川又千秋
狂走団
目 次
狂走団
芸夢E2
過熱した男
悪夢の狩人
狂走団
「まずいぜ、奴等ヤル気らしい……」
バック・ミラーを正位置もどしながら、ナビゲーター・シートのCATが、凶悪なしわがれ声をさらに低めてつぶやいた。
「らしいな……」俺《おれ》もシートの上で身じろぎする。「まあ、とにかく引っぱって見るか……一応、団に知らせといた方が良さそうだ」
バック・ミラーには白と黒に塗り分けられたダッツン380ZXSの編隊が見え隠れしている。
フロント・ノーズにくっきりと描かれた赤い稲妻は、奴等がただの交通機動隊《トラフイツク》ではないことを誇示していた。
俺達を追撃しようとしている二台のダッツンは、高速武装警邏隊《アームド》の特別仕様車なのだ。
俺は慎重にパンサー・スーパー・クルーザーを加速しながら、ドライヴィング・システムを自動《オート》からマニュアルに切り換えた。
パンサーは、いったんぐっと腰を落とすと、次の瞬間、爆発的なパワーで突進を開始する。
英国のパンサー社が七〇年代に発表した野心的な六輪のスーパー・モデルパンサー6≠ゥら発展したのが、俺達の乗るスーパー・クルーザーだ。
V8、8・2リッターの大排気量と独特の六輪形式をそのままに、さらにひと回りたくましくなった車体は全長五メートルを超える。〇―一〇〇q/hで五・五秒、最高時速で優に三〇〇キロ以上という怪物マシーンだ。
警邏《けいら》隊のダッツンが慌てて急追にうつった。しかし、奴等はまだ慎重だ。俺達が一匹|狼《おおかみ》なのかどうか確信が持てずに、攻撃を躊躇《ちゆうちよ》しているのだ。
頼りの空中偵察隊《スカウト》のヘリが近くに居ないため、奴等は視界外の状況が把握できないでいる。
「……こちら、NAT&CAT……現在地、豊川インターから浜松インターの中間地点……アームドのダッツン二台に追われている……道路上、大型トラックの密集編隊多く、振り切れるかどうか疑問……指示願いたい」
CATがマイクに向って喋《しやべ》っている。
その声に気負いは感じられない。俺といっしょに何度も死地をくぐり抜けてきたCATだ。高速武装警邏隊《アームド》の扱い方も心得ている。
〈……よし、わかった……そのまま東名を上り続けろ……浜松の先を副団の親衛隊が巡航している……それに追いつくんだ……もし、その前につかまりそうになったら、また連絡してくれ……そいつらを逆行させて救出に向う……以上……〉
団の司令部から即座に指示が返ってきて、俺達は一応ほっと肩の力を抜いた。
だが、浜松に近付くにつれて、高速道路上のトラック群はさらに数を増してきた。
さすがのパンサーも、それらに行く手を阻まれて思うように先行できない。
パッシング・ライトとフォーンで脅し続けても、十八輪のコンボイなどはそう簡単に道をゆずってくれない。
そうこうする内に、警邏隊のダッツン380ZXSは着々と距離をつめてきた。直線での争いなら問題なくダッツンをブッちぎれるパンサー・スーパー・クルーザーだが、こうトラックが多くては、どうしようもない。パンサーの巨体がかえって裏目に出ているのだ。
と、ついに二台のダッツンがサイレンを咆哮《ほうこう》させはじめた。
同時に車外スピーカーから発せられるすさまじい音量のダミ声が、俺達に浴びせられる。
〈そこの黒い六輪車、停止しなさい! 停車するんだ!〉
奴等は俺達を本気でつかまえる決心を固めたのだ。俺達が一匹狼の走り屋か、少なくとも仲間とはぐれた団車だと断定したのだろう。
いくら武装警邏隊《アームド》でも、隊列を整えた群団《フリート》にちょっかいを出したりはしない。
そのかわり、相手が一匹か二匹だと、徹底的な追撃、摘発をかけてくる。奴等は発砲も決してためらったりはしない。
「くそっ! あのトレーラー、わざと道をふさいでやがるんだ!」
瞬間時速二八〇キロで一気にダッツンを振り切ろうとした俺達のパンサーは、三台の編隊で道いっぱいに広がって走るトレーラー群にあっという間に追いついてしまった。
素早いシフト・ダウンで、俺はやっとのこと追突をまぬがれる。
「どきやがれ! きさまら、今度会ったら生かしちゃおかねえぞ!」
窓から首を突き出したCATが、鬼のような形相で、道をふさぐ大運輸会社のコンボイめがけて吼《ほ》えたてる。
しかし、警邏隊のダッツンがこのパンサーを追撃しているのを知っているトラックのドライバーは、この時とばかり、狂走団狩りに断固協力する構えだ。
「畜生! 犬めら、忘れねえぞ、おまえの車はァ!」
CATが罵《ののし》り続ける間にも、二台のダッツンはネズミを嬲《なぶ》る猫のように、舌なめずりがわりのパッシングを繰り返しながら急速に追いついてきた。
そして、パンサーを両側からはさむ形で並航してきた。
〈貴様ら! 手間取らせやがって、すぐ車を寄せるんだ! さもないと、無理にでも動けなくしてやるぞ!〉
マイクを握って怒鳴っているのは、見るからにサディスティックな面構えの若い隊員だ。
「仕方ねえ、CAT。クルマを寄せるぜ」
俺はうんざりした声でCATに同意を求めた。
このパンサーはもともとCATがオーナーだ。もっとも団にあって、すべての車は共有というのが原則になっている。
「ああ……」
CATは短く応《こた》え、また無線のマイクをはずすと、団の司令部を呼びだした。
「……こちら、NAT&CAT……浜松をちょいと過ぎたあたりでつかまった……救援頼む」
彼が言い終えた直後――
〈おい、貴様ら! ぐずぐずするな。二度とハンドル握れない身体《からだ》になりたいのか、この虫ケラども!〉
そうスピーカーで叫んだ一台のダッツン380ZXSが、強引にパンサーの鼻面を抑えにかかろうと突っ込んできた。
すでに一〇〇キロほどにスピードの落ちている俺達のパンサー・スーパー・クルーザーはそれをかわすことができない。
「わかったよ、あせるんじゃねえよ、犬っころ! 吼えてられんのも、今の内だぜ」
俺はぶつぶつと悪態をつきながら、ゆっくりパンサーを減速させ、高速道路の左肩に寄せていった。
すでに団の戦闘部隊がこちらへ向って進撃を開始しているはずだった。
だが、少しでも距離はかせいでおきたい。その分だけ、この犬共にからまれる時間が減るというものだ。
前後をダッツンにはさまれて、俺達のパンサーは停止した。
次々と脇《わき》をかすめてゆくトラックのドライバーが、この光景に口汚ないひやかしとののしりを浴びせては走り去ってゆく。
屈辱にCATの顔はやや青ざめている。
ヘルメットとサングラスの警邏隊員が二人ずつ、前後のダッツンから降り立った。四人ともゴツいハンド・ガンを腰にぶら下げ、おまけに自動小銃まで持ち出してきた奴もいる。
「おい! チンピラ、降りるんだ!」
隊長らしい一人が、腰のホルスターからマグナム・リヴォルバーを引き抜きながら命令した。
俺とCATは、慎重な身のこなしで左右のドアを開け、車から降り立った。
いつでも反撃に移れるよう、両腕をだらりと身体の両側にたらす。
「なんだ、なんだ、貴様らのその顔つきはァ!」
若い一人が、いかにも憎々しげな表情を浮かべて俺の正面に立った。そして無造作に拳《こぶし》を飛ばしてきた。
左頬《ひだりほお》をしたたかなぐられて、俺はよろめいた。口の中が切れたらしく、血の味が拡《ひろ》がった。
「何すんだよう、俺達が何したってんだ」
食ってかかろうとしたCATも、もうひとりに腹を蹴り上げられてアスファルトに崩折れた。
「けっ、ざまみろ。このクソッたれ!」
うずくまったCATに隊員のひとりがツバを吐きかける。
「やめろ! 俺達は別に何もしてない。つかまえられる覚えはない!」
俺は口の端を伝う血を拭《ぬぐ》いながら、訴えかけるような口調で隊員たちを見回した。
「何もしてないだと!? この野郎、貴様は日本の交通法規に速度制限というのがあるのを知らんのか、バカモノめが」
「それに、なんだ、この車はァ。タイヤを六本もつけやがって。おまえらなァ、不要不急の車が高速環状を走ってれば、それだけで罪になることを知らんわけじゃあるまい。チンピラめが、このクソッタレ小僧どもがァ!」
隊員が口々に罪状を並べたてる。
「さあ、いいから免許証と、高速環状の通行証を出すんだ。ぐだぐだ言いやがると、ただじゃ済まねえぞ!」
若い一人が憎悪をむき出しにして、俺の特攻服の胸元につかみかかってきた。
俺はそのままパンサーの車内に叩《たた》きつけられるようにして押し込まれた。隊員の一人がいっしょに乗り込んでくる。
俺は仕方なくダッシュ・ボードを開き、高速環状の通行証を差し出した。
それをひったくって目を通した隊員がわざとらしい奇声を発する。
「な、なんだ、お前。この日付は七月十三日じゃないか!? 今日は十月の十日だぞ。おまえら、三か月も、この高速環状に乗りっぱなしということだぞ!」
「いけないのかい、それが」
俺はつい、そいつにつぶやき返した。
「な、なんだとォ!? いけないのか、だと!? ふざけるな、貴様ァ!」
隊員は目を剥《む》き、また俺の顔面を容赦なくなぐりつけた。
「一体、貴様ら、虫ケラは、何を考えてやがるんだ。いいか、こんな長期間環状に乗り続けてたらだなァ、もう高速料金だけで百万近くにはなってるんだぞ。払えるのか、おまえらに!? 払えんだろう、ええ? だから高速から降りれんのだろう、そうだろう!」
若い隊員は、俺の胸ぐらをつかんでゆさぶりながら、怒鳴り続ける。
車の外ではCATが他の隊員に痛めつけられているようだ。
だが、もう少しのしんぼうだ。
この隊員たちは、まだ俺達が団の構成員だと気付いていないらしい。高速環状に回されて日の浅い新米に違いない。それが奴等の不幸となるのだ。
「さあ、免許証を出しな、チンピラ。こんな、と、とんでもないスポーツ・カーに乗りやがって! クルマを六つもつけて、それでイキがってるつもりかよ、おい! おまえらの両親は泣いてるぞ。何のつもりだ、一体! さあ、免許証だ!」
隊員は自分よりも若い俺達がこうして遊び回っていることを絶対に許してはおけない気分になっているようだった。
瞳孔《どうこう》がまるでブタそっくりに縮んでいる。
そいつは、俺の髪の毛を掴《つか》んだ。引きむしらんばかりの勢いで、俺の頭を揺さぶる。
「さあ、出すんだよ、免許証を! もっとも、おまえは、もう二度とライセンスを取ることはできんだろうがな。さあ、出せ!」
「うるせえな、持ってねえよ、そんなもの」
俺は隊員の目を見据え、吐き出すように言ってやった。
遠くから低い爆音が接近してくるのに、俺は気付いていた。もう、こいつらのご機嫌をとっている必要はない。
「な、なんだと!?」
隊員は一瞬、毒気を抜かれた表情になった。
「持ってないって言ったのか? そうなのか!?」
「当り前だろう! おい、そのうす汚ねえ手を離しな。なんで俺が免許証なんか持ってなくっちゃいけねえんだ。ここは、俺達の道路、俺達の領土なんだぞ! そこを自由に走って何が悪い!」
俺が怒鳴り返したその時、あたりは一瞬ですさまじい爆音のるつぼと化した。
前方のカーブを回って、単車、四輪あわせて三十台余りの戦闘部隊、副団の親衛隊が、高速道路を我が物顔に逆行してきたのだ。
そしてたちまち、二台のパトロール車と、俺達のパンサーを取り囲む。
俺の胸ぐらをつかんでいた隊員が、訳のわからない悲鳴を上げて飛びすさった。
「お、おまえたちは……」
そう言ったきり、必死で車外へ逃れ出ようとする。
俺は冷静にその隊員に襲いかかった。
まず後頭部に思いきり体重をのせたヒジ打ちを食わせる。つんのめったそいつにもう一撃加えておいて、すばやく腰のリヴォルバーを奪い取った。
冷たく重いそのハンド・ガンには、六発の実包が込められていた。
それを確かめ、ついでにその銃把で気絶している隊員をさらになぐりつけた。
そうしておいてパンサーから外へ出る。
そこではもう充分に結着がついていた。
三人の警邏隊員の内、二人は自ら流した血だまりの中でのたうっており、隊長格のもう一人は数人の手で裸に剥かれ、無理矢理土下座させられていた。
他の団員は、スパナやレンチで、二台のダッツン380ZXSを徹底的にぶち壊している。
「やあ、NAT」
俺を認めて、副団長の竜二が近づいてきた。
「済んませんでした、副団。おかげで助かりました」
俺は軽く頭を下げた。
「ところで、CATは?」とあたりを見回す。
「ああ、片山なら元気だ。大分なぐられたらしいが……今、その仕返しに狂ってる」
竜二が口の端を歪《ゆが》め、腕を上げた。
指差されて振り向くと、CATが彼を痛めつけた隊員のひとりの顔面を、ざくろのように蹴り裂いているのが見えた。
CATの本名は片山という。そして俺の名字は夏木だ。仲間内ではこれをちぢめて、CATとNATと呼ばれている。俺達が団の中でコンビを組むようになってから、もう一年以上が経《た》つ。
「だから言ったろう、NAT。一台だけで出るのはヤバイって。どうだい、言った通りだろう。この頃《ごろ》は、パトロールも見境なしに襲ってきやがる。しかも、ハンパはやらねえ。取り囲んで、メッタ打ちだ。抵抗すれば、すぐハジキでドカンとくる。まったく、たまらん時代になったもんだ」
竜二はさすがに貫禄《かんろく》を示して、苦い笑いを洩《も》らした。そして真顔にもどると、鋭い視線をあたりに配った。
「いかん! 空中偵察隊《スカウト》のお出ましだ。群れてる所を一網打尽にされちゃあおしまいだ。散ろう!」
各小隊長がいっせいにホイッスルを鳴らした。
一呼吸おいて、三十台余りの単車と四輪が轟然《ごうぜん》と排気煙を吹き上げた。
この集団に上り車線の三分の二は完全にふさがれている。しかし、それに対して抗議のクラクションを鳴らす車はない。じっと騒ぎの収まるのを待つか、あるいはおずおずと一番端の車線をくぐり抜けてゆく。
「NAT、おまえは俺の小隊といっしょに来い! 上りと下りに隊を分ける。俺達は名古屋の方へ下るからな」
「分りました」
すでにV8、8・2リッターのパンサーはスタン・バイしている。
「それに、CAT、こいつも持ってきな。お前を痛めつけたあの若僧が握ってたやつだ」
そう言って竜二が一丁の自動ライフルを窓ごしに差し出した。武装警邏隊《アームド》のみならず機動隊も好んで使用する国産突撃銃八八式だ。
西ドイツの有名なG―3ライフルから発展したHK93をコピーしたもので、小口径5・56ミリ弾を使用する。俺達もすでに幾度か非合法に試射した経験があった。
竜二はさらに三十発入りの箱型弾倉四個をCATに投げてよこすと、自分の指揮車スタッツ・ブラックホークに乗り込んだ。
すでに親衛隊の工作班が、高速道路上の中央分離帯にとりつき、植栽やフェンスを切り開いて車一台分の通路を確保していた。
竜二がブラックホークの中から合図を送ると、一隊は三、四台ずつ十ほどのグループに分れて、上り、下り、思い思いの方角へと散りはじめた。
〈いいか! 連絡は絶やすなよ。集合は明日の晩十時以降、場所はまた連絡する。さあ、行け!〉
各車にとりつけられた通信用ラジオが、竜二の指示を流す。
俺はパンサー・スーパー・クルーザーを竜二のブラックホークの後につけた。
先導に出ている二台のバイクには親衛隊でも選《え》り抜きの特攻班員がまたがっている。どちらもスズキの輸出用モデル、1200ギガントだ。彼等はヒップホルスターからのぞくリヴォルバーやコンバット・ナイフを全く隠そうともせず、昂然《こうぜん》と分離帯を越えてゆく。
続いて竜二のスタッツ・ブラックホーク、そして俺とCATの乗るパンサー・スーパー・クルーザーが、東名高速区の下り車線へと巨体を滑り込ませた。
他の小隊も、ようやく流れはじめた上下車線の車にまぎれて遠ざかってゆく。
現場上空では、駆けつけた空中パトロールのヘリ二台が、なす術《すべ》もなく、散開してゆく団車の群を見守っている。
彼等の任務は、こうした無法を制圧し、時に応じて警邏隊のバックアップや救出にあたることなのだが、今この現場に介入しては、そのどちらの仕事も果たし得ないと判断したのだろう。ともかく団車をやりすごし、その上で事件処理にあたるつもりらしく、かなりの高度でホバリングを続けている。
ゆったりとした速度で、俺達の一団は西へ向けて巡航を開始した。
先導のバイクの特攻服姿を見て、長距離便の大型トラックが次々に道をゆずる。
この道は、まぎれもなく俺達の領土だった。そして王国なのだ。
平日だから、無遠慮なファミリイ・カーはさすがに少ない。
しかし、たまにヨタヨタと俺達の車線へ割り込んでくる自家用車は、容赦なく特攻班の威嚇にあって追い払われる。
俺はパンサーのドライヴィング・システムを自動《オート》に切り換え、頭の中にぽっかりと広がりはじめた空虚にひたりこみながら、竜二のブラックホークを追っていった。
この生活に入ってから幾度となく頭をもたげかける激しい焦慮に似た感情を、俺は無意識の内に、そんな空虚の中へ追い払う術を心得ていた。
CATが備えつけのアイス・ボックスからバドワイザーを二缶とり出し、その一方のプルトップをひきはがして俺に差し出した。
俺はその冷えきった液体を思いきり喉《のど》に流し込み、そしてようやく大きく息を吐いた。
一日が終ろうとしていた。
車はいつの間にか東名から名神へと乗り入れている。今日のドヤは中国ハイウェイのどこかになりそうだった。
日本の主要な高速道路が、ぐるりと本州をとり囲む形で結合し、完全な環状路の形態を完成したのは、今から八年ほど前のことである。
東京を起点に、まず東名高速が名古屋まで、さらに大阪|吹田《すいた》までを名神高速がつなぐ。そこから中国自動車道が、津山、三次《みよし》、山口などを経て下関へと至る。
下関から高速道は裏日本へと反転し、浜田、米子、舞鶴《まいづる》へとのびる山陰自動車道へと入ってゆく。
山陰自動車道は、敦賀《つるが》から、今度は北陸自動車道へと乗り入れ、金沢、富山、長岡を経て新潟へ。
新潟からは国鉄の奥羽本線沿いに走る北日本自動車道がはじまり、酒田、秋田と進んで十和田ジャンクションで東北縦貫自動車道へと南へ反転する。
そして、盛岡、仙台、郡山、宇都宮と南下し、起点の東京へ帰ってくるのだ。
都内ではそのまま高速5号池袋線で直接首都高速に抜け、再び東名へと走り続ける。
この環状高速が、狂走団員たちの選びとった領土であり、王国だったのだ。
一九八〇年代後半、いちじるしい省エネルギー技術の発達と、エネルギー源の多様化により、全世界的にガソリンのダブつきが激しさを増した。
もともと重油の需要との関係《バランス》でガソリンが常に供給過多の傾向にあった日本では、一九七〇年代のオイル・ショックによっていったんは高騰した自動車燃料の価格がみるみる暴落した。
その状勢を反映して、アメリカではすでに過去の遺物と化しつつあったフルサイズ・カーやカスタム・カーが、逆に日本の社会で大手を振って復活した。
それと相前後して、日本の高速道路網も飛躍的に発展し、ついには高速環状の完成へと結実したのである。
この環状路は、これまでの短距離高速道路とは全く別種のコンセプトによって、その整備が進められていった。
まず、主要なサービス・エリアは、あたかもかつての街道町のように、ひとつのタウンとしての性格を持つようになった。
即ち、単なる休憩、整備、補給の機能に加えて、本格的な宿泊設備やショッピング・エリアがまず設けられた。
続いて、銀行やレジャー産業、ついには宿泊の客を目当てとする歓楽サービスの業種までが、この高速道路上に進出してきた。
つまり、料金の問題さえ考えなければ、何か月、いや何年でも、高速環状道路を走り続けて生活することが可能になったのだ。
そうした人種は、まずトラック・ドライバーの間でいち早く生まれた。彼等は、各インターごとに荷の積み降ろしを行ない、そのまま新しい仕事を請け負って、ただひたすら、このループを回り続けるという新しいビジネスに従事しはじめていた。
高速環状路はこの段階で、鉄道にとってかわる日本の大動脈としての地位を確実なものとしはじめ、その重要性によって、ある種の聖域としての性格を持ちはじめたのだ。
そして、その聖域に、次に乗り込んできたのが、街を追われ、地方の公道を追われた狂走団と呼ばれるモーター・フリークの群、自動車に乗った遊民の一族だったのである。
…………
…………
「起きろよ、NAT。今日はここまでだ」
CATに肩を揺すられ、俺は薄目をあけた。あたりはすでに全くの夜になっている。
「……どこだい、ここは」
小牧の手前でハンドルをCATにゆずった俺は、そのままバドワイザーを幾缶か空にし、すっかり眠りこけてしまっていた。
目は開いたものの、まだ頭の中は夢の続きがわだかまっていて、俺は渋面をCATに向けて呻《うめ》いた。
「しっかりしろよ、NAT。今日の奴等のパンチがまだ応えてるみたいだな。どうもあれから元気がないぜ」
俺の頬を軽く打って、CATは屈託なげに笑った。
「ここは宝塚さ。まさか見覚えがないとは言わんだろうな。つい二日前にも泊ったEXPタウンじゃないか、え? NAT、さあ、降りるぞ」
CATが開いた左側ドアから、オイルと焼けたゴムの臭いを含んだ冷たい夜気が流れこみ、俺はようやく少しだけ正気づいた。
「……宝塚か……」
よろり、と俺もパンサーのナビゲーター・シー卜から車外へ降り立つ。
二台のスズキ1200ギガント、それに副団の竜二が乗るスタッツ・ブラックホークも、今、エンジンを切ったところらしい。
スタッツのそばで大きくのびをしている竜二につきそっているのは、やはり親衛隊員の黄《コウ》だ。
特攻班員の二人や黄が大っぴらに得物を身につけているのを見て、俺も、今日の日中、武装警邏隊員《アームド》から奪った・44口径のリヴォルバーを思い出し、それを車内から取り出してベルトの間に差し込んだ。
「さあて、メシにしよう」
全員を確認した竜二がまず歩き出した。
特攻の二人が肩をそびやかして、その先導に立つ。
パーキング・エリアの正面にそびえ立つ建物は、この宝塚のレスト・エリアで最も高級なリラ・ハウスだ。
一応の格好はホテルだが、カジノもあれば女もいる。
「副団、ちょっと待ってください」
小声で鋭く声をかけたのはCATだ。
「ん?」
竜二が振り返る。
「あのパーキングの端……見えますか? どっかのガキンチョが、先に押しかけてるみたいですぜ」
CATが視線を投げたあたりに、そう言えば、見るからに狂走団を思わせる単車と四輪の一群が車体を休めている。
「ちっ、旗をおっ立ててやがる」
黄が舌打ちした。
「……DAMN……とか書いてあるが、知らんグループだ」
竜二も一瞬足をとめ、闇《やみ》をすかして様子をうかがっている。
「DAMNってのは西宮《にしのみや》の方の街道レーサーですよ。こんな環状に出てくるほど根性のある奴等じゃないんだが……」
その団名を思い出して俺は竜二に教えた。
「西宮?……まあ、どうってこともなかろう。EXPタウンなら全国どこだって俺達の町も同然だ」
竜二は軽く片頬を歪めて見せると、また歩き出す。
「しかし、副団。この頃は世間知らずのジャリが一番コワいんですよ。こないだも、ウチの遊撃隊が、そういうワケの分らん奴等にケンカを売られて、ヒドイ目に会ったばかしだし……」
