GA文庫 メイド刑事《デカ》2
早見裕司
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目次
第4話 葵《あおい》、スターになる! セレブ夫婦の裏の顔
第5話 葵《あおい》のお見合い!? 花嫁衣装は死《し》に装束《しょうぞく》
第6話 悲しき同窓会! 葵《あおい》の王子様
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※この物語は全てフィクションです! 登場する人物、組織、固有名詞などは、作者の想像《そうぞう》の産物《さんぶつ》であり、万が一、現実と一致しても、実在《じつざい》のものとは一切関係ありません!!
※現実のクイックルワイパーやペティナイフを、改造したり、武器として使うのは、大変危険なだけでなく、人としてまちがった行為《こうい》です! 絶対にやめて下さい!!
※本を読むときは照明を明るくして、目から離して読んで下さい!!
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第4話 葵《あおい》、スターになる! セレブ夫婦の裏の顔
「どうぞ」
リムジンの後部座席のドアが開いた。若槻《わかつき》葵は、赤いイブニングドレスの裾《すそ》に気をつけながら車の外へと出た。
とたんに稲妻《いなずま》のようなカメラのストロボが一斉に焚《た》かれる。その光に葵は笑顔で応えた。内心では、とても緊張していたのだが。
何しろ葵は、日本人女優では初めてのアカデミー賞主演女優賞にノミネートされ、ここハリウッドへと乗り込んだのだ。もし受賞すれば、助演女優賞まで含めても一九五七年のナンシー梅木《うめき》から約五十年ぶり、わずかにふたり目のオスカー像を手にする日本人女優となる。とても落ちついてはいられなかった。
その葵の手を、続いて車から降りてきた海堂俊昭《かいどうとしあき》が、優雅に取った。端整《たんせい》な顔を葵に向けて、優しく微笑《ほほえ》む。
「胸を張って、葵」
笑顔で海堂はささやいた。
「君は日本一の女優になったんだ。……僕もうれしいよ」
「あなたがそう言ってくれるのが、私には、オスカーよりうれしいわ」
葵も笑顔でささやき返した。
「緊張している?」
「少し。でも、あなたとふたりなら、怖くなんかない」
「それでいいんだ。さあ、行こう」
海堂に手を取られて、葵は会場へとまっすぐに敷《し》き詰《つ》められたレッドカーペットの上を歩き始めた。
アメリカ人らしい記者が、人垣の中から何か話しかけてくる。いつの間にかそばにいた通訳のニキータが、よどみない口調で翻訳《ほんやく》してくれた。
「今のご気分はいかがですか? ハリウッドの印象は?」
葵はなんとか笑顔を作って答えた。
「ハッピーですわ。宇宙を飛んでいるような気分。だってここは、とてもたくさんのスターで輝いているんですもの」
『スター』と『星』とをかけたのだが、うまく答えられたとは思えない。だが記者は、満足したようすだった。
別の記者が質問してきた。
「ミスター・海堂は、すでにアカデミー主演男優賞を取っていらっしゃいます。聴くところでは、おふたりは先ごろご婚約を発表されたそうですが、おふたりでオスカー像を手にすることになるかもしれませんね。どうお感じになりますか?」
どう答えたらいいか迷っていると、海堂が微笑んで、なめらかな英語で答えた。
「私たちは、良いパートナーとして、お互いを尊敬し合っています。仕事の上でも、プライベートでもね。二つのオスカーをもし手に入れたら、そうですね、マリッジリングの代わりに交換し合いましょうか」
記者は笑顔になったが、葵は思わず赤面した。いくら婚約しているとはいえ、全世界に中継されている授賞式の場で、堂々と結婚の話まで……。
「では、おふたりの仲のいいところを、お願いします」
カメラマンが注文をつけた。
葵はどきどきしながらも微笑んで、長身の海堂を見上げた。海堂は笑顔で見つめ返すと、葵の頬《ほお》に、優しくキスをしてくれた。ストロボがまたいっせいに、さらに激しく焚かれた。
葵は天にも昇る気持ちだった。オスカーなんか取れなくてもいい。この、海堂さんとの幸せなひとときが、永遠に続けば……。
「ハリウッドには、しばらくご滞在されるのですか?」
また、記者が訊《たず》ねた。
「そうしたいんですがね。しかし、彼女には重要な使命があるのです」
笑顔のまま、海堂は言った。
「メイド刑事としての、ね」
……メイド……刑事……?
(あっ!)
はっとしたのと同時に、ドレスの裾を踏みつけたのか体がぐらりと傾《かし》いだ。海堂の笑顔が、ストロボの嵐がみるみる遠ざかる。葵はのけぞって地面へと倒れ込み――。
「あいたっ!」
自分の声と、痛みで目が醒《さ》めた。
まだ夢かうつつか分からないまま、葵は床に転がって、辺りを見回した。いつもの六畳の私室だ、とようやく気づいた。八月も末の東京はまだまだ蒸《む》し暑《あつ》く、エアコンのない部屋は、午前四時だというのに熱気がこもっていた。
グレイのタンクトップとショートパンツ姿の葵は、ベッドから転げ落ちて打った腰をさすりながら立ち上がり、ため息をついた。
「私ともあろうものが……」
思わず声が漏《も》れる。ベッドから落ちるのもみっともないし、夢に至っては、恥ずかしいとしか言いようがない。
そうだ。自分はイブニングドレスなんて着たこともないし、これから着ることもないだろう。葵は一介のメイド、このお屋敷の使用人なのだから。
メイド……。
ベッドのサイドテーブルを開けて湿布薬を探しているうちに、ふいに葵の頭を混乱が襲《おそ》った。いくら夢とはいえ、なんという思い上がったことを。自分が日本一のスター女優だなんて。いや、それどころか、よりによってお仕《つか》えしている御主人様をあろうことか恋人に見立てて、あんなことを……。
夢の中でキスされた頬を、葵は押さえた。頬は熱く、どきどきしていた。
「私ともあろうものが、なんてふしだらな……」
まだ混乱したまま、葵はつぶやいた。もしかして、自分は御主人様に、よこしまな気持ちを抱《いだ》いているのだろうか。もちろん考えたこともないが、無意識のうちに――。
葵は首を振った。あってはならないことだ。御主人様は、葵を逆境《ぎゃっきょう》から助けてくれた恩人《おんじん》だ。そして葵はその御主人様にメイドとして絶対の忠誠を誓っている。だが、その気持ちは決して恋なんかではない。
男と女がいればそこに恋が生まれる、と思い込んでいる者もいる。だが、それは何か悪い小説かテレビドラマにでも毒されているのだ、と葵は信じていた。一流の御主人様にお仕えし、喜んでいただいたときの満足感は、恋などという『やわな』気持ちとは比べようもない。葵は硬派なのだ。メイドになるずっと前に、恋心などはとっくに捨てていた。
いつかは自分も、また恋をすることがあるかもしれない。けれど葵は十七歳。世間からすれば遅いのかもしれないが、自分ではまだ早いと思っている。そして、その相手は決して御主人様であるはずがないのだ。それが、メイドとしての『分《ぶん》』だと、葵は思っているのだった。
しかし夢の記憶はあまりに生々しく、葵の心は乱れていた。
「ええい!」
心の乱れを振り払うように声を上げてすっくと立つと、葵は心を落ちつけるために、愛用のクイックルワイパーを手に取った。葵は『クイックルワイパー』と呼んでいて、実際、市販のその商品とも互換性があるのだが、実際には警察庁科学捜査研究所が開発した重さ二キロの合金製の特注モップである。もちろんお掃除にも使えるが、武器としても充分な性能を持っている。御主人様をお守りするために作られたが、最近では、メイド刑事として悪人と戦うため、出番が増えた。
葵はメイド実技研修で習った棒術の型をひととおりやってみた。両手で柄の真ん中をつかむと、空中で風車のように振り回した。回転が速くなるのと同時に、しだいに心がとぎすまされてきた。
とどめに、
「えいっ!」
軟派な自分の夢を打《う》ち砕《くだ》くように、空中に突きを一つ入れると、葵はクイックルワイパーを静かに床に立てかけ、着替えを持って使用人用の浴室へと向かった。
すでに葵の心は、平常心に戻っていた。
シャワーで汗を流し、黒のシンプルなメイド服に着替えると、葵は玄関と玄関ホールを丹念《たんねん》に掃除して、五時半にはキッチンへと入っていた。
キッチンでは、コックの坪内さくら夫人がクロワッサンを焼いていた。日本で、個人が雇っているコックの中でも五本の指に数えられる坪内夫人は、都心に二千坪の敷地《しきち》を持つこのお屋敷に四人しかいない使用人のひとりだ。その腕は、グルメとして知られる総理大臣をも満足させたほどだった。
「おはようございます」
葵が声をかけると、夫人はパン釜《がま》から振り向いて、けげんそうな顔をした。
「どうかしたのかい? 葵ちゃん。顔が赤いけど。けさもひと騒動あったのかい?」
この屋敷の御主人様は、警察庁長官・海堂俊昭だ。わずか二十九歳の若さで日本の警察官僚《かんりょう》のトップに立った海堂には敵も多い。だが海堂は、護衛の警官や防犯装置などは『無粋《ぶすい》だ』と言ってつけさせなかった。
その代わりを務めるのが、葵だ。葵の部屋は玄関の脇にあって、いつでも外へ飛び出せるようになっている。武術の心得は、生半可なものではない。何しろ葵はただのメイドではない。国家資格を取り、日本に十数人しかいない『国家特種メイド』なのだ。メイドとして必要なあらゆる技術を習得し、その中には武術も入っている。お仕えする御主人様をお守りするためだ。だからしかるべき身分の人は、安心して国家特種メイドを雇《やと》うことができる。
しかし、今日の葵の顔が赤いのは、そのせいではなかった。
「ちょっと、おかしな夢を見てしまって……」
葵が口ごもると、坪内夫人は、ははあ、という顔をした。
「で、相手はいい男だったんだろうね」
「さくらさん!」
思わず葵は大声を上げていた。
「むきになるところが、怪しいねえ」
坪内夫人は、にやにやした。
「何、気にすることはないさ。あたしだって若い頃は、いい男の夢を見たもんだよ。映画俳優なんかと、なぜか恋人どうしだったりしたもんさ」
葵は内心、どきりとした。まさにその通りの夢だったからだ。
だが、その映画俳優がこともあろうに御主人様だったなんて、口が裂《さ》けても言えない。
「夢の相手が、知り合いだったんです」
つい、口にしてみると、坪内夫人は笑った。
「そういう夢は妙にその、なんて言うんだい……そうそう、リアルってやつだろうね。それは気になるのも無理はないさ」
「いいえ、私の心がけが悪いのです」
「まあ葵ちゃんも若いんだ、そんなに肩《かた》ひじ張《は》ることはないよ。でも、お役目に差し支えるようなら困るねえ。ちょいと待っておいでな」
坪内夫人は冷蔵庫から小さな陶器《とうき》の壺を取り出して、緑色のものをひときれ、小皿に乗せて葵に渡した。
「つまんでみな」
言われるままに口に運んだとたん、葵の目の前で星がはじけた。
「か、辛い!」
「青唐辛子のいちばん辛いやつさ。ほれ」
坪内夫人に手渡されたコップの水を、葵は一気に飲み干した。それでも辛みが残っている。口の中が痛いほどだった。
「ひどいです、さくらさん」
葵が抗議《こうぎ》すると、坪内夫人はにっこり笑った。
「おかしな夢なんぞ、ふっとんじまっただろう」
言われてみれば、激しい辛さが頭を真っ白にしてしまって、もう夢のことなどどうでもよくなっていた。
「味は、人の体調や気持ちまで左右するのさ。心が疲れたときには甘いもの、体をあっためたりしゃっきりさせたいときには辛いもの。お屋敷ではふだん、あんまり辛いものは出さないから、効いたんじゃないかい?」
「ええ、ありがとうございます」
葵は頭を下げた。坪内夫人は、料理を通して使用人の心身にも気を使ってくれるのだ。
朝の紅茶の支度に、葵はとりかかった。最高級のキーマンの葉に、葵が天然のベルガモットで香りをつけたアールグレイ。御主人様はいつも二杯、朝食に召し上がる。
熱い紅茶をティーサーバーに注いだ頃には、坪内夫人のクロワッサンも焼き上がっていた。葵は手作りのマーマレードを添《そ》えた。ある人から教わった、秘伝の味だ。
「それでは、行って参ります」
銀のトレイを葵が持つと、坪内夫人はあくびをした。
「ああ。あたしはもうひと眠りするよ。まだまだ寝苦しくてかないやしない。寝た気がしないんだよ」
今日は来客がないので、昼食まで坪内夫人の出番はなかった。
どんなに眠くても、御主人様の朝食の時間ぴったりにパンを焼き上げるのが坪内夫人の務めだ。年に何日かもらえる休みのとき以外には、毎朝休みもせず、一分と狂ったこともない。味が変わることもない。それが、プロというものだ。
葵は反省した。夢などに惑《まど》わされている場合ではない。今日の仕事に専念すること。紅茶の味を変えないこと。それが葵の仕事だ。
今日は特に念入りに掃除をしよう。おかしな夢は夢として、忘れてしまおう。
平和な一日になりそうだ――と、そのときの葵は思っていた。
広い邸宅《ていたく》の奥、ローズウッドの壁に深い赤のカーペットが敷かれた廊下まで来ると、突き当たりのドアからクラシックが流れてきた。
葵は、眉《まゆ》をひそめた。この曲は――。
「失礼いたします」
声をかけて、葵は主寝室へと入った。すると、ベッドで上半身を起こしている御主人様、海堂俊昭の隣《となり》には、タキシードを着こなした朝倉《あさくら》老人が、しゃん、と立っていた。葵は意外に思った。朝食のひとときは、ひとりで過ごすのがいつもの御主人様の習慣だからだ。
朝倉老人は、もう六十年もこのお屋敷に仕える執事《しつじ》である。家の中のこと一切を取り仕切っており、海堂といえども逆らうことはできない。この家を一流のものにしておくためには、御主人様といえどもまちがっていると思えば正すのが、執事の役目なのだ。
葵はそっとサイドテーブルの上にトレイを置いた。
海堂は、黙ってクロワッサンとアールグレイを味わった。サイドテーブルの抽出《ひきだし》からパイプ煙草《たばこ》の葉を取りだし、薄紙で巻いて火を点ける。フルーティーな香りが漂《ただよ》った。手巻き煙草にパイプの葉を使うのは、愛煙家の間で昔から静かに流行っている。香りもいい。
「御主人様」
葵はそっと声をかけた。
「また、何か事件が起こったのですか」
「なぜ、そう思う――と訊《き》きたいところだが」
海堂は、端整な顔の真一文字に結ばれた唇《くちびる》の端をわずかに上げた。
「分かっている。この曲だろう」
海堂の趣味はオーディオだ。値段を口にするのもはばかられる超一級品のオーディオセットで、クラシックの、主にアナログレコードを聴く。もちろん海堂は値段のことなど気にしていない。ただ、いい音を聴きたいだけなのだ。
ふだんはドビュッシーやラヴェルといった印象派の柔らかな音楽を、朝起きると共にかけるのが習慣だった。だが、今日の曲はスメタナの『売られた花嫁 序曲』。朝の静かなひとときに聴くのには落ちつかない気がする。それは海堂の心の内を表わしているのに違いなかった。
「葵。映画に興味はあるか」
葵は一瞬、どきりとした。けさの夢を思い出したのだ。
だが、いつまでも私情にとらわれている葵ではない。すぐに答えた。
「『極道《ごくどう》の妻《おんな》たち』でしたら、主演が高島礼子《たかしまれいこ》になる前は、全作観《み》ております」
その答が海堂は気に入ったらしい。葵に向けた目が気のせいか笑ったように見えた。あり得ないことだが。何しろ海堂は、関東大震災が来ても氷の表情を崩《くず》さない、と噂《うわさ》されている男なのだ。
「それは、レディース時代のお話ですかな」
朝倉老人が口をはさんだ。
「ええ。ですが朝倉さん、レディースはとっくに卒業しております」
葵には、ある事情から道を踏み外して、関東のレディース三千人を率《ひき》いる連合の総長を務めた過去があった。そのとき葵をタイマン勝負で負かしてこのお屋敷に連れてきたのが、当時は警視庁第八方面本部長だった海堂なのだ。
「もちろん、存じ上げておりますよ」
朝倉老人は微笑んだ。
「そうでなければ、当家に置いてはおけませんからな」
「では、映画ファンドについてはどうだ」
葵は海堂の言葉に、首を傾《かし》げた。聴いたことがあるような気がするが、とっさには思い出せない。葵は学歴こそ中卒だが、国家特種メイドは御主人様の話題にお相手できるように、英字新聞や経済紙まで読みこなしている。そのどこかに、『映画ファンド』という言葉があったような気がするが……。
「朝倉」
海堂が声をかけ、朝倉老人が再び質問してきた。
「それでは葵さん、大空瞳《おおぞらひとみ》というアイドルはご存じですかな」
「はい、それなら存じております」
葵は最近のアイドルにも興味がない。レディースをやっていた三年前、仲間の間では中森明菜《なかもりあきな》や工藤静香《くどうしずか》が未だに流行っていた。葵は生まれた街、清瀬の出身である中森明菜が今でも大好きだった。
だが、使用人が昼食をとる時間、坪内夫人がテレビを点けて昼の情報番組を見るので、そういう名前のタレントがいることは、見て知っていた。『大空』という、ちょっと古風な苗字《みょうじ》が印象に残っていたのだ。主にグラビアで活躍《かつやく》、テレビ番組では意外な頭の回転と品の良さを発揮《はっき》して人気が上昇し、十代から四十代以上までの広いファンを獲得《かくとく》している、とかいう話だった。テレビで見た印象でも、スレンダーでいながらめりはりのある体と、くっきりした顔に似合ったはきはき話す話し方に好感が持てた。ときには下世話《げせわ》な話題もあったが、受け答えにどこか品があった。
「たしか最近、結婚したのでしたね」
そのニュースは何度も放映されていた。半年ほど前、二十五歳の若さで会社社長と結婚、引退したが、まだ写真集などはよく売れているそうだ。人気が落ちないのは不思議、と芸能リポーターか誰かが言っていたような気がする。
「はい。お相手はIT企業の社長、青柳志朗《あおやぎしろう》氏です。四十一になりますから、ずいぶんな歳の差ですが、結婚ばかりは周りの人間には分かりません」
「いわゆる『セレブ婚』というものですね。『セレブ』などという言葉、わたくしは好きにはなれませんが」
セレブはもともと俗語である。それに日本で言う『セレブ』はずいぶんと安っぽい使い方で、本来の意味である『名士』とはとても呼べない、ただ金を持っていたり、つてをたどって社交界にもぐりこんだりしている連中がほとんどだ。だいたい、テレビのバラエティ番組に出てくるような『名士』がいるだろうか。葵はそう思う。
「その青柳志朗氏なのですが――」
朝倉老人が続けた。
「本業であるはずのIT会社は年商数千万と、ずいぶん小さなものなのですよ。そこらの小売業でも、もっと稼いでいる会社はいくらでもあります。それなのに、彼は妙に羽振りがよろしい。自宅は大森の湾岸に近い超高層マンションのワンフロアを丸ごと借り切り、車はロールスロイス・ファントムを乗り回しています」
「まあ」
葵は口を押さえた。ロールスロイス・ファントムが居住性その他の性能に優れ、世界の名士に愛用されていること、最新のモデルが四、五千万ほどすることは、葵も知っていた。ちなみに海堂家の車は、トヨタ・センチュリー。天皇家が使っている車のベースになった普及版だ。値段も一千万を少し超える程度のささやかなものである。
「問題は、その金の出所だ」
海堂が言った。
「何か、後ろ暗いことでもなさっているのですか」
「青柳志朗の本名は、恩田行三《おんだいくぞう》。警視庁がマークしている、名うての詐欺《さぎ》師だ。今回は事業を興して出資者に莫大な投資をさせているのだが、今までの前科から見ても、急にまっとうな事業を始めるとは思えない。その事業の内容も、怪しいものなのだ」
「つまり、また詐欺を働いている、と……」
「その可能性が、非常に高い。今は、そう言っておこう」
「警視庁の事件ならば、御主人様が気にされることはないのでは?」
葵が訊くと、海堂は答えた。
「警視庁には尻尾がつかめないでいるのだ」
よく誤解されるのだが、警視庁と警察庁とは別の組織だ。警視庁は東京都の自治体警察に過ぎないが、警察庁は全国それぞれの警察を管理調整し、その上に君臨《くんりん》する警察のトップである。警察庁長官である海堂の上にいるのは、大臣である国家公安委員長だけ。つまり海堂は、全国の警察官のトップということだ。
「詐欺は、非常に立件しにくい犯罪だ。今、問題になっている事件、いや、事件かどうかはまだ分からないが、世間の注目を大いに浴びている。警視庁が立件に失敗したら、被害者はもちろん、世の非難を浴びることはまちがいない。それで内々に、警察庁特捜班《とくそうはん》へと泣きついてきたのだ」
警察庁は事件の捜査をすることはない。刑事局はあるが、広域事件などで各都道府県警の間の調整をとるなどの事務だけが仕事だ。しかし海堂は警察庁長官に就任してから刑事局に通称『特捜班』を作り、警視庁などが手を焼く事件を直接指揮を執《と》って解決してきた。面子《めんつ》と成績にこだわる警察の官僚主義を超えて、検挙《けんきょ》率を増加させようというわけなのだ。
海堂はサイドテーブルのファイルを取り上げて、開いた。
「青柳志朗は、最初は偽の健康食品を『ガンに効く』と言って売りつけ、逮捕《たいほ》された。今から十五年前のことだ。しかし、当時の法律では単なる罰金刑に過ぎなかった。青柳はのうのうと生き延び、次々に、逮捕しにくい詐欺を重ねてきた」
「逮捕しにくい、と申しますと?」
「いろいろございます。立件に至らない事件、そして、もしも相手がだまされたことに気づいても訴えられない事件ですな」
海堂の代わりに、朝倉老人が答えた。
「立件に至らない事件ですと、恩田は比較的最近、インターネットのオークションで実際に持っていない品物を落札させて代金を振り込ませる、というまねをしでかしました。一つ一つはごく少額、しかも膨大《ぼうだい》な数なので、捜査にかかる手間と人件費を考えると、警察としては手がけにくい事件なのです。それに青柳は代金の一部を返却して、全額返却にも応じる、と言い続けたため、詐欺として立件はしづらいのですよ。法律では、返す意志を示している限り、詐欺罪で訴えることは難しいのです」
「まあ」
詐欺罪というのは、たしかに厄介なものらしい。
「落札した人間にも、油断があった、と言えないこともありません。オークションの商品説明で、発売前の新商品が妙に安く、現物の写真ではなくメーカーのサイトに載っている写真を転載している場合などには、注意が必要ですな。きちんとした業者との見分けが必要です」
「でも、それでは被害者は泣き寝入りになってしまいます」
「そこが詐欺師の付け目なのです」
朝倉老人は言った。
「他には、例えば海外での宝くじを買う代行手続きをする、といった事件がありました。青柳は慎重にカモを選び、言葉巧みに話を持ちかけました。直接購入するのは刑法違反だが、海外の代行業者を通すから、といった具合に。詐欺師というのは妙に人を信用させる力を持っていましてな、百万以上注《つ》ぎ込んだ被害者までいます。青柳は五千万ほどの金を集めて、逃亡しました」
「そんなにたくさん……」
葵は驚いた。宝くじに財産を注ぎ込む人が多いのは知っているが、しょせんはバクチだ。百万も賭《か》けるなんて、考えられない。
「そもそも国内で海外の宝くじを買うことはいかなる手段ででも刑法百八十七条に触れて、それ自体が犯罪なのです。ですからカモにされた人間は訴え出ることができません。自分も犯罪者になりますからな。このような手口を次々に考えて、青柳は資産を増やし、今ではIT企業社長の肩書きを悪用して更に詐欺を続けているというわけなのでございますよ。……そして、今度は映画ファンドを悪用した、と思われる事件が起こりました」
「まだ、可能性だけだ。事件だという確証はない」
海堂が冷静に言った。
「失礼いたしました」
朝倉老人は頭を下げた。
「いったい、その映画ファンドとは、どういうものなのです?」
「映画ファンドと申しますのは、一般投資家からお金を集めて映画の制作費にする、それ自体は全く正当なご商売です」
朝倉老人が言った。
「最近では『SHINOBI』という映画が、この方法で制作費を集めるのに成功していますな。証券会社が一種の株のような形で個人投資家を募《つの》り、映画が成功すれば、その興行《こうぎょう》収入に応じて利益が分配されるというわけです。『SHINOBI』は仲間由紀恵《なかまゆきえ》、オダギリジョーといった人気俳優が出ていましたから、目標の十億円は、すぐに集められました。ただ、言いにくいのですが……」
朝倉老人は、少しためらったようだった。
「十億円の投資で利益が分配されるには、興行成績二十億を超えなければならないと言われているのです。過去五年間で興行成績が二十億を超えた映画は、アニメーションを除くと年に二、三本ですな。『SHINOBI』も山田風太郎《やまだふうたろう》原作というので拝見しましたが、失礼ながら、十億という金をかけたわりには、それほどのものには見えませんでした。事実、興行収入は十四億程度にとどまっています。DVDが売れたとしても、利益が投資家に還元《かんげん》されるかどうか。それほど、映画をヒットさせるのは難しいのです」
だんだん、話が見えてきた。
「その映画ファンドを悪用して、お金を集めている、というのですね?」
朝倉老人はうなずいた。
「青柳が作ろうとしている映画は、制作費二十億。超大作というふれこみです。資金はすべて安西《あんざい》証券という会社がファンドを募り、選ばれた投資家を集めて説明会を開き、すでに二十億を手に入れました。しかしこの安西証券、調べてみますと、青柳の仲間が作った殆《ほとん》ど実績のない証券会社なのですな。そして投資家の投資額は、一口が一千万円」
「一千万?」
葵は驚いた。ヒットするかどうかも分からないたった一本の映画に、そんなにお金を注ぎ込むなんて。
「こう言っては失礼ですが、そのような物好きな方が、そんなにいらっしゃるのでしょうか」
「この映画には、大きな目玉があります。結婚、引退を表明した大空瞳が、主演女優としてカムバックするということです。出資者には特典として、撮影現場の見学、完成した映画に名前を載せる権利、関係者以外入手できないスタジアムジャンパーにサインを入れたもの、そして、大空瞳とのツーショットのサイン入り写真に加えて、ふたりきりで録《と》った、世界に一本しかないビデオが手に入るのです。他にプレミアム試写会の招待状や劇場招待券なども特典についていますが、それも大空瞳のサイン入りです。いずれの物もファンにとってはたまらない、一生の宝物です」
「そういうものですか」
葵にはピンと来なかった。だが過去に関わった事件で、ある種のマニアが自分の執着《しゅうちゃく》するものにとんでもない金を払うことは知っていた。
「しかも青柳は、この映画の海外での興行権やリメイク権も含めて、百億以上の収入を謳《うた》っています。単純に考えますと、一千万が五千万になる計算ですな。……しかし、国内だけで言いますと、日本映画で興行収入が百億を超えた映画は、わたくしの記憶にある限り、スタジオジブリのアニメーションを除くと、『踊る大捜査線 THE MOVIE2』しかありません。海外セールスに成功したとしても、百億の収入を稼ぐには大変な幸運が必要かと」
「ですが、投資家もそれぐらいのことは調べるでしょう?」
「一千万、のからくりが、そこにはあるのでございますよ」
朝倉老人は、口に手を当てて笑った。
「『SHINOBI』の場合は一口十万円からでしたが、今回は一律一千万。つまり、二百人の投資家がいれば足りるわけでして。青柳は、大空瞳の熱烈なファンで、しかもカモにされやすいタイプの人間を、二百人見つければよかったのです。その二百人を六本木のオフィスに集め、あるいは豪華なマンションの自宅で、言葉巧みに説得してしまったのですな。……しかも通常の映画ファンドは元本を六割から九割、保証します。つまり映画が失敗しても、その程度の出資額は戻ってくるのですよ。ところが今度の映画、『深紅《しんく》の伝説』は元本保証は一割。映画がたとえ制作されなくとも、青柳のふところには十八億が転がり込むのです。その保証すら怪しいものです。詐欺師は、自分のふところを痛めようとはしたがりませんからな」
「つまり、二十億円をそっくりだまし取られる可能性が大きいとおっしゃるのですね」
「今はまだ、なんとも言えないのだ」
海堂が言った。
「過去に犯罪を犯したからと言って、まだ犯していない犯罪で人を捕《とら》えることはできない。それに、本当に映画を作るかもしれない。それは、たとえ失敗作であれ、まっとうな商売だ。だが、過去に何度も法の網《あみ》をくぐり抜けてきた青柳が、今回に限ってまじめに商売をするとは考えにくい」
「詐欺師とは、そういうものでございますよ。結婚したぐらいで、詐欺師の本性は変わるものではございません。大空瞳と結婚したのも、大がかりな詐欺の手段の一つなのかもしれないのです。彼女は二百人のカモを惹《ひ》き付《つ》けるための、道具にしか過ぎないとも考えられますな」
朝倉老人の言葉を聴いて、葵は怒りが燃え上がるのを感じた。大空瞳のファンではないが、女性を犯罪の手先に使うための結婚など、あってはならないことだ。
「大空瞳は、映画に専念するために、家事を取り仕切ることのできるメイドを捜《さが》している」
海堂が言った。葵はすぐさま答えた。
「わたくしが参ります」
「行ってくれるか」
「結婚とは、神聖なものです」
葵はきっぱりと言った。
「たとえ取り越し苦労だとしても、ひとりの女性、それもトップアイドルの座を放り出してまで家庭を選んだ女性がもし泣くようなことがあったら、わたくしには許せません」
海堂は、ゆっくりとうなずいた。
「いい目をしているな、葵」
「恐れ入ります」
照れている場合ではなかった。ひとりの女性を詐欺師の手から救うのは、海堂から言いつかった特命刑事としての仕事を超えて、葵の信条に適っていたのだ。
「では、手配をしておく。ただ、今までに雇ったメイドが何人か、瞳の逆鱗《げきりん》に触れて、その日のうちにくびになっているそうだ」
どうやら、大空瞳は厳《きび》しい人らしい。葵は身が引き締まるのを感じた。
「では、期待しているぞ」
海堂は、話を打ち切った。
二日後、葵は東京湾岸の超高層マンションへと向かった。
まだ残暑は厳しかったが、葵はメイド服を着て、ベッコウ縁《ぶち》の大きな眼鏡《めがね》をかけていた。ふだんなら当然、軽装の外出着を着るところだが、葵にはあるもくろみがあった。
マンションは地上六十階の超高層ビルだから、建築基準法に定められたとおり、周りに広い広場がとられている。芝生が両脇に広がる道を歩きながら、葵は眉をひそめた。芝の手入れが行き届いていない。色もよくないし、踏み荒らされて土がむき出しになっている場所もある。庭の荒廃は、建物の荒廃だ。
