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ちょっとそこまで
川本三郎 著
目 次
温泉一人旅のすすめ
小旅行記[#「小旅行記」はゴシック体]
ちょっとそこまで
上諏訪・飯田
房総・外川
湯河原・真鶴
蒲郡・吉良
越前・三国
日光・今市
水郡線の旅
余呉湖
養老渓谷から勝浦へ
甲府から下部温泉へ
寺泊から出雲崎へ
温泉紀行[#「温泉紀行」はゴシック体]
知床秘湯めぐりの旅
壁湯岳の湯一人旅
*
町内散歩者のはかない夢 つげ義春について
下町散策[#「下町散策」はゴシック体]
東京の下町、ニューヨークの下町
谷中周辺悠遊記
入谷の朝顔市
人形町ウィークエンド
麻布の温泉
『隅田川暮色』そのほか
グリーン・ウォッチングの楽しみ
東京の「隠れ里」
「埋立地」への旅
「ガード下」の町、有楽町
変貌する街、東京
異邦の旅[#「異邦の旅」はゴシック体]
ブダペストの五日間
インド洋の城塞の島、ニアス島
旅の贅沢[#「旅の贅沢」はゴシック体]
おいしいものが食べたくて
豆腐好き
粟島のタイ
赤城しぐれ
小諸そば
駅弁
その、ビール一本
温泉という名の桃源境
日本秘湯一人旅
浅草経由温泉行き
小さな桃源境
温泉趣味の深い奥
道南の秘湯めぐり
寅さんも旅した奥尻島
港の見える神威脇温泉
海の音聞く幌内温泉
清流に沿う見市温泉
どこまでも続く緑の中を
SF的!? 二股ラジウム温泉
北斗七星を美利河より望む
あとがき
文庫版 あとがき
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ちょっとそこまで
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温泉一人旅のすすめ
数年ほど前から温泉一人旅が病みつきになり暇を見つけてはデイパックにタオルを突っ込んで草鞋《わらじ》を履く。行く先は露天風呂のあるひなびた秘湯である。一人旅だからなるべく団体客の多いところは避けたい。
遠いところでは知床《しれとこ》半島の岩尾別《いわおべつ》温泉とカムイワッカの滝(ここは滝がお湯の滝で滝壺が天然の風呂になっている)、九州・阿蘇山系の中の岳《たけ》の湯と|※[#「山+亥」、unicode5cd0]《はげ》の湯、種村季弘さんのお伴で行ったやはり阿蘇山麓の垂玉《たるたま》温泉と地獄温泉、そして近いところでは伊豆の大滝《おおだる》温泉と身延《みのぶ》線沿線の低温湯で知られる下部《しもべ》温泉……。なんだかここにこうして温泉の名前を書き記しているだけでお湯の温かさ、湯上がりのビールのうまさ、一人寝で聞く宿の裏のせせらぎののどかさが思い出され早くも次の旅に出たくなる。
つげ義春のマンガが好きだった。それも世評の高かった実験作『ねじ式』よりも井伏鱒二の世界を思わせるようなのんびりとした『長八《ちようはち》の宿』や『二岐渓谷《ふたまたけいこく》』のような温泉への旅のマンガだった。そしていつか自分もあんなふうに枯れた世捨て人の世界にひたりたいと思った。それでも若いうちは温泉のような老人文化は敬して遠ざける気持のほうが強かった。アメリカだ、アクチュアリティだ、情況だと新しいものばかり追いかけているうちは、ひなびた秘湯のよさはなかなかわからなかったのだ。
それが三十歳も後半になってから温泉が好きになってきた。積極的に考えれば身体が疲れてきて休みを求めるようになったためだろうし、消極的に考えれば、老人文化のあの、情況に左右されない頑固な枯れた味が少しずつわかるようになってきたためでもあるだろう。みんなと一緒ににぎやかに酒を飲むより、一人でしみじみと独酌するほうが好きになってきたのも、温泉に心ひかれるようになった一因かもしれない。
温泉のガイドブックとして愛用しているものは二冊ある。ひとつは日本秘湯を守る会という温泉好きの集りが編集した『日本の秘湯』。日本全国(といっても東日本が中心だが)の秘湯(山の中の一軒宿が多い)が約七十ヵ所紹介されている。『おしん』で有名になった山形の銀山《ぎんざん》温泉とか、「フルムーン」のポスターで有名になった群馬の法師《ほうし》温泉とかも入っているが、たいていはマイナーな、山間の秘湯である。一生のあいだにこの本に出てくる温泉をのんびりと全部まわってみようというのが、私のささやかな夢である。
ガイドブックとして愛用しているもう一冊は昭和五年に大日本雄弁会講談社から出版された上下二冊の『日本温泉案内』。当時すでに約千の温泉が紹介されているから日本の温泉文化の底の深さには驚く。この本を頼りに、群馬県の四万《しま》温泉の露天風呂につかりに行ったことがあるが、周囲の風景が「中之条から吾妻川の支流四万川に沿うて行程四里、四万川の渓流美は清流碧潭奇岩怪石応接に遑《いとま》あらず、殊に秋の紅葉の頃は満渓|悉《ことごと》く火を吐くの美観を呈し」とこの昭和五年の本にあるのとそんなに変わっていないのには感動した。日本の国も少し山の中に入るとまだ手つかずの自然が残っている。捨てたものではない。もっとも四万温泉は吉永小百合が汚れ役に挑んだというので話題になった『天国の駅』のロケ地になったから、これからはもっと観光地化してしまうかもしれない。『日本温泉案内』はまた「温泉」と、いわゆるわかし湯、「鉱泉」をきちんとわけてあるのも有難い。せっかく旅に出るのだからやはりわかし湯よりはちゃんとした温泉を選びたい。もっとも水戸と郡山を結ぶ水郡《すいぐん》線の沿線には成亀《なるがめ》温泉とか猫啼《ねこなき》温泉といった面白い名前のいい鉱泉があるが、どちらも地元の農家の人を相手にした、田圃のなかの温泉である。
知床半島を旅行したときにいちばん感動したのは羅臼の町から約三十分歩いた国道沿いの林のなかにガイドブックにも載っていない露天風呂を見つけたこと。ヒッチハイクしている途中で偶然見つけ、一人ニコニコして湯の中に飛び込んだ。町からずっと離れたところにあるので、地元の人もめったに入りにこないようだった。人の姿がほとんどない林の中で、一人で一時間も遊んだろうか、すっかりいい気分になって湯から上がり、再び国道に戻ったら、地元の人が「あれ、よくヒグマに出くわさなかったね」といったのには肝を冷やしてしまった。
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小旅行記
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ちょっとそこまで
上諏訪・飯田
朝、新宿をたって中央本線で約三時間、昼過ぎに信州|上諏訪《かみすわ》に着いた。十一月の末、さすがに空気は冷たく、股引《ももひき》をはいてこなかったことを後悔する。
上諏訪はなんといっても湯の町。湯量は日本でも一、二を争うとかで、駅の洗面所の蛇口からもお湯が出る。町を歩くといたるところから白い湯煙があがっている。通りのすみのドブからも湯気があがっているのはなんとも贅沢《ぜいたく》なながめだ。
駅前のそば屋で腹ごしらえをし、とりあえずタクシーで諏訪湖に出てみることにした。客待ちの空車がズラリと並んでいるところをみると景気はあまりよくないようだ。この町で生れて育ったという若いタクシーの運転手は「諏訪じゃたいていの家は温泉をもってる」と自慢した。
諏訪湖はオフシーズンで人の姿はまばらだった。湖の上をからっ風が吹いて寒くて仕方がない。湖岸の旅館街も閑散としている。これなら予約なしで、どこでも泊めてくれそうだ。上諏訪は湯の町といっても熱海や伊東とはまるで違う。一歩、旅館街をはずれるともうふつうの町だ。城下町だったためか古道具屋が目につく。道路に野沢菜《のざわな》を並べて干している家が多い。なんだか全体にのんびりしている。はじめての町なのでともかくひたすら歩くことにする。
私はお風呂が大好きである。温泉となると湯煙を想像しただけでワクワクしてしまう。つい一ヵ月前も友人のジャズ評論家、青木和富君と二人で伊豆の大滝《おおだる》温泉に行き、滝の下の露天風呂に入ってきたばかりだ。青木君とは二ヵ月に一回、温泉旅館に行く約束になっている。狭いマンションの風呂(というより洗い場)にばかり入っていると、たまにドーンと大きな風呂に身を沈めて風呂の窓から山や海を眺めたくなるのだ。尾辻克彦の小説が好きなのも、つげ義春のマンガが好きなのも、彼らの主人公がしょっちゅうお風呂や温泉に入っているからである。
町をぶらぶら歩いていたら橋のたもとに風呂屋があった。しめたと思ってなかをのぞくとこれが町内会の共同風呂。入口にいたおやじさんに「旅行で来てる者だけど入っていい?」と聞くと、おやじさんは妙な野郎だという顔をして「風呂に入りたきゃラドン館に行きなよ」という。ラドン館? 何それ? ゴジラの仲間のラドンとお風呂がなんの関係があるんだろうと思ってよく聞くと――。
怪獣とはなんの関係もなくて化学元素のラドンのこと。ラドン館とはそのラドンの効き目あらたかな温泉だそうである。
おやじさんに教えられてそのラドン館に行ってみると、そこはこの土地の繊維財閥片倉一族が昭和の初めに建てたという明治風の建物。上諏訪の鹿鳴館と呼ばれるほどの古い由緒あるものだ。そこがラドン温泉の公衆風呂になっている。さすが湯の町である。
さっそく入浴料二百五十円也を払ってなかに入った。洋風の建物のせいかフェリーニの『81/2』に出てきた湯治場みたいだ。風呂は千人風呂と呼ばれるだけあってちょっとしたプールみたいに大きい。それに深い。ゆうに一メートル以上ある。だからみんな立って入っている。さらに変っているのは、風呂の底に小砂利が敷いてあること。川原の露天風呂に入っているみたいである。窓からは諏訪湖も見える。たださすがに客は老人ばかりで若いのは私ともう一人、クリカラモンモンのヤクザらしいおアニイさんだけ。
ラドン館のそばに湯の町らしく一軒だけストリップ小屋があった。春日部ミキとかブラウン・マキとか大月ゆかりとかそれらしい名前が並んでいる。ただ看板はけばけばしくなく、ちょっと見た目にはとてもストリップ小屋には見えない。
上諏訪の町には映画館が二軒あった。邦画専門の花松館と洋画のシネマレイク。花松館のほうは大正三年に芝居小屋として発足したというから歴史は古い。土台に栗の木を使っているのが自慢である。創業者は大工の花五郎で、その奥さんが松、それで花松館になったという。そうとうくたびれた映画館で切符売り場のおばさんも「嫌な商売だねえ」と元気ない。「あんた映画評論家なら映画会社に『君の名は』みたいな儲かる映画作るようにいってよ」
シネマレイクのほうは上諏訪の歓楽街にあって花松館よりは活気があった。若い支配人は商売に積極的で、東京に事務所がわりにマンションを持っていてしょっちゅう東京に行ってはフィルムを自分で選んでいるという。ちょうど私の行った日は土曜日だったが、地方都市にしては珍しくオールナイトをやっていた。田中裕子の出ている『北斎漫画』と、『白日夢』だったので夜中に宿をぬけ出して見に行った。場内は結構、若い二人連れや中年の二人連れで混んでいたのには驚いた。十八歳未満らしいワルガキもたくさんいた。
夕方、町をまたぶらぶらしていたら「蝶の館」という新しい喫茶店があった。名前が名前だからきれいどころがそろっているのかとなかに入ったら、文字どおりの蝶の館で壁に蝶のコレクションがたくさん並んでいる。聞けばおやじさんの趣味だという。なかは十人も入ればいっぱいになりそうな小さな店。お客は残念ながら私一人。なんでも開店三日目だそうだ。カウンターにすわってコーヒーを注文しながらおやじさんにいろいろ聞いてみると、今年六十四になるというこのおやじさんは銀座の資生堂で二十年洋食のコックをやったあと、故郷の上諏訪に戻って旅館でまた十数年和食の修業、今年ようやく独立してこの店を持ったという。
「いまそこの『白日夢』をやっている映画館に行ってきた」といったら、おやじさんが「ああ谷崎潤一郎のね」と答えたのには驚いた。そういえば『白日夢』の原作は谷崎だったと、そのときはじめて私も思い出した。おやじさんは蝶というのは一匹二匹ではなく一頭二頭と数えるのだとも教えてくれた。
昼間ラドン館で暖まったあと寒風のなかを町じゅう歩きまわったので、鼻水が出はじめた。こうなるとやはりコーヒーよりお酒だ。「蝶の館」を出ると日も落ちてあちこちに赤提灯《あかちようちん》がともり始めている。野沢菜で熱燗を、美人のお酌でと油紙に縄《なわ》暖簾《のれん》の居酒屋に入ったら、入口のところにベビーベッドがあってそこに赤ん坊が寝ているというなんとも所帯じみた飲み屋だった。若夫婦が二人でやっている。おかみさんは美人なのだがちょっとでも手がすくと赤ん坊のところにいっておしめをかえたりあやしたりしている。客もみんな「可愛い、可愛い」とお世辞をいっては育児談義に花が咲く。子どものいない私としてはすっかり悪酔いしてしまった。
翌日、飯田線に揺られて飯田市に行った。ここは七年ほど前、藤田敏八監督、永島敏行、江藤潤主演の『帰らざる日々』という青春映画の舞台になったところだ。この映画は地方青年の夢と挫折を描いた傑作で、とくに舞台になっている天竜川沿いの町飯田の風景がよくて、前から一度来たいと思っていたのだ。
上諏訪から飯田までならせいぜい一時間ちょっとぐらいだろうと軽く考えていたのが失敗して、昼過ぎの汽車に乗ったら着いたのはもう四時。山あいの町はすでに薄暗くなっていて、天竜川の流れるあたりを見下すと夕闇のなかあちこちに焚火《たきび》の煙が白くたなびいていた。上諏訪で見たのは白い湯煙だったがこの飯田の白い煙は畑で枯葉を焼く煙だろう。
飯田市の映画館は二軒四館(一軒のなかが二つの映画館になっている)。町なかの中央劇場、名画座と町はずれの常盤座第一、第二。町なかのほうは『謀殺・下山事件』という糞真面目《くそまじめ》映画(たしか監督の熊井啓は長野県出身だ)と洋ピン(ポルノ洋画)。常盤座のほうは『愛と哀しみのボレロ』と『典子は、今』というこれまた真面目な映画をやっている。残念ながらどの映画も私としては見る気がしない。
それで町なかにあった屋上展望風呂つきというビジネスホテルに部屋を取りさっそくその風呂に入りに行ったが、ラドン館とは比べものにならないくらい貧弱な風呂だった。部屋に戻ってふとテレビを見るとポルノビデオがセットしてある。百円玉六個入れると白川和子主演のポルノが始まったが、三十分に短縮したものでなにがなにやら話がさっぱりわからない。さっきまで大ゲンカしていた男と女がもう次の場面でくんずほぐれつやっている。なんとも珍妙な映画だった。
飯田の町も城下町で、通りはいちおう碁盤の目になっている。銀座もある。リンゴ並木もある。伝馬町もある。江戸町なんていうのもある。「蘭峰屋」という喫茶店があったのでなかに入ったら地元の若者たちの溜《たま》り場という感じのはなやいだところ。あちこちアベックだらけ。暗い隅っこで若い二人が仲良くやっていて一人旅の身には面白くない。早々に切り上げ、その並びの「カントリー」という西部劇ふうの喫茶店兼飲み屋に入った。こちらはI・W・ハーパーやアーリー・タイムズを並べた大人の雰囲気。若い男の子がひとりカウンターの中で働いている。
ちくわやかまぼこをゴマ油でいためた焼きおでんや干し肉(なんと馬の干し肉だった)はなかなかの味。カウンターのなかにいたバーテンの話だと「ウチはちょっと変わった店だから地元の人より旅の人に喜ばれる」そうだ。思うに、旅に出ると旅行者はどうしてもふるさと幻想があって居酒屋ふう飲み屋に入りたがる。ところがそういう飲み屋に限って地元の客ばかり集まっていて一人旅の者はのけ者にされる。だからそういう旅行者にはこの店のような居酒屋ふうでない飲み屋のほうがいいのである。「カントリー」は椅子がすべてカウンターの止り木でテーブルはひとつもない。徹底した個人用飲み屋である。当然のことながらカラオケもなく、喜多郎やグレン・キャンベルの曲が流れているだけだ。こういう店が地方都市にも出来ているというのは面白い現象だと思う。みんなでワイワイ飲むのでなく、一人しんみりと飲む酒飲みがふえているのではあるまいか。
すっかりいい気分になって、そうなるとまた急に寝る前にお風呂に入りたくなりバーテンに「このへんにいいお風呂屋ない?」と聞いたら、この男の子は「この町にはそんなもんありませんよ」と冷たい答え。どうやら風呂屋を別な方の風呂[#「風呂」に傍点]と思ったらしい。風呂好きはどこまでも孤独である。仕方がないので一軒だけ開いていた雑貨屋で股引を一枚買って暖まることにした。
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房総・外川
十二月の末、千葉に住む友人を訪ねたあと、素敵に天気がよかったので一人で銚子まで足を延ばすことにした。
銚子の先に外川《とがわ》という太平洋に面したひなびた漁村がある。十年ほど前の夏、友人と泳ぎに行って、そのいかにも漁村らしい雰囲気が好きになった。そのことを思い出したのである。
外川に行くには銚子から銚子電鉄というローカル線に乗る。単線を一両だけの電車がゴトゴト走る。ほんとに玩具みたいな鉄道である。江の電をもっと素朴にした感じである。十年前もそうだったが車内の中吊り広告はいまでも手書きである。小学生の絵の展示を見ているみたいな気になる。房総の暖かい日ざしを浴びてこんなのどかな電車に乗っていると、ふっと暮れの忙しさも忘れてしまう。
銚子からゴトゴト揺られて二十分ほど、電車は終点の外川に着いた。十年前とほとんど変っていない。小さな駅を降りると坂の下のほうから波の音が聞こえ、潮の香りがしてくる。よく太った猫がのんびりと線路わきを歩いている。犬が日なたぼっこをしている。この町では犬をつないで飼っているところはほとんどない。道は狭く、海に向かって坂になっているから車などほとんど通らない。
日本じゅうの町がどんどんミニ東京化しているのに、この漁村はウソみたいに昔のままだ。佃煮屋がある、手焼きせんべい屋がある、漁師の家の庭先には井戸がある。どの家も日なたで大根やアジの開きを干している。ここが東京から二時間半で来れるとはにわかには信じられない。
コーヒーを飲もうと思って喫茶店を探したが、だいぶ歩いても発見できない。無論、飲み屋なんか一軒もない。バーやスナックなどある筈もない。人口五千の小さな漁村はあくまでも静まりかえっている。ただ面白いのは床屋がやたら目につくことだ。昔から漁師町は床屋が多いというがここも例外ではない。喫茶店は一軒も見つからないのに床屋はあちこちにある。あとで知ったことだが人口五千の町なのに床屋は九軒もあるという。
気がついたら私の髪はボサボサだ。もう二ヵ月ほど床屋に行っていない。いい機会だと思って、海に下る坂の途中にある床屋に入った。中年のおばさんが切り盛りしている。助手はおばさんの父親らしい老人。椅子は二つ。まず老人がヒゲをあたってくれる。それが終るころを見はからっておばさんが髪を切ってくれる。老人は今度は隣りの客の髪を洗う。交替交替でやっているからなかなか能率的だ。
「ねえ、どうして漁師町には床屋が多いのかな」と聞いたら、マスクをかけてゴホゴホやりながら隣りの客の髪を洗っていた老人が、「そりゃ、お前、みんな散髪するのが好きだからさ」となんだか禅問答みたいな答え。
「なんでかねえ」というおばさんと私が二人であれこれ考えた結果、考えついたのは、一、浮世床と同じで床屋は漁師仲間の社交場であること、二、漁師は陸《おか》にあがると自分の身の回りはなにかと女たちにやってもらいたいからおばさん床屋に行きたくなること、の二つだった。でもこの理由もなんとなくこじつけくさくゴホゴホ老人の「みんな散髪するのが好きだからさ」ほど説得力はない。
漁師が海から戻ってくる。まず散髪して、それから風呂に入って、そして酒を飲む。この気持は私にもわかるような気がする。
おばさんのやってくれたレザーカットはなかなかの出来栄えで、しかも二千六百円と安いのには驚いた。
髪を短くしたので床屋の外に出るとさすがに海からの風が冷たい。雑貨屋で八百円出して毛糸の帽子を買い、また町をブラブラ歩いた。ほんとに小さな、ひなびた町だ。タバコ屋の店先には「警察の命により中・高校生にはタバコを売りません」と張り紙をしているが、店番のおじいさんは背中に孫をおぶってうつらうつらとあくまでのんきだ。
こういうところに来るとなぜか急に買物をしたくなる。毛糸の帽子を買ったのに続いて佃煮屋で貝の佃煮を買い、魚屋でアジの干物を買い、八百屋で赤唐辛子を買い、せんべい屋で手焼きせんべいを買い……そうこうするうちに駅の裏側にやっと喫茶店を一軒見つけた。
外見は湘南海岸にあってもおかしくないようなクリスタルふうだが、なかに入るとテープの演歌が流れていて、スポーツ新聞がドサッと置いてあって、まったくうれしくなるほどダサい店。中年のマスターも白い板前着なんて着て湘南海岸とはほど遠い。コーヒー一杯のところをビールなど注文したら、つまみにゴボウの煮つけを出してくれた。唐辛子がかかってこれがピリッと辛くうまい。
「このあたりはコーヒーだけじゃ商売にならないから、夜は飲み屋に早変りだね」とマスター。
店には近所の商店のおかみさんがコーヒー飲みに来たり、婦人交通警官がトイレを借りに来たり、オートバイに乗った刈り上げ兄ちゃんがマンガ読みに来たりとなかなかにぎやかである。頭をポマードでテカテカにして皮のズボンをはいたツッパリ兄ちゃんがカウンターの隣りに坐ったから、「ヨオ、暴走族の兄ちゃん、ビール一杯どう」といったら「おれは暴走族じゃねえよ」
「お客さん、そりゃないよ。この子はまじめな子でいま板前の修業してるんだからさ」とマスターにも怒られてしまった。
いやそれは申し訳ないとあやまって、またツッパリ兄ちゃんにビールをすすめたら、「オッス! いただきます!」と、コップのビールをひと息で飲んだ。
マスターとポマードテカテカ兄ちゃんはいかにしたらこの町がもっと景気がよくなるかの話をはじめた。聞けばマスターはこの町にスーパーも一軒もっているらしい。しかし若者はどんどん町から出ていって漁師も後継者がいなくて困っているという。マスターはだから町を観光地化したい。テカテカ兄ちゃんはそれに反対する。私も議論に加わってテカテカ兄ちゃんに味方する。
「外川はひなびたところがいいんだからへんに観光地化しないほうがいいよ」
「そりゃまあ東京の人間はそういうけど」
「いまや緑ときれいな海こそが最大の観光なんだよ」
「しかし現実に観光客はこっちに来ないからな」
意見は喰い違いどおしだったが、なんだかこんな話をしているうちにマスターともテカテカ兄ちゃんとも打ち解けてきた。漁師の町の人間は一般に開放的で外からの人間にも気さくだというが、それは本当だと思う。
事実、そのことはあとで民宿に泊ったとき思い知らされた。その晩、私は銚子に戻って映画でも見てバーに行って……と予定していたのだが、マスターがここまで来て銚子に戻ることはない、うまい魚を食べさせる民宿がいっぱいあるというので、マスターに教えてもらった岬の小さな民宿に泊ることにした。
季節はずれなのでお客は私一人だった。はじめ宿のおばさんが私を見るなり、「冬は石油ストーブ代として別に三百円いただきます」といったときは、こりゃ、招かれざる客かなと思ったが大違い。昔、漁師をしていたというおじさん(私が行ったときはすでに日本酒で顔を赤くしていた)もおばさんも実に開放的で面白い人たちだった。
あてがわれた部屋で一人、NHKテレビの『刑事コロンボ』の再放映を見ながら日本酒を飲み、鯛の刺身をつまんでいたらおばさんが、「お客さんよお、よかったらこたつんとこ来ねえか」と誘ってくれた。遠慮なくおばさんの誘いに応じることにした。
おじさんはもうすっかり出来あがっていて、「こんな季節はずれに釣りでもねえのに何しに来た」とさかんに聞く。「こういうひなびた漁村で一人で酒を飲むのが好きなんですよ」といったら、「ここはちっともひなびてなんかいねえぞ」と怒られた。おじさんは、自分の息子は国体の水泳で千葉県の代表で出たこともあると、こんどは息子自慢をはじめる。
お酒を一本追加注文するたびにおばさんが「三百円いただきます」というのにはちょっと閉口したが、陽気なおじさんの昔の漁師時代の苦労話を聞いているうちに、またたくまにピッチがあがってしまった。喫茶店のマスターには夜になったら飲みに行くからと約束していたのだが、この調子ではどうも無理だ。
日本人は大雑把に分けると農民型と漁師型になる。山型と海型といえばいいか。私の場合、たいてい漁師型の人間のほうが性に合う。これまで日本各地をいろいろ旅しているが好きな場所はたいてい港町だ。昔、週刊誌の記者をしていたころ、ちょうど森進一の『港町ブルース』がはやっていたので、デスクにあの歌に出てくる港町をぜんぶルポさせて下さいと提案したことがあったが、それも港町が好きだったからだ。(もっともその提案はデスクによって、「仕事にかこつけて日本中を旅行しようっていう魂胆が見えすいている」といとも簡単に却下されてしまったが)
その晩はすっかり日本酒でいい気分になってしまった。夜、民宿の机に向かって原稿を書こうと思っていたのだがとてもそんな気分ではない。おばさんが客間に敷いてくれたふとんに倒れ込むやぐうぐう眠り込んでしまった。客間の壁にかかっている天皇、皇后のセット写真が不気味にこちらを見下していた。
翌朝、波の音で目がさめた。私が眠った部屋のすぐ十メートルほど先はもう海なのだ。夏に来たらすごくいいだろう。ワカメの味噌汁の朝ごはんを食べ、民宿をあとにした。朝の海岸をカモメがキイ、キイ、ないている。夜の漁からポンポン漁船が港に戻ってきている。今日もまた、暖かい日がさしてきた。房総の冬はあくまでのどかだ。
昨日の喫茶店に寄ったら、朝の八時だというのにもうマスターが店を開ける準備をしている。商店街のおかみさん連中が朝の最初の客だという。昨日は気づかなかったが、店のあちこちに千葉の海を描いた油絵が飾ってある。
「どう、民宿よかった?」
「うん、波の音を聞きながら眠った」
「そんなことがうれしいのかね」
マスターが入れてくれた朝の最初のコーヒーを飲んだ。なぜか、さきいかが一緒についていた。モーニングサービスなのかもしれない。窓の外を見ると通りをカモメがとんでいる。この町はいつまでたっても喫茶店がたった一軒だけの町でいてほしいといったら、マスターはそりゃいいや、そうなりゃうちは独占企業だ、もっともこの独占企業はちっとも儲からないけど、と笑った。
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湯河原・真鶴
まだ新幹線がなかったころ、東海道線に乗って左側の席に坐ると最初に海が見えてくるのが、小田原を過ぎ真鶴《まなづる》、湯河原《ゆがわら》にさしかかるあたりだった。走る列車の窓のすぐ真下に真っ青な海が見えてくる。ああ旅に出たんだなあ、と気分が弾んでくるのはこんなときだ。
一月の末の寒い日(その夜、東京では雪が降った)、なんだか急にあの青い海が見たくなって東海道線の沼津行きに乗った。昔と少しもかわらない。小田原を過ぎると列車は急速に海に接近し、窓のすぐ下に澄んだ海が見えてくる。そしてまぶしく光っている海に見とれていると、列車はやがて湯河原に着く。
平日の午後なので列車から降りた客は私を入れてわずか十人ほど。私以外はみな老人たちである。東京を出るとき着込んでいたセーターをぬぐとちょうどいいくらいポカポカしている。白い梅がもう花を開こうとしている。駅のそばの農家の庭先には大根が干してある。みかんをたくさん並べた出店に店番の姿はなく、「御用の方はベルを押して下さい」と貼紙がある。それをいくら押しても誰も出てこない。コーヒーを飲もうと「営業中」の札のさがった喫茶店に入ろうとすると、いくらドアを押しても開かない。万事がのんびりしている。
十年ほど前、熱海と湯河原にある某老舗旅館のPR誌の編集をやっていたことがあり、湯河原にはよく来た。板前さんと仲良くなりアジの開きを作るのを手伝ったりした。手伝いといってもべつに大したことをやるわけではなく、板前さんが開いていったアジを日なたに並べていくのを手伝うだけの話。アジの開きは私の大好物なので喜んで働いたものである。板前さんはイカの塩辛の作り方も教えてくれたが、これはさっぱり身につかなかった。
湯河原の温泉街は箱根にのびる山ひだのひとつ、藤木川という清流のつくった山あいにある。熱海などに比べるとずっとささやかで観光地化されていない。とくに藤木川に沿って奥湯河原のほうへとさかのぼって歩いて行くと、いかにも古き良き温泉街という雰囲気になっていく。
ふつう湯河原駅に着いた客はそのまま車で旅館に直行してしまうのだが、それでは温泉街のたたずまいを味わう楽しみがなくなる。ここはやはり歩くのがいちばんである。どうせ平日、どの旅館もガラガラに決まっているから予約なしでも泊めてくれる筈。遅い午後の温泉街を上へ上へとのぼっていった。
藤木川沿いの細い道の両側に大きいのや小さいの、さまざまな旅館がいっぱい並んでいる。道の脇からはあたたかそうな白い湯気がたちのぼっている。旅館街のなかには射的場があったりする。ついうれしくなってポン、ポンとやっているうちにいけない、あたりはだんだん暗くなってきた。どうせ泊るなら和風のひなびた旅館がいいと、いろいろ物色するのだが、いざ決めようとするとなかなか好みに合うのがない。
ようやく白梅が玄関に咲いている、山本富士子でもあらわれそうな感じの旅館に入ると、品のいい番頭が私の姿を上から下までながめたうえで丁重に、「あいにくうちはお一人様はご案内しておりませんので」。口惜しい限りである。
暗くなってくるし、上流へとさかのぼるほど旅館が少なくなってくるので少々心細くなる。ここなら泊めてくれるだろうと小ぶりの旅館に入ると今度は「今日、明日は板前さんがお休みで食事の用意がないんですよ」。二度つづけて断わられるとさすがに焦ってくる。今度は橋を渡って川の向うにある中位の和風旅館に入ると、玄関は空いていて灯りがついているのに、いくら「ごめん下さい」といっても誰も出てこない。あきらめて暗闇のなかをさかのぼっていくと、突然男の声で「お客さん」と呼びとめられた。客引きである。なんでも予約客がキャンセルしたとかで料理があまっている、一万八千円を一万二千円にまけるからどうか、という。建物を見ると九階建てのいかにも団体専用というホテル。こんなところはゴメンだと思ったがもう遅い。客引きの中年男は私の荷物をひったくるようにして中に入ってしまった。
せっかく奥湯河原のひなびた和風旅館に泊ろうとしたのにひどいところに泊ってしまった。団体専用のホテルに一人で泊るほどわびしいことはない。五、六人は泊れそうな広い部屋にぽつんと一人坐って夕食を食べる。寒くて仕方がない。おまけに季節はずれで団体客そのものもいない。だだっぴろい旅館の客は私一人くらいで、風呂に入ろうと廊下に出ると電気が消されていて真っ暗。大きな湯に入っていても、小さい物音ひとつたてるたびにがらんとした風呂場のなかを音が大きく響き渡るので、落ち着かなくて仕方がない。その夜は早々にふとんをひっかぶって寝てしまった。
翌朝、八時に宿を出て昨日と逆に道を下った。ニュースでは日本海側に寒波が襲来したそうだが、湯河原温泉街はウソみたいに暖かい。途中、昔、一緒にアジの開きを作った板前さんを訪ねて老舗旅館に行ったが、もう十年も前の話、消息は分らなかった。旅館の裏手にあるみかん畑をのぞいたら、昔と同じように日だまりにアジの開きがならべられていた。
旅館街のなかに一軒だけしゃれた喫茶店があった。母親と娘の二人でやっているらしい。店内のあちこちにミッキー・マウスの絵がかかっている。コーヒーを注文するとちゃんとドリップで入れてくれた。女主人の話だと湯河原のこぢんまりとしたよさが見直され最近また客が戻ってきていて、とくに夏の客がふえたそうだ。ただ旅館街のなかの珈琲専門店の経営は大変らしく、ご主人は他に勤めを持っているということだった。
喫茶店を出ると春の日がポカポカしている。その日は早めに東京に帰って三時から映画を見る予定にしていたが、あまり暖かいので真鶴まで足を伸ばすことにした。ここはもうかれこれ二十八年も前、中学一年のときに遠足ではじめて来たところだ。私のいた中学校は私の入学する少し前、修学旅行先の相模湖で船が沈んで学生が何人も死ぬという事件をおこしていたので、遠足に遠出は禁止となり、せいぜい真鶴までの日帰り遠足になったのである。当時はもう中学一年ともなれば他の学校では熱海や箱根に一泊旅行していたのに日帰りとは、とずい分口惜しい思いをしたものだ。
真鶴は小さい半島ではあるが、原生林をはじめ岬あり港あり入江ありと、自然のよさをふんだんに残しているところで、その後も私は春や夏によく遊びに行く。海も予想以上にきれいで潜るのには最適である。もっともここの海は東京からのダイバーたちのたまり場で、彼らがやたら魚介類を獲るので、地元の漁師との争いが絶えないところでもある。私も一度、水中メガネをつけただけで小さなサザエを一、二個獲って遊んでいたら、漁師のおかみさんに怒られたことがある。まあこれはこちらが悪いので仕方がないが、ダイバーの中には「百姓は土地を耕して肥やしている。だけど漁師は海に何をしてるんだ」と突っかかる元気者もいて、そうなると小さな入江でひと悶着起こることになる。
しかしいまはまだ冬、ダイバーの姿はまったく見えずのんびりとしたもの。行程約二時間だが、あまりに天気がいいので真鶴半島を歩いて一周することにした。
港ではちょうどイワシが水揚げ中で活気があった。港の横の魚屋の店先きには大きなエビやサザエ、ハマグリが無造作にごろごろ並べられている。店のおばさんが「おみやげにどう」と大声で呼びかける。これだから港は好きだ。だいたい魚を扱う商売というのはぐずぐずしていると魚が悪くなる。それで大声を出したり、走ったりしはじめる。港や魚市場が活気があるのはそのためだという。
港を離れて山道に入ると今度は一転、深い原生林になる。深い森でしいんと静まり返っている。野良猫が日だまりで寝ていたのでカメラを向けたら、あくびをひとつした。原生林のなかを歩くこと約一時間、さすがに疲れてきたので、ヒッチハイクでもやろうと何分かに一回通りかかる自家用車に指を突立てたがいっこうにとまってくれない。アベックに家族連れ、トラックの運転手にオートバイ野郎、原生林のなかを一人とぼとぼと歩いている男を無視してみんな走り去ってしまう。口惜しいったらない。日頃の運動不足がたたって足は痛くなる、腹は減ってくる、とションボリしていると一台のマイクロバスがとまってくれた。
これがなんと化粧品のセールスウーマンの団体旅行のご一行様。私がバスのなかに一歩入るや、ワァ、キャア、と圧倒的なだいだい[#「だいだい」に傍点]色の声(「黄色い声」よりもう少しおばさんたちの発する声のこと)が私を迎えてくれた。
見回すとざっと二十人。まあ年齢は若いとはいいがたいが、みなさん旅行ということで若やいだなり[#「なり」に傍点]をしていらっしゃるし、職業柄人見知りなどいっこうになさらない方々だから、ものすごくフランクでにぎやかだ。私が一つだけ空いている席に坐らせてもらうと、その隣りの女性に向かってちょっとここでは書きにくいようなお言葉を平気で投げかける。そのあけっぴろげなこと!
