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セカンド・ショット
川島 誠
目 次
サドゥン・デス
田舎生活《カントリー・ライフ》
電話がなっている
今朝、ぼくは新聞を読んだ
セカンド・ショット
悲しみの池、歓びの波
ぼく、歯医者になんかならないよ
セビージャ
消える。
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サドゥン・デス
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やっぱりさ、時々、考えたりはしちゃうのよ。
今朝、歯をみがいてるときがそうだった。
あと、NHKのニュース見てるときなんかね。全然関係ない話、お盆の空の便の予約状況は、とかアナウンサーがしゃべってジェット機が離陸するところが映ってんのに、ふっと思い出したりもする。
気を抜いてるときが、やばいのかな。
ま、だからって、俺はさ、浅川《あさかわ》みたいにいちいち後悔したりはしない。
ほら、あの場面で自分がもっと早く戻っていたなら、とかいう、その手のやつね。
くよくよして、どうなるっていうのよ。
まして、ああ、ぼくが悪かったんだ、すべてキーパーの責任だ、みんなにあやまらなきゃいけない、なんて広田《ひろた》が言うのだけはやめにしてほしいね。
そうだよ。そのとおり。お前のせいだぜ、県大会に行けなくなったのは。とか言ってやりたくなるじゃないの。こいつって、本当のところ、キーパー向きの性格と違う。
試合は、完全にうちが押してた。前半で2―0。
もう、頭の中は、次の県大会の組合わせの抽選。すでにね、その段階で。スポーツ・ドリンク飲みながら、どこと当たるのが一番うちにとってやりやすいか、なんて話してた。
だから、あきらかに、集中力に欠けていたんだろうね。
ハーフタイムの直後だった。
MFの藤田《ふじた》が、何気なく、軽く出したパスがカットされた。
で、ちょんちょんってドリブルされて、結構なロング・シュート。そんな、根性あるっていうか、山っ気の多いやつがいるチームだったのね。
一瞬のことだった。
あれが、向こうがそれまでみたいにボール回してくれば、クリアー出来てたはず。でも、後半がうちのボールで始まって、その笛が鳴ってから数秒後だったのよ。
広田なんて、まだ味方の攻撃が続いてるって信じてて、ペナルティエリアん中で弁当食ってたんじゃない? 手袋はずしてさ。
それでも、1点とられたって、そんなのは出会い頭だって感じよ。みんな、まだ。ピリッとはならなかったね。
だって、これはやられたって気がする、圧力かけられて攻め込まれたあげくのダメージのあるようなシュートじゃなかったもの。
今になって考えれば、初めのこっちの得点(っていうのは、俺がいれたんだぜ)が、いけなかったんだろうなあ。
なんか、すっごく簡単っていうか、セットプレーからの、うちのパターン通りだった。だから、いつだって点が取れそうな気がしてた。
そのあと、後半もうちが攻め続けて、たくさんシュート打ったのよ。半分ぐらいは俺。でも、もうひとつ決まらない。
あっちのキーパーは、まあ、玉際に強いやつだったね。
こういうときって、わかると思うけど、どっちかっていうと一・二年相手に紅白戦してるような感じになっちゃうじゃない。
大きくパッカーンて蹴《け》っちゃって、わりい、わりい、とかあやまったり。雑になる。
で、2―1のまま時間がたって、まあ、そろそろ、これで終わりかなって雰囲気。でも、次の試合のために、積極的にもう1点取りにいこうぜ、みたいな。
それが終了間際に大きく蹴り返されちゃった。縦パスのみ。
攻めるのに慣れてると、戻りが遅くなるもんなのよ。ディフェンスの形が作れてない。左のサイド・バックの吉井《よしい》なんて、俺の横で振り返ってながめてたもんね。
浅川のすべての反省の元はここ。
ま、キャプテンだからね、やつは。全体に責任がある。俺みたいに、ただ点取れば仕事は終わりっていうのとは違う。
そして、ポンと合わせられて、中学じゃ延長なんてないからPK。
ほら、PKって、いくら練習したって(練習はやってたぜ、俺たち、本当)、結局は、ある程度まで運じゃないの。たまたま、相手のキーパーがヤマカンで跳んだところにボールがいくなんてことは、よくある。
で、負けてしまった。
悔しいより、あきれてた。
みんなでグラウンドに突っ立ってた。
信じられねえよ。
ともかく、県の優勝候補にあげられるくらい評価の高かった俺たちの中学のサッカー部は、なんと地区予選の決勝で敗退しました。
それで、すぐに夏休みになってしまった。
こっちがね、案外に大問題。まいったね。
することがないの。
本当だったら県大会に備えて猛練習してるはずの時期じゃない。それが、ぽっかり空白。
なんなのよ、こういうのって?
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ああ、夏なんだなあ、って思ってた。
これって、もちろん、しみじみして嬉《うれ》しいんじゃないのよ、全然。
暑いの、なんか、グワッ、と。
そりゃ、サッカーの練習は、暑いに決まってる。三十分もしたら、汗でシャツがしぼれる。
でもね、絶対、家でボーッとしてたり、それとか、歩いてるときね。近所のちっちゃな本屋で立ち読みして、その帰りの三時ごろ、なんて方が暑い。
そんなときは、何ですることがないのかって考えだしたらやばいんで、電話したりした。サッカー部のやつらのところ。
俺たちってさ、そんなに、なかよくなかったのよ、もともと。よく、怒鳴りあってたぜ。
おまえがパスするタイミングが間抜けなんだ。ちゃんと俺の動きに合わせろ。そうじゃない。ゲーム・メイキングがわかってないのはおまえだ。流れってもんがあるだろうが。
吉井と藤田なんて、知らないやつが見たら、試合中に殴り合い始めるんじゃないかって思うよ。本気で言い合ってる。俺たちは慣れてるから、ほっとくけどね。
それが、練習なくなっちゃったら、お互いにサッカー部以外に他に友だちっていないのよ。妙な話。
で、ディフェンダーの木村《きむら》の家行って、ゲームしたり。夜だったらローソンの前に集合。チャリで、ひとりひとり、だんだん増えてくるんだけど、別に何してるってわけじゃない。
そりゃあさ、夏だからプール行ったりもした。浅川と藤田と広田と俺の四人。
そうそう、ちょっと、きれいなおねえさんがいたのよ。俺は、きれいっていうよりケバイって意見だったんだけど。
市民プールなのに、派手な水着。
それで、藤田の肩に広田がつかまって泳いで、後ろから近づいてった。俺と浅川は、少し離れたところで泳いでた。
すれちがうときに、広田が手伸ばして水の中でお尻《しり》にさわったんだって。
「何すんのよ」
って、殴られたのは、前にいた藤田。
プールサイドに上がったら、ちょっと血が流れてた。すごい爪してたらしい。
「惜しいな。あれなら、水着ん中に手入れられたかもしれなかったな」
って、広田ははしゃいでるんだけど、こいつ、本当にキーパー向きの性格と違う。
ゴールキーパーっていうのは、最後の砦《とりで》なんだから、落着きが大切。みんなからそれだけの信頼が得られなくっちゃ。
俺ね、なんで、もっと早く(地区予選の前、少なくとも決勝の前に)気づいとかなかったんだろう、って思って、そしたら、浅川と目があっちゃった。
絶対、こいつも同じこと考えてたね。だって、悲しそうな目だったもん。
それで、夕方になっても、プールでゴロゴロ。ケバイおねえちゃんはとっくに帰って、あと十五分でここも出てかなきゃならない。
閉館の予告の放送がさびしいの。俺たちの他には、ガキが走り回ってるだけ。
何でこいつら、こんなに元気なんだろって思って、ずいぶん自分たちが歳とった気がした。まだ挫折《ざせつ》を知らないのよね、君たちは。
俺たちは黙りがちだった。さすがの広田も。
藤田は売れ残りで半額になったヤキソバをまずそうに食ってて、それで時々|頬《ほお》をおさえてた。ミミズ腫《ば》れになってる。
本当にしたいことって、そうはないのよね。受験勉強なんて、全然。もともと県大会が終わってからってことになってたし。
そしたら、藤田がさ、
「ねえ、バイトしない?」
ヤキソバの割り箸《ばし》振り回しながら言うの。
親戚《しんせき》が町工場してて、アルバイトができるんだって。
「する、する」
わりとすぐに、のったね。みんな。
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で、今日が、その初出勤なの。気分がいいね。何か面白い気がするじゃないの。新しいことって。
久し振りに、早起きだし。
窓開けたら、気持ちいい、朝って。空気が新鮮。
伸びをして、今日、一日、がんばるぞって、ほとんどラジオ体操する早起きのおっさんね。
そう、今日から、俺は勤労少年。
で、前に並んで、紹介された。
バイトが初めてはいるときのしきたり? 名前呼ばれて、頭下げるだけなんだけど、なんなのよ、この工場長って。
結構、歳とってて、それはいいんだけど、俺たちの名前、わからないまま紹介始めるのよ。
「えー、いちばん右が」
って、工場のひとたちに向かって言ってから、振り返って、
「なんて名前だ?」
耳もとでささやく。
「藤田です」
「えー、みなさん。藤田くんです。よろしく」
藤田がお辞儀。
「えー、次は」
って言って、で、
「なんて名前だ?」
「浅川です」
「彼は浅川くんです。よろしく御指導のほどを」
「そして、その隣が、えー」
あーっ、じれったい。
四人しかいないんだからさあ、覚えとくか、それが出来ないんなら紙に書いとくぐらいしてよ。
他のね、働いてるひとたちなんて、全然聞いてない感じ。天井見たり、手ブラブラさせてたり。まあ、工場長がいつもこんなだったら、朝礼の時間はうんざりだわね。
で、そう思ったから、俺は、みんなのためにって考えた。
さあ、俺の番。
「えー、最後がー」
「坂本《さかもと》です。よろしくお願いします」
そう叫んで頭下げたのよ。
それで顔を上げたら、工場長ったら俺のことにらんでるの。
「君ねえ、元気がいいのはかまわんけど、ひとの話はちゃんと聞きなさいよ。説明聞いてなくて、工場内で事故にあって、ケガしたって知らないよ」
目つけられちゃったみたいね。最初から。
そんなで俺が実際にすることになったのは、ボール盤。どんな機械かわかる?
簡単に言っちゃえば、穴開け機なのかな。手でレバーを下げると、ドリルが降りてきて、下にあるものに穴を開ける。
よっぽど、どんくさくなきゃ、ケガなんてしないぜ。
仕事の手順は、まず、ピカピカした金属の型枠にアルミの部品をはめる。それで型枠ごと左手で、台の右上の隅に押し付けてセット。
右手でレバーを下げるとドリルが四本回転しながら降りてきて、部品にギュイーンって感じで穴を開け出す。このときも、ほとんど力はいらない。
ヒュウンって音が変わったら穴開け終了。レバーを戻す。
戻すったって、自然に手を放せばドリルは上がってく。そしたら型枠から穴の開いた部品を取り出して、右の足元にある箱に入れる。
で、左の足元の箱から新しくまたアルミの部品を拾って、型枠にはめる。
パコってはめて、ガンって押し当てて、あとは、ギュイィ――――ンで、ヒュウーン。
パコ、ガン、ギュイィ――――ンで、ヒュウン。
めっちゃ単純なんだけど、結構おもしろい。
俺、熱中してたのよ。
そしたら、隣でおんなじことしてるオバチャンが、
「あんた、そんなにがんばんなくていいよ」
って言ってくれた。
ギュイィ――――ンっていう間に、叫ぶようにして。
やさしいじゃないの。世の中には、いいひとがいるもんなのねえ。
「あんたたちは、私らの半分できればいいのよ」
ガン、ギュイィ――――ン。ヒュウン。
「××さんなんだから」
「え?」
パコ、ガン、ギュイィ――――ン。
「いま、なんて言ったんですか?」
ヒュウン。
でも、オバチャンの方が、ギュイィ――――ン。
俺、自分の手は止めて、隣の機械が静かになるのを待った。
「××さん、って言ったの。あんたらのおかげで会社が得して、回り回って、ちょっとしか回らないだろうけど、あたしらだって助かるんだから」
なんのことか、わかりゃしねえ。
「はあ、そうですか」
って、適当に返事して仕事した。
パコ、ガン、ギュイィ――――ン、ヒュウン。パコ、ガン、ギュイィ――――ン、ヒュウン。
これね、自動車の部品なんだって。どこのか知らないけど。こういうのって、もっと自動的に機械が作ってるんだって思ってた。
小学校の映画で見た工場なんて、もろオートメーションで、ひとは計器盤の前で見張ってるだけだった。
俺がいいかげんに型を押し当てて、穴の位置がズレてて、それで車が高速道路で突然おかしくなったりしてね。
うーん。
パコ、ガン、ギュイィ――――ン、ヒュウン。
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浅川と藤田は、バリ取りの仕事をしていた。
昼休みに情報交換ね。工場の門の前のパン屋でジュースとかサンドイッチとか買ってきて、中庭で食った。
結構重いヤスリを回すようにして鋳物のバリを取るのは、難しいんだって。
教えてくれてるオバチャンは、異様にうまい。それに関して、浅川と藤田のふたりのMFの意見は一致。
そうなの。この工場って、オバチャンばっかりなのよ。今日見た感じでは、男のひとは、例の工場長を入れても五、六人ってとこかな。
それも、みんな歳くってて、若くたって俺たちの親父に近い感じ。まあ、まだ午前中働いただけだけど、話しかける気にはならないわね。
あ、事務所の方は別棟になってて、行ってないから知らない。社長やってる藤田のおじさんには、朝、中庭で挨拶《あいさつ》しただけ。きっと、ずっと、そっちにいるんだろうね。
で、広田がやってたのは、ずいぶん違う仕事。
ひとりだけ工場の二階。細かい部品をはめてスイッチ押すんだって。電子機器だっていうんだけど、広田の話じゃ全然わかんねえや。
「いや、緑の細ーいやつがあってね、それを赤いやつに差し込んでから、溝にうまーくあわせて置いて、それでスイッチ押すのよ。それで赤いのと緑のとが、ぴっちりしたら出来上り」
みんながイメージがわかないっていうんで、広田が一生懸命説明してたら、女が歩いてきたの。やぼったい紺の事務服なんだけど、スタイルがめっちゃいい。
メロンパンと大盛りのUFOヤキソバ食ってた藤田が、息をのんで箸《はし》をくわえた。
その様子で、初めて俺もわかった。
例のケバイねえちゃんじゃないの。あのプールにいた。
俺、歩いてる女の手を見ちゃった。長い爪。まっかなマニキュア。思わず頬をおさえたくなった。
藤田は痛かったんだろうなあ。
黙ってる俺たちの前を女は歩いていった。
よかった。気づかれてない。
女は通り過ぎたあと、急に振り返り、一番近くの俺の顔をじっと見て言った。
「あんた、プールであたしのこと痴漢した子でしょ?」
ごっ、誤解だぜ、それって。
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五時まで働いたら、結構つかれた。
隣のオバチャンは、相変わらず親切でねえ。サボり方まで教えてくれた。穴開けに飽きていやになってきたら、そうじ始めればいいんだって。
奥のロッカーのとこ行ってホウキ取ってきて、ドリルでくりぬかれた金属の屑《くず》を掃き集める。
「そうじしてる分には、工場長は文句言えないよ。いつも口うるさく言ってるから、労働環境良くしろって」
ギュイィ――――ン。
「え?」
パコ、ガン。
「あ、あんたたちには」
ギュイィ――――ン。ヒュウン。
「あんたたちには、難しい言葉だったね。いいのよ、とにかく、そうじやったら」
「はあ」
でも、そんなにそうじはしないで、俺、やってた。正直いって、なかなか面白かったし。特に、ドリルが穴を開け終わって、ヒュウンってなるときの右手のレバーの感触ね。
終業のサイレン鳴って、まあ、最後の一個やっとこうかって思って、パコ、ガン、したのよ。
そしたら、オバチャン、
「あんた、もう終りだよ。残業すんの」
さっさと立ち上がってる。
でも、セットした部品をわざわざはずすのもって思ったんで、ギュイィ――――ン、ヒュウン、した。
出来上りを放り込んで、横見たら、オバチャンはもういなかった。なんか、意外にすばやいのねえ。
じゃあ、俺も帰ろうか、って思ったら、
「君、君、おいっ」
って、工場長じゃないの。
「最後に辺りのそうじをきちんとしなさい。そうすれば明日も気持ちよく働けるんじゃないかね。それがケガの防止につながる。ほら、ほうきを取って来る」
それで俺の掃き方まで、文句つけるの。そんなに強くしたら、かえって飛び散る、とか。だったら、隣のオバチャンのとこは、って思ってのぞいたら、床がとってもきれい。
うーん。五時になる前から準備してたのね。
俺が終わったときには、十五分ちかくオーバー。さすがにいやになって外に出た。
そしたら、みんないないのよ。俺のこと置いて帰っちゃうなんて、ひでえ薄情なやつらだって思った。
だって、バイトの初日なんだぜ、いろいろ話したいことあるじゃない。
で、チャリのところかもしれないって思いなおして行ってみたら、やっぱ、いない。でもね、あいつらのチャリもちゃんと並んでるのよ。
なんか、全然知らないところで、ひとり。変なの。
夕方だけど、まだ明るくて、俺、しばらくしゃがんで待ってた。一日冷房の効いた工場の中にいたせいか、風が気持ちいいの。
そしたら、藤田が来た。
「おじさんが、俺たちに飯食ってけって。浅川と広田は、もう行ってる」
よくわかんない展開だけど、俺にしたってことわる理由はあるはずがない。
早く家に帰りたいなんて中学生がいたら、変態よね。
藤田についてくと、おじさんの家ってのは、工場の敷地内にあった。でっかいの。
俺、オバチャンと穴開けしてて、よくわかんなかったけど、結構もうかってんのねえ、この会社。
浅川と広田は、応接間のソファにすわってた。ちょっと、緊張してる。
まあ、そりゃ、藤田と違って、俺たちにとっては、今朝初めて会ったひと。それに、一応、社長だし。
けど、ニコニコして感じがいいの。
俺にも席をすすめてくれて、しかも、自分でアイスコーヒーを取ってきてくれる。
それで、訊《き》かれるから、今日、働いた感想とか話した。
ダイカストの部品が何に使われるのかとか、ひとつひとつの値段とか、教えてくれる。こういうのって、いままで聞いたことないから、面白い。
「いやあ、男の子がうちにはいないんで、息子が急に四人出来たみたいで楽しいねえ」
なんて言ってくれる。
そしたら、広田が、
「わあ、ぼくも、二人目のお父さんが出来たみたいですよ」
って、なんかおかしくない?
社長もおかしいと思ったかどうかわからなかったけど、
「食事する前に、ひとことだけ言っておくことがあってね」
ちょっと雰囲気が変わった。
浅川が、背を伸ばしてすわりなおす。
こいつ、やっぱ、流れがわかる。キャプテンだけのことはあるねえ。
「みんなは、非常によく働いてくれた。バイトとしては、たいしたもんだ」
俺たち、ひとりひとりの顔を、ゆっくりと見る。
広田は、まだ「へ?」って感じで口をあけてる。
「だが学校やクラブ活動で許されても、企業では認められない行動があった。それは何だったと思う? ちょっと考えてごらん」
最後は笑顔なんだけど、目が笑ってない。
シーンとなって、みんな、すわってるだけ。試合のあとの反省会かよ。
俺は、何のことなのか、ちっとも思いつかない。だって、隣のオバチャンよか俺の方が働いたんじゃないかってくらいだぜえ。
社長は、動かない。仕事終わって、普通のだらしないおっさんのダブダブした服のくせに、威厳がある。
「あっ」
って、藤田が小さい声。
社長がニコッ。
「お昼のあとの、あれかな?」
「そう、言ってごらん」
で、なんだったかっていうと、広田がバリ取りの仕事をしたがったんだって。話を聞いてるうちに、やってみたくなった。
それで、藤田がね、仕事を代わってやった。自分は二階の電子部品の方にいって。誰にもことわらないで、勝手にふたりでした。
社長は広田と藤田のことを怒るんじゃなくて、それが会社にとって、どう困ることなのか、話してくれた。責任分担について。熟練とコストの関係。
藤田はずっと頭かいて聞いていた。広田の方は、下向いちゃって、しょんぼり。目パチパチしてんの。
でもさ、おまえたちね、社長に言われなくたって、そんなこと悪いに決まってるでしょうが。人間には、持ち場ってものがある。
キーパーとミッド・フィルダーが交替するなんてねえ。
[#5字下げ]6
慣れたぜ、ボール盤には。
例の、パコ、ガン、ギュイィ――――ン、ヒュウンってやつ。
それがね、リズムが出てくるの。やってるうちに。
サッカーでも仕事でも(きっと人生も)、やっぱ、リズムよ。
三日もしてると、もう、この会社のことは、全部わかったって感じよね。工場長が俺のこと、ジロジロ見に来てもだいじょうぶ。ヘタは打たない。
俺、学校よりか工場に向いてるのかな。
「あんた××さんじゃなかったんだってねえ」
ギュイィ――――ン。
「え? 何ですか」
パコ、ガン。
「税金さん。てっきり、そうだと思ってたのよ」
ギュイィ――――ン、ヒュウン。
「え?」
で、オバチャンも俺も手を止めた。
「あのねえ、ちょっとココの弱い子っているじゃない」
オバチャンは、軍手の指先で自分の頭指す。
ゲッ、大胆。
俺たち日本の中学生は、ちゃんと勉強してるのよ、オバチャン。そういう言い方は差別です。言われる人の身になって考えましょう。
「その子たちのこと工場で雇うの。ちょっとの間だけね」
で、そうすると、障害者の福祉がどうのこうので、会社にかかる税金が安くなるんだって。どっかから奨励金も出る。それで、オバチャンたちは、そいつらを「税金さん」って呼んでる。
へー。
知らないことって、まだまだあるのねえ。
パコ、ガン。
「役所に書類が通ったら、お払い箱。社長はね、そういうとこ、抜け目ないのよ。まあ、あの子らにしたら、少しでも働ければ嬉《うれ》しいらしいんだけど、やめる日はかわいそうでねえ」
うーん、なんか、ひでえ話だ。
だってさ、ふつうは、練習してうまくなったらスタメン。それでも下手くそだったらサブ。まあ、俺ぐらいになると、才能だけでやってるけど、もともとは努力次第じゃないの。
でも、「税金さん」たちの場合は、自分と関係のないところで雇われたりクビになったりするんだからねえ。
それに、このボール盤って、やってると、だんだん面白くなる。俺、いま、この仕事、取り上げられたくない。
ギュイィ――――ン、ヒュウン。
「あんたさあ」
パコ、ガン。
「え?」
「去年いた税金さんに、雰囲気そっくりだから」
ギュイィ―――――――――――ン。
昼休み。
浅川がボール持ってきたんで、リフティング。
「今日さ、陽子《ようこ》ちゃんに会えないかな。ふっふっ」
広田は、こういうときも、うるさい。ひとりでしゃべってる。
バイトの初めの日に、社長の家で、夕メシごちそうになったでしょ。そしたら、藤田のいとこが一緒だったの。社長の娘なんだから、当たり前よねえ。
「陽子はひとりっ子で、お兄さんが欲しかったんだから、なってもらえるといいね」
って社長が言った。
広田は、
「なるなる」
って感じで全身でうなずいてるんだけど、陽子ちゃんっていうのは、ニコリともしない。
愛想の悪い中二のガキじゃないの。
そりゃあ、まあ、ふつうだったらいい方の部類にははいる。でも、すましてて、ほとんど口きかないでメシ食って、すぐに出てった。
「さっき、見ちゃった。陽子ちゃんのパンツ干してあるの」
広田が、ヒールで俺にパスしながら言った。こいつ、本当はヘタなプレーヤーじゃないんだけど。
それで、社長の家の方、背伸びして見てる。
「あれは、藤田のオバサンのやつじゃないかなあ。大きさからいって」
浅川さあ、よそうぜえ、そんなレベルの議論。
午後にギュイィ――――ンしてたら、竹中《たけなか》さんに呼ばれた。十一時にラジオ体操するとき、前に立ってやってるひと。
ボール盤は休んで、荷物運ぶの手伝ってほしいって。
台車に段ボールの箱を載せて倉庫までもってく。崩れないように積まないとね。途中で段差があるから、結構むずかしいのよ。
五往復した。
ギラギラ陽が照ってるんだけど、外は気持ちいいね、やっぱ。
「ありがと。助かった。これで、おしまい。悪いけど運び終わったら、台車、事務所に返しといてよ」
竹中さんは、軽トラの運転席に乗り込んで、ドアをバシャッと閉めた。
俺、倉庫の奥まで台車を押してった。最後の段ボールの箱を下ろす。で、よくわかんなかったけど、入口の扉は閉めておいた。なんか、錆《さ》びてて重い。
空になった台車をガラガラして、事務所にいったのよ。
「すいません、これ、どこ置いたらいいですか」
って言って顔上げたら、事務所の中には、ひとりしかいなかった。
俺、何も考えないで、社長がいるんだって思ってた。
例のケバイねえちゃん。俺のこと見て、で、返事してくれないの。
「あの、この台車なんですけど」
取っ手のとこに両手で体重かけながら言った。前っかわが浮く。
事務所の中はエアコンが効いてて、クラッとした。
「いま、いくつなの?」
俺、何なんだって思ったぜ。
ねえちゃんは、ボールペン持ってて、机に向かってたんだけど、からだごと俺の方を向いた。イスを回転させて。
「十五ですけど」
「へー」
で、ニヤニヤしてるの。
ゆっくりと脚を組んで、俺の顔をじっと見る。
「あんた、あたしのお尻《しり》さわるだけで満足なの?」
だから、それは、俺じゃねえよ。
ケバイねえちゃんは、上んなってる脚のほうのサンダルをブラブラさせた。爪先《つまさき》にひっかけて。
「女の子のことばっかり考えてるんでしょ」
俺、事務所の戸を開けて、外に出た。
ケラケラ笑う声が、うしろでしてた。
何なんだよ、この女。
そりゃあさ、中三にもなると、クラスに何人かいるじゃない、女と寝たってやつが。でもねえ、誰でもいいってわけじゃないでしょ。
理想が高い。俺って。
おかげで台車、放り出してきちゃったじゃないの。
ボール盤の前でケバイねえちゃんの脚のこと思い出してた。組んだ太腿《ふともも》の間とか、爪先の紅いマニキュアとか。
そしたら、
「はいっ、ボケッとしてない、ボケッと」
パン、パンって、手をたたかれた。
あら、工場長じゃないの。
久し振り。
[#5字下げ]7
月曜日。
工場の門がしまってた。
俺、チャリにまたがったまま。
中の様子は、よくわからない。誰もいないみたい。
しばらくして、浅川が来た。ふたりで敷地のまわりを一周した。
わかんない。
もどったら、門の前に藤田がいた。
俺が、
「おう」
って言っても、暗い顔。
「ヤバイらしいんだ」
「何が?」
「工場」
俺、何のことかわからなかった。
「それって、会社の経営のこと?」
浅川が訊《き》いた。
「昨日の真夜中ね、おばさんが陽子ちゃん連れて、うちに来たんだ」
うん?