葵は、坪内夫人の夫、弥助《やすけ》氏の顔を思い出した。弥助氏はやはり海堂邸で、庭師と家の修繕《しゅうぜん》を引き受けている。彼の手にかかると、枯れたと思った花もたちまち息を吹き返すのだ。特に接《つ》ぎ木《き》の腕は、一流の職人も舌を巻くほどだ。造園業者などから引き抜きの話もあったが、弥助氏は、『ここが私の庭だから』、と決して応じようとしなかった。
葵も海堂家を愛している。自分の仕事場はそこにしかない、と思っている。だが、特命刑事としての任務にも、最近、愛着を感じ始めつつあった。何よりも御主人様の手助けができるから。そして犯罪の陰《かげ》で泣く人を救えるかもしれないからだ。
葵の父は巨悪の手によって、自殺に偽装《ぎそう》されて殺された。母親は悲しんで後を追った。二度と同じような人を作ってはいけない。葵はそう思うのだった。
マンションの玄関まで来た葵は、身だしなみを整えた。度の入っていない丸い眼鏡は、葵の素顔を隠すためのものだ。人は眼鏡にばかり気を取られて、まるで違う印象を受けてくれる。長い髪は結い上げて、カチューシャで留めていた。愛用のクイックルワイパーは分解してバッグに入れてある。
葵のメイド服は、フリルの少ないシンプルなものだ。地味に見えるかもしれないが、国家特種メイドのメイド服は国の規程で決められている。葵はそのかっこうでインターフォンを押した。もちろんカメラがついていた。
『どなた?』
若い女性の声がして、すぐにとまどったような声になった。
『あなた、もしかして、メイドさん?』
「はい。若槻葵と申します。『JAM』からご紹介をいただいて、こちらへうかがうように、と仰《おお》せつかって参りました」
JAMとは、Japan Authoritative Maidsの略称である。国家特種メイドが情報交換などのために作っているクラブだ。
『まさか、そのかっこうでここまで来たの?』
「それでは目立ちますので、近所で着替えて参りました。今すぐにでも働ける、というところをお見せしたいと思ったのですが、不都合だったでしょうか」
葵はにっこりと微笑んだ。相手はアイドル業界でトップの座を取った人間だ。噂では、仕事にはとても厳しく、単純な連絡ミスなどでくびになったマネージャーも何人といるという。海堂の話ではメイドも普通の人間ではつとまらないようだ。ふところに飛び込むのには、まずは先制攻撃だ、と葵は思ったのだ。
『面白い人ね。入ってちょうだい』
第一関門はクリアしたようだ。玄関の鍵《かぎ》が、かちり、と音を立てた。葵はすばやくすべりこんだ。
スピードの速いエレベータで、一気に六十階まで上がる。六十階のボタンはシークレットになっていたが、上り方は教えてもらっていた。
ドアが開くと、そこは広大なリビングだった。葵は一瞬のうちに見回した。白とガラスを組み合わせた家具はおそらくアメリカ製のモダンなものだった。応接セットや棚《たな》も全て同じデザイナーの手によるものらしく、統一が取れていた。部屋の中央にはアクリルの大きなチューブがあり、青い光に照らされて熱帯魚が泳いでいる。
成金趣味らしいところはどこにも見当たらない。それでいて、見るからに高そうだと分かる。だが、これは瞳の趣味ではないだろう、と葵は判断した。主人の青柳はこの家にカモを招いて、家のセンスと格調の高さで信用させ、金を引き出しているのかもしれない。
奥の壁は一面、天井から床近くまで窓になっていて、東京湾とベイエリアを眺《なが》めることができた。夜はさぞ美しいことだろう。
その窓に、大空瞳がもたれていた。
アイドル時代の瞳は、葵が下調べのために読んだ雑誌や、テレビなどで見た限りでは、アイドルおたく受けのしそうなキャミにミニスカートといった服装がほとんどだったように思う。だが、目の前にいる瞳は、シルクのゆったりとしたルームウェアを着て、ワイングラスを手にしていた。茶色かった髪も黒に戻して、しっとりとしたロングヘアになっている。
まだ二十五歳だがすっかり大人びたふんいきの瞳は、しかしどこか落ちつきのないようすでソファーを指差した。
「ようこそ。とにかく座ってちょうだい」
「ご主人様が立っていらっしゃるのに、メイドが座るわけには参りませんわ」
葵はにっこりと笑った。
「それと、いきなりで申し上げにくいのですが――」
「なあに?」
瞳は首を傾げた。そのときだけ、グラビアアイドルを思わせる、まだあどけないとも言える表情になった。
「まだ午後の二時でございます。お食事の時でもないのにワインをあまり召し上がるのは、何かと具合がよろしくないかと」
「私に指図するつもり?」
瞳の激しい声が飛んだが、葵はひるまなかった。
「申しわけございません。ですが、メイドは家をきちんとした、ご身分にふさわしいものにしておく務めがございます。大空様は、もう――」
「その呼び方は、やめて」
いらいらしたように瞳が言った。
「とっくに引退したのよ。芸名で呼ばれたくないの。私の本名は阿川《あがわ》瞳。ううん、結婚したから青柳瞳ね。瞳って呼んで」
怒っているのか、親しみを見せているのか分からない。どうやら瞳は、何かの理由で混乱しているようだ。葵は一礼した。
「承知しました。瞳様は、今までもこれからも一流の方なのですから、それにふさわしい振《ふ》る舞《ま》いをなさっていただかなければ、わたくしがお仕えすることはできません。メイドと言えども、主人を選ぶ権利があるのでございます」
「ずいぶん立派なことを言うのね」
しかし、皮肉ではなさそうに、瞳は言った。
「私だって飲みたいわけじゃないのよ。ただ、落ちつかないの。明日が映画のクランクインよ。人目にさらされるのは怖くない。でも映画は、いえ、演技なんて初めてなんだもの。監督に見放されるんじゃないか、と思うと……」
瞳は、寒けが走ったように震《ふる》えた。
「お察しします」
葵はまた、頭を深く下げた。
「とにかく、こちらのソファーにゆったりとお座りになって、ワイングラスはお置き下さい。キッチンをお借り致します」
葵はキッチンへと向かうと、自分でブレンドしたハーブティーを淹《い》れた。
リビングに戻ると、瞳はソファーに縮こまって座っていた。トップアイドルの自信はどこにも見当たらない、ひとりの無力な女性がそこにいた。
「こちらをお召し上がり下さい」
湯気の立つティーカップを瞳は手にして、けげんそうな顔をした。
「不思議な匂いね」
「ローズマリーのハーブティーでございます。集中力を高め、気分を明るくすっきりさせる、と言われております。飲みやすいようにブレンド致しました」
こと細かにレシピを説明する葵ではなかった。そういうまねは、フランス料理などのレストランが格を高く見せるために行なう、ただのパフォーマンスだと思っているからだ。
瞳は熱いハーブティーをすすった。大きく、ほっとしたようにため息をつく。
「そうね。なんだか、すっきりするようだわ」
「お酒で気を紛《まぎ》らわせるのは、お仕事にも差《さ》し支《つか》えます。わたくし、ハーブには少々詳しいので、ご気分に応じてブレンド致します。ワインはお食事のときに、せいぜい一、二杯にされたほうが、体重の管理にもよろしいかと存じます」
「ありがとう」
瞳はようやく、にっこりとした。
「あなたはどうやら、仕事ができる人のようね。これから映画に専念するために、家事をお任せしたいの。あの人と私の好みは、ここへ書いておいたわ」
『あの人』とは青柳のことらしい。テーブルの上の紙を、瞳は指差した。葵は取り上げてざっと目を通し、舌を巻いた。それぞれの飲食物の好み、生活習慣、葵のするべきことなどが簡潔《かんけつ》にまとめてある。いちいち指示をうかがう必要がない。女主人としての、瞳の有能さが知れた。
「承《うけたまわ》りました」
葵は、頭を下げた。
「私は引退したから、マネージャーがいないの。実はね、朝は弱いのよ。アイドル時代はそれで失敗したこともあるわ。そのときのマネージャーが気を使ったつもりで起こさなかったのね。本末転倒よ。――だから、私がいくら不機嫌《ふきげん》になってもたたき起こしてちょうだい。わがままだと思うかもしれないけれど」
つまり、マネージャーがするような仕事もしてくれ、ということだ。
「かしこまりました」
ハーブティーをすっかり飲み干した瞳は、気のせいか、表情にきりりとしたものが甦《よみがえ》っているようだった。
「それじゃ、明日のためにシナリオを読まなくちゃ。手伝ってくれるかしら」
「あの……旦那様は?」
葵が『御主人様』と呼ぶのは、海堂ただひとりだ。
「今夜、アメリカから帰ってくるわ」
瞳は夢を見るような表情になった。
「今度の映画の海外興行権とリメイク権のセールスのために、ハリウッドへ行っているの。電話では、『深紅の伝説』は好評らしいわ。ホラーの要素のある、純愛映画ですものね」
その話は朝倉老人から聴いていた。『深紅の伝説』は、瞳演じる美しい吸血鬼と、テレビドラマで人気のある美形俳優・原田収《はらだおさむ》の青年とが時を超えた純愛に目覚める、感動的なストーリーなのだそうだ。日本のホラーはアメリカでは最近評判がよく、『呪怨《じゅおん》』や『リング』がリメイクされているが、国内で、ホラーやオカルトのような要素を少しでも持った映画で最も興行収入が高かったのは、『いま、会いに行きます』の四十八億。それも、あくまで純愛映画という扱いだった、と朝倉老人から聴いていた。
まして吸血鬼は、どちらかと言えばマニアックな題材だ、とも朝倉老人は言っていた。百億のセールスは、大いに疑わしかった。
だが瞳は、映画の成功を信じきっているようだった。
「これこそ究極の愛よ。それに私、吸血鬼は大好きなの。ロマンティックじゃない? 永遠に、若く美しいまま生きられるなんて」
「瞳様なら、そうでございましょう」
葵は無難に答えておいた。自分では、そうは思わないが。
葵自身はたとえば坪内夫人のような、年齢に応じた経験の積み重ねをしっかりと今の自分に反映させた生き方がしたいと思う。その積み重ねこそが、美しさだと思うのだ。
若いままでいることは、未熟なままだ、ということだ。葵は自分が未熟だ、と思うからこそ若さにはこだわらない。美しさが若さの中にあるなどとは決して思わない。遠慮せずに言えば、それは――。
(ガキのままだ、ってことじゃないの)
心の中で葵はつぶやいた。
「私ね」
瞳は身を乗り出した。
「十五歳で、グラビアアイドルとしてデビューしたの。若いうちは、そんなにルックスやスタイルがよくなくたって、グラビアは売れたわ。若さというものは、それだけで商品価値があるんですものね」
それは謙遜《けんそん》だろう、と葵は思ったが、口には出さなかった。
「けれど、生き残りの厳しい世界よ。いつまでも若いままでいられるわけはない。すぐにトップの椅子は、次の若い子に明け渡さなければならないの。……私はもう、二十五よ。アイドルとしてはぎりぎりの年齢なの。だから一生できる仕事を考えて、女優になることを決意したのよ。それに、アイドルをやっているときの私は、お人形さんだった」
「テレビで拝見したところでは、ずいぶん聡明《そうめい》な方にお見受けしましたが」
葵が言うと、瞳は大笑いし出した。
「しょせん、あなたもひとりの視聴者ね。……あのね、教えてあげる。私がテレビで話すことの八割以上は、構成作家が書いた台本なのよ」
葵は驚いた。あの頭の切れる『キャラ』は、では作られたものなのか。
「もちろんそれを自分の言葉にするのは、私の力よ。でもアドリブで答えたことなんて、アドリブに見えるように言っているだけ。今のテレビ番組に、台本と演出のないハプニングなんて、ないの」
「そうだったのですか……」
「だから、女優になりたいのよ。今度こそ本当の自分が表現できる。そんな気がするの。だから、彼と結婚したのよ」
「女優になるために?」
それでは、一種の政略結婚ではないか。
「いけない? 青柳だって、私を看板に大きなお金を集めようとして結婚したのよ。私は結局は広告塔《こうこくとう》に過ぎないわ。でも、ただの広告塔ではないことは、映画で見せつけようと思っているの。私にとって結婚は、人生のステップの一つなの」
「ですが、そこに愛はないのでしょうか」
葵には納得できない話だった。結婚とは、愛し合う男女が永遠の幸せを築《きず》き上《あ》げる、神聖で美しいものであるべきだ。
「愛はあるわ。映画へのね」
しかし瞳は、きっぱりと答えた。
危険だ、葵は思った。瞳の野心は、それが一途《いちず》なものであるだけに、ひとに簡単に利用されやすい。そこを青柳につけこまれたら……。
だが、今はまだ何の確証もないのだ。
「夕食は、ケータリングを呼んであるわ。新橋の料亭の板前よ」
瞳は葵の内心にも気づかず、言った。
「それまでシナリオの読み合わせにつきあってちょうだい。相手役のセリフを読んで欲しいの」
「わたくし、演技などというものは分かりませんが……」
葵はとまどった。
「演技はいらないの。ただ、棒読《ぼうよ》みにするだけでいいのよ。後は、私の演技だけ。――ここにコピーがあるわ。さあ、読んで。シーン3」
言われて葵はしかたなく、シナリオのコピーを読み上げた。
「『君はいったい、誰?』」
「私は、永遠に生きる者。永遠の時を、知っている者よ」
瞳はまるで自分のことのように、セリフを口にした。
しかしそれは平凡なセリフのように、葵には思われた。
シナリオの読み合わせが夜まで続き、午後七時には新橋から板前がやってきて、広いオープンキッチンで料理の支度を始めた。
酒も、バーテンダーが来ていたので、葵にはすることがなかった。部屋はきれいに片づいていて、テーブルの花瓶《かびん》には午後に届いた深紅のバラの花が飾られていた。葵はただ、花瓶に花を挿しただけだ。
所在なく立ち尽くしていると、
「こっちへいらっしゃい」
窓のほうから瞳が呼んだ。
葵は窓に近づいた。やはり東京湾岸の夜景は美しく、はるか目の下で地上の光が色とりどりの星のようにまたたいていた。
「どうしたの? ぼんやりして」
「お仕事がないと、どうしていいか分からないのです」
「暇《ひま》なときは、好きにしていていいのよ。あなた、趣味はないの?」
「いえ、特には」
趣味と言えば、御主人様からもらったMP3プレイヤーで音楽を聴くことぐらいだが、仕えている人の前でヘッドフォンをかけるのは不作法というものだ。それにメイドたる者、いつ用事を言いつけられてもすぐに動けるように、主人の目の届くところにいなければならない。
「あなたも、仕事人間ね」
瞳はふっ、と笑い、窓の外の景色を眺めながら、ぽつぽつと語り始めた。
「私はね……中学を卒業するとすぐ、熊本から出てきたの。家は母子家庭で、貧しかった。事務所のオーディションを受けてグラビアアイドルになったけれど、グラビアの仕事は、最初は一日一万円ぐらい。イベントや、細かい仕事はあったけれど、月のお給料は十万そこそこだったの。最初に住んだアパートは、東中野の月三万円の六畳一間で、築二十五年ぐらいだったわ。お風呂もなくて、銭湯へ行っていた」
「まあ」
グラビアアイドルの世界が、そんなに厳しいものだとは知らなかった。
「コマーシャルも、新人は数万円のギャラなのよ。それで私は、テレビの仕事が増えるようにがんばった。人より前へ出よう出ようとしていたわ。幸い私はしゃべりがうまかったから、テレビでの人気が出て、写真集も売れ、ギャラも上がった。事務所だって私を搾取《さくしゅ》していたわけじゃないのよ。みんなが通る道なの。……私の人気を事務所は認めてくれて、十八のときには月三十万プラス歩合制の給料になっていたわ。私は都心のマンションに引っ越した。自分の部屋のきれいなユニットバスに入ったときのうれしさは、今でも覚えているわ。でも、私はバカじゃない。マンションって言っても、月十二万ぐらい。私服はリサイクルショップで見つけた古着なんかをうまく合わせて、とにかくお金を貯めたの。彼には内緒《ないしょ》よ。私、お金については、誰も信じないことにしているの」
「それが賢明かと存じます」
葵は答えた。一瞬、青柳の正体を告げてあげたくなったが、確証をつかむまでは、瞳にもここへ来た目的は話せない。
「都心のマンションで見る東京の夜景は、私には別世界みたいに見えた。……でもね、まだ結婚する前、主人が開いたパーティーに招かれてこの部屋へ来たとき、自分の満足感が粉々になったような気がしたの。まるで別世界なんですもの」
葵には分かるような気がした。自分も初めて海堂邸へ連れてこられたときには、新宿御苑《しんじゅくぎょえん》か何かのように見えたものだ。
「正直、私もこんな生活がしたいと思ったの。だから主人のプロポーズをすぐに受け入れたのね。……でも実際に住んでみると、退屈でしかたがなかったわ。主人は仕事のことばかり。たまにパーティーが開かれても、私は主人の道具でしかないのよ。ひとりでいると、この部屋も、ただがらんとしているだけ。……そのとき私は思ったのね。成功は、自分の手でつかまなければ成功とは言えないわ。主人の資金集めの道具としてではなく、自分の力で成功してこそ、私の居場所が見つかるのよ」
「ご立派な心がけでございます」
葵はそれだけ言った。
「私は頂点を目指すわ。女優として、日本一の座を自分の手でつかむのよ」
瞳の目が輝いて見えた。目だけではない。光のようなものが、瞳の体を包んでいるようだった。
この人は、やっぱりスターだ……葵は思った。
葵は、いつの間にか、映画の成功を祈っていた。瞳が本当に幸せになるには、瞳自身の夢をかなえるしかないのではないか。
青柳が今度だけは、詐欺ではなく映画を作ってくれれば――葵は思った。
そのときエレベータのドアが開いて、若々しい筋肉質の男性が入ってきた。
「あなた」
瞳が、ぱっ、と笑顔になって駆《か》け寄《よ》った。その笑顔が心からのものなのか、葵には分からなかった。
「十日ぶりか。ずいぶん、淋《さび》しい思いをさせたね」
日焼けした青柳志朗は、やけに白い歯を見せた。
「いいえ。映画のことで頭がいっぱいで、あっという間だったわ」
「そのお嬢《じょう》さんは?」
青柳は、葵のほうを見た。
「若槻葵さんよ。映画で忙しくなるから、メイドを雇ったの。いけなかったかしら」
「いや、君がしたいようにすればいい」
表向き、青柳は優しい夫のように見えた。
「葵さんか。まあ、こっちへ来たまえ」
青柳はアタッシュケースを応接セットの横に置き、ソファーにもたれた。瞳は青柳の隣に座ったが、ふたりの間に微妙な距離があるのを、そのそばに控えめに立った葵は見のがさなかった。
「君も座りなさい。……ああ、君、食前に合うカクテルを作ってくれないか。三人分ね」
青柳は、片隅《かたすみ》に控えていたバーテンダーに命じた。
「あの……わたくし、未成年ですので……」
立ったまま葵が言うと、青柳は笑った。
「固いねえ、君は。じゃあ、ジンジャーエールを。ウィルキンソンはあるだろうね」
「はい、青柳様」
バーテンダーが答えた。
間もなくカクテルが運ばれてきた。しかたがないので、葵は青柳夫妻と向かい合って座った。ゆったりとした椅子が、かえって落ちつかない。
「甘さを控えめに、食欲が増すように作ってみました」
バーテンダーはカクテルを夫妻の前に差しだし、葵にはジンジャーエールのグラスを勧めた。
葵はグラスを口に運んだ。ウィルキンソンのジンジャーエールなら知っている。その辺で売っているサイダーのようなものではなく、ごく辛い、まさにジンジャーの味がする。本物の味だ。
すぐに料理が運ばれてきた。三人前、ある。
「あの、私がいただくわけには……」
葵がためらうと、青柳は首を振った。
「瞳が雇ったメイドなら、瞳の客も同然だよ。明日からは、君にも夕飯を作ってもらうことになるだろう。本物の料理を味わって、舌を肥やしてもらわなくてはね」
そう言われると、それ以上断わるのはかえって失礼というものだった。
新橋の板前が作る和食は、たしかにおいしかった。突《つ》き出《だ》しの和《あ》え物《もの》は工夫が凝《こ》らされていて、アユの塩焼きは鮮度を落とさずに、魚のうまみを引き出している。ハマグリの吸い物は、絶妙の塩加減だった。ご飯の炊け具合も申し分ない。米粒が光っている。
気がつくと葵は、料理をすっかり平らげていた。なんだかぼうっとするほどだった。アルコールが入っていたわけではない。料理のうまさに魅せられていたのだ。
その間に、青柳は瞳にアメリカでの話をしていた。
「ハリウッドに行きつけの寿司バーがあってね、そこでパーティーを開いた」
「感触はいかが?」
「興行権は、まず確実だね。リメイクは今のところ、サム・ライミが積極的に興味を示している。ハリウッド版『呪怨』のプロデューサーだ。ティム・バートンも乗り気だね。彼らは日本びいきだから、ひょっとするとリメイクする場合も、君がそのまま主演できるかもしれない。その方向でプッシュしている」
「私が、ハリウッドに?」
瞳の目が輝いた。
「もうひとり、興味を持った奴がいる。スピルバーグだよ。プロットを大層気に入ってね」
まるで友人のように、青柳はスティーブン・スピルバーグの名前を口にした。怪しい――葵は思った。他のふたりのことは失礼ながら知らないが、そんな大物が、日本から来た、初めて映画を作ろうという人間と、すぐに親しくなるものだろうか。
しかし瞳には、スピルバーグの名前は効いたようだった。
「すごいじゃないの」
「だが、断わるつもりだよ」
「どうして?」
「彼は、彼が監督するにせよプロデュースするにせよ、自分の映画にしてしまうからさ。プロットだけを買って、全く別の映画にしてしまうだろう。私はこの映画のオリジナリティを、世界に見せつけたいんだよ」
青柳は、食後の煎茶《せんちゃ》を飲んでいる葵のほうを向いた。
「映画は、夢だ。単なるビジネスではない。自分の映画がまるでにせ物になってハリウッドで作られてもうれしくはないよ。そう思わないかね」
「わたくし、映画のことにはうといので」
葵は無難にかわしておいた。
「この映画は、当たるよ」
青柳は断言した。『映画は夢だ』というさっきの言葉と、その言葉とはそぐわない気が葵にはした。
「調査会社にリサーチさせたが、国内での興行収入は最低でも八十億。百億も決して夢ではないね。DVDや海外での諸権利で、合計百五十億は固い。葵さん、君に一千万あったら、ぜひ投資を勧めるところだがね」
「そんなお金は、持ってはおりません」
葵は微笑んでみせた。何しろ八十億といえば、大ヒット作『世界の中心で、愛をさけぶ』の興行収入だ。だが、昼間に瞳と読み合わせをしたシナリオは、そんなに当たるものとは思えないのだった。よくできているところもあるが、むしろマニアックだ。特定の観客には熱狂的に支持されそうだが、何百万人もの人が劇場に足を運ぶかというと疑問だった。
「これが当たったら、次はアクション大作だ」
青柳は、なんの疑問も持っていないように言った。
「そのときは、私も出演するよ。これでも鍛《きた》えているんでね」
「あなたが?」
瞳が意外そうに言った。
「言わなかったかね」
「ええ、でも……」
「私はもともとアクションスター志望だったんだよ。――君、ちょっとそっちに立って」
食事の間にカクテルと日本酒をずいぶん飲んだ青柳は、上機嫌なようすで葵に命じた。
葵は言われるままに、応接セットを外れて床に立った。テーブルの上にあったオレンジを、青柳は葵の頭の上に乗せた。
「いいかい、動くんじゃないよ」
青柳は距離をとって、身構《みがま》えた。
「ええいっ!」
かけ声と共に青柳はスーツ姿のまま、いきなり葵に回《まわ》し蹴《げ》りでかかってきた。どうやら、葵の体に触れずに頭の上のオレンジを蹴り飛ばすつもりだったらしい。
だが葵も食事のふんいきに呑まれていた。気がつく間もなく、青柳が繰り出した足を左腕でしっかりと受け止めていた。
ハッとしたが、もう遅い。青柳は眉をひそめた。
「君……ただのメイドじゃないようだな」
「お許し下さい」
葵は頭を下げた。
「国家特種メイドは、お仕えする人をお守りするために、護身術《ごしんじゅつ》を学んでおりまして。とっさに出てしまったのです」
青柳はどうやら瞳にいいところを見せたかったらしい。一瞬、不快そうな表情をしたが、すぐに笑顔になり白い歯を見せた。
「それじゃ、その腕前を披露《ひろう》してもらおうか。今後のこともあるんでね」
青柳はスーツの上衣を脱いだ。葵は後悔したが、もう間に合わない。ここは実力を隠しておく以外にない。
「行くぞ!」
青柳が横蹴りをすばやく繰り出した。葵はどうにか、というように飛《と》び退《の》いてかわした。
横蹴り、前蹴り、後方回し蹴り。青柳は足技が得意のようだ。だが葵は冷静に見切って、ぎりぎりのところでかわした。青柳の技は、どこで覚えたかは知らないが実戦には向かない。派手なだけのアクションだ。
しかし、このままではきりがない。葵は青柳の蹴りを見定めて、自分の腹に一発、当てさせてやった。腹筋は鍛えているし、急所は外している。だが葵はおおげさによろめいて、倒れてみせた。
「葵さん、大丈夫?」
瞳が心配そうに声を上げる。葵は、わざと肩で息をして、弱い声を出した。
「参りました。さすがです」
青柳はすっかり満足したようだった。あと一時間でも相手をしていられる程度なのだが。
「いや、君もなかなか筋がいいよ。次の映画では、スタントマンとして出てもらおうか。――疲れたんで、先に休むよ」
そのまま青柳は、自分の寝室に入った。この家では、ふたりは別々の寝室で寝ているのだ。生活の時間帯が違うせいらしい。
葵が立ち上がると、瞳が駆け寄った。
「ごめんなさいね、乱暴なまねをさせてしまって」
葵は、にっこり笑った。
「旦那様を立てるのも、メイドの仕事でございます」
その言葉で、瞳にはすべてが分かったらしい。くすりと笑った。
「あなた、本物のプロなのね。ますます気に入ったわ」
「恐れ入ります」
「クランクインは明日の十時よ。メイクや衣装合わせ、いろいろあるから四時には起きなくてはいけないの。忘れないでね」
「かしこまりました」
葵は頭を下げて、
「少々、お待ち下さい」
ハーブティーの支度をした。
「こちらをどうぞ。ラベンダーとカモマイルのハーブティーです。人によっては、すぐにお休みになれます」
瞳は明日のことで緊張しているだろう。葵の心づかいだった。
「ありがとう」
瞳は、温かいハーブティーをすすった。
「ああ、なんだか落ちつくわ。それじゃ、明日はよろしくね」
「かしこまりました」
和らいだ表情で、瞳は寝室へと向かった。
どうやら瞳には気に入られたらしい。しかし、これから何が起こるのか、葵はまだ知らなかった。
翌朝、葵は三時に目を醒まして、朝食の支度をした。瞳から渡されたメモによれば、瞳は朝は玄米のご飯とサラダ、それにフルーツと豆乳だけをとるのだそうだ。よけいなカロリーは含まれていない。栄養のバランスも問題はないだろう。健全な体型維持が何より大事だと、瞳は考えているようだった。
炊飯器のスイッチが上がってご飯が炊けたところで、三時五十分になったので、瞳の寝室に入った。瞳はぐっすりと眠っている。
揺《ゆ》り起《お》こしたが、うるさそうに寝返りを打つだけだ。葵は少し考えたが、たしかこんな文句だったな、と思い出して、耳許《みみもと》で大声で叫んでみた。
「瞳さん、本番入りまーす!」
とたんに瞳は飛び起きた。
「はいっ」
しゃきっとした声で言い、辺りを見回してようやく葵の姿に気づいた。照れたように笑う。
「あなただったのね。忙しかったときのことを思い出してしまったわ。よく、本番まで居眠りしていたものよ。でも、『本番』という声を聴くと、目が醒めてしまうの」
「どうも失礼いたしました」
「いいのよ。とても起きられそうになかったんですもの」
瞳は目をこすった。
「結局、夜中を過ぎても眠れなかったの。主役のプレッシャーでね。こんなこと、初めてだわ。葵さん、あのハーブティー、なんだったかしら……」
「ローズマリーのほうでございますか」
「そうそう。それを淹れて下さる? 頭をすっきりさせたいの」
「かしこまりました。ですが、朝食もきちんと召し上がって下さいませ。ご飯をお食べにならないと、血糖値が上がりません」
「分かっているわ」
瞳はパジャマのまま食卓につき、食事をよく噛んで食べた。葵はうなずいた。よく噛むことは、ダイエットの基本だ。
最後にハーブティーをすすると、瞳はまた寝室に入った。ほとんど分からないほどの薄《うす》いメイクをし、ラフな服装で出てきた。
「日焼け止めよ」
誰に言うとでもなく、言った。
「現場に入ったら、役者としてのメイクをされるんですものね。濃い化粧《けしょう》をして行ってはスタッフの方に迷惑だわ」
瞳は腕時計を見た。
「まあ、もう五時過ぎ」
「撮影所はどこなのですか」
「調布の宝映撮影所よ。撮影所入りは七時ちょうど。監督は、時間に厳しい方なの。間に合うかしら」
瞳は急にそわそわし始めた。
「ここからでしたら、電車を乗り継いで行かれたほうがよいかと存じます」
「分かっているわ。事故でもない限り、タクシーより早いものね」
「お帽子でもご用意致しましょうか? サングラスも」
「私ね、街を歩いていても、正体がばれたことがないの。アイドル時代にどれだけメイクをしてたか、って証拠ね。……じゃ、行ってくるわ。主人も、後でクランクインを出資者の皆さんと見学に来ますから、よろしくね」
エレベーターへと向かう瞳に、葵は声をかけた。
「瞳様。ご成功をお祈りしております」
「そんな言い方、しないの。かえって緊張しちゃうじゃない」
瞳は笑うと、確かな足取りでエレベーターの中に入っていった。
食事の後片付けを終え、掃除をしようかと部屋を見回して、葵はハッとした。壁ぎわのライティングデスクの上に、『青柳瞳』とサインの入ったシナリオが置いてある。開いてみると、自分のセリフに赤線が引かれ、メモらしいものも書き込まれていた。本番用のシナリオだ。
葵はあわてた。これがなくては、瞳は困ったことになる。もう五時半。調布までは電車で約五十分だから、ぎりぎりの時間だ。
着替えをしている暇もなかった。葵はメイド服のままシナリオをトートバッグにつっこんで、急いで部屋を出た。青柳のことは、すっかり忘れていた。
マンションの前からタクシーで駅まで乗り付け、大井町、大崎と乗り換えて渋谷に出た。京王井《い》の頭《かしら》線のホームに走り込んで、明大前から京王線に乗り換え、急行で調布へと向かう。都心へ流れ込む通勤ラッシュとは逆なので、わりあい楽に電車には乗れた。
調布の駅前でまたタクシーに乗り込み、行き先を告げると、葵はふう……と息をついた。瞳はやはり、よほど緊張していたのだろう。よりによってシナリオを忘れるなんて。葵は〇時ごろ自分の部屋で寝たのだが、その後で起き出して、リビングのライティングデスクで、電気スタンドの光を頼りにシナリオを読んでいる瞳の姿が想像された。
「はい、ここだよ」
十五分も走っただろうか。タクシーが止まった撮影所の門は、しかし、思っていたのよりもはるかに小さかった。ここはメインの撮影を行なう場所ではない、ということだろうか。
門の前に立っている守衛の老人に、葵はシナリオを見せた。
「『深紅の伝説』の、青柳瞳の家の者です。シナリオを忘れてしまったので、お届けに上がりました」
「ああ、あれね」
老人はうなずいた。
「第三スタジオの脇にプレハブの小屋があるから、そこが楽屋だよ」
第三? プレハブ? 制作費二十億の映画が?
