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裸者と裸者(下)
邪悪な許しがたい異端の
打海文三
目 次
第1章 電 撃
第2章 九竜シティへ
第3章 パンプキン・ガールズの誕生
第4章 暴徒、商店街を襲う
第5章 世界は発狂しているか?
第6章 決 戦
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主な登場人物
月田桜子 双子の孤児 姉
月田椿子 双子の孤児 妹
いとうのぶひろ 月田姉妹の父親
イズール アメリカ空軍情報将校
高橋・ガルシア・健二 雑貨商
謝花ひなび ウエイトレス
李賛浩 ひなびの男友だち
李明甫 高麗幇の若手幹部
小燕 高麗幇ナンバー2の未亡人
万里 ドライバー
アイコ ドライバー
ビリィ 戦争奴隷
藤井勇 マフィア〈633部隊〉のボス
藤井尚 日本人傭兵部隊司令官
ダイアナ・ダキラ 武装組織〈虹の旗〉の代表
森まり ンガルンガニの幹部
イヴァン・イリイチ 常陸軍の外国人部隊司令官
白川如月 常陸軍の孤児と女の混成部隊司令官
佐々木海人 孤児と女の混成部隊の作戦担当准尉
佐々木恵 海人の妹
佐々木隆 海人の弟
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首都攻防戦における武装勢力
首都防衛軍(政府軍)
富士師団(治安情報局の指揮下にある政府軍最強部隊)
常陸軍(反政府連合軍)
仙台軍(反政府連合軍)
宇都宮軍(反政府連合軍)
甲府軍(地方軍閥)
信州軍(甲信地方の反政府軍)
東京UF(日本最大のマフィア)
633部隊(九竜シティの東京UF系マフィア)
義士団(九竜シティの東京UF系マフィア)
五侠会(九竜シティの東京UF系マフィア)
高麗幇・幹部連合(九竜シティの朝鮮族マフィア)
高麗幇・小燕派(九竜シティの朝鮮族マフィア)
虹の旗(九竜シティの性的マイノリティの武装組織)
2月運動(モーセの地下軍事組織)
パンプキン・ガールズ(女の子のマフィア)
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おまえが罪を犯すなら
わたしも罪を犯そう
―――― パンプキン・ガールズのテーゼ
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第1章 電 撃
1
夢のなかで、のぶひろは地面にふれそうなほど長い絹のマフラーを首にかけている。その片方の端を桜子《さくらこ》が、もう片方の端を椿子《つばきこ》が、自分の首に巻いてきゅっと引っ張る。二人は苦しがって眼をぱちぱちさせる。もう死んじゃうよ。するとのぶひろは、娘たちの左右の位置を入れ替えて、マフラーを自分の喉《のど》もとで交差させ、それを両手でがっちりつかんで首を絞める。パパも死んじゃうよ。はじめは悪ふざけだったのが、だんだん真剣になって、我慢くらべになる。姉妹は負けず嫌いだからぜったい手をぬかない。よせばいいのにのぶひろも意地を張る。そして愚かな結末をむかえる。
「窒息して、全員、死んじゃうんだ」月田姉妹は喉に手をあてがって言う。
「のぶひろって、あなたたちのお父さんのことでしょ?」佐々木|恵《めぐ》がいぶかって訊《き》く。
「生物学上の父親」姉妹は訂正をもとめる口調で言う。
「二人とも同じ夢を見たの?」
「双子だからね」
「なんかやな夢だな」恵の弟の隆《りゆう》が顔をしかめる。
「それが悪くないんだ」姉妹は首を横に振る。「夢から覚めたあとも、からだの中心に小さな青い炎がぼっと灯《とも》っているような感じでさ、がきには毒だと思うよ」
夢の解釈に姉妹は関心がない。そこに露呈した自分たちの心のありようが、一つの症例なのかどうかということは、どうでもいいことである。応化十二年の秋か冬のはじめ、敷地の周囲に防御フェンスをめぐらした新宿区|戸山《とやま》の戦争成金が住む高層マンションで、四人が同居していたころ、姉妹は事実として、恵と隆に話したとおりの夢を見たのだ。
2
のぶひろとは二歳の春に別れたきりである。そのときのぶひろは、宇都宮市の小さな女子大の講師で、文壇にデビューしたばかりの文芸評論家だった。
両親の離婚後、月田姉妹は烏山《からすやま》市のママの実家に引っ越し、十一年と数ヵ月、屈託なく暮らした。父親の不在を思ってふさぎ込むようなことは一度もなかった。そして応化九年の残酷な夏をむかえる。東から侵攻してきた武装勢力に、おじいちゃんとおばあちゃんとママを殺されたのだ。十四歳の姉妹は、ぐうぜん出会った脱走兵の佐々木|海人《かいと》の案内で、命からがら常陸《ひたち》市へ逃げ出した。
離婚の経緯については、中学校に進学するまえに、いちおう説明があった。暴力とか借金とか裏切りとか、そういうトラブルはいっさいなかったのよ、とママは断言した。どんな悲劇についても、殺戮《さつりく》と略奪と飢餓の時代についても、ママは〈うっかり巻き込まれた〉という言い方ですませる人で、その無類の楽天ぶりを差し引いても、深刻な話ではなかった。
「男と女がうっかり結婚しちゃって」とママはそのときも言った。「やっぱり、そのうちおたがいに顔を見るのも耐えられなくなって、二人は合意にたっしたわけ。じゃあね、バイバイ。離婚にはすごいエネルギーを使うって言うけど、ぜんぜん楽ちんだった。そのかぎりでは、のぶひろと結婚してよかったと思ってる」
ママがそうだったように、姉妹も、のぶひろへの執着はまったくない。容貌《ようぼう》や匂いや体温の記憶もない。水戸市を拠点に昏睡《こんすい》強盗で稼いでいたころ、誰かが読み捨てた文芸誌をバスターミナルのベンチで拾い、そこに掲載されていたモノクロームのグラビアで、のぶひろの写真を見たことがある。野心がうっすらと透けて見えるにしても、一言で言えば凡庸な感じの、絹の長いマフラーがお気に入りらしい中年男だ。夢のなかののぶひろは、その写真の記憶から構成されている。略歴によれば、これまで本を二冊か三冊出し、新聞の学芸欄や雑誌にときどき文芸時評を書いているようだった。
3
ウィリアム・ブレイクの詩集をときおりひらくことはあったが、月田姉妹の読書体験は、烏山市から逃げ出した十四歳の六月でほぼとぎれた。それまでにママの蔵書を読みつくして、活字にいささか食傷気味ということもあり、水戸市でたまたま文芸誌を拾い読みした以外は、マンガであれ教養書であれ、本に手を出したことはなかった。新聞を読む習慣もなかった。というわけで、のぶひろがどこでなにをしているのかまったく知らなかったのだが、戸山の高層マンションから府中《ふちゆう》市の薄汚れた部屋へ引っ越して八ヵ月と二週間が経過した、応化十四年八月二十三日の朝、姉妹はTVニュースでぐうぜんのぶひろを見つけた。
画面のすみで〈LIVE〉の文字が点滅する。装甲車が原宿《はらじゆく》の裏通りを封鎖している。薄汚れた白いビルから、ノーネクタイの中年の男が出てきて、自動小銃やサブマシンガンで武装した治安警察に連行されていく。スーパーインポーズが出る。文芸評論家〈いとうのぶひろ〉こと〈伊藤伸宏〉。肩書きは〈モーセ代表〉。
「こういうことになってたとはね」姉妹の一人が言った。
「あきれたやつだ」姉妹のもう一人が言った。
モーセは、首都圏のスラムで、医療、教育、貧者のための金融等のサーヴィスをおこなうNGOである。バックボーンは、キリスト教右派思想に影響をうけた、狂信的で男根主義的なナショナリズム。モーセの活動は徹底した性差別と人種差別に貫かれている。
「のぶひろの文芸評論にはその傾向がなくもなかったな」姉妹の一人が言った。
「大いなる全体について捏造《ねつぞう》しようっていう欲望が感じられたよ」もう一人が言った。
かつて一編だけ読んだ、のぶひろの文芸評論の、〈いまだ考えられていないことのうちへと侵入せよ〉とか、〈いまだ起きていないことを力によって引き起こせ〉といったフレーズを姉妹は思い返した。TV画面では、オリーブ色のワゴン車に収容されて姿が隠れるまえの一瞬、のぶひろが、退屈そうな視線をカメラの右上方へちらと向けた。車両が動き出す。朝の陽光のなかを微細な土埃《つちぼこり》が舞いあがる。レポーターがやかましく報告する声がひびく。のぶひろの逮捕容疑はカナダ放送協会=CBC記者殺害。陰惨な事件だった。三週間ほどまえ、CBC東京支局に、〈2月運動〉を名乗るグループから犯行声明と記者の処刑映像がとどけられ、メディアを震撼《しんかん》させた。2月運動はモーセの地下軍事組織とみなされていた。
「のぶひろは居場所を見つけたんだ」姉妹の一人が納得する声で言った。
「のぶひろの適応のかたちがこれだ」もう一人がおうじた。
画面が切り替わった。美しい長身の女が拳《こぶし》を振りかざしてマイクに叫んでいる。昨日のニュースだった。元首相夫人が率いる反軍政グループが、内乱終結をもとめる集会を新宿駅中央口でひらいた。参加者は推定で一万八千人。政府主催をのぞくいっさいの集会が禁止されている首都圏では、画期的な数字だった。のぶひろのことはもう頭から消え、夫の亡命後に離婚して、自身は国内にとどまったモデル出身の元首相夫人の野望についておしゃべりしながら、姉妹はコーヒーとゆで卵の朝食をすませた。TVを消して、キッチンで歯を磨きはじめた。そこで爆発音が聞こえた。
4
府中市|美好《みよし》町の、低所得者層が住む巴《ともえ》ガーデン505号室の傾いたベランダに、月田姉妹は飛び出した。下の階のパラグアイ人と沖縄人のカップルがなにかわめき散らす声に重なって、雷鳴のように爆発音がとどろいている。要人の車を狙ったロケット弾やコンポジション4の爆発とはちがう。明らかに重砲やミサイルによる攻撃である。テロではなく、演習などついぞ聞いたことがないから、おおがかりな軍事行動の可能性があると思った。首都防衛軍の一部が反乱を起こしたのだろうか。方角がまったくわからない。都心か、所沢《ところざわ》方面か、あるいは南の横浜方面か。距離はかなりある。しばらく耳をすませた。あっちこっちでいっせいに攻撃がくわえられているようにも聞こえる。
部屋にもどってTVを点《つ》けた。臨時ニュースは流れていない。こんどはずっと近距離で砲弾が炸裂《さくれつ》した。からだがゆれ、爆風で窓ガラスがうるさく鳴った。姉妹は小物入れに使っているナッツの空き缶をひっくり返した。がらくたのなかからビニールテープをつかみ、すばやく部屋のぜんぶの窓ガラスに格子状に張った。その作業の間に砲弾の炸裂音は激しさを増した。姉妹は立川《たちかわ》基地の方角を見た。黒煙が立ち昇り、閃光《せんこう》が連続して走っている。携帯電話が鳴った。想像もしなかった人物の声が耳にとどいた。
「戦況がおちつくまで家から出るな」海人が厳しい声で言った。
「なにが起きたの?」姉妹はびっくりして訊いた。
「おれたちがしゅとに攻めこんだ」
「嘘だろ」
「ほんとだ」
信じがたい話だった。常陸軍の兵力は五千人ていどのはずだ。それに対して軍事評議会の首都防衛軍は七個師団六万人。戦力の比較で考えれば、常陸軍の首都進攻は無謀というほかはない。
「反乱部隊と連携してるの?」姉妹は訊いた。
「いまはくわしく言えない」海人がこたえた。
「軍事評議会を打倒するのか?」
「戦争をおわらせるんだ」
「権力をにぎって戦争をおわらせる?」
「そうだ」
「立川基地を攻撃してるだろ」
「家のなかでじっとしてるのがいちばんあんぜんだ。もうでんわ切るよ」
海人の声を激しい爆発音がかき消した。
「メグたちは知ってるの?」姉妹は訊いた。
「知ってる」海人が言った。
通話がぷつんと切れた。砲声は鳴りやまない。常陸軍が立川基地を攻撃している。それはまちがいないが、単独の軍事行動ではありえないと姉妹は思った。
「とにかくふだんどおりに」姉妹の一人が言った。
「われわれ労働者はいそがしい」もう一人が言った。
いったん中断した歯磨きを最後までやった。運転免許証、銃器所持許可証、予備の弾倉を確認して、ロシア軍オリジナルのAKライフルを持った。首都圏では大半の住民が略奪にそなえて銃器を所持している。政府がこれまでなんどか武装解除をこころみたが、すべて失敗におわった。住民が激しく抵抗したせいもあるが、軍事評議会自身が最大手の武器商人であるため、けっきょくビジネスが優先された結果だった。
姉妹は近くの駐車場へ歩いた。商店の軒先でまだ寝ている孤児たちを、いつになく険しい表情で店主が棍棒《こんぼう》で追い払った。屋台がならぶ一角で、仕事明けの男娼《だんしよう》二人が朝粥《あさがゆ》の丼《どんぶり》を手に、立川基地の方角を不安げに見ていた。姉妹は駐車場から大型トラックを引っ張り出すと、中央自動車道|国立《くにたち》府中IC近くのトラックターミナルへ向かった。砲声と爆発音はつづいた。国道20号線で交通規制があった。政府軍の戦闘車両およそ三十両がフルスピードで立川基地方面へ走り去った。
運送会社の事務所で職員やドライバーがTVにかじりついていた。戦闘は常陸軍と宇都宮軍と仙台軍の共同軍事行動であることがわかった。練馬《ねりま》の首都防衛軍司令部はすでに宇都宮軍の手に落ち、仙台軍が千葉県の習志野《ならしの》基地に、常陸軍が東京西部の立川基地に猛攻撃をくわえていた。
「中央道に爆弾は落ちてない。さあ仕事だ仕事だ」配車係の男がドライバーたちをTVのまえから追い払った。
その日もトラックが頻繁に西の甲府市へ向けて出発した。姉妹はトラックに弾薬と食糧を積み込み、通行許可証をあずかると、仲間とコンボイを組んで国立府中ICから中央自動車道下り車線に入った。
六月中旬、旧国軍の第2および第13歩兵連隊を中核とする信州軍が、|八ヶ岳《やつがたけ》方面から南下して甲府市の武装勢力を包囲した。戦闘の激化にともない、弾薬、燃料、食糧のピストン輸送がはじまり、廃車同然のトラックまで動員された。姉妹のような若い女のドライバーも、ほとんど毎日、甲府市まで往復して、この二ヵ月は寝る暇がないほどいそがしかった。
多摩川《たまがわ》橋を渡っているときに、立川基地の上空を攻撃ヘリが旋回し、赤い炎の尾を曳《ひ》いてミサイルが飛んでいくのが見えた。
「ニッポン人の大好きな戦争はまだまだつづくな」姉妹の一人が言った。
「おかげで我々輸送業界は不況知らずだ」もう一人が言った。
自分たちの言葉に、二人はふと胸を締めつけられた。悲しむ力や傷つく力や苦しむ力を、彼女たちはぜんぶ失ったわけではない。それにまだ人恋しい年ごろである。先月に二十歳になったばかりだった。二人だけになるとけっこう泣く。疾走するトラックの運転席で、愛《いと》しい死者に呼びかけながら、彼女たちは声を張りあげて泣いた。おじいちゃん! おばあちゃん! ママ! ママ! ママ!
5
日本人マフィアの東京UF(=ユナイテッド・フロント)が通行許可証を独占的に発行していた。彼らは軍閥や武装勢力に一括して通行料を払い、各運送会社に通行許可証を売りつけて利ざやを稼ぐ。輸送の安全はそのシステムで基本的に確保される。だが、どの勢力にも属さない武装強盗に対しては、ドライバー自身が積荷を守らねばならない。姉妹は、七月に相模《さがみ》湖と笹子《ささご》で、八月には大月《おおつき》で武装強盗に襲われ、コンボイの仲間とともに撃退した。
その日、トラックはなにごともなく笹子トンネルを抜けて甲府盆地に入った。防衛する甲府軍八千人、包囲した信州軍二万三千人、双方とも首都圏の戦況を見守っているようで、めずらしく砲声はほとんど聞こえなかった。月田姉妹は甲府軍の国母《こくぼ》の補給基地で弾薬と食糧を降ろすと八ヶ岳方面へ向かった。通行許可証を見せて、信州軍の検問を通過し、八ヶ岳|南麓《なんろく》の高原でレタスを積み込んだ。
夕方、東京にもどる途中、ラジオで、常陸軍が立川基地を攻略したことを知った。海人の携帯電話にかけてみたが連絡がつかなかった。
姉妹はレタスを在日アメリカ軍|横田《よこた》基地で降ろした。立川基地とは五キロメートルほどの近距離だが、輸送機や軍車両のあわただしい動きはなく、薄闇が迫るだだっぴろいグラウンドではフットボールチームの練習がはじまっていた。帰ろうとしたとき、顔見知りの空軍情報将校にビールでもどうだいと声をかけられた。第5空軍第315情報隊所属の少尉で、イズール・ダニエロヴィッチ・デムスキーという名前の、ロシア移民を先祖に持つ、ちびで童顔のユダヤ人系アメリカ人だった。一人住まいには広すぎる4LDKの彼の部屋でビールを飲んだ。立川基地があっさり落ちたことについて、常陸軍は北関東最強なんだ、とイズールが流暢《りゆうちよう》な日本語で言った。
「ところが首都防衛軍の兵士の八十パーセントは、ここ数年で徴兵されたティーンエイジャーで、頭のなかは女の子のことでいっぱい。戦闘経験はゼロ。訓練もまともにうけてない。常陸軍の敵じゃないと思うよ」
「じゃあ首都陥落も時間の問題?」姉妹は訊《き》いた。
「政府軍がいっせいに逃げ出せばね。でもそうはならないんじゃないかな」
「八十パーセントがはなたれ小僧なんだろ」
「前線はかならず人口密集地域の手まえでとまる。双方とも全面的な衝突はさける。どんなに野蛮な連中でも、東京で本格的な戦争はできない。三千万人都市だよ」
「おまえみたいな事務屋が、でたらめに迫撃砲を一発撃ったって、人がおおぜい死ぬからね」姉妹は同意して言った。
「それに東京のインフラを徹底的に破壊しちゃったら、占領軍もあとで困る。だから長期戦になる。連合軍は包囲して圧力をくわえる。停戦、交渉、停戦破棄、停戦、交渉、また破棄、例によって例のごとく戦闘と交渉がだらだらつづく」
「不確定な要素はないのか。たとえば信州軍が甲府軍を蹴散《けち》らして、常陸軍の背後を突くとか」
「そうなると戦況はまったく読めなくなる」
「静岡戦線だってどうなるかわからないよ」
軍事評議会打倒をめざす東海軍二万人の東進を、政府軍一万八千人が静岡市で食いとめていた。
「きみたちの言うとおりだ」イズールが缶ビールを手に、壁を埋め尽くした大量のLPのコレクションのまえに立って言った。「東海軍が静岡市を陥落させて首都圏に攻め昇れば、戦況は劇的に変化すると思う。でも戦争の行方を最終的に決めるのは、軍事評議会のスポンサーの動向だよ」
東京UFのことだった。首都圏の九十五パーセントと日本の国土の半分を東京UFが支配していると考えられている。
「かりに東京UFが軍事評議会を見放せば、この戦争は決着する」イズールが一枚のLPをえらんで言った。「東京UFにとって、軍事政権はたんなる経費だからね、支払い先が連合軍だろうと信州軍だろうと東海軍だろうと、いっこうにかまわない。利権を保証してくれさえすればいい」
「アメリカ軍は連合軍を空爆しないのか?」
イズールが、困惑とはにかみの入り混じる彼独特の笑みをうかべ、首を横に振った。
「むかしやって懲りてるからね。空爆で殲滅《せんめつ》するのはかんたんだけど、ちりぢりになった連合軍部隊が武装集団化するだけ」
「しかも空爆の恐怖で凶暴化する」
「ひどいもんだよ、ぼくたちの爆弾の威力といったら」
「神だって殺せる」
「もう殺しちゃってる」
イズールの言葉に姉妹は四つの手のひらを天井へ向けた。
「和平を提案する気は?」
「いずれその局面がくるかもしれないけど、当面は模様ながめってところだ。ぼくたちは東京UFと同じ立場かな。基地の存続を保証してくる政権ならオーケー。毎日新鮮なレタスをとどけてくれればオーケー。ねえ、葉っぱある?」
姉妹は手持ちのマリファナをぜんぶくれてやった。イズールはおおよろこびで、さっそく紙巻きをつくった。姉妹がぜんぜん知らない女性シンガーのジャズヴォーカルが部屋に流れ出した。スウィートで明晰《めいせき》な歌唱だった。三人は紙巻きのマリファナをすぱすぱ吸った。
「こんどゴルフやらない?」イズールが言った。
「甲府の戦争がおさまらないかぎり、そんな暇はないね」姉妹は言った。
「残念だな、誘おうと思ったのに。九竜《きゆうりゆう》シティに、ぼくたち専用の静かなコースがあるんだ」
「あんなとこにゴルフコースがあるのか?」姉妹はちょっとおどろいた。
九竜シティは、多摩川の南側の丘陵にひろがる首都圏で最大のスラムである。不法移民が多く住み、モーセが激しい外国人排斥運動を展開している。治安が悪く、十日ほどまえには、東部の吉林《きつりん》市場で朝鮮族マフィアのボスとその弟が、爆弾テロで吹き飛ばされるという事件が起きたばかりだった。
「マッカーサーの時代に、弾薬庫とかレクリエーション施設とか、いろいろつくったらしい。それがまだ残ってるんだ」イズールが言った。
「なるほど」姉妹は言った。「アメリカ軍が一九四五年からずっと占領軍であるという事実を忘れてたよ」
「空気みたいに疑いようのない存在だから、忘れちゃうのもむりないけど」
「日本人が殺し合ってるすぐそばで、ヤンキーたちは家族連れでナイスショット!」姉妹はゴルフクラブを振る仕草をした。
「ぼくたちの退廃ぶりは、誰がどう見ても、底が抜けてる」イズールがまた困惑とはにかみの笑みをうかべた。
6
首都圏が戦場になったのは内乱初期以来十二年ぶりである。不安と恐怖と奇妙な高揚感で街もTVスタジオもざわついていた。月田姉妹は、巴ガーデンの自室のダブルベッドで、いつものように精神安定剤の代わりにそっと手をにぎり合い、電波が乱れがちなTVニュースを見ながら夜をすごした。甲府戦線で目立つ動きはない。中央自動車道はまだ封鎖されていない。軍事評議会が、TV、ラジオ、インターネットを通じて、「侵略者を撃退した。首都圏に敵兵は一人もいない」と発表した。なにかを意図した偽情報ではなく、たんに混乱しているとしか思えなかった。もちろんCBCほか外国の放送局はまるでちがった戦況を伝えた。
反政府連合軍の総兵力は推定で五万三千人。二十三日午前七時、宇都宮軍一万八千人が練馬の首都防衛軍司令部を占拠。西へ電撃的に進撃した常陸軍五千人は、四時間の激しい戦闘の後、立川基地から政府軍部隊を叩《たた》き出し、仙台軍三万人は千葉県へ進攻して、日没までに習志野基地を陥落させたという。
投光器の光のなかで、首都防衛軍司令部の建物に掲揚された宇都宮軍の旗がはためいていた。スタジオの映像に切り替わったとき、部屋の窓ガラスがうるさく鳴った。爆風だった。立川基地の方角ではなく、北東で砲弾の炸裂《さくれつ》音が連続して聞こえた。すぐTV画面に赤い閃光《せんこう》が映し出された。府中基地が常陸軍の地対地ロケットで攻撃をうけていた。前線がはやくも西へ動いたのだと思った。ニュースで知った恵が心配して電話をかけてきた。
「こっちはいまのところだいじょうぶ。メグたちの方はどう?」姉妹は訊いた。
恵は十五歳に、隆は十三歳になった。二人は、いまでも新宿区戸山のゲイト・コミュニティと呼ばれる高級住宅地に住んでいた。
「学校が休校になっちゃった。それがくやしい」恵が誰かを憎んでる声で言った。
「気持ちはわかるよ」
「あなたたち仕事は?」
「きょうも八ヶ岳まで往復」
「むちゃしないでね」
「うん、ありがとう」
隆と電話を代わった。同じマンションに住むイヴァン・イリイチの妻と息子の様子を訊いた。みんな元気で落ち着いているという話だった。電話を切って数分後、常陸軍が、こんどは府中基地のおよそ二・五キロメートル東の調布《ちようふ》基地への砲撃をはじめた。砲声と爆発音が夜明けまでつづいた。
7
翌、八月二十四日早朝、常陸軍の戦闘車両十二両が立川基地を出発して、国道20号線を都心へ向かった。黒煙をあげる府中基地と調布基地の南端を通過し、敵部隊と遭遇することなく環状7号線にたっしたところで迎撃された。常陸軍は25ミリ機関砲と12・7ミリ重機関銃で応戦し、敵の火力を殺《そ》いだのち、いっせいに退却をはじめた。威力偵察が任務だったから、そこまでは予定どおりの行動である。あとは無事に立川基地に帰還すればいい。ところが環状8号線に敵戦車があらわれ、常陸軍は退路をふさがれた。
挟撃された地点の北四百メートルに高速道路の入口があった。常陸軍はそこをめざした。警備の小部隊がいるだけで幸いバリケードはなかった。常陸軍は敵の小部隊を蹴散らして中央自動車道に入ると、フルスピードで西へ向かい、十数分後、国立府中ICで降りた。
料金所の先で、ヴァンやトラックで偽装した二個小隊の政府軍が、常陸軍に待ち伏せ攻撃を仕掛けた。IC周辺はたちまち戦場と化した。対戦車ロケット弾が飛び交い、車両が大破して、炎とともに鉄片や腕や内臓が空中に舞いあがった。
常陸軍の攻撃ヘリ三機が仲間を掩護《えんご》するために立川基地から飛来して、低空から70ミリロケット弾と20ミリ機関砲の銃弾の雨を降らせた。それが勝負を決めた。政府軍兵士は四散して、一部がトラックターミナルに逃げ込んだ。なおしばらく銃声がつづいたのち、常陸軍は自軍の死傷者を収容して引きあげた。
8
快晴の夏空に静けさがもどった。月田姉妹は運送会社の事務所のスチール製のデスクの下からすばやく這《は》い出した。AKを手に裏口から出て、二百メートルほど路地を走った。応化九年六月、海人といっしょに那珂《なか》川の河川敷を河口へと逃げた行軍では、からっきし体力がなかったが、いまは息を切らすことなく、国立府中IC料金所に到着した。周辺の路面に血がぶちまかれ、死体が散乱していた。攻撃ヘリのロケット弾と機関砲で蜂の巣にされたヴァンやトラックが八台。まだ黒煙を噴き出している常陸軍の装甲車が一両。破壊された車両を片づけなければ中央自動車道は使えない状態だった。
「ブルドーザを借りてこなくちゃ」運送会社の男が言った。
「死体はどうするんだ」べつの男が苦り切った顔で言った。
民間人が兵士の死体を勝手に動かすわけにはいかない。政府軍が収容するのを待つほかなかった。姉妹がAKを肩に担いでトラックターミナルへもどると、駐車場に人があつまって騒いでいた。
「ロケットだんがそれてとんできたんだ」高橋・ガルシア・健二が言った。
健二は十九歳のペルーと日本の混血で、九竜シティから毎日オンボロ自転車で通勤してきて、ドライバー相手の小さな雑貨屋をひらいている。
「誰かやられたのか」姉妹は訊《き》いた。
「アウン・サンのトラックが」健二が言った。
姉妹は人垣のなかに入った。運転席がつぶれ、エンジン部分が黒こげになったトラックにすがりついて、ミャンマー人のアウン・サンが泣いていた。一瞬にして全財産を失ったようなものだな、と姉妹は思った。トラックに保険をかける道がないではない。内乱をビジネスチャンスととらえる保険会社があり、他社が拒否するリスクを引きうけて業績をのばしている。顧客は武器商人やドラッグ商人など内乱ビジネスで巨万の富を稼ぐ連中だった。当然、保険料は桁《けた》外れに高額である。積荷に保険がかけられることはあっても、アウン・サンや姉妹のような零細な個人事業者が、自分のトラックに保険をかけられるわけがない。運送会社もリスクを恐れて、トラック持ち込みのドライバーを雇うのである。姉妹は、どんな言葉をかけていいのかわからず、ミャンマー人の男の薄い背中をさすった。
「アウン・サンはかぞくがいっぱいいるんだ。みんなからカネあつめようか」健二が頼りない声で同意をもとめた。
「よし。おまえがあつめろ」姉妹は即答してポケットからドル紙幣をつかみ出した。
そこでパンパンパンと銃声が空気をふるわせた。人々はいっせいに地面に伏せた。どこかで怒声が飛びかった。四,五人の政府軍兵士が、広い駐車場を南へ突っ切って、ドライバー相手の雑貨屋やレストランや仮眠所が連なる一角に走り込んだ。その裏手の、東京UFが経営する多摩西部運輸のあたりでまた銃声がひびき、歓声があがった。姉妹は立ちあがって衣服についた土をぱんぱんと叩いた。
仮眠所とマッサージパーラーをかねる〈芳蘭《ほうらん》〉の東側の路地から政府軍兵士二人があらわれた。その背後で土煙が舞いあがっている。人間の首にロープをかけて引きずっているのだ。さらに十数人の政府軍兵士が野卑な叫びをあげ、空へ向けて小銃を撃ち鳴らしながらつづいた。
砂利を踏み固めた駐車場に、ふたたび人々があつまってきた。インドシナ系と思われる褐色の肌の女が転がされた。常陸軍の女兵士のようだった。すでに死者で、頭髪は血と土埃で汚れ、白眼をむき、手足をだらしなくのばしている。女兵士の抗弾ベストと弾薬ポーチを、政府軍兵士がはぎとった。罵《ののし》る声にパンと銃声が重なった。頭部から血が噴き出るのを姉妹は見た。女兵士のワークパンツが引きずり下ろされた。血まみれの下腹部がむき出しになった。そこへ銃剣が突き刺さった。また野卑な叫びと歓声。
「やめろ!」姉妹は叫んだ。
一人の政府軍兵士が姉妹に銃口を向けた。二十歳前後の若者だった。充血した眼に、仲間を殺された憎しみの炎が燃えあがっている。
「気持ちはわかるけど、その女はもう死んでる」姉妹は相手を落ち着かせる声で言った。
べつの政府軍兵士が姉妹の足もとに小銃弾を撃ち込んだ。土煙と悲鳴。人々がまたいっせいに散った。姉妹はその場で小銃をかまえた兵士に囲まれた。
「武器をよこせ!」軍曹の階級章をつけた男が怒鳴った。
軍への反抗は重罪である。だが姉妹はなんのためらいもなくAKの銃口を軍曹へ向けた。武器を捨てれば、兵舎に連れ込まれて大勢の兵士にもてあそばれるだろう。最後に頭に一発ぶち込まれ、多摩川にうかぶか、スラムのゴミ山で野犬の餌になるか。辱めをうけるならここで死んだ方がましだった。言葉も決断も、欲望の対象とそれがつのる瞬間さえも、桜子と椿子の間で食いちがうことは、これまで一度もなかった。二人は同時に引き金を引き絞った。
「うたないで! うたないで! うたないで!」誰かの叫び声が聞こえた。
高橋・ガルシア・健二が両腕をおおきく振りながら近づいてきた。緊張で声がふるえ、顔色が青白い。引き金にかけた姉妹の指の動きがとまった。健二の命がけの行動に胸が苦しくなった。
「撃つな!」いつも眼をかけてくれる配車係の声だった。
「人殺しはやめろ!」コンボイの仲間の女のドライバーの声が叫んだ。
人々が拳《こぶし》を空へ突き出し、口々に叫びながら、ふたたびあつまりはじめた。いつどこで暴動が起きても不思議がないほど、首都圏では軍事評議会への憎しみが蔓延《まんえん》していた。群衆の圧力に恐怖を感じた政府軍兵士たちが、芳蘭の方角へ一歩、二歩と退却した。彼らをさらに追いつめるつもりは、誰にもなかったはずだった。姉妹もこれで事態が終息すると思った。じっさい政府軍の軍曹は手信号で部隊を撤退させようとしていた。
安レストランのテーブルの下の食べ物のカスを狙って、二羽のカラスが舞い降りた。羽音におどろいて一人の政府軍兵士が引き金を引いた。それが惨劇の号砲となった。政府軍が群衆を無差別に撃った。姉妹は反射的にAKで撃ち返した。兵士の首筋から血《ち》飛沫《しぶき》があがるのがはっきりと見えた。悲鳴と銃声がひびき渡った。政府軍は混乱して、でたらめに撃ちながら芳蘭の東側の路地へ退却した。
「にげよう!」健二が姉妹に呼びかけた。
三人は走って運送会社の事務所の建物の陰にまわり込んだ。銃撃はつづいていた。駐車場の方をそっとうかがった。倒れている兵士と民間人が合わせてざっと十数人。呻《うめ》き声や泣き叫ぶ声が逆巻いている。
「せいふぐんがここをふうさするまえに、きみたちはにげたほうがいい」健二が荒い息づかいで言った。
「健二はどうする」姉妹は訊いた。
「ぼくはみせをまもらなくちゃならない」
健二は扶養家族を抱えていた。ペルー人の父親は九竜暴動の際に朝鮮族との戦闘で殺害され、その翌年、母親は四人の子供をおいて隣の家の若い男と姿をくらました。二歳上の兄がいたが、内乱二年目にクラスター爆弾の不発弾の暴発で死亡。健二は、病弱な妹と二人の弟を養うためにはたらきづめにはたらいてきた。
「軍が健二に嫌がらせをする。ぜったいに。いっしょに逃げよう」姉妹は言った。
「かおをおぼえてないとおもう」健二が言った。
「ここには東京UFのスパイがごろごろいる。誰かが見てたはずだ。健二の顔は知られてる。政府軍にしゃべるに決まってるじゃないか」
「ぼくはなにもしてない」
「あいつらがどう思うかだ。それが法だ、それがあいつらの正義だ。おまえの店の商品をあたしたちのトラックに積んで運び出せ」
健二が首を横に強く振った。
「みせのけんりをかってる。カネをかりて。ここをうごくわけにはいかないんだ」
からだをゆさぶる重苦しい銃声がとどろいた。政府軍の軽装甲機動車が四両、12・7ミリ重機関銃で威嚇射撃をしながら駐車場に侵入してきた。姉妹は健二に背中をばんと押された。
「とりあえずシティへにげろ」健二が言った。
「うん、あとで」姉妹は言った。
「はやくいけ」健二が言った。
姉妹は、そしらぬふりで自分たちのトラックに乗り込んだ。ミラーを見て、顔の汚れを拭《ふ》き、短めのボブを指でととのえた。駐車場を出たところで政府軍兵士に呼びとめられた。
「仕事にならないから家に帰って寝るのよ」姉妹は微笑んだ。
キスも投げてやった。若い兵士がにやついて手を振った。
姉妹は美好町の巴ガーデンによって必要最小限の荷物を持ち出した。それから鎌倉《かまくら》街道を南下して、多摩川にかかる関戸《せきど》橋を渡り、通称、九竜シティに入った。かつての緑豊かな丘陵は、樹木がことごとく切り倒されて燃料に使われ、谷も尾根も灰色のバラック群で埋めつくされている。治安は首都圏で最悪である。だが、軍事評議会の権力がおよぶのは幹線道路周辺にかぎられるため、犯罪者にとっては母なる避難所だった。
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第2章 九竜シティへ
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九竜シティは、二十一世紀の初頭まで、多摩市と稲城《いなぎ》市にまたがる丘陵地に造成された、都市中間層のための広大な住宅団地だった。丘陵の北側を多摩川が流れ、東から、是政《これまさ》橋、関戸橋と、二本の橋がかかっている。内乱以前に、都心部でスラムを形成した国内難民が、公権力と自警団に追い立てられ、また自ら膨張して出口をもとめ、その二本の橋を南へ渡った。数年遅れて大陸からの難民の群れがそれにつづいた。彼らは複雑な人種抗争をはらみつつ、空家を不法占拠し、公園にバラックを建て、樹木を切り倒して煮炊きのために燃やした。公権力がこれを排除しようとして、国内難民および外国人難民双方と激しい衝突をくり返した。
応化二年の内乱|勃発《ぼつぱつ》がこの傾向を劇的に進行させた。〈救国臨時政府〉が四日間で瓦解《がかい》したのち、反乱軍の一部が多摩川の南の丘陵地帯に逃げ込むと、アメリカ軍が攻撃ヘリと戦闘攻撃機で追撃した。容赦のない空爆が連日つづいた。反乱軍は四散して武装強盗化した。住宅団地が徹底的な略奪にさらされ、殺人、レイプ、放火が頻発した。旧住民は雪崩を打って逃げ出した。
同年十一月、軍事評議会が権力を掌握したが、全国土に広がった反乱軍との戦闘に兵力をさかれ、九竜シティの治安を維持することができなかった。
長期化した内乱をつうじて、犯罪者、薬物中毒者、脱走兵、戦争孤児、娼婦《しようふ》、マフィアが流入した。無法状態が恒常化すると、その地域を外国メディアの一部が〈九竜シティ〉と呼びはじめた。その呼称は、前世紀のイギリス統治下の香港で、ほぼ百年間、香港政庁の主権がおよばなかった九竜城に由来する。やがて軍事評議会幹部も公式発言以外では、いくらか親しみを込めて〈シティ〉と呼ぶようになった。
武装強盗化した反乱軍部隊は、日本最大のマフィアである東京UFの系列下に入った。元反乱軍グループは売春と賭博《とばく》の利権を、東京UFは旧多摩市の|聖ヶ丘《ひじりがおか》地区にある武器・ドラッグ市場=通称〈聖ヶ丘パーク〉の利権を独占するというかたちで、両者は巧みに棲《す》み分けをおこなった。それらのアンダーグラウンド・ビジネスの収益の一部は、軍事評議会の治安情報局に還流し、シティの治外法権が暗黙のうちに保障された。
シティ西部の外国人マフィアは、応化七年までに、東京UF系によってほぼ完全に壊滅させられた。だが東部に本拠地をおく朝鮮族の〈高麗幇《こうらいばん》〉が、内乱初期以来、東京UF系と鋭く対立してきた。彼らは、中国東北部で漢族主導の軍閥に敗れて日本に逃れた中国国籍の朝鮮族軍人グループが、北朝鮮系およびロシア国籍の朝鮮族を糾合して結社化したものである。
東京UF系と高麗幇は、応化八年春、シティ全域で武力衝突した。緒戦において、戦闘経験の豊富な民兵部隊を持つ高麗幇が、東京UF系を圧倒した。東京UF系がシティから叩《たた》き出されかねない状況になると、治安情報局の指揮下にある富士師団が投入され、これに反発する朝鮮族、漢族ほかの外国人住民を巻き込んで未曾有《みぞう》の人種暴動に発展した。戦闘と暴動は二十二日間つづき、双方の支配地域を画定した協定をむすんで終息した。これが〈九竜暴動〉である。協定によって、シティは、東京UF系の西部と高麗幇の東部に分裂した。
ベルリンに本部をおくNGO〈ジャパン・ボディ・カウント〉の試算によれば、シティの人口は推定で二百万人。日本人国内難民が四十五パーセント。中国系が三十パーセント、朝鮮系が十二パーセント、ロシア系が四パーセント、その他九パーセント。
治外法権都市であるがゆえに、シティ住民は徴兵をまぬがれてきた。だが皮肉なことに、その貧困ゆえに、シティは全国の武装勢力への兵士の大供給地となっている。
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灰色の台地を昇りつめるとまた灰色の台地があらわれた。いたるところに汚水があふれ、子供たちがなかでばしゃばしゃ遊び、ときおり無言で石が飛んできた。幹線道路を走ったことはある。だがシティのスラムに分け入るのははじめての経験だった。痩《や》せた犬がうるさく吠《ほ》えた。スレート葺《ぶ》きのバラックから麻雀牌《マージヤンパイ》をかき混ぜる音が聞こえた。馬引沢《まびきざわ》のスラムの奥の略奪された寺に、伐採をまぬがれた楠《くすのき》の古木があった。月田姉妹はその葉陰にトラックをとめて一息ついた。
「確実に殺したな」姉妹の一人が興奮を引きずる声で言った。
「弾倉が空になるまで撃ったからね」姉妹のもう一人があきらめの口調で言った。
スニーカーを脱ぎ、靴下も脱ぎ、素足をダッシュボードの上にのせた。政府軍兵士を殺した不快感で吐き気がした。誰かの人生を完璧《かんぺき》におわらせたのだ。おぞましい行為だと思う。だが耐えられるだろう。これまでも耐えてきたのだから。最初の殺人は十五歳の夏。水戸市のホテルで昏睡《こんすい》強盗をもくろんだが、睡眠薬がぜんぜん効かず、一人がベッドに押し倒され、見物していろと命令されたもう一人が、その脂ぎった大男の尻《しり》に護身用の短銃の弾丸を叩き込んだ。人間離れしたタフなやつで、男は片足でぴょんぴょんはねながら恐ろしい形相で逆襲してきた。姉妹はそのときも弾倉を空っぽにして撃った。
「中央道でも武装強盗を八人か九人か殺してる」姉妹の一人が言った。
「それぐらいは殺してるな」もう一人が言った。
「ふつうは発狂するね」
「それぐらい殺したら」
「人間なら発狂しておかしくない」
「でもぜんぜん発狂しそうにないよ」
「どうしてかな」
「あたしたちはもう発狂してるってことか?」
微妙なところだ、というのが姉妹のとりあえずの結論だった。カーラジオで、CBCの日本語放送を聴きながら日中をすごした。事件の詳しい報道はなかった。政府軍が世田谷《せたがや》区の国道20号線と国立府中ICの二ヵ所で常陸軍の偵察部隊と衝突。政府軍に死者八人、負傷者多数が出たもよう。常陸軍は立川基地へ帰還。そのていどの内容で、ラジオは、トラックターミナルで発生した政府軍とドライバーとの銃撃戦にはまったくふれなかった。
姉妹は高橋・ガルシア・健二の携帯電話にかけた。健二はトラックターミナルにいた。現場の様子を訊《き》くと、軍は死傷した兵士を車に積んで引きあげたという。
「民間人の被害は」姉妹は訊いた。
「五にんいじょうころされたよ」健二が暗い声で言った。「おんなのドライバーがはらをうたれた。なまえはしらないけど、たぶん、あのこもしぬな」
電話を切ったあと、胸にこみあげてきた報復心が、しばらくの間、姉妹を沈黙させた。誰が誰を殺したのかを特定することは不可能だと思った。AK二丁で街角の政府軍兵士を無差別に襲撃したところで、報復心がみたされるわけではない。ほんとうの敵はシステムである。戦争を継続させているシステムを根底的に破壊しなければ、おろかな殺戮《さつりく》はいつまでもつづく。
まずは今夜寝る場所を確保しなければならなかった。暗くなるのを待って、姉妹はホテルを捜しに出かけた。九竜シティを貫く幹線道路の出入り口に、政府軍の詰め所が計六ヵ所あるが、応化八年の暴動以来、検問が実施されたことはない。鎌倉街道に出てすぐ、中庭が駐車場になっている安ホテルを見つけた。トラックが盗まれないよう部屋から監視できる点が気に入り、そこにチェックインした。
狭くて汚い部屋だった。腰がくの字に曲がった老女を呼び、チップをにぎらせて、シーツと枕カバーを清潔なやつに替えてもらった。冷水のシャワーを交代であび、一息ついたとき、TVニュースの画面に自分たちの顔写真がでかでかと出た。治安情報局の下部組織である治安警察が、政府軍兵士四人を殺害して逃亡中の月田桜子と椿子の双子の姉妹を、殺人罪と国家反逆罪で指名手配したという。
「ひでえ写真だな」姉妹の一人が画面の自分たちを見て嘆いた。
「眼がすねてて、なんか最悪」もう一人が眉《まゆ》をしかめた。
治安警察は同事件に関連して反政府分子一人を拘束して取り調べ中だとTVが報じた。氏名は明らかにされなかった。ふと気がかりになり、健二の携帯電話にかけた。男の低い声が出て、おまえは誰だと言った。姉妹はびっくりして切った。運送会社の配車係の男に電話をかけて、健二が午後六時まえに治安警察に拘束されたことを知った。
「健二の家族に連絡した?」姉妹は訊いた。
「家に電話がないんだ」配車係の男が言った。
「住所を教えて。あたしたちが知らせにいく」
健二の家は旧多摩市役所の西側で、ホテルから歩いて数分の距離だった。姉妹はメモをとると、AKを携帯してホテルを出た。
鎌倉街道を渡り、傾斜地に張りついたスラムの路地に入った。朽ちかけた高層住宅の棟と棟の間の空間を、軽量ブロックや廃材やビニールシートでつくった家が埋めつくしている。暗い道だった。懐中電灯を点《つ》けた。電気も水道もない地域だ。ぽつんぽつんと家の窓に石油ランプの明かりが映り、土を踏み固めた狭い道の両端を生活排水が流れている。姉妹は汚臭に顔をしかめた。住人に道をたずね、それでもうろうろと迷い、どうにか健二の家を探し当てた。木枠に薄いベニヤを打ちつけたドアがある。
「こんにちは」姉妹は言った。
返事がない。ドアをばんばんと叩いた。
「うるせえな!」幼い声が返ってきた。
姉妹は微笑んだ。ドアが内側にひらいて、十歳ぐらいの男の子が顔をのぞかせた。この子と健二の間に、十六歳の女の子と十三歳の男の子がいるはずだった。薄暗い部屋は、海人と恵と隆が暮らしていた常陸市のアパートにくらべればかなり広そうだが、汚れた空気がよどんでいる。
「お姉ちゃんかお兄ちゃんいる?」姉妹は訊いた。
「しごと」男の子がこたえた。
「場所は?」
「わかんない」
困っていると、路地の反対側の家から人が出てきた。東アジア系の女の子で、ショルダーバッグのストラップを胸に斜めにかけている。
「健二の妹か弟を捜してるんだけど」姉妹は声をかけた。
女の子が警戒する視線を投げてきたので、自分たちが指名手配されていることは伏せて、姉妹は事情をかいつまんで話した。健二が拘束されたことを知って、女の子は顔を曇らせた。
「弟の雅也《まさや》のバイト先ならわかるけど」女の子が言った。
「教えてくれる?」姉妹は言った。
「あたしいまから仕事なの。雅也のバイト先の近くよ。いっしょにいく?」
「悪いね」
雅也のバイト先は多摩センター駅の南口だという。トラックでいくことにして、健二の幼い弟に手を振り、女の子と鎌倉街道の方にもどった。
「健二の妹もバイト?」姉妹は訊いた。
「恭子《きようこ》は家のなかでぶらぶらしてる」女の子が言った。
「そうか、からだが弱かったんだね」
「心の病気。あそこの長男は、不発弾で遊んでて、吹き飛ばされたんだけど、恭子はいっしょに遊んでたの。そのショックで」
「健二もたいへんだな」
「シティのありふれた家族よ」
「雅也って弟は、ちゃんと学校いってるの?」
「昼間、モーセ学園に通ってる」
「モーセは混血でもうけ入れてるの?」
「母親が日本人だから」
「ふうん。健二もモーセ学園を出たの?」
「彼ははたらくのにいそがしくて、それどころじゃなかった」
「きみは日本人?」
「日本人」
「きみもモーセ学園?」
「ちがうけど、モーセに恨みでもあるの?」
「ちょっとした好奇心だよ。気分を害したようだったら謝る」
女の子が短い沈黙をおいた。
「わたしは人種差別するような学校にはぜったい反対。でもね、健二が雅也をモーセ学園に通わせてることを、責める気にはなれない。授業料が免除で給食まで出るんだから。2月運動のテロと脅迫で、モーセ以外のNGOはみんな逃げ出しちゃったから、シティの子にとっては、学校はえらびようがないのよ」
女の子の言葉と口ぶりに、姉妹は、ほんの短い時間、考えをめぐらした。自分よりずっと深い人生を重ねているように聞こえた。スラムの路地をぬけ、鎌倉街道を渡った。
ホテルの中庭でトラックに乗り込み、鎌倉街道を南下した。多摩ニュータウン通りに入ると、多摩センター駅が見えてきた。内乱から数年でレールも架線も盗まれて電車は走っていない。鉄道会社が放棄した駅構内を中心に、シティ住民の生活をささえるニュータウン・マーケットが東西に細ながくのびている。駅の手まえで左折して、シティ最大の歓楽街、パルテノン地区に入った。
姉妹はトラックをパルテノン地区の南端にある吐蕃《とばん》ビルの駐車場にとめた。そこで女の子と別れて、極彩色のイルミネーションが降りそそぐメインストリートを歩いた。街角に貧しい身なりの女の子たちがたむろしている。男と交渉する子。空へ向けて拳銃《けんじゆう》を撃ち鳴らす子。奇声をあげて酒盛りをするグループ。ブティックの店主とロシア系の女の子の派手な喧嘩《けんか》に遭遇して、ふとながめているうちに、路上生活の子供たちの群れに囲まれた。恐怖を感じるほどの数だった。施しを拒否すると、空き缶や鉄屑《てつくず》が飛んできた。どうにか振り払って、カジノに隣接したビルの三階のやけに明るいエントランスホールにあがった。
黒服の男と大勢のかわいい娘たちが出迎えた。厨房《ちゆうぼう》にいる雅也を呼び出してもらい、階段の踊り場で、事情を詳しく話した。兄の不運を知ると、十三歳の雅也の眼差《まなざ》しがたちまち陰った。
「まず、どこで拘束されているのか、調べなくちゃならない。できるだけはやく健二をとりもどせるよう、なんとかやってみる」
姉妹の言葉に、雅也は無言で小さくうなずいた。なにかを期待しているわけではなく、儀礼的な仕草だった。相手は治安警察である。姉妹の方も、最善をつくすという以外に、約束できるものはなかった。用意していた封筒を渡した。打ちのめされている雅也はそれをつかめなかった。階段に落ちて、心細い音を立てた。姉妹は拾いあげて、雅也のソースで汚れたエプロンのポケットに突っ込んだ。
「すくないけど、気持ちだけでもうけとってくれ」姉妹は言った。
姉妹は吐蕃ビルの方へもどった。路上生活の子供たちが関心なさげだったので、これにはほっとした。屋台から血まみれの包帯を頭に巻いた男が卑猥《ひわい》な言葉を投げてきたが、姉妹のAKに気づくと押し黙った。薄汚れたビルの壁のまえで、姉妹は足をとめた。真新しいポスターが貼ってある。
「隠喩《いんゆ》がいっぱい」姉妹の一人が言った。
「どんな解釈も可能だ」もう一人が言った。
聖書の一節が引かれ、〈モーセ〉と署名がある。モーセ学園では聖書を使って読み書きを教えている。姉妹は、本日の聖書として引用されているコヘレトの言葉を、つぶやく声で読んだ。
生まれる時、死ぬ時
植える時、植えたものを抜く時
殺す時、癒す時
破壊する時、建てる時
泣く時、笑う時
石を放つ時、石を集める時
抱擁の時、抱擁を遠ざける時
求める時、失う時
保つ時、放つ時
裂く時、縫う時
黙する時、語る時
愛する時、憎む時
戦いの時、平和の時
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吐蕃ビルの四階にあるレストラン〈ダイニング・バジル〉に入った。がらんとしたスペースに、傷だらけのテーブルと数組の客が散らばっている。雅也のアルバイト先を教えてくれた女の子が、月田姉妹にすぐ気づいてやってきた。ウエイトレスの制服を着たその子は、小柄で、ほっそりして、明るい光のなかで見ると、なかなかの美人だった。ネームプレートに〈謝花《しやばな》ひなび〉とある。
「外の方が涼しいけど」ひなびが言った。
「じゃ外で」姉妹は言った。
台地にそって建てられた吐蕃ビルは、二階が陸橋でメインストリートにつながり、四階が台地の上のパルテノン公園に面している。ひなびが店内を突っ切り、テラスのテーブルに姉妹を案内した。
「とりあえずビール」姉妹は言った。
「冷えてないんだけど」ひなびが申しわけなさそうに言った。
「かまわないさ」
「さっき友だちから聞いたの」ひなびが声を低めた。「健二が捕まった事件で、双子の若い女が指名手配されてるって」
「ふうん」
「もしもそれがあなたたちのことで、シティに逃げ込めば安心だって考えてるとしたら、あんまり油断しないようにって言っておく」
姉妹はメニューをひらいた。料理に統一性はなく、カボチャの煮物、パスタ、チベット風|餃子《ぎようざ》からボルシチまである。
「トマトサラダ、チベット風餃子、豆腐のチゲも」姉妹は言った。
「ふまじめなの? それともあたしが勘ちがいしてるの?」ひなびが軽くとがめた。
「ごめん」姉妹はすぐ謝った。
「日本人地区、外国人地区、混在地区、そういうことに関係なく密告屋がうろちょろしてるのよ。必要なときには、治安警察の特殊部隊がシティに突入する。政治犯の逮捕とか暗殺とか」
「だろうね」
「アメリカ軍施設の東側へ逃げるっていう手があるけど」
「高麗幇の支配地区か」
「吉林市場のあたりだったら、治安警察もなかなか手を出せないはずよ。ぜったい安全というわけじゃなくて、この地区よりは確実にましね」
「ありがとう。ねえ、シティは長いの?」
「七年ぐらい」
「治安警察と裏取引できるようなやつを、誰か知らないかな」
「どうして?」
「健二をできるだけはやく救出したい。それにはワイロを使うしかないと思う。でもあたしたちはルートを知らないし、治安警察に直接かけ合うわけにもいかないだろ。国家反逆罪で指名手配中なわけだから」
ひなびが眉《まゆ》をしかめた。オーケーとも、そんなこと頼まれたら困るとも言わなかった。注文を確認して店内へ去り、すぐもどってきて、トマトサラダとビールの小瓶を二本、テーブルにおいた。
「あたしに期待しないで」ひなびが言った。
「迷惑かけて悪いと思ってる」姉妹は言った。
乾杯した。ひなびが言ったとおり生温《なまぬる》いビールだった。トマトサラダは乾いていた。隆が携帯電話にかけてきた。TVを見て指名手配を知ったという。安全なところにいると姉妹は告げた。恵と電話を代わった。彼女は悲しんでいると同時にひどく怒ってもいた。心配かけたくないから海人には教えないでほしい、と姉妹は頼んだ。チベット風餃子と熱い豆腐のチゲがとどいた。チゲをふうふう言って食べていると、ひなびが芋焼酎《いもじようちゆう》の瓶とグラスをテーブルにおいた。
「頼んだっけ?」姉妹は訊《き》いた。
「あの人たちのおごりよ」
ひなびが指し示した方角を、姉妹は見た。店内に近い方のテーブルで、二人の女の子が、こちらへ微笑みかけている。
「誰」姉妹は低く鋭い声で訊いた。
「仲間じゃないの?」ひなびが訊き返した。
「なんで仲間だって思ったの?」
「自動小銃を持ってるから」
会話が聞こえたらしく、髪をアッシュブロンドに染めた女の子がぞんざいな口調で、ドライバーだよと言った。はじめて見る顔だった。酒をふるまわれる理由を知りたいと思い、こっちで飲まないかと姉妹は声をかけた。二人の女の子は笑みをこぼすと、それぞれAKをむぞうさにつかんで席を立った。ひなびが彼女たちのテーブルから皿やグラスを運んだ。四人は自己紹介をした。アッシュブロンドの子は谷川アイコと名乗った。貧弱そうなからだつきだが、身のこなしは機敏で、薄いブルーのコンタクトレンズが眼差しの陰鬱《いんうつ》さを強調していた。もう一人は黒髪の、恐ろしく上背がある漢族の女の子で、万里《ばんり》という名前だった。
「あたしたちは芳蘭の南側のターミナルを使ってるんだ」万里が言った。
ひなびが芋焼酎の封を切り、グラスにそそいだ。四人は乾杯した。
「しめいてはいされてるのはしってる」アイコが、ひなびが去るのを待って言った。
「密告するようなことはしない」万里が安心させる口調で言った。
「あそこにいたんだ」アイコが言った。
「いろいろ感じたよ、心が空っぽなのに」万里がシャツの上から二つの乳房に手をそえた。
アイコと万里がトラックターミナルの銃撃場面に遭遇したらしいことはわかった。姉妹は焼酎を飲んだ。強くてうまい酒だった。
「感じたってなにを?」姉妹は訊いた。
「死体を侮辱するなんて獣以下だね」万里が憤る口調で言った。「獣は生きるために死体を食うとか保存はするけど、侮辱なんかしない」
「やつらは勃起したかったんだよ」姉妹は言った。
「ボッキ?」アイコが訊いた。
「政府軍のやつらは」姉妹は言った。「常陸軍の支援のヘリと装甲車に、めためたにやられて、おっかなくて、ションベンもらしたんだろうし、そうやってどうにか、命拾いしたと思ったときに、逃げ遅れた敵を見つけたんだ。しかも女の兵士だった。憎しみが沸騰した。勃起した。男であることを証明するチャンスがきたと思った。全員で、たった一人の敵を追いかけまわして殺した。もう死んじゃってるのに、パンツを脱がして性器をざっくり傷つけた。やつらのなん人かはじっさいに射精したと思うね」
カナブンが飛んできて、アイコのアッシュブロンドの髪の周辺でうるさく羽ばたき、しばらく会話を中断させて、パルテノン公園の池跡の方へ去った。
「男ってのはだいたいそういうもんだ」アイコが薄いブルーの瞳《ひとみ》を光らせた。
「あんたたちは、名前も知らない死体のために、自分の命を投げ出した」万里が言った。
「こしがふるえたよ」アイコが言った。
