講談社電子文庫
おみそれ社会
[#地から2字上げ]星 新一
目 次
おみそれ社会
女難の季節
ねずみ小僧六世
キューピッド
牧場都市
はだかの部屋
手紙
回復
古代の神々
殺意の家
ああ祖国よ
おみそれ社会
「いつものように、ちょっと出かけてくる」
おかわりをした二杯目のコーヒーを飲みおわり、私は立ちあがりながら言った。このままコーヒーを飲みつづけ、テレビをながめて家でごろごろしていてもいいんだが、三十五歳の男性ともなると、そういう生活態度はよろしくない。男とうまれたからには、たえず忙しげに動きまわっていなければならぬ。それが世の通念。それに反するのはよろしくないのだ。
「いってらっしゃいませ。お気をつけて」
わが奥方の美佐子が言った。奥方だなんて現代の通念に反する言葉を使うのはどうかと思うが、私の場合はやむをえない。彼女は高級美容院を経営し、盛業中なのだ。世の女性たちは必需品の値上げだと一円でも大さわぎをするが、美容代のごとき非必需品には千金を投じても平然たるもの。けっこうなことだ。ここはその美容院の二階の住居。住みごこちのいいマイホームとなっている。
わが奥方の美点はもうひとつある。どこへいらっしゃるの、なにしにいらっしゃるのなどと、くどくど質問しないことだ。金をかせぎながら亭主には寛大。いまどき珍しい良妻じゃないかしらん。
しかし、時には私も考えるのだが、美佐子は独身でいるとあれこれと変なうわさが立ってみっともないので、私と結婚したのじゃないだろうか。女は適齢期になったら結婚すべきだというのが世の通念。といって、平凡な男と結婚すると一日じゅう二階でごろころされ、ひまを持てあまして階下の店にあらわれ、従業員の女の子をからかい、お客のご婦人たちになれなれしく笑いかけたりで、これまた困る。だから、私が午後から夜にかけてどこへともなく出かけるのを、内心では喜んでいるのかもしれない。
つまり、私たちは理想的な夫婦ということになる。お客のご婦人におべっかを言うのもつまらないことではないだろうが、私にはもっとやりがいのあることがべつにあるのだ。
ネクタイをしめ、きちんと服を着て私は外出する。国電の駅にむかい、ホームで電車を待つ。三台ほど待った。すいた電車には乗りたくないのだ。しかし、痴漢趣味と思われては困る。そんな低級なことを私がするものか。
やっとこんだ電車が来た。いそいそと乗りこんだ私は、そっとあたりを見まわし、身なりのいい五十歳ちかい紳士がいるのを見つけそのそばへすり寄った。しかし、私は同性愛趣味の痴漢などではない。そんな低俗なことを私がするものか。
さっさっさっと、私は作業をやり終えた。われながらすばらしい手ぎわ。神技とはこういうもののことではないだろうか。しかし、きょうの相手は神経がとくに鋭敏だったのか感づかれてしまった。彼は私の手首をつかんで大声をあげやがった。
「スリだな。どうもようすがおかしいと思ったら、スリだったのだな。さあ、つかまえたぞ」
「まあまあ、大声をあげないで下さい。他の乗客のかたがたへの迷惑となります。それに、このごろは大声をあげても、かかりあいを恐れてだれも知らん顔です。力を貸してくれませんよ。ひどい世の中です。したがって大声は無意味でしょう」
と私が言うと、紳士はうなずいた。
「それもそうだな。では、車内ではおとなしくしてやるか……」
しかし、まもなく駅につくと、私はホームへ引っぱり出され、会話が再開された。紳士は言う。
「やい、スリめ。ひとの物をするとは、許しがたき犯罪だ。税金をおさめないでもうけるやつを見ると、胸がむかむかする。さあ、かえせ。いやだといったら、駅の公安官に引き渡し、はだかにして調べて……」
「待って下さいよ。話を最初にもどしましょう。なにがすられたとおっしゃるのです。あなたのポケットからなくなった品というのは、なんなのですか」
こう私が聞くと、相手は服のポケットをすべてあらためてから、困ったような口調で言った。
「なにもなくなっておらん」
「そう早がってんしないで、よくお調べになったらいかがです。念には念を入れよということもありますからね。財布や名刺入れはどうですか。キー・ホルダーはどうですか」
「みんなある。ふしぎでならんな。たしかにすられたような感じがしたのだが。しかし、いずれにせよ、きみには申しわけのないことをした。わたしのまちがいを許してもらいたい。わたしは芝原といいます」
あやまろうとしてホームにすわりこみかけた紳士を、私は引きおこした。
「そんなことをなさらなくてけっこうですよ。まちがいはだれにもあることです。まちがえるたびに土下座していたら、人間すべて土下座のしつづけです」
「ああ、なんという高潔なかただ。ひとのまちがいを深追いしない。週刊誌や野党の代議士たちに、あなたのような人の存在を教えてやりたいと思います。しかし、このままではわたしの気持ちがすまぬ。行きつけのバーがあるから、そこでおごらせていただきたい。この駅から歩いて十分ほどです」
「そうこなくちゃいけない。いや、それはけっこうなことです。そのご好意はありがたくお受けしましょう」
先に立つ芝原のあとを歩きながら、私は自分のポケットからフィルムを出して、そっとながめた。私のポケットのなかには、高性能の小型複写器がある。さっきこの紳士の紙入れをすり、なかの書類を複写器にかけ、ふたたび紙入れに入れてもとに戻したというわけなのだ。神技と称してもいいのではないかというのは、このことだ。物品をするのではなく、情報をすりとる。もっとも、めぼしい情報にめぐりあうことは、めったにない。今回もどうやらそうだったようだ。
複写したフィルムによると、この芝原という紳士は医者らしかった。紙入れをポケットに戻す時、聴診器にもさわった。私がうなずきながらフィルムをしまうと、駅の出口のあたりで苦しげなうめき声がし、人垣ができていた。背のびしてのぞきこむと、老人が倒れている。急病人らしい。私は芝原に言った。
「あそこに急病人がいるようですよ」
「ふうん」
「手を貸してあげたらどうでしょう」
「しろうとが勝手に手を出さないほうがいい。事態の悪化という現象は、すべてよけいなおせっかいからおこる。ほっときなさい。だれかがなんとかするさ」
と平然たるもの。ヒューマニズムの欠けていること、おびただしい。といって、ここで忠告したりすれば、私の行為がばれてしまう。不満顔をしている私を引っぱり、芝原は駅前広場の片すみを指さした。
「急病人なんかより、もっと興味ある人物がそこにいる」
そこには乞食がいた。あかにまみれ、ひげが伸び、地面にすわっている。
「ははあ、乞食ですな。二十歳前後の若者だったら趣味の乞食といえますが、あいつは四十歳ちかい年配。真剣な表情。本物の乞食のようです。しかし、なんで興味が……」
「五体満足、頭も悪くなさそうだ。そんなやつが、この繁栄の世になぜ乞食などをしているのか、ふしぎでならぬ。もっとも、スリだって存在しているのだからな。いや、これは失礼。きみのことではないよ」
そこで私は、ひとつの仮説をのべた。
「どこかのテレビ局にやとわれているタレントかもしれませんよ。ドキュメンタリー番組のためには、かわいそうな貧しい人物が必要なんです。視聴者というものは、うまい物を食べながらテレビでかわいそうな光景を見るのが好きなんですよ。優越感なるものは、いまや立派な商品ですからね。それに、娯楽番組にも利用できる。かわいそうな人たちへの寄金募集と銘をうてば、どんな俗悪な公開ショーも大手を振ってできる。あれやこれやで需要あれば供給ありです」
「そういうものかね」
「観光や視察にやってくる外人むけにも、乞食は必要なんです。アメリカ人は日本にも社会のひずみがあることを知ってほっとする。共産圏からの旅行者は、資本主義の犠牲者を発見し、いいみやげ話ができたと大喜びする。低開発国の経済使節団が見れば、日本に大きな援助要求をするのは遠慮しようと内心で考える。すべて好結果。あれは外務省直属の乞食かもしれません」
「どうもきみはすなおじゃないな。まあ、もうしばらく見ていなさい。ほら、来た来た。むこうから男が歩いてきた……」
と芝原が指さす。歩いてきた男はみすぼらしい服装。しかし、乞食の前で足をとめ、前においてある|空《あき》|缶《かん》[#電子文庫化時コメント 底本「空罐」]のなかに千円札を投げこんだ。乞食は涙を流してふしおがみ、ご恩は一生わすれませんと言っている。芝原は私に、その点を指摘した。
「どうだ、心からの感謝をしているではないか。あの報恩の念は、道徳の訓読本にのせたいくらいだ。かくしカメラでとられているやとわれタレントだったら、ああはいかない。毎日ああなのだ。それに、あの金を恵む人物。自分のぜいたくを押えて、金を与えつづけている。道義いまだすたれず。あれこそ市民の連帯意識のあらわれだ。きみはひねくれているぞ。ヒューマニズムに欠けている」
ヒューマニズムに欠けていると言われては、私としても面白くない。
「ちょっとここで待っていて下さい。あいつたちの正体を調べてきます」
私は金を恵んだ男のあとをつけ、そばへ寄って、さっさっさっと神技を発揮した。スリを働き、複写し、もとへ戻したというわけだ。それから乞食のそばで滑ったふりをして倒れかかり、また神技を発揮した。待っている芝原のところへ帰って報告。
「わかりましたよ。いささか驚きでした。まったく、人生はさまざまです。意外や意外という事情。こんなところでの立ち話にはもったいない。話すほうも聞くほうも、一杯のみながらのほうが楽しくなるといったたぐいのものです」
バーのマダムは若く美しく、なかなか魅力的だった。なまめかしい声で迎えてくれた。奥のほうの椅子にかけ、芝原は私に言った。
「気楽にしてどんどん飲んでくれ。しかし、気楽にしすぎ、マダムに手を出されては困る。なぜなら、彼女はわたしのこれだからだ」
芝原は小指を一本立ててみせた。
「それはそれは、すばらしいことで。ぜひうかがいたいものですな、そのロマンスの発生から経過、現在に至るまでを」
「そのことはあとまわし。さっきの乞食の話のほうが先だ。ロマンスなど、もはや平凡。現代は情報の時代。他人の知らぬ珍奇にして新しい情報に接する以上に楽しいことはない。さあ、早く話してくれ」
うながされ、私は酒を飲みながら話す。
「じつはですね、あの乞食、ただの乞食じゃありません。このあいだニュースをにぎわしたでしょう、空港の税関の事件。大量の宝石を強奪し、逃走したやつがありました。それがあいつなんです」
「それがなぜ乞食などになった。天罰がくだされたのかな」
「そうではありません。つまりですな、彼は全財産をつぎこんで犯行に|賭《か》けたのです。みごとに成功はしたものの、すぐに宝石を処分しては、それから足がついて発覚する。発覚しなくても、買いたたかれてみすみす大損害。その一方、現金はまるでない。乞食をする以外に、生きる道はなくなったというわけです」
私の説明に、芝原はひざをたたいた。
「なるほど、黒字倒産というわけか。やはりあいつも繁栄のかげの犠牲者の一種だったのだな。で、金をめぐんでいた身なりの地味な慈善家のほうはどうなんだ」
「あれがまた、ただの慈善家じゃないんですよ。乞食のその正体をうすうす感づいているらしい。ここで恩を売っておき、あとでごそっと分け前にあずかろうという計画です。苦境の時の、人の情ほど身にしみるものはありませんからねえ。宝石が現金化されたのをみはからって、さりげなくあらわれご対面すればいいんです。何倍にもなってかえってきますよ。融資してくれといえば、いくらでも出してくれましょう。名案です。しかし、あの男、恵んでやる金がない。そこで質屋にかよって金を作り、毎日あの乞食に与えているのです」
「えらいことを考え出したものだな。義理人情でしばりあげる長期投資というわけか。収益確実、競馬や宝くじで|一《いっ》|攫《かく》千金をねらう連中より、はるかに賢明だ。しからば、わたしも金を恵んでおくとするかな。この有利なる乞食信託に一枚加えてもらうとしよう」
そんな気になりかかった芝原を、私はとめた。
「およしなさい。あのぼろ服の男、物かげでずっと見張っていましたよ。もしあなたが大金を恵んだりしたら、いんねんをつけに出てくるでしょう。やい、この乞食はおれのなわ張りだ。ほかのやつが勝手に金を恵むことは許さない。金がありあまって、どうしてもやらずにいられないのなら、おれを通じてにしろ、といったぐあいにね……」
「そういうものかもしれないな。うむ、アイデアの横取りはよくない。発見者の権利は尊重すべきである。しかしだね、それにしてもふしぎでならぬ。彼らのそういった秘密を、きみはどうやって聞き出したんだ。催眠術をかけてしゃべらせたというわけでもあるまい……」
芝原は酒を飲み、首をかしげ、私を見つめた。これを質問されると困るんだな。ちょっと神技を発揮し、宝石強盗計画書や質札のたぐいを複写し、それらから判断したのだとも言えないし……。
「じつは、そのですね……」
と私が弱っていると、その時だ。バーのドアから、バーにふさわしからぬお客が入ってきた。ふとった中年の婦人で、眼鏡をかけ、地味だがいかにも高価そうな和服を着ている。つまり主婦の典型といったところ。
それをすばやく目にとめた芝原は、あわててテーブルの下にもぐりこみながら、小声で私に言った。
「まずいことになりかけてきた。きみはそしらぬ顔で飲みつづけていてくれ。わしがここにいるとさとられぬようにな」
こっちだってやぼではない。事情をのみこみ、かたわらの店の女の子相手に、冗談をしゃべり芝原に協力してやった。しかし、なぜ男性同士はこんな時に助けあってしまうんだろう。「奥さん、おさがしものはこれでしょう」と大声で教えてあげるのも、ちょっとした刺激だと思うんだがな。社会的な常識というやつなのかもしれない。それとなくようすをうかがっていると、入ってきた中年の婦人は、ざあます言葉を連発してマダムをやっつけている。しかし、それをマダムはたくみにあしらい、なんとか帰らせることに成功した。
「もう大丈夫のようですよ」
と私が告げると、芝原はテーブルの下からのそのそ出てきて椅子にかけ、ほっとした表情で酒を飲んた。
「やれやれ、ぶじにすんでほっとした。お手伝いありがとう」
「さぞびくびくなさったでしょう。本妻と二号との対決に立ち合うぐらい、男にとって精神衛生によくないものはないでしょうからね。お気持ちはよくわかりますよ。しかし、奥さんのほう、わりと簡単に引きあげていきましたねえ」
「なにいってんだい。お気持ちはよくわかりますなんて言ってるが、きみはちっともわかっちゃいない。帰っていったほうが二号なんだ」
この芝原の言葉に、私は自分の耳を疑いたくなった。
「まさか。それじゃ常識に反しますよ。本当にそうだとしたら、あなた気まぐれもいいところだ。気はたしかなんですか。一度お医者さんに見てもらったらいい」
「そう独断的な意見を振りまわさないでくれ。これには事情があるのだ。いいかね、わたしはずっと独身で仕事第一と専心してきた。そのかいあって、中年すぎになってからすべてが軌道にのり、財産もでき、地位もできた。そこで、若い美人と結婚することができた。ここまでの経過はおわかりか。ご質問があればお答えします」
「ええ、わかりますよ。男なら若い女性と結婚したくなるのは当然です。しかし、あなたの場合は正々堂々たるものじゃありませんか。なんら恥ずることはない」
「ところが、そううまくはいかないのが世の中。妻と外出すると、だれもが二号といっしょだと思ってしまう。明るいうちから二号を連れて歩きやがってと、批難の視線が集中する。商売がたきたちは、あいつは二号を囲っているとほうぼうで言いふらす。わたしの社会的な信用は落ちる……」
「ははあ」
「体験してみないとわからないだろうが、いや男性の|嫉《しっ》|妬《と》というものはひどいものだ。陰にこもったでたらめの中傷。男性とは本質的に女性じゃないかと思えてくるぜ。さらに、思いがけない問題も派生してくる。わたしの留守中に、近所の若い男が妻に言い寄ったりするのだ。二号に手を出すことには道徳的抵抗がなく、気やすくできるらしい。といったありさまなのだ。こっちは恥ずるところなくても、世の常識にはさからえぬ」
芝原は世人の無理解をなげいた。私もいささか同情する。
「そういうものかもしれませんね」
「あれこれ悩んだあげく、かくのごとくなったしだいだ。さっきのばあさんを二号にした。公式の会合にはそれを連れてゆく。悪評は消え、|糟《そう》|糠《こう》の妻を大事にしていると、みな尊敬の目で見てくれる。業界の信用も高まる。いいことずくめだ。さて、本妻のほうはどうしたものかとの問題が残る。わたしも考え、本人とも相談したあげく、ここでバーをやらせることになったというわけだ。バーのマダムにしておくと、若い男は気やすく手を出さない。ぶっそうなパトロンがついているかもしれないと、びくびくしちゃうんだな」
「複雑なもんですなあ」
と私はここのマダムを横目でながめ、ため息をついた。
「そうかね。単純な常識に従い、むりにさからわないだけのことさ。人生の知恵というわけだよ」
「疑問がひとつあります。さっきの一見本妻風の二号さんが、なぜ、ここの一見二号風の本妻のところへどなりこんできたんです。二号が本妻のところへどなりこむなんて、越権行為、常識に反してますよ」
それに対し、芝原は理性的分析的な口調になりながらしゃべった。
「それが女のあさはかなところなんだろうな。服装が人を作るということわざがある。いつのまにか本妻風の生活になれ、自分の本質がそうなのだと思いこみ、前後を忘れてここへ乗りこんでくるのだ。しかし、ここのマダムにさとされ、自分は日かげ者であったことに気がつく。そして、すごすごと帰ってゆくことになるのだ。これが時どきくりかえされている」
「ははあ」
「すなわち、自己の社会的立場を確認する行為。たとえば、街路で大あばれをしてみて、警官が手かげんをしてくれ、やはりおれは暴力団でなく学生だったのだとうなずくようなものだ。社会が複雑になると迷路に入りこんでさまよっているよう、自分がどんな地点にいるのかわからなくなる。そのため、確認行為は現代に必要なんだ。自動車事故をおこしてみて罪が軽ければ、自分はまだ人気のあるタレントだと確認できる。大通りで立小便をしてみて警官に怒られれば、自分はもう子供じゃなくなったんだとわかる。もっと例をあげようか」
「もうけっこうです。わかってきました。ここのマダムも本妻風の二号さんを追いかえすことで、自分が正式の夫人であると確認でき、誇りと安心が得られるというわけですな。しかし、そういう一種の行事なら、あなた、なにもあわててかくれなくったっていいじゃありませんか」
「それはきみ、世の常識というものだよ。わたしがそばにぼそっと立っていては、かっこうがつかない。また、彼女たちだって確認行為を楽しめない。わたしもかくれることで、二人の女性に愛されていることがはっきりし、楽しめるというわけだ。きみにしてもだ、スリルを味わって楽しめたはずだぜ」
「こみいってますなあ。もう少し酒でも飲まないことには……」
店の女の子が酒を運んできた。となりの席にすわったその女の子に、私は酒を飲みながらつぶやくように言う。
「世の中は複雑だなあ。総合雑誌のむずかしそうな論文に、よく二重構造という言葉がのっているが、このことだったのかもしれないな。一枚はぐと下からなにが出てくるのか、さっぱりわからん。信じられるたしかなことといえば、きみがかわいこちゃんであることぐらいじゃないかな」
そのとたん、彼女が声を出した。
「おい、おっさん。てめえの目はふし穴じゃないのか。みそこなっちゃ困るぜ……」
すごみのある早口の低い声だ。私はびっくりした。男だったのか。どういうわけか知らないが、女装した男性というものは勢いのいいたんかを切りたがる。
「すまん、おみそれした」
私があやまると、彼女はふたたびやさしい声にもどって言った。
「だからあなたの目はふし穴なのよ。超小型テープレコーダーができてるのをごぞんじないようね。服のなかにかくしてあるの。いやな男にしつっこくくどかれた時、そっとボタンを押すと、いまの声が再生されるってわけよ。効果はてきめんね」
「そういう製品が開発されているとは知らなかった。きもをつぶしたよ。ちょっと見せてくれないか」
「だめよ、あいにくきょうは持ってこなかったの」
女は謎めいた笑いをした。二重構造どころのさわぎではない。
酒を飲んでいるうちにいい気分になり、私は芝原に、ついこう話しかけてしまった。
「病院の経営をなさりながら、事業をやっておいでとは、さぞ大変でしょうね」
「まあね……」
「しかし、あなたにひとつ文句がありますよ。さっき駅で急病人をほったらかしにした。あれは許せない。反省なさるべきです」
芝原は妙な顔で考えこみ、やがて言った。
「どうやら反省すべきなのは、きみのほうらしいぞ。わたしは医者ではない。さっきからわたしが医者だなど、ひとことも言っていない。ということは、紙入れのなかの名刺をきみがすったことになる。やはりスリだったのだな」
「これは口がすべりました」
いまさらしまったと思っても、もはや手おくれ。芝原の声は大きくなった。
「名刺一枚であろうと、スリはスリだ。すっかりだまされていた。わたしは正しかったのだ。がまんしていた損害をとりかえすため、大声でさわぐぞ」
「まあ、待って下さい。名刺だってとっていません。複写させてもらっただけです」
「似たようなものだ。かえしたからといってすむことではないぞ。さて、どうしてくれよう」
「お静かに、お静かに、あなたのにせ医者であることが表ざたになってしまいますよ。それでは困るでしょう」
弱味をついたつもりだったが、相手にはあまりひびかなかった。
「いや、わたしは医師法違反などしていない。バーや待合で女性にあの名刺を見せるだけだ。聴診器を出すと、女の子は安心して裸になってくれる。それを見物して楽しむだけだ。子供のお医者さんごっこと同じようなもの。実質的な被害を与えているわけじゃないよ」
「それだったら、わたしがあなたの名刺を複写したことだって同じでしょう。あなたに実質的な被害を与えていない」
あれこれ議論を重ね、私はいろいろと弁解をこころみた。やがて、芝原もいくらか譲歩してくれた。
「それもそうだな、おたがいに帳消しとしてもいい。しかしだ、ここでずいぶん酒を飲まれた。安くないぞ。おごるべきでなかったものだ。これは実質的な被害」
「駅前の乞食についての情報をお教えし、楽しませてあげたじゃありませんか」
「こっちも二号の話をし、楽しませてあげた。だから、その件は帳消し。飲み代だけが残る。このぶんだけ、わたしはきみに対して恐喝権を有することになる。これが世の常識というものだ」
「弱りましたが、いいでしょう。どういうことになるのです」
「きみに手伝ってもらいたいことがあるのだ。すぐすむ」
「仕方ありません。やりますよ、やりますよ。これもなにかの経験です」
私が承知すると、芝原は私の耳に口を寄せてささやいた。
「じつは、これから倉庫に忍びこみ、泥棒を働くのだ」
「えっ、なんですって……」
「大きな声をたてるな。これは密談なんたぞ。ひとにむかってはお静かにをくりかえすくせに、自分では……」
「わかりましたよ。あなたの本業がそんなこととは知らなかった。いまさら後悔してもまにあわない。で、どうやるんです」
「くわしくは奥の小部屋で相談しよう」
バーの奥のほう、ドアを入ると小さな部屋があった。芝原は紙に図を書き、手はずを説明した。前から準備していたらしく、計画は的確だった。
「きみの受持ちはガードマンをやっつけることだ。倉庫の鍵をあけるのはわたしがやる」
「大丈夫なんでしょうね。変なことになって裁判にかけられたりするのはいやですよ」
「そんなに心配なら、念のために証言屋をやとっておこう。バーのカウンターのはじのほうで飲んでいた男がいたろう。あいつがそれだ」
「そういえば、変なのがいましたね。酔っぱらっているのか、酔っぱらってないのかわからないようなのが……」
「そう、あいつのことだ。ある人から推薦された。証言屋としての才能はたしかだから、なにかの時に使ってやってくれとな。いかなる自白剤を飲まされ、いかなるうそ発見機にかけられても、なんの反応も示さないという特異体質の持ち主らしい。やつをこの小部屋に呼び、ずっといっしょに飲んでいたということにしてもらおう。証言屋と称するからには、声色だってうまいのだろう。三種の声を使いわけ、そとの連中に対して、ここで三人がしゃべりあっていたようによそおってくれるだろう」
「そんな商売があるとは知りませんでした。彼の本職はなんなんです。信用できるんですか」
「本職がなにかは知らない。しかし、人は本職はいいかげんにやっても、内職となると誠心誠意、忠実にやるものだ。内職には終身雇用年功序列なんて保証はないからな。内職をいいかげんにやり、本職のほうに熱中するというタイプの人間を聞いたことがあるか」
「ありませんね」
というわけで、あとを証言屋にまかせ、私たちはバーの小部屋の窓からそとへ出た。芝原は案内し、倉庫の所在地へと行きついた。
物かげからのぞくと、なるほどガードマンが巡回している。あれをやっつけるのが私の分担。正攻法でやることにしよう。私は近づいて「こんばんは」と声をかけ、すきをねらって力一杯みぞおちを突いた。
「う、痛い」
声をあげたのは私のほうだった。こっちの手がしびれるぐらい痛かった。どうやら、相手は防弾チョッキを着ていたらしい。やりそこなった。こうとは予想せず、第二撃のことは考えていなかった。観念せざるをえないようだ。反対につかまってしまうだろう。
私は覚悟をし、それを待った。しかし、ガードマンはそこにぼんやりと立ったまま、こうつぶやいている。
「おれはなぜ、こんなところにいるのだろう。早く帰らなければならぬ。だが、家がどこだったのか思い出せない。第一、自分の名前も忘れてしまった。あなた、教えてくれませんか」
うつろな目つきで、しばらくゆらゆらと揺れていたが、やがてばったりと倒れ、動かなくなった。これはどういうことなのだ。さっぱりわからない。私がふしぎがっていると、芝原がやってきて言った。
「きみはすごい。一撃で倒したな」
「結果としてはそういう形になっていますが、どうもおかしいのです。このガードマン、記憶喪失になったようなのです」
「頭でもなぐったのか」
「いや、みぞおちを突いたのです。しかし、こいつは防弾チョッキをつけていて、痛かったのはわたしのほうです。いったい、こんなことってありますか」
「なるほど、変な現象だ。倉庫侵入の前に調べてみる価値がありそうだ。好奇心は金銭欲よりも強い」
ガードマンのポケットをさぐると、書類が出てきた。特殊護身術訓練所の修了証書。しかし、こんなざまで、なにが護身術だ。
証書の裏にはこまかい字でいろいろと書いてあった。それを読むと、だんだん事情がわかってきた。ちょっとした衝撃を他人から受けると、記憶喪失のごとき外見を示し、ばったりと倒れて気絶する。その術を身につけたということなのだ。
すなわち、それ以上の被害を受けることがない。犯人だって、記憶喪失の人間を殺しはしない。無抵抗こそ最大の防御。しかも、気の毒な被害者として、関係者からは同情される。訓練を重ねれば、条件反射として身につき、正確に気絶できる。ひとに襲われる危険性のある職業の人は、ぜひこの術の習得を。職務のために命を捨てるぐらいばかげたことはない。この特殊護身術で平穏と長生きをどうぞ。
「いや、ひどいもんですな。無抵抗主義者のガードマンとは」
私が感心すると、芝原もうなずく。
「けしからんことではあるが、うまいことを考え出しやがった。気絶してしまえば、責任を問われることもないものな。なんとか他人をだしぬいて、自己の利益と安泰をはかろうとの欲求が世にみちている。それを利用し、こんな訓練所を作ってもうけるやつが出る。人間の頭脳はつきることのない泉。かくして文明は進歩してゆくのだな」
「ゆっくりと感慨にひたっている時じゃありませんよ。早いところ目的の仕事を片づけましょう」
「そうだったな」
芝原は倉庫の扉に近づき、鍵をがちゃがちゃいじりまわした。すると、扉はあっけないほど簡単に開いた。芝原は慨嘆する。
「これは驚いた。鍵のかけかたがいいかげんだ。警報ベルも鳴らないとくる。なんというルーズなこと。装置の欠陥というべきか、点検の怠慢というべきか。あまりにもひどすぎる。きみの意見はどうだ」
「さあね、わたしは社会評論家じゃありませんよ。いまは悪事の手伝い役です。さっそくなかへ入ってみましょう」
ともどもなかに入る。なにを持ち出すことになるのだろう。芝原は懐中電灯であたりを照らしている。私はその命令を待った。
そのとたん、うしろで扉が閉まった。あわてて飛びつき、二人がかりで押したり引いたりしたが、さびかけている錠はびくともしない。やけをおこして勢いよくたたくと、非常ベルが鳴り出しやがった。芝原は言う。
「どうやら、もうだめらしいぞ。装置の欠陥と点検の怠慢との競合脱線で、われわれはここへとじこめられた形になった」
「冗談じゃありませんよ。ひどいことになった。ああ、せっかく証言屋までやとい、万全の計画だったというのに。想像が悪いほうへとむかいます。あの証言屋、かえって悪い結果をもたらすんじゃないんですか。このままだと、われわれは買収して証人を作ろうとした罪までかぶってしまう」
「いや、待てよ。いま思い出したが、あの証言屋は酒乱だそうだ。その点に気をつけて使えと推薦者から注意されていた。ウィスキーのびんをそばにおいてきたから、われわれの帰るのがおそければ、大あばれしてめちゃくちゃになっているだろう」
「そうだといいですね。やつが大酒を飲んでいるよう祈るとしましょう。いまとなっては、それぐらいしかできることはない」
「祈るのは待て。酒乱は酒乱でも、どんなたぐいかわからないぞ。酒がきれるとあばれだす酒乱かもしれない。それだったら酒を飲まないよう祈らなければならない。いずれにせよ、こんどやつを使う時には、その点をよくたしかめてからにしよう」
「そんなのんきなことを言っていて、どうするんです。ベルが、大きな音をたてています。いまにパトカーがやってくるでしょう。つかまってしまうんですよ。あなたの人生はそれで終りでしょう」
と私がせきたてたにもかかわらず、芝原は意外に平然たる顔。
「まあ、落着きなさい。じたばたすることない」
「よくまあ、そんなことが言えますね。われわれはこのままだと、現行犯でつかまってしまいますよ。事態がわかっているんですか。わかっていながら平然としているのなら、あなたは大変な大人物か、ばかか、それとも……」
「もうひとつ、正解なさったら賞金をさしあげます」
「ええと、そうだ、この倉庫会社の社長」
「残念でした。いいところまではいったんですがね。わたしは防犯状況秘密調査うけおい会社を経営しているのです。各企業の防犯設備は、たいてい自己満足におちいっています。へたな将棋さしや碁打ちのようなものです。敵がこうきたら、こう受ければ安心というぐあいにね。しかし、それでは強い敵があらわれたらひとたまりもない。たまにはわたしのような情容赦のない専門家の教えをこわなければだめなのです」
芝原の説明で、私はいくらかほっとした。
「これまた初耳のお仕事ですね。どんなふうに運営なさっているのですか」
「大会社をまわり、社長から内密に注文を受ける。社内に知らせては意味がありませんからね。何日の何時に防犯状況点検のための泥棒が入ると掲示しては、なんの役にも立たない。抜き打ち検査です。ごらんの通り、おかげでガードマンのだらしなさが判明したでしょう。また鍵と防犯ベルの不備もわかった。しかし、鍵とベルのうすのろさは面白い。これを改良すれば、侵入者をいけどりにする新設備が開発できそうだ。量産すればひともうけできるかもしれない」
「そうだったのですか。わけがわかってやっと安心しました。それならそうと、先におっしゃって下さればいいのに。わたしもつまらない緊張をしなくてすんだでしょう」
「それでは真に迫らないさ。きみだって手を抜いただろう。ぶつぶつ言いなさんな。はらはらして楽しかったろう。テレビなんかより、ずっと面白かったはずだ。お礼を言ってもらいたいくらいだぜ」
やがてパトカーが到着し、私たちは倉庫のそとへ出ることができた。芝原は警官に事情を話す。警官はふしぎがりながらも、倉庫会社の社長宅へ電話をした。たしかに侵入を依頼したとの返事をたしかめ、あっけなく幕となった。
しかし、その時、倒れていたさっきのガードマンが起きあがり、私を指さして大声で叫びはじめた。
「あいつです。さっきわたしをなぐったのはあいつです。つかまえて下さい。暴行傷害の凶悪犯人です」
こんな時になって、大声でわめきたてる。なにいってやがる。ひどい目にあったのはこっちのほうだ。
しかし、こう訴えがあっては見のがしてくれない。いちおう取調べるというわけで、私は警察に連行されることになった。芝原は口をきいてあげると言ってくれたが、私は自分のことは自分でしますとことわった。
警察の取調べ室。担当の警官はいやに熱心だった。まだ若いのに核心をつくような質問を連発し、メモを取り、いいかげんなところが少しもない。礼儀正しく頭もよさそう。こんなに職務に忠実な優秀な警官は少ないんじゃないだろうか。模範的とはこういう人物のことだ。
どんな経歴の人かと好奇心がおこり、私は便所に立った時に神技を発揮し、警官のポケットのなかのものを複写した。フィルムをそっとのぞき、私はきもをつぶした。ある犯罪組織の身分証明書があったのだ。たまりかねて私は質問する。
「いったい、あなたは警官なんですか、ギャング団の一員なのですか。どっちです」
「なんでそれを見抜いたのです。あなたは油断のならない人だな。じつは、ぼくのおやじがギャング団のボス。しかし、いやに進歩的な考えの持主でねえ。あとつぎになる前に、他人のめしを食って苦労してこいと、ぼくを警官にしたんです。警察へ留学させられたような形ですね。警察にいれば、あらゆる犯罪者の実体がわかる。また、犯罪取締りの内幕がわかる。コンピューターのしくみも頭に入る。おやじの立派なあととりになれるわけです。情報時代の未来に生きるには、こうでなくてはだめでしょう」
あまりのことに、私は言う。
「いくらなんでもこれはひどい。ひどすぎる」
「そんなことありませんよ。ぼくは熱心に職務にはげんでいる模範警官です。おやじがかげで手伝ってくれるから、犯人もたくさんつかまえた。もっとも、おやじの組織に属さない連中に限りますがね。成績優秀、みごとなものです。だから、あなたがよそへ行ってこれをばらしても、だれも信じない。しかし、あなたはどうもうさんくさいところがある。消したほうがいいのかもしれない。そうするかな」
「おいおい、ここで殺そうというのか」
「いや、そんなばかなことはしませんよ。おやじにたのんで殺し屋を出してもらう。そいつがあなたを殺し、あとでその殺し屋をぼくが殺すというわけです。おやじはぼくのためなら、なんでもしてくれる。うるわしい父性愛。殺し屋の命のひとつやふたつ、惜しげもなく調達してくれるのです」
「こみいった状態だなあ。二つの顔の時代というべきなのだろう。だれも、みなの見る通りという自分ではいやなのだ。自己をいつわるたのしみというのか、外見をいつわるたのしみというべきか……」
「ぶつぶつ言うな。さておやじに電話し、時間をみはからってあなたを釈放するとするか」
警官が電話機に手をのばすのを見て、私は言った。このままだと殺されてしまう。
「まあ、待ちなさい。わたしを殺したらえらいことになるぞ。わたしの正体を教えるが、警察上層部直属の秘密情報員だ。挙動のおかしい連中にそれとなく接近し、その実情をさぐって報告するのが任務だ。うそだと思うかもしれないが」
「うそだとも思いませんが、本当とも信じられない。しかし、世の中がこう複雑になってくると、だし抜き競争、ありうることです。あなたはわたしのことをさっと見破った。本当のようだ。どうです、取引きしましょう。おたがいにこの場のことは忘れるということで」
「いいでしょう。しかし、極秘だぞ。たとえおやじさんにも話さんでくれ」
と私が言うと、相手はうなずいた。
「ええ、ぼくのことも極秘ですよ。もししゃべったら、覚悟してもらいますよ」
私は警察から出た。かくれ家であるアパートの小さな室に入り、きょうのことを報告書にまとめる。秘密情報員としてのなすべき仕事なのだ。
もっとも、若い警官のことは約束だから書かなかった。宝石強盗あがりの乞食についての件は、適当にぼかした。なにもかもはっきりさせては面白くない。いくらか手もとに秘密を残しておくほうがいいのだ。秘密こそ生きがい。
書き終えた報告書をクリップでとめる。このあいだ手に入れた特殊クリップを使ってみた。放射線を出す作用があり、小型受信器で、ある距離に近づけばその所在をたしかめることができる。
私はこれを読む上役がどんな人か知らないのだ。しかし、こうしておけば、それを知る機会にめぐりあえるかもしれない。書類を封筒に入れ、宛名を書き、ポストにほうりこむ。
それから私は帰宅した。わが奥方である美佐子の待つ美容院の二階のマイホームへだ。だが、すぐ眠るわけではない。机にむかって原稿を書く。つまり、私はここでは童話作家ということになっているのだ。秘密の任務は妻にも内密。
〈ある日のこと、お山の上でクマちゃんがウサギちゃんに会いました……〉
なごやかなものだ。時にはわが奥方が紅茶を入れて運んできてくれる。髪ゆいの亭主の、あまり売れない童話作家。しかし、私はべつに劣等感も持たない。私には秘密があるのだ。彼女の気がつかぬ、大きなことをやっているからだ。だが、少しは劣等感を持っているようよそおうべきかな。そのほうが自然かもしれない。
これが私の日常。しかし、その数日後。なんということだ。この部屋で小型受信器が鳴りだした。放射線の出ている方向をそっとのぞくと、妻がなにか書類に目を通している。どうやら、私の書いた報告書のようだ。やがて、それは金庫にしまわれてしまった。