怪しいものを感じながら、葵は撮影所の中へと入った。『No.1』と大きく書かれた倉庫のようなスタジオには、テレビの時代劇らしい扮装《ふんそう》をした役者が入っていく。どうやらそちらが、撮影所のメインの仕事らしい。
『No.3』のスタジオは、小学校の体育館ほどもない小さな建物だった。かなり老朽化している。その横に、なるほどプレハブの小屋があった。ということは……、葵は心の中でつぶやいた。この映画のために急いで作ったのかも知れない。だが、そういうお金は二十億の中からは出ないのだろうか? 粗末すぎるのではないだろうか。
いちばん前の部屋に『青柳瞳様』と書かれた紙が貼り付けてあった。葵はドアをノックした。
「失礼いたします」
ドアが開いた。だが――。
出てきた人物を見て、葵はびっくりした。向こうも驚いた顔になっている。
「ニキータさん。どうして、ここに?」
Tシャツにジーンズ姿の機敏《きびん》そうな若い女性は、葵が以前にある事件で知り合った、『流れメイド』の通称・ニキータだった。一つの屋敷に三ヶ月と留まることがなく、誰とも仲良くしようとしない流れ者のメイドにしてナイフ投げの達人であるニキータは、しかし葵とは妙に気が合っていた。
「あたしは瞳さんの付き人さ。臨時のね。あんたこそ、なんでここに来たんだい」
ニキータは、生まれつきのちょっと曲がった唇をゆがめて笑った。
「わたくし、今は瞳様にお仕えしているのです。シナリオを忘れて行かれたので、お届けに参りました」
言うとニキータは、ああ、とうなずいた。
「瞳さん、おろおろしてたぜ。『シナリオがない』ってな。どうにか落ちつかせて、やっと送り出したところさ。訊きたいことはいろいろあるが、とにかく――行こう」
「え?」
「スタジオへさ。急がなきゃならない。もうカメラテストの時間だ」
「カメラ……テスト?」
「リハーサルのことだよ」
「だったらニキータさんが届けて差し上げて下さい」
葵が言うと、ニキータはにやり、と笑った。
「メイドの心得。売れる恩は売っといたほうがいい。あんたの手柄《てがら》にしときな」
ニキータに手を引っ張られて、葵はとまどいながらスタジオへと向かった。
第三スタジオの中は、まぶしいライトに照らされていた。葵は一瞬、何も見えなくなったほどだった。
目が慣れてくると、中央に廃屋《はいおく》のセットが組まれているのが分かった。驚くほど小さなセットだ。その中に、アンティーク調の椅子に座って、襟《えり》の高いブラウスにロングスカートの瞳が座っている。相手役は、まだ入っていないようだ。
葵は、セットを取り囲むスタッフの多さに驚いていた。セットよりずっと広い空間に、数十人の人間が、あるいは作業服に金づちを腰につけて、あるいはカメラの周りで、さまざまに瞳を見つめている。映画とは、こういうものだったのか。
カメラの横のいわゆるディレクターズ・チェアには、サングラスをかけた五十歳ぐらいの監督が座っていた。黒いアポロキャップに『OT』と金の文字が入っている。岡本鷹史《おかもとたかし》。何人もの有名な監督の助監督を長く務め、十年ほど前に監督に昇進してからは、年に数本という驚異的《きょういてき》な速さで映画を撮《と》り続《つづ》け、しかし、その中の『歌舞伎町《かぶきちょう》の天使』などが映画コンクールで多くの賞を受賞している量質ともに超人的な監督だ――ということは、朝倉老人から教わっていた。
「原田君は、まだですか」
岡本監督は、ごくやせた外見からは想像のつかない、太い声で静かに言った。
「申しわけありません。今、連絡を取っておりますが、渋滞《じゅうたい》に――」
マネージャーらしい人間がぺこぺこするのを、岡本監督はきっぱりとさえぎった。
「この時間帯に自家用車で乗り付けるのは、映画人として非常識です」
葵はうなずいた。朝の渋滞が予測できないはずがない。だから瞳には、電車で行くように言ったのだ。
「時間を大事にしない人間は、私の映画には要《い》りません」
岡本監督はきっぱりと言った。プロデューサーらしい、スーツを着た男性が慌《あわ》てた顔になる。
「監督、それは……原田収はこの映画の目玉ですし」
「目玉はいくらでも作れます。時間がもったいない」
いわゆる『イケメン』で人気の若手スター・原田収をたった一回の遅刻で降ろそうというのだから、監督とは怖ろしいものだ。どこまで本気なのかは分からないが。
岡本監督は、脇にいた若い助監督に言った。
「青島《あおしま》君、君、代わりをやって下さい。カメラテストを始めましょう」
瞳が動揺《どうよう》したように見えた。どうやらシナリオを忘れたことを言い出せずにいたらしい。
「あの、失礼いたします」
葵は声をかけた。みんなが葵のほうを振り向いて、驚いた顔になった。葵はメイド服姿のままだったのだ。
「君は?」
岡本監督が不思議そうな顔をする。葵はとっさに言い訳を考えた。
「瞳様の家で働いている者です。朝、お荷物をお渡しするときに、うっかりシナリオを入れ忘れてしまったもので、お届けに上がりました。大事な撮影のお邪魔《じゃま》をして、申しわけございません」
「シナリオなど、なければなくてもいいんですよ」
岡本監督は、サングラスの奥から葵を見つめた。
「よけいな演技プランなどは立てなくていい。現場では私の指示通りに動いてもらうのが、私のルールです。シナリオも、その日その時の状況によって変わります」
「申しわけございません」
瞳が弁解《べんかい》をしないですむように、葵はすばやく言った。
「ですが映画では、全ての物に作った方の魂《たましい》が宿っている、と本で読んだことがございます。発泡《はっぽう》スチロールで作られたセットでも、その魂が宿っていればこそ、本物の建物として映る、と。シナリオにも、書かれた先生や印刷された方、そして、それを読み込まれた瞳様の魂が宿っております。僭越《せんえつ》ではございますが、このシナリオもまた、おろそかには扱えないか、と」
「ふむ。君はなかなか、面白いことを言いますね」
厳しい表情の岡本監督が、笑顔になった。
「よろしい。彼女にシナリオを渡してやって下さい」
「中へ入ってもかまわないのですか」
セットは、映画の聖域だと思っていた。
「かまいません。監督の私が言うのです」
「それでは、失礼いたします」
葵は一礼してセットの中に入り、瞳にシナリオを渡した。
「助かったわ」
瞳の目がうるむのを見て、小声で葵は注意した。
「涙を見せてはなりません。瞳様は役者なのですから、役で泣いて下さいませ」
「そ、そうね」
瞳は、何度かまばたきして、シナリオに目を通した。
「では、もろもろよろしければ、カメラテストを始めましょう」
岡本監督の声に、あわてて葵はセットの外へ出た。セットでは瞳に向かい合って、若い助監督らしい青年が座っている。
スタジオにブザーが鳴り渡り、緊張が走った。
「用意、スタート!」
声と共に、カメラがゆっくりと移動を始めた。
「さ、あたしらは、とっとと退散しようぜ」
ニキータが葵に言う。
「付き人なのでしょう? ついていなくてよろしいのですか」
「あたしは付き人のセカンドだよ。現場には、現場慣れした付き人がいる」
ニキータはスタジオの暗がりを指差した。業界人らしい女性が、瞳のようすを見つめていた。
「それより訊きたいことがあるんでね。ちょっときとくれ」
「さて、話を聴かせてもらおうか」
プレハブの楽屋へ戻ると、ニキータは訊ねてきた。
「話、と言いますと?」
葵が言うと、ニキータは、にやりと笑った。
「とぼけなさんな。メイド刑事のあんたが出てきたんだ。何か事件なんだろう? それも、とびっきりでかいやつだ。違うかい?」
「実は、そうなのです」
ニキータとは親友の誓《ちか》いを交わした仲だ。嘘《うそ》はつけない。葵は疑惑《ぎわく》のあらましを、ニキータにすっかり話した。
聴いていたニキータは、眉をひそめて葵の話をさえぎった。
「ちょいと待った。制作費二十億?」
「ええ、青柳は出資者にそう言っています。聴いていないのですか?」
「聴いてはいるさ。だがな、いいかい、葵。プロデューサーってのは、世間をだまくらかすのも仕事のうちなんだよ。一億の映画だって、宣伝費からスタッフの飲み食い、なんでも計算に入れて、十億と発表しておくものなんだ。その金額そのものが宣伝になるからね。……現場での話じゃ、直接の制作費は二億だ。それだって、まだ一銭も払われてない。製作を請《う》け負《お》った斎藤《さいとう》プロデューサーがその日の分を立て替えてる。それに、今日のクランクインには青柳が出資者へのアピールを兼ねて立ち会うはずだったんだが、ご覧の通り、まだ来てないってわけだ。葵、この映画、大丈夫なのかい?」
葵はハッとした。
「今ごろ、青柳は――」
青柳が本当に映画を作るつもりなら、出資者を連れての見学に来ないはずがない。第一、青柳からは、朝何時に起こして欲しい、と言われてはいない。間に合うように来るなら、当然、食事の支度などを言いつけているだろう。
葵はメイド服のポケットから携帯電話を出し、わずかな望みをかけて、マンションに電話してみた。
『あなたがおかけになった電話番号は、現在使われておりません……』
青柳は、電話を止めてしまったのだ。
唇をぎゅっ、と結んで立ち上がった葵に、ニキータが言った。
「どうやら荒っぽいことが始まりそうだな。あたしも一口、乗せとくれ。最近暴れてないんで、腕がなまっちまってね」
葵には、迷っている時間はなかった。
「では、お願い致します」
「そうこなくっちゃ、面白くないってもんだ」
ニキータは、にやりと笑った。
超高層マンションの一室では、青柳が、部下の屈強な男たち四人に指示を飛ばしていた。電話機はもう、取り外してあった。
「家具には傷をつけるなよ。レンタルなんだからな」
男たちは、豪華な家具を運び出していた。
青柳は腕組みをして、にたり、と笑った。
「短期契約《たんきけいやく》とはいえマンションの家賃に、家具に車のレンタル。今回は元手がかかったな。だがまあ、二十億の儲《もう》けだ。充分、元は取ったさ」
そのとき、部屋の中に白い霧のようなものが流れ始めた。男たちが、そして青柳が、あわてたように見回す。
「なんだ? 火事か?」
霧の中で、凛《りん》、とした声が聴こえた。
「やはり、高飛びするつもりだったのですね。青柳さま、――いえ、恩田行三」
その名前を呼ばれて、青柳、いや恩田はぎょっとした。思わず口調が乱暴になった。
「誰だ? 姿を見せやがれ!」
霧が晴れていった。その後には――。
エレベータの前に、太い、白木の棒杭《ぼうくい》のようなものが立っていた。その前面には、墨で黒々と、文字が記されている。
『この先 冥途《めいど》』
「こ、これは、メイドの一里塚!」
男たちのひとりが叫んだ。
「何をバカなことを!」
叱りつけながらメイドの一里塚を見上げた恩田は、あっ、となった。
杭の上には、メイド服にクイックルワイパーを構えた葵が、まっすぐに立っていた。
「瞳様は、あなたへの愛はなかったかもしれません。それでも、映画の夢だけは信じていらっしゃいました」
葵は涼《すず》しい声で言った。
「ただあなたを利用しようとしていたわけではございません。あなたの見せた夢を信じていたのです。それも、愛の形だとわたくしは思います。そして、撮影所の皆さまも信じていらっしゃいます。あなたが本当に、映画を作ることを。それを裏切ろうと言うのなら、断じて許すわけには参りません」
「ああ。夢を見せるのが、俺の仕事さ」
青柳は、にやりと笑った。
「二十億の夢。映画の夢。みんないい夢を見たじゃないか。だが、もうそろそろ夢から醒めてもいい頃だ。そんなうまい話なんか転がってない、って現実に戻る時間が来たんだよ」
「そんな世迷《よま》い言《ごと》は、わたくしが通しません」
「偉そうに。たかがメイドの分際で」
青柳はせせら笑った。
「たしかにわたくしは、一介のメイドに過ぎません。ですが――」
葵はひらりと飛びおりた。片膝《かたひざ》をついて着地すると立ち上がり、メイド服の高い襟を留めていた大きな飾《かざ》りボタンを外し、中を開いて突き出した。
青柳がうっ、となった。
「さ、桜の代紋《だいもん》!」
ボタンの中には、警察の紋章《もんしょう》、通称『桜の代紋』が浮《う》き彫《ぼ》りにされていたのだ。
「誰が呼んだか存じませんが、わたくしの通り名は、メイド刑事!」
「メイド刑事だと?」
「はい」
葵はにっこりと笑った。
「わたくしの本当のご主人様、警察庁長官・海堂俊昭に命じられて、あなたを見張っていたのでございます」
「てめえ、サツの犬か!」
詐欺師・恩田行三はわめいた。
「たしかに、わたくしは警視監の身分をご主人様からお預かりしております。ですが、あなたを許せないのはそのせいではございません。瞳様を、お守りしたいからです。瞳様は今、映画に打ち込んでいらっしゃいます。夜も眠れないほどに。その気持ちは、お金や地位などといったつまらぬものではない、純粋な、新人役者としての魂です。その魂を踏みにじることが、許せないのです」
「魂? バカなことを」
青柳は鼻で笑った。
「しょせんはなあ、人間、金なんだよ。だから瞳は俺との結婚にも飛びついた。映画に出ようとも思った。お前にも、くれてやろうか。一億、いや、二億でもいい。メイドには縁のない金だろう」
葵はにっこり微笑むと、カチューシャを外した。長い黒髪が、ふわっ、と広がった。丸い眼鏡を投げ捨てると、そこには理知的な、きりりとした美しい顔があった。
つかつかと青柳に歩み寄ると、腹の底《そこ》から絞《しぼ》り出《だ》すような声で、葵は堂々と告げた。
「メイドは金じゃ動かないんだ。特に、筋の通らない金じゃあな」
そう言うと、葵は手にしたワイパーをひときわ大きく一振りして身構え、叫んだ。
「悪党ども、冥途が待ってるぜ!」
葵の豹変《ひょうへん》に息をのんだ青柳だが、すぐに部下の男たちに命じた。
「何をしてるんだ! たかが小娘ひとりじゃないか。やっちまえ!」
男のひとりが葵に飛びかかろうとした。その鼻先を、光るものがかすめた。
壁につき立ったそれを見て、男はぎょっとした。料理に使うペティナイフだった。
「小娘は、ひとりじゃないんだな、これが」
いつの間にかエレベータのそばにもたれていた、同じくメイド服のニキータが、ガムを噛みながらにやり、とした。
「謎の流れメイド、ニキータ。縁あって、助太刀《すけだち》するぜ」
自分を『謎の』という人間もあまりいないのだが、青柳たちは気にしている場合ではなかった。ある者は葵に、ある者はニキータに襲いかかった。
葵はクイックルワイパーを脇の下に水平に構え、裂帛《れっぱく》の気合いと共に繰り出した。襲ってくる男のみぞおちを正確に突く。男は急所を突かれて、うずくまった。そのまま葵は両手でクイックルワイパーの柄の真ん中を両手でつかみ、頭の上で振り回した。近づこうとした男は、頭部を打たれて倒れた。
ニキータのほうは、つかみかかってくる男の目に、噛んでいたガムを口をすぼめて飛ばした。飛んでくるガムで両目をふさがれた男は、焦《あせ》って立ちすくむ。そこへニキータの蹴りが入った。あっけなく男は倒れた。だがその後ろには、ピストルを構えた男が狙いをつけているのが見える。ニキータは手をすばやく動かして料理用のペティナイフを飛ばした。よく研がれたナイフが男の手首をかすめて血がほとばしり、男はピストルを取り落とした。そのふところに飛び込んだニキータは、男の喉元《のどもと》にナイフを突きつけた。
「死にたくなければ、床に這《は》いつくばりな」
ニキータは男を見上げて、にやっ、とした。
喉に鋭いナイフを突きつけられては、手も足も出ない。男は言われるままに、床にうつぶせになった。そのスーツの裾と袖《そで》を、ニキータはナイフで床に縫《ぬ》い留めた。
「立ち上がったら、手足がすっぱりいくぜ」
警告しておいて、ニキータは葵のほうを見た。
「さて、と。どうしてるかな、メイド刑事は」
葵は男たちを次々にクイックルワイパーで叩《たた》き伏《ふ》せていた。見る間に男たちは倒れ、恩田だけが残った。
恩田はしかし、にやりと笑うと、スーツの上衣とシャツを一瞬のうちに脱ぎ捨て、上半身裸《はだか》になった。日焼けした上半身は、筋肉が盛り上がっていた。
「鍛えているのは、嘘じゃないぜ」
恩田は、誇らしげに言った。
「どうだい。お前さんにも誇りがあるんだったら、素手で勝負しないか? それとも、怖くてできないかい?」
「挑発《ちょうはつ》に乗るなよ、葵。相手は詐欺師だ」
ニキータが声をかけたが、葵は首を振った。
「いいえ。わたくしもこの卑劣《ひれつ》な男を、素手で叩きのめしたくなりました」
葵はメイド服をすばやく脱ぎ捨て、グレイのスポーツブラにショーツの下着姿になった。メイド服にはスカートをふくらませるためのパニエと呼ばれる金網状のものや、ペチコートが入っていて、素手での本格的な格闘には向かないのだ。
「なんだなんだ、色気がねえな」
恩田は身構えたまま、つまらなそうな顔をする。葵も構えをとって、にっこりとした。
「メイドに色気は……いらねえんだよ!」
ふたりは向かい合った。ニキータは、やれやれ、と肩をすくめて見守っていた。
しばらくは、どちらも動かなかった。だがニキータは、ふたりの間で目に見えない闘志がぶつかり合うのをはっきりと感じていた。
先に動いたのは恩田のほうだった。かけ声と共に得意の回し蹴りを葵の顔面めがけて繰り出す。だが葵はそれを左腕で受け止めた。
「その手は通じないって、覚えてないのか?」
言うと共に葵は身を沈めた。床をすべり、恩田の足許《あしもと》に飛び込むと足の裏を使って、向こうずねを蹴った。恩田は体勢を崩《くず》す。葵は飛び起きて、拳《こぶし》で恩田の腕の内側にある急所を殴《なぐ》りつけた。手がしびれてうめき声を漏らす恩田の腹に掌底《しょうてい》で突きを入れ、同時に回し蹴りで足をなぎ払った。
どっ、と恩田は地面に倒れた。苦しさにうめきながら言う。
「バ、バカな……俺の格闘技の、腕前は……」
「今まで誰が相手をしてくれたか知らないがな」
葵は恩田を見下ろして、苦笑した。
「手加減されていたのが分からなかったのか? こいつとつきあっていれば金になると思えば、向こうはあんたのご機嫌を取るもんさ。金持ち面してるあんたも、いつかは逆にカモられる。そんなことも分からなかったのかい?」
「う、うるさい……俺はそんなまぬけじゃ……」
「詐欺師ってのは、自分が騙《だま》されるのには慣れてないらしいね。いや、大きな金を動かしている内に、目がくらんじまったのかもな」
とどめに葵は吐き捨てた。
「しょせん、小物なんだよ、あんたは」
恩田は、悔《くや》しそうな顔になった。
――エレベータのドアが開き、制服警官を伴った梶警視正《かじけいしせい》が入ってきた。海堂が作った警察庁刑事局特捜班を指揮する、やり手の刑事だ。見た目はもっさりした中年男で、この暑いのにもかかわらず、よれよれのトレンチコートを着て、安葉巻をくわえてはいるが。
「全員、動くな」
梶は声をかけておいて、葵に近づいた。
「葵ちゃん、どうだい」
葵は梶に、ポケットから取り出したICレコーダを手渡した。
「この男が詐欺を認めた言葉の、一部始終が入っています。いざとなれば、わたくしが証人に――」
「その必要はないだろうさ。録音だけで充分だ」
梶警視正は、にやりとした。
「青柳こと恩田行三。お前さんには、じっくり話を聴かせてもらおうかね。断わっておくが、俺たちは警察庁だ。所轄《しょかつ》よりもずっと厳しいんでな。覚悟しといてもらうぜ」
そして、照れたように笑った。
「おいおい、葵ちゃん。目のやり場に困るじゃないか」
葵はハッと我に返って真っ赤になり、メイド服で胸を隠した。
「はしたないところをお見せしました。ですが、それどころではございません。二十億のありかを訊きだして下さいませ。映画のためです」
制服警官に手錠《てじょう》をかけられ、うなだれていた恩田が、そのとき大声で笑い出した。
「二十億? 二十億だと?」
「何がおかしいのですか?」
葵がきっ、となる。まだ笑いながら、恩田は答えた。
「あんな金、もう使っちまったよ。一銭残らずな」
「……なんですって?」
葵は、頭の中が真っ白になった。
「アメリカへ行ってたのは嘘じゃない。だが、行った先はハリウッドじゃない。ラスベガスだ。十日間で二十億、すっかりすっちまった。だが、いい気分だったぜ」
「なんてことを!」
「詐欺師なんて、そんなもんさ」
壁にもたれてガムを噛みながら、ニキータが言った。
「こつこつ貯金をしてる詐欺師なんて、そうはいやしないんだ。クラブのホステスが、給料をホストクラブで使っちまうのと同じだよ。荒稼《あらかせ》ぎした金は、景気よく使っちまう。それが、人間ってやつなのさ」
「金を使えば、また新しい仕事への原動力がわくからな」
平気で言う恩田に、葵は歯がみをした。それでは、映画は……。
「厳しく取り調べるが、まあ、この男の言うとおりだろうな。詐欺師根性は、一生抜けやしないんだ」
梶警視正が、首を振った。
「詐欺で取られた金は、まず戻っては来ないんだよ。我々にできることは、こいつをできるだけ重い罪で立件できるように証拠を固めることだけだ」
梶警視正は、青柳たちを連れて、エレベーターに乗り込んだ。
葵は、手の中のハンカチに包まれた包みを、ぎゅっと握《にぎ》りしめた。捕まえた相手にいつも渡す、『メイドの土産《みやげ》』だ。更生を願っての、ささやかな贈り物だった。だが恩田には、それを渡す気にはどうしてもなれなかったのだ。
事件は解決した。だが、虚《むな》しさだけが残っていた。そして――。
「ニキータさん。映画はどうなるのでしょう」
放心したような声で、葵は言った。
「とりあえず、早く知らせたほうがいいな」
ニキータは言って、葵に近づくと、肩を叩いた。
「心配しなさんな。相手はプロだ。何か、考えるだろうさ」
だが葵には、監督たちがどうするつもりなのか、見当もつかなかった。
メイド服のまま撮影所に戻ると、撮影は原田の出ないシーンで進んでいた。
「原田さんは?」
斎藤プロデューサーに訊いてみると、呆《あき》れたようすで首を振った。
「体調不良で休む、だとさ。どうやら、最初っから出る気がなかったらしい。契約を交わしているから、ギャラを払わないわけにもいかない。テレビドラマの主役を張ってる奴は、映画よりずっと高いギャラでなきゃ連れてこられなかった。一杯食わされたよ」
「それだけでは、ございません」
葵はためらったが、恩田の詐欺について話した。
「ですから、お金は一銭もないのです」
「なんだって?」
百戦錬磨《ひゃくせんれんま》のプロデューサーも、目を丸くしたようだった。
「カット!」
岡本監督が声をかけた。ほっとした空気が流れた。
「監督、ちょっといいですか」
プロデューサーは、監督に近づいた。
「他のスタッフも、みんな集まって下さい。実は――」
プロデューサーは、この映画の製作資金がないことを話した。葵が驚いたのは、みんながそれほどびっくりしなかったことだ。
「また、ノーギャラの仕事か」
スタッフのひとりが苦笑した。
「三年前にも、一度やられてるんだ。映画は完成したけどな」
「そんな思いをしてるのは、あんただけじゃないさ」
別のスタッフが肩をすくめた。
「この業界にいれば、そんなことはしょっちゅうだ。……ただ、問題はこのままじゃ製作も進められない、ということだね。そうでしょう? 監督」
演技を終えた瞳も、茫然《ぼうぜん》として聴いていた。
腕組みをしていた岡本監督は、やがて、瞳に言った。
「瞳さん。この映画の主役は、あなただ」
「……はい」
「私はこれまで、どんな状況でも映画を完成させてきた。制作費一千万以下、撮影三日、という現場もあった。今大事なのは、主役のあなたがこの映画にまだ参加したいかどうかです。あなたという主演女優なしでは、この企画は進められない」
瞳はしばらくうつむいていたが、やがて、顔を上げた。その顔は、決意に満ちていた。
「たとえノーギャラでも、私は出演させて欲しいと思います」
瞳は言った。
「会社社長の妻の座も、トップアイドルの座も、私は失いました。もう、なくすものは何もありません。でも、映画女優にはなりたい。それが、これからの私の生きがいなのですから」
そう言ったときの瞳は、葵には輝いて見えた。
「監督。映画を完成させるには、いくら必要なのでしょうか」
瞳は訊いた。
「そうですね」
岡本監督は、ライトの消えた天井を見上げた。
「この際、シナリオは完全に書き直してもらいましょう。つきあいの長い和田《わだ》君を呼べば、すぐになんとかしてくれるでしょう。改めて、低予算の映画として作るとして、直接制作費は五千万もあれば充分です」
「プラス、宣伝費が一千五百万ですね」
脇から、プロデューサーが言った。
「全国公開の予定を取りやめて、都内のミニシアターでの単館上映とします。まあ、興行収入はぎりぎりといったところですが、瞳さんが出てくれるのなら、DVDが売れるでしょう。できがよければ、上映館数も増える」
「合計、六千五百万ですね」
瞳はうなずいた。
「宣伝費の一千五百万は、プロデュースサイドで出しますよ。五千万の金策が、難しい」
「分かりました。この映画、私が買い取ります」
瞳は言い切った。
「瞳様が?」
葵が思わず声を発すると、瞳はにっこりと笑った。
「言ったはずよ。私、貯金をしているって。二千万ならあるわ。夫には内緒にしていたから、だまし取られてもいない。やっぱり、男なんて信じるものじゃないわね。女は、自分の力で、欲しいものを勝ち取るものよ」
そして瞳は携帯を取り出した。
「もしもし? お久しぶりです、社長。……結婚ですか? たった今、終わりました」
携帯から驚いたような声が漏れてくる。瞳はにっこり笑った。
「そんな声、出さないで下さい。よくあることでしょう? それより社長、私をまた使ってもらえませんか。どんな仕事でもしますから。……ええ、結婚生活の話も、すっかりぶっちゃけてかまいませんし。その代わり、お願いがあるんです。借金をお願いしたいんです。三千万。……大声を出さなくても、まちがっていませんから。三千万です。その代わり、当分はノーギャラでかまいません。言ったらなんですけど三千万ぐらい、五年もかからないで稼いでみせます。どんな使い方をして下さってもかまいません。マネージメントはお任せします」
そして瞳は携帯を切って、みんなのほうを向いた。
「私はアイドルに復帰します。話題作りにもなるはずです。出資者と縁を切るために、映画はいったん制作中止になったことにして、新しく作りましょう。貯金と合わせて五千万、監督に全額、進呈《しんてい》します」
岡本監督は、サングラスを直した。
「いや、そのお金は、あなたが共同プロデューサーになって、出したことにするのがいいでしょう。私は働いた分だけもらう主義でね。監督が大金を手にすると、ろくなことにならない」
「映画が制作中止となると、金食い虫の原田収には、払わなくていいな。そういう契約なんだ」
斎藤プロデューサーがにこりとした。
「ローバジェット《低予算》の映画なら、テレビでちやほやされていい気になってるあんな奴を連れてくる必要はない。ルビを振らなきゃホンも読めないんだからな。もっと映画慣れしたいい役者が、安いギャラで出てくれる。監督、撮影期間は?」
「とりあえず、この撮影所は今日あす中に引き払いましょう。借りておく金が惜しい。ほとんどはロケシーンに直して、準備に二日、撮影に十日。その代わり、徹夜《てつや》続きだが。スタッフの取り分も減るのは申しわけないがね」
「異存はないね」
年配のカメラマンが言った。
「得体の知れない奴に頭押さえられてるよりは、ずっとやりがいがあるってもんだ」
誰も文句を言う者はいなかった。
「これで、本当にいいんですか?」
葵がそっとニキータに訊ねると、ニキータは笑った。
「現場では、カメラマンが大将みたいなもんなんだ。カメラマンがいいと言ったことに、逆らえるスタッフはいないさ。それに、――みんなの顔を見なよ」
葵は見回した。
ほこりが漂《ただよ》うスタジオの中、スタッフの誰一人として、今の状態を困難と思っているような顔の人間はいなかった。むしろ、やる気に火が点いた、という感じだった。
「これが、映画なんだよ」
ニキータが言った。
「金じゃないんだ。みんな、この映画が本当の意味で自分たちの映画だ、ってことが楽しいんだよ。株主とやらが見学に来て引っかき回すこともない。面倒な紐《ひも》もついてない。青柳はシナリオにも口を出してたからな。それが今は、監督のやりたいようにやってもらって、ひとりひとりは自分の持ち場を守ることに専念してりゃいい。つまり、それがみんなの自由なんだ。自由より大切なものがあるかい?」
葵はうなずいた。
それは単なる『ビジネス』ではない。本当の意味での『仕事』だ。メイドも同じことだ。自分の仕事を、自分の手の中に収めて専念すること。それが何より、やり甲斐《がい》を感じさせるのだ。
そして思った。こんな人びとに支えられているのなら、瞳は必ず成功するに違いない。
「それじゃ、シナリオは撮りながら書いてもらうことにしましょう。斎藤さん」
監督は、プロデューサーの名前を呼んだ。
「和田君を至急、ここへ呼んで下さい。今までに撮ったフィルムは無駄にできない。セットもね。それを活《い》かす形で、その日ごとのシナリオを書いてもらいましょう。ストーリーは相談して決めます。それと、相手役を今日中に捜して下さい。佐野高大《さのたかひろ》君か元井和樹《もといかずき》君なら、何本か一緒に撮っていますから、私のやり方を知っています」
どちらも演技派として知られる若手の男優だ、というのは、後でニキータから教わった。
「分かりました。すぐに当たってみます」
「瞳さん」
「はい」
「あなたには、今日は徹夜でセット撮影をしてもらいます。私の頭の中では、どのシーンを残すかは決まっています。だが短期間に映画を撮るとなると、あなたには、演技のプロになってもらわなければなりません。いいですね?」
「はい!」
瞳は元気よく答えた。
「それでは準備に入りましょう」
岡本監督が告げて、みんなはそれぞれの持ち場へと戻った。
「あの、プロデューサー」
事務所へと向かおうとする斎藤プロデューサーに、葵はそっと声をかけた。
「まだ、何か?」
「わたくしにお手伝いはできないでしょうか。わたくしは瞳様のメイドです。お給金はいただいておりませんが、まだお仕えしていることには変わりありませんから、映画の予算からお金をいただく必要はありません」
「しかしそれじゃ、ただ働きということになるんじゃありませんか?」
「メイドにも、メイドの誇りがあるのです」
葵は答えた。
「お仕えしたご主人を満足させるのがメイドの務めです。お金の問題ではありません」
「それなら……」
斎藤プロデューサーは、少し考えていたが、
「スタッフには、一日六、七回、食事が出ます。弁当を頼むつもりでいましたが、これがバカにならない。炊《た》き出《だ》しをしてもらえますか。予算は、――十日間でこんなものです」
電卓の数字を見せられた葵は、うなずいた。かなり低い額だが、安い材料で最高の食事を作るのも腕の見せ所だ。料理は本来メイドの仕事ではないが、葵は坪内夫人が休みをとったときのために、一通りのことは身につけていた。
「あたしも手伝うよ」
ニキータが言った。
「でもニキータさん、瞳様はもう、ふたりも付き人を雇っておける状態ではないのですよ」
葵が言うと、にやり、とニキータは笑った。
「あたしも金にはこだわらないたちでね。なんかこう、燃えるものが欲しいんだ。体の中の血が、かっ、と熱くなるようなもんがさ。ここにはそれがある。逃す手はないぜ」
「ニキータさんは、もっとクールな方かと思っていました」
「言わなかったかい? あたしは祭りのお神輿《みこし》をかつぐのが大好きなんだ」
「聴いておりません」
葵は笑った。
「それでは、着替えて参りましょう。とりあえず、皆さんの夕ご飯が必要です」
「ああ、そうだな」
世間一般に知られているメイド服は、主に来客などがあったときに着るもので、仕事のときには作業用の服を着るものなのだ。葵はほぼ一日中メイド服で通しているが、撮影所にはそぐわない。
葵とニキータは、スタジオを出た。
Tシャツとジーンズに着替えた葵とニキータは、早速、買い出しに出た。夕飯と夜食、それに深夜食がとりあえず必要だ。映画は肉体労働だ。食事は一日に六、七回出さねばならない。
できるだけ安い材料で、飽《あ》きが来ない献立《こんだて》をふたりは考えた。スタジオの隅のコンロでスープを作っていると、脚本家の和田がやってきて、監督に頭を下げた。
「話は聴きましたけど、また無茶な仕事を振るんだから」
まだ三十そこそこに見える和田は、しかし、笑っていた。
「プロットはもう、私の頭の中にあるんですよ。つまりね……」
岡本監督が言うのを、和田はノートパソコンを取り出し、すごい速さで書き留めた。
一区切りついたのを見計らって、葵とニキータは夕食を出した。
「これ、うまいね!」
照明部のスタッフが大声を上げた。
「レストランの味だよ」
「家庭的なお味のものも出しますから。飽きが来ないように」
葵は言った。
「あんた、メイドなんだって?」
チーフ助監督が訊いた。
「ええ。ご縁があって、今は瞳様にお仕えしているのです」
「ってことは、うまい飯が食えるのは、瞳さんのおかげってわけだ」
チーフ助監督は、瞳を片手で拝《おが》んだ。
「現場で何よりの楽しみは、飯だからね。ありがたや、ありがたや」
瞳は照れたように頭を下げ、それから葵をスタジオの隅に連れていった。
「でも、葵さん。あなたを雇っておくお金は、もう……」
「お気になさらないで下さい」
葵は思いきって、自分の正体を明かした。瞳はショックを受けたようだった。
「あなたは主人、いいえ、青柳を……」
「はい。ですが、お金は取り戻せませんでした。そのままお別れするのでは、わたくしの気持ちが許さないのです。ですから映画が終わるまでは、わたくしは瞳様のメイドです」
葵は海堂に、携帯で許可を取っていたのだった。
「使命は果たしました。ですが、わたくしにもわたくしの、けじめのつけかたがございます。映画が終わるまで、瞳様のお手伝いがしたいのです」
海堂は、少しの間黙っていたが、やがて言った。
『今の法律では、映画に注ぎ込まれるはずだった金を取り戻すことはできない。肩代わりすることもな。その意味では、警察は無力だ。ならば、私からも頼もう。彼女の力になってやってくれ』
「はい!」
葵はうれしかった。ご主人様は、被害者の気持ちになってくれるのだ。
「お給金なら、本当の御主人様からいただいております。それより瞳様、映画を完成させましょう。皆さんを、失望させてはいけません」
「そうね。私も、主演女優として恥ずかしくないように、プロになり切るわ」
瞳は、うなずいた。
「時間が空いたら、この近くで安いアパートを探して下さる? いいえ、ウイークリーマンションでいいわ。そこから通いますから」
「かしこまりました。ですが、この後のご収入は、どうなさるおつもりですか? ニキータさんから、映画俳優のギャラはとても安いと聴きました」
俗に、映画の出演料はテレビドラマの十分の一とも言われている。特に新人の瞳は、とりあえず、十万そこそこのギャラしかもらえないのだった。
「事務所の社長も鬼じゃないわ。生活費ぐらいは出してくれるわよ」
「そのことですが、アイドルに復帰するのでは、後戻りになるのでは……」
葵が言うと、笑って首を振った。
「すべては映画のためよ。私も辞めてまだ半年ですもの、この歳になったとはいえ、まだまだやれると思うの。あと、さっき電話したんだけど、アイドル時代のつてをたどって、ロック歌手の山崎勝也《やまざきかつや》にも友情出演で出てもらうことになってるの。ノーギャラでいいそうよ」
山崎勝也は、今年大ブレイクした美形のミュージシャンだ。
「彼は昔、私がCDを出したときにバックバンドをやっていたし、映画には興味があるから、すぐにオーケーしてくれたの。いくらいい映画でも、話題性がなければヒットはしないわ。もちろん、私の演技がしっかりしていれば、だけれど」
瞳はすっかり映画に取りつかれているようだった。
だが、それは自分の欲望のためだけではない。今は彼女が、この映画と映画に関わる人びとを背負っているのだ。瞳はそのことを自覚しているのに違いなかった。
「瞳様。ご成功をお祈りしております」
葵は、それだけ言った。
そして――。
六本木のミニシアターに、私服の葵とニキータは来ていた。小さな映画館は、だが、満員だった。
『時空《とき》の河を超えて』とタイトルの変わった映画は、瞳の突然の離婚と復帰というニュース、本人がそれをテレビであっけらかんと話したこともあって、公開前から話題になっていた。
もちろん岡本監督率いるスタッフは、予算の少なさを感じさせない、質の高い映像を充分に見せつけていた。公開一週間で破格の興行収入を上げ、すでに全国のシネコンを中心に買い付けの注文が来ているそうだ。ミニシアターとしてはすでに充分な成功と言えるのだが、斎藤プロデューサーの話では、最低でもおそらく十億の成績が見込める、とのことだった。
ニキータは、コーラにポップコーンを抱えて、画面をはすに構えて見ていた。だが、ポップコーンに伸びる手が止まっていることから、映画に惹《ひ》き付《つ》けられていることは分かった。
葵もスクリーンに見入っていた。瞳の演技は、演技派のくせ者と言われる佐野高大を相手にしても動じることなく、美しくもの哀しい吸血鬼の純愛と、血が吸いたいという欲望のジレンマを、みごとに表現しきっていた。
「これは、日本のホラー映画史上に残るね」
ニキータがつぶやいた。
「ええ。ラブストーリーとしても、すてきです」
葵は答えた。
やがてラストシーンが終わり、クレジットになった。縦《たて》に流れる人名の中に、葵は、『協力 若槻葵 立花二期多』の名前を発見した。
「立花二期多、ってニキータさん、あなたの変名ですか?」
訊ねたが、返事がない。見ると、隣にいたはずのニキータはいつの間にか姿を消していた。座席に白い紙が置いてある。葵は取り上げて、見た。
『どうもいけねえや 波が出ちまいそうだ お先に先礼するぜ またな』
『波』とあるのは、たぶん『涙』、『先礼』は『失礼』のことだろう。葵はくすりと笑った。
「ニキータさんったら、あいかわらずなんだから」
葵はもう一回、映画を観てお屋敷に帰るつもりだった。明るくなった客席で、葵は御主人様からもらったMP3プレイヤーを取りだし、ヘッドフォンを耳にかけた。ヘッドフォンからは、葵のお気に入り、中森明菜の『It's brand new day』が流れた。メジャーレーベルとの契約を打ち切られた中森明菜が、ほとんどインディーズに近い形で出し、タイトルの通りに中森明菜の新しいスタートとなった曲である。
映画の成功をきっかけとして、今の名前でいう阿川瞳は、また人気が爆発しつつある。しかし、誰もがその実力を認めていた。彼女は、すぐに飽きられるアイドルではなく、女優として永く活躍するだろう。
「奥様、いいえ、瞳様。あなたは、生まれ変わったのですね」
葵はつぶやいた。
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第5話 葵《あおい》のお見合い!? 花嫁衣装は死《し》に装束《しょうぞく》
九月の初め、葵がいつものようにお屋敷の主寝室へ朝食を運んでくると、ガウンを着た海堂《かいどう》は、窓の外を眺《なが》めていた。まだ残暑が厳しい陽差しの入り込む広い窓からは、庭師の坪内弥助《つぼうちやすけ》氏が丹精込めて育てた花々が見える。盛りを過ぎたひまわりが、風情《ふぜい》をかもし出していた。部屋のオーディオからは、今日は音楽が流れていなかった。早くに目を醒《さ》まされたのかもしれない。
「失礼致します」
葵が声をかけると、もの思いにふけっていたらしい海堂は、黙って窓に近い小さなテーブルに向かった。
そこへ朝食のトレイを置いて、控《ひか》えていると、海堂が声をかけた。
「――葵。頼みがある」
葵は不思議に思った。御主人様がメイドの自分に、『頼みごと』などする必要がないではないか。それに海堂は無表情だが、どうやら、ためらっているようにも見えるのだ。
「わたくしは使用人でございます。なんなりとお命じ下さい」
答えると、海堂はわずかにうなずいて、だが、とんでもないことを言った。
「それでは、――見合いをしてくれ」
思わず葵は大声を上げそうになったのを、かろうじて抑えた。
「あの……今、なんと……?」
「見合い、と言った。お前も十七だ。そろそろ身を固めてもいいだろう」
「めっそうもございません!」
葵は必死に抗議《こうぎ》した。
「わたくしは、メイドとしてまだまだ半人前です。お屋敷で修行を積んで、一人前のメイドにならなければ、せっかく雇っていただいた御主人様に申しわけが立ちません。それにわたくし、お見合いで結婚する気など……」
「冗談だ」
にこりともせず、海堂は言った。
「御主人様、冗談が過ぎます!」
葵の願いは、一生このお屋敷で御主人様にお仕えしたいということ、ただそれだけだった。もちろんメイドとして。それ以外のことは望んだこともない。結婚は、いつかはするかもしれないが、ここにいられなくなるのだったら、決してする気はない。
だが海堂は淡々と答えた。
「見合いはしてもらわねばならないのだが、まあ、事情を聴け」
どうやら、何か事情があるらしい。葵はようやく動揺《どうよう》から立ち直った。
「私の友人に、大道寺忠宏《だいどうじただひろ》という男がいる。大学時代、同じサークルの後輩だった」
御主人様のサークル――いったいなんだろう。
「やはり、クラシック関係でございますか」
「漫画研究会だ」
海堂は少しも表情を変えずに言った。葵は思わず、ずっこけそうになったが、考えて見れば紀宮《のりのみや》様――いや、今は黒田清子《くろださやこ》さんも漫画研究会の出身だ。別に変ではない。ないのだが、御主人様が無表情に漫画を読んでいるところを想像すると、噴《ふ》き出《だ》しそうになった。
懸命《けんめい》にこらえて、葵は訊《き》いた。
「あの……ちなみに、どのような漫画をお読みになっていたのですか」
「『スラムダンク』」
葵は、本当にずっこけそうになった。御主人様と『スラムダンク』とが、どう考えても頭の中で結びつかない。まさか今でも書斎《しょさい》にあるのでは……そんなはずはないとは思うのだが、法令集の後ろに隠してあったらどうしよう。いやどうするということでもないが、しかし……。
いや、そういう話ではなかった。
「大道寺とおっしゃいましたが、元は大名家の、あの大道寺様ですか?」
海堂はわずかにうなずいた。
「今はもちろん身分制度などというものはないが、その昔は侯爵《こうしゃく》家の家柄《いえがら》の長男だ。警察庁で、私の直属の部下として働いている。その忠宏が、結婚することになった」
「そうですか――おめでとうございます」
だからどうしたというのだろう。
「それが、めでたくないのだ」
海堂は、わずかに眉《まゆ》を曇《くも》らせた。
「元・大名家ともなると、花嫁候補には身元も人柄もしっかりした女性を選ばねばならない。要は、昔からの家風に合うような、だ。少なくとも大道寺家ではそう決まっている。特に大道寺の母親は気位《きぐらい》の高い人だ。当然、見合いをして、その後、家に入れてしばらくようすを見る、ということになる」
葵はうなずいた。元・華族《かぞく》、つまり戦前まであった貴族階級《きぞくかいきゅう》の家では、今でも昔からの家柄を守ることにうるさい家があると聴いている。
「ところが、そうして選んだ花嫁候補が次々に、奇怪な死を遂《と》げたのだ。それも、三人。いずれも家柄はもちろん、年は若いがしっかりとした、聡明《そうめい》な女性だった」
「それは御主人様の評価でございますか?」
「いずれも大道寺に紹介されている。会ってみた上での、私の判断だ」
それなら、万に一つのまちがいもないだろう。葵は御主人様の目を信じていた。
「では、殺人ということになりましょうか」
葵の問いに、海堂は無表情に答えた。
「どの件も、警視庁によって事故死として処理されたが、偶然ということはどう考えてもあり得まい。一年足らずで三人の花嫁候補が偶然に事故死するなど、荒唐無稽《こうとうむけい》というものだ」
葵はうなずいた。そんな偶然は、聴いたこともない。
「大道寺は悲しんだが、真相を明らかにしなければ結婚ができないのはもとより、死んだ女性たちに申しわけが立たない。だが、大名家で連続殺人、となればマスコミのえじきだ。それでひそかに、私に相談をしてきた」
「では、私がお見合いをする、というのは――」
「新たな花嫁候補として大道寺家に潜入《せんにゅう》し、犯人と殺害の目的をつきとめるためだ。もう分かっているだろうが」
葵はうなずいた。被害者の悔しさ、苦痛を想像すると、体の血が熱く燃えてきた。
「かしこまりました。もう、犠牲者は出させません。犯人の目的がなんであるにせよ、前途ある若い女性が次々に殺されるなど、許しておけることではありません」
葵の言葉に、海堂はうなずいた。
「お前なら、そう言ってくれると思っていた。では――出かけるぞ」
「どちらへ?」
まさか、今すぐ見合いでもないだろう。
「私は見合いの世話人を引き受けていてな。お前はさる名家の娘、と先方には言ってある。まず身なりから厳しい目で見られることになるだろう。すべて任せておけ」
もちろん葵は、そんなお見合いに着ていく服など持っていない。海堂に従うしかなかった。
だが、立ち上がった海堂の目は、あり得ないことだが、かすかに笑っているようだった。
(いったい、どうして?)