その日の昼は、岬のレストランで彼女たちのかたわらに陣取り食事をしたのだが、実ににぎやかで楽しかった。私の家にもときどき化粧品のセールスウーマンがやってくるが、これからは必ず何か一つは買うようにしようと固く決意しているところである。
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蒲郡・吉良
朝、七時半に目が覚めた。窓からさしこんでくる太陽の光があまりに明るかったからである。カーテンを開けると宿屋のすぐ前は真っ青な三河湾の海で、そのむこうに春の朝の太陽がのぼっている。海全体が金属板のようになって朝日をまぶしく反射させている。
その宿屋ご自慢の大理石風呂というのに入ってヒゲを剃り、さっぱりした気分になった。夕べは隣りの部屋のゴルフ客が遅くまで麻雀をやっていてよく眠れなかったのだが、朝風呂に入ってヒゲを剃ったらそれだけでもう元気が出てきた。海に面した風呂場の大きな窓も朝日を浴びて全面が白く輝いている。
近くの海でとれるという海苔《のり》とアジの開きの朝食をとった。だいたい宿屋の朝食の海苔というのはセロハンに包んだお粗末なのが多いのだが、この宿の海苔はちゃんと一枚一枚焼いたもので味もよかった。ただあさりの味噌汁の味噌が濃すぎるのには閉口した。やはりここは愛知県である。
朝食を済ませ朝の仕度をして宿屋を出た。町は朝の暖かい光を浴びてひっそりとしている。吉良《きら》温泉は、温泉といってもほんとに小さな、湯治場をどうかしたようなところだ。海に面した山にぽつんぽつんと旅館が十五軒ほどあるだけ、町全体が温室のなかにくるまっているような静かな、のどかなところである。
遊ぶところなど何もない。夏は海水浴客やキャンプ客が来るらしいが、二月の末のシーズンオフ、外を歩いていてもまったく人に出くわさない。
今度の旅は最初、同じ三河湾に面した蒲郡《がまごおり》に泊る予定にしていた。蒲郡ホテルという、昔よく文士が泊ったといわれる古い洋風旅館に泊ってみたかったからである。
しかし行ってみたらそこはもうホテルを廃業していて、建物は市の管理下にあり鉄条網で立入り禁止になっていた。仕方がないので蒲郡の東にある三谷温泉に行こうとタクシーに乗ったら、「あんなところ面白くないし、食事もまずいから地元のものは行かないよ」と運転手がいう。「どこかのんびりしたところはない?」と聞いたら、「吉良という温泉がある。まあ、そこには何も遊ぶところはないけどね」と教えてくれた。
何も遊ぶところがない、というのは実は一人旅の者にとってはいいことなのである。うまい魚とのんびりした風景、そして風呂、これ以上のぜいたくはない。だから地元の人がつまらないというところのほうが旅行者にとって楽しいことはしばしばなのである。
夕方まで蒲郡の町をぶらぶらして(競艇場と竹島という小さな島のほか見るものは何もなかった)、名鉄の特急に乗って約三十分、日が暮れかかるころ吉良に着いた。
そこから海岸沿いにタクシーで十分、オフシーズンなので予約もなしに、もと割烹料理屋だったという和風の小さな旅館が快く泊めてくれた。
夕食はカニ、エビ、シャコ、刺身とみごとに魚一色で肉料理は一品もなかった。その朝、吉良港に水揚げされた魚ばかりで、エビなどはオドリだった。これで一泊二食一万円というのだから安い。
坂道を降りて海に出ると、小さな海岸にもまた人の姿はまったく見えない。夏のあいだはにぎわうのだろう海の家もこの季節は閑散としていて、祭りのあと、カーニバルのあとのような静けさだ。本来、人間がいるべきところに誰もいない、そういう欠如の要素のある静かな風景というのは大好きである。その風景を写真に撮ろうと太陽に背を向けたら背中がポカポカしてきた。
バス停の傍にお婆さんが一人でやっている小さなみやげもの屋があった。ひものや海苔と一緒に大あさりを売っている。三河湾の海でとれる文字通り大きなあさりである。帆立貝よりも大きいし肉も厚い。お婆さんに頼んでこれを焼いてもらって食べた。貝全体が貝柱のような感じである。二つも食べたらもうハラがいっぱいになる。二個で三百五十円というのも安い。このあたりはあさりを養殖しているのだそうだ。
宿屋以外なにもないところかと思ったら、バスの発着場のところに「エンタル」という小さな喫茶店があった。なかに入ると三十歳をちょっと過ぎた美人のママさんがべーコンエッグで朝食中。お客は誰もいなくて、私が今日いちばんのお客ということだった。
彼女の話ではこの町は寂しいところで、夏休みと忘年会のとき以外はお客は一日平均五十人くらい、たいていはおなじみさんで、みんな町のほうから車に乗ってやってくるという。
「店をはじめたのはいまから七年前。よかったのは最初の四年間ぐらいで、あとはどうにかというところね。町のほうにどんどん新しい喫茶店がオープンしちゃうし、ここは寂しいところで若い人が近寄りたがらないし」
ご主人は名鉄に勤めるサラリーマン。結婚してから退屈まぎれに店を開いたのだが、「午前中なんてお客が少なくてかえって退屈してしまう」。
そういいながら彼女はおしぼりを洗濯し、それを一枚一枚きれいに巻いていく。ここはおしぼりも自給自足なのである。子供を小学校に出して、午前九時の開店、そして夜十時まで。店はすべて彼女一人がやりくりする。「午前九時から五時まではほんとにお客が少なくて、二ケタにもいかないくらい」
彼女は何度も「ここは寂しい」という。そこが旅行者には魅力なのだが、暮している人間には「寂しい」というのは本当に寂しいことのようだ。
「このあたりには店屋らしい店屋なんて一軒もないから、トイレットペーパーを買うのにも車で町に出なければならないし」
彼女がこの「エンタル」を開く前には、スナックと寿司屋があったが、どちらも一年でつぶれてしまったという。だから「エンタル」が七年もつぶれないで持っているのは奇蹟だと、近所の旅館の人からいわれるという。
この奇蹟の秘密はどうやら彼女の美しさにあるようだ。
エンタルとはギリシャ語で女神という意味だそうだが、彼女はちょっと宝塚にいた上月晃《こうづきのぼる》に似た可愛げのある美女なのである。化粧が少し濃いのは気になったが、ツンとすました美人というより笑った目もとが可愛い美人なので、客商売にはうってつけである。よく話を聞いたら、結婚する前にも近くの町でスナックをやっていたという。壁にはこの地方在住の画家が、彼女をモデルに描いたという一〇〇号の大きな絵がかかっていた。
店は夜になると酒も出す。コーヒーだけでは店の維持は大変なのだろう。(某洋酒メーカー広報室の人の話だと、愛知県というのは日本でいちばん酒の売上げが悪いところだそうだ。これは、一、愛知県人ケチ説と、二、トヨタのお膝元なので車が発達しすぎているため……説の二つの説明がされている)
「エンタル」の窓からも松林越しに春ののどかな海が見える。
「エンタル」を出て名鉄の吉良吉田駅まで、あまり天気がいいので歩くことにした。昨日タクシーで十分ほど走った距離である。歩いて一時間足らずだろう。
海沿いの道をゆっくりと下っていく。途中、人生劇場の碑なんていうのにぶつかる。そういえばここは尾崎士郎の『人生劇場』の舞台である。もっとも『人生劇場』といえば映画ファンにとっては尾崎士郎の、というより東映やくざ映画の、であり、吉良常《きらつね》といえば月形竜之介であり、飛車角といえば鶴田浩二である。
しかし実際の吉良の港はおだやかな三河湾に面したあくまでものどかな港で、ここに気性の荒い侠客がいたとは、にわかには信じられない。東北の港に比べると、こちらはなんだかディズニーランドみたいな可愛い港町なのである。つまり万事が幸福そうで、およそ生活の匂いがしないのである。
ここはまた例の赤穂浪士の悪役、吉良上野介義央の直轄地で、あちこちに偉大な殿様の善政をたたえる碑が立っている。赤穂浪士はそもそもが赤穂の塩田と吉良の塩田の対立が発端の一因といわれているが、この吉良も昔は塩田で栄えたところである。
いまはその塩田が埋立て地になっていて、そこでトマトやイチゴの温室栽培、カーネーションの栽培が行なわれている。
右に埋立て地、左に海苔の養殖をしている海、その真中を一本、長い長い堤防が伸びている。
現実にはこんな風景を過去に見たことはないはずなのに、なぜだか妙になつかしくなってくる。春の風が強く、堤防に立つと吹き飛ばされそうになる。
人間の手でことごとく手を入れられた土地と海なのに、いま春の太陽の下、人間の姿がまったく見えない。そのアンバランスが風景にアクセントをつけている。人の帰ったあとの劇場のようでもあるし、昔の風景画家が描いた平凡な田園風景のなかにこちらが入り込んでしまったようでもある。
地方を旅行していつも思うことは、地方ほど車社会が発達していて、歩いている人がまったく見えないことである。
はじめて地方から東京に出てきた人間は、「あっ、東京では人間が歩いている!」と驚くのではないかと思ってしまうほどだ。車社会という点ではいまや地方のほうが都会的で、東京のほうが地方的でもあるのだ。
堤防を歩いていても、ついに歩いている人間には一人も出くわさなかった。車はびゅんびゅん通り過ぎていくというのに。
だから無人の堤防で風に吹かれながら、私はなんだか田舎にいるというより、近未来のSF都市にいるような妙な気分になってしまった。
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越前・三国
金沢から福井にはいった。福井から三国《みくに》の京福《けいふく》電鉄というローカル線が走っていて、これに乗りたかったからである。
二両連結、クリーム色にえんじの横線が入った車体、と書くとしゃれた感じがするが実際はほんとにうれしくなるほど古ぼけた、ゴトゴト走る時代物の電車だ。明治二十一年に創立された電力会社のはしり、京都電灯が九頭竜《くずりゆう》川の水を使って作った発電所の電気を利用して開設したというから歴史は古い。
三月の終りの日曜日の昼下がり、福井駅からこのローカル線に乗り込んだ。十分も走るともう周囲は越前平野の田圃。北陸はまだ春全開というわけにはいかず田圃は黒々としている。それでもところどころに菜の花が咲いていたりする。単線で、もちろん各駅停車である。この沿線では田圃のなかの温泉、芦原《あわら》温泉がよく知られているが、その他はほんとに小さな駅ばかりである。駅の名前も、大関、番田《ばんでん》、太郎丸と昔を感じさせる面白いのが多い。
実は前日、金沢に行ったときも市内は素通りして、金沢駅の近くから出ているローカル線北陸鉄道に乗って旅を楽しんだばかりである。この鉄道は手取《てとり》川に沿って白山の山麓まで走る電車で、昔、金沢と名古屋を結ぶ鉄道として建設されたのが途中で挫折したものだという。二両連結の電車がやはり単線をゴトゴト走る。金沢から終点の白山下まで乗っても一時間弱、手取川峡谷沿いの風景を楽しめるので、アンノン族にまじって金沢市内の名所を歩くよりはずっとよかった。この鉄道は松本清張の『ゼロの焦点』で犯人のアリバイ工作として使われていたりもしている。
京福電鉄は九頭竜川に沿って三国港まで走る。車が発達した現在では地元の人もあまり電車は利用しないのだろう、車内はガラガラである。乗っているのは年寄りと子どもばかり、大の男は私ぐらいでちょっと照れ臭い。それでも気にせず一番前の席に坐って運転席の窓から北陸の田舎の風景を楽しむ。
福井から約一時間、三国駅についた。この一つ先が終点の三国港だが、そこまでたいした距離はない。三国の町から港まで歩いていくことにした。
三国は明治の中頃までは日本海の要港として栄えた港町で、いまでもところどころ廻船問屋の倉庫や米倉の名残がある、九頭竜川の河口に沿った細長い町である。高見順がこの町の出身であることはよく知られている。(高見順は当時の福井県知事が三国に住むいわゆる妾にうませた子どもである)
町は古い家並みがつづいていて、ちょっと昔の宿場町のようである。港町らしく、ここでもあちこちに床屋のあめん棒が見える。酒屋も多い。町の通りを坊さんが一軒一軒門づけをしている。東京ではもうほとんど見られない光景だ。魚屋の店先をのぞくと傍に炭火の炉がある。なんだろうと思って見ていると、店のおやじさんが客の求めに応じてその場で魚を焼く。魚はカレイのようだ。あとで聞いたらこのあたりはカレイが名産で、とりたてのカレイを一晩干したものを五匹串でさしたのが、一本八百円でみやげもの屋の店頭に並んでいた。
腹ごしらえをしようとそば屋に入った。越前名物というおろしそばを食べた。隣りのテーブルに若い女子大生ふうの二人組がいる。話しかけると秋田から金沢に旅行に来た女子大生で、今日はこれから東尋坊《とうじんぼう》に行くという。
そば屋から歩いて十五分ほど、九頭竜川の河口の三国港に出た。思ったより小さな港である。船は昨夜からみんな漁に出ていて二、三隻イカ釣り船が残っているだけ。河口の対岸に火力発電所があって松林の上に無機的な煙突を突き出しているのが興ざめだ。そういえばこの福井県は原発銀座といわれるほど海沿いに原発の多いところ。最近も「もんじゅ」という原発の建設が予定されていて、町を歩いていたら自民党の広報車が、中川科学技術庁長官と扇千景政務次官の時局講演会があると、静かな町のなかを宣伝しまわっていた。せっかくのんびりと北陸に旅しにきたのに、こんな港町で自民党のタカ派議員の講演会とかち合うとは不運である。
港から見ると山の上に、明治村にあってもおかしくないような古い時計台のような建物が見える。なんだろうと思って港にいた老人に聞くと、一年前に出来たばかりの三国町郷土資料館だという。さっそく歩いてそこへ行くことにした。
林の坂道をのぼりきると目の前にその資料館が姿を現わした。八角形をしたこうもり傘のような洋館である。錦絵のなかの鹿鳴館のような雰囲気だ。この資料館は明治十二年から大正三年まで三国町のこの山の上にあった竜翔小学校の建物を再現したものだという。五層八角の建物で明治初年、三国にやってきて三国港改修工事の指導にあたったオランダ人のゲ・ア・エッセルが設計したものだそうだ。そしてこのエッセルは、あの、だまし絵で知られるM・C・エッシャーの父親なのだという。思いもかけないところで明治日本と西欧の出会いの現場に触れたことになる。こういう博物館というのも、たまにはのぞいてみるものだ。
江戸時代まではいまの裏日本のほうが、むしろ中国と日本を結ぶ日本海という内海の沿岸として表日本よりも栄えたという説があるが、こういう建物を見るとその説に同意したくなる。この資料館にはまた、郷土の詩人、高見順のゆかりの品々も展示してあった。
郷土資料館を出るとまだ日が高い。こんどは観光コースどおりバスで東尋坊に行った。奇岩の名勝である。
日曜日ということもあって、さすがに人出が多い。バスの停留所から岬までの道はみやげもの屋がズラリと並び、観光客でごったがえしている。浅草の仲見世という感じである。どのみやげもの屋も店先でイカとサザエを焼いて売っている。どちらも三百五十円から五百円。高からず安からずだ。干しタラやホタテ貝を焼いたのを売っている屋台もある。ワンカップ大関や缶ビールも置いてあって、ちょっとした立ち飲み酒場である。匂いにつられてさっそくサザエを食した。
みやげもの屋が百軒ほど並んでいる東尋坊横丁に、思いもかけず小さな喫茶店が一軒あった。こんなところで客があるのだろうかと入ってみると、なるほど客はほとんどが旅行業者ばかりだった。つまり、バスの運転手と車掌、ツアーの添乗員のたまり場になっているのだ。客が東尋坊を見物しているあいだ、裏方たちはここで休憩というわけである。高校生らしいアルバイトの女の子がウエイトレスで働いていたから、春の日曜日あたりは大忙しなのだろう。それでもマスターに話を聞くと、最近は観光道路沿いに豪華な喫茶店がぞくぞく建って、客が取られ景気はよくないという。
そういえば地方を旅していつも思うのは、地方では完全に車社会が貫徹していて、いまや鉄道の駅周辺の町なかよりも国道沿いのほうに豪華な喫茶店やレストランが多いことだ。この東尋坊の周辺も、三国の町なかより国道沿いの田圃のなかに「ハワイ」だの「ワールド」などという名前のゴージャスな喫茶店が多かったのには驚いた。
名物にうまいものなし、と同じで、名所にいい所なし、である。東尋坊は写真などで見るとすごい奇岩が林立しているところのようだが、実際に見るとなんだか箱庭の海岸のように迫力のないところでちょっとがっかり。
ただよかったのは、カメラであちこちのぞいていたら、「おじさん、シャッター押して!」と女子高校生に呼びとめられたこと。女の子が三人と男の子が三人、福井の高校生のなかよしグループで、この春に高校を卒業して社会人になる。それでみんなで最後の思い出づくりに東尋坊に来たという。シャッターを押してあげたら女の子の一人が、「おじさん、ありがとう」となぜかスルメを一枚くれた。
そのスルメをしゃぶりながら東尋坊から海沿いの遊歩道を歩いて三国港に戻った。今夜はここの民宿に泊って名物の越前ガニを食べる予定である。私は車の運転が出来ないので旅に出ると、ともかく自分の足だけが頼りで歩きに歩く。この日もぜんぶで十キロはゆうに歩いたろう。
三国港には民宿は二十軒ほどあったが、そのなかのいちばん海に近いところを選んだ。宿には私のほかは名古屋からきた老夫婦がいるだけだった。「旦那さん、いま、お湯の仕度《したく》するから、それまで窓から夕日が落ちるのを見ときなさい」とおかみさんがいうので、廊下の籐椅子に坐って日本海に夕日が沈むのをながめた。わずか数分で夕日は海の向うに消えた。夕日がこんなに早く落ちていくものとは知らなかった。すぐにおかみさんが越前ガニとビールを運んできてくれるだろう。今度の旅もこれで万事快調である。
いや、もうひとついいことを書くのを忘れていた。途中、三国の町で鉛筆を忘れてきたのに気がついて文房具屋に入ったら、なんと昔なつかしいコーリン鉛筆を売っていたのだ。東京ではもうほとんど売ってない三日月マークのなつかしい、あのコーリン鉛筆である。さっそく一ダース買い求めた。この原稿もそのコーリン鉛筆で書いたものである。
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日光・今市
朝の八時に宿を出た。空気が冷たい。宿の前の木に取付けてある寒暖計を見たら摂氏九度だった。セーターを着ていないと少し寒い。今日から五月になるというのに、あたりの木はまだほとんど芽吹いていない。冬枯れの木立という感じだ。
道路も湖も霧におおわれていて、よけい空気が冷たく感じられる。しかしこの朝の冷気は山の空気を吸いに来た者には気持がいい。濃い霧のために車はどれもライトをつけて走っている。ときどき風が吹いて霧が切れる。湖の上に釣り船が何隻も浮かんでいるのが見える。五月一日から漁が解禁になった。待ちかねて湖に繰り出した釣り人である。
湖に沿って歩いていく。ときどき湖岸で釣竿を伸ばしている釣り人を見かけるくらいでほとんど人に出会わない。車の量も少ない。中禅寺湖は有名な観光地だからもっと混雑したところかと思っていたが、意外と寂しい。湖岸の旅館街も派手派手しさはなかったし、旅館街をすぎるともう林ばかりである。私の泊った宿は旅館街からバスで十分ほど行ったところにある林の中の一軒家でちょっとした別荘という感じだった。このあたりは国立公園のなかだから自然保護が最優先されているのだろう、旅館街にネオンはなかったし、歓楽地につきもののストリップ小屋のような遊興施設もまったくなかった。湖の周囲は静まりかえっていて、観光地というより山の中の小さな町の雰囲気だ。モーテルやけばけばしいレストランもない。森の生活が好きな西洋人が湖畔に別荘を持っているのもわかる気がする。
宿から約三十分ほど歩いた湖岸に一軒休憩所を見つけて朝食をとることにした。それにはわけがある。実は私の泊った宿は由緒ある宿とかで一泊しただけで一万円もの高料金だったのだ。夕食と朝食が入っているのだろうと思っていたら、宿泊代だけで一万円もとるのだ。食事はと聞いたら、宿のなかにあるレストランでしてくれという。料金表を見たら実にいい値段なので、昨夜は自衛のため旅館街まで戻って安い寿司屋で夕食をすませた。ルームサービスで酒なんか頼んだらびっくりするような額を請求されるに違いないと、これまたせこく[#「せこく」に傍点]町の酒屋でウイスキーとつまみを仕入れ、ボーイに見つからないように宿に持ち込みひとりちびちびやった。部屋のテレビが百円硬貨を入れないですむのは助かったが、一万円の部屋なのに風呂がついてないのには閉口した。
朝食もレストランの料金表を見ると、バタくさい洋式朝食がいい値段をとるので遠慮した。従って宿を出るときの支払いはきっかり宿代だけの一万円。こんな客ははじめてなのか、会計係はお愛想のひとつもいわなかった。
湖岸の休憩所で朝の定食を頼むと生卵、のり、お新香、味噌汁の典型的な朝食。朝はやはりこれがいちばんうまい。味噌汁には湯葉《ゆば》が浮いていた。湯葉は日光の名産のひとつである。宿のレストランでハムエッグなど食べないでほんとによかった。
休憩所にはときどき湖から釣り人が戻ってきて暖をとる。(なんと五月というのにストーブとこたつの用意がしてある)コーヒーを飲んだり、にぎりめしをぱくついたりしては、またボートで湖に繰り出していく。五月一日解禁ということで、早い者は午前零時を期してボートを出したという。
「それでもまだこんだけしか釣れないよ」とぼやいている宇都宮から来たという中年のおやじにボックスの中をのぞかせてもらったら、大きな鱒《ます》が六匹も入っていた。これで不満だというのだからぜいたくである。釣り人は男ばかりで女性の姿は一人も見えなかった。釣りというのは狩猟の一種だから男のレジャーなのだろう。先だって見た『黄昏《たそがれ》』という映画でも、湖で釣りを楽しむのは夫のヘンリー・フォンダのほうで、奥さんのキャサリン・ヘプバーンはもっぱら弁当を作るほうだった。
腹ごしらえをして近くにある竜頭《りゆうず》の滝という名所まで足を運んだ。さすがにここは観光客が多い。滝を背景にさかんに記念撮影をしている。小学校の遠足の一団もいる。子どもたちは男の子も女の子もみんなトレパンをはいて黄色い帽子をかぶっている。どうもいただけない。ぜいたく防止と安全対策で子どもたちにこういう格好をさせるのだろうが、なんだか寝巻を着て歩いているみたいだ。湖岸で出会った遠足の子どもたちも面白いようにみんなトレパン姿だった。遠足のときぐらい個性的ななり[#「なり」に傍点]をさせればいいのに。
滝のところからバスに乗って華厳《けごん》の滝に行った。みんなマイカーで遊びに来るためだろう、バスのお客は老人のグループばかりだった。いい若いのは私くらいで少し照れ臭い。バスのアナウンスが英語なのには驚いた。外人客がよほど多いらしい。しかしこの女性(無論テープだが)の英語はなかなか発音がいい。新幹線の英語アナウンスはいかにも、英語を喋っています、とコチコチの発音で、あれを聞くたびに恥かしくなるが、この東武バスの英語アナウンスはリラックスしていてうまいものだと妙なところで感心した。
日光ははじめてなので観光コースに忠実に華厳の滝をながめた。団体客か二人連ればかりで、一人旅は私くらい。小雨がぱらつきはじめたので、近くの屋台に飛び込んで、まだ早いが日本酒と、名物だという鮎《あゆ》を串に刺して炭火で焼いたのを注文した。寒いので熱燗がうまい。屋台のおやじは「せっかくの連休だというのに雨ばかりで客足はさっぱりだ」とこぼしている。なるほど旅館街は閑散としていて番頭たちが走る車に向かって客ひきしている。タクシー乗り場には空車が並んでいる。霧が濃いために遊覧船は欠航で発着所は静まりかえっている。しかし、屋台のおやじには悪いが、一人旅の人間にはむしろこの静けさがしっくりとくる。湖も木立も山も霧につつまれていて、しんみりしたいい気分になってくる。この霧を見たのと湯葉の味噌汁を飲んだだけでこんどの旅はもう充分だと思ってしまう。雨に濡れながら誰もいない桟橋で鮎の串焼きを食べ、串をぽんと湖に投げ込んだ。
午後から中禅寺湖を離れ、今市市の郊外にあるウエスタン村という遊園地に行ってみることにした。
西部劇に出てくる西部の町を模したところで、馬にも乗せてくれるという。せっかく霧を見てしみじみしているときにそんな派手派手しいところに行くのは気が乗らなかったが、今度の旅のひとつの目的はここの取材でもあるので足を伸ばしてみることにした。
ウエスタン村は田圃のなかにあった。入口はアパッチ砦かアラモ砦か知らないが、ともかく砦の格好をしている。なかに入ると西部の町らしくバーや鍛冶屋や雑貨屋が建てられている。
バーの二階にあがるとベッドのある部屋があり、そこになまめかしい娼婦の人形がある、などといちおう凝って作られているが、いかんせん田圃とウエスタンスタイルは不釣合いで、中を見れば見るほどわびしい気持になってしまう。
ウエスタン・ショーというのもあって、カウボーイ姿の若者が早撃ちとか決闘とかいろいろサービスして芸を見せてくれるのだが、遠くの田圃からカエルがゲコゲコ鳴くのが聞こえてくるので、サービスしてくれればくれるほど見ているこちらは気持がめげてくる。雨も降ってきて道はぬかってくる。馬もいるにはいたが、狭い囲いの中を申し訳程度に一周するだけでこれもまたわびしい。
西部劇に出てくるようなスイングドアの酒場があったのでコーヒーを飲むことにした。お客は私のほかは誰もいない。せっかく自然そのものがきれいな場所にこんな建物を作ったのは失敗だったのではないかなどと余計なことを考えていると、アルバイトらしい女の子がよく西部劇に出てくる、あのブリキのコップでコーヒーを出してくれた。「おっ、これはいい」と手に持ったらなんとこれがブリキもブリキ、缶詰を改造したようなシロモノで唇をやけどしてしまった。
中禅寺湖で霧を見ていたほうがよかったかなと後悔しながら「砦」を出た。
少し歩くと鬼怒川温泉に向かう東武鉄道の線路にぶつかった。単線である。それに沿って歩いていくと鬼怒川が姿を現わした。ちょっとした渓谷になっていて、そこに鉄橋がかかっている。観光の名所でもなんでもないが、川の色がきれいで実にいいながめになっている。思わずシャッターを押した。こういう場所がほとんど無視されて田圃のなかの人工的なウエスタン村のほうが名所になる。不思議な話である。地元の人間だろうか、赤ん坊を連れた若い夫婦が川原で花をつんでいる。釣り人も一人、二人見える。自動車を停めて家族連れが渓谷を背景に写真を撮っている。こういうのがほんとうの観光なのかもしれない。
雨が小降りになってきたので少し川に沿って下ってみることにした。雑木林をぬけると田圃が広がっていった。この季節、田圃は田植えの前で水を張ってある。どの田圃も鏡のように光っている。畦道にはれんげや菜の花が咲いている。あちこちでカエルがゲコゲコ鳴いている。これはいい風景だなあと写真を撮ろうとしたら、農家のすぐ隣りになぜか、カーホテルのネオンが霧雨のなかに光っているのが見え、急に気分が醒めてしまった。作らない自然のなかにこそほんとうの旅情があるなどと考えるのは、やはり東京からやってきた者の安っぽい感傷なのだろう。
雨がまたはげしく降り出した。
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水郡線の旅
国鉄が評判悪い。しかし旅に出てローカル線に乗るたびに、やはり赤字路線は残すべきだと思う。赤字だからこそ国営でやる。中央線や山手線のような黒字線は民営でやって赤字線は国民が負担する。日本の社会はそのくらいのゆとり、むだを持っていいと思う。かつて美濃部都政のとき高度成長の合理主義で都電を次々に廃止していった。いまになってあの都電をもう少し残していたらという声も出てきている。万事、能率主義でことを片づけていくと社会は息苦しくなるばかりだ。――とまあこれは汽車の旅が好きな人間の少数意見である。
水戸と郡山を結ぶ水郡《すいぐん》線というローカル線がある。距離が百四十二キロもあるからローカル線と呼んだら怒られるかもしれないが。久慈《くじ》川の流れに沿って走る大変眺めのいい路線だと聞いて急に行きたくなった。五月末の土曜日の午前中に上野駅を発った。真夏日とかで朝から暑い。水戸行の汽車に乗ってから地図を見ると、取手《とりで》と下館《しもだて》を結ぶ関東鉄道という私鉄があることがわかった。水海道などを通る。どうせ気ままな旅、まっすぐ水戸に行くのをやめ、取手から下館までをこの関東鉄道で、下館から水戸までを国鉄の水戸線で行くことに決めた。
関東鉄道はほんとに小さなローカル線、二両連結で単線である。汽車というより電車で、椅子もボックス型ではない。土曜日の午後、乗客の大半は通学の高校生たちである。バンカラズボンとツッパリヘアの高校生のお兄ちゃんたちが、語尾があがる早口の茨城弁でさかんに明日行なわれるダービーの話をしている。なかなかの迫力である。それでも可愛い女学生が乗ってくると急に声をひそめたりして意識するのだから純情である。
取手を出てすぐはいかにも東京近郊という感じで、いたるところに宅地造成のブルドーザーが見え興ざめだが、途中の水海道を過ぎるころから窓の外は関東平野の見事な田園風景になる。通学の高校生もあらかた降りて車内もガランとしてくる。窓から風が勢いよく入り込み、ようやく旅行気分になってくる。下館まで各駅停車で約一時間半、車内で最初から最後まで乗っていたのは私一人だった。
下館で国鉄水戸線に乗り換えるのだが、ここでひとつ得をした。この私鉄関東鉄道は国鉄との乗り換えの際、改札がないのだ、乗った取手でも降りた下館でも。だから上野・水戸間の国鉄の切符を買っただけで、取手・下館間はタダ乗りになってしまった。儲かった! と思ったが、よくよく考えれば取手から水戸に行くのにわざわざ関東鉄道に乗って遠回りする客などいないから、会社のほうはそういう物好きな客にお目こぼしのサービスをしてくれたのだろう。
ローカル線の旅の唯一の欠点は時間がかかることだ。列車自体が各駅停車でのろのろしているし、単線のためにあちこちで対向列車の待ち合わせをしなければならない。乗り換えるにしても接続が悪く次の列車まで三十分待つことはふつう、せっかちではとてもローカル線めぐりは出来ない。旅とは待つことなり、である。
取手から関東鉄道経由で水戸に着き、ようやく水郡線に乗り込んだときには既に午後の四時半になってしまっていた。しかも列車は途中の常陸|大子《だいご》までで、郡山行は六時過ぎまでないという。大子に着くのは六時半。今夜はもうそこで泊る他ないだろう。しかし結果としてはそれがよかった。大子は山あいの小さな町で、のんびり旅には絶好だったからだ。
水郡線は聞いていたとおりに実に眺めのいい路線だった。水戸を出て五分も走るともう完全に田園地帯になる。田植えが終ったばかりの水田のとなりでは麦が刈りとられている。畑にはネギボウズや大根が見える。ときどきぶどう畑も見える。農家の多くはつげの木の生け垣で囲われており、きれいに刈り込まれたつげが美しい幾何学模様を見せる。水を張った水田がキラキラ光っている。沿線には広告看板も少なく緑がどこまでも続く。ローカル線の旅行者にはこの風景がなによりも有難い。日本は貿易立国だ、工業立国だとデータ的にはわかっているのだが、風景としては煙が勢いよく出るコンビナートより緑におおわれた田園のほうが見ていてはるかに落着くのは、日本が農耕文化の長い歴史を持っているからだろう。東海道新幹線に乗って景色を見ると「あーあ、日本の国はもう終りだな」となるが、ローカル線に乗ると「日本もまだまだきれいだな」と変る。「日本も結構広いな」と妙なところで感心したりする。
田園風景に飽きたころ、右側に久慈川が見え始めた。きれいな渓谷を見せている。四両連結、ディーゼルの水郡線がその渓谷沿いを走る。土曜日だからだろう、川原のところどころで若い連中がキャンプを張って夕食の仕度をしているのが見える。腹が減ってきたが車両販売はないし、駅弁など望むべくもない。
車内はクラブ活動帰りの地元の高校生とか、水戸に買物にいったらしい主婦がちらほら見える程度でガランとしている。
大子には六時半に着いた。水戸から約二時間、わずか五十五キロの距離である。大子は山あいの小さな町。駅の東側はこの付近では大きな商店街になっているが、西側はすぐ田圃、久慈川に合流する押川という小さな川が流れていて、そこに古い木橋がかかっている。遠くに寺が見える。町というより山里という感じがする。農業中心で人口は三万弱。あとで旅館の人に聞いたら昭和三十五年には四万あったというから、高度成長とともに人口が流出していったのだろう。
駅の旅館案内に出ていた、滝のそばにある和風旅館というところに予約の電話を入れたら、明日、息子だか娘だかの結婚式があるので休業中だという。日は落ちてくるし困ったなと思っていたら、駅の横の立喰いそば屋でそばをかき込んでいたおじさんが、「泊りならうちにしなよ」と声をかけてきた。町でいちばん大きなグランドホテルという旅館で、ふつうなら一万円のところをどうせ部屋が空いているから八千円にまけてくれるという。旅行に出るときはジーパンにドタ靴という汚ない格好でいくから、だいたいいつもこちらはひと言もいわないのにむこうから「安くしとくよ」といってくれる。有難いというべきか口惜しいというべきか。
大子はわかし湯ながらいちおう温泉とうたっているところで、グランドホテルという旅館も鄙《ひな》にもまれな設備のいいきれいな旅館だった。鮎と山菜を中心とした夕食もうまかった。仲居のおばさんはご親切にも「お客さん、女の子はいいの?」なんて聞いてくれる。なんでも近くのクラブのホステスが八時までなら出張してくれるそうだ。「いや、カアちゃんが恐いからいいよ」と遠慮したら「ありゃあ、お客さん、奥さんいるのかね」と驚いている。土曜日の夜、こんなところに一人で泊りに来ているから独身の変り者に見えたらしい。
窓のすぐ下は押川が流れ、その向うはもう山である。静かないい宿だなあと目を右に転じたらなんと山あいにパチンコ屋が一軒あり、キャバレーみたいにどぎついネオンをチカチカさせている。山の中にUFOが降りてきたみたいである。出来たばかりのパチンコ屋で、近在から客が車でやってくるという。夕食のあとブラリとのぞいてみたが、新宿あたりのパチンコ屋に負けない豪華な内装だった。おばさん連中も入っていて結構にぎわっている。いろんなパチンコ屋に入ったが、こんな山の中のデラックス・パチンコ・パーラーはこれがはじめてである。もっとも、ちっとも玉が出ないのは共通していたが。
パチンコ屋を出て、町をぶらぶらし、酒屋に寄ってウイスキーと缶ビールを買い込み宿に帰った。(宿屋の冷蔵庫に入っているビールなど飲んだらひどくボラれるので、いつもこうやってせこく[#「せこく」に傍点]自衛している)静かな川音を聞きながらウイスキーを飲み、持ってきた推理小説を開いた。ハヤカワ・ミステリーの新刊、リザ・コディの『見習い女探偵』である。ポケットウイスキーのだるま[#「だるま」に傍点]さんを飲み終えるころには読み終えるだろう。一人旅のいちばんの楽しみはこの瞬間かもしれない。
翌日、再び水郡線に乗って郡山に向かった。途中、車掌から郡山の手前、磐城石川というところに猫啼《ねこなき》温泉というひなびた温泉があるのを聞いた。猫好きの人間としては猫啼温泉という名前にひかれる。見逃す手はない、石川で降りることにした。大子よりもさらに小さな町で、駅前に三、四軒、商店が見えるだけで静まりかえっている。たしか貴ノ花がよく治療にきていた病院がこのあたりにあるのではなかったか。
温泉というから旅館街があるのかと思っていたが、駅から歩いて十分ほど、たどりついた猫啼温泉は小さな山すそに旅館が一軒あるだけのほんとにひなびたところだった。おそらく昔は近在の農家の人の湯治場だったのだろう。猫啼という珍しい名前の由来は――昔、和泉式部(彼女はこの近くの出身だそうだ)が京に出るとき、愛猫を連れてこの地に遊んだ。式部は猫を京まで連れていくわけにもいかずこの湯に残していった。主人を失って悲しんだ猫は毎日啼きつづけ、以来、ここを猫啼温泉と呼ぶようになった、という。なんということのない場所だが意外に歴史は古いのである。
今夜はここに一泊しようと思ったが月曜日には仕事があるし、急に家に置いてきた二匹の猫の顔がなつかしくなった。ここに泊まるのはまたの機会にして、夏のような日ざしのなか、田舎道を歩いて駅に戻った。人の姿がまるで見えない田舎道は草の匂いがして、まわりの水田ではカエルが鳴いていた。昔、子供のころ、こんな風景をどこかで見たような気がした。
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余呉湖
湖北、つまり琵琶湖の奥に余呉《よご》湖という小さな湖がある。地図で見ると大きな琵琶湖にくっついた点にしか見えない。いや、小さすぎて普通の地図帳には載っていないことが多い。この湖は水上勉の『湖《うみ》の琴』の舞台になったことで知られている。最近では芝木好子が「新潮」に発表した『ガラスの壁』で女主人公の陶芸家がその深い青の色を見たくてこの湖に足を運ぶ姿を描いている。
実は今度の旅で余呉湖に行こうと決めたのはこの芝木好子の小説にひかれたからだ。小説のなかでは湖の周辺は全然観光地化されていなくて、山のなかの静かな里と書かれてあった。
新幹線で米原まで行き、そこから北陸線の鈍行に乗りかえ約一時間で余呉駅に着く。一つ手前の木之本《きのもと》までは田圃のあちこちに工場や高速道路が見えていていい眺めではないが、木之本を過ぎると列車は急に山里に入る。六月の細い雨に洗われた緑が目に沁《し》みる。
余呉駅は田圃のなかの一軒家ならぬ一軒駅。田圃のなかにぽつんとホームと駅舎があるだけ。あとは広告の看板も商店もなんにもない。こんなにさっぱりとした駅も珍しい。鈍行すらも停車するのを忘れてしまいそうなところだ。
