川又 一英
ヒゲのウヰスキー誕生す
目 次
プロローグ
第一章 リヴァプール行きオルドナ号
第二章 |生命の水《アクア・ヴイテ》、そしてリタ
第三章 国産ウイスキー第一号
第四章 余市ニッカ沼
第五章 キング・オブ・ブレンダーズ
エピローグ
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プロローグ
車窓を緑の野が流れていた。スコットランド、なかでもハイランドと呼ばれる北部高地地方に入ると、人家を目にするのも稀《まれ》になる。ときおり、岩肌を剥《む》き出しにした曠野《ムーアランド》が現われ、はりえにしだの山吹色の茂みや小川の碧《あお》い流れが横切っていく。
一九八一年、春。スコットランドをめぐるわたしの手には、数葉の写真があった。いずれも外国で写されたスナップ写真だ。裏に簡単な説明が英語で書き込まれている。年代は一九一九年と二〇年。多少変色のきざしを見せているものの、見つめていると、つい昨日撮られたかのような錯覚をおぼえる。
一枚の写真には、スレート葺《ぶき》屋根をいただく白壁を背にして、十人ほどの人間がおさまっている。シャツの腕をまくり上げた吊《つり》ズボンの男たち、鳥打帽《ハンテイング・キヤツプ》をかぶった背広姿の男、中央には豊かな鬚《ひげ》をたくわえた恰幅《かつぷく》のよい老紳士が中折帽《ソフト・ハツト》を手にし、事務員らしい女性がえくぼを見せている。こうしたヨーロッパ人にまじって、白い実習衣を着た日本人が固い表情で前方を睨《にら》んでいる。
白衣姿の写真はもう一枚ある。こちらは煉瓦《れんが》造りの建物を背に、大きな木製シャベルを手にしてポーズをとっている。取手の握り方がややぎごちないうえ、隣の青年がシャツ一枚の軽快な作業衣姿なのと対照的に、踝《くるぶし》まで届く白衣を着込み、襟元からはネクタイを覗《のぞ》かせている。
ひとりだけで撮ったものもある。昂然《こうぜん》と胸を張って両手を上着のポケットに差し込み、眼鏡の奥から強い意志をみなぎらせている。この写真だけは表にペンで日本語による書き込みがある。
〈大正八年六月廿日 誕生日ニ際シ英国ウヰスキー工場ニ於テ記念ノ撮影 竹鶴政孝 満二十五歳〉――。
闊達《かつたつ》な太いペン字が一字の乱れもなく並ぶ。注意して眺めると、前の二枚には見られなかった口髭《くちひげ》が青年の鼻下をおおっている。
残りの写真は外国人とともに写したものである。いずれも工場構内であるところをみると、一緒に写っているのは職人たちであるらしい。イングランド人とは明らかに異り、ゲール人の血を享《う》けた農夫型の風貌《ふうぼう》をきわだたせたスコットランドの男たちである。この数葉は一九二〇年と記され、青年は髭をたくわえ、和やかな表情を浮べてカメラにおさまっている。中折帽を手にした一枚もあり、背広姿も板についたようである。
それらの中にただ一枚、日本人の青年が写っていない写真がある。古風な長スカートをまとった三人の娘と、一人の少年が玄関に佇《たたず》んだスナップである。仲睦《なかむつま》じく寄り添う四人は、よく似た目許《めもと》から、スコットランド人のきょうだいであることがわかる……。
列車は山間《やまあい》の無人駅に停った。振動音が止むと深い静寂が訪れ、プラットホームを歩く車掌の靴音だけがガラスの窓越しに響いてくる。わたしは二枚の地図を取り出し、眺める。一枚は現在の、もう一枚は写真の主が滞在した一九一九年当時のものだ。見くらべると、二枚の地図には大きな変化がある。かつて広大なスコットランドの隅々にまで張りめぐらされていた鉄道網が、今日、主要幹線を残すだけとなっているのである。その数少なくなった鉄道を利用し、わたしはハイランドの旅を始めていた。
列車はふたたび動き出した。駅舎裏手の草地では、ゴルフに興じる村の一家が、列車に向って大きく手を振った。
スコットランドのハイランド北東部をスペイという川が流れている。中部グランピアン山脈に源を発し、谷を縫うように流れて北海に注ぎ込むこの流域は、スコッチウイスキー発祥の地として知られている。そうした町の一つ、エルギンに、わたしは一人の老人を訪ねていた。
「マサタカ・タケツル……はて、その男がうちの蒸溜所《デイステイラリー》で働いていたとおっしゃるのですか」
老人はわたしを客間に招き入れ、足を引きずるようにして暖炉の傍に置かれた肘掛《ひじか》け椅子に腰を下ろした。齢はすでに八十を越しているはずである。血色のよい頬、一分の隙《すき》もない身嗜《みだしな》み、なめらかなクイーンズ・イングリッシュ……。老人はロングモーンという蒸溜所の前工場主で、現在は町はずれの丘に建つ邸宅で隠退生活を送っている。
「あなたの友人はいつスコットランドへいらしたのです。……ほう、一九一八年……」
いや、竹鶴政孝は友人ではない。あなたより少し年上で、すでに亡くなっている。スコットランド留学中に遺したノートによれば、あなたの蒸溜所で実習を重ねているのです。わたしの説明に老紳士は目をつむったまま聴き入っていたが、突然、手で制した。
