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ロッカーズ
川島 誠
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もう、ずいぶん昔のことの気がする。そのころのぼくたちがしていたことと言えば、いわゆる「ドサ回り」だった。
○○ナイトだとか、ライヴ・イン・××だとかいうイヴェント。メインの人気があるグループが出てくる前に、ぼくたちのバンドには数曲の演奏が許された。
会場には空席が目立つことも多かった。およそコンサートの熱狂とはほど遠い雰囲気のなか、まばらな拍手が、ぼくたちに捧《ささ》げられる。そうだ。まだ、お祭りは始まっていない時間なのだ。
ステージからながめる観客席は、散漫な感じだった。人々は、スローモーションで動いているかのようだった。ギグというよりは、昼間に行われる野球のオープン戦のスタンドの雰囲気。
そんなとき、ぼくは、イフェクターの調整のふりをして、ギターを開放弦で鳴らしてみたりした。極端にディストーションをかけた雑音で客を挑発しようと。
それがどのくらいの効果があったのかはわからない。なんであれ、ぼくたちは、与えられた短い時間で、気乗りのしていない聴衆と勝負しなければならなかった。
誤解しないでほしい。売れないバンドでいるのは、そんなに情ないことではなかった。暗いイメージを持ってもらう必要はないのだ。
結局のところ、ぼくにとって、プレイというのは、いつだってプレイなのだろう。ぼくのギターのカッティングに変わりはない。そんな、ワイドショーや音楽雑誌で「下積み時代」と名づけられたころと、ブレイクして日本のロック・バンドの頂点にたった後とで、本質的な差はないはずだ。
でも、彼は違うだろう。セージは、自分たちのバンドが世の中に受け入れられないということを、死ぬほど憎んでいた。彼には信じられなかったのだ。自分たちのような魅力のあるバンドが、なぜ人々の喝采《かつさい》を浴びないのか。
そうだ。ぼくは、そんなセージについて、そして彼をリーダーとするぼくたちのバンド、NEXUSについて君に語りたい。ぼくにとって、世界のすべてと言ってもいいNEXUS。話は、彼との出会いから始まる。
READY?
1
角を曲がって、その瞬間に、ぼくは後悔した。立ちすくんでいた。ヴァイオリンのケースを胸に抱えて。
曲がり角では、まだ道幅があった。先へ行って急に細くなって、道というよりは路地、車も通れない通路のようになっていた。
その細くなるあたりには、七つか八つの人影があった。うずくまっていたり、あるいは壁に寄りかかって立っていたり。ぼくよりもみんな年上に見えた。彼らの姿はシルエットになっていたけれど、ぼくが道に踏み込んだとたん、彼らの全員が振り向いて、ぼくを見た気がした。
ひと目で、ぼくはまずい状況に追い込まれたことがわかった。
ぼくは、制服を着ていた。青のブレザーにパンツ、紺のストライプのネクタイ。ばかげた服装だった。しかも、醜いだけではない。それは、そのあたりでは有名な、中高六年一貫教育の私立の金持ち学校に属することを示していた。つまりは、カツアゲの標的に最も好都合なことを宣伝する制服だったのだ。
ふたりの少年が同時に動いた。ぼくの方へとやって来る。ぼくは足元を見つめていた。間がぬけるくらい鮮やかに青い制服を意識せざるをえなかった。
ふたりは、ヴァイオリンを抱えて立っているぼくに近づき、そして意外なことには、左右を黙って擦り抜けた。まるで、ぼくを無視するかのように。
振り返ると、擦れ違った彼らは、ぼくが角を曲がってきた道の入口側に回り、止まった。とたんに理解出来た。彼らがそうすることで、すでに、ぼくは退路を絶たれてしまったのだ。
前の集団では、背を向けてしゃがんでいた男が、立ち上がった。ゆっくりと向きを変える。そして、ゆっくりと、とてもゆっくりとぼくに向かって歩いてくる。
打合わせもしていないだろうに、見事な連携プレイだった。おそらく、これまでに何回となく経験を積んでいるのだろう。
ぼくは、どうしたらいいのかわからなかった。凍りついてただ立っていた。
そのとき、ぼくは十四歳だった。
†
その日の放課後、ぼくは高架になった駅の改札をぬけると、階段の方に歩いていった。
そこは、ふだんはあまり行くことのない、駅の北、裏駅と呼ばれる側だった。バス・ターミナルやタクシー乗場は、反対の南側にある。デパートやマクドナルドがはいっているようなビルも。
階段を降りていくと、児童公園ぐらいの大きさしかないロータリーに続いて、商店街が一本、鉄道と垂直方向に延びていた。もともとは、北側の方が栄えていたのだという。しかし、アーケードは汚れ、ひと通りも少なかった。こちら側の街だけが、早くも夕闇に包まれているみたいな気がした。
乱雑に自転車が置かれた線路沿いの道を、ぼくは選んだ。雨が上がったばかりだった。ロープがかけられた段ボールが、道端に積まれたまま濡《ぬ》れていた。つぶれたビールの缶がころがり、側溝には表紙が半分溶けた雑誌が詰まっている。
でも、ぼくは、ただ、うつむいて歩いていたわけではなかった。次第に暗くなっていく街を、むしろ、自分に親しいもののように感じていたのだと思う。
ぼくの手には、通学用の鞄《かばん》とヴァイオリンのケースがあった。親に内緒でレッスンをさぼって街を歩いていても、それを後ろめたいとは思わなかった。
学校から直接自分で教室に電話を入れ、病欠の連絡をする。そんなことが、そう何回も続けられるわけではない。月末か、そうでなくても来月のうちには、家に問合わせがくるに違いない。そのときの、両親とのひと騒動に対する心構えは出来ていた。
勉強が忙しくなったからという理由で、三年になる段階でピアノのレッスンをやめることに、ぼくは成功していた。残されたヴァイオリン。
いや、ぼくは、かつてはピアノであれヴァイオリンであれ音楽教室には喜んで通っていたのだ。その日が来るのを楽しみにするくらいだった。
家では、自ら進んで課題を学んだ。たとえ、プラクティス用の、音階の高低の繰り返しに無理がある、奇妙な音調であっても。
ぼくは、楽器そのものを愛していたのだと思う。それらを操作することによって音を創り出す快感。当然のこと、ぼくは、音楽の教師たちに口をそろえて褒めてもらえるような小学生であり中学生だった。
もちろん、それは、シリアスに演奏家を目指してという条件のもとでではない。開業医の家庭に生まれ、将来は医者を継ぐだろうと思われている子どもの、余技としてのレヴェルだ。プロである彼らにとっては、あくまで収入を確保するための、不本意で退屈なレッスンのひとつだったのかもしれない。
しかし、ぼくは、いま思う。彼らが、ぼくに音楽の手ほどきをしてくれた彼らが、もし、ぼくのことを覚えてくれているなら、どう感じているだろうかと。分野には大きな違いがあっても、ミュージシャンになったぼくのことを。
彼らは、自分が行った基礎教育の確かさを誇ってくれるだろうか。それとも、騒々しいロック・ギタリストになり、芸能人として世間から眉《まゆ》をひそめられるかつての愛《まな》弟子を恥じるのだろうか。実際のところ、ぼくは、彼らにはとても感謝しているのだ。
ところが、中学二年の冬のことだった。ぼくは、演奏が楽しめなくなってしまっている自分に気づいた。
いや、最初のうちは、何がなんだかわからない状態だった。ただ、戸惑っていた。自分のテクニックを疑ってみたりもした。ぼくは、こんな簡単なフレーズも弾けなかったのだろうか、と。
演奏している曲に興味を失ってしまっていること。それ以上に、音を生み出すこと、楽器を弾くこと自体が喜びではなくなってしまっている。それを自分で認められるようになるまでは、時間がかかった。
君も考えてくれるといい。自分がいちばん好きだったもの、それが人間でも食べ物でも、趣味でもスポーツでも、何でもいい。それらを好きでいられなくなってしまったときの気持ち。想像できるかな? それが、どんなに悲しいことか。
自分に起こった事態をひとたび正確に把握してしまうと、もう、元にもどることは不可能だった。音楽は、ぼくにとって苦痛になった。スクールのスタジオにすわっていて、抑えられない衝動を、ぼくは感じるようになった。腕の筋肉がムズムズする。脚が震える。
ぼくは、漠然とした予感を覚えていたのだろう。この世には、ぼくの知らない、何か他の素晴らしいものがあるに違いない、という。
そして、ぼくはレッスンをさぼって街を歩くようになった。まさか、こんな事態になるなどとは思ってもみなかったのだけれど。
退路を絶たれたぼくの前に近づいて来た男は、やけに背が高かった。一九〇近くあるように見える。ぼくは、ヴァイオリンのケースを抱える手に力をこめた。決して、武器にはならないだろう楽器がはいったケース。
男は、ぼくに近づき、見下ろす。
ぼくは、下を向いて待った。何か話しかけてくるだろうと思った。中学はどこなのかとか、あるいは名前を言えとか、そんな質問。
ぼくはそれまで実際にカツアゲをされたことはなかったけれど、学校の友だちから聞いたところでは、たいてい、そんならしい。結構長い時間、ネチネチといたぶられる。答えようがないような、なんくせをつけられたりして。
そうやって、恐怖で耐えられないようにさせておけば、素直に金を出す。また、仕返しがこわくて警察に行ったりしなくなる。
でも、背の高いやつは、何も言わなかった。ただ、ぼくの目の前で立っているだけだった。かなりの時間がたった気がした。
ぼくは不安になり、顔を上げた。そいつの目を見た瞬間だった。ぼくは、いきなり、胸倉をつかまれた。そして、腹を殴られた。
声を出すひまもなかった。制服を強くつかまれていなかったなら、ぼくは、一発で倒れていたことだろう。
ぼくは、つばを吐いた。
ぼくを殴ったやつは、手をはなし、一歩下がる。
ぼくは道に這《は》いつくばった。ひどく、せきこむ。おそらくは胃液が混じっているのだろう。苦いつばを吐いた。何回も。
痛い、という感じではなかった。
ただ、殴られた腹のあたりが中心となって熱くなっていた。自分のからだが、その部分から、どこか宇宙の外にもっていかれてしまったような、奇妙な感覚だった。
ポケットには、五千円ぐらいしかなかった。こういう場合、そのくらいの金額で解放してもらえるのだろうか。吐きながらも、ぼくはそんな計算をしていた。
そして、その瞬間を、ぼくは、決して、忘れない。
ぼくを殴ったやつの後ろで、その脚の間から、ひとが動くのが見えた。道にかがみこんでいるぼくの視線は定まらなかった。でも、ぼくは、本能的に彼を見分けていたのだと思う。
彼らの集団の中、それまで気づかなかった、壁にもたれていたひとりが、ぼくの方を向いた。
「おまえ、何持ってんだ?」
静かな、でも、力強い、よくとおる声だった。
そうだ、それが、ぼくが彼の声を聞いた最初だ。現在なら、満員のスタジアムで、一晩に何万という人間を熱狂させるセージの声。
そのとき、彼の声は、はっきりとぼくの耳に届いていた。けれども、ぼくは、答えられなかった。急には、口が開けられなかったのだ。
「その小さい箱は何なんだ?」
ぼくは、道路に這いつくばりながらも、まだケースを落とさないでいた。熱くなった腹に押し当てるようにして、しっかりと抱えていた。以前のようには愛せなくなってしまった楽器のはいったケースを。
「ヴァイオリン」
ぼくは、ようやく返事した。
彼は靴を鳴らした。カツカツと。それは、通路に響き渡った。
二、三回、軽く首を振る。
そして、彼は言った。
「弾いてくれよ」
彼は、両手をパンツのポケットにつっこんでいた。
そのとき、セージは十八歳だったのだ。信じられないことだが、いまのぼくよりも若い。でも、中学三年の、たった十四のぼくからは、とんでもなく大人の気がした。
もう一度、彼が、ぼくに向かって言う。
「なあ、弾いてくれよ」
それは、まるで、頼んでいるかのようだった。
ぼくが見上げると、彼は笑っていた。
結局は、同じだ。
セージが言う。さあ、お願いだから、一発、素敵なやつをやろうぜ。そうすると、ぼくたちのバンドは動き出す。あと一曲はやれるって気になる。
ぼくは、何回も見ている。この世でいちばん愛していると言ってもいいかもしれない、セージのあの微笑み。それに最初に出会ったのがこの夕方だったのだ。
それは、状況からいったら、おかしなことだ。彼は、カツアゲの犠牲者に微笑みかけているのだから。
ところが、誰もそれに反対しようとはしなかった。異議を唱えるどころか、チャチャを入れるものさえいない。ケースからヴァイオリンを取り出すぼくを、みんなが見まもっているみたいだった。
ぼくはネジを回して弓の毛を張った。松ヤニをつける。ペグを微調整して調律。
皮肉な話だった。レッスンをさぼっているというのに、ヴァイオリンを弾かされることになる。しかも、よりによって、こんなさびれた場末の街中で。
ぼくは、軽く足を開き、背筋を伸ばしてヴァイオリンを正しい位置に構えた。
不思議なことに、彼らはぼくに集中した。ぼくの前に立っているものも、後ろに回って道をふさいでいるやつらも。
街が静まりかえる。
弓を弦にそっとのせた。音をたてないように、そっと。それは何回もしてきた動作だ。音色。これがこの楽器のすべてとも言える。初めに弓が弦の上を滑り出すときに、かなりは決まってしまう。
彼らが息を飲むのがわかった。
弓を持つ右手をリラックスさせる。左手のポジショニングの確認。
ぼくは、たたきつけるようにアタックする。最初の、世界のすべての始まりの音。
街に旋律が流れ出した。
バッハの無伴奏。
激しく駆け上り、また、次には、長く引き伸ばされかすかに響く。ぼくの生み出した音は、雨上りの街にひろがり、染み込んでいくかのようだった。
この楽器は、街中《まちなか》がふさわしかったのだ。
明るいレッスン・ルームや清潔なホールよりも、路上こそが、このある意味で下品な音色の楽器に向いている。ぼくは、初めて、そう思った。
彼らは、じっと動かずに聞いていた。ぼくを見つめているようだった。
けれど、これがカツアゲなら、なんという手のこんだカツアゲなのだろう。途中で、ぼくの頭を、チラッとそんな考えがよぎった。わざわざヴァイオリンを弾かせてから、金を要求する?
でも、すぐに、それらは、意識から消えていった。ぼくは、ぼくの演奏に熱中していた。
どんな発表会のときよりも、ぼくは真剣に弾いていたと思う。それは、そうさせるだけの聴衆に恵まれたからだ。自分の息子の番を待っている母親たちとは、まったく違ったタイプの聴衆。
ぼくは、最後となる音を、大切に響かせた。
弦を押さえていた左手を、そっとはずす。
そして、ぼくは待った。カツアゲをする少年グループによる審判を?
「いいぜ。とても、いいぜ」
彼が言った。大きく拍手しながら。
他のやつらは反応を示さない。彼がどうするのかを見ているようだった。
彼は、微笑んだ。
「もう少し聞かせてくれよ。夜は、まだ逃げやしないんだぜ」
あきれてしまうようなセリフだった。いまどき映画の中でさえ聞けないような。彼が言ったのでなければ、ぼくは吹き出していたことだろう。そのときだって、赤面してたかもしれない。
しかし、セージにそんなキザなセリフが似合うのは、いまや日本中でみんなが知っている。
「今度は、もう少し速い曲をやってくれないかな?」
ぼくに異存はなかった。
ぼくは、冗談みたいな曲を選んだ。あまりレッスンでは弾かせてもらえない、ラプソディ。
ぼくが弾き始めると、彼は、しばらくじっと耳を傾けていた。
そして、リズムをとる。腕で、膝《ひざ》で。全身で。彼は、壁際から身を起こすと、踊り出した。ぼくの速い弓の動きに合わせて。
彼の動きを見ていて、ぼくは、だんだんと自分が高揚していくのがわかった。彼のダンスにぼくも合わせる。さびれた裏駅の街の路地で、ぼくがヴァイオリンを弾き、彼が踊る。
NEXUSのライヴ、ステージの上でセージは踊る。スタンド・マイクを振り回し。ヴァイオリンではなく、ぼくのギターが、彼を走らせる。他の何ものでもない。ぼくのギターが、彼をドライヴする。
そうだ、そういったすべては、このときに始まったのだ。
ぼくが弓を弾く手を止めても、しばらく、彼は音の中にいたようだった。
彼は、タバコに火をつけた。
ぼくは、ぐったりとしていた。演奏のあとの脱力感。
彼が靴を鳴らした。
ヴァイオリンの旋律が消えた路で、くるっと回る。
「よかったぜ、なかなか」
彼は、ハミングしてみせた。いま、ぼくが弾いた曲を。それは、音程をしっかりととらえていた。
彼は、歩みよってくると、すっと手を伸ばした。
ぼくは、一瞬、身をすくませる。
彼は、微笑むと、指先でぼくのアゴをつかんだ。
そして、のぞき込むようにする。彼の、あの深い、引き込まれるような目が、ぼくに何かを語りかけようとしている。
「また、聞かせてくれよ。頼むぜ」
彼はぼくのアゴから手をはなすと、ポケットから何かを取り出し、ぼくに握らせた。それは、くしゃくしゃになった千円札だった。
ぼくは、生まれて初めて演奏で収入を得た。セージの手から。
2
一週間後、ぼくは学校が終わると、本屋で立ち読みをしたりして時間をつぶした。雑誌を手に取ってぱらぱらしてても、落ち着かなかった。この前と同じくらいの時間にと思っても、それが、はっきりとはわからないのだ。
前の週の、いったい何時何分ぐらいに、ぼくはあの路地にいたのだろう? それまでに、どこをどのくらい歩いていたのか?
判断の基準になりそうなのは空の色だったけれど、そんなものは天候に左右されるはずだ。ともかく、夕闇が濃くなりつつあるころ、裏駅の側へと階段を降りた。ヴァイオリンのケースを強く意識しながら。
あの日路上で演奏したあと、ぼくは、長年続いていたぼくと楽器との良好な関係がもどってきてくれたのではないか、と期待した。食事もそこそこにすませ、二階に上った。ヴァイオリンを手にとる。そして、同じ曲を弾いてみる。彼らの前で弾いた曲。
すると、ぼくの耳に響いてきたのは、平凡な、例のバッハの旋律だった。特別な曲ではない。つい数時間前の高揚感は、よみがえらない。
あのとき弾いた、二曲目のラプソディ。
滑稽《こつけい》な感じを表現しなければならないところで、ぼくはつまずいてしまった。こんなものの、どこが面白いと思えたんだろう?
ぼくは、弓を置く。
そして、そんなことが、日をかえてそれから何回か繰り返されたのだ。勢い込んでケースからヴァイオリンを取り出しては、失望とともにベッドの上に放り出す。
ヴァイオリンの、引き伸ばされしつこいぐらいに震える弦の響きというものは、感情を妙に低いレヴェルで刺激するだけの気がした。本来、演歌歌手のように、思い入れたっぷりに歌い込む楽器なのだ。弱々しいとか、女々しいとか言ってもいいのかもしれない。
ぼくは、もどかしくてならなかった。何かが足りないのだ。
ぼくの左の鎖骨に強く押し当てられた楽器の木質感、特有の肌の照りは、ぼくにとって、よそよそしくなってしまったままだった。すべては、街角で演奏したという特殊な状況のせいだったのだろうか。それとも、ぼくのヴァイオリンに合わせて彼が踊ったから?
結局、ぼくに出来ることは、それを実際に確かめてみることだけだった。
ちょうど一週間たった日の朝、ぼくは胸に決意を秘め、ヴァイオリンを手に家を出た。レッスンの曜日に当たっていたから、家族の手前、むしろヴァイオリンを持ってるのは当たり前のことだったのだけれど。そう、二度と参加することはなく終わってしまうレッスンの日。
ぼくは、裏駅の階段を降りながら、脚が震えそうだった。
彼と、彼の仲間というのは、ぼくにとってはやはり恐ろしい集団だった。本当にもう一度彼らの前で弾いてみたいと自分が思っているのかどうか、考えるほどわからなくなってしまう。
だいたいの道は覚えていた。線路に沿って歩いた。
しかし、目的地に近づくにつれて、ぼくは、自分のしていることが非現実的に思えてきた。いったい、彼や彼の仲間に、どうやったら会えるのか。ぼくは、彼の名前さえ知らなかった。また聞かせてほしいと言われ、それに対して返事も出来ないまま帰ってきてしまったのだから。
手がかりとなるのは、あの路地だけだった。T字になった細い道をはいったところの。
彼らは、あの、七、八人ぐらいの一団は、あそこでいったい、何をしていたのだろうか。彼らがカツアゲのために街を流しているのであれ、そうでないのであれ、そんなに毎日同じところにたむろしているとも思えなかった。
そして、その予想は、残念なことに当たってしまったのだ。
ぼくが、緊張して曲がったその路地の先には、誰もいなかった。そこは、ぽっかりと空いていた。三階建の、くすんだタイルの外壁の建物が、両側に立っていた。押しつぶされそうなくらい狭いスペース。
本当に、一週間前、ここでヴァイオリンを弾いたのだろうか。
今日は、雨上りではなかった。それなのに、路地のアスファルトは湿っているようだった。ムカムカするような厭《いや》な臭いが漂う。前には気づかなかったけれど、ラーメン屋の厨房《ちゆうぼう》の戸が開いていて、野菜の段ボールが乱雑に積まれているのが見えた。
ぼくは、考えた。いま、ケースからヴァイオリンを出して、弦に弓をあてたら、彼らが突然現れないだろうか、と。
壁や地面に彼らの輪郭が浮かび上がり、次第に濃くなる。剥《は》がれるようにして人間の実体となった彼が、ぼくのヴァイオリンに合わせてステップを踏み始める。
この前の夜が、再現されるのだ。
けれど、そこは、楽器を演奏するのに、全然、ふさわしい場所には思えなかった。路地は、ぼくの立っている先で少し曲がり、細くなって別の通りに抜けていた。
車が行き来するエンジンのうなりが、そちらの方から聞こえた。苛立《いらだ》った感じのクラクション。それに加えて、後ろの線路側からは電車が近づいて来る鈍い響きまでし出した。
一週間前、ぼくは、熱にでもうなされて夢を見ていたのだろうか。ぼくの記憶のなかでは、そこは静寂に包まれたステージだった。そして、スポット・ライトを浴び、熱心な聴衆を前にプレイしたつもりでいたのだ。
可能性がなくなってみて、ぼくは、自分がとても彼に会いたいのがわかった。彼の前で、もう一度ヴァイオリンを弾いてみたかった。彼に聞いてもらい、そして、踊ってもらいたい。
ぼくは、路地の先の出口の、車が通っている側まで歩いてみた。商店街の一本裏の通りに当たるようだった。道の片側は、駐車車両で埋まっていた。小さなかまえの飲食店がいくつかあった。
どの店の照明も薄暗く、あまりはやっていそうになかった。特にどうという特徴のない、どこにでもありそうな街路だった。
そして、振り返ってみると、ぼくがあれだけ期待していたスペースも、ごくふつうの路地に過ぎなかった。
ぼくがとるべき行動は、たったひとつだ。家に帰る。そして、またヴァイオリンを手にとったり放り出したりを繰り返すのだろう。
駅にもどる途中の道でだった。
ぼくは、突然、
「よおっ」
と、声をかけられた。
そうだ。このことは忘れようがない。
顔を上げると、異様に背の高いやつが立っていた。その男は、ぼくの顔を見て、ニヤニヤと笑った。まるで、長い間つきあっている親しい友人にでも出会ったかのような、とてもひとなつっこい笑い。
男は、ゆっくりと、視線をヴァイオリンのケースに移動させる。
ぼくは、思い出した。確かに、一週間前、彼の仲間に取り囲まれたとき、最初に近づいて来たやつだ。そして、そして、ぼくの腹を殴った……。
男は、再びぼくの顔をながめ、また、ニヤニヤと笑った。口の横の方でガムを噛《か》んでいる。直接的に危害を加えられたにもかかわらず、ぼくは、そのとき、彼を怖いとは思わなかった。むしろ、ぼくは、嬉《うれ》しかった。
なぜなら、一週間前の事件が、夢ではなく本当にあったことだ、と主張してくれる唯一の証人を見つけられたのだから。
「ライヴが始まる」
初めは何を言われたのか、ぼくには、よく聞き取れなかった。
「行かないの? セージのライヴ」
男は、そう言って、左手を肩の高さに構えた。右手は胸の前で、手首を回転の起点として上下に数回ブラブラさせる。
それが、ギターを奏でる身振りだとわかるのには、少し時間が必要だった。そのくらい、そのジェスチャーは、身についていなかった。
ぼくは、いま思い出しておかしくなる。彼の背の高さのせいではない。その手の位置が、彼の上半身の相当上の方にあったのだ。あの仕種《しぐさ》では、ギターではなくて、ウクレレか三味線だ。
男は、あいかわらず、ニヤニヤしていた。
そして、ぼくは、ぼくのことを理由もなく殴った(未遂に終わったとはいえ、カツアゲは、ひとつの立派な理由だと言える?)男に連れられて、ライヴハウスに行くことになったのだ。
歩いている途中で、彼は、名乗った。
そう、君は、もう、すでにここまでで気づいていたかもしれない。背の高さだけでも、かなりのヒントになっていただろう。
あの、トオルなのだ。
NEXUSのドラムで、セージとはまた一風変わった数多くのエピソードを持つことになるトオルとの、ぼくの二度目の出会いだった。
いまでも不思議なのは、あのときトオルがなぜライヴに誘ってくれたのかということだ。理由はなんであれ、彼がときどき見せるその手の、気の良さとでも呼びたい陽気さのおかげで、ぼくはセージに近づけたのだ。
しかし、ぼくは、それまでライヴで演奏を聞かせるような店には行ったことがなかった。そこが、どんなところなのか、想像することも出来なかった。
ぼくの知っているのは、あのお上品なコンサート会場だけだ。あるいは、ピアノの発表会をしている間の抜けた市民ホール。
その後のぼくを知る人間には信じられないかもしれないけれど、ぼくは、それまでごく平凡な中学三年生だった。ほとんど、学校と家とを往復するだけで(途中でピアノやヴァイオリンのレッスン、スイミングクラブ、そして学習塾なんかには寄る)暮らしてきたのだ。
トオルが立ち止まった。
厚そうなドアの前。上半分のガラスの部分には、裏から紙が、ポスターのようなものが貼られていて、中を窺《うかが》い知ることは出来なかった。
トオルは、把手《とつて》をつかみ、アゴでぼくをうながした。
「ここだぜ、ヴァイオリン」
彼は、ぼくにそう声をかけた。
おそらく君は、ぼくの本名を知らないだろう。もちろん知ってる必要はない。ぼくはNEXUSのギタリストの「リン」だ。それがぼくのすべてだ。
そして、ヴァイオリンの短縮形であるその名前は、このときに決まったのだ。トオルのいいかげんな命名によって。
ぼくは、トオルに続いた。例の学校の制服でそんな店にはいっていくには、勇気が必要だったけれど。
とにかく、ぼくは、彼のことが見てみたかった。一週間前にぼくのヴァイオリンで踊ったセージがライヴをしているというところを。
ドアは二重になっていた。トオルは内側の扉を押した。タバコの香りが鼻を刺す。暗い店内。どう見てもぼくがはいるべきところとは思えなかった。
通路に足を踏み出した瞬間、大音響が響いた。
それは、いままでのぼくが経験している楽器の音ではなかった。金管でも木管でも、もちろん弦楽器でもない。建物中を振動させる音の響き。
大袈裟《おおげさ》なことを言うつもりはない。そのとき、ぼくは立ちすくんでしまった。本当に動けなくなってしまったのだ。
ステージの中央には、ひとりの男が立っていた。黒の革のジャンパーにパンツのその男は、肩からギターを下げ、マイクに噛み付くようにしていた。
ぼくの耳に飛び込んできたのは、人間の声だったのだ。
彼は、ぼくを見つめ、そして叫んでいるかのようだった。席に着くこともできず立ちつくしているぼくを。
彼が、セージがライヴをしているというのは、ヴォーカルとしてだったのだ。
それは、ぼくにとってだけの話かもしれない。でも、ぼくは天才と出会ってしまったのだ。ぼくの人生を狂わせる。それが良いか悪いかは別にして。
いまギタリストとして活動をしていて、ドラムやベースをうらやましく思ったりすることはない。それらは大切な楽器ではある。リズムを刻んで基調を形づくる重要なパートだ。
しかし、人間の声には勝てないと感じる。楽器を用いることなく、肉体だけですべてを表現するパートだ。誰にも出来そうに見えて、そして許された人間以外には決して出来ない。ぼくは、時に嫉妬《しつと》する。シャウトし、ささやき、なめるように歌うセージに対して。ステージで寄り添うようにしてギター・ピックをかきならしながらも。
ぼくは、そんな彼を、このとき一瞬に知ってしまったのだ。何も考えられず、ただ揺さぶられながら。
それは、いままでぼくが聞いたり演奏したりした、どんな音楽にも似ていなかった。リズム・アンド・ブルースだとか、ロックン・ロールだとかいうジャンルの音楽は、もちろん、FMやテレビ、街中でさえ、いくらでも流されてはいたはずだ。
でも、そのときまでは、ぼくは聞こうとしていなかったのだ。ぼくの脳の中では、音楽ではなく雑音として処理されていたのだろう。
君にならわかると思う。
荒々しい、剥《む》きだしの音。単調なリズム。コードの数も少なかった。というより、音そのものの数が少ない。シンプルというか、むしろプリミティヴというべきなのかもしれないサウンド。そして、彼の、うめくような叫び声。
それらは、圧倒的な力で、ぼくに迫ってきた。細胞のひとつひとつまでが揺すぶられる。
3
さて、二か月後には、ぼくは生まれつきのロック少年のようになっていた。
というふうに言ってしまって、その間のことはカットしたい。実際、たいしたことは起きてないのだ。例えば、バンドの回顧談ではお決まりのエピソードらしいのだけど、君はここで、楽器を手に入れるための苦労話を期待するかもしれない。でも、ぼくは単に銀行に行って預金を引き出しただけだ。小遣いやお年玉(!)をためた自分名義の口座から。
そうだ。そのときのことには触れておこう。
ライヴハウスでは、まずセージの声に圧倒された。けれど、ぼくはその晩、妙にギターという楽器にひかれた。それは、なぜなのか。説明するのは難しい。
というより、それ以前の問題として、自分でもよくわからないのだ。激しくリズムを刻み、また旋律を奏でるこの楽器は、それまでのぼくだったら不快に思っただろう、歪《ゆが》んだ音を出していたのだから。
ぼくは、翌日、さっそく楽器屋へと向かいながらも、雲の上を歩いているような感じだった。頭の中には、ギターのサウンドがよみがえる。一晩中、ぼくの耳に鳴っていた、あの、ギターの単純なカッティングの響き。
結局、こう言えばいいのかもしれない。きっと誰でも同じだ。ぼくは、ロックン・ロールの神様にとりつかれ、ギターが好きになったのだ。
ギターを買うのにいくら必要なのか見当がつかなかったから、ぼくはかなり多めの金額を用意したはずだ。でも、最初からストラディヴァリウスが要《い》るわけではないだろうとは考えた。それにヴァイオリン教室のそばの楽器屋は、ある程度の融通はきくはずだった。
ぼくは、すぐに顔なじみの店員のところに行った。小さいころからの知合いだ。ぼくがギターがほしいと言うと、彼はアコースティックだと信じこんだ。
そうではなくて、ロックの、電気的に増幅するギターだとぼくが言うと、彼は驚いた顔で売り場に案内してくれた。
そして、レスポールか、それともストラトキャスターか、と聞いた。ぼくには、それが何を意味しているのかわからなかった。
店員は、ぼくをしばらく見つめ、考えているようだった。ぼくの音楽歴。ピアノとヴァイオリンのレヴェルまで?
彼は、後ろを向き、壁にかかっていたストラトキャスターのネックを人差し指でたたいた。そして、シールドと簡単なアンプをセットしてくれたのだ。
いま、思い出して驚くべきことは、戸惑っていただろう店員の、なんとも確かな判断力だ。あのとき、彼がレスポールを指定していたなら、ぼくたちのバンドのサウンドは変わっていただろう。
それから、ぼくはギターに熱中したのだ。毎日、すぐに家に帰って練習した。時には、学校を休んで弾いていることもあった。
楽譜どおりに、ただ正確に弾くというのなら、この楽器はたやすかった。ピアノやヴァイオリンに比べたらずっと。
両方を経験したことのあるひとなら、すぐに賛成してくれると思う。同じ弦楽器とはいえ、ヴァイオリンは、まず音を出すまでが難しい。まともな音色が出せるようになるまで、ほとんど修行のような期間を必要とする。左指の動きにしてもそうだ。ギターは、フレットがあるだけ、ずいぶん楽だった。
いま、ひとは、ぼくのギターのプレイを褒める。専門誌のギタリスト部門でいつも上位にノミネートされているのは、そのテクニックを称《たた》えられてのことだ。
悪い気はしないけれど、ぼくは、実は、それをそんなにたいしたことだとは思っていないのだ。うまいというだけなら、機械に勝つことは出来ない。いまやコンピューターの打ち込みで、すべての音が作り出せる。
むしろ、ぼくはコメントされて嬉《うれ》しかった言葉がある。自分で言うにはちょっと恥ずかしい。有名な音楽評論家ではない、投書ページに寄せられたファンの、「リンはギターを愛している」というひとことだ。
十九歳にして、すでに年寄りが忠告するみたいに聞こえるかもしれない。けれど、ぼくは言っておきたい。ロッカーを目指しているかもしれない君に向かって。
それは、好きになる、ということだ。ただプレイを好きになればいいのだ。
ヴァイオリンを愛せなくなったぼくが、情熱のすべてをギターにつぎこんだだけ。その結果なのだ。才能が重要なのではない。
ぼくは、CDを買っては、ギターのパートをコピーした。ライヴの聞ける店に通っては、演奏のスタイルを学んだ。
家の問題?
ぼくにとっては、結局のところ、家族の障害は、ないのと同じだった。つまり、ぼくの方で意識にのぼらなかったのだ。ギターの魅力の前には、そんなことを考えているひまはなかった。ピアノやヴァイオリンのときどころではない、ぼくの熱中ぶりに、親も口を出すのをあきらめたのだろう。
ほら、好きになりさえすればいいのだ。きっと。
4
ぼくは、壁際の席に座り、コーラを注文した。
長髪で痩《や》せた、見るからに不健康そうなウェイターは、ぼくのことばに反応を示さない。目を合わせようともしなかった。銀のトレイをタンバリンのように扱い、リズムを取りながら歩き去る。もどってくると、また、何も言わず、テーブルにグラスを置く。
トオルに初めて連れてきてもらったのと同じライヴハウスだった。あのときとは違って、ぼくは、その雰囲気に充分慣れてきていた。
最初のころは、はいっていって客や店員からチラッと見られるだけであわてていた。それは、何らかの値踏みをしている鋭い視線の気がしたから。
いまは、ぼくは、そういった場でそんなに違和感なく受け入れられるようだった。年齢的には、確かに低い方だ。でも、さすがにあの中学の制服を着ているわけではなかったし。
それに、ギターを弾き、友だちとバンドを組んで練習するようになって、きっとぼくの方でもある種似たものの気配を帯びてきたのだろう。
すでに半分ぐらいの席が埋まっていた。
他のバンドが出演する日よりも、男の聴衆の割合が高そうだ。もちろん、挑発的と言っていい服装の女の子たちの姿は、相当に目立つけれども。
彼女たちは、髪をかきあげては、近くの子と何か話す。そして、急に高い声をたてて笑ったり。そうしながらも、一段だけ高くなった舞台に置いてある器材に、ときおり目を走らせる。そんな様子には、テンションの高まりが感じられた。
そう、ぼくは、そういった雰囲気が好きになっていた。何よりもぼくの好きな音楽に集中できる場所だ。そんな当たり前すぎる理由に加えて、ぼくはライヴハウスにいることで、ひとりになれるからだったのだと思う。
おかしな表現だろうか? それは、学校であれ、家庭であれ、他の場所では得られない感覚だった。誰もぼくのことを気にしないし、ぼくも他のひとたちが気にならない。
飲み物を出し音楽を聞かせる店で、そうやってひとりで演奏の開始を待つ時間は、幸福だった。自分の部屋にいるときにもまして、ぼくは、ひとりの、解放されのびのびとした自分を感じられた。
君には奇妙に聞こえるかもしれない。ぼくが、そんなにもひとりでいるのを好むことが。
いま、ぼくたちは、ミュージシャンとして存在している。ある意味で、ひとから注目を浴びることこそが、その本質であるかのような仕事だ。
そして、その面では、ぼくたちは成功をおさめたと言っていいだろう。ふつうに外を出歩くことが出来なくなってしまったのだから。
コンサートの夜なんて、ひどいものだ。
型通り、アンコールを二曲やって引っ込む。すると、そこから始まるのは、長い苦痛の時間だ。ぼくたちは、シャワー・ルームで、常にふたつにひとつは壊れている蛇口と格闘をしてしまえば、あとはすることがない。出来ることといったら、狭い控室をうろうろと歩き回ることぐらいだ。
楽屋で待ち続ける。
その間には、ダミーのバンが出て行った。窓に分厚いカーテンを引いていたり、あるいは、黒いフィルムを張っている。スタッフが運転する、その一台一台が、タクシーをつかまえて追いかける女の子たちのグループを引き連れて去っていくのだ。
いつも、クニさんはウィスキーをあおっている。カーテンの隙間から、不機嫌そうに下を見下ろしながら。外では、女の子たちの絶叫が起こる。何台目かの車がガレージから出たところなのだろう。
そうやって長い時間を過ごし、出口のまわりに女の子たちがいなくなったころ、ようやく、ぼくたちは出発するのだ。目立たない中古のワン・ボックスによる、ホテルに直行する旅に。
そんなときの気分は、君にわかるかな?
口をきくやつなんていない。
もう、終わっているよ。
コンサートの興奮は、とっくに消えている。酔いつぶれて眠る。あるいは、夜の街をながめる。何を見るともなく。
いつになったら、ライヴ活動をやめるのか。バンドの解散の日は。そんなときに考えるのは、結局は、そういうことばかりだ。
しかし、こんなことは、まだまだ、ずっと先の話だ。そのときの、十五歳のぼくは、確かに幸せだった。ぼくは、待っていたのだ。そのときも。静かに高まっていく気持ちを抑えるようにしながら。
もちろん、それはワン・ボックスに乗り込む時間などではない。ぼくが待っていたのは、彼だ。セージが、そして、彼のバンドがステージに登場するのを。
ぼくの視界の中で、紅い口紅がくっきりとついたストローが揺れていた。斜め前のテーブルの上。ストローをもてあそんでいる指先の爪の色と、ストローに移った色とが同じであることに、ぼくが気づいたときだった。
突然、照明が落とされた。
いよいよ始まるらしい。予定の時間は、だいぶ過ぎていた。気配では、バンドのメンバーがステージに現れているようだった。
拍手がパラパラと聞こえる。そう。ここの店では、そんなに熱狂しない方が良いとされていた。
ステージでは、しばらく、ごそごそとしている。
カツカツ。マイクを爪でひっかく音。ギターのノイズ。
何か、自分たちだけにわかる冗談を言っているのか。力のない笑い。バス・ドラムがずしんと響いた。
静寂。
そして、一瞬にすべてが弾《はじ》けた。
彼の、セージの声が突き抜けた。建物を揺さぶる。同時に照明が一気に灯《とも》される。前奏がなく、ヴォーカルのシャウトから始まる曲だった。ドラムが、ギターが、ベースが、すぐに彼を追った。
終始、彼がリードをとる。
彼が、セージが、バンドを統率しているのは明らかだった。バンドだけではない。最初のひと声で、彼は、すでに会場のすべての客を支配していた。
そして、歌い、叫ぶセージの、その仕種《しぐさ》にぼくが気づいたのは、ちょっとスローなバラードをはさんでの三曲目のことだった。
セージは、一瞬、後頭部に手をやった。
セージのヴォーカルに集中している聴衆は、気づかないくらいのものだった。でも、ぼくにはわかった。ギターが遅れたのだ。
セージは、すぐに何事もなかったかのように微笑んだ。とっておきの、いい笑顔だ。リカヴァリーのための。
それからも、セージはときおり、そういった苛立《いらだ》った感じの動きを見せた。彼のマイクを握ってない方の手、ときには両手までもが、髪をかきむしる。
そんなとき、ぼくは、セージがぼくの方を見ていないかとステージを注視した。小さなライヴハウスで歌っているのだ。客席は隅々まで目が届く。彼にぼくが座っているのがわからないはずはなかった。
でも、セージはぼくを見ない。ぼくたちの視線が合うことはない。ぼくは少し落ち着かなくなる。今日は、特別な日であるはずなのに。
しかし、それは、いまでも同じだ。彼は、実は、いつだって観客なんて見てないのだ。聴衆をアジり、のせようとはして客席を見渡す。でも、それは彼が自分で必要なパフォーマンスだと考えているからするのであって、実際のところ、彼にとっては、自分の歌があるだけなのだ。
彼は歌う。叫ぶ。自分だけのために。
†
市のホールでのギグに出た帰りだった。
それは、いくつかアマチュアのバンドが集う大会のようなものだった。自分たちが費用を出し合って会場を確保する。切符は友だちに頼んだり押し付けたりしてさばく。
ぼくは、あるバンドに参加していた。ちゃんとした固定メンバーではなくて、都合で出られないギタリストの穴を埋める臨時の仕事、という言い方はしていたけれど、もちろんギャラなんかはない。
ぼくは、挨拶《あいさつ》をすませると、ひとりで楽屋を出た。
楽器屋に紹介されたそのバンドのひとたちとは、特に親しいわけではなかった。それに、これから彼らがする「打ち上げ」というやつが、ぼくは、もともと苦手だった。つかみ合いになるような反省会も、ただひたすらどんちゃん騒ぎの宴会が続く打ち上げも、どちらにも出来れば参加したくない。
コンサートが終わってだいぶ時間がたっていたので、人影はまばらだった。ぼくは、ギター・ケースを肩にかけて歩いていた。
ホールの建物から駅へと向かう角を曲がったところで、ぼくは呼びとめられた。
「やあ、ちょっと、かまわないかな?」
声の方を向くと、そこには革ジャンパーの男が立っていた。
男は、ぼくを見て微笑んで、ゆっくりと言った。
「少し、話があるんだ」
間違えようがなかった。それは、セージだった。革ジャンパーをはおって、ジーンズのポケットに手を入れていた。
ぼくは、一瞬、返事につまってしまった。あまりに、突然のことだ。ぼくは、ぼんやりと道を歩いていたのだ。そしたら、あのセージがいて、直接、ぼくに話しかけてくる。
ぼくは、口のなかでごもごもとつぶやいた。ともかく、イエスという意思表示は伝わったようだった。
セージと口をきくのは、それが二度目のことだった。あの路地での、一方的に話しかけられ答えたのを一回目の会話としてカウントするなら。
「今日の、あれ、いかしてたぜ」
彼は言った。
そして、彼はハミングした。ぼくが弾いたリフを。
ぼくが加わったバンドはコピー専門だった。あまりオリジナルのCDのままではつまらない気がして、ぼくが勝手にアレンジして長めの間奏を入れさせてもらったのだ。
セージは、リフの部分に続けてシャウトした。
抑えた発声でも、その力強さは、はっきりと伝わってきた。むしろ、そうすることで、彼の声の持つ魅力がわかる。残酷な言い方になるけれど、さっきまで一緒にやっていたバンドのヴォーカルとの実力差は歴然としていた。
ぼくは、セージが自分を認めてくれたこと、ぼくのギターを褒めてくれたことが嬉《うれ》しかった。そして、あらためて彼の歌う声に聞き惚《ほ》れてしまった。
ぼくたちが、ぼくとセージが立っていたのは、人通りのない、市民ホールの前庭のようなところだった。夜になって気温はだいぶ下がってきていたのだろうけど、寒くは感じられなかった。
ワン・コーラスたっぷり歌うと、セージが言った。
「なんで、あんなしけたやつらと組んでんの? ギターが泣くぜ、おまえの」
彼は、ぼくの顔をのぞきこむ。
「あいつら、ヘタクソもいいとこじゃない」
まあ、それは、そうかもしれなかった。今回のギグのために貸しスタジオで練習していたとき、さっきセージが口ずさんだリフの部分をぼくが弾いた。すると、オーッという歓声があがり、みんな自分の楽器の手を休めて聞いていた。
それで、通しのプレイをしようとすると、その部分がなかなかうまく合わせられない、そのくらいのバンドだった。
「前からさ、気になってたのよ。うまいギターがいるって噂を聞いててね。それで、今夜出るっていうから来てみて、驚いたよ。弾けるのはヴァイオリンだけじゃなかったんだな」
彼は覚えていたのだ。ぼくがあのときの中学生だと。
そのうえ、セージは、ぼくが耳を疑うようなことを言った。
「どうかな。うちのバンドで弾いてみない?」
それは、思ってもみない提案だった。
それまでぼくがしてたのは、自分たちの楽しみのためのバンドだった。友人どうしで集まっては、中学や高校の学園祭に出る。今回のアマチュア・バンド大集合のようなイヴェントがせいぜい。
セージたちは、ライヴハウスで客の前でプレイをしているのだ。お金を取ってひとに聞かせるというのは、当時のぼくから見れば、まるで次元が違っていた。
ぼくに異存があるはずはなかった。
「いや、NEXUSのギターがちょうど抜けるんで、後釜《あとがま》を探してたとこなんだ」
セージは、次のライヴに来るようにと、ぼくに言った。そこでみんなに紹介するから。
みんな、というのは、もちろんセージの属するバンドのメンバーのことだ。中学生のぼくからすると、それぞれがひどく大人の、ぼくたちアマチュアとは格が違うプレイヤーに思えた。
ぼくの不安を、彼はすぐに察したようだった。
「だいじょうぶ。今日みたいなプレイが出来るんだから問題ないよ、誰もが賛成だって」
セージはぼくの肩を軽くたたいた。
そして、彼は言った。
「ひとつだけ、確かめときたいんだ。本気でメジャー目指す気はあるかい? いつまでも、こんなとこでつるんで、ちんたらちんたらやってるんじゃなくてね。相手は、全国だぜ。日本で一番のバンドになる」
最後のところで、セージは両手を広げ、おどけるような身振りをした。ステージでのアクションのような。
ぼくは返事をためらった。
そのときまで、ぼくはプロとしての、職業としてのミュージシャンになるなんて考えてもみなかったのだ。ただギターが好きでバンドがしたいだけでやってきた。
ショウ・ビジネスの世界にいまいて、ぼくはある種の人間が存在することに気づいている。まっしぐらに、それこそ生まれたときからプロになるつもりでいたひとたち。疑うことなく、その世界だけを信じて。
いわゆるボーン・ミュージシャンというのとも違う。音楽の才能のあるなしではなくて、むしろ意思の問題なのだと思う。絶対にプロとして成功しようという強い意思。そして、それを持てることも、たぶん、ひとつの才能なのだ。
沈黙のまま、恐ろしく長い時間がたったような気がした。
ぼくは、気持ちを奮いたたせる。
ここで否定したら、NEXUSに加入できないかもしれないのだ。セージのバックでギターを弾くチャンスが永遠に失われる。
「もちろん」
ぼくは、言った。
「もちろん、そのつもりだよ。前から」
ぼくの声は震えていたかもしれない。はっきりと、それは嘘だったのだから。ぼくは、彼がそれを感じとったのではないかと心配した。
セージは、ぼくの目をのぞきこむようにした。
ぼくの心の奥底を読んでいる?
