メイド刑事《デカ》
早見裕司
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目次
第1話 メイド刑事誕生《デカたんじょう》! 悪の汚れはお掃除《そうじ》します
第2話 ITバブルの罠《わな》! 謎《なぞ》の流れメイド・ニキータ
第3話 暴《あば》かれた過去また過去! 霧《きり》の港に別れの歌
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※この物語は全てフィクションです! 登場する人物、組織、固有名詞などは、作者の想像《そうぞう》の産物《さんぶつ》であり、万が一、現実と一致しても、実在《じつざい》のものとは一切関係ありません
※現実のクイックルワイパーやペティナイフを、改造したり、武器として使うのは、大変危険なだけでなく、人としてまちがった行為《こうい》です! 絶対にやめて下さい
※本を読むときは照明を明るくして、目から離して読んで下さい!!
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第1話 メイド刑事誕生《デカたんじょう》! 悪の汚れはお掃除《そうじ》します
(……殺気《さっき》!)
七月の熱帯夜に、若槻葵《わかつきあおい》は、ハッと目を醒《さ》ました。
ベッドのサイドテーブルでは、御主人様にいただいたアラームクロックの青いLEDが『3:02』の数字を明るく示している。こんな時刻にアポイントメントもなしで、『お屋敷《やしき》』を訪《たず》ねて来る客はいない。ましてや、建物の外からでも殺気を感じさせるような、客は。
葵は、上下ともグレイのタンクトップとショートパンツのまま、すばやく横に転がってベッドから滑り降り、そのまま回転して六|畳《じょう》の私室の向こう側、出窓へ近づくと、片膝《かたひざ》を立てて窓枠の下からそっと覗《のぞ》いた。エアコンのない部屋でかいた汗はすっかり引いていた。
お屋敷の門を乗り越えて、三人の、黒いスウェットを着た男たちがちょうど飛び降りたところだった。門から建物まで約五十メートル。今宵《こよい》は三日月で庭には灯《あか》りもなかったが、葵の目には、中腰《ちゅうごし》になって辺りのようすをうかがう男たちの姿がよく見えた。この暑いのに目出し帽をかぶっているのも。
片膝をついた姿勢のまま、葵は窓際に立てかけてあるクイックルワイパーを引き寄せた。葵は『クイックルワイパー』と呼んでいて、実際その商品にそっくりなのだが、科学警察研究所が開発した特別製のモップだ。市販のクイックルワイパーとシートの互換性《ごかんせい》もある。
賊《ぞく》は建物の裏手《うらて》へ回ろうとしているようだ。その動きから目を離《はな》さず、葵は出窓のバネを外し、両開きの窓がぱしん! と外へ開くのと同時に跳躍《ちょうやく》してひらりと窓枠を飛び越え、はだしのまま庭へと飛び出た。男たちがぎょっとして一斉にこちらを向く。玉砂利《たまじゃり》の上にすっくと立った葵は、左手に持ったクイックルワイパーを地面に立て、長い髪を一振りすると、凛《りん》とした声で男たちに告げた。
「どなたです。ここが、警察庁長官・海堂俊昭《かいどうとしあき》様のお屋敷と知ってのことですか」
小柄《こがら》な、きゃしゃとも見える少女が深夜の賊を前にして少しも怖《おそ》れるようすを見せないのに、三人の男はあっけにとられていたが、やがて、げらげらと笑い出した。
「おいおい、この家はどうなってるんだ? 防犯装置もないと思ったら、ガキが見張り番か?」
「どうやらお掃除姉ちゃんらしいぜ。頭がおかしいんじゃないのか」
「子どものお遊びにつきあっちゃいられねえんだ。俺たちは、警察庁長官に用がある。ケガする前に、さっさと部屋に帰っておねんねしな」
葵は太い眉の下の鋭い目で、三人を順番に見た。
「あいにくですが、御主人様はまだお休みです。それに――拳銃《けんじゅう》を持ったお客様をお取り次ぎするわけには参りません」
男たちは、ぎくり、としたようだった。
「ど、どうして――」
「ポケットのふくらみは、隠《かく》せませんわ」
葵はにっこりと微笑《ほほえ》んだ。理知的《りちてき》なきりりとした顔が、十七歳の、あどけない少女の表情になった。
「妙な奴だな。何者だ、お前!」
「わたくしは、当家《とうけ》のメイドでございます」
葵は言い放った。
「メイド?」
そのメイドが自分たちに立ち向かおうとしているのが男たちには不可解《ふかかい》そうなようすだったが、すぐに立ち直り、ばらばらに銃を抜いた。
「ちょうどいい。御主人様とやらの部屋に案内してもらおう」
三つの銃口を向けられても葵はひるまなかった。にこやかに言う。
「お気をつけ下さいまし。密売《みつばい》物のトカレフは、できが悪うございます。暴発《ぼうはつ》で、みなさまのお手を吹っ飛ばしかねません」
「知った風なことを!」
乾《かわ》いた銃声が次々にして、閃光《せんこう》がはじけた。しかし相手が引き金を引くまで突っ立っている葵ではなかった。クイックルワイパーを脇《わき》に保持《ほじ》したままひとっ飛びに賊へ向かって跳《と》ぶ。銃弾《じゅうだん》は庭の植え込みに柔《やわ》らかく受け止められた。賊達の目には、葵がその場から消えたように見えただろう。それほど葵の動きはすばやく、意表をつくものだった。
跳躍した葵は上体を倒して玉砂利の上で一回転し、男たちの足許《あしもと》に飛び込むと同時に跳び起き、体を起こした勢いを乗せてクイックルワイパーの柄《え》を突き出すとひとりの男の鼻先を突いた。鋭く顔を突かれた痛みで男は銃を取り落とし、ひっくり返った。
驚《おどろ》いた他のふたりが、銃を葵のほうへ向ける。素人《しろうと》だ――葵は思った。拳銃は、左右に銃口を動かすと狙《ねら》いが狂《くる》い、定め直すのには時間がかかるのだ。だがそう思ったのも一瞬《いっしゅん》のことで、葵はすぐに身を沈めた。ふたりの男はお互いに銃口を向け合う形になってあわてたようだった。そのすきに葵はクイックルワイパーを水平に振り、ふたりの向こうずねをなぎ払った。
男たちはぶざまに倒れた。その痛みには驚いたことだろう。何しろ葵のクイックルワイパーは、ただのモップではない。重さ二キロの特殊重合金製なのだ。急所の向こうずねを打たれてはひとたまりもない。
三人の賊をあっという間に地面に転がした葵は、跳び離れて、とどめに男たちのみぞおちを打った。痛みに戦意を喪《うしな》ったところへ腹への突きを食らって、賊たちは気絶《きぜつ》した。一、二時間は目を醒まさないだろう。
葵は調息法《ちょうそくほう》で呼吸と心拍数を平静に戻し、男たちへと慎重に近づいた。気を失っているのを確かめるとトカレフを次々に取り上げ、無造作《むぞうさ》に遠くへ放った。いつも腰に提《さ》げている、古新聞を束ねるのに使うナイロンロープを繰り出し、男たちをきつく縛《しば》り上げると後も見ずに部屋の窓へと向かい、ひらりと室内へ入った。
銃声も庭木に吸い込まれて、主寝室には届かなかったようだ。葵はほっとした。この程度のことで、御主人様の眠りを妨げたくはない。
サイドテーブルの上にオレンジ色の携帯が置いてあった。革ひものストラップが一つだけ付いている。葵は携帯を開いて、短縮ダイヤルを押した。
「若槻です。ネズミを三匹、お引き取りをお願い致します。……そうですね、こちらもお支度《したく》がございますから、四時ごろに。……ええ。御主人様はよくお休みです。ですから、サイレンは鳴らさないで下さいましね」
にこやかに告げて電話を切った。
アラームクロックを見ると、『3:09』。まだ朝の準備には早いが、汗と、体にこびりついている硝煙《しょうえん》の匂いを落としておかなければ。
葵は洋服ダンスから、やはりグレイのコットンの下着を出すと、バスルームへと向かった。この屋敷には、御主人様のため、来客のため、そして葵たち使用人のためと、三つのバスルームがある。
シャワーをいつもより丹念《たんねん》に浴び、髪も洗った葵は、私室へ戻ると仕事着に着替えた。黒いストッキングで、細いが張りのある太股を覆うとガーターで留め、スカートをふくらませるためのパニエを穿《は》いた。パニエは素材が固いので、服地を傷めないようにペチコートをかぶせる。その上から、黒いウール地のワンピースを着た。厚手の長袖《ながそで》の服で、葵のすらりとした色白の体が隠された。
高い白い襟《えり》を大きな飾《かざ》りボタンで留め、裾《すそ》の長い、フリルのほとんどないエプロンドレスを着て、後ろをリボン状に結ぶと、かわいらしさが強調された。長い髪をきちんと結い上げてピンでまとめ、軽いギャザーの入ったカチューシャを付ける。
どこから見てもりっぱな、メイドのでき上がりだった。いや、まだ顔の支度が残っている。
小さなドレッサーに向かって、薄く化粧《けしょう》をした。来客があったとき、――さっきのような賊ではなく、しかるべき方々だ――素顔《すがお》でお客様の前に出るわけにはいかない。
化粧が終わると、丸い、ベッコウ縁の大きな眼鏡《めがね》をかけた。度は入っておらず、いささかやぼったく見える。
葵の、メイドとしての欠点は、美しすぎることだ。女性のお客様が来たときに、メイドのほうが目立つのでは分不相応《ぶんふそうおう》になる。仕事に応じた身だしなみも、メイドの条件の一つだ。
最後にかかとの低い、安定感のある編み上げ靴《くつ》を履《は》くと、四時二分前だった。葵は早足で私室を出た。
私室の隣《となり》は天井の高い玄関ホールになっている。まずホールの床を磨《みが》き、腰に付けた鍵《かぎ》束で入り口の扉を開けて、玄関もていねいに掃除していると、門の前にパトカーが止まるのが見えた。頼んだ通り、サイレンは鳴らしていない。葵は玄関の中にあるスイッチを上げた。鉄の門は音もなく開いた。
ふたりの制服警官を伴《ともな》った、梶警視正《かじけいしせい》が歩いてきた。警察庁刑事局きっての切れ者だ。
警察庁と警視庁とはよく混同されるが、警視庁は東京だけを守る東京都に属する警察で、警察庁とは全国自治体の警察を監督調整する、日本の警察機構の頂点にある機関だ。警察庁刑事局は、本来は事件の捜査《そうさ》はしない。海堂俊昭が警察庁長官になって初めにしたことが、直属の捜査班を作ることだった。それを束ねるのが梶だ。
「やあ、葵ちゃん。朝から精が出るね」
がたいのいい梶はがらがら声で言うと、この夏場にも着ているよれよれのトレンチコートのポケットから葉巻《はまき》を取り出し、バーナー式のガスライターで火を点《つ》けた。葵はすばやく玄関ホールの隅《すみ》にある灰皿のスタンドを持ってきた。
「梶さん。玄関で葉巻を吸うのは、やめていただけません? 灰でも落とされたら、またお掃除をしなければなりません」
つんとして葵は言った。煙草《たばこ》は応接間で吸って欲しい。それに、安葉巻の匂いをお屋敷の玄関にまき散らさないで欲しいものだ。葉巻がかっこいいと思っているのかもしれないが、それなら二十本で三百八十円のリトルシガー、キャプテン・ブラックのほうがよっぽど香りがいいし、さまになると葵は思う。自販機でも買えるリーズナブルな銘柄《めいがら》だ。
葵の内心には気づかず、安葉巻の煙を噴き上げながら梶は言った。
「ネズミは確保した。ごていねいに、玉道《ぎょくどう》組のバッジをつけてやがったよ。顔よりバッジを隠すのが当たり前だが、下《した》っ端《ぱ》ほどバッジをひけらかしたがるもんだ」
「玉道組と言いますと……広域指定暴力団の?」
葵は眉をひそめた。
「暴力団の方々が、御主人様になんのご用でしょう?」
「そいつはこれから吐かせるが、世の中ぶっそうになる一方だ。だから長官には警護《けいご》の者を付けろと――」
「そのことなら、何度も申し上げております」
葵は微笑んだ。
「当家には、防犯装置や制服警官などという無粋《ぶすい》なものは似つかわしくない、と御主人様がおっしゃっておられます。それに当家には、わたくしがおります」
「まあ、国家特種メイドの腕前は知ってるがね」
梶警視正は、しぶい顔をした。
葵は、ただのメイドではない。国家メイド検定特種の資格を持つ、つまり日本でも最高のメイドなのだ。その必須技能には、お仕《つか》えする相手をお守りする武術《ぶじゅつ》の科目も含まれている。だからこそしかるべき地位の人間は、安心して国家特種メイドを雇うことができるのだ。
「とにかくひとこと、ご報告させてもらうよ」
玄関ホールへと上がりかけた梶警視正の前に、葵は立ちはだかった。
「ご存じでしょう。御主人様は、朝食の前には、どなたにもお会いになりません。国家の非常時を除《のぞ》いては」
「だが、命を狙われたんだぜ」
「たかが暴力団、しかも三人きりの小者に、御主人様の朝のひとときを、じゃまさせるわけには参りませんわ」
葵はにっこりとした。しかしその目には、決してお屋敷の平穏を乱させはしない、という強い意志が現われていた。
梶警視正は肩をすくめた。
「まあ、いい。こっちで処理しておくさ」
「よろしくお願い致します」
葵は、深々と頭を下げた。
玄関と廊下《ろうか》、応接間の掃除をきっかり四十分で終え、葵はキッチンに入った。白い上《うわ》っ張《ぱ》りを着た坪内《つぼうち》夫人がパン釜のようすを見ていたが、葵に振り向いた。
「夜中に物音がしたようだね」
「ただのネズミです。もう、梶さんに引き渡しました」
葵が答えると、興味をなくしたようにまたパン窯に向かった。夫人にとってはけさのパンの焼け具合のほうが、賊よりもよっぽど重大な問題なのだ。
坪内あかね夫人は、親の代からこのお屋敷に仕える腕利《うでき》きのコックだ。特にローストビーフの腕前は、さる大臣がぜひ我が家に来て欲しい、と懇願《こんがん》した程だが、もちろん断わった。海堂家と御主人様とに忠誠《ちゅうせい》を誓《ちか》っているのだ。
それどころか大臣が帰った後で『あんなにメイン・ディッシュを残してちゃ、もう政治家としては終わりだね』、とキッチンで葵に言ったが、その言葉通り大臣は間もなく失脚《しっきゃく》、二度と政界に復帰することはなかった。葵がわけを訊《き》くと、こう答えたものだ。
『あたしは、お客様が食べきれないような量を決してお出ししやしない。御主人様はあんなにやせていらっしゃるのに食欲は盛んだ。食欲のない人間に、政治や何かの激務《げきむ》は務《つと》まらないよ』
坪内夫人は、料理を通して人を見ているのだった。
夫の坪内|弥助《やすけ》氏は、これも先代から住み込んでいる腕っこきの庭師で、二千坪の敷地《しきち》を持つ屋敷の庭を、六十を超えてもたったひとりできれいに保ち、四季の花々も欠かさない。建物の修繕《しゅうぜん》もやってのけ、力仕事はすべて任されている。都心の某所にあるこの広大な屋敷では、葵と坪内夫妻、そして執事《しつじ》の朝倉《あさくら》老人の、わずか四人の奉公人《ほうこうにん》が、ひとり住まいの俊昭のために働いていた。みな、御主人様に心から尽くしている、より抜きの奉公人だ。
葵は冷蔵庫から坪内氏が山奥で汲《く》んできた湧《わ》き水《みず》の水筒を取り出し、やかんにお湯を沸《わ》かした。ティーポットをまずお湯で温め、三杯分の葉を入れる。中国紅茶のキーマンに天然のベルガモットで香りを付けた極上《ごくじょう》のアールグレイは、しかし一杯分が五十円としない。
紅茶は値段ではない。問題は、淹《い》れ方だ。
お湯が沸騰《ふっとう》するとポットをやかんのほうに近づけて注ぎ入れ、じっくり蒸《む》らした。そして茶こしでていねいに葉を取り除き、これも温めてあったボーンチャイナのサーブ用ポットに注ぎ込んだ。
保存庫からマーマレードを取り出した。山口産の夏みかんの皮を使った、葵の手作りである。それを小皿に盛ったときには、ちょうど坪内夫人の焼いたロールパンが二つ、でき上がっていた。キッチンの掛け時計を見ると、四時五十五分。いつも通りの時刻だ。葵はほっとした。御主人様の朝を、一秒たりとも乱してはならない。
葵は朝食と、さっき取り込んでおいた朝刊各紙を銀のトレイに載《の》せた。
「それでは、行って参ります」
「ああ。あたしは昼の仕込みをするよ。堂本《どうもと》様がおいでなんだ」
堂本とは、国家公安委員長だ。
「では、午後のお茶も要りますわね」
「ダージリンのファーストフラッシュにミルクだろ? 他に紅茶を知らないのかね」
「悪いご趣味ではありませんから。お菓子をお願いしますね」
「それも分かってるよ。スコーンに生クリームをどっさり。いつも同じご注文さ。あんなにクリームをつけたんじゃ、せっかくのスコーンの味が分かりゃしない」
坪内夫人は不満そうだった。葵はくすりと、笑って、キッチンを出た。
キッチンから屋敷の奥へ向かい、突き当たって東に折れると、そこから明るかった廊下のようすが変わる。ローズウッドの壁《かべ》と赤いカーペットが、辺りを重厚《じゅうこう》なふんいきに見せていた。
葵は眉をひそめた。廊下の終わり、主寝室の中から、かすかにクラシックが流れてくる。いつもの御主人様の習慣だった。だが、その曲は――。
「失礼致します」
ドアの前で声をかけて、葵は部屋に入った。
十六畳ほどある主寝室のベッドの上で、この家の御主人様――警察庁長官・海堂俊昭が、半身を起こして、オーディオセットから流れる音楽に聴き入っていた。オーディオは海堂の何よりの趣味だ。マークレビンソンのアンプ、タンノイのスピーカ、ノッティンガム・アナログ・スタジオのアナログプレーヤ・スペースデッキ……オーディオの中でも名器といわれる逸品《いっぴん》を中心とするコンポーネントは、クラシックのアナログレコードをかけてもノイズがほとんどなく、観客席のせき払いまで聴こえてくる、臨場感《りんじょうかん》あふれる音だ。
広い部屋を横切って、ベッド脇のテーブルに葵はそっとトレイを載せ、ティーポットからカップに紅茶を注ぐと、一歩退いて前で手を組んだ。
海堂はティーカップに手を伸ばし、鼻の下へと持って行った。二十九歳の若さで警察機構のトップに上り詰めた切れ者の、氷のように冷たい表情が、かすかに揺《ゆ》らいだようだ。
アールグレイをひと口味わった海堂は、葵に声をかけた。
「けさは、何があった」
葵は内心、どきり、とした。
「いえ、何も」
「紅茶は嘘《うそ》をつかない。香りがわずかに飛んでいる。私にごまかしは通じないぞ、葵」
「申しわけございません」
葵は、深々と頭を下げた。
「賊が三人。暴力団とのことです。梶警視正が引き取って行きました」
海堂は、おそらく国家|転覆《てんぷく》の陰謀《いんぼう》を聴いたとしても、表情を変えることはないだろう。ただひとこと、言っただけだった。
「ご苦労だった」
「恐れ入ります」
葵はまた、頭を下げた。そのひとことで、葵には充分なごほうびなのだ。
海堂は、黙々《もくもく》とロールパンにマーマレードを塗《ぬ》って口へと運び、紅茶を飲んだ。そのしぐさ一つ一つが、生まれついての優雅《ゆうが》さを備えていた。
朝刊には目もくれず、海堂はテーブルの上の木箱を開けた。中にはパイプ煙草の葉が入っている。薄い巻紙の上に細長く敷《し》き、煙草を巻いた。スターリングシルバー、つまり純銀の無地のジッポーで火を点け、ゆっくりと煙を吐き出した。手巻き煙草には手巻き専用の葉を使うのが普通だが、海堂はパイプ煙草を巻いていた。
フルーティーな香りが、部屋に広がった。
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紅茶専門の喫茶《きっさ》店などでは禁煙の店も多い。煙草の匂いが紅茶の香りを消してしまうからだ。だが海堂はこの習慣をやめなかった。葵も止める気はなかった。どちらも美しい香りだからだ。御主人様のすることでも、理不尽《りふじん》なことなら葵は必ず止める。葵には、家を格式高いものにしておく務めがあるのだ。だが幸い海堂は、不作法《ぶさほう》なまねや筋の通らないことをする主《あるじ》ではなかった。
「御主人様」
今度は葵のほうから、声をかけた。
「何か、お気にかかることでもおありでしょうか」
「なぜそう思う」
海堂は、煙草の先から立ちのぼる煙を見ているようだった。
「御主人様は、毎朝四時三十分には目を醒まされて、朝の静けさを味わわれ、クラシックをお聴きになります。いつもはドビュッシーやラヴェルといった印象派《いんしょうは》の音楽をお好みになられます。ですが、けさの曲はモーツァルトの『レクイエム(鎮魂歌《ちんこんか》)』、しかも『ディエス・イレ(怒りの日)』。お目憶めに聴く曲とは思えません」
国家特種メイドは、しかるべき生活を送っている人の好むことならなんでも知っていなければならない。葵は中学中退だが、御主人様に話が合わせられるよう、英字新聞や経済紙を含む各種の新聞や雑誌を読みこなすだけの能力があった。音楽の知識も、もちろんのことだ。
『さすがだな』、とは海堂は言わなかった。それではかえって葵に対して失礼になる。相手が奉公人であっても、仕事へのプライドを傷つけることは許されない。海堂はもちろんそのことをわきまえていた。
代わりにひとこと、葵に訊《たず》ねた。
「凰風大学を知っているか」
「わたくしにはとても入れない、ということでしたら」
葵の答が、海堂は気に入ったらしい。ごくわずかに唇《くちびる》の端《はし》が上がった。
「凰風大学は私立の名門。学生数は一万人余り。金持ちや政治家連中が、こぞって自分の子を入れたがる大学だ。卒業生は自分の家柄《いえがら》と学閥《がくばつ》を活かして、政財界《せいざいかい》のトップの地位についている。当然、寄付金も多い。少子化で私大が苦しい中で、優雅な経営状態にある」
「つまり、たくさんのお金をお持ちということですね」
「その金が、帳簿《ちょうぼ》に載っていない金だとしたら」
「裏口入学、でしょうか」
「その必要はない」
海堂はゆっくりと首を振った。
「凰風はAO入試の枠を広くとっている。堂々と、ぼんくら共を入学させられるのだ」
「AO……Admission Officeでしたでしょうか」
海堂は、わずかにうなずいた。
「本来は高校時代の成績や活動記録、面接などから受験生を総合的に評価するシステムだが、面接と小論文だけなら、さじ加減一つでどうにでもなる。面接官は学長と腹心《ふくしん》の学部長どもだからな。小論文の採点も同じだ。実際、昨年凰風にAO入試で入学した『名家《めいか》』の子弟《してい》の高校での偏差値は、五十を切っている」
「そのために裏金が動いているのですね」
「凰風大学学長、仙石宗一郎《せんごくそういちろう》の個人資産は、数百億。表向きは怪しいところはない」
葵は疑問に思った。
「それほどの資産があるのでしたら、国税庁は動かないのでしょうか」
「むろん査察《ささつ》には入った。だが、なんの証拠《しょうこ》も見つからなかった。……飛龍興業《ひりゅうこうぎょう》が、かんでいると思われるのだ」
飛龍興業と言えば、表向き会社組織の形を取ってはいるが、実体は広域指定暴力団・玉道組の隠れみのである。海外の裏組織とも手を結び、国際的な犯罪組織に成長しようとしている、怖ろしい相手だった。マネーロンダリングはお手のものだ。仙石の裏金は玉道組を通して、正当な利益として正規の口座に入るのだろう。
葵はハッとした。けさのネズミも玉道組だ、と梶警視正は言った。彼らが御主人様を狙ったのは……。
「いずれにせよ、不正入試の証拠をつかまねば刑事告発はできない」
海堂は、葵を鋭い目で見つめた。
「葵。仙石家に潜入して欲しい。お前なら証拠を見つけることができるだろう」
「お断わり致します」
しかし葵は、すぐに答えた。
「わたくしは、御主人様にお仕えする身。ですが、警察の手先になるのはごめんです」
「まだ、あの頃のことを引きずっているのか」
「その話はおやめ下さいまし」
葵の胸がうずいた。『あの頃』の記憶で。だが、今の葵はりっぱな国家特種メイドだ。
「お屋敷を守るのが、メイドの仕事です。それ以外のお仕事は、たとえ御主人様のご命令とあっても、お引き受けはできかねます」
「ふむ」
海堂は、ほんの少し考えていたようだったが、やがて言った。
「仙石家には、スティルルームがある。日本一ともっぱらの噂だ」
これには葵も驚いた。
スティルルームとは、キッチンとは別にレンジと食品庫を備え、ジャムなどの保存食を作ったり午後のお茶の支度をするための特別な部屋のことだ。国家特種メイドは『JAM』(Japan Authoritative Maids)というクラブを作り、情報交換を行なっていたが、スティルルームのある邸宅《ていたく》で働いているメイドはほとんどいなかった。
「仙石家のスティルルームメイドは、マーマレード作りでは誰にも負けないという。どうだ、興味はないか」
「それは、ご命令ですか」
海堂はテーブルの上に目をやった。
「お前のマーマレードもなかなかのものだが、後ひと味、足りないとも思える。日本一のマーマレードの秘密、知りたくはないかな。お前がこの家のメイドであることは極秘だ。それが知れただけで、何があるか分からぬからな」
仙石家へ赴《おもむ》くということは、潜入《せんにゅう》捜査を承知《しょうち》する、ということだ。いくらメイドのプライドがあっても、御主人様の話に知らんふりをしてただ修業にだけ行くわけにはいかない。
だが、『日本一のマーマレード』という言葉に心が動いた。御主人様には最高のマーマレードを召し上がっていただきたいのだ。それに、もしけさの賊とこの事件が関係あるのだとしたら、根を断つのは、結果として御主人様を守ることになる。
「……承知致しました」
とうとう、葵は答えた。
海堂はテーブルの抽出《ひきだし》から、ベルベットの青い小箱を取り出した。
「これを持っていけ。クイックルワイパーもな」
葵は渡された小箱を開いた。中から出てきたのは、メイド服の白い襟を留める飾りボタンだった。楕円形《だえんけい》のブローチのようにも見える。
「開けてみろ」
ボタンにはちょうつがいが付いていた。中を開いて、葵は驚いた。
「これは……」
「いざというとき、お前を守ってくれるものだ。勘違《かんちが》いするな。こんなものはただのお飾りに過ぎん。だが時として、武力以上の力を持つことがある」
『それ』を身につけることも、葵には抵抗があった。しかし、たしかに力、それも暴力に対抗するには、必要なものとも言える。
「ありがとうございます」
葵が頭を下げると、海堂は、かすかに微笑んだ。
「期待しているぞ。……極上の、マーマレードをな」
仙石家は、都心から西へ約三十分。武蔵野《むさしの》の雑木林《ぞうきばやし》があちこちに残る高級住宅街にあった。
葵は、Tシャツにジーンズという軽装《けいそう》で歩いていた。本来なら一流のメイドは外出着にも気を使うものだが、さすがに真夏の東京を、長袖で歩く気にはなれない。それに葵は、私服でスカートを穿くのが嫌いだった。
セミの声がにぎやかに響《ひび》いてくる中を見回しながら歩いて行くと、目指す家はすぐに見つかった。辺りの高級住宅を圧倒《あっとう》する、急勾配《きゅうこうばい》の切妻《きりづま》屋根が特徴的《とくちょうてき》なチューダー様式《ようしき》の大きな建物。第一、本物の煉瓦造《れんがづく》りの洋館など都内でもめったに見かけない。人が住んでいるとなれば、なおさらのことだ。
区画の一ブロックを占める、やはり煉瓦の壁沿いに歩いていくと、家の造りには似つかわしくない分厚そうな鉄板の門があった。窓はない。門の脇のインターフォンを葵は押した。
『はい』
冷ややかな、おそらくは中年女性の声がした。
「JAMから紹介されて参りました、若槻――」
言いかけると、すぐにひとこと返事があった。
『西側の通用口にお回りなさい』
それだけ言ってインターフォンは沈黙《ちんもく》した。
長い塀《へい》を回って、葵は西側へと来た。こうした建築にありがちな軽い板の門を想像していたが、こちらも鉄板で固められていた。
監視《かんし》カメラがあるのだろう。葵が前に立つと門は内側に開いた。中はすぐに屋敷のドアだった。やはり窓のない鉄板だ。
葵が警官だったら、この一事だけを見ても捜査しようとするだろう。格式ある建物の調和を壊してまで頑丈《がんじょう》な門やドアを作るのは、何か理由があるからだ。それに――。
ドアの横に、人相の悪い大男が立っていた。派手なスーツとネクタイはカタギの者ではない。眼鏡をかけ、髪を結っていたことを、葵は自分に感謝した。素顔を憶《おぼ》えられたくはない。
「姉ちゃん、なんの用だ」
男がドスの利《き》いた声で訊いた。葵は、にこやかに答えた。やくざごときにびびっていては、国家特種メイドは務まらない。
「今日からこちらで働くことになりました、若槻葵です。よろしくお願い致します」
男は、下品な笑みを浮かべた。
「ふうん。ケツは薄いが、俺の好みだな」
汚らわしい言葉を無視して男の脇をすり抜けようとした葵の尻に、男は手を伸ばした。反射的に葵は男の手を取って急所のツボを押さえた。男は手がしびれたのだろう、腕を振り、顔をしかめた。
「お前、ただの女中じゃないな?」
しまった、と葵は思った。正体を疑われては、動きづらくなる。
「学校で、合気道部にいたんです。やってみます?」
わざとへっぴり腰でかまえた葵に、男は苦笑した。
「素人の姉ちゃんを殴ってもしかたねえよ。――入りな」
ほっとしてドアを開けた葵は、足を止めた。
ドアの中に想像通りの女性が立っていた。洋画に出てくる女教師のような黒いウールのワンピースを着こなし、髪を高く結い上げた、目つきの鋭い中年女性。フォックスタイプの眼鏡をかけている。どこから見ても、家を取り仕切るハウスメイドらしかった。
「篠原《しのはら》です」
その女性が言った。
「初めまして。あの――」
「お引き取りなさい」
篠原はいきなりドアを閉めようとした。あわてて葵は中にすべり込んだ。
「あの、わたくしに、何か落ち度が……」
「ブルージーンで表を歩くような品のないメイドは、当家には必要ありません」
今どきジーンズを『ブルージーン』などと呼ぶ女性はいない。それにジーンズが若い女性の服装として品格がない、というのもずいぶん古風だ。海堂家ではそんなことを言われたことはない。弥助などは、夏場はいつもランニングシャツ一枚だ。
しかし、ハウスメイドを見くびっていた葵の失敗だ。とっさに言いわけを考えた。
「申しわけございません。わたくし、まだ働きに出たばかりで、前のお宅ではお給金《きゅうきん》がなかったもので、それで……」
葵が目を伏せると、篠原はため息をついた。
「支度を調えさせないでよそへ奉公に出すとは、当節《とうせつ》のお宅は何を考えているのでしょう。……今度のお休みに、きちんとした外出着を買っていらっしゃい」
茶封筒《ちゃぶうとう》を渡された葵は、その厚みに驚いた。
「よろしいのですか?」
「仙石家は華族《かぞく》の家柄です。メイドといえどもその辺の小娘と一緒では、格が下がります。メイド服も用意させなければね」
「それは、持ってきております」
葵はバッグを提げていた。中にはメイド服一式と身の回りのもの、それに分解したクイックルワイパーが入っている。
「当家には当家の服装があります」
「いえ、口答えをするつもりはございませんが、国家特種メイドのメイド服は、国の規程で決められているのです」
篠原は不快そうだった。自分に仕切れないことは許せないのだろう。
「まあ、いいわ。……お部屋に案内させますから」
持っていたハンドベルを、篠原は鳴らした。
「中澤《なかざわ》さん。……中澤さん、またさぼっているの?」
はーい、という声が遠くから聴こえた。
葵は緊張しながら、家へと上がった。
「ちょうど良かったわ、あんたが来てくれて」
わずかに関西|訛《なま》りのある中澤というメイドは、葵より五つ六つ年上のようだった。複雑に折れ曲がった廊下をせかせかと歩いていく。
葵は、廊下のところどころで人相の悪い男たちとすれ違うのに気を取られていた。まちがいなく玉道組の組員だろうが、中澤は気にするようすもない。
この家は病んでいる。それも、内側から。
「前の子が靴の磨き方をやっと憶えた思たら、辞めてしもたんよ。きつい言うて」
「篠原さん、厳しそうですものね」
葵が話を合わせると、中澤はしかめっ面になった。
「厳しいのレベルを超えてるて。今どきこんな安月給で、一日中こき使われたらかなんわ」
「そんなにお給料が安いんですか?」
「税込み十三万。しかも休みは週一回、正味の話、二十四時間体制やからね」
「まあ、私の倍近いわ」
つい言うと、中澤の目が丸くなった。
「あんた、国家特種メイドやないの? もうメイド部屋で評判になってるで」
「そうですけれど、奉公人は奉公人ですもの」
「それやったら、貯金もなんもでけへんやないの」
「お金は使いませんから」
中澤は信じられない、という顔をした。一流の御主人様にお仕えする喜びが金に勝ることを、彼女はまだ知らないのだろう。
「まあええわ。……ここが、メイド部屋」
案内されたのは、屋敷の北の端にある薄暗い部屋だった。二段ベッドがずらりと並んでいる。片隅に小さなドレッサーがあった。
「八畳に十二人。格上のメイドは、また別の部屋があるけどな。ほんまタコ部屋やで。あんたのベッドはそこ。着替えたら、篠原が来い言うてるから。あ、それから」
中澤は声を低めた。
「あたしが普段は大阪弁なんは、内緒やで。篠原に聴き付けられたらかなんわ。『関東の名家では』とか言うてな」
葵はうなずいて、狭いベッドにバッグを置くと、メイド服に着替えた。
「なんや、愛嬌《あいきょう》ないメイド服やなあ」
中澤はレースのフリルがたっぷり付いたメイド服を着ていた。葵から見れば、飾りすぎだ。
「旦那《だんな》様のご趣味ですか?」
『御主人様』とは、葵は言わなかった。この世に『御主人様』は、海堂俊昭ただひとりだ。
「成金趣味と言いたいとこやけど、ほんまの金持ちやからね。ま、家柄は金で買《こ》うたんやけど」
「どういうことですか」
訊ねると、中澤は声をひそめた。
「この家が華族の家柄なんは、知ってるやろ?」
華族とは、戦前まであった貴族階級のことだ。
「でも、ほんまに華族の子孫なのは、奥さんなんよ。先代の学長は、奥さんのお父さん。その頃は凰風も、格式はあるけどあんまりぱっとせん業績やったのを、事務で入った今の学長、つまりご主人様が大きゅうしはったんやね。それを認められて、入り婿《むこ》いうわけや」
(なるほど……)
その手段が不正入試というわけか。葵は心の中でうなずいた。
遠くでハンドベルが鳴った。
「あ、篠原が呼んどるわ。はよ行かな、たっぷり油|絞《しぼ》られるさかいな」
中澤はドアを出ようとして、首をかしげた。
「なあ。あんたみたいな国家特種メイドが、なんで、うちで下働きせなあかんの? その気になれば、ハウスメイドにでもなれるんとちゃうのん?」
「新米ですから」
葵は控えめに答えておいた。
中澤の後をついて廊下を歩いていくと、篠原が立っていた。
「ご主人様にごあいさつしてもらいます。くれぐれも、粗相《そそう》のないように。中澤さん、あなたはキッチンのお手伝いを」
「はーい」
「返事は『はい』。何度言ったら分かるの?」
篠原の背中へ向けてしかめっ面を作って、中澤は去っていった。
緊張したような表情を見せながら、しかし、葵はリラックスしていた。中澤に学長の『正体』を聴いたせいもある。それに屋敷や家柄にびびっていたのでは、メイドは務まらない。
オーク材のりっぱなドアの前には、やはり玉道組の大男が立っていたが、篠原は目にも入らないようすでドアをノックした。
「ご主人様。新しいメイドを連れて参りました」
おう、というような声が聴こえたようだ。篠原はドアを開けた。
「お入りなさい」
葵はドアの中へ、一礼して入った。
チューダー建築にふさわしく天井の高い、二十畳ほどの部屋だった。高さ三メートルは優に超えるだろう。壁はフランス風の白い壁紙に黒い腰板、カーペットはつる草模様で、分厚い。応接セットは黒の本革張り。イタリア製のアンティークと見た。なるほど、屋敷に合ったインテリアだ。隅に置かれた大きなリーフヤシの鉢《はち》も、部屋に溶け込んでいる。
しかし、壁に掛かった富士山の油絵が、調和を乱していた。あまつさえ富士山の背景がけばけばしい黄色とあっては、始末に負えない。
半分呆れて絵を見つめていると、
「気に入ったかね」
応接セットの奥のどっしりしたデスクに落ちついている、白髪の男が言った。葵は目をそちらへ向けた。
凰風大学学長・仙石宗一郎は、見たところ非の打ち所のない紳士のように見えた。スーツも仕立てのいいオーダーメイドだし、着崩した印象はない。顔にも威厳《いげん》があるように見える。だが葵は、その目がどこか落ち着きのないものであることに気づいた。そして、絵だ。
「変わった絵でございますね。空が黄色とは」
ていねいに言うと、宗一郎は笑った。
「知らないのかね? 風水で黄色は、財運を呼ぶのだよ」
本物の富豪はここ十年ぐらいで流行ったインテリア風水などを気にして、部屋の品格を落としたりはしない。この男の心根《こころね》が透《す》けて見えるような気がした。
宗一郎は机の上の保湿器を開け、葉巻を取り出した。梶警視正のような安物ではない。本場・キューバ産のプレミアム・シガーだ。特殊《とくしゅ》なはさみで吸い口を切り、葉巻用の長いマッチで火を点ける。さすがにいい香りがする。
葉巻をくゆらす宗一郎の、チタン製らしいモダンなデザインの腕時計をはめた左手を、葵はじっと見ていた。
「腕時計がどうかしたかね」
「いえ、見たことのないお品だったものですから。勉強不足で申しわけございません」
「アメリカから取り寄せたのだよ。特注品だ」
宗一郎はこともなげに言って、
「それで、君がJAMから来たメイドかね」
「若槻葵と申します。こちらのお宅には、それはりっぱなスティルルームがあるとうかがって、修業に参りました」
葵は深々と頭を下げた。
「ふむ。すると君は、スティルルームメイドかね」
「いえ。お仕えするお宅によって、なんでもできるように学んでおります」
「雑役婦というわけね」
篠原がバカにしたように言った。雑役婦とは要するに、格式の低い家で何でもこなす、文字通りの下働きである。誰にでもできる、と一般には思われ、軽く見られているのだ。
葵のプライドに引っかかるものがあったが、あくまで控えめに答えておいた。
「何ごとにも一流であるように、心がけております」
「言っておきますが、当家では国家資格があっても特別扱いはしません。この仙石家は華族の家柄。そこらのお宅とは格が違うのです」
「まあ、最初からそう、つんけんするものではないよ」
余裕を見せようとしたのか、宗一郎は笑った。
「スティルルームに目をつけるとは、さすがだ。自慢ではないが、わが家のスティルルームメイドは、英国のカントリー・ハウスにも負けない日本一のメイドだ。よく勉強するといい」
(しっかり、自慢していると思うのですけれど)
葵は心の中でつぶやいた。
「篠原さん、案内してやりたまえ」
「はい、旦那様」
「あの。ひとつ、うかがってよろしいでしょうか」
葵は訊ねてみた。
「なんだね」
「廊下のあちらこちらに、怖そうな方々がいらっしゃいますが」
「ああ、飛龍興業の社員だよ。うちの関連事業を手伝ってもらっていてね、護衛にも来てくれている。土木関係の仕事もしているから体格はいいが、心配はいらない。メイドに手を出すようなまねはしないからね」
よけいなことを宗一郎は言って、愉快《ゆかい》そうに笑った。
(嘘ばっかり)
葵は決して家柄や地位で人を判断するわけではないが、暴力団の組員を平気で家に入れているのでは、華族も何もあったものではない。それだけで犯罪者の仲間だ。第一、もう手は出されているではないか。
「では、国家特種メイドの仕事ぶりを見せてもらおうか」
宗一郎は話を打ち切った。
スティルルームは、屋敷の南側にあった。
篠原に案内されて入っていくと、ふたりほどのメイドが、忙しそうに小さな鍋《なべ》をかき回したり、保存庫の中身を整理していた。それを腕組みして見ているのは、白い服を着て恰幅《かっぷく》のいい、ずいぶん歳かさの女性だ。見た目は若いが、七十ぐらいかもしれない。
「ああ、ダメだダメだ今岡《いまおか》。それじゃ焦げ付いちまうだろう!」
女性の厳しい声に、まだ若いメイドはすくみ上がったようだった。
「神保《じんぼ》さん」
篠原が、その女性に声をかけた。
「こちらが若槻さん。スティルルームの修業に来た子よ」
「若槻葵です。よろしくお願い致します」
葵は神保に、ていねいに頭を下げた。
「ふうん」
神保は葵をじろじろ見回していたが、
「あんた、紅茶は淹《い》れられるのかい」
いきなり無愛想な声で訊いてきた。
「前のお宅では、それが仕事でした」
「じゃあ、ロシアンティーを淹れてもらおうか。ジャムは黄色いラベルのを使っとくれ」
さっそく腕試しと来た。
葵は棚を見回して、グルジア産のオレンジペコを見つけた。小ぶりのポットで濃いめに淹れ、また棚を見て、ウォッカの瓶《びん》を手に取った。指示されたラベルの苺《いちご》ジャムを少量のウォッカと混ぜ、小さな器に盛った。
神保が、ぱん、と手を叩いた。
「そこまで!」
葵はハッとしたが、神保の言葉は葵をほめるものだった。
「葉の選び方も、ジャムを紅茶に入れないのも、正解だ。ウォッカの使い方も正解。若いメイドは、ロシアンティーと言われるとジャムを紅茶に溶かしちまうからね。ロシア人はそんな飲み方はしない」
「恐れ入ります」
葵は頭を下げた。この程度のことは基礎科目のうちに入っているのだが。
「気に入った。そろそろ午後のお茶の時間だ。奥様にロシアンティーをお出ししておくれ」
「神保さん、来たばかりのメイドに――」
篠原が言いかけると、神保はじろりとにらんだ。
「この部屋ではあたしが主人だ。いくらあんたでも、口出しはさせないよ」
篠原は不満そうに、それでも引き下がった。どれほどこの家で神保が信頼されているか、分かったような気がした。
「でも、あの、神保さん。この夏の午後に、ロシアンティーですか?」
ジャムにウォッカを混ぜることでも分かるように、ロシアンティーは基本的に、体を温めるための飲み物だ。
「奥様はご病気でね。体が冷えちまうんだよ。ああ、奥様の苺ジャムはそっちの白いラベルのだ」
好みによって苺ジャムを使い分けているのだろうか。さすがにスティルルームがある家だけのことはある。
「あたしは酸味のあるほうがいいと思うんだが、奥様は酸味が苦手なんだ。それで甘い品種を使っている」
「あの、神保さんは日本一のマーマレードをお作りになるとうかがいましたが、奥様はマーマレードはお召し上がりにならないのですか? あれも酸味が……」
訊いてみると、神保はにやっ、と笑った。
「ははあ、さてはそいつが目当てで来たね」
「え、ええ……」
葵が言葉を濁《にご》すと、神保は愉《たの》しそうに笑った。
「マーマレードのこつは、あたしだけのものさ。あんたには、教えられないね」
それはそうだ。味は、教わるものではない。盗むものだ。
「一所懸命《いっしょけんめい》ご奉公しとくれ。そのうちなめさせてやるよ。あたしの気が向いたらね」
「はい」
とにかく今はこの屋敷のようすを知るのが先だ。葵は、言われた通りの苺ジャムを添えてロシアンティーを淹れ、篠原の後についてスティルルームを出た。
スティルルームの隣には、ガラス張りのサンルームがあった。特殊なガラスを使っているようで、夏の強い陽差《ひざ》しは和《やわ》らいでいた。
片隅にベッドがあり、上品な老婦人が大きな枕にもたれて英語の原書を読んでいた。本の背中に『Murders』とあるから、ミステリだろう。
「奥様」
篠原がそっと声をかけると、こちらを向いた。
「あら、メイドが変わったのね」
「今日から入りました、若槻葵と申します」
葵はサイドテーブルにトレイを置いて、ていねいに頭を下げた。
仙石夫人は起き上がろうとしたが、篠原が止めた。
「いけません、奥様。たかがメイド相手に。お体にさわります」
「いいえ。ごあいさつは、きちんとするものよ」
篠原に手伝わせて、夫人は上半身を起こした。
「ごめんなさいね、こんなかっこうで」
仙石夫人はすまなそうに言った。
「めっそうもございません。お体を大事になさって下さい」
葵があわてて言うと、
「そんなにかしこまらなくてもいいのよ」
仙石夫人は微笑んだ。
「この家では、私はなんの役にも立たない病人ですもの」
その声には淋《さび》しそうな響きが感じられた。
「そのようなことはございません。奥様はもともと、この家のご当主なのですから」
しかし、篠原の言葉は妙に冷たく響いた。葵はハッとした。もしかしたらこの篠原は、宗一郎の味方なのではないか?