いったい、なぜあれがここに。美佐子には特殊な才能があり、それをみこまれて警察上層部の秘密顧問になっているのだろうか。それとも、外国のスパイの一員で、盗み出した書類の中継役なのだろうか……。
機会をみて、私はそれとなく美佐子に言ってみた。
「おまえ、なにかわたしにかくしてることがあるんじゃないか」
あどけない返事。
「そんなもの、あるわけないわよ。あなたのほうにあるんじゃないの。だからそんな気持ちになるのよ。ねえ、どうなの」
「こっちにはあるものか」
「だったら、そんな水くさいこと言わないでよ。夫婦なんだし、おなじ日本人なんだし、おなじ人間どうしじゃないの」
そういえばそうだ。表面的にはたしかにそうだし、それでうまくいってもいる。しかし、なんだかうたがわしくならざるをえない。本当に夫婦なんだろうか。おなじ日本人どうしなんだろうか。第一、おなじ人間なのかどうかも、なんとなく信じられなくなってくるのだ。
女難の季節
その青年はいつものように、朝の六時に起床した。目ざまし時計のせわにもならず、このところしぜんに目がさめてしまう。つとめ先の会社へはここを八時に出ればよく、そんなに早く起きる必要もないのだが、目のほうがさめてしまうのだ。
彼は目ざめるのが楽しかったし、出勤するのも楽しかったのだ。そう大きくはないが、内容の充実した一流と称せられる会社の社員。性格はまじめで、才能もあり、仕事も熱心だった。エリートコースを進んでおり、異例ともいえる昇進で課長となっていた。それでいて同僚の|嫉《しっ》|妬《と》をさほど受けないのは、その人柄のせいだった。
青年の心がはずんでいる理由は、もうひとつある。社長のひとり娘との縁談が進んでいるせいだった。直属の部長を通じて内密で話があり、何回か会いもし、それは進展していた。彼としてはいやもおうもなかった。将来への確実な保証書のようなものではないか。
そのような打算的な意味だけでもなかった。社長の娘は亜矢子といい、おっとりとしていて、いかにも育ちがいいという感じだった。容姿が美しいばかりか、ユーモアもあった。高ぶったところがなく、いたずらっぽく冗談を言って笑う顔はすばらしかった。彼の胸のなかで恋の導火線が燃えはじめていた。
朝の目ざめが楽しく、出勤の楽しいのもむりはなかった。仕事に熱を入れれば、それだけ亜矢子にみとめられることになる。仕事が楽しいから能率もあがる。いやいやでないから疲労も感じない。したがって目ざめもすがすがしい。すべてが軌道に乗り、好ましい結果へと進んでいる形だった。
青年は軽く朝食をすませ、顔を洗った。彼はその部屋にひとりで住んでいる。片づけるのにも時間はかからない。
「まだ出勤には早いな。本でも読むか」
彼は時計をながめ、コーヒーを飲みながら経営学の本を開いた。勉強もまた楽しかった。知識が頭のなかに流れこんでくるのを感じるのはこころよかった。
その時、ドアのほうでベルが鳴った。
「いまごろ、だれだろう。部屋代の集金でもなさそうだし、なにかのセールスマンがやってくる時刻には早すぎる……」
彼は立ちあがり、鍵をはずし、ドアをあける。そとには女性が立っていた。二十三歳ぐらいだろうか。細おもての、おとなしそうな、ちょっとさびしげなところもある表情。泣いているような目つきのせいかな、と彼は思った。しかし、見ていると、女の目から涙が現実にあふれ出し、ほおに流れた。
「どうかなさったのですか」
そうでも声をかけてみるほかになかった。女はなおしばらく黙ったままだったが、うらめしそうな口調で言った。
「あれから、どうしておいでになって下さらないの。どうかなさったのは、あなたのほうじゃないかと思って……」
「いや、ちょっと会社のほうがいそがしくてね……」
青年はあたりさわりのない返事をした。この女がだれなのか思い出せなかったのだ。思い出せないというより、記憶にないのだ。まったく知らない女。
だからといって、涙ぐんでいる女にそっけない応対をするわけにもいかない。取引先の人を招待して行ったバーの女性だろうかと思った。しかし服装も化粧も派手でなく、水商売らしさがない。その女は言う。
「いそがしいだなんて、ひどいわ。結婚の約束をしたあたしに……」
また涙ぐんだ声になった。小さな声だったが、それは青年を驚かすには充分だった。
「なんだって。ぼくが、いつそんな話をした。だいいち、ぼくはきみを知らないよ。会ったことがない」
「そんなひどいことってないわ。あたしをおもちゃになさったっていうの。それじゃあ、京子はどうなるのよ。どうしたらいいの……」
泣き声が高くなりかけ、青年はあわてた。となりの住人たちへの手前もある。いまは、変なうわさを立てられるのがいちばん困る時期なのだ。
「まあ、おはいり下さい。なかで事情をうかがいましょう。京子さん、でしたね」
彼のすすめる椅子に、女は腰をかけた。
「ちゃんと、あたしの名をご存知なのに。どうして、さっきは知らないなんておっしゃったのよ……」
ハンケチで目を押さえ、思いつめている口調。青年はコーヒーをあたため、カップに入れて出した。女は、そんなことなぜあたしにやらせてくれないのといいたげな、悲しげな不満の表情をみせた。青年はふしぎでならないと同時に、少しおもしろかった。世の中、いろいろと妙なことが起るものらしい。どこでこんなまちがいがはじまったのだろう。それをつきとめれば、当分のあいだいい話題の種になる。みなの興味をひきつけるにきまっている事件だ。
「京子さんとは、ぼく、どこでお会いしたのでしょう」
「まあ、本気でおっしゃってるの。それとも、記憶喪失にでもなられたの……」
女は驚き、気づかわしげな目つきで彼を見た。青年はそれを利用することにした。まず話を聞き出さなくてはならない。
「このあいだ、タクシーが急停車し、ちょっと頭をうったことがあります。そのせいかな。だけどたいしたことはなかった……」
「それだったら、うらんだりしたあたしのほうが悪かったわ。ごめんなさいね。でも、すぐ思い出すはずよ。あたしたちの人生にとって、忘れられない印象のはずですもの。あたしがお友だちのパーティによばれて、お酒に酔っての帰りだったわ。夜の十時ぐらいだったかしら。歩きかたがあぶなっかしいって、あなたが声をかけて手を貸してくれたわ。自分じゃそれほどとも思ってなかったけど、やっぱりちょっと飲みすぎてたのね」
「それで……」
「あなたは大きな取引先の人を招待し、やっかいな話しあいがやっと了解点に達し、肩の荷をおろした気分で帰宅の途中だったのよ。そうおっしゃってたわ。了解点だなんて変な言葉だなあって、あたし笑っちゃったわ」
「そんなこともあったかな……」
青年はうなずいた。取引先を招待することは時たまある。それで話がまとまったあとの解放感はいいものだ。だが、彼の答で、京子は希望をみつけたように説明をつづけた。
「あなたはタクシーを呼びとめ、あたしをマンションまで送ってくださったわ。マンションのいちばん小さな部屋。あたしのお仕事が室内装飾だって言ったら、あなたはどうりで趣味がいいってほめてくださったわね」
「そうだったかなあ……」
青年はうながすようにつぶやいた。京子は夢みるような目で、忘れえぬ思い出を語りつづけた。
「お酒をお飲みになるって聞いたら、あなたは飲むっておっしゃったわ。飲みながらお話をし、ステレオで音楽をかけて、いっしょに踊ったわ。ほんとにロマンチックだった。あなたは結婚しようと言い、あたしは知りあったばかりじゃないのと言ったけど、あなたはきかなかったわ。それから、ベッドに入って愛しあったじゃないの……」
「なんだって。まさか。ぼくはそんなこと、したおぼえはないよ。本当だったらきっと楽しいだろうなとは想像するけど」
「そうお考えになるのは、少し思い出しかけた証拠よ。ね、しっかりして……」
京子はすがりつかんばかりの身ぶりをした。しかし、青年としてはどうしようもなかった。タクシーで頭を打ったことも記憶喪失もでたらめだ。この女と愛しあった体験など、まるでないのだ。話を引き出しているうちに相手が矛盾に気づいてくれるだろうと思ったのだが、いっこうにそうならなかった。
「本当にぼくなのか」
「あたしが忘れるわけないじゃないの。あなたのことを思って、あたしずっと眠れなかったわ。だから、こうやってたずねてきたのよ」
と女が言った。青年は首をかしげる。思い出そうとつとめているのではない。どうしてこんな女が出現したのかを考えるためだった。この京子という女、精神異常なのではないだろうか。パラノイアとかいう病気があるそうだ。ある一点を除いてあとは普通と変りない症状。その一点が問題なのだ。どこかでおれを見かけ、そんな恋愛妄想の世界を心のなかに築きあげてしまったのだろう。しかし、当人を前にそんなことは言えない。青年は言った。
「いずれにせよ、ぼくがそんなことをするはずがないよ」
「なぜなの」
「それは……」
青年は言いかけてやめた。社長の娘との縁談が進行中なのだ。慎重な行動をとるようつとめていて、そんな軽率なことをするはずがない。自分で将来を葬るようなものじゃないか。しかしそんな説明をしたら、京子はまた大声で泣き叫びそうだった。彼は時計をのぞきながら言った。
「会社に出かけなければならない時刻だ」
「いってらっしゃい。あたし、ここで待ってる。お掃除しておいてあげるわ」
「それは困るよ。まあ、三、四日待ってくれ。よく考えてみなくちゃ……」
青年は女をせきたて、ドアから出て鍵をかけ、会社へと急いだ。しばらくしてふりかえると、女はうしろのほうで、ゆっくりと悲しそうに歩いていた。それにしても、これはどういうことなのだ。彼はなにかいやな予感がした。
会社へ出勤すると部長が言った。
「なんだか落着かないみたいだが、なにかあったのかい」
「いいえ、べつに……」
青年はうちけした。ありのままを話したりすると、部長は念のためにと社長の耳に伝えかねない。縁談の進展への警戒信号となってしまうかもしれないのだ。
その日、青年の仕事の能率はあまりあがらなかった。帰宅するのが不安だった。しかし、帰ってみると女の姿はどこにもなく、ドアのベルの鳴ることもなかった。
数日間、なにごともなかった。青年はしだいに忘れかけていった。あの京子という女、人ちがいだと気づいたのだろう。思いつめ涙ぐんでいたのだから、心も目も乱れていてかんちがいをやったのだろう。あるいは、言いたいことを言いつくすことで気がすみ、心のしこりによる妄想が消えたのかもしれない。そんなふうに想像し、彼は仕事にうちこむことができた。
受付係から面会人ですとのしらせがあった。青年が応接室へ行ってみると、見知らぬ女がいた。二十五歳ぐらいか、陽気そうな感じの女性だった。なれなれしい口調で言う。
「こんにちは」
「失礼ですが、どなたでしたでしょうか」
「あら、どなたとはひどいわね。でも、あの時はあたし、名前を言わなかったかもしれないわね。あたし|美《み》|江《え》っていうの。あの時はあなたのほうも、あたしの顔をおぼえるどころじゃなかったかもしれないわね……」
美江という女は、意味ありげにちょっと笑った。青年は顔をしかめた。ビジネスとは無縁の、あまりいい話ではなさそうだ。会社の応接室での長話も困る。部長の目にとまったり、社内で変な評判が立ってはぐあいが悪いのだ。彼は、ちょっと手のはなせない仕事があるから、少し先の喫茶店で待っててくれと言い、女は承知した。
青年が喫茶店に出かけて行くと、女は待っていた。彼はさっそく聞く。
「美江さんとおっしゃいましたね。ご用件はなんでしょう。それより、どこでお会いしたのでしょうか」
「京子さんのお部屋でよ。あたし、同じマンションのとなりの部屋に住んでるの。あたしたち仲よしなのよ。予備の鍵を交換しあっているわ。あの日も、京子さんあてのデパートからの配達品を留守中にあずかってたのを思い出し、渡してあげようと入っていったわけよ。そうしたら、あなたが京子さんとキスをして、結婚を申し込んでたわ。ほら、思い出したでしょ。あたしは引きとめられ、祝盃を一杯だけつきあわされちゃったじゃないの」
「信じられない……」
青年はつぶやき、ひたいに手を当てた。なんということだ。またも変なのが出現した。よりによって重大な時期に。
「あたしがおたずねしたのはね、さびしがっている京子さんを見るに見かねてなのよ。よけいな口出しかもしれないけど、あまりお気の毒なんですもの。彼女おとなしすぎるわ。それでね、あの時あなたから会社の名前を聞いていたので、友情からやってきたというわけなの」
美江という女は、おしゃべりだった。せわ好きな開放的な性格なのだろう。青年は首をふって言った。
「それは、ぼくじゃないんですよ。あなたにも会ったことはない。だいいち京子さんの部屋なるものに行ったこともない。知らないよ」
「そんなことおっしゃっちゃ、ひどいと思うわ。京子さんって、すなおで純情なのよ。いまどき珍しいぐらい。あなたのことを思いつめて、ぼんやりしているわ。やつれたみたい。あなたにだまされたと知ったら、自殺もしかねないわ」
「冗談じゃないですよ。そんなばかなこと。ああ、ぼくはどうすればいいんだ……」
うんざりする青年に、美江は聞いた。
「京子さんのこと、きらいになったの」
「好きもきらいも、身におぼえのないことなんですよ」
「男らしくないわよ。きらいになったというんならまだしも、しらをきるなんて」
「いや、ぼくは絶対にそんな無責任な人間じゃありませんよ。記憶にないことなんです。だから、どうしてあげようもない」
「もっとはっきりなさってよ。これから京子さんと会ってあげない。あたし心配なのよ」
「そうしようかな。ふしぎでならない」
青年は言った。退社時刻になっていたので、彼は会社にもどって机の上を片づけ、美江とともにタクシーに乗った。彼女が行先を告げた。その地名にも着いたマンションの名にも心おぼえはなかった。
ベルを押すと、京子が出てきた。彼女の顔は、彼を見て急に明るくなった。
「いらっしゃってくれたのね」
「いや、美江さんに連れてこられたといったところですよ」
「記憶のほうは戻ってきたの……」
京子が聞き、美江がうなずいて口を出した。
「あら、そうとは知らなかったわ。記憶喪失だったのね。あたし、どうも変な気がしてたの」
青年は部屋に入った。小さいが内部はいい趣味で飾られていた。すみのほうにはベッドがあった。その上で愛しあったことになっているベッドだ。彼は気味の悪いものに接したように、それから目をそらせた。室を見まわしたが、かつてここへ来たことを立証するものはないようだった。来なかったとの反証になりそうなものも、またなかった。しかし、彼にとって不利な存在は、この美江という証人。立ったまま腕組みをしている青年に、京子が言った。
「お酒でもお飲みにならない。こないだのが残ってるのよ」
「いや、やめておこう。もう少しはっきりさせてからでないと、そんな気になれない。きょうは帰らせてもらうよ」
青年ははっきり言った。京子はさからわず、ドアで見送った。しかし、別れぎわにいやなことを言った。
「あたし、いつまでもお待ちしますわ」
そんな日々のなかで、青年は社長の娘の亜矢子とのデイトをしなければならなかった。ならないというより、それが彼の生きがいであり、人生を捧げるべき唯一の目標だった。
しかし、いっしょにレストランで食事をしている時も、なにか落着かなかった。京子か美江の視線がどこからかそそがれているような気がするのだ。亜矢子は言った。
「どなたかさがしていらっしゃるの」
「いいえ、ただちょっと……」
青年はあわてて否定した。だが、むりに忘れようとしてもむずかしく、ぎごちなさが残る。
「なにかお困りのことがあるのだったら、お話ししてちょうだいよ」
「べつにございません」
「ございませんだなんて、そんな言葉づかいなさらないでよ」
亜矢子は笑った。ちょっとえくぼができ、それは水くさいじゃないのよと言っているようだった。しかし、彼としては、京子の事件を話題にするわけにはいかなかった。亜矢子の前に出すのにふさわしい品のいい話題ではなく、それに、どこまで信用してもらえるのかわからないのだ。少しでも亜矢子に疑惑をいだかれたくない。
帰宅し、ひとりになってから青年は考える。いったい、あの京子という女はどういうつもりなのだろう。だれかおれによく似た人間がいて、こんないたずらをやったのだろうか。しかし、いくらなんでも、そうまでそっくりな人間などいるはずはない。それとも……。
そのほかの仮定は思い浮かばなかった。そんな悩みとともに仕事をするのだから、青年の会社での能率はいささか落ちた。部長に変に思われないようにも気をつかわねばならない。そればかりか、美江が会社にたずねてきたりもするのだ。社内ではぐあいが悪いので、喫茶店で会う。美江は言うのだ。
「京子さんのこと、いつまで待たせておくつもりなのよ」
「迷惑ですよ。だいたい、あんなことになるわけがないんですよ。当分は結婚しないつもりなのですから」
亜矢子のことを口にしたら、問題はこじれるばかりだろう。美江はさらに聞いてくる。
「なぜ結婚しないつもりなの」
「月給が少なくて、むりなんです」
「でも、将来は昇給するわけでしょ。それに、京子さんだってかせぐし、なんとかなるんじゃないの。決心ひとつよ」
「じつは、借金があるんです」
「そんなの、整理できるわよ。いい弁護士さんを紹介してあげるわ」
「いいですよ、ひとりでやります」
「本当のとこ、つまらない女につきまとわれ、手が切れないんじゃないの。それだったら、あたしが代りに話をつけてあげるわ。あなたは切り出しにくいでしょうから」
「そんな女なんか、いませんよ」
青年はますますうんざりした。つきまとう変な女とは、このことではないか。美江はせわをやくことに快感をおぼえるらしく、なんとか手伝おうとする。いいかげんにあしらおうとすればするほど、逆に深みに引き込まれてゆくようだった。
美江は笑いながら言う。
「それとも、あなた、京子さんよりあたしのほうが好きになったんじゃないの。そうだったら、ちょっとことね」
「とんでもない……」
美江の来訪がなく、青年がきょうはぶじにすんだようだなと帰りかけた日、自宅のそばの道の途中で、京子がしょんぼりと待っていた。彼は言う。
「こんなところへ、なにしに来たんだ」
「あなたにお会いしたくて。ひとりでいると、いてもたってもいられなくなるの」
「こっちは迷惑なんだよ」
「会社へうかがってはお仕事のじゃまになると思って、ここで待ってたのよ。お話しできてうれしかったわ」
「ねえ、帰ってくれよ」
青年が強く言うと、京子はすなおに、さびしそうに帰って行く。かわいそうな気にもなるが、こっちの知ったことではないのだ。しかし、三日ほどたつと、また彼女が待っている。近所の話題になっても困る。引越したい思いだったが、どこへ越しても同じことだろう。なんとかしなければならない。断固として終止符を打たなければ、人生の前途に黒い幕がおりてしまう。
彼は決心し、近くの警察に行った。もっと早くそうすべきだったのかもしれない。このたちの悪いいたずらの元凶をつきとめ、なんとかしてもらうべきなのだ。
警察はいちおう青年の話を聞いてくれた。しかし、どこまで信じてくれたかは疑わしかった。訴えとは一方的なものなのだと思いこんでいる。この忙しいのにと言いたげだ。
京子を警察へ連れてゆくと、彼女はおどおどしていた。刑事らしい人が彼女に質問をしている。京子はめそめそと泣き、ぽつりぽつりと答えている。あの妄想を話しているのだろう。遠くから見ていて、青年はこっちに有利に展開しそうもないなと思った。
はたして、刑事は青年にこう言った。これは警察の介入すべきことではないようです。犯罪にならない。早くいえば恋愛のもつれでしょう。女があなたをおどしたのなら問題ですが、そうでもない。お二人でよく話しあうことですよ。警察は事件で手一杯なのです。愛しあったのが事実かどうかまで、調査のしようがありません。あなたのおっしゃる通りにでたらめなら、精神病院の分野のほうでしょう。
こんなことがあっても、京子はあい変らず帰り道にあらわれた。警察の件も気にしていない。青年を記憶喪失と思っているのなら、内心では同情し、それも仕方ないと甘受するわけだろう。彼は言った。
「すまないが、いっしょに病院へ行ってもらえないか。どうもなっとくできない」
「ええ、あなたのためになるんでしたら、あたし、どこへでも行くわ」
そして、神経科の病院へ連れていった。しかし、診断の結果は、京子は正常だとのことだった。パラノイアの傾向もない。となると、おれのほうがおかしいのだろうか。しかし、そんなことはありえないはずだ。
青年は思いあまって、知りあいの弁護士に相談にいった。
「なにもかも打ち明けてたのむんだが、困ってるんだ。社長の娘との縁談が進行中なのだが、へんな女たちにつきまとわれてね。まったく身に覚えのないことでね……」
彼は事情をくわしく話した。弁護士は言う。
「事実とすれば、なにかくさいところがあるな。巧妙な恐喝のような感じもする。いいカモと目をつけられたのかもしれないぞ。なにか金の要求でもにおわしたか。その尻尾をつかまえたいものだ」
「いや、金のことはなにも言っていない。それどころか、ともかせぎでみついでくれるようなことを言っている」
「なるほど、じらしたあげく、ごそっと要求するつもりなのかもしれないな。少しようすを見てみよう」
「そんなひまがないんだよ。縁談のほうにさしつかえる。あせっているんだ」
「そうだったな。しかし、縁談の件をむこうに話してないのはいいことだ。弱みにつけこまれ、要求される金額が高くなる。では、わたしが京子と美江とに会ってみよう。ばけの皮がはげるだろう」
「ありがたい。たのむよ」
青年は期待したが、その結果もいいものではなかった。弁護士はこう報告した。
「手のつけようがないよ。いくらほしいんだと切り出しても、金などいらないという。婚約不履行で訴えるのかと聞いても、決してそんなつもりはないという。愛情の問題だ。これでは弁護士の出る幕じゃない」
「しかしね、ぼくが京子と愛しあったなんて、でたらめなんだ」
「その立証ができないんだよ。京子の日記というのを見せてもらった。それには、きみへの思いが書きつらねてあった。あんなものが法廷に出ると、みっともないよ。それに美江という証人もいる。これはわたしの感想だがね、あの京子さんて、古風でいい人じゃないか。きみにとっては社長の娘さんと結婚したほうが有利であり、その気持ちはわかるかね」
「そうじゃないんだ……」
弁護士までなにか誤解している。しかし、青年がいくら叫んでも、法的に相手を押さえつけるのは困難のようだった。かりに法廷に持ちこんだところで、こっちにいいことはひとつもない。京子という女は、妙に他人の同情をひく才能を持っているようだ。裁判官の心証だって、むこうに傾くかもしれない。第一、表ざたにしたらなにもかも終りなのだ。
青年の毎日は、一段と苦痛にみちたものとなっていった。眠りも浅くなり、疲れも出る。ノイローゼの状態だった。それは部長の目にもとまる。
「なにか元気がないようだぜ」
「いいえ、大丈夫です」
部長に事情を話すことはできない。部長としては青年と社長への義理とをはかりにかけた場合、後者をとらざるをえないだろう。また、京子と美江との処理をうまくやってくれそうにも思えない。
青年は転勤を申し出たい気分だった。地方の支店へでも行きたい。社内での彼の評価からみて、海外への駐在も申し出ればみとめられるだろう。だが、そうしてみても、思いつめた京子が追いかけてくるかもしれない。それに、転勤には亜矢子との縁談をあきらめねばならないのだ。
亜矢子との縁談をじゃましようという、だれかの陰謀なのかなとも思ってみる。しかし、この縁談を知っている者はあまりいないはずだ。部長だって不成立を願っているわけではないだろう。また、じゃまするといっても、社内にそれらしいライバルも思い当らなかった。こう手のこんだ芝居を演出する才能の主はいそうにない。金だってけっこうかかっているはずだ。
休日にも青年はあまりのんびりはできなかった。京子が近くでじっと待っているのかもしれぬと考えると、外出する気にもならなかった。
家でぼんやりしていると、訪問者があった。こわごわドアをあけると、三十歳ぐらいの女性。こうあいさつをした。
「あたし女医ですの。お友だちの京子さんから、お話をおうかがいしましたわ。あなた、ちょっとした記憶喪失があるんですってね。あたし、そのほうの専門なの。早くよくなるよう、お手伝いさせていただくわ」
「ご好意はありがたいが、記憶喪失なんかじゃありませんよ」
青年は、ことわったが、女医は入ってきた。
「でも、なにか目の動きに落着きがございませんわ。失われたものを無意識に追い求めているような感じで……」
「それは眠れないせいですよ。むちゃくちゃな話だ。ひどい。みなで寄ってたかって、ぼくを気ちがいにしようとしている。なんのための陰謀なんです。いったい、ぼくになんのうらみがあるんです」
わめく青年に、女医は冷静に言った。
「陰謀だなんて、被害妄想のようなところがございますわ。あなたのようなかたをうらむ人なんて、世の中にはいません。あなたのためにと思って、あたしたち心配しているんですのよ」
「ぼくのためなら、ほっといてくれればいいんだ。ひとりにしてくれ」
「他人を排除し、自己のまわりに殻を作り、孤独への欲求が強い。それはいそがしすぎ、働きすぎのせいですわ。なにか口に言えない悩みごとがおありのようね。それをおっしゃってみたら……」
「ありませんよ……」
亜矢子との縁談の件を、京子の一味にむかって言うわけにはいかない。
「またそのうち、うかがうわ。いい鎮静剤があるの、これをお飲みなさいよ……」
女医は薬のびんをおいていった。しかし、青年はあとでそれを捨てた。なんの薬だかわかったものじゃない。へたに飲んだりしたら、京子と愛しあった事実をみとめる気分になってしまうかもしれない。
青年は、やわらかなもので四方からじわじわとしめつけられているような形だった。そのあいまに、亜矢子とのデイトも重ねなければならない。これは絶対にしくじってはいけないことなのだ。ぼろを出すと、なにもかも終り。亜矢子の冗談にあわせて笑わなければならない。心からの笑いを浮かべて。
依然として会社には時どき美江がたずねてくるし、帰り道には京子が待っていたりする。休日になると女医がやってくる。彼女たちがどこかに集まり、ひそひそと打合せをし、情報を交換し、こっちへの作戦を進めている光景を想像すると、まさに悪夢のようだ。青年は本当に気も狂いそうな身ぶるいを感じる。
それに、どういうつもりなのか、まったくわからないのだ。いったい、なんのためなのだ。なぜ、こんなはめになったのだ。
やつらが男性だったらなあと思う。男ならこんな軟体動物のようなことはしないだろう。言葉のいきちがいから、かっとなってなぐりあうこともあるだろうが、そのあとでなっとくしあえる結論になり、おたがいに忘れあうことだってできるのだが。
女たちの武器は手ごわいものばかり。うらめしげな目つき、涙ぐんだ声、めそめそ、おせっかい、せわ焼き、おしゃべり、図々しさ。対抗しにくいものばかりだ。
こうなったらやけくそだ。京子を訪れて、本当にベッドで愛しあい、美江を誘惑し、ここにやってきた時に女医と強引に関係する。青年はそんな空想をし、どんなにかさっぱりするだろうなと思う。だが、実行はできないのだ。これ以上さわぎが大きくなったら、亜矢子との縁談は絶望的となる。身動きのとれない状態だった。
いらいらは重なり、気力はおとろえ、書類を見ても頭に入らない。会社では、仕事を片づけるために残業をしなければならなかった。
電話が鳴る。彼は受話器をとる。女の声。
「あたしよ。そちらにいらっしゃるのかと思って、お電話してみたの……」
彼はどなる。当然のことだ。
「いいかげんにしてくれ。ほっといてくれ。消えてなくなってしまえ。ばか女め」
「まあ、なんてことおっしゃるの。あたし亜矢子よ。そんな口のききかたされるなんて、きらいよ……」
電話は切れた。あっと思ったが、もはやまにあわない。誤解です、いちおう事情を聞いて下さいと言おうとしたが、電話はとりついでもらえなかった。二度と口をききたくないと思っているのだろう。事情があるのなら、なぜ前に打ち明けてくれなかったのかと怒っているのだろう。
幕がおりてしまったのだ。青年は三日ほど無断で会社を休んだ。出勤する気にもなれない。どうにでもなれだ。
心配してたずねてきた部長に、彼はいきさつを話した。どこまで信じてくれたかはわからないが、会社にいづらくなった点だけは理解してくれた。部長は青年の才能を買っており、知人の会社に責任をもって就職の紹介をしてあげると約束した。それに従う以外にないだろう。
なにもかも新規まきなおしだ。青年がそうあきらめると、京子のことが心のなかに浮かびあがってくる。なにかのまちがいなのだろうが、こうまで思いつめてくれた女だ。たしかに純情で、このドライな世に珍しい存在かもしれない。
結婚するしないはべつとして、こんな時に話しあうと、気分がなぐさめられるかもしれない。会いにいってみようかな。
青年はいつか行ったマンションを訪れた。京子の室のベルを押そうとし、住人の標札の名が変っているのに気づいた。管理人室で聞くと、越していったという。となりの美江もそうだった。ふたりとも越した先はわからないという。
京子と美江と女医とは、豪華な邸の応接間のソファーにかけていた。テーブルをあいだにした反対側には、亜矢子とその母親、つまり社長夫人がいる。ここは社長の邸宅なのだ。社長夫人が言った。どんなことにもあわてることのない、貫録のある中年の婦人。
「ごくろうさまでした。みなさんには、ほんとうにお手数をかけましたわ。あの青年、もう少しみこみがあるかと思ったけど、失格となったようね。まじめで仕事熱心の点はたしかだけど、新しい事態に対処する能力がまるで欠けているわ。ただ、おろおろするだけでしたね」
京子が口を出した。
「でも、あたし気の毒でならなかったわ。会社にもいにくくなってしまったわけでしょ。ああまでテストしなくてもと……」
「そんな人情に負けてはいけません。企業の維持とは冷酷なものです。あたしがいまの主人と結婚する時、つまり会社をまかせる養子をきめる時ですけど、これと同じようなテストをして、あの人が合格して残ったのです。いまの社長のことよ。だからこそ、充実した一流企業としていままでつづいているわけです。亜矢子だってそうするのです。一時の愛情に溺れて企業が倒産してはいやでしょう」
亜矢子は笑いながら言った。品のいい明るい笑い声とともに。
「それはそうよ。会社がつぶれてお金がなくなったら、どうしようもないわ。まっぴらね、そんなことは」
社長夫人は京子と美江と女医とに封筒を渡しながら言った。
「最初のお約束どおり、みなさんに充分な謝礼をお払いします。はい、これがお金。それから、ごくろうですけど、さっそくつぎのテストにかかっていただきたいの。この写真の青年。経歴書はこれ、そして住所は……」
ねずみ小僧六世
第一日。
花咲き、鳥歌い、澄んだ水のなかでは美しい魚が泳ぎ、気温はほどよく、やわらかな音楽がどこからともなく流れてくる。といって、春の野辺のことでも極楽のことでもない。
ここは街なかの、ある銀行。新築されたばかりの建物なので、なにもかもスマートで上品で光っていた。花が適当な位置に飾られ、隅には小鳥を入れた|籠《かご》があり、派手な色彩の熱帯魚の水槽もあった。冷暖房完備で、窓口の女の子たちは微笑をもって客を迎える。
中央の奥寄りのところに大きく立派な机があり、支店長の席だった。彼は背の高いやせた男で、身だしなみがよかった。典型的な銀行員のタイプである。ちょっと神経質そうな感じがした。一銭もおろそかにできない業務の責任者ともなると、のんびりした気分にもなれないのであろう。
開店時間からしばらくたった頃、窓口の女の子が机のそばへ来て言った。
「あの、お客様がご面会したいとか……」
「ここへご案内しなさい」
支店長は軽く答えた。この商売はいつもあいそよくしなければならない。腹のなかでは面白くなくても、表面だけはにこやかに努めなければならないのだ。それに、この席は見通しであり、来客中との口実も居留守も使えない。
やがて、案内されて一人の男がやってきた。五十歳ぐらいで、身なりは悪くなく、ちょっとふとっていた。品のいい業種の中小企業の経営者といったところだろうか。支店長は推察した。
「まあ、どうぞ、おかけ下さい」
こう声をかけて椅子をすすめ、女の子にお茶を運ぶよう合図した。しかし、男は立ったままあたりを見まわしている。なにかにおびえているような、警戒心にあふれた動作だった。ただならぬ感じがしないでもない。また、手に持った大きなふろしき包みを気にしている。なかは大きな箱のようだ。
「どんなご用件でしょう」
ふたたび支店長にうながされ、男はわれにかえったように頭を下げた。だが、そばの椅子にはすわろうとせず、顔を近づけて小声でささやいた。
「内密で重要なお願いがあるのです。ひとに見られない部屋がありましたら……」
「では、応接室のほうへ……」
支店長はさきに立って案内しながら、ちょっと|眉《まゆ》をひそめた。なんとなく妙な客だ。多忙とか会議を理由に部下に押しつけようかとも思った。だが、その重大な話とやらを聞いてみたい気もした。聞いてみてくだらなければ、いんぎんにお帰り願えばいい。それはなれている。応接室に入りドアを閉め、支店長は言った。
「さあ、ここなら大丈夫です」
「のぞかれるとか、盗み聞きされるようなことは……」
「そんなことがあっては、銀行の信用にかかわります。ご心配なく」
男はやっと安心したらしく、やっと普通の口調になり、名刺を出してあいさつした。
「私はこういうもので、機械関係の商事会社をやっております。こちらの銀行とも取引きさせていただいております」
「それはそれは、ありがとうございます。当行といたしましては、お客様本位、サービス第一の方針でございます。今後ともご利用のほどを……」
支店長はきまり文句を口にし、話のつづきを待った。
「じつは、申しあげにくいことで……」
「どうぞ、ご遠慮なく。当行にできることでしたら、ご相談に応じましょう」
「順序をたててお話しいたします。数日前、私のところへ脅迫状がとどきました」
「それでしたら、警察へいらっしゃるべきでしょう」
支店長はいやな気分になった。銀行は犯罪関係には極度に敏感で臆病だ。しかし、男はかまわずにポケットから手紙を出し、机の上にひろげた。恐怖のためか手がふるえており、声もまた同様だった。
「こんな文面なのです」
この種のものには、だれしものぞいてみたい誘惑を感じる。文面はこうだった。
〈拝啓。いいお天気でございます。さて私、本日の夜、そちらの会社から電話機を一台、盗み出してごらんに入れる予定でございます。ねずみ小僧六世〉
読み終った支店長は、複雑きわまる表情になった。噴き出したいのだが、銀行員として許されないことだ。といって、黙ったままでは、ますます変な気分になってくる。それに、見せられたからには、意見ぐらい述べなければならない。彼はまじめな口調で言った。
「このような子供のいたずらは、当行とは関係がないと思いますが……」
「まあ、もう少しお聞き下さい。その予告の夜、本当に電話機が盗まれました。そして、つぎの日また手紙が来ました。こんどは花瓶を盗むという予告です」
「むかし読んだ少年探偵団の物語に、そんなのがあったようですな」
支店長は当惑した。相手は時間つぶしに来たのだろうか。あるいは、頭がおかしいのかもしれない。しかし、話の先を聞きたくもなる。男は言った。
「もちろん、私もばかばかしいと思いました。しかし、気になります。いちおう警察にとどけ、パトロールの巡査にそれとなく注意してもらうようたのみ、社の警備員にも念を押し、私自身も当夜は宿直しました。それなのに、やはり盗まれました」
「どうやって盗み出したのでしょう」
「いくら調べてもわかりません。こうなると、ねずみ小僧六世というのも本当かもしれません。あまりにもあざやかでしょう」
「そういえば、この手紙の文字は上品ですな。名のある家柄の子孫といった印象を受けます」
「そんなことに感心なさっては困ります。私の気持ちにもなって下さい」
「だが、被害は|僅少《きんしょう》だったのでしょう」
「ええ、それはそうですが、問題はこれからです。けさになって、また手紙が来ました。こんどの指定は大変な品です」
「なんです」
「設計図です。精密で複雑で高価な機械の設計図です。ある大会社に納入する品で、秘密を要する貴重なものです。これを盗まれたら、社の信用が丸つぶれです」
男はおろおろ声で、ふろしき包みを胸に抱えた。それが図面らしい。だが、こう泣きつかれても、支店長としては紋切り型の答しかできない。
「やはり警察へご相談すべきでしょう」
「さっそく行ったのですが、どうもたよりなく、真剣さがありません。このねずみ小僧六世という署名のせいです。にやにや笑うばかり。敵もそれを計算に入れているのかもしれません。実際に盗難にあえば乗り出してくれるのでしょうが、この程度ではだめのようです」
「そうでしょうね。街のチンピラに覚えていろと言われたからといって、その人を保護しつづけるわけにもいかないでしょう。また、被害妄想の人につきっきりでいなければならなくなります。なかには、自分で脅迫状を出し、警察を門番がわりにやとおうと考え出す人も……」
「冗談じゃありません。私はそんなことはしませんし、するわけがないでしょう。警察で粘っていると、署長さんがこちらへの紹介の名刺を書いてくれました」
男はポケットからそれを出した。支店長はそれを手にしてながめた。本物のようだし、電話でたしかめれば真偽はわかる。
「それを早くお出し下されば……」