「で、おばさんはひとりですぐに帰って。今日、工場が仕事するかどうかはわからないって言ってた」
藤田はマウンテンバイクの前輪を上げて、ぐるっと回った。
で、三人でボンヤリしてた。
もうすぐ始業の八時半になる。
そしたら、ひょこひょこね、来たひとがいたの。誰かって、あの俺の隣のギュイィーンのオバチャン。
「おはようございます」
って、俺、あいさつした。
でも、なんか、無視された。ふんふん、って感じでうなずいてる。
門の間から工場をのぞき込んで、
「やっぱり、ダメか。一応確かめに来たんだけどね」
って。
で、帰ろうとする。
「あのお」
って俺が言ったら、
「あんたたち、新しい仕事さがしたほうがいいよ。ここ、あきらめて。ま、今日は洗濯したかったの。いい天気でよかった、よかった」
全然平気そうなの。
オバチャン、強いのねえ。
それで、広田が来たんで、藤田の家に行くことになった。
「ああ、陽子ちゃん」
って、自転車の手はなして興奮してるの。こんなときでも広田は。
テーブルの上には、茶色の封筒が四通。
俺たちのバイト代なんだって。でも、手を伸ばす気になれなかった、みんな。
工場長が陽子ちゃんに頼んだらしい。おばさんのいないところでヒソヒソ。すまないけど、あの子たちに渡してくれないかって。
だったら、工場長のポケットマネーなのかな?
「もらっときゃいいじゃないの。働いた分、お金を手に入れるのは当然の権利でしょ」
あいかわらず冷たいやつ。この陽子って。
ストローでジュース吸って、
「気がつかなかったの? ミエミエだったじゃない」
シラッて言うの。
実はね、社長と、あの事務のケバイねえちゃんが、ふたりで逃げてるんだって。
でも、そんな、デキてるなんて、全然知らなかったぜえ。
俺、ねえちゃんの太腿思い出した。あれを、社長がさすってんの? やっぱ、想像できないなあ。
「ふつうだったら、かわいそうなのはママなんだけど、あのひとも性格がキツイから」
陽子ちゃんは、ストローをくるくるさせてる。
キツイのは、おまえだぜ。そんなこと言うかよ、中二のガキが。
それで藤田のおかあさん(っていうのは陽子ちゃんのおかあさんの妹ね)がはいってきて、その説明だと、いま藤田のおばさんと工場長が借金取りの相手とかしてるらしい。で、なんとか工場の再開まで持ち込むって手はず。
まあ、なんであれ、俺たちのバイトは終わった。たった四日で。
浅川と藤田と広田と俺。それに、陽子ちゃん。五人で、ボッてしてた。
することがなくなってしまった。
そしたら、広田が言った。
「ね、泳ぎにいこうよ。プール。陽子ちゃんの水着姿が見たーい。わくわくしちゃう」
で、そうなった。
変なの。
陽子ちゃんは藤田の妹の水着を借りた。試しに着てるあいだね、広田はのぞこうぜって、ずっと騒いでた。
それで、俺は、いま、チャリ乗ってるの。プールで待ち合わせ。めちゃくちゃ晴れてて、気持ちのいい夏休み。
工場の中も悪くなかったけどね。
たぶん、いつだって、やることはある。
きっと、何かは。
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田舎生活《カントリー・ライフ》
ぼくはボストン・バッグをあけて、その赤い円筒を静かに横たえた。衝撃が加えられないように厚手のタオルで包み込む、あくまで注意深く。なんて皮肉な話なんだろうね。火を消すための道具が、建物を粉みじんに吹きとばし、夜空を赤く焦がすのだから。
人間の生命・財産をおびやかす恐ろしい魔神をしずめるための供え物、人々が信頼の眼で見つめるところの赤い円筒、それをぼくはバッグに入れ、自転車の荷台に固定する。時限発火装置のスイッチはすでにオンになっている。
円筒の内部では、学校の理科実験室から盗み出された薬品が、同じく農家の物置から運び出された塩基性農薬と混じり合うのを待ちかねている。
彼らにとっては歓喜の一瞬だ。強塩基に溶けた薬品は瞬時に化合し、その体積を数万倍にするだろう。喜びの大音声《だいおんじよう》、感動の稲妻、大笑いの振動を伴って。
ペダルを踏むぼくの鼻腔《びこう》には想像されるイオウの酸化物のにおいが早くも充満している。一時間後には市役所の東半分はとびちり、残る半分も炎に包まれているはずだ。このぼくの手製の消火器爆弾によって。
「市役所」だって! 村役場の間違いじゃないのか! このまち[#「まち」に傍点]が合併をくりかえして面積だけは膨脹《ぼうちよう》し、市制を敷いていることがぼくには妙に腹立たしい。ここはただ交通の中継点としてのみ存在意義のあるところなのだ。本来独自の産業などなにもないのだ。
かつては飛鳥《あすか》の都と太平洋を結ぶ道として、塩が、魚がここを通って運びこまれ、政争に敗れた貴族たちがその道を逆にたどったこともあったろう。霊峰高野山《れいほうこうやさん》への登り口としてにぎわったこともあっただろう。だがいずれにせよ、ここは街道の宿場町、だれか通り過ぎる人々のためのサービスを提供するところなのだ。
そして、いま、その通り過ぎるだけのまち[#「まち」に傍点]にぼくの家族は定住しようとしている。父親は都会に比べたら格段に安い土地をすでに手に入れ、官舎から出ていこうとしている。
ぼくは東京で生まれた。小学校に入ったのは札幌でだった。下級の国家公務員の父は地方の出先機関を転々とした。それが出世の早道なのだとそのつど家族に弁解しながら。そんなことをいう必要はなかったのだ。ぼくも母も引越しが嬉《うれ》しかったのだから。
荷物がまとめられてがらんと広く、見なれない部屋で早起きする朝は素敵だった。数年ごとに、少しばかりの感傷を抱え新しい土地に旅立ってゆく自分たち家族を、ぼくは何とも身軽で自由だと感じていた。まるでジプシーのように。そうだ、実際にぼくらはジプシーの血を引いていたのかも知れない。少なくとも母は。
家具も荷物もすべてトラックに積み込んだあとの限りなく直方体に近い空間《スペース》で、母はいたずらっぽく笑うとまだ小学生のぼくの手をとり、くるりと回転させた。いま思い出すと、その時の母の、汗でうっすらと透き通ったTシャツの下には、何もつけられていなかったような気がするのだが、それは本当だろうか。からだにピッタリとフィットした薄手のシャツの乳首の感触までぼくは覚えているように思われるのだが。
しかし、引越しがそんな歓迎すべきものばかりでないことに初めて気づかされたのが、このまち[#「まち」に傍点]に来た日だったのだ。トラックは紀ノ川に沿った国道を上っていき、ぼくは机とタンスにはさまれて、荷台から川が右に左にと流れを変えるのを見ていた。両側の山の間隔がせばまり、押しつぶされそうな息苦しさを感じだしたとき、車は止まった。
そうして、ぼくの田舎生活《カントリー・ライフ》は始まった。いままでの父の転勤先はどこであれ大都市だったのだ。大きな都会はみな同じ臭気を持っていた。地下鉄のにおい、デパートの食品売場のにおい、駅の便所のにおい。ぼくは引越した翌日から、まるでその街《まち》で生まれた子どものように動き回ることができた。
ところが、このまち[#「まち」に傍点]ときたらどうだ。狭い谷あいに細く長くへばりつく田畑、老人と犬。これがすべてだ。若い人間は仕事を求め、刺激を求め、鉄道で二時間弱の県庁所在地の都市に出て行ってしまった。おそらくは人口も減り続けているのだろう。過疎のまち[#「まち」に傍点]なのだ。
老人たちはおそろしくゆっくりと国道を渡る。どんなに遠くに車が見えようと、それが自分の前を過ぎるのを待ち、やっと一歩を踏み出す。渡り始めたとなると決して左右に注意を払うことはない。前方を見つめ、一歩、一歩と地面を踏み固めるように移動する。
クラクションに耳を貸さないのは実際に聞こえないからなのだろうか。こんな老人たちをながめながら毎日を過ごし、腐っていかなければならないんだ! これが父の「出世」の結果なのだ。
昔は県北の中心地であった名残《なごり》として、このまち[#「まち」に傍点]の規模としては不相応に、簡易裁判所や職業安定所、地方法務局といった役所がたちならんでいる。父はそのひとつの長として収まったのだ。転勤生活の成果としての中央官庁のポストに帰り咲く夢は断たれ、県事務所の出張所長としてその官吏生活の残された時間を費やすのだ。
父は、これでも一国一城の主《あるじ》だからね、とつぶやく。自分にいい聞かせるふりをして、ぼくと母に聞かせているのだ。そして、今度はこのまち[#「まち」に傍点]に家を建て永住しようというのだ。
素晴しいところだね、一生住んでいたいね。中学校ときたら制服があるだけじゃたりなくて坊主刈りなんだ。校舎は木造の二階建て、日本陸軍の兵舎にぴったりだ。体育だって時間の半分は行進と点呼、あとの半分は器械体操なんだから軍事教練と変わらない。
ぼくは昼下がりの教室で、坊主頭に青鼻を垂らした田舎の中学生に囲まれて、タイム・トンネルをくぐり抜けたようなめまいを感じていた。悲しいことには、窓ガラスに映ったぼくも、彼らと同じ制服、同じ頭にされてしまっているのだ。こんなところにいたら自分までバカになってしまう。なんという緊張感のなさ! 弛緩《しかん》した日々よ!
少なくとも空気だけは都会よりもうまいだろうって? ぼくは車から排出される二酸化窒素を吸って育ってきたのだ。メッキ工場の刺激臭が、ぼくにとってはオゾンなのだ。
ぼくは自転車のペダルのひとこぎひとこぎに、このまち[#「まち」に傍点]への憎悪をこめる。荷台でその不気味な存在感を主張している消火器爆弾で、ぼくはこのまち[#「まち」に傍点]の息の根を止めてやるのだ。
ぼくはよろず屋の親父の赤ちゃけた顔を思い出す。駅から離れているぼくらの官舎のそばには、学校の前の、卵から乾物、野菜、魚、菓子、文房具まで置いているうすよごれた商店があるだけだった。
そこでぼくは少年サンデーを買うのを拒否された。中学生には「有害図書」なのだそうだ。それで、ぼくは東京より二日遅れの少年サンデーを求めて駅まで自転車に乗らねばならない。
かわいそうなのは母だ。このまち[#「まち」に傍点]の唯一の大規模(?)小売店の駅前のサティにもゼラチンがないというのだ。店員に問うと、けばけばしい合成着色料と人工甘味料入りのインスタント・ゼリーエースを出してきた。今年の夏のデザートはバリエーションがもうひとつになっちゃったわね、と母はさびしそうに笑う。
お菓子だけじゃないよ、このままだったら朝だってネスカフェとクリープになってしまう。せめて、月に一度は,一時間に一本のJRに二時間揺られて、県庁のある都市に行かなくちゃ。
ぼくは、若く美しい母が、こんなほこりだらけのまち[#「まち」に傍点]を歩くのが許せない。太陽に照らされ、近所の農民たちの好奇の眼にさらされ、からかわれて、耕耘機《こううんき》を避《さ》けながら農道をサティまで行くのだ。母の細身のカーフのパンプスのヒールが、あぜ道の泥にかしぐ。
母に似合うのは人工光線のきらめく地下街だ。そういう風に生まれた人なのだ。ぼくは母と一緒に買物に行くのが好きだった。雑踏の中に母をさがすたびにぼくは幸せな気分になれたのだった。どんなところでも、母はただひとりきわだって美しかったから。
そんな時、ぼくはかけよって母に抱きついた。小学校を卒業するころには、ぼくの背は母とかわらなくなっていたから、ちょっと困った顔をして、母はぼくの額をつついた。ぼくたちは姉弟のように腕を組んで、恋人たちのように肩を寄せあって、街を、本当のまち[#「まち」に傍点]を歩いていたのだ。
田舎の暮らしに疲れ果てた母は、自分のなかに閉じこもりだし、けだるくてしなやかな美しいけもの[#「けもの」に傍点]のようになってしまった。仕事にしか興味のない父はもともと話し相手にはならないし、初めて与えられた責任ある地位を楽しんでいて、そのような母の状態にさえ気づいていないことだろう。ぼくが学校に行っていて、髪をなぜていてあげられない間の母が心配だった。
そんなある日の夕暮れ時、母はソファー・ベッドに長く横になったまま、乱れたジョーゼットのワンピースを整えようともせずにいったのだ。原爆でも落ちて、こんなまちも、あなたもあたしも消えてしまったらいいのにね。
だからぼくは爆弾を作ったのだ。このまち[#「まち」に傍点]を徹底的に破壊し、ぼくらが狂気の土地から脱出し、生きながらえるために。
ぼくは自転車を暗闇に止める。規則的な心搏音《しんぱくおん》を鋭く刻む消火器は冷たく重い。ガードマンの巡回時間はあらかじめ調べてあったし、都会と違って深夜に出歩くものなどいなかった。すべて予定通り。
ぼくは軽くなった自転車を全速力でこいだ。十二段のミッション・ギアのついたスポーツ車は快調に夜を切り裂く。もう、すぐにも市役所は吹きとんでしまうだろう。ぼくらの住民票も土地の登記簿も微細な分子となって宇宙の虚空に吸い込まれてゆく。
ぼくは休みはしない。明日の夜は税務署と労働基準局を同時に爆破しよう。しまりのない顔をしたこのまち[#「まち」に傍点]の人間たちも少しはピリッとすることだろう。ぼくは、誰に雇われたわけでもなく、自らの意志でこのまち[#「まち」に傍点]を暗殺する、真夜中の狙撃兵《スナイパー》なのだ。
まち[#「まち」に傍点]じゅうの消火器が火を吹き出す。市役所がなくなり学校がなくなり警察がなくなり消防署が燃え上がる。こんなまち[#「まち」に傍点]が地上にあった痕跡《こんせき》までなくなるのだ。
夜風がぼくのからだを冷たくした。
裏門から雑草の生い茂った官舎全体の中庭へと自転車を踏み入れたとき、ぼくは自分の犯したあやまちに気がついた。
ぼくが殺したかったのは、このまち[#「まち」に傍点]ではなくて父だったのだ。
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電話がなっている
電話がなっている。君からだ。だけど、ぼくは、受話器をとることができない。いまのぼくには、君と話をする資格なんてない。机にうつぶせになって耳をふさいでいても、ベッドの中でふとんにくるまって小さくなっていても、電話のベルの音は、虫歯の痛みのようにぼくの神経に突き刺さってくる。
君は、もちろん、許してくれる。こうするのは、「人間」として当然なことだって、いつもと同じやさしい声だろう。ぼくには返すことばもない。ぼくは、勇気がなかったのだ。ぼくは、君を、そして、ぼく自身を裏切ったのだ。
三日間続く、激しいテストだった。中学三年の学年末の、高校進学を決める、それまでの十五年間の総決算となる試験だから、だれもが必死だった。テストの時間中に吐いてしまう子もいた。
ぼくは、白紙で答案をだすことができなかった。まちがった答えを書くこともできなかった。ぼくはふだんどおりの、いや、なみだで眼がかすんでいて、手もふるえていたから、マーク・シートをぬりつぶすスピードは落ちていて、これまでのどの模擬テストよりも低い得点にはなった。それでも、ぼくは、ギリギリのところで、判定A―4。偏差値62。
ぼくは、おぼえている、はじめて君と出会った日のことを。二人とも、まだ、おさなかった。ぼくらは、五歳で知りあった。母におしりをたたかれて送りこまれた幼稚園の庭先で、ぼくは、ぼうぜんとして立っていた。
ミルクのにおいのしみついたあたたかい毛布や、ぬいぐるみやらからひきはがされ、外の世界にほうりだされて、ぼくは、自分がどうしたらいいのか、わからなかったのだ。春の光はあたりにあふれ、四月の風は桜の花びらを舞わせていたのだろうけれど、それらは、ぼくのところには降りてきてくれなかった。
なによりもぼくをすくませたのは、自分と同年代の子どもたちの群れだった。五歳の、叫び、笑い、泣き、石を投げつけ、となりのものにつかみかかり、地面をほりかえし、毛虫をふみつぶし、池にはまる、同じ服を着た集団だった。
そのとき、君がぼくのそばに来てくれた。君は、ぼくのうしろに立ち、そっとぼくを抱きしめ、つつみこんでくれた。
ぼくが、こわいためではなくて、これ以上こわがらなくていいという安心のせいで泣きだすと、君は、ぼくの前にまわって、その胸――ぼくと同じ、まだふくらんでいない平らな胸で、ぼくを受けとめてくれた。君のま新しいスモックが、ぼくの鼻水でよごされるのをいやがらなかったのは、どうしてなんだろう。
電話がなっている。夕方から、ずっとなっているのだ。呼びだしのベルが何回続いてもとらないでいると、君は受話器を置き、十分ぐらいしてから、また、かけてくる。
ぼくの家族も、君からだって知ってるから、電話にでようとしないし、そのことは話題にしないようにしている。かかってくる時の、最初のリンという音に、母はコメカミをピクッとさせるけれど。
きょうは、たいへんなごちそうだった。おいしかった。ぼくの、A―4クラス入りのお祝い。A―4レベルの高校に行けば、よほどのことがないかぎり、A―4レベルの大学に進むことができる。超エリートにはなれないまでも、一般職地方公務員ぐらいは保証されている。ぼくの人生は決まった。
父につきあって、めずらしく母も酒を飲んだ。十五歳になるまでぼくを育てあげるのにどんなに苦労したか、などと二人でくりかえす。ぼくは、高校進学資格検定試験を終えたものの責任として、両親の前でほほえんでいた。君からの電話のベルを頭からしめだそうと努力しながら。
ぼくのA―4クラス合格を、いちばん喜んでくれているのは、君なのかもしれない。にが手な数学の特訓をしてくれ、くじけそうになるぼくを励まし続けて、受験勉強のペースをつくってくれたのが君なのだから。
おかげで、ぼくは、中学二年生の時にはB―2クラスも危ないと言われていたのに、3ランクも上にはいれたのだ。人からはうらやまれ、ふつうの人よりは少しばかり豊かな生活ができ、環境のよいところに住め、平和な家庭生活をいとなむことができる、そんな権利を手にしたのだ。「平和な家庭」――ぼくは、それを君と持ちたかったんだよ。だれでもない。この十年間をいっしょにすごしてきた君と。死ぬまで、ずっと。
なんで、君は、ぼくを選んでくれたんだろう。幼稚園でのはじめの日々は、単に、君のやさしさから発するものだとしても、それから、小学校の六年間、中学校の三年間と、君はぼくのそばにいてくれた。
ぼくは、目立つほうではなかった。勉強でも運動でも、特にすぐれたものはない、平凡な、その他大ぜいのうちのひとり。人を笑わせることもできなかった。家も、ごくふつうの家。金持でもなんでもない。女の子からみて、ぼくよりすてきな男は、いっぱいいたと思う。
それに対して、君は、いつも集まりの中心にいた。だれにも好かれていて、上級生からもよく手紙をもらっていたね。二人がアンバランスなことに、ぼくは、小学四年生になるまで気づかなかった。
それまでに、君は、一学期の学級委員さんをする子になっていた。ぼくは、やっと、三学期の美化委員。そういえば、九九の七の段を組で最初に覚えたのも、漢字書取大会のトップも、みんな君だった。発表会では、ぼくは、たて笛だったのに、君はピアノをひいていた。
雪の降る寒い日、昼下がりの体育館で、クラスでただひとり倒立前転に成功した君を見ていて、ぼくは、突然、それら全部のことに思いあたったのだった。おどろいたぼくは、マットの順番を待つ列のうしろに回っていた君のところにかけよって、なぜ、ぼくとつきあってくれているのか、と、たずねた。ぼくの口からでる息は白かった。
君は、くるりとふりむくと、ぼくにほほえんだ。雪の積もった校庭は、ようやく顔を出した太陽の光線を反射し、体育館の窓は、とてつもなく大きく明るい蛍光灯のようになっていた。その光源を背にして、君の長い髪は波打ち、その動きを髪の毛自身が楽しんでいるかのように、いつまでも踊り続けていた。君は、体操服の両腕をぼくのほうにのばすと、ぼくの肩を強くつかみ、ひきよせ、ぼくにキスした。
君は、顔を少し斜めにしていた。君の眼はまっすぐにぼくの眼を見ていたけれど、そのひとみの中にぼくの顔が映っているのがわかったとき、ぼくは、たえられなくなって眼を閉じてしまった。
ぼくのからだの神経は、くちびると、君の手がおかれている両肩に集まった。君は、このころ、まだ、ぼくより頭ひとつ分、背が高かった。ぼくは、伸び上がるようになっていた。クラスのみんなが、先生までが、だまってぼくたちのことを見ていた。
君は、それ以外の、ことばでの返事は何もくれなかったけれど、長いキスが、くちびるの感触が、ぼくに自信をあたえてくれた。人が人を好きになるのに、理由なんてものはいらないんだ、とにかく、君は、ぼくを選んでくれた、だから、ぼくは、一生のあいだ、君を愛し続けよう。その時、ぼくは、そんなふうに考えたんだと思う。
あとで、夜になってベッドにはいってから、ぼくは、昼間に君がキスしてくれたぼくのくちびるに、そっと両手をもっていった。冬の冷たい風に、荒れて、ささくれだっていたのが恥ずかしかった。君のくちびるに、それがわかってしまったんじゃないかと思って。
電話がなっている。君からだ。もう、いい。おねがいだから、かけるのをやめてくれないか。ぼくは、でられない。ベッドで赤ん坊のように丸くなって、自分で自分のからだを抱きしめているのが、ぼくのような憶病者にはふさわしい。
ぼくが、検定試験の答案を白紙でだすって言ったら、君は、ひどくおこった。泣いておこった。君が泣くのを、ぼくは、はじめて見た。
試験の二か月前に交通事故にあい、その傷が化膿《かのう》して左足を切断することになり、Eクラス入りが決まってしまったときでも、君は、泣きはしなかった。そのままだったら、A―1かA―2に合格していたはずだったのに。白い病院の白い病室の白いふとんに横になっていた君は、なんでもない、ちょっとカゼをひいて熱があるだけなのよっていう顔を、ぼくにしてみせた。
君がいないのだったら、ぼくは、A―1もA―2もA―3もA―4もA―5もB―1もB―2も、どこにもはいりたくない。高校なんか行かない。ぼくは、生きていたくなんかない。君が手術から回復するのを待って、ぼくは、君にそう言った。だから、テストを白紙でだすんだ。そして、君と同じ、「高校進学不可」のEクラスにはいる。それが、いままで、君がぼくにしてきてくれたことへのお返しなのだ。
だけど、ぼくは、できなかった。君が絶対にやめてほしいってとめたからじゃない。君の両親や、ぼくの両親に説得されたからでもない。ぼくが――自分で――エリートになりたかったからなんだ。楽な人生を歩みたかったからなんだ。
君は、きょうの一日、テレビの前にすわってたのだろう。全国いっせいの、高校進学資格検定試験の合格発表日。一年で一番の大騒ぎの日。君は、試験を受けることさえできなかったのに。
テレビは映しだす。合格発表の掲示板、その前で、喜び、とびはねる中学生たち。目がしらをハンカチでおさえる母親。バンザイの声、胴上げ、もちろん、期待していたランクに達しないで、うなだれている子もいる。親子で手を取りあって泣いているのは、Eクラスにはいってしまったのだろうか。ナイル川の増水のように、毎年、必ずくりかえされるセレモニー。