「そうだった。すぐ思い出せなかったわけだ」
老紳士は手にしたパイプに火を点《つ》けるのも忘れ、肘掛け椅子から身を乗り出した。
「その頃、まだ戦争は終っていなかった。わたしはフランスに出征中で、その日本人のことは復員後、親父から聞かされた。おまえのいない間、一人のジャップがうちの蒸溜所に来ていた、と。だから、わたしは直接会っていないわけだ。……ところで、あなたはお見受けしたところまだお若いが、何故その故人に興味をお持ちになるのかな」
瞬間、わたしはとまどった。何故わたしが竹鶴政孝という男の生涯に心魅《こころひ》かれ、スコットランドの片田舎にまでやってきたか。それを、話を聞きに訪ねた相手から訊《き》かれようとは思ってもみなかった。
「……タケツルは日本に初めてウイスキーを伝えました。当時、日本ではウイスキーを飲む者はほとんどいなかった。ところが、いまではサケと並ぶ国民酒《ナシヨナル・ドリンク》となっています」
それだけではなかった。明治以降、日本人の西洋文明受容には二つの対極的なタイプがあったように思う。一方に主体を喪失した西洋かぶれ、もう一方に「和魂洋才」の名の下に技術のみを模倣すれば足りるという軽信。いずれも、その浅薄さ故に日本の土壌に深く根を下ろすことはなかった。竹鶴の場合、そうした陥穽《かんせい》におちいらなかった数少ない一例に思えるのだ。だが、古い石造家屋の暖炉の傍でパイプを手にして坐る老紳士に向って、どのように説明したらわかってもらえよう。
代って、わたしは〈ジャップ〉と呼ばれた若き竹鶴を思い浮べ、付け加える。
「六十年の昔、一人の日本人がどのようにしてウイスキー造りを学んだのか、是非知りたかったのです。日本におけるウイスキー造りの、いわばルーツですから……」
お茶が運ばれた。老紳士はティー・ポットを手にとり、みずからセーヴルのカップに注いだ。はるばる訪ねていただいたのに、お役に立てず残念だ。
老紳士は湯気の立ち昇るティー・カップをわたしにすすめ、こう繰り返した。
スコットランドの西部、キンタイア半島にキャンベルタウンという町がある。かつては鰊漁《にしんりよう》とウイスキー産業で知られた町だ。竹鶴政孝の遺したノートには、この町のヘーゼルバーンという蒸溜所の名が記されている。
「かつてはこの町に、二十二の教会、二十二の蒸溜所、そして二十二の酒場があったそうだ。それが……」
宿の主人はヘーゼルバーンという名に首をひねると、悪戯《いたずら》っぽく片眼をつむってみせた。
「……いまは二つの蒸溜所、八つの教会、そして酒場だけが三十」
めざす〈ヘーゼルバーン〉は宿から歩いて数分のところにあった。四十代とおぼしき主人にわからなかったのも無理はない。煉瓦造りの蒸溜所は五十年も前に閉鎖され、大手ウイスキー会社の倉庫に変っていた。
アーチをくぐると、磨滅した石畳が中庭に続いていた。かつて、馬車が大麦を運び込み、熟成した|原  酒《モルト・ウイスキー》の樽《たる》を積み出した中庭には、人影一つない。どこからかきこえていたタイプライターの音が止《や》むと、扉が開いてブロンドの中年女性が現われた。
「昔のことですから、さあどうでしょう。関係者が生きていればいいんですが……。心当りに電話してみましょう。小さな町ですから、すぐわかると思います。それまで、ドラムをおやりになってらっしゃい」
返事を待たず、わたしの前にグラスが置かれ、琥珀色《こはくいろ》の液体がなみなみと注がれる。ドラムとは、スコットランドでちょっと一杯という意味だ。むろん、ウイスキーのことである。
一時間後、わたしはくろずんだ共同住宅の呼鈴《ベル》を押していた。女事務員から紹介された老人は病床にあって会うことができず、その家族から新たな心当りを教えられたのである。
ドアが細く開かれ、小柄な老婦人の顔が覗いた。もしや、六十年ほど前、ヘーゼルバーン蒸溜所にいた日本人をご存じないだろうか。日本人の名は……。
「マサタカ・タケツル!」
白髪の老婦人の口から、思いもかけず、かん高い声でその名前があがった。老婦人はマサタカの名を繰り返しながら、わたしを抱きかかえるように招き入れた。
「憶《おぼ》えてますとも。あの頃、日本人は珍しかったから、マサタカの名前はいまでもはっきり憶えています。あれは確か……二〇年でした。わたしは当時工場長の秘書をしていましたし、結婚する前の年でしたから、忘れやしません。ええ、一九二〇年ですとも」
老婦人は一葉の写真を取り出した。すでに黄ばんだ手札判の印画紙には、金髪の乙女が埠頭《ふとう》で大型客船を背に、ほほえみかけている。わたしは老婦人の六十年前の姿であることにすぐ気づいた。
「あの頃は、グラスゴーから毎週、八千トンの客船が通っていました。蒸溜所もたくさんあって、それは景気がよかったものです。ああした華やかさも今では消えてしまって……」