めずらしく黄が警戒の色を口調に出した。
「ここはちょっと待って、少し団員を集めた方がよかないすか? 今なら、三十分以内にかなり数を揃《そろ》えられると思いますが」
「まあ、そうテイをつくることもないだろう。俺達はただメシを食いに来ただけなんだし、もう今日はこれ以上騒ぎも起こしたくないからな。それにこの宝塚は、俺達の団にとってもアガリの大きな場所だ。他のお客さんに迷惑はかけたくない」
竜二はどこか恥じるような調子で黄に言った。
(竜二も年をとったものだ)
俺は妙な寂しさを覚えながら思った。
(……あの|MAD竜二《マツド・タツ》が、今は団のアガリのことを心配している……まるで下界の暴力団の幹部と同じように……)
しかし、それは俺達がこうして俺達の王国を守り、そこで生きてゆくために絶対に必要な心配りであるはずだった。
…………
…………
高速環状が完成して数年もたたない内に、一般公道での狂走行為を徹底的に弾圧されていた若い街道レーサーの群は、次々にこの新天地への乗り入れを開始していた。
当初、この環状の各所には厳重な検問システムが設けられており、彼等の狂走にも一定の制約は加えられていた。
しかし、とにかく、摘発さえくぐり抜け、走り回る分には誰《だれ》にも文句のつけようのないのが高速環状である。
下界を追われたモーター・フリークの数は、やがて目に余るほどにふくれ上がっていった。
そしてついに五年前、警視庁と各県警は、高速環状からそうした自動車遊民の一掃を計るべく、大部隊を投入して武装検問を実施したのだ。
とにかく車という車は全《すべ》てこの検問の対象とされた。そして目的地のはっきりしないもの、あるいはすでに一周以上この環状路を走り続けている車(これは通行証に記された日時から判定された)などが、暴力的な摘発を受けた。ただ単に改造が過度であるとか、不必要な大排気量車に乗っているといった理由だけで、逮捕されたり、暴行を受けた者も出た。
この強引な取り締りが、実は組織としての狂走団の誕生をうながしたと言える。
この日から、それまでは多くとも数十台単位の集団でしかなかったモーター・フリークたちの団結がはじまった。
彼等は各所で同時多発の遊撃戦に出て取り締りの交通機動隊員を襲撃し、また群団を組み実力で検問所を破壊、突破した。
そうした一連の暴動によって、高速環状の機能は各所でずたずたに寸断された。
そして、この大動脈路に、すでに国鉄以上の依存度を持つようになっていた日本の国家機能もまた、いちじるしく阻害されはじめたのだ。
なお騒乱状態が長びけば、より致命的な麻痺《まひ》が日本を襲うであろうことは明らかだった。
そしてついに一週間後、政府は高速環状における全ての武装検問の中止を一方的に発表し、事態の収拾を計った。
それは、政府自らが高速環状の治外法権性を認めざるを得なくなったことを意味していた。
モーター・フリーク達は狂喜した。
彼等は自分たちのために自分たちの力で闘い、高速環状という解放区を手に入れた。少くとも、彼等はそう信じた。
だが、それは半分の勝利でしかなかった。
政府はその妥協によってとりあえず高速環状という日本の大動脈の流れを回復させた。
そして、彼等は戦術を変えた。
高速環状が治外法権であるのならそれでいい。治外法権の土地には、またそれなりの統治の仕方があることを彼等は教えこもうと考えたのだ。
そして組織されたのが高速武装警邏隊《ハイウエイ・アームド・パトロール》だった。
彼等の基本戦術は徹底した各個撃破だ。
二台から五台ほどのパトロール・カーの小隊が、空中偵察《スカウト》ヘリと共同作戦をとり、一台、また一台と環状路上の遊民を始末してゆく。
それを怖《おそ》れ、大群団《ビツグ・フリート》を組んで行進すれば、一定区間に武装阻止線を張り、前後から追いつめて一網打尽とする作戦に出る。
結局、その後の長い闘いからモーター・フリーク達は、ひとつの教訓と、一定の行動様式を叩き込まれることとなった。
教訓とは、団結≠ナあり、そして高速環状を支配してゆく基本的な要件としての暴力と金の必要性だった。
彼等は通常、中隊単位をとり、それを三ないし四台の小隊に分けて、無線で連絡をとりあいながら前後一〇〇キロメートル以上の範囲に分散して、高速道路上を巡航する。その内の一台に何かあれば、たちまち全中隊員がそこへ駆けつける。これが、狂走団の基本的な行動様式となっていた。
しかし、これだけの組織を固め終えることができたのは、初期のモーター・フリークのごく一部だった。
組織を嫌う一匹狼や、小グループは次々に武装警邏隊の血祭りに上げられ、この王国から消えていった。
NATとCATの二人も、もとはと言えば気難しいはぐれ狼的フリークだったのだが、ふとしたきっかけで竜二と知り合い、その彼と意気投合して、今では、完全に団の庇護《ひご》下におかれていた。
しかし、それはこの王国で生きようとするものにとって、決して拒否することのできぬ最低の生活保証だったのである。
…………
…………
特攻班員のひとりがリラ・ハウスの一階フロアにあるディナー・スポットのドアを押した。
瞬間、俺達は、店内に充満する異様な雰囲気が、そのドアの隙間《すきま》から吹き出すのを感じ、思わず息を呑《の》んだ。
「…………」
竜二が、ぐっと喉の奥を鳴らした。
やや照明を落としたフロアの半分ほどを埋めている人影が、無言のまま一斉に振り返ったのだ。
人数は四十人ほどだろうか。全員が揃いの黒っぽいライダー・スーツに身を固めている。
背中に赤くDAMNの文字を浮き上らせた彼等は、皆ひどく若い。幼いと言ってもいい程の年齢だ。
ドアを押し開けた特攻班員は、とっさに判断に迷い、その客席と竜二の表情を幾度も見比べた。
しかし、竜二の顔は仮面のように凍りついたままだ。
その緊張を押しのけるように、突然、DAMNのメンバーのひとりが高い声で笑い出した。
十数人がそれに同調して硬い笑い声をたてた。
と、中央のひとりがそれを制して立ち上った。
「おっさん達、えらいモノモノしい格好しとるなあ。どうしたんだ、入って来いよ」
リーダーらしいその少年も十七歳以上にはとても見えぬ童顔だ。
俺はその若さに、一瞬いわれのないめまいを感じた。
「…………」
竜二はまだ、その挑発にどう応じてよいか決めかねているようだ。
「なんで、突っ立ってるんだよお、おっさん達。別にこの店はオレ達の借り切りって訳じゃないんだ。ほら、席だって充分に空いてるぜ。もっとも、今まで何人も客はきたけど、みんな何故《なぜ》か、何も頼まないで出ていったっけ」
そいつはそう言って仲間を振り返り、同意を求めるように短く笑った。すると、DAMNの四十人も、精一杯すごんだつもりの笑い声で彼に応じる。
「……ちっ、小僧ども」
耐えきれず、特攻のひとりが顔をひきつらせる。
「よせ!」
竜二がそれを鋭く制した。
「なんだ、なんだ、おっさん達。オレ等にケンカ売るつもりなのかよォ」
DAMNの数人が気色ばんで席を立つ。
「よせよ、小僧。俺達はここへメシを食いにきたんだ。客じゃなく、料理人に用があるんだ。お前達も、食うか飲むか、それとも出てゆくか、どれかにしな」
ついに竜二が口を開いた。
さすがに副団を務めるだけのことはある。少年の一群はその迫力に負けて言葉を失った。
その間隙《かんげき》をついて、俺達六人は店内に足を踏み入れた。そして、入口のドアに近い円形のテーブルに固まって腰を下ろした。
ウェイターが恐る恐る近付いてきた。
「お久しぶりです、竜二さん。どうも今夜はお客が多くて……」
震えを隠せぬ声でささやく。
「何をお持ちしましょうか」
「まず、ビールだ。あとは適当に頼む。それから、ちょいと人を呼んどいてもらおうか。この店も人手不足で困ってるようじゃないか。それから俺達の車を全部満タンにしといてくれ」
竜二は顔見知りのウェイターに団員の呼集と、給油をそれとなく命じた。
「ええ、ええ、分ってます。では、ちょっとお待ちを……」
ウェイターはそそくさと奥に下がった。
そのやりとりから、さすがの少年達も、一行がただ者でないことを悟ったようだ。だが、その認識が、かえって彼等の攻撃欲を刺激してしまったらしい。
「おい、こっちで頼んだコーヒーはまだかよお」
「なんか今夜あたり、起こりそうな気がしねえか、え?」
「この店ん中、どうも臭うぜ。じじいの臭いがよお」
「見ろよ、あいつ。腰におかしなものをぶら下げてるじゃねえか。あんなオモチャでビクつく奴もいるってことだぜ」
「何してんだ、この店は! 早く頼んだものを、持って来いよ」
口々に騒ぎはじめた少年達は、集団の威勢によって徐々におびえを拭い去り、互いに興奮を高めあっている。
やがてウェイターがまた奥から姿を現わした。トレイの上にはビール壜《びん》とグラス、それにオードブルがのっている。
「おい、てめえ! オーダーはこっちが早いはずだぜ。どうして、そっちのビールが先に出てくるんだ、ええ!?」
少年の一人が肩をゆすって立ち上がった。
「ちょっとお待ちを。何しろ人手が少ないもので」
ウェイターはその少年を巧みに避けながら、竜二のいるテーブルへ近付いた。
「何だと!? この店じゃ、そういう客あしらいを教えてんのかよお。よし、分ったぜ。それならオレ達も、別にお上品ぶるこたあねえや。いつも通りにやらしてもらうぜ」
ここぞとばかりに少年は言いつのると、手近にあった灰皿をつかんで、奥の調理場めがけて投げつけた。
隠れていたらしい、ウェートレスの悲鳴が上る。
「なんだよ、おい。人手が足りないだと? じゃあ、あの女の声はなんだ! 言ってみろよ!」
別なひとりがわめきだす。
ウェイターは青ざめながらもそれを無視して、六人のグラスにビールを注いで回った。そして竜二の耳元に口を寄せた。
「……親衛隊に連絡入れましたから。十五分以内に、まず二小隊ほど駆けつけてくると言ってました」
「…………」竜二は無言でうなずき、ビールを干した。
俺達もそれにしたがう。
だが、少年達の興奮は、もうとどめようのない臨界点に達しはじめていた。
あちこちで物の壊れる音がやかましくなってきた。
そして、ついに俺達の無反応にジレた少年三人が、自分達の席を立ってずいと近寄ってきた。
「なあ、おっさん。どういう訳かオレ達の頼んだビールが、まだ来ねえんだよ。考えてみたんだが、ここにあるビールってのはオレ達の所へ来るはずのが、まちがって運ばれたんじゃないのかい、え? そうさ、そうに決まってる。返してもらおうか」
ニヤニヤ笑いながら貧相な体格のひとりがテーブルに手をのばしてきた。その拳が、特攻班員の頬をわざとかすめる。
「野郎!」
一挙動で、その特攻は少年の腕をねじり上げた。
「ガキのくせに礼儀をわきまえろ!」
黄も副団の竜二を守るように、椅子《いす》蹴倒して立ち上がった。
一瞬で店内は凍りついた。
もう誰ひとりとしてその場を動かない。
DAMNのリーダー格の少年が、ゆっくりとヒップ・ホルスターから砂と鉛を皮袋でつつんだ凶器ブラック・ジャックを取り出すのが見えた。
後は特攻に腕をねじ上げられている少年の洩らす呻き声だけが、異様な空気のなかで聞こえる唯一の物音となった。
揃いのライダー・スーツで身を固めた四十人近い少年の群と、特攻服や白い団の制服をまとった六人が、きっかり三秒の間、激しい殺気をぶつけ合って立ちつくした。
あたりには、急に酸っぱい汗の臭いが立ちこめた。
「……そいつの腕を離しな」
低い声で沈黙を破ったのは、サブ・リーダーらしい比較的|年嵩《としかさ》の少年だ。
それに答えて、特攻班員の二人は、ごついリヴォルバーを腰から引きずり出す。
「そんなオモチャを出せば、オレ達が引き下がるとでも思ってるのか」
DAMNのリーダーがしわがれ声を絞り出す。
奴等も極度の恐怖に捉《とら》われていた。
ひょっとして、今踏んづけている獣の尾が、本物の虎《とら》のそれかも知れないことに怯《おび》えているのだ。
しかし、逆にその怯えが、彼等の幼い心を高揚させ、駆り立てようとしはじめていた。なによりも、彼等は俺達の七倍近い人数だ。恐怖を克服するのに、それは充分な数字だ。
俺もゆっくりとベルトに差し込んでおいた・44口径の重たいハンド・ガンを引き出した。
「やめるんなら今の内だぞ、小僧っこども」
竜二が、虚無的とも聞こえる投げやりな調子で言い放った。
「死人が出るんだぞ、おまえらがまだ見たこともないような、むごい死に様の死人がな。分るか。多分、最初にこの世とおさらばするのは、おまえだ。次はおまえだ」
竜二は、まるで教室で生徒をさとす数学教師のように、リーダーとサブ・リーダーの少年を無造作に指差した。
「けっ、笑わすな。そんなゴツいピストルはなァ、いくら闇でも、日本にゃそういくつも出回っちゃいないのさ。その位のことはオレ達だって知ってるんだぜ、おっさん。この次からは、もっとコマい拳銃《けんじゆう》にしなよ。その方がリアルでよォ、怖がる奴だって出てくるぜ」
ブラック・ジャックを突き出し、乾いた舌をなめながら、少年のひとりがうそぶく。
その後では、本当に小口径のピストルをもて遊びはじめた者もいる。それが彼等にとって手に入る最高の得物なのだろう。
彼等は若かった。下界での常識が、この高速環状でも通用すると、信じ込んでいるのだ。ここへ上って、まだ数日と経っていないに違いない。警邏隊との追撃戦が始まれば、一週間とかからずに消滅しそうな、余りにも脆弱《ぜいじやく》な精神達だ。
だが、今の俺達にはそれを哀れんでやる余裕はなかった。少なくともこの場で、彼等は充分過ぎるだけの一途な戦意を燃やして俺達と対峙《たいじ》しているのだ。
「試してみろよ……」
竜二が、ついに挑発のひと言を洩らした。
と同時に、少年のひとりをねじ上げていた特攻が、その腕をつかんだまま思いきり少年を突きとばした。
ゴキッ、と骨の折れる鈍い音が合図となって少年達の呪縛《じゆばく》は解かれた。床に転がる仲間を乗り越えて、DAMNの四十人が殺到してきた。
と同時だ。バガーン!
その人の群を、すさまじい火矢が貫いた。
バガーン!
バガーン!
特攻班員の二人が、両手を突き出してそのマグナム・リヴォルバーのトリガーをたて続けに引き絞ったのだ。
至近距離で発射された巨弾は、一撃ごとに数人をまとめて叩きふせる威力を発揮した。
最初に弾を受けた者はもちろん、その背後にいる少年までが、肉体をぐちゃぐちゃに引き裂かれて吹き飛んだ。
そして轟音《ごうおん》が、その場にいる全ての人間から、耳の機能を一時的に奪い去った。
しかし、にもかかわらず、少年達は執拗《しつよう》だった。
悲鳴とも喊声《かんせい》ともつかぬ形の大口を開き、顔中をくしゃくしゃにしながら、ただヤケ糞《くそ》な衝動のままに、仲間の死骸《しがい》を押しのけて襲いかかってくる。
もう迷っている時間はない。
俺もパトロールから奪った大口径リヴォルバーをダブル・アクションで続けざまに発射した。
手の平から肩にかけて、鈍器で撲《なぐ》りつけられたほどの反動がある。必死の握力で、拳銃をとり落とさずに済んだが、直後、その発射炎《フラツシユ》で目をやられる。
急に店内の照明が切れたためだ。
銃を片手に、出口へ向って暗闇を手探りする内に、幾度かしたたか殴られ、蹴りつけられた。
その混乱のなかで、何者かが俺の襟口をつかんで強引に引っぱろうとしている。薄明りで、それがCATだとかろうじて見分けられた。
「こっちだ、NAT! 脱出するぞ!」
恐怖をまぎらわそうと奇怪な声を発して闇雲に突っかかってくるDAMNの数人を、CATは片手につかんだ椅子でブロックしながら、俺とともにドアをめざして後退してゆく。
「CAT! NAT! 早くしろ」
圧し殺した竜二の声が思わぬ間近から発せられ、俺はようやく冷静さをとりもどした。
バッカーン!
バウン!
闇のなかを長い火炎がほとばしる。
特攻班員のふたりが、また発砲したのだろう。
耳を聾する撃発音から逃げるように、俺達は次々とドアから転がり出た。
続いてコンバット・ナイフを握った黄、そして最後に顔からどす黒い血を滴らせた特攻のひとりが飛び出してくる。
しかし、もうひとりは姿を見せない。
また店内で発砲の轟音が響いた。
「もうすぐ親衛隊が来る! それまで車に乗って持ちこたえるんだ! DAMNの奴等はひとりも生かしておくなよ」
そう叫んで竜二がパーキング・エリアを突っ切って走り出した。
ようやく、最後のひとりもマグナム拳銃を腰だめに構えて、後向きに飛び出してきた。どうやら腹を刺されているらしく、特攻服が夜目にもぐっしょりと血で濡《ぬ》れている。
愛車スタッツ・ブラックホークに帰りついた竜二が、トランクを開いて自動小銃を引きずり出した。ベトナム戦争当時一世を風靡《ふうび》したM―16ライフルだ。
CATも素早くパンサーのナビゲーター・シートから武装警邏隊員《アームド》の持ち物であった八八式突撃銃を取り出し、三十連弾倉を叩きこんだところだ。
「……しかし、親衛隊は何をやってるんだ! もう連絡してから二十分以上経つぞ」
M―16を構えた竜二が、苛立《いらだ》ちを露《あら》わに黄を振り返った。
それを受けて、黄が運転席の無線器からマイクをはずす。
「こちら、副団指揮車! 親衛隊、どうした! 応答しろ!」
俺とCATもパンサーの両側のドアをいっぱいに開いてその後にうずくまりながら、無線の受信回路を開いて、団の各地の部隊の応答を待つ。
しかし、すぐ近くまで駆けつけているはずの親衛隊から、どういうわけか連絡が入らない。
「……おかしい……何かあったな……」
CATが呻くようにつぶやいた。
と、ようやくリラ・ハウスの正面から、DAMNの生き残り達が自棄的なわめき声を上げながらあふれ出してくる。
だが、その数はすでに二十名ほどにまで減少している。
まともに歩くことが出来ず、地面を這《は》いずっている幼い顔もある。
一瞬の憐《あわ》れみが俺の頭を横切った。せいぜいイキがってはいても、彼等はまだ本物の子供なのだ。
だが、そんな子供達までも狂走に駆り立てる、この高速環状とは一体何なのだろう、と俺はおよそ半秒の間考え込んだ。その答はまた、俺にとっても重要なものとなるはずのものだった。
しかし、そんな物思いをなぎ払うように、かたわらのブラックホークの陰から、竜二のM―16が火を吹いた。軽快なカン高い連射音が闇に吸い込まれる。
まき添えを怖れてか、あたりに全く人影はない。リラ・ハウス上階のホテル部分も、そのほとんどの窓が明りを消して静まり返っている。
連射によって着弾点が上へ上へと跳ね上る竜二のM―16は、まだ数人の少年達をコンクリートの上に這いつくばらせたにすぎない。傷ついた仲間を背負って、DAMNのメンバーは、なおも、わけの分らぬ悲鳴を上げながら、自分達のマシーン群めがけて走り出した。
彼等の内数人は、小口径のポケット・ピストルを俺達めがけて乱射してくる。
狙《ねら》いもなにもあったものではない盲撃《めくらう》ちだが、反動の小さい小口径弾は、けっこう車体に命中して金属片を吹き上げる。
と、今度はCATが八八式を撃ちだした。CATは連射で弾を無駄にするのを嫌って、三発ずつの点射で確実にDAMNのひとりひとりを倒してゆく。
俺は・44口径のマグナム拳銃を握ってはいるものの、さっきの無理な姿勢からの射撃で痛めた手首をかばって、発射をためらっていた。
その時、車内の無線ラジオが微《かす》かなつぶやきを洩らしはじめたのに俺は気付いた。
すぐさまパンサーのシートに身を投げてボリウムを上げる。
〈…………やられ…………仙台は…………戦車が上って……築館《つきだて》から先は、部隊が…………〉
しかし、激しい空電のために、ほとんど内容が聞きとれない。振り向くと、ブラックホークの車内ですでにラジオにとりついていたらしい竜二と目が合った。
「NAT、何か、やはり何かが起こってる。ともかく車を出そう! この周波数は団の全国共通バンドだが、この近くに居るはずの部隊は全く沈黙したままだ。入ってくるのは、かなり遠くの団の通信ばかりだ。それも、皆ひどく混乱している」
竜二はすでにDAMNとの戦いに完全に興味を失っているらしかった。M―16をブラックホークに投げ込むと、自らドライヴィング・シートに滑り込んだ。
「よし、行くぞ」
慌てて黄が、特攻に合図する。腹をやられた団員のひとりは、ブラックホークの後部座席に横たえられた。あとのひとりは顔の血を拭って、スズキ1200ギガントにまたがる。
パーキング・エリアの反対側では、生きのびたDAMNのメンバー達が、それこそ後も振り返れない恐慌状態のまま、次々に車を発進させ、飛ぶように消えてゆく。仲間同士衝突して炎上している車もある。
「NAT! 運転はおまえにまかせる。俺はこいつで護衛《ガード》に回る!」
CATが撃ちつくした弾倉を地面に投げすてて、パンサーのナビゲーター・シートに転がり込んで来た。
「分った!」
俺は短く答え、DAMNの攻撃でポツポツと小さな穴の空いた厚いドアを閉じた。
竜二のブラックホークが荒々しく発進していく。
俺もタイヤを激しく鳴らしてその後を追った。
特攻のギガントが先導位置につくべく、信じられないような速度で、その二台を追い抜いていった。
〈先導! 名神へもどるぞ! 何が起こってるのか分らんが、最悪の場合は、一宮まで行って東海北陸自動車道に入る。富山方面へ抜けるんだ! 団の本隊が、今日は新日本自動車道を走ってるはずだから、それに合流するんだ!〉
竜二の声がラジオから噴き出してくる。
〈了解!〉
先導のバイク、スズキ・ギガントは、その巨体に似合わぬ敏捷《びんしよう》な動きで反転すると、インターチェンジ内の上りと下りを分ける分離帯を無理矢理乗り越えた。
続いてブラックホーク、パンサーも、その低いコンクリート塊を越えて、上り車線に出た。
慌てて道をあけるトラックや乗用車を尻目に、一台のスーパー・バイクと二台のフルサイズ・カーは、ヘッド・ランプを怒らせながら高速車線に飛び出した。
先に逃げ出したDAMNの小グループにたちまち追いつく。
追撃されていると勘違いした彼等が必死のフル・スロットルで逃げまどうのを無視して、三台の団車は約一八〇キロで編隊を組み、青ざめる少年達を追い抜いた。
〈先導! スピードを上げるから、後尾に下がってスリップ・ストリームに入るんだ。NAT、悪いがかわりに前へ出て引っぱってくれ、パンサーなら、まだまだ余裕があるだろう〉
竜二が新しい指示を出した。
「了解!」
俺はギアをいったん落としアクセルを踏み込み、一気に先頭へ出た。
それから徐々にスピードを上げ、二〇〇キロでクルージングの態勢に入る。
フル・フェイスのヘルメットで保護されているとは言え、身体がむきだしの特攻のバイクはこの速度で相当につらいはずだ。だが、ただひたすら竜二のブラックホークにへばりついて遅れを見せない。
そのまま編隊を崩さず、俺達は吹田のインターチェンジを駆け抜けた。ライトを上げっぱなしにして、追い越し車線の車を威嚇し続ける。
今の所、高速環状の様子に別段異状は感じられない。ただ、いつもより交通量が少ないように思える。しかも、吹田のインターを越えてから、反対車線がめっきり暗くなった。
(……………?)