そのテレビ局のエリアの中学生の氏名が、ランクごとにテロップとなって、画面の下段を流れる。A―1クラス合格者へのインタビュー。高級官僚や企業の最上層を約束されたものの明るい笑顔。十五歳の超エリートたち。かれらの受け答えには、まったくそつ[#「そつ」に傍点]がない。
君は、テレビの音声を消してしまって、テロップだけを眼で追っていた。そして、A―4クラスにぼくの名前があったときには、手をたたいて、大喜びしてくれたんだろう。そうして、君は、ぼくに電話をかけてきてくれている。お祝いと――永遠のサヨナラをいうための電話を。
中学に入学した年の夏は、うっとうしい、むし暑い、いやな夏だった。それまでのぼくがすごしてきた時間からは考えられないような、苦しい経験をした夏だった。いまの悲しみとはくらべようもないけれど、その時にしてみれば、たえていくことは、ほとんど不可能に思えた。
ぼくが、昇降口のところに立っていても、君は、姿を現さなかった。中学一年の時は、組が違っていたから、どちらか、早く終わったほうが待っていた。たいていは、ぼくだったような気がする。
ところが、学校からいっしょに帰ることは、二人の習慣とはなっていたけれど、あらためて考えてみれば、それは約束したことではなかった。ぼくは、それに気づいて、ぽかんと口をあける思いだった。胸の底のほうで、なんだか悪い予感がしてきて、そして、それは、ひとめ見ただけで確信に近いものになった。君は、教師用の玄関口から、音楽の教師と肩をならべて出て行ったのだった。
入学してすぐに気にくわないやつだと思い、その日からは、この世で最も憎むべき対象となった音楽教師。留学経験を鼻にかけ、シャツのボタンをひとつ多めにはずしてたいしたことのない胸毛を見せようとし、指輪を三つもして甘ったるい顔をぶらさげてる、よほどバカな女の子でなければひっかからないような男。
ぼくは、ぼくのからだには大きすぎた制服の白いワイシャツで、教科書やノートをつめこんだ太い学生カバンを下げて、君と音楽教師の後ろ姿を見送っていた。君はふりかえろうともしなかった。
空を行きかう原子力船の冷却装置の音が、よけいに暑さを感じさせる日だった。ぼくは、君のブラウスの下を流れているだろう甘い汗のかおりを吸いこもうとしたけれど、鼻の奥に残ったのは、音楽教師のわきが[#「わきが」に傍点]のツンとくるいやなにおいだった。
その夜、遅くまで、君は家に帰らなかった。君は、自分から、ぼくに電話してきた。きょう、待っててくれたのかしら。ごめんなさい。あした、話すわ、全部。いま、帰ってきたとこで、とても疲れてるのよ。
実際、君は、疲れているどころではなかった。いまにも眠りそうで、しかも、運動会ではしゃいだ次の日みたいな、かすれた声をしていた。
ぼくは、眠られぬ、長い夜をすごした。からだの細胞のひとつひとつがきしんでいて、いまにもぼくが分解してしまいそうな気がした。
翌日、君は、いつもの君にもどっていた。むしろ、晴れやかに、楽しそうにさえしていた。学校の帰り、君は、ぼくを君の部屋に連れていった。君は、問いつめようとするぼくをほうっておいて、遠足なんかで使うビニールのシートをベッドに敷き、ひとりで服を脱ぎはじめた。
のどがカラカラになってしまい、たまらなくなって君を押し倒そうとしたぼくをとどめて、君は言った。あたしは、早く、一度に大人になりたかったの。そうなる準備があたしのからだにできたのなら、すべてを一度にすませて、早く自由になりたかったの。君は、ベッドで中腰になってパンツを下ろすと、脚の間にサロンパスのようについているナプキンを、慣れない、ぎこちない手つきで気持ち悪そうにはがした。
あとで、ぼくは、なぜ、ぼくではなくて音楽教師だったのかと聞いた。君は、ただひとこと、被害が少なそうだったから、と、答えた。
その後、しばらくしてからも、ぼくは、音楽教師がぼくを見るたびにうすら笑いをうかべているようで腹が立った。君にそう言うと、君は、一日の差でしょ、それに、もう、口もきいてやってないんだから、何が問題なの、と、不思議そうにしていた。そんなふうに言われると、ぼくは、なんだか自分がとても間の抜けた存在に思えてきて、君のことを受け入れてしまった。
悲しい夜に続くおどろくべき時間に、ぼくは、ぼくのからだが君の上で溶けてしまうのではないかと思った。ぼくは、君のからだの中がとても熱かったのをおぼえている。
電話がなっている。君からだ。ぼくが下に降りていって、テレビ電話の受話器をとれば、スクリーンいっぱいに君の笑顔が映るだろう。いまにも、ビデオ・テープにとじこめることでしか会えなくなってしまう、君のほほえみとなつかしい声がとびだしてくる。けれども、君との人生をあきらめてしまい、エゴイスティックに自分の利益だけを追いかけたぼくには、そんなことは、つらくてとてもできない。
人口がどんどんふえてしまうことが最大の問題となっている現代の地球では、十五歳の段階で、子どもたちは厳重に、細かく、分けられてしまう。高校進学資格検定試験で、A―1からA―5のAランクに合格したものは、将来、指導的地位につける。B―1からB―5は、ふつうのくらし。C、Dランクは、その成績に応じて、一年中、いくら働いても給料が少ない仕事、人がいやがるきたない仕事、海底鉱山や、原子力を扱うような危険な労働が待っている。
頭が悪くて、偏差値が30以下だったものや、また、眼が見えなかったり、耳が聞こえなかったり、生まれつきからだの弱い子、遺伝子に欠陥が見つかったりした子は、よほど特別な能力がないかぎり、Eランクに入れられる。君のように、十五歳までにケガをして、障害者[#「障害者」に傍点]になってしまったものも。
Eランクの子どもたちは、二百億を超える人類の貴重な食料となるために、加工処理工場へ送られる。とてもおいしくて、クリスマスや正月や、高校進学資格検定試験の合格発表日のテーブルには欠かせない、ごちそうになるために。
明日にも、君の肉が、市場に回るかもしれない。ぼくの触れた君の肉が。競争によって世の中が発展し、みんなが高い生活水準をたもっていくには、有効で、しかたのない、社会のしくみなのだ。
ぼくは、テストを白紙でだすべきだった。そして、Eランクにはいり、肉屋の冷凍庫に、君とならんで、フックからつりさげられるべきだったのだ。凍結し、かたくなった君のからだとぼくのからだが、揺れて、音もなくぶつかる。
電話がなっている。君からだ。
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今朝、ぼくは新聞を読んだ
ぼくがブドウパンにバターをぬっていると、母親が、あっ、と小さい声で言った。母親は新聞に顔をつけるようにして読んでいた。女親の近視は遺伝しやすい、という説がうそであってほしいとぼくは思った。
ブドウパンは焼けすぎていた。朝刊のスポーツ面を分けてもらったのが失敗だったのだ。セ・リーグ順位表のゲーム差を検算していて、ぼくはトースターのことを忘れてしまった。
今シーズン、ぼくの好きなチームは、終盤になって追いつかれる、負け試合気味の引き分けが異様に多かった。それが最終的に勝率にどう影響してくるか考えていたのだ。
四勝六敗五分けの現在、このままだと四勝六敗百三十分けも可能だった。ということは、勝率四割、Bクラスだ。シーズン終了までに、あと二勝はしておきたい。
今朝のブドウパンは、下半分に北斗七星の形にブドウがならんでいた。その柄のにぎり[#「にぎり」に傍点]のあたりは焦げていて食べられそうになかった。
右、左、右、左、と、ぼくは力をこめて自転車のペダルを踏む。それはチェーンを介して確実に後輪に伝わり、ひと踏みごとに、グッグッと速力が増す。
もうすぐ五月だ。朝の空気はやわらかい。
ぼくは一週間前から自転車通学をはじめた。「入学者のしおり」では、それは禁止事項だった。しかし、高校へ行ってみると、そんな校則は誰も気にしていないことがわかった。中学校とは違った、そういういいかげんさがきもちよかった。
ぼくの口の中には、ブドウパンの甘さが残っている。歯をみがいたし、時間もたっているのに。味の記憶は意外なくらい強い。
たとえば、小学六年で入院したときのことは、細切れにしか思い出せない。テレビや映画の一場面みたいで、覚えているように思っても、本当にあったことなのか自信がもてなかった。それなのに、毎日だされた水道の味がするみそ汁は、ぼくの舌によみがえってくる。台風の前ぶれに柳の枝が舞っている朝があった。ぼくは苦労して吸飲みからそれを飲んだ。
けれども、ぼくは二十分前のブドウパンで四年前のみそ汁を追いはらう。妹は、いつも、ブドウパンにまでピーナッツバターをつけた。それを見るたびに、ぼくは砂糖の量を思って頭が痛くなった。
妹は、焼け上がってきたパンを左手でおさえつけ、いそいでピーナッツバターを全体にぬりひろげる。きつね色の表面にピーナッツのとがった粒を残しバターがしみ込む。妹は、なおもパンと厚さを競うかのように、たっぷりとピーナッツバターを盛り上げる。そして、ほほえむ。
母親が食卓ごしにぼくに差し出したのは、「暗いニュース」だった。大きなあつかいだった。四コママンガのわきで、凝った斜線の枠に囲まれていた。それには、「悲惨」とか「無情」とかいうことばが、ブドウパンのブドウのようにちりばめてあった。
車イスの老人が中学生グループに襲われ、郵便局で受け取ったばかりの年金を奪われた。ものおとに気づいて二階の窓から顔を出した近所の主婦(36)によると、老人は、バイク――二日前に近くの団地から盗まれたもの――に乗って逃げようとする中学生にとりすがり、車イスごと転倒、結局、病院で死亡した。(死因については解剖の結果を待つ。)
ぼくは、ぬるくなったコーヒーを飲みながら記事を斜め読みした。学校へ行く時間が近づいていた。母親は半分立ち上がり、身を乗り出して小さな円形の写真を指さした。濃淡の粒子が集まり平凡な老人の顔をつくっていた。少し緊張してこちらを見つめていた。どこか「縮んで」しまっている感じだった。
たぶん、母親にしたって、写真ではなく住所と病歴から発見したのだろう。この人は、ぼくが入院したときに同じ病室にいたあの武田《たけだ》さんだ、と言った。
踏切の警報音が聞こえる。道にそって左にカーブすると、すでに遮断機は降り始めていた。とび込んでいく気はしなかった。これで遅刻が決まった。
ぼくは自転車のハンドルから手をはなし背筋を伸ばす。決まってしまえば楽だった。まにあうかどうか考えている間が不安なのだ。踏切はしっかり十分間閉まっている。
通勤列車の折返しだけでも長いのに、この時間は長距離の寝台車が駅に入るタイミングをみはからって踏切内に停車するのだ。ブルートレインの窓の、朝を迎えて疲れ顔の乗客と眼を合わせていなければならない。
武田さんの事件は、事実関係よりも、大学教授らのコメントの面積のほうが大きかった。鑑別所に入ったことのあるのを勲章にしているらしい作家は、憤慨していた。
年寄りであり、障害者でもある弱者をねらうとは男らしくない、とかつての不良少年は非難する。ぼくには、そこがしっくりとこなかった。
ぼくの考えは、ぼくの自転車の決して使われない二段目のギアのように空転する。たしかに、武田さんのような人を襲うのはひどいことだと思う。けれども、とりやすいところからとるのは、犯罪者としては当然で責められることではない。
誰もプロの格闘家から金を奪おうとはしないだろう。そうすれば、「男らしい」のか。(現代の不良少年団には女の子もひとり加わっていたのだが。)ぼくは、ひったくりのつもりが殺人にまで発展してしまい拘置所でおびえている彼らの「不運」を思う。
しかし、ぼくが、ぼんやりとしたものではあれ、具体的にイメージできるのは、加害者ではなく被害者なのだ。自分の知っている人――たまたま十日間、となりで寝たことがある人をそう呼べるのなら――が犯罪の犠牲になり、死ぬ、というのは、もちろんはじめての経験だった。
ぼくの入院自体は、バカバカしい話だ。いまになってみれば、むしろ明るいニュースといえる。学校の帰りに、山を削って造成中の分譲地で四千万円の区画から三千八百万円の区画にとびおりていて、ぼくだけが着地に失敗して足首を折った。そういうどんくさいところのあるこどもだったんだろう。
その晩、四十度の熱を出して病院にかつぎこまれてぼくはひとつの発見をした。死ぬ、というのは動けなくなることだ、と。
朝起きると金魚は水面に浮かび動かなくなっている。たたきつぶされたゴキブリは足を数回動かすが、すぐに体液も乾き床に印刷《プリント》されてしまう。けがをして死に近づいたぼくは、天井から足をつるされベッドで動けなくなり、そのことに気づいたのだと思う。
いや、ぼくは、少し回復しとなりのベッドにいる武田さんに関心をもってから、そう考えたのだった。武田さんはほとんど動かなかった。武田さんには上半身しかなかった。
ぼくは降りている遮断機の棒とそれに鼻を押しつけるようにして止まっている車の間をすりぬけてUターンする。トラックの運転手が、この踏切にはまいるね、というふうに合図を送ってくれる。
それはそうなのだが、ぼくにはすでにどうでもよくなってしまっていた。五分の遅刻も一時間の遅刻も同じだった。急ぐ必要はなかった。
ぼくはいままできた道をひきかえす。こんどはゆっくりと。山越えのコースを通って、時間をつぶして二時限目から出ようと思う。ぼくは自分で自分に許した、あたらしく手に入れた時間が嬉《うれ》しい。
ぼくが恥ずかしがりやだった、ということはできる。でも、それは年齢のせいでもある。入院して困ったのはトイレに歩いていけないことだった。
母親が家に帰っていた夕方、妹が、お兄ちゃんしてあげようか、と言った。尿がベッドにとびちってしまったのは、妹の手が、やはり彼女も恥ずかしくて震えたのだろうか。
けれど、そのとき武田さんはどうしていたか。ぼくには仰向《あおむ》けに寝て天井をじっと見つめている武田さんしか思い出せない。武田さんはテレビも見ないし本も読まなかった。ひとと話をしなかった。
病気について聞かれたことを答えるときだけ口を開いた。それは、いつでも同じ説明だった。投げつけるようにひととおりしゃべると口を閉じた。自分が悪かったのだから、しゃあない、と言って。
武田さんは仕事の帰りに酔って歩いていて車にはねられた。それで下半身がダメになった。(実際、武田さんの脚を、ぼくは見なかったような気がする。どこまで残っていたのかは新聞で知った。)内臓も痛めていて、この五年間、入退院をくりかえしている。いくつもの病院に行った。
これが、ぼくの思い出せるすべてだ。それも、新聞と、それを読んでから話し合った、母親の記憶の助けを借りたうえでなのだ。
ぼくは、自分が退院してから武田さんのことを考えることはなかった。ぼくの頭の中では、すでに武田さんは死んでいた。
急な坂道を登る。通勤通学のひとが姿を消してしまった住宅地はおだやかな雰囲気だった。すれ違う車も少ない。
ぼくたちは、このあたりで自転車の練習をしたのだ。ひとつしか差がないとはいえ、妹が先に補助輪をはずしたのはショックだった。
体力だけは勝っていたから、ぼくは補助輪をガラガラいわせながら妹を追った。妹は、短いギンガム・チェックのワンピースからパンツをのぞかせ、車体を傾けてコーナーを曲がる。
武田さんについて覚えていることがあとひとつあった。厳密には、それは武田さんに直接関わることではない。ぼくの見た夢だ。退院して、まだ家にいるころだった。これも排泄《はいせつ》がテーマだ。
武田さんはおしめをしていた。看護婦さんにかえてもらうときは、ものすごくクサかった。床ズレにウンコがついて傷口がネチャネチャだとしかられていた。
向かいの胃の悪いおじいさんは、顔をひきつらせセキをしながら窓を開けに行った。ぼくの夢には、このおじいさんと武田さんが主役として登場する。
前半は、ぼくの行っていた小学校が舞台だったはずなのだがぼんやりとしたものになってしまった。後半では、武田さんは空を飛んでいた。ビチビチの下痢のウンコを尻《しり》から、ロケットの炎のように噴出することによって。そばには、胃の悪いおじいさんがニコニコしていた。同じ方法で飛んでいた。
そして、地上では、二人の老人を追いかけようと、ぼくが準備しているところだった。発射レバーである硬直したぼくのペニスを握っているのは妹だった。
坂道を登りきったところ、分譲地全体でも最も高い場所は給水タンクになっている。遠くから見れば横幅の広さが目立つが、施設自体はかなりの高さだった。
その入口の扉には錠がおろされ、鉄条網が巻きつけられている。以前はこんなに厳重ではなかった。二年ほど前にぼくの妹がとびおりてからだ。
ぼくの家族は、はじめの半年間を妹の死の理由をさがすことに使い、次の半年間を妹の死を考えないことに使った。父親も母親もそれぞれに思うところはあるのだろうが、めったに妹については話さない。
母親はひとつの結論を得ているようだった。自分がこどもをかまいすぎたのだ、と。(二度、ぼくに向かってそう言った。)それで、ぼくはブドウパンを焼く世話を自分でしなければならなくなった。
給水タンクの向こう側へ下りれば高校だった。長い下り坂と吹きつける風が、ぼくを元気にしてくれるだろう。光あふれる休み時間の校庭に入っていくのだ。
かならず、ぼくにも動けなくなる日がやってくる。交通事故かもしれないし犯罪かもしれない。あるいは、今日の一面トップニュースのように爆撃による二百人の死かもしれない。自分で打ち切ることもありうるだろう。
着実にそれは近づいている。だが、ぼくの高校生活は、はじまったばかりだ。死の瞬間まで、ぼくは生きている。
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セカンド・ショット
バスケットボールやってる人間なら、フリースローなんてくだらないものだって思ってるね。
せっかくのゲームの流れが中断されるじゃないの、あれが始まると。
笛が鳴って、みんなでゴール下に集合して、息をつめてひとりの選手のシュートを見守る。客席もシーン。
あのね、まともにバスケットしてたら、フリースローなんて、はいって当たり前。だれにもじゃまされてなくて、それも、あーんな近くから自由に打てるんだから。
だいたい、レフェリーがシュートに対するファウルを取り過ぎるっていう気がする。シュート体勢にある選手にちょっと手をだしただけで、フリースローでしょ。本当はボールにしか触れてなくたって、すぐ、ホイッスル。
つまんない。
いいじゃないの、少しぐらい叩《たた》いたって。どうせレフェリーから見えない位置では、脚ひっかけたり殴ったりしてるスポーツなんだから。
バレーボールのラリーでもラグビーの外への展開でも、ゲームっていうのは、続いてるときが充実感があるでしょ。バスケットも同じ。
やっぱ、気持ちいいのは、速攻だぜえ。
相手のリバウンドひろって、思いっきり走って、そこにパス。ドリブル・シュート。一発で形勢が逆転ね。
俺は、走る役もボールを投げる役も、どっちも好き。
だれか味方がボールをつかんだ、ってわかった瞬間に振り向いて全力で走り出す。もう、何も考えないの。ただゴールに向かって、まーっすぐ。俺は、ゴールとの距離をはかって振り返る。そうすると、バシって鋭いパス。
いちばんいいのは、ゴール下のぎりぎりでもらうパスなのよね。
だって、ハラハラするじゃない。俺は、シュートのジャンプにはいっちゃってるの。そこに空中高くパスがきて、受け取った俺は、床に着地することなくそのままダンク。
いきおいあまって、鈍く光る体育館の床にころがりながら、幸せだって感じるね。観客席からの歓声、拍手。摩擦ですりむけて、熱くなっている肘《ひじ》や膝《ひざ》。
最高。
パスする役だって、捨てたもんじゃないのよ。
バスケットボールでは、止まった相手にパスをすることは、ほとんどない。したらいけないの、カットされやすいから。
いつも、動いている選手の次に移動する場所に向かって、つまりは、まだだれもいない空間に向かってボールを投げる。
一秒後に、おまえはここにいなくてはいけないはずだ。ゲームがそうなってる。だから、俺はそこに投げる。取れないなら、それはおまえの責任だ。勝手にしろ。
いいねえ。
試合が楽勝ムードでダレてきたりすると、俺たちはわざとむずかしいパスをした。
走ってるやつの、予想する位置より少しだけ、三十センチほど前にパスするの。あわてて、でも、あわててるのを見せないようにしながらとびついて、シュート。
守備の位置につきながら、パスしたやつに向かって、短く、
「バカ」
仲間だけにわかる。
言われた方は、
何のこと?
って感じで、ニヤニヤしてる。
これが、バスケットボールだぜ。バレーボールみたいに、すぐに抱き合ってベタベタしたりしないの。
うちの中学のバスケット部は、まあ、わりと強かった。市で優勝。県大会ベストエイト。でも、俺のおかげなのよ。
俺の身長は百九十センチある。背が高いのが条件みたいなバスケットボール選手のなかでも、ちょっとしたもんでしょ。それもね、よく全日本にいる、巨人症の、のったりのったり走ってる、ただのうすらデカイ奴らとは違う。
オールコート・プレスで走り回る守備ができて、チームの得点の半分以上は、俺なんだから。
中学三年のシーズンが終わって、いくつかの高校から勧誘がきた。ま、当然。大会見てて俺に声かけなかったら、スカウトの目、疑われる。
俺、そのうちの一番強そうなとこ選んだ。早くレギュラーになれそうな弱いチームにする、なーんてセコいことは考えなかったね。人間、一度、弱気になったらおしまい。ガンガン攻めてかなくっちゃ。
で、いまの高校生活、体育コースで専門はバスケット、っていうのが始まったわけだけど、そこに至るまでに、ちょっと、妙な、くだらないことがあったのよ。
聞いてくれる?
半年以上前、まだ中学にいるころの話。
県大会も終わって、十月。
めっちゃ、暇だった。
三年生は部活を引退なわけ。それまで、放課後は、もう、うんざりするくらいずーっと練習だったでしょ。これさえなきゃいろんなことが出来るのにって思ってた。それが、なんか空白。いざ、時間があるとね。
後輩の練習見に顔出すのも、二、三回すると、いやになる。
結局、淋《さび》しいの。自分が動いてないと。バスケットは見るもんじゃなくて、するもんだって、はっきりわかったね。
受験勉強ったって、そう簡単にハイハイって、できない。しかも、俺の場合はバスケットで推薦だから、やんなくていいの。あ、形だけは入試も受けるんだけど。
そんなで、放課後の教室なんかで、部の連中でダラダラしてた。部活してるころはさ、俺たち、わりと冷たくて、練習終わると、
「じゃ」
っていうような感じだったんだけど。
たいした話なんてしてないのよ、実際。
浦田《うらた》がテニス部の小島《こじま》と映画見にいって、胸さわったらデカいんで驚いた、とかさ、その手のやつ。
もうひとつ、いく?
