は、まあないというわけだ。十六の項目に分れ、物質としてのコレステロールを論じている。健康法の本にはたいていのっている、病気との関連には触れていない。通俗の書ではないのだ。
「もう少し、しろうとむきのはないのかなあ」
正直な感想だが、これが日本語による最高の本であり、程度を下げたものはないらしい。もしかしたら医学や栄養学の大学では、現象としてのコレステロールは教えても、生化学的な物質としては教えていないのではなかろうか。
……と思わせるほどの内容である。入手したこの本、発行部数は知らないが、初版のままなのだ。しかし、私は執念の鬼となっており、なんとか全ページに目を通した。はたして、どれくらい理解できたか。とにかく疲れた。いくらかの知識はふえたが、理解へは少しも近づかない。不満は一段と高まった。
どうしても、専門家から話を聞かなければならない。
やがて、担当の編集者が連絡をとり、芳賀稔さんにお会いすることができた。その肩書きをここに記すと、
防衛庁陸上幕僚監部衛生部企画班長
そして、陸将補なのである。森鴎外を思わせるものものしさだが、私にとってはコレステロールにくわしいかたなら、それでいいのだ。
というわけで、六本木の防衛庁のビルに出かけ、そこの一室でお話をうかがった。温厚なかただが、さすがに姿勢がよく、テレビなどに出る医学者とちがってしゃきっとしている。
二時間半ほど話し込んでしまった。そのテープを聞きかえしてみたが、インタビューアーとしての才能のなさを思い知らされた。私の話に一貫性がないのである。質問メモは用意していったのだが、話がすぐそれてしまう。もっとも、コレステロールへの迫り方が、わかっていないせいもある。また、取材者であるより、患者という意識が優先してしまうのだ。
「情報時代だといわれ、外界の情報の収集や分析は進んでいますが、体内からの情報については、扱いがおろそかなのではありませんか」
という質問への答え。
「アグレッサーと意識しませんからね」
訳せば、攻撃者。さすが、防衛庁の人は用語がちがう。外部情報は生活に関連しているが、とくに異常を感じなければ、内部から攻撃されているとは思わないものなのだ。人によっては、むしろ知りたくないともなる。
雑談のあげく、早すぎるかなと思いながらも、頭のもやもやを口にしてしまった。
「コレステロールについては、どうも研究が目ざましくないようですね」
「ええ、データーがとりにくいのです。入った量、体内で作られた量、分解して出ていった量、それらのバランスの測定がしにくいのです」
食品中のコレステロールの量、そのなかから体内に消化吸収される割合、外部からのものと、肝臓で合成されたものとの比率など、測定しにくい。血液中の量は調べやすいのだが、どこでどうなっているのか、数値が出しにくいということ。数のデーターが不足だと、前へ進めない。
やはり、容易でないのだ。聞きたくない答えを耳にしてしまった。『コレステロール』という医学書のなかで、気になって傍線を引いた部分が、いっせいに頭によみがえった。その部分を、いくつか引用する。
善玉と悪玉の差は、蛋白質と複合体を作った粒子の比重の差にあるのだが〈脂質とタンパク質の結合の仕方については、実際のところまだ十分に解明されておらず〉なのだ。
あれこれ書かれているが〈血清コレステロールレベルにおける critical point(どう悪いのか)が明確にされていない〉し〈日本人の場合、若年者における高脂質症と脳血管障害の関係がまだ十分、疫《えき》学《がく》的に調査されていない〉のだ。善玉、つまりH型コレステロールについてだが〈それを上昇させる手段には、なお未解決の点が多い〉ともある。
なんたること。
たいていの本にのっている食品リストについては〈近年、食品中のコレステロールと動脈硬化の関連が論議された折りに、いくつかこのようなデーターが発表された。しかし現在ではこの関係は否定される方向にあるが〉参考のために、要約して掲げておく程度の扱いである。まったく、おやおやだ。
そして、コレステロールは生成の機序も複雑だが、異化分解についても〈実に多彩なプロセスをたどる〉のだし、芳賀さんのお話のように〈検出定量の問題についてさえ、いまなお検討がつづけられている状況である〉というわけだ。