「たまたまああなったんだ」姉妹は首を横に振った。「あたしたちはその場かぎりで生きてる。厳密に言えばほとんど生きてない。たぶん、もう死んでる」
万里がしばらく考えて言った。
「あたしたちも似たようなもんだけど」
「あたしたちも、たぶん、もう死んでる」アイコが、そのフレーズが気に入った口調で言い、グラスをかかげた。
四人はまた乾杯した。
「きみたち家族は?」姉妹は訊いた。
「孤児だよ」万里がこたえた。
「あたしも」アイコが言った。
「二人でこの近くに安い部屋を借りてる。トラックも共同所有」万里が言った。
おたがいにそれ以上、事情は訊かなかった。初対面だったこともあるが、ことさら訊く必要もないことだった。戦場で、市街地への爆撃で、不発弾で、強盗殺人で、薬物中毒で肺炎で新型性病で、子供たちはあっさりと家族を失う。姉妹は豆腐のチゲをすすめた。アイコが一口食べて、くさってんじゃないのか、と顔をゆがめた。姉妹はくすくす笑った。万里がチゲを食べて、うまいよ、納豆が入ってるんだよ、と言った。
「ケンジをしってる?」アイコが訊いた。
「もちろん知ってる」姉妹は言った。「健二が撃つなと叫んでくれなかったら、あたしたちは殺されてた」
「ちあんけいさつにつれていかれたあとで、ケンジの店にあったものはぜんぶ、せいふぐんにりゃくだつされちゃったんだ」
「そうか」姉妹はため息をついた。
「すくなくとも民間人が七人殺された。カラも死んだ」万里が言った。
「カラって?」
「モンゴル人の女のドライバーだよ」アイコが言った。
姉妹はうなずいた。健二が電話で女のドライバーが腹を撃たれた話をしていたことを思い出した。
「あたしたちがカラを国際医師団の診療所に運んだんだけど」万里が言った。
「けが人でいっぱいでさ」アイコが言った。
府中市本町にNGO〈国際医師団〉の診療所がある。雑居ビルの一階と二階を間借りして、少数のスタッフが交代で勤務する貧弱な医療施設である。
「国際医師団は」万里が言った。「シティのモーセ総合病院にカラのうけ入れを頼んだ。モンゴル人じゃ拒否されるから、日本人だって嘘をついてね。容態が切迫してて、カラの命を救うにはそれしか方法がなかったんだ。カラを救急車にのせて、人手が足りないから、あたしたちが運転して、モーセ総合病院に運んだら、身分証明書を見せろって言いやがった。政府軍の乱射事件があって、混乱してて、身分証明書がいまどこにあるかわからないって説明したけど、やつらはぜんぜん聞き入れない。けっきょく救急車は府中へ引き返した。国際医師団の診療所の廊下で、手術の順番を待ってるときに、カラは死んじゃった。あいつは二度殺されたんだ」
たしかに二度殺されたと姉妹は思った。
「モーセのびょういんに、ロケットだんでもぶちこみたいきぶんだ」アイコが言った。
「相手が病院じゃあ、そんなこともできない」万里が言った。
ひなびがテーブルに近づいてきた。話があるようだった。ひなびがアイコと万里をちらと見た。
「健二の話ならかまわない。彼女たちも心配してる」姉妹は言った。
ひなびがうなずいて言った。
「元カレに電話で相談したんだけど、治安警察にパイプがないわけじゃないっていうの」
「元カレってなにやってる人?」
「便利屋みたいなことやってる。朝鮮族のちんぴらよ」ひなびが嫌ってる口調で言った。
「カネをつくればなんとかなるってわけだ」
「あたしも健二を助けたいけど、見てのとおりその日暮らしのウエイトレスだから」ひなびが腕をひろげ、手のひらを夜空へ向けた。
「あたしたちのトラックを売る」姉妹はためらいのない口調で言った。
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焼酎のボトルを一本空けて料理をきれいに片づけ、テラスにも屋内にも客の姿がとだえたところで、明日も仕事があるからと万里とアイコが席を立った。元カレから連絡はないのかと訊くと、あいつ努力はしてると思うんだけどなにせ小物だから、とひなびが困惑気味に言った。吉報をトラックで待つことにして、月田姉妹は万里たちといっしょにレストランを出た。
「こんど命をはるときは声をかけてくれ。あたしたちもいっしょに命をはる」アイコが吐蕃ビルの駐車場で言った。
唐突な申し出に、姉妹はとまどった。
「会ったばかりだよ」
「あんたたちは信用できる」万里が真摯《しんし》な声で言った。
「しんようする。命をはる。べつにむずかしいはなしじゃない」アイコが言った。
「じゃあ、そのときがきたら」姉妹はとりあえずおうじた。
「かならず」万里とアイコが声をそろえて言った。
四人は固い握手をかわした。万里とアイコがトラックで帰っていった。姉妹は見送りながら、あいつらは本気かもしれないと思った。会ったばかりの人間を信用して命を張る。その決断だけが価値あるものだ。あの二人の口ぶりで言えばそうなる。決断したとたんに命を落とすことになるとしても、決断を積み重ねていく先に待っているのが世界のさらなる荒廃だとしても、この瞬間を生きる原理としては有効かもしれない。姉妹は腹の底に熱いものを感じた。
夜がすっかり明けたあとで、ひなびが、トラックの運転席で仮眠をとっていた姉妹を起こしにきた。
「健二は府中刑務所にいるってわかった」ひなびが言った。「あとはキャッシュが必要。トラックを吉林市場に持ってきてくれって」
「吉林市場のどこ?」姉妹は訊《き》いた。
「あたしが案内する。もう仕事おわったから」
三人はシティ東部へ向かった。台地を切り裂いた道路を降り、かつて沢だった低い土地を走り、鶴川《つるかわ》街道に入った。姉妹はひなびに質問をあびせた。ひなびは嫌がらずに一つ一つていねいにこたえた。静岡市生まれの二十四歳。高校二年の夏に戦争で両親と家を失い、政府軍の脱走兵だった五歳上の兄といっしょに、七年まえ、九竜シティに流れてきた。兄は、ナイトクラブの掃除夫、両替商、ポン引き、たぶんドラッグの売人もやった。ほかにも犯罪同然の仕事をいくつか渡り歩いたのち、ニュータウン・マーケットの食肉卸業者に雇われたのだが、一昨年の秋、諏訪《すわ》地区の友人宅で銃撃をうけて死亡した。
「友だち二人もいっしょに殺されたの」ひなびが言った。
「強盗?」姉妹は訊いた。
「〈虹《にじ》の旗〉が犯行声明を出した」
「虹の旗ってなんだ?」
「女とゲイとレズビアンの武装組織」
「テロだったのか」
「虹の旗が言うには、2月運動のアジトでテロリスト三人を殲滅《せんめつ》」
「まいったね」
「性差別や人種差別の問題で、お兄ちゃんとは意見が合わなくて」
「2月運動のメンバーだった可能性があるわけだ」
「でもお兄ちゃんのこと好きだったのよ」
ひなびの口調は穏やかだった。姉妹は彼女の強さを思った。自分たちがべつべつの道を歩き出せば、そのとたんに二人とも破滅してしまうだろう。
「元カレとなんで別れたの?」姉妹は話題を変えた。
ひなびが返事をする代わりに顔のまえで手を振った。蠅を追い払うような仕草だった。どういうわけか、この問いにだけは最後までこたえなかった。
東京は昼も夜も亜熱帯の気候がつづいているが、露が降りた早朝だけはべつで、ひんやりした空気が運転席の窓から流れ込み、肌を心地よくなでた。トラックは吉林市場に入った。看板には中国語とハングルがあふれ、日本語はほとんど見かけない。元中国人民解放軍の朝鮮族兵士たちが中心になって築いた街だ。いまではシティ東部を実効支配する高麗幇の拠点になっている。ひなびが左手のカフェを指さした。舗道にならべたテーブルでお茶を飲む人々の輪郭を、朝の紫色のやわらかな陽光がうき立たせている。トラックを路肩にとめた。一人の男がテーブルを離れ、のろくさと近づいた。半|袖《そで》の擦り切れたワイシャツを着て、赤と青の縞《しま》模様のネクタイをきつく締めている。
「李賛浩《イ・チヤンホ》よ」ひなびがそっぽを向いて紹介した。
「ようこそ」賛浩がにこやかに言った。
姉妹は自分たちの名前を告げた。短い握手があった。北朝鮮難民の賛浩は、ひなびによれば二十九歳のはずだが、三十代後半のようにもあるいはまだ十代の若者のようにも見えた。容貌《ようぼう》、体格、身なり、いずれも貧弱で、眼には根拠が不確かな楽天の光があった。
「故買屋を呼んでる。とりあえず、お茶にしよう」賛浩が言った。
四人はコーヒーショップのテーブルについた。姉妹は紅茶を、ひなびはカフェオレを注文した。道路の反対側の建物数棟が破壊されて、コンクリートの塊が折り重なっている。
「爆弾テロの現場よ」ひなびが言った。
TVニュースで事件の概要は知っていた。今月の十二日、高麗幇のナンバー1とナンバー2、徐雷《じよらい》と徐震《じよしん》の兄弟が、ナイトクラブで爆殺された。事件の背景には、東京UFとの協調を模索する古参幹部派の擡頭《たいとう》があり、徹底抗戦を主張する徐兄弟との間で対立が深刻化していたという。
「誰がボスになったの?」姉妹は訊いた。
「後継者争いで、小燕《しようえん》派と幹部連合がもめてる」ひなびが声を低めて言った。
「小燕派って?」
「小燕は徐震の未亡人で、中国出身だとか北朝鮮出身だとかの区別なく若手グループの支持をあつめてるの。幹部連合は、徐兄弟と血族関係にある元中国人民解放軍の将校グループで、徐雷の長男を担ぎ出した」
「路線のちがいは?」
「小燕派は東京UFと対決路線。幹部連合は協調路線」
「どっちの派閥にも、友だちがいっぱいいるんだ」賛浩が言った。
「チャンホはもめごとが嫌いなの」ひなびが言った。
紅茶とカフェオレがとどいた。
「仕事の話をしよう」賛浩が安物のネクタイをなおした。「車の査定はプロがやる。ワイロがいくら必要になるかってことは、そいつが大物か小物かでちがってくる」
「無学な十九歳のただの雑貨屋だけど」姉妹は言った。
「政府軍の恨みだとか、ほかの要素もあるから、いますぐ見積もりを出せって言ってもむりだな」
「まかせる。健二は命の恩人だ。とにかくいそいで」
賛浩がそっと手のひらを向けた。
「まずお茶をゆっくり飲もう。刑務所のドアにたどりつくにはまだまだ時間がかかる。下っぱから幹部まで、なん段階もカネをつかませて、一歩一歩まえへすすまなくちゃならない。やっとたどりついてドアをあけたら、首なしの死体が転がってたなんてことも、ざらにあるからね」
「わかってる。でも全力をつくして」姉妹は言った。
車の故買屋が到着した。トラックをざっと見て、整備工場でテスターを使ってきちんと査定するという話になった。賛浩が別れ際に名刺をくれた。肩書きは〈黒竜エイジェンシー代表〉。名前が二つあった。李賛浩とRIchard・Lee。
「リックと呼んでくれ」賛浩が言った。
「チャンホ」姉妹は愛する人を呼ぶ声で言った。
李賛浩は気分を害したりせず、屈託のない微笑みをうかべ、手を振りながらトラックに乗り込んだ。
「好みのタイプだな」姉妹は言った。
「あんなのが?」ひなびが眉《まゆ》をひそめた。
「ゆるーい感じがグッド」
「やあね」
「それがチャンホを好きになった理由であり、やがて別れる理由にもなった」姉妹は断定する口調で言った。
ひなびはまた顔のまえで蠅を追い払う仕草をした。どちらかといえば姉妹の指摘を肯定したようだった。三人は賛浩の言いつけどおりお茶をゆっくり飲んだ。ひなびがバスで自宅へ帰って間もなく、賛浩から電話が入った。査定額は買値のおよそ三十パーセントだった。
「足りるの?」姉妹は訊いた。
「雑貨屋なら足りるんじゃないのかな。雑貨屋の死体なら、たっぷりおつりがくるはずだよ」賛浩が言った。
13
李賛浩の、人に警戒心を抱かせない善良な雰囲気というものは、生まれながらの詐欺師の証《あかし》に見えなくもなかった。誠実な人物だとしても交渉能力に疑問符がつく。不安はおおいにあった。だが月田姉妹はいら立つようなことはなかった。賛浩を信用したのだ。結果が出たときに、つぎの行動を考えればいい。
吉林市場をぶらついて時間をつぶした。正午すぎ、やけに辛い冷麺《れいめん》をすすり、ひいひい言いながらチューインガムを噛《か》んでいると、万里から電話が入った。常陸軍が中央自動車道を八王子《はちおうじ》IC周辺で封鎖したという。姉妹は安ホテルにチェックインして部屋のTVを点《つ》けた。戦闘がライヴで中継されていた。封鎖線を排除するために政府軍が投入され、常陸軍が激しく応戦した。
賛浩から連絡はなかった。TVは実況放送をつづけた。陽が沈んだころ、八王子IC周辺から政府軍が撤退をはじめ、それを常陸軍の攻撃ヘリが追いかけまわした。戦闘車両がつぎつぎと炎に包まれるのを見ているうちに、姉妹はある感慨にとらわれた。砲弾が飛びかう戦場で輸送をやりとげたあとの達成感や、仲間の信頼をかちえるよろこびが、ドライバーの仕事に熱中させてきたが、それはすでに過去のことであり、同じ生活にもどることはないだろうと思った。
ふと心配になって電話をかけた。隆の元気のいい声が出た。
「TV見てるか」姉妹は訊いた。
「見てる。政府軍は弱いな」隆が言った。
「おまえんとこの長男坊が常陸軍の将校だとわかれば、リュウとメグを政府軍が拘束する可能性があるんじゃないの?」
「やばいかもしれない。だから立川基地の近くに移ってこいってカイトが言ってるんだけど、メグがぜんぜん聞き入れない」
「メグはなんで反対してるの?」
「軍隊のつごうで、あっちうろうろ、こっちうろうろするのは、もうごめんだ、さっさと停戦して和平交渉をはじめろ、っていうのがメグの言い分」
「彼女は正しい」
「あの女はいつも正しい。そこが気に入らないね」
「リュウ、おまえのこと大好き」
「気持ち悪いな」
「イリイチ夫人の方はどうなの? まだそのマンションにいるの?」
「あっちも事情はまったく同じだよ。おばちゃんもメグと同じ意見でさ、ぜんぜん動く気がない。離婚するとか言ってさわいでる」
「離婚しちゃえばいいのよ」
「ひでえこと言うな」
「養育費さえもらえば男なんか用なしじゃないの」
「ところでおまえは桜子か? 椿子か? いまどっちがしゃべってんだ?」
「あたしたちだよ」
「どっちだっていいってことか?」
「桜子は椿子、椿子は桜子、あたしたちをべつべつの人格にわけることはできない」
「なんかやらしいな」
「なにがやらしんだ」
「自分てものがないじゃないか」
「それがいいことなのか悪いことなのか、人生の意味を問うことと同じで、あたしたちは関心がないんだ」
隆のわざとらしいため息が聞こえた。
「メグと電話代わろうか」隆が言った。
「きょうはやめとく」姉妹は即答した。
電話を一方的に切った。自分と世界の関係を決して誤読せず、ありとあらゆる矛盾に耐えて生きようとする恵の強さが、姉妹はいささか苦手なところがあった。TV画面にはまだ八王子IC周辺が映し出されている。日没から時間が経ち、闇にとざされた戦場のどこかで火の玉が炸裂《さくれつ》して、戦闘車両の機関砲のシルエットを、一瞬うかびあがらせた。そこで電話が鳴った。賛浩だった。
14
「いま府中刑務所。死体の値段で話がついたよ」李賛浩の薄暗い声が耳にとどいた。
「健二は死んでるの?」月田姉妹はびっくりして訊《き》いた。
「ほとんど死んでる。からだじゅうがむらさき色で、けつの穴から空気を入れたみたいに膨れあがってる。息はしてるのかしてないのか、おれにはよくわからない」
「病院へ運んで!」姉妹は電話に叫んだ。
「むだじゃないかな」賛浩が落ち着き払って言った。「経費もむだになるし」
「いいから運んで!」
「じゃあモーセ総合病院でいいか?」
姉妹は短い沈黙をおいた。
「国際医師団の診療所よりまし?」
「比較にならないね。おれのおふくろが日本人なら、おれでもぜったいモーセの病院へいく」
「健二の母親が日本人だっていう証明はできるの?」
「ひなびに連絡して健二の弟を連れてきてもらうよ」
「じゃそうして」
姉妹は電話を切ると、タクシーをつかまえるために、夜の吉林市場に飛び出した。
シティ西部の永山《ながやま》地区の台地の上にあるモーセ総合病院のロビーで賛浩が待っていた。弟の雅也が手続きをすませ、健二はすでに手術室に入ったという。ロビー、廊下、手術室、どこの照明も薄暗かった。国際医師団の診療所よりましとはいえ、貧者のための医療機関の例にもれず、医療スタッフ、麻酔薬、抗生物質、自家発電のための燃料、そのほか必要とされるあらゆるものが不足していた。だが若くてタフな医療スタッフが自己犠牲的な態度で治療にあたってくれた。彼らが狂信者であるにせよないにせよ、姉妹はそれには率直に感銘をおぼえた。
手術と再手術があった。大量の輸血が施された。血液の在庫はすぐに底をつき、近隣の血液センターからかきあつめるために、姉妹はトラックを売却したカネの残金を差し出した。
健二の意識はもどらず、危険な状態がつづいた。姉妹は、暑く暗い廊下に段ボールを敷き、交代で仮眠をとりながら、弟の雅也といっしょに医療スタッフを手伝った。三日目、姉妹が殺人罪と国家反逆罪で指名手配されていることが、病院側にバレた。
「モーセはきみたちに感謝してる」ゲイが熱をあげそうな美しい顔立ちの事務長が言った。「いまなおきみたちの力を必要としている。でも政府に弾圧の口実を与えたくないんだ。悪いけど出ていってほしい」
15
常陸軍は中央自動車道の封鎖をつづけた。仕事にあぶれた万里とアイコが、吉林市場の安ホテルに月田姉妹をたずねてきた。四人は酒を飲みながら夜を徹して語り合った。音楽、葉っぱ、セックス、ファッション。モーセの献身と差別への情熱とポスターに引用されたコヘレトの言葉の隠喩《いんゆ》の力。いとうのぶひろの凡庸と狂気。性的マイノリティの武装組織に暗殺された謝花ひなびの兄のひめられた地下生活。戦争を継続させているシステムについて。我々はすでに発狂しているのか否か。話題はあっちこっちに飛んだ。万里は二十三歳で、工学系大学を中退しており、姉妹がアンダーグラウンド・ビジネスをやらないかと持ちかけると、強い関心を示した。
「なにかをおっぱじめようっていうんなら、なかまをあつめる」シティの少女窃盗団のボスだったという十九歳のアイコは、なんでもいいから命を張りたがっていた。
「仲間って、女の子?」姉妹は訊いた。
「ぜんぶ女だ。男にこびるやつは一人もいない」
「かっぱらいと売春と喧嘩《けんか》が専門のごろつきばっかりよ」万里が愛情を込めて言った。
「ひと声で八百人はあつめられるぜ」アイコが豪語した。
八百人の女の子と八百丁のAK、と姉妹は口には出さずに言ってみた。酩酊《めいてい》した脳みそには、なにかが可能な数字のように思えた。だが現実は四人ともかわいそうな失業者だった。健二の救出と治療費のために、唯一の財産であるトラックを手放した姉妹の財布には、数日分のホテル代が残っているだけだった。
九月に入っても健二の意識はもどらなかった。同月四日、姉妹はホテルを出て、李賛浩の部屋に転がり込んだ。軽量コンクリート・ブロックを重ねた粗末なアパートの、板敷きの狭いワンルームで、シャワー、トイレ、キッチンは共同だった。その日の夕方、モーセ代表、いとうのぶひろが、証拠不十分につき釈放された。賛浩の部屋のTVで、姉妹はメディアに囲まれたのぶひろを見た。
「容疑を立証する責任は治安警察にある」マイクにいくらかやつれた顔を向け、のぶひろが素っ気ない口調で言った。「ぼくが無罪であることの証明をぼくがしなければならない責任はない。またそれをぼくにもとめる権利はメディアにも国民にもない。ばかげた騒動がこれでおわることを希望する。以上」
明快で完璧《かんぺき》な論旨だった。のぶひろが記者の質問をさえぎって車の後部座席に消えた。後頭部の髪が薄くなっていた。
「メディアの質問を聞いてると、のぶひろが賢く思えてくるよ。頭抱えちゃうな」姉妹は嘆いた。
深夜、ニュース専門局が、CBC記者の処刑映像を流した。姉妹は賛浩といっしょにそれも見た。冒頭で、八月四日にCBC東京支局にとどけられた映像の、ノーカット版だという告知があった。
TVに三十代なかばの金髪の男のバストサイズが映し出された。顔に傷らしきものはないが、陰鬱《いんうつ》な表情には恐怖と拘禁生活のストレスがうかがえる。画面の右下に〈8月2日〉と日付。重苦しい沈黙のあとで男はかぼそい声で英語をしゃべった。胸のあたりに〈わたしはCBC記者、トマス・マクスウェルです〉とスーパーインポーズが出た。マクスウェルは不安そうに眼をしばたたかせた。自分の身になにが起きるのか、はっきりとはイメージできていない様子だった。カメラがぎこちなくズームバックした。マクスウェルは床一面に敷かれた青いビニールシートの上にすわり、背後の壁は緑と黄の縞《しま》模様のカーテン生地で隠されている。
日本語が流れた。幼さの残る男の声だった。
「CBC記者、トマス・マクスウェル、三十四さい、カナダ国せき。右の者は、応化十四年七月二十八日午後九時四十分ごろ、シティの山王下《さんのうした》一丁目のホテル〈エトワール〉405号室で九さいの日本人少女を犯した。よって神の名においてその罪をあがなわせる」
画面の右から唸《うな》り声とともに半|袖《そで》のポロシャツに綿のパンツの小太りの女が飛び出してきてマクスウェルに殴りかかった。殺してやるという叫び。後ろ手に手錠をかけられたマクスウェルは無抵抗だった。髪をつかまれて引きずり倒された。TVのまえで賛浩が眼を閉じた。どこかで少女の悲鳴が聞こえた。カメラがばたばたと右へパンした。擦り切れたソファで長い黒髪の少女が両手で顔をおおって泣いていた。カメラは四秒ほどその様子を映して、画面をゆらしながら左へもどった。ホーム・ムービー以下のレベルだった。眼出し帽で顔を隠した数人の男が、泣きわめく女をマクスウェルから引きはがして右の方へ連れ去った。画面にはマクスウェルと眼出し帽の男が一人残った。男はマクスウェルを床にすわらせると、ぶ厚い本をひらき、独特の抑揚と節をつけて読みはじめた。
聖書の一節だった。表情はわからないが、男の声のひびきは、じつに気持ちよさそうだった。カメラが固定され、画面が落ち着くと、先ほどまでのばかばかしい感じが消えた。長い長い朗読になった。姉妹はトイレにいくのを我慢しなければならなかった。謝花ひなびが部屋に入ってきたとき、白衣の男はセックスに関する神の掟《おきて》と法のくだりを朗々と読んでいた。犯してはならないのは、母、父の妻、姉妹、孫娘、父方のおば、母方のおば、おじの妻、息子の嫁、兄弟の妻。一人の女性とその娘の両者を犯してはならない。月経中の女性、人の妻、男、動物を犯すのも禁止。白衣の男は一息つき、口角にたまった泡を舌でぬぐいとった。それから聖書のべつのページをひらいた。
「七つの民をほろぼせ」男が言った。
神の命令がつぎつぎと読みあげられた。撃つときはかならず滅ぼしつくさねばならない。彼らと協定をむすんではならない。彼らを憐《あわ》れんではならない。思わず聞き入っていた姉妹は、朗読がおわったことにも、もう一人の眼出し帽の男があらわれて、トマス・マクスウェルの喉《のど》に鋭利なナイフをあてがったことにも気づかなかった。画面の一点から鮮血が噴き出すのを、姉妹は見た。ひなびと賛浩が同時に悲鳴をあげた。トマス・マクスウェルがまえのめりにどさっと倒れた。画像が乱れた。それで唐突に映像が終了した。スプラッター映画とはちがって、あっさりしたものだったが、凄惨《せいさん》さは胸に深く刻まれた。賛浩が引きつけを起こした赤ん坊のように泣き出した。ひなびが賛浩の頭を胸にかき抱いた。それでも賛浩は泣きつづけた。二人だけにしてやるために、姉妹は足音を忍ばせて部屋を出た。
16
シティの中央部を北からアメリカ軍のレクリエーション施設が侵食している。その広大な敷地内にあるゴルフ場のクラブハウスで、月田姉妹は、空軍情報将校、イズール・ダニエロヴィッチ・デムスキーとハンバーガーのランチをとった。
「七つの民を滅ぼせ」イズールが親指についたトマトケチャップをていねいになめながら言った。「申命記の引用だ。もちろん2月運動の場合、特定の七つの人種を指してるわけじゃない。日本人の生活を脅かす不法移民、外国人|傭兵《ようへい》部隊、外国人マフィア、フェミニズム過激派、レズビアンやゲイのムーヴメント、離婚する女、堕胎する女、亭主を言い負かす女房、パンツのヒモがゆるい娘。そういう連中に同調するすべての団体」
「モーセの攻撃対象といっしょだ」姉妹は言った。
「モーセ=2月運動だからね」
「CBCの記者が殺された理由は?」
「九歳の日本人少女をレイプしたから」
「2月運動の言い分を認めるならそうなるけど」
「世界中の紛争地帯で少年少女がレイプされてる。犯人は兵士とはかぎらない。NGOだったり国連職員だったり記者だったり。それがみもふたもない現実だ」
「でもあの事件はちがう」
「根拠は?」
「トマス・マクスウェルは2月運動を取材してたって言うじゃないか」
「記者であるがゆえに、喉をかき切られたっていうことだね」イズールは明らかにランチとおしゃべりを愉《たの》しんでいた。
「マクスウェルは2月運動の闇に踏み込んだ。だから2月運動に抹殺された。それがふつうの考え方だろ」
「いずれCBCが真相を明らかにすると思う。マクスウェルの同僚や上司は、彼が取材対象にどこまで迫っていたか知ってるはずだ」
「なぜいま真相を明らかにしないの?」
「まだ裏がとれてない」
姉妹はうなずいた。クラブハウスのレストランのまえに、父親の手を引っ張りながら金髪の巻き毛の小さな男の子が出てきた。父親がラジコンのヘリを芝生の上に降ろした。攻撃ヘリの精巧なミニチュアだった。エンジンを調整する力強い音がひびいた。
「2月運動は、滅ぼすべき七つの民にアメリカ軍を入れてないの?」姉妹は訊《き》いた。
イズールが首を横に振った。
「たとえば、2月運動がこのクラブハウスに爆弾を放り込んだとする。ぼくたちは彼らの通信を二十四時間三百六十五日盗聴して、精密誘導爆弾で幹部を片っ端から暗殺しちゃうだろう」
「報復が怖いわけだ」
「だから彼らはアメリカ軍の罪を問わない」
「卑劣だな」
イズールは、ほんの短い時間、考えた。
「卑劣とは言えない。それはプラグマチズムだ。もともと狂熱とプラグマチズムはけっこう親和性があるんだ」
「なるほど」姉妹はアイスティーをストローで飲んだ。「事件の真相はともかく、聖書ってやつが、なかなか興味深い読み物だってことがわかったよ」
「歴史の過酷さに試されて、それでもなお生き残った言葉の束だからね」
「怪しげなテロリスト集団が、適当にカットしてリミックスしても、聖書が本来持ってる言葉の力は失われない。そこがすごい」
「旧約聖書という言葉じゃなくて、きみたちがあれをたんに聖書と呼ぶのは、まことにフェアな態度だと思う」
「旧い契約だなんて差別的な言い方じゃないか」
姉妹の言葉に、イズールのゴルフ焼けした顔がうれしそうに微笑んだ。ふいにエンジン音が高まった。姉妹は芝生へ視線をめぐらした。ラジコンのヘリが急旋回して森の方へ飛び去るのを、靴磨きや煙草売りの子供たちがぽかんと口をあけて見送った。遠く砲声がとどろいている。軍事評議会が停戦を呼びかけているが、連合軍はまだおうじていない。
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高橋・ガルシア・健二が、十一日と半日間、意識を混濁させたまま眠りつづけたのち、九月六日午後四時ごろ、二人の弟の呼びかけにはじめて反応した。顔はまだ痛ましく腫《は》れあがっていたが、眼を薄くあけ、微笑み、つぶやく声を出した。みんなげんきにしてるか。ひげ面の若い主治医が兄弟の肩を抱きよせて、これでだいじょうぶだと言った。その場に立ち会った謝花ひなびは、奇跡が起きたと思ったという。
吉林市場の西の高台にある朝鮮料理店のテラスの、ながめのいいテーブルを、李賛浩が予約した。ひなびも、勤務先のレストランの同僚に休みを替わってもらって駆けつけ、月田姉妹たちとささやかな祝宴をひらいた。乾杯を連発した。健二の生還の奇跡に、賛浩の交渉能力に、ひなびの友情に、商売道具を売り払った姉妹の豪気に。
「モーセの医療スタッフに乾杯」姉妹はマオタイ酒のグラスをかかげた。
「乾杯」ひなびと賛浩がおうじた。
マオタイ酒を一息で飲み干した。賛浩が四つのグラスにつぎ足した。ひなびが長ねぎのチヂミを箸《はし》で小さく分けながら、モーセに乾杯するのは複雑な心境ではあるけれど、とつぶやく声で言った。
「たしかにね」姉妹は言った。
「あの人たちは」ひなびがチヂミを口に運び、ゆっくり噛《か》み砕いてから言葉をついだ。「まともにお給料をもらってないはずよ。お金持ちを相手にすれば、いい暮らしができるのに。自分の強い意思で貧しい生活を選択して、献身的にはたらいてる。だけど狂信的な差別主義者。そういう人たちと、どうつき合っていいのか、正直言ってよくわからない」
「できればモーセには近づかないことだよ」賛浩が言った。
「シティの西半分じゃそうはいかない」ひなびが首を横に振った。「あの人たちは隣人なんだから」
高麗幇が支配する東部では、モーセは完全に沈黙している。ポスターを見かけることもない。だがシティ西部はモーセの拠点である。彼らは、病院と学校と孤児院を経営し、低利の金融サーヴィスをおこない、日本人貧困層の生活に強固なネットワークを張りめぐらしている。姉妹はグラスをかかげ、ひなびをちらと見て、2月運動に身を投じた兄との葛藤《かつとう》に苦しんだにちがいないと、胸のうちを察したが、その話題にはふれなかった。
「厄介な隣人だな」姉妹はまたマオタイ酒を一息であけて、ため息まじりの声で言った。
ひなびがうなずき、それから笑顔を向けて、これおいしいよと、小さく分けたチヂミをすすめた。姉妹はチヂミを口のなかに放り込んだ。ウエイトレスが湯気の立つ鍋《なべ》をテーブルの中央にでんとおいた。
「チャンホと別れた理由はこれよ」ひなびが鍋から顔をそむけて、非難する口調で言った。
「さあ食え。一晩に百人の男をノックダウンできるぞ」賛浩が言った。
「なに」姉妹は訊いた。
「ウー、ワンワン、ワン」
犬肉ははじめてだった。賛浩が小鉢にとり分けてくれた。姉妹は食べてみた。薬草の風味がたっぷり効いた肉は、正直言ってなじめなかった。
「スープならなんとか」姉妹は言った。
「じゃあスープだけでも」賛浩が言った。
ひなびは嫌がって、椅子ごとテーブルから離れ、水玉模様の扇子で顔をあおいだ。
「あなたたち、仕事はどうするの」ひなびが訊いた。
「横田基地でドラッグでも売ろうかと思ってる。ジャンキーの情報将校を知ってるから」姉妹は言った。
「おもしろそうだな」賛浩が犬の骨にかぶりついた。
「基地全体を汚染してやる」
「ブツならいくらでもまわすよ」
「三沢《みさわ》基地から嘉手納《かでな》基地まで、四万人のアメリカ兵をぜんぶジャンキーにしたら、つぎはアメリカ本土をマーケットにする」
「あなたたちがいくら怖いものなしでも、そんなのむりね」ひなびが言った。
「どんな計画も最初は非現実的に思えるものさ」
ひなびが首を横に振りながら、トイレに立った。テラスのテーブルは満席だった。二つ西隣のテーブルに男二人と女二人の四人連れの客がいた。知的な感じの中年女と、鋭い眼差しの若い女が、額をよせて言葉をかわしている。男二人は背中しか見えなかったが、右側の男が立ちあがると、こちらのテーブルへ目的のある人の足どりで近づいてきた。反射的に、姉妹は股《また》にはさんだAKの銃身をにぎった。Tシャツにブルージーンズの小柄な若者だった。
「やあ」若者が言った。
「李明甫《イ・ミヨンボ》だ、おれのいちばん上の兄きの次男」賛浩が紹介した。
「よろしく」姉妹は言った。
「なにも心配はいらない。吉林市場にいればおれたちが治安警察から守ってやる」明甫が言った。
自分たちが指名手配されていることを、明甫は叔父《おじ》の賛浩から聞いたのだろう、と姉妹は思った。
「治安警察から守ってくれるってことは、小燕派なの?」姉妹はくつろいだ調子で訊いた。
明甫が顎《あご》の先でかすかにうなずいて、テーブルに名刺をおいた。
「困ったことがあれば電話してくれ」
姉妹は名刺を見た。組織名や肩書きはなく、名前と携帯電話の番号だけが記してある。
「誰とメシ食ってるんだ?」賛浩が明甫に訊いて、西側のテーブルへ顎を向けた。
そこではじめて姉妹は、賛浩の甥《おい》っ子の背後に、もう一人の男が立っているのに気づいた。こちらは背が高く、すらっとして、薄暗い照明のなかでも、美しい若者であることがはっきりと見てとれた。姉妹は同時に視線を東の方角へはずした。ぼやけた夜空に都心の高層ビル群が蜃気楼《しんきろう》のようにうかび、そのはるか遠くで閃光《せんこう》が走った。爆発音は聞こえなかった。姉妹は、一つ短い息を吐き、視線を佐々木海人にもどした。
「こんなところで、なにしてるの?」姉妹は甘い声で訊いた。
「ちょっとした息ぬきだよ」と海人はこたえた。
海人は、〈FREEWAY〉とロゴの入ったTシャツ、チノパンツ、すり減ったスニーカーという、スラムの若者のありふれた装いだった。だが彼は、煙草売りでも大衆食堂のウエイターでもトイレ掃除屋でもなく、いまや常陸軍の大隊本部付きの作戦将校である。
「ふうん、のんびりやってるのね」姉妹は相手に合わせて言った。
「こんや、時間ある?」海人が訊いた。
「ずっとひまよ」
「じゃあ、あとでゆっくり話さないか」
「うれしい」姉妹はひかえめに言ったつもりだが、声がひっくり返りそうになった。
「渤海《ぼつかい》ホテルのロビーで待っててくれ。車をむかえにやる」明甫が軍隊ふうのきびきびした口調で姉妹に言った。
18
謝花ひなびがトイレからもどるまえに、海人たちは帰った。李賛浩は、海人の素姓についてなにも訊かなかった。それが内部抗争を抱える高麗幇の街で生きる彼なりのマナーだろうと思い、姉妹も説明しなかった。食事がおわると、賛浩は車でひなびを送っていった。
姉妹は手をつなぎ、〈Cry for Happy〉をささやく声で歌いながら、坂道を歩いて下った。メインストリートに出て北へ向かった。渤海ホテルのエントランスで、黒塗りのベンツが待っていた。運転手がドアをあけた。姉妹は乗り込んだ。助手席でボディガードが会釈した。
「ミョンボは?」姉妹は訊いた。
「お友だちを先に送っていきました」ボディガードが言った。
ベンツは吉林市場を北へ抜けて、是政橋に差しかかった。橋を渡れば府中市である。
「どこへいくの?」姉妹はちょっとおどろいて訊いた。
「立川へ」ボディガードがこたえた。
「あたしたちの友だちは前線基地に帰ったの?」
「たぶんそうです」
「友だちはいつシティにきたの?」
「知りません」
「小燕派と接触してたわけでしょ?」
「おれの口からはなにも言えません」
「そりゃそうだね」
ベンツは府中市内で国道20号線に入った。西へ向かい、谷保《やぼ》天満宮の先で政府軍の検問所を通過した。運転手が書類を見せただけで、あとはノーチェックだった。軍事評議会と高麗幇の協定にもとづく特別通行許可証があるからなにも心配いらない、とボディガードが説明した。数百メートル走るとこんどは常陸軍の検問所があった。そこも無事に通過した。
首都攻防戦の最前線だというのに、街には極彩色のイルミネーションがあふれていた。ベンツはJR立川駅まえの高層ホテルに着いた。武装兵士が出むかえた。
「孤児部隊なの?」姉妹は訊《き》いた。
「そうだよ」南米系の手足の長い男の子がこたえた。
我々の戦争は全体としてじつにルーズだ、と上昇するエレベーターのなかで姉妹は思った。そしてルーズであることと残虐性がむりなく同居してる。
19
孤児部隊の兵士に案内されて十二階の客室に入った。海人と中年の女性がソファから立ちあがった。女性は吉林市場の高台のレストランで見かけた人物だった。
「葉郎《ヨウロウ》やエンクルマも遠征軍に参加してるの?」月田姉妹は訊いた。
「いっしょにきてる」海人が言った。
「ガウリは?」
「かれはまだひたちにいる」
「勉強どころじゃないのか」
「こっちがおちついたらガウリをよぶつもりだよ」
「政府軍がメグとリュウを人質にとるんじゃないかって、心配なんだけど」
「おれもさいしょはしんぱいした。でもイリイチ中佐はだいじょうぶだって言うんだ」
「どうして?」
「戦争がはじまってからずっと、武装せい力の司令官のかぞくが東京でくらしてる。政府軍についたり、ねがえったり、たちばをころころかえてる。だけど、かぞくがひとじちにされたことは、いちどもないって話だ」
姉妹はうなずいた。イリイチ自身が寝返りをくり返してきたのだから、そういうことなのだろうと思った。やはりこの戦争はルーズなのだ。中年女性が握手をもとめてきた。ほっそりした長い指の、やわらかな手のひらだった。
「森です」
夏のブラウスとスカートを身につけた森は、姉妹よりも拳《こぶし》二つぶんほど背が高く、胸にも腰にもボリュウムがあるが、人を威圧するような雰囲気はない。
「桜子です」姉妹の一人が言った。
「椿子です」もう一人が言った。
「いつもカイトからあなたたちの話を聞かされてる」森が陰影のある声と表情で言った。
「森さんも軍人?」姉妹は訊いた。
「いわきの小さな武装勢力の、非戦闘部門を担当してる」
「常陸軍と行動をともにしてるの?」
「去年の秋から」
姉妹は海人にうながされて、ソファに対面する椅子に腰かけた。部屋はゆったりしたスペースのツインルームだった。森がグラスに赤ワインをそそいだ。四人は出会いと再会を祝福した。
「小燕派と接触したってことは、常陸軍も東京UFとは対決路線をとるってこと?」姉妹は訊いた。
「戦争をおわらせるために、いろんなせい力と話しあわなくちゃならない」海人が言った。
「ちゃんとこたえろよ」
「きみたちは民間人だ。くわしい話はできない」
海人は話を打ち切るようにワインを口に運んだ。電話で話すときの印象とちがって、軍人の毅然《きぜん》とした態度がはっきりと伝わってくる。
「武装勢力の非戦闘部門担当って、どういう意味?」姉妹は森に訊いた。
「わたしたちはンガルンガニ=夢の時と名乗ってる」
「武装勢力の名づけ方としちゃ変わってるな」
「そうね」
「なにか旗をかかげてるの?」
「そう、旗をかかげてる」森が声を出さずに笑った。「いわきで娼婦《しようふ》が自分たちの人権を守る運動をはじめたのが、ンガルンガニの出発点なの」
「売春を合法的で正当な労働として認めさせようっていう運動?」
「それが基本にある」
「森さんは労働運動の専門家なの?」
「四、五年まえまで、わたしも現役の娼婦だったのよ」森がちょっぴり誇らしげに言った。
姉妹の問いにこたえるかたちで、森が、いわき市の娼婦たちの血にまみれた冒険|譚《たん》を語った。ンガルンガニという組織の名前の由来。いわき軍による大弾圧と武装闘争への転換。孤児救出作戦における海人との出会い。孤児部隊の英雄的な闘いと、孤児院〈イーハトーヴの森〉が設立された経緯。イーハトーヴの森は、海人が実質的な創立者で、いまもスポンサーになっているという。
「カイトは、そういう話をいっさいメグとリュウにしてないのよ」森が言った。
「あたしたちもはじめて聞いた。おどろいたね」姉妹は率直に言った。
「話せばカイトへの敬意が生まれるのに」森が責める口ぶりで言った。
「リュウはべつとして」海人が首を横に振った。「メグの頭のなかでは軍隊は一つなんだ。政府軍と反政府軍をくべつすることに、かのじょはいみをみとめない。ぜんたいとして一つの軍隊は、おおぜいの人間をころして、ときどきなん人かをすくう。それをくりかえすだけ。かのじょの考えではそうなる」
「厳しいのね」森が言った。
「メグはそういう女の子だよ」姉妹は言った。
海人がグラスをゆらしてワインの香りを嗅《か》いだ。それを視界に入れながら、はじめて会ったころの海人の記憶を、姉妹はたぐった。あきれるくらいの素直さを感じさせる男の子だった。強い責任感と決断力もあった。いまは、そこに落ち着きがくわわっていると思った。
「ンガルンガニは」森が話をつづけた。「常陸軍といっしょにいわき攻略戦に参加した。武器庫の爆破、敵の背後のかく乱、情報網の構築」
「ゲリラだね」姉妹は言った。
「そのときはゲリラとして。いわきを解放したあとで、カイトの部隊が、わたしの仲間を訓練して、女の正規軍部隊をつくった。兵士の主力は元娼婦。まだ生まれたばかりの二百人の小さな部隊だけど。これは機密でもなんでもなくて、外国の通信社が世界に配信してる」
「孤児部隊が女の部隊をつくったのか」姉妹は感嘆するひびきの声で言った。
「わたしが東京へ出てきたのは、常陸軍が解放した地域に孤児院をつくるため。すでにある孤児院を整備したり、職員の武装が必要ならその支援をするため」
「高麗幇の小燕派にどんな用事があったの?」
「九竜シティの、とくに西部の状況を知りたくて、きょうの昼間、ミョンボに車でざっと案内してもらった」
姉妹は両手の指を折って日数を数えた。
「常陸軍が首都圏に進攻してまだ二週間ぐらいだ。戦況が安定するのはずっと先の話になる。明日だってどうなるのかわからない。そんな時期に、森さんがあわただしくシティを視察する理由がなにかあるわけ?」
森がきれいな眉尻《まゆじり》に指をそえて、もう片方の腕を胸のふくらみの下にまわした。回答をためらうような沈黙が落ちた。
「ある統計によると」森が言った。「首都圏の孤児の八十パーセントが九竜シティに集中してる。車で走るだけでそれを実感した。ものすごい数の子供たちが路上にあふれてた」
「たしかにあれは異常な光景だよ」姉妹は言った。
「印象で言えば、いわきの数千倍」
「シティの孤児を救済しようってわけか」
「できるだけはやい時期に」
「ンガルンガニの孤児院はすべての人種の子供をうけ入れるの?」
「もちろん。わたしたちは人種差別の根絶をめざしてる」
「性差別にも反対だね」
「それも根絶すべき最優先課題」
「ゲイやレズビアンの愛の権利は?」
「断固擁護する」
「シティがモーセの拠点だってことを知ってる?」
「およそのことは」
「モーセが独占的に孤児院と学校と病院を運営してる。排外主義的な互助組織もつくってる。給食、義援金の配布、就職の斡旋《あつせん》、低利の融資、ぜんぶ日本人限定だ。娼婦とゲイとレズビアンは抹殺の対象になってる。つまりンガルンガニはありとあらゆる点でモーセと衝突する」
海人が森と姉妹のグラスにワインをついだ。
「あなたたちはモーセをどう思うの?」森が訊いた。
「ああいう非寛容の団体は苦手だね」姉妹は言った。「でもモーセとンガルンガニは、なんとなく似てるな」
「どこが似てる?」森が軽い関心を示した。
姉妹はグラスのなかのワインを見つめて、しばらく考えた。
「永遠におとずれないそのときについて、いま熱っぽく語ってる」
森が微笑んだ。姉妹の指摘を肯定も否定もしなかった。スカートのなかで組んでいた脚をほどき、膝《ひざ》をぴったり合わせて、いくらか斜めに倒した。でたらめに裁断されたようなスカートの裾《すそ》から、きれいなふくらはぎが、わずかにのぞいている。
「カイトはなにを夢見てるの?」姉妹は訊いた。
「戦争のしゅうけつ」海人が迷いのない口調でこたえた。
「戦争をおわらせないと、貧困と暴力の追放もできない」姉妹は言葉を補った。
「そうだ」海人が言った。
「軍事評議会を打倒して戦争を終結させるという点で、連合軍は一致してる。だからンガルンガニも部隊を参加させてる」森が言った。
海人が心の底から戦争終結を願っていることはわかっていた。森という女も信用できそうだった。常陸軍が立川基地を陥落させた日から、ばくぜんと考えてきた構想を、姉妹は話した。
「あたしたちと同盟しないか。中央自動車道の利権を東京UFから奪うチャンスだ。これは軍事評議会の資金源の一つをつぶすことでもある。常陸軍が中央自動車道を封鎖したことで条件はととのったと思う」
「具体的にどうやるの?」森が訊いた。
「まず、常陸軍が東京UFに代わって、甲府軍や信州軍に通行料を払う。つぎに、これまでより安い値段で通行許可証を発行する。同時に封鎖を解除する。中央自動車道の輸送量の四十パーセントを、東京UF系列の運送会社が扱ってる。リストを渡すから、常陸軍がそいつらを排除してくれればいい。あたしたちが新しい会社をつくって、代わりのトラックを用意する」
「あなたたちの仲間はどれぐらいいるの?」
「女の子四人とAK四丁」姉妹は平然と言った。
「むちゃくちゃだ」海人が顔をしかめた。
「四人が命を張る。常陸軍が決断する。それで仲間はいっきに増える」
海人が大きな窓へ視線を逃がし、そのままふらっと立ちあがると、窓辺の方へ歩いていった。
「コンボイを組んでいっしょに武装強盗と闘った連中は信頼できる」姉妹は、海人は放っておいて、森に強調した。「東京UFが発行する通行許可証がばか高くて、中小の運送会社は苦しんでる。そのしわよせがドライバーにきてる。小さな火花が散ればかならず大爆発が起きる」
「新会社を立ちあげようとしても、東京UFが許さない」森が声に厳しさを込めた。
「武力衝突は不可避だ。ドライバーは全員武装してる。女のドライバーも戦闘経験がある。街でたむろしてる不良少女たちも武装させる。常陸軍が武器と弾薬を補給してくれたら闘える」
「東京UFで手に負えなくなれば、軍事評議会が戦闘部隊を投入してくる」
「それを口実に常陸軍は府中に進攻すればいい。我々の武装部隊が常陸軍に呼応する」
「すくなくとも」森の眼差《まなざ》しがいくらか光を帯びた。「誰かが武装ドライバーを組織化する必要はあると思う」
海人が窓辺から暗い声で言った。
「きみたちは、まだはたちになったばかりだ」
「年下のくせにえらそうに言うな」姉妹は強い口調で言い返した。「カイトは十九歳で准尉だろ。数百人の戦闘部隊を指一本で動かせる。はなたれ小僧でも小さな都市なら占領できるってことだ。こういう時代に、年齢とか性別は関係ない」
「おれは軍人になるしかなかった。きみたちはすごく頭がいい。命をはるとか、ばか言ってないで、べんきょうをつづけるべきだ」
「あたしたちは政府軍兵士を殺して、国家反逆罪で指名手配されてるんだぜ」
「ほっかいどうへにげろ。外国にりゅうがくする手もある。むかしとちがって、おれはきみたちをたすけられる」
「カイトはおかしい」姉妹は指を突き立てて鋭く言った。
「どこがおかしんだ」
「あたしたちを宝石箱に閉じ込めようとしてる。ダイヤモンドやルビーや金の鎖みたいにね。カイトはときどき宝石箱をあけてにやにやする。そういう関係にしておきたいっていうのが、カイトの望みだ」
「いみがわからないよ」
「カイトはンガルンガニの若い女を訓練して、砲弾が飛びかう戦場に向かわせてるだろ。彼女たちが選択できる道は二つに一つだ。殺すか殺されるか。内臓をはみださせてママ、ママと泣くか、敵に同じ思いをさせるか」
「それが戦争だ」
「悪の極限の世界だ。もう一方は宝石箱。彼女たちとあたしたちをなぜ区別する。はっきり言おう。これは女兵士への差別だ。それと同時に、あたしたちの欲望を認めないで、宝石箱のなかに閉じ込めようとするのは、あたしたちへの差別だ」
「桜子と椿子が言ってることはまったく正しい」森が言った。
海人がテーブルに近づいて、ほとんど飲んでいない自分のワイングラスをつかむと、無言のまま窓辺へもどった。東京UFから中央自動車道の利権を奪う話は、それ以上進展しなかった。姉妹の方もこだわらなかった。治安警察に追われている浮浪児のような二十歳の小娘の提案である。しかも現有戦力は女の子四人とAK四丁。荒唐無稽《こうとうむけい》だと聞き流されても、いまの段階ではしかたがないだろう。電話が入り、海人が大隊本部にもどることになった。
「ゆそうぎょうかいとドライバーのじょうほうをあつめてほしい。もちろんけいひをはらう」海人が事務的な口調で言った。
姉妹はそれを、職とトラックを失った自分たちへの海人の気づかいとうけとめて、快諾した。地下銀行の口座番号を教えろと言うので、紙切れに書いて渡した。
「最後に一つだけ質問。常陸軍は中央自動車道をどうコントロールするつもりなの?」姉妹は訊《き》いた。
「軍のきみつだ」海人が威厳をひびかせた。
「TVとラジオでだいたいのことはわかってる。封鎖して、首都を締めあげる。これが一つの選択だ。それとはべつに、封鎖は甲府方面の戦況を左右する問題でもある。封鎖をつづければ、弾薬がつきて、甲府軍が倒れる。そうなれば、信州軍が西から首都に迫る。常陸軍はどうするの? 信州軍を、甲府で足どめにするつもりなのか、首都に引き入れるつもりなのか、どっちなの?」
海人が慎重な口ぶりで言った。
「信州軍と同盟するのかしないのか、はんだんがびみょうだ。もちろん、そういう、せんりゃくてきにじゅうようなばしょだから、おれたちは、でんげきてきに、立川基地をかんらくさせたんだ」
海人はグラスをテーブルにもどして、もういかなくちゃならないと言った。常陸軍の准尉としては、話せるのはそれが限界だろうと、姉妹は納得した。別れるまえに、姉妹は海人を強く抱擁した。
20
海人が厳しい顔つきで部屋を出ていった。オートロックがかかる音を確認すると、姉妹はコンソールを操作して、入口のスポットライトとフロアスタンドを消した。ベッドサイドの二つのライトのほのかな明かりだけが部屋を照らした。その明かりをさらに絞った。ラジオをつけた。古いカントリー・ミュージックが低く流れ出した。姉妹はきつく巻いたマリファナに火を点《つ》けた。
「葉っぱぐらいどうってことないのに、あいつ頭固くて」姉妹は言った。
「怒るの?」森が言った。
「がっかりした顔でね」
マリファナを差し出した。森が黙ってうけとった。そういう女だと思っていた。姉妹はソファに移動して、森の両隣に腰をかけた。三人でマリファナをまわして吸った。
「あなたたちがンガルンガニを警戒する気持ちはわかるな」森が言った。
「旗をかかげる。異端分子を殲滅《せんめつ》する。世界を浄化する。そういう政治主義はくそ食らえだ」姉妹は言った。
「世界を変えたいっていう欲望はないの?」
「ないね」姉妹は即答した。
「ないのか」森が残念そうに言った。
「戦争を継続させているシステムを破壊したいとは思ってる」
「それならいっしょにやっていけるじゃないの」
「ドラッグ経済も破壊すべきだね」
「マリファナは?」
「これは人の気持ちをハッピーにさせる、ただの葉っぱだよ」
「売春の合法化は?」
「合法化して娼婦《しようふ》の権利と尊厳を守るべきだ。性差別と人種差別と年齢差別とあらゆる差別にぜったい反対。でもそういうのは、それぞれの局面でとる態度にすぎない。いまここで、世界の混沌《こんとん》に身を投じること、それがあたしたちの欲望」
「見果てぬ夢を語ったりしないで」森がマリファナの効き目があらわれた心地よさげな表情で言った。
姉妹は理解されてうれしいという笑みをこぼした。三人はすでにじゅうぶんにリラックスしていた。ほのかな明かり、部屋のすみでたわむれている暗がり、衣服の襞《ひだ》の繊細な陰影、見えるものすべてが美しかった。ぜんぶ灰になるまでマリファナを吸った。
「ねえ、名前は?」姉妹は訊いた。
「まり」森がこたえた。
「モリマリ」
「そう、モリマリ」
「したいな」姉妹は森の耳もとでささやいた。
短い沈黙が落ちた。意味がわからない、と森が言って、くすくす笑い出した。姉妹の一人が森のスカートの膝《ひざ》に、もう一人がブラウスのボタンに手をかけた。ほんの数秒間だけ、羞恥心《しゆうちしん》が彼女に抵抗をさせた。だが、肺に溜《た》め込んだ空気を吐き出すと同時に、自分から腰をうかして、姉妹の作業を助けた。夏のブラウス、スカート、パンティ、ブラをはぎとって、そのへんにぽいぽいと放り捨てた。元セックスワーカーの、脂がのったすばらしい肢体が、ほのかな明かりにうかびあがった。森の燃えるような眼差しのなかで、こんどは姉妹が素裸になった。森が待ちきれずに両腕をひろげた。左右に抱きかかえられた二人は、美しい形状の、量感をたたえた森の乳房に、それぞれの側から手を這《は》わせた。どうしてなの、と森が自分自身を疑うようなつぶやきをもらした。おいおい、てめえの欲望に気づかない振りをしようってのか、と姉妹はとがめた。森の頬を両側から平手で叩《たた》いた。めちゃめちゃにして、と森が言った。姉妹は急がなかった。二枚の舌と二十本の指先で森の敏感な場所を一つ一つ探り当てていった。長く辛《つら》い時間が流れた。やがて懇願する森の声を聞いた。うるせえな、と姉妹は一蹴《いつしゆう》した。おまえはいやらしい女だと罵《ののし》った。森が悲しげな声をもらした。姉妹の内部でふいに水位が高まった。それに耐えてなお行為に没頭した。臨界点がきた。姉妹は森の波に合わせて解き放った。三人は同時に叫んだ。森が失神してソファから転げ落ちた。
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第3章 パンプキン・ガールズの誕生
21
海人が地下銀行に振り込んでくれたカネを手に入れると、月田姉妹は、李賛浩のアパートを出て、甥《おい》の李明甫に紹介してもらった吉林市場の部屋数の少ない清潔なホテルで暮らしはじめた。明甫は快活な二十一歳の若者だった。すぐ打ち解けて親しくなり、毎晩のように街へくり出した。むしょうに男の子が欲《ほ》しくなる夜もあり、そんなときは、小燕派が経営する女性専用の売春クラブで遊んだ。
明甫は、十五歳の春に朝鮮族の将校が率いる外国人部隊に入隊して、四年間、北関東から信越地方を転戦したのち、シティにもどって高麗幇の内部抗争に参加した。それが二年まえである。彼のような戦闘経験の豊富な若者が小燕派の中核を担っていた。
明甫の話で高麗幇の内情がわかってきた。
爆弾テロで殺された徐雷と徐震の兄弟は、人民解放軍幹部を数多く輩出した軍人閥の出身者だった。彼らは、血族の結束をもとに吉林省で武装勢力を形成していたのだが、日本で内乱が勃発《ぼつぱつ》する前年、漢族系の武装勢力に敗れ敗走した。兄の徐雷に率いられて、血族の大半は日本に脱出し、数年のうちにシティで高麗幇の基礎を築いた。
弟の徐震はさらに十年間大陸に踏みとどまった。残存部隊とともに、誕生間もない極東シベリア共和国に逃れ、彼《か》の地で朝鮮族難民を糾合して、一時期はポシェトの利権の九十パーセントをにぎった。だが共和国軍とロシア系マフィアに挟撃され、徐震もけっきょく、妻の小燕と一人娘と十数人の部下を連れて来日した。九竜暴動を経て高麗幇の支配地域が定まった、応化十一年秋のことである。
徐雷は弟の徐震を重用し、今年の春、後継者に指名した。徐一族の古参幹部たちが徐雷の方針に激しく反発した。それが内部に深刻な亀裂《きれつ》を生んだ。一方、シティのならずものから外国人部隊を経て成りあがった明甫たち若手グループが、徐雷と徐震の兄弟を公然と支持した。この二つの勢力にはべつの対立軸が重なっていた。東京UFに対して、古参幹部たちは協調路線を唱え、徐雷と徐震の兄弟はこれまでどおり徹底抗戦を主張した。