昨日聞いたんだけどお、4組の五十嵐《いがらし》はテレクラ電話して中年の男と寝て二万もらったんだって。
ある日、なぜか担任に呼び出されてしまった。
職員室。
「今度のクラス対抗のバスケット、タカオ君、出してよ」
ゲッ、冗談。
俺の担任は、秋元《あきもと》っていう、英語教えてる女なの。若い。
「それはァ、やっぱりィ、みんなの意見っていうものがありますからァ…」
「どうせ、あんたひとりで決めるんでしょ」
斜め向かいの年とった社会の教師が、音たててお茶すすりながら、俺のこと見んの。上目づかいで。
ひとの話、聞いてんじゃねえよ。いつ来ても、うっとおしいとこだぜえ。
「ただ出すだけじゃダメよ。タカオ君のこと活躍させて」
秋元は、両足で床|蹴《け》って回転椅子ごと俺の方を向き、見上げて思いっきりニッコリとする。それまでは、俺の方見向きもしないで、机の上についてる本棚見てしゃべってたのよ。
アクションがオーバーでしょ。こいつ、自分がテレビの学園ものの教師してるつもりでいんの。困ったやつ。やったら明るい。
「そんなの無理ですよォ」
いや、本当に無理。タカオっていうのは、どんくさい。こんな、どんくさいやつ、よくいるけど、ま、めったにいないくらい。
だいたいさあ、まともにしゃべれないようなやつなのよ。どもっちゃって、ウーとかアーとか言ってる。小学校のころ、タカオのマネ、っていう芸があったくらいだもん。今、やったって全然受けないだろうけど。
「あらあ、無理じゃないでしょ。タカオ君がゴールのところで待ってて、君がパスしたらいいんじゃない」
そういうもんじゃないのよ、バスケットって。
守備と攻撃が連続してるんだし。へたくそなやつが出て、活躍できるはずがない。野球みたいなのとは違う。
「パスしたって、タカオのシュートがはいるとは限らないでしょお?」
これだって、おだやかな反論なのよ、本当は。パスが受け取れるかどうか、ちゃんとつかめるかどうかが心配なやつなの、タカオって。
「練習したらいいじゃない。教えたげなさいよお。あんた暇なんだし」
俺はね、三年、正確には二年半かけて、ここまでうまくなったの。そんな、ちょっとやそっと練習して、どうなるってもんじゃない。バスケットをなめないで欲しいね。しかも、ふつうのやつならともかく、タカオ。
「タカオ君て、一年のときバスケット部だったんでしょ。もともと、あんたたちの仲間じゃない。素質あるんじゃない?」
とんでもないこと、思いださせてくれたぜえ。
そうなの。タカオ君はバスケット部だった。一年の夏休み前までは。四月に部活の勧誘合戦がすごかったころ、間違ってさそっちゃった先輩がいたんだろうね。あとでみんなからいじめられなかったかしら。
だって、スポーツやるようなやつじゃないんだもの。ドリブルしてたって、すぐにボールがどっかいっちゃって、それで上向いて、
「あっ」
っていうような顔してて、拾いに取りに行くまでに、また時間がかかる。
俺、いやなこと思いだしちゃった。
一年も五月になると入部届を出す。仮入部じゃなくて、所属の部が決まる。そうするとバスケット部ではバッシュ、バスケットシューズをはいてもよくなる。
これは嬉《うれ》しい。
それまでは一年生だけ、学校で買わされたみっともない体育館シューズだった。で、みんな先輩のはいてるのをよく見ておいて、アシックスだとかアディダスだとか選んで買ってくるの。
これは大事な選択でね、自分はアシックス派でいきますっていう宣言なんだから。ハイカットにするかどうかとかね、細かいこともいろいろある。バスケット部っていうのは、そういうスタイルに関して、すっごく、うるさい。
もともと、カッコつけたくてやるやつのスポーツなんだから。
そしたらさあ、タカオは、だれも見たことないような、まっ白の、異様に白いビニールのバッシュ買ってきた。光ってんの。ミズノのラインに似たマークなんだけど、ひと目で違うってわかる。
ずっと笑いものだったね。
サティで四百八十円で売ってるやつだって。
また、そういうこと、言いたがるやつがいるのよ。ボールかたづけたり床のそうじしたりしながら、いつまでも、
「サティのバッシュ、サティのバッシュ」
とか、歌って、笑いころげてる。
それで、
「タカオはビンボー」
とか、叫ぶ。
走ってきてタカオの尻《しり》に蹴り入れたりする。
そうするとね、タカオはにやにやして、
「う、うるせー」
みたいなこと、口ん中でモゴモゴする。
俺、元気なくなっちゃった。
「いいね、明日からタカオ君の特訓。あんたの仕事だよ。高校の体育コースの推薦、あたしが取り下げられるんだからね」
秋元は、机の上にあった出席簿で俺の腰をバシッとたたいた。
きったねえーの。そんな手あり[#「あり」に傍点]かよお。
秋のクラス対抗っていうのは、ビッグ・イベントなわけ。放課後を使いながら予選を一週間にわたってやる。バスケット、バレー、サッカー。最後の決勝は土・日。近所のひとたちも応援にくる。
うちの中学は、そのくらいスポーツが盛んなのよね。春に陸上記録会があって、秋には、九月に体育大会、十一月にクラス対抗戦。俺みたいな人間にはすごしやすいところ。なんていったって、「活躍」できるものね。
陸上記録会では、ハイジャンプで優勝しちゃった。1メートル80。陸上部員にも勝った。ま、俺の場合、身長があるからね。リレーもアンカー。
でも、タカオみたいなやつには、いいところじゃない。「活躍」の場はない。
けどさあ、いま、そう言ってて思うんだけど、タカオがいてすごしやすいところ、楽しいところなんて、いったい、どこにある?
この世にあるとは思えないじゃない。
スポーツはできない。勉強はできない。面白いことも言えない。家は貧しい。
1組に石井《いしい》ってやつがいるんだけど、こいつの場合、みっつめまではタカオと一緒ね。つまり、スポーツはできない。勉強はできない。面白いことも言えない。
でも、こいつんちは、でっかい、石井病院なの。
金はある。いつも学校に万札持ってくる中学生なんて、よしてよ。
だから、取り巻きのやつはいるし、こいつは自分がアホなの売り物にしてるもんね。どうせ、どっかの医大に金ではいって医者になるんだ。兄貴もそうしてるって、開きなおってる。
だから、こいつにとっちゃ、それはそれで、楽しい人生なわけよ。兄貴のフェラーリ、こいつがもらったら、俺だって、一回ぐらい乗せてもらいたいもんね。
でも、タカオはどうする?
クラス対抗のメンバーを決める学級会だった。
で、バスケットは、俺が案を出した。チーム動かすのは俺なんだから、みんな当然だって思ってる。
「浦田に西本《にしもと》、バスケット部のふたりね。それに森下《もりした》、池田《いけだ》、熊谷《くまがい》。奥山《おくやま》は、バレーボールとどっちがいい? 本人の好みと、バレーのほうの都合で決めて。あと、小菅《こすげ》は出て欲しいなあ。それに広井《ひろい》(これ、タカオのことね)と俺、以上」
最後は、早口になっちゃった。
浦田が、前のほうにすわってたんだけど、振り向いて、聞きまちがいかなって顔をした。
学級委員で議長してた磯貝《いそがい》が(こいつ、めっちゃかわいい。俺、修学旅行のどさくさでキスしたんだけど、それから冷たいの)、
「もう一度、言ってください。ごめんなさい。聞こえなかったんです」
こんなもん、二回も言えるかよお。
しょうがないから、全員の名前だけ、でかい声でくりかえした。
横にすわってた西本は、
「ハッ、つまんねえ冗談」
って言って、いつもの試合中の顔をした。
俺が、西本をじっと見て首を横に振ると、下アゴがはずれてしまったアントニオ猪木《いのき》みたいな顔にかわった。
きっと、俺もなさけない顔になってたんだと思う。
廊下がわのいちばん前の席のタカオが振り向いて、俺のことを見ていた。もう、つぶらな瞳《ひとみ》って感じでキラキラしてんの。
俺、こいつのことキライだったんだって、あらためて思ったね。
担任の秋元が、パンパンって手をたたいて、
「じゃあ、みんな、クラス対抗、がんばろう」
とか言うから、その場はおさまった。
すぐに浦田が来て、
「いいのかよお、おまえ。気でも狂ったのか?」
俺、浦田は友だちだって、思ったね。こいつなら、俺の気持ちをわかってくれる。でも、説明する気になれなかった。
「うん。狂ったみたい」
だって、しょうがないじゃないの。
体育館は混んでいた。どこのクラスも練習に来るから。そんなとこでフォーメーションなんて組めるはずない。バスケットはむやみにシュート練習なんてしたってなんの意味もないのよ。しろうとさんは、困るねえ。
で、うちのクラスはプールの裏、ボロボロのゴールの前に集まった。リングにはネットもついてないの。これ、冬休みにはこわすんだって。テニスコートを広げる。
あちこち、まだらに雑草がはえてて、デコボコしてるからドリブルがしにくい。たしかに土のコートでバスケットなんてしたくないわね、ふつう。
で、一応のポジション決めて、守備の目標を指示した。相手がこう出てきたら、だれが前に出て、そのカバーに動くふたりの入り方。基本的なパターンの反復ね。
俺が敵の役して、ドリブルで近づく。すっと、森下が手を広げてけんせいする。センスいいじゃない、卓球部なのに。背が低いのが惜しいね。
浦田と西本は控え目で、バスケット部じゃないやつが自分で考えて動けるようにしてる。とにかく、守備だけちゃんとフォーメーションが出来てれば、まあ、うちのクラスが優勝する。
攻撃の方は、浦田と西本がポストにはいった俺にパスすればいいもん。単純。バスケット部が三人いるのは、めぐまれてる。西本はスタメンじゃないけど。
問題は3組。ここは、バスケット部が四人も集まってて、しかもガードやってた山下《やました》がいる。こいつはね、なかなか判断がいい、うまいプレーヤー。部長だったのよ、俺を差し置いて。俺って、どこか人望に欠けるところがあるみたいね。
やつらと休み時間なんかに廊下ですれ違うと、もう、火花バチバチ。久し振りの試合で、敵味方に分かれるし、燃えてんのよねえ。
それで、練習してると池田とか熊谷もいいの。教えがいがある。バスケットは頭。
うん。で、タカオ。
それまではね、
「いいよ、タカオ。すわってて。まだ」
って、浦田が声をかけて、結局は仲間はずれにした。
表面的にやさしいの。俺よりずっと世渡りがうまそうね。
タカオは目をキラキラさせて、言われたとおり、隅においてあったなんかの木の箱に腰掛けてんの。きったねえな、オッサンみたいにそんなもんにすわんないで、立ってろよ、中学生なら。
でね、タカオが登場。タカオは背が低い。タカオは太っている。脚が短い。当然、腕も短い。頭がでかい。あごのあたりにうっすらヒゲがはえてる。
バスケットにむかない要素ばっかじゃないの。
とりあえず、ガード。いちばん前で相手の攻撃を阻止する役。森下には敵チームのつもりで、タカオの前でドリブルしてもらった。
「じゃあ、俺がゴール下にはいって、森下からパスをもらうことにするからね。防いでみて」
そう言って、俺が斜めからとびこんだ。
森下からの浮きパス。簡単にとおっちゃった。シュート。
「ねえ、タカオ、ちょっとは仕事しようよ。森下のじゃまするんだよ」
俺がそう言うと、タカオはでっかい目をパチパチさせてうなずいた。
池田がボールを森下にもどす。
「もう一回、いこうぜ」
俺は叫んで、ステップ踏んで、熊谷をかわす。おっ、熊谷ったら、うまいじゃないの、この下がり方。
バウンズ・パス。
ボールはタカオの足もと抜けて、俺がキャッチした。タカオは一歩も動かない。これで確実にまた2点とられたね。
「タカオ、何かしろよ。手をひろげるとかさ。それとも、おなか痛いの?」
俺、シュートを打たないで言った。
「ぼく、帰る。うちでプレステしよおっと」
西本ォ、それはないだろ。
浦田が来て耳もとで言った。
「おまえ、ボランティア活動したいんなら、ひとりで河原でゴミでもひろってたら」
で、俺、
「タカオ、いいよ、また、すわってて」
それで、マンツーマン特訓しかなくなった。しょうがないでしょ。もう俺にしたって、高校がどうとかいうんじゃなくて、意地なわけね。
こうなったら早朝トレーニング。正しいスポ根ものの路線。
でもさあ、さすがにベッドを出るときには、考えたね。まだ暗いの。なんで俺が、県の中学生ベストファイブのこの俺が、朝の七時に学校行って、しかも草のはえたコートで練習しなきゃなんないんだろ。
学校からパクッたボール持って、半分腹たてながらプールの裏に行ったら、タカオがもう来ていた。
うーうん、偉くないの。
だって、例の木の箱にすわってる。準備運動してなくてもいいから、せめて立っててほしかったなあ。
で、タカオには徹底的にシュートの練習をさせた。
前に言ったことと矛盾してるって? しろうとさんの練習法ね。
いや、そうなんだけど、タカオの「活躍」って言ったら、もう、シュートしかないでしょ。秋元の発想みたいだけど。
守備はね、タカオがいるときには四人ですることにしたの。墓石がつっ立ってるぐらいに思うことにして。
とにかく基本なんで、ゴール下から至近距離で何本も連続して打たせた。ジャンプしてボードに当ててイン。はいったやつを受けてすぐジャンプ、またシュート。
これを右と左からやる。
俺だったら眼をつむってたって、100回続けられる。ボードの当たる位置にあわせてカーブやシュートの回転をボールに与えながら。
でもねえ、タカオは、まず、はいんないのよ。
ゴール下よ。スリーポイントシュートじゃなくって。
だから、俺がボードからはねかえってくるボールを取りに走んなきゃなんない。こんなとこでフットワーク鍛えられるとは思わなかった。
まあ、タカオもよくやった。ぜいぜい、息を切らして。
二日目。
同じことしたら、明らかに向上してた。
で、それを切り上げて、次の段階。フリースロー。
俺も帰ってプレステしようかと思ったね。
だって、届かないの、ゴールまで。
しょうがないからチェスト・パスみたいに両手で打たせた。なんか女の子のフリースローみたい。
見てるだけで恥ずかしくなったけど、まあ、全然はいらないわけじゃない。
三日目。クラス対抗まで、あと一週間。
タカオは来なかった。
天気は、しっかり晴れてた。雨だと思って休むはずはない。
俺は怒りに燃えてた。ぶん殴ってやろうって思ってた。許さない。タカオの好きな木の箱にすわって待ってた。
そしたらさあ、油のきれた自転車がキーコキーコいって現われて、エプロンしたおばちゃんなの。
タカオは熱出してて、行くって言い張ったんだけど止めたんだって。今日、明日は、学校も休ませるつもり。タカオはもともと腎臓が悪いんだって。
「いつも遊んでくれてありがとう」
って、自転車のカゴからスーパーの袋を取りだした。遠慮したんだけど押しつけられて、キーコキーコ帰ってった。
遊んでやってるわけじゃないぜ、だれがわざわざタカオなんかと遊ぶかよお、って思ったけど、袋開いたらアルミホイルにつつまれた握り飯だった。ものすごくデカいのが四個。
タカオの食欲に合わされたらたまんないなって思いながら食ってたら、なんでだかわかんないけど浦田が来たから、二個ずつになった。梅干しのとカツオブシのとに、うまく分けられた。
いままでの説明をした。ものすごく、いいかげんに。
で、さあ、その日、秋元も元気ないのよ、朝のホームルームで。この女、すぐに気分が顔に出る。タカオんちから電話があったんだろうね。
俺もどうしたらいいかわかんなくて、一日ウジウジしてたんだけど、放課後になって、クラスの練習は浦田にまかせて職員室に行った。
俺の顔見るなり、
「相談室に行こうよ」
秋元はスタスタ歩いてく。
職員室のひとつ隣、校長室との間。秋元は、ドア開けて、中からとった「使用中」って札をノブにかけてから、俺に入るようにうながした。
俺、この部屋はさ、自転車パクったの見つかって補導されたとき以来なの。べつにビビらないけど、気分良くはないわね。
なんか湿っぽいにおいがこもってる。
秋元は、奥まで歩いていくとカーテンを開けてから振り向いた。窓をバックにして、窓枠に両手をかけて立っている。
入口のとこにいる俺に、
「すわりなよ」
それは無視して、
「先生、やっぱ、無理ですよ、タカオは。特訓したら病気になっちゃうし、スポーツに向いてないんですよ、もともと」
秋元は、立ったまま自分のつま先のあたり見てる。
運動用の紺のウォームアップ・スーツのパンツはいてて、上は薄い茶色のセーター着てて、変な組み合わせなんだけど、結構カッコいいの。
「クラス対抗に出すのやめましょうよ。無理して出したって、笑われるだけですよ。先生は、あいつに楽しい思いをさせたいんでしょ?」
俺がしゃべったこと聞いてないみたいで、後ろで結んでいた髪の毛をほどいた。長い髪がバサッとひろがる。指でかきあげながら俺の顔、キッと見て、また、つま先のあたりに視線を落とした。
「そうか。無理か。あんたまでそう言うんなら、あきらめるか」
秋元は、ため息をつき、窓のほうを向いてしまった。
「タカオ君の就職、決まりそうだったんだけどねえ。バスケット好きの社長がいて、決勝戦は見に来ようって言ってた。小さな町工場なんだけど……。他、あたるしかないか」
たったひとつでも、タカオのことを採用したいという会社があるなんて、俺には奇跡に思えた。
しょうがねえなあ。だからって、俺のこと巻き込むなよな。
二日後、タカオの熱がひいたので、朝練習は再開された。浦田だけじゃなくて、結局、毎朝、ほとんどメンバー全員が来た。俺は、タカオにつきっきりでシュートをさせた。
で、クラス対抗戦が始まった。
学年には関係なくトーナメント方式。バスケットでは、めったに下の学年が勝つなんてことはない。中学生というのは、そのくらい齢《とし》によって基礎体力が違う。
うちのクラスは優勝候補の筆頭。ちゃんとシードされ、そして順当に勝ち進んだ。
だって、俺がいるんだもの。県で五本の指にはいるプレーヤーが、学級対抗の田舎試合に出るんだからね、しつこいけど。
でも、実際、バスケットは、ひとりだけうまいやつがいても勝てない。パスしてボールをキープしていく必要があるから。最低ふたりはいなくちゃ。
だから、浦田や西本のおかげなわけ。それに、バスケット部じゃないけど、森下って本当にセンスがいい。ガードやってて、よくとびついて相手のパスをカットしたりする。
熊谷もよく動くし、池田もがんばる。小菅だって中盤をうまくもたせてくれる。
タカオは…、タカオは…、試合に参加している。
たいていは勝負がきまってから出番になる。この前は得点だって入れた。タカオの出場による失点のほうがはるかに大きいけど。
土曜日は、準決勝。軽く勝ったね。
明日の敵は第2シードの3組。番狂わせのない、つまんない展開でしょ。まあ、そんなもんよ、ふつうは。
世間での予想は圧倒的にうちの勝ちだった。トトカルチョが成立しないみたい。そりゃ、そうだわね、俺だって、知らなかったら迷わずうちのクラスに賭《か》ける。あの秋元の恐ろしい決意を聞かなかったなら。
準決勝に勝った俺たちをねぎらいに現われた秋元は、
「よくがんばったわねえ、あんたたち。決勝は、あたしが監督やったげるわ」
と言って、おおげさにニッコリした。
俺と浦田はぞっとして顔を見合わせたけど、クラスのやつらは、事の重大さに気づいてないようだった。
「オーっ」
とか歓声があがり、雰囲気が盛り上がっちゃった。
これまでの試合は、俺がプレイング・マネージャーをしてた。コートの中で走りながら、
「次、小菅、用意して」
とか、叫んでた。それでいいのよ、決勝だって。
しかし、秋元は言い出したことをひっこめるようなやつじゃない。
で、日曜日。
試合開始まで15分。軽く体操して、パス、シュート。ここで、やり過ぎて疲れちゃいけないの。
浦田や西本は試合なれしているけど(あ、当然、俺は冷静よ)、池田たち、バスケット部じゃないやつらは緊張していた。さすがに、ここまでくるとね。
早くも集まってきてる観客の、量が違う。それに近所のおっちゃん、おばちゃんたちもいる。おまえら、せっかくの休みだっていうのに、他にすることないのかよお。
俺は、タカオが就職できそうな工場の社長とかいうのがどれなのかって、ひとりひとり見てみた。
わかんないのよねえ。そんなもん。
秋元が挨拶《あいさつ》でもしないかと思ったんだけど、ぜーんぜん。
この女、なんかベンチで興奮しちゃってんの。二階のスタンドから、秋元センセーとか、うちのクラスの女の子が叫んで、それに手、振ったりしてる。試合するのはあんたじゃなくて、俺たちなの。
「あ、タカオ、何、それ。すごーいの」
森下の声がしたとき、俺はいやな予感が背筋を走って、振り向くのを一瞬ためらった。
小さくてやせてる森下が、同じくらいの背の低さで倍ぐらい太ってるタカオの足元にしゃがんでた。
タカオの両足には、いやにまっ白なバスケットシューズがはまってた。
「決勝用に買ったの?」
森下が訊《き》くと、
「アー、前から持ってた」
って、小さい声でタカオは返事した。目をキラキラさせて見下ろしてる。
森下はバカにして言ってるんじゃない。本当にいいやつね、こいつって。俺、ホモにはしりそう。
しかし、だとすると、これまでの試合は、学校指定の体育館シューズだったってことなのかなあ。俺は、タカオの靴なんて、わざわざ見てないぜえ。
「おまえ、足は、大きくなんないの?」
浦田が、のんびりと、すっごく正しい疑問を提出した。答えは聞きたくなかったんで、俺、熊谷に声をかけてパスし、ランニング・シュートを打たせた。
秋元が、
「集合」
って叫んで、手をパンパンさせてる。
何、しきってんのよ。
秋元は、女子バスケットの子がはいてるような短パンで太腿《ふともも》見せちゃって、張り切ってる。
俺たちが集まると、
「今日、バスケット部の三人と池田君とタカオ君でいこうか」
腰に手を当てて、言うの。始まってしまった。
俺、あわてて、
「ちょっと待って。いつもどおり森下、スタメンのガードは」
って言った。
秋元は、
「あら、そーお」
って、不服そう。
いままでの試合、応援してたのはたしかだけど、ちゃんと見てたのかよ。作戦っていうもんがあるだろうが、作戦が。
「腎臓病、腎臓病」
浦田が、体ごと秋元のほうに寄って、ささやいた。
「ふん、まあ、いいか」
秋元はアゴを突き出して、偉そうに言う。
お願いだから、おとなしくしててね。
試合開始。
センターのジャンプは、もちろん俺。
楽勝、楽勝。
これはね、相手の身長が3メートルくらいなきゃだいじょうぶよ。俺の垂直跳びは、ちょっと、すごいぜ。
跳ぶ前に位置を確認。左横にいる西本のところにボールをはじく。着地すると即座にゴールめがけて走った。パスが俺の前でワンバウンドして、それをつかんで二回のドリブルでシュート、のはずだった。
振り返ると、西本がボウ然として、つっ立ってた。浦田が必死に走ってドリブルする山下に追いつきそうになったときに、ボールは、がら空きの逆サイドにパスされた。そのままシュート。
こっちの動きを完全に読まれてたのね。
先に点を取られたのは初めてだったのかなあ。ともかく、攻めがあんまり見事だった。それで浮き足だってしまった。
しかもね、3組は決勝から急にマンツーマン・ディフェンスを採用したの。そんな器用なことが出来るのは、もちろんバスケット部が四人もいるから。
うちはいままでの試合で、ゾーン・ディフェンスのところとしかやってないから(クラス対抗なんかだったら、当然、ゾーンにするでしょ)、マンツーマンの強い当たりに戸惑ってる。
簡単に言うと、1対1で張り付かれて、アウトスタイルのボクサーがふところに跳び込まれたみたいになっちゃった。
森下までがパスをまわせなくなって、トラベリングをとられた。
相手の8点目がはいったとこで、
「タイムアウト、次でタイムアウト」
俺が叫んでるのに、秋元は、
「がんばってえ」
とか言って、両手を握り締めてる。聞いてやしない。
「俺のばあちゃん、監督にすりゃよかったな。補聴器つけてるもん」
ねえ、浦田ァ、そんなくだらないこと言ってる余裕ある?