引用したカッコ内の文を、読みかえしてごらんなさい。それが現状なのである。
『コレステロール』の改定版が出ないでいるのは、飛躍的な解明がないからだろう。収録の論文のなかには、文章のほとんどで断定を避けているのもある。学者として正直であろうとすれば、そうなるのだろう。
つまり、国会での政府の答弁になってしまうのだ。のらりくらりの見本のようだが、野党に「世界の景気はどうなる」と大声で質問されれば、責任ある答弁はうやむやな形のほかにない。
「鶏卵への見解をあきらかにしてほしい」とは、聞くだけやぼというものだ。
私の用意してきた質問メモも、ほとんどがそのたぐいだったのだ。しかも、この場合、追究してもむだとわかってしまった。
がっかりしたねえ。芳賀さんはそれを察してか、いろいろ気を引き立ててくださった。防衛庁の健康管理をなさっているだけに、説得力がある。
「人によって、正常な標準はいろいろですよ。好きなものを、ほどほどに食べていればいい。健康感があればいいのでは……」
そういえば私は、とくに不快感も、苦痛もないのである。肩もこらない。なぜ、あわてふためかなければならないのか。ついに私も笑ってしまった。
「気分は楽になりましたが、心のよりどころがなくなりましたなあ」
なんらかの指示を期待していたのに。それがあるのなら、すでになにかの本に書かれていたはずなのだ。しかし、指示を求めている人は、私だけではないだろう。健康についての記事は、そのニーズに応じて存在しているわけであろう。質問してみた。
「健康法の記事をどう思いますか」
「内容にもよりますが、六〇パーセントの人には適用できるんじゃないでしょうか」
その両側に二〇パーセントずつの人が存在する。一方の二〇パーセントは、そんなことと無縁に健康な体質の人。別の一方の二〇パーセントは、もっと専門的な治療でないといけない人。ということは、健康法の記事は、合計八〇パーセントの人をカバーしているというわけだ。さらに、芳賀さん。
「健康に気をつけているという意識があれば、それでいいんじゃありませんか」
無理をしない、食べすぎない、ほどほどにと心がけていれば、それがすでに健康法なのである。
悟りのようなものは得たが、満足すべき解答は得られなかった。なぞだらけなのだ。
肝臓内で酢酸というきわめて単純な物質から、各種の酵素の作用でコレステロールが合成される過程だけは、みごとに説明されている。しかし、生体内での動きとなると、ほとんどわかっていない。
善玉悪玉との区分けもひとつの進歩だが、その複合粒子の実体は不明で、善玉をふやす方法となると、確実な方法はないのだ。
食品中のコレステロール分は、体内に吸収され、活用されるのかどうか。たぶん活用されているのだろう。となると、低コレステロールの食事は、その不足分を肝臓で作らせることになり、働かせすぎになる。高コレステロールの鶏卵を避けるなという説は、それで肝臓を休ませろの意味かもしれない。
私の感じだが、問題はコレステロールより、蛋白質と複合粒子を作る時にまざり込む他の脂肪のほうにありそうで、そう思わせる記事も読んだが、仮説にすぎない。
研究者たちの努力は大変なものだが、本質はほんの一端しかわかっていない。
ある人の話だと、人間には個人差がありすぎ、動物実験の結果を適用できないとのこと。いずれ個人差の件は解明できるのか、ずっとつづく弁解なのか、そこもはっきりしていないのだ。
なにか、以前にも同様なことを感じたなと思い出し、気がついた。漢方のハリ灸《きゆう》の療法である。かつて万年筆が持てないという、いわゆる書《しよ》痙《けい》、すなわち頸《けい》肩《けん》腕《わん》症《しよう》候《こう》群《ぐん》という症状に悩まされ、それを受けた時の体験である。
ツボ、ツボの点々をつなぐ経絡という何本かの流れ。それらの存在はたしかなのだが、なにがどうなっているのかは、科学的にも、仮説としても、説明はまったくされていないのだ。そうと知って、なんともふしぎに思ったものだが、今回もそんな気分。
人体とは、そのようなものらしい。