明甫に言わせると、徐震がボスになれば、路線問題の解決と同時に、門閥にとらわれない幹部の選出方法が確立するはずだった。
「弟の徐震は」明甫が言った。「徳も胆力も、ボスにふさわしい人物だった。ほんとにぴかいちの男だった。だから数年以内に徐震をボスにして、能力や実績におうじて幹部を配置する新体制の確立をもくろんだ。それがうまくいけば路線問題にもけりがつく。ところが、のんびりしてられないことがわかった。古参幹部たちが暗殺計画をすすめてた。おれたちは徐兄弟に言ったんだ。粛清をやりましょう。徐兄弟は悩みに悩んだすえに、おれたちの方へ足を踏み出す寸前のところまできて、どかんと爆弾が破裂した」
高麗幇は二つに分裂した。古参幹部たちは徐雷の十七歳の長男を押し立て、〈幹部連合〉を旗揚げした。明甫たち若手グループは、徐震の未亡人、小燕をボスに担いで結束した。兵力は、幹部連合が千二百人、小燕派が九百人。
「頭数じゃ負けてるが、戦争になったら、おれたちは半日で勝利宣言を出す」と明甫は言い切った。
吉林市場の生活は、小燕派と幹部連合の小競り合いで緊張が高まるときもあったが、全体として平穏のうちにすぎていった。とりたてて良き兆候も不吉な兆候もなかった。万里が背中に垂らしていた髪を耳が隠れるていどに切りそろえた。アイコの髪はいったん紫色に染められたが数日でアッシュブロンドにもどった。謝花ひなびの話によれば、高橋・ガルシア・健二は、順調とは言えないにしても、確実に快復へ向かっていた。首都圏で大規模な戦闘は発生せず、事実上の停戦状態に入った。水面下の交渉で政権構想が話し合われているとメディアが報じたが、各勢力の思惑が複雑にからみ合って和平への道筋は不透明だった。
常陸軍は中央自動車道の封鎖を解かなかった。甲府軍は、御殿場《ごてんば》から富士吉田《ふじよしだ》市を経由する国道138号線と、富士川ぞいを北上する国道52号線の、二つのルートを使ってかろうじて弾薬・食糧を確保し、信州軍の攻撃をしのいでいた。
国立府中IC周辺では数百人のドライバーが自宅待機をよぎなくされた。九月中旬までに、独立系の運送会社が二つ倒産した。姉妹は、万里とアイコに輸送業界の情報をあつめてもらい、数日にいちどのペースで森まりに電話で報告した。
九月二十日の夜だった。吉林市場の爆弾テロ現場の向かいにあるカフェの、舗道にならべたテーブルで、姉妹は万里とアイコとお茶を飲んだ。命を張る機会がなかなかおとずれないことに、アイコがいら立ちを見せた。常陸軍の出方を待っていたのでは、なにもはじまらないと姉妹も感じていた。
「四人が結束すれば突破口はひらける」姉妹は言った。
「なにをやるんだ」アイコが薄いブルーの瞳《ひとみ》で姉妹をまっすぐ見た。
「武装強盗。まず資金稼ぎをやろう」姉妹は声を低めた。
「資金さえあれば仲間を増やせる」万里が同意して言った。「武装化もできる。運送会社、故買屋、不動産業、ナイトクラブ、どんなビジネスをやるにしても仲間の武装化が絶対条件だ」
「八百人の女の子と八百丁のAK」姉妹は言った。
「女の子のマフィア」アイコがかすかに高揚感をにじませた。
「女の子の幇《ばん》」万里が言った。
「バンってなんだ?」アイコが訊《き》いた。
「高麗幇の幇。幇の原義は幇助《ほうじよ》。つまり犯罪の手助けをすること」万里が言った。
万里の説明が姉妹の脳みそを刺激した。仲間の犯罪を命がけで手助けする。そこから秘密結社がはじまる。悪くないと思った。
「おまえが罪を犯すなら、わたしも罪を犯そう」姉妹は神様がしもべに呼びかける口調で言った。
「いいね」アイコが笑みをこぼした。
「切実な感じがある」万里が言った。
「女の子の幇をつくろう」姉妹は小さく叫ぶように言った。
姉妹はふと西側の歩道橋の上を見た。カップルがいちゃついている。男の方が女のキスをうけながら携帯電話を使った。東の方角で重いエンジン音が聞こえた。姉妹はそちらへ視線を送った。路地から幌《ほろ》付きのトラックがのっそりと出てきて道路をふさいだ。姉妹はすばやく歩道橋へ視線をもどした。カップルが小銃をかまえた。西の高台の方角から白っぽいヴァンが下ってきて、歩道橋の下を通過した直後に、トラックに気づいて急ブレーキをかけた。カフェの客がざわめいた。カップと皿がすべり落ち、嫌な音を立てて砕けた。店内から誰かが舗道に飛び出して小銃を撃った。周辺でいっせいに銃声が鳴りひびいた。姉妹たちは床に伏せた。ヴァンが被弾して窓ガラスが粉微塵《こなみじん》に砕け散り、爆弾テロ現場の瓦礫《がれき》に衝突してとまった。歩道橋の上、カフェのまえの路上、バリケード代わりの幌付きトラックの陰、その三方向から炎を曳《ひ》いてなおも銃弾が撃ち込まれた。ボディに配管工事店の名前を描いたヴァンが、七、八秒間ゆれつづけたあとで静止した。武装した数人の男が駆けより、ヴァンの壊れたドアをこじあけて、死体を四つ、引きずり出した。小柄な男が懐中電灯で死体を一つ一つあらためた。李明甫だった。ピックアップ・トラックが呼ばれ、死体をのせて、どこかへ走り去った。
明甫がAKライフルを手にカフェに近づいてきた。
「やあ、ミョンボ」姉妹は言った。
「おれのサンダル、そのへんにないか?」明甫が訊いた。
明甫は両足とも裸足《はだし》だった。
「店から飛び出して撃ったやつがいたけど、あれはおまえだったのか?」姉妹は訊いた。
「あんとき脱げちゃったんだ」明甫が言った。
テーブルの下や舗道を捜して、姉妹が一つ、万里が一つ見つけた。安物のちびたゴムサンダルだった。明甫がそれをつっかけて、テーブルについた。
「AKを撃つときはスニーカーぐらいはけよ」姉妹は言った。
「ひでえ水虫なんだ」明甫がまじめくさった顔で言った。
「外人部隊にいたときもサンダルだったのか?」
「戦場じゃあ、ちゃんとブーツをはくさ。だから水虫になったんだよ」明甫が言った。
ウエイトレスが水の入ったグラスを持ってきた。明甫がそれをうまそうに飲みほした。
「幹部連合か?」姉妹は銃撃されて穴だらけになったヴァンを示した。
「東京UFの幹部とボディガードだ」明甫が言った。
「幹部連合と東京UFの提携がすすんでるのか?」
明甫がAKの銃身で首の後ろをこすった。
「いまにはじまったことじゃない。おれたちは敵を挑発することに決めたんだ」
歩道橋の右手の方から、パワーショベルがアスファルトをがりがりと削りながらあらわれた。ヴァンの窓枠に、がつんとショベルが食い込んだ。空中に持ちあげられたヴァンは、ボディの裏を見せて、爆弾テロ現場の瓦礫のなかに落ちた。鈍い音がして、薄闇に粉塵が舞いあがった。
「ミョンボ、あたしたちに小火器の扱い方を基礎から教えてくれないか」姉妹は言った。
「なにを考えてる」明甫が警戒する口ぶりで訊いた。
「相模湖ルートの東京UFのドラッグを強奪する」姉妹は顔をよせて言った。
明甫が顎《あご》の先端で小さくうなずき、自分のその反応に悩むような顔つきになった。中央自動車道相模湖ICから、神奈川県と東京都の境をとおって九竜シティに入るルートは、軍事力の空白地帯だった。常陸軍に八王子ICを封鎖されたため、東京UFは相模湖ICを使って甲府軍からドラッグを買い付けていた。
「ドライバー仲間から情報が入るのか?」明甫が小さな声で訊いた。
「運送会社の事務屋にも仲間がいる」姉妹は言った。
「実行部隊は」
「ここにいる四人」
明甫が万里とアイコを見て顔をしかめた。
「おまえたち本気なのか?」
「仮の話として、あたしたちがドラッグを強奪して、吉林市場に逃げ込んだら?」姉妹は訊いた。
「もちろん守ってやる。もちろん仮の話として」明甫が笑みを消して言った。
姉妹はウエイトレスに赤ワインを持ってこさせた。四人の女の子が、血の杯の代わりにワインで乾杯して、仲間のために命を捧《ささ》げることを誓い合うのを、明甫は居心地が悪そうに見ていた。万里とアイコは、その場に李賛浩を呼び、彼女たちが共同所有するトラックを売り払って退路を断った。
22
吉林市場のホテルで共同生活をしながら、月田姉妹、万里、アイコの四人は、鶴川街道の南側の山中にある小燕派の射撃場に通いはじめた。彼女たちの熱意に押されて、李明甫が小火器全般の取り扱いを教えてくれた。指導料は無料。弾薬代を実費で払うだけでよかった。拳銃《けんじゆう》、サブマシンガン、AK、5・56ミリ機関銃、手榴弾《しゆりゆうだん》、40ミリグレネードランチャー、ロケット砲。明甫の都合がつかないときは、元中国人民解放軍兵士がインストラクターを引きうけてくれた。毎日、景気よくぶっ放した。ロケット弾など高価なものは訓練用弾を多く使用したが、二週間後には、経理担当の万里が予算オーバーを告げた。
十月最初の木曜日、姉妹たち四人は吉林市場で武器・弾薬と中古のピックアップ・トラック二台を購入して、計画の最終準備に入った。その翌日、金曜日の早朝、突然、戦況が動いた。
常陸軍が、青梅《おうめ》街道、五日市《いつかいち》街道、国道20号線の三つのルートを使って都心の方角へ進撃した。府中基地が猛攻撃をうけると、政府軍は部隊をただちに調布基地へ撤退させると同時に、一個師団を前線に投入して、常陸軍の侵入ルートに防御陣地を築いた。双方が、戦力のむだな消耗をさけたため、午前と午後の計三時間の砲撃合戦と、数ヵ所での小規模な近接戦闘を経て、日没までに銃声はおさまった。常陸軍は、北から西東京市、小金井《こがねい》市、府中市を支配下においた。府中刑務所から解放された数百人の政治犯と、それを歓呼の声で出むかえる家族の姿を、TVが伝えた。
前線の移動にともない、シティの幹線道路に配備されていた政府軍の六つの小部隊が、川崎市方面へ撤退した。イリイチの外国人部隊が関戸橋の北側を、海人の孤児部隊が是政橋の北側を押さえたが、土曜日になっても、常陸軍は橋を渡ってシティに進攻する気配を見せなかった。
姉妹の質問にこたえて、明甫が言った。
「西側にしろ東側にしろ、どんな軍隊もシティを支配することはできない。常陸軍だってそのへんのところはちゃんと心得てるってことさ」
土曜日の夜、停戦合意が成立したと軍事評議会が発表した。翌日曜日の午後になると、常陸軍が月曜日の午前零時をもって中央自動車道の封鎖を解くという噂が流れた。姉妹は確認するために海人に電話をかけた。
「ふうさをとく」海人が断言した。
「甲府軍が危ないのか」姉妹は訊いた。
「そういうことだ」
「信州軍の首都進攻を阻止する、という選択を常陸軍はしたわけだ」
「とりあえずは」
「輸送の利権はどうなる?」
「通行権はおれたちがにぎる。それいがいは、げんじょういじだ」
「東京UF系列の運送会社を中央道から締め出せ」姉妹は強い口調で言った。「やつらに通行許可証を発行するな」
「きみたちのさしずはうけない」
「東京UFをつぶす気がないんだな」姉妹はとがめた。
「作戦にはゆうせんじゅんいがある」海人が辛抱強く言った。「まず甲府軍支援。ゆそうのこんらんはさけるべきなんだ」
海人の言葉に姉妹は舌打ちをしたが、常陸軍の現実的な対応としては、そういうことなのだろうと思った。戦況の変化をうけて、ドラッグ強奪計画を修正する必要があった。中央自動車道の封鎖が解除されれば、相模湖ルートは使われなくなる。姉妹と万里とアイコは、吉林市場のホテルの部屋で作戦会議をひらいた。
月曜日の早朝、常陸軍が中央自動車道の封鎖を解除した。国立府中IC周辺のトラックターミナルが活気づいた。万里とアイコが偵察にいき、検問には孤児部隊があたっていると報告をよこした。姉妹はピックアップを運転して府中市に向かった。
海人に共同作戦を持ちかけるつもりはなかった。彼の感情を傷つけるだけで、まず実現しないだろう。イヴァン・イリイチと手を組むというアイデアは検討してみた。新宿区戸山の高層マンションで、恵や隆と暮らしていたころ、イリイチと二度会ったことがある。金髪青眼の大男で、眼差《まなざ》しにも声のひびきにも、戦場に憑《つ》かれた病者の徴《しるし》がはっきりと見てとれ、彼に美しい妻と無垢《むく》な幼子がいる現実が信じられなかった。だがあのイリイチでも、無謀だと言って相手にしてくれないだろう。
ンガルンガニ=夢の時は、常陸軍の府中市進攻と同時に、馬場大門けやき並木に面したビルに臨時事務所を開設していた。外壁にポスターがべたべた貼ってあった。AKをかまえる女兵士の写真に重ねた〈志願兵募集〉の文字。姉妹はエントランスを警備している女兵士に用件を伝えた。
姉妹は二階にある森まりの部屋に案内された。親密な抱擁をかわした。
「志願兵はあつまってくる?」姉妹は訊《き》いた。
「飛び込みはすくない」森が言った。「性的マイノリティの抵抗組織がいろいろあって、そこへのはたらきかけが活動の中心になる」
「シティの虹《にじ》の旗とか?」
「そうね。大事な話ってなに?」
三人は粗末な会議用のテーブルについた。
「シティの聖ヶ丘に武器・ドラッグ市場があるのを知ってる?」姉妹は切り出した。
「聖ヶ丘パークね」森が言った。
通称〈聖ヶ丘パーク〉は、九竜暴動の終結に際して、諸勢力の協定で認められた東京UFの利権である。甲信越や東海地方への武器・弾薬の補給基地の役割を果たし、また大量のドラッグが集荷されて、国内外のバイヤーが買いつけにくる。
「多摩西部運輸が、甲府方面から仕入れるドラッグの輸送を独占的に扱ってる」姉妹は言った。「経営者は東京UFの幹部だ。事業所が国立府中ICの近くにある。多摩西部運輸を見張ってれば、ドラッグ輸送車を見分けるのはかんたんだ。空のトラックを使う。ふつうは二台の護衛車がついて、六人から八人の軍隊経験者が乗り込む。武器は小銃、マシンガン、ロケット砲。甲府でドラッグを積むと、帰りは、直接、聖ヶ丘パークへ搬入する。我々はそれを強奪しようと思ってる」
「我々って?」森が訊いた。
「このまえ話したとおり女の子が四人。有り金をはたいて、二週間、小燕派に武器使用の特訓をうけた。拳銃からロケット砲までそこそこ扱えるよ」
森は考える眼差しになった。
「常陸軍は東京UFと、輸送の安全を保証する協定をむすんでる」
「輸送車がシティに入ってから襲撃する。そうすれば常陸軍には迷惑がかからない」姉妹は言った。
「わたしになにをしてほしいの?」
「国立府中ICの検問を孤児部隊がやってる。ンガルンガニの部隊と交代できないかな」
「そんなことなら今夜でも可能よ」
「輸送車の出発は、我々が把握して、車の型とナンバーをモリマリに教える。向こうでドラッグを積んだ輸送車が、帰ってきて、国立府中ICを降りた時点で教えてほしい。我々がシティで待ち伏せ攻撃を仕掛ける。成功したら情報提供料として五パーセントを支払う」
「オーケー」
「荒唐無稽《こうとうむけい》だって思わないの?」
森が首を横に振った。
「最初の一撃は、おうおうにして、人生経験の浅い若者によって放たれる。成功すれば道がひらける。失敗すればすべてを失う。やってみる価値はあると思う」
「そういうことを言ってくれるのはモリマリだけだ」姉妹は破顔した。
「うまくいくといいね」
「作戦が成功したらまた遊ぼう」
「遊ぶって?」
「立川のホテルのお愉《たの》しみのつづきだよ」
「あれは事故のようなもんだから忘れてちょうだい」
姉妹は、ほんの短い時間、森の言葉に考えをめぐらした。
「悪くなかったってことだろ?」
「願わくはいつも事故のように」森が微笑んで言った。
23
恐怖や後悔の念はなかった。成し遂げる強い意思だけがあった。ただしアメリカ軍施設の西側のフェンスぞいにとめた廃車同然のセダンのなかで、月田姉妹は待つという苦行に耐えねばならなかった。十月十四日、午後七時四十八分、ラジオがノイズのひどい音でフィリピン人の女のシンガーが歌う〈ディープ・イン・マイ・ハート〉を流しはじめるのと同時に、森まりから電話が入った。ただちにセダン一台とピックアップ・トラック二台が関戸橋へ向けて出発した。
関戸橋をシティ側に渡ってすぐ、鎌倉街道が川崎街道と交わる信号がある。三台の車は四分と少々でその信号に着いた。スカーフで眼から下を隠した万里とアイコが、AKと使い捨てのロケット砲を携帯して、それぞれのピックアップから降りた。姉妹はセダンを運転して、シティ中心部の方角へ鎌倉街道をのろのろと走った。後続車がいら立ってクラクションを鳴らした。姉妹はタイミングをはかって、セダンを道路上に斜めに停止させると、すばやく降りた。
闇のなかでヘッドライトの連なりが渋滞をはじめた。机上の計算よりもずっとはやく、アイコのロケット砲が火を噴いた。多摩西部運輸のトラックの後ろについていた護衛車が閃光《せんこう》に包まれた。指を二回鳴らすていどの時間差をおいて、姉妹の眼の前で万里がロケット砲を発射した。炎が走った瞬間、姉妹は車列の陰にからだを投げ出した。もう一台の護衛車が吹き飛んだ。爆風が襲いかかり、赤い火の玉が夜空を焦がした。姉妹はすぐに立ちあがると、停止している多摩西部運輸のトラックに突進した。
激しく抵抗され、やむをえず応射して、トラックを運転不能にしてしまうことをいちばん恐れていた。その場合はピックアップにドラッグを積み替えるしかない。時間との競争になり、全量を奪うことがむずかしくなるが、ほかの有効な手立てを思いつかなかった。作戦の最終段階でのその難点を、ロケット砲で護衛車を破壊するという攻撃の過剰さが補った。トラックの運転手と助手が恐怖にかられて両側のドアから飛び降りたのだ。姉妹は空へ向けてAKを撃った。男たちは野ウサギみたいにぴょんぴょんはねながら、中央分離帯を越えて反対車線側へ逃げていった。姉妹はトラックに乗り込んだ。
信号の関戸橋よりで、アイコが炎上した護衛車へAKの銃弾を叩《たた》き込んでいた。姉妹はその地点までトラックをバックさせ、左折して川崎街道を東へ向かった。万里とアイコのピックアップがついてきた。姉妹は電話で李明甫に事情を説明した。アメリカ軍多摩レクリエーション施設のゲートまえを通過し、高麗幇支配地区に入った。
吉林市場の高台にある自動車整備工場の駐車場にトラックをとめた。明甫が数人の部下を連れて待っていた。
「高原キャベツ八百ケースだ」姉妹は言った。
つまらない冗談だったが、たぶんそれとはべつの理由で、明甫は笑わなかった。部下に命じてトラックのコンテナの錠を破壊させた。扉がひらき、段ボール箱が一つ降ろされた。部下が封を切った。青い錠剤がびっしり詰まっていた。明甫が一錠口に含み、すぐに吐き出して、携帯電話をとり出した。誰かと短いやりとりがあった。会話は朝鮮語だった。
「なかで品質と数量を確認する」明甫が言った。
明甫の部下がトラックを整備工場のガレージに入れた。
「あたしたちは迷惑をかけてるのかな」姉妹はガレージへ足を向けて訊いた。
「べつに」明甫が言った。
「不機嫌そうじゃないか」
「ほんとにやるとは思わなかったんだ」
「電話の相手は小燕か?」
「ボスだ」
「会わせろよ」
「かんたんには会えない人だ」明甫があしらう口ぶりで言った。
「神輿《みこし》に担がれた未亡人じゃないのか?」
「そういう誤解が内部にもあった」明甫はまだ不機嫌そうだった。「だがいまはちがう。あの人には魂がある。おれたちは忠誠を誓ってる」
トラックの積荷がぜんぶ開封された。鑑定のプロが呼ばれて慎重に精査した。極上のドラッグだった。査定額を告げる明甫の声がふるえた。女の子四人は抑制した歓声をあげた。前金としてジュラルミン製のアタッシェケース二個分のドル紙幣をうけとった。
「ボスからプレゼントがある」明甫が言った。
ガレージを出ると、ぴかぴかの黄色いキャデラックと、常陸軍発行の通行許可証が用意されていた。
「やけに気前がいいな。東京UFをもっと挑発しろってことかい?」姉妹は訊いた。
「若者の未来に乾杯って意味だ」明甫がいくらか表情をなごませて言った。
「未亡人によろしく」姉妹は上機嫌で言った。
四人の女の子は、数年まえに流行《はや》った〈筋金《ヤキ》を入れろ!〉を大声で歌いながら、黄色いキャデラックを府中市へ飛ばした。
24
ンガルンガニの事務所で万里がアタッシェケースをあけてドル紙幣の束を見せた。森が満面の笑みですごいねと言った。万里が札束を二つの山に分けた。その半分を森がむぞうさにボストンバッグにつめた。
「国際医師団は信用できる?」姉妹は訊いた。
森が質問の意図を探るような沈黙をおいた。
「長い活動歴のある勇敢な人たちよ」
姉妹はテーブルに残った札束の山を示した。
「献金する」
「儲《もう》けの一部は還元する」万里が言った。
「これからもずっと」アイコが言った。
万里が残りの札束をアタッシェケースにもどして、森の方へ押しやった。
「我々は、残念ながら、どうつくろったって不良少女ぐらいにしか見えない」姉妹は言った。
「ほんとね」森が、隣のアイコのアッシュブロンドをわしづかみにして、くしゃくしゃに乱した。
「やめてくれよ」アイコが頭を振り払った。
「国際医師団に直接、現金を持っていけば、たぶんめんどうな話になる」姉妹は言った。「名前を売る気も恩を売る気もないから、堅気の団体かなにかを迂回《うかい》させて、献金する方法を考えてくれないかな」
「わたしにまかせていいの?」森が確認した。
「まかせる」姉妹は言った。
森がうなずき、アタッシェケースを床に降ろした。グラスにウイスキーがそそがれた。五人はひかえめな声で乾杯した。
「軍資金ができた。ドライバーと街の不良をかきあつめて戦闘部隊をつくる」姉妹は言った。
「女の子たちだけで?」森が訊《き》いた。
「男は女に命令されることに耐えられないからね」万里が言った。
「事実そのとおりよ」森がにこやかにグラスをかかげた。
「ドラッグの強奪をまた計画する。こんどはもっとおおがかりにやる。常陸軍が占領した地域でビジネスもはじめる」姉妹は言った。
「東京UFと本気で武力衝突するつもりなのね」森が言った。
「問題は、そのとき常陸軍がどう動くか。それが知りたい」
森がウイスキーを口のなかに放り込んだ。しばらく考えをめぐらして、情勢の基本的な把握から話をはじめた。
「日本経済のエンジンは、残念ながらドラッグ経済で、それをマフィアが動かしてる。マフィアの最大勢力が、首都圏を根拠地にする東京UF」
「それで」姉妹は言った。
「常陸軍、仙台軍、宇都宮軍の連合軍が、軍事評議会を倒したとしても、新政権の運営は当面、ドラッグ経済に頼らざるをえない。だから東京UFの力を温存させつつ、軍事的勝利をめざすというのが連合軍の基本方針。でもそれじゃあ、軍事的に勝利しても、東京UFの傀儡《かいらい》政権が生まれるだけ」
「モリマリの考えは?」
「軍事的勝利と並行して東京UFの壊滅をめざす」
「賛成だね」
「壊滅が現実的でなければ、すくなくとも、新政権がコントロール可能なていどまで、東京UFを弱体化させる必要がある。そうしないと、いつまでもドラッグ経済を平和経済に転換できない」
「ンガルンガニと常陸軍司令部の方針はちがうわけだ」
「ちがう」森がきっぱり言った。
「白川とイリイチはどうなの?」
「基本的にわたしと同じ見解」
「カイトは?」
「いまの段階で、彼に構想力をもとめるのはむりね」
まったくだと姉妹は思った。海人には日々いやおうなく果たさねばならない責務がある。孤児兵にじゅうぶんな武器と食糧を与えること。眼前の戦闘に勝利すること。占領地域の孤児の生存権を確保すること。
「白川にしろイリイチにしろ」森が言った。「司令部の方針を無視して、おおっぴらに東京UFを攻撃する状況にはない」
「どうして」
「常陸軍が分裂するじゃないの」
姉妹は兵力の比較について訊いた。司令部派が三千人。反司令部派は二千二百五十人。反司令部派の内訳は、白川の混成部隊が孤児部隊とンガルンガニの女の部隊を合わせて一個大隊七百五十人、イリイチの外国人部隊が二個大隊千五百人。
「孤児部隊と外人部隊が精鋭ぞろいと言っても」森が言った。「司令部派の背後には、宇都宮軍二万人と仙台軍三万五千人がひかえてる」
「東京UFと協調路線をとる勢力の方が圧倒してる」姉妹は納得する声を出した。
「常陸軍を分裂させれば、反司令部派が消滅する危険がある」
「状況はわかった」姉妹は最初の問いにもどした。「我々と東京UFが街でおおっぴらに武力衝突をはじめたら?」
「常陸軍司令部派との間で、緊張が高まることは覚悟した方がいい」
「白川とイリイチは?」
「黙認させる。そうさせる工作が必要。あなたたちが反司令部派の軍費の一部を負担するとか」
「もちろんそのつもりだ」
「ンガルンガニは、情報、武器調達、軍事訓練で協力できる」
「ありがたい」
「でも女ドライバーと不良少女の戦闘部隊は、まだ、たったの四人」森が指を四本立て、先走った構想を引きもどした。
女の子四人はうなずいた。森がみんなのグラスにウイスキーをつぎ足した。
「もう一つ訊きたいことがある」姉妹は言った。「モリマリはシティの孤児を緊急に救う必要があるって言ってたろ。シティの北側は立川から府中まで押さえた。だけどシティそのものには進攻しない。なぜなの?」
「九竜暴動の火種がまだ残ってる」森が言った。「モーセ=2月運動の動きも活発。現状のまま戦闘部隊を投入すれば、住民を巻き込んだ人種暴動が再燃する」
「秩序の崩壊を恐れてたら、なにもできやしないぜ」
「準備が必要ね」
「どんな準備?」
「常陸軍の意思統一。その努力をしつつ、シティの住民から、女、孤児、外国人の志願兵をつのって、反司令部派を増強する。シティの内部に同盟軍を創出する必要もある」
姉妹はウイスキーを一口飲んだ。そういう工作をするためにンガルンガニは府中市に事務所をかまえたのだろうと思った。
「白川とンガルンガニはうまくいってるようだね」姉妹は言った。
「きわめて良好な関係よ」森が言った。
「会ったことないけど、どんな女?」
「ユニークな女性。あなたたちと共通する点がある」
「混沌《こんとん》を欲望してるの?」
「欲望してるわけじゃないと思う。白川少佐は女の武装化を無条件に支持してる。でもその先の世界を構想しない。構想することを自分に禁じてる気配がある」
「知的な女だ」
姉妹の言葉に、森が微笑んだ。
「あなたたちらしい評価の仕方ね」
「イリイチの虚無はどう思う?」姉妹は訊いた。
森が手のなかのグラスをのぞき込んだ。
「彼は日本人と異民族の共存を夢想してる」
「おどろいたね。戦争おたくの狂人かと思ってたよ」姉妹は言った。
森が首を横に強く二度振った。
「日本に住んでる人間の十人に一人は異民族で、だいたい一千万人いるって考えられてる。日本人は彼らと共存すべきだし、そうする以外に国家再建はできない」
「そのとおりだ」姉妹は心から同意を示した。
「イリイチは、この一ヵ月間、首都圏にはほとんどいない。戦地を飛びまわってる。いまは福岡にいるはず。日本全国の外人部隊を戦争終結のために同盟させようとしてるの。彼の工作がうまくいけば、異民族はのちのちも発言権を確保できると思う」
すごくデリケートな問題だと姉妹は思った。外国人部隊が戦争終結に貢献をしなければ、悪夢のシナリオが待ってるかもしれない。戦争がおわってしまえば外国人部隊は不用品になる。カネをため込んだ一部の幹部は海外に脱出するだろう。だが、大部分の下級兵士と家族がおきざりにされる。彼らは、国土が荒廃した責任を押しつけられて、日本人に報復されるだろう。これは彼らの被害妄想ではない。残念ながら、世界のどこかでつねに起きていることだ。
「イリイチの夢想が現実になればいいね」姉妹は言った。
「女も異民族のようなものなのよ」森がアイコの髪をくしゃくしゃにした。アイコがまた嫌がった。「ほかの性的マイノリティもぜんぶそう。権利を主張して武装化すれば、男たちの激しい憎しみを駆り立てる」
「いき着くところまでいくな」
「それがいつになるかはべつとして、決戦のときはかならずくる」森が歓迎するひびきの声で言った。
25
府中駅北口に、常陸軍幹部が飲食や買春に利用する高級ホテル〈ゴールデン・ユニコーン〉がある。ツインを三部屋予約して、黄色いキャデラックで向かった。ホテルを警備する外国人部隊とトラブルが起きるのを心配して、森まりが付き添ってくれた。キャデラックを地下パーキングに入れ、ロビーにあがった。AKを担いだカジュアルな装いの女の子たちに、歩哨《ほしよう》が好奇の視線を向けてきた。笑みを投げてやると、笑みが返ってきた。ロビーで警備部隊の東南アジア系の司令官が待っていた。森が女の子四人を、佐々木准尉の友人だと紹介した。短い握手があった。森とはそこで別れた。
「なあ」アイコがエレベーターのなかで訊きにくそうに訊いた。「いつも二人はいっしょなのか?」
「いっしょだ。あたしたちはそれがふつうの状態なんだ」姉妹は言った。
九階で降りて、廊下を右へ曲がった。
「てれくさくないのか?」アイコがまた訊いた。
「かくべつ興奮するっていうこともないよ」
姉妹の返事に、アイコが息苦しそうな声で笑った。
「頭では理解できなくもないけど」万里が言って、ながいため息をもらした。
四人は三部屋に分かれた。姉妹は窓のカーテンをあけた。眼下に府中駅の無人のプラットホームが見える。慢性的な電力不足と頻発する略奪行為により、首都圏の鉄道は都心部をのぞいて長期の運休状態がつづいている。姉妹は二十四時間デリバリが可能な女性専用の売春クラブに電話をかけた。
「礼儀正しくて、どんな要求にも誠実におうじる、むだ毛を完璧《かんぺき》に処理した、かわいい男の子を一ダース頼むよ」
「いまの時間ですと、その人数はちょっとむりかもしれません」売春クラブの女が言った。
「まとめてじゃなくていい。からだが空いたやつから、どんどんデリバリしてくれ」
きっかり三十五分後、姉妹の部屋に三人の男の子が到着した。二人のチェンジを要求し、賢そうには見えないが、笑顔が感じのいい、タイ人の子を残した。衣服を脱がせた。筋肉も贅肉《ぜいにく》もない、なめらかな肌の、すばらしい裸体だった。バスルームへ連れていき、まず頭髪を、それから全身を洗わせた。泡をシャワーで流しているときに、我慢できなくなって、姉妹は男の子をバスタブのなかに押し倒した。
夜が明けるまでに、さらに朝鮮族二人、漢族二人、回族一人、混血五人、日本人一人、ラオス人二人、ロシア人一人がドアをノックした。姉妹はそのうち四人を追い返して、のべ十一人の男の子を相手に、考えうるかぎりの痴態を愉《たの》しんだ。手錠とロープで緊縛した。男の子同士のオーラルセックスを鑑賞した。姉妹が二人の男の子を同時にワインの瓶で犯してさめざめと泣かせたこともあった。
翌日の正午まえ、残っていた二人の男の子にチップをはずんで帰し、TVニュースを見た。関戸橋のドラッグ強奪事件は東京UFと高麗幇小燕派の抗争事件として扱われていた。消えたトラックの積荷は不明。東京UFの被害は死者五人と重傷者二人。ロケット弾の破片等で民間人五人が負傷。そんな内容だった。姉妹はTVを消すと、ばたっとベッドに倒れ込んだ。
ときおりトイレにいくほかはひたすら眠りつづけた。万里の電話で眼を覚ましたとき、街はとっぷり暮れていた。翌日の午後八時だった。姉妹の部屋に全員があつまり、ルームサーヴィスの食事をとりながら武勇伝に花を咲かせた。
「四人で二十九人の男の子に六十一回の射精させた計算になる」姉妹は言った。
彼女たちはその数字を叫んでは乾杯をくり返した。
「今夜は女の子を呼ぼう」姉妹は言った。
「ほんきなのか?」アイコが訊いた。
「男の子とはまたちがった味わいがあるんだ」
「あたしはだめ」アイコが眉《まゆ》をひそめた。
「試してみなくちゃ」
アイコはその気はないと言った。万里はいくらか関心があるようだったが、けっきょく男の子と遊ぶ方をえらんだ。姉妹は部屋のパソコンからインターネットにアクセスして、女性のために女の子をデリバリする売春クラブを検索した。多摩地区だけでも十六店舗あった。男の子の場合とほぼ同じ条件をつけて、部屋にデリバリを頼んだ。
若い性欲はつきなかった。いつ食事をとったのか、昼なのか夜なのか、男の子を頼んだのか女の子を頼んだのか、自分の性別さえ忘れてしまうようなばか騒ぎが翌日もその翌日もつづいた。四人はホテルから一歩も出ず、欲望を解き放つことに没頭した。
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遠い砲声、セックス、M・J・クッツェーのピアノソロ、酒とマリファナ、窓からのながめ、セックスとセックスとセックス。頭は空っぽだった。九竜シティの丘陵が濃い青灰色に染まるのをぼんやり見ていると、またセックスワーカーがデリバリされてきた。姉妹は素裸の上にバスローブを着てドアをあけた。廊下で短めのボブを栗色に染めた女の子が軽く会釈した。東アジア系の平凡な顔立ちだった。その背後に金髪の女の子がもう一人。そちらはインドシナ系のようだった。
「入れよ」姉妹は言った。
「よろしく」東アジア系の女の子が言った。
姉妹は二人の女の子を招きいれてドアを閉めた。事務所に電話していいかと東アジア系の女の子が言った。いいよと姉妹はこたえた。東アジア系の女の子がナイトテーブルの電話をつかみ、客の部屋に入ったことを事務所に報告した。大人びた言葉づかいだった。金髪の女の子がベッドに浅く腰をかけ、ショルダーバッグを膝《ひざ》の上においた。
「なんて名前?」姉妹は訊《き》いた。
「ロビン」金髪の女の子がこたえた。
「いくつ?」
「十九」
「きみは?」姉妹はもう一人の女の子に訊いた。
「ビリィ。十七歳」東アジア系の女の子が言った。
「日本人か?」
「日本人とチベット族のハーフよ」
「あたしはタイ人」ロビンが言った。
「はじめてなのか?」
「なにが」ビリィが問い返した。
「女の客を相手するの」
「経験あるよ」
「それにしちゃあ緊張してるな」
「あなたたちの口のきき方がそうさせてるんじゃないの」ビリィが軽く反発するひびきの声で言った。
そうかもしれないと姉妹は冷静に思った。「まあ、リラックスしようじゃないか」
「煙草吸ってもいい?」ビリィがショルダーバッグの留め金をはずした。
「禁煙だ」
「喉《のど》渇いてるんだけど」
「ビールでもジュースでもなんでもある。自分でとってこいよ」姉妹は冷蔵庫の方へ親指を突き立てた。
「いつもこんな調子?」ビリィが顎《あご》の先をかすかにあげた。
「こんな調子って」
「なんか意地悪」
姉妹は唇をほころばせた。おまえのなにかが、あたしたちの意地悪な態度を誘発してるんだよ、と胸のうちでビリィにささやきかけた。反抗的な娼婦《しようふ》も悪くないと思った。バスローブのポケットからドル紙幣をつかみ出して、ビリィの顔のまえにばら撒《ま》いた。この六日間、男の子にしろ女の子にしろ、従順で気立てのいい子ばかりだったが、今夜はちがった趣向を愉しめるかもしれない。
「脱げよ」姉妹は厳しい声で言った。
「もう一度、電話させて」ビリィがバッグをつかんでベッドから腰をあげた。
「どこへかけるんだ」
「事務所」
「さっきかけたじゃないか」
「いやな客はいやなの。あたし帰る」
ビリィがナイトテーブルのまえに立ち、背中を向けた。酒もマリファナも抜けていなかったが、ビリィの手のあわただしい動きに、姉妹のからだが反応した。姉妹の一人が背後から抱きついた。姉妹のもう一人が丸テーブルの上に寝かせたAKをすばやくつかんでロビンを牽制《けんせい》した。
「うつぶせになれ!」姉妹の一人が鋭く叫んでAKの初弾を薬室に送り込んだ。
ロビンが床に伏せた。自動|拳銃《けんじゆう》をにぎったビリィの手首が天井へ向けてねじあげられた。ドライバー生活で鍛えられた姉妹の腕力がはるかに勝っていた。ビリィの手から自動拳銃がベッドに落ちた。姉妹の一人がそれを拾いあげ、ビリィの側頭部に銃口を突きつけて床に伏せさせた。二人の娼婦に手錠をかけ、脇、腰、足首をまさぐった。武器はなかった。ロビンのショルダーバッグのなかみをぶちまけた。自動拳銃が転がり落ちた。
「殺しが目的だったのか?」姉妹は訊いた。
「おまえたちのあそこをしゃぶりにきたのよ」ビリィが不機嫌な声でこたえた。
姉妹は横腹を蹴《け》った。ビリィが呻《うめ》いた。とにもかくにも警戒心がなさすぎる、と姉妹は自分たちをなじった。昼も夜も、男の子や女の子を呼んで遊びまくってきた。そのうちの一人が、殺人罪および国家反逆罪で指名手配された双子の姉妹の写真を記憶していて、誰かに教えたのだ。指名手配の二人がゴールデン・ユニコーンにいると。
「治安警察に殺しを頼まれたのか?」姉妹はロビンの金髪をつかんで訊いた。
ロビンが脅えた眼で姉妹をちらと見て、まぶたをきつく閉じた。あるいは、と姉妹は思考に集中した。ドラッグ強奪事件の情報が小燕派から幹部連合にもれたとすれば、殺しの依頼人が東京UFという可能性もある。その場合の標的は四人全員。姉妹の一人が部屋の電話をつかんだ。姉妹のもう一人がドアをすこしあけ、AKをかまえて廊下を警戒した。万里とアイコは部屋で眠っていた。状況を簡潔に説明して、ただちに集合するよう指示した。
「双子を殺《や》ったあとで、残りの二人も殺る予定だったのか?」姉妹はロビンに問いかけた。
返事がなかった。拳銃のグリップで頬を殴りつけた。ロビンが大声で泣き出した。姉妹の一人がいそいでバスローブを脱いで、袖《そで》をロビンの口のなかに押し込んだ。やりきれないことに、それでもロビンは泣きつづけた。ビリィは眼を見ひらいたまま表情を閉ざしていた。万里とアイコがAKで周囲を警戒しながら部屋に入ってきた。姉妹は森まりに電話をかけて事情を説明した。
「このホテルは危険だ」姉妹は言った。「吉林市場に連れて帰って吐かせる。娼婦二人を拘束する件に関して、警備部隊の司令官に話をつけてほしいんだけど」
「オーケー」森が言った。
「悪いね」
「キャデラックはホテルの地下?」
「あれから一度も乗ってない」
森が短い沈黙をおいた。
「使わない方がいいな。万が一のことがあるから。わたしの方で車を手配する」
それから八分後、神様の気まぐれが、淫蕩《いんとう》に耽《ふけ》った四人の女の子の大罪をお赦《ゆる》しになり、小悪党どもに災難をもたらした。姉妹たちが、ゴールデン・ユニコーンの正面玄関まえで、森が手配してくれたヴァンに乗り込んでいる最中のできごとだった。午後七時十四分、地下パーキングで黄色いキャデラックが凄《すさ》まじい爆発音とともに火の玉に包まれた。誰かがキャデラックにふれたのか、なんらかの原因で爆弾が暴発したのか、事情はわからなかった。
ンガルンガニの女の兵士が運転するヴァンで是政橋を渡っているときに、森が電話をかけてきた。
「車の窃盗団よ。警備兵が手引きをした。たぶん、キャデラックのエンジンをかけたとたんに、どかん」
「変わらぬ愛もて導きたまわん。アーメン。どかん」姉妹は言った。
27
アメリカ軍施設の広大な森に接する台地の上に、李明甫が管理をまかされている空家があった。所有者の元中国人民解放軍将校は、朝鮮族の部隊を率いて関西各地を転戦中だという。住居は鉄筋コンクリートの無骨なシルエットの建物で、電気も水道も使える状態になっていた。
二人の娼婦を引きずって広い庭を突っ切った。地面をカボチャの蔓《つる》が這《は》いまわり、ロビンがつまずいて転んだ。汚水がたまった池に二人の娼婦を放り込んだ。溺《おぼ》れさせ、酸欠状態にさせ、引きあげて、また水に沈めた。ロビンがあっさり落ちると思ったが、しぶとく口を割らなかった。小燕派の内部からドラッグ強奪事件の情報がもれた可能性を否定できないということで、明甫がしばらく訊問《じんもん》に立ち会っていたが、女の子が女の子を痛めつけるのを正視できなくなった。
「おもしろい話が出たら教えろ」明甫はそれだけ告げると、部下を連れて帰った。
娼婦たちの携帯電話がなんどか鳴った。無視して放っておくと、かからなくなった。ついにロビンが音をあげた。ビリィを万里とアイコにまかせ、月田姉妹はロビンを玄関ホールへ連れていって、椅子にすわらせた。ボウルにきれいな水をため、ロビンの顔を洗ってやり、荒い呼吸がおさまるまで待った。
「殺せと命令されたんだな」姉妹は訊いた。
「そうよ」ロビンがか細い声で言った。
「殺す予定だったのは二人か四人か」
「双子を殺したら引き揚げろって」
「命令はそれだけか」
「ほかに二人仲間がいるけど、そいつらはべつのグループがやる。そういう話だった」
「車に爆弾を仕掛けて?」
「そこまで知らない」
詳細は不明だが、小燕派から情報がもれたと姉妹は断定した。ドラッグ強奪は女の四人組。そのうち二人は双子で指名手配中。情報を入手した東京UFが暗殺をくわだてたのだ。
「〈ヴィヴィアン〉が殺人を命令したのか」姉妹は訊いた。
ロビンとビリィを派遣したのは〈ヴィヴィアン〉というデリバリ専門の売春クラブだった。
「ハウスの男がぜんぶ命令する」ロビンが言った。
「ハウスってなんだ」
ロビンが短い呼吸をくり返した。
「八人ぐらいの女の子が、ハウスでいっしょに暮らしてるの。ビリィとあたしが呼ばれて、拳銃を渡されて、ホテルの部屋に入ったら、すぐ殺せって言われた」
「組織の名前は?」
「みんなハウスって言ってる」
「男たちが自分たちの組織のことをハウスと呼んでるのか?」
「ほかの言いかたは聞いたことない」
「ハウスがヴィヴィアンを経営してるのか?」
「そうだと思うけど」ロビンが困った顔つきになった。「よくわからない。ほかの売春クラブの仕事をすることもあるし。電話一本で女の子を動かしてるから、店の名前は関係ないと思う」
姉妹はうなずいた。ネット上で無数の売春クラブが生まれては消えていく。暗殺に失敗したり、トラブルが生じれば、さっさとその店を閉鎖するのだろう。
「あたしたちを殺そうとした理由は?」姉妹は訊いた。
「知らない」ロビンが言った。
「まえにも誰かを殺してるか?」
「あたしははじめて」
「ビリィは?」
「あるみたいだけど」
「なんで殺しを引きうけた。カネがほしかったのか?」
ロビンが首を横に強く振った。
「命令はぜったいなの」
「どうしてぜったいなんだ」
「弟が殺されちゃう」
「おまえの弟か」
「あたしの」
「人質にとられてるのか」
「弟の方から見れば、あたしを人質にとられてる」
「弟も殺しをやるのか」
「そうよ」ロビンが短く嗚咽《おえつ》をもらした。
「弟はいくつだ」
「十六」
姉妹は一つ息を吐いた。うつむいたロビンの髪から水が滴り落ちている。庭の方で万里とアイコがビリィを痛めつける音が聞こえる。
「ビリィもそういうことで脅かされてるのか?」姉妹は問いをつづけた。
「あたしの弟とおなじ歳のお姉ちゃんがいる」ロビンが言った。
「待て。ビリィは十七歳だって言ってたぞ」
「ビリィは十四歳よ」
姉妹は一瞬混乱した。ビリィの冷静な態度と言語能力は、とても十四歳とは思えなかった。
「ハウスはどこにある?」姉妹は訊いた。
「言えない」ロビンが首を横に振った。
「全員助けてやる」姉妹は励ます口調で言った。
「あたしの弟も、ビリィのお姉ちゃんも、どこにいるのかわからないのよ。ハウスはほかにもたくさんあるから」
姉妹は訊問を中断した。庭へ出ていき、ビリィへの水責めをやめさせた。両側から抱きかかえ、玄関ホールに引きずってきて、転がした。汚水にまみれたビリィの顔を、アイコがタオルでていねいにぬぐってやった。化粧を落としたビリィは、十四歳の気難しそうな表情をのぞかせた。
「おまえたちは戦争奴隷か?」姉妹は訊いた。
「そういうことだよ」ビリィが憎しみのこもる声を返した。
「ビリィのお姉ちゃんとロビンの弟を救い出す方法を考えようじゃないか」
「おまえたちは人権擁護団体か?」ビリィが嘲笑《ちようしよう》した。
「ときにはね」姉妹は鷹揚《おうよう》に言った。
「ときには乱交パーティの愛好家」
「なにかまずい点でもあるのか?」
ビリィが口をゆがめ、薄く笑った。
「変態女を信用しろっていうのか」
「不道徳であることと、人権感覚があるってことは、対立した概念じゃないぜ」
姉妹の言葉にビリィは首をかしげた。
「なにを言ってるのかわからないね」
「おまえたちの兄弟を助けたってカネは一ドルも入らない」姉妹は辛抱強く言った。「それに命をかけようって言ってるんだから、信用してくれないと困るんだよ」
「おまえたちをよく知らない」ビリィの声にいくらか率直なひびきがこもった。
それはそうだと姉妹は思った。ビリィとロビンの手錠をはずした。ビリィに煙草をくわえさせて、火を点《つ》けてやった。
「まず現状を把握しよう」姉妹はくつろいだ調子で言った。
ビリィが床にあぐらをかき、煙草の煙をうまそうに吐き出した。瞳《ひとみ》にいくらか光が宿りはじめた。万里が明かりの下で手帳をひらき、メモをとる用意をした。
「八人の女の子が」姉妹は言った。「ハウスと呼ばれる家で、男たちに監視されながら共同生活をしてる。そういうことだな」
「いまは七人」ビリィが言った。
「一人減ったのか?」
「十日まえに、その子の妹がべつのハウスから逃げ出したんで、あたしたちの見てるまえで殺された」ビリィが片手で喉《のど》をかき切る仕草をした。
姉妹は眉《まゆ》をしかめて訊いた。
「ビリィたちのハウスはどこにあるんだ?」
「シティ」ビリィが言った。
「地図を書け」
姉妹は万里から手帳をうけとり、ビリィの膝《ひざ》の上に落とした。
「場所は教えない」ビリィが手帳を突き返し、暗い眼で言った。「そのハウスにおまえたちが踏み込めば、べつのハウスでかならず犠牲者が出る」
「監視してる男たちは日本人か?」
「日本語をふつうにしゃべれる連中」
「そいつらは東京UFか」
「知らない」
「七人の女の子は、それぞれ兄弟を人質にとられて、売春をさせられ、ときには殺しを強要される」姉妹は確認した。
「スパイもする」
「誰をスパイするんだ」
「実業家、高麗幇、政府軍、治安情報局、アメリカ軍将校、いろいろだよ」
「ハウスが使ってる売春クラブの名前を教えろ」
ビリィがちょっとためらってから、〈ヴィヴィアン〉以外に店の名前を五つあげた。万里がメモをとった。そのうち四つの店を 姉妹たちは、この六日間で使っていた。
「女の子や男の子の、ぜんたいの人数は?」姉妹は訊いた。
「あたしが知ってるのは、すくなくても、七人の二倍の十四人はいるってことだけ」ビリィが言った。
「それぞれのグループは、自分たちが住んでるハウスしか知らないってことか」
「そうだよ」
残虐でシンプルなシステムだと姉妹は思った。囚《とら》われている戦争奴隷たちを救出するには、周到な準備をする必要があるだろう。
「で、今夜の話だ。ビリィたちは二人でホテルへきたのか?」姉妹は訊《き》いた。
「男二人が車で送ってきた」ビリィが言った。
「名前は」
「タイチとジンナイ。ほんとうの名前かどうかは知らない」
「そいつらは爆弾の話をしなかったか?」
ビリィが首を横に振った。
「いつもそうなんだけど、あいつら、むだ口をきかない。組織のこととか、余計なことはいっさいしゃべらない」
「ハウスの連中がこれまで車に爆弾を仕掛けたことは?」
「あたしは経験ないけど、ほかの子に聞いたことはあるよ」
「爆弾は破裂した。ビリィとロビンとは連絡がとれない。これをハウスの連中はどう判断すると思う?」
「わからない」
「いまからおまえたちをハウスに帰したらどうなる」
「もうなにをやってもむだだ。あたしたちと連絡がとれなくなった時点で、あたしのお姉ちゃんもロビンの弟も、みんなのまえで殺されてる。あいつらはやると言ったら徹底してやるんだ。兄弟の奴隷なんか、かんたんに手に入る。だからあたしたちは野菜|屑《くず》みたいにさっさと片づけられちゃう」
そこまでいっきにしゃべると、ビリィは辛抱し切れずに声をふるわせて泣き出した。ロビンがビリィをそっと抱きしめた。気丈に見えてもまだ十四歳だった。よく生きてきたなと、姉妹は胸のうちでビリィの勇気を称《たた》えた。
28
打てる手は、とりあえずビリィとロビンの生死をあいまいにすることだけだった。そんなことをしても、せいぜい〈ハウス〉の男たちを疑心暗鬼にさせるだけだが、なにもしないよりはましな選択だと思われた。
ビリィとロビンの携帯電話は電源を切らずにそのまま放置した。屋敷へ連行した直後に呼び出しがあった以降は、二度と鳴らなかった。ハウスの男の電話番号がいくつかメモリィされていた。こちらからかけることはせず、李明甫に登録者を調べてもらった。案の定、闇で売られているプリペイド式の携帯電話で、追跡不可能だった。ビリィが名前をあげた五つの売春クラブは、翌日にはインターネットのサイト上から消えた。
吉林市場の屋敷を借りて、ビリィとロビンを引きつづき軟禁状態におき、月田姉妹、万里、アイコの四人もそこで暮らしはじめた。
雑用係として李賛浩を雇った。適切な人事だった。彼の根拠の希薄な楽天主義が、ビリィとロビンの緊張をすこしずつ解いていった。三人は庭をおおっていたカボチャの蔓を片づけた。収穫はとっくにおわっていたが、雑草の陰で緑灰色の巨大なカボチャを見つけ、それを餡《あん》にして饅頭《まんじゆう》をつくった。ぜんぶ平らげたあとで、近くのスラムに住む朝鮮族のおばあちゃんが怒鳴り込んできて、所有権を主張した。姉妹は、カボチャの代金を支払い、菜園の技術指導を要請した。技術料は収穫物の一割ということで、おばあちゃんと話がまとまった。さっそく庭のすみに秋野菜と春のエンドウの種を播《ま》いた。謝花ひなびがときおり顔を見せて、賛浩の仕事を補い、ビリィとロビンの相談に乗った。
精神が極度に不安定な最初の二週間をすごしたのち、ビリィとロビンは、姉と弟の死をうけ入れる覚悟をした。重い口をひらいて彼女たちが収容されていたハウスの場所を教えた。シティ西部の諏訪団地の一軒家だった。
「人が住んでる感じはぜんぜんない」偵察にいった万里が報告した。「昼も夜も駐車場に車はないし、部屋は真っ暗。もう引き払ってると思う」
多摩地区に点在している複数のハウスの所在地を調べあげ、同時にいっせいに救出作戦を敢行しなければならない。それを四人で実行するのは到底むりだった。そこで懸案だった女の子の幇の創設にとりかかった。
万里とアイコの呼びかけにおうじて、女の子があつまってきた。姉妹は、連日、屋敷の大食堂で面接した。人種はさまざまで、ほぼ全員に犯歴があった。戦闘経験が豊富な長距離ドライバー、給料をピンハネした親方を半殺しにした鉄筋工、放火と殺人で逃亡中の元配管工、現役の電気工と旋盤工と溶接工、自動車整備士、事務屋、ウエイトレス、ブラジル系のダンサー、娼婦《しようふ》、臓器を売買する人体ショップではたらく元看護学生、なかには優秀なシステム・エンジニアもいた。ただしそうした言わば労働者は少数派だった。
どっと押しかけたのは、喧嘩《けんか》とかっぱらいでその日暮らしをしている不良少女の群れだった。一声で八百人とアイコが豪語したとおり、面接におとずれたシティの少女窃盗団のメンバーはゆうに千人を超えた。だがその大半が小中学生で、軍事評議会の徴兵制度にならって満十五歳にみたない子を帰すと、一割も残らなかった。
「おまえが罪を犯すならわたしも罪を犯そう。これが我々のテーゼだ」と姉妹は女の子たちに告げた。
幇は〈パンプキン・ガールズ〉と名づけられた。テーゼをうけ入れて、ワインで乾杯すれば、その瞬間から誰でも仲間だった。姉妹は新入りのメンバーを明甫にあずけて、小火器の取り扱いを徹底的におぼえさせた。ビリィとロビンは幇に関心を示さず、姉妹の方も誘わなかった。賛浩とひなびは、屋敷に自由に出入りして、パンプキン・ガールズと奇妙な信頼関係を築いた。
十一月中旬、短期軍事訓練を終了した戦闘員が百二十人を超えたころ、姉妹は森まりにハウス同時襲撃の共同作戦を申し入れた。森はそれを快諾した。作戦には、ンガルンガニと同盟関係にある、シティの性的マイノリティの武装組織〈虹《にじ》の旗〉がくわわった。三つの組織が会議を重ね、役割や地域の分担を決めて、シティの売春組織の情報収集をはじめた。
ンガルンガニと虹の旗は統制のとれた準軍事組織である。それにくらべるとパンプキン・ガールズはでたらめな集団だった。合議制という発想は持ち合わせておらず、ボスである月田姉妹の言葉が組織の方針とされた。姉妹の決断のためらいのなさと、不良少女たちの思いっきり暴力を振るいたいという無頼のエネルギーが、パンプキン・ガールズに大胆な作戦をとらせた。
北西の強い風が吹き荒れた十二月八日、パンプキン・ガールズは、中央自動車道の相模湖東IC付近で、ドラッグを満載した東京UFのトラック一台と護衛車四台を襲撃した。ロケット砲二十門、40ミリグレネードランチャー二十丁、AK四十丁で武装した戦闘部隊六十人と、輸送および情報部隊四十人が参加した作戦は、最初のロケット砲の発射から七分弱で終了した。
相模湖東ICは地元の武装勢力が支配していた。彼らに莫大《ばくだい》な通行料を支払って、べつのトラックに積み替えたドラッグを高速道路から降ろし、国道20号線経由で吉林市場に帰還した。姉妹はドラッグを明甫に引き渡した。
「常陸軍反司令部派とは、黙認するということで、話がついてるから心配するな」姉妹は言った。「ぼろ儲《もう》けだ。楽勝だった。戦争をやめられない連中の気持ちがわかったね」
ドラッグの前金をうけとると、姉妹はパンプキン・ガールズの百数十人の女の子を引率して、吉林市場の三つの女性用売春クラブを占拠した。男の子の数がまったく足りず、クラブは都心から至急に大量輸送させた。女の子たち主催のあからさまなセックスパーティは、朝鮮族の男たちの反発を買ったようで、夜明けまでに、二軒のクラブの店先と男の子を連れ込んだ渤海ホテルの客室の窓ガラス一つに、自動小銃の銃弾が撃ち込まれた。幸い怪我人は出なかったが、姉妹は明甫を呼びつけて厳重に抗議した。
「おおっぴらにやるからだ」明甫が渋い顔で言った。
「男の機嫌を損なわない範囲で遊べってことか。ふざけるな」姉妹は言った。「つぎはもっとおおっぴらに男を買い漁《あさ》ってやるから、心の準備をしとけ」
〈ハウス〉に対する情報収集はひそかにつづけられた。府中市や立川市のホテルからシティに帰る娼婦を尾行し、撮影した顔写真をビリィとロビンに見せて戦争奴隷を特定した。やがてハウスと特定できる建物が一つ二つと浮上してきた。だがビリィの姉とロビンの弟の消息はあいかわらず不明だった。二人の深い悲哀にみちた日々が流れた。
ビリィは富山市で母親と暮らしていたが、十一歳のときに姉といっしょに武装勢力に拉致《らち》され、二度転売されたのちに、昨年の春、ハウスに収容されたという。ロビンの場合は、物心がついたころには弟の手を引いて浜松《はままつ》市の路上をさ迷っていた。自分の正確な年齢はわからないとロビンは言った。逃亡防止のためにかならず弟といっしょに転売され、ハウスにきたのは、今年の七月だった。そんなふうに、彼女たちは、北陸や東海をくり返し襲った戦争の記憶をすこしずつ語りはじめたが、クリスマスが近づくころになっても、本名を明かそうとはしなかった。
「あたしはビリィなんだよ」ビリィが言った。
「あたしもロビンなの」ロビンが言った。
「オーケー」姉妹は言った。