結局、俺と浦田が互いにスクリーンをしたり、激しく交錯したりしてディフェンスをはずした。マークする相手のスイッチは、そう練習できてない。
その間に、俺のスリーポイントや浦田のカットインが決まり出した。池田がノーマークになってパス出来たりするようにもなった。
前半終了して、35対32。リードしてるったって、きついぜ。
西本と浦田と三人で相談した。3組の攻撃はかなりいい。ある程度点をとられるのは覚悟しなければならない。ディフェンスで突然新しいことをするのは得策ではないだろう。ただ、森下を身長のある熊谷に替えたほうが、きっと山下を抑えやすい。
うちとしては、それ以上に点を取りにいく。俺と池田(小菅)でリバウンドを確実におさえて、浦田と西本が走る。速攻にならない場合は、外でボールを回さずに、もっと積極的に中にはいってく。
「タカオ君は、いつ出るのお?」
秋元が来ちゃった。
床にしゃがんでる俺たちに、上から身を乗り出す。
ちょっと、こらえてから、
「出さない」
って、俺は答えた。
タカオは出さない。
俺はこの試合に勝ちたい。こんな田舎試合の結果なんてどうでもいいとは言える。これから先、俺はいくらでも(秋元が本当に推薦を取り下げるはずがないのは、初めからわかっていた)バスケットの試合に出る。だから、こんな試合の勝敗なんて、実際、どうでもいい。
でも、勝ちたい。
たぶん、スポーツをするときには、勝つこと以外のことを考えたらいけないのだ。他の要素があってはならない。
相手チームへの礼儀だとか、そんなきれいごとじゃない。勝つためだけに努力すべきなのだ。スポーツの、じゃなかったら、俺だけのでもいい。神様が、そう言っていた。
だから、タカオは出さない。
秋元は、黙って俺を見た。
浦田は、自分は関係ないって顔で横を向いてた。
「ふーん」
何も説明しないのに、秋元は意外にあっさりと引き下がった。
後半。
3組はゾーンに変えてきた。おそらくは疲れたため。あるいは攪乱《かくらん》のため。でも、そのほうが、俺のポスト・プレイがしやすかった。形勢はあきらかにうちが有利になった。
きっと、山下も、3分もすればそれに気づいたに違いない。わかっていても、一度決めた方針というのは変えにくいものなのだ。タイムアウトをとりマンツーマンにもどしたときには、うちの勝利が見えていた。
ただし、後半も、結構、点は入れられていた。森下を入れて、熊谷の位置を下げた。
その森下だった。
3組の選手と接触し、もつれてふたりとも倒れた。
「いってえ、キンタマに膝《ひざ》がはいったあ」
森下は股《また》の間をおさえてころがった。そして、そのまま這《は》って、コートの外にさっさと出て、
「選手交替、広井」
って手を上げた。
控えには、小菅と池田がいる。点差は14点。でも、まだロスタイムを入れて、たっぷり4分はある。
「ハッ、つまんねえ冗談」
西本は、おおげさに痛がっている森下を見てつぶやいた。
「おまえ、おしゃべりだった?」
俺は、浦田に訊《き》いた。タカオの就職の話は、絶対、浦田にしかしていない。
「バッシュのせいよ。せっかくはいた、サティのバッシュ」
浦田はベンチのほうを見たまま、一回だけ歌った。
秋元が選手交替を指示して、まっ白いバッシュのやつが、のそのそとコートにはいってきた。
ちょうどよいハンデだったのかもしれない。点差は、つまった。でも、うちのチームは気合いが違ってた。
すごい声援。時計はロスタイムにはいっていた。
浦田がパスをタカオに回して、
「シュート」
って叫んだ。時間がないのだから、当然のこと。ふつうのプレーヤーだったらね。
ぎこちなくシュートの体勢にはいったタカオにつられて、3組のやつが腕を叩《たた》いてしまった。ハッキング。
バカなやつ。どうやったって、そんなとこからタカオのシュートがゴールまで届くはずないじゃないの。味方はみんな知ってる。
オフィシャルが時計を見ていた。ゲームはタカオのフリースローで終わり。
タカオは俺に教わった、チェスト・パス式の(ちょっと恥ずかしい)両手シュートの構えにはいった。
俺はフリースローを、それまでバカにしていた。いや、いまでもしてる。でも、このときだけは、はいってほしいって思ったね。
一本目。
ボールはバック・ボードに当たり、跳ねかえってリングに当たり、下に落ちた。俺がボールを拾い、
「いつもみたいにいこうぜ」
って、タカオに言った。「いつも」も、そんなにはいんないんだけど。
タカオはつぶらな瞳《ひとみ》でうなずく。
俺は客席をチラッと見上げた。バスケット好きの小さな町工場の社長。
セカンド・ショット。
うちの勝ちは決まってた。とにかく、入れてほしかった。
タカオの両手をはなれたボールは、力のない弾道を描き、ボードにもリングにも触れず、あっけなく、はいった。
「で、先生、タカオの就職は、だいじょうぶになったんでしょう?」
決勝戦のあと一週間近くたってから、俺は秋元に訊いた。本当は、先にタカオをつかまえたんだけど、アーウー言ってるだけで、よくわかんなかった。
昼休みに職員室に、わざわざ俺のほうから出向いてやったんだぜ。
そしたら、秋元は、赤のボールペンの尻《しり》で額を二、三回つっついてから、
「やーだ、あんた。あんなの信じてたの。いまは人手不足なのよ。就職は、かーんたん。少しは新聞読みなさいよ」
秋元はテストの採点を続けた。
「あたしはね、国語の先生が、タカオ君がバスケットが好きだって作文に書いてますよって言うから、出したげたかっただけなのよ。へー、信じてたの。バッカみたい」
俺の顔を見ようともしない。
いつか、ぶっ殺す。この女。
俺は自転車で高校に通ってる。そうすると、タカオの勤めてる工場(町工場というのだけは本当だった)の前を通るの。
一度だけ、タカオを見かけた。グレーの作業服に同じ色の帽子で、すっごくオッサンに見えた。アゴのヒゲも濃くなった気がした。
で、タカオは、タバコ吸ってた、眉《まゆ》の間にしわよせて。俺は、声をかけなかった。
ま、たぶん、生きてることなんてフリースローみたいなもんだ。バスケットしに高校行ってる俺にしたって、工場に勤めてるタカオにしたって、
はいるかもしれないし、はずれるかもしれない。で、これが大切なんだろうけど、はいんなくたって、いいんだ。俺は絶対に入れてみせるけどね。
ゲームは続く。
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悲しみの池、歓びの波
十二月二十七日、二十時四十六分発の村岡車庫行きバスに乗り、中学校生活最後の冬休み、受験勉強追込み週間五日目に突入してしまったぼくは考えていた。
人間の感情が、脳の中にできるごく微量の物質によって引き起こされるというのは本当なのだろうか。ぼくの脳みその中に、顕微鏡でもとらえられないような、わずかななにもの[#「なにもの」に傍点]かが生み出されて、それが、いま、ぼくのからだ全体を支配していて、ぼくに、突然、大声で叫ばせようとしたり、バスの窓ガラスを素手で叩《たた》きこわさせようとしたりしている。
ぼくのパンチは、青ざめて映しだされたぼくの顔を粉々に打ちくだき、破片のつきささったぼくの手首からは、混雑したバスの乗客たち、十二月二十七日、午後九時少し前のそれぞれの思いを抱いた人々に、真紅の動脈血が降りかかるだろう。
だけど、血はすぐに固まってどす黒く変色してしまう。なんでもそうなのだ。世の中にあるものは、すべて、どんなに美しいものも、あっというまに、うすぎたなくなってしまう。
背中を押され、つり皮にぶら下がって、ぼくは、ガラスに息をふきかけた。薬があればいいのだ。一錠飲むだけで、脳の中の悲しみのもとになる物質を打ち消してしまう薬。
理科のテストで毎度おなじみの、酸とアルカリの中和実験みたいに。悲しいときには、毎食後三十分以内にお飲み下さい。きっと幸せな気分になりますよ。
ぼくの家は新興住宅地にある。電鉄会社がブルドーザーで山をけずってでっちあげたおとぎの国。ニューイングランド風コロニアル様式とか、フランス窓だとか、純和風木造注文建築にスペインの白い家。ぼくは、ディズニーランドに住んでいる。
ファンタジー・スペースと現実世界にあるターミナルとを結ぶ夜のバスは、九時半にはなくなってしまうのだけど、朝以上のラッシュ・アワーだ。ぼくは、ぼくの顔の前に、整髪料がべったりついたくさい頭をつきだしてきた中年男に、けり[#「けり」に傍点]を入れたろうかと思う。
よろよろするなよな。うすくなった髪にくしが通ったあとは畑のうねみたい。自分の頭をこんなに臭わせてて、よく、吐いてしまわないものだ。
自分は慣れてるからって、人の鼻につきつけてもいいと思ってるんじゃないだろうな。ひとりで立っていることのできないものはバスに乗ってはいけない、という法律をつくるべきなのだ。
今年の八月までサッカーやってて、県のベスト・イレブンに選ばれた東中学のミッドフィルダーは、どんなに揺れても押されても平気だ。たとえ、市バスがオフ・ロード・バイクみたいに林道をつっ走ったとしてもね。
――もちろん、バカバカしい自慢だ。わかってる。そんなことができたところでなんにもならない。あと三十年もしたら、ぼくも、このよろめくチビの中年男みたいになって、疲れはてて東京から衛星都市に帰ってくる長距離通勤サラリーマンだ。
だけど、それまでには、たぶん、ぼくは死んでいるだろう。ぼくらは、日本の中学生たちは幸せだ。核爆弾や、原発事故や、生物化学兵器のおかげで、少なくとも、体力がおちたらとか定年後のくらしだとかの心配だけはしなくてすむんだから。
それにしても、いちばん悪いのは、岡田《おかだ》をよんだサッチだ。サッチは、ぼくが、こんにちは、岡田先輩、お久しぶりです、なんていえるとでも思ったんだろうか。それとも、サッチが山下《やました》に相談して決めた!? そんなことは絶対にないはずだ。そう思いたい。
岡田は、ワッペンつきの紺のブレザーで、ひとりでアイビーしてた。ボタン・ダウンのシャツにエンジのネクタイ、ダッフル・コート。雑誌のお手本通りっていうわけ。
ぼくは、生涯、アイビーだけは着まいと思う。あんなものは、日常生活に満足しきった、くさったやつの着る服だ。私はいい家に生まれて何不自由なく育ったおぼっちゃんですって宣伝して歩いてる。そんなことは、育ちがいいなんてことは、本当はとても恥ずかしいことなのに。
きょうから、ぼくは、ジーンズしかはかない。一生、にごった血走った目をギラギラさせて、人をにらみつけて生きていくんだ。
もとはといえば、高木《たかぎ》が、「教育委員会スイセン、市民会館で上映する中・高生のための大歴史ロマン」なんてののキップを手に入れるからいけない。
市役所づとめの高木の親父は、六枚ものタダ券(でも、当日行ったって、中学生ひとり五百円の映画だぜ!)を息子に渡すとき、役所での地位を誇って、鼻をピクピクさせたのだろうか。
そりゃ嬉《うれ》しかったよ、最初に電話もらったときはね。なんていったって、冬休みに集まれる。みんなは、ほとんど、三、四人のグループで予備校の冬期講習に通ってる。アホだから。
せまいところにおしこめられて、人にものを教えこまれるなんていうのは、学校だけでじゅうぶんなはずなのに、夏休みはサマー・スクール、冬休みはウインター・スクール。結局、そうしてないと不安なんだ。ひとと同じことをしてないとだめなんだ。ひとりでいられないバカばかりなんだ。
だけど、それで、冬休みになってから、ぼくは家族以外のだれとも会ってなかったから、嬉しかった。おまけに、山下のことも誘ったっていうんだから、もんくなし。
山下とは、かなり、久し振りの気がしてた。二十二日の終業式の日に学校からいっしょに歩いて帰ったきり。山下のバス停が見える地下道の入口のところで話してた。頭だけじゃなくて眉まで剃った天津《てんしん》甘栗屋の兄ちゃんが、こっちをチラチラ見てたけど、そんなことじゃビビらなかった。
寒かったけど、店にはいったら遅くなって、山下の母親がギャーギャーいうだろうし、次のバスにしよう、その次のにしようって、山下の乗るのを延ばしてたら一時間たっちゃった。
ぼくは、その時、山下とは気持ちが通じてるんだと思ってた。この日はとてもいい感じだった。二人とも離れたくなかった。ちゃんと、おたがいに相手のことが好きで、相手のことを思ってて、一月になったら、二人ともしっかりと受験勉強をすすめといて、また、なかよく会えるんだって、そう思ってた。
それが、予定外に会えることになって、ついてるって思って、待ち合わせの改札口へ行ってみたら、どうだ。サッチは急用だとかでいなくって、男五人に女一人、サッチのかわりは、あの岡田なんだから。
サッカー部の連中は、みんな、ヤバイって顔してた。いや、ぼくに気をつかって、何も変なことはないって、無理にはしゃごうとするから、よけいにぎこちなくなってるのがわかった。
先輩、先輩、なんていってたけど、男で岡田のこと好きなやつなんていないんだ。ぼくは二年からレギュラーで試合にでてたけど、岡田にはパスを回したくなかった。
岡田は、自分のミスでまずいプレーをしたときに、絶対それを認めない。フォワードの動きが悪いからパスを出せないでいてタックルされた、とかね。自分が持ち過ぎているときにさ。
しかも、こういうのを、ハーフ・タイムにぐちゃぐちゃいうんだぜ。そんなこと気にしてないよ、だれも。たいせつなのは後半にどうやって点取るかなんだ。ぼくは、勝負の最中に反省会をやるやつとは、友だちでいたくない。
それで、男五人に女一人っていうのが、山下は平気だった。こういう女の子って少ない。堂々としてて、先頭に立ってた。やっぱり、なかなかいいんだ、山下は。
もちろん、よくないのは岡田。最初っから、山下にしか眼がいってなくて、右に左にフェイントしながら話しかける。あいつ、映画見るのに、ポケットをふくらませてた、ガムとチョコレートとポッキーとポテトチップスで。
ひでえいなかものだ。こういうのを、「明るくて、そばにいて楽しい人。本当は傷つきやすいのに、みんなのために場を盛りあげようと努力するいい人」っていうの、山下。もう一度、聞いてみたいね。
夜のバスはやけにとばす。市民会館を出たときにポツポツしていた雨が本ぶりになってきていた。バスの広い大きなフロントガラス全面に雨があたり、はじけ、流れる。
ぼくを乗せたバスは、ぼくと分譲地の住民を乗せたバスは、まっ暗な深海の水の中を音速でつき進む巨大な魚なのだ。
全部洗い流されてしまえばいいと思う。すべてが終わってしまえばいい。スピードを出しすぎて、左カーブで対向車線にふくらみ、前からきた大型ダンプカーと激突する。
ぶつかる瞬間、ダンプカーのヘッド・ライトのまばゆい光線が、カメラのフラッシュのように乗客たちの顔をうかびあがらせる。何が起こったかも知らない乗客たち。
ダンプカーの接近をあらかじめ見てとっていたぼくは、そのひとりひとりの顔に向かって笑いかけてやろう。よかったですね、これでやっと終わりにできる。バカバカしい人生もおしまいです。
運転手はてんで荒っぽい。事故るよ、そのうちに。急停止。急発進。ミッション・ギアはガリガリ鳴り出すし、ディーゼル・エンジンはウィン・ウィンぶっこわれそうだ。ロー・ギアで四十キロぐらいまでひっぱってる。きっと、アクセル、両足で踏んでるんだぜ。
運転手だって、毎日がおもしろくないんだ。市バスなんかに就職したら、一生、村岡車庫行きとか鷺沼《さぎぬま》循環とか美しヶ丘(!)行きとかに乗って、せまいところをぐるぐる回ってるだけだ。強姦《ごうかん》でもしなきゃおさまらないだろうな。
ぼくと同じくらい世の中に腹を立ててるやつが、もうひとり、ここにいる。そういうのは、とても素晴しい考えだ。おい、テカテカ頭、俺のスニーカーを踏むなよ。こんどやったら、殴り倒すぜ。
ぼくは、ぼくの立っているところの前の席の女の子の脚がさっきから気になってる。高校生だと思うけど、タイトのミニ・スカートで、薄い黒のストッキング。足を置くとこがバスの左前輪で高くなってるところだから、もう、もろに見えそうなんだ。
ずっと見てもいられないし、見ないでもいられない。腿の上のバッグがもう少しずれたら見えるんじゃないか。
山下の脚は、もっと細くてしま[#「しま」に傍点]ってる。山下は、フレアーのミニ・スカートだった、きょうは。すわっている時なら、このななめ下の子のほうがすごいけど、歩いてる時はとても大胆な感じ。うしろでヒラヒラしてた。二階席に上がる時、ぼくは、ひやひやした。
高木なんかも、みんな、見上げてた。ぼくがそっちを向いたから、あわてて、高木は横向いて、顔を赤くしてた。いいやつだよな。
それで席についたら、岡田が自分のダッフルを山下のひざにかけた。かわいいヒザがカゼをひくといけないからね、だって!? そんな気色悪い言い方がどうしてできるんだろう。
山下も山下だ。自分のダウン・ジャケットだってあるのに、岡田のコートをかけさせとくなんて。ぼくは、それがいちばん腹だたしい。テカテカ頭をしばい[#「しばい」に傍点]たって、黒のストッキングの女子高生のスカートの中に手をつっこんだって、すっとしない。
映画のあいだじゅう、岡田がずっと山下の脚にさわってるみたいで、岡田のにおいが山下にしみこんでいくみたいでたまらなかった。
ぼくと岡田にはさまれて、山下は楽しそうにしていた。ぼくのイライラなんかには全然気づかないようだった。ぼくに話しかけては、岡田の方にからだを傾ける。そのほうがずっと傾きが大きい気がした。ほとんど、分度器ではかりたいくらい。
しばらくして、ぼくは、映画のストーリーが全くわからなくなっていた。クレオパトラとアントニーの関係もわからなかった。岡田と山下のことを気にしてたからだけじゃない。字幕がよく見えなかったのだ。それほど後ろの席でもないのに。
二次関数だとか社会のサブ・ノートだとかしているうちに、ぼくの視力は着実に落ちていっていた。いっしょうけんめい見つめたのだけど、明るい背景の時なんかはひとつも判読できなかった。
なんだか、ひどく心細くて、ひとり、とり残されるような気がしていた。となりからは、岡田と山下のクックッという笑い声が聞こえた。
残念だけど、ぼくは認めなければならない。二年のころ、山下は、岡田とつきあっていた。二人が寝たとかいううわさも聞いていた。
アホみたいな話だけど、そのころ、ぼくは、みんなと一緒になって、山下のことをひやかしてた。そして、いま、ぼくと山下はキスまでだ。それがどうだとはいわない。
だけど、ぼくは、岡田のことを見るのも聞くのもいやだし、会ったりすると、自分がとてもみじめな気にさせられる。俺のほうが、サッカーはうまいんだぜ、俺は県のベスト・イレブンだぜっていってやったところで、なんにもならない。
きょう、十二月二十七日のいま、山下は岡田に送られて帰っている。ぼくのはいりこむ余地はなかった。岡田と山下の家は、すぐ近くだった。それに、六人のうちで岡田だけがカサを持ってきていたのだ。
バスは、分譲地にはいったとたん、どんどん登りはじめ、乗客は停留所ごとにどんどん減っていく。それまでは、身動きできないくらいだったのに。
ひなだんの斜面を上がりきったところがぼくのバス停、終点の二つ前だ。人の減ったバスの中はとても明るくなった気がする。
テカテカ頭も女子高生もいなくなったバスに、ぼくは坐《すわ》りもせず、最初と同じところに立っていた。運転手も、なんだか、おだやかになった。
たぶん、乗客がきらいなんだ。この人はバスのことが好きになってて、そのバスに負担をかけて動きを鈍くさせてる乗客とその熱い息がきらいなんだ。
ぼくは、バスではないけれど、サッカー・ボールとスニーカーと自転車は、一生、好きでいると思う。だけど、人はそれだけではだめなんだろう。この運転手さんにも、バス以外に好きな人間がいて、その好きな女の子が他の男と歩いているなんてことがあるんだろうか。
ぼくは、ステップを降りながら、チラッと運転手さんの顔を見ようと思ったけど、運転手さんはぼうしを深くかぶって、前を向いたまま、ぼくがほうりこんだ回数券も無視していた。
強くて冷たい雨が降っていた。家に走ろうとは思わなかった。まだ、帰ってしまいたくなかった。いまごろ、山下と岡田は何を話しているのか。おたがいにきらいになったんじゃなかったのか。二人の別れ話っていうのはどうなってたんだろう?
ぼくは、山下から少しは聞いていた。そのエピソードの断片だけが浮かんできて、まとまらないまま雨の中にいた。きっと、運転手さんの荒っぽい運転のおかげだったのだ、ぼくが自分を支えていられたのは。ぼくは、しみじみと自分がひとりだと感じた。このまま、雨に打たれていたら死ぬだろうかと思った。
だけど、ぼくは、絶対に自殺することなんてできないのはわかっていた。ぼくが死んだら、日本のサッカー界の損失になるからって考えたけど、あまりおもしろくなかった。
一歩踏みだすごとにくつの中がグチャグチャいった。ぼくのたいせつなスウェードのくつは水に弱いから、洗ったみたいになって、ゴワゴワになっちゃうだろうな。みっともなくて、はけないかもしれない。
上を向いて、冷たい雨を顔に受けながら、ぼくは、はじめて泣いた。十二月二十七日のきょうははじめて、って意味でもあるし、女の子のことで泣いたのも生まれてはじめて。
道路から庭の植木ごしにリビング・ルームが見える。テレビからの怪光線が、青く赤くふくれあがって、レースのカーテンをひいたベランダの窓にうつってる。そのテレビの音声のあいまに、親父の高笑い。
きょうは、親戚《しんせき》の来る日だったのだ。年末から三が日まで、たっぷり泊まってくこの父の弟の家族のせいで、正月の母親は発狂してしまう。ここ数年、まったく同じシナリオでくりかえされるドラマ。
ぼくは、息をひとつ吸いこむと、心を整え、さも、停留所から全力で走ってきましたっていう感じでドアをあけた。ひどいどしゃ降りだったよ。まいったねえ。あっ、おばさん、こんばんは。ひろしくんも、クミちゃんも、大きくなったね。パパはいつ来るの。あさって、ふーん。
ぼくは、しずくをたらしながら脱衣所にかけこむ。クミちゃんとひろしくんは、びしょびしょのぼくを見についてきた。目を丸くして、手をつないで立ってる。ぼくが、パンツもぬれてるぞって言ったら、二人ともキャッキャッて笑う。自分たちも、雨の中をカサなしで走ってみたかったんだろうな。いま、誘ったら行くよね。
熱い湯につかりながら、ぼくは、クミちゃんやひろしくんの年にもどりたかった。ぼくは、湯の中に頭まで沈めてしまい、息こらえの限界に挑戦した。
ぼくが長い湯から出ると、親父はおばさんを相手に何本目かのビールを飲んでいた。母親は、テーブルの向こうから、ぼくにだけ見えるように露骨に不機嫌な顔をしてみせる。ぼくのことを味方だって信じてる。
テレビは時代劇らしかったけど、ストーリーをきいたところで、だれも説明できないだろう。うちは、いつも一日中テレビがついていてだれも見ていない。おばさんの子どもたちは寝かされてしまった。特に、小学校二年のクミちゃんにとってはもう深夜。
中学三年のぼくは、親父からビールをいっぱいとチーズをもらう。映画に行くまえにみんなでマクドナルドによって、ビッグ・マックをひとつ食べただけだったんだけど、全然、すいてない。
親父はごきげん。公平な眼で見たって、母親よりおばさんのほうが美人だし、だいいち、そうとう若い。山下が年とったらって、ちょっと考えて、胸が痛くなった。
山下やぼくや(岡田が)年をとって、おばさんや親父や母親の年齢になったときの姿。ぼくがサラリーマンになってて、そのとなりに、やはり年をとった山下がいてビールを飲んでいる?