医術は病原菌を発見して以来、それとの戦いでめざましい成果を上げてきた。病原菌への外敵(アグレッサー)意識は薄れた。つい、その延長上で、エレクトロニクスなみのスピードでの進歩を期待してしまうのだ。
無理に答えを求めれば、ある学者はDNAのせいにする。DNAそのものはすばらしい発見である。しかし、各人のDNAに秘められている遺伝情報のなかで、どこかが弱い体質と称するのは、どうであろうか。代表的な長命人で、ウイスキーの商標にもなっているオールド・パー(パーじいさん)は、いい遺伝子に恵まれてたとなる。アインシュタインは天才の遺伝子を持っていたで片づく。運命論のようなもので、問題をひとつずらしただけではないのか。どうすればいいのかの方法がなくては、意味がない。
では、なにもかも手のつけようがないのかとなると、それはあるのだ。症状としてとらえればいいのである。ハリ灸において、原理は不明でも、それによって多くの人が快方にむかっている。
インフルエンザ(かぜ)はビールスによる病気だが、未解明な部分が多く、ワクチンを以てしても完全には防ぎきれていない。だが、かかれば安静と解《げ》熱《ねつ》剤、ビタミンCの補給により、ほぼ全員が回復する。
虫歯なんてのも正体不明らしいが、早期治療で、不便なくおさまっている。
問題のコレステロールも、高血圧という症状としてなら、対処の方法はあるのだ。まず、塩分をへらす。できればタバコをやめる。植物性の食品を多くとり、蛋白質を不足しないようにし、体重を標準に保つ。血圧が高すぎれば、医師の指導で降下剤を飲む。
食品リストがどこまで確実なのかはわからないが、肥満、とくに中年すぎの下腹部の肥満はよくないらしい。そのことと、かたよらないバランスを考えると、なんとなく本にのっている食品リストがひとつの目安として落ち着きそうなのである。経験統計と称するのなら、受け入れやすい印象となる。
げんに私は『高血圧の食事献立』の簡単なリストを守って、血圧と血中コレステロールを平常に下げた。降下剤で血圧の下がったのはわかるが、コレステロール値もである。肝臓の薬とビタミンD剤も飲んだが、食事も大きく関係していると思われる。
どの本だったかに、血中コレステロールを測定する時には、前日、前々日に要注意の食品を避け、当日は朝食を抜くのが望ましいとあった。だから、私の場合、食事によって下げたのでなく、記憶にないが、たまたま肉の料理がつづき、測った当日は卵を二つほど食べたあとだったせいかもしれない。たぶん、そうだろう。
となると、解明されてないとはいうものの、ある種の食品がコレステロール値を高めることはたしかである。
医師の指示に従い、食事に注意という、平凡なことが最良となる。コレステロールの実体への知識は少なくても、医師ともなれば、対症療法ではプロなのだ。
O医院の先生に、私は虫垂炎の手術もしてもらった。この病気がなぜ起るのかは、完全にわかっていないらしい。親類に体験者がいないようで、遺伝的体質ではないらしい。しかし、診断と手術によって、なおるものなのだ。
食事療法についてもう少し知ろうと、また本を読んだ。
川島四郎著 『アルカリ食健康法』
光文社
これまた新書判。著者は現在八十八歳。戦前は陸軍の経理関係の仕事だが、東大農学部農芸化学科卒業という経歴を持っている。私の大先輩というわけだ。現在、講義、執筆と多忙な毎日をすごしている。
学術論文集に目を通したあとなので、読みやすさがこころよく、説得力もある。ご自分の体験にもとづいているからだ。長命の家系でないから遺伝でないとし、栄養への注意によって現在まで活躍中。実例ここにありというわけだ。
内容が一貫しているのである。アルカリ食をとるべきだ。それにはカルシウムの不足が問題。主張をここにしぼっている。
もっとも、懐疑的な人間には、ひっかかるところがある。アルカリ体質を論じるのは、栄養学の研究者であって、医学関係者の書いたのを読んだことがあまりない。
酸性、アルカリ性の体質について、そのしくみをもっと知りたい気がする。あるいは、原則的なことはなぞで、栄養学的にこうとらえると、整理がつけやすいというわけなのだろうか。私も利口になってきた。
カルシウムの体内での作用も、結論的である。血管壁に付着するもののなかにカルシウムがあるが、これは骨から溶け出したもので別だでは、簡単すぎる。血中コレステロールの増加も、酸性食のためと、いとも簡単に片づけられている。