玄関へ出ると、執事《しつじ》の朝倉《あさくら》老人が車の運転席に座っていた。
「葵さん、この度はおめでとうございます」
車に乗り込んだ葵に笑顔で言う。
「朝倉さん……」
葵は少しむくれた。からかわれるのは、昔からどうしても好きになれない。
「いやいや、お務めとはいえ、このお見合いは何があっても成功させなければなりません。はばかりながらこの朝倉、今まで三十組の仲人《なこうど》を引き受けて、見事に成功させて参りました。腕が鳴りますなあ」
朝倉老人は楽しそうだった。葵は別に楽しくはない。
「日本橋で、いい呉服屋《ごふくや》を頼む」
一緒に乗り込んだ海堂は、それだけ言った。
「近ごろは、若い女性のお見合いは、清楚《せいそ》な洋服の場合が多いのでございますが」
「相手は大道寺家だ。母親が通すまい」
「さようでございましたな。大道寺摂子《せつこ》様は、とても厳しい方とうかがっております。それならば、あまり派手ではない江戸小紋《えどこもん》などがよろしいでしょう」
朝倉老人は車をゆっくりと走らせた。
「あの、でもわたくし、着物の着付けなどは、あまり……」
国家メイド資格の必須科目の中には和風の生活の科目は少なく、試験を受けるときに知識としては覚えたのだが、実際に使う機会がなかったので、身についてはいなかった。
「それも、お任せを。坪内さんに教えてくれるよう、言ってあります」
朝倉老人は、自信たっぷりだった。
「さくらさんのほうですか?」
「バカにしたものではありませんよ。私の一番弟子ですから」
葵が意味を測《はか》りかねていると、
「私は以前、着付け教室を開いていたことがあったのです。戦後の物資の乏しい時代で、お屋敷のお役に立ちました」
朝倉老人は平然と言った。
いったいこの人、いくつ仕事をしていたのだろう……車に揺《ゆ》られながら、葵は思った。
日本橋で着物の仕立てを頼み、帯やバッグ、草履など一式を買い入れて、昼にはお屋敷に戻った。玄関ホールで坪内さくら夫人が、にやにやして待っていた。
「葵ちゃんも、いよいよ年貢《ねんぐ》の納め時だねえ」
「年貢の納め時って、さくらさん、これはあくまでも――」
葵の抗議にも、さくら夫人のにやにや笑いは止まらなかった。
「まあ、予行演習とでもしとこうかね。あんたも十七だ。もうお嫁にいってもおかしくない年頃だよ」
「早すぎます! それではまるでヤンママです!」
「いかにレディースだったからといって、ヤンママなどと言ってはいけませんな」
買い物の袋を抱えた朝倉老人が言う。
「私の娘が結婚したのも、十八です。お屋敷のご先代に仲人をしていただきましてな。残念ながら、今は音信不通なのが淋しい限りですが。葵さん、あなたは親御さんに、いや、親代わりの私たちに、淋しい思いはさせないで――」
「させません! というより、結婚する気はありません!」
「葵ちゃんにその気がなくても、お屋敷に来たお客様が、葵ちゃんを見初《みそ》める、ってことがあるかもしれないよ」
「ですから、さくらさん。わたくしはメイドですし……」
「そのようなことで嫁を選ぶような客の前には、お前は出さん」
海堂が無表情に言った。
「実は何回か、お前を嫁に欲しいという話が来ているのだ。今、誰がふさわしいか選んでいる。そのためにも、自分を磨《みが》いておけ」
「そ、そんな、御主人様!」
葵は仰天《ぎょうてん》した。いつの間に、そんなことになっていたのだ。
「冗談だ」
にこりともせず、海堂は答えた。
「もう、みんなでよってたかって……」
葵はますますむくれた。
「冗談もたいがいにして欲しいものです」
「いや、まんざら冗談じゃないよ」
さくら夫人は真顔になった。
「大名家のお眼鏡にかなうには、着付けから立ち居振る舞いまでしゃんとしてなきゃ、先方にお断わりされちまうだろう? だから本物の見合いをするつもりで、覚悟を決めておきな、ってことさ」
言われてみれば、それはそうだ。相手の家に入り込めなければ任務は成功しない。
「分かりました。よろしくお願いします」
葵が言うと、夫人はお屋敷の敷地の中にある自分の家に、葵を連れていった。
「さあ、こっちだよ」
小さな家にはリビングに続いて、仕切りがなく一段高くなった畳敷《たたみじ》きの部屋があった。畳の上の座卓で新聞を読んでいた坪内弥助氏が、笑顔で迎える。
「話は聴いたよ。大変だねえ、葵ちゃんも」
葵はほっとした。からかわれるのはもうごめんだ。レディース時代の葵なら、とっくに周りの人びとをぶちのめしているところだ。
「大変なのは、これからさ」
夫人は畳を指差した。
「ふだんは亭主がここで寝てるんだけどね。とにかくここへ座りな。正座だよ」
「正座……ですか」
葵は長年、椅子の生活をしているので、正座といったら小学生の頃以来だ。
「お見合いは料亭だそうだからね。畳で二時間正座。まずそこから始めなけりゃね」
「二時間も?」
思わず葵は声を上げた。
「それができるかどうかも、相手は見てるんだよ。さあ、四の五の言わずに座りな」
しかたがない。葵は言われるままに、畳の上にぺたん、と座った。
「ああ、だめだだめだ、そんな風にお尻をついちゃ。いいかい、両足はきちんと揃《そろ》えるんだよ。そうそう、背筋は伸ばして」
言われた通りに座ってみると、十分と経たないうちに、足がしびれ始めた。
「さくらさん、私には無理です」
思わず弱音を吐くと、坪内夫人はにやりとした。
「誰にだって無理さ。しびれない、こつがあるんだ」
「最初から言って下さい!」
まったくもう……葵はため息をついた。
こんなことでこの任務、遂行《すいこう》できるのだろうか?
一週間、特訓が続き、葵の我慢も限界に近づいた頃、ようやく吉日を選んで、赤坂の料亭の一室でお見合いが行なわれた。
最近のお見合いは吉日にはこだわらず、土日の静かな午後にホテルのティーラウンジなどで行なうことが多いのだが、そこは大名家、先方の指定である。
床の間を背にスーツ姿の海堂が座り、葵は着慣れない訪問着を着て、下座に座っていた。付添人《つきそいにん》として、タキシードを着た朝倉老人が隣に控えている。
待っていると、やがてふすまが開いて、落ちついた柄の京友禅《きょうゆうぜん》を着た貫禄《かんろく》のある老婦人と、こちらは華《はな》やかな振《ふ》り袖《そで》を着た三十ぐらいの女性、そしてその後に、グレイの三つ揃えを着こなした大道寺忠宏が現われた。その顔立ちの上品さには、端整《たんせい》で美しい海堂も負けそうなほどだった。
葵の対角線上に忠宏は座り、真正面には老婦人が座ると、やや無遠慮に葵の姿かたちを見回した。葵は改めて背筋を伸ばした。
「お忙しい中、皆さまお集まりいただき、ありがとうございます。本日のお世話を致します、海堂俊昭《としあき》です」
海堂が落ちついた声で言った。
「こちらが大道寺忠宏君と、そのお母様の摂子さん、お姉様の礼子《れいこ》さん。……こちらは若槻《わかつき》葵さん、そして付き添いの朝倉英徳《ひでのり》氏です」
「若槻、というと、若槻礼次郎《れいじろう》様のゆかりの方かしら」
母親・摂子が妙に張りのある声で言った。若槻礼次郎? 葵には、誰のことだか分からなかった。
「その遠縁に当たります。今は警察庁で、私の秘書を務めています」
海堂は表情を変えなかった。
「若槻礼次郎は、昭和初期の総理大臣。貴族院議員ですよ」
朝倉が耳打ちしてくれた。葵は内心、仰天した。そんな見えすいた嘘《うそ》をついて、大丈夫なのだろうか。
しかし、相手が相手だ。メイドでサラリーマンの娘だ、というのでは通してくれないだろう。ていねいに頭を下げておいた。
「若槻葵でございます。どうぞよろしくお願い致します」
「大道寺忠宏です。こちらこそ、よろしくお願いします」
忠宏は、爽《さわ》やかな声で言った。
「朝倉様のご紹介はして下さらないの?」
姉の礼子が早速口をはさむ。海堂は、軽くうなずいた。
「これは失礼しました。朝倉は、当家の執事を長年務めております」
「まあ、執事ですって?」
礼子が眉をひそめる。
「奉公人を付添人にするなんて、どういうおつもりかしら?」
「真《まこと》に僭越《せんえつ》ではございますが……」
ばかていねいな口調で、朝倉老人が言った。
「不肖《ふしょう》わたくし、昭和十八年に旧制一高仏文科を首席で卒業いたしまして、うかつにお名前は出せませんが、葵のご紋《もん》を持つ公爵《こうしゃく》家の執事を務めておりました」
旧制一高とは東大のことだ。年令から言っても大いに怪しいが、葵の紋の公爵ということは、将軍家の親戚筋か、相当大きな大名の家だ。大道寺家は侯爵だが地方の外様《とざま》大名だし、爵位《しゃくい》は『公・侯・伯・子・男』といって、公爵家のほうが位は上だ。それも本当かどうか分からないが、それだけの家の執事ともなると、いくら大道寺でもおろそかにはできなかった。摂子と礼子が動揺するのが、葵には見て取れた。
「その後、海堂家を見てやってくれと主《あるじ》に言われ、今日に至っております。はばかりながら、今は日本執事協会の専任理事として勲二等瑞宝章《くんにとうずいほうしょう》を賜《たま》わり、華族の方のお仲人も、もったいないことですが務めたことがございます。ですが、もしわたくしで不足でしたら、日を改めて代わりの者を――」
「いいえ、充分ですわ」
摂子が、うってかわってにこやかに答えた。
「お恥ずかしい話でございますが、当家の先代は早くに亡くなりましたので、功績も残さず、勲四等旭日章《くんよんとうきょくじつしょう》ですの。忠宏が警察庁長官になれば、と期待しているのですわ」
葵はあきれた。勲章《くんしょう》がなんだと言うのだ。いや、家柄そのものが。華族制度がなくなって六十年、大名なんて百年以上も前の話ではないか。だいたい、御主人様とほとんど同期の忠宏が警察庁長官? 目の前にその海堂がいるというのに。失脚《しっきゃく》でもさせるつもりなのだろうか。
「葵さんは――」
家柄争いを気に留めないようすで、忠宏が笑顔を葵に向けた。
「月並みですが、ご趣味は?」
「クラシックです。フルートを少々、たしなみますの」
葵は、しれっとして答えた。海堂との間に、こんなやりとりがあったのだ。
『音楽鑑賞ではいけないのですか? 御主人様の聴かれる曲は、一通り覚えております』
『それでは先方は満足するまい。楽器の一つも演奏できなければ、貴婦人たる資格はない。そう考えるだろう』
『でもわたくし、楽器なんて、ハーモニカとリコーダーぐらいしか吹けません』
『見合いの席では、とりあえずフルートと答えておけ。大道寺家に招かれる前に、一通りのことは教えておく』
また特訓。うんざりしたが、何もかも任務のためだと我慢したのだった。結局、フルートは音が出せる程度にしか上達しなかったが、いざとなったら、そのときはごまかすしかない。
「まあ、けっこうなご趣味ですのね」
礼子が、どことなく――いや露骨《ろこつ》にいやみの感じられる口調で言った。
「どのような曲がお得意かしら?」
「ドップラーの『ハンガリー田園幻想曲』などを」
葵は答えた。決して易しい曲ではない。音大生レベルの技量がなければ演奏できない曲だ。礼子が少し、身を退いたような気がした。
「ですが、本当はフォーレの『シシリエンヌ』のような、庶民的《しょみんてき》な曲が好きですの」
「フォーレも、なかなかのものね」
摂子が、平然と言った。実際、『シシリエンヌ』はテレビのCMに使われたこともあって、聴けばほとんどの人が、ああ、あれ、と思い出すような曲だが、クラシックはクラシックではないか。第一、クラシックで家柄が決まるのか? ましてや演奏できなければいけないんだろうか。本当に好きなら別だが。
「よろしいんじゃないかしら? 気さくなところもおありのようで」
「恐れ入ります」
葵は口に手を当てて、上品に微笑《ほほえ》んだ。腹の中では、『けっ!』という気分だったが。
一通り、忠宏よりは母と姉の、ほとんど訊問《じんもん》が続き、頃合いを見計らって――ぼろが出ないうちにとも言う――海堂が口をはさんだ。
「お互いうち解けたところで、あとは若い者同士、庭など散歩されてはいかがでしょう」
「そうですわね」
摂子は、葵たちをふたりきりにすることを、あまり快く思っていないようだった。あくまで忠宏を目の前に置いておきたいらしい。だが、これがお見合いの作法であるから、摂子といえどもどうしようもない。
葵と忠宏は、一同に頭を下げて庭に出た。
部屋から遠ざかると、庭の中の小道を歩きながら、忠宏は笑顔で訊いてきた。
「それで若槻さん、本当はどんな音楽がお好きなんですか?」
「中森明菜《なかもりあきな》です」
葵も笑って答えた。
「私の正体は、もう御主人様からうかがっていらっしゃるのでしょう?」
「もちろんです。――僕は、モーニング娘。が好きなんですよ」
「まあ」
元・大名家の御曹司《おんぞうし》が、そんな庶民的なご趣味だとは思ってもみなかった。
「メンバーの中では誰が?」
「もう脱退しましたが、矢口真里《やぐちまり》です」
忠宏は苦笑いした。
「もちろんこんなこと、母や姉にばれたら、どうなるか分かりません。ですから――」
忠宏はスーツのポケットからMP3プレイヤーを取り出した。
「こっそり聴いているというわけです」
「あ。私の持っているのと同じ」
葵は忠宏に、親しみを感じ始めていた。
「さっき、なんでしたかしら……コジンスキーの遺作について訊かれたときには、ひやりと致しました。てっきり東欧辺りの作家だと思ったもので。忠宏様が間に入って下さって、助かりました」
「釣書《つりがき》に上智大学英文学科卒、とあったので、助け船を出したんです。姉も意地が悪い。コジンスキーは英文科でも詳しく読んでいるかどうか分からないというのに。あなたを引っかけようとしたんでしょうね」
イエールジ・コジンスキーは、現代アメリカを代表する作家のひとりだ。
「ええ。私、中卒ですから」
釣書、つまり先方に出すお見合いの履歴書には、大嘘を書いていたのだった。年齢も二十二歳と書いておいたが、葵は十七歳だ。
「海外のことはさっぱり。ブランド品も持っていないのです」
「そうですか。それでは今度、ルイ・ヴィトンのバッグでもプレゼントしましょう」
「せっかくですが、あまりああいう模様は好きにはなれません。わたくしの好きなブランドは、ユニクロなのです」
忠宏は笑った。
「あなたとは、うまくやっていけそうですね。少なくとも、捜査の間は」
そうだ。目的はそれだった。
「亡くなられた三人のお嬢様とも、このようなお見合いを?」
「ええ。僕には、恋愛結婚は許されないんですよ」
忠宏の顔が曇った。
「三人とも、クラシックや世界の文学、その他、わが家にふさわしい趣味を持っていました。ただ、わが家には釣り合うでしょうが、僕はうまくやっていけるとは思えません。中にはモーニング娘。の存在さえも知らない人がいましてね。こういう人と結婚するのかと思うと、正直、残念ではありました。――だから、僕も容疑者のひとりです」
「でも、お気に入られたのでしょう?」
「ええ。人間は、趣味が同じだから結婚するとは限りません。みんな、快活でしっかりした人だったから、結婚してもいいとは思いました。しかし――」
忠宏の顔は、警察官としての厳しい表情になっていた。
「母や姉、それに沙織《さおり》がどう思っていたかは分かりません。使用人も、同じです。家の中のすべての人間を、疑ってかからなければなりません」
「沙織様、というのは?」
「僕の従姉妹《いとこ》です。叔父の椿子爵《つばきししゃく》が亡くなって、母が引き取ったのですよ。いずれ嫁にやるということで、まあ花嫁修業のようなことをさせています。いい人ですが、控えめでおとなし過ぎるところがありましてね。……他に家族はいません」
「亡くなられた三人の方は、みんな、お屋敷の中で?」
忠宏はうなずいた。
「ひとりは物干し場から足をすべらせて、庭石で頭を打ちました。別のひとりは池に顔をつっこんで、溺《おぼ》れていたのです。三人目は風呂場で、かみそりでひじの静脈を切っての失血死でした。深夜のできごとでした」
「それは、事故とは言えませんね」
葵はすぐに答えた。
「どうしてそう思われますか?」
忠宏の目が鋭くなる。葵はすらすらと答えた。
「ご当主の花嫁になられる方が、忠宏様に呼び出されたのでもなければ、物干し場のような使用人の作業場にひとりで上がるわけがありません。――池で溺れた方は、足をすべらせたとも考えられますが、和風の庭園には慣れていらっしゃるでしょうから、足がすべるようなお履《は》き物を履いてはいないと考えるのが普通です。――お風呂場で亡くなられた方は、深夜にお風呂に入られた、とおっしゃいますが、お宅のようなお家なら、家族の皆さまがお入りになった後、使用人が掃除をしてお湯を落としてしまうはずです。ご自分で夜中に水を張ってお風呂に入るなど、まだ客人として泊まっている家で、なさるとは思われません」
「あなたは、海堂先輩の言うように、聡明な方だ」
忠宏は、感心したようだった。
「私はもうすぐ二十九になります。三十になるまでには嫁を取るのが、家のしきたりです。しかし、三人も娘さんを殺してしまって、のうのうと結婚できるわけがありません。この家は呪われている……」
つぶやくと、忠宏はいきなり葵の両手を握《にぎ》った。葵はどきりとした。
「お願いします、若槻さん。私の家の呪いを、明らかにして下さい。母も姉もあの通りの人です。ご苦労をかけることになるとは思いますが」
「ご心配には及びませんわ」
握られた手をそっと離して、葵は微笑んだ。
「わたくしは、もともとメイドです。苦労を苦労と思うような暮らしはしておりません。それより忠宏様――」
葵は、周りを見回した。
「わたくしのことは、葵、とお呼び下さい。ふたりはすっかり意気投合したことにしなければ、この任務は果たせません」
「分かりました、……葵さん」
忠宏は頭を下げて、
「よろしくお願いします」
顔を上げたその目が、なぜか熱っぽいように見えたのは、葵の気のせいだろうか。
「大道寺家から、茶会の招待状が来た」
数日後、海堂が主寝室の窓に近いテーブルで告げた。海堂は、家にいるときはほとんどの時間を主寝室で過ごし、仕事もそこで行なう。
あの家で『茶会』というからには、いわゆる茶の湯に違いない。
「わたくし、お茶会については……」
よく知らない、と言いかけて、葵は気づいた。
「また特訓なのですね」
これから何が始まるのか、想像するだけでげんなりした。具体的なことはよく分からないが、葵にとっては窮屈《きゅうくつ》で退屈なことに違いない。きっとそうだ。こんなことなら悪人を殴《なぐ》り倒《たお》しているほうが、ずっとましだ。
「もちろんでございますよ」
控えていた朝倉老人が、和《なご》やかに告げた。
「ご心配なく。わたくし、裏千家《うらせんけ》の講師の資格を持っております。正座に比べれば簡単なものです」
「でも、お茶室でも正座するのでしょう?」
「それはそうですが」
葵はため息をついた。また着物に正座。しかも葵は抹茶《まっちゃ》など格式張って飲みたいとは思わない。くつろぐときは、使用人のダイニングの椅子の背にもたれて、紅茶かハーブティーだ。お茶会などというものに、とても平常心で臨《のぞ》めるとは思えなかった。
「あまりご心配なさらず。茶の心は意外に単純なものでございます。むしろ簡素なことが茶の極意とされますからな。ともかく、新しい訪問着が用意してございますので、茶室へと参りましょう」
「新しい訪問着?」
訪問着なんて、二着も三着もあるものだったのか。
「同じ着物を着ていっては、衣装がないように思われる。仕立てておいた」
海堂が平然と言った。
「他に、大道寺家で過ごすための着物も、二、三用意してある。万事、心配するな」
(それを心配しているわけではないんです!)
葵は心の中で、相手が御主人様であるのも忘れて、思わずつっこみそうになった。海堂に本気で逆らいたくなったのは、三年前、レディースの総長として海堂と出逢《であ》ったとき以来かもしれない。
「ですが、御主人様。お屋敷にお茶室なんか……」
家の中はすべて葵が掃除しているが、そんな部屋は見たことがない。
「今は百貨店にも茶室のある時代でございますよ」
朝倉老人は、ほほほ、と笑った。デパートに茶室? まさか売っているわけでは……ないだろう。もう自信がないが。
「お隣《となり》の新山《にいやま》様が、立派な茶室を持っていらっしゃいます。貸して下さるよう、昨日のうちにお願いしておきました。お点前《てまえ》をいただけるそうで。こちらはただ、道具を用意して参ればよいことになっています」
「道具、ですか?」
お茶を飲みに行くのに道具が必要というのも、葵は知らなかった。
「扇子《せんす》、懐紙《かいし》、ふくさ、菓子切り、茶巾《ちゃきん》、あとは風呂敷《ふろしき》ぐらい持っていればよろしいかと。すべて――」
「用意してあるのですね」
うんざりして、葵はつぶやいた。
こんなに厄介《やっかい》な任務は初めてだ。メイドのほうが、よっぽど楽だ。
「さ、参りましょう。千利休《せんのりきゅう》の侘《わ》び茶の心、存分に学んでいただきますよ」
朝倉老人に連れられて主寝室を出るとき、葵は振り向いた。見送る海堂が、やはり笑っているように、葵には見えてならなかった。
ありえないことなのだが。
海堂家の隣――歩いて十分ほどの所に門がある――の新山家で、朝倉老人の指導を受けながらお茶をいただき、更にお屋敷に戻って来客用の和室でみっちりお茶について学び、その他のマナーも教わって、ようやく正座にも慣れてきた頃、大道寺家のお茶会の朝になった。
訪問着を着た葵は、大道寺家の近くまで朝倉老人に送ってもらい、家から見えないところで車を降りて、歩いて向かった。ラバーソールの編《あ》み上《あ》げ靴《ぐつ》をはき慣れた葵には、草履で歩くのは地面をじかに踏《ふ》んでいるようで頼りなかったが、心は落ちついていた。朝倉老人に読まされた何冊かの本と実技指導とで、なんとか、かっこうはつくだろうと思う。それに、お茶会は主人、つまり主催者が客をもてなすもので、客はそのもてなしを礼儀正しく受ければいいだけのものだ。もちろんあの母と姉のことだ、何かたくらんではいるだろうが――。
「相手がふたりだろうが五百人だろうが、勝負で負けたことはないんだよ」
思わず葵は若い頃に戻ってつぶやき、あわてて周りを見回した。
「あら、わたくしとしたことが」
路地を曲がると、どこまでもどこまでもどこまでも、生け垣が続いていた。その中に、切妻屋根《きりづまやね》の広大な邸宅《ていたく》が見える。手入れの行き届いた庭は、散歩するだけでもダイエットになりそうな広さだった。
ヒノキの正門には、青銅の唐草《からくさ》模様に縁取《ふちど》られたボタンがあった。ボタンを押すと間もなく門が開き、葵の知らない若い女性が一礼した。向こうは葵を知っているらしく、落ちついたようすで言った。
「今日の茶会を取り仕切ります、椿沙織と申します。どうぞ、こちらへ」
この人が沙織さん……。
葵は失礼にならない程度に、観察した。忠宏の母と姉に比べると、着物も顔立ちも、そしてふんいきも地味で、そこにいても誰も気づかないような感じだった。大道寺家では苦労しているのではないか、そんなことを葵は思った。
沙織は葵を寄付待合《よりつきまちあい》へと案内した。寄付待合とは、要するに茶会の客の待ち合わせ場所である。六畳ほどの明るい和室で、水墨画《すいぼくが》の掛《か》け軸《じく》がかかっていた。掛け軸は、客が最初に目にする最初の茶道具、と教わっていた。
「夕顔ですのね」
朝顔と夕顔はよく似ているが、朝顔はヒルガオ科の仲間、夕顔はウリ科の一種だ。実は全く別の植物で、茎《くき》などに違いがある。こういう席ではよく絵なども飾《かざ》られるということで、朝倉老人から見分け方を教わっていた。
葵の言葉に、沙織は微笑んだ。
「ええ、好きなんですの。わたくしのようでしょう? まるで目立たなくて」
どう答えようか迷っていると、沙織は立ち上がった。
「ごゆっくり、お待ち下さい」
沙織が出ていった。葵は茶席用の足袋《たび》に履き替え、他の持ち物と一緒に風呂敷に包むと、茶室へ持って入る道具を用意した。
間もなく、摂子と礼子が現われた。あいかわらず無遠慮に、葵の姿を見回す。
「柿渋の訪問着。まあ、ずいぶんと落ちついていらっしゃいますこと」
「そのお着物に、白い帯はいかがかしら。まぶしすぎません?」
勝手なことを言っている。葵はにこやかに微笑んだ。
「申しわけございません。母の形見ですので」
「では、お母様のご趣味かしら?」
礼子が意地悪そうに言う。葵は笑顔を崩《くず》さずに答えた。
「亡き母をとがめるような無礼は、本来なら許すわけには参りませんわ。ですが、本日のご亭主は沙織様とうかがいました。心静かにひとときを過ごしたく存じます。それが、お茶というものでございましょう?」
帯に手をかけた葵に、ふたりは硬直した。葵は、まるで時代劇のようだが、帯に懐剣《かいけん》を差していたのだ。力で相手を脅すのはふだんなら慎《つつし》みのない振る舞いだが、相手は大道寺の母と姉だ。多少の脅しでもかけなければ、なめられる一方だ。
緊張した空気が流れる中、亭主、つまり茶会を取り仕切る沙織が再び現われた。
「露地《ろじ》へどうぞ」
三人は、ちらちらと互いを見ながら、茶室に続く露地へと向かった。
寄付待合から露地を通って茶室へと向かうまでには、またいくつかの決まりがあるのだが、葵は難なくこなし、茶室までたどり着いた。
客の入り口は『にじり口』と言って、高さ六十五センチぐらいの出入り口から膝《ひざ》をついて入ることになっている。葵も頭を下げて、膝で茶室へと入った。
四畳半ほどの和室の床の間に掛け軸がかけられ、竹の一輪挿《いちりんざ》しに、ややしおれつつある白い朝顔が挿してあった。葵は額の前に正座し、扇子を前に置いて一礼すると、読みにくい筆跡《ひっせき》の文字を読んだ。
「お分かりになるかしら?」
礼子がまた声をかける。葵は微笑んだ。
「『放下便是』(ほうげすれば すなわち ぜなり)。夢窓国師《むそうこくし》のお言葉ですわね」
朝倉老人に習った禅《ぜん》の言葉の中に、これがあってよかった。葵は内心、冷や汗をかいていた。ただ見たら、字が読めるかどうかもさておき、トイレの注意書きかと思うところだ。
花入れと釜《かま》を拝見した葵は、二番目の席についた。最初に座るのが正客《しょうきゃく》で、いろいろな手順を踏まなければならない。最後に座る末客にもやることがさまざまにある。葵では力不足と思ったのか、正客の座には摂子が、末客には礼子がついていた。
茶道口から入ってきた沙織が、ひとりひとりと挨拶《あいさつ》をし、お菓子を出した。天の川と呼ばれる、色の入った半月型のゼリーのようなものだ。涼《すず》しげなガラスの器に盛られていた。
客が一礼してお菓子をいただくと、ふくさで道具を清めていた沙織が、みごとな茶せんさばきで、濃茶を練り上げた。
「お点前ちょうだいいたします」
凛、とした声で言った摂子が茶碗を取り、作法通りにお茶を三口半飲み、葵へと回した。葵も一礼し、茶碗を右回りに回して正面を避け、やはり三口半飲んで、口をつけたところを懐紙で拭《ふ》き……いちいち挙げるときりがないが、なんとかつつがなく茶事が終わった。葵は、気づかれないように、ほっとため息をついた。
沙織が水指《みずさし》のふたを閉めると、本来なら正客の摂子が、『お道具の拝見を』と言って棗《なつめ》や茶せんを見せてもらうところのはずだった。葵には、何度説明されても、道具を見せてもらう意味が分からなかった。レディースが自分のスクータを飾《かざ》り立てて自慢するようなものだろうか。
しかしそれをせず、代わりに摂子は、葵に訊《たず》ねた。
「いかがでしたかしら。沙織の亭主ぶりは」
「たいへん、けっこうかと存じます」
葵が答えると、摂子は高笑いした。礼子もくすくす笑っている。沙織は、なぜかすまなそうな顔をしていた。
「葵さん、そんなことでは当家の茶事《ちゃじ》に呼ばれる資格はありませんことよ」
摂子が眉を上げて言い放った。
「どうしてですの?」
無邪気さを装って、葵が訊ねた。
「茶室に入ったときから、あなたは客失格だったのよ」
礼子が笑いながら言った。
「いい? 朝顔は夏の花よ。しかもしおれているわ。沙織さんがお出しした天の川も夏のお菓子。けれど、今は九月よ。秋の花や秋のお菓子をご用意しなければならないのが、決まりではなくて?」
「たしかに、もう暦の上では、九月に入っております」
葵は、静かに答えた。
「ですが、まだまだ残暑厳しき折、庭に咲いていたであろう夏の名残《なごり》の朝顔を摘《つ》まれたのは、ごく自然な振る舞いかと。朝顔は、この時間には花びらがしおれるのもまた自然の道理。客はそれを見て、行く夏を惜しむのが真の風情というものではないでしょうか。決まりにとらわれ、自然の理《ことわり》を味わわないのは、かえって茶の道に外れているかと」
摂子と礼子が眉をひそめた。
「それに、利休七則《りきゅうしちそく》には、『相客《あいきゃく》に心せよ』とございます」
葵は続けた。利休七則とは、茶道を大成した千利休が挙げた、七つの心得だ。
「ご亭主に分け隔てなくおもてなしいただくのが、お茶の席でございましょう。ましてやわたくしは、この家の人間ではございません。それを招いておいて、亭主はいざ知らず、客たる方が他の客の品定めをするなど、言語道断。禅の心を忘れた茶会を催すのでは、いくら名家といえども、一流とは申せません」
うっ、と言葉に詰まったような顔を、摂子がした。
礼子が顔を真っ赤にして何か言いかけたが、そのとき茶道口から人が現われた。
「そのぐらいにしてやって下さい、葵さん」
スーツを着た忠宏は、微笑みかけてきた。
「一部始終は外で聴いていました。お母さん、お姉さん。この人の言うことは正しい。沙織さんを使って葵さんを試すより、心からおもてなしをしてみてはいかがです」
そして忠宏は葵に言った。
「よろしかったら、昼食をご一緒にいかがですか。いや、二、三日、こちらへ逗留《とうりゅう》なさって下さい。私はあなたが気に入りました」
「でも、いろいろと支度《したく》が……」
「それは、あなたの家の者にやらせればいいでしょう」
言って、忠宏は目くばせした。葵は、その意味を察した。
「では、お電話をお借りできますでしょうか。身の回りの物を、取ってこさせますので」
「どうぞ、こちらへ」
忠宏に案内されて、葵は茶道口から大道寺の家へと入った。
ちらりと振り向くと、座っていた沙織が葵に、目だけで微笑みかけた。『ありがとう』と言っているようだった。
その後ろで、何かを壁にぶつける音がした。摂子か礼子が、かんしゃくを起こしたのだろう。
「母と姉を許してやって下さい」
廊下《ろうか》へ出ると、忠宏は深く頭を下げた。
「あの人たちは、警戒しているのです。大道寺の名前を利用されないかと」
「頭をお上げになって下さい」
葵は微笑んだ。
「あのくらいのことで参るような修行はしてきませんでした。……それより名前を利用されるとは?」
「二年ほど前、大道寺の名前をかたった詐欺《さぎ》があったのです」
「まあ」
また詐欺の話か、と葵は思った。どうやら、そちらも調べなければならないようだ。
「それが、わが家の実印を押した書類を見せて、大道寺家が融資《ゆうし》をするから申し込み金を出せ、というものだったのです。犯人は逃げたままです。実印は本物でしたから、お恥ずかしいお話です」
「いいえ。元大名家だというだけで、ろくに調べもせずに話に乗るほうにも隙《すき》があったと言えましょう。実印はどこに?」
「それが……」
忠宏はためらいがちに言った。
「母の寝室の枕元に、小箱に入れて。鍵《かぎ》はありませんでした」
葵はあきれた。忠宏は弁解した。
「この家は生け垣ですが、防犯システムには入っています。深夜などに外からの侵入者はなかった――そう言っていました。信頼のおける会社です」
「では、家のどなたかが持ち出された、ということになりますね。お宅には、何人の方がいらっしゃるのですか?」
「あの三人と私、それに執事と料理人、小間使いが七人に庭師、力仕事をする者がひとりおります」
「外から業者のような方が入られたことは? 植木屋さんですとか」
「事件のあった頃には、そういうことはありませんでした。それに、母の寝室がどこにあるか、業者には分からないでしょう。うろついていれば、小間使いが気づくはずです」
葵はうなずいた。
「あるいはそれが、今度の事件と関係があるかもしれません。忠宏様、使用人の身元を詳しく調べていただけますか? 本来ならメイドであるわたくしが調べたいところですが、今のわたくしは、忠宏様の客。使用人の皆さんと話をしていたのでは、またあのおふたりに何を言われるか分かったものではありません」
「分かりました」
「わたくしは、摂子様と礼子様、それに、沙織様に近づいてみます」
「沙織さんにもですか?」
忠宏が意外そうな顔をした。
「そんな大それたことをしでかすような人ではありません」
「誰もが容疑者になり得る、そう忠宏様はおっしゃいました。もちろん、忠宏様も」
葵はにっこりとした。
「そうですね」
忠宏は、なんのためらいもなくうなずいた。
その表情と、そして先ほどの茶室での態度を見て、葵は確信した。彼は、無実だ。母や姉にへつらって、犯罪に手を染めるような人ではない。それに、もしそんな人なら、何より御主人様が親友になるはずがないではないか。
葵は何よりも、御主人様の人を見る目を信じていた。
客間で忠宏と談笑していると、質素な木綿《もめん》の着物にかっぽう着をつけた小間使いの若い娘が、昼食の用意が調《ととの》った、と知らせに来た。歳は葵より若いようだ。この家では、さぞかし苦労することだろう。葵は彼女に同情した。自分がこの家のメイド、いや小間使いなら、実質上の主である摂子にも、そのお気に入りらしい礼子にも、尊大な振る舞いはさせておかない。国家特種メイドの誇《ほこ》りにかけて。
しかし、今の葵は、忠宏の花嫁候補なのだった。
ダイニングルームは洋室だった。葵の使用人のふりをした坪内弥助氏が、クリーム色のワンピースや替えの着物などを届けにきてくれていたので、葵はワンピースに厚手のストッキングでダイニングルームに入った。
忠宏と葵が並んで席につき、摂子が上座、礼子と沙織が葵たちに向かい合って座った。
食事はフランス料理だった。オードブルからスープと進み、やがて出てきた魚料理を見て、葵は心の中で眉をひそめた。舌平目《したびらめ》のムニエルは、決して食べやすいものではない。骨を取り除くのがひと苦労なのだ。摂子と礼子が顔を見合わせるのが見えた。内心では、ほくそ笑んでいることだろう。
しかし葵はナイフを背骨の所に入れ、すべての小骨まできれいに取った。そして、固い笑顔を作ってみせた。
「なんだか、緊張で食事がのどに通りませんの」
その気になれば、正式と言われるマナー通りに食べることはできた。坪内夫人に、『舌平目のムニエルと、ハモが出てきたら気をつけな』、と作法を教わっていたのだ。
「大道寺の家だからといって、緊張することはないのですよ」
摂子が猫なで声を出した。
「いいえ。わたくしの家は、しょせん下級武士の家柄。それに……」
葵は目を伏《ふ》せた。
「どうかなさったの?」
「実は――」
言いにくそうに、葵は切り出した。
「父が事業で、悪質な詐欺にかかって、大金を失ってしまったのです。なんでも相手は、さる名家が融資してくれる、という話を持ちかけてきたのだそうで。詳しくは聴いておりませんが、どちらかの華族のお宅の実印を捺《お》した書面を見せられたので油断してしまったのだ、と父は申しておりました」
摂子と礼子、それに沙織が息をのむのが分かった。
「ですから、あまりはしゃいでおりますと、こちら様の財産目当て、名が目当てと思われるかもしれないと思いまして、私、私……」
ナプキンで目の端を押さえると、葵はダイニングを飛び出した。
「葵さん!」
忠宏が後を追ってくる。葵は、摂子たちには見えないようにぺろりと舌を出した。