「めんどうなことはすべて旦那様に任せて、今はただ、早く良くなって下さいまし」
やはり――葵は思った。篠原の声には、真心が感じられない。
「あの……いつからご病気に?」
訊いてみると案の定、篠原がにらみつけた。
「よけいなことは、知らなくてけっこうです」
「もう、忘れてしまったわ……」
仙石夫人は弱々しい声で言った。
「一日一日、体が弱っていくの。このまま、天に――」
「何をおっしゃいますか」
篠原が叱りつけるように言った。
「お薬を飲んで養生《ようじょう》すれば、きっと良くなります」
(薬……?)
仙石夫人はサイドテーブルから紙袋を取り、苦そうな粉薬を、しかし顔もしかめずに水差しの水で飲み下した。そして紅茶を飲む前に、ジャムをひと匙《さじ》なめた。
「これが、ごほうび」
少しおどけたように笑うと、紅茶をゆっくりと味わった。
「あら、いつもより濃いのね」
葵はどきり、とした。
「申しわけございません。すぐに淹れ直させて参ります」
薄手のティーカップを取り上げようとする篠原に、夫人はゆっくりと首を振った。
「いいえ。こちらのほうが、ジャムの味が引き立っておいしいわ。……あなたが淹れたの?」
「はい。出過ぎたまねでしたら、お許し下さい」
篠原に口をはさませず、葵は答えた。
夫人は微笑んだ。
「気に入りました。紅茶は私の一番の楽しみですもの。篠原さん。これから毎日、この葵さんに紅茶を淹れていただくように、神保さんに伝えてくださいな」
そのときだけ、病で衰えた仙石夫人の目が、しっかりとした力を持ったように見えた。
「奥様は、なんのご病気なのでしょう」
「よけいなことは訊かない。メイドの基本です」
「でも、わたくし、ハーブにも少し心得があるので、お体に良いハーブティーでも……」
「身の程をわきまえなさい。紅茶ぐらいでいい気になるのではありません」
「奥様がご病気でしたら、パーティーなど、お困りなのではありませんか? お子さまもいらっしゃらないようですし」
なおも葵が訊くと、廊下の途中で篠原は足を止めた。
「あなた、入った早々、家の事情に立ち入りすぎですよ。少しは慎《つつし》みなさい」
「申しわけございません。そうですね。篠原さんのようなりっぱなハウスメイドがいらっしゃるお宅ですもの。うまくいっていないわけがありませんわね」
「当然の仕事をしているまでです」
篠原はおせじには乗らなかったが、
「でもパーティードレスなどは、どこでお買いになるのですか?」
思いついたかのように葵が訊ねると、
「日本橋の三越よ。それが何か?」
つい、口をすべらせた。やっぱり……葵は思った。普通ハウスメイドに、高級なパーティードレスなどは必要ない。着る機会もないだろう。パーティーには篠原が同伴しているらしい。ひょっとしたら、宗一郎と『けしからぬ関係』にあるのかもしれない。
「いえ。外出着を買うのに、どこがいいかと思いまして」
「それなら吉祥寺の東急になさい。パルコはいけませんよ」
「かしこまりました」
話をはぐらかしながら、葵は仙石夫人のことを考えていた。家を乗っ取られ、大学の経営からも引き離され、そして、ひょっとしたら旦那様まで――。
あの淋しそうな夫人を、そのままにはしておけない。葵は固く決意した。
それからの葵は、他のメイドと一緒に文字通りこき使われた。篠原はメイドが動いていないと気が済まないたちらしい。宗一郎の夕食が終わるまで、トイレへ行く暇《ひま》さえないほどだった。だが葵はしっかりと見ていた。夕食の席で、宗一郎と篠原が向かい合って座るのを。そしていつもはお堅《かた》い篠原が、笑顔で話しているのを。
キッチンで夕食の後片付けを手伝うと、もう午後九時だった。葵たちメイドは、メイド専用のダイニングで遅い夕食をとった。葵は新入りなので、先輩のメイドたちのために皿を運び、料理をよそった。
「しっかし、今日もきつかったなあ」
中澤は夕食をがっつきながら、煙草をふかしていた。
「煙草なんて。篠原が来たら、大変なことになるわよ」
メイドのひとりが言うと、中澤は笑って手を振った。
「来るわけないて。あたしらを、完全に見くだしてるよってな」
「まあ、特別な、ハウスメイドですものね」
別のひとりが『特別な』に力を込めた。
「あの、それって、どういう意味なんですか?」
葵が『何も知りませんが』という顔で訊ねると、メイドたちは顔を見合わせて、くすくす笑った。
「あなたも鈍《にぶ》いのね。旦那様はあれでまだ、りっぱな男。そして奥様は、ご病気。ね?」
「つまり、夜もご奉公、っちゅうわけや」
中澤が、煙草の煙を宙に吹き上げた。
思った通りだ。葵は心の中でうなずいた。
「さって。テレビでも見よか」
中澤はリモコンを取り上げた。
メイドたちが食べ終わった皿を下げながら、葵は、やり場のない怒りがこみ上げてくるのを抑えられなかった。
許せない。絶対に。不正入試がどうこうという問題ではない。プロのメイドである葵にとっては、ハウスメイドの不始末のほうがはるかに重要だった。
しかし、本当の御主人様から与えられた使命を忘れたわけではなかった。
午前〇時。他のメイドが疲れ切って眠りこんだのを見計らって、葵はベッドから抜け出した。タンクトップにショートパンツ姿で廊下に出ると、辺りを見回す。ふだんは厚手のメイド服に隠されたすんなりとした白い手足に、夜気がひんやりと感じられた。このぐらいの建物になると、真夏でも夜は涼《すず》しい。
護衛の男たちは見当たらなかった。
宗一郎の寝室の前を通る。中からくすくすという笑い声が、かすかに聴こえてきた。まちがいなく、篠原の声だった。
(ふしだらな……)
怒りがまたこみ上げてきたが、そのほうがつごうがいいのは事実だ。
昼間通された、宗一郎の書斎《しょさい》兼応接室へと向かう廊下の角から覗《のぞ》いてみた。不思議なことに、部屋の前にも護衛の男は立っていない。ということは……。
(何もない?)
しかし探ってみる必要はある。葵ははだしで廊下を走り、書斎のドアをそっと開けた。
灯りを点けなくとも、窓から見えるガーデンライトの白い光で部屋の中はよく見渡せた。葵はまず宗一郎の机に向かい、抽出には目もくれず、葉巻の保湿器を開いた。葵の頭の中で、昨日の御主人様とのやりとりが甦《よみがえ》っていた――。
「いくら裏金とはいえ、帳簿があるはずだ。誰がいくら金を出したか記録しておかなければ、いざというとき困るのは、学長本人だからな」
主寝室で、海堂は言ったのだった。
「帳簿というのは、やはりバインダーのようなものでしょうか」
葵が訊ねると首を振った。
「そこまで分かりやすいものを置いておくわけがない。と言って、大学構内にも置けん。おそらくは、コンピュータのデータとして保管しているだろう」
流れる音楽は、同じモーツァルトのレクイエム第八曲、『ラクリモサ(涙の日)』に変わっていた。
「パソコンのことは、苦手です」
葵は困った。国家特種メイド資格の科目で、パソコンだけは合格点すれすれだったのだ。JAMのメイドは、主に機械がかさばるので、パソコンのメールは使わない。ほとんどは携帯で連絡を取り合っている。パソコンに触れる機会はなかった。
「お前にも苦手があるとはな」
海堂はかすかに唇の端を上げて、説明した。
「データはおそらくコンピュータの中にもないだろう。どんなにセキュリティを高めても、誰かが覗《のぞ》く心配はある。帳簿のデータはそれほど大きなファイルにはならないはずだ。指先ほどのカードや、何かに仕込んだフラッシュメモリに入れておけば、人目にはつかない」
そして海堂は、フラッシュメモリの説明を始めた。一般的に使われているのは、煙草を太くしたほどの大きさだが、もっと小さいものもある、ということだった――。
(葉巻なら、誰も触らないはず)
葵はそう思ったのだった。保湿器に並んだ葉巻を手で確かめる。しかし、中に異物の感触のあるものは一本もなかった。
壁の悪趣味な絵に目をやる。だがすぐに首を振った。額の裏に隠し金庫なんて、狙って下さいと言っているようなものだ。宗一郎はおそらく、もっと身近にデータを置いているはずだ。だが寝室は探れない。お楽しみの最中だ。
――ふと、気がついたことがあった。あのときの宗一郎は……。
急いで部屋へ戻ろうとした葵は、目の前に立ちはだかった黒い影にハッとした。玉道組の男が、そこにいた。
「警報装置がないとでも思ったのか」
男の声はひどく落ちついていて、それがかえって無気味だった。とっさに葵は飛び離れると、腰を落として身がまえた。
「どこのどいつだ、きさま」
葵は眼鏡を外して髪を解いているので、男には正体は分からないようだった。だがこのぶんだと屋敷の塀にも警報装置はあるだろうから、内部の人間であることはすぐに知れてしまう。
葵はわざと、はすっぱな口調で言った。
「この屋敷は入りやすいねえ。あんな仕掛けじゃ、子どもでも塀は乗り越えられるよ」
男はうまく引っかかってくれた。
「あの装置をかいくぐったのは、お前が初めてだ。どうやら常習犯らしいな」
「だったら? サツに突き出すかい?」
「いや。この場で死んでもらう」
男はスーツを脱いだ。ワイシャツの下から筋肉が盛り上がって見えた。
葵は、すばやくすり足で走り寄るとパンチを繰り出し、すぐに引いた。男はびくともしない。続けざまに右足の裏を使って相手の向こうずねに蹴《け》りを入れた。男性でもたいていの相手はこれで倒れるのだが、男は身動きもせず、ただ、にやっ、と笑っただけだった。
(……できる!)
思ったときには、男の拳が凄い速さで葵の胸めがけて飛んできた。かろうじて跳び下がってかわす。続けて回し蹴りが襲ってきた。避けたつもりだったが左の脇腹《わきばら》にヒットして、葵は廊下の壁に叩きつけられた。
「う……」
思わずうめき声が漏《も》れる。男は油断なく、肩から吊るしたホルスターからコルトのオートマティック拳銃を抜いた。先には消音器がついていた。
葵は、負けた、というように、がっくりと首を垂れた。
男は大股に進んでくる。廊下にあったワゴンを避けたが、銃口は葵のほうへ向けたまま、決してぶれさせない。御主人様のお屋敷に入った賊とは格が違うようだった。
葵は首を垂れたまま静かに足を引き寄せ、腰を軽く浮かせた。ふっ、と気がついたように、開いているドアのほうへ目をやって、呼びかけるように叫んだ。
「逃げな!」
男が無視すれば、葵の頭は吹っ飛んでいただろう。だがあまりに自然なふるまいだったので、まだ仲間が中にいるのかと、男の目が一瞬、ドアのほうへ引きつけられた。そのすきを逃さずに葵は高々と跳び上がった。チューダー様式の高い天井が幸いして、葵は男の頭上へと跳んでいた。男は葵の姿を見失い、すきができた。
男を跳び越えた葵は着地するなり、赤い缶を床に置き、蓋を取ってこすった。たちまち辺りに濃い煙が広がる。ゴキブリ退治用のバルサンだった。強力な煙に視界がさえぎられ、男は煙にむせた。何も見えず、しかも強力な殺虫成分を含んだ煙を吸い込んだのでは、戦うも何もあったものではない。男は廊下の壁にぶつかりながら逃げ出した。
そのときにはもう葵は煙の届く範囲から逃れて、用心のためにウエットティッシュで鼻と口を押さえていた。
「ゴキブリには、バルサンはよく効きますわね」
葵は微笑んだ。
バルサンの効果はしばらく続くが、自分も煙の中では身動きが取れないし、男の仲間が来るかもしれない。葵はメイド部屋へと駆け戻った。幸い、他のメイドたちは熟睡《じゅくすい》していた。
葵は自分のベッドにもぐり込むと、JAMのメンバーに同報メールを送った。返事はほとんど分かっていたが、確証が欲しい。
待つこと三分、すぐにメールの返事が来た。
(やっぱり……)
これで、『仕事』は終わった。だが葵のやるべきことは、まだ残っていた。
翌日の朝四時に、メイド部屋の目憶まし時計が鳴った。メイドたちはまだ寝不足のようで、ぶつぶつ言いながら着替え、交代でドレッサーを使っている。
葵は平気だ。もともと睡眠時間が短いのだ。それに昨夜の件で、神経が張りつめていた。
玄関ホールに集合すると、背筋を伸ばした篠原が、じろり、と一同を見回した。
「ゆうべ、盗人《ぬすっと》が屋敷に入りました」
メイドたちがざわついた。葵も、意外そうなそぶりをしてみせた。
「幸い何も盗まれませんでしたが、ご用心なさい。それと、今日の午後には、お客様がおいでになります。大事なお客様ですから、くれぐれも粗相のないように」
「来た来た」
中澤が、葵にささやいた。
「たぶん、政治家のおっさんや。平田《ひらた》いうて、ときどき来よるねん。手間かけて掃除せな、怒られるで」
中澤の言う通りなら、不正入試の証拠をつかむいい機会だ。
「そこ、無駄口は慎みなさい」
篠原が、きっ、とにらんだ。中澤は首をすくめた。
「朝のお掃除の担当は、いつも通りです。ああ、若槻さん。あなたは、そうね……」
「あの、よろしいでしょうか」
葵は、おそるおそる、といった調子で切り出した。
「わたくしにも、旦那様の応接室を手伝わせていただきたいのですが」
「あなたが?」
新入りに何が分かる、という顔を、篠原はした。
「自慢ではありませんが、一度入ったお部屋のようすは、よく憶えております。それに、お掃除の腕も見ていただきたいと思いまして……」
篠原は考えていたが、
「そうね。応接室は中澤さんの仕事だけれど、四角い部屋を丸く掃《は》く人ですから、やらせてみてもいいかしら。その代わり、お時間には奥様へのお茶を忘れないようにね。奥様は、あなたがお気に入りのようですから」
最後の言葉には皮肉めいた調子がこもっていたが、葵は気づかないふりをした。
「ありがとうございます。光栄です」
篠原が立ち去ると、中澤が首を振った。
「あんた変わってるわ。自分で仕事を増やすメイドが、どこにおるねん。がんばったかて、給料上がらんで」
「お掃除、好きなんです」
葵はにっこり笑った。
「さって、始めよか」
応接室に入ると、中澤は大きくのびをした。
「って、あんた、それは何?」
「クイックルワイパーですけれど」
「持ち歩いてんのかいな! 用意ええなあ。それ、カーペットはできる? うち、カーペットが苦手やねん。めんどくそうて、かなんわ」
「はい、分かりました」
葵は愛用のクイックルワイパーに、特別製のアタッチメントを取り付けた。いくつかのローラーを組み合わせたもので、毛足の長いカーペットでも、特殊ブラシが細かいほこりまでかき出して粘着《ねんちゃく》シートがしっかり捕《と》らえる、逸品だ。
カーペットを丹念に掃除しながら、中澤のようすをうかがった。応接セットのテーブルを磨くのに専念していて、葵のほうを見てはいない。
葵はごく自然に、部屋の隅のリーフヤシに近づくと、鉢の中にすばやく盗聴《とうちょう》器を埋め込んだ。受信機はカチューシャに仕込んである。
後は掃除をするだけだ。カーペットをすっかりきれいにして、中澤を手伝い、部屋の隅々まで磨き込んだ。その手ぎわの良さに、中澤は感心したようだった。
「あんた、この仕事、向いてるなあ。奥様にも気に入られたんやて?」
「取り入ろう、などと思っているわけではないのですけれど」
あまり仕事ができるとメイド仲間のやっかみを受けることになるのではないか、と心配していたのだが、中澤は根っからのお人好しのようだった。
「そんなこと、思うてへんて。あんたのおかげで助かるちゅうて、みんな、歓迎しとるんよ。さすがは国家特種メイドや、て。スティルルームの神保さんにも、うちらは怒鳴られてばっかりやしな。だいたいあんたが取り入ったところで、格上のメイドにはなれへんし――」
「お給料も上がらない、ですか?」
葵が言うと、中澤は笑った。
「そういうこと。これからも、よろしくな」
葵の良心がうずいた。自分がこれからもこの家のメイドとして働くのだったら、中澤たちをもっと助けてやれるだろう。それにメイド仲間に隠し事をしているのは、後ろめたい。
だが葵は、あくまで御主人様ひとりに忠誠を尽くしているのだ。そしてこの屋敷は、悪で汚れている。
「汚れた家は、お掃除しなければ」
葵はつぶやいた。
「何? まだ、どっか残ってる?」
「いえ、早く終わったので、他の方のお手伝いもしようかと」
「あんた、ほんまに、変わってるわ」
中澤は半分呆れたように、首を振った。
宗一郎も朝食は寝室でとる習慣らしく、そちらには専用のメイドが付いていたので、葵たちはメイドのダイニングで朝食を済ませた。
食事が終わっても、仕事は終わらない。毎日、家の隅々、食器の一つ一つまで磨き上げるのがメイドの仕事だ。洗濯も、他にも細々とした仕事もある。午前中のメイドは、戦争だ。
キッチンで洗い物を手伝っていると、メイドのひとりがトレイを運んできた。皿の料理には、ほとんど手が付けられていない。
「これは?」
「奥様のよ。食が細る一方で、心配だわ」
この屋敷に勤めて長いという年配のメイドは、ため息をついた。
「あの……奥様の具合がお悪くなったのは、いつ頃からなんですか?」
「そうねえ。旦那様とご結婚された頃はお元気でいらしたのに、気がついたら、お体を悪くされていらして。医学部の学部長がお薬を差し上げるようになって、もう何年になるかしら」
(薬を飲む前から、病気だった?)
言われてみれば当たり前のことなのだが、葵は引っかかるものを感じた。
「なんのご病気なんですか」
「それが、よく分からないのですって。お歳のせいで内臓が弱っていらっしゃるのだ、と学部長はおっしゃるのだけれど、こんなに悪くなられるものかしら」
確か仙石夫人は、六十四歳だったはずだ。老け込むには早すぎる。
――葵の頭の中で、あることがひらめいた。今日の午後、確かめてみよう。
午前中の仕事が何とか終わり、またメイド用のダイニングで昼食をとっていると、玄関のほうから篠原のハンドベルが響いてきた。
「お客様がお着きだわ」
来客係のメイドが、立ち上がった。
「みなさん、支度をして。お出迎えよ」
「なんや、早いなあ」
中澤がぶつぶつ言った。
「ゆっくり飯食うてる時間もあらへん」
「言葉に気をつけなさい。お昼をご一緒するのでしょう。鴨下《かもした》さん、中神《なかがみ》さん、あなたはキッチンのお手伝いを。若槻さん」
「はい」
「あなたはお出迎えはいいわ。スティルルームに入って。奥様とお客様、両方のお茶の支度があるでしょう」
誰も文句は言わなかった。神保の厳しさは、みんな知っているからだ。
スティルルームでは、神保が保管庫の中を見ていた。葵が、
「失礼致します」
声をかけて入っていくと、振り向いた。
「三時には、奥様にお茶。分かってるね」
「はい。お客様には?」
「あんた、コーヒーは分かるのかい?」
「ひと通りは」
「今日のお客様は、代議士の平田先生だ。食後にはエスプレッソ。その後、カプチーノをシナモン多めで二杯。後ラスクにマーマレードを召し上がるから、小皿を選んどくれ」
「マーマレード?」
葵の、メイドとしての興味がうずいた。
「気になるかい?」
神保はにやっとして保管庫の中から瓶を取り出し、味見用のスプーンですくって、葵に差し出した。
葵はゆっくりとマーマレードをなめて、驚いた。自分もそれなりの腕だと思っていたが、とんでもない。神保のマーマレードは、微妙な、しかも気持ちの良い苦みとコクとが感じられた。精密に組み立てられた味だ。
「おいしい……」
思わずつぶやくと、神保は当たり前だ、という顔をした。
「五十五年やってるんだ、研究もしたさ。小娘にこつが分かられちゃ、かなわないよ」
葵は一瞬、この人の元でマーマレードや他のジャムについてもっと学びたい、と思った。
だがそのとき、カチューシャの盗聴器から声が聴こえてきて、我に返った。
『これは平田先生。いつもご足労いただき、申しわけありません』
『いや、この家はコックの腕がいいからね。楽しみだよ』
初めて聴く平田代議士の声は、ふんぞり返っているようすを連想させた。
『まずは、お食事を。……君』
メイドに言いつけたらしい、宗一郎の声がした。
「何をぼんやりしてるんだい」
神保に叱りつけられて、葵はあわててエスプレッソマシンの準備を始めた。
支度をしながら盗聴を続けていたが、食事の間はメイドが出入りするので、宗一郎と平田は世間話をしているだけだった。
葵は神保に命じられた頃合いにエスプレッソを食堂に運んでいき、初めて平田の姿を見た。脂ぎった初老の男が椅子にそっくり返って、ナプキンで口をぬぐっている。ナプキンにホワイトソースがべったりついているのを見て、葵は心の中で眉をひそめた。仙石家のコックがソースをかけ過ぎるということは考えられない。食べ方の下品な人間に、代議士の肩書きを持つ資格はない。
葵がそっとテーブルに置いたエスプレッソを、平田は香りをろくに楽しみもせず、アメリカンのように一気に飲み干した。葵の評価はますます下がった。こんな人間はファミレスにでも行っていれば――いや、それではファミレスを楽しみにしている人たちに申しわけがない。泥水で充分だ。
「それでは失礼致します」
出ていこうとする葵に、平田が声をかけた。
「ああ、君、君」
「はい」
振り向いた葵を、平田はいやらしい目で見回した。
「いくつだね」
「十七になります」
「ふむ……まだ体は熟していないが、磨けば光るというやつだな」
平田は、にたっ、と笑った。葵の背筋を不快な感憶が駆け上った。
「どうだね、わしの家に来ないか。不自由はさせないぞ」
「けっこうなお話ですな」
メイドは愛人志願者じゃない! 葵は叫びたかった。メイドのプライドを何だと思っているのだ。第一、葵は十七だ。『東京都青少年の健全な育成に関する条例』はどうなるのだ。
怒りに震えながらも、葵は、どうにかやんわりとあしらった。喜怒哀楽《きどあいらく》をめったなことで顔に出しているようでは、メイドは務まらない。
「申しわけございませんが、わたくし、奥様のお世話を言いつかっておりますので」
「定子《さだこ》の? 聴いておらんぞ」
宗一郎が不愉快そうな顔をした。葵は内心、驚いた。では、昨日の午後から丸一日、宗一郎は自分の妻の許を訪れていないというのか。そして夜は、篠原と――。
「あの……口はばったいのですが、奥様が、わたくしのお出しする紅茶をお気にいられたようで……」
「勝手なまねを」
宗一郎は舌打ちをした。不作法だし、とても妻に対する言動ではない。葵は今すぐにでもこの男を叩きのめしたくなった。
「まあ、定子さんのお気に入りではしかたないな」
平田は諦めたようだった。
「家の中のことを、私に相談もなしに。篠原にきつく言っておかなければ」
宗一郎はまだ、不機嫌《ふきげん》なようすだった。
「もういい。行け」
「は、はい。失礼致します」
どうやら宗一郎は、葵を平田に差し出してコネクションを強くしておこうと思ったらしい。許せない。
怒りを抑えられないまま、小走りになってスティルルームに駆け込むと、神保がうっすらと笑みを浮かべていた。
「平田様に何か言われたんだろう? うちに来い、とでも」
「知っていたんですか?」
思わず葵が抗議《こうぎ》の声を上げると、神保はにっこりした。
「今に限った話じゃないよ。あしらい方がへたで、旦那様のご機嫌を損《そこ》ねてくびになった子もひとりじゃない。どうやら首がつながってるらしいとこを見ると、やっぱりあんた、本物のメイドだね」
葵は神保に試されたらしい。だが怒りは湧かなかった。神保は自分を信じてくれたのだ。
「奥様のお茶まで後一時間はある。部屋へ帰って落ちついてきな。腹を立てたままだと、お茶の味が落ちるからね」
神保は、きつい顔には不似合いなほど優しい声で言った。
「ありがとうございます」
葵はメイド部屋へ戻るとベッドにもぐり込み、怒りを鎮《しず》めようと大きく深呼吸した。そうだ、地位や金はあいつらにはふさわしくない。羊の皮をかぶった狼、いや、下司《げす》な人間だ。狼には狼の誇りがある。誇りを捨てて私利をむさぼるのは、人間だけだ。
その葵の耳に、盗聴器の声が飛び込んできた。
『しばらくは、人払いをしておきました。……それで平田様、来年の入試の件ですが』
ハッとして葵は耳をそばだてた。
『わしのほうからは、七人。少ないが、噂が広まり始めてな。派手には動けんのだ』
『私も、事実が大っぴらになっては困ります。その代わり……ひとり、五千万でいかがでしょう。もちろん全て首席《しゅせき》クラスで卒業させるよう、取りはからいます。大学を出れば、国会議員の金庫番に、大手企業の部長クラス。高いとは思いますまい』
『いいだろう。わしは一千万でよい。それでも七千万の裏金だ』
『いえ、それはこれまで通り、五分五分ということで。他にも窓口になって下さる方はいらっしゃいますからな。こつこつ稼《かせ》がせていただきますよ』
何が『こつこつ』だ。葵は顔をしかめた。
『その、他の窓口とやらは、口は堅いのだろうな』
『ご心配なく。入試のからくりが明るみに出たら、みなさま、一蓮托生《いちれんたくしょう》ですからな。百人の特別枠を、これ以上広げる気はございませんよ』
『それでも二十五億というわけか。商売上手だな』
『これが健全経営ということでございますよ』
宗一郎は笑った。
『他の方々からは、すでに入学希望者の名簿をいただいておりますが』
『今、秘書に作らせておる。詳しく身元を調べねば、簡単に秘密を漏らすような者では困るからな。今夜十一時、幹事長《かんじちょう》との夕食会の後で、わしが直接持ってこよう』
『ちょうどよろしゅうございました。飛龍興業の玉道社長が、一度、お目にかかりたいと申しております。お引き合わせしたいのですが』
『玉道か。それは、わしもつごうがいい。少々荒っぽい雑用を頼まれていてな。誰かに任せたいと思っていたところなのだ』
ワルはどこまでワルなのか。葵は怒りを通り越して、呆れた。暴力団とつながりのある政治家など、国民の代表たる資格はない。
しかし、これで悪人どもは午後十一時に集まることが分かった。感情に流されている場合ではない。まずは不正入試の証拠を押さえなければ。
気がつくと二時四十分だった。葵は簡単に化粧を直して、スティルルームへと向かった。
神保が待っていた。
「落ちついたかい?」
「はい、もうすっかり。ありがとうございます」
葵はロシアンティーの用意をしながら、思いきって、神保に訊いてみた。
「神保さんは、旦那様がどんなことをなさっているのか、ご存じなのですか?」
「ああ、そのことかい。大体はね」
「それならあなたのような方が、なぜ、この家にいらっしゃるのですか? この家は、汚れています」
言うと、神保は遠い目をした。
「奥様をお守りするためさ。まだお嬢様《じょうさま》の頃からお仕えしているんだ。今でもあたしは、この家の本当のご主人は奥様だと思っている。そのご主人においしいお茶を飲んでいただく。それが、あたしの役目だよ」
それでこそ、プロのスティルルームメイドだ。葵は納得した。
夫人のための苺ジャムを取り出して、葵はハッとした。
「神保さん。このジャムは、奥様専用なのですね?」
「ああ。まだ旦那様とご結婚する前からの決まりでね。苺の産地は――」
「この瓶を、誰か他の人が開けたことは?」
「お茶をお出しするのは、この前まで立花《たちばな》というメイドの仕事だった。ちゃんとあんたのように、ジャムを皿に盛っていたよ。遅い結婚をして、辞めちまったばっかりさ」
言って神保は、眉をひそめた。
「そういや立花に見合いを勧めたのは、旦那様だったね。持参金《じさんきん》もたんまり持たせてやったそうだ。奥様のことにはてんで関心がないのに、妙に親切だったね」
(やはり……)
葵はジャムの瓶を開けて、小指の先ですくいとりなめてみた。
「神保さん」
声が緊張しているのが、自分でも分かった。
「このジャムには、ごくわずかな量の、――砒素《ひそ》が入っています」
「なんだって?」
神保は身を乗り出した。
サンルームでは、いつものように仙石夫人がミステリの原書を読んでいた。葵は、
「失礼致します」
声をかけると、そっとトレイをテーブルに置いた。
「ああ、もうそんな時間なのね。葵さん。すまないけれど、体を起こして下さらない?」
「はい」
葵は手を貸して、夫人の上半身を起こした。
昨日のようにまず粉薬を飲んで、夫人は、
「これが、ごほうび」
ジャムをなめて、眉をひそめた。
「このジャムは、いつものものとは違うわね。酸味がきついわ」
「申しわけございません」
葵は頭を下げた。
「うっかりジャムを切らしてしまいまして。申しわけない、と神保さんがおっしゃっておりました。今日のところはこれで……」
言いかけると、仙石夫人は微笑んだ。
「私に毒を飲ませないためなら、もう、手遅れよ」
「――気がついていらっしゃったんですか?」
葵が驚くと、夫人は淋しそうな笑顔を向けた。
「私は薬学を勉強していましたから。定期検診では、医学部長は異常がない、というけれど、自分の体のことぐらいは分かるわ。英国ミステリでは、よくある話よ」
「そんな……でしたら、どうして……」
「ここで寝たきりでいても、主人が何をしているのかは、耳に入ってくるものよ。どうしようもない男。でもね、そのどうしようもない男を、私は、愛しているのよ」
葵は自分の耳を疑った。
「学校を腐敗《ふはい》させているだけではなく、奥様を裏切って、殺そうとしているのですよ?」
「若いあなたには、私の気持ちは分からないでしょうね」
夫人は笑顔のまま、ゆっくりと首を振った。
「人を愛する気持ちは、理屈ではないの。愛は、何かを求めるためのものではないわ。全てを相手に捧《ささ》げる心よ。私は、命まで捧げてかまわないと思っているの」
「それでは奥様がかわいそうすぎます!」
思わず葵が叫ぶと、夫人はきりりとした顔になった。
「言葉が過ぎますよ。こんな具合になっても、私はこの家の当主。いくらあなたでも、奉公人に『かわいそう』などと言われる筋合いはありません。私は自ら選んで、ここで朽《く》ち果てていくのです」
その威厳は、華族の家柄の誇りを失ってはいなかった。
「申しわけございません!」
たまらず、葵は部屋を飛び出した。
これこそ上流の人だ――葵の胸が熱くなった。宗一郎とは別の意味で、彼女に法律は通じなかった。誇りを賭《か》けて無償《むしょう》の愛、それも命がけの愛を貫《つらぬ》こうとする仙石夫人を、誰にも止めることはできない。彼女は、夫を愛する自分を愛しているのだ。それは自己満足ではない。真の、しかるべき地位にある人の、誇りなのだ。
その夫を奪おうとしている自分が、ひどく残酷に思われてならなかった。
だが葵も自分のしようとしていることを、止める気はなかった。なぜなら葵も御主人様に忠誠を誓った身だからだ。夫人のため、などというおためごかしを言うつもりはなかった。葵にも葵の、無償の思いを貫き通す、強い決意があるのだ。それもまた、誰にも止めることはできなかった。
「奥様。申しわけございません」
廊下の途中で、葵はサンルームのほうを向いて、深々と頭を下げた。
午後十一時。
応接室には、仙石宗一郎、平田代議士、それに玉道組の玉道|剛造《ごうぞう》が集まっていた。片隅には篠原が控えている。シャンデリアに照らされた四人の顔は、いくら明るい光を受けても、悪の影に覆われていた。
「誰も来ないだろうな」
平田が念を押した。
「メイドたちはよく働かせましたから、今ごろはぐっすり眠っているでしょう。それに玉道様の護衛が、ドアの前にお二人」
篠原が答えた。
「今夜はお屋敷の中にも、若いもんを増やしておきました」
玉道がにたり、とした。
「ゆうべ賊が入ったそうで。目くらましの煙を吸って、ひとり、寝てますわ」
「うかつだな、仙石」
平田に言われて、宗一郎は頭をかいた。
「面目ございません。最新式の警報装置だったのですが」
「まあ、いい。何も盗られてはいないのだな」
「はい。データも、もちろんのことです」
平田はうむ、とうなずいた。
「よかろう。これが名簿と、手付けの二千万だ」
平田はアルミのアタッシュケースをテーブルの上に置き、ベルトに鎖《くさり》でつないだ鍵で開けた。中には一万円札を百枚に束ねたものが並んでいた。名簿らしいものはどこにもない。
「こればかりは現物を渡さねば、口座取り引きを調べられてしまうからな」
「いつ見ても、福沢諭吉《ふくざわゆきち》の肖像画《しょうぞうが》は美しいものですな」
宗一郎が満足げに言った。
「口座に預けてしまうのが、惜しいぐらいですよ」
「それじゃあ私の出番がありません」
玉道が、これも下品な笑顔で言った。
「金を洗うのが、私の商売ですから」
「例の件も、よろしく頼むぞ」
「任しておくんなさい。そっちもきれいに片づけてみせますわ。……言って見りゃ、私らはこの世の裏の掃除係ってとこですな」
玉道は、ソファーにふんぞり返った。
「先生たちには、体面《たいめん》がある。裏の掃除は私らが引き受けて、後はきれいさっぱり、というわけだ」
「表の顔はきれいにしておかなければ、金は集まらんからな」
宗一郎が笑って、葉巻をふかしたときだった。
ドアの外で、どさっ、という音が続けざまにした。そして、――。
凜《りん》とした少女の声が、まるで部屋の中にいるように響いた。
「いいえ。みなさまも、この屋敷も、しみついた悪の汚れは落とせませんわ」
「なんだ?」
宗一郎が腰を浮かせる。と、――。
シャンデリアがふいに消えた。同時にドアのすき間から、霧のようなものが漂いだしてきて、あっという間に部屋の中は真っ白になった。
何も見えない中で、宗一郎の声が響いた。
「いったいなんだと言うんだ。篠原! 窓を開けろ!」
「は、はい、旦那様」
さすがの篠原もあわてているようすだったが、窓にたどり着こうにも視界が遮《さえぎ》られていて身動きが取れない。一同がパニックになっていると……。
霧がひとりでに晴れた。ドアのほうを向いて、一同は茫然《ぼうぜん》とした。
ドアの前には、太くて四角い白木の棒杭《ぼうぐい》が立っていた。棒杭の正面には墨で黒々と、文字が記されている。
『この先、冥途《めいど》』
「こ、これはっ、メイドの一里塚《いちりづか》!」
玉道が叫んだ。
「なんだと?」
言いながら宗一郎は杭の上を見上げて、あっ、という顔になった。
杭の上に、クイックルワイパーを縦に持った若槻葵が、すっくと立っていた。
「あなた、なんです? はしたない」
思わず篠原が叱りつけた。
「高いところから、失礼致します」
葵は、涼しい声で言った。
「罪の匂いを嗅ぎつけて屋敷に入ってみれば、そこは悪が蜘蛛《くも》の巣のようにはびこる巣窟《そうくつ》。裏金を使っての不正入試、それにたかる悪徳《あくとく》政治家に暴力団。あまつさえ、この家の主筋《しゅうすじ》に当たる奥様を、こともあろうにその夫が、砒素を混ぜたジャムでじわじわと殺そうとしている。とうてい、許されることではございません」
「生意気な! たかがメイドの分際で!」
宗一郎が叫ぶ。葵はにっこりと笑った。
「たかがメイド、でございますか」
[#(img/01_080.jpg)]
葵は宗一郎を見つめながら、杭の上からひらりと飛びおりた。スカートがふわっとふくらんで、葵は音もなく床に着地した。
にらみつけている悪党どもを葵は見回して、言葉を続けた。
「確かに私は、一介《いっかい》のメイド。出過ぎたまねをお許し下さい。ですが、汚れた家をお掃除するのは、メイドの仕事でございます。悪の汚れをすっかりお掃除するよう、わたくしは御主人様より言いつかって参りました」
「御主人様? この家の主人は私だ!」
葵はゆっくり首を振った。
「メイドは、ふたりの主人に仕えず。わたくしの御主人様は、ただひとり――」
言いながら、襟のボタンを外して開き、前に突き出した。
「警察庁長官・海堂俊昭様でございます!」
「そっ、それは桜の代紋《だいもん》!」
平田があわてたように叫ぶ。ボタンの内側には、警察官が付けている通称『桜の代紋』が刻まれていたのだ。
「きさま、刑事か? 国会議員のわしを、逮捕《たいほ》できるとでも思っているのか?」
「僭越《せんえつ》ながら、わたくしは御主人様から、警視監《けいしかん》と同じ階級をお預かりしております」
警視監といえば県警本部長クラス、いや、その上には警視庁にだけいる警視|総監《そうかん》と、警察庁長官しかいないから、事実上、ほとんどトップクラスの階級だ。
「ですが権力で相手を脅すのは、わたくしの誇りが許しません。この代紋は御主人様の、わたくしへの信頼の証なのです。わたくしは、その信頼にお応《こた》えせねばなりません。不正入試の証拠をつかんで」