考え込む余裕もないまま、約十分ほどでたちまち京都南のインターが見えてくる。
と、その時俺は、前方にくすぶる炎を見つけて反射的にアクセルを離した。追突しそうなほど接近してしまった後続のブラックホークがクラクションをわめかせる。
しかし、それよりもなお、その炎の正体が俺には気にかかった。
「見ろ! NAT、あれは車の残骸《ざんがい》だ! しかも一台や二台じゃない」
CATが悲鳴に近い声を上げた。
〈どうしたんだ! NAT、なぜ速度を落とす!〉
竜二の声だ。
「副団、反対車線を見てください。先の方で、車がおり重なって燃えているらしい!」
CATがマイクにしがみついて報告した。
俺はさらにパンサーのスピードを落とした。
最後尾についていた特攻のギガントが、減速についてゆけず二台を追い抜いて再び先頭に出た。
その特攻班員が今度は大声を上げた。
〈副団! あれは団車です。燃えてるのは皆ウチの団車らしい! 見覚えのある車ばかりです。まちがいない! 誰かに親衛隊が襲われたんだ!〉
悲痛な叫びがラジオから洩れる。
〈よし、停車! 停車だ!〉
竜二が苛立って叫んだ。
三台は車体を寄せ合うように、ゆっくりと減速を開始した。
その時である。俺は路面の異常な震動をタイヤから感じとって思わず身をすくめた。
「ん?」
CATも不審気に眉《まゆ》を上げる。
「何だ? パンクか、いや、そんなはずは……」
俺はとまどい、ともかくもハンドルを抑えつける。
「路面が揺れてるんだ。地震だ、地震が起きてるんだ!」
今やはっきりと感じられるようになったその異常振動をCATがそう断定した。
「地震!?」
何か言いようのない不快感が、一瞬、俺の背中を駆け登った。
突然、怪鳥のような悲鳴がラジオからほとばしり出た。
特攻班員の声だ。
と同時に、俺も、燃え上がっている団車の向こうの闇のなかで、小山のような影が動くのを見つけていた。
「あ、あれは……」
次の瞬間、赤黒い炎が、そのものの姿に反射した。にゅっ、と馬鹿でかい砲身が突き出されてくる。
〈せ、戦車だ! 戦車が高速を走っている……〉
ラジオから竜二の呆《ほう》けたような声が聞こえた。
路面の振動はいっそう激しさを増している。その揺れが目に見えそうなほどだ。
〈逃げろ! 逃げるんだ!〉
マイクに叫んでいるのは黄だ。
いち早く現実に立ちもどって、竜二にかわりブラックホークのドライヴィング・シートに転げ込もうとしている姿がちらりと見えた。
特攻のスズキ1200ギガントが、まっ先に走り出そうとする。しかし地面の振動にタイヤをとられて無惨にも転倒してしまう。
ヘタな軽四輪ほども車重のあるギガントは、一度転倒したらちょっとやそっとで復元しない。
「おい! 単車はすてろ、この車で逃げるんだ!」
ウィンドウ越しに叫ぶ俺の声を聞きつけて、足を痛めたらしい特攻班員は、それでも必死の力を振り絞って駆け寄ってくる。
ガガッ、と眼前の炎の山が圧《お》しつぶされた。
重戦車が、折り重なるようにして燃え上っている団車の群に、その車体を乗り上げたのだ。
無数の火粉が夜空に舞い上った。戦車に圧しひしがれた残骸が幾度も小爆発を起こす。
「早くしろ! 早く!」
ようやくパンサーに辿《たど》りついた特攻を後部座席に押し込むのももどかし気にCATが叫んだ。
俺は一気にアクセルを踏み込み、無理矢理パンサーの後輪を滑らせて、車の向きを変えた。
バック・ミラーには、中央分離帯を苦もなく破壊しながらこちらの車線へ移動しようとしている重戦車の不気味な姿が映っている。
切り返しでようやく車首を反対に向けたブラックホークが、まず逃走に移った。俺もパンサーを急加速してそれを追う。
二台の車は、まるで虎に睨《にら》まれた兎《うさぎ》のような素早さで、京都南のインター出口に通じる斜路へ飛び込んだ。
ランプが閉鎖され、非常線が張られているであろうことは想像できたが、名神を直進して、レーダー照準の戦車砲で狙い撃たれてはたまらない。
思った通り、すぐさま重戦車の砲弾が俺達を追ってきた。
しかしジャンクションに逃げ込む事を予想していなかったのか、着弾ははるか後方にはずれた。
二台の団車はアクセルを踏みっぱなしで、危険なカーブをすり抜けた。
と、そこで思わぬ僥倖《ぎようこう》が俺達を待っていた。
俺達の二台は結局、戦車に追い返されて上り車線を逆行してきたことになる。
確かに思った通り、ランプには非常線がひかれ、交通機動隊によるバリケードも築かれていたが、それは主に出口側に集中していた。つまり、俺達は名神を逆行したことによって、入口側の手薄なバリケードに突入することとなったのだ。
それをいち早く見抜いた黄が無線を通じて歓声を上げた。
〈いいか、撃ちまくれ! 撃ちまくって、京都市内に逃げ込むんだ!〉
すでに、CATはウィンドウ・ガラスの間から八八式の銃身を突き出している。
特攻班員もリヴォルバーの撃鉄を起こした。
まず、黄の運転するスタッツ・ブラックホークが、ジュラルミン楯のバリケードと、制止しようとした数人の機動隊員を跳ねとばしながらランプを突破した。
俺達のパンサー・スーパー・クルーザーも、すぐ後を、小銃とマグナム拳銃を乱射しながら走り抜けた。
久しぶりの下界だった。
だが、こんな形で高速環状を降りることになるとは、さすがの俺も夢想すらしていなかった。
団の任務で時には下界へ出ることもあったが、その時はいつも徒歩だ。クルマに乗ったままでは、とてつもない高速料金を請求されることになる。だから、団員は、クルマを環状路に置いたまま下界へ出るのが普通だった。
呆気《あつけ》にとられて反撃もままならない警備陣に、さらに一連射加え、俺達は下界の夜の街に走り込んだ。
ひと目で狂走団と知れるこの二台で京都の中心街を逃げ回るわけにはいかない。
先導に立つブラックホークは国道1号からすぐ左に折れ、鳥羽《とば》離宮跡を迂回《うかい》して伏見区を目指す。
やがてひっそりと静まり返った一角へ出た。ともかく落ちのびることに成功したらしい。
総合病院と思われる建物の裏手へ車を進め、高い塀のそばへうずくまるように車を寄せると、ようやく俺達はエンジンを切った。
すでにパンサーの燃料計はエンプティの目盛りを振り切っていた。正に危機一髪だったわけだ。
俺はしばらく放心したようにシートに沈み込んで息を整えた。
闇が、なによりも俺達にとってはありがたかった。
すると外から窓を叩く者がある。ビクッとして見上げると竜二だ。ショックからようやく立ち直ったらしく、目ばかりをギラギラと光らせて口を引きむすんでいる。
俺はドアを開けた。そしてゆっくりと夜気の中に降り立った。
「このままじゃ、まずい。車を棄てて、すぐ移動するんだ」
竜二の声は意外にしっかりしている。
俺はかすかにうなずいた。
CATと、特攻班員もパンサーから這い出してきた。
「で、ケガ人の様子は?」
CATが訊いた。
「死んだよ……」
ぽつりと答えたのは竜二だ。
「…………」
黄が無言のまま影のように竜二の後につきしたがっている。
「いいか、みんな武器も車に置いていくんだ。着る物は、明日になったら何処《どこ》かで見つけることにして、飲み物や食い物、それに現金だけは持って行く。いいな」
竜二が指示を出した。しかし、その声には、さすがに力がない。
「副団、それにしてもこいつは一体、どういうことなんです……俺達を追っかけてきたのは、どう見ても戦車だった。高速環状に戦車が乗り入れるなんて、そんな馬鹿なことがあっていいんですか」
CATがささくれだった声で、竜二に問いかけた。
「……分らん、何もかも分らん……ただ高速環状のいたる所で、似たような事が起こったということだけは確かだと思う。いや、あの五年前だ……俺達は高速環状で、とんでもない戦争をやった……そしてあの領土を自分達の手で奪い取った……」
竜二の目が虚空をさまよいはじめた。
「俺達はただ走りたかっただけなんだ……それさえ許してくれれば、別に政府が何をしようと、かまやしなかったんだ……ところが奴等は俺達をギリギリまで追いつめやがった。で、あんな戦争になっちまったんだ……そして、俺達は勝った……」
「その通りですよ、副団。さあ、そろそろ、ここを離れましょう。もうすぐ夜が明けてしまう」
竜二の様子に不審を感じたのか、黄が静かに口をはさんだ。
しかし、竜二はその言葉が聞こえていないかのように、なおも立ちつくしたまま喋り続けた。
「……そうなんだ、それを奴等は今日の今日まで根に持ってやがったんだ。蛇みたいにしつこく、五年間も作戦を練り直し続けていたんだ。そうに違いない!」
竜二の声が次第に熱を帯びてくる。
「だが、どうしてだ? どうして、俺達を叩きつぶさなきゃ気が済まないんだ、え? 俺達はただ車に乗って、走り回ってりゃそれでいいんだ。政府と戦争したり、高速環状で暴力団の真似事《まねごと》をして金を手に入れたり、戦闘部隊を作って自分達を防衛したり……そんな事がやりたかったわけじゃない。俺達はただ、自由に走りたかった……ただ、それだけだったのに……」
竜二はまるで目前の誰かに話しかけてでもいるかのように、目を宙の一点に向けてつぶやき続ける。
「でも、副団。その走ることを奴等が徹底的に弾圧しようとしたんだから、俺達にすりゃあ、ああするしかなかったんじゃないですか。自分達で軍隊を作り、それで警邏隊や交機の犬コロと闘わなくちゃ、誰も俺達を走らせてくれなかったんだ。そうでしょう、俺達はヤルときはヤルんだ」
黄がなだめるように竜二の背中をさすった。
「さあ、行きましょう、副団……」
誰もが、竜二の異様な態度に気づきはじめていた。
しかし、竜二が口にする疑問はそのまま俺達の意見でもあった。
副団の竜二は、その責任の分だけ、この一夜の数時間、その疑問を、精神をすりへらすほど反芻《はんすう》し続けたのだろう。
「……そうだ、そうに違いない……奴等は五年間、どうすれば一撃で高速環状の権力を自分達の手に取りもどせるか、そればかりを考え続けていやがったんだ……しかも、一撃で、一夜の内に、すっきり叩きつぶせる作戦を練り続けていやがったんだ……
だが、考えて見ろよ……俺達は、あんなセコい高速道路が欲しかったんじゃないんだ。あそこへ俺達を追いやったのは、奴等の方じゃねえか……俺達を下界からあそこへ追い上げておいて、それで戦争を仕掛けてきたのも奴等の方じゃねえか、え? 違うか……全部、奴等が勝手にやったことなんだ……それで一度は俺達が勝った……そうしたら、今度は五年も経ってから、戦車を差し向けてきやがった……
狂ってやがる……あいつら、みんな頭がどうかしてるんだ! 俺達はただ、どっかで自由に走りたかっただけなんだ!」
俺はその言葉で、不意に俺の胸の中にわだかまっていたものを呑み下すことができた、と思った。
(そうなんだ……俺達は高速環状こそ俺達の領土のように思い込んでいたが、それは奴等に無理矢理選びとらされたものに過ぎなかったんだ)
俺は思った。
俺達にはもともと、あらゆる道路を自由に走り回る権利があったんだ。それをひとつひとつ奪われ、最後の最後、必死で防衛していたのが高速道路だったのだ。
が、どんなにそこで我が物顔に走り回ろうが、結局そのサーキットは閉じた檻《おり》でしかなかったというわけだ。
そして、奴等は、その最後の檻の中の自由も俺達に許しておくことはできなかった。
檻の中の支配権まで奪いとらずにはいられなかったのだ。
(そうだ、もう今日から、俺達にはそんな檻もない……全てを失った今日から、俺達はまた全ての道路を俺達のものにできるんだ)
俺は俺の帰結したその発見に驚いた。
そして、それを竜二に教えようと口を開いた。
その瞬間、俺は何か熱い棒のようなもので右胸を刺し貫ぬかれた。
「うぐっ……」
出かかった言葉が喉元で呻きに変わった。
そして次の瞬間、地面へ崩折れようとする俺は、パン、パン、パン、という乾いた銃の連射音を聞いていた。
三人がその場で撃ち倒された。
「見つけたぞ! こっちだ、狂走団の一味だ!」
「殺《や》れ、殺っちまえ!」
ひどく遠くで、そんな声が響いているのを、俺は夢の中にでもいるような不確かな気分で感じていた。
「クソったれめが――っ!」
銃声で突然我に返った竜二が、素手のまま駆け出して行く様子が視野の隅を横切った。
それはまるでスローモーションの映像を見るように鮮明でゆるやかな動きに見えた。
そして竜二がしなやかに跳んで視界から消えた所で、再び銃声が湧《わ》き起こった。
俺は、目を閉じた。
…………
…………
(……全国各地で、狂走団同士の激しい抗争事件が起こり、高速環状路は一時的に通行不能の状態に陥りました……その後、警察の必死の説得により、彼等は不法行為を中止しつつあり、全面的な開通も間近いものと思われます……
ところで、今回の事件は、高速環状路という日本の大動脈に巣食う、悪質な暴力集団の存在を改めて浮き彫りにした形となり、これまで常に後手、後手と回ってきた政府、公団の対策の甘さを問題とする声も高くなっております……
政府はこの事態に臨み、警邏隊の強化や検問の徹底など……)
その声がラジオのニュースだと気付くまでに、長い時間がかかった。
そして、さらに長い時間かかって、自分が胸を拳銃で撃たれたことを思い出した。
俺はごとごとと震える硬いベッドの上に固定されているらしかった。
消毒液の強い臭いが、息苦しさをいっそうつのらせていた。
そこで俺は目を開いた。
どうやら、救急車の中らしい。白衣の男ふたりが、カー・ラジオを聞きながら腰を下ろしているのが見えた。
しかし、この車は重傷患者をのせているにしては、実にのんびりと走り続けていた。サイレンすら鳴らしていない。
俺はまた目を閉じた。
俺は気を失っている間に手術が終り、これから別な病院へ移送される途中かも知れない、と考えてみた。
全身は気が狂いそうなほど発熱しているようだった。ただそのために、かえって痛みは感じなかった。
これから、どうなるにしろ、俺はまだ生きていた。
今はそれだけが重要だった。
俺は、俺が撃たれる直前に思いついた新しい発見のことを思い出していた。
とにかく、生きてさえいれば、その発見を誰かに話すことができる、と思った。
そしてあの夜、俺達目がけて砲身を振り立て襲いかかってきた戦車の姿を、誰かに教えられる、と思った。
必ず、このふたつだけは忘れずに伝えねば、と自分に言いきかせた。
そばの男達がラジオのスイッチを切った。
車はまだがたごとと揺れながら進んでいる。どうやら山道を登りはじめたようだ。
「……しかし、いいのかね。この若いのなんか、大した傷じゃなし、医者は命に別状ないと言ってたぜ」
二人は、この俺の事を話題にしているらしい。
「いいんだよ、こんな虫けら。狂走団の団員は、全員、あっち送りになるんだそうだ」
「ほお? 元気な奴もかい?」
「ああ、何しろ、警察も昨日は相当無茶をやったらしいからな。死人に口なし、死人に口なし……」
二人は陰気な忍び笑いを交しあった。
だが、それでも俺は目を固く閉じ、俺の昨夜の発見を決して忘れまいと、幾度も幾度も頭の中で反芻し続けたのだった。
芸夢E2
壊れかけたドアの陰に転がり込んでひと息ついた途端、女が道路に駆け出してきた。
女、それもすこぶるつきの女≠セ。
口を半開きにして喘《あえ》いでいる。その息づかいにつれて、まるで牝牛《めうし》ほどもありそうな乳房がゆれている。脂ののりきった腰に、わずかに黒いショーツの名残りをまといつかせただけの半裸だ。
うっ、と思わず息がつまった。
(罠《わな》だ!)と気付いていながら、俺の半身は勝手にドアの陰から乗りだしてしまった。
その瞬間、すでに俺を発見した頭上の黒い影が、襲撃の姿勢で屋根から跳び降りてくるのがちらりと見えた。
(糞ったれ!)
無理矢理身体をひねってそれをかわし、俺は道路に転がり出た。そのまま黒い影に短機関銃《サブマシンガン》の銃口を向けてトリガーを絞る。
だが、弾丸が出ない!
すでに先刻の掃射でマガジン・チューブが空になっていたのだ。
どっと冷汗が全身に湧き出る。
慌てて予備のマガジンを取り出そうと腰をひねった俺に、そいつは的確な打撃を加えてきた。
敵は二メートルを越す黒人の巨漢だ。
ビール壜ほどもありそうなブラック・ジャックを叩きつけられて、俺の短機関銃ステン・マークVはあっけなく宙に吹きとばされた。
両腕がショックで完全に痺《しび》れる。それ以上に、本物の死の恐怖が俺の脳天に突き上った。
黒人は緩慢に見えるほど着実な動作で、ふたたびブラック・ジャックを振りかぶった。
臆病《おくびよう》風に吹かれた俺の左手は、もうGIVE UPボタンを握りしめている。
だが、俺の右手はまだやめるつもりになっていない。
芸夢の開始から三分とは経っていないはずだ。斃《たお》した敵も十八人だけだ。
まだ、やめるわけにはいかない。
ここへ来る金をつくるために、俺はずい分危ない橋を渡ったのだ。元をとるまで、あと十人は殺っておきたい。
俺は訳のわからない悲鳴をあげながら、必死でアスファルトの上を転がった。震える右手で腰のホルスターのフラップをはずし、四五口径のコルト・ガバメントをひっぱり出す。
黒人はブラック・ジャックを振りかぶったまま、そんな俺を嬲るような大またで追ってきた。
(死ね! 死ね! 死ね――っ!)
砂利を噛《か》んだらしいスライドを力まかせに叩き閉じ、俺はガバメントを盲めっぽうその黒人めがけて乱射した。
弾丸が次々に血と土ぼこりを吹き上げて男の上半身に着弾する。
全弾七発を無我夢中で撃ち終えた時、ようやく黒人はぐらりとひざを折った。
激しい動悸《どうき》でまだ痺れたままの全身をようやくのことで地面からひきはがし、俺は背後に目をやった。
女が、まだそこに居た。
(…………!?)
俺は慌てて四方を見回す。
やっつけたのはこれで十九人、芸夢のワン・ラウンドにはまだまだ間がある。
俺は用心深く敵を探しながら、さっき叩き飛ばされたステン・マークVににじり寄った。空のマガジンを抜きとって投げすて、新しい三十二発入りのチューブ弾倉を押し込んだ。
そうしながらも、目の端から女を離さない。
(やれるか!?)
俺は頭の中で素早く状況を分析しにかかる。
芸夢にはしばしば、こんなボーナス・タイムのはさみ込まれることがある。それは今のような女であったり、食事であったり、単なる休息であったりするのだが、エサが投げ出されたからと言って、それがいつもボーナス・タイムだと決まっているわけではない。
フィフティ・フィフティの確率で、罠なのだ。
だから判断が難しい。
アメリカ雑誌のピンナップからそのまま脱け出してきたような女≠ヘ、誘うように軽く股《また》を開いた格好で、のろのろと建物の陰へ後退《あとずさ》ってゆく。
次の敵の姿はまだない。
(よし、やるぞ!)
俺は熱くなった下半身のうずきに耐えられず、ステンを握って立ち上った。これまでにも警戒しすぎてボーナスをのがした経験が幾度もある。そのくやしさはひと通りではない。
俺はベルトを片手ではずしながら、女めがけて駆け出した。
直後、後頭部にガツンときた。
(しまった、罠だ!)
気付いた時には、もう目の前が暗くなっていた。
第二撃はかばった腕の上からモロに叩きつけられた。
敵の持つ木の棒が俺の腕にあたってへし折れた。
しかし、息もつかせず次は蹴りがきた。
苦痛に顔中を歪めながら、しかし俺はようやく目を開けて敵を見た。凶悪そうな東洋人が半分に折れた棒を握りしめたまま、また俺に蹴りを入れようとしている所だ。
そいつの目には、はっきり殺意が読みとれた。
(甘かった)
女に目がくらんで、すぐわきの車の下に潜んでいた敵を見落としたのだ。反撃しようにも、すでにステンは手の中になかった。コルトもさっき撃ちつくしてしまっている。
(うっ!)
下腹を蹴りつけられ、俺はエビのように身体を丸めて呻いた。
(これまでだ、これ以上は続けられない……)
そいつが万力のような両腕で掴みかかってきた所で、俺は観念した。
GIVE UPボタンをぐいと押し込む。
と、眼前の風景が、ふわりと溶けて、とらえどころのない非現実感が俺を包んだ。
しかし、それも一瞬のことだ。
俺はぜいぜいと肩で息をしながら、芸夢シートの上で覚醒《かくせい》した。
スピーカーが割れた金属的な音でがなりたてている。
耳にタコができるほど聞かされ続けている最近のヒット曲だ。俺の大嫌いな歌だ。
一転してぶり返した芸夢場特有の妙に押し殺した喧噪《けんそう》が、ぎりぎりと脳天に突きささってきた。
(…………)
低くうなり声を上げて、俺は目をきつく閉じた。しかし、もう芸夢はよみがえってこない。
「おい! 終ったんだろ、早く出なよ!」
芸夢コクピットのドア越しに、じれた声が俺に浴びせられた。
「…………」
俺はのろのろとシート・ベルトやヘルメット、フット・アダプターなどをとりはずしにかかる。
最後の敵に思いきり絞めあげられた首のあたりには、今も鈍痛がよどんでいる。
「ちいっ、なにやってんだよう! 五分ももたねえクセに、グズグズすんなよ。早く出ろ、小僧……」
半透明なプラスチックのドアの外で順番を待っている若い男は、なおもわめいている。
「うるせえな、何イラってんだよう!」
ようやくのことで言い返しながら、俺は力まかせにドアを押し開けた。
「なんだと!? 小僧、そんなクチはなあ、せめて十分くらいはできるようになってからにしなよ、なあ、小僧。おまえさんには、まだA芸夢でたくさんなんだよ!」
なにかに憑《つ》かれたような血走った目の青年は、長々と捨て台詞《ぜりふ》を吐いて、俺と入れ替わりにコクピットのドアをパタンと閉めた。
すぐに芸夢の開始を示す赤いランプがコクピットの上部に点灯した。
俺は怒りもなく、ただ重く沈殿した拭いようのない疲れを抱いて、ぼんやりとあたりを見回した。
狭い通路をはさんで、C芸夢のコクピットがずらりと二十台余り並んでいる。
さらに入口近くには、体力制限のないA芸夢やB芸夢のコクピットがある。
白い繭《まゆ》の形をした高さ一メートル五〇センチほどのコクピットには、それぞれ円形のドアがあり、どのドアの前にも三人から四人のプレイヤーが順番を待って並んでいた。
さらに通路の奥には、地階のフロアへ通ずるらせん階段があり、それは誓約書の必要なDやEランクの芸夢場に通じている。
俺はこれまでに二度、D芸夢をやったことがあるが、二度とも三十秒でGIVE UPした。GIVE UPボタンのないE芸夢はまだ試したこともない。
俺は意味もなく肩をすくめると、両手をケミカル・レザーのズボンのポケットに突っ込んで通路を抜けていった。
もうそのポケットには幾枚かの硬貨が残っているだけだ。
芸夢場の出口で、俺はその一枚をポケットからひっぱり出し、自動販売機のスロットに投げ込んだ。小さなプラスチックの容器に入ったソフト・ドリンクを受取口から引き出した。
ソフト・ドリンクとは上品なネーミングだが、その中身はほとんど純粋な工業用アルコールだ。一本で身体や頭がソフトに、クタクタになることだけはまちがいない。とにかく、これが今の世の中で最も安価な飲料なのだ。
キャップをねじりとり、顔をしかめて、俺はその苦い透明な液体を口にふくんだ。まるで毒物のように素早い一撃が全身をつらぬく。血がざわざわと流れを早める様子まで感じとれた。
頭痛が少しだけ軽くなった。
俺はソフト・ドリンクを片手に、ふらりと芸夢場から夕闇《ゆうやみ》の迫る新宿《しんじゆく》の雑踏に足を踏み出した。
足元でだらしなくのびているアルコホリックたちの腹をわざと踏みつけてやる。
そいつらが呻いて胃の内容物を、自分の顔に吹き出すのを、俺は白痴のような笑いを浮かべて楽しんだ。
しかし、すぐに不機嫌な表情がもどってきた。考えてみれば、自分だって奴等と大差のない人種なのだ。
プラスチック容器からまたひと口放り込む。
疲れ果てた人の波が、俺の両側を流れてゆく。
俺はだらしなくよろめこうとする身体をよろめくにまかせて、三丁目の≪困窮者食料配給所《フード・センター》≫へ向って歩き続けた。
今日もいいことは何もなかった。やっと手に入れた金も芸夢に消えた。
女≠ニもやりそこなった。
(まだまだ俺は甘いんだ)
そう思った。
アルコールでにじんだ目の中に、ぽつぽつと灯りはじめた新宿の夜の光が映った。
あちこちに、ひときわきらびやかな
のネオンサインがまたたいている。
(ちっ!)
俺はたまたまそばを通りかかった背広姿の若い男にツバを吐きかけてやった。
男は軽い憎悪の目で俺をにらんだなり、すぐそ知らぬ顔つきにもどってハンカチで服についたツバを拭い、急ぎ足で歩き去ってゆく。
(なんだ、なんだよう!)
俺はまた、わざとらしい味つけの工業用アルコールを容器から飲み下した。
三丁目の交差点が見えてくる。
角を右に曲れば、すぐがフード・センターだ。時間が時間だけに、すでにかなりの人間が群がりはじめているようだ。
急に飢えが俺を真から凶暴な気分にした。
(糞ったれが!)
俺はフード・センターに急ごうとするひとりの初老の浮浪者を俺のとがった靴の先で蹴りつけてやった。
「な、なにをするんだ。わ、若僧が……」
浮浪者は尻もちをつきながらも、精一杯虚勢を張って俺をにらみ返す。
「…………」
俺は空になったソフト・ドリンクの容器をぽいとかたわらに投げすて、無言のまま、にやにやその男を目で嬲る。
「き、きさま、どういうつもりなんだ……」
なおもいいつのりながら立ち上ろうとする浮浪者を、俺はまた蹴りとばす。男は弱々しく呻いて道端に崩れ伏し、それ以上俺を見上げようとはしなかった。
気分が大分晴れた。芸夢場のワン・ラウンドにつぎこんだ現金《キヤツシユ》に対する悔いが少し軽くなった。
俺はまた、道を急ぐ困窮者≠フ群れにまぎれてフード・センターへと千鳥足で歩きはじめた。
「おい、流《りゆう》」
思いがけず呼びとめられて、俺は振り向いた。
「やっぱ、流だ。何てことするんだ、おまえ。かわいそうに、じじい、まだ道で寝てるぜ」
薄ら笑いを浮かべて近づいてきたのは立《たつ》だ。
「…………」
俺はそれに答えず、口を歪めてみせた。
立は仲間を二人したがえている。
「めしかい?」
立が訊いた。
俺はうなずく。
「なら、いっしょだ。おい、兄弟、おまえら先行って場所とっときな」
立は振り向いて年下らしい二人に命令した。
俺と同じ安物のケミカル・レザーのスーツをだらしなく着こんだ二人は、ぴょこんと頭を下げると、すぐさまフード・センターめざして走り去って行く。その内のひとりは、丸坊主の頭を光らせている。
「どうしたい、さえねえ面《つら》で。久しぶりだってのに、ええ? 流」
立が馴《な》れ馴れしく肩に手を回してくる。
「……どうもしやしねえよ」
俺はそっぽを向いて歩き出した。立とは古いつきあいだった。俺同様、すっかり遊民の暮らしにつかってしまった男だ。
いや、むしろ俺よりはるかに遊民として都市に適応していると言ってよかった。
ともかく、立は、今の境遇を真から楽しんで生きているようだった。
「なんだい、流、待ってくれよ」
立が俺の後から追いついてきた。
「でもよお、クラスメートってのはいいもんだな、流。こんな久しぶりに顔合わしても、いつまでたってもダチのまんまだもんな」
立はまた俺の肩に手を回してきた。
「……クラスメートか……」
俺はぼんやりつぶやいた。
立とは中学の二年から高校卒業までずっといっしょだった。その後、俺は大学へ進んだが、立はそのままあてどのない生活に入っていった。
そしていつのまにか、この俺もそんな立と同じ夜の町でしばしば顔を合わせるようになっていたのだ。
東京だけでも、遊民の数は百万人近くにまで達していた。
高齢の、いわゆる浮浪者もめっきり増加していたが、遊民の主体は何といっても十代、二十代の青年だった。
そうした定職につけず、かといって都会から出てゆくこともできない遊民たちのためのフード・センターや衣料配給所が各区に設けられはじめてから、もう七年余りが経っていた。
政府は、彼等に職場を与えるという余りに困難な努力を放棄し、それとひきかえに、ともかく衣食だけは配給しようという政策を選んだのだ。
今も俺と立の回りをフード・センターめざして流れて行く人間たちの半数は若かった。しかし、女は少ない。女は、若いということだけで手に入る職業が残されていたからだ。