「上等」
彼は、ひとことだけ言った。
そして、ぼくに背を向けた。
後ろ姿で、ひらひらと軽く手を振る。
セージは、そのまま歩き去って行ってしまった。
ぼくは、立ちつくして、彼を見送った。
ぼくの両|膝《ひざ》はガクガクとしていて、からだを支えているのがせいいっぱいだった。
†
アンコールが終わって、席を立つ客の動きがひととおりおさまってから、ぼくは、楽屋に向かった。奥の通路に続くところの椅子には、店の係らしい人が座っていた。ぼくは、セージに呼ばれている、と言った。
その人は、ちょっと疑わしそうにぼくを見たけれど、通してくれた。
ビール・ケースだとか業務用の缶詰だとか、あるいは何かの箱とかが積まれた細い階段を降りる。楽屋は、ステージの下にあたるらしい。バック・ステージといっても、倉庫と兼用の地下室だった。
入口の開いたままのドアから、ぼくは中をのぞきこんだ。
NEXUSのメンバーの他にも何人かいた。雑談しながら、タバコを吸ったり、着替えていたり。
ぼくを見つけて、セージは、はいってくるようにと手で合図した。
そして、すぐに、
「ヨッチャン、ヨッチャン、ちょっと」
セージの前に、さっきまでステージでリード・ギターを弾いていた男が立った。
「悪いけど、ヨッチャン。おまえさ、明日から、来ないでいいや。おしまい。コイツに代わってもらうから」
彼は、ぼくの肩に腕を回す。セージの大きな手の温かさ。
ヨッチャンと呼ばれたリード・ギターは、変な顔をしていた。何を言われたのか、わからなかったみたいだった。
そして、冗談だと考えたのだろう。半分、笑うかのように表情を崩し、目をきょろきょろさせた。
セージは、それ以上、何も言わなかった。きっと、ぼくの横で、彼は、いつもの微笑みを浮かべていたのだと思う。いまなら想像がつく。
セージが黙っているので、本気だとわかったのだろうか。ギタリストは、あらためて、ぼくを頭から足の先まで見た。唇を震わせながら。
このときのことを思い出すと、ぼくは、いまでも胸が痛くなる。
セージがぼくに話したのは、ギターが辞めたがっているというニュアンスだった。それは間違いない。ぼくは、NEXUSのギタリストが何かの都合でバンドを抜けることになって、それで補充のためにぼくが呼ばれたのだと、そんなふうに考えていた。
実際は、セージは、そのとき初めて通告したのだ。ギターのヨッチャンはクビだと。突然に、みんなの前で。
君がバンドをしているのなら、経験はあるかもしれない。
メンバー交代というのは、複雑で微妙なことだ。ふつうは、いろいろと手続きを踏むことが多いらしい。いったんバンド全体が解散して、みんなでやめたふりをしてから、もともと打合わせたメンバーで再結集するなんてことも、珍しくはないと聞く。
セージは、そういったプロセスを、いっさい無視したのだ。
ヨッチャンは、ひとしきりぼくを見た。不審そうな顔だった。
「こんなガキが?」
と、吐き捨てるように言う。
ガキ?
ジョージ・ハリスンだって、クオリーメンにはいったときは、たしか十四歳だったのだ。ぼくは、十五になってる。
でも、そんな反論をするつもりはなかった。
ヨッチャンの顔は紅潮していた。セージとぼくを交互に見る。視線が定まらない。ぼくは、そんな彼を見ていたくはなかった。
楽屋にいた全員が、ことの成り行きを注目しているようだった。
「おまえ、ギターなんて、弾けるのかよ」
と、ヨッチャンが言った。
「弾けるぜ。おまえより」
すぐに、セージが答えた。
ぼくの胸を熱いものが走る。
彼に評価されるということ。彼がぼくのプレイが良いと言ってくれること。それは、大袈裟《おおげさ》な言い方だけれど、この世で、ぼくがいちばん望むことなのかもしれない。
ヨッチャンは、ぼくに背を向けた。壁際に置いてあったギターを取った。黙ったまま、ぼくに差し出す。彼のギターだ。
ぼくは、受け取るしかなかった。フェンダーのフェイク・モデル。そんなに悪くなさそうなギターだ。
アンプにシールドがつながれる。
一度、開放弦でならしてみた。チューニングを訂正する。
「キースなんて、いったん合わせてから、ずらしてるって説もあるくらいだぜ」
自分のギターをいじられて、彼は、露骨にいやな顔をした。あきれたというように肩をすくめてみせる。
ぼくのチューニングにかける時間は、確かに、ふつうより長いかもしれない。でも、キース・リチャーズは、キース・リチャーズだ。なんであれ、ぼくはチューンの狂った楽器は、気持ちが悪くて弾けない。
セージは両手をポケットに入れて、壁に寄りかかって立っていた。これも彼の特徴のひとつと言っていいのだろう。その場の事態はまさに彼が引き起こしたことであるのに、自分は無関係な人間であるかのようにする。そんなセージを、このあと何回もぼくは見ることになる。
ぼくは、前奏を始めた。終わったばかりのステージで、ぼくの目の前にいるプレイヤーが一番最後にやった曲。
ひとたび弾き出すと、ぼくの緊張はとけた。ぼくはギターに集中することができた。ピックを振動させ左手の指を素早く移動させていれば、そこがどこであるかなんて関係ない。ぼくはプレイをしているのだ。
セージが、軽くリズムをとっているのが、目の端にはいる。口ずさんでもいるかもしれない。
ひととおりのフレーズを弾いて、ぼくは弦を押さえた。
誰も、何も言わなかった。
ぼくは、二曲目を考えた。いまのと違ったタイプ?
すると、セージが手を上げて、制止した。
「気がすんだだろ。もう、よそう。君とはものが違うでしょ」
彼は、ヨッチャンに向かって言った。
ヨッチャンは、返事をしなかった。そのかわりに、パイプ椅子を蹴《け》った。椅子は壁にぶつかり、折りたたまれるようになって倒れた。
もちろん、ぼくは、いまなら思う。リード・ギターは、あくまでバンドの全体の演奏の中で評価されるべきだ。単独のプレイで優劣が決まるわけではない。
だから、そんなことぐらいで、ヨッチャンとぼくとの差がはっきり出るはずがない。勝ち抜きギター合戦には、本来、意味はないのだ。
セージは、ぼくの肩を抱いた。
そして、バンドのメンバーに向かって手を広げるようにした。
「そういうことなのよ。ま、よろしく」
それだけだった。
そこにいるヨッチャンのことは、すでに忘れてしまったかのように無視していた。
他のメンバーは、何の意思表示もしなかった。賛成だとも、反対だという様子も見せない。ギタリストの変更については、ヨッチャンのいないところで、すでに打合わせ済みのことだったのだろうか。それとも、急な話であれ、全員がこれまでヨッチャンのギターなり性格なりにうんざりしていたとか?
だからといって、彼らはぼくに対しても、決して好意的な感じではない。変な感じだった。バンドにとってとても重大なことだろうに、メンバーの交代がセージの意思だけで進んでいくような。
彼らは、ぼくより四、五歳は上だった。
でも、黙っているその雰囲気が、それ以上に、年長に感じさせた。大人たちの中で、ぼくひとりが子どもなのだということを痛感せざるを得なかった。このバンドはそういうところなのだ。これから、彼らと一緒に演奏をしていくのだ。
こんなふうにして、ぼくは憧《あこが》れのNEXUSのギター・プレイヤーになった。当然のこと、ぼくは、嬉《うれ》しかった。しかし、どちらかというと、そのときは不安の方が強かったはずだ。こういう世界で、はたしてやっていけるのかどうか、という不安。
セージは、ぼくに向かって微笑んだ。
いちばん離れたところにいたトオル(ぼくが加入するとき、NEXUSのドラムはすでにトオルに代わっていた)が、大きな声で言った。
「よう、がんばってくれよ、ヴァイオリン」
5
「この中から選んで。誰でもいいのよ」
トオルが、ドラムのスティックで、壁の端から端までを指し示した。ニヤニヤしながら。
トオルがニヤニヤしているのは、いつものことだ。でも、ぼくの答えを、すごく楽しそうに待っている。
反対側の部屋の隅で、セージは、小さめの椅子に逆向きにまたいで座っていた。上半身を倒し、組んだ腕を椅子の背もたれの上に乗せて支えている。
彼は、トオルやぼくのやりとりには興味を持っていないように見えた。歌った後の脱力感に身をまかせているのだろう。
ぼくたちは、練習を終えた。あとは、それぞれの楽器を運び出して車に積むだけだ。セージのオリジナルの新しい曲を、初めて通しでやれた夜だった。彼の頭の中には、まだ、そのメロディが鳴り響いているのだろうか。
セージは、脚をさらに深く開き、からだをずらすと、組んだ腕の上にアゴを重ねてしまった。
そんな、子どもっぽいポーズが、彼には似合う。
そうだ。プロモーション・ヴィデオで見たひともいるだろう。セージが歌い出すシーンがあったはずだ。同じ、この姿勢から。
ぼくたちの三枚目のアルバムに収録されている。「Weather」という曲だ。小さい女の子の部屋の設定。ベッドにはぬいぐるみがいる。椅子から立ち上がった彼は、一度、思いっきりシャウトすると、振り返る。
クロゼットの扉を両手で勢いよく開け放つと、洋服が掛かっているはずの扉の中では、嵐を予感させる黒い雲のかかった空をバックに、ぼくがギターを弾いている。ぼくのトレモロ・アームのアクションに合わせて、稲妻が光る。そして、クロゼットから部屋に跳び出たぼくの腰に腕を回し、セージが歌う。
まあ、おきまりの展開だ。ぼくは、けっこう、撮影が楽しかったけれど。
でも、そんなヴィデオに出るなんて、ぼくたちが夢にも思ってなかったころの話だ。
遠くから憧れるNEXUSは、ぼくにとっては雲の上の存在だった。ところが実際に参加してみると、聴衆の前でプレイをするのは、週に一回あるかないかだった。プロとはいっても、ギャラはもらえて交通費程度、まったく出ないときの方が多かった。
しかし、そんな時代であれ、さっき「ぼくたちがヴィデオに出演するなんて思ってもみなかった」と言ったのは、訂正しなければならないだろう。
セージだけは違っていたはずだ。もしかしたら、この瞬間、椅子に逆向きに座りながら、彼は「Weather」のプロモーション・ヴィデオの振り付けを思いついたのかもしれないのだ。彼なら有り得る。
おそらくは、最初にギターを手にし歌い出したときから、彼はロッカーとして成功している姿を、ほとんど予期していたのだと思う。たとえ小さなライヴハウスで歌っていても、彼の頭の中で、そこはドームの特設ステージになっていたのだろう。
ぼくは、いま思う。その彼のプランの中で、他のミュージシャンたちは、どうなっていたのだろうか、と。スタンド・マイクを握る彼の後ろには、濃いスモークがかかっていたのかもしれない。
トオルがライド・シンバルを鳴らした。カン、という高い音がスタジオに響く。それは、ぼくの選択をうながしていた。さっさと、決めちまえよ。悪い話じゃないだろ。
「リン、ほら、時間ないよ。鍵《かぎ》、返すんだから」
ヒロもせかした。
店のひとには仲好くしてもらっていた。けれど、時間貸しのスタジオなのだから、急がなければならないのはヒロの言うとおりだ。
壁際には、七、八人の女の子がいた。座って指に髪を巻きつけている。あるいは、壁にもたれて立っていたり。
ちらちらと、ぼくの方を見ては、下を向く。友だちどうしで誘い合って来ているのだろう。自分たちだけで妙にはしゃいでる感じの子もいた。肘《ひじ》でつつきあったり。落ち着かない様子で、視線を漂わせる。あるいは、ぼくのことなどまったく無視してタバコを吸っている子。
セージは、さっきから座ったままだった。両手をすりあわせては開き、見つめている。まるで、何かの点検をしているかのようだ。彼の手は大きかった。ぼくは、最初にライヴで彼を見たときから、それに気づいていたと思う。
インタビューに来る記者とかライターとかいうひとたちが、セージの身長の低いのに驚くことがある。一目見て、予想を裏切られたという顔つきになる。実際よりステージで彼が大きく見えるのは、それは、もちろん、彼の存在感のせいだ。
しかし、おそらく彼の手の大きさ、そして、その形の美しさも一役かっていると言っていいだろう。
舞台で彼が手を上げる。まっすぐに頭上に突き上げられた腕の先にある、彼の手の動き。あるいは、振り回され、蹴《け》り上げられ、斜めに倒れてきたマイク・スタンドを、親指と人差し指の間で受ける。そのときにピンと伸ばされた指の長さ。
それは、単純に美しいと言ってよい。ぼくは、プレイしながら彼のそばにより、ギターのネックを彼の腕の動きに合わせようとする。ヘッドが彼の手に重なりますように。
いや、そういったことも、また、先の話だ。
ともあれ、そのとき、ぼくは、選ばなければならなかった。貸しスタジオにいる女の子たちのうちから、誰かひとりを。その晩の遊びの相手として。
もちろん、誰も選択しない、という選択だって、ぼくには残されていたはずだ。決して、彼らはぼくに強制をしているわけではないのだから。
でも、それは良くないだろうと、ぼくにはわかっていた。プレッシャーを覚えていたのだ。そろそろ、そういったつきあいも一緒にやろうぜ、と言われている感じ。
当時、ぼくの心の大半はNEXUSが占めていた。すでに中学校は、ぼくにとって何かノルマをこなす、というか時間をやり過ごすような場所でしかなくなっていた。
授業中にメロディが浮かんでくる。すると黒板の向こうから何かが聞こえてくる。トオルだ。トオルのドラムが、ぼくにバック・ビートを送っている。左の耳からはヒロのベース。ポケットの中のぼくの指が動き出す。
ステージの日や、週に数回の練習が待ち遠しかった。何とか昼間を終えて、夕方、バンド活動のために集まったときの喜び。ぼくは、セージやトオルやヒロと、NEXUSのメンバーと接触している時間にのみ生きていた、とまで言ってもいい。
ライヴや練習のあと、一緒に食事に行く。近所の汚い中華料理屋だとか、ファミリーレストランだとか。彼らが飲みに行くのにもつきあった。ぼくは、ほとんどアルコールは飲めなかったけれども。
彼らが話していたこと、やっていたこと。それらは、いまのぼくから見てしまえば、たわいのないものに違いない。日本中どこにでもいる、平凡な、バンドをやっている少年たちと同じ。
ただ、ぼくは、十五歳だったのだ。四、五歳上の彼らは、ひどく大人に見えた。ぼくは、聞いているだけでよかったのだ。たとえ、積極的に話に加わることは出来なくても。自分のまったく知らない、彼らの世界をのぞくことが出来た。
とはいえ、彼らが「女の子」と遊ぶときは別だった。それは、本当にぼくのわからない、足の踏み入れられないところの気がしていた。
彼らが、ファンの女の子たちと遊びに行く。ぼくは、そんな雰囲気を感じると、場から離れるようにしていた。椅子から立ち上がって家に帰った。まるで、その瞬間に、急にふつうの中学生に戻るみたいに。彼らの方でも、そんなものとして認めていたと思う。
ところが、今日は違っていたのだ。トオルが誘う。ヒロが語りかける。おまえも、こういうことを知っとけよ。俺たちはNEXUSの仲間じゃないか。冷たいぜ、帰るなんて。
だからぼくは断れない。そして、おそらく、それが、彼らの本当の一員になるために必要なことのようだから。
でも、ぼくは決断できなかった。ぼくは、どうしていいのかわからなかった。トオルがじれったそうにしている。
ぼくは振り向いた。
セージは?
セージが、助けてくれない?
彼は、いつもの自信にあふれた微笑みを浮かべていた。
「リン。いいかい。ここにいるのは、みんな、俺たちの友だちだぜ。俺たちの音楽を理解してくれて、愛してくれてるんだ」
両手を広げて言う。
そうだ。これが、彼の最大の弱点だ。おそらく、一生、変わらないだろう。セージは、自分を褒める人間に弱いのだ。セージは、自分のことを高く評価する人間を簡単に信じ込んでしまう。そして無批判で追従ばかりする人々を近くに集めたがる。
きっと、それは、彼が自分のことを天才だと思っているからだ。まず、誰もが、すべてのひとが自分の歌にまいってしまうのが当然だと考える。
スタジオは時間が限られていた。もう鍵を返さなければ延長になる。
トオルが、ヒュー、ヒューッと、口に指をくわえて音を出した。
トオルが、ヒロが、そして、たぶんセージがぼくを見ていた。
選ぶ相手に迷っていたわけではない。絶対にひとりを選ばねばならない、というのなら、その対象は、とっくに決まっていた。
ぼくは、肘を曲げて右手を上げ、肩のところで、人差し指を立てた。そのまま腕を前方に伸ばし、彼女を指差す。
トオルは、ぼくの指の差している方向を目で追った。
そして、スティックをぶらぶらさせた。まったくあきれた、という顔だ。
後ろで、パンと手をたたく音が響いた。
セージだ。
6
ぼくは、車のドアを開けた。狭い助手席に、身を縮めるように座る。
赤いツー・シーターのスポーツカーだった。イギリス製か、フランス製か、あるいは、イタリアだったのか。前に聞いたことがあるはずだけど、ぼくは車に興味がないので、忘れてしまった。
だったら興味があるのは、ギターだけ? ロックだけ?
女の子は?
シートベルトが、うまくはまらなかった。方式がちょっと変わってるみたいで、ぼくは、アタッチメントの金具をカチャカチャといわせてしまった。
なんだか、それは、とても不様《ぶざま》なことのような気がした。女の人(彼女は「女の子」というには、あまりに大人だった)と車に乗ってシートベルトがセットできなくて、もたもたしているなんて。
ぼくの座っているのがドライヴァーズ・シートでないのは、問題ではなかった。ぼくの年齢では、当然、法的にライセンスの取得は不可能だ。
まごついていると、彼女が手を伸ばし、シートベルトをカチッとはめてくれた。そのとき、彼女の手が脇腹に触れ、ぼくはあらためて女の人と車に乗っていることを意識した。
ぼくの学校は、男子校だ。そのうえ、ぼくは、ひとりっ子だった。一緒に車に乗るどころか、実際のところ、母親以外の女性と話す機会もほとんどなかったのだ。
彼女は、何も言わずに、ギアをローに入れた。ショート・ブーツが、アクセル・ペダルを踏む。
走り出してしばらくしてから、彼女はタバコに火をつけた。
「セージが断るとは思わなかったの?」
彼女は前方を見つめたままだ。
彼女がぼくにそう尋ねるのは、彼女の方ではセージに断ってもらいたかった、ということなのだろうか?
ぼくが座っているのは、今日、スタジオに来るときに、セージが乗っていたシートかもしれない。そうでなければ、セージが運転し、彼女が。
ぼくは、彼女を選んだのだ。
トオルの言う「この中から」選ぶ。その選択肢には、彼女は、本来はいっていなかったのだろうか。確かに、彼女はひとり離れて立っていた。ぼくたちを見にスタジオに来ていた他の女の子たちとは。
ぼくが見回したとき、彼女とぼくの目が合ったと思ったのは、ぼくの錯覚だったのかもしれない。おそらく、彼女はキッと前を見つめていただけなのだ。いま運転しているときと同じように。
あるいは、彼女はどこも見ていなかった。バンド少年たちの、こんなくだらないことにはうんざりだ。誰でもいいから女の子たち(彼女は含まれない)の中からさっさと決めたらいいのに、と考えていた?
なんであれ、ぼくが彼女を指差すと、セージは、手を大きくパンとたたいた。そして、言った。
「女を見る目もあるんだな」
椅子から立ち上がり、そのことがとても嬉《うれ》しい、とぼくを祝福するみたいに近づいた。
「よかったよ。それでこそ、NEXUSのリード・ギターだ」
彼は、再びパンパンと手をたたいた。
それは、リハーサルのときなんかに、セージがよくする、あの仕種《しぐさ》だ。すべてが終わった、何の問題もない、と示す。
OK、OK。いいよ。最高だぜ。
そうすると、ぼくの心の中の不安が消える。いつものセージのセリフだとわかっていても、ステージに上がる前の緊張がほぐれるのだ。
セージがそんなことを言っている間も、彼女は腕を組み壁にもたれて立ったままだった。反応を示さない。
彼女は、バンドのメンバーや熱心なファンのグループの間では、ヘミと呼ばれることが多かった。そうだ、あの、君もおそらくは知っているだろう、ヘミなのだ。
セージは、ヘムとかヘミーとか呼ぶこともあった。その名が何に基づくものなのか、ぼくはいまだに聞いたことがない。
ファンの女の子たちのなかで、彼女は別格だった。それは、彼女がセージよりも年上の大学生だ、などということとは関係がないだろう。当時でも、ぼくたちのバンドのファンの年齢の幅は、わりあいと広かったから。
彼女がちょっと変わった感じだったのは、影響していたと思う。彼女には、どこか近寄りがたいところがあった。スポーツカーに乗って現れては、すぐに消える印象だった。
ぼくは、雑誌のグラビアを見るように、見ていた。長身でスリムな彼女が、セージの横に立つ。それは、見事なくらいだった。男と女というより、それを超越して、むしろ、ふたりは、よく似てるように思えた。ヘミの髪は、短く、彼女の好む細いヒールのシューズをはくと、セージと高さもそう変わらなかったのだ。
そう。彼女が特別と思われている一番の理由は、セージとの関係だ。昨日まで、いや、つい、さっきまで、ファンの女の子たちは、ヘミをセージの「女」だと思っていたのではないか。
でも、ぼくは知っているのだ。セージは特に女の子なんか好きにならない。彼が好きなのは、自分だけだ。そして、その順位のずっと下の方に、「自分のことを好きになるべき女の子」が来る。
セージは、いつだって、その場で最も目立っている女の子とつきあおうとするのだ。注目を集めている、擦れ違う男たちを一瞬で勃起《ぼつき》させるような女の子と。
それが、自分の役割だと思っている。そう。生まれながらのロックン・ロールのスーパー・スターであるセージ。彼は、まるで仕事のように考えて、女の子とつきあう。
そうすることで、センセーションを巻き起こしたいのだ。話題を呼び、テンションを高め、自分を駆り立てる。君が思い出せるだろうこれまでのいくつかのスキャンダルも、結局は、そういうことだったのだ。
彼は、恋の歌を歌う。いくつも歌う。
おまえが、俺を、変えちまったぜえ、とシャウトする。
でも、セージは、変わったりなんかしない。女の子というのは、彼にとっては、あくまで彼の好きな革のコートと同じだ。セージは、自分が身にまとうべき女の子をまとう。
そして、その夜は、ぼくが彼女を選んだ。まとうものとして? いや、全然、そんなかっこうのいいものではなかった。
スタジオを出るセージの背中。女の子たちが、群がってついて行こうとしている。今晩は、彼に空きができたのだ。彼女たちにしたら、たいへんなチャンスが到来したわけなのだろう。
トオルはぼくを見て、両手でVサイン。小学生のようなポーズで、ぼくをからかっている。
ヒロは、女の子の肩に手を回していた。何かささやいているみたいでもあるし、耳にキスしているのかもしれない。ヒロにかかえられるようにされて、女の子はかん高い声をあげた。極端に短いスカートが、めくれあがる。
そして、ぼくは、ぼくの方では、どうしたらいいのか、わからなかった。情ない話だけれど、ぼくだって、むしろ、セージやヒロやトオルたちのあとを追って、ついていきたいくらいの気分だったのだ。
結局、スタジオの前にはふたりが残され、ぼくは彼女にうながされて彼女の車に乗った。
ヘミは車を走らせる。
ぼくが黙っていると、
「セージは、あなたに逆らえないのよ。いつもそうだわ」
彼女の顔に笑みが浮かぶ。
唇を軽く歪《ゆが》ませたようなそれは、笑みだったと思う。あとで、ぼくは、ヘミが時々する特有の皮肉な表情を知るようになる。それとかなり近いものではあったけれど。
「あきれるわね。他のことでは、あんなに自分のやりたい放題するのに。そのくらい、あなたが、かわいいのね」
ぼくは、運転する彼女の横顔を見る。
ヘミは、はっきりと、陽気になっていた。セージについてしゃべることで?
ぼくは、考えていた。セージがぼくを「かわいい」と思っているかどうか、ということについて。しかし、それは、「かわいい」という言葉の意味をどう考えたらいいのかがわからなくて、何かつかみどころのないテーマだった。
車はカーブを、左右交互に切る。急な坂道を登っていった。
ぼくたちは、彼女の家に向かっていたのだった。
港の見える高台。
ホールから続くドアを開けると、リビング・ルームは、汚れていた。テーブルには使ったままの皿。ケチャップのようなものがこびりついている。ナイフとフォークは雑誌の上にころがっていた。
ヘミは窓を開けに行った。つぶれたビールの缶をまたいで。ソファの前の床に置かれた灰皿からは、タバコが山盛りになり、こぼれ落ちている。
家には誰もいないようだった。ひとりで住んでいるとは思えない広さだったけれど。
そこで、ぼくは、見つけたのだ。大量のレコードを。CDではない。60年代から70年代前半ぐらい。ぼくの意見では、ギタリストがいちばん輝いていた時代。そう、おそらくそう言い切ってしまって間違いでないと思う。
それは見事なコレクションだった。かなりの数の海賊版もあるのだろう。タイトルだけは聞いたことがある幻の名盤といったのも。
「これ、かけてもいいかな?」
一枚のレコードを手にかざして、ぼくは、ヘミに許可を求めた。
彼女は、軽くうなずいてくれた。ウィスキーをグラスにそそいでいる。
プレーヤーにセットすると、ぼくはコンビニの袋や空瓶を脇に押しのけ、フロアーに座るスペースを確保した。
手渡されたウィスキーは、ぼくの喉《のど》を焼いてしまいそうだった。
「ライヴでこの曲をやってるのって、初めて聞く」
「そう。いい?」
「すごい」
テクニック的には、いまや、それはたいしたものではなくなっているかもしれない。ぼくみたいな東洋の島国の中学生でも、表面的にマネすることは出来る。
でも、グルーヴ感が圧倒的に違う。からだをそのままどこかに持ち去られそうになる、ギターのうねり。
ウィスキーの酔いが急速に回る。いや、酒ではなくてギターのサウンドが、ぼくを酔わせているのかもしれない。
ヘミのグラスでは、氷の鳴る音が響いていた。
7
カーテン越しでも、朝日がまぶしかった。ぼくは、変な形で丸まって寝ていた。ソファの上。
ここは、ヘミの家だったのだ。
起き上がると、頭がずきずきとした。ウィスキーなんて飲むからだ。
いそがなくてはならない。
あたりにはバッグが見当たらなかった。玄関の上がったところに、ギターと一緒に置いてきたのだろう。
「まだ寝てていいのよ」
ヘミはキッチンにいた。彼女が動く、その物音でぼくの目が覚めたのかもしれない。
「学校があるから」
昨日、中学から直接、貸しスタジオに行ったのが幸運だった。バッグには制服がはいっている。早く着替えないと。
「学校になんて、行ってるの?」
玄関に向かうぼくに、背中から彼女の声。
ぼくは、黙ってうなずく、見えないだろうけど。
とりあえず制服になったぼくは、ヘミからコーヒーをもらう。
「こんな、朝早くから行かなくてもいいんじゃないの?」
ヘミの朝は、いつもはもっと遅いのだろうか。ちょっと疲れた感じで、コーヒーのカップを手にしている。
「試験なんだ」
それは、本当のことだった。ぼくの学校は中高一貫教育をうたいものにしていたから、高等部へはよほどのことがなければ全員が進めることになっている。
しかし、一応、内部進学の判定のための試験があった。つまり、今日は、一種の高校入試のようなものがある日だったのだ。欠席するわけにはいかない。
ヘミは、タバコに火をつける。
リビングの床には、レコード・ジャケットが並んでいた。昨夜、雑誌だとか灰皿だとかを片付けて、ぼくが展示したのだ。
見ていて、ぼくの頭の中に、ギターのサウンドがよみがえってきた。LPの数は、二十はくだらない。いったい昨夜は何時間、過去のギタリストに浸っていたのだろう。
何枚目かを聞いているときに、立派なコレクションだね、とぼくはヘミに言った。(実際、すごいレコードばかりだったのだ。)
するとヘミは、兄のよ、と答えた。
説明は、それだけだったはずだ。
もう十分に出かけなければいけない時間だった。けれど、ぼくはレコードのつらなりを見ていた。過去の偉大なプレイヤーたちの残してくれた音楽の厚い層。
その流れの最後のところにぼくが繋《つな》がっているのだと思いたかった。まだ見たことのない、NEXUSの曲が収録されたレコード・ジャケット。
ヘミが立ち上がった。
座っているぼくの方にかがみこむ。
唇の感触。
ヘミの乾いた唇が、ぼくの唇に触れた。
これが、NEXUSのみんながぼくに与えてくれた、「女の子と遊ぶ」一晩のすべてだった。
†
テストに間に合うかどうかは、かなり、あやしかった。
彼女は、今朝は、ツー・シーターの屋根を、フル・オープンにしていた。昨夜のウィスキーを吹き飛ばすためなのだろうか。
前方で警報機が鳴り出した。
無理しないでいいよ、と言うために口を開こうとしたとたん、彼女はアクセルを踏み込んだ。踏み切り内は、ひどくデコボコしていて上下に揺れた。しかも、JRは複々線になっているので、渡る距離が長かった。
真ん中まで来たぐらいで、先の遮断機が降り始めるのが見える。彼女が強くアクセルを踏んでも、車体が跳ねて浮いてしまう感じ。
後輪が空転する。
目の前の遮断機の棒が当たらないように、ぼくは頭を伏せた。棒の折れる音は聞こえなかった。どうやら、くぐり抜けるようにしてクリアーしたらしい。
彼女は、笑っていた。声を出して。
ぼくには、そんな余裕はなかった。
試験に間に合うかどうかはともかくとして、彼女は学校までのラリーを楽しむつもりみたいだった。
潮風。
海岸沿いの国道をとばした。沖で白く砕ける波頭が見えた。海岸から街への交差点を折れると、急に見慣れた風景になる。ぼくの学校に近づいたのだ。
彼女の乱暴な運転は、相当に速かった。ぼくは、ホームルームの出欠の確認の時間には無理でも、どうにかテストの開始には間に合いそうだった。
「ありがとう。その信号の先のところでいいよ」
でも、ヘミは、まったく聞いてないのと同じだった。校門が開いているのを見て、校内に車を入れた。
そういうわけで、ぼくは、彼女の、派手な赤のオープン・カーで、内部進学の判定のための試験に乗り付けることになってしまった。ぼくの学校は、校則などうるさくない。自由な雰囲気ではある。
でも。
校内の石畳にはいっても、彼女は速度を緩めない。路面のデコボコを拾って、車体が激しくガタガタした。本館まで行くつもりだ。
彼女は、カーブを切って、ブレーキを強くかけた。激しくタイヤのきしむ音。
ヘミは、わざわざ、ツー・シーターのスポーツカーを、突き出た屋根のある旧《ふる》めかしい車止めに横付けにしたのだ。
見上げると、向かい側の校舎の窓は、中学生で鈴なりになっていた。なかには、たぶん、教師の姿だって。
サングラスのヘミと、制服姿のぼく。
彼女の紫に塗られた唇が動いた。
「テスト、がんばってね」
心のこもってない感じの挨拶《あいさつ》だった。
彼女は、ぼくの返事を待たずに、軽く手を上げると、エンジンをウォーンと響かせた。マフラーのせいなのだろうか。ゲーム・センターのF1レーサーのような音が、おそらく学校中に響き渡ったことだろう。
彼女は石畳にタイヤを空転させ、乱暴に発進した。あとには、砂ぼこりと鞄《かばん》を抱えたぼくが立っていたわけだ。
試験には、ぎりぎりで間に合った。高等部への進学は可能になった。(登校の手段は、担任には嫌味を言われたけれど、大きな問題にはならないで済んだ。)
でも、結局のところ、ぼくは高校生活というものを半年ほどしか経験しないことになる。この後、NEXUSがいよいよ本格的な活動を始めるから。
それでも、そんな母校を懐かしく思い出すこともあるのだ。もしかしたら、まだ、籍だけは残っていたりするのだろうか。
8
「じゃあ、今日は特別にバシッと決めていこう。この次のステージはステップスだから、そのつもりで」
ライヴハウスの楽屋での打合わせの場だった。その日やる曲の順番とかの確認をしたあとのことだった。セージはごく何気ない小さなニュースを付け加えるみたいに言った。
ギターケースに手を伸ばしていたぼくは、思わず彼の方を振り返った。ぼくだけではない、トオルもヒロも驚いてセージを見ている。
それは、小さなニュースどころではなかった。
そのころのNEXUSは、そこそこ人気が出て来ていた。固定ファンもある程度ついて。でも、ぼくたちは、あくまで、セミ・プロだった。ギャラがほとんどないのもそうだし、何よりも活動の場が限られていた。アマチュアに開放されている小屋に、ぼくたちはとどまっていたのだ。
ステップスに出られるようになれば、プロフェッショナルなバンドだと名乗ってもおかしくない。実際、CDを出し、マスコミで名のとおっているバンドがよく出演していた。
いや、そういった細かなことを越えて、ステップスというのは特別な店だった。
ステップスは、米軍基地の近くの旧くからの伝統あるライヴハウスだった。海外から日本にやって来たR&Bのグループなんかが、お忍びで演奏したりすることでも知られていた。そういう格のある場だったのだ。
セージは、いつもの、ちょっとおどけた表情で言った。
「いや、ちょっとね、一発やんなきゃなんないけど。あの、オーディションってやつね。でも、だいじょうぶ。俺たちを落とす店なんてないって。あるわきゃないでしょ」
トオルやヒロやぼくが戸惑っている様子を、セージは楽しんでいるみたいだった。
「だからさ、これからね、もっともっと気合い入れてプレイしようぜ。今日はステップスのつもりでやろう」
†
セージが言う。
「もっとさ、ダァーダァーダ、ダッダ、ダダダッ」
大きく手を上下させて、指示する。
「そうそう、そういう感じ。わかってるねえ」
ベースのヒロがうなずく。セージに褒められて嬉《うれ》しそうだ。トオルは、スティックの先で背中をかきながら、誰にともなくニヤニヤしている。
ぼくらは十日後のステップスのオーディションを目指して、猛練習にはいった。具体的な目標があるのと、ただのプラクティスとでは、やはり違う。
セージは、オーディションではオリジナルをやろうと提案した。
「どうせさ、こういうとこだったら、みんなカンザス・シティみたいなやつやるよ。スタンダードをね。アメリカの兵隊には、そういうのが受けるって思って。俺たちは違うとこ見せようぜ。NEXUSはさ」
セージの提案に異議はなかった。それで、ぼくたちは、オリジナルの曲の構成を見直すことにした。新しい編曲をする。
このときぼくたちが選んだのは、「DO IT」という曲だ。君も、おそらく知っていると思う。
あとで最初のアルバムに収録されることになる。そのときのクレジットはセージ&リンになっているけれど、もともとNEXUSのいちばん初期の曲で、ぼくが加入する前からの持ち歌だった。
「じゃあ、サビのとこから、もう一回、やってみよう。これで決めにしちゃうからね」
セージは陽気だ。
「そこさあ、バーンとはいろうよ。それで、タタタ、タタン、タタンね。いい、インパクトよ、大事なのは」
セージが指示を出す。相変わらず、すべて彼の口で音を表現して。
彼が歌い出す。つやのある声は、まさにセージのものだ。
それに、ぼくが考えついたリフをからめていく。
幸せな瞬間だ。
曲が、ほぼ、まとまる。
「いいんじゃない? やつら、ぶっとぶぜえ。日本にもこんなバンドがあったんですかって」
セージがみんなを見回して言う。
本当に、そうなってくれればいい、とぼくは思った。ぼくたちNEXUSは、ステップスで認められるだろうか。
トオルが、ハイ・ハットを、小さくカツカツと鳴らした。
†
ぼくたちの街の中心部からひとつ丘を越えた海辺に、米軍の基地があった。
キャンプの東側のゲイトには、踏切の遮断機のようなものが下がっている。両脇には、いつものように、銃を構えた兵士がいた。
「なんで、このクソ暑いのに、昼間っからすんのよ」
ヒロの運転するワン・ボックスのリア・シートで、トオルがぼやいた。助手席のセージには聞こえないように。
確かに、春先だというのに、急に暑くなった日だった。トオルの横顔には、まともに夏のような陽射しが当たっていた。
平日の昼からだから、ぼくは、高校をさぼってオーディションに参加することになってしまった。中等部から進学したばかりで、授業の他にもガイダンスだとかいろいろある日みたいだった。けれど、それどころではなかった。
だって、ステップスなのだ。
道は基地のフェンスに沿っていた。間からは芝生が広がっているのが見えた。ふだんアメリカ人の子どもがフットボールを投げてたりするところだ。時間のせいか、今日は歩いているひともいなかった。
ぼくたちの街には、もともと日本の海軍の施設があった。それを米軍が接収したという。でも、それは、それだけのことだ。街の中心から少し離れたところに米軍の基地がある。
べつに戦闘機がタッチ・アンド・ゴーを繰り返す滑走路があるわけではないし、海兵隊が毎晩ばか騒ぎをするわけでもない。
人々は、ふだんは基地があることを意識していなかった。ラジオのAMのチューナーを回せば、NHKよりFENの方がクリアーに受信できたけれども。
かつて、日本のショウ・ビジネスの世界において、米軍キャンプの時代があったという。ぼくも、伝説のようなものとして、何か知っているような気にはなっている。日本が戦争に負けたばかりのころの話。
日本のミュージシャンは、アメリカ兵を相手のキャバレーで腕をみがいた。もちろん、would-be ミュージシャンたちは、みな米軍キャンプを目指す。
ぼくのイメージが間違っていないなら、そこで演奏されていたのは、たぶん、ジャズだ。
トランペッターの頬がふくらむ。彼が身につけているのは、安物の、薄い生地の白いタキシードだろう。アメリカ兵と日本人ホステスが抱き合うように踊る。
こういうのは、映画やテレビで植えつけられた知識に違いない。そこから先は、ぼくの頭の中では、美空ひばりだとかクレージー・キャッツだとか伊東ゆかりだとかトニー谷だとかいう名前が浮かぶぐらいだ。顔と一致するかどうか怪しい歴史上のキャラクター。
そういうひとたちがキャンプとどんな関係があったのか、あるいはなかったのか、よくわからないし、敗戦の直後に米兵を相手に歌うというのがどんな感じだったのか、推測するのは難しい。
ただ思うのは、当時、米軍キャンプだけが外国だったのだろう、ということだ。新しい音楽は、キャンプを通じてのみはいって来る。
いまなら、どこにでも外国人はいる。TVやFMでは、アメリカの最新ヒット曲が、タイム・ラグがなく流される。現在の日本の音楽状況に米軍キャンプが占める意味は、ほとんどなくなってしまっていると思う。ぼくたちの街に基地があっても、みんなが気にせずに毎日の生活を送っているように。
でも、ステップスは違う。
ぼくたちNEXUSのメンバーを乗せたワン・ボックスは、海に向かって坂道を下った。港内への進入路の手前を右に曲がるのだ。そうすれば、スタンド・バーの看板越しに見える建物がステップスだ。
君も、行ってみれば、すぐにわかるよ。
†
ぼくは、それまで何回かステップスに来たことがあった。もちろん、それは客としてだ。
ステージに上がってみると、そこは意外に狭かった。客席から結構高いのにも、ちょっと驚いた。古い設計のせいなのだろうか。
ぼくはギターのジャックをアンプに差し込もうとして、ヒロと顔を見合わせてしまう。ベースとリード・ギターを、ひとつのアンプにプラグ・インしなければならないなんて。
ぼくらは、ステージに置いてあるやつを使えと言われていたのだ。それは聞いたこともないような古い機材だった。
ヒロはぼくに何か言おうとしたけれど、飲み込んだ。ためらってから、客席の方を向いた。
「あのお、ぼくたちのアンプ……、車で持ってきてるんで、取りにいって……」
いつものヒロとは違う、あいまいなしゃべり方だった。やっぱり緊張しているのだ。
客席にいるマネージャーは、アメリカ人というよりは、イギリス人みたいな気がした。長身で痩《や》せていて、ちょっとチャーリー・ワッツに似ている。
ヒロの言葉に対して、マネージャーは、目をつぶり、二回、首を大きく横に振った。
彼の手が震えているのがステージからでもわかった。背筋を異様にピンと伸ばして腰かけていた。おまえたちのお遊びにつきあってるだけで、いいかげんうんざりなんだぞ、とその態度が言っていた。
ステップスでのオーディションは、セージから聞いてぼくが想像していたのとは、だいぶ違っていた。華やかなコンテストのようなものでは全然ないのだ。参加するのは、ぼくたちのバンドだけ。
しかも、セージとマネージャーとのやりとりを聞いていたら、どうやらぼくたちが受けるのは予備登録のための審査らしかった。メインのバンドのスケジュールに不都合があったりしてステージに穴があきそうになったら出させてもらえる。
きっと、セージは、店にアピールしてオーディションをしてくれと無理やり頼み込んだのだ。たとえそのとき冷たくあしらわれ屈辱を感じたとしても、ぼくたちには決して知らせない。まるで、ぼくたちがステップスから招待されているかのように言う。
これは、もっと後になって考えるようになったのだけれど、ぼくたちに向かって自分でアレンジした話をしながら、そのうちにセージ自身もそのストーリーを信じてしまっているようなのだ。彼には、そんな不思議なところがある。
観客、というか審査員は、ふたりだけのようだった。長身のマネージャーと、こちらはいかにもアメリカ人らしい小太りの髭《ひげ》づらの男。
彼は、審査員のくせにぼくたちにまったく興味を持っていないように見えた。14インチのピザを抱え込んで、食べていた。指をしゃぶっては、ビールを飲む。
ぼくはイフェクターのつまみを設定して軽く音をだしてみた。アンプとのマッチングが悪いのだろうか。うまく調整がきかない。
時間がないと思うと、あせってしまう。
「リンリンちゃん、いつもどおりでいいのよ」
トオルがふざけた調子で声をかけてくれた。でも、彼の顔も青ざめている気がした。
ステージは、肌寒かった。外の陽気が嘘のように。
セージがマイクをつかむ。
「レディス アンド ジェントルメン。ウィ アー……」
すると、急にマネージャーが立ち上がった。
右腕を下から上へ、大きく振る。
早口の英語だった。何を言っているのか、聞きとれなかった。どうやら、すぐに始めろ、余計なことはしゃべるな、と言っているようだった。
セージは、明らかに気分を害していた。
それは、特に、マネージャーが無礼だから、というのではないだろう。むしろ一般論として、セージは、聴衆が彼の歌を待ち望んでいない、という事実に対して怒りを覚えるのだ。
ステージの床を、靴で数回鳴らす。
顔をキッと上げた。
「それでは、気の短い白髪のマネージャー様と、お食事中のリンプ野郎に一曲」
ゆっくりと、ひとことひとこと区切るように丁寧に言った。深々とお辞儀する。
ピザを食べていた男が、初めてステージを見上げた。セージをにらみつける。
ぼくは、気づいていなかった。初めてのオーディション、ステップスの舞台にアガっていたのだ。逆に、セージには審査員を冷静に観察する、それだけの余裕があったということになるのだろうか。
リンプというのは、脚の不自由な人を指すことばだ。それがどのくらい差別的なニュアンスを持つ表現なのか、ぼくにはわからない。セージは、まともに英語の勉強などというものをしたことはないはずだ。でも、そういう単語なら、たくさん知っていた。
沈黙。
ステージと観客席との間がピンと張りつめる。
ぼくたちのペースになった。いつもの。
ぼくより後ろに位置しているので見えないけれど、トオルはシンバルの陰でニヤニヤしているに違いない。
セージの右手が上がった。
合図。
手が返る。
すべての音が一気に弾けた。
セージがシャウトする。
聴衆は、たったふたり。
ステップスのからっぽの客席に響き渡る。
†
「ヘイ、ヤングマン」
ぼくは、その手にピザ・ソースがついているのではないかと、思わず見てしまった。
「リンプ野郎」が、セージに握手を求めていた。
セージは鷹揚《おうよう》に手を差し出す。
彼は、オーウェンと名乗った。
オーウェンは右手でセージと握手し、空いている左手でセージの肩をつかむ。次には抱き締めるのではないかと思うくらいに揺する。
けれど、彼は向きなおり、ぼくたち全員、ひとりひとりと順番に握手した。マネージャーは、オーウェンの後ろに控えていた。にこりともしない。
しかし、彼の手にしているのは、ステップスのライヴのスケジュール表だ。予備登録などではない、レギュラーの出演表だった。
オーディションでぼくたちが一曲目の演奏を終えたとき、マネージャーはオーウェンの方を見た。どうやら、審査の鍵《かぎ》を握るのは「リンプ野郎」のようだとわかった。バンドの評価に関しては、マネージャーは彼の判断を信用している感じだった。
オーウェンは、マネージャーに深くうなずいた。
そして、ステージに向き直り、伸び上がるようにして、
「ワン・モア・ソング。もう一曲」
と言った。
「ア スタンダード。ライク、アー、サッチ アズ、カンザス・シティ」
セージとぼくの目が合った。ぼくは、振り返ってトオルを見る。ヒロが、からだごとぶつかってきた。
こうして、ぼくたちは、ステップスのステージに立てるようになったのだ。
9
ぼくたちは、週に一度、出演することになった。
ステップスの客は、アメリカ人と日本人が混ざっていた。日によって、その割合はだいぶ違っていたけれど。基本的にアメリカ人は陽気なように見えた。ぼくたちに向かって叫び、立ち上がって踊り出す。
でも、彼らの熱狂振りはNEXUSのプレイが生んでいるのではないことに、ぼくは最初の夜で気づいた。セージのシャウトするメッセージや、曲目の出来不出来とはズレたところで彼らが反応しているのがわかったからだ。
せっかくの休みを、店にいる時間を、楽しまなければ損だと考えているのだろうか。そう、ぼくの英語の知識は間違っているかもしれない。が、彼らは、まさに enjoy themselves という感じだったのだ。ぼくたちの音楽をエンジョイするのではなく。
それに対して、日本人の客は、おおむね醒《さ》めていた。彼らは、ライヴハウスにいるというのにステージに関心がないみたいにしていた。拍手さえも惜しんで。
アメリカ人であれ日本人であれ、ぼくは、ステップスの客の手応《てごた》えのなさに、戸惑ってしまった。ぼくのギターが通用しない?