「どこに証拠がある」
宗一郎が、しらを切ろうとした。
「この金は平田先生からのご寄付だ。正当に経理する金だぞ」
「名簿のことはどうなるのでしょうか? はしたないとは存じますが、立ち聴きさせていただきました」
「名簿? 聴き違いだろう。どこにそんなものがある」
あくまで言い張る宗一郎に、葵はため息をついた。
「往生際《おうじょうぎわ》がお悪うございますね。わたくしも最初は、帳簿のようなものを想像しておりました。けれど、今はコンピュータの時代。名簿はデータの形で、保管することができるのだそうでございますね。データが入ったメモリは、ごくごく小さな形にできる、とか。そのデータを、無線ででも受け渡しなさったのでしょう」
「そのメモリとやらが、この部屋にあるとでも?」
「わたくしは最初、旦那様の葉巻を疑《うたが》いました。あの太さなら、メモリも隠せましょう。ですが、失礼ながら昨晩、お部屋を調べさせていただきましたところ、葉巻の中には何もございませんでした」
「そうか。昨日の賊は、てめえか!」
玉道が叫ぶ。葵は頭を下げた。
「不作法をお許し下さい。よく考えてみましたら、何より大事な秘密の名簿を、人目につくところに隠すわけはございませんわね。寝室でも同じこと。篠原さんにも見られたくないのではないでしょうか」
「あなた、私と旦那様のことを……」
篠原は絶句《ぜっく》した。
「メイドの口に、戸は立てられませんわ」
葵は微笑んだ。
「だったら、メモリはどこにあると言うんだ。なんなら身体検査でもしてもらおうか」
「証拠のメモリは……そこでございます!」
葵の手から繰《く》り出《だ》されたクイックルワイパーのモップが、宗一郎の顔を打つ。のけぞったすきに、葵はクイックルワイパーを巧みに操《あやつ》り、宗一郎の手首に巻かれた腕時計を引っかけて、引き寄せた。宗一郎は、あっ、と口を開いた。
「これが、メモリなのですね。思った通りでございました」
「いつ気づいた?」
「初めて旦那様にお目見えしたときから、おかしいとは思っておりました」
「最初からだと?」
葵は微笑んだ。
「この部屋はぜいたくなお部屋でございます。あの富士山は悪趣味――失礼――ですが。旦那様のスーツはオーダーメイドの高級品、葉巻はキューバのプレミアム・シガー。ティーカップも北欧《ほくおう》アンティークと拝見《はいけん》しました。ですが、腕時計だけは、せいぜい五十万としない安物」
「五十万の腕時計が安物ですって?」
篠原が唖然《あぜん》とした顔をした。
「一般の方でも、百万以上の腕時計を持っている方は少なくありませんわ」
葵は微笑んだ。
「ご趣味と言っても、造りが軽すぎて、お衣装に釣り合わない品です。そして、この文字盤《もじばん》の『MCD』というブランドは、存じ上げませんでした。そもそも時計を、アメリカから取り寄せる、という話は、わたくしは聴いたことがございません。それで、JAMの仲間に問い合わせてみたところ、『MCD』は、Micro Customize Device社の略称《りゃくしょう》。つまり半導体《はんどうたい》メモリをカスタムメイドで様々な形に製品化してくれる会社だと分かりました。中でも時計型のUSBメモリは、人気商品だとのこと。パソコンに接続《せつぞく》する端子《たんし》が完全に隠れるので、一見、メモリには見えませんわね」
「もう、たくさんだ!」
宗一郎が叫んだ。
「玉道、たかが小娘ひとりだ。殺《や》ってしまえ。篠原、お前は先生を」
「はい!」
証拠を握られて及び腰の平田を、篠原は入り口へ案内しようとした。それを見のがす葵ではない。クイックルワイパーを床に滑らせると、ワックスシートを装着《そうちゃく》したモップはカーペットの外の床をなめらかに進んで、篠原と平田の足許をすくった。ふたりはみごとにひっくり返った。葵はひらりと飛び上がり、ふたりのみぞおちを、すばやく回転させたクイックルワイパーの柄で突いた。ふたりは、ぐったりとなった。
「てめえら、早く来ねえか!」
玉道の叫びに応じて、ばらばらと子分たちが部屋へ入ってきた。葵に玉道、そして宗一郎が向き合っているのを見て、けげんそうな顔をした。
「親分、いえ、社長。メイド相手に何をしてるんです?」
「この間抜け! こいつはただのメイドじゃない。メイド刑事だ!」
「メイド刑事。光栄ですわ」
にっこりと微笑むと、男たちもようやく事情を悟《さと》ったのか、葵めがけて襲いかかってきた。八人、葵は数えた。かえってつごうがいい。部屋の広さは二十畳、そこに応接セットやら観葉植物《かんようしょくぶつ》、どっしりとした机まであっては、この人数では動きが制限される。
葵はスカートの裾を翻《ひるがえ》して跳び下がると、観葉植物の鉢を力任せに倒した。天井の高さに合わせたりっぱなリーフヤシの樹が仇《あだ》になって、ふたりの男が押し倒された。そのときにはもう、葵は宙を飛んでいた。クイックルワイパーの柄が、男たちの目を、鼻を、鎖骨《さこつ》を空中から突く。床に降り立つと身を沈めて、向こうずねを思いきりなぎ払って、残りの男を倒した。顔を突かれた男たちは、痛みにうずくまっている。立っている者はいなくなった。とどめに葵は、
「失礼致します」
頭を下げると、床に這《は》いつくばった男たちの股間《こかん》を突いた。男たちは白目をむいて悶絶《もんぜつ》した。
葵は顔をしかめた。クイックルワイパーを通して伝わってくる、ぐんにゃりとした感触が気持ち悪かったのだ。だが、ぜいたくは言っていられない。相手は凶暴《きょうぼう》で、多数だ。
あっという間に八人の子分は動きを止めた。
「そこまでだ!」
玉道の声がした。
振り向くと、玉道は部屋の奥から拳銃をかまえていた。大口径のリボルバーだ。その後ろには宗一郎が身を縮めている。
「ガキが妙なもの振り回しやがって。たかがモップじゃねえか。一発で打ち砕いてやるよ」
さすがの葵も表情を引き締めて、クイックルワイパーの柄を握り直し、水平にかまえた。
「さあ、どうする。そいつをこっちへ渡すか。それとも、死ぬか?」
葵は玉道を見つめたまま、眼鏡を払いのけ、空いた右手で頭のカチューシャとピンをまとめて取った。長い髪が、ばさっ、と背中に落ちて、眼鏡に隠れていたきりりとした目が、玉道をにらみつけた。葵のていねいな口調が、そのとき、がらりと変わった。
「チャカにびびってちゃ、メイドは務まらないんだよ、おっさん!」
玉道は一瞬息をのんだ。
葵は長い髪をひと振りして顎《あご》を上げると、部屋の中の連中を見回し、腹の底から叩きつけるように、叫んだ。
「悪党ども、冥途が待ってるぜ!」
その迫力に押されていた玉道が、ようやく我に返ったようだった。
「ガキのくせにいい度胸だ。ほめてやらあ。だが、そこまでだ!」
玉道は両手で構えた銃を撃った。葵は動じなかった。すかさずクイックルワイパーを居合い抜きの刀のようにひと振りする。光の筋が走り、――。
かきん! という音がした。
玉道は、信じられないというようすで、葵を茫然と見た。重合金のクイックルワイパーは、飛んでくる銃弾を跳《は》ね返《かえ》したのだ。跳弾は、床にぶすっ、と突き刺さった。
まだ茫然としたようすで、それでも玉道はなんとか撃鉄を起こす。そのわずかなすきを葵は見のがさなかった。柄のボタンを押すとクイックルワイパーのモップは落ち、キャップも外れる。鋭く尖《とが》った先端《せんたん》が現われて、一本の細い槍《やり》ができた。ためらうことなく葵は槍を振りかぶると、玉道めがけてまっすぐに投げた。
重量二キロの鋭い槍は、玉道の手から拳銃をはたき落とし、スーツの肩口を壁に縫《ぬ》いつけた。あまりのことに、玉道は全身の力が抜けたようで、ずるずると床にへたりこんだ。完全に戦意をなくした、呆《ほう》けた表情だった。
葵はふっ、と横を見た。宗一郎がアタッシュケースを持って逃げようとしている。葵は応接セットをひらりと飛び越し、玉道の上衣を縫いつけた槍を引き抜くと、宗一郎の目の前へ向かって投げた。槍は宗一郎の鼻先をかすめて壁へと突き刺さり、ぶるぶると震えた。アタッシュケースが床に落ちて開き、札束が散らばった。
「わ、私の金だ。私の……」
札束をかき集めようとする宗一郎に葵は近づき、その顎を右手で引き上げた。左手には、玉道が取り落としたリボルバーがかまえられている。
「ああ、あんたの汚い金だ」
葵は低い声で言った。
「冥途まで、持っていくがいいさ。だがな、奥様を殺そうとしたことだけは、許せねえ!」
「私を、こ、殺すというのか。そんなことをしたら……」
「ああ、あたしも地獄《じごく》に堕《お》ちるね。だが、そのときはあんたも一緒さ」
葵の目にこもった怒りと殺意が本物であることを悟って、宗一郎は、それでも哀《あわ》れみを乞うような顔で、仁王《におう》立ちになった葵に取りすがった。
「た、頼む。金ならいくらでもやる。百億でも、二百億でも――」
「メイドは金なんかじゃ動かないんだよ。信頼できる御主人様に心からお仕えすることが、何よりの喜びなんだ。いや、あたしのことはどうでもいい。あんたは奥様の信頼を踏《ふ》みにじった」
葵はリボルバーの銃口を、宗一郎の額に突《つ》きつけ、撃鉄を起こした。宗一郎の額から、どっと汗が噴《ふ》き出《で》てきた。
「お願いだ……命ばかりは……」
黙《だま》って、葵は引き金を引いた。宗一郎は、目をぎゅっとつぶった。
かちり、という音がした。
宗一郎は、おそるおそる目を開いた。
「死んでいく人間の、気持ちが分かったかい」
まだ怒りの収《おさ》まらない声で、葵は言った。握《にぎ》った右手から、リボルバーから抜いておいた銃弾が、ばらばらとこぼれ落ちた。
「奥様は、毎日、死を味わっていたんだ。それでも、運命として受け入れようとした。それほどまでに、あんたを愛していたんだ。その気持ちが、あんたになんか分かるもんか!」
――さっきから遠くで響いていたサイレンの音が、急に近づいていた。
やがて、制服警官を従えた梶警視正が部屋へと踏《ふ》み込《こ》んできた。あたりを見回す。
「派手にやったもんだな、葵ちゃん」
葵は答えず、メモリを仕込んだ腕時計を梶に渡した。
「この中に、不正入試の証拠があります。後は、お任せ致します」
葵は髪をまとめてカチューシャを付け、眼鏡を拾ってかけると、部屋を出ようとした。
「どこへ行くんだい?」
「……お詫《わ》びを……」
それだけ言って、葵は踏み出した。
「お詫びって、なんのことだ? ああ、みんなしっかり確保しろよ」
制服警官たちに言った梶は、机の上の保湿器を、目ざとく見つけた。
「こいつは上物《じょうもの》だ」
梶は葉巻をスーツのポケットに詰め込んで、
「証拠品として、押収《おうしゅう》する」
誰にともなく、しれっとした顔でそう言った。
深夜のサンルームに、葵は来ていた。
夫人は安らかな顔で、眠っているようだった。その顔に、葵は話しかけた。
「奥様、申しわけございません。命を賭けて奥様が愛された旦那様を、わたくしは……けれど、悪を放っておくことは、わたくしの魂《たましい》が、許さなかったのです。奥様が、死を選ぼうとなさることも……奥様?」
ハッとして葵は見回した。空っぽの、苺ジャムの瓶が、床に転がっていた。
夫人は、砒素をすっかり口にしてしまったのだ。
葵はがっくりと首を垂れた。
「あなたは、何もかも、ご存じだったのですね……」
だが夫人の顔は、微笑んでいるように見えた。
スティルルームへ行くと、神保が煙草をふかしていた。葵の顔を見て、苦笑いした。
「五十五年、禁煙してきたんでね。最後の一服《いっぷく》ぐらい、させておくれ」
「奥様にあのジャムをお持ちしたのは、神保さんでしたの」
「あんたが砒素のことに気づいたんで、奥様は、覚悟《かくご》を決めたのさ。どうやら旦那様もつかまったようだし、物事が終わるときは、あっという間だねえ」
「でも、奥様のお命を……」
「どうせ、この家は終わりさ。奥様にとって、旦那様のいない人生なんて考えられないんだ。今のあんたなら、分かるだろう?」
葵は、ゆっくりとうなずいた。
「さて、行くかね。あたしも、自殺幇助《じさつほうじょ》罪とかなんとかになるんだろうからね」
神保は、金張りのバックルのような形をした皿で、煙草をもみ消した。
「神保さん。申しわけ、ございません」
葵は頭を垂れた。
神保はにっこりと笑った。
「あんたが謝《あやま》ることはないさ。たとえ二日でもお仕えしたんだ。仕えた家の不始末を見のがさないのが、本物のメイドだ。あたしはこの部屋が捨てられなかった。あんたは、りっぱだよ。これからも、その心を忘れないどくれ」
出て行きかけて、神保は振り向いた。
「ああ、そうそう。大事なことを忘れていた。本物のマーマレードの秘訣《ひけつ》を教えてやるよ。もうあたしは、引退だ。あたしの味を引き継いどくれ」
神保は、葵に耳打ちした。
「……そうでしたの?」
葵は驚いた。
「なんでもないことさ。だが、簡単には思いつかない。この家をきれいにしてくれた、あたしからのお礼さ」
「……ありがとうございます」
葵は、深々と頭を下げた。
通用門へ向かうと、途中のダイニングでは、中澤たちが騒《さわ》いでいた。
「みんな、警察に連れて行かれてもうたで」
「奥様は亡くなったんだって」
「どうなるのかしら、あたしたち」
「そら、くびやろ。ちゅうか、失業やな」
だが中澤は、そして他のメイドも、晴れ晴れとした顔をしていた。
「篠原のばばあもとっつかまったんや。ええ気味やで。もうメイドはこりごりや。当分は、マクドのバイトでもするわ」
「私はちょっと貯金もできたし、実家へ帰ろうっと」
「あたしはメイド喫茶でも行こうかな」
「ええやん。客が選べれば、の話やけどな」
みんな、頭を抑《おさ》えつけていた暗い雲が吹き払われて、明るく笑っていた。
葵はわずかに微笑むと、静かに立ち去った。『メイド喫茶』とはなんなのか知らないが、心の重さが、ほんの少し、軽くなるような気がした。
そしていつもの『お屋敷』の朝――。
マーマレードを塗ったロールパンを、静かに口にした海堂は、目を細めた。
「なるほど。これが仙石家、秘伝《ひでん》の味か」
「はい。教えていただきました」
その秘訣を、ことさらに言い立てる葵ではなかった。レストランでいちいち料理の説明をする習慣は、葵は好きではない。神保の思い出と共に、永遠に心にひそめておくつもりだった。
「御主人様。これでよかったのでしょうか」
葵は訊いてみた。
「確かに悪は捕らえました。ですが、代々続いた仙石家を……」
そして奥様を。葵は心の中でつぶやいた。
「何が正しいのか、それは私にも分からん。私は法の番人に過ぎない。そして、法が正しいとは限らないのだ。平田はあれでも政治改革に努めている、その意味ではりっぱな代議士だ」
海堂は怜悧《れいり》な顔を上げ、葵を見つめた。
「だが、お前にも分かったのではないか。この世の仕組みがどうであれ、許せないことがあることを」
「――はい」
葵は答えた。そうだ。葵は警察の手先としてではない、自分がどうしても許せないものへの怒りをぶつけるために、戦ったのだ。
オーディオセットからは、ドビュッシーの『月の光』が静かに流れていた。
「マーマレードの、ほうびだ」
海堂はサイドテーブルの抽出を開けて、人さし指ほどのものを取り出した。
「御主人様。これは?」
「メモリは、決して悪の道具などではない。こういう使い途もあるのだよ」
海堂が、あり得ないことだが、ほんのわずか微笑んだように見えた。
「MP3プレーヤだ。メモリに音楽を転送して、聴く。おもちゃ代わりに買ってみたのだが、意外に音はバランスがとれている。ただヘッドフォンは、しっかりしたものに取り替えておいた。転送には、書斎のコンピュータを使うといい。朝倉に使い方を訊け」
「そんなぜいたくなもの、いただけません」
葵はびっくりした。マーマレードをほめていただくだけで充分なのだ。それこそが最高のごほうびだ。
「葵。本来の仕事以外の『用事』を頼んだ、私なりの――、そう、けじめだ。断わると言うのか」
「……ありがとうございます」
葵は頭を下げて、MP3プレーヤを受け取った。
執事の朝倉老人に音楽の転送方法を教わって、プレーヤに曲を入れた葵は、自分の部屋へ戻るとベッドに横になり、ヘッドフォンを耳にかけ、目をつぶった。
中森明菜《なかもりあきな》の『難破船《なんぱせん》』が、哀しげな歌声を葵の頭の中に響かせた。
「奥様……それでも奥様は、本当の貴婦人《きふじん》でした……」
葵は、つぶやいた。
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第2話 ITバブルの罠《わな》! 謎《なぞ》の流れメイド・ニキータ
真昼の六本木。
今ではすっかり新しい東京の名所となった六本木ヒルズから、もう何十年も昔から街《まち》の象徴《しょうちょう》だった六本木交差点へと向かう通りは、東京の繁華街《はんかがい》がどこもそうであるように、昼間から人通りが多い。サラリーマン、若者、そして平日なのに女子高生まで、せかせかと人の波は流れている。
その中をおぼつかない足取りで、ようやく前へと進んでいる少女がひとり、いた。
すれ違った人たちは驚《おどろ》きの目で、あるいは好奇心《こうきしん》をあらわにして少女を見る。理由は二つあった。少女はほとんど骸骨《がいこつ》のようにやせこけて、青黒い、虚《うつ》ろな顔をしていたのだ。そして、もう一つ。彼女は、ミニスカートのメイド服姿だった。
コスプレが流行《はや》っていると言われる東京でも、秋葉原や渋谷センター街ならいざ知らず、この六本木でそんなかっこうをしている女の子は、まず見かけない。
必死に歩いてきたメイド服の少女は、六本木交差点まで来て赤信号を目にすると、絶望したかのような表情になり、喫茶店《きっさてん》『アマンド』のほうに目を向けたままゆっくりと倒れた。交差点の辺りには、待ち合わせやナンパのために若者が溜《た》まっている。たちまち少女の周りに人垣《ひとがき》ができた。少女はぴくりとも動かない。野次馬《やじうま》たちは無責任《むせきにん》に眺《なが》めていたが、ようやくひとりの青年が携帯を開いた。だが彼が最初にしたのは、一一九番に通報《つうほう》することではなく、メイド服の少女を写真に撮《と》ることだった……。
日曜日の海堂《かいどう》邸は、ひっそりと静まり返っていた。
午前中にお屋敷《やしき》中の掃除を終え、洗濯《せんたく》や食器|磨《みが》きといった日常の仕事を全てこなした葵《あおい》は、御主人様――警察庁長官《けいさつちょうちょうかん》・海堂|俊昭《としあき》に昼食をお出しして、午後二時前に使用人のダイニングへと向かった。今日はお客様の予定もない。御主人様のお茶の時間、三時までは昼休みだった。
ダイニングではよく日焼けした庭師《にわし》の坪内《つぼうち》氏が、ランニングシャツに、首には手ぬぐいをかけたままテーブルに向かっていたが、葵が入っていくと笑顔を見せた。
「ああ、葵ちゃん。お疲れさま」
「いいえ、毎日のことですから」
葵も笑顔で答えた。
「坪内さんこそ、午後もお仕事なんでしょう?」
「ああ。夏は雑草が伸びるのが早いからねえ。ひと仕事だね」
「大変ですねえ……」
「なあに、庭ってやつは、かまってやればやるほど応《こた》えてくれる。庭全体が、ひとつの生きものだからね。いや、このお屋敷全部が生きものなんだよ。この歳になると、庭や建物の声が聴こえてくることがあるよ。こうして欲しい、今ここが困ってる、ってね。それをどうにかしてやれば、お礼も言われる、お屋敷も元気になる。人とつきあってるのと一緒さ。それが楽しいから、この仕事はやめられないんだよ」
「そういうものですか……私はまだまだだわ」
葵には、実感がわかなかった。
「料理だって一緒さ」
流し台に向かっていた坪内夫人が、背中で言った。
「材料を見ただけで、どう料理して欲しいか、やっとこの頃つかめてきたよ。あたしの勝手は、料理を殺しちまうんだね。きちんと相手してやらなきゃいけない」
「おふたりとも、すごいです」
葵は、分からないなりに、感動した。
「何、あんたもそのうち、分かるようになるさ。さ、ぬるくならないうちにお食べ」
坪内夫人が出した皿は、トマトの冷たいパスタと、ジャガイモを丹念に裏ごしして作った冷たいスープ・ヴィシソワーズだった。
「わあ、おいしそう」
「夏はなんと言っても野菜だからね。冷えてるうちにおあがり」
「はい。いただきます」
葵はスープをスプーンですくって、口に運んだ。こくのある、それでいてさっぱりしたスープが喉を通る。パスタもトマトの酸味《さんみ》が食欲をそそる。このお屋敷に奉公《ほうこう》していて幸せだ、と思うひとときだ。
坪内夫人は自分のぶんをテーブルに置いて、テレビのスイッチを入れた。海堂家の奉公人《ほうこうにん》は、もちろん、テレビを見ながら仕事をしたりはしない。葵も、音楽を聴きながら掃除をするような、はしたないまねはしない。坪内夫人がテレビを点《つ》けるのは、この昼休みのひととき、それも二、三日に一度だけだ。それだけリラックスしているという証拠《しょうこ》なのだ。葵は坪内夫妻ともっと話したかったが、これが夫人のひそかな楽しみだから、止めはしなかった。
だが、十七インチの画面に映し出された映像を見て、葵は昼食の手を止め、眉をひそめた。
そこはずいぶんと庶民的《しょみんてき》な喫茶店のようだった。席についているのは若者が多い。しかし、葵には親しみを持てないタイプの容姿《ようし》だった。――正直に言って、美しくない。
それは、まあいい。問題は、その若者たちに紅茶やコーヒーなどを運んでいるのが、メイド服を着た若い女の子だ、ということだ。そのメイド服が、おかしい。ミニスカートになっているのだ。仕立ても安っぽく、妙に挑発的《ちょうはつてき》なデザインだった。あれでもメイド?
「いったい、なんなの……」
思わず葵はつぶやいていた。
「おや、葵ちゃんはメイド喫茶を知らないのかい?」
坪内夫人が訊《たず》ねた。
「喫茶店にメイドがどうして?」
葵がまじめに訊《き》き返すと、夫人は笑って手を振った。
「本物のメイドじゃないよ。コスプレって知ってるかい? メイドになりきって、お客にお茶を運ぶ。後お金を払えば、ゲームの相手なんかもしてくれる。ゲームに勝つと、ツーショットで写真が撮れるんじゃなかったかねえ」
「なりきって、なんて言わないで下さい」
葵はむすっとして言った。
「あんな安っぽいかっこうで、しかもトレイをお客様の右から出す人は、メイドなんかじゃありません。ただのアルバイトの店員です」
「ああ、そうだよ。若い子のアルバイトなのさ。だけど若い男は、あのメイド服にぐっと来るらしいよ。お茶の味やもてなしなんかどうでもいいんだ。そうそう、CDも出したとか、前に言ってたねえ」
葵の胸に怒りがこみ上げてきた。
「人より目立つのは、メイドとしてあってはならないことです。あんな乱れたかっこうで、はしたないまねをするなんて、メイドへの冒涜《ぼうとく》です」
「はしたない、なんて言いなさんな。若い娘が」
坪内夫人は苦笑した。
「手だって握《にぎ》らせやしないんだ。それでも男ってやつは満足なのさ。変な女遊びをするよりは、よっぽどかわいいもんだよ」
「どうだい。葵ちゃんもバイトしてみたら」
坪内氏がつい、軽口を叩いた。
「葵ちゃんならさぞ人気が出るだろうよ」
「坪内さん!」
葵は坪内氏をにらみつけた。
「体の接触がなくても、自分を売っていることに変わりはありません。若い娘はすぐに自分を売り物にしたがります。けれどそのつけは、きっと回ってくるんです」
坪内氏は首をすくめた。
「まったく葵ちゃんにかかっちゃ、どっちが大人だか分かりゃしないや」
「葵ちゃんは堅いからねえ。いや、『硬派』ってやつかい?」
坪内夫人が笑うと、葵はぎくりとした。
「あかねさん。それは……」
「冗談だよ。誰も昔のことなんか、気にしちゃいないさ」
『昔のこと』、か……。
葵がため息をついたとき、部屋のベルが涼《すず》しげな音を立てた。
「おや、御主人様のお呼びだよ」
坪内夫人が意外そうな顔をした。葵も不思議に思った。使用人の昼休みをじゃまする、御主人様ではないのだが……。
「そう言えば、朝倉《あさくら》さんも見えないねえ」
パスタを頬《ほお》ばりながら坪内氏が言った。
「あのベルは、書斎《しょさい》ですね。わたくし、ちょっと行って参ります」
まだ残っていた料理を置いて、葵は席を立った。
長い廊下《ろうか》を屋敷の奥へと進み、主|寝室《しんしつ》の奥にあるドアを開けると、八|畳《じょう》の書斎だった。海堂俊昭は、家での仕事はほとんどベッドの上で、クラシックを聴きながら済ませてしまう。書斎に入るのは資料を調べるときと、コンピュータを使うときだけだった。
「失礼致します」
葵が声をかけて入ると、紫檀《したん》の机の上のモニタに執事《しつじ》の朝倉老人が向かい、その後ろから俊昭が見守っていた。俊昭のパソコンは、MacのG5ハイエンドモデル、二・七GHzのデュアルプロセッサに三十インチのシネマディスプレイ、8GBのメモリにハードディスクは四百GBが二つ、グラフィックも固めて、ギガビットイーサネットカード、ブルートゥースのワイヤレスキーボードを始めとするあらゆるオプションが付いている――要するに百万を超える、すでに『パソコン』と呼ぶのがためらわれるしろもので、これ一台で長篇《ちょうへん》のCGアニメーションが作れる最高級品だが、俊昭自身は使い方を知らない。電子メールさえほとんど使わないが、使わなければならないときも朝倉老人に操作してもらっている。仕事上、受信のために置いてはあるが、メールの機密性を俊昭は信じていない。重要な用件は、主寝室のホットラインにかけさせる。
だったらどうしてそんなコンピュータを買ったのかと言えば、銀座のアップルストアで『適当なパソコンを選んで欲しい。支払いはこれで』と、ダイナースクラブカードを出したとたん、店員が勝手に最高のスペックのパソコンを出してきたのだ。クレジットカードでは、よく、戦車でも買えるという噂のあるアメリカン・エクスプレスのブラックカードが上流階級の印とされ、確かに一般人が手に入れることは難しいのだが、実際には芸能人などでも持っている人間はけっこういる。アメリカン・エクスプレスは、意外に庶民的なのだ。
ダイナースクラブカードは、世界で最初のクレジットカードとしての伝統を守っており、数年前までは、年齢三十三歳以上で土地を持ち、何かそれ相応の国家資格を持っていること――など厳格《げんかく》な基準の審査《しんさ》があった。つまり、しかるべき地位と認められなければ入れなかったのだ。現在も入会審査は厳《きび》しく、簡単には入れないのだが、親会社が代わってやや審査基準を引き下げたため、ブラックカードができた。こちらから申し込むことはできず、ダイナースが利用状況などを見て、勧める。
俊昭は、ブラックをひけらかすようなまねは下品だと思っていたし、ふつうのダイナースクラブカードでも利用限度額は無制限なので――そこが、ダイナースたるゆえんだ――、勧められてもブラックカードは持たなかったが、その威力は失われていなかった。
ディスプレイに向かって、きちんと背筋を伸ばした朝倉老人は、このお屋敷に先々代から仕えている執事である。家の中で朝倉が知らないことは、何一つない。たとえ俊昭といえども、朝倉に逆らうことはできない。文字通り、家を守っているのだ。
その朝倉老人が目にも止まらぬ速さでキーボードを叩いているのに、葵は目を見張った。ときおり脇《わき》のマウスに手を伸ばし、すばやくクリックする。七十を超えるとは思えない、使いこなしようだった。老眼鏡《ろうがんきょう》を直して画面を眺《なが》め、すぐにまたキーボードを叩く。
俊昭が声をかけた。
「どうだ、朝倉。見つかったか」
「いいえ、御主人様。どのような裏サイトでも、パスワードが必要でも、このわたくしにハッキングできない、ということはないと存じますが」
口調はていねいに、だが、とんでもないことを朝倉は言った。
「朝倉さんは、パソコンにもお詳しいのですね」
意味は分からないながら葵が言うと、朝倉は微笑《ほほえ》んだ。
「実はわたくし、さる都市銀行に、一時、勤めていたことがありますので」
「と、おっしゃいますと?」
「銀行では、昭和四十年代以前からシステムのオンライン化を進めておりました。初めはひとつの銀行の店舗《てんぽ》どうしでのデータ処理ですな。昭和四十年に、当時の三井銀行が初めて開始致しました。わたくしはさる銀行で、早くからその導入《どうにゅう》をお手伝いしまして。まだ家庭用コンピュータなどございませんでしたから、参考書を手に電算室に詰めきりで、徹夜《てつや》仕事でした。専用線も敷《し》かねばなりませんから、手がかかったものですよ」
「……専用線?」
「インターネットのように誰でも利用できる回線ではなく、店舗と店舗とを、直接、専用の回線で結ぶのですが、なんと言いましても、誰も行なったことのない事業でしたので。それから段階を踏《ふ》んで、昭和四十八年には違う銀行どうしが結ばれる全銀《ぜんぎん》システムが稼働《かどう》し、今のようにどこのATMからでも預金《よきん》の引き出しができるようになったのは平成三年二月ですが、やはり今でもインフラは専用線です」
昭和四十年といえば一九六五年……コンピュータなんて、ずっと新しいものだと思っていた。
朝倉はキーボードから手を離して、首を振った。
「どうもいけませんな、旦那様《だんなさま》。噂は流れておりますが、肝腎《かんじん》のサイトそのものが、どうにも見つかりません」
いったい、何を探しているのだろう。
俊昭は葵に振り向いた。
「葵。メイド喫茶を知っているか」
葵の脳裡《のうり》にさっきの光景が浮かび上がった。
「そういうものがあることは、承知《しょうち》しております」
「三ヶ月前、秋葉原のメイド喫茶から、人気のメイド――いや、ウエイトレスが姿を消した」
葵はほっとした。御主人様は、本物のメイドとコスプレのメイドの違いをわきまえている。
「誘拐《ゆうかい》でしょうか?」
「いや。もっといい働き口を見つけたから――と言ったそうだ。メイド喫茶は店員の出入りが激しい。誰も気にしなかった。それがおとといの昼、六本木交差点で倒れているところを発見された。ひどく衰弱《すいじゃく》していてな。すぐに警察病院に運ばれればよかったのだが……」
俊昭は、言葉を濁《にご》した。
「何か、あったのでございますね」
「発見した連中が、六本木でメイド服の扮装《ふんそう》は珍しい、と携帯写真を撮るのに呆《ほう》けていて、通報があったのは、十数分も経ってからだったのだ」
葵は思わず頭に血が上った。
「そんなことって……世の中、狂っています!」
「その狂った世の中を正すのが、私の仕事だ」
御主人様の冷静な言葉に、葵はハッとした。
「申しわけございません。出すぎたことを申しました」
「かまわん。とにかく病院に運ばれたときには、その少女――お前と同じ十七歳になるが、もはや瀕死《ひんし》の状態だった。事情聴取に当たった麻布署の刑事に、少女がようやく答えたのは、たったふたこと。『ネットオークション』と、『リバティゲート』。それだけだった」
「では、その娘さんは……」
「亡くなった。死因は、餓死《がし》だ」
ショックだった。たとえまがい物とはいえ、メイド、それも葵と同じ歳の少女が、白昼の道端《みちばた》で倒れて亡くなったのだ。しかも餓死だなんて……。
葵はしばらく茫然《ぼうぜん》としていた。
「リバティゲートについて、知っているか」
俊昭に訊かれて、葵はようやく我に返った。
「ITの分野で急成長中の会社名、でしたかと」
俊昭はわずかにうなずいた。
「初めは、社長の伊波光彦《いはみつひこ》ひとりの小さな下請《したう》け会社だったが、ここ二、三年で吸収|合併《がっぺい》を繰《く》り返《かえ》し、今ではネットビジネスの総合企業グループとして、業界で五本の指に入る」
たしかにリバティゲートの名前は、最近、経済紙でよく目にするが、それほどのものとは思わなかった。
「葵さんは、大きな会社とお考えかもしれませんが」
キーボードを叩きながら、朝倉老人が笑った。
「ネットビジネスの世界でも、まだまだベンチャー企業に過ぎませんな。ベンチャーとはリスクが高いという意味でして、私に言わせれば、企業として安定はしていないのですよ。それにベンチャー企業の経営者が言うことは、二つです。一つは、金が唯一の価値基準。もう一つは、金のためには犯罪以外ならなんでもする。とまあ、そういうことでございますよ」
葵は、釈然《しゃくぜん》としなかった。金や肩書きを持っているだけで、会社の経営者としてふさわしいのだろうか。自分の地位に見合った品格と、徳を備えていることが、上流というより、人間としての価値だと思う。まして、犯罪にならないからと言ってなんでもする、などというのは、筋が通らない。
「金が価値基準にならないのは、かなり前から経済学の価値論で論じられていることだ」
俊昭が言った。
「しかし、経済|談義《だんぎ》をしていても始まらない。問題は、伊波光彦が犯罪にまで手をそめている可能性がある、ということだ」
さっきまでの話が葵の頭の中で甦《よみがえ》った。ネットオークション、突然働き口を替えた少女、メイド喫茶に群がる若者……。
転職先のあっせん、では、犯罪とは呼べない。まさか?
「あの、もしや、人身売買と……」
「残念ながらその通りだ」
俊昭は、わずかに眉を上げた。
「今やメイド喫茶は全国的に広がっているが、調べたところ、人気のウエイトレスが次々に店を辞め、行方不明になっている。亡くなった少女の『ネットオークション』という言葉も、コスチュームや私物を取り引きしているのではなさそうだ。それで、朝倉に調べてもらったところ、インターネットで密かにささやかれている噂がある。『メイド』の人身売買だ」
葵の体がわなわな震えだした。
「伊波光彦は六本木ヒルズに近い高層ビルに、オフィスと住居をかまえている。警視庁が口実を設《もう》けて捜索《そうさく》してみたが、何も見つからなかった。朝倉が調べても、そのようなオークションのサイトはインターネット上に存在しない」
「ハイテク捜査《そうさ》班でも、見つけられないとおっしゃるのですか?」
各自治体警察のハイテク捜査班、特に警視庁では、文字通り二十四時間|態勢《たいせい》で、犯罪につながりそうなサイトを監視《かんし》、捜査している。
「彼らは優秀だが、どこかに、からくりがあるのだろう。……葵」
「お命じになるまでもありません」
葵はすぐに答えた。
「同じメイドとは思いませんが、少女を売り買いするようなことが、もしあったとしたなら、たとえ法の網をかいくぐれたとしても、このわたくしが許しません。その真偽《しんぎ》を確かめに参ります」
俊昭はうなずいた。
「お前なら、そう言ってくれると思っていた。……だが、伊波は、表向きはメイドもウエイトレスも募集してはいない。入り込むには、少しばかり厄介《やっかい》なことになりそうだ」
「と、おっしゃいますと?」
不審《ふしん》に思って葵が訊ねると、俊昭は珍しく、ためらうような顔を見せた。
「お前のプライドが、傷付かなければいいのだが」
「悪をあぶり出すためなら、なんでも致します」
葵はきっぱりと答えた。が、それがなんであるかは、分からなかった。
俊昭から教えられて、葵は自分の部屋から、携帯でリバティゲート本社に電話を掛けた。
『リバティゲートへようこそ。ご用件を承ります』
受付嬢《うけつけじょう》の、よどみない声がする。
「実は友人からうかがったのですが、そちらでメイドを募集していらっしゃると」
『おっしゃる意味が分かりませんが』
受付嬢は冷静だった。
「それでは恐れ入りますが、秘書室の塚越《つかごし》様にお取り次ぎ願えないでしょうか。メイドの件で、お話ししたい、と」
『塚越でございますか。しばらくお待ち下さい』
携帯の声が保留の音楽に変わる――はずだったのだが、受付嬢は操作をまちがえたらしい。会話が聴こえた。
『塚越さん。例のメイドのことで、お問い合わせが来ているんですが、何だか、妙に馬鹿ていねいな子なんです。……ええ、新入社員の面接みたいな』
馬鹿ていねい……どこが?