「しかし、順序だててお話ししたほうがいいと考えたからです。署長さんのお話では、こちらの金庫室は完全無欠だとかで……」
「新築|披《ひ》|露《ろう》の時、署長さんに特にお見せしたので覚えておいでなのでしょう。自慢するわけではありませんが、これだけは自信があります。なにしろ必要以上に念を入れて作りました。銀行の金庫室は人間の心臓にも相当するという考え方からです。外国|諜報部《ちょうほうぶ》の本部には及ばないかもしれませんが、民間のものとしては世界で最高と申せましょう。これだけのものは、よそさまの銀行には……」
「そこでお願いです。一晩でけっこうですから、設計図を保管していただけませんか」
支店長はしばらく考えてから、うなずいた。
「けっこうです。預金者サービスの保護預りとして、私の一存で取りはからいましょう。署長さんの紹介でもあります。長期間となると困りますが、一晩だけなら……」
「助かりました」
男はほっと息をつき、百万の味方を得た表情になった。こうたよりにされると、支店長はさらに得意になった。
「この金庫のすばらしさについては、関係者のあいだで評判です。犯罪者たちのなかではこの金庫室に侵入できたら泥棒界のチャンピオンだ、とささやかれているそうです。当行の宣伝になるようなうわさです。いかにねずみ小僧六世でも、手の出せるわけがありません。金庫室の評判に一段とはくがつくだけです」
「そんなに万全なのですか」
男の声には、心配げな響きが少し残っていた。だが、支店長はそれを一笑に付すように説明した。
「まず、定時にならないと絶対に開かない時間錠がついています。周囲は特殊金属でできていて、どんな衝撃にも耐えられます。地下に穴を掘って侵入する映画がよくありますが、これは突破できません。ドリルや高熱ガスはもちろん、ダイナマイトでもびくともしません。小型原爆でも大丈夫とかいう話です。たとえ水爆戦がおこっても、当行の預金者だけは絶対に損害を受けません」
「しかし、薬品でとかせば……」
「それには五種の薬品を使い一週間はかかるそうです。第一、不審な者が近づいただけで警報が鳴ります。警報器に故障がおこれば警報が鳴ります。その警報器がこわれた時、停電の時には、自動的に扉が閉り、決して開きません……」
支店長はあらゆる場合への対策をそなえた設備であると強調した。男は全面的に信頼した声になった。
「わかりました。ぜひお願いします。この箱に入っています。秘密の図面ですが、支店長さんにはお見せしましょう」
男はふろしきをとき、ボール紙の箱を出し、ふたをとった。細かい図面の青写真が見えた。男がその説明をはじめようとするのを、支店長は制した。
「拝見しても私にはわかりません。それより、箱に封印をなさって下さい」
「この銀行のなかに、ねずみ小僧の手先がいる可能性でも……」
「とんでもありません。あとで一部なくなっていたなどとおっしゃられては困るからですよ」
男はその提案に従った。ポケットから紙と印とを出し、銀行のノリと朱肉を借りて支店長の指示で、箱の各所に封印をした。それを手伝いながら、支店長は箱を持ってみた。紙がつまっている感触と重みとがした。仕事が終ってから男は言った。
「よろしくお願いします。で、その金庫室をちょっと見せていただけませんか」
「それは困ります。安全のために、特定の者以外は近づけない規則にもなっています。私と当行とをご信用下さい」
支店長は銀行の名誉に賭けて断言し、預り証を書いて渡した。
「では、おまかせいたします。おかげで安眠できるでしょう。ありがとうございます」
男は胸をなでおろすように言い、帰っていった。あまり安心したためか、ねずみ小僧の脅迫状とやらも置き忘れていった。支店長はしばらくきつねにつままれたような顔をしていたが、やがてベルを押して部下を呼び、問題の品を金庫室に運ばせた。直接に利益になることではないが、サービスであり、また話の種にもなるというものだ。
第二日。
つぎの日の昼ちかい時刻、男はまた支店長の席にあらわれ、あいさつした。
「昨日はまことにお手数をかけました」
「いえ、それぐらいはサービスです。で、いかがでしたか」
「手もとにないのですから、とられるわけがありません」
「それはそうでしょうな。当行の金庫室の品は絶対に大丈夫です。さっそく、出してきてお渡しいたしましょう」
「それが、じつは……」
男は元気のない声だった。そういえば、昨日はあんなに元気な足どりで帰っていったのに、いまは弱りきっている。
「どうかなさいましたか」
「けさになって、また手紙が来ました。これです」
男はポケットから出した。支店長は昨日のつづきなので、興味をそそられた。読んでみると、こう書いてある。
〈拝啓。銀行の金庫室へ預けるとは、|卑怯《ひきょう》な行為でございましょう。思い知らせるため、こんどは機械そのものを盗んでごらんに入れる。ねずみ小僧六世〉
やはり昨日と同じ風格のある筆跡だった。論理の乱れは仕方ない。なにしろ相手は泥棒なのだ。支店長は首をかしげた。
「どこまで本当で、どこまで冗談なのか、私にはわからなくなってしまいました」
「しかし、私にとってはただごとではありません。機械を盗まれたら、私の社は倒産です」
男は泣かんばかりであり、支店長は持てあました。
「それは警察の問題ですよ」
「行ってたのんだのですが、やはりたよりない感じです。昨夜図面が盗まれたという実績があればべつなのでしょうが……」
「しかし、といって当行としても……」
「お願いです。あと一日だけでけっこうです。設計図とともに機械を置かして下さい。大きなものではありませんから」
「本当に一日だけなのですか」
「本当です。明日になれば機械と設計図とを納入し、それで一切の責任はなくなるわけです」
男は書類を出した。大会社との契約書で、納入期日は明日になっている。
「しかし、こうなると私の一存ではお答えできません。本店の了解を得てからです」
支店長は電話をかけ、要点を伝えた。もっとも、ねずみ小僧六世の件は省略した。話がややこしくなるばかりだ。そして、支障がないと判断できれば応じてもいいとの了解をとった。
「いいでしょう。例外的にみとめましょう。ただし、一日だけですよ。明朝には必ずお引取り願います」
「あ、ありがとうごさいます。なんとお礼を申していいかわからないほどです。あとで持って参ります」
男の帰ったあと、支店長は警察へ電話をしてみた。署長は話をみとめ、そうしてもらえれば警察も助かると答えた。支店長は念のため、さっきの契約書の相手会社へも電話した。担当の者は精密機械納入の件を裏付けた。これなら、べつに問題もなさそうだ。
三時少し前、男は社員らしい者に手伝わせ、その品を運んできた。大きな旅行かばんを二つ重ねたぐらいの大きさで、銀色の金属製の箱だった。ダイヤル錠と鍵穴がついている。貴重な機械の容器ともなると、こうも堅固にしたくなるのだろうか。
支店長は目を丸くし、扉にさわってみた。もちろんびくともしない。
「丈夫そうないれものですね」
「ええ、なにしろ大切な機械ですから」
「当方もていねいに取扱いましょう。しかし、くどいようですが、明朝はぜひ取りに来ていただきたいと思います」
「必ずそういたします。それから、よろしければ今夜、私もこの銀行の警備に参加いたしたいのですが……」
「お気持ちはわかりますが、かえって統制がとりにくくなります。安全の点は決してご心配いりません」
「それでは、なにぶんよろしく……」
男は頭をさげた。支店長はすぐ部下に命じ、金庫室へと運ばせた。
第三日。
開店時間をすぎてまもなく、男は社員をつれてやってきた。
「本当にお礼の申しようもありません。おかげで難をまぬかれました。ねずみ小僧も手が出ませんでした。助かりました」
男はあらゆる謝辞を並べたてた。支店長はうなずいた。
「当然のことです。で、お持ち帰りになるのでしょうね」
「もちろんです。さっそく出していただきます」
二つの品が運ばれてきた。設計図の箱の封印は完全だったし、機械の箱はこじ開けようとしたあともない。男は確認した。
「ダイヤルの番号も、お預けした時のまま、だれも手を触れた形跡もありません。さすがは銀行の金庫室です。謝礼のほうはいくらでもお払いいたします」
「いえいえ、サービスです。今後とも、せいぜい当行をごひいきに……」
「それでは……」
男はまたお礼文句をくりかえし、二つの品を運んで帰っていった。
そして、自分の社の部屋に入ると、ダイヤルを回して扉を開いた。なかから出てきた小柄な青年に、男は感嘆の声で話しかけた。
「さすがはねずみ小僧六世。あなたの指示どおりやり、なにもかも成功しました。いかに精密な人工頭脳よりも、あなたの天然頭脳のほうがすばらしい……」
しかし、ネズミ色のセーター姿のねずみ小僧六世は、のびをして言った。
「なにはさておき、まずトイレだ。水が飲みたい。腹がへった。タバコも吸いたい……」
それが一段落し人心地がついてから言った。
「金庫室の扉の閉じるのの待ち遠しいことといったらなかった。鍵穴を通しての呼吸も、練習したとはいえ楽でなかった。しかし、扉が閉じてからあとは簡単。内側から鍵をはずして箱から出れば、札束は取りほうだい。設計図と称する箱のなかの紙の束と、札束とを入れかえるだけでいい。つめ終ってから青写真を上にのせ、封印をやりなおした」
「居心地はどうでした」
「広い金庫室なので、呼吸の心配はなかった。しかし、退屈なのには参ったな。それと、へたに眠れないことだ。扉の開く寸前に箱に戻らなければならないのだから。その程度だ。銀行員たちはていねいに扱ってくれて、痛さは味わわなくて助かった」
「しかし、それだけのことはありましたよ」
男はこう言い、設計図の箱のほうを開けた。高額紙幣がぎっしりつまっている。だが、ねずみ小僧六世はあまり関心がなさそうな口調だった。
「こんなことは私にとって朝飯前だ」
しかし、男は興奮がおさまると、気になったような声を出した。
「しかし、私はどうなるのでしょう。共犯でつかまるのではないでしょうか」
「こんな方法とは気がつかないだろうし、つかまるにも証拠がないではないか。本物の機械と設計図のほうは、現実にきょう納入するのだろう。それに、銀行もあの金庫室から盗まれたとなると信用上発表もできない。訴えたとしても、署長の紹介となると、警察の威信にかかわる。銀行も警察もたよりにならないというニュースが流れると、社会が混乱してしまう。なんなら私が自首してみようか。口止め料として、いくらかくれるかもしれない」
男はため息をつきながら、ねずみ小僧六世の顔と札束の山とを見くらべた。そして、ふと思いついたようにつぶやいた。
「それにしても、あの支店長は気の毒ですね。開店そうそうのサービス熱心のあまり、こんなことになった。わけのわからないうちに、大金が金庫室から消えてしまった。神経質そうなところのある人でしたから、責任を感じて首でもつるかもしれません。気の毒なものです」
「よし、では、この金をそっと支店長にとどけてこよう。早くやれば、そんな不幸を食いとめるのにまにあうだろう」
ねずみ小僧の意見に、男は驚いた。
「なんですって。本気ですか」
「本気だ。祖先から伝わる性格だからしようがない。気の毒な人という言葉を聞くと、反射的に金を恵まずにはいられなくなってしまうのだ。これから、ちょっと行ってくる。盗むのとちがって、ひそかに恵むほうは簡単だ」
そして、札束を新聞紙にくるみ、気軽に立ちあがった。そのうしろ姿にむかって、男は尊敬の念をこめた声をかけた。
「さすがはねずみ小僧六世。ご立派な精神です。お手伝いさせていただいた私も、なんだかすがすがしい気分になってきました」
キューピッド
その青年はフリーのカメラマンだった。独身できままな日常だったが、いいかげんな生活ではなかった。いい作品をものにしたいとの意欲に燃え、それが万事に優先していた。仕事が一段落した時にはバーに行って酒を飲むのが楽しみだった。ほどよい酔いは神経の疲れをもみほぐし、新しい活力をもたらしてくれる。
その日の夕ぐれも、青年は一軒のバーにいた。はじめて入った店だった。繁華街からはなれた静かな裏通り。たまにはこのようなところで飲むのもいいなと思い、また店のつくりがしゃれていて、そんなことが気をひかれた理由だった。なかでは数人のお客が、それぞれ品よく飲んでいた。
青年は奥のほうの椅子にかけ、グラスを重ねた。そして、つぶやくのだった。いい作品をとりたいものだな。いい被写体にめぐりあって、存分にシャッターを押してみたい。人びとがあっというようなものを作りあげてみたい……。
いいことが近づいてくるようなけはいを感じた。もう少し酔おうかな。青年はからになったグラスをバーテンに押しやろうとしたが、その手をとめた。とまってしまったのだ。彼の目は一点にむかって静止した。入口にちかいカウンターの席に。
そこにはひとりの女がいた。若い女だった。さっきまでいなかったのだから、ほんのいましがた入ってきたのだろう。赤みがかったカクテルのグラスを口に運ぼうとしていた。二十歳をちょっとすぎたぐらいの年齢だろうか。
青年の目は彼女に吸いつけられ、つづけざまに何回もまばたきをした。連続してシャッターが切られているような感じだった。事実、彼は心のなかのフィルムに、その姿を鮮明に残そうとしていたのだ。これなのだ。彼は自分に言いきかせていた。これなのだ、さがしつづけていた被写体は……。
美しくはあったが、とびきりの美人というわけではなかった。美しいだけの女なら、いくらでもある。プロのモデルなどがそうだ。整形美容と化粧技術とで、かなりのところまで作りあげることができる。
しかし、いまカクテルを口にしているその女には、美しさ以上に重要なものがあった。表情。心の底からこみあげ、顔からあふれだしている表情。それがあったのだ。そしてその表情の示すものは、恋。
恋そのものがそこにあった。なんの説明もいらない。咲きかけの花、暗やみにただよう香水のかおり、月光の噴水、ほのかな雨。火のようで、波のようで、やわらかく強く、やさしく苦しく、美しく緊張して、はげしさといらだちが……。
どちらかといえば地味な服装が、女の表情をいっそうきわだたせていた。目がうるんでいる。押えようとしている息づかいさえも、はっきりこちらに伝わってくるようだ。
青年はまぶしげに目をつぶった。普通だったら、彼女がああも熱烈に恋をしている男性はどんな相手だろうと想像するところだろうが、この青年の場合はちがう。どう作品にしあげるかを確認する気分だった。いや、確認もなにもない。もうすでに完成しているではないか。あとは人びとから賞賛の声をあびるだけだ。それが目に見えるようだった。
最も原始的で、いつも新鮮な感情、恋。それを完全に表現し、とらえた写真。国内のみならず世界中で評判になるだろう。
青年はふたたび目をあけた。しかし、女の姿はさっきの席から消えていた。見まわしてみたが、店のなかにもいない。幻覚だったのだろうかと、青年は思った。こころよい酔いのうみだした一瞬の夢だったのだろうか。あんなにさっと飲んで出てゆく女客など、ありえないんじゃないだろうか。待合せの時間を思い出したのだろうか。いやいや、いかに恋に|呆《ぼう》|然《ぜん》としていても、その恋人の待合せの時間を忘れるなどということはないだろう。
青年は残念がった。画家だったら、いまのイメージを絵にすることができるだろう。しかし、カメラマンとなるとそうはいかないのだ。彼はくやしがり、やけぎみになってさらに酒を飲んだ。
あれは幻覚だったのだと思いこもうとしても、なかなかあきらめきれるものではない。つぎの日、青年はなにも手がつかずむだに時間をすごしたあげく、夕方にまたそのバーを訪れた。幻覚でもいい、もう一回だけ見たいものだと。
そして、また見ることができたのだ。恋の表情を持つあの女を。女が入ってくるのには気がつかなかった。ふと目をやると、このあいだのように、いつのまにかそこに出現していたのだ。
こんどは見のがさないぞ。煙のごとく消えるのかどうか、たしかめてやる。青年は見つめつづけた。グラスに口もつけず、タバコに火をつけるのもやめて。目をそらせたすきに消えてしまうかもしれないのだ。
女の表情はすばらしかった。恋のすべてがそこから発散している。それはいきいきとしたメロディとなって、空気を限りなくふるわせつづけているようだ。しかも、しだいに強く、はげしくなり……。
女はカクテルを飲み終った。そして、しとやかだがすばやく立ちあがり、金をおき、ドアから出ていった。つばめが風をくぐって飛び去っていったという感じだった。あ、出ていった。青年は頭の片すみでそう思った。バーテンが金をしまい、グラスを片づけている。とすると、幻覚ではない、現実の女だったのだ。
しかし、そう気づいた時には、もはや追いかけてもむだなほどの時間がたっていた。青年は立ちあがるのをやめ、酒の注文をしながらバーテンに聞いてみた。
「いまの女の人、どういう人なんでしょうか」
「さあ、なんとも申しあげられませんね。お客さんのせんさくはしないことにしております。しかも、いつもひとり。お客さんどうしの会話から推察することもできませんしね」
「ここにはよく来るんですか」
「時どきですね。しかし、カクテル一杯ですぐお帰りになってしまいます。ですから、ほかの男のお客さんも、話しかけるひまがない。それに、なんだかすごい恋人がいそうな感じでしょう。とても割り込めそうもないと、みなさん、ためらってしまうんですねえ。考えてみると、ふしぎな女の人ですよ」
その話で、青年は元気づいた。やはり実在の女なのだ。写真をとらせてもらうことはできるだろう。その交渉には彼も自信があった。商売柄なれていることでもある。べつに服をぬいでもらうこともない。表情だけとらせてもらえばいいのだ。また、恋の相手になってくれというわけでもない。なんだったら、相手の男性の了解を求めてもいい。簡単なことだし、順調に進むにちがいない。
それから三日ほど青年はバーにかよったが、女にあうことはできなかった。もうあえないのではないかとの不安。しかし、待ちつづけるうちに、また女があらわれた。人の心を迷わせる夕ぐれの空気が凝縮し、バーのドアから形となって入ってきたかのようだ。女はカクテルを注文する。青年はそばの席に移った。近くで見ると、印象はさらに強かった。恋はまつげの一本々々の先にやどり、白い歯の表面に結晶し、口もとにも、髪の毛にも、いたるところに恋がひそんでいるかのようだ。
どう話しかけたものかと、彼はためらった。いざとなると、うまく言えない。だが、急がなくては。時間はあまりないのだ。見つめてばかりいるわけにはいかない。ためらったあげく、彼はやっと言った。だが、はっきりした言葉にはならなかった。
「あのう……」
「なんでしょうか」
女はカクテルを半分ほど飲み、こちらをむいた。なにか遠くを見つめているような目つきだった。恋に燃えている目つきだ。青年はそう思い、また時間が少し流れた。
「ぼくはカメラマンです。こんなことをお聞きするのは失礼なんでしょうが、あなたはどんなお仕事を……」
「あたし、あたしは恋の女神……」
女は言った。答えるのがめんどくさそうな、あっさりした口調だった。しかし、その言葉に青年は驚いた。こっちがつぎに言おうとしていたおせじの文句を、さきに言われてしまったからだ。彼はうなずく。そう。そうとしか言いようがないではないか。恋の女神。
「あたし、もう行かなくては……」
女は金を払い、いつものようにすばやく出ていった。またも青年はあとを追いそこねた。恋の女神という言葉を、あれこれ考えていたのだ。結婚を受付ける役所の窓口の係だろうか。デパートの異性へのおくりものコーナーにでもつとめているのだろうか。それとも恋愛のカウンセラーかなにかだろうか。しかし、どうもちがうようだ。そんな職業に恋の表情は必要ない。では、なんなのだろう……。
いや、そんなことはどうでもいいのだ。問題はカメラの前に立ってもらえるかどうかなのだ。いやいや、ぜがひでも立たせなくてはいけないのだ。このつぎには必ずそうしてみせる。たとえ、地の果てまであとを追いつづけてでも……。
そのつぎの日、決意をかためて待っていると、恋の女はまたあらわれた。そして、動作はきまっていた。ドアに近いカウンターの席に腰をおろし、カクテルを三口ほどで飲みほし、高まる恋の表情とともに、またすばやく出てゆくのだ。
青年はあとを追った。好奇心と仕事への熱意が彼をかりたてた。あの女、どこへ行くのだろう。どんな男と会うのだろう。どんな家に住んでいるのだろう。また、バーから急いで帰るわけは。いずれにせよ、それらの謎がとけるのだ。
女の足は意外と早かった。歩きなれた道のせいだからか夕ぐれのなかを泳ぐ魚のように軽やかで、青年は時どきかけ出さないと見失いかねなかった。女は商店街からはなれ、住宅地にむかい、さあ十分ぐらい歩いただろうか。アパートの入口に入っていった。コンクリートの五階建てで、そう高級でもなければ、そう安っぽくもない。新築でもないが、古びてぼろぼろというわけでもない。そんな感じの、あたりの風景と調和した目立たないアパートだった。
青年はさらに足を早めた。道路とちがい、建物内だと見失いやすい。ここの住人なら管理人に聞くという手もあるが、訪問者だったら、どうしようもないのだ。入口で待ちつづけ、徹夜になってしまうことになりかねないのだ。
青年は女のすぐうしろに迫った。だが、女はまったく気がつかない。急ぐのに熱心なのだ。恋に盲目になっていて、ほかのことには注意が及ばないという感じだった。この女、何階に住んでいるのだろう。
女はアパートの入口をはいったが、そこにある階段をあがらなかった。おりていったのだ。地下への階段をおりたのだ。コンクリートに足音が反響する。地下は廊下をはさんで、上の住人たちのための倉庫や、道具置場や水道のメーターの室などが両側にある。こんなところで、なにをするのだろう。うすぐらく人影はないが、ランデブーの場所としてはロマンチックでなく、ふさわしくない。青年は首をかしげたが、すぐにやめた。あくまで押しきらねばならないのだ。
女はドアのひとつをあけ、くぐり抜け、うしろ手でしめた。それがしまる寸前、青年はあとを追ってあけて入った。そこにはさらに下への階段があり、それをおりたつきあたりの部屋に女は飛びこんだ。
青年もつづく。ノックをしたが返事がないので、勝手に入った。殺風景な室だった。壁にはなんの飾りもない。入口のそばには長椅子があった。天井には照明があり、やわらかな光がまんべんなくあたりにとどいていた。
女の姿もあった。彼女はこちらに背をむけ、机にむかってなにかをしていた。小さな金属的な音が何回かつづけざまにした。あせった感じのこもった音だった。ほっとしたように息をするのが、そのうしろ姿からわかった。青年の驚きはつづいていた。なぜこんな部屋があり、なぜ彼女が作業のようなことをしているのだろう。しかし、いまさら引きかえす気もない。彼は言った。
「あの、こんにちは……」
「なんでしょうか」
女はゆっくりとふりむいた。不意の侵入者をとがめる口調でもなかった。それに元気づけられ、青年は話をした。
「ぼく、少し前にバーでお会いした者です。カメラマンなのです。失礼とは思いましたが、ぜひお願いしたいことがありまして、あとについてここまで来てしまったのです」
「そうでしたの。で、どんなご用でしょう」
女はすなおに聞きかえした。青年には質問したいことがいろいろあったが、まず用件を言った。
「じつは、写真のモデルになっていただきたいのです。お顔だけでもいいのです。あなたはすばらしい。本当に恋の女神そのものですよ。あなたの写真は世界中の人の目にふれ、永遠に残るでしょう。ぜひ、とらせて下さい。お礼はどのようにもいたします。もし、ご希望があったら、遠慮なくおっしゃって下さい」
「じゃあ、これを手伝っていただけるかしら……」
いやにあっさりとした承諾だった。あっさりしすぎているし、また予想外の申し出でもあった。かなりの額の金銭の用意もしてきたのだが、こんな答をするとは。青年は好奇心にかられ、そばへ近よってのぞきこんだ。
「なんなのですか、それは……」
「こういうふうにやるの。簡単なお仕事よ」
机の左には二つの|籠《かご》があった。それぞれに金属製のプレートのようなものがたくさん入っている。一方はかすかに金色をおび、一方の籠のは銀色だった。女は手をのばし、その一枚ずつを取って重ねあわせた。机の上にはホッチキッスを大型にしたようなものがあり、その重ねた二枚をはさみ、押す。書類をとじるのと同じように、音がして二枚がくっつく。それを机の右にある籠に入れるのだ。右の籠にはそんなのがたくさん入っていた。
「ちょっとやらせて下さい」
と青年は言った。自分にもできそうな気がした。しかし女は、初心者がやりそこなうといけないと心配してか、籠のなかをさがし金色をおびたプレートを一枚つまみあげた。それから、自分のポケットから銀色のを出し、青年に渡した。
「これでやってごらんなさい」
青年はやってみた。やりそこなわないよう注意し、さっき見た通りにやってみた。重ねあわせ、ホッチキッスを押し、右の籠にそっと入れる。重ねあわせる時、ホッチキッスを押す時、ちょっとした快感が手に伝わった。なまなましく、なにか生き物に触れたような気がした。
「こんなぐあいでいいんでしょうか」
彼が聞くと、女はうれしそうに言った。
「いいわ、その調子よ。本当にお上手だわ。つづけてやっていただけないかしら」
「いいですとも」
青年は女のきげんを損じないようにと、二、三回それをくりかえした。お気に召しましたかと聞こうとふりむくと、女の姿はなかった。部屋から出ていったらしかった。しかし、青年はそれをつづけた。いまは大事な時なのだ。女が帰ってきた時に、仕事がはかどっているかどうかで、首をたてにふるか横にふるかがきまるかもしれないのだ。たてにふらせなければならない。作品ができるかどうかの境目なのだ。
彼は熱心につづけた。わけはわからないが、おもしろみも感じられる作業だった。女はなかなか戻ってこなかったが、青年は空腹ものどのかわきもおぼえなかった。どれくらい時間がたったのだろう。腕時計はとまっていてわからなかった。ねじを巻き忘れていたようだ。地下室なのであけがたになったのかどうかはわからなかったが、かすかにねむけが襲ってきた。彼はドアのそばの長椅子にねそべり、少しまどろんだ。
目がさめると、胸のなかでなにかが燃えるようにうごめいていた。いや、胸のなかで熱いかたまりが大きくなり、それが彼を目ざめさせたというべきだろう。青年はその異常な感じに驚いた。からだのなかからわきあがる衝動なのだ。なにへの衝動なのかは、すぐにわかった。説明なしにだれにもわかる感情。恋への衝動なのだ。
あの、恋の女が戻ってきたのかな。青年はあたりを見まわしたが、そうではなかった。しかし、女からたのまれた作業のことを思い出し、また内部で燃えはじめた恋への衝動を持てあまし、気をまぎらそうと、プレートを重ねてホッチキッスを押すことをやった。
カメラマンには、こういった仕事はつきものなのだ。いつだったか、農家のがんこな老人の写真をとるため、田植えを手伝ったことだってある。
いくつかやっているうちに、さっきのたえがたいほどの恋への衝動はいくらかおさまっていった。ほかにすることもなく、青年はその作業を進めた。しかし、それにしても、なんに使う品なのだろう。電気製品の部品とも思えなかった。輸出むけのクリスマスの飾りとも、子供むけのオモチャとも思えなかった。
なにかもっと意義のありそうな感じがするのだが、それがなにかはわからなかった。よくながめると、プレートの表面には微細な彫刻で抽象的な模様が描かれている、それは、それぞれちがっているようだ。高度な電子計算に使うパンチカード、厳重な部門での身分証明書。そんな感じ。多くの意味がその表面におさめられているようだった。
金色がかったのと銀色のプレートとを重ねあわせる時、磁性でもおびているかのように、さっとくっつく。その感触は微妙で弾力にみち、くすぐったいような、ほっとするような快いものだった。ホッチキッスでとめる時も、しびれるようなものが伝わってくる。やっていて、つまらないことではなかった。
時間がたっていった。しかし、女は帰ってこず、だれかが訪れてくることもなかった。青年の心に不安がめばえた。だまされたのかもしれない。彼は立ちあがった。そして、ドアに手をかけた時、恐怖めいたものを背中に感じた。ここにとじこめられてしまったのかもしれない……。
しかし、ドアは開いた。階段をあがり、地下一階の廊下に出て、アパートの出入口まで行ってみる。時刻は夕方だった。彼は道を歩き、バーに急いだ。あそこに行けば、女のようすがわかるかもしれない。だが、バーに近づくにつれ、からだのなかで、さっきの恋への衝動がまたも高まってくる。それを押えつけながら急ぎ、バーへ飛びこむなり言った。
「ウイスキーをくれ。あの、それから、あの女の人はどうしたか知らないかい。いつもカクテルを一杯飲んで、さっと帰る女のことだよ」
「あ、あのかたでございますか。きのうでしたね、あなたがあとを追って出ていかれたのは。あれからまた戻っておいでになり、珍しくゆっくりお飲みになりましたよ。あんなこと、はじめてです。そのうち、男のお客さんが話しかけてきて、意気投合なさったようで、楽しげに笑いあっていましたよ。育ちのよさそうな、品のいい男のかたでした」
「それからどうした」
「ごいっしょに出ていかれました。あとは存じません。想像はできますがね……」
「そうか……」
青年はウイスキーを口にほうりこんだ。酔い心地にはなったが、からだのなかで大きくなりつづける衝動は、それをはるかにうわまわっていた。そして、それを押える方法はあれしかないことも感じていた。あの地下室に戻り、作業をつづけることだ。
青年は金を払い、かけだした。地下の部屋に飛びこみ、プレートの作業をいくつかやる。気分はしだいにおさまってゆく。そのかわり、女への怒りが高まってきた。勝手な女だ。この奇妙な仕事をひとに押しつけ、遊びまわっているらしい。しかし、それにしてもおかしい。バーで知りあった男性と仲よくなるとは。いままでの、恋にあふれた表情はなんだったのだろう。
青年はアパートの管理人室をたずねた。少し待たされたが、会うことはできた。
「じつは、この建物に住んでいる女の人についてなんですけど、背の高さは普通で……」
青年は特徴を説明した。しかし、管理人は首をかしげて言う。
「そんなかた、いないようですな」
「住んでいるのではないかもしれません。この建物の地下二階で……」
「地下二階ですって。そんなもの、ありませんよ。地下は一階だけです。なにかのまちがいでしょう」
むりに引っぱってゆくこともできず、どう説明したものかもわからない。そのうち、例の衝動が高まり、青年は室にかけもどらなければならなかった。プレートを重ねる作業をはじめると、気分はおさまる。
地下二階などないと、管理人は言っていた。どういうことなのだろう。ここはなんなのだ。青年の頭のなかでしだいに疑問が形となってきていた。ここは特殊な空間なのかもしれない。ずっと食事をしていないにもかかわらず、空腹感はおこらないのだ。現実とはべつな世界なのかもしれぬ。
青年はおもしろくない気分で、籠のなかのものをぶちまけた。部屋じゅうにまきちらし、長椅子の上で眠る。しかし、やがてあの衝動によって目ざめ、あたりを見まわすと、すべてはきちんと元通りになっていた。ひとつの籠には金色のプレート、もうひとつには銀色のが、机の右のには重ねあわされたプレート。そして、机の上にはホッチキッス。いつでも仕事がはじめられるようになっており、それをうながしているようだ。また、うながされなくても作業をやらないことには、衝動は解消しない。
異常であるばかりか、しゃくにさわる事態だった。青年はすなおに従う気がなくなった。金色のプレートどうしを重ね、ホッチキッスでとめることをやってみた。この仕事はなぜかやりにくかった。銀色どうしもやはり同じ。まぜこぜにして六枚ほど重ね、むりやりホッチキッスにかけてもみた。こんなことが反抗になるかどうかは、さっぱりわからなかったが。
警察に連絡し助けてもらうとするか、と青年は思った。外へ出て公衆電話をさがし、ダイヤルをまわす。しかし、彼が説明すればするほど、警察は不信の口調になるのだった。
「そういうことは、病院へおいでになってお話し下さい。こちらはいそがしいのです。いま、同性愛が急にふえ、乱交がはやりその問題で大変なのです。なんで、こう変な現象が発生するのか……」
電話は切られ、かけなおしても相手になってくれなかった。また、例の衝動も高まり、それを静めるため地下の部屋へ戻らねばならなかった。青年は作業をつづけ、つづけながら考えた。事情が少しずつのみこめてきたようだった。あの女は本当に恋の女神であり、これがその仕事だったのかもしれぬと……。
この金色のプレートが男、銀色のが女。逆かもしれないが、なんとなくそう思った。それをホッチキッスでとめる。これが恋の作業なのだ。ここでこれをすることによって、そとのどこかで男女が恋におちいる。
愛するか愛さないかは、われわれの自由にはならない。恋をこのように断じた人があった。人間の自由にならないとすれば、だれのしわざなのだ。すなわち、ここだ。
恋はハシカのごとく、かからねばならない病気である。恋は人間の最大の愚行である。恋は偶然であり奇跡である。古人はいろいろと形容した。意志や理性から恋はうまれない。友情や利害からも恋はうまれない。どこからうまれるのだ。そんなことを考えてもみなかったが、いま、その問題と答とがいっぺんに理解できた。すなわち、ここなのだ。
ほうっておいても人間はいつかは死ぬ。いちいち殺してまわる死神などは存在しなくてもいいのだ。富は才能と努力の集積である。だから、福の神なども存在しなくてもいいのだ。しかし、恋の神だけは必要なのだ。どこかでせわをやいてやる者がいなければ、どうにもならぬ。人間には、恋を自分でコントロールするハンドルがついていないのだ。
籠のなかのたくさんのプレート。それらが早くせわをしてくれとの要求をしている。恋を、恋を、恋をと。それが熱気となり、エネルギーとなり、念力となって、むりやり作業にかりたてるのだ。
かりたてられて、青年は作業を進めた。金と銀のプレートはうれしそうにくっつきあい、ホッチキッスでとめられ、とめられる瞬間にはよろこびの声のようなひびきをたて、右の籠のなかに空中で踊りながらほうりこまれる。だれかがやらねばならないのだ。いいことをしているのかもしれないなと、青年はちょっとだけ思った。
しかし、あまりいい仕事でないことは、すぐにわかってきた。いかに作業をすれども、左の二つの籠のなかのプレートはへらないのだ。それはそうだろう。恋への欲求が世から消えることはないのだ。
また、ホッチキッスのとめ方がいいかげんだったりして、右の籠のなかでプレートがはなれると、いつのまにか左の籠に戻っている場合もあるらしい。ホッチキッスの穴のあるプレートが、左の籠から出てくることもあるのだ。終ることのない作業。
恋の支配者なんだ、と思ってみる。たしかに支配はしている。しかし、だれも恐れてくれない、感謝もしてくれない。みな自分の力でなしとげたことと思いこんでいるのだ。こんなむなしいことってあるだろうか。みなおれのおかげをこうむっていい目にあっていながら、ここにこうやってせわをやいている者が存在していることを、考えてもみないのだ。死神にとらえられ、いやおうなしにこき使われるという物語があったようだ。そのほうがまだいい。
これが恋の作業でなく、破局の作業だったらどんなにいいだろう。みなもつらいだろうが、おれもつらいのだという、均衡みたいなものができてくれる。しかし、これは、みながうまいことをやっており、こっちだけがだれに知られることなくひとり苦しむのだ。
青年は単調に作業を進めた。同性愛や乱交を製造するのは、手数ばかりかかって、こっちにいいことは少しもない。それでも、腹が立つたびにいくつか作りだしてもみる。
あの、恋の女神はどうしたのだろう。ここへ戻ってきてくれないものだろうか。彼はそんな期待を抱き心から祈りさえもしたが、戻ってきてはくれなかった。最初に押させられたプレート。あの一枚が彼女のぶんだったのだろうな。思いあわせると、それ以外に考えられなかった。
あの恋の女神、いつからこの作業をしていたのだろう。それを想像すると、うんざりした気分になる。遠い遠いむかしからにちがいない。その長い長い時間ずっと同じ仕事のくりかえしだったのだ。休みをとりたくもなり、人間なみに恋をしたくもなるだろう。しかし、気も遠くなるほどの長い時間ののちの休暇だ。ひと月やふた月ではすまないだろう。一年や二年でも。へたをすると……。彼はその先を推察するのがこわかった。
恋の女神の手助けをするキューピッド。かわいらしい子供の姿でおなじみだ。背中の翼で飛びまわり、金色の矢でハートとハートをぬいあわせる。ほほえましいものだったが、おれがそれにされてしまったのだ。実体はこれ。あわれな救いのないキューピッド。そして、あわれな無報酬の作業。孤独と絶望のなかの、ばかばかしくてもやめられない作業。
それでも、青年は時どき部屋から出て、バーに行った。もっと近くにあればと思うのだが、ないのだった。行動半径ぎりぎりにあるバー。往復をいかに急いでも、落着いて飲むひまはほとんどなかった。なにもしらぬバーテンが声をかけてくる。
「なにか楽しそうなご様子ですね。お客さん。恋をなさっておいでなんでしょう……」
「まあね」
くわしく話すひまはないのだ。バーの壁にある鏡には、自分の顔がうつっている。恋の表情に輝いている顔だ。ここへ来る途中恋への衝動が高まりつづけ、ここで最も強くなる。グラスを急いであけ、酔いで衝動をごまかしながら、席を立ってあの地下室へと帰らなければならないのだった。