客間には戦死した息子の肖像画、額に入った娘や孫の写真が飾られている。結婚後、町を離れた老婦人は、未亡人となってふたたびこの町に戻った。日本人に会うのも、日本人と話をするのも、|あの時《ヽヽヽ》以来……。
「マサタカの印象? そうね、言葉は中国式英語《ピジヨン・イングリツシユ》でしたが達者なもので、なかなかハンサムな青年でしたよ。きれいな奥さんを蒸溜所へ連れてきたこともありました。……そう、当時の工場長《ボス》はイネスといいましたが、操業時間が終ってもボスに何やら熱心に質問していました。日本人って|探 求 心《インクワイアリング・マインド》が強いんだなと感心したのを覚えていますわ」
老婦人は六十年ぶりの日本人を前にして、〈インクワイアリング・マインド〉を繰り返した。
スコットランドの旅も一か月に及ぼうとしていた。マサタカ・タケツルの名を耳にできたのは指折りかぞえるほどであったが、そのことはまた六十年の歳月と、当時の一日本人の置かれた立場を無言のうちに語っているように思われた。その旅も終りに近づいた一日、わたしはふたたびハイランドのスペイ川に沿った丘に遊んだ。
村をはずれ、ウイスキー蒸溜所の乾燥塔《キルン・タワー》が遠ざかると、道は牧草地帯にさしかかった。そこを登り切ると、褐色の丘が折り重なるように広がっている。
枯草色に染めあげられた原に足を踏み入れる。と、小動物の影がころげるように左右に散った。野うさぎの群れであった。
灌木《かんぼく》が低く這《は》うように丘の斜面をおおっていた。小灌木は勁《つよ》く根を張り、枯れたように見えた硬い茎にも白や薄紫の小さな蕾《つぼみ》をつけている。ヘザーと呼ばれるヒースの原である。
風が吹き抜けると、ヒースの原は傾《かし》ぎ、大きく波打った。
春五月。丘を駈ける風はまだ身を切るように冷い。午後の陽は傾き、丘の頂はうっすらと翳《かげ》った。それでも、腰を下ろすとヒースの原からはいまだ昼の温《ぬく》もりが伝わってくる。
わたしはポケットから懐中水筒《ウイスキー・フラスコ》を取り出し、口に運んだ。
モルト・ウイスキー特有の芳醇《ほうじゆん》な| 香 り 《ピート・フレーバー》は、軽い眩暈《めまい》にも似た陶酔をさそった。六十年の昔、竹鶴がはるばるやってきたのも、この黄金色の輝きを伝えんがためであった。ブレンディド・ウイスキーが主流になり、しだいにライトになりつつあるといわれるウイスキーも、原点はこのモルト・ウイスキーにあることは今も昔も変りはない。
前日、村の雑貨屋でもとめ、フラスコに詰めておいた液体は、二口、三口含むうちに、丘にたちこめる空気のように軽く、なめらかになった。ヒースが枯れて地中に堆積《たいせき》したものがピートである。その香りをたっぷり吸い、樽の中で眠った原酒《モルト・ウイスキー》は、ヒースの原にたたずむわたしのからだの隅々にまで静かに滲《し》みこんでいった。
谷をへだてたヒースの丘を、風が走った。風に乗ってどこからともなく羊の鳴き声が届き、つづいてこちらの丘にもふたたび風が吹き抜けていった。
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第一章 リヴァプール行きオルドナ号
南海鉄道|高野《こうや》線に面して、板塀に囲まれた宏大な敷地があった。塀越しに眺めると、白壁に瓦《かわら》を葺いた二階建てが一基の塔を取り囲むように連なっている。大阪・住吉の静かな住宅街にあって、敷地中央の奇妙な塔が人目を惹《ひ》いた。
大正五年(一九一六)三月。その塔を見上げながらひとりの青年が正門の脇に佇んでいた。
――ここか。あれが蒸溜塔だな……。
青年はしばらく躊躇《ちゆうちよ》していたが、やがて意を決したように〈摂津酒精醸造所〉と表札の掛った門をくぐった。
そのほぼ一時間後、青年はひとりの男に伴われ、事務室の一画を区切った社長室に入っていった。男は、製造部門の責任者、常務の岩井喜一郎である。
「社長、後輩ですねん。ちょっと話だけでも聞いてやってもらえしまへんやろか」
学生は社長の阿部喜兵衛に向って深々と頭を下げた。阿部は読みさしの書類から目を上げ、突然の来訪者を一瞥《いちべつ》した。直立不動の学生は、背こそさほどでないが、体格がいい。詰襟からは猪首《いくび》がはみ出し、整った顔立ちのなかでどんぐり眼と大きな鷲鼻《わしばな》が目立った。
「竹鶴政孝いいまして、この春、大阪高等工業の醸造科を卒業します。わたしの後輩に当りまして、わたしが一期生、この青年は十五期生いうわけだす」
「ほう、で、故郷《くに》はどこだす」
阿部は学生に向って直接尋ねた。
「は、広島の竹原であります」
色艶《いろつや》のよい顔色にふさわしく、声は太く、張りがあった。
「忠海《ただのうみ》中学を出て、大阪高工の醸造科に入学いたしました。学校では坪井仙太郎先生はじめ諸先生方の御指導をあおぎ、一所懸命勉強したつもりであります。わたくし、洋酒業界の雄である御当社に憧《あこが》れ、是非働かせていただきたく、こうして不躾《ぶしつ》けにもお願いに上った次第であります」