29
アイコが手信号でGOサインを出した。少女窃盗団の現役のボスの十六歳の女の子が立射の姿勢でロケット砲のトリガーを押した。彼女は李明甫の臨時軍事学校の優等生だった。夜明けの青紫色の光のなかを、バックブラストのガスが吹き抜けた。対人用ロケット弾が赤い炎の尾を曳《ひ》きながら、幅八メートルの道路を斜めによぎって飛んでいき、門扉の右奥のカーポートにおさめられたワンボックスカーをかすめて一階の窓ガラスに命中した。凄《すさ》まじい爆発音とともに〈H3〉と符丁で呼ばれる二階建ての民家の一階部分の外壁の一部とすべての窓ガラスが飛び散った。アイコが率いる四人編成の四つのチームが塀をすばやく乗り越えて庭から室内に突入した。旧多摩市永山地区の比較的裕福な階層が住む住宅地にサブマシンガンの銃声が鳴りひびいた。
十二月十九日の早朝だった。指揮車の外で月田姉妹は昂然《こうぜん》と胸をそらし、想定しうるありとあらゆる悲劇に心のそなえをした。ビリィたちが収容されていた諏訪団地のハウスでは、一階に数人の男が寝泊まりし、女の子は二階の三部屋に押し込まれていたという。だがどのハウスも同じ配置とはかぎらない。いまこの瞬間、一階に戦争奴隷の子がいる可能性もあった。
周辺の道路は武装した二個小隊規模のパンプキン・ガールズが封鎖していた。巻き添えになることを恐れているのか、住民は一人も表に出てこなかった。昨夜H3からデリバリされた女の子が二人、まだもどっていないが、攻撃開始と同時に、万里が率いる部隊が府中市のホテルに保護する手はずになっていた。
二階で悲鳴がいくつか重なって聞こえた。数十秒間で銃声がやんだ。アイコが半壊した玄関に出てきて親指を突き立てた。姉妹は数人の小銃手を連れ、きびきびした足どりで民家のリヴィングルームに入った。天井の一部が剥《は》げ落ち、爆風でなぎ倒された家具の間に、無数のガラスの破片と武器と男の死体が五つ転がっていた。
「一かいに子どもはいなかったよ」アイコが安堵《あんど》をにじませて言った。
姉妹は階段を見た。パンプキン・ガールズのメンバーにせき立てられて、五人の女の子と二人の男の子が降りてきた。
「みんな無事か?」姉妹は訊《き》いた。
「かすり傷だけ。上で男を一人殺した」日露混血の女の子が言った。
姉妹は日露混血の女の子の腕をぽんと叩《たた》いた。子供たちに、ビリィの姉とロビンの弟がいないかどうか訊いてまわった。全員が首を横に振った。
「ヴァンに乗せろ。あとは資料だ。いそげ」姉妹は言った。
アイコがメンバーに指示して、用意した段ボール箱に、パソコン、書類、CD、ノート類、死体の衣服のポケットのなかみを、つぎつぎと放り込ませた。倒れたフロアスタンドの向こうに黒いショルダーバッグが転がっていた。姉妹はそれをつかみ、段ボール箱の方へぽいと放った。焼けて裂けたバッグから、分厚い書籍が一冊、床にどすんと落ちた。姉妹は手にとった。頭が一瞬混乱した。ぼろぼろになるまで読み込まれて、二つか三つに分解しそうになっている、小判の旧約聖書だった。
30
同じ時刻に、旧多摩市の和田《わだ》地区と|桜ヶ丘《さくらがおか》地区の二つの民家を、〈虹の旗〉の二つの戦闘部隊が急襲した。虹の旗の兵力は四十人。パンプキン・ガールズの兵力の三分の一以下だが、シティで2月運動のテロと武力衝突をくり返してきた高い戦闘能力をそなえる民兵部隊だった。司令官は元政府軍下士官の五十代と三十代の二人のゲイで、はじめて戦闘に参加した一部の兵士も、ンガルンガニが多摩川の上流に設営した訓練基地で、二ヵ月から三ヵ月にわたる軍事訓練をひそかにうけていた。
軍事作戦は完璧《かんぺき》な勝利をおさめた。パンプキン・ガールズをふくむ三つの戦闘部隊はすばやく撤退し、抵抗をうけることなく、作戦開始から三十分以内に関戸橋を北へ渡った。橋を防衛する外国人部隊はイリイチの指示で通過を黙認した。
パンプキン・ガールズの資金で、府中市南町の廃校になった専門学校を仮保護施設として確保してあった。虹の旗とパンプキン・ガールズの部隊はそこに集結した。森まりとンガルンガニのメンバー、虹の旗の支援者、国際医師団の治療チーム、府中市のホテルで二人の娼婦を保護した万里とその部隊、李賛浩とビリィとロビンが待っていた。
虹の旗の部隊は、ハウスの男を二人、拘束して連れ帰った。捕虜はただちにンガルンガニの訓練基地へ移送された。味方の被害は軽傷者が数人出ただけだった。専門学校の建物のなかで戦争奴隷の子供たちに応急治療がほどこされた。救出されたのは、男の子六人と女の子二十一人。そのなかにビリィの姉とロビンの弟はふくまれていなかった。泣き崩れたビリィとロビンを、賛浩が薄い胸で抱きとめた。
ウエイトレスの仕事をおえた謝花ひなびが駆けつけた。やがて事情聴取と押収した資料の分析がはじまった。姉妹は、森にあとのことはまかせ、パンプキン・ガールズの戦闘部隊を連れて引き揚げた。
本部と呼ばれるようになった吉林市場の台地の上の屋敷で、高級シャンパンを抜き、作戦の成功を祝った。姉妹は李明甫を宴会に誘ったが、女の匂いで気分が悪くなるという理由で断られた。
午後二時すぎ、ひなびから電話が入った。
「まだ専門学校。子供たちがなんとか落ち着いたところ」ひなびが言った。
「ご苦労さん。こっちで一杯やらないか」姉妹は言った。
「酔っ払ってるでしょ」
「我々は戦闘以外は役立たずだからね」
「だめだったのよ」
「ビリィのお姉ちゃんとロビンの弟のことだな」
「二人とも桜ヶ丘のハウスにいたんだけど、みんなが見てるまえで」
「ナイフで喉《のど》を」
「そう」
「いつ殺《や》られた」
「桜子と椿子が彼女たちをゴールデン・ユニコーンから本部へ連れてったあと、たぶん二時間ぐらいで」
「ビリィの言うとおりだ。徹底してる」
「ほんとに野菜|屑《くず》ぐらいにしか思ってない。報復してやりたい気分よ」ひなびがめずらしく激しい口調で言った。
賛浩と電話を替わった。ビリィとロビンがまだ興奮してるから、しばらくこっちにいたいと言うので、姉妹は了承した。
けっきょく賛浩は専門学校に泊まることになった。深夜、姉妹は吉林市場のインターネット・カフェへいき、〈パンプキン・ガールズ〉の名前で、本日の戦果と戦争奴隷の根絶宣言をインターネット上に流した。虹の旗のHPをのぞいてみると、彼らもすでに犯行声明を出していた。そこでふと、永山地区のハウスで黒いショルダーバッグからこぼれ落ちた旧約聖書を思い出して、〈Morses〉を検索した。
31
名古屋市郊外の電化製品量販店の店員だった二十七歳の独身の男が、シアトルで日本食レストランを経営する叔父《おじ》夫婦を頼って渡米した。日本で内乱がはじまる二十二年まえのことである。シアトルに移住して四ヵ月後、男は不運な事件に巻き込まれた。レストランが人手に渡り、叔父夫婦が離婚したのだ。ヒスパニック系アメリカ人の叔父の妻は、二人の子供を連れてさっさとシアトルを出ていった。男は叔父といっしょに、キャンピングカーで各地を転々としながら、霊媒サーヴィスと自家製豆腐の移動販売をはじめた。もちろん彼らに霊能力があったわけではない。オカルトマニアだった叔父の発案ではじめた新しい事業は、九ヵ月ほどで挫折《ざせつ》して、男は叔父と別れた。その三年後の冬、アリゾナ州の砂漠地帯のモーテルの一室で、叔父が変死体で発見された。検死の結果、餓死と断定された。日本の親族が把握しているのはそこまでである。
私信、報道、公文書、諸団体のホームページ等の情報をもとに、男の二十年近い滞米生活を洗っても、カルト教団やキリスト教右派の団体に足跡は見当たらない。軽微な詐欺罪で二度の逮捕歴がある。渡米十九年目に、少女レイプ事件の容疑者としてマイアミで逮捕されたが、これは無罪が確定している。陪審の審判が下されてまもなく、男は日本に帰国したようである。
内乱が勃発《ぼつぱつ》した年の夏、男は〈導師《どうし》〉を名乗って九竜シティで布教活動をはじめた。教団名は〈ジャパン・プロミス〉だった。説法の映像が残っている。頭を剃《そ》りあげたレスラーのような巨漢の五十男である。アメリカでの放浪生活で聞きかじったらしい、キリスト教右派の人種差別と男性至上主義の言説を、甲高い声でやけに自信たっぷりにしゃべる。内容は空っぽ。知的な雰囲気はゼロ。ただし病的な太り方が、男を際立たせており、それが尋常ならざる世界を想像させなくもない。
当時、男と事実上の夫婦関係にあり、現在は都内で、もっぱらロシア人ダンサーの斡旋《あつせん》で稼ぐ芸能プロダクションを経営する、中国人女の証言がある。
「あれをはじめたのは、栗きんとんを腹いっぱい食べたかったからでしょ、寸借詐欺でもやる感覚でしょ、宗教ってそういうものでしょ」
導師はその五十一年間の人生の最期まで栗きんとんが大好きだったようである。布教開始から三年目の応化四年、心筋|梗塞《こうそく》でさっさと逝ってしまう。導師の死亡時の信者数はおよそ八千人。
教団の盛衰は一般に開祖の俗っぽさや情けない死に様とは無関係である。大動乱の時代が短期間に教団を怪物に仕立てあげていった。教団を引き継いだ幹部たちが、応化六年に教団名を〈MIJ〉に変えたころには、九竜シティを中心に公称百二十万人の信者を獲得した。MIJとは〈Manhood In Japan〉の略で、教団本部は、〈日本の男であるということ〉という訳をあてた。布教が成功した理由は二つある。人種差別と男性至上主義の狂熱が、屈辱感に打ちひしがれている日本人の男たちの心をとらえたこと。もう一つは医療、教育、福祉等の互助組織を充実させて、シティの日本人貧困層の生活を実態的にささえたことである。
MIJの狂熱は激しい人種抗争を引き起こした。シティで活動する国内外のNGOと性的マイノリティも、MIJのテロの対象になった。九竜暴動が発生する直前の、応化八年二月、軍事評議会はMIJを非合法化して教団幹部多数を投獄した。翌月、地下に潜行したグループが2月運動を名乗ってテロ活動を再開。同年の秋、逮捕をまぬがれた幹部たちが、NGOを設立して合法活動をはじめる。〈モーセ〉の誕生である。主な資金源はアメリカのキリスト教右派団体とみなされているが、ロシア系商社のシンクタンクは、シティで人種抗争が激化したころから、外国人マフィアの一掃をくわだてる東京UFが、モーセ=2月運動の大スポンサーになったと分析している。
アメリカ軍レクリエーション施設でひらかれたクリスマス・パーティ会場で、月田姉妹はイズール・ダニエロヴィッチ・デムスキーに訊《き》いた。
「モーセの連中は秘密の教会で祈ってるの?」
「そういう話は聞かないね。彼らの宗教活動が報告された例はゼロだよ」イズールが言った。
「MIJは完全に消滅したってこと?」
「四つか五つの小さなグループが、導師を崇《あが》めてまだ宗教活動してるらしい。でもMIJの本体はモーセに引きつがれた。そのモーセは非宗教団体だ。メディアはそう判断してる。ぼくもそう思う」
「聖書の問題はどうなの?」姉妹は納得できずに訊いた。「モーセのポスターは聖書の引用だ。モーセ学園は聖書を使って読み書きを教えてる。2月運動はCBC記者を殺したときに、神の名において罪を贖《あがな》わせるって言ったじゃないか」
「聖書の言葉や神の名が、非宗教的で人種差別的な党派によって、さんざん利用されてきた歴史がある」
「うん、あるね」
「人を狂熱へと駆り立てるのに、聖書のレトリックは使い勝手があるんだ。そう考えればモーセ=2月運動の聖書への執着は納得がいくと思う」
「わかるけど」姉妹は首をかしげた。「MIJがモーセ=2月運動に、つまり宗教団体がNGOとテロ組織に、きれいに、すぱっと移行するっていうのが」
イズールが鼻をつまんでしばらく考えた。
「ぼくの仮説を言おう」
「なに」
「ジャパン・プロミスの時代の末期から、MIJの時代の初期にかけて、ある陰謀がくわだてられた」
「陰謀?」
「知的で野心的な連中が、この狂信的な宗教を利用して社会に影響力を行使したいという欲望から、信者になった。彼らは、弁舌と実務の能力で幹部にのしあがり、短期間のうちに教団を支配した。もちろん仮説だ」
「すごい陰謀史観だ」姉妹はちょっとおどろいた。
「新興宗教ではめずらしいことじゃない」イズールが顔のまえで手を振った。「そもそも他人の人生を支配するというのが、あらゆる教団の欲望の本質なんだ。信仰心はツールだ。信者にそれを持たせてしまえば、信者を支配するのはかんたん」
「でもモーセは信仰を捨てんだろ?」
「必要がないからだと思う。言葉の力と充実した互助組織があれば、貧しい日本人を外国人排斥へ動員できる。MIJが非合法化されたときに、幹部はそう判断したんじゃないのかな」
「おもしろい仮説だ」姉妹は眼を輝かせた。「いとうのぶひろの正確な入信時期は不明だけど、導師が死ぬと、のぶひろの名前がはじめて教団文書に登場して、言葉の力について熱っぽく語り出すんだ」
「信仰心なんか最初からこれっぽっちもなかったのかもしれない」
「だからあっさりNGOに模様替えしたのか」姉妹の声がふいに確信にみちた。
「暴力装置は引きつづき保持して」イズールが言いそえた。
メインホールはアメリカ軍の家族で混雑していた。鋭い口笛が一つ聞こえた。子供たちの歓声のなかで、マジックショーがはじまった。三人はクロークでコートをうけとり、テラスへ出た。時刻は午後四時すぎだった。冬の雲が空をおおっているが、風は生温《なまぬる》く、薄い生地のパーティドレスの上に毛皮のコートをはおると、汗ばむほどの陽気だった。
「ずいぶんカネまわりがいいようだね」イズールが姉妹のコートに眼をとめて言った。
「もう浮浪児には見えないだろ」姉妹は言った。
「戦争成金の生意気なお嬢さんみたいだ。どんな商売してるの?」
「パンプキン・ガールズ」
「きみたちがボス?」
「あたしたちがボスだ」
イズールが微笑んだ。虹《にじ》の旗とならんでパンプキン・ガールズの名前が、この数日間、メディアをにぎわせていた。三人は芝生の上のテーブルについた。
「もしそれがほんとうだとして、なんでぼくに教えてくれるの?」イズールが笑みを絶やさずに訊いた。
「あたしたちに力の背景があるってことを、おまえにきちんと認識させないと、へらへら笑うばっかで、本気になってくれないからね」
「本気って?」
「調べてほしいことがある。CBC記者、トマス・マクスウェル殺害事件の真相」
イズールが額にかかる前髪を指先でよじった。姉妹は紙巻きのマリファナに火を点《つ》けた。
「CIAとか軍の情報組織とか、コンピューターをいろいろハッキングしてみたけど、なんにも出てこない」イズールが言った。
「嘘つくなよ」
「ほんとだ。わかったのは、今年の二月にモーセがアメリカの大手広告代理店の〈シンプソン・グループ〉と契約したことぐらいかな」
「モダンな発想だ」
「モーセは、因習にみちた血なまぐさい田舎者の狂信者集団っていうイメージがあるけど、パブリシティのセンスのあるやつがいるんだよ」
イズールがマリファナをほしがった。姉妹は渡した。
「パンプキン」イズールが言葉のひびきに耳をすませた。
「パンプキン」姉妹は屈託のない声でおうじた。
「なんか不真面目に聞こえるな」
「とくべつ意味はないよ。本部の庭がカボチャ畑だったから」
「パンプキン・ガールズの設立の目的は?」
「マフィアと見なしてもらってけっこう」
「戦争奴隷の根絶を宣言してるじゃないか」
「矛盾はない。こういう時代はマフィアと革命組織の境界が融解しちゃうものなのさ」
「それはわかる。きみたちがCBC記者殺害事件の真相を知りたがる理由がわからない」
姉妹は、発端となった十月のドラッグ強奪事件、その六日後の娼婦《しようふ》による暗殺未遂事件、およびハウス急襲作戦に至る経緯の概略を話した。
「押収品は屑ばかりで、有益な情報はつかめなかった」姉妹は言った。「誰がボスなのか、ハウスはぜんぶでいくつあるのか、使ってる戦争奴隷の総数、いずれも不明。機密保護が徹底されてるんだ。ただし、ハウスが五侠会《ごきようかい》の斡旋で戦争奴隷を入手してることはわかった」
シティでマフィア化し、東京UF系列に入った元反乱軍部隊は、三つのグループに分かれた。パルテノン地区を本拠地にする義士団、ニュータウン・マーケットの633部隊、そして永山地区の五侠会である。
「五侠会がハウスを運営してるの?」イズールが訊いた。
「そう断定する証拠はない」姉妹は言った。
「捕虜の訊問《じんもん》は?」
「ンガルンガニの訓練基地に移送した夜に、二人とも首を吊《つ》って自殺した」
「自殺か」イズールがいぶかった。
「へんだろ」
「へんだ。マフィアのちんぴらが組織防衛のために自殺なんかしない」
「やつらは本質的にジコチュウだ」
「ボスの自殺はノイローゼが相場だしね」
イズールが二本目のマリファナをほしがった。姉妹は新しいマリファナに火を点けて、くれてやった。
「ハウスは、五侠会だとか東京UFだとか、そういう既成のマフィアの下部組織とは思えない」姉妹は言った。
「きみたちの考えは?」イズールが吸い込んだ煙をゆっくり吐き出して言った。
「永山のハウスで一冊の手垢《てあか》で汚れた聖書を見つけた」
「旧約聖書?」
「旧約。持ち主は、我々が殺害した二十歳の日本人の男。運転免許証に載ってるシティの住所には、そいつと無関係な家族が住んでた。ようするに素姓不明だ」
「世界レベルで言えば、聖書とマフィアは親和性がある。べつに不思議な話じゃない」
「ここは日本だ。しかもシティで起きた事件だ。ほかにも気になる点がある。戦争奴隷が逃亡すると、その子の兄弟が見せしめで処刑される。喉をかき切るんだ」
姉妹は手で喉をかき切る仕草をした。イズールが嫌な顔をした。
「トマス・マクスウェルの処刑映像を思い出すのか」イズールが訊いた。
「処刑方法への執着を感じる」姉妹は言った。
「考えすぎだと思うけど」
「まだある。救出した二十七人の子のうち、二十三人が外国人か混血で、残りの四人は両親を知らなかった。日本人と特定できた戦争奴隷はいない」
「人種差別主義の傾向がある?」
「はっきりとある」
「なにをほのめかしてるの?」
「ハウスの運営主体が2月運動である可能性」
イズールがマリファナを姉妹に渡した。
「そうだとすれば、指揮命令系統がどうなってるのかわからないけど、きみたちはパパに命を狙われたことになりはしないか?」
「ありえるね」
イズールが困惑した顔を向けた。姉妹はマリファナを根もとまで吸って芝生の上に捨てた。それをていねいにヒールで踏みつぶした。CBC記者殺害事件の情報が入ったら教えてほしいとイズールに念を押して、姉妹は吉林市場の本部に帰るために、李賛浩を電話で呼び出した。
日没にはまだ間がある時刻だった。重く垂れた雲のせいで、吉林市場の光のアーチが燦然《さんぜん》と輝いていた。防弾ガラスと鋼鉄の鎧《よろい》をまとった黒いセダンが光のアーチをくぐった。前後を護衛の車が走った。いずれやつらと全面対決の場面がくるかもしれないと姉妹は思った。人類が悪と名指しで非難するものに、さして心理的な障壁を感じないたちだったが、モーセ=2月運動が持つ非寛容はべつだった。いくらか憂鬱《ゆううつ》な気分でそんなことを考えていると、坂道を前傾姿勢でぐいぐいと昇っている女の子の後ろ姿が眼にとまった。ほっそりした背中ときびきびした足の運びが記憶を刺激した。賛浩が先に気づいて車をとめた。
「ビリィ!」姉妹は窓ガラスを下げて叫んだ。
「やあ」ビリィが上気した顔を向けた。
「どこへいくの?」姉妹は訊いた。
「あの人たち、生理的に合わなくて」ビリィが光のアーチへ視線を逃して言った。
「ンガルンガニのこと?」
「やたら人をカウンセリングしようとする」
「それが必要な子もいるんだよ」
「わかってるけど」
「チャンホに会いたくてきたんだろ。はやく乗りな」姉妹は言った。
賛浩が助手席のドアをあけた。ビリィが顔をくしゃくしゃにして乗り込んだ。
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第4章 暴徒、商店街を襲う
32
まだ二十歳の、愛らしい双子の女の子に率いられた新興マフィアの疾風が、多摩川北岸地域を席巻《せつけん》した。人種差別と男性至上主義のモーセ=2月運動を生んだ時代の狂気がそれを可能にした。欲望の充足が欲望の肥大を呼び、力の誇示があらたな力の源泉をつぎつぎと掘り当てた。すべてが信じがたいスピードで進行した。
年が明けた応化十五年一月中旬、パンプキン・ガールズは、中央自動車道|上野原《うえのはら》IC付近で、ふたたび多摩西部運輸のトラックを襲い、ドラッグ強奪を成功させた。その事件に懲りた東京UFは、甲府軍から買いつけるドラッグの輸送ルートを、東名自動車道経由に変更した。パンプキン・ガールズは、潤沢な資金で戦力を強化する一方、武装強盗団から企業体への転換をはかった。経営部門の統括責任者に万里が就き、アンダーグラウンド・ビジネスに通暁した弁護士と会計士を雇うと、一月下旬から二月にかけて、五つの運送会社と三つのカジノと四つの故買屋と十一のナイトクラブを買収した。
月田姉妹は司令官として戦闘部隊の指揮をとった。戦闘部隊は女の子の聖域で、男子の入隊は認められなかった。常陸軍占領地域のいたるところで、利権をめぐって東京UFとの武力衝突が頻発した。東京UFは〈直系〉と〈系列〉に分かれていた。パンプキン・ガールズは、東京UFの直系の組織を集中的に攻撃した。三月上旬には武力で多摩西部運輸を閉鎖に追い込んだ。
常陸軍反司令部派を味方につけたパンプキン・ガールズの、ほぼ連戦連勝だった。姉妹はそのときそこで決断するだけでよかった。大きな抗争事件があるたびに、噂を聞きつけた命知らずの女の子たちが、数ダースの単位で隊列にくわわった。兵力が四百人を超え、軍事訓練が李明甫の手に余るようになると、姉妹は新兵をンガルンガニの訓練基地に送った。
国際医師団への献金はつづけられた。東京UFから奪いとった利権は、イリイチの外国人部隊、孤児部隊、ンガルンガニの女の部隊、虹《にじ》の旗、高麗幇小燕派、東京UFに反旗をひるがえした弱小マフィア等に、気前よく分配された。常陸軍司令部派は、当初、パンプキン・ガールズの攻勢を弾圧する動きを見せたが、姉妹が司令官の小野寺中将にせっせと賄賂《わいろ》をとどけるうちに、介入をやめて、東京UFの弱体化を黙認するようになった。かくして常陸軍占領地域におけるマフィアの新しい権力地図は諸勢力に追認された。
三月二十日、立川基地に小野寺をたずねて賄賂を渡した帰路、国道20号線の検問所にならんだ車列のなかでヴァンに仕掛けられた爆弾が炸裂《さくれつ》した。東京UFによるテロと思われた。姉妹は難を逃れたが、常陸軍兵士二人と民間人五人が死亡した。その事件以降、姉妹の身辺の警備はいちだんと強化された。
吉林市場の本部は、アイコが率いる突撃隊三十人が常駐して警備にあたった。四月の、春風が心地よく吹くある日の夕方、謝花ひなびが本部に遊びにきた。
「戦争がおわったら」姉妹は言った。「ふつうのビジネスで食っていくよ。カジノ、ナイトクラブ、運送、不動産、レストラン・チェーン、銀行、TV局、広告代理店」
「そんな日がくるといいね」ひなびが言った。
泥をさらって井戸水をためた池の周囲に、デッキチェアをならべて、姉妹、ひなび、ビリィの四人がくつろいでいた。ビリィは、前年のクリスマスイブの夜にたずねてきて、そのまま本部の屋敷に住み着き、いまでは屋敷の管理を任された李賛浩のよきパートナーだった。
「ドラッグは悪だっていう認識はあるの?」ビリィが訊《き》いた。
「あるさ。だから仲間には禁じてる。あれは廃人をつくるだけだ」姉妹は言った。
「だったらいますぐドラッグ取引をやめるべきよ」
「べつの方法で戦費を調達できれば」
「当分、その気はないってことね」
「あんまり厳密に考えるな。人間のやることで、悪をまぬがれてるものなんかほとんどないんだ」
「じゃあ、悪をまぬがれてるものってなに?」ひなびが訊いた。
「死ぬこと、祈ること」姉妹はこたえた。
「意味がよくわからない」
「どんな罪深いやつでも死ねば大地の肥やしになるじゃないか」
「祈りはなんで悪をまぬがれてるの?」
「祈ってるだけなら大地を傷つけたりしない」
池の水面を、アマガエルがすいすいと泳いだ。姉妹は小石を拾って投げつけた。
「やめなさいよ」ひなびが叱る声で言った。
賛浩が屋敷から出てきてみんなに訊いた。
「夜ごはんはなにが食べたい?」
四月下旬までに、パンプキン・ガールズは、多摩川をはさんで九竜シティと向き合う府中市、国立市、立川市、および調布市の一部から、東京UFの影響力を一掃した。その時点で兵力は千二百人に増強された。虹の旗は、2月運動のテロで撤退したNGOを説得して、シティの数ヵ所で学校と孤児院の再建と増設に着手した。国際医師団も、多摩センター駅近くの廃業した総合病院を買収して、改装と整備工事をはじめた。姉妹が諸勢力と連携しながらシティに進出する機会をうかがっていた五月初旬、長い闘病生活に打ち勝って、高橋・ガルシア・健二が退院した。
33
退職警官のゲイのカップルが馬場大門けやき並木で営む小さなイタリア料理店〈カルゾネ〉を借り切って、高橋・ガルシア・健二の退院を祝った。健二、月田姉妹、謝花ひなび、李賛浩、万里、アイコの七人が一つの大きなテーブルを囲んだ。残りの四つのテーブルに、カジュアルな装いの突撃隊が適当に散らばった。
「チャンホだ」姉妹は健二に賛浩を紹介した。「おぼえてないだろうけど、健二を府中刑務所からモーセ総合病院へ運んでくれた命の恩人だよ」
健二は、賛浩の右手を両手で固くにぎり、頬を赤く染めて丁重な礼を言った。「退院おめでとう!」ひなびがワイングラスをかかげた。おめでとうと全員が叫んだ。乾杯した。ぜんぜん気どらない、心づかいを感じさせる料理が、テーブルにならべられた。マッシュルームとアンチョビのピザが大人気で、なん回も追加注文した。健二への配慮から、モーセや2月運動が話題にされることはなかった。出席者の全員にたしなみがあった。パンプキン・ガールズの無敵の進撃が称《たた》えられたり、シティの不穏な情勢が語られるような場面もなかった。つぎつぎと料理を平らげ、ワインを飲みつづけた。姉妹がセックスに関するきわどいジョークを連発しはじめると、ひなびがすごく嫌な顔をした。高級ワインを二ダースあけ、ひなびが酔って賛浩を巻き添えに椅子から転げ落ちたところで、パーティはおひらきになった。
万里は府中市にあるグループ企業の統括本部にもどった。賛浩とひなびは車でシティへ帰っていった。
「健二、もうちょっとつき合えよ」姉妹は言った。
「うん」健二が言った。
姉妹は健二と手をつないだ。健二が両側へ笑みを振り分けた。三人は夜の街をぶらぶら歩き出した。アイコと突撃隊がさりげなく同行した。
「酔ってる?」姉妹は訊いた。
「すこしね。アルコールはひさしぶりだから」健二が言った。
「看護師に可愛い子いた?」
「ぼくのたんとうじゃないけど」
「口説いた?」
「そういうゆうきがほしいよ」
鉄道線路のガード下をくぐり、府中駅北口へ出て、ホテル〈ゴールデン・ユニコーン〉のまえにきた。常陸軍外国人部隊の装甲車と一個小隊が警備していた。姉妹たち一行は、顔パスで、武器を携帯したままロビーに入った。
上昇するエレベーターのなかで、姉妹は健二と向き合った。健二はさほど背丈はなく、どちらかと言えばがっちりした骨格をしていた。
「入院してた八ヵ月ちょっとの間に、すごく大人になったような気がする」姉妹は言った。
「ぼくが?」健二がはにかみながら言った。
「まえは頭の回転もからだの動きもすばしっこくて、いかにもスラム出身の男の子っていう感じで、上昇志向がびんびん伝わってきたけど、いまはちがう印象」
「しゃばにでてきて、まだ四かだよ。あたまもからだも、ぼんやりしてる」
十八階で降りた。エレベーターホールの壁に〈P・G〉と金文字がうき出ている。天井に監視カメラ。廊下をいくと、客室からAKで武装した女の子が二人出てきて、直立不動の姿勢をとった。
「フロアぜんぶを一年契約で借りてる」姉妹は言った。
「ふうん」健二が信じていない口ぶりで言った。
アイコが先に部屋に入った。すぐ右側にワンルーム。左へ曲がるとまたドアがある。それをアイコがあけた。広いリヴィングルームと、それにつづく会議室を見て、健二がおどろきの声をもらした。
「きみたちのじむしょ?」健二が訊いた。
「ビジネスにはハッタリが必要なときもあるんだ」姉妹は言った。
アイコが部屋を出て、ドアを閉めた。姉妹は健二をメインのベッドルームに案内した。ばかでかい豪華なダブルベッドがある。
「ここでねてるの?」健二が訊いた。
「たまに」姉妹は言った。
「ねてもいい?」
「いいよ」姉妹は笑った。
健二が勢いをつけて背中からベッドにからだを投げ出した。
「ぼくとはぜんぜんちがうせかいに、きみたちはすんでる」健二が言った。
「マフィアだからね」姉妹は言った。
健二があおむけに寝たまま小さくうなずいた。
「せわになりっぱなしで、ぼくはどうしたらいいのかわからない」
「健二はあたしたちの命の恩人だ」
「こんどはぼくがおんをかえすばんなんだけど、すぐにはかえせそうもないよ」
「まず家族を養うのが先決」
「そうなんだ」
「政府軍は撤退した。あの雑貨屋をつづければいい」
健二がベッドの上でからだを起こし、後ろに両手をついてささえた。
「ざっかやのけんりをかうとき、モーセにカネをかりてる」
イタリア料理店では誰もが避けていたモーセという言葉が健二の口から出てきたので、姉妹はちょっと緊張した。
「ひなびに訊いたよ」姉妹は言った。
「ぼくはりょうしんがいないから、りそくはゼロだ」
「助かるじゃないか」
「モーセびょういんが、二しゅうかんに一かい、きょうこをみにきてくれる。まさやはモーセがくえんにかよってる。ちびもそのうちせわになる。びょういんもがっこうも、カネはとらない」
「モーセのおかげで健二の家族はどうにか暮らしてきた」姉妹は肯定的に言った。
「それがいいことなのか」
「感謝すべきことだよ」
「きみたちはモーセをきらってる」
姉妹は胸に痛みを感じた。そっと息を吐いて、ひかえめな表現をえらんだ。
「人種や国籍や、ゲイだとかレズビアンだとかで、人を差別しちゃいけないと思う」
「にじのはたが、がっこうとこじいんを、シティでつくろうとしてる」健二は姉妹がふれたがらない話題にさっさと踏み込んだ。
「絶対的に不足してるからね」姉妹は言った。
モーセはシティ西部で十二の小学校と五つの中学校と四つの孤児院を運営している。だが、その規模はいずれも小さく、彼らが日本人の子弟とみなす子供たちの五パーセントていどをうけ入れているにすぎない。
「パンプキン・ガールズは、にじのはたと、どうめいかんけいをむすんでるんだろ?」
かすかな非難を姉妹は聞きつけた。健二の彫りの深い顔立ちを見つめた。陰りのある眼差《まなざ》し、高い鼻梁《びりよう》、色白の肌に映えた青いひげの剃《そ》り跡。海人とタイプはちがうが、健二も美しい若者だった。
「虹の旗と同盟してる」姉妹は率直に言った。
「こくさいいしだんのスポンサーにもなってる」健二が言った。
「なにを悩んでるの?」
「きみたちにもモーセにも、おんがえしをしなくちゃならない」
モーセに恩を返そうとすれば、きみたちと闘うことになる、とでも言いたげだった。
「頭を空っぽにしちまえ」姉妹は厳しい声で言った。
「いつだってからっぽさ」健二が両手を頭の上にあげてひらひらさせた。
姉妹は健二の足もとにかがみ込んで、靴を脱がした。安物のすり減ったスニーカーだった。靴下の親指と踵《かかと》に穴があいていた。パンツのベルトに手をかけた。びっくりした健二が姉妹の手を払った。
「シャワーをあびよう」姉妹は言った。
「どうして?」健二が警戒する口調で訊いた。
「ぜんぶ忘れちまうためさ。妹のこと、二人の弟、九竜暴動の辛《つら》い記憶、家出したおふくろへの恨み、借金、義務、責任、しがらみ、過去の悔恨も未来への不安も」
健二の視線のなかで、姉妹はポロシャツの襟のボタンに手をかけた。ボトムは綿のパンツとスニーカーという、突撃隊の女の子たちと同じような、変哲もないカジュアルな装いだった。頭から脱いだポロシャツをむぞうさに床に落とした。スニーカーと綿のパンツも脱いで、そのへんへぽいぽいと放り捨てた。からだを隠しているのは、カタログを見てとりよせた繊細なデザインの高級下着だけだった。コンソールを操作した。強化ガラスの壁の向こうに明かりが灯《とも》って、大理石の広々としたバスルームがうかびあがった。
「おいで」姉妹は手招きした。
健二が固い表情で首を横に振った。姉妹はバスルームに入った。金属のパイプの梯子《はしご》が、小さなプールと呼んだ方が似つかわしい広大なバスタブのなかに降りていた。コックのハンドルを全開させた。太い蛇口からお湯がほとばしり出た。姉妹は下着をぜんぶとって、洗面台の上に重ねた。シャワーをいっしょにあびた。ほっそりした腕、狭い肩、ひかえめな乳房、それなりの量感をたたえた尻《しり》、すんなりのびた脚、淡いアンダーヘア。あと百年経っても熟れそうにもない青い果肉。だが絶妙なバランスが一つの美を構成していた。バスタブに降りて手足をのばした。どのみち健二は誘惑に勝てまい、と姉妹は思った。浮力を感じはじめたころ、湯煙の向こうでシャワーを使う音が聞こえた。その数十秒後、浅瀬で暴れる大きな魚を捕まえるようにして、姉妹は素裸の健二を組み伏せた。
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「おまえたちはひでえ個人主義者じゃねえか。そんなことをよくつづけられるな」
三十人前後の女の子の共同生活が六ヵ月もつづいているという話を電話で聞かされて、隆が呆《あき》れる口調で言った。
「だいいちパンプキン・ガールズのボスだっていうのが信じられないよ。そのうち、ぽいって投げ出すんじゃねえのか」
「さすがはリュウ」月田姉妹は送話口に告げた。「なかなか鋭い指摘だ。だけど、いまのところは愉《たの》しくやってる。こんどメグを連れて遊びにこいよ」
事実として、吉林市場の本部の暮らしはそこそこ快適だった。屋敷の管理全般を、李賛浩が担当した。炊事、洗濯、車両の整備、食料と日用雑貨品の調達、電気や水道の修理、草むしり、犬の糞《ふん》の掃除、蜂の巣の撤去。仕事はたくさんあった。賛浩その人の管理能力は明白に平均以下だったが、見るに見かねた人々が口や手を出すうちに、おのずと役割が分担された。
ビリィが賛浩をよく補佐した。経理は、謝花ひなびがパートタイマーで引きうけた。大所帯の食事の手配を賛浩はたびたび忘れたが、その件は引退した大連出身の料理人夫婦と契約することで解決した。庭の菜園の野菜が毎日食卓をにぎわした。エンドウの収穫がほぼおわったころ、近所の朝鮮族のおばあちゃんの指導で、突撃隊がカボチャやトマトやキュウリの苗を植えた。人間関係の方もおおむねうまく回転した。アイコには、のろまな部下に鉄拳《てつけん》を振るう傾向があったのだが、賛浩の性懲りもないへまとつき合ううちに、びっくりするほど我慢強くなった。
高橋・ガルシア・健二とは、痴態のかぎりをつくしたあの夜を最後に連絡が途絶えた。携帯電話は通じなかった。それが健二の意思だろうと思い、姉妹は放置した。国立府中IC近くのトラックターミナルにある彼の雑貨屋は、タイ人のやり手の女が引きついだ。ひなびが弟の雅也に訊《き》いた話では、健二はシティで稼ぎのいい仕事に就いたようだが、詳しいことはわからなかった。
「モーセに関係がある仕事だと思う。だからあたしたちを避けてるのよ」ひなびが決めつけて言った。
戦況は小康状態を保ち、首都圏の分割統治が固定化された。水面下で和平交渉がつづいた。思い出したように砲撃合戦があったが、政府軍と連合軍、双方の歩兵部隊が直接衝突することはなかった。
本部の庭の菜園でトマトが赤く色づいたころ、ビリィが十五歳の誕生日をむかえた。背丈がぐんとのびて月田姉妹を追い越し、口ぶりと物腰がいっそう大人びた。戦闘に参加する資格をえたビリィは、鶴川街道の南の射撃場で二週間の臨時講習をうけた。李明甫の話によれば成績はきわめて優秀だったという。
「パンプキン・ガールズは出入り自由だ」姉妹は言った。「ビリィ、おまえは武器をひととおり扱える。もともと賢い。精神的にもタフだ。好きな道をえらべ」
「出ていけっていう意味?」ビリィがおどろいて訊いた。
「おまえに選択権があると言ってるんだ」
「自分がなにをしたいのかよくわからないのよ」
「虹《にじ》の旗はどうだ。あの連中はひたむきだぞ。目標に向かってまっすぐ前進する。我々は見てのとおり不純だ。男の子を買う。女の子を買う。葉っぱをやる。罪を犯す方にいそがしくて、社会への還元がいささかおろそかになってる」
「ここにいちゃだめ?」ビリィが懇願する口調で言った。
「突撃隊に入るか?」
ビリィは首を横に振った。
「都合のいいことを言うようだけど、人を撃つ気にはなれないの。チャンホやひなびと暮らしてるいまが幸せ」
「ならそれでいい」
ビリィが賛浩の補佐をする現状に問題はなかった。その日の夜、庭にテーブルをならべて大勢で食事をしているときに、ガーデンライトがいっせいに消えた。屋敷のなかの明かりも落ちた。シティ東部のほぼ全域が停電しているようだが、遠く都心のまばゆいイルミネーションが見えた。賛浩とビリィと突撃隊がばたばた走ってロウソクの明かりを点《つ》けた。停電はつづいた。音楽も扇風機のノイズも消え、人声もふだんよりずっとひかえめな、闇と静寂が支配する夜を、姉妹は愉しんだ。
東の空がかすかに明けはじめたころ、爆弾の炸裂《さくれつ》音が姉妹を目覚めさせた。AKをつかんで二階の寝室の窓辺に駆けよるまでに、さらに二度、炸裂音がひびき、階下でガラスが砕ける音が聞こえた。南の窓から敵の姿を捜したが、硝煙もバックブラストも見えなかった。小型無線機でアイコと連絡をとった。
「敵の位置は!」姉妹は訊いた。
「わからない! ばくだんはそらからふってくる!」アイコが叫んだ。
ひゅるひゅると空気を切り裂く音がした。姉妹はまだ星が瞬く西の空から放物線を描いて落ちてくる40ミリグレネード弾を見た。庭の池で水柱があがった。突撃隊が建物や車の陰から西の森に向けてでたらめに発砲した。
「グレネード弾の曲射だ」姉妹はアイコに告げた。「敵はアメリカ軍施設の方角から攻撃してる。いったん撃つのをやめさせて、掃討班を編成しろ!」
姉妹は階段を駆け降りた。その間も炸裂音がつづき、爆風が窓ガラスを吹き飛ばした。グレネード弾は小型迫撃砲弾なみの威力がある。ガラスが散乱するポーチに出た。泣き叫ぶ声が聞こえた。ダバオ出身の日系フィリピン人のミロが、砲弾とガラスの破片を全身にあびて、突撃隊員の腕のなかでぐったりしていた。いそいでミロを車に担ぎ込み、府中市の国際医師団の診療所に運ばせた。
本部防衛にアイコと十人を残し、姉妹は十八人の突撃隊を率いて敵の掃討に向かった。グレネード弾が空を飛ぶ音に耳をすませながら、幅二十メートルほどの森をすばやく通過して、アメリカ軍施設の金網のフェンスに達した。敵は施設の内部の藪《やぶ》にひそんでグレネードランチャーを発射していた。距離はおよそ百八十メートル。姉妹は班を南へ移動させ、樹木が視界をさえぎる地点を見つけて、金網をよじ登った。全員が向こう側へ着地しおえるまえに、敵がいると思われる藪の周辺で銃声が鳴りひびき、赤い炎を曳《ひ》いて銃弾が飛び交った。
アメリカ軍の警備兵と撃ち合っているのだろうと姉妹は思った。茂みに伏せてしばらく様子をうかがった。二十秒間ほどで銃撃はおわった。グレネードランチャーによる攻撃もやんでいた。藪の陰から人影が立ちあがり、姉妹の方をぼんやりと見た。短めのボブが乱れ、白いTシャツは鮮血に染まっていた。ビリィだった。姉妹は掃討班を前進させた。草の上に東アジア系の男が一人、あおむけに倒れていた。額からまだ噴き出している鮮血。不自然なかたちでのばした左腕。その先に転がったグレネードランチャー。
「こいつ一人じゃないだろ?」姉妹は訊いた。
「逃げた。四人か五人か」ビリィがAKの銃口で西の方角を示した。
「ビリィ、よくやった」姉妹は言った。
夜明けの青い光のなかで、ビリィが焦点の合わない視線を姉妹に向け、自分自身を疑う口ぶりで言った。
「撃つ気はなかった、ほんとだよ」
「心が命じたんだ。うけ入れろ」姉妹は言った。
35
東アジア系の男の死体を本部の庭に運んで、李明甫に見せた。
「幹部連合の兵隊だ」明甫が言った。
「我々と戦争をやる気なのか?」月田姉妹は訊いた。
「おまえたち双子を狙ったテロだろ」
「東京UFの依頼で?」
「ほかに考えられない」
本部の東のスラムの方角で、女の叫びがいくつか重なって聞こえる。被害を正確に把握できたわけではないが、スラムで朝鮮族の女が一人と男の子一人が死に、十数人の負傷者を出していた。
「潮時だな。我々はここを引き払うよ」月田姉妹は言った。
「引き払うって?」明甫が訊いた。
「本部を府中のゴールデン・ユニコーンに移す。民間人に死者が出たんじゃ、もうここにはいられない」
「おまえたちが悪いんじゃない」
「幹部連合はかならずテロと挑発をつづける。またスラムの朝鮮族に被害が出る。憎しみはよそ者に向かう。仕方ないことだ。遅かれ早かれ、我々は撤収することになる」
パンプキン・ガールズの兵力は千五百人を超えた。もはや小燕派の庇護《ひご》を必要とせず、吉林市場に本部をかまえる理由はなかった。明甫は姉妹の意向を了解し、ピックアップ・トラックに幹部連合の兵隊の死体を乗せて去った。
李賛浩とビリィが被害者対策でスラムを走りまわった。負傷者を病院へ運び、水と食糧をとどけ、当座の見舞金を配った。仕事をおえた謝花ひなびが、二人を補佐して、苦情を聞き、被害状況を調査した。万里が百人の部下を連れて府中市から駆けつけ、周辺の路地に武装した女の子を配備したうえで、瓦礫《がれき》や廃材の撤去を手伝った。
家屋の修繕および建て直しを、吉林市場の建設業者に発注した。正午まえに悲しい知らせがとどいて、突撃隊員が泣き崩れた。ミロが国際医師団病院で死亡したという。
概算で三十発のグレネード弾が撃ち込まれた。パンプキン・ガールズの死者一人。スラムの住民の被害は、死者二人、重軽傷者十一人。家屋の全壊四、半壊九の被害を出した。家屋はどれもバラックだったから、工事のすばやい発注と、人海戦術により、午後遅い時刻にはほぼ修復された。
本部の建物の修復はまだ手つかずだった。本格的な工事が必要になる。あとは建設業者にまかせることにして、私物と武器・弾薬を車に積み込んだ。
「チャンホはどうするの?」ビリィが賛浩に訊いた。
「おれは残るよ」賛浩が笑顔で言った。
「幹部連合に狙われない?」ビリィが心配そうに姉妹に訊いた。
「その危険はある。あたしたちといっしょにいこう」姉妹は誘った。
「ここが好きなんだ」賛浩が笑みを絶やさずに首を横に振った。「おれを殺したがってるやつがいれば、おれはかんたんに殺されちゃう。いままでもそうだったし、これからもね」
賛浩は拳銃《けんじゆう》一丁持とうとしない男だった。AKとロケット砲と戦車で武装したところで、命の保証はできないのだから、賛浩の生き方はそれはそれで敬意を払うべきだと姉妹は思った。ビリィが賛浩の腰に手をまわして強く抱いた。それをひなびがにこにこ見ていた。姉妹は青いベンツへ向けて歩いた。突撃隊が後部座席のドアをあけた。ふいにエンジン音が近づき、坂道の下から明甫の4WDがあらわれた。その背後にもう二台。白っぽいロールスロイスとべつの4WD。先頭の車から明甫が降りた。
「ボスが一言あいさつをしたいって言うんで」明甫がいくらか緊張気味に言った。
ロールスロイスの後部座席のドアがひらいて、濃いサングラスをかけた女が降り立った。長身にスウェットシャツと作業パンツ。数人のボディガードが散って、周囲へ鋭い視線をめぐらした。小燕が大股《おおまた》で姉妹に近づいた。短めのボブがゆれ、コンバットブーツが細かい土埃《つちぼこり》を舞わせた。小燕が姉妹の手を交互ににぎった。
「出ていかなくてもいいのに」小燕が温かみのある声で言った。
「迷惑かけたくないからね」姉妹は言った。
「我々が一つにまとまったら、もどっておいで」
「どうして誘ってくれるの?」
「高麗幇だけでは生きていけないでしょ」
姉妹は、小燕の言葉が含意しているものについて、ほんの短い時間、考えをめぐらした。それから、満足した笑みを小燕に返し、ベンツに乗り込んだ。
パンプキン・ガールズの本部は府中市へ撤退した。その日の深夜、アイコが急襲部隊を編成して引き返し、吉林市場の幹部連合の三ヵ所の事務所に、ロケット弾を計八発ぶち込み、全員、無事に帰還した。
36
多摩川の北岸地域では、東京UFが撤退した四月下旬以降、漢族系マフィアが擡頭《たいとう》して、チワン族、チベット族、モンゴル族、あるいはロシア系マフィアとの間で、衝突をひんぱんに引き起こした。そこに高麗幇の幹部連合と小燕派の代理戦争がくわわり、利害が錯綜《さくそう》して事態をいっそう複雑にした。治安の悪化にともない、社会の各レベルで自衛のための武装化がすすんだ。商店街組合、居住区の少数派の諸民族、虹の旗には吸収されない女たちと性的マイノリティが、武装自警団を組織して、マフィアと衝突をくり返した。
森まりがゴールデン・ユニコーンの十八階の本部事務所をたずねてきて言った。
「常陸軍司令部の要請で、治安を安定させるために、諸勢力の利害の調整をやることになった。パンプキン・ガールズにも協力してほしい」
「なにをすればいい」姉妹は訊《き》いた。
「パンプキン・ガールズが、弱小のマフィアに利権をゆずれば、利害の調整はうまくいくと思う」
「一人負けしろってことか?」
「基本的にはそういうこと」
「我々は、もうじゅうぶんに、身を削って分配してきた」
「もっと身を削ってほしい」
「分配しても再分配のための抗争がはじまる。じっさいにそうなってる」
「治安の悪化を望んでるの?」
「望んでるわけじゃない」
「常陸軍占領地域ではパンプキン・ガールズが最強のマフィア。強者には責任がある。責任を果たすには、桜子と椿子の嫌いな理念ってやつが必要になる」
「理念ね」姉妹はうかない顔をした。
「すべてのマイノリティ集団に、生存権と自衛権を認める。この理念を当事者に共有させつつ利害を調整する」
「マフィアもマイノリティ集団に入ってるのか?」
「弱小マフィアはマイノリティ集団の一つとみなす。東京UFが首都圏の弱小マフィアに落ちぶれたら、その生存権と自衛権を認めてやってもいい」
「その考え方には無条件で賛成するけど、我々は利権を吐き出して、なにをえられる?」
「パンプキン・ガールズへの敬意」
「敬意だけ?」
「ほかになにも望まない、という態度を貫くことが大切ね」森が力説した。
「モリマリの言うとおりにやったら、まちがいなく金庫が空っぽになる」姉妹は両腕をひろげた。
「また稼げばいいじゃないの」森がこともなげに言った。
「我々は企業経営もしてるんだぜ」姉妹は眉《まゆ》をあげた。
「失うことを恐れてたらなにもできない」
「話が極端すぎるよ」
「パンプキン・ガールズは、いつ、なん人で、資金はいくらで、出発したの?」
「八ヵ月まえ、四人で、中古のトラックを一台売って」姉妹は諳《そら》んじる口調で言った。
「失敗しても、そこへもどればすむ話じゃないの。肝心なことは、敵から奪いつづけること、理念を共有しつつ富を分配しつづけること」
「モリマリ、おまえは口のうまい女だな」
「協力するのしないの、どっち?」
「パンプキン・ガールズだけでは生きていけない」姉妹は小燕の言葉を思い返して言った。
「そのとおりよ」森が言った。
姉妹は、条件があると言い、その場にいたビリィとアイコを部屋から追い払った。森が頬を薄桃色に染めて、つぎに起こる事態を待ちうけていた。姉妹は森に手錠をかけた。さらに衣服の上から細いロープで縛った。バスルームへ連れていくときには、三人とも呼吸が乱れていた。森をタイルの床に転がしてシャワーをあびせ、濡《ぬ》れた衣服を鋭利なナイフで切り裂く遊びに熱中した。それから犯した。
経営部門の責任者としての立場から、万里が異論を唱えるかもしれないと思ったのだが、森と姉妹の合意事項はあっさり了承された。
「なんどでも四人と四丁のAKから再出発してみせる。その覚悟と自信があれば怖れる必要はどこにもない」と万里は言った。
諸勢力の利害の調整がはじまった。万里が森と綿密な打ち合わせを重ねた。調整の実務そのものは森がぜんぶ担った。姉妹は最後の場面で登場してサインをすればよかった。
六月下旬の暑い夜、森が、府中市緑町の歓楽街で抗争中の、漢族系マフィアと、チベット族系マフィアと、ゲイの小さな武装集団の三つの組織の代表者を、ゴールデン・ユニコーンに連れてきた。万里がパンプキン・ガールズの利権を漢族系マフィアに譲渡する書類を作成し、姉妹がサインした。それをうけて、漢族が、チベット族とゲイの武装集団の利権を承認する書類にサインした。
「あいつら、かんたんにつぶせるのに」森と関係者がスウィートルームを出ていったあとで、アイコがはっきりと不満を口にした。
「我々は興味深い実験を目撃してるのかもしれないよ」姉妹はなだめる口調で言った。
「実験って?」万里が訊いた。
「軍とマフィアと住民。日本人と多様な異民族」姉妹は数えあげた。「女と男とヘテロとホモとバイ。娼婦《しようふ》とインテリと孤児。利害を調整するプロセスで、いろんなやつが、どんどんズレていきながら、まだ誰も経験したことがない新しいネットワークをつくりつつある」
「そんなことより、いつになったらシティにせめこむんだ」アイコがいら立つ声で言った。
パンプキン・ガールズの兵力はなお膨張をつづけ、その維持費が財政をいっそう逼迫《ひつぱく》させていた。あらたな利権を獲得する必要があったが、政府軍が支配する都心部に手を出すことは、事実上、不可能である。南下してシティの利権を東京UF系のマフィアから奪う。それがパンプキン・ガールズの緊急の課題だった。
「常陸軍と歩調を合わせた方がいい。もうすこし待て」姉妹は言った。
常陸軍は、一年近くにわたる志願兵募集活動の結果、シティに武力進攻して占領政策をおこなえるだけの兵力をそなえていた。東京西部に展開する兵力は倍の十二個大隊、一万人にふくれあがった。イリイチの外国人部隊は四個大隊三千人に、白川の混成部隊は、孤児部隊が二個大隊千五百人に、ンガルンガニの女の部隊が一個大隊七百五十人に増強された。
シティの性的マイノリティの武装勢力である虹《にじ》の旗の兵力は三百人を超えた。
ンガルンガニと虹の旗の支援をうけて、複数のNGOが、シティで二つの孤児院と七つの学校を六月下旬に開校すると、2月運動と思われる武装集団に、たびたび威嚇射撃をうけた。
七月四日、正午すぎ、姉妹はベッドで熟睡しているところを、ビリィに起こされた。
「シティでNGOが殺されたよ!」ビリィが叫んだ。「桜ヶ丘の小学校で教員一人が、貝取《かいどり》のNGO事務所で職員一人」
姉妹は午後の時間をTVのまえですごした。
午後一時四十分、整備工事中の国際医師団〈多摩センター病院〉が武装集団に占拠され、建設労働者一人が死亡、重軽傷者九人が出た。
常陸軍が治安維持のために、多摩センター病院へ二個中隊の歩兵を投入した。画面のなかの兵士たちの表情は幼げで、孤児部隊だとすぐわかった。短時間の戦闘ののち、常陸軍が武装集団を追い払うと、反発する数百人規模の住民が抗議行動に出た。投石と火炎瓶攻撃があった。やがて、なに者かが住民にまぎれて銃撃をはじめ、グレネード弾やロケット弾まで使用された。国際医師団は危険な状況と判断して、職員と建設労働者の引き揚げを決定し、孤児部隊に守られてシティから撤退した。
その夜、TVが、常陸軍の被害は死者一人、負傷者四人、住民側にも多数の死傷者が出た模様だと報じた。姉妹はモーセのHPをのぞいた。「常陸軍が無差別発砲、少年二人をふくむ市民十二人が虐殺される」と出ていた。犠牲者全員の惨《むご》い写真にしばらく見入った。それから森まりに電話をかけて、話があると告げた。
37
ンガルンガニの事務所の南側の路地は、イリイチの外国人部隊の装甲車で封鎖されていた。月田姉妹はその地点でアイコと突撃隊を帰し、アフリカ系の兵士に案内されて、路地を西へ四十メートルほどすすんだ。薄汚れたビルに入り、べつのドアから広い中庭に出た。将校用のレストランだった。テーブルを囲む男たちの顔をロウソクの明かりがぼっとうかびあがらせている。奥まった席で、森まりと海人が手をあげた。姉妹は二人の間の椅子に腰をかけた。対面する席にイヴァン・イリイチ。その右に暗い眼差《まなざ》しの無精ひげの若い男と、オリーブ色のノースリーブを着けた冷徹な感じの女。どちらも東アジア系だった。姉妹は見知らぬ男女に自分の名前を告げ、テーブル越しに握手した。
「白川だ」女がぶっきらぼうだが親しみのある声で言った。
男は藤井と名乗った。誰も説明をつけくわえなかった。姉妹のグラスに、森がワインをそそいだ。数種類のパスタとサラダ、パン、チーズ。質素な食卓だった。
「常陸軍は誘い出されたんじゃないのか?」姉妹はワインに口をつけて切り出した。
森にうながされて海人が発言した。
「多摩センターびょういんの敵をおいはらったときには、孤児部隊は、五百人いじょうの住民にかこまれてた」
「モーセ=2月運動が事件を計画したんだ」姉妹は言った。
「三ヵ所でテロをやる」海人がうなずいて言った。「NGOのなん人かを殺す。ひたち軍がかいにゅうしてくるだろう。だから住民と狙撃兵《そげきへい》をあつめて、おれたちがくるのを待ってた。それをわかっていても、部隊をおくらなくちゃならなかった。ほうっておけばNGOにもっとぎせいしゃがでた」
「カイトが現場で指揮をとったのか?」
「おれじゃない。葉郎だ」
「モーセのホームページを見たよ。常陸軍の発砲で住民に死者十二人。犠牲者の写真も公表してる」
「葉郎はじゅうみんへの発砲をきんじた」
「小銃、グレネードランチャー、ロケット砲で攻撃されたんだ。上官が禁じたって、兵士は恐怖や憎悪で撃ち返すだろ」
「ひていはしない」海人が冷静な声で返した。
「住民の犠牲者の数はデマか?」
「せいかくな数をはあくしてない」
姉妹はパスタを皿にとり分けながら言った。
「モーセは犠牲者の写真の在庫をいっぱい抱えてるっていう、笑えないジョークがある。それでも現場で死体を数えたのはモーセだ。孤児部隊は撤退した。政治的にも軍事的にもモーセ=2月運動の勝利だ」
姉妹は口のなかにパスタをつめ込んで、よくかみ砕いてから、言葉をついだ。
「シティにビルをいくつか買ってある。ビジネスをやるつもりだ。ナイトクラブ、レストラン、不動産業。まず警備保障会社をつくる。警備員は軍隊なみに武装させる。顧客はNGOと外国人商店を想定してる」