だれかが好奇心を持ってあとをつけてきてくれないかなと思う。しかし、被写体をさがして血まなこになっている女性カメラマンらしいのが店にいたことはなかった。
また、無意味で残酷な恋の仕事をつづける。いったい、他人の恋が、おれにとってなんだというのだ。なんの価値もありゃしない。ばかばかしいしろもの。うぬぼれとエゴイズムのかたまり、この色きちがいのプレートどもめ。青年は時たま腹を立て、籠をひっくりかえす。だが、そんなことをしても役に立たず、ひと眠りするとすべてはもとに戻り、強い情欲で彼を仕事にかりたてるのだ。
思い出したように外出し、警察へ電話をしたりもした。だが、声をおぼえられており、話しはじめただけで、笑いを押えたいいかげんなあしらいになってしまう。バーへ寄った時に新聞をもらってきて読んだりもした。しかし、それもまもなくやめてしまった。恋だの愛だのの文字を見ると不快になる。いい気なものだ、おれがこれだけ苦しんでせわをしてやっているのに、やつらは自己の力による成果と思いこんでいるのだ。
むかむかすると、わざとぞんざいに仕事をしたりする。右の籠にほうりこむとまもなく、プレートがはなればなれになるのだ。そとの世界のどこかで、とたんに恋が終るのだ。ざまあみろと思うが、そんな感情が当人たちに通じはしない。やつらは、やはり自己の判断で恋を終らせたのだと思っているのだろう。そう想像するとばかばかしくなり、あらためてホッチキッスでしっかりとめなおしたりもするのだ。
すなおに仕事を進め、立腹し、ささやかな悪趣味を満足させ、また人びとの幸福を祈り、そんなくりかえしがつづいた。時どき心の底から叫ぶ。これが終ってほしいと。しかし、そんなことはないのだった。いかに数をこなしても、プレートはどこからともなく補充され、なくなることがない。そして、能率が落ちると、大ぜいの恋への欲求が彼を容赦なくむちうつ。
そのつらさに青年はなれることがなかった。なれるどころか、苦痛は徐々にふえていった。左の二つの籠のプレートのふえかたがしだいに大きくなってきたようだった。一方、彼の処理する能率の限界というものがあった。さばききれない。おれは人間なのだ。女神とはちがう。女神なら能率をあげ、なんとかする法だって知っているだろう。このような分工場をどこかに作れもするだろう。早く帰ってきてくれ。しかし、恋を楽しんでいる女神は、こっちのことを忘れているのだろう。依然として戻ってこなかった。
青年は外出もしなくなった。ほとんど眠らなくなった。特殊な空間にいるため体力はおとろえなかったが、それはいいことではなかった。倒れて気を失うこともできないのだ。機械がうらやましい。機械ならある限度以上はやらなくてもいい。
うつらうつらしても、すぐ情欲の嵐のむちでたたきおこされる。必死になってさばいても、プレートはふえつづけ、籠からあふれはじめている。数えきれぬプレートたちの要求は、すさまじい勢いだった。
青年のからだじゅうで、花火がはじけつづけ、熱湯があばれまわり、無数の虫がうごめき、なにかこまかく鋭いものがぶつかりあい、巨大なドラムが大きな音をたててふるえつづけた。すべては凶暴化し、にくしみとなり、爆発を求めて……。
狂うのではないかと青年は思った。いや、狂いたいと祈った。特殊な空間であり、体力のおとろえぬごとく、狂うこともできないのだろう。だからこそ祈ったのだ。
そして、ある時、彼はばったりと倒れた。なにもかも投げ捨てた眠り。しかし、その眠りも長くはつづかなかった。情欲のむちのためではない。あれだけつづいた情欲のむちを感じないことへの不審さのためだった。なぜだろう。
おそるおそる籠のほうを見る。あれだけあったプレートがからになっていた。どの籠もからだった。数分ののち、彼は思った。のろいから解放されたようだ。きっと、どこかよそでもっといいキューピッド役が作られ、工場がそっちへ移されたのだろう。すばらしいことだ。
青年は籠に近より、ひっくりかえしてみた。金色のプレートが一枚だけあった。それを拾いあげた時、彼はそれが自分のプレートだと直感した。そして、もうひとつの籠。そこにも銀色のプレートがあった。その感触も好ましいものだった。いままでいじったどの銀色のプレートよりも好ましい。
青年はそれを重ねあわせた。いつくしみながら、ていねいにホッチキッスでとめる。そして右の籠に入れる。右の籠もからだったが、その一組を静かにうけとめた。これで終ったのだ。
軽い足どりで、彼は階段をのぼる。口笛を吹きたくなるような気分だった。アパートの出入口。あかるい陽ざし。だが、そこで彼の足はとまり、口笛もやんだ。
そとにはなにもなかった。廃墟[#電子文庫化時コメント 底本「廃虚」単行本の表記に従って訂正]がひろがっているばかり。すべてが崩れ、焼けこげ、むざんなながめがつづいている。
「ついにやりやがった」
青年はつぶやき、気の抜けたように歩きはじめた。歩いたところで、行くあてはなにもないのだが。
どこからともなく呼び声がする。近くの崩れたビルのかげから、女がひとり歩いてきた。弱りきった力をふりしぼり、やっと歩いているという感じだった。青年はかけより、倒れかかる女を抱きとめた。胸が高鳴る。恋なのだ。これが自分自身の恋なのだ。
「お会いしたかったわ」
女が言った。青年を見つめる目。やはり恋にあふれていた。そして、それには見おぼえがあった。ずっとずっと昔、バーで会い、こんなはめになったきっかけの女。恋の女神だった。
「きみだったのか」
「あなたには悪いことをしたわね。でも、あたし、あなたのおかげでやっと、恋というものがどんなものなのか知ることができたわ。あの長い年月の末に……」
女の呼吸は弱くなった。青年は言う。
「おい、しっかりしてくれ。どんなに会いたかったことか。きみを忘れたことはなかった」
「でも、だめなの。人間の生活をつづけたためか、からだが弱くなってしまって、いままで生きのびたのがせい一杯なのよ」
「死んじゃだめだ。唯一の女。きみを愛している」
「あたしもよ……」
しかし、彼女の声はそれで終った。
しばらくののち、青年は立ちあがり、ビルの地下へ戻ろうとした。
いまとなると、あの作業もなつかしい。階段をおりる。地下二階への階段へ通じるドアを開く。しかし、そこにはコンクリートの壁があるばかり。階段もなく、ゆきどまりなのだ。地下二階のあの部屋は、もう存在の必要を失ったのだ。彼はたたずみ、目をつぶる。そこにはなつかしい室がみえる。右側の籠、そのなかで銀色のプレートが、いま消えてゆく。そして、ただひとつ残ったもの、自分のである一枚の金色のプレートが、まもなく訪れる消える瞬間を待って……。
牧場都市
悪い夢はそのさめぎわが最も悪い。むかしの詩人がこんなことを書いていたようだ。私の場合、おそらくほかの人びともそうなのだろうが、あけ方ちかくなると苦痛ともいえるほどひどくなる。いつものことなのだ。こんな時代になってしまったからなのだ。
料理の夢。美しく盛りあわせたオードブルとか、スープとか、魚や肉の料理とかが、つぎつぎとあらわれる。色はもちろん、においさえついている。時には温かさとか触感までともなっている。リアルなのだ。夢のなかでもアイスクリームはつめたく、マシュマロはふわふわしている。こうなると病的なのだろうか。
病的でもなんでもかまわない。私はそれを手当りしだい口に押しこむ。かみしめる。歯と歯とがむなしくこすりあわされ、歯ぎしりとなる。そのいやな鋭い音で、いつも目がさめるのだ。
「ああ、また夢を見た……」
私は自分にいいきかせてから、両手を腹にあてる。あわれな、やせた腹部。そのあたりを、やせた手のひらでそっとなでまわす。空腹感をまぎらそうとするのだが、内臓は承知してくれない。芸のない鳥が鳴くような、単純で悲しげな音を出す。
となりの部屋からは、四歳になる坊やの飢えに泣く声がひびいてくる。それをなだめようとする妻の声は、なかなか効果があがらないため、ヒステリックな調子を高めてゆく。これもいつものことなのだが、やはりいいものではない。
それらの物音によって、私は眠りから少しずつ抜け出す。なんだか胸のあたりが苦しいのに気がつく。毛布から出した手で、そのあたりをさがす。あった……。
|籠《かご》にはいった鶏の唐揚げ。私は手でつまんで口に入れる。反射運動とかいうのだろう。やわらかく、塩味の、微妙な歯ごたえ。ひとつではとてもがまんができない。三つほど口に入れてしまう。
私の指先はさらになにかを求めてあたりをさまよい、やわらかなものをとらえた。甘いブランデーで味をつけたケーキ。それは口のなかでとろけ、舌の上で踊り、のどをやさしくなぐさめ、幻の音楽をかなでながら食道をとおり、胃を訪れる。胃壁は歓声をあげて、それを押しつつむ。もみくちゃ。痛いほどの快感。食べ物が胃に入ったのだ。そのショックで、私の目ははっきりとさめる。
食ってしまった。食ってしまったのだ。とんでもないことをしてしまった。後悔の念が頭のなかをかけめぐり、理性がめざめ、私は飛びおきる。毛布の上にあったさまざまな食品が、ばらばらと床に散る。ベッドの枕もとの台の上には、濃いミルクがあり、新鮮なオレンジがある。
私はそれらをひっつかみ、半開きになっている窓から、庭へつぎつぎと投げ捨てる。にくしみをこめて投げ捨てるのだ。腹が立ってくる。もっと腹を立てなくてはいけないのだ。胸がむかむかすれば、食欲がそれだけごまかせるのだ。
しかし、そんなていどのことで食欲を完全に追い払えるものではない。いったんは退いても、食欲はすきをみて逆襲してくる。捨て残した食品が、ベッドの下とか室のすみなどで、まだそのへんににおいをまきちらしている。ホットケーキの蜜とバターのにおい、肉料理の油っこいにおい……。
これらのものを、ゆっくりと味わって食べたいものだなあ。そうしたら、ああ、どんなに楽しいだろう。空想すると、つばが口のなかにわき、それはむなしく胃へと消えてゆく。しかし、だめなのだ。食べてはだめなのだ。
さっき眠りからさめかけの、理性が朝もやに閉ざされている一瞬、その時にわれを忘れて口に食べ物を押しこんでしまったからだ。
それさえしなければ、いま好きなものをゆっくりとえらび、時間をかけて食べることができるのだが。後悔をかみしめながら、さっき口にした食品のカロリーを暗算してみる。食べていい余裕は残されていない。だめなのだ。
私はパイプにタバコをつめ、火をつけて吸う。ニコチンが空腹にしみこみ、胸がむかつく。からだによくないにきまっているが、食欲だけはちょっと逃げていってくれる。それに、パイプを口にしているあいだは、なにかを口に入れようという気にならないですむ。パイプの口にくわえる部分には、深くきざみ目がついている。無意識のうちに私が歯でかんでしまうからだ。
となりの部屋からの坊やの泣き声は、さらに高くなっていた。狂ったように火がついたように、全欲望をそれに集中させて泣きわめいている。私はそこへ行く。坊やは細い手でキャンデーの入った透明な袋をしっかりとにぎっている。もはや妻の手にはおえないらしい。私は言った。
「おい。そのキャンデーを捨てなさい」
「いやだ、いやだ。どうしてなの。ぼく、食べたいんだ。食べたいんだよ……」
ほっぺたの肉のない坊やの顔。涙をあふれさせつづけている目が、うらめしそうに私を見あげる。しかし、ここで妥協してはいけないのだ。私はどなる。
「親にむかって文句を言うな。食ってはいけないから、食ってはいけないんだ。これが理由だ。わかったろう。さあ、それをよこしなさい」
「いやだよ。食べさせてよ……」
必死の表情で哀願する坊やの手をねじあげ、それを取りあげた。その時、私は手をかみつかれた。痛い。
「口で言ってもわからないのなら、こうしてやる」
私は手のひらで何回もひっぱたいた。こうやって、坊やのからだにおぼえさせてやるのだ。痛いだろう、坊や。うらむのなら、うらむがいい。うらめば食欲をしばらくは忘れるだろう。坊やは一段と高く泣き叫びつづけていたが、やがてぐったりとなった。疲れたのだろう。このさわぎで私もまた、食欲をしばらく忘れた。妻が言った。
「どうしましょう、坊やを」
「このまま、そっと眠らせておきなさい。目をはなすんじゃないぞ、かくれて盗み食いをするかもしれない」
「ええ、よく見はってるわ」
妻はうなずく。私は家じゅうをくまなく見まわった。ほうぼうに食品が投げこまれている。このごろは、やつらの投げこみかたがうまくなった。灰皿の形をした砂糖菓子とか、電話機型のチョコレートなどが、机の上にさりげなくのせられたりしているのだ。ゆだんはできない。
それらを拾い集め、私は庭の穴に捨てる。その上に小便をかける。そんなことをしたって、しようがないんだ。やつらはすぐに補充として、すきをみて食品を投げこむのだから。
妻がコーヒーをいれてくれた。砂糖は入っていない。しかし、かすかにまざる甘味で、私の神経は少しおちつく。コーヒーのかおりはいいものだ。私は妻に言う。
「じゃあ、仕事に出かけるかな。子供への注意を忘れないようにな」
「いってらっしゃい。あなたも気をつけてね」
「ああ」
家のドアから出て、私は道を歩く。バスも動いているが、それには乗らない。歩いたほうがいいのだ。からだのためだし、長寿のためだ。
こまかい雨が降ってきた。傘をさすことも、雨やどりすることもない。ほどよいしめりけをもたらすといった程度の雨なのだ。雨は街路樹の緑をさらにあざやかにし、ビルや道路のよごれを落し、すべてを美しくいきいきとさせる。すがすがしさ。
健康感があたりにみなぎる。いいにおいがほのかに残る。雨の成分のせいなのだ。オゾンやらクロロフィルやらがまざっている。やつらがそのような操作をしているのだ。やつらは天候をコントロールし、一年中を初夏のようにしてしまい、毎日、定期的にこのような雨を降らす。消毒作用を持った雨を……。
やつらが地球へやってきてから、もうどれくらいになるだろう。思い出そうとしても頭に浮んでこない。日をかぞえるどころのさわぎではなかったのだ。その時以来、生活のぜんぶが欲望との戦いだった。毎日がその同じくりかえしなのだ。苦痛と単調のくりかえしのなかで、年月だけがいつのまにか流れ去っている。
やつらはゼビア星からやってきた。高度の文明と科学とを持ち、はじめは友好的だった。あまり好感の持てる外見ではなかったが、外見で判断するのもどうかとためらっているうちに、ずるずるとやつらの手中におちいってしまった。ゼビア星人たちはあらゆる点ですぐれており、強力だった。これに反し地球側は、あらゆる点で統一がなく、ひとがよかった。あがいてもだめだったし、どうあがいていいのかもわからなかった。
やつらは地球を占拠し、その好む体制にしあげてしまった。そして、運営が軌道に乗ったとみとめると、少数の人員を残して引きあげていった。つまり、現状なのだ。食料にあふれ、いつもいい気候で、殺菌作用を持つ雨が降るといった……。
各都市にあるゼビア星人の駐留支部の建物の前を通ると、やつらの姿を見ることができる。何回みても好きになれない。やつらの意図が察知できた今となっては、なおのことだ。やつらの足にはヒヅメがあるのだ。牛のような尻尾もある。顔は馬に似ている。ウサギのような耳がある。そして、受ける印象には豚のようなところがある。どことなく|貪《どん》|欲《よく》そうで……。
なにも直接に目にしなくても、その姿を頭に思い浮べるだけで、私は不愉快になる。不快感で頭が一杯になるのだ。しかし、それを頭から追い払うと、かわりに食欲を思い出してしまう。この矛盾を持てあましながら、私はつとめ先への道を歩く。うしろから声をかけてきた人がある。
「やあ、おはよう」
顔みしりの四十歳ぐらいの男。私の近くに住んでいて、小さな美術品店を経営している。血色がよく元気そうで、ふとっている。口を動かしてチューインガムをかんでいた。私は顔をしかめて話しかけた。
「あなたは、からだにもっと気をつけるべきですよ。元気そうにふとっている。ご自分の身がかわいくないんですか。注意なさるべきですよ」
「それはよくわかってますがね。わたしは意志が弱いんですよ。うまい物には、つい手がのびてしまう。ええ、もちろん注意はしてますよ。だから食べたいのをがまんして、チューインガムをかんでるんです」
彼としばらくいっしょに歩く。道ばたには、ところどころに食品が配置されてある。ポストのそばにおいてある果物の籠。街路樹につり下げられた籠のなかのサンドイッチ。どうぞ召し上って下さいという形なのだ。
それらを配置して行くのはゼビア星人のロボット。丈夫にできていて、ちっとやそっとではこわれない。初期の頃には破壊してしまうとの動きがあったが、こわすのは大変だし、こわしてもはじから補充されてしまう。そうわかってからは、だれもあきらめてしまった。家庭のなかに食品を投げこんでゆくのも、そのロボットたちなのだ。私は話題にした。
「あの、やつらのロボットたちを見ると、スコットランドの伝説を思い出してしまうんですよ。人が眠っている夜中に、小鬼がひそかに料理を作ってくれるとかいう。むかしは、そんなことになったらどんなに便利だろうなあと空想したものですが……」
「はあ……」
彼は気のない返事をした。私が見ると、彼は道で立ちどまり、消火栓の上にのっているケーキに手をのばしていた。私はあわててとめた。
「おやめなさい。食べたいという気持ちはよくわかりますが、ここです。がまんなさって下さい。よく考えて……」
「いや、ほっといて下さい。わたしは食べたいんです。この美味の林のなかにいて、それを拒否する生活なんて、もうたくさんだ。がまんをつづけて、なにが人生です」
「なにをおっしゃる。そんなだらしのないことで、どうなさるんです。負けてはいけませんよ」
いったんは私もひきとめるのに成功したが、長つづきはしなかった。つぎに彼は道ばたの花壇で足をとめた。花のあいだに、味のいい甘い酒のびんがおいてあったのだ。彼は私をつきとばし、それを飲む。
「ああ、うまい。あなたも飲んでみませんか。これが生きているということでしょう。そうじゃありませんか」
彼は満足の笑いを浮べ、歩きかけた。そして、それが最後だった。一歩ふみだしたとたん、その足の下の舗道の石がはずれ、穴となり、彼をのみこんだのだ。石はふたたびもとにもどり、なにごともなかったかのように舗道となった。
その手前の石の下に重量計がしかけてあり、それが彼の体重を測定したのだ。規定以上の重量に達していることを確認し、その連動作用でつぎの石がはずれ、おとし穴としての役目をはたしたのだ。
いまの石の場所をおぼえておこうかと私は思ったが、それはやめた。ここだけではないのだ。こういうしかけは至るところにあるのだ。いちいちおぼえきれるものではないし、時には場所も変る。そんなことをするより、体重をふやさないほうが安全で確実な方法なのだ。
それをおこたり、いま、ひとりの知人が消えた。私は暗い沈んだ気分になり、ちょっと手を合わせた。しかし、それ以上にどうしようもない。救出は不可能なのだ。私の責任ではない。また彼の責任とも言えないだろう。
これがさだめなのだ。
つとめ先につく。小さな出版社だ。私の職場は経理部。同僚たちにあいさつをする。
「おはよう。いま出勤の途中、いっしょに歩いてたやつが地下にのみこまれてねえ。いやなものだな」
「ふとっていた人か」
「そうさ。あの地下にのみこむしかけの体重計は、正確そのものだ。しゃくにさわるくらいにね」
「それなら仕方ないさ。当人も覚悟の上だったんだろう」
同僚は簡単に片づけたが、私の頭にはさっきの印象が残っており、聞くともなくつぶやいた。
「苦しいものだろうか、あの時は」
「たいしたことはないんじゃないかな。高圧電流で一瞬のうちにおだぶつ。それから地下のコンベアで運ばれ、洗われ消毒され、処理され、冷凍され、ゼビア星に送られる。おまちかね、清潔で美味の冷凍肉、いっちょうあがりだ」
同僚はニヒリスティックに笑った。死んだ者の自業自得を笑い、同時に、命がおしく、いくじなくやせている自分を笑ったのだ。
「そんなに地球人はうまいのだろうか」
「やつらにとってはそうなんだろう。だからこそ、それだけの手間をかけてやっているんだ。えさがこれだけうまいんだから、われわれの肉はその何倍かなんだろうな」
「ゼビア星人たち、どれだけ食えば満足するのだろうか」
「さあね、やつらはなんにも言わないから、総人口はわからんがね。しかし、問題は人口より食欲さ。やつら、まったく豚みたいに貪欲な感じだからな。満足するなんてことはないんじゃないだろうか」
雑談をしていると、小包がとどいた。差出人は書いてない。あけるとミート・パイが出てきた。ほかほかし、いいにおいが鼻に飛びついてくる。
「うまそうだ。ちょっと味をみるかな」
「やめろ。一口だけではすまなくなるぞ。せめてお昼の食事時間まで待て」
「そうだな」
同僚はうなずいた。がまんできる性格だからこそ、いままで生きてこられたのだ。私たちは雑談をつづけ、タバコを吸った。べつに仕事がそうあるわけではない。食料が完全に保証された世の中なのだ。なにも働かなくったっていいのだが、せめて仕事でもしていないことには、時間を持てあましてしまうのだ。無為の時間は食欲を育てる。
といって、仕事に熱中もできないのだ。かりに他人をだしぬいて昇進をしたとする。出世欲というか、支配欲、名誉心とかいったものに生きがいをみつけ、それへの集中でみたされない欲望を満足させようとする。それもひとつの生活の方法なのだが、やりすぎることはいけないのだ。
いつのまにか消されてしまう。いつのまにか消すぐらいは、やつらにとって簡単なことなのだ。危険思想の持主との判定が下されてしまうのだ。当然のことだ。そんなのを放任したりしては、反乱をたくらむのがふえると心配なのだろう。
私たちは、そのような欲望をも押えなければならない。助けあい、欲望の高まるのを注意しあい、かばいあい、その日その日をすごすのだ。知りあいが地下にのまれたり、消されたりするのは悲しいことだ。
やがて、待ちに待った昼食の時刻になる。なにを食べようか。会社の廊下には、さまざまな料理が並んでいる。やつらの食料係ロボットが運んできたものだ。
あれこれ迷ったあげく、私はニンジンのたくさん入ったサラダにした。好物だからではない。なるべくきらいな料理のほうがいいのだ。うまいものだと、つい食べすぎてしまう。しかし、このニンジンのサラダも悪くない味だった。やつらはわれわれをふとらせるため、研究をおこたらないようだ。私は心のなかで理性と争ったあげく、パンのひときれを口にした。だが、飲みこむのは半分にし、あとは吐きすてた。
こうして控え目にしておいて、ちょうどいいのだ。どこでなにを食べてしまうかもしれない。たとえば、エンピツをなにげなく口にくわえたとたん、その味のよさでついに一本を食べてしまうこともある。やつらが巧妙に作ったハッカ入りの菓子だったのだ。こんなことのつみ重ねが、からだをふとらせ、身をほろぼすもとになってしまうのだ。
べつに退社時間のきまりもないが、四時ごろに仕事をやめる。さわやかな気候。会社の近くの公園には、やつらの作った運動場がある。私はそこでテニスをした。ふとるのを防ぐには運動がいいのだ。汗をかいてから、私はプールで泳いだ。水をなるべく口に入れないようにした。プールの水には味がついており、飲んだりするとカロリーになってしまう。なんのために運動したのかわからない結果になってしまうのだ。
適当に泳ぎ、そこでやめた。あまり運動をしすぎるのもよくない。ほどほどにしておかなければならないのだ。だが、若い連中はそれをやりすぎたりする。筋肉がたくましくなり、いかにも強そうな男性的な体格となる。そうなると、やはり消されてしまうのだ。連れていって肉体労働用のどれいとして、他の星の開拓に使う。当然考えられることではないか。もっとも、そういうのを戦わせて見物するのだろうとか、肉がかたくて好ましくないからだろうとかの推測もあるが、どっちにしろ同じことだ。
私はプールのそばで椅子にかけて休む。目をなかばとじながら。目を完全にとじると、食欲がわいてきてしまう。また、完全にひらいていると……。
水着姿の若く美しい女がそばへやってきた。身をくねらせながら、なまめかしい声で話しかけてくる。
「ねえ、お話でもしない……」
「ほっといてくれ。疲れてるんだ」
「あたしが元気づけてあげるわよ。あそこの建物へ行きましょうよ」
飛びつきたくなるような美人で、じつは私も腰をあげかけた。だが、まだ私には理性があった。この女はゼビア星人のスパイなのだ。なにかを代償にもらい、魂をやつらに売り渡し、その手先になっている。ふらふらついて行くと、いっしょに飲みましょうとカロリーの高い酒をすすめられる。命をちぢめることとなるのだ。また、ベッドをともにしたりすると……。
子供ができるかもしれない。うまれた子はべつな星にすぐ運ばれ、そこでやつらに育てられ、ふとらされるのだろう。そんな運命になるのが自分の子かもしれぬとなると、いい気持ちではない。
かりに、そこを冷酷に割りきったとしても、女遊びにいい気になっていると、むくいが当人に及んでくる。いつのまにかみなのあいだから消されるのだ。タネウマ人間といった形で、べつな星に連行されるのだろう。
「またこんどにしよう」
私は首をふった。女はウインクして言う。
「残念ね。じゃあ、またね……」
あっさりとしていた。そのほうが魅力的と知っているのだろう。私は追いかけたくなったが、なんとか思いとどまる。これぐらいの誘惑に負けるようでは……。
しかし、誘惑をはねかえしつづけるのもいいが、心のなかの争いを持てあまして狂う者もある。それらしい青年がむこうを歩いてゆく。おぼつかない足どりで、なにか変な歌を叫んでいる。同情しながら目で追っていると、彼は消えた。やはり道にのみこまれたのだ。
悪い品種は処理しなくてはいけないのだろう。やつらにとっては当然のことだ。しかし、人類の身になると……。
よくこれまで無事に生きてこられたなと、自分でもふしぎなくらいだ。これだけ多くのワナのなかで、いままでひっかかることなく、なんとかやってきたのだ。この生活がはたして安全なのかどうかはわからないが、いままでのところはよかったのだ。これからも注意をおこたってはいけない。
そんなことに思考を使い、しばらく食欲も女性のことも忘れた。しかし、いつのまにかそばにグラスがおかれてあり、私はそれを半分ほど飲んでしまったことに気づき、はっとした。無意識になると、そのすきをのがさず誘惑の手がのびてきているのだ。
私はふたたび食品の林のような道を通って、家に帰りついた。そして、妻に言う。
「坊やはどうした」
「ずっと見張ってたわ。食べたいとわめいているけど、あなたが帰ってからと言ってがまんさせておいたわ」
坊やは室内のサクのなかで、悲しそうな顔をしていた。かすかな声で私に言う。
「なにか食べていい……」
「よし。少しだけだぞ。しかし、その前に賛美歌を五つ歌え。それからだ」
坊やはそうした。熱心に歌う。
「これでいいんでしょ」
「よし。おっと、手を洗ってからだぞ」
少しでも時間をのばさなければならない。坊やのためなんだ。おまえをふとらせ、若くして死なせたくないからだよ。もっと成長し、世を支配するしくみがわかってから、おまえの意志と判断とで食うのならかまわない。しかし、それまでは親の責任なんだ。
坊やはやっと食べ物にありつけた。カロリーの少なそうなのをえらんでやったが、たちまち食べ終って、また賛美歌をうたいはじめた。いじらしい。しかし、そんな感情に負け、ここで気をゆるめてはいけないのだ。
テレビをつけ、チャンネルをまわしてみる。クラシック音楽をやっていた。しばらくそれをながめる。ドラマはあまり見ないほうがいいのだ。食欲をそそるシーンとか、おいろけのシーンとか、支配欲をそそるストーリーとかが多いのだ。そうでなければ殺気にみちたシーン。そんなのに影響され、欲求不満のはけ口を求めてそとであばれると、やはり消される。他の家畜を傷つけるようなのは、除かれるにきまっているのだ。
私は書斎に入って、本を読む。その前に、あたりにほうりこまれている食品をそとに投げすてる。近くにあったら気が散って本が読めないからだ。
欲望を刺激するような内容の本はさけねばならぬ。哲学書か高等数学といったものがいい。おもしろいものではないが、じっくり読み、心を集中して時間をすごすと、なんとかおもしろさが奥のほうからわきあがってくる。そして、食欲も忘れられるのだ。
きょうは宗教の本にした。欲望を静め、心をなごやかにする役に立つ。なごやかにならなくても、一種のなぐさめにはなる。
人間は罪を重ねているのだ。あまりに利己的だった。そのために家畜をいじめ、自分勝手にあつかってきた。エサをどんどんやってふとらせ、あつかいにくいのや凶暴なのは処理し、好ましいのをそろえ、牧場でふやしてきた。そのむくいを、いま受けているのだ。罪ほろぼしなのだ。そう思えば、いくらか心が救われる。
その時、本のあいだからにおいが立ちのぼってきた。計略だ。食べられる紙で作られた本だった。よく調べてからにすればよかった。あわてて投げすてる。それを平然と読みつづけられるほど、私は強い性格の人間ではない。
ああ、苦しい生活だなあ。人間とはこうも手におえぬ存在だったのかと、つくづくなさけなくなる。死ぬこともできぬ、生きる本能が強すぎる。そのくせ、生きたいとの意志や理性は、欲望を押えるには弱すぎるのだ。ひとかけらのケーキを撃退するために、意志と理性とを総動員しなければならぬとは。
これから人類はどうなるのだろう。私はどうなるのだろう。いつまで生きられるのか。いや、負けてはいけないのだ。絶対に生きてみせるぞ。しかし、こんなことがいつまでつづくのだろう。この状態が、あとどれくらい……。
「あとどれくらいこの状態をつづけるんだ」
駐留支部の建物のなかで、ゼビア星人が仲間に言った。
「やっと計画が軌道に乗ったばかりじゃないか。この仕事がいやなのか」
「しかしね、この地球人というやつら、どうも虫が好かん。貪欲そうで……」
「そういうな。貪欲だからこそ、こうしてやらなければいけないんだ。それでも、いい方向には進んでいるじゃないか。慈善事業なんだ。あのままほっといたら、地球人は遠からず滅亡だった。おれたちがこんな荒療治でもやってやらなけりゃ、やつら自身にはどうにもできないのだ。やがてはみなの性格が変り、欲望をコントロールする性質が身につき、いい未来へ移行し、よかったと気がつき、われわれに心から感謝するよ。そう年月もかからないんじゃないのかな。大食いとか、好色とか、名誉心とか、われわれのいう七つの大罪のはびこりかたが、だいぶへってきている……」
はだかの部屋
三郎はまだ独身の青年。ひとがよく、行動はいささか単純だが、それは年齢のせいでいたしかたない。
彼はいま、豪華なマンションのなかにいる。やわらかく大きなダブルベッドにねそべり、大型画面のテレビをながめていた。しかし、うらやましがる必要はない。ここが彼の住居でないことは、いうまでもない。ありふれた会社に入って二年ほどの男が、こんな家に住めるわけがない。
正確にいえば、ここは三郎の|叔《お》|母《ば》の住居。その叔母は四十歳ちかいが、栄養がいいせいか、美容体操のせいか、愛用の高級化粧品のせいか、若々しく見える。女性のくせになかなかのやりてで、都心で画廊を経営し、けっこう利益をあげている。だからこそ、このような生活ができるのだ。
それにくらべると、彼女の亭主のほうはいささか見劣りがする。画家なのだが、まあなんとか小遣いがかせげるていど。それも妻のおかげで絵が売れるからだ。こんな組合せで、子供もないのになんとかうまくいっているのは、いつも亭主のほうが譲歩しているからだろう。
三郎がこの部屋にいるのは、留守番をたのまれたからだった。叔母は彼にこう言った。
「あたしたち、一週間ほど旅行に出るの。旧婚旅行というわけね。三郎さん、できたら留守番として、夜だけでいいからとまりに来てちょうだい。電話がかかってきたのをメモしといてもらうだけでいいのよ。部屋は自由に使っていいわ」
という次第の第一日目。大型ベッドの上から、大型テレビをながめてみたくもなるというものだ。三郎のいつもの住居ときたら、小さな一部屋のアパートで、マイクロテレビを足をちぢめ顔を近づけて見るといったせまさなのだ。それにしても、このマンションは大きい。浴室や台所はむろんのこと、広々とした部屋が四つもある。三郎はベッドからおり、あたりを歩きまわった。壁にドアのあるのを見つけ、なにかと思ってあけてみたら、押入れ兼物置とでもいった、一畳半ほどの場所だった。電気掃除機がひとつしまってあるだけだ。
「すごいものだな」
三郎はわが家とひきくらべ、スペースの余裕に感心し、電気掃除機に|嫉《しっ》|妬《と》した。
そとに面したほうにはベランダがついており、ここは三階なのでながめは悪くなかった。夜の街がひろがっている。遠くの高架道路の上を、自動車のライトが流れていた。三郎はベランダに出てみようとガラス戸をあけた。とたんに寒い風が入ってきて、彼はあわててしめた。そして、この室内が快適な暖房完備であることに、あらためて気がついた。ひとわたり見てまわると、三郎は少し退屈になり、やがて思いついて、ガールフレンドに電話をかけた。
「あ、礼子ちゃん。ぼくだよ。いま豪華なところに住んでいるんだ。もちろん一時的だがね。どうだい、とまりにこないか。場所は……」
わりない仲の女友だちがあり、時たま安ホテルでひとときをすごすのが、経済的にせいぜいの男。それがこんな室の使用を許されたとなると、三郎ならずともこう考えるところだろう。
礼子は承知し、あとで行くわと答えた。三郎は口笛を吹きながら浴室でシャワーをあびた。からだをきれいにしておくのはいいことだし、また、なんとなく高級な気分になれる。|叔《お》|父《じ》のオーデコロンを借りて少しつけ、ガウンに着がえた。それから、室の棚にあったウイスキーを一杯口に入れ、ベッドに横たわった。
三郎は照明を薄暗くし、待った。やがて触れあう礼子のからだのことを頭に描き、目をつぶって深呼吸した。血液がムード音楽をかなでながら循環している。彼は少しうとうとした。幸福と酒との酔心地が、あまりにこころよすぎたためだろう。
気がつくと、女の匂いがただよっていた。いや、女の匂いで目ざめたというべきだろう。その方角へ手を動かすと、ベッドのなかの女の肌にふれた。礼子が来てくれたのだ。彼は心のなかで叫び声をあげた。三郎の体内で、欲望の電圧が急にあがった。
ドアのチャイムを聞かなかったのは、鍵がかけ忘れてあったせいかもしれない。礼子は入ったあと、ちゃんとしめてくれただろうか。起きて確認に行くべきだとは思ったが、あがりつづける電圧の前には、あとまわしにせざるをえない。
三郎は手をのばし、毛布のなかで女の胸に当てる。呼吸の激しさがよくわかる。電圧は放電寸前まで高まってきた。礼子も興奮しているようだ。
「ねえ……」
残雪をとかす春風のような甘ったるい声を聞き、三郎は返事の意味で手に力を加えた。彼女の声はつづく。
「ねえ、約束した宝石のブローチ、いつ買ってくれるの……」
「そんなこと話したかなあ……」
そのとたん、女は叫び声をあげた。
「あなた、だれなの……」
「そっちこそ、だれなんだ」
三郎は相手の声のおかしいのに気づき、ベッドの枕もとのスタンドを明るくした。礼子ではない。見知らぬ若い女の、驚いた顔がそこにあった。
三郎は自分のはだかをかくそうとし、急いで毛布を引っぱった。すると、身を起しかけた女の胸がむきだしになる。白く肉づきのいいからだだった。充満する若さが皮膚を外側へ押しあげているかのように、はりきっている。
女はあわてて毛布を引っぱりかえす。三郎としても、正体のわからぬ女性に裸体をさらすのはためらわれ、また引っぱる。しばらくそれがくりかえされ、やっと二人は毛布の両端を使いあう形で一段落した。
「さて……」
と三郎が言うと、女はまた聞いた。
「あなたはだれなの。なんでここにいるの。あたしはてっきり……」
「ぼくはこの家の持主の|甥《おい》さ。留守番をたのまれている。盗難でもあるといけないからな。しかし、こんなふうに盗賊が侵入してくるとは、想像もしなかった」
「失礼ね。あたし、泥棒なんかじゃないわよ」
はずかしそうに顔を赤らめながら、むきになって抗議をする表情は、ちょっと魅力的だった。
「しかし、部屋をまちがえたのでもなさそうだ。第一、鍵がかかっていたはずのドアを、勝手にあけて入ってきた。これをどう説明する」
「それは……」
「そうだ。さっき、てっきりとか言いかけたが、だれだと思ったんだい。それを言わないと、なっとくするわけにはいかない」
女は困ったという顔をしたが、観念したようだった。盗賊でない説明をしなければならぬ。それに、知らずにとはいえ、はだかで肌をふれあってしまったため、親近感みたいなものもわいてきた。彼女は小声で言った。
「打ちあけるけど、秘密にしといてね」
「約束するよ。きみが不法侵入の悪人とは思えない。なにか事情があったんだろう」
「あたし、ここのご主人かと思ったのよ。暗いし、オーデコロンの匂いも同じだし。夕方、画廊のほうで奥さんが旅行に出かけたって話を聞いたので、いつものように忍んできたっていうわけよ。ここの鍵は、ご主人が複製を作って、ひとつあたしに預けてくれたの」
「ふうん。そうだったのか。叔父のやつ、叔母の留守にはいつもこんなふうに|間男《まおとこ》を引き入れ……いや、逆だ。しかし、間女というのも変だな。女性上位時代にあらわれたこの現象、なんと呼ぶべきか……」
三郎はもっともらしくつぶやきながら、女のほうをちらちら見た。毛布が透明だったら、どんなにいいだろうと思った。
「でも、叔父さんにも同情しておあげなさいよ。叔母さん、ベッドですごいんですってよ。大声をあげたりして。そこで、あたしのような、おとなしくかわいらしい女性が……」
「そんなことより、ぼくのほうに同情してもらいたいね。きみのおかげで、ここまで興奮させられて、いまさら……」