学生は直立不動の姿勢を崩さず、一気に述べたてた。
「それで、君と岩井君とはいつごろから付き合うてはるのや」
「……それは」
「ほんの三十分ほど前からですねん。わたしのあと、大阪高工からは誰《だあれ》もうちに入ってきとれしまへん。そいで、唯《ただ》ひとりの先輩であるわたしを頼って、卒業試験の済んだ足で訪ねてきたいうとるんですわ」
岩井がすかさず代りに答え、学生は困惑顔で口をつぐんだ。
「それとだすなあ」
と、岩井は続けた。
「この十二月には徴兵検査があるいうことやし、兵役が終ったら故郷に帰らんならん。つまり、それまでの間、八か月だけ働きたい言うとります。どないなもんでっしゃろか」
学生はしばらく逡巡《しゆんじゆん》していたが、岩井の言葉に加えて言った。
「故郷の家では造り酒屋をやっております。十二月の徴兵検査のあと、一年志願で兵隊に行き、戻ったら家を継ぐ約束しておるのであります。学校でも洋酒のほう勉強しておりましたし、ほんまは洋酒造りの道に進みたいと思うておりますが、なにぶん親父も年ですけん……、勝手なお願いで申し訳なく存じますが、洋酒造りのいろはだけでもこの目で見て帰りたい思いまして……。十二月まで働かせてもらうわけにはいかんものでしょうか」
うっすらと曇った窓ガラスの向うに、葉を落した木立ちが褐色の枝を広げていた。ときおり道をへだてた線路の上を、南海鉄道が轟音《ごうおん》を残して通り過ぎていく。その音が遠ざかると、代って構内の蒸溜塔のあたりから低い蒸気音がきこえてきた。
阿部は腕組みをしたまま、学生を見つめた。五十の齢を迎えた阿部は、これまで生糸の輸出を皮切りに、刷子、ニス、薬品、ホテルなどさまざまな事業に取り組んできた。しかし、いずれも失敗し、この摂津酒造を興して、ようやく事業が軌道に乗り始めたところだった。
「竹鶴君いうたな」
阿部は腕を振りほどき、沈黙を破った。
「君は、酒屋の息子はんや。そやのに、なんで清酒でのうて洋酒に興味をもちはるんやろ」
「それは……新しい酒やからです。学校でしてきた醸造の勉強を、洋酒造りで実地に試してみたい思うたからです」
「清酒造りやて同じやないか」
「ですが、清酒はすでに伝統が出来上っております。洋酒のほうは、まだやと聞いてます。日本では始まったばかりやいうて」
阿部はふたたび口をつぐんだ。そして今度は丸い眼鏡の奥から柔和にほほえみながら、尋ねた。
「家が酒屋いうたら、酒のほうはだいぶいける口やな」
「それが、ふだんはやらんのです」
竹鶴は大阪高工の級友たちを思い浮べ、答えた。日本で唯一、醸造科が設けられている大阪高工へは、各地から造り酒屋の息子たちが入学してきた。みな懐は豊かだし、酒も遊びも派手である。なかには芸者と一緒に人力車で登校し、校門で小使を呼び出すと、出欠席の札を「出席」に変えるように命じ、そのままお茶屋へ帰ってしまう豪の者もいた。
「いまは梅田の牛丸町に家を借りて住んでおります。わたくしと北野中学に通う弟のために、母と妹も大阪に来て一緒に住んでおるいうわけです」
「すると、勉強以外の娯《たの》しみは何だす」
「運動のほうは、柔道部に籍を置いてます。それと少々尺八を嗜んでおりますので、妹の琴と合奏の真似事もやれば、母が文楽を好きやさかい、よう観にも行きます……」
阿部は口のはしに微笑をたたえ、竹鶴のややぎごちない大阪弁に耳を傾けていたが、突然、岩井のほうを向いた。
「岩井君、どうやろ、十二月まででもええやないか。働いてもらいまひょいな。そうや、さっそく明日《あした》からにしょうか」
「はあ、明日ですか」
「君はもう試験済んだいうたやないか。十二月までしか働けんのやさかい、一日でも早いほうがよろし。そやろ」
青年は狐《きつね》につままれたような顔で、阿部と岩井の表情を見くらべていた。
洋酒の歴史は明治の文明開化とともに始まった。記録に残る初めての輸入洋酒は、明治三年のジンである。
翌年には、横浜山下町のイギリス商館カルノー商会がウイスキーを輸入している。肩張丸型の壜《びん》に入ったわが国初輸入のウイスキーは〈猫印ウヰスキー〉であったと記録されている。商館出入りの日本人は、この壜を横浜《はま》言葉で「うすた」と呼んだ。
ジン、ウイスキーに続き、ヘネシーなど三種類のブランディ、ラム酒、ペパーミント、キュラソー、シャルトルーズ、マラスキーノの各リキュールが輸入された。いずれも輸入量は微々たるもので、値段も高い。もっぱら在留外国人の飲み物にすぎなかった。
ところが、同時期の明治四年には、早くも国産洋酒が登場している。東京市京橋区竹川町の薬種商、滝口倉吉が製造したリキュールである。もっともこれは、リキュールといっても中性アルコールに砂糖と香料を加えただけの代物であった。
この国産洋酒第一号に続いて、各地に洋酒製造所が乱立した。造られたのは甘味葡萄酒やシェリー酒からジン、ラム酒までさまざまな種類に及んだが、造り方は滝口のリキュールと変りなかった。国産洋酒は洋酒とはいいながら、似て非なる「模造《イミテーシヨン》洋酒」だったのである。当時、安政五年の「米・蘭・露・英・仏との修好通商条約」、いわゆる不平等条約によって輸入アルコールの関税が極端に安かったことも一因であった。