「流は学校やめたんだってな」
立が言った。
「ああ……」
しばらくの間休学届けをだしてこの街をふらついていた俺だが、ついに数か月前、その最後の絆《きずな》も絶ち切っていた。
別に、どうという動機はなかった。たとえ大学にしがみついて卒業した所で、このままの世の中では、結局俺は今と同じ状態に身を置くしかなかった。それが早いか遅いかの違いだと、俺はある日、ぼんやり悟ったのだ。
そこで俺は電話で退学を通告し、月割りで授業料の払いもどしを受けた。
それはちょうどC芸夢十八回分の金額だった。
「……そうさ、学校なんかにいたっていいことがあるわきゃねえ。俺を見ろよ、流より二年も早くそんなことは分ってたんだ。なあ、流。一回かぎりの人生だぜ、楽しまなくっちゃなあ」
立は何かのクスリにまだ酔っているらしく、ひどく陽気だ。
「…………」
俺は曖昧《あいまい》に首を振ってみせた。
「そうさ、流。おまえが学校辞めたって話は、類部《るいべ》から聞いたんだよ」
「類部? あいつには、もうずい分会ってない……」
類部というのは、同じ大学へ進んだやはり俺たちのクラスメートで、なにかの社会運動のための同盟《パーテイ》に属しているという噂《うわさ》だった。
「そうさ、類部さ。オレは一週間前に職安通りで会った。あいつ、おまえに会いたがってた。だから言ってやったんだ、昼間なら芸夢場、夜ならフード・センター、オレたちはみんなそこにいるってな」
立はひどく面白い冗談でも口にしたかのように自分で吹きだした。
「そうなんだ、流、そう言ってやったんだよ。そしたら奴はまるで信じられんという様子で、流にかぎってそんな生活はしてないはずだって言いはるんだ。おかしいじゃないか、奴はそう言いはるんだよ、まったく、あいつはどうかしてるよ」
立は本当に腹をかかえて笑いだした。
バカ笑いする立といっしょに、俺はフード・センターの回りに渦まく人の波を押し分けながら進んでいった。
さっき駆け去った立の連れのひとりが、俺たちを認めて手を振っているのが見えた。
「兄弟、席がとれてます。こっちです」
大声で叫んでいる。
「どうだい、流、おかしいじゃないか、ええ?」
笑いのとまらない立は、ごったがえす浮浪者や、若い遊民を突きとばしながら、席へ向って俺を導いた。
しかしそんな立も、グループを作っている男たちや、明らかに団員と見える若者には手を出さない。そんなことをしたら、もうこの街では暮らして行けないからだ。
「兄弟、飲み物は?」
席についた俺と立に、丸坊主の連れが訊《き》く。
「流、何がいい?」
ようやく笑いのとまった立が俺の肩を叩いた。
「ビールが飲みたい……だが、金がない」
俺は肩をすくめた。
「心配するなよ、流。おい、ビールだ、兄弟、オレも同じでいい」
二人は相次いでセンターの人ごみに消えた。一人はビールを買いに、一人は夕食の配給口に並びに行ったのだろう。
「あいつら、おまえの子分かい?」
俺は訊いた。
「なに? 子分だって、流、そいつは違うよ、あいつらはオレの兄弟さ。血で誓った兄弟だよ。あいつら二人が団員に殺られそうになってたのをオレが助けてやったんだ。それ以来の兄弟なのさ。ただし、オレがあいつらの兄貴にあたるわけなんだが」
立はそう言うと、またひとしきりバカ笑いをはじめた。
「…………」
俺はぼんやり、このセンターの汚れきった食堂内を右往左往する人の渦を眺めていた。
そこは露骨な弱肉強食の論理が展開されていた。老いて力もない浮浪者は、まず席に座《すわ》ることができない。食堂のベンチは、すべて団員等の大グループか、あるいは若く腕力のある中小グループ、それと少数の一匹狼によって占められていた。
しかも、一応早い者から並ぶよう定められている食事の配給口でも、この力の論理に従って大っぴらな割り込みが許されているのだ。
俺もひとりでフード・センターにやって来る時は、まず席にありつけない事が多い。
だが老人たちは、食事そのものもあきらめねばならない日がしばしばあるのだ。
「……そうなんだよ、流。まったくかわいい弟たちさ。あの丸坊主にしてる方が密《みつ》、もうひとりが高《こう》っていう名だ」
立が話す内に、密と呼ばれた少年がビールの缶をかかえてもどってくる。
「買ってきました、兄弟。これをお飲みになっていてください。すぐ高といっしょに、食事を運んできますから」
再び少年は雑踏の中に消えた。
俺と立はプルトップをひきちぎり、互いに乾杯の仕草を交すと一気に冷えた液体を喉に放り込んだ。
悪いアルコールで焼けついた俺の全身が、かすかによみがえった。
飲み干した缶を握りつぶして床にすて、新しい缶に手をのばす。
センターの食堂内も次第にさわがしくなってきた。酒やクスリが回ってきたためだろう、あちこちでケンカがはじまる。毎夜、毎夜、繰り返される光景だ。
俺と立はそんな周りの騒ぎを無視して、次々とビールの缶を空にしていった。
やがて、密と高が夕食のトレイを手に席へもどって来た。
ポテトと白米、それに、何か得体の知れない肉片の沈んだスープというメニューだ。それとお馴染《なじ》み栄養剤が入った小さな袋も支給される。
俺はきちょうめんに錠剤を口に入れたが、立やその弟たちは笑ってそれを床にすてた。
「おかしくって、こんなものが飲めるか」
クスリとビールの酔いで目の焦点が少々ボケた立はそう言って、またバカ笑いした。
蜜がまた立って新しいビールを買いに行く。
「どうだい、流。オレたち兄弟は景気がいいだろう。ビールくらいなら、いくらでも流に飲ましてやれるんだぜ」
立はまた笑った。
「………本当だなァ、いったい金はどこから湧いてくるんだ?」
俺は本気で驚きながら立に訊いた。
「そいつは、ちょっとな……うん、流、おまえもオレたちの兄弟にならねえか? そうすりゃ、秘密を教えてやるよ」
立は少し真顔にもどって俺に言った。
「兄弟? そいつは、どうも……」
「性に合わないって言うんだろう。だがな、これからはそうも気取ってばかりはいられなくなるぜ。せめてペアを組まないとな、生きていけない……」
立は俺にビール臭い息を吹きかけながら言った。
「…………」
俺はうなずいた。立の言うことは本当だった。
遊民の数は今も増加の一途を辿っていた。
そして最初は万全と思われていた困窮者に対する無料配給システムも、次第にその増加に追いつけなくなってきていたのだ。
それにしたがい、被配給者たちの不定形な集団は、徐々に組織化の道を歩みはじめていた。ストリート・ギャングの流れをくむいくつかの大きな団がまず現われた。次には新興の中小グループが徒党を組み、新勢力となりはじめていた。
政府が雇用政策の代りに与える最低の生活物資をめぐって、遊民どうしの争奪戦が日々激化しつつあったのだ。
そのことは俺も痛いほど認識していた。
(……このままでいいはずはない……このままで生きていけるはずはない……)
俺は改めてセンターのなかに渦まく罵声《ばせい》と破壊の騒音に耳を傾けた。
「なあ、流。とにかくせっかく久しぶりに会ったんだ。しばらくオレたちとつるんでみるのも面白いぜ。オレたちには今、金がある。それに、この若い兄弟もずいぶん腕っぷしが強くなってきた」
立が言った。
「ああ……」
俺はうなずいた。
「よし、それで決まった。今夜はパーティだ。兄弟、酒と食い物をどっかで調達して来い。いや、ちゃんと金を払って買ってくるんだ。そうさ、あり金はたいたってかまうもんか。また明日、ひと働きすればいいんだ」
立はすっかり上機嫌で立ち上った。
密と高も席を立つ。
「兄弟、おまえ達、それを買ったら公園へもどってドヤを確保しとけよ。オレは、この流の兄弟といっしょに、あとから行く」
立はそう言って俺の背中をひとつ叩いた。
俺たちはテーブルの上の食いのこしをわざと床に払い落とし、残っている缶ビールをそれぞれ手にしてセンターを出た。
密と高は与えられた仕事を果たすべく、訓練された犬のような機敏さで夜の街に消えてゆく。
「ところで、権《けん》が殺られたのは知ってるか?」
センターを二重三重に囲む人の波をようやく脱け、御園に向けて歩きながら、立が不意に言った。
「殺られた?」
俺は驚いて訊き返した。
「権が? まさか、あれで……」
「そう、あれさ」
立がうなずく。
「奴はたったひとりでEに挑戦したんだ。奴は本当に天才だった。E芸夢にたったひとりで飛び込んで、十分以上頑張った。完全武装の軍隊相手にだぜ、十分だ。しかも、その間に八十人吹きとばした」
「…………」
「だが、さすがの権もそこまでだった」
「死体を見たのか?」
俺は訊き返す。
「ああ、オレたちは外で待機してたんだ。そうさ、オレたちは最初から反対だった。そりゃそうだろう、フル・メンバー十人でかかってもEファイトじゃあ半分はやられる。それにひとりで突っ込んだんだから……そりゃヒドイもんだったよ、血の海さ」
立はビールをひと口含み、それを道端で寝込んでいる老女に吹きかけた。
「な、なにすんだよ! このバチあたり共! 地獄へ……」
叫び立てようとする白髪の女に、俺は手にしていたビールの缶を思いきり叩きつけてやった。女はそれきり黙り込んだ。
あたりは暗くなっていた。公園の入り口だけが、街路灯にぼんやり浮かんで見えた。
「……それは、どこだ」
押し殺した声で、俺は訊いた。
「そうくると思ったよ」立は手を打った。
「東口さ、東口出てすぐの所にある地下の芸夢場だ。名前は≪スローターハウス≫、奴は、そこのE2に殺られたんだ」
「権はいい奴だった」
「そうさ、流、そうこなくっちゃ。オレは毎日探してたんだ、おまえのような、ほんとの戦友を。オレたちだけではどうしたって手に余る。下手をすりゃ、五分で全滅だ。流、おまえがいてくれれば、権の仇《かたき》が討てる」
「待てよ、ハネるなよ、立。俺だって芸夢はよくやる。でも、せいぜいCかDだ。Eなんて物騒な芸夢はチームででもやったことはない。だいたい俺は、チームで芸夢をやるのは好きじゃないんだ。どうしたってそいつは成功しない」
俺は言った。
「言う通りさ、流。だから、オレたち四人でトレーニングするんだ!」
「トレーニング? そんな金がどこにある」
俺は驚いて立の顔をのぞきこんだ。
「言ったろう、オレたち兄弟は金持ちなんだ。かせぐ方法を考えついたんだよ。だから芸夢代くらいは、いくらでも手に入る」
立は必死の口調で言いつのる。
いつしか俺たち二人は道の途中に立ちどまっていた。
言い合う俺たちの様子をケンカと勘違いした通行人が遠巻きにしはじめた。
気付いて、俺と立はまた歩き出した。
見物しようと集まってきたヤジ馬をどやしつけながら、公園の敷地内に入り込む。
そこはもう、完全に遊民たちの領土、日本の法律が及ばない一帯だ。
「だが、立。四人だぞ、四人そろって芸夢のチーム・トレーニングをつむには途方もない金がかかる。分ってるのか」
俺は言った。
俺の知り合いだけでも、もう優に八人は芸夢で死んだ。
それもGIVE UPボタンのないEクラスなどでではなく、BやCで殺られたのだ。
A、Bは完全な個人戦芸夢だ。C以上のクラスになると団体戦、つまりチームで戦場におもむくことができる。
Cは三人まで、Dは五人チーム、Eは十人だ。もちろん、どのクラスも個人で戦うのは自由だ。
知り合いが芸夢で死ぬと、よく友人たちが集ってとむらい合戦をやる。
芸夢に繰り込んで、敵をスリー・ラウンド全滅させるのだ。すると芸夢マシンがGIVE UPする。賞金も出る。それが流行だった。
だが、それもせいぜいDまでだ。Eクラスでは、余程の精鋭を集めないかぎり、逆に返り討ちにあうからだ。
立はそれをやろうとしている。しかも、金はある、と言いはる。
確かに、権は天才的な戦士であり、しかも稀《まれ》に見るいい男だった。できるものなら、奴のとむらい合戦はしてやりたい。
「流、金のことは本当に心配してくれなくていい。オレたち兄弟でなんとかできるんだ。それとチームだが、四人じゃない。実はもうひとりコマンドを見つけてある」
立が言った。
「…………?」
立は不審そうな俺に大きくうなずき返した。
「類部さ。類部が参戦するって言ってるんだ。おまえが芸夢場になんか入りびたっているはずがない、って言ったあの類部が、何を考えてるのか、権の仇討ちには連れてってくれって言ったんだよ。奴はそのことでもおまえに会いたがっているのさ。クラスメート・コマンドだよ、俺たちは」
立がまくしたてた。
「類部……奴の狙いは何なんだ……」
俺は頑丈な体格をかくそうとでもするかのような猫背で、キャンパスのビラ配りを来る日も来る日も続けていた類部の顔を思い浮かべていた。
今日はついに立と二人でC芸夢をGIVE UPさせた。
ワン・ラウンドを平均三十分、各ラウンド三十三人ずつの襲撃者を手際よく片づけた。
途中で女にもありついた。
一人が見張りに立ち、交代で二回ずつ犯すだけの余裕すらあった。
俺と立はケミカル・レザーのズボンを重く濡らして、それでも言いようのない満足感にひたりながら芸夢コクピットを出た。
「さて、と。この格好じゃあ、どうも歩きにくくっていけねえ、なあ、流」
立が顔に似合わぬ照れ笑いを浮かべながら言った。
「……ああ」
俺も共犯者の笑いを返す。
「そろそろ兄弟がもどって来る時間だ。それまで一杯やりながら、下着だけでも着がえようぜ、流」
立がおかしな歩き方で先に立った。
「……なんとか、やれるようになったもんだ」
わずか三日間で芸夢Cを制した達成感が、感動に近い高揚を俺にもたらしていた。
「そうさ、流。こんなに上手《うま》くいくと知ってたら、こいつにちゃんとかぶせて来るんだったぜ」
立はまだ先刻のグラマーを忘れられないでいるらしい。
俺と立は人の目も気にせず互いの股間《こかん》にしみでた汚れを指差しては笑いあった。
西口近くで小路に折れ、俺と立は遊民相手の殺風景なリカー・ショップに入る。
そこで密や高と待ち合わせることになっていた。
まだ日が高く、客はベンチで寝こけている浮浪者ひとりだ。
その酔いどれを叩き出し、俺と立はズボンを脱いで汚れたブリーフを店の角にすてた。
トイレから紙タオルを探しだし、それで身体やケミカル・レザーのズボンをぬぐう。
ひとしきり身づくろいを終えると、立は壁際に並ぶ自動販売機のスロットに硬貨を放り込み、ビールをとり出した。
まがいもののビーフ・ジャーキーも買う。
「どうだい、流。豪勢なもんだろう。好きな時に好きなものが飲め、やりたくなりゃ芸夢場でたっぷり楽しみ、トレーニングする。ちょっと前までは考えられない生活だよ」
ビールを一気に飲み干して立が言った。
「……そんなインチキのクスリがいい商売になるなんて……」
俺もまんざらでない顔つきで応える。
「まったくだ。あの高が大学へ行ったのは本当に無駄じゃなかったと言うわけだ。薬学部とはなあ……まったく、オレもそこまでは気がつかなかったさ」
立たち三人が見つけたもうけ口とは、まがいものの麻薬の製造、販売だった。
遊民となってこの新宿に流れ込んで来る以前は薬学部の学生だったという高が、ハウ・ツウを提供したのだ。
習慣性の軽い興奮剤として、マリワナ並みの常用者を持っている通称ZIPと呼ばれる化学系麻薬は、何の変哲もない白い粉末である。そしてかすかな甘味がある。
高が製造しているのは、このZIPのまがいものだった。
原料はどこのミルク・バーにでもあるチクロだ。それに安価な強心剤を多量に混入し、精製し直すと、ZIPによく似た味で、しかも軽度の高揚効果をもたらす粉末ができあがる。
たいていの使用者は、これでだまされる。効《き》きが悪くとも、身体の調子のせいだと考えるらしい。
立たちは、このニセZIPを本物の流通価格の七割ほどの値段でさばいては、かなりの収益を上げていたのだ。
どこの店にでもあるテーブル・シュガーのチクロが主原料なのだから、原価はほとんどタダに近い。しかもこのまがいものは本物以上に無害なのだから気も軽い。
二人で幾缶かのビールを空にしたところで、高と密が商売を終えてもどってきた。
彼等はポケット一杯の現金《キヤツシユ》に加えて、ひとりの客を連れていた。
「類部! 類部じゃないか!」
長身をかがめて、のそりと店へ入ってきた男を見て俺は叫んだ。
「兄弟、偶然この方を駅で見かけたのでお連れしました。この方も兄弟や、流さんに会いたがっていましたので」
密が報告する。
「久しぶりだな、流。もう一年以上会ってないかな?」
類部が俺の肩に手を置いた。
「権のことは聞いたよ」
俺は照れたように目を伏せながら、ぼそりと答えた。
高が新しいビールの缶を類部に手渡した。
「流はもう大学へはもどらないつもりか」
類部がビールで喉をしめしながら言う。
「…………」
俺は黙って目をそらした。
「いや、それをどうこう言う気はない。ただ、俺はおまえが何かをやりそうな男だと目をつけていた。だから、俺の目の前から消えてしまったのが寂しかったんだ」
類部は固い声で言い、本当に寂しそうな笑いを浮かべた。
「……俺は何もしないさ。できないんだ……」
俺は変に怒りっぽい声を出した。
「流、いいのかい? このままで」
「何がだい!?」
「このまま、何年、生きるつもりなのか、と聞きたいんだ」
類部の声が確信の調子を帯びる。
「知るかよ!」
急に横から立が言った。
「また説教を始めるつもりなら今度にしてくれよ、類部。今日はオレたちはいいことがあったんだ。だから、気分よく飲んでるところさ。そうさ、C芸夢を二人でノック・アウトしたんだぜ! それだけじゃない、とびきり具合のいいあそこに、二度も突っ込んですっきりしてきたんだ。流だって、そうさ。オレたち兄弟は大丈夫、生きぬいて見せるぜ。チームさえしっかりしてれば、まだまだ団にだって対抗できる。やられてたまるかよ」
立がぐいとビールをあおった。
「わかってるさ、立。だがな、団よりもっと怖いやつらが、何かをたくらんでいるとしたら、どうする?」
「誰だい! そりゃ」
類部はがっしりした上半身をカウンターにあずけると、また俺に顔を向けた。
「どうやら、戦争が近いらしい」
ぽつりと言う。
「またか」
俺は唇を歪めた。
「類部、おまえは根は本当にいい奴なんだが、そこがいけないんだよ。何の同盟《パーテイ》か知らないが、踊ってんのはおまえなんだぜ」
「同盟《パーテイ》なんて、関係ないさ。俺は除名されたんだ」
類部が思いがけず声を落とした。
「除名?」
俺は顔を上げる。
「そうさ。ほとほと愛想がつきたよ。やつらには何も分ってやしないんだ。その事を教えてやっただけで、即、除名だ」
類部が自嘲《じちよう》の表情を浮かべた。
「分ってないのは、お互い様じゃないのかい? 戦争が来る、戦争が来る……もう五十年以上、誰かがそう言ってるぜ」
俺は吐き出すように言い返した。
「今度は、本当なんだ。俺はその情報を握ってる」
「だとしたって関係ねえな。勝手に死にたい奴は死ぬさ。もっとも俺たちだって、毎日芸夢場で戦争してるぜ、そうだろう? 戦死する奴だっている」
俺は権のクセだったファイティング・ポーズを真似て類部のあごを軽く打った。
「そうだよ、流の言う通りだ。類部だって今じゃオレたちのコマンドに参加してるんだ。戦友じゃねえか。戦争が怖くて、新宿で生活できるかよ」
かなりろれつの怪しくなった立が割って入る。
「政府は俺たちを一網打尽にするつもりなんだ。それも近い内に……」
妙に沈んだ声で類部が言った。
「どういうことだ?」
「やつらはすでに選別リストを作ってる。芸夢の資料をもとにして」
「なにを、バカな」
立が笑った。
「いや、こいつはまちがいない事実だ。いいか、流、それに立。あの芸夢というのはもともと米軍がコンバット・シミュレーション用に開発した装置だってことは知ってるだろう?」
「何かで読んだことはあるなあ……」
立が興味なさそうにつぶやいた。
「原理はそうだろうさ。だが、コンバット・シミュレーションで人が死ぬかよ。そんな事をしてたら、軍隊は全滅じゃないか」
俺も面倒臭げに応じる。
「死ぬんじゃない、殺されるんだ!」
類部がカウンターを叩いた。
「…………?」
「いいか、よく聞け! あの芸夢という装置はな、そのプレイヤーの性格判定によってプログラムを変更してゆくように改造されてきてるんだ。そして、その結果から政府が不適格と認める人間を殺しにかかるんだ!」
「まさか」
立が、また空《うつ》ろな笑い声をたてた。
「不穏分子を合法的に抹殺するための装置が、芸夢の正体なんだ。と同時に、やつらは優秀な兵士の選別を芸夢の資料で自動的に行ってもいる……」
類部の目が次第に焦点を失っていくように見えた。
ビールの酔いのためか、他の原因なのかは判断できない。
高と密は、俺たちのやりとりには全く興味を示さず、まがいもののZIPを売ってかせいだ金で手に入れた本物のZIPとビールがもたらす桃源境に身を沈めかけている。
「おい、おまえ除名されたなんて言っても、ちっとも変わってやしないじゃないか。昔通りだな、被害妄想は……」
俺はふと懐しいものを見つめる目を類部に向けた。
「嘘《うそ》じゃない、流! 俺たちの分派は、その確かな証拠を掴んだんだ。区の派出所から、完璧《かんぺき》な遊民の戦技判定リストを盗み出したんだ。それを同盟《パーテイ》の幹部に送付したら、俺たちは除名された! 分るか、この意味が!?」
類部は大柄な身体をゆすってひと声怒鳴り、ふと気弱そうな笑みを浮かべた。
そしてうつむくとビールの残りを飲み干した。
「読めてきたぜ、類部。おまえが権のとむらい合戦に加わりたいと言い出した狙いが……」
俺はゆっくりとそう口に出した。
「…………」
類部は黙ってビールの缶を握りつぶした。
「だがよお、なにがどうあれ、そいつはオレには関係のないことだぜ」
一瞬の沈黙に立が割り込んできた。
「そうさ、関係ねえ!」
俺も強い調子で立に同意する。
「いいか、類部。芸夢ってのはな、なにがどうあれ、遊びなんだ、俺たちにとっては。ヒマつぶしさ、それだけだ。確かに、おまえが喋ったような噂はよく聞くさ。芸夢で徴兵カードの資料を作ってるなんて噂は、おまえに言われる前から何度も聞いてる。だが、それがどうだってんだ? 俺はそんなのは怖かねえ」
「流の言う通りだぜ、類部。芸夢で死ぬのなんか怖かねえ! 権の仇はきっと討つぜ!」
訳も分らず、尻馬《しりうま》にのって立も怒鳴る。
その目はもう完全に坐っていた。
「……ともかく、目的は同じだ。俺も芸夢をやっつけたい。E芸夢をやっつけて、叩きつぶして、それからのことはそれから考える……」
類部がおとなしくつぶやいた。
「おまえも結局は敵が欲しいだけなんじゃないのかい? 俺たちと同じように、やっつける相手が必要なだけなんじゃないのかい? そして、憎悪でギラギラしながら、殺してやる、殺してやる、とわめきながら、そうすることで面倒なことを忘れて死にたいんだ。生きることに執着してる振りがしたいんだ。そうじゃないと、死ぬことが余りにも空っぽに見えるもんだから、それが怖いんだ」
俺は酔いにまかせて喋った。
「…………」
類部はむしろ明るい表情で微かに笑った。しかし、何も言わない。
「出ようぜ、兄弟」
立が入口に目を走らせながら、小声で言った。
見れば、そろいの団章をそでにつけた男数人が、物欲し気にリカー・ショップをのぞき込んでいる。
「こんな所でもめたくない。それに今オレたちは金持ちだ。金持ちの間だけは、命が惜しい」
めずらしく立がもっともな意見を吐いた。
ZIPでとろんとした目つきの高と密をせき立てて、俺たちはうつむいたまま店を出る。
団員の視線を背後に感じながら、大通りへ急ぐ。
一〇メートルも進まない内に、出てきたばかりのリカー・ショップですさまじい破壊音が上った。団員たちが、店を壊して金と酒の略奪をはじめたらしい。
「ムチャをやるぜ」
立がぼそりと言う。
「だが、あいつらはいい兵隊になるんだ。政府はそのことを知っている」
またもや演説をはじめようとする類部を小突いて黙らせ、俺たちはまたフード・センターめざしてメイン・ストリートを進みはじめた。
四人とも、かなり酩酊《めいてい》している。
今日は早目に食事を切り上げ、眠りたかった。
一般の通行人を威嚇しながら、俺たちは新宿の人ごみを分けてゆく。
と、俺は不意にひとりの見覚えのある横顔を雑踏のなかに発見して緊張した。
薄黒い肌の男だ。凶悪な三白眼であたりをねめまわしながら歩いている。
(あいつは……)
俺は低くうなった。
それは以前、C芸夢の中で、俺に明らかな殺意を見せて襲いかかってきた男にまちがいなかった。GIVE UPボタンを押すのを少しでもためらっていたら、俺もその時どうなっていたか分らない。
(糞ったれめが!)
俺は無意識の内にその男の後をつけはじめていた。
芸夢とはむろん電子的な刺激によって頭の中につくられる幻覚の戦場だ。
刻々と変化するシチュエーションをコントロールしているのは、超小型のスーパー・シミュレーターで、それは個々の芸夢ごと微妙な変化と個性を持たされている
だが、その変化や個性は芸夢コンピューターの能力によって生みだされるのではなく、主にそのコンピューターが記憶しているモデル≠フ能力によっているのだ。
その意味で、芸夢は映画に似ていた。
実際のアクターが存在するからである。
アクターは、芸夢スキャナーによってその顔形やさまざまな能力、クセなどをすべて、写しとられる。
コンピューターはそれを記憶、貯蔵し、芸夢のシチュエーションに応じて、その男女を出演させる。
そして芸夢の中で、男や女は本人と同じ能力を発揮して、プレイヤーと闘うのである。
映画のアクターが、本人の知らぬ間に何万人もの人間に共通体験を与えるのと同じことだ。芸夢のモデル≠ヘ、本人の意志とは一切関係なくコンピューターに操られ、何百回、何千回となく殺され、犯され、あるいはプレイヤーを殺してゆく。
だが、そのことによる事故は多い。
つまり、現実の場で敵≠竍女≠ノ出会ったプレイヤーが、芸夢の幻覚と現実を混同して、その全く無縁の相手を襲うことがよくあるからだ。
芸夢のモデルは、見知らぬ人間の憎悪を買い、あるいは知らぬ間に愛欲の対象となる危険とひきかえに、それなりのペイを受けている。
ともあれ、今、俺をとらえた憎悪は、その最も理不尽な憎悪だった。
俺の前を歩くその男は、もちろんこの俺を殺そうとしたことなど知るはずもない。俺の完全に一方的な関係意識なのだ。
だが、酔いのために、俺は自分を制御できなくなっていた。
毎日目にするTVタレントと知り合いのような気がしてあいさつをしてしまう、同じ次元の関係意識で、俺はその男に殺意を燃やしてしまったのだ。
「おい、流。フード・センターはこっちだぜ。どうした、酔っぱらったのか」
勝手に足を早める俺に驚いて立が追ってきた。
俺は黙ったまま、前を行く男の後姿を指さした。
「誰だい! 知り合いか? ダチにしちゃあ、目つきの気に入らねえ奴だな」
立が眉をしかめた。
「立、あいつを見たことはないか? ほら、西口の≪スコーピオン≫のCに出てくる奴だ」
俺は押し殺した声でつぶやいた。
「なんだって? 流、そいつはやめときな。あいつには関係のないことじゃねえか」
俺のやろうとしている事に気づいて、立はさすがにあきれ返る。
「奴は俺を殺そうとしたんだ。本気で、殺そうとしたんだ」
俺はなおもそいつを追おうとした。
「待てよ、流」
追いついてきた類部が、がっちりと俺の肩を掴む。
「とめるなよ」
俺はそれを振り払おうと手を上げた。
「とめやしない、どうせあいつは殺人犯かなにかだ。保釈と引きかえに芸夢のモデルにされたのさ」
類部が言う。
「えっ?」
「そうなんだよ、この頃はそうなんだ。そうやっておいて犯罪者を町に出すんだ。そうすると、その内に、どこかのオッチョコチョイが、そいつの始末をつけてくれるという寸法さ。当局の狙いはそれなんだ。処刑の手間をはぶき、しかも手っとり早くもうひとり犯罪者をつくり上げられる。そして、そいつの程度が良ければ釈放と引きかえに軍隊行き……ヤバそうな奴は芸夢のモデルだ」
類部が説明した。
「本当か!?」
酔いが醒《さ》める思いで、俺は訊き返した。
「ああ」
類部はうなずく。