しかし、その程度のひっかかりはどの本にもあることで、だらだら説明されたら読者はうんざり、とっつきにくくなる。まあ、一読して損はない。
最大の特色は、著者の食生活にある。平日は研究室に宿泊し、朝食、昼食の区別なく、煮干し、砕いた卵のカラ(カルシウム)、トロロコンブを、気がむくたびに食べる。夕食は麦飯と青色野菜と魚の缶詰。減塩的である。そして、ひたすら仕事。
こうなると、もはや人生観の領域である。チャーチルや吉田茂の晩年のような、優雅な生活はいかんのだ。あなたなら、どちらを選ぶかである。その点、異色であり、類のない本である。この迫力は、なかなかのものだ。ご本人はそれで充実感にひたっており、ひとつの道であろう。
ついでというわけではないが、いま流行のビタミンEについても知りたくなった。
三石巖著 『ビタミンE健康法』 講談社
著者は一九〇一年の生れだから、高齢のほうである。東大の理学部物理学科を卒業、多くの大学で教《きよう》鞭《べん》をとる。新書判だが「です」「ます」調ではない。内容はいくらか高度。ビタミンEのすすめで一貫しており、主張はDNA論にもとづいている。症状の発生はやむをえないが、ビタミンEによって押さえられるというのである。こう持ちかけられれば、いい意見だという印象を受ける。
食品中の脂肪は、体内で脂肪酸とグリセリンに分解する。その脂肪酸と細胞との関連が論じられている。これまで読んだ栄養の本では、飽和脂肪酸は好ましくなく、不飽和脂肪酸が好ましいとされてきた。しかし、この本では不飽和脂肪酸がよくなくて、それが変化して過酸化脂質となると老化の元凶そのもので、それに対してビタミンEが有効ということなのだ。
心労、苦痛などのストレスは血中コレステロール値を下げるとあり、この点も他の本とちがうようだが、コレステロールはEが調節してくれるとある。
さっき触れた血管壁の内側に沈着するカルシウムも、Eによってきれいにされる。医学者でないためか文章表現が客観的で、そこが読者に安心感と満足を与えるのだろう。悪いのは過酸化脂質という健康記事にも、何回かお目にかかっている。そんなこともあってか、昭和五十一年の初版から現在まで、十四版とロングセラーである。
面白いエピソードものっている。ニトログリセリン、つまりダイナマイトで財をなしたノーベルは、ノーベル賞を作ったが、晩年に狭心症に悩まされ、ニトログリセリンを持薬にしたそうだ。
ビタミンEは小麦胚芽油、綿《めん》実《じつ》油《ゆ》、米ヌカ油に多く含まれるが、著者は薬剤としての摂取をすすめている。これはノーベル賞学者のポーリングも提唱しているとのこと。Eはとりすぎても、なんの副作用もなく、余分なのはコレステロールとともに排《はい》泄《せつ》される。
著者は、製薬会社の手先きと思われるかもしれないが、ビタミンの常用で他の病気にかからなくなれば、それだけほかの薬が売れなくなるのだと主張している。とにかく、ひとつの見解。『アルカリ食健康法』とは別の、ある生き方である。
とにかく、一日に一カプセルで安心が買えるのなら、それでいいではないか。私も薬局ですすめられ、一年ほど前から飲みつづけているのだ。
はたして、そうなのかどうか。このへんまでくると、書店で本を手にしただけで、内容の見当がつくようになる。
ジョン・ランゴーン著 田多井吉之介訳 『長寿の科学』
講談社
ブルーバックス。講談社はいろいろと出している。著者はアメリカの科学ジャーナリストで、医学部の講師もしている。訳者は医博にしてヘルスデザイナー。
現在なにかと話題になっている、各種の老化防止の方法についての紹介である。健康法の本でないので、記述は一段と客観的でクールである。
順序をずらし、ビタミンEについての章をとりあげる。問題の過酸化脂質、それが蛋白質と結びついたリポフスチンについて書いてある。皮膚のシミであり、かつては老化の産物とされ、老化の原因とは思われていなかった。
ここにひとつのエピソードがある。