少しして、きびきびした若い女性の声がした。
『塚越です。メイドについて、何かお話があると承りましたが、何かのおまちがいではありませんか。当社は、メイドは雇い入れておりませんが』
「さようですか。ですが、西村可奈《にしむらかな》、という友人が、御社にメイドのいい口があると申して、秋葉原のお店を辞めたのですけれど」
しばらく、沈黙があった。
『失礼ですが、その西村さんという方とは、どういうご関係でしょうか』
「四年前からの親友です。あ、御社のことは秘密、と言われたのですが、わたくしも、メイドのお給金だけではやっていけないものですから」
『と申しますと、あなたは本物のメイドさんですか』
「はい。国家メイド資格を持っております。若槻《わかつき》葵と申します」
『少々、お待ち下さい』
塚越という女性はとまどっているようだった。
やはり、まずかったか――葵は後悔《こうかい》した。俊昭の案では、葵は秋葉原で働くメイド喫茶のウエイトレス、という設定だったのだが、葵にはどうしても受け入れられなかったのだ。いくら潜入《せんにゅう》捜査とはいえ、ミニスカートのメイド服など着るぐらいなら、自害したほうがましだ。そうでなくても、秋葉原の店員になりきれる自信はなかった。
携帯の向こうで、キーボードを叩いているらしい音がした。やっぱり……葵は思った。国家特種メイドの名簿《めいぼ》は公表されていないが、塚越はその秘密の名簿を読めるらしい。俊昭が手を回しておいてくれて助かった。
間もなく塚越の声がした。
『山形から出ていらしたのね』
やはりデータを改変《かいへん》した名簿を総務省《そうむしょう》のデータベースから読み出しているらしい。
データの改変は、俊昭が総務省に了解をとり、朝倉が書斎のパソコンから行なった。パスワードを教えようとする総務省の担当者に、朝倉は答えたものだ。
『失礼ではございますが、八桁の英数字列、それもこんなに簡単なものでは、世間のハッカー連中が、ものの一分とかからずに解読《かいどく》してしまうだろうと存じます。私も、はばかりながら十五秒で解読できましたので』
それはさておき、生まれについてあまりつっこまれても困る。東京の西・清瀬市で生まれ育った葵は、山形といってもさくらんぼの産地であること以外、ほとんど知らないのだ。
「正直に申しますと、小学校を出てすぐ家出して来たのです。東京に憧《あこが》れて。あの、訛《なま》りなどはございませんし、お仕事に差し支えは――」
『その心配はいりません』
塚越の声が、少し柔らかくなった。むしろ家出娘のほうが、つごうがいいのだろう。
『当社では、まだ内密《ないみつ》にお願いしますが、イメージガールを募集しております。ネットビジネスではおたく市場の産業も重視されますので、「萌《も》え」要素の強いメイド姿で行こう、というのが社長の方針です』
……『もえ』?
葵には意味、いやそもそも字が分からなかった。『燃える』、ということだろうか。
『そのためオーディションと研修を行なっていますが、同業他社に先を越されないよう、また、候補《こうほ》者を厳選《げんせん》するため、公式発表までは極秘《ごくひ》に進めているのです。分かりますね?』
なるほど、理屈はどうにでも付くものだ。
「口が堅いのが、メイドの条件でございます。特に国家資格ともなりますと」
『そのようですね。面接試験の評価内容を詳しく拝見《はいけん》しました。ただ当社が求めておりますのは、あくまでイメージガールです。メイドとしての能力は、関係ありません』
そうでしょうとも。葵は、心の中でつぶやいた。
『あなたは携帯からかけていらっしゃいますね。カメラ機能は付いていますか。……ではご自分のお写真を撮って、メールでお送り下さい。お顔だけでけっこうです。アドレスは――』
塚越が言うパソコンのアドレスを葵は書き取って、いったん通話を切り、携帯のレンズを自分に向けてシャッターを押した。すぐにメールで送る。
一分と経たないうちに携帯が鳴った。
『塚越です。若槻さんですか』
「はい。若槻葵です」
『お写真を拝見しました。眼鏡《めがね》をかけていらっしゃいますね』
「ええ。いけなかったでしょうか」
『いえ。そちらのほうが、「萌え」度が高いのです』
だからその『もえ』って、なんなのだろう。
『社長が大変、興味を持っております。一次審査にチャレンジしますか?』
(かかった!)
よく分からないが、眼鏡がよかったらしい。
「ぜひお願い致します。必要な書類はなんでしょうか」
内心の緊張《きんちょう》を抑《おさ》えながら、葵は訊いてみた。
『書類など、必要はありません。明日の午前十時に当社までおいで下さい。そのとき――』
続けて発せられた塚越の言葉に、しかし葵は仰天《ぎょうてん》した。
「そんなことを?」
『できないのでしたら、このお話はなかったことに』
塚越の声が冷たくなった。
「いいえ、おっしゃる通りに致します。午前十時ですね」
『ええ。遅刻は厳禁《げんきん》です。では、そのときに』
電話が切れた。
葵はため息をつき、ベッドに転がった。
なんでもする、とは言った。だが一次審査とやらが、そんなことだとは……。
葵は、げんなりしてつぶやいた。
「それでは、まるで――」
「――見せ物じゃないの」
葵は、またつぶやいた。
ここは港区の外れにある、リバティゲートの本社ビル。自社ビルではなく、十階から上を間借《まが》りしている、とのことだった。
その十階。ワンフロアまるごとのオープンオフィスに机が並び、それぞれの社員の机の上にはパソコンのモニタやノートパソコンが並んでいるが、ラフなかっこうの社員たちは誰もモニタを見てはいない。その視線は一点に集中している。
葵だ。
メイド服を着てクイックルワイパーを持った、葵に目を奪《うば》われているのだ。
ひそひそささやく声が、いやでも聴こえる。
「なんかあの子のメイド服、ださくない?」
「露出《ろしゅつ》度低いしさ、せっかくの眼鏡っ子なんだから、もっと胸元とか開けてさあ」
「萌え度、下がるよなあ」
だからその『もえ』ってなんなのですか? 葵は、ささやいている社員の胸ぐらをつかんで問いただしてみたかった。第一、胸元の開いているメイド服がどこに、なんのためにある? それに『眼鏡っ子』って何用語なんですか?
しかし、これが一次審査だ、と塚越は言ったのだ。メイド服で社内を歩いて、社員に評価させること。はっきり言ってプライドは大いに傷付いたが、葵は心の中で、私はプロのメイド、私はプロのメイド、私はプロのメイド、と三回|唱《とな》えて背筋を伸ばすと、毅然《きぜん》とした態度で、いちばん奥の社長室へと歩いていった。
社長室と言っても天井までの棚で囲まれただけの六畳ほどのスペースだが、中へ入ってみると、エアカーテンがあるらしく、異様に涼しい――いや、寒かった。それになんだかいやな臭《くさ》いがする。古くなった油と、酸っぱいような汗くささの入り交じった臭いだ。
無数のケーブルが床を這っていて、足の踏み場もない。棚には、ロボットや人間の人形らしいもの――葵は『フィギュア』という言葉を知らなかった――が何列にもびっしりと飾《かざ》ってあり、漫画本や、その他よく分からない本だのカラフルな箱だのが詰め込まれていた。びっしり詰まっているのに妙に乱雑《らんざつ》に見えるのは、色が落ちつかず、しかもばらばらだからだろうか。
社長らしい人は、いない。社長の机がないのだ。ここが社長室かどうかも、もはや怪《あや》しいが、奥のほうにパソコンラックがあり、小肥《こぶと》りの、薄汚《うすよご》れた横縞《よこじま》のポロシャツを着た男がこちらに背中を向けて、パソコンのモニタを見ていた。葵には目もくれず、猫背になってディスプレイに目を近づけている。異様な臭いは、その男から流れてくるようだった。ラックの端にはストローを差したコーヒー牛乳の紙パックとかじりかけのカロリーメイト、それにQPコーワゴールドの瓶《びん》が、かろうじて乗っている。
葵はハッとした。モニタに映っているのはオフィスのようすだ。だが、そのオフィスの中を歩いてくるのは、葵本人ではないか。
(録《と》られていた?)
「清純系、キター!」
男が奇声《きせい》を発したので、葵はびくっ、とした。
いつの間にか部屋の片隅に控えていた、こちらは落ちついたえんじ色のスーツをきちんと着こなしてすらりとした体型の女性が、男の背中に呼びかけた。
「社長。若槻さんがお見えです」
「分かってるっつーの」
うるさそうに言って、社長と呼ばれた男は、振り向きもせずマウスを動かした。モニタの中で、今、ここに立っている葵の、困惑《こんわく》した表情がアップになった。
(これが、伊波光彦?)
葵はほとんど呆《あき》れていた。これではまるで、たまにニュース番組で見る盗撮《とうさつ》マニアではないか。第一、社長たる者が、いくら相手がメイドとはいえ目も合わせないとは、ビジネスマナーは、いや人としての常識はどうなっているのだ。こんな相手とは、口をきくのさえいやだった。
「その眼鏡さあ、どこで買ったの?」
距離感のない、妙になれなれしい口調で、それでもあくまでモニタに向かって伊波は話しかけた。
「ラウンド型でしかもベッコウ。大正から昭和初期のレアもの? いや、当時そんなに大きいフレームはないかも。密輸入《みつゆにゅう》?」
観察眼はあるらしいが、『密輸入』というのにはかちんときた。由緒あるしろものなのだ。
「あの、口はばったいのですが、イギリス製のものを前にいただいて……」
それでもこらえて葵が答えると、伊波はケタケタ笑った。耳ざわりだった。
「最高! メイド服も、社員には不評だったけど、ヴィクトリア朝レプリカだし、ベッコウはないよねえ、ふつー。まんまイギリスのメイド、キター! って感じ?」
また耳ざわりな奇声を伊波は上げた。不快感が襲う。
「ところで、『口はばったい』って、何?」
誰に訊いているのか分からない口調で伊波は言った。
心得ているらしく、塚越が左手で支えているモバイルパソコンを叩いた。スーツに合わせてパソコンの外装《がいそう》がワインレッドになっている。
「身の程をわきまえずに生意気なことを言う、という意味です、社長」
伊波がまたケタケタ笑った。奥歯がうずくような気持ちの悪さだった。
「んな日本語、知らないっつーの。国家メイド資格特種、持ってるんでしょ? レベルとしては国家I種並みだよね。エリートじゃん」
「とんでもございません。メイドはあくまで使用人でございます。お給金も安いですし……」
伊波光彦に会ったらそのことを強調しろ、と俊昭に言われたのだった。葵自身は、自分の給料が安いとは特に思っていないのだが。
案の定、伊波は食いついてきた。
「それ! 手取り六万三千六百五十三円、実質十八時間月二十八日労働、時間外なしだよね。ありえねー! 労働基準法アンド最低賃金法はなんですか? 東京都の最低賃金は七百十四円だから、三十五万九千八百五十六円、雇用《こよう》保険なんか引いても二十五万以上はもらってなきゃ、ボランティアじゃん。つか、君、自分の売り方まちがってるよ。十七だよね」
「はい、そうです」
「オッケー! ギリ許容範囲《きょようはんい》」
なんの許容範囲なのか訊ねようとすると、伊波はしれっとして言った。
「んで、スリーサイズは?」
訊かれた瞬間《しゅんかん》、葵の全身を血液が逆流した。ふしだらな! 初対面の女性に向かって。
「も、申し上げるほどのものではございませんわ」
実際には七十五―五十八―七十七なのだが、死んでもこの男に言いたくはなかった。
「つか、それも審査のパラメータなんだよね。貧乳なのは、見て分かるけどさあ」
貧乳という言葉はなんとなく知っていた。自分のバストが人よりささやかなことも知っている。しかし、それを言うか? 赤の他人の異性に。屈辱《くつじょく》感でいっぱいだった。
噴《ふ》き出《だ》しそうな怒りをこらえて、それでも黙《だま》っていると、伊波はくすくす笑った。
「もしかして、コンプレックス? いいのいいの。みんながみんな巨乳フェチじゃないし、貧乳フェチもかなりいるから。っつーより眼鏡っ子キャラは、貧乳のほうがロリっぽくていいんだよね。しかも天然《てんねん》ちゃんだし。今どき、本物の天然っていないって。人気出るよ、君。バラドルでも行けそう。この際、テレビ局にも売り込むかあ」
単語の半分ほどは意味が分からないのだが、その語感とべたべたした口調から、言葉で辱《はずかし》めを受けている、分かりやすく言えばレイプされているような気になった。全ては御主人様と、死んだ西村可奈のためと思っていたが、もう我慢《がまん》できない。気がついたときには葵は伊波に駆《か》け寄《よ》り、背中に右足の裏で思いっきり蹴りを食らわせていた。
伊波はぶざまに前へ倒れ、モニタに頭をぶつけた反動でひっくり返った。おかげでたるんだ腹と、むくんだような大きな顔に目が小さく唇《くちびる》の厚い、造作《ぞうさく》の悪い顔が見えた。見たくはなかったが。
「社長!」
塚越があわてたように駆《か》け寄《よ》る。葵は、任務《にんむ》のことを考えて後悔したが、謝る気はなかった。
すると伊波は、顔をぐしゃぐしゃにして、子どものように泣き出したのだ。
「痛いよお……ねえ、背骨、折れてない?」
あの程度で背骨が折れるわけがないが、葵は頭を下げて、心にもない詫《わ》びを言っておいた。
「申しわけございません。わたくし、血の気が多いものですから」
塚越は棚を見回すと、ランドセルを背負った女の子の小さなフィギュアを取り上げて、伊波に手渡した。
「落ちついて下さい、社長。あなたは、世界を手に入れる方です」
「そうだ……そうだったね……あずさちゃん、約束だったね」
伊波は、どうやら『あずさちゃん』という名前らしいフィギュアを抱きしめた。人形に話しかける? 塚越にではなく? 葵には信じられなかった。
葵はすでに、今回の任務の失敗を覚悟《かくご》していた。社長に蹴りまで入れてしまったのだ。だが伊波は椅子に這《は》い上《あ》がると、脇にあずさちゃんを置いて、何ごともなかったかのようにモニタに話しかけた。
「実は戦闘系でした、っつーのも、ありだね。純情系の眼鏡っ子が男|蹴《け》り倒《たお》すって、そっち系のフェチには激萌えー。ほんと、いけるって、君」
この男の心理が、葵には全く分からない。言語も。
「この子、採用ね」
モニタを見たまま、伊波は塚越に言った。モニタには、葵の全身が映っている。
「ただ、もちょい、おたく文化の基礎知識がないと困ることあるから、とりあえずボクの家で遊んでてもらって」
葵は困惑した。おたく文化の基礎知識? そもそもおたくというのは文化なのだろうか。
塚越は事務的に告げた。
「聴いての通りです。あなたをイメージガールの最終候補としますが、当社の業務に必要な研修を、社長の自宅で受けていただきます。よろしいですか?」
その言葉で葵は冷静になった。伊波光彦の自宅へ入れる。願ってもないチャンスだ。
「よろしくお願い致します」
葵は、深々と頭を下げた。
「では、こちらへ」
塚越の後に続いて社長室を出ながら、ついに一度も目を合わせることのなかった伊波の顔を、葵は思い出そうとしたが、思い出すことはできなかった。
ただ、ひどく不快な印象だけが残っていた。今夜の夢に見そうだ。
エレベータで十四階まで昇ると、ドアが開いた。
「こちらが社長のご自宅です」
足を踏み出して、葵は見回した。
オフィスのワンフロアほどもあるフローリングのリビングでまず目を引いたのは、壁の巨大なスクリーンだった。映画でも上映するのだろうか。
「あの、塚越さん」
「要《かなめ》、でいいわ」
オフィスにいるときとは変わって、少し疲れたような声で、要が答えた。
「はい。要さん、あのスクリーンはなんですの?」
「分からない? ビデオプロジェクターよ。このフロアはホームシアターにもなっているの」
「伊波社長は、映画がお好きなのですね」
言うと、要はふっ、と笑った。
「社長がご覧になるのは、サーバ、つまりコンピュータに溜《た》め込《こ》んだオーディションの映像よ」
(と、いうことは……?)
「あの、さっきのも?」
「ええ。あなたのアップを、その百インチの大画面でね」
背筋を、ぞわっ、という感覚が走った。それでは本当に変質者ではないか。
葵の内心も知らず、要はドアを指差した。
「あの奥が、社長のプライベートルーム。誰も入ってはいけないのよ。お分かりね」
「え、ええ」
なんとか葵は答えた。
「キッチンは、そのカウンターの向こう。あなたのお部屋は、その中央のドアよ。もっとも、ふたりで使ってもらうことになりますけれど」
……ふたり?
「あなたには、家事をしながら、社長や私のレッスンを受けていただきます。心配はいらないわ。プライベート・レッスンと言っても、ベッドの上ではありませんから」
(当たり前です!)
「それに、先輩もいますし。――ニキータさん、ニキータさん?」
ニキータ? 外国人も、この家にいるのだろうか。
返事がないので、塚越は首を振った。
「しょうがない人ね。また寝坊しているのかしら」
広いフローリングを塚越は横切り、葵が使うと言われた部屋のドアを開けて、シーリングライトのスイッチを入れた。
「やっぱり……ニキータさん、もう十一時よ」
「ふわい」
あいまいな声がしてベッドの上の羽根布団がもそもそ動き、中から少女がひとり、出てきた。その姿に葵は目を見張った。
[#(img/01_126.jpg)]
少女は黒のブラに同じく黒のショーツ、つまり下着姿だった。だが、目を見張ったのはそのことではない。おそらくは百六十五を超える長身で引《ひ》き締《し》まった体が、彼女を戦闘的に見せていた。葵は、お屋敷で寝ているときの自分を思い出した。葵はタンクトップとショートパンツは身につけて眠るし、身長は百五十八しかなかったが、明らかに同類の匂いがするのだ。
(この人……できる!)
生まれつきなのか唇が曲がっているため、どこかすねたような、しかし野性的なふんいきを持つ顔の長い少女は、トーンの低い声で言った。
「仕事ならちゃんとやりますから。あたし、低血圧なんです」
「当然です。それより、いくら誰も入れないといっても、そんなかっこうで寝るなんて」
「冷房病なんですよね」
ニキータと呼ばれた、だが明らかに日本人の少女は、にっ、と笑った。
「この部屋、あれでしょ? インテリジェントビルのフロアを後で仕切って部屋にしたんでしょ。そういう場合フロアのトータルで冷暖房が働くから、後から作った小さい区画は必要以上に冷えるんですよね。だから寒くって羽根布団を出して来たんだけど、今度は暑すぎてパジャマは脱いじゃいました。インテリジェントビルも考えものですよね」
はきはきと言うが、どこか皮肉めいていた。
「社長に言って、考えてもらいます」
要は無表情に答えた。
「とにかく着替えてちょうだい。そんなかっこうでうろうろされたんじゃかなわないわ。……ああ、こちらは、若槻葵さん。あなたと同じ研修生よ」
ニキータは葵を、目を細めて見回した。
「ふうん。馬鹿がまたひとり、ってわけだ」
「……馬鹿、ですか?」
めんくらって葵が訊ねると、ニキータは、にっ、と唇を歪《ゆが》めた。
「本物のメイドだろ? 見りゃ分かるよ。それがキャンギャルに応募。金かい? それとも、アイドルにでもご転職かよ」
ということは、このニキータも本物のメイドなのだろうか。
「いいから早く着替えをして。葵さん、あなたはこちらへ」
二つ並んだベッドの上にバッグを置いて、クイックルワイパーだけは肌身離さず、葵はフローリングに戻った。
「あの方も、イメージガールに?」
葵が訊くと、塚越はため息をついた。
「そうは見えないでしょう? 唇と同じで、性格も曲がっているわ」
葵は答えなかった。一目見ただけで、人の評価は下せない。それに唇が曲がっているのは、彼女の魅力的な個性であっても、けなすべきものではない。要には分からないのだろうか。
「でも、ワイルドな感じがいい、と社長がおっしゃるのよね。あなたは眼鏡っ子、ニキータさんは戦闘系。戦闘系メイドも、『萌え』度が高いのよ」
葵は、ずっと気になっていたことを、ようやく訊いてみた。
「あの……。『もえ』、とはなんなのでしょうか?」
塚越はモバイルパソコンを開き、キーボードを叩いた。
「そうね。分かりやすく言えば、相手を人格としてではなく、キャラクターとして熱狂的に愛する、ということかしら。おたく用語だけれど、最近はふつうの人間も使うわ。つまりあなたは、眼鏡っ子という属性が買われたのよ」
だいたい分かった。だが、全くうれしくない。というより腹立たしい。私は生きている人間で、アニメやマンガのキャラクターではない! 絶対に。
「あなたの気持ちは、分かるつもりよ」
感情が顔に出ていたのだろうか。要がなだめるように言った。
「人は、本当の自分を見て欲しいものよね」
おや、と葵は思った。要の声には、妙にしみじみしたものがあったからだ。
「本当の自分、というものは、ないのではないかと思います」
葵は慎重《しんちょう》に言葉を選んだ。
「人格とは、自ら選んで、作り上げるものです。相手にふさわしい、そして、自分にもふさわしい人格を磨く努力が、尊いのではないでしょうか」
要は首をかしげた。
「あなた、天然ではないようね」
『天然』とはなんなのかも訊きたかったのだが、塚越はもうエレベータに向かっていた。
「せいぜい、人気の出る人格を作ってちょうだい。後は、ニキータさんに訊いて」
塚越が出ていった後、葵はスクリーンに向かい合ったカウチに座り込んで、まだ混乱している頭を整理しようと努めた。
この家は、明らかに葵が働くような場所ではない。伊波は全く尊敬できる人物ではない。しかも葵が試されるのは、メイドとしての能力ではなく、『萌え』とやらの『属性』だ。そう考えると気が重かった。
ふと、カウチが妙な臭いを放っているのに気づいた。社長室にも漂《ただよ》っていた、油と汗の入り交じったいやな臭いだ。
顔をしかめていると、
「くさいだろ。そのカウチで、ボクちゃんは寝るんでね」
声がして、メイド服に着替えたニキータが出てきた。葵の制服に似て、飾り気のないシンプルなデザイン。動きやすそうだった。
「あんた、そこに座ってると臭いが移るよ」
葵はあわてて飛び起きた。
「カウチのお掃除は、なさいませんの」
「なさいますともさ。でも、丸ごとクリーニングに出したって、ここまでしみついた臭いは取れやしないだろうよ」
「後でやってみます」
葵が言うと、ニキータは顔をしかめて手を振った。
「よしなよしな。そのカウチはボクちゃんにとって、犬の電信柱なんだよ」
「……え?」
「自分の臭いをマーキングしている、ってこと。へたに触ると、かみつかれるぜ」
どうもニキータは、あまり品のいいメイドではないようだ。いや、そもそも本当に、本物のメイドなのか?
「あの、改めて、初めまして。わたくし、若槻葵と申します」
「ふうん。さすが国家メイド資格を取った人間は、ごていねいだね」
ニキータは、口をもぐもぐさせていた。ガムを噛んでいるらしい。
「どうしてそれを?」
「あたしは、流れメイドでね。それと同じ服の子と同じ屋敷で働いたことがあるんだ。国家資格メイドのコスチュームなんだって? あの子もお上品ぶってやがった。あんたと同じさ」
皮肉を気にしている場合ではない。
「流れメイド、とは?」
葵が訊ねると、ニキータはガムを吐き出し、それでもきちんと紙で受け、ポケットにつっこんで斜《はす》にかまえた。
「言葉の通りさ。屋敷から屋敷へ流れ歩く、一匹狼のメイド。それがあたしだよ」
そういえばJAMの仲間から、そんなメイドがいる、と聴いた憶えがある。一つの屋敷に三ヶ月と留まらず、誰とも仲良くしない、しかし凄腕《すごうで》のメイド。それがこのニキータなのか。
「あの、ニキータというのは、ご本名ですか?」
「まさか。高校に二期いたんで、ニキータ。あだ名だよ」
語呂合わせだということは葵にも分かる。
「笑えよ」
むすっとしてニキータは言った。
「申しわけございません。わたくし、洋画には詳しくないもので……」
「知ってるんじゃないか!」
ニキータはつっこんだ。
「気に入らないね。あんた、すかしてるよ」
そう言われると、葵も気分はよくない。いちいちつっかかってくるのも気にさわる。
「ニキータさんも、言いにくいのですが、メイドとしての品格に欠けるのではないかと――」
「言ってくれるね」
ニキータは葵に歩み寄り、顎《あご》に手をかけて、ぐい、と引き上げた。
「メイドは下働きだ。品格がどうした。確かにアメリカ文学|批評《ひひょう》じゃ『ヴィクトリア朝の女中《じょちゅう》のような貞節《ていせつ》さ』、なんて言う。だがな、それは『時代遅れ』って意味なんだよ」
ニキータの、思ったよりまつげの長い目が細められる。とっさに葵は顎にかけられた手を振りほどき、遠くへ跳び退いていた。殴《なぐ》りかかってくるような気配を感じたのだ。
ニキータは、にやっ、と笑ってポケットから新しいガムを取りだし、口に放り込んだ。
「あんたも、ただのメイドじゃなさそうだね」
「国家特種メイドには、護身術《ごしんじゅつ》も要求されますから」
「へえ、特種かい。――気に入らないね」
「肩書きですか? それとも、わたくしが?」
「どっちもだよ」
ガムをくちゃくちゃさせながら、ニキータは吐き捨てるように言った。
「あたしは、リバティゲートの噂を聴きつけて、好奇心ってやつでもぐり込んでみた。あたしの腕がどこまであのボクちゃんに通用するか、ってね。運がいいのか悪いのかは分からないが、とにかく気に入られて、住み込みのメイドになれた。あたしが、いいかい、このあたしがこの家を仕切ってるんだ。国家資格だか特種だか知らないが、あんたにこの家は仕切れない。おおかた眼鏡っ子ってことで、そばに置きたいんだろうけどね。資格や品格なんか役に立たないんだよ。おとなしくおもちゃにでもなってるがいいや」
「わたくしも、あなたが気に入りません。三つの理由で」
葵はニキータをにらみつけた。
「三つ?」
「一つ。メイドたるものがお仕事の時間にガムを噛《か》むなど言語道断《ごんごどうだん》。二つ。眼鏡のことをとやかく言われたくはありません。三つ。あんな男のおもちゃになるほど、わたくし、落ちぶれてはおりません」
ニキータはにやりとした。
「どうやら、ボクちゃんについては意見が一致したようだね。だが――」
すっ、とニキータの顔から笑みが消えた。
「どっちがこの家を仕切るかは、はっきりさせておいたほうがよさそうだな」
激しい闘気がニキータから吹きつけてくるようだった。葵はさりげなく、クイックルワイパーを手にした。
「そのほうが、お互い、落ちついて眠れそうですわね」
ここで、この流れメイドとやらと戦っている場合ではない。葵には使命がある。だがそれを打ち明けたところで、おとなしくしてくれるニキータではなさそうだった。
広いフローリングで、ふたりのメイドはにらみ合った。
ニキータの口が尖《とが》ったかと思うと、ぴゅっ、と何かが飛んできた。ガムだ。葵は腰から上を倒して、さらりとかわした――と思ったときには、ポケットにつっこまれていたニキータの手がすばやく動き、光るものが葵の胸もとへとまっすぐに飛んできた。
(そんな!)
野菜の皮むきに使うペティナイフだ。小型で鋭いから、ほとんど手裏剣《しゅりけん》に近い。とっさに上体を倒して避けながら、葵は内心驚いていた。ニキータは、本気だ。
そうとなったらしかたがない。葵はすばやく前へ回りながら、次のナイフを取り出したニキータの肘《ひじ》の関節を狙って、渾身《こんしん》の力を込めてクイックルワイパーの柄《え》を突き出した。うっ、といううめき声と共にニキータはナイフを取り落とす。葵はモップの部分で落ちたナイフを受けて、そのまま跳ね上げた。空いた右手でナイフをつかんで起き上がると、ニキータの驚いたような顔が頭一つ上にあった。すかさず葵はナイフを左手に持ち替え、胸の前でかざした。
「ぶっそうなものは、ひっこめません?」
葵はにっこりと笑った――が、その顔が硬直した。
メイド服の厚い布地を通して、ちくり、という感触があったのだ。視線を落とすと、ニキータの左手がポケットの中で、おそらくは三本目のナイフを布地越しに葵の下腹部へと突きつけていた。
ニキータの顔が、ゆっくりと笑顔になった。
「卵は三つ以上のかごに盛《も》れ、ってね。攻撃は、三段以上が鉄則だよ」
「攻撃は速度、とも言いますわね」
葵も笑顔を作ってみせながら、ドレスの裾《すそ》に隠《かく》した左足で、手放したクイックルワイパーを静かに引き寄せた。
「動くな!」
ニキータが叫んだときには遅く、葵はクイックルワイパーを高く跳《は》ね上《あ》げていた。同時にナイフを突き出す。体をかわしたニキータが体勢を立て直す間もなく、空中で柄の中央をつかみ、大きく旋回《せんかい》させた。
「えいっ!」
鋭い声と共にニキータの腹を横殴りにしようとする。だがそのとき、ニキータは信じられない跳躍《ちょうやく》力で跳び退き、四本目のペティナイフを投げつけていた。葵はかろうじてクイックルワイパーではたき落とし、自分も跳び退いた。
ふたりは距離をとって、また、にらみ合った。
――やがて、どちらからともなく、笑顔になった。
「どうやら、きりがないようだな」
「ええ。そうみたい」
ニキータは、何も持っていない、というように、両手を広げてみせた。
「これまで会ったメイドの中で、いや、あたしが戦った相手の中で、あんた、一番強いよ」
葵も、クイックルワイパーを、そっと壁に立てかけた。
「私も、あなたのようなメイドには、初めて会いました」
「そりゃそうだ。あたしは――」
「一匹狼の流れメイド、でしょう?」
ふたりは心から笑い合った。
「ここは停戦協定《ていせんきょうてい》と行こうか」
ニキータが、右手を差し出した。葵は、その手を握《にぎ》り返した。
「お互いに協力して参りましょう」
「ああ。だが正直な話、この家に大した仕事はないよ。あんた、何が得意なんだい」
「ひと通りは」
「ボクちゃんはたいてい、夜はベンチャー仲間と会食だ。あたしたちがやるのは掃除に夜食作り、後は洗濯。ただ、洗濯はやっかいだぜ。何しろあいつ、一週間に一回しか着替えないんだからな」
「まあ」
葵は眉《まゆ》をひそめた。
「洗濯はあたしの得意なんでね。任せてもらうよ。あんた、ハンバーガー作れるかい?」
「……ハンバーガー?」
もう四年も前に食べたきりだ。
「ボクちゃんのお夜食は、ハンバーガーにアメリカン。それも、あんたが思ってるようなもんじゃない。クズ肉のパティに安物のバンズ。レタスの鮮度《せんど》はおかまいなし、トマトは水っぽいだけで味はない、オニオンは辛いだけ。ピクルスも本物を出したら叱《しか》られたよ。『こんなのピクルスじゃない』ってね。アメリカンだって、浅く炒った豆を使う本来のアメリカンじゃない。鮮度の落ちた豆を性能の悪いコーヒーメーカーで出して、おまけにお湯で割ってる」
「なんてことを……」
葵は思わずつぶやいた。今どき、コーヒーをお湯で割る人間がいるなんて。
「ま、こいつもあたしの仕事だね。あんたには、掃除を頼むよ。そのクイックルワイパー、相当使い込んでるようだけど、売りもんじゃないね」
やはり、ただ者ではない。
「特注品なんです。実は私――」
葵は、この得体の知れない、しかし、モップとナイフを交わした仲の流れメイドに、本当の目的を打ち明ける気になっていたのだが、ニキータは軽く手を振った。
「事情は言わなくていいよ。あたしも訊かない。しがらみってやつは、命取りになりかねないんでね。――さて、と。あたしは台所をかたすから、あんたは床の掃除を頼むよ」
「……分かりました」
訊かないと言うなら、無理に話すこともない。葵はクイックルワイパーを手にして、ポケットからドライシートを取りだし、付け替えた。まず、埃と髪の毛を取り除いてから、ワックスをかけよう。シートは、市販のクイックルワイパーのものが使えるようになっている。どこへ行ってもすぐに替えが手に入るからだ。
部屋の端からモップを滑らせると、やがて、手のひらに微妙な感触が伝わってきた。
(そんな……)
モップを持ち上げて見ると、まだ四分の一も掃いていないのに、髪の毛がびっしりとからまっていた。さすがの葵も気持ち悪くなった。
「ニキータさん」
カウンター越しに、葵は呼びかけた。
「このお部屋、いつ、掃いたんですか?」
「先週の金曜日かな」
たった五日でこんなに髪の毛が? しかも、女の髪の毛らしいものはない。
「ああ、言い忘れてたけど」
キッチンで、ニキータが軽い調子で言った。
「ボクちゃんが風呂に入るのは、三週間か、へたすりゃ一カ月にいっぺんだから」
「うそっ」
葵は思わず、大声を上げた。すでに人間の生活ではない。
「だからあんたに頼んだのさ。……畜生《ちくしょう》、また夜中にカップラーメン食って、流しにスープぶちまけてやがる。シンクがべとべとじゃないか」
シートを三枚替え、ようやく床の半分ほどを拭《ふ》いて、葵は何げなく、カウチの前のローテーブルの下へクイックルワイパーを差し込んだ。左右に動かすと、何かにぶつかった。テーブルの脚《あし》ではない。しかも――動いているようなのだ。
(……え?)
テーブルの下を覗《のぞ》き込んだ葵の全身が、一瞬《いっしゅん》にして硬直した。
「きゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
喉を振《ふ》り絞《しぼ》った絶叫《ぜっきょう》に、キッチンからニキータが飛んできた。
「今度はなんだい?」
テーブルの下を覗き込んだまま固まっている葵の隣にニキータもしゃがみこみ、その視線の先を追って、苦笑した。
「なんだ、この子か」
「……子、って……」
葵には、それしか声が出せなかった。
ニキータはローテーブルの下から、全長三十センチほどのムカデ型ロボットを取り出した。足を波状に、なめらかに動かしている。
「ボクちゃんの趣味だよ。ま、形は無気味だけどね」
「ロ、ロボットが……」
葵の言葉に、ニキータは、は? という顔になった。
「あんた、ロボットが苦手なのかい? ムカデじゃなく」
「ムカデの駆除は、古いお屋敷なら、当然のことですけれど、ロボットは、生きていないのに、生きているような、動きをするから、怖いんです。人間型のロボットだって、あの、歩いてくるときの中腰が、気持ち、悪くて……」
息をはずませながら葵が言うと、ニキータは勝ち誇ったような顔になった。
「国家特種メイドに、そんな弱点があったとはねえ」
「笑いごとじゃないわ……」
葵は、ニキータが捕まえているムカデロボットから目をそらし、どうにか忘れようとした。だが、銀色の無機質な足が生き物のように動くようすが、頭から離れない。頭では理解しても、本能的な恐怖と嫌悪感が、心臓をぎゅっとつかんでいるようだった。
だが、こんなことでは使命は果たせない。葵はなんとか落ちつこうと、まだ震える足で寝室へ行くと、バッグの中からハーブティーを自分でティーバッグにしたものを取りだし、キッチンへ行って熱いジャスミンティーを淹《い》れた。
カウチは油っぽく臭いが、ぜいたくは言っていられない。とにかくもたれて、ジャスミンティーをすする。立ち上る香りが、どうにか心を鎮《しず》めてくれた。
ムカデロボットのスイッチを切り、マガジンラックに放り込んだニキータが近づいてきた。
「何、飲んでるんだい? ……ん そ、それっ、それは!」
今度はニキータが硬直する番だった。
「どうかしました?」
葵はきょとんとした。
「ジャスミンは、嫌いですか」
「いいから早くそいつを持って、キッチンに行っちまえ!」
ニキータは、両手で自分の体を抱いた。全身が震えている。
「換気扇《かんきせん》だ、いいな。ジャスミンの匂いが少しでも残ってたら、殺す!」
そこまでとは……まあ、香りの好みは人それぞれだが。
キッチンで、立ったままジャスミンティーをゆっくり飲んだ葵は、換気扇を回した。
「一杯だけです。すぐに香りは消えますから」
部屋へ戻って声をかけた葵は、ハッとした。ニキータはフローリングに座り込み、額を押さえ、目を固くつぶっている。
「すみません。そんなに嫌いだとは思わなかったので」
「嫌いとか、そんな次元の問題じゃないんだ……」
ニキータの唇から、つぶやきが漏《も》れた。
「葵。あんた、自分の親父と、風呂に入ったことがあるかい」
「小学校の、低学年の頃なら。両親は早くに亡くなりましたし」
「あたしは高校になるまで、親父と風呂に入ってた。いや、勝手に入ってきたんだ」
ニキータは、歯を食いしばっているようだった。
「中学に上がる頃になれば、出るとこは出るし、自分が女だ、と思うようになる。親父は男だ、ともね。自分の裸を、いくら親父でも男に見られたくない、この気持ち、分かるかい?」
葵はうなずいた。
「だがあたしが風呂へ入ってると、親父は風呂場に入り込んでくる。たいていは酔ってたが、しらふのときも当然の権利のように入ってきやがるんだ。あたしの体をなめ回すように見て、口にするのも汚らわしい『感想』を言いやがる。それがどんなにいやだったことか。あたしは親父の持ちもんじゃない。ひとりの女なんだ! ……あたしは、ぐれたよ。高校でダブったのもそのせいさ。なんとか高校を卒業するまでがまんして、あたしは家を出た。流れメイドになったのは、一匹狼を気取ってるせいじゃない。親父に見つからないように、逃げ続けてるんだ。もし、会うことがあったら、――刺してやる。ジャスミンの匂いは、実家の風呂の入浴剤の匂いなんだよ。口答えできなかった、弱いあたしを思い出させる匂いなんだ」
「……すみませんでした」
葵が、深く頭を下げると、ニキータはふっ、と笑った。
「どうしてだろうね。あんたには、話しておきたかったんだ」
「私にも、忘れられない過去の傷があります」
葵はそう言わずにはいられなかった。
「でも、たとえ得物を交えたあなたにも、まだ話す勇気がないのです……」
葵が目を伏せると、ニキータは明るい顔になって、首を振った。
「無理に話すことはないさ。苦労したんだろ? あたしたちは似た者同士かもしれない」
ふたりは互いの目を見つめて、微笑《ほほえ》み合った。
「よろしくお願いしますね、ニキータさん」
「ああ、こちらこそ。――さて、と。夕めしは何がいい? 勝手に仕入れて、勝手に食っていいことになってるんだ」
その言葉で葵は思い出した。
「他の候補者は? なんでも行方不明、という噂が……」
言うと、ニキータはちっちっ、と舌打ちをして、立てた人さし指を左右に動かした。
「よけいなことに首をつっこまないほうが、あんたのためだよ。それより、自分の心配するこったね」
「私が何か?」
「忘れちゃいけない。あたしたちは伊波光彦の手の中にある、ということさ」
ニキータは、真剣な顔になって言った。
午後十一時半。エレベータが開いて、塚越を伴《ともな》った伊波が帰ってきた。手には『あずさちゃん』を握っている。
「お帰りなさいませ」
エレベータの横で、葵は頭を下げた。ニキータは無言で軽く会釈《えしゃく》しただけだった。明らかにご主人を侮《あなど》った態度だが、伊波は気にする様子もない。カウチにどすん、と、品のない中年男が電車に乗り込んだときのように座り込み、塚越に訊いた。
「塚越君さあ、明日は何時?」
「十二時にアメリカン・インベスト・マネジメントのエドモンド・ブリック顧問《こもん》とビジネスランチがあります。それまでは、特に予定は入っていませんが、『週刊キャピタル・ゲイン』の記者が、取材したいとしつこく」
「あの雑誌、嫌いなんだよね。読んでないけど」
伊波は顔をしかめた。
「今年、勝手にうちの会社、Bプラスに格付けしたでしょ。資本金が少ない、っていうだけでさあ。訴訟《そしょう》だな。手続き取っといて。そんなに資本金が大事なら、ボクの個人資産から――」
「社長」
塚越が、やんわりたしなめた。さすがの伊波も、葵たちが聴いているのに気づいたようで、話をそらした。
「じゃあ、九時に起きればいっか。七時まで空いてるな。君たち何時に寝るつもり?」
伊波は床を向いていたので、葵は最初、自分のことだとは思わなかった。代わりにニキータが、むすっとして、それでも言葉つきはていねいに答えた。
「三時まででしたら、ご主人様」
「葵ちゃんは?」
「必要でしたら、何時まででも起きておりますが」
ニキータが『よけいなことを言うな』、という顔をした。
「ですが、旦那様。二時間しかおやすみにならないのですか?」
「その『旦那様』は、なしね」
伊波が、あいかわらず床を見つめて言った。
「いい? メイドさんは、『ご主人様』。これで萌え属性が、一気に上がるから」
葵は黙っていた。自分の御主人様は、海堂俊昭ただひとり。他の人に仕えても、『ご主人様』と呼ぶ気はない。それに、また『萌え』だ。もううんざりだ。
「睡眠は人生の損失なんだよね。世界には、まあ特異体質だけど、全く眠らずに生きている人間もいるぐらいなんだから。その時間があったら――」
その時間があったら風呂へ入れ、と葵は思った。伊波が入ってきてから、部屋の中全体に異臭《いしゅう》が漂っているのだ。特異体質ではなく、異臭体質だ。
「ビジネスチャンスをより多くつかんだほうが、ずーっと有益だっつーの。……まあいいや。それじゃ、今日もレッスン、行こうか。葵ちゃんは初めてだね」
「はい、よろしくお願い致します」
葵は殊勝《しゅしょう》に答えた。なんのレッスンかは分からなかったが。
「じゃ、塚越君、ビデオ回して。ニキータちゃんは、今日は手伝いね。あずさちゃんは見学、と。はい、ゲーム開始です」
伊波はぱん、と手を叩いた。塚越がビデオカメラをかまえていた。
「いい? 君は眼鏡っ子。当然、貧血気味で、倒れやすい」
(当然?)