テーブルに一瞬、沈黙が落ちた。姉妹のビジネスプランは、明らかに、シティの混沌《こんとん》を暴力で秩序化しようとする意思の表明だった。
「NGOが、武装警備員の雇用に踏み切れるかどうか」森が否定的な口調で言った。
「ではNGOは撤退するしかない」姉妹は断定した。「モーセ=2月運動は今回も暴力でNGOを追放する。二百パーセントの確率で」
「双子の言うとおりだ」白川が言った。
「常陸軍がシティの治安に責任を持ってくれるなら、むりに警備保障会社をつくろうとは思わない」姉妹は全員に問いかけるように言った。
ゆらめくロウソクの明かりの向こうで、イリイチが言った。
「NGO活動の安全を保証するには、大部隊を長期間シティに駐留させる必要がある。だがいまのところ常陸軍司令部がそれを認めない。司令部の意向を無視して、二個中隊三百人ていどを駐留させることは可能だが、その兵力では、きょうと同じ事件がくり返される」
「モーセが動員した住民を、2月運動が狙撃する場合もある」藤井と名乗る若い男が口をはさんだ。
「誤射ではなく?」姉妹は訊《き》いた。
「狙い撃つんだ」
「殉教者の捏造《ねつぞう》か」
「やつらはそうやって勢力をのばしてきた」
「あんたはなに者?」
藤井が手のひらでテーブルクロスからパン屑《くず》をていねいに払い落とした。
「シティ出身の武装勢力の司令官だ」白川が教えた。
「信州軍に雇われてる」藤井が言った。
「去年の十月、我々が甲府軍支援を決めるまでは、藤井の部隊は甲府軍側についてた」イリイチが言った。
「ギャラがはねあがったんで、信州軍に寝返った」藤井が事務的な口調で言った。
「兵力は?」姉妹は訊いた。
「三個小隊ていど」藤井がこたえた。
「シティ出身の武装勢力って、全国でどれくらい?」
「五万とか六万の単位だと思う」
「日本人の部隊だけで?」
「そうだ。つぎに多いのが朝鮮族の部隊で、たぶん二万前後」
シティには二十年近い治外法権の歴史がある。不法移民は当然のこととして、日本国籍の住民にも徴兵制度は施行されず、その代わりシティは傭兵《ようへい》部隊を供給してきた。日本人と朝鮮族の部隊を合わせた七万人から八万人という数字は、日本各地で戦っている全兵力のおよそ一割である。
「シティ出身の日本人の武装勢力は、シティの未来に関して、なにか統一した考えがあるのか?」姉妹は訊いた。
藤井が首を横に振った。
「仕送りが目的のたんなる傭兵部隊だ。ただし、おれの部下はあの土地への愛着がある。やつらは最初の国内難民だ。同じ日本人から迫害をうけて、都内を追われて、どうにかシティに定住できたという思いが強い」
「おまえ自身は国内難民じゃないのか?」
「兄貴が633部隊のボスをやってる」
「元反乱部隊のマフィアか」
「そうだ。シティのマフィアも特殊だ。633部隊、義士団、五侠会、その三つのマフィアは東京UFに系列化されて、いちおう本部に忠誠を誓ってるが、やっぱり地域への愛着がある。シティの西半分を、自分たちの独立国家ぐらいに考えてる」
「その独立国家の人口の半分強は外国人だ。彼らは、おまえの言う迫害をうけてきた国内難民よりも、もっとひどく迫害されてきた。いまもモーセ=2月運動から迫害されてる。この事態をどう思う?」
「個人的には人種差別に反対だ」
「藤井を説得してる」イリイチが言った。「部隊を連れて帰ってこい。すべての民族にひらかれたシティの建設にとりかかれ」
「返事は?」姉妹は藤井に訊いた。
「おれの三個小隊というのはシティ出身の日本人部隊の六百分の一だ。なにかをはじめられる兵力じゃない」
藤井の言葉を、姉妹は鼻で笑った。
「おまえはそうやってぐずぐずしてろ。我々の戦闘部隊の八割は、シティ出身の、いろんな人種の女の子だ。近いうちに彼女たちをシティに帰してビジネスをはじめる。警備保障会社も立ちあげる。モーセ=2月運動と、東京UF系のマフィアが、つぶしにかかるだろうが、武力闘争に勝利する自信はある」
「パンプキン・ガールズが決断すれば、虹《にじ》の旗もおうじると思う」森が言った。
「共同作戦をしよう」白川が薄くルージュを引いた唇をほころばせて言った。「我々は緊急展開部隊を編成して、2月運動の拠点を叩《たた》く」
姉妹と森と白川が作戦の成功を祈ってグラスを合わせた。イリイチは口をはさまなかった。海人は額に手をやり、眼差しを隠した。キーボードとパーカッションと女の歌声が薄く流れてきた。姉妹は中庭の西側へ視線を送った。ステージに落ちるほのかな光のなかで、セクシィなドレスを着けた背の高い女が、低いしわがれた声で、〈イット・スターティッド・ウイズ・キッス〉を歌っている。
「ガウリだ。せんしゅう、ひたちから出てきた」海人がささやいた。
雅宇哩の歌に耳をかたむけた。物語るのでもなく、音とたわむれるのでもない、私的で屹立《きつりつ》した世界がステージの上に出現した。姉妹はそれを構築物を観るようにして聴いた。
38
NGOに対する攻撃は翌日になってさらにエスカレートした。貝取地区のNGO事務所に火が放たれ、諏訪地区の小学校が銃撃をうけて教員二人と職員一人が殺された。その日の夜、三つのNGOが共同記者会見をひらき、シティで運営する五つの小学校と二つの中学校の一時閉鎖を発表した。
永山地区と連光寺《れんこうじ》地区にある二つの孤児院は、武装集団に包囲されて、水と食糧を断たれた。孤児院は、二十三人の職員と五百八十人の子供たちが暮らしていた。森まり、虹の旗の代表、NGOの三者が協議して集団疎開を決め、海人に戦闘部隊の派遣を要請した。
孤児部隊がふたたび緊急出動して、二つの孤児院から職員と子供たちを府中市の元専門学校に連れて帰った。そこは、昨年の十二月に〈ハウス〉から救出した戦争奴隷の仮保護施設として使った建物で、まだ十一人の子供たちが共同生活をしていたが、スペースはたっぷりあった。
一時的な撤退をする一方で、ンガルンガニ、虹の旗、国際医師団をふくむNGO数団体が、意思統一をはかるために会議を重ねた。治安の安定がシティで活動を再開する最低条件である、とNGO側は主張した。だが、過去二十年近く、シティの〈安全〉が確保されたことは一度もなかった。危険とどこで折り合いをつけるか、常陸軍あるいはほかの武装組織に警備を要請すべきか否か、NGO内部で意見がまとまらず、会議は紛糾した。
七月十一日、孤児部隊とンガルンガニの女の部隊が、シティの愛宕《あたご》地区にある2月運動の秘密司令室を急襲し、幹部一人をふくむ四人を拘束した。
同じ日の夜、ンガルンガニの事務所で、月田姉妹、万里、森まり、虹の旗の代表のダイアナ・ダキラが会議をひらいた。ダキラは、昨年十月に常陸軍によって解放されるまで、国家反逆罪で府中刑務所に収監されていた二十九歳のフィリピン人の元英会話学校教師だった。パンプキン・ガールズと虹の旗は二つの計画で基本的な合意に達した。まず職業的な戦闘集団としての警備保障会社の設立。これには公的な暴力装置の性格を与え、可能なかぎり近い将来、市警察の中核を担わせる。警備保障会社の軍事力だけではNGO活動の安全を確保できない。そこで各学校区に武装自警団を創設する。
「長い長い闘いになる。それにともなってばくだいな戦費がかかる」ダキラが言った。「ボディガードの訓練と装備と給与。武装自警団への武器・弾薬の供給。長期にわたって警備保障会社の利益は期待できない。率直に言うけど虹の旗は火の車なの」
虹の旗の財政事情はわかっていた。収入は、府中市と立川市で経営する三つのナイトクラブと支援者からの献金だけだった。
「資金は我々が全額出す」姉妹は言った。
「計画の具体案が決まらないうちはなにも約束できない」万里が即座に釘《くぎ》を刺した。
警備保障会社のボディガードは、パンプキン・ガールズと虹の旗が百人ずつ提供して、二百人態勢からはじめることで、ダキラと万里が合意した。会社の名前を〈シティ・ボディガード・サーヴィス〉と決めた。そのほかの細部は万里とダキラがつめることになった。
「これでおまえたちは実の父親と全面的に対決することになる」ダキラが言った。
「狂信者を排除すべきときがきた。それ以外の感慨はないね」姉妹は言った。
七月上旬の時点でパンプキン・ガールズの総兵力は千八百人だった。優秀な三百五十人を選抜して、孤児部隊に二ヵ月間の軍事訓練を依頼し、そこからさらにボディガード要員百人を選抜することにした。姉妹はゴールデン・ユニコーンの本部事務所で面接選考をおこなった。NGOの警護は神経をすり減らす闘いになることが予想された。選抜の条件は、シティ出身者、冷静さ、俊敏さ、精神的なタフさ、どんなに空腹でも睡眠不足でもフレンドリーにふるまえること。
39
ビリィがインターネットでモーセが後援する聖書研究講座を見つけた。若い男の宗教学者が創世記二十二章について語っていた。聖書とは縁のない人生を送ってきた月田姉妹だが、聞きおぼえのあるテクストだった。神がアブラハムに息子を捧《ささ》げよと命じる。アブラハムがそれにこたえて息子のイサクを屠《ほふ》ろうとする。惨劇がおこなわれようとする瞬間、神が制止して、最愛の者を神に返そうとしたアブラハムの行為を祝福する。そんなストーリィである。講義内容は、聖書で読み書きを学ぶというモーセ学園のレベルをはるかに超えていた。宗教学者の精緻《せいち》で饒舌《じようぜつ》なレトリックに、姉妹は魅了された。カントとキルケゴールが引用され、それぞれが手厳しく批判された。創世記二十二章をモチーフにしたレンブラントの絵が分析された。この世の執着を捨てて神の声にしたがえるか。それがこの謎めいたテクストの固有の問いかけであり、アブラハムの沈黙の重さを思えと宗教学者は言った。
「モーセってなに考えてるのかよくわからない」ビリィが聖書研究講座がおわったあとで言った。
「言葉の力について研究してるんだよ」姉妹は言った。
「なんのために?」
「人を支配するためにさ」
NGO活動の再開のめどが立たないまま、ボディガード要員の軍事訓練がはじまった。ときおり常陸軍反司令部派による2月運動の拠点への急襲作戦が敢行された。
梅雨明けまえの暑い夜、将校用レストランで海人が言った。
「おれたちは、土浦といわきで、二どのおそろしい戦争をたたかった。仲間がおおぜい死んだ。おおぜいの敵を殺した。どこでも死体がころがってた。いつでもおれたちは、はらぺこだった。ひどいもんだったよ。でもこっちにきて十一ヵ月たつけど孤児部隊の戦死はたったの八人だ。そのうち三人は味方のごばくでやられた。これは戦争じゃない」
旧本部の庭で今年はじめてとれた緑灰色のカボチャを李賛浩が持ってきた。シティ東部の日々も静かに流れているようだった。カボチャは丸々と太って、ずっしり重みがあった。ビリィが適当な大きさに切り、少量の砂糖をふりかけて煮た。いくらか未熟だったが、おいしく食べられた。
姉妹はカボチャの煮物を鉢に盛って、府中市宮町の雅宇哩のマンションをたずねた。海人が深刻そうな顔で小数の割り算と格闘中だった。その傍らで雅宇哩がステージ衣装を縫っていた。姉妹は雅宇哩に常陸市の様子を訊いた。市街地を離れると武装強盗が出没するが、全体として治安は保たれているという。
「ファン・ヴァレンティンはどうしてる?」
「中国人の音大生に失恋したよ。ぼくが東京へ出てくるまえ、六月のはじめかな」雅宇哩が言った。
「かわいそうに」姉妹は同情のかけらもない声で言った。
「ビジネスの方は順調らしい。小名浜港にも進出してる」
「魚屋のおばちゃんは?」
「元気だ。あいかわらずセクシィだ。店も繁盛してる。でもカイトは一度も帰ってないんだ」
「なんで?」姉妹は海人に訊《き》いた。
「いつでも帰れるから」海人が言った。
「彼女を断念するつもりらしい」雅宇哩が言った。
海人はノートに顔を伏せて小数の割り算に集中するふりをした。
八月上旬、快晴のある日の朝、賛浩が古いワーゲンのミニヴァンにバーベキューセットを積み込んで吉林市場を出発した。賛浩はまずシティ西部の日本人と外国人の混在地区で謝花ひなびを拾った。それから都心に向かい、新宿区戸山の高い塀をめぐらした高級住宅街にミニヴァンを着けた。武装した警備員が常駐するゲイトから、デイパックを背負った恵と隆と白人の親子が、満面に笑みをうかべて出てきた。白人の親子はイリイチ夫人のナディアと息子のミーシャだった。
姉妹はビリィとアイコと万里を誘った。海人は雅宇哩を連れてきた。三つのグループは中央自動車道八王子ICの出口で合流して、多摩川の支流の秋川へ向かった。ナディアが強硬に主張したので、イリイチにはなにも知らせなかった。
ボディガード要員が訓練をうけている軍事基地の近くで車をとめ、食料と飲み物と、ばかでかい鉄板を降ろした。河原に枯木をあつめて大量のおき火をつくり、その上に鉄板をかけた。全員と面識があるのは姉妹だけだったが、みんなすぐに打ち解けた。アイコも、隆に「おまえ眼つきが悪いな」と声をかけられたのがきっかけで、硬かった表情がいっきにやわらいだ。ビールとワインとウオッカを飲みつづけた。肉、魚介、野菜、焼きそばをたらふく食った。戦争の話は誰もしなかった。
万里は木陰で気持ちよさそうに寝入った。雅宇哩が下着姿で淀《よど》みに飛び込み、きれいなフォームのブレストで泳いだ。四歳と八ヵ月のミーシャの水遊びを、ビリィとアイコが見守った。ナディアが水着のボトム一つになって日光浴をはじめると、どういうわけか男たちは遠くへいってしまった。姉妹と恵とひなびは、衣服を着たまま浅瀬に両脚を投げ出した。
「愉《たの》しい。あたし、こういうところにくるの、生まれてはじめてなの」恵が混じりっけのない率直さで言った。
「常陸には自然がいっぱいあったんじゃないの?」ひなびが、いぶかしげに訊いた。
「山の方はいちばん危険だったのよ。武装勢力がいて」
「そうか」
「バーベキューをやろうって、誰が言い出したの?」
「チャンホ」
「ひなびさんのボーイフレンドね」
「元カレよ」
「いまでも仲良くつき合ってるじゃないか」姉妹は言った。
「セックス抜きでね」ひなびが言った。
「だから元カレ?」姉妹は訊いた。
「そう言っとけば、世間にわかりやすいでしょ」
「親密な関係を維持したまま、セックスだけ抜いちゃったわけだ」
ひなびが足首を動かして水をはねた。
「最初がうまくいかなかったのよ。三年ぐらいまえの話だけど」
「なるほど」
「あたし、はじめてで、すごく痛くて。それっきり、その気がなくなっちゃった。そのあとも、そのまえも、ほんとのこと言うと、セックスに興味がないの。ゼロというわけじゃないけど、煩わしい感じが先にきちゃう。あたし、へん?」
「ぜんぜんへんじゃない」姉妹は即答した。
「あなたたちに、へんじゃないって言われると、へんな気分」ひなびが笑った。
「たしかにね」姉妹も笑った。
「男の人とつき合ったら、それは恋愛に発展しなくちゃおかしいし、そうなればセックスもしなくちゃならないって、あたしは思い込んでたんじゃないかな」
「自分の心に反して」姉妹は言った。
ひなびがうなずいた。
「そのつぎに、チャンホがもとめてきたときに、言ってやったの。あなたの欲望が行き場を失ってどこをさ迷っていようが、そのことの責任を、あたしが負わされちゃたまらない」
「まったくだ」
「チャンホも、きみの言うとおりだって」
「あいつ、えらいとこあるな」
「いまはチャンホとつき合ってて、すごく気持ちが楽よ」
「メグはどう思う?」姉妹は訊いた。
夏のワンピースの腰まで川の流れに浸している恵は、もう十六歳で、胸のふくらみも女の曲線をはっきりと描いていた。
「いろんな生き方が肯定されるって、すごくいい」恵が言った。
「セックスを経験した?」姉妹は訊いた。
「まだよ」恵が恥ずかしがらずに姉妹の眼を見て言った。
「メグはどんな男の人に出会うのかな」ひなびが言った。
「メグはどんな女の人に出会うのかな」姉妹は言った。
40
森まりが粘り強くネゴシエイトしたが、NGOの意思統一は難航した。国際医師団は説得をうけて、警備保障会社の発足を条件に改修工事の再開を認めた。小学校と中学校を運営していた三つのNGOは、スタッフの安全を保証できないという理由で、事業を地元の小さなNGOの連合体に委託することになった。虹《にじ》の旗が実質的に運営する孤児院は、疎開させた子供をそのまま府中市で保護しつつ、シティの施設にあらたに孤児をうけ入れる準備にとりかかった。
九月中旬、虹の旗とパンプキン・ガールズのボディガード要員が、二ヵ月間の軍事訓練をおえた。警備保障会社〈シティ・ボディガード・サーヴィス〉の経営は虹の旗が担うことになった。ボディガードの司令官にはシティ在住の元政府軍下士官のゲイの男が就任した。
NGO活動の再開を目前にしたある日、月田姉妹は、将校用レストランの個室で海人と会った。この二ヵ月間、孤児部隊と女の部隊が、威力偵察の名目でシティへ侵入し、2月運動の指揮系統や武器庫への急襲をくり返してきた。その作戦で入手した情報を海人が姉妹に伝えた。
「五人のかんぶと三十二人の兵士をこうそくした。2月うんどうの全兵力は三百人ぐらい。だんぺんてきなしょうげんと、おうしゅうしたディスクのぶんせきで、その数字をわり出した。でもほんとうのところはわからない」
「兵力はシティでいくらでも補充できるしね」姉妹は言った。
モーセ=2月運動の前身であるMIJは、かつて信者百二十万人を公称していた。実態がその一割だったとしても、十二万人をモーセ=2月運動は動員できる計算になる。
「迫撃砲でも対戦車ミサイルでも、ひじりが丘パークでかんたんに手に入る」海人が言った。
「資金力は?」姉妹は訊いた。
「おれたちが府中に進攻してから、東京UFがほんごしをいれて、2月うんどうにカネをつぎこみはじめたけいせきがある」
「常陸軍を牽制《けんせい》するために2月運動を支援してる?」
「そうだ」
「ハウスの情報は?」
「まだなにも」
「2月運動の指揮系統はどうなってるの?」
「ぜんたいの指揮系統はない。司令官と十人から三十人の兵士が一つのグループをつくる。仲間うちではそれをセルとよぶらしい。一つ一つのセルが2月うんどうを名のってる。セルはふつう、たんどくで、資金をちょうたつして、たんどくで、テロをけいかくする。セルとセルのあいだに指揮命令かんけいはない」
「完全な地下組織」
「そうだ」
「想像していたより深刻だな」
海人が顎《あご》の無精ひげをさすった。
「こうそくした三十七人のうち、五人のかんぶぜんいんと二十四人の兵士は、モーセ学えんを出て、二年から五年、戦場をけいけんしてる。そいつらのしょうげんによれば、いまげんざい、五千人のそつぎょうせいが戦場にいる」
「モーセが、計画的に、モーセ学園の卒業生に軍隊経験を積ませてるってこと?」姉妹は軽いおどろきを示して訊いた。
「命令があるわけじゃない。しゅうしょく先として、モーセが、そつぎょうせいの司令官をしょうかいするんだ」
「モーセと2月運動の指揮命令関係はどうなってるの?」
「それがある、というしょうこはない」
「べつ組織だってこと?」
「ほりょはそう言ってる。ディスクのぶんせきも、ほりょのしょうげんを裏づけてる」
姉妹は、ほんの短い時間、モーセと2月運動の関係に思考を集中した。二つの組織に指揮命令関係がなくても、運動が機能しないことはないと思った。モーセはテロの命令を下す必要がない。集会で呼びかければいい。あの冒涜《ぼうとく》的な変態どもを滅ぼせ。そのひと声で2月運動が虹の旗を銃撃する。
「モーセが、たとえば、シティを死守せよって叫べば、五千人の2月運動の戦闘部隊がシティに忽然《こつぜん》とあらわれるかもしれない」姉妹は言った。
「やつらをなめないほうがいい」海人が真摯《しんし》な声で言った。「おれは、いまのところ、緊急展開というかたちでしか、きみたちを支援できない」
「気づかってくれるだけでうれしい」姉妹は心の底から言った。
41
NGOは、一時撤退から二ヵ月と三週間がすぎた九月下旬、シティで活動を再開した。シティ・ボディガード・サーヴィスは旧多摩市役所近くのビルに事務所をかまえ、教職員や建設労働者の安全を確保するために、各現場に武装ボディガードを派遣した。
多摩センター駅南口の、国際医師団〈多摩センター病院〉の工事現場まえで、〈不法移民排斥〉を叫ぶモーセ=2月運動の数百人規模の抗議集会がひらかれた。それをTVがライヴで中継した。集会がおわるとすぐ、小競り合いと投石がはじまった。
月田姉妹は、ゴールデン・ユニコーンの本部事務所のTVで、多摩センター病院まえの暴動ショーを観戦した。悲鳴と怒号が飛びかい、頭を割られた女が建物に運び込まれた。パンプキン・ガールズが送り込んだ武装ボディガードの女の子が画面に映った。住民に威圧感を与えないようにという配慮から、ヘルメットはかぶっておらず、M31スナイパーをいつでも撃てるようにかまえ、緊張で顔が青ざめていた。
モーセ=2月運動はその日、攻撃を投石に限定した。武装ボディガード側もよく忍耐して銃撃戦は発生しなかった。だが深夜になると、TVカメラのない場所で連続暗殺事件が発生した。犠牲者は、ベトナム人の女の孤児院職員、タイ人の女の小学校教員、漢族の男の小学校教員の三人。いずれもシティの自宅で銃撃をうけて殺害され、巻き添えで家族にも十数人の死傷者が出た。恐怖が教職員とその家族をつかまえた。
シティ・ボディガード・サーヴィスは、ただちに武装ボディガードを、シティ在住の教職員二十数人の自宅に派遣して警備につかせた。自宅と通勤途中と職場を、二十四時間警備することは、シティ・ボディガード・サーヴィスの能力をはるかに超えていた。翌日、孤児院と学校はふたたび閉鎖され、建物を破壊からふせぐためにボディガードが常駐した。多摩センター病院の改修工事だけがかろうじて続行された。
2月運動の攻勢は連日つづいた。テロの犠牲者が出るたびに外国メディアが「狂信的ナショナリスト集団、NGOを襲撃」と全世界に発信した。NGO活動はふたたび撤退の危機に追い込まれた。だが、すべては予想の範囲のできごとであり、虹の旗とパンプキン・ガールズはただちにつぎの手を打った。
「挑発はおわった。反撃に出ろ!」月田姉妹は檄《げき》を飛ばした。
桜ヶ丘地区に小学校と中学校の併設校が一つ、和田地区に小学校が一つ、連光寺地区に孤児院が一つ、諏訪地区に小学校が一つ、永山地区に孤児院と小中の併設校が一つ、落合《おちあい》地区に小学校と国際医師団〈多摩センター病院〉があった。その六つの地域で、虹の旗がひそかに武装自警団の結成をすすめていた。
十月最初の金曜日、モーセ=2月運動が多摩センター駅北口で大規模な外国人排斥の集会をひらいた。同じ日、多民族で構成される六つの武装自警団が旗揚げした。日本人、日系人、漢族、回族、朝鮮族、チベット族、フィリピン人、タイ人、ベトナム人、ミャンマー人、インド系やアフリカ系もいた。パンプキン・ガールズはシティ出身の四百人をそこへ合流させた。
武装自警団は、地域内にあるNGO施設の周辺を封鎖して、2月運動の侵入を阻んだ。学校と孤児院と病院では、シティ・ボディガード・サーヴィスが二十四時間態勢で警備に就いた。
問題は教職員の確保だった。居住地での陰惨なテロがつづき、教職員の六割が復帰を拒んだ。そこでNGOは、封鎖地域内であらたに募集したり、独身の教職員が校舎に泊まり込むなどして、学校の授業を再開した。孤児院でも孤児のうけ入れをはじめた。
十月中旬、国際医師団〈多摩センター病院〉の改修工事が終了した。医療機器を搬入すれば、すぐにでも治療活動をはじめられる状態だった。だが、いまの治安状況では高価な医療機器が略奪される恐れがあるという理由で、国際医師団が開業にGOサインを出さなかった。
ゴールデン・ユニコーンの本部事務所で、ビリィが言った。
「犠牲者が増える一方よ。さっさと常陸軍を投入したらどうなの」
「その点に関しては白川もイリイチもまだ慎重だ」姉妹は言った。「常陸軍司令部派はシティ進攻に強硬に反対してる。軍内部の駆け引きとか、民族間の調整とか、いろいろあるから、モリマリにまかせた方がいい」
「武装自警団のこともそうだけど」ビリィが責める口調で言った。「説得だとか調整だとか組織化だとか、めんどうなことは、ぜんぶ、モリマリや虹の旗のダイアナ・ダキラに丸投げしちゃってる」
「我々は儲《もう》けを吐き出してるじゃないか。血もたっぷり流してる」
「あとで見返りがあるからでしょ」
「もちろんシティの利権をいただく」
「桜子と椿子の本心がよくわからない」ビリィが眉《まゆ》をひそめて言った。
「NGOを支援するっていうのはある種の政治だから、本質的に、我々には不向きではあるんだ」
「なにに向いてるの?」
「不良少女を武装させて秩序を破壊すること」姉妹は屈託のない声で言った。それがパンプキン・ガールズの偽りのない姿であり、姉妹の確信もそこにあった。
42
常陸軍反司令部派が夜明けに百草《もぐさ》地区の2月運動のアジトを急襲した日の午後、李賛浩が電話をかけてきて、ダイニング・バジルが、二週間まえに家賃や従業員の給料を滞納したまま倒産し、謝花ひなびが失業中であることを伝えた。
「おれもあっちこっちさがしてるんだけど、ひどい仕事ばっかでさ」賛浩が言った。
「なんでいままで黙ってたの?」月田姉妹は軽くとがめた。
「桜子と椿子には言うなって言われて」
「友だちなのに」
「迷惑かけたくないからだよ」
翌日の昼間、姉妹は、馬場大門けやき並木のカフェにひなびを呼び出して、チベット族の故買屋を紹介した。話はすぐまとまった。ひなびは希望していた経理の仕事に就くことになった。
「信じられない」ひなびが表情を崩してよろこんだ。
故買屋をまじえてしばらく雑談するうちに、ダイニング・バジルが入っていた吐蕃ビルが、売りに出されていることがわかった。ビルのオーナーはチベット族の女だという。姉妹はその場で万里に電話をかけて買収工作を指示した。故買屋が、お役に立ててうれしいと姉妹に告げ、カフェの請求伝票をとってテーブルを離れた。ひなびが声を弾ませて賛浩に電話をかけ、仕事が決まったことを知らせた。
「まるで手品ね。こんなふうにあたしの就職を決めちゃうなんて」ひなびが電話をおえて言った。
「チベット族と漢族はどこでも仲が悪くてさ、利害を調整してやったことがあるんだ」姉妹は言った。
「あたしを雇ってくれたのは、そのときの恩返しなの?」
「縁もない他人のために命を張ったからね」
「それも幇の精神?」
「幇の精神だ。まあ、そういう事情だから、ひなびが断るんじゃないかって心配してたよ」
「あら、どうして?」
「あのチベット族が扱ってるのはぜんぶ盗品だぜ」
「あたしたちは盗品なしには一日も暮らせないじゃないの」
姉妹はひなびと笑みをかわした。
「シティはもっと治安が悪くなる。府中へ引っ越してきたらどう?」姉妹は言った。
「いまチャンホの部屋でいっしょに暮らしてるの」ひなびが言った。
「そりゃよかった」
「セックス抜きで」
「セックスのことなんかどうでもいいさ」
かすかに秋の気配を感じさせる風が、けやきの古木の並木を吹き抜けて、テラスのテーブルにいるひなびの肩で葉影をゆらした。多摩川の南岸のシティでは日増しに状況が悪化しているが、府中市はじつにのどかで、人々がティータイムを愉《たの》しんでいた。
「健二と連絡とってる?」ひなびが訊《き》いた。
「電話もしてない」姉妹は言った。
「いつから会ってない?」
「退院祝いをやった日から」
「五ヵ月以上も」ひなびが指を折って数えた。
「おたがいにいそがしかった。とくに用事もなかったし」
「健二、石を投げてた」ひなびが姉妹の頭上へ視線をそらして言った。
「いつ」
「先週の金曜日。モーセのデモ隊が多摩センター病院へ押しかけて投石してるのをTVで見てたら、健二を見つけたの」
「愉しそうだったか?」
ひなびは笑わなかった。瞳《ひとみ》に生真面目な光が宿った。
「TVに映ったのは一瞬だけど、なにかに復讐《ふくしゆう》したがってるように見えた」
「石ならまだかわいげがある。そのうち健二は銃を撃つ」姉妹は言った。
「あいつ家に帰ってなくて、居場所がわからない」
「放っておけよ。基本的に言葉ってものはつうじないと考えた方がいい。健二に石を投げるなと説得しようとすれば、理念について語らざるをえない。もっと言葉がつうじなくなる。徒労なだけだ。他人にしてあげられるのは、カンパをあつめる、病院に担ぎ込む、束《つか》の間《ま》の快楽を分かち合う、そのたぐいのことにかぎられる、残念ながら」
ひなびはしばらく考えをめぐらした。ティーカップを持ちあげて、レモンティーを一口飲んだ。
「そういうことかもしれないけど、あたしは健二に会って言いたい。あなたが石を投げたことが悲しいって」
ひなびの言葉が、姉妹の脳を刺激して、テーブルの上でゆれるけやきの葉影の向こうに、五月初旬のある日の早朝、ゴールデン・ユニコーンのスウィートルームを出ていく高橋・ガルシア・健二の薄暗い横顔をうかびあがらせた。退院祝いの夜から朝の光が差し込む時刻まで、性の逸脱に没頭したあとで、健二は深く後悔しているように見えた。いっぺんに二人の女の子と愉しんだことで、背徳の罪の意識にとらわれたのか。欲望の際限のなさを露呈した自分自身に愕然《がくぜん》としたのか。モーセ嫌いを公言する女の子の誘惑に負け、翻弄《ほんろう》され蹂躙《じゆうりん》されて屈辱感を味わったのか。
「不可避だったと思う」姉妹は言った。
「なにが?」ひなびが訊いた。
「石を投げることが。健二の家族はモーセの援助でどうにか暮らしてきたからね。彼にかぎらず、シティの人間にとって、状況に巻き込まれないようにするってことは、すごくむずかしいことなんだ。モーセ=2月運動はシティの日本人に決断を迫ってる。敵を殲滅《せんめつ》するか、孤児と女と外人|傭兵《ようへい》部隊と不法移民と男か女かわからない変態どもの連合軍に屈服するか。健二に選択肢はなかったと思う」
「選択肢がないところへ、モーセが追い込んだのよ」
「罪深い行為だ」
「ほんとね」
「虹《にじ》の旗も同罪だ。パンプキン・ガールズも同罪だ。シティの住民に決断を迫ってる。我々につくかモーセにつくか」
「そのうち騒乱状態になると思う」ひなびが眉をひそめた。
「そうなれば、どちら側につくにせよ、シティの男のほとんど全員が勃起《ぼつき》するね。もちろん比喩《ひゆ》として言ってる。ひなびとかチャンホみたいに、勃起にさして意味を認めないで、ニュートラルでありつづけるってことは、奇跡なんだよ」
「桜子と椿子はどうなの?」
姉妹は自分たちの股間《こかん》をのぞき込んだ。すぐに顔をあげ、わざとらしくおどろいて言った。
「もう勃起してる!」
43
生温《なまぬる》い夜風が吹く十一月九日午後七時すぎだった。多摩センター駅南口のパルテノン地区で、裸同然の舞台衣装の上にジャケットをはおったフィリピン人のテーブルダンサーが、軽い夕食をとるためにベトナム料理の屋台に立ちよって間もなく、隣の日本人両替商が性的なからかいの言葉を投げてきた。両替商の日本語は通じなかったようだが、言葉の嫌がらせはしつようにつづけられた。ダンサーは言い返さず、視線も合わさず、春雨の鶏肉入り汁|麺《めん》を食べおえて屋台を離れた。その足もとへ両替商が鉄パイプ製の椅子を転がした。ダンサーはつまずいて両手を路面についた。彼女は最後まで冷静さを保ち、背後を振り返らず、無言でふたたび歩き出した。そこで銃声がとどろいた。ダンサーの白っぽいジャケットの背中で鮮血が飛び散った。叫びがいくつも重なった。東南アジア系の若者数人が両替商の男をとり押さえた。路上生活の子供たちが両替商のドルや紙屑《かみくず》同然の円紙幣の束を奪い合った。現場周辺は騒然となり、ベトナム料理の屋台がひっくり返された。両替商はけっきょく若者たちに殴り殺された。あふれ返った群衆へ数発の銃弾が撃ち込まれた。誰がどんな目的で発砲したのかは不明だった。
憎悪と恐怖と祝祭の気分が、シティ最大の歓楽街にあっさりと暴徒を出現させた。まず日本人商店が襲われた。その報復として日本人の暴徒が外国人商店に押し入った。略奪、放火、銃撃が断続的につづき、深夜になると、パルテノン地区の北側のニュータウン・マーケットに人種暴動が飛び火した。
月田姉妹は、パンプキン・ガールズを暴徒に紛れ込ませ、ゴールデン・ユニコーンの本部事務所で情報収集につとめた。TVニュースが、フィリピン人ダンサーが府中市の国際医師団診療所で死亡したと報じた。発端となった事件の一部始終を目撃していたベトナム料理の屋台の女店主が、TVの取材にこたえて、日本人両替商がフィリピン人ダンサーを撃ったのではないと断言した。
「じゃあ、だれがダンサーをうったのさ」アイコが誰にともなく訊いた。
「近くにいた日本人だろ」姉妹はこたえた。
「りゆうは?」
「女が嫌がらせに耐えたことが許せなかった。しかも東洋の貧しい国から不法に入国してきたテーブルダンサーだ」
「はらいせか」
「たぶんね」
「モーセ=2月運動が人種暴動をあおるために火を点《つ》けたっていう可能性は?」ビリィが訊いた。
姉妹は二度、小さくうなずいた。
「テーブルダンサーへの一発目、群衆への最初の発砲、どの段階とは言えないけど、ある段階から、モーセ=2月運動が意図的に暴動をあおりはじめたってことは、確かだと思う」
騒乱状態は翌日のうちにシティ西部のすべての商業地域に広がった。日本人商人と外国人商人、双方とも、小銃やサブマシンガンで武装して暴徒の略奪に対抗した。シティの東京UF系列のマフィアは無力ぶりをさらけ出した。633部隊はニュータウン・マーケットで、五侠会は永山地区で、義士団はパルテノン地区で、自分たちの事務所や店舗を守るのに手一杯だった。
「この権力の空白を利用すべきだ」姉妹は、ゴールデン・ユニコーンの本部事務所で緊急会議をひらき、万里、アイコ、ほか幹部に告げた。「パルテノン地区に威力出店する。いそいで準備してくれ」
パルテノン地区の南端にある吐蕃ビルを、チベット族のオーナーから取得ずみだった。一階が閉鎖したナイトクラブ。四階がダイニング・バジル。五階と六階がオーナーの住居兼事務所。その四つのフロアが自由に使えた。二階に入居しているブティック、不動産取引業者、両替商は、略奪をうけて店を閉鎖中だった。三階のマッサージパーラーは、経営者の漢族の若い男が、二階から三階につうじる階段にスチール製のロッカーをならべて、店を守るために籠城《ろうじよう》していた。
十一月十七日の白昼、姉妹はパンプキン・ガールズおよそ百人を率いて、吐蕃ビルに大量の鉄骨、鉄板、土嚢《どのう》等を運び込んだ。イリイチの部隊のシベリア少数民族出身の将校が、要塞《ようさい》化工事の指揮をとった。技術者は仲間うちで用意した。溶接工、鉄筋工、電気工、配管工、解体工、重機のオペレーター、内装の熟練工もいた。マッサージパーラーを経営する漢族の若い男が工事をながめにきて、責任者は誰だと訊いた。
「我々がこのビルのオーナーだ」姉妹は言った。
「パルテノン地区を誰が仕切ってるか、知ってるのか?」漢族の若い男が訊いた。
「義士団だろ」
「戦争になるぜ」
「そのつもりできたのさ」
漢族の若い男は苦り切った顔で賃貸契約の解約を申し出た。姉妹は快く保証金を返してやった。
その日から、姉妹は吐蕃ビルで暮らしはじめた。ビリィ、アイコ、夏に二ヵ月間の軍事訓練をうけた三十人の突撃隊が生活をともにした。翌日、一階のナイトクラブの改装工事にとりかかった。
パルテノン地区の暴動は、最初の四日間の激しい略奪を引き起こしたのち、いくらか鎮静化しつつあった。それでも毎日、陽が沈むと、拳銃《けんじゆう》や鉄パイプで武装した失業者の群れがどこからともなくあらわれた。不良少女や路上生活の子供も、暴動への期待に胸をふくらませながら街を練り歩いた。日本人グループと外国人グループがたびたび衝突した。略奪がはじまると、商店主は容赦なく応戦した。義士団は、暴動にそなえて本部ビルと店舗に籠城したまま、パンプキン・ガールズを挑発するような行動には出なかった。
吐蕃ビルの要塞化がほぼ完了した十一月二十二日の夕方、姉妹が四階のレストランのテラスでお茶を飲んでいると、アイコが深刻そうな顔つきで近づいた。
「633ぶたいの、ふじいが、ボスにあわせてくれってきてる」アイコが言った。
633部隊は、応化八年の九竜暴動のさなかに、静岡市攻防戦から離脱して、きゅうきょシティにもどり、高麗幇との戦闘に参加した元反乱軍出身の日本人武装勢力だった。司令官の藤井|勇《いさむ》は、信州軍に雇われている藤井|尚《なお》の実兄である。九竜暴動が終息したのち、633部隊はマフィア化して東京UFの系列下に入り、多摩センター駅を中心に駅北口に広がるニュータウン・マーケットの利権をにぎって現在にいたっていた。
「本人なのか?」姉妹は633部隊のボスの訪問の意図をいぶかって訊《き》いた。
「ほんにんだよ。うんてんめんきょしょうで、たしかめた」アイコがこたえた。
「藤井は一人できたのか?」
「うんてんしゅとボディガード一人」
「用件は?」
「ちあんのもんだいではなしがあるって」
633部隊はパルテノン地区に利権を持っていないはずである。藤井兄の真意がつかめなかったが、姉妹は会ってみようと思った。
「ていちょうに案内しろ」姉妹は言った。
すぐにアイコが小柄な痩身《そうしん》の男を連れてもどってきた。遠景のなかでは影のように見えたが、テーブルに近づくにつれて、男の身体からにじみ出る威圧感が姉妹を緊張させた。坊主刈りに近い短髪。イリイチを思わせる罪深い眼差《まなざ》し。紺色のセーターと茶灰色のパンツというカジュアルな装い。弟とそっくりな折れ曲がった鼻骨。自己紹介と儀礼的な握手があった。ビリィが藤井兄に飲み物を訊いて、厨房《ちゆうぼう》の方へ去った。
「弟とメシを食ったそうだな」藤井兄が言った。
「彼は人生に思い悩んでるように見えたよ」姉妹は言った。
藤井兄がかすかに笑った。両側の頬の皮膚に深いしわがよった。
「今夜、あるいは明日、いずれにしろ近いうちに攻撃がある」
藤井兄の唐突な言葉に、姉妹は一瞬とまどった。
「我々が攻撃をうける?」
「そういう情報が流れてる」
「義士団か?」
「義士団が2月運動にテロを依頼した」藤井兄がよどみのない口調で言った。
「そういう関係なのか?」
「シティの東京UF系マフィアはビジネスでいそがしい。汚い仕事は自分ではやりたくない。だから、ここ数年で、テロは2月運動に代行させるという関係ができた。やつらは戦闘能力もある。モーセ学園の卒業生に戦場で経験を積ませてる」
姉妹はうなずいた。藤井兄の話は、海人から聞いた2月運動の捕虜の証言を裏づけるものだった。
「2月運動のどのグループがテロを請け負ったんだ?」姉妹は訊いた。
「司令官は辻卓郎」藤井兄が言った。「兵隊は二十人ていど。辻のグループが単独でやるとはかぎらない」
「アジトや武器庫はどこにあるの?」
「やつらがそういう場所をおれたちに教えたことは一度もない」
「先制攻撃はむりだってことか」
「防衛に専念した方がいい」
「どうして警告してくれるの?」
「おまえたちに頼みがある」
姉妹は口をつぐんで藤井兄の言葉を待った。どんな頼みがあるのか、まったく見当がつかなかった。ビリィがコーヒーを運んできた。パルテノン公園のわずかに残った緑を渡ってくる風は、その日も生温かかった。
「ニュータウン・マーケットに、膨大な量の食糧があつまってくる」藤井兄が手ぶりをまじえて言った。「あそこがシティの二百万人の生活をまかなってる。全住民の生命線なんだ。九竜暴動のころは、けちなマーケットで、物はろくになかった。それが七年間でここまできた。米や野菜や肉をあつめてくるやつと、それを買いとるやつがいて、ニュータウン・マーケットは成り立ってる。日本人も漢族も朝鮮族も売り買いしてる。東京UF系も高麗幇もない。人口比から言ったって、日本人だけじゃ、そんなことはできない。おれたちの人口は半分以下だ。外国人を締め出せば、物流ぜんぶがストップする。いったん壊してしまえば、物流システムをつくりなおすには、時間もコストもかかる。そういうばかげたことが起こらないようにしたい」
藤井兄が言葉を切って、コーヒーを一口飲んだ。
「趣旨には賛成だね」姉妹は慎重な口ぶりで言った。
「ニュータウン・マーケットで暴動がもう十三日間もつづいてる」藤井兄が言った。「信じられない事態だ。これまでは、そこそこうまくいってると思ってたからな」
「諸勢力の利害の調整が」姉妹は言葉を補った。
「そうだ」
「フィリピン人ダンサーが殺されたのは、突発的な事件だったと思うけど、そのあとの暴動は、全体として見れば自然発生的じゃないよ」
藤井兄がうなずいた。
「ニュータウン・マーケットでは、2月運動が外国人商人へのテロをくり返してる。外国人商人の主力は漢族だが、アジア系のありとあらゆる人種がいる。ロシア系もいる。おたがい仲が悪い。ばらばらで力が分散してる。2月運動に各個撃破されて、どんどんひどい状況になってる。そいつらを、おまえたちにまとめてほしい」
「なぜ我々に?」
「多摩川の北側に秩序をつくった手腕に期待して」
「女の子の集団だぜ」
「実績がある。義士団の本拠地に落下傘降下してくる度胸もある」
「633部隊がまとめればいいじゃないか」
「おれたちは、九竜暴動以来、モーセ=2月運動をうまく使いながら、外国人マフィアを一掃してきた。だから、今回の暴動もおれたちが背後で操作してると、外国人商人は考えてる。ようするに633部隊は信用されてない」
姉妹はからだの火照りを感じて、冷めた紅茶に口をつけた。
「マイノリティが、モーセ=2月運動に対抗して、武装化するのは認めるんだな」
「認める」藤井兄が明言した。
「民族ごとの武装自警団が生まれることになる」
「それを連合させてマーケットの治安維持にあたらせたい」
「自警団と言えば口あたりがいいけど、そのうち、それぞれが、マフィア化するぜ」
「そうなったらそうなったで仕方がない」
「マイノリティが利権の分配を要求したら?」
「基本的におうじる」
「633部隊は2月運動との共闘関係を解消するのか?」
「やつらが外国人排斥をつづけるかぎり敵とみなす」
「義士団と五侠会の考えは?」
「633部隊とはちがうと思う」
「我々が義士団を攻撃したら、633部隊はどう出る?」
「静観する」藤井兄が即答した。
「覚悟を決めてここへきたんだな」姉妹は感嘆する声を出した。
「ニュータウン・マーケットの機能回復が最優先の課題だ。なにが起ころうと住民は毎日暮らさなくちゃならない」藤井兄があいかわらず抑揚のない、だが真摯《しんし》なひびきの声で言った。
「オーケー。協力しよう」姉妹は言った。
藤井兄がかすかにうなずいた。表情はまったく変わらなかった。双方からテーブル越しに手をのばした。こんどは儀礼的ではなく、だが過剰な感情を込めることもない、短い振幅の力強い握手だった。藤井兄が、パンツのポケットから煙草のパッケージを出して、一本くわえ、軍用のライターで火を点《つ》けた。
「訊きたいことがある」姉妹は言った。「戦争奴隷の男の子と女の子を使って、暗殺や諜報《ちようほう》をやってるハウスという組織を知ってる?」
藤井兄が煙草の煙を吐き出して、明快にこたえた。
「ハウスは2月運動のあるグループが運営してる」
姉妹はおどろかなかった。想像していたとおりだった。
「司令官の名前は?」
「安部聡《あべさとし》」
姉妹はメモをとった。
「五侠会とハウスの関係は?」
「五侠会がハウスに売春のノウハウを教え、戦争奴隷の手配もしてやった」
「ハウスはいまもあるの?」
「安部が先月、常陸軍に拘束されたらしい。じっさい連絡がとれない状況だ。ハウスがどうなっているのかわからない」
「去年の十月、あたしたちはハウスに命を狙われた。東京UFの依頼でハウスが暗殺を請け負ったらしいんだけど、なにか聞いてない?」
「おまえたちが多摩西部運輸のトラックを襲撃したからだ」
「ハウスが治安情報局の依頼を請け負うことは?」
「それもある。おれたちもハウスを利用してきた」
「暗殺や諜報は旨《うま》みのあるビジネスなの?」
藤井兄が煙草を持つ手のひらを返して、ほんの短い時間、そこに視線をそそいだ。
「たとえば依頼人が治安情報局なら、軍事評議会の中枢の秘密をにぎれる。その意味では旨みがある」藤井兄が言った。
なるほどと姉妹は思った。その場で海人に電話をかけ、常陸軍が安部聡を拘束した件についてたずねた。海人はその情報を否定した。
44
吐蕃ビルの北側は繁華街に、南側はパルテノン公園に面していた。月田姉妹と633部隊の藤井兄の見解は一致した。2月運動はおそらく繁華街の方から暴徒を装ってテロを仕掛けるだろう。
藤井兄が帰ると、姉妹は府中市の万里に電話を入れて事情を説明した。
「四人一組で二十班、八十人の武装兵をパルテノン地区に潜入させてくれないか」姉妹は言った。
「カジュアルな服の方がいいのね?」万里が確認した。
「ヘルメットも抗弾ベストもなしだ」
「いつまでに?」
「暗くなった段階で、パルテノン地区に全員がそろえばいい」
パルテノン公園は周囲をビルやバラックに侵食されて以前の面影を失っていた。わずかに残された緑地は、夜になると街の明かりがとどかない帯状の闇になる。アイコが突撃隊をそこへ放ってパトロールを強化させた。
吐蕃ビルの内部は土嚢《どのう》と鉄板で補強し、火災対策を施してあった。数週間分の水と食糧も確保した。万里が送り込む部隊と連携すれば、三十人の突撃隊でじゅうぶん防衛可能だろうと姉妹は思った。三百メートル西に多摩センター病院があり、いざとなればシティ・ボディガード・サーヴィスや、近隣地区の自警団に支援を要請することもできる。
「AKと予備の弾倉をちょうだい」ビリィが言った。
「ビリィも闘うのか?」姉妹はいぶかしげに訊《き》いた。
「闘う」
ビリィが銃をとったのは、吉林市場の旧本部が高麗幇の幹部連合に攻撃されたときの一度だけだった。
「むりしなくていい」姉妹は言った。
「心がうけ入れたわけじゃない。でも必要なときにはわたしも銃を撃てる」
ビリィの声のひびきに姉妹は耳をすませた。ためらいは感じられなかった。
「ビリィにはパルテノン地区の偵察を頼む」姉妹は言った。
太陽が沈むと、シャッターを降ろした繁華街に、盗賊集団やら野次馬やらモーセ=2月運動やら見分けのつかない群衆があつまりはじめた。ビリィと突撃隊の一人が小型無線機を携帯して、さりげなく吐蕃ビルを出ていった。同じころ、万里が送り込んだ女の子たちが、四人一組で、バスや乗用車を使い、ばらばらにパルテノン地区に入った。全員がジャケットの内側やスカートのなかや紙袋に、銃身の短いサブマシンガンを隠し持っていた。
パルテノン地区は複雑な地形だった。繁華街の大部分と吐蕃ビルがある地域は、それぞれべつの台地の上に広がっており、両者をつなぐ陸橋がなん本かあった。吐蕃ビルの二階はメインストリートの陸橋を渡ったところにある広場に、一階は陸橋の下を東西に走る道路に面していた。夜九時すぎ、荷台を青いシートでおおったトラックが、一階の車寄せに入ってきた。
姉妹は四階のレストランで監視カメラをモニターしていた。
「警告しろ!」
無線機でアイコにそう叫んだ瞬間、姉妹はまぬけな命令だと思った。
「運転席を撃て!」
突撃隊が窓からいっせいに射撃した。運転席のルーフに数十発の小銃弾が突き刺さった。トラックがエントランスに横づけされて停止した。ドアから男が転げ落ち、弾丸をあびてからだが小刻みにはねた。モニターにトラックの荷台の青いシートが映っていた。
「窓から離れろ!」姉妹は叫んだ。
遠隔操作による起爆だった。2月運動は、ドライバーがトラックから逃げ出す時間を計ったようで、そのタイムラグがいくらか被害をすくなくした。姉妹が土嚢の陰に飛び込むと同時に、凄《すさ》まじい爆発音がしてビル全体がぐらついた。崩れた壁から爆風が襲いかかり、監視カメラのモニターや椅子やテーブルをなぎ倒した。粉塵《ふんじん》が舞い、なにも見えなかった。姉妹はおたがいの無事を確かめると、アイコを無線で呼び出し、被害状況を調べるよう命じた。そこでまた爆発が起きた。規模はずっと小さかったが、二階の入口を炎が包み、瓦礫《がれき》や鉄片が周囲に飛び散った。爆発は二発三発と連続した。
ビリィから無線が入った。
「敵は正面の橋から小銃とグレネードで攻撃してる。ぜんぶで十二、三人」
姉妹の一人がアイコを呼び出して、陸橋にいる敵を撃つなと命じた。姉妹のもう一人が万里に電話をかけて敵の攻撃地点を教えた。
公園側も小銃とグレネード弾で攻撃をうけた。そちらはビルの内部から応戦した。しばらく激しい銃撃戦がつづいた。やがて突撃隊が圧倒して、2月運動は死体を二つ残して撤退した。姉妹はテラスに味方の負傷者をあつめた。全身を爆弾の破片で切り裂かれた女の子が一人。右|太腿《ふともも》をえぐられて大腿骨《だいたいこつ》が露出している女の子が一人。腹から内臓がこぼれ落ちかけている女の子が一人。その三人をふくむ八人の負傷者を二台のヴァンに乗せて、府中市の国際医師団診療所へ急行させた。
繁華街側では、パンプキン・ガールズが敵の背後をついたため、陸橋周辺からの攻撃は弱まった。姉妹は反撃に出ることにして、アイコと九人の突撃隊を吐蕃ビルに残した。
姉妹は、五人の女の子に二十門の使い捨てロケット砲を持たせ、狙撃《そげき》銃の射手五人に前後を警戒させる隊形をとると、徒歩で公園の西へ向かった。陸橋を北へ渡っているときに、東の陸橋のたもとで複数のサブマシンガンが火を噴くのが見えた。
歓楽街の路地をきびきびと前進した。全身に粉塵をあび、AKと狙撃銃とロケット砲で武装した、鋭い眼つきの女の子の隊列に、人々がおどろいて振り返った。陸橋の方角でまだ銃声が聞こえた。十二人は敵と遭遇することなくメインストリートの十字路に到着した。義士団はパンプキン・ガールズの戦闘能力を見誤っている、と姉妹は思った。十字路の角に建つ義士団ビルは明かりを煌々《こうこう》と灯《とも》していた。二人の女の子が立射の姿勢でロケット砲をかまえた。狙撃銃の射手が、空へ威嚇射撃してバックブラストの危険区域から人々を追い払った。姉妹はGOサインを出した。二発のロケット弾が、義士団ビルの最上階の八階に命中した。瓦礫や炎の固まりが路上に降りそそぎ、人々が逃げ惑った。上から順番に各階に二発のロケット弾が撃ち込まれた。五階と二階で炎があがった。一階のエントランスから男たちが逃げ出してきた。彼らをAKと狙撃銃が掃討した。
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月田姉妹が率いる十人の女の子の部隊は、パルテノン地区にある義士団の六ヵ所の事務所をつぎつぎと襲撃した。AKを掃射して手榴弾《しゆりゆうだん》を放り込んだ。抵抗は散発的だった。拠点を失った義士団の士気はいちじるしく低下しており、攻撃をうけると夜の歓楽街に四散した。姉妹の部隊は旧モノレール駅近くの最後の事務所を破壊したのち、吐蕃ビルの正面へ向けてゆるやかに登るメインストリートを行軍した。陸橋周辺の2月運動との戦闘もパンプキン・ガールズ側の勝利で終息していた。二つの部隊が合流して吐蕃ビルに入って間もなく、パルテノン地区の全域で略奪行為がはじまった。
パンプキン・ガールズの人的損害は、死者四人、重軽傷者十六人だった。あらたに増えた負傷者を府中市へ運んだ。略奪は深夜までつづいた。ニュータウン・マーケットや東の|豊ヶ丘《とよがおか》地区でも黒煙があがり、銃声や爆発音が絶えなかった。
「なにか打つ手はないのか」吐蕃ビルの四階の窓から街の様子をうかがいながらアイコが嘆く口調で言った。
「我々単独ではむりだ」姉妹は言った。
「パルテノン地区にも武装自警団をつくらなくちゃだめね」ビリィが言った。
「虹《にじ》の旗に考えさせよう」姉妹は言った。
十一月二十三日の朝をむかえた。義士団ビルの火災は隣のビルの壁を焦がしておさまった。人々が破壊された商店の後片づけをはじめた。吐蕃ビルの北側の壁面に巨大な裂け目ができ、改装工事中のナイトクラブのエントランスにめぐらした防御フェンスは全壊した。電気、水道、四階のレストランの厨房《ちゆうぼう》も使えなかった。万里が送り込んだ部隊はそのまま残し、警備、瓦礫の片づけ、改修工事の発注等にあたらせた。
姉妹、虹の旗のダイアナ・ダキラ、633部隊の藤井兄の四人が、四階のレストランでテーブルを囲んだ。多摩センター病院の北隣にあるサザンタワー・ホテルから運ばせた朝食をとりながら、巨大な利権がからむ二つの地区の治安問題について議論をかわした。
「力を集中させよう」ダキラが言った。「パルテノン地区とニュータウン・マーケット、隣り合わせの二つの地区で、同時並行的に、武装自警団による治安維持をめざした方がいいと思う。片方が成功すれば、もう片方にいい影響を与える」
「それをモデルケースに、シティの全領域に自治を拡大する」姉妹は言った。
「異存はない」藤井兄が言った。
藤井兄は、あらためて、ダキラにも、東京UF系列から離脱することにためらいはないし、ニュータウン・マーケットの利権を独占する意思もないと言明した。
「虹の旗はそもそも利権に関心がない」ダキラが言った。
「我々は」姉妹は言った。「すべてのマイノリティの商業権を認める。その意味では原則として義士団の生存権も認める。やつらが謝罪するなら和解してもいい」
「和解はむずかしいな」藤井兄が言った。
「我々が女の子だから?」
藤井兄が困った顔をしてコーヒーをすすった。
「男のプライドが」ダキラが藤井兄の胸にほっそりした指を突き立てた。「和解をむずかしくさせるって言うなら、そういう腐った根性はもっとずたずたにしてやればいいのよ」
「東京UF系も高麗幇もないというなら」姉妹は言った。「男も女もない。義士団にパルテノン地区の治安を維持する能力があるかどうかが問われてるんだ」
「そのとおりだ」藤井兄が表情を閉ざして言った。
意見の深刻な対立はなかった。民族のちがいや、性差や、経済格差を横断するねじれた権力関係をほどきつつ、自治的な暴力装置を、どんな手順で創り出していくか、そこに議論が集中した。とりあえず、治安回復のための会議開催を、虹の旗が二つの地区で諸勢力に呼びかけ、必要なときにはいつでもどこへでも、藤井兄と姉妹が出ていくことを決めた。
会議に区切りがつき、談笑していると、アメリカ空軍情報将校、イズール・ダニエロヴィッチ・デムスキーから電話が入った。
「CBCニュースを見たかい?」
「なにがあったの?」姉妹は訊いた。
「例の事件の容疑者を治安情報局が処刑しちゃったんだ」イズールが興奮気味に言った。
姉妹は報道の概要を聞きおえると、アイコと数人の突撃隊を連れて街へ出た。シャッターを降ろしたインターネット・カフェを見つけ、AKで武装した店主をなんとか説得して、CBCニュースの電子版にアクセスした。
CBC記者殺害 治安情報局が容疑者を処刑 口封じが目的か?