「だがな、E芸夢のモデルだけは違うんだ。そんなチャランポランな相手じゃない。プロさ、殺しのプロがモデルなんだ。国軍の精鋭が、何が何でも殺しにかかってくる。もちろん芸夢の中では、プレイヤーの方が重装備を許されているから生還する者もいる。しかし、それは罠なんだ。死亡率一〇〇パーセントでは挑戦者がいなくなってしまうからな。適当に勝たせ、適当に殺して行くんだ。それが奴等の手なんだ」
「おまえは昔から何でも知ってる男だったなあ」
立が半分本気で、半分ちゃかしながら肩をすくめた。
そうこうする内に、目指す男は人ごみにまぎれて視界から消えていた。
「……しかし……」俺はふてくされてみせた。「関係ねえぜ、俺には」
「オレにもだ、兄弟、関係ない」
立が明解に応えた。
「殺されそうになったら逆に殺るだけだ。簡単なことだ。例え相手が政府だろうと何だろうとな」
「そういう人間を、やつらは狩ってるんだよ。芸夢をつかって……」
類部がまぶしいものを見るような目で立を見た。
「…………?」
立が首をかしげる。
「やつらにはガマンできないんだ、自由な人間というやつが。自由そのものをフード・センターと芸夢でおびき寄せ、皆殺しにしようとしてるのさ」
類部が大きな胸を張った。
「分ったよ、もう分った。ところでおまえさんはどれだけ自由なんだ、え?」
俺は酔い醒めの苛立たしさを類部に向って吐き出した。
「何でもいいよ。権のためでも、自由のためでも、どうだっていい。とにかく五人でEをやるんだ。そしてやっつけるんだ。俺たちにできるのは、それだけだ。ごちゃごちゃ言ってみたって、結局はそれだけじゃないか。違うか?」
早口で言うと、俺は先に立って歩きだした。
(糞ったれめが……)
誰に対してとも分らないまま、俺は心の中で毒づいた。
Eセクションの入口で、ネズミのような小男が五枚の誓約書を俺たちに投げてよこした。
「さあ、そいつに書き込んでからやってくれよ。死んでも文句は言いません、ていう書類だ。もっとも死んでから文句の言える人間はいないがね」
小男は陰惨な笑い声を立てた。
「何だと、生まれぞこない! まずここでキサマを殺ってからにしてやろうか」
立がすごむ。
「ここへ来る奴は、みんなおまえみたいに興奮している。怖いからだよ、チンピラ。いいから、早くするんだ。料金も忘れずにな」
いつの間にかポケットからピストルらしいものを引っぱり出した小男が、横柄な態度で書類をアゴで示す。
「芸夢が終ったら、必ずオトシマエをつけてやる……」
小男の得物を横目でにらみながら、立はそれでも仕方なしに誓約書に適当な記号をなぐり書きする。
俺や類部、それに立の兄弟二人も、自署の欄に×印やレ印を入れて、小男に投げ返した。
「なんだ、おまえら。自分の名前も書けんのか。まあ、いい。行った、行った」
金と書類をしまい込んだ小男は、E芸夢のコクピット専用キイを壁からはずす。
「おっさん、E2だ。他じゃダメだ!」
立が言う。
「ん? なんだ、ダチの仇討ちか。感心なこった。そのダチと地獄で会いな」
へらず口を叩きながら小男がE2と刻印されたキイを投げてよこす。
「しかし、五人ぽっちじゃ、いいとこ十分だ。やめるんなら、今の内だぜ」
芸夢コクピットに向う俺たちの背に、まだ小男の声が追ってくる。
「この、生まれぞこないめ!」
立がまだ歯ぎしりしている。
しかし俺は、その小男が実はとてつもなく優しい人間なのではないか、とふと思った。
男は俺たちを怒らせることで、必死で芸夢をあきらめさせようとしているのではないだろうか。
だが、もう遅い。
立がコクピットのドアを開いた。
白っぽい小ホールのようなコクピットの内部には十個の芸夢シートが寒々とした有様で並べられていた。
俺たちは黙りこくって、思い思いのシートに腰を下ろした。
ドアを閉じた立も、右端のシートに坐る。
シート・ベルトをしめ、ヘルメットをかぶった。
フット・アダプターを足首に装着し、それぞれに電極を差し込んでゆく。
五人の準備が整うと、正面のパネルにスタン・バイを示す赤ランプが灯った。
微かにブーンという入力音がコクピットを包む。
「いいか、高、密、今日は完全武装だ。おまえ達はハンド・ミサイルを受け持つんだ。機関銃はオレが扱う」
かすかに上ずった声で立が命じた。
「こんな事を今になって言って役立つかどうかは分らん。だが言っておきたい」
類部がヘルメットごしにくぐもった声を上げた。
「何だ? 早くしろ」
俺は苛立って言い返した。
「この芸夢という装置は、もともとが米軍の開発したコンバット・シミュレーションだ。つまり、あくまでも幻覚にしか過ぎないんだ。ただ、肉体に実戦と同じ刺激を与えるもんだから、本物の死体がでる。だが、米軍ではそうした人的損失を防ぐために、心理的バリヤーをほどこしてこのシミュレーションを行なわせるらしい。つまり、これは幻覚だ、現実じゃないんだ、と無意識層に確信させることで、本物の死を防ごうとしているらしい。だから、俺たちも……」
「分ったよ、もう、分った。類部、そんなに死にたくないなら、今、降りたっていいんだぜ」
俺は吐き出すように言った。
「…………」
つまったような声を立て、類部は沈黙した。
「いいか? みんな、いいか?」
立が叫ぶ。
「レッツ・ゴー!」
スイッチが倒された。
…………
…………
…………
……と、俺は野戦服姿で見知らぬ街角にうずくまっていた。
いや、待て。見知らぬと思えたのは、そのすさまじい破壊のためで、よくよく目をこらせば、そこが変わり果てた新宿の駅近くだと分る。
俺の手には二十発入りのボックス・マガジンを装着した突撃銃《アサルト・ライフル》が握られていた。
大急ぎで、まず自分の装備を点検する。
予備弾倉、手榴弾《しゆりゆうだん》、ナイフ、それに拳銃……ライフルは国産の六四式だ。
D芸夢で、すでに習熟している得物である。
かたわらで、立が六二式の七・六二ミリ機関銃に装弾している。
高や密は、木箱から九〇式ハンド・ミサイルをとり出し、安全装置を解いていく。
身体の大きな類部が一番の大物六四式八一ミリ迫撃砲を正面の駅前広場に向けて据えつけはじめた。
俺もそれに手を借す。
と、そのヒマもなしに、敵の放った第一弾がすぐ俺の近くをかすめた。
「地下道だ! 地下道の降り口のあたりから狙撃《そげき》しているぞ!」
地面にはいつくばって立が叫ぶ。
そこを狙って、高が勇敢にも立ち上ってハンド・ミサイルを投擲《とうてき》した。
投げ上げられた小型ミサイルは空中で点火し、有線のワイヤーを引きずりながら、放物線を描いて目標に突進した。
地下街への入り口付近から、ざっと十名ほどの敵兵が散開するのが見えた。
タタタタ……
素早く立の軽機が火を吐く。
数人が瓦礫《がれき》の向こう側に倒れた。
しかし、敵も一斉に射撃を開始した。数弾がヘルメットのすぐわきをうなりを上げてかすめた。
一発、二発、三発、と高や密の放ったハンド・ミサイルが爆発する。
その煙の後から湧き出すように数を増す敵兵めがけて、俺も六四式のトリガーをフル・オートで絞り続けた。たちまちボックス・マガジンが空になる。
「後退しよう! あのビルの一階に入るんだ! ここにいては狙い撃たれる!」
立が軽機をかかえこみながら叫んでいる。
類部も次々と八一ミリ迫撃砲弾を発射しているが、激しい敵の弾幕に照準が思うにまかせず、大半が敵を跳び越えてその後方に着弾している。
ただ有線でコントロールできるハンド・ミサイルは、着実に敵のグループを地面に叩きつけているようだ。
だが、いかんせん、ここは位置が悪すぎた。
掩蔽《えんぺい》物はわずかに横倒しになった数台の車輛《しやりよう》だけだ。
「行くぞ!」
軽機を横がかえにした立の合図で、俺たちは後方のビルめがけて走りだした。
八一ミリを放棄した類部がハンド・ミサイル十二発の入った木箱を肩にかついでまずそこへ駆け込んだ。
軽機用の七・六二ミリの弾箱をかかえた俺もその後から転げ込む。
軽機をかかえた立、ハンド・ミサイルの箱を持った高も後退してくる。
しかし、しんがりをつとめた密がやられた。
一度に数弾を背中に浴びせられて、声を立てる間もなく身体を寸断される。
「畜生! チクショウ!」
立が激昂《げつこう》してわめき散らす。
敵の数がまた倍ほどに増えたようだ。
駅前の広場のあちこちに転がる瓦礫の山を巧みに利用しながら、俺たちの潜む廃ビルに殺到してくる。
高がその影めがけて、たて続けにハンド・ミサイルを投げつけた。
俺も崩れかけた窓わくの陰に身体をかくしながら、六四式を点射する。こう敵が多くては、弾の心配を今からしておかなくてはならない。
立の軽機もまた軽快な連射音をたてはじめた。
敵の数人が土煙りにとり囲まれ、跳ね上るようにして斃れた。
「よし、半数は殺った。後、五十人でワン・ラウンドが終る!」
的確な防御で敵を食いとめて余裕を感じたのか、立が振り向いた。そばで小銃とハンド・ミサイルを発射し続ける類部に笑いかける。
その瞬間、横からの打撃で、立の顔が半分吹き飛んだ。
見ればいつの間に忍び込んできたのか、M―16ライフルを構えた敵が、廃ビルの横手から中へ入り込もうとしている。
俺は立のまき散らした脳漿《のうしよう》を浴びて、無意識の内にすさまじい悲鳴をあげながら、その敵を無我夢中で掃射した。
立の死骸に駆け寄った高は、少年らしからぬ凶暴なうなり声を上げて、六二式にまだしがみついている立の指をひきはがす。
そして撃つ。
「流! 正面だ! 敵が突撃にうつったぞ!」
ただひとり正面の敵と対峙していた類部が悲鳴に似た声を上げ、手あたり次第にハンド・ミサイルを広場に投げつけはじめた。
慌てて向き直ったその途端、無数と言っていい弾幕が、俺たち三人を包み込んだ。
たちまち数弾が、俺の左腕、腹、腿《もも》などを貫く。
「うっ!」
たまらず床に崩折れた。
目の前が一瞬赤に染まった。
どうやら、高のかたわらのハンド・ミサイルが次々と誘爆を起こしているらしい。
かすかに類部の断末魔の絶叫が聞こえた。
俺はちらり、と最後の視力で腕時計をのぞき込んだ。
(七分か……まだ、七分しか経ってないじゃないか……)
また一発、すぐ近くでハンド・ミサイルが爆発した。
その爆風で、俺の身体は土砂といっしょに宙に巻き上げられ、そして地面に叩きつけられた。
急速に意識が薄れる。
(死ぬのか……)頭の奥底で俺はひとりごちた。(たった、七分で死ぬのか……)
そして世界が消えた。
…………
…………
…………
…………
……全身を貫く激痛で、俺は意識をとりもどした。
(く、くくく、くく……)
自分の声とも思えないうめきが頭の中に響いている。
(まだ、俺は、死んでない……)
恐る恐る目を開いた。
目蓋《まぶた》の上にかぶさった土砂の間から、ぼんやりと光が見えた。
俺は耐えられない痛みに悲鳴を上げ続けながら、それでもゆっくりと上半身を起こした。
そして、ごろりと、うつ伏せになる。
「……もう……終った……出て来なさい……健闘に免じて……は終了します……」
どこかから切れ切れにスピーカーで拡大された声が響いている。
ようやく視界がはっきりしてきた。と同時に全身の痛みもさらに増した。
俺はまだ芸夢の舞台にいた。同じ廃ビルの中だ。
しかし、先程の爆発で、反対側の壁まで吹きとばされてしまったらしい。
一〇メートルも先の方に、操作手を失った六二式軽機がぽつんと転がっているのが見えた。
すぐ近くに右腕が一本落ちている。
慌てて自分の手を動かしてみるが、それは大丈夫のようだ。大きさからいって、類部の右腕に違いない、と俺はなんとなく思った。
「……君たちの健闘に免じて、これにて芸夢終了とします。生存者はすみやかに出てきなさい……芸夢は終了します……すぐに出て来なさい!」
今度はすぐ近くで、乾いた呼びかけの声が響きわたった。
(……終了?……健闘に免じてだと?……)
俺はいまだに思考力をとりもどせない頭を強く左右に打ち振った。
また激痛が全身を走り抜けた。
「うっ、ううう……た、助けてくれ!」
思わず悲鳴が口から洩れた。
と同時に、スピーカーの声がぴたりと止《や》んだ。
(見つかったのか?……本当に芸夢は終了なのか?……助かるのか?……)
俺はまたぐったり地面に全身を押しつけた。
数人の足音が間近に迫ってきた。カチャカチャと触れ合う銃器の気配もある。
「いたぞ!」
頭上から声が降りかかった。
俺は顔を上げた。
「お、おまえは!」
声にならない悲鳴を上げて、俺はそいつがよく見えるようあお向けに転がった。
野戦服姿のその男は、不審気な表情を浮かべた。
「何だ!? 俺を知ってるのか?」
男が言った。まるで現実の人間ででもあるように。
それはほんのちょっとした芸夢コンピューターの冗談に違いなかった。
「き、きさま……ァ」
俺は呻いた。
その男は、以前に別の芸夢で俺を殺そうとしたことのある、浅黒い肌の東洋人だったのである。
「た、助けてくれるの、か……」
俺はやっとの思いで口を開いた。まるで紙と紙がこすれ合うような声が喉から洩れた。
俺を見下ろす野戦服の男が、微かに笑った。
「……げ、芸夢は、終ったんだろう?……た、助けてくれるんだろう?……」
俺はなおも熱にうかされたように喋り続けた。
実際、全身の激痛と、それ以上に激しい高熱が俺の身体を内部から灼いていた。
「み、み、水……」
男はその冷酷な笑いを顔に貼《は》りつかせたまま、小さく首を左右に振った。
「……な、なぜだ?……た、助けるって……言ったじゃないか?……」
俺は必死で空気をむさぼりながら、最後の生にしがみついて叫んだ。
しかし、その俺の声は余りにも小さい。
「助けるだと? おまえはE芸夢のシステムを知らないのか!? GIVE UPはなしだ。ワン・ラウンドは百人の部隊全員を殺さなくちゃ終らない。我々の被害は七十八人だった。まだ芸夢は終っていない。おまえが死ぬまで終了しない規則だ」
男は一語一語を区切るように言った。その言葉の背後に、俺はコンピューターの声を聞いた。
「……な、なぜだ……さっきは、た、助けると……」
「罠さ、単純な罠さ」
「な、なぜだ……なぜなんだ……」
乾ききった唇を焼けただれた舌でまさぐりながら俺はつぶやいた。
「もっと……簡単な方法で……殺せる……はずだ……」
「おまえたちに思い知らせるためさ。地獄の底まで敗北を背負って行かせるためさ。ハッ、ハッ、ハッ、ハッ」
男は笑った。コンピューターらしい冗談を、自分からコンピューターらしい声で笑った。
「なぜだ……どうして、そんな……必要がある……」
「簡単なことだ。俺は人間という人間が大嫌いなんだ。残らず嫌いなんだ。だから、こうして人間を失意のどん底に叩き落として嬲り殺しにすることが無上の喜びなのだ。分ったか、人間!」
新宿の街角で見かけた三白眼の男の形をした幻影は、そうゆっくりと言い放ち、手にしたM―16ライフルの銃口を上げた。
俺には分らなかった。
もはや今となっては何も分りたくなかった。
ただ、強烈に死にたくない、と思った。
なぜか、ひどく死にたくなかった。
しかし、その理由を考えつくには、余りにも痛みと熱が激しすぎた。
だから俺は思ったままを口にした。
「……死、死にたく……ない……どう……しても……死にたく……」
「そうだろうとも」男が言った。「それでいいんだ」
そして引金を引いた。
芸夢は終った。
過熱した男
ついに脳みそが融けだした。
今や、俺の頭蓋骨《ずがいこつ》はぐらぐら煮立った鍋《なべ》だ。ふやけきった頭皮に手をやると、海草のようにべとつく毛髪がずるりと力なく指にまとわりついて抜け落ちた。
俺《おれ》は小さく悲鳴を洩《も》らし、それでも必死でそこから逃げだそうとあがき続ける。
だが、どこへ? どこへ逃げられるというのだ。熱い。とにかく熱い。俺は胸をかきむしる。その爪《つめ》が皮膚と肉を深くえぐり、黒く変色しかかった肋骨《ろつこつ》を露《あら》わにした。
足がもつれた。俺はその場に這《は》いつくばった。と、その時、どろどろに融けかけた脳みそが、ちょうど吹きこぼれるような具合で、耳や鼻の孔《あな》からあふれだしてきた。
俺はうろたえる。なにしろ、そいつは、俺の脳みそなんだ。放っておいていいはずがない。
俺は無我夢中でそれを手の平にすくった。だが、脳みそは、あとからあとから、とめどもなく流れだしてくる。どうすればいいんだ!!
俺は咄嗟《とつさ》にすくい取った脳みそを口に運んだ。死にもの狂いでそれをすすり込む。そうしておいて、新たに吹き出してくる脳みそを空いた手の平に受け、またむさぼり食う。
おお……おお……味が感じられたのは最初の一口だけだ。たちまち、舌が焼けただれる。手の平にもみるみる火ぶくれが広がって、表皮がべろりとむけはじめる。
もう、だめだ。とても追っつかない。指の間から、どんどん脳みそがこぼれていく。
ああ……くそ……どうして、こんなことになっちまったんだ。こんな死に様があるもんか。
俺は声を上げて泣きはじめた。熱湯のような涙が、頬《ほお》を伝って胸元を灼《や》く。
おお……おお……いっそ頭を自分でかち割り、中身の残りを地面にぶちまけてしまいたい。そうすれば、すっきり始末がつけられそうだ。
いや、だめだ。そんなことはできっこない。俺はまだ死にたくない。脳みそがなくなったって、それでも死ぬよりはましなはずだ。それより、とにかく、このわけの分らぬ地獄から脱出することだ。そうだ、そのことを考えなきゃならない。なにがなんでも逃げるんだ。それだけの力は俺に残されているはずだ。そうとも、俺はやるべきだ。
そう思った瞬間、ぼん! と音がして何も見えなくなった。
おお、な、なんてこった。
熱せられて膨脹しきった目の玉が、とうとう破裂しちまったらしい。
おお、うおおおお……
「……おおおおォォ……」
自分の絶叫に驚いて目が醒《さ》めた。
と同時に、えびのようにのけぞったまま、俺はベッドから転げ落ちた。背中をしたたか床に打ちつけ、さらに呻《うめ》く。
だが、その鋭い痛みのおかげでかろうじて現実感がよみがえってきた。
(ゆ、夢か……)
全身がぬるぬるの汗にまみれているのが分る。
俺は、恐る恐る目蓋《まぶた》を上げた。しかし、視界は、まるであの悪夢の残滓《ざんし》がこびりついてでもいるかのように朦朧《もうろう》とかすんでいる。熱い。頭が燃えだしそうだ。
(熱い?……)
俺の手足がびくりと痙攣《けいれん》した。
(……どういうことだ?)
俺はゆっくりと床の上で身体をよじった。途端、電撃のような激痛に脳天からつま先までを刺し貫かれる。
「うおっ」
俺は思わず叫び、しかし必死でそれに耐えて、片手を持ち上げた。そして、額に触れてみる。
「つ……!」
ひどい熱だ。どうやら、悪夢の正体はこれだったらしい。夢が警告していたのは、この異常だったのだ。
俺は細かく震える指先で、ともかく自分の頭部全体を慎重になぞってみた。
熱は額からこめかみ、耳の下、そして後頭部にかけて分布している。
「くそっ、う、くくく……」
俺は悪態とも悲鳴ともつかぬ声を上げながら、ゆっくり身体を起こした。
平衡感覚がひどく失調しているらしく、俺の視界はぐらぐらと揺れ続ける。全身を間歇《かんけつ》的に貫く痛みも並大抵の激しさではない。
それでも、ベッドの端にすがって、やっとのことで立ち上った。そして、自分の身体《からだ》を見下ろす。
俺は全裸だ。
この格好のままベッドに倒れ込んだ昨夜のことが、やっとぼんやり思い出されてきた。
不覚だった。まったく不用意に、あの一撃を背後から食らってしまったのだ。
だが、それがこんな結果を肉体にもたらすとは思ってもみなかった。
ベッドの上には、悪夢に浮かされた俺が知らずに引きちぎってしまったらしい毛布の残骸《ざんがい》が散乱している。
それを横目に、俺は泥酔者のような足取りでバスルームに入り込んだ。
シャワーのコックをひねり、冷水を頭から浴びる。長い時間かけて、発熱源の後頭部を冷やし続けると、少しずつ各部の機能が常態に復してきた。そうしながら、俺は昨夜の記憶を心の中ではじめから反芻《はんすう》してみた。
パートナーのケン・ムーアヘッドと共に、岩崎代議士の屋敷に忍び込んだのが午前一時二十五分。用心棒五人の内、我々に気付いて攻撃してきた二人を殺し、他の三人をガスで眠らせておいて、岩崎の拷問にとりかかった。
二時四十五分、ついに耐えかねた岩崎はあらいざらいを喋《しやべ》り出した。
それは、半島での極度の緊張状態の裏に、日本の軍需産業及びその手先たる岩崎等政治家グループの陰謀が隠されているのではないかという我々の読みを完全に裏付けるものだった。
武器禁輸が全面的に解かれてからというもの、日本の支配者層は異常すぎる程の熱意で世界の危機管理体制に参入しはじめていた。
とにかく、武器は莫大《ばくだい》な金になる。
その一角に日本が割り込んできたことで、屍肉《しにく》食い共の暗闘は熾烈《しれつ》極まりないものとなってきた。
それはついに、我々のような特殊工作員を必要とする段階にまでエスカレートしていたのだ。
俺とケンは、さらに岩崎を痛めつけ、彼ら一味の間で取り交された秘密メモや覚え書き、さらに国防軍が彼らに提出した半島八日間戦争のシナリオを収めたマイクロ・テープの隠し場所を白状させた。
我々はそれ等を奪い、拷問のショックで失神した岩崎にフール・ガスをかがせた。再び目覚めた時、岩崎の知能はサル以下にまで低下しているはずだ。それは、グループの他の政治家に対する、我々の組織からのまたとない警告になるであろう。
すでに時計は四時を回っていた。
俺とケンは、侵入路を逆に辿《たど》って脱出にかかった。
全《すべ》ては余りにも思い通りに運んだ。そのことが、俺たちを明らかに油断させてしまっていた。
いきなり、後頭部を一撃されたのは、一階のダイニングを抜けた直後だった。
俺は思わず、廊下に這いつくばった。
しかし、倒れながらも、すでに俺のバイオ・チャージャーは全開していた。一回転、そして跳ね起きざま、俺は背後の敵に身構えた。
それは、女だった。
暗闇《くらやみ》に微《かす》かに浮かぶその顔は若い。両手でバットを握っている。肉体から激しい恐怖の体臭を発散している。
岩崎の娘に違いなかった。資料にあった写真よりも実物の美貌《びぼう》ははるかに勝っていた。
殺すには惜しい女だ。
しかし、そんな俺の思いを無視して、チャージャーに突き動かされた俺の肉体は、瞬時に仕事をやり終えてしまっていた。
女は、俺をなぐりつけたその同じバットで頭部をトマトのように叩《たた》きつぶされ、その場で息絶えた。
「クロキ、大丈夫か!?」
ケンが俺の首すじに手をあてて訊《き》いた。
「どうってことはない。美人に首をなぜられてゾクッとしただけだ」
俺は無理に笑顔をつくってそう答えた。
「そうか、ならいいが」
「急ごう、ケン。長居は無用だ。これ以上遊んでいると夜が明けちまう」
俺は先に立って歩き出した。
平気を装ってはみたものの、後頭部にはまだ打撃の余韻がどんよりと残っている。女の細腕にしては、なかなかの一撃だったわけだ。普通の人間に対してなら、間違いなく致命的な攻撃となっていたはずだ。
鈍いが、脈打つようにわずかずつ強まる痛みを意識しながら、俺は岩崎の屋敷を出た。
裏の通用門から、微かに朝の気配がただよいはじめた闇の中に忍び出る。
ケンと二人、三〇〇メートルほど歩いて、車までもどった。
「じゃ、クロキ。また仕事でいっしょになることもあるだろう。それまで、元気でいろよ」
手に入れた秘密資料をアタッシェ・ケースに収めながらケンが言った。
「お互いにな」
俺たちはちょっと握手を交し、それぞれの車に分れる。
ケンはそのまま基地へ直行し、軍用機で本国へ帰還する手はずだ。
俺の方はひとり寝ぐらにもどり、また、普段の隠密生活にもどるのだ。
で、俺は車を発進させた。
俺の名前は黒木淳一、そういうことになっている。本名は、とうの昔に忘れてしまった。実際、改造手術の後遺症で、俺のそれ以前の記憶は、まるで霧を透かして見るように不確かなものとなっていた。
覚えているのは、俺が日本人ではないということだ。
日系だが、生まれたのはアメリカだ。海兵隊員であった時期もある。その後、彼等に見込まれ、莫大な契約金と引きかえに、組織の工作員となることに同意した。
そして手術を受け、新しい顔とこの肉体を手に入れた。同時に、日本人としての経歴、戸籍を与えられ、この国にやってきたのだ。
俺の表向きの身分は平凡な会社員。三協商事という中企業の経理担当者だ。あくまでも、そうでなくてはならない。三協商事は、組織とは縁もゆかりもない正真正銘のかたぎ企業だ。
このかくれみのを失ったら、俺はたちまちの内に、あらゆる敵対組織につけ狙《ねら》われることになる。
そうなったら、もはや、この日本国内で俺が行なえる仕事はなくなってしまうのだ。
ともかく、今までの所、俺の正体は誰《だれ》にも見破られていない。
誰にも知られていないことこそが、まず、一線の工作員たる最低条件だ。
俺は車を法定速度でゆっくりと転がし、尾行の有無を幾度も確認しながら、都内のマンションに帰り着いた。
依然として、後頭部の鈍痛は続いている。
足音を忍ばせて階段を上った。しかし、どうにも身体が重い。
やっとのことでドアまで辿り着き、キイを解いて部屋に転がり込んだ。
岩崎の娘の血しぶきがこびりついている服を脱ぎすてた。
この時間にシャワーの音をたてるのはまずい。
俺はとりあえず全裸になり、濡《ぬ》れたタオルで全身を拭《ぬぐ》おうと思った。
ところが、その時急に、耐えがたいほどの疲労感が襲いかかってきた。
(おかしい……)
こんな風な疲れ方をするはずがない。
そうは思っても、手足が言うことをきかない。気力がたちまち退いてゆく。
俺は仕方なく、そのままベッドに裸身を投げだした。
(……おかしい……調子が変だ……)
疑いながら、俺はもう眠りに落ちていた。
そして、あの悪夢だ。
…………
俺はシャワーをとめ、バスルームを出た。
後頭部を充分に冷やしたおかげで、痛みは少しばかり和らいだ。だが、それも一時のしのぎにしか過ぎないことは明らかだ。
考えられる原因はただひとつ。あの娘の容赦のない一撃が、俺のユニットのどこかを狂わしたのだ。
俺は身体からしたたる水滴にも構わず、ベッドの横の戸棚に駆け寄った。その奥の隠しキャビネットを指紋照合のキイで開ける。そして、リペア・キットを収めてあるエマージェンシイ・ボックスを引き出した。
それから大きな姿見の位置を変えて、壁の鏡と合わせ鏡にする。
それで、自分の後頭部が見えるようになった。
そこは、いかにも熱っぽく赤味を帯びている。異常は明白だ。
俺は慎重に修理にかかった。
まず、頭髪の生え際に隠されているグルーイング・テープをはがし、皮膚をめくり上げた。下から、ゼラチン状のアブソーバーに包まれたユニットが現われる。
俺はそれの接続部を力一杯引き抜き、ユニットをそっくり体外に取り出した。
これは実に、非常な危険のともなう行為だった。
後頭部に埋め込まれているCORE―UNITは、強化部位全体を制御する役割を果たしている。だから、その接続を絶つと、各部位が次第に安定を失い、ついには暴走をはじめてしまう。もしそうなったなら、結果は、この肉体のショック死である。許されている時間は、五分内外。
俺は体内時計のストップ・ウォッチをスタートさせると作業にかかった。
微かに震える手でアブソーバーを取り去り、CORE―UNITの本体を露わにする。
やはり、思った通り、一部がわずかにひしゃげていた。その圧迫で、内部に狂いが生じてしまったのだ。
俺は焦る気持ちを必死でなだめながら、ユニットのカバーを取りはずした。そして、エマージェンシイ・ボックスから引き出したサーチ用超マイクロ・コンピューターの接点を二本左右から差し込んだ。
故障個所は瞬時にして判明した。
CU―8B
CU―822P
このふたつのパーツがダメージを受けていた。
それほど重要な部品ではないが、故障にともなう過熱が、中枢部にまで影響を及ぼしているのだ。
俺はすぐにそのふたつのマイクロ・パーツをピンセットを使って取りはずした。
それから、キットの中身を床にぶちまけ、スペアのパーツを探しはじめる。
塵や細菌が付着してはいけないのだが、今はそんな心配をしていられる事態ではない。
すでに二分三十秒が経過している。
CU―8Bは、すぐに見つかった。まずそれをユニットに組み込む。
だが、822Pがない。
(なぜだ!?)