眼鏡と貧血の因果《いんが》関係が分からない。だいたい貧血で倒れやすかったら、メイドなどできないではないか。
「そうだなあ。そのクイックルワイパーは萌え度が薄いから、ニキータちゃん、そこの物入れから竹ぼうきを出して。葵ちゃんはご主人様の部屋を掃除している設定ね。で、貧血で倒れかかる。それをボクが支える」
ニキータは慣れた様子で細いドアを開けて、竹ぼうきを取り出した。葵には不可解なことだらけだった。どこに部屋を竹ぼうきで掃くメイドがいるのだ。第一、掃除はご主人様が部屋へお入りになる前に済ませておくもので、目の前で掃除だなんて不作法《ぶさほう》すぎる。
ためらっていると伊波はまた、ぱん! と手を叩いた。
「ほら、スピード、スピード、スピード! ネットの世界はこれが鉄則なんだから」
しかたなく、ニキータに手渡された竹ぼうきを持って、葵は床を掃くまねをした。
「これでよろしいのですか?」
「そうそう。いい絵面。で、額を手の甲で押さえて、『あ。貧血が……』ってセリフで、こっちに倒れてきて」
わざわざ『貧血が』と説明して倒れる人間も、あまりいないと思うのだが。それに、倒れ込むということは、伊波と接することになる。はっきり言って気持ち悪い。まだムカデロボットのほうが、きれいに磨いてあるだけましだ。
「あの、どうしても、旦那様に倒れなければなりませんの? わたくし、男の方に身を預けるなどということは、その、経験がございませんので……」
口ごもると、伊波はくすくす笑った。
「さすが天然ちゃん! 了解。じゃ、その場に倒れ込んで、ボクが駆け寄ることにしよう。そこで君は、ボクを見上げて、『あ。ご主人様……』とセリフ。さあ」
いつまでこんな学芸会――葵はイメクラというものを知らなかった――を続けなければいけないのか。葵は、『わたくし、〇時には寝る習慣です』と答えておくべきだったと後悔しながら、とにかくその場にふらふらと倒れてみた。
「もっと貧血っぽくなんないの?」
それは無理だ。葵は子どもの頃から、風邪もろくに引いたことがないのだ。
小学校の朝礼で同級生が倒れたのを思い出して、なんとかまねしてみた。
「こんな感じでいかがでしょう」
「ま、今のとこは、そんなもんかな」
伊波が近づいてきた。
「はい、セリフ」
「あ。……旦那様……」
「違うって。『ご主人様』。同じことを二度言わせないの」
苛立ったように伊波が言ったので、葵は、思いきって断わることにした。いくら任務のためでも、それだけは譲れない。
「あの、申しわけございません。わたくし、御主人様は生涯《しょうがい》にひとり、と心に決めております。もちろん、今お仕えしている伊波様には、誠心誠意《せいしんせいい》――」
「そんなこと言ってんじゃないんだよ!」
いきなり、かん高い怒鳴り声と共に、床にうずくまった葵の脇腹《わきばら》に凶暴な蹴りが入った。激痛が走り、葵は、うっ、と息を詰めた。
「お前はメイドだ! ご主人様の命令には黙って従ってりゃいいんだ! メイドに自分なんかいらないんだよ!」
ひとこと言うごとに、伊波はスニーカーを履いた足で葵の腹を蹴り続けた。葵は何か言おうとしたが、不意打ちを食らって身動きが取れない。それに伊波の攻撃は素人《しろうと》であるだけに残忍で、このまま蹴られていたら内臓が破裂しそうだった。横に転がろうとしたが、スカートの裾を伊波のもう片方の足が踏みつけていた。
「国家資格がなんだ! メイドのプレイ一つ、できないじゃないか! ボクはもうすぐ世界一の金持ちになる男なんだぞ!」
かすむ目の端で、ニキータが目をそらすのが見えた。そちらへ手を伸ばそうとして、葵は力尽きた。それでも伊波はやめない。意識が薄れていく中で、塚越の冷静な声が聴こえた。
「社長。それ以上続けては、本当に死んでしまいます」
だが、それに答えて、伊波は明るい声で、意外なことを言ったのだった。
「いいビデオ、録れた?」
(こいつ、マジ切れじゃないのか……?)
そこで、葵の意識がぷっつり途切れた。
気がついたときは、寝室のベッドの上だった。
額にひんやりしたものが当たっている。眼鏡を外され、タオルが乗せられているのが分かった。ニキータが、葵の顔を覗き込んで、にやっ、とした。
「あんた、意外と美人じゃん」
葵は返事をしようとして、脇腹に激痛が走るのを感じた。思わず手で押さえて、自分がメイド服を脱がされていることが分かった。ハッと胸を手で隠そうとする。ニキータがまた笑った。
「グレイのスポーツブラにスポーツショーツ。いい趣味だ。無印良品かい?」
「ユニクロですけれど」
葵はなんとか笑おうとした。
「趣味が合うね。あたしもユニクロなんだ」
言って、ニキータは顔を引き締め、葵の脇腹を見た。
「ひでえな。あいつがあそこまでキレるのは初めて見たよ。待ってな」
ニキータは使い込まれた革のバッグから、応急手当の道具を出した。
「しみるけど、我慢しなよ」
痛めつけられた脇腹に軟膏《なんこう》をすりこまれる痛みに、葵は思わずうめき声を上げた。
「あの、ニキータさん……伊波は、いつもあんな『ゲーム』を?」
「いつもはこれほど、ひどかないね。あんたがコスプレのメイドだったら、適当に合わせて『お仕置きプレイ』になるとこだ。プレイったって、もちろん手はつけないよ」
「あの方、……いいえ、あいつはサディストなんですか?」
「いいや」
ニキータは、あっさり首を振った。
「あたしが相手のときは、あたしがマシンガンをかまえてあいつを撃ち殺す。もちろん、まねだけだ。後、アニメやゲームのシチュエイションでいろいろやらされるね」
葵はハッとした。思わず身を起こそうとする。とたんに痛みが走った。
「ほら、まだ無理するんじゃないよ」
「伊波は、『いいビデオ、録れた?』と言いました。もしかして……」
ニキータの目が鋭くなった。
「あんた、知ってるんだね?」
葵は、一瞬ためらったが、うなずいた。
「コスプレのメイドを、ネットオークションにかける人身売買。本当なんですね」
「ああ。あたしたちは、そのためにレッスン、いや、調教されているのさ。ところが今日は、あいつが思わずマジ切れして、演技じゃない迫真のビデオが録れちまった。今ごろは――」
伊波の私室では、自作のパソコンが、ファンの音を上げていた。こちらはWindowsだが、グラフィックボードに金をかけて、メモリも4GBを搭載《とうさい》、HDDは1TBがRAID1でミラーリングされており、ビデオキャプチャーカードもつっこんである。黒のメタリックな筐体《きょうたい》はかっこいいはずなのだが、伊波の横にあると巨大なゴキブリのように見えてしまう。しかも、その上に食べかけのカップラーメンと、あずさちゃんが乗っていた。
壁の棚にはメイド、ナース、スチュワーデス、セーラー服……さまざまなフィギュアやビネットが飾られている。ソフビの怪獣《かいじゅう》やロボットのモデルも、数え切れない。床にはコミックや同人誌、それに、今では手に入らない裏ビデオ、LDまでがうずたかく積まれている。それらに埋もれて、伊波光彦は、パソコンに取り込んだビデオを編集していた。
高解像度液晶ディスプレイの中の、ウインドウの一つに、蹴られて苦しむ葵が映り、もう一つのウインドウには、昼間、葵とニキータが戦っていたときの映像が映し出される。フローリングの天井近くに、隠しカメラが仕込んであったのだ。
「映像だけでもレアもんだよね。今までの最高|傑作《けっさく》だと思わない? あずさちゃん」
にたりと笑いながら、伊波はパソコンを操作した。
ようやく編集が終わった。ブラウザを開き、パスワードを入力する。出品専用の画面が表示された。編集した葵の動画をアップロードすると、説明文を打ち込み始めた。
「激レア! 国家資格メイド 眼鏡っ子 戦闘アリ、と……」
声に出してつぶやきながら、伊波は葵の説明文と、ビデオから解析《かいせき》した体のサイズを打ち込み、開始価格を、少し考えて『5000000』と入れた。
「一千万、いや、二千万でも安いけど、ま、スタートはこんなもんかあ」
伊波はまた、にたりと笑った。天井の灯《あか》りを消して、パソコンラックに取りつけたデスクスタンドの白色LEDが、伊波の脂《あぶら》ぎった顔を照らし出している。
「というわけで、今ごろあんた、オークションに出品されてるだろうさ。映像つきでね」
ニキータが言った。
「ええ、きっと。ですが、ネットオークションについては、その……警察が詳しく調べたのですけれど、そんなホームページは、ないと……」
葵が言葉を濁《にご》すと、ニキータはうなずいた。
「そりゃそうだ。インターネットは使ってないからな」
「インターネットを使わない……ネットオークション?」
「専用線さ」
ニキータの言葉に、朝倉老人の言ったことが甦った。
「オークションに参加する人と、会社のコンピュータを直接結んでいるのですね」
「会社の、じゃない。これは伊波個人の隠し資産のための『事業』なんだ。このビルの屋上は、伊波が借り切ってる。そこにサーバがあって、専用線で、極秘に集めた会員一千人の自宅とつながってる。みんな金持ちのクズ野郎だ。コスプレメイドだけじゃない。ドラッグ、児童ポルノ、ヤバいものからレアグッズまで手当たり次第さ。会員ひとりが一年に二千万使ったとしたら、二百億の『売上』だ。専用線は中継《ちゅうけい》設備に金がかかるから都内限定だが、その経費を抜いても儲《もう》けは百億を軽く超える。つまり、都内に一千人のクズセレブがいるってことさ」
ニキータは唇を歪めた。
「セレブ、なんて言葉は使わないで下さい」
葵は首を振った。
「本当に一流の人間なら、ここ数年で日本のマスコミが流行らせたような言葉は使いません。日本で言うセレブは、ただお金を持っているだけだったり、お金持ちの集まるパーティーに出入りすることを名誉《めいよ》と勘違いしている人たちだと思います。そんな人たちが、一流の人間たる誇りと品格を持っているなんて、私は思いません。ぜいたくができなくても、人はみんな、それぞれの生き方を大事にしなければならないはずです。タクシーの運転手さん、ゴミの収集をなさる方、会社員や専業主婦、そしてメイド。この世に要らない職業なんかありません。みんな、それぞれの仕事が社会にどれだけ貢献《こうけん》しているかに、誇りを持つべきです。その誇りがあったら、セレブなんて言葉に踊《おど》らされることはないはずです」
「ご説ごもっとも。だがな、葵。世の中には、はした金のために進んで自分を売る奴もいるんだぜ。それを金にものを言わせて買う奴らもな。だから伊波はコスプレメイドを集められる。彼女たちの取り分はたったの五十万。その代償《だいしょう》として、売り飛ばされた先でどうなるかは――分かるだろ?」
葵はゆっくりうなずいた。おぞましい連中の毒牙にかかるかもしれない、ということだ。
「でもニキータさん。どうしてそこまで内情に詳しいんですか」
「言っちまうかね、あんたになら」
ニキータは天井を見上げて、話し始めた。
「メイドの給金は安い。金に目がくらんで、伊波のとこへ来ちまう人間もいる。あんたもそのひとりかと思ったが、そうじゃなさそうだ。……西村可奈、ってメイドが死んだのは、もう、知ってるんだろ?」
葵はうなずいた。
「ですがあの人は、秋葉原のメイド喫茶にいた、と……」
「もともとは、さるお屋敷に仕える、本物のメイドだったのさ。あたしはそこで知り合った。まじめないい子だったが、メイドはメイドだ、給金は安い、仕事はきつい。それでも可奈はがんばったんだが、運の悪いことに親が交通事故を起こしちまってね、補償《ほしょう》金が必要になった。可奈の親父は安月給のサラリーマンだ、払い切れやしない。それでご主人に一千万の前借りを頼み込んだんだが、その屋敷のご主人は、血も涙もない野郎だった。奴にゃはした金の一千万を断わったんだよ。『たかがメイドが、何十年働いて返せると思っているんだ。ただ飯を食わせてやっているだけでも、ありがたいと思え』、そう言ってな」
ニキータの目には、怒りの色が宿っていた。
「誇りでは、どうにもならないこともあるのさ。可奈はメイド服を脱ぎ捨ててミニスカートのコスプレに鞍替《くらが》えした。もともと品のいい子で、本物のメイドだったんだから、秋葉原でも人気が出た。それでも一千万は稼《かせ》げるもんじゃない。親父も事故で寝たきりになったしな。そこに、伊波の話が飛び込んだんだ。可奈はこのビルに来て、レッスンを受けた。だが、だんだんからくりが分かってくるにつれて、可奈はいやになっちまった。体を売るかもしれないんだ、あの子にはとてもそんなこと、できやしない。だが伊波は、可奈をすっかりお気に入りで離さない。第一、いったん集められた子は、オークションで売れるまで外へは出してもらえない。可奈は、不安のあまり、拒食症になっちまったんだよ。うすうす話を聴いてたあたしは、ここへ入り込んで、こっそり可奈を逃がした。だが、……間に合わなかった」
ニキータは首を振った。
「結局あたしらは、あんたが言う一流のご主人には仕えてなかった。それが悲劇《ひげき》の始まりさ」
「いいえ。もし私があなたや可奈さんともっと早く知り合えていたら、しかるべき旦那様をご紹介できたでしょう。私も悔《くや》しい。ですが――」
葵は起き上がった。痛みも、もう気にならなかった。全身を怒りが駆けめぐっているのだ。
「本当の悪は、相手の人生を知ろうともせず、人を『キャラ』だの『属性』だのと、マンガの絵のように扱う、伊波光彦。いいえ、マンガの人物にだって、作者の思いが込められているはずです。その思いを知ろうともせず、身勝手な薄汚れた欲望を投影《とうえい》して、踏みにじる。その悔しさは、踏みにじられた者にしか分かりません。私は決して、許しません」
「あんた、やっぱりただのメイドじゃないようだ。いったい、何者なんだい?」
訊ねるニキータに、すでにメイド服を身につけ、クイックルワイパーを手にしていた葵は、襟《えり》のボタンを開いてみせた。ニキータは、にやりと笑った。
「桜の代紋《だいもん》か。あんた、おまわりかい」
「いいえ」
葵は首を振った。
「この紋章《もんしょう》は、御主人様にいただいた信頼の証《あかし》。そして、悪を許さず、弱い者を見殺しにしない、わたくしの誇りの証なのです」
「なんでもいいさ。仇討《あだう》ちに手を貸してくれるなら」
「もちろんです。けれどその前に、囚《とら》われたメイドさんたちを逃がして差し上げなければ」
「そんな悠長《ゆうちょう》なこと言ってられるかよ。早く伊波をぶちのめすんだ」
ニキータが、少し苛立ったように言ったが、葵は首を振った。
「彼女たちの安全を確保するのが、先です。伊波は、キレると何をするか分かったものではありません。メイドさんたちはどこに?」
葵の表情を見てとって、ニキータは、諦《あきら》めたように首を振った。
「あんた、頑固《がんこ》だね。だが、一つ忘れちゃいけない。コスプレメイドたちの部屋には、もちろん隠しカメラが仕掛けてある。あたしたちが乗り込めば、当然、伊波には丸見えだ。逃げられちまったらどうする?」
「お金しか信じない者は、お金の種を手放そうとはしないものです。せっかく作った闇《やみ》オークションの仕組みを、放り出すはずがありません。それぐらいなら私たちの口を封じようとするでしょう。――覚悟は?」
「こっちはもとより、そのつもりだよ」
ニキータは答えて、バッグから砥石《といし》を出すと、ペティナイフを研《と》ぎ始めた。
「だが、こいつがどこまで効《き》くか……ま、やってみるさ」
十五分後の、深夜一時半。ニキータは、竹ぼうきを取り出した納戸《なんど》へと葵を案内した。
「狭いからね。裾《すそ》、引っかけるんじゃないよ」
ニキータの後に続いて、間口が半間、つまり九十センチしかない納戸をすり抜けながら、葵は眉をひそめた。納戸には、セーラー服やナース服、そして葵には全く理解できないのだが、神社《じんじゃ》の巫女《みこ》さんの衣装《いしょう》などが吊るされていた。機関銃や妙に長い鞭《むち》、たぶんテレビのヒーローものの変身グッズかなにかもある。これらが葵が録られたようなおぞましいビデオを録るのに使われているのだと思うと、汚らわしかった。
「さあ、ここだ」
納戸の突き当たりには、小さなエレベータがあった。
「伊波がこっそり改造させたんだ。ビルの管理者も知らないってわけさ」
ニキータは、乗り込もうとする葵を手で制して、扉の開いたエレベータを覗き込み、天井の一角にガムを吹きつけた。
「監視カメラは殺したが、あたしたちだ、ってことはもう気づかれただろうさ。急ぐよ」
すばやく葵が乗り込むと、ニキータは『B2』のボタンを押した。
「地下に?」
「ああ。図面じゃ地下二階はないことになってるんだ」
かなりの速さでエレベータは降下し、あっという間に地下二階に着いた。
「何があっても驚くんじゃないよ」
葵はうなずいて、重合金のクイックルワイパーを握りしめた。
ドアが開いた。そこに広がる光景に、しかし葵は息をのんだ。
がやがやとにぎやかなフロアには、一面、ピンクのカーペットが敷き詰められ、明らかにコスプレと分かるメイド服の少女たちが寝そべって、思い思いにくつろいでいた。CDラジカセからは、葵でもニュース番組で見て知っているORANGE RANGEの曲が流れている。ヘッドフォンをしている子もいる。テレビのバラエティ番組に笑い転げている子も、コミックの単行本を寝そべって読んでいる子もいる。緊張感のかけらさえなかった。
ひとりが葵を見つけて、声をかけてきた。
「あんた、新入り?」
「若槻葵と言います。あなたたちを、助けに来ました」
「助けるう?」
その子はスナック菓子を頬ばっていたが、全く分からない、という顔をした。
「ここにいたらどうなるか、分かっているのですか? 闇オークションで売り飛ばされるのですよ。どこの誰とも知らない相手に」
「ねえねえ、その人お金持ちかなあ」
相手の少女はようやく興味を示したようだった。
「お金のことなど問題ではありません。あなたたちの貞操《ていそう》が危ないのです」
「テイソウ?」
思いっきり裾を短くしたメイド服の少女は、首をかしげた。
「やられちまうかもしれない、ってことだよ」
ニキータが代わりに答えると、少女は、ああなるほど、とうなずいた。
「それはそれで、しょうがないんじゃない? もんのすごい変態《へんたい》だったら別だけど。あたし、バージンじゃないし」
そこへ、もうひとりの少女が寄ってきた。葵たちの服装を見て、脇の少女に訊ねる。
「ねえ、このだっさいメイド服、何?」
「なんか、あたしたちを助ける、って言ってるけど」
「助ける? どういうこと?」
葵は、その少女のほうを向いた。
「あなたたちは、金儲《かねもう》けの道具に使われようとしているのです。メイド喫茶でもかまいません。自由に、表の世界で生きなくては」
「小さな親切、大きなお世話。いい? おばさん」
少女は十五、六ぐらいのようだった。
「あたしたちはあたしたちの、意志ってやつ? とにかくそれで、ここにいるの。自分を高く買ってもらって何が悪い? 女だったら自分の商品価値? 高めるのは当然でしょ? 自由? はあ? 外の世界のどこを捜《さが》したら、自由なんてあんのよ。学校も世間も不自由だらけ。ここにいれば遊んで暮らせて、何をしても平気。自由はねえ、ここにあんのよ」
「それは本物の自由ではありません。自由とは――」
ニキータが、葵の肩に手をかけた。
「もう、およしよ。あんたの言葉や思いが伝わる相手じゃ、最初っからないんだ。だからほっとけって言ったのさ」
葵は無力さに唇を噛んだ。相手の言いぶんも分からないではない。自分も学校で……。
だが――葵は思った。女が自分を売るのは、追いつめられて、どうしようもなくなって、他に生きていく方法がなくなったときの、最後の選択肢だ。金額がいくら高かろうと、女にとっていちばん大事なものには替えられない。
葵は携帯を出した。梶警視正《かじけいしせい》に連絡を取ろうとしたのだが、アンテナは立たなかった。
「ここじゃ携帯は使えないよ。外に秘密を漏らされたんじゃ困るからね」
ニキータが言った。
「それよりとっとと伊波のとこへ行こう。もうあたしたちは伊波に見られてる。早いとこぶちのめさないと、こっちが殺られちまうかしれやしない」
葵はようやくうなずいて、エレベータに乗り込んだ。
「きっと彼女たちも、自分を売るとはどういうことなのか、気がつくときが来るわ……」
虚《むな》しさを感じながら葵がつぶやくと、ニキータは、ふっ、と笑った。
「人生のつけ、ってやつは、勘定《かんじょう》書きが回ってくるまで分からないのさ。本当にはね」
ビルの屋上。むきだしのコンクリートを、スポットライトが煌々《こうこう》と照らしている。
片隅にやはり分厚いコンクリートでできたセカンドハウスがあった。二十二度にまで冷やされた室内では、大きなラックに収められたサーバがほとんど音も立てずに情報を送受信している。社長室、そして自宅のパソコンは、専用線でこのサーバにつながれていた。
大きなテーブルの上のワイドモニタを、伊波は舌なめずりしながら見つめていた。後ろには、えんじ色のスーツを着た要が、モバイルパソコンを抱えて控えている。
たった今編集したばかりの、地下二階での葵の映像が、闇のネットで流されていた。モニタには、暴力を受ける葵、眼鏡をかけた苦悶《くもん》の表情のアップ、そしてCGで正確にトレースされた葵の全身像――ただし服を着ていない裸のポリゴン――などが同時に映し出され、自動更新される葵の入札価格は、すでに五千万を超えていた。
「処女かどうか分かれば、一気に億まで行くかもね」
伊波は平然と言った。
「彼女は処女です。まちがいありません」
要も、なんでもないことのように答えた。
「証拠はあるの?」
「はい、社長。何しろ彼女の経歴は――」
要が言いかけたときだった。
部屋の窓が真っ白になった。霧《きり》のようなものが視界をさえぎり、屋上のようすが見えない。
「霧? いあ、こんな高いとこに霧なんかこないよね。まさか毒ガス? テロ?」
伊波はあわてたようだった。
「落ちついて下さい、社長。とにかく、外へ出てみますわ」
冷静に、要がドアを開けた。霧のようなものが流れ込んでくるが、要は平気そうだった。
「毒ガスじゃないようだね」
安心したようすで、伊波もドアまで出てきた。
その霧が晴れると――。
向こうに、高く太い棒杭《ぼうぐい》が立っていた。その前面には黒々と墨《すみ》で文字が記されている。
『この先、冥途《めいど》』
ふたりはあっけにとられたようだった。
「あれ、なんて読むんだっけ」
伊波の言葉に、要がすばやくパソコンを叩いた。
「『めいど』。あの世のことです」
そこで要はハッとした。
「すると、……あれはメイドの一里塚《いちりづか》?」
「その通りでございます」
杭の上から声がした。ふたりは見上げて、あっ、となった。
クイックルワイパーを脇にかまえて、葵が杭の上に立っていた。
「急成長のベンチャー企業経営者は表の顔。裏では闇のネットワークを作り、生身の人間さえ売り買いしている大悪党。暴利をむさぼるためには、年端《としは》も行かない少女の体も心も踏みにじって平気なあなたに、経営者などと名乗る資格はありません」
「何言ってんだよ、メイドキャラのくせに」
伊波がせせら笑った。
「確かにわたくしは一介のメイドに過ぎません。けれど、キャラなどという身勝手な偶像ではございません。体の中には、悪を憎む真っ赤な血が流れているのでございます。そして――」
葵は、ひらりと飛びおりた。スカートの裾がふんわりと広がった。
片膝《かたひざ》をついて着地した葵は、すっくと立ち、襟のボタンを外して中を見せた。
「あれは、桜の代紋?」
要があわてたようだった。だが伊波は、あざ笑った。
「何それ? 新しいコスプレのアイテム?」
「『ご主人様』と呼べ、とあなたはおっしゃいました」
怒りに燃える目で、葵は言った。
「ですが、僭越《せんえつ》ながらメイドにも、主《あるじ》を選ぶ権利がございます。わたくしの御主人様はこの世にただひとり、警察庁長官・海堂俊昭様だけでございます。この代紋は、御主人様が私に寄せて下さった、信頼の証!」
さすがの伊波も、その言葉には動揺《どうよう》したようだった。
「じゃあお前は、おまわりの犬かよ?」
「いいえ、私はここへ、自分の意志で参りました。亡くなった西村可奈さんの謎を探るために。あなたには、彼女がどんな思いをして、どれほど苦しんで死んでいったか、とうてい分かりはしないでしょう。その苦しみ、悔しさ、わたくしにはよく分かります」
「なんだ、そのことね」
ほっとしたように伊波は言った。
「じゃあ、ビジネスで解決しよう。大人のやり方でさ。塚越君」
言われて要はモバイルパソコンを開き、電卓ソフトを立ち上げた。
「そうですね。ご香典《こうでん》として五千万、あなたに社長が暴力をふるったお詫びに三千万、諸経費に色を付けて、きりのいい一億でいかが……」
言い終わらないうちに、葵の手許からクイックルワイパーが延び、モバイルパソコンをたたき落とした。要のパソコンは特殊樹脂《とくしゅじゅし》製で衝撃には強い。拾い上げているその間に葵はカチューシャを外し、髪を解いて眼鏡を投げ捨てた。長い髪がふわっと広がった。
「お嬢様萌えでいけるじゃん!」
伊波が思わず叫んだ。
「萌えだのコスプレだの、いちいち気持ち悪いんだよ、このデブ!」
葵は、低いトーンの声で、ドスを利かせて言った。
「金、金、金か? 一億でも十億でも、好きなだけ、金をもてあそぶがいいさ。だがな、女にとって一番大事なものは、たとえ国家予算を目の前に積まれたって、売れやしないんだ」
「一番大事なもの……処女のこと?」
「ふざけるんじゃねえ!」
クイックルワイパーの柄が伊波の顔面にヒットした。伊波は顔を押さえてうずくまった。葵はゆっくりと歩み寄った。
「いいかい、よく憶えておくんだね。女に、いや人間にいちばん大事なものは……魂《たましい》さ!」
顔を押さえたままの伊波が、その手の下で、にやっと笑ったように見えた。
「八十年代ドラマのノリだね。ふっるー。魂なんて、ただの錯覚《さっかく》じゃん。金は――」
「金だって、あんたの口座の数字にすぎないんだよ。数字がゼロになったらあんたはいなくなるのかい? 口座を確かめてみるんだね」
言われて要がハッとしたように、モバイルパソコンで伊波の隠し口座にアクセスする。ネット銀行にあった伊波の財産は――。
「社長、口座が空です! 残高が一円もありません!」
「なんだって? あの銀行は、ボクがセキュリティシステムを入れさせたんだぞ!」
葵はにっこり笑った。さっき朝倉老人に連絡をとり、ハッキングしてもらったのだ。正確には、伊波の財産を盗んだわけではない。パスワードを解読した朝倉は、要がパスワードを入力するとネット銀行そっくりのページにつながるよう誘導《ゆうどう》したのだ。この作戦のために、ページはあらかじめ作ってあった。伊波が導入させたセキュリティシステムなど、朝倉の手にかかればなんということもなかった。
「さて、これであんたの値打ちはゼロになったわけだ。本当にそうなのかい? 銀行の残高なんかで計れない魂の重みが、あんたみたいな下司野郎に、分かってたまるもんか!」
そして葵は伊波と要をにらみつけると、腹の底から振り絞った魂の叫びを叩きつけた。
「悪党ども、冥途が待ってるぜ!」
伊波はそれでもまだ余裕の表情だった。
「いいのかなー。どうせこんなの、ハッカーが仲間についてるんだろう? 警察が、そんなことしていいのかなー? 政治献金で、取り締まりの法律、作っちゃうよ?」
「結局、最後はそこかよ」
葵はうんざりしたように吐き捨てた。
「てめえじゃ何もできなくて、政治家を金で使いだてする。インターネットは自由な世界だそうだね。その自由を、てめえで放棄《ほうき》するあんたに、魂はない――」
「魂、魂って、しつこいんだよ!」
突然、伊波が逆ギレした。
「こっちはお前ひとりぐらい、そのくだらないプライドごと踏みつぶせるんだ。いつまでもお前のノリにはつきあってられないんだよ! 死ね!」
声と同時に、どすん、という音がセカンドハウスの向こうでしたかと思うと、ういーん……という機械音が聴こえた。葵は眉をひそめた。
どすん、どすん、という音が速くなったかと思うと、セカンドハウスの陰から巨大な『もの』が現われた。それを見たとたん、葵は硬直した。左手からクイックルワイパーがごとり、と地面に落ちた。
現われたのは、全高五メートルほどの大きさの、丈夫そうな腕と脚とを持つ二足歩行ロボットだったのだ。顔に当たる部分にコックピットがあり、要が操縦している。最近発表されて話題になった、人の乗れる二足歩行ロボットよりも大型で、はるかに戦闘的なフォルムをしている。こちらへ進んでくるその動きもなめらかで、人間くさかった。
葵の全身に鳥肌が立った。ロボット、それも生きもののような動きをするロボットは、生理的に受け付けない。しかもそれが巨人になって向かってくる。恐怖が葵の動きを止めていた。
「かっこいいでしょ?」
いつの間にか立ち上がっていた伊波が、にやっと笑った。
「似たのもあるけど、こっちがずっと先に開発してたんだからね。名前は『AZUSA2号』。本物の、戦闘用ロボットさ」
要が操縦桿《そうじゅうかん》を引いた。すさまじい銃声と共に、弾着の煙が葵めがけて進んできた。AZUSA2号は、本物のバルカン砲を備えていたのだ。コンクリートの床がはじけた。
[#(img/01_172.jpg)]
「危ない!」
声と共に、硬直したままの葵の体がかっさらわれた。ニキータだ。葵を横抱きにするとエレベータ棟の陰へと飛び込んだ。
「ロボット……ロボットが……」
うわごとのようにつぶやく葵の頬を、ニキータは平手打ちにした。
「しっかりしな! あんなもの、ただの乗り物じゃないか!」
焦点を失っていた葵の目が、ようやく正気を取り戻した。
「ニキータさん……でも、私……」
「自分に負けてどうするんだ」
おのれに言い聞かせるように、ニキータは言った。
「あんたには使命があるんだろ? それとも、そんなにロボットがトラウマなのか?」
葵は首を振った。
「それは我慢します。でも私、要さんとは戦えません」
「女に上げる手はない、って言うのか?」
「いいえ。要さんが、伊波を愛しているからです」
「愛?」
ニキータは、唖然《あぜん》としたような顔をした。
「あんなおたく野郎――失礼――に付き従って守ろうとするのは、愛がなければとてもできません。愛は人の目をふさぎます。だからこそ、人身売買にまで関わってしまったのです」
「その通りだとしたら」
ニキータが、ふっ、と笑った。
「教えてやらなきゃならないね。女は結局、最後は自分の足で立たなきゃいけない、ってことをさ。……あんたは少し休んでな」
葵をその場に座らせると、ニキータはエレベータ棟の陰から飛び出した。すでにAZUSA2号は迫ってきている。距離三メートル、とニキータは目測《もくそく》して、にやりと笑い、無表情な要に向かって顎を突き出した。
「葵は言ったよ。そこのおたく野郎を愛してるあんたとは戦えない、とね」
『私は、忠実な秘書に過ぎないわ』
AZUSA2号に仕込まれた拡声器が、要の声を響かせた。
「なんにも分かっちゃいないね。あんたの代わりはいくらでもいるんだ。利用価値がなくなったとき、男は女を、伝線したストッキングみたいにくずかごへ放り込むんだよ。あんたがあんたのために戦うって言うんなら、相手もしよう。でもあんたは、伊波にいいようにされてる。売られるのを喜んでるコスプレメイドどもと変わりゃしない。そんな相手とまともに勝負する気はないね。あたしたち本物のメイドは、自分の意志で、生きる道を選んでるんだよ」
ニキータはそっぽを向いて、両手をポケットに突っ込んだ。
彼女の言う通りだ――物陰《ものかげ》で、葵も思った。ヴィクトリア朝には、生活に困った若い女性はメイドになるか、売春婦にでもなるぐらいしか、生計を立てる道はなかった。だが、この現代の、日本のメイドは違う。少なくとも私たちは違う。御主人様と家風を見極め、お仕えするのだ。秘書だって同じはずだ。その目を、愛のために閉じてはならない。
要の声は、動揺したようだった。
『あなたなんかに、私の気持ちが分かってたまるものですか!』
バルカン砲が炸裂《さくれつ》した。すばやくよけながら、ニキータはにやっ、と笑った。
「分かりたくもないね。だがあんた、かわいいよ。かわいい女は悪くない、ってね!」
ニキータは両手でポケットからペティナイフを取り出すと、要のいるコックピットめがけて一直線に投げつけた。だが硬質ガラスのコックピットは、ナイフをはね返した。
それでもニキータは諦めなかった。ペティナイフを次々に繰り出して、同じ箇所、要の顔の辺りを狙う。いけない、と葵は思った。ニキータは硬質ガラスにひびを入れて視界をさえぎろうとしている。おそらく無理だろう。それに、もし砕けたら、要の顔にナイフが――。
ニキータに、人殺しをさせてはいけない。決して。
「あれを使って! ニキータさん!」
葵は叫ぶと、物陰から躍り出た。
ニキータは一瞬のうちに葵の考えを読んだようだった。ポケットに手を突っ込んでガムをひとつかみつかむと、口に放り込む。AZUSA2号の真ん前に立ち、両手をだらんと下げてくちゃくちゃとかみ始めた。バルカン砲は、至近距離の相手を狙うようには動かせない。要はニキータの意図を計りかねているようだった。
そのとき、ニキータの口からガムの大きな塊が次々に吐き出されて、コックピットに貼り付き、たちまち要の顔が隠れた。これでは要もむやみには撃てない。攻撃の手が止まった。
そのすきをのがさず、葵は体を低くして走り寄った。いつも持ち歩いている荷造り用のロープで、AZUSA2号の周りをすばしこく回って、両足を一緒に束ねる。はるか後ろで他人事のように、伊波が奇声を発した。
「キター!」
葵はロープの端を自分の手に巻き付け、力を込めて引っ張った。要はあわててコックピットのペダルを踏んだ。だが、きつく縛り上げられて身動きの取れない足を動かそうとしたのが仇になった。バランスを失って、ロボットはぐらりとかしぐと、地面に倒れた。どすーん、という音がして、コンクリートの埃がもうもうと舞い上がった。
コックピットから這いだしてきた要に、ニキータがペティナイフを突きつけた。
「女は、自分以外の何も、あてにしちゃいけない。メカも、男もな」
ニキータは、優しい声で言った。
「尽くすんなら、相手を選ぶんだね。愛だの恋だので、目をふさぐんじゃないよ」
要は、がっくりとうなだれた。
ロープを放した葵は、振り向いてハッとした。伊波の姿がない。
セカンドハウスの窓の中で何かが動いた。駆け寄ろうとして、葵は足を止めた。
小屋の中から伊波光彦が、重たそうに、巨大な機関銃をかまえて現われたのだ。
「モデルガンじゃないからね」
耳ざわりな声で、伊波は誇らしげに言った。
「M60機関銃。型は古いけど、本物だ。動いたら、形もなくなるよ」
葵とニキータは、ハッとして身がまえた。
「お前らふたり、よくも僕をコケにしてくれたね」
伊波は、軽い調子で言った。
「オークションの終了時間を、後十分にしておいた。とっときのサディストが落札してくれるよ。どんな目に遭《あ》うか、ライブ中継してもらおうっと」
ケタケタ笑う伊波をにらみつけながら、葵の目は、自分の左側に落ちているクイックルワイパーを捕らえていた。M60なら、護身術の知識として習ったことがある。本物だったら、相当、重いはずだ……。
葵はにこっ、と伊波に笑いかけて、お上品に言った。
「SMプレイは、上流階級のたしなみですわね。楽しみですこと」
意表をつかれて、伊波はげんなりした顔をした。
「そっちの趣味? 萎えー」
肩の力が抜けるのを葵は見のがさず、横っ飛びに跳ぶとクイックルワイパーを拾い上げてつかみ、身がまえた。
伊波はあわてて機関銃をかまえ直すと、引き金を引いた。轟音《ごうおん》が響《ひび》き、伊波はひっくり返った。重量十一キロあるM60をろくに体勢も整えずに乱射したら、反動で一般人がまともに立っていられるわけがない。銃弾はこだまと共に、夜空に吸い込まれた。
自分の上にのしかかった機関銃をなんとかどけようと悪戦苦闘している伊波の喉もとに、尖ったものが突きつけられた。キャップを外した、葵のクイックルワイパーの先端だった。
ぎょっとした伊波は、おそるおそる視線を上げた。葵の怒りに燃えた目が、こちらをにらんでいた。
「もしかして、葵ちゃん、S?」
伊波は笑ってごまかそうとしたが、ちくりという感触を喉に感じて、真っ青になった。
「このまま、突き殺してもいいのですよ」
葵は、ていねいな口調で言った。
「ですがわたくしは、誰が呼んだかメイド刑事《デカ》。人をあやめるようなまねは決してしない、と誓《ちか》っております」
「メイド刑事? それって……」
「アニメやゲームのキャラとやらではありません。あなたには暗いところで、自分の犯した罪の重さを、じっくりと味わっていただきます。いえ、あなたにはいい環境かもしれませんね。どうやらお日さまの下より、暗くて狭いところがお好きなようですから」
「そこ、光ファイバーは引いてある?」
この期に及んで、伊波はまだ訊いた。葵はため息をつくと、クイックルワイパーを脇へ置いて、伊波のみぞおちに左の拳で思いきり突きを入れた。伊波は白目をむいて気絶した。