愚図愚図して東京を出るのが遅かったのでもう六時を回っていたが、あたりはまだほのかに明るい。田圃の向うに湖面が見える。この湖は別名を「鏡湖」というだけあって、なるほど山のふもとに鏡を置いたようだ。水上勉の『湖の琴』にも「波一つない鏡面のような湖面は、山影をうつして蒼光りしていた」と書かれている。
六月末の土曜日、観光客でにぎわっているのかと思ったが、湖のまわりにはほとんど人影がない。車の姿もない。少し離れただけで琵琶湖周辺とは大違いである。暗くなってくる湖のまわりを歩き、いちばん先にぶつかった民宿を訪ねると、土曜日の夜だというのに客は誰もいなくてすぐに泊めてくれた。一階は小さなドライブイン、上が民宿になっている。部屋の窓の下はもう湖である。
周辺は人家も少なくあかりはほとんど見えない。泉鏡花の小説にでも出てきそうな静まりかえった湖である。ここは羽衣伝説でも知られているが、そんな伝説が生まれるのが似合うところだ。菊石姫伝説といって、昔、干ばつのひどかったころ、菊石姫という領主の姫が湖水に身を投げ、蛇身となって雨を降らせたという伝説も残っている。近くの寺からは夕べの鐘の音まで聞こえてきて、これはもう絵に描いたような里の夕暮れである。おまけにこの民宿には犬の他に、なぜか熊の子が二匹いて庭をころころ走り回っている。山里の雰囲気充分である。(もっとも熊がドッグフードを食べていたのは興醒めだったが)そういえば「熊は三年しか飼えない」と昔からいうが、さっき庭を走りまわっていた熊はいずれはこの宿の人に食べられてしまうのだろうか。
場所がこんなところだから夕食は期待していなかったが、鯉と鱒の刺身を中心にした食事はなまじの旅館の食事よりずっとうまかった。食後にびわが出たのも満足だった。
食事を終えて二階の部屋の窓辺にすわって夜の湖を眺めながら、持ち込んできたサントリーの樹氷で酔うことにした。私の大好きな田中裕子が宣伝しているやつである。今夜は彼女が主演するドラマがあるのだが、生憎と山里のテレビにはその局は入らない。樹氷で酔うしかないのである。
旅に出るといつもよりずっと早起きになる。少ない時間を少しでも有効に使おうという貧乏根性である。早めに朝食を作ってもらって八時には宿を出た。二頭の熊の子が見送ってくれた。湖を一周してその足で賤《しず》ケ岳に登る予定である。一周といっても湖周はせいぜい七キロほど、秀吉が柴田勝家を破った合戦場で知られる賤ケ岳もせいぜい標高四二二メートル。運動不足でなまった身体にはちょうどいいハイキング・コースである。
湖は朝日のなかでまぶしいくらい明るく光っている。このあたりは冬は雪が深く、湖面も凍りつくというが、この季節の朝の姿はちょっと水上勉の暗く沈んだ世界とは縁が遠い。湖沿いの農家の庭先にはあじさいやあやめが咲いていて、あくまでも明るい。そして予想以上に静かできれいなところだ。派手なドライブインやモーテルのたぐいはいっさいない。湖岸には国民宿舎が一つあるきりで、あとはみんな民宿である。日曜日の朝だというのに観光客の姿はたまに釣り人を見るくらい。車も通らなければ人にも会わない。湖には無論モーターボートも走っていない。湖岸の川並という集落のあちこちにはわらぶき屋根が見える。ほんとに静かな山里である。
湖岸で遠くを走る北陸線をカメラにおさめようとしていた男に出会ったが、この湖と里が気に入っていて暇を見つけると金沢から車で一人やってくるといっていた。次に会ったのは京都からきた初老のサラリーマンで、やはり一人でナップサックを背負い湖岸歩きを楽しんでいた。「ここは一人でくるのがいいところです」と二人ともいっていた。
川並の集落では日曜日だというのに早くから田圃にも畑にも人が出ていた。このあたりの田圃にはどこにも、秋の収穫時に使われる稲架《はさ》杭という棒が立っていて、独得の風景を作っている。道路のわき道には農家の人が手を入れているのだろう、紫蘇やみょうががはえている。そうかと思うと突然、野生の蓮が一面にはえている湿地帯にぶつかる。一人で見るのがもったいないくらいだ。
湖から賤ケ岳まではわずか四キロほどの山道だが、結構、急勾配で運動不足の身にはこたえる。ゼエゼエあえぎながら登っていたら、湖岸で出会った京都から来た初老のサラリーマンに「お先きに」といとも軽やかに追い越されてしまった。どうも休みのたびに山歩きしている人らしい。にわか山歩き族とはやはり迫力が違う。それでもなんとか一時間ほどで山頂についた。山はちょうど琵琶湖と余呉湖の中間にあって両方の湖が見渡せる。琵琶湖に浮かんだ竹生島《ちくぶしま》や矢の形をした湖北名物の|※[#「魚+入」、unicode9b5e]《えり》網が見える。その先に日本一の雄琴トルコ街があるとはにわかには信じられない静けさだ。山頂で民宿のおばさんに作ってもらったにぎりめしをぱくついた。昆布と梅干しが入っていた。
朝早く起きたので時間はたっぷりある。山頂から琵琶湖側に下り、渡願寺の国宝、十一面観音を見ようと思ったが、山から下りて琵琶湖岸を走る国道八号線に出たところで猛烈な雨が降り出してきた。
やむなくドライブインで休憩していると、そこはトラックの運転手のたまり場で北陸に向かうトラックが何台も通る。地図を見るとこの湖北から若狭湾の港町、敦賀までは二十キロほど。観音像を見るよりも港町に行きたくなって手近なトラックの運転手に敦賀まで乗せてくれと頼んだら、私と同じ年くらいの角刈りの太った運転手が「おう」といとも気軽にOKしてくれた。敦賀と名古屋を結ぶ水産会社のトラックである。「兄ちゃん、学校はもう夏休みかい?」なんて若造りしている私を学生と間違えている。悪い気はしない。阪神タイガースのファンらしく、トラックの運転席には松本伊代の写真と並んで掛布の写真が張ってある。阪神はこのところ七連勝と好調である。
車は琵琶湖をはなれると山に入る。若狭までの山越えである。山に入ると雨がすごい降りになってくる。そのなかをトラックは水しぶきをあげて走っていく。運転手は、このあたりの街道は昔、若狭の魚を京都まで運んだところだと観光ガイドもかって出てくれる。猛スピードで走ったおかげで敦賀まで一時間もかからずに着いてしまった。運転手は港の入口で私を降ろしてくれた。お礼にと思って余呉湖で買った山菜漬を渡したら、「おっ、ありがとう」と気持ちいいほどあっさり受取ってブルーッと車を雨の中に走らせていった。
敦賀の港は雨にけぶっていた。ここはソ連への船の玄関口になっているせいかロシア語の看板を出しているレストランや喫茶店が目につく。町にはロシア人の船員らしい外国人も歩いている。そうかと思うとその日なぜか市の文化センターではあの「反ソ派」の竹村健一の講演会が開かれているらしく、通りのあちこちにパイプをくわえたおなじみのポスターがベタベタ張ってある。せっかく雨の港町に来たというのに、これだけは興醒めである。
港には演歌と、そして雨がよく似合う。倉橋由美子の何かの小説にたしか「町は雨で港のようだった」という文章があったが、港に雨はぴったりである。閑散とした桟橋で雨に濡れながら残っていた樹氷をぐいと飲むと、ちょっと演歌の主人公の気分になって、※[#歌記号、unicode303d]おれは寂しいんだ……と歌のひとつも歌いたくなる。
しかしそのセンチな気分も食欲にはかなわない。駅前の商店街にえらく活気のいい魚屋があった。店先に蛤やさざえが、まさにごろごろという感じで無造作に並べられている。ひとかごいくらの商売である。越前ガニも山積みしてある。奥をのぞくと料理を作って食べさせてくれる一角がある。カニにむしゃぶりついている客の姿が目に入る。ためらうことなくなかに入って食欲を静めることにした。やはり旅の最大の楽しみは食べることである。
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養老渓谷から勝浦へ
木原線は千葉県の赤字ローカル線で廃止寸前にある。そのためか、鉄道ファンのあいだに木原線の人気が高まっている。山口百恵が引退前に急に騒がれたのと似ている。引退人気である。便乗して私も木原線に乗ってみることにした。東京から近いので「ちょっとそこまで」には便利でもある。
もうひとつ木原線には魅力がある。木原線は外房の大原と内陸部の上総中野を結んでいるが、東京からこの上総中野に行くには小湊《こみなと》鉄道という私鉄ローカル線に乗る。千葉の先の五井と上総中野を結んでいる。だから、東京からの旅行者は木原線と小湊鉄道の二つのローカル線を楽しむことができるわけだ。
八月のはじめ、関東各地に大きな被害をもたらした台風十号が去って、気象庁がようやく梅雨明け宣言をしたあとである。朝から夏らしいカッと照りつける太陽が頭の上にあって旅行日和とはいいがたい。
しかし長い梅雨が明けてようやく夏気分になったのだろう、小湊鉄道の始発駅五井に朝の十時ごろに着くと、ホームは学生や家族連れでにぎわっていた。二両連結の車両はまたたくまに満席になった。捕虫網を持った小学生に釣り竿を持った父親、それにおにぎりが入っているに違いない竹のかごを持った母親。これだけは昔から変らない夏休み風景である。
小湊鉄道は五井を出るとすぐに田園地帯に入る。宅地造成も見られるがまだまだ圧倒的に緑が多い。台風十号も千葉県にはさほど影響を与えなかったようで、田圃は一面に緑の稲。ところどころ、さとうきびが倒れているぐらいだ。
二両連結の小湊鉄道の唯一の短所は座席がボックスシートではなく、ふつうの通勤電車のように向いあわせ式になっていること。これではせっかく列車のなかで食べようと楽しみにしていた駅弁が食べられない。(あとで乗った木原線もそうだった)
私の乗った列車は上総中野行ではなく、そのひとつ手前の養老渓谷行だった。小湊鉄道の数少ない観光地で夏場はキャンプ客でにぎわうという。急ぐ旅でもないし、ここで降りて渓谷まで行ってみることにした。
養老渓谷の駅は思ったよりも小さく静かだった。キャンプ客も数は少ないし、駅前には小さなみやげもの屋が二軒ほどあるだけ。駅のむこうはもう田圃が広がっている。ホームにはなぜかうさぎとちゃぼの小屋があって、いかにもローカル。およそ観光地らしくない。大型レジャーの時代、かえってこういう近場のほうが観光地化していないのだろう。
駅周辺の渓谷をめぐると行程約五キロ、歩いて二時間ほどなのでハイキングを楽しむことにした。
満員の乗客はいつのまにかどこかへ消え、炎天下の田圃道を歩いているのは私のほかは家族連れが二組ほど。どちらも歩きはじめて十分ほどでもう木蔭に坐り込んで弁当を開いた。歩きに来たというより弁当を食べに来たらしい。こちらはふだん運動不足なので、こういう機会にこそ身体を動かそうと炎天下、がんばって歩き続ける。幸か不幸か夏痩せとも無縁で、このところまた一段と腹が出てきたのでともかく歩け、歩けである。
房総半島は海のほうはよく行くが中に入ったのはこれがはじめて。山は低いが意外にふところが深く緑も多い。モーテルもドライブインもなく山里の雰囲気が残っていて、思ったよりいいところだ。
渓谷の降り口に古い藁葺《わらぶ》きの民家が残っていた。「おもいでの農家」と看板が出ている。古い農家を残してその内部を客に見せているのである。公営ではなく私営であるのが面白い。入場料二百円を払ってなかをのぞくと、昔の農家の生活道具が雑然と並べられている。博物館のようにはきれいに整理されていなくて、蔵の中にあったものをなんでもかんでもみんなひっぱり出して並べたというところがすごい迫力で、なまじの博物館よりいい。
そろばん、筆、ランプ、小学校の教科書、柱時計、茶碗、皿、湯飲み、鍋、時計、くし、なんでもある。出征兵士の写真や天皇、皇后の写真まである。なぜか枕が二十個ぐらいある。古いレコードもある。小唄『関の五本松』や『嗚呼四十三号潜水艦』、『六大学リーグ行進曲』、『東京の花売娘』とこれまた雑然としている。入口に坐っていたおやじさんが道楽で始めたものだろうが、「ご先祖様の暮しを何がなんでもいまに伝える」という断固たる百姓の使命感みたいなものが感じられ、ご大層な博物館よりずっと感動的だった。とくに土間のところに張られた江戸時代から現在までの一年ごとの米一俵の値段表というのは百姓の怨念すら感じさせた。ただ客は私一人しかいなかった。キャンプ客でにぎわう夏場でも、こんなところに来る酔狂な客は一日十人もいないのかもしれない。
お目あての養老渓谷は残念ながら期待ほどではなかった。渓谷というほど眺めがいいわけでもなく、台風の大雨のためか川の水は土色に濁っていて、とても泳ぐ気にはなれない。それでも子供たちは結構平気で川に潜っていた。
このあたりは養老渓谷温泉といい、旅館が渓谷沿いに五軒ほど建っている。春先か秋に来たら静かでいいかもしれない。どの旅館の入口にも「**様御一行」と看板が出ているが、よく見ると学校の先生のグループばかり。「都立鷺宮高校教職員組合様」、「千葉県高等学校教職員組合様」……。
養老渓谷駅に戻り、そこからまた小湊鉄道に乗り、次の駅、終点の上総中野に出る。そこが木原線の起点になっている。ローカル線らしく接続が悪いため、次の木原線に乗るためには上総中野で一時間も待たなければならない。といってもここも小さな駅で駅前には食堂があるほか何もない。仕方がないのでそこに入ってビールを飲む。近くの田や山からカエルとセミの声が聞こえる他は何も聞こえない。駅のほうを見ると駅員がのんびりとふとんを干している。穴子の串焼きときゅうりの漬物で飲むビールは素晴しくうまい。旅の醍醐味のひとつはこの、田舎駅の待ち時間に飲むビールかもしれない。ビールを飲みながら藤沢周平の時代小説を二つほど読んでいるうちに汽車の時間がきた。
木原線も二両連結のディーゼル。客は地元の女学生が五、六人乗っているだけでガランとしている。国吉《くによし》とか大多喜《おおたき》を通る。車窓には田圃が続く。たまに小さな川があって鉄橋を越える。大多喜では車窓から大多喜城も眺められる。典型的な、のどかなローカル線である。こういう、旅行者にとっては有難い路線ほど赤字で消えゆく運命にあるのは寂しい限りだ。
上総中野から大原まで約一時間。料金はわずか三百八十円。新幹線で一時間も乗ったら五千円はとられることを考えたら、実に安い。
大原から御宿《おんじゆく》に出てそこで一泊し、翌朝、勝浦の朝市を見て東京に戻ることにした。勝浦ではなくわざわざ海水浴の町、御宿で泊ることにしたのは、夏の海のにぎわいを見てみたいと思ったからだ。御宿は町全体が民宿といっていいくらい民宿だらけの町で、夏には海水浴客で人口が二倍から三倍にふくれあがるという。
駅に降りるや、いた、いた、真っ黒に日焼けしたアンチャンやおネエちゃんたちが町じゅうを闊歩している。髪を珍妙に染めたツッパリ族がオートバイをここぞとばかり派手に走らせている。車のなかから高校生ぐらいのニキビづらが女の子と見ると、「カノジョー、カノジョー」とやっている。夕暮れにはまだ間があるのに、海岸沿いの野外ディスコではもう若い連中がお尻を振っている。最近の女の子は本当によく発達して脚が長く、私より背が高い子もいる。もっとも場所柄、湘南に比べるとどこか雰囲気がアカ抜けないのは仕方がない。
御宿はなんでもメキシコのアカプルコと姉妹都市だそうだが、ディスコの隣りではお婆さんがトウモロコシとイカを焼いて売っていたり、当世風のレストランの隣りではおでんとかき氷を売っていたりで、あくまでもニッポンである。湘南や軽井沢に比べると「だって埼玉」「だって千葉」である。
それでも海岸にはサーファーがいるし、派手にいちゃついている若い二人連れもいる。ディスコにはトムトムクラブまでかかっている。しみじみとした山里を歩くのもいいが、こういう海の町ではしゃいでいる高校生たちを眺めているのも面白い。
翌朝六時に起きて隣りの勝浦に行った。駅を降りるともうあちこちに重い荷物を背負ったかつぎ屋スタイルのお婆さんたちが歩いているので彼女たちについていくと、すぐに朝市の場所にぶつかった。お寺の前の細い路地約三百メートルぐらいにわたって市ができている。近在の農家のお婆さんたちが道路に新聞紙を敷いてその上にありとあらゆる野菜を並べて売っている。港町らしく魚も売っている。町の人だけでなく海水浴客もいてちょっとした縁日のにぎわいである。かぼちゃ、トマト、にんじん、きゅうり、梨。魚はトビ、メバル、タコ、アジ、カツオ、サザエ、ウニ。カツオ一本が千円、アジが一キロ千六百円、ウニは二個で千六百円。一軒一軒、お婆さんの店をひやかして歩いているだけで飽きない。やはりもう若くもない人間としては夜のディスコより朝市のほうが気が安まる。
魚を売っている店で真っ黒な干物のようなものを売っている。何だろうと思っていたら、それを十枚も買っていたおばさんが「鯨の干し肉よ。あぶってマヨネーズつけて食べるとおいしいから。去年、買っていってみんなに喜ばれたわ」と教えてくれた。鯨も日本ではもうじき食べられなくなるかもしれない。私もその鯨の干し肉をおみやげに買った。一枚三百円だった。
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甲府から下部温泉へ
九月末の平日、ミレーの『種をまく人』があるので知られる山梨県立美術館に出かけた。いまさらミレーとは、と笑われるかもしれない。急にミレーを見たくなったのはこの秋に公開されるイタリア映画、ベルナルド・ベルトルッチ監督の『一九〇〇年』の北イタリアの田園、農村風景が素晴しく、パリ郊外のバルビゾンの農村風景ばかりを描いていたミレーのことを思い出したからである。
中央本線で甲府まで、そこからバスで約十五分ほど、東京から二時間半の行程である。
平日だったので美術館は思ったよりすいていた。『種をまく人』は予想していたよりも小さい絵だった。日本でこの絵が知られるようになったのは大正時代、白樺派の作家たちが積極的に紹介したためといわれている。そのため現在では大正教養主義に対する反発もあって、ミレーというといまさらという雰囲気が強い。とくに岩波文庫のマークになっているので嫌う人も多い。
しかしはじめてミレーの絵を見て私はいいなと思った。というよりミレーの絵を見ている人の様子がよかったのである。その日、美術館には何人かの老人たちがいた。団体、個人客、いろいろだったが、彼らの多くは山梨県の農家の人のようだった。
ミレーはバルビゾンの農民たちを描きつづけた。美術館には『種をまく人』の他、ミレーのいくつかの絵、版画があった。それはすべて農民の日常生活を描いたものだ。『桶の水を空ける婦人』、『落穂ひろい』、『肥料を取りこむ農夫』、『ミルク粥』、『耕す人』……。どれも小さな作品である。老人たちはそれを一枚一枚ほんとうに懐しそうにながめていく。とくに農家の母親が膝に抱いた赤ん坊にスプーンで粥を飲ませている『ミルク粥』の前では老婆たちが何人も立ちどまる。おそらく、フランスも日本も農民の生活はどこでも同じなのだという親しさを彼らは感じているのに違いない。私は日本でのミレー人気の秘密がわかったような気がした。ミレーは偉大な芸術家というより、農民を描いた画家として美術館を訪れる老人たちに親しまれているのだ。
四年前、この美術館がオープンし、何億円も出してミレーを買入れたことが報道されたとき、成金趣味とすこぶる評判が悪かった。美術館設立に尽力した当時の知事は選挙で落選した。しかし現在ではこの美術館は県民の生活に完全に溶け込んでいるという。『ミルク粥』や『夕暮れに羊を連れ帰る羊飼い』の前で立ちどまっていた老人たちの姿を見るとそれも納得できた。
美術館には日本の画家の作品もいくつかあったが、そのなかに日本画の川崎|小虎《しようこ》の作品があったのは懐しかった。というのは、私は東京の阿佐ケ谷で育ったのだが、子供のころ野球をやって遊んだ原っぱの隣りにあったのが川崎小虎の家で、よくボールを投げ込んでしまってはその家のおばさんに怒られたりしたからだ。無論、当時は川崎小虎といっても誰だか知らなかったので、怒られた腹いせにわれわれ悪童は原っぱのほうから「トラ、トラ、コトラ!」とはやしたてたりしたものだ。その先生の絵とこんなところで再会できるとは夢にも思わなかった。
美術館は甲府の新名所になっているのだろう、館の周辺は喫茶店、みやげもの屋、食堂が並んでいる。食堂に入ってビールと甲府名物のほうとうを頼んだ。ほうとうは手打ちのうどんをカボチャや大根やニンジンと煮込んだ一種の煮込みうどん。ふうふういいながら食べると身体じゅう汗だらけになってくる。ミレーのあとにはフランス料理よりもほうとうのほうが似合っている。
腹ごしらえをして、甲府盆地の北側に広がるサントリーの山梨ワイナリーに足を延ばした。東洋最大の自家ぶどう園である。タクシーの運転手は「山梨の観光地っていうと昇仙峡《しようせんきよう》くらいしかなかったんだけど、この美術館が出来てからは、美術館からワイナリーへのコースが新しい観光コースになった。ミレーを買ったときは高い買物だ、ぜいたくだ、って批判が出たけど、いまじゃ安い買物した、とっくに元をとったって市の連中も喜んでるよ」と機嫌よく話してくれる。どうやらミレーとほうとうよりミレーとワインの組合せがいいらしい。
サントリーのワイナリーは眺めのいい山の上にあった。遠くに甲府盆地が広がっている。生憎と曇っていて見えなかったが、晴れた日には目の前に大きく富士山が見えるという。周囲は見渡す限りぶどう畑で、山全体が緑の絨毯《じゆうたん》に覆われている感じだ。「どうだ、すごいだろう」と乗ってきたタクシーの運転手がまるで自分の庭みたいに自慢する。ひどく愛想のいいおじさんで、私につきっきりでワインやぶどうについての知識を披露してくれる。
ぶどう園の中には野外レストランもあって、団体客はそこでワインを飲んでは食事を楽しんでいる。一人旅はああいうにぎやかなパーティに参加できないのが口惜しいところである。そのかわりワイン・バーではワインを一杯ただで飲ませてもらい、おみやげにグラスももらった。例の運転手は「うちにはもうグラスが山ほどあるからお客さんにやるよ」と私にグラスをくれた。そうはいわれても私の家には「ワインを買うとグラスがついてくる」という安物のグラスがたくさんあって困るのだが。
仕方なく両手にグラスを持ってワイナリーを出た。再びタクシーで甲府に下る。「サントリーといえば地元の大企業で、あそこに就職するのは大変なんだ。ほら、いまワイン飲ませてくれた女の子、あの子だって、お客さん、大学出なんだから」と運転手はおらがサントリーの自慢である。私も今年のお中元にサントリーからビールをたくさんもらったのでつい「うん、サントリーはいいよな」と同調する。「しかしお客さん、私なんかの年齢だとやっぱしワインというよりぶどう酒だね」「うんそうそう、ぶどう酒のほうが感じがでるね。ワインならやっぱし赤玉ポートワインだな」「お客さん、何いってるんだよ。赤玉ポートワインというのは昔のサントリーのワインのことだよ」「…………」
そんなサントリー談義をしているうちに甲府に着いた。すこぶる愛想のいい運転手は「お客さん、暇あるんなら巨人の堀内の家に連れてってやろうか」といってくれたが阪神ファンの私としてはこれは丁重に断わった。堀内は甲州の生んだヒーローの一人らしい。
今夜はこれから身延線の沿線にある、武田信玄の隠し湯として知られる下部《しもべ》温泉に泊る予定である。スポーツをやるでもない、女遊びをするでもない無趣味な人間にとっては、旅とは温泉につかることなのである。
下部温泉は甲府と静岡県の富士を結ぶ身延線のほぼ中央にある下部駅で降りて、バスで十分ほど山の中に入った山あいの小さな温泉である。ひなびたというには大きいが、熱海などに比べれば山の中の秘湯といっておかしくない。湯川の流れに沿って宿が十軒ほどある。井伏鱒二の小説にここを舞台にした作品があって、戦前、映画化されたこともあるというが、残念ながら小説も映画も私は読んでも見てもいない。ただ井伏鱒二の好きそうな雰囲気だなとは容易に察せられる。夕食までの短い時間、宿の浴衣を着て小さなみやげもの屋をひやかしているのは老人ばかりである。
「武田信玄公かくし湯の源泉始祖」と銘打った源泉館という古い宿屋に泊ることにした。和風の、部屋を次々につぎたしていったという感じの旅館である。つげ義春のマンガ『ゲンセン館主人』はここで想を得たのかもしれない。
甲州にはいたるところに「信玄の隠し湯」と謳《うた》っているところがあるが、正真正銘の「源泉始祖」はうちだとお茶を運んでくれた宿のおばさんが自慢した。
ここはなんと混浴だった。出入口は女湯、男湯とのれんが別れていたので別々かと思ったが、裸になってドアをあけたら裸のおばさんがたくさん……。「しまった、間違えた」と思ったら、「ここは混浴ですよ」とおばさんたち。とはいえ落着いてよく見ると風呂につかっているのは老人ばかり。身延山のお参りの帰りのおじいさん、おばあさんたちである。まわりじゅうみごとに老人ばかり。若者はおろか、中年の姿はかけらもない。老人の他は私とケガの治療に来たという相撲取りだけ。ちょっと気味が悪かったが、妙な邪念を抱かずに湯にだけ専念できるのは身体にはいいだろう。
この温泉は冷湯であるのも珍しい。温度は三十度ぐらいだろうか。知らずに最初、足を入れたときは水風呂に間違えて入ったかと思った。冷湯だからいつまででも入っている。私は三十分でもう充分だったが、老人たちの中には一時間以上も入っている人が何人もいる。湯治場の雰囲気である。
風呂からあがってビールを飲んでいざ夕食をと思ったら、下の広間で老人たちの宴会が始まった。例によってカラオケである。最近は旅館に泊るとこのカラオケ公害に悩まされることがしばしばなのだが、まさかこんな山の中で老人たちのカラオケ宴会にぶつかるとは思わなかった。
仕方がないので酒をたくさん飲んで早めに寝てしまうことにした。老人たちは温泉でリフレッシュしたためだろうか、元気に流行歌や民謡を歌っている。聞くとはなしに聞いていると最後に老人の一人が「それではこれから……」と拍手に迎えられている様子。何をやるのかと思っているとなんと軍隊ラッパの真似。突撃ラッパ、起床ラッパを元気よくやる。きっと兵隊で苦労した老人なのだろう。そして宴会はこの老人の消灯ラッパとともに終りになった。急に夜が静かになり、宿の横を流れる川の音だけになった。
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寺泊から出雲崎へ
上越新幹線の開通で姿を消してしまうという上越線の特急に乗って越後路の旅を楽しむことにした。行先は、佐渡の対岸の港町として知られる寺泊《てらどまり》と、良寛の生誕地として有名な出雲崎である。上野から「とき」に乗って長岡まで出て、そこからバスで約一時間、ようやく寺泊に着く。上野から約五時間で、ちょうど日本列島の真中を横断することになる。
上越新幹線はトンネルがやたらと多く、雪国の景色を充分に楽しめないというから、見おさめのつもりで水上から六日町、小千谷《おぢや》とつづく越後の風景を車窓からゆっくり眺める。刈り人れの終った田圃、紅葉した山々、魚沼川の清流、シーズンにはまだ間のある湯沢や土合のスキー場の静まりかえったスロープ、田圃のなかにところどころ見える鯉の養殖場。上越新幹線になってもこういう越後の風景が楽しめるのかどうか。
長岡の駅はすっかり改装が完了。新幹線の駅のパターンとしてもうおなじみの、駅とファッションビルのドッキング型で、ホームの下はパルコふうの店がズラリとならんでいる。わずか三年前の冬、夜行で上野をたって早朝、長岡に着き、飯山線に乗るために駅の待ち合い室でダルマ・ストーブにあたりながら時間をつぶしたのがもう大昔のようだ。あのころは「なんて寂しい駅だろう」(とくに駅の北口)と思ったものだが、いまやすっかり化粧して、見違えるばかりである。
長岡から寺泊まで、はじめローカル線の弥彦《やひこ》線と越後線を利用しようと思ったが、どちらも何時間かに一本の不便さなので結局、長岡から寺泊までバスに乗った。
長岡を出て五分ぐらい、信濃川を渡り切るとさすがにもう越後の田園地帯で、バスは刈り入れの終った田圃の中の道を走り続ける。気分もどうやら旅気分になる。通学の高校生たちは長い通学距離で疲れているのだろう、大半が座席で眠りこけている。元気がいいのは平日に旅行を楽しめるのんきなフリー稼業の私ぐらいである。
寺泊は「日本海の鎌倉」というそうだが、無論、比較にならないくらい小さな港町である。佐渡に向かう連絡船の港があるが、港というより船着場という雰囲気である。細い旧街道に沿って家が並んでいる街道筋の宿場町の雰囲気もある。まだ観光地化していない古い、潮の香りのする町である。
日本海の古い港町、というとすぐに暗い町を想像してしまうが、この寺泊はちょうど私の出かけた日が秋晴れの日だったためか、明るく活気のある町に見えた。活気の源は海に面した国道沿いの魚屋である。「魚屋のアメヤ横丁」とうたっているだけあって、国道沿いに並んだ魚屋はどこも活気にあふれている。まず魚の質、量に驚く。魚ならなんでもある。名物のズワイガニ、サケをはじめ、サンマ、アジ、イワシ、イカ、サバ、イナダ、ホタテ、アンコウと、いたるところに新鮮な魚が山盛りに積まれている。しかもその値段の安いこと! 大ぶりのイカが四匹も盛ってあって一皿九百円、キャッチャー・ミットみたいな大きなアンコウがわずか二百五十円、小アジなんて少なく見つもっても二十匹は入っていて一皿わずか百五十円! ホタテは五つで五百円。あげていけばキリがないが、その安さはもう感動的である。
お客は車で次から次へとやってくる。県内はもちろん長野、群馬のナンバーもたくさんある。大きな箱に氷を詰め、そこに大量に買い込んだイカやサケを入れて運んで帰る。汽車の旅でそれができないのが口惜しい限りである。
もうひとつ驚き、感激したのは浜焼きという魚のバーベキュー。縁日でよく売っているイカの丸焼きと同じスタイルなのだが、イカだけでなくアジ、サバ、タイとなんでもある。しかも切身でなく一本丸ごとである。頭から尾まで太い串で刺して炭火で焼いたのを一本二、三百円で売っている。その姿の豪快なこと。二十センチはある大きなアジを頭から丸かじりすると、なんとも野趣にあふれている。昔は浜辺で焚火をしながら焼いたので浜焼きという、その名前だけが残っているわけだ。
その串刺しのアジやタイにまじってなにやらウナギかヘビのようなグロテスクな串刺しがある。何かと思って魚屋のおじさんに聞いたらこれがアナゴの串焼き。アナゴなんてスシの上に乗っている小さな切り身しか見たことがないのでこれにはびっくり。これは寺泊をはじめとする越後海岸地帯の名物だという。一本四百五十円。さすがにこれはゲテものふうで口にする勇気はなかった。
漁業の町というのはいくら漁業不振の時代といっても活気がある。「魚屋のアメヤ横丁」を見ているだけでもう圧倒されてくる。日本海の暗いイメージはふっとんでしまう。
寺泊は人口約一万六百、ほんとに小さな町だ。ウィリアム・ギャスという作家は『アメリカの果ての果て』という小説のなかで、アメリカのありふれた町の特色を「レストランが二軒、喫茶店が二軒、バーが二軒に、銀行が一つ、床屋が三軒……」と書いているが、この寺泊もいかにもありふれた港町というたたずまいを持っている。
神社、床屋、酒屋、米屋、銀行、喫茶店、雑貨屋……そうした生活必需店がそれぞれ一つか二つずつ小さくまとまっている。自動販売機が少ないのもこの町のこぢんまりとしたよさのあらわれだろう。その数少ない自動販売機に「つりのえさ」のものがあり、二百円ぐらいを入れるとイソメや赤ひげが出てくる。これはいかにも釣りのさかんな町らしい。
町には釣り客相手の民宿も割烹旅館もたくさんある。寺泊はいちおう海水浴場もあり、夏場は民宿も満員になるという。幸い私の行った日はオフシーズンでどこもガラガラ。「田甚」といういかにも古い和風旅館に泊ることにした。もと網元の家を改良して旅館にしたというだけあって、最近のプレハブ住宅のような安上りの旅館とは一味ちがう。といって決して豪邸でもない。生活の匂いのする、古い漁師の家である。季節はずれで客も少なかったのだろう、宿のおかみさんは床の間つきの部屋に案内してくれた。
ひと風呂あびてビールを飲んでいると、外から波の音と鴎《かもめ》の声がかすかに聞こえてくる。潮の香りのする夜風が吹き込んでくる。十月末だがまだ寒いということはない。さしみ、焼魚、煮魚、たたき、鍋、吸物と料理は充分すぎるくらい魚、魚、魚である。とれたてのカニもまるまる一匹出してくれる。冷凍のカニと違って足をむしゃぶり喰うと塩水が口ににじみひろがる。番屋鍋といって、魚と野菜を味噌で煮込んだ料理も身体があたたまる。次から次へ料理が出て結局、全部は食べ切れない。これで一泊二食一万円強なのだから安い。東京の割烹でこれだけ食べたらいくらとられることやら。
たらふく食べてから腹ごなしに夜、町をまた散歩した。小さな港町だから夜は飲み屋ぐらいしか人はいないのかと思ったら浜辺に町営の野球場があり、そこはちゃんとナイター用の照明施設もあり、夜の八時だというのに草野球をやっていた。スコーピオンズ対カクジョウの試合である。ワンカップ大関片手に見物していた漁師だというおやじさんに聞くと、スコーピオンズというのは町の勤め人のチーム。対するカクジョウというのは昼間歩いた「寺泊のアメ横」のなかの魚屋の一軒だという。
「ほら、ライト守ってるのがカクジョウの専務で、ファーストが常務だよ、セカンドはおれのせがれだ」とワンカップ大関のせいかおやじはゴキゲンである。専務と常務が草野球を楽しんでいるというのも面白いが、一塁と三塁の審判が長靴をはいているというのもいかにもローカル港町である。
野球場の隣りにはテニスコートもあり、そこでも家族連れがテニスのナイト・ゲームを楽しんでいる。寺泊は港町であると同時にスポーツの町でもあるようだ。
些末なことだが、「田甚」という旅館はテレビも有料テレビでなく百円玉を用意する必要がない。これにも感激した。旅先でくつろいでいざこれからテレビでも、というとき「百円テレビ」は実に味気ないものなのだ。
翌朝、鴎の鳴き声で目が覚めた。朝風呂を浴びてから(寺泊はわかし湯ながらいちおう温泉である)、また魚中心の朝食を食べ宿を出た。このまままっすぐ東京に戻るのももったいないので、越後線で二十分ほどで行ける良寛生誕の地、出雲崎に出ることにした。
出雲崎は寺泊よりももっと小さな港町である。山が海まで迫り、その山と海のあいだの狭い場所に家がしがみつくように建っている。典型的な日本海の海の町である。家はどれも間口が狭く、奥行のあるウナギの寝床のような形をしているのが特色である。町は良寛の生誕地である良寛堂という日本海に面した小さなお堂と、良寛記念館という建物のほかは見るものもないが、街道沿いの家や港を見ているだけで倦きない。
冬は毎日のように時化《しけ》になるというが、私の行った日はウソのように晴れて海もおだやかで、およそ暗い日本海の印象はない。考えてみれば日本海というのは中国と日本の国交がさかんだった時代にはむしろ「表日本」であり、地理的にも日本海は一種の内海であり、決して暗い日本海だけのイメージでは語れないところなのだ。事実、春先きに日本海を見ると静まりかえっていてまるで瀬戸内海のようである。
私は晴れ男というのか、これまで何回か冬の越後を見たくて旅行しているのだが、不思議ときびしい雪景色に出会わない。三年前の冬に六日町に行ったときは、あの名うての豪雪地帯に雪のかけらもなかった。今回も私の行く三日前はみぞれになり、これでいよいよ冬かと町の人は覚悟したらしいが、私の行った日は見事な秋晴れだった。
日本海を見下す山上にある良寛記念堂から出雲崎の港に下る道は小学生たちの通学路になっている。その坂道は冬の厳しい雪を避けるためだろう、コンクリートのトンネルになっていた。今度、一月か二月、雪の中をこの坂道を下ってみたいものだ。
日本海側の人は冬が長いためだろうか、光に対して特別な感受性を持っていると思う。たとえば越前の三国で生れた作家、高見順はこんな光の詩を残している。
光は声をもたないから
光は声で 人を呼ばない
光は光で人を招く
良寛堂から見た十月の日本海は静かな光にあふれていた。
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温泉紀行
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知床秘湯めぐりの旅
「お湯が滝になって流れ落ちてる、滝の温泉が知床半島にあるの、知ってますか?」と温泉好きの若い友人K君がいった。
その夜、K君と私は荻窪の小さな焼き鳥屋で温泉の情報交換をしていた。私が伊豆にある滝の下の温泉、大滝《おおだる》温泉のことを得意気に話したら、私よりずっと日本各地を歩いているK君は「なんのそれしき、北海道には滝そのものがお湯になっているすごいところがありますよ」と逆襲してきたのだ。
その滝はカムイワッカというのだとK君は教えてくれた。私はそれを手帳に書きとめ、いつか行ってみたいと思った。それが一月だった。それから二度ほど、酒を飲んで温泉の話になったとき、他の温泉好きからカムイワッカの滝のことを聞かされた。原生林のなかにあるすごい滝の湯だ、秘湯のなかの秘湯だ、温泉というより火山の一角だ、と行った人間はみんな絶讃した。滝壺に入っていたら近くをクマが通った、お湯のなかを気持よさそうにヘビが泳いでいた、という者もいた。話を聞けば聞くほど行きたくなった。
そしてこの八月の中旬、思い切ってカムイワッカに出かけることにした。夏にしたのはいうまでもなく知床の大半が冬になると雪に閉ざされて行けなくなってしまうからだ。