「CBCのトマス・マクスウェル記者が九竜シティで取材中に誘拐、殺害された事件の主犯格の容疑者が、対テロ特別法廷で死刑判決を受け、即時執行されていたことが、二十二日、分かった。処刑されたのはモーセの軍事組織、2月運動の幹部、安部聡容疑者。対テロ特別法廷は治安情報局の管轄下にあり、軍事評議会首脳が同容疑者の処刑執行を知らされていなかったことも判明した。
常陸軍関係筋によると、常陸軍は十月二十六日、九竜シティのアジトで安部容疑者を拘束。取り調べの結果、今月に入って同容疑者がCBC記者殺害を自供。常陸軍は治安情報局に通報したのち、十八日、同容疑者の身柄を引き渡した。その翌十九日、特別法廷で死刑判決が下され、ただちに執行された。
安部容疑者の自供内容は明らかにされていないが、常陸軍関係筋によると、CBC記者が治安情報局と2月運動を結ぶ核心情報をつかんだために、2月運動が殺害に踏み切り、その殺害には治安情報局の意思がはたらいた可能性が濃厚とみられる。
治安情報局は、二万人の治安警察のほかに巨大な諜報組織と一個師団の精鋭軍を持ち、〈軍事評議会内の軍事評議会〉とも呼ばれている。今回の事件で治安情報局の闇の一端が浮きぼりにされたことで、軍事評議会内部の亀裂《きれつ》が深まりそうだ」
姉妹はインターネット・カフェを出て、路地を吐蕃ビルの方へ歩きながら、常陸軍が意図的にリークしたなと思った。では〈常陸軍関係筋〉とは誰のことか。海人は昨日の電話でなぜ安部聡の拘束を否定したのか。携帯電話をつかんだ。海人の番号を押そうとしたとき、携帯電話が鳴った。
「カイトが率いる孤児と女の二個大隊が、関戸橋を渡ってシティに進攻した」森の深みのあるすばらしい声が耳にとどいた。
「どういうこと?」姉妹は鋭く訊《き》いた。
「学校や病院を守るためによ」
「駐留するの?」
「駐留する」
「常陸軍司令部がGOサインを出したの?」
「白川が勝手に部隊を動かした」森が快活に言った。「そろそろカイトが多摩センター病院に着くころじゃないかな」
姉妹は、国際医師団〈多摩センター病院〉がある西の方角へ頭をめぐらした。人のざわめきや車の警笛や商店街に流れる音楽に入り混じって、装甲車の車列の重苦しい走行音が聞こえてきた。
46
多摩センター病院を見下ろす台地の上のサザンタワー・ホテルを、孤児部隊とンガルンガニの女の部隊が接収して司令部を設けた。なにかといそがしかろうと、太陽がかたむきかける時刻まで待ち、月田姉妹はアイコと突撃隊を連れて海人に会いにいった。
ホテルの周辺を装甲車が封鎖していた。インドシナ系の女の兵士の案内で、地下パーキングの司令部に入った。ずらっとならんだ通信機器の間からクワメ・エンクルマが陽気な声をかけてきた。久しぶりの再会をよろこんで抱擁をかわした。さらに奥にすすんだ。地下は薄暗かった。土嚢《どのう》の壁に背中をあずけ、小さな明かりで本を読んでいた海人が、姉妹に気づいて手をあげた。
「ばくだんテロがあったんだってね」海人がなにかをあきらめている口ぶりで言った。
「2月運動のあいさつ代わりだろ」姉妹はむとんちゃくに言った。
「しばらくは近くにいられる」
海人のそれ自体は変哲もない言葉に、姉妹は思いがけず胸を熱くさせた。海人が宿営用のエアマットをすすめた。姉妹は尻《しり》を落としてあぐらをかいた。
「モーセや2月運動の動きはどう?」姉妹は訊いた。
「いまのところはしずかだ」海人が言った。
「イリイチはシティ進駐に反対してるの?」
「そんなことはない」
「だったら外人部隊はなぜ進駐してこないの?」
「いろいろあって」
「政治的配慮?」
「それもある」
外国人部隊は、日本人および日系住民の憎しみの対象になりやすい。孤児と女の部隊も多民族で構成されているが、日本人がおよそ半数を占めるという点で、外国人部隊とは住民感情に大きなちがいがあった。
「ほかにも理由があるの?」
「富士師団のいちぶが、東からシティへせっきんしてる。外人部隊はそれをけんせいするために、いなぎ大橋の北がわで戦闘たいせいに入った」
富士師団は治安情報局の指揮下にある精鋭部隊である。
「なぜ富士師団が接近してるの?」
「おれたちが、ひじりが丘パークを制圧するうごきを見せたら、ただちに進攻できるように」
「東京UFの意向で?」
「もちろんだ」
治安情報局は東京UFの強い影響下にあり、高級幹部の大半は賄賂《わいろ》漬けにされ、副局長は東京UFの秘密メンバーだとささやかれている。
「CBCのニュースを見たよ」姉妹は本題を切り出した。「安部聡を拘束した事実をなぜ隠したの?」
「きのうまでは軍のきみつだった」海人が言った。
「安部はハウスについても自供したの?」
「じきょうした。五つのハウスのばしょがわかった。すぐ偵察部隊をおくったけど、ぜんいん、にげたあとだった」
「CBCが言う、治安情報局と2月運動をむすぶ核心情報についても、安部はしゃべったんだろ?」
「おれは知らない」
姉妹は海人の言葉のひびきに耳をかたむけた。
「しゃべりたくないってことだな」姉妹は決めつけた。
「きみつにはそれぞれレベルがあるからね」
「我々の協力がなけりゃ、シティの治安は維持できないんだぜ」姉妹は責める口調で言った。
「わかってる」海人が眉《まゆ》をしかめた。
姉妹は核心情報とはなにかと同じ質問をくり返した。海人が、あぐらをかいた膝《ひざ》に片腕の肘《ひじ》をつけ、顎《あご》をささえて、しばらく考えた。
「ひたち軍反司令部派幹部のあんさつ計画」海人が言った。
「暗殺計画の立案者が治安情報局で、実行役が2月運動」姉妹は確認した。
「そうだ」
こんどは姉妹が沈黙した。昨日の藤井兄の言葉が頭をよぎった。ハウスが治安情報局の依頼で暗殺を請け負っていたのだから、なんの不思議もない話だが、常陸軍反司令部派幹部が標的にされたとなると、事態の深刻さが身にしみた。
「暗殺対象者は?」姉妹は訊いた。
「リストのさいしょが白川少佐。つぎがイリイチ中佐。おれは三ばんめ。ぜんぶで二十四人」海人が言った。
「カイトはナンバー3か、まいったね」
「白川少佐がアベをじんもんした。それはヒミツにされた。おれもあとで知ったんだ。ところが、じんもんをはじめてすぐ、ひたち軍司令部が、白川少佐にアベを出せとせまった」
「治安情報局から常陸軍司令部に、安部を釈放するよう依頼があったんだな」
「白川少佐は、そんなやつは知らないって、とぼけて、じんもんをつづけた。けっきょく、アベはあんさつ計画をぜんぶしゃべった。ひたち軍司令部に、きょうりょく者がいるってこともわかった」
「なるほど」姉妹は言った。
「きょうりょく者は、ちょうほうたんとうの大尉だった。おれの部隊がそいつをつかまえようとした。それが十七日の夜だ。大尉はすがたを消してた。おなじ夜、白川少佐は司令部からよび出しをうけた。きけんだとはんだんして、女の部隊と孤児の部隊に戦闘たいせいをとらせた。イリイチ中佐にも、えんごをいらいした」
「司令部派と戦闘?」姉妹はちょっとおどろいた。
「そのときは、かいひされた。いつ戦闘がおきてもおかしくないじょうきょうが、いまもつづいてる」
海人が額に垂れた髪を両手でなでつけ、話をすこしもどした。
「つぎの日、白川少佐は、アベのじきょうをきろくした、えいぞうディスクを、司令部派のかんぶにばらまいた。あんさつ計画を知った司令部派はどうようして、うごきがとれなくなった。そうしておいて、少佐は、アベをちあんじょうほう局に引きわたした。CBCには、記者さつがいじけんのしんそうをおしえた」
「CBCが治安情報局を取材する」姉妹は言った。「治安情報局はあわてて安部を処刑する。軍事評議会の首脳はなにも知らされていない。それでよけいに騒ぎがおおきくなった」
「少佐はたぶんそこまで計算してたと思う」
「悪い女だ」姉妹は称賛する口調で言った。
「けんかのやりかたを知ってる」
「暗殺計画が報道されてないけど」
「CBCにおしえたのは、記者さつがいじけんだけだ」
「時期を見てリークするの?」
「少佐が考えてると思う」
「白川はメディアを使って治安情報局と司令部派をゆさぶるつもりだな」
「たぶん」
「だけど、これで反司令部派が有利になったとは言えない」
「ぜんぜんゆうりじゃない」海人の声が厳しくなった。「ひたち軍は、ぶんれつしたもどうぜんだ。だからおれたちは司令部に気がねなく、シティへの進駐をきめた。でもこれは、おれたちが、はっきりと少数派になったことをいみする」
姉妹はうなずいた。司令部派、宇都宮軍、仙台軍、この三者は東京UFと協調する政策で連携していた。
「それにここはモーセ=2月運動の拠点だ。反司令部派に勝ち目はあるのか?」
「おれたちは、シティで、孤児と女と外国人の志願兵をあつめる」海人は退かぬ決意を静かににじませた。「それが、ここへ進駐してきた、いちばんの、りゆうだ。志願兵ぼしゅうがうまくいけば、どくりょくで戦争ができる。どくりょくで戦争をできる力をもたないと、戦争をおわらせることなんか、ゆめのまたゆめだ」
小さな裸電球が、コンクリートの床の上の一冊の文庫本を照らしていた。姉妹は本を手にとった。G・ガルシア=マルケスの〈予告された殺人の記録〉。雅宇哩の推薦図書だろうか。ページをめくった。赤いペンで几帳面《きちようめん》にフリガナが振ってある。行間をはみ出したひどく稚拙な文字。緊迫した戦況のなかで読書をする海人の、豪胆さと勤勉さを、姉妹は思った。
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第5章 世界は発狂しているか?
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晩秋のやわらかい陽差しがふりそそぐパルテノン地区の裏通りを歩いているときに、ナイトクラブの裏口の壁に貼られたモーセのポスターに眼をとめた。シティ西部のいたるところに氾濫《はんらん》するモーセのポスターは、苛烈《かれつ》で陰惨で露骨な、檄文《げきぶん》としか読めない内容のものが大半だったが、それはちがった。
「センスがいいな、しかもたったの一行」月田姉妹の一人が感嘆して言った。
「だからこそ思弁を強くうながすんだ」姉妹のもう一人が言った。
「おまえたちなに言ってるのかわかんないね」アイコが言った。
申命記の引用である。
むしろお前たちはどの民よりも貧弱であった。
常陸軍反司令部派の進駐によって、国際医師団がようやく多摩センター病院の開業を決断した。十二月上旬、医療機器が運び込まれた。スタッフがそろうと、暴動の犠牲者や、貧困と人種差別ゆえにこれまで治療をうけられなかった老人や子供たちで、院内はたちまちあふれ返った。
十二月十七日から十九日にかけて、シティ東部で高麗幇の内部抗争が沸騰して、激しい戦闘が発生した。富士師団が介入の動きを見せたが、稲城大橋の北側に集結したイリイチの四個大隊がそれを牽制《けんせい》した。十九日、両脚を撃たれた幹部連合の初老の男が多摩センター病院に担ぎ込まれた。その四日後の白昼、孤児部隊が入口で厳重に武器をチェックしていたのだが、入院中の幹部連合の男が患者を装った男にナイフで刺し殺された。犯人は逃走した。国際医師団がテロを非難する声明を出した。その夜、小燕がひそかに李明甫を使者としてシティ駐留常陸軍の司令部に送った。明甫は、海人と国際医師団に謝罪し、今後いっさい病院内でのテロはおこなわないと宣誓した。
モーセ=2月運動が目立った動きをひかえ、ニュータウン・マーケットとパルテノン地区の暴動は鎮静化に向かった。義士団はパルテノン地区から姿を消したまま反撃してくる気配を見せなかった。それも常陸軍反司令部派の進駐の効果と思われた。
パンプキン・ガールズは、年内に、吐蕃ビルの道路に面した一階と、メインストリートにつながる二階の出入り口に、高さ三メートルのコンクリート製の防御フェンスをめぐらす工事を完了させた。その一方で、すでに買収してあったパルテノン地区の二つのナイトクラブと、小規模のカジノとゲイバーとレストランそれぞれ一つの営業をはじめた。ホステスの半分はパンプキン・ガールズから希望者を募ってまかない、残りは虹《にじ》の旗を通じて調達した。雅宇哩と契約してナイトクラブで週に一度、歌ってもらった。売春および犯罪一般に長じた人材は豊富だが、経営能力に秀でた女の子となるとゼロに近かったから、万里が府中市と立川市とパルテノン地区をいそがしく飛びまわった。義士団の利権については、633部隊の藤井兄の要請で、当面の間、義士団が所有する商業施設を接収しないことを約束した。
虹の旗が各勢力に呼びかけて、ニュータウン・マーケットとパルテノンの両地区に武装自警団を創設するための会議がはじまった。応化十五年の暮れから応化十六年の一月にかけて、精力的に会議を重ねた結果、前者で十一の異なる民族で構成される自警団が、後者では四つの商店街で九つの自警団が結成された。その活動をシティ西部全域に広げ、近い将来に市行政組織を立ちあげることが合意事項になった。ダイアナ・ダキラが、自警団連絡協議会の報道官として、外国メディアの質問に、流暢《りゆうちよう》な英語でこたえた。
多摩川の北側では、事実上分裂した常陸軍が、かろうじて戦闘を回避していた。司令部派は立川基地に立てこもり、周辺に五個大隊を配置した。政府軍との戦いの前線には、外国人部隊四個大隊と孤児部隊一個大隊がとり残されるかたちになった。ベトナム人のホウ中尉と白川少佐が府中基地で反司令部派の指揮をとった。イリイチはあいかわらず外国人部隊の同盟のために全国の激戦地区をたずね歩いていた。
一月下旬、大陸から吹く風が黄砂を運んできたある日、サザンタワー・ホテルのコーヒーショップで、姉妹は海人に懸念を伝えた。
「戦況によっては、カイトの部隊がシティから撤退するんじゃないかって、自警団の連中が心配してる」
海人がミルクティーを一口飲んで、慎重な口ぶりで言った。
「おれたちがここを出ていくときは、戦争に負けたときだ」
「イリイチと白川は和平交渉に参加してるの?」
「はいじょされてる」
「常陸軍反司令部派は交渉の相手とみなされてないわけだ」
「いまのところは」
「そうだとすれば、たとえば、政府軍が師団規模で前線に圧力をかけて、立川の常陸軍司令部派が、前線にいる反司令部派の部隊を背後から襲うこともありうるわけだろ?」
「そのときは、おれはシティの二個大隊をひきいて敵の掃討にむかう」
「勝てるかどうか訊《き》いてるんだ」
「勝てるよ」海人が即答した。
「たいした自信だな」
「司令部派は半日でせんめつできる。政府軍を前線のむこうにおしもどすまで、四、五日ぐらい」
「練馬の宇都宮軍が南下して、常陸軍反司令部派を攻撃する可能性もあると思うけど」
「それも考えられる」
「戦力は圧倒的に不利だ」
「宇都宮軍は攻撃するひつようがない。おれたちの補給路をたつだけでいい。武器、弾薬、食糧を、ひたちといわきからはこんでるからね」
「勝負にならないじゃないか」
「時間はある」海人が自分に言い聞かせるように言った。「おれたちは、この二ヵ月間で、シティの志願兵を千二百人あつめた。いまも、まいしゅう百人たんいで訓練基地におくってる。イリイチ中佐が、シティしゅっしんの、日本人部隊と外人部隊に同盟をよびかけてる」
「高麗幇の小燕派との同盟は?」
「じじつじょうの同盟かんけいにある」
「パンプキン・ガールズとは?」
海人が、こたえずに、視線を窓の外に逃がした。姉妹もつられて窓の方を見た。黄砂のなかにシティのスラムが蜃気楼《しんきろう》のようにうかんでいる。頭のすみに、ふと、烏山市の家から海人と三人で命からがら逃げ出した十四歳の初夏がよみがえり、奇妙な感慨にとらわれた。あのときの子供三人が、東京の西部で、それぞれ武装部隊を率いて同盟関係をむすび、決戦のときにそなえているのだ。
話題を変えて、おしゃべりはもうすこしつづいた。雅宇哩の授業のすすみ具合、恵と隆の進路問題、それから常陸市で魚屋を切り盛りする年上の恋人の近況。
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軍事情勢の動向とはべつに、パンプキン・ガールズは、あいかわらず頭の痛い問題を抱えていた。万里が吐蕃ビル五階の事務所で財務内容を報告した。多摩川の北岸地域のビジネスは順調だった。運送会社は七社でトラック二百二十台、ホテルが九つ、カジノ四店舗、ナイトクラブ十一店舗、レストラン、カフェ、バー等を合わせて十四店舗、故買屋が八社。シティ西部への投資の損失を差し引いても、グループ企業全体としては黒字である。
「事業所に問題点はない。でも義挙が黒字を帳消しにして、大幅な赤字を生み出してる」万里が言った。
「ギキョてなんだ?」アイコが訊いた。
「正義のためにことを起こすこと。具体的にはNGOへの寄付金と自警団の維持費」万里がこたえた。
「義挙をやめたら、我々はたんなる不良少女の群れになっちゃう」姉妹は言った。
「ドラッグで儲《もう》けたカネがある。それで赤字の穴うめをしてきたけど、四月には確実に底をつく」万里が言った。
「ゴールデン・ユニコーンのスウィートを解約しよう」
「そのていどじゃ焼け石に水ね」
「また東京UFのドラッグを強奪すればいい」
「いまは警備がけたちがいに厳重になってる。ドラッグ強奪はやむをえない場合の緊急措置」
「人生は緊急措置の連続だ」
「基本は、義挙に使うカネを、ビジネスの利益の範囲におさめなくちゃだめ」万里が辛抱強く言った。
「そんなことしてたら多摩センター病院はやっていけないだろ」
「多摩センター病院に、安定的に、継続して、資金を注入するには、資金を分担すべきだと思う」
「誰と?」
「シティに利権を持ってるすべての団体と」
万里の指摘はもっともだと姉妹は思った。
「わかった。633部隊と高麗幇の小燕派にも分担させる。彼らも受益者なんだからNOとは言わせない」
「もう一つ問題がある」万里が指を一本立てた。「仕事にあぶれてる女の子のこと」
万里が数字をあげて説明した。パンプキン・ガールズは結成から一年と一ヵ月で二千三百人の大所帯になった。そのうち、ドライバー、重機のオペレーター、鉄筋工、旋盤工、大工、経理、営業、販売員、ダンサー、娼婦《しようふ》等、生業に就いている女の子がおよそ七百人。あとはフルタイムの戦闘員である。突撃隊員が三十人。シティ・ボディガード・サーヴィスに所属する戦闘員が百人。そこまではいい。内乱時代の新興マフィアとしては、そのていどの兵力と戦費は覚悟しなければならない。
「残りの千五百人近い女の子が」万里が言った。「失業したまま各地区の自警団に所属してる。どんなマフィアだって、ボスから兵隊までみんなはたらいてるのに」
「そいつらはあそんでるってわけか?」アイコが怒った声で口をはさんだ。「おまえたちがくわさなくちゃならないっていうのが、おもしろくないってわけか?」
「そんなこと言ってない」万里が強い口調で言い返した。「あの子たちも仕事につきたいのよ。でも求人がない。技術も持ってない。どうしたらいいのか、真剣に考えてあげなくちゃ」
「でも女の子たちに、いま緊急に必要なのは軍事訓練。桜子と椿子はそう考えてるのよ」ビリィが言った。
「そのとおり」姉妹は言った。「日本全国、どこだって、女の子十人のうち九人は失業者だ。新規に事業を起こすのも、必要な数だけ職業訓練所をつくるのも、おそろしく時間がかかる。戦争の方はもう待ったなしだ。敗北すれば、我々はすべてを失う。まず戦争に勝利。懸案にとりかかるのはそれからだ」
49
ニュータウン・マーケットは、二本の私鉄の高架線路と多摩ニュータウン通りにはさまれた帯状の地域に広がっている。東西の長さが二・八キロメートル。南北の幅はおよそ百五十メートル。マーケットの中心に、放棄された多摩センター駅がある。月田姉妹は、アイコと突撃隊を連れ、数百の店舗が迷路のような構造をつくる駅構内を北口へ抜けて、水路に面して建つ633部隊の本部ビルをたずねた。
「我々は多摩センター病院の運営資金の三割を負担してる」姉妹は藤井兄に言った。「自警団の維持費が財政を圧迫して、四月以降、同じ額の負担はむりだ。633部隊と小燕派に三分の一ずつ分担してもらいたい。小燕には電話で基本的な了解をとってある」
利益の一部はシティの住民に還元すべきだという点で、考え方は一致していたから、藤井兄は、姉妹の要請を快く了承した。
「今月から分担しよう」藤井兄が言った。
「助かる」姉妹は言った。
「将来の市の財政問題を考えれば、こういう経験を重ねていく必要がある」
「義士団と五侠会にも献金させるべきだと思う」
姉妹の踏み込んだ提案に、藤井兄が表情を閉ざした。東京UF系列のマフィアは、外国人排斥という共通の利害からモーセに献金してきた。633部隊は昨年、パンプキン・ガールズと同盟をむすぶと同時に、モーセとの関係をいっさい断ったが、義士団と五侠会はモーセへの献金をつづけているはずだった。
「我々につくか、モーセ=2月運動につくか、旗幟《きし》を鮮明にさせるということか」藤井兄が不機嫌な声で言った。
「そういう時期にきたんだ」姉妹は冷淡に言った。
「五侠会にはおれから話してみる」
「義士団は?」
「やつらはいまシティに基盤を持ってない。常陸軍が撤退しないかぎり、もどってこれないだろう」
「五侠会が多摩センター病院への分担金を拒否したら?」
「攻撃する」藤井兄がいくらか熱をおびた声で言った。「だがやつらにも時間を与えてやれ。これまでの路線を根本的に転換することになるんだからな」
姉妹はうなずいた。事務所の窓から駅周辺のマーケットの喧騒《けんそう》が見える。短い沈黙をおいて、さらに踏み込んだ。
「常陸軍の亀裂《きれつ》は深刻だ。司令部派と反司令部派の軍事衝突が起きれば、戦火がシティに飛び火する可能性が高い。そうなったら、633部隊はどうするつもりだ?」
「選択肢はほとんどない」藤井兄がこたえた。
「反司令部派と同盟するのか?」
「そうなるだろう」
「なぜ」
「民族融和をかかげる唯一の軍隊だから」
「軍事的には少数派だぜ」
「選択肢はないんだ」藤井兄はいっそう不機嫌な声で言った。
「イリイチが、シティ出身の武装勢力に帰還を呼びかけてる。外人部隊にも日本人部隊にも」
「噂は聞いてる」
「イリイチの工作はうまくいくと思う?」
「弟の部隊もそうだが、ここで食えないから、戦場で稼いでる。その事情はいまも変わらない。帰還するにはいろいろ条件が必要だ」
「シティ出身の武装勢力がぜんぶ帰ってきたら、七万から八万人の軍隊が突然シティにあらわれることになる。それはシティだけじゃなくて、首都圏全体の戦況に決定的な影響を与える。劇的に和平が実現するかもしれない」
「イリイチの妄想だ」藤井兄が切り捨てた。
50
吉林市場の北側の入口で小燕派の民兵に車の停止を命じられた。月田姉妹は、李明甫とつながっている携帯電話を、抗弾ベストをつけた若い民兵に渡した。周辺は昨年十二月に三日間にわたって闘われた内部抗争の激戦地だった。半壊したビルの陰で軍用車の重機関銃が鈍い光を放ち、土嚢《どのう》を積んだ防御陣地のなかから、民兵が緊張と恐怖でふるえる視線を向けてくる。シティ東部では幹部連合と小燕派の双方が臨戦態勢をとっていた。
小燕派の民兵が運転するピックアップ・トラックがメインストリートを南へ下った。パンプキン・ガールズの三台の車がつづいた。中心街を右折し、曲がりくねる急坂を登り、三ヵ所の検問所をとおり抜けた。
雑木林に囲まれた屋敷に着くと、明甫と幼い女の子が出むかえた。
「珊珊《さんさん》だ」明甫が女の子の頭をなでた。
「こんにちは。いくつ?」姉妹は訊《き》いた。
「五さい」珊珊がこたえた。
「かわいいね」
「あんたたちだれ?」珊珊が好奇の眼差《まなざ》しで訊いた。
「桜子」
「椿子」
「なんかへん」
「顔が似てるから?」
「うん」
「双子って言うんだよ」
「なにしにきたの?」
五歳の女の子の、活発に動く黒い瞳《ひとみ》、頬のかすり傷、髪の毛やセーターについた落葉の屑《くず》、それぞれに眼をとめて、姉妹は幸せな気分になった。
「ママとお茶しにきたんだ」姉妹は言った。
「遊ぼうよ」珊珊が言った。
昼食にはまだ間がある時刻だった。姉妹は珊珊を雑木林のなかへ誘って、頭から落葉や枯れ枝を降りかけた。珊珊が激しくやり返した。しばらく腐葉土の上を転げまわって遊んだ。冬の硬質な空気に珊珊と姉妹の叫びが反響した。明甫が庭のすみで焚《た》き火をはじめると、珊珊の関心がそちらに向いた。
姉妹は手のひらをごしごしこすって泥を落としながらテラスへあがった。サングラスをかけた小燕がテーブルで待っていた。ネイビーブルーのハーフコート、ブルージーンズ、コンバットブーツという装いだった。短く握手をした。昨年の五月、吉林市場の旧本部を撤退したとき以来の再会だった。
「多摩センター病院の運営資金、分担してもらって悪いね」姉妹は椅子に腰をかけて言った。
「朝鮮族も受益者なんだから当然よ」小燕が言った。
「話が早くてありがたい」
「あなたたちはいくつになったの?」
「二十一歳」
「中学生ぐらいに見える」
「威圧感がぜんぜんなくてね」姉妹は顔をしかめた。「パンプキン・ガールズ全体が同じ問題を抱えてる。スカートひらひらさせたり、下着をわざと見せたりするやつも、けっこういるんだ。まあそういう年ごろだから、仕方ないんだけど」
小燕が微笑みを返した。姉妹は誰とでもくつろいだ口調でしゃべるが、小燕の態度にも、幼いときからよく知っている双子の姪《めい》と接するような親しみが感じられた。
「高麗幇の内部抗争は決着がつきそうなの?」姉妹は訊いた。
「時間がかかると思う」小燕が言った。「全面的な武力衝突をすれば街を破壊することになるでしょ。幹部連合と我々の間で、それを回避するという暗黙の了解があるの」
若者が固く絞った蒸しタオルを持ってきた。姉妹はそのタオルで手と顔をぬぐった。飲み物を訊かれ、熱いコーヒーを頼んだ。ボスへの畏怖《いふ》のせいなのか、うけこたえする若者の声がかすれた。かわいいねと姉妹は言った。若者が頬を赤らめて去った。小燕がくすくす笑いながらサングラスをはずした。ばくぜんと想像していたとおりの美しい顔立ちと暗い眼差しだった。小燕の凜々《りり》しい眉《まゆ》、漆黒の瞳、血色のいい唇、不屈を示す引き締まった顎《あご》のラインへと、視線を移していくうちに、姉妹はふと記憶を刺激された。不思議な感情がわきあがった。神の啓示をうけたように、なんの前触れもなく一つの仮説が降りてきた。ばかげた考えだった。姉妹は、そのおとぎ話を頭から振り払った。
「シティ出身の朝鮮族の武装勢力が、全国に二万人いるって聞いてるけど」姉妹は訊いた。
「朝鮮族単独の部隊で一万四千人」小燕が言った。
「そのうち小燕派の部隊は?」
「兵力で計算すると、わたしをはっきりと支持してるのは、その五パーセント、七百人」
「そんなにすくないの?」姉妹はちょっとがっかりした声を出した。
「幹部連合を公然と支持する部隊もそんなには多くない。せいぜい十パーセントていどね。戦場の司令官は、高麗幇の内部問題に距離をおくという傾向があるのよ」
「それでも幹部連合は小燕派の倍だ。女をボスに担ぐことへの反感はないの?」
「もちろんある。それにもかかわらず、高麗幇の若手幹部がわたしを担ぎ出したってことに意義がある」
「傀儡《かいらい》じゃなく」姉妹は言葉を補った。
小燕がうなずいた。
「もともとわたしに正統性はない。徐一族から見れば卑しい身分の女よ。ところがミョンボたち若手グループは、血族支配の打倒をめざすんだから、高麗幇のボスにはむしろそういう女の方がふさわしいって考えてるふしがある」
「いいね」姉妹は称賛した。「世界の正しいひっくり返し方だ」
「彼らはフェアであることをわたしにもとめてる。わたしはそれにこたえる用意がある」
コーヒーがとどいた。姉妹は一口飲んだ。小燕が焚き火の方を見た。明甫が煙に眼をしかめ、珊珊が火のついた枯れ枝を振りまわしている。姉妹はまた小燕の横顔に惹《ひ》きつけられ、顔立ちの特徴の一つ一つを再確認した。こんどは、ほんの短い時間、おとぎ話のようなその仮説を愉《たの》しんだ。
「小燕は日本語をどこでおぼえたの?」姉妹は訊いた。
「東京生まれで、十四歳まで東京で育ったから」小燕が言った。
「徐震とはどこで会ったの?」
「ロシアのポシェトで」
「なんでロシアへ?」
「売春組織に売られて」
「もしかすると日本人?」
「日本人の血は八分の一よ」
ロシア人奴隷商人の手でいわき市からサハリンの売春組織に売られた、一人の日本人女性の運命を、姉妹は思った。佐々木|紅《くれない》の長男は昨年の秋で二十歳になった。十六歳で生んだとして、彼女がいま生きていれば三十六歳。
「小燕はいくつ?」姉妹は訊いた。
「三十二歳」
「四歳若いな」
「誰と比較してるの?」
「小燕とよく似てる男の子を知ってるんだ。眉も眼も鼻も唇も似てる」
「ああ」小燕が思い出した。「ンガルンガニの森まりに、同じことを言われた」
「だろうね、ほんと似てるもの」
「佐々木准尉とは、森の紹介で一度だけ会ってる。そのときにお母さんの若いころの写真を見せてもらった。わたしも似てると思った」
「残念だ」
「なにが」
「小燕がカイトのお母さんじゃなくて」
「ありえない話なのに」小燕が笑った。
「ありえるかもしれないって思うだけで胸が痛くなる」
「ちがってよかったのよ」小燕が笑みのまま言った。「大罪を重ねてきた女だからね。ポシェトで徐震と出会ったとき、わたしはグルジア人奴隷商人の経理担当兼愛人だった。一目でこの男だと思った。会った翌日に寝て、その四日後には、徐震に奴隷商人を殺させた。恋に落ちたんじゃなくて、強い男をえらんだの。十六歳でロシアに売り飛ばされて、ヴァニノ、ビロビジャン、ハバロフスク、ウラジオストック、それからポシェト、八年間、あちこちを転々としてる間、生きのびるために、ずっとそうしてきた。シティ育ちのミョンボたちも知ってる話よ。彼らは酔うと、現場を見たわけでもないのに、ポシェトの奴隷商人殺しのエピソードで盛りあがる。わたしのまえではぜったいしないけど」
姉妹はテーブルの上の小燕のサングラスに映る冬の陽の光に眼をとめた。そういう小燕が持っている悪の激情も、高麗幇の若者を惹きつけたのだろうと思った。
「身分の卑しい女ボスと野心的な若者たちの幸せな関係」姉妹は言った。
小燕が微笑んでコーヒーカップを口に運んだ。幼い悲鳴が聞こえた。クヌギのてっぺんに近い枝に、珊珊がしがみついていた。高く登りすぎて、降りるに降りられないようだった。明甫がばたばた走りまわり、屋敷の裏からアルミ製の梯子《はしご》を引っ張り出してきた。珊珊がどうにか地上に降り立ったとき、西の方角で爆発音が聞こえた。姉妹は腕時計を見た。正午ちょうどだった。爆発音が連続した。姉妹の携帯電話が鳴った。受信すると、ビリィの緊迫した声が鼓膜をふるわせた。
51
81ミリ迫撃砲の最初の砲弾は、多摩センター病院の周囲にめぐらした防御フェンスの外側の道路に着弾して、飛散した破片が走行中の乗用車のフロントガラスに突き刺さった。コントロールを失った乗用車は横すべりして病院の正門近くのフェンスに激突した。警備についていた数人の女の兵士が乗用車に駆けよろうとしたとき、第二弾が病院の東棟のレントゲン室の窓の下に、第三弾が常陸軍司令部があるサザンタワー・ホテルの通用門付近に着弾した。複数の方角から数秒間隔で迫撃砲弾が襲いかかった。炎と鉄片と土砂がつぎつぎと噴きあがり、病院と隣接するホテル周辺は最前線と化した。ンガルンガニの女の部隊の二個中隊が敵の迫撃砲陣地の掃討に向かった。
それより数分まえ、二百五十人から三百人の2月運動の戦闘部隊が、数人のグループに分かれて、ニュータウン・マーケットを縦横にめぐる路地から歩いて侵入し、点在する攻撃目標の近くで再結集した。病院まえに最初の迫撃砲弾が落ちたのとほぼ同時に、633部隊の本部ビルの西側の路地の露店に仕掛けられた強力なTNT火薬が爆発した。ビルは一瞬にして半壊し、爆風と飛び散る瓦礫《がれき》が周辺の粗末な店舗や人々をなぎ倒した。その爆発を合図に、2月運動の戦闘部隊は、633部隊の本部ビル以外の三つの事務所と自警団の十一の事務所を、小銃、グレネードランチャー、ロケット砲でいっせいに攻撃した。
633部隊の藤井兄は五侠会の幹部と会食するために永山へ向かう途中だった。同時多発テロが発生したという一報をうけると、ただちに車を引き返し、無線で部下をかきあつめて敵を追い払いにかかった。
パンプキン・ガールズの女の子八十人が、ニュータウン・マーケットの自警団に所属していた。彼女たちも藤井兄の指揮下に入って戦った。
海人は孤児部隊の二個中隊をニュータウン・マーケットに向かわせた。マーケットの北側を走る多摩ニュータウン通りに装甲車が展開して間もなく、孤児部隊は敵の攻撃をうけた。ロケット弾が炎を曳《ひ》いて襲いかかり、装甲車の25ミリ機関砲が激しく応射した。二百人の孤児兵が下車して敵の掃討をはじめた。マーケットの内部はおよそ四千の商店が密集する迷路だった。敵はいたるところにあらわれ、孤児部隊の戦力を分散させつつ、しつように攻撃をくり返した。
月田姉妹は、李明甫が率いる小燕派の民兵百二十人とともに、シティ西部にもどった。午後零時二十二分、多摩センター駅南口で、吐蕃ビルから駆けつけた突撃隊二十人と、パルテノン地区の自警団に所属する五十人の女の子と合流した。周辺はニュータウン・マーケットから避難した人々で混乱していた。2月運動が学校や孤児院を襲撃する恐れがあったので、シティ・ボディガード・サーヴィスの戦闘員、およびパルテノン地区以外の自警団は動かさなかった。
姉妹は小型無線機で海人を呼び出した。
「駅の南口に集結した。我々の兵力は二百人弱」
「りゃくだつがはじまってる」海人が落ち着いた声で言った。「マーケットの南がわを封鎖してくれ。ぼうとの侵入を防ぐんだ。北がわの封鎖と掃討はおれたちがやる」
姉妹は明甫と分担地域を決め、すばやく部隊を配置につけた。
多摩センター病院周辺では迫撃砲の攻撃が下火になっていた。零時三十五分、女の部隊が、鶴牧《つるまき》の南をトラックで移動中の敵の迫撃砲部隊を発見して、数分間の戦闘ののちに殲滅《せんめつ》した。ほかにすくなくとも二つの迫撃砲部隊が攻撃に参加していたと思われたが、どこかへ姿を消して、午後一時までに敵の砲撃はおわった。
マーケットの内部では、小部隊に分かれた2月運動との戦闘がつづいた。午後四時十二分ごろ、北ブロックの数ヵ所で火の手があがった。消火活動は敵の狙撃《そげき》で妨害され、北西の風が炎と黒煙をあおり立てた。視界がさえぎられて敵と味方の区別がつかなくなった。
マーケットから人々がいっせいに脱出をはじめた。その混乱の波に、自警団も孤児部隊も2月運動も略奪者も飲み込まれた。
炎と略奪がいっそう激しさを増した午後四時四十分、海人から姉妹に無線連絡が入った。
「部隊をぜんぶマーケットの外へ出して消火にあたらせる。まんなかを川がながれてるだろ。きみたちはそこで火をくいとめてくれ」
私鉄の高架線路と多摩ニュータウン通りの間に水路があった。姉妹は、その水路の南側まで、パンプキン・ガールズと小燕派の部隊を前進させた。2月運動は群衆にまぎれてすでに逃走したらしく、攻撃はうけなかった。常陸軍の消火部隊が到着して、ポンプの吸い込み口を水路に投げ込んだ。わずかな水量だった。土嚢を積んで堰《せき》を仮設した。ほかの地区の自警団からポンプとホースが総動員された。小燕派の消防車も応援に駆けつけた。どうにか水路のラインで延焼を食いとめたが、その北側に広がる火の海は手の施しようがなかった。
太陽が沈み、炎が夜空を明るく照らした。姉妹は無線で海人に現況を報告した。意識せずとも感傷がこもった。
「藤井の夢が燃えてる」
午後十一時すぎ、火の勢いがおさまったのを確認すると、姉妹はアイコと数人の突撃隊とともに、消火活動の現場を離れて多摩センター病院へいった。ビリィが玄関で出むかえた。パーキングと中庭に百以上の死体がならべられ、泣き叫ぶ声が逆巻いていた。ビリィの案内で、パンプキン・ガールズの死者四人と対面した。四人とも知らない顔だった。ひざまずき、短く黙祷《もくとう》した。
「十一人と連絡がとれない。ぜんぶマーケットの自警団に入ってた女の子たちよ」ビリィが言った。
「無事を祈ろう」姉妹は断念している声で言った。
姉妹は病院の建物に入った。右眼と右肩を負傷したインドネシア系の男が、やつらはマーケットのなかで外国人を狙い撃ちしたのだと、医師に訴えていた。姉妹は、パンプキン・ガールズの負傷者に声をかけながら、ロビー、廊下、病室をまわった。死にかけてる女の子がなん人かいた。手をにぎった。つぶやく声でいっしょに歌ってやった。辛《つら》い時間が流れた。姉妹は見舞いをおえると、アイコと突撃隊を連れて、病院の南に隣接するサザンタワー・ホテルへ向かった。
52
サザンタワー・ホテルの地下パーキングにつくられたプレハブのなかに、諸勢力の代表者があつまった。出席者は、月田姉妹、633部隊の藤井兄、ニュータウン・マーケットの自警団を代表して中国系自警団を率いる漢族の男、虹《にじ》の旗のダイアナ・ダキラ、常陸軍反司令部派の佐々木海人准尉、計六人。食糧暴動を防ぐためにも、ニュータウン・マーケットの復興にただちにとりかかる、という方針が全員に了承された。
「復興資金は我々が責任を持つ」藤井兄が言った。
「マーケットで商売をつづけるやつには、それ相応のカネを出させるべきだ」漢族の男が言った。
「シティの住民全体の問題なんだから、高麗幇にも一部を負担させたらどうなの」ダキラが提案した。
「小燕と話してみる」姉妹は言った。
「幹部連合はどうする?」とダキラ。
「話してもむだだ」藤井兄が言った。
「五侠会には負担させろ」漢族の男が責める口調で藤井兄に言った。
藤井兄が煙草をくわえた。右手でライターをもてあそび、けっきょく火を点《つ》けずにテーブルに放り出した。正午からつい先ほどまで戦闘と消火活動に奔走していた横顔は、深い疲労で陰っていた。
「五侠会はきょう、我々の支援要請を蹴《け》った。戦闘も消火活動も」藤井兄が言った。
「多摩センター病院の運転資金を出させるって話もすすんでない」姉妹は言った。
「もう見切りをつけろ。五侠会はつぶせ」ダキラがとどめを刺す声で言った。
藤井兄が顎《あご》の無精ひげをつまんで小さくうなずいた。五侠会対策はあとまわしにして、議題はマーケットの復興の具体的な手順に移った。まず焼け跡を片づけねばならない。海人が府中基地の施設部隊のトラックと重機を提供することを約束した。作業の人手は633部隊とマーケットの十一の民族の自警団があつめ、虹の旗とパンプキン・ガールズは周辺の警備を担当することになった。
「また破壊活動がある」ダキラが言った。「かならず、くり返し、敵は攻撃してくる。マーケットの復興と並行して、2月運動の掃討をすすめなくちゃだめだ」
「2月運動の戦力を、常陸軍はどう評価してる?」姉妹は訊《き》いた。
海人は腕を組み、天井のほのかな明かりをしばらくながめた。
「おれたちがシティに進駐して二ヵ月になる。この間、やつらはテロをひかえて、じゅんびをしてきたんだと思う。二個中隊、三百人ぐらいの兵士が、ふいにあらわれて、作戦をせいこうさせて、さっさとひきあげた。こういうことを、よそうしてなかったわけじゃない。だけど、じっさいにおきてみると、いろいろおどろきがあった。迫撃砲の射撃はせいかくだった。マーケットに侵入した部隊はよくとうせいがとれていた。やつらは戦場でけいけんをつんでる」
「その三百人が、2月運動の全兵力とは思えないけど」姉妹は言った。
「モーセ学えんのそつぎょうせいが、テロ作戦のために、戦場からシティに帰ってきてるって、考えたほうがいい」
「2月運動が、いま、じっさいにシティで動かせる兵力は?」
「六百人か千人か、わからない。二しゅうかんごには、三千人にふくれあがるかのうせいもある」
戦場で経験を積んだ三千人の狂信者の戦闘部隊、と姉妹は胸のうちでつぶやいた。それが真実なら、掃討作戦は長く厳しいものになるだろう。
「捕虜の情報はないのか?」漢族の男が訊いた。
「マーケットの戦闘で六人、迫撃砲部隊の一人とあわせて七人をほりょにした」海人が言った。「いまじんもん中だ。ただし、兵士のきょうじゅつにきたいはできない。点しか知らないんだ。一つのアジトを使うのは三人から八人。しかも、しょっちゅううごかしてる。武器庫もこまかくぶんさんさせてる」
「やつらを叩《たた》くには、出てくるのを待つしかないってことか?」漢族の男がいら立つ声で言った。
「スラムにひそんでるかぎり」海人が冷静な声で返した。「2月うんどうを、じゅうみんと、くべつできない。そういう敵を武装かいじょするためには、たぶん数万人の軍隊がひつようになる」
どこからそんな軍隊を引っ張ってくるのか。常陸軍は司令部派を合わせても一万人強である。シティ西部に、一定期間、数万人の部隊を駐留させるには、宇都宮軍あるいは仙台軍と共同作戦を実施するしかない。
「シティ出身の日本人部隊と外人部隊を呼びもどして、我々と同盟させよう」姉妹は藤井兄がイリイチの妄想だと退けた構想を蒸し返した。
「仮にそれが実現したとしても」藤井兄が首を横に振った。「やつらのなかには、武装強盗同然の部隊も、カネでかんたんに寝返る部隊もいる。シティに入ればあっちこっちで略奪と武力衝突がはじまる。百歩ゆずって、統制のとれた数万人の軍隊をつくれたとしよう。その軍隊を養うカネを、いったいどこから捻出《ねんしゆつ》するんだ?」
「復興資金でひいひい言ってるのに」と漢族の男。
「では2月運動の資金源を断つ」姉妹は言った。
「資金は、東京UFから2月運動の個々のグループに流れてる」藤井兄が言った。「それを断つには、東京UF本体を解体するか、政策変更を迫るか」
「どっちも非現実的だ。モーセを攻撃しよう」ダキラが言った。
「シティの日本人の大半を敵にまわすことになるぞ」藤井兄が言った。
「元凶はモーセだ」ダキラが語気を強めて言いつのった。「日本人の若者に人種差別と性差別の狂熱を注入しているのはモーセだ。モーセ学園は2月運動の兵士の供給基地だ。モーセをつぶせば、東京UFが資金援助をしようがしまいが、2月運動は消えてなくなる」
「いまはその時期じゃない」藤井兄が諭す口調で言った。「モーセ=2月運動が恐れてるのは、日本人と外国人が共同で治安維持にあたることだ。ニュータウン・マーケットでその機運が生まれたから、マーケットそのものを破壊したわけだ。わずかな部隊で短時間にやってのけた。じつに低コストだ。おまえのいら立ちはわかる。だが破壊活動というのはそういうものだ。いま我々がしなければならないのは自警団を強化すること。それが優先課題だ。兵力も武装も訓練もまったく不足してる」
ダキラは不満そうだったが口をつぐんだ。すべての民族の同盟を基礎にして、自警団を市警察に格上げするという構想を、全員が共有していた。それを阻害する2月運動の破壊活動をどう封じ込めるか、いかにして自警団を強化するか、実効力ある対策を早急に打ち出さねばならなかった。
「自警団の強化には資金が必要だ。どうやって調達する?」姉妹は出席者に問いかけた。
633部隊はニュータウン・マーケットの復興資金の捻出で精一杯のはずだった。虹の旗の資金力は、自分たちの組織の運営を維持できるていどだ。
「聖ヶ丘パークを制圧しよう」ダキラが痺《しび》れを切らしたように言った。
「資金の問題もいっぺんに解決できる」姉妹は即応して言った。
頭のすみでずっと夢想していた作戦だった。聖ヶ丘パークのドラッグ・武器市場の利権をにぎれば巨万の富が入る。東京UFが雇った富士師団の二個中隊が常駐しているだけで、警備は手薄だった。
「シティの住民だけで数万人の民兵部隊をつくることも可能になる」ダキラが言った。
「カイトが孤児部隊を動かせば、聖ヶ丘パークは二時間で制圧できる」姉妹は言った。
「東京UFがゆるさない」海人が厳しい声でさえぎった。「富士師団の大部隊が、ただちに投入される。シティで、ぜんめんてきな軍事衝突がおきる。それがきみたちののぞみなのか? きみたちにそのじゅんびができてるのか?」
出席者は押し黙った。海人の指摘は正しい、と姉妹は思った。戦火でシティが破壊されることを誰も望んでいない。戦争への準備はまったく不足している。
53
ニュータウン・マーケットの焼き打ち事件が、モーセ=2月運動の蜂起《ほうき》の号砲だったことが、翌一月二十八日、明らかになった。マーケットのすぐ北にある山王下公園で、午前中からモーセが外国人排斥の集会をひらいた。633部隊の藤井兄が部下からうけた報告によれば、正午の時点で参加者は推定三万人。これまでにない規模の大集会だった。公園の南側は前夜に三十パーセントを焼失したニュータウン・マーケットで、瓦礫《がれき》の撤去と遺体の回収がはじまっていた。午後一時すぎ、集会をおえたデモ隊がマーケットに流れ込んだ。自警団の威嚇射撃とデモ隊の投石の応酬があった。火炎瓶が常陸軍反司令部派の施設部隊の油圧ショベルを炎上させた。自警団と施設部隊は焼失をまぬがれた水路の南側に撤退して、そこに防御ラインを築いた。
ほぼ同時刻に、和田地区、桜ヶ丘地区、連光寺地区、諏訪地区、永山地区、落合地区の六つの自警団が、よく訓練された2月運動の戦闘部隊の攻撃をうけた。パルテノン地区にも一個小隊規模の敵があらわれた。ニュータウン・マーケットの防衛にあたっていた月田姉妹は、パンプキン・ガールズの突撃隊三十人を率いてパルテノン地区に引き返し、敵に応戦した。
シティ西部の全領域でテロと略奪が発生した。自警団の結成が遅れていた地区は、敵の思うがままに蹂躙《じゆうりん》された。外国人は狙い撃ちされ、モーセにあおられた日本人暴徒が外国人商店に襲いかかった。海人が各地に鎮圧部隊を送ったが、敵のゲリラ的な攻撃に悩まされ、拠点の防衛と主要道路の確保で精一杯だった。午後六時すぎ、姉妹と突撃隊はどうにか、パルテノン地区から敵を撃退すると、これまで手をつけなかった義士団の商業施設を怒りにかられるままに接収した。そのころにはメディアが「第二次九竜暴動発生」と報じはじめた。
川崎市多摩区に展開している富士師団にも動きがあった。師団司令部は、二個中隊三百人を、町田《まちだ》市経由で、聖ヶ丘パークの武器・ドラッグ市場へ派遣して防衛態勢を強化した。
その情報を入手した姉妹は、戦闘が下火になった深夜、サザンタワー・ホテルの常陸軍司令部に海人をたずねて抗議した。
「どうして富士師団の二個中隊をフリーパスでとおしたんだ?」
「白川少佐の命令だ」海人が言った。「にじのはたが、ひじりが丘パークを攻撃すれば、シティはめちゃくちゃになる」
「ダキラを信用してないってことか?」
「あのれんちゅうはやりかねない」
虹の旗なら単独でも聖ヶ丘パークへの攻撃をやりかねない、と姉妹も思い、返す言葉がなかった。
街にモーセのポスターがあふれた。外国人排斥を叫ぶ集会と暴動が連日つづいた。未亡人、モーセ学園の生徒、モーセ孤児院の子供たちもデモに動員された。アジテーターはいつも若者で、語彙《ごい》に乏しく、ロジックはでたらめだったが、熱病にうかされたような語り口は、騒然とした雰囲気をあおり立てる効果を発揮した。モーセの幹部たちは表舞台に姿を見せず、原宿の本部ビルにメディアが押しかけたが、いとうのぶひろが記者会見におうじることもなかった。
2月運動の攻撃も激しさを増した。兵力は推計で千人前後に増強された。それに対して、シティに投入されたパンプキン・ガールズの戦闘員は千六百人、虹の旗が四百人。633部隊が五百人。そのほかの自警団員が千四百人、シティ駐留常陸軍が千五百人で、総兵力は五千四百人。自警団と常陸軍反司令部派の同盟軍が、兵力の比較では圧倒していたが、そうした優位性はさして意味がなかった。2月運動は忽然《こつぜん》と姿をあらわし、効果的な打撃を与えると、少人数に分散して日本人居住区に逃げ込んだ。
略奪をうけた外国人の一部が、報復として日本人商店を襲った。自警団と反司令部派の部隊は、その鎮圧にも兵力をさかねばならなかった。ニュータウン・マーケットの復興工事は中断に追い込まれた。米と食料品の値段が高騰し、それが暴動の激化に拍車をかけた。野蛮な欲望が解き放たれ、シティ西部にかろうじて残っていた秩序が崩壊した。
二月四日、姉妹と藤井兄は、義士団の利権をパンプキン・ガールズが、五侠会の利権を633部隊が引き継ぐことで合意した。双方は四百人の合同軍を編成して、その日の午後、永山地区の五侠会の事務所と商業施設を攻撃した。五侠会のボスと幹部の大半はすでに都心部に避難しており、防衛のために残留していた五侠会の戦闘員は、二時間ほどの小戦闘ののちに投降した。
その夜だった。常陸軍司令部で作戦会議をおえたあと、ダイアナ・ダキラが一杯やらないかと姉妹を誘った。三人はエレベーターでサザンタワー・ホテルの五階にあがった。エレベーターホールで、二人のゲイの警備兵が微笑みかけてきた。虹《にじ》の旗の事務所には入らず、ダキラは廊下の向かいの客室のドアをあけた。ロレッタ・ラウが待っていた。ロレッタは、ダキラと同時に常陸軍によって府中刑務所から解放された香港出身の回族の女で、虹の旗の軍事部門の幹部である。
「我々はモーセ=2月運動の攻撃に一方的にさらされてる」ダキラがワインとグラスを用意しながら言った。「いまだに、住民が教育と医療のサーヴィスをうけようと思ったら、命がけだ」
姉妹はソファに腰をかけてダキラの言葉を待った。
「ところが」ダキラが言った。「我々はモーセの施設の破壊を禁じてる。やつらは十一校のモーセ学園と三つのモーセ孤児院とモーセ総合病院で、危険を感じることなく教育と医療をうけてる。アンフェアな闘いだと思わないか?」
「公正を実現しようとすれば」姉妹は言った。「いつだってアンフェアな闘いを強いられる。それにモーセの教育・医療施設を攻撃するわけにはいかない。仕方ないだろ」
ダキラが四つのグラスにワインをそそいだ。
「わたしも仕方ないと思う。ただし、モーセの活動が2月運動の母胎になってることは、これ以上放置できない」
「狂信者はとにかく厄介だからね」姉妹はグラスを手にした。
四人は乾杯した。
「我々はモーセ幹部の暗殺を決定した」ロレッタがいきなり本題にふれた。
姉妹はワインを一口飲んだ。ダキラがちょっと複雑な表情になった。
「暗殺リストのナンバー1はおまえたちのパパだ」
姉妹は顔のまえで手を小さく振った。
「まえにも言ったと思うけど、気兼ねはいらないよ」
「おまえたちの心を傷つけるってことには変わりない」ロレッタが言った。
「ぜんぜん」姉妹は言った。「理解しにくいだろうけど、たとえば、ほら出生の物語があるだろ。あたしたちはどこからきたのか、あたしたちを生んだときパパとママは愛し合ってたのかどうか、あたしたちはパパに歓迎されて生まれてきたのかどうか、そういうことにはまったく関心がないんだ」
「いちおう伝えておかないと気分が晴れなくてさ」ダキラが言った。
「残念ながら」姉妹は言った。「共同作戦はできない。いまのところ、パンプキン・ガールズには、暗殺をやるほどの狂熱が欠けてる」
54
虹の旗の狂熱あるいはパンプキン・ガールズの狂熱の欠如について、吐蕃ビル六階の居室でぼんやり考えていると、イズール・ダニエロヴィッチ・デムスキーが、洋菓子の箱を抱えてたずねてきた。ダキラとロレッタからモーセ幹部暗殺計画を打ち明けられた翌日の、銃声がふと途絶えた、日没までに間がある時刻だった。イズールは、ダークスーツを着て、ネクタイをきちんと締め、ひげをきれいに剃《そ》っていた。
「大使館勤務になったんだ」イズールが言った。
「いつから?」月田姉妹は訊《き》いた。
「四日まえに辞令をもらった」
「なんでまた大使館に?」
「パンプキン・ガールズ担当さ」
「嘘だろ」
「アメリカ政府は」イズールが生真面目な顔で言った。「パンプキン・ガールズを首都圏の無視できない武装勢力として認識してる。だから、ボスの双子姉妹と親交のあるぼくを連絡官に任命したんだ」
「ふうん」
実感に乏しかったが、二千人を超える戦闘員を擁しているのだから、客観的に見れば無視できない勢力であることはまちがいない。三人は窓辺のテーブルについた。イズールが洋菓子の箱をあけた。宝石のように美しい小さなケーキが二十四個入っていた。
「うれしい」姉妹は破顔した。
「人民が飢えて暴動を起こしてるときに」イズールが眉《まゆ》をしかめて見せた。
「我々も自警団も飢えてる。シティの西側じゃまともな量の食糧が確保できない。でも、それはそれ、これはこれさ」
姉妹はショートケーキをとって口のなかに放り込んだ。それからビリィを呼んで、残りを渡した。
「数が足りないかな」イズールがすまなそうに言った。
「ナイフで厳密に切り分けるからだいじょうぶよ。コーヒーでいい?」ビリィがにこにこして訊いた。
「コーヒーを」イズールがこたえた。
「我々になにかを期待してるの?」姉妹は訊いた。
「シティ問題の解決」イズールが迷いのない口調で言った。「和平を成立させるためには、シティ問題をさけてとおれない。シティが、常陸軍反司令部派と東京UFの決戦の場になりつつあるからね」
「2月運動の蜂起を、東京UFの代理戦争とみなしてるの?」
「それが真実の半分だ」
「残りの半分は?」
「モーセ=2月運動の生存を賭《か》けた闘い」
「そりゃそうだ」
「常陸軍反司令部派が2月運動のテロ攻撃で疲弊すれば、東京UFは富士師団をシティに進攻させる。シティは廃墟《はいきよ》になる。阻止すべきだ。だから早急にシティ問題を和平交渉の議題にのせる必要がある。ところが常陸軍反司令部派は、司令部派の猛反対で、和平交渉から排除されてる。原因は彼らが東京UFの解体を要求してるから。ハードルが高すぎるんだ」
「反司令部派は戦争遂行能力に自信を持ってるよ」