夜の街に響いていたサイレンの音が、騒ぎが鎮まってはっきりと聴こえ、ビルの前で止まった。物陰に隠れている間に、葵は携帯の特殊ボタンで非常信号を警察庁に送っていたのだ。
間もなく、よれよれのコートを着た梶警視正が制服警官を従えて、エレベータから出てきた。
「葵ちゃん、お疲れさま。……ん? 君ひとりでこんなロボットを倒したのかい?」
梶警視正が見た方向へと振り向いて、葵はハッとした。ニキータがいない。地面にへたり込んでいる、要だけだ。AZUSA2号の足を止めるのに使ったロープで縛り上げられていた。
「警視正! こんなものが!」
要を立たせて、制服警官が近づいてきた。手には紙切れを持っている。要の体に貼ってあったらしい。梶と一緒に覗き込んだ葵は、思わず微笑んだ。
『あたしはケーサツはにが手でね。またどこかで合おうぜ。それと……有り誰うよ』
『合おう』は『会おう』、最後の『有り誰う』は、『有り難う』と書こうとしたらしい。
「ニキータ……不思議な人」
葵はつぶやいた。
「ニキータ? なんだ、そりゃ?」
梶警視正が、不審《ふしん》そうな顔をする。
「いえ、なんでもありませんわ。それより、メイドさんたちは?」
「全員無事だ。未成年者略取《みせいねんしゃりゃくしゅ》だけでも、実刑は免《まぬが》れないな。それに、あの小屋の中のでかいパソコンを押収すりゃ、いくらでも汚いものが出てきそうだ」
葵はうなずいた。まだ世間の何たるかも知らない少女たちを売買していたことを思うと、憎んでも憎み足りない。
だが……罪を憎んで主人を憎まず、だ。
ようやく意識を取り戻した伊波を制服警官が立たせ、梶警視正が手錠《てじょう》をかけた。
「伊波光彦。殺人未遂《さつじんみすい》、器物損壊《きぶつそんかい》、銃刀類不法所持《じゅうとうるいふほうしょじ》、それから、えーと……とにかく現行犯《げんこうはん》で逮捕《たいほ》する。後は、警察で話を聴こう。闇のネットワークとやらについても、じっくりとな。差し入れはカップラーメンでいいかな?」
やっと諦めた様子で連行される伊波の前に、葵は回りこんで、ハンカチで包んだ小さなものを、そっと手渡した。
「これ、何?」
伊波は、けげんそうな顔をした。
葵はにっこりした。
「メイドの土産《みやげ》でございます。……旦那様」
おりしも満月。月の光に照らされた葵の笑顔は、ビデオではとらえられない、美しいものだった。
お屋敷へ帰って仮眠をとった葵は、いつもの通りに玄関を掃除し、五時ちょうどには御主人様の寝室へと朝食を運んでいた。オーディオセットからはドビュッシーのピアノ曲『沈める寺院』が流れている。御主人様が平静でいる証拠だ。葵はほっとした。それはこの屋敷と、そこに仕える葵の日常が、平穏《へいおん》である印にほかならなかった。
アールグレイを味わった海堂俊昭は、静かな声で言った。
「専用線を利用していた者は、全員、逮捕した」
いつもながら、俊昭は手早い。
「すでに売られていたメイドやナース、巫女なども解放された。今ごろは事情聴取の最中だろう」
「あの……御主人様」
ためらいながら、葵は訊いた。
「メイドやナースのコスプレとかいうものは、まだ分かるのですが、巫女さんというのは、どうして――」
「お前が知るべきことではない」
俊昭は冷ややかに言った。
「申しわけございません」
すると俊昭の目に、ほんのかすかに、いたずらっぽい表情が宿った。
「それともアダルトゲームとやらをしてみるか? コンピュータなら自由に使っていいぞ」
「御主人様!」
思わず葵は真っ赤になった。そういうことなのか。
「冗談だ。それより、これを」
俊昭は、サイドテーブルの抽出《ひきだし》から、落ちついた金色の紙に包まれた箱を取り出した。
「お前は犯人に、『メイドの土産』とやらを手渡したようだな」
「出すぎたまねを致しました」
葵が目を伏せると、俊昭は首を振った。
「いかなる犯罪者といえども、人は人。お前の心遣《こころづか》いに、人の心を取り戻すかもしれん。これからも、気が向いたら、好きなようにするがよい」
「……恐縮でございます」
「そのためには、これが必要だろう。持っていけ」
「ありがとうございます」
葵は深く頭を下げて、箱を受け取った。
自分の部屋へ帰った葵は、箱を開けてみた。趣味のいい色の包装《ほうそう》紙は、ていねいにはがして、テーブルの抽出にしまっておいた。物持ちがいいのも、葵の長所だ。
紙の箱を開けると、上品な、レースの白いハンカチが、何枚も何枚も入っていた。
それも抽出にしまうと、葵は、前回の事件でもらったMP3プレーヤのヘッドフォンをかけた。中森明菜《なかもりあきな》の『十戒《じゅっかい》(1984)』が流れてくる。
「要さん……あなたに釣り合う男が現われるのを、祈っています……」
葵はつぶやいた。
そのまま葵は眠りに落ちた。昼食までには時間がある。仕事を成し遂げた葵の眠りをじゃまするものは、このお屋敷には、何もなかった。
鳥の声さえも。
[#改ページ]
第3話 暴《あば》かれた過去また過去! 霧《きり》の港に別れの歌
「……姉さん……葵《あおい》、姉さん……」
屋敷《やしき》の外から聴こえてきた弱々しい声に、葵はハッとした。
いつもの朝より少し早い四時前、玄関の掃除をする手を止めて振り向く。海堂家の門の鉄柵《てっさく》を外からつかんで、かろうじて膝《ひざ》で立っている少女の姿が見えた。黒い色の、暴走族のトレードマーク、いわゆる『特攻服《とっこうふく》』を着て、セミロングの茶色い髪が乱れている。
「曜子《ようこ》!」
ほうきを投げ捨てて、葵は門へと走った。走りながら葵の頭の中は、三年前、まだ十四歳だった頃へとたちまち戻っていた。
かつての妹分《いもうとぶん》・曜子は、近づいてくる葵の顔を見ると力なく笑った。その顔は青黒いあざだらけで、唇《くちびる》の端《はし》に血がこびりついていた。
「姉さん……すみません……二度と会わないって、約束、したのに……」
「それどころじゃないよ!」
葵は伊達《だて》眼鏡《めがね》を外し、闘《たたか》いのとき以外には決して出さない、ドスの利いた声で叱りつけた。
「誰にやられたんだい?」
「姉さん……関東のレディースは、もう、おしまいです……」
「なんだって?」
葵は眉《まゆ》をひそめた。その表情は、首都圏のレディースを束ねる『関東流れ星連合』二代目総長、『命要らずの葵』の顔になっていた。
「あたしのとこへ来たからには、よほどのことがあったんだろう?」
「すいません……」
明らかに暴行を受けた曜子は、弱々しく微笑《ほほえ》んだ。
「こんなお屋敷に、現役《げんえき》上がった姉さんを、訪《たず》ねてくるつもりは、自分、なかったんです。姉さんの、今の居場所は、誰にも秘密だし。でも、気がついたら……。ほっとしました。姉さんが、元気そうで……」
まだ何か言いたそうだったが、安心で力が抜けたのか、曜子は鉄柵をつかんだままずるずると崩《くず》れ落《お》ちた。鉄柵が真っ赤な血で塗《ぬ》られた。
「曜子! しっかりしな! 待ってなよ」
「いいんです、もう。あたしなんかにかまったら……」
「いいから口をきくんじゃないよ! 黙《だま》って休んでな!」
葵は急いで玄関に戻ると、応接間の前にある朝倉《あさくら》老人の部屋に声をかけた。
「朝倉さん! 手を貸して下さい!」
気を失った曜子を自分の部屋へと運び込んで、葵はベッドに寝かせた。間もなく救急箱を持って、執事《しつじ》の朝倉老人が入ってきた。
「すみません、朝倉さん、朝早くから。曜子を診《み》てやって下さい」
「それはもちろんのことですが、葵さん」
朝倉は、銀のチェーンのついた老眼鏡《ろうがんきょう》を直した。
「あなたはまだ、昔のお仲間と、おつきあいがあるのですかな? そうなりますと、当家《とうけ》での立場が、いささか厄介《やっかい》なことになりますが」
「あたしは――いえ、わたくしは、どうなってもかまいません」
葵は必死だった。
「それより曜子を――」
「葵姉さんは……悪くないんです……」
気を失っていたはずの曜子が、しかし、かろうじて声を発した。
「姉さんは、あのとき、……きっぱりとレディースは上がったんです。信じて下さい。……姉さんに、疑いかかるんだったら、自分、出ていきます……」
無理に起き上がろうとする曜子のようすを見て、朝倉はうなずいた。
「ふむ。相手がどんな氏素性《うじすじょう》にせよ、ご友人は大切にしなければなりませんな。それが、人の道です。それにこの娘さんも、筋を通す方のようだ。深手《ふかで》を負った娘さんを放り出すほど、私も鬼ではありませんぞ。どれ」
朝倉は消毒用アルコールをしみこませた脱脂綿《だっしめん》で、曜子の顔を拭《ふ》いた。しみるのか、曜子はうめき声をあげた。
「頭を殴《なぐ》るとは、とんでもない相手だ。脳の検査を受けねばなりませんな」
朝倉は次に、服の上から曜子の体を、老眼鏡の端を押さえてじっと見た。
「いけません。このようすでは、骨が折れているかもしれない。葵さん。娘さんの、その……服を脱がせてかまいませんかな」
「はいっ」
曜子にも恥じらいはあるだろうが、四の五の言っている場合ではない。葵は曜子の特攻服を脱がせ、ふくらんだパンツも、少しためらったが脱がせた。曜子は胸にさらしを巻いていた。そのさらしにも血がにじんでいる。体じゅうあざだらけであるのは、言うまでもない。
[#(img/01_188.jpg)]
朝倉は、曜子の体をひと目見ただけで断言した。
「命に関わりますな。今すぐに、警察病院へ連絡を」
「やっぱり、ひどいのですか」
見れば分かることだが、葵は訊《き》かずにはいられなかった。
「こう見えても私、少年衛生兵《しょうねんえいせいへい》をやっておりました。もう、六十年も前のことでございますが。見たところ、骨があちこち折れております。内出血もひどいものですし、もしや内臓も……とにかく、早く病院へ」
「分かりました」
携帯で警察病院に電話しようとする葵の手を、そのとき曜子が、どこにまだそんな力が残っていたのか、強く握《にぎ》った。
「姉さん……後生《ごしょう》です……警察には、言わないで……」
「そんな場合じゃないんだよ! あんたを見殺しにできるかい!」
「警察に、知られたら……自分、舌|噛《か》んで、死にます……」
気力を振《ふ》り絞《しぼ》って頼む曜子に、葵は負けた。ベッドの脇《わき》に置いたスツールに座り、曜子の手を握り返す。朝倉はそばに直立して、ふたりを見守っていた。
「分かったよ、曜子。話せるだけ、話してごらん。まず、誰にやられたんだい? あたしに隠《かく》し立《だ》てはなしだよ!」
「はい……。それが……里谷《さとや》や荻原《おぎわら》、上村《かみむら》、……畑中《はたなか》……」
葵は驚《おどろ》いた。
「連合の幹部《かんぶ》、全部じゃないか! 総長は、紅《くれない》は何をしてたんだい!」
「その、紅さんが……」
とぎれとぎれに、曜子が必死に話す内容を聴いて、――葵は青ざめた。
「なんてこった……」
「聴き捨てならぬお話ですな」
横から朝倉が言った。
「曜子。悪いけど今の話、御主人様にさせてもらうよ。紅のやってることは、りっぱな犯罪だ。それに何より、あたしらの道に外れてる。引退したとはいえ、あたしも二代目総長。連合のレディースから、犯罪者を出すわけにはいかないんだ。連合がつぶれるのを、黙って見てられるほど、あたしは人でなしじゃない」
「でも、姉さん。それじゃ、紅さんが……」
「その紅のためなんだよ」
葵は、両手で曜子の手を暖かく包んだ。
「安心しな。御主人様は、あたしらハンパもんのことも、考えて下さる。それはあのとき、分かっただろう?」
曜子は、ようやく微笑んだ。
「葵姉さん。まだ、『あたしら』って、……言ってくれるんですね」
「この世にひとりぼっちのあたしにとっちゃ、お前らはみんな、かわいい妹さ」
曜子は、ほっとしたように、目を閉じた。
「曜子!」
「大丈夫ですよ。気が抜けただけのことです。私が病院の手配を致しましょう」
朝倉は、手巻きの懐中時計《かいちゅうどけい》を取り出して、見た。
「もう、朝食のお時間です。葵さん。あなたはいつもよりも、腕によりをかけてお茶を淹《い》れなさい。御主人様のご機嫌《きげん》を見て、一刻《いっこく》も早くこのお話を。御主人様のお仕事にも関わりのあることですからな。私は救急車が来るまでに、応急処置をしておきましょう。何、ご心配なく。戦地では、内臓のはみ出した兵隊でも命はつないだ私です。ご安心なさい」
「はいっ」
部屋を飛び出そうとして、葵がちらりと振り向くと、曜子は穏《おだ》やかな表情で眠っていた。
「安心しな、曜子」
葵はつぶやいた。
「ケジメは、あたしが必ずつけてやるよ」
午前五時。御主人様こと警察庁長官・海堂俊昭《かいどうとしあき》の主寝室からは、ラヴェルの『亡き王女のためのパヴァーヌ』が静かに流れていた。
俊昭はいつものようにアールグレイをゆっくりと味わい、坪内夫人《つぼうちふじん》が焼いたばかりのロールパンを、優雅《ゆうが》に口にした。
その横に立って、葵は気が気ではなかった。心の動揺《どうよう》が、紅茶の味に出ていなければいいのだが。
朝食を食べ終わった俊昭は、薄《うす》い紙を取りだし、パイプ煙草《たばこ》の葉を巻いた。スターリングシルバーのジッポーで火を点《つ》け、静かにくゆらせる。
「それで、葵」
冷たくさえ聴こえる声で、俊昭は言った。
「けさは、何があった」
葵はどきりとした。
「紅茶は嘘《うそ》をつかん。香りが高ぶっている。それはお前の、心の高ぶりだ。違うか」
葵はどう話を切り出していいのか迷ったが、御主人様にごまかしは効かない。ありのままを話すことにした。
「けさ、『関東流れ星連合』の幹部が、ここへ来ました」
俊昭の眉が、かすかに曇《くも》った。
「誤解しないで下さい。わたくしはもう、引退した身。ご奉公《ほうこう》ひと筋に励《はげ》んで――」
「分かっている」
葵の必死の弁明を、俊昭は制した。
「まだ暴走族に関わっているようなら、とっくに暇《ひま》を出している。私もこの家の主だ。奉公人《ほうこうにん》の素行《そこう》ぐらい、分からないでどうする」
「申しわけございません」
葵は深く頭を下げた。
俊昭は、氷のような表情を、珍しく柔《やわ》らかくした。
「思い出すな。三年前のことを。あのときのお前は、手負いの獣《けもの》のように荒れ狂っていた」
「おっしゃらないで下さい……」
恐縮《きょうしゅく》しながら、葵の脳裡《のうり》にも、『あのとき』のことが思い出されていた……。
三年前。葵はまだ十四歳のいたいけな少女だったが、すでに関東のレディース界では『命要らずの葵』と異名《いみょう》をとり、一目置《いちもくお》かれていた。命知らずを通り越し、暴走にせよケンカにせよ、文字通り、命を投げ出す荒っぽいものだった。
それでいて葵の行動には、一本、筋が通っていた。一般市民や弱いもの、目下のものには決して手を出さず、ただ、たとえば酔っぱらいのサラリーマンが会社帰りのOLにしつこく絡《から》んだり、他の不良や目下の者が道を外れた行ないをしたときは、厳《きび》しく叩きのめした。それも、どこで憶《おぼ》えたのか、決して命に関わるような暴力はふるわず、急所を痛めつけて戦意《せんい》を喪失《そうしつ》させるやり方だった。もちろん酒、煙草、もっとヤバいものには手を出さず、ひたすら何かを振り切るように走っていた。
葵のチームは清瀬を本拠にしていたが、葵の人柄《ひとがら》に惹《ひ》かれて、若いレディースたちは清瀬へと集まってきた。その新参者にも、葵はケジメを徹底させた。酒、煙草、薬は一切やらない、弱い者いじめや因縁《いんねん》を付けてのケンカは禁止、だが筋の通らないことは見過ごしにしない。メンバーは葵の決めたことを守り、チームは統率《とうそつ》がとれていた。
チームは大きくなっていったが、葵は清瀬の街から出ようとはしなかった。しかしある日、『関東流れ星連合』の初代《しょだい》総長・白菊《しらぎく》が、ふたりの配下を連れて、葵に会いに来た。
白菊が、葵たちのシマに、わずかふたりの配下を伴っただけで乗り込んできたことに、葵はまず、感銘《かんめい》を受けた。その気になれば三千人のレディースを号令一つで動かし、葵のチームなど簡単につぶせる立場なのだ。
「あんたの噂《うわさ》は聴いてる」
白菊は言った。
「なかなか、できた奴だそうじゃないか」
「さあね」
葵は年上の総長に、粋がってみせた。
「あたしは、あたしのやり方で走る。それだけのことさ」
「ケンカは楽しいかい」
「好きでケンカしてるわけじゃない。行きがかりってやつは、どうしようもないからね。それに――」
青ラメの特攻服を着た葵の目が光った。
「世間はあたしたちを、ゴミみたいに思ってる。だが、社会人でござい、って面した大人のほうがよっぽど汚いよ。この前もあたしの妹分が、万引きの濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》を着せられそうになった。犯人は金持ちのばばあだった。あぶり出して引き渡したよ。殴りゃしなかった。仲間の疑いが晴れれば、それでいいからね。だがほんとに腹ん中が汚いのは、そういう連中なんだ」
白菊は、満足したようにうなずいた。
「それでこそ、チームを率いる値打ちがあるってもんだ」
「おだててどうするつもりだい」
「あたしは来月、十八になる。連合の掟《おきて》でね、上がらなきゃいけない」
『上がる』とは、つまり引退することだ。
「そいつはおめでとう」
仏頂面《ぶっちょうづら》で葵は言った。白菊はにこりとした。
「次の総長を、葵、あんたに譲《ゆず》りたい」
葵は内心の驚きを隠《かく》そうとした。
「どうしてあたしに? 清瀬のちっぽけなチームの頭、それもあたしはまだ十四だ。連合にはいくらでも人がいるだろう」
「人はいても、総長|候補《こうほ》ともなれば、人材ってやつはなかなか見つからないんでね。あんたには悪いが、過去のことも調べさせてもらった」
「なんだって?」
葵は思わず椅子を倒して立ち上がった。自分の過去については、チームの仲間にも秘密にしているのだ。
「悪かったね。もちろん、言いふらしやしない。連合総長の名にかけて、誓《ちか》うよ。……だがな、葵。ほんの十四で、この世の汚いもの、痛いものを全部見てきたあんただ。心の傷を走ることでしか癒《い》やせない奴らの気持ちも、分かってやれるだろうさ。ただ、かっこよさそうだ、っていうんで入ってきた奴らが、レディースの厳しさに負けて道|踏《ふ》み外《はず》すのも、きっと救ってやれる。……あたしも、人には言えない過去を背負って、この道に入った。だが、みんながあんまりでたらめなんで、束ねることにしたんだ。群れたかったわけじゃない。走るからにはケジメを守って欲しかったのさ。……あたしはあんたを、人として見込んだんだ。ガキの頃のあんたみたいな、ひとりぼっちの悲しい子を、もう作っちゃいけない。そうは思わないか?」
白菊の言葉に、葵は胸の奥からこみ上げてくるものを感じた。侠気《きょうき》に火が点《つ》いたのだ。
「あたしでよけりゃ、やってみるか」
葵は、にやっとした。白菊も笑った。
「白菊さん。あんたがケジメを守ってるのは、もう知ってる。そのあんたに頼まれたんだ。総長の名前にも、連合の看板にも傷は付けない。誓うぜ」
ふたりはがっしりと握手した。
こうして葵は二代目総長の座に就き、関東のレディース三千人を率《ひき》いて、走るようになった。あのできごとが起こり、引退するまでは――。
「あの頃のわたくしは、自分がまっすぐな道を歩んでいる、と思っておりました」
葵は遠い目をして言った。
「あながちまちがいとも言い切れんな。手負いの獣、は言い過ぎだった。ただ、お前の『道』は、所詮は裏街道《うらかいどう》だったのだ」
「今のわたくしには、分かります。やり場のない思いをぶつけるものが、他になかったのです。ですが、御主人様」
葵は俊昭の目を見た。氷のような目が、しかし、気のせいかほんの少し温かく見えた。
「今も連合は、私の残した掟を守っております。いいえ、おりました。行き場のない彼女たちには、他の道が見えないのです」
「非行は、非行に過ぎない」
俊昭は言った。
「だが、確かにお前たちは、その辺の通行人に絡んだり襲いかかるような暴走族とは違っていた。それは認めよう。……非行を防ぐのは、警察だけでできることではない。この社会全体を変えなければ、達成《たっせい》できないことだ。その意味では、私の力はあまりにも小さい」
「いいえ、御主人様。御主人様は、私を救って下さいました。ひとりの人間を救えないで、世の中の大事は語れません」
俊昭は無表情だった。
「まあ、いい。それよりお前は、連合のことで何か言いたそうだな」
「かまいませんでしょうか」
葵にとっては一大事でも、御主人様にはささいな『事件』に過ぎないかもしれない。
「いいから話してみろ。お前には悪いが、今日の紅茶は飲めたものではなかった。こんな朝が続くのでは、かなわん」
「申しわけございません!」
葵はあわてて深々と頭を下げて、それでも話し始めた。
「私が引退した後、関東レディース連合総長の座は、紅という子が継ぎました……」
紅はそのときまだ十三だったが、走りの度胸《どきょう》でもケンカでも、葵以外には、誰にも負けなかった。だが、葵よりもすさみ切っていた。それが実の父親に性的虐待《せいてきぎゃくたい》を受けたせいだということは、葵だけが知っていたが、連合に入ったからには掟は守らせなければならない。葵はしばしば紅を叩きのめし、道を諭《さと》した。
幼い頃は平和な家庭で育った葵には、紅の境遇《きょうぐう》がどんなに辛いものか想像するしかなかったが、帰る家がない、誰も自分の苦しみを本気で取り合ってくれない、という点では、葵と紅は共通していた。紅の父親はさる名門中学校の教頭だったのだ。世間がどちらの言い分を信じるかは、言うまでもない。紅の父親は、名教師の皮をかぶった外道だった。
葵は時間をかけて紅の心を解きほぐし、目下ではなく、友人としてつきあうようになった。葵を見て、葵に影響を受けて、紅は次第に心を開くようになった。そして、葵を深く尊敬《そんけい》するようになった。
連合の幹部は、紅、曜子を始めとする六人だったが、突然引退することになった葵は、迷わず次の総長を紅に決めた。誰よりも心の傷を負っている人間だからだ。傷が深ければ深いほど、人としての道を知ってさえいれば、他人を傷つけないようになる。
その頃には、紅の走りと腕っぷしは他の幹部も認めていたので、総長を譲る件は、異論《いろん》も出ずに無事に済んだ。葵は安心して海堂家に仕《つか》え、国家メイド資格を取るまでになり、連合のことはほとんど忘れていた。
だが、今日、曜子の口から、思いがけない言葉を聴いたのだ。
「連合の幹部は、薬をやってます……」
葵の部屋のベッドで、曜子はそう言ったのだった。
「薬? 覚醒剤《かくせいざい》じゃないだろうね?」
葵が訊くと、首をわずかに振った。
「でも、たちの悪いもんばっかりです。ハルシオン、リタリン、他にも睡眠薬や、向精神薬《こうせいしんやく》を……あたしは、やってません。この特攻服にかけて誓《ちか》います。だからシメられたんです」
「朝倉さん、リタリンって?」
薬には縁のない葵は、ハルシオンはさすがに知っていたが、リタリンというのは初耳だったので訊くと、朝倉は直ちに答えた。
「向精神薬の一つですな。ある種のうつ病や、多動症などには効果的な薬ですが、薬理作用《やくりさよう》、即《すなわ》ち薬の種類としては、覚醒剤と非常に似ている、とされております。乱用すると、副作用で中毒になり、幻覚|妄想《もうそう》や、かえって強いうつ状態を引き起こしたりもするのだそうで。私の見解としましては、適切な医者が適切に処方する分には問題がないと考えていますが、最近では、病人以外の一般人の間で、乱用が流行っている、とのことです」
「そんなもの、どこから……」
「それが、紅さんなんです」
曜子は悔しそうな顔をした。
「紅さんは、大病院の息子とつきあっていて、そいつが横流しして来るのを、あたしたちに売りさばけ、って……。幹部たちにも試させたんです。今まで厳しくしてたぶん、薬の味を憶《おぼ》えちまったら、ひとたまりもありません。自分たちもやって、連合の組織を使って、街で売らせるようになって……」
葵は、二つの意味でショックを受けていた。一つはもちろん、実の妹以上にかわいがってきた紅が、そして幹部たちが、こともあろうに薬に手を出し、一般人にまで売りつけていること。もう一つは、男のことでは深い傷を負っている紅が、危ない薬を横流しするような男に、手もなく引っかかっていることだった――。
「リタリンか」
俊昭はつぶやいた。
「確かに最近の薬物乱用は、目に余るものがある。特にリタリンは、中毒患者が多い。それが、大病院から流れているとなると……その病院の名は?」
「三津田《みつだ》総合病院です」
「個人の経営する総合病院では、都内、いや、日本有数の病院だな。だが、歴史のある名家と聴いている。怪しい噂もない」
「つまり、警察の手は及ばない、ということでしょうか」
俊昭は、わずかにうなずいた。
「しかし薬物を大量に横流しするとなると、その息子とやらひとりの力で、できることではないだろう。薬局の責任者、あるいはもっと上の人物が絡んでいる可能性も高い。かといって、強制捜査《きょうせいそうさ》するには、証拠《しょうこ》が必要だな」
「私を三津田家に行かせて下さい」
葵は訴《うった》えた。
「これ以上、罪を重ねる前に、紅の目を醒《さ》まさせたいのです。紅は……不幸な子でした。また、不幸を味わわせたくはありません。わたくしがそうであったように」
俊昭は目を閉じて、何か考えているようだった。やがて目を開いた。
「三津田家の当主、三津田|勲《いさお》は、上品な紳士だ。話をつけておくが、粗相《そそう》のないようにな」
葵は、決意をこめてうなずいた。
「かしこまりました。それで、御主人様。……一日、お暇《ひま》をいただけますでしょうか。やっておかなければならないことがございます」
俊昭は、葵が何をする気か分かったらしい。ひとことだけ、言った。
「けがなどせぬようにな。相手もだ」
「恐れ入ります」
頭を下げながらも、葵の頭の中では、すでに命を張る覚悟《かくご》ができていた。
清瀬の街外れ、古い廃工場の錆《さ》びついた扉を、葵は力をこめて開いた。すでに夜は更けて、この辺りは人通りも少ない。
がらんとしたコンクリートの床の中央に、Tシャツとジーンズ、手にはクイックルワイパーを持って、葵は仁王立ちになった。髪は解き、眼鏡は外している。
吹き抜けになった二階をめぐる廊下の一角に事務所があって、青白い蛍光灯《けいこうとう》が点いていた。そこをにらんで、葵はドスのきいた声で怒鳴《どな》った。
「紅! 話がある! いるんなら、とっとと出てこい!」
事務所の中から、ろれつの回らない少女の声が聴こえた。
「総長を呼び捨てにするとは、どこのどいつだ!」
声と共に、紫の特攻服を着た長身の少女が、ふらふらと出てきた。
「里谷」
葵は声を落として、その少女に呼びかけた。
「まさかあたしの顔を忘れちゃいないよな。それとも薬でラリって、頭ん中はお花畑かい?」
里谷|麻利《まり》はふらつきながら、それでもハッとしたようだった。
「葵さん……」
まだ何か言いそうだったが、葵は待ってはいなかった。あっという間に鉄板の階段を駆け上がり、里谷の前まで飛ぶように走る。すぐ目の前で見る里谷は、とろんとした、濁《にご》った目をしていた。葵は内心ため息をつきながら、訊《たず》ねた。
「何をやったんだい? 睡眠薬か?」
「ああ、いえ、その……ちょっと風邪気味で……」
「せこい言いわけするんじゃないよ!」
それ以上はうむをも言わせず、葵は空いている右手の拳で里谷の鼻先を殴りつけた。里谷はうめき声を上げてひっくり返った。
物音を聴き付けて、残る三人の幹部――荻原|安奈《あんな》、上村百合《かみむらゆり》、畑中|真由美《まゆみ》が出てくる。いずれも足許《あしもと》が定まっていない。
葵はゆっくりと見回した。
「堕《お》ちたもんだね。『関東流れ星連合』の幹部が、揃《そろ》いも揃って薬でお遊びかい」
「これにはわけが……」
荻原が言いかける。葵は最後までは言わせなかった。
「わけ? こんなバカやるのに、どんなわけがあるって言うんだい。こっちはなあ、曜子から洗いざらい聴いてるんだよ!」
「曜子の奴、チクりやがって」
上村が舌打ちをした。その眉間《みけん》に葵のクイックルワイパーがヒットした。
「お前らの、ラリった頭に入るかどうか知らないけどね」
怒りに燃えた目で、葵は一同をにらみつけた。
「チクるっていうのは、仲間を裏切ることを言うんだ。曜子はお前らの目を醒まさせたくて、てめえの命も危ないってのに、お前らのために、あたしに知らせに来たんだよ。そういうのはなあ、『表切った』って言うんだ。よく憶えときな!」
「ご大層なこと言ってますがね」
畑中が顎《あご》を突き出した。彼女はあまり、薬が効いていないようだ。
「あんたはレディースを上がって、サツの犬になったんだ。あたしらとは無関係っすよ。いや、敵だ。なんで話聴かなきゃならないんですかね」
「あたしのいうことをきけ、なんて言ってない」
葵は、畑中に向かい合った。
「あたしは紅に、用事があるんだ。サツの犬、って言ったね。ああ、その通りだろうさ。あたしに言いわけはないよ。……だがな、畑中。あたしは飼い犬じゃない。あたしがお側にいたいから、自分の意志で海堂様にお仕えしてるんだ。お前らこそ紅の言いなりじゃないか。総長を助けるのが幹部の役目だ。それをいいように使われてどうする? パシリかよ、連合の幹部は! おまけに掟を破って薬に手を出したお前らは、犬なんてお上品なもんじゃない。ただのクズさ!」
葵のタンカに、畑中は気圧《けお》されたようだったが、すぐに怒鳴った。
「犬がぎゃんぎゃん吠《ほ》えて、うっせえんだよ! お前ら、コケにされてほっとけるか? ……フクロにしちまいな!」
その声に、幹部たちはふらつきながらも身がまえた。葵は、左手のクイックルワイパーを握り直した。
このふらつきようは、ハルシオンか何かだろう――葵は思った。朝倉の話では、ハルシオンを大量に飲んで眠くなるのを我慢すればトリップできる、そういう噂が広まって、手を出すバカがいるが、トリップなどしない。ただ、眠くなるだけだそうだ。
幹部たちはいずれも腕っぷしは一人前以上だったが、頭が眠っているのではケンカも何もあったものではない。たちまち葵に叩き伏せられ、痛みに顔を歪《ゆが》めながら床に倒れた。薬の効いていない畑中だけが残った。
畑中は、にやりと笑った。
「まだ、なまっちゃいないようっすね。元・総長」
「こっちは毎日、鍛《きた》えてるんでね」
葵もにこりと笑いながら、視線は畑中の目に合わせたまま、目の端で畑中がポケットに手を突っ込むのを捉《と》らえていた。いわゆる『八方目』というやつだ。
畑中の得意は、チェーンだ。一瞬のうちに相手の、たとえば木刀をからめとる。
葵は身がまえた。果たしてポケットの中からチェーンが勢いをつけて繰《く》り出《だ》された。葵はクイックルワイパーを床に叩きつけた。重合金のクイックルワイパーは、しかし、しなやかにもできていた。ばん! と音を立てて床にぶち当たり、天井高くはね返った。
畑中の顔が凍りつく。彼女が繰り出したチェーンを葵は素手で受け止め、腕に巻き付いたのをそのままぐいっ、と引っ張ったのだ。チェーンを離す間もなく畑中は引きずり倒された。その背中に葵は跳《と》び乗り、落ちてくるクイックルワイパーを宙で握って、柄の先を、畑中の背中に突きつけた。
「ひと突きしたら、あんたの背骨が砕《くだ》けるよ」
押し殺した声で、葵は言った。
畑中は起き上がろうとしたが、小柄《こがら》な葵をはねのけることはできなかった。葵は畑中の両手を踏みつけていたのだ。
「曜子の痛みが分かったかい」
葵は言った。
「おとなしく吐けば、こっちももう大人だ、すなおに帰るつもりだったさ。だがな、曜子の顔が、体のあざが、頭を離れねえんだ。死ぬかもしれねえんだよ! どんな理由か知らないが、幹部は血を分けた姉妹《きょうだい》以上の仲間だ。一番の仲間をそこまでのリンチにかけたてめえらは、ただじゃおかない。覚悟しな!」
「ま……待って……下さい……」
脇腹《わきばら》に一撃《いちげき》を食らって、息が詰まった里谷が、苦しそうに言った。
「紅さんは、恋をしてるんです……」
「ああ、知ってるよ。大病院のバカ息子と、できちまったんだろう?」
葵は憎しみを抑えられなかった。
「純愛なんです。信じて下さい」
「男のために、薬を、しかも連合を使って売りさばくなんて、そんなもんが純愛であってたまるもんかい! そういうのは色ぼけって言うんだよ!」
「とにかく、話を聴いて下さい、葵さん」
踏みつけにされた畑中も言った。
「あたしら、確かにバカでした。でも、紅さんの事情も、聴いてやって下さい」
「だからその紅は、連合ほったらかして、どこにいるんだよ!」
「身を隠してるんです。実は――」
そのあと、畑中が語った話に、葵は衝撃《しょうげき》を受けた。
「なんだって……」
「確かに、まちがったことはしてます。でも、紅さんは、一途なんです」
「見えてきそうだよ。本当のワルが……」
葵はつぶやいて、畑中をようやく解放した。
「分かった。この件、あたしが調べる。お前らはこれ以上、何もするな。いいか? いいことも悪いことも、何ひとつするんじゃないよ。時が来たら、あたしが招集《しょうしゅう》をかける。それまでに、薬を抜いておくんだね」
「あたしら、どうなるんすか……」
里谷がおびえたように言う。葵は微笑んで、長い髪をひとふりした。
「あたしがほんとに、サツの犬かどうか、見てもらおうじゃないか」
なんとか立ち上がった幹部たちを振り返りもせず、葵はその場を立ち去った。口の中で、つぶやいた。
「紅……バカだよ、あんた。大バカだ」
だが、その声には、しみじみとしたものがこもっていた。
そして、翌日の午後――。
世田谷の一等地にある三津田家は、名家にしてはこぢんまりとしていたが、現代的な、円形などを採り入れた複雑な構造の、コンクリート住宅だった。
「ごめんなさいね。たった四人の家族で、お手伝いさんを雇うのもどうかと思うのだけれど」
元は三津田総合病院の婦長をしていたという夫人は、気さくな、やや控えめな人で、勝手口から葵が入ると、自ら出迎えてくれた。そろそろ五十に手が届くはずで、落ちついた柄の和服がよく似合う。
「恐れ入りますが、メイド、と呼んでいただけますか」
「ああ、そうだったわね。なんでも国家資格とか」
葵は、もちろん警察庁長官の家から来たとは明かしていない。あるパーティーで、三津田院長が『妻が忙しくて……』とこぼした相手の、さる財界人の紹介で雇《やと》われることになった、という形を取った。その財界人と面識のある海堂俊昭が、『我が家のメイド仲間が、良い働き口を探している』と言ったのだ。遠回しだが、秘密は守らなければならない。
今日はまだ面接だったが、夫人は葵のTシャツとジーンズ姿に、かえって好印象を持ったようだった。以前に、きちんとした外出着を着るようにと仙石《せんごく》家のハウスメイドから言われたが、葵は自分のスタイルを変えるつもりはなかった。これからも他の家へ出向くときがあるかもしれないが、そのときは、そのときだ。
「でも、言ったらなんですけれど、雑用ばかりよ。国家資格のメイドさんに申しわけないわ」
「そんなことはございません」
葵は答えた。
「お仕えするお宅に合わせて、ぞうきんの洗濯《せんたく》でもトイレの掃除でも、なんでもやるのがわたくしの仕事です。ご遠慮なくお申し付け下さい」
「そんなにかしこまらないで下さいな。私だって、元は看護婦、今で言えば看護師ね。人のお世話をするという意味では、同じようなお仕事をしていたんですもの」
「申しわけございません」
葵は頭を下げた。
「この口調に慣れてしまっているものですから、簡単には直らないのです。かえって気がねされるのでしたら、努力致します」
「無理はしなくていいのよ。三津田家は名家と言っても、格式ばったところはほとんどないの。身ひとつで東京に出てきた私を、妻に迎えてくれた旦那《だんな》様ですもの」
つまり、学歴や家柄《いえがら》にはこだわらない、ということか。葵は心の中でうなずいた。
話しながら、夫人は打ちっ放しのコンクリートに半透明の明かり取りの窓をあしらった廊下を歩き、玄関に近い洋室に葵を案内した。廊下の床は幾何学《きかがく》模様のゴムタイルだった。
「ここを使って下さいな」
葵は驚いた。十|畳《じょう》近くある。家具も、家に合わせて現代的なデザインの、高価なものばかりだ。ベッドに洋服ダンス、ドレッサーはもちろんのこと、エアコンにテレビまである。
「メイドには、もったいないお部屋でございます」
思わず言うと、夫人は笑った。
「結婚して独立した、長女の方が使っていた部屋なの。他に部屋がないのよ。気に入らなかったら、私の部屋を――」
「いえ、とんでもございません」
葵はあわてて打ち消した。使用人が奥様の部屋を使うだなんて、あってはならないことだ。
それより今、『長女の方』と夫人が言ったのが、気になっていた。自分の娘ではない、ということか?