イミテーションとはいえ、国産洋酒は欧風化の波に乗って次第に売上げを伸ばした。
そのころ主な製造所に、東京では先の滝口が始めた甘泉堂洋酒製造所、大正元年、浅草に「神谷バー」を出した神谷伝兵衛の神谷洋酒製造所、大阪では小西儀助が始めた関西第一陣の小西洋酒製造所、小西の甥《おい》、鳥井信治郎が技術を担当して寿屋の商号を掲げた西川洋酒製造所などがあった。
これら洋酒製造所は大部分が薬種問屋の手になるものであり、日清日露両戦争下の軍需景気で潤った。しかし明治三十二年の条約改正によってアルコール輸入税が重くなり、政府の清酒保護政策により税法上の不利を招くにしたがい、次第に採算が合わなくなった。その結果、洋酒製造は薬種問屋から、政府のアルコール製造奨励政策によって擡頭《たいとう》してきた国産アルコール蒸溜業者の手に移った。その一つが大阪府東成郡住吉村(現大阪市住吉区住吉町)の摂津酒精醸造所、つまり摂津酒造であった。
摂津酒造は明治四十年からアルコール製造に着手し、四十四年からは自社で蒸溜したアルコールをもとに、ブランディ、ウイスキー、甘味葡萄酒などを委託製造した。製法はいぜん模造《イミテーシヨン》であったが、アルコール特有の|臭み《フーゼル・オイル》を消すフーゼル・セパレーターの研究が進んでいたため、品質はそれまでの国産にくらべ、格段の差があった。
大正二年にはウイスキーだけで二百五十石(一石=約百八十リットル)を製造、翌三年には軍の注文も受けている。主な得意先は〈赤門葡萄酒〉の小西儀助商店、〈ヘルメス・ウ井スキー〉〈赤玉ポートワイン〉の寿屋などで、それぞれの注文に応じて調合製造し、一石入りの洋樽に詰めて送り出した。
摂津酒造社長の阿部喜兵衛は自社製品に誇りをもっていた。品質は国内他社の製品に負けない。評判はよいし、売れてもいる。しかし、残念ながら輸入ウイスキーの本格ものにはとうてい敵《かな》わない。
――岩井君、正直いうて、本場もんにはやっぱり負けやな。このスコッチ、ちょっと口に含んでみいな。模造はしょせん、模造でしかないのんや。
――当り前ですがな。そもそもが無理な話だすわ。本格ウイスキーいうたかて、この日本で造るには、人材も設備も銭《ぜに》も、なあんもあらしまへん。
――わかってる。しゃあけど、そやからいうて、このままでええのんかどうか、こら別の話やないのんか。
阿部の懸念には根拠がないわけではなかった。
日英同盟が結ばれた明治三十五年を境に、輸入洋酒のなかでウイスキーの占める割合は年々高くなっていた。大正二年になると、千八十八石。清酒に較《くら》べれば微々たるものの、摂津酒造に於ける製造量の四倍強である。その大部分は英国から輸入されたスコッチウイスキーであった。日英親善ムードに乗って、輸入量は今後も増え続けるだろう。いまはまだしも、もし日本人の舌が本当のウイスキーの味を知ったら、模造ウイスキーの将来はどうなるだろうか。
――なんとかしたいもんやな。洋酒の王はウイスキーや。岩井君、金に余裕《ゆとり》さえでけたら、これはどないしてでも技師を本場に派遣して、本格的なウイスキーの製造法を勉強させなあかん。
大正三年、第一次世界大戦が勃発《ぼつぱつ》した。日本経済は大戦景気に沸き、産業界は活況を呈した。アルコール蒸溜業界も例外ではなかった。欧米からの輸入が途絶えたため、アルコールや各種洋酒が、国内のみでなく広く東南アジア諸国に輸出されていったのである。すでに定評を得ていた摂津酒造の製品は生産が追いつかないほどであった。
大正五年、摂津酒造は会社始まって以来の黄金時代を迎えようとしていた。竹鶴が初めて摂津酒造の門をくぐったのは、こうした好況期であった。
竹鶴政孝は大阪高工の卒業を待たず、摂津酒造に入社した。部署は希望どおり、酒精含有飲料と呼ばれていた洋酒の製造部門である。初任給は二十三円。当時の専門学校卒業生にはまずまずの給与だった。
阿部の本格ウイスキーに対する憧憬《あこがれ》と野心は、日を追って高まっていたが、摂津酒造で造る洋酒はいぜんとして模造《イミテーシヨン》の域を出ていなかった。簡単に言えば、中性アルコールに色と香りをつけただけのものであった。果実や穀類を発酵させて醸造酒を造ったり、さらに蒸溜して蒸溜酒を造ることが酒造りとすれば、いかに工夫を凝らしていても、これはまがいものというほかはない。
だが、たとえまがいもので、調合《コンパウンド》の域を出るものではないにしろ、初めて取り組む洋酒造りは興味尽きなかった。
高等工業の醸造科を出たばかりの青年にとっては、毎日が発見の連続である。ロンドンのブッシュ社から刊行されていた『処方書《レシピ》』を手に、竹鶴は工場の試験室に閉じこもった。
調合が済むと、職工と同じ作業衣を着こみ、現場に立った。
「穴《けつ》の青い学校出に、何がわかるちゅんや。これは勘やで。工場《こうば》に入れてもらいました、はいでけましたいうもんやあらへんで」