「ぼくたちの分析でも、司令部派と反司令部派が軍事衝突したら、司令部派のぼろ負けだ。彼らは外人部隊と孤児部隊にはぜんぜん歯が立たない」
反司令部派と戦って戦力を消耗すれば、和平交渉の場で発言力が低下する。だから、常陸軍司令部派だけでなく、宇都宮軍、仙台軍、政府軍も、正面衝突するのをさけてきたのである。
「イリイチと白川は戦争巧者だ」姉妹は言った。
「あんなちっぽけな軍隊なのに」イズールが同感を示して言った。「いまでも中央自動車道をがっちり押さえてる。司令部派から攻撃をうけたら、信州軍を首都圏に引き入れるって、イリイチと白川は脅迫してるんだ。仮に、外人部隊が甲府軍を背後から攻撃すれば、二日以内に、信州軍二万三千人が首都圏に進攻してくる。そうなれば戦局がいっきに流動化する。収拾がつかなくなる」
「たんなる脅しじゃない。あの二人は、必要とあれば、どんな決断もためらわない」姉妹は言った。
ビリィが部屋に入ってきて、コーヒーをテーブルにおいた。西北の方角で銃声が四発とどろいた。姉妹は窓外を見た。パルテノン公園を突撃隊がどたどたと横切っていく。全員が厳しい軍事訓練をうけたはずだが、街の不良少女にもどったような乱れた走り方だった。
「ンガルンガニの森まりって、どんな人物なの?」イズールが訊いた。
「モリマリは平然と悪をうけ入れる度量がある」姉妹はこたえた。「その意味ではバランス感覚がある。だけど本質的に急進主義者だ。女というカテゴリィを解体するんだとか、わけのわからないことを言ってる」
「イリイチ、白川、森まり、この三人の関係はどうなの?」
「そうだね」姉妹はしばらく考えた。「イリイチは戦場をさまよう殺人鬼みたいだったのが、最近みょうに理想主義的な傾向がある。白川の本心はとらえどころがなくて、虚無と公正が同居してる。でもあの女のなかに公正という観点があるのがポイントだね。イリイチの理想主義とモリマリの急進主義の背骨にあるのも、いちおう公正の観点だ。だから、いまのところ三人は、民族融和をめざすという点では完璧《かんぺき》に一致してると思う」
「そこが和平の鍵《かぎ》だ」イズールが力を込めて言った。「戦争の終結も国家再建も、日本在住の外国人一千万人の協力なしにはできない」
「戦闘員も非戦闘員もふくめて、外国人の処遇を、和平交渉の重要な議題にする必要があると思うよ」
「その認識は全勢力が共有してる」
「東京UFはそういう和平構想をうけ入れないはずだ」
「確かに、おもしろくないと思ってる。利権の縮小に道をひらくからね」
「そうだろ」
「でも、民族融和と外国人の処遇に関しては、東京UFをふくめて全勢力に交渉の余地があるんだ。そこでアメリカ大使館は、今年になって、東京UFと常陸軍反司令部派の双方に、ある魅力的な提案をした」
イズールがコーヒーカップに口をつけて、言葉をつづけた。
「東京UFは、シティの統治を、常陸軍反司令部派とその同盟軍にゆだねる。モーセ=2月運動への資金援助をやめる。資金援助の停止が確認できれば、常陸軍反司令部派は、東京UF解体というばかげたハードルを撤去する。聖ヶ丘パークの利権に手を出さないと約束する。そして交渉のテーブルにつく」
「回答は?」
「双方とも、オーケーと言った」
「嘘だろ?」姉妹はおどろいて言った。
「ほんとだ。その情報がモーセ=2月運動にもれた。彼らは東京UFに見捨てられると思って先手を打った。つまり、先月の末、シティで蜂起《ほうき》した」
「知らなかったよ」
「2月運動の蜂起で、東京UFは悩ましい問題を抱え込んだ」イズールが言った。「反司令部派とその同盟軍が、シティで勝利すれば、聖ヶ丘パークの利権を失うかもしれない。だから東京UFは、モーセ=2月運動への資金援助をやめられなくなった。反司令部派はそれに怒って交渉のテーブルにつこうとしない。聖ヶ丘パークを制圧するぞって脅してる」
「当然だろ」姉妹は言った。
「政治的な思惑と、カネの流れが複雑にからみ合って、誰も敵を殲滅《せんめつ》できない。和平の道は八方ふさがりだ」イズールが両腕を高くかかげて万歳をした。
突撃隊がくつろいだ足の運びでもどってきた。銃声は聞こえない。パルテノン公園を渡る風が突撃隊の赤毛や金髪をやわらかく撫《な》でている。イズールがポケットから紙巻きのマリファナをとり出した。
「テロと略奪でシティの住民はさんざんだろうけど」雲が流れて陽射しをさえぎり、イズールの表情が陰った。「このままいけば大規模で徹底的な市街戦がさけられない。それを思うと、なんか釈然としないな」
「釈然としないって、なにが」姉妹は訊いた。
「都内の高級住宅地は、内乱|勃発《ぼつぱつ》以来、いちどもテロと略奪にさらされたことがない。なぜ、あそこではなくて、ここなのか、という問題がある。なぜシティで市街戦なのか。モーセ=2月運動の本拠地だから。聖ヶ丘パークの利権があるから。いろいろ理由はある。だけど根本的には、ここがシティだからだ。応化二年に反乱軍はなぜここへ逃げ込んだのか、アメリカ軍がなぜあれほど好き放題に爆撃したのか、それもここがシティだからだ」
「二級日本人と犯罪者同然の外国人が住む、水も電気もろくすっぽない、汚臭ただよう巨大なスラムだ」姉妹は言った。
「そういう場所は、もう一度、徹底的に破壊してもかまわないって、全勢力が心のどこかで思ってる。イリイチも白川も森も、たぶんきみたちも。じつを言えば、ぼく自身がそう思ってる。差別意識からまぬがれてるやつなんて一人もいない」
「おまえの率直なところが好きだ」姉妹は言った。
イズールが淋《さび》しそうに微笑んでマリファナに火を点《つ》けた。
55
モーセ学園の理事の男が車で諏訪地区の校舎を出た直後に、ロケット弾攻撃をうけて車もろとも吹き飛ばされた。二月七日、白昼の惨劇だった。同日の深夜、世田谷区|砧《きぬた》の世田谷通りを走行中の乗用車が、三台の車に囲まれ、自動小銃のいっせい射撃をあびた。襲われた乗用車には軽装甲が施されていたが、運転手、ボディガード、モーセの財政担当の男の三人が射殺された。どちらの事件も犯行声明は出されなかった。翌日の午後、政府軍の装甲車が警備する原宿の本部ビルで、モーセ代表いとうのぶひろが会見をひらき、虹《にじ》の旗のテロだと断定して非難声明を読みあげた。
二月九日、月田姉妹が吐蕃ビルで遅い朝食をとっていると、ダイアナ・ダキラが、奇妙に静かな声で電話をかけてきた。
「永山の自警団事務所にいるんだけど、昨日、ここで衝突があったの知ってる?」
「知ってるよ」姉妹はこたえた。
昨夜、永山地区の自警団が2月運動と衝突し、銃撃戦が夜明けまでつづいた。姉妹のもとには、パンプキン・ガールズ四人が戦死したという報告が入っていた。
「パンプキン・ガールズのメンバーが十一歳の男の子をレイプして、それが衝突の原因だってことがわかった」ダキラが言った。
姉妹は携帯電話を口からはずして、短く息を吐き出した。なにが起きてもおかしくなかった。第二次九竜暴動が発生すると、破壊衝動にとらわれた不良少女の群れがシティ西部の街にあふれた。パンプキン・ガールズは、彼女たちに自警団への参加を呼びかけ、AKと弾薬とアメリカ軍の携帯食糧=レーションを与えた。軍事訓練をほどこす時間もカネもなかった。そうした自警団の粗製乱造は、財政をいっそう圧迫する一方で、もともとあいまいだった街のごろつきとパンプキン・ガールズの境界を融解させていた。
「聞いてるの?」ダキラの声が遠くからとどいた。
「ちゃんと聞いてる」姉妹は電話にこたえた。
「内部調査して、そういう結論になった。レイプにくわわった子の証言もある。いまモーセの連中がTVカメラを連れて事務所のまえで抗議集会をひらいてる」
姉妹はアイコと突撃隊を連れて吐蕃ビルを出た。永山地区には、シティのNGO連合が運営する小学校、中学校、孤児院がある。その周辺地域の治安を、強力な武装自警団が維持していた。永山駅の北にモーセ総合病院があり、モーセ=2月運動の拠点地域でもあるため、暴動発生以前から双方の衝突が絶えない地区だった。
車で数分の距離だが、敵との遭遇をさけるため、味方の支配地区を伝って十数分かけて移動し、自警団が接収した旧多摩消防署の裏のパーキングに到着した。パンプキン・ガールズの永山地区の責任者の朝鮮族の女の子が厳しい表情で出むかえた。二階の部屋に案内された。ダイアナ・ダキラと自警団の団長の男が待っていた。壁ぎわにしゃがみ込んだ大柄な女の子が、ちらと顔をあげて、姉妹の方を見た。脅えた眼つきだった。
「この子がレイプした」ダキラが言った。
姉妹は名前と年齢を訊《き》いた。十八歳のブラジル系の女の子だった。元反乱軍兵士である自警団の団長に、内部調査の結果を教えてもらった。
ブラジル系の女の子は、昨夜七時すぎ、永山駅駅ビルの商店街で、仲間といっしょに、煙草売りの十一歳の男の子に声をかけた。仲間は二人。十五歳の日本人と、十七歳のインド系と日本人の混血である。煙草売りの男の子は孤児の日本人だった。三人の女の子は、男の子をアメリカ軍のレーションで誘って、二丁目のビルの空室に連れ込んだ。レイプして、煙草を奪い、ビルを出たところで、煙草売り仲間と数人の武装した男たちと遭遇した。彼らは男の子を捜していたようである。撃ち合いになった。ブラジル系の十八歳の女の子は自警団事務所に逃げ帰ると、パトロール中に2月運動に銃撃されたという虚偽の報告をした。自警団は反撃に出た。二丁目のビルのまえで、パンプキン・ガールズの女の子二人の射殺体を見つけた。夜明けまで戦闘がおこなわれた。自警団側の被害は、敵に殺されたレイプ犯の二人をふくめて死者五人、重軽傷者八人。
姉妹は説明を聞きおえて、短く息を吐いた。表のモーセの抗議集会の拡声器の声ががなり立てている。聞きおぼえのある声だなと思いながら、ブラジル系の女の子に顔をあげろと告げた。
「レイプして煙草を盗んだのか?」姉妹は訊いた。
女の子が小さくうなずいた。恐怖でふるえているが、罪の意識があるのかどうかわからなかった。
「家族はいるのか?」
「ママが」
「ママはおまえのことを愛してるか?」
女の子が首を横に振った。ではあたしたちが弔ってやる、と姉妹は胸のうちで告げた。海人もこういう修羅をくぐり抜けてきたのだろうと思った。二丁のAKの銃口が女の子の心臓に狙いをつけた。同時に引き金を引き絞った。誰かの短い悲鳴が重なった。薄いブルーのワークシャツに血の花が咲いた。女の子の上体が横へゆっくりずれ、それからどさっと床に崩れ落ちた。姉妹はきびきびと部屋を横切った。窓ガラスはぜんぶ砕けていた。壁ぎわに積んだ土嚢《どのう》から外へ身を乗り出した。道路にあふれた抗議集会の参加者はざっと見たところ三百人。
「指揮官は誰だ!」姉妹は叫んだ。
二度くり返すと、拡声器がふいに沈黙した。マイクにがなっていた若者がゆっくりと振り返った。がっしりした骨格。高い鼻梁《びりよう》と深い眼差《まなざ》し。高橋・ガルシア・健二だった。健二は、二階の窓から呼びかけた人物が月田姉妹だと気づくと、消防署のまえにめぐらした蛇腹の有刺鉄線のきわまですすみ出た。
「レイプ犯をひきわたせ!」健二が怒鳴った。
「二人はおまえたちが殺した! 残りの一人は我々が銃殺した!」姉妹は怒鳴り返した。
「しんようできない。とにかくひきわたせ!」
「死体は我々が葬る。銃殺を疑うなら、二階にあがってきて自分の眼で確認しろ!」
姉妹はそれだけ言うと、窓ぎわを離れた。アイコと突撃隊が死者を床に寝かせていた。ダキラに背後から肩を抱かれた姉妹は、射殺したばかりのブラジル系の女の子の死体を見すえた。その子の人生をまったく知らなかった。夢を見ることはあったのか、どんな夢を見たのか、愛された経験に乏しいのか、人を愛した経験はないのか。
外で拡声器がまた騒ぎはじめた。こんどはべつの男の声だった。健二が二人の若者をしたがえて部屋のドア口にあらわれた。会うのは十ヵ月ぶりだった。眼を充血させ、無精ひげを青く陰らせている。姉妹は、ありとあらゆることを断念していたから、胸に迫るものはなにもなかった。健二に死者を示して、レイプを自供したと告げた。健二が死者の名前を訊いた。姉妹は教えた。
「おまえたちはボスだろ。おもてに出て、しゃざいしろ」健二が責める口調で言った。
「健二、欺瞞《ぎまん》の応酬はやめようぜ」姉妹は深い徒労感にとらわれながら言った。
「レイプのせきにんをとれと言ってるんだ」
「モーセ=2月運動はニュータウン・マーケットの放火と略奪に責任がある」姉妹は低い声で、だが語気鋭くまくし立てた。「それ以前とそれ以降のテロと略奪にも責任がある。だけどおまえたちは謝罪なんかしない。テロと略奪と扇動をやめない。おたがいさまじゃないかと言うなら、それを認めてやる。言葉がつうじないんだ。ようするに暴力でケリをつけるしかないってことだ。我々は身内のレイプ犯に責任をとらせた。そいつは死んだ。もうなにも感じない。あとは腐るだけだ。この死体を政治利用するな。確認がすんだらさっさと出ていけ」
健二が憎しみのこもる眼差しを向け、姉妹を一人ずつ見た。ひらきかけた口を閉じ、無言のまま部屋を出ていった。
消防署の一階に、家族も親族もいない孤独な死体が四つならべてあった。そこに新しい死体を一つくわえた。三人はレイプ犯、二人は戦死したパンプキン・ガールズの女の子だった。姉妹は、射殺したブラジル系の女の子の母親に使いを送って、娘の死を知らせた。貝取地区の台地の陰のスラムの小屋で、朝から酒びたりの母親は、カネを要求するばかりで娘の遺体を引きとろうとはしなかった。レイプ犯だろうが裏切り者だろうが、遺体には敬意を払いたいと思い、姉妹はアイコに指示して、五人の死者をパンプキン・ガールズの共同墓地に埋葬した。
56
吐蕃ビル三階の元マッサージパーラーは、改装されて洗濯機とシャワーノズルがならぶ殺風景なスペースになっている。仲間を処刑した夜、内側から鍵《かぎ》をかけ、シャワーのコックを全開して、水流が床を叩《たた》く音に負けない大声で、月田姉妹はわあわあ泣いた。たいていのことは、それで気分が晴れるのだが、神経が高ぶって一睡もできずに夜明けをむかえた。新鮮な空気を吸おうと、六階から四階に降りて、テラスへ出ると、ビリィが一人、自分の両肩をかき抱くような姿勢で椅子に腰かけていた。
「眠れないのか」姉妹は訊いた。
「アイコが起きちゃったから」ビリィが言った。
「アイコはどこ?」
「シャワールーム。もう二時間」ビリィが息苦しそうな声で言った。
「相手は誰だ」姉妹は好奇心を隠さずに訊いた。
「メーオ」ビリィが、突撃隊の元ダンサーのタイ人の女の子の名前をあげた。
「どっちが誘ったんだ」
「メーオでしょ。アイコのこと好きだってはっきり言ってたから」
「ふうん」姉妹はにやにや笑った。
「突撃隊のなかで、ほかにもカップルが生まれてるみたい」
「自給自足」姉妹は言った。
「嫌な言い方」ビリィが言った。
パンプキン・ガールズは消耗戦に巻き込まれた。夜の街で男の子と遊ぶカネも余裕もなかった。自警団が治安を維持できたのは拠点とその周辺地域に限定された。姉妹と突撃隊は吐蕃ビルから緊急出動をくり返した。やがて食糧と弾薬が尽きはじめた。飢えと恐怖がパンプキン・ガールズの規律の乱れに拍車をかけた。女の子たちによる犯罪が急増した。レイプ、暴行、略奪。敵と闘うまえに味方に制裁をくわえなければならなかった。罪を犯した仲間の追放。ときには処刑の断行。
633部隊、虹《にじ》の旗、パンプキン・ガールズ、およびマイノリティの諸勢力は、当面の戦費調達、シティ西部の統治形態、戦後の復興計画等について会議を重ねた。第二次九竜暴動の発生からおよそ一ヵ月後の、二月二十六日、姉妹は府中基地に白川|如月《きさらぎ》少佐をたずねた。
「このままでは我々は弾薬が尽きて敗北する」姉妹は言った。
「深刻な事態は理解してる」白川が言った。
「戦費の調達にめどがつけば、二万人の武装自警団を創設できる。軍事訓練に一ヵ月。四月のはじめには敵の武装解除に着手できる。カネはシティに唸《うな》るほど眠ってる」
「聖ヶ丘パークのことか」
「常陸軍反司令部派との共同作戦、共同管理が望ましい。白川とイリイチにやる気がないなら、パンプキン・ガールズ単独でも聖ヶ丘パークを制圧する」
「富士師団にシティ進攻の口実を与えることになるぞ」
「覚悟のうえだよ」
「連動して首都圏の戦況がおおきく変わる。我々の存亡もかかってくる」
「決断する時期がきたってことだ」
「わたしはもともと敵の挑発には乗れと言ってるんだ」
「じゃあ賛成なんだね」
白川が短い沈黙をおいた。
「イリイチは甲府で工作中だ。夜には帰る。相談して結論を出す」
三月二日、初夏のような汗ばむ陽気の夜、府中基地に関係者があつまった。イリイチ、白川、藤井兄の三人が誓約書にサインした。聖ヶ丘パークの利権は、常陸軍反司令部派に四十パーセントが、自警団に六十パーセントが分配されることに決まった。
「聖ヶ丘パークを制圧すれば」イリイチが言った。「その日のうちに政府軍との全面戦争になる。連合軍との衝突も頭に入れる必要がある。決行の時期は我々軍にまかせてほしい」
異議を唱える者はいなかった。その場でイリイチが、当面の戦費として、ドル紙幣をぎっしりつめたトランクを藤井兄に渡した。
57
二日後の夜明けだった。孤児部隊の一個大隊と外国人部隊一個大隊が、攻撃ヘリの掩護《えんご》をうけつつ、二方向から装甲車を先頭に立川基地への突入をはかった。それに呼応して、基地内では反乱部隊八十人が常陸軍司令部を占拠して小野寺中将を拘束した。薄明の空に機関砲の銃声が鳴りひびくと、司令部派はあっさりと戦意を喪失した。基地とその周辺に配置された五個大隊およそ三千五百人の大半は、宇都宮軍が展開する首都圏北部へ脱出を試みた。その車列へ外国人部隊の攻撃ヘリが70ミリロケット弾を放った。司令部派の兵士は、車両を捨て武器も捨て、いっせいに逃げ出した。
ロケット弾の爆発音は吐蕃ビルにもとどいた。立川市の上空に黒煙が立ち昇り、攻撃ヘリが旋回していた。宇都宮軍が常陸軍占領地域との境界に四個大隊を展開させたとTVが報じた。午前十一時すぎ、月田姉妹はサザンタワー・ホテルで海人から戦況の説明をうけた。宇都宮軍とは相互不介入の合意が成立して、常陸軍反司令部派の補給ルートはいぜんとして確保されているという話だった。
午後一時、反司令部派が府中市のホテル、ゴールデン・ユニコーンで記者会見をひらいた。報道官のいくらか斜視の女の中尉が、常陸軍は白川少佐が掌握したこと、小野寺中将ほか幹部三人を反軍活動の容疑で軍法会議にかけること、司令部派の二個大隊が投降し、三個大隊が瓦解《がかい》して逃走したこと等々、冷ややかな声でしゃべった。短い質疑応答があった。報道官の女の中尉は、小野寺中将の容疑の詳細を明かすことを拒否して会見を打ち切った。
午後六時のCBCニュースが、CBC記者殺害事件の調査報道のかたちで、小野寺中将の〈反軍活動〉の容疑の詳細を明らかにした。2月運動幹部、安部聡の自供映像の一部が流れた。報道内容は、昨年の十一月に、海人から聞いた話とほぼ同じだった。治安情報局による常陸軍反司令部派幹部の暗殺計画と、2月運動への暗殺依頼。リストのコピーをもとに暗殺対象者の全員の氏名が読みあげられた。常陸軍司令部内部の協力者二人の実名が報道された。一人は諜報《ちようほう》担当の大尉。もう一人は司令官の小野寺中将だった。
吐蕃ビルでCBCニュースを見ていた姉妹は、海人は小野寺が暗殺計画の協力者だと知っていながら、自分たちには教えなかったのだろうと思った。コマーシャルが流れると、イズール・ダニエロヴィッチ・デムスキーが電話をかけてきた。
「白川が和平交渉に代表者を送り込んで、治安情報局の解体を要求してる」イズールがいくらか高ぶった調子で言った。
「当然の要求だろ」姉妹は言った。
「軍事評議会がそれを飲みたくても、東京UFが許さないよ」
「治安情報局は東京UFの下部組織のようなもんだからね。だから解体する必要があるんだ」
「ほかにも不穏な動きがある。ついさっき情報が入って、甲府軍の外人部隊八百人が戦線を離脱して、中央自動車道を東京に向かってるっていうんだけど、なにか聞いてない?」
「知らないな」
「その外人部隊がイリイチの部隊と合流する可能性がある」イズールが嘆きと不安が入り混じる声で言った。「彼らは甲府軍の最強部隊だった。いなくなったら甲府が陥落して、信州軍が首都圏に進攻してきちゃうよ。イリイチと白川には決断力がありすぎて、戦況がぜんぜん読めない」
58
小野寺中将拘束の余波はつづいた。午後九時、軍事評議会がTVをつうじて、常陸軍反司令部派幹部の暗殺計画に関与した疑いで、治安情報局副局長ほか幹部局員八人と富士師団の幹部将校六人を拘束し、取り調べ中であると発表した。その直後、ベトナム人のホウ中尉に率いられた常陸軍外国人部隊の二個大隊が、九竜シティに進攻して聖ヶ丘パークを包囲した。
日付が変わった三月五日午前一時、アメリカ政府が緊急に呼びかけて、軍事評議会、仙台軍、宇都宮軍、反司令部派が掌握した常陸軍、四軍の交渉担当者が横田基地にあつまった。会議の冒頭、常陸軍の朝鮮族の少尉が、甲府軍の外国人部隊八百人が指揮下に入ったことを明らかにし、治安情報局の解体について合意をえられなければ、信州軍を東京に入城させると告げた。ばかげた脅迫ゲームをやるつもりはないと、ほかの三者が怒り出して会議は紛糾した。
午前五時すぎ、シティ駐留常陸軍から横田基地に緊急の報告が入った。川崎市多摩区に展開していた富士師団の大部隊が、世田谷街道を西進して町田市に入ったという。富士師団が西北に進路をとれば、高麗幇支配地域を経由せずに、五キロメートルほどでシティ西部に達する。常陸軍は軍事評議会に富士師団の軍事行動の即時停止をもとめた。だが軍事評議会は状況を把握しておらず、会議を中断して情報収集につとめた結果、治安情報局が独断で富士師団を動かしていることが判明した。アメリカ政府は、調停の場を引きつづき確保するために、四軍の交渉担当者を横田基地に軟禁した。
富士師団の進攻にそなえて、シティ駐留常陸軍司令部に、各地区の自警団の幹部が続々と集結した。月田姉妹もアイコと突撃隊を連れて駆けつけ、ホテルの地下パーキングに設けられたプレハブのブースに入った。テーブルをざっと見渡して、633部隊の藤井兄の姿がないことに気づいた。
「藤井は?」姉妹は633部隊の幹部の男に訊《き》いた。
「ボスは南野《みなみの》地区へいってる」幹部の男がこたえた。
「なにかあったの?」
「国軍時代の部下を説得するためだ。そいつは三十人ぐらいの部隊を連れて、南野地区からシティに入ろうとしたんで、検問所で女の部隊と戦闘になった」
「富士師団の偵察部隊か?」
「いや、静岡の武装勢力だ」
「静岡の武装勢力がなぜシティに?」
「東京UFに雇われて聖ヶ丘パークの防衛に向かうところだったらしい」
姉妹はうなずいた。小さな武装集団の動きと富士師団の軍事行動は連動していると思った。どちらの背後にも、聖ヶ丘パークの防衛という東京UFの思惑がある。
作戦会議がはじまった。海人が発言した。
「孤児部隊三個大隊と女の部隊一個大隊、計四個大隊が、いま府中基地をしゅっぱつした。三十分いないにシティの南で防御ラインをきずく」
駐留している二個大隊と合わせて六個大隊の配置、および富士師団の現在地を、海人が地図を使って説明した。富士師団の全兵力の半分にあたる六個大隊が、鶴川街道と鎌倉街道の二つのルートを北上して、シティ南部に接近しつつあった。それに対して、常陸軍が砲撃をくわえ、前進を阻んでいた。
「防御ラインのこうちくとはべつに、ホウの外人部隊二個大隊が、夜明けとどうじに、ひじりが丘パークに突入する。制圧にせいこうすれば、あとはよていどおり、ひじりが丘パークの防衛を、自警団とこうたいする」
聖ヶ丘パークには膨大な量の弾薬がある。爆発すれば武器もドラッグも吹き飛ぶ。そこで、突入と制圧は戦争のプロであるホウの部隊にまかせ、制圧後の防衛任務を自警団が引き継ぐことになっていた。
「防衛部隊六百人は、ホウの部隊の背後で待機してる」ダイアナ・ダキラが言った。
「作戦がせいこうしたら、武器と弾薬を、自警団のかく拠点にはこびこむ」海人が言った。
「補給部隊の編成もすんでる」ダキラが言った。
「ではじゅんびオーケーだ」海人が言った。
「シティの南に自警団の兵力を集中させる必要はないのか?」シティ・ボディガード・サーヴィスの元政府軍下士官のゲイの男が質問した。
「自警団の火力とけいけんを考えると、ひたち軍たんどくのほうが戦いやすい。防御ラインがやぶられたら、シティぜんたいが戦場になる。2月運動の攻撃もある。自分たちがよく知ってる場所で、市街戦にそなえてほしい」
海人の説明で自警団側は納得した。元政府軍下士官のゲイの男が、聖ヶ丘パークの防衛部隊の指揮をとるためにブースを出ていった。姉妹は万里に電話をして、府中市のパンプキン・ガールズ二百人に緊急出動の態勢をとらせるよう指示した。
「敵は一個小隊」無線機のマイクにがなる海人の声が聞こえた。「装甲車はない。12・7ミリ重機関銃とうさいの軍用車二両。こっちは女の部隊が一個小隊だ」
海人が交戦地点を軍用地図のグリッド数字で告げ、交信を切ると、姉妹の方へ頭をめぐらした。
「藤井が撃たれた」海人が言った。
「なぜ」姉妹は鋭く訊いた。
「くわしくはわからない。いま葉郎を掃討にむかわせた」
姉妹は633部隊の男たちと車に分乗して司令部を飛び出した。交戦地点は常陸軍司令部から一・二キロメートル南の、シティのはずれにある大きな十字路だった。
まだ薄暗い西の方角で銃声が聞こえた。姉妹は耳をすませた。銃声は、遠く、散発的だった。戦闘はほぼ終了したようだと思いながら姉妹は車を降りた。アイコと数人の突撃隊がすばやく散開して周囲を警戒した。十字路で、常陸軍の装甲車が二両、西と南へ、機関砲の銃口を向けていた。散乱している死体。角地のレストランの壁に衝突してフロントがつぶれた白いヴァン。ボディの無数の弾痕《だんこん》。砕け散ったガラス。運転席から死体を引きずり降ろしているンガルンガニの女の兵士。12・7ミリ重機関銃を搭載した軍用車両が一両、斜めにずれて炎と黒煙を吐き出している。慟哭《どうこく》する男の声が夜明けの空気をふるわせた。633部隊の幹部の男が、路上にひざまずき、頭髪をかきむしっている。寝かされた男の死体を、姉妹は見た。藤井兄だった。血に染まった頭部と胸。あらぬ方角に向けられた鉛色の眼。姉妹はまぶたを閉じてやった。
立ちあがって、振り向くと、厳しい表情の葉郎がいた。応化十四年の夏、常陸市の魚屋〈ドラゴン・ママ〉のオープン・パーティ以来、一年と九ヵ月ぶりの再会だった。やあ、とくつろいだ調子で声をかけようとしたが、喉《のど》が締めつけられて軽い咳《せき》が出た。ちょうどいい高さに、ちびの中国人孤児兵の頑丈な肩があった。姉妹は両側から葉郎の肩に頭をあずけて、ちょろっと泣いた。
「藤井はみんなから尊敬されてたんだ」姉妹は涙を手でぬぐって言った。
「わかってるよ」葉郎が言った。
「なぜ殺された?」姉妹は憤りにかられた声で訊いた。
葉郎が、検問にあたっていた女の部隊の小隊長を呼んだ。精悍《せいかん》な眼差《まなざ》しの東南アジア系の若い女だった。姉妹が事情を訊くと、意外なこたえが返ってきた。
「断定はできないけど、藤井はだまされたんだと思う」
「なぜそう言える」姉妹は強い調子で訊いた。
小隊長の女が思慮深い口ぶりで説明した。
「やつらは警告を無視して検問所を突破しようとした。我々と撃ち合いになった。二、三分で、中隊長から攻撃停止命令がきた。敵の司令官は藤井のむかしの部下で、藤井本人が説得にくるっていう話だった。無線で話してる間に、向こうも攻撃を停止した」
爆発音が連続して女の小隊長の話を中断させた。姉妹は北東の方角を見た。明けはじめた薄い青色の空にいく筋も黒煙があがっている。ホウが率いる二個大隊が聖ヶ丘パークへ突入したのだと思った。
「藤井が警護の兵士を二人連れてきた」女の小隊長が説明をつづけた。「敵の司令官と抱き合って親しそうに話しはじめた。藤井も警護の兵士も我々も気を許した。一瞬だった。銃声がひびいた。藤井と警護の兵士が倒れていた。我々が反撃した。やつらは弾幕を張って逃げ出した」
姉妹は、ほんの短い時間考えて、訊いた。
「最初から藤井の暗殺が目的だった?」
「誘い出して殺す」女の小隊長が簡潔に言った。
「そのために、むかしの部下が雇われた?」
「そう考えれば納得がいくじゃないか」
そのとおりかもしれないと姉妹は思った。藤井兄のむかしの部下が、一個小隊ほどの部隊を率いて、常陸軍の検問所を攻撃する。ちょっと撃ち合ったあとで、藤井兄へ電話を入れて言う。常陸軍を攻撃するつもりはない。部隊を養うために聖ヶ丘パークの警備に就くだけだ。常陸軍に話をつけてくれないか。静岡市の小さな武装勢力である。田舎者を演じても不自然には見えないという計算のもとに、聖ヶ丘パークの利権をめぐる諸勢力の思惑には疎いふりをする。藤井兄は、いくらか疑念を持ったかもしれないが、元の部下を633部隊の指揮下に組み込むことができるかもしれないという期待を抱いて説得へ向かう。だが罠《わな》だったのだ。
「敵の司令官は?」姉妹は訊いた。
「逃げた」
「捕虜は?」
女の小隊長が路肩の緑色のヴァンを示した。
「一人あそこに。重傷者は病院に運んだ」
「おれたちがもらう」633部隊の幹部の男が叫ぶように言った。
返事を待たずに、633部隊の幹部とその部下がヴァンに突進した。黒い布で目隠しされ、針金で手を縛られた男が、路上に転がされた。633部隊が捕虜の男を殺しかねない勢いで殴った。
「司令官の名前は?」姉妹は633部隊を制止して訊いた。
捕虜の男がふるえる声でこたえた。司令官は平凡な名前の元政府軍軍曹だった。
「633部隊の藤井勇を殺すのが目的だったのか?」
「そうだ」
「カネで請け負ったのか?」
「そうだ」
「誰の依頼だ?」
「おれはくわしいことは知らない」
捕虜の男は、暗殺の依頼者を知っているのはボスだけだと言い張った。633部隊が男のパンツと下着を降ろし、むき出しになった脚の付け根に小銃の銃口を突き立てた。萎《しな》びた性器がねじれるのを見ながら、誰が依頼したのかと、姉妹は考えをめぐらした。命|乞《ご》いをする哀れな声が朝の街にひびいた。性器は破壊をまぬがれた。報復するためには敵の内情を詳しく訊き出す必要があった。633部隊は、ボスと警護の兵士二人の遺体といっしょに、捕虜の男をニュータウン・マーケットに連れて帰った。
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月田姉妹はサザンタワー・ホテルの常陸軍司令部にもどると、633部隊の藤井兄の虐殺は計画的なテロだと海人に報告した。
「動揺するやつが出てくるかもしれない」姉妹は言った。
「藤井が殺されたことは、とりあえずだれにもしゃべらないでくれ」海人が言った。
「各レベルの司令官には、なにが起きたのかをきちんと伝えて、テロへの注意をうながした方がいいんじゃないのか」
海人が手の指で両方の眼球をぐりぐり押した。そうだなとつぶやく声で言い、無線マイクをにぎってダイアナ・ダキラを呼び出した。戦況を把握するのに便利だという理由から、姉妹はそのまま司令部にとどまって、パンプキン・ガールズの指揮をとった。
その日、モーセ=2月運動は朝から沈黙を守った。聖ヶ丘パークをめぐる攻防は午前九時すぎに決着した。ホウの外国人部隊が制圧して、防衛にあたっていた富士師団の四個中隊を武装解除した。自警団から編成された六百人の部隊が聖ヶ丘パークの防衛に就くと、ホウが率いる二個大隊は、シティ南部へ移動して防御ラインを強化した。聖ヶ丘パークの武器・弾薬が自警団の拠点につぎつぎと運ばれた。
鶴川街道を北上した富士師団の二個大隊は若葉台《わかばだい》駅の南で、鎌倉街道に進路をとった四個大隊はシティまで一・四キロメートルの地点で、常陸軍の激しい砲撃をうけて前進を阻まれていた。富士師団側も迫撃砲と榴弾《りゆうだん》砲で反撃した。
近接戦闘には至らず、両軍の砲撃合戦は正午までに下火になった。
横田基地での和平交渉について、海人からときおり説明があった。イリイチと白川は強硬姿勢を崩していないようだった。午後遅い時刻、633部隊の藤井勇の弟、藤井尚が百人の部下を率いて八ヶ岳からシティに帰還したという報告が入った。それから間もなく、イズール・ダニエロヴィッチ・デムスキーが電話をかけてきた。
「どこにいるの?」イズールが訊いた。
「サザンタワー・ホテル」姉妹は言った。
「急ぎの用件があるんだ。吐蕃ビルの近くまできてる。車のなかで話さないか」
内密な話があるようだった。姉妹は了承して、ホテルのまえの道路に出た。すぐにアメリカ大使館の濃紺のベンツがあらわれて路肩にとまった。後部座席の窓が下がり、イズールが手招きした。姉妹は両側のドアから乗り込んだ。ベンツが発進した。アイコと突撃隊の車両三台がついてきた。
「きみたちはとうとう聖ヶ丘パークを制圧しちゃった」イズールが心地よさげなゆっくりした口調で言った。
「東京UFがモーセ=2月運動への資金援助をやめないからだ」姉妹は言った。
「このままだと、ほんとにシティが戦場になる。と言うかシティだけが破壊される」
イズールの指摘には義憤が込められていたが、口調はどこか愉しげで、顔の筋肉はゆるみ、眼がとろんとしている。
「葉っぱやってるだろ」姉妹は軽くとがめた。
「精神安定剤だよ」イズールが空気をかき混ぜるように顔のまえで手を振った。
姉妹はくんくんと鼻で空気を吸った。車内に乾燥大麻を炙《あぶ》った独特の臭いがただよっている。そのことにはふれずに、姉妹は急ぎの用件とはなにかと訊《き》いた。ベンツはパルテノン地区の中心街の方角へ向かった。
「常陸軍は最後の勝負に出てる」イズールが言った。「敗北して消滅するか、あるいは勝利して暫定政府の一角を占めることになるのか。いずれにしろ、そう遠くない時期に和平問題は決着する。ところが、シティの平和をどう実現するか、こちらの方はまったく見通しが立たない。なぜか。紛争の当事者が一度も交渉のテーブルについてないからだ」
「モーセ=2月運動と交渉の余地があるとは思えないね」姉妹は言った。
「じゃあ彼らの息の根をとめるまで闘うかい?」
「イズール、なにか考えがあるなら、さっさと言えよ」
「停戦すべきだ」イズールが、厳しく言おうとしたが、マリファナのせいで間のびした声になった。「まず停戦。どんな和平の道もそうやってはじまる」
「停戦そのものには反対しない」姉妹は関心なさげに言った。
「モーセ=2月運動も、本心ではそれを望んでると思う。現実に、彼らはいま、ぴたりと戦闘行為をやめてる」
「モーセの幹部と接触してるの?」
イズールが首を横に振った。
「きみたちのパパが原宿で会見をひらいただろ。先月、虹《にじ》の旗のテロでモーセの幹部が二人暗殺された翌日だ。あの直後に、幹部は全員、地下にもぐった。連中は警戒心が強くてね、まだ接触できない」
イズールが水をほしがった。運転手がペットボトルのミネラルウォーターを後部座席に放り投げた。イズールがあわただしく喉《のど》の渇きをいやす間、姉妹は黙って待った。
「二時間まえに」イズールが顎《あご》の滴を手でぬぐった。「モーセの連絡担当者から電話が入った。きみたちを連れてくるなら、代表が会う用意があるそうだ」
「のぶひろが、あたしたちと?」姉妹はびっくりして訊いた。
「実の娘に会いたい気持ちがあるのかどうかは知らない」
「そんな気持ち、のぶひろにはないさ」
「きみたちはパンプキン・ガールズのボスだ。交渉すべき相手であることはまちがいない」
「ぴんとこないな」
「虹の旗はモーセ幹部の暗殺を実行してる。633部隊の藤井はけさ殺された。交渉の相手はきみたちだけだ」
「常陸軍は?」
「占領軍とは交渉しないと言ってる。でもそういうのは建前だからね。まずホットラインをつくることが重要だ。その認識は彼らにもある。じっさいの停戦合意までは、まだまだ時間がかかると思うけど」
「藤井の二の舞はごめんだぜ」
「きみたちのパパだ。娘を騙《だま》して殺すなんてことはぜったいありえないよ」
「ありえるね。すくなくとも、あたしたちの方は、のぶひろを殺《や》ることに抵抗はない」
「ひどいな」イズールがあいかわらず心地よさげに言った。「これは罠じゃない。ぼくが立ち会う。アメリカ大使館の仲介なんだ。身の安全は保証する」
姉妹はしばらく沈黙した。ベンツはのろのろとパルテノン地区に入った。商店はシャッターを降ろし、武装した自警団がパトロールしている。のぶひろと会ったところで、シティ問題の解決の糸口が見つかるとは思えなかったが、接触を拒否する理由もなかった。姉妹はアイコに電話をかけ、イズールの紹介でアメリカ大使館関係者と会うから、吐蕃ビルで待て、とだけ伝えた。
60
国立府中ICから中央自動車道に入って都心へ向かった。アメリカ合衆国国旗をひるがえした濃紺のベンツは、常陸軍と政府軍を合わせて五つある検問所を通過した。外苑《がいえん》で首都高を降りると、イズールがモーセの連絡担当者に携帯電話をかけた。指示をうけて、ベンツは四谷《よつや》三丁目へ向かった。都心は、臨戦態勢にあるシティとは別世界で、交通量はいつもと変わらず、戦闘部隊のあわただしい移動も見られなかった。四谷三丁目の繁華街で十五分ほど待たされた。
「暗殺部隊を連れてないかどうかチェックしてるんだ」イズールが言った。
モーセの連絡担当者はつぎに渋谷《しぶや》の道玄坂《どうげんざか》のファッションビルのまえを指定した。道玄坂できっかり二十九分待たされたのち、ふたたび指示があった。ベンツは港区の高層ビルの谷間をぐるぐるまわされ、街の明かりが煌々《こうこう》と輝きはじめた時刻に、閑静なゲイト・コミュニティに到着した。武装警備員がゲイトで停止を命じた。イズールが訪問先の名前を告げ、警備員が電話をかけた。
「このコミュニティは、ぼくの祖先が住んでたシベリアの村の出身の、石油成金が開発したんだ」イズールが言った。
ゲイトがひらき、ベンツが進入した。高さ八メートルほどのコンクリートのフェンスをめぐらした内部は、石畳の道路と芝生の庭と白壁と鈍いオレンジ色の屋根で統一されていた。スポーツジムとテニスコートがあった。犬を散歩させている男と少年とすれちがった。二階建ての家のまえでベンツを降りた。塀はなく、歩道から芝生の庭を突っ切って、ポーチへあがった。
東アジア系の中年のきれいな女が流暢《りゆうちよう》な日本語で出むかえた。言葉のひびきと眼差《まなざ》しに慎み深さが感じられた。玄関ホールにサブマシンガンを手にした若者が二人。階段の上でも武装した人影がちらと動いた。厳しいボディチェックをうけた。玄関ホールの奥にガラスを格子にはめ込んだドアがあった。東洋系の中年の女がそのドアをあけてリヴィングルームに案内した。TVを見ていたダークスーツの男がソファで振り向いた。
「やあ、のぶひろ」月田姉妹は言った。
「やあ、きたのか」のぶひろが言った。迷惑そうではなかったが、歓迎している口ぶりでもなかった。
姉妹は椅子に、イズールがソファの端に腰をかけた。のぶひろの手がとどくサイドテーブルの上にサブマシンガンが寝かされていた。
「娘さんたちは、子供のころの面影ありますか?」イズールが訊いた。
「おぼえてないんだ」のぶひろが言った。
姉妹は顎の先でうなずいた。ろくに顔を見ないうちに二歳の春に別れたのだ。TVがアメリカン・フットボールの試合を中継していた。のぶひろが視線をぼんやりとTV画面に移した。東アジア系の中年の女がリモコン装置でTVを消した。
「飲み物はなにがいい?」中年の女が感じのいい声で訊いた。
姉妹はラムのストレートを頼んだ。イズールとのぶひろもそれでいいと言った。中年の女が部屋の電話で飲み物の指示を出した。
「ママはどうしてる?」のぶひろが思い出したように訊いた。
「武装勢力に殺されたよ。おじいちゃんもおばあちゃんも。烏山の家で」
「いつ?」
「応化九年の六月」
「残念だ」
のぶひろの声の余韻に姉妹は耳をすませた。哀悼や悔恨あるいは武装勢力への憎しみ、いずれも感じられず、どちらかと言えば快活なひびきの声だった。のぶひろが腕時計をちらと見た。窓辺の近くで、背筋をのばして椅子に腰をかけている中年の女が、のぶひろと同じ仕草をした。
「出かけるの?」姉妹は訊いた。
「おまえたちの仲間に狙われるようになってから習慣がついた」のぶひろが言った。
「居場所を転々と?」
「まあね」
「虹の旗は地の果てまで追いかけると思うよ」
「めんどうくさいが、しょうがない」のぶひろが首の骨を鳴らした。
イズールが紙巻きのマリファナをくわえて火を点けた。のぶひろがイズールへちらと視線を流したが、なにも言わなかった。
「のぶひろは、あたしたちの命を狙ったことがあるだろ?」姉妹は訊いた。
のぶひろが記憶をたぐる眼差しになった。
「府中のホテルのテロか?」
「ハウスが戦争奴隷の女の子を送り込んで」姉妹は言った。
「あれは2月運動だ。東京UFから依頼されてやった。おまえたちがドラッグ輸送車を襲ったとかいう理由だったと思う。ぼくはあとで聞いた。モーセとはなんの関係もない事件だ。ぼくが2月運動の司令官だとして、実の娘の暗殺をためらうかどうかを訊いてるなら、こういうことだ。資金稼ぎじゃやらない。政治判断で必要ならたぶんやる」
「欺瞞《ぎまん》のまったくない回答だ」
姉妹の言葉に、のぶひろが微笑んだ。中年の女が窓辺の椅子から離れて、ドアをあけた。二人の男の子が、グラスやラムの酒瓶を運び入れた。テーブルにイカの塩辛と卯《う》の花の小鉢がならんだ。乾杯はしなかった。
「シティの停戦について考えを聞かせてもらえませんか」イズールが本題を切り出した。
「虹の旗が暗殺計画を放棄するのが先だ」のぶひろがにべもなく言った。
「説得してみましょう」
「横田基地の和平交渉の落としどころは、どのあたりになるんだ?」
「常陸軍が聖ヶ丘パークを東京UFに返す。東京UFはモーセ=2月運動への資金援助を停止する。軍事評議会は治安情報局を解体する。それを踏まえて暫定政権を樹立する。そういう線で、アメリカ政府はまとめようとしてるようです」
「合意できそうなのか」
「常陸軍に聖ヶ丘パークを手放す気がまったくなくて、会議は難航してます」
「東京UFはどうなんだ」
「いちおう」
「なにがいちおうだ」
「聖ヶ丘パークの原状回復ができれば」イズールが聞きとりにくい声で言った。「モーセ=2月運動への資金援助をやめると」
のぶひろがラムを一口飲んで、呆《あき》れた口調で言った。
「資金援助をやめれば、モーセと2月運動が消滅するって、東京UFは安易に考えてるふしがあるな。自分たちが育てた怪物のほんとうの姿を見たくないんじゃないのか」
イズールが顔をしかめた。
「暫定政権ができたって」のぶひろがつづけた。「どいつもこいつも武装解除する気はない。それでなにが起こるか。暴力装置の再編成だよ。まだまだテロと内乱はつづく。東京UFはモーセと2月運動の力を再認識する。はやばやと資金援助が復活する」
のぶひろの言うとおりだと姉妹は思った。イズールが中年の女にマリファナをすすめた。女が笑顔で断った。のぶひろがリモコンに手をのばしてTVを点けた。アメリカン・フットボールの試合がまだつづいている。スタジアムの俯瞰《ふかん》映像に臨時ニュースのテロップが流れ、633部隊の司令官藤井勇の死亡を報じた。のぶひろはなんの反応も示さなかった。
「2月運動のテロだろ?」姉妹はTV画面を指さして訊《き》いた。
「たぶんね」のぶひろが悪びれずに言った。
「作戦の責任者は誰?」
「ぼくには知りようがない」
「モーセは2月運動のテロに責任がないって言うのか?」姉妹は鼻で笑った。
「責任はない」のぶひろが生真面目な顔でこたえた。「第一次九竜暴動のあとで、モーセを立ちあげるときに、NGOと武装組織を峻別《しゆんべつ》した。ぼくたちと2月運動は出発の時点からべつ組織なんだ。これまでテロを指示したことは一度もない。集会で檄《げき》を飛ばすことはある。633部隊を殲滅《せんめつ》せよ。虹の旗に罪を贖《あがな》わせよ。だが、どんなに過激に聞こえても、それはレトリックにすぎない。ぼくたちに2月運動のテロの責任を負わせるのはばかげてる。くり返すが、二つの組織は完全に独立してる。謀議も連絡会議も支援要請もない。モーセ学園を出た若者は、自分の責任において、自分の人生を選択する」
姉妹はふんふんとうなずいた。ロジックどおりのシステムになっているのだろうと思った。
「モーセはほんとに宗教活動を放棄したのか?」姉妹は訊いた。
「非宗教団体だ」のぶひろが明言した。
「2月運動は?」
「彼らも非宗教団体だ」
「モーセは聖書研究に熱を入れてるようだけど」
「あれは宗教学であり歴史学であり論理学だ」
「MIJの公称百二十万人の信者は、どこへ消えちゃったんだ?」
「どこにも消えてない。消えたのは教団だ。MIJが非合法化されたあとで、信仰は個人の問題になった」
「のぶひろの信仰は?」
のぶひろがグラスを持ちあげて、動作をとめた。自分自身を疑うような眼差しになった。
「聖書への関心はある」
「MIJの前身のジャパン・プロミスの時代に入信してるだろ?」
「そうだ」
「入信の動機は?」
「率直に言おう。いまもむかしも信仰心は分析の対象にすぎない。ぼく個人は聖書に関心があった。無学な導師が聖書を使ったのは、教義をつくる能力がないからであり、無意識だったが、ぼくはそのレトリックに着眼した。そこに書かれた言葉を超えて、聖書は、人類の歴史がいまなお編み出しつつあるレトリックの、ぼうだいな集積なんだ。読み込まれることによって、レトリックの宝庫になったと言ってもいい。そこから、ありとあらゆる狂熱の根拠を引用することができる」
マリファナの煙の向こうでイズールがぼんやりうなずいた。一昨年、アメリカ軍施設のクリスマス・パーティで、イズールとかわした会話を、姉妹は思い返した。新興宗教の教団本部を舞台に陰謀がくわだてられた、というイズールの仮説は正しい、と確信した。
「信仰心などなかった。教団を利用して信者を動員しようという欲望だけがあった。それがのぶひろの入信の動機だ」姉妹は言った。
「日本の男の同盟へ向けて動員する」のぶひろがあっさり認めた。
「聖書のレトリックを使って動員する」
「聖書研究が蓄積したレトリックを使って動員する」のぶひろが訂正した。
「言葉の力と互助組織があれば信仰も教団もいらない」
「外部に暴力をデザインする必要はある」のぶひろが補足した。
「2月運動のことか」
「想像をはるかに超える、緊密な暴力が、継続的に過剰に、外部に生み出された」のぶひろが顎《あご》の先端をかすかにあげて言った。
「それにしても日本の男の同盟とはね」姉妹は眉《まゆ》をしかめた。
「すべての規範はアナクロなんだよ」
「自覚があるってところが始末におえないな」
「日本の男の同盟。それこそ家族から国家の中枢にいたるまで、あらゆるコミュニティの規範となるべきものだ」
「本気でそう考えてるの?」
「女が男に階級闘争を挑んでる時代に、現実的な統合の原理がほかにあるか?」のぶひろが問いを返した。
「統合への欲望を捨てればいい」姉妹は言った。
「統合それ自体を否定するのか?」
「統合はつねに差別の構造の再編強化だからね」
「さらなる混沌《こんとん》を望むのか?」
「絶えず、くり返し、統合の原理を否定しつづける。あたしたちが言ってるのはそういうこと」
「永遠の破壊屋さん」のぶひろが微笑んで乾杯の仕草をした。
「狂信的男根主義的ナショナリストさん」姉妹もグラスをかかげ、微笑みを返してやり、ラムを口のなかに放り込んだ。
中年の女が、お代わりをどうぞと言った。姉妹はグラスを渡した。卯の花を箸《はし》で口に運んだ。上品な味付けだった。
「どこにだって狂信者の集団はいるんだから」イズールがつぶやく声で言った。「なんとか折り合いをつけて共存する方法はないのかな」
のぶひろがゲップを一つもらした。黒に近い濃紺のダークスーツに、台襟のホワイトシャツという装いののぶひろは、凡庸な文芸評論家にしか見えなかった。姉妹はラムのグラスをうけとった。のぶひろはTVへ視線をそそいでいる。アメフトはハーフタイムに入ったようだ。女の子がフィールドで飛び跳ねていた。スタジアムの歓声に現実の銃声が重なった。中年の女が悲鳴をあげた。激しい銃撃音とともにリヴィングルームのドアのガラスが砕け散った。のぶひろがサイドテーブルのサブマシンガンに飛びついたが、恐慌に陥ったのと、生来の運動神経の鈍さから、つかみ損なって、サブマシンガンが壁際へ転がった。なにが起きたのかわからないまま、姉妹はすばやく動いた。一人が、サイドテーブルにしがみついて立ちあがろうとしたのぶひろを突き飛ばして、サブマシンガンを拾いあげた。もう一人はのぶひろの背中を押さえつけて、上着の内側のホルスターから自動|拳銃《けんじゆう》を奪った。中年の女が部屋のすみにしゃがみ込んで頭を両腕で抱えた。二階、玄関ホール、庭、いたるところで銃声がひびいた。
「味方だ!」イズールが床に這《は》いつくばって叫んだ。
つぎの瞬間、庭に面したガラス戸を突き破って二つの人影がリヴィングルームに侵入した。姉妹はかろうじて発砲を思いとどまった。侵入者は眼出し帽で顔を隠していた。眼が合った。一人は見おぼえがあった。虹《にじ》の旗のロレッタ・ラウだ。
「怪我は」ロレッタが訊いた。
「無事だ」姉妹はこたえた。
ロレッタが庭へ手信号を送った。さらに四人の女の兵士が突入してきた。彼女たちはリヴィングルームを横切ると、玄関ホールへ出て、二階へ銃弾を撃ち込みはじめた。
「こいつがいとうのぶひろか?」ロレッタが訊いた。
ロレッタと姉妹の間に、のぶひろがうつぶせの姿勢で倒れていた。床に衝突した顎、ねじれた首、恐々《こわごわ》プールに飛び込む人のように腰の後ろではねあがった両手首、それぞれに一瞬、姉妹は眼をとめた。
「殺《や》るのか」姉妹は訊いた。
「表へ出てくれ」ロレッタが厳しい声で言い、AKの銃口をのぶひろの頭に向けた。
「出よう」イズールが姉妹の肘《ひじ》をとった。
気づかいを尊重するつもりだった。処刑の場に立ち会えば、ロレッタもイズールも後ろめたさを引きずるだろう。姉妹はのぶひろのからだをまたいで、破壊されたガラス戸へ足を向けた。そこでやりきれないことに、実の娘の名前を叫びながら命|乞《ご》いをする声が聞こえた。からだが反応した。姉妹は振り向いた。一人がサブマシンガンを、もう一人が自動拳銃を撃った。のぶひろの丸まった背中に銃弾が突き刺さった。イズールがわけのわからない叫びをあげ、それを二階の爆発音がかき消した。天井の一部が崩壊してリヴィングルームに粉塵《ふんじん》が立ち込めた。
61
銃撃がやんだとき、白壁の家のポーチや石畳の道路から人影が消え、コミュニティの内部は静まり返っていた。虹の旗の暗殺部隊は、素姓不明の東アジア系の中年女と給仕の男の子二人に手錠をかけ、頭に黒いビニール袋をかぶせて、ヴァンに放り込んだ。銃撃戦があった家にはモーセのボディガード四人の射殺体が残された。全員が美しい若者だった。虹の旗の三台の乗用車と二台のヴァンが整然とゲイトへ向かった。月田姉妹はアメリカ大使館の濃紺のベンツでつづいた。
「ぼくたちが家を出てから突入する計画だった」イズールがベンツの助手席で言った。「ところがうちの部隊が、なにか勘ちがいして、先に動いちゃった」
ゲイト脇の警備員詰め所を、ビジネスコートやブルゾンを着たアメリカ軍特殊部隊員が占拠していた。イズールがブルゾンの男と短い会話をかわした。ベンツがゲイトを出た。
「怒ってる?」イズールがそっと訊いた。
「怒ってないよ」姉妹はやさしく言った。
「ぼくは、きょうの午後まで、暗殺計画があるなんてまったく知らなかった。ほんとだ。うちの上層部と虹の旗のダキラの間では、二月のはじめの段階で、具体的な作戦の検討がはじまったらしい」
ビルの谷間を吹き抜ける夜風にベンツの星条旗がはためいた。アメリカ政府はモーセ代表暗殺への関与を隠す気がまったくない、と姉妹は思った。のぶひろの居場所を突きとめるまでは陰謀をめぐらしたようだが、その先は公然たる軍事作戦だった。
「アメリカ政府の思惑はどこにあるの?」姉妹は訊いた。
「東京UFへのメッセージだ」イズールが言った。「モーセ=2月運動を見限って、アメリカ政府の和平案におうじろ」
「常陸軍へのメッセージも準備してるの?」
「ぼくは知らない」
「立川基地の滑走路に精密誘導爆弾を一発ぶち込む。それから白川に電話を一本。聖ヶ丘パークの利権を東京UFに返してやれ。信州軍の首都進攻を阻止しろ」
「そんなところだと思う」
前方をいく虹の旗の車列がビルの角を曲がって視界から消えた。しばらく無言で走った。助手席からイズールのすすり泣きが聞こえてきた。
「どうした」姉妹は事情に察しがついたが声をかけた。
「やっぱりショックだよ」イズールが涙声で言った。
「のぶひろを殺ったことか?」
「ぼくが騙《だま》してきみたちにやらせた」
「じゃあ好きなだけ泣いてろ」
イズールがさめざめと泣き出した。
「泣くな」姉妹はあわてて叱り飛ばした。「あれはみんなが大好きな〈父殺し〉の物語じゃない」
「狂信者のたんなる排除」イズールが言った。
「そうだ」
「ダキラから聞いたよ。それがきみたちの本心なのかどうか、ぼくにはわからない。でも取り乱したりしないだろうって思ってた。そのとおりだった。それがいくらか慰めだね」
「なにが起きてもおどろかない。結論は出てるんだ」
「結論て?」
ベンツが首都高に入った。林立する高層ビルが青白く発光していた。
「世界はとっくに発狂してる」姉妹は言った。
「うん、発狂してる」イズールが言った。
「生きのびようとすれば、この狂った世界に適応するしかない」
「そうだね」
「邪悪な許しがたい異端の」
「なに?」
「邪悪な許しがたい異端の」姉妹はくり返した。「それがあたしたちの適応のかたちだ」