ある科学者が実験室で腹を立て、液体を窓のそとに捨てた。それが枯れかかっていた葉にかかり、まもなく緑をとり戻した。その物質は動物実験でリポフスチンをへらすのに有効とみとめられ、西欧諸国では人間の老化防止に使われている。アメリカでの確認はまだだが、これと同系統の薬がビタミンEなのである。
この本の特色は、効果について疑問を呈する学者の説をも報告しており、ジャーナリストの視点で書いている。万能の霊薬との立証はまだなのである。だからこそ、話題となっているのだ。
もちろん、ビタミンEの支持者の説ものっており、極度に多量にとらなければ有害ではなく、心臓や血管系に対しては有益のようだとしている。少なくとも、悪いことはないのだ。
この本によると、アメリカの薬効の公認は、よほどきびしいものらしい。体内にたまるある種の物質を分解する研究がある。かなりの可能性があり、製薬会社が二十五万ドルの助成金を出そうとした。しかし、打ち切られた。公的な認可を得るには十年以上の年月と、一千万ドルの研究費が必要との見積りによってである。
また、著名人、重要人物、財産家がひそかに受けたとうわさされている、各種の若がえり法の紹介もある。これもまた、統計のとりにくいことなのだ。
いわゆる長寿者の多い地方についての話にも触れている。たとえば、ソ連のコーカサス地方。しかし、亡命ロシア人の学者に言わせると、あのへんは十ヵ月を一年とする回教暦での年齢で、スターリンが自分の出生地を神秘化するためのでっちあげ説だそうだ。
それと並べ、高地の人は歩くにも坂のため運動量が多く、健康によいとの説も書いてある。そんなとこも、いかにもジャーナリスト的で、独自な料理法による面白い読み物に仕上げている。そんな気分で読むべき内容である。
この著者は、疑問をつねに忘れないという思考である。盲信への警戒も忘れてはならぬものだ。
ここまできたらと、さらに二冊。
神辺道雄著 『驚異のヨーグルト』
福井四郎著 『体質革命 クロレラ強健法』
いずれも講談社
オレンジバックスで、講談社の健康シリーズである。このたぐいのシリーズは知らなかった。新書判で「です」「ます」調。安定路線である。
ヨーグルトのほうの著者は、三重大学の農芸化学を出て、明治乳業に入り、現在、そこの研究部門に属している。自画自賛になりやすいが、まず意外な出だしである。
メチニコフは一九〇八年にノーベル生理・医学賞を受けた学者で、ブルガリアに長寿者の多いのに着目、その地に特有のヨーグルトに着目、健康にいいと主張した。
彼はブルガリア菌(乳酸菌の一種)を、ヨーグルトによって生きたまま腸に送り込めると思った。現在、私も含め多くの人もそう信じているはずだ。しかし、この本によると、その菌の腸への定着は不可能とある。
おやまあである。そこから出発して、ヨーグルトの有効性を説こうというのだから、感心させられる。
菌は胃酸で死んでも、それによって生成せられたヨーグルトは、腸内細菌のバランスを好ましい形にする作用を持つ。センイ質の多い食物と同じく、腸の動きをうながし、有害物を排出する。カルシウム、カリウムなどのミネラルを補給する。
クロレラのほうの著者は、札幌医大の講師で、外科の栄養学という珍しい部門を研究している人。
まず、クロレラだけで、アリゾナの砂漠のなかで三ヵ月を生き抜いた実例が紹介され、驚かされる。
クロレラは地球最古の水中植物といっていいほど、古くからあるものなのだ。結論として、野菜の長所を高濃度で秘めていて、肉食に傾きがちな現代人の食事バランスを調節してくれるというわけだ。私も、しばらく前から食卓の上にびんをおくようにしている。
ヨーグルトの本も、クロレラの本も、読んでいて楽しい。たいていの人は、常用薬の効能書きを読みなおすたびに、いい気分を味わっているはずである。それですでに、ひとつの役目を果しているのではなかろうか。どちらもコレステロールによく、痛《つう》風《ふう》の予防にもなるという。それに、少なくとも、害はまったくないらしいのだ。実効は大いに割り引くべきなのかもしれないが。
ビタミンEについても同様なのだ。万能の切り札ではないだろうが、害はない。どこかでいくらか有効に作用しているのだろう。それが救いである。