そのまま庭へ出た葵は、忠宏が追いつくのを待った。庭はすべりやすかったが、葵は縁側に用意されていた草履を履いていた。裏はサメ革で、転びそうには思えない。
忠宏が近づいてきた。葵は小さなイヤフォンを渡し、自分も耳に入れる。
「葵さん、これは……」
しっ、と葵は唇《くちびる》に指を当てた。ダイニングの隅に転がしてきた盗聴器は、摂子たちの声をよく拾ってくれた。
『あの娘が、詐欺事件の被害者の娘だなんて……』
摂子の声は、動揺を隠しきれないようすだった。
『復讐のために、この家に入り込んだのかもしれないわ。お母様、早く追い出しましょう』
礼子がいまいましそうに言う。
『それにしても、誰がやったか分からない厄介ごとに、大道寺の家を巻き込むなんて。忠宏さんがしっかり捜査してくれれば――』
『礼子様』
沙織の、控えめな声がした。
『忠宏様は、警察庁長官の側近です。警察庁では、捜査はできませんわ』
『これだから役所など信用できないのよ』
『とにかく、あの娘を見張らせましょう』
摂子が言った。
『それより追い出したほうが早いわ』
礼子が言い捨てる。
『いいえ。もう三人も死んでいるのよ。あの娘がもし、詐欺の被害者の係累《けいるい》だとしたら、何を言いふらすか分かったものではありません。一生、この家に閉じこめておくのが、家を守るためになります』
摂子は言い切った。
『それでは伯母さま、葵さんがおかわいそうですわ』
沙織が言うと、摂子は声を荒げた。
『沙織さん、あなたはあんな小娘に情を移すとおっしゃるの? あなたも今のところは大道寺家の者なのですよ。わたくしのやり方に文句があるのなら、さっさとご縁を見つけて家を出ておしまいなさい!』
『失礼いたしました』
すまなそうな沙織の声がして、椅子が動く音がした。
『ああ、もう食事どころではないわ。いらっしゃい、礼子さん。お茶にしましょう』
どうやら話は終わったようだ。葵はイヤフォンを耳から離した。
「母も姉も、なんということを」
忠宏は残念そうに言った。
「あんなことでは、私は結婚などできはしない。それに、沙織さんがかわいそうだ。一日中、何かと母や姉に呼びつけられて、パーティーなどにもほとんど出してもらえず、結婚相手を見つけることもできないのです」
「そうですね。……ですが、分かったことがあります」
葵は考えて、言った。
「摂子様と礼子様は、三人の方を殺してはいらっしゃいません」
「そうでしょうか」
忠宏は疑わしそうだった。
「何をするか分からない人間だ、ということが、今の話であなたにも分かったはずです。もう、母とも姉とも思いたくはない」
「いいえ」
葵は首を振った。
「心を許しているであろう沙織様の前なら、本音も出るでしょう。私が詐欺事件の関係者だと分かり、復讐のために何をするか分からない、とおふたりは思ったはずです。もしもおふたりが人を殺すような方なら、口封じに私を殺すことをお考えになるのではないでしょうか。三人殺すのも四人殺すのも、同じことです。忠宏様は、『モーデス・オペランディ』という言葉をご存じでしょうか」
「たしか、犯行の手口、でしたか」
忠宏は曖昧《あいまい》な表情をした。
「ええ。海外のミステリではよく使われる言葉だそうです。御主人様はいつも言っていらっしゃいます。一度成功した犯罪者は、手口を変えることなく、何度でも繰り返す、と。ですから連続殺人の犯人は、捕まえることができるのです」
「つまり、母と姉が犯人なら、成功に味をしめて葵さんも手にかける、とおっしゃりたいのですね?」
「ええ。けれどそういうやりとりは、話の中にひとかけらも出てきませんでした。むしろ摂子様は、私を忠宏様と結婚させたいというお話でしたね。ですから、おふたりは犯人ではないと思うのです」
「沙織さんも、ですね」
忠宏の言葉に、葵は首を振った。
「それはまだ、分かりません。沙織様はおいくつですか?」
「二十七です」
「もう、立派なお年頃です。それなのに、結婚もできずに親戚とはいえ他人の家にご厄介になっている。しかも目の前で、忠宏様はご結婚なさろうとしていらっしゃる。ストレスが溜まっているかもしれません。それにお茶会のようすを拝見すると、あのおふたりにはまるで頭が上がらないようですね。おふたりの目の上のたんこぶを始末して、鼻をあかしてやろう、と思うかもしれません」
「沙織さんは、そんな人じゃありませんよ」
忠宏が言った。
「夕顔が好き、という人柄そのままです。ひっそりと生きているのです」
「人の本心は分からないものだ、とわたくしは学んで参りました。事件を通して」
葵は答えた。
「それに、おふたりの話を聴いていたのは、沙織さんだけではありません」
「え?」
「忠宏様は空気のように思っていらっしゃるので、気がつかれないのです」
葵は微笑んだ。
「ダイニングには、声を発さないだけで、コックも小間使いの皆さんもいらっしゃいました。あのおふたりも皆さんの存在を無視していらっしゃいます。だから人前であんな話ができるのです。ですが、使用人もれっきとした人間なのです。ですから、皆さんの身元を調べていただきたい、と申し上げたのです」
「……私は、おごり高ぶっていたようです」
忠宏はつぶやいた。
「あなたを見ていて、そう実感しました。使用人もれっきとした人間。まったくその通りです。ですから、葵さん。あなたは私が守ります。命に替えても」
「いいえ、あなたはまだ分かっていらっしゃいません」
葵は笑顔で応えた。
「わたくしは、仮にもメイド刑事《デカ》。自分の身は、自分で守ります」
夕食は何ごともなく済み、葵は風呂へ入った。まだいやがらせのつもりか、風呂にはまず忠宏、そして摂子が入り、葵はしまい風呂だった。まあ、そちらのほうがお湯が柔らかくなって肌にはいいというが、客に対する扱いではない。
不意の事態を警戒して、シャワーは使わず、湯船からくみ上げたお湯で頭をすすいだが、脱衣場に人の気配はなかった。
この状態で、かみそりでしかもひじの内側の静脈を切る、などということがあるだろうか。風呂場には、たしかに安全かみそりではない、一方に柄のついた片刃のかみそりがあった。だが、肘の内側に使う理由が分からない。もし何かあったとしても風呂場は建物の端、長い廊下を通った先にあるから、大声を出しても聴こえそうにないが、やはり不自然だ。
頭を乾かし、外へ出ると、沙織が廊下を歩いていた。葵の顔を見て、うっすらと笑顔を浮かべる。
「けさは、ありがとうございました」
沙織は頭を深く下げた。
「とんでもありませんわ」
葵は、ちょっと気取った調子で答えた。
「いいえ。正直、すっとしました。伯母さま方は、私が言うのもなんですが、家柄を鼻にかけるところがありますから。葵さんなら、この家を変えて下さるかもしれませんわ」
「そんな、大それたことは考えておりません」
葵は首を振った。
「私はただ、忠宏様に尽くしたいだけなのです」
すると沙織は真剣な表情になった。
「それでは葵さんは、女の幸せとはなんだとお思いになりますの?」
「心から愛する方に、人生のすべてを捧《ささ》げることだと思っておりますのよ」
葵の言葉に、沙織はつぶやくように言った。
「そのために、自分を犠牲にしてもですか」
「犠牲になんかなりはしませんわ」
葵は明るく笑った。つられて沙織も、笑顔になった。
「そうですね。葵さんなら、そんな生き方もできるでしょうね。私には、無理だわ」
「いいえ。人生は自分の手で切り拓《ひら》くものだ、と亡くなった父がよく申しておりました。私は父を信じています。それに沙織さん、あなたも」
「ええ」
沙織は曖昧にうなずいて、話を変えた。
「もう、お休みになりますの?」
葵はまた、餌をまいてみようと思った。
「ええ。わたくし、少し不眠の気がありますから、睡眠薬を飲んで朝までぐっすり。火事が起きても目が醒めないかもしれませんわ。そのときは、誰かに起こさせて下さいましね」
「分かりました。私が真っ先に起こしに参りますわ」
沙織は笑顔で応えて、軽く会釈《えしゃく》をして立ち去った。
葵は二階へ上がると、与えられた部屋へ入った。八畳ほどの洋室で、セミダブルのベッドがあった。片隅にはソファーもある。来客用の部屋だろう。
葵はナイトウェアに着替えていた。枕元には水挿しがある。葵は花瓶を見つけると、水挿しからコップ一杯分ぐらいの水を注ぎ、空の薬の包みを水挿しのそばに置いておいた。薬は口に含んで溶かすようになっている。だが、睡眠薬ではない。眠気覚ましだった。
「今日は疲れたから、居眠りはしないようにしないと」
つぶやいて葵はベッドに入り、灯りを消した。
深夜一時。人の気配がした。
葵は眠っているふりをして、薄目《うすめ》を開けてドアのほうを見た。
音もなくドアが開いて、人影が入ってきた。ベッドに近づき、水挿しの水が減っているのを確かめて、ようすをうかがっているようだ。
葵が寝息を立てているのを見て、安心したようなため息を漏《も》らした。
ベッドのそばにくずかごがあった。そこへ人影は覆《おお》いかぶさると、マッチの火を点《とも》した。
その瞬間、葵は飛び起きた。
「何をするつもり?」
厳しい声に人影はハッとしたようだが、すぐにマッチを消した。葵はカーテンを開けておいたのだが、いつの間にか閉じられていて、部屋の中は真っ暗だった。
のんきに構えている葵ではない。逃げようとする人影に蹴《け》りを放った。だが相手の動きはすばやく、葵の足はかわされた。そのまま人影はドアの外へと走り去った。
葵は床に降り立つと、腕組みをした。怪しい人影がマッチをする瞬間、ほんのりと浮かび上がったその姿は――。
「やはり……」
葵はつぶやいた。
翌朝は日曜日で、忠宏は休みだった。朝食は広い座敷でとった。鮭《さけ》の西京焼《さいきょうや》きにしじみのみそ汁、漬け物と米のご飯だけの質素なものだった。いずれも量が少ない。
「当家では開祖の頃から、朝食はこうですのよ」
摂子がすまして言った。
「武家のたしなみですわね」
葵は微笑んだ。しかし、くどいようだが武家なんて百年以上も前の話だ。未だにその形だけをまねしてどうするというのだ。葵は朝食はしっかりととるほうだった。そうでなければ働けない。
だが、この人たちは、働く必要がないのだった。
朝食の席では何ごとも起こらなかった。摂子も礼子もそして沙織も、使用人の誰ひとりに至るまで、平然とした顔をしている。どうやら摂子たちは葵を追い出す手は止めたようだ。
食事が終わると、葵は雪見障子のガラス越しに外を見て、忠宏に微笑みかけた。
「すてきなお庭ですわね。忠宏様、お散歩に誘って下さいます?」
忠宏は、すぐに葵の意図を悟《さと》ったらしい。
「いいですね。行きましょう」
葵の手を取ると、庭へと連れ出した。それを見守る摂子たちの視線を、葵は背中でひしひしと感じていた。盗聴器を仕掛けておくべきかと思ったが、何もない畳の部屋では、さすがに気づかれるだろう。
立派な日本庭園には大きな池があり、苔《こけ》むした石の橋がある。橋の中央で葵は足を止めて、池を見下ろした。
「まあ、きれいな鯉《こい》」
「あれは金魚ですよ」
忠宏が笑って答えた。
「放し飼いにしていたら、あんなに大きくなってしまったのです」
そんな金魚がいるのだろうか。疑問に思いながらも、葵は辺《あた》りを見回した。
橋からは、ダイニングも、母屋《おもや》もずいぶん遠い。ただ、二階の窓でカーテンがちらりと動くのを、葵は見のがさなかった。
「金魚だなんて、ご冗談でございましょう?」
明るく言うと、声をひそめて忠宏にささやいた。
「このまま仲のいいふたりとして、話を続けて下さい。それこそ当てつけるように」
忠宏はわずかにうなずき、こちらも快活な声で言った。
「魚というのはね、理屈の上ではいくらでも大きくなるんですよ。特にヒラメの一種、オヒョウなどは、ある条件さえ整えば、太平洋いっぱいにまで育つと言われているんです」
「そんなこと、信じられませんわ」
わざと笑い声を上げながら、葵はそっと着物のたもとからメモ帳を出し、書きつけると忠宏に見せた。メモ帳は京都の店で作っている古着の布で覆われたもので、遠くから見ると、なんであるかは簡単には分からない。
『使用人の皆さんはいかがでしたか』
忠宏は目を通し、メモ帳を受け取ると返事を書いた。
『全員身元は確かです 金の問題も 怨恨《えんこん》の線もありません』
「これは本当のことなんですよ」
「忠宏様ったら、ご冗談ばっかり」
さらに笑いながら、葵はメモを書いた。
『信じます だとしたら 犯人はたぶん――』
メモを読んだ忠宏の表情が、一瞬、信じられないというように硬直した。だが彼も警察官だ。すぐに笑顔になった。
「昔読んだ動物学者のエッセイに、そう書いてありました。では、なぜ魚は、ある大きさ以上には育たないと思いますか?」
色気のある会話かどうか分からなかったが、とにかくふたりは楽しそうに話し合っているように見えるはずだ。
『どうしてそれが?』
「さあ、どうしてかしら」
言いながら、葵は返事を書く。
『ゆうべ寝室に賊《ぞく》が入りました そのとき一瞬 見てしまったのです』
「答はね、寄生虫です」
忠宏は言う。建物から顔をそむけて葵にだけ見えるように、『?』という顔をした。
「寄生虫?」
眉をひそめて、葵は更に書いた。
『賊は長い黒髪の女でした』
マッチの火がほんの一瞬、その姿をぼんやりと映し出したのだ。
「寄生虫による、内臓の病気なんですよ。魚の寿命はそれで決まるのです」
忠宏も眉をひそめたが、話している話題のことではないようだった。
『この屋敷に長い黒髪の女性は何人もいます』
「内側から、食い荒らされているのですね」
奇妙に会話とメモとが、噛《か》み合《あ》ってきた。
『忠宏様は この橋で よく花嫁候補のお相手とお話をされませんでしたか』
「その通りです」
忠宏はうなずいた。
『ここがいちばん 見晴らしがいいので』
葵は見回した。石の橋は庭の中でもひときわ高くなっていて、たしかに庭全体が見渡せた。
ということは、ここにいれば誰からでも見えるということだ。しかし会話までは、誰にでも聴こえるというわけではあるまい。
「すてきなお家ですこと」
葵は夢見るような表情を作って、ためらったが、思いきって、はしゃいだように忠宏に抱きついた。忠宏がたじろぐ。その耳許《みみもと》で葵はささやいた。
「これも作戦の一つでございます。がまんなさって、わたくしに合わせて下さい」
忠宏はかすかにうなずくと、葵を強く抱きしめた。思わず葵の心臓がどきどきした。今まで男性に、こんな風に抱きしめられたことがないのだ。
「忠宏様、いけませんわ、こんなところで」
先に抱きついたのは、葵のほうなのだが。
「いや、かまいません。ここは私の庭です」
忠宏は言いながら、屋敷のほうを見ているようだった。その目が、ある一点を向いた。忠宏の腕にこもった力が強くなるのを、葵は感じた。
「やはり……」
葵以外には聴こえない声で忠宏はつぶやき、大きな声を上げた。
「葵さん。あなたはすばらしい女性だ。私との交際を、真剣に考えてくれますか?」
「そんな遠回しにおっしゃらないで下さい。結婚したい、そう言っては下さらないの?」
「しかし、私が婚約した女性は、もう三人も……」
「それ以上はおっしゃらないで」
葵は忠宏の体を離すと、彼の唇に指を当てた。
「わたくしも、たったひと晩とはいえあなたと同じ屋根の下にいて、あなたをすっかり好きになってしまいましたわ。不吉なことはお考えにならないで下さい。誰が邪魔しようとも、たとえ命を狙われても、わたくしは一生あなたのおそばにいたいのです」
「葵さん!」
感極まったように、忠宏がまた葵を抱きしめて、ささやいた。屋敷のほうから見ると、顔が重なって見えるはずだから、キスでもしていると思われるに違いない。もちろん、かりそめにも唇を許す葵ではなかった。
「こんなものでいいでしょうか」
忠宏がささやいた。葵も小声で答えた。
「ええ。相手の殺意は確実なものとなったでしょう」
「では、すぐにこの家から離れて下さい。本当に危害が及んだら、私は海堂先輩に申しわけが立ちません」
「そのことですが。……犯人を捕らえるために、わたくしに考えがございます」
葵は、考えていた計画を忠宏に話した。忠宏は驚いたようだった。
「それは危険すぎます」
「いいえ。仮の身分とはいえ、わたくしも刑事なのです。危険を怖《おそ》れていては、使命は果たせません」
「あなたをそんな目に遭《あ》わせるわけには――」
なおも忠宏は言う。葵は着物のたもとから、いつもはメイド服の襟《えり》に付けている飾りボタンを取り出し、開いて見せた。
「これをご覧下さい。わたくしは警視監の階級を、御主人様からお預かりしております」
忠宏はたじろいだようだった。無理もない。忠宏は警視正《けいしせい》。葵のほうが、階級は二つも上になるのだ。それに警視監に逆らえる警官はほとんどいない。
「忠宏様。僭越ではございますが、これから先のことはわたくしの指示に従っていただきます。よろしいですか?」
忠宏はまだためらっているようだったが、やがてうなずいた。
「警察官である以上、あなたに逆らうことはできません。分かりました。ですが、あなたの命は、私が最後まで守ります」
葵は微笑んだ。
「ご心配はご無用だ、と申し上げたはずです。それより忠宏様は、ご家族を説得なさって下さい。――あの方も」
「任せて下さい」
忠宏はうなずいた。
ふたりが建物に戻ると、葵はすぐに帰り支度を始めた。通りかかった礼子が、眉をひそめて話しかけてきた。
「あら、もうお帰りになるの? ゆっくりしていらっしゃればよろしいのに」
「家のほうから連絡がありまして。父が風邪で体調を崩《くず》しましたので、急に帰らなければならなくなりましたの。申し訳ございません」
しれっとして、葵は答えた。
「それに、忠宏様とはもう、結婚のお約束を致しましたから」
「なんですって?」
礼子はショックを受けたようだった。ということは、橋での話は聴いていなかったのだろう、葵は心の中でうなずいた。
「ええ。たったひと晩でしたが、わたくしたち、すっかりうち解けましたのよ。ゆうべ、忠宏様がわたくしの寝室においでになって、それで……」
葵はうつむいて見せた。礼子が何を想像するかは明らかだった。
「あなたという人は、なんてふしだらな!」
礼子はきっ、となると、
「お母様! お母様?」
足早に一階へと向かった。
「思った通りだわ」
葵はつぶやいた。
おいとまを告げるために摂子の部屋へ行くと、汚らわしいものでも見るような目で、摂子が葵をにらんだ。
「礼子さんから話は聴きました」
冷たい声で摂子は言った。
「あなたには、恥じらいというものがないのですか?」
礼子の話を信じ込んでいるらしい。やはり……葵は心の中でうなずいた。
「恥じらいは、ございますわ」
葵は微笑んでみせた。
「ですが、お母様」
「あなたに『お母様』などと呼ばれる筋合いはありません!」
畳の上に置かれた煙草《たばこ》盆《ぼん》を、摂子はきせるで叩《たた》いた。葵はまったく動じずに、摂子の目をまっすぐに見た。
「わたくしには、それに勝る情熱がございます。忠宏様にも。それが、何より大切なことかと存じますが」
「大道寺家の花嫁に、情熱など必要ありません。家を守るために、当主の嫁を迎えるのです。そのぐらいは、分かっていると思っていたのに」
「なんとおっしゃられても、忠宏様のお気持ちは変わらないと、わたくしは信じておりますわ。……では、ごきげんうるわしゅう」
葵は立ち上がった。背中に摂子の視線が突き刺さるようだった。
忠宏がどうやって母親を説得したのか、葵は知らない。間もなく正式な使者が海堂家を訪れ、葵を花嫁として迎えたい意向を告げた。
それから先は、結納《ゆいのう》が無事《ぶじ》に済み、忠宏と葵は休日に海堂家で会って、式について相談する――ふりをして、海堂も交えて作戦を練った。
「あとは、忠宏様がこのお式を、お母様方に納得させるだけですわ」
葵が言うと、忠宏は胸を張った。
「任せて下さい。母も姉も、最後は当主の私には逆らえないのです。ですが――」
忠宏は心配そうな顔になった。
「葵さん、海堂先輩。本当に、これでいいのでしょうか。もし失敗したら、海堂先輩の名前にも傷が付くかと……」
「私のことなら、案ずるな」
海堂が冷静に答えた。
「公の捜査ではない。それに、部下の身の上に気を配るのも私の仕事だ」
「ありがとうございます」
葵と忠宏は、頭を下げた。
そうだ。御主人様のためにも、この任務は成功させなければならないのだ。葵は思った。
披露宴《ひろうえん》という、任務を。
都内の一流ホテルの中にある神社で、葵と忠宏は結婚式を挙げた。
披露宴は二回に分けて行なう、というのが忠宏の提案だった。実際には、葵が言い出したのだが。
まず最初に親族と忠宏の同僚たち、葵の友人たちを招いて、内々の――といっても二百人ぐらいだ――披露宴を行なう。警察庁の人間は忙しいので、日曜の夜に時間を設定した。そして日を改めて、大安吉日に大道寺家ゆかりの者、葵の側の家の者が集まって、華々《はなばな》しく正式な披露宴を執《と》り行《おこ》なう、ということになっていた。
式が終わると、葵は控え室でウエディングドレスに着替えた。
今まで結婚など考えたこともなかったが、ホテル専属のスタッフに化粧をしてもらい、純白のウエディングドレスに身を包むと、なんとも言えない気持ちの高ぶりを感じた。世の中の花嫁の気持ちが分かるような気がした。
控え室のドアがノックされて、黒のモーニングを着た海堂と、白いモーニングの忠宏が入ってきた。その場にいるスタッフを全く気にせず、海堂が話しかけてきた。
「どうだ。花嫁になった気分は」
「すてきです」
葵は、笑って答えた。そしてこちらもスタッフを気にせずに、訊ねた。
「御主人様。ご準備は?」
「抜かりのある私だと思っているのか」
「いいえ、とんでもありません。ただ、チャンスは一度きりかもしれませんから」
「そうでしょうか」
忠宏が言った。
「葵さんが、結婚して家に入れば、いくらでも殺す機会はあるでしょう」
「そうですね」
葵は笑った。
「ですが、忠宏様。できれば今日、片をつけてしまいたいのです。わたくしは海堂家のメイド。いつまでも大道寺のお宅にいるわけには参りません。放っておいては銅の食器が曇ってしまいます」
「そうでしたね」
忠宏は反省したような顔をした。
「ご厚意に甘えてしまいました。許して下さい」
「厚意などではない」
海堂が無表情に答えた。
「これは私が扱うべき事件だ。だからこそ、早期に片づけたいのだ。今まで三人ものうら若い女性を、むざむざ死なせてしまったのは、君の上司たる私の責任でもある。災いの根は、しっかり断たなければな。――頼むぞ」
「はい」
葵と忠宏は、頭を下げた。
それから忠宏は、気がついたように、葵のウエディングドレス姿を見つめた。
「きれいです、葵さん」
「恐縮です」
葵ははにかんで、そして顔を上げ、忠宏を見つめ返した。
「今日一日は、わたくしはあなたの花嫁です。ですが、事件が片づいたら、今度こそすてきなお嫁さんをもらって下さい」
「ありがとう」
心のこもった声で、忠宏は答えた。
その目が、やはりやや熱っぽいように見えたのが、葵には気になったのだが――。
披露宴の会場では、丸テーブルに、さまざまに着飾った男女が向かい合っていた。忠宏の大学時代の友人や、警察庁の同僚もいる。新婦側の友人席は、ほとんどが若い女性なので、会場は華やかなふんいきに包まれていた。
司会者は、警察庁の広報担当者だった。エレクトーンの演奏が止むと、せき払いをして、張りのある声で一同に告げた。
「それでは、新郎新婦のご入場です」
スポットライトが会場の入り口に当てられた。
腕を組んだ葵と忠宏が、ゆっくりと入ってきた。
「皆さま、拍手でお迎え下さい」
みんなが盛んに拍手し、口々におめでとうと声をかけた。口笛を吹く者までいた。
壇上《だんじょう》に昇り、着席すると、葵は近くのテーブルを見た。新郎の親族席では、摂子と礼子が苦虫《にがむし》をかみつぶしたような表情で、そっぽを向いている。沙織はただうつむいているだけだった。
新婦の親族席では年老いた新婦の両親が、着物姿で葵を見守っていた。葵はそちらに、ちらりと目くばせした。
司会者が開宴を告げた。
「ただいまより、大道寺様、若槻様、ご両家の結婚披露宴を執り行ないます。わたくしは本日の司会進行を務めさせていただきます、新郎の勤め先、警察庁の広報を担当しております井出光雄《いでみつお》と申します。不慣れではございますが、皆さま方のお力添《ちからぞ》えをいただきながら、精いっぱい、本日の大役を果たしたいと存じます。皆さま、どうぞよろしくお願い致します」
拍手がわいた。「よっ、イデミツ」と声をかけるお調子者もいた。
「それでは、本日の御媒酌人《ごばいしゃくにん》、堂本博《どうもとひろし》様、靖子《やすこ》様ご夫妻をご紹介致します。堂本様は、新郎の勤めます警察庁を監督ご指導下さる、国家公安委員長を勤めていらっしゃいます。国務大臣の堂本様にご媒酌の労をお執りいただき、わたくし共も恐縮の極みでございます」
政治家風情が何を、という顔を摂子がした。
「では堂本様、ご挨拶をよろしくお願い致します」
言われて、マイクの前に堂本が立った。中年の渋い紳士だ。
「忠宏君、葵さん、ご結婚おめでとう。忠宏君の勤める警察庁は、全国警察のトップとして、監督調整を行なう、重要な機関です。国家の治安のために、これからも、がんばっていただきたい。そのためには、内助の功が必要となるでしょう。葵さん、忠宏君を陰になり日向《ひなた》になり、助けていただきたい。……はなはだ簡単ですが、ご挨拶に代えさせていただきます」
堂本は、大道寺家についてはひと言も触れなかった。摂子の眉がますます上がった。
「ですから、このような披露宴には出たくなかったのです」
摂子は礼子に、辺りに聴こえてもかまわないといった声で話しかけた。
「大臣大臣と言っても、しょせんは平民ではありませんか。失礼にも程がありますよ」
「おっしゃる通りですわ、お母様」
礼子は、手に持った扇子をぱたぱたさせた。
「ここは空気が悪いわね。外へでも出てきましょうか」
「そういうわけには参りませんわ」
沙織が控えめに言った。
「どうか、ご辛抱なさって下さい。おめでたい席ですから」
「しょせんは仮祝言《かりしゅうげん》、いえ、ただのパーティーです」
摂子は言い放ったが、さすがに席を立つほど不作法ではなかった。
「ここで、新郎側の主賓、海堂俊昭様をご紹介いたします。海堂様は名家のお生まれで、二十九歳の若さで警察庁長官になられました、我々警察庁一同の誇りでございます。それでは海堂様、お願い致します」
司会者の声に応じて、海堂がマイクの前に立った。冷静な表情で、会場を見回す。
「海堂です」
氷のように冷たい声が、会場に響《ひび》き渡《わた》った。
「このような舞台に立つのは、役不足というものです」
礼子がくすくす笑った。
「あのお坊ちゃん、言葉遣いも知らないのかしら」
よく取り違えられるが、『役不足』とは、能力に対して役目が軽すぎること、という意味だ。『力不足』とまちがえたと礼子は思ったらしい。だが、海堂は続けた。
「なぜなら、これは本物の披露宴ではない」
「その通りだわ」
摂子が吐き捨てるように言った。
「ここには、披露宴にふさわしくない人物がいる。その人物は、忠宏君の花嫁候補、三人を事故死に見せかけて殺害し、今もすました顔をして、新婦の葵を狙っている」
海堂の言葉に、摂子も礼子も、そして沙織もぎょっとした顔になった。
「だが、先ほど親族の皆さんの前で、ふたりは挙式を執り行なった。もう、ふたりを引き離すことはできない。これから先、殺すのでなければね。――我々は、すでに犯人を知っている。それを捕らえるために、披露宴を開いたのだ。覚悟したまえ」
海堂と、会場の客の目が、いっせいにある一点に向けられた。摂子たちのいるテーブルだ。摂子と礼子は、驚いたように立ち上がった。
「なんのつもりです。無礼ですよ」
摂子が叱りつけた。海堂は唇を真一文字に結んで、何も言わなかった。
うつむいて座っていた沙織が、ふいに席を蹴って立ち上がった。ハンドバッグの中から、拳銃を取り出し、壇上の葵に銃口を向けた。
「あなたなんかに、忠宏様を渡しはしないわ!」
銃声が響いた。そのとき、会場が真っ暗になった。
摂子たちが、そして沙織もとまどって、辺りを見回している。
どこからともなく、白い霧のようなものが流れてきた。ドライアイスの煙ではない。
それが晴れたとき――。
壇上に、スポットライトが当たった。そちらを振り向いて、沙織は驚いた顔になった。
葵がいた席のところに、白木の太い棒杭《ぼうくい》が立っていた。その表には、墨で文字がしたためてあった。
『この先 冥途《めいど》』
「あれは……」
礼子が、ショックを受けたまま、つぶやいた。
「メイドの一里塚……」
「何を、バカなことを言っているのです!」
摂子が叱りつけた。
杭の上には、ウエディングドレスになぜか丸い眼鏡をかけた葵が立っていた。その左手にはクイックルワイパーが握られている。
「沙織さん」
優しい声で、葵は呼びかけた。
「あなたは、忠宏様を愛していらっしゃったのですね。ずっと前から」
拳銃を握りしめたままの沙織は、何も言わなかった。
「心根の優しい――いいえ、弱いあなたは、忠宏様に思いを告げられずにいた。ご自分の身分もあったことでしょうね。大道寺家は侯爵、椿家は子爵。親戚筋とはいえ、身分も、そして気位も高い摂子様や礼子様に、思いを打ち明けたとして、快く聴き入れてもらえるとは思えなかったのでしょう。ですが、それだからと言って、三人もの花嫁候補を殺し、平気でいられるのですか? 同じように忠宏様に惹かれた娘さんたちの気持ちが、お分かりにならないのですか? 家や身分がどうあろうと、私は決して許しません」
「あなたに何が分かって?」
沙織は叫んだ。葵は、かすかに微笑んだ。
「たしかにわたくしは、一介のメイド。しかも、まだ十七です。男女の愛のなんたるかを知っているとは申せません。しかし――」
葵はウエディングドレスをかなぐり捨てた。摂子たちはあっ、となった。葵は、黒いメイド服を着ていたのだ。
そのまま飛びおりた葵は、ふんわりと着地して、沙織に向き直った。
「誰が呼んだか存じませんが、わたくしはメイド刑事。あなたに罪を重ねさせないのが、務めでございます」
「メイド刑事?」
沙織が眉をひそめる。葵は襟の飾りボタンを外し、開いて見せた。沙織が、そして摂子と礼子が目を見開いた。
「それは、桜の代紋《だいもん》!」
「その通りでございます」
「あなたは警察官なの?」
沙織が訊ねる。葵は首を振った。
「これは、かりそめの身分に過ぎません。ですがこの紋章《もんしょう》はわたくしの御主人様、海堂俊昭様からいただきました。わたくしへの、御主人様の信頼の証《あかし》なのです」
会場は、無気味なほどに静まり返っていた。
「忠宏様はおっしゃいました」
葵は、沙織に向かって言った。
「使用人に怪しい者はいない、と。忠宏様は優秀な警察官でいらっしゃいます。ただ念のため、海堂家の執事、朝倉さんにそれとなく聴き込みをしていただきました」
来客席で朝倉老人が立ち上がり、一礼した。
「大道寺様の使用人には、金に困っている者も、お宅に恨《うら》みを持つ者も、いませんでした。小間使いのお嬢さんも、忠宏様によこしまな気持ちは持っていません。……となれば、残るのは摂子様、礼子様、そして沙織様の三人でございます。摂子様と礼子様は、以前の詐欺事件におびえ、わたくしを忠宏様と結婚させて、閉じこめてしまおうと企んでいらっしゃいました。はしたないとは存じますが、お話はひそかに聴かせていただきました」
葵は頭を下げた。それが無礼なまねだととがめる気も、摂子と礼子からは、もはや失せているようだった。
「そうなれば、残ったのは沙織様でございます。わたくしはお庭の橋の上で、忠宏様と仲の良いところを見せつけてみました。そのときに、わたくしは気づいたのでございます。あの橋で話している声が一番よく聴こえるのは、沙織さんが暮らしていらっしゃる二階だ、と。一階は縁側と障子に隔てられて、あまり声は通りません。三人の娘さんも、あの橋の上で忠宏様と仲良く語らったことでございましょう。とても見晴らしの良い場所ですので」
沙織は黙ったままだった。
「その光景を見、声を聴いた沙織様のお心は、察するに余りあるものがございます。ですが、娘さんたちがお宅で心を開かれる相手と言えば、沙織様でしょう。物干し場に娘さんを呼び出すのも、お庭に誘い出して池へ頭を押し込むのも、そして、例えば何かをお召し物にこぼしてしまうか何かされて、夜中のお風呂へ入るよう勧めるのも、沙織様ならできることだ、そう考えるのが自然なのです」
葵は沙織をじっと見つめた。
その後ろから、忠宏が立ち上がって言った。
「沙織さん、どうして言ってくれなかったんだ。もし、打ち明けてくれていたら――」
「打ち明けたら、どうなったと言うの?」
沙織は、涙を浮かべていた。
「本家に当たる大道寺のおばさま方が、分家の出の私に、忠宏様との結婚を認めてくれるはずがないわ。違って? それに忠宏様は、わたくしのことなど眼中にもなかった。それはそうよ。しょせん私は、夕顔のようなはかなく目立たない花。庭の隅で、ひっそりしぼんでいくだけなのよ」
「そんなことはないよ」
忠宏は首を振った。
「ただ、あまりに近くにいたので、気づかなかっただけだ。『源氏物語』で私が最も好きなのは、夕顔なんだよ」
摂子と礼子は、言葉を失っているようだった。
「もう、遅いわ」
沙織は首を振った。
「私は殺人鬼よ。どうしたところで、あなたの花嫁にはなれない」
沙織はいきなり会場の中へ走り出すと、葵の友人席で一番か弱そうな女性を見つけ、拳銃を突きつけた。
「どうするつもりだ、沙織!」
忠宏が叫んだ。
「遠くへ行くわ」
うつろな声で、沙織は言った。
「誰も知らないどこか遠い田舎《いなか》の海辺で、あなたの思い出だけを胸にひっそりと生涯《しょうがい》を終えるのよ」
「あなたはまちがっていらっしゃいます」
葵が穏《おだ》やかに言った。
「罪を償《つぐな》えとおっしゃるの?」
沙織はきっ、となった。
「わたくしをここまで追い込んだのは、誰? 大道寺の伯母さま方や、忠宏さんじゃないの。身寄りをなくしたわたくしを、伯母さま方は、初めから恩着せがましく引き取って、二階に押しこめておいた。家族のひとり? とんでもない。いつも伯母さま方は、厄介者を見るような目でわたくしを見ていたわ。そのくせ食事だのお茶会だのには列席させる。それでいて外へは連れて行って下さらない。私はいつも留守番よ。……私の辛さが分かって? それを見ていながら、忠宏様は何も言わなかった。忠宏様、あなたもつまりは大道寺家のあやつり人形なのよ! だから私は復讐した。実印を持ち出して書類を作り、詐欺師に流してやったわ。でも、大道寺家に責めが及ぶことはなかった。私の悔しさが分かって?」
摂子たちがあっ、という顔になった。詐欺事件の首謀者《しゅぼうしゃ》が、激情のあまり、罪を告白してしまったのだ。
「わたくしが申し上げたいのは、そのことではございません」
しかし葵は冷静に答えた。
沙織は眉をひそめた。葵は続けた。
「この日本に、誰も知らない田舎の海辺など、どこにもない、ということでございます。日本には海上保安庁というものがあるのですよ。それに、警察も」
沙織はハッとしたようだったが、すぐに我に返って、拳銃を自分のこめかみにあてがおうとした。
その手をつかんだ者がいる。今の今まで拳銃を突きつけられていた、新婦側の友人の席の女性だった。女性は鮮やかな身のこなしで拳銃をもぎとり、たちまち床に沙織をねじ伏せた。
「あ、あなたは……?」
沙織は唖然《あぜん》としたようだった。
「警視庁捜査一課、杉野巡査部長《すぎのじゅんさぶちょう》です」
女性は、にっこりと笑った。
「弱い心をお持ちのあなたは、いちばん弱そうな女性に向かうかもしれない、とうすうす思っておりました」
葵は言った。
「ですが杉野巡査部長は、警視庁の合気道部で一番の手練《てだ》れなのです。全国大会で優勝したこともあるのですよ」