「着替えたら、さっきの台所に来て下さいな。旦那様にごあいさつしましょうね」
にこやかに、夫人は出ていった。
はあ……ベッドに腰かけて、葵はため息をついた。広すぎて落ちつかないのだ。
だが、頭の中に謎《なぞ》が渦《うず》を巻いた。気さくで明るい、庶民的《しょみんてき》な夫人。その育てた子どもが、犯罪に手をそめるものだろうか。
いや、奉公人に甘いということは、子どもにも甘いのかもしれない。即断《そくだん》は禁物《きんもつ》だ。
とにかく三津田院長に会ってみなければ。葵は私服を脱ぎ捨てると、バッグの中からメイド服を取りだし、パニエの形を整えてスカートがきれいにふくらむようにした。着替えが終わるとドレッサーに向かい、髪を結《ゆ》い直《なお》し、カチューシャで留めた。
手早く顔を整えると、台所へ向かった。待っていた三津田夫人は、葵のメイド服姿に驚いたようだった。
「まあ、まるで映画みたい。私が見劣りするほどだわ」
「これが制服ですので」
葵は控えめに答えた。
「それに、奥様の加賀友禅《かがゆうぜん》に比べれば、大したことはございません」
「あら。そこまでお分かりになるの?」
「お仕えする方のお好みを見分けるのも、メイドのたしなみでございます」
三津田夫人は、すっかり感心したようだった。
「それじゃ、早速で申しわけないのだけれど、お茶を煎れてみて下さるかしら。緑茶を。旦那様のところへ、持っていきましょう」
「はい」
葵は、決して広くはない台所の棚《たな》に目をやった。和紙を貼った茶筒《ちゃづつ》がある。開けてみると、台湾産の烏龍茶《うーろんちゃ》だった。発酵《はっこう》する前の緑茶だ。今でも烏龍茶というと、発酵した後の茶色いものしか知らない人も多いが、烏龍茶は緑茶としても高級品なのだ。
「よいお茶をお召し上がりですね。凍頂《とうちょう》茶でしょうか」
「あらまあ、お茶のこともご存じなのね」
三津田夫人は笑顔になった。
「旦那様のお友だちに、台湾の産地へ行って直接買い付けてくる方がいらして、ずいぶん安く手に入るの。とても甘くて、私はびっくりしたのだけれど」
横浜の中華街で飲めば一杯千円ではきかない高級品だ。三津田院長の趣味はいいようだった。
これだけの中国茶となると、茶芸、いわゆる中国茶を煎《い》れる正式な手順のためのセットがあるのが本式だが、台所には見当たらなかった。
「茶器《ちゃき》はないのですか?」
「ああ、本格的なものね。旦那様は、たくさんお茶を召し上がるから、中華料理店のような大げさなことはいらない、とおっしゃってね。ふつうに、急須《きゅうす》で煎れてかまわないわ」
そうは言われても、その辺の煎茶《せんちゃ》のように煎れるわけにはいかない。葵は急須にお湯をかけ、緑茶の葉を入れて、出したお茶をいったん捨て、またお湯を注いで、適当な温度と濃さに調節した。茶芸はほとんど憶えていなかったが、その場しのぎにはなるだろう。
その間に夫人は、羊羹《ようかん》を切った。濃厚な色の練り羊羹だった。
「旦那様は、甘いものがお好きなのだけれど……」
夫人はつぶやいた。
「そろそろお歳なのだから、控えていただかないと」
三津田勲は五十八歳。長男が確か三十近いはずだから、三津田夫人は、ずいぶん早くに婦長を務めていたことになる。気さくな人ではあるが、やり手なのだろうか。いや、それでも計算が合わないような……。
お茶と羊羹を黒い漆器《しっき》の盆に乗せて、夫人が運ぼうとした。すかさず葵は盆を取り上げた。
「あら、いいのよ」
「それでは奥様、メイドの仕事がございません」
すると夫人は、少しばかり毅然《きぜん》とした表情になった。
「おっしゃることは分かります。でもね、旦那様へのお茶は、私に運ばせてちょうだい。妻として、旦那様の身の回りの世話は、私がします」
「申しわけございません。出過ぎたまねを致しました」
葵が深く頭を下げると、夫人は、ふっ、と微笑んだ。
「数少ない、夫婦の触れ合いの機会ですものね」
その声にわずかな淋《さび》しさが感じられた、と思ったのは、葵の気のせいだろうか。
「大丈夫よ。まだまだ他に、手のかかる息子が、ふたりもいるんですもの。音を上げないでちょうだいね」
「かしこまりました」
葵はまた、頭を下げた。
この家を設計した建築家は、木の要素を排除したかったらしい。三津田院長の書斎《しょさい》は、落ちついたダークブルーの、アルミのドアだった。
お盆を持っている夫人の代わりに、葵がドアをノックした。
「失礼致します」
声をかけて開き、まず夫人を先に通す。後から入って、部屋をさりげなく見回した。
病室を思わせる白い壁と毛足の短い灰色のカーペット、窓にはごく薄いグリーンのブラインドがかけられた、簡素な部屋だった。壁には天井までのスチール製の書棚があり、医学書らしいどっしりとした書物が並んでいる。
応接セットも実用的なものだが、三津田院長の机は、もっと簡素なものだった。灰色のスチールの事務机に見えたが、ただ、畳二枚分もある大きなもので、そこに本や書類が積み重ねられている。
金色の万年筆で書き物をしていた、白衣の三津田院長が顔を上げた。万年筆はウォーターマンのソリッドゴールド、と葵は見た。百五十万ほどの品だ。
三津田勲は、六十に近いとは思えない、しみやしわ一つない艶《つや》のある顔に、精悍《せいかん》な目鼻立ちをしていた。髪の色も真っ黒で、白髪が見当たらない。タフで繊細《せんさい》な名医として、数々の難しい外科手術を成功させ、『奇蹟《きせき》の指』と呼ばれるだけのことはあった。
「君が、田能村さんが紹介してくれたメイドかね」
張りのある声で、院長が言った。
「若槻《わかつき》葵と申します。未熟者ですが、身を粉にして働きますので、よろしくお願い致します」
葵は深く頭を下げた。
夫人が盆をそっと置いた。院長は、緑茶の色を見てわずかに眉を上げ、一口すすった。
「朋美《ともみ》。これは、お前が煎れたのかね」
院長は夫人に訊いた。
「いいえ、こちらの葵さんですわ」
「……うまい。甘みと深みが一段とよく出ている」
院長は微笑んだ。
「小さな家にメイドなど、どうかと思ったが、雇っただけの甲斐はあったようだ。いや、もちろん朋美の茶がまずいと言っているわけではない。ただ、餅は餅屋だ。少しはこの葵さんに仕事を任せて、お前はもっとゆとりを持ちなさい」
「ありがとうございます、旦那様」
夫人と葵は同時に同じ言葉を言い、顔を見合わせて微笑んだ。
「聴いていると思うが、うちには受験浪人の息子がいる」
院長の表情が曇った。
「どうしようもない馬鹿息子だ。正倫の薬学部を二浪もしていてな」
もちろん葵は知っていた。正倫医科薬科大学の薬学部は、しかし、決してたやすく入れるような学部ではなかった。
「二十歳だというのに、まだ反抗期だ。朋美の夜食にも手をつけず、コンビニで買い食いをしている。朋美の気持ちも考えたらどうなんだ。少しは秀一《しゅういち》を見習えと説教しているのだが、年寄りの話など、聴く耳は持っておらん」
秀一は、長男で、三津田総合病院で内科に勤めているそうだ。
「あなた」
夫人がそっと言った。
「勇介《ゆうすけ》さんは、本当のお母様が恋しいのですわ」
「死んだ者は帰っては来ない。今の母親は、お前だ」
あっ、と葵は思った。夫人が後妻だということは、俊昭のデータからは漏《も》れていた。それも、勇介の反抗の理由に違いない。
「まあ、そういうわけでね」
院長は、机に肘《ひじ》をついた。
「歳の近い君だ。勇介の話し相手になってやってくれ」
「かしこまりました」
葵は頭を下げながら、見るからに紳士の三津田院長にも、まちがいはあることに気づいた。
一つは、弟を兄と比べること。そして、母親のことだ。
その日の夕食は、葵を一家に紹介するということで、メニューを任せてもらった。
葵は夫人から家族の好みを聴いて、近くの商店街まで買い出しに行った。まだ夏の暑さは収まっていないので、冷たいトマトスープと、海堂家のコック、坪内夫人直伝の鶏の冷製をメインに、シーザーサラダとシャーベットを作ることにした。
葵は料理は専門ではないが、坪内夫人にある程度のこつは教わっている。坪内夫人が休みのときには、葵が料理を作らなければならないからだ。
まだ陽が高いうちから葵は準備に取りかかった。そのうち夕立が降ってきて、夜の七時半にはシャーベットも固まっていた。
夕食は食堂で八時から、と決まっている。食器を選んでいると、玄関のほうで声がした。
「ただいま帰りました」
葵は早足で玄関へと急いだ。
銀縁《ぎんぶち》の眼鏡をかけた若い男が、レインコートを洋服掛けに掛けているところだった。見るからに知的な風貌《ふうぼう》で、神経質そうでもない。
「秀一さん、ご紹介しておきますわね。こちら、メイドの、若槻葵さん」
「葵でございます。よろしくお願い致します」
言うと、秀一は眼鏡の奥から切れ長の目で葵を見つめていたが、
「父が雇ったのですか」
夫人に訊いた。
「ええ。私が不行《ふゆ》き届《とど》きなものですから……」
「そんなことはありませんよ、お母さん」
葵はおや? と思った。秀一の声には、ひやりとするよそよそしさが感じられたのだ。
「勘違いなさらないでね。このお嬢さんは、あなたの花嫁候補というわけではないのよ」
夫人は少し、おろおろしているようだ。
「女性には興味はありませんから。特に、子どもには」
子ども? 葵は少しむっとしたが、まあ、十以上も下ならそう見えてもおかしくはない。にこやかに答えた。
「それを聴いて安心致しましたわ。一生懸命、お世話をさせていただきます」
「ありがたいが、私は自分のコートは自分で掛ける主義でね」
それだけ言うと、秀一は二階へと上がっていった。
「気を悪くなさらないでね、葵さん」
夫人がとりなすように言った。
「秀一さんは、内科のお仕事一筋の方なの。あれでお嫁さんでももらったら、少しは愛想《あいそう》もよくなるのでしょうけれども。患者さんからも怖《こわ》がられているみたいで……」
「いいえ、奥様。気にしてはおりません」
葵は微笑んだ。
「ですが、奥様。わたくしのような奉公人や、とりわけご自分の息子さんに、敬語をお使いになるのは、およしになったほうがよいかと存じます」
「え? でも、私はこの家の後妻ですもの。まだ十年しか、秀一さんたちとは……」
「もう、十年です」
葵は強く言った。
「奥様がそういう態度でいらっしゃる限り、息子さんたちが心を開くことはありません。この家の当主は旦那様、けれど、家を取り仕切っているのは奥様なのですよ。遠慮をしていては、家が崩壊《ほうかい》してしまいます」
「そういうものかしら……」
夫人は戸惑《とまど》っているようすだった。
そこへ、――。
「ただいま」
ぶっきらぼうな声がして、真っ赤なアロハシャツにジーンズの青年が入ってきた。ブックバンドを提げている。アロハシャツはプリントの安物だ。
「お帰りなさい。濡《ぬ》れませんでした?」
夫人が言うと、青年はふてくされたように、
「予備校の友だちが、車で送ってくれたから」
言うと、かかとのつぶれたスニーカーを脱ぎ散らかして、そのまま二階へ上がろうとした。
「あ、お待ちになって、勇介さん」
夫人があわてたように言った。
「ご紹介しておきますわね。こちら、メイドの若槻葵さん」
葵が口を開く前に、勇介は葵の姿を見て、眉をひそめた。
「なんだよ、そのかっこうは。悪い冗談のつもり? それとも親父の趣味か?」
ひどい言葉だったが、葵は微笑ましく思った。家の中にいきなりメイド服の若い娘が現われたのだ。二十歳の青年としては、当然の反応だろう。
「これはメイドの制服なのでございます。奥様のお手伝いをするよう、言いつかって参りました。一生懸命お世話させていただきますので、よろしくお願い致します」
葵が頭を下げると、あいかわらず仏頂面で勇介は言った。
「おふくろの足を引っ張るなよ、お嬢ちゃん」
勇介は二階へと上がっていった。葵は、ほっとした。最後の勇介の言葉には、夫人への気づかいが感じられたからだ。それに、『おふくろ』と言った。義理の母だと割り切っていたら、決して、そんな風には呼ばない。
「勇介さんは、悪い人じゃないのよ」
夫人が言う。葵はうなずいた。
「ええ。……よく分かりますわ」
午後八時。葵は食堂に、ワゴンで夕食を運んだ。
長いテーブルには上座に三津田院長がつき、ふたりの息子が並んで、夫人と向かい合っている。勇介は居心地が悪そうだ。
「君も座りなさい」
院長が葵に言った。
「とんでもございません。みなさまのお給仕が済んでから、台所のほうで」
「いや、この家に来た以上、君も家族の一員だ。分《わ》け隔《へだ》てはしないよ。朋美、葵さんを手伝いなさい」
「メイドを甘やかさないで下さい、お父さん」
秀一が、冷たく言った。
「この小娘だって、三津田家の財産を狙って入り込んできたのかもしれませんよ」
「お前は何が言いたい?」
三津田院長は、朋美のほうをちらりと見た。葵ではなく。
「まだ朋美のことを、そんな風に思っているのか」
「親父はそこまで間抜けじゃないよ」
あくびをしながら勇介が言った。不作法をとがめるつもりは、葵にはなかった。
「どうせこの家も病院も、みんな兄貴が跡を継ぐんだ。兄貴は優秀だからな」
「どういう意味だ」
秀一は弟をにらんだ。
「医者の世界は、何よりも腕だ。人の命を預かるのだから、当然のことだろう」
「患者にまで『鬼先生』と呼ばれてる人に、命を預ける人がいますかね」
「ふたりともやめんか!」
三津田院長が、テーブルを叩いた。
「医者は、時として冷徹《れいてつ》にならねばならないときもある。それが分からないのが、勇介、お前の甘さだ。だから入試にも失敗するのだ」
「冷徹と非情は違うんじゃないのか、親父!」
勇介は怒鳴った。院長の顔が赤らんだ。
葵は口をはさんだ。
「あの、出過ぎたことを申すようで恐縮ですが、お話は、お食事をしながら、というのではいかがでしょう。よく冷えているうちに、召し上がっていただきたいので」
「他人の家のことに、口を出すのか?」
秀一が眼鏡の奥からにらむ。葵は臆《おく》することなく答えた。
「お医者様がプロフェッショナルであるように、わたくしもメイドのプロでございます。お料理を最上の状態で召し上がっていただくのも、わたくしの仕事でございますから」
「家政婦にプロも何もないだろう」
「それは差別だね、兄貴」
勇介がせせら笑った。
「葵さんだっけ、あんたは正しいよ。人間、誰にでも仕事へのプライドはあるもんだ。それにせっかくの料理を台なしにするのは、マナーに反しちゃいませんかね、秀一先生」
秀一は何か言いかけたが、黙り込んだ。
手伝いに立ち上がろうとする夫人に首を振り、葵はまず、よく冷えたベルモットをそれぞれのグラスに注いだ。
「食前酒はこれでよろしかったでしょうか、旦那様」
院長は、グラスの柄をつまみ、一口味わった。
「ふむ。こういう習慣はなかったが、確かに本式の料理には、食前酒はあっていいものだな。食が進む」
「恐れ入ります」
葵は手際《てぎわ》よく皿を並べ、料理をよそった。
秀一も勇介も言い争いを忘れ、目の前の料理に気を取られているようだった。
鶏の冷製を、秀一が上品に切り分けて、口に入れた。よくかんで、味を確かめているようだ。
「これは、ソースにマスカットではなく巨峰《きょほう》を使っているね。面白い」
心なしか、声の調子が和やかになっている。
「蒸し加減も申し分ないし、バジルの量も適切だ。プロと名乗るだけのことはある」
「光栄でございます」
勇介は、トマトのスープを、皿を持ち上げて飲み干した。
「この、ぴりっ、とするのは何? コショウだけじゃないみたいだ」
秀一がスープをスプーンで口に運んだ。
「コショウ以外には、何も入っていないぞ。お前には味など分かるまい」
勇介がむっとした顔で言い返す前に、葵はあわてて答えた。
「申しわけございません。勇介坊ちゃまは辛いものがお好きだとうかがったので、坊ちゃまのお皿にだけ、チリパウダーをほんの少し……お気に召さなかったでしょうか」
「ふうん、そんなことまでするんだ」
勇介は感心したようだった。夫人がほっとしたような表情になるのを、葵は見のがさなかった。
院長は黙々《もくもく》と料理を口に運び、ナプキンで口を拭《ぬぐ》った。
「うまい」
「恐れ入ります」
「朋美の手料理もいいが、こういう食事も悪いものではないな」
「でもさあ、親父」
勇介が言った。
「たしかにうまいけど、毎日これだったら、おふくろの出番がなくなるんじゃない?」
「うまいのならかまわないじゃないか」
秀一が言う。葵は首を振った。
「いいえ。今日はわたくしの腕前を見ていただくためにお台所をお借りしましたが、お食事は、ご家族でなさるのが一番かと。これからは奥様のお手伝いをするだけに致しますので、ご安心下さい」
「私はこちらのほうがいいがね」
冷たく言った秀一を、勇介がにらみつけた。すかさず葵はシャーベットを出した。
「ふむ、これは初めて食べる柑橘《かんきつ》類だな」
院長が首をかしげた。
「レモンと柚子《ゆず》……いや、違うな」
秀一も首をひねる。勇介が、なんでもないことのように言った。
「ふたりとも、シークヮーサーを知らないの? コンビニで、五十円アイスで売ってるよ」
「そんな下品なものを食卓に上げたというのか!」
秀一が声を荒げる。葵は落ちついて答えた。
「僭越《せんえつ》ですが、内科の先生でしたら、シークヮーサーについてはご存じかと思っておりました」
「確かに、知っているべきだったな」
院長がうなずいた。
「シークヮーサーは、沖縄の野生のミカンだ。食べたことはなかったが、果皮に含まれるノビレチンの発がん抑制作用が、注目されている。沖縄の長寿の秘訣《ひけつ》とも言われている」
「テレビの健康番組でやってるの、知らない?」
勇介が、おどけたように言った。
「私はそんな番組など見ない!」
秀一は立ち上がった。
「不愉快だ。失礼しますよ、お父さん」
足音も荒々しく、秀一は食堂を出て行った。
「あいつのかんしゃく持ちには、困ったものだ」
院長はしかし、あまり困っていないように言った。
「勇介。いい気になるなよ。あれでも内科部長だ。プライドを傷つけるようなことがあってはならん。お前はただの浪人生であることを忘れるな」
「兄貴が優秀なことは、よおく分かってますよ」
勇介は肩をすくめた。しかし葵は、勇介の目に宿った怒りの炎を見のがさなかった。
「わたくし、秀一様に嫌われたのでしょうか」
言ってみると、院長は笑った。
「なに、明日の朝には落ちついている。朋美、後でコーヒーを持っていってやりなさい」
「はい、旦那様」
食事の間じゅう、ほとんど口をきかなかった夫人が答えた。
「わたくしが致しますのに」
台所で皿を洗いながら、葵が言った。
「いいえ。少しは私にも手伝わせてちょうだい」
並んで夫人は皿を洗っていた。
「なんだかね、本当にあなたに、家事を取られてしまうような気がしてしまうのよ。もちろん、そんなつもりではないことは知っていますわ。でも……」
家事、すなわち家、ということなのだろう。葵は内心、この家に来たことを後悔《こうかい》していた。上流の家庭なら雑用はメイドに任せて、もっと大きな家の仕事を取り仕切るのが夫人の役目だが、この家は、そういう意味ではもっと庶民的な家庭だ。他人の入り込むべき場所ではないのかもしれない。
しかし、葵には使命がある。
「後はわたくしがやりますから、奥様は秀一様に、コーヒーを淹《い》れて差し上げて下さい」
葵が言うと、夫人はすまなそうな顔をした。
「そう? じゃあ、お願いしますね」
夫人は、大きなマグカップにドリッパーを乗せ、キャニスターから豆をコーヒーミルに入れて、挽《ひ》き始めた。
「この香りは……ブラジルでございますね」
葵が言うと、夫人はにっこりした。
「やっぱり、さすがだわ。豆の銘柄はお分かりになって?」
葵は目を閉じて、漂《ただよ》ってくる香りを見極めようとした。
「……ブルボンアマレロ種、でしょうか」
「その通りよ。そこまでお分かりになるのね」
「秀一様は、甘いコーヒーがお好きなのですね」
ブルボンアマレロ種のブラジルコーヒーは、上品な甘さが特徴だ。
「ええ。ブラックでも甘い、と言ってね。――それでは、勇介さんの好きなコーヒーがなんだか、お分かりになる?」
葵は考えていたが、夫人のいたずらっぽい目を見て、答が分かった。
「缶コーヒーではありませんか?」
「その通りよ」
ふたりは声を上げて笑った。
「なんだい、仲良くやってるじゃないか」
当の勇介が顔を出した。
「あら、勇介さん」
夫人はあわてたようだった。
「またコンビニへお買い物? お夜食だったら、葵さんが作って下さると……」
「できの悪い息子には、コンビニのカップラーメンで充分なんだよ、おふくろ」
軽口を叩いて、勇介は勝手口から出ようとした。
「あの、出過ぎたことならお許し下さい。ご家族の方は、玄関から……」
葵が言いかけると、顔をしかめて手を振った。
「ドアチャイムがあるから、親父に聴こえちまう。買い食いしてるのがばれたら、たちまちカミナリが落ちるよ。俺は、こっちのほうがいいんだ」
勇介は出ていった。
「気分転換にもなる、と言うけれど……」
心配そうに見送って、夫人がつぶやいた。
「やっぱり、夜に出歩くのは心配だわ。この町内では、どこかのコンビニで、大きなケンカもあったというし。葵さん。勇介さんの習慣を、変えることはできないかしら。あなたの腕で」
葵は首を振った。
「それができるのは、奥様、あなただけでございます」
「でも、私は……」
「旦那様は、勇介様は反抗期だ、とおっしゃいました」
葵は静かに言った。
「ですが、それは旦那様に対して、また冷たい秀一様に対してのことでございます。大変失礼ながら、秀一様は、お医者様としては優秀なのでしょうが、人を思いやる心がございません」
「それは、確かに厳しい人ではあるけれど……」
「いいえ。そういうことではないのです」
葵は、まだ洗っていない秀一の皿を見せた。
「料理の命は、ソースでございます。ソースを残されるのは、コックにとって一番の屈辱《くつじょく》なのです。それを秀一様は、たっぷりと残されました。そのようなことをご存じないのは、しかるべき地位の方には、あってはならないことです。勇介様はテーブルマナーはご存じないかもしれませんが、ソースも、スープの一滴も残さず、お召し上がりになりました。それが料理を作る者には、どんなほめ言葉にも勝る喜びなのでございます。お医者様にならなくても、お薬を出すお仕事に就《つ》かれたら、きっと患者さんの気持ちを察して下さることでしょう」
「この家で、勇介さんをほめる言葉を、初めて聴きました」
夫人は、和服のたもとで目頭を押さえた。
「私にも分かっているのです。勇介さんだけが、私のことを本当の母親のように思っていてくれることを。……葵さん、勇介さんの味方になって差し上げてね」
「はい」
葵はうなずいた。
間もなく勇介が、コンビニの袋を提げて戻ってきた。
葵は出迎えながら、さりげなく袋の中を覗《のぞ》いた。五百ミリのボトルコーヒーが二本、激辛のカップラーメン、それにスナック菓子。なるほど、栄養バランスは良くない。
「コーヒーは、冷やしておきましょう」
袋に手を伸ばすと、勇介はボトルコーヒーを一本、抜き取った。
「こっちはすぐ飲むから、いいよ」
勇介が手にしたコーヒーのボトルを、葵は見た。どこにでもある、黒っぽいビニールのかかったものだ。が――。
そのとき、インターフォンが鳴った。
『私だ』
院長の声がした。
『磯貝《いそがい》と新谷《しんたに》が来ている。コーヒーを出してくれないか』
「あら、どうしましょう」
夫人があわてて、使ったばかりのドリッパーを洗おうとした。
「あいつらか」
勇介が顔をしかめて、台所を出て行った。
「おべっか使いとは、顔を合わせたくないな。とっとと退散するよ」
「磯貝様と新谷様、というのは?」
夫人の手からドリッパーを取り上げて、葵は訊ねた。
「副院長と、薬剤部長よ。毎週、お仕事の報告においでになるのを、忘れていたわ」
「わたくしが参ります。奥様は、秀一様にコーヒーを。お客様にお出しするのは、こちらでよろしいでしょうか」
葵が取り上げたキャニスターは、ブルーマウンテンだった。
「ええ。それでお願いします。磯貝さんは、車を運転されるから、濃いめがお好みなの」
夫人は葵を信頼しきっているようで、マグカップをお盆に載せて、そそくさと出ていった。
「車を運転される、か……」
誰もいなくなった台所で、葵はつぶやいた。
勇介の帰宅と、ふたりの到着。偶然と言えばそれまでだが、タイミングが良すぎる。だいたい、目上のはずの磯貝が運転して来るというのも、ひっかかる。そして、勇介が手にしたコーヒーのボトル。ふつうのコーヒーだったが、一つ、おかしな所があった。
コンビニの袋に入ったもう一本のボトルは、まだ熱帯夜の収まらないこの夏の夜に、たっぷりと汗をかいている。しかし、勇介が持っていたボトルは、きれいに乾いていたのだ。
「見えてきたね……」
葵はまた、つぶやいた。
コーヒーを持って、葵は院長室のドアをノックした。
「失礼致します」
中へ入ると、応接セットのソファーに、院長と向かい合ってふたりの男が座っていた。どちらも中年で、恰幅《かっぷく》のいい、しかしどこか品のないふんいきを漂わせているほうが副院長の磯貝|繁久《しげひさ》、小柄でやせ細り、見るからに卑屈《ひくつ》そうな男が薬剤部長の新谷|満《みつる》。院長がそう紹介した。
「ほう。メイドですか」
磯貝は、絶滅種の動物を見るような目で、葵の体をなめ回した。背筋に寒けが走った。
「いくら払っていらっしゃるので? 院長」
「まだ、金のことなど決めておらん」
院長は、不機嫌《ふきげん》そうに答えた。
「メイド風情《ふぜい》に高い給料を払うことなどありませんぞ。うちの看護師にだって……」
「私の家のことに、口を出さないでもらおう」
院長の鋭い声に、磯貝は首をすくめた。
「失礼しました」
だが、その態度は、とても恐縮しているようには見えない。
「薬剤のことですが……」
新谷がおずおずと口をはさんだ。
「ああ、そうだったな。紛失だなどと、いったい君は……」
言いかけて、院長は葵を見た。
「すまないが、内密の話なのでね。席を外してくれないか」
「気の効かない子だな、君は」
磯貝が顔をしかめる。葵は内心むっとしたが、すなおに頭を下げて部屋を出た。
「どうも、失礼致しました」
話の内容は、分かっている。薬が紛失した、そう院長には言いわけしているのだろう。理由はなんとでもつく。だが分からないのは、それをもみ消さず、報告していることだ……。
葵は、ハッとした。
急いで二階へ上がり、勇介の部屋のドアをノックする。返事はなかった。ドアノブに、『Don't Disturb』――じゃまをしないでくれ、という札がかけてある。内鍵もかかっている。だが人の気配が感じられない。
「申しわけございません、坊ちゃま」
葵はつぶやくと、頭に手をやって長いヘアピンを抜き、鍵穴《かぎあな》に差し込んだ。わずか数秒でドアが開いた。
中に勇介の姿はなかった。葵はまっすぐに机へと進み、その脇のくずかごを見る。コーヒーのボトルは、なかった。窓の鍵も開いていた。
机の上のノートに目をやる。ページの隅に、走り書きがしてあった。
『ビタミンR 500』
葵は眉をひそめた。ビタミンにKまであるのは知っているが、Rとは?
とにかく急がなくてはならない。曜子は、紅が薬に手を出したのは、半年前からだと言っていた。『なんでもっと早く知らせないんだい!』と怒鳴りつけた葵に、曜子は言ったものだ。
『姉さんには、カタギの道を歩いてて欲しいですから』
曜子の気持ちを無駄にしないためにも、紅のためにも、事件は早く解決しなければならない。葵は急ぎ足で部屋を出た。
自分の部屋へ戻った葵は、携帯の短縮ボタンを押した。
『私だ』
海堂の、冷静な声がする。
「御主人様。おうかがいしたいことがございます。ビタミンRとは、なんのことでございましょう」
『ビタミンRを見つけた、と言うのか』
「三津田家の息子が、そう落書きをしていました」
『ビタミンRとは、リタリンの通称だ』
やっぱり……。
「この件には、三津田総合病院の薬剤部長、そして副院長まで絡んでいるのではないかと思うのです」
『分かった。証拠《しょうこ》を押さえろ』
「そのことですが……」
葵は、ためらいながら言った。
「折り入ってお願いがございます。警察庁長官の、御主人様でなければできないことです」
『言ってみろ』
葵は、一瞬ためらったが、思いきって告げた。
「明日の夜、関東のレディースの取《と》り締《し》まりを、全て止めていただきたいのです」
しばらく、沈黙《ちんもく》があった。
『一都六県の警察に職務を放棄するよう命じろ、というのか。それがどれほどのことか、分かっているのだろうな』
「存じております。ですが――」
『どうしても必要なことなのだな』
「はい。どのようなお叱りを受けてもかまいません」
電話の向こうで、海堂が笑ったような気がした。あり得ないことだが。
『この一件は、お前が拾ってきた事件だ。たまには、お前に従うのも悪くはない』
「ありがとうございます!」
誰も見ていなかったが、葵は深々と頭を下げた。
電話が切れると、葵は次に、今度は短縮ではない電話をかけた。
「あたしだ。曜子、体は大丈夫かい。……そうかい、朝倉さんが手当てしてくれたのが効いたんだね。あたしからも礼を言っておくよ。それより頼みが二つある。どっちも大事なことだよ。まず、あたしを迎えに来とくれ。世田谷の三津田って屋敷だ。……ああ、その三津田だよ。今、家に入り込んでるんだ」
電話の向こうで、驚いたような声がした。葵は笑った。
「何言ってんだい。あたしはメイドだよ。今日限りかもしれないけどね。ああ、もちろん勝手口から頼む。それと、もう一つ――」
その内容に、曜子はますます驚いたようだった。
「ビビるんじゃないよ!」
抑えた声で、葵は叱りつけた。
「二代目総長がカムバックする。そう言ってくれてかまわないよ。あたしは腹をくくってるんだ。いいかい、しっかり頼んだよ」
電話を切ると、葵は床に置いたバッグから、二度と袖《そで》を通さないはずだった服を取りだした。
青ラメの特攻服。
それに着替えるとドレッサーに向かい、濃い化粧《けしょう》をした。頬《ほお》にシャドーを入れ、目には隈取《くまど》りをして、眉を塗りつぶした。
立ち上がると、そこには国家特種メイド・若槻葵ではなく、『関東流れ星連合』二代目総長、『命要らずの葵』の姿があった。
「紅。あたしをこの姿に戻したからには、覚悟を決めてもらうよ」
葵はつぶやいた。
深夜、〇時。
清瀬の街の住人にとって、その夜は、忘れられない夜になった。
街の四方八方から、エンジンの轟音《ごうおん》が響《ひび》き渡《わた》り、道は、それぞれに派《は》手な装飾《そうしょく》を施《ほどこ》したスクータの列で埋められたのだ。
その数、三千。
爆音に眠りを憶まされた住民のひとりが、怒りにまかせて一一〇番に電話をかけた。
「もしもし! 暴走族がわんさか、街に乗り込んできてる。警視庁は何をやってるんだ?」
『落ちついて。とにかく、今夜は家から出ないで下さい』
「出ないで、って……泣き寝入りしろって言うのか? 俺は元少年課の警部だ。答次第じゃ、本署に怒鳴り込むぞ! お前の名前は?」
『勘弁して下さい。今夜限り見守るようにと、上からの命令なんです。ですから先輩も、くれぐれも手は出さないで下さい。お願いします』
電話の声は、半泣きになっていた。
「上って、本店が族の味方してるって言うのか! 警視|総監《そうかん》はイカレちまったのか?」
『いえ、そのもっと上でして……』
「警視総監の上? 警察庁が?」
『いえ……絶対に、ご内密にお願いします。国家公安委員長です』
男は絶句した。
「いったい、どういうことなんだ……」
『本官にも分からないのでして。何しろ相手は、大臣……』
「そんなことは分かってる! もういい!」
電話を叩ききって、元警部だという住民は机を叩いた。
「大臣が族の味方? 政治家なんて、だから信用できないんだ!」
その頃、堂本《どうもと》国家公安委員長の屋敷には、海堂が訪れていた。
「始末書ではすまんことになるよ、君」
堂本は落ちつかない様子だった。
「国会で問題になる可能性が大きい。私の首もかかっているんだぞ!」
国家公安委員長は国務大臣である。当然、警察を監視《かんし》、統率する責任も重い。
「いい葉巻《はまき》をお吸いですな、大臣」
ソファーに座った海堂は、落ちつき払っていた。
「一本、いただいてもかまいませんか」
「葉巻なんぞ、箱でくれてやる! この馬鹿騒ぎを止めさせるなら――」
「これは捜査の一環《いっかん》です。ですから、ご報告とお願いに上がったのです」
海堂は答えた。
「各警察に命ずるだけでもかまわなかったのですが、あなたがご存じないのでは、それこそ問題になるでしょう」
「恩着せがましいせりふだな」
苦々しそうに、堂本は言った。
海堂は、葉巻にバーナーライターで火を点け、ゆっくりと煙を吐き出した。
「大臣。あなたの後援会は、三津田総合病院から献金《けんきん》を受けていらっしゃいますね。年間、一千万」
「何が言いたい? 正式な政治献金だ。総務省にも報告しておる」
「その三津田総合病院が組織ぐるみで、いわゆる合法ドラッグの横流しに関与しているとしたら、どうなりますかな」
海堂の言葉に、堂本はぎょっとした顔になった。
「まさか、君、そんな……」
「事実が明るみに出れば、それこそあなたの進退問題になりかねない。金の病に冒された病院の膿《うみ》を絞《しぼ》り出《だ》そうという、この作戦は、あなたのためでもあるのですよ」
堂本は、ううむ、と唸った。
海堂は、葉巻を専用の灰皿に置いて、指を組み、目を閉じた。
清瀬の街外れ。清瀬グループの本拠がある廃工場のある辺りの広大な空き地には、今や無数のスクータが集結し、エンジンをふかしていた。
そのヘッドライトは、一点に向けられている。雑草の生い茂る空き地にしがみつきあって座り込んでいる男女を、まばゆく照らし出しているのだ。
男は勇介。女は、その名の通り紅い特攻服を着た、三代目総長・妹尾《せのお》紅だ。まだ十六歳、どちらかと言えば童顔《どうがん》なのを、濃い化粧で凄《すご》みを利《き》かせているが、薬のせいでぎらついたその目は、いくら虚勢《きょせい》を張ってはいても、おびえているのは明らかだった。
「紅!」
声が飛んだ。葵の声だ。
ブルーメタリックの、精悍さと重厚さとを兼ね備えた排気量四百の大型スクータ、YAMAHA・MAXAMのハンドルを、曜子が握っている。まだ頭には包帯を巻いているが、気力に満ちているようだった。
そのタンデムシートから、青ラメの特攻服を着た葵が降り立ち、長い髪を一振りした。
現役時代には、こんなに排気量の大きいスクータに乗っている奴はいなかった。葵の愛車、四十九のYAMAHAパッソーラは、過去と共に燃やしてしまった。この空き地で廃材《はいざい》を積んで、火を点けて。その炎の色は、今も憶えている。
葵が引退したあの夜、みんな、泣いていた。葵自身も、紅も。その紅が、今は目だけぎらつかせ、薬のせいかやせこけて、だが、おびえたようすの声で言った。
「葵、さん……」
「気安く呼ぶんじゃないよ!」
葵は、おびえている紅を、わざと威嚇《いかく》した。
「薬の売人、それも元締めに成り下がったお前に、名前でなんぞ呼ばれたくはないね」
「葵さん、話を聴いて下さい……」
「だから名前で呼ぶなって言ってんだよ!」
葵は怒鳴った。
「元総長、いや、サツの犬とでも呼んでもらおうかね。ああ、お前ももうじき総長じゃなくなる。そのときは、なんと呼ぼうか。恋する女、かい?」
凄みのきいた顔で、葵は笑った。
「……そうかい」
紅は、ゆっくりと立ち上がった。
「あんたには、人の血が流れてると思ってたよ。でも、そこまでコケにされたんじゃ、あたしだって三代目総長の名が泣くってもんだぜ!」
「とっくに名前は泣いてるんだよ!」
葵は厳しい声で言った。
「紅! 走りはなあ、あたしらの命以上のもの、魂《たましい》そのものなんだ。魂が煮えたぎってつっ走る、それがあたしらの走りじゃなかったのかい? その特攻服の背中には、なんて書いてある? 『爆走一筋』だろうが! 今のお前のざまを見て、背中の金文字も泣いてるぜ。……お前が走る道は、恋の道じゃない、コンクリートの道しかないんだよ。固いよ。冷たいよ。世間に逆らって走る道はね。だがな、お前はそれを選んで、その道に全てをぶつけて、走ってきたんじゃないのかい!」
「大きなお世話だ!」
紅も怒鳴り返した。
「あたしはやっと、信じられる男に出逢ったんだ。勇介さんは、あたしみたいなハンパもんの気持ちを分かって、受け止めてくれる。あの頃のあんたがそうだったようにね。あたしは勇介さんに、全てを捧げたいんだ。女が女やって、何が悪いって言うんだよ!」
「悪かないさ」
葵は、ふっ、と笑った。
「だがな、紅。お前が捧げられるもんは、お前自身だけだ。その体と心だけなんだよ。そしてなあ、いいか? 身も心も男に捧げちまったら、魂は捨てるしかねえんだ! 関東流れ星連合は、お前の持ちもんじゃないんだ。どうぞ好きなだけ、女するがいいさ。だが、男だ女だなんてちゃらちゃらしたこと言うような奴とつるんで走る奴は、連合にはひとりだって要らねえんだ。ましてやそのために、連合をチンピラの手先同然にしちまったお前を、いくら引退したからって、二代目総長としちゃ、許しておくわけにはいかないんだよ!」
三千人のレディースが、かたずを飲んで見守る中、葵は、紅に向かって歩き出した。手には何も持っていない。
「ケジメをつけてもらうよ、紅」
「タイマン勝負か。いいだろう」
紅は身がまえた。
「待って! 待ってくれ!」
勇介が、紅の前に飛び出してきて、両手を広げた。
「どこの誰か知らないけれど、紅は、俺の、いや俺たちのために……」
葵は微笑むと、ポケットから丸い大きな眼鏡を出して、かけてみせた。
「事情は存じておりますわ。坊ちゃま」
「あんたは……」
勇介は絶句した。
「わけあって、今はメイドの身。誠心誠意、坊ちゃまにも尽くしております。ですが、これもご奉公の一つなのです。ですから……」
葵は、眼鏡を投げ捨てた。
「そこをどきな、坊ちゃま!」
「負け犬が、今さら何かっこつけてんだよ!」
紅がせせら笑った。
「ああ、確かにあたしは負け犬さ」
葵は、平然と答えた。
「三年前のあの夜、ちょうど今日みたいに、心ん中までしみ通るほど真っ青な三日月の夜、忘れもしないこの場所に、あたしたちは集まってたな。いや、交通機動隊に追いつめられて、封じ込められたんだ。あたしは全面戦争するつもりだった。だが……」
葵の脳裡に、人生を変えた夜のことが、鮮やかに甦《よみがえ》った――。
三年前の夜、警視庁のローラー作戦によって追いつめられた関東三千人のレディースは、葵を頼りに清瀬へと逃げてきた。交通機動隊が、そしてパトカーが、葵たちを取り囲んだ。葵は総長の誇りに賭けて、警官隊を蹴散らす覚悟だった。命はとっくに捨てている。
しかし、警官隊の中から、ひとりの青年が進み出てきたのだ。総長を守ろうとするレディースたちをものともせず、あるいはかわし、あるいは投げ飛ばし、素手で打《う》ち据《す》えて、青年はまっすぐに、葵へと向かってきた。
それが、当時二十六歳にして警視庁第八方面本部長を務めていた、海堂俊昭だった。
大学卒で国家公務員試験I種を通って警察庁に採用された、いわゆるキャリアは、一般の警察官とは異なり、二十代後半には巡査やその他の階級を飛ばして、警察署長や県警課長になる。将来は警察庁を背負って立つエリート官僚《かんりょう》にとっては、当然のコースだった。しかし警視庁|管轄《かんかつ》下の警察署だけでも、その数は約、百。その上に位置する九つしかない広域本部の本部長ともなれば、キャリアといえども、そうそうなれるものではない。二十六歳とあっては、まさに異例中の異例だ。
もちろんそのときの葵は、そんなことは知らなかった。ただ、俊昭の全身から発する気合いと、制服警官も従えずひとりで立ち向かってくる姿に、全身の血が燃えるのを感じた。
葵の前まで来た俊昭は、氷のように冷たい声で言った。
「走るのが、そんなに楽しいか」
「ああ、楽しいね」
葵は顎を上げて、俊昭をにらんだ。
「世間がどんなに迷惑してもか」
「世間? 世間があたしたちに何をしてくれた? てめえらおまわりだって、あたしを助けちゃくれなかった! まだガキだったあたしをね! ここにいるのはなあ、居場所がなくて、世間から追い出されて、走りにしか命を賭《か》けられない、はぐれもんばかりなんだ。その居場所をなくしたのは、てめえらじゃないのか!」
「甘いな」
ぞっとするような声で、俊昭は答えた。
「自分の居場所は、自分で作るものだ。お前の境遇は知っている。だからといって、世間から逃げ出していても、未来はないぞ。それに、――お前はまだまだ、ガキだ」
「上等だね」
葵はスクータから降りて、身がまえた。
「たったひとりでこの中に入ってきたってことは、覚悟はあるんだろうな」
「お前たちの言う、タイマンというやつか」
「当然」
俊昭は、スーツを脱いだが、ワイシャツの袖はまくらなかった。
相当な自信だな……葵は、ふと、心におびえが走るのを、なんとか抑《おさ》え込《こ》んだ。
「私が勝ったら、お前は連合を抜け、私と一緒に来てもらおう」
「少年院か。いいだろう」
葵は、周りを見回した。
「仲間たちは? あたしも総長だ。仲間を守る務めがある」
「この場は見のがそう」
「海堂警視長!」
警官隊の中から声が飛んだ。
「責任は、私が取る」
俊昭は背中で答えた。
「私は、この娘を救いたいのだ。陽の当たる場所へ連れ戻してやりたい。それは警察の責任でもある。たったひとりの娘を心根から救えなくて、三千人を補導する資格など、ない」
俊昭の声はもの静かだったが、固い決意が感じられた。警官は黙り込んだ。
「で、あんたが負けたら、どうするのさ」
「お前の望みをなんでも聴いてやる」
「そんな話、信じるとでも思うのかい」
「私は間もなく警察庁長官になる」
俊昭は、平然と言い放った。
「警察官の頂点に立つ身だ。どんな願いでも叶えてやろう」
「だったら……」
葵は唇をかんだ。
「あたしの親父を自殺に見せかけて殺し、おふくろまで本当の自殺に追い込んだ奴らを、一生ブタ箱に放り込んでくれるとでも言うのかい!」
騒然《そうぜん》としていたレディースたちが、しんとした。無理もない。葵の、幼い頃の境遇は、誰にも話していなかったのだ。
「約束しよう。時間はかかるかもしれないが」
そのとき葵はふと、この男なら信じられるかもしれない、という気がしたが、すぐにその思いを頭から振り払った。
「信じられるかい……行くよ!」
葵は叫ぶと、鉄パイプを手に海堂めがけて突進した……。
「そしてあたしは、俊昭様にたったの一発でのされ、地べたに這《は》いつくばった。あたしは、負けたんだ。心からね」
葵は、つぶやいた。
「だが俊昭様は、あたしを逮捕《たいほ》させなかった。約束通り、仲間も見のがしてくれた。代わりにあたしは俊昭様のお屋敷に連れて行かれて、メイドの修行をさせられ、俊昭様を御主人様と呼ぶようになった。あたしはね、紅。愛だの恋だのそんなヤワなもんじゃない、心から尊敬する人のためなら、道を踏み外さない人のためなら、全てを投げ出してなんの見返りもいらない、そんな生き方を教わったのさ。……だが、今日のあたしは、御主人様のメイドじゃない。二代目総長だ。男を取るなら足を洗う、それが連合の掟だったね。それを破って、しかも仲間をいいように使うお前を、許しちゃおけないんだ!」
「あんたになんか分かるもんか! あたしたちには夢があるんだ。その夢|叶《かな》えるためなら、あたしだって、泥かぶったってなんでもするさ!」
紅はぎらぎらした目で怒鳴ると、殴りかかってきた。その拳がきらり、と光るのを葵は見ていた。カミソリの刃を二枚、指の間にはさんでいる。タイマン勝負は素手が連合の掟だったが、紅は文字通り、なんでもする気だ。
スクータのライトに照らされて、紅がふるうカミソリの刃が、光の筋を描いた。
上半身だけ左右に動かして、紅の拳を避けながら、葵はつぶやいた。
「憎い。憎いよ、紅。お前をそんな風にしちまった、……お前の中の女が憎い!」
最後は叫び声になって、葵は、無茶苦茶につっかかってくる紅の腹に、つま先の尖《とが》った革靴《かわぐつ》で横|蹴《け》りを入れた。腹を押さえる紅に、さらに回し蹴りを続けて食らわす。紅の体が吹っ飛んで、地面でバウンドした。葵は空中高く跳び上がり、左の拳を突き出して、最後の一発を食らわそうとした。殺しはしないが、あばら骨の二、三本は覚悟してもらうつもりだった。
倒れたままの紅に、そのとき覆《おお》いかぶさった者がいる。勇介だった。
(坊ちゃま!)