慌ててキットをかきまわそうとして思い出した。
そう言えば、八か月程前、電気屋の格好でここへやってきた組織のインスペクターが、ユニットを点検後、この8系列のパーツのひとつを交換して帰っていったことがあった。その時のものがCU―822Pだったのではないか。
だとすれば、スペアは残っていない。
そうそう故障するものではないから、再支給はそれほどひんぱんには行なわれないのだ。
四分が経《た》った。
もう、これ以上は無理だ。
仕方なく、俺は、異常のある822Pを再びユニットに組み込んだ。いかに故障しているとはいえ、ないよりはマシだ。部品の足りないユニットを、そのまま身体にもどすわけにはいかない。
それを大急ぎでアブソーバーで包み、後頭部の空洞にはめ込んだ。
どっと激しい汗が流れ出してくる。
危なかった。
すでに各部位は暴走寸前まで安定を失いかけていたのだ。
CU―8Bを交換しただけで、状態はぐんと改善された。
視界は完全にクリアになり、脱力感も和らいだ。
だが、軽い頭痛は残っている。発熱もどうやら収まってはいないようだ。
俺は、頭皮をグルーイング・テープで元にもどしてから、もう一度バスルームへ行き、冷水で充分に後頭部を冷やした。
氷やドライアイス等では、逆に温度が下がりすぎ、別の異常を誘発しかねない。
だから、今の所、最も有効な手段はこれだけだろうと思われた。
今度は入念に全身を拭い、洗面、整髪を済ませてから居間にもどった。
時計の針は八時二十五分をさしている。出勤の時間が迫っていた。
昨日は、夜の作戦決行に備えて会社を休んだ。二日続けての欠勤は余程のことがない限り避けなくてはならない。そんなつまらないことで目をつけられでもしたらなんにもならない。
俺はテレビのスイッチを入れてから、ワイシャツに腕を通し、ネクタイを結んだ。
八時三十分、NHKのニュースがはじまった。
このマンションから最寄り駅まで歩いて七、八分かかる。いつもの電車は五十三分の通勤快速だ。それに乗ると、始業の十分前にタイムカードを押すことができた。このニュースを見終った所で家を出るのが、俺の習慣だ。
スーツを着込み、テレビを横目に見ながら、俺は電話に手をのばした。
アナウンサーは今、国防会議の主導的メンバーのひとり、岩崎代議士の急病を伝えていた。
しかし、その原因となった事件については一切触れない。もちろん、娘の死に関しての報道もなかった。それらは、あくまでも闇の世界の出来事なのだ。奴等が我々の警告をどのように受けとめたかはまだ分らない。譲歩か反撃か……いずれにせよ、俺とケンは見事に仕事をやり終えたことになる。
俺はそれに満足して小さくうなずき、それから七けたの番号をダイヤルした。
電話はすぐにつながった。
(……この番号は、現在使われておりません。もう一度、番号をお確かめになり……)
その録音テープのアナウンスが三度繰り返されてから、いきなり回線が切りかわった。
「こちら電話局ですが、番号をお間違いになっていらっしゃいます」
冷たいオペレーターの声。
「あっ、失敬。日野酒店さんじゃないんですか?」
俺は訊き返す。それが暗号だ。
「そちらのナンバーを教えて下さい」
「ええ、203・3534、いや間違った、203・3537だ」
その片方は、俺の部屋の正しい番号。そして言い間違えた数字は、緊急事態発生を知らせる通信コードである。万が一の盗聴を怖れてのシステムだ。
オペレーターは了解≠フサインがわりに、日野酒店の正しいナンバーを俺に教えた。
俺は礼を言ってから電話を切った。
ちょうど、NHKのニュースが終る。
俺はテレビを切り、家を出た。
CU―8Bの交換で耐えがたいほどの苦痛は去ったが、それでも全身に奇妙な変調感がある。
歩きだした足の動きもどこかちぐはぐだ。
後頭部に手をやってみると、また相当に熱っぽくなっている。
意識の状態も今ひとつはっきりしない。
バイオ・チャージャーに、不必要なシグナルが送られているらしい。それが肉体と意識のバランスを狂わせているのだ。
なにもかもが、三ミリ四方ほどの小さなパーツ、CU―822Pの過熱によって引き起こされているのだ。
それを思うと腹が立ってきた。
この、常人をはるかに越えるすさまじい力を秘めた、自分の肉体がうとましく思われてきた。
そう思うことで、なおさらに頭が、文字通り熱くなった。
気を静めようとするが、足取りが勝手に早くなる。
俺はぞろぞろと駅へ向うサラリーマンの幾人かを突き飛ばすようにしながら走り出していた。
背後から罵声《ばせい》を浴びせられるが、チャージャーが生み出すこの衝動を自分ではどうすることもできない。
俺はそのまますさまじい勢いで駅の改札口を駆け抜けた。そしてプラットホームに飛び出す。
熱い。後頭部が再びずきんずきんと脈打ち出した。それが灼けるような熱を全身に送り出している。
俺はうろたえ、救いを求める思いでホームを見渡した。一本前の快速が出たばかりだから、幸いホームにまだ人影は少ない。
俺はそのホームの中央付近にある水飲み場に駆け寄った。
蛇口をひねり、人の目を気にする余裕もなく水を頭から浴びた。
そうしていると、やっと気分も落ち着いてきた。
俺は頭を蛇口から離し、スーツのポケットに手を突っ込んでハンカチを引っ張りだした。それを水でしめらせる。会社へ着くまで、そのハンカチで後頭部を冷やしておくつもりだ。
その時、後から肩を小突かれた。
「ちょっと、あんた。二日酔いかなんか知らないが、人にぶつかっておいてすみません≠フひと言が言えないのかね」
小うるさそうな中年の男だ。体格はいい。どうやら、駅まで来る途中で突きとばしてしまったひとりらしい。
「え? どうなんだ、あんた」
「す、すみません。申し訳ありませんでした」
俺は素直に頭を下げた。
こんな場所で面倒を起こしている時間はない。ともかく会社へ一刻も早く行き着き、そこで組織からの指令を受けなくてはならない。
「ちっ、気をつけろよ」
三白眼をぎろりとむいて男はそう吐き出すように言うと、俺に背中を向け、混《こ》んできたホームの人ごみに消えていった。
(くそったれめが……)
俺は心の中で毒づくが、内心はほっとする。
(もう少しだ……もう少しのしんぼうだ)
新たな気持ちで立ちつくす内に、やっと電車が入線してきた。
どやどやと乗り込もうとする勤め人の群にもみくちゃにされながら、ともかく俺も電車の中に押し込まれた。
むっとする熱気が俺を包み込む。
毎朝のこととはいえ、今日は特にそれがこたえた。
人いきれ、香水、整髪料、体臭、それにわけの分らぬ雑多な匂《にお》い……突然、激しい嘔吐《おうと》感が胃の底から突き上げてきた。
「うぐっ……」
俺は必死でそれを呑《の》み下す。
もし朝食でも食べていたなら、それを全部、この満員電車の中でぶちまけていたところだ。
俺は慌てて、駅のホームで水を含ませてきたハンカチを後頭部にあてがおうとした。
だが、ぎゅうぎゅう詰めの車内である。
行動が自由にならない。
ようやく片手が顔のへんまで出たが、それを首の後に回すことができない。
俺はもがいた。
「きゃっ!」
鋭い女の悲鳴が上った。
俺の濡れたハンカチが、横にいたOLの顔面をぺろりと舐《な》めてしまったのだ。
女の濃い化粧がみにくく崩れた。
「な、なにすんのよ!」
女が目を吊《つ》り上げてわめいた。
回りの乗客の顔がいっせいに俺の方に向いた。
「なんだ、なんだ」
「痴漢じゃないのか!?」
「どいつだ、どの男だ!?」
車内に広がってゆくざわめきが、俺を完全に動転させてしまう。
「……あ、あの……」
なにか言おうと思うが、言葉にならない。
それほど、過熱がひどくなっているのだ。
俺は無理矢理身をよじり、後にいる乗客を押しのけてハンカチを首すじに持っていこうとした。
「いてえな、この野郎!」
今度は別の方角から声が上った。
「なにもぞもぞやってやがるんだ。貴様が痴漢かよう!」
威勢のいい若い声だ。
「ち、違う……俺じゃない……」
やっとそれだけ、俺は言い返した。
「この人よ! 手にへんなもの持ってて、それを、あたしの顔に押しつけたのよ!」
女が金切り声を上げた。
「野郎! 警察に突き出してやる」
俺のえり首が後からぐいと掴《つか》まれた。
「あちっ! な、なんだ!? おまえ、そこに、なにを隠してやがるんだ!?」
ユニットの発熱部分に手を触れてしまったらしく、その指はすぐに離れた。
だがかわりに今度は、腕をがっちりと押さえ込まれた。
「や、やめてくれ……俺はちがう! なにもしてない」
俺は唸《うな》るような声で訴えた。
だが俺の腕を握る手は、ますます頑《かたく》なに力をこめてくる。
しばらくもみ合う内に、電車は次の駅に滑り込んだ。
「さあ、もう逃げられんぞ! 降りるんだ!」
男が俺に向って怒鳴った。
「お嬢さん、あんたもいっしょに来てください。証人になってくれなくちゃ」
女に対してそう呼びかける。
どうやら、若い男の目的は、その男好きのするOLであるらしい。彼女の前でいい格好をしてみせようと、執拗《しつよう》に俺をえじきにしたがっているのだ。
「え、ええ、ありがとう。あたし、警察へでもどこへでも行って、はっきり話しますわ」
調子づいた女が、甘ったるい声でそう答えている。
こうなっては、どうしようもない。
とにかく、ひとまず電車から降りるしかなさそうだ。
と、ドアが開いた。
俺はヤジ馬のこぶしで小突かれながら、車外へ押し出された。
続いて、俺の腕を掴んだままの若い男とOLが下車してくる。
男は空手の道場にでも通っていそうな、いかにもチンピラ然とした青年である。タヌキのように顔を塗りたくったOLといいコンビだ。二人はもう恋人気取りで肩を寄せあっている。
「こいつめ。このお嬢さんにちょっかいを出しやがって。しょうちしねえぜ」
男はそうすごんで、俺の腕をねじ上げにかかった。
(なにがお嬢さん≠セ……)
俺の頭に血がのぼった。それにつれて、過熱も激しさを増す。
しかし、この光景を大勢の乗客たちが見つめていた。少なくとも電車が駅を出ていってしまうまで、俺はされるままになっているしかなかった。
「あたし、よく、こういうのにイタズラされるのよ。あなたがいなかったら、こいつにどんなことをされていたか……」
女は、もう欲望に目をうるませている。
どうやら俺は、すっかり、この二人の前戯の道具にされてしまったようだ。
「……ちょ、ちょっと離してよ。俺はなんにもしちゃいないんだから……」
俺はせいぜい弱々しくふるまいながら、そう言い返した。
「今さら、なにを言ってやがる。さあ、駅長室まで来るんだ!」
発車する電車の轟音《ごうおん》に負けまいと、男は正義感ぶった大声でわめきたてた。
「待ってくれ。どこへでも行くから、その前に水を飲ましてくれ」
俺は、ホームの水飲み場を横目でにらみながら、男に訴えた。
「なにィ、水だァ!?」
男が嘲《あざ》けるように唇を歪《ゆが》めた。
「痴漢の分際で、喉《のど》が乾いただとォ!?」
「お願いだ。お願いですから……」
しかし、男は頑として腕を離そうとはしない。
「ぶつくさ言ってないで、歩けよ、この野郎!」
そう声を尖《とが》らせる。
その時、遠くで別の声が上がった。
「お客さん、お客さん! どうしたんです、そんなところで!」
見ると、ホームの端から駅員がこちらに向けて走ってこようとしている。
ぐずぐずしていては、なおさら話がこじれそうだ。
会社の始業時間は刻々と近付いている。
しかも、俺の肉体の限度ももう間近だ。
俺は仕方なしに決心を固め、男にねじ上げられている右腕に力をこめた。
「おっ、こいつ……」
突然の抵抗に驚いた男は、やにわに、俺の顔面めがけてこぶしをくり出そうとした。
だが、それは、最悪の結果を男にもたらした。俺のユニットとチャージャーの複合システムが無意識の内にその動きに反応してしまったのだ。
俺の右手は鞭《むち》のようにしなって男の手をふりほどいた。そして、突き出される男の腕の中央に必殺の手刀となって叩きつけられた。
男にとっても、そして女にとっても、正確になにが起こったのかは判断できなかったに違いない。ましてや駆けてくる駅員の目が、俺の発作にも似た動きを見分けられたはずはなかった。恐らく彼が見たのは、唐突に悲鳴を張り上げて崩折れる男を、俺が抱き起こそうとしている場面だったのではないか。
しかし、男の悲鳴はそう長くは続かなかった。
腕をまっぷたつにへし折られて倒れかかる男を支えた俺が、片手で彼の頸骨《けいこつ》を握りつぶしてしまったからだ。
悲鳴はそこで、ぷっつりと熄《や》んだ。
死んだのか、気絶したのかを確かめているヒマはない。
俺はぐったりと完全に力を失ったその男の身体をプラットホームに横たえ、黙って立ち上がった。
女はただぽかんと口をあいたなり、男を見下ろしている。
奇術でも見せられた者の表情だ。
俺は構わず歩き出した。
階段の下り口で、駆けてきた駅員と行きあう。
「どうしたんです!? ちょっと、あなた、待ちなさい」
俺を呼びとめようとする駅員の横をひょいとすり抜けてから、俺は首だけを彼に向けて早口でまくしたてた。
「それどころじゃありませんよ。あの若い人、急に気分が悪くなったらしい。いきなり倒れちゃったんです。わたし、すぐ電話で救急車を呼びますから、あなた、それまで、そばについてあげてくださいよ。ね」
俺の真剣な表情が駅員をなんとか納得させたらしい。
あごを引きしめた彼は「そりゃ大変だ。じゃ、お願いします」と言って、また駆《か》け出した。
俺も、すぐさま身をひるがえす。
階段を走り降り、定期で改札を抜けて、タクシー乗り場めがけて疾走した。
背後で、すさまじい女の悲鳴や男たちの怒鳴り声が湧《わ》き起こったようにも思ったが、ユニットの過熱で頭脳が混乱しはじめている俺にとっては、もはやどうでもよいことだった。
なにもかもお構いなしに、俺は、ちょうど客待ちしていた一台のタクシーに跳び込んだ。
「会社だ、会社まで行ってくれ!」
そう叫ぶ。
もはや遅刻は確実だが、とにかく会社まで行き着かなくてはどうしようもない。
組織からの連絡はそこに入ることになっているからだ。
そしてそれを受け取りそこねたら、次のコンタクトがいつになるかは見当もつかない。組織は、その自衛のために、臆病《おくびよう》すぎるくらい慎重なのだ。
「会社ったって? お客さん……」
笑いながらも、運転手はともかく車をスタートさせた。
「この東京にゃ、会社ってやつがゴマンとありましてねえ。たとえばの話、あたしらの営業所だって会社なんすよね」
まったく、その通りだ。
だが、気も狂わんばかりの俺には、その運転手の言葉が、悪意のあるはぐらかしであるかのように聞こえた。
頭が、またカッと熱くなった。
「なんだと!?」
言い返した拍子に、また俺の両手が意志とは無関係な動きに出た。
それは、ほとんど反射的に、運転席と客席とを隔てる透明なプラスティック板を叩き割り、運転手の首に巻きついていったのだ。
「うがっ!」
奇怪な一声を発して、その不運な運転手は息絶えた。
その身体を助手席に引きずり寄せるが早いか、俺はフロント・シートの背を乗り越え、彼にかわって運転席にもぐり込んでいた。
タクシーは、ほんの数メートル蛇行しただけで、すぐ俺のコントロール下におかれたわけだ。
それは、オクラホマの秘密トレーニング・センターで訓練された通りの完璧な動きだった。
俺の体内に埋め込まれている複合体は、それに大変満足したらしい。一時的に、発熱が弱まる。
そのせいで、俺ははっと我に返った。
俺はさっきから、とんでもないことを繰り返している。そう気付いたのだ。
こうなってしまった以上、同じ姿、同じ名前で任務を続けることは不可能になるだろう。それははっきりしている。
とすれば、本国に呼びもどされ再改造ということになる。いや、あるいは、そのままセンターの教官かなにかにさせられてしまう可能性もあった。
俺もそろそろ三十代にさしかかる。
特殊工作員としては、今がピークだ。
以後は次第に、ユニットの指令に、肉体の方が応じられなくなってくる。それでも無理に任務を続けると、酷使に耐えられない生身の部分が、文字通りぼろぼろにすり切れてくるのだ。
その限界がどこにあるかは個人差によるが、大体三十歳を越えたあたりが目安になっている。
(まあ、このあたりが潮時か……)
そんなことをぼんやりと考えながら車を走らせている内に、また熱の上昇が激しくなってきた。
時々、瞬間的に意識が遠のく。
しかし、車はすでに都心に入った。
会社までもそう距離はない。
俺は歯を食いしばって前方をひたすら見据え、ハンドルを握り続けた。
アクセルを無理矢理踏みつけようとするチャージャーの狂暴な衝動とも闘い続ける。
ついに、あとスリー・ブロック。
三つ先の信号を左折すれば、五番目のビルが三協商事のオフィスの入っている建物だ。
もう、どこでこの車をすてても会社までは行きつける。
と、思った瞬間気がゆるんだ。
ふっと目の前が暗くなる。
(あ……)
ドン、という鈍いショックで意識がもどった。
追突だ。
前の車のドライバーが血相を変えて運転席から飛び出してくるのが見えた。
俺もよろめく足を踏みしめて車外にでた。
「ばかやろう! どこ見て走ってやがんだ!」
オカマを掘られたドライバーが、俺のネクタイに掴みかかってきた。
しかし、俺はもう、どう答えてよいものかも判断できなくなっている。
俺たちの回りには、早くも人垣ができはじめた。
その視線が俺をさらにおびやかした。
仕方なく俺は黙って歩き出した。
ネクタイを握っている男は、俺に引きずられるような格好になって目をむいた。
「この、間抜け! きさま、酒でも飲んでいるんじゃねえのか!? それとも、クスリをやってやがるのか!?」
俺は構わず会社に向けて歩き続ける。
「待て! 待たねえか、おまえ」
男はなおも大声でわめく。
しかし、俺の態度を気味悪がってか、ネクタイを離した。
その瞬間、俺は走り出した。
とにかく、ここまで来て、あんな男に構ってはいられない。面倒が長びけば、また無用の殺人を犯してしまうことにもなりかねない。
俺は、そんな自分の不気味な衝動から逃れようとするかのように、後も振り返らず、ひたすら走った。
朝のビル街には、無表情なビジネスマンたちがあふれだしたところだ。
そんな彼等が、俺の逃走をカモフラージュしてくれた。
彼等の群にまぎれ込み、ビルからビルへと出入りを繰り返す内、追跡者の気配は完全に消えた。
しかし、それにしても熱い。
俺の後頭部は、もう火を吹きそうな熱さだ。
しかし、汗の方はとまっている。どうやら、無駄な水分が出きってしまったらしい。
だから、顔付きさえ平静を保てれば、他人にそれほど怪しまれずに済みそうだ。
俺は自分の気力を鞭打ち、大きく遠回りしてから会社のビルに近づいた。
重いガラスのドアを押して中に入る。
タイムカードの装置は、入口すぐの受付横に設置してあった。俺は、ただ習慣に従って、カードをそこに差し込み、ロビーを抜けた。
俺の課があるフロアは三階だ。ともかく、そこまで人気の少ない階段を使って這い上る。
そして、そのまま洗面所に直行した。
まさに、砂漠でオアシスに出会った気分だ。
俺は洗面台にかじりつくと、蛇口をひねり、ほとばしる水を頭からかぶった。
まるで灼けた鉄板に水をかけたようなジュッという音がして、水蒸気がたちのぼった。
もし強化処置を受けていない普通の人間の皮膚だったら、ちりちりに焼けこげてしまっていただろう。その証拠に、鏡に映してみたワイシャツの襟などは、茶色に変色しかかっている。もうすこしそのままにしていたら、燃え出していたに違いない。
全く、危機一髪のタイミングだったわけだ。
俺は背すじを激しく震わせた。
そしてまた洗面台に首をのばし、水を後頭部に浴び続けた。
その時、俺の背後でせきばらいがひとつ聞こえた。
俺は、慌てて顔を上げ振り向いた。
課長だった。課長の牧野が、眼鏡の奥に小さな目をいじわるそうに光らせてそこに立っていた。
「課長……お、おはようございます」
俺は咄嗟にそんな間の抜けたあいさつを返してしまう。
「ああ……おはよ」
牧野は鼻の頭にシワを寄せた。
「いったい、どうしたんだね、黒木君。昨日は急に休む、今日は連絡もなしに遅刻する。かと思えば、課の部屋にも顔を出さずに、こんな場所で水浴びかね、え?」
「そ、それが……」
俺は冷水の効果で相当に回復した意識を集中して、思いきり済まなそうな表情を作り、うなだれた。
「……実は、ひどい流感にやられてしまって、熱が下がらないんです。医者に頭を冷やすよう言われたものですから……」
言いながら俺は牧野の前に額を突き出し、そこを指差した。
牧野は不快そうに顔をしかめたが、手をのばして俺の額に触れた。
「なんだ、大したことないじゃないか、大げさな奴だ」
牧野は鼻を鳴らす。
考えてみれば、今、その熱を冷却したばかりだ。そうそう熱いわけがない。冷やす前に、触らせてやればどんなに驚いただろう。いや、驚くどころか、火傷《やけど》でひどいことになったに違いない。
ちらりとそんな事を考えながら、俺はまたうつむいた。
「まあ、いい。その、流感ってことにしておこう。そのかわり、医者の診断書はちゃんと提出してもらうよ」
牧野は、あごで、俺にここから出て行くよう合図した。
「さあ、行った、行った。部屋にもどって、早く仕事をはじめてくれよ。休んでいる間に、大分、計算書がたまってたみたいだぞ」
俺は従順を装って、頭を深々と下げた。
「黒木君、こんなことは言いたくないが、ワイシャツ位、毎日取り替えたらどうかね、襟がまっ黒じゃないか。まったく……君もそろそろ三十だろう。身を固めることを考えた方がいいんじゃないのかね。いつまでも若くないんだから……」
その言葉にもう一度無言で頭を下げ、俺は洗面所を出た。
経理課のオフィスに入る。
課員がいっせいに顔を上げて俺を見た。異様なものを見る目つきだ。露骨に顔をしかめる者もいる。
それも当然と言えば当然だ。
三十分以上無断で遅刻してきた上に、頭から水をしたたらせて入室してくる社員というのは、どう考えても尋常ではない。
俺が目を合わせようとすると、全員が視線をそらす。仲のよい吉本までが、困りはてた表情で俺から顔をそむけた。
全く気まずい雰囲気だ。だが、この場でどうこうできる問題ではない。
俺は自分のデスクに早足で歩み寄り腰を下ろした。
洗面所でさっき会った課長も部屋へもどってきた。
俺は仕方なしに、机の上に積み上げてある計算書に目を落とした。
しかし、またもや熱がぶり返してくる。家を出た頃《ころ》と比べて、故障個所の悪化は一段と進行してしまったようだ。冷却の効果が、これでは二分ともちそうにない。
視界がぐらぐらと左右に揺れはじめた。
つまり、身体がそのように揺れているということだ。
俺は両手で机の端を掴み、その力でなんとか上半身を安定させようとした。
「ちょっと、黒木君。こっちへ来たまえ」
いつまで経っても仕事をはじめる気配のない俺に業をにやして、課長が甲高い声を上げた。
その時、運良く卓上の電話が鳴った。
俺は課長に目顔で了解を求めてから、受話器を取った。
「黒木さん、外線で、米田医院さんという方から入ってます」
会社の交換嬢だ。
「つ、つないで下さい」
これこそ、待っていた組織からの連絡だ。
回線がつながった。
「もしもし……」
「黒木さんですか?」
「そうです」
「こちら、米田医院ですが。今朝、御予約をお入れになりましたね?」
「ええ、確かに」
「で、症状は?」
「頭が……その、首の後の方がひどく痛むんです。それと、熱が出て……以前、822P錠とかいうお薬をいただいたことがあるんですが、それが切れてしまって……」
「ああ、822のPね。分りました。じゃ、すぐにですね、近くまで看護婦に運ばせましょう。どこがよろしいですか?」
「……、助かった」
俺はほっと全身の力を抜き、会社から近い喫茶店の名前を相手に告げた。
そこでCU―822Pを受け取り、あとはトイレにでも入って、自分でそれを交換すればいい。
精密検査は、退社後になるだろう。
「……じゃ、二十分後に、その喫茶店で。それからですねえ、状態によっては、長期入院ということもあり得ますから。分りますね?」
「え、ええ……」
覚悟していたとはいえ、その時が来たのかと思うと、やはり一抹のさみしさが胸を吹き抜ける。
三協商事の社員たちとも、今日でお別れ。そして、そのことを知っているのは、この社内では俺ひとりなのだ。
そんな俺の感傷を吹き払ったのは課長の怒鳴り声だ。
「黒木君! 電話が済んだら、早く来たまえ!」
「はい……」
すぐに答えはしたものの、俺はなかなか椅子《いす》から立ち上がれない。
すさまじい熱が、せきを切ったようにユニットから放射されているのが分る。
822Pの不調が、ついにユニツト全体を狂わせだしたのだろう。
「なにしてるんだね、キミッ!」
再び、怒りの声。
俺は机や椅子にすがって、やっとのことで席を立ち、一歩二歩、踏みしめるように課長席へ近付いた。
「黒木君、その目つきはなんだね」
課長が言った。
しかし、俺は、自分が今どんな目つきなのか想像もできなかった。少くとも、温和なものでないことは、課長の表情から読みとれる。
「課長、お願いがあるんです……」
俺は牧野に対して切羽つまった声で切り出した。
「俺、いや、わたくし、今日、早退させていただけませんか。身体の調子がその、悪いんです……もう、我慢できそうにない、ないんです、お願いです……」
「ほお?」
牧野は、片方の眉《まゆ》を嫌みったらしく持ち上げた。
「黒木君。君は、いったい、どこがそんなに悪いんだね」
「ね、熱です。ひどい熱なんです。も、もう、身体が燃え上がりそうで……」
「また、ずいぶん、大げさなことを言い出すねえ」
「うそじゃありません。ほんとです!」
「黒木君。ついさっき、わたしは洗面所で君の額に触ってみたんだよ。だが、どうってことはなかったじゃないか。もう、忘れたのかね。いやいや、分ってる。わたしはね、君、この会社でもう二十五年近く、ずっと経理の畑を歩いてきた。だからね、そういう言い訳も、もうひと通りは知ってるんだよ。いいかね、黒木君。中には、素晴らしく見事な嘘《うそ》をつく男もいる。だが、君のは、最低だ。一日休んで、翌日、疲れ果てて早退願い。こりゃ、わたしの考える所、女だな。図星だろう。君、悪い女に引っかかったんじゃないのかね?」
俺の背後から、女子社員のくすくす笑いが聞こえてきた。
熱い。とにかく熱い。
電話からもう八分近く経った。
「そうじゃない! ほんとに、熱があるんだ!」
思わず大声が出た。
「お、おい、なんだ、その態度は!?」
牧野のこめかみに青筋が浮いた。
この課長は、若い社員にねちねちとからむのが趣味のような男だった。
俺も、なん度、それに付き合わされたか分らない。
だが、今はもう、ここでその相手をつとめていられる状態ではない。
「ね、ね、熱があるんだ、本当だ。嘘だと、お、思うんなら……」
俺はいきなり両手をのばし、机越しに牧野の頭をがっきと掴んだ。
「な、なにを……」
言いかける牧野の頭部を、俺は構わず引き寄せた。そして、自分の額に押しつけてやる。
「うぎ、ぎやぁ――っ!」
牧野はビル中に響き渡りそうなすさまじい悲鳴を上げてのけぞった。
俺の額に密着させられた牧野の右頬《みぎほお》は、完全に灼けただれている。
「く、く、く……た、た、助けてくれ……」
余りのショックに、牧野の記憶からは俺の名前が消し飛んでしまったようだ。かわりに、なんともかぼそい声で助けを求める。
そして直後、黒目をくるりとひっくり返して気を失った。
課員全員が、あやつり人形のようにいっせいに席を立った。
「課長!」
「牧野さん!」
「どうしたんです!?」
ためらいがちな声が、あちこちで起こる。
俺はゆっくりと、後に向き直った。
そして、室内をねめ回す。
課員たちが、それぞれの格好のまま凍りついた。
約束の時間まで、あと十分。
俺は、自分の身体から吹き上げる熱気をかき分けるように両腕を振り回しながら出口に向かった。
ドアを押して課のセクションを出る。
途端、背後の室内では大騒動が巻き起こった。
失神した牧野に走り寄る者。一一〇番、一一九番などを回す者。
しかし、俺にとっては、なにがどうなろうと、CU―822Pだけしかなかった。
もう数分で、俺はそれにありつける。その気持ち以外に、俺を支配できるものはあり得なかった。
熱い。
階段をよろめき下りながら、俺は着ていた上着を脱ぎすてた。
ネクタイ、それに、上半身にまとわりついているワイシャツをむしり取る。
一階に下りた。
ロビーを突っ切って正面入口に向かう。
あちこちから、女子社員の鋭い悲鳴が聞こえた。
もう、どうでもいい。
俺にとっては、なにもかもがどうでもいい。
ロビーの中央でいったん立ちどまり、俺は靴を脱ぎ、ズボンも引き破いた。
熱い。あらゆる部位が、半ば暴走状態に入りつつある。熱い。
再び歩きだした俺は、正面の重いガラス戸を素手の一撃で粉砕した。
その破れ目をくぐって外へ出る。
ビルの周囲で物音を聞きつけ、何事かと集まってきたやじ馬の列が、俺の姿を見てどっと崩れた。
だが、どうでもいい。
俺は、822Pをもらわなくちゃならないんだ。
とうとう、アブソーバーかなにかが、熱のために燃え出したようだ。俺の背中から、まっ黒な煙が立ちのぼりはじめた。
俺はその煙の尾をひいて、車道によろめき出た。
「おまわりさん、あいつだ! タクシーに乗ってたのはあいつに間違いない!」
そんな声が、人垣の前列から聞こえた。
ちらりと見ると、そこにいるのは、四人の制服警官、それに、俺が追突してしまった車のドライバーだ。
ということは、当然、タクシー内の死体も発見された後だろう。つまり、俺は、殺人容疑者というわけだ。
警官のひとりが、腰からピストルを抜いた。そして俺めがけて駆け寄ってくる。
「動くな! さもないと撃つぞ!」
そうわめく。
どうすればいいのだろう。
822Pの受け渡しを約束した喫茶店は、少し先のビル内だ。
俺は遮二無二、そちらに向かって走りだした。
「そこの男! とまれ、とまらないと撃つぞ!」
俺のすぐ近くまで追いついてきた警官のひとりが、へっぴり腰で銃を俺に突き出した。
俺は無造作に手をのばし、警官から銃をひったくった。そして再び走り出した。
意味のわからぬわめき声の合唱が背後でわき起こった。
構わず、俺は走り続ける。目指すビルはもう目の前だ。
続いて一発、銃声が空に抜けた。警官の威嚇射撃だ。
「とまれ! とまらぬと、射殺する!」
そしてまた銃声。
今度は弾丸が、俺の頭上をかすめた。
その擦過音が、ついに、チャージャーに対するCORE―UNITの最後の制御力を吹き飛ばした。
今や完全な戦闘機械と化した俺の肉体が、すさまじい跳躍力で一台の乗用車を飛び越す様を、俺の熱に浮かされた意識はぼんやりと他人を見つめるように認識していた。
大変なことになってしまった。それは分る。だが、その先、どのような結果が、俺と、そして俺たちの組織、この社会にもたらされるのか、それについては全く見当もつかない。
暴走状態のチャージャーに支配された俺の肉体は、野獣そのままの身のこなしで車の陰に着地した。そして振り向きざま、さっきの警官から奪った拳銃をダブル・アクションで連射する。
昔からの慣習で、日本の警官は暴発防止のため、携帯しているリヴォルバーの輪胴《シリンダー》から一発弾丸を抜いている。だから、俺が発射できたのは五発だけだ。そして、その五発で、俺を追ってきた四人の警官、そしていっしょにいたあのドライバーが地面に叩き伏せられた。
熱い。
後頭部のグルーイング・テープの破れ目から吹き出る煙の量も、ますます多くなってきた。
このままでは、本当にユニット本体が燃え上がってしまうかもしれない。
(822P……822P……)
俺はそのパーツ・ナンバーを心の中で呪文《じゆもん》のように唱えながら歩き出した。
約束の喫茶店があるビルの正面扉を叩き割り、中に入る。
しかし、一階のフロアには人影が全くなかった。
俺の接近に驚いて全員が避難してしまったのだろう。
四方八方から、ありとあらゆる種類のサイレン音が押し寄せてくるのが分った。
(それにしても……)
ユニットの気まぐれで一瞬よみがえった俺の理性が、俺の片頬に笑みを浮かばせた。
(……いったい、奴等、この事件をどんな風に説明するつもりなんだろう……)
俺はあくまでも闇の世界の存在だ。それが、朝日の中で暴発してしまったのだ。
俺はゆっくりとホールを横切り、やはり無人の喫茶店に足を踏み込んだ。
入口近くでは、レジスターが床にくつがえっている。そこからこぼれた札と硬貨の敷き物が俺を迎えた。
店内には、カップやグラスが散乱していた。
俺はテーブルに近付き、そこに置いてある大きな水差しを取り上げて頭から水をかぶった。
さらに、コーヒー、紅茶、ジュース……とにかく目についたあらゆる液体を後頭部に浴びせかけた。
しかし、もはやそんなことで収まる程度の過熱ではなくなっている。
俺は、近くの椅子にどすんと腰を下ろした。
(822P……822P……)
組織のインスペクターがここへやってこられるはずのないことを、俺の頭はちゃんと理解していた。
しかし、いったん、ここで待つよう指令を受けた肉体の各強化部位は、絶対にこの場所でCU―822Pを受け取ろうとするだろう。
つまり、戦闘機械たる俺の肉体は、なにがなんでも、ここを死守するつもりに違いない。
と、入口の外でなにかが動いた。
じわじわ包囲の輪を縮めてくる者たちの気配。
さっきのサイレンの音から判断すれば、武装機動隊ばかりでなく、国防軍までもが動員されているらしい。
その出動命令を下したのは、つまり、俺の正体を知っている人間ということだ。
さもなければ、たったひとりの狂人を、これだけの部隊で押し包もうなどとは考えまい。
(岩崎の復讐戦というわけか……)
そっちがその気ならそれでもいい。集まってきた人間を、ただの一人だって無駄にはさせるものか。
わ――っ!