妙なきっかけからコレステロールの真相に迫り、ほとんどがなぞのままと知り、虚無感を味わった。体内での脂肪酸の作用については、さらに不明のようだ。頭で理解しようとしても無理なのだ。そこで、思考を転換せざるをえなくなる。なぜきくのかに理屈はいらない。害がなく、少しでも有効なら、それでよしとしなければならぬ。
プラシーボ効果なるものが存在する。成分なしの錠剤を「ききます」と告げられ、信じて飲めば、かなりの率でききめを示すのである。
となると、医学へのたよりなさを感じる人もいようが、治療の学という面から見れば、めざましい進歩をとげつつあるのだ。はるか昔、私も製薬の仕事にたずさわっていた時期があったが、そのころとくらべ、比較のしようがないほどのようだ。
ようだと断定を避けているのは、そのたぐいの本が出てないからだ。一般の書店では見かけない。「治療薬のすべてがわかる本」なんてのがあったら、読んでみたいと思う。あるいは、なにかさしさわりがあるのか、膨大なものになってしまうためか。
「ビタミンは薬剤でとれ。現代では、食事からだけでは不足する」
との説のあることは、さっき紹介した。そうしている人も多いだろう。しかし、ある医師から私はこう言われた。
「それなら、薬も食事療法の一部と思って飲んだらどうです」
いささか驚いたが、一理あるともいえる。血圧を下げる薬がある。何種類かあるらしいが、その軽いのをビタミン・アルファと仮に名づけたら、わりと気楽に常用するかもしれない。
医師による薬品乱発のうわさもあり、いくらかは事実かもしれぬが、平均寿命の伸びという現状は、食生活の向上にともなう、各種の病気への新薬開発の成果なのである。
しかし、新薬についてくわしく知ると、逆に楽観主義に走る者も出て、出版を含む巨大な健康産業が成立しなくなってしまう。また、いうまでもないが、血圧の高い人は、まず食塩をへらし、しかるのちに降下剤のほうが自然である。予期せぬ副作用だってある。
つい健康産業と書いたが、この分野は今や、巨大なマーケットに成長しすぎた。当然、いいかげんなものがまざってきて、議論となるだろう。試行錯誤で進んでもらいたい。金を使わされるのは仕方ないが、あまりのムダは好ましくない。
現在の私は、健康法にうさんくささはつきものとの心境だが、変なのにひっかかるのはいやである。
余談になるが、この一件がはじまって以来、私の身体的な変化を書いておく。気がついてみると、白髪《しらが》がへって、黒みが増したのだ。気のせいではないらしい。他人に話すと、そういえばと認めてくれる。しかし、なにが原因なのか、さっぱりわからぬ。なにかの作用にちがいないのだ。心当りがあれば、私も「白髪にならない本」が出せるのだが。まだ書かれてないだろうし、これだけ健康法の本を読むと、書き方のコツもわかってくるのだ。
このあたりで一段落だが、この際にとばかり、ストレスの本を読んだ。なにかというと、この言葉が出てくる。
宮城音弥著 『ストレス』
講談社現代新書
平井富雄著 『ストレスと自己コントロール』
講談社
宮城氏は精神医学にくわしい学者。平井氏は東大医学部分院の神経科医長。いずれもすぐれた文章で、読みやすく、わかりやすい。
ストレス学説は一九三二年にカナダの生理学者セリエが提唱したものである。からだに有形無形の刺激が加えられると、生理的な反応が起る。その好ましくないものをストレスと称した。
本来はゴムヒモを引っぱった時に伸びるたぐいの現象である。加えられた力はストレッサー。一般に混同されて使われているが。
どの本も、現代人はどう対処すべきかが内容である。私はいかなるしくみで、生理反応となるのかを知りたかったのだが。
しくみの解明は容易でない。生命現象の奥深さを知った今では、やはりである。副《ふく》腎《じん》皮《ひ》質《しつ》ホルモンが関連しているらしいまでで終りとなる。これはコレステロールが形成にかかわっているホルモンだが、そのコレステロールそのものがなぞなのだ。
ストレスは精神衛生の意味であつかうべきものである。平穏が望ましいとして。
考えてみると、ストレス学説は天才的なひらめきによるものだ。それだけに、あとの展開がむずかしい。心労など、数値化しにくいし、人間の個人差という面もある。冷水マサツはどうなるのか。
健康法の本で「ストレスをへらせ」など安易に書かれていると、どうもひっかかる。抽象的すぎるのだ。酒でも飲んでとか、軽い精神安定剤を飲んでとでもしてくれたほうが、わかりやすい。