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第6章 決 戦
62
正午きっかり、ニュータウン・マーケットの焼け跡に弔砲がとどろいた。月田姉妹は、アイコと突撃隊を連れて、633部隊の藤井兄の葬儀に参列した。周辺道路を常陸軍の装甲車が封鎖して、厳重な警戒態勢が敷かれていた。多摩センター駅北口にあふれ返った数千人の参列者のまえで、弟の藤井尚が弔辞を読んだ。半壊した633部隊の本部ビルの、むき出しになった基礎部分に穴が掘られ、そこへ真あたらしい無垢《むく》の木製の棺《ひつぎ》が埋められた。怒号を思わせる男たちの泣き声が地ひびきのように姉妹のからだをふるわせた。
参列者の塊がばらけたところで、姉妹は藤井尚に声をかけた。
「暗殺の依頼主はわかったか?」
藤井尚が首を横に振った。
「捕虜からたいしたことは訊《き》き出せなかった。作戦の概略、特別手当の額、それぐらいだ」
「司令官の男の行方は?」
「首に賞金をかけて捜してる」
三人はぶらっと東の方角へ歩きはじめた。水路の北側では黒く焼け焦げた瓦礫《がれき》の大半が放置されていた。露天商が店を連ねはじめているが、以前の賑《にぎ》わいにはほど遠い規模だった。
「633部隊を引き継ぐのか?」姉妹は訊いた。
「世襲制じゃあるまいし。幹部が決めることだ。おれは関係ない」藤井尚が言った。
「戦場にもどったってなにか道がひらけるとも思えないけど」
藤井尚が鋭い視線をちらと姉妹に向けた。
「おまえたちのまえには道があるのか?」
「戦後のビジネス」姉妹は言った。
藤井尚が空をあおぎ見た。雲一つない晴天の空を、哨戒《しようかい》ヘリが西から東へ飛び去った。
「ビジネスか」藤井尚がかすかに感嘆をひびかせて言った。
「はじまりがあれば、かならずおわりもある」姉妹は言った。「戦争はいつかはおわる。いとうのぶひろの暗殺で、和平交渉に進展があるかもしれない。昨日の夜からアメリカ政府が都内で東京UFの幹部と接触してる」
「暫定政権ができても安定しないぞ」
「幻想は持ってない」
「常陸軍との同盟関係が永遠につづくと思ったらおおまちがいだ。やつらの主力は遠征軍だ。敗れたらここから去っていく」
「だからシティは、早急に、自前の軍事力を持つべきだ」
「資金は?」
「聖ヶ丘パークの利権がある」
「アメリカは手放せと要求してるんじゃないのか」
姉妹は首を横に振った。
「聖ヶ丘パークを手放せば、我々も常陸軍も敗北する」
姉妹と藤井尚は足をとめた。焼け残ったビルの窓ガラスにモーセの新しいポスターが貼られている。これも聖書から一行を引用。虹《にじ》の旗への憎しみがにじむ一節だが、悪くないと姉妹は思った。
罪深く官能的な檄文《げきぶん》。ホセア書の引用である。
告発せよ、お前たちの母を告発せよ。
「誰がシティを統治するんだ?」藤井尚が訊いた。
「当面は自警団連絡協議会が」姉妹はこたえた。
「虹の旗が主導権をにぎってるようだな」
「その傾向はある。長い抵抗運動で鍛えられて、組織がしっかりしているからね」
「あの連中はよくわからない」
「おまえの胸には虹の旗への不安と恐怖がある」
姉妹のその言葉に、藤井尚は短い沈黙をおいた。
「そうかな」
「不安と恐怖は、未知のものへのありふれた感情だ。だけど、そこから差別意識が生まれるまで、あと半歩」
藤井尚が神妙な顔で小さくうなずいた。三人はまた歩き出した。姉妹の携帯電話が鳴った。李賛浩だった。
「戦車と装甲車が入ってきたよ!」賛浩が叫んだ。電話の向こうで砲声と爆発音がとどろいている。
「どこにいる?」姉妹は鋭く訊いた。
「吉林市場の十字路の近く」
「誰が誰を攻撃してるんだ?」
「わからない」
ニュータウン・マーケットでも遠い砲声が聞こえてきた。つい先ほど東へ飛び去った哨戒ヘリの機影の残像が脳裏をよぎった。富士師団が吉林市場に進攻したのだと思った。姉妹はいったん電話を切り、李明甫の携帯電話にかけた。話し中だった。背後を見た。アイコが緊急事態に気づいて指令を待っていた。
「全員に出撃態勢をとらせろ!」姉妹は言った。
63
サザンタワー・ホテルの常陸軍司令部で、海人が言った。
「富士師団がシティ東部に進攻した。偵察隊を出す。ちりにくわしい女の子を六人かしてくれないか」
「一分以内に吐蕃ビルのまえにあつめる」月田姉妹は言った。
「偵察隊がひろいにいく」
アイコがその指令を吐蕃ビルにいるビリィに伝えた。その間に李賛浩から電話が入った。旧本部の屋敷に富士師団の姿はなく、周辺で戦闘も見られないという。
「小燕と連絡がついたの?」姉妹は海人に訊いた。
「白川少佐に支援のようせいがあった。ショウエンと幹部十四人が、ボッカイ・ホテルにとじこめられてる」
海人の声にふと姉妹は冷淡なひびきを聞きつけた。
「支援部隊を送ったのか?」姉妹はとがめる口調で訊いた。
「イリイチ中佐が攻撃ヘリをとばした」
「地上部隊の派遣は?」
「まずヘリでたたいて、ようすを見る」
「小燕は富士師団の戦車に包囲されてるんじゃないのか?」
「もうしばらく、たえてもらうしかない」
「見殺しにするつもりなんだな」姉妹は許さぬ口調で言った。
「敵の兵力も、はいちもつかめない」海人が辛抱強く言った。「ショウエン派はばらばらになってる。幹部連合の動きもわからない。そんなじょうたいで地上部隊をはけんしても、でたらめなうちあいになる。じゅうみんにおおぜいのぎせいしゃが出る。おれたちが勝っても、ちょうせんぞくのはんぱつをかう」
「そういうふうに、常陸軍が地上部隊の派遣をちゅうちょするだろうって判断して、富士師団はシティ東部に進攻したんだ」
「わかってる」
「進攻の背景には東京UFの思惑がある」姉妹は早口でまくし立てた。「富士師団が小燕派を追放して、幹部連合が高麗幇のヘゲモニーをにぎれば、シティ東部は東京UFの影響下に入る。やつらは、和平交渉を引きのばしつつ、既成事実をつくろうとしてる」
「そのとおりだ。でも、かんたんには地上部隊をうごかせない」海人が言い張った。「南にてんかいしてる富士師団六個大隊が、攻撃をしかけてくるかのうせいがある。調布基地の政府軍と、うつのみや軍のうごきも、けいかいしなくちゃならない。常陸軍は新兵もいれて九千人だ。富士師団とおなじていどの兵力しかない」
「我々は出撃する」姉妹は怒りを込めてさえぎった。「吉林市場の西の森に、本部に使ってた屋敷がある。そこに拠点をつくって、背後から敵を突く」
「そこが敵のはいごかどうかもわからない。しかもあいては軍隊だ」
「野戦をやるわけじゃない。市街戦だ。我々にもAKとロケット砲がある」
姉妹はアイコに声をかけて出口へ足を向けた。海人が待てと鋭く呼びとめた。
「動かせる兵力はどれくらいある」海人が訊いた。
「府中から呼んだ二百人と突撃隊三十人」姉妹は言った。
海人が、桜子と椿子の顔を一人ずつちらと見た。ためらうような短い沈黙があった。それから決断した人の声で言った。
「やしきの、ばしょをおしえてくれ」
海人がテーブルの上にシティ東部の詳細な地図を広げた。姉妹は屋敷がある場所を示した。吉林市場の中心街にある渤海ホテルまで直線でおよそ四百メートル。
「葉郎の大隊をいっしょにいかせる」海人が厳しい顔つきで言った。「土浦といわきの戦争をけいけんしてる部隊だ。けいいをはらってほしい。きみたちは葉郎の指揮下にはいる」
「オーケー」姉妹は素直におうじた。
万里が昨日、府中市から送り込んだ二百人の部隊と、突撃隊三十人が、吐蕃ビルまえの道路で出撃態勢をとっていた。パンプキン・ガールズ二百三十人は、葉郎の大隊七百人と合流して東へ向かった。装輪装甲車八両、軽装甲機動車二十二両。それ以外はトラックとヴァンだった。
アメリカ軍施設の南側にそって走る丘の上の道を、軍用車列がフルスピードで走った。前方の空で、イリイチの外国人部隊の攻撃ヘリ数機が旋回していた。姉妹はヴァンの後部座席でゆられながら、対戦車ミサイルがつぎつぎと放たれ、その曳光《えいこう》と爆発の赤い炎が、晴天の空に鮮やかに映えるのを凝視した。
指揮車に乗っている葉郎から無線連絡が入った。哨戒ヘリおよび先遣の偵察小隊の報告によれば、シティ東部に進攻したのは富士師団所属の二個大隊およそ千五百人、戦闘は吉林市場に集中しており、その半径数百メートルの範囲が、敵の戦車と装甲車で封鎖されているという。
姉妹のヴァンが旧本部の屋敷まで五百メートルほどの地点にさしかかったころ、外国人部隊のヘリが第一波の攻撃をおえて府中基地にもどっていった。道路の左側がアメリカ軍施設で、右側が貧しい住宅街だった。前方で激しい銃声が聞こえ、車列が停止した。
「どうした」姉妹は無線で葉郎に訊いた。
「てきとそうぐうした。あわてるな。すぐおっぱらう」葉郎が言った。
アイコが無線で仲間に連絡した。姉妹はAKをつかむと、車を降りて周囲を警戒した。腹にひびく銃声がつづいた。装甲車の35ミリ機関砲だった。数分で戦闘がおわった。車列が動き出した。住宅の裏庭で敵のトラックが横転していた。索敵のために軽装甲機動車四両が路地に進入し、二個小隊がトラックから下車して戦闘隊形をとった。
本隊はそのまま前進して、アメリカ軍施設の金網のフェンスと屋敷の間の森の端に到達した。その地点でいったん車両を停止させ、姉妹とパンプキン・ガールズは森のなかの道を歩いて屋敷の庭に下りた。葉郎と二個小隊の歩兵が、無線機と武器を担いでつづいた。
李賛浩がポーチで出むかえた。
「ミョンボの情報は入らないか?」姉妹は訊《き》いた。
「ぜんぜん連絡がとれない」賛浩が不安そうな顔で言った。
「渤海ホテルはどうなってる」
「あのへんはすごい撃ち合いで近づけないよ」
「ひなびは?」
「仕事へいってる」
孤児部隊の東南アジア系の小隊長が、ただちに三班の偵察隊を編成し、各班にガイドの女の子をつけて、屋敷の周囲に散らせた。森を迂回《うかい》した戦闘車両が、東側の門から到着して、防御陣地を築いた。その間に、葉郎が、だだっ広いダイニングに指揮所をもうけた。サザンタワー・ホテルの海人から攻撃ヘリの報告が入った。敵戦車四両、装甲車十二両を破壊。残存する敵戦車は一両か二両、装甲車は五両ていど。ただし、攻撃ヘリが現場に到着するまえに、敵の歩兵の大半が下車戦闘に入っており、また12・7ミリ重機関銃を搭載した軽装甲機動車が多数、路地に逃げ込んだ模様。
「小燕はどうなってる?」姉妹は訊いた。
「うるさい。まってろ」葉郎が不機嫌にこたえ、こんどは渤海ホテルの小燕と無線で連絡をとった。
小燕派は、携帯電話と、通信距離がせいぜい三キロメートルていどの小型無線機で、かろうじて指揮系統を確保していた。無線機からもれる小燕の声は、冷静で、動揺はまったく感じられないが、伝える内容は緊迫していた。吉林市場周辺の小燕派の抵抗拠点は八ヵ所。富士師団と幹部連合民兵が、重機関銃、グレネードランチャー、ロケット砲、対戦車ミサイルで攻撃中。渤海ホテルの被害は、死者三人、重傷者五人。戦闘能力を有するのは小燕をふくめて七人。ホテルの八階から上は、戦車の120ミリ弾で徹底的に破壊され、現在は、侵入してきた富士師団の歩兵と五階で激しい戦闘中。
無線機から小燕の声がひびいた。
「敵はロケット砲と重機関銃でがんがん撃ってくる。我々の弾薬は尽きかけている」
葉郎が、小燕との交信をいったん切って、中隊長をあつめた。
「まずショウエンをまもる。その一てんに、せんりょくをしゅうちゅうする。ボッカイホテルをかくほしたら、ていこうきょてんのしえんにむかう」
葉郎は、大隊指揮所の防衛に一個中隊、渤海ホテルへの突入部隊に一個中隊、ホテル周辺の掃討に三個中隊を振り分けた。姉妹はそれにおうじてパンプキン・ガールズを三つの部隊に分けた。桜子、椿子、アイコと三十人の突撃隊は、ホテルへの突入部隊にくわわった。
旧本部の屋敷の門から東へまっすぐ下る道がある。およそ百四十人の孤児部隊と三十数人のパンプキン・ガールズの部隊がきびきびした足どりで出発した。道は三十メートルほど先で南へおおきく曲がっている。その地点で南北の二手に分かれ、車が進入できない狭い路地に入って東へ向かった。
姉妹と十五人の突撃隊は北側の部隊にくわわった。先頭にガイドの女の子をふくむ孤児兵の一個小隊、姉妹と突撃隊、武器・弾薬と通信機を運搬する一個小隊の順ですすんだ。路地を左へ曲がった。自動小銃の銃撃をうけた。前衛の小隊が応射して撃退し、さらに前進した。銃声と爆発音がどんどん近づいた。渤海ホテルは、吉林市場を南北に走るメインストリートの西側にある。姉妹たちの部隊はホテルの北側の路地に出た。ふいに敵の軽装甲機動車がメインストリートにあらわれ、重機関銃で攻撃してきた。前衛の小隊が応射した。葉郎の大隊に敬意を払えと言った海人の言葉を、姉妹は感慨深く思い返す結果となった。孤児兵の射撃は正確だった。赤い炎を曳《ひ》いてロケット弾が飛び出していき、敵の軽装甲機動車を破壊した。だが路地を見下ろす向かいのビルの窓から、敵のグレネード弾が連続して襲いかかり、火の玉とともに孤児兵のちぎれた頭や手足が空中に舞いあがった。姉妹は突撃隊を率いてべつの路地から、敵の攻撃拠点に向かった。
64
渤海ホテル周辺の敵の反撃をうけて、孤児部隊とパンプキン・ガールズが前進を阻まれたころ、海人が、支援部隊を三つのルートで送り出した。
ホウが率いる外国人部隊二個大隊が、若葉台駅周辺に展開する富士師団二個大隊へ猛攻撃をくわえ、二キロメートルほど南の真光寺《しんこうじ》地区まで押し下げた。そうして確保した鶴川街道を使って、一個大隊のンガルンガニの女の部隊が、装甲車、軽装甲機動車、予備の武器・弾薬を積んだトラックを連ねてシティ東部に進攻した。いわき攻略戦にゲリラとして参加した兵士を中核とする女の部隊は、吉林市場の南端に防御陣地を築くと、装甲車の35ミリ機関砲を北と東へ向け、小燕派へ武器・弾薬の補給をはじめた。
吉林市場の北端では激戦がくり広げられていた。多摩川にかかる是政橋のたもとに、小燕派の拠点があった。彼らは緒戦で富士師団と幹部連合の民兵の急襲をうけて蹴散《けち》らされたが、イリイチの攻撃ヘリが富士師団の戦闘車両を壊滅させると、少人数のグループに分断されたまま勢いを盛り返しつつあった。そこへ、府中市側からボリス・ハバロフが率いる孤児部隊一個大隊が、是政橋を南へ渡ってシティ側に進攻し、川崎街道ぞいに防御陣地を築いた。ボリスの孤児部隊も、女の部隊と同様に、小燕派へ武器・弾薬の補給をはじめた。
こうして南北で圧力をかけつつ、海人は、葉郎が使った中央のルートで、池東仁《チ・トウジン》の孤児部隊一個大隊、633部隊百二十人、虹《にじ》の旗の部隊八十人を送り込んだ。その段階で、小燕派の八ヵ所の抵抗拠点のうち二ヵ所と通信が途絶えていた。残存する六つの拠点を防衛するために、増援部隊が吉林市場に展開した。
渤海ホテルへの突入作戦は遅滞をよぎなくされたが、敵の戦力が分散したために、ホテルに立てこもった小燕派はなおも抵抗をつづけていた。増援部隊の展開に合わせて、葉郎の孤児部隊とパンプキン・ガールズは攻勢に出た。月田姉妹と突撃隊は、激しい戦闘ののち、メインストリートの東側のビルの敵を殲滅《せんめつ》した。渤海ホテルのエントランスに敵の攻撃拠点が残っていた。それを迂回して、姉妹たちの突入部隊はホテルの北側の路地を制圧した。
孤児兵が慣れた手つきでホテルの壁にTNT火薬を仕掛けた。爆発音とともに壁の一部が吹き飛んだ。粉塵《ふんじん》が舞うなかを、前衛の分隊が銃を撃ちながら建物の内部に侵入した。姉妹と突撃隊がつづいた。薄暗いロビーのなかを炎が連続して走った。銃声は十数秒間つづいた。富士師団の兵士の死体が五つ転がった。後衛の二個分隊が、エントランス、コーヒーショップの窓、地下駐車場に通じる階段に、すばやく展開した。
メインストリートで戦車の残骸《ざんがい》が燃えていた。従業員通用口からアイコたちの部隊が入ってきた。それを確認して、小隊長がGOサインを出した。前衛の分隊と姉妹たちは東側の階段を駆けあがった。四階のフロアにいる敵と銃撃戦になった。西側の階段からも孤児兵とアイコの部隊が攻撃をはじめた。
敵の弾丸がアフリカ系の孤児兵の頭を貫いた。その背後にいた姉妹は血《ち》飛沫《しぶき》を顔にあびた。撃たれた孤児兵は、姉妹の腕のなかで、声もあげずに眼をとじた。孤児部隊とパンプキン・ガールズはひるまなかった。激しい弾幕を張りながら、じりじりと階段を昇った。敵は上からも小燕派に攻められ、やがて勢いが衰えた。銃身の先端に白いハンカチをむすんだM16が階段をがらがらと落ちてきた。
「うちかたやめ!」孤児部隊の分隊長が怒鳴った。
前衛の分隊といっしょに姉妹は四階のフロアにあがった。停電のために薄暗かった。突撃隊のカンボジア人の女の子が懐中電灯で照らした。孤児兵が、廊下に伏せた敵兵に、つぎつぎと手錠をかけた。五階に通じる階段に敵兵の死体が三つ引っかかっていた。姉妹は突撃隊に客室を調べさせた。アイコが西側から近づいてきた。姉妹はエレベーターホールでアイコと手のひらを軽く合わせた。五階から小燕派の男二人が歓声をあげながら降りてきた。彼らと固い握手をかわした。べつの声が上から聞こえた。
「桜子と椿子なの?」
姉妹は階段を降りてくる人影を見あげた。
「小燕?」
「そうよ。怪我は?」小燕が言った。
「だいじょうぶ。娘は無事なの?」
「珊珊は府中に逃がした。安全な場所にいる」
小燕がこたえた声は、激しい爆発音にかき消された。東から西へ廊下を爆風が吹きぬけた。姉妹と小燕はもつれるようにして床に倒れ込んだ。
「ホテルの東がわに敵戦車一両!」突撃隊の女の子が叫んだ。
ふたたび爆発音。戦車の120ミリ弾が東側の客室の外壁を破壊し、爆風がドアを吹き飛ばした。対戦車ミサイルをかついだ孤児兵が廊下を走った。姉妹は掩護《えんご》射撃のためにつづいた。孤児兵がランチャーの先端部を崩れた壁にのせ、すばやく照準を合わせた。メインストリートにいる敵戦車の砲口がこちらへ向きかけたとき、対戦車ミサイルが炎を曳いて飛んでいった。姉妹は瓦礫《がれき》の陰で頭を伏せた。戦車が赤い炎に包まれ、砲台が空中へ舞いあがった。
孤児中隊は、武器・弾薬と通信機器を運び込むと、通信兵一人と衛生兵一人を渤海ホテルに残して、小燕派の拠点の支援に向かった。ホテルの防衛には、姉妹とパンプキン・ガールズの突撃隊と小燕派のわずかな生存者、合わせておよそ四十人があたった。比較的損傷がすくない六階のエレベーターホールに指揮所をもうけ、姉妹は突撃隊四人と警護についた。小燕が、孤児部隊が運び込んだ無線機を使って、自派の拠点の再構築に奔走した。部下を鼓舞する彼女の声が、フロアに力強くひびいた。小燕派は日本育ちの若者が多いため、主に日本語で指示が飛んだ。
短い沈黙がおとずれた瞬間をとらえて、姉妹は訊いた。
「ミョンボと連絡をとってる?」
「携帯電話が通じてたけど、ついさっき途絶えた」小燕が言った。
「どこにいたの?」
「第三百貨店。ミョンボは仲間をあつめて拠点をつくったんだけど」
第三百貨店は、徐雷と徐震が殺された爆弾テロ現場の西側にあるビルで、内部は数百の小規模な店舗が入っている。その三階と四階の中間のような複雑なスペースに、明甫が経営する銃砲店がある。高級品をそろえたマニア向けの店で、姉妹はなんどかひやかしにいったことがある。
「生きてるか死んでるかも、わからないの?」姉妹は訊いた。
「わからない」小燕がかすかに鎮魂をひびかせて言った。
若い男の緊迫した声が無線機からひびいた。小燕がただちに指示を与えた。ふたたび交信がはじまった。単独行動者があつめられ、あらたな拠点が生まれた。武器・弾薬の補給を、北のボリスの孤児部隊あるいは南の女の部隊からうけつつ、小燕派の民兵が反転攻勢に出た。是政橋の拠点は、小燕派がボリスの部隊の支援をうけて奪還した。拠点の情報は小燕から葉郎に伝えられ、葉郎から全体の戦況が刻々と入った。第三百貨店は敵が占拠していることが判明した。それ以降、姉妹と小燕の間で、明甫の生死が話題にのぼることはなかった。
指揮所と同じフロアの客室で、衛生兵がけんめいに負傷者を治療した。ホテルに突入した際に、パンプキン・ガールズの突撃隊一人と孤児兵二人の死者が出ていた。薄闇が迫ったころ、小燕派の重傷者が二人、あいついで息をひきとった。このまま放置しておけば、死者が増えることは確実だった。
姉妹は無線機で葉郎を呼び出した。
「重傷者を府中の病院に運ぶからトラックをよこせ!」姉妹は叫んだ。
「がまんしろ」葉郎が冷徹な声で言った。
「是政橋までいけば孤児部隊がいる。一本道で、たった八百メートルだ!」
「うごくやつはみんなうたれる」
「掩護の部隊をつけろ」
「そんなよゆうはない」
「パンプキン・ガールズの部隊がそこにいるじゃないか」
「あいつらは、このしきしょをぼうえいするにんむがある」
姉妹は返す言葉がなかった。
日没から間もなく、小燕派の重傷者一人が呼吸を停止した。渤海ホテル周辺には、複数の敵部隊が出没して、しつような攻撃をくり返した。銃声と砲声が絶えることなく、時間を追うごとに負傷者が増えていった。
夜を徹した血みどろの市街戦になった。戦闘地域は、およそ南北二キロメートル、東西八百メートル。投入された戦闘員は、富士師団千五百人、幹部連合の民兵千二百人、孤児部隊千五百人、パンプキン・ガールズ二百三十人、633部隊百二十人、虹の旗八十人、小燕派民兵九百人。
イリイチが哨戒《しようかい》ヘリを戦闘地域の東側に飛ばして、シティ東部と接する川崎市多摩区に集結した富士師団四個大隊の動きを監視した。その部隊が吉林市場の戦闘に参加すれば、ただちに退路を断てるよう、イリイチの二個大隊が稲城大橋の府中市側で、ボリスの孤児部隊一個大隊が是政橋のシティ側で、ンガルンガニの女の部隊一個大隊が鶴川街道で、出撃態勢をとった。
富士師団は、常陸軍の配置を見て、けっきょく支援部隊を送らなかった。それで勝敗が決した。翌日の午前四時すこしまえ、富士師団を指揮する治安情報局が停戦を呼びかけた。白川少佐は無条件降伏を要求した。治安情報局がそれを突っぱねた。
吉林市場で孤立した富士師団の一部の部隊が、夜明けとともに投降をはじめた。幹部連合の民兵が、投降する富士師団の兵士を背後から撃ち殺した。通信手段を失った富士師団の部隊は、絶望的な戦闘をつづけた。小燕派と孤児部隊は、仲間を殺された憎しみから、攻撃の手をゆるめなかった。誰も戦場をコントロールできない時間が流れた。
渤海ホテル周辺の戦闘が下火になったころ、小燕派の二十人ほどの部隊が合流して、警備態勢が強化された。「北半分はおれたちが支配した」と司令官の若者が言った。姉妹は葉郎と連絡をとり、重軽傷者十四人を一階へ降ろした。それを孤児部隊のトラックが府中市へ搬送した。それから間もなく、一階の警備についているアイコが、姉妹の小型無線機を呼び出した。
「ショウエンに会いたいっていうガキがきてるんだけど。ミョンボをたすけてくれって」アイコが困惑と不安が入り混じる声で言った。
「ミョンボが生きてるってことか」姉妹は声を低めて訊《き》いた。
「ガキが言うにはね」
「降りる。捕まえておけ」
小燕は部下と交信中だった。姉妹はなにも告げずに、階段を降りていきながら、藤井兄を殺した2月運動の手口を頭によぎらせた。
朝の陽の光が射すロビーで、アイコと突撃隊と、頭から血を流した十歳ぐらいの男の子が待っていた。
「フルチンにしてしらべた。ぶきは持ってない」アイコが言った。
男の子の髪と顔は血で汚れ、右眼は紫色に腫《は》れあがり、左眼は疲労と恐怖のせいで暗く陰っている。アイコが乱暴な仕草で男の子が着ているブルゾンの裾《すそ》をめくった。痩《や》せて骨がういた腹がむき出しになった。
「こいつ上はハダカで歩いてきたんだ」アイコが言った。
「アイコが自分のブルゾンを着せてやったの」突撃隊の女の子が言った。
意味がわからなかった。姉妹は男の子へ鋭い視線をそそいで訊いた。
「どうして裸なんだ?」
「ぶきをもってないし、まだこどもだってことが、とおくからすぐわかるように」男の子が両手をあげて降伏するときの仕草をした。
「撃たれないように?」
「ミョンボがそうしろっていったんだ」
「ミョンボといっしょにいて、おまえだけ逃げてきたのか?」
「いまからこどもをにがすから、うつなって」
「ミョンボが敵にそう呼びかけたうえで、おまえを逃がしたんだな」
「そうだよ」
「なぜ小燕がここにいるって思った?」
「ミョンボとずっといっしょだったから、ショウエンがボッカイホテルにいるのはしってた」
「いまミョンボがいる場所は?」姉妹は希望を抱きはじめた。声のひびきにそれがはっきりと出た。
「だいさんひゃっかてん」
「百貨店のどこだ」
「じぶんのみせのちかく」
「ミョンボ一人か」
「あとふたり。でもけがしてる。ミョンボもあしうたれて」
「小燕に助けをもとめろって、ミョンボが言ったのか?」
「いや」男の子が首を横に振った。「ミョンボはしぬってかくごしてる」
「敵の攻撃が激しいのか?」
「みかたのこうげきのせいだ」男の子が怒りにかられた声で言った。「あそこは、かたっぽうがいきどまりで、かいだんがひとつあるだけだ。だから、てきのこうげきを、なんとかしのいでいたんだけど、あさになって、みかたが、みなみがわのかべを、ロケットだんでぶちこわしはじめた」
男の子の言うとおりだった。進入路は狭い階段が一つ。その意味では防御に適しているが、南側の壁はスレート一枚。AKでも破壊できる。姉妹は訊問《じんもん》を中断して、葉郎と無線連絡をとった。第三百貨店の明甫の店の位置を教え、そこに小燕派の李明甫ほか二人が生存しており、南側からの味方の砲撃で危険にさらされていると伝えた。葉郎はただちに、南側からの砲撃を中断することを約束した。
「おまえたち、パンプキン・ガールズのふたごか?」男の子が、交信がおわるのを待って訊いた。
「そうだ」と姉妹はこたえ、突撃隊員に命じた。「腹を空かせてるはずだ。こいつにレーションを食わせてやれ」
「ミョンボをたすけてくれよ!」男の子が訴えた。
「突入部隊を編成してついてこい」姉妹はアイコに告げてロビーを横切った。
「ホテルのけいびはどうするんだ?」アイコが背後から訊いた。
「小燕派の男が二十人いる。あれでじゅうぶんだ。我々はミョンボの救出に向かうと司令官の男に無線で伝えろ」
姉妹は従業員通用口から渤海ホテルの南側の路地に出た。男の子がついてきた。
「ミョンボとどういう関係なんだ」姉妹は訊いた。
「ともだち」男の子が言った。
「おまえは第三百貨店ではたらいてるのか?」
「かんぽうやくのみせで」
「戦闘に参加したのか」
「あたりまえだろ」
「友だちだから?」
「ともだちだから」
「おまえはいくつだ」
「十七さい」
姉妹は短く息を吐き出した。とても十七歳に見えないが、幼児期の栄養失調のせいで骨格が未発達のまま育つ子供は、シティではめずらしくない。
「名前は」姉妹は訊いた。
「ヨンジン」男の子がこたえた。
第三百貨店は、メインストリートを二百五十メートルほど下った十字路の西南の角地にある。道路をはさんで東側が、徐雷と徐震を殺した爆弾テロ現場だ。姉妹は路地をすすんだ。メインストリートを使うのは危険だった。敵の狙撃兵《そげきへい》のキル・ゾーンだからである。腰をかがめ、路地をめぐりながら、ふたたび葉郎と無線連絡をとり、第三百貨店の戦況を訊いた。敵兵力は、富士師団の部隊と幹部連合の民兵を合わせて、推定で四十人から七十人。孤児部隊と虹《にじ》の旗の部隊が包囲して、グレネードランチャー、ロケット砲、軽装甲機動車の重機関銃で猛攻撃をくわえているという。
「突入してミョンボたちを救出する。掩護《えんご》を頼む」姉妹は言った。
「とつにゅうはきけんだ。てきのこうふくをまったほうがいい」葉郎が言った。
「いまから五秒後に敵がミョンボを殺すかもしれない」
「おまえのぶかにぎせいしゃがでるぞ」
「第三百貨店を北側から攻撃してるのはどこの部隊だ?」姉妹は無視して訊いた。
「にじのはた」
「司令官は」
「ふるかわかおり」
「古川に我々が五分後に到着すると伝えろ」
「むちゃはやめろ」葉郎がなかばあきらめた口調で言った。
姉妹は耳を貸さず、無線を切った。背後を振り返った。アイコと重武装の突撃隊二十人ほどがぞろぞろついてくる。第三百貨店の内部に詳しい吉林市場出身の突撃隊員を呼び、明甫の店の正確な位置を知らせるために、伝令として葉郎のもとへ走らせた。燃えあがる軽装甲機動車を迂回《うかい》した。街のいたるところで黒煙があがっていた。ビルの窓から銃撃をうけ、べつの路地へ飛び込み、散乱する死体をまたいで前進した。死ぬな死ぬなと、ここにはいない李明甫に呼びかけた。吉林市場にいるかぎり守ってやると誓い、その誓いを身をもって実践してくれた朝鮮族の若者を思った。
十字路の西側は台地で、道路が台地を南北に分け、二つの台地を陸橋がつないでいた。第三百貨店は南の台地の上にある。姉妹と突撃隊は、虹の旗の部隊が展開する北の台地の端に到着した。第三百貨店の壁面は砲弾で穴だらけだった。ビルの陰で、元政府軍軍曹の白髪のレズビアン、古川かおりが姉妹を出むかえた。
「葉郎から聞いた。掩護してやる」古川が簡潔に言った。
「悪いね」姉妹は感謝を込めて言った。
「ミョンボには通信手段がないんだろ」
「ない」
「おまえたちが突入することも知らない」
「その点が不安だ。同士討ちの怖れがある」
古川が部下に小型のラウドスピーカーを持ってこさせた。使う場面があるかもしれないと思い、姉妹はそれを借りた。集結したパンプキン・ガールズは、死者、負傷者、伝令などで人数が減り、二十二人だが、主力は厳しい軍事訓練をうけた精鋭だった。姉妹は古川と突撃隊に作戦を説明した。ヨンジンが突入部隊への参加を強く訴えた。十七歳はじゅうぶんに残酷な年齢だった。姉妹は訴えをあっさり聞き入れ、予備のAKをヨンジンに与えた。
「ミョンボは小燕ほどのタマじゃない」姉妹は最後に短い訓示を与えた。「だけどミョンボは、我々の武装化の最初の一歩を手助けしてくれた恩人だ。その恩に報いるときがきた。命が惜しいやつは、いまここで立ち去れ。おまえたちにはその自由がある。話は理解できたか?」
「オーケー」アイコと十九人の突撃隊員が言った。
姉妹は葉郎に無線連絡して最終確認をした。突入の際の掩護射撃以外の攻撃は、いっさい禁止。姉妹の音信が五分以上途絶えるまでは、その約束を厳守すること。
パンプキン・ガールズの三班編成の突入部隊が陸橋の北側で配置についた。陸橋は第三百貨店の二階のエントランスに通じている。姉妹は手信号で古川に準備完了を告げた。古川の号令で虹の旗の部隊がいっせいに射撃をはじめた。第三百貨店の窓、壁の穴、エントランスの奥へ、小銃弾、12・7ミリ弾、グレネード、ロケット弾が襲いかかった。激しい攻撃をうけた敵は沈黙した。古川がエントランスへの攻撃を停止させた。
姉妹は一瞬、空を見あげた。抜けるような晴天だった。明甫を救えるか、犠牲者を多数出して愚かな司令官だと嘲笑《ちようしよう》されるか。どのみちすべての決断は博打《ばくち》だと思った。
「GO! GO! GO!」姉妹は叫びながら走り出した。
姉妹とヨンジンをふくむ一班八人が、陸橋を駆け抜けて第三百貨店の二階のエントランスに突入した。二班の突撃隊七人、アイコが率いる三班八人がつづいた。
内部は薄暗い迷路だった。元は小規模なスーパーマーケットで、難民が不法占拠したのち、でたらめな増改築を重ねて、複雑な階層を持つ商店街をつくりあげた。姉妹の一班は、視界のなかのすべての通路、店舗の内部、暗がりへ向けてAKを連射しながら左側の壁ぞいをすすんだ。二班がそのあとにつづいた。アイコの三班は、退却路を確保するためにエントランスにとどまり、右側の壁ぞいの敵を掃討した。
敵が見えても見えなくてもAKを撃ちつづけた。通路や店舗の内部は、衣料やバッグや靴や人間の肉体の一部が散乱していた。そこへ敵のあたらしい死体が転がった。壁ぞいの二ヵ所の銃座の敵を殲滅《せんめつ》した。前進して正面の壁に突き当たった。一班の突撃隊員一人が、腹を撃たれて床に尻《しり》を落とし、痛みに耐えかねて泣きわめいた。瓦礫《がれき》の山の陰に引きずって寝かせた。いまはそれ以上のことはしてやれなかった。右に短い階段がある。その奥のスペースへ、二班がグレネード弾を数発、叩《たた》き込んだ。爆風がおさまった瞬間、姉妹と一班は駆けあがって中三階に出た。激しい銃声がひびいた。暗がりから炎を曳《ひ》いて敵の銃弾が襲いかかった。左にすぐ狭い階段がある。それをあがって、通路を右へ二十メートルほどすすめば明甫の銃砲店がある。一班は階段の壁を遮蔽物《しやへいぶつ》にして防御の態勢をとった。中三階に突撃隊員一人が倒れていた。その子を階段へ引きずりあげた。姉妹は二班へ攻撃命令を出すと同時に、小型のラウドスピーカーを上の階へ向けて、明甫に呼びかけた。二班がふたたびグレネードランチャーで中三階の敵に反撃した。爆発音が連続した。ヨンジンが辛抱できずに階段を駆けあがった。姉妹はAKをかまえて階段をそろりと昇った。
「うつな!」
ヨンジンの声が聞こえた。ぺたぺたと奇妙な足音が近づいた。破壊されたスレートの壁から射す陽の光を背負って、黒い人影があらわれた。右足を引きずっている。両方とも裸足《はだし》で、汚れて、血まみれだった。姉妹は歓声をあげて李明甫に飛びついた。
65
パンプキン・ガールズが確保した二階のエントランスから、虹の旗の支援部隊三十人が第三百貨店に突入した。月田姉妹たちはそれと入れちがいに、負傷者を応急担架にのせて陸橋の北側の攻撃拠点に運び出した。李明甫、小燕派の二人の男、突撃隊員三人が、重傷を負っていた。彼らを虹の旗の車両で府中市の病院に搬送した。
第三百貨店ほか数ヵ所で、富士師団あるいは高麗幇幹部連合の残党がなおも抵抗をつづけたが、それらの戦闘地域以外では、祝砲が鳴りはじめた。姉妹とパンプキン・ガールズは、葉郎の要請をうけて、府中市からトラックをあつめ、負傷者の輸送にあたった。吉林市場のメインストリートに長い車列ができ、路地から死体と負傷者がつぎつぎと運び出された。午前十時四十分ごろ、第三百貨店の敵二十数人が降伏して、二十二時間にわたる激戦にピリオドが打たれた。
姉妹は渤海ホテルの小燕と短く交信した。
「我々は撤収する」姉妹は言った。
「桜子、椿子、感謝の言葉が見つからない」小燕が言った。
パンプキン・ガールズはパルテノン地区に帰還した。損害は、死者十一人、重軽傷者三十四人。十一の遺体を吐蕃ビルの一階フロアにならべた。ビリィと万里が手分けして死者の家族に連絡した。吐蕃ビルの防衛には、府中市からあらたに支援に駆けつけたトラック・ドライバーの戦闘部隊四十人があたり、吉林市場の戦闘参加者全員に休息が与えられた。
月田姉妹は四階のテラスでコーヒーをゆっくり飲んだ。アイコが二人分のレーションを持ってきた。空腹は感じなかったがレーションの封を切った。チョコレートクッキーと桃の缶詰を食べおえると、まぶたが重く降りてきた。椅子に腰をかけたまま、まどろみかけたとき、南野地区の自警団から、富士師団に異変が起きたことを知らせる無線連絡が入った。
「てきがこっちへあるいてくる!」
姉妹は屋上へ駆けあがって双眼鏡をのぞいた。鎌倉街道に長い隊列が見えた。シティの方角へ、白旗をかかげた兵士の列が徒歩でのろのろと行進してくる。砲弾の炸裂《さくれつ》音は聞こえず、視界のなかで炎はあがっていない。姉妹は海人に電話をかけて、なにが起きたのかを訊《き》いた。偵察隊を出したところだという返事だった。電話を切ってすぐ、常陸軍の装甲車と軍用トラックが逆方向へ向かった。装甲車の上で外国人部隊の兵士が小銃を空へ撃つと、投降する兵士が両手を振り歓呼の声でこたえた。数機の哨戒ヘリがシティの上空を通過して南へ飛んでいった。鎌倉街道ぞいに展開した富士師団の一部が自壊をはじめたことは明らかだった。祝祭の気分はパルテノン地区に伝染した。街のいたるところで陽気な銃声がひびきはじめた。アイコと突撃隊は、吐蕃ビルのテラスから公園の方へ走り出し、飛び跳ねながらバンバンと景気よく撃った。
やがて富士師団の全軍がコントロールを失っていることが判明した。正午すぎ、鶴川街道の真光寺地区で、ホウの外国人部隊と対峙《たいじ》していた富士師団の二個大隊が投降をはじめた。それをうけて、常陸軍司令部は、川崎市多摩区の富士師団司令部に対する攻撃命令を出した。吉林市場の北端からボリス・ハバロフの孤児部隊一個大隊が、南端から女の部隊一個大隊が、東へ進撃した。外国人部隊二個大隊も稲城大橋を南へ渡った。全戦線で、富士師団九千人が武器を捨て、投降するか、逃げ出した。午後一時までに、常陸軍は抵抗をうけることなく富士師団司令部を占拠した。
サザンタワー・ホテルの常陸軍司令部で、姉妹、虹の旗のダイアナ・ダキラ、および自警団幹部は、戦況の説明をうけた。
「ちあんじょうほう局もしょうめつした」と海人が言った。「幹部はぜんいん、にげだした。きつりん市場の勝利が、きめ手になった」
治安情報局の解体に至る経緯が明らかにされた。富士師団の吉林市場への進攻は、治安情報局の最後の賭《か》けだった。常陸軍とその同盟軍が決定的な勝利をおさめたことで、富士師団の壊滅が時間の問題になり、和平に向けた動きが加速した。夜明けから間もない時刻、横田基地で、軍事評議会が治安情報局の解体をうけ入れ、ただちにそれを六本木《ろつぽんぎ》の治安情報局に通告した。治安情報局幹部はいっせいに姿を消した。治安警察幹部と富士師団幹部将校も指揮を放棄して逃げ出した。あとは自壊するだけだった。
「東京UFが横田基地の会議に参加したっていう情報があるけど」ダイアナ・ダキラが訊いた。
「そのじょうほうはかくにんしてる」海人が明言した。
シティ西部で和平への期待がいっきにふくらんだ。街が活気づき、戦闘員の表情がやわらいだ。その一方、吉林市場で徐雷の十七歳の長男と幹部連合二十数人が処刑された、とメディアが報じた。姉妹は海人といっしょに常陸軍司令部のTVを見つめた。吉林市場のメインストリートの十字路の陸橋に、遺体が五つ吊《つ》るされ、風に吹かれていた。姉妹は胸を痛めながら思った。もう一人の十七歳、ヨンジンも報復に参加したのだろうか。小燕は、苛烈《かれつ》な懲罰を科さなければ、あるいは部下の報復心を満たしてやらなければ、高麗幇をまとめ切れないのだろうか。
「残忍な事件だ」姉妹は陰鬱《いんうつ》な気分を引きずったまま言った。
「戦争だからね」海人が疲れきった顔と声で言った。
モーセ=2月運動は、状況を見極めようとしているのか、終日、なりをひそめた。パルテノン地区は戦勝気分にうかれ、いくつかのナイトクラブが営業を再開した。万里が地下銀行から現金を引き出し、戦闘参加者に特別手当を支払った。女の子たちは交代でひさしぶりに街へくり出した。姉妹が葉郎をナイトクラブに誘って一杯やっていると、謝花ひなびが電話をかけてきた。
「チャンホが寝込んじゃった。熱が三十九度もあるの」ひなびが言った。
「感染症かなにか?」姉妹は訊いた。
「小燕派の報復を見たのよ。たぶんそのせいだと思う」
「ああ」姉妹はせつない声をもらした。「なんてまともなやつだ。抱きしめてやりたい」
66
東京UFは、治安情報局と富士師団の崩壊によって、軍事評議会内部の同盟者を失った。妥協するタイミングだった。アメリカ政府の要請をうけて、東京UFの最高幹部が、横田基地の交渉の場に臨み、モーセ=2月運動との関係断絶、および高麗幇の覇権争いへの不介入を宣誓した。だが常陸軍が聖ヶ丘パークの利権を死守する姿勢を崩さなかったため、会議はふたたび紛糾した。アメリカ政府が府中基地に対するミサイル攻撃をほのめかしたが、常陸軍は脅しに屈せず、強硬姿勢を貫いた。けっきょく東京UFはさらに譲歩を余儀なくされ、聖ヶ丘パークの利権を断念した。日付が変わった三月九日の早朝、和平のための予備交渉は基本的な合意に達した。イヴァン・イリイチは、信州軍の首都進攻を阻止するために、ただちに外国人部隊四個大隊三千人を甲府戦線に急派した。
三月十一日、港区のアムールホテル東京で本交渉がはじまった。交渉には、四つの軍の代表者ほか、経済人、知識人、亡命政治家、元首相夫人が率いる国内の反軍政グループ、および北海道政府もオブザーバーの資格で参加した。
四軍は基本的にアメリカ政府主導の会議運営を容認した。四日間の会議を経て、三月十四日、暫定統治評議会が発足した。議長に就任したのは、サハリンの石油・天然ガスの権益の三十パーセントを保有する多国籍企業の元幹部の四十九歳の男で、アメリカ政府の中枢と深いつながりがあった。
二十五人の閣僚のうち民間人が二十一人、軍関係者はわずか四人だった。国防大臣に仙台軍司令官が、内務大臣に宇都宮軍司令官が、首都圏特別州担当大臣に旧軍事評議会議長が就いた。常陸軍は民族問題担当大臣のポストを獲得し、イリイチの腹心で日本国籍を持つ朝鮮族の大尉を送り込んだ。
和平プログラムは三つの段階に区分された。まず、北海道をのぞく地域を十二の州に分けて、一年以内に各州に暫定州政府を発足させる。つぎの半年で、州代表者で構成される暫定政府を発足させる。この暫定政府は、北海道政府と共同で、一年後に総選挙をおこない、制憲議会をつくる。諸勢力の武装解除に関しては、憲法制定後に二十万人規模の国軍を創設すると記されただけで、具体的な言及はなかった。
暫定統治評議会発足を伝えるTVニュースを、月田姉妹は吐蕃ビルで見た。
「ほんとうにせんそうはおわるの?」アイコが訊いた。
「首都圏はいくらか安定するだろうね」姉妹は言った。「でも暫定統治評議会っていうのは、しょせん四つの軍隊による首都圏の分割統治を追認することだからね。全国の戦況はまたべつの話だ。司令官は部下を食わせなくちゃならない。食わせるためには戦争を継続しなくちゃならない。雇用の創出とは戦争の創出であるという、我が国の産業構造が変わらないかぎり、おろかな戦争はまだまだつづく」
「桜子と椿子の言い方はよくない」ビリィが抗議する口調で言った。
「どこが」姉妹は訊いた。
「ちっちゃな希望さえも、いちいち打ち砕こうとする」ビリィが言った。
「現実を率直に話してるだけさ」
「悲観的すぎる」ビリィは首を横に強く振った。「首都圏の和平成立は全国に影響を与えるはずよ。みんな戦争はもうまっぴらだって思ってるから、日本全国で戦争をおわらせるのも夢じゃない」
その後の展開は、姉妹をおどろかせたのだが、アイコの希望をかなえ、ビリィの分析の正しさを証明するものになった。暫定統治評議会が、戦闘行為の即時停止を全国に呼びかけると、各地で呼応する動きがはじまった。それをメディアが人々の歓喜の声とともに連日伝えた。三月十七日、もっとも凄惨《せいさん》な戦闘がつづいていた南九州戦線で、各武装勢力が停戦を宣言した。十八日、東海軍と暫定統治評議会が、二十日には、イリイチの仲介により信州軍と甲府軍が停戦で合意した。
兄の葬儀のあと、パルテノン地区のホテルで和平の成り行きを見守っていた藤井尚は、二十日の夜、百人の部下に資産を分配して部隊を解散させた。
二十三日、常陸軍五千人と、自警団から市民防衛隊に名称変更した武装民兵二万二千五百人が、シティ西部の日本人居住区で武装解除をはじめた。一軒ずつ家捜しをするという、神経をすり減らす困難な作業になった。銃撃戦が頻発した。二十五日、暫定統治評議会民族問題担当大臣が人種差別禁止令を発令した。同日、常陸軍が大臣令にもとづき、モーセ総合病院と十一のモーセ学園と三つのモーセ孤児院で、医師と看護師をのぞく多数の教職員を拘束し、多摩川上流の訓練基地へ連行した。モーセ理事会がただちに抗議声明を発表し、永山地区のモーセ学園グラウンドでは一万五千人規模の抗議集会がひらかれた。第二次九竜暴動発生時にくらべると、モーセの動員力は格段に落ちていた。危惧《きぐ》された大規模な衝突には発展せず、モーセの抗議行動は数日で終息に向かった。二十九日、桜ヶ丘地区で小戦闘があり、高橋・ガルシア・健二が常陸軍に拘束された。その情報を入手した姉妹は、海人にかけあって、捕虜収容所での特別待遇を健二に与えることを約束させた。その日を境に武力抵抗も急速に衰えた。常陸軍報道官は定例の記者会見で、2月運動の主力はすでにシティから脱出した模様だと述べた。武装解除は、小銃一万三千丁、ロケット砲五百門、大量の弾薬を回収して、十一日間で終了した。
67
月田姉妹はンガルンガニの事務所の廊下で待った。壁に志願兵募集の新しいポスターが貼ってある。〈ンガルンガニ全国委員会〉の文字。窓の外へ眼をやった。最後の桜の花びらが静かに散っている。銃声も砲声も聞こえない。森まりの部屋からアフリカ系の若い女が出てきて、姉妹に小さな笑みを投げ、階段へ向かった。森が姉妹を部屋に招き入れた。
「葉桜の季節になっちゃったね」姉妹は言った。
「来年はのんびりお花見しようよ」森が椅子をすすめた。
「いまから佐々木|兄妹弟《きようだい》とお茶を飲むんだ」姉妹は立ったまま言った。
「メグとリュウもくるの?」
「くるよ。いっしょにどう?」
「いきたい」森が眼を輝かせた。
森は恵と隆に会ったことがなかった。
「すぐ出られる?」
「五分ぐらい遅れるけど」
馬場大門けやき並木をはさんで、ンガルンガニの事務所の斜め向かいにあるカフェの名前を告げた。
「ンガルンガニの全国組織ができたの?」姉妹はドアノブに手をかけて訊いた。
「かたちだけは」
「性的マイノリティの政治勢力の結成を目指すわけだ」
「武装化をすすめつつ」森が強調した。
「戦争はもうまっぴらだけど、武力闘争ははじまったばかりだ」姉妹は同意を示して言った。
「きょう武器を捨てれば、明日には虐殺されるっていう現実があるからね」
その事情はパンプキン・ガールズも同じだった。姉妹は森の部屋を出た。ロレッタ・ラウが階段をあがってきた。スウェット・シャツにスカートという装いだった。ロレッタが無言で姉妹の手をにぎり、べつのドアに姿を消した。
姉妹はアイコと数人の突撃隊を連れて、馬場大門けやき並木を斜めに横切った。風が桜の花びらを舞わせた。カフェのテラスで恵が手を振った。春のブラウスを着た彼女はまた一段ときれいになっていた。背中を向けていた隆が振り返って、照れくさそうな笑顔を見せた。海人の姿はなかった。姉妹はウエイトレスにコーヒーを頼んだ。
「おれたちはオーストラリアへ留学するかもしれない」隆が思案する口ぶりで言った。
「カイトの考えか?」姉妹は訊《き》いた。
「そうよ」恵が言った。
「またカイトに捨てられるって思ってるのか?」姉妹は隆に訊いた。
「おれはもうそんなガキじゃない」隆が唇を尖《とが》らせた。
二ヵ月後に、隆は十五歳、恵は十七歳になる。異国の留学生活に耐えられるだろう。アメリカもヨーロッパも人種暴動の嵐が吹き荒れ、先進国のなかで、オーストラリアは比較的、治安が安定している地域だった。
「いって、勉強してこい」姉妹は言った。「首都圏はいつ戦争が起きても不思議じゃない。おまえたちが留学すればカイトも安心できる」
「あいつは常陸に帰るってさ」隆が言った。
「常陸市駐屯部隊の司令官に就くのよ」恵が言った。
「嘘だろ」姉妹はいぶかった。「カイトは孤児とンガルンガニの混成部隊の実質的な司令官だ。部隊の交代はありえても、司令官が務まるのはあいつだけだ」
「白川少佐の許可が出たって」恵が言った。
「そうか」姉妹はまだ信じられなかった。
「カイトは大家のおばちゃんと結婚するんじゃないのかな」隆が言った。
「ばかなこと言わないで」恵が強い口調でさえぎった。
「竹内里里菜に嫉妬《しつと》してるのか」姉妹は恵の反応に笑った。
「おばちゃんはすてきな人よ。尊敬できる人よ。だけど歳の差がありすぎる」恵が言った。
「年齢差別だよ、それは」姉妹はおもしろがって非難した。
恵がめずらしく頬を紅潮させて言いよどんだ。隆がゴールデン・ユニコーンの方角へ手をあげた。海人と雅宇哩が恋人同士のように肩をならべてあらわれた。海人はセーターとワークパンツ。雅宇哩はジャケットと細身のブルージーンズ。周囲にさりげなく数人の護衛が散開している。どこかでふいにサイレンが鳴った。姉妹は頭をめぐらした。どんどん近づいてくる。けやき並木の向こう側で衝突音と叫び声が聞こえた。椅子から腰をうかせた。ンガルンガニの事務所の南側の路地の奥に将校用レストランがある。路地の入口は、以前は装甲車が封鎖していたのだが、暫定統治評議会の発足以降は武装兵士が進入する車のチェックにあたっているだけだった。その路地からビーコンを回転させて救急車が猛スピードで飛び出してきた。左へ急ハンドルを切り、路上駐車していたヴァンのリアを引っかけ、くるくると回転した。その横腹に南から走ってきた乗用車が衝突した。斜めに停止した救急車の運転席から人影が飛び降りた。
「ふせろ!」海人が叫んだ。
姉妹がカフェの床に伏せると同時に大地が揺れた。混乱した耳に爆発音は聞こえず、地面から衝撃がからだを突きあげた。将校用レストランがあるあたりで巨大な火柱があがり、ンガルンガニの事務所の南の路地を吹きぬけた爆風が、馬場大門けやき並木に襲いかかった。瓦礫《がれき》や鉄片が降りそそぎ、灰色の粉塵《ふんじん》で視界が閉ざされた。姉妹は床に伏せたまま恵と隆の名前を呼んだ。人々の叫びで自分の声も聞こえなかった。そこで二度目の爆発が起きた。灰色の粉塵を透過して、救急車が吹き飛び、ンガルンガニの事務所が赤い炎に包まれるのが見えた。
彼女は後頭部で人間のやわらかな肉を感じた。誰かが折り重なっているのだと思った。首をねじりながら頭を抜くと、上になっていた人間の顎《あご》が路面に衝突し、そのごつんという音に、彼女は胸を締めつけられた。視界を閉ざしていた粉塵が拡散していく。両腕で胸になにかを抱え込むようにして、短めのボブを栗色に染めた女の子がうつぶせに倒れている。薄いブルーのセーターに白いコットンパンツ。自分と同じ装いだった。彼女はその子の両脇に手を差し込んでからだを起こそうとした。こぼれちゃう、こぼれちゃう、とアイコのふるえる声が背後で聞こえた。意味がわからなかった。動かすなと厳しい声。雅宇哩だ。むき出しの頭蓋骨《ずがいこつ》に眼をとめた。脳みそがこぼれかけていた。すばやくそれを指ですくってもどした。内容物がこぼれないように、頭を両手ではさみつけた。倒れたテーブルの陰から、恵と隆が、粉塵で汚れた顔をのぞかせた。怪我はないのかと彼女は訊いた。二人はこたえずに、彼女が保持している頭部に視線をそそいだ。
「どっちなんだ」隆が眼を吊《つ》りあげて訊いた。
彼女は言葉につまった。周囲の呻《うめ》き、叫び、怒声、どたどたと走りまわる靴音、無線で救急車を呼ぶ海人の声が、くっきりと聞こえる。女の子の首筋から噴き出した血が自分の手や腕を濡《ぬ》らしていく。意識は明瞭《めいりよう》だった。だが自分が桜子なのか椿子なのかわからなかった。恵が、頭蓋骨にハンカチをかぶせ、それから彼女の顔の汚れを手でぬぐった。
「椿子、だいじょうぶ?」恵が彼女の眼を見て訊いた。
「あたしが椿子?」彼女は混乱した。
「ああ」恵が悲痛な声をもらした。
「自分が誰なのかわからない」彼女はうろたえて言った。
「頭がおかしくなってる!」隆が叫んだ。
「衛生兵をよんだ! 桜子をうごかすな!」海人が怖い顔で言った。
68
仲間から〈死体屋〉と呼ばれる突撃隊の女の子が埋葬をとり仕切った。色白のほっそりした二十二歳の日本人の元看護学生で、〈人体ショップ〉で二年間はたらいた経験があった。人体ショップとは、購入した新鮮な死体をパーツに分け、冷凍保存して海外の医療関連企業に転売するビジネスである。
多摩川上流のパンプキン・ガールズの共同墓地へ、質素な木製の棺《ひつぎ》が運び込まれた。棺のなかで、いつものカジュアルな装いの桜子が眠っていた。死体屋がきれいに化粧して、顔には傷一つなく、頭部の損傷は白い花々で隠されていた。棺を八十人ほどの参列者が囲んだ。アイコと突撃隊、万里とドライバーの戦闘部隊、ビリィ、謝花ひなび、李賛浩、李明甫、小燕、ダイアナ・ダキラ、藤井尚、イズール・ダニエロヴィッチ・デムスキー、イヴァン・イリイチ、白川如月、葉郎、クワメ・エンクルマ、雅宇哩、佐々木海人、恵、隆。
森まりの姿はなかった。頭も手も足も飛び散ったのか、崩壊したビルに埋まったままなのか、森の死体は回収できず、奇跡的に無傷で生還したロレッタ・ラウが代理として参列した。
将校用レストランとンガルンガニの事務所に対する爆弾テロで、九十三人の死亡が確認され、犠牲者はさらに増えると思われた。常陸軍は、2月運動による犯行と発表したが、まだ実行犯の特定に至っていなかった。
恵と隆が棺にすがりついて慟哭《どうこく》した。椿子は海人に肩を抱かれて、突撃隊が棺を担いで穴の底に降ろすのを見守った。昨日の午後、二回目の爆発で桜子が倒れたときから、涙は一滴も流れなかった。暑さ寒さも空腹も悲しみも感じなかった。危機のただなかにいる自覚はあったが、いぜんとして、死んだのが桜子で、生き残った自分が椿子であるという実感は希薄だった。
死体屋が薄い胸に両手をそえて別れの言葉を告げた。
「死んじゃえば人間はたんなるパーツである。八百ドルの眼球である。千五百ドルの肝臓、四百ドルの腎臓《じんぞう》、七百ドルの心臓弁、あるいは五百ドルの脳下垂体である。新鮮ならそこそこの商品になる。腐乱した死体の経済価値はゼロだ。残念ながら霊魂は存在しない。じゃあね、桜子、バイバイ」
椿子は死体屋にうながされてスコップをにぎった。足もとがふらつくようなことはなかった。いったん背筋をぴんとのばし、青い空をあおぎ、短く息を吐いた。意思は手のひらに、肘《ひじ》に、膝《ひざ》に、足の裏に、きびきびと伝わった。美しいフォームで投げ込まれた儀礼的な最初の一塊の土が桜子の棺のふたに降りかかった。森の奥で鳥が一声鋭く鳴いた。
角川文庫『裸者と裸者(下)』平成19年12月25日初版発行