わ――っ!
いきなり喊声《かんせい》がわき起こった。
そして、部隊の第一陣が、喫茶店に突入してきた。
その彼等が、腰だめに構えた自動小銃の引き金をしぼるより早く、迎え撃った俺の両手は、最初のひとりの首をねじ切っていた。
闘いの幕は切って落とされた。
悪夢の狩人
わたしが眠りに就いて間もなく、女はやってきた。
彼女は、長い、重たげな外套《がいとう》で、全身を頭からすっぽりと覆い、そればかりか、その左の袖《そで》で口元を隠してさえいた。
だから、わたしに見えたのは、冬の海のように沈んだ二つの瞳《ひとみ》だけだった。だが、その物腰は、確かに女を思わせた。それも、まだ若い娘に違いない。
彼女が実際に若いのか、それとも、自分の若い頃の姿形に還ってやってきたのか、それは分らない。あるいは彼女は、女ですらなく、人間ですらないのに、この≪姿≫を選んだのかもしれなかった。
だが、それは、わたしにとって、どうでも良いことだった。
わたしは、ただじっと、そこに現われた女の挙動を見守った。
女は、ようやく、わたしの視線に気付いたようだ。
そしてまず、驚きの形に目を見開き、それからゆっくりと、二度|瞬《まばた》きした。
それに応《こた》えて、わたしは頷《うなず》く。
すると、女は、まるでそれが彼女だけに通じる暗号ででもあるかのように、また二回瞬きすると、外套の裾《すそ》もゆらさずに、ついとわたしの≪部屋≫へ足を踏み入れた。
そして、言った。
――あなたは……どなた?
彼女の外套は、黒い天鵞絨《ビロード》のような生地と見えたが、彼女が口を開くと、ごく微かな赤い光を放って、秘《ひそ》やかに色を変えた。
それは、奥深い、彼女の動揺を物語っているようだった。
――あなた、なのですね?
女は再び、外套の袖の陰で、くぐもった声を洩らした。
わたしは、曖昧《あいまい》に頬を歪めて、それに答えた。
――あなたが探しているのは、恐らく、このわたしなのでしょう、恐らく……
――ああ……
女は、目の前の床に、とり返しのつかぬ一線が引かれてでもいるかのように、瞬間、肩を大きく上下させると、うつむいた。そして無意識にか、小さく一歩、後退《あとずさ》った。
彼女の背後には、わたしの≪部屋≫へと通じる暗い≪廊下≫があった。
それは、光の中にうがたれた闇の穴のように、いずこへともなく続いている。
わたしは、彼女の次の言葉を待ちながら、その奥をのぞきこんだ。しかし見えるのは、ただべったりとわだかまっている得体の知れぬ混沌だけだ。
彼女はここへ来るために、その無明の世界を抜けてきたのだ。そして恐らくは、わたしもまた、その≪廊下≫を抜けてゆかねばならぬのだろう。
それが、わたしの仕事なのだ。
女は、自分の背後の≪廊下≫が、わたしによって見つめられていると知り、全身を痙攣的に震わせた。
――ほんとうに……そうなのですね? わたしは夢を見ているのではないのですね?
女は顔を上げ、すがりつくような声を投げてきた。
――さあ……あなたが、その言葉をどういうつもりでお使いなのか……
わたしは再び、最小限露出された女の顔に目を移しながら、慎重に答えた。
――ともかく、あなたは今、まちがいなく夢の世界にいるのです。そして、このわたしも、もちろんそうだ。その意味で、わたしはただ単に、あなたによって夢見られているだけの存在なのかもしれないし、また逆に、あなたがそうなのかもしれない。このことを確かめる方法は、未《いま》だ、どんな錬夢術師によっても発見されていない。だから、あなたにできることは、ただわたしの存在を信じるか、それとも信じないか、それを決めるだけなんです。少くとも、わたしは、あなたがここへやってきた事実を信じます……
わたしは両手を拡《ひろ》げて、わたしの≪部屋≫を、彼女に示した。
女は、まるでにらみつけるように、≪部屋≫の四隅に目を走らせた。
しかし、そこに何があるわけではない。
≪部屋≫の中央には、眠りを象徴する≪寝台≫がぽつりと置かれているだけで、他には、窓ひとつうがたれてはいないのだ。
わたしは、女が視線をさまよわせている間、ただ黙って、その≪寝台≫に腰を下ろして待った。
女の外套は、ある時は淡く、ある時は鮮やかに、色調を変え続けている。
彼女はまだ、迷っているのだ。
だが、わたしが今、彼女の迷いを解いてやる方法はない。
わたしはわたしの夢の中で彼女を夢見、また彼女は、彼女の夢の中で、このわたしを夢見ている。
その関係は、ただ、絶えざる疑いの中でしか結び得ないものなのだ。
ついに、女は目を閉じた。
しかし、夢の世界で目を閉じることは、より深い夢へと、自らを沈めてしまうことに他ならない。
そして、そうなれば彼女は、再び、わたしの≪部屋≫への通路を探し求めて、その世界をさまよわなくてはならなくなるのだ。
と、女は目を開いた。
女の瞳の奥には、光があった。
――お願いです……あの女を、あなたに殺していただきたいのです
女の声が、さらに上ずった。
――どうしても、殺してもらいたいんです、あの女を!
瞬間、彼女の外套は、まるで燃え上がってしまいそうな紅色の光を発した。
その照り返しが、わたしの半身を暗い赤に染めた。
わたしはその光の粒子から身を守るように片手をかざし、自分の≪姿≫を引きしめながら、素早く≪寝台≫を滑り降りた。
そうしなくては、わたしの≪姿≫が危ういほど、彼女の感情の動きは激しかったのだ。
――落ちつきなさい!
わたしは、彼女の声に負けぬよう、きっぱりとそう言った。
――ここであなたが目覚めでもしたら、何もかもが、振り出しにもどってしまうんですよ!? 分りますか?……そしてあなたは、もう二度と、わたしの≪部屋≫の扉を見つけることができないかもしれない。そのことを考えなさい。そして、落ちついて話すのです
わたしは、それでも発散されてくる彼女の感情の波を乗り切るために、自分の≪姿≫をしなやかな回遊魚に似せて変身させた。
そして尾で大気を打ち、ひとまわり、≪部屋≫の中を泳ぎ回って見せた。
その効果は大きかった。
わたしの突然の変身で虚をつかれた女は、一瞬、自分で自分の姿を見失い、外套の陰に隠されていた少女のような裸体をその場で露わにした。
それは、美しい裸体だった。
しかし憎悪が、彼女自身の発散する憎悪が、たちまちにして、その裸を覆い隠した。
再び、彼女は、元の≪姿≫に還った。
――…………
女は、無言で、わたしをにらみつけた。彼女は、わたしの行為を、ひどい無作法と受けとめたらしかった。
しかし、そうでもしなくては、わたしと彼女の、余りにも危ない関係の場は、簡単に消えうせてしまっていたに違いない。
――名前を、言いなさい
わたしは、魚の≪姿≫のまま、もう一度≪部屋≫を一周すると、ゆっくり≪寝台≫の上に身を横たえ、父親のような命令口調で、女に言った。
――さあ、その殺して欲しい相手の女の名を、言いなさい
女の外套が、また強く、弱く、光を放った。
しかしもう、そこに破壊的な感情の爆発は感じられない。
わたしは魚から、再び人間へと≪姿≫をもどしながら、そんな彼女を観察した。
女が、錬夢術師の仕事を、どのように理解しているかは分らなかった。
しかし、ともかくも、わたしのこの≪部屋≫を探しあて、訪ねてきたからには、それなりの知識を人伝《ひとづて》に得ての結果に違いない。なによりも、彼女にはわたしを探し出さねばならない必要があったというわけなのだろう。
――相手の名前は?
わたしは三たび、女をうながした。
――……毬子……葭見毬子《よしみまりこ》……
女は、放心したように目を宙に向けてつぶやいた。
――毬子は、杉並《すぎなみ》の吾守《あがもり》町で、あの男と暮らしている……幸せを気取って……子供までつくって……でも、本当は、彼とそこで暮らすのは、このわたしだった……
女は、ひと言ひと言を、苦いもののように口から吐き出した。
――その女を、殺すのだね?
わたしは、わざと残酷な調子で彼女に言った。
――殺せば、いいんだね?
――……わたしは毬子が許せない……いえ、彼女が悪いわけでもなんでもない……でも、あたしは彼女を許せない……毬子はきっと、あたしにはない、ちょっとした勇気を持っていただけなんだわ……でも、あたしには、どうしてもそれが許せない……
女の≪姿≫が融けはじめた。
彼女は、その瞬間、全身を醜く歪ませた。二つの瞳までが、邪悪につり上がり、黒衣の彼女を、まるで悪鬼のように見せた。
――やめなさい!
わたしは彼女を鋭く制した。
――吾守町の、葭見毬子だね! それだけ聞けば、充分だ。あなたの、お望みのままにわたしは仕事をするだけだ
わたしは≪寝台≫から降り立つと、女の目を正面から見つめた。
――さあ、行こう。仕事のための時間は、そう残されていない
――じゃあ……ほんとうに、あなたは毬子を殺してしまうのね?
女は、突然、自分が関係のない殺人者と向いあってしまったかのようにうろたえて後退った。
――ほ、ほんとうに、あなたは毬子を殺すつもりなのね!?
――ああ……殺す。あなたが、わたしに、それを依頼したからだ。わたしはただ、その仕事を果たすだけだ。いいかね、それを望んだのは、あなたなんだ。気が変わったのなら、まだ遅くはない。黙ってわたしの≪部屋≫から出て行ってくれ
このような客には、慣れていた。とくに、人殺しを依頼にくる人間は、多かれ少かれ似たような反応を示す。
ありったけの憎悪を振りまいて、相手を罵《ののし》っておきながら、いざわたしが簡単に殺人を引き受けると、急にしりごみしはじめるのだ。
そのことが、自分にとってどのような結果をもたらすのか、とはじめて不安に思いはじめるのだ。
だが、わたしの職業は、人生相談ではない。わたしはただ、依頼されたままを、ひとつひとつ果たしてゆくだけだ。
わたしは何ひとつ忠告も与えないし、判断も示さない。
――わたしの報酬のことは知っているね?
わたしは押し黙ってしまった女に、別な話題を投げかけた。
――仕事の難易や大小、時間などは計りようがないから、わたしは誰からも同じだけのものを支払ってもらうことにしている。仕事の日から三日後、わたしの方から、それを受け取りに行く。もちろん、成功した場合に限るわけだ。万が一、仕事に失敗した時は、もう一度相談の上、対策を考え直す。もっともこれまでのところ、わたしにその必要はなかったけれど……
わたしは、努めて事務的な口調で続けた。
――さあ、今、ここで決めて欲しい。時間がない。わたしに依頼するのか、それとも、このまま帰るか、を……
女は、わたしの言葉をうつむいたまま聞いていたが、ふとおびえた獣のような動作で、自分がやってきた≪廊下≫を振り返った。
そして、もう一度……
やっと、女は微かに頷いた。
――……知っています。あなたのことは、ある人から全て聞いて知っています。……分りました、お願いします
――いったい、何を?
わたしは意地悪く聞こえることを承知で、彼女の気持ちを確かめにかかった。この仕事では、それだけの配慮は最低必要だった。
依頼人はえてして、自分がいったい本当は何を頼みたいのか、曖昧なままでいることが多かったからだ。
――……さっき、言った通りです。葭見毬子を……殺してください……
女は、唸るように低い声で言った。
そこで、わたしは≪部屋≫を出た。
わだかまる闇を抜けると、そこはもう女の夢の世界だった。
ひとりの、二十代半ば過ぎに見える疲れた表情の女が、夜具にくるまって深い寝息を立てていた。それが、彼女の本当の≪姿≫なのかもしれなかった。
しかし、人は誰も、自分の寝姿を観察することはできない。
ただ、それを想像するだけだ。
そして、その彼女の個室は、グロテスクに見えるほど質素だった。
何もかもが色褪《いろあ》せて見えた。
それに比較して、窓からのぞく街の風景は、過度ににぎやかで、そして危険に満ちたものに見えた。
これは、めんどうな仕事になるかもしれない、とわたしはその時直感した。
だが、わたしはそこから逃げるわけにはいかない。
わたしは、彼女の部屋と寝姿にいちべつをくれると、窓の把手《とつて》に手をのばした。
背後では、女が身じろぎした。それが、何を意味しているのかは、わたしにも分らなかったし、それを考えている余裕もなかった。
わたしは、嫌な音をたてて軋《きし》む窓を、左右に押し開けた。
そして、胸いっぱいに夜気を吸いこむと、ふわりと街の上空に浮かびでた。
すぐ頭上に、巨大な月があった。
しかし、その月はあばた面のあの姿ではなく、奇怪なまだら模様を持つのっぺりした球体のように見えた。
まるで、街全体を押しつぶしてしまいそうなその月の姿から目をそらし、わたしはゆっくりと漂いながら空をわたっていった。
街は、どこまで行ってもにぎやかな騒音に満ちていた。
空の、この高みにまで、女たちの嬌声《きようせい》、男たちの争い合う罵声が立ちのぼってきた。
わたしは静かに息を吐きながら、とある路地へと降下していった。
ふと思い出して、ポケットの中に、小さなピストルを用意する。
そしてわたしは、軽い靴音とともに、地面に足をつけた。
と、不意に背後で、何か大きな影が動いた。
わたしは慌てて、振り返った。
それは一頭の凶暴な目を持つ獣だった。しかし、わたしは、その獣の名前を言いあてることができなかった。恐らく、現実の世界に存在する動物ではないのであろう。
真黒な剛毛につつまれたその巨体は、わたしの視線を感じたのか不意に立ちどまった。
わたしの全身が恐怖でこわばった。
前にも、同じような獣に出会ったことがあるような気がしたからだ。そして、その時には、とんでもない何かが持ち上がったような、そんなぼんやりとした記憶があった。
しかし、わたしはそれを思い出すことができない。
(いや……確かに、わたしは……)わたしは、頭を左右に振った。(そうじゃない! これは、わたしの記憶じゃない。あの女の記憶なんだ!)
わたしは強く、そう自分に言いきかせた。
だが、痺《しび》れたままの両足は、それでも感覚をとりもどさない。わたしは激しい焦りにとらわれて、口を開いた。
(や、やめろ! やめるんだ!)そう叫ぼうとしたが、わたしの喉からは、干上がったかすれ声しか洩れて出ない。
わたしは、唯一、自由な右手で、ポケットの中のピストルを握りしめた。
獣もまた、何かを迷っているようだった。
時おり不快気に剛毛を逆立てたり寝かせたりしながら、赤い口からしきりに白濁したよだれを流している。
ようやく、わたしの足から、わずかずつ麻痺が引きはじめた。
わたしは、いざるように、数センチずつ後退った。
しかし、その動きは、自分でもいまいましく思えるほど遅かった。
突然、獣が動いた。太い前脚から爪《つめ》をのぞかせ、それは、のそり、とわたしに向ってきた。
(あっ!)
わたしは思わず尻もちをつき、それでも這って逃げようと試みる。
ここが、あの女の夢の世界だと分っていながら、わたしは、どうしようもない恐怖のとりことなっていた。
ひとつには、その得体の知れぬ獣が、いったい何のためにわたしの前に出現したのか、その本当の意味が掴めなかったからだ。
と同時に、わたしの意識が、徐々に、この宇宙の因果律によって犯され、それに支配されはじめているのが感じられた。
その感覚は、決してめずらしいものではなかったが、彼女の、この宇宙にあって、それは余りにも強力だった。
わたしは、焦った。
しかし、焦れば焦るほど、身体の動きは、ますます歯がゆいものになってきた。
ゴウ、ゴゴゴゴ……
せきこむように、獣が吼《ほ》えた。
そして、思いがけぬほど敏捷《びんしよう》な跳躍で、一気にわたしとの距離をつめた。
ひどい悪臭が、わたしの顔に吹きかけられた。
すぐ目の前に、獣の赤い口と残忍な牙《きば》が迫ってくる。
(罠か!)
本物の恐怖が、わたしに襲いかかってきた。
ひょっとして、この女は、最初からわたしを殺すつもりで、この宇宙へわたしをおびき寄せたのではないか……そんな気がしたのだ。
錬夢術師としてのわたしは、もう思い出せないくらい多くの、そしてさまざまな仕事をこなしていた。
それによって、あるいは、誰かのうらみを買っていたのかもしれない。そして、この女が、その復讐者の役を買って出たのかもしれなかった。
(もしそうだとしたら……)わたしは、すっかり動きの鈍った精神を、必死で集中させようと試みた。(わたしは……わたしは……この女の世界全体を敵に回して戦わなくてはならないハメになる……)
わたしの額から、とめどなく冷たい汗がしたたり落ちた。まるで、実在の汗ででもあるかのように、それはわたしを震え上がらせた。
なにしろ、ここは、この女の領土なのだ。わたしの不利は、余りにも明らかだった。
ゴッ、ゴゴゴ……
獣が、再び吼えた。
そして、ついに、邪悪に燃える二つの目でわたしを見据え、わたしの胴体ほどもありそうな左の前脚をわたしめがけて振り下ろそうとする。
それらの動作には、しかし、どこか芝居がかったのろさがあった。
まるで、わたしの反撃を待っているような、ある種のためらいが感じられたのだ。
(この女は、いったい、何を考えているんだ?)
わたしは、ますます混乱しながら、意を決してポケットから小さなピストルを掴み出す。
その時だ。
「さあ、あんた。こっちへ来るんだ!」
わたしは不意に、力強い腕で襟首を掴まれ、ぐいと後に引っぱられた。
ゴウ、ゴッゴッゴ
一瞬の差で、わたしの身体があった地面に前脚を振りおろした獣が、怒りににえたぎった両眼で、引きずられてゆくわたしを追う。
「何をしてるんだい、あんた! さあ、もう立って歩けるだろう。早いとこ姿をかくさないと、テディ・ベアが追ってくるぜ!」
「テディ・ベアだって!?」
わたしは驚いて、声の主の顔を探した。
まず見えたのは、わたしの襟口を掴んでいる太い腕だ。
そしてそこには、錨《いかり》の刺青《いれずみ》があった。
わたしは、さらに見上げる。すると、ひげもじゃの赤ら顔と、粋な船長帽が目に入った。
男は、わたしの襟口を掴む手に力をこめた。
そして、まるで壊れた人形をあつかうような手荒さで、わたしを直立させた。
いつの間にか、わたしの足には感覚がもどっている。
ゴッ、ゴッ、ゴッ!