沙織はしかし、杉野の手を振り払って立ち上がった。
「あなたのお友だちが、まさかみんな警察官だとおっしゃるのではないでしょうね」
沙織の言葉に、葵は首を振った。
「わたくしが友だちと呼べるのは、この世にただひとり。ですが、今日は来ておりません。ここにおいでの方々は――」
葵が見回すと、会場の客、二百人がいっせいに立ち上がった。
「すべて警察庁と、応援に来て下さった警視庁の皆さんです。国家公安委員長に扮《ふん》したのは、事務方《じむかた》のベテラン。わたくしの友人は、みな婦人警官です。式場のスタッフも、ホテルに話して警官に代わっていただきました」
会場の壁ぎわにいたスタッフも、沙織を見つめていた。花嫁の控え室で葵がスタッフを気にせずに話せたのは、事情を知っている警官だからだったのだ。
「皆さん、拳銃もお持ちです。華族の世ではないとはいえ、あなたも子爵令嬢《れいじょう》。往生際《おうじょうぎわ》は潔《いさぎよ》くなさいませ」
葵は一礼した。
沙織は、がっくりと膝をついた。その両腕を、ふたりの女性刑事がつかんで立たせた。
会場の外へと連れて行かれようとする沙織に、壇上から忠宏が声をかけた。
「沙織さん」
沙織は振り向いた。その表情は、虚《むな》しさに充ちていた。
忠宏は微笑んだ。
「私は、あなたを待ちます。あなたの思いを知った以上、そして、あなたがその思いのために罪を犯した以上、その罪は、私の罪でもある。私は、あなたと一緒に償わなければならない。三人の娘さんたちにも、そして、あなた自身にも。……何十年でも、待っています。それが、私の償いです」
沙織の目から、涙があふれた。
だが何も言わず、沙織はおとなしく歩き出した。その沙織に葵は小走りに駆け寄ると、レースのハンカチで包んだ小さな包みを手渡した。
「これは?」
「メイドの土産《みやげ》でございます」
沙織はうっすらと微笑み返すと、ひと言、つぶやいた。
「あなたのほうが、よほど忠宏様にはふさわしいわ」
そのまま沙織は、外へと連れて行かれた。
「あんな女を、家に置いていたなんて……」
いまいましそうに、摂子が言った。
「おまけに、詐欺の手伝いまでしたなどと。なんて汚らわしい。許せませんわ」
礼子がうなずく。
そのふたりに葵は近づき、にこやかに微笑んだ。
「まだ忠宏さんに取り入ろうと言うつもり? メイドの分際《ぶんざい》で」
汚いものを見るような目で、摂子がにらんだ。
「いいえ。この披露宴はわたくしのお役目を果たすための、かりそめのものにすぎません。忠宏様と結婚するつもりなど、最初からございませんでした。それに――」
葵は言葉を切って、うつむいた。眼鏡を床に落として、結い上げた髪をほどいた。
顔を上げると、黒髪がなびいた。きりりとした顔を見せて、葵は怒りに燃えた目で摂子と礼子をにらみつけ、腹の底から声を出して怒鳴りつけた。たとえ相手が犯罪者ではなくても、葵の怒りは変わらなかった。
「何が侯爵様だ? え? そんなものはなあ、何十年も前にチャラになってるんだ! まして大名なんて歴史の教科書に出てくりゃいいんだよ。平成の世の中に出てきたら、そいつは亡霊っていうんだ。よく覚えとけ! そんなものにしがみついてるおかげで、何人、人が死んだと思ってるんだ! 悔しいけどね、今の日本にゃあんたらを裁く法律はない。だがな、本当の罪人はあんたらなんだ。くだらないプライドで人の魂《たましい》踏みにじったあんたらが、罪を償わなきゃならないんだ! それがまだ分からねえような奴は、あたしが許さない!」
葵はクイックルワイパーの柄の真ん中を持ち、空中で一回転させた。
唖然としていた摂子と礼子は、ぎょっとした。ふたりの髪留めが飛ばされ、結い上げた髪がどうやったのか解かれて、長い髪がだらしなく伸びて乱れたのだ。
「わ、私たちをおどすつもりなの?」
「まさか、週刊誌にでも……」
口々に言うふたりに、葵は顔をそむけた。
「人をチクるなんて、それこそ汚らわしいってもんだ。あんたらと同じとこまで堕《お》ちる気はないね。だがな、秘密ってやつは、いつかはばれるもんだ。それにおびえて残りの一生、暮らすがいいや」
そして、立ち尽くしている忠宏に一礼すると、葵は会場を後にした。
胸は虚しさでいっぱいだった。葵はたしかに事件を解決した。だが、誰が救われただろう。沙織が簡単に、刑務所から出てこられるとは思えなかった。そしてあの母と娘は、葵がいくら言っても懲《こ》りるとはとうてい思えない。
ただ一つ、救いがあるとすれば、忠宏の言葉だった。
「忠宏様。あなたは沙織様を裏切らないと、信じております」
葵はつぶやいた。
ホテルの前に、朝倉老人の運転する車が停まっていた。葵の両親に扮した坪内夫妻も乗っている。海堂もだ。
葵は、黙って乗り込んだ。
車は静かに走り出した。
しばらく経って、海堂が口を開いた。
「葵」
「……はい」
「私は昔、テレビのドラマを見たことがある」
「旦那《だんな》様が?」
葵は思わず驚いた。海堂家で、使用人の部屋以外にテレビがあるという話は聴いたことがない。海堂はニュースさえ見ないのだった。
「私がテレビを見てはおかしいか」
「い、いいえ」
葵は曖昧にうなずいたが、海堂は平然と続けた。
「その中で、探偵がこう言った。『弱きを憎め』。その言葉が、子どもながらも私の心に残っていた」
「弱きを、憎め……」
葵はつぶやいた。
「犯罪とは、悪人だけが起こすものではない。そもそも人間が、善人、悪人とはっきり分けられるものかどうかは、哲学者でも答が出せないだろう。だが、心の弱い者は、あやまった道を選んでしまうのだ。かつてのお前が道を踏み外してレディースになったようにな。だから、弱さ故のあやまちを許してはならない。私は、この言葉をそのように解釈した」
「……はい」
「あの娘は、優しい娘だ。だが、心が弱かった。だから罪を重ねてしまったのだ。人を憎むのではなく、その弱さを憎むことを肝《きも》に銘《めい》じていれば、お前の任務は決して虚しいものにはならない。違うか」
葵は考えてみた。たしかに御主人様の言うとおりだ。葵が立ち向かわなければならないのは、人の心の弱さなのだ。葵自身も信じているではないか。自分の幸せは自分でつかまなければならない、と。
「おっしゃる通りでございます」
葵は、頭を下げた。
「椿沙織には、財産がない」
海堂はなおも言った。
「身よりもなく、わずかな遺産はあの親子が吸い上げてしまったのだ」
葵は再び、怒りがこみ上げるのを覚えた。
「では、裁判はどうやって?」
「国選弁護人をつけることになる。とびきり腕利《うでき》きの弁護人が担当するよう、手を打っておいた。『最後の弁護人』と異名をとる奴でな、癖《くせ》はあるが、あくまで真実を明るみに出す強い意志を持った男だ。奴なら、大道寺家に巣くった闇を、白日《はくじつ》の下《もと》にさらけ出すだろう」
それを聴いて、葵の心が少し軽くなるような気がした。摂子も礼子も、無傷ではいられないのだ。
「信じております、御主人様」
葵は頭を下げた。
屋敷に戻り、部屋へ帰った葵は、MP3プレイヤーを取り出し、ヘッドフォンを耳にかけた。中森明菜の『トワイライト』が、もの悲しく流れてくる。
「沙織様。あなたは黄昏《たそがれ》に咲く、夕顔そのままの方でした」
葵はつぶやき、眠りに落ちた。
数日後の午前中、葵は主寝室に呼ばれた。
すでに葵は事件から立ち直り、家事に励《はげ》んでいた。部屋を掃除し、食器やドアノブを磨き、洗濯をする。家事に専念していると、大道寺家でしみこんだ汚れを洗い落とせるような気がした。そんな仕事の最中に、海堂に呼ばれたのだ。葵は不思議に思った。午前中は、メイドにとって一番忙しい時間だ。そんなときに、今度はなんの用事だろう。
海堂は、あいかわらずベッドで上半身を起こしている。だが、気のせいかやや落ちつかないように見えた。
「御主人様。どうかなさいましたか?」
葵が訊ねると、海堂らしくない、困惑したような声で言った。
「大道寺家から手紙が来た。摂子夫人が書いたものだ」
「まあ。なんと?」
「それが――」
海堂が言いにくそうに言った。
「お前を正式に、嫁に迎えたいと言うのだ」
葵はびっくりした。目の前でタンカを切って、おどしまでかけたというのに。
「あのときのお前の振る舞いで、目が醒めた、と言っている。お前の強さ、身分にも何にも負けない、正義を愛する心は、これからの大道寺家に必要なものだ、とな。そのためなら頭も下げる、家のことはすべてお前に任せる、そう言っている」
「忠宏様は、なんと?」
「もちろん、沙織を待っている、と。一時はお前に惹かれたらしいが、お前のおかげで目が醒めたそうだ。さっき電話で聴いたところだ。沙織はまだ拘留中《こうりゅうちゅう》だが、面会にもよく行っている、と報告を受けている」
「それなら、旦那様がお困りになることはございませんわ」
葵は笑って答えた。
「男女のことは、ご本人同士のお気持ちが一番かと存じます。それに――」
葵は、凛とした表情になった。
「わたくしは、海堂家のメイドでございます」
「だが、断わり状を書くのは私なのだぞ」
海堂の言葉に、葵はハッとした。そうだ。見合いの申し込みは御主人様が受けたのだから、返事を書くのも御主人様その人なのだ。
「あの……朝倉さんに頼まれてはいかがでしょう。慣れていらっしゃるでしょうし」
言うと、海堂はわずかに安心したような表情になった。
「そうだな。朝倉を呼んでくれ」
「はいっ」
寝室を出て朝倉の部屋に向かいながら、葵はくすりと笑った。いつもは氷の表情を崩さない御主人様が、あれでも思いっきりあたふたしているのが、なんだか楽しかったのだ。
しかも、葵のために。
それだけで、葵には充分だった。
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第6話 悲しき同窓会! 葵《あおい》の王子様
海堂《かいどう》家では、家にいるときの御主人様には、午後の四時ごろにアフタヌーン・ティーをお出しすることになっている。葵が淹れたミルクティーに坪内《つぼうち》夫人の焼いたベーグルというメニューが主だ。ときには、レモンティーにサーモン・ベーグルの場合もある。英国では紅茶といえばミルクティーだが、それにこだわる海堂ではなかった。葵も、それでいいと思う。ここは日本なのだから。
いつもは主寝室で時間を過ごす海堂俊昭《としあき》も、このときだけは、サンルームで午後の陽差しを浴びながら、坪内弥助《やすけ》氏が丹精込めて育てた庭の花を眺《なが》めて、物思いにふける。
九月半ばの日曜日。葵がいつも通り、四時ちょうどにアフタヌーン・ティーを運んでいくと、上品なルームウェアをまとってアームチェアにもたれた海堂の後ろ姿が見えた。もうセミも鳴いてはいない。サンルームは陽差しに暖められて、静かだった。
「お茶でございます」
葵はトレイを海堂の左側から、そっと白いテーブルの上に置いた。テーブルの上には、開かれた封筒があった。
一礼して引き下がろうとすると、海堂が声をかけた。
「葵」
「なんでございましょう」
「そこに座れ。話がある」
「ですが、御主人様……」
「この私が、座れと言っているのだ」
葵は言われるままに、ためらいがちに海堂の右側にあるアームチェアに腰を下ろした。
「昨日、お前に手紙が来た」
この辺《あた》りでは、郵便は午後の二時ごろに配達される。朝倉《あさくら》老人が取り込んで、それぞれに配る。しかし葵は奇妙に思った。この何年か、国家特種メイドが所属するJAMの会報か、ダイレクトメールの類ぐらいしか、手紙をもらったことがない。天涯孤独《てんがいこどく》で友人もほとんどいない葵に、手紙をくれる人はいなかった。
「理由があって、先に読ませてもらった。悪く思うな」
いくら使用人と言えども、他人の手紙を勝手に読む御主人様ではない。よほどのわけがあるのだろう。葵は気を悪くはしなかった。だが、なぜか胸騒ぎがした。
「なんのお手紙でございましょう」
海堂は、かすかなため息をつき、少し間を置いて、言った。
「同窓会の案内だ。お前の中学のな」
その言葉に、葵は心臓をぎゅっ、とつかまれたような気持ちになった。
「それでしたら破り捨てて下さいませ。わたくしも、聴かなかったことにいたします。清瀬七中は、わたくしの『母校』などではございません」
葵は無理をして、落ちついた態度をとろうとした。
大手企業の経理課長だった葵の父が、会社の不正経理の罪をかぶせられ、自殺に見せかけて殺された後、絶望した母が後を追い、葵はひとりぼっちになった。小学校四年生のときである。都心のマンションに住んでいた葵は、清瀬市に住む叔母の家に引き取られた。
清瀬は都心からずいぶん離れていて、初めのうち、葵が不正経理事件の『犯人』の娘であることには誰も気づかなかった。叔母も親切な人だった。葵は子ども心に、自分は生まれ変わったのだと思うことにして、明るい生活を送るよう努めた。
だが、忘れもしない、清瀬市立第七中学校に入学したとき、クラスメイトの女子がいきなりみんなの前で葵を指差して言ったのだ。
『あんたの父親って、汚職《おしょく》で自殺したんだって? それも何十億も横領《おうりょう》して』
その日から、その女子を中心に、葵への執拗《しつよう》ないじめが始まった。温厚な両親に何不自由なく育てられた葵には耐えられるはずもなく、何度となく自殺まで考えた。
その葵を拾ってくれたのが、レディース『清瀬チーム』の頭《ヘッド》だった。葵を犯罪者の娘としてではなく、世間からつまはじきにされたはぐれ鳥としてかばってくれた頭に葵は心を開き、気がつくと清瀬チームの後を継ぎ、中学二年の頃には関東のレディース三千人をシメる連合の総長にまでなっていた。当然、学校は欠席続きだった。
そんな葵をタイマン勝負で破り、この屋敷でメイドの修行をさせたのが海堂である。海堂の力で葵は中学卒業ということにしてもらい、国家特種メイド資格を取るまでに至った。だが、もう、中学のことなど思い出したくもない。
「わたくしは生まれ変わったのです。その手紙は、赤の他人に来たものです」
「お前ならそう言うと思った。だが、そうはいかんのだ」
海堂は身を乗り出し、葵の目を見つめた。いつも氷のように冷たい海堂の視線が、鋭い針となって葵を貫《つらぬ》くようだった。
「お前をレディースから引退させたとき、私はお前に約束した。私が警察庁長官になったら、お前の父親の事件を解き明かしてみせる、と」
当時、海堂は東京の西部を統括する警視庁第八方面本部長だった。父親が亡くなったのは都心だ。いくらキャリアといえども、所轄《しょかつ》の違う事件を調べることはできない。
「そのことなら、もう、お忘れ下さい」
葵は、体が内側から冷たくなっていくように感じながら、答えた。
「今のわたくしは、充分に幸せでございます。父の汚名をすすぎたい、そう考えていたこともありました。ですが、もう充分に時が経ちました。御主人様にお仕えして、メイドとして一人前になることが、今のわたくしの夢です。それ以外のことは考えたくありません」
「お前がかまわなくても、私は見過ごすわけにはいかない」
海堂の言葉に、葵は思わずきっ、となった。
「警察の面子《めんつ》のためでございますか? それなら御主人様は、何をして下さったとおっしゃるのですか? わたくしがお屋敷に引き取られて三年、事件のお話はひと言もうかがったことはございません」
「私が面子などというものを気にするような、くだらぬ人間だと思うか」
海堂の声は冷静だった。葵はハッとした。
「申しわけございません。口が過ぎました」
「二年前、私は警察庁長官に就任し、刑事部に特捜班《とくそうはん》を作った」
海堂は淡々と言った。
「知っての通り、特捜班は所轄を越えて、捜査の権限を持っている。お前もよく知っている梶警視正《かじけいしせい》が、渋る警視庁をつついて、事件の調書と資料を取り寄せてくれた」
「梶さんが?」
「奴は切れ者だ。そのことは、お前も知っているだろう」
葵はうなずいた。日本の警察は各自治体ごとに分かれて捜査を行なっているが、その連携プレイだけでは解決できない難事件を、捜査、解決しているのが、警察庁特捜班だ。特捜班を束ねる梶警視正は、冴えない中年男のように見えて、人一倍優秀な刑事だった。
「調書を読んでいるうちに、私はある疑問に突き当たった。だが、証拠がない。事実を確かめる機会を、私はうかがっていたのだ」
「それと同窓会と、どういう関係があるのですか?」
葵にはまだ、話の流れが分からなかった。
「お前を犯罪者の娘呼ばわりして、いじめた娘の名を覚えているか」
「忘れたくても忘れられません。速水亜子《はやみあこ》。建設会社社長のひとり娘でした」
思い出したくない顔が、頭に浮かんだ。速水亜子。見た目は上品そうな、だが全身に毒のとげをまとい、葵の頭をつかんでトイレの便器に顔を押し込めた娘だ。
「お前を屋敷に引き取ってすぐ、私はお前から中学での話を聴いた」
たしかに葵は四年前、海堂に食ってかかるような態度ですっかり身の上を話した。警察官などみな同じ、信じられない、と思っていたのだ。父の死を自殺で片づけてしまったのは警察だ。不正経理の濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》も、警察にうやむやにされてしまった。当時の葵はそう思っていた。
「速水亜子がお前に吐いた言葉の数々も、私は昨日のことのように思い出せる。お前は亜子がこう言った、と私に告げたはずだ。『あなたの父親って、本社ビルから飛びおりたのよね。ごていねいに、遺書を靴の下に置いて。重しのつもりじゃないんでしょう? 自分は踏みつけにされた、ってあてつけのつもりに決まっているわ』。違っていたら、そう言うがいい」
「どこも違ってはいません。その通りでございます」
葵の心に、忘れていた怒りがわき上がってきた。亜子は、父の最後の叫びさえ、いじめの種にしたのだ。あてつけ? 父がそんなことをするはずはない。それに遺書は、自らの汚職を告白するものだった。葵は偽造《ぎぞう》だと信じているが、自筆だ、と鑑定されたのだった。
「そこなのだ。私が引っかかったのは」
「どこでございましょう?」
「たしかにお前の父親は、その通りのようすで亡くなった。だが、葵。遺書が靴の下にあったことなど、警察は公表してはいないのだ。梶はマスコミをしらみつぶしに当たって、当時の報道についても調べ上げたが、どこにもそのことは報道されてはいない。遺書があった、漠然《ばくぜん》とそれだけしか報じられていないのだ」
葵は唖然《あぜん》とした。そんな……。
「警視庁の担当者以外は誰も知らない事実を、なぜ縁もゆかりもない、一介の中学生の速水亜子が知っていたのか。おかしいとは思わぬか」
「ですが御主人様、亜子の想像かもしれません」
「違うな」
海堂は首を振った。
「飛び降りるときに靴を脱ぐ習慣は、古いものだ。特に若い者は、自殺するのに靴など脱がない。つまり年の若い速水亜子が、靴を脱いで自殺したなどと想像する根拠がないのだ。……彼女は文学少女だったか?」
「いいえ。本を読んでいるところなど、見たことがございません」
「ならば、古い文学作品などから推測した可能性も薄い。私はこう考えた。速水亜子は、自殺のようすを詳しく知っている人間、あるいはその人間から人づてに、事件の詳細を聴かされていたのではないか、とな」
葵は言葉も出なかった。
「それなら、中学に入ってお前がいきなり名指しされた理由も分かる。お前は叔母の養女となり、姓も若槻《わかつき》に変わった。これも梶が調べたが、当時、インターネットなども含めてお前の素性が一般に漏《も》れた形跡はない。速水亜子はそもそもお前が何者なのかなど、知るはずもないのだ。家の業種も違い、お前の父親の会社と取り引きもなかったのだからな」
「それでは、亜子は父の死について、何かを知っていたのでしょうか?」
だったらなぜ、教えてくれなかったの! 葵は叫びだしたい気持ちだった。
「その可能性は捨てきれない。……お前の父親を死に追いやった背後には、大きな力が働いている」
海堂はなおも言った。
「事件はあくまで事故として処理されていた。だが梶の調べでは、警視庁に働きかけた何者かがいたようなのだ」
「何者か?」
「当時の警視総監は事件の後に退任し、さる大会社の相談役として幅を利《き》かせている。その警視総監に直接圧力がかかったと思われるのだ。天下りをあっせんしたのは、その見返りだったのかもしれん。その方面は私が調べるが、あくまで慎重に行なわねばならない。口封じをされてはかなわぬからな。まだまだ時間がかかりそうだ。それに、気を悪くするかもしれないが、警察庁特捜班には抱えている難事件がいくつもあるのだ」
「いいえ。今も調べて下さっているというだけで、充分にありがたく存じます」
葵は頭を下げた。
「そこでお前には、速水亜子の身辺を探ってもらいたい。昨日から考えていたのだが、同窓会をきっかけに、速水家にもぐり込むことができるかもしれん。どうだ? お前の気が進まないのなら、この招待状は破り捨てるが」
葵は首を振った。怒りで体が震えそうだった。許せない。この任務だけは、自分の手で遂行しなければ気がすまなかった。
「いいえ、参ります。御主人様が、十四の私の訴えをまともに受け取り、あのときおっしゃっった約束を果たして下さろうとしているのに、当事者であるわたくしが、事件のことはもういい、などと言うのでは、正義は果たせません。放っておけば、また、わたくしのような犠牲者が生まれることでしょう。……これは、わたくしひとりの問題ではない、と今悟りました。どのような扱いを受けても、速水亜子の家に潜入してみせます」
「葵。礼を言うぞ」
「めっそうもございません。わたくしこそ、ありがとうございます」
葵は、深々と頭を下げた。
「となれば、衣装がいるな」
海堂はガラスの小さなベルを鳴らした。
「同窓会に着ていくようなものなど、お前は持っているまい。正装で、とあるからな」
「はい。ですが、蓄《たくわ》えがございますので、何か買って参ります」
「そうはいかん。速水亜子は、お前のことなどとうに忘れているかもしれん。再び彼女に、お前への敵意をかき立てさせるのだ」
敵意を? どうやって?
間もなく朝倉老人が入ってきた。
「お呼びでございましょうか」
「大道寺《だいどうじ》家の事件のときに、作っておいたイブニングドレスがあったな」
そう言えば、いざというときのためにドレスを作っておいたのだった。実際には使わなかったので、見てはいないのだが。
「あれを出してくれ。――母の持ち物で、そうだな、ダイヤのペンダントはなかったか」
海堂の両親はすでに亡くなっているが、持ち物は遺《のこ》されていた。
「手頃なものでしたら、五カラットのものと、三カラットのピンクダイヤがございますが」
海堂はうなずいた。
「五カラットのほうを。指輪も、ダイヤを見つくろってくれ。イヤリングなど、細かいことはお前に任せる」
「葵さんに、お貸しになるので?」
「いけないか」
「いいえ。よくお似合いでございましょう」
朝倉老人は笑顔で応えると、サンルームを出て行った。
「御主人様。お母様の形見まで、お借りするわけには参りません」
葵の言葉に、海堂は首を振った。
「宝石は、人に見られてこそ美しくなるものだ。それに、お前の、そう……人生を取り返すためなら、母は喜んで貸してくれるだろう」
そう言われると、言葉はなかった。
間もなく朝倉老人が持ってきたものを見て、葵は目を見開いた。イブニングドレスは、サファイアのような深い青に細かなダイヤをちりばめた、とても派手なもので、脇も襟《えり》も、胸もとまで大きく開いている。これを着るにはいつものスポーツブラというわけにはいくまい。いくらなんでも大胆すぎる。それに、あまりにぜいたくだ。
「御主人様。たかだか同窓会でございます。それに、わたくしは十七です」
困惑して葵が言うと、朝倉老人が微笑《ほほえ》んだ。
「話は御主人様からうかがっております。たかが同窓会なればこそ、でございますよ。相手は聴くところでは成金社長の娘。同窓会にも、派手な衣装でおいでになることでしょう。ですがこちらはその上を行くのです。これだけのお衣装は、そう簡単に用意はできません。何しろドレスだけでも――」
朝倉は、葵に耳打ちした。葵はぎょっとした。
「そんなにするものだったのですか?」
「金の話を、私の前でするな」
海堂が眉《まゆ》をひそめた。
「これは失礼致しました」
「問題は、着こなしだ。立《た》ち居振《いふ》る舞《ま》いは、この前よく教わったな」
「はい、それは……」
「ご自分がメイドだ、とは思わないことです」
朝倉老人がにこやかに言った。
「あなたは海堂家を代表する貴婦人なのです。そのように振る舞いなさい。先様に敗北感を味わせて、その後、自分がメイドであることを明かすのです。相手はあなたを、なんとしても征服しようとするでしょう。そこが付け目というものです」
葵はうなずいた。そうだ。これも任務と思うことにしよう。自分の感情は抑えて、真相をあばくこと。それに専念しなければ。
「では、来週の土曜日だ」
海堂は、話を打ち切った。
「私は貴婦人……」
朝倉老人の運転するトヨタ・センチュリーの後部座席で、葵はつぶやいた。
だが、どうにも落ちつかなかった。イブニングドレスは、まるで下着でも着ているようで気恥ずかしい。それに宝石など身につけたことはない。五カラットのダイヤは、思っていたのより大きかった。落としたり盗まれたらどうしよう――葵は胸もとを押さえた。それに……。
「堂々としていらっしゃい」
運転席で、朝倉老人が言った。
「そうは言われても、こんなかっこう、したことがないんですもの。それに、朝倉さん」
「なんでしょうかな」
「いくらなんでも、この車、目立ちすぎません?」
トヨタ・センチュリーは、それまでのニッサン・プリンスに代わって皇室が採用した公用車のベースになった高級車だ。車体も大きい。夜の清瀬は決して車通りがないわけではないのだが、さすがにこんな車は、めったに走っていない。葵は思った。こんな車、『あいつら』が見のがすわけがない――。
思った通り、後ろからけたたましいスクータの排気音が何台も近づいてきた。葵は、眉をひそめた。
「やっぱり……」
「昔のお仲間ですか?」
朝倉老人が訊《き》く。葵は宝石を散りばめた腕時計を見た。もう七時近い。まだレディースが走るには早い時刻ではあるが――。
「引き離しましょうか、葵さん」
トヨタ・センチュリーはV12気筒エンジンで約五千CC。スクータなど、その気になれば余裕で振り切れる。だが葵は首を振った。
「ここはあいつらのシマ、いえ、縄張《なわば》りです。昔の仲間として、挨拶《あいさつ》はしておきませんと。朝倉さん、速度を落として下さい」
「分かりました」
朝倉老人は、時速四十キロほどまで減速した。たちまち追いついたスクータの群れが、車の周りを囲む。
「オラ、かっこつけてんじゃねえぞ!」
「ここはなあ、清瀬チームのシマなんだ! 成金のお嬢様が外車乗り回すような道じゃねえんだよ!」
「出てこいよ、コラ!」
罵声《ばせい》が飛ぶ。葵は思わずくすりと笑った。大きなリムジンはみんな外車だと思っているところは、かわいげがある。だが――。
リアウィンドウを開けて、葵は並んで走っているスクータの少女を見た。派手なメイクに特攻服を着てはいるが、おそらく葵がこの道を走っていたときと同じ、中学生だろう。
「清瀬チームも、ずいぶん柄が悪くなったものね」
葵は、少女に微笑みかけた。
「んだとぉ?」
「曜子《ようこ》はいるかしら?」
「ヨーコさんを呼び捨てにしやがって! てめえ、何様だ?」
少女がいきり立つ。その、グリップを握《にぎ》った手の上に、葵は自分の手を重ねて強く力をこめた。葵の握力は屈強《くっきょう》な男なみだ。少女は手が握りつぶされる、とでも思ったのだろう。おびえたような顔をした。葵は腹の底から声を出した。
「葵が挨拶に来た。そういや分かるんだよ!」
その気迫に少女はおとなしくなり、スクータは後ろへ下がった。
入れ替わりに、ブルー・メタリックのYAMAHA・MAXAMが近づいてくる。排気量四百CCの大型スクータだ。先ほどの少女のはラメやステッカーでごてごてと飾《かざ》り立ててあったが、こちらは何の装飾《そうしょく》もなく、ただ胴体に白く『曜子』と書いてあるだけだ。葵はうなずいた。精悍《せいかん》なスクータに、派手な飾りはいらない。
スクータの上から、茶色の髪をなびかせた清瀬チームの頭《ヘッド》にして関東レディース連合四代目総長・伊藤《いとう》曜子が窓をのぞきこみ、頭を下げた。
「すみません、葵姉さん。若いもんのしつけがなってなくて。三年のメンバーは九月で上がるもんで、若い子を押しつけられたんですが、あたしも連合のことで目が行き届かないもんですから。よく言ってきかせます」
「手は出すなよ」
葵は笑った。
「そりゃあ、もう。上のもんがすぐに手を出すと、若いもんはそれでいいと思っちまう。葵姉さんの教えは守ってます」
「あたしにも覚えがあるよ。何しろ、この車にあたしのこのかっこうだ。お高くとまった奴を見ると、ちょっかい出したくなるもんさ。あいつらにもだんだん分かってくるだろうよ、ケジメってもんが。なんたって、お前の妹分だもんな」
「そんな。葵姉さんに比べたら、自分なんか、まだまだです。それで姉さん、今日はなんのご用で?」
「同窓会なんだよ。中学のね」
曜子が息をのむのが分かった。
「でも姉さん、清瀬七中と言ったら……」
葵の境遇《きょうぐう》については、曜子も知っていた。
「ああ。いい思い出なんかひとつもありゃしないよ。まあ、わけありなのさ」
「そうですか。もし自分たちで役に立つことがあったら、いつでも呼んで下さい。チーム引き連れて、すっとんで行きますから」
「分かった分かった」
葵は笑った。
「それより他人行儀で悪いけど、つるんで走るわけにもいかないんでね。先を行かせてもらうよ。目立っちまってしかたない」
「失礼しました!」
頭を下げると、曜子は後ろへ向けて手を振った。朝倉老人がスピードを上げ、スクータの列はたちまち後方に遠ざかった。
「申しわけありません、朝倉さん。レディースからは卒業したのですが」
葵が頭を下げると、朝倉老人は微笑んだ。
「たとえ今はそうであっても、人の縁はむやみに切れるものではありませんよ。私も子どもの頃は、ずいぶんやんちゃをしたものです」
「朝倉さんが?」
意外に思って葵が訊《たず》ねると、朝倉老人は、遠くを見つめる目になった。
「戦後の焼《や》け跡《あと》では、何をしても生き延びねばなりませんでしたからな」
繁華街《はんかがい》を抜けたずいぶんと外れに、会場の清瀬ゴールデンホテルがあった。玄関の前で、朝倉は車を停めた。
「では、手はずの通りに。よろしいですな?」
「はい」
朝倉老人が車を降りて、後部のドアを開ける。玄関の前で煙草《たばこ》をふかしていた安手のスーツを着た若者たちが目を見張る中、朝倉老人は、うやうやしく頭を下げた。
「どうぞ、お嬢様」
葵は背筋を伸ばし、優雅に車から降りた。
「退屈でしょうけれど、待っていてね、朝倉」
つんとして言う。朝倉老人は最敬礼した。
「めっそうもございません。ごゆっくりされて下さいませ」
若者たちがざわめいた。葵は中学の頃より髪が長くなっており、しかも海堂家の水に磨《みが》かれ、坪内夫人に上品な化粧をしてもらって――葵はずいぶん抵抗したのだが――、匂い立つような美しさをふりまいていたのだ。あの頃の面影は、ほとんど見つけられないだろう。
「あれ、どこのお嬢様だ?」
「あんな人、うちの卒業生にいたっけ?」
「さあ……」
やっぱり――葵は思った。曜子は一目で葵と見抜いた。それは、肉親以上の仲とも言える姉妹《きょうだい》分だったからだ。中学校では、葵はただの異分子だったのだ。
振り向きもせずホテルの玄関に入ると、ロビーの人びとが次々に葵のほうを見てぽかんとなる。気づかないふりをして、葵はエスカレータで三階の大宴会場まで昇った。
受付には、男女がそれぞれふたり。やはり正装してはいたが、せいぜいデパートで買った程度の服装だった。葵のドレス姿に、唖然としたようだ。
「あ、あの、今日は清瀬七中の同窓会で――」
あわてたように男子が言う。葵はにこやかに微笑んだ。
「存じておりますわ。わたくしも卒業生ですの。正装で、とありましたけれど、こんなかっこうでは、はしたなかったでしょうかしら?」
「いえ、とんでもありません! どうぞ、お通り下さい」
男子は動転しているようだった。そこへ、女子のひとりが割り込んだ。
「待って下さい。お名前は?」
「若槻、葵です」
みんながいっせいに退くのが分かった。葵の名前は、みんな覚えていたようだ。
それでも女子は負けない。むしろ張り合おうとしているようだった。
「参加費をお願いします。三千五百円と招待状には書いておきましたけど」
「あら、困りましたわ」
葵は首を傾《かし》げた。
「細かいお金は持ち歩きませんの。これでかまいませんこと?」
薄紙に包んだ一万円を、葵はテーブルの上に置いた。
「お待ち下さい。おつりを」
女子は、にらむような目になった。葵はしとやかに、しかしわざと相手を挑発するように応えた。たぶん成金ならこんな態度をとるだろうと思ったのだ。
「けっこうです。わたくし、同窓会とは言っても正式には卒業しておりませんので、会費を納めておりませんの。寄付として、お収めになって」
女子の敵意と、男子のうっとりするような視線を背中に感じながら、葵は入り口へと向かった。だが、心の中ではつぶやいていた。
(この頃、こんなことばっかり……もう、うんざりだよ)
大宴会場は丸テーブルの並ぶ立食形式で、すでに若い男女が談笑していた。葵と同い年だからまだ高校生だろうが、酒のグラスを手にしている者もいる。天井からBGMで、パッヘルベルのカノンが流れていた。だが葵は眉をひそめた。この演奏はCDか有線だろうが、品がない。御主人様の趣味のおかげで、クラシックにはうるさくなっていた。
その音楽が、一瞬、とぎれたような気がした。話し合っていた男女が葵に気づき、ほとんど硬直したのだ。
動きを止めて口をあんぐりと開けた、かつての同窓生たちの間へと、葵は歩み出した。白い制服を着たボーイが、声をかける。
「お嬢様、お飲み物は何を?」
見ると、ボーイが片手で支えたトレイには、ウーロン茶やオレンジジュースに混じって、ビールや水割りのグラスも乗っていた。葵は酒は全く飲まなかったが、ドアのそばにバーテンダーがいるのを見て、注文した。
「テキーラ・サンライズを」
名前の通りテキーラをベースに、オレンジジュースとグレナデンシロップを加えて、朝日が昇る空のような色の変化を楽しむカクテルだ。イブニングドレスの青に対比させたのだが、何しろテキーラだから、そんなに弱いものではない。葵は少しだけ口を付けて、人には分からないように顔をしかめた。レディースのときも酒は飲まず、仲間にも禁じていたのだ。
会場を、衣装を見せつけながらゆっくりと歩いた。誰にも声はかけなかった。中学の同級生に、口をききたいような、また思い出話をするほど親しいような奴は、ひとりとしていなかった。当然、誰も声をかけては来なかった。まず衣装とふんいきに気圧《けお》され、もし葵だと気づいた者がいても、口をきく度胸はなかった。そのほうが葵には都合がよかった。
海堂が豪華な衣装を着せたのは、近寄りがたく見せて、葵によけいな苦労をかけさせない気づかいでもあったのだ。
だが、会場を歩き回っていると、目の前に立ちはだかった者がいた。葵はその顔を見て、心の中でため息をついた。
(まあ、そのために来たのだけれど)
目の前には、両肩を出した葵よりも露出度の高いブランド物のイブニングドレスを着た、背の高い女子が立っていた。険のある表情で、葵をにらみつける。
「お久しぶり、速水さん」
葵は優雅にお辞儀をした。
「なかなかのドレスね」
速水亜子は、露骨に敵意のこもった声で、それでもすまして言った。
「どちらでお買いになったの? 私は、銀座のブティックですのよ」
(清瀬銀座じゃないの?)