三郎は力をこめて毛布を引きよせた。それとともに、彼女が近づいてくる。反抗するけはいもない。なにしろ、とんでもない弱味をにぎられてしまったのだ。奥さんに報告でもされたら、まわりまわって別れさせられてしまう。その報告の口を封じておかなければならない。
理屈で考えればそんな結論になり、感情の点でもからだが燃えはじめたところだ。といった気分をたたえた大きな目が、三郎のそばへ迫ってきた。
発火点をめざしてふたたび上昇しはじめた水銀柱に水をかけるかのように、ドアのほうからチャイムの音が響いてきた。
だれか来客らしい。三郎は飛びあがった。
「すっかり忘れていた。大変だ。礼子がやってきた……」
そばの女も同様にうろたえた。
「冗談じゃないわよ。あたしがここに来たことがほかの人に知れたら、男の人とベッドにいたなんてうわさが立ったら、どうしようもないわ。あなただけでも持てあましているっていうのに。しらん顔して帰しちゃってよ」
「ところが、そうもいかない来客なんだ」
「じゃあどこかへかくしてよ」
「そうだ。あの押入れのなかに入っていてくれ」
三郎はさっき見た押入れのことを思い出した。鳴りつづけるチャイムにせき立てられながら、彼は女をそこへ押しこんだ。そして、念を押した。
「いいと言うまでは、絶対に出ちゃだめだ。声も立てちゃいけない。感づかれたら、なにもかも破滅だ。どんなことがあっても、静かにしていてくれ」
「わかってるわ、だけど、あたしのことはだれにも黙っててね」
「ああ、もちろんだとも」
「あ、服をとってよ……」
三郎はベッドのそばに戻った。しかし、ほかにもなすべきことがあるのに気がついた。ベッドの乱れをなおさなければならぬ。彼は急いでそれをした。また思いついて浴室にかけこみ、防臭剤のスプレーを持ってきて、あたりにまく。女の匂いを消しておかなければならないからだ。チャイムが鳴っている。礼子をこれ以上待たせるわけにいかない。
彼は椅子の上にあった女の服とハンドバッグを抱え、ベッドの下に押しこんだ。それから、ほとんどずり落ちそうになっているガウンをまといながら歩き、歩くついでに押入れの戸を閉め、やっと玄関にたどりついた。
ドアをあけると、礼子が入ってきて不満そうに言った。
「なかなかあけてくれなかったのね」
「ごめん、ごめん。じつは、ベッドでうとうとしていたんだ。チャイムで飛びおきたはいいが、勝手がわからずうろうろし、足をなにかにぶつけちゃったんだ。ああ痛い……」
三郎は言いわけをしながら足をなでた。
「大丈夫なの」
「たいしたことはない。まあ、遠慮しないで奥へおいでよ」
「すごいお部屋ね……」
礼子はあたりの豪華さをよく見物したいらしかった。しかし、三郎としては、そのへんの戸をむやみにあけられては困る。
ベッドの乱れは完全になおってはいなかったが、あわてて飛びおきたという説明でなっとくしてくれるだろうか。三郎はその心配をなくしてしまおうと、スタンドの灯を薄暗くし、ベッドの上に横たわってころがりながら言った。
「やわらかくて気持ちがいいよ。早くここへおいでよ」
「そうせかさなくたっていいじゃないの。お部屋のムードを味わってからでもいいでしょう」
礼子がベッドの乱れやぬくもりや、かすかに残る匂いなどに不審を抱かず、ムードのほうに熱心らしいので、三郎はほっとした。
「そんなことは、あとでいい。きみをドアのそとで待たせたのはたしかに悪かったが、ぼくはそれよりずっと長い時間、ここで待ちかねていたんだよ。待ちくたびれて、眠りかけたくらいだ。さあ……」
三郎は必死の口調で言い、礼子の手を引っぱった。もちろん、彼女もそのつもりで来たのだ。やがて、礼子のはだかがそこへ出現し、ベッドのなかへとすべりこんできた。彼女は三郎のひたいだの首すじだのに口づけをしながら、うきうきした声で言った。
「三郎さん、なぜだか、きょうとても情熱的ね。なぜなの」
「部屋のムード、いや、きみへの愛情の高まりのせいさ……」
三郎はごまかした。さっきの女ですっかり興奮させられている。そして、その女は、すぐ近くの押入れのなかの暗がりに、はだかでじっとかくれているのだ。
そのことを想像すると、三郎の体内で刺激の妖精が勢いよくかけまわりはじめた。なめらかな礼子の肌の触感。刺激の妖精はかけまわるばかりでなく、二倍、四倍と数がふえ、押しあい、やがて臨界量に達し、連鎖反応がはじまりかけて……。
その時、チャイムの音が響きはじめた。
このやろう。こんな時にやってきて、ひとの恋路をじゃまする犬は、どこのどいつだ。三郎は腹を立てた。だれがなんと言おうと、応対してやらないぞ。
絶対に応対しない決心をかためたが、ドアのそとの声はこう言った。
「ぼくですよ、おばさま。入りますよ……」
つづいて鍵をあける音。はて、来客はおれのいとこなのだろうか、と三郎は考えた。しかし、声に心当りはない。とすると、叔父のほうの親類なのかもしれない。ここの合鍵を持っているところから察して、親しいやつのようだ。
だが、いずれにせよ、こんなところを見つかってはまずい。留守番をたのまれたのをいいことに、温泉マークがわりに使っていたと報告されては、ろくな結果にならない。叔母の耳に入ったら、もう小遣いをもらえなくなる。三郎は毎月のようにもらっていたのだ。定収入の一部といってもいい。その財源がなくなると、身動きがとれなくなる。この礼子ともつきあえなくなる。
礼子が三郎にささやいた。
「だれなの」
「だれだかわからないが、弱ったことになったようだ。たのむ。ぼくを信じてちょっとかくれていてくれ」
「でも、どこへ……」
「そこの押入れだ。いいかい、なにが起っても、決して声を立てないでくれ。きみといたことがばれると、きみとの結婚はおろか、これからの交際も不可能になる。あとで事情は説明するから」
三郎は礼子の服や下着をベッドの下にかくし、彼女を押入れのなかに押しこんだ。なれない部屋で、ほかに適当な場所を知らないのだ。先住者は驚くかもしれないが、背に腹はかえられない。あとでうまく説明すれば、なんとかなるだろう。いま問題なのは、すでに入ってきた来客なのだ。
三郎の大奮闘とは反対に、入ってきた男はいい気になってしゃべっている。声の調子から、まだ若いようだ。
「ぼく、やってきましたよ。ご主人、旅行なんですってね。だからぼく、それを知って急いできたんです……」
三郎はそっとのぞいた。玄関のほうは明るく、ベッドの室のほうは暗くしてあるので、さとられることなく相手の顔をよく見ることができた。しかし、叔父の親類にしても、まるで見覚えのない顔だ。
かなり若く、眼鏡をかけている。どことなくペット的な印象を受ける。そして、甘えたような声でしゃべりながら、服をぬぎはじめている。
「おばさま、ぼく、さっき精力剤とかいうのを飲んできたんですよ。本当にきくかどうか、ベッドの上でためしてみましょう」
それを聞いて、三郎はうなずいた。ははあ、おばさまという言葉で、かんちがいをしてしまったが、こいつは親類でもなんでもない。叔母のペットとでも称すべき存在だったようだ。最初に入ってきた女と、|対《つい》をなすものといえる。叔母夫妻が|倦《けん》|怠《たい》|期《き》にもならずなんとかやっていたのは、こんな裏があったためか。
しかし、感心している場合ではなかった。その若者は着ているものを全部ぬいでしまい、眼鏡をはずしてそばのテーブルの上にのせ、こっちへやってくる。すなわち、人工の製品はなにひとつ身につけていない。
三郎は目のやり場に困った。興奮した男性の姿というものは、異性にはいざしらず、同性の目にはあまり魅力的にうつらない。しかも、遠ざかって行くのならまだしも、近づいてくるのだ。
うろたえざるをえない。若者は近視の度が強いせいか、あたりが薄暗いせいか、胸の|動《どう》|悸《き》で見さかいがつかなくなっているためか、三郎に抱きついてきた。
死体でも倒れかかってきたほうが、まだましかもしれない。三郎は声も出せず、腰を引き、反射的に押しかえした。それなのに、相手はまだ気がつかない。
「どうなさったの、おばさま。さあ、早くベッドへ入りましょうよ。ぼくをかわいがって下さい……」
そして、ベッドの上にあおむけに寝た。三郎は目をそらせながら、毛布をかけてやった。
「おい、いいかげんにしろ。冗談じゃないぞ。ぼくの顔をよく見ろ」
とスタンドを明るくする。三郎が顔を近づけると、やっとわかったらしい。相手は青ざめた。急にふるえ声になる。
「あ、あなたはだれです」
「そっちこそ、だれだ。まあ、聞かなくてもおおよその見当はつくがね」
「すると、あなたはやとわれた人ですか」
「まあ、そういうことになるな」
「ああ、なにもかも終りだ。そこの窓から飛びおりて死のう……」
泣き声をあげはじめた。三郎はふしぎがりながら言った。
「そりゃあ、たしかに、ていさいのいい話じゃないだろう。しかし、これぐらいのことで人生に幕をおろすこともないと思うな。ぼくは留守番にやとわれてここにいるわけだが、きみを自殺させるつもりはないよ。まあ、元気を出せ。事情を話してみろ」
「お留守番のかたと聞いて安心しました。なにもぼく、来たくて来たんじゃありません。じつは、ぼくの父が商売上、ここの夫人から多額の金融の世話をしてもらったのです。ですから、ぼくがここへサービスにうかがわないと、その金融は停止され、父は破産、一家離散なんです」
「これはひどい。なんという世の中だ……」
商売がここまでせちがらくなったのをなげくべきか、性の解放を喜ぶべきなのか、三郎にはわけがわからなくなった。金策のために娘に因果を含める話は昔からあるが、ついにそれが息子に及んだらしい。この若者は孝子と称すべきなのだろうか。それとも、父の苦境をみかねて自ら志願したのだろうか。それとも……。
「お願いです。だまって見のがして下さい」
「どこまで真実なのかわからないが、オーバーなような気もするな。さっきの言葉では、いやいやながらという感じじゃなかったぜ」
「だって、まさか、あなたとは知らなかったんですから、ああ言うのが当然じゃありませんか」
「そういえばそうだな。まあ仕方がない。すべては胸におさめてだまっていてやるから、服を着て早く帰れよ」
「はい。ありがとうごさいます。なんとお礼を申しあげたものか……」
その時、窓のほうでなにかがガラスにぶつかる音がした。人がノックしたようでもある。それを耳にし、叔母のペットである若者は、のどの奥で悲鳴をあげ、毛布にかくれた。
「あ、やってきた。大変なことになってしまった。あいつに見つかったら……」
「なんのことだ。あれがなんだか知っているのかい」
「ぼくを尾行しているやつにちがいない。ぼくとここの夫人とのあいだをさぐり、スキャンダルにしようというのです。そのためにやとわれたやつにきまっています。だからぼく、さっき、あなたをかんちがいしてあわてたのですよ」
「きみの話はどうも大げさなようだな。まさか、そんなことが……」
「いいえ、本当です。そうでなかったら、時間をみはからったように、こううまく窓のそとに出現するわけがないでしょう。あいつにフラッシュをたかれ写真でもとられたら、ここの夫人はおしまいです。そして、ぼくも……」
若者は歯を鳴らしていた。錯乱状態の少し手前といった感じだ。こいつ、頭が弱いんじゃないだろうか。それとも、テレビでも見すぎて自分を悲劇の主人公に仕立てて酔っているのだろうか。三郎にはわからなかった。叔母もペットを選ぶのなら、もう少しましなのにすればよかったのに。
もしかしたら、精力剤の副作用かもしれない。若いのにそんなのを飲むと、過敏になるばかりだろう。
しかし、まさかとは思っても、事実としたらことだ。叔母の没落は三郎にとっても好ましい事態ではない。そこまで至らないとしても、ここが同性愛のクラブだとうわさがながれたり、こっちまでその愛好者と思われたりしたら、一生うだつがあがらなくなる。
ガラスをたたく音には、早く開けろとの感情がこもってきた。幻聴ではない。だれかがそこにいるのだ。三郎は若者に言った。
「そんなに心配なら、早くドアから出て行けばいいじゃないか」
「ドアのそとにも待ちかまえているにきまっていますよ」
三郎は覚悟をきめた。
「えい、仕方ない。まったく手数のかかるやつだ。よし、ぼくが応対して、うまく撃退してやる。ちょっとのあいだ、その押入れにかくれていてくれ。しかし、そこになにがあろうと、そとではなにが起ろうと、決して声をあげたり、出たりしないようにな」
「わかってますよ。どうぞよろしく……」
三郎はまかせておけとうなずき、また例のことをくりかえした。すなわち、はだかの本人を押入れに、散乱している服や下着をベッドの下に押しこむという行為を。もっとも、テーブルの上の眼鏡までは手がまわらなかった。
それから、カーテンをずらし、ガラスのそとをのぞいた。こんな時に他人の住居の窓をたたくなど、非常識もはなはだしい。ひっぱたかれたって、文句も言えないはずだ。第一、この三階のベランダまで、どうやってのぼってきたのだろう。そんなことを考えながら、三郎はにらみつける目つきをした。
しかし、そのとたん、彼はきもをつぶした。まっぱだかの男が、そこにいるではないか。そいつは、ガラスのむこうで手を合せ、目で必死に訴えている。こうなると知らん顔もできず、あまりの異様さへの好奇心もあり、三郎はガラス戸をあけた。
「なんです、あなたは。どこから来たのです。まるで夢遊病だ。しっかりして下さい。ここは三階のベランダで、温泉の浴場じゃないんですよ」
「しっ。小さな声で。なにもおっしゃらず、早くなかへ入れて下さい。事情はお話しします」
「事情のあることは、見ただけでもわかるよ。しかし、そんなかっこうで、よく尾行の仕事がつとまるな」
あきれている三郎にかまわず、はだかの男はなかへ入り、自分でガラス戸をしめた。
「なんのことですか、尾行とは。決してそんな怪しい者ではありません。哀れな者なのです。同じ男性なら、きっと同情してくれるはずです……」
「気を落着けて、早く話せ」
「じつは、となりの部屋の奥さんとベッドに入っていたら、急に亭主が帰ってきたんです。これからという時にね。|小話《こばなし》や漫画ならアハハですが、自分がそうなると大変です。とるものもとりあえずベランダへ出て、命がけでこっちへ移ってきたというわけです」
「なるほど、そう説明されるとそのようだな。どう見ても強盗ではない」
三郎はほっとして笑った。たしかに、当人にとっては絶体絶命の立場にちがいない。ほっといたらどうなっただろうか。戸外の寒さに耐えたとしても、明るくなったらどうするつもりだったのだろう。
見ればちょっとした二枚目で、たくましいからだつきだ。それがまっぱだかで手を合せている図は、三郎でなくとも笑いたくなる。
「お願いです。助けて下さい」
「いいとも。通してあげよう。玄関はあっちだ。そっと出ていってくれ。こっちも事情があって、いそがしいのだ」
「しかし、このなりでは、どうも……」
「人に見られないよう階段をおり、そっとタクシーへ乗れば家まで帰れるだろう」
「そんな無茶な。タクシーが止ってくれません。どんなお礼でもします。なにか着るものと、はくものを貸していただけないでしょうか」
「しかしだね、そのまま逃げたっきりにならないという保証はないじゃないか」
まったくのはだかで、金も身分証明書もなにもないのだ。最近は盲点をつく知能犯がうようよいる。こういうきわどい詐欺を考え出すやつがいないとは断言できない。計画的にやられたら、たいていひっかかる。
「信用していただけないのは残念です。といって、このままでは帰れない。じゃあ、こうしましょう。電話を使わせて下さい。恥をしのんで友人に連絡し、服を持ってきてもらいます。あの、ここは何号室になるんでしょうか」
「わかった。きみを信用しよう。ズボンとシャツとスリッパと、タクシー代を貸そう。万一かえしにこなかったら、となりのご亭主に言いつけてやる」
「ご迷惑はおかけしません。ありがとうございます」
三郎はべつに信用したわけではなかった。言いつけようにも、この男の名前すらわからない。間男が逃げてきたという証拠は、あとにはなにひとつないのだ。
それにもかかわらず服を貸す気になったのは、はだかの男にここに腰をすえられては困るからだ。いいかげんで追払わないと、こっちの仕事にさしつかえる。つまり、押入れのなかの連中のことだ。ひとりずつ出し、それぞれに一応つじつまのあう説明をし、帰さなければならない。やっかいなことだが、やらねばならない。ひどいことになったものだ。なんという悪日だ。
そんな三郎の内心におかまいなく、ベランダからの侵入者は、最上級の感謝の意を表明した。むりもない。やっと危機をのがれることができたのだから。それにしても、大の男がはだかで喜んでいる光景というものは……。
だが、その表情もすぐにこわばった。チャイムの音がし、それだけではたりぬかのように、ドアが激しくたたかれた。ベランダからの侵入者は、飛びあがった。
「た、たのみます。奥さんの言いわけでは、ごまかしきれなかったのでしょう。ベランダから逃げるところを見られたのかもしれない。亭主がさがしに来たのです。嫉妬ぶかく、かっとなりやすいやつなのです。だからこそ、ぼくも足をふみはずしたら死ぬと知りながら、こっちのベランダへ飛び移ったのです。物わかりのいい亭主なら、ぼくはその場であやまっていたはずです」
「そんなぶっそうな人の奥さんと、なんで浮気なんかするんだ。前後の見境いのないやつだな」
「恋は盲目とかいうじゃありませんか。すばらしい女性なんですよ。しかし、亭主はひどい。見つかったら殺されます。かくまって下さい。だれも来なかったと言って下さい」
ドアをたたく音は、あけてくれるまでやめないという勢いだ。目の前で殺人がおこなわれてはかなわないし、巻きぞえで傷つけられるのもまっぴらだ。三郎は言った。
「じゃあ、話してみるから、ベランダにでもかくれていてくれ。ベランダというかくれ場所には気がつかなかった。もっと早く知っていたら……」
「なにをぶつぶつおっしゃっているのです。ベランダはだめですよ。ご亭主が入ってきたら、まっさきにそこを調べます。ほかにありませんか。かくれるところは」
「仕方ない。そこの押入れだ。もう、どうにでもなれだ」
三郎が指さすと、男は感心した。
「なるほど、そんなところがあったのですか。むこうの部屋にもあったわけですね。それなら、そこへかくれてもよかったのだ」
「そうしてもらいたかったよ。しかし、いいか。絶対に声をあげないでくれ」
「わかってますよ。死にたくはありませんからね。キジも鳴かずばうたれまいです。だけど、気をつけて下さいよ。[#電子文庫化時コメント 「気ちがいに刃物のような」を削除。星夫人の電話での了解 2002/7/12]すごい人なんですから」
「きみのせいで、亭主が狂犬のようになったんじゃないか。さあ、早く……」
三郎は男を押入れに追いこんだ。だが、今回は服をベッドの下にかくす必要がなく、その点だけは助かった。
それから、玄関のドアを開ける。とたんになにかが飛びこんできた。予期していたとはいうものの、その勢いはすさまじかった。
しかし、どうもようすが変だ。いかり狂った男ではなく、入ってきたのは女だったのだ。その女は言った。
「早くドアをしめちゃって。助けて。いやな男に追いかけられているの」
「ははあ、となりの奥さんですね」
と三郎は言った。浮気を問いつめられ、なぐられて逃げ出してきたのかと思ったのだ。しかし、その女は三十歳ぐらいで、和服が身についた、水商売かなにかのような感じだった。ベッドから出てきたふうではない。それならドアをあけて入れなければよかったと思ったが、あとのまつり、女は三郎の口を手で押え、ささやいた。
「お願い。声をおだしにならないで。つかまったら大変なの。ちょっとのあいだでいいから、かくまってちょうだい。どんなお礼でもするわ」
耳をすませると、そとの廊下を行ったり来たりする足音がする。いやな男につきまとわれているのだろうか。この女もマンションの住人で、なにかから逃げてきたのだろうか。犯罪でもからんでいるのだろうか。三郎には見当もつかなかった。聞いたところで、はっきりとは答えないだろう。あるいは、長い長い話になるのかもしれない。
「だれが来ても、決してあけないでね」
女は三郎を引っぱり、ドアからはなれた。ベッドが目に入り、女は言った。
「いっしょに寝ましょうよ……」
かくまってもらって、ほっとしたらしい。その感謝の意味なのだろう。それとも、心細さが原因なのだろうか。
「しかし……」
「いいのよ。遠慮なさらないで。あたし、どんなに助かったことか。あなた、感じのいいかたねえ。親切で、男らしくて。ここには、ほかにだれもいないじゃないの。だったら……」
とめるまもなく、女は着物をぬぎはじめた。帯が、着物が、下着がと進み、小麦色のほっそりしたからだがあらわれた。またもはだかだ。
三郎としては、もはや興奮どころではない。|呆《ぼう》|然《ぜん》としていると、女は積極的になった。せっかく着物をぬいだのに、それを無視されたのかと思い、いじになったようだ。三郎をうぶな青年と感じ、熱意が燃えたようでもある。
なやましげな身ぶりをし、挑発的だ。追いかえそうにも、こうなっては手がつけられない。それが作戦だったのかと、三郎はやっと気がついた。女の着物をむりやりぬがせることは可能でも、いやがる女にむりやり着物をきせることはむずかしい。
「ねえ、ベッドに入りましょうよ……」
男をあしらいなれている女性らしく、声と視線と体臭という見えぬ糸を縦横に使い、三郎を引きよせはじめた。さっきからの事件で、三郎の頭は疲れはてている。そこへまとわりつく、しなやかなはだかの女。彼はふらふらと……。
また、チャイムが鳴りだした。
女はびくりとし、三郎を力をこめて引き寄せ、両手と両足とでしっかりとつかまえた。ベッドからドアへは、どうあっても立たせないつもりらしい。
「とうとう来たわ。絶対にあけないでね」
「そうするよ」
変なさわぎに、これ以上かかわりあいたくない。そもそも、ドアを開けるたびに、なにかしらやっかいなものが入ってくる。もうたくさんだ。警官だろうが、執行令状を持った裁判所のやつだろうが、火事を告げる消防夫だろうが、百万円の当選を知らせに来た人だろうが、知ったことか。
チャイムの音はつづき、そのあいまに男の声がした。
「おい、おれだよ」
叔父の声だ。つづいて、叔母の声。
「気象条件が悪くて、飛行機が引きかえしちゃったのよ。それであたしたち戻ってきたの。ねえ。三郎さん、いるんでしょ……」
これは知らん顔もできない。ここの本来の住人なのだ。追いかえせない唯一の人だ。鍵も持っているだろうし、持ってないとしても、返事をしないでいたら管理人にたのんで合鍵であけてもらうだろう。
「おかえりなさい。でも、ちょっと待って下さい。いま、シャワーをあびたのではだかなんです」
とりあえず三郎は答え、いやもおうもなくベッドの女をせきたて、着物はベッドの下へ、女は押入れへと、さっきからの手なれた作業をおこなった。
それと同時ぐらいに、叔母たちはドアをあけて入ってきた。叔母は言う。
「すまないわねえ。留守番のお礼とタクシー代をはずむから、三郎さん、自分の家へ帰ってよ。あしたの晩からにお願いするわ」
「しかし、ベッドをお借りしていたので、シーツがとても乱れていて……」
「いいわよ。あたしがなおすから。べつになにもなかったようね。さぞ退屈だったでしょう」
と叔母はあたりを見て言う。
「はあ」
「じゃあ、これはお礼」
「じつは、その……」
「不服そうね。だったら、もっとあげるわ」
紙幣の何枚かが手渡された。服を着て出ていかねばならない成り行きとなった。もはや、運命はつきたようだ。三郎はなにか言おうかと思ったが、押入れのなかについては、どうにも説明のしようがない。
三郎はドアから出た。あのベッドに、これから叔父と叔母とが入ることになるのだろう。ふたりのむつごとはすさまじいそうだ。それは押入れのなかの連中の耳にもとどくだろう。どんな反応をするだろうか。絶対に声を立てるなと念は押してあるが、あの暗くせまいなかでの、はだかの若い男女だ。それに、みんな発火寸前の状態にある。精力剤なんかを飲んでいるやつもいる。いつまで静寂がつづくだろうか。
手 紙
夜。豪華な室のなか。上品な照明がやわらかい。広い床に敷かれたじゅうたんは厚く、壁を飾る絵も高価そうだ。重い材質の、がっしりと大きな机。
その机にむかって、ひとりの人物が椅子にかけ、考えごとをしていた。五十五歳ぐらいの男。服装も立派でととのっていた。彼は考えこみ、時どき無意識のように手をポケットに入れ、ふたたび出す。その動作をくりかえしていた。
ここはある官庁の官邸。すなわち、男は政府のきわめて重要な地位にある。彼は政治家として、思いきった施策をつぎつぎに打ち出し、大衆的な人気と支持もあった。その支持があるからこそ、思いきったことができたともいえる。
しかし、派手な行動というものは、ゆきづまりやすい。この男の場合もそうだった。無理押しの矛盾が少しずつつみ重なり、いまや苦しい局面におちいっていた。一方、世人の彼への期待は依然として強い。すぐにも、少なくとも数日中には、なんらかの打開案を発表しなければならない立場にあった。しかも、奇跡のような案をだ。だが、なんの名案も浮んでこない。
男はタバコをくわえ、二、三回ほど吸って、灰皿でもみ消した。なんということもなくメモ帳を開き、意味のない記号を書いて、それから破って捨てた。またポケットへ手を入れ、出した手を顔の前でひろげて、ぼんやりと見つめる。
彼はいらいらしていたのだ。といって、対策の案が思いつかない絶望のためではなかった。男は待っているのだ。手紙を待っている。通信文を待っている。それが救いであり、希望であり、たのみのつななのだ。
その手紙が来さえすれば、いまのいらだちはたちまち消える。待つ。それは絶望そのものより、はるかにいらいらする。
手紙を待っている。それは手紙と称していいものかどうか、断言はできない。どこから送られてくるのかも、どうやって送られてくるのかも、なぜ送られてくるのかもわからないのだ。
だが、必ず来るのだし、必ず彼の目にとまることになっている。それは確信となっていた。いや、確信というよりも、顔のひげがのび、太陽が東からのぼり、枯れた木の葉が落ちるのと同じく、疑いようのない当然のことなのだった。
おちついて待てばいいのだ。男は椅子の背にもたれ、目を閉じ、手紙のことを回想した。彼の人生において、その手紙に最初に接した時のことを……。
……あれは大学を受験する半年ほど前のことだった。いまでも、なつかしく、はっきりと思い出せる。
そのころの彼は、頭はさほど悪くはないが、個性のない少年だった。将来への野心とか自信とかいったものもなかった。ずっと遠くまでが見えてしまうような気持ちになる。
自分の前にひらけているのは、平凡な一本の道しかない。一生とは、これを歩きつづけることだけなんだ。そこを歩いている、将来の自分の姿が見える。平穏ではあるが、なんの感激もなく、惰性で歩きつづけている。そして、はるか道のはてには、とし老いて倒れている自分の姿さえ見える。
人生とは、それだけのことなのだろうか。それなら、この道を歩きつづけるのは、なんのためなのだろう。
少年はこの思いを持てあました。これを振り払いたいと願った。だが、頭をふったぐらいではどうなるものでもない。こういうものなのだと悟った心境になることもできず、奮起して心のなかで野心を爆発させることもできなかった。平凡な少年だったのだ。
少年は街に出た。人ごみのなかをあてもなく歩きまわった。もしかしたら雑踏にまざっているうちに、この悩みをだれかが持っていってくれるかもしれない。そうでなくても、悩みがすりへってくれるかもしれない。このような思いつきだったのだが、あまり効果はなかった。
少年はさびしさにたえかねたかのように、なにげなくポケットに手を入れてみた。紙片が指にさわる。出してみると、字が書いてある。少年は人ごみからはなれ、ものかげに行ってそれを読んだ。その紙片には、なにか秘密めいた感じがともなっていたからだ。
十センチ四方ぐらいの、かすかに灰色がかった目立たない紙。やわらかい感触だった。
ある大学の名がしるしてあり、そこを受験せよと簡潔に書いてあった。少年はしばらく|呆《ぼう》|然《ぜん》とする。その大学への受験は、自分の才能を越えたことだと思い、これまで考えてもみなかったことなのだ。
もう一回、紙片に目を落す。やはり文面に変りはない。そして、付記のようなもののあるのを知った。読んだらすぐに焼きすてよ、このことをだれにもしゃべるな、だれにも気づかれるな、と。
少年はそれに従った。さからってはいけないようなものを感じたのだ。火をつけると紙片は音もなく、かすかな煙をあげて燃え、灰は微細な粉となって散った。
紙片は消えたが、少年の心のなかには変化がおこった。指示された大学を受けてみよう。ものはためしではないか。やってみよう。
それにしても、と少年は考えた。あの手紙を、だれがぼくのポケットに入れたのだろう。それはもはや調べようがなかった。なにかあたたかく力強いものにさわられたような気もする。その時に入れられたのだろうか。だが、はっきりはせず、それは気のせいかもしれなかった。
なんのために、どんな理由で、どうしてぼくのポケットに。それもまたわからなかった。謎の手紙。だから、とても神秘的な感じがした。
少年は決心をし、志望校を口にした。家庭でも、友人たちも、みなふしぎがった。むりだからよせ、と忠告する者もある。なんでまた、そんな気になったのだと、質問をくりかえす者もある。少年はそれには答えなかった。紙片の付記にあった指示だ。秘密にしなければならないことなのだ。そして、ぼくはそれを守る約束をした。
少年には目標ができた。はりあいのある日々がもたらされた。それにむかって努力をし、その大学に入学することができた。うれしさはもちろんだった。と同時に、前からきまっていたことのような気もした。だが、あの手紙に接しなかったらと思うと、説明のしようのない複雑な感じにもなる。
大学時代、学年が進むにつれ、彼の心のなかでは、かつての手紙の記憶がうすれていった。あれは錯覚だったのだろう。幼い頃に暗闇のなかに見たと思った怪物のようなものかもしれない。そんなふうに考えたりもするのだった。
卒業が近づき、就職をきめなければならぬ時期となった。そのようなある日の夕方、彼はポケットのなかに、またも紙片を見出した。だれに入れられたのだろう。心当りはなかった。注意の空白の瞬間をねらってなされたのだろうか。いや、泉がわき出すように、大地から芽が出るように、ごく自然にポケットのなかに出現したという感じだった。
ある企業の名がしるされ、そこへ就職せよと書かれている。例によって、すぐに焼きすてよとの付記も。
以前のことが鮮明に頭によみがえり、彼は反射的にそれに従った。他人に見せることが大変な裏切りであり、|冒《ぼう》|涜《とく》のように思えたからだ。これはいい手紙なのだ。そんなことをしたら、この通信はこれきりになってしまうのではないかとの恐れも感じたのだ。
彼はその企業の入社試験を受け、合格し、青年社員となった。そして、順調だった。働きがいのある月日が流れる。
順調な日々の連続は、また彼に手紙のことを忘れさせる。現在の状態はすべて自分の実力なのだ、才能なのだ、と。ほかからの指示のおかげなんかではない。あの手紙は、自分の決意のあとだったような気もする。自分がなにげなく書いたメモを、自分でポケットから出して読んだのにちがいない。
|傲《ごう》|慢《まん》ともいえた。たが、それは青年期の特性であり、順調さの示す特性でもあった。それでいいのだ。
やがて、青年は恋をした。これまでにも女友だちは何人かおり、恋愛めいたことの経験はあった。だが、こんどのはとくに激しく燃えた。相手の女性の家庭が上流階級に属し、そのことが彼をためらわせ、ためらいが恋の炎をあおる形になったのだ。
傲慢さはしりぞき、|煩《はん》|悶《もん》がとってかわった。自分の家柄がもっとよければなあ。あるいは、それをおぎなうだけの図々しさが自分にもあったらなあ、などと思う。いや、図々しさがあって、明確にはねつけられる結果になったら、さらに悲しい。このままのほうがいいのかもしれぬとも考える。閃光と闇とが交錯したなかにいるような、おちつかぬ日々だった。
自分を持てあまし、心が疲れはてた時、青年のポケットからまた例の手紙が出現した。その女性をめざせと書かれた紙片だ。
彼は見つめた。いったい、だれがよこす手紙なのだろう。個性のないような、それでいて、ものすごく強烈な個性を押しかくしているような筆跡。こんな字を書けるような人がいるのだろうか。その神秘さが、なにかさからえない力となって迫ってくるのだ。
それに、この紙質。こんな紙は見たことがない。やわらかく、目だたぬような色で……。
だが彼は、そのせんさくをやめた。黄金の卵をうむ鳥の腹をさくようなことになりかねない。それに、調べることは非礼に当るように思える。この手紙の差出人は、ごく身近にいて、自分を見つめているのかもしれない。よけいな好奇心を起すと、それはすぐに察知され、もはや二度と……。
一瞬そんなけはいを感じ、青年は紙片を焼きすてた。あとにはなにも残らない。恋に苦しんだあげくの、うたたねの夢だったような気もする。だが、夢とはちがう。夢ならさめてから五分もすると忘れるが、この場合、彼の心のなかで決心がめばえはじめていた。
青年は勇気を出してその女性との交際を進め、結婚へとそれは結実した。いい妻であり、その親類は有力者が多かった。やがて子供もうまれる。彼は満足だった。
こういうのをエリート・コースというのかもしれぬ。夢のようなことだなとも思う。だが、実力あってこその幸運ではないかとも考える。才能への自信感が高まり、気分のはれやかな夜など、ウイスキーでも飲みながら、例の手紙のことを妻に冗談めかして話したいという誘惑にかられる。
しかし、それは口に出す寸前に思いとどまるのだ。すべては他言しないという誓いのおかげではないか。この契約にそむいたら、どうなるだろう。現在の幸運が、音をたてて一挙にくずれ落ちるかもしれない。そうはならなくても、手紙のおとずれは永遠になくなるだろう。やはり、言うべきではないのだ。
幼いわが子を抱いてあやす時にも、男はそれを口に出さなかった。まだ言葉のわからない幼児が相手でも、約束を破る行為であることに変りはない。自己に課したきびしい戒律なのだ。
めぐまれ充実した生活がつづき、つとめ先でも失敗をせず、男は昇進をした。
しかし、ある日、またポケットに手紙があらわれた。転職せよ、とある。ある業績不振企業の名がしるされ、そこへ移れとある。
例によって、男は読んだあと、それを焼きすてた。読まずに焼きすてたかった。こんどは悪夢のような気分だった。なぜ、いまの順調さを捨てなければならないのだ。へたをしたら、破滅への道をたどることにもなりかねない。
これはなにかのまちがいだ。しかし、いまの文は目の底に、頭の奥に、心の壁にすでに刻まれてしまっている。もはや消しようがない。
聞きかえし、わけをたずね、確認したかった。だが、郵送された手紙とはちがうのだ。こちらから連絡をとる方法がない。無視するか、従うか、二つに一つしか道はない。
男は親しい友人に事情をうちあけ、相談したくてならなかったが、それもやめた。他言しないという戒律を破ることになる。あれこれ迷ったあげく、男は指示に従うことにきめた。従わなかったら、これからずっと気がかりな人生を送ることになるだろう。
男はその決意を発表した。もちろん、妻は反対した。結婚してからはじめての反対だった。強い反対だった。なぜなの、どうして、なぜそんなばかげたことを。
しかし、男は説明をしなかった。説明は誓いを破ることであり、それは許されないことなのだ。
決意の言葉をくりかえすだけだった。
つとめ先の関係者も忠告した。あの企業はどう調べても回復不能の会社だ。そこへ移ろうなど、頭がどうかしたのじゃないのか。因縁も義理もない。悪いやつにそそのかされたのか。しかし、ここでも男は決意をくりかえすだけだった。
決意の言葉をくりかえしているうちに、彼の心のなかでも本当に決意がかたまった。それは表情にもあらわれ、なにか確信ある信念のように他人の目にはうつった。それほどまでに考えているのなら、できうる限りの協力はするよ、との言葉をかけてくれる人もあらわれてきた。
かくして、男はまた新しい道を進みはじめた。それは苦難の道だった。不振の企業を向上させるのは容易でない。前任者たちはこれ幸いと彼に責任を押しつけ、去っていった。
不眠不休、何年かをそれに捧げたが、依然として不振はつづく。財産はへり、知人には迷惑をかけ、からだも弱る。もうだめだ、力はつきた。これ以上はつづけられない……。
その時、ポケットに手紙があらわれた。あきらめるな、の文字。神秘にみち、力強く、反対を許さない通信。
やけともいえた。不合理への熱狂ともいえた。男は肉体と精神に残るすべてをそそいだ。そのうち、産業界の思いがけぬ変化により、突然の好況がもたらされた。いままでの不振をいっぺんにうめあわせるように、急速に利益があがりはじめたのだ。長い乾季が終って雨季に入ったように、利益はふりやまぬ雨のごとく、限りなかった。
たちまち業界の上位にのしあがり、世の注目を集める。普通ならこのような場合、|嫉《しっ》|妬《と》や|羨《せん》|望《ぼう》が強く当るものだが、彼の長い苦労が知れわたっているために、称賛と祝福だけが集中する。協力者もふえる。
さらに海外への進出。男は海外旅行へ出発すべく、空港の待合室にいた。なにげなくシガレット・ケースを出そうとした時、また例の手紙が指先にさわった。予定のに乗るな、とある。
航空機の変更にはてまがかかり、金もむだになった。しかし、男はそれをやり、事故をまぬかれることができた。