テディ・ベアと呼ばれた怪獣が、また路地の奥で吼えている。
「こっちだ! 若いの、あんな臭い獣にかまうんじゃねえ!」
男は、わたしの肩を一発どやしつけると、先に立って駆け出した。
わたしも慌てて後を追う。
男は迷路のような路地を縫って走り、たちまち、人であふれかえっている歓楽街の一角にわたしを導いた。
「もう、だいじょうぶだ、若いの。しかし、あんた、あんなところで、どうしてベアなんかとジャレてたんだい?」
男は、帽子をななめにかぶり直すと、気さくな笑顔をわたしに向けてきた。
「…………」
わたしはただ、大きくため息をついて首を左右に振った。全く、どう答えて良いものか、見当もつかなかった。
ここは、あくまでも女の宇宙であり、そしてその男は、女によって今夢見られている世界の一要素にしか過ぎないのだ。わたしは、そう自分に言いきかせた。
しかし、それにしても、この世界は、わたしがこれまで忍び入ったどんな依頼人の宇宙よりも、妙に生々しい現実感によって支配されていた。
それに、この雑踏――
男とわたしのまわりを流れてゆく人の波は、皆それぞれに、はっきりした顔を持っていた。
もちろん、なかには、ただのっぺりと非個性的な目鼻しかない人物も含まれていたが、大半の通行人は、画一的でない歩調や動作、表情などを演じ分けながら、この街路を散策している。
これは、実に驚くべき、女の夢想力と観察力を物語っていた。
それほどに、女の、世界に対する憎悪が深いのかもしれない、とわたしは思った。
「どうしたんだい、若いの。元気がないようだが……」
男は、面白そうにわたしの顔をのぞきこみ、突き出た太鼓腹を両手でなで回した。
「あの、テディ・ベアとかいう怪物は、よくこのあたりに出没しているんですか?」
わたしは居心地の悪い雰囲気を押しのけるために、そう質問した。
「そうさなあ、だいたいは、ああいう暗い場所をうろつきながら残飯をあさってるのさ。奴は街中の人間から嫌われている。何しろ、あの通り臭いんだ」
男は大げさに顔をしかめると、わたしの肩に手を置いた。
「ということは、何かい? あんたは、このあたりの人間じゃないのかい?」
「まあ、そんな所です」
わたしは曖昧に答えて、男の視線を避けた。
女の考えていることが、また一層分らなくなってきた。
「ところで、あの……」
「ガス、さ。俺の名前は、ガス、ガス船長だ」
男は潮で焼けた赤ら顔をほころばせると、そう名乗った。
「船長、ちょっと訊きたいのですが、杉並の吾守町というのは、どのあたりかご存知ですか?」
わたしは、できるだけさり気なく、男の様子をうかがいながら、そう質問した。
「なに!? 吾守だって! こいつは驚いた。そこが、俺の寝ぐらじゃないか。本当に、吾守港がどこか知らんのかね?」
男が大声で笑いだした。
「吾守港? そこは、港なんですか?」
わたしはまた、この仕事が実は罠ではないかと疑ぐりはじめていた。
「何をばかげたことを言ってるんだい、若いの。吾守の港は、ここから、すぐじゃないか。だいたい、この飲み屋街の名前が吾守銀座だ。ほら、あのアーケードの文字が見えるだろう?」
男が指差す薄汚れたアーケードには、確かに≪吾守銀座≫のネオンサインが、わびしげに光って見えた。
「……しかし、だ。ここは、正しくは吾守町じゃあないんだ。ここの町名は、北倉《きたくら》っていうんだ。覚えておきな」
見回すと、この夜の街には、確かに船員風の酔漢が多かった。
夜気には、微かに潮の香りまで感じられる。
「なるほど……」
わたしは、とまどいつつうなずいた。
「どうだい、若いの。ここらで一杯やっていかないか? ちょっとした駆けっこのおかげで、また喉がかわいちまった」
男は一軒の小さなスタンド・バーのドアをあごでしゃくって、わたしに示した。
「いや、そうもしていられないんですよ。その吾守町で、これから人を探さなくちゃならないんでね」
わたしは、一歩、男の前から後退った。
「……それに、わたしは今、お金を持ちあわせていない。船長に迷惑はかけられないし……」
しかし、それは嘘だった。錬夢術師は、夢の世界の物質から、必要最小限のものを捏造《ねつぞう》する力を持っていた。
しかし、それが余りに度を過ぎると、錬夢術師の存在そのものが、夢の宇宙の因果律と衝突し、夢想の世界そのものが全ての造型力を失って、混沌の状態に還元されてしまう、と考えられていた。
わたしは一度、その混沌の渦が押し寄せてくる世界から、間一髪のところで逃げ帰ってきたことがあった。
後になって、その依頼人が実は発狂していたことが分ったのだが、その時の圧倒的な恐怖から、わたしはいつも、錬夢術による自分のための造型を必要以上に嫌っていた。
そしてそれは、わたしの術を、非常に洗練されたものに見せてもいたのだ。
「金のことなら、心配はないさ」
一刻も早くこの場を立ち去ろうと思っているわたしを、しかしその船長はなかなか離してくれない。
「俺は今日、陸に上がったばかりなんだ。そうさ、つまり、金には全く不自由しちゃいない。それどころか、どうしても誰かに一杯おごらなくちゃ気の済まない気分なのさ」
男はわたしに片目をつぶって見せた。
「それとも、なにかい? 若いの、あんたは、俺があんたをテディ・ベアから助けてやったのが気に入らないとでもいうのかい? それなら、いつでも、あの糞ったれな残飯食いの腹の下へ、あんたを放りこみに連れてってもいいんだぜ」
男は、太鼓腹をなぜまわしながら、豪快に笑った。
わたしは、また、この状況に不審を抱きはじめた。
(この船乗りは、いったい、何だ?)わたしは、何かの象徴を彼の≪姿≫から読みとろうと、男の全身を、それとなく観察した。
「さあ、分ったら、今日の所は、俺についてくるんだな。なに、ほんの一杯、ひっかけるだけさ。それから、あんたを港まで送ってやろう。なにしろ、今の時間、あのあたりはひどく危険な連中がうようよしている。あんたみたいな他所者《よそもの》を、平気で通してくれるわけがない」
男は帽子のひさしに手をやると、それをぐいと、引き下げた。
「まあ、あんたは、そのポケットのちっぽけな得物にモノを言わせるつもりなんだろうが、そんなものを見せびらかしたら最後、奴等は本気になってあんたを殺しにかかるぜ。やめときな、若いの。大丈夫だ、あんたの探してる場所へは、この俺がちゃんと案内してやるさ」
男は、そう言って、わたしがピストルをひそませている、ポケットのふくらみに目をやった。
「分りました、船長。じゃあ、ごちそうになりましょう」
他に考えもなく、わたしは男の後について、バーの入口をくぐった。
そこは、六、七人も入れば、もう満員になってしまいそうな小さな店だった。
カウンターの中には、赤い蝶《ちよう》ネクタイをしめた、まるでネズミのような顔形のバーテンがひとり、それと毒々しい化粧の女ふたりが互いに身体を寄せあうように立っていた。
客はいない。
「らっしゃい」
バーテンは無愛想にそれだけ言うと、とまり木に腰を下ろした二人の前に、曇りのとれていないグラスふたつを音をたてて置いた。
「ラムだ、とびきりキツイのを、な」
船長は、店のいかがわしい雰囲気など全く気にならない様子で、陽気にオーダーする。
いつの間にかカウンターから抜け出してきた女ふたりが、わたしと船長の両側に重い尻《しり》を寄せて陣取った。
「ねえ、船乗りさん。あたしたちにも、何か飲ませてちょうだい」
赤いドレスの女が、疲れ切った声でそう言った。
「それとも、もっと面白いことがしたいの? それなら、二階に部屋があるんだけれど……」
胸をみだらにはだけているもう一人の女がそう言った。
「うーむ、どうするかだが……」
船長は、その女の尻に手を回しながら、唇を歪めた。
「船長、それなら、わたしは行かなくちゃなりません。一杯だけ、が約束ですから」
わたしは、好色そうに顔をゆるめはじめた船長の様子に慌てて、カウンターを叩いた。
「まあ、気のきかない人ねえ」
女が口をとがらせた。
「いいじゃない、たいして手間はとらせないんだから、遊んで行きなさいよ」
「そうよ、あたいたちのサービスは、そこいらの娘とは、ひと味違うのよ」
わたしの隣の赤いドレスの女は、そう言って股間《こかん》に手をのばしてくる。
「いや、今日はよそう。俺は今日、陸に上がったばかりなんだ。家で待ってる女がいる。そいつのところまで、こいつは大事に持って帰ってやんなくっちゃならん。分るだろう」
船長は、ちょっと未練たらしく女の胸をなぜながら、そう言った。
「そのかわり、まあせいぜい好きなものでも飲んでくれ」
バーテンが、グラスをふたつカウンターに追加した。
わたしと船長のグラスにはラムを、そして女たちには、何やら色のついた飲み物を注ぐ。
客に脈がないと分ると、女ふたりは急に無口にもどり、自分たちの飲み物をすすりはじめた。
わたしはやや安心したものの、今度は急に時間が気になりはじめた。
夢の世界では、外界の時間感覚は全く役に立たない。
外界の数分が、ここでは数年の長さであることはあり得るし、逆に、ほんの数分で、一夜の眠りが終ってしまうこともある。
錬夢術師は、緩急の定まらないこの時間流に対して、ある種の勘を持ってはいるが、それが絶対という保証はなく、時には、それがとんでもない失策へとつながる場合もあった。
どうやら、この女の世界では、一夜の内に数日分の時間が消費されているように感じられたが、それでも、できるだけ早く仕事を片付けるにこしたことはない。
わたしは、ちらちらと船長の顔を盗み見ながら、自分のグラスを持ち上げた。
そして、その液体を口に含んだ。
(うっ……)
思わず呻き声を上げたくなるほど、それはひどい味だった。
女は、酒というものを飲んだことがないのかもしれなかった。
そして、この液体の味は、女が夢想したラムのそれというわけだ。
しかし、船長は平気で、一気にグラスの中身を体内に流し込んでいる。
グラスが空くと、バーテンは黙って、新たな酒をそこに注いだ。
「船長、待っている女がいるって、それはあなたの奥さんですか?」
わたしは、なんとかこの場を切り上げるきっかけを掴もうと、そう質問した。
「ああ、そうなんだ。俺は船乗りだ。だから、寝ぐらも港の近くにかまえている。そこでマリイは待ってくれてる」
男はちょっと照れたように、頭をかいた。
「マリイ?」
俺の声が、急に硬くなった。
(マリイ……マリ……まり……毬子……)
嫌な予感が背中を走った。
「そうさ、それが、俺の女房の呼び名だ。実は俺の女房には、双子の姉がいるんだ。そいつがまた女房にそっくりの女で、俺は、はじめは、そっちの方と結婚するつもりでいた。ところが、妹、つまり、今の俺の女房だが、そっちの方が、しゃしゃりでてきた、と、まあ、そんなこんなで、俺は妹の方と結婚しなきゃならなくなった。分るだろう、マリイの奴、ちゃっかり、俺の子供を腹ん中に抱えこんでたというわけさ」
男は、酒で軽くなった口を思いきり大きく開いて、笑いだした。
「いいかい、若いの。けっさくなんだ、その成り行きというのが。まあ、聞いてくれよ。俺と、その双子の姉の方は、あるダンス・パーティで知りあった。まったく、当時はいい女だった。俺はすっかり、そいつにのぼせちまった。相手も、俺にはまんざらでもない様子だった……
何度か、映画や食事に誘った末、俺はついに、彼女をモノにしたってわけだ。口にこそ出さなかったが、俺たちはいずれ結婚するつもりでいた。その姉妹は、高台のあるアパートに、二人して暮らしていた。その頃俺は兵役を終えたばかりで、海員の免許をとろうと勉強中だったんだが、とにかくヒマを見つけては、その部屋へよく訪ねて行ったっけ……
で、ある日のことだ。俺は学校が終ってから、またぶらりとそのアパートへ出かけた。すると、その日、そこにはひとりしかいなかった。俺は咄嗟のことに、その娘が姉の鈴子なのか、妹の毬子なのか分らなくなっちまった。で、恐る恐る探りを入れてみると、娘は笑いながら、〈何を言ってるのよ、わたしはあなたのスージーよ〉と抱きついてきたんだなあ。
妹のマリイは、買物に出かけてしばらくは帰らない、という……そこで、しめたと思った俺はさっそく着ているものを脱ぎすてて、いつもの愛の行為とやらをはじめようとしたわけなんだ。ところが、どうも、スージーの態度がぎこちない……何だか様子が変なんだ。だが、若かった俺は、そんなことに頓着なしに、彼女とソファの上で愛しあった。
しかし、終ってみて、俺は驚いた。なんと、スージーの太腿《ふともも》には、処女の証しの赤い血が流れてるじゃないか。そうなんだよ、そいつはスージーじゃなかったんだ。スージーのふりをした、妹のマリイだったというわけなのさ」
男はすでに、四、五杯のラムをたて続けに呷《あお》っている。
赤ら顔がさらに充血し、そのふたつの目も坐《すわ》りはじめていた。
しかし、わたしはそれどころではなかった。
全てが、ここで明らかになったのだ。
この船長と名乗る男は、どうやら、わたしの予感通り、殺しの相手、葭見毬子の亭主の≪姿≫であるらしい。
そして、彼がここへこうして登場した理由は、依頼人が、より詳しく、依頼の動機を説明しなければ気の済まない衝動に駆られている証拠と言えた。
つまり、女は、殺しをわたしに依頼しておきながら、まだそのことの妥当性について思い悩んでいる、ということなのだ。
さっき現われたテディ・ベアとかいう怪獣にしても、それは彼女の罪悪感の象徴と言えた。
ということは、これから先、わたしはより以上の妨害を覚悟しなくてはならないのだ。
わたしは、面倒な依頼人の心の動きを想像して、すっかり気の滅入《めい》るのを感じた。
(おそらく、彼女の心をいやすためには、この大男も、夢の世界から葬り去らなくてはならないのだろう……)
俺は無意識の内にグラスを口元に運び、その中身を舌の上に流しこんでしまった。
そして、むせかえる。
「おい、おい、どうしたんだ、若いの。それっぽっちの酒で、もう降参というわけか。情けないものだなあ」
グラスを取り落とし、ラムを吐き出して苦しむわたしを見て、船長はようやく腰を上げた。
「よし、よし、分ったよ。そろそろ、おまえさんを、港まで送ってやろう」
男は、バーテンに何枚かの銀貨を投げ与えると、わたしの肩を掴んでかかえ起こした。
「また、どうぞ……」
硬貨を素早くポケットに押し込んで、バーテンは頬の端に愛想笑いを浮かべた。
「じゃあ、船長さん。今日は帰したげるよ。家でしっかり頑張って、また、飽きたら、あたしらの所へ出かけておいで。たっぷり、いい目を見させてあげるからさ」
送って出ようとする女たちにも銅貨を握らせ、何言か、ひわいなやりとりを交すと、船長は、わたしをうながして外へ出た。
巨大な月は、まだ頭上で煌々《こうこう》と照っていた。
にもかかわらず、さっきよりも人気の少くなった街路は、妙にうそ寒い、もやのような闇に覆われはじめていた。
それが、女の、今の気分を反映していることは、疑う余地がなかった。
女は、これからのわたしの仕事ぶりに、絶大な期待と、そして、同じくらい大きな不安を感じているのだ。
「なあ、若いの。今日は、もう遅い。この時間から、人探しでもないだろう。どうだ、俺の家へ来ないか? 場所はちょうど、あんたの目的地の吾守町だ。女房に何かつくらせて、口直しに一杯やり直そうじゃないか。どうだい」
ふらつく足で街路を歩きながら、船長がそう言った。
それは、誘いだった。
わたしは、それに乗らざるを得ない。
「でも、その毬子さんでしたっけ? こんな時間に見ず知らずのわたしが訪ねて行って、気を悪くしませんか?」
わたしは、一応、そう訊《き》いた。
「なあに、マリイは、気のいい女房だ。俺の友達は、いつでも大歓迎さ。ただ、客用の寝室なんてシャレたもんは我が家にはない。だから、あんたには、居間のソファで寝てもらわなくちゃならないが……」
歩くうちに、前方から、数体のロボットがガシャガシャと金属製の身体を鳴らしながら近付いてきた。
「おい、待てよ。あいつらは何だ!」
酔いのために目の焦点が定まらない船長も、ようやく、その奇妙な一行に気付く。
「さあ……わたしにも、分らない……」
わたしは思わず足をとめた。
嫌な、もめ事の予感がした。
(テディ・ベアの次は、ロボットか……いったい、この女は、俺にどうしろと言ってるんだ………)
わたしはまた、ポケットの中のピストルを右手で握った。
「止マレ! ソコノ二人」
突然、先頭のロボットが、金属的な声でそう叫んだ。
「ふざけるな、このブリキ野郎!」
船長は目の前に立ちはだかった二メートルはあろうかというロボットに食ってかかった。
「なんで、俺サマが、おまえらに命令されなくちゃならないんだ!」
「オマエタチハ、コノ街ノ現則ヲ知ラントデモ言ウノカ!」
隊長格のロボットが、有無を言わせぬ甲高い声で怒鳴った。
「夜間十一時以降、泥酔者ノ通行ハ禁止! オマエ達ヲ、逮捕スル!」
またしても、妨害がはじまったのだ。
俺は唇の端を噛《か》んだ。
「冗談じゃないぜ、この、このポンコツども! 俺サマはこれから自分の家へ帰るところだ。それでも文句があるというのか! それに、俺はデースイ≠ネんぞしちゃいない。どこに、目をつけて歩いてやがるんだ。さあ、分ったら、そこをどけろ!」
船長が怒鳴り返した。
「逮捕スル! 手ヲ上ゲロ!」
一体のロボットが、たたみかけるように宣言すると、さっと腰から、ピカピカと銀色に光るピストル様のものを取りはずした。
「サモナケレバ、コノ場デ、光線銃ヲオ見舞イスル!」
下手な芝居じみた台詞《せりふ》を吐くと、そのロボットは、ガリ、ガリ、と歯車を鳴らして、前進してきた。
「くそっ! やっちまえ」
叫んだのは船長だ。彼はいきなり、そのロボットの手に飛びつくと、無理矢理そこから光線銃をもぎとった。
わたしも慌てて、ポケットから小型ピストルを掴み出し、安全装置を解く。
「ヤメロ! ヤメルンダ、人間!」
「逮捕スルゾ! 死刑ニスルゾ!」
「反逆者ダ、皇帝陛下ノ敵ダ!」
ロボットたちは、口々に、意味の分らない言葉を吐きだし、ギリギリと包囲の輪を縮めてきた。
まず、発砲したのは、船長だった。
ビシッ! ビシッ!
不気味な紫色の光線が、船長の手に握られている銃からほとばしり、ロボットの金属の外皮を切り裂く。
わたしも、役には立つまいと思いながら、小型ピストルの引金を絞った。
ガ、ガ、ガ、ガリ、ガリ、ガリ……
船長の光線銃をモロに食らった正面の三体が、突然、異音を発して煙を立てはじめた。
「危険! 危険! 爆発! 爆発!……」
同時に、ロボットの頭部のランプが激しく明滅をはじめ、警報の言葉がスピーカーから狂ったように飛び出してくる。
「逃げるんだ、若いの!」
光線銃を放り投げた船長が、わたしの腕をむんずと掴むと走り出した。
「危険! 危険! 爆発! 爆発!……」
闇雲《やみくも》に両腕を振り回すロボットたちの円を、船長とわたしは死にもの狂いで駆け抜けた。
すぐさま、横に折れ、歓楽街のゴミゴミした裏道に走りこむ。
と同時に、激しい爆発音が背後で轟《とどろ》いた。
爆風が、わたしたちの後を追って吹き込んでくる。
「走るんだ、走り続けるんだ!」
船長が叫んだ。
あちこちで、けたたましいサイレンの響きが湧き起こった。
「糞《くそ》ったれめが、まったく!」
船長は、路地から路地へと逃げ回りながら、わたしの手を引いて、着実に港へと下《くだ》ってゆく。
「もう、大丈夫だ。俺の家は、すぐそこだ」
十分ほど走り回った末、ようやく足を停《と》めた船長が、荒い息をつきながら言う。
見れば、狭い道の向こう側に、暗くよどんだ海が見え、幾本ものマストが揺れている。
港だった。
(しかし、どうして、あの女は、こんな場所に港を夢想するんだ……)
俺はいささかうんざりしながら、首を左右に振った。
「確かに……確かに、港だ」
俺は唸った。
「そうさ、若いの。ここが、おまえさんの探していた吾守港だ」
風向きが変わり、強い潮とオイルの臭いが流れてきた。
と、その路地の向こうから、二人連れの人影が現われた。
子供のように小さな身体つきだ。
二人もわたしたちを認めたらしく、手を振りながら近付いてくる。
わたしは、また身体を硬くして身構えた。
「心配ないよ、若いの。あいつらはアルデランから来た船乗りだろう」
船長は、ようやく余裕をとりもどした口調で、そう言った。
「メゲ、ラドナ・イル・キナ・スム」
話しかけてきたのは、二人の中でも小柄な方だ。
彼等の姿が、小さな街燈の光の輪の中に入ってきた。
(うっ!)わたしは、心の中で舌打ちした。それは緑色の皮膚を持った人間とは思えぬ二人組だったのだ。
「メゲ、アー・イザル・キナ・ホンゴラーレ、アー、アガモリ・スペース・ポート・イザン・リザン」
全くわけの分らない言葉で、船長が応じている。
「メゲ、メゲ! ホンゴラーレ、ニト、アガモリ?」
「ザン、ザ・メゲ!」
気味の悪い二人連れは、何事か納得したらしく、そのまま去って行った。
「アルデランから、はじめてやってきた連中らしい。とまどうのも無理はない。俺もアルデランには五回ほど行ったが、こことはえらい違いさ。実に美しい港町なんだ」
歩きながら、船長が言った。
(アルデラン? いったい、それは、この地球のことなのだろうか……)
わたしがそう考えた途端、頭上を、何か巨大なものの影が爆音をたてて横切った。
月面を通過するそのシルエットは、まさに、宇宙ロケットを思わせるスタイルだ。
(女が、わたしを混乱させようとしている)と、わたしはすぐに悟った。
だから、わたしは、質問を待ち受けているらしい船長に対して、ひと言も口を開くまいと決心した。
「どうだい、今のは! でっかい船だったじゃないか。あの格好は、デロスのものだろう」
船長は大げさに説明をはじめようとしたが、わたしが反応を示そうとしないのを知ると、肩をすくめて、足を早めた。
やがて、行手に、険しい崖《がけ》が見えてくる。
その斜面に貼《は》りつくようにして、大小の古ぼけた住宅が肩を寄せあって建っていた。
「若いの、ほら、あれだ。あの、上から三番目の、明りのついている家、あれが、俺とマリイの家さ。おっと、それにもうひとり十二になる坊主と、七つの娘もいる。俺の宝物だ」
船長は柄にもなく相好を崩すと、頭をかいた。
「さあ、遠慮することはない。俺についてきてくれ」
船長は上着のポケットから、小さな竹とんぼのようなプロペラをとり出した。
そして、それを両手でぐるぐると回転させて空に浮かんだ。
わたしは胸いっぱいに空気を吸いこむ飛行法で、後を追った。
「マリイーッ! 帰ったぞ、俺だ! 客がいっしょだ!」
必死でプロペラを回して、斜面に沿って上昇しながら、船長が大声で怒鳴った。
すると、それを聞きつけたのだろう、一軒の家のドアが大きく開かれ、小柄な女がそこから首をのぞかせた。
「あなた? あなたなのね!?」
船長は重い身体をようやくのことでその戸口まで持ち上げた。
そして、どすん、と音を立てて、玄関に着地する。
わたしも、ゆっくりと息を吐いたり吸ったりして浮遊の度合いを調節しながら、その戸口へと漂いついた。
「まあ、いらっしゃい! このひとのお友達なのね?」
明るい笑顔が、わたしを迎えた。
それは、やはり、あの女と瓜《うり》ふたつの女性だった。
「やあ、奥さん。ご迷惑をおかけします」
わたしはぺこりと頭を下げた。
「わたしの名前は、クルト・フィニ。旅行者です」
わたしは、錬夢術師としてわたしに与えられた真実の名前を女に対して名乗った。
それは、わたしなりの礼儀だった。
「まあ、異国の方なのね。でも会話はお上手だこと」
女は屈託なげに笑った。
「わたしの名は毬子といいます。このひとはわたしのことをマリイなんて呼んでますけど」
「おい、あいさつはそれ位にして、この方に何か飲み物を差し上げろ」
船長が言った。
「いえ、わたしなら、もうけっこう。それより、船長もお疲れでしょう」
わたしはそれとなく水を向けた。
「ああ……まあ、そうだな。俺も少々、疲れた。何しろ、あんな目にあった直後だからなあ」
船長は、つぶやくと、急にギロリとわたしの目をにらみつけた。
「じゃあ、今夜は、いちおうこれでお開きとするか。俺と女房は、その奥の寝室へ行く。あんたは、この居間で寝てくれ。いいな、何か、用があったら、遠慮なく起こしてくれていい。俺たちは、そこの寝室にいる」
船長は、一語一語強調しながら、そう言い終えた。
その調子には、女の決心がはっきりと反映されていた。
「分りました」
わたしも、船長の目を見返し、きっぱりと答えた。それは、一瞬、あの女の、燃えるような目の色を感じさせた。
「あら、もうお休み?」
船長が夜具の用意を命じると、女は驚いたふりをしながらも、浮き浮きした気分を隠さない声で答え、奥の間から毛布や枕を運んでくる。
「そこに電燈のスイッチがある。好きな時に消して寝てくれ。俺と女房は、久しぶりにちょっとした騒ぎをやらかすかもしれんが、まあ、気にしないでもらいたい。それが終れば、俺たちは本物の泥みたいに寝込んでしまう。あんたがどんなにどたどた動き回ろうと、俺たちは気にしないってことさ。分るだろう?」
船長は急に小声になると、わたしの耳元でそう言った。
わたしは無言で、それにうなずく。
「じゃあ、また、明日の朝」
船長は、女房を追い立てるように寝室へ消えた。そして不意に、またドアを開くと、思い出したようにつけ加えた。
「そうだ、若いの。あんたが、この吾守町で探しているというのは、一体、何という名前の人間なんだい? そいつをまだ、聞いてなかったような気がする」
「いいんです、船長。ここまで来れば、もうだいたいの見当はつけられる。ありがとう、助かりました」
わたしは、ぼんやりとそう答えた。
二人は寝室に消えた。
待つ間もなく、そこからは、あたりをはばからぬ男と女の物音が聞こえてきた。
わたしは爪先《つまさき》立って壁際に歩き、電燈のスイッチに手をのばすとそれを切った。
明りを消しても、室内は射し込んでくる月光で充分に見てとれた。
わたしはまた足音を殺してソファにもどり、毛布を胸までかぶって横になった。
目は閉じない。
そして、待った。
やがて、寝室はふっつりと静かになった。
ぼそぼそと続いた睦言《むつごと》も、すぐに途絶える。
それに替わって、船長のものらしい、盛大ないびきが聞こえてきた。
わたしは、身を起こした。
毛布をはねのけ、床に降りる。
そして、自分の≪姿≫を闇の中に溶かした。
わたしは、一匹の黒豹《くろひよう》となった。
一撃で相手を食いちぎることのできる鋭い牙が、さえざえとした月光の中で不気味な燐光《りんこう》を放った。
わたしは、足音を殺したままドアに近付いた。そして肩で、それを押した。
ギギ、ギイ……
木の扉は微かに鳴って、内側に開いた。
わたしを追って、秘やかな月光が室内に流れ込んだ。
大きなベッドが見えた。
船長と、そしてその胸に頭を寄せた毬子の裸体が、不思議な彫刻のようにからみあっていた。
わたしは、きっかり一秒、その二人を見つめた。
そして、跳躍した。
仕事は、余りにもあっけなく終った。
女は目覚める余裕もなく、わたしの長い牙に刺し貫かれて動かなくなった。
わけも分らぬまま、目をしばたたく船長の胸にも、わたしはその牙を打ち込んだ。
と同時に、いきなり夜明けがやってきた。
わたしは血ぬられた二本の牙をむき出したまま、射し込んでくるそのまばゆい陽光に耐えた。
わたしは身体をひるがえすと、寝室から駆けだした。
そのまま家のドアに体当りして、外へ跳びだす。
と同時に、息を吸いこみ、やっとのことで、空中で漆黒の豹の身体を支えた。
眼前に、港があった。
しかし、今や港は、その≪姿≫を劇的に変えはじめていた。
海が、急速に、拭われるように後退してゆき、変わってその下から、ごく当り前の市街地が出現してくる。
彼女の夢界は、今や、呪縛《じゆばく》から解かれたのだ。
もはや、長居は無用だった。
一刻も早く、わたしは自分の≪部屋≫へ帰らなくてはならない。
わたしは、朝日の中で変容してゆく街並から無理に目を引きはがし、豹の≪姿≫のまま、空中を疾駆した。
たちまち、出発点の、彼女の部屋が見えてくる。
その窓は、今も開かれたままだ。
わたしは、そこへ跳び込んだ。
と、勢い余って前進するわたしの肩に、何か鋭い痛みが刺し込まれた。
(うっ!)
わたしは本能的に身体を反転させると、部屋の床に転がった。
「な、何をする!」
女だった。
そこに、長いナイフをかまえた女がいた。
その顔面は蒼白《そうはく》だった。
「なぜ、あの男まで殺したの!?」
女が悲鳴のように叫んだ。
「船長のことか……」
わたしは舌で肩の傷口を舐めながら唸った。
「毬子を殺してくれ、と頼んだはずよ! なのに、あなたは……」
「待ってくれ、あんたが本当に殺したかったのは、あの船長だったはずだ。あんたは、毬子を殺すことに、最後まで罪悪感を棄《す》て切れなかった。あの男を殺さなくては、あんたは満足できなかったはずだ。わたしには分っているんだ」
わたしは叫び返した。
「見ろ! 目を開いて、街を見ろ! これが、あんたの新しい≪地図≫だ。もう、不吉な夜は終ったんだ!」
言い終らぬ内に、女は再びナイフをかざしてわたしに襲いかかってきた。
わたしはもう、この混乱した依頼人にかまっているつもりはなかった。
わたしは彼女の頭ごしに背後へと跳び、そのまま、≪廊下≫へと駆け込んだ。
その一瞬、わたしは女の部屋の壁に、一枚の黄ばんだ写真がとめられているのを目にした。
それは、ひとりの男といっしょに彼女が写っていた。
その男は、恐らく、船長に違いなかった。
しかし、夢の世界で彼が殺害した船長と、その写真の男は余りにもかけ離れて見えた。
男は、長身の好男子で、ひきしまった筋肉と知的な目の持ち主だった。
ちょうど、あの人の良い船長と正反対の印象を与えるのが、その男だったのだ。
男への愛が裏返されて、彼女は、彼をそんな風に夢想しなくてはならなかったのだろう。
裏切った妹に与える男として、彼女は船長をこの世界に生み出したのだ。
つまり、船長は、彼女が最も嫌うタイプの人間の典型だったのである。
わたしはそれに気付いていた。そして彼こそが、この世界における最も呪《のろ》われた存在であり、それを消滅させないかぎり、わたしの仕事が終ることはあり得ないと知っていたのだ。
そして、わたしはそれをやりとげた。
しかし、いま、激情におぼれている女は、そのことを理解できないでいた。
彼女には、とにかくこの瞬間、心底憎める対象が必要だったのだ。
「許さないわ! 逃がさないわ! 絶対に……」
女の叫びが、わたしを追ってきた。
「絶対によ! あなたは、わたしの世界から、絶対に逃げられないのよ!……絶対に……」
…………
…………
そして、わたしは目覚めた。
重い、澱《おり》のような頭痛が残っていた。
後味の悪い仕事だった……わたしはぼんやりと、夢の記憶を辿《たど》りかえした。
報酬を三日後に、と告げたけれど、その受け取りは、もっと先にのばした方がいいかもしれない、とわたしは考えた。
彼女が、わたしの仕事の、真の成果を理解するまでには、少くとも十日近い日数が必要かもしれなかった。
それまで、待つだけだ。
待つことは、別に苦痛ではない。これからの十日間、苦しむのは、恐らく彼女の方だろう。
しかし、それが過ぎれば、わたしたちは、今度こそ冷静に、話し合うことができるに違いなかった。
わたしは、頭の芯《しん》に残る鈍痛を振り払おうと、大きくのびをした。
わたしは汗をかいていた。
ふと、わたしは、それをいぶかしんだ。
まだ朝も早い。それに季節はまだ春の初めだった。
ところが、わたしの寝室の空気は、まるで冷気を欠いていた。
ほとんど夏を思わせる息苦しさに気付いて、わたしは夜具をはねのけた。
何かが、わたしに、しきりに不安を訴えかけていた。
わたしは、額の汗を枕にこすりつけながら、その不安の根を探しにかかった。
わたしは急に、跳び起きた。
そして、窓辺へ走った。
カーテンを一気に引くと、激しい陽光がわたしに襲いかかってきた。
わたしは、めまいによって一瞬よろめき、そして、ゆっくりとまた薄目を開いた。
そこには、街の風景があった。
しかし――
わたしは、強く、頭を左右に振った。それでも足りずに、平手で幾度も自分の頬を打った。
しかし、それでもなお、眼前の光景はわたしの網膜を去ろうとしない。
「そんな……」わたしは、つぶやいた。
それは、確かに、見なれたわたしの街によく似た風景だった。
しかし、南の空に浮かぶ空中都市も、西の入江にそびえる夢想の塔も、そして何より、この時間、全市をかすみのように覆って舞い続けているはずの夢の蝶たちの姿もなかった。
そこには、ただ真昼のような光に灼かれるみじめな家並が、べったりと拡がっていた。
ただ、巨大な太陽が、その色褪《いろあ》せた世界を何とか元気づけようとするかのように、無気味にぎらぎらと照りつけていたのである。
女の憎悪と希望が、そこでるつぼと化して燃えさかっていた。
わたしは汗にまみれて目を閉じた。
今やわたしは、捕われの狩人だった。
そして、一心に、闇を見つめようとした。
わたしは、わたしをこの世界から目覚めさせてくれる、もうひとりの錬夢術師を見つけなくてはならなかった。
さもなければ、この宇宙で、その支配者たるあの女と対決しなければならないだろう。
しかし、目蓋の裏側までも灼きつくそうとする太陽の下で、闇は余りにも遠く、かすかなものでしかなかった。
本物の悪夢は、これからはじまるのだ。
夢見られる者にとっての、悪夢が。
角川文庫『狂走団』昭和57年10月30日初版刊行