せっかくの機会だからカムイワッカの他にも知床の秘湯をいくつか歩いてみる計画をたてた。知床は深い原生林や冬の流氷など野生的な風景で有名だが、同時にここは秘湯の宝庫でもある。どこも熱海や別府などの温泉歓楽街と違った小さな山の湯である。原生林のなかにただお湯がわいているだけで旅館など一軒もないところもある。観光客相手の温泉ではなく土地の漁師たちが疲れをいやすためだけに入る村の湯もある。ガイドブックにも載っていないところが多い。手もとにある日本秘湯を守る会が編集した『日本の秘湯』というガイドブックにも残念ながら知床半島の秘湯は一つも紹介されていない。そうなると温泉好きとしてはいっそう胸が騒ぐ。
旅好き、温泉好きの友人たちから情報を集めてカムイワッカの他に、山のなかの一軒宿の温泉岩尾別温泉、知床の東海岸にある漁師たちの風呂場である相泊《あいどまり》とセセキの温泉(いずれも海岸の露天風呂)に行くことにした。二泊三日の強行スケジュールである。
知床には釧網《せんもう》本線の斜里《しやり》駅から入った。そこからバスで西海岸の知床観光の拠点ウトロに向かう。約一時間の行程。夏休みのせいか学生が多い。仲間同士お喋りをしているよりもウォークマンを聞いて一人きりになっている者が多い。バスは斜里の町を過ぎるとすぐ緑のなかに溶け込む。牛がのんびり草をはんでいる。じゃがいもの白い花が一面に緑の野をうめつくしている。
ウトロは思ったより閑散としていた。みやげもの屋でアルバイトをしていた仙台から来たという学生の話では混んでいたのはお盆までで、それ以降は家族連れが帰ったのでめっきり寂しくなったという。海の近くの小料理屋でホッケを中心に遅い昼食をとった。ビールのつまみにもらったサケの切り込みがうまかった。
ウトロの町は近代的なホテルや旅館が十軒ほどある。その他に民宿があり、みやげもの屋がある。どこにでもある観光地を少し小さくしただけで知床らしさはあまり感じられない。ここもいちおう温泉である。十年ほど前ボウリングをしたらお湯が出てきたという。知床半島は千島火山帯に属するから掘ればお湯が出るところはたくさんあるのだろう。しかしこの町はいかにもにわか作りの温泉という雰囲気で、いまひとつ湯心[#「湯心」に傍点]をかきたててくれない。
岩尾別温泉はウトロからバスで三十分ほどのところにある。バスが日に六本ほどしか出ないのが難点といえば難点だが、秘湯めぐりにはこのくらいの苦労はあったほうがいい。
岩尾別温泉は原生林のなかにある。温泉と書くとそこに旅館が何軒もかたまっている温泉郷を思い浮かべてしまうが、この温泉は完全に山のなかの一軒宿。温泉があるから宿があるのではなく、宿があるから温泉になっているわけだ。観光道路をはずれ、バスは舗装されていない渓流沿いの砂利道を走る。まわりに人家は一軒もない。シラカバ、トドマツ、エゾマツの原生林がどこまでも続く。こんな山のなかに温泉があるのかと少し不安になりはじめたころ、バスは岩尾別温泉のただ一軒のホテル「地の涯」に着いた。「地の涯」とはよくもつけたものだが、ホテル自体は近代的な三階建てで各室にはちゃんとテレビもついている。このホテルの経営者は斜里の町の木材業者。以前から林業にたずさわる人のあいだでこの温泉のことは知られていたが、そこに昭和三十七年に「地の涯」を建てたという。無論、原生林のなかのこと、道らしい道もなく自衛隊の協力で特別の道路を作った。
ウトロあたりまでは学生が多かったが、さすがに山奥の「地の涯」まではやってこない。ホテルの少し手前にユースホステルがあり、若い人はみんなそちらに行ってしまう。「地の涯」までやってくるのはほんとの温泉好きである。私の泊った夜も大半は中年の客だった。大きな団体客もなく山の宿はひっそりしていた。
お風呂は十畳敷きぐらいの大きいのがひとつと、外に栓木《センノキ》をくり抜いて作った丸太風呂がふたつ。客がほとんどいないのでこれだけの風呂を一人で独占して楽しんだ。お湯は熱からずぬるからず、泉質は食塩泉で少し塩からい。丸太風呂に入り周囲の原生林を眺めるのはまた格別の味。お湯の音の他は何も聞こえてこない。宿の人の話ではときどき近くまでヒグマがあらわれるそうだが、知床のクマは人間を襲うことはめったにないという。宿で働いていた七十五歳の老人も「これまで近くの山でクマに三度会ったが、三度ともクマのほうから目をそらした。ここらのクマはおっとりしとる」とのんびり構えている。お湯の出る土はあたたかいのだろう、しょっちゅうヘビも出るというが、これも「人間の姿を見ると逃げだす」そうだ。なんだか人間がいちばん暴力的な感じである。
「地の涯」には露天風呂もあったが、二年前の台風で埋まってしまったという。そういえば先だって群馬県の名湯、宝川温泉の露天風呂が雨のために土砂くずれにあい埋まってしまったという新聞記事が出ていた。露天風呂はその意味では傷つきやすい、繊細な風呂なのである。
山奥にあるから「地の涯」の営業期間は五月から十月までと短い、冬のあいだは雪に閉ざされる。「十月の終りに宿を閉め、みんなで山をくだっていく。なんともさみしい気がします」と老人はいう。冬のあいだ従業員は斜里の木材工場で働いたり本州にみかんもぎにいったりする。
私の泊った夜は客も少なく「地の涯」はのんびりしていた。羅臼岳にのぼるために宿の前でキャンプをしていた登山者が「温泉に入らせて下さい」とやってきたが、宿の人は特別に料金もとらずに入れてあげていた。
夕食はサケとイカがたっぷりついていた。魚はウトロから運んでくるという。ウトロはサケ、マスのよくとれる漁港でもある。夕食を終え、また丸太風呂に入りに行った。お湯がもったいないほど大量にこぼれていた。
翌朝六時に起き、また風呂に入りヒゲを剃ってさっぱりした。宿の前にキャンプしていた釧路から来ている登山客が「おはよう」と声を掛け合いながら羅臼岳に登っていった。道のりは約九キロ、登りは四時間かかるという。
簡単な朝食を終え、バスでウトロへ戻った。カムイワッカへはそこからバスで約四十分かかる。そのバスをウトロで一時間待たねばならない。実際、広い北海道を旅しているとこういう待ち時間が多い。汽車の旅だと乗っている時間より待ち時間のほうが多いことがある。ウトロのバス停で待っていると、若者たちがオートバイでひっきりなしに通り過ぎる。仙台ナンバー、秋田ナンバーだけでなく鹿児島ナンバーまである。北海道はオートバイで旅するには絶好の場所かもしれない。バスを待っているあいだに「遊覧船に乗りませんか」と切符を売りにきた男の子も、愛媛からバイクできたがウトロでついに金がなくなったのでアルバイトをしているといった。
カムイワッカ行きのバスはウトロから乗り込んできた学生たちでいっぱいだった。カムイワッカの温泉は滝の上にあり、そこまで急傾斜の谷を登らなければならないので年寄りには無理なのだ。バスは知床の西海岸沿いを走り続ける。原生林と海のほかは何もない。人家はもちろん、ドライブインも広告塔もない。窓の外は海の青と林の緑だけ。ときどき道路にキタキツネがあらわれると、運転手が気をきかせてバスを停めてくれる。キタキツネは人間の姿が見えると隠れてしまうものかと思っていたが、なかなかのひょうきん者が多く、バスの窓からカメラをかまえる観光客にポーズをとったりする。
原生林のなかに突然、白い滝が姿を現わした。バスのなかからどっと歓声があがる。大きな長い滝で、上のほうは原生林のなかに隠れてしまっている。これをずっと上にのぼっていくわけだ。
バスを降りて滝のそばで靴をぬぎ裸足になる。それからいよいよ滝をのぼっていく。滝といっても、何度もいうように水の滝ではなくお湯の滝である。下のほうは水がまじってしまい、ぬるいので温泉にならない。上流の熱い湯をめざして滝のぼりをするわけだ。一種の沢のぼりだが、お湯のためか苔がはえていなくて、裸足で岩の上を歩いても滑ることはない。急峻なところにはロープが下がっていて、これをつたってのぼっていく。さすがに老人はいない。若い学生ばかりだ。女の子もたくさんいる。中年男は私ぐらいだろうか。上から下りてきた若いパーティに「お湯は混浴かい?」と聞いたら「勿論ですよ。女の子のほうが多いくらい。あっ、おじさん、もうよだれが出ている」と早速からかわれた。
滝をのぼること約三十分、若い歓声がにぎやかに聞こえはじめた。お湯と水がほどよく溶け合った滝壺、カムイワッカ温泉である。大きな滝壺が一つと、その下に小さいのが二つほどある。大きいのは八畳くらいのもので、真中は深くて背がたたない。天然の岩風呂である。
滝壺のそばの岩場で裸になって湯のなかに飛び込む。硫黄の匂いが少し強いが、湯は透明で身体にべったりとこない。お湯の温度は四十度くらいか。熱からずぬるからずの適温だ。冬に雪を見ながら入りたいが、残念ながらここも冬は雪に閉ざされて近づくことはできない。地元のウトロの人はときどきスノーモビルで湯に入りにくることがあるという。秋のはじめにはヒグマが温泉に入っているのを見たという人もいる。近くの道路には「クマに注意」(といってもどう注意すればいいのだろう!?)の標示がたっていたからまんざらウソでもないのだろう。しかしこの温泉の雄大さをまのあたりにすると、たとえクマがあらわれても人間を襲うなどという小さなことはしないのではないかと思う。
湯に入っているのは大半が学生だ。関西、九州からきた学生もいる。その数はぜんぶで四十人ほど。修学旅行の風呂場か学校のプールの雰囲気で、ひとりしみじみ大自然の湯を楽しむというわけにはいかない。
女の子も多い。半分くらいは女の子だ。用意よく水着をつけている子もいるし、思いきりよくバスタオルだけでなかに入っている子もいる。男の子のほうが逆に顔を赤らめてしまうような思いきりのよさだ。それでもカメラを向けたら「おじさん、やめてよ」とお湯をひっかけられた。
炎天下の温泉だからすぐにのぼせる。汗がたらたらおちてくる。頭がぼおっとしてくる。ここで冷たいビールでもと思うが、この天然の露天風呂には残念ながら売店ひとつない。用意のいい人間は水筒を持参してきている。今度来るときはアイスボックスにビールを入れてこよう。ただ滝壺の上には水の滝が流れ込んでいるから、のぼせたらその水をかぶりにいけばいい。のぼせたり冷やしたりしながら約一時間も楽しんだろうか、もうしばらくここにいたかったが、バスの発車時間が迫ってきたのでやむなく切り上げた。(次のバスまで三時間は待たなければならない)バイクや車できた学生たちは「乗せてってやるからもっとここにいなよ」と女の子をさかんに誘っていたが、私などに声をかける物好きはさすがにいない。下りは三十分ばかりでバス停のところまで降りることができた。岩だらけの沢を上り下りしたから気がつかないうちに足はひっかき傷だらけになっていた。秘湯めぐりも楽ではない。
再びウトロに戻り、そこでバスを乗り継いで知床半島の東側の古い港町、羅臼に向かった。羅臼までは三年前に完成した知床横断道路で行く。「知床の環境を破壊する」と環境保護団体から反対された道路である。それでも東京の高速道路を見なれた者の目には森の中の一本道という感じがする。ウトロから羅臼までバスで約一時間の行程だが、その間、森と林だけ。ドライブ・インはないし駐車場も作られていない。緑の道である。
ウトロでは快晴だったが、横断道路の真中にあたる知床峠で濃い霧になりはじめ、羅臼の町では雨になっていた。同じ知床半島でも山をはさんで東と西とで天気が正反対になることはしばしばだそうだ。秋になると逆に羅臼のほうが晴天続きになる。
羅臼の町は人口約八千。森繁久弥が主演した映画『地の涯に生きるもの』と加藤登紀子の『知床旅情』で知られているが(町のはずれには森繁久弥の銅像がたっている)、ここは観光地というより漁師町である。その点でウトロの町よりずっと生活の匂いがして、観光地ずれした人間にはウトロより好ましい。みやげもの屋もほとんどない。
知床のはずれの町だからどこかさびれたところがあるのかと思ったが、予想は大きくはずれた。羅臼はいま好景気なのだ。というのも漁業が調子がいいからだ。夏のコンブ、秋のタラ、サケを中心に一年中近海で魚がとれる。出稼ぎにいく必要もない。とくに二百カイリ以後、羅臼の町は景気がよくなったという。ふつうと逆な感じがするがこれにはわけがあって、二百カイリ以後それまで雑魚同然だったタラの値があがり、そのために一気に羅臼の漁師は恵まれ出したのである。
なるほど羅臼の町を歩くと海岸ぞいに何軒も二階建て、三階建ての白い御殿のような家が続いている。どれも漁師の家である。
「羅臼の漁師は身体をいじめれば稼げるから恵まれているね」と港で働いていた若い漁師が楽しそうにいった。
町は雨にけぶっていた。雨に濡れる港町というのは大好きなので、あてもなく町をぶらぶら歩いた。港には漁船が四十隻ほど停泊している。この時期は魚よりコンブが主だから漁船も夏休みをとっているのかもしれない。浜にはカモメがおびただしくいる。港の先、晴れた日には国後《くなしり》島が目の前に見えるというが、雨のこの日は海はどんよりしていて島影も見えない。
町を歩いていたら商店街の奥にいまにもつぶれそうな映画館があった。以前、地方の映画館めぐりをしたとき網走の映画館までは来たことがあった。網走オホーツク劇場という趣きのある名前の映画館で、そこがおそらく北海道のいちばん東端の映画館だろうと思っていた。だから羅臼の町で映画館を発見したときは驚いてしまった。おそらくこれが日本のいちばん東端の映画館だろう。しかしこの映画館は申し分のない裏町シネマだった。東映のマークがかすかに残っているから昔は繁盛したのかもしれないが、テレビの発達した現代、人口八千の町では映画館の経営は無理なのだろう、建物はもう廃屋といったほうがいいようなくずれきったものだった。扉は満足にあかないし看板もない。ピンク映画の四本立てだがお客が少ないのだろう、夜一回きりの興行である。多分、今年の冬はもう越せないのではないか。記念に写真だけとっておいた。
橋のたもとに「日本で唯一トドを食べさせる店」という看板の食堂があったのでそこで遅い昼食をとることにした。主人の話では毎年冬、流氷のあいだをぬって船を出し、五十頭近くのトドを撃つ。捕鯨だってうるさくいわれている時代にトドなんて殺していいのかと聞いたら、トドの数がふえたら漁場が荒らされて漁師が困る。トド撃ちはだから漁師から感謝されている、と主人は威張っていた。
トドの鉄板焼というのを食べてみた。色が真っ黒で見てくれは悪いが意外と柔らかい。味は鯨に似ている。手のつけ根から胸にかけての肉だという。それを玉ネギと一緒に鉄板で焼いて食べる。もっとも醤油の味つけがききすぎていて、トドの肉なんだか牛肉の悪い肉なんだかよくわからない。店の壁には加藤登紀子や戸川幸夫ら羅臼ゆかりの有名人の色紙が張ってあった。
少し小降りになったので、思い切って町はずれの熊ノ湯まで歩いて行くことにした。羅臼の町から近代的なホテルが二軒並ぶ羅臼温泉を経て羅臼川の渓谷沿いに少しのぼった林のなかにある、小さな露天風呂である。途中の道でクマの真新しい糞を見つけ一瞬ドキリとする。このあたりも「ヒグマに注意」のところだ。
熊ノ湯には無論、旅館もないし近くに人家もない。渓谷沿いの露天風呂である。大きさは四畳半くらい。先客は三人。札幌から一人で、バイクで知床を走っているという高校生と地元の老人が二人。老人の話では昔は羅臼の漁師が漁を終えたあと家族を連れて入りにきていたが、いまはどこも自分の家に湯を持つようになったので物好きな老人ぐらいしかここまではのぼってこないという。だから町の人間の湯というよりもいまではウトロからやってくる観光客のための湯になっている。とはいえこの湯も通常のガイドブックには載っていないからそんなに大勢の客はこない。オートバイや車で知床を旅している人間がたまたま道路に立っている「熊ノ湯入口」の看板を見つけて入りにくる程度だ。「人がいないのにこんなにお湯がいっぱい出てもったいないねえ」と老人がいっていた。「熊ノ湯」というから昔はこのへんに熊が出たのかと聞いたら、「昔だけじゃない、いまだって時々そのあたりから顔を出すよ」と老人は目の前の林をさして笑った。やはりさっきの糞は熊のものだったらしい。もっとも老人はすぐに「でもこのあたりのヒグマはまず人間を見るとむこうから姿を隠してしまうよ」と安心させてくれたが、まあ、熊に襲われた温泉客という話はあまり聞いたことがないから大丈夫ではあろう。
熊ノ湯を出てまた羅臼の町まで歩いていこうと思ったが、雨足は早くなってくるしまだ三時だというのにあたりは薄暗くなってくる。なんだか熊に出くわしそうな気もしてくる。こんな山の中を歩いている人間は私の他は誰もいない。仕方なく知床横断道路に出てヒッチハイクを試みる。乗用車はなかなかとまってくれないが、トラックが一台すぐにとまってくれた。斜里の町から羅臼まで建設資材を運んできた車だ。以前、琵琶湖の北、いわゆる湖北から敦賀に抜けるときもヒッチハイクを試みたことがあったが、その時も、結局、乗せてくれたのは魚を運ぶトラックだった。
羅臼までトラックに乗せてもらい、そこから相泊《あいどまり》行きのバスに乗った。このバスも一日五、六本しか出ていない。私の乗った相泊行きのバスはその日の最終で、折り返しこのバスで戻ってこないと約四時間、相泊から歩いて帰ってこなければならない。しかし、ヒッチハイクをすればなんとかなるだろうと気楽に考えてバスにとび乗った。
相泊は羅臼からバスで約五十分、知床半島の東北端にある。ガイドブックには「相泊温泉」とあり旅館が何軒かあるような感じだが、実は旅館などない。いやそもそもこの相泊は町ではない。冬のあいだは雪に閉ざされてしまうから人間が住めないのだ。ただ夏のあいだ七月から九月ころにかけてはコンブ漁をする漁師が羅臼やその周辺から集まってきて、浜辺にコンブ番屋を作りそこで生活する。この漁師のために夏のあいだだけバスが走る。
相泊で降りた客は私一人だった。雨は降っているしもう五時も過ぎて海辺は暗くなっている。浜に人影はまったく見えない。通る車もない。カモメの鳴き声が腹にまで沁みこむ。バスの車掌が「お客さん、これに乗らないともうバスありませんよ」と心配してくれたが、なんとかなるだろう。
海辺は砂浜ではなく丸い石がごろごろしている。その石浜にテントのようにビニールの幌をかぶせた小屋がある。そのなかがお風呂になっている。ただの岩風呂かと思ったら真新しい木の風呂だった。広さは四畳くらい。ただお湯はすごく熱い。山から落ちてくる水がホースでひいてあり、これでしばらくうめないと入れない。雨のせいか時間が中途半端なせいか、入浴客は私一人しかいなかった。
風呂のすぐ手前はもう根室海峡の海、夕暮れの満ちてくる海を見ながら静まりかえった風呂に一人沈んでいると心のなかがからっぽになる。数年前から温泉歩きが好きになり、暇を見つけては日本各地の秘湯を歩いているが、こんな海に近い風呂というのははじめてだ。しかも観光客がこの夏のさかりにしてほとんどいないというのがうれしい。
雨が降っているし、夕方だから肌寒い。ちょうど湯につかるのにいい肌寒さだ。三十分ほど湯を楽しんでいたら、登山靴をはいた学生が一人風呂に入りにきた。一人で知床をヒッチハイクしながら旅しているという。今日も相泊の浜にキャンプを張っている。もう十日も一人旅をしているというその学生は人恋しいのだろう、風呂につかりながら北海道の旅の経験をいろいろ話してくれる。テントをかつぎながら北海道を一人旅している彼が羨ましくなった。もう私にはそんな元気はない。「車がつかまらなかったら僕のテントに戻ってきなよ」とその学生はいってくれた。
相泊から浜を少し下るとセセキ温泉になる。温泉といっても、ここも海辺に石を囲ってあるだけという露天風呂だ。私がたどり着いたときはもう夕暮れで潮が満ちてきていて、残念ながら風呂は海の中に没してしまっていた。わずかに海の上に出た岩の上にカモメが一羽とまっていた。
雨はひどくなってくる、外は暗くなってくる、腹はすいてくる。困っているとセセキの風呂のすぐ近くにたっているコンブ番屋の若いおかみさんが、親切に「なかに入りなさい」といってくれた。このあたりにも「ヒグマ出没地帯」という看板があり、多少心細くなっていたのでおかみさんの言葉に甘えることにした。
羅臼の岬町に住む若い漁師のコンブ番屋で、七月から九月いっぱいまでここにやってくるという。家までは車でせいぜい十五分だからときどき夜、テレビを見に家に帰る。家というのは例の百坪の漁師御殿の一つである。「するとこのコンブ番屋は夏のあいだの別荘ですね」といったら漁師は「いやうちでは田舎の田舎だといってるよ」。小学校二年生の男の子と一年生の女の子がいる。「子供たちは本当の家に住んでいるよりこっちのほうが変化があって楽しいみたいね」とおかみさん。セセキのお風呂には毎日のように入るという。この近くは民宿もないから私のような事情を知らない観光客をよくとめてあげるそうだ。漁師は一般的にいって農家の人より開放的で客好きだ。「なんにもないけど魚だけはたくさんあるから食ってけ」という若い漁師の言葉に甘えて夕食をご馳走になった。
まず白身の刺身が出た。今朝、とれたばかりのソイという魚だそうだ。ちょっとタイに味が似ている。ただぶっきらぼうにしょうゆをかけて食べるだけだが素晴しくうまい。それからメンメというキンメダイに似た魚を丸ごとあっさりとゆでたもの。このへんの漁師の大好物だという。これもただしょうゆをかけて食べるだけだがすこぶるうまい。それからタラを熱い味噌汁のなかに入れたもの、タラ汁とでもいうのだろうか。ザクッときざんだ長ネギと味噌にタラが実によく合う。それから手製の塩カラ、生うに。料理屋で食べたらいくらとられることか。若い漁師は「もっと食え、もっとビールを飲め」と豪快にすすめてくれる。
彼の父親はもとは函館の漁師。戦後、函館の将来に見切りをつけ、彼が小学校の二年生のときに羅臼に移ってきた。(彼は「疎開」という言葉を使った)「函館から羅臼に着いたのは夜。まず、町は真っ暗でおやじに手をひかれて岬町に行くあいだじゅう恐くてならなかった。それでもいまは羅臼の町は景気がいい。おやじには感謝してるよ。中学の同級生の半分くらいは東京に行ったけど、もうぜんぜん羅臼には帰ってこないな。みんなどうしてるんだろう」
夏はコンブ、秋からはサケ、タラと一年じゅう忙しいが、二月ごろは流氷がきて海の仕事は少しの間休むことがある。そのころ、流氷の上にいるトドを撃ちにいくのが楽しみだという。「夏もいいけどぜひその頃遊びに来い」と彼は誘ってくれた。来年の二月には暇を作ってぜひやってこよう。
その晩、羅臼に宿をとってあるといったら彼は「俺のトラックで町まで送ってやる」といってタクシーを呼ぼうとする私を制した。夕食をご馳走になったうえ車までは申し訳ないと思ったが、ここは彼の好意に甘えることにした。二人の子供も「ぼくたちも行く」と懐中電灯を持ってついてきた。
トラックは暗い夜道を羅臼の町に向かって走り出した。「いいか見てろよ、途中でキタキツネがいっぱい道路に出ているからな」と漁師がいった。本当だった。車が走り出して五分もすると、ライトに照らされてキタキツネの小さな姿が浮かびあがった。何匹もいる。浜に捨てられた魚を夜になるととりにくるのだという。あのキタキツネたちも相泊の浜の風呂に入るのだろうか。その晩は羅臼温泉の宿に泊ったが、昨日から温泉にひたりっぱなしだったのでさすがにもう温泉に入る元気はなかった。
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壁湯岳の湯一人旅
目が覚めたら汽車の窓のむこうに緑が一面に広がっていた。
汽車は由布院《ゆふいん》を過ぎ、九重《くじゆう》山の山麓をぬって豊後森《ぶんごもり》に向かっている。乗客はほんの数人だけで、車内はがらんとしている。そのために窓の外の緑がいっそう広く感じられる。水田、林、そして山また山。ふだん新幹線沿いの工場と住宅に浸食された緑ばかり見ている目にはまさに純生の緑である。
九州地方はずっとカラ梅雨だったところに一昨日から急に雨になった。雨に汚れが落とされて緑はいっそう新鮮に見える。もっとも日照りのあとの量の多い雨は九州山間部のあちこちに山崩れなどをもたらしているようで、列車のダイヤもかなり乱れている。由布院では汽車は三十分近くも停車しているほどだった。しかし急ぐ旅でもないし窓からの眺めはいいので、それはそれでのんびりとした気分になる。
はじめ豊後森からタクシーで壁湯まで行こうと思ったが、豊後森から肥後小国《ひごおぐに》に向かうキロ数わずか三十キロの宮原《みやのはる》線にうまく接続できたので迷わずこれに乗った。全国でも下から数えて十番以内に入る屈指の赤字ローカル線で、一日に四本ぐらいしか走らない。久大《きゆうだい》本線が都合よく遅れてくれたおかげでこの「貴重品」にほとんど待たずに乗れた。一両だけのディーゼルで客は通学の女学生がぽつん、ぽつんといるくらい。
しかしこの列車は久大本線以上に眺めがよかった。山あり谷あり鉄橋ありトンネルあり、窓の外は緑一色だ。雨で水かさが増した川は激流になっていてなかなかの迫力である。雨による土砂崩れに気をつけているのだろう、列車はあちこちで停車する。そのたびに女学生たちが「またかよ、頭にくんな」と怒る。これもまたなかなかの迫力である。
豊後森から約三十分、宝泉寺の駅に着いた。線路の向うはもう山になっている、小さな山間の駅だ。商店らしい商店は五軒あるかないか。下車した二、三人の女学生たちが迎えにきている母親の運転する車に乗って家路についてしまうと、駅前はもう静まりかえって田圃からカエルの声が聞こえてくる。なにしろ大分駅を出てから四時間近くたっているのでもう六時をまわっている。駅前にタクシーの姿もないので渓流沿いに歩いて壁湯温泉に向かった。
壁湯は宝泉寺温泉のはずれにある。宝泉寺温泉というのは旅館が十五軒ほどあるほか、きちんとヌードスタジオまである、いかにもそれらしい歓楽温泉街だが、そこを通り抜けるとあたりは急に山里の雰囲気になる。水田、竹やぶ、渓流、道を歩いている人間は私の他は誰もいない。あのどこの道路にもある自動販売機もなくて、これまた純生の田舎である。
宝泉寺の駅からぶらぶら歩いて十五分ほどで、福元屋旅館に着いた。渓流沿いの和風旅館でここに壁湯、つまり洞窟風呂がある。
壁湯は予想以上にいいところだった。町田川という渓流の曲がったところに小さな洞窟があり、そこが天然の温泉になっている。広さは六畳敷ぐらい。洞窟といっても半分は外に開いているから息苦しくない。風呂につかると目の前は川の流れ、その上は山になっている。聞こえてくるのは川の音と雨が木の葉に落ちる音だけ。そのへんから猿が入りにきてもおかしくない。
この風呂のいいのは水がきれいなこと。温泉というと濁ったところが多いが、壁湯は岩清水を温泉にした感じ。水は澄きとおっていて底の底まで見える。しかも底は自然のままに岩と砂になっている。風呂に入っているというより渓流で遊んでいるという気分になってくる。それでついついうれしくなって浸《つ》かっているだけではもったいなくなり、湯のなかにもぐって潜水ごっこを始めたりする。この日は平日で客は少なく、しかも宿に着いたのが遅かったため、午後七時の第一回入浴時には入浴客は私一人、思う存分、潜水ごっこを楽しめた。おまけにこの温泉はぬる湯なのでいつまでも入って遊んでいられる。旅に出る前、床屋で坊主頭にしてきたので、頭も敏感に湯を感じてふつう以上に気持いい。気がついたら指先がしわしわになっていた。
目の前の町田川は今日は水かさが増して流れは早いが(台風のときには壁湯のなかにまで水が入り込むという)、ふだんは静かな流れなので近くの子どもたちは川で泳いだり温泉につかったりして水遊びを楽しめるのだという。真似してのぼせた身体をさまそうと水に飛びこもうとしたが、あまりに流れが早いので思いとどまった。裸で温泉につかっているとどうもガキ気分になるらしい。
福元屋旅館は川沿いの、というより渓谷の岩に建ったような和風旅館。玄関の前には大きな柿の木がある。九州に多い、へそのところが黒いへぐろ柿である。大きな枝が堂々と川に向かって伸びている。秋にはさぞ立派な実がなるのだろう。
福元屋は現在のご主人、岐部午二《きべうまじ》さんの祖父にあたる人が明治の半ばに壁湯の宿として開いたのが始まり。はじめは湯治客相手だったのが、次第に発展して現在のような旅館になったという。洞窟風呂というのは全国でも伊豆の大滝《おおだる》温泉や岩手の夏油《げとう》温泉など数えるほどしかない筈。そうした珍しさもあって、現在では宣伝らしい宣伝をしなくても一年中客のない日はないという。形容矛盾になるが有名な秘湯[#「有名な秘湯」に傍点]なのである。
といってもこの宿は規模も小さく、あくまでも山里の宿。自動販売機も置いてないし芸者をあげてのドンチャンにも向いていない。渓流の音だけがぜいたくな静かな温泉場である。温泉につかって酒を飲み、また温泉に入り、それだけで充分のところである。もっとも血の気の多い私はあとで宿を抜け出し宝泉寺温泉まで行き、観光客らしくきちんとまじめにヌード劇場を見物し、バーで一杯千円! のまずい水割りを飲んでは見たのだが。
主人の岐部さんはあくまでも自然を大事にすることを心がけ、食事も冷凍食品などはなるべく使わず山菜や川魚中心。米はいまでも岐部さんが田に出て作っている。
壁湯でさんざん潜水ごっこを楽しんだあとにビールを飲んでいざ夕食。とろろと鯉のアライとあゆの甘煮がうまかった。味噌汁にも魚が入っていてこれがいちばんうまかったが、なんの魚だったかは聞き忘れてしまった。
壁湯は混浴である。宿の客だけでなく近くの九重《ここのえ》町の人も車に乗って入りに来る。十時半ごろから寝る前にひと風呂浴びようとする入浴客がふえてちょっとした混雑になる。二度目に入りにいったときはあいにくと女性客が二人入っていた。いくら混浴とはいえやはりちょっと入りにくい。女性客が出るのを待っているうちに時間がたってしまい、結局、二度目に壁湯に入れたのは十二時をまわっていた。
翌朝も雨だった。昨日よりも雨足が早く付近の山は白くけぶっている。七時過ぎに起きて朝風呂にかけつけた。幸い男の客が二人いるだけ。明るいところで見ると湯に木の葉や小さな虫の死骸が浮いているが、湯量が多く(一分間に湧出量は一四〇〇リットル、一秒間にバケツ一杯という)、湯全体が川に向かって流れているのですぐに消えていく。水はあくまでも澄んでいる。また潜りたくなったが、他の客がいたので遠慮した。この付近には最近ミネラルウォーターの工場まで出来たというからよほど水がきれいなところなのだろう。毎日この湯に入りに来るという初老のおじさんに入浴中の写真を記念に撮ってもらった。おじさんは「最近はここいらでも若いもんは髪を長くしてパーマなどかけるが、あんたは東京から来たのに坊主にしている」とえらく私の坊主頭をほめてくれた。
朝食は生卵とのりとお新香と梅干しとしじみの味噌汁というごく簡単なものだったが、食がすすんで三杯も食べてしまった。朝食は広間で他の客と一緒にするのだが、私の他は中年男性の三人連れ、初老の夫婦、中年女性の二人連れの三組だけだった。夕べの女性客はどうもこの中年の二人連れだったらしい。
朝食が済んで岐部さんに車で付近の竜門の滝というところに案内してもらった。雨が激しかったので山の中の滝は人も少なく、まさに滝ひと筋の迫力だった。岐部さんはおみやげにこの地方の地酒「八鹿」をくれた。全国でも生産高が何十位という名酒らしい。きっと水がいいからなのだろう。
岐部さんと別れてさらに山あいの岳《たけ》の湯《ゆ》温泉に向かった。宮原線の終点、肥後小国からさらにバスで一時間ほど山の中に入ったところにある秘湯である。ふつうの観光ガイドブックには載っていない隠れ里の湯である。東京からだと飛行機を使っても最低十時間はかかる。こんなところにはめったにこれない。それを考えるだけでもなにかこう歩く足に力が入る。私は旅は好きだが山登りはどうも苦手だ。山の頂上をきわめるという無償の行為がダメなのである。それが山の向うには温泉がある、人里がある、湯と酒が待っていると考えると急に元気が出てくる。山道を歩くのも苦にならなくなる。温泉歩きが好きなのもこの「もう少しで湯と酒が待っている」という途中の楽しさのためかもしれない。
肥後小国は宝泉寺の駅から汽車でいけば三つめの駅、三十分ほどで行けるのだが、宮原線というのは朝の七時二十二分の肥後小国行の次は、なんと十五時五十七分まで八時間も列車がない! 大変なローカル線である。ここでバスに乗ろうとしたのだが、三日続きの雨で国道が一ヵ所崩れ運休中だという。仕方なく途中の北里(北里柴三郎の生地である)まで行くというおばさんと乗り合いタクシーを拾って肥後小国に出た。おばさんは近在の半農半商の家の人だが、夜は宝泉寺の温泉旅館で働いているといっていた。宝泉寺は十年ほど前までは「女遊びできる温泉」としてにぎわっていたが、最近は「取締りも厳しくなったし若い女の子も少なくなったので景気は悪い」という。そういえば昨夜、こっそり壁湯をぬけだして宝泉寺に飲みに行ったら、なぜか路上におかま[#「おかま」に傍点]が三人もいて客引きしていた。
岳の湯までは肥後小国からバスで行く。通学の女学生がたくさん乗っている生活バスである。小国は小国大根と小国|鉾杉《ほこすぎ》で知られる農業と林業の町。しいたけの栽培もさかんで、農家の庭先には独特の煙突がついたしいたけの乾燥室があちこちに見える。
バスは杉と段々畑(いや段々水田か)のあいだをぬって標高約千五百メートルの涌蓋《わいた》山の山ふところの岳の湯に向かって走る。杉の枝がバスの窓にぶつかるほど成育している。雨は相変らず土砂降りに近いが、おかげであたりの緑はいちだんと湿って美しく見える。緑が美しいのは新緑のころだというが、この風景を見ているとむしろ梅雨のころこそ緑が美しいといえるのではないかと思えてくる。おまけにまだ夏休み前だから旅行客も少ない。梅雨どきこそ旅行に最適とはいえまいか。
バスは杉林のあいだを走り抜け、ようやくとまった。終点の岳の湯である。雨のためと標高が高いためだろう、バスを降りるとひんやりと空気が冷たく気がひきしまる。あたりをゆっくりと眺める。なんというか、誇張ではなく、別天地というのが第一印象である。
緑の山、雨にけぶる竹林、段状に作られた盆栽のような水田、山ふところに抱かれた農家(なかには茅葺き屋根も見える)、山のほうから降りてきた雲(いや霧か)、そこらじゅうから聞こえてくる水音、そして田圃から畦道から農家の庭先からと、いたるところから吹き出ている温泉の湯気。白い湯気が緑の山里をやさしく包んでいて、村全体が静かな秘湯につかっているようだ。ちょうど雨が強い時だったから、いっそう雨の湿気と白い湯気の暖気がうまく調和しあい、いわば「水」と「火」が神話の世界のような美しさを見せている。
岳の湯は戸数わずか三十。一家族七人として人口わずか二百の童話の世界のような山里だ。バスがまたもときた小国町に戻ってしまうとあたりは静まりかえる。バス停のそばに雑貨屋が二軒あるだけであとは商店などなにもない。もちろん居酒屋もなければバーもない。以前はここは宿らしい宿もなかったのだが、数年前、清涼荘という民宿が出来た。今日はそこに泊る予定なのだがまだ時間も二時過ぎと早いので、少し足を伸ばして岳の湯のさらに上にある※[#「山+亥」、unicode5cd0]の湯まで散歩することにした。「※[#「山+亥」、unicode5cd0]の湯」と書いて「はげのゆ」と読む。昔は火山灰のため緑もなかったのだろうが、いまは一面の緑で「はげ」と呼ぶのは失礼である。
岳の湯のバス停から山道を約十五分ほどで※[#「山+亥」、unicode5cd0]の湯温泉に着く。温泉といっても田圃のなかにひなびた宿が二軒あるだけである。あとはただ緑、緑、また緑。雨に濡れて一段と目に沁みる。梅雨どきに旅に出てほんとによかったと思う。日本という国はやはり「水の国」なのだ。宿の少し先には夏休み中だけオープンするらしいキャンプ場もあってなんとそこにまで温泉がある。全国キャンプ場数多しといえども温泉つきのキャンプ場というのは珍しいのではないか。その夏場はにぎわうであろう場所もいまは雨の中、静かに沈んでいる。
あたり一面緑で人間の姿も見えない。北海道のようにもともと孤独な空間に人間の姿が見えないのはそれほど驚かないが、ここだと本来人間がいるべきところに人間がいないという感じでいっそう雨の中の静寂が身に沁みる。あたり一面、きれいに整備された水田、きれいに植林された杉林、と人の手が加えられた人工的自然があるにもかかわらず、その主人公の人間の姿だけが見えない。この風景はどんな大自然の風景よりも寂しく、美しいものだと思う。
※[#「山+亥」、unicode5cd0]の湯の二軒の宿のうちの一軒、松屋旅館には共同浴場があったので、まだ時間は早かったが宿のおかみさんに頼んで入れてもらった。早い時間だったので近くの人もいなくてがらんとしていた。お湯がもったいないくらいに湧き出ては流れていた。
※[#「山+亥」、unicode5cd0]の湯でゆっくり暖まってまた元の「別天地」岳の湯に戻った。岳の湯集落はいたるところ地熱が湯気になって出ていて、これを利用して集落の家はどこも庭先に「湯気のかまど」を作っている。これで卵をゆでたりするだけでなく、湯をわかしたり、とうもろこしを蒸したりと日常生活には欠かせない道具になっている。この「かまど」のことを地元では地獄というのだそうだ。村じゅうに湯気のスチームが通っているようなもので、この集落では暖房も湯気でまかなってしまうから暖房費はほとんどかからないそうだ。
岳の湯の民宿、清涼荘は一年ほど前、不幸にして火事にあい建て直したばかりということで(これは泊り客には幸運なことだったが)、新しい清潔な、ちょっと林間学校の学生寮のような建物だった。梅雨どきの平日だったのでお客は私一人しかいなくて、若い頃の奈良岡朋子のような知的美人の女主人がいろいろ話を聞かせてくれた。山里なのでまだ民宿らしい民宿は清涼荘しかない、町の役場と協力し合ってここをもっと宣伝したいのだがお客さんのほうは隠れ里のひなびた湯を望まれるのであまり宣伝もできない、そこが悩みだといっていた。たしかにこの岳の湯の魅力は「山里の魅力以外、何もない」ことである。飲食街があるわけでもない、色気や享楽があるわけでもない。ただ「静かな山里」、それがあるだけである。だからここは若い世代よりも中年以上が静かに休日を楽しむところだと思う。