企業は加速されたように発展し、順調さはむかし以上のスケールとなった。政界への進出をすすめる者もある。男はあまり関心を持たなかったが、やがて、彼はその決心をかためることとなった。
いうまでもなく、ポケットに手紙があらわれたのだ。政治の分野で力をふるえと。彼は従った。ためらうことはない。従うことで高みにのぼり、より高くのぼることで、つぎの通信があらわれる。
政界に入ってからも、進退に窮するような場面に何度かぶつかった。しかし、そのたびにポケットに手紙が出現し、簡潔な指示がある。そして、それによっていつも道が開け好ましい状態になるのだった……。
そして、いま、国政の大きな部分を左右できる、重要な地位についている。だが現在、大きな壁にぶつかっているのだ。
ここ数日、男はこの官邸にもどると、自分の室にとじこもり、他人を近づけず、このように考えつづけている。
考えているのは、もちろん手紙のこと。待っているのだ。しばらく前から、彼は例の通信を心待ちしていた。しかし、それはいまだにとどかず、周囲の情勢は引きのばしを許さないものとなってきた。
手紙の指示が必要なのだ。いまこそ、来なければならないはずなのだ。これまでずっと、重要な転機には手紙が来ていた。だから、いまこそ来なければならないのだ。
男はポケットに手を入れた。しかし、そこにはなにもなかった。ついでに、シガレット・ケースもあけてみた。そのなかもからっぽ。机の引出しをあける。だが、めざす紙片は入っていなかった。来ていていいはずなのだが……。
男は椅子から立ちあがり、口をかたく結びながら、室を歩きまわる。壁にはめこんである洋服ダンスをあけ、なかの服のポケットをさがす。ひとつ残らず、どんな小さなポケットまでもさがしたが、手紙はなかった。
ふたたび歩きまわり、室のすみの床の上、机の下までさがした。もしかしたらポケットから落ちたのではないかと考えたのだ。追いつめられたように、視線でたんねんに床の上をなでまわす。だが、どこにもなかった。
こんなはずはない。男は見おとしているのかもしれぬと、室内を何度も調べなおす。
いくらか疲れ、男は椅子にもどる。待つのだ。手紙とは求めるものでなく、待つものなのだ。あせってはいけない。きっと来る。心をおちつけて、静かに待つべき時なのだ。
男はむりに目をとじ、時の流れを迎えては送り、また迎えては送り……。
なにかの物音がした。目をあけると、椅子のそばにひとりの青年が立っている。帽子をまぶかくかぶり、服のえりを立てている。そのため顔つきはよくわからないが、若者らしいことは想像できた。
男は思わず、その青年に言った。
「待っていたよ」
手紙をもたらしにおとずれてくれたのかと思ったのだ。それ以外に考えられない。持参とは異例だが、いまは急を要する場合だ。
しかし、目の前の青年は小声で言った。
「待っていたとは、なんのことです。ぼくの来た目的もご存知ないはずです」
「うむ、これは勘ちがいだったかもしれない。で、取次もなく入ってきて、用はなんです。どなたです」
「あなたを殺しに来た。それが用件のすべてです……」
青年は服の内側から拳銃を出した。銃口の先についているのは、消音器というもののようだ。それをむけながら言う。
「……声をおたてになろうとしても、その前に弾丸が口をうちぬきますよ」
カチリと音がした。銃の安全装置をはずしたのだろう。男は恐怖と驚きを押えながら、かすかに言った。
「まってくれ。大声は出さない。また、この室にはだれも入るなと言ってある。私は武器を持っていない。だから、せめて事情ぐらいは聞かせてもらいたい」
「いいでしょう。しかし、思いとどまることはしませんよ。あなたを暗殺する。この行為はぼくにとって、しとげねばならぬことですから。慎重に計画をたて、この家の間取りを調べ、人目にふれぬよう時間をみはからってしのびこんだというわけです」
「侵入の経路など、どうでもいい。聞きたいのはべつのことだ。ところで、タバコを吸ってもいいかね」
「どうぞ……」
青年はうなずき、男はポケットに手を入れた。しかし、そこには落胆しかなかった。祈りをこめたにもかかわらず、紙片はあらわれていなかった。男はむなしくタバコだけを出し、口にくわえて火をつけた。
「私の知りたいのは、なぜ殺されなければならないのかの点だよ。政治家としての私に対する、世の人びとの期待は大きい。これまでみなを裏切ったこともない。また、現在ゆきづまっている問題点がないこともないが、それだってちかく解決できるはずだ。他人からうらみを受けるおぼえはない。もっとも、うらみとは、おぼえのないところにひそんでいるものなのだろうが……」
男は誠意を示す口調で言った。話の内容も事実そのとおりだ。しかし、青年はなにか困ったような声で言った。
「そういったようなこととは、ちがうんですが……」
「教えてくれないか。それを知らないうちは、死んでも死にきれない」
「申しあげてもいいんですが、とても理解していただけないでしょう。理屈もなにもないと、あなたはさらに不快になる。話すことはむだです」
「いや、ぜひ知りたい。たのむ。最後のお願いだ……」
男は無意識にポケットに手を入れた。だが、そこにはやはりなにもなかった。青年は油断なく銃のねらいをつけたまま言った。
「では、お話しいたしましょうか。言ってはいけないことなんですがね、いや、だれにとめられているというわけでもありません。ぼく自身の掟のようなものなんです。しかし、あなたに話したとしても、あなたはまもなく死ぬ。だから、申しあげようかという気になったんです。じつは、一回でいいからだれかに話したくてたまらなかった。ちょうどいい機会です」
「よくわからないが……」
「つまり、ぼくの人生とか運命とかいったことになるのでしょう。ぼくの子供のころのことですよ。ある時、ふとポケットのなかに手を入れると、紙片があった。自転車を盗め、と書いてある。なにか、さからえないような感じのものでした」
「ふん、それで……」
男は身を乗りだして先をうながした。
「少しはなれて、だれのともわからない自転車が道ばたにある。それへ乗り、動かしたのです。うしろで叫ぶ声がしたが、追いかけてくるのをふりきって遠くまで走り、そこへ乗りすてたんです。ちょっとしたスリルでしたよ」
「ふん……」
「心のときめくような、からだの血液の濃度がぐんと高くなったような、べつな力が加わったような感じ。それまでのぼくは、おとなしく平凡な子供。そんな盗みなど、考えたこともなかった。それが、こうも急に一変してしまった。心理学者は衝動とかなんとか言うでしょうが、本当はポケットの手紙がはじまりなんです。でも、こんなこと話してもむだでしょう。あなたに信じてはもらえないにきまっていますから……」
「いや、信じるよ。そのさきを聞かせてもらおうか」
男は本心から言った。青年は秘密を話す楽しさに酔いながらつづけた。
「そのうち、またポケットに手紙があらわれる。その指示によって、さらに大きな盗みもやった。ひとを傷つけたこともある。そのたびに高まるスリル。いや、生きがいのようなものが目ざめさせられたんです。こうなると、ひきかえせない」
「その手紙はもっているのかね」
「いいえ、読んだら焼きすてるようにと書きくわえてあったんです。命令されているような気分ですよ。焼きました。とっておけば発覚のもとでしょう。とっておいて、犯行はこの手紙のせいで、自分のせいではないなんて言っても、警察だって信じてはくれませんよ」
「それはそうだろうな」
「それに、秘密にしておく快感もあるわけですよ。秘密は神聖さをおびてくる。秘密にしておくことで成功がもたらされ、それでつぎの通信が来るような……」
「うむ……」
と男は大きくうなずき、同感を示した。しかし、それは青年の目には、時間かせぎのあがきとしかうつらなかった。
「数日前に、またポケットに手紙があらわれた。あなたを暗殺せよとの文です。ぼくはそれまで、あなたへの憎しみどころか、不満さえ抱いたことはなかった。しかし、例の手紙のあとは、その理由が頭のなかで組立てられたのです。あるいは、手紙で決意がかたまり、それが理由を結晶させたのかもしれませんが……」
「そうだったのか……」
「その理由をくわしくお話しすることもないでしょう。反論によってゆらぐものではないのですから……」
「うむ……」
「だから、決心は変えられません。あなたを暗殺することで、どんなにすばらしい快感が味わえるか。それは過去の例から、はっきりしているのです。あの手紙はいつわらない。これは成功する。そのあと、また手紙がさらに強烈な指示をもたらしてくれるでしょう。といったようなわけです。信じられないことでしょうが、これがすべてです。笑われるのはいやだし、笑いはぼくへの手紙の主をけがすことです。そろそろ覚悟をなさってください」
「ああ、そうすべきだろうな……」
男は言い、またポケットをさぐったが、なにもなかった。もう手紙はあらわれないのだろう。男はそう思い、あとひとつだけ聞いてみたい心を押えられなかった。
「笑ったりはしないよ。しかし、その手紙なるものは、どこから送られてきたのだろうか。考えたことはないのかね」
「信ずる対象ですから、追究してみようとしたことはありませんよ。そうすべきではないような気がして。しかし、コンピューターなんてものでないことはたしかでしょう。そんなものの存在する話は聞いたことがない。未来のいつの日かそんなたぐいのものができたとしても、こうはいかないでしょう」
「うむ……」
「また、社会をあやつる裏面の組織。そんなものでもないと思いますね。人間の能力では予想できない、偶然のようなものをも織りこんだ指示もあったようです」
青年の話に、男はうなずいた。いつだったか、手紙の指示で飛行機事故をさけられたことを思い出したのだ。
「いったい、どこからの手紙なのだろう。最後に、その心当りだけでも言ってみてくれないかな」
「わかりませんねえ。第一、ぼくはそうだと思いこんでいても、本当にそんな手紙がポケットのなかに出現していたかどうかとなると、断言するのにためらいを感じるのです。つきつめると、幻覚か幻影だったのかもしれないと、ぼんやりしてきます。しかし、それによってぼくの現在があるのだし、またやがて手紙が来れば、疑うことなくその指示に従うでしょう。これははっきりしていますよ」
「運命の神からだとは思わないかね」
と男は聞いた。だが、青年は首をかしげながら答えた。
「ええ、そうも考えます。しかし、運命の神ともちょっとちがうようだ。といって、悪魔からでもないようです。じつはね、歴史の神じゃないかと、時どき思ったりするんですよ。そう呼べるものがあればの話ですが。もしかしたら、ナポレオンなんかも、こんな手紙をもらいつづけていたのじゃないかなってね。それで内ポケットが気になって、絵でみるように手をさしこんでいたのかもしれない」
「うむ……」
「ヒットラーもそうかもしれませんよ。また、尊敬されているアメリカの大統領リンカーンも、リンカーンを暗殺したブースという男も。そのほかにも……」
「だが、歴史の神がなんでそんなことを……」
「いろどりをつけるためじゃないでしょうか。そうでなかったら、歴史もああドラマチックになるわけがない。考えれば考えるほど、じつにうまくできている。できすぎているみたいだ。この、もともと平凡きわまる人間たちには、とても描きあげることのできない絵巻物ですよ……」
青年はちょっと遠くを見るような目つきをした。なんということもなかった少年期のことを回想したのだろう。国家の重要人物を暗殺する今日を迎えることになろうとは、と。
また男も、むかしのことを考えた。平凡な少年時代だった。現在こんな地位にのぼりつめるとは、夢にも考えなかった。それが手紙のおかげで……。
「そういえば、そうだな」
ここで暗殺されることは、筋書きなのだろう。はなばなしい死が必要なのだ。自分のためであり、社会のためであり、将来において歴史を読む人びとのためなのだ。
おれはいま、歴史にはめこまれようとしている。悲しいことなのだろうか。満足すべきことなのだろうか。おれのあと、この地位をつぐ者のポケットにも、いまごろは手紙が出現しているのだろうか。
そして、この青年。手紙はいつまでもつづくものと思っているのだろうか。そうだろうな。いよいよとなるまでは、選ばれた者であることの誇りは捨てきれるものでない。いま他言したむくいで、たちまち射殺されるかもしれないのに……。
こっちの体験を話してみようか。しかし、それもむだだろう。信じてくれるわけがなく、それを証明する手紙などないのだ。もともとなかったのかもしれないのだ。
しかし、言うだけは言ってみるか。自分をあやつる主に対するせめてもの反抗として。
「じつは……」
そう言いかけた時、にぶい銃声がした。
男は胸に痛みを感じ、低くうめき声をあげた。激しい出血のためか、意識がうすれてゆく。そのなかで、古代ローマのシーザーのことが頭にうかんだ。暗殺された時に「ブルータス、お前もか」と相手に呼びかけたという。あれは手紙のことを言おうとしたのかもしれないな。
男は手に力をこめ、ポケットをさぐった。やはり手紙はあらわれていない。古代ユダヤにおいて、十字架上で処刑される前に「わが神、わが神、どうしてわれを見捨てられたのか」とキリストが言ったという。だが、事情がわかりかけたいまでは、それをつぶやく気にもなれない。
描き終えられた絵には、もはや絵筆は訪れてくれないのだ。
回 復
意識がもどってきた。しかし、いまどこにいるのか、すぐにはわからなかった。なにも見えなかった。おれの目がなにかでおおわれているからだった。
ここはどこなのだろう。そう考えはじめようとしたが、だめだった。からだじゅうの痛みが思考をさまたげたのだ。からだの内部も痛かった。外側も痛かった。身もだえをしようとしたが、それもできなかった。おれは急に不安になり、うめき声をあげた。
「うう……」
声はちゃんと出てくれた。だれかこれを聞きつけてくれ。心からそう祈った。しばらくして返事があった。
「意識を回復なさったようですわね」
若い女の声だった。親切な口調。おれはほっとし、すがりつくように言った。
「ここはどこです。あなたは……」
「病院ですわ。あたしは看護婦。あなたは入院なさっておいでなのです」
呼吸をすると、消毒薬のにおいがかすかに感じられた。あたりは静かで、病室にいるらしいと想像できた。
「そうだったのか。しかし、なぜ入院するようなことに……」
「交通事故ですわ。車を運転なさっていて、道ばたの電柱に衝突なさった。車は火災をおこし、あなたは全身にひどいやけど。骨折もあります。通りかかった人がかけつけて救出してくれたのです。それがもう少しおそかったら、助からなかったかもしれません」
「ずっと気を失っていたんですね」
「ここへ入院後も、何度も危篤におちいりました。しかし、あらゆる最新の治療をほどこしたので、なんとかそれを切抜けたというわけです。あなたは本当に運がいい」
「そうでしたか。ありがとう。助かってよかった。死んではすべておしまいですからね。しかし、この目はどうなんです。見えるようになるんでしょうか」
「ご心配なく、目の包帯は二、三日中にとれます。そのつぎには火傷のための包帯をとることになります。それから骨折と内臓のぐあいを調べ、問題がなければ退院です。ふたたび健康体にもどれるというわけですわ」
「よかった……」
それからおれは痛みを訴えた。看護婦は鎮痛剤を包帯のあいだから口に入れてくれた。痛みはやわらいでいった。
事情がわかり、おれは安心し、ひとりで回復にひたることができた。しだいに思い出してきた。あの時に事故を起したんだな。おれは軽く口笛を吹きながら運転していた。すべてがうまく片づいたからだ。心のなかに長いあいだただよっていた黒い雲が、突風によって吹飛んでしまったような気分。雲の消えたあとには、圭子の美しい顔があった。おれに笑いかけている、うれしさにみちた表情の顔が……。
圭子は若く美しく、おとなしい性格の女。生活に困らず、上品で、おれを心から愛してくれている。おれもまた若く、自分で言うのもなんだが外見はスマートなほうで、圭子を心から愛している。
だが、問題がないわけではなかった。ただひとつ、それも、どうにもならないやっかいな点があった。おれたちは、どんなにそれをのろったことか。
圭子には亭主があった。それがいやな人物だったのだ。二人の愛の障害だからでもあるが、そうでなく、街ですれちがうだけだとしても、おれにとって胸がむかつくタイプだった。
五十歳ぐらいの年齢だった。精力的に金をかせぎ、金銭の万能を信じている。背は低くふとっていた。唇が厚く、毛虫のような|眉《まゆ》で、ほおに傷あとがあった。目尻のしわもいやらしく、頭に描いただけでぞっとする顔だ。不潔なにおいさえ立ちのぼってくるよう。
圭子もやはりそう感じていた。おれとのあいびきの時に、ふるえながら言うのだった。
「毎日がいやでいやでたまらないの。あの人にはお金の世話になり、その義理で結婚しちゃったんだけど。どうしてもなれることができないわ。あたしの生活は、希望のない地獄そのものなのよ」
「そうだろうなあ。あいつ、いいかげんで死んでくれればいいんだが」
「あのようすじゃあ、当分は死なないわよ。あたしのほうが耐えられなくなって、先に死にそう。ねえ、あたしといっしょに逃げてよ。どこか遠くの土地へ行って、二人だけの生活をしましょうよ」
「もちろん、そうしたいよ。だが、うまく逃げきれるか。ご亭主はきみにご執心だ。金にあかせて人をやとい、さがしにかかるだろう。たちまち見つけられてしまう」
「じゃあ、どうすればいいのよ……」
圭子はいつも涙声で言い、おれはいつもここでだまってしまう。手のつけようのないことなのだ。彼女の心はおれのものとはいえ、それ以上に少しも進展しない。圭子は泣いて訴え、おれは自分のふがいなさをじっとかみしめる。このくりかえしだった。
彼女とおれとのことは、亭主もいくらか感づいているらしい。亭主はそのうっぷんを圭子ではらし、いやがらせを言ったりいじめたりする。彼女はなぐさめを求めて、おれに泣きつく。悪循環は回転しながら、どうしようもなく進みつづけた。
そして、ある夜。
おれが眠りにつこうとしていた時、電話が鳴った。圭子の興奮した声。
「ねえ、大変なことになっちゃったの」
激しい息づかいまで伝わってくる。
「どうしたんだ。わけを話してごらん」
「亭主が酔って帰ってきて、あたしをさんざんいじめたの。ずっとがまんしていたんだけど、とうとう、かっとなって突きとばしちゃったのよ。そしたら……」
「どうなったんだ」
「ねえ、早く来てちょうだい。あたしの家へ……」
彼女はそれをくりかえすばかり。おれは車を運転し、圭子の家へ急いだ。小さいがしゃれた住宅。ベルを押すと、青ざめた顔の圭子が、|呆《ぼう》|然《ぜん》とおれを迎えた。おれは聞く。
「どうなったんです」
「ああなっちゃったの」
と彼女はとなりの室を顔をそむけながら指さした。そこには亭主が倒れている。だらしなく床にのび、眠っているブタを思わせた。
「死んでいるのか」
と聞くと、圭子はわからないと首をふった。調べるのがこわいのだろう。おれは身をかがめて、手をふれてみた。いい気持ちではなかった。つめたくはなく、手首をにぎると脈がかすかにあった。
「まだ死んでいない。倒れた時に頭を打って気を失っているのだろう。すぐ医者を呼べば助かるかもしれない」
「いやよ、いや……」
圭子は激しく叫んで泣き、身をふるわせた。亭主が息をふきかえせば、事態はさらにひどくなるにきまっている。いじめられかたは一段と高まり、終りのない不幸の日々がまたはじまるのだ。それを考えると絶望で半狂乱になるのもむりはなかった。
彼女のためになにかしなければならない。その思いにかられ、おれは夢中でやってしまった。亭主の顔にやわらかい枕を押しつけ、力をこめていた。しばらくしてまた脈をみると、こんどはとまっていた。
「死んでしまった」
おれは言った。恐怖も反省もなく、奇妙なあっけなさのような感じだけがあった。
「やっと、あたし自由になれたわ」
彼女はほっとした声で言い、うれしそうだった。だが、このままではすまない。おれは考えながら言った。
「このままにしておくわけにはいかないよ。きみが疑われる。きみが頭をなぐりつけて殺したと思われてしまう。事故ということになるにしても、世間はきみを犯罪者あつかいするかもしれない」
彼女も冷静になり、あとしまつがやっかいなのに気づいた。あわてた声で言う。
「どうしたらいいの。逃げようかしら」
「そんなことしたら、なお疑われる。といって、ぼくとの言い争いのあげくこうなったことにもできない。さらに嫌疑が濃くなる」
「ねえ、どうしたらいいの。あたし、どうなるの。なんとか考えてよ。あたしはもう、あなたのものなのよ」
圭子は、たよりはあなた一人という目つきでおれを見あげた。おれにとって絶対的な命令だった。また、おれだって彼女のためにできるだけのことをするつもりだった。
「死体をどこか、べつなところへ運んでしまおうか。そうすれば、変なうわさもたたず、ただの事故となってしまうだろう」
「いい考えだわ。ほんとうにいい考えよ、そうしちゃってよ」
彼女はおれへの尊敬の念のこもった口調で言った。おれもそう悪い考えではないと思った。あたりには血も流れていず、ここで死んだことを示すものはないのだ。
二人で死体をおれの車に運んだ。夜はふけていて、だれにも見られなかった。圭子はまたふるえ、心細い声で言った。
「すぐ戻ってきてね。あたし心配なの」
「いや、それはいけない。ほとぼりがさめるまで、すこし会うのをがまんしよう。他人の目というものもある。ぶじに片づいたそのあとは、二人でずっといっしょにいられるんだ。きみはだれに聞かれても、なにも知らないと言いはらなくちゃだめだよ。しっかりたのむよ」
「ええ」
おれたちはかたく手をにぎりあった。愛の交流電気が強く流れた。二人にとっての長かった悪夢。それがまもなく終るのだ。死体を片づける作業など、気持ちのいいことではない。だが、悪夢の幕切れと思えば、なんとかそれもがまんできた。
おれは車を走らせた。時どき、そばの死体がなにか言うのではないかと思い、背すじにつめたいものを感じたりした。
人かげのないところで車をとめ、おれは死体をそとへ運び出した。なにも遠くへ捨てることはないのだ。林の奥などへかくしたら、かえって問題がこじれてしまう。酔って歩いていてころんで頭をうった、乱暴なやつと争ってなぐられた。そんなふうに、さりげなくおいておけばいいのだ。おれは念のために脈をもう一回みた。それはなく、つめたくなりかけていた。
また車を走らせる。すんだという安心感とともに、ちょっと恐怖がこみあげてきた。早く立去ろうと、車のスピードをあげた。
自分に言いきかせる。これでいいのだ。二人のあいだの障害物はこれでなくなったのだ。これからは圭子とだれに気がねすることもなく会え、話し、愛しあえるのだ。
楽しさが胸にわきあがってきた。おれは口笛を吹き、またスピードをあげた。なにもかも軽くなったようで……。
そこで事故をおこしたのだ。おれは意識を失い、いま気がついたのだ。死んだ亭主ののろいが、おれを事故にみちびいたのだろうか。おれは病室のベッドの上で、そんなことをふと思った。
だが、いずれにせよ、おれは生命をとりとめたのだ。のろいがあったにしろ、それをはねかえすことができた。圭子との愛の力のほうが強かったのだろう。
すぐにも彼女と会いたかった。しかし、急ぐべきではない。約束したことだし、彼女も取調べやなにかで疲れているだろう。もうすこしたってからのほうがいい。また、おれもいまはからだをなおすのが第一なのだ。
数日がたち、おれの回復は順調だった。看護婦が言っていたとおり、目の包帯が取除かれた。
しかし、ほかの部分は全身包帯姿。足や手はギプスでかためられ、からだの動かしようがなかった。おれはテレビをながめることでかすかに心をなぐさめ、そうでない時は、目をつぶって圭子のことを思ってすごした。
骨折の痛みも、皮膚の痛みもやわらいでいった。鎮痛剤の量もへっていった。担当の医師もなおりが早いと言ってくれた。事実、体力の回復してゆくのが自分でもよくわかった。
それとともに、圭子に会いたいとの思いがつのってきた。押えきれないほどになった。入院してから日数もかなりたった。もう会ってもいいんじゃないかな。おれは圭子に電話してくれるよう、看護婦にたのんだ。
圭子はすぐにやってきてくれた。病室で二人きりになると、彼女は熱っぽく言った。
「あなたに早く会いたいと、毎日そればかり思いつづけだったわ。でも、おけがなさったなんて、知らなかったわ。知ってたら、もっと早くおみまいに……」
「いいんだよ。それより、きみのほうはどうだった。怪しまれたりしなかったかい」
「大丈夫よ。敵が多い人だったから、それが原因じゃないかとされているようよ。保険金はおりたし、財産の相続もすんだわ。あとやるべきことは、あなたとの生活だけ……」
「事件が片づいたら、きみはぼくのことを忘れちゃうんじゃないかと、時どき不安になったよ」
「そんなこと、あるわけないじゃないの」
圭子はむきになった。たしかに、あるわけはないのだ。二人のあいだには共犯という秘密があり、それが結びつきをさらに強くしていた。
「どんなに会いたかったことか」
「あたしもあなたの声を早く聞きたくて」
彼女はおれの手をにぎり、顔を近づけた。しかし、そのあいだには包帯があり、肌のふれあいをさまたげていた。圭子はそれをもどかしがり、おれもまた同様だった。
その時、医師が看護婦を連れて入ってきて言った。
「包帯をとってもいい時期になりました。さっそくとりかかりましょう。おみまいのかたは、むこうの室でお待ちになって下さい」
そう告げられたが、圭子は強く主張した。
「ここにいてもいいでしょう。なおった姿を早く見たいの」
医師は承知し、おれの頭部を巻いた包帯にハサミを入れた。それは少しずつはずされていった。
圭子は愛と期待にみちた目でおれを見つめていた。その表情は好ましいもので、おれもまたうれしかった。
しかし、やがて圭子は不審な表情になり、おれの包帯がさらにはずされると、その目は大きく見開かれ、焦点のさだまらないものとなった。鋭い悲鳴を彼女はあげた。
「まさか、ここで使われたなんて……」
わけのわからない言葉であり、そのわめき声はとめどなくつづいた。狂ったようだった。病院の人が彼女をかかえて連れていった。
おれは不安になって医師に聞く。
「どうしたんです。ぼくの治療が失敗だったんじゃないんですか」
「とんでもありません。うまくいきました。みごとな成功というべきですよ」
「じゃあ、早く鏡をのぞかせて下さい」
看護婦が鏡をおれの目の前に持ってきた。だが、そこに自分はうつっていなかった。そこにいるのは、厚い唇の、毛虫のような眉の、ほおに傷のあるいやらしい五十男の顔。おれが車で運び、道ばたに捨てたあの男の顔があった。
まったく信じられなかった。夢か幻覚だろうと思った。そうにきまっているさ。むりをして、おれは笑ってみた。すると、鏡のなかの、あの死んだはずの男の顔も、こちらにむかって笑いかけて……。
おれは絶叫し、あばれたにちがいない。まわりのようすがわかってきたのは、鎮静剤の注射がききはじめてから。医師がこんなことを言っていた。
「あなたは大やけどをし、顔がめちゃめちゃになったのです。われわれは顔の皮膚の移植にとりかかったのです。ちょうどよく、その時に顔の皮膚の供給がありました。道ばたで死んでいた男で、未亡人に連絡したらすぐ承知してくれました……」
鎮静剤のききめのなかで、おれはぼんやりと考えた。圭子もまさかこう使われるとは思いもしなかったのだろうな。医師は移植手術の成功を誇りながら、まだしゃべっている。
「……この移植をやらなかったら、あなたの顔は手のほどこしようのない、ひどいものとなったでしょう。あなたは運がいい。もちろん、うまれつきの自分の顔でなくなったのですから、いい気分ではないでしょう。しかし、これなら人なかへ出ても、いやなみじめな思いをしなくてもすむのです。この運命になれるようにつとめなさい。そして、人生を楽しむようにするのです。そのうちにはなれて、生きていてよかったと思うようになりますよ……」
古代の神々
あけがたちかくに、その青年は夢を見た。少しはなれたところの地面の下から、なにかが呼びかけている夢だ。この夢はこのところ時どき見る。見はじめのころはばくぜんとしたけはいだけで、どこからなにを訴えてくるのかわからなかった。
しかし、何回も見るうちに、ベールが一枚ずつはがされてゆくように明瞭になった。場所もはっきりした。また語りかけてくる言葉も。それはこうだった。「五千年がたった。掘り出してくれ。五千年がたった……」
多くの人びとの願いがこりかたまり、執念となって放射し、たのんでいるようだった。
朝、青年は目ざめてから、頭をふりながら考えた。なんのことなのだろう。神のおつげみたいだ。しかし、それにしても変な夢だったなあ。
「どうかしたのかい。元気がないよ。神殿に行ってみていただいたら……」
青年の母親が声をかけた。夫婦と息子ひとり。彼らは小さな一軒の家に住んでいた。家のまわりには農地がひろがっている。彼らの職業は農業。もっとも、大部分の人が農業なのだ。ほかには、家を建てる人と運送業の人がいくらかいるていどだ。
青年は夢の話をした。父親はラジオで〈きょうの午後は一時間だけ雨が降ります。種まきはその前におやり下さい〉との天気情報を聞いていたが、息子のほうを向いて言った。
「気のせいさ。おとなになりかかりの時は、妙な夢を見るものだ。おまえは十七歳になったんだな。いや、十八だったかな……」
壁のカレンダーにはAC四九〇〇年と印刷されてある。父親はそれに目をやったが思い出せない。彼は息子のうまれた年を忘れてしまっているのだ。おぼえておく必要もべつになかった。
「十七歳ですよ。ねえ、ただの気のせいじゃないんです。普通の夢じゃないんですよ。その場所を掘ってみてもいいでしょ」
とりたてて反対する理由もなく、父と子は農具をかついでそとへ出た。すみきった空、光にみちたすがすがしい風が肌をなでる。しかし、これは彼らにとってなんの喜びももたらさない。日常的な当然のことなのだ。
麦畑のなかほどで青年はとまり、掘りはじめた。確信ある動作。やがて、なにかがあらわれた。小さな塔のようなものだった。さらに掘ってゆくと、コンクリートの破片のなかから、径一メートルほどの金属製の丸い物体が出現した。青年は言う。
「なかになにかが入っている感じですが、人びとの力を借りないと開けられないようです。それにしても、なんでしょうねえ」
「塔に字が書いてある。わしは文字が苦手だが、五〇〇〇という数字だけはわかる。年を示すような気がするが、ACとはついていない」
「ぼくの夢のなかの声も、五千年たったと呼びかけていました。五千年前に埋められたもののようです。しかし、今年はAC四九〇〇年。とすると、これはBC一〇〇に埋められたということになりますよ。あ、すごい。これは神々の埋めたものなのだ。アフター・コンピューター(AC=以後)でなく、ビフォー・コンピューター(BC=以前)の時代のものなんだ」
青年は大声をあげ、かけていった。このように興奮したのははじめてだった。コンピューターという言葉で、父親は小高い丘のほうをながめた。そのいただきには立派な神殿があり、けっしてさびることのない白金製の屋根が、午前の陽の光を受けて輝いている。なかにはコンピューターという名の、ありがたい神がましますのだ。
そこへ行けば、食べ物でも薬でも服でも、なんでも与えてくださる。また不要品を持っていけば処理してくださる。天気情報もそこから送られてくるのだし、ラジオの音楽もそこからだ。人びとの生存をつかさどる万能の神だ。
父親は考えた。いままで考えもしなかったことだ。あのコンピューター神殿をお作りになられた、さらに古代のすばらしい神々。それはどんなかただったのだろう。本当に存在なさったのだろうか……。
西暦一九七〇年、万国博を記念してタイムカプセルが埋められた。五千年後への祈りと期待をこめ、さまざまな品を収納して眠りについた。地上の緊迫から切りはなされて。
しかし、当時の世界は多くの問題を持てあまし、そんな行事だけで一挙に片がつくどころではなかった。幻のようなきれいごとの理想論があるかと思えば、みぐるしいが切実な現実論が一方にある。人種間がごたつき、国は対立し、人は金銭をめぐって争い、核兵器は何回も爆発寸前まで行き、人口はすでに爆発をはじめ、事故はふえ、公害は世界的な規模にとめどなくひろがり……。
破滅にむかっているのはあきらかだった。それが極度に頭の悪い者の目にもはっきりしてきた時、人類はやっとこれではだめだと気がついた。長期安定計画がたてられ、それがなしとげられた。
安定を唯一最高の目標とし、それ以外のことは押え、高性能のコンピューターにすべてをまかせようというのだ。コンピューターが全世界に点在し、それが電波でひとつに結ばれ、有機的に連絡しているという態勢が確立した。タイムカプセルが埋められてから百年後。すなわちAC元年であった。
コンピューターはその目的のために働きつづけた。休むことなく、自己修理機能をそなえているから、故障することもない。動力は地下の放射能物質をみずから掘っておぎなう。人びとの使った製品の廃品を回収し、新品に作りなおして提供する。天候をコントロールし、それを知らせる。ラジオ番組を放送する。
番組の製作をやるのではない。ストックされた音楽番組を毎年くりかえし流しつづけるのだ。ニュースはない。事件というものがなくなったからだ。
それと同時に、コンピューターによる地下工場から出てくる日用品の型も変わることがなかった。いつも同じ品が出てくる。十年たっても、百年たっても、千年たっても……。
当初は不満の感情を抱く者もあったが、仕方ないとのあきらめがそれを押えた。破滅よりどれだけいいかわからない。ほかによりよい方法があったか。なかったのだ。
AC二〇〇年ごろになると、すべては平穏になった。コンピューターは正しく動きつづけ、その指示のもとで人びとは不平を持たなくなった。ビルは風化して崩れたが、再建されないまま土に帰っていった。かつての多種な品物も、新しく作られないまま、それぞれの寿命を終えていった。
人口は適当な数におさまり、公害は消え、生存をおびやかすものはなかった。国境も消え、争いも消えた。すべての人種はまざりあう。人びとは平等であり、人は自然と調和した。
人は大地から食料を作り、収穫したら神殿におさめ、必要な時には神殿からもらえばいいのだ。いやなら食料を作らなくてもいいのだが、働くことは運動になってからだにいいのだ。犯罪的傾向のある者は、コンピューターの指示で|矯正《きょうせい》されていった。
そして、時は流れるのをやめたかのようだった。十年前、今日、十年後、そこにはなんの差異もないのだから。
AC二〇〇〇年代も、AC三〇〇〇年代もちがいはなかった。あるものは安定、おだやかさ、安心感といったものだけ。好奇心もめばえない。このような環境で、なぜそんなものを持つ必要があるのか。
むりに差異を見いだそうとすれば、混血が進んで肌の色がさらに均一化してゆくこと、人びとの表情がさらにのんびりとしたものになってゆくことぐらい。それと、神殿のなかのコンピューターへの信頼がより厚くなってゆくこと……。
青年が数名の人びとを連れて戻ってきた。いつもは泰然とした表情の人たちだが、青年の話と目の前の物体によって、さすがに目を輝かした。あのコンピューター神殿をお作りになられた、遠い古代の神々に関連のあるものが、いまここに存在する。
まわりの土をおとすと、金属は少しもさびていなかった。
「なにが入っているのだろう」
「早くのぞいてみたい。開けてみよう」
しかし、それは簡単にはいかなかった。どんな道具を使っていいのかわからないのだ。爆薬についての知識は、人びとの頭からとうに消えてしまっている。たとえ知っていたとしても、コンピューター神殿はそのようなぶっそうなものを出してはくれない。生活必要品しか与えて下さらないのだ。
ハンマーを持っていた男がひっぱたいた。物体の外側に書いてある文字の、わかる部分を拾い読みし、ああしたらどうだろう、こうしたらどうだろうとその作業に熱中した。途中で一時間だけ雨が降ったが、その時も休もうとしなかった。ちょっと手を休め、耳を押しつけ、なかの音を聞こうとする者もあったりした。だが、音はしない。
やがて、ふたが開いた。
「おい、開いたぞ。神々の品だ。もしかしたら、神々のお姿を描いたものがあるかもしれない。そっと調べよう」
そっと調べようと注意しなくても、われがちに飛びつく者はひとりもいなかった。そのようなあさましい習性は、とっくのむかしに失われていたのだ。
のぞきこみながら、ひとつずつ品物をとりだす。それは明るい日の光の下に並べられていった。
いろいろな金属や合金のサンプルがあった。だが、なんのための品かだれにもわからなかった。LSI(集合集積回路)やIC(集積回路)もあった。だが、これが神殿のなかのコンピューターの部品とはだれも知らなかった。
繊維製品も出てきた。服、シャツ、ズボン、下着、靴下などだ。これは想像がついた。
「身につけるもののようだ。神々がおめしになったものだろうか。これから察すると、神々はわれわれとそうちがいのない体格だったようだな」
「古代の神々について、あまり軽々しい口はきかないほうがいいぞ」
しかし、みなが身につけているのとはずいぶんちがっていた。みなはだれも同じ、ゆるやかな着物をまとっている。だれも同じなのはコンピューターが作る規格品のためであり、ゆるやかなのは活動的である必要がないからだ。
通りがかった女がネックレスを手にし、本能的に首に巻いたが、すぐにそれをもどした。コンピューターの指示による生活は、虚栄心を消し去っている。不平等と争いのもととなるからだ。