ぼくだけではない。セージは、口には出さなかった。彼は、認めることで事実がより定着するように感じたのだろうか。
最初の日、ステージを引き上げるとき、セージは恐ろしいくらいに不機嫌で押し黙っていた。
トオルがつぶやいた。
「なんなの。ここの客」
誰も返事しなかった。
答える代わりに、ヒロは両手の手のひらを上に向け、肩をすくめてみせた。ドラマのアメリカ人がするようなオーバー・アクション。
やはり、それまでは、ぼくたちはアマチュアだったのだ。もともとNEXUSが好きな、仲間うちのファンの前で演奏することに慣れていた。そこでの熱狂というのは、すべてがあらかじめ予定された盛り上がりだったのだ。
予備知識のない、というよりも、どちらかというと最初から日本人のバンドを馬鹿にしている客たちにアピールするには、NEXUSには何かが欠けていた。ステップスのステージで、ぼくたちは初めてひとつの壁にぶちあたった。それは試練と呼んでも大袈裟《おおげさ》ではなかったと思う。
ところで、話はとぶけれど、いままでNEXUSについて、写真集もふくめて数冊の本が出版されている。それらに対する不満は、たくさんある。
特に、伝記的にNEXUSの歴史を追った本には、単純な事実に関する多くの間違いが見られる。それから、ぼくたちのことを、いやになるくらい持ち上げてみたりする記述法。(そのひとつが、ぼくの学力についてだ。確かに、ぼくの成績はそんなに悪くはなかった。特に小学校では進学塾に通い、私立中学受験の勉強をしていたから。けれども、ギタリストのリンは天才少年だった、なんて書かれると、恥ずかしさを通りこしてうんざりしてしまう。)
そういった本を書くのは、音楽評論家だとかフリーライターだとかいう肩書きのひとたちだ。ぼくたちは、彼らの「取材」を受ける。楽屋で出前の弁当を一緒に食べたり、練習の合間の休憩に雑談をする。「コミュニケーション」のために。
彼らは、時にはスタッフの一員のようになってツアーに同行することもある。それは、「素顔のNEXUS」を知るのが目的だという。
そんな彼らが、ぼくたちの「公式ヒストリー」と銘打っているのに、NEXUSの言ってみれば「ステップス時代」についてちゃんとした記録をしていないのは、とても奇妙なことの気がする。
ぼくたちは、最初から基地関係のアメリカ人や、そこに集まるディープな音楽ファンの日本人たちに喝采《かつさい》を浴び、大受けしたみたいに書いてある。
本当は、まったく違うのだ。
ステップスに出演していたのは一年に満たない。短いといえば短い。でも、バンドが実力を身につけていく上で、大きな意味を持つ期間だったと思う。
根性もののスポーツ論みたいだけれど、ぼくたちは、実際に努力したのだ。ギグが終われば、反省会をするのが通常だった。その場を取り仕切るのは、もちろんセージだ。でも、積極的にひとりひとりが意見を言ったりアイデアを出したりした。
そんな場で、トオルのドラムは、毎回、セージにめちゃくちゃにけなされていた。それは、外部のひとが聞いたら、ちょっと驚いてしまうくらいに徹底的な批判だったろう。
ぼくは、バンドに参加してずいぶんたってから知ったのだけれど(もちろん、初めてのNEXUS本、かなり売れたっていう『NEXUS・SUCCESS』で学んだというわけではない)、ヒロとセージは中学のバスケットボール部で同級生だった。そのクラブの一年後輩のトオルには、ふたりが文句をつけやすかったのかもしれない。
トオルは、毎回、その日の演奏をテイクしたテープを持ち帰っていた。きっと、夜中に自分の太腿《ふともも》を必死にたたいていたのだと思う。彼のドラミングは、このころどんどんうまくなっていった。
トオルだけではない。ぼくもヒロも、きっとセージだって、各自が個人でかなり練習をしていた。
そういう反省の場で、セージはトオルに対するときとは違って、ぼくには厳しい言葉は使わなかった。
「このあたりさ、少し、何ていうのかな、キレが足りなくない? もうちょっと、キュンって感じで、いけないかな」
そんな表現。彼のとっておきの笑顔で、ぼくのことをのぞきこみ、頼むようにして言う。
ぼくは、彼がぼくにそんなふうに優しいのには不満だった。子ども扱いをされているように感じたのだ。ぼくだけ、一人前のバンドのメンバーとして認められていない。もちろん、ヘミの言う、「かわいい」なんてことと関わりない次元の問題だ。
でも、ぼくは、そんなセージの言葉を聞き漏らさないように努力した。そして、家でその新しい課題に取り組んだ。セージがぼくに課したテーマなのだから。
次に会うときには、セージを、トオルやヒロをびっくりさせたかった。だから、家でひとりで弾いている時間も、ぼくにとっては楽しいものだった。
何か、バンドというのには(もしかしたら、さっき言ったスポーツのチームにも当てはまるのかもしれないが)、そういう時期があるのだと思う。みんなの力が合わさり、実力がアップしていくような。
少しずつ、少しずつ、ぼくたちは、ステップスの観客の心をつかむようになっていった。ステージというのは、ダイレクトに相手の反応がわかる。受けがよくなると、ぼくたちは、ますます努力する気になった。
そして、それは、やがて営業成績として、目に見えるものにもなる。NEXUSの出演する日は客の入りがよい。
ある日、その夜の演奏が終わったあとだった。楽屋に、マネージャーがやってきた。それは異例のことだった。彼はミュージシャンというタイプの人間たちを嫌っていたのだと思う。それまでプライヴェートな接触は、絶対にしようとしなかったのに。
マネージャーは、今日のステージは、not too badだったと言った。ぼくたちは、それに対してむしろ警戒するような感じで、彼が何を言い出すのかと待っていた。
マネージャーは、その雰囲気が気にくわなかったようだった。すぐにセージの方を向くと、もう一日やる気はないか、と聞いた。
「Any other day You can play twice or rather, three times a week」
セージはその時、ちょっと、もったいぶって答えたはずだ。スケジュールの調整がどうのこうの、とか。
ステップスでやれる日が増えるのなら、ぼくらにスケジュールの問題などあるはずがなかった。ヒロの大学やぼくの高校の授業はどうでもいい。トオルはぶらぶらしているし、あるとしたって、せいぜいセージのガソリンスタンドのバイトの都合ぐらいだった。
ぼくたちは、ステップスのレギュラーのバンドのうちで、一番人気になったのだ。
10
ステップスには、ぼくは、ひとり自転車で通うことが多かった。いまのぼくたちを知る君にしたら、変な感じがするだろうか。それは妙に健康的でさえある。ぼくは、ギターを背負い海岸沿いの道を走った。
集合はバラバラだった。他のメンバーはバイトの仕事があったりして、ぎりぎりに駆け付けることもあった。
このあたりのことは、NEXUS本でも結構おもしろおかしく書かれている。たとえば、さっきちょっと触れたセージのガソリンスタンドについて。
当時、彼が主任に昇格したというエピソードは本当だ。「職場での責任が重くなり、バンド活動との両立に悩んだ」とかいう表現は、なんだかセージのキャラクターにそぐわなくて滑稽《こつけい》だけど。
ぼくたちは、結局は、ステップスのステージで鍛えられ育て上げられた。チームワークが、バンドとしての一体感が強まった。でも、バンドとしてだけではないのだ。ぼくは、個人的にも実に多くのことを学んだと思う。高校に興味を失ってしまったぼくにとっての学校はステップスだった、と言うとあまりに型どおりだろうか。
ただ、その比喩《ひゆ》をつかった場合、ぼくの直接の教師は、オーウェンなのだ。そう、あの「リンプ野郎」のオーウェン。
ぼくは、ずいぶんと早い時間からステップスに行った。自転車を裏口の脇のフェンスに立て掛けるようにして止める。すると、日陰になった階段のところには、オーウェンがいた。彼は昼間の時間は、そこで港を見ながら過ごしていることが多かった。
ステップスで彼が何をしているのか、ぼくにはよくわからなかった。確かに、マネージャーは、彼に一目置いているようだった。しかし、彼が何か権限を持って店の仕事をしているわけでもないらしかった。
オーウェンは、マネージャーから、よく食べ物をもらっていた。あのオーディションのときのピザのように。白髪のマネージャーが厨房《ちゆうぼう》にその指示を出すと、オーウェンは感謝の意を示した。その様子は時に卑屈なくらいで、それこそがふたりの関係を示していたようにも思える。
従業員たちも、オーウェンについては、みな、あまり知らないようだった。彼らは長身ですぐに苛立《いらだ》つマネージャーのことは恐れていた。その反動もあるのだろうか、オーウェンは、むしろ冗談の、あざけりの対象だった。
彼はひとり暮らしで、定職に就いてない。軍の年金は、物価の高い日本ではたいした額にはならないのに、いったいどうやって暮らしているのか、などとよく話題にしていた。
彼の脚の怪我も、オーウェン自身は戦争のせいだと主張するけれど、交通事故だとか、あるいはケンカで負けたからだとかいう噂もあった。
ある日、日本人のウェイターがオーウェンをからかう場に、ぼくも居合わせた。客の減った午後、調理場の裏でだった。
ウェイターは、いったい何の戦争で怪我したのかと、しつこく問いただした。
「ベトナム戦争? 朝鮮戦争? それとも、第二次大戦かい?」
答えのないオーウェンに対してウェイターは、アメリカの独立戦争か、とも言った。
オーウェンにはその日本語はわからず、皮肉は通じないようだった。彼は義足のついた脚を指さし、
「war」
とだけ言い、悲しい顔をした。
ぼくは、それ以上聞いていたくなかったから、オーウェンの腕をとって、楽屋へうながした。そんなとき、彼は、わざと、いつもより脚を引き摺《ず》っているように、ぼくには思えた。
オーウェンが何歳なのかは、ぼくも知らなかった。でも、そんなことはどうでもいいのだ。教師としてのオーウェンから、ぼくは、生涯にわたって忘れないものを学んだ。
すなわち、それは、ブルースだ。
オーウェンは機嫌がいいと、ギターを弾き、ハーモニカを吹いた。いま思えば、とても泥臭いブルース。彼は白人だったけれど。
ときには、ぼくのギターで彼が歌うこともあった。そんなとき、彼は、ぼくのギターが速すぎる、とよく言った。
「もっと、スローに、そう、そのくらいスローに。ミュージックは、ゆっくりと味わう。リンは先を急ぎすぎる」
そして、ぼくが指示されたように弾くと、オーウェンは、とても褒めてくれた。それは、ぼくが十五歳で子どもだったから、彼が心を開いてくれたのだろうか。
言葉はあまり通じないときも多かった。でも、ぼくは、オーウェンの話を理解しようとした。
「アメリカの故郷の町で暮らしている、とっくの昔に他の男のところに去った妻」というのが、ブルースの歌詞の説明なのか、それともオーウェン自身に起こったことなのかさえわからなかったりしたけれど。
ぼくは、そういう話をするときの、彼の姿勢が好きだった。
これは、ぼくなりの解釈かもしれない。オーウェンは、何かを断定しようとしなかった。決めつけず、すべてを受け入れようとする態度を見せた。それは、ある種のブルースの態度と呼んでもいいものだと思う。
でも、オーウェンが感情をあらわにしたこともあった。いつか、セージが歌ったときのことだ。「人生は短い。俺たちには時間はほとんどない」という意味の歌を。
ステージから降りてきたぼくたちに、オーウェンは、珍しく気色ばんでいた。
セージをつかまえる。
「ヤングマン。ああいう歌は、歌うべきじゃない。まだ、いけない」
そんな感じのことを早口で言った。
セージは、両手を開いて振った。そうかい、そうかい、と言うように。オーウェンには返事しなかった。全然、取り合わなかったのだ。そんなセージの背に、オーウェンは、ぼくの聞き取れない英語を叫んだ。
もともと、セージは、ぼくがオーウェンと接触すること自体を、好ましく思っていなかった。オーウェンのことをぼくがしゃべると、露骨につまらなそうな顔をした。それが、音楽の話題であっても。
ある日、ぼくをわざわざ呼んで、こう言った。
「あまりオーウェンのことを信じない方がいいぜ。オーウェンは、俺たちで、ひともうけしようとたくらんでるんだ。NEXUSを売り込んでピンはねしようとしてる」
そういう事実があったのかどうか、ぼくにはまったくわからない。確かに、プロとしてデビューする話が、ステップスに出演するうちに、いろいろと来だしたようだった。時にセージが興奮している様子で、それがわかった。いよいよ夢が現実的なものになってきたのだ。
トオルもヒロもぼくも、そのこと自体には、そんなに驚きはしなかった。ステップスでやれていれば、デビューは当たり前に思えたから。
セージも、余裕を見せた。
「もうちょっとさ、具体的になってから、みんなには言うよ。ダメになったりすると、いちいちがっかりするでしょ。いい条件で契約したいからね」
対外折衝は、すべてリーダーであるセージがしていた。オーウェンがそれに関わっているにせよいないにせよ、ヒロやトオルはともかくとして、ビジネスに関してはぼくのところまでは伝わってこなかった。
そう、オーウェンについてだ。
「これまでもね、若いバンドを食い物にして、そんなことばっかしてたらしいぜ。あいつは、きたないリンプさ。リンピィ・オーウェンだ」
そんなふうに、セージは言った。
しかし、結局のところ、セージにも否定できないだろうと思うことがある。それは、ステップスに出るようになってから、NEXUSのサウンドが変わったことだ。
それまでのロックン・ロールに、ブルースが加わってきたのだ。まず、ぼくのギターがブルースっぽくなった。セージは、最初、それをあまり歓迎しなかった。というか、戸惑っているみたいだった。でも、サウンドに厚みが出ることがわかって一応受け入れた。
つまり、リンプ・オーウェンの影響は、ぼくを通じてバンドに現れているのだ。それだけではない。港の見える、いつもの階段でだったと思う。ある日、オーウェンはぼくに言った。
「リン、おまえたちは、そのうち人気が出る。いまおまえたちが期待している以上に出る。そのときが問題。駆け上がったあと、人気のピークになったとき、どんなミュージックが出来るか。バンドはそこが勝負」
そう、オーウェンは、NEXUSにプロのバンドになるための場を提供してくれた。ブルースを教えてくれた。それに加えて、予言者だったとも言えるのだ。
言われたときには、ぼくには実感できなかった。自分たちが人気が出るなんて、信じられなかったのだ。ぼくは、この言葉がどれほど重い意味を持っていたかを知ることになるけれど、それは、まだずっと先の話になる。
その前に大きな事件があった。CDデビューが正式に決まってみんなが喜んでいるときだったというのに、セージはベースのヒロにクビを宣告したのだ。NEXUS創設時からのメンバーであり、セージの昔からの友人であるヒロに。
11
セージがデビューが決まったことを告げたのは、ステップスの近くのバーでだった。
「いや、もう、すごい乗気なのよ、そこの社長ってのが。かなり前からステージ見に来てくれてたらしくてね。知らなかったよな、そんなこと。で、俺たちで、どでかい一発、当てようって思ってるんだ」
セージは、一方的にまくしたてた。ヒロもトオルも、口をはさむ余地はない。もちろん、ぼくだって。
セージがひと通りしゃべったところで、ようやくアメリカ人のマスターが注文の飲み物を作り出した。ウィスキーをキャップで計ったあと、その数倍の量をボトルからどぼどぼと注ぐ。サービスのつもりなのだろうけど、最初に計るのがまったく無意味な気がする。
そこは、ギグが終わったあと、よく行った店だった。狭くてきたないショット・バー。ぼくたちだけでなく、ステップスに出るバンドのたまり場のようになっていた。最初に連れてってくれたのは、オーウェンだった。
肝心の所属することになる事務所については、セージの説明はごくわずか。いままでにどんなバンドがいたかぐらい。事務所もそのバンドの名前も、少なくともぼくにとっては初めて聞くものだった。たいして有名なプロダクションでないことだけはわかった。
ヒロが口を開きかけたのを、セージは手を上げてさえぎった。
「わかってるって、言いたいことは。なまじさ、なりだけデカイとこよりいいと思うんだ。いっぱいバンドがいて、面倒見が悪いようなね。ま、あのオジサンだったら、全力でNEXUSを売り出してくれるよ」
ヒロは、カウンターの高いスツールの下で脚をぶらぶらさせた。脚もとには、タバコとピーナッツの殻、丸まった紙ナプキンが散らばっている。
ヒロはちょっと不満そうな横顔で、でも何も言わなかった。
結局、ぼくたちのバンドでセージの言うことに反対できるのは、ヒロだけだった。トオルはただニヤニヤしてるばかりだし、ぼくは問題外だ。そのヒロが黙るというのなら。
さて、はたして、セージのプロダクションの選択は正しかったのかどうか。こういうときの彼の判断力をどう評価したらいいのか、ぼくにはわからない。
最終的にNEXUSは成功したのだから、彼のカンは当たってたと言ってもいいのかもしれない。でも、それはあくまで結果論だし、そこに至るまでに、まだまだいろんなことがあった。
セージは、さらに声の調子を上げて、
「それよりさあ、やっぱ、ともかく全曲オリジナルでいこうよ。バーンとね」
と言った。
そして、ヒロの肩越しに、ぼくの方を見てうなずく。そのときの、カウンターに片|肘《ひじ》を軽くついている彼のポーズまで、ぼくは覚えている気がする。そのまま写真集のカットに使えそうな、とてもセージらしいポーズ。彼は、時間が止まったかのように、突然、静止する。
もともとぼくたちは、既成の曲のテープを聞き込んで一音一音を忠実に再生しようとするようなコピー・バンドのタイプではなかった。どんな曲でも、演奏するときには大幅なアレンジを加えていた。でも、オリジナルと呼べるものは、そのころは数えられるくらいしか持っていなかった。しかも、レコーディングとなれば、ある程度の水準が必要だろう。
しかし、なんであれ最初のCDは、全曲、オリジナルにする。それは当然のことだ。
「パッパッと、作っちゃおうぜ。まず、十個ぐらい」
セージは、言った。
カウンターにもたれ、自信たっぷりの笑顔を浮かべる。
「リン、ヘムの家でやろう、明日から」
†
NEXUSのオリジナル曲につくクレジットは、すべて「作詞・作曲 セージ&リン」となっている。そのきっかけについて触れておきたい。
時間は、さかのぼる。
セージのアパートに初めて行ったときのことだ。彼は家族とは離れ、ひとりで住んでいた。その事情は、ぼくは聞いたことがない。だいたい、彼は、自分の家のことなんて、誰にも話さない。いままでのNEXUSに関する本でも、彼の生い立ちは空白のはずだ。
セージには、親がいない。死んだとかいうのではなくて、彼は、この地球上で自然発生したのだろう。歌をうたうために。
ぼくは彼の部屋に初めて案内されて、なんとなく奇妙な感じがした。しばらくしてから、それが、ほとんど家具らしいものがないせいだと気づいた。家具というより、とにかく物がなかった。引っ越したばかりなのかもしれない、とぼくは思った。しかし、その後もセージの部屋にはあまり物が増えることはなかった。
あのとき、ぼくがセージのアパートを訪ねることになったのは、なぜだったのだろう。練習の帰りに、ぶらりと立ち寄ったとかいうのなら、ヒロやトオルが一緒にいた方が自然だ。でも、ふつうセージはそういった遊び方はしない。彼は、つきあいが悪いといった方がいいくらいだ。トオルとヒロは、時間つぶしのようにぼくと遊んでくれたけど。
だとすると、やはり、セージに何か考えがあってしたことなのだろうか。
とにかく、初めてセージの部屋に上がって、少し緊張していたぼくに、彼は、
「昨日の夜ね、できた曲があるんだ」
と言った。
日に焼けた畳の上にラジカセが放り出されるように置かれていて、そのスイッチをセージは押す。
流れ出してきたのも、部屋と同じくらい奇妙なものだったと言っていいだろう。
単調なアコースティック・ギターがリズムをきざむ。セージの歌うメロディ・ラインは、サビ以外の歌詞は出来ていなかった。意味のない英単語の羅列、あるいはただのハミングでつながれる。
転調する部分で、そのメロディ・ラインとギターのコードがずれているのが気になった。
夏の夜だったと思う。窓が開いていて、街の音が時折聞こえた。セージの部屋で、ぼくとセージはラジカセをはさんで畳にすわり、セージの作りかけの曲を聞いていた。
セージは、楽譜がまともには読めない。もちろん、書けない。だから、浮かんだメロディは記憶の中に蓄えておくかテープに吹き込むかしかないのだ、ということを、ぼくはそのとき初めて知った。
あくまでメロディが優先で、合わせられる範囲でギターのコードが押さえてあった。当時のセージが持っていた、ひどく安物のギターで。
特にテープが変に感じられたのは、ギターやドラム、時にはコーラスのパートまで、彼の口で入れられているためだった。簡単に言ってしまえば、伴奏までひとりで歌っているカラオケみたいだったのだ。
そう、それは、奇妙なものだった。きっと、セージの声でなかったなら、聞くに耐えなかったことだろう。でも、そこには、ステージでの彼とは違った、もうひとつのセージの歌があった。聴衆と対決し挑発するのではなく、自分の心の中を静かに見つめているような。
セージは、深夜に歌う。ラジカセの性能の悪い小さなマイクに向かって。全貌《ぜんぼう》の見えていない曲のイメージをふくらませながら。
中途半端なエンディングで、短いテープが終わった。
ぼくは、バッグからノートを出した。ページを破り、楽譜を書く。彼の声では表現されていなかった部分を補いながら。
この当時のセージの曲がたいていそうであったように、シンプルな構成にした。セージの「昨日の夜にできた曲」に、ぼくは8小節のイントロをつけた。それと同じコード進行を続ける。転調したミドルをおさえ、もとに戻る。
ぼくがNEXUSにはいった時点で、オリジナルは五、六曲あった。すべて、セージがひとりで作っていたらしい。
それらの一部は、あとでアルバムに収録されているから、君も聞いたことがあるかもしれない。でも、アレンジを大幅に加えてある。もともとの形は、かなり単調な、ロックン・ロール色が強いものだったのだ。
ぼくは、A-B-A'の形式で、ひとまずワン・コーラスを完成させた。自分なりに解釈した装飾音もつけて。ぼくのピアノ教師は熱心だったし、ぼくは貪欲《どんよく》に吸収する子どもだった。すでに小学生の段階で、そのくらいのことは出来る訓練を受けていた。
セージは、とても驚いたようだった。まるで、人間わざではないというかのように、ぼくの作業を見つめる。前の晩に彼が思いついたメロディが、ひとつの曲として仕上げられていくところを。
単純なリズム・ギターとベースのパートを書き終え、ぼくはボールペンを置いた。見上げると、セージの表情は、驚きから賞賛に変わっていた。
「すごいぜ。こんな才能まで、リンにあるとはね」
しかし、セージから楽譜に視線を戻したとたんに、ぼくの誇らしい気分は、急速にさめていった。ぼくは恥ずかしくなったのだ、自分のしたことに。
楽譜なんて、本来、どうでもいいものだ。たいした価値はないのだ。
楽譜が発明されるずっと前から、人は歌をうたい演奏をしてきた。もし最初からテープレコーダーやCDがあったなら、楽譜の発展は、まったく異なった道を歩んだことだろう。
録音の手段を持たないため、演奏されるやいなや一瞬に消えていく音を記録にとどめようとした。そんな、むなしい努力の結果がスコアなのだ。
その証拠に、ぼくの手にある楽譜は、セージのハミングの持つ雰囲気、曲の調子は、まったく表現できていなかった。「音楽」がどこに存在するのかと言ったら、それはあきらかに不完全なセージの肉声のテープの中だった。
黄色っぽい畳の上に置かれた、聞いたことのないメーカーのラジカセ。そこにセットされたテープに記録されているセージの声。それに比べたら、ぼくの楽譜は「音楽」のまがいもの、いや、ほとんど「音楽」のひからびた死体みたいなものだった。
ぼくは、恥ずかしくて縮こまっていたのだと思う。下を向いていたぼくの肩がつかまれた。
セージは、ぼくのアゴの先に指をそえ、彼の方を向かせた。
「やってみよう」
力強く、ぼくを誘った。
「さっそく、これでやってみようぜ。この楽譜で」
彼は、彼の安物のアコースティック・ギターを、ぼくに向かって差し出した。
ぼくがギターを弾く。セージが合わせて歌う。すると、「音楽」が突然に、まったく突然に息を吹き返した。
その晩、セージの求めに応じて、ぼくは、それまでのオリジナル曲を次々と採譜した。もちろん、ぼくがギターを弾き、セージが歌ってチェックしながら。
ぼくは、幸せだったのだと思う。これは、あとになっての感想だ。ぼくは興奮していて、疲れを感じなかった。おそらくセージも。
気づいたときには、窓の外の空がうっすらと明るくなってきていた。
†
セージが、ヘミの家で曲を作ろうと言ったのは、物理的に彼のアパートに問題が生じたからだった。それは、相当に古い建物だった。どこかの部屋でトースターかレンジがチンと音をたてる。すると、セージの部屋の照明が明るくなるくらい。
たぶん古いせいで人気がなくて空きが多いアパートだったのに、彼の隣の部屋にひとが越してきたのだ。ギターを弾いたり歌ったりすると、すぐに激しく壁をたたかれるようになってしまった。
そして、ぼくの部屋というのも都合が悪かった。これは、物理的にではない。母親が家にいる場合、なにかとうっとうしかった。
それで、ぼくは放課後、高校から直接にヘミの家に向かった。最初の一晩(と呼ぶのだろうか?)以降、セージを含めた何人かでヘミの家に行ったことはあった。でも、ひとりで行くなんてことはなかったから、なんだか落ち着かない気がした。だいたい、ぼくはあれ以来、ヘミとふたりっきりになったことさえなかったのだ。
緊張したぼくに、ドアを開けて迎え入れてくれたのは、セージだった。
「やあ、ちょうどね、いいサビ思いついたとこ。いかしてるぜ。聞いてよ」
セージは、ぼくをせかせた。朝から気合いがはいってたのだろうか。彼は、バイトを休んで準備していたのだ。
そうだ。このときセージが口ずさんだ曲、デビューCD用に最初に出来た記念すべき曲が、「YOUR FAULT」だ。
君は聴いたことがあるだろうか。本来、小品というべきものかもしれない。シングル・カットもされなかった。
でも、ぼくは好きだ。そこには、セージが持つ、ひとつの特質が現れている。この曲も、クレジットは「セージ&リン」というふたりの名前。けれども、実際のところ、作ったのはほとんどセージだ。
あの、「あなたが悪いのではない」、というリフレインの印象は、結構強いと思う。
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ぼくたちが、こんなになってしまったのは、あなたが悪いのではない。
子どもたちが痛めつけられているのは、あなたが悪いのではない。
森が焼かれ鳥たちが滅びるのは、あなたが悪いのではない。
世の中がうまく回転していかないのは、あなたが悪いのではない。
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この曲では、ぼくのギターは、華やかなリフは弾かない。リズム・ギターに徹した。単調で重いリズムを刻んで、セージのヴォーカルを支えるのだ。
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あなたに罪はない。世界が病んでいるのだ。地球が死のうとしているのだ。
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それは、奇妙なほどゆったりとした、繰り返しを行う。聴いているものを際限なく許す。彼の声が、すべてを包み込むようにして。
そうしておいて、セージは、曲の最後の最後で、突然、つきつける。
冷たく、突き放すように歌う。
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でも、悪いのはあなただ。
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それは論理を超越している。急にセージに裏切られ責任を問われたリスナーは、それに答える手がかりも見つけられないまま、一方的に曲は終わる。
悪魔的?
そう言おうとすれば言えるかもしれない。でも、それこそがセージの持つある側面なのだ。そして、それは、ふつうなら欠点に数えるべき事柄なのだろうけれど、ぼくがセージをたまらなく魅力的だと思う源泉のひとつなのだ。
おそらく。
†
ヘミの家は、曲を作るのには適していた。親だとか隣人だとかの邪魔がはいらないのはもちろん、そこは、セージの属する場所でもぼくの場所でもなかった。ふたりが向き合うと、自然に音楽に集中することができた。
簡単にすんなりと出来てしまう曲もあれば、どうも思うようにいかず何度もやり直したり。あきらめて、とりあえず置いておくことにしたり。
気分転換に外に食事に行くこともあったけれど、ヘミがコンビニで買ってきてくれたものを食べては、曲にもどることが多かった。彼女は、際限なく続きそうなふたりのやりとりをそばで聞いていることもあったし、気がつくと二階に上がっていたりした。
それは運動部を知らないぼくの、初めての合宿だった。親の手前、たとえ遅くなっても家には帰っていたけれど。
そんな曲作りもかなり進んだころのことだった。
その日、ヘミの家に着いてみると、セージはいなかった。ぼくはギターの弦を張りかえることにした。置きっぱなしにしてあったアコースティックのギターだ。
別にコンサートをするわけではないのだから急いで代える必要はないのだけれど、音がへたっていたので気になっていたのだ。トオルは、ぼくのそういうのが困ったところで、まさに神経質なおぼっちゃんなのだという。
弦を通してペグを巻いていると、ヘミが近づいてきた。携帯をぶらぶらさせている。
「セージから。遅くなるって。どうする? 私の部屋へ行く? それとも、あなたは、そういうことは、したくないのかな?」
ぼくがどういう意味なのかわからずに戸惑っていると、
「セージのことだったら、気にしなくていいのよ。この前だって、なんだ、やらなかったのかって。驚いてたわ」
床にすわってギターのネックを持っているぼくを、ヘミは腰に手をあてて見下ろしている。
「セージと私がそんなベタベタした関係じゃないっていうのは、あなたはわかってない? お互い好きな相手がいれば寝るし、それでいいのよ私たちは」
ヘミは、ぼくにかがみこむようにして言った。
「私としては、ぜひ、あなたとそうしたいんだけど」
ぼくたちのことは、あとになって世間でスキャンダルになった。ワイドショーや芸能誌が数週間にわたって大きく取り上げた。
でも、そのとき言われたように、ヘミがセージとぼくのふたりが共有する愛人だったわけでは、決してない。ヘミはあくまで、自分の基準で行動しているだけだ。
君が熱心なワイドショーの視聴者だったら、覚えているかもしれない。その当時すでに人気が出ていたヘミは、追っ掛けレポーターのしつこい質問にも動じなかったはずだ。
彼女があまりにも堂々としているので(それは製作側の意図に反していたのだろう)、ヘミは「愛人として共有されたかわいそうな女」から、「セージとリンを手玉にとる悪女」という扱いになった。そのころにはNEXUSを取り巻くスキャンダルも飽きられ、他の芸能ネタに視聴者の興味は移っていったようだけれど。
それで、ぼくたちは二階に上がり、ヘミの部屋で初めてのセックスをした。
ぼくは、そのことについて何を言ったらいいのだろう。その、ぼくの腕の中で、かたちの定まらない柔らかくて弾むものについて。そして、ヘミの指の動きについて。それが、ぼくに何をしてくれているかということ。
それから、たとえば、ぼくたちが重なるときに、彼女のからだが、ぼくのからだの下でどんなふうになるのかということについて。
ぼくはヘミのからだの中で、激しく射精した。
しばらくして、下でドアの開く音がした。セージがやって来たのだ。彼は、ヘミの家の鍵《かぎ》を持っていたから。
ぼくが起き上がると、
「いいのよ。急がなくて」
ヘミは言った。
でも、ぼくは服を着て、階段を降りた。ぼくの足音を聞き、下からぼくを見上げながら、セージは言った。
「遅れてごめん。でもさ、今日、俺、めちゃめちゃさえてんのよ。この前の最後のやつ、変えよう。もっと、ずっと、いかしたのになるって」
ソファに放り出してあったギターを見て、セージは顔をしかめた。
「おい、急いで、弦張ってチューニングしてよ」
ぼくは、さっそく作業に取りかかる。
†
オリジナルの曲のストックは、だいぶ出来てきた。
ステップスでのライヴでは、それらも演奏するようになった。みんなの力がはいってきたころだ。そうだ、NEXUSのデビューは、もうすぐ、手の届くところまで来ていたのだ。
そんなある日のことだった。
セージは、ぼくに、
「ベース、代えようよ。な、そうしよう」
と言った。
それは、強く同意を求める言い方だった。バンドに関することは、すべてセージがひとりで決めていたのだ。ぼくが何と答えようと、セージの決心が変わるはずはなかっただろうに。
いまになって思うことがある。あのときの曲、CD用に最初に作った「YOUR FAULT」という曲は、もしかしたら、ヒロに対して向けられていたのだろうか。
セージが、ヒロに向かって言う。
[#ここから改行天付き、折り返して3字下げ]
悪いのはあなただ。
[#ここで字下げ終わり]
12
いつものように自転車をステップスの裏のフェンスに立て掛けて、ぼくは調理場と共通の裏口からはいっていった。
「あれ?」
顔なじみの日本人のバイトだった。洗い場の担当。
「今日、休みじゃなかったの?」
いやな予感がした。
「あ、ちょっと用事があるんです」
ぼくは、適当に話を合わせて楽屋への階段を降りた。
スティックを両手に持って、トオルがパイプ椅子に座っていた。背を丸めて。トオルはふだんでも猫背気味なのだけど。
「キャンセル、知らなかった?」
「うん」
「そうか。連絡、間に合わなかったか。リンは、いつもケイタイ、オフにしてるんだから」
トオルは、スティックで自分の腿《もも》を軽くたたいた。
そして、景気をつけたかったのだろうか、それまでよりずっと大きな声で言った。
「ヒロ、辞めるんだってな。聞いてた?」
「えーと、なんとなく」
変な返事だった。言った瞬間におかしいと気づいた。
トオルは、肩を落とした。
立っているぼくを、目だけで下から見上げるようにして、
「やっぱり、セージ?」
と聞いた。今度は、小さな声だった。
ぼくの言い方で、すべてが判明してしまったというのだろうか。
「たぶん。そうだと思うけど」
トオルは、うなずく。頭の中で何かを確認するように。
そして、ぼそぼそと話し始めた。
昨日の夜遅くに、ヒロから辞めるっていう電話をもらった。忙しくなったからとか、そんな不自然な理由をちょっと言うだけで、すぐに切りたがった。
その電話を置いたとたん、セージから連絡がはいった。ヒロがNEXUSから脱退する、翌日のステップスのステージは休む。
セージからも説明はなかったっていう。それは、そうだろう。セージは、もともと電話であれ直接向かい合ってであれ、「説明」なんてしない。いつだって、自分が言いたいことを言うだけだ。
トオルから一応の話を聞き終わったぼくは、ステップスの楽屋の天井を見上げた。いつもと同じ、薄暗い蛍光灯の下がった、ほこりだらけの天井だ。
「夜中に突然そんなこと言われたって、わけわかんないだろ? リンなら、もっと知ってるかと思ったんだけど」
トオルは、スティックで、また自分の腿をたたいた。家での練習は音が出せないから、いつも腿ドラムでしているのだ。
「でも、ほら、時間が遅かったからさ、二時か、へたしたら三時ぐらいだったよ。お袋さん怖いから、家の方には電話できなかったんだ。セージも、ヒロもそうだよ。きっと」
トオルは、気づかってくれている。ぼくのために、キャンセルになったのを承知でステップスに来てくれたのだ。
トオルによると、ステージの中止の理由は、「メンバーのやむをえない事情」となっているらしい。確かに「やむをえない事情」だった。バンドにベースがいなくなってしまったのだから。デビューを直前にして、客の入りの悪くないNEXUSだったのに。
でも、自然にいなくなったのでもなんでもなくて、それは、セージが辞めさせたからなのだ。
セージの行動は素早かったことになる。ぼくに「提案」したのは、一昨日の夜のことだ。翌日、いや、その晩のうちかもしれない。彼は、ヒロに通告したのだ。電話でひとこと、「おまえ、辞めろよ」とでも言ったのだろうか。
「会いに行こうかって考えたんだけど……。でも、いま、ヒロさんは嫌がるよね。スタメンはずされたやつが、ヘラヘラしてるわけにはいかない」
珍しくトオルは、バスケットボール部時代の比喩《ひゆ》を使った。そのせいなのだろうか、ヒロに「さん」をつけている。これまで、ふだんは呼び捨てにしていたのに。
NEXUSは、中学の同級生が卒業してから集まって結成されたバンドだったという。ぼくが初めてセージたちに出会った、JRの駅裏のあたりにある中学。
ぼくは公立の中学校の雰囲気は知らない。でも、まあ、だいたい想像はつく気がする。同窓会気分で仲間が集まっているうちに、バンドをやってみようかという感じになった。
最初のグループ名は「マーズ」だったっていう。ヒロとセージは、そのオリジナル・メンバーだった。
マーズ? 火星?
なんていうネーミングだ。彼らの仲間に天体望遠鏡を愛用する宇宙少年がいたとも考えにくいから、火星は戦争を象徴するのだとか、軍神がどうのこうのとかいう暴走族系の発想だろうか。
ぼくが初めてライヴハウスで出会ったときには、すでにNEXUSになっていた。やはりマーズにはうんざりして、なるべく意味が少ない名前にしたのかも。
しばらくしてドラムはトオルになる。その交代の事情は聞いていない。ともかく、それまでのドラムが抜けたので、セージとヒロがトオルを誘った。遊び仲間(あのカツアゲも、その「遊び」のひとつだったというのだろうか)で、楽器はまったくの素人だったのをセージが一から練習させたのだという。
めちゃくちゃに文句を言われたらしい。
「もう、組はいってパシリからやらされたって、あんなにつらくはないね」
トオルはニヤニヤしながら、そんなふうに話してくれたことがあった。
セージとヒロが、その中学のバスケットボール部でトオルの一年先輩だったということも、そのとき初めて聞いた。だから、トオルはいまでも頭が上がらない。ぼくにはばかばかしく感じられる、体育会の世界だ。
そして、ぼくがはいるときには、ひともんちゃくがあった。それは前に話したとおり。ぼくの前のリード・ギターのヨッチャンに対して、セージの態度は残酷だった。みんなの前で、いきなりクビを宣言したのだから。
その後のNEXUSのメンバーの、セージ、トオル、ヒロの三人は、ぼくからは、とてもうまくやっているように見えていた。みんな仲が良い、と言ってもいいくらい。
だいたい、最初のうちは、ぼくは、ひどく戸惑っていたのだ。ひとりだけ歳が四、五歳離れていた。しかも、あとからバンドに加入したのだ。常に、三人とぼく、という構図だった。ついていくだけで精一杯で、三人の関係など、実際のところ、見えていなかったのだろう。
そんなぼくに、いちばん優しくしてくれたのがヒロだった。セージは、完全に自分のペースだけで動く人間だ。他人に対してはまったく興味を持っていないんじゃないかと思うことさえあるくらい。トオルは……、トオルは、ほとんど冗談しか言わない。
ヒロだけが、ぼくにとって、いつも頼れる存在だった。ステージの上であれ下であれ、ぼくにインストラクションを与えてくれる。
そう、彼のことは、ぼくの両親も、そんなにいやがらなかった。母親から見ると、トオルとセージは、恐るべき「不良」だったのだ。自分の息子が絶対につきあうべきでない人間たち。
ぼくは、ヒロにはいなくなってほしくなかった。だから、一昨日セージが辞めさせると言い出したとき、無駄だと思っても反対したのだ。
ぼくは、その夜のことを、トオルに話した。
セージは、ヒロのベースのテクニックが問題なのだと主張した。
「だめよ、あれじゃ。プロでやっていこうっていうレベルじゃないね。俺たちNEXUSはさ、もっと高いとこ目指してるの」
正直な話、ヒロがそんなに下手だとは、ぼくは感じていなかった。むしろ、彼は、あのころのアマチュアのグループの間では、うまい方のベイシストだったと、いまでも思う。少なくとも、呼吸の合わせやすさという面では、ぼくは楽だった。
ロックでは、ベースとドラムがリズムの基本を作る。そのふたつの楽器がきちんとした上で、ぼくのようなリード・ギターが遊べる。その場に応じた、好き勝手なプレイが出来るのだ。
だから、ぼくは、そんなにもセージがヒロのベースをけなす理由がわからなかった。
「そう、思わない?」
ぼくは、トオルに同意を求めた。
トオルは、
「あのね、なんだかんだ言っても、ヒロは優等生なのよ。セージと合わない」
トオルは、いったん言葉を切った。
「ほら、みんなで女の手足押さえてやってるのにさ、自分の番がきたらパスするようなやつだから」
それなら、ぼくだってパスする。
ぼくが全然笑わないので、がっかりしたのだろうか。トオルは、ため息をついた。
「おい、この話は、セージには内緒ね。本当のところ、ヒロが人気があるのがセージはしゃくなんじゃないかって思うんだ」
ぼくには意外だった。セージがヒロの人気に嫉妬《しつと》している?
「自分がNEXUSのリーダーでさ、しかもヴォーカルなのに、ベースの方が女の子たちにきゃーきゃー言われてるでしょ」
ぼくは、あまり気にしていなかったけれど、あらためて考えてみれば、そのとおりだった。ヒロは一番人気があった。セージは、むしろ怖がられている感じだった。それに比べると、ファンにしてみればヒロは優しい兄貴だ。
でも、だとしたら、セージは、そんな人間なのだろうか。バンドで自分が誰よりも人気がないと許せない?