山菜の天ぷらを主とした夕食に満足し、竹やぶを打つ雨の音を聞きながら寝た。外では夜中まで、雨の中をひぐらしが鳴いていた。
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町内散歩者のはかない夢 つげ義春について
つげ義春には旅の漫画が実に多い。
ちょっとあげただけでも『西部田村事件』『長八の宿』『二岐渓谷』『オンドル小屋』『ほんやら洞のべんさん』『もっきり屋の少女』『リアリズムの宿』『枯野の宿』などがある。『蟹』や『近所の風景』という旅もののヴァリエーションとしての町内散歩ものもある。さらに『旅日記』や、大崎紀夫(文)、北井一夫(写真)との共作『つげ義春流れ雲旅』というエッセー集もある。少年時代、アメリカ行きの船による密航をくわだてたこともあるというつげ義春にとって、旅は重要な生活の一部である。
といってもつげ義春の旅は壮大な未知の場所への冒険旅行ではない。それはあくまでも箱庭的なこぢんまりとした旅である。漂流というダイナミックな旅ではなく漂泊という根無し草的なはかない旅である。「そぞろ神のものにつきて心を狂はせ、道祖神の招きにあひて取るもの手につかず、股引の破れをつづり笠の緒付けかへ」(『奥の細道』)という「そぞろ神」につかれた、片雲の風に身をゆだねる漂泊の旅である。
つげ義春の旅の行く先は決して特別な場所ではない。どちらかといえばすがれた、観光客のあまり行かないところである。『西部田村事件』の千葉県の小さな村、『長八の宿』の西伊豆・松崎、『二岐渓谷』の会津の山奥の秘湯、『オンドル小屋』の八幡平の蒸《ふけ》ノ湯、『ほんやら洞のべんさん』の越後魚沼郡の村、『リアリズムの宿』の秋田県の能代と青森県の五所川原をむすぶ五能線の沿線、鰺ケ沢、『枯野の宿』の利根川べり。つげ義春の歩く場所はどこもローカルであり、格別の観光名所のあるところではない。『旅日記』のなかに足利に行き鎌倉初期に創設された足利学校を見物に行くくだりがあるが、つげ義春はいともあっさりと「興味はない」と書いてしまう。そんな有名な名所よりも彼の心をひきつけるのは、足利の先にある葛生《くずう》という駅のすぐ近くの、工場がたち並び、山で何か採掘でもしているのかザラザラした感じのする「殺風景」な町のたたずまいである。
つげ義春の旅はどこかへ行く旅というより、かつて行ったことのある場所、住んだことのある町へ帰っていこうとする旅である。未知の土地に向かって行き、自然と闘う冒険旅行では決してない。それは路地裏や神社を歩く町内散歩の延長としての旅である。誰も行ったことのない場所に冒険旅行をくわだてるのではなく、ごく日常的な場所の延長としての小さな町に迷いこんでいく。つげ義春の旅はあくまでも受身な、どちらかといえば老人の旅である。
旅をする主人公自身も身なりは若いが、精神的には現実のギラギラした欲望、上昇志向、競争意欲を持っていない枯れた人間である。妄想的な性欲がときどき出ることはあるが、基本的には俗気の抜けた、現実を降りてしまった人間である。その点ではつげ義春の世界は彼が愛読してやまない井伏鱒二や、あるいは永井荷風の世界に近い。
主人公はしばしば釣人(『西部田村事件』『紅い花』)であり、売れない(あるいは作品を書けない)漫画家である(『リアリズムの宿』『ほんやら洞のべんさん』)。およそ生活意欲のない、骨が透けて見えるような人間たちである。彼らの旅は、普通の生活者が仕事をしている平日に行なわれる旅である。サラリーマンの土、日のレジャーではない。だから列車もバスも宿もすいている。そこから旅全体にがらんとしたもの寂しい雰囲気が生まれてくる。他の多くの人間たちが働いている時間に自分だけが生活からこぼれおちてしまって意味もない漂泊の旅をしている。その特権的なのんびりとした時間は一方では、自分だけが、という取残された寂しさ、うしろめたさにつながっている。『もっきり屋の少女』では主人公の旅人(釣人)は山のなかで出会った少女にいきなり「にしらはろくな銭もねいくせに海だ山だってけつかる。本当にたまげたもんだ」と批判される。それに対し主人公はあわてて「たしかにぼくは、こうして釣なんかをしているけどね。精神的には、けっして遊んでいる気分ではないんだよ」と自分の精神の疲れを弁解がましく表明する。
つげ義春は決して旅する自分を日常性に対峙させない。流浪する自分を、日常にさえ帰属することを拒否する自由人だなどと決して考えない。むしろ平日に旅する自分を一種の余計者として見なして、身をすくめるようにして旅をしている。つげ義春の旅は日常からこぼれ落ちた者の受身な旅なのだ。だから彼はそこで大それた真理の発見などしないし、流浪する魂を華麗にうたいあげたりしない。ただ自分を一片の雲に化して、「殺風景」な日本のローカルな風景に溶けこませてしまう。少女に「本当にたまげたもんだ」とそののんびり風情を指摘されると、あわてて「精神的には、けっして遊んでいる気分ではないんだよ」と弁解してしまう。彼は決して自分を、日常性を超越した「自由人」などと錯覚しない。漂泊する心にこそ自由があると特権意識を持ち出したりはしない。その点でつげ義春は会社を出たあと家に帰るまでのわずかな時間、なんでもない町に途中下車してしまいたくなる「心は寂しきサラリーマン」と似ている。彼らの旅は間違ってもアマゾンやアフリカには向かわない。あくまでもいつか行った、いつか見た懐しい「猫町」への旅なのだ。
『退屈な部屋』という妻に内緒で小さなアパートの部屋を借りる漫画がある。これも一種の町内散歩、途中下車である。妻との日常生活からこぼれおちたところで小さな自分だけの空間を確保し、そこに自分を溶けこませる。とくに何か特別なことをするわけではない。「なにか秘密の穴ぐらのようなふんい気なので気に入っている。といって部屋に住んでいるわけではないから、なにをするでもなく、ゴロゴロしたり、ボンヤリしているしかないのだが……。そういうのが好きなのでけっこうたのしい」妻に内緒で借りた部屋に行くことは主人公にとっては充分に旅であり、部屋のなかで無為な時間を過ごすことが無上の喜びになっている。つげ義春にとって旅とは、日常からこぼれ落ちた無時間のなかで無為の眠りに入ってしまうこと、さらにいえば懐しい場所への胎内回帰なのである。だが、それは決して日常性に対峙しない。あくまでもはかない「隠れ家」であって、旅はすぐに終ってしまう。『退屈な部屋』では秘密の部屋はあっけなく妻に見つけられてしまい、すぐに日常性の側に回収されてしまう。
余計者の意識が根底にある旅だから、つげ義春の旅はいつもはかなく終っていく。というより、あらかじめ終ることが前提となったつかのまの旅である。『西部田村事件』では病院を逃げだした患者が夕暮れにつかまって病院に連れ戻されるところで旅人(釣人)の旅も終る。『二岐渓谷』では台風が去り紅葉が一夜にして散ったところで旅人の旅が終る。無為の時間帯に入ってしまっているためだろう、旅人が出会う人間たちもまた現実的欲望を欠いた、もしくは既に捨ててしまった俗気のない人間たちだ。あるいは子供だ。
『西部田村事件』の、メガネをかけた大人しそうな精神病の患者、『紅い花』の、キクチサヨコとシンデンのマサジ、『長八の宿』の、船が嵐にあい故郷に帰れなくなったジッさん、『二岐渓谷』の、つとめていた役場の退職金でささやかな温泉宿を建てた老夫婦とそのマゴ、『ほんやら洞のべんさん』の、妻子に出ていかれ宿屋の仕事を開店休業中のべんさん、『近所の風景』の、家から立ちのくようにいわれている朝鮮人の老人。つげ義春の漫画には本当に老人と子供が多い。壮年男子はほとんど出てこない。主人公が唯一、壮年男子なのだが彼はとっくに釣人に身をやつしていて現実的生気を欠いている。そして旅の過程で起こる小さな事件の観察者に徹している。距離を置いてその土地に生活している人間を見ているだけで、決して内部には深く入ろうとはしない。といってひとごととして冷やかに見ているというのでもない。事件も他人も、そしてそれを見ている旅人も自然の一部に溶かしこんでしまうような静穏な関係が求められている。
『もっきり屋の少女』では旅人はいちはやく酔ってしまい、気がついたときは奥の部屋にねかされていて、障子越し[#「障子越し」に傍点]に、もっきり屋の少女が酔客に遊ばれているのを知る。『リアリズムの宿』では本当に貧乏そのものの宿にとまったことに苛立ちながら後悔してふとんに入った旅人が、障子越し[#「障子越し」に傍点]に、宿の子どもが教科書に載った芥川竜之介の『蜘蛛の糸』を読むのを聞く。旅人と土地の人間との関係は、あくまでも障子越し[#「障子越し」に傍点]の淡い関係だ。旅人は彼らの生活に立ち入る勇気も無神経さも持ち合わせていないが、同時に、彼らの静かな生活が自分の「流れ雲旅」に落とす影に鈍感でもない。
「つげ義春の旅はどこかへ行く旅というより、かつて行ったことのある場所、住んだことのある町へ帰っていこうとする旅である」と私は書いたが、つげ義春の描く風景は「殺風景」ゆえに、どこか懐しい、かつてそこにひとが住んだことの記憶が刻印された、デジャヴュとしての風景である。ドナルド・キーンはある座談会(「季刊マンパワー」四号「漂流の巻」)で「旅する人間には昔の人の行ったところに行きたいという気持があります。それは非常に日本人的だと思います。西洋人はとにかく近世から、西洋人がだれも行ったことのないところに行きたがります。だれも登ったことのない山の頂上まで行きたい。日本人はとかく芭蕉もそうですが、人の行っていないところには全然興味がないようです」と西洋と日本の旅の違いを語っているが、つげ義春の旅はその意味では「非常に日本人的」といえるだろう。
ただつげ義春はべつに過去の文人墨客が遊んだ土地に行こうとしているのではない。過去の記憶が刻印された、いつか見たような、いつか行ったような土地に帰ろうとしているだけなのだ。つげ義春にとってはいわば漂泊とは個的記憶というより、類的記憶、集合的無意識の底へと降りていく旅なのだ。『ゲンセン館主人』のようにつげ義春の旅がしばしば幻想的悪夢になるのはそのためである。
ドイツの映画監督ヴェルナー・ヘルツォークがアマゾンの原生林やオーストラリアの原野のように「いまだかつて誰も見たことのない風景」にこだわるのとまったく対照的に、つげ義春は「かつて誰もが見た風景」を探し求めて旅をする。つげ義春はひなびた温泉が好きだが、「ひなびた」とはあくまで「懐しい人の匂い」があることである。
『近所の風景』はつげ義春らしい主人公が多摩川の土手下にある、バラックが集まって出来た朝鮮人の集落に町内散歩に出かけて行く話だが、このなかでつげ義春は梶井基次郎の『檸檬《れもん》』の次のような一節を引用している。
「何故だか其頃私は見すぼらしくて美しいものに強くひきつけられたのを覚えてゐる。風景にしても壊れかかつた街だとか、その街にしても他処他処《よそよそ》しい表通りよりもどこか親しみのある、汚い洗濯物が干してあつたりがらくた[#「がらくた」に傍点]が転してあつたりむさくるしい部屋が覗いてゐたりする裏通りが好きであつた。雨や風が蝕《むしば》んでやがて土に帰つてしまふ、と云つたやうな趣きのある街で、土塀が崩れてゐたり家並が傾きかかつてゐたり――勢ひのいいのは植物だけで、時とするとびつくりさせるやうな向日葵《ひまわり》があつたりカンナが咲いてゐたりする。
時どき私はそんな路を歩きながら、不図、其処が京都ではなくて京都から何百里も離れた仙台とか長崎とか――そのやうな市へ今自分が来てゐるのだ――といふ錯覚を起さうと努める」
ここにはつげ義春の描く風景の特色が実に簡潔に表現されている。つげ義春は壮大な自然とかきらびやかなクリスタル・パレスとしての現代都市よりも、時間の加速度的流れからこぼれおちてしまったすがれた[#「すがれた」に傍点]町がなによりも好きなのだ。
壊れかかった街、汚い洗濯物が干してあるような裏通り、傾いた家並。いまはもう最盛期を過ぎてしまって時代の背景にひっこんでしまった町の風景につげ義春は自分を溶けこまそうとする。『リアリズムの宿』の、冬の冷たい風が吹きつける港町、『枯野の宿』の、人の姿がかすかにしか見えない利根川べり、『二岐渓谷』の、「ぼくの好みにぴったり」の草ぶき屋根のひなびた温泉宿、『ねじ式』の、列車が入り込んで来る、洗濯物の干してある路地裏、『やなぎ屋主人』の、主人公以外ひとりも客のいない房総のローカルな駅。
つげ義春の好んで描く風景はそういうすがれた、わびしいものばかりだ。冒険者がめざす未知の壮大な大地と違って、町内漂泊者・つげ義春は、かすかに生活の名残りのする「はずれの風景」にひきつけられていく。
「そのたたずまいはいかにも貧しげでいずれは朽ち果ててしまいそうだが自然のぬくもりが感じられ私はこの一角に足を踏み入れるとほっと気持ちの安らぐのを覚えた」(『近所の風景』)現実を離脱してしまい漂泊者に身をやつしたつげ義春にとっては「はずれの風景」という、現実の時間から取残されてしまった風景だけが「ほっと気持ちの安らぐ」場所なのだ。それは徹底して現実に対して受身な、少年時代に赤面恐怖症のため人と会うことが嫌で嫌でたまらなかったというつげ義春の「懐しい場所」なのだ。
無論、それはあくまでも虚構された「懐しい場所」、デジャヴュとしての「猫町」である。『リアリズムの宿』で書いているようにつげ義春は「貧しげでみすぼらしい風物にはそれなりに親しみを覚えるのだが、リアリズム(生活の臭い)にはあまり触れたくないのだ」。漂泊者に身をやつして町を流れていく身にとっては現実はつねに障子越し[#「障子越し」に傍点]であって、決して生きられた現実ではない。すがれた町の風景とは、漂泊者がその町を通りすぎるときに類的記憶によってよみがえってくる虚構の風景なのだ。漂泊者は決して現実そのものとは関係しない。それはちょうど現実には小便や消毒薬の臭いで不潔そのものだった玉の井(大林清『玉の井挽歌』)を江戸情趣の残る町に変えてしまった荷風『※[#「さんずい+墨」、unicode6ff9]東綺譚』の方法に似ている。
それにしてもつげ義春はなぜこんなにもわびしい風景に身を溶解させようとするのか。現実から離脱してしまった者の虚脱感、現実疎隔感が殺風景を呼びよせ、まるで自己処罰するかのごとく、その風景のなかに自分を放棄したいのか。
かつて永井荷風は殺伐とした荒川の放水路を歩き、その荒涼たる風景だけが自分を慰藉してくれると次のように書いた。
「こゝ(放水路)に杖を曳《ひ》く時、わたくしは見る見る薄く消えて行く自分の影を見、一歩一歩風に吹き消される自分の跫音《あしおと》を聞くばかり。いかにも世の中から捨てられた成《な》れの果《はて》だといふやうな心持になる」「わたくしが郊外を散行するのは……自分から造出す果敢《はかな》い空想に耳を打沈めたいためである。平生胸底に往来してゐる感想に能く調和する風景を求めて、瞬間の慰藉《ゐしや》にしたいためである。その何が故に、又何がためであるかは問詰められても答へたくない。唯をり/\をり寂寞を追求して止まない一種の慾情を禁じ得ないのだと云ふより外はない」(『放水路』)
おそらく漂泊者は意味を求めることもしないし自由を謳歌することもない。ただ「寂寞を追求して止まない一種の慾情」から「見る見る薄く消えて行く自分の影」を見たいだけなのである。
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下町散策
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東京の下町、ニューヨークの下町
この夏は旅行らしい旅行に行かなかった。海外旅行には出なかったし、好きな秘湯めぐりにも出かけなかった。
かわりに夏の炎天下、東京の下町ばかりを歩いていた。もともと暇があると東京の町のなかを一人で意味もなく歩きまわるのが好きだったが、四十歳になったこの頃は自然と足が下町のほうに向かってしまう。永井荷風の『日和《ひより》下駄《げた》』を気取ってときには墨東《ぼくとう》のほうへも足を運んでみる。ふだん名前だけは知っていても行ったことのなかった亀戸《かめいど》天神や巣鴨《すがも》のとげ抜き地蔵に行くと、それだけでちょっとした旅行に出かけた気分になる。
そして自分がいかに東京を知らないか、東京はなんと大きな町であるかと、そのたびに驚いてしまう。谷崎潤一郎は明治四十四年に発表した『秘密』という浅草を舞台にした小説の中で、すでに東京の広さについてこんなことを書いている。
「己は随分旅行好きで、京都、仙台、北海道から九州までも歩いてきた。けれども未だ此の東京の町の中に、人形町で生れて二十年来永住してゐる東京の町の中に、一度も足を踏み入れた事のないと云ふ通りが、屹度《きつと》あるに違ひない」
そして『秘密』の主人公は浅草の裏町に秘密の部屋を借りるのだが、下町の小さな町を歩いていると東京は本当に広い、さまざまな表情を持った、ふところの深い町であることがわかってくる。東京は銀座とか新宿といった中心によって作られているのではなく、その周辺に広がっている小さな町によって作られているのがわかる。
浅草はいうまでもなく、柳橋、湯島、谷中《やなか》、入谷《いりや》、下谷《したや》、隅田川を渡った深川、向島、亀戸、あるいは思い切って吉原。そんなものは山の手に住んでいる人間の感傷的な下町幻想さ、といわれればそれまでなのだが、そういう下町を歩いていると、あわただしい現実から一歩離脱した夢のような淡い時間の中に溶け込むことができるのはたしかだ。「湯島」「向島」など、名前を呟いただけで自分が昔の文人墨客になったような気がする。「高井戸」や「浜田山」のような新興住宅地ではこうはいかない。
下町育ちの人は、いまの下町にはもう昔のよさはないという。昭和三十五年ごろの浅草界隈を舞台にした芝木好子の小説『隅田川暮色』には、戦前の浅草は「住みこんで磨かれた、小体《こてい》な家の並ぶ落ち着いた町」だったが、戦後は「一時しのぎの普請《ふしん》の町」になってしまったという文章ある。
それでも私のような「下町おのぼりさん」から見ると、下町にはまだ「住みこんで磨かれた、小体な家の並ぶ落ち着いた町」が残っているような気がする。谷中周辺、湯島天神下、入谷、佃島《つくだじま》、このあたりにはまだ江戸や明治が残っている。
町を歩いていてホッとするのは古い家を見つけたときだ。新しさばかりが強調されるニューヨークにも、いたるところに古い建物が残っている。東京と違って震災も戦災もなかったのだから当り前といえば当り前だが、イースト・ビレッジには、一八五四年にできたニューヨークでいちばん古いビヤホール、マックソーリーズ・オールド・エール・ハウスがいまだ現役で健在である。エンパイヤ・ステート・ビルにしても、考えてみればもう五十年以上も前の建物である。
建築史家の藤森照信氏によれば、東京に残っている古い建物はせいぜい明治十五、六年のころまでのもので、百年前の家が残っていない町は世界の大都市の中でも東京だけという不名誉な事実があるそうだ。それでも下町を歩いていると、まだまだ古い民家が残っているのを発見してうれしくなる。たとえば佃島などは震災と戦災の厄をのがれたところだし、湯島天神下の一角や人形町にも江戸や明治が残っている。
ニューヨークのグリニッチ・ビレッジのよさのひとつは、高い建物がないことだとされている。摩天楼がたち並ぶミッドタウンからビレッジに下りてくると、急に空が近く見えてきてホッとする。下町のよさのひとつも、高い建物がないことではないだろうか。新宿に比べれば浅草など玩具みたいに見える。谷中に行こうと銀座や新宿から日暮里に出ると、駅を降りたとたん空が近くなったのを感じる。下町には地下街という、あの異様なクリスタル・パレスがないのもいい。
マンハッタンもミッドタウンのほうでは、通りが碁盤の目のようにきれいに線引きされている。たしかにこれだと「三番街の四十七丁目の西の角」のように場所がわかりやすくて便利ではある。しかしいかにも人工的で、無駄のないところがかえって面白くない。
『永井荷風文がたみ』の著者、近藤富枝氏は、「荷風が若かった明治の末頃までは、人の家を訪ねる場合には、番地よりも橋の名を頼りにして行く方が、迷うおそれがなかった」と書いている。東京の川という川がほとんど暗渠《あんきよ》になってしまった今日では、「橋の名を頼りに行く」ことはもうないが、それでも隅田川には相変らず大小さまざまな橋があり、「駒形《こまがた》橋のたもと」とか「吾妻《あづま》橋のたもと」といういい方が残っている。これもまた、下町のよさではないだろうか。
グリニッチ・ビレッジと東京の下町には、空が近いだけでなく路地が多いという共通点もあると思う。整然としたマンハッタンの通りが、ビレッジのほうにくるとななめに曲がって入りくんでくる。かつてビレッジに住んだことのある短篇作家O・ヘンリーは、ビレッジを舞台にした『最後の一葉』の中で、ビレッジに芸術家が集まるようになったのは、狭い路地が「気が狂ったように錯綜していて」、そのため貧乏画家から絵の具や紙やカンヴァスの代金を取りたてようとこの町にやってくる借金取りが道に迷ってしまうからだという「卓見」を述べている。
路地は区画整理された大通りに対しごちゃごちゃと入りくんでいて、かえって人間の身体感情になじむ。永井荷風も路地の魅力には早くから着目し、『日和下駄』の中で「路地はいかに精密なる東京市の地図にも決して明《あきらか》には描《ゑが》き出《だ》されてゐない」と、その未秩序のよさを書いている。荷風の代表作『|※[#「さんずい+墨」、unicode6ff9]東綺譚《ぼくとうきだん》』の舞台となった玉の井が、「ラビリンス(迷宮)」といわれるほど路地が錯綜した場所だったのは有名だ。
浅草の仲見世なども一種の路地と呼んでいいのではないだろうか。銀座の大通りに比べ、はるかに雑然としていて歩くのが楽しくなる。ここでは「歩く」というよりも「もぐりこむ」という感覚に近い。一軒一軒の店の中もまたこまごました品物が雑然と並べられ、その中に入っていくのは、大仰にいえば胎内回帰しているように感じられる。仲見世を歩いているとどこか懐しい気分にとらわれるのはそのためかもしれない。
下町には豆腐屋と、風呂屋が多い。それが町全体に生活臭さを与えている。
私には妙な趣味があって、散歩の途中、見知らぬ町の見知らぬ銭湯に入ってひと風呂浴びるのが好きだ。こんな妙な趣味は私ぐらいかと肩身の狭い思いをしていたが、最近古本屋で手に入れた武田麟太郎の『銀座八丁』(新潮文庫)の解説で、丹羽文雄が「彼(麟太郎)はよく通りすがりの銭湯にとびこんだものだ」と書いていて、同好の士がいたのかと安心した。
夏はとくに下町散歩をしていると汗をかくので、カバンの中にタオルと石けんと着替えの下着を入れておき、気に入った銭湯があったらとびこんでしまう。
下町には古い銭湯が残っている。人形町にある「清水湯」という戦前からの銭湯は、その造りにアール・ヌーボーのスタイルが見てとれる。小林信彦氏の『私説東京繁昌記』の中にこの清水湯の写真(撮影・荒木経惟)が入っている。人形町では昔から、モダンな銭湯として人気があったのだろう。旧玉の井のはずれではその名も「美人湯」という銭湯を見つけた。いかにも場所の雰囲気に合っていて、何はともあれ飛び込んだ。
こういう銭湯めぐりは下町だと気楽にできる。銀座や赤坂の銭湯にも入ったことがあるが、出てきたとき自分だけまわりとズレている気がして落ち着かなかった。
町は不思議だ。そこに住んでいる人にとっては日常的で珍しくも何ともないことが、「おのぼりさん」から見るとひとつひとつすごく新鮮に見えてくる。
私はふだん、杉並区の環状八号線沿いのマンションに住んでいる。四階の窓からはゴミ焼き場の高い煙突と高速道路が見える。SF的といえばいいのか、なんともアンチ・ヒューマンな無機的風景である。生活の場がそうだから、たまに暇があると「住みこんで磨かれた、小体《こてい》な家の並ぶ落ち着いた町」を歩きたくなる。それも京都や金沢までわざわざ出かけるのではなく、一種、町内散歩の感覚で浅草や向島あたりに繰り出して行く。下町幻想と笑われるのは承知で、「湯島で飲む酒はひと味違うな」と呟《つぶや》いてみたくなる。
なぜかというと、東京オリンピックで徹底して「町殺」にあった東京の町はいままた都市改造にさらされていて、かすかに残っている古い町並みを今のうちに楽しんでおかないと、何年かあとにはあとかたもなく消えてしまうかもしれないのだから。
下町散歩とはだから、いつかは必ず消えてしまうに違いない町並みを目にとどめておこうとする、どこか寂しい旅になってくる。
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谷中周辺悠遊記
中年になって好きになってきたのは下町だ。上野、浅草、さらに柳橋、深川。ときには永井荷風を気取って名作『※[#「さんずい+墨」、unicode6ff9]東綺譚』の舞台になった玉の井に足を伸ばすこともある。下町のなかで最近とくに気に入っているのは江戸の下町情緒を残しているといわれる谷中、根岸周辺だ。谷中は国電・日暮里《につぽり》駅の西側、根岸は南東に広がる町だ。このあたりは谷中墓地を中心にお寺が多く、いまでも古い町並みが残っていて、中年男にはしっくりとくる。
五月五日、こどもの日、ポカポカ陽気に誘われて谷中に繰り出した。谷中周辺をぶらぶら歩き、帰りに上野に出て映画を見ようという予定である。
昼過ぎに日暮里駅に着いた。上野駅は大混雑だったが、そこからわずか二つ目なのにこの駅は人の姿も少なくローカル線の駅みたいに静かだ。ターミナルから駅にして一つ二つ離れた、ターミナルの町とは対照的にひっそりとした町を「一つ目小町」と呼ぶが(たとえば井の頭線の神泉、東横線の代官山)、この日暮里駅の西側に広がる谷中の町も、そう呼んでよさそうだ。
商店街(といっても小さな通りだが)に入ると道路沿いに植えられたつつじが満開で、それだけでもう気分がよくなった。商店街の中程にある老舗の佃煮屋「中野屋」でしらすの佃煮をおみやげに買い、坂を下って谷中銀座にいったら、しばらく見ないうちに商店街はカラフルな舗道に模様変えになっていて「ポエムナード」という新し目の名前までついていた。通りのあちこちには谷中を愛してやまない石田良介氏の版画をあしらった看板もつけられている。一見、ミニ竹下通りという感じで面喰《めんくら》う。
商店街の本屋で「漫画アクション」増刊号|柴門《さいもん》ふみ特集号を買った。すぐに読みたいので軽食喫茶「愛玉子《オーギヨーチー》」に入り、チャーシューをつまみにビールを注文し、喉《のど》を湿らせながら柴門ふみを読んだ。ビールのあとはオムライスを注文した。この「愛玉子」のオムライスはケチャップをたっぷりつかった、子供の頃の懐しい味を思い出させてくれる逸品である。
ちなみに愛玉子という不思議な名前は台湾原産の果物のことで、さらにこれから作ったトコロテンのようなお菓子のこともさしている。戦前は「オーギョーチー」といえば下町の子供たちに愛されたおやつだったという。現在、「オーギョーチー」を作っているのは東京でこの軽食喫茶「愛玉子」だけである。しかし、いずれは「もんじゃやき」と同じようにリバイバル人気が出るかもしれない。さっぱりした甘さで、ふだんめったに甘いものを口にしない私でも食べられる。
「愛玉子」を出て谷中墓地を突っ切って上野に向かった。墓地の中は新緑のさかりで、一瞬ここが東京の真中であることも忘れてしまう。緑の木々のあいだをリスが走り回っているのは、ちょっとニューヨークのセントラル・パークふうである。墓地のなかでは青年が一人、二人、フルートやクラリネットの練習をしている。東京芸大の学生なのだろう。
上野公園はさすがに、こどもの日なので人出が多かった。修学旅行の中学生もいるし、外人観光客も多い。不忍池《しのばずのいけ》に下っていくとたこ焼きやおでんの屋台も出ていて縁日のにぎわいだ。古い煙管《きせる》を何本も並べている老人がいるのはいかにも下町らしい。ただこの不忍池周辺では、十年ほど前には刺青をしたテキ屋が名口上でガマの油を売っていたりしていたのだが、最近そういういかがわしい見世物が姿を消したのが寂しい。パンダやコアラの人形を並べた屋台ばかりでは、やはり迫力がない。
上野に出て駅前の上野映画でにっかつの二本立てを見ることにした。『美加マドカ・指を濡らす女』と『夕ぐれ族』。例の風俗営業法の改正にともなう映画館側の自主規制で、最近のポルノ映画館の外観はもう実に味気ない。ポスターには映画のタイトルと主演女優の名前が書いてあるだけ。あでやかな女優たちのまぶしいばかりの裸身は無粋にも排除されてしまっている。もっともそのぶんかえって秘密めいた雰囲気が出てきたといえなくもないが。
上野映画の場内は話題の二本立てで、ぎっしり満員。ようやく一番前に席を見つけ、かぶりつきで美加マドカを見たが、この、いまやマドカ・コールまで起こるという陽性のストリッパーの世界は、かつて一条さゆりを描いた神代辰己監督には不釣合だったようだ。むしろ『※[#「マル本」]噂のストリッパー』で当世風ギャルのストリッパー(岡本かおり)を軽やかに表層的に描いた森田芳光監督のほうがこの映画には適していたかもしれない。『夕ぐれ族』は松本ちえこよりも春やすこよりも、中年の私としては蟹江敬三の中年男ぶりに共感した。とくに彼が仕事をサボッてドブ池のような町のなかの釣り堀で、ひとり釣り糸をたらすしがない[#「しがない」に傍点]姿にはジンときた。情の薄い女たちを釣るよりもひとり寂しく小魚を相手にしているほうが中年男には似合っている。そういえば『化粧』のなかでも仕事と女の両方を失った中年男・伊丹十三が東京のドブ川になった築地川でひとり無聊《ぶりよう》を慰めるため釣り糸をたらしているシーンが実に泣かせた。
超満員の映画館で二本見たのでさすがに疲れた。身体に汗を感じだした。急に風呂に入りたくなった。映画館を出て上野駅前を東に向かった。目ざすは上野駅から一番近い銭湯「神吉湯《かみよしゆ》」。駄菓子屋や八百屋の並ぶ商店街にあるいかにも下町の風呂屋だ。
ちょうど五月五日だったので湯には菖蒲《しようぶ》がたくさん浮いていた。「神吉湯」の絵はオーソドックスな三保の松原の海と松と舟と富士山。行ったこともないのに妙に懐しい絵だ。のんびり湯につかって夜の下町に出ると、子供たちがもう花火遊びをしていた。
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入谷の朝顔市
「びっくり下谷《したや》の広徳寺、おっそれ入谷《いりや》の鬼子母神」その入谷の鬼子母神(真源寺)の名物は江戸時代から続く朝顔市だ。七月の六、七、八日の朝顔市と、それに続く九、十日の浅草のほおずき市が来ると東京ももう完全に夏である。
朝顔市は当然なことに朝が早い。朝日が上がったあとの朝顔はもう花がしおれて趣きがないから、なんと早朝の五時から市が立つ。どうせ行くなら早朝の朝顔市を見ようと前夜は上野・池の端の旅館に泊り込んだ。旅館にはそういう酔狂な客が何人かいたが、私のほかはみんな老人だった。
宿の人に起こしてもらい、朝の五時に一人で宿を出た。さすがにこの時間は空気が冷たくて気持いい。上野動物園の裏を通って言問《こととい》通りを鶯谷《うぐいすだに》に出て鬼子母神まで、約一キロの散歩道である。このあたりはお寺や神社があちこちにあり、想像以上に緑が多いから散歩にはいい。寛永寺のそばの小さなお寺の境内をのぞくと、老人が一人木刀の素振りをしていた。ゴルフやゲートボールよりは迫力があってずっと格好がいい。
朝顔市が立つのは国電・鶯谷駅から徒歩五分ほどの言問通りの商店街。子育てと安産の神様で知られる鬼子母神の境内を中心に約三百メートルの区域に江戸川|鹿骨《ししぼね》や岩槻《いわつき》から集まった約百二十店の業者が葭簀張《よしずば》りの店を構える。朝顔の鉢は三日間で二十万鉢も売れるそうだ。昔は植木屋が中心だったというが、最近はテキ屋もいると聞く。江戸下町名物の朝顔が実は埼玉で作られているという話も聞く。しかしまあそういう興醒めになる現実をあれこれ詮索《せんさく》するのは野暮というものだろう。
鬼子母神に着いたのはまだ六時前だったが、市はなかなかの人出だった。やはり老人が多い。小さな孫の手をひいて一軒一軒ひやかしている。朝顔模様のはっぴにドンブリ(腹がけ)姿の売り子のなかには女の子もいて、そこには「下町情趣」を撮ろうとするカメラマンがいっぱい群がっている。
朝顔はつるが巻きつく割竹をたてた行灯《あんどん》と呼ばれる大きな鉢植えが千三百円、芽をつんだ切込みという小さなものが五百円で、これはどこの店でも同じ値段。わが家の近くの植木屋で行灯型のが八百円だったのを思い出し「少しまけてよ」といったら、はっぴとドンブリのおやじに「朝顔市ってえのは気持を買うもんだよ」と怒られた。われながら少しせこ[#「せこ」に傍点]かったと反省。
道路いっぱいに朝顔の鉢が並んだ様子は緑の朝顔畑という感じできれいだ。子供の頃、理科の宿題で朝顔の成長日記をつけさせられたのを思い出す。せっかく来たのだからと朝顔らしい行灯のほうを買うことにした。水をはじいた緑の葉に隠れるようにして開きかけた花が一つ、二つ、ひそやかに姿を見せている。朝に咲いてすぐにしぼんでしまう「槿花一朝の夢と栄える」朝顔はさっぱりした江戸っ子気質に合うといわれたそうだが、花そのものはどこか寂し気ではかない感じがする。
鬼子母神の境内ではこの時間にもう茶店が開いていてきびだんごなど売っている。朝から酒でもあるまいと気がひけたが、ままよ、昨夜の続きだとビールの迎え酒とシャレこんだ。
鬼子母神にお参りしついでに、近くにある入谷七福神の一つ、元三島《もとみしま》神社でも手を合わせ、朝顔の鉢をぶらさげたまま入谷の朝の町を散歩することにした。人通りの少ない、まだ店が閉まったままの商店街を歩くのは少し味気ないが、路地に入るとどこからともなく味噌汁のにおいなどがしてきて、気分はもう下町人間である。
昭和通りと平行している金杉《かなすぎ》通りと鶯通りに入ると、古い戦前からの建物が多いのが目につく。せんべい屋、そば屋、かまぼこ屋……紙袋屋というのもある。鶯通りにあるせんべい屋「あづまや」の唐辛子入りせんべいはおふくろの好物で子供の時、阿佐ケ谷からわざわざここまで買いにやらされたことがあった。
入谷七福神というほどだからこのあたりもお寺と神社が多い。だからなのだろう、商店街には線香とローソクの専門店まであった。その吉田商店という店の造りがいかにも趣きのある古いものなのでしみじみと眺めていたら、店の前を掃除していた八十歳にはなろうかというお婆さんが「この家は昭和のはじめに建てましてね、釘《くぎ》を一本も使っていないんですよ」と教えてくれた。なんだか下町にくると老人の数が急にふえるような気がする。
線香屋のおばあさんによれば、このあたりは関東大震災でも戦災でも焼けなかったそうだ。なるほど、近くのそば屋もかまぼこ屋も質屋も他の町ではまずお目にかからないようなどこか懐しい時代物の建物である。ここだけ時間が戦前でとまっているみたいで、今は亡きSF作家、広瀬正のタイム・マシンで自分の少年時代の町(京橋)に行く快作『マイナス・ゼロ』の世界を思い出してしまった。
小さな路地を曲がったらその奥に古ぼけた二階建ての洋風旅館があった。ここでお風呂に入れてもらおうと近づいていったら、さびれた窓ガラスに「休業中」の張り紙がしてあった。その建物はまったく人の気配がなく、古道具屋の隅に置かれた動かない時計のように見えた。
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人形町ウィークエンド
日曜の朝、七時に起きた。外はこまかい雨が降っていた。窓を開けると冷たい、清潔な朝の空気が頬に気持よかった。銀鼠《ぎんねず》色の瓦屋根の上に雨が吸いこまれるようにゆっくりと落ちていく。町には車の姿はなく、ここが都心かと驚くほど静まりかえっている。
冷たいシャワーを浴び、髭を剃りさっぱりした。町に散歩に出た。すぐ近くの水天宮《すいてんぐう》で手を合わせ、浜町河岸《はまちようかし》の方に足をのばし、隅田川の水を見た。それだけでいい一日がはじまりそうな気がした。
昨年の暮れから週末の余裕のあるとき、人形町《にんぎようちよう》にある小さなKホテルに泊るようになった。仕事から離れて土曜日の夜、好きな本を一冊持って一人でホテルに泊りに行く。仕事の電話はかかってこないし、わずらわしい人間関係にまきこまれる心配もない。一晩だけ、一人だけの充実した孤独を楽しむことができる。私にとってささやかな贅沢である。
Kホテルは小さなホテルだ。最新の超高層ホテルの対極にある。せいぜい六階か七階か。ビジネスホテルなので土、日になるとかえって空いているし料金が安くなるので有難い。こぢんまりとしていて宴会客のうるさいのもいない。
それに私にとっていちばんうれしいのは窓が開くこと。都心のシティホテルの開かずの窓ほど息苦しいものはない。どんなに立派なホテルの部屋も窓が開かないと、それだけで私には牢獄に思えてしまって、どうしても足が遠のいてしまう。といって和風旅館だとなかなかプライバシーが保てない。
その点、Kホテルにはほどよい「中間のよさ」がある。Kホテルには失礼ないい方だが、友人たちが誰もこのホテルの存在を知らないのも有難い。私にとってはひそやかな隠れ里である。最近は土曜日にこのホテルに行くのを楽しみに一週間の仕事をしているという状態である。
このKホテル、若い二代目がいまの形にしたという。彼が人形町のタウン誌で面白いことをいっている。