心の中で思わず葵は毒づいた。いや、清瀬銀座商店会が悪いわけではないが、なんでも『銀座』とつければ相手が威嚇《いかく》できると思っているこの女が腹立たしいのだ。葵は微笑んで、やんわりと返した。
「さあ、どこの国でしたかしら。世界を回っているときに、どこかで仕立てたものですから。パリか、ローマか、忘れてしまいましたわ」
亜子が、うっ、という顔になった。成金の考えるぜいたくなんてこんなものだろう、葵はそう思ったのだ。実際にはもちろん、日本にもいいデザイナーやドレスメーカーがたくさんいて、オーダーメイドの腕は世界レベルなのだが。
そういえば――葵はふと、気づいた。自分が着ているイブニングドレスは、海堂に連れられていった、行きつけだという店で仕立ててもらったものだが、御主人様がなぜ婦人服の店に行きつけなのだろう。彼女でもいるのだろうか。
そう思うと、少し引っかかるものがあった。もちろん、御主人様が誰とつきあおうと葵には関係ないのだが、なぜか意識の底で、見知らぬ女性と張り合うような気になっていた。
だが、とりあえず張り合わなければならないのは、目の前の亜子だ。
亜子はスパークリングワインのグラスを手にしていたが、それを手近なテーブルの上に置き、葵に近づいて、背中をかがめてダイヤのペンダントをじろじろと見た。葵は小柄だからそうしなければ亜子には見えないのだが、あまりいいかっこうではない。
「人工ダイヤも進んだものね。本物そっくりだわ」
周りの人に聴こえるように、亜子は言った。
「なんとおっしゃっても、わたくしはかまいませんわ。でも――」
葵は、太い眉をファンデーションでつぶして細くしたのをきりりと上げて、亜子をにらみつけた。
「贈っていただいた殿方《とのがた》に、失礼になりますことよ。なんでしたら、鑑定書をお見せしましょうか? いいえ、ご本人に来ていただきましょう。いかがかしら」
その迫力に亜子は一瞬たじろいだが、すぐに立ち直った。
「ダイヤやドレスで飾り立てても、ヤンキーの地金《じがね》は透けて見えてよ、若槻さん。それとも、こう言いましょうか。犯罪者の娘、と」
思わず葵はかっ、となった。
「私は元レディースよ。そこらのチンピラと一緒にしないで。それに、絶対に犯罪者の娘なんかじゃないわ。私の大切な方も、そう信じて下さっているんですもの」
「犯罪者の言うことを信じるようじゃ、大した男じゃないわね」
亜子も薄っぺらいお嬢様ごっこはやめたようだ。腰に手を当てて、葵を見下ろした。
「そうね、フリーのジャーナリスト、ってところかしら」
葵は首を振った。
「いいえ。警察庁長官よ。あなたに分かるように言うなら、警察機構の頂点に立つ方」
亜子は息をのんだが、毒舌は止まらない。
「どうやってお近づきになったの? つまらない犯罪か何かで捕まえられて? あなたに警察官。よくお似合いね」
次第に葵は、任務を忘れて素で悔しくなってきた。言い返そうとしていると、横から男性の声がした。
「ふたりとも、そんな話はいいじゃないか。久しぶりなんだから」
そちらを見た葵は、ハッとした。日下部清市《くさかべせいいち》がそこにいた。
とたんに葵の心は、中学一年生の頃に戻っていた……。
中学に入って、亜子に素性をあばき立てられ、ほとんどリンチに近いほどのいじめを受けていたときに、ただひとり、かばってくれたのが同級生の日下部清市だった。
『若槻さんがかわいそうだろう』
上品な顔立ちの好青年である清市は、葵がいじめられているのを見かけると、そう言って、亜子たちから葵を引き離してくれた。
『速水さんが言うのは、ただの噂じゃないか』
『ただの噂かどうか、いずれ分かるわよ』
憎々しげに言って、それでも亜子は、そのときだけ葵を解放してくれた。葵の目には、清市が文字通りの王子様に見えた。別に自分が王女だと思ったわけではない。ただ、弱い者を助けてくれる白馬の王子様、そう思ったのだ。
『若槻さん、大丈夫?』
亜子に突き飛ばされて膝《ひざ》をすりむいた葵に、清市はハンカチで包帯をしてくれた。
『どうして私をかばってくれるの? そんなことをしたら、今度は清市さんが……』
うれしさを隠して葵が訊くと、清市は笑った。
『心配ないよ。うちの親父と速水さんのお父さんは、古くからの知り合いなんだ。頭は上がらないけどね』
『清市さんのお父さんって、何をしている人?』
『廃棄物《はいきぶつ》の処理だよ。速水さんの家では、建設のために土砂やゴミが出るだろう。それの処分を引き受けているんだ』
『でも、だったら、絶対に速水さんには逆らわないほうが……』
まだ幼い葵にも、それぐらいは分かった。もし亜子が父親に告げ口して、清市の家との取り引きをやめるように言ったら、大変なことになる。
『大丈夫だよ。バブルがはじけたと言っても――』
清市は大人びた口調で言った。
『仕事の口はたくさんあるんだ。若槻さんが気にする事じゃないさ。それに、僕は筋の通らないことは許せないんだよ』
葵は心臓がどきどきするのを感じた。まだ、恋と呼ぶには早かったが、清市は葵の憧れの人になったのだ。
助けてくれた清市のためにも、いじめに耐え抜こう、と思った葵だったが、亜子とその取り巻きの仕打ちは、どんどんエスカレートしていった。先生も見て見ぬふりをした。亜子の父親は清瀬では一番の金持ち、つまりは顔役で、しかもPTA会長でもあったのだ。市長ともつながりがある、という噂だった。ということは、教育委員会も市警察も当てにはできない、ということだ。
葵が耐えれば耐えるほど、亜子は興奮していき、ついにある日の放課後、とんでもないまねをしでかした。叔母の家に乗り込み、家じゅうに汚物をぶちまけ、葵の部屋をめちゃめちゃにしたのだ。
叔母は葵のために怒ってくれた。だが、亜子に、いや亜子の父に逆らうことはできなかった。直接、仕事には関係なかったが、速水建設の社員とその家族は街じゅうにいる。うかつに買い物にさえ行けなくなるかもしれなかったのだ。
『我慢するんだよ。我慢するんだよ、葵』
そう言いながら懸命《けんめい》に家を掃除している叔母の小さな背中を見て、葵は階段を駆《か》け上《あ》がり、部屋へ飛び込んだ。布団にもぐりこもうにも、そこにも汚物がぶちまけられていた。洋服はずたずたにされ、教科書は引き裂かれていた。
葵は部屋の真ん中に立ち尽くし、泣きじゃくった。いつまでも泣き続けた。
どれほどの間、泣いていたことだろう。いつか、夜も更《ふ》けていた。
葵は、帰ってきたときの制服のまま、はだしで一階に下りた。掃除に疲れた叔母は、ちゃぶ台に伏せて眠っていた。叔父の帰りは遅い。叔父もきっと怒ってくれるだろう。だが、一介の会社員である叔父にも、何もできないのだ。
そして、これ以上この家にいたら、よくしてくれる叔母夫婦にどんな迷惑がかかるか分からない。
家じゅうに立ちこめた悪臭が、葵の頭をしびれさせていた。
気がつくと葵は、はだしのままふらふらと家を出て、街外れへと歩いていた。行ったことはないが、空堀川という川があるはずだ。飛び込めば、楽になれるかも……。
放心状態の葵には、近づいてくるスクータの爆音も聴こえなかった。
『どこへ行くんだい?』
ふいに、耳許《みみもと》で声がした。
ぼんやりと、葵は振り向いた。きつい化粧と青い特攻服から、それがいわゆるレディースと呼ばれる人だということは分かったが、おびえる感情さえ失われていた。
葵よりは年上のようだがまだ十代と思われる女は、葵の汚れた制服と、半袖《はんそで》の腕にあるあざやみみず腫《ば》れを見て、何かを悟ったらしい。タンデムシートのレディースに告げた。
『晶。この子を乗せてやりな』
晶と呼ばれたレディースは、何も言わずにタンデムシートから降りると、強い力で葵の体を持ち上げ、自分の代わりに乗せた。そして両手を女の体に回させた。
『いいかい。あたしにしっかり、しがみついているんだよ』
言うと女はスクータを急発進させた。後ろからは何台ものスクータがついてきた。
夜の闇を切り裂いてスクータが起こす冷たい風が、葵の心に吹き込んできた。虚《うつ》ろだった心を、風が充たしてくれるようだった。
風は、いい匂い――葵は思った。
街外れの工場跡まで来ると女はスクータを止め、葵を降ろすと手を引いて、廃工場へと連れて行った。
二階の事務所は、生活ができるように改造されていた。女は葵の制服を脱がせ、洗濯機に放り込んだ。そして葵を固いベッドに横たえ、着ていた特攻服をかけてくれた。
『とにかく、眠りな』
上半身にさらしを巻いた女は、派手な化粧には似合わない、優しい声で言った。
『ここにはあんたをどうにかする奴は来ない。もし来たら、あたしがぶちのめしてやる。だから安心して眠るんだ。いつまででもいいさ。何もあんたを縛《しば》るものはないよ』
葵は、全身の力が抜けるような気がした。
『あの……あなたの名前は』
訊くと女は、ふっ、と笑った。
『そんなもん、忘れちまったね。名前も、家も。あたしはただ、風を感じて生きてる。それだけでいいんだ』
葵は、分からないながらもうなずき、いつしか眠りに落ちた。
これが、葵とレディース『清瀬チーム』の頭《ヘッド》との出会いだった。
丸一日眠り、レディースのひとりが作ってくれたカップ麺《めん》を二個も平らげた後で、葵は頭に身の上を洗いざらいぶちまけた。
『そんなもんは、捨てちまいな』
しかし頭は言った。
『あたしが同情するとでも思ったかい? ここに溜まる奴らは、みんな心に重たいものを抱えて、世間様の海に沈んじまった奴ばっかりさ。苦しみや辛さに、大きい小さいはないよ。みんな、重たいのさ。でもね、葵。あたしたちは人に蹴飛ばされて水の底に沈《しず》む石ころじゃない。風になるんだ。風は気ままさ。どこへだって吹っ飛んでいけるんだ。……来な』
廃工場の外には、黒いYAMAHAパッソーラがあった。
『乗り方を教えてやるよ。風の匂いは、もう知ってるだろう?』
葵はうなずいた。
こうして葵は、二度と叔母の家にも、もちろん学校にも帰ることなく、レディースの一員となった。頭はいろんなことを教えてくれた。レディースのケジメと道とを。そしてケジメを通すための、ケンカのしかたも教えてくれた。
レディースの道を守るなら、もちろん、一般市民に因縁《いんねん》をつけてはいけない。叩《たた》きのめすのは、筋の通らないことをする奴だけだ。そういう奴はケンカだけは強いから、あらゆる卑怯な手を使ってくる。それをかいくぐって相手の戦意《せんい》を喪失《そうしつ》させ、戦闘力を奪うような攻撃法と、身を守る方法を、頭は自ら教えてくれた。
葵は、自分でも知らなかったのだが筋がよかったようで、頭が教えるケンカのしかたをたちまち吸収した。
『よし、教習所は終わりだ。あとは路上教習ってやつだよ』
ある日の夕方、頭は言うと、葵を清瀬の駅前へと連れて行った。それまで葵はケンカを一切禁じられていたのだ。
駅前の電話ボックスを見渡す手すりに並んで座って、頭は言った。
『いいかい? 葵。まともな奴には、決して手を出しちゃいけない。だが、筋を通さない奴はチンピラと一緒だ。遠慮なくぶちのめせ。その違いがお前に分かるかい?』
葵は首を振った。まだレディースになったばかりで、葵には経験がなかったのだ。
『じゃあ、電話ボックスを見てな』
すでに夕方だった。電話ボックスには女子高生やサラリーマンが、次々に入っている。三人の女子高生が、きゃあきゃあ言いながら受話器の取り合いをしていた。葵はむかつくのを感じた。やかましくて迷惑だ。
『頭。あいつら、ぶちのめしていいですか』
『馬鹿野郎。あんなのは、ただおつむの中身が薄いだけだ。まだかわいいもんさ』
『でも、気に入らないんです』
『その場の感情に流されるんじゃないよ。それより隣《となり》のボックスを見な』
言われて目を移すと、隣のボックスでは、しゃんとしたスーツ姿のサラリーマンが、どうやら商売の話をしているようだった。だが、そのとき葵は気づいた。そのサラリーマンが煙草をふかして、電話ボックスの電話機に押しつけてもみ消すのを。
『あれがまともな市民のやることかい?』
頭が訊く。葵は首を振った。
『じゃあ、シメてきな』
言われて葵は電話ボックスに近づき、ドアをばん! と開けた。
『おっさん!』
葵の怒鳴り声に男はびくっとしたが、すぐにふんぞり返った。
『なんだ、君は?』
『なんだ、だと? あんたが今、地面に捨てたものこそ、なんだってんだよ!』
その声に、隣のボックスの女子高生たちはぎょっとした顔になり、そそくさと立ち去った。
『貴様、不良だな』
男は平気な顔をしていた。
『大人のやることに、口を出すんじゃない。偉そうに』
『ああ、あたしは不良さ』
葵は答えた。
『だがな、不良にも筋を通す、ってことがあるんだ。電話機はあんたのもんか? 地面はあんたの灰皿か? こんなまねして筋が通ると思ってるのかよ!』
それ以上は何も言わせず、葵は男の足を引っかけてころばせた。男は電話ボックスから転がり出て、地面に倒れた。
周りの人間は遠巻きにして見ている。葵がいじめられているとき、誰も何も言わなかったように。それを思い出すと、怒りがこみ上げてきた。
『拾えよ』
葵は電話ボックスの下を指差した。
『てめえの捨てた吸《す》い殻《がら》は、てめえが拾え、って言ってんだよ!』
男はあわてて立ち上がり、電話機の非常ボタンを押そうとした。葵は男の腹につま先で蹴りを入れ、再び地面に転がした。
『貴様……訴えてやる!』
『どうぞ、ご自由に。だがな、あんただって立派な犯罪者なんだよ』
葵は焼けこげた電話機を指差した。
『あの電話機を見ろ。器物損壊《きぶつそんかい》ってやつじゃないのか。通報してやろうか? サツのことだ、説教ぐらいですませちまうかもしれないね。だが、あんたが罪に問われようが問われまいが、知ったことじゃない。それより、みんなの使うもんに傷を付けて、あんたのご立派なスーツには焼けこげ一つつかない。筋が通らないんだよ!』
『やかましい!』
男は立ち上がり、いきなり殴りかかってきた。葵は拳《こぶし》をかわすと、男の腹を膝で突き上げた。男はうめき声を上げ、腹を押さえてうずくまる。その脇腹《わきばら》へ、葵はとがった靴の先で更に蹴りを入れようとした。
その足が、止まった。
葵の目に、取り巻いている人びとの中の、ひとりの顔が目に入ったのだ。
清市だった。
葵は派手な化粧をしていたから、清市には分からなかったかもしれない。だが清市の目は、明らかに葵を批難している、と葵には見えた。
彼の目には、善良な市民に不良が言いがかりをつけて乱暴をはたらいている、としか映らないのに違いなかった。
葵はくるりと振り返り、頭の所へ戻った。
『行きましょう。もういいでしょう』
『気が済んだかい』
『はい』
葵はそれだけ答えると、スクータに乗り、急発進させた。
風が吹く。風は誰でもない、葵が起こしているのだ。すべてを振り払うために。
『さようなら、日下部さん』
葵はつぶやいた。さっきの駅前で見た清市の目は、もう忘れていた。その代わり、ほんの少し前なのに、もうはるか遠い昔に思われる、学校での清市の姿が甦《よみがえ》ってきた。
もう、あの清市には会えないのだ。
視界が涙でぼやけた。それでも葵は、スクータのグリップをしっかりと握っていた。誰のせいでもない、これが葵の選んだ、道なのだ。
『さようなら……王子様』
口の中でつぶやくと、葵はスピードを上げた――。
それから一度も会うことのなかった日下部清市が、今、シャンデリアに照らされて、目の前にいる。茶色のスーツはたぶん吊るしの安物のようだったが、葵の目にはどんな一級品よりも立派に見えた。
清市は、葵に微笑みかけてきた。
「心配していたんだよ。君がその……」
口ごもる。葵は微笑んで答えた。
「レディースに入ったから、でしょう?」
「ああ。すぐに噂は広まるからね。それに僕はあの頃、君に似たレディースを、駅前で見かけたことがある」
葵はどきりとした。
「その子はね」
清市は続けた。
「でも、まちがったことはしてなかった。いや、暴力はふるっていた。でも相手は、公衆電話に火の点いた煙草を押しつけて、焼けこげを作っていたんだ。僕には注意する勇気がなかった。その子は、その男を叩き伏せた。暴力はいけないよ。でも、あの子にはあの子なりに勇気があった、僕はそう思っている」
『その子』が誰なのか知っている。清市の目は、そう言っていた。
葵は心の中で涙を流していた。清市さんは、やっぱり私の王子様だった……。
「くだらない理屈なんかおよしなさい」
亜子が、あきれたように言った。
「だからあなたは甘いと言うのよ。そんなことでは、結婚してから先が思いやられるわ」
……結婚?
「あら、お知らせするのを忘れたかしら。私たち、婚約したの」
勝ち誇ったように亜子が言って、清市の腕を取った。亜子の隣に並んだ清市がすまなそうな顔をしているように思ったのは、葵の思い上がりなのだろうか……。
完全な、敗北だった。
亜子は追い打ちをかけた。
「あなた、今は何をしているの? いくら高そうな物を着ていても、あなたの目は、卑屈《ひくつ》よ。警察庁長官と言ったわね。高級官僚《かんりょう》の愛人? それとも御用達のキャバクラ嬢かしら」
「私は……メイドです」
葵はぼそりとつぶやいた。自らの職業を誇る元気は、今の葵にはなかった。
「なんとおっしゃったのかしら?」
「私は警察庁長官・海堂俊昭様のお屋敷で働くメイドです!」
葵は叫んで、イヤリングや指輪を、そして首のペンダントを引きちぎって投げ捨てた。
「そうよ。これはみんな借り物よ。私はお嬢様なんかじゃない。一生、そんなものにはなれっこないのよ。これで満足?」
葵は会場の外へと走り出た。涙があふれて止まらない。もう、任務も真相解明のことも忘れていた。今はただ、一刻も早くここから逃げ出したかった。
「待ってくれ!」
声と共に、後ろから肩をつかまれた。
涙を拭くのも忘れて葵は振り向いた。真剣な顔の清市がそこにいた。
「亜子を許して欲しい。そして、僕を」
「許すも許さないもありません」
葵は首を振った。
「私はもともと、ただの同級生だっただけのことです」
「違うんだ。僕の話を聴いてくれ」
清市は、むき出しになった葵の両肩をつかんだ。その手は暖かかった。
「僕はあの頃から、君に思いを寄せていた」
突然の告白に、葵はびくりとした。
「君がまっすぐな気性の、なんの気取りもない女の子だ、ってことは、僕には分かっていた。だが、うちは廃棄業者だ。口ではなんと言っても、速水建設の娘には逆らえない。僕は君の前でだけいい顔をしてみせていたんだ。ひきょう者だよ、僕は」
「そんなこと、ありません」
葵は無理に笑おうとした。
「あなただけが、噂や力に惑わされずに、本当の私を見てくれた。私は今も、そう思っているんです。――幸せになって下さい」
清市は首を振った。
「この結婚は、親同士が決めたものなんだ。建設業界が下火になって、廃棄物を処理するうちの会社も苦しくなっている。その中で速水建設は勢いがいい。僕は人身御供《ひとみごくう》に差し出されたようなものだよ。あのわがままなお姫様にね」
「いいえ。あなたなら、きっと亜子さんを変えることができるわ。だってあなたは……」
私の王子様ですもの。その言葉を、葵はのみこんだ。
「何をこそこそ話しているの?」
いつの間にか、亜子が近づいてきていた。
「いや、昔のちょっとした思い出話をね」
ぱっ、と葵の肩から手を離して、清市はその場を取りつくろった。葵もなんでもないふりをした。
亜子はつかつかと葵に近寄り、にっこりした。
「若槻さん。あなた、メイドだって言ったわよね」
「……ええ」
「私のうちへいらっしゃい」
命令するように、亜子は言った。
「今のおうちでいくらもらっているかは知らないけれど、その倍は出すわ。文句はないでしょう? いえ、文句は言わせないわ」
「亜子。それは無理だ――」
「清市は黙っていて!」
亜子はぴしゃりと清市をはねつけた。
「どう? 昔の同級生の家で働くのは、プライドが許さない? それとも、私にたてつく気がまだあるのかしら?」
どうやら亜子は、中学の頃の力関係が今でも通じると思い込んでいるようだ。葵にとっては、とうに忘れていた昔のことなのに……。
口を開きかけて、葵はハッとした。そうだ。自分が今夜ここへ来たのは、甘っちょろい感傷に浸《ひた》るためではない。内情を探ろうと思っていた相手が、向こうから家へ招き入れてくれるというのだ。これを逃してなんになる。
「分かりました。では、よろしくお願い致します」
葵は頭を下げた。
「いいというのね。じゃあ、明日から、いえ、今夜からでも来てもらおうかしら」
「かしこまりました」
葵は口調を使用人のものに変えた。
「実はわたくし、今のお宅を出ようと思っていたのです。その、お給金が……」
口ごもってみせると、亜子は高笑いした。
「そうでしょうね。見た? 清市。これがお金の力よ。プライドなんて、なんの役にも立たないことが分かるでしょう?」
清市は、何も言わなかった。いや、言えないのだ、と葵は思った。
「では、道具などを取って参ります。少々、お待ちを」
葵はすぐにその場を立ち去った。任務は果たせそうだ。だがそれより、これ以上、清市のそばにいたくなかったのだ。
清市も、きっと同じだろう。葵にはそう思われた。
車にメイド服とクイックルワイパー、それに身の回りの物は積んであった。元々の計画では、亜子を圧倒したところで身分を明かし、雇《やと》ってくれと頼み込むつもりだったのだ。海堂の名前を出したのも、亜子なら海堂家について知っているだろうと思ったからだった。そこで修行を積んだメイドなら、雇ってもらえるかと。
だが、計画はまるで違う形で実現した。
後部座席でメイド服に着替え、髪を結い上げていると、前を向いたままの朝倉老人が突然、静かに言い出した。
「葵さん。私も、これでも昔は相当のものだったのですよ」
『やんちゃをした』、というあの話だろうか。だがそれが?
「戦後の混乱期に景気が良かったのは、クラブやキャバレーですな。あるいは、今で言う風俗ですとか」
「はい……」
何が言いたいのか分からず、とりあえず返事をすると、朝倉老人は続けた。
「私も、はばかりながら、ご婦人方にはずいぶんと、もてたものです」
「そうでしょうね」
若い頃の朝倉老人は、二枚目だったに違いない。
「いっときは、お恥ずかしい話ですが、女の部屋に転がり込んでいたこともありました」
「まあ」
そんなことまで……。
「そのときに学んだのですが、女は、弱みを見せる男には、手もなくだまされるものです。女の嘘《うそ》はかわいいものです。ですが、男の嘘には、金だの何だのと、大きな物がからんでおります」
「それが、何か?」
葵が訊くと、朝倉老人は静かに答えた。
「女は女同士。そういうことでございますよ」
何が『そういうこと』なのか、葵にはさっぱり分からなかった。
ただ、穏《おだ》やかな言葉を聴いているうちに、不思議と心が落ちつくのを感じた。
葵の心の中で、煮えたぎっていたものが収まっていった。
ベッコウ縁の丸い眼鏡をかけ、メイド服姿でホテルへ戻ると、亜子がいらいらしたように待っていた。だが、葵のかっこうを見て噴《ふ》き出《だ》した。
「信じられないわ。マンガみたい。あなた、本当にそのかっこうでメイドをやってるの?」
気を取り直した葵は、落ちつき払って答えた。
「僭越《せんえつ》ですが、わたくし、国家特種メイド資格を持っております。これは、国で決められた制服なのです」
その資格も、亜子は知らないようだった。
「まあ、なんでもいいわ。来て」
亜子はエスカレータを降りた。
「清市……いえ、日下部さんは?」
「会場に戻ったわ。気になる?」
「いいえ」
葵はほっとしていた。この姿で亜子に従っている自分を、彼にだけは見られたくない。
ホテルの前に待っていたBMWの運転席に、亜子は乗り込んだ。
「あなたは後ろに座りなさい」
言われるままに後部座席に乗ると、ティッシュの箱やクレーンゲームで取ったぬいぐるみが散乱している。葵は眉をひそめた。これでは車が泣くというものだ。いくらBMWが大衆車になったとはいえ。
「運転手はいらっしゃらないのですか」
訊いてみると、こともなげに答えた。
「私の車よ。お誕生日にパパからもらったの」
亜子は車を走らせた。運転が乱暴なので、葵は酔いそうになった。たまに乗るのが、朝倉老人がなめらかに走らせるセンチュリーでは、しかたがない。
十分ほどで、車は車庫に入った。
「玄関から入ってもかまわないわ」
言われて外へ出た葵は、思わず口を押さえた。
「まあ、なんて――」
「小さな家よね」
謙遜《けんそん》したつもりか、亜子が言う。『ええ、本当に』と相づちを打ちそうになって、葵はあわてて口を閉じた。清瀬では大企業かもしれないが、百坪となさそうな敷地に立っている家は、デザインも建て売り住宅とほとんど変わらない。そもそも、なんでも出窓にレースのカーテンをつければいいというものではない。
「ただいま」
亜子の後について、葵は屋敷、いや、家へと入った。
居間には白熱電球のシャンデリアが灯っていた。だが、薄い天井板がそれを支えられるのか、葵には疑問だった。
合成皮革のソファーで、あごひげを生やした肥った男が、ポロシャツを着てパイプをふかしていた。そのあごひげは決して立派なものではなく、テレビで見る今どきの若者のようだ。もともと上品そうではない男をいっそう貧相に見せていた。それに――葵はわずかに顔をしかめた。パイプ煙草に、こんな悪臭のするものがあったなんて。
「パパ」
亜子が男に呼びかけた。
いま気がついた、というように男は亜子のほうを向いた。何か考え事をしていたようだ。ぼんやりしたような声で言った。
「ああ、亜子か。お帰り。どうだったね、日下部君は」
「いつも通りよ。すてきな方。私に、古いお友だちを引き合わせてくれたし」
亜子は葵を押し出した。
「若槻葵さんよ。覚えてない? ほら、あの汚職事件の……」
亜子の父親は、ぎょっとしたような顔をした。
「あんたがあの――」
だが、そこで言葉をのみこんだ。別に葵に気を使っているようでもなかった。
「私のメイドになってもらうの。いいえ、うちのことをみんなやってもらうわ。ねえ、パパ、いいでしょう?」
「お前のわがままにも、困ったものだな」
父親は、あきれたように言った。
「だが、前の家政婦さんが辞めてどうしようかと思っていたところだ。若槻さん」
「葵でけっこうです」
葵は深々と頭を下げた。
「本当にかまわんのかね? 君と亜子は、その……同級生だったそうじゃないか」
「働き口に、選《え》り好《ごの》みは致しません。よろしくお願い致します」
葵はまた頭を下げた。
「そうか。それでは頼むとしようか。私は速水徹太郎《てつたろう》だ。妻は、去年亡くなってな」
「おさびしゅうございますね」
葵が言うと、徹太郎は意外にも善良そうな笑顔を見せた。
「その分、亜子がかわいくてならないんだよ。いろいろ面倒をかけると思うが、まあ、よろしく頼む」
おや、と葵は引っかかるものを感じたが、
「さあ、来てちょうだい」
亜子に引っ張られて、二階へと上げられた。
「ここが私の部屋よ」
亜子がドアを開けると、ピンクの洪水が葵の目に飛び込んできた。壁紙もピンク、ベッドもフェイクファーのピンクの掛け布団。六畳の部屋の中央に置かれた小さなテーブルも、部屋の隅にちょこなんと座っているテディベアも、テレビまでピンクだ。
「今夜は、ここで寝てちょうだい。布団を出すから」
また、おや、と葵は思った。亜子が本当にわがままなら、布団を自分で出すなんて考えもしないはずだ。
「空いているお部屋がありましたら、自分で片づけて、寝ますが」
「だめ!」
亜子の声が飛んだ。
「ひとりぼっちが、その、……いやなのよ。悪い?」
「いいえ、ちっとも」
声が頼りない。ひょっとして、亜子は淋《さび》しがり屋なのか?
亜子はクローゼットを開けて、やはりピンクの布団を出した。
「わたくしが敷きますから」
葵はすかさず言った。これでは自分の仕事がない。
「もう、眠い?」
「亜子さまが起きていらっしゃるのなら、何時まででも起きております」
「じゃあ、お茶を淹れて」
亜子は床に置かれた電気ポットを指差した。保温のランプが点《とも》り、湯気を噴き上げている。
「それと私のことは、『亜子さん』でかまわないわ。その……メイドって言っても家族でしょう? よそよそしいのは嫌いなの」
「かしこまり……分かりました」
部屋の一隅《いちぐう》に小さな棚《たな》があり、トワイニングのオレンジペコの缶と、ピンクの陶器《とうき》のティーポット、それにお揃《そろ》いのマグカップがあった。
「あの、差し出がましいようですが」
「何よ」
「紅茶は、電気ポットで淹れては味が落ちます。沸騰《ふっとう》したお湯でないと」
電気ポットの保温温度は、九十度程度のものだ。
「メイドのくせに、私に逆らうつもり?」
亜子の厳しい声が、しかし葵には、無理をしているように聴こえた。
「とんでもありません。ですが、一度でけっこうですから、わたくしの――」
「私の!」
「はい。私の淹れる紅茶を、飲んでみていただけないでしょうか」
「ずいぶん自信があるのね」
ドレスを脱ぎ捨てながら、亜子は皮肉っぽく言った。
「じゃあ、やらせてあげる。好きなようにして」
「ありがとうございます」
葵は頭を下げた。
一階の台所へ向かった葵は、薬缶《やかん》でお湯を沸《わ》かし、まずティーポットを温めた。葉の量に気を配って、ティーポットを薬缶に近づけ、沸騰するお湯を注ぐ。充分に蒸《む》らして、サーバーがないので茶こしを使ってマグカップに直接注いだ。
紅茶を運ぶ途中、居間の前を通った。徹太郎の声が聴こえる。電話をしているらしい。
「ええ、あの事件の娘です。まさか、うちへ来るとは……いえ、亜子もすべてを話すほど、馬鹿な子ではありません。……信じて下さい。事件のことは忘れるよう、よく言い聞かせますから。……めっそうもありません。一蓮托生《いちれんたくしょう》ではありませんか。私がサンパイのことでどれだけ困っているかは、ご存じでしょう? あなたを裏切るようなまねは、決して致しません」
……『サンパイ』……?
葵の頭の中で、ひとつの光がひらめいたような気がした。だが、それがなんであるかは、まだ葵にも分からなかった。
紅茶を持って上がると、亜子はもうパジャマに着替えていた。やはり、ピンクだ。
「どうぞ。熱いので、お気をつけて下さい」
葵はテーブルの上に紅茶を置いた。
ピンクのカーペットの上にぺたんと座った亜子は、紅茶をすすった。
「おいしい……」
思わず、というように声を漏らす。
「これからは、いつでもおいしい紅茶を淹れて差し上げますから」
葵は微笑んだ。
「それと、この辺に商店はありますか?」
「コンビニなら、歩いて三分。商店街は徒歩十五分よ。それが何か?」
「失礼だとは思ったのですが、先ほど冷蔵庫をのぞいたら、卵も牛乳も切れていました」
「悪かったわね」
亜子はむくれた。
「いいえ、どなたも家事をなさらないのなら当然です。明日は早起きして、朝食の材料を仕入れて来ます」
「朝ご飯なら、トーストと紅茶で充分よ」
「食パンもずいぶん日が経って、乾いてしまっています。パン屋を探してみましょう」
葵が言うと、亜子は不思議そうな顔をした。
「どうしてそんなにお節介なの? 私がかわいそうに見える?」
葵は首を振った。
「とんでもありません。ですがメイドとして働くからには、お仕えする方に少しでも心地好い暮らしをしていただくのが務めです。料理はそれほどの腕ではありませんが、朝食の用意なら慣れていますから」
「仕事人間なの? お給料が高いから?」
亜子は皮肉を言ったつもりのようだが、葵は動じなかった。
「お金の問題ではありません。メイドを雇っただけの価値があった、と思っていただけるのが、何より私にはうれしいのです。それがメイドというものです」
「あなたも、変わったものね……」
亜子は、ぽつん、とつぶやいた。
「あの頃のあなたは、いじましいぐらいおどおどしていた。それを無理に明るくふるまおうとしていた。いじめがいがあったわ」
「そうですか」
自分ではあの頃、そんなことは意識してはいなかった。
「でも、今のあなたは、私なんかよりずっと堂々としている。どっちが主人なのか、分かりゃしないわ」
「そんなことはありません」
葵はしだいに、亜子に同情する気持ちになっていた。なぜかは分からなかったが。
「私にとっては、意地悪な亜子さんそのままです」
わざと言ってみると、亜子はふいに、しょげたような顔になった。
「やっぱりそう? 私、あの人に嫌われるかしら?」
『あの人』……。
葵の胸がうずいたが、それでもなんとか微笑んでみせた。
「いいえ。日下部さんは、ありのままの亜子さんを受け入れてくれるでしょう。お優しい人ですもの」
言うと、亜子は、すがるような目になった。
「ほんと? ほんとに嫌われないと思う?」
これが恋というものなのだろうか。恋は女を弱くする。それは亜子にも当てはまるのだろうか。そう思いながら、葵はうなずいた。
「ええ、きっと」
「もし、結婚がうまくいかなかったら……」
それでも心配そうに、亜子はつぶやいた。
「わが家は破産だわ」
……え?
「あの、今、なんと――」
訊き返すと、亜子の目がうるんだ。
「私でよかったら、お話を聴かせてくれませんか? 秘密は守ります」
葵の言葉に、せきを切ったように亜子は話し始めた。
「私が清市さんを選んだわけじゃないの。私は、人質なのよ」
「人質?」
どういうことだろう?