ぼくは、壁に立て掛けてあるパイプ椅子を開いて座った。どうしていいのかわからなかった。
「リンと俺とで反対して、いまから多数決したって間に合わないしな」
トオルがボソッと言った。ひとりごとみたいに。
そうなのだ。一昨日、セージがベースを代えると言い出してから、ぼくが考えていたのもそういうことだった。
ただし、「間に合わない」なんていう時間の問題ではない。NEXUSでは、まったく多数決なんて意味がないのだ。トオルとぼくが、ヒロに残ってもらうという案を主張したとしよう。多数決なら、ヒロを含めて三対一だ。
そうなったら、セージはNEXUSを辞める。彼が一度言い出したことを引っ込めるはずがない。そして、彼がどこかからメンバーを集めてきて別のバンドを作るだけのことだ。
ヒロとトオルとぼくは、三人でとり残される。そうなってみると、わかる。セージのヴォーカル抜きでは、バンドにならない。
つまり、セージが絶対なのだ。彼の言うことには、結局は逆らえないのだ。NEXUSというのは、実は、セージ・バンドであることを、ぼくは知った。
トオルがつぶやいた。
「メンバーの交代なんてね。こういったことは、もう、なしにしてほしいね。そしたら、今度はドラムの番だから」
トオルはいつものふざけた調子だった。
でも、その顔には、疲れが見えていた。
いや、全然、ドラムとは限らない。リード・ギターだって同じだ。バンドの誰に対してだって、セージは言うだろう。「悪いのはあなただ」と。
13
ヒロの代わりのベースは、最初からセージの頭にはあったはずだ。それはセージの性格を考えれば当然だと思う。当てがなければ、代えようなどというセリフが出てくるはずがない。彼は、そのあたりは、冷酷なくらい現実的だろう。
しかし、セージは、なかなか次期ベイシスト候補の名前を挙げようとしなかった。
「いや、まだ交渉中だからね。ま、楽しみにしててくれよ。いかしたベースだぜ」
セージの態度は、いつもと変わらない。むしろ、ぼくの不安な様子を楽しんでいるようにさえ見えた。ぼくは、セージの言う「交渉」が決裂してほしかった。そうして、ヒロが戻ってくることを願っていた。
待つのは長かった。その間、NEXUSの活動は停止した。
ぼくは、バンドの将来が不安になってきた。だって、オリジナル曲の構想はほぼまとまって、デビューの日程がせまっていたのだ。
ぼくは、考えた。そんなにも、ぼくはプロになりたかったのだろうか、と。
答えはNOだ。デビューして「芸能界」で人気が出て、ということも確かに大切だ、といまは思う。そうでなければ、バンド活動なんて続けられない。
でも、そのとき、ぼくは、何よりも早くギグがしたいと思っていたのだ。もちろん、できることならヒロのいる、あのいままでのバンドで。
ステージでギターを弾くことのできないぼくは、ふつうの高校生として毎日学校に通うことになった。化学とか倫理社会とか微積分。クラス対抗のサッカー。そこはぼくのいるべき場所とは思えず、すべてが自分の遠くで進行している感じがしたのだけれど。
両親は、そういうぼくの生活ぶりに満足しているようだった。ようやく息子が改心してくれた。ロック熱も冷めて。そう思ったのだろう。
そんな一日を過ごしたあとの深夜だった。
車の止まる音で、ぼくはわかった。階段をいそいで降りて、外に出た。ワゴン車のわきでタバコの火が見えた。
「やあ、どう?」
いつものような挨拶《あいさつ》。ヒロだ。
ぼくは、首を横に振った。
ヒロに何と言ったら、いいのだろう? 彼は脱退を通告されたのだ。そして、ぼくはNEXUSに残っている。
タバコの火が明るくなる。
「もう一度、戻る気はない? セージに頼んでみるけど」
ヒロは黙っていた。
限りなく不可能なことをぼくが提案している。そして、それはお互いにわかっている。
長い沈黙の時間。
「セージは、ひどいこと言った?」
ぼくは、口にしたとたんに後悔した。それはヒロが一番触れられたくないことかもしれないのに。
「いや。そんなことないよ。セージのことは恨んでないんだ。事務所の方針なら、しかたがないよ」
事務所の方針?
街灯の薄暗い明りでも、ぼくの表情でわかったのだろうか。
「聞いてない? そうか。セージは言わないかもしれないな」
ヒロは、話すかどうか、ためらっているみたいだった。
「NEXUSがプロ・デビューするのに、プロダクションは、俺はいらないって」
地面を蹴《け》るようにするヒロ。
事務所との交渉は、前にも言ったとおりセージが一手に引き受けていた。事務所の側がヒロを辞めさせようとしているなんて、トオルやぼくに彼はひとことも言わなかった。
「セージとリンはバンドのフロント・マンだ。トオルは、変なところがいいって。確かにキャラクターがすごいよね」
ヒロは笑った。力なく。
それは、いままでぼくが見たことのないヒロだった。どんなときにでも明るくしようとしていたヒロ。それが、こんな卑屈な感じに笑うなんて。
「それに比べたら、俺は平凡らしい。俺には、大衆をひきつけるところがないっていうんだよ」
「ヒロは人気あるのに」
トオルから聞いたことを思い出してしまった。ヒロの人気を嫉妬して、セージが辞めさせたがっているという説を。
「バンドのカラーに合わないって。まあ、そうかもしれない。そうじゃないかもしれない。よくわからないな。そのへんは」
ヒロの言う事務所の方針というのは本当なのだろうか、とぼくは思った。ヒロを辞めさせるためにプロダクションに責任を押し付けた可能性は、ないわけではないだろう。
でも、そんなまわりくどいことを、セージがするだろうか?
ぼくに対しては、彼は、ヒロのベースが下手くそだと主張しただけだ。事務所とのいきさつなんて触れなかった。となると、セージにあらためて確かめたところで答えようとはしないだろう。
ぼくの頭には、すぐに浮かんでくる。
「いろいろあってね」
微笑むセージ。
「ま、人生、そんなもんよ。それよりさ、すげえいい曲、出来そうなんだ。NEXUSのデビュー・シングルは、これで決まりって感じ」
ぼくの聞きたいことなんて、彼は取り合わない。
ヒロは車に手をついた。地面を見ている。
「いろいろ考えたけど、結局、俺はアマチュアなんだよ。アマチュアっていうのは、ベースのテクがどうとかいうことじゃなくてね。心の問題。セージやリンみたいに本気でプロになりたい、メジャーになってやるっていう決意が足りない。決意じゃなくて情熱っていうのかな。どっちでも、いいか」
そんな、ぼくだって、と言おうとしたけど、ヒロは一気に話し続けた。
「これでCDが出たら、大学生だけどバンドしてます、プロなんですよってとこで、俺、満足してたんじゃないかって。そこんとこ、見抜かれたって気もする」
見抜いたというのは、事務所なのかセージなのか、ヒロははっきりさせなかった。
寄りかかっていた車から離れ、ヒロはぼくの方に向き直った。
「また、しばらくしたらベースやると思う、どっかのバンドで。大学のお遊びバンドかな」
ヒロは、それだけ言うと黙った。
話を終わりにしたがっているのがわかった。ヒロは、わざわざ、ぼくに別れの挨拶をしにきてくれたのだ。約一年の間、いろんなことを教えてくれたヒロ。
「ベース、取ってくる」
ぼくは言った。
「ああ、あれか。あげるよ」
「でも。返す」
ぼくは、ずいぶん前にヒロの古いベースを借りていた。
ベイシストになろうと思ったわけではない。練習の合間に何となく弾いてみてた。そしたら、ヒロが使ってないのを貸してくれたのだ。
ぼくは、家にもどった。
ヒロと一緒の、何回ものステージ。あのステップスのオーディションのカンザス・シティ。
ヒロのベースを手にとってから、ぼくは、部屋を見回した。CDを借りていた。雑誌もあった。やはり、ぼくは一番ヒロから教わったのだ。
ワゴン車の後ろのドアを開けて積み込んだ。
「NEXUS、がんばってくれよ。絶対、メジャーになれよ。俺、応援してるから」
ヒロが握手を求める。元気なところを装っている。
でも、いつものヒロでは、全然ない。
ぼくは、うなずいて手を握ることしか出来なかった。
14
「明日、新しいベース、紹介するぜ。ま、会ってみてどう思うか、意見聞かせてくれよ」
電話がかかった。自信たっぷりのセージ。
翌日、例の米軍キャンプの近くのバーでだった。
セージの後ろに立っているひとは、かなりの年配の男だった。どこか薄汚れた感じの。ミュージシャンというより、競馬場や午後の公園のベンチにいそうな、つまり、はっきり言ってホームレスみたいな感じのひとだった。
すると、ぼくの横にいたトオルが、口を開いた。
「あの、日本にいたんですか?」
その男に向かってというより、セージを越えた、かなたの方角に視線をさまよわせ、どこか間の抜けた調子で聞いた。彼は知っていたのだ、さえない中年に見える男を。
「ああ、当然よ。NEXUSにはいるために帰って来てくれたんだ」
答えたのはセージ。
彼の後ろで、男は、脱いだ革の帽子をいじっていた。つまらなそうに。ぼくは、そんな帽子をかぶるひとを、それまで見たことがなかった。
「さあ、いつまで、突っ立ってるんだ? クニさんの歓迎パーティをしようぜ」
そうだ。
セージがバンドの次期ベイシストとして紹介したのは、あのクニさんだったのだ。ぼくは顔は知らなかった。でも、噂は十分に聞いていた。
クニさんは、ほとんど「伝説のベイシスト」と言っていいひとだった。大袈裟《おおげさ》な表現に聞こえるかもしれない。でも、君が日本のロックのある程度年季のはいったファンなら、ぼくの言いたいことはわかると思う。
彼は、当時、すでに名を知られていた。ロックだけでなく、ジャズやフュージョン系の曲も弾いていた。スタジオ・ミュージシャンとして多くのレコーディングに参加していたのだ。
ここ数年は、足場を外国に移していたらしい。仮にヒロの音楽への姿勢をアマチュアと呼ぶのなら、彼は間違いなくプロだと言っていい。
彼のテクニックに、文句をつけるひとは、そんなにいないだろう。しかし、それだけではない。よくわからないけれど、クニさんはトラブル・メーカーとしても有名だった。
彼は、いったい、これまでいくつのグループを渡り歩いてきたのか。クニさんがベースを弾くと、そこのバンドは半年もてばいいほどだったらしい。つまり、そういう伝説も持つベイシストなのだ。
クニさんは、大儀そうに、登るようにしてバーの椅子に腰かけた。
ぼくたちは、グラスを合わせた。NEXUSの将来に乾杯。でも、笑っているのは、セージだけだ。
ぼくは不安だった。ヒロに代わってベースにクニさんがはいる。それで、だいじょうぶなのだろうか、ぼくたちのNEXUSは。
その乾杯のグラスを、置くか置かないかぐらいのうちにだった。
バーのドアが開いた。
「さっそく、お出ましか」
振り返ったセージが、小さい声で言った。
「ほう、ご苦労なこった」
クニさんは、ため息をつく。
入口には、ふたりの男が立っていた。ステップスにも時々出演していて、ぼくも話したことがあった。当時、全国でも結構名前の売れているバンドのメンバーだった。
「跡、つけられてるんですか?」
トオルが、のんびりと聞いた。
クニさんが首を少しだけ動かす。YESなのかNOなのか、わからない。
「ちょっと、挨拶《あいさつ》に行ってくるよ」
セージはグラスを置いた。立ち上がる。
「俺も行きますよ」
トオルが言った。
「カッコ悪いぜえ。覚えとけよ。こういうのは、リーダーがひとりで行くもんなんだぜ。そのためのバン・マスよお」
セージは、ぼくたちに軽く手を上げた。
ぼくは、そのとき、何が進行しているのか、まったく理解できないでいた。トオルに説明してもらうまでは。
さっきセージが言った、クニさんがNEXUSのために日本に帰って来たというのは、冗談でしかなかったのだ。実際は、別のバンド、NEXUSよりはるかに格上のバンドのベースに決まっていたのを、セージが強引に引き抜いた。彼らは、その文句を言いに来たのだ。
トオルはそれを、雰囲気で察したようだった。なんとも敏感にも。こういうことに関しては、すごい能力がトオルにはある。
そこでセージが戻るのを待つしかなかった。
ぼくは、そわそわしていた。酒を飲んでいるどころではない。セージが心配だった。「ぼこぼこにする」とか「半殺し」だとか、ときどき耳にするような状態に、いまごろセージがなっていないか。
ぼくでは問題外だけど、やはり、トオルがついて行くべきだったのだ。だって、相手はふたりなのだ。
でも、トオルは落ち着いていた。ただ黙っていた。セージのことを、トオルは信用しているからなのだろうか。
ぼくは、クニさんのことも気になった。これから、バンドとして一緒にやっていかなければならない相手なのだ。
彼も、何も言わず、バーボンを飲んでいた。誰もしゃべらない時間が過ぎる。
ゆっくりではあるのだけれど、着実な、一定のペースでクニさんは飲んでいるようだった。自分の移籍のことでもめているというのに、セージのことは気にならないのだろうか。
ぼくの視線に気づいたようだった。
突然、クニさんは、
「いくつだ?」
と聞いた。
何歳なのか。今年でいくつになるのか。高校はどうしたのか。あるいは、いくつからギターを弾いてるのか。親は反対しなかったのか。
ぼくは、このあと、うんざりするほど、この手の質問にさらされることになる。雑誌もテレビも新聞も、最大の興味は、ぼくの年齢にあるのだ。そのギターの音色ではなくて。
いまでは、そういった質問への、それなりのかわしかたも身につけた。でも、このとき、ぼくはバーのカウンターで、初対面のクニさんに正直に答えるしかなかった。
「十五」
クニさんは、酒の瓶の並ぶ棚から、ぼくの顔に視線を移動させた。ゆっくりと。目がギラッと光る。
「もう少しで十六になるけど」
ぼくは、あわてて付け足してしまった。それが余計にいけなかったのかもしれない。
クニさんは、ぼくの答えを聞いて、数回、首を横に振った。なんとまあ、あきれたもんだ、というように。
ぼくの顔は真っ赤になっていたと思う。
セージでさえ十分に年上だったのだ。クニさんときたら、ぼくからすると、ほとんど父親の歳のような気にさせられた。クニさんは、ぼくが生まれたころには、すでにステップスのステージに立っていたのではないだろうか。
それからまた、ぼくたちは黙った。
長い時間が過ぎた。
やがて、ドアが開く。
セージが帰る。
彼が何もなかったかのように、ぼくたちに向かってうなずく。
トオルが笑う。
クニさんは、グラスを口にする。
こうして、新しいNEXUSが成立した。セージ以外の創立メンバーは全員いなくなって。
リーダーはもちろん、ヴォーカルのセージ。リズム・ギターを弾くときもある。ドラムのトオル、ベースのクニさん。それにリード・ギターのぼく。いちばんシンプルな、四人の構成のバンドだった。
†
デビューに向けて、ぼくたちは準備を再開した。そして、素晴らしいニュースをもらった。なんと貸しスタジオを自由に使っていいというのだ。
料金は、プロダクションが払ってくれる。だから、練習したいだけできる。君が少しでもバンドの経験があるなら、これがどんなに嬉《うれ》しいかわかってくれると思う。
そして、そこでぼくは初めてクニさんのベースに接した。
予定の時間に遅刻してきた(その後も、彼は、ほとんどいつも遅刻する)クニさんは、なにげなく音をだした。けだるそうに。決して派手なプレイではない。
でも、それは、胸を揺さぶるリズムだった。重く、着実に響いてくる。ぼくは、自分のギターから手を放して聞いていた。
しばらくすると、セージがぼくを見ているのに気づいた。どうだい、というように、セージがぼくに微笑む。
ぼくは、ヒロが好きだった。でも、認めなければならない。クニさんの実力は桁《けた》が違っていた。確かに、メンバー交代のゴタゴタを引き起こし、長い時間をかけて待つだけの価値のあるベイシストなのだろう。
そんなころの貸しスタジオでだ。
はいってきたとたん、セージが、いきなりトオルの胸倉をつかんだ。
「いいか、トオル、盗みはやめろ。二度とするな」
ぼくは驚いた。
トオルの盗み癖は、いまに始まったことではない。それをセージがこんなに激しく怒るなんて。
トオルは酔っ払ってても、そうでなくても、何でも持って帰る。ショーケースのなかのパフェだとか、道端の工事中の点滅するライトとか。コンクリートの重いのが下についているのに、バス停までころがしてくくらいだ。
セージの勢いはすごかった。
「ペダル盗ったりするなよ。キック・ペダルだよ。スタジオには事務所が弁償してくれたけどな。俺たちは、もう、しけたバンドじゃないんだ。デビューするんだぜ! 二度とこんなマネするなよ」
黙ったままのトオル。セージをにらみかえしている。
バンドのメンバーというのは、仲が良ければいいというわけではない。いや、そんなことは、君も当然知っているだろう。
でも、ぼくたちは、だんだんと仲の悪いバンドになっていく気がした。プラクティスでも本番でも、妙な緊張感があった。いや、はっきり、変な雰囲気が漂っていると言った方が正しいかもしれない。
以前は、集まるだけで楽しかったのだ。ぼくはその幸せな瞬間を予期しながら、楽屋や貸しスタジオに自転車を走らせたほどだ。
ドアを開ければ、セージがいる。トオルが、ヒロが笑っている。そう。ぼくたちのベースは、ヒロではなく、名うてのトラブル・メーカーのクニさんになったのだ。
彼が加入して、二、三回目のライヴだった。ステップスの舞台。終了間際だったから、聴衆には、そんなには気づかれなかったと思う。すぐに、セージがカヴァーしたし。
クニさんは、曲の途中でバス・ドラムを横から蹴《け》った。そして、ベースを弾くのをやめてしまったのだ。
舞台のレイアウトにもよるけれど、基本的には、セージとぼくとがフロントに位置する。そして、ドラムとベースは後ろに。でも、そんな広いスペースがあるわけではないのだ。ふたりの様子はすぐにわかった。
ともかくもステージを終え、楽屋にもどってからだった。
トオルは憮然《ぶぜん》とした表情で、クニさんを見ていた。クニさんの方では、涼しい顔とでも言うのだろうか。早くもバーボンのグラスを手にしていた。
「いやあ、なに。NEXUSのドラムっていうのは、こんなもんでいいのかと思ってねえ」
彼は、楽屋で飲んでいないことはないくらいだった。それが出番の前であれ、あとであれ。
トオルが、持っていたスティックを、そっと机の上に置いた。
立ち上がる。
ふたりは向かいあった。
それは奇妙な光景だった。
トオルの身長は、一九〇センチ近くあった。クニさんの体重ときたら、絶対、六〇キロはなかっただろう。五〇キロでもあやしい。
それなのに、トオルの方が明らかに押されていた。
で、それだけのことだった。
「今日の客、あれ、何なんだろね。NEXUS聞く資格ないね。カラオケでも行ってりゃいいのよ。俺たちの良さがわかんないやつらは」
セージがはいってきた。はしゃぎながら。
そして、彼は、ぼくには聞こえないくらいの声で、ふたこと、みこと、クニさんに話しかけると肩を抱いて出て行った。
トオルとぼくは、楽屋に取り残されてしまった。
ぼくは、その後も何度か考えることになる。クニさんのベースは確かに一級品だ。セージが自分のバック・ミュージシャンとして、彼を是非とも必要としたのはわかる。それは、まったく、シンプルなことだ。
しかし、クニさんの方ではどういう判断をしたのだろうか。彼がバンドにはいろうと思ったのは、NEXUSへの評価だったのか。それとも、単に、セージの個人的魅力なのか。クニさんがすぐにも抜けると言い出したりする可能性はないのだろうか。
トオルは硬直したように立っていた。
15
その日、ぼくは風邪ぎみだった。
そのせいもあったのだと思う。力の入れ方の勘が狂ったようだ。勢いがあまって、スライド・ドアをヒンジにたたきつけてしまった。
バーンという軽い音が、いかにもドアの薄さを感じさせて響いた。
「いまから、そんなに入れこまないでほしいね」
トオルが言った。
ドライヴァーズ・シートから身を乗り出して、振り向いている。ぼくを見てニヤッとしてみせたつもりなのだろうけど、それはいつものトオルとは違う。どことなく固さが感じられる、ぎこちない笑いだった。
当時、ぼくたちが器材の運搬に使っていた中古のワン・ボックスは、相当にガタがきていた。スライド・ドアは、いつもは簡単にはスライドしてくれなかったのに。
荷台にギターのケースをきちんと置き、今度は力の入れかげんに注意してドアを閉める。ぼくは助手席に上がり込み、腰をおろした。さきほどの、すっぽぬけたような奇妙な感覚が、ぼくの手に残っていた。
トオルは、ギアを乱暴にたたきこんだ。
車に揺られていると、熱があってふわふわとして、どちらかというと気持ちがいいくらいだった。
これならギターを弾くことに関しては大丈夫だろう、とぼくは思った。もちろん、ぼくもコーラスのパートを受け持っている。喉《のど》の状態がどうなるか、という問題はあった。
でも、ヴォーカルのセージにくらべたら、その重要性は格段に低いのだから。
「なんか、居眠り運転しちまいそうだな」
トオルがつぶやく。
ぼくは、どう返事していいかわからなかった。トオルは、そう言いながらも、ひとつも眠くなどなさそうに見えた。
むしろ、前方のどこか一点をにらむように見つめている。
「ちゃっちゃっと済むよな。ギグにくらべたら楽なもんだ」
トオルは、ハンドルをたたいた。彼はドラムの担当だ。何をたたくにせよ、リズムがある。
結局、トオルは、ぼくの返事など、必要としていなかった。ずっと自分に向かってしゃべっているのだ。
それは、あきらかに緊張しているせいだった。そう、これからする、ぼくたちの、NEXUSの、初めてのレコーディングに。
トオルは信号のない交差点を左折し、細い道へと車を入れた。しばらく道なりに走ると、ブロック塀にもたれて立っているセージが見えた。いつだってそうだ。よほどひどい雨でも降っていない限り、セージはアパートの自分の部屋の中で待っていたりはしない。
彼は、軽く手を上げて車に合図した。
「よお。調子はどうだい? われらの名ギタリストは」
後部座席に乗り込みながら、ぼくに話しかける。
ぼくは、曖昧《あいまい》に笑うだけだ。
たぶん、セージにも答えはいらないのだろうから。
「ちゃんと、今朝のことは覚えておくんだぜ。いよいよデビューだ。NEXUSの、輝かしい歴史の一ページになる」
セージは、前の席にいるぼくたちふたりの間に、首を突っ込むようにして言う。
彼の声は、ふだんしゃべっているときだってパワーがあった。特に大きな声を出していなくても、よく通る。だから、そんな、ぼくたちの耳もとでしゃべるような姿勢をとらなくてもいいのに。
つまり、セージも、それだけ「入れこんで」いる?
「NEXUSの歴史だけじゃないな。日本のロックの歴史の一ページだよ。変わるぜ、これで」
ハンドルを握っているトオルが、横顔でうなずく。
セージと話す時、聞き手は相槌《あいづち》をうたざるをえなかった。そういう話し方をセージがするのだ。彼は、常に何かを主張する。そして聞くものに同意をうながす。
セージのことは、わからない。少なくともトオルとぼくは、そのとき、単純にビビッていた。そのくらいレコーディングが怖かった。
ぼくたちは、CD用の音を録るようなおおがかりなスタジオには、足を踏み入れたことがなかった。自分たちが登場する番なのだ。プロモーション・ヴィデオなどで繰り返し見てきた、あの世界に。
セージとトオルとぼくと、三人を乗せたワン・ボックスは、午前中の光の中をスタジオに向かった。渋滞を見越した、充分すぎるくらい早い時間の出発だった。
車の中で、ぼくは、祈るような気持ちになっていたのを覚えている。きっと、クニさんならだいじょうぶだろう。彼がいたら、なんとかしてくれるだろうと。
ベースのクニさんとは、スタジオで落ち合う予定だった。所属していた自分のバンドで、あるいは、スタジオ・ミュージシャンとして、彼だけはたっぷりと経験を積んでいたのだから。
そう、そのとき、確かにぼくは緊張していたけれど、そもそも、CDデビューということ自体には、幻想は持っていないつもりだった。ぼくには、セージの言うようなことが本当に起こるとは思えなかった。ぼくたちがスターダムを昇りつめる。ロックの歴史を変える。
君だってわかってくれると思う。日本のヒット・チャートの仕組みを考えれば。その、ばかばかしさ。病んでいるというより、後進国のポップ・シーンという気がする。CMで流れる曲、ドラマの主題歌となった曲ばかりが売れる。結局は露出の量の問題なのだと思わざるをえない。
一般的に、ひとは、繰り返し強制的に聞かされるものを好きになってしまう、というくだらない法則があるみたいだった。「発売たちまちトップ」なんていう騒ぎも、すべて出来レースのようなものだ。スキャンダルでもなんでもない。そうなるように宣伝がうたれていて、売れることになっているものだけが売れるのだ。
あるいは、ぼくたちから見れば演歌と五十歩百歩のメンタリティで、同じコード進行の、カラオケ向けの曲が続々とミリオン・セラーになっていく構造。テレビのオーディション番組に至っては、お笑いだ。デビュー前から追いかけて人気をあおり続ける。
すべての原因を、聴衆の幼さ、未成熟に求めるのはフェアでないとは思う。そうしたら、議論がそこで終わる。
ただ、この国のロック・ミュージシャンにとって、何よりも不幸なことがある。日本では、ちょっと気のきいた音楽がわかるとされる人間なら、日本の曲なんか聞かない。アメリカを中心とした外国の音楽への崇拝は、そのくらい強い。たとえ、同じようなサウンドを日本のバンドが作りあげたとしても、評価されないだろう。
ここには、すごいパラドックスがある。
だって、ロックをやろうとするミュージシャン自身が、ある意味で、また、そういう音楽ファンとして育つのだ。ぼくたちが尊敬できる日本のバンドは、ないわけではない。でも、ぼくたち自身、圧倒的に外国のポップスの影響を受けていた。
ぼくたちは日本の音楽状況をばかにしていて、そこに関心が持てないのに、自分たちはそのなかで闘っていかなくてはならない。
はたして、ぼくたちのバンドが活躍できる余地が、この世界にあると思えるだろうか? だから、ぼくにしてみれば、自分のやりたい音楽がやれればいい。しかも、それがCDという形になるなら、ひとまずは大満足といったところだった。それ以上の結果は、ぼくたちの手から遠く離れたところにある。
だが、セージは違っていた。
彼は単純に信じていた。自分たちのもとに大衆がついてくるだろうと。かつてビートルズがそうだったように、ストーンズがそうであったように。ぼくたちがブームを巻き起こすことが出来る。
だから、デビュー前の当時、NEXUSの将来について話したりしていて、ぼくはセージには冷静な判断力が欠落しているのではないか、とまで思うことがあった。
いま、現実にNEXUSは、日本のポップス界の頂点を極めたと言っていいだろう。それは、少し前には予想もつかなかった事態だ。
セージが正しかったのだ。
そんなにも、盲目的なまでに自分たちの、いや、もっと正確に表現すべきだろう、「自分の」才能を信じられること。それ自体が、セージの持つ最大の才能なのかもしれない。
†
セージは、いつものセージではなかった。生気に欠けていた。金魚すくいの道具のようなものがついたマイクに向かう。入りの最初のフレーズの発声からしてよくない。少なくとも、ぼくはすぐに気づいた。
レコーディングのスタッフの方でも、インプレッションはよくなかったようだった。取り直しの指示が、ヘッドフォンを通じて出される。
両腕を高く伸ばして振ったあと、胸の前で手を合わせるセージ。
神様、とでも叫んでいるかのようなアクションだ。
しかし、それらは無言でなされていた。ガラスのパーティションの向こうにいるディレクターたちに対して、振りでアピールしている。
そして、たまらねえな、というように、横を向いてぼくの目を見る。ぼくは、うなずき、録音の再スタートに備え、自分に割りふられたマイクに向かう。
なかなか、ぼくがバック・コーラスをつけるところまでこなかった。
録音というのは、ほとんど工場の分業のようにして行われた。まず、リズム・セクション。ドラムとベースが演奏され収録。次に、ぼくとセージがギターをかぶせる。楽器のパートのテイクは、すでに終わっていた。
それをテープで聞きながら歌うのだ。もちろん、そんなのは初めての経験だった。ぼくたちは、常に、演奏しながら歌っていたのだ。
セージはヘッドフォンを両手で押さえ、マイクに向かってシャウトする。
中断。
「肩に力がはいってるよ。楽にいこう、楽に」
インカムをとおした指示が届く。
「オーケー、オーケー」
セージは、大袈裟《おおげさ》にサインを送る。
「今度は、一発、いいのいくよ。次できめちゃうからね」
威勢のいいセリフを言っている。
でも、セージが苛立《いらだ》っているのが伝わってくる。調子がよくないのは、誰よりもセージ自身が気づいているのだろう。
その前に休憩がはいった。少し休んで、その間にテープを聞き直してみよう、というマネージャーの提案。
トイレに立ち寄ってから控室に行くと、そこでは、クニさんが、バーボンを飲んでいた。
「まだ、終わらんの?」
彼はコーラスには、参加しない。ミキシング・ルームでの収録につきあわず、ずっと控室にいたのだろうか。
ぼくは、目でイエスという合図をした。
「早く帰りたいねえ」
ぼくは返事をしなかった。口を開く気にはなれなかったから。クニさんの冷淡な態度に対して腹が立っていたのだ。あんなにセージが苦しんでいるというのに。
トオルがはいってきた。ドラムのスティックをいじっている。三人とも、何もしゃべらない。
セージがどこにいて何をしているのかは、わからなかった。
集合がかかった。
再び収録が始まる。
ヴォーカルとコーラス。
「サンキュー、エヴリバディ」
セージが、手を振る。
パーティションの向こうから、
「お疲れ」
と、ぼそぼそした声が、ぼくのヘッドフォンに聞こえてきた。
その日のレコーディングは、終了というより、ほとんど中止といった雰囲気だった。テイクしたシングルCD用の曲のミックス・ダウンをしてみる。それで検討してから今後の予定を決める。
エレベーターで地下の駐車場に降りた。器材を載せた台車を、車のところまでころがしていった。
「こういった、ちっぽけなことはさあ、みんな、みんな、いい思い出になるんだぜ」
セージが言った。だれに向かってでもなく。
「これも、歴史の一部よ。俺たちがスターになったときにはね。そう、ちっぽけなことだ」
トオルが首を縦に振った。そのまま背を丸める。それは、うなだれているのか、台車をコントロールするための姿勢なのか、わからなかった。
クニさんは、タバコをふかしている。とっくに酔っ払っているみたいだった。どんなに酔っても、クニさんは、ひとりで静かにしていることが多い。
セージは、バンドのみんなに責任を感じているようだった。さすがの彼の自信も、崩れかけていたのだろうか。
ぼくは、そんなセージは見たくなかった。
16
ぼくは、事務所には、それまで二回しか来たことはなかった。最初は契約のとき。よくわからないまま、何枚もの書類にサインした。それから、CD発売の先行取材の、短いインタビューと写真撮影。あとは、前にも言ったとおり、オフィスとの交渉はセージの役だった。
細く急な階段を上りつめた先にドアがあった。音楽事務所のロゴのはいったプレート。ぼくは、深呼吸をしてから、ノックした。
返事はない。
ドア・ノブを回す。押すと簡単に開いた。
書類だとか資料だとか、そんなものが山積みになっている机の列が目に飛び込んできた。隅には革のソファ。鉢植えがいくつか。
その部屋には、ひとが三、四人いた。
「NEXUSのものですけど、あの、マネージャーの前島さんに会いたいんですが」
と、ぼくは言った。
電車の中で何回も練習してきたセリフだったのだが、早口になってしまった。
事務所にいるひとたちは、みんな、ぼくの顔を見ていた。机に向かって何か書きものをしていた手を休め。あるいは、コピー機の横に立って。
彼らの反応はそれだけだった。
ぼくは、どのひとに話しかけたらいいのかわからなかった。訪問者に対応する係は決まっていないのだろうか。
いちばん近くにいたひとに、もう一度、用件を繰り返した。声が小さくなってしまう。その妙に日に焼けた男は、やはり、ぼくの顔を見ているだけだった。
すると、奥の方から声がかかった。
「ぼうや、どうしたんだい。こういうときには、ガソリンの缶ぐらい持ってくるもんだ。そいじゃなきゃ、せめて消火器とかね」
NEXUSのCDは、発売延期になっていた。
説明を求めるぼくたちには、採算が取れそうにないからと繰り返すだけだった。プロダクションとしては、むだな投資はできないという。
「なんで、いつものほら吹きにいちゃんが来ないの?」
奥で立ち上がった男が言った。でっぷりと太っている。
「さては、泣き落としの手にでるつもりかい?」
からかうように、ぼくに聞いた。
それで、そこにいた全員が笑った。もちろん、ぼくを除いた全員。
†
「はっきり言って、期待はずれだったわね」
マネージャーが言った。前島さんは、四十にはなっていないと思う。でも、三十代なのは確かだ。つまり、ぼくの倍か、それ以上の歳。
問題は、年齢ではなく、彼女が女性だったことだ。ぼくたちのバンドに対してプロダクションが女性マネージャーをつけたことがわかったとき、トオルは怒りまくった。
「俺たち、軽く見られてるんじゃないの。アイドル歌手の監視役じゃないんだぜ」
彼は、テーブルを蹴《け》った。
「興行なんて、半分はヤーさんの仕事でしょ。そんなとこでやってけんのかよ」
クニさんは、
「うちのギタリストだって子どもだしねえ。音楽は大の男がする仕事じゃなくなってきたんだ」
と言った。肩をすくめる。
「そのうちに、日本のエンジニアは、みんなテレビ・ゲーム好きの小学生になるかもよ」
セージは落ち着いていた。
「あのひとは仕事が出来るらしい」
バンドのリーダーの意見だ。立ち上がっているトオルを、椅子にもたれこんでいるクニさんを、順に見て言う。
「だったら、べつに、かまわないんじゃないの、女でも」
それで、その場はおさまった。
そう、セージは、前島さんは「仕事が出来るらしい」と言ったのだ。彼が最初にそう言ったのを覚えているから、ぼくは、話しに来る気になった。
それに、ぼくは、これまで実際、彼女に悪い印象を持っていなかった。打合わせのミーティングの席で。あるいは、一緒に焼肉屋に行ったりして。
前島さんは、ぼくたちの仕事のパートナーだった。少なくとも、ぼくは、彼女が女だからどうの、ということを感じさせられたことはなかった。トオルとクニさんは、何と言うかはわからないけれど。
「あなたのギターはいいわ。だけど、あの、ドラムは何?」
前島さんは言う。ぼくたちのバンドのマネージャーが、ぼくたちのバンドを評価しているのだ。聞き逃すわけにはいかない。
「あなたたちに、もし次のテイクの機会があるなら、リズム・ボックスにした方がいいくらい」
前島さんは、タバコを根元まで吸う。
ぼくにはケンカをふっかけに行くようなつもりはなかった。でも、事務所に「ひとりで乗り込む」ような形になってしまったとき、ちょうど、前島さんが出先から帰ってきた。そして、ぼくをクラブに連れ出してくれたのだ。
ぼくは、事務所にあらかじめ電話することさえ考えなかった。そのことを指してなら、まさに子どもっぽいと言われてもしかたのない行動だ。行けば前島さんがいると、なんとなく信じていたのだから。偶然、彼女が帰ってきてくれなかったら、あの場でぼくはどうなっていただろう?
前島さんは、ぼくにウィスキーを、もう一杯注文した。自分のぶんも。ぼくは前にも言ったように、あまり酒が飲めない。だから、酔ってしまう前に、用件を切り出さねばならなかった。
この前のレコーディングのセージのヴォーカルについて、ぼくは、言いたいことがあった。先にドラムの話になってしまったのは、予想外だったけれど。
レコーディングをしながら、ぼくは考えていた。セージに関しては、固くなっているだとか、だからリラックスしたら、などという問題ではないのだろう。セージがいつもと違って冴《さ》えなかったのは、スタジオの中には、聴衆、というか観客の姿がなかったからなのだ。彼の歌に、彼の仕種《しぐさ》に酔ってくれる観客がいないと、セージの歌は死ぬ。
そういう説明をしたあと、ぼくは、前島さんに提案した。NEXUSは、ライヴ・ヴァージョンでデビューさせてほしいと。
ぼくたちのマネージャーは、即座に首を横に振った。
「無理よ。あなたたちにそんな実力はないわ」
彼女は、落ちてきた前髪を押さえる。
「いまはね、何回も何回もテイクして、良いところをつなぎ合わせて使うのが常識。新人にそんな企画が通るとは思えない」
以前に聴いたライヴを思い出してほしい、とぼくは食い下がった。ぼくたちのステージが評価されて、プロダクションは契約を提示してきたはずなのだから。
それと、この前のスタジオ録音との落差、とまでは、さすがに自分で言う気にはなれなかったけど。
彼女は、考え込んでいた。
ぼくは、待った。
ぼくは、何としてでも交渉を成功させなければならなかった。ぼくはセージに無断で事務所にやって来たのだ。それが失敗に終わり、そのことをセージが知ったら、彼は何と言うだろうか。
ぼくは期待するしかなかった。前島さんが、豊富な経験があり判断力を持っているというのなら、ぼくの提案をわかってくれるのではないか。
彼女は、タバコをもみ消した。
「無残な演奏になる可能性も大きいわね」
天井に目を走らせる。ダウン・ライトの強い光。
前島さんは、渋々、うなずいた。
「まあ、いいか。やってみても。ライヴにしたって、スタジオ録音をリミックスすることも十分出来るし。チャレンジする価値はあるかもね」
半信半疑で、という感じだった。
そして、彼女は、つけ加えた。
「それには、ひとつ条件があるの」
冗談っぽく、笑いながら。
†
ステップスの舞台。ぼくたちの、慣れ親しんだステージだ。でも、いつもとは設置してある器材の量が違っていた。もちろん、質もだけど。
何本ものコードが舞台を這《は》っていた。エンジニアが持ち込んだのだ。本来、本格的な収録をする設備がないところだから、セッティングには苦労したようだ。
開演前の長い時間をかけたテストも終わった。
ぼくたちは、バック・ステージで、舞台に上がるのを待つ。クニさんは、瓶から直接バーボンを口にふくんだ。トオルが何かセージに冗談を言ったみたいだった。ぼくには聞きとれなかった。ふたりの笑い声が響く。
スタンバイの時間だ。
前島さんの言う「条件」とは、今晩、一緒にすごしてほしい、ということだった。ひと晩、ぼくが彼女と一緒に。
前島さんは、秘密の外交の取り引きをしているみたいだった。そして、これは非常に明確なセクシュアル・ハラスメントね、と笑う。
ぼくにとっては、そんなものは条件でも何でもなかった。ぼくは、その日、クラブでNEXUSの音楽についてしゃべっていて、彼女に好意を抱いていた。NEXUSのマネージャーであり、仕事のパートナーである彼女に。
彼女の方でも、そうだったのだと思う。ぼくたちは、親しい友人になっただけのことだ。
ぼくは、最近になってよく思う。ひとは、なんであんなにセックスのことばかり語りたがるのだろう。ぼくたちがテレビやスポーツ紙で取り上げられるときの80%は、その手の話題だった。別にそんなに特別なことでもないはずなのに。
袖《そで》から舞台に出て行く。いつものように、ばらばらと。ゆっくり進む。
拍手。
ぼくに声をかけてくれる子もいる。
NEXUSがCD録音のライヴをする、という噂は広まった。昔からのファンがつめかけて、ステップスは満員になっていた。
歓声が、急に大きくなる。セージが飛び出して来たのだ。
腕を回す。
マイク・スタンドの調整。
「じゃあ、やるぜ」
セージが、客席を見下ろして言う。
再び歓声と拍手。
「ちょっと、待った。待っててよ」
セージは、はずしたマイクを持ち、クニさんのところに歩いて行った。客席に背を向け、何か耳もとでささやいている。
けれど、これは、絶対にどうでもいいようなことを言ってるのだ。今晩、舞台がハネたらメシは何にしようかとか、たぶんそんなこと。
客席をじらすセージ。
トオルがシンバルをたたいて合図した。
セージが振り向きざまにシャウトする。
ぼくのギターが追う。
その時点で、ぼくは確信していた。このレコーディングは成功だと。セージのアクションに答える女の子たち。手を伸ばせばセージに触れられるところに彼女たちはいるのだ。
セージは挑発する。
舞台に腹ばいになるようにして、聴衆に近づいていく。服を脱いで振り回す。彼や彼女たちは、それをつかもうとジャンプする。
そうだ。これがNEXUSだ。ぼくたちは、あくまでライヴを目指すのだ。
間奏のリフの部分になると、ぼくは、わざとギターをラフに弾いた。
ノイズを入れる。
ヘッドをステージにこするくらい低くする。
セージのせいだけではなかったことに、ぼくは、ようやく気づいた。スタジオのレコーディングでは、ぼくのギターも精彩を欠いていたのだと思う。結局、ぼくは、録音を意識して、楽譜どおりに正確に弾こうとしていたのだろう。それは完全な退行現象だ。
あの、ピアノやヴァイオリンを習っていた音楽教室の時代に、ぼくはもどってしまっていたのだ。楽譜どおりのプレイなんて、それはミュージックではない。お稽古《けいこ》ごとの世界だ。
前島さんは、わかっているだろうか。トオルのドラムだって生き生きとしていることを。
四曲目だった。途中で、彼のドラムのビートが裏返った。クニさんが知らせようとしているのに、トオルは気づかない。ぼくと目が合って、やれやれ、というふうに、クニさんは肩をすくめた。
ぼくがドラムに合図しかかったのを制するように、セージが、走っていって、トオルの背中に回し蹴《げ》りを入れた。
これでいい。
このくらいルースなのが、ぼくたちNEXUSのサウンドなのだ。
17
ラジオ局のブースは、意外に狭かった。押し込まれたぼくたちは、最初の挨拶《あいさつ》を合唱させられる。
「こんばんは。はじめまして。NEXUSです」
みんなで言う。(クニさんは、そういったキャンペーンの仕事には来ないことが、よくあった。予告するわけではない。ただ単に、当日、集合場所に顔を出さないのだ。)
それから、DJとのかけあいになる。ぼくたちの方は、ほとんど、セージが代表してしゃべった。
NEXUSの音楽に、さほど興味もなさそうなDJの、いいかげんな問いかけ。そういったものに対しても、セージは結構丁寧に、いや、ばか丁寧なくらい丁寧に返事した。
彼は、時にとてつもなく尊大だったりするし、また、異様なまでに誠実な態度をとったりもする。後者の場合、ほとんど愚鈍のように見えることもある。
最後にセージが言う。
「じゃあ、よろしく」
そして、曲がかかる。
すると、ぼくたちは立ち上がり、だらだらと歩いて収録のスタジオを出ることになる。
外のモニター・スピーカーには、ぼくたちのデビュー曲が流れていた。しかし、ミドルのサビが終わると、たいていはDJのおしゃべりがかぶさってきた。ひたすら軽い、意味のない言葉が。
それを契機に、ぼくのギターのリフはフェイド・アウトされてしまう。次第に小さくなり、聞き取れなくなっていくぼくのプレイ。
DJは、ガラスの仕切りの向こうから、帰っていくぼくたちに合図を送っている。トークを続けながら。それまでには、ぼくは彼の職業的な陽気さ(それは異様なくらいハイだ)に圧倒されている。
音楽雑誌などのインタビューも、いくつかこなした。カメラマンとライターがやってくる。
握手。
ありきたりの質問。
デビューして少したったけど、いまの気分はどう?
これまで、どんなバンドが好きだったの?
じゃあ、目標は?
えらく年齢差のあるバンドだね。ベースはベテランで、リード・ギターはずいぶん若いけど、世代間のギャップはないの?