医療器具がひとそろい出てきたが、これまたまるで見当がつかなかった。病気になれば、神殿に行けばいいのだ。なおる病気はそこでなおり、そこでだめならなおらない。そういうことになっているのだ。
薬品のサンプルが何種類か出てきた。みなはそれを見て、病気の時に神殿でいただくのに似ているなと思い、そう思っただけだった。
入歯や眼鏡が出てきた。みなは首をかしげ、異様さにちょっとふるえた。この健康な環境、コンピューター神殿の指示による生活。だれの歯も眼も健全そのものだったのだ。
経口避妊薬も同様、あまり興味をひかなかった。同じ成分が、神殿からもらう食料に配合され、人口が適度に保たれている原因がそれだとは、だれも知らない。神殿のコンピューターは時に性欲刺激剤を配合することもある。人口に減少の傾向がみえた時にだ。
肥料もそうだった。神殿が畠にまけと告げて出して下さるものに似ていると感じた。だれかがなめてみて、顔をしかめてぺっと吐き出す。やっぱり好奇心はいい結果をもたらさない。そのあとは、だれもなめてみようとはしなかった。糖分やグルタミン酸ソーダなども出てきたのだが。
やがて写真が出てきた。宇宙船の写真、月の近接写真があった。だが、みなはそれをオモチャのたぐいだろうと思った。また近接写真では、それが夜の空の月の表面とはとても理解できなかった。原爆被災物も出てきた。高熱でとけたガラスや炭化した木片。みなはのんびりとした表情の首を少しだけかしげた。
物体のなかには、字を書きこんだものがたくさんあった。各種の記録、論文、文学のたぐいだが、だれの関心もひかなかった。さっきはカプセルの外側の文字を、なかを早くのぞきたい一心でやっと拾い読みはした。しかし、開けたあとは、その気力もない。読みかけた者もあったが、一行にもならないうちにあきらめる。彼らにわかるようなやさしい文章ではなかったのだ。
「つまらないものばかりだな。やめようか」
「いや、もう少し出してみろ」
白い布に赤い丸を描いたものが出てきた。しかし、みなの頭に国の概念がなく、それが国旗とはわからなかった。貨幣や紙幣が出てきた。小切手や手形もあった。しかし、みなは金銭不要の生活をしているのだ。選挙の投票用紙が出てきた。だが、そんな行事はAC元年になくなっていた。サイコロが出てきたが、なぜかしらず、みなは邪悪のもとのように感じ、あわててもとにもどした。
録音テープがたくさんあったが、どうすれば音になるのかわからず、再生装置がどれかもわからず、彼らにとってなんの意味もなかった。
「おお、おお……」
みなが指さしあい、最も興味をひかれたのは、ままごと遊びの道具一式だった。こんなに小さな食器。コンピューター神殿は、われわれにこんなのを一度も出したことはない。古代の神々は、これぐらいの食事しかなさらなかったのだろうか。やはりわれわれとはちがう。みなの心には尊敬の念のようなものがわいた。時のたつのを忘れ、見つめ、手にとっていじるのだった。
「わっ……」
とつぜん、人びとが悲鳴をあげた。びっくり箱のふたがあいたのだ。驚かしたこともなく、驚かされたこともない人たち、ショックは強かった。ひとりは気を失って倒れた。抱きかかえて丘の上の神殿へと運ぶ。コンピューターは正確に診断し、薬を出し、手当てのやりかたを指示した。やっとおちつきがもどる。
みなはまたカプセルのそばへひきかえしてきた。しかし、びっくり箱以上の驚きがあらわれた。人物の写真がいくつも出てきたのだ。その表情のなんと恐ろしいこと。みつめるみなののんびりした表情とにくらべ、それは深刻で、ずるさにみち、不健康で、なかには狂気をおびているようなのさえあった。
貧困の写真、大ぜいが目をつりあげてわめいている写真、なぐりあうスポーツ、キャバレー、殺意あふれる戦争の写真。それらの顔つきはながめるだけで身ぶるいがしてくる。
「いやだな、胸がむかむかして吐気がしてきた」
だれかが言った。
「これが古代の神々なのかな。これがあのありがたい神殿を作り、われわれに永久の安泰をもたらしてくれたかたとは思えない。もしかしたら、BC年代にはびこり、古代の神々に一掃された悪魔たちかもしれない。もう、これ以上さわるな」
「もとの丸いものにもどそう。そして、神殿にはこび、その指示をあおごう」
けっこう重かったが、みなは力をあわせて神殿へと運び、台の上にのせた。地下からこのようなものが出ました。どういたしましょう。
台は動き、カプセルは穴の奥へと消えていった。コンピューターは規格外の品なので、あつかいに困り、地下の自動工場のさらに下、特別貯蔵倉庫のなかにしまいこむだろう。あるいは、コンピューターはなにもかも知っていて、いまの人類には見せないほうがいいと判定するかもしれない。
倉庫のなかで、さらに未来までカプセルはふたたび眠りつづけるのだ。つぎに開けられる時が来るかどうかはわからないが……。
夕暮になり、青年は家に帰って両親に言った。
「きょうはとうとう、農場の手入れをするひまがなかったね」
「あしたでもいいさ。そうそう、夕食の調味料はどうしたね。セッケンがなくなり、電球がひとつつかなくなっていたが……」
「忘れてはいないよ。ぼく、神殿に行ったついでに、お願いしてみんないただいてきたよ。ほら……」
青年は持ってきた品を机の上に置いた。四千九百年間ずっと変ってない品を。それから、ふとつけ加えた。
「……でも、あの神殿の奥って、どうなっているんだろうな」
「そんなこと、なぜ知りたいんだね。知る必要があるかい」
「ないなあ、ただ、ちょっとそう思っただけさ」
青年はすなおだった。だれもがすなおだった。疑惑とか破壊とかの念はどこにもない。
やがて、夕食がすみ、夜になり、青年は粗末なベッドの上に横たわる。その時、ポケットからそっと紙を出す。さっきカプセルを神殿に運んだが、そのあとに落ちていたのだ。しまう時にやぶけて飛んだのだろう。
青年はそれを見る。〈五千年後の人へのメッセージ〉と書いてある。だが、その文字すらほとんど読めない。印刷ははっきりしているのだが、彼の生活に活字は無縁なのだ。
〈平和〉〈平和〉という文字がほうぼうに出てくる。なにか大切な、非常に大切なことのような感じがする。古代の神々だか悪魔だかしらないが、必死になって呼びかけているようだ。
これがどんなことなのかわかったらなあ、と青年は思う。だが、それだけは無理なのだ。人種がなく、国がなく、個人の差がなく、なんの対立もない。そんな状態の者にわかるはずのないことなのだ。
だが、青年の頭にちょっとひらめく。いまのこの生活が〈平和〉なのだろうか。どうなのかなあ。もしそうだとしたら、そして、古代の神々がこのことを知ったとしたら、どうお考えになるだろう。喜んでくださるだろうか。しかし、青年はすぐに打ち消す。さっきの写真のたくさんの顔が目の前に浮かんでくるのだ。
たぶん喜んではくださらないだろうな。大部分の顔つきは、ほどほどとか満ちたりるということを知らず、過去をのろい、現在に絶望し、未来に|嫉《しっ》|妬《と》しているような感じだった。やつあたりが好きで、どんなことにもけちをつけなければ気がすまぬような……。
青年は紙を捨て、電気を消して眠った。どこからか花のかおりが流れてくる。静かな、のびのびとした、きよらかな、不安も恐怖もいらだちもない夜。それはこの夜だけではない。きのうもそうだった。そして、十年後の夜も、百年後の夜も、千年後の夜も……。
殺意の家
ある日の午後。ある一軒の家。ここには金兵衛という五十歳ちかい男が、ひとりで住んでいた。彼はその名にふさわしく、きわめて金銭の好きな人物。好きこそものの上手なれで、金をもうけることがうまかった。だが、うまいとはいうものの、決してスマートではなかった。
はなはだしく強引で、はなはだしく恥知らず。他人が困ったり怒ったりするのは、なんとも思わない。いつも非合法すれすれで金をもうけ、そのあげく金を手にしたら最後、いかなることがあってもはなさない。
こういうのが一番よくない。合法的にやられたのならあきらめもつくし、非合法ならば対抗手段もそれなりにある。しかし、すれすれとなると感情のしこりが被害者たちに残るばかりだ。
金兵衛はこのところ、会社の偽装倒産でまたしてもひともうけをした。企業の利益や資産を巧妙な操作でひそかに個人に移し、適当なところで倒産させてしまったというしだい。いうまでもなく、金銭の損害をこうむった者がたくさん出た。しかし、金兵衛は平然たるもの。金銭第一主義なるイデオロギーの持主なので、信念のゆらぐことはない。
ぬけぬけした口調で「こと志とちがって、まことに遺憾でございます」と言うだけ。計画的な倒産で、内心で舌を出していることはだれの目にもあきらかなのに。
他人の迷惑など知ったことか、こっちは合法的なんだ、経済的繁栄を追求してなにが悪い。世の中、だまされるほうが悪いんだといった態度。ひとをかっかとさせる性格だ。
それでおさまるわけがない。なにをいいやがる、だますほうはもっと悪質だというのが債権者たちの意見。見解は対立したまま物わかれ。こと金銭がからんでいるだけに、険悪化する一方。黒い雲がたなびき、電位差は大きくなり、いまにも雷鳴がとどろき、大雨が降りそそぎかねない状勢だった。
といって、この日がそんな天候だったというわけではない。むしろ、おだやかな午後だった。真の惨劇というものは、えてしてこのような時におこる。
玄関のほうで来客のけはいがした。金兵衛は窓のはじからそっとのぞいてみる。金銭の好きなやつは、だいたいにおいて用心深い。
あんのじょう、損害をこうむった債権者のひとり。四十歳ぐらいの男で、目がつりあがって怒りに燃え、呼吸は激しく、からだは興奮でこまかくふるえている。線香花火を発散させている。この調子だと、ただではすまぬかもしれない。金をかえすか命をよこすかというさわぎに発展しかねない。
金兵衛は急いで電話をかけた。用心棒を呼びよせたほうが賢明だろうと判断したのだ。
「もしもし、わたしは金兵衛だが、重大な局面となり、わが家に危機が迫っている。すぐかけつけてくれ」
電話のむこうで、用心棒は答えた。
「予告もなく事前協議もなく、すぐ来いとおっしゃられても困りますよ。こっちにもつごうがある。じつは、うちではいま夫婦げんかの最中なんです。それが終ってからでもいいでしょう」
「冗談じゃないよ。いざという時は助けに来てくれる約束じゃないか。国でいえば条約に当る。履行の義務があるのだぞ。だからこそ、おまえに対し、毎月すくなからぬ費用を惜しげもなく払っているのだ」
「すくない費用を、けちけちともったいをつけて払っている感じですがね。あなたはほかの人にむかって、自分のうしろに強い用心棒のいることをちらつかせ、いつも効果をあげてるんでしょう。わたしは継続的に利用され、無形の保護の役に立ってきた。この点を考えると、安すぎて損です」
「それは主観の問題だ。あとで相談しよう。そもそも、わたしがやられたら、おまえの収入はそれだけへるのだ。おたがいの不利益ではないか。なにしろ、いまは有事の際なのだ。進駐してきて助けてくれ。用心棒の責任だぞ。こんごの金額に関しては考慮する」
「考慮じゃなく、はっきり約束して下さい。これからは毎月の払いを倍に値上げし、今回の実費はそちらで払うと。さあ、どうです」
「足もとを見てつけこむやつだな。まあ、仕方ない。いいだろう。早く来て、侵入者をうちから追い出してくれ。どんな手段に訴えてもいいから」
金兵衛は電話を切り、自分は戸棚にかくれた。来客をなかに招き入れると、そのとたんにぶんなぐられかねない。そういう痛いことは、用心棒にまかせたほうがいいというものだ。
来客は玄関のベルを鳴らしつづけ、つぎにドアをたたきはじめた。応答しないでいても、帰ってくれそうにない。それどころか、ドアをこじあけ、勝手に入ってきた。持ってきた洋酒のびんを机の上におき、そばの椅子にかけ、こんなことを言っている。
「留守らしいな。しかし、きょうはなんとしてでも金を取り立ててやる。帰ってくるまで、ここでねばってやる」
それを聞き、金兵衛はやれやれと思う。あきらめて帰ってくれそうにない。戸棚から出て相手になれば、さんざんうらみごとを聞かされ、どなられるにきまっている。精神衛生によくない。酒を持ってきたが、こっちに飲ませてはくれないだろう。やつがひとりで飲み、その勢いをかりて、強硬な口論をやるつもりなのだろう。あげくのはて、あばれるにちがいない。そういった展開が予想されるとなると、ここにかくれて用心棒の来るのを待ったほうがいいというものだ。
来客は立ちあがり、室内を歩きまわり、つぶやいている。
「あんまり金目のものはないな……」
戸棚のなかからのぞいている金兵衛、室をよごされてはとはらはら。侵入者であり債権者である男は、銀製のペーパーナイフをみつけ、それをポケットにおさめた。少しでも回収してやろうというつもりなのだろう。金兵衛は、ちくしょう泥棒めと立腹するが、出るわけにいかない。
男はやがて戸棚の前へ来て、そこを開けようとした。金兵衛は内側から必死に押える。しかし、男はあきらめるどころか、ここになにか高価な品がしまってあるのだろうと推察し、そばの椅子をふりあげ、ぶち破ろうとした……。
その時、玄関に声がした。青年の声。男は戸棚を開けようとするのをやめ、その応対をした。
「どなたか知りませんが、どうぞお入り下さい。その椅子にでもおかけ下さい」
入ってきた青年は、肩をそびやかせ、おうへいな口調で言った。
「やい、この家を売りとばしてしまえ。いくらかの金にはなるはずだ」
「なるほど、それはいい案です。じつは、わたしもそうしたい。しかし、あいにくとわたしの家ではないのです」
と男が言うと、青年は声を高めた。
「なんだと。あれこれ言いのがれをし、ごまかそうという気だな。評判どおりのやつだ。きさまはそういうやつなんだ。家を他人名義にし、巧妙に財産の保全をはかっているのだろう」
「いや、それは誤解だ。わたしはそんな人間ではない」
「なにが誤解だ。いいか、ぼくのおやじは、きさまの会社にだまされ、大損害をこうむった。おかげで、ぼくは学費をかせぐためのアルバイトをしなければならなくなった。そんなことにおかまいなく、きさまはぬくぬくと金をためこみやがって。このエコノミック・アニマルめ。社会正義の観点からも、それを許すことはできない。きょうというきょうは、ただではすまさんぞ」
相手をここの主人と思いこんでいる青年は、ポケットから刃物を出した。それを見て男はびっくり。
「まあ、待ってくれ。それは誤解だ。わたしはここの主人じゃない。債権者だ。ここへ金の請求交渉に来て、主人の帰宅するのを待っているところなんだ。わかってくれ……」
「なんだ、そうだったのか……」
青年はうなずきかけたが、すぐに思いかえし、警戒心をとりもどした。
「……おっと、その手には乗らない。ここでよく注意しなければならぬ。おやじも言っていた。とてもひとすじなわであつかえる相手じゃないとな。その場をごまかし金を払わないためには、どんな言いのがれをもやるやつだとな。人のいい純真なぼくが、はいそうですかと帰ると、そのあとで舌を出し、うまくだましたとあざ笑うのだろう。それを考えると、胸がむかむかしてきた」
「本当だよ。本当なんだ。たのむから落着いてくれ……」
男は名刺を出そうとしてポケットをさぐった。だが、彼も落着いてはいなかった。あわてていたので、引っぱり出したのはさっきのペーパーナイフ。銀色に光るそれを青年は見た。
「それみろ、そんなものを出しやがった。化けの皮がはがれたぞ。本当だと叫ぶやつが、本当だったためしはない。落着けと言い、話せばわかるなんてなだめ、こっちを油断させておいて、それでぐさりとやるつもりだったんだろう。おあいにくさま、ぼくのほうが注意深かったというわけだ。さあ、かくごしろ……」
ペーパーナイフを目にしたし、なにしろ緊張していて先入観に支配されている。青年は飛びかかった。男は防戦せざるをえず、防戦することは青年の戦意をさらに高めることになった。争いのあげく、青年の刃物は男の胸につきささり、男はぐったり。
「どうだ、思い知ったか。エコノミック・アニマルを一匹、天に代って退治した」
と青年は言った。しかし、彼にとって、この死体をどう始末するかが当面の問題だった。
「どうしたものだろう。自殺をよそおわせるのがいいのだろうが、ここの主人が自殺するほど良心的であるとは、だれも考えてくれまい。事故に仕上げたほうがいい。すべってころび、ちょうどそこにあった刃物の上に倒れたということにでもするか」
青年はそんなふうにかっこうをつけた。さらに紙をひろげて、死体の指にあたりに流れている血をつけ〈事故〉と書きしるした。死にぎわにしたためたような形にしたのだ。念には念を入れた作業。
戸棚のなかから、金兵衛はそれらをずっとながめていた。ああ、ああ、なんということだ。あたりを血だらけにしやがって、この掃除代にいくらかかると思う。大変な出費だ。殺しあいなら、どこかよそでやってくれればいいのだ。自分の身代りにひとりが殺されたというのに、彼は金のかかることばかり心配している。
青年は一息つき、机の上にあった酒のびんを目にした。これはいい。酒でも口にし、気分をほがらかにして引きあげるとするか。青年が手をのばしかけたとたん、彼は物音を耳にした。
玄関でベルの音がしたのだ。青年はびくりとした。だれが来たのかは知らないが、死体といっしょのところを見られてはまずい。しかし、とっさにはいい考えも浮ばす、彼は長椅子を動かし、それを死体の上においた。いちおうはかくせた。
のぞいている金兵衛は舌うちする。ああ、長椅子にまで血がつけられてしまう。ひとの家具だと思って、いい気になっていやがる。いまどきの若い者ときたら、物をそまつにして平気でいる。しかし、どなって注意を与えるわけにもいかない。見つけられたら、ついでに殺されてしまうだろう。
青年がもたもたしていると、玄関から勝手に入ってきた人物があった。金兵衛がさっき電話で呼んだ用心棒だった。金兵衛はまた腹を立てる。のろまめ、いまごろになって、のこのこやって来るなんて。わが家はかくのごとく侵入を受け、流血の事態となっている。こんなことになる前に電光石火で撃退してくれるのが用心棒の役目だろう。
やってきた用心棒の顔には、できたての引っかき傷があった。電話での会話のように、夫婦げんかで奥さんにやられたのかもしれない。うちのことをほっといて、他人のけんかに介入するなんて、いいかげんにしたらどう。あなた、あたしとけんかとどっちを愛しているの、などと言われたのかもしれぬ。用心棒はそれをふり払い、これは男の約束、信義や威信の問題だと出かけてきたのだろう。むかっ腹を立てている表情だった。妻へのうっぷんをなにかで晴らしてやりたいと。
青年とはちあわせをし、用心棒は言った。
「ここの家の主人はどうした」
「もしかしたら、あなたもここの主人を殺しに来たんですか。なにしろ、いやなやつですからね」
「とんでもない。金ばかりためこんでいやなやつにはちがいないが、おれの契約主だ。また、人相は悪いかもしれないが、おれは用心棒なんだ。すなわち、防衛を手伝いに出動してきたのだ。侵略者ではない。仕事がすんだら早速撤退する。ところで、ここの主人はどこへ行ったのだ。死んだのか」
「いえ、そ、そんなことはありません」
と青年はどぎまぎして答えた。
「死んだのならおれはこのまま帰るつもりだったが、生きているとなると、まだ一働きする義務がある。おまえをこの家から追い出し、主人にどうだこの通りだと言い、金をもらわねばならぬのだ。しかし、おまえはどうもうさんくさい。手に血がついている。なにかあったのだろう。けがをさせたのか」
「いえ、じつは、その……」
青年は口ごもった。どう言ったら模範答案になるのか、見当もつかなかった。収拾策を考えようにも、頭が働かない。用心棒だかなんだか知らんが、よけいなところへやってきやがった。死体をみつけられたら、さわぎは大きくなる一方だ。事態の拡大を防止するには、ついでに死んでもらうほうがいいようだ。
このような理屈をなんとかまとめあげ、青年は床に落ちている銀製のペーパーナイフを拾いあけてにぎり、突き出した。ぐさりといけば成功だったが、相手は用心棒で一種のプロだ。しかも、いちおうの警戒をしてここへ乗りこんできた。すばやく身をかわし、逆に青年の首をしめあげた。
不意をつかれて用心棒はかっとなっていた。しめあげる腕にもにくしみの力がこもる。青年はぐったりとなった。すなわち息が絶えたのだ。
「やれやれ、死んでしまった。気の毒に。おれのせいではないよ。迷わず成仏してくれ。もし化けて出るのなら、この家の主人のほうにしてくれ。こっちは契約をはたしただけなんだからな」
用心棒はそれから「金兵衛さん」と三回ほどくりかえして叫んだ。主人に対し費用の請求をしようというのだろう。しかし、金兵衛のほうは戸棚から出ようとしない。支払いはのばしたほうが値切りやすいというものだ。いま出現したりすると、相手は自己の手柄に酔って興奮しており、言われるままの金額を払わされるはめになる。
金兵衛がだまっていると、用心棒は留守と思ったらしい。家から逃げ出し、どこかへ行っているのだろうと想像してくれた。ひとりでぶつくさ言っている。
「この死体はどうしたものか。用心棒は引きうけたが、あとしまつまでの責任をおっているわけではない。ほっぽっといてもいいのだが、そうするとあのけちの金兵衛め、それをたねに値切りやがるだろう。長椅子の下にでも押しこんどくぐらいでいいだろう」
しかし、それをやりかけ用心棒は驚いた。力をこめて押しこむと、むこう側にべつな死体が出現したのだ。
「いったい、これはどういうことだ。こいつはだれだ。金兵衛さんでもない。なぜこんなところでかくれて死んでいるんだろう。いや、そんなことはどうでもいいんだ。おれは探偵としてやとわれたのでもない。長椅子の下が満員なら、戸棚にでもほうりこんでおくとするか」
またも金兵衛は、戸棚を内側から押える作業に熱中した。ひとが聞いてないと思って、けちだとかぬかしやがった。いずれうんと値切ってやるぞ。用心棒はあきらめ、青年の死体を風呂場のほうへと引きずっていった。それをのぞいて、金兵衛はうんざり。こんどは風呂場までよごされてしまう。金を支払う時に、そのぶんを差し引いてやるからな。
用心棒は風呂場から戻ってきた。ついでに手と顔とを洗ったのか、さっぱりした表情だ。机の上の酒を一杯やり、それから引きあげようとのつもりらしい。彼はグラスをさがしてきて、床の死体を足で長椅子の下へ押しこんでから、酒をついだ。
しかし、その時、玄関のほうで女の声がした。
「ごめん下さい」
きれいな若い声だ。用心棒はドアをあける。声にふさわしく、若い美人が立っていた。スタイルもよく、上品な服装。しかも、利口そうな表情だった。まったく、このまま帰すには惜しいような感じ。
「まあ、おはいりなさい。どなたか存じませんが、ちょうど一杯やろうとしていたところです。ほかにだれもいませんから、お気軽に。どうぞおかけ下さい。おっと、その長椅子にはわたしがかけます。あなたはそっちのほうの椅子に……」
と用心棒はにやにやした。だが、女は笑いもせず立ったまま言った。
「まず、用件を片づけなくちゃならないの。あたし、債権者の有志にたのまれてやってきたんですの」
「そんなかたくるしい用件など、どうでもいいでしょう。債権者なんてつまらん連中のことなど、忘れてしまいなさい。ほっとけばなんとかなりますよ」
「まあ、ひどいことおっしゃるのね。あたしを派遣した債権者たちの気持ちもむりないわ」
「いったい、用件ってなんです。聞きたいとも思わないが、そんなにお話しなさりたいのならどうぞ。胸がさっぱりするでしょう。酒の味もそれだけよくなります」
「事情はこうなの。債権者の有志たち、出資や融資をする時、なんとなく不安だったのよ。ずるさとけちが看板の金兵衛さんですものね。そこで、自分たちを受取り人にして、あなたに生命保険をかけたってわけよ。そっちで掛金を払うのならご勝手にという、あなたの承諾も受けてね。思い出したでしょ。その予感が的中ってとこね。そのため連中はあなたを現金化し、金をとり戻そうというわけ。みなさんはいま、それぞれの方法でアリバイを作っておいでになる。さて、おわかりでしょ。あたしの用件っていうのは、ここであなたを殺すこと……」
戸棚のなかで聞いていた金兵衛、うなずきながら身ぶるいした。そういえば、そんなこともあった。自分の腹が痛むわけでないので、生命保険の件は軽い気分で承知した。しかし、こんな目的のためだったとは。債権者め、恐るべきやつらだ。こっちはすれすれとはいえ、あくまで合法だ。それなのに、やつらときたら非合法のこんなことを平気でやる。
しかし、女の話でさらに驚いたのは、いうまでもなく用心棒のほう。
「とんでもない。殺されてたまるものか」
「あきらめるのね。じたばたなさってもだめよ。あたしは必殺の殺し屋なの。決してやりそこなわないのよ。女性だからひとに怪しまれない。成功率百パーセントというわけよ。あたしにねらわれたら最後、どうにもならないわよ」
「いや、殺されてたまるかというのは、人ちがいだからだ。おれはここの主人じゃない。金兵衛なんかじゃないんだ。やめてくれ。おれはただの用心棒だ。これからはあなたの用心棒になる。金兵衛を殺したいのなら、お手伝いする。なんだったら、妻と別れてあなたと結婚する。妻はおれを理解してくれず、おれは不満なんだ……」
用心棒は弁解しつづけ、物かげで聞いている金兵衛は歯ぎしりした。なんといいかげんな用心棒だ。すぐに裏切ったりする。もうくびだし、金は払わん。殺されてしまえ。
用心棒がわめいても、女に効果はなかった。
「どなたもそんなふうにおっしゃるわ。人ちがいだとか、ご希望にそうとか。でも、そんな手にのるようじゃあ、このお仕事はやっていけないの。あたしとしてはね、この家の中年の男を殺しさえすればいいのよ。遠い本部の指令で動いているゲリラ隊員のようなものね。橋やダムを爆破しろと言われれば、それをやるだけのこと」
「助けてくれ。本当にちがうんだ……」
「そんなこと、あたしに関係ないわ。やめて帰れば、あたしが責任をとわれてやられちゃう。あたしに許された権限は、せいぜい時間を数分間ほどのばすことぐらい。その権限を活用し、そのお酒を飲むあいだぐらいは待ってあげてもいいわ」
「せめてそうさせてもらうとするか」
用心棒は酒をグラスにつぎ、口にした。覚悟をきめた人生に別れの|盃《さかずき》をという心境からではない。三分の一ほど飲み終ったところで、女に飛びかかった。女は油断のせいかすきだらけ。反対にやっつけるのは簡単だろう……。
しかし、女は自分でも言っていただけあって、必殺の殺し屋。いつのまにハンドバッグから出したのか、小型の拳銃を発射した。消音器つきなので、さほど音はひびかない。用心棒はばったり。
「ありがたいわ。すきをみせたら、その挑発に乗って手むかってくれた。こんなふうに争ってくれると、正当防衛みたいな気分になり、それだけ良心のとがめが少なくなる。あたしは自衛のために戦ったというわけ。さて、室内を荒しておこうかな。依頼主たちに疑いがかからないよう、物とりが侵入し、それと争ったあげくにという形にしておきましょう」
女は手袋をはめ、花びんを持ちあげ、鏡にむかって投げつけた。|爽《そう》|快《かい》な音がしてこなごなになる。しかし、金兵衛は戸棚のなかで顔をしかめた。女め、花びんをこわしやがったな。貸金のかたにとりあげた高価な花びんなんだぞ。鏡だって大損害だ。
そんなことにおかまいなく、女は椅子の布を切り裂き、机の引出しをぶちまけ、それをふみつぶす。なれた手つきだ。そのたびに金兵衛は首をすくめる。ああ、この損害はだれが補償してくれるのだ。「やめろ」と叫んで飛び出したいのを、彼はなんとかがまんした。金銭第一主義とはいえ、生命とくらべると、まだ出る幕ではない。
女はさらに酒びんを壁にぶつけようとしたが、ちょっと考え、なかみを口にした。のどがかわいていたのだろう。それから投げつけ、酒はあたりに飛び散った。金兵衛はがっかり。ついにあの酒もむだになった。本日の唯一の収穫だというのに……。
しかし、そこに思いがけぬ現象が発生した。とつぜん女が胸をかきむしり、苦しみながら床に倒れたのだ。やがて動かなくなる。どうやら毒の入っていた酒らしい。最初の訪問者は話がつかなかった場合、それをおいて帰るつもりだったのだろう。女もそこまでは注意しなかった。もっとも、むりもない、目の前で飲んだやつがいたのだから。事情がわかり金兵衛はほっとした。よくあの酒をむだにしてくれたと。
金兵衛はまだしばらく戸棚のなかにひそんでいた。しかし、そのあとだれもやってこない。彼はこわごわ戸棚から出る。
「ひどいものだ。この荒されよう。だれが責任をとってくれるというのだ……」
ため息の出る思い。金兵衛はとりあえず警察に電話しようとしたが、それはやめた。この四つの死体。ありのままを話して、信用してくれるだろうか。
このうちのひとりくらいはおまえがやったのだろう、などと言われるにきまっている。おれはなにもしていないと主張しても、その証人はだれもいない。逆に、おれに不利なことを言うやつはたくさん出てくるだろう。あいつはいやなやつで、金のためにはなんでもやるやつですなんて、この時とばかりわめきたてる連中が多いのだ。あることないことさわがれ、あげくのはて、こっちが殺人犯にされたりしては目もあてられぬ。
それなら、いっそのこと、みんな庭に埋めてしまうか。警察へ訴える関係者もいないだろう。殺し屋を派遣したが、帰還しない、かえりうちにあったらしいとは言えないだろう。毒入りの酒や刃物を持ってきたやつも、弱味がある。家族は、やり損じてどこかに身をかくしたのだろうと思うにちがいない。用心棒の妻は、夫婦げんかのあとだから蒸発したとでも考えるだろう。
金兵衛はそうすることにきめた。夜になるのを待って庭に埋めるとしよう。しかしだ、その前にこいつらのポケットの品でも抜いておくか。少しでも損害を回収しなければならぬ。彼は財布やハンドバッグを机の上に集めた。
殺し屋の女の拳銃と、青年の持ってきた刃物もとりあげ、金庫にしまいこむ。万一の時にはこれを出し、これからは自分の家は自分の手でまもることにしよう。用心棒のたよりないことは、よくわかった。いざとなると自分本位でなんの役にも立たない。
金兵衛は、女の殺し屋のしている腕時計に目をとめた。金色で高価そうだ。
「必殺の殺し屋ねえちゃん、いい時計をしている。針がたくさんついているし、ボタンもついている。殺しの時間を正確にするためには、このような精巧なのを持つ必要もあるのだろうな。こういう珍品は高いぞ」
彼はそれを女の腕からはずし、なにげなくネジを巻いた。
その五秒後に爆発がおこった。金兵衛の両手はすっ飛び、目もやられた。血はとめどなく流れ、助けを呼ぼうにも歩けず、電話もかけられない。
「手榴弾式の時計だったのか。必殺の殺し屋だけあって、こんな準備までしていたというわけか。不覚だった。欲は身をほろぼすというが、おれの末路もそうなってしまったようだ。しかし、生命保険の件だけはしゃくだな。ついに債権者の手に渡ってしまうのだろうな。これだけは面白くない」
しかし、もはやどうあがいてもだめなのだ。金兵衛はおのれの最後をさとった。血は流れつづけ、気が遠くなってゆく。彼も金銭第一主義をあきらめる時となった。欲心が消えると、視野がいくらか広くなる。彼ははじめて自己をはなれ、冷静に考えた。
こんなことになり、警察にやっかいをかけてしまう。だが、警察はどう処理するだろう。事件を解明するだろうか。長椅子の下にいる〈事故〉と血で書いて死んでいるやつ。風呂場にころがしてある首をしめられた死体。少し毒を飲んだうえ拳銃でうたれた用心棒。毒で死んだ女。拳銃と刃物は金庫のなかで、財布とハントバックは机の上にまとめてある。室内は荒された形跡。そして、おれは両手を爆発で失って死んでいる。刑事さんがたは、さぞ頭を悩ますことだろう。ごくろうさまなことだ。
新聞もさわぐだろうな。事件記者も持てあまし、意見を求められた識者も降参し、けっきょく狂気による異常な惨劇とでも書くことになるのだろう。狂気とすれば、なんでも簡単に片づく。実際にはだれひとり狂ってなんかいなかったのだ。ただ、ちょっと意志の疎通を欠いただけ。
あげくのはては「このような惨劇は二度とおこすべきでない」で幕となる。どこかで聞いたような文句。戦争の終ったあとに必ず使われる言葉だ。この事件も戦争と同じようなものなのだろう。狂気といえばそうだし、正気といえばそうでもある。まったく、よく似ている。なんでこうなったのか当事者の大部分もわからず、ほかの者にはさらにわからず、二度とくりかえすなとの言葉だけが残り、やがてそれも忘れられ、なにがなんだかだれにもわからないまま、うやむやとなって……。
ああ祖国よ
「おい、おきろ。戦争だ……」
耳もとで声がした。幻聴ではない。昼ちかい時刻、私がいい気分で眠っているとベッドのそばの電話が鳴り、手にとった受話器から流れ出た声。上役かららしい。
私は民放テレビ局につとめている。高遠な理想も主義もないかわり、どちらかというと器用なほうなので、たいていのことは一応そつなく仕上げる。企業にとってはいい社員だ。このところ爆笑クイズ番組を担当し、まあまあの視聴率をあげている。人びとを楽しませるのはいいことだ。しかし、なんでいまごろ上役が電話を。先日の番組にミスがあったのだろうか。私はねぼけ声を出す。
「はあ、戦争がどうかしましたか」
「番組編成の緊急会議を開いた。スポンサーの了解もとった。いまきみが担当しているのを特別報道番組のシリーズに変更する。好評なら毎日やる。テーマは戦争だ」
「どんな戦争です」
戦争が邪悪と見なされている限り、それは魅力を失わない。卑俗と見なされる時、人気を失うであろう。オスカー・ワイルドの言葉。いまさら交通戦争をとりあげるのも新鮮さがない。公害戦争だろうか、進学戦争、企業戦争、住宅戦争。戦争が多すぎ卑俗そのものだ。なんの刺激もない。なにか新しいアイデアでも出たのだろうか。うん、求婚戦争なんてのはユーモラスでいいかもしれない。アル中戦争、スキャンダル戦争なんていうのもどうだろう。なにがどう戦争なのかわからないが。私が眠い頭であれこれ考えていると、上役が言った。
「本物の戦争だ……」
「だけど、第二次大戦をあつかったものは、よその局ではけっこうやりましたよ」
「しっかりしてくれ。宣戦布告なんだ」
「えっ、ついにはじまりましたか。どこです……」
私は身を起した。眠けが消えてゆく。中近東あたりなのだろうか。上役は言う。
「日本だ」
「ばかばかしい……」
受話器をにぎったまま、私はベッドに横になる。たちの悪い冗談だ。立派な平和憲法。それをふみにじってまで戦争をするほどわれわれはばかではないし、それをふみにじってまで戦争をするほど利口でもない。
「おい、眠るな。日本に対して宣戦布告がなされたのだ」
「まさか。いったい、どこの国です……」
私はまたベッドから飛び出す。からだじゅうにいやな感じが走る。
核弾頭、ミサイル、焼野原、すべての死。時計に目をやる。ミサイルの飛来まであと何分ぐらいあるだろう。思い切り酒を飲まねばならぬ。結婚もしなければならぬ。いやな上役や同僚をぶんなぐらなければならぬ。買っておいた本を読まねばならぬ。
遺書を書いて地下に埋め、戦争のおろかさを後世に伝えねばならぬ。いや、その前に銀行から貯金を全部おろしてこなければならぬ。エビフライをもう一回たべたい。まだ富士山に登っていなかった。死ぬ前に外国旅行もしたい。LSDも……。
「アフリカの小国、パギジア共和国だ。しばらく前に独立した国らしい」
「ほっとしました。どきりとさせないで下さいよ。ユーモアならユーモアと……」
私がベッドにもどろうとするのを、電話のむこうの上司の声がひきもどした。
「ユーモアではない。本当に日本に対し宣戦布告をやったのだ。すでにパギジア国の連合艦隊が港を出撃した」
「そうとしたら大変だ。どんな編制です。空母ですか。原子力潜水艦ですか」
「米軍払下げの小さな船が二隻らしい。漁船の大きいものといった程度のようだ。わが本土に到着するまで四十日はかかるらしい」
「なあんだ、といった感想ですよ」
「しかし、これはあきらかに戦争なのだ。しかも、いまのところこれはわが局の特ダネ。早いところ手を打ち、この報道の独占態勢をかためなければならぬ。すぐ来てくれ」
「だんだんわかってきましたよ。うまくやれば視聴率獲得戦争に勝てそうですね」
局に出かけてみると、一室でなにやら秘密の会議がつづいていた。私は聞く。
「なぜわが局の特ダネになったのですか」
「パギジア国は独立したてで、わが国の在外公館はまだできていない。日本への宣戦文書をどこへ持ってったらいいかと、外国からの旅行者に聞きまわっていた。それを耳にしたベルギー人の旅行者が、かつて出演したことがある縁で、ここへ電報で知らせてきた。ニュース源であかせるのは、まあこのていどだ」
「そんな国、どこにあるのです」
質問すると、壁の地図を指さして、ひとりが私に示した。アフリカの西部、宅地分譲の不動産屋の広告の図のごとく、こまかく仕切られてごちゃごちゃしている。
「このへんだ。まだ地図には国名がのっていない。米ソの新興国援助合戦をあてにし、いいことがあるかと独立してみた。だが、アメリカのくれたのは、ぼろ船二隻。ソ連のくれたのは機関銃十|挺《ちょう》。このごろは米ソも昔ほど甘くない」
「なんで、日本に宣戦など……」
「やつあたりかもしれない。米ソのけちに腹を立て、国内の不満がおさまらない。そのはけ口がこうなったのかとも推察される。しかし、くわしいことはまるでわからない」
「まるで気ちがいだ」
「戦争は狂気の産物。この原則は変りない。それはともかく、この報道で他局を出し抜かなければならぬ。さあ、打合せだ……」