「ふつうシティホテルというと地下に立派なショッピング・モールを作る。しかしうちの場合はあえてそれをしなかった。なぜって人形町の商店街自体が立派なショッピング街になっているから」
これは卓見だと思う。
Kホテルは人形町のメインストリート、甘酒横丁《あまざけよこちよう》の先にある。立地条件がいい。べつにホテルのなかに飲食街を作らなくとも、一歩外に出て甘酒横丁を中心に散歩をすれば、古い下町のよさを残す店がたくさんある。
洋食だと私の好きなキラク。ラーメンだと大勝軒、あるいは夜ごとに人形町交差点附近に現われる屋台。おみやげの粕漬《かすづけ》なら魚久《うおきゆう》。吉野家があるから早朝、深夜の備えも充分。
それと私が大好きな店は甘酒通りにある大衆割烹・味くら。表に提灯がたくさんぶらさがっていて三階建ての建物は祇園《ぎおん》祭りの山車《だし》のように見える。ここは魚がともかくおいしい。とくに私が好きなのはタコの生造《いきづく》り。ゆでたタコではなく、生きたタコをそのまま刺身にした新鮮なものだ。私はあまりグルメ派ではないので詳しくはわからないが、タコの生造りを食べさせてくれる店は都内でもそんなにないのではないか。私よりはるかに美食家のイラストレーター、安西水丸さんが味くらのタコを食べて「これはうまい!」と太鼓判をおしてくれたから間違いないと思う。まるでクリスマスケーキみたいに大きな茶碗蒸しも豪快かつ繊細で思わず頬がゆるむ。それから塩辛も、粕汁も、スッポンの血もとあげていくときりがないほどに味くらの食べものはおいしい。
味くらはまた女主人がいつも和服でとても美しい。面白いことに人形町に店を出す前はなんと、ケニヤのナイロビで和風料理店をしていたという。和風とケニヤの意外な組合わせに思わず、料理に国境はない、といいたくなってくる。そういえば味くらの少し手前にあるお茶屋さんのお嫁さんはこれまた、なんと、インド人なのだ。人形町・甘酒横丁は実に国際的なのだ。
下町の定義はいろいろあるが、私は「下町とは旧江戸市中」という定義がいちばん気に入っている。その意味で人形町はいまだに純正な下町である。江戸情趣を残す店がところどころにひっそりと残っている。ヤツデやアジサイが植わっている。三味線を売っている店がある。つづらを売っている店もある。日本橋|蠣殻《かきがら》町出身の谷崎潤一郎はしばしばこのあたりのことを書いている。たとえば『幼少時代』のなかには、江戸時代から続いている絵双紙屋・清水屋の記述が見える。この清水屋はいまは玩具屋となって残っている。
人形町交差点の近くには「お富さん」で知られる玄冶店《げんやだな》がいまも残っているし、吉原がもともとは葭町《よしちよう》にあったというのもよく知られている。人形町はいたるところで江戸の匂いがする。
町自体が豊かな気配《ミリユー》をたたえているから、Kホテルの若い二代目がいうように、ホテルにわざわざショッピング・センターなどいらないのである。
人形町でもう一ヵ所好きなところは清水湯という銭湯である。下町生れの池波正太郎はある座談会(「文芸春秋」昭和四十八年九月号、植草甚一、清水幾太郎との鼎談)で「戦災でも人形町は三分の二は焼けずに残りましたからね」といっているが、この清水湯も戦前の建物がそのまま、残ったのだろう。窓ガラスの意匠は昭和のアール・ヌーボーというモダニズムである。天窓も六角形で一見、西欧の寺院を思わせるスタイルである。
Kホテルに泊るときは土曜の夜、まず、手ぬぐいをぶらさげて清水湯にあたたまりに行く。高い天井を見てのんびり湯につかって、それからまず、なにはともあれ吉野家に行き(お恥しい!)ビールを一本あけて、それからそれから、味くらに行こうか、キラクに行こうかと、ぜいたくな悩みに引き裂かれながら夜の人形町を一人で歩いていく。
こんな生活をしているうちに人形町が本当に好きになり、いまなんとか人形町に仕事部屋を持ちたいと、部屋探しをしている。しかし、予想以上にこれは難しいことがわかってきた。人形町はコミュニティとして完結しているから、他所者《よそもの》を受け入れる余分な場所がないのだ。不動産屋を訪ね歩いては人形町の物件を探すのだが、物件そのものがない。
人形町はどんどん私から遠去かる。だから逆に私の気持はどんどん「人形町恋し」になっていく。来週もまたKホテルに泊って、清水湯に人ろう。
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麻布の温泉
麻布十番温泉の楽しみは四十五畳もある舞台付きの大広間だ。ひと風呂浴びてこの畳の広間でビールを飲む。東京にいながらこれだけで熱海や伊東に行った気分になる。少し酔いがまわると畳の上に横になる。時間のあるときにはひと眠りも楽しめる。
八月の半ば、お盆で東京ががらんとなってしまった日の夕方、銀座で映画を一本見て、麻布十番温泉に出かけた。どうせ風呂に入るのだから少しぐらい汗をかいたほうがいいと六本木まで地下鉄で行き、そこから十番まで歩くことにした。六本木交差点から約十分、ぶらぶら歩くと鳥居坂《とりいざか》と暗闇坂《くらやみざか》がぶつかりあう坂下に鉄筋五階建てのビルがある。ここが新宿|十二社《じゆうにそう》や平和島と並ぶ東京の代表的温泉、麻布十番温泉である。
十番の町自体が古い町だから昔からある温泉かと思いきや意外に新しい。戦後、水道事情が悪いころ井戸を掘ったら「黒湯」が出てきた。そこで本格的にボーリングし「温泉」を開設したのが昭和四十二年という。
湯舟はさほど大きくないが湯量は豊富、私が行った日は男湯のほうは夕方六時というのに他の客はいなく、私一人で湯舟を占領し実にぜいたくな気分になった。東京都の温泉はどこもたいていそうだがここも「黒湯」。コーラのような色をしている。しかし湯の質はさらっとしていてべとつかない。サウナも併設されているが、さすがに夏は入る気はしない。
お湯に入ってさっぱりして大広間でビールを飲むことにした。売店で飲み物、食べ物をいろいろ売っている。それを買ってセルフサービスで広間で楽しむという仕組み。ビールのつまみにサンマの蒲焼きの缶詰を買い込んで広間に行った。当然ながら客はお年寄りばかり。横になって寝ているおじいさん、お茶を飲んでいるおばあさん。土、日はにぎわって舞台の上で踊りを踊るおばあさんも多いのだが、この日の客は私を入れて十人くらい。眠ったように静かだ。
麻布十番は大正時代に花街としてにぎわったところ。永井荷風の『おかめ笹』に当時の花街ぶりが描かれている。
そう思って見ているせいか、お茶を飲んでいるおばあさんたちもどこかふつうのおばあさんより艶っぽい。私が一人でビールを飲みながら本を読んでいたら、そのおばあさんの一人が親切にもビールをついでくれた。そしてなぜか「いいねえ若い人は本が読めて。うんと勉強するんだよ」と励ましてくれた。私もお礼におばあさんにビールをおごった。真白な髪が湯上りで二、三本ほつれ、なんだか六本木ギャルよりずっと素敵に見えた。
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『隅田川暮色』そのほか
芝木好子の『隅田川暮色』は悠々たる気品を持った小説で、しばし「現代」の喧噪を忘れさせてくれる。昭和三十五年ころの浅草周辺を舞台に、厳島《いつくしま》組紐という古紐の復元に静かな情熱を注ぐ女性を描いたノスタルジックな小説だが、美の追求という主題以外に、東京の下町の雰囲気が堪能できるのが何よりもいいところだ。
主人公は浅草の駒形橋近くの生まれ(いわゆる「川筋の人間」)、住んでいるところは本郷|弥生《やよい》町の崖下の家で祭礼の季節になると根津神社から太鼓が聴えてくる。さらに彼女が仕事をしている「香月」という組紐の老舗は湯島天神下にあるという設定。だから隅田川を中心に下町情趣がふんだんに描かれ、昭和三十五年という時代なのに樋口一葉や永井荷風の世界を思わせるものがある。隅田川を川船で下って、川畔で食事をするという風流が描かれたり、小女子《こうなご》の佃煮の入った焼おむすびが出てきたりすると下町育ちでもないのに思わず、下町はいいなあと溜息が出てしまう。ちなみに澁澤龍彦の少年時代回想記『狐のだんぶくろ』によると、戦前の東京ではおむすびであって決しておにぎりとはいわなかったそうだ。芝木好子もなるほど「おむすび」と書いている。
昭和三十五年の浅草を描写するくだりで「(戦前は)住みこんで磨かれた、小体《こてい》な家の並ぶ落ち着いた町であったが、戦後の一時しのぎの普請の町になって、住み手も変っている」という文章があるが、『隅田川暮色』は戦前の下町に生まれ育った芝木好子の「失われた時をもとめて」なのだろう。
この本で戦前の上野に「揚出し」という朝風呂のある豆腐料理屋があったことを知った。こんな店だったそうだ。――「(上野の)山下の際に『揚出し』の店があって、朝風呂があるから吉原の朝帰りや、夜行列車で着いた乗客が一休みする。元吉も父と旅の垢を流すとさっぱりした。それから座敷で豆腐の揚げたての熱つ熱つをもらう。あんな旨い朝の御飯をたべたことがない。元吉は旅帰りに東京の庶民のたのしみを味わった」
吉原の朝帰りも夜行列車もなくなりつつある時代にはこういう店も姿を消すしかないのだろう。女主人公が愛人と泊ることになる、築地明石町《つきじあかしちよう》の明治の中頃に建てられたホテルというのも気になる。このホテルももう毀《こわ》されているに違いない。
芝木好子は私の好きな作家の一人だ。私がはじめて彼女の作品を読んだのは、川島雄三が映画化したので知られる旧洲崎遊廓を舞台にした『洲崎パラダイス』だったが、以後下町を舞台にした『湯葉』『隅田川』、下って美や芸術に憑かれた女たちを描いた『青磁砧《せいじきぬた》』「貝紫《かいむらさき》幻想』と期待を裏切られたことがない。ちょうどかつて永井荷風が日本が「豊か」になるのに背を向けて江戸文化の名残をとどめている風物に惹かれていったように、芝木好子も現代のなかでかすかに息づいている古いものの世界へと静かな情熱をすべりこませ、そこにスタティックな官能とでも呼ぶべき妖しい魅力を作り出している。
四年ほど前だったか芝木好子の『湖北残雪』という小説を読んだとき、感動のあまり舞台になっている琵琶湖の北の小さな湖、余呉湖まで一人旅をしにいったことがあるが、『隅田川暮色』を読んで以来、無性に下町歩きがしたくなり、この夏は海にも山にも好きな温泉にも行かず下町ばかり歩いていた。
そして『隅田川暮色』の女主人公が住んでいた本郷弥生町の一角に、弥生美術館という大正ロマンチシズムの挿絵画家、高畠華宵《たかばたけかしよう》の絵をコレクションした新しい美術館を見つけたときは実に幸福な気分になってしまった。
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グリーン・ウォッチングの楽しみ
バード・ウォッチングならぬグリーン・ウォッチングに凝っている。木をしみじみと眺めるのである。
といってもべつに流行の森林浴のように本格的に森や林に行って緑を満喫するわけではない。東京の町なかのささやかな緑をささやかに楽しむだけである。
注意して歩いてみると東京は「東京砂漠」という言葉がウソのように緑が多い。神宮内苑のあやめの庭に行くと、ここが東京かと思うほど静かで緑が濃い。雨が降った平日など苑内は人の姿もなく静まりかえっていて、緑と静寂の両方を一人占めしたようなゆったりとした気分になる。その他にも小石川の植物園、新宿御苑、向島の百花園、少し足を延ばして吉祥寺の井の頭公園、調布の神代《じんだい》植物園とあげていくときりがないほど東京には緑の名所が多い。
とはいえグリーン・ウォッチングの楽しさはこういう有名な緑ではなく、町なかの無名の緑を発見して一人喜びにひたることにある。私は杉並区の高井戸、ちょうど環状八号線と五日市街道がぶつかる交差点近くのマンションに住んでいるが、こんな交通量の激しいところにも結構緑は残っていて、五日市街道を歩いていると古いケヤキの木に何本もぶつかって思わずしばし見とれてしまう。
東京の下町を代表する植物がヤツデやアジサイだとすると、旧武蔵野の代表的植物はケヤキではないかとひそかに私は思っている。あのまっすぐに伸びた太い幹と柔らかい葉は父性と母性の両方を備えた豊かなコスモスに見える。原宿の表参道のケヤキ並木はあまりに有名だが、阿佐ケ谷駅南口の広場から青梅街道に至るケヤキ並木もなかなかのものではないだろうか。夏になると両側のケヤキが繁茂して広い道は緑のトンネルになる。いまから約三十年前、阿佐ケ谷駅前の杉並第一小学校に通っていた私は、このケヤキ並木の樹木祭に参加したおぼえがある。
旧環状八号線と五日市街道がぶつかる柳窪の交差点のところにも一本、背の高いケヤキがあって、緑の季節には朝に晩にこの木を眺めるのが楽しみだったが、残念ながら住宅建設のために切り倒されてしまった。私がいま住んでいるマンションのところも前はケヤキがあったらしい。五日市街道は昔はケヤキの名所だったといわれている。
私はテニスもしないしゴルフもしない。ギャンブルもやらない。楽しみは(なんだか老人みたいで恥かしいのだが)秘湯めぐりと散歩である。その散歩も、永井荷風を気取って下町方面に足を延ばすことが多くなった。
湯島の梅祭り、白鬚《しろひげ》神社の夏祭り、入谷の朝顔市、浅草のほおずき市、隅田川の花火大会――と下町で何か祭りがあると万難を排して出かけていく。
この下町が歩いてみると意外に緑が多い。それはひとつにはお寺や神社が多いためだろう。入谷には入谷七福神、向島には向島七福神がある。もちろんひとつひとつの寺社は大きなものではないが、町角ごとにお寺か神社があって、そこには狭いながらも手入れのいい庭がありアジサイやアサガオがきれいに咲いている。こういう無名の緑を見ると気持がのんびりしてくる。
下町にもささやかながら並木道がある。人形町の大通りを一本入ったところにあるマロニエの並木道だ。下町とマロニエとは意外な組合せだが、これが実に緑のあざやかなマロニエ揃いでグリーン・ウォッチングには最適である。マロニエのまわりにアジサイが植えてあるところはいかにも下町らしい。
下町を歩いていていつも感心するのは、どの家も窓の下や玄関脇にリンゴ箱などを利用して小さな花壇を作ったり、盆栽を並べたりしていることだ。これこそまさにささやかなグリーン・ウォッチングの元祖というべきだろう。
下町の緑の名所としては谷中墓地を忘れてはなるまい。ここは日比谷公園より広く緑も豊かで、東京のセントラル・パークはこちらではないかと思ってしまう。私は一度ここで野生のリスを見たことがある。散歩好きの永井荷風はよく墓地歩きも楽しんだらしいが、谷中墓地を歩いているとその気持がわかる気がする。墓地は浮世を離れた緑の聖域で、墓地のなかを歩いていると充分に森林浴をした気分を味わえるだけでなく、のんびりと充実した孤独な時間も楽しむことができる。都心の緑を保存するためにも谷中墓地や青山墓地はいつまでも残しておいて欲しい。
昨日の日曜日、夕暮れどき近くの名もない神社まで散歩に出かけた。その神社にはまっすぐに伸びたケヤキが何本かある。林と呼ぶには木の数が少ないが、それでも木が作り出す静寂は感じられる。冒険小説作家ギャビン・ライアルの「世にすらりと伸びた木からなる林ほど静かなものはない」という言葉を思い出しながら、夕暮れ時のグリーン・ウォッチングをしばし楽しんだ。
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東京の「隠れ里」
もっとも東京らしい場所とはどこだろうかと時々考える。
毒々しい紅灯に装飾された新宿の歌舞伎町、高層ビルが林立するクリスタル・パレス新宿の副都心、ショッピング・エリア銀座、マヌカン・シティ六本木、書き割りのなかの江戸情緒、浅草――と観光絵葉書に紹介される東京の代表的町並みを思い浮かべてみるのだが、どうもそれは必ずしも東京だけのものではないような気がする。
副都心はロスアンジェルスのミニチュアだし、銀座はニューヨークの五番街に似ている。歌舞伎町だって規模は違うもののニューヨークの四十二丁目に似たようなポルノ・ゾーンがある。浅草は珍しいことは珍しいが、バザールという点では世界の都市のどこにでもある。
日本の地方都市がどんどんミニ東京化している現在では、小さな新宿、小さな六本木はもういたるところで見られる。東京だけの特別な都市景観ではなくなっている。
それならばいったい東京らしい場所はどこになるのだろうかと思案していたら、劇作家の山崎正和氏がある対談で次のような面白い発言をしているのを読んだ。
「私が東京のイメージとして浮かべるのはターミナル周辺の繁華街でもなければ、山の手の住宅街でもないんです。それは東京のどこにでもある小さな商店街なんです。九尺二間を今に残したような小さな構えの店が規格品のように並んでいるでしょう」(「新潮45+」一九八四年十月号)
そして山崎正和氏はその例として中央線沿線の町、中野をあげている。中野の先の町、阿佐ケ谷で育った私としてはこの山崎氏の指摘は非常によく納得できる。
中野とか阿佐ケ谷という町は、大きくもなければ小さくもない、古くもなければ新しくもない何の変哲もない中規模の町である。駅を中心に何本かの商店街が入り組んで交差している。まっすぐに走る道はあまりない。五階以上の高い建物も少ない。似たような規模のまさに「九尺二間」の商店が軒を並べている。大企業のビルなどほとんどなく、どれもが個人商店である。
町はどれも「街」というより「町」と書いた方が雰囲気に合っている。表通りの活気と裏通りのすがれた寂しさが混然となって独特の町の匂いを作り出している。箱庭的といえばいいのか、あるいは長屋的といえばいいのか、町は大きなキー・イメージを中心に広がったというよりは、小さな路地、横町が集まってできたという無秩序のよさを残している。下町的な暖かさもあるにはあるが、同時に都市のいい意味の冷たさもあり、町全体に秘密めいた路地裏、迷路の匿名性がある。
中野や阿佐ケ谷だけではない。アト・ランダムに思いつくだけでも、高円寺、都立家政《とりつかせい》、祐天寺《ゆうてんじ》、小岩、平井、亀有《かめあり》、常盤台、戸越《とごし》、と東京にはいたるところになんの変哲もない中規模の町が散在している。こういう町はガイドブックにとりあげられることはまずないところだが、東京という大都市は実はこうした中規模の町の集積体ではないかと思う。
金子正次の遺作『竜二』がよかったのも、あの映画が遠くに新宿の高層ビルが見える笹塚あたりのごみごみとした商店街を舞台にしていたからではなかったか。森田芳光監督の『の・ようなもの』でも根津、千駄木《せんだぎ》あたりの商店街の雰囲気がアクセントになっていなかったか。
考えてみると私自身もこういう中規模の町が好きで、古本屋歩き、映画館のはしごという名目をつけては灯ともし頃になると高円寺、荻窪、西荻窪に繰り出していく。浅草でも私の好きな場所は六区の映画街を通り抜け、吉原に向かう途中にある千束《せんぞく》通りの商店街だ。
こういう中規模の町のよさは実は「下町的暖かさ」「人間的ぬくもり」にあるのではない。むしろ逆で何の変哲もない、どこにでもある匿名性にある。こういう街に途中下車して歩いているときに、ひとはどこよりも都市のよさである匿名性、充実した孤独を楽しむことができるのである。そのことは実際に散歩してみるとわかる。こういう町ではまずほとんど知人に会うということがない。それに比べると銀座ではなんとしばしば知人、友人たちに出会うことだろう。新宿の飲み屋にはなんと多くの業界の人びとがたむろしていることだろう。それはもう息苦しいほどだ。銀座や新宿のような大きな盛り場には「群集のなかの孤独」がある――というのはウソだと私は思う。
むしろ逆で、どこにでもある、何の変哲もない町にこそ充実した孤独がひそんでいるのだ。だからこそ一人になりたいときは新宿のような盛り場を避けて、高円寺や西荻窪、あるいは千束通りに「旅」をしに出かけたくなるのである。
こういう中規模の町こそ現代の東京の「隠れ里」なのだと、私はひそかに思っている。
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「埋立地」への旅
『夢の壁』で芥川賞を受賞した加藤幸子に、『ミリヤムの王国』という面白い作品がある。孤独癖の強い中学生の女の子が、普通、だれも近づかない埋立地のゴミ捨て場が好きになり、そこで野ネズミと親しくなるという物語である。
母親にどうして埋立地なんかに行くのかと聞かれると、この女の子は「広いし、草が生えて、鳥が鳴いてる」「とても気持がいい所」と答える。
家族の人間ともうちとけず、外に友達も多くないやや自閉症の少女にとっては人の集まる盛り場や遊園地よりも、さびれて見捨てられた埋立地のほうがはるかに親しみの持てる、インティメートな場所に感じられるのだ。都市の真中ではなく、はずれにあるような人間のいない場所、からっぽの場所に魅かれる感覚をいま遠心志向と呼ぼうか。そうするとこの遠心志向は、『ミリヤムの王国』の少女だけでなく、旅に出たいと思う人間誰にもあることに気がつく。
いま都市論がさかんだ。都市は劇場だ、とか、都市はさまざまな価値が混在するメディアだ、とかいろいろな意味付与がされている。こういう場合、前提とされている都市のイメージは人間が群がり集まっているにぎやかな場所だ。東京でいえば新宿の歌舞伎町であり、銀座、有楽町であり、渋谷・公園通りであり、六本木、青山である。
都市といえば盛り場、雑踏がまず頭に浮かぶ。そこでは消費社会にふさわしい新しいモノ、建物、ファッション、風俗が次々に生まれていく。先端的な価値がはなやかに突出する。私たちは日常、こういう場所に、時代に取り残されまい、時代と共にありたい、と願いながら出かけていく。都市の中心への旅であり、私たちの内部にある求心志向が足をはなやかな場所へ、人間があふれかえっている場所へと私たちを向かわせる。
だが『ミリヤムの王国』の埋立地を愛してしまった少女と同じように私たちの内部には都市のはずれ、見捨てられたさびしい場所へとひかれていく遠心志向もまたある。そして遠心志向のおもむくままに東京という巨大都市を歩いてみると、ここには、これが人口一千万を超えた都市の風景だろうか、と驚くほどのさびしい、はずれの場所がたくさんあることに気がつく。
夢の島、木場《きば》、荒川放水路、有楽町から日比谷に向かう地下道。いや、そういう特別な場所ばかりではない、歌舞伎町のようなところでも早朝、歩いているとウソみたいに静まりかえっていてカラスがどこからともなくあらわれたりする。劇場都市・東京の中心部が一瞬、埋立地と同じ風景を見せる。遠くに見える副都心のビルがこの時間に見るとまるで墓石のように感じられる。
盛り場が明とすれば、はずれの場所は暗である。雑踏に対する静寂。あるいは盛り場には生のエネルギーが充満しているが、はずれの場所には生の燃えつきた残滓《ざんし》がある。都市は人の群がる場所だけでなく、はずれの場所にも足を向けないとその全容がとらえられない。求心志向と遠心志向を同時に持っていないと都市の思いもかけない魅力をとり逃がしてしまう。
都市のなかのこういう「埋立地」に人一倍関心を持っている作家がもう一人いる。『抱擁』で泉鏡花賞を受賞した日野啓三である。彼は好んで都市のなかのからっぽの場所を小説の舞台にすえる。
『抱擁』のなかにはこんな文章がある。
「赤錆びた鉄材がごろごろ転っている埋め立て地帯、会社のある大きなビルの人造石の床と壁の廊下、深夜のエレベータの中、ひとりで住んでいる高層マンションの部屋から見渡される灰色のビルの連なり――そういう風景はいつも自然なのだ」
中心的な場所よりも、見捨てられた、人のいない場所に惹かれていく。埋立地や人通りのない廊下にいるとかえって心が落ち着く。日野啓三もまた遠心志向が強い人なのだろう。この人の小説を読むと、埋立地とか、日曜日のがらんとした都心のオフィス街を歩いてみたくなる。
私は加藤幸子さんにも日野啓三さんにもお会いしたことがあるが、お二人ともふだんからそういうさびれた場所に行くと何か新しい発見があるといっておられた。加藤さんはとくにバード・ウォッチングが趣味なので、埋立地にはよく足を運ぶそうである。
永井荷風もまた、人のいない場所に行くのが好きだった。『放水路』という随筆のなかでは荒涼とした放水路一帯の風景こそが自分の心をいちばん慰藉してくれると書いている。
「埋立地」とは都市という人間の世界と、空、鳥、海で象徴される宇宙とが出会う境界線であり、ここに旅するとひとは、自分であって自分でない不思議な体験ができるのだろう。
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「ガード下」の町、有楽町
日劇のあとにできたマリオンがすごい人気である。一時は入場制限までしたという。マリオンのなかに入った日本劇場で、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』を観たが、場内は映画の人気に加えて劇場人気もあって超満員、立見がでるほどだった。
とはいえ有楽町は私にとっては新しいマリオンの町というよりは相変らず「ガード下の町」である。「ガード下の町」といったのは他でもない、ニュートーキョーから日比谷の映画街に抜けるガード下の焼き鳥横丁がいまだ健在だからである。健在どころかますます隆盛で、ここ数年は外人観光客でにぎわっている。帝国ホテルのなかのステーキ屋でケタが三つも違う支払いをするよりガード下の焼き鳥屋のほうがよほど安くてうまいということで、ここはいつ行っても外人客が多い、青い目横丁になってしまった。一度、イタリア人の一団が焼き鳥をぱくついているのとぶつかったことがあるが、すごい食べっぷりで、店屋のおやじさんが「用意していた焼き鳥がみんななくなってしまった。今日はもうこれで店仕舞だ」とうれしい悲鳴をあげていた。
マリオンが出来、そちらに人の流れが向いたといっても有楽町のガード下横丁は、マリオン人気に負けず劣らず依然として続いていて、ここは有楽町のもうひとつの顔なのである。「ガード下」抜きに有楽町を語ることは出来ない。
昭和四十四年(一九六九)から四十六年(一九七一)にかけて私は日劇の隣りにあった朝日新聞社に勤務していた。そのため有楽町の「ガード下」にはよく足を運んだ。新聞社にはゲラ待ちという待ち時間がある。原稿をデスクに渡し、それが印刷されてゲラになって出てくるのを待つ時間である。それが二、三時間、長いときには四、五時間になる。その間、記者はいろいろなことをして時間をつぶす。
原稿を書き終ったばかりだからホッとしている。それはひと仕事終えたあとのくつろぎの時間である。マージャンをやるものもいれば碁石をいじるものもいるし、サウナに入りに行くものもいる。いつもざわざわしている新聞社がそのときだけウソのように静かになる。
私は日劇の地下にあったアートシアターに映画を見に行ったり、有楽町駅前のパチンコ屋に行ったりして時間をつぶしたが、いちばんの楽しみは気の合う同僚と「ガード下」の焼き鳥横丁に行くことだった。
あの「ガード下」の界隈はまさに「界隈」という言葉にふさわしい雑然とした魅力があった。一画全体に屋台の縁日のような雰囲気がある。ここが銀座の一角かと思うほど人間臭くてこの横丁に入り込むと落ち着いた。どの焼き鳥屋も客が込んでくると椅子とテーブルをどんどん道路のほうに張り出していく。ちょっとカフェテリアかローマの大衆レストラン、トラッテリアのようでもある。それは冬の寒いときでも変らない。
「ガード下」だけでなく、有楽町駅近辺は国鉄の線路の下も商店街になっているところが多い。これも広い意味でガード下といっていいだろう。スバルビルに面した「ガード下」にある居酒屋など明け方までやっているところがあった。原稿を全部入れて校正もすませて明け方の五時ごろ、家に帰る前にそういう店に入ってビールを飲むと一日がようやく終った満足感があった。そして有楽町の駅から一番電車で帰っていく。その時間は町もまだすごく清潔に見えた。
さらにまた焼き鳥横丁から帝国ホテルのほうに向かう「ガード下」にも居酒屋が集中している。帝国ホテル裏のコリドー街のそのまた裏のガード下には、いまどきよくこんなところが東京の真中に……と不思議になるほど、昼なお暗い商店街がある。ここには戦後の文士たちが集まった名物バー「セレナーデ」がいまでも健在である。以前にはこの薄暗い通りに「オロ」という名前のジャズ喫茶さえあった。銀座や有楽町をかなりよく歩いている人でもこの通りを知らない人がいる。実に不思議な「隠れ里」のようなところである。
『君の名は』で知られる数寄屋橋のあとにできた西銀座デパートやフードセンターもよく考えれば高速道路の下に出来た「ガード下」である。三笠会館のような大きなレストランもあるが大半は小さな個人商店で、おにぎり屋があったり惣菜屋があったりする。東京の真中のイメージはない。
有楽町は、要するに町全体が「ガード下」の雰囲気なのである。
「ガード下」というのは町のなかの裏通りではあるのだが、それは決してさびれたところではない。むしろ町で暮しているさまざまな人間の喜怒哀楽が、まるで焼き鳥の煮込みのようになってぐつぐつとたぎっている人間臭い場所である。それでいてここは人ごみがたえないから、「群集のなかの充実した孤独」という楽しみをひそかに味わうことができる。
「ガード下」にある店はどれも値段が安い。はじめから外見《みてくれ》に金をかける必要がないから実質本位になる。いまはもうなくなってしまったが、焼き鳥屋の並びには以前、後楽園カレーという店があった。ここはカレーもさることながら漬け物が種類豊富だった。テーブルの上に福神漬だけでなくキュウリ、タクアンが山盛り置いてあってそれはサービスになっている。だからときには客はライスだけ頼んで、漬け物定食にすることもできた。こんな店があったのも「ガード下」ならばこそだろう。
カレー屋といえば、泰明《たいめい》小学校から帝国ホテルに抜けるガード下には王様カレーという安いカレー屋がある。カウンターの椅子に十人も坐ればいっぱいになるところだが、ここもまったく銀座らしくない。
そういえば「ガード下」にはカレー屋だけでなく、喫茶店にしてもカウンター式のところが多い。喫茶店というよりコーヒースタンドである。いかにも忙しいサラリーマン向けだ。会社に急ぐ男たちが朝、わずかな「余暇」を見つけて椅子に腰をおろし、コーヒーをあわただしく飲んでいく。「ガード下」ならではの「忙中閑あり」である。
「ガード下」には差というものがない。ここに入ると中流も下流も、男も女も、老いも若きも、みんな同じ「ガード下の客」になる。そしてビールやチューハイを飲みながら焼き鳥をほおばる。そのときだけ「ガード下」は一瞬の桃源境になる。
新しいビルがどんなに出来ようが有楽町には依然として「ガード下」があり、多勢の客で混雑している。有楽町はあくまでも「ガード下」の町なのである。
新しい『ゴジラ』を観ていたら銀座、有楽町を荒らしまわるゴジラが、出来たばかりのマリオンまで破壊してしまった。でもそのゴジラも「ガード下」は壊さなかった。ゴジラも「ガード下」が好きなのかもしれない。
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変貌する街、東京
東京の町はいつも新しく生まれ変わっている。そのスピーディーな変貌ぶりには驚かざるを得ない。ついこのあいだまであった古いビルが取り壊され、新しいビルに変わっている。それはもう日常的な風景だ。
新宿も渋谷も少し行かないでいるといつの間にかその姿を変えている。銀座では昨年の十月、有楽町に新しい西武と阪急デパートができ、風景が一変した。ソニービルの交差点に立って周囲を見ると新しいビルばかりが目につく。
東京は関東大震災、戦火、東京オリンピックと過去に三つの大きな変貌(消滅と誕生)の転機をもったが、一九八〇年代のいままた新しい情報都市として一段の変貌を経験中ではないのか。
こういう町の変貌は実はいまにはじまったことではない。東京の町は明治維新以来、死と再生を繰り返している。建築史家の藤森照信氏によれば、現在の東京にある古い民家はせいぜい明治十五、十六年くらいのものまでで、世界の大都市で百年前の建物が残っていないのは東京だけだという。それほどこの町は変化が激しいのである。
いまからもう七十年近くもまえに永井荷風は東京散歩随筆『日和下駄』のなかで、東京の町は無惨にも変わってしまって昔の情趣は少しも残っていないと嘆いている。東京の文士たちが、東京は変わった、と昔の古き良き東京を回顧するのはいまや珍しくもない「伝統」になってしまっている。世代ごとに独自の東京論が生まれ、東京の変貌ぶりを嘆く。最近の出版界では東京ものがちょっとしたブームになっているが、これも現在の東京が新しい情報都市への変貌期に入ってきているためだろう。
だがしかし、町の変貌はそんなに嘆かわしいことなのか。古いものを壊し、新しいものに建てかえていくのはそんなに罪悪なのか。むしろ変貌こそが都市の生命だと考えることはできないだろうか。
そもそも木造りの家を中心とした木の文化圏である日本では、家や町はいつかはなくなってしまうものという考え方があった。洪水の多いこの国ではあえて頑丈な橋をつくらず、洪水のたびに流されてしまう弱い橋をつくり、そのつど新しくつくりかえていったという文化もある。木でつくったものはいずれは消滅してしまう。そこから日本文化独得の無常観が生まれていったのだが、その無常観は他方でまったく逆の、消滅してはまた生まれてくることを信じるたくましい活力をも生んだのではないだろうか。
現在の東京を見ていると、この無常観と活力とが混然となった不思議な魅力を感じる。夕暮れどきになるとひとは都市のはかなさに感傷的になるが、朝になると都市のたくましさに活力をおぼえ元気を回復する。
東京はごちゃごちゃとした雑然たる町だ。有楽町では新しい西武や阪急のすぐそばにいまだガード下の焼き鳥横丁が健在だ。一時は浅草はもう終りだといわれたのに、ほおずき市や隅田川の花火大会のときはあふれんばかりの人でごったがえす。新しいものと古いもの、モダンなものと庶民的なものが、ちょうど無常観と活力が混然となっているように東京のあちこちでまざりあっている。
劇作家の山崎正和氏は、藤森照信氏との対談「東京再発見、世界で最も新鮮な都市」(「新潮45+」一九八四年十月号)のなかで東京のよさはこの雑然さにあるのだという面白い発言をしている。
「東京について語るとき、よくこういう発言があるでしょう。西洋の都市は一つの意志に基づいて計画されているが、東京にはなんの意志もない。したがって美観に欠け、云々というやつね。私は以前からこの議論は誤りだと思っているんです。きょうは藤森さんのご案内で、国立、中野、本郷などを歩きましたが、私が改めて感じたのは、東京には意志がないのではなく、むしろたくさんの強い意志がひしめきあっているということです」
都市は都市計画などに吸収されないはみだしたイレギュラーな部分を必ず内包する。どんな整備された駅前広場にも必ず屋台のラーメン屋やおでん屋がやってくる。新しいビルのならぶメインストリートの裏側には昔ながらの飲み屋街が広がる。まさにさまざまな「意志」がぶつかりあっている。だから東京には意外と古い町や古い横町が残っている。それらの町が、中心へ中心へと流れる求心的な人の流れとは違う、外側へ外側へ、奥へ奥へという遠心的な人の流れをつくりだす。
実際、私が銀座に行くときも、結局、入る店はといえば喫茶店「らんぶる」とか、ラーメン屋の「なかよし」とか、おでん屋の「お多幸」とか、路地裏の店ばかりだ。東京全体を見ても都心にでるのは仕事のためぐらいで、仕事から離れた時間には周縁に雑然と散らばる町、たとえば阿佐ケ谷や荻窪、下北沢や浜田山といったおよそ中心とは遠い場末の町でひと息つく。
東京はその広大な空間にたくさんの「はずれ」の町をもっている。池袋、浅草、大森、吉祥寺、あるいはさらにはずれて赤羽、錦糸町、立川。あげていくとキリがないくらいに多くの「はずれ」の町があり、銀座や青山や六本木に向かう求心力と拮抗する遠心力をつくりだしている。東京はいわば、求心力と遠心力がぶつかりあってさらに雑然とした町をつくりだしている。この広大な、だだっぴろい町には、永年そこに住んでいる人間でも行ったことのない路地裏がたくさん残っていて、それが町全体に「暗部」をつくりだしている。すみずみまで知り尽している町に住むより、自分の知らないところがたくさんある町に住んでいるほうが不安ではあるが、同時に未知の魅力はましてくる。
藤森氏は西洋の都市は一枚のはっきりした殻がある卵型の都市であるのに対し、日本の都市はキャベツ型で何枚でも皮がむけると指摘している。東京はまさにそのキャベツ型の典型だろう。どこまで行っても雑然とした小さな町が続いている。ニューヨークでは東京における東京駅や新宿駅にあたるターミナル駅、グランドセントラル・ステーションからでる郊外《サバービア》行きの電車に乗ると三十分もしないうちにマンハッタンとはまったく別の、林のなかにリスが走っているような郊外風景が車窓にあらわれるが、東京はどこまで行っても同じような箱庭のようなごちゃごちゃした町がつづく。東京はニューヨーク以上に遠心力が強いのである。
ニューヨークの町のことを語ったスコット・フィッツジェラルドのエッセー『マイ・ロスト・シティー』のなかに、フィッツジェラルドがある日エンパイヤ・ステート・ビルの上にのぼってニューヨークの町を見て、そのあまりの小ささに愕然とするところがある。
「ニューヨークは何処までも果てしなく続くビルの谷間ではなかったのだ。そこには限りがあった。その最も高いビルディングの頂上であなたがはじめて見いだすのは、四方の先端を大地のなかにすっぽりと吸い込まれた限りある都市の姿である。果てることなくどこまでも続いている街ではなく、青や緑の大地なのだ」(村上春樹訳)