蒸溜主任の老職工は、何にでも首を突っこみたがる青年に、ことあるごとに悪態をついた。
「わかってます。そやけど、やらしてくれたかて、えやおまへんか」
竹鶴も負けずに強情だった。現場を片時も離れようとせず、仕事が深夜に及べば工場に泊り込んでしまう。アルコールの蒸溜が始まると、蒸溜機を見上げ、まんじりともしないで夜明けを待った。
竹鶴は入社後まもなく、主任に抜擢《ばつてき》された。数人の部署ではあったが、酒精含有飲料製造の責任をまかされたのである。
当時手がけていた有名銘柄の一つに、寿屋の〈赤玉ポートワイン〉があった。フランスから直輸入した生《き》葡萄酒にアルコール、砂糖、香料を添加し、日本人向きの味に仕立てるのである。竹鶴がこの製品を造っていた年、各地の店頭で甘味葡萄酒が爆発する騒ぎが起った。殺菌が不充分のため、生き残っていた酵母がおりからの暑さで発酵してしまったのである。ところが、〈赤玉ポートワイン〉だけは一本も割れなかった。
「今度来やはった技師さんは腕がよろしゅうおますな、いうて、寿屋の鳥井はん喜んではった」
阿部社長は自分のことのように喜びながら竹鶴に伝えた。
給料日が来ると、妹の沢能《さわの》に、夕刻|難波《なんば》の駅に来るよう言い残して家を出た。広島の女学校を出て、母や自分とともに大阪に住む妹を、竹鶴はことのほか可愛がった。待ち合せては芝居を見せ、食事を奢《おご》り、ときには買物に連れていくこともあった。ある月には、高価なお召しを買ってやった。お兄様、これではお給料なくなってしまいます。妹が気を揉《も》む様子を、竹鶴は嬉しげに見やった。
十二月がやってきた。いよいよ徴兵検査である。柔道で鍛えたたくましい体躯《たいく》は誰が見ても甲種合格間違いなしだった。
諸検査が済むと、竹鶴は審査官の前に立った。審査の中尉は検査結果に目を通し、甲種の印を持ち上げた。が、そのまま手を止め、左手で書類を繰った。
「摂津酒造技師、アルコール製造に従事……、そうか、アルコールを造っとるのか。アルコールは火薬造りの大切な原料や、今後もお国のため、精々仕事に励むように」
中尉はそう言い、乙種の印に持ち換えた。当時、ヨーロッパは第一次大戦のさなかにあり、日本も参戦していたが、ドイツ領になっていた青島《チンタオ》や南洋諸島を占領した程度で兵力は消耗していなかった。兵隊も農村から集る青年で充分間に合っていたから、軍需産業の一翼をになう技師を甲種としてとる必要はなかったのである。
竹鶴はさっそく阿部社長にこの結果を報告した。
「兵隊に行かんでええことになりました。郷里には来年の冬に帰る予定です。その間、あと一年働かしてもらえんでしょうか」
すでに竹鶴は洋酒製造部門に欠かせない存在となっていた。阿部が快諾したことはいうまでもない。
年が明けた大正六年、竹鶴は仕事中、突然、阿部社長に呼ばれた。
「早いもんや。君に来てもろうてから、ぼちぼち一年になるんやな」
竹鶴は黙って頷《うなず》いた。阿部社長が仕事中に呼びつけるのは珍しい。しかも、岩井常務も一緒だ。竹鶴は無言のまま社長の言葉を待った。
「なあ竹鶴君……、スコットランドへ行って、勉強してみよいう気はあらへんか」
阿部は竹鶴の顔を見つめながら続けた。
「本場でモルト・ウイスキーの造り方を勉強してくるんや。君も知ってのとおり、わしらが造っとるのはほんまのウイスキーなんかやあらしまへん。そらあ今はまだ、これでも充分売れてはおる。けど、わしはいつまでもイミテーションで通用するとは思うとらんのや」
スコットランド、留学、モルト・ウイスキー……、竹鶴の脳裡《のうり》を思いがけない言葉が駈けめぐった。
むろん、日本でウイスキーと呼んでいる代物がまがいものにすぎないことは、だれよりも製造に携っている竹鶴自身がよくわかっている。本当のウイスキー造りは、大麦|麦芽《モルト》を発酵、蒸溜ののち、樽に眠らせて原酒《モルト・ウイスキー》に育てることだ。しかし、それは学校時代に習った教科書の世界にすぎなかった。叶《かな》わぬものと初めから諦《あきら》めた夢のようなものだった。
その夢を阿部社長は授けてくれようとしている。それも入社後一年にも満たないこの自分に。本場スコットランドに渡ってモルト・ウイスキーの製法を学ぶ――。洋酒造りの道を志した者にとって嬉しくないはずはない。
「竹鶴君、何をためろうとんのや。早よ返事せんかい。先輩として言うとくが、こんな機会は一生に二度とあるもんやおまへんで」
岩井常務は急《せ》きたてるように言った。
「勉強いうたかて学問やおまへん。ウイスキー造りの現場を見てくることだす。学問だけやったら、わざわざ本場へ行くことなんかおまへんさかいな。ウイスキー工場に職工で入る覚悟がのうてはあきまへんで」
二人の表情を代る代る眺めていた阿部社長は、眼鏡をはずして手で弄《もてあそ》びながら、青年のほうを向いた。