質問と答え。
そして、また、質問。
最終的に印刷物をもらってみると、自分が言ったとは思えない発言が並び、(笑)が、三つか四つはついていた。
ぼくは、覚えている。インタビューの最後に、こんなふうに聞いてくるライターがいた。
「他には、何か言いたいことはないのかい。君たちが、雑誌の読者に特にアピールしたいことだよ」
セージは返事した。
「ないよ。そんなもの」
きっぱりと言う。
「言葉で説明したいことなんてない。とにかく、ぼくたちの曲を聴いてくれってことだけだ。ザッツ・オール。そうしたら、わかるさ」
セージは両手を広げる。
そのポーズは、ステージの上でなくても、充分に魅力的だと、ぼくは思う。マイクに向かうときと同じように、ちょっとアゴを突き出しているセージ。
しかし、ライターは、うなずく以上の反応は示さない。ヴォイスレコーダーとノートをバッグにしまう。顔には失望の表情を浮かべている。
そして、それだけのことだった。
ぼくたちの周りには、何も起こらなかった。ラジオをつけたら、突然、自分たちの曲が聞こえてくる、などという経験はなかった。街を歩いていて声をかけられる、というようなことも。
†
ツアーが始まることになった。
出発の朝のことは忘れられない。ぼくは、ずいぶんと早く駅に着いてしまった。不必要に大きな荷物をかかえて。ぼくは、日本の各地をあちこちみんなで演奏して回る、という考えに興奮していたのだ。それは、とても刺激的なことに感じられた。
いや、ぼくはただ単に嬉《うれ》しくてはしゃいでいたのだ。仕事の演奏ツアーだというのに、ほとんど修学旅行の気分だった。
そうだ。その譬《たと》えはとても正しい。NEXUSこそがぼくの中学であり高校だったのだから、ツアーはメンバーと旅しながらプレイを続けられる、特別な修学旅行だ。
ともあれ、始まったツアーは、体力的にはハードだった。人気絶頂のバンドが大がかりな全国縦断ツアーをしているわけではないのだ。どちらかというと、昔ながらの演歌歌手のドサ回りをイメージしてくれたら、近いかもしれない。町から町へと楽器を自分で運んで移動した。
公演の場所は、市民会館だとか体育館が多かった。街の規模にそぐわない割合と立派な建物のこともあって、よくわからないカタカナの名前がついていたりした。ラピタス・ホールとかプリムールとかソシア・プラザとか、一晩たったら区別がつかなくなる。
やってくる聴衆には、それぞれお目当てのバンドがあった。その演奏を聞き、声援を送るために訪れる。そして、そのバンドは、たいがいはNEXUSではなかった。ぼくたちのタイバンは、もっとメディアに多く露出していて話題になっているグループだった。
もちろん、たとえ前座扱いの格であれ、ぼくにだって、それなりの自信がなかったわけではない。観客を自分たちの方にひきつけ、メインのバンドを食ってみせるだけの。
最初のころ、ぼくは会場の隅で相手のリハーサルを聞いてみた。ほとんど探偵の気分だ。すると、多くの場合は、どうというバンドではなかった。あきらかにぼくたちの方がレヴェルが高いのがわかった。
ぼくは意気込んだ。NEXUSが、その夜を支配してみせる。NEXUSには、ステップスでのギグの実績があるのだ。
けれども、そこからの展開は予想外だった。セージのシャウトにも客席の反応は鈍い。前列の数人が、恥ずかしげに、あるいは不安そうに周りを気にしながら拳《こぶし》を突き上げている。
一曲目が終わったときの拍子抜けした気分。その後ものってこない。ぼくは、あせりを感じて、ギターのヴォリュームを上げる。盛り上がらないまま、ぼくたちは、二、三曲をやっては引っ込んだ。
どこか、変だった。
不完全燃焼のステージ。自分たちに関心を持っていない観客を一回のライヴでひきつけるのがそんなにも難しいことだとは、ぼくは知らなかった。
†
ヘミの家に行くと、セージが来ていた。
ツアーの中休みになって、ぼくたちは家に帰った。生まれ育った街に帰って、ぼくが会いたいと思いついたのはヘミだけだった。そのとき、セージのことは考えていなかった。
ぼくはセージとヘミのじゃまをするつもりはなかった。ぼくは、ふたりのどちらのことも好きだったのだから。
玄関で帰ろうとするぼくを、ヘミはひきとめた。
セージも、
「一緒にメシを食おう」
と言った。
それで、ぼくたち三人は、簡単な夕食を食べた。デビューのための曲づくりをしていたころと同じだった。
食事中は、小さい音でジャズがかかっていた。題名は知らない。ヘミが選んだのだ。
それは、セージとぼくにとっては、ぴったりの選曲だった。ツアーから帰った翌日に、ロックン・ロールを聞きながら食事をするロック・バンドが、どこにいるだろう。
ヘミは山の手の大きな家にひとりで住んでいた。両親についても、兄についても語ろうとしない。あの膨大なレコードのコレクションを残した兄についても。
食後のウィスキーを飲んでいた。
セージが、ヘミにキスした。セージの手が、大きな手が、ヘミのアゴに添えられている。
それは、ごく自然な感じだった。ふたりは、長い間、キスしていた。
セージがヘミの服をとろうとする。その手を抑え自分から裸になったヘミは、美しかった。初めてぼくの前で服を脱いだときと同じだ。
そして、同じく、セージのからだも。
カーペットの上で、ふたりは重なった。
セージが、ヘミの胸に顔をふせる。
ヘミはセージの後頭部に左手をあて、そっと上下させている。セージがヘミの乳首を口にふくんだ。それは、母親に甘える子どもの仕種《しぐさ》のようだった。
ぼくは、ふたりを見ながら、むしろ、NEXUSの将来のことを考えていた。成功の夢を、セージが捨てているはずはなかった。
前にも言ったと思うけれど、ぼくは、CDを出せるだけでもすごいと感じていたくらいだった。でも、いざ、現実にデビューをはたしてしまうと、ぼくたちの曲が売れてほしいと強く思うようになった。このまま、売れないバンドで終わってしまいたくはなかった。
おそらく、ロックン・ロールをやるものの宿命に、ぼくも、とりつかれてしまったのだろう。
セージの腰が、激しく動いていた。
ヘミのからだは、それを受けとめて吸収し、柔らかな振動に変える。
勢いあまって、セージのペニスが、ヘミのからだから飛び出した。
それが濡《ぬ》れて光っているのが、ぼくのところからよくわかる。
ヘミが、セージの背を両手で抱き締める。
セージは、再び動き、激しく動き、そして、突然、停止する。
気がつくと、セージとヘミが、ぼくの方を向いて微笑んでいた。
ふたりは、同時に、ぼくに手を伸ばす。ヘミのやわらかなからだと、意外なほどに筋肉質のセージのからだが、ぼくを誘っているかのように。
†
翌朝、事務所から連絡があった。電話は聞き取りにくかった。繰り返されたその声は、パスポートは持っているのか、と質問していた。
まったく、考えてもみないことだった。この先のツアーはキャンセルになる。NEXUSのイギリスでのデビューが決まったから、というのだ。
18
高度が急に下がり、小さく切り取られた窓から、地表が見えてきた。到着するのは、ロンドンの時間で早朝になるはずだった。
でも、night の時間帯と day との間を分ける、あの輝かしい青はどこにも見あたらなかった。外に広がる世界には、ほとんど色がなかったのだ。あるのは白と黒。そして、その間に、無限の変化を持つグレーの組み合わせが横たわっている。
この無彩色によるグラデーションは、ぼくたちNEXUSのイギリスでのデビューを歓迎しているようには全然見えなかった。
地面が、速いスピードで後ろへと流れていった。斜めに見えていたのが、しだいに機体と平行になる。接地の衝撃は強かった。数回、不快なバウンドをしてから、急な減速に移った。
しばらくして入国の手続きをすませたぼくたちは、スーツケースや楽器を抱えてバス・ストップに立った。時折、雨がぱらついていた。
空港のまわりはだだっぴろく、人が少なかった。乗客の多くは、タクシーや地下鉄に向かったようで、バス・ストップにいるのは、ぼくたちだけだった。機内との温度差が、そんなにもあったとは思えない。でも、なにか、むやみに寒く感じられた。
君は知っているだろうか。このときの状況を歌った曲がある。あまり良い出来ではない、とぼくは思う。
セージは、また、別だ。
「まあまあだね。当然、俺たちのオリジナルだからさ、並の水準は超えてる。いいよ、かなり、実際のところ。ま、ぶっとぶってほどじゃないけど」
おそらく、そんなところだろう、彼の意見は。
『ENGLAND AT FIRST GLANCE』というのが、その曲。タイトルからして、ずばり、そのままだ。芸がない。いっそのこと、「霧のエアポート」とでもしたらよかったのかもしれない。
この曲が出来たのは、日本に帰ってずいぶんとたってからだ。セージが最初のフレーズを口ずさみ、そのモチーフをぼくがふくらませた。いつものパターン。
そのころは、バンドに閉塞《へいそく》感が出てきた時期だった。メンバーが共通に持っている過去を振り返ることで、セージはもう一度求心力を回復しようとしたのだろうか。たとえ、そうだとしても、無意識の発想だろうけど。
しかし、そういったことは、ずっと先の話になる。ぼくたちは、まだほぼ無名のバンドにすぎなかった。
NEXUSがイギリスでデビューするという企画は、ぼくたちのまったく知らないところで討議され、練り上げられ、決定されていた。発案したのは、そもそも前島さんだったという。
その話を最初に聞いたとき、ぼくは、興奮した。だって、外国でデビューできるなんて。それも、イギリスだっていう。ロックの本場だ。新しい音楽の多くは、どちらかというと、アメリカよりイギリスで生まれる。
打合わせの場に行ってみると、そんなに単純なことではないみたいだった。
「イギリスまで行って、何をやるの?」
クニさんが、のんびりと言った。ソファに寝そべるように座っている。
「ギグをするのよ。そのためにバンドがあるんでしょ」
前島さんの表情には、余裕があった。
クニさんが言いたいことは、ぼくにはよくわからなかった。でも、日本でも人気がでないバンドがイギリスでデビュー出来るなんて話がうますぎる、というようなことだったのだろうか。
ぼくは、ちょっと不安になってクニさんを見たけれど、表情はいつものままだ。何も読み取れない。
前島さんは、特別のことをするわけではない、と言った。いつもどおりのNEXUSの音楽をすればよい。
「それで、イギリス人に受けるのかな。俺たち」
トオルの質問は、ぼくの気持ちでもあった。黄色人種のロック・バンドがイギリスでデビュー。なんとなく際物っぽいのは確かだ。
ぼくたちは、日本にやって来たフィリピン・バンドのあつかいで、イギリスの場末のキャバレーでスキヤキを歌う?
「もっと自信満々だったんじゃなかったの? あなたたちは」
前島さんは、メンバーを見わたし、充分すぎるほど皮肉を込めて、そう言った。
それで、ぼくたちはヒースローにやって来て、先に乗り込んでいる前島さんの指示通り、バスを待っていた。震えながら。
『ENGLAND AT FIRST GLANCE』?
そう。やはり、あの曲は失敗だった。空港でのぼくたちの気持ちは、とうてい表現出来ていない。大きな期待と、それと同じくらい大きな不安に満ちて、バス・ストップに立っていたのだ。
クニさんは、くしゃみを連発していた。アメリカでのプレイの経験までもあったのに、クニさんが飛行機を苦手としているなんて意外だった。機内では、ひたすら飲んでは眠っていた。そして、降りてからは震えてはくしゃみをする。
空は厚い雲におおわれていた。バスはなかなか来ようとしなかった。
そんなふうにして、ぼくたちのイギリスでの一日目が始まったのだ。
「帰ろうぜ。こんなとこ、よしにして」
トオルが言った。
彼は、冗談のつもりだったのだろう。
でも、誰も笑わなかった。
†
ぼくは、音楽活動に関わる日本人が、ロンドンにたくさんいるのに驚いた。
こういったことには詳しくないけれど、日本のポップス界では、いつのころからか、ロンドン録音が流行《はや》りになったらしい。そういうのに、英語の話せる日本人スタッフとして加わる。
あるいは、プレスの関連で働く。英国やヨーロッパでの新譜情報、ライヴについての記事、ゴシップなどを日本に送っては収入を得る。
ぼくが思いつく彼や彼女たちの仕事は、そのくらいのものだ。でも、それにしては、不釣合いなくらい、その手の日本人は多いみたいだった。前島さんも、以前にロンドンに滞在していたのだという。彼女の知合いだというひとに、ぼくたちはよく出会った。
そういう意味では、確かに顔の広いひとだ。例の「仕事が出来る」かどうかは別にしても。そうだ、ぼくたちのステージというのも、そんな関係を利用して、すでにセッティングが済んでいたはずだったのだ。
ところが、その日程の調整がもたついているらしい。その、なんらかの不手際のせいで、ぼくたちには、代わりにたっぷりとリハーサルの時間が与えられた。
これがよかったのだと思う。
君がもしバンドをやったことがあるなら、わかるだろう。外部の雑音となる要素、バイトだとか学校だとか家族だとかから切り離されて、メンバーがひとつに集中できる時間の大切さを。
NEXUSは、それまでのツアーで一時的に消耗しつつあった。それが、海外合宿の状態になったのだから。ぼくたちはチャージされる。バッテリーの計器はFを超えて振り切れそう?
それだけではない。ロンドンの街は、音楽にあふれていたのだ。
間違えないでほしい。ぼくが言ってるのは、日本の商店街なんかでスピーカーから垂れ流されてる騒音のことではない。公園で、街角で、ロンドンでは生の音楽があるというのがごく自然なことだった。
夕方、地下鉄に乗ろうとすると、階段の踊り場のところで黒人がサックスを吹いている。マーケットのカフェでビールを飲んでいると、若い学生っぽい弦楽四重奏がやってきて、コンサートを始める。
そうだ。日本とは違って、ロンドンではクラシックだって、ちゃんと生きている。ぼくはヴァイオリンが弾きたくなった。そんなことは、ずいぶんとなかった。懐かしい、あのヴァイオリン。
練習の合間をぬって、ぼくはいくつかのライヴのある店に行った。
イギリスでは、ヒットチャートとは別のところで、クラブやディスコで生の演奏を聞いて楽しむ習慣が定着している感じだった。当然、それらを根拠地として、実力のあるミュージシャンの厚い層が存在していたのだ。
ぼくは、高校を、ほとんど中退の状態でイギリスにやって来た。そんな異国での生活は、魅力的だった。
初めのうち、ぼくはNEXUSがイギリス人に受け入れられるか心配していた。でも、ロンドンの街を行き交う、いろんな人種のひとを見ていて落ち着いてきた。彼らのそれぞれが、それぞれの音楽を楽しんでいるようなのだ。となれば、ぼくたちも、自由にぼくたちのミュージックをしたらいいのだ。のびのびと。
ぼくは思ったくらいだ。いっそのこと、この街で生まれれば良かったと。
そんなとき、前島さんが、ひとつの提案をした。昼食の時間だった。リハーサル期間中に、プロナンシエイションのレッスンを受けてみないか。
ぼくたちの演奏を聞いたあるイギリス人が、彼女に言ったのだという。NEXUSは、発音のインプルーヴメントを必要としている。ヴォーカルは、典型的な「オリエンタル・アクセント」だ。
「いいよ。このままで」
セージが、すぐに返事した。
ビールをぐっとあける。
「やつら、なんだと思ってんのよ。イングリッシュが、たったひとつしかないつもりでいるんだろ。大きな間違いだ」
セージは、ちゃんと具体例を挙げて説明すべきだった。イギリスのロック・シンガーが、アメリカの黒人の発音の真似をするのは珍しいことではない、というような。
でも、彼は、
「黄色い俺が、イギリス人みたいな発音をしたって、ひとつもおもしろくないじゃないの。俺はね、イエローのクィアーなオリエンタル・アクセントで歌うぜ」
そうだ。
それでこそ、セージらしい。あくまで日本の、米軍キャンプの周辺で覚えた英語でとおす。ぼくは、目に見えてセージが元気になってきているのを、嬉《うれ》しく思った。ぼくたちのバンドは、なんであれ彼のイニシアティヴのもとにある。
前島さんは、それ以上、ぼくたちに強要することはなかった。軽く笑みを浮かべ、認める。しょうがないわね、というようにして。
ぼくは、彼女がいいマネージャーだと感じた。ロンドンは、幸せだった。この落ち着いた街にいること。旧《ふる》い建物に囲まれた広場に面したパブでの食事。
そして、もちろんNEXUSの仲間たち。
†
前島さんがいよいよギグの予定を発表した。ところが、プレイをするのはこのロンドンでではない、と言う。
「え? じゃあ、どこでなの?」
トオルが聞いた。
前島さんは、ちょっとためらってから、返事した。
「リバプール」
ゆっくりと、伸ばすように。日本人離れした見事な発音だ。ぼくにはわからないが、彼女の英語力は相当なものなのかもしれない。
「リバプール?」
クニさんが、肩をすくめた。
イギリスでの、というより世界の音楽シーンのひとつの大きな中心になっているのは、ロンドンだ。決してリバプールではない。
NEXUSがリバプールでデビューする。そのことを、これまで、前島さんは言わなかった。振り返ってみれば、確かにロンドンでするとも言ってなかったようだけれど。
少し間をおいてのことだった。
「いいね。リバプール。いいじゃないの。一発やってやろうじゃない」
セージが立ち上がって言った。
そう、もちろん、ここまで来たらやるだけだ。バンドの調子はいいのだ。ぼくは、観客の前で、早くプレイがしたくなっていた。
19
ロンドンからイギリス国鉄で、ぼくたちはリバプールへ向かった。
途中の列車の中で、サンドイッチとパイのようなものを食べた。駅で買っておいたものだ。そんな、ごくふつうのものでもおいしかった。
出発の前に、イギリスは食べ物がまずいと、ぼくは親からさんざん脅されていた。母親は空港のロビーでも、インスタントの味噌汁《みそしる》だとか御飯だとかを押し付けようとした。要《い》らないって、それまでずっと言っていたのに。
成田に親が見送りに来てるのは、当然、ぼくだけだった。他のメンバーに恥ずかしくて、それだけでもいらいらしていた。なのに、朝、学校に行くのに無理に傘を持たせようとする母親と、拒否する小学生みたいな構図になってしまった。
すると、
「すみません。ありがたくもらっておきますよ。向こうでリンが食べるものがないって泣いたら出してやりますから」
トオルは、母親からかなり大きめの袋を受け取った。自分の機内持ち込みバッグになんとか詰め込む。
母親は、そんなトオルに頭を深々と下げて、ぼくのことをよろしくと頼んだ。トオルのことは嫌ってたはずなんだけど。
それで、ロンドンに着いてみたら、実際、そんなにまずいなんてことはなかった。まあ、肉がちょっと固くて独特の匂いがするくらい。じゃがいもやチーズがおいしいし、どんなプレートにもついてくる気がする豆だって。
トオルはトルコ人の店のケバブが気にいっていた。毎日のように通った。結局、母親から渡されたあの和食は、ほとんどセージが食べたらしい。
サンドイッチはおいしかったけど、車内では、みんな黙りがちだった。一緒に移動している前島さんも含めて。なんとなく緊張した感じがあった。それぞれが、これからリバプールで起こることを考えていたのだろう。
クニさんが立ち上がりかけた。でも、列車が揺れて、尻《しり》もちをつくみたいに席に座り込んだ。ポンド紙幣を握り締めている。
「ぼくが買ってきてあげる」
どうせ、ウィスキーだろう。
「だめだめ。この国は、法律が厳しいんだ。子どもには売ってくれない」
でも、そう言いながらも、クニさんはふらついている。食べないでビールばかり飲んでいたからだ。これでステージではちゃんと立ってられるだけじゃなくて見事な演奏をするのだから、不思議なものだ。
列車の売店は、日本とそう変わらない雰囲気だった。結構混んでいて並ぶ。ぼくはその間に、メニューのボードを確認した。
番が回ってきたので、カウンターの中にいる女の人に言った。
「A bottle of whiskey, small size, please」
女の人は、ぼくの顔を見て、何か言っている。やっぱり未成年だということで、文句をつけているのだろうか。
すると、どうも、your father と聞こえる。あなたのお父さんが頼んだのか、とか質問されているみたい。ここまで来て、また、子どもあつかいだった。
確かに、彼らの基準からしたら、ぼくは小学生に見えるのかもしれない。
「Not only my father but also my mother told me to」
文法は正しいのだろうか? 発音は? 大袈裟《おおげさ》すぎる表現だろうか。
ぼくが my mother と言ったのは、もちろん前島さんのつもりではない。何か、面白いことをしゃべるべきだって思ったからだ。いつも冗談ばかり言っているトオルの影響かもしれない。
でも、そう英語で言ったとたん、彼女のことを意識してしまった。イギリスに来てからというもの、クニさんの朝の挨拶《あいさつ》は、「ぼうや、ママのお乳はおいしかったかい?」ばかりだったからだ。彼は、ぼくがほとんど毎晩、前島さんと寝ていることを、そんなふうにからかっていたのだ。
売店の女の人は、大きくうなずいて微笑んでくれた。しょうがないわね、両親が酒飲みじゃ、というような感じだろうか。愛想よく手渡してくれる。
とにかく、なんであれクニさんのウィスキーは手にはいった。
席にもどって窓の外を眺めていた。トオルは、とっくに居眠りをしていたけど、ぼくは眠くなったりしなかった。
列車が目的地に近づくにつれて景色が変わってくる。それまでの田園地帯から、次第に都市になる、というよりも工業地帯になっていくみたいだった。煙突から煙が数本上がっているのが見えた。
あの煙の下に、ぼくたちの外国でのデビューとなるリバプールの街があるのだ。はたして、それは、うまくいくのだろうか。
†
ホテルは、駅から直接歩いて行けるところにあった。ぼくたちは日本でのツアーも経験している。そのときに泊まったビジネスホテルは、最低のレヴェルだった。
でも、リバプールの部屋はすごかった。日本のホテルに比べると格段に広い。けれど、ドアを開けたとたん、何ともすごい臭いが鼻をついた。きっと洗剤か消毒薬なのだろう。刺激臭に目までちかちかした。
空気を換えようと窓を開けると、目の前でビルを壊していた。コンクリートを削るダダダダダダという連続音。破壊されてない残骸《ざんがい》の部分から判断すると、ショッピングセンターのようなものだったらしい。
「閉めろよ。いいかげんに」
トオルは苛立《いらだ》っていた。
彼はラジオのスイッチを入れる。雑音が大きくなったり小さくなったりするばかりだ。ようやく受信できた局も音量が上がらず、外からの工事の騒音に負けてしまう。
「ま、遊びに来たんじゃないもんな。お仕事、お仕事」
トオルは、ラジオを切りながら、自分を納得させるように言った。
ぼくはトオルのあとにシャワーを浴びた。バスルームの壁からバスタブの底まで、あちこち、塗装がはがれかかっていて、指でぺりぺりとめくれた。
そう、お仕事だ、とぼくは考えた。とにかく、ぼくたちはこの街でデビューするのだ。日本人のロック・バンドがリバプールで。
ぼくたちはロビーに集合した。前島さんの案内で街を歩くことになっていたのだ。彼女はリバプールには詳しいらしい。
前島さんが連れていってくれた一画は、観光地の雰囲気だった。その観光資源は、もちろん、ビートルズだ。
世界で最も有名なポップ・バンドを生んだことが、この街を特別にしている。彼らがいまだに市民の誇りであるのかどうかは、わからない。けれども、それが一大産業になっているのは、確かなようだった。
ビートルズを記念するポスター。カップ。バッジ。そういったみやげものを並べた店が続く。まるで江の島の参道だ。あるいは中学の修学旅行で行った京都の新京極。
歩いているひとの年齢はまちまちだった。腹の突き出た、でっぷり太った中高年のファンは、彼らの青春時代の思い出にふける旅行なのだろうか。
そして、若者たちも割合といた。解散してから長い年月を経たいまでも、新たに若い年齢層をひきつけているのは、このグループの偉大な点だとは言える。それは、観光資源としては、なおさら重要なところなのだろう。
「へー。たいしたもんだ」
トオルは、街を見渡して、あきれた感じでつぶやく。
セージは、いちいち見ようとしないで、ずんずん歩いている。ぼくには、彼の気持ちがわかる気がした。
ビートルズ自体は、そう悪くない。いい曲もたくさんある。でも、ビートルズだけを信仰するファンだとか、マスコミのビートルズ賞賛には、いいかげんうんざりだ。
それに、ただの音楽ファンだったらいい。ぼくたちは名を知られてないとはいえ、ミュージシャンなのだ。セージに言わせたら、自分はビートルズとは対等の、同じ立場だ。こんなところを、のんびり見学している気にはなれない。
前島さんは、ある建物の階段の前で立ち止まった。地下のライヴハウスにはいろうと誘う。もう見物は十分だったから、ぼくは大歓迎だった。ちょうど休憩の時間だったようで、ぼくたちは席を取りビールをカウンターで買ってきた。
「どんなのやるんだろう」
トオルは、店の中をきょろきょろしている。
「観光客ばかりみたい」
ぼくが言うと、
「そうでもないわ。ここは地元の若い子たちも来るの」
と、前島さん。
クニさんとセージは黙ってる。こういうときのセージは、対抗心に燃えているのだ。ステージに現れるであろうバンドに対して、気合いがはいっている。
でも、そのセージの心構えも無駄に終わることになる。
ステージにグループが登場した。客席に手を振る。
笑い声。
「ジョン」
「ポール」
声援がかかる。その声の方を向いてお辞儀をする。そして、それぞれの楽器を手にし、位置につく。
登場したのは、ビートルズのコピーだった。ミリタリー・ルックだから、サージェント・ペパーズの服だ。ヘアー・スタイルや髭《ひげ》も似せている。ジョン・レノンの丸い眼鏡をかけたギター。
彼らは演奏を始める。
ペニー・レイン。
「なに、あれ」
間奏に移ったところで、ようやく、トオルが言った。それまで、ぼくたちは口を開けて見ていたのだ。
ステージでやっているのは、ビートルズのコピーバンドだ。というより、ものまねのビートルズだった。それは、ここでプロの商売になっているのだろう。観光客にビートルズにそっくりのバンドを見せる。
彼らは、続けてイン・マイ・ライフをやった。服装と曲が合っているとは言いがたい。最後のヤマであるイン・マァーイ・ライフと叫ぶ高音がかすれてしまい、客席から失笑が起こる。ぼくたちは、誰も笑う気にもならなかった。
ただただ醜いバンドだった。NHKののど自慢を見ても、こんな厭《いや》な気分にはならなかっただろう。
次に現れたバンドは、少しましだった。露骨なものまねではない。太った男が太い声で、ゲット・バックとロング・アンド・ワインディング・ロードを歌った。決して、うまくはなかったが。
彼らがひっこんでも、前島さんは席を立とうとしなかった。まだまだ、見続けなければならないのだろうか。こんなステージを。
ぼくが、店を出ようと前島さんに言おうとしたときだった。
「ここなのかい?」
セージが前島さんに聞いた。
彼女は、セージの方を見て、すぐに返事した。
「そう。この店よ。あなたたちがやるのは」
トオルが立ち上がった。椅子が音をたてて、まわりの客の注目を浴びる激しさだった。
前島さんの方に手を伸ばそうとしたのを、セージが押さえる。
「ふたりだけで話がしたいんだ」
「いいわ。私も必要だと思う」
†
クニさんとトオルとぼくは、セージと前島さんを残してホテルに帰ることになった。あの臭いのする部屋へ。
トオルは、めちゃくちゃ腹を立てていた。帰りは、みやげもの屋を見ようともしない。
「いやはや」
クニさんが、ため息をついた。
「まあ、こんなことじゃないかと思ってましたが」
クニさんが言うには、NEXUSのイギリスでのデビューというのは、あくまで日本の国内向けのもの。リバプールで人気爆発の日本のバンド、とうたえさえすれば内容はどうでも良い。そして、凱旋《がいせん》公演。記念アルバムの発売。テレビ出演、などなど筋書きが出来ているのだろう。
あまりに作為的だった。思い切って大袈裟《おおげさ》な表現をすれば、反ロック的とも言える。そんな歌謡曲の歌手のようなマネはしたくなかった。
それは、ビートルズの伝説をコピーする戦略なのだ。港町のリバプールに生まれ世界を制覇したグループにちなむ。彼らは依然として、日本で一番有名なロック・バンドなのだから。
いまさらと言えば、まったく、いまさらのことだった。ぼくたちのバンドは、音楽性からいったって、とりたててビートルズに近いわけではない。似ているとしたら、構成が四人のシンプルなスタイルだということぐらいだった。
そのとき、ぼくはクニさんの話を、ただあきれて聞いていた。いまになってみると、疑問はいろいろある。
本当に、前島さんの意図が、最初からそういうところにあったのかどうか。ロンドンでの長すぎるリハーサル期間が妙だ。滞在費用がかさむだけだし、あの間に何かが起こったと考える方が妥当だ。
彼女自身、方針がぐらついたりしたのか。あるいは、プロダクションとしての決定と彼女の考えとの差。彼女はリバプールでのステージについて、直前まで話そうとしなかったのだから。
ぼくはトオルの背を追った。怒って歩いていて、ホテルへの曲がり角を行き過ぎたトオルをつかまえるために。
†
夜遅くなって、ドアがノックされた。トオルとぼくは、待ちくたびれていたころだ。
「結論からいくぜ。明日から、あそこでやろう」
ぼくはセージの目を見た。
「言いたいことは、百も承知だ。でも、やるんだ。NEXUSは、リバプールでライヴをする。クニさんも納得してる」
前島さんは言っている、という。NEXUSがビートルズに似てるかどうかは気にしない。とにかく、リバプールでデビューすればよい。
それは、クニさんが言うように、現地で受けようが受けまいが日本に帰ってしまえば話はどうにでもなる、ということなのだろうか。
「一発、やってやろうぜ。いつものやつを」
セージは明るかった。おどけた目をしている。何かをたくらんでいるときの顔だ。トオルとぼくの肩をたたく。
そういうことか。明日、NEXUSはリバプールでデビューするのだ。
セージの目は、ぼくたちに語っていた。いつもと同じように、好きなようにやればいいんだ、と。
20
ぼくたちは、ビートルズ・ナンバーをやった。まったくビートルズっぽくなく。ほとんどブルースのノリだった。
ルースに、汚らしく、セージがなめるように歌った。彼のクィアー・オリエンタル・アクセントは、彼らには何を言っているか理解できなかったかもしれない。それでも、一応は有名な曲なのだから。
反応は、ほとんどなかった。
ふだんのセージなら、顔には出すまいとしながらも、内心、ここであせっていたと思う。彼の、異様なまでに強いプライドの問題だ。
でも、ぼくたちは、今回はオーディエンスは無関係だった。ビートルズのコピーを期待している観客に受けるかどうかは問題ではない。
確かに、イギリスまで来て何もしないで帰るという選択はなかっただろう。前島さんは好きにやってくれてよいと許可してくれてるのだし。
そう言いながら、彼女は丸い襟なしのスーツのビートルズの初期に似たユニフォームまで用意していたのだ。ぼくたち、ひとりひとりのサイズに合わせて。これまで、服装を統一しようなどという努力を一度もしたことのないNEXUSだったのに。
二曲目。
アレンジをまったく変えた。
大音量の、ギターの割れた音からはいる。元のビートルズの演奏を客が思い出すには、時間がかかったことだろう。
「何やってんだって感じ。あのときは、みんな、あっけにとられてたぜ」
楽屋に帰ってから、トオルが言った。
ぼくは、かわいらしいユニフォーム姿のままステージに寝そべり、ノイズをまじえて引き伸ばすようにして弾いた。それだって、一種のオリエンタル・アクセントだったかもしれない。しかし、少なくともギターは共通語だ。
威張るように聞こえるかもしれないけれど、NEXUSは、テクニック的には明らかに、もうこれはどうしようもないくらい明らかに他のバンドを圧倒していた。どんな聴衆でも、それぐらいはわかるはずだ。
四曲終わったときには、歓声があがっていた。幾分笑いもとっていたようだった。
まあ、どうでもいい。
ぼくたちは満足していた。拍手には陽気に手を振って応《こた》え、ステージを降りることができた。
そんなことを日に数回した。いろいろな曲をやってみた。自分たちが飽きないように。
たまたま居合わせたライターがぼくたちに興味を持ったのだという。彼は音楽に関して新聞にも寄稿していた。
前島さんに切り抜きを見せられた。小さかったけれど、ステージの写真まで載っている。
前島さんが訳してくれた。
「リバプールにおかしなバンドが登場している。全然ビートルズらしくなく淡々とビートルズをする日本人たち。彼らはビジネスマンのジャパニーズとは異なり、あの曖昧《あいまい》な微笑を顔にはりつかせネイム・カードを差し出すことはない」
「何言いたいのか、わかんねえや」
トオルの反応はストレートだ。確かに、わからない。
クニさんは、最初から興味を示さなかった。
意外なくらい熱心だったのは、セージだ。切り抜かれた記事を前島さんから受け取り、見つめる。それが試験前の暗記事項の書かれたメモであるかのように、じっと集中する。
あげくのはては、宙に浮かべ透かし模様を見るみたいにながめている。そんなことしたら、見にくくなるだけだろうに。
その記事が反響を呼んだらしい。わざわざ、NEXUSを見ようという客が、現れ始めた。
ぼくたちの一回のプレイに与えられる時間も長くなった。そして、何より嬉《うれ》しいことには、ビートルズや他のスタンダードだけでなく、オリジナルも混ぜられるようになったのだ。
†
二週間後、ぼくたちは、なんとロンドンのステージに呼ばれていた。そして、一か月もたたないうちにCDの発売の話が決まった。日本で録音したデビュー盤をイギリスでも出す。マイナーな系列のところからではあったけれども。
奇妙なうねりのようなものが起き出していた。人気がブレイクするときというのは、そんなものなのだろうか。
ぼくたちは、日に日に、周囲からの注目度が高まっていくのを、からだで感じていた。
それを、最も直接に表してくれたのは、ロンドンの行きつけの食堂のウェイトレスだった。よく笑う、大柄な女の子だった。ぼくたちがミュージシャンであることを知ってからは、話しかけてくるようになっていた。
ある日、ぼくがトオルと店にはいっていくと、彼女は、ぼくの方に、からだをすりよせてきた。唐突に手をのばすと、ぼくの太腿《ふともも》をつかむ。
トオルが口笛を吹いた。ニヤニヤとぼくを見る。
逃げなければ、ペニスに触れられていたところだったと思う。
彼女はゲラゲラと笑いながら説明した。本当のところ、ぼくは女なのではないかという噂がひろまっているのだと。
どうやら、ぼくたちは、一部でカルト的な人気を呼んでいるようだった。ぼくは男装をしている。そして、その噂には、ぼくとセージの肉体関係のイメージがつきまとう。
ぼくは戸惑った。セージとぼくのホモセクシュアルな(ぼくが本当に女なら、それは同性愛ではないのだが)関係に、人々が興味を持っている?
ロンドンにたくさんいる日本人ジャーナリストたちが、NEXUSのことを放っておくはずがなかった。ただちに日本へと情報が飛ぶ。
前島さんが事務所からの連絡を受けて、ぼくたちに教えてくれた。日本のマスコミでは、ぼくたちのことが話題になっていると。彼女の手には、FAXがあった。日本の雑誌や新聞のコピー。結構、大きな記事もあった。
指をくわえ、トオルが、ヒュー、と短く音を出す。
ぼくも、急いで、一枚、見せてもらう。そうやって取り上げられるのは、もちろん嬉しかった。
ある音楽雑誌の記事の終わりには、御丁寧に例の噂まで書いてあった。ロンドンのフリークたちの間では、一説によると、ぼくは十二歳の女の子ということになっているらしい。
「やり手のマネージャーさんの思惑どおりってわけですか」
クニさんが言った。
「とんでもない。予想をはるかに超えてるわ。日本でCDの売上げが伸びてるそうだけど、それより、うまくいくとイギリスで本当に人気の出た初めての日本人バンドになるかも」
前島さんは、「本当」というところに、極端に力を込めて言った。彼女の立派な発音の英語なら、really と響かせるのだろうか。
セージは、ひっそりとしていた。
目の前で進行する、メンバーたちとマネージャーとのちょっと興奮したやりとりを、穏やかにながめている。満足げな表情。
彼の言葉を代弁したら、こういうことになるのだろうか。
おいおい、みなさん、このくらいで喜んでたらダメだぜ。俺にはバンドを始めたころから、とっくに見えてたんだ。俺たちNEXUSは、もっと、もっとデカくなる。
当初の計画とは大分変わっていたのかもしれない。でも、ぼくたちのイギリス・デビューは、どうやら成功のようだった。
21
イギリス人は、ロックをやっているジャパニーズのことを、基本的にどう思うのだろう。
少なくともぼくの周囲では、好意的な感じではあった。黄色人種が珍しくておもしろい、というだけの理由ではないと思う。彼らは、むしろマイノリティの存在に慣れている気もする。
街で暮らしていて、そんなに好奇の目は感じない。日本でトオルやクニさんと一緒に歩いている方が、よほどジロジロ見られる。彼らは適度な距離を保つのがうまいのか。あるいは、ぼくたちは無視されているのか。
NEXUSのライヴに来る客たちは、充分にのってくれた。ある意味でステップスより上質な反応をする。
それは当然なのかもしれない。ステップスのアメリカ人の多くは、日本の基地にいる兵隊だった。彼らは、酒を飲み、羽目をはずすために店に来るのだ。ぼくらの演奏中にだって、ビール瓶の割れる音がする。テーブルがひっくりかえされるなんてことも、しょっちゅうあった。ぼくたちは、そういう客と闘ってきたのだ。
それに比べたら、ロンドンの聴衆は、音楽を楽しみたい人々だった。セージの声に、トオルのドラム、クニさんのベースに、そしてぼくのギターに、NEXUSのサウンドに敏感に答えてくれた。
イギリスの音楽業界の反応も、あいかわらずよかった。ぼくたちは、いくつかイギリスの雑誌の取材を受けた。
日本の国内でのインタビューでは、セージが代表して答えていた。彼は、マスコミに自分たちがどのように扱われるか、すごく気にしていた。
ところが、不思議なことに、イギリスでは、セージはそういった取材を嫌がった。彼は、しゃべるのは他のメンバーにまかせていた。
クニさんがメインで応対した。トオルが、時々、横から口をはさむのがパターン。ぼくは、自分に聞かれたことだけ答えた。これは、日本でと同じだ。
実は、イギリス滞在中に、セージがいちばん英語が上達しなかったように思う。出演する店でも街でも、セージは、必要最小限をのぞいて英語をしゃべろうとしなかった。マネージメント関連はすべて前島さんの仕事だったし。
これは、最初のうち、とても奇妙な気がした。あれだけ攻撃的なくらいひとに話しかけ、働きかけるセージにはふさわしくない。
ぼくの推測になるけど、セージは、自分の言いたいことが正確に伝わらないような状況が耐えられないのだと思う。自分の言葉に自信が持てず、相手のしゃべっていることもよくわからないという事態に。
コミュニケーションできないことに子どもみたいに苛立《いらだ》つセージを、ぼくは何回か見た。
クニさんとトオルのコンビときたら、その正反対だ。相手が理解できようができまいが、構わずしゃべる。コミュニケーションが不可能なのを楽しんでいるくらいだ。そういったところでは、かなり好き勝手なことをしゃべっていた。冗談ばかり。しかも完全に内輪受けの話も。何言っても、どうせ、わかりはしないだろうという感じ。
そのインタビューというのは、かなりカルト度の高い雑誌だったらしい。インタビュアーも相当に異様な、虫みたいなやつだった。
長いインタビューだった。眼鏡をかけた虫は、なかなか帰ろうとしない。途中でセージが席をはずした。
そこからだ、話がめちゃくちゃになったのは。
クニさんが屍体《したい》愛好症だという発言をしたのは、かまわないだろう。
俺は、屍体が好きでたまらないんだ。女とヤルときは、睡眠薬で眠らせといて、意識不明のときが最高だね。いつか、そのうち相手の首絞めて殺しちゃうと思うよ。きっと、そのうちね。
少女にイタズラしたって話(クニさんは、このとき、何でそんなにのっていたのだろう。酔っていたから、というのなら、彼はいつものことだ)には、イギリス人の虫はビビりながら興奮していた。それは、すごい。とても活字に出来ない犯罪だと。
クニさんとインタビュアーの大騒ぎに対抗しようという気分だったのだと思う。トオルがクスリの経験をしゃべった。
うん、初めてスピードやったときね、そう、ハイ・スクール、えーと、ジュニア・ハイのころ。そのときはさ……、というようなところから。
それはまあ、ぼくたちも知っていることだ。彼は、一種のマニアだった。クスリには目がない。そして、トオルは、ドラッグ天国のイギリスを賞賛した。この国来たらさ、いろんなのが手にはいって……。
そこからは、インタビュアーの虫とトオルのふたりだけの世界だった。からだを突っつきあって笑いころげる。
確かに、ぼくは、イギリスでは、合法非合法の線がわからなかった。いろんな種類のクスリが簡単に手にはいるらしい。まわりのミュージシャンたちは、おおっぴらにやっていて、楽屋には鼻から吸うためのスプーンが常備されていた。
トオルはエンジョイしていた。そんなイギリスでの「生活」を。その点では、ぼくたちの誰よりも。
そして、そのカルト雑誌の記事は日本語に翻訳され、伝えられてしまった。
すぐに帰国命令が来た。
ぼくたちは、非常に居心地のいいイギリスを離れ、あのジャパンに戻らねばならない。
「無理よ。今度だけは、私にはどうしようもない」
前島さんが言った。
トオルは、見てるのが厭《いや》になるくらい、しょんぼりとしていた。まあ、こんなに落ち込んでいたら、ワン・ショット、やるしかない。
ぼくには、そのあたりのところは、よくわからない。でも、日本という国は、クスリについては、たてまえとして寛容でないことになっているようだ。たとえ現実に、日本中の夜の盛り場で売買が成立し、あるいは真昼の高校の教室の片隅で手渡されていようと、その事実を広言してはならない。
数年に一度は、必ず「見せしめ」の逮捕が行われるシステムになっているそうだ。その対象には、効果をねらって常に芸能人が選ばれる。
ぼくたちが所属しているような小さな事務所だと、プロダクションとしての力が弱いから、もみ消し工作など出来ない。トオルが逮捕されたら、NEXUSが業界から締め出される可能性があるという。
トオルは、大きなからだを小さく丸めていた。セージに殴られた右目のまわりが、青黒く変色してきている。
「だったら、いっそのこと、帰らなければいいんじゃない?」
ぼくは、前島さんに言った。NEXUSは、世界を放浪するロック・バンドになる。
「それもいいけどね」
すぐに返事したのはクニさんだ。
トオルとは違って、ひとつも落ち込んでない。クニさんは、トオルと一緒に取材に対してはしゃいで答えたことには、責任を感じてないようだ。むしろ紛糾する事態を楽しんでいるみたい。
「ダメよ、そんなこと。現実的じゃない。考えられる最悪のシナリオは、イギリスでトオルが逮捕される。長期の服役か国外追放」
前島さんは、そう言うと唇の端で笑った。
トオルは、両手で頭をかきむしる。
「そんなにスコットランド・ヤードも暇じゃないでしょうけどね。それより、ふつうは現行犯逮捕でしょ、少なくとも日本では。そうならなきゃいいんだから。とにかくここでNEXUSにクスリまみれのイメージが出来あがる前に帰るの」
前島さんは、いつもの厳しい口調にもどっていた。
セージが、立ち上がった。
「よし、日本に帰ろう」
そんなところだ。
帰国の準備が始まった。万一の場合に備えなければならないのは、もちろん、トオルだ。
検査で反応が出ないように、その日から、いっさいの薬物が禁止された。セージがトオルに命令したのだ。高校の風紀委員が決めたのとは、わけが違う。
トオルは、実行するしかなかった。
サウナに行く。汗を流したぶん、大量のビールを流し込む。科学的な根拠があるのかどうかは怪しい。でも、イギリス伝統のアルコールによって、トオルの全体液が三回ぐらいは入れ替わった。
もちろん、トイレの中までも監視された。ぼくは、いま受動態で言ったけれど、トイレで監視するのは、当然、ぼくの役目だ。セージがそんなことをするはずはないし、クニさんでは、監視の実効がまったく期待できない。
パンツをおろしたトオルの至近距離に、ぼくは立つ。
「ねえ、せめて前島さんと交代してよ」
トオルがささやく。
「君だと怖いの。ゲイだって噂でしょ」
ぼくはタバコに火をつける。
臭いを消すためだ。
吸い込んで鼻から出すようにする。試行錯誤による、ぼくなりの工夫なのだ。
「下痢《げり》気味だね」
トオルにタバコを渡しながら言った。トオルの手は震えている。
「うん。やっぱビールのせいかな」
さすがに、トオルは元気がない。
ぼくにタバコを返す。
「日本に帰ったら、リンには好きなだけカレー奢《おご》ってあげる」
ペーパーのロールがカラカラと回る。
日本に帰ったら、か。ぼくは、思った。本当にNEXUSは日本に帰るのだろうか、と。そして、はたして、あのジャパンでぼくたちのバンドはやっていけるのかどうか。
しかし、帰国の日は決定した。トオルの尿検査への備えは、万全とは言い難かった。
ぼくたちは、再び飛行機に乗る。日本へと。
22
搭乗券は、とりたててどうということはない、ふつうの細長い大判のチケットだった。ブリティッシュ・エアウェイズのロゴがはいっている。
トオルは、手に握ったそれを見つめていた。ずっと、飽きることなく。もちろん、ただ、うつむいているだけで、目にはいってはいなかったのかもしれない。
空港の椅子は固く、座りごこちは良くなかった。
ぼくたちは、ヒースローから成田に向かって飛び立つのだ。あと一時間ほどで。
「日本の領空になったとたん、飛行機の中で即逮捕、なんて劇的なことにはならないと思うわよ」
前島さんが言った。
いつのまにか、トオルの前に立っていた。
「あなたは、そんな大物じゃないから」
トオルは首を横に数回振る。返事はしないし、前島さんの方を見ようともしない。
「もっとも、下着の中に何か隠してるとか通報があったりしたら別だろうけど」
さすがに日本にクスリを持ち込もうとするほど、トオルはバカではないと思う。でも、まあ、ジャンキーというのは、何をするかわからない。
ぼくたちの後ろでは、クニさんが横になっていた。
離陸の恐怖に備えて、朝からたっぷりと飲んでいるのだ。アルコール依存症患者というのも、何をしでかすかわからないだろう。ぼくたちは、こんなメンバーで成り立っているバンドだったのだ。
セージは、さっきから、ひとり、広いフロアーの先端まで行って立っていた。エアポートに並ぶ旅客機をながめている。それほど頻繁に動きがあるわけでもないのだけれど。
行きの成田に着いたときから、セージは暇さえあれば飛行機を見ていた。これは彼について知った新しい側面だ。セージが、乗物だとか機械だとか、そういうものに興味を持つなんて、それまでぼくは考えてもみなかった。
トオルが何かつぶやいた。ぼくには聞き取れない。彼の声は小さくて、ささやいているみたいだった。
「何?」
ぼくは、クスリを使わないようにトオルを見張っている役に疲れてきていた。
「あのね、ポールはさ、何、歌ったんだっけ? トーキョーでつかまって」
トオルは言った。
「さあ、覚えてないけど。イエスタデイとか、そんなもんじゃないかな」
ぼくは、ちょっと考えてから返事した。
確かに聞いたことはあったはずなのだ。来日してすぐに麻薬所持か何かで逮捕されたポール。彼が東京の留置所で口ずさんだ曲は?