いくら薬の密売に関わっていても、ひと晩でもお仕えした、それも人となりの一端を見た人間に、危害を加えるわけにはいかない。葵の口から鋭い声が発せられた。
見守っていたレディースたちの間から、あっ! という驚きの声が上がった。葵は、空中で身を反転させて、上へと跳ね上がったのだ。なんの足がかりもなしに。
空中で体勢を立て直した葵は、片膝《かたひざ》をついて、紅たちの前に静かに着地した。
「坊ちゃまのお気持ちは、分かりました」
息を整えながら、葵は言った。
「あなたは優しい方です。だったら、どうして薬なんかに手を出したのです? お父様への反抗ですか? それならこんな大がかりなことをしなくても……」
勇介はおそるおそる起き上がり、半分泣きそうになって、葵の顔を見た。
「金が、欲しかったんだ……」
うめくように、勇介は言った。
「たしかに俺は親父が憎かった。あんたの前では紳士面してるが、ふだんから、あの冷血漢の兄貴と比べては馬鹿呼ばわりして、ときには手も上げる、親父がな。その親父にかわいがられて、いい気になってる兄貴も憎かった。だが、かわいそうなのはおふくろだ。もう十年も家にいるのに、今でも親父や兄貴、俺にまで卑屈な態度をとらずにはいられない、そんなおふくろを見てられないんだ。……紅とは、ふだんは行かないコンビニの前で会った。飲みたいコーヒーが切れてたんだ。俺がたちの悪いチーマーに絡まれてるとこを、紅は、守ってくれた。俺たちはたちまち惹かれ合った。だが、俺が家を出て紅と一緒に住むには、金がいる。家にいる限り、俺はバイトもできやしない。できれば俺は、おふくろとも一緒に住みたかった……」
「薬がどんなものか、あたしだって知ってたよ。二代目」
いつの間にか起き上がり、座り込んでいた紅が言った。
「だけど、あたしは総長だ。バイトを探して、運よく採用されても、どっかから噂は流れてきて、体よくクビになっちまうんだ。あたしはそのときほど、連合を憎んだことはなかった。だったらその連合を利用してやれ、そう思ったのさ」
「俺も、家を憎んだ。だから、磯貝と新谷の話に乗ったんだ」
「やっぱり……」
葵はつぶやいた。
「薬を渡していたのは、磯貝たちだったんですね。コーヒーの、ボトルに入れて」
「ああ。毎週金曜日の晩、磯貝たちは親父の所へ報告に来る。その前に、コンビニのくずかごにボトルを放り込んでおく。その時間は店が忙しくて、店員は、俺がくずかごを漁ってることには気がつかない。あの店には妙な奴も溜まってないし、もしいたら、紅が止める。そういう手はずになっていたのさ」
「ですが、磯貝たちは、なぜ? いくらハルシオンやリタリンが高値で取り引きされていると言っても、奴らの懐に入るのは、はした金でしょう?」
勇介は、歪んだ笑みを見せた。
「このことが明るみに出れば、責任を取らなきゃいけないのは院長である親父だ。何しろ薬を持ち出したのは実の息子ってことになってるからな。そして、経営刷新という名目で、磯貝が新しい院長、新谷が副院長になるってわけだ。俺は、家をぶっ壊したかったんだ」
葵は、ため息をついた。
「そんなことをして、ふたりとも、無事で済むと思っていたのですか?」
「もちろん、紅は少年院、俺は刑務所送りだ。だけど磯貝は、俺たちを海外へ逃がしてくれる、と言った。南太平洋の、小さな島だ。おふくろは無理でも、俺たちは、そこで静かに暮らすつもりだった」
「あたしは、前に、見たことがある……」
紅がつぶやいた。
「クラブのテレビで、ビデオが流れてたよ。底抜けに青い空、まぶしい太陽、透き通った海……ここならきっと、あたしの汚れちまった魂まで洗い流してくれる、そう思ったんだ。ガキの頃から、あたしは親父に……そんな汚れたあたしを、勇介さんと南の島が、すっかりきれいにしてくれる、そんな夢を見たんだよ。でも、……まちがってた。あたしは連合を憎むべきじゃなかった。弱いあたし自身を憎まなきゃいけなかったんだ。二代目。好きなようにしとくれ。あたしには、夢を見る資格はないよ」
すると、――葵は微笑んだ。
「いい夢じゃないか」
紅は、意外そうな顔をした。
「あんたにも、まだ詳しいことは言ってなかったね」
葵は、つぶやくように語り始めた。
「あたしはこう見えても、ある大手商事会社の、経理課長のひとり娘だった。中国との取り引きがうまく行ってて、会社は羽振りがよくてね。あたしは、自分で言うのもなんだけど、何一つ不自由なく、幸せに育った。だが、あたしが十一のとき、大がかりな不正経理が発憶した。もちろん親父は関わっちゃいない。でも、濡れ衣を着せられたのは、経理課長の親父だった。親父はクビを覚悟で不正の真相を調べ上げ、内部告発しようとしていた。そんなある日、親父は、夜中に会社へ呼び出され、屋上から突き落とされたんだ……」
紅が、息をのんだ。
「誰よりも不正を憎んでいた親父が、自殺なんかするはずはない。でも警察は、罪の重さに耐えかねての自殺と決めつけて、捜査を打ち切った。きっと誰か、偉いさんの差し金さ。間もなくおふくろも、後を追って首を吊った。ひとりぼっちのあたしを、親戚《しんせき》がいやいや引き取った。そりゃそうだろうさ。表向き犯罪者の娘だもんな。親戚の家でも、学校でも、あたしは徹底的にいじめられたよ。便器の水も飲んだ。石ころ混じりの泥も食わされた。あたしは死のうと思って、ふらふら夜の街を歩いてた。それを拾ってくれたのが、清瀬チーム初代の頭《ヘッド》さ。頭はあたしに、生きてる喜びを教えてくれた。なんにも考えずに、走ることをね。走ってるときだけ、あたしは生きてた」
葵は周りを見回した。
「ここにいるのはみんな、居場所をなくしたはぐれもんさ。レディースに憧れて入ってきたハンパもんなんか、ひとりだっていやしない。そういうお嬢ちゃんは、あたしが説教して元の道に戻してやったからね。……あんたたちの夢は、あたしらにとっても、夢だ。誰からも白い目で見られず、道を避けられずに、お日さまの下で暮らせる、この世のしがらみなんてどこにもない、南の島。いい夢だよ。……だがな」
葵はきっとなって、紅と勇介を見た。
「磯貝たちが、本当にそんな夢を叶えてくれると思ってるんなら、あんたたちは大バカ野郎だ。あいつらがあんたたちを信じるわけがない。簡単に引っかかるタマは簡単に口を割る、そう思ってるに違いないよ。そうしたら、どうなる?」
「口を封じる、と?」
勇介がハッとしたように言った。
「お偉い立場のワルが考えることは、一緒さ。ゆがんだ気持ちで家だの連合だのに逆恨みして、バカやらかしたあんたらにも、もちろん罪はある。だが、あたしはもう、あたしの親父と同じ犠牲者を出したくはないんだ」
葵は紅に近づき、しゃがみこむと、その頬に両手を当てた。
「行けよ、南の島へ」
「二代目……」
「ああ、葵でいいよ。あたしたちみんなの夢を、叶えとくれ」
そのときの葵は、海堂家のメイドではない、ひとりの孤独な少女だった。紅の目がうるんだ。
葵は立ち上がり、全員に聴こえる大声で言った。
「三代目総長・妹尾紅は、今夜を限りに引退する。次の総長は、曜子が継ぐ。あたしは現役じゃない。だが、紅は男を選んだ。連合を利用した。もう、連合には置いておけない。文句のある奴は前へ出ろ! あたしが相手してやる!」
レディースたちは動かなかった。涙を拭いている者もあった。
みな、紅と勇介の、そして葵の話に打たれたのだ。
葵は傍《かたわ》らの曜子に訊いた。
「今、何時だ?」
「〇時四十五分です」
「あたしは、二時間でカタをつける、と約束した。二時までは、警察は動かない。曜子、お前が号令をかけろ」
曜子は、責任の重さに緊張したようすだったが、それでもしっかりと地面に立ち、腹の底から声を出した。
「四代目総長・伊藤《いとう》曜子、たった今から、あたしが連合の看板を背負う! 異議ないな!」
返事の代わりに、レディースたちはエンジンをふかした。
「よーし! じゃあ、よーく聴け! 二時までに、全員うちへ帰っておねんねだ! 二時を一秒でも過ぎたら、警察が取り締まりにかかる! 引っかかるような間抜けは、連合には要らねえ!」
たちまちスクータの列が外側から崩れ、清瀬の街の外へと走り出した。
曜子は仁王立ちになっていた。最後のひとりがいなくなるまで見守る。それが総長の役目だった。
その、ひとつ成長した姿に微笑みながら、葵は、紅と勇介を助け起こした。
「日本を出るのは、いつってことになってたんだい?」
「来週の水曜日、午後十一時。横浜の港から」
勇介が答えた。
「なら、そこに磯貝と新谷を呼び出して下さい。言いわけは考えていただきますよ、坊ちゃま。切符はあたしが手配します」
「でも、すなおに船に乗せてくれるかどうか……」
紅はようやく、現実を悟《さと》ったらしい。不安そうな顔でつぶやいた。
「もちろん、あんたたちの命は狙われる。だが……」
葵は、きりりとした表情で言い放った。
「あたしの命に替えても、あんたたちは助ける!」
そして、にっこりと笑った。
「信じてくれるよな、紅。昔みたいにさ」
紅は首を振った。
「ううん、葵さん。今のあんたは、昔のあんたじゃない。なんか、もっと大きなものを背負ってる。あの頃より、ずっとでっかく見えるよ」
葵はその言葉に、ふっ、と笑った。
「あたしもまだ、十七なんだ。成長期なのさ」
翌週の水曜日。午後九時に、葵は院長室のドアを叩いた。
院長は、不審《ふしん》そうな顔をした。葵が持ったお盆には、三つのマグカップが載っていたのだ。
「君、私は緑茶しか――」
「存じております。ですが、一度でけっこうですから、こちらを味わってみて下さいませ」
院長は最初に、左端のマグカップを手にした。
「うむ。甘味と苦みがうまくブレンドされている。ただ、しょせんコーヒーだ。後味が悪い」
「それをコーヒーのせいにしては、ブラジルの農家の方々が泣きますわ」
葵は微笑んだ。
「鮮度の落ちた豆を、失礼ながら、決してお上手とは言えない挽《ひ》き方《かた》で挽いて、お湯の温度にも気を使わなければ、後味が悪くなって当然。ですが、これが秀一坊ちゃまのいつもお好みになっていらっしゃるコーヒーなのです。……こちらが、本物のコーヒーでございます」
もう一つのマグカップを葵は差し出した。口をつけた院長の表情が変わった。
「これは……コーヒーとは、こんなにすっきりした、味の澄《す》んだものだったのか」
「わたくしは、奥様を責めているのではございません。味の落ちたコーヒーを、秀一坊ちゃまが好んでお飲みになっていらっしゃると、申し上げたいのでございます」
「どういう意味だ?」
首をひねりながら、院長は、残った一つのマグカップを取り上げた。
「アイスコーヒーか。決して上質とは言えないが、ミルクと砂糖のバランスが取れている。こちらのほうが飲みやすいな。いや、正直、うまい」
「それは、勇介坊ちゃまがいつも飲んでいらっしゃる、コンビニで買えるボトルコーヒーなのですわ」
院長は、金色の万年筆をしばらく手の中でもてあそんでいたが、やがてうなずいた。
「なるほど。君の言いたいことが分かったようだ。……勇介には、厳しい言葉を吐きすぎたかもしれん。だが、あいつが奮起《ふんき》してくれることを、私は願っていたのだ」
「旦那様もお医者様なら、弱い心の持ち主にどう接したらいいか、お分かりになると思っておりました」
葵は首を振った。
「勇介様は優しい方です。ですが、お心は弱かった。旦那様のお気持ちを受け止められるだけの、そうでございますね……体力がなかったのです。ですから、病に冒されたのですわ」
「病?」
「どす黒い、陰謀《いんぼう》という病でございます」
葵は、磯貝たちの陰謀を、ことごとく打ち明けた。
「磯貝がそんなことを……」
院長は、ショックを受けたように立ち上がった。
「勇介! 勇介はどこにいる!」
「坊ちゃまは、家をお出になられました。もう、お戻りにはなりません」
葵の言葉に、院長はふらふらと、椅子に倒れ込んだ。
「なんということだ……」
「坊ちゃまは、わたくしが命を賭けて、お守り致します」
葵は静かに、だがきっぱりと言った。
「旦那様はまず、このお宅の中のことをもう一度見直して下さいませ。奥様のお気持ち、秀一様のお人柄、それをよくお知りになって、三津田家に悪い虫がつかないようお守りになるのも、ご当主のお役目かと」
「ああ、ああ」
急に老け込んだように見える院長は、不思議そうな目で、葵を見上げた。
「だが、君はどうして、そこまでしてくれるのだね? ほんのわずかの間、雇っただけの君が」
「たとえ一日でも、お仕えした家のために尽くすのが、――メイドでございます」
葵は微笑んだ。
午後十時半。横浜港――。
倉庫街の薄暗い線路跡に、紅と勇介が立っていた。顔は、緊張を隠しきれないでいる。
「本当に、来るかしら……」
紅が、不安そうにつぶやいた。
その手を、勇介がぎゅっ、と握った。
「きっと来るさ。奴らだって、怖いはずだ」
ここへ来る前に、勇介は磯貝に電話したのだった。磯貝はまだ、病院にいた。
『もしもし、磯貝さん? 切符の準備はできているんだろうね。……いや、代理じゃなく、あんたと新谷さんの顔が見たいな。百パーセント、あんたたちを信じているわけじゃないんでね。……悪いけど、保険をかけさせてもらったよ。薬の取引現場を、紅が写真に撮ってある。ボトルに入った、リタリンとハルシオンもね。後、俺が紅に薬を渡してる写真もあるよ。あんたたちが来なければ、全て、親父の所へ届くようにしてある。紅が関東のレディースに声をかけたら、噂が街中に広まるしね。……そう怒らないでくれよ。俺だって必死なんだから。あんたたちふたりだけで、来てくれ。写真のネガを渡すよ。え? デジカメ? 頭が悪いんでね、デジタルなものはさっぱりなんだ』
磯貝はあわてたようすで、港での会見を約束した。
「でも、ただで船に乗せてくれるとは思えないな、確かに」
勇介の声も、かすかに震えているようだった。今度は紅が、勇介の手を握り返した。
「そのときは、あたしが勇介さんを守る。あたしだって、一度は三千人のレディースの総長を務めた女よ。誰が来たって、怖いもんか」
「ああ。一緒に戦おう」
倉庫の向こうから、汽笛が聴こえる。
「南だ……南へ行こう……」
「ええ」
ふたりが見つめ合ったとき、線路跡に放置された貨車の上から、まぶしいスポットライトが幾つも幾つも、ふたりを照らし出した。ふたりは思わず手をかざす。
倉庫の陰から、磯貝と新谷が現われた。
「約束は守りましたよ、坊ちゃん」
磯貝が笑顔で言った。
「さあ、ネガを渡してもらいましょう」
「切符が先だ」
勇介は強がって見せた。
「俺たちが無事に船に乗れたら、ネガの封筒を投げるよ」
「おやおや、用心深くていらっしゃる」
磯貝は肩をすくめた。
「俺たちを利用して、病院を乗っ取ろうとしたあんたらだ。すなおに船に乗せてくれるとは限らないだろう?」
「やっと気がつきましたか」
磯貝は、まだ笑っていた。
「おとなしく、金のことだけ考えていればいいものを。そうなれば、こちらも出すものを出さざるを得ませんな。――新谷」
声をかけられた新谷は、スーツのポケットから、何かを投げてよこした。封筒だった。
用心深く拾った勇介は、中を見る。入っていたのは船の切符ではなかった。
「これは?」
勇介が声を上げた。紅も見て、愕然《がくぜん》とする。
写真のプリントだった。そこには、明らかに三津田総合病院の薬品保管庫と分かる部屋で、棚を探っているふたりの姿が映っていた。
「そんなバカな! 俺たちは病院に近づきさえしなかった……」
「デジタルのお勉強も、するべきでしたな、坊ちゃん」
磯貝が、妙に優しい声を出した。
「おふたりの姿はデジカメで撮ってありましたのでね。後は、パソコンで加工して合成しただけのことです。プリントはいくらでもばらまけます。後は、そうですなあ、画像データをインターネットにでもアップロードしましょうか」
「つまり、警察がどこまでも追ってくる、ということで」
新谷が、もみ手をしながら言った。
「国際協力とは、ありがたいものですわ」
「てめえら、汚えぞ!」
紅が叫んだ。
「ご心配なく。そんなことをしたら、こっちにまで捜査の目が向きます。それより簡単に、おふたりにはドラマを演じていただきましょう。密売の事実がばれて逃げ切れなくなった、愛する若者どうしの心中という、ドラマをね」
磯貝が片手を上げると、目つきの悪い黒服の男たちがふたりを取り囲んだ。
「こちらも、保険はかけさせていただいたわけです。終身保険というやつで」
新谷がへらへらと笑った。
「最初から、そのつもりだったんだな……」
勇介は歯がみした。
「南の島なんてたわごとを、本気にする馬鹿が、今どきいるとは思いませんでしたよ」
磯貝は大笑いした。
「おふたりの乗る船は、太平洋を渡る汽船ではありません。三途《さんず》の川《かわ》の渡し舟だ」
新谷が男たちに目くばせをしたときだった。
スポットライトが一斉に消えて、曇った夜空が真っ暗になった。
「な、なんだ?」
新谷があわてる。
「落ちつけ。どうせどこにも逃げ場所はないんだ」
磯貝が言ったとき――。
霧のようなものが流れてきて、辺りは白い闇に閉ざされた。
どこからともなく、若い女の声が聴こえた。
「三途の川を渡るのは、どちらでしょうね。元・副院長に、元・薬剤部長さん」
「なんだと?」
白い闇の中で磯貝が叫ぶ。
「三津田院長は、先ほど、あなた方おふたりを解雇されました。全ての真実は、明るみに出たのですよ。闇の中にいるのは、おふたりだけ」
声と共に霧が薄れていった。すっかり晴れて、元の暗闇に戻ったとき、スポットライトが点いた。
磯貝と新谷が、あっ、となった。紅と勇介の姿はどこにもなく、まぶしい光の中に、白木の棒杭《ぼうぐい》が立っていたのだ。太い棒杭の前面には、墨《すみ》で大きく――。
『ここから先 冥途《めいど》』
「こ、これは……」
新谷がうめいた。
「メイドの一里塚《いちりづか》!」
「何を馬鹿なことを!」
叱りつけながら、磯貝は杭の上を見上げた。
眼鏡をかけ、メイド服にクイックルワイパーを手にした葵が、すっくと立っていた。
「きさま、奴らを逃がしたのか? それだけじゃない、院長に告げ口したな! メイドの分際で生意気な!」
「確かにわたくしは、一介のメイドに過ぎません。ですが――」
葵は、ひらりと廃線《はいせん》の枕木《まくらぎ》と枕木との間に降り立った。
「このたびは、家のお掃除だけでは済みませんでした。新谷様、薬剤部長の地位を悪用して、リタリンやハルシオンといったいわゆる『合法ドラッグ』を紛失したように見せかけ、実は大量に持ち出していらっしゃいましたね。磯貝様は院長と勇介様が不仲なのにつけこみ、勇介様をそそのかして、それを売りさばかせた。お金のためならまだしも、勇介様に全ての罪をなすりつけ、三津田総合病院を乗っ取ろうとし、あまつさえ、じゃまになった勇介様とレディースの紅を始末しようとしたその現場、確かに見届けました。奉公人として、いえ、人間として、許すことはできません」
「そこまで調べ上げるとは……」
磯貝がうめいた。
「きさま、ただのメイドじゃないな?」
「はい。誰が呼んだか存じませんが、わたくしの通り名は――」
葵は襟《えり》の飾《かざ》りボタンを外し、開いてかざした。
「メイド刑事《デカ》!」
「さ、桜の代紋《だいもん》……」
さすがの磯貝も、たじろいた。
「きさま、警察の密偵《みってい》か?」
「いいえ、そうではございませんわ」
葵はにっこりと笑った。
「わたくしの、本当の御主人様は、警察庁長官・海堂俊昭様でございます。この代紋はわたくしへの信頼の証として、御主人様が下さったもの。ですが、今度の一件は、わたくしの一存で探らせていただきました。なぜなら……」
葵は眼鏡を投げ捨て、カチューシャを外して、長い髪を夜風になびかせた。急に声の調子が変わる。
「実の妹よりかわいい紅に道を踏み外させたてめえらが、許せなかったんだよ!」
その迫力におじけづきながら、磯貝は叫んだ。
「お前たち、何をしている。たかが小娘ひとりだぞ!」
次々に起こるできごとに、あっけにとられていた男たちが、我に返ってばらばらと葵へと駆《か》け寄《よ》った。黒いスーツの内ポケットからピストルを取り出す。
銃口を向けられた葵は、ため息をついた。
「結局、最後はチャカかよ。芸がないったらありゃしない。しかもトカレフときたもんだ。たまにはワルサーでも出してみたら――いや、あんたらにそんな芸はないだろうね。傷口にたかるうじ虫どもには、さ」
そして葵は顔を上げると、腹の底から怒りを込めた言葉を磯貝たちに叩きつけた。
「悪党ども、冥途が待ってるぜ!」
「ぬかせ!」
銃弾が次々に発射される。そのときにはもう、葵はそこにいなかった。クイックルワイパーをつっかえ棒にして、いつもより高く空中へと舞い上がったのだ。
棒高跳びの要領《ようりょう》で、葵は男たちの輪の外へと跳び、降り立った。あわてて振り向く男たちの顔を、クイックルワイパーの特殊《とくしゅ》シートが襲った。治安《ちあん》対策用に開発した目つぶしの粉をたっぷり吸い込ませてある。男たちは粉を吸い込み、激しい目の痛みとくしゃみ、咳に襲われた。銃をかまえる間もあったものではない。そのすきに葵は男たちの急所を容赦《ようしゃ》なく打つ。顔面、耳の後ろ、肘、手の甲。黒服の男たちは、痛みを強く感じる部分に重合金の重く鋭い打撃を食らって、すっかり戦意を喪失したようだった。もともと、はした金で雇われただけなのだ。
葵は振り向いた。磯貝と新谷が状況を不利と見て、こそこそと逃げだそうとしている。
「お待ちなさい!」
再び、葵は跳んだ。クイックルワイパーを使って跳び上がり、磯貝と新谷の前へと降り立つ。ふたりはぎょっとしたようだった。
「どこへ逃げても、日本の警察は追ってくる。そうおっしゃったのは新谷様でしたかしら」
「ええい、どけ!」
おたおたしている新谷を突き飛ばし、磯貝はスーツを脱ぎ捨てた。
「たかが小娘だ。モップ一本で何ができる」
いつの間にか、磯貝の手には大きなナイフが握られていた。
「どうせなら、メスでもお持ちになったほうが、まだよろしかったのに」
ぎらつくナイフを、葵は怖れはしなかった。
「ほざくな!」
磯貝はナイフを突き出した。すばやく飛び退いた葵は、クイックルワイパーの柄の先のキャップを外した。中は鋭い槍になっている。
「注射針では済みません。往生際が悪うございますわ」
「うう……」
行動に詰まった磯貝は、だが、多少は心得があったらしい。息を整えると、鋭い気合いの声と共に、ナイフを葵の心臓めがけて投げつけた。
にやりと笑った、その表情が凍った。
左手の槍で磯貝を威嚇したまま、葵は右手で、しかも素手でナイフをつかんだのだ。
握った右手から、血がしたたり落ちた。だが葵は動じなかった。葵の怒りは、痛みを超えていた。
「骨の髄《ずい》まで、腐った方……」
葵はつぶやいた。
「腐った根は、元から断たなければなりませんわ。鉄格子の中でじっくり治療なさいませ!」
あまりのことに立ち尽くす磯貝と、その磯貝の背中に隠れるようにふらふらと歩み寄った新谷を見据《みす》えて、葵はナイフを投げ出すと、ナイロンロープをポケットから繰り出した。先に重りのついたロープはぐるぐるとふたりの体に巻き付き、葵がぐいっ、と引っ張ると、磯貝と新谷は地面に倒れ、廃線のレールで頭を打って、気絶した。
――いつの間にかサイレンの音が聴こえている。
安葉巻をくわえ、ネクタイは外していたがなぜかコートは着ている梶《かじ》警視正が近づいてきた。
「そっちの雑魚《ざこ》どもは、確保しといたぜ」
「お疲れさまです。これが、犯人です」
「薬の売人は?」
「取り逃がしました。申しわけありません」
「ふうん?」
梶警視正は不審そうな顔をしたが、何かを悟ったのか、ふっ、と笑って、その拍子《ひょうし》に安葉巻の煙でむせた。
「まあ、いい。俺が言いつかったのは、このおふたりさんを引っ捕らえることだけだからな。……さあ、立ちな、先生方。問診のお時間ですよ」
制服警官が活を入れ、ふらふらと立ち上がった磯貝と新谷は、もう抵抗する気力もないようだった。
連行されていく磯貝の、手錠をかけられた手に、葵はレースのハンカチで包んだ何かを手渡した。
「――これは?」
「メイドの土産でございますわ」
葵は微笑んだ。
真の敗北を悟って、がっくりとうなだれる磯貝たちを背中に、葵は歩き出した。梶警視正が声をかけた。
「どこへ行くんだい、葵ちゃん。そっちは海だぜ」
「船を見に、参ります」
振り向きもせずに、葵は答えた。
葵が波止場《はとば》に着いたちょうどそのとき、船出の汽笛が港に鳴り響いた。
夜の貨客船《かきゃくせん》を見送るのは、葵ただひとりだった。デッキでは、勇介と紅が寄り添い、懸命《けんめい》に手を振っている。
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『一種の司法取引と考えておこう』
先ほど連絡を取った、俊昭の声が甦った。
『だが、今回限りだ。日本には少なくとも正式には、司法取引はないのだからな。司法の長たる私に法を曲げさせたお前にも、当然、覚悟はしてもらうぞ』
『はい、御主人様。どのようなお仕置きでも、受けるつもりでございます』
『ならば、私をうならせるような、午後の菓子を作ってみろ。坪内の助けなしにな。国家公安委員長にもお出しするのだ。スコーンばかりの大臣を宗旨《しゅうし》替えさせることができたら、この件、不問《ふもん》に付そう』
それは難問だったが、葵はほっとした。まだ、御主人様のお側にいられるのだ。
だが、たとえ海堂家をくびになり、国家特種メイドの資格を失ったとしても、葵はふたりを逃がすつもりでいた。それは、かつての二代目総長としての、最後の『大仕事』だったからだ。今夜を限りに、葵はようやく、本当にレディースを卒業したのだ。
紅が何か叫んでいる。だが、葵の耳には届かなかった。汽笛と共に、船が遠ざかっていく。ふたりは、南の島へ行くのだ。輝く太陽の下へ。もう、一生会うことはないだろう――。
波止場で、船を繋ぐ短い柱――ボラードに腰かけた葵は、MP3プレーヤのヘッドフォンを耳にかけた。
「あの頃……」
葵はつぶやいた。
「あたしたちは明菜《あきな》派と静香《しずか》派に分かれてたね、紅。あたしは明菜派だった」
三年前、中森《なかもり》明菜は長い低迷期をようやく脱しつつあったものの、すでに過去の人と世間には思われるようになっており、工藤《くどう》静香も二〇〇二年に最後のシングルを出して、歌手活動の終了期にあったのだが、伝統を重んじる葵たちレディースの間では、ヒットチャートに目を奪《うば》われることなく、この二人が尊敬され、好まれていた。特に葵は、同じ清瀬出身の中森明菜が好きだった。その幸福とは言えない私生活に、己の姿を重ねていたのかもしれない。
「あんたは静香派。その趣味の通りだねえ。しっかり、いい男をつかまえた」
プレイヤーからは、工藤静香の『慟哭《どうこく》』が流れていた。
「今夜ひと晩、あんたの趣味につきあってやるよ。涙の別れってやつは、あたしの柄じゃないんでね。だが、今夜だけだぜ。明日からは……あたしは、メイドだ」
つぶやきは潮風《しおかぜ》に流されていき、それに応えるように、遠ざかる船の汽笛がこだました……。
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私に少女魂を教えてくれた和田慎二先生と橋本以蔵先生に捧ぐ
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あとがき 〜メイキング・オブ・『メイド刑事』〜
●都内・某プロダクション。2004年12月。
[#4字下げ]さる企画の手伝いで、上京してきている早見裕司。パソコンを打っている。
[#4字下げ]作業を見守っている、クリエイター・A氏。
A氏 よっしゃ。ちょっと休憩にしましょう。
[#4字下げ]座卓を囲む、早見とA氏、そしてアシスタントのB氏。しばらく、雑談に興じている。
[#4字下げ]早見はぼうっと、座卓の上のビネットに見とれている(おたくなのだ)。
A氏 (ふっ、と)そういえば、早見さん。『メイド刑事』って、どうかな。
早見 メイド刑事……刑事……刑事……。
[#4字下げ]その瞬間、早見の視界がぼやける。『刑事』という言葉だけが脳裡にこだましている。
[#4字下げ]小学生の早見。『花とゆめ』創刊号の『スケバン刑事』を食い入るように読んでいる。
早見 こ、これって! この和田慎二って人……すげー!
[#4字下げ]約20年後。フリーターの早見、テレビにかじりついている。
早見 こ、これはっ! この橋本以蔵って脚本家、……すげー!
[#4字下げ]テレビでは南野陽子が「なぜか」鉄仮面をかぶっている。(『スケバン刑事II』より)
[#4字下げ]ふと我に返る早見。A、B氏、心配そうに見つめている。
早見 あ、すみません。いいですねえ。ものすごく! いいです。
A氏 早見さんなら、そう言うと思ってたよ(半分笑っている)。――あげましょう。
早見 (何の気もなしに)で、どうして、メイドなんですか?
A氏 ……早見さん……『エマ』は、知ってるよね?
早見 いいえ、全然。
[#4字下げ]A氏の表情が、大魔神のように変わる。
A氏 ちょっと、こっち来なさい。
[#4字下げ]夏休みの宿題を全部忘れてきた小学生のように、こんこんと説教される早見。
●早見の仕事部屋。沖縄・2005年夏。
[#4字下げ]GA文庫の編集者・K氏と電話で、別の某企画を打ち合わせしている早見。
早見 うーん、売りが弱いですねえ……。もうちょっと、煮詰めてみます。
K氏 よろしくですー。
[#4字下げ]早見、ため息をつき、煙草に火を点ける。ふと、思い出す。
早見 そういえば……『メイド刑事』っていうのも考えたんですけど。
K氏 (間髪を入れず)いいですね! それ。いいなあ!
早見 あ、あの……これ、まともに取り合ってくれる人、いなかったんですけど……。
[#4字下げ]早見の回想。『メイド刑事』と聴いただけで冷たい反応を示す編集者たち。
K氏 (何の疑問もないようすで)え、なんで?
早見のモノローグ 馬鹿だ。馬鹿がここにもいた……。
早見 (勢い込んで)Kさん、『スケバン刑事』は知ってますよね!
K氏 (あっけらかんと)全然。
[#4字下げ]早見、茫然とするが、次の瞬間、怒濤のように話し始める。
早見 いいですか? そもそも『スケバン刑事』というのはですね……。
[#4字下げ]早見の演説、約2時間半、続く――。
――以上が、『メイド刑事』誕生に至る、ほぼ現実に忠実ないきさつです。
重要なのは、誰ひとりとして、これが『萌え〜』だとは考えもせず、『燃え』る企画だ、と思っていたことです。『スケバン刑事』に始まる少女戦闘刑事ものは、映像では現在まで継承されていますが、小説では(たぶん)なぜか、誰もやろうとした人がいませんでした。誰もやらないのなら、自分でやろう。燃える少女魂を復活させ、『スケバン刑事』とその映像に熱いオマージュを捧げよう、と私は立ち上がったのです。あらゆる映像的記憶を叩き込んで。
まだまだ話し足りないのですが、とりあえず、今日のところはここまで。
それにしても、松浦亜弥で『スケバン刑事』そのものが復活するとは……頼みましたよ。
私をGA文庫にご紹介いただき、大阪弁についてもアドバイスを下さった芦辺拓さん、さまざまな知識をご教示いただいた、野間美由紀さん、@nifty・FSUIRIサークルの木津レオナさん、しろくまさん、その他たくさんの皆さん、ありがとうございました。もちろん、すばらしいイラストを描いて下さったはいむらきよたかさん他、関係者の皆さんにも。
ご感想は編集部宛か、kansou@hayami.netまでどうぞ。
それでは、更にパワーアップした第二巻で、またお会いしましょう。 (早見裕司)
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【主な参考資料】
藤森照信「建築探偵東奔西走」 (朝日文庫)
森薫・村上リコ「エマヴィクトリアンガイド」 (エンターブレイン)
パメラ・ホーン「ヴィクトリアン・サーヴァント」 (英宝社)
CD「The 8th anniversery AKINA EAST LIVE」「工藤静香ベスト」
他、書ききれず。