「岩井君はちと乱暴な言い方をしよったが、要するに君が勉強して帰ってきたら、うちで本格モルト・ウイスキーを造りたいいうことや。そやよってに、造り方を勉強するのはもちろんやが、帰りがけには向うのデザイナーいうのんに、工場《こうば》や機械の図面をこしらえてもろてほしい。わしらはそこんとこまで考えとる。なにしろ日本では、まだ誰ひとり本格的なウイスキー造りを知らんのやさかい」
竹鶴は心の中でスコットランドという名を反芻《はんすう》していた。モルト・ウイスキーを造るために必要な原材料や工場の立地条件を調査し、製造方法をマスターし、できれば英国のウイスキー業界の実情を探ってきてほしい、大変な役割だが、その代り年数も費用も、いくらかかっても構わない……。驚きしか感じられなかった洋行話が現実味を帯びてくるにしたがい、胸のうちには熱いものがふつふつと湧《わ》き上った。ここまで信頼してくれる阿部社長の心のうちを考えれば、課せられる義務の重圧や苦労などものの数ではないように思えた。
ただし、一つだけ心にかかることがあった。故郷竹原で自分の帰りを待つ両親のことだ。造り酒屋を継がせたいと願う父はもちろんのこと、この春、弟の慶応義塾進学を機に大阪の借家を引き払って妹と郷里に戻る母は、この洋行話をどう思うだろうか。
「こないに急に言うて、すぐ返事せい言うのも酷な話や。君にかてなんやかんや都合があるやろしな。そやけど、気持だけでもざっくばらんに聞かせてくれへんやろか」
阿部社長の言葉に、竹鶴の心は決った。
「はい、喜んで行かせていただきます。わたしでお役目が勤まれば、ご期待にそうようがんばるつもりです。……ただ、郷里の父に許しをもらうまで、もうちょっとの間《ま》、待っていただけまっしゃろか」
退出する竹鶴の背を目で追いながら、阿部は派遣計画をいま一度冷静に考えてみた。スコットランドに遣《や》って、青年をどこの工場で実習させるか、大学でも学ばせたいがどこの大学がいいか、その情報は、伝手《つて》は、言葉の問題は――。残念ながら、なに一つめどが立っていない。しかし、あの竹鶴青年なら、きっと成し遂げてくれるはずだ。好景気が続いて洋行費用を簡単に捻出《ねんしゆつ》できるようになったいまこそ、是非この計画を実現させたい。
二年あるいは三年ののち、竹鶴は本場スコットランドから大きな土産をもって帰ってくれるだろう。そのあかつきには、この摂津酒造で本格ウイスキーを造る。間違いない、竹鶴青年ならきっとやってくれる。そうなれば、ゆくゆくは青年に摂津酒造を任せてもよい……。
別棟のアルコール蒸溜塔からは蒸気音が響いていた。阿部は机の引出しから竹鶴の履歴書を取り出し、繰り返し眺めた。摂津酒造の将来にひそかな夢を描きながら、阿部は心の隅に娘の顔を思い浮べていた。
スコットランド留学の話が進むと、竹鶴政孝は両親の承諾を得るため故郷竹原に向った。
竹原は広島県の三原から海岸線に沿って西へ二十キロほどのところにある。国鉄三呉線の開通する昭和初年まで、交通は瀬戸内航路の船便によるか、山陽本線本郷駅から峠越えのバス路を利用した。竹鶴は昔から馴染《なじ》んできた船路を選んだ。
淡い靄《もや》のなかに島影が見え隠れしていた。海は眠ったように静まり返り、エンジン音にまじって舳先《へさき》を洗う波の音が子守唄のようにきこえていた。空も海も、島影や陸影さえも、薄い浅葱色《あさぎいろ》一色に染め上げられている。まだ肌寒かった大阪からやってくると、瀬戸内の海にはすでに一足飛びに春が訪れているように感じられた。
大阪に出て生活するようになり、物寂しく思ったのは潮の香がないことだった。政孝がまだ少年の頃、竹鶴家では夏になると一家|揃《そろ》って屋形船を繰り出し、近くの的場岬に潮干狩に出かけた。政孝は九人きょうだいの七番目、いちばん上の兄とは十八も歳が離れている。記憶をたぐると、屋形船に坐っていたのは母のチョウ、まだ嫁入り前であった姉たち、三歳下の沢能であったように思う。櫓《ろ》を漕《こ》ぐのは、政孝と三歳上の兄|可文《よしぶみ》と決められていた。
岬の浜に着くと、姉妹たちは潮干狩を始める。政孝と兄はさっそく水と戯れる。息を止め、一気に碧《あお》い水に潜っていくのである。兄の姿、魚影、底の砂……、すべては紗《しや》の幕を通したようにおぼろに揺らいでいる。こらえきれなくなって海面に顔を出すと、眩《まぶ》しい陽光が中天高く輝き、紺碧《こんぺき》の空には綿菓子のような白い雲が浮んでいる。母が屋形船の上からほほえみかけている。二度そして三度。政孝はなおも兄にいどみ、潜る。気がつくと、屋形船の上から母が手で招いている。妹が大声を張り上げているのがきこえている。兄弟は顔を見合せ、水《みず》飛沫《しぶき》を上げる。姉妹たちの採った貝で、母はもう大鍋《おおなべ》に熱い汁を用意していることだろう。澄し汁の香りと屋形船に積んであった重箱を思うと、一気に空腹感が襲ってくる。政孝は一刻も早く船へ辿《たど》り着こうと、抜手を切った……。