「それとも、オブ・ラ・ディ、オブ・ラ・ダだとか、なんか、そういうタイプだったのかな」
ぼくは、考えた。ポール・マッカートニーは、イギリスから見たら、はるか遠くにあるアジアの片隅の国で逮捕されたのだ。強姦《ごうかん》だとか詐欺だとか殺人だとかを犯しているかもしれない見慣れぬ黄色人種に求められて、自分は何を歌うべきだと判断したのだろう。
たとえば、オール・マイ・ラヴィングだったりすることはないと思う。単純に、とってもシンプルで、コード進行が魅力的な、ぼくの好きな曲なのだけれど。
ビートルズはすでに解散していた。彼がソロ活動を意識していたのなら、アナザー・デイを歌ったのだろうか。でも、こういうのは「持ち歌」の問題だ。トオルは、ギタリストのぼくより、ヴォーカルのセージに聞くべきだったのだ。飛行機をながめている彼のところまで行って。
あるいは、彼らからのリクエストには、ちゃんと曲名の指定まであったのだろうか。
「レット・イット・ビーは、絶対に変な気がする」
ぼくが言うと、トオルは顔を上げた。
「え?」
彼は、驚いた顔をしていた。
すでに、留置所のポール・マッカートニーのことから、頭が離れていたのだろうか。宙をさまよっていた目が、ようやくぼくの顔に焦点が合った。
「何で?」
不審そうだった。
何で、と、しっかりと尋ねられても、ぼくとしては説明は難しい。なんとなく、曲目があまりにリリージャスな気がしたのだ。犯罪者たちと一緒に共同の風呂《ふろ》にはいりながら口ずさむには、似合いすぎる。
「なあ、トオル。逮捕されたら、リンゴの歌をやれよ。おまえは、リバプールでリンゴの役、してたんだろうが」
急に、クニさんが割り込んだ。後ろの列のベンチから身を起こしていた。目をさまさせられた不機嫌な声。
「リンゴ?」
ボソっと、トオルがつぶやく。
そうだ。リバプールでのビートルズ・ナンバーが、ぼくたちのイギリス・デビューだったのだ。そして、トオルはドラムなのだから……。
「じゃあ、マッチ・ボックス」
ぼくは、言った。
「何、それ?」
ぼくは、リフレーンのメロディ・ラインをハミングした。
トオルは、知らないみたいだった。割合と初期のアルバムに収められていたはずだ。のんびりというか、ちょっとまぬけな感じの曲で、カントリーっぽいのがリンゴには似合うってわかる。
「いやだねえ。どうして、こう、うちのギタリストは渋いのか。子どものくせして」
クニさんは、再びぼくたちに背を向け横になった。
「ふつうは、イエロー・サブマリンとか、言うもんなのよ」
顔を伏せたまま、つぶやく。どう見たって、公園のベンチにいるホームレスだ。
トオルは、聞いてないみたいだった。
もうすぐ、成田に帰る飛行機に乗り込むのだ。先のことは、誰にもわからなかった。イギリスの雑誌から転載された、トオルの薬物常習歴の告白が、どんな影響をもたらすことになるのか。
いっそのこと、警察からの呼出しの通知でも受け取っていた方がましだったのかもしれない。どうなるのかわからない、ということが不安を呼ぶのだ。
トオルは、自分ひとりの世界にはまりこんでいるようだった。
そう。
結局は、これが、ぼくたちの約三か月に及ぶ、けっこう華々しかったイギリス・デビューの結末なのだ。
†
最初に気づいたのは、セージだった。
帰国したのは、いまとなっては、ずいぶんと前になる。ぼくの記憶が曖昧《あいまい》になっていたとしても、不思議はないだろう。
でも、ぼくは、はっきりと覚えている。確かに、まず、セージが気づいたのだ。
それは、そのとき、バンドのメンバーで彼だけが思いつけたからだろう。そんなことが、現実にあり得るのだと。
セージが先頭に立って、ぼくたちは機内から出た。長い時間、狭いスペースに閉じ込められていたあとだ。重苦しい疲労に、からだがどっぷりと浸っている感じだった。
チューブの中は、空気がよどんでいた。通り抜けて、連絡通路に出る。
そして、セージが、急に立ち止まったのだ。
ゆっくりと右手を上げ、空港のビルの本体の方を指で差し示した。ひとことも言わなかった。
それは、もしたとえるなら、導師のようだったと言えるのかもしれない。いま、後ろに続く弟子たちに、何か重要な教示をしようとしている。
セージの指の先には、ひとかたまりの人間がいた。数十人、あるいは、百人ぐらいになるのか。遠くてよくわからなかった。
デッキのようなスペースに張り付いていた。全体が、震えるように蠢《うごめ》いていた。
しばらく歩いていくと、それは、飛び跳ねたりして、からだを揺すっているためなのだとわかった。
そのときになっても、ぼくは、何かの間違いだろうと思っていた。自分たちのこととは、信じられなかったのだ。
エスカレーターに乗って、通路を進んでいったときだった。
今度は、間違いようがなかった。ぼくたちは、突然、女の子たちの歓声によって迎えられた。
彼女たちは、ぼくたちに向かって、猛烈に手を振っていた。メンバーの名前を書いたプラカードを突き出す子もいた。
イギリスで人気が出た日本人バンドという噂。それが日本でも話題を呼んでいるとは聞いていた。しかし、雑誌などのマス・メディアの報道は、伝わっていたとしても、せいぜい人々の好奇心を刺激する程度にとどまると思っていたのに。
彼女たちは、帰国するぼくたちの情報をどこかで手にいれ、わざわざ空港で待ち構えていたのだ。叫び、ジャンプし、押し合う。少しでも注目を引こうとする。でも、ぼくは、どこを見ていたらいいのか、視線が定まらなかった。
それが始まりだった。
ぼくたちは、ロック・スターへの道を歩みだしたのだ。
セージは、彼女たちに向かって軽く手を上げて合図をしていた。笑みを浮かべ。
自信にあふれた態度。
こんなファンの狂騒ぶりには、十年も前から慣れっこになっている。支持してくれるのは有難いけど、ちょっと困ったもんだね、というような仕種《しぐさ》だった。
23
ぼくたちは、事務所に呼び出された。いよいよ日本でのNEXUSの活動が再開されることになる。
最初にシークレット・ギグ。ということになっているが、そんなに「秘密」なわけではない。情報は適度にリークされる。
そのあと、盛り上がりを見計らって、全国ツアーを仕掛ける。NEXUSは、ドラマの主題歌とか、CFタイ・アップをしない。テレビの歌番組にも露出しない。
それが事務所の方針だった。ツアーに賭《か》けるのだ。
もともと、ぼくたちは、テレビで求められているような、限りなく歌謡曲に近いロックをする気はなかった。時代には逆行しているかもしれない。でも、ぼくたちは、直接にひとの前で演奏するという音楽活動の本来のすがたで勝負するのだ。
それに、イギリスで出来上がったイメージを考えれば、お茶の間向きではないのは確かだった。奇妙な、何をしでかすかわからないバンドとして評判を呼んだのだから。ぼくとセージの性的な関係の噂にしても、まさにそうだ。リスクが大きくて、なかなかスポンサーがつくとは思えない。
まして、トオルの問題だ。
そう。ひどく心配したにもかかわらず、空港での薬物中毒のチェックなんて事態にはならなかった。また、いまのところ、トオルのかつての友人など、周辺での聞き込みの捜査が行われている気配もないようだった。
よかった。すごく、よかった。
「なんか、拍子抜けするねえ。期待してたのに」
クニさんは、トオルをからかった。
いろんな推測がされていた。結局、トオルの発言が転載されたロック雑誌はかなりマイナーなものだった。だから、中学生のころからクスリをやっていたなんていうのも、そんなには広まらなかった。
また、警察としては、ぼくたちは世間的にほとんど知名度がなく、見せしめ逮捕をしたところであまり効果がないと判断した。あるいは、彼らの方の事情で忙しくて、NEXUSになど関わっていられなかった。
何であれ、かまわない。ともかく、よかった。
事務所の社長から、トオルには厳しい命令があった。
今後、二度とドラッグに手を出すな。もちろん、過去の経験であれ、しゃべったりしてはならない。ロンドンでのインタビューのようなことが再びあれば、その途端、NEXUSは活動停止に追い込まれる。
「いまが大切なときなんだぞ。ようやく人気が出てきたんだ」
以前にCDの録音の件で乗り込んだとき、ぼくのことを「ぼうや」と呼んだ、あの社長だった。妙に気合いがはいっていた。赤ら顔をさらに紅潮させ、トオルに詰め寄るようにしていた。
トオルの方では、一応、神妙な様子。セージに脅されたときとは、態度が全然違うけれど。
「いや、簡単なことだけどね。ドラムを代えたらしまいだもん」
セージは、こともなげに言った。事務所のドアを開け、階段を降りてすぐに。当然、トオルの前でだった。
メンバーのひとりが麻薬の問題で逮捕された場合、実際、どうなのか。社長が言っていたように、CDの発売中止とか「芸能活動」そのものの停止とか、いろいろあるはずだ。
それでも、セージが言うと、確かにすごく簡単なことのように響いた。トオルをはずして、必要ならバンド名も変えて再出発するとか?
みんなが黙っていると、
「なんだったら、いまのうちに代えといたっていいんだぜ」
セージは、今度は、直接トオルに向かって言った。
トオルは答えない。
ぼくは、そういった言葉は聞きたくなかった。セージは、まだ、やろうとしているのだろうか。ヨッチャンを辞めさせ、ヒロにクビを通告したように。
これから、再出発のNEXUSだというのに。
†
家族は、ぼくの帰国を歓迎してくれた。
リビングには新聞や音楽雑誌のスクラップまで用意されていた。母親は、ぼくたちがイギリスにいる間、そういった情報を手当たり次第に集めていたのだ。プロダクションの資料部顔負けのパワーだ。
さすがに、スキャンダラスなというか、おそらく両親にしたらグロテスクなぼくのゴシップについては、お互いに触れることはないけれど。
だから、家まで迎えに行こうか、というヘミの提案をぼくは受け入れてもよかったのかもしれない。でも、ぼくは、ヘミを母親に会わせる気には到底なれなかった。それは混乱を増すだけだ。十七歳の息子の、かなり年上のガールフレンド?
近くの海岸沿いの国道で待ってる、とぼくは返事した。
海のそばでぼんやりとしているのなんて、すごく久し振りの気がした。夜の海は静かだった。波が崩れては引き、また押し寄せては崩れる音がする。子どものころと何も変わらない。
風に吹かれて、ぼくはこれまでのことを思い出していた。
JRの駅裏の路地でセージに出会ったところから、すべてが始まった。ギターを弾くようになったこと。NEXUSに誘われる。ステップスのオーディション。レコーディング。そして、ツアー。突然のロンドンとリバプール。
あまりに次々といろんなことが起こった。みんな嘘みたいだった。
ヘミの赤いツー・シーターがやって来るのが、遠くからわかった。独特な音がするのだ。進学のテストの日に、フル・オープンでぼくの中学に乗り付けた屋根は、閉めてあった。
ヘミを見て、ぼくは、あらためて母親に会わせないでよかったと思った。
横に乗り込んで、すぐにぼくたちはキスした。ぼくが舌を入れると、ヘミは自分の舌をからめてくる。右手は、ぼくのペニスの上に。
彼女の舌は、形を自由に変える。
硬くなったり柔らかくなったり。それは、いなくなったかと思うと、突然、ぼくの口の中に満ちる。積極的に、ぼくの舌にまとわりつく。とても滑らかにからまる。
先をとがらせた彼女の舌が小刻みに震えるとき、右手の爪が、ぼくのペニスのところで連動した。
ぼくは、苦しくなって、頭を後ろにそらし、キスをのがれた。ヘミに吸われた舌の根元の方がしびれている。
「あなたにとっては、どうだったの? イギリスは」
ヘミはクルマを出した。
帰国してから、初めてゆっくりと話す感じ。
「イギリスの音楽はどうだったのって、聞くべきかしら。どうせロックのことしか考えてないんだろうから」
ぼくは、ロンドンの話をする。音楽に満ちたロンドンの街の魅力。ヘミは、ぼくの答えをずっと聞いていた。静かに。
ぼくはしゃべり終えた。しばらく沈黙が続いたあと、彼女は驚くべきことを口にした。セージが結婚を申し込んだ、と。
ぼくは、何も言えなかった。
結婚という言葉に、セージぐらい似合わない男もいない。
「あきれるでしょ」
ヘミは、ハンドルを握ったまま、ぼくの方を見る。
「セージは、いま、とっても不安みたい。まあ、もともと、すごい寂しがりやだし」
そして、ヘミは、
「やっぱり、みんなに話してるはずないわよね」
納得している。
ぼくは、それには直接返事せず、
「プラクティスが忙しかったから」
と言った。
それは、事実だった。
ぼくたちはリハーサルを開始した。事務所の社長に言わせると、せっかく話題を呼んでいるのだから「衝撃的な再デビュー」をしなければならない。
NEXUSの四人だけでなく、バックにコーラスやホーン・セクションをつけるし、ダンサーまで舞台に上がる。だから、結構、大掛かりな練習が必要だったのだ。
ぼくが、これまでヘミとふたりだけで会えなかったのも、そのせいだ。でも、そんなことは、もちろん、彼女だって知ってるだろう。
ヘミは、NEXUSの人気が出て来ているせいで、セージは不安になっているのだという。
「どうせ、セージだって、結婚なんてどうでもいいはずなんだけど。不安だから、何か他のこと考えていたいだけだと思う」
彼女が、セージが寂しがりやだ、と言うのなら、そうなのだろうか。だったら不安でたまらない、というのも。ぼくの知っているセージは、いつも恐ろしいくらい、冷酷なくらい強かった。そんな内面を見せることはなかった。
前と同じように彼女の運転は乱暴だった。山の手の高台へと、かなりのスピードで上っていく。道は細くて、カーブはきつい。それに、夜なのだ。対向車があったら。
ヘミは、それからは黙りがちだった。
家に上がるとヘミはテープをかけた。音がクリアーではない。たぶん、アマチュアのロック・バンドのライヴ。
「どう?」
とヘミは聞いた。
「いまのあなたからしたら、つまらない?」
そんなことはない、とぼくは答えた。ある程度のレヴェルにはある。
「ぼくがここに参加したら、編曲を大幅に変えたいけど。まず、ふたり目のギターは、ない方がいいと思う。サウンドが厚ぼったくなってしまって、切れがなくなってる。リード・ギターはいいのに」
ヘミは笑うと、ぼくの頭をかかえ、軽くキスした。
「ありがとう」
ぼくは、ヘミが何に対して感謝しているのか、わからなかった。
「これ、死んだ兄のバンドのテープなのよ。ほめてくれた方のギターだった」
それっきりでヘミは黙った。ぼくたちは二階に上がりヘミのベッドに横になった。
ぼくがヘミのからだを包み込むように覆いかぶさり、逆にぼくのペニスは、ヘミのからだに熱く包み込まれる。
ぼくは、ぼくのからだを、激しくたたきつける。セージが結婚を申し込んでいるというヘミのからだに。
†
道を行く人の数が徐々に増した。ちらほらとしていたのが、とぎれとぎれの列になる。密度が少しずつ高まっていくような感じ。
窓側に座っていたトオルが、ぼくを引っ張り寄せた。交差点を曲がったあたりは、人だかりだった。会場の周囲を、NEXUSを聞きに来た聴衆が取り巻いているのだ。
まだ、開演まで、だいぶ時間があるというのに。
「こんなに、はいれっこないぜ」
トオルは興奮した口調だ。
昨晩、前島さんは言った。
「シークレット・ギグのチケットに、相当のプレミアムがついているらしいわ。ロンドンから凱旋《がいせん》したNEXUSの、帰国後初めてのライヴなんだから」
そのとき、ぼくは半信半疑だった。自分たちの音楽を聞きたいというひとが、どのくらいいてくれるのか。それは、つかめない。
クルマは、観客の波を押し分けるようにして、会場の裏口に滑り込んだ。すぐにシャッターが降ろされる。
イギリスへ行く前とは違う。ワン・ノブ・ゼムのバンドとして出るのではないのだ。ぼくたちのコンサートが出来る。
とても大きな違いは、NEXUSだけを目当てに、多くの客が集まっていることだ。自分たちのプレイを聞こうとする聴衆で、席が埋まっている。バンドにとって、これほど嬉《うれ》しいことはない。
ぼくたちは、みんな、そんな状況を楽しんでいたのだと思う。もちろん、緊張しながらも。
それぞれに差はある。クニさんは、知らないひとが見たら、何の変化もなく感じられただろう。ぼくには、彼が控室でタバコを吸っている、その仕種《しぐさ》からでさえわかるのだけど。トオルの場合は、はっきりと顔に出ていた。はしゃいで楽屋を跳ね回っている。
そういうトオルの単純なところが、ぼくは好きだ。
「一緒にはいるかい?」
ぼくを誘っている。もちろん、トイレにだ。
「リンが監視しててくれないと、また、やっちゃうよお」
セージは、セージの場合は、逆に奇妙に冷静になっていた。それは、やはり、このように人気が出ることを、セージだけが当然のこととして予期していたからなのだろうか。ぼくには、そんなセージが「不安」だというのは、信じられなかった。
ぼくは、ギターを握り締める。なるべくバック・ステージの隅の方で、ひとりで座っていたかった。あまりトオルに邪魔されたくない。
前だったら、ぼくは、チューニングに時間をかけていたと思う。寸前まで、神経質に調整をする。弦の傷みぐあいの確認をする。何度も、繰り返し。
ロンドンぐらいから、そういうことは、気にならなくなってきていた。いいかげんと言えば、いいかげんだ。慣れてイージーになったって批判もできる。
でも、それは、よい変化だろう。ぼくは、ぼくとぼくのギターを信頼できるようになったのだ。幕が開くのを待つには、ギターに触れていさえすればよい。
「子どものくせに、瞑想《めいそう》なんかしちゃって、やだね」
いつのまにか近くに来ていたクニさんが言った。
ぼくは、彼に向かって、ちょっと笑う。何も言う必要はない。お互いにわかっている。
もうすぐ始まる。
†
ライヴは大成功だった。
セージは、楽屋でと同じように、ステージでもクールだった。昔よりも、むしろファンに対して冷たくなった。
興奮する女の子たちを、わざと無視した。おやまあ何をそんなに騒いでいるんだ、というような冷たい視線を投げかける。そして、そんなセージの仕種が熱狂を呼び起こすのだから、それが計算ならたいしたものだ。
いや、きっと計算とかいうような頭の中での理性的な判断の次元を超えている。それが自然に出てくるのがセージなのだ。
24
ここからのことは、みんなが知っている。
シークレット・ギグの反響を確かめ、前評判をあおった上で、ツアーが始まった。東京からスタートし、札幌へ飛ぶ。仙台へと南下していき名古屋、大阪、福岡と回って、最後に東京にもどる。すべての会場が、売り出し直後にソールド・アウトになったという。
ぼくたちの公演は、大きく取り上げられた。おおむね好意的な批評だった。記事の掲載は、ツアーが展開されるにつれ、音楽関係の雑誌にとどまらなくなってきた。反響を呼んでいるようだった。
特に、ある全国紙の報道は、ロック・バンドの、それも新人のものとしては、破格の扱いだったらしい。夕刊の文化面のかなりのスペースを占めていた。
日本では珍しい、本格的ロック・バンドが登場した、という書き出しだった。その音楽評論家による署名記事は、セージのヴォーカルとステージ・ワークについて、詳しい分析を行っていた。
クニさんのベースが激賞された。ぼくのギター・テクニックについての言及もあった。風変わりなスタイルが興味深いという表現が何を言いたいのか、ぼくにはつかめなかったけれど。
写真は、ステージ上での、ぼくとセージのアップだった。リフを弾くぼくに、後ろからセージがからんでいる。ロックのプレイでは、よくあるポーズだろう。
もちろん、写真からは、わからない。このとき、間奏になり、マイク・スタンドを手放して走ってきたセージは、後ろからぼくに密着した。一種の後背位のような姿勢。
ぼくの尻《しり》にあてられたセージの腰が、突き出される。ぼくは、その動きを吸収し、押し返す。トオルの刻むビートに合わせて。
セージは、ぼくの耳を噛《か》んだ。
揺れとともに、セージのペニスが、だんだんと硬直してくるのが、ぼくにはわかった。
そして、ぼくも?
片耳だけしたぼくのピアスに、セージの歯がカツカツと当たった音を、ぼくは覚えている。
25
そして、あっという間に、ぼくたちNEXUSは日本で一番人気のあるロック・バンドになってしまった。
二枚目のアルバム『SO MUCH PAIN』は、売れに売れていた。発売直後のバック・オーダーは、記録的なものだったという。工場でのプレスが到底追い付かない。
写真集が発売された。ステージが半分。あとは、わざわざ崩れかかったビルに行ったり、鉄道の高架下とかで撮影した。初めての公式ヒストリーと銘打った『NEXUS・SUCCESS』が、急遽《きゆうきよ》、出版。大々的に宣伝され、本屋ではこれらを積み上げたNEXUSコーナーが出来ていた。
だから、街中の店先とかで、突然自分の顔に出くわすようになった。電車の中|吊《づ》りの広告でも。でも、そんなことには、すぐに慣れる。慣れることが出来ないのは、道を歩いていてファンに取り囲まれることだ。
人々に注目されること。
それは、一般的には、バンド活動をしているものの夢だと言えるらしい。アマチュア時代から、長い年月にわたって抱いてきた夢の実現。
前にも言ったように、実際のところ、ぼく自身の場合は、あまり本気でそういったことを考えたことがなかったのだと思う。音楽活動に付随して起こる、生活面の変化みたいなことについては。だから、人気が出てきたときには、嬉しいというよりも、むしろ、戸惑いの方が強かった。
ファンから声をかけられ、サインを求められ、ファンに揉《も》みくちゃにされる。たとえ、その呼びかけに、からかいや嘲《あざけ》りの調子が混ざっていたとしても、歓迎すべきなのかもしれない。あるいは、それが、単に罵声《ばせい》とよぶのがふさわしいようなものだったとしても。なぜなら、ぼくたちは、ロッカーなのだから。
しかし、声だけではなく精液までもかけられるようになる、というのは、いったいどういうことなのだろう?
ぼくのコートの背中には、はっきりと、他のものと見まちがえるのが不可能な痕跡《こんせき》があった。
「そんなに素早く出せるやつが、いるかよ。嘘だろ? おまえに抱きついて、しがみついて、コスッたら、いっちゃうのか?」
トオルは、とうてい信じられない、という顔で天井を見上げた。
「ドバトみたいなやつだな、そいつは」
ヒッヒッ、と変な声を出して笑う。
「それとも、最初から、塀の陰かなんかで自分でやりながら待ってるのか? そうしておいて、おまえが来たとたんに飛び出してって、そうれって、ひっかける」
トオルは、ぴったりとした革のパンツのファスナーを降ろした。からだをそらし、ペニスを握っているかのように腰を突き出した。ぼくの方に向かい、全身をピクピクと痙攣《けいれん》させる。
クニさんは、トオルから目をそらし、やれやれ、といった感じで肩をすくめた。
精液をかけられた瞬間については、ちゃんとした記憶はなかった。ぼくは、ひとりで駅のコンコースのようなところを歩いていたのだ。それを、突然、発見され、集団に取り囲まれた。ファンなのかどうかも怪しいグループに。
叫び声があがり、ぼくは押され、つんのめるようになった。そのうちのひとりが射精したのだろうか。
ぼくのコートにそそがれた精液の持主の考えや行動なんて、想像もつかない。そんなことより以前に、人気が出てからというもの、男の子たちにぼくが追いかけられること自体が、理解できないでいるのに。
「あら、わかるわよ、私には」
ヘミは、爪の先で精液の乾いた跡をひっかいた。
こびりつき、そこだけがこわばって、コーティングされてしまったところ。濃い紅でマニキュアされた、いかにもヘミらしいという気にさせられる指の先が、スウェードの生地をはじいてピンと伸びる。
「あなたは、男の子から見てもじゅうぶんにセクシーだと思うもの。女の子たちがあなたにそう感じるのと、同じなのよ」
ヘミはパイプ椅子に浅く腰かけ、ぼくのコートを膝《ひざ》にのせていた。
ヘミの爪の先が動き、カリカリと音をさせる。そんなことぐらいでは、生地にはあまり効果はなさそうだった。
トオルとクニさんは、黙って耳をすましていた。ヘミの爪がたてる音を聞いているのだ。彼女は、誰のものともわからない sperm を、不潔だと感じないらしい。
そして、そんなヘミの仕種《しぐさ》が、ぼくを欲情させる。ぼくのペニスの先が、彼女の濃い紅の爪によってはじかれる感触を思い出している?
だとしたら、男性のファンたちがぼくにどんな感情を抱こうと、ぼく自身は一応性的に正常な人間だということになるのだろうか。
もちろん、だからといって、クニさんのことを、わざわざ異常性欲だなんていう気にもなれない。イギリスのプレスに向かって、自分は「屍体《したい》愛好症」なのだと話していたクニさんを。
そうだ。なにが正常でなにが異常かみたいな、くだらないスタンダードを破壊するために、ロック・ミュージックが存在するのだ。そして、ぼくたちNEXUSも。
ぼくは興奮する。女の子に。それから、おそらく、より強くギターに対して。ぼくの弾くギターの音色と、それにドライヴされるセージのシャウトが、なによりもぼくをエキサイトさせる。
ヘミの爪は、カリカリと音をたてている。
26
ぼくは、トオルに誘われて食事に行くことになった。オフだというのに。
でも、ぼくは、そんなに友だちがいないから、実はトオルが迎えに来てくれるというのが嬉《うれ》しかった。ぼく以外のメンバーは、それぞれの生活があって、いろいろと友人とかがいる。ぼくの場合は、NEXUSを取ると何もない感じなのだ。
リン−NEXUS=ゼロ。いまさら高校に行くわけにもいかないし。
トオルは、携帯にかけてきた。家からちょっと離れたとこにいるっていう。
「俺さ、リンのお袋さん、苦手だから」
これだけNEXUSがメジャーになれば、さすがに母親だって、トオルのことをただの不良少年のようには扱わないと思うのだけど。
トオルの指示したところに行ってみると、なんと、いつものバイクではなくポルシェが止まっていた。
これを見せびらかしたかったのか。
「どお?」
トオルは、窓から顔を出す。サングラスをずらしてみせた。
「すごい」
ぼくの答えに、トオルはとても満足したみたい。
「ステーキでも、食いに行こうぜ。ステーキでも。それとも寿司にする? 焼肉でもいいよ」
「なんでもいい」
「じゃあ、ステーキな。素敵なステーキ。おお、くだらない」
トオルは機嫌がいい。
「このクルマ、どうしたの?」
助手席に乗り込んで、ぼくは聞いた。
「買ったに決まってるだろ。今日、届いたとこ。途中でエンストするぜ。クラッチの離し方、慣れてないんだ」
海辺の道を飛ばして、でも、トオルの運転は怖くなかった。ヘミとは違う。運動神経は結構いいのだ。バスケット部の得点ゲッターだったっていう自慢は、身長のせいが大きいと思うけど。
トオルは、エンストもしなかった。クラッチよりもバス・ドラムのキック・ペダルの方が難しいに決まってる。
そう考えて、ぼくはトオルが貸しスタジオのキック・ペダルを盗んで、セージに殴られそうになったことを思い出した。数年前のことなのに、遠い昔のようだ。だって、いまはポルシェなのだ。
トオルが提案した「ステーキ屋」というのは、割合と高級な店だった。ぼくは、ファミリー・レストランにでも行くのかと思っていたのだけど。
店にはいろうとしたら、トオルが一緒にいなかった。振り返ると、彼はしゃがんで駐車場のクルマを眺めていた。ポルシェの確認をしてる。
俺たち金持ちなんだからさ、がんがんやろうぜ。トオルは、そう言って店でいちばん高いワインを持ってこさせた。三万円。
こんなものが、三万円?
ぼくは、ビールでいいのに。
「おー、うまい」
トオルは、ワイングラスをがぶっとやった。
それは、ビールの飲みかただ。
「リン、おまえ見てるとムカツクぜ。もっと、喜べよ。そりゃ、おまえんちは医者で、ベンツ乗ってて、こんな店、ふつうに来てるかもしれないけどな」
そんなことはない。
トオルは、ワインを一気にあける。ウェイターが、給仕しに来る。トオルは、グラスを手に持って差し出す。お酌されるように。
「俺、いつもこの前通ってて、ここ来るの夢だったのよ。いつかさ、すげえ美人つれて、こういうとこで好きなだけ食いたいって」
遠くを見るような目。
「でも、来られるようになったのに、なんでリンとなんだろ」
笑って言う。トオルは気分を害したわけではないみたいだ。
スープは、ほどよい温かさだった。
トオルは、食べるのが早い。ぼくは、ついていくのがたいへんだ。
「セージはいいなあ。相手は、めちゃくちゃいい女だもんなあ。俺だってオマンコするのに不自由はしなくなったけど、やっぱ、あのレヴェルはなあ」
ぼくは、ウェイターの耳が気になった。彼はトオルの言葉に表情を変えないだけの訓練はされていた。
セージは、連日、ワイドショーに追い掛けられていたのだ。活躍しているかなり有名なモデルとのスキャンダル。セージの方では曖昧《あいまい》な返事(ええ、友人のひとりです、ぼくの歌を愛してくれる)なのに、モデルの女の子がマスコミにセージとの関係を広言していた。
そのモデルはセージを利用している、「売名行為」だって事務所では怒ってたけれど、どうでもいい気がする。ぼくたちだって売名行為をして、それでポルシェで「ステーキ屋」にいるのだ。
いちばん高いサーロイン・ステーキは、舌の上で溶けそうなくらい柔らかかった。ぼくは二〇〇グラム、トオルは五〇〇だ。
「で、どんな曲にするの?」
ぶっきらぼうに、トオルが聞いた。彼の話は、いつも、唐突だ。前提がない。
「何のこと? 次のシングル?」
トオルは、何ばかなこと言ってるんだ、という感じだった。
「違うよ。ヘミの曲。あまり時間ないんだろ?」
そういうことに、なぜ、ぼくはこんなに疎いのだろう。ヘミのデビューの計画が進んでいたとは。彼女は、ずいぶん前からヴォイス・トレーニングに通っていたという。
「おまえ、知らなかったのか。変なやつだなあ」
トオルは、デザートのスプーンをくわえた。
「本当は、リンって、自分のことしか興味ないんじゃない?」
そうなのだろうか。それは、セージに対して、ぼくが時々感じることだったのだけれど。
†
あれはイギリスから帰ったばかりのころだった。前島さんが、ヘミについて、ぼくに聞いてきたことがあった。ぼくは、それが、彼女を見咎《みとが》めてのことなのだと思った。NEXUSのプラクティスの場に自由に出入りするヘミのことを。
だから、ぼくは弁護する感じでしゃべったはずだ。ヘミが昔からのファンであること。NEXUSの人気がブレイクするずっと前、アマチュア時代の、それもステップスに出演する前からなのだから、いちばん長いファンのひとりだと。
そうだ。そのとき、前島さんの問いは、なおも続いた。妙にしつこい気がしたので、ぼくは覚えているのだろう。ふだんの前島さんと違って、まるで非行集団のメンバーの調査をする教師みたいだった。
ぼくたちNEXUSとの関係だけでなく、彼女のプロフィールについて聞く。
ヘミのプロフィール?
彼女は、一応、大学に通っているらしい。それから……、お兄さんのレコード・コレクションはすごい。
その時点で、ぼくは、まだヘミのお兄さんが死んだとは知らなかった。結果的に、ぼくの知っている情報のほとんどすべてを話したのだけど、プロフィールと呼べるほどのものではない。前島さんは、そのとき、すでにヘミの個性に興味を持っていたのだろう。
そして、ヘミは、アルコール飲料の宣伝でデビューすることになったという。ぼくがそれをトオルから聞いたのは、すべてが決定したあとだったようだ。
トオルとは、ステーキを食べたあとドライブに行き、トオルは三回エンストした。酔っ払って運転するのは難しいらしい。
帰ると前島さんから電話があった。ぼくにヘミの詩にメロディをつけてほしいと言う。ヘミが歌い、彼女自身が登場するCFのうしろに流れる曲。
「セージとじゃなくて?」
当然、ぼくは聞いた。君も知っているように、NEXUSの曲のクレジットは、すべて「セージ&リン」なのだ。セージとぼくとの共同作業。
前島さんは、ちょっと黙っていた。ため息をつく。
「あなたひとりで、やってみてよ。セージが乗り気じゃないから」
彼女は、いまから出てこない、と言った。案外いそがしい日になってしまった。
事務所に行くと、前島さんはぼくを待ちかまえていて、数枚のコピーと、テープを差し出した。
「参考にして」
ジャズのスタンダードが、テープにははいっていた。ぼくは、これまでヘミの歌う声を聞いたことはなかった。ぼくたちは、カラオケに行ったりしないから。
うまい下手は別にして、彼女の一種けだるげな歌い方と声の質は魅力的だった。ぼくにとっては、まあ、何よりもヘミの声なのだから客観的判断は難しいかもしれないけれど。
言われるままに、ぼくは曲をつける作業を始めた。
それは、少し変な感じだった。セージと一緒に作るときとは違って、外部からのサジェッションは得られない。広告代理店が作った曲のイメージとかいう説明があったけれど、読んでもよくわからないので無視することにした。
それに、一応、ヘミが書いたということになっている歌詞が先行しているのだ。ワーズは曲と同時に展開していくのが、それまでのぼくたちのやり方であったのに。
締切りをだいぶ過ぎて書き上がった曲。出来は、どんなものだっただろう。
そんなことは抜きにして、ぼくが気にいったのはレッスンでのヘミの歌う声だった。彼女のテープとは印象が違う。ぼくは、曲そのものを大幅に変更することにした。生で聞く彼女の声の魅力は、もっと音域の低いところで発揮されることがわかったから。
ヘミが、ぼくの作ったメロディを歌う。
ディレクターが、ガラスのパーティションの向こうにいるヘミに指示を出す。いまのところ、もっと短く、切るように。そう。そんな感じで。
彼は、ぼくに相談する。ここの抜き方は、どうしよう?
ぼくのギターをかぶせる提案を、ぼくはする。ミキシングのエンジニアの意見。ディレクターが、ヘミに向かってトーク・バックする。ちょっと、待って。休憩にしよう。
狭いブースで、ぼくはギターを弾く。こんな感じ?
いいね、それ、すごくいい。ディレクターは、軽く手をたたく。
愉快な作業だった。ヘミのレコーディングに立ち会うのは、NEXUSの録音よりもずっと楽しいくらい。
†
セージは、あせっているようだった。
なぜなのか、ぼくには、よくわからなかった。彼はヘミのデビューに反対したのだという。そのせいもあって、彼女の曲はぼくがひとりで作ることになった。
ヘミのCFが完成に近づいたころ、セージはみんなに公に宣言した。もうすぐ、ふたりは結婚するつもりだと。
それには、前島さんが大反対した。
セージに特定の女がいたらまずい。NEXUSのリーダーが、温かい家庭を持ちたがるなんて。
前島さんは、セージを説得しようとする。
セージは黙っている。でも、考えているのだ。たぶん。NEXUSの人気に陰りが出る可能性があるような選択は、彼には絶対に出来ないだろう。
「俺、結婚してるんだよ」
クニさんが、ぼそりと言った。誰にともなく。
ぼくは驚いたけど、前島さんは無視した。
まあ、クニさんは別だろう。彼はベイシストとして、あくまで渋い人気だった。彼の私生活は問題にならない。年齢だって、すでに充分に中年の域になろうとしていた。
アルコール中毒で屍体《したい》愛好症で、幼女も好きで妻帯者の中年のベイシスト。なんだかよくイメージが浮かばない定義だ。
「それで、奥さんは?」
トオルが、そっと、という感じで聞いた。
「さあ」
クニさんは、両手を広げる。
「まさか、本当に首締めたわけじゃないんでしょ」
「うん。いまのところはね」
馴れ合いの会話だった。
ふたりとも、なんてやさしいのだろう、とぼくは思った。実際、甘すぎるくらいだ。トオルとクニさんがしゃべっている間に、セージに時間を与えられる。
セージが手を鳴らした。
「OK。あなたの言うとおりにしよう」
脚本どおり。
前島さんの肩から力が抜ける。
†
CFの映像については、意見は差し控えよう。ヘミが美しいのは、言うまでもない。でも、これも客観的な判断ではない。
ヘミの売り出しの仕組みは、際どいところでたいした売り物になったらしい。
賛否両論で世間を騒がせているNEXUSの演奏では、リスクが大きすぎてスポンサーは乗ってこない。しかし、あの話題のNEXUSのあの話題のギタリスト(街頭で精液をかけられる?)が、初めてセージとの合作ではなくひとりで作った曲を新人の女性ヴォーカルが歌う。当然、ギターも弾く。
バックに流れる演奏は、わざと抑え目になっていた。最近のコマーシャルに使われる音楽は、歌謡曲調のサビの部分をこれでもかと絶叫するパターンが多い。だから、差別化ができるのだという。
戦略の話は、まあ、いい。
ルースでけだるげに、むしろなげやりな感じにさえなるヘミ。それに、ぼくのアコースティック・ギターは、よく似合ったと思う。
放映が始まってヘミは忙しくなった。取材の仕事が多くはいる。NEXUSの方もツアーの休みにあたってはいたけれど、なかなか完全なオフにはならなかった。
だから、その夜はうまく会えたというべきなのだろう。久し振りにヘミの家にぼくは行った。
コマーシャルに出て、世間の注目を浴びるようになっても、もちろん、そんなことぐらいでヘミは変わっていなかった。それがぼくを安心させる。
しかし、ぼくはヘミと抱き合いながらも、セージのことが気になっていた。
もともと、ぼくは、セージは女の子を好きになるような人間ではないと思っていたのだ。彼は、女の子から好かれることが好きなだけだったはずなのに。
でも、セージは、ヘミと結婚したいという。ぼくにつきあうことを許している相手である、そのヘミと。
ぼくは、セージがわからなくなった。そして、一度そう思うと、いままで何がわかっていたのか、自信はなくなる。もうすぐ、ふたりで次のアルバムのための曲作りに集中していていい時期だった。でも、セージはNEXUSの三枚目についてまでも乗り気ではない。
今回のヘミのCFの件で、ぼくとセージの間に隙間が出来てしまった感じなのだ。
ぼくは、ヘミから、上半身を起こす。
ぼくと彼女とのふたりぶんの汗ですべる、からだとからだ。
ぼくは、再び、ヘミにからだを合わせる。彼女の耳を噛《か》む。
でも、ヘミの中から、小さくなったぼくのペニスが押し出されてしまう。
「セージは、怖くてしょうがないのよ。だから、私といたいって思うのよ」
ヘミは、ぼくが気にしていることに気づいている。説明をしてくれようとする。
「いつも怯《おび》えているの。人気が出ないころは、自信がなくてつぶれてしまいそうだったし、人気が出れば出たで、いつまで続くか考えると怖くなるの」
ぼくの見ているセージとは、まったく異なるセージだった。
ヘミはぼくのペニスを手で包む。温かいヘミの手。
†
それは、やはりスキャンダルだった。たとえ、NEXUSが、この世の中においてどんな存在であろうとも。
朝、ヘミの家から、ぼくと彼女がふたりで出てくるところを、写真週刊誌にスクープされたのだ。ぼくもヘミも、隠れようという気がなかったので、はっきりと顔の写った写真が掲載された。
それだけなら、まだ、どうということはなかった。
追い討ちをかけるように、別の芸能誌にNEXUSの元メンバーと名乗るもののコメントが載った。最近コマーシャルで注目されているヘミは、セージとぼくの、ふたりの共通の恋人なのだ。ベースを担当していたという元メンバーが証言している。だったら、それはヒロしかいない。
もともと、ぼくはセージと肉体関係にあると噂されていたのだ。つまり、ぼくはセージとヘミのふたりと関係しているバイセクシュアルだと騒がれることになった。
それを皮切りに、雑誌はおもしろいように書き立てた。本当のことも、まったく根拠のないことも織り混ぜて。
そのときには、前例にならい昔の仲間の証言という手が使われた。ぼくは、ヒロとは連絡をとっていなかった。でも、彼が、そんなデマを流し続けているとも思えなかった。彼にとって、そんなに利益があることのはずがないし。
そのようにして、NEXUSはノーマルでないというイメージが作られていった。予想どおり、やはりクニさんの「屍体愛好症」が蒸し返され、その強固な証拠となる。
ついに、NEXUSは、異常性欲の持ち主たちの巣窟《そうくつ》になってしまった。
ヘミは笑い転げていた。
自分がどんなふうに書かれようと、それを楽しんでいた。
そうだ。ぼくたちは、ミュージシャンだ。ロック・バンドなのだ。
どんな音楽を人々に提供出来るか、それが大切なのだ。勝負の場はライヴのコンサートであり、そして、これだけ脚光を浴びたあとの三枚目のアルバムでこそ、ぼくたちの真価は問われるべきだ。
27
NEXUSは、若者たちの熱狂的支持を獲得した。そして、同時に、ふつうの世の中からは、だんだんと迷惑がられ嫌われる存在になってきたようだった。
確かに、ぼくたちのコンサートでは、トラブルが多かった。前夜から、会場周辺に集まっては、騒ぎが始まるのだ。当日券の発売もないというのに。そのこと自体は、ぼくは、嬉《うれ》しく思っていた。翌日にNEXUSのギグがある、それだけでみんながエキサイトしてくれているのだから。
ぼくは噂で聞くだけだけど、公演の終了後も、同じような状況らしい。いや、ステージでの爆発のあとだから、もっとエスカレートしているのかもしれない。
いつまでも解散しようとしないでNEXUSの曲を会場の外で歌い続ける声を楽屋で聞いていると、ぼくは彼らの中にはいっていってもう一度ギターを弾きたいと思ったくらいだった。それはまったく不可能なことだろうけれど。
彼らのお祭り騒ぎは、NEXUSにそれだけのパワーがある証明だろう。ぼくたちの音楽が、彼らの心を刺激し、揺さぶり、エネルギーを発散させる。
しかし、ことは、そう単純にはいかないみたいだった。
NEXUSのコンサート会場の周辺には、クルマやバイクの一団が現れ、他を威圧するようになってきた。世間では、「暴走族」の支持を得ていると見られた。そんなグループがまだいるとしてだが。
彼らは、爆音を立てて走り回るし、大がかりな乱闘事件も相次いだ。取り締まりが強化されても、騒ぎはおさまらなかった。中学生や高校生が多く補導されていた。
コンサートの翌日の、ホテルの喫茶室でだった。
一応は、遅い朝食と呼ぶべき席なのだろう。ぼくは、コーヒーを飲んでいただけだった。前夜、ギグのあとで酒を飲み寝る寸前まで食べ続けていて、あまり食欲がなかった。
クニさんも、同じなのかコーヒーのみ。というか、彼はいつだって物をほとんど食べないように見える。アルコールだけでカロリーをとっているみたい。
最後に現れたトオルは、メニューも見ずにカレー・ライスを注文した。表面がテカテカした、たぶん甘くも辛くもないようなカレーだ。それをトオルは、ほおばる。水をグビグビ飲みながら。
だから、ちゃんとした食事をしていたのは、セージだけだった。トマトジュースにサンドイッチ。ミックス・サラダまで。
クルーのひとりが、セージのところにやって来た。器材を運ぶ仕事などをしている、ぼくと同い年ぐらいの子だ。だんだんと大規模なステージをするようになり、ぼくらには、大勢のスタッフが必要になっていたのだ。
彼は、セージの耳もとで何か言い、新聞を差し出す。緊張している様子だった。セージに対して、おそるおそる申し上げる。
彼らは、名前を覚えられていることもあったけれど、ふつうは簡単にボウヤと呼ばれていた。直接にバンドのリーダーと話す機会など、あまりない。
セージは、横に立っている、そのクルーの方を見ずに軽くうなずき新聞を受け取った。教えられた記事に目を走らせる。
ボウヤは、立ち去りがたそうにしていた。
でも、完全に無視されているのに気づいたようだった。彼は、名残惜しそうにぼくたちを見回してから帰っていった。
セージは、いつもスタッフに対してそんな態度だった。傲慢《ごうまん》だとか、威張っているとかいうのではない。何も横暴なふるまいをするわけではないのだ。
バック・ステージでたまたま居あわす他のバンドでは、結構、スタッフをめちゃくちゃ怒鳴りつけてたりするのを目撃することがあった。セージはそんな理不尽なことはしない。ただ、彼は、素直なのだろう。自分が関心を持っていないものに対しては、儀礼的に関心があるふりをしたりしないだけなのだ。
そういうのは、どこか、貴族が使用人に対するようなスタンスに思えた。貴族とはほど遠い生い立ちであるはずのセージが、なぜそんな態度を身につけているのかはわからないけれど。
セージは、新聞をチラッと見ただけで、クニさんにパスした。
セージの表情に変化はない。
クニさんは、
「ほお。いいねえ。やってくれるね」
ひとこと言って、テーブルに放り出した。
新聞を持っている時間は、セージよりも短い。
ぼくは、新聞を拾い上げた。朝刊の社会面だった。見出しの太い文字は白抜きだった。
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ロック・ファンが放火[#「ロック・ファンが放火」はゴシック体]
[#ここで字下げ終わり]
NEXUSのコンサート終了後、会場にほど近い、アーケードの商店街の一角に火が点けられたのだという。ぼくたちが、その事件を直接知るのは不可能だった。楽屋から逃げるようにホテルに直行していたから。
焼けただれた店舗付き住宅の写真。商店街のひとの憤りの言葉。NEXUSについての説明もあった。大音量。暴力的。激しいサウンド。一部の若者から強く支持。
そんな表現が並んでいた。
それは、ぼくたちのことについて書かれているのに、まったく、ぼくたちのことについてではないような文章だった。きっと、NEXUSの演奏を聞いたこともない記者が適当に書いたのだろう。
ぼくは、記事をもう一度、読み返してみた。速報のようで、どういう状況だったのか詳しいことは不明らしい。ただし、火事になったのは事故ではなく明らかに意図的なものだった。店の外に置かれていた段ボールにガソリンがかけられたというのだから。
ケガ人がいないのは、よかった。でも、場合によったら、死者が出る可能性だって充分過ぎるくらいある。
ぼくは、燃え上がる炎のことを考えた。
NEXUSのコンサートに来たファンが、街に火を放つ。彼らをそんな行動に駆り立てた、少なくともそのひとつの要因は、このぼくのギターなのだ。ぼくは、間接的な加害者になっている。
火の消えたあとの商店の写真からは、焦げ臭い匂いが漂ってきそうだった。
28
ニュースは常に不意をついて訪れるのだろうか。今度は、新聞ではなくて本だったけれど。ぼくは、前島さんからそれを受け取った。
『BEFORE DAWN(夜明け前)』というタイトル。そのバックには、地平線に雲が浮かんでいる、まさに夜明け前の空の写真だ。
下の方には、ぼくたちの姿が小さく写っている。合成したのだろう。
「よく見てよ」
本の表紙から顔を上げたぼくに、前島さんが言った。
「ひとりひとりを見ないと」
四人が、それぞれ、別の方を向いている。小さな像だ。左端がトオル。痩《や》せて背が高いシルエットは特徴的。次にぼく。ギターを弾いているところ。うつむいているので顔はよくわからない。
ちょっと大きくセージ。手を広げ、正面を見つめている。少し前の写真だろう。髪が長いから。そして、右の端の位置、しゃがんでいるのはクニさんではなかった。
最初は見落としてしまっていた。タイトルの下には副題がついていた。「NEXUSになれなかった男」と細い文字で記されている。
ヒロの本が、出版されたのだ。
「中にも写真が使われてて。あなたたちの肖像権はうちの事務所が持っているでしょ、許可したの。それに内容のチェックも一応は済んでる。明日には本屋さんに並ぶはず」
ぼくたちの知らないところで、いろんなことが進行しているのだ。
「あなたたちにしてみたら、愉快じゃないことも書いてあるかもしれない。どうせ、こういうのは、全面的に出版を止めるわけにはいかないの。だったら、うちも協力した方が得でしょ」
ぼくが抗議しているわけでもないのに、前島さんは弁解っぽい。
「クニさんの前のベースのひとは、取材されてコメントを求められてるうちに本を出すのに同意したみたいよ」
前島さんは、ちょっと首をかしげた。
「ピート・ベストは、ビートルズについてしゃべってるだけで大儲《おおもう》けしたらしいけど、このひとの場合はどうなるんでしょうね」
†
ヒロは、NEXUSを辞めたあと大学を卒業していた。コンピューター関連の会社に勤めていると「あとがき」に書いてあった。『BEFORE DAWN(夜明け前)』は、ヒロの本といっても、インタビューの再構成のようなものだった。ライターが書いている。
ぼくは、一気に読んでしまった。自分たちのことが書いてあるのだから当然だ、と君は思うかもしれない。
でも、初めに出た『NEXUS・SUCCESS』だって、途中でいったんは放り出した。その後のNEXUS本に関しては、正直に言うと、ぼくは全部は読んでない。興味が続かなくなってしまったから。そんなものだと思う。セージやトオル、ましてクニさんにしろ。
でも、『BEFORE DAWN(夜明け前)』は違う。まとめているのはライターだけれど、語っているのは、あのヒロなのだ。
それはヒロが初めてセージを見かけたところから始まっていた。そう、やはり、ぼくたちのバンドは、セージ・バンドだ。彼が常に中心にいる。
中学のバスケットボール部で、ヒロはセージに強い印象を持った。バスケット選手としては、そんなにうまいわけではない。それなのに存在感がある。時にひとつのプレイの仕種《しぐさ》が妙に決まっていたのだという。
セージらしい話だ。
別の高校に行ったふたりだったが、セージに誘われてヒロはステップスに通うようになる。NEXUSの前身のバンド、「マーズ」の結成へと向かう大切な伏線。
そこではヘミの兄のバンドが出演していた。ヘミが有名人となったいま、彼についてもスペースが割かれていた。アマチュアではあったが、ヘミの兄はそのころ高く評価されていたらしい。将来が有望なギタリストだった。
セージがギターを手にして歌い出したのはヘミの兄の影響だ、とヒロは語っている。そして、彼のようなバンドが作りたくて、セージにしてみたら知合いのなかで唯一音楽がわかるヒロを誘った。
ヒロは子どものころピアノの経験があり、それまでに音楽の話をセージにしていたらしい。ヒロの方では、その記憶がないと言っているけれど。
ステップスの楽屋で、セージとヒロはヘミの兄にロックの手ほどきを受けた。彼の自殺前夜のステージも見ているという。
ヘミのお兄さんが自殺していた?