そんなことって、どう考えたってありえないよ。やっぱり原発の事故かテロか何かで死んじゃうんだ。大人になるまえに。
ぼくは、カゼひいたみたいだからもう寝るっていって、歯をみがきにいった。母親は、たっぷり五分間、映画なんか見に行くからだ、天気予報で雨になるってわかってたのにカサ持ってかないんだから、とか、ぼくのまわりをぐるぐるまわった。
あのね、男はかっこ悪くて折りたたみガサ一本ぶら下げて外を歩いたりできないの。岡田先輩は別ですが。階段を上がってるのに、ハンバーグつくってあげようかっていうから、これには、いらないってつい大きな声でいってしまった。
いつまでも、そんなものを出しさえすれば食べると思ってるんだ。それに、きょうはマクドナルドへ行ったって話したんだぜ。
一緒にバスに乗って、ふたりでひとつのカサで帰って、どんなことをしゃべったんだろう。ぼくのことはなんて言ったんだろう。
山下の冬期講習は明日まであるはずだから、その帰りがけをつかまえようか。でも、ちゃんと話してくれるだろうか。
ぼくは、いま、よけいなことに気を使わないで勉強しなければいけない。高校受験まであと二か月しかない。きょうは漢字をしなかった。あしたは倍やらなきゃならない。
結局、眠れないので、手だけのばしてラジオをつけた。音を小さくして。山下のことをきらいになって、山下と別れてしまえば、勉強ができていい。毎日、学校からとんで帰って勉強する。受験のことしか考えない。女の子のことなんか忘れてしまえば楽だ、ひとりになるのはいいことだ。そう考えようとしたけど、やっぱり別れたくなかった。山下と一緒にいた時間は素敵だった。
ぼくはふとんを頭からかぶった。本当に寒気がした。カゼなのか。心がおかしくなったからなのか。ふとんは湿って冷たい。
今年の九月、山下とはじめてキスした。ぼくにとってははじめてで、山下にとっては二人め? それとも、三人め? 少なくとも、岡田のあとなのはたしか。
そんなことは、バカバカしいことだと思えるようになっていたのだけど、今晩はだめだった。山下のぼくに対する気持ちが信じられなかったから。山下と岡田が抱きあっているところを考えた。山下が岡田のために脚を開いてるところを想像した。ぼくは、泣いた。
気がついて机の上の時計を見ると二時半だった。FMは放送が終わってて、かすかに雑音をたてていた。
雨は降り続いているようだった。遠くで犬のほえるのが聞こえた。カーテンのすき間からさす街燈《がいとう》の明かりで、天井がうすぼんやりとしていた。
ぼくは、自分がこれからどうなっていくんだろうと、ばくぜんと不安になった。ベッドに横になっている、その背中が落ちつかなかった。
中学三年まで十五年間生きてきて、いろんな悲しいこと、つらいことがあった。そのなかでも、こんどのはいちばんひどい。いままでは、どんなに悲しいことがあっても、全体としては楽しくて、悲しいっていうのは一時的なものでしかなくて、全部が打ちこわされてしまったようなことはなかった気がする。
これから先、生きていくのは、こういうことのくりかえしなんだろうか。それとも、昔も、たとえば、小学校で転校することになった時とかは、いまと同じくらい悲しかったのか。それが、時がたつにつれて「ほろ苦く甘い思い出」みたいなものになってしまったのだろうか。
宇宙船から地球をながめれば、醜いものも美しいものもまざりあって、ひとつひとつの区別がつかないぼんやりとしたものになるように、距離をおけば、時間さえたてば、歓びも悲しみも、すべてが冬の日の暖かいミルクのような、ちょっと甘くてなつかしいものになってしまうのか。
そうだとしたら、この十二月二十七日という日、そして、そのおよそ十二分の一が経過してしまった十二月二十八日という日、それら、いま生きている時間にはなんの意味もないのだろうか。過ぎてしまえば、みな同じだというのなら。心を硬直させ、なにかを感じるのを拒否して、頭を低くし、風雨が過ぎるのを待ちさえすればよいのか。
ぼくは、自分がひどく年をとった気がした。早く眠ってしまって、次に気がついたら朝日がさしていた、鳥がないていた、というふうにしたかった。
ぼくは、マスターベーションをして、疲れてしまおうと思った。だけど、いくらこすっても、ぼくのペニスはしぼんだまま。いやらしいことを考えようとしても、山下の顔がうかんできてしまって悲しかった。
ぼくは、ベッドの上に起きなおり、近くにあった白いバルキー・セーターを拾ってかぶった。山下、やました、ヤマシタ。山下、やました、ヤマシタ。
ぼくの部屋は、十二月二十七日を最後に、ぼくの部屋でなくなってしまった。本棚も机もぼくのものじゃないみたいに、冷たい顔をして、そこにあった。
ぼくは、スキー用のソックスをさがした。片方はベッドの下から出てきた。パジャマのすそをソックスのなかに押しこむ。
どうせ、眠れないんだし、きょうは晩ごはんを食べてないんだから、なにか、ハンバーグ以外のものをつくろう。そんなに、おなかはすいていないけど。
ぼくは、夜食のプロなのだ。母親を追放するのに、最初はケンカしてうっとうしかった。でも、権利を手に入れてからは、カップ・ラーメンをつくったりかんづめのスープをあっためたり、ゆで玉子をつぶしてマヨネーズであえてパンに塗ったり。
このごろは、三回に二回ぐらいの割合で温泉玉子――黄味が半熟になってて、白味がドロドロのやつ――もつくれるようになった。そのために、理科室の温度計パクッたしね。
ぼくは、夜食をしたくて、受験勉強をしてたんだ。もちろん、二月になったら、朝型にもどすつもりだけど。
階段を降りかけて、冗談じゃなく、ぼくは背中が凍るかと思った。背筋がゾーッとするなんていうことばは、大げさな表現じゃなかったんだ。ぼくは、思わず手すりにしがみついた。そうしなければ、すべって、下まで落ちていきそうだった。
階段のいちばん下のあたりに、白い小さなものがあった。それが、風にふかれたみたいにそっと動いた。右に左にと揺れた。
それは、コツンというような音をたてた。十二月二十八日、午前三時ごろのはずだった。
ぼくは、やっとの思いで、階段のあかりのスイッチに手をのばした。
クミちゃんだった。クミちゃんは、ピンクっぽいパジャマをきて、階段にうずくまっていたのだ。
――どうしたの? クミちゃん、なにしてるの?
ぼくは、声を殺した。クミちゃんが答える前に降りていった。
――トイレに行ったの。そしたら、おへやにはいりたくなかったから。
――寒くないの? そんなかっこで。
ぼくらは、リビング・ルームにはいっていき、石油ファン・ヒーターをつけた。ぼくは、クミちゃんにぼくのバルキー・セーターを頭からすっぽりかぶせ、ソックスを渡すと、部屋に自分用のを取りにいった。
ぼくとクミちゃんは、温風吹き出し口の前にならんですわっていた。部屋のあかりはつけないで、パイロット・ランプのほのおを見てた。
――進《すすむ》兄ちゃんは、ずっと起きてたの?
――起きてたよ。
――えらいんだね。ずっと勉強してるんだね。ことしは、お兄ちゃんはいそがしいから、じゃましちゃいけないって、ママにいわれたの。
ぼくは、寝ていたって答えればよかったと思った。クミちゃんとは夏から会っていないから半年ぶりになる。クミちゃんは、少し神経質で、からだが弱くて、いい子だと思うのに、うちの両親はひろしくんのファンだ。子どもは、元気でわがままなのがいいと思ってる。
ぼくは、そんな親たちをバカにしてたけど、それは、ぼくを育てた反動なんだろうって、今はじめて気がついた。
温風に吹かれてるのは気持ちがよかった。たぶん、クミちゃんも。クミちゃんは、なんで、ふとんにもどらないで、階段のところなんかに腰かけてたんだろう。
――クミちゃん、なんか食べる?
――どっちでも。お兄ちゃんは?
――食べようか。
――うん。でも、夜は、ジュースとかはいけないの。
ぼくは、冷蔵庫から、冷凍ウドンのカレー味っていうのを見つけてきた。ローソンで売ってるやつ。アルミ・ホイルにはいってて、ふたをはがして火にかけとけばできちゃう。ひとつでいいだろう。ぼくは、そんなに食欲はないし、クミちゃんは小さいし。
この冷凍ウドンのコツは、最初は、とにかく、ほんとに弱い火にしておくこと。そうしないと、ウドンがこげつく。スープがとけたら中火にして、手ばやくかきまぜる。これをほっとくと、ウドンが固いのとデロデロのとになっちゃう。
さいばしでウドンをていねいに、底のほうのが上に、上のが下にいくように順ぐりにひっくりかえしていると、ぷーんとカレーのいいにおいがしてくる。真夜中の台所。クミちゃんは、ぼくのとなりで、背伸びをして、なべをのぞきこんでいる。
――たまご、いれない?
クミちゃんがぼくを見上げる。
――え? カレーのウドンだよ、これ。
――たまご食べると元気がでるんだよ。
――ほんと? たまごは脳みその中の悪いものを消してくれるのかな。
――知らないけど、たまごっておいしいでしょ。
――おいしいよ。あした、温泉たまごつくってあげるよ。
――わあ。おんせんたまご。
クミちゃんは、ぼくを見上げる。
――それで、どうして、たまご食べると元気になるの?
――おいしいなって思って食べると、栄養になるんだって。それで、からだがじょうぶになって、元気な子になれるんだって。いってたもん。
――だれが?
――先生。
――学校の?
――うん。
――ふーん。
ぼくは、やったことはなかったし、味に関しては少しあやしいと思ったんだけど、クミちゃんの提案どおり、たまごを入れてみることにした。学校の先生のいったことを、こんなふうに、とっておきの話みたいにひとにするってこと、ぼくにはあったんだろうか。
ぼくは、なべつかみがみつからないので、左手にふきん、右手に手をふくタオルを持ち、なべのアルミ・ホイルの耳、持ちにくい耳をつかんで、テーブルの上のたたんだ新聞の上におく。クミちゃんは、いちいち、くっついて動く。
せっかくのたまごが固まっちゃった。加熱が長すぎた。なべをおろしてから、割ったほうがうまくいくみたい。
ぼくは、いすにすわり、クミちゃんをぼくのひざの上にかかえ上げた。軽い。クミちゃんは遠慮したけど、先に食べさせた。ぼくは、自分が食べるより、クミちゃんが食べるのを見てるほうが楽しい気がした。
ぼくのひざの上で、クミちゃんは音をたてて、たまご入りカレーウドンを食べる。ぼくのひざの上で、クミちゃんは、小さくて軽くてあたたかい。
ぼくは、クミちゃんを犯すことを考えた。ぼくの大きくて硬くなったペニスが、うしろから、クミちゃんのやわらかいからだにつきささる。ぼくのペニスのピンク色に輝く先端はクミちゃんの内臓を破って、クミちゃんの口からでてしまう。そうなっても、クミちゃんは、そのかわいらしい小さな舌で、ぼくのペニスの先をなめてくれるだろうか。
だけど、そんな想像をしても、ぼくは、全然、興奮しなかった。ぼくのペニスは大きくなりそうもなかった。ぼくは、こんどは、それが嬉《うれ》しかった。
はしをおいて、クミちゃんがふりむいた。
――進兄ちゃん、クミのこと、さわってもいいよ。
ぼくは、驚いて、それまでクミちゃんのからだにそえていた手まではなしてしまった。
――さわりたければね、クミのことさわってもいいよ。
ぼくは、ぼくのひざの上に乗っている、小学二年の、小さくて軽くてあたたかいいとこ[#「いとこ」に傍点]にさわる権利をあたえられたってわけだ。でも、いったい、どこを?
――あのね、なんで、お兄ちゃんが、クミちゃんのこと、さわりたいって思ってるって思ったの?
――だって、男の子って、そうなんじゃないの? たかゆきくんもけんちゃんもひろし兄ちゃんも、みんな、さわりたがるよ。
――ふーん。
このごろの小学生はすごいんだろうか。それとも、ただのお医者さんごっこみたいな話なのかな。
――クミちゃんはね、さわらせるのは、いやなことじゃないの?
クミちゃんは、ほおばっていたウドンをよくかんで飲みこんだ。
――あまり好きじゃない。たかゆきくんならいいんだけど。
――たかゆきくんていうのは、クミちゃんの好きな子だったよね。
――うん。
それは、夏に、クミちゃんから聞いたことのある名前だった。
――好きじゃないけんちゃんとか、ひろし兄ちゃんとかにはどうするの? さわりたいって言われたら。むりやりさわられちゃったりする?
なんて話をしてるんだろう。ひろし兄ちゃんっていうのはすごいなあ、特に。
――あのね、たかゆきくんだけにさわらせると、ほかの子がかわいそうでしょ。みんなにさわらせてあげるか、たかゆきくんにもさわらせないか、どっちかしかないの。
――で、さわらせるほうにしたのか。
――うん。
――ふーん。それで、うまくいってるの?
――うん。
――たかゆきくんも、クミちゃんのこと好きだったんだよねえ。
――うん、そう。
――そしたら、たかゆきくんは、もんく言わない?
――たかゆきくんにもさわらせてあげてるのよ。
――そうじゃなくて、えーと、たかゆきくんは、けんちゃんとか、ひろし兄ちゃんとか、それから、なんとかくんとかが、クミちゃんのことさわるのがいやだっていわない?
――いわない。
――ねえ、たかゆきくんは、クミちゃんのこと大好き、なんだよねえ。
――そうだっていってた。
――ふーん。
ぼくは、小学校二年の女の子を相手に「ふーん」を連発している自分にあきれてしまった。
クミちゃんが残した、たまごいりカレーウドンを食べた。クミちゃんが、たまごのところを、しっかり半分とっといてくれたから、元気がでるような気がしないでもなかった。
クミちゃんとたかゆきくんの好きっていうのは、どういう感情なんだろう。本当にたかゆきくんは平気なんだろうか。クミちゃんのため、あるいは、けんちゃんをはじめとする友人たちのため、ガール・フレンドの兄のために忍耐を重ねている、尊敬すべき勇者なのか。
それとも、他の男の子にさわらせといて平気なんていうのは、たいして好きじゃないというだけのことなのか。いったい、人を好きになるというのは、どういうことなんだろう。
ぼくは、山下のことが好きなはずだ。他のやつらにはさわらせたくない、見せたくもない。たまらなく好きだ。これは、自信を持っていえる、すごくはっきりしたことだったはずなんだけれど――。
ぼくたちは眠ることにした。
なんだか、ぼくよりは、小学二年のクミちゃんのほうが、レベルが上のような気がした。
二人ともお湯でうがい[#「うがい」に傍点]をする。歯をみがくのがメンドウだったから。クミちゃんのママにはないしょ。
真夜中にウドンを食べて、歯みがきの秘密をつくって、クミちゃんはピョンピョンはねていた。セーターが長くてペンギンさんだよ。そんなクミちゃんにさわるというのが不思議だし、さわらせてあげるというのも。
一階の和室は、いつもと違う、濃い、ムッとしたにおいがしてた。おばさんは酔っぱらってるらしく、いびきをかいていた。
クミちゃんのかけぶとんを、クミちゃんのからだに沿って、パンパンたたいて、あったかくしてあげていると、おばさんがねがえり[#「ねがえり」に傍点]を打ってこっちを向いた。はだけたねまきの間から白い胸が光ったけど、ぼくは眼をそむけた。
十二月二十八日、午前四時、ぼくは、クミちゃんに着せといたバルキー・セーターとソックスをわきにかかえて階段を上がりながら、クミちゃんと山下とたかゆきくんと岡田とテカテカ頭と運転手さんと女子高生の黒いストッキングの脚とおばさんの白い胸が、頭の中をぐるぐるかけめぐっていて、なにがなんだかわからなくなっていた。
踏みだす足の一歩一歩が、フワフワしていて、空にのぼっていくようだった。熱があるのなら、よく眠って、早くなおさなきゃいけない、明日は温泉たまごをつくるんだから。
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ぼく、歯医者になんかならないよ
ぼくは、いま、教室で耳をすましている。そうじゃなくて、耳をふさいでいるのかもしれない。
教室ったって、学校のじゃない。塾のなんだ。日本でいちばん高い塾。たとえいちばんでないとしても、じゅうばんめぐらいにはお金がかかる塾。教室はマンションの十九階にあって、あたりを見おろしている。夕方には、遠くに海の光るのがわかる。
黒板なんかない。ホワイト・ボードに六色のマジック・インキがならんでる。机はほんもののパイン。ひとつのスイッチで、てんじょうと、かべのあちこちと、個人用のスタンドにあかりがつく。地球防衛軍の司令室みたいな教室なんだ。
自分のスタンドは、机の手もとについているコントローラーで、明るくしたり暗くしたりできる。新しくはいってきた子は、みんな、授業中に、コントローラーで遊んでいておこられる。ぼくもそうだった。だけど、いまは、たまにしかない。よっぽどたいくつしたときとか、田中くんに合図を送るときとか。
ぼくのクラスは、ぼくをいれて三人しかいない。「家庭教師の場合のように依頼心が生じることなく、かといって、学校のように群集にうもれてしまうこともない、適度な競争心をたもちながら、講師は全体に目のゆきとどく、理想の少人数教育」なんだ。すくなくとも、パンフレットにはそう書いてあって、お父さんは、ぼくに読んでくれた。楽しそうに。
お父さんは、話しあいがたいせつだっていっていて、ぼくの家族はよく話しあう。お父さんは、ちゃんと話しあいをして、なっとくしたうえで、ぼくに塾に行ってほしいっていう。だけど、ぼくは、話しあいが好きじゃない。話しあいをしてると、なみだが出てきて、それで、何もいえなくなってしまう。こんなお金のかかる塾に通えるのはしあわせなんだって、お父さんはいう。お父さんは、子どものころ、家が貧しくてくろうした。だから、おまえには、できるだけの、最高のことをしてやりたい。
田中くんも井上さんも帰ってしまった教室にひとり残って、ぼくは、「面談」のすむのを待っている。ドアの向こうで、お父さんとぼくの先生たちが話しているのが、とぎれとぎれに聞こえてくる。もちろん、学校のじゃなくて、塾の先生たちだ。話題は、ぼくの成績、そして、どの「有名中学」に受かるかっていうこと。
ここは高くていい塾だから、月に一回は「面談」があって、みんなでぼくのことを話すしくみになってる。お父さんは、大きな声で笑う。かん高いのは、算数の岡本先生。ぼくの答案の字はきたない、きたないからおろして[#「おろして」に傍点]くるときまちがうんだって、岡本先生がかがみこんでもんくをいったとき、あんまり息がくさいんで、ぼくはむせてしまった。
ぼくは、学校から帰ると、いそいで宿題をやって、地下鉄にとびのる。ふだんの日は、五時から塾がある。五時にはじまって、とちゅうで夕食、デラックスでいつも食べきれない夕食があって、九時まで勉強する。学校の宿題が多かったときは、塾から帰ってから、学校の宿題と塾の宿題をする。塾の先生は、学校の宿題なんかしなくていいっていう。学校のは、同じ漢字を三十回書いてこいとか、単位計算五十問とか、頭を使わないのばかりで、クラスのできない子にあわせて作ってあるんだから、無視しろっていう。そんなのは犬の訓練なんだって。でも、ぼくは、宿題をやっていく。塾のが終わらなくても。ぼくが毎日塾に行っているのをみんなが知っているから、塾のせいで宿題ができないんだって思われたらいやだから。
教室はひろくて、つめたくて、せまい。ぼくは、勉強に最適っていうかためのイスにじっとしている。ぼくは、自分のいままでの十一年間で、この教室にいる時間がいちばん長かったんじゃないかと思う。冬休みや夏休みは、ほとんど一日中、ここにいた。ひとりですわっていると、二度とここから出られないんじゃないかって気がする。つるつるすべすべのイタリアン・スーパーカーみたいな部屋も、窓の下にひろがる街のあかりも見あきてしまった。絶対にあけられないようになってるこの窓ガラスを割ったら、外には別の冷たい空気が流れてて、その中にとびこんで、落ちていけるなんてうそみたいだ。ガラスには、映画がうつってるだけで、その向こうは、これと同じ教室がありそうだ。そして、ぼくと同じような六年生がひとりですわっている。
日野先生の声がする。他の人とはちがって、すぐにわかる。日野先生は国語の先生だ。先生は、大学を出て、そのあとまだその上の学校に行ってるっていう。考えられない。中学に三年、高校に三年、大学に四年か六年通って、まだ行き続ける。一生、学校に通ってる。ぼくは、五年と半年でいやになってるのに。
先生は、よくミニ・スカートをはいてくる。ぼくと田中くんは、消しゴムをひろうふりをして、先生のあしのあいだをのぞいた。井上さんは、女のくせに、おもしろがって自分もマネした。それで、井上さんが、キャッキャッて笑うから、先生にばれてしまった。でも、先生はおこらないで、まっ赤になっていた。ピンク色のパンツが見えた。
ぼくは、半ズボンの中に手を入れる。パンツの上からチンポコをにぎってやる。チンポコをにぎってると、ぼくは、安心できる。頭の中がキューンとして、いやなことは何も考えないで、自分の好きなことだけ想像してればよくなる。首から上が白っぽくなる。たったひとり、十九階の塾で、ぼくは、チンポコをにぎっている。こうしていれば、教室に負けない。
ぼくの名前はミダス。竹内ミダス。あの、手にさわるものすべてを黄金にかえた、ギリシア神話のミダス王だ。もちろん、本当の名前じゃなくて、あだな[#「あだな」に傍点]だ。でも、みんなが、ぼくのことをそう呼ぶ。みんなっていうのは、学校のみんなのことだ。だれも、ヒロミなんて平凡な名は呼ばない。時々、先生までがふざけて、ぼくのことを、ミダスくんっていうことがある。先生っていうのは、もちろん、学校の先生のことだ。そうするとみんなが笑うから、先生は、自分が人気があるんだって思ってる。ぼくは、呼ばれてもニコニコしている。からかわれたときに、いやがったりおこったりしたら、もっとひどくからかわれるから。そうやって、いじめられっ子になった子を、ぼくは知っている。
寒い雨の日だった。ぼくたちは、ひざをそろえて、紙しばいを見ている、四十人の小学一年生だった。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
「フリギアの王様ミダスは、たいへんによくのふかい人でした。大金持ちなのに、なおもお金をほしがりました。どんなことでもよい、ひとつだけ願いをかなえてやろう、と神にいわれると、ミダス王は、手にふれるものが黄金になるようにとお願いしました。さあ、どうでしょう。ミダス王がさわるところ、まども、イスも、テーブルも、かべも、家じゅうが金になってしまいました。まぶしくて、まぶしくて、目をあけていられないほどです」
[#ここで字下げ終わり]
そのとき、右のすみから、左のすみから、窓のすきまから、黒板のうらから、てんじょうのしみから、ひそひそと声がしてきた。
――ヒロミがミダスだ。
――ヒロミがミダスだ。
ひそひそ声は、ぼくのまわりをとりかこむと、たちまち大きくなり、風があし[#「あし」に傍点]をなびかせるように部屋じゅうをかけめぐり、ゆさぶった。
それいらい、ぼくはミダス。竹内ミダス。
みんなが、なんでそう思ったかは、かんたんなことだ。ぼくの家は、大きくてピカピカしている。みんなのうちは、アパートだったり、社宅だったり、市営住宅だったりして小さいのに、ぼくのうちは三階建て。まわりには堀みたいなのがめぐらしてあって、コイがたくさんいる。へいの上には、どろぼうよけに、とがったガラスがささってる。庭には芝生があって、お父さんが、パットの練習をしている。夜には、四つのスポットライトが、屋上の「竹内歯科医院」っていうカンバンを照らして、建物がホワイトハウスみたいに浮かびあがる。それが、ぼくのうちだ。
お父さんは、歯医者のほかにも、ロータリーの役員や、PTAの会長をしてる。(小学校の校医をずっとしてるから、みんなが、校長先生までが、お父さんのことを知っている。)みんなのうちは、白いカローラなのに、ぼくのうちには、ダーク・グリーンのメルセデス・ベンツとボルボとBMWがある。これは、みんなは知らないと思うけど、金庫には本当に金がある。お父さんは、時々、おふろをでてお酒を飲みながら、ひざのうえにのせてみたりする。ぼくにも、持たせる。金はとてもやわらかい。