これは一九三〇年代はじめのニューヨークの町のことではあるが、卵型の都市ニューヨークの基本は現在も変わらないのではないか。ニューヨークは、結局は中心に向かって発達した町であって、東京のように「果てることなくどこまでも続いている街」ではないのだ。東京の人間はフィッツジェラルドとは逆に、サンシャインビルの上から東京を見たら、ふだん小さな町だと思っていた東京が予想以上に「どこまでも続いている街」であることに驚くのではないだろうか。
そして、東京に住んでいる人間がいろいろ東京の悪口をいいながらもここを離れることができないのは、雑然とした東京にこそ魅力を感じとっているからではないか。
六本木や青山のようなショーウィンドウの町だけでは疲れてしまうが、人形町や湯島天神下に行けば江戸情趣を残す古い店が残っている。銀座のクリスタル・パレスのようなデパートに息苦しくなったら築地の魚市場に行けばいい。六本木のシネ・ヴィヴァンで上映しているフランス映画について行けなくなったら、新宿の場末の映画館、昭和館で古い東映のやくざ映画を楽しむことができる。
下北沢では「ザ・スズナリ」というゴザの上に坐って見る芝居小屋が若い演劇ファンの人気を集めている。ギャルたちが闊歩《かつぽ》する渋谷の公園通りに嫌気がさしたら、道玄坂をあがって昔の花街、円山《まるやま》町の赤提灯に姿をくらませばいい。
東京はほんとうに奥行きがある。ふところが深い。どこまで行っても次の皮ならぬ次の町がでてくる。町ごと、通りごとに「たくさんの意志がひしめきあっている」。しかも冒頭に書いたように、ひとつひとつの町のなかで消滅と誕生のドラマが日常的に繰り返される。いわば、東京は表層的には無機的都市になっているのに、深層的には混沌とした変容を繰り返す有機的都市なのだ。今日、都市論がさかんになっているのは、都市が人間の深層心理世界の混沌の象徴になっているためだと思う。森でも海でもなく、樹木でも岩でもなく、都市というもっとも人工的な空間こそが、実はもっとも人間の心・身体の内部の混沌・無意識に対応しているという逆説こそが都市論のおもしろいところなのではないか。
そしてそういう混沌のモデルとしての都市を考える場合、東京がもっともふさわしいのではないかと私は思うのだが。
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異邦の旅
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ブダペストの五日間
一九八〇年七月にハンガリーのブダペストを一人旅した。『ロッキー』のシルベスター・スタローンの主演する映画『勝利への脱出』のロケがブダペストで行なわれていて、その取材をするためである。東欧はアメリカに比べ、はるかに人件費や物価が安い。それに西側諸国のように急速な高度成長を体験していないから古い建物が残っている。そこで東欧にロケして作られるアメリカ映画やイギリス映画がふえているのである。
社会主義の国でアメリカ映画が作られているというのはなんとも奇妙なことだが、現実はすでにこんなふうに進行していて、東西冷戦の構造は序々にだが揺《ゆら》いでいるのだと思う。
映画の取材のあい間を見てはブダペストの町を歩きまわった。こんな機会でもないとブダペストになどめったにこれるものではないから、寝る時間を削っては夜おそくまで町じゅうを歩きまわった。
いい町だった。古い歴史を持った町特有の落ち着きと困難な社会主義国家の道を試行錯誤しながら歩いている国のまじめさがあちこちに感じられ、享楽的な日本から来た人間には浮わついた自国と自分を外から見つめるいい機会でもあった。
ハンガリー人は民族的にいうとヨーロッパのなかでは珍しいアジア系民族である。そのためか町を歩いていて、まず人間に親近感をおぼえる。彼らは肉体的に大きくない。私は身長が一六八センチで典型的な中肉中背だが、ブダペストの町を歩いていてもぜんぜん肉体的コンプレックスを感じることがない。私と同じくらい、あるいは私より背が低い人がたくさんいる。
あのニューヨークの町なかでむくつけき大男に囲まれた時の恐怖感はブダペストではまったく感じることがなかった。
それに町自身、まったくといっていいほど安全である。ニューヨークとくらべたらウソみたいに静かで危険はまったくない。ニューヨークではホテルの鍵をかけておいてもモノを盗まれるのに、ブダペストでは鍵などかけるのが恥かしくなるほど安全である。夜の町を十二時すぎて一人で歩いていてもなんの身の危険もない。闇ドルを求める男が近寄ってくるくらいである。
だからなのだろう、私の泊ったゲレルト・ホテルには西ドイツからやってきた老夫婦の観光客がたくさんいた。
無論、静かで安全ということは悪くいえば退屈ということであり、シルベスター・スタローンなどは週末になるとイタリアやフランスへ遊びに繰り出していたようだが、私などふだんがさついた毎日をおくっている人間には、この静けさがブダペストの何よりもの贈りものに思えた。
物価が安いのも有難かった。高級レストランに入って食事をしても三百フォリント、せいぜい四千円ほどである。
ちなみにハンガリーは農業国である。このことが現在のように食糧が石油と同じように重要になってきている時代にはかえって幸いし、ハンガリーは東欧諸国のなかでは経済が安定している数少ない優等生国家である。工業国、ポーランドとその点で対照的である。
料理は手のこんだ洗練されたものは少ないが、予想以上においしいものが多かった。
とくにおすすめ品はグャーシュと呼ばれるシチューで、どこのレストランに行ってもある。例は悪いかもしれないが、日本でいうと焼き鳥屋の煮込みみたいな大衆的な食べもので、高級な羊のステーキなどより私にはこれがいちばんおいしかった。
グャーシュはパプリカというトウガラシの辛みがきいていて(相当量入っているのだろう、汁の色は赤くなっている)、ピリッとした刺激的な味である。体じゅうがいい気分にカッとなってくる。
大衆食堂に入ってこのグャーシュとビールを注文し、あとはパンさえ食べればもう充分に幸福な気分になってくる。これで千円でおつりがくるのだからうれしい。
グャーシュは野菜と肉(牛、豚、羊)を煮込んだものだが、肉のかわりに鯉を使ったシチューがハラースレと呼ばれるものでこれも素敵においしかった。(ハンガリーはドナウ河をはじめたくさんの河や湖、沼があるので鯉のような川魚が豊富なのである)
グャーシュの他には、じゃがいもや鳥を使った素朴な料理が多かったが、どの料理もパプリカを使ってピリッと辛い味付けになっているのが特色のようだ。
酒ではなんといってもトカイ・ワイン。ハンガリー東北のトカイ地方でとれるワインで、いろいろ飲んだなかではこれがいちばんおいしかった。(といっても私はワインの味など正確にはわからない人種だが……)みやげもの屋にもこのワインが置いてあったからハンガリー名物なのだろう。ホテルのみやげもの売り場では一本千円くらいだったが、町のスーパーで探したらその半分くらいの値段で売っていた。やはり町はまめに歩いてみるものである。
ブダペストはドナウ河が町の真中に流れている古都である。王国時代の王宮や教会がまだ残っている。町のあちこちに百年も二百年も前に建てられた古い建物がほんとうに無造作に残っている。「東欧のパリ」「ドナウのバラ」と呼ばれるのもわかる気がする。美しいといえば、私の泊ったホテルの部屋には美しい花が毎日種類を替え飾られていたし、ベランダには赤いバラが植えてあった。ニューヨークのオンボロのホテルと比べたら段違いである。
ある日、ドナウ河の河べりで若いハンガリー人の夫婦と知り合いになった。一人旅だったので自分の写真が撮れない。河をバックに一枚写真を撮ってもらおうと頼んだのがその夫婦だった。ハンガリーでは英語はほとんど通じないので往生していたのだが、その若い夫婦は少しだが英語を話すことができた。
気さくな、人なつこい二人だった。日本人に会うのははじめてという興味と、ちょうど習いはじめたばかりの英語を実地にためすチャンスだと思ったためだろう、私が「ビールでも飲まない?」と誘ったらすぐに応じてくれた。
二人とも二十六歳。高校時代の同級生で結婚して一年めだという。ガボールという旦那さんのほうはエレクトロニクスの技師。クリスチーナという奥さんは工業デザイナー。ハンガリーではなかなか手に入らないといわれるソ連製のマイカーを持っていてブダペストの市内をあちこち案内してくれた。すれていない、というのか、素朴というのか、以後、二日間にわたってこの二人は親切にも私のガイド役を買って出てくれ、最後には自分の家にまで招待してくれた。
二人ともまったくの戦後派で一九五六年のハンガリー動乱のことなどほとんど知らないという。当時、小学校六年生だった私が「あの事件は日本でも大ニュースになった。ニュース映画で見た、ブダペストの町に入ってくるソ連軍の戦車の恐ろしさはいまでも記憶に残っている」というと、二人とも日本人がどうしてそんなことを知っているのか、と不思議そうだった。しかし、観光客として行った国で政治の話をするのも気がひけたので、この話はそれ以上しなかった。
二人とも若いからだろう、西側の文化に強い関心を持っていた。ノーマン・メイラーの『裸者と死者』、ジョセフ・ヘラーの『キャッチ22』、ケルアックの『路上』といったアメリカ文学を知っているのには驚いた。驚いたといえばブダペストの映画館で『地獄の黙示録』と『ロッキー』をやっていたのにも驚いた。こんなふうにして東西の垣根は民衆レベルでどんどんなくなっているのかもしれない。
ガボールはまたジャズのファンで、車に乗っているあいだじゅうマイルス・デイビスとコルトレーンのカセットを流していた。ただしこれは闇マーケットで手に入れたものらしい。
二人の家に招待されていちばん驚いたのはガボールの持っていたステレオがわがAKAIのものだったこと! ほんとうに日本の製品はどこに行ってもあるようだ。クリスチーナのお父さんはガラス工場の幹部で日本の旭硝子と取引きがあり、日本のことをよく知っていた。ハンガリー語に翻訳された芥川竜之介の『河童』を読んだという。ふだん頭のなかに入ってもいなかった異国で、自分の国のことを知っている人間に会うのはうれしいものである。
私の古い頭のなかには東西両陣営の厚い壁があり、ハンガリーに来る前は、社会主義国の人間とはうまくコミュニケーションは出来ないだろうと思っていたのに、たった五日の滞在でもうハンガリーの若者の家で夕食などごちそうになっている。世界は「違う」要素よりも「同じ」要素のほうが多いなと思わないわけにはいかなかった。
しかし同時にやはり「違う」要素も厳然として残っているのも事実である。私がブダペストにいたのはちょうどモスクワ・オリンピックが始まる一週間前だった。当然、その話題になった。クリスチーナもガボールもなぜ日本がモスクワに行かないかを知っていた。私は二人に「ソ連のアフガニスタン侵攻をどう思う?」と聞こうとしてかろうじて思いとどまった。それは聞いてはいけないことに思えた。
クリスチーナは最後に「日本に行ってみたいけれど、いまの経済状態や国の事情を考えるととても無理。あなたのほうが自由に旅行できるのだから、ハンガリーのことが好きになったらまた来て下さい」と私にいった。
「必ず来ます」と私は答えて二人と握手して別れた。一週間後、ロンドンを廻って日本に帰ったら二人から絵葉書が届いていた。葉書には英語で「LOVE」と書いてあった。
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インド洋の城塞の島、ニアス島
スマトラの西、インド洋にニアス島という島がある。長さ一二八キロ、幅四八キロ、スマトラ西海岸沿いにある一連の諸島群のなかでは最大の島だが、日本のたいていの地図帳にはぽつんとした点で記載されているだけの、忘れられた島である。
この島は、ヒンドゥー文化の影響もイスラム文化の影響も受けず、青銅期時代にアジア大陸からもたらされたという巨石文化をもとに独自の文化を作りあげていることで知られている。現在でも文化人類学者のフィールドワークの対象となっている。とくにこの島の山間部には巨石文化の名残をとどめるバウォマタルォの集落があり、近年、ヨーロッパからこの村を訪れる観光客が急増している。
一九八二年の十二月末、約一週間、友人の照本良君と二人でこのニアス島を訪ねた。
ニアス島へはふつう観光客はスマトラの大都市メダンからプロペラ機で行くが(飛行時間約二時間)、われわれは貧乏旅行のため飛行機は使わず、二日がかりでバスでスマトラを横断してスマトラ西海岸の港町シボルガに出て、そこから船(といっても小さなポンポン蒸気だが)でニアス島の港町グヌンシトリに渡った。
グヌンシトリに着いたのは十二月二十五日の早朝。乗合船で約八時間揺られてきたのでさすがにぐったり。港の前にあるホテル(旅籠《はたご》といったほうがいいか)に部屋をとり、水浴びしてベッドで仮眠をとった。ここで一泊し、翌日、船でもうひとつの港町トゥルクダラムに行く予定である。バウォマタルォの村はそこからさらに山に深く入ったところにある。村はなにしろいまから約二百年ほど前、自己防衛のため深い山の頂に作られたので、たどり着くだけでも大変なのだ。
旅に出る前はニアス島は文化果つるところと聞いていたが、実際に行ってみるとホテルにテレビはあるし、通りにはベチャ(人力車)だけでなくオートバイも走っている。そのテレビは東芝製、オートバイはヤマハとホンダ、さらに雑貨屋には味の素と丹頂のシャンプーと、日本製品があふれており、これには驚いてしまった。さらに目的地のバウォマタルォに行ったときにはジャングルのなかからあらわれた青年がAJINOMOTOのTシャツを着ていたので、驚くと同時に興醒めもしてしまったが。
グヌンシトリで一泊し、翌朝さらに小さなポンポン蒸気でトゥルクダラムに向かった。グヌンシトリからトゥルクダラムまで戦時中は日本軍の作った道路があったが、現在は通行不可能で海路に頼る他ない。ポンポン蒸気で八時間の行程である。客はわれわれの他、村の学校の先生と農夫、それに世界八十八ヵ国を回っているというドイツ人の女性旅行家。この女性はアマゾンもエチオピアの山のなかも一人で旅行したという強者《つわもの》で、南米やアフリカに比べればニアス島の旅なんて旅のうちに入らないといっている。
このあたりの海は荒れるので有名だというが、われわれが旅したときは実に波静か。トビウオやイルカが船に伴走したりする。船で働いている十二、三歳くらいの少年がDATSUNのマークが入ったTシャツを着ているのに、また驚く。
トゥルクダラムはグヌンシトリよりさらに小さな港町。トタンぶき、シュロやサンゴ椰子の葉|葺《ぶき》の屋根がつづく。小さなホテルが一軒と、小さな商店街が一つあるだけ。商店といっても村の雑貨屋という感じ。ここでも味の素があふれかえっている。町でいちばん大きな建物は町役場でも郵便局でもホテルでもなく、映画館というのが日本の昭和二十年代を思い出させる。TELUK IMPIANという名前の映画館で、TELUKは「湾」、IMPIANは「夢」のことである。映画がまだ「夢」という形容にふさわしい娯楽なのだ。ちなみにインドネシアでは映画が娯楽の王者である。TELUK IMPIANではインドネシア映画だけでなく、インド映画やハリウッド映画も上映している。高倉健主演の『ゴルゴ13』の看板もある。
トゥルクダラムの商人宿で一泊し、翌日いよいよバウォマタルォをめざした。朝、町の通りに出て驚いたのは、白人のヒッピーふう観光客がちらほら町を歩いていたこと。聞けばトゥルクダラムから車で三十分ほどいったところにサーフィンに絶好な海岸があり、そこが、バリ島から逃れてきたパイオニア精神あふれるサーファーたちの人気のまとになっているのだという。多くはオーストラリアやニュージーランドからやってくるサーファーたちだが、たまには日本人の若いサーファーも来るという。
ニアス島あたりまでやってくるのは文化人類学者かわれわれのような物好きな観光客だけかと思っていた矢先だったので、このサーファーたちの群れにはいささかがっかりする。
町の広場には若者たちがオートバイを何台もとめている。海岸に出るサーファーたちをオートバイのうしろに乗せて運んでやるのである。地元の若者たちにはこれがいい稼ぎになっているらしく、観光客の姿を見るとすぐに「バイク? バイク?(バイクに乗らないか)」と話を持ちかけてくる。数少ない乗合バスしかないニアス島では、このオートバイは貴重な交通機関でもある。ちなみにバイクの値段は一〇〇tで約百万ルピア(一ルピア=約〇・四円)。大半は日本製である。椰子の葉葺の素朴な家の前にピカピカのオートバイがでんと置いてある風景は、いかにも一点豪華主義である。
この地元のライダーで一人、実に愉快な青年と知り合った。マルという名の青年で、ジョクジャカルタの大学で音楽を学んだという。英語はわれわれよりうまいくらい。人なつこく、笑顔が実にチャーミング。オーストラリアからやってくるサーファーたちはみんなこのマルにガイド役を頼むという。町じゅうの人気者で、町を歩くと若い女の子たちが「マル、マル」とあちこちから声をかける。「どうしてそんなにモテるんだい?」と聞いたら、「笑顔だよ。女の子と目と目が合うだろ。その瞬間、ニコッと笑うんだ。それでいっぺんにOKさ」
三年ほど前、この島に観光旅行にやってきたドイツ人の女性はマルの人柄にすっかり惚れこみ、いま二人は結婚の約束が出来ているという。一度、マルの家に遊びに行ったら、その女性の写真を見せてくれた。彼女と結婚してドイツに行き、ミュージシャンとして成功するのがマルの夢だという。私のためにマルはギターの弾き語りでボブ・ディランの『風に吹かれて』を歌ってくれた。ニアス島の小さな町で、まさかボブ・ディランが聞けるとは思っていなかったので、これにはすっかり感激してしまった。
マルのオートバイに乗ってわれわれはバウォマタルォに向かった。道はジャングルのあいだをぬって走る。石ころだらけの道で、いつひっくりかえるかとひやひやものである。トゥルクダラムから約三十分、丘のふもとに着いた。約八十段ほどの石段が丘に向かってのびている。
その石段をのぼりきると、バウォマタルォの集落があらわれた。思わず驚嘆の声が出た。「まるで『地獄の黙示録』だ」ジャングルのなかに、船型の木造家屋が艦隊のように並んでいる。歴史の針がいっぺんに大航海時代に戻ったみたいだ。海賊に捕えられた捕虜みたいな気分になって、一瞬、村のなかに入るのがためらわれる。おまけにあらかじめ、この集落では昔、首狩りの習慣もあったと聞いているので足がすくむ。しかし、よく見ると広場では子供たちがタコあげなどして遊んでいるし、石だたみの上にはあちこちに洗濯物が干してある。その日常的風景でややひと安心する。
この集落の村長の家が民宿をかねているので、われわれはそこに泊ることにする。高床式の住居で高さは日本の家屋の五階建てぐらいはあるだろうか。内部は古い日本のお蔵の中のようである。柱の木はふたかかえはある太いもの。約二百年前のことだから、村長の家を作るだけで三年はかかったという。家の内部は二つに分かれ、表に面している板敷きの間は居間兼客間、裏の半分が家族のための部屋になっている。
この村にも戦前、日本軍が入り込んでいたというから驚く。ある老人はわたしたちが日本人だと知ると、※[#歌記号、unicode303d]見よ東海の……と軍歌を歌い出したし、村長もかたことの日本語を話す。この村長は大変な日本通で、わたしたちに会うなり「スズキさんがやめましたね」という。一瞬なんのことかと思ったが、鈴木首相の話とわかって、ニアスを文化果つるところとばかり偏見を抱いていたわれわれは、またしても驚いてしまう。
村は丘の上に作られ、全体が要塞になっている。要塞都市である。丘には三方からの石段を使わないと登れない。村はT型に石だたみの道が走っていて、二本の道がぶつかる中心に村長の家がある。戸数は約四百、住民は約四千人という。米、ココナツ、タピオカを中心とした農業に従事している。イスラムの影響を受けていないので豚を食べる。村のあちこちを豚が走りまわっている。その豚の糞のため、村には独特の臭気があり、これに慣れるまでにだいぶ時間がかかる。
この村でいちばん楽しかったのは、マンディと呼ばれる水浴だ。丘の下の森のなかに何ヵ所も水浴の場所がある。湧き水を利用して作った共同風呂のようなもので、村人は朝に晩にここで水を浴びる。洗濯もここですませる。水量は驚くほど多く、もったいないくらいに新鮮な水がこぼれ落ちている。私はお風呂に入るのが大好きな人間なので、村長に頼んで水浴をさせてもらった。インドネシアに着いて四日間風呂とは無縁のあかまみれの生活をしていたので、この水浴でいっぺんに生き返った。水浴だけでなく、たまった洗濯もさせてもらった。日本人の感覚だと露天風呂である。インドネシアでは水浴が習慣になっており、どんな旅籠屋にも水浴び場がついているが、たいていはトイレと一緒の大きな洗面所という感じで少しもさっぱりしなかった。が、バウォマタルォの水浴び場だけは格別だった。ただ残念なのは、村人には水浴びの習慣はあっても水のなかに身体をひたすという習慣はないこと。だから、せっかく石造りの水ため場にたっぷりと新鮮な水が流れ込んでいるというのに、誰もそこに身体をひたさない。よっぽどなかにドボンと入ろうかと思ったが、日本人の評判が悪くなるといけないのでこれだけは思いとどまった。
ちなみに水浴び場は男性用と女性用とにわかれている。混浴は禁じられている。はじめそれを知らないで女性用の水浴び場に降りていったら、近くで遊んでいた子供たちに厳しく怒られてしまった。
子供たちがタコあげしていたと先述したが、石だたみで遊んでいる子供たちの遊びをよく見ると、石けりとかビー玉遊びとかパチンコとか、われわれの子供時代と同じで、少し懐かしくなる。大人たちは昼間バレーボール、夜になるとランプの光(この村にはまだ電気はきていない)の下で縁台将棋のような感じで、ドミノやダイヤモンドゲーム(あの懐かしのピョンピョンゲーム)をやっている。
食事はすべて村長の家でまかなってくれた。主食は米。昔の外米の味である。白ごはんに香辛料のきいたスープをかけて食べたり、焼きめしにしたりする。焼そばもよく食べる。おかずはイモの葉を煮たもの。これにときどき魚を煮たもの(魚は生では食べない)がつくが、山のなかの村なので魚は贅沢品である。観光客のわれわれのために、村長の奥さんはオイル・サージンの缶詰を開けてくれたが、みんながイモの葉でごはんを食べているときにわれわれだけ魚を食べるのは少し気がひけた。
飲みものは熱い紅茶と泥のように濃くて甘いコーヒー。生水は決して飲まない。冷蔵庫などないから冷たいビールやコーラなど望むべくもない。食事が素朴《プリミテイブ》なのは気にならなかったが(だいいち香辛料のきいたイモの葉は素敵にうまかった)、冷たいビールが飲めないのだけは参った。炎天下、ジャングルを歩きながら、何度、ここでビールが飲めたらと思ったことか。
この村では酒も貴重品である。村に一軒だけある居酒屋には、ビールもウィスキーもない。サムシュー・カムプートと呼ばれる米で作った甘い酒がある程度である。インドネシアはもともとイスラム教の影響で、飲酒の習慣もないと聞いた。夜、この居酒屋でサムシュー・カムプートを注文したら、日本人が酒を飲んでいる! と珍しがられ、たちまちまわりにギャラリーができてしまい、恥しくてゆっくり飲むこともできなかった。
滞在中、村の集会というのを見学できた。朝、起きたら日本通の村長が「カワモトさん、私は今日ナカソネさんです」という。なんのことかと思ったら、今日ムシャワラと呼ばれる村の集会があり、そこで村長は今日、議長としてリーダーシップを発揮する、つまり中曽根首相のような務めを果たす、というのだ。よかったら見学してもいいという。
集会は村長の家の前の集会所で行なわれた。この建物も高床式の立派なものだ。集会には男だけが参加していて、女の姿は一人も見えない。今日の議題は祭りの準備か何かと思ったら、どうもそんな楽しいことではないらしい。議場の右と左の二派にわかれて老人たちが何やら激しく言い争っている。あとで村長に聞いたら、弟が義理の姉さんと出来てしまい、二人を結婚させるかどうかで男の家族と女の家族が意見が食い違い、責任問題、慰藉料問題にまで発展しているという。「それは大変ですね」といったら村長は「一軒の家のなかに、たくさんの人間が暮していると、こういうことがよくあるのだ」と平然としていた。ひとつの家のなかの恋愛沙汰が、たちまち村の共通の問題として集会にまで取りあげられるというのは、この村が共同体としてまだ豊かに機能しているからだろう。もっとも集会場を取り巻いた村人(これも男ばかり)はみんな楽しそうだったが。
村では一般的にいって、女性のほうがよく働いていた。洗濯、食事、育児ばかりでなく、畑仕事も女性がよくやっていた。子供も女の子は、よく小さい子の面倒を見ている。自分とそんなに大きさの変らない弟や妹を抱きかかえている女の子は、ぬいぐるみと遊んでいるようにも見える。
ニアス島の宗教は大半がプロテスタント系キリスト教である。これはニアス島が一八六九年にオランダ人が来島するまで、イスラム文化ともヒンドゥー文化とも交流がなかったためである。ニアス島の人口は約三十五万(一九六九年の調査による)だが、うち二十九万人はプロテスタントだという。残りのうち三万人がイスラムで、二万人がカトリックといわれている(クンチャラニングラット編『インドネシアの諸民族と文化』)。インドネシアの本島(スマトラ、ジャワ)では圧倒的多数のイスラムが、ニアスでは少数派なのである。
港町グヌンシトリにもトゥルクダラムにも、山腹には立派なプロテスタントの教会があったが、このバウォマタルォにもプロテスタントとカトリックの教会がある。村長一家も敬虔なプロテスタントである。村人がほとんど酒をたしなまないのもこのためである。
しかしこの静かな村もヨーロッパ(とくにドイツとイタリアが多い)からの観光客がふえるに従って観光地化しはじめている。村人は観光客と見るとワッと群がってきて、「スタテュー、スタテュー」と木彫りの像や椰子の木で作った首輪を売りつける。子供たちは、われわれにもタバコやボールペンをたかったりする。若者はTシャツをくれという。そのたびにこちらは複雑な気持になる。貧乏旅行でみやげものなどほとんど買わないわれわれなど、現地経済の発展にまったく役に立たない、非協力的な観光客なのではないかと肩身が狭くなり、結局、村長の家で一万ルピアだして首輪(昔、首を斬られることから守ったという)を買うことになった。村長の息子は目下トゥルクダラムにツーリスト・オフィスを開設中で、これからどんどん観光客を誘致するのだと張り切っていた。
バウォマタルォの石段の上から北を見ると、ジャングルの先に静かな海が入江になって光って見える。そこがオーストラリアやニュージーランドのサーファーたちに人気がある、ラグンディの海だという。ここに行く予定はなかったが、山のあと急に海を見たくなって予定を変更して、海辺のバンガローに一泊することにした。海まで村長の息子がオートバイのうしろに乗せて連れていってくれた。
ラグンディの海岸には、サーファー向きのバンガローが六、七軒、椰子の木かげにある。バンガローというか正確には椰子の葉で作った掘立小屋である。電気も水道もない。木というか枝で作った粗末なベッドがあるだけだ。われわれは「ヤンティ・イン」というところに泊ることにした。若いおかみさんの笑顔が素敵だったのと、彼女が浜でとれる新鮮な魚をたくさん食べさせてくれるといったからだ。
浜にはほとんど人がいない。この季節、サーファーが二、三人いるくらいで、海には漁に出ている漁師の小さな舟が二、三隻見える程度だ。あまり静かでかえって時間を持て余してしまうほどだ。海で泳いで浜辺で背中を焼いて……またしても、ここで冷たいビールが飲めたらなあとぜいたくなことを考えてしまう。村長の息子がわれわれがここに泊っていると教えたらしく、昼過ぎマルがオートバイで遊びに来た。朝からマリファナ(ニアス島ではわりと簡単に手に入るらしい)をやっているとかで、大変なごきげんだ。昨日の夜は海辺で星を見ながらドイツ人の女性と「ロマンチックなセックスをした」なんていっている。ウソか本当かはわからないが、マルの人なつこい笑顔を見ると本当だろうなと思ってしまう。陽気でフランクなマルは、今度の旅で知り合ったいちばん魅力的なインドネシア人だ。笑顔ばかり見せているマルだが、気性も激しくて、何年か前には町のやくざと命がけのけんかをしたり、警官と殴り合ったりしたことがあるという。それでいて「夜、一人で作曲していると自分で自分が怖くなって、死にたくなるんだ」ともいう。
「ヤンティ」のおかみさんはマルとわれわれのために漁師から買ったロブスターを焼いてくれた。漁師は日本人サーファーから覚えたらしく、さかんに「イセエビ! イセエビ!」という。一匹わずか千ルピア。それでも「ヤンティ」のおかみさんは「観光客だと思って値段を高くしているんだわ」と、われわれのために漁師に怒ってくれる。マルが「ヤンティのおかみさんは料理自慢だ」といっていたとおり、魚の唐揚げも卵焼きもそばも、どれもプリミティブな味でおいしかった。ヤンティの家はニアスには珍しいイスラム教徒で、まだ二十代の主人は小学校の先生をしている。しかしそれだけでは「子供が三人いて、これからもまだふえる見込みの生活」が大変なのでバンガローの商売を始めたが、そんなにしょっちゅう客がいるわけではないので生活は苦しいという。ヤンティのおかみさんはさかんに「メニイ・チルドレン、メニイ・チルドレン」と笑顔でいう。「子供が多くて大変だ」といっているのか、「もっと子供が欲しい」といっているのか、私にはわからなかった。クリネックス・ティシューを使っていたら、不思議そうに見ている。一つあげたら「いい匂い」といって、自分の家の大事なものをしまってある、鍵のかかる戸棚に大切にしまった。
夜、マルが帰ったあと、われわれはランプの光でサムシュー・カムプートを飲んだ。あたりは波の音のほかは何も聞こえてこない。星と月が明るすぎるくらいだ。日本ではいまごろ正月を迎える準備で忙しいころだなと、少しホームシックになった。「来年ではなく、十年後くらいにまたここに来たいね」と照本君がいった。私もそれに同意した。ちなみに照本君はインドネシアが好きで、今度が十四回目というベテランである。その照本君が「ヤンティの一家ははじめて会ったけれども、大好きなインドネシア人だ」という。ヤンティのおかみさんは酒を飲んでいるわれわれを不思議そうに見ながら(ヤンティの家はイスラム教徒なので酒は飲まない)、われわれのために蚊取線香をつけてくれた。
翌朝、「ヤンティ・イン」を去るとき、われわれはヤンティの一家と記念撮影をすることにした。カメラをかまえたら、いちばん上の六歳の女の子が「ちょっと待って」と家のなかに戻っていった。どうしたのかと思って待っていたら、しばらくして彼女が恥かしそうに笑いながら戻ってきた。よく見たら彼女はさっきまでの白い服からよそいきの赤い服に着替えていた。「来年ではなく、十年後くらいにまたここに来たいね」と今度は私が照本君にいった。
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旅の贅沢
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おいしいものが食べたくて
豆腐好き
芥川賞作家・加藤幸子《かとうゆきこ》の短編を読んでいたら女の子が「おしょうゆをかけて食べるものはみんな好き」という箇所があった。うまいいい方だなと思った。私も「おしょうゆをかけて食べるもの」は生魚《なまざかな》を除いてはたいてい好きだ。食に関しては純日本人である。
「おしょうゆをかけて食べるものはみんな好き」これに似たいい方で「豆腐屋《とうふや》に並んでいるものはみんな好き」というのもある。ドイツ文学者・種村季弘《たねむらすえひろ》は食の好エッセー集『食物漫遊記』のなかで好物は豆腐であると書いたあと、こう続けている。「豆腐だけでなく、豆腐屋の店先に並んでいる一切、油揚げ、オカラ、納豆《なつとう》、ワカメ、白滝《しらたき》のような食べ物が私は大の好物なのだ」
私もまた豆腐屋に並んでいるものはみんな好きだ。とりわけ豆腐には目がない。私は朝型で朝早く起きる。そしてまずすることは近所の豆腐屋に豆腐を買いに行くことである。
豆腐好きは結構多い。ナチュラリストの足田輝一《あしだてるかず》も冬は湯豆腐をつまみに晩酌《ばんしやく》をするのが楽しみだとエッセーに書いていた。「湯豆腐や いのちのはての うすあかり」は有名な久保田万太郎《くぼたまんたろう》の句である。
この春、水の町・柳川《やながわ》を旅したときまた一人、豆腐好きの文人を知った。「あさくさの子供」で昭和十四年の芥川賞を受賞した長谷健《はせけん》である。この人のお墓は柳川にある。墓石がなんと豆腐の形をしている。生前、長谷健は豆腐が大好きで一日も欠かさず豆腐を食べていたからだという。豆腐好きとしては思わずその墓に手を合わせた。
粟島のタイ
私は魚のなかではタイが好きである。と書くとなんだかすごい贅沢《ぜいたく》人間のようだが、実はそんなことはない。私は生《なま》の魚というものが苦手で、子どものころからつい最近まで刺身というのをほとんど食べられなかった。寿司屋に行ってもかんぴょう巻ばかり食べていた。魚のなかではアジの開きがいちばんのごちそうだった。
ところが昨年、突然、タイに目覚めたのである。きっかけは六月に新潟県の粟島《あわしま》という小さな島を旅したことだった。
粟島は地図を見るとほんとに粟のように小さな島である。日本海に浮かんでいる。佐渡島の北に、小さな点のような形である。その「小ささ」にひかれて昨年の六月に一人旅をした。
そこは「タイの島」と呼ばれるくらいタイ漁のさかんなところだった。もちろん養殖ではなく、自然のタイである。泊った民宿の主人が漁師で、朝早く、船でタイ漁に連れていってくれた。漁といっても大仰なものではなく前の晩に仕掛けた網をたぐると、そこに大きなタイが掛かっているというウソみたいに簡単なものだった。
そのとれたてのタイをおかみさんが料理してくれた。そしてそのときはじめて、タイの刺身ってこんなにおいしいものだったのかと知った。以来、東京でもタイだけは食べられるようになった。ただ残念ながら粟島で食べたようなタイにはまだ東京では出会ってない。
赤城しぐれ
B級グルメという便利な言葉がある。高級な食べものを云々するのではなく、分相応にラーメンとか牛丼とか自分のポケット・マネーで食べられるB級の食べものについて自分の好みを持っている食いしんぼのことである。なるほどこれなら私にもなれそうだ。
私は酒好みで甘いものはほとんどダメなのだがひとつだけ好きなお菓子がある。赤城しぐれである。アイスクリームというより氷菓といったほうがいい。氷がじゃりじゃりして暑いときには口のなかがいっぺんにすっきりする。子供のころに食べた棒つきアイスキャンデーの味に似ている。値段が一個五〇円、一〇〇円と安く、どこのコンビニエンス・ストアにも売っている。酒を飲み過ぎた時に食べると胃がすっとする。
昨年は高級アイスクリームのブームだった。ハーゲンダッツやホブソンズの店の前には若い女性の列ができた。しかし一年たってみるとブームがウソのように消えてしまった。高級アイスクリーム店にはもう列はできなくなってしまった。いったいあの並んでいた女の子たちはどこに行ったのだろうか。
私は赤城しぐれに戻ったのではないかとひそかに思っている。確かに高級アイスクリームはおしゃれなイメージがするが日本人の口には重すぎる。こってりしすぎる。その点、赤城しぐれはさっぱりしている。駄菓子の懐かしさもある。おしゃれ好きの女の子も本当は案外B級グルメで、隠れて赤城しぐれを食べているのではないだろうか。それかあらぬかこの赤城しぐれ、たいして宣伝もしていないのに埼玉県のあるメーカーの、もう二十年以上にわたるロング・セラー商品だという。
小諸そば
日本橋|界隈《かいわい》のサラリーマンでこの店を知らない人はもぐり[#「もぐり」に傍点]だといっていいだろう。立喰いそばのチェーン店、小諸《こもろ》そばである。ここのそばは本当においしい。安い、早い、まずい[#「まずい」に傍点]の立喰いそばのイメージを完全にくつがえした。おいしい。そして安い。ザルそばが二百二十円である。ここでザルを食べたら平気でその倍はとるふつうのそば屋にはもう行けなくなる。ここはファーストフードの王様だと私は思っている。
そう思っているのが私だけでないことは昼休み、この店のどこかに入ればわかる。超満員である。立喰いの店には珍しく若いOLもたくさんいる。いつか女性雑誌のアンケート昼めしのうまい店≠フベストテンに堂々と入っていた。
私がこの店を知ったのは三年ほど前。銀座の老舗の旦那が「うまいものを食わしてやる」というので喜んでついていった。天ぷらでもごちそうしてくれるのかと思ったら立喰いそばだったのではじめはがっかりしたが食べてみて納得した。
ここはサービスで小梅が山盛りに置いてあるのもうれしい。本来は天丼の客のためのものらしいが私はザルそばで小梅二個をいつもおいしくいただいている。
それにしても昨今の地価高騰で都心の飲食店は経営が大変らしい。高級店とファーストフードに両極分解していくのだろう。私はもっぱら後者のほうを愛用[#「愛用」に傍点]していく他ない。
駅弁