「今、全国でサンパイが問題になってるの、知ってる? 産業廃棄物よ」
亜子の父が電話で言っていたのは『産廃《さんぱい》』だったのか。しかし、それが……。
とたんに葵の頭が回転を始めた。亜子は話を続けた。
「建設業に、廃棄物はつきものよ。でも、首都圏の処分場は極端に不足しているんですって。廃棄物の捨て場がないの。それなのに廃棄物を出す私たちを取り締まる法律は厳しくなる一方。そこにつけこむのが処理業者なのね。書類の上では、法律通りに処分してることになってる。でも、捨て場がないんですもの、みんな、からくりは分かっているのよ。よっぽど大きな処理業者でない限り、法律通りにすべてを処分することなんて、できないわ」
「つまり、不法投棄《とうき》と言いたいんですね」
葵の言葉に、亜子はうなずいた。
「清瀬では大きな会社といっても、うちなんかは建設業界全体から見たら、中小なのよ。処理業者に高いお金を払う余裕はないわ。だから、昔からつきあいのある清市さんの家、日下部環境管理に頼み込んでいるの。もちろんパパは、廃棄物が不法投棄されていることは知っているわ。いいえ、日下部家のほうから匂わせてきたのよ。万が一にも告発されないためにね。もし日下部家のきげんを損ねて、処理を断わられたら、もっと怪しい、費用も高い業者に頼むしかない。頭が上がらないのは、うちのほうなのよ」
「そうだったのですか……」
「今では日下部環境管理のほうが、よっぽど大きい会社になっているのよ。もちろんその財産は隠されているけどね。リベートでうるおって、隠し資産を溜め込んでいるの。そんな日下部家に、パパはすがるしかないのよ。そのためにはなんでもした。あのことも……」
そこで、亜子は言いよどんだ。
「あのこと?」
「今は、まだ言えないわ。ごめんなさい」
亜子は首を振った。
「そしてとうとう、今度の結婚話よ。清市さんのほうから持ちかけられたの。口封じのために。私たちが秘密を知りすぎてしまったことに気づいたのね」
「不法投棄以外にも?」
亜子の言葉にショックを受けながら、葵は訊いた。
「それだけじゃないわ。うちの会社はまだ、優良企業と言われてる。そこが取り引きしている廃棄業者なら大丈夫だ。他の建設業者は、そう思うのよ。その信用を得るための結婚なの。うちは、日下部のお飾りになるの。……あなたが清市さんをどう思っているか知らないけれど、これが事実なのよ」
「でも清市さんは、同窓会の会場ではあなたに頭が上がらないようでしたけれど」
「それも、清市さんの命令」
亜子はふっ、と笑った。
「あくまでも、私がわがままであるように振る舞え、そう言われているの。それなら誰も怪しまないでしょう? 清市さんと、日下部の家のことを」
「信じたくありません」
葵はがんこに首を振った。葵の王子様がそんなにも腹黒い人だったなんて、絶対に思いたくない。
亜子は淋しそうに笑った。
「だったら、教えてあげる。あの人の正体をね」
「正体って?」
嫌な予感を感じながら、葵が訊き返したときだった。
ふいに部屋の灯《あか》りが消えた。窓からは月は見えず、ほとんど真っ暗になった。だが葵は夜目が利く。あわてている亜子の姿もはっきりと見えた。
「何? 停電?」
「そうではなさそうですね」
葵は窓に近づき、見回した。灯りが消えているのは、この家だけだ。
「誰かが電線を切ったのでしょう」
「誰が? なんのために?」
落ちついて、葵は言った。
「すぐに分かるわ。それより亜子さん。はっきり答えて。私についての噂をあなたに流したのは、清市さんなんでしょう?」
亜子はためらっていたが、やがておずおずとうなずいた。
「四年前のあの頃、もううちの会社は、日下部に頭が上がらなくなっていたの。でも、私はまだ清市さんを信じていた。なのに清市さんは、私に命令したのよ。あなたを――」
「それ以上は、言わなくても分かるわ」
葵は答えた。王子様の幻が、音を立てて崩《くず》れていった。
日下部環境管理が業績を伸ばした裏には、後ろ盾がいるのだろう。その後ろ盾は、父の死に関係している。ただひとり生き残った葵が、執念《しゅうねん》で事件の謎を解き明かそうとする、ほんのわずかな可能性でもつぶしておきたかったに違いない。だから亜子に命じて噂を流し、いじめもおそらくは命令して、葵を追いつめたのだ。葵が家を飛び出さなければ、あるいは叔母夫婦ごと、葵を……。
はっきりとした怒りがこみ上げてきた。亜子を操ったのは清市だ。そして葵の心を弱くするために、優しくしてみせたのだ。葵が清市に惹かれるほど、亜子の仕打ちとの落差に、葵は耐えられなくなる。そこまで計算していたのに違いなかった。
「男の嘘は……」
朝倉老人の言葉を思い出して、葵はつぶやいた。
「え?」
「いいえ、なんでもないわ。それより亜子さん、クローゼットに隠れて。誰かがこの家を狙っている。あなたを危険な目に遭《あ》わせるわけにはいかない。私が守ってみせるわ」
「でも若槻さん、あなたは……」
不安そうな亜子に、葵は微笑んでみせた。
「国家特種メイドはね、武道も学んでいるの。いいから、早く」
とまどったようすで、それでも亜子はクローゼットに隠れた。
さっきの徹太郎の電話、それはまちがいなく日下部へのものだったが、それで相手は葵がなんのためにこの家に入り込んだのか察したのだろう。亜子が口を割れば、日下部の正体はばれ、葵はもちろん真実を追究しようとするはずだ。そう思っているのだと、葵は確信した。
亜子も、そして亜子の父も、ただではすまないだろう。それを守るのは、メイドとしてという以上に、亜子の本心を知った葵の、果たさなければならない務めだった。
葵は枕元に電気スタンドを置き、クイックルワイパーをひそかに握ったまま、布団に入った。動きやすい、いつものタンクトップとショートパンツ姿になっていた。
その灯りに呼び寄せられる蛾《が》のように、窓の外に人影が現われた。全身黒ずくめの男が、三人いる。おそらくそれ以上はいないだろう、と葵は判断した。六畳の部屋で動き回るには少人数のほうがいい、と考えているはずだ。
ガラスを切るかすかな音がして、窓の内鍵が外された。静かに、三人の男は部屋へと入ってきた。あっという間に、葵の寝ている布団を取り囲む。
「起きろ」
ひとりの男が、声を殺して言った。
葵は眠そうに目をこすって、ぼんやりとしたように答えた。
「……誰?」
「いいから起きるんだ。一緒に来てもらおう」
どうやら男たちは、葵を拉致《らち》するつもりらしい。訊問《じんもん》のために連れていくのか、どこか他の場所で始末するのか。いずれにせよ――葵は心の中で微笑んだ。そのほうが都合がいい。亜子たちに迷惑はかからない。
「怖いわ……あなたたち、なんなの?」
葵は布団を胸に抱き、わざとおびえてみせた。男のひとりが舌打ちした。
「警察庁長官の家にいるといっても、しょせんは小娘か」
どうやら、メイド刑事《デカ》であることまでは知られていないようだ。それならそれなりの『おもてなし』というものがある。
「あの、命だけは助けて下さい」
葵は哀れっぽい声を出した。
「そいつはお前の心がけ次第だ」
嘘をつくんじゃないよ。葵は心の中でつぶやいた。
「分かりました。でも……」
「まだ何かあるのか」
男たちはいらだち始めたようだ。
「着替えますから、後ろを向いていてもらえません?」
「そうはいかないな。お前から目を離すな、ってご命令なんでね」
「まあ、なんてはしたない」
葵は眉をひそめて、細い声を出した。
「そんな方々に……ついていく義理はねえんだよ!」
怒鳴るなり葵は布団をはねのけて、クイックルワイパーの柄で男のひとりの顔面をねらい澄《す》まして打った。男は顔を押さえてよろける。続けざまにみぞおちを突くと、男は苦しそうに倒れた。
他のふたりがあわてたように葵につかみかかる。そのときにはもう立ち上がっていた葵は、クイックルワイパーを投げ捨て、ひとりを正拳突きで、もうひとりを後ろ回し蹴りで地面に沈めた。それぞれ気絶させておいて、亜子に声をかける。
「亜子さん、もう大丈夫よ。それよりガムテープはある?」
「机の二番目の抽出《ひきだし》にあるわ」
クローゼットの中から、おどおどとした声がした。まだ怖くて出てこられないのだろう。葵はガムテープを取り出し、わずかに動いている男たちをすばやくぐるぐる巻きにした。いつも持ち歩いているナイロンロープでは、心もとない。
「てめえ、ただのメイドじゃねえな?」
ようやく意識を回復した男が言う。葵はしれっとして答えた。
「鍛《きた》えておりますので」
そして、地面に転がった男の前に片膝をつき、ぐいっ、と顎《あご》を上げさせた。
「日下部の手下か?」
男は目をそらした。
「答えないなら、顔もぐるぐる巻きにしてやろうか? 窒息死は苦しいぜ」
すごみを利かせた顔で葵は笑い、ガムテープを引っ張った。その音にようやくおびえたように、男は答えた。
「日下部の家から来たのは確かだ。だが俺たちは、あんな小悪党の手下じゃない。ある方に言われて、日下部も――」
「見張ってる、ってわけか」
「あの方に逆らったら、この家はもちろん日下部も、警察庁長官だって、ただじゃすまないことになるぜ」
男はにやっと笑った。葵はため息をついて、急所を指で突いた。男は気絶した。
布団の脇のバッグから携帯を出して、葵は短縮ボタンを押した。
「梶さん? 葵です。……速水さんの屋敷にいます。ネズミが三匹、忍び込んできました。……ええ、もちろん動けなくしてあります。至急、引き取って下さい。それから――」
電話を切ると、ようやく亜子が、クローゼットから転がり出てきた。
「葵さん、大丈夫?」
「これくらいのことには、慣れているのよ」
葵は笑ってみせた。
「分からないわ。あなたは、何者なの?」
「メイドよ。警察庁長官の」
葵はそれだけ答えた。
「亜子? 亜子!」
物音を聴きつけたらしく、徹太郎が部屋へ入ってきた。三人の男たちを見て、ぎょっとなる。
「まさか、こいつら、亜子を……」
「ううん、パパ。狙われたのは葵さんなの」
亜子は首を振った。
「日下部の家に電話しましたね。早速歓迎に来てくれたのです」
葵は微笑んだ。
徹太郎は、がっくりとうなだれた。
「すまん! あいつらに逆らったら、会社はともかく、亜子が――」
「気にすることはありません。父親は、娘を他の誰よりもかわいがるものです。そうでなければなりません」
葵は答えた。
「ですが、このまま彼らとつきあっていたら、いいえ、そのかわいい亜子さんを日下部にお嫁入りさせたら、あなたは父親失格です。そうは思いませんか?」
「怖かったんだ……」
亜子の父親は、うめいた。
「日下部は、その筋の者とつるんでいる。いや、その後ろには、私も正体を知らない、もっと大きな力がある。なんでも、国家を動かせるほどの――」
「それを怖がっていては、私の目的は果たせません。私の本当の御主人様、警察庁長官・海堂俊昭も同じです」
葵は静かに言った。
「目的?」
「私の父を殺した真犯人を、あばくことです。――あなたたちの身柄は、警察庁が保護します。ですから警察にすべてを話して下さい。すっかり話してしまえば、もう口封じをされる心配はありません」
「本当に、大丈夫なのか?」
心配そうな徹太郎に、葵はきっぱりと言った。
「この事件の捜査は、警察庁長官が直接に指揮を執《と》ります。命に替えても、あなたたちはお守りします。信じて下さい」
葵の目を見て、父親は、ようやくうなずいた。
「ああ。それが、私たちがあんたにできる、たった一つの罪滅ぼしだ。なあ、亜子」
亜子も、まだ目はおびえていたが、うなずいた。
「ええ、パパ。……だから、葵さん。私たちを許してくれる?」
「許すも許さないもないわ」
葵は首を振った。
「私たちは、同じ被害者ですもの。時間はかかったけれど、亜子さん、私たちは、これから友だちになれるかしら」
「ええ、ええ」
亜子は何度も首を振った。
「ありがとう」
葵は微笑んだ。四年間、心の底に溜まっていた暗い闇が、晴れていくようだった。
徹太郎に葵は訊いた。
「この家に、スクータはありますか? バイクでもかまいません」
「バイクなら、得意先回りをするのに使うスーパーカブがあるが」
亜子の父親は、ハッとしたようだった。
「あんた、まさか……」
「私には、まだやらなければならないことがあるんです」
「危険すぎる! 殺されてしまうぞ」
葵はきっぱりと首を振った。
「実の両親を死に追いやった、その真犯人を引きずり出すまでは、私は死にません。たとえ殺されても、七回生まれ変わって、どこまでも追いかけてみせます。……私も今までは、あきらめていました。どうせ事件は解決しない、と。ですが、犯人は私の過去を奪ったのです。黒い色で塗りつぶしてしまったのです。亜子さんを利用して。それが許せません。ひとの人生をもて遊ぶ奴らを、許しておくわけにはいかないのです。もう、復讐だけではありません。これ以上、犠牲者を出すわけにはいきません」
葵は、亜子ににっこりと微笑んだ。
「一つだけ、約束して。亜子さん」
「何?」
とまどった顔をした亜子に、葵は言った。
「朝はパン屋さんへ行って、焼きたてのパンを買ってきてね。おいしいご飯を食べて欲しいの。もうあなたたちは、何におびえる必要もないんですもの」
深夜の清瀬の街外れを、HONDAのスーパーカブが疾走《しっそう》していく。
メイド服に丸い眼鏡をかけた少女は、バイクの起こす風に長い黒髪をなびかせて、まっすぐに前を見つめていた。
風は、向かい風だった。だが葵には、その風が自分を励《はげ》ましてくれるように思えた。
曜子たちは、葵が声をかければいつでも手伝ってくれるだろう。だが葵は、この戦いだけはひとりでやってのけるつもりだった。
「これは、あたしの問題なんだ」
葵のつぶやきが、風にかき消された。
日下部家は、亜子の家よりはずいぶん大きな、木造の邸宅だった。
洋室のリビングには日下部清市、その父親・日下部吾郎《ごろう》、屈強な男たちが数名と、それに目立たない黒のスーツを着て髪の長い、のっぺりとした顔立ちの男がいた。
「始末はとうに、済んでいることでしょう」
その男が言った。
「もったいないなあ」
まだスーツを着ている清市が、無邪気な笑顔で言った。
「葵の奴、すっかりきれいになってたよ。かわいがってやりたかったね」
「清市!」
いかつい顔の日下部吾郎がたしなめた。
「冗談だよ。そんなことをしたら、『あの方』ににらまれちまう」
清市は肩をすくめた。
「お前はまだ、あの方の怖ろしさを知らんのだ。小指一本動かすだけで、日下部の家などこの世から消えてなくなるのだぞ」
顔つきに反して、吾郎の声はおびえていた。
「清市さんには、実感がわかないでしょうな」
黒のスーツの男が微笑んだ。
「この国が、あの方なしでは一日たりとも動かない、ということを」
「だって、マンガみたいじゃないか。日本の黒幕、なんてさ」
清市は笑った。
「それでは日下部環境管理の株を、そうですね、一週間ほど暴落させてみせましょうか。たちまち会社は――」
「失礼をお許し下さい! 木ノ上さん」
吾郎はソファーから飛び降り、土下座した。
「息子はまだ、世間知らずなのです。あの方のためなら、こんな親不孝者の命でもなんでも差し上げます。ですから……」
「坊やの命など、なんの役にも立ちません」
木ノ上と呼ばれた男は、無表情に答えた。
「清市さん。あなたを生かしておくのは、お父上の会社を継いで、あの方のために働いてもらう、ただそれだけの理由です。そもそも若槻葵をあのとき殺し損ねた時点で、あなたの役目は終わったのですよ。いや、この世に存在する価値がね。ただ、むやみに死体を増やすのは得策ではない、あの方はそう考えていらっしゃる。それだけのことです。あなた方の命は、あくまであの方の手の中にあることをお忘れなく」
周りの男たちが、わずかに日下部親子に近づいたようだった。
淡々と話す木ノ上の言葉にこもった冷酷さを、清市もようやく悟ったのか、笑顔をひっこめた。
「今夜も――」
木ノ上は続けた。
「私たちが手を下すべきではなかったのです。今の警視庁は、警察庁長官との仲が密接なのですが、長官の海堂俊昭はいささか厄介な人物でしてね。国家公安委員長とも、うまくやっているのが面倒ですな。そんな人物に、あの方について、知られたくはないのですよ。だが、あなたの社員では安心できない。私たちの仕事を、これ以上増やさないでいただけませんか」
「申しわけございません」
吾郎は頭を床にすりつけたままだった。
「死体の処分はお任せ下さい。廃棄物として、跡形《あとかた》もなく処理致します」
「でも、なんで四年も生かしておいたんですか?」
清市が、ふてくされたように言った。
「若槻葵が、海堂の屋敷にいたからです」
木ノ上は静かに答えた。
「清瀬の街で消えたとなれば、海堂は動くでしょうが、なんの証拠も見つからない。速水たちが口を割ればまた別ですが、速水亜子と若槻葵は敵同士。海堂に情報が漏れるおそれはないでしょう」
「ああ。憎しみ合っていたからね」
清市が笑った。
「女なんて、しょせんは感情の生きものだよ。ちょっと感情のツボをつついてやれば、思った通りに動いてくれる。同窓会での葵のぶざまなようすを、見せてやりたかったね」
「人間は、みな、そういうものです」
木ノ上は言った。
「少しは分かってきたようですね。人を操るということが」
「だが、お前が目立ってはいかん」
吾郎が頭を上げて言った。
「あくまで速水を隠れみのにしておくのだ。手に負えないようなことがあったら、切る。建設業者はいくらでもいる。清瀬にこだわることもあるまい」
「ああ、親父。嫁の代わりもね」
清市は笑った。
「あの程度の家でお嬢様ぶってる女なんか、葵と同レベルだよ。こっけいだね」
「……そんなにおかしいですか」
どこからともなく、声がした。
「誰だ?」
吾郎が辺りを見回す。
リビングの庭に面した側は、一面、ガラス戸になっていた。そこから見える庭に白いものが流れ、視界を完全にさえぎった。
「霧かな」
清市が眉をひそめる。
「人を操る、などと大それたことを、誰にも言う資格はありません。中でも、あなたたちのような本物の悪党に」
声は庭のほうから聴こえてくるようだった。清市がハッとした。
「この声は、まさか!」
吾郎も何かを悟ったらしい。日下部親子は庭へと走り出た。
「葵ちゃん? 葵ちゃんなのか?」
清市が呼ぶ。その声に応じるように、霧のようなものは晴れていった。
そこに現われたのは、白木の高い棒杭《ぼうくい》だった。その表面には、黒々と文字が記されていた。
『この先 冥途《めいど》』
「こ、これは……」
吾郎がうめいた。
「メイドの一里塚!」
「なんだよ、それ」
せせら笑いながら杭を見上げた清市の表情が変わった。
メイド服姿に眼鏡をかけ、クイックルワイパーを手にした葵が、杭の上にすっくと立っていた。髪は結い上げている。
「話はすっかり、聴かせていただきました」
落ちついた声で、葵は告げた。
「しょせん、男の考えることなど下司《げす》なものですね。いえ、下司なのはあなたたちです。たしかに女は情に流されやすいもの。ですが、亜子さんは愛だの恋だのより、わたくしとの友情をとりました。清市さん、あなたの正体も、すっかり話して下さいましたわ」
「亜子の奴……」
清市はつぶやいたが、それでも爽《さわ》やかな笑顔を作り、葵に向けた。
「あんな子と、この僕と、どっちを信じるんだい? 葵ちゃん。僕は君の味方じゃないか」
葵はため息をついた。
「まだおっしゃるのですか。さっきからのやりとりも、すべてうかがったのですよ」
そして葵は、家の中に呼びかけた。
「出ていらっしゃい! そこに隠れている方々!」
家の中はしん、として、なんの反応もなかった。吾郎がうろたえた表情になった。
「まさか、木ノ上さん――」
思わず名前を呼んでしまった吾郎は、ハッと口をつぐんだがもう遅い。葵はふわりとスカートの裾《すそ》を翻《ひるがえ》して飛び降りた。片膝をついて着地し、立ち上がると日下部親子をにらみつけた。
「木ノ上というのは、あなたたちの背後にいる者の、連絡係か何かですか? それがあなたたちを、手先に仕立て上げたというわけですね。どういう取り引きがあったのか、事件の黒幕は誰なのか、そして――わたくしの父の死について何を知っているのか、すべて話していただきましょう」
「べらべらしゃべりやがって」
清市が、凶暴な表情になった。
「もう、仲良しごっこは終わりだ。甘い顔をみせてりゃ、つけあがりやがって。お前、何様のつもりだよ?」
「わたくしは、一介のメイドに過ぎません。ですが……」
葵は、静かに言って、襟の飾りボタンを外し、中を開いて親子に突き出した。
「さ、桜の代紋《だいもん》!」
吾郎がうろたえる。
「誰が呼んだか存じませんが、私の通り名はメイド刑事。特命を受けて――いえ、この事件は何よりわたくし自身のために、謎をあばかなければならないのですわ」
葵は言い放った。
清市は、それでもせせら笑った。
「警察がなんだって言うんだ。こっちには、警察なんかよりずっと強い後ろ盾がついてるんだ」
「その後ろ盾とやらに決して屈しないのが、わたくしの御主人様でございます」
葵は答えた。
「御主人様は、わたくしに約束して下さいました。父の死にまつわる謎を、解き明かして下さると。わたくしもそのためなら、命は惜しみません。この紋章《もんしょう》は、わたくしと御主人様との、信頼の証なのです。その絆《きずな》は、一生切れることはございません。……それに引き替え、あなた方の後ろ盾とやらは、どうやら見切りをつけるのが早いようですね。お部屋の中は、空っぽのようですが」
吾郎があわてて、リビングへ飛び込む。
「木ノ上さん! 誰も、誰もいないのか?」
「あなたたちは、見捨てられたということです」
葵は言った。さすがの清市も、表情を変えた。
「すでに警察庁特捜班がこちらへ向かっています。清瀬の道は、すっかり封鎖《ふうさ》しました。手下のひとりであっても、捕らえなければなりません」
しかしそのとき、爆音が響《ひび》いた。
邸宅の向こうから黒いヘリが飛び立ち、庭にいやな風を巻き起こしながら、あっという間に上空高く消えた。ヘリの中のようすは、葵にも見えなかった。
「いつの間に、ヘリコプターなんか……」
清市が、茫然《ぼうぜん》としたようにつぶやく。
「空までは……。うかつでした」
葵も悔しさを感じながら夜の闇に消えていくヘリを見上げ、携帯を取り出して梶警視正に告げた。
「梶さん。容疑者は空へ逃げました。ええ、ヘリコプターです。なんとか、お願いします。……なんですって? いえ、分かりました」
葵は表情を変え、携帯をしまった。
いつの間にか吾郎は庭にふらふらと歩み出て、がっくりと膝を突いている。
「速水さんのお電話で、あなたたち、いえ、その背後にいた者が送り込んだ刺客《しかく》、三人は、私が倒しました」
葵は、どこか放心したように告げた。
「倒した?」
清市が驚いたような顔になる。
「ええ。ですが、――すぐに警察を呼んだのですけれど、三人とも、奥歯に毒薬を仕込んでいました。自らの口を封じたのです」
葵は悔しくてならなかった。もっと慎重に扱っていれば、自殺を防げたかもしれないのに、証人をむざむざ死なせてしまった。それは葵の失敗だった。
残ったのは、目の前にいる、この親子だけだ。
「梶さんたち、遅いわね」
つぶやくと、葵は日下部親子を見つめた。
「もう、『あの方』とやらは、あなたたちを助けてはくれないでしょう。それどころか、始末についても考えているに違いありません。何しろあなたたちは、貴重な証人なのですから」
親子は、びくっ、としたようだった。
「あの方とやらの正体については、御主人様が調べて下さいます。命が助かりたいのなら、父の死について知っていることを、すべて話していただきましょう。私が知りたいのは、あなたたちの会社の不正でも、木ノ上とやらの正体でもありません。父の死の、真実。ただ、それだけです」
「そんなもん、忘れちまえよ」
ふてくされたように、清市が言った。
「お前が昔にこだわってる限り、お前だけじゃない、俺たちまで狙われるんだ。いい迷惑なんだよ。……お前をいじめから助けてやったじゃないか。感謝されるのが当然なんだ。それを、罪人みたいに問い詰めやがって。人にものを頼むときはなあ、『お願いします』って頭を下げるもんなんだよ!」
「それがあなたの言い分ですか」
葵はつぶやくと、眼鏡を外して投げ捨て、髪をほどいて、首を強く振った。黒髪がなびいた。
つかつかと清市に近寄った葵は、そのふてくされた顔を鋭く見つめると、いきなり平手打ちにした。
「何をするんだ!」
叩かれた頬《ほお》を押さえた清市に、葵は、低い声で力をこめて言い放った。
「あたしはカタギには手は出さない。だが、カタギ面して、亜子の純情、あたしの純情、ふみにじったお前に、人間を名乗る資格だってないんだよ!」
そして葵は、腹の底から積もりに積もった怒りを叩きつけた。
「悪党ども、冥途が待ってるぜ!」
清市はキレたような表情で殴りかかろうと拳を振り上げたが、それ以上何もさせずひと言も言わせず、葵は足の裏を使って相手の向こうずねを蹴飛ばした。清市は、ぶざまに地面に転がった。
その後頭部に、葵はクイックルワイパーの先端を突きつけた。モップの部分とキャップを外した先端は、鋭い槍《やり》になっていた。
「動いたら、ぐさっと行くぜ」
葵は告げた。
「さあ、そこの親父。話してもらおうか」
「息子を殺さないでくれ!」
吾郎はすがるような目で葵を見た。
「私たちは、本当に何も知らないんだ。ただ、あんたが犯罪者の娘だと広めろ、と木ノ上さんに命じられて、あんたを追いつめるようにと……いざとなれば、あんたの叔母さんたち共々、あんたたちを、その……」
吾郎は口ごもった。
「事故にでも見せかけて、殺そうという腹だったのか?」
葵の問いに、吾郎はおそるおそるうなづいた。
どこまで卑劣《ひれつ》な――葵は怒りで我を忘れそうだった。幸い、あのときのことをきっかけに、叔母夫婦は清瀬の街を離れ、田舎で静かに暮らしている。まさかそこまで敵の手が及ぶことはあるまい。しかし、一歩まちがっていたら、あの親切な叔母さんたちも命を失っていたのだ。
「あんたは幸い、レディースに身を落としてくれた」
吾郎は続けた。
「もう、あんたの言うことを、まともに取り合う奴はいない。私たちの役目は終わった。だがそれからも、木ノ上さんを通じて、いろんな指令が来た。その代わり、不法投棄はもみ消してもらう約束で、私たちは、……私たちも被害者なんだ!」
葵はちらりと足許を見た。後頭部にちくりという感触を感じただろう清市は、観念したように、うつぶせに横たわっている。それを確かめておいて葵は吾郎に歩み寄り、ぐいっ、と襟元を締《し》め上《あ》げた。
「被害者だ? そう自分に言い訳して、何人、人を泣かせてきた? あたしだけのことじゃないみたいだな。だったらなおさら、許せないんだよ!」
葵は吾郎を突き放した。吾郎はよろけて尻餅《しりもち》を突いた。
「話してもらうぜ、洗いざらい。警察でな」
言ったとき、葵の携帯が鳴った。
「動くなよ」
クイックルワイパーの先端で威嚇《いかく》しながら、葵は携帯を取った。
「梶さん?」
『葵ちゃん、逃げろ……』
梶警視正の、苦しそうな声が聴こえた。
「梶さん、どうしたの?」
葵はハッとした。電話の向こうで、鈍い爆発音が聴こえた……。
「急げよ!」
夜の清瀬の街。いつもの冴えない中年男ではなく精悍な表情になった梶警視正が、パトカーの助手席から、運転している若い刑事に声をかけた。
「ようやく向こうさんが顔を出してくれたんだ。ひとりだけでもとっつかまえなきゃ、特捜班の名折れだ」
梶は、安葉巻を取りだし、バーナー式のライターで火を点けると、せわしなくふかした。
「葵ちゃん、待っててくれよ。きっと手助けしてやるからな……」
そのとき、交差点の左側から大きなクラクションの音がした。梶も、運転している刑事もハッとした。
「梶さん、あれは……」
梶の判断は速かった。無線機を取り上げ、後ろに続くパトカーに指示を飛ばした。
「各車両、スピードを落とせ! 妨害だ!」
そして運転手に告げた。
「俺たちはすり抜ける。スピードを上げろ!」
うなずいた運転手がアクセルを踏んだ。交差点を渡ろうとしたとき――。
いきなり左側からものすごいスピードで大型のタンクローリーが突っ込んできた。運転手はハンドルを切ったが間に合わず、タンクローリーに衝突《しょうとつ》してしまった。轟音《ごうおん》と共に爆炎が広がった。
梶は車からかろうじて飛び出した。運転している刑事に声をかける暇《ひま》もなかった。その梶を、広がる炎が襲った。トレンチコートに火が点く。転がって消したが、煙と炎の熱とを吸い込み、激しくせきこんだ。
衝撃で立ち上がれないまま、見ると、梶の乗っていたパトカーはすでに激しく炎上していた。助手席の刑事の姿は、車の外には、なかった。
「畜生……」
唇《くちびる》をかんで、それでも梶は無線機を取り出そうとした。だが、遅かった。
用心のためにスピードを落とさせておいた後続のパトカーの列に、右側から曲がってきたもう一台のタンクローリーが突進してきたのだ。
たちまち爆発が起こり、パトカーは炎上した……。
『何人も、やられちまった……俺も、動けそうにない。今ごろは、そっちにも……』
それ以上は聴かずに携帯を切ると、葵は日下部親子を助け起こした。
「早く起きて! あいつらはあなたたちも消すつもりです!」
「まさか、そんな。もう、私たちは用済みのはず……」
まだ事態をのみこめていないらしい吾郎がつぶやく。
だが夜の闇を切り裂いて、大型車が迫ってくる轟音が急速に近づいてきた。
「なんでもいいから急いで下さい!」
葵は親子の手を引くと、庭から走り出ようとした。だが、ばりばりという音と共に家を破壊しながら、巨大なタンクローリーが庭へと突っ込んできた。
とっさに葵は渾身《こんしん》の力をこめて日下部親子を両脇に抱えると、走り出していた。
庭に突っ込んだタンクローリーに、人は乗っていなかった。家の残骸を引きずりながら葵たちめがけて突進すると、一瞬の後、爆発、炎上した。
巨大な火の玉が膨《ふく》れ上がり、葵たちの影を呑《の》み込《こ》んだ――。
気がつくと、屋敷の外に、日下部親子は倒れていた。ふらふらと立ち上がる。
目の前では、激しい炎が燃え上がっていた。
「葵……ちゃん?」
清市がつぶやく。吾郎が首を振った。
「投げ飛ばされたのが分かったよ。あの娘は私たちを助けてくれたんだ。命を賭《か》けて。おそらくはもう、炎の中で――清市、私は目が醒《さ》めたよ。会社のため、家のためなんてことで、悪魔の手先になっていた自分の愚《おろ》かさにな。人間にとって、一番大事な物は命だ。用済みになったら命を奪おうとする相手と、自分の命を賭けて、敵であるはずの私たちを助けてくれる人と、どっちを信じるか、答は明らかだろう」
清市は、ためらいがちにうなずいた。
「あ、ああ、父さん。でも、その葵ちゃんは、もう……」
「警察へ行こう。すべてを話すんだ。それが、私たちにできるたった一つの償《つぐな》いだ」
「それをうかがって、安心しました」
声が聴こえた。
「葵ちゃん?」
清市が目を見張った。吾郎も、信じられないような顔で、目の前の燃えさかる炎を見つめる。
炎を背後に黒い影が浮かび、葵の姿になって近づいてきた。メイド服は焼けこげ、顔はすすだらけだったが、なんということか、葵は眼鏡をかけ、髪を結い上げていた。
「まさか、そんな……」
吾郎が思わずつぶやく。葵は微笑んだ。
「わたくしは、死ぬわけには参りませんの。父の死の真相を明らかにするまでは」
「でも、あの炎の中から、どうやって?」
「理屈じゃないんです」
葵は言い放った。その声の強さには、それ以上の追及を許さないものがあった。
「ですが、ひとつまちがっていますわ、お父様。命よりも大事なものが、人間にはございます。魂《たましい》です」
「魂……」
「悪に屈せず、その力を借りずに自分の力で自分を支えようとする、魂こそが尊いのです。あなたたちはもう、そのことに気づいたはずです」
日下部親子は、ためらっていたが、やがてうなずいた。
道の向こうから、ふらふらと人影が近づいてきた。
「梶さん?」
葵は驚いた。葵のようにすすだらけになり、足を引きずっていたが、梶警視正はにっこり笑って片手を挙げた。
「遅くなって、悪かったね」
「いいえ、とんでもありません。ご無事なのですか?」
「なんとかね。俺にも、使命ってもんがあるんだよ」
梶警視正は、日下部親子のほうを向いた。
「葵ちゃんに感謝するんだな。その代わり、事情聴取には応じてもらうよ。向こうに、かろうじて無事だったパトカーが停めてある。手錠はいらないだろう。ついてきな」
おとなしく、梶警視正の後について歩き出した清市に葵は近づくと、大事にポケットにしまってあったレースのハンカチの包みを手渡した。
「これは?」
不思議そうな顔をした清市に、葵は微笑んだ。
「メイドの土産《みやげ》です。……さようなら」
私の王子様、という言葉を、葵はのみこんだ。
清市は、がっくりと首を垂れた。
「日下部親子は、おとなしく事情聴取に応じてくれた。速水親子もな」
二日後の朝。お屋敷の主寝室で、海堂が言った。
「だが、大したことは分からなかった。彼らはまさしく、単なる道具だったのだ。道具に重要なことを漏らすほど、相手は馬鹿ではない、ということだ。……すまん」
葵は頭を下げた。
「とんでもございません。それより御主人様、その黒幕とやらが御主人様に何か、圧力をかけて来るということはないのでしょうか」
それが葵の最も怖れていることだった。
「案ずるな。私も私なりに、保険というものをかけている」
それがなんであるか、海堂は語らなかった。葵も訊かなかった。
「たとえ、警察庁長官を解任になっても――」
海堂は言った。
「私は事件を追及し続ける。お前のためだけではない。今度の事件で、部下が何人も犠牲になった。職務とはいえ、とうてい許すわけにはいかない。もはやお前の敵は、私の敵でもあるのだ」
葵はうなずいた。悔しくてならなかった。自分のために、誠実な警察官が焼き殺されたのだ。
ドアが開いて、坪内弥助氏が入ってきた。両手に白い菊の花を抱えている。
「こんなもので、よろしいでしょうか」
海堂はうなずき、ベッドを出た。
「午後に、殉職《じゅんしょく》した警官の葬儀《そうぎ》がある。葵、お前も来るか」
「もちろんです」
「今日の仕事はいい。体を休めておけ。お前も疲れただろう」
「ありがとうございます」
葵は深く頭を下げ、自分の部屋へと戻った。
喪服《もふく》は、朝倉老人が用意してくれていた。まだ出かけるまでに数時間ある。葵はベッドの脇のアラームクロックをセットすると、メイド服を脱ぎ捨て、ベッドに横たわった。
MP3プレイヤーのヘッドフォンを耳にかけた。中森明菜《なかもりあきな》の『帰省』が流れる。淋しい歌声を聴きながら、葵は目を閉じた。
さまざまな光景が、頭の中を走馬燈《そうまとう》のように通り過ぎた。同窓会での亜子、自分の家で本心を明らかにした亜子、そして、清市……。
不思議なことに、頭に浮かんでくるのは、中学のあの頃、優しく微笑みかけてくれた、あの清市の笑顔だけだった。
その笑顔が、ゆっくりと薄れていった。
「思い出は、もう、いらない……」
葵は、つぶやいた。
自分の中で、何かが変わっていくのを、葵は感じていた。葵はもう、過去を取り戻すために闘うのではない。今、目の前に姿を表わした敵と、明日の自分を生きるために戦うのだ。
葵は、ゆっくりと目を閉じた。まぶたの裏に、怒りの炎が燃え上がっていた――。
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あとがき。
今回も、『メイド刑事』、裏タイトル「謎なぞ七色レディ」編におつきあいいただき、ありがとうございました(この裏タイトルの意味が分かる方は、相当なものですが)。
ここから読み始めていただいてもすんなり設定が分かるように、もちろん書いてはいますが、もしお気にいられましたら、1巻も読んでいただければ、大変光栄です。
思いの外、反響を得ましたこの『メイド刑事』ですが、私も十八年、この分野で書いていますので、ご好評の85%までは、はいむらきよたかさんの的確なイラスト、10%は編集のKさんやイラストレーター担当、営業の方々、そして書店の方々の、やはり的確な舵取りによるものだと思っております。内容への評価は、後からついてくるものです。
皆さま、そして、『メイド刑事』を支持して、買って下さった読者の皆さま、これからも、どうかよろしくお願いいたします。ご感想はmarika@hayami.netへどうぞ。
……とまあ、ここで終わってもいいのですが、あとがきというのは本全体のページ数を合わせるように書くものですので、あと少しおつきあい下さい。
先日、久しぶりに休みが取れたので、石垣島へ行ってきました。
石垣島、というのはずいぶん田舎のように聴こえますが、大きい書店だけでも四つはあり、レンタルビデオも充実しています。まあ、のどかな場所は、のどかなんですが。
そこで私は、案内してくれた現地在住の友人に誘われて、石垣牛の店で夕食を食べました。たまの休みでもあり、気が大きくなっていたのでしょう、値段が時価、という石垣牛のサーロインステーキを、食べてみました。
(メニューを見てから店を出るわけにもいかなかった、というのもありますが)
しかし、そのステーキのおいしかったこと。いや、「おいしい」などという表現で、伝わるものではありません。私も、(値段が)それなりのステーキを食べたことがないわけではないのですが、今まで食べてきたステーキはなんだったの? と言いたくなるような、まったく新しい体験でした。
そこで反省したのが、『メイド刑事』のことです。この小説は主に本物の上流階級を描いていますから、あらゆる基準から見て中流以下の生活を送っている私は、想像や、乏しい経験からの類推で描写するしかありません。しかし、例えば食べ物一つにしても、二百グラム千二百円のステーキを食べて、そこから類推している――というような、早い話が、貧乏人が考える「金持ち」のイメージで書いているのではないか。そんなことが、気になってきたのです。
だからといって、私が本物の「上流」の生活を送ることはできませんし、すべてを体験してみなければ書けないのでは、よく言われるように、ミステリ作家は人を殺してみなければならないのか、というおかしな話になってしまいますが、世の中には、自分の想像を超えるものが存在するのだ、ということは、忘れないようにしようと思います。
ただ、この物語のようなタイプの小説では、むしろ荒唐無稽というか、ある程度調べた上で、あえて嘘だろう? ということを書いたほうがいいこともあります。デフォルメということですね。
その辺でも、反省すべき点はあります。この第2巻には茶の湯のシーンが出てきて、かなり調べて書いたのですが、尊敬する橋本以蔵先生が書かれた『スケバン刑事II』での、お茶のシーンのぶっ飛び方には、まるでかないません。
もっとリアルに、そして、もっとぶっ飛んで書こう、というのが私の目標です。第6話のクライマックスなどでがんばってみたのですが、さて、読者の皆さまは、どう受け取られるでしょうか。
とにもかくにも、第3巻では、もっとはじけた『メイド刑事』の世界をお見せできるよう、現在構想中です。ある新しい人物も投入されます。どうぞ、お楽しみに。
二〇〇六年六月 沖縄はようやく梅雨明け
早見裕司
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【参考資料】
主に、次の資料を参考にしました。1巻ではレイアウトの都合で入らなかったものも入っています。また、直接参照していないものは記していません。
キネマ旬報映画総合研究所編映画プロデューサーの基礎知識」(キネマ旬報社)デヴィッド・W・モラー「詐欺師入門」(光文社)主婦の友社編「よく分かるイラスト版 見合い・結納・結婚のマナー」(主婦の友社)北見宗幸監修「はじめての茶の湯」(成美堂出版)千宗室「裏千家茶道のおしえ 新版」(日本放送出版協会)主婦の友社編「必携茶の湯禅語便利帳」畑正憲さんの著書(書名不詳)石渡正佳「産廃コネクション」(WAVE出版)阿澄一昌「廃棄物処理と経営」(日刊工業新聞社)マンガ技法研究会・小山雲鶴衣服の描き方 メイド・巫女篇」(グラフィック社)他