ぼくのチンポコは、ちぢんでミミズみたいになってしまう。お父さんのことを考えるからだ。
ぼくは、けさ、お父さんとケンカした。話しあいだってお父さんはいうと思うけど。雨の朝はきらいだ。雨がいやなんじゃなくて、ケンカになるから。お父さんは、ぼくを小学校まで送ってやるっていう。ベンツで送ってくれるっていう。学校までの細い道を、自転車の人をおろさせ、荷物を持った人をへいにへばりつかせ、小学生にハネをかけながら、ベンツで送ってくれるっていう。
ベンツは、ひろびろしていて静かだけど、ぼくは好きになれない。みんなに見られるから。お父さんはそれがいいっていう。ベンツにぶつけたら、しゅうり代が高いから、他の車は近よらないし、とのさまの大名行列みたいだって。お父さんがとのさまなら、ぼくはなんだろう。アホの若との[#「若との」に傍点]の役。
ボルボだってそう。スウェーデンの鉄でできていて、世界一がんじょうな車だそうだ。乗用車どうしでしょうとつしたら、絶対に勝つ。前がへこむくらいで、乗っている人はだいじょうぶ。お父さんは、歯医者をしていて、からだが資本だから、自分のからだを大切にしてるからボルボを買ったんだっていう。それだったら、カローラに乗ってる人のからだはだいじじゃないの? その人たちは、お金がなくてボルボが買えないんだからしかたがないっていうのが、お父さんの考え方。お父さんは、いっしょうけんめいにはたらいて、努力して出世したからボルボが買えた。なまけものは、カローラに乗ればいいんだって。
だけど、何かのつごうで、がんばって、努力しようとしてもがんばりようがなかったり、がんばってもだめだった人もいると思うんだ。ぼくは、うまくいえない。声がかすれてしまう。お父さんは、運も実力のうちだっていう。そういうことじゃないんだ、ぼくのいいたいのは。
カローラに乗ってる人より努力した人がブルーバードに乗って、ぶつかったら、カローラの人のほうがひどいけがをして、時には死んじゃう。ブルーバードよりお金をもうけた人は、セドリックが買えてブルーバードに勝つ。――それで、最後にボルボがくればいいの? ボルボよりずっとじょうぶで、ずっと高い車ができて、お父さんよりいっしょうけんめいにはたらいた人が買ったら? きりがないんだ。そうして、その人たちがみんなで、カローラをぺちゃんこにつぶしにやってくる。
こんなこと、ぜんぶ、けさにいいあったわけじゃない。いつものことだからだ。ベンツじゃなくて、BMWにしてくれればいいってことでもない。ぼくは、けっきょく、かさも持たないでとびだしたから、お母さんが追いかけてきた。
お母さんも、お父さんも、ぼくのことを変な子だっていう。雨の日には車で送ってもらったほうが楽なのにって。ふつうは、よろこぶことなのにって。お兄ちゃんはいつもそうしてもらってたのに、この子は変な子だって。
お兄ちゃんは、とってもおとな[#「おとな」に傍点]なんだと思う。車で送られるのは、お兄ちゃんだってはずかしかったはずだ。スイスへ行ったときのおみやげを先生にわたすの、いやがってたことだってあるんだし。だけど、お兄ちゃんはガマンできるんだ。ぼくはだめだ。
お兄ちゃんは、いまぼくがいるこの塾、日本でじゅうばんめぐらいには高い塾に、三年生から四年間来てて、家から行けるところではいちばんいい中学に合格した。ぼくには、とてもむりなところ。お兄ちゃんはいってた。白鳥の中にいれば白鳥はめだたないって。いい中学にはいれば気楽だ。友だちは、みんな会社の社長や医者のうちだから、ひとりだけ特別ってことがない。だから、ぼくも勉強して同じ中学にこいっていう。お兄ちゃんは、カシコイんだ。だけど、いつから白鳥になったんだろう? ぼくは、ドブネズミだ。それでも、みんなはミダスって呼ぶ。ドブネズミのミダス、それがぼくの名前。
おなかがいたい。チンポコを、そっと、手のひらでつつむようにする。ぼくは、すぐにおなかがいたくなる。なんでだかわからない。トイレに行ってはいけないってことになると、急におなかがいたくなってくる。たとえば、地下鉄の中。学校の授業中。塾は平気。行きたいっていったら、すぐに行かせてくれるから。だけど、いま、トイレに行ったら、ぼくは、「面談」の前を通らなきゃいけない。塾の先生たちと、お父さんに見られて、声をかけられて、バカにされて、ぼくは、ウンコをしに行かなきゃならない。
五年生のときだった。遠足の日で、バスがおくれたんで、ぼくは、学校からちょくせつ塾に行った。会社から帰る人でこんでた。ぼくは、リュックサックをせおって、ギューギューにつぶされて、ジロジロ見おろされてた。足がゆかにつかなかったりした。おなかがいたくなったけど、さいしょは気にならなかった。奥のほうに押しこまれて、ぼくは汗をかきだした。トイレに行きたくなったんだけど、駅はまだだった。やっと着いた駅でも、ぼくはおりられなかった、すぐに人が乗ってきて。ぼくは、もう、だめかと思った。地下鉄ん中でもらすかと思った。
塾のある駅で、ぼくは、トイレにかけこんだ。新聞紙がちらばってて、落書きだらけのとこで、ぼくは、二十分ぐらいしゃがみこんでた。足がしびれたけど、出たら、また、したくなりそうだった。ちり紙がたりなくて、ハンカチでふいた。ぼくは、それから、地下鉄に乗ると、ドアのそばのぼうをはなさない。
塾を休みたいっていうと、お母さんは、高い授業料はらってるんだから、もったいないっておこる。そんな塾でぼくの頭がつくられていくのなら、ぼくの頭の中には黄金がつまってるにちがいない。くさった黄金ののうみそ[#「のうみそ」に傍点]。
ぼくがこの塾に来てるのは、日野先生がいるからだと思う。本当は、みんなが行けっていうからだけど。日野先生のいいところは、問題ばかりやってるんじゃないところだ。先生は、話をするのも勉強のひとつだからって、ぼくと田中くんと井上さんにいろんなことを聞く。だから、ぼくたちは話す。(お父さんの話しあいとちがうのは、話をしても何も決まらないところ。はじめは、たよりなかったけど楽だ。)
算数は、毎日「力の五千題」をやってる。お兄ちゃんは、五年生のうちにCの問題までできたんだって岡本先生はおこる。ぼくは、六年生の十月になるのに、Bもぜんぶはできない。いちどできたはずなのに、しばらくたつとわすれちゃう。だから、毎日、なんかいもなんかいも同じ問題をする。数字だけかえたりして。岡本先生は、ぼくのことをザルあたま[#「ザルあたま」に傍点]っていった。すくっても、すくっても、水がのこらない。
先週の国語の時間だった。
日野先生は、物語を読んでくれた。ぼくたちはおおよろこびだった。漢字の書取りをしたり、ことわざや四字熟語を覚えたりするはずの時間だったから。しょうもない話だった。童話だとか、物語だとかいうのはみんなしょうもないけど、この日のはとくにひどかった。
主人公の小さい女の子は、あまりいい子ではないけど、がんばる子だった。その子の家はびんぼうで、遠足に行けなくなる。(ここで田中くんは大笑いをした。)その子は、家の貧しいのがくやしくて、お母さんのことをぶつ。お母さんはぶたれたままになる。(井上さんは、ずっと、キャッキャッていってる。)女の子とお母さんは、二人でだきあって泣くんだけど、なにかうまいことがあって、遠足にはいけることになる。あまりしょうもないんで、田中くんは、暗い、暗いって、イスをガタガタさせた。井上さんは、女の子の方言のマネをした。
でも、ぼくは、笑えなかった。ノートを机の上に立てて、顔をかくしたんだけどだめだった。小さい女の子がカワイソウで、カワイソウというより、なんだか女の子に悪い気がして、それから、これは、けさ学校に行くとちゅうでわかったんだけど、女の子のことでお父さんのこと思いだしたみたいで、とにかく、ぼくは、だめだった。
井上さんと田中くんは、ぼくのほうにのりだしてきて、ぼくの前に顔をつきだした。おどろいたんじゃなくて、人が泣くのはおもしろいから、ワクワクしたんだと思う。日野先生は、きょうは早く終わりましょうっていって、井上さんと田中くんを帰らせた。先生は、ぼくには何もいわないで、ぼくのほうを見ようともしないで、他の生徒たちのテストの採点をはじめた。ぼくは、先生がおこってるんじゃないかと思った。
ぼくは、パンツの中に手を入れて、ちょくせつにチンポコにさわる。皮をおしさげてやる。チンポコは大きくなる。ぼくは、平気だ。おなかはいたくならない。日野先生のことを考えていて、チンポコをさわっていれば、ぼくはだいじょうぶだ。
ぼくは、もう、なみだは出ていなかったけど、どうしていいか、わからなかった。先生は、うつむいて、赤ペンで丸つけをしてた。まん中でわけた長いかみの毛がゆれてた。先生は、本を読むときや、丸つけをするときはメガネをはずしてる。先生は、ぼくのことを見てくれない。ぼくは、しょうもない話で泣いたことがはずかしかった。だから、あんなことをしたんだと思う。
ぼくは、机の下をのぞきこんだ。前に、田中くんとしたときとちがって、堂々と、しゃがみこむみたいにして。先生のあしは、細くてスラッとしてた。うすいストッキングの奥のほうは、スカートの下で暗くなってた。よくわからなかったけど、パンツまで見えたと思う。ぼくは、カバンにノートとふでばこをほうりこんで、何もいわないで教室をとびだした。先生の声がうしろでしてた。ぼくは、連絡帳を入れわすれた。
「面談」は、なかなか終わらない。ぼくは、ひとりで地下鉄で帰りたかった。お父さんは、どうせ、車の中で、「面談」で聞いたことをぼくにいうんだ。なんでも話すことが、おまえのためになるんだっていって、ゆっくりと、ひとつひとつ思い出すようにして。
ドアのところに立っていって、ぼくは、すきまに目をあててみる。岡本先生らしい背中と、理科の高橋先生が見える。日野先生は――わからない。
――弱りましたなあ、やはり、甘やかしすぎて、育て方を失敗したんでしょうなあ。もはや手おくれといったところかもしれませんな。
お父さんだ。お父さんは、家族じゃない人と話すときは、いつもより大きな声で、のばすようにしてしゃべる。ぼくは、お父さんの声がきらいだ。
――竹内くんは人とあらそうことができないんですね。人をけおとしてまで自分が合格しようなんて思わないんです。やさしくて、とてもいい性格ではあるんですけど、実際の中学校入試では不利ですね。
日野先生が、岡本先生の背中と高橋先生のあいだに見える。話をするんで前かがみになったみたい。ぼくは、日野先生だけを見ていたい。
先生が、まだ話してるとちゅうなのに、お父さんが、さえぎってしゃべりだした。
――ハアハア、そうでしょうな。だいたいあの子には、からっきし、ファイトってもんがない。前から、ごく小さなときからそうなんです。上の子のほうは、先生方もごぞんじのとおり、負けずぎらいと申しますか、なにくそって感じで、よく勉強したんですが……。こっちの子は、机には長い時間向かわせても、そのあいだ何をしておるのやら、ぼうっと考えごとでもしてるようで。母親に似たんですかなあ……。そこでですね、きょうは、ひとつ、おりいってご相談をお願いしたく、うかがわせていただいたわけなんです。あの、はっきりいって、何か、コネってやつはありませんでしょうかね。塾長先生、私の持ってるのはですね、歯科大学ならなんとでもなるんですが、はずかしながら、力不足でしてね、そこへ行くまでの、下の学校には手がまわらないんですわ。
ぼくのチンポコは小さくなってしまう。パンツから手をだして、ぼくは、ドアに耳をおしつける。おなかが、ズキッとする。
――いま兄は中二で、PTAもしてるんですが、あの学校は父兄のコネっていうのはきかんようなのですよ。ま、そこまで応じてたら収拾がつかんってことでしょうな。塾長先生、高望みはいたしません。あるレベル以上の私立中学でしたらどこでもかまいません。多少の用意はございます。そこのところ、塾長先生……。
もう、じゅうぶん。
ぼくは、頭がグシャグシャになった気がして、それ以上聞いていられなかった。これでおしまい。裏口入学なんてしたら、ぼくは、本当にミダスになってしまう。不合格通知も、ぼくがさわれば、たちまち合格にかわる。
ぼくは、ジュータンの、毛足の長い、とても高級そうなジュータンの上にしゃがみこむ。ちぢんだチンポコ、いたいおなか。ぼくは、ひざをかかえる。
お父さんの声は大きい。ぼくがここにいるのを知ってて、わざと聞こえるようにしてるのかもしれない。そんなにも、ぼくのことを心配してるんだって、わからせるために?
――兄は医者にして、弟は素質が落ちるようなんで、私のあとをつがせて歯医者にしようと思っとるんですよ。上は先生方のおかげでいい中学にいれていただいて、ひと安心なんですが、こいつには、困らせられますなあ。
ぼく、歯医者になんかならないよ。ぼくは小さい声でつぶやく。たったひとり、十九階の教室で、「面談」の終わるのを待ちながら。
ぼくは、何回か、お父さんにそういってやろうって思ったことがあった。でも、いえなかった。雨の日の車のこととか、塾のこととかとちがって、それは、いってはいけないことのように感じてた。そういったら、お父さんがおこるだろうっていうだけじゃなくて、なんだか、ひきょう[#「ひきょう」に傍点]なことみたいな気がしてた。お父さんは悲しむだろうし、ぼくがいままで育ててもらえたのは、歯医者って仕事のおかげなんだし。
だけど、ぼく、歯医者にならない。
お父さんはいうだろう。歯医者にならないんなら、なにになるんだ? 頭の悪いおまえがなにになれるんだ? 歯医者っていうのは、人さまのからだをなおして感謝される、すばらしい職業です。
ぼくは、そのときには、声がかすれてる。本当に、ぼくは、なんにもなれない気がする。どうやって生きていったらいいのかわからない。おとなになっても、したいことはないだろうし、なにもできないだろう。だから、ぼくは、お父さんにいう。ぼくは、なににもならないし、なにもしない。
ぼくは、キューンといたいおなかをおさえて机の上にはいあがる。いつもなら、先生が中央にすわって、生徒がまわりを囲む半円形の机。パインの木目がとてもきれいで、いたずら書きひとつない机の上に、ぼくは、スリッパのままのぼる。
そうだ、ぼくは、ウンコになるのだ。
ぼくは、机の上で足をふんばってしゃがみこむ。おしりをドアのほうにむけて、ズボンをおろす。肛門《こうもん》の先がピクピクってして、ウンコが出はじめるのがわかる。ピカピカの机の上にウンコがおちる。すぐに、においがひろがる。
ぼくの名前はミダス。竹内ミダス。ぼくがさわれば、すべてのものは黄金になる。ぼくは、ウンコですべてを金色にする。まずはじめは、この机。スタンドにイス。部屋全体。それから、この塾。そして、最後には、ぼくもウンコになる。
小さいのが二コでたあとは、ビチャビチャのウンコになった。おなかが急に楽になる。ぼくの肛門から、夕立みたいに、すごい勢いでウンコが噴きだす。ぼくの右足がぬれる。いまにこの部屋は、ぼくのウンコでいっぱいになって、ぼくは、おぼれる。
ドアの向こうで、人が動く音がする。お父さんの声も聞こえる。「面談」が終わったのだ。もうすぐ、だれかが、ぼくを呼ぶためにドアをあけるだろう。
お父さん、岡本先生、高橋先生、そして、日野先生がぼくを見る。ウンコの海におぼれて、ウンコになってしまったぼくを見る。
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セビージャ
恥かきっ子という言葉を知ったのは、小学校の三年ぐらいだった。そのいきさつは、よく覚えていない。授業参観で教室の後ろに並んだ親たちのなかで、ぼくの母親だけが妙にふけているのに気づいた瞬間の記憶は、はっきりとしている。そのことと何らかの関連があるのかもしれない。
ぼくが生まれたとき、両親は四十代。父ときたら、ほとんど五十に手が届くところだったのだから、世間の基準からいったら立派な恥かきっ子だったのだろう。
中年になってからの初めてのこどもだ。愛されたのだとは思う。ただし、その言葉を知ったぼくは、自分が何か恥ずかしい存在なのだと思い込んだ。まるで、生まれてきてはいけなかったのだと宣告されたかのように。その考えは尾を引く。
自分が恥かきっ子であると学んで少しして、母が死んだ。その後、父はかなり若い女と再婚したが、ぼくが高校二年のときに事故死する。
義母をひとり鎌倉の家に残し、ぼくは京都の大学に進学した。文学部を選択したこと、そしてあえて東京の大学を避けたのも、結局は、単純化すれば父への反発だったのかもしれない。
おかしな話だ。死んでしまって、この世にはいないものへの反発。あてつけをするにも、その反応が期待できないというのに。
父は、ぼくが東大の法学部に行くと信じていたと思う。信号待ちで停車している間にトラックに追突され押し出された交差点で、タイミングよく右側から来たトレーラーに弾き飛ばされるというピンボールのような死を死ぬ時点まで。
父には話さなかったけれど、ぼくとしては、その生前から法学部に行って現実的な学問をする気はなかった。経済や法律を学び父親の事業を継ぐなどということは、本来生まれてくるべきでなかった恥かきっ子にはふさわしくない、というような理屈があったかどうか。
入学金に授業料、敷金や前家賃といった大学進学の当初にかかる費用を負担してもらったあと、義母からの仕送りをぼくはことわった。それは合格通知を受け取ってすぐに決めたことだった。
大学近辺のワンルームマンションとは比較にならないくらい低家賃の、修学院にある農家の離れを借りた。サークル活動やコンパだとかに顔を出さず、自転車を飛ばしては家庭教師をかけもちでこなすぼくは、周囲からは古典的な苦学生に見えたことだろう。
そして、そんな京都での生活もほぼ三年になろうというこの二月、義母が死んだ。進行の速いガンだった。開腹しても手のほどこしようがなく、そのまま縫い合わせるようなものだったとあとになって聞いた。真偽のほどはわからない。
知らせを受け病院に着いたときにはすでに息を引き取っていた。義母は、まだ母がぼくを生んだ年齢にもなっていなかったことを、ぼくはあらためて葬儀の席で確認することになる。
喪主といっても、ただ座ってお辞儀をしているだけの仕事だった。全体の手配は義母の両親による。病院の薄暗い廊下で、ぼくは彼らの顔がかろうじて認識できた。父の葬儀以来の再会だった。義理の祖父母たち、ステップ・グランドペアレンツ。
これからも、いつでも遊びに来ていいのよ、あなたは私たちの孫なのだから。義理の孫とは言われなかった。ステップ・グランドチャイルド。
父の姉だという耳の遠い老婆が、ぼくを抱きしめるようにする。かわいそうに、ひとりになってしまって。今度こそ、本当にひとりに。
火葬場に到着して椅子の席だったのは嬉《うれ》しかった。高校で陸上競技をしているときに痛めたぼくの左|膝《ひざ》は、長時間の正座には耐えられない。
翌日には税理士と話すことになった。長く父とつきあいがあったという。遺産処理のため、義母の指示に基づいてのことだ。
税理士は右手を差し出した。初対面のクライアントとは握手を交わすのが、いつもの彼のビジネスのスタイルなのだろうか。左手には年季のはいった、いかにも重要な書類が詰まっていそうな厚みのある鞄《かばん》。落ち着いた濃色のスーツの彼に、ジーンズにセーター姿のぼくが手を差し出して応《こた》える。
大学の教師という一種超絶した職に就いているものは別にして、ぼくは仕事をする大人の人間と初めて出会ったような気がした。
「お母様のこの世との別れ方は見事なものです。いや、本当に素晴らしい、私も出来ればあのようにありたいと思いますよ」
初老の紳士は、義母を失ったぼくに対する丁重な配慮なのであろう、静かな笑みを浮かべて言う。
彼の示唆しているのは、遺言をはじめとする義母の死への準備のことだ。義母は実務にたけていたのだ。おそらく、父の秘書の仕事をしているときからそうだったのだろう。父の好みは、まさに実務なのだから。
ガンの告知を受けたあと、義母は個人的な身辺の整理にもいそしんだようだ。山ノ内の家は、ひどく片付いていた。高校時代のまま放っておいたぼくの部屋だけが異質だった。それ以外のスペースは、長い間だれも住んでいないような印象すら与えた。
居間や食堂、台所と、確認というわけでもなく巡っていて、こどものころ旧軽の別荘のドアを開けたときのことを思い出した。夏休みになったばかり、シーズンの初めの、湿った、閉ざされていた建物の匂い。そのとき、ぼくの隣に立っていたのは、実母の場合もあれば義母の場合もあったはずだ。
不動産、預貯金、有価証券。物納による相続税の処理。税理士の説明は実感を伴わない。彼は、鞄から黒の柔らかい革の袋にはいった小さなものを取り出しテーブルに置くと、とりあえず早めに印鑑の登録をすますようにと言った。義母はぼくに実印まで用意してから死んだのだ。
鎌倉にしては寒い日だった。御成《おなり》にある市役所のロビーで、番号が表示されるのを待つ。窓口で手渡された、自分の名前が刻まれているとも思えない印鑑証明書の印影に、東大法学部が父とともに甦《よみがえ》ってきたように感じた。そして、それがあまりにこどもっぽい発想だとすぐに気づくくらいには、ぼくは大人になっていた。
税理士とは数回の会合をもたなければならなかった。父が事故死したときに複雑な権利関係の処理はすんでいる、今回はいたってシンプルなものだ、と彼は言う。
横浜の関内《かんない》にある事務所にぼくが書類を届けることもあれば、その日のように鎌倉に彼が来てくれることもあった。山ノ内のその家は、迷わず売却を依頼した。ひとりでこんな広い洋館に住む必要がどこにあるというのだろう。ぼくが京都へ行ってからの三年間、義母はそのようにして暮らしていたのだけれど。
ああ、それから車も、とぼくは言った。すると、書類に何かを記入していた税理士の手が止まった。
「お母様は、あなたに是非乗っていただきたいとおっしゃってたのですが」
「ぼくは免許証を持ってないんです。母もそれは知ってたはずなのだけど」
「お取りになったらいかがです。急ぐことではありません。お母様の愛用されていた車でしょう。それぐらいは手元に置いておかれたら」
それは、いつにないことだった。彼が自分の意見を言わなかったというわけではない。むしろ、世間知らずのぼくに常にアドバイスをしてくれていた。
ところが、義母の車に関しては、彼の言葉にはいつもと違う強い響きがこめられているように感じられたのだ。
「ちょっと、待っていてください」
義母の車をめぐっての、何か妙な気まずい雰囲気を壊したかったのだろうか。あるいは、ただ税理士と向かい合っている時間に疲れたのかもしれない。
ぼくは席をはずした。二階に上り、義母の使っていた部屋にはいる。そこは、もともとは父とのふたりの寝室だった部屋だ。こどものぼくが足を踏み入れることはめったになかった空間。
きちんと整理されたライティングデスクの上に、キーが置かれていた。
「やっぱり処分してください」
ぼくは、戻るとキーを差し出した。
税理士はキーホルダーを手にとった。深いグリーンのメルセデスの車体の色、それと同系色のシートの革に合わせてつくられたキーホルダー。
ぼくは自分の目を疑うところだった。ピンストライプの背広を着た、これまでの接触で冷静であり有能だと思っていた税理士は、しっとりとした革の感触を確かめるようにして目をうるませていたのだ。
まあ、それはいいだろう。それは彼の人生の問題であり、義母の人生の問題だ。ぼくのではない。
そして、ぼくはセビージャに来た。グアダルキビル河の両岸に紫のハカランタが咲き乱れるアンダルシアの町へと。
朝、香りの高いコーヒーをゆっくりと飲んでから、ぼくはトリアーナ橋に向かう。そのまま橋を渡ることもあるけれど、左岸の遊歩道をサンテルモ橋まで行くことが多い。そこから旧市街の中心部にもどり、適当なバルで濃いミルクコーヒーにチュロスの朝食をとる。