旅の楽しみのひとつは駅弁である。駅弁が食べたいためだけに新宿駅から中央本線に乗ることがある。ホームで駅弁を買い列車に乗り込み、まず食前酒≠ェわりに缶ビールを飲み、ピーナツをかじり、そしておもむろに弁当を開き食べる。約三十分、駅弁を食べ終えるころに列車は八王子に着く。そこからまた新宿に戻ってくる。誰にでも簡単に出来る駅弁の旅≠ナある。小森和子さんも何かのエッセーで書いていたが新宿駅の駅弁はなかなかの味である。
駅弁はなぜか出来たてのものより冷たくなったものがおいしい。冷たい御飯はふつうはまずいものだが駅弁になると暖かい御飯よりずっとおいしい。食通の作家・下母沢寛《しもざわかん》は、御飯は冷たいに限るといい、三十年来、飯は冷飯《ひやめし》と決めていたそうだが、駅弁の冷たい御飯を食べるとこの「冷飯美味」説が納得できるような気がする。
駅弁では、実に恥かしい体験をした。春に熊本を旅した時である。旅を終え熊本空港に行こうと熊本駅から豊肥《ほうひ》線に乗った。列車が走り出すなりいつものように一人うれしくホームで買った駅弁を開いた。ところが三つ目の東海学園前というところで高校生がどやどやと乗ってきて狭い車内はあっという間に超満員になった。中央線や山手線のラッシュアワーで駅弁を食べているようなものである。一度開いたものをしまうわけにもいかず食べ続けたが、みんなじろじろ見ているので本当に恥かしかった。
その、ビール一本
夕暮れどき家に帰る前に一人でビールを一本だけ飲みたいと思う時がある。都心で用事をすませたあとほっとひと息ついたところで軽く酔いたい。そんな時の店選びが結構難しい。日本の飲み屋は団体客優先のところが多く一人の客は肩身の狭い思いをすることになる。これからは日本の社会も孤独なシングル・ソサエティの度合が強くなるのだから飲み屋も一人客優先の、カウンター主体のものが増えるといいのだが。
夕暮れ時のビール一本……私はそんな時はよくラーメン屋に入る。ラーメン屋は昼間や夜間は混んでいるものだが夕方は案外空いている。そしてギョーザをつまみにもらってビールを一本注文する。ラーメン屋は一人の客が多いから目立たないですむ。カウンターに坐って三十分くらいなら店の人も変な顔はしない。そしてビールで喉をうるおしながらいま見てきたばかりの映画のパンフレットを見たり買ってきたばかりの本をぱらぱら眺めたりする。一日のうちでいちばん楽しい時間のような気がする。ビールの最初の一杯はあらゆる酒のなかでいちばんおいしい。
ラーメン屋の次に好きなのは定食屋。おじいさんとおばあさんがやっている昔ながらの店である。こちらではきんぴらごぼうやひじきの煮付けをつまみ[#「つまみ」に傍点]にもらう。こういう店もいい意味でお客を放っておいてくれるのが有難い。客に対する無関心は都市住民、とりわけ夕暮れのビール一本の客には最高のサービスである。
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温泉という名の桃源境
日本秘湯一人旅
つげ義春の温泉マンガが好きだった。つげ義春自身をモデルにしたマンガ家がのんびりと田舎を一人旅し、ひなびた温泉宿に泊まり、露天風呂につかる。
福島県の二岐温泉を舞台にした『二岐渓谷』、伊豆西海岸の松崎を舞台にした『長八の宿』の二つがとくに好きだった。何度も何度も読み返した。自分もいつかこんなのんびりとした一人旅をしたいなと思った。
それでも二十代や三十代のころはまだ精神的・金銭的ゆとりもなかったし、新しいものばかり追いかけることに忙しかったので実際に温泉に一人で出かけていくということはなかった。自分の家の狭い風呂につかりながらつげ義春の温泉マンガを読むくらいで終わっていた。
それが三十代も後半になってから急に一人で温泉に行きたくなった。やはり自然と疲れた身体が休息を求めるようになったのだろう。
最初は近いところと伊豆の大滝温泉に出かけた。滝の下に露天風呂が五つも六つもあるので知られる伊豆の名湯である。そのころはまだいまのような温泉ブームはなく、静かでひっそりとした実にいい温泉だった。何度も何度も河原の露天風呂につかっていると本当に身も心もゆったりとしてきた。日頃の疲れがゆっくりととれていくのがわかった。湯からあがって飲むビールの最初の一杯のおいしさは格別だった。
べつに特別なことをする訳ではない。ただひとりじっと湯につかり河の音に耳をすまし空を眺め、そして湯あがりにビールを飲む。これだけである。その無為こそがこのあわただしい時代には最高の贅沢になるのである。
大滝温泉には「日本秘湯を守る会」というひなびた温泉が好きな人たちの集まりが編集した『日本の秘湯』という小冊子が置いてあった。普通の本屋では売られていない、いわば≪温泉マニア≫の隠れた貴重本だった。日本全国の秘湯が約七十ヵ所紹介されている。
宿でビールを飲みながら死ぬまでにこの七十ヵ所を全部旅して歩けたらいいなあと思った。
大滝温泉ですっかり温泉の魅力にとりつかれてしまい、それから暇を見ては日本各地の温泉を旅するようになった。私は団体旅行が苦手で草野球とかマージャンとかカラオケとかみんなといっしょにやらないといけない遊びはほとんどしない。旅もほとんどいつも一人である。一人旅のほうが余計な気をつかわないですむし、行動も自由なので能率もいい。ひとりで露天風呂に入り心のなかをからっぽにすると本当に気持ちがいい。
大滝温泉のあといろいろな温泉に行った。熱海や別府のような大歓楽街は避けてなるべく山の中の隠れ里のような小さな温泉を選んだ。
これまで歩いた主な温泉を試みに北からあげてみると――
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岩尾別温泉、羅臼温泉、石田温泉、銀婚湯温泉(北海道)、不老不死温泉、恐山温泉、湯野川温泉(青森県)、瀬波温泉(新潟県)、二岐温泉(福島県)、松崎温泉(静岡県)、下部温泉(山梨県)、四万《しま》温泉(群馬県)、吉良温泉(愛知県)、湯の峯温泉、湯川温泉(和歌山県)、温泉津《ゆのつ》温泉(島根県)、道後温泉(愛媛県)、地獄温泉、垂玉温泉(熊本県)、壁湯温泉、岳の湯(大分県)
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といったところが行ってよかったなあと思った温泉である。
このうち銀婚湯温泉、二岐温泉、湯の峯温泉、垂玉温泉は、日本秘湯を守る会が『日本の秘湯』のなかで紹介しているので湯の質、温泉宿の雰囲気とも最高のものだった。
長野県は温泉の宝庫なのにあまり行っていないのは私は海を見るのが好きなので、海のない長野県はどうしても敬遠してしまうからである。また日本列島は温泉がいたるところにあると思われているが四国には『坊っちゃん』で知られる道後温泉の他はほとんど温泉がない。あってもたいていは鉱泉、つまりわかし湯でいまひとつ迫力に欠ける。だから四国もどうしても足が遠のいてしまう。
浅草経由温泉行き
私が最近好んで行く温泉は――本当は温泉のいい情報は人に教えたくないのだが「月光」はリトル・マガジンだから教えてしまおう――福島県の会津線の沿線である。
ここは東京から意外と近くでそれでいて観光開発されていない、離れ里のようなところで、ひなびたいい温泉がたくさんある。『日本の秘湯』に紹介されている芦ノ牧温泉、二岐温泉、湯ノ花温泉はみんなこの会津線の沿線にある。他にも滝ノ原温泉、小豆温泉という一軒宿の温泉があるし、ソバがおいしいので知られる檜枝岐温泉がある。秘湯の宝庫といっていい。
実はこの会津線の沿線はこれまでとても不便だった。東京からいく場合、会津若松まで行ってそこから会津線に乗る。着くまでたっぷり一日かかってしまう。実に不便なところで≪陸の孤島≫という感じがした。
ところが一九八七年の七月にうれしいことに浅草からの東武電車と会津線がつながり、途中の乗り換えはあるもののともかく浅草から三時間か四時間でめざす温泉まで行けるようになったのである。
以来このところ私はもっぱら会津線の秘湯めぐりを楽しんでいる。だいたい浅草を起終点にするのもうれしい。東京駅や上野駅から旅に出るのはいまやもう味気ない限りだが浅草からの旅というのはひなびた、ローカルの味があって実にいいものだ。「秘湯」と「下町」という両方を楽しむことができる。
温泉でゆったりした気分になって浅草に帰ってくる。そこで仲見世《なかみせ》などをひやかしながら神谷《かみや》バーあたりで串カツをつまみなどにしてビールを飲む。温泉旅行のフィニッシュが決まったという感じでどこか明治・大正の文士にでもなったような気になる。
「浅草経由温泉行き」ただ唯一、このコースの難点は途中に鬼怒川《きぬがわ》温泉という大歓楽郷があるため団体旅行の一団とよくぶつかること。一人旅の人間が電車の中で団体旅行の一団に出会うことほど悲惨なことはないので、彼らを避けるため、なるべく平日に旅するようにしている。そこはフリー稼業の特権である。
会津線の沿線のなかでは二岐温泉の大丸あすなろ荘が最高だった。つげ義春の『二岐渓谷』の舞台になったところである。以前は東北本線の白河から二時間もバスに乗って行く不便なところだったが、いまでは浅草から東武線で鬼怒川まで行きそこから会津線に乗り換え、湯野上駅で降りる。そこからだとタクシーで三十分。
便利になったとはいえ湯野上駅からの足はタクシーしかないから不便は不便である。しかし秘湯にとっては不便ということは、それだけ俗化されない、観光地化されないということでむしろいいことなのだ。
大丸あすなろ荘は山の中にある。小さなせせらぎのほとりにある。その川原に露天風呂が二つある。ひとつは四十度ほどでやや熱い。もうひとつは三十八度ほどで少しぬるい。この二つの露天風呂を交互に楽しむ。
私は一泊の旅で五回くらいは風呂に入る。宿に着いてまず入り、夕食の前に入り、夕食後にまた入り、寝る前にまた入り、そして夜中にまた入り、最後に明け方入る。夜中に一人起きだして誰もいない露天風呂を一人独占して星空を眺めていると本当に贅沢な気持ちになる。昔、田舎ではよその家の風呂に入れてもらうことを「お湯をごちそうになる」といったというが、河の流れる音を聞きながら一人お湯に入っていると「お湯をごちそうになる」という気持ちがよくわかってくる。
海岸に露天風呂のある北海道のセセキ温泉や青森県の不老不死温泉。洞窟のなかに温泉のある大分県の壁湯温泉。熱いお湯だとばかり思って入ったら水みたいに冷たかったのでびっくりした、冷泉で知られる山梨県の下部温泉。川原を勝手に掘ると自然に温泉が出てきて露天風呂になってしまう和歌山県の川湯温泉。林の中に露天風呂がひとつあって誰でもただで入れる羅臼《らうす》の名もない温泉。お湯が滝となって流れ落ちその滝壺が自然の露天風呂になっている知床半島のカムイワッカ温泉。
小さな桃源境
そうしたユニークな温泉もよかったがいまもう一度行きたいと思うのは大分県の標高約千五百メートルの涌蓋《わいた》山の山ふところにある桃源境のような小さな小さな温泉、|※[#「山+亥」、unicode5cd0]《はげ》の湯《ゆ》である。ここは本当に現代の日本によくこんな山里が残っていると感動してしまう静かな湯の里である。いまはもう廃止になってしまったローカル線肥後小国からバスで一時間以上走ったところにある。
バスがあえぎあえぎしながら山道をのぼっていく。杉林の枝がざわざわっとバスのガラス窓にぶつかる。人も車も疲れきったころようやく終点の※[#「山+亥」、unicode5cd0]の湯に着く。戸数わずか三十戸の小さな村である。竹の林、狭い水田と段々畑、わらぶき屋根。そこに雨が降るとまるで水墨画のような淡い世界が浮き上がってくる。そして何よりもいいのはこの村全体が温泉の白い湯気に包まれていることだ。庭先から、道端から、いたるところで焚火の煙のように白い湯気が立ちのぼっている。暖かくやさしい湯気が小さな村を包んでいる。それはもう遠い昔に失われた風景のようで見ているだけでそこに溶け込んでしまいたくなる。「桃源境」というのはこういう忘れられた静かな村をさすのではないかと思った。村に一軒だけある旅館に入り、風呂に入った。身体中に暖かい湯がゆっくりとしみこんでいき、汚れた身体がいっぺんにきれいになっていくような気がした。
一人旅ばかりしているのでどうしても人里離れた秘湯に行くことが多くなる。それで時々は人恋しくなって日本旅館が並び、河が流れ、柳が風にそよいでいるようなこぢんまりした湯の町にも行きたくなる。
たとえば志賀直哉の小説でその名を知られる兵庫県の城崎《きのさき》温泉や、吉永小百合の「夢千代日記」ですっかり有名になったやはり兵庫県の湯村温泉は≪湯の町エレジー≫的な情緒のあるしっとりとした温泉町である。射的屋があったり、ちょっといかがわしい店があったり、みやげもの屋があったりする。ちょっとトウのたった芸者が歩いていく。泊まり客が浴衣がけでぶらりぶらりと散歩を楽しむ。
こういう風景もなかなかいいものだ。城崎温泉はとりわけ浴衣がけの客が町を歩く姿で知られる。というのはここは宿の内湯より、全部で七つある町の共同風呂のほうがずっと趣きがあり、泊まり客は浴衣がけでこの共同風呂を《ハシゴ》して歩くからである。そのために城崎温泉は熱海や別府よりずっと規模は小さいのに、いつも町に人がいて花やいだ活気がある。
温泉のハシゴといえば青森県の霊場、恐山にも温泉小屋が四つもあって、そこをハシゴできるようになっている。ここは一九八六年の夏に初めていったのだが、はじめ案内書など見ると「恐山温泉」と書いてあるので旅館があるのかと思っていた。ところが行ってみると、あの賽《さい》の河原のような殺風景なところ(いちおう恐山菩提寺の境内である)に粗末な小屋掛けの湯があるだけなのだ。四つの湯はそれぞれ「古滝の湯」「冷の湯」「薬師の湯」「花染めの湯」と名前がついている。タダで好きなだけ入れる。温泉好きの私としては神様や死者との対話という当初のまじめな目的をしばし忘れて、四つの湯を楽しくハシゴした。
温泉趣味の深い奥
それにしても温泉の魅力とは何なのだろう。いろいろ理屈はつけられるのだが、結局はのんびりとできて日頃のストレスの解消になるという平凡なことに落ち着く。最近の妙な温泉ブームで温泉旅行は観光になってしまったが温泉は本来は「湯治」だった。一年の野良仕事で身体を痛めた農家の人々が、冬の農閑期に近くの湯治場に身体を休めにいく。それが本来の温泉行だった。
いまでもだから頑固に「湯治客」だけを相手にしている昔ながらの旅館があちこちに残っている。たとえば島根県の温泉津《ゆのつ》温泉の名湯・長命館などその代表だろう。長命館とはその名もうれしいが、ここの客は大半が中国・四国地方の農民である。「観光客」ではなく、「湯治客」である。私は冬にこの旅館に泊まったが私以外の客はほとんど老人で、湯舟に老人たちのしわしわな身体にまじって入るのはさすがに気味が悪かった。中年とはいえ私など老人から見ればまだ若僧。「いい年をした若いものがこんなところに来るのではない」と叱られているようでなんとも緊張してしまった。この時ばかりは「温泉好き」などといっている自分がひどく軽薄な「観光客」に思えて仕方なかった。≪温泉の世界≫には私などにはまだまだわからない深い、深い奥があると思った。
温泉津温泉といえば以前、『男はつらいよ』に出てきたことがある。寅さんがこの町を気に入ってしまい温泉の番頭になる。寅さんは以前にも、三重県の湯の山温泉の新珠三千代が経営する温泉旅館の番頭をやっていたからきっと温泉が好きなのだろう。
将来、七十歳を過ぎたら小さな湯の町の温泉旅館の番頭とか下足番になるのも悪くないなと考えたりする。毎日温泉に入り、時々小粋な姐さんにお酒のごちそうになったりする。なんだかすごく長生きができそうだ。ちょうどつげ義春の『長八の宿』に出てくるじっさまのような老人。あんなふうにして余生を過ごせたら人間としては生まれた甲斐があったというものではないだろうか。
ああいう老人を見ていると東京で暮らして愚忙な毎日をおくっている自分が時々空しくなる。
年末になると忙しさも普通ではなくなって温泉に行く余裕もなくなってしまう。仕方がないので私は近くの銭湯に行くことにしている。一日家で仕事をして夕方一人でぶらりとタオルをさげて≪浜の湯≫という銭湯に出かけていく。そしてたっぷり「お湯をごちそうになる」。いまの楽しみは温泉ならぬ銭湯だけである。
今日もこの原稿を書き終えたら≪浜の湯≫に行く。熱いお湯に身をひたした時の心地よさのことを考えるといまから心が踊る。
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道南の秘湯めぐり
寅さんも旅した奥尻島
函館《はこだて》から小型のプロペラ機で約四十分、海のなかに奥尻《おくしり》島が見えてきた。あいにくの雨で煙っていて島の姿をくっきりと見ることはできないが、ごつごつとした岩の多い海岸線が霧のなかからゆっくりと姿をあらわしてくる。人家はほとんど見えない。
飛行場は草原と呼んだほうがいいような小さなものだった。滑走路の脇では馬がのんびりと草をはんでいる。飛行場の建物が草原のなかにぽつんと建っている。ローカル線の駅の待合室という感じがする。
夏のシーズンは観光客も多いというが六月のこの時期は訪れる人も少なくがらんとしている。飛行機から降りたのは十人ほど。観光客は私くらいだった。空気は冷たく清潔だった。潮の匂いがした。
奥尻島は北海道の五つの離島のひとつである。いちばん南にある。利尻《りしり》島に次いで二番目に大きい。人口は五千人足らず。過疎化で人口は年々少しずつ減っている。
奥尻島には神威脇《かむいわき》温泉、幌内《ほろない》温泉と二つ温泉がある。北海道の島で温泉があるのはここだけである。前から行きたいと思っていた。
奥尻島はまた山田洋次監督、渥美清主演の『男はつらいよ』のシリーズ第二十六作(一九八〇年)の舞台になったところである。寅さんが江差《えさし》で、奥尻島のテキヤ仲間が死んだことを知り、墓参りをしに島に渡る。死んだ仲間の一人娘が島のイカ工場で働いている。寅さんは例によって年甲斐もなく彼女が好きになる。ヒロインを演じたのは伊藤蘭。
私は『男はつらいよ』の隠れファン≠ナ寅さんが旅した土地を歩いてみるのをひそかな楽しみにしている(たとえば湯ノ山温泉、温泉津《ゆのつ》温泉、日田《ひた》、大洲《おおず》、杖立《つえたて》温泉)。その点でも奥尻島には一度行ってみたいと思っていた。
港の見える神威脇温泉
飛行場からタクシーに乗って島の西側にある神威脇温泉に向かった。牛や馬がときどき見えるくらいで人間の姿はまったくない。車にもほとんど出会わない。雨が強く降っているので島全体がひっそりと寂《さび》し気に見える。
車は西海岸を走る。道は海岸に沿って折れ曲っている。海岸には奇岩が並んでいる。人家はまったく見えない。三十分ほど走ってようやく人家が二十軒ほど道路沿いに並んでいる小さな集落が見えてきた。神威脇温泉だった。
温泉といっても旅館があるわけではない。漁船が二隻ぽつんと浮かんでいる小さな漁港に面して二階建ての町営の温泉保養所があるだけ。いかにも北の島の温泉という寂しさでそこが私などにはしっくり[#「しっくり」に傍点]とくる。
二階に窓から港が見える大きな浴場がひとつ、一階に小さな浴場がふたつ。入湯料四百十円。二階の大きなほうに入る。湯は透明でさらっとしている。窓から船の姿がほとんど見えないがらんとした港が見える。強い雨のなかカモメが一羽だけ飛んでいる。湯のなかには私の他は老人が二人。
階下に大きな畳敷の広間がありそこが入浴客の休憩室になっている。ただし宿泊はできない。そこに老人たちが十人ほど思い思いに座ぶとんを枕に横になっている。テレビを見たり、雑誌を読んだり、持ってきた弁当を食べたり。私もそれに習って横になり持ってきた岡本綺堂の時代小説を読む。読むのに疲れると窓から暗い港を眺め、気が向くとまた湯につかりに行く。この無為な時間が最高の贅沢である。
ここは残念ながら食堂がない。弁当持参の人が多いからだろうか。向かいに食堂があった。がらんとしている。客は私しかいない。ビールとイカの刺身とひじき[#「ひじき」に傍点]の煮物をもらった。雨音が窓を叩く音と湯の音とときおりのカモメの鳴き声のほか何も聞こえない。イカが歯ごたえがありおいしかった。
海の音聞く幌内温泉
雨が少し小降りになった。幌内温泉までは車で十分ほどだという。とすれば歩けば三十分くらい。歩くことにした。傘を持っていなかったので食堂の並びの雑貨屋に入ったが傘はない。ビニールのレインコートを買った。
それをかぶって海沿いに幌内温泉に向かった。途中、人家はまったくない。一軒もない。立派な道がずっと続いているのだが車は一台も通らない。海と岩。道の右側は山。どこまで歩いてもそのがらんとした風景が続く。いかにも島にきたという感じだ。以前、日本海に浮かぶ飛島《とびしま》(山形県)や粟島《あわしま》(新潟県)を旅したことを思い出す。島の旅のよさは人の姿の見えない風景がどこまでも続いていることだ。
五十分ほど歩いてようやく人家が見えてきた。そこが幌内の集落で、漁師の家が七、八軒とそして自動車道路に沿って平屋の旅館があった。目的の幌内温泉の国民宿舎だった。
「まあ、お客さん、歩いてきたの!」と気のいい宿の若い女性が濡れねずみ[#「濡れねずみ」に傍点]の私をすぐに風呂に案内してくれた。ここもまた海に面した大きな風呂だった。神威脇の湯に比べると赤茶く濁《にご》っている。口に含むと少し塩の味がする。雨のなかを一時間近く歩いてきたので湯の暖かさが身に沁《し》みた。
夕食は食堂でとる。札幌から釣りに来たというサラリーマンの小グループがいるくらいでがらんとしている。イカの刺身、ホッケ、アワビ、ツブ貝、……そして東京から来た私におかみさんが特別にどんぶり一杯のとれたてのウニをご馳走してくれた。柔らかくまろやかで磯の味がした。それを肴《さかな》にビールを二本あけた。
そしてまた湯に入り、ビールを飲み、藤沢周平の短篇小説を読み、また湯に入り、窓の外の海の音を聞きながらゆっくり眠った。
翌朝、雨は上がっていた。朝湯に入り、ひげを剃り、さっぱりしたところでビールを飲んでいたらなんとおかみさんがまたしてもどんぶり一杯のウニを出してくれた。それをあつあつのご飯にかけて食べた。食堂の壁におかみさんの作だろうか「時化《しけ》の海 客の献立て 替えんとす」という句の短冊が張ってあった。そこで私もヘボ句を――「一人旅 ウニのうまさに 笑顔かな」。
清流に沿う見市温泉
宿の人に神威脇温泉まで車で送ってもらった。昨日、一時間近く歩いたところが車では十分足らずだった。宿の人の話では近々この神威脇温泉には十何億円をかけた観光温泉ホテルが出来るのだという。なるほどその建設予定地はすでに木が切り倒されていた。
神威脇温泉からバスで東海岸の奥尻港に出た。この港周辺が島の中心地である。町役場や病院がある。商店街がある。旅館や民宿がある。海岸には鍋釣岩という輪の形をした奇岩がある。通学の小学生の一群に会う。オリックス・ブレーブスの野球帽が多い。あとでオリックスのエース、佐藤がこの島の出身だからだと知った。
フェリーで約二時間。昼に江差に着いた。坂の多い古い港町だ。港の近くの小料理屋でイカの刺身と松前漬をもらいビールを飲んだ。絵葉書を売っていたので東京の知人に手紙を書いた。
江差から海沿いを北上し、熊石《くまいし》から山に入り渡島《おしま》半島を横切り東側の八雲まで行く長距離バスに乗った。熊石から少し山に入ったところにある見市《けんいち》温泉が今夜の宿である。バスが走り出したころからまた雨が強くなった。海が荒れている。波が岩にぶつかって白く砕けている。船が五、六隻もあれば一杯になりそうな漁港がいくつも続いている。港というより船だまり[#「船だまり」に傍点]と呼んだほうがいいような小さなところだ。
江差から約一時間で見市温泉に着いた。山のなかの一軒宿である。見市川という清流沿いに二階建ての宿が建っている。江戸時代の終りに発見されたという古い温泉である。温泉宿というより湯治場の雰囲気で老人の客が多い。
ここには四年ほど前に来たことがある。やはり道南の温泉めぐりでそのときは名湯として名高い銀婚湯《ぎんこんゆ》温泉で一泊したあとタクシーで桜野《さくらの》温泉、八雲《やくも》温泉、見市温泉、五厘沢《ごりんさわ》温泉とあわただしく温泉のはしご≠した。温泉に入るだけで宿泊の余裕はなかった。
そのときは冬で宿は寒々としていたが今度は新緑に包まれていた。雨のなかで緑が一段ときれいだった。毎年、梅雨どきに旅に出たくなるのは日本の風景は雨に濡れるとより趣きが増すからである。
ちょうどツツジが満開でそのそばには八重ザクラもまだ花をつけている。緑と花がいっぺんに開く北海道らしい初夏である。ここの湯は鉄分が濃く赤茶けている。手ぬぐいを入れるとすぐ赤茶色になる。湯の底のほうには錆《さび》がたまっている。いかにも湯治にふさわしい濃厚な湯だ。老人が三、四人、じっと湯のなかに身体を沈めている。清流の音と雨音以外何も聞こえない。
奥尻の港のみやげもの屋で買ったイカの塩辛を肴に部屋で一人ビールを飲む。五月に亡くなられた池波正太郎さんの珍しい現代小説『原っぱ』を再読する。昨年、池波さんから最後にいただいた手紙にはこの『原っぱ』の続篇を書きたいとあった。「年をとると人殺しの小説ばかり書いているのはつらいものです」という言葉もあった。
夕暮れどきに宿がにわかににぎやかになった。団体客でも着いたのかと思ったらそうではなかった。近所の人たちが車で湯に入りに来るのである。ここは銭湯の役割も果しているのである。彼らと一緒にまた湯に入った。小学生の男の子が一生懸命おじいさんの背中を流していた。
どこまでも続く緑の中を
翌朝、宿の主人が車で熊石まで送ってくれた。北海道はともかく車を利用しないことには動きがとれない。そのためか北海道では歩いているとよく車がとまって乗せてくれる。昔からそんなふうにしてこの開拓地≠ナみんな助け合って生きてきたのだろう。
熊石からさらに海沿いにバスで北上し宮野という小さな町で降りる。そこで長万部《おしやまんべ》行きのバスに乗り換えるつもりだったのだがなんとそのバスがない。それではとタクシーに乗ろうとしたが小さな町でタクシーがない。車で三十分ほどの北檜山《きたひやま》の町に行けばバスもタクシーもあるということだがそこまで歩いたら二時間はたっぷりかかる。仕方なく北檜山に電話してタクシーを呼んだ。それで長万部に出てそこから今夜の宿である美利河《ぴりか》温泉に行く。料金は軽く一万円は越えるだろうが他に手はない。
道路沿いのガソリン・スタンドでタクシーを待った。町といっても雑貨屋が二、三軒あるだけでがらんとしている。人の姿も車の姿も見えない。静まりかえっている。
と、突然、サイレンを鳴らして救急車が通り過ぎた。そのあとパトカーが走ってきた。何事かと思っているとそのパトカーが私の目の前でとまった。刑事が二人、私のところに走ってきた。これには仰天した。きびしく職務質問された。ジーンズにスニーカーという格好だから浮浪者と間違えられたか。あとでタクシーの運転手にその朝、宮野の農家で殺人事件が起きたと教えられた。「交通事故も起こらないような小さな町で殺人事件が起きたんで警察もびっくりしたんだろう」と運転手はいった。翌日、北海道新聞を買ったら四十九歳になる無職の男が叔母さんを刺殺したとあった。
タクシーで北檜山町、今金《いまかね》町の田園地帯を走る。清流とどこまでも続く緑の畑と水田。このあたりは米とジャガイモの生産地である。ところどころに牛の姿も見える。道路の両側は見渡す限りの緑。農家の庭はどこもツツジとフジが満開になっている。ゆとり[#「ゆとり」に傍点]のある田園風景で心がなごむ。一年ぶんの緑をたっぷり楽しんだという気がした。
SF的!? 二股ラジウム温泉
約一時間で長万部の町に着いた。駅前の小さな食堂でカニみそを肴にビールを飲み、長万部名物のカニめしを食べた。ここから山のなかに入った美利河温泉は車で三十分ほど。まだ日は高いからこのまますぐに美利河に行くのはもったいない。ガイドブックを見ると、この近くに二股《ふたまた》ラジウム温泉がある。ドームの建物と火星か月の表面を思わせる巨大な石灰華で知られるかの有名な秘湯である。どの温泉案内にも載っている。手元にある昭和五年講談社発行の『日本温泉案内』にも「二股ラヂオ温泉――長万部川の上流二里、鬱葱《うつそう》たる原始林に囲まれた渓間《けいかん》の別天地」
「比処《ここ》は我邦《わがくに》でも最も特色のある温泉場で、浴舎は放射性石灰華の段丘上にあり、この石灰華層の亀裂から三十八度乃至四十九度の温泉が湧出する」とある。温泉好きなら一度は見ておきたいところだ。
長万部の駅前からタクシーに乗った。約二十分。山の林のなかに突然、奇怪なSF的建物が現われた。聞きしにまさる日本離れ[#「日本離れ」に傍点]した温泉場だった。おそらくはサイロを模したのであろうドーム状の建物(そのドームのなかに湯がある)と湯が外気に触れて沈殿結晶して巨大な岩のような塊《かたまり》になった石灰華。これまで写真では何度も見てきたが目のあたりにするとその奇怪な風景に圧倒される。
ここも観光温泉というより湯治場で老人が多い。湯は混浴。外に露天風呂もあり巨大な石灰華と森林を見ながら湯につかっていると別世界にいるような気になる。なるほど温泉好きの多くが「二股ラジウム温泉!」と絶讃するのがわかった。
北斗七星を美利河より望む
ここで野趣を満喫し、再びタクシーで長万部に戻り、そこから美利河温泉に向かった。タクシーばかりで贅沢な気がするが広い北海道を旅するには仕方ない(ちなみに今回は三泊の宿代よりもタクシー代のほうが高くついてしまった)。
長万部から山に入る。しばらく走ると巨大なダムの工事現場に出る。美利河ダムである。十年がかりの工事で近く完成の予定。堤防の長さは日本一とか。合わせてスキー場も作られている。いずれ観光地になるのだろう。
美利河温泉はこのダムから車でさらに十分ほど入ったブナの原生林のなかにある。車は途中までしか行かない。あとは約一キロ、ブナの林のなかを歩く。このアプローチの仕方はいい。車をあえて近づけないようにしてあるのである。
林のなかに急にぽっかり空地が見えてくる。そこに真新しい丸太の大きな建物が建っている。今金町が町営で作った建物(ログハウス)である。山の中の温泉場というより、山小屋、あるいはペンションの趣き。冬は雪が深いので閉じる。五月から十月までの営業。札幌出身という若夫婦がやっている。小さな女の子が一人いる。食事もいっしょで家族的な雰囲気だ。
ここはなんといっても露天風呂が素晴らしかった。大きなまるで鯉でも泳いでいそうな池のような風呂。石が敷きつめてある。湯は透明でさらっとしている。温度は低い。四十度ないのではないか。だから長湯が出来る。
夕食の前に入り、夕食のあとに入り、夜中にまた一人で入った。清流の音とカエルと鳥の音のなかをゆっくりと湯にひたる。身心ともにゆったりとして見上げるとちょうど真上に北斗七星があった。
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あとがき
老人に対する憧れというものがある。老人でなく老境といってもいい。あわただしく生きている日常から身を離したときふと開かれてくる淡い、日常とも非日常ともつかない穏やかな世界。その幽玄のなかに身をひたしていたいと思う。
つねに新しさ、若さ(「ポスト」「ニュー」)が求められ、誰もが息せききって走っている現代の速度社会のなかでは、老人性は逆にひとつのひそやかな贅沢に思えてならない。
私はふだんの評論の仕事が「走っている」ものばかりなので、私生活にかえったときには逆に「歩いている」老人性に対する憧れが強くなる。自分のなかに潜んでいる老人性を大事にしたいと思う。
とはいえまだ[#「まだ」に傍点]四十歳の身では奥の深い老人性は獲得できない。せいぜい老人性を装うことしかできない。
「佯狂」という言葉がある。狂人のふり[#「ふり」に傍点]をすることだが、それに習えば本書で私が試みたことは「佯老」、つまり老いのふり[#「ふり」に傍点]をすることといえるかもしれない。その際の師は、私の場合、つげ義春である。
いや理屈はこれくらいにしておこう。要するに一人歩きが好きなのである。締切りに追われていた原稿をどうにか書き上げたあと急にぽっかりと生まれた時間に、ひとり旅に出かけてしまうのが好きなのだ。姿をくらませてしまう先は下町か、温泉か、港町か。
フリー稼業の風来坊にとって有難いのは、みんなが働いている平日にゆっくりと旅ができることだ。汽車は申し訳ないほどすいているし、旅館も予約なしに泊めてくれる。山里の温泉宿の露天風呂を一人でのんびりと楽しむことができる。
私の場合、旅といっても冒険や探険とはほとんど縁がない。瞑想の旅でもない。ただ気分のおもむくまま田圃道を歩き、湯につかり、宿の裏を流れる川の音を聞きながらビールを飲む。それだけの旅である。なまけものの旅である。旅のあいだ大きな事件も起こらないしドラマもない。残念ながら行きずりの恋にも縁がない。それでも初夏の旅のときなど朝早く起きて川原の露天風呂に一人つかっているだけで心が穏やかになってくる。
下町、温泉、港町に共通しているところはそれぞれすがれた[#「すがれた」に傍点]、老人の匂いがすることだろうか。どこの町にも時代や状況から一歩降りた一種世捨て人的な落着きがある。そういう町では路地を歩いているとしばしば「ここは前に来たことがある」という既視感にとらわれる。旅はその瞬間、「行く旅」ではなく「帰る旅」になる。日常的な風景が幻想的に見えてくる。
『ミツバチのささやき』でわれわれに深い感動を与えてくれたスペインのビクトル・エリセ監督が一月に来日したとき、私は幸運にもインタビューする機会を得たが、エリセ監督が愛読書として芭蕉の『奥の細道』をあげたのには驚き、かつ感激した。流れ旅と幻想とはどこかで近接しているのかもしれない。
本書はさまざまな旅好きの編集者の協力によって生まれた。とりわけ元「喫茶店経営」誌の田中恭子さんには深く感謝したい。『ちょっとそこまで』といういかにもマイナーな私にふさわしいタイトルは彼女が考えてくれた。また素敵な装幀をして下さった安西水丸さん、ECMのジャズが好きという共通項でも結ばれている彌生書房の川島達之さん、どうもありがとうございました。
一九八五年六月十日
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いまいちばん好きなアンドレアス・フォーレンヴァイダーのエレクトリック・ハープを聞きながら
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[#地付き]川本三郎
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文庫版 あとがき
先だって中学生のころに見た「裸の大将」を三十年ぶりに見る機会があった。小林桂樹が放浪の画家山下清に扮した映画である。山下清はリュックサックを背負って日本国中を一人旅する。リュックサックのなかには寝巻がわりの柔道着と大きな茶碗とお箸、それに茶碗を洗う磨き砂が入っている。これだけの用意で彼は気の向くまま風に吹かれて旅をする。おなかが空《す》くと農家でおむすび[#「おむすび」に傍点]をもらう。いよいよ困ると食堂とか弁当屋とか食べものに関係のある店で雇ってもらう。下働きをする。しかし長くは居られずにまたある日突然リュックサックを背負って旅に出る。のちに天才画家として騒がれるようになってからもマスコミに追いまわされるのを嫌い、現実に背を向けるようにして旅に逃げ出してしまう。
そんな彼の姿を見ながらなんだか羨《うらや》ましくて仕方なかった。最後、騒々しい現実から逃れてまたリュックサックを背負い、人の姿のまったく見えない海辺をこちら[#「こちら」に傍点]に背を向けてひとり走り去っていく姿には涙が出るほど感動してしまった。
あの放浪の姿に西行や芭蕉を、あるいはハックルベリイ・フィンや寅さんを重ね合わせることも出来るだろう。私たちは毎日の日常のなかで仕事や人間関係に囲まれて生きている。だからこそ山下清のような天性の風来坊に憧《あこが》れてしまう。自分にはとてもそんなことが出来ないからこそ、放浪の旅を夢みてしまう。
旅や町歩きが好きで暇があるとひとりであちこちを歩いているが結局私には放浪は出来ない。旅が終るとまた日常のなかに戻ってくる。仕事と人間関係のなかに戻ってくる。そして旅したことを思い出しながら日常生活をやり過ごしていく。だから本当は旅をしているのではなく旅を思い出しているだけなのかもしれない。フェリーニの「ボイス・オブ・ムーン」の主人公は「僕は生きていることより思い出すことが好きなんです」といっていたが「旅をする」ことはそれに似たものがあるような気がする。
本書の文章は六、七年前に書いたものである。あれからまた東京の風景も日本の風景も変ってしまった。隈田川べりも下町も変ってしまった。しかしいまその失なわれた風景のことを悲しんだり嘆いたりはしたくない。なぜなら私ははじめからここにある[#「ここにある」に傍点]風景よりもここにはない[#「ここにはない」に傍点]風景を見ようとしていたのかもしれないのだから。
文庫版にあたって単行本のときと同じように安西水丸さんにまた装幀をお願いした。池内紀さんには解説を書いていただいた。やはり旅と温泉の好きなお二人に手伝っていただいてとても幸福な本になった。安西さん、池内さん、有難うございました。そしてこんな地味な本を文庫にして下さった講談社の堀山和子さんに心から感謝いたします。
[#地付き]川本三郎
本書は、一九八五年七月彌生書房から刊行された同名書に、その後発表された左記のエッセイを加えて、一九九〇年十二月に講談社文庫版として刊行したものです。
おいしいものが食べたくて
「コミュニケーション」
一九八七年七月号〜十二月号
温泉という名の桃源境
「月光」 一九八七年十二月号
道南の秘湯めぐり
「旅」 一九九〇年八月号