ぼくは、そんなことは誰からも聞いていなかった。それとも、ぼくが、なんであれ回りのいろんなことに、相変わらず疎いだけなのだろうか。
†
その日のミーティングのテーマは、コンサートの中止だった。会場が、公演としての使用を拒否した。すでにチケットは、ソールド・アウトしていたのに。
「あの放火が、やっぱり効いたみたいね」
前島さんの解説。
NEXUSのファンの暴徒化が、社会問題として大きく取り上げられるようになった。警察は犯人探しを真剣にやったようで、検挙されたグループには未成年者が多く含まれていた。
「そんなのって、有りかよ。俺たち、締め出されちまうのか?」
トオルが、わめく。
静まりかえる。
重苦しい雰囲気だ。だって、会場から追い出されたらライヴが出来ない。ぼくたちは、ライヴのためにあるバンドなのに。
「金は、はいってくるんだろ。違約金とかなんとかで」
クニさんの、のんびりした質問。やっぱり、おとなは違う。
「そうね。そのあたりは交渉中でしょう。私もよくわからないわ。前もって、不測の事態には解約が出来るみたいな条項は契約書にあるみたいだけど、これがその条件にあたるかどうか。弁護士の話だと、うちの方が一応は有利らしい」
セージが初めて口を開いた。
「他の会場は、どうなるんだ? これからの」
それが、いちばん問題だ。ぼくの知りたいことでもある。
「そうね。今度みたいに、市だとか県だとか、自治体が直接に運営しているようなところは、難しくなる可能性はあるわね」
様子を見ていくしかない。それが結論だった。あまり元気は出ない。
解散となって、ぼくはセージの背中を追い、話しかけた。
「ヒロの本なんだけど、あの『BEFORE DAWN』っていう……」
「だめだめ、あんなの嘘ばっか。読む価値ないね」
ぼくがしゃべろうとするのを、セージは手を振ってさえぎった。
「音楽評論家だかなんだか知らないけど、書いてるやつのデッチ上げ。マスコミのやつらのいつもの手口だぜ」
それだけ言うと、セージは足早に去ってしまった。地下の駐車場へ向かったのだろう。まったく、とりつくしまもなかった。
ぼくが聞きたかったのは、ヒロの本の最後のシーンについてだった。
深夜にヒロはセージに呼び出される。この本のクライマックスといっていい場面だ。ふたりは母校の中学の塀を越えて、グラウンドの隅の石段のところで話したという。安っぽい青春映画みたいな、わざとらしい舞台設定。でも、セージならやりかねないと、ぼくは感じる。
そこでセージは、ヒロにNEXUSを辞めてほしいと切り出す。プロダクションが、そう要求している。デビューの条件なんだ。
このあたりの話は、最後に会ったとき、ぼくはヒロから聞いていた。
事務所としては、必要なのは、セージの声とリード・ギターのルックスだけだ。(前島さんの言う「不愉快」とは、ぼくにとっては、このことだったのだろうか。ぼくのギターが必要だと言ったのではないのだ。)一応トオルはキャラクター性が強いから残すとして、三人のユニットでデビューする。
ぼくは、それは聞いていなかった。NEXUSはライヴで勝負するバンドだ。ベースがいなくて、ドラムとギター二本のユニットなんて、とんでもなく中途半端だ。
セージだって、当然、そう考えて拒否したはずだ。だとすると、ユニットの話はベースを代えやすくする(もちろん、その時点でクニさんとは連絡が取れていて)ための、セージの嘘だったのだろうか。
でも、起こってしまったことは、もう、いい。ぼくがセージに確かめたかったのは、そのあとのことだ。
セージは脱退を承知したヒロに約束している。いつか、また、一緒にやろう、と。もとの四人でステージに立とうと。
クニさんを嫌っているわけではない。でも、ヒロと、またプレイをする。それは、ぼくの気持ちでもある。そのことを、ぼくはセージに伝えたかったのだ。
セージは行ってしまった。強い拒否の姿勢だった。これ以上、ヒロの本について触れることは出来ないだろう。
突然、後ろから声をかけられた。
「おーい、リンちゃん、ステーキ食べにいこうぜ。それとも寿司にする?」
トオルがまだいたとは知らなかった。
29
公演の中止は、一か所だけだった。
でも、地方によっては、教育委員会がNEXUSそのものを問題視したらしい。学校からコンサートに行くのを禁止されるだけではないのだ。中学生や高校生は、ぼくたちのCDを買うことさえ許されないのだという。さすがに田舎はすごい。
そういう規制の話を聞けば聞くほど、セージのステージ・パフォーマンスが、激しくなっていった。卑猥《ひわい》な動きで聴衆をあおり、焚《た》き付ける。それにからんで、ぼくのギターもオーディエンスを煽動《せんどう》する。
ぼくのなかにも、そういったおとなたちによるバンドへの非難を、ある意味で歓迎する気分があった。NEXUSは、初めから意図したわけではなかったけれど、それらを逆手にとることになった。世の中を挑発し、率先して憎まれる。パニックを起こし、物議をかもす。そんなバンドとしての位置を確立する。
それこそが、本来、ロック的であるというのが、ぼくの意見だ。
もちろん、ファン同士がケンカしてほしいとか、ましてや関係のない商店に放火するのを望んでいるわけではない。不当に抑えられている、彼らが本来持っているエネルギーを解き放ってもらいたい、とぼくは思うのだ。ぼくたちNEXUSの音楽を聞くことによって。
意外なことには、マスコミは、ぼくたちを全面的に否定したりはしなかった。むしろ、がんじがらめの学校の規制を非難し、若者に同情し、ぼくたちの側に擦り寄るような論調も多く見られた。
NEXUSの音楽性が評価された、という面も当然あるだろう。それだけでなく、ぼくたちの姿勢が、きっと「若者」に限らず広く人々の共感を呼んだのだとぼくは思いたい。NEXUSは社会に風穴を開けたのだ。本質的なところで。
結局のところ、ぼくたちは、久し振りにミュージックを社会的な現象にすることに成功したバンドとなったのだ。そして、話題が話題を呼んだためなのだろう。非難と賞賛が交錯するに連れて、比例するようにCDの売上げが伸びていった。
†
急な連絡だった。
ぼくは、夜の病院に駆け付けた。変に生暖かいような日だった。病院の臭いは、ぼくに吐き気を起こさせる。
事務室で教わった部屋に行ってみると、緊急治療室のようなところではなくてふつうの病室だった。それだけでも安心した。
病院の白い壁に囲まれた部屋のベッドに、クニさんはおとなしく横たわっていた。トオルと前島さんが、そばで椅子に座っていた。
結構、ひどい状況だったらしい。群衆に取り囲まれたクニさんは、そのうちの数名によって暴行を受けた。
突然こづかれ、クニさんは引っ張り回された。地面に倒され、長い時間にわたって蹴《け》られた。両腕で頭は守った。主に背中や脇腹を蹴りあげられた。
「なに、ホストとベイシストは顔が命だからね。顔面だけはやられないようにしたのよ」
アメリカでは、ファスト・フィンガーというミドル・ネームがつけられていたクニさんだ。ミュージシャンとして指が命だから反撃をしなかった、というのならわかるのだけど。
クニさんの首筋の包帯が痛々しかった。服を引っ張られて擦れた傷らしい。
ひとたび解き放たれた若者たちの暴力のエネルギーは、ぼくたちにも向かうことになったのだ。ぼくには、精液だった。クニさんは、それどころではない。
しかし、被害がどの程度あったにせよ、それは、おそらく偶発的な出来事だ。わざわざ護衛してもらうまでもない。プロダクションがSPをつけると言い出したとき、ぼくの意見は、そうだった。
けれど、セージは、真剣に恐れていた。次に自分が標的となり、兇行《きようこう》にあうことを。それは、日頃の強気なセージにしては、異様なくらいの動揺ぶりだった。彼の目には、怯《おび》えと呼んでもおかしくないようなものが浮かんでいる。
最初に出会ったころのセージだったら、死んでもそんな顔はしなかっただろう。彼は、トオルをはじめとする一団を率いて、駅裏の街を流していたのだ。
「ファン」たちによって、今度は、セージが襲われる。
NEXUSに憎しみを持つものが意図的に狙いを定めるのなら、確かに、クニさんよりは、はるかにセージがその対象になる。それは、誰にもうなずけることだった。NEXUSは、やはり、セージ・バンドなのだから。
しかし、そういったこと以上に、セージは、むしろ具体的でない、目に見えない何かを強く恐れているような感じだった。単純化してしまえば、急速に高まる人気にぼくたちバンド自身の側がついていけなかった、ということになるのだろうか。それは、あの誇大妄想とも言えたはずのセージの予想さえも上回ってしまったのかもしれない。
膨らむファン。強まる崇拝の熱気の渦と、その裏返しの憎悪がコンサート会場を覆う。
実際、ぼくは頭の中が真っ白になりそうだった。ステージに出ていったとたん、観客席の爆発するエネルギーを受けて。ぼくにとって、それは、失神寸前のエクスタシーの喜びに近いものでもあったけれど。
オーディエンス同士のこぜりあいは、会場の中でも日常のことだった。NEXUSのコンサートの警備員の数はふつうの数倍は必要だという。コンサートが終われば、周囲は例の騒ぎだ。警察も出動しているから、さすがに放火事件は続かなかったけれど。
NEXUSには、どこか、そういうものを引き起こす雰囲気があるのだろう。そして、それは、アマチュアの時代からのことだ。
いや、正確に言おう。NEXUSというより、それは、あきらかにセージ自身のパーソナリティに基づくものだ。責任逃れをするつもりはない。ぼくのギターも荷担している。でも、ぼくは増幅しているだけで、オリジナルなものはセージにある。
セージの叫ぶ言葉が、そして、ステージでのパフォーマンスが、暴力を招くのだ。
なにも彼は、世の中が悪いなどと主張しているわけではなかった。おとなたちをやっつけろとか、まして、すべてを破壊せよ、とオーディエンスを煽動したりはしてない。
むしろ、そんなことを口にしたら滑稽《こつけい》なくらいだったろう。社会問題に関する発言は、まったくセージには似合わない。
しかし、セージには、たとえラヴ・ソングを歌っていても、ひとを残虐な気分に誘うようなところがあった。
セージは歌う。
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おまえが別れたいというのなら、別れてやろう。おまえは、いつか後悔するんだ。
そんな夜が来る。
泣きついてきたって、俺は二度と会わないぜ。
部屋にあるものは、好きなだけ持っていくがいい。
俺にはわかっている。おまえは、いつか後悔するんだ。
そんな夜が来る。
[#ここで字下げ終わり]
平凡な歌詞だ。クニさんのベースの正確なリズムに身をまかせながら、ぼくは、横で静かにスロー・バラードのコードを刻む。
ぼくは考えてしまう。セージが、ゆっくりと低い声でささやくように歌うときの、心をかきむしる力の源泉は何なのだろう。
しかも、セージは、いっさい、感情移入などしていないのだ。
この曲は、セージがデビュー前に同棲《どうせい》していた相手のことを歌ったのだということになっている。ファンの間に噂が広まっている。彼は肯定も否定もしない。そういう女が実際にいたのかどうかは、ぼくも知らない。
聴衆が、自分の恋とセージの歌とを重ね、それぞれのイメージを抱いてステージのセージを見つめる。そのとき、セージは、決して詞に没頭したりはしていない。ほとんど、口先で歌っているくらいなのだ。
彼の頭の中にあるのは、次のアップ・テンポの曲への移行の準備だ。ぼくたちのステージの演出は、いつもセージが自分で取り仕切っていたから。
彼は裏方の進行の具合を目で確認していたりする。照明やスモーク、セージが客席に張り出すためのクレーンの用意が出来ているか。
そして、そんなことを考えながら、彼は、ラヴ・ソングによって人々を残酷な気分に駆り立てる。
それは、才能という言葉で片づけてしまっては、あまりにも安易な気がする。セージの声と身振りによって、聴衆は、何か、胸につかえるようなものに直面させられるのだ。
恋愛という、おそらく本来は肯定的なはずのものに付随している部分。ふだんは見ないようにしていた、抑えていた蓋《ふた》を彼の声がこじあける。
セージによって、人々は、もともと自己の内部に抱えていた破壊衝動を刺激される。そうだ、セージは、ある意味で、邪悪な存在だった。
彼は、決して、自分では認めようとしないだろう。でも、ぼくは思う。セージは、何よりも、そんなセージ自身を恐れていたのだ。
†
ぼくたちの行くところ、SPが前後左右を固めるようになった。
ダーク・スーツに身を包んだ屈強の軍団。彼らは、NEXUSの警護のために、プロダクションによって雇われたのだ。
初めてSPが配属された夜、ぼくたちは、街へ出てみた。
彼らの身長は、そんなにあるわけではない。むしろ、トオルの肩ぐらいまでしかないひともいた。しかし、からだの厚みが、ぼくたちとは違っていた。格闘技経験者のそれだった。
分厚い筋肉をまとった肉体をダーク・スーツに包み、黒いネクタイを締める。自分たちの存在をわざわざ誇示するように、彼らは街を歩く。
そして、彼らは、ぼくが手を伸ばせばその方向へ、一歩足を踏み出せばそちらへと移動するのだ。
訓練されたなめらかな動き。透明なバリアが周囲に張り巡らされたかのように、ぼくたちの動きにあわせて、周囲が伸び縮みする。
それは、不思議な感覚だ。
いや、本来、ロック・スターになるというのは、基本的にそういうことだと言えるのかもしれない。イメージが極端なまでに膨らんでいく。日本中にぼくたちの音楽が流布し、ぼくたちの情報が行き渡る。
ぼくたちのあずかり知らぬところで、ぼくたちの虚像が成立する。
そして、いまは、直接に、物理的にぼくたちのからだが膨脹したのだ。簡単にぼくたちのことをもみくちゃに出来たであろうファンたちは、SPの膜に阻まれ、遠まきにしてぼくたちを見守る。
何重にもなった人間の輪が、ぼくたちに合わせて夜の街を移動していく。
30
確かに『SO MUCH PAIN』は、ミリオンセラーとなった。記録的売上げであり、一時より落ちてきたとはいえ、まだ持続して売れているのは異例のことらしい。
そこまで良い出来とも思えないのに。
成熟度という点では、かなりのものと言えるのかもしれない。でも、一枚目に対して、あくまでキープ・コンセプトだった。それが、ぼくには不満だった。
それなのに、また、その路線で行くという。
「わかりやすくしましょうよね。あなたの言うとおりにしたら、難しくなっちゃうでしょ。大衆の求めてるのは、そうじゃない」
前島さんは、ぼくを説得しようとした。ちょっと、だだをこねる子どもをあやすような言い方が、おもしろくない。
NEXUSは、CDデビューのあとイギリスでのギグを経験した。帰国後のツアーも成功した。ぼくたちの音楽は、デビュー・アルバムの当時からしたら、はるかに豊かになってしまっているのだ。すでに。
それが、作品に対して、全然とは言わないけれど、あまり反映されない。もっと、もっと、冒険をしてもいいはずだ。
「NEXUSが聞きたいなって思って、三枚目のアルバムを楽しみにしてるでしょ。買ってきて、期待どおりの曲がかかったら、それがいちばんいいのよ」
そんなものだろうか。ぼくにはわからない。それは、as I had expected という世界で、結局は、停滞だ。
「いいよ。次がある。四枚目は、すっごくいかしたやつにすることにしてさ、これでいこうよ。今回は」
セージも、ぼくをなだめようとする。
「OK。いいね、上出来。こんないいアルバム、ちょっとないよ。聞いたことないね、いままで」
ヘッドフォンを外しながら、セージが言う。
トオルがうなずく。
ミキシングをしていたエンジニアが拍手する。
クニさんまでが、やれやれといった感じで肯定のサインを送る。
セージには、有無を言わさずに周囲を従わせる力がある。ぼくの抵抗など、ひとたまりもなかった。
ぼくは不満だった。
だいたい、NEXUSは、もともとマーケットなどというものを信じていなかったはずだ。日本の音楽状況をバカにしていて、だからこそ、相手を気にしないで好き勝手な演奏をしていたのだ。
それが、逆のシチュエイションになってしまった。人気が出て、そのせいでマーケットを意識することにより、やりたいことがやれなくなる。
こんなことがあるのだろうか。
それこそが、ぼくにとっての予想外、I had not expected のことだった。
「このアルバムの発売記念ツアーはね、スタジアムだよ。スタジアム。しっかり成功させようぜ」
セージは、言う。
それで、今夜は終了だ。
ぼくは、そのセージの言葉で、何か心にひっかかるものがあった。それは、みんなと別れてひとりになってからわかった。
セージは、かつて言ったことがあったのだ。次のステージはステップスだから、しっかりやろう、と。
†
ぼくは、SPを断った。
だいじょうぶです。危なそうなところには行かない。プライベートな時間を持ちたいんです。
ぼくは、家からタクシーに乗った。さすがに、前みたいに自転車でというわけにはいかなかった。そう、あのころは、背中にギターをしょって、自転車に乗っていたのだ。なんだか、流しの演歌歌手みたいだ。古い映画で見ただけで、そういうひとたちがいまでもいるのかどうか知らないけど。
ツアーの先のホテルのベッドでも、ぼくはオーウェンのことをよく思い出していた。でも、連絡はとらなかった。いつでもステップスに行きさえすれば会えるという気がしていたから。
懐かしいステップス。
ぼくはタクシーを降り、ちょっと迷ってから調理場と楽屋の兼用の裏手の入口ではなく、表のドアから店に入った。
客は少ない。まだ早い時間だからだろう。見回してもオーウェンの姿は見当たらなかった。注文を聞きにきたウェイターは、ぼくの知らないひとだった。
ぼくは、ビールを飲みながら、しばらく待ってみた。
ひとりも知合いが現れないので、立ってカウンターのところに行った。そこでひまそうにしているさっきのウェイターに、
「あの、裏の方に入れてもらえませんか。前にここにいたんで」
と、ぼくは頼んだ。
彼はあからさまに不審な顔をした。当たり前かも知れない、客に急にそんなことを言われたら。
それでも案内してくれた調理場は変わっていなかった。しかし、ぼくの知っているメンバーはいなかった。三年ぐらいしかたっていないのに、こういうところのひとは、みんな代わってしまうのだろうか。
がっかりして席にもどろうとしたら、急にウェイターが驚きの声をあげた。
「あっ、NEXUSの……」
ぼくは、うなずいた。
ステップスで名乗ったところで、精液をかけられたり殴られたりはしないだろう。おそらく。ぼくはお尋ね者ではないはずだ。むしろ、ぼくがオーウェンを探してるのに。
「オーウェンというひとは知りません? 足の悪いアメリカ人なんですけど」
彼は知らなかった。
そんなことよりもウェイターは、サインをほしがった。ぼくの返事も待たずに色紙を取りにいく。彼が報告したのだろう。他の店員も集まってきた。
誰に尋ねても、オーウェンのことはわからなかった。
ぼくは、頼まれて、色紙だとかシャツだとかにサインした。ぼくは、あのNEXUSのリード・ギターのリンなのだ。つい、この前まで、この調理場で雑談していたのに。
ぼくはマネージャーの出勤を待つことにした。彼らの話では、マネージャーは代わってないようだったから。
現れた彼は、まったく昔のままだった。前から痩《や》せていて、老人のようだった。そのまま、変わらない。
そして、ぼくを見ても表情は硬かった。一週間ごとにステージに立っていたときと同じような反応。
ぼくは聞いた。
「オーウェンはどうしてます?」
マネージャーは、
「来ない」
と答えた。
やはり、表情は変わらない。
「アメリカに帰ったんですか? それとも、どこか……」
チャーリー・ワッツに似たマネージャーは、首を横に振った。目を閉じて。
彼にしては、たいへんゆっくりとした、丁寧な首の振り方だった。それがオーウェンについて、何かを語っているように思えた。
31
ぼくは、ピックをたたきつけるようにおろす。ディストーションのかかったサウンドを響かせる。ぼくのギター・ワークで、スタジアム全体が振動した。
四万を超える観衆。全員が立ち上がって歓声、拍手。
セージのジャンプに合わせて、花火がステージの後方に上がる。続けて何発も。コンサートの終了を告げる合図だった。光が夜空に吸い込まれるように消えても、白煙が宙に浮かんで残っていた。風に流されていく。
ステージの端から端まで飛び回っていたセージが、中央にもどり大きく礼をしている。観客の拍手が高まる。
たいしたものだ。野球場を舞台とする大がかりなロック・ショーではある。エキサイティングな見世物とは言える。
でも、これが、コンサートだろうか。
ぼくも大観衆に向かってお辞儀する。はるか遠くの、かすんで見えない客に手を振る。彼らは、上着だとか旗だとかを振り回して、ぼくのアクションに応《こた》えようとしてくれる。
バック・コーラスの女性歌手が近づいてきた。黒人を意識したメーク。細くて高いところにあるウエストを誇示するように腰を振って歩く。金色のミニのタイト・スカートが照明を反射した。
鏡の前で長時間の訓練を経たような彼女の微笑み。ぼくは彼女の頬にキスする。彼女は、ぼくの唇に返してくる。ぼくの後頭部にまわした両手に力をこめ、なかなか放そうとしない。
彼女は、舌を入れてきた。首を支えに顔を激しく動かす。情熱的なキス。
どっと沸く客席。ぼくらをカメラがとらえて、巨大なスクリーンに映し出しているのだろう。
ぼくは、彼女から離れ、さも驚いた、というように手を広げる。前夜もやったことであるのに。
ホーン・セクションのおじさんが、ふたりの間にはいってくる。これはスゴイな、というようにして、ぼくとバック・コーラスの歌い手の肩を抱いてくれる。
三人で笑って、深々と礼。そして、退場。ぼくは、ギターを高々とかざしてステージの奥へ進む。
やっていることは、予定調和だった。ミュージシャンというより、ぼくたちはパフォーマーになっていた。
観客席は静まらない。もう少しじらしてから、アンコールで出て行くのだ。もちろん、そこでやる曲も決まっている。
すべて予定通り。
四万人のオーディエンスとなると、聴衆のひとりひとりが見えることはなかった。凄《すさ》まじいエネルギーが消費されるライヴではあった。けれど、オーディエンスとのやりとりは、結局は、何もないのに等しい。
リクエストに応じるなんて、もちろんありえないし、客の反応を見て曲目を変えることも出来ない。照明やスモークに花火、大仕掛けのセットのガスでふくらます人形の動きまで、演出の進行がすべて秒刻みで決まっていたから。
演奏中、恐ろしいほどの大観衆を前にしながら、ぼくは孤独を感じていた。ステージと客席とがあまりに遠いのだ。ステップスのようなライヴハウスの、小さな小屋での気ままなプレイが懐かしい。それは、ぼくたちには許されなくなっていたのだ。
そろそろ時間だ。
舞台にセージが飛び出していく。ぼくも、ゆっくりと続く。
大喚声を上げる観客に応《こた》えるセージ。それは、セージがセージのコピーをしているように、ぼくには見えた。ファンに向けて作り上げ、見せているイメージを踏襲する。自分で作り出したものなのに、逆にそれに支配されている気がする。
つまり、彼自身が二枚目や三枚目のアルバムになっているのだ。キープ・コンセプト。そうせざるをえないのだ。
ぼくたちは、いま、どこにいてどこに向かっているのだろうか。嵐の中の船と同じだ。巨大な波のうねりに身をまかせているだけだ。コントロール出来るものはいない。
たとえ、セージにしたって。
32
NEXUSの真夏のスタジアム・ツアーは続いていた。ぼくは、完全に消耗していた。磨滅といってもいいかもしれない。
ぼくだけではないと思う。メンバーの間での会話がすごく減った。ぼくたちは、コミュニケーションをとらなくなってしまった。
ステップスのころは、ギグが終われば反省会をしたものだった。もちろん、セージが仕切っていた。
「何よ、だっさいの。あんな曲のはいり方ってある? NEXUSのやることじゃないね。俺、帰ろうかと思ったもの」
セージは、そんなふうに文句をつけた。ひとつひとつ、ポイントを列挙して。厳しいと言えば厳しい。それは口ぎたないくらいだった。
「ほら、あの、ダーッ、ダダダダってとこ。わかってるかい」
セージの口での指示に対して、ぼくたちは同じように対応した。楽器のない場でさえプラクティスが出来たのだ。
過去を振り返って、いつまでも懐かしんでいてもしようがないだろう。実際、そんなに昔のことでさえないのだから。
しかし、いま、ステージが引けたぼくの隣にいるのは、見たこともない女の子だ。しきりにぼくに話しかけてくる。
「私がNEXUSで一番好きな曲はね……あのね、リンのギターのテクがきまってて……今日、セージが、ステージの袖《そで》のところで……」
ぼくには彼女の言っていることの半分も理解出来ない。わかりたいと思わない。ライヴのあとで、そんなことを話したくはなかった。ぼくは疲れきっていたのだ。肉体的にもそうだったろうけど、むしろ神経がすり減っていた。
ともあれ、バック・ステージで時間をつぶさなければならなかった。スタジアムを取り巻くファンたちの数がある程度減り、ホテルに逃げ込むクルマに乗り込めるまでの時間。
もちろん、ホテルに戻ったところですることはない。酒を飲んで女の子たちを部屋に招きいれて、つまりはここと同じことだ。
いつのころからか、女の子たちが楽屋に連れて来られるのが習慣になっていた。ぼくは、最初のうちはなじめなかったのだけれど。
「おまえなあ、こんないいことってないぜ。前だったら、ちょっとはましな女とやろうと思ったら、声かけてメシ食って手間かかったのに、いまなら女の方から裸で飛び込んでくるんだから」
トオルは喜んでいた。
「俺たち、スターだぜ。スター」
スターなのだろうか。どちらかというと、なんか芸能人という感じだ。
NEXUSとファックしたくて集まる女の子たちは、まるで無限にいるみたいだった。もちろん、彼女たちにしたって今夜がたまたまNEXUSなだけで、明日はどこかの外人バンドでもいいし、お笑いタレントでもいいのだろう。
スターと、有名人と直接話すこと、からだの接触を持つこと。彼女たちは、そのために押し寄せてくる。
窓口には、一番古株のボウヤがなっているようだ。これは、という女の子を選んでは通す。翌日には、彼はぼくたちのところに聞きにくる。どの子がよかったか。好みをこれからの参考にするために。
変なシステムだ。
ぼくは、彼の質問に答えられなかった。実際のところ、よく覚えていなかったから。初めのうちは熱心に女の子の採点をしていたトオルでさえ、最近は熱意を失っている気がする。
楽屋にボウヤが御用聞きのように注文を取りにきても、
「いいよ、適当で。残りはおまえたちで回しといて」
そんな返事をするようになった。
ぼくは、缶ビールを空けた。だいぶ前から置かれていたのか、それは生ぬるくなっていた。近くにあったアコースティックのギターを手に取る。
いいかげんなコードを弾いた。
ブルース。but not standard changes。
その言い回しは、ステップスでリンプ・オーウェンに教わったものだ。ぼくは、彼に会えたとしたら、何と言うつもりだったのだろうか。
オーウェンは、予言者だったのだ。おまえたちは人気が出るだろう、とぼくに言った。いまは想像もつかないぐらい人気が出る。そのときが問題だ。ピークに達したときが、バンドは大切なのだ。
ぼくたちは、いま、頂点にいるのだろうか。だとしたら、このスタジアム・ツアーをピークとして、あとは坂道を転がり落ちていく?
女の子たちがぼくの前に集まって来た。目を輝かせている。楽屋でNEXUSのリード・ギターが、一曲やってくれそうだから。
向かいのソファでは、背もたれにだらしなくそっくりかえったクニさんが、女の子の髪をわしづかみにしていた。
もう一方の手には、ウィスキーのボトル。女の子はソファの正面にひざまずき、床についた両手でからだを支えていた。背中を弓なりにし、クニさんの開いた脚の間で頭を動かしている。
ぼくの座っているところからは、めくれ上がったスカートの下から彼女の下着が見えていた。白い二本の脚の間で細くなっている、黒いレースが際立っていた。ぼくのそばにいる女の子たちも、ふたりを気にしてチラチラと視線を走らせている。
ブルース。
こんなにばかばかしい状況では、ロックン・ロールよりは、ブルースだ。アコースティック・ギター特有の切れのよい音が控室に響く。
まだ、だいじょうぶだ。まだ。ぼくのギターは、いまのところ、まだ腐っていない。
ドアが大きな音をたてて閉まった。
トオルは大股《おおまた》でクニさんのいるソファのところまで歩いていくと、しゃがみこんでいる女の子のミニ・スカートを、後ろから靴の先でめくりあげた。
トオルは、ドラムのスティックを持った。その先で女の子の下着をつついた。局部の構造を明らかにするように、上から下へ、縦になぞる。
女の子は、たまらず背中をしならせた。腰を振るようにして。
トオルは、無表情だった。スティックを、下着の上から突き立てる。
「おっと」
クニさんが、うめいた。
まるで、いままで眠っていて、ようやく朝のお目覚めのようだ。
「歯を立てるんじゃありませんよ。あぶないねえ」
クニさんのペニスを吐き出した女の子は、息をぜいぜいさせていた。上半身を起こし、振り返ってトオルの方を見ようとする。
でも、長い髪は、クニさんの右手に巻きつけられたままなので、自由には動かせない。
「気をつけて舐《な》めてよ」
彼女は、何回もうなずく。子どもが叱られているみたいに。
数回、せきこむ。唾液《だえき》がアゴの下まで垂れていた。彼女の唇の端には、クニさんの陰毛がへばりついていた。
髪の毛を引っ張られ、また、クニさんの股の間に顔を押しつけられる。
トオルは、ぼくのそばにくると、女の子をひとり、はがすように引っ張った。その子は、立ち上がるとき嬉《うれ》しそうな表情になっていた。何人もいるなかで自分が選ばれたことに対して?
ぼくはギターを置き、ウィスキーの封を切る。テーブルの銀のトレイには、グラスが一ダースぐらい並んでいた。氷が半分溶けかかっている。
どぼどぼと注いだ。全部あけてしまおう。
残っている女の子たちと、みんなで乾杯。ライヴ終了後のバカ騒ぎだ。先に酔ってしまった方が勝ちだ。
トオルは、連れていった女の子をテーブルに寝かせた。上半身だけ、うつぶせに。
彼女のパンツを下着ごと、一気に足首までひきおろした。女の子は何か叫び声をあげ、そして、ニコニコと笑っている。テーブルに顔をつけて。
トオルが女の子の尻《しり》をたたいて、ピタピタという音をさせた。
ぼくが抱き寄せた子は、ぼくと同い年ぐらいだろう。街にいたら、適当にかわいいごくふつうの高校生なのだろうか。それとも彼女たちは、特別なのだろうか。
そういう判断力は、ぼくにはない。というより、ぼくは、そんな基準を持ってない。だって、ぼく自身が化物のような存在なのだ。ロッカーとして生きるというのは、そういうことだったのだ。
彼女のシャツの間から、胸に触れる。彼女は、顔を伏せ、唇をぼくの首筋に押しつける。
セージだけが、いなかった。おそらく、どこかで、ひとりでひっそりと死んでいるのだろう。それは、最近よくあることだった。スタジアムでライヴをするようになってからだ。
一番エネルギーを消費しているのは、間違いなくセージだった。大観衆と直接に格闘しているのだから。彼は、アルコールと女の子で疲れを麻痺《まひ》させることも出来なくなってきていたのだろうか。
クニさんが、ヨロヨロと壁に手をつき歩く。もう、完全にイッてしまっていた。まともにトイレにも行けないのだ。
いつまでも、永遠に続きそうなパーティだった。隅の方で吐いている子もいた。いつのまにか、トオルは全裸になっていた。ふたりの女の子を相手にしている。
前島さんが、もう少ししたらクルマが出る、と連絡に来た。返事が出来たのは、ぼくだけだった。
前島さんは、うんざりした顔でドアを閉める。
気がついたときには、クニさんは火をつけていた。なぜ、そんなところに花火があったのだろうか。スタッフが女の子を誘う小道具にでもしようとしたのだろうか。
クニさんは、床につぶれていた女の子の、おそらくは肛門《こうもん》に花火を挿して点火したのだ。
細い棒の先から赤い火。
薄暗い控室が、一瞬に明るくなる。
クニさんの得意そうな顔。クックッと笑っている。
気づいて起き上がろうとした女の子に、トオルが馬乗りになった。トオルは、もちろん裸のままだ。
背に後ろ向きにまたがり、押さえ付ける。シュッと音をたてて花火は消えた。
トオルは、クニさんが挿したのを抜くと、筒の花火を押し込んだ。
今度は、肛門の方ではないだろう。
完全に下敷きになっているので、本気でもがいてもトオルの体重ははねかえせない。トオルは、しっかりと奥まで差し込もうとしている。
クニさんが、ジッポーを投げた。
地面に置いて火を吹き上げるタイプの花火だったのだろう。女の子の股間《こかん》から、斜め上に、一メートルほど火柱があがった。
叫び声。
トオルは横にどいた。
女の子が立ち上がろうとして、転がった。脚をバタバタさせる。
仰向けになった女の子の両方の足首をトオルはつかんだ。火をよけるようにして。広がるだけ広げようとする。
股の間から出る火柱は、次々と色が変わった。
けたたましく笑うトオルの顔が、それに照らされる。彼の表情は異常な輝きに満ちていた。
ぼくは気づいた。たぶん、そうだろう。間違いない。ぼくも酔っていたけれど、そのくらいはわかる。トオルは、また、クスリに手を出したのだ。楽屋に遅れてはいってきたのは、おそらく、トイレでひとしきり吸ってきたからなのだろう。
外が騒がしくなっていた。あれは、サイレンの音だ。
火災報知機が作動したようだった。
振り向くと、ドアを小さく開け、立っているものがいた。
セージだった。
冷ややかに、部屋の中を見渡していた。
33
目が覚めると、まだ夜明け前のようだった。からだは、幅の広いベッドの上で、斜めになっていた。あの、大きくてふわふわした頼りない枕は、どこにいったのだろう。
上体を起こすと、頭が重かった。
窓には、分厚くごわごわした生地のカーテンがかかっていた。それは、ここがホテルの一室なのだと、あらためて思い出させる。
カーテンを少しずらして、隙間を作った。意外に高い階に泊まっていたのだった。
眼下に、明りが広がっていた。先へ行って、突然とぎれているのは、そこからが海になっているからなのだろうか。
ここが日本地図の上でどのあたりにあって、何と呼ばれる街なのかには、あまり意味がなかった。そういったことに、ぼくは興味が持てなくなっていた。
ツアーは続いていた。
永遠に。
そうだ。ツアーというのは、人気がブレイクしようがしまいが、本質的に同じなのかもしれない。泊まるホテルのランクは、格段に上がったけれど。
イギリスでデビューする前の、清潔とは言えないビジネス・ホテル。ギグのあとには、階段の踊り場に設置された自動販売機コーナーで、ビールとおつまみセットを買った。透明なプラスティックの筒のカートリッジにはいったピーナッツと柿の種が落ちてくる、その鈍い響きを、ぼくはよく覚えている。
それがいまは、ルーム・サービスのワインとアソーティッド・チーズに取って代わった。キャリッジにのせられ、うやうやしく、静々と運び込まれる。
でも、そんなことは、実際、たいした違いではないのだ。
君には想像がつかないかもしれない。ぼくだって、前のツアーの最中だったら、この高級ホテルの広いツイン・ルームがひとりひとりにあてがわれることに、憧《あこが》れの気持ちを抱いただろう。
ぼくは、ミニ・バーをながめた。ウィスキーやブランデー、ジンなどがせいぞろいしている。迷ったすえに、ぼくは冷蔵庫からミネラル・ウォーターを取り出した。
水は、ひんやりとして、おいしかった。
ともかく、個室になったというのは、よかった。ぼくは、思わずニヤついてしまう。トオルのいびきと、人目をはばからぬマスターベーションに悩まされた日々を思い出して。
それでも、ツアーの最中の拘束感は、むしろ現在の方が強かった。人気が出たせいで、外出がしづらくなってしまったから。どうやって調べるのか、ツアーで行く先々のホテルのロビーには、ファンがつめかけていることが多かった。
彼女たちにつかまらないようにするためには、SPの助けが必要だった。休みの日であれ、ギグが終わってからであれ、街に出ようと思うなら。
SPの待機する部屋に電話するとしよう。
すぐに応答がある。
職業的なヴォイス。
でも、彼らが、ぼくたちを守るなんて仕事にうんざりしているのを、ぼくは思い出してしまう。ぼくたちは、外国の政府の要人でもなければ、財界の黒幕でもない。アジアのどこかの国の王女様でもないし、右翼の大物でもない。
彼らが二十四時間ガードしているのは、ロック・スターなのだ。ステージで身をくねらせては、女の子たちにきゃーきゃー言われるのが商売の。
ぼくたちが殺されたところで、彼らにとっては痛くもかゆくもないだろう。逆に、警備にあたりながら、ぼくたちの死を彼らは願っている。サングラスの下、能面のような顔の裏では。
彼らが戦いたい相手は、ファンの女の子たちなどではない。彼らを脅かすような強力な敵、能力の範囲を超えるか超えないかのような戦闘集団による襲撃を期待しているに違いないのだ。
ぼくは、電話の受話器を握りしめる。近くの本屋まで行くのに、歳がだいぶ上で口数の少ないSPたちにつき従われる場面を思い浮かべる。ぼくが雑誌を立ち読みしてる間にも、彼らは警戒し周囲を威圧し続けるのだ。
ぼくは、外出したいという気持ちが失せてしまう。
すみませんでした。ちょっとした間違いで。
受話器の向こうに詫《わ》びる。
いいえ、お気になさらないで。
あくまで職業的な、落ち着いた声が耳に残る。
結局は、どこの街にいても同じだ。セッティングを伴う長い、長いリハーサル。バック・ステージでの出前か弁当の食事。リハーサルの再開。そして、ホテルの部屋に帰る。本番。打ち上げ。移動。それがツアーのすべてだ。
ぼくは、水を飲み終え、グラスを置きにいこうとした。
そのとき、背中で物音がした。
ベッドのシーツがずれるような?
叫び声をあげないですんだのは、寝る前にたっぷりとアルコールを飲んでいたおかげだったのかもしれない。
ぼくが寝ていたのではない方の、やはりセミダブルのベッドで寝返りを打つ姿が見えた。毛布は、小さく人の形に盛り上がっていた。
ミネラル・ウォーターではだめだ。ぼくは、ジャック・ダニエルにすることにした。冗談みたいに量の少ないミニチュア・ボトルから半分注ぐ。前の晩は、どうやって眠りに落ちたのだったろう。
コンサートのあと、バック・ステージで少し飲んだ。それから、スタッフと食事に行った。騒がしいクラブの上階に部屋がリザーブされていた。VIPルームへどうぞ、と言われた。いったい、だれがVIPなんだ?
どこの街へ行っても同じような店がある。いいかげんなものを食べて、また飲んだ。帰りのタクシーに乗り込んだあたりから記憶がなかった。
窓辺を離れ、ぼくはベッドに近づいた。
毛布の中と目が合った。そっと歩いたつもりだったのだけど。
「起こしてしまったかな」
ぼくは言った。
くすっと笑ったみたいだった。かなりの確率で女の子だろう。
ぼくは、手に持っていたグラスを差し出した。うつぶせのまま、彼女はからだを少し起こした。寝具が滑り、裸の肩と背中が見える。
上半身の体重を肘《ひじ》で支え、彼女はグラスを受け取る。そして、ちょっと口をつけ、だめみたい、と小さい声で言った。
ぼくは冷蔵庫の下の段から、アップル・ジュースを見つける。グラスに移すと、透明なリンゴのジュースは、とてもいい香りがした。
誰なのか、どこで出会ったのか、全然、記憶になかった。ふたりとも裸だから、抱き合ってから眠った?