午前の遅い時間は、マリアルイサ公園へ行って広大な森の中を歩いてもいい。パティオを見にサンタクルス街にまわるのは、たいへんここちよい散歩だ。入り組んだ狭い路地を曲がると、ふつうにそこで生活している人々の住居の、数々の花の鉢で飾られた中庭が現れる。
ムリーリョ庭園のベンチも、ぼくの好きな場所のひとつだ。日本では見られない豆科らしい高木の幹の穴に白い鳩が出入りしている。見上げると、そのとき背景になる空の青も、日本では見たことのない濃さだ。
そのうちに、五月だというのに照りつける太陽の熱さに、スペインのすぐ向こうにはアフリカ大陸がひろがっているのを意識させられる。喉《のど》の渇きを覚えたら、手近なバルでビールを頼む。
カウンターに立って二杯目のビールにニンニクとオリーブ油の効いたサーディンの小皿を前にしているころには、外の道を行き交う人々の数が減ってくる。シエスタの時間が近づいているのだ。ぼくは日陰のある道を選びながらホテルに帰る。
シェルペスからリオハ通り、サン・エロイへ。店のシャッターが降ろされる音。先程までのにぎわいが嘘のように、人通りが減っている。強い太陽の光に白くなった街。
ぼくを迎えてくれるのは、乾いた清潔な部屋だ。固くセットされたベッドにもぐりこむ。ぼくには、きっちり一時間半は昼寝をとる習慣が出来てきていた。それは素晴らしい時間だ。
最初からセビージャをめざしたわけではなかった。パリで飛行機を乗継ぎマドリッドに着いた。しばらくは、そこで過ごそうと考えていた。
しかし、このスペインの首都は、四月の末だというのに恐ろしく寒かった。空も灰色の雲に覆われていて、レティーロ公園から美術館に降りてくる坂道を吹き抜ける強い風が、ぼくに修学院の下宿を思い出させた。
税理士による多大な助力があったとはいえ、義母の死に伴う手続きは、そういったことに不慣れなぼくにとっては繁雑だった。当面必要なひと通りの仕事を終えて京都にもどると、寒さは一段と厳しかった。
修学院の奥まった農家の離れの四畳半。机と兼用のコタツ、本棚に簡単な箪笥《たんす》ぐらいしかない部屋の窓の外では、北山から風に飛ばされてきた雪が舞っていた。
深夜、久し振りの自室の柱と壁の間に開いた三年間見慣れた隙間をながめていて、ぼくは目的を見失っていることに気づいた。三回生になるときに、英文学専攻を選んだ。その時点で興味があると思っていた十八世紀末のイギリスの詩人への関心は、いつのまにか薄れていた。
苦学生を続ける理由はなくなってしまったのだ。鎌倉にいる必要がないように、京都にいる必要もなかった。
それで、ぼくはヨーロッパに渡ることにした。目的地は特になかった。最初に考えたのは、英語の通じるところは避けたいということだった。ぼくは飽きてしまっていたのだろう、それまでの一日中英語ばかり読んでいる生活に。どこか、英語の聞こえないヨーロッパへ。
ところが、マドリッドの三日目の外出で、ぼくはすっかり風邪をひいてしまった。翌日は一日中寝ていて、夜になっても食欲がなかった。とりあえず体力をつけようと、ホテルのレストランに行った。ユンヌ、コンソメ、シルヴプレ。
ぼくにはスペイン語の知識はまったくない。エール・フランスの機内で隣の席の老婦人に話しかけられて始めたフランス語で、マドリッドでも通していた。第二外国語として学んだだけの、かなり怪しいフランス語。
ボーイは、早口でしゃべりまくる。本当にそれだけでいいのかと聞いているようだ。ぼくが時間をかけてスープを飲んでいる間も、彼はぼくに注意を払っていた。
皿を下げに来て、まだ何か言いたげにしているボーイに、ぼくは聞いた。マドリッドはとても寒い。どこか暖かいところに行きたい。どこへ行ったらいいのだろう。そう、ヴィル、ショード。
彼の早口のスペイン語まじりのフランス語はよくわからなかったけれど、元気はあるのか、と聞かれたようだった。元気はあるのか、駅まで行くだけの。駅だ。エスタシオン。エスタシオン、デ、アトーチャ。
ウイ。エスタシオン、デ、アトーチャ。答えると、ボーイは何回もうなずき、ぼくの肩を抱く。
翌朝ホテルを出ると、ぼくはアトーチャ駅から特急に乗った。南へと向かう線のようだった。切符は終点まで買った。セビージャまで。
着いたとたんに、ぼくはこの町が好きになってしまった。サンタフスタの駅で手配したホテルに着くまでに、三台の馬車と擦れ違った。タクシーの窓からはいってくる甘くすがすがしい香りは、オレンジとレモンだった。街路樹としてオレンジやレモンがたわわに実っているなんて。
スペインではかなり大きな都市らしい。日本の感覚からすると、地方の県庁所在地ぐらいの規模の気がする。いや、そんな比較は無意味だ。結局のところ、ぼくが日本で知っているのは、鎌倉と京都だけなのだから。
セビージャの空気は、そのふたつの町と似てもいる。東京やマドリッドのような大都会ではない。足ばやにビジネスマンが行き来し、交渉に神経を磨《す》り減らしているような様子はない。政治の中心地としての硬質さもない。
単に、ぼくが観光地に住むのに慣れているだけなのかもしれないとも言える。旧《ふる》くはアラブ人の支配する都市として発展し、イスラムの文化が濃厚に残る。コロンブスはインドへ行くために、セビージャのグアダルキビル河から出港した。その後交易の町としてアメリカ大陸からの富を一手に引き受けた歴史。フラメンコと闘牛の町として知られる現在。
セビージャの人々は、観光客という外部の人間を、おおらかにそして誇りを持って受け止めている気がする。世界中の人間が美しいセビージャの町を愛することを当然だと思っているのだろう。バルにつどう彼らは陽気にしゃべる。人々はぼくを気にしない。ぼくは自由に町をさまよう。
そして、観光客向けでない地元の人々のための店を見わけることにも、ぼくは慣れていた。トリアーナのそのバルもそうだ。薄暗くて、旅行者がわざわざはいりそうな店ではない。でも、ぼくは魅《ひ》きつけられた。たぶん、その活気のせいだ。忙しく働く中年のバルマン。先を争うように注文する人々。
そういう店で、ただひとり、カウンターに立っているのが、ぼくは好きだった。人々が楽しそうに語り合い、時には激しく議論するのをながめているのが。
ところが、その日は、はいっていったとたんに声をかけられた。糊《のり》の効いたシャツに蝶ネクタイのバルマンに。ムッシュ・アドーボ。ワインか、それともビール? ムッシュ・アドーボ。
前回のことを覚えていたのだ。そのとき、ぼくは隣の人の皿を指差して言った。アポルテ、モワ。同じものをくれと身振りで示した。揚物がいい香りがしていたからだ。
アドーボだ、いいのか。ペスカードだ、プワッソン、魚だぞ。
シィ、ウノ、アドーボ、シルヴプレ。ぼくは答えた。そして、その白身魚を揚げたものは、実際、とてもおいしかった。ぼくは続けてもう一皿注文してしまった。スパイシーな衣、とろけてしまいそうに熱い中身。
バルのあるトリアーナ地区に通うようになったのは、教会のためだった。ぼくにはもともと信仰心はない。無宗教と主張するほどのものでもなく、関心がないだけだ。スペインの教会の、荘厳とも大袈裟《おおげさ》とも呼べそうなその建物が気にいって、ぼくは教会を見かけるとはいっていた。
トリアーナを散歩していてたまたま見つけたサンタアナ教会は、ミサの時間だった。後ろの方の席に座り、ぼくはろうろうと響く神父の説教を聞いていた。意味は何もわからない。そのせいもあるのか、その言葉はたいへんに音楽的な気がした。
すると、いきなり聖歌隊のコーラスが始まったのだ。圧倒的な迫力のある建築物の胎内に響きわたる哀調をこめたメロディ。建物と繰り返しの多い聖歌隊の歌によって二重に包まれる。
お終《しま》いには、ぼくはカトリックになってしまってもいいかとまで感じていた。ギターの伴奏で歌われるそれらは、宗教的というよりは民衆の魂を歌っている気がした。
それで、ぼくはトリアーナへ行くのが日課のようになった。旧市街のセントロにあるホテルから橋を渡り、グアダルキビル河に沿ってベティス通りを歩く。夕陽が対岸の黄金の塔やヒラルダを輝かせている。
細い道に曲がってしばらく進むと、建物の切れ目から忽然《こつぜん》と視界にはいってくるのがサンタアナ教会だ。聖歌隊を聞くのは、素晴らしいぼくの夕方の楽しみだった。そして、もちろん、アドーボだって。
リサに出会ったのもその店でだった。
「セビージャに何しに来てるの? ムッシュ・アドーボ」
久し振りに聞く日本語だった。皿を持って調理場から出てきた女は、スペイン人のように見えるのだけれど。
彼女の仕事が終わってから、河に沿った、遅くまでやっている店に行った。
「ホテルに泊まってぶらぶらしてるなんて、家は大金持ちなの?」
親はいない、死んだ、お金はある、とぼくは簡単な説明をした。父と義母の遺産は、相続税を納めてもかなりのものとなった。そのうえ、毎月、都心のビルのテナント収入がぼくの口座に振込まれる仕組みになっていた。
何もしていなくても、ぼくの預金残高はふくれあがっていく。二十一歳にして、ぼくはフロリダで暮らすリタイアした老人のようになってしまったのだ。
「それはいいわね。それがいちばんいいことかもしれない。私の親は生きてて、借金ばかり。サラ金に追いかけられて逃げたり。こどもには、すごい迷惑」
リサがぼくに話しかけたのは、ルームメイトを求めていたからだった。一緒に住んでいた子が日本に帰ってしまったという。同じところでフラメンコを習っていたのだけれど。そんなふうに長続きしないハポネッサは多い。いま、ひとりで住んでて、倍の家賃を払っていくのはつらい。
翌日、ぼくは約束した時間にリサの部屋を訪ねた。トリアーナの、おそらくはダウンタウンなのだろう。お菓子屋と揚物屋の間をはいった、人が擦れ違うのがやっとの細い路に、そのアパートは面していた。
ぼくは、その場で部屋を借りることに決めた。そこが、とてもセビージャ的だという気がしたからだ。手入れのいきとどいたパティオ。四階の窓から見える家々の連なり。
それに、リサに言われるまでもなく、ぼくはホテルの暮らしに居心地の悪さを感じだしていたのだ。もう少し町の人々に近づきたいと。台所とトイレ、バスルームは共用。リサの言うひと月の部屋代は、ホテルの三日分より少なかった。
夜になって引越し祝いのパーティを開いてもらった。引越しといってもぼくには荷物なんてないのだけれど。リサとリサの友人のパコと三人で。パコはリサがフラメンコを習いに通っている教室でギターを弾いていると紹介された。中年の太った男だった。
パコはかなりの日本語を話した。二年間、日本にいて演奏していたから。日本人はアンダルシア人の次にフラメンコが好きだ。なぜだかわかるかい? ムッシュ、アドーボ。
パコはリサの作った餃子《ギヨーザ》をナイフとフォークで食べながら聞く。それは、元がひとつだからだ。フラメンコは遠い昔にインドから旅に出たヒターノたちがスペインに伝えた。日本の文化はインドから来ているんだろう?
リサはパコの話を無視している。速いスピードでワイングラスに手をのばす。
パコは、ぼくが住むことになった部屋に前にいた女の子のことを話題にした。残念だ、マイコには素質があったのに。
「根性がないのよ、OLやってて行きづまってスペインに来る子たちって。あの子だって、銀行に勤めてて、不倫だとかでぐちゃぐちゃになった。で、一気にエスパーニャ。フラメンコ留学なんて、かっこつけて呼んで」
後ろでまとめていた長い髪を、リサはほどいた。そうすると、それまでよりは日本人のように見える。
「あたしのこと、見覚えはない?」
リサは、ぼくの知らない名前をあげた。マドリッドにいたときは、日本人に声をかけられたりもしたんだけど。セビージャには、あまり日本人観光客は来ない。コルドバやグラナダに行くから。
ビデオとかDVDに出てたのよ。そう、AV。一時は有名だった。それで浅草でストリップ踊るようになってダンスに目覚めたの。これがあたしのしたいことだって。だから、OLあがりの子たちに比べたら、あたしはプロなのよ。元々ダンサーなんだから。
パコはニコニコして彼女の話を聞いている。全部を理解できているのかどうかはわからない。リサが黙るとギターを出してきた。リサの新しいルームメイトのためにお祝いの曲を。
フラメンコのギターは薄くて安物のように見える。それを激しく、弾くというよりかき鳴らすようにして演奏する。リサが立ち上がって踊り始める。
ぼくは、ホテルを引き払い部屋を借りたことがよかったと思った。パコがギターを弾き、リサが踊る。ぼくのすぐ目の前で。
曲が変わる。軽い、お祭りのような雰囲気の曲だ。パコがぼくにも踊るようにと促す。立ち上がれ、と合図する。ムッシュ・アドーボ、アドーボ。
リサはぼくの手をとる。立ち上がりなさい。引越しのお祝いなんだから。
ぼくは首を振った。だめだ、ぼくは踊れない、膝《ひざ》が曲がらないんだ、左膝が。
ぼくは、急に温かいものに包まれる。リサが背後からぼくの頭をかかえたのだ。両腕を回して巻き付ける。ぼくはリサの香りを感じる。それは、とてもスペイン的な、何かの植物の香りだ。
「ひどいわ。踊れないなんて、そんなひどい」
驚いたことにリサは涙を流していた。手放しで泣くリサ。だいぶ酔っ払っているようだ。
ぼくは左膝のことを言ったのをとても後悔した。それは、もちろん、ぼくにとっては、たいしたことではない。陸上競技の選手として、そんなシリアスなランナーだったわけでもないし、フラメンコのダンサーになろうとしているわけでもない。日常生活に不便はないのだから。
リサがバスルームに行って、パーティは終了という感じになった。
パコはひとりでワインをぐびぐびと飲んでいる。ぼくの肩に手を回し、押し殺した声でささやく。
「ムッシュ・アドーボ、リサとしていい。OK。かまわない」
ふたりは、パコとリサは、愛し合っているわけではない、と言った。リサは自分以外にだれも愛さない。
ぼくは部屋に引き上げた。見慣れない、新しく自分の部屋となったスペースへ。
父がトラックとトレーラーに弾き飛ばされていた夜、そのときもぼくたちは「愛し合って」いた。ぼくと義母は。ぼくの部屋のベッドで。
私は、あなたのお父様のことも愛しているし、あなたのことも愛しているの。義母はいつもそう言っていた。それに対して、ぼくは返事をしなかったと思う。そう、そして同じように義母は税理士のことも愛していたのかもしれない。
何か、言い争うような声が聞こえていた。リサの叫び。それが静かになり、隣からはパコの低いうめく声。壁越しに、おそらくはベッドのきしむ音。
ぼくは窓を開けた。
町にただよっているのは、オレンジの香りだ。どこかで歌う声がする。昔からある泥臭いフラメンコの一節なのだろう。すると、それに応《こた》えるかのように、窓のすぐ下の路上で手を叩《たた》いて拍子をとる音がする。
ここはセビージャだ。
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消える。
このごろのぼくは変だっておかあさんはいう。
変なのはぼくだってわかってる。でも、だからって、どうしていいかわからない。そういうことって、君にだってあるだろう?
朝、
「お紅茶にする? それとも、ミルク?」
って、きかれるだけでだめになる。
ぼくは、じぶんがなにが飲みたいのか、わからなくなる。
あたたかいミルクは、さとうをいれなくても甘みがあっておいしそうだし、レモン・ティはきりりとしていて、冬の朝にかえって似あってるような気もする。
おとうさんと同じ、インスタントじゃない、ちゃんと豆からガリガリしたコーヒーだって、おかあさんのきげんがよければつくってもらえる。すこしにがくって、いい。つよくなった気がする。
どれも、どれも、とってもすてきだ。ひとつひとつの味が、かおりが、ぼくの頭のなかにひろがる。みっつとも飲んでしまいたくって、決められない。
と、どうじに、ぼくは、なんにも飲みたくないってかんじる。コーヒーなんて、いがらっぽくて、あんなのを飲むってひとの気がしれない。紅茶は口のなかがシワシワしてきらい。
それにタケシくんのおかあさんがいってたけど、レモンのかわには、ガンになる薬がぬってあるから、紅茶にいれたりしたらいけないんだ。そんなこと気にしてたら、いまの世の中生きていけないわ、って、うちのおかあさんは、タケシくんのおかあさんには(もちろん、タケシくんのおかあさんが自転車にのって帰ってからだけど)うんざりねって顔をした。
ミルク? まだ、そんなこといってるの?
ベタベタした白いまくがのどにいつまでもへばりついてて、ちっそく死しちゃいそう。
ぼくは、なんでも飲みたいし、なんにも飲みたくない。
で、ぼくは、テーブルにつく。
おかあさんは、
「ミルクなの、紅茶なの?」
って、さっきより大きな声でいう。もし、ミルクにしてしまったら、そのしゅんかんに、ぼくは、紅茶が飲みたくなりそう。紅茶ってへんじしたら、コーヒーがほしくてなみだがでてきそう。
ぼくは、ビニールのテーブルかけを見る。小さなひしがたが、うすい色とこい色でくりかえしてあって、ぼくは、このもようが前からとても好き。そうじゃなくて、前からだいっきらい?
「ねえ、きいてるの? なにがいいのよ、早くしてよ、おかあさんだっていそがしいんだから。ねえ!」
ぼくが、飲みたいのはミルクでも紅茶でもありません。ウンコとションベンのまぜたやつです。ウンコとションベンをミキサーにいれて、ウィンウィンかきまぜて、最後にたんをペッていれる。はなくそもうかべる、そして、タバスコをたっぷり――やっぱり、やめとこ。
ぼくは、好きかきらいかよくわからないビニールのテーブルかけのはしをひっぱる。おかあさんが、あきれてぼくを見ているのがわかる。
ぼくは、決められない。
いままで、いったことは、みんなうそ。まさか、君、しんじてないよね。ぼくは、そんな変な子じゃない。
おかあさんが、ぼくのことを変だっていいだしたのは、運動会からだ、このまえの。
五十メートル走で、ぼくは、ころんだ。ころぶ子は、いっぱい、ではないけどすこしはいる。だから、それで変なんじゃない。
ぼくは、じめんにあしがひっかかってころぶときに、手をのばさなかった。からだが、まっすぐだった。だから、はなを、おもいっきりたたきつけた。
手がまにあわなかったからじゃない。そのままたおれたら、どうなるか、知りたかったからなんだ。たぶん、そうだ。よくわからないけど。
しょうじきにいわなければよかったんだ。ぼくは、話しちゃった、おかあさんに。そしたら、変だ、変だっていう。変? 知りたくないの、ビューンって顔に向かってじめんがとんできて、そのあとどうなるか。
ぼくは、はなぢがでたし、あごとくちびるをひどくすりむいた。
君、こんなぼくのこと、きらいになった?
だいっきらいで、だい好きでいてくれたらうれしい。ぼくも、君のこと、そうだよ、たぶん。もちろん、そうじゃないのかもしれないけど。
ぼくは、算数がとくいだ。べつにじまんするつもりはないけど。でも、かなりできる。算数はやりかたが決まってるから、やる気がする。はじめたら、一じかんでも二じかんでもやってられる。
(もうねなさいって、おかあさんにとめられたことまである。すごい。ゆうとうせいみたい)
とくに、
35+4× (72 - 24) +3 - …… = ?
みたいなのがいい。だからって、べつに、算数が好きなわけじゃないとおもうけど。
ぼくは、国語がにがて。べつに、きらいなわけじゃないとおもうけど。
これを読んでどうかんじましたか、っていうのだめ。なにもいいたいことはない。だけど、なにもかんがえてないわけでもない。
先生がしつもんする。生徒が答える。しゅじんこうは、とてもえらいなぁとおもいました。わたしも、みならいたいです。
はい、つぎのひと。しゅじんこうは、あほだなとおもいました。じぶんがそんするのわかってるのに。こんな人間がいるはずないとおもいます。
じゃあ、つぎのひとは? いまのふたりのどちらにさんせいですか?(ぼくのばんだ)どっちもただしいとおもいます。どっちも。
ある日、教室のまんなかで、ぼくは、とつぜん、ひとりだってかんじた。なかのいいともだちがいない、なんてことじゃない。
そんなんじゃなくて、うまくいえないけど、こくばんをうつしてるヒロコちゃんも、まどのそとを見てるタケシくんも、そして、ぼくも、みんなひとり。べつべつ、なわけ。
それで、ぼくがいてもいなくても、クラスや学校や、なんていうのか、もっと大きく、この世界ぜんたいは、ぜんぜんかわらないってこと。
ぼくが消えてしまっても、そうじゃなくて、もともといなくても、みんなは、ふつうにまいにちやってく。
だからって、ぼくは、悲しかったわけじゃない。すこしはそうだったかもしれないけど。なんだか、それより、あきれちゃったかんじ。いままできづかなかったほうがおかしいみたい。
ぼくは、ひとり、それで、みんな、とても、ぐうぜん、って、いうのかな、たまたま、なわけ。みんなひとりぼっちで、りゆうなんかなくて、たまたま、でクラスがいっしょになったり、ちかくに住んだりする。それだけ。
ぐうぜん、ばっかりなら、なんでも、どうでもいい気がする。えらんだり、決めたりしないで、ぜんぶ、たまたま、にまかせて。
君、こんな話、おもしろくない? いいよ、べつに。ぼくだって、そんなにおもしろくない。ぼくのこと、変だっておもってる?
変な子、変な子って、おかあさんはいうけど、おとうさんだって、変なことがある。
おとうさんは、よこになってテレビを見てる。でも、テレビを見たいんじゃないみたい。だって、おとうさんはテレビを見てない。
なにをしたいのかわからなくて、決められないんじゃないかな。
そういうときは、いつまでも決まらないとこまるから(ぼくは、よく、とてもこまる)おとうさんはテレビにすることにしているみたい。
同じような手はぼくにもある。図工のじかんだった。
ぼくは、やねの色がきゅうに決まらなくなってしまった。なに色にしてもいいみたいで、なに色にしてもだめみたいで。ふでをにぎったまま、すすまなくなった。
ぼくがうごかなくなったのを見てたのかなあ、先生がきちゃった。
早くしなさい、っていう。おまけにぼくは、そのあと、給食当番だった。パレットとふであらいとふでと手をあらって、かっぽうぎをきて、さんかくきんをする。ぼくはひもをむすぶのがにがて。
それで、ぼくは、えのぐのチューブをはこからぜんぶだして、目をつぶってゴチャゴチャにしてから、いちばん右にきたのをいそいでパレットにだした、なるべく見ないようにして。
これは、うまい手だった。すぐ、決められる。やねがはだ色になってしまったけど。
さて、ぼくの話も、もうおしまい。ぼくは、じぶんがなにをいいたいのか、もともと、いいたいことがあったのかもおもいだせない。
ぼくは、たまたま生まれて、たまたま、で、いままで生きてて、たまたまはだ色のやねの絵をかいて、それをたまたまにぼくのうけもちになった先生が見てもんくをいい、たまたま、で、ぼくは死ぬ。リモコンの赤いボタンをおすと、テレビにうつってるひとが消えるみたいに、ぼくも消える。
君がいま、本をとじると、ぼくは消える。君は、まあ、ぼくのことは、二度とおもいださないだろう。
そんなふうにして、君もだれかにとじられる。
君が、終わる。
初出一覧
サドゥン・デス
『微熱の夏休み』角川書店(一九九五)
田舎生活
『電話がなっている』国土社(一九八五)
電話がなっている
「飛ぶ教室」光村図書一〇号(一九八四)
今朝、ぼくは新聞を読んだ
「飛ぶ教室」光村図書一九号(一九八六)
セカンド・ショット
『新潮現代童話館2』新潮文庫(一九九二)
悲しみの池、歓びの波
『電話がなっている』国土社(一九八五)
ぼく、歯医者になんかならないよ
『電話がなっている』国土社(一九八五)
セビージャ
書き下ろし
消える。
「飛ぶ教室」光村図書二五号(一九八八)
角川文庫『セカンド・ショット』平成15年2月25日初版発行
平成16年7月5日6版発行