この国の国情にくわしいのは、わが国に一人しかいないそうで、そいつは手回しよくさがし出して、独占契約でホテルにかんづめにしてあるという。もっとも、小さな貿易商社の社員で、雑貨を売りに一回だけ訪れたことがあるという人物だが……。
米国払下げのぼろ船、すなわちパギジア連合艦隊のと同じ型の船の写真もあった。これだけの材料で、夕方までに三十分番組を作れという。むちゃと思うが、指示ともなれば仕方がない。私は入社したての部下をせきたて、秘密がもれないように注意しながら、手配にとりかかった。
なんとか間にあう。オン・エア。
〈本日より新番組。特別報道シリーズの開始です。わが国の命運にかかわる、緊急非常事態に関するものです。ではその前に、まずスポンサーからのお知らせを……〉
コマーシャルになった。スポンサーはレジャー産業。このところボーリング場、ヨット・ハーバー、別荘分譲と多角的に発展めざましい会社だ。CMが終る。
〈敵は幾万〉のメロディを流す。局の廊下をうろついていたミリタリー・ルックのグループ・サウンズを引っぱってきて演奏させた。新人でへたなうえに、曲をよく知らないとくる。だが、緊急事態だからまあ仕方のないことだ。アナウンサーがおごそかきわまる声で言う。
〈これは演習ではありません。本日の早朝、パギジア国がわが国に対し宣戦を布告いたしました。くりかえします。これは演習ではありません。お笑いの冗談でもありません。厳粛な事実。これは戦争なのです。現在までに判明したわがほうの損害、皆無……〉
特撮のフィルムがやっとまにあった。写真をもとに作ったパギジア連合艦隊が波をけたてて進む場面だ。国旗のマークがよくわからず、そこは風になびかせてうまく処理した。だが、なんたることだ。音楽係め、伴奏に軍艦マーチを入れやがった。ディレクター室で冷汗を流していると、電話が鳴りはじめる。視聴者からの抗議だろう。しかし、中年の男性の感激した声の言葉。
「なつかしい。心がひきしまり、じんとしました。血潮がうずきます。万歳」
なにいってやがる。あれをわが国の海上自衛隊と思ったらしい。まったく軍事知識のないことおびただしい。
座談会にうつる。わが国唯一のパギジア国通の商社員、軍事評論家なる人物、むりやり連れてきた外務省の役人。司会はわが局のアナウンサーという構成だ。
「大変なことになりましたねえ。政府としてはどう対処なさるおつもりですか」
身だしなみのいいスマートな外務省の役人は、にこりともせずに答えた。
「はい。まだ報告は受けていない。事実とすれば大変だ。まことに遺憾に存じます。さっそく調べて善処する。いま私として申しあげられるのは、これだけでございます」
商社員は壁の地図を指さして説明した。
「ここがその国です。いや、暑い国でしてねえ。熱帯樹がいっぱい茂っておりまして……」
「経済状態はどうでしょうか」
「日本製のライターを、百ダース売り込もうとしたのですが、三十ダースでいい、もっとまけろとねばられましてねえ……」
なにが事情通だ。司会者は軍事評論家に聞く。
「近代戦の実体と、日本防衛態勢についてのご意見をひとつ」
ここで売込もうと、評論家はあいそのいい笑い顔。
「驚きましたねえ。とっても驚きましたねえ。いまや科学の時代、相手の連合艦隊の装備についての資料が不足だと申しあげにくくて残念ですねえ。しかし、こちらには世界最強の極東米軍の協力がありますので……」
なんとかなるだろうとの口ぶりだったが、商社員が口をはさんだ。
「あ、思い出しました。ライターの商談がまとまった夜、大変なお祭りがありました。商談成立のお祝いかと思ったら、米国との中立条約成立のお祭りだとかで……」
「そうなるとことですねえ。かつて日独は同盟し、ドイツが、ソ連を攻撃しましたが、わが国は日ソ中立条約をまもって参戦しなかった。米国も日本に手を貸せないということになります。となると、国連に仲介をたのむ以外には……」
「まだ国連に加入してない国のようです」
要領をえない話ばかり。私は座談会をうちきり景気よく軍歌を演奏しろと指示した。だが〈|万《ばん》|朶《だ》の桜か|襟《えり》の色〉と〈天にかわりて不義を討つ〉とがごっちゃになり、奇妙なさわぎ。ちがうと手を振ると、アメリカの反戦ソングをはじめやがった。はらはらしているうちに、新しいニュースが入ってくれた。アナウンサーが読む。
「ただいま入りました戦争ニュース。パギジア国連合艦隊がいずれに進路をとるか判明しました。南米のホーン岬をまわらず、喜望峰をまわり、インド洋経由で日本侵攻作戦を展開するもようです。日本の沿岸に近接するのは約四十日後と予想されます……」
天気予報を読むような口調だった。終ってコマーシャルに入ると、また電話がどんどん鳴り出した。鳴り通しだった。近くにいた者が手わけして応答する。簡単なことだ。「本当か」との質問には「はい」と答えればいい。「あとはどうなった」というのには「こんごのニュースと、あしたのこの番組でどうぞ」と答えればいい。驚異的な反響だった。この報道に関しては、完全に他局に差をつけることができた。
こうなるとゲストも呼びやすく、なにかと便利だ。つぎの日からは政治家、役人、専門家を出し、座談会とニュースで構成すればよかった。だれもが聞きたいのは政府の方針だが、それはうやむや。
「わが国は平和国家でごさいまして……まことに遺憾……外交交渉により……誤解かもしれませず……したがいまして……報告をもとに慎重に検討……世論というものもございまして……早急に……なかなか……軽率な行動は厳に……かように考えておるしだいでございます」
「インド洋上で撃退するということは」
「いや、さようなことは、微妙な国際問題ということもございまして……」
「沿岸に来てからやっつけるのとは大差ないでしょうに。それとも、国土が侵略されてもかまわないとおっしゃるのですか」
「いや、そのようなことは、断じてあってはならない。これは不動の方針でございます」
「いったい、どう対処なさるのです」
「個人的見解を申しあげますれば、心臓移植ができ、月へ人類が進出しようという時代だというわけでございまして……」
なぜ月と関連があるのかわからないが、尻尾をつかまれ政治的生命を失わないようにするには、こう言う以外にないのだろう。もやもやの残るところがいいのだ。すぱりと割り切らないのが連続番組のこつ。
宣戦の理由は依然としてわからない。もよりの領事館員がジープで二日がかりの旅をして乗りこんだが、捕虜になって消息不明。敵国人をつかまえるのは、国際法によって許されているという。
いろいろの推測がなされた。日本からの海外旅行者のせいではないか。このところ旅の恥はかき捨て主義者の、目にあまる行動が多い。パギジア国の宝物殿を便所とまちがえるとか、便所を神殿とまちがえるとか、神殿を娼家とまちがえるとか、胴巻きから金を出すとか、なにか相手に屈辱的な印象を与えることをしでかしたにちがいない。よくあることだ。
あるいは第三国のデマのせいかもしれない。日本人は犬を殺して食っているとか、武士が町人を刀で斬っているとか、政治家の|収賄《しゅうわい》が横行しているとか、男女混浴だとか、事実無根の情報が意識的に流されたのかもしれない。
商社員はそのたびに質問を受ける。
「原因はなんでしょう。いいかげんな貿易会社が粗悪品のライターを売りつけたのでは……」
「とんでもありません。ロンソンの模造品ではありますが、はるかに優秀です。私がライターで火をつけたなんて、ぬれぎぬです。おそらく、|祈《き》|祷《とう》|師《し》が二日酔の頭で神のおつげを聞いたかなにかで……」
たよりないが、どうしようもない。ほかに事情通はいないのだ。商社員はぜいたくになり、ホテルにかんづめの生活にはあきた、美人を世話しろと言いだす。他の局にとられてはと、その要求もいれてやらねばならぬ。
防衛庁の人を番組に引っぱり出したこともあった。
「どうなさるおつもりです」
「われわれは国民のための存在です。命令があれば祖国防衛のため、血と汗と涙とをささげて戦います。しかし、まだ命令はなく、自分たちで勝手な行動をとるのは許されておりません。もっとも、軍楽隊だけはべつでごさいます」
なんということもない。外務省も同様。あれはアフリカ部門の担当だと言い、その係は国連の部局の担当だと言う。目的地がアジアだからその部局の責任だという声。本土侵攻なら国内問題だ。不法入国はまず法務省だろう。水上警察ですむのではないか。大蔵省がどこに金を出すかだ。災害とみなせば建設省かもしれぬ。貿易のごたごたの処理なら通産省がやるべきだ。学術会議に意見を出させろ。どこも自分のところにしょいこみたくないのだ。各省大臣は、まだ報告は受けてない、をくりかえすばかり。
首相に問いつめると、国会の意向を尊重するという。その国会もまた、てんでんばらばら。それでも、やがて野党がやっと見解なるものをまとめる。
「これは政府および与党の陰謀である。日本の軍備強化のため、ひそかにしくんだ芝居にちがいない。|欺《ぎ》|瞞《まん》だ。死の商人にあやつられたナチ・ファシストの残党が裏で暗躍しているとのうわさがある。全貌を公表せよ」
政府は恐縮し、そのような情報や証拠をお持ちならご教示いただきたいと聞きかえす。野党は沈黙。死の商人がどこでいくらもうけられるのか計算がたたない。ひとつ説がでると、その裏がえしや、バリエーションが続出する。
「ゲバラの派手な名声に|嫉《しっ》|妬《と》した無政府主義的トロツキストが、アフリカに潜入し、最もすきの多い日本をねらったとの説がある」
「ケネディ元大統領の暗殺の黒幕が、第二の大陰謀にとりかかったと推理できる」
「世界の目をこれにひきつけておき、そのすきに真の陰謀が進行するのである」
ひとりが口を開くたびに、ひとつの新説が出る。スポンサーがこれに目をつけ、懸賞募集をした。後日、正解と判明した説には、別荘ひとつ進呈というものだ。視聴者の番組への参加。
どっと応募がある。類似のアイデアを落し、先着をきめるためにコンピューターがスタジオにすえつけられた。〈流行病による集団発狂である。だから、あとで戦争裁判にかけても精神鑑定で無罪になる〉とか〈インベーダー星からの宇宙人のしわざである〉とか〈あの艦艇は呪われた船で、乗員はその意のままにあやつられているのだ〉
〈戦争の原因は名誉と退屈のうちにある〉とアランの言葉の盗用を書いてくるやつもある。また〈東のはてにはジパングという黄金にみちた国があり、最近の地震で全滅し、金は拾いほうだいとのうわさを信じているのだ〉
いいかげんな説ばかりだが、うそとも断言できぬ。番組に新説コーナーをもうけると、ますます人気が出た。「あの国の気持ちはよくわかります」とくりかえすことしかできぬ文化人よりはるかに面白い。
〈ずばり真相、テレビ局のマッチ・ポンプ陰謀〉という名論卓説もあった。マスコミ関係がひそかに相談し、ニュース欲しさで事件をしくんだとの推測だ。私が視聴者だったら、やはりそう思うだろう。だが私は送り手側だ。こんなのは紹介できぬ。私は検閲で没にした。いまは戦時下なのだ。
新説は続出だが、しかし、どうすべきかとなると、だれもが賢明に口をつぐむ。こしゃくな国だ、むこうが不法なのだ、一発で撃沈してしまえとは言えない。言えばどうなるか、みなさんよくご存じだ。といって、無抵抗で侵略されるままになれとも言えない。これまたよくご存じだ。かんじんなところをぼかそうとするから、ますます新説開発のほうに熱がこもる。珍説が多くなると、いささか不安になる。
どういうことなのか、まるでわからないのだ。ぼろ船二隻では正気のさたとは思えない。しかし、秘密の強力兵器をつんでいるとしたら、正気そのものなのだ。なにかのワナのような気もしてくる。へたにあつかうと、そのとたんにすごいことになるのかもしれぬ。その見当もつかないのだ。疑心暗鬼。どろ沼に足をふみいれたようだ。ことなかれムードがいつまでもつか。
国会を解散して民意に問えとの社説をのせた新聞もあった。しかし、判断の資料はなにもないのだ。いかに文盲率ゼロ、テレビ愛好度抜群、ビタミン消費量最高をほこるわが国有権者も、ちょっと困る。また、選挙をやっているひまもなさそうだった。
番組のアイデアに困った私は、軍事マニアの子供を招き、クイズ・コンクールをやった。いや、すごいのなんの、地雷の掘り出し方から、ミサイルの性能、大砲の掃除法、なんでも知っている。わが国の子供のほうがNATOの参謀総長より優秀なのじゃないのかしらん。あのガキたちは原爆も作りかねない。
アメリカの人工衛星から撮影した写真によると、パギジア連合艦隊はアフリカ南端の喜望峰をまわり、インド洋にさしかかったという。順調に進むと、あと三十日ちょっとで本土に到着する。
宣戦通告書がやっと政府にとどいた。パギジア国のもよりのわが国在外公館は、そんなものを受け取ると責任問題だとばかり、あっちの領事館へとどけろと旅費を渡して追いかえした。そっちはそっちで、べつなところへ押しつけババヌキのジョーカーのごとくたらいまわしされたあげく、パリの在フランス大使館から本国へ送られたのだ。しかし政府はその確認をさける。交戦状態になったことをみとめると、ぐあいが悪いのだ。
私はそのコピーを入手し、テレビの画面にうつした。例によって商社員がひっぱり出される。彼はいささかアル中になっていたが、なんとか注射してしゃんとさせる。すぐに質問。
「妙な文字ですが、日本語に訳すとどうなりますか」
「ええと、パギジア共和国は日本国に対して戦争状態に入ることを通告するものなり。こうなります。方言をこれだけ読めるようになるには、あなた、容易なことじゃないんですよ。それについて面白い話が……」
「そのことはいずれまた。文のあとに×印が五つほど並んでいますが、その意味は……」
「これがむずかしい。このやろうといったような、ナンセンスといったような、さあ殺せといったような、とめてくれるなといったような、笑いごとじゃないといったような。どうも適当な日本語がうかびません」
「つまり、呪いの文句ですか」
「いや、必ずしもそうとは限りません。親愛の情のともなう時もあります。アクセントで区別します。しかし、その記号がついていない。残念です……」
スタジオの背景にはずっと地図がはってあり、連合艦隊の移動のあとが少しずつ前進している。戦争は地理の勉強になるとの原則があり、その効果はたしかにあった。モーリシアス島の位置とか、インド洋の海流とか、いつのまにか覚えこんだ。しかし、カタツムリのような速さとはいえ徐々に近づきつつあるのはいい気持ちとはいえない。人をいらいらさせる。
「政府はアメリカに依頼し、事態の収拾をはかるべきだ。ずっと米国に義理だてしてきたのは、こういう際のためではないのか」
「ごもっともなことで、その努力はいたしております。しかし、日米間には他にもさまざまな懸案があり、その一環として大局的な見地から解決すべきとも……」
話が進展しないのは、米国側も困っているのだ。パギジア国とは中立条約もあり、自国で払下げた艦艇だ。それに、ベトナム以来、へたに口を出してはと小国アレルギーになっている。
「大統領相手じゃ、らちがあくまい。首相はみずから渡米し、もっと権限の強い、しかもこういうことになれているCIA長官に会い、腹をうちわって直接交渉すべきだ」
勢いのいい発言があると、すぐそれを批判するさらに勢いのいい意見が出る。
「とんでもない。この種の事件には裏でCIAがからんでいるにきまっている。そこで本心をさらけだすなど、危険きわまる。わが国の政治家はひとがよすぎ正直すぎて不安だ」
ソ連にたのめと意見が出る。しかし、ソ連も物資を払下げており、いまさら仲介にも入れない。アラブ連合にたのむと、イスラエルと断交して来いと言う。西ドイツやイタリアにたのむと、三国同盟の復活とうわさされそうだからいやだと言う。フランスやイギリスは、アフリカ諸国との利害が微妙だからかんべんしてくれと言う。アルゼンチンにたのむと、お気の毒に、軍艦を貸してあげますからご自分で撃退なさいと言われた。
これらがひとつずつ明らかにされるにつれ、みなはなんとなく心細くなった。いかに外国がつめたいか、自国のことしか考えてないかよくわかる。孤立感がひしひしと迫ってくる。日本がおろおろし、ほうぼうに仲介をたのんでいるうちに、へんな国際世論ができあがる。あんなにあわてているのは、なにかやましい点があるからだろう。また、小さな小さなパギジア国がああふみきったのは、よほど腹にすえかねた事情があったにちがいない。非公式に声援をおくりたいなどと。
私はスポンサーに企画書を出し、こう提案した。国際環境を日本に有利に展開させるには、世界に働きかけなければならぬ。無実を宣伝する民間芸能使節といったものを派遣したらどうでしょう。少女歌劇団、生花の先生、手品師などで「ワンダフル使節団」が編成され、出発していった。その結団式、壮行会で番組が二回ほど埋まった。
使節団は各国である種の成果をあげた。行くさきざきで、日本侵攻予定日のころのホテル予約を大量に依頼されたのだ。見物したいらしい。スポンサーのレジャー会社は、大喜びでその受入れ態勢にとりかかった。外貨がたくさん入る。
上役が私に言った。
「他のテレビ局の企画を耳にした。どこかの国の船と契約し、インド洋航行中のパギジア連合艦隊の実況中継をやるらしい」
「そういうこともあるでしょうな」
「わが局としては負けられぬ。それ以上のことをやらねばならぬ。ヘリコプターで艦の上におり、直接にインタビューをとるのだ」
「名案です。視聴率はがぜん上がります」
「きみが賛成でよかった。さっそく出発してくれんか。あの商社員を通訳に連れてゆけ。すべての手配はしてある」
「やれやれ……」
いやもおうもなかった。撮影機を持ちジェットでインドに飛び、そこでギリシャの貨物船に乗り、ヘリコプターをつんで接近した。
やがて艦影が見えた。まっ白にぬってある。ところどころに赤や黄や緑などの原色で、神秘的な絵がかいてある。魔法医がつける仮面のような、|呪術的《じゅじゅつてき》で、原始エネルギーがあふれ、エキゾチックで、カラフルだ。
白旗を振ると、むこうから了解したとの応答がある。ヘリで飛び移る。しかし、あまりいい気分ではない。機関銃で射撃されたらそれで終りだ。それでも、ぶじに着陸することができた。
まっ白な水兵服の銃を持った若者たちが、きびきびした動作でわれわれを取り囲む。失礼なやつらだと怒りかけたが、よく考えてみたら交戦国だった。
商社員に「司令官に会わせてくれ」と通訳しろと命じると、彼はたちまちぼろを出した。手まね足まねで苦心さんたん。踊っているようだ。私が文句を言うと、彼はべそをかきながらあやまった。テレビで有名になりたいので、つい大げさなことを言ってしまいました、と。私はあきれたが、いまさらとりかえしがつかぬ。こんなことを帰って公表すれば、他局の笑いものだ。
それでも彼は単語を二十ほど知っており、司令官に面会するところまでこぎつけた。驚いたことに司令官なるものは二十歳ぐらいの女性だった。白人の血がまざっているらしく、なかなかの美人。足がすらりとし、スタイルもいい。白い海軍服がよく似合い、髪を潮風になびかせ、写真の被写体として申しぶんない。情熱と健康と使命感にみちている。私は撮影機をまわしながらインタビューをする。少し英語が通じた。
「チャーミングですな」
「ありがとう。あたし、パギジアのジャンヌ・ダルクと呼ばれております」
「マストの旗はなんですか」
「パギジアは将兵が各自の本分をつくすことを望む、との意味です」
「ネルソンの言葉のようですが……」
「わが国は著作権条約に加盟しておりません。だから、どこからも文句は出ません。勝利か死か、これが決意でございますわ」
「宣戦の理由についてご説明を」
「サイは役げられた、の一語につきます」
「日本国民へのメッセージをひとつ」
「無益な抵抗はやめよ、両手をあげて出てこい、でございますわ」
「アメリカの刑事映画のせりふみたいですな。もう少し実のある語はうかがえませんか。作戦はどうだとか、休戦の条件とか、秘密兵器があるかないかとか……」
「なにをおっしゃる。これは遊びではございません。戦争です。もし、あなたがこの艦にとどまり、わが軍とともに日本解放のために戦うとおっしゃるのならべつですが」
私にはテレビ局へ帰るという崇高な義務がある。
「いや、祖国を裏切ることはできません。しかし、なにから日本を解放するのですか」
「どこの国も、戦争の時に使っている言葉じゃありませんか。こっちにつごうのいい状態にする、といったほどの意味ですわ」
「理想の男性のタイプは」
「誠実で生活力のあるかた。しかし、お仕事か結婚かとなると、いまのところはお仕事ですわ」
「コカコーラはお好きですか」
「ええ」
これで広告代がとれる。とれなければ、ふきかえの時にペプシにかえればいい。波が荒くなりはじめ、ヘリを早く飛ばせたほうがよさそうに思えた。
「では、そろそろ失札いたします。で、あなたのお名前は」
「ガボア・ポキン。パギジア海軍、認識番号一三五八八。では、また戦場であいまみえましょう」
「勝利をお祈り申しあげます」
私は恐縮している通訳をのせて離陸した。東南アジアの見物もしたいが、そうもできない。まっすぐに帰国した。番組の視聴率をこれでてこ入れせねばならぬ。
最もなまめかしい声のタレントを連れてきて、ふきかえをやらせた。字幕などだれが読むものか。大時代調のアナウンサーにナレーションをやらせる。
〈ああ、熱帯の陽光ふりそそぐインド洋上、白波をけたてて進むこの艦隊。すんだ目の若き兵士たち。東に待つ運命は花か嵐か。そして、全軍の司令官はパギジアのジャンヌ・ダルク。若くも美しいガボア・ポキン……〉
音楽係はさすがに軍艦マーチを使わなかったが、ほかに知恵もなく「|錨《いかり》を上げて」の曲を使った。米国の大艦隊が出動しているような、大げさな効果をあげた。
小麦色の肌のガボアの美しさは、水ぎわだっていた。視聴者の目をひきつけた。解説のなかで「このりりしさ」とか「なんというりりしさ」の文句を使いすぎ、それがたちまち流行語になった。リリカルとか、リリシズムとか。それはまちがいだといってもまにあわない。|凜《り》|々《り》しいと漢字で書くのだと訂正しても追いつかないこと、いつものごとしであった。リリカル・マーチなどもヒットする。
「敵国を美化するとはなにごとだ」との電話もあったが、表面化しない。敵という語は禁句なのだ。敵と称すると交戦状態をみとめたことになり、さんざんやっつけられる。好戦だとか、軍国主義だとか……。
また、だれにも敵という実感がわかないのだ。敵とは、にくにくしく敵意をかりたて、残忍醜悪、強大で恐怖あるものでなくてはならない。
さすがに政府筋から圧力がかかったらしいが、わが番組のスポンサーの社長も政治献金の有力筋。二つの圧力が筋の上で均衝し、こっちには及んでこなかった。視聴率こそ民衆の圧力。
ガボア・スタイルのファッションが流行した。繊維業界が大喜びしたことはいうまでもない。
まっ白な海軍士官服が街に|氾《はん》|濫《らん》した。なにしろ、りりしく、リリカルなのだ。
純真にして軽率な若い男のなかには、志願兵になりたいと申し出る者もあった。外務省が、ここはおかどちがいだと告げると、パギジア国への志願兵だという。なんたる不心得者と処罰したいが、それができない。政府はまだ交戦状態をみとめておらず、法的に取締りようがないのだ。政府はいやな顔をして弱り、反体制的な若者たちはいい気分になる。
憤激した数名の者が若者たちを襲おうとすると、それを警官隊が制止したりする。その警官隊の行動を、大部分の民衆は是認する。国内での争いは困るのだ。同じ日本人ではないか。暴力はいけません。話しあえばすむことです。しかし、なにをどう話しあえばいいのかとなると、だれひとり知らないのだ。はっきりしない、なまぬるさが好きなのだ。パギジア国支持を叫ぶ者へ心情的な好意は寄せるがいまの平穏も失いたくない。なんにもせず、依然として意見は表明しない。おれの知ったことか、だれかがなんとかしてくれるだろうのムード。
街に千人針を通行人に依頼して立つ婦人があらわれた。日本古来の風習、兵士の無事を祈るために千人の女が白い布に一針ずつ赤い糸で縫い玉を作るのだ。私はさっそく番組のためにスタジオに呼んだ。千人針をはじめて見る若い視聴者は、大喜びしてくれた。「どっちへ送るのです」と婦人に聞いたが、そのへんはうやむや。「なにかをしなければいられなかったのです」と言う。案外、正直な気分かもしれない。なにかをしなければと思ったのだが、どうすべきかだれも告げてくれない。これが現状なのだ。
しかし、あの婦人、テレビ出演をねらった巧妙な作戦だったのかもしれないな。
千人針が流行すると、千人針を一瞬のうちに仕あげる機械を開発したやつがあらわれた。千人針もようのブラウスが量産される。そのファッション・ショーをテレビでやる。「あまりにひどい」と年配者がなげいたが、そのつぎの週には、スタジオに千羽鶴を折る装置を開発して持ちこんだやつがあった。折紙を重ねて入れボタンを押すと、三十分に千羽ずつ量産される。当人は「これで平和の到来も早くなります」と、とくい顔。列席者のひとりは「まったく、戦前も戦後も遠くなりにけりですなあ」と泣き顔になりかけ、あわてて口を押えた。戦時中と口走ったら、えらいことになる。
私の番組は依然として、高視聴率を独走している。スポンサーも気前がよくなり、金もかけられ、視聴者が喜ぶという好循環なのだ。いったい、みなはどんな気分なのだろう。わかりきったことだ。面白いのだ。そして、未知への期待。特等席での混乱見物。安心感。いよいよとなれば、だれかがうまくまとめてくれるのだ。いままですべてそうだった。今回だって同じこと。だまって楽しんでいればいいのだ。楽しむことは基本的人権。解決案など出す義務がどこにある。ひとりでむきになって叫んだって、どうにもならぬ。まじめに叫べば、他人からやぼと思われる。
パギジア国の連合艦隊は、マレーシアとスマトラの間のマラッカ海峡を通過した。日本からの団体観光客が岸で見物している。「がんばれ」とか「くたばれ」とか「ねえちゃん、こっちむけ」とか、勝手なことを叫ぶ。胸がすっとしていい気持ちだが、下品な日本語が付近に流行する。
艦隊はボルネオ海を北上し、南シナ海へとむかっている。あと本土まで十数日だ。途中、いくつかの港へ寄港し、水、食料、燃料の補給をしてゆく。日本政府も在外公館を通じなんとか補給しないように寄港地の国へ要求するが、きめ手がない。当事国としては、補給してやらず自国にとどまられては困るのだ。
アフリカに敵対することもできず、アメリカの顔色をうかがってもはっきりせず、やっと日本の要求をのみましょうとなった時には、出港のあとといったぐあい。外交技術。そのあとで、関係国は日本の在外公館の人に文句を言うのだ。
「こっちもいい迷惑ですよ。そちらは交戦国じゃありませんか。ロケット開発を本当にやっているのなら、パギジア国へ一発ぶちこめばいいことですよ。それができなければ、インド洋あたりで海戦をやればいいのです。ジェネラル・トーゴーの伝統はどうしました。戦うのは交戦国の義務ですよ。ボクシングだって、ファイトとレフェリーに注意されるのは恥でしょう。戦意がなければ、タオルを投げて降伏すべきです。国際ルール。それをやらずに、こっちへ泣きつく。貴国への尊敬の念がうすらぎました。みそこなってた。かつての勇気と信念はどうしました。武士道とヤマトダマシイを売りとばして繁栄にかえたのですか」
「いや、一言もない。うちあけたところ、へんな話だが、私もなぜこうなったのかわからないんだ。米帝国主義の陰謀かもしれない。そうでなければ、共産圏の文化工作の浸透のせいだ」
「いつから、ひとに責任をなすりつける国民性になったんです。しっかりなさい」
「いやあ、面目ない」
日本側は恥ずかしそうに頭を下げるが、内心ではさほどでもないのだ。
そのころになると、パギジア連合艦隊は世界中の話題になっていた。動きは刻々と宇宙中継で放送される。私の番組もその映像を買って流したりした。アメリカではこの戦争のミュージカル化の計画が進み、大衆の人気が集中している。たのみのつなのアメリカで排日的傾向が出てくるとは……。
特使が派遣され、米政府に泣きついた。
「あんまりです。わが国はこれまで貴国を裏切ったことがなかった。ずいぶんむりしてつくしてきたつもりです。ひどい……」
「いい知恵をお貸ししましょう。米国・パギジア中立条約によって、米軍基地は安全です。そこに避難なさい。どうです、いっそのこと全土を米軍基地にしてみませんか。戦争に巻きこまれないですみます」
「にやにやしないで、本気になって相談にのって下さい。助けて下さい」
「申しわけないが、ご存じでしょう。アメリカ建国以来の国是は、負け犬に味方する点です。日露戦争では日本を応援した。第一次大戦では英仏があまりに弱いので手を貸した。日支事変では中国側に力を貸した。ベトナムでは南があまりに情ないので手伝ってやった。唯一の例外は太平洋戦争。だが、それはあなたがたがいけない。ノーモア・パールハーバーです。弱きを助け強きをくじく、国のなかの国一匹。だからこそ、世界のなかの大親分の貫録。わかりますか」
「国際間がこうもきびしいものとは知りませんでした。甘えていた点は反省、自己批判します。お願いです。今回だけでいいから助けて下さい。こっちのほうが弱小国だと思って……」
「だめです。国是にそむくと国内が分裂しちゃいますからね。天はみずから助くる者を助く。いままでおゆずりした武器のたぐいはどうしたのです。外国に横流しして高層ビルにしたのとちがいますか。そうだったら、核ミサイルを一発あげます。それで戦いなさい」
なんの成果もあげず、特使は深刻な表情をおみやげに帰国した。軟弱外交反対と、空港で卵をぶっつけたやつがいた。
パギジア国のことをもっと調べておくんだったと、スパイ網のなかったことを残念がっても手おくれ。他国のスパイ組織に依頼もしてみたのだが、金ばかりかかって、さっぱり収穫はない。すべて報告がちがうのだ。他国のスパイにたのむなんて、人のいいことおびただしい。
もう、あまり日がないのだ。政府は秘密会議を開いた。もはや非常手段に訴える以外にない。なにをおいても国論を統一せねばならぬ。だれか民間人がひとり死ねばいいのだ。事故でも公害でも、犠牲者が出るとみな真剣になる。出なければいけないのだ。出そう。
ある男に因果をふくめ、プロペラ機を操縦させ、艦隊に接近させる。撃墜されるだろう。それを悲痛な調子で宣伝するのだ。不治の病人を説得し、なんとか出発させた。
しかし、当人、途中でこわくなり、不時着し、ソ連船に救助され、シベリアからスウェーデン経由、あっというまにアメリカへ亡命してしまった。そこで事実をすっぱ抜いた。アメリカでくわしい診断を受け、なおると知らされ、だまされたと知ったのだ。七生報国もなにもない。手記を書くと言ってアメリカの大出版社から大金をもらい、その金でスポーツカーを買い、すっとばして事故死した。数奇な人生。
パギジア連合艦隊は沖縄東方海上をすぎた。もはや神風の吹くのを祈る以外にない。吹いてくれさえすれば万事まるくおさまる。必死に祈る人びとがあった。だが、だれかが祈ってくれるだろうという人のほうが多かった。ちょっとした風が吹いただけで、艦に被害はない。
せめて機雷を敷設しようとしたが、漁業会社が補償金をよこせとさわいだ。危険だから、上に旗を立てろ、など。
自発的に集った少年たちが、義勇軍を組織した。日の丸の鉢巻をしめ、竹槍を作り、詩吟をうたう。森蘭丸と天草四郎と侠客と白虎隊をミックスした形。りりしい姿であり数は増加し、相模湾へ集結するとのうわさ。艦隊がそこへ上陸することは、アメリカのテレビ局がインタビューで聞き出し、全世界に知れわたってしまっていた。
警官隊がそれを解散させようとし、争いがあり、双方に負傷者が出た。少年義勇隊員は警官に「非国民め」と叫び、またなぐられる。一方、パギジア支持の学生たちは、歓迎の旗を押したてて集まり、警官隊は「売国奴め」と叫んで押しかえす。警官隊は疲れて言う。
「ばかばかしい。われわれ警官隊は手を引くから、両方で勝手にやって下さい」
すると、「それは困る。お願いだから間にいてくれ、手かげんをするから」と、双方から泣きつかれる。なにがどうなっているのだ。
自衛隊のなかでは「|汨《べき》|羅《ら》の|淵《ふち》に波さわぎ」の歌がおこり軟弱政府打倒、愛国者決起せよとの不穏な動きがある。政府はそれにおびえ、極東在日米軍にひそかに依頼し、万一の事態にそなえてくれと泣きつく。その一方、混乱に乗じて米軍が勝手なことをやると困るからと、在京の外国使臣に監視をたのむ。外国からの見物人が押しよせ、スパイが動きまわり、スリが動きまわり、どさくさまぎれに密輸をたくらむやつらがあらわれ、赤十字が献身的に活躍し、国鉄がストをやり、タバコが値上げになる。物情騒然、まさに開戦前夜。本当はとっくの昔に開戦なのだが。
私はスポンサーや局との会議を開き、終戦後の新番組の打合せをし、そのあいまに上陸にそなえての実況放送の手配をする。
艦隊はついに本土沿岸に接近した。遠い水平線にあらわれ、しだいに大きくなる。大艦隊だ。本物は二隻にすぎないが、あとは全世界のテレビ局がチャーターした船だ。海岸地帯のやじうまはいちおう制圧してあったが、警官隊は安心しなかった。あたりを警戒している。ライフルで暗殺する気ちがいが出たらことなのだ。戦場で敵を殺したりする気ちがいがでたら、大変なことになる。裁判所では新しい判例を作らなければならぬ。
少年義勇軍たちはゲリラとなって徹底抗戦をするのだと山にこもったりした。レジャー会社が開発した別荘地で、いい宣伝にもなった。非理法権天の旗をなびかせ、ゲバラ式つけひげをつけ、コーラを飲み、国を憂えている。
もう少し年上の少年たちは、チェコ式の抵抗をするのだと、道路標識を勝手に書きかえ、勝手に料金徴集所を作り、交通は大混乱。文句を言うと「自由と独立をまもれ、事故ぐらいなんだ」とやりかえされる。
パギジア国の連合艦隊、小さな船二隻は沖でとまり、全軍はボートに乗って上陸してきた。ひるがえっている軍旗。海賊の印のようだが、よく見るとちがっていた。ツボの下にマキが交差している。かつての食人時代からの伝統あるマークらしい。マイクで呼びかけてくる。
〈抵抗しなければ生命は保証する。食べたりもしない。われらは文明人だ〉
なんの抵抗もないので、全員五十名の上陸はぶじに完了した。私の番組のスポンサーは、この日にそなえて財界から軍資金を集めて用意していた。戦うためではない。巧妙に処理するためだ。
「お待ちしていました。進駐軍のみなさま。どうぞこちらへ」
司令官ガボア・ポキンをはじめ、一同を車にのせ、都内へと運びこむ。白バイの厳重な護衛。ホテルでもてなそうとすると、司令官は言う。
「この建物はなんですの」
「かつてマッカーサー元帥もご利用なされた、わが国で最高のホテルでございます。まず、お疲れをなおされたら……」
「いや、第一に、戦争終結の交渉をいたしましょう。敗戦をみとめますか。イエスかノーか」
「まあ、かたいことをおっしゃらずに、こうなったからには、よくおわかりでしょう」
「賠償金をお払いになりますか」
「それはもう、ご相談に応じますとも。いかほど……」
一億ドルが要求されたが、日本の繁栄からすれば苦しくもない。そして、これで一切の片がつくのだ。まさに金銭こそは最強の武器。もったいをつけて払い、そのかわり、文書の表現形式で譲歩してもらった。
平和共同宣言。ホテルのバルコニーから、美女の司令官があいさつをした。
「来たり、見たり、勝てり」
そのシーザーからの盗用の文句を通訳は勝手に訳した。
「両国の永遠の平和と友好ばんざい」
歓声があがる。みなはほっとする。これでいいのだ。だれかがなんとかしてくれると思っていた。はじめから結末がわかっていたような気分。推理小説を読み終え「ふん、想像した通りだ」とつぶやく時のよう。
これでいいのだ。大団円。すべては|恩讐《おんしゅう》の|彼方《かなた》。きのうの敵はきょうの友。あとはもてなし。外国からの客をもてなすのはいい気持ちのものだ。カブキを見せ、能を見せ、サケ、テンプラ、日光、新幹線、京都、エレクトロニクスの工場、おみやげ、真珠、カメラ、ゲイシャのおどり、なれたものだ。洗脳工作。テレビ出演、にこにこ笑い、フリソデ娘の花束贈呈。これでも日本は好戦的か。不満だと首をふってみやがれ、ぶっ殺すぞ。またいらっしゃいね。人情こまやかでしょう。サヨナラ、サヨナラ。めでたし、めでたし。
私は上司に言った。
「少し休暇を下さい。こっちは休みなしでした。ボーナスもはずんで下さい。戦時特別手当ですよ。しかし、これからまた、新番組へのアイデアしぼりの苦労がはじまるんでしょうね」
「ああ……」
上司は言いかけ、鳴り出した電話をとって聞いていたがそれが終ってから言った。
「……そうでもなさそうだよ。パンヤ共和国が米国と中立条約を結び、わが国に宣戦布告をしたそうだ」
「どこです、それは」
「南太平洋の小さな島だそうだ」
「なるほど、わが国は戦争もへたになっちゃいましたが、終戦処理もやはりへたなんですねえ。なんだかいやな予感がします」
「わたしもだ」
『おみそれ社会』(星新一短編集)
一九七〇年・講談社刊
(講談社ロマンブックス版) 一九七一年刊
(講談社文庫版) 一九七三年六月刊
(新潮文庫版) 一九七五年一二月刊
おみそれ|社《しゃ》|会《かい》
講談社電子文庫版PC
|星《ほし》 |新《しん》|一《いち》 著
(C) Kayoko Hoshi 1970
二〇〇二年八月九日発行(デコ)
発行者 野間省伸
発行所 株式会社 講談社
東京都文京区音羽二‐一二‐二一
〒112-8001
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