おそらく、彼女は、スタッフが選んで、中に入れた女の子たちのひとりなのだろう。そういえば、ホテルに戻ってから、一度、トオルの部屋に行ったのだ。そこで、あらためて飲んだ。そこには、女の子が何人かいた。
しかし、それ以上の記憶は、やはりなかった。
直接、聞いてみたらいいのだろうか、彼女に。もう、ぼくたちは、ファックしたのかなって。
彼女は、ジュースを、ごくごくと音をたてて飲んだ。ぼくは、もともとぼくがいた方のベッドに腰かけ、そんな彼女を見ていた。
彼女は、ベッド・サイドのテーブルにグラスを置くと、からだを起こした。
「え?」
ぼくは、彼女が何と言ったのか聞き取れなかった。
今度は、少し大きい声で、彼女は、何か音楽がほしい、と言った。
ぼくはホテルの備え付けのパネルを操作した。ラジオ局をふたつトライして、おしゃべりと歌謡曲だったのであきらめ、BGMにした。
ロビーなんかでよく流れている、あたりさわりのないホテルBGM。でも、それは、さわやかだった。夜明け前のこんな状況では。
ミュージシャンなのに、本当にCDを持ち歩いてたりしないのね。トオルは、いっぱい持ってるのに。
彼女に言われて、昨日の夜のことを思い出した。ぼくは、トオルが部屋でかけた曲が気に入らなくて、文句をつけたのだ。イギリスのロックだと思うのだけど、パンクっぽかった。
それで、ぼくはトオルの趣味の悪さを言いたてた。パンクはいけない。あれはロックの破壊だけだ。彼のドラミングのことまで持ち出して、からかった。完全に酔っ払いのケンカだ。
ケンカだったら、トオルに勝てるはずがない。ぼくは部屋から放り出された。
そうだ、それで彼女があとから追いかけて出てきてくれたのだ。ぼくの部屋の鍵《かぎ》を持って。そうしてくれなかったら、ぼくはトオルの部屋の前の廊下で、酔いつぶれて寝てしまってただろう。
だったら、お礼を言うべきだ。昨夜の件について口を開こうとして、ぼくは、もうひとつ思い出した。彼女とは、まだ寝ていない。
彼女が何か言った。ぼくは、一瞬、理解できなかった。
音楽が好きじゃないの?
そう、彼女は聞いたのだ。
ミュージシャンなのに、音楽が好きじゃないの?
「そんなことはないよ。そんなことは」
ぼくは、答えた。ぼくが、音楽を嫌いになるなんて。そんな、まるで、あのヴァイオリン教室のときみたいに?
すごくばかげてるって感じで、ぼくは笑った。
彼女は笑わなかった。ぼくを見つめる。ぼくの目から、視線をそらさない。
ぼくは、気づまりになって言った。
「それより、やらなくていいの? セックスはしたくないの?」
彼女は、冷ややかな視線をぼくに投げかけ続けた。
ぼくは、自分のセリフが、ホテルに出張した娼婦《しようふ》のようだったことに気づいた。金で買ったのにおしゃべりばかりしている客に向かって聞く。ねえ、私と寝なくていいの?
彼女は、悲しそうな顔をした。少なくとも、ぼくはそう思った。
リンがしたいんなら、と彼女は返事した。
そう。
そのとき、ぼくは、特にしたいわけではなかった。
†
そして、セージは耐えられなくなってしまったようだった。毎朝、起きると、隣に違う女の子が寝ている。それで、その女の子の名前も思い出せない、なんてことに。
彼は、ヘミを連れていくことを主張した。NEXUSのツアーにヘミを帯同する。
セージの気持ちを、推測してみよう。はたして、合っているだろうか。
バンドのメンバーやスタッフとは、あくまで仕事の上での接触だ。たとえ、セージとトオルが同じ中学のバスケットボール部の先輩後輩であれ、こうやって音楽を職業として一緒にやっていたなら、ふつうの友人のままではいられない。(もともと、あまり「ふつうの友人」という気もしないけど。)
セージは、休息の場所を必要とした。ひとりで大観衆を引き受け闘っているセージ。ぼくの何十倍も、何百倍も疲れるに違いない。ひと晩だけのグルーピーたちでは、彼の心を癒《いや》してはくれない。ファックはファックだ。それ以上のものではない。
前島さんは、
「この前、話し合ったことじゃない」
議論のテーブルにつこうとしなかった。
「あなたたちの結婚問題について。まだ、すべき時じゃないって、決まったでしょ」
ミーティング後にセージが持ち出したテーマを、あくまでクールに処理しようとする。
その場に残っているのは、ごく身近な人間だけだった。
セージは、主張した。
「いや、結婚とかいうんじゃなくてね。あくまでプライベートで、連れてくのはかまわないだろう?」
前島さんは、首を横に振る。
しかし、セージは、いまやスターだった。ぼくたちは、昔のNEXUSではないのだ。駅の裏のさびれた街のライヴハウスに、交通費にも満たないほどのギャラで出演していた。そして、ステップスのオーディションに怯《おび》えていたころの、ぼくたち。
プロダクションとしても、他のメンバーならともかく、セージの意向には、それなりの配慮が必要だったのだろう。前島さんは、事務所に持ち帰って相談すると約束した。
セージは、スターだった。だが、ヘミにも人気が出てきていたのだ。
出演したCFは、ヘミのプロモーション・ヴィデオとして効果を発揮したのだろう。バックに流されたぼくの作った曲は、大ヒットというわけではなかった。でも、彼女のけだるげなヴォーカルは、話題を呼んだ。
すでに、CFは二本目が放映されていた。写真集だとかの企画だって進んでいるのかもしれない。事務所にとっては、そちらの都合もあった。
しかし、話は、簡単だった。ヘミが、断ったのだ。ツアーについて行く気はない。あっさりと、ひとこと。
セージには信じられないようだった。ヘミが拒否したということが。
†
「私は、いま仕事をしているのよ。それも、始まったばかりの」
ヘミは、もう、うんざり、といった表情だった。
ぼくたちは、セージとヘミとぼくは、とんでもないところにいた。ソウルのホテルのスイートなのだ。ぼくは、急にセージに誘われた。そして、来てみたらヘミがいた。
ツアーの切れ目。久し振りのオフだった。つかのまの休日を、出来ることならあの懐かしいヘミの家で過ごしたかった。あの家で、ぼくたちは、セージとぼくは最初のアルバムの曲のほとんどを作ったのだ。
でも、それは許されない。マスコミは、ぼくたちを追っていた。三人でヘミの家にいたら、なんと書かれるのだろう?
「ヘミにとって、それは、そんなに大事なのかい?」
懇願するように話しかけるセージ。
マイクを握り、四万人の観客を引き摺《ず》り回すときの彼ではない。
セージは、このごろ、いつも彼女のことをヘミと呼ぶようになった。それは、もともと、ぼくが好んだ呼び方だ。彼は、昔は、ヘムというのと半々ぐらいだったのに。
セージは、本当にヘミの拒否を驚いているようだった。セージが驚いていることに、むしろ、ぼくは驚く。
だって、ヘミは、ぼくの前ではいつだって強い意志を持った、ひとりの人間だった。彼女は、セージに対してそんなにも従属的な態度をこれまでとってきたのだろうか。
いや、セージは、自分の提案は基本的にすべての人間が受け入れると信じているのだ。自分が正しいと思うことは誰にとっても正しいのだと、単純に感じているだけなのだ。それが否定される可能性をまったく考えないで、発言する。
「まあ、おもしろいって言っていいと思うわ。あなたがステージで歌うのと同じかどうかはわからないけど」
ヘミは、たっぷりした布を巻き付けたような服を着ていた。
壁にもたれているぼくと、ソファのセージの間に座る。床の上に、直接。
「ツアーにつきあいながら、仕事を続けるってわけにはいかないかな?」
ヘミは両手を広げた。その仕種《しぐさ》はステージのセージに似ている。彼女がセージのマネをしているのか。ルーツがヘミの兄にあるなんてことは、まさかないと思うけど。
ヘミは意思的だった。話しても無駄だ、ということをはっきりと表していた。
しばらくの沈黙。
「わかった。オール・ライト」
セージの奇妙に明るい声。
「かまわないぜ、これまでどおりでいこう」
ゆっくりと、笑顔でホテルの部屋の中を見回すセージ。ステージの上の作られた顔にもどっている。
ぼくと目が合う。
でも、これまでどおり、というのは、どういうつもりなのだろう。
セージがヘミに結婚を申し込んでいて、一方で、ぼくとヘミの関係も続く。そういう、これまでのとおり?
ヘミは、だいぶ疲れて見えた。
セージからもぼくからも、ちょうど等距離のところに座っていた。
34
その日、集合時間を過ぎてもトオルが現れなかった。それ自体は、たいしたことではない。クニさんは、もっとひどい遅刻の常習犯だったから。
しかし、トオルからは、何の連絡もなかった。前島さんの携帯にも、事務所の方にも。ふだんのトオルなら、言い訳たっぷりの、取った人間が思わず笑い出してしまうような連絡をしてきたはずだ。
移動は、ふつうは飛行機が多かった。けれど、その日は列車だった。ぼくたちは新幹線のプラットホームにいた。発車の時刻が近づいていた。
トオルを無視して乗り込む。すぐにセージは、ヘッドフォンをセットした。座席に深く腰かける。サングラスの下の目は閉じられているのだろう。
でもセージが苛立《いらだ》っているのが、ぼくにはわかる。
クニさんは、
「やれやれ、困ったもんですな。トオル君も」
ふざけた口ぶり。
こういうとき、よくクニさんがやるやつだ。わざと年寄りのようにしゃべる。
そして、ウィスキーのポケット瓶を取り出す。
セージは、斜め後ろのクニさんを振り返った。
「あまり飲まないでよ。今日、着いたらリハするんだから」
クニさんは、返事をしなかった。
かえって、見せつけるように、瓶をあおる。
何かがおかしくなりつつあった。NEXUSは、悪い方へ、悪い方へと進んでいる感じがした。
ぼくは、座席で、からだをもぞもぞと動かす。楽なポジションを見つけて早く眠ってしまいたかった。
†
初めてのホールだった。
新幹線の駅からタクシーに乗った。作物の植えられた畑が両側に続いていた。交通量は少なかった。一本道をどこまでも進んでいく。
とてもコンサートを開催し観客を動員出来るだけの都会があるとは思えなかった。タクシーは右折して、田舎の幹線道路を離れ丘を上る。
すると、突然、最近開発されたらしい整然とした街が広がっていた。子どものころに描かれた未来都市のように道が立体交差している。
会場は、芝生の広がる運動公園の一角にあった。真新しい、キャパシティの大きそうなホールだった。NEXUSのロゴが車体に輝くトラックが、建物の裏手に横づけされていた。器材の運搬用の車両で、渋滞を避け夜の間に移動していたはずだ。すでに、午前中からスタッフによるセッティングが始まっているのだろう。
会場が大きくなるにつれ、器材の量が飛躍的に増えた。かつては、四人の楽器とアンプを積み込んでも、中古のワン・ボックスの荷台にはスペースがあまっていたのに。いまでは、バック・バンドもつくし、照明からこけおどしの花火のようなものまで装置がやたらある。
そうだ。ぼくたちは、ギグというより、ショーをやりに来たのだった。壮大なショー・ボートの一座だ。
楽屋には弁当が用意されていた。ハンバーグとエビフライが死んだキャベツの上に乗っていて、蓋《ふた》を開ける前からぼくには味が想像出来た。
ぼくたちは楽屋に着くと、伸びをしたり顔を洗ったりしてから、ともかく、メシを食べるのだ。リハーサルでも本番の日でも、それが習慣になっていた。
食べたいものにだけ箸《はし》をつけることになるから、クニさんなど、ほとんど食べない。逆に、トオルは足りなくて、ふたつ食べたりする。あるいは、カレーライスやカツ丼の出前をとったり。
でも、今日は、トオルはいないのだ。
連絡は、まだとれていないようだった。前島さんは、心配そうな顔で、次から次へと電話をかけていた。
コンサートでやる曲目、演出などは、一連のツアーを通じて基本的に変わらなかった。でも、会場というのはひとつひとつが違っているから、舞台はその都度セッティングを変える。もちろん、音響のチェックも入念に行う必要がある。だから、結構、リハーサルは手間どるものなのだ。
そして、セージは、そういったことに熱心だった。その点に関しては、彼はプロだと言える。演出家にまかせず、彼自身がステージ・ワークの細部までも検討していたのだし。
ぼくにしてみたら、いままで何度も演奏してきた曲を、オーディエンスなしでやるのは辛《つら》かった。テンションが高まらない。適当に流したいと感じるような部分でも、セージは通しでやろうとした。
リハーサルの目的のうちのかなりの部分は、照明だとかセージの乗るクレーンの操作だ。しかも、その手の機器はよく故障した。プレイが中断されたまま、異様に待ち時間が長くなってしまう。
それに、今日はいつものリハーサルとは違うのだ。
「だれか、太鼓たたけるやつ、いない?」
さっきから、セージがスタッフをつかまえては、尋ねて回っていた。もちろん、周囲にバンドの経験者は多かった。
荷物を運ぶボウヤや、器材の調整に当たったりしているエンジニアたちは、みんなロックに憧《あこが》れ関連する世界にいたくて、重労働をものともせず、おそらくは安い給料で働いているのだろう。音楽業界でバイトしながら、次の成功するバンドを夢見ているひとだっているはずだ。
セージは、そのなかから山辺君という子を見つけてきた。ジーンズに、スタッフに支給されるトレーナーを着ていた。まだ、ぼくとそんなに変わらないくらいの歳だと思う。
おとなしい感じで、いままで、ぼくはしゃべったことがあるかどうか。
彼が、ステージにあがっただけで緊張しているのが見てとれた。ドラムのスティックを持って直立している。
「じゃあ、ちょっと、オープニングのとこ、たたけるかな。俺が左から出て来て、それで、ダダダーダ、ダッダッってとこ」
セージが指示を出す。
山辺君は、ドラム・セットの前に腰をおろした。バス・ドラムのペダルの位置を、神経質そうに調整する。
「固くなんなくていいよ。どうせリハなんだから。そうだ。俺、本当に走って出て来ることにするよ。その方が感じが出るよな」
セージは、山辺君に対してとても優しかった。彼があがっているのを懸命に解きほぐそうとしている。
これが、ぼくの知っているセージの持つひとつの側面だ。セージには限りない優しさがある。いままでも、ぼくにそれを惜しみなくふりそそいでくれた。そして、それとともに、とてつもない残酷さも同居しているのだけれど。
リハーサルには特に必要ないのに、彼は、山辺君のためにわざわざ舞台の袖《そで》に引っ込む。そして、走り出る。
ぼくは、一瞬、トオルがたたいているのではないかと思った。
そのくらい似ていたのだ。打楽器なんて、だれがたたいても同じだ、そんなに特徴がない、と思うひともいるかもしれない。
でも、それは違う。リズムには、強く個人差がある。そのひと固有のリズムがあるものなのだ。山辺君のドラムは、トオルにそっくりだった。
ぼくは、いつもと同じタイミングでギターを入れられた。
一曲目のイントロが始まる。
クニさんがベースを刻む。いつもと同じように。
セージがストップの合図。
クニさんを見ると、ふーん、というように肩をすくめた。
「そうそう。いいね。いいよ」
拍手しながら、セージがもどってくる。
「よし。決まり。山辺君でいこう。いないやつのことなんか気にしないで、やっちまおう」
ピュー、と指笛の音。応援とも賞賛ともとれる声が、あちこちから山辺君に送られる。スタッフのみんなは、どうなることかと緊張して見まもっていたのだ。
そうやって、リハーサルが始まった。トオル抜きのNEXUS、という初めての経験だった。
山辺君は、これまでトオルのプレイを聴き込んできたのだろう。NEXUSの、そして、何よりも自分と同じ楽器を担当するものとして、トオルの熱心なファンだったに違いない。
彼は、代役を十分にはたしていた。NEXUSのレパートリーをこなせる。山辺君は勘が良かった。というより、何より素直だったのだろう。セージのちょっとしたアドバイスにも鋭く反応した。そのドラミングは、リハーサルの間にもどんどん向上していった。
セージは嬉《うれ》しそうだった。
山辺君の顔は紅潮している。広く高いステージに立つには、それなりの慣れが必要なのだ。そこで、伸び伸びとしたプレイが出来るようになるには時間がかかる。励まされ、時には、笑みも出るようになってきた。
ぼくは複雑な気分だった。音楽雑誌などでトオルの評価は決して高くない。その愛すべきキャラクターは別にして。彼のテクニックがNEXUSの弱点として指摘されたことも、一度や二度ではない。ぼく自身は、トオルの荒々しいプレイをそれなりに気にいっていたのだけれど。
「いいね。うん。明日も、山辺君でいこうぜ」
セージは、絶え間なく、叫んでいる。みんなをのせるために。
確かに、山辺君は、ぼくが振り返ったらそこにトオルがいるかのようにプレイすることが出来た。だが、あくまでコピーはコピーだ。オリジナルはトオルなのだ。それは、セージも当然わかっているはずだ。
いったい、トオルは、いま、どこで何をしているのだろう。
35
トオルは当日になっても現れなかった。一本の電話連絡さえなかった。
コンサートが始まる直前に、トオルは病気で休養と発表される。がっかりするオーディエンス。失望の波が客席に広がっていく。
結局、本当に、本番でもドラムは山辺君がたたいた。
まあまあ、だった。ステージとしては。いいわけでは、全然ない。しかし、そんなに悪くもなかったと思う。セージは、トオルのいないぶん新たな頑張りを見せていた。アクシデントをリカヴァーしようとするのだ。
でも、出来は、まあまあ。そのコンサートは、それで済んだ。
しかし、次のステージにも、トオルは出演しなかった。そうなると、事務所の方でいくらやっきになって箝口令《かんこうれい》を敷こうと、たいした効果はない。
音楽業界は、規律を誇る軍隊や戒律の厳しい宗教団体ではない。プロダクションのスタッフから、レコード会社のひと。コンサートの現場では、会場設営や、照明、効果を担当するひとたち。常に不特定多数の人間が出入りしている。非常に緩くて、実際は組織とも呼べないようなもので、出来上がっているのだ。
噂は簡単に広まる。トオルが失踪《しつそう》したらしい。
その後、山辺君を代役に立てたまま、ぼくたちはツアーのステージを三つこなした。あらかじめブッキングされているぶんは終えたのだ。
しかし、ぼくたちが行くところ話題はトオルのことばかりだった。
スポーツ紙や週刊誌、テレビも遅れることなく飛びついた。
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異色のロック・グループ、NEXUSに危機!
NEXUSの問題児、トオルはどこに
トオルとセージの確執が原因?
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見出しが躍る。
ぼくたちは、オフになっても追いかけられた。あくまで病気と強弁せよ、というのが事務所の方針だった。しかし、そんなことがいつまでも出来るわけはない。
ぼくは、だんだんと、いいかげんに返事するようになった。
「南の島にでもいるんじゃないかな。トオルは海が好きだから」
そんなものだ。
ぼくが意外に感じたのは、むしろ、トオルのとった行動がこれほどまでに注目されるということだった。NEXUSはアイドル・グループではないのだ。ロック・ミュージックの歴史を考えたら、バンドのメンバーがいなくなるなんていうのは日常茶飯事であるはずなのに。
それは、ぼくたちがロック・バンドでいようとしても、日本という土壌における「芸能人」の世界にからめとられてしまった、ということを意味しているのだろうか。
クニさんは、例の調子だった。
「いったい、セージとトオルの間で何が起こったのかね。ぜひ、教えてもらいたいもんだ。なんでメンバーの俺が知らねえんだ?」
取材の記者たちも、クニさんには、苦笑してあきらめるしかない。
セージは違っていた。黙って報道陣に背を向けた。彼の苛立《いらだ》ちが、ますますふたりの不仲説を裏付けたようだった。
そんな日々が続いた。
事務所では、あいかわらず、トオルの行方を追っていた。けれど、そろそろ打つ手がなくなっているのは明らかだった。
そして、現実問題として、タイムリミットが近づいたらしい。トオルが出てこないことには、これからのスケジュールが立てられない。
「もう、やめにしよう。こんなばかげたことは」
セージが言った。ある夜、クニさんと、ぼくと、三人になったときだった。
「いつまでも仲良しバンドしてたってしょうがないよ。俺とトオルは、中学のバスケット部の先輩後輩だ。子どものころのツレの関係だよ。偶然の出会いを、一生続けなければいけないってことはない」
だったら、セージは、ぼくのことは何と呼ぶのだろう。ぼくたちは、まさに「偶然の出会い」だったはずだ。
「こんな子どもっぽいことは、俺はいやなんだ」
セージは言う。両手を振りながら。
人々をひきつける彼のアクションは、こうしてステージを降りても充分に魅力的だ。
「ツアーに疲れる、それはいい。わかる。みんな同じさ。でも、それで何も告げずにいなくなるなんてね」
俺たちはプロなんだぜ、とセージは、決して大きくはないけれど鋭い語調で言った。
「NEXUSは解散する」
そう。
それなら、そうしよう。ぼくは、セージがそう考えるのなら、それでいいと思った。
トオルの問題を抜きにしても、ぼくたちは音楽的に限界に来ているのではないかと、ぼくは感じだしていたのだ。繰り返しに陥っているツアーの日々を、一度、根本から変えてしまいたいという気持ちがあった。
「潮時ですな」
クニさんが、ボソッと言った。ふだんは忘れていたけれど、彼はいくつものバンドを渡り歩いてきたのだ。こういうことにも慣れているのだろう。
満場一致。
†
事務所からは猛烈な反対があった。
「これから、あなたたちで稼がせてもらうつもりだったのに」
前島さんは言う。
「イギリス・デビューの投資は、私たちとしても大きな賭《かけ》に出ていたのよ。あなたたちを見込んで。それが人気が絶頂のときにやめるなんて」
責任問題にもなりかねない。少しは私の立場も考えてほしい、と前島さんは迫った。
「もう、十分以上に元はとってるでしょ。賭も大成功じゃないかね」
クニさんの冷ややかな言い方に、前島さんはため息をつく。
そして、あきれたことを言った。
トオルの失踪を機に、事務所の方ではすでに対策を立てている。そして、大物のドラマーに意向を打診したのだという。NEXUSに加入する気はないかと。
ぼくたちに何の断りもなく、だ。
その「大物」は、魅力を感じている様子だった、と前島さんは、自分の持っている宝物を見せるかのように言った。
話し合いの余地はなかった。前島さんは、わかっているようで全然わかってなかった。やはり事務所の人間だとぼくは思った。
彼女の提案は続いた。あるいはオーディションをしてもいい。なんならキー・ボードも加えて、新しいユニットのNEXUSにしたら?
それ以上、ぼくは聞く気になれなかった。数合わせに意味はないのだ。どういう音楽をやっていくかが大切なことなのに。
クニさんは皮肉な笑顔を浮かべていた。セージは静かに座っていた。怒るでもなく、もちろん賛成するのでもなく、前島さんの話すにまかせていた。
結局、セージと社長の一対一の話し合いということになった。話し合ったってどうなるものでもなく、ぼくたちの結論はとっくに出ていたのだけど。
「なに、解散コンサートで、また、ひともうけ出来るでしょ」
クニさんは、つまらなそうに言った。
そして、
「どっちにせよ同じよ。別に引退だとか、プロダクション移るとか言ってるんじゃない。俺たちは契約書で縛られてるんだから」
ぼくの理解していないことだった。初めにプロダクションに行って契約書にサインをいっぱいしたとき、ぼくは全然その文章を読んでいなかった。
ぼくたちは長期にわたって制約を受けている。もう一回バンドを作るにしても、音楽活動をする限りいまの事務所に属していなければならないのだそうだ。
その、もう一回結成するバンドというのは、ぼくにはイメージ出来なかったけれど。
36
記者会見が設定された。会場は、都心のホテルのホール。つめかける報道陣。別室で待機するぼくたちのところにも、そのざわざわした様子が伝わってきていた。
開始の予定時刻より三十分近く遅れてだった。ぼくたちは促され、立ち上がる。
先導役の事務所のスタッフのひとがドアを開ける。一斉にたかれたフラッシュが、まぶしかった。どよめきが起こる。
ぼくは、セージの背中を見て進んだ。
セッティングされたテーブルには、マイクが何本もくくりつけられている。フロアを走る太いコード。
そして、その後ろには、なんと金屏風《きんびようぶ》が立っていた。
それは、一種のブラック・ジョークのようだ。NEXUSの解散を発表するための会見の場であるというのに。
セージが真ん中。その右にぼくが、そして、左にクニさんが座る。トオルは、もちろん、いない。
しゃべるのは、セージの役だ。ぼくたちのスポークス・マンは、彼なのだから。
セージがNEXUSの解散を発表し、いままでの支援に対し礼を言う。トオルのことには、いっさい触れなかった。
最後の「ありがとうございました」というところで、ぼくも一緒に頭を下げた。なんとなく学芸会のようだ。打合わせの練習はしなかったけれど。
続いて質問に答える。多くの手が上がる。
セージは明るかった。
「いや、ぼくたちの音楽もいろいろ変わってきたんだ。いつまでも、ひとつのところにとどまっていられない。バンドが解散するっていうとさ、なんかみんなメソメソしちゃうじゃないの。いまのひとの質問みたいにね。でも、もっと、いい意味でとらえてほしいな」
「前向きにね、そうそう、これからのぼくたちを見ててください」
「これは、おしまいじゃなくて、新しい始まりなんだから」
ぼくは思った。そうか、それなら、後ろの金屏風も、場にそぐわないわけでもないのか。
ふと横を見ると、クニさんは、バナナを剥《む》いていた。テーブルの上に、大きな房が置いてある。十本ぐらいはついていそう。控室にあったやつを記者会見の席に持ってきていたのだ。
質問者が発言している間も、セージが答えている間も、クニさんはバナナを口に運ぶ。
「生意気な言い方ですけど、ロック・バンドとしてNEXUSはやれるだけのことをやってしまったと思うんです。ぼくとしては、新たな形で、もっと攻めていきたい。いつもね、闘っていたい」
クニさんやぼくを指名するひともいた。
ぼくは、「はい、そうです」、「ええ、まあ」、「いや、それは」、ぐらいで返事をすませた。そんなに内容のある質問でもなかった。
クニさんとなると、バナナを食べながらうなずく程度。声も出さない。一本を食べ終わると、次のを剥きにかかる。こんなに彼がバナナ好きだとは知らなかった。
「これからの予定? それは、あの、決まってません。本当です。俺たち、ずっと走り続けてきたんだ。ひと休みしたいと思ってる。それから考えます。先のことは、じっくりと」
あらかじめ指定されていた記者の質問は終了したようだった。
「じゃあ、新しい俺たちのこと、楽しみにしていてください。絶対にがっかりさせませんよ。ファンのみなさん、いままでの応援、ありがとう。シー・ユー・アゲイン」
セージの言葉にかぶさるように、司会者の挨拶《あいさつ》がはいる。記者会見の終了を告げる。明らかに早く打ち切ろうとする姿勢だった。
一斉に声があがった。
「ちょっと待って。セージ」
「帰らないで」
たたみかけるように質問が飛ぶ。
「トオルとは、実際、何もなかったんですか」
「解散するのは、本当に音楽的な理由だけなんですか」
「リン、いまトオルはどこにいて何をしてるか、知ってるんじゃないの?」
知らない。ぼくだって、知りたいんだ。
ぼくたちは、それらの叫びを無視して立ち上がる。
また、フラッシュがまぶしく光る。
SPが、ゆっくりと姿を見せる。ぼくたちの前に立ちはだかり、会場の人々を威圧するように見渡す。
すると、クニさんが、ひとりのインタビュアーを手招きした。あなたにだけは教えてあげる、というように。
いそいでクニさんのところにやってきた彼女は、マイクを差し出した。
ぼくは、覚えている。そのレポーターは、ぼくたちが初めて本格的にテレビの取材を受けたときにやって来たひとだった。イギリスから帰って、まだ、まもないころ。テレビのインタビュー、しかも生中継ということで、ぼくは緊張していた。
彼女は、いかにもアナウンサーという感じだった。ショート・ヘアーで、淡い色のきっちりとしたスーツを着ていた。きびきびとした動きで、打合わせのときも感じが良かった。
しかし、キューの合図とともに、マイクを持って近づいてきた彼女は、失礼します、とカメラに向かって言ったと思うと、いきなり、ぼくの首に両腕を回したのだ。
ぼくは彼女に体重をあずけられ、壁にもたれかかった。彼女は、唇を押しつけてくる。それをカメラがアップでとらえる。
そして、彼女の手がぼくのペニスに伸びると、揉《も》みしだくような仕種《しぐさ》を繰り返した。ロー・アングルになったカメラが、ふたりのからまった脚をとらえようとする。
しばらくして勢いよく離れると、彼女は、息を弾ませながら、カメラに報告した。
だいじょうぶです、硬くなります。リンは確かにホモセクシュアルかもしれませんが、女もいけるクチのようです、と絶叫したのだ。
そういう突撃取材で、彼女は、それまでも名を挙げてきたのだという。ぼくたちは、狂気の世界に生きている。ふつうの世の中では考えられないことも簡単に起こってしまう、とぼくは知った。
マイクを持ったテレビ・レポーターは、嬉《うれ》しそうにクニさんの内緒話に耳を傾けようとした。自分が選ばれたことに興奮している。
するとクニさんは、彼女の頭を抱えると彼女の耳に皮を剥いたバナナを押しつけた。
ヘッド・ロックを左手でかけ、右手に持ったバナナを捩《ね》じ込むようにして押しつぶす。
インタビュアーの悲鳴。握り締めたマイクに向かって何事か叫んでいる。テレビ・カメラがそれを追いかける。
振り返ると、セージは会見の部屋を出て行こうとしていた。騒ぎの中、肩をすくめることもなく。それ以前に、クニさんが何をしているのかに注意を払おうともしなかったのかもしれない。セージは、こういったすべてのことにも、うんざりしていたのだろうか。
暴れる彼女の首を押さえて、クニさんは今度は彼女のブラウスの中にバナナの皮を入れ始めた。テーブルから取り上げては押し込む。
全部入れ終わると、ようやく彼女を解放した。
レポーターは、白いブラウスの胸をバナナの皮でふくらませて、NEXUSの横暴な態度、クニさんの異常さを茶の間に訴える。
でも、彼女の目は輝いている。嬉しくてしようがないのだ。NEXUSの解散記者会見で、自分がこの日の主役になれたのだ。胸いっぱいにバナナを詰めた彼女の映像が、日本中に送られている。
ぼくの望みは、この馬鹿騒ぎを見て、トオルが帰ってきてくれることだった。
もし、そんなことぐらいで騒動が大きくなり世間の注目を集める効果が増すのなら、ぼくもクニさんにつきあったらよかったのかもしれない。いっしょにレポーターにバナナを突っ込んであげる。出来れば剥いてないやつを。耳ではなく彼女のタイト・スカートの中にでも。
†
解散コンサートが組まれた。
スタジアムではなく、臨海パーク(と名付けられた埋め立て地がある)の特設ステージで行う。そこなら八万人はいるという。とんでもない数字だ。ぼくは、八十人ぐらいでいっぱいになる小屋で、ギターを弾いていたいのに。
反響はすさまじかったらしい。チケットは、受付開始後、即座に完売になった。電話は、ほとんど繋《つな》がらなかった。
「社長は、また、腹たててるわよね。あなたたちで、もっと、もっと稼がせてもらえるはずだったんだから」
前島さんは言う。
「やめてほしいね。解散コンサートの追加公演なんて聞いたことない」
クニさんは相変わらずの調子だった。
山辺君をドラムにして、リハーサルが始まった。解散用の、いつにもまして凝った演出。
セージは、いままでと同じように熱がこもっていた。ステージの動きのひとつひとつまで、直接彼が指示を出す。
「すごくいいね、いまの。これ、聞きに来た客、絶対、得だね。じゃあ、もう一回、最初からやります。いいですか?」
「照明さん、何考えてるの? 違うでしょ。いまのとこ。俺、こっちから走るからさ、追ってみてよ。いい?」
セージは、絶え間なくしゃべる。動き回る。
「いいね。いいよ。いかしてる、最高。こりゃあ、いいバンドだ。解散やっぱ、やめにしようか。うそうそ」
ぼくは、もうひとつ気持ちがのらなかった。
山辺君のドラミングに文句があるわけではない。むしろ、それはずっとうまくなっていた。
でも、ぼくは、やはりトオルにいてほしかったのだ。これがNEXUSとしての最後のコンサートになるのだから。
そのあたりは、セージの気持ちを切り替える能力は、たいしたものだと思う。いつだってどんな条件のもとでも、自分の立つステージは最高のものにしたいと考える。たいしたエンタテイナーだった。
クニさんにしても、そうだ。とぎれがちでイライラさせられるリハのプレイの間でも、感情を特に表に出すことはなかった。ウィスキーとタバコ。そして、時にぼそぼそと冗談を言う。まったく、いつものペースだ。
ぼくだけが、流れについていけてなかった。セージに言わせたなら、トオルだけでなく、ぼくもプロではないのかもしれなかった。
入念なリハーサルは、いつまでも、いつまでも続いていくように思われた。
そばに来たクニさんが言った。
「なかなかのものだね、山田君は」
山野君とか山根君とか、クニさんはぼくに向かって言うときだけ、山辺君の名前をいつもわざと間違えてみせていた。
37
コンサートの三日前だった。ヘミから電話があった。
「家の前の道路にね、男が立っているのよ。さっきから、ずっと、いなくならないの」
「わかった、すぐに行く」
ヘミは、その男がどんな様子なのかとか説明しなかった。でも、午前四時にホテルにいるぼくに電話してくるのだ。それがただのホームレスだったりするはずはない。ヘミだって、わかっているのだ。
タクシーを飛ばした。
海岸沿いの国道を離れ、急な、うねうねとした道を登っていく。
少し手前でクルマを降り、ぼくは坂を歩いて登ることにした。なんだか、その方がよい気がしたのだ。直接、目の前に乗りつけるより。
確かに男がいた。ヘミの言うように立ってはいず、向かいのガードレールに腰かけていたけれど。
「やあ」
ぼくは言った。ゆっくり近づく。
「よお」
小さな声で、トオルが返事した。
「いったい、どこにいたの」
「トーキョー」
変なアクセントで、トオルは言った。
ぼくは、手をこすりあわせた。夜には、そのくらい寒くなってきていたのだ。
「そんなことを聞いてるんじゃないよ。どこで何してたの?」
「南の島には行かなかったんだ」
そうか。一応、スポーツ紙なんかには、目を通していたのか。
トオルは失踪《しつそう》している間は、完全にクスリづけになっていたのだろう。もともと痩《や》せていたのが、一段とやつれて見える。
「中に入れてもらわない?」
ぼくは、ヘミの家を指していった。全部の明りが、一階も二階も、全部の部屋に明りが灯《とも》されているのが嬉しかった。
トオルは、うなずく。
†
「よし。トオルでいこう」
翌日、トオルが帰ってきた、とぼくがセージに告げたときのことだった。彼は、すぐにそう言った。ドラムを山辺君からトオルにもどす。ぼくは、もうトオルは使われないのではないかと心配していたのだけれど。
嬉しくなって、ぼくはクニさんに言いに行った。トオルが戻ってきた。それで、セージがドラムをたたかせてくれるって。
クニさんは、ぼくの報告を聞いて、ふんふん、という感じで何か考えているようだった。
「そうか。ついに現れたか。まあ、やっぱり解散なんだから、オリジナル・メンバーの方が盛り上がるわね」
と言った。
「それより、トオルが帰ってきたんだから解散を取り止めにするっていう手はないの」
前島さんが言った。
でも、冗談めかした口調だった。結局のところ、前島さんは、現在のぼくたちの状態を理解してくれたみたいだった。
リハーサルの時間に、さすがのトオルも遅刻はしなかった。ドラム・セットの前に座る。ポジションの確認。どことなくオズオズとした感じだ。
「もともとヘタクソだったんだ。あれよりヘタには、なりようがない」
クニさんは、ぼくに言った。
しかし、始めてみると、トオルのスティックはかなり危うかった。いつ息切れしてしまうかわからない。
セージとクニさんは、しばらく相談していた。その結果、バック・バンドとして山辺君がヘルプすることになった。基本的に同じパートを演奏しようというのだから、奇妙なツイン・ドラムのスタイルだ。
「グループ・サウンズがじいさんになって再結成してるんじゃあるまいし、情ないこったねえ」
クニさんは、それでも楽しそうに笑う。
†
そうして、ぼくたちNEXUSは終わった。
解散コンサートは、別にどうということはなかった。これまで数多くやってきたものと同じだった。アンコールでリフを弾いていると涙が止まらず、なんてことにはならなかった。
ぼくたちは楽屋に帰って来た。むしろ、さっぱりとした気分で。
お涙|頂戴《ちようだい》を期待しているのがミエミエの映画屋さんたちは、未練たらしくカメラを回していた。劇場で放映するドキュメンタリー映画用の決定的な絵がほしい。
しょうがないねえ、という感じでクニさんがシャンパンの栓を抜いた。
どこかに行ってたセージが呼ばれ、四人でグラスを持ち円陣を作る。
なんて上品な終わり方だろう。これまでのバック・ステージの過ごし方では考えられない。
乾杯。
ぼくは、トオルを肘《ひじ》でこづいた。
ライヴでのプレイにだいぶへばっていたトオルは、一気にグラスをあける。
「NEXUSよ、永遠に」
カメラに向かってシャンパンのグラスを差し出し、セージが言った。
心にもないセリフだ。彼の頭の中では、すでにとっくの昔にNEXUSは消滅しているだろうに。
「永遠に」
「さよなら」
「ありがとうNEXUS」
ぼくたちは、適当にセージに調子を合わせた。見事なチーム・ワークだった。解散するのが惜しいくらいに。
スタッフから拍手が起こり、ぼくたちはお辞儀した。あちこちに向かって。
それを合図にみんなが近くにやって来た。事務所のひとたちや、会場の運営に当たっていたひと。ローディのぼうやたち。
花束。
握手。
ぼくは山辺君の肩を抱いた。ありがとう。本当に感謝していた、彼には。
前島さんが泣いていた。彼女には、そういうところもあったのだ。それを見て、ぼくも初めて目のあたりが熱くなってきた。
何が起きていたのか、ぼくは気づかなかった。
誰かの悲鳴だったのだろうけど、それも、最初はよくわからなかった。
輪が崩れた。
ぽっかりとあいた空間にいたのは、セージだった。彼は、びっくりしたような顔をしていた。いっぱいの花束が、彼の手から落ちる。
セージは、腹を押さえた。振り返る。
セージの後ろに、両手でナイフを握りしめた男が立っていた。それが誰なのか、ぼくには、すぐにわかった。
ひどく震えながらナイフを持って立っていたのは、ヒロだった。
セージとぼくの目があった。
ぼくは、セージに駆け寄ろうとした。
すると、セージは、
「来るな、来るなあー」
と、叫んだ。
まるで、ステージでマイクに向かってシャウトするように。
38
「ぼくが押すよ」
と、ヘミに言った。
ヘミは、黙ってぼくに位置を譲ってくれた。
病院の中庭はきれいに整備されていた。芝生の間の小道を、ぼくはセージの車椅子を押して進む。
ベッドから離れて病院内の車椅子による散歩が許されるようになったのだ。
「ずいぶん良くなったみたいだね」
ぼくは、セージの頭に話しかけることになった。変な感じだった。
「ああ。明日にライヴやるって言ったって、大丈夫だぜ」
ヘミが、小さく笑う。本当に、セージの声には張りが戻ってきていた。あの、つややかなセージの声に。
病院は完全看護だったけれど、ヘミは長い時間セージに付き添っていた。
その理由を聞かれると、ヘミは、
「セージは寂しがりやだから」
と答えた。
そう。彼女は、前にもぼくにそう言った。セージは、寂しがりやだと。いつも攻撃的で強気なセージのことを、ヘミだけがそう呼んだ。
だから、ぼくもヘミが来られないときには、入院しているセージのそばにいるようにしていた。実際、NEXUSの解散したいま、ヘミよりぼくの方がずっと暇なのだ。
「今度ヒロに会ったら、俺は気にしてないって言っといてくれよ。本当に、気にしてない。喉《のど》も、肺もやられてないしね。歌うのに問題はないんだ」
セージは言う。
かなり内臓はダメージを受けたはずだ。全快したとしても、ステージを走り回るのには影響が出るかもしれないのに。
「あのとき、リンが来るのが、いちばん怖かったよ。おまえがナイフを取り押さえるところを考えた」
外に出られたからだろうか。セージは解散コンサートの日の事件について、これまでしなかった話を始めた。
ゆっくりと手を延ばし、ぼくの右手を握る。
「短い時間でも、そういうのは、瞬間的に気づくものなのかな。リンがナイフの刃を握るんじゃないかってね。いや、ギターが弾けなくならなくてよかった」
セージは、そんなことを言った。
†
ヒロが解散コンサートのバック・ステージにいたなんて、ぼくは思ってもみなかった。
トオルが失踪《しつそう》した噂が世間に広まると、ヒロは自分がNEXUSに戻れないかと、プロダクションにアピールしてきたという。
それは、同時にセージのところにもだった。そのときヒロは、元の担当のベースではなく、トオルの代わりにドラムをすると言った。
確かにヒロは、ドラムがたたけた。もともとトオルにドラムを教えたのはヒロだった。現在はともかく、アマチュア時代、トオルの代わりにヒロがたたいて練習したとき、その技術はトオルに比べて劣ることはなかった。
その提案にプロダクションは強い興味を示したという。ありそうな話だ。旧メンバーの復帰は格好の話題づくりになるだろうし、それ以前に事務所としてはNEXUSが解散しなくてすむ手なら何にでも乗ろうとしただろうから。
それを拒否したのが、セージだった。アウト・オヴ・ザ・クエスチョン。問題外だ、と言って。
ぼくが後になって(ぼくは、たいがい後になってだ)その話を聞いて思うのは、ヒロがなぜぼくに連絡を取ろうとしなかったかということだ。
バンド内の力の構造は熟知しているヒロだから、ぼくに言ってもしようがないと判断したのだろうか。それなら、それ自体は正しい。物事を決定するのは、常にセージなのだから。
それに、たとえヒロがぼくに復帰をはたらきかけたとしても、ぼくも喜んで賛成して、それをプッシュすることはなかったと思う。前にも言ったとおり、NEXUSはグループとしてやっていくこと自体が、限界に来ていた。
でも、ヒロがぼくに話してくれていたら、もっと別の形になっていたのではないだろうか。それが悲しいし、悔しい。ぼくは、事件が起きてから、そのことを何度も考えていた。
だって、NEXUSは、解散するという以外、何の構想もなかったのだ。これからどんな音楽を目指したいか、一緒にやれないかとか、そういった話がヒロとぼくとで出来たはずだ。
ぼくがそう言うと、クニさんもトオルも否定的だった。
「あのヒロって子は、NEXUSになりたかっただけだろう。日本一有名なNEXUSに。会社も辞めて、おかしくなってたっていうじゃないか。他のことは、きっと考えられない」
そう言いながら、クニさんは苦い顔をしていた。直接にはなんの責任もないはずだけれど、ヒロのパートを奪った形にクニさんはなっている。
トオルは黙って首を振るだけだった。おしゃべりな彼らしくない。自分の失踪が事件のきっかけになったことを、悔やんでいるみたいだった。
ともあれ、セージに復帰を拒否されたヒロは、彼のことを憎んだ。二度にわたって、自分はセージに捨てられたと感じたのだろうか。
バック・ステージにはいるのは、ヒロにとっては簡単だった。事務所のひとと面識があったし、だいたい彼はNEXUSの元メンバーなのだ。解散コンサートにかけつけるのは、自然なことに思われただろう。
セージを刺したヒロは、その場でSPに取り押さえられた。結果的に、あまり役に立ったとは言いがたいSPだった。
君も見たかもしれない。解散コンサートのドキュメンタリー映画は、このシーンから始まっていた。あざとい構成だ。ぼくは製作者たちに対して怒りを覚える。
†
ヒロが拘置所に送られてから、ぼくは面会に行った。
係官に付き添われて部屋にはいってきたヒロに何を話したらいいのか、ぼくは戸惑った。NEXUSのアマチュア時代にいちばん親しくしていて、そして、いまはセージを刺したヒロに。彼の方でも、あまり話すことはないみたいだった。
セージからの伝言がある二度目には、ぼくは迷ったすえにギターを持ち込んだ。拘置所の規定では想定していないことらしかった。大声を出してはいけない、という項目にはひっかかるけれど許してもらえた。
係の人がNEXUSのファンということで大目に見てもらったのだ。(帰りがけにその人は、今度来るときにはトオルのサインがもらえないかと言った。覚醒《かくせい》剤か何かでトオルが逮捕されるときには、是非、この拘置所に送り込んでほしい。)
そして、ヒロとぼくはギターに合わせて、昔の曲を歌った。NEXUSのアマチュア時代のナンバーを次々と。
拘置所の冷たいコンクリートの壁に、NEXUSの曲が反響した。面会の時間が終わるまで、ぼくたちは歌い続けた。
本書は二〇〇〇年六月にマガジンハウスより刊行された単行本を文庫化したものです。
角川文庫『ロッカーズ』平成16年6月25日初版発行