とにかく、好奇心があったがために、私はコレステロールにとりつかれ、あてもない旅をしてきた。いくらかの時間的な余裕があったせいでもある。なにかべつの外部情報と取り組んでいたら、一編のノンフィクションが書けたかもしれない。なまじ、内的世界をさぐろうとしたのがいけなかった。
とくに健康法となると、とめどなくのめり込むことになりかねない。趣味となりかねない、ぜいたく症である。健康法症候群は、記事に振り回されてしまう。私は山のあなたの空遠くまで行ったが、なんとか帰ってこられた。みやげなしにではあるが。
だから、結論的なものは、なにもない。各人それぞれの、ご判断の資料になればである。ただ、生命の本質に迫ろうなど、普通の人はお考えにならないほうがいい。私の体験でおわかりのように、時間のむだになる。
健康法の本も、あまり深刻になることなく、お読み下さい。完全ではないが、それぞれ好ましいことが書いてあり、少なくとも悪いことは書かれていないのだ。
あとがき
いちばん最後の長めの一編「学習・コレステロール」をお読みいただき、ごくろうさまです。難解でしたら、あやまります。なかには「あとがき」を先に読む人がいて、途中でやめる人がいるかもしれないが、それはそれでかまいません。
いま、あらためて読みなおすと、自分の性格が、ここにあらわれているのに気がついた。なにか関心の的となる対象をみつけると、熱中しやすい。まず、関連した本を読みあさる。やさしそうなのをはじめにだが。そのうち、そのなかの矛盾点をみつける。どっちが現実かを、さらに調べる。のめり込みやすいのだ。
この場合、ついに専門書まで目を通してしまった。その結論として、人体は未解明な部分が、まだかなり多いことを実感した。当り前かもしれないが、そこまでの経過が収穫である。一方、想像以上に研究されている部分もある。その傾向や割合が、おぼろげながらわかった。時間の浪費ではない。
たぶん私は、もう健康法の本は買わないだろう。その気になれば、一冊ぐらい書く手法がわかってしまった。第一に、害が明白な部分は書かぬこと。それに、読者に安心感を与えること。これ以上となると、出版を計画中の人の迷惑となる。
たまたま、対象が宗教だったとしても、私は同様に、のめり込んだだろう。その場合、大変な泥沼だったはずだ。ほどほどに信者になればいいのに、信者以上の熱狂で、研究してしまうのだ。
このところ、世界史に魅力を感じていて、ブレーキに手をかけている。奥深い面白さがあるようだ。しかし、若ければともかく、これからでは、もうおそい。楽しみにとどめておくべきだろう。
それより、小説にその情熱をそそいだらと言われると、一瞬、ぎょっとなる。しかし、他人と比較のしようがないが、それは私も、かなりやっていると思う。短い小説の面白さはどこか、そのパターンは身につけているつもりだ。
本書は昭和五十年(一九七五)ごろから、五十八年(一九八三)ごろにかけて、新聞や雑誌などに散発的に書いたものを集めた。期間とくらべて、多いのに気づく。つまり、ショートショート千編にあといくつと、秒読みに入ったことを意識していた時期である。それに重点をおき、体力と気力があるうちにと、それが方針だった。
それは、内輪の話。お読みいただいて、知識や思考法でなにか感じとっていただければ、著者としてうれしく思います。
昭和六十一年七月
著 者
きまぐれエトセトラ
星《ほし》 新《しん》一《いち》
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平成12年10月13日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社 角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
shoseki@kadokawa.co.jp
Shin-ichi HOSHI 2000
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『きまぐれエトセトラ』昭和61年8月10日初版刊行