船の上からゆるやかにうねる潮の流れを見つめていると、なつかしい思い出が次々に浮ぶ。その兄も姉たちも今は竹原を離れてしまった。両親の許《もと》に留《とど》まっているのは妹ただひとりであり、兄たちも弟も酒造りとはまったく縁のない世界に進んだ。そのことを考えると、スコットランドへウイスキー造りを学びに行く計画を、なんと打ち明けたらよいのか。竹原に近づくにつれ、気は重くなるばかりだった。
帆掛舟や櫓漕ぎ舟の行きかう海を、船は島影を縫うように進んだ。忠海港に立ち寄り、母校忠海中学を右手に見ると、やがて的場の岬に続く竹原の明神港である。
桟橋に降り立つと、昔と変らぬ塩田風景が広がっていた。竹原は南を内海に面し、三方を山で囲まれている。町並みは東の山裾《やますそ》一帯、上市、下市と呼ばれる地区に蝟集《いしゆう》し、成井川をへだてた平坦地は見渡す限り塩田であった。
竹鶴家は成井川河畔の塩田の一画に建っていた。高い石垣の上に築かれた屋敷は、人家の見当らない塩田のなかにあって、きわだって宏壮に映った。下市にある本家と区別して、浜の竹鶴家、通称「浜竹」と呼ばれた分家であった。
――これは浜竹の若旦那、お帰りなさいまし。
顔見知りの挨拶に慌てて頭を下げ、竹鶴は町の人々の視線を逃れるように、塩田の畔道《あぜみち》を家へ急いだ。
浜の竹鶴家は四男五女の子沢山であった。政孝は明治二十七年六月二十日、三男として生れた。浜の竹鶴家は、政孝の祖母の代に分家して養子をもらい、現在の地に居を構えていた。
竹原の町は製塩業でさかえた。初めて入浜式塩田が開かれたのは、慶安三年(一六五〇)である。以来、江戸から明治にかけ、赤穂と並んで瀬戸内を代表する塩の産地として知られてきた。
頼《らい》家。吉井家。竹鶴家。
これが竹原の三大塩田地主であった。頼家からは、江戸中期に頼惟清、そして「三頼」と称されたその子春水、春風、杏坪《きようへい》の三兄弟、さらに春水の子で『日本外史』を著した山陽ら、学者文人を輩出している。
頼の姓も珍しいが、竹鶴という姓も珍しい。
――昔、御先祖様は岸本という姓を名乗っておられんしゃった。ところがある日、庭の竹林に鶴が飛んできて巣を懸けた。松に巣を造るとは聞くが、竹に巣とは前代未聞じゃゆうてな、御先祖様は名字を竹鶴と改められんしゃった。
政孝は幼い頃、父敬次郎からこんな由来を聞かされたことがある。浜の竹鶴家は祖父につづいて父も養子だった。
竹鶴の本家は、成井川をへだてた下市にある。竹鶴家は塩田とともに、享保の昔から酒造りを営んできた。銘柄は「春心」「竹鶴」である。ところが明治十二年、本家の主人夫妻が、生れたばかりの長男を残し、相次いで病没してしまった。そこで後見に選ばれたのが、浜竹に養子に来て間もない父敬次郎だった。
敬次郎は製糸業、酒造業、廻船業、塩田経営などに手を染めたが、後見役として本家の酒造業を引き受けたため、本家で過ごすことが多かった。酒造りが始まる寒の季節となればなおさらである。成井川を挟んで建つものの、本家と分家は一つの家族同然であり、政孝も酒蔵と隣り合せの本家で生れていた。
幼い政孝が酒造りに関して最初に覚えたのは、ひねり餅という言葉だった。
「釜屋《かまや》はん、ひねり餅まだかい」
政孝が寝巻の上に綿入れをひっかけ、裸足《はだし》のまま土間に降りてゆくと、気難しげな蔵人たちも、思わず顔をほころばせた。釜屋とは米を蒸す職人である。
「浜竹の坊っちゃん、今夜は本家にお泊りになられんさるんか。もう遅いし叱られますけん、残しといたげますから、明日お召し上りんさい」
酒造りに使う米が蒸し上ると、釜屋は甑《こしき》から蒸し米を手の中にとってすばやくひねり、餅をこしらえる。このひねり餅は杜氏《とうじ》のもとに運ばれ、米質や蒸し加減を吟味されるが、焼いて食べるとこうばしい香りが幼な心になんともいえず魅力的だった。
父は酒蔵のなかを歩き廻る政孝を見つけると、邪魔をしないようたしなめ、こう言い聞かせた。
「いいか、よく覚えておくんじゃぞ。酒はな、いっぺん死んだ米を、こうしてまた生き返らせて造るもんじゃ」
政孝は父の大きな手に抱えられ、背の数倍もある仕込|桶《おけ》を覗《のぞ》かせてもらう。蓋《ふた》を開けると、むせかえるような甘ずっぱい匂いが立ち昇った。目をこらすと、表面は無数の泡に覆われ、泡はしゃぼん玉のように大きくなっては消える。と思うと、いきなり音を立てて迫《せ》り上ってくることがある。まるで泡の下に不思議な生き物が隠れているかのようである。
「おまえの好きなひねり餅も、食べてしまえばたんなる餅だ。ところが蒸し米は餅にせんで、下人《しもびと》衆が溜桶にこめて麹室《こうじむろ》に運んどるじゃろうが、麹を造っとるんよ……」
幼い少年に父の言葉が理解できるはずはなかった。が、政孝は音を立てて湧き上る泡から目が離せなかった。
突然の帰郷を、両親は訝《いぶか》しがった。政孝が洋行話を切り出すと、案の定、父は表情を険しくした。
「兵隊に行かんで済んだ、そのぶんもう一年勤めて、この冬には帰ってくる言いよったけん……」
「洋行いうて、イギリスのスコットランドとは、はて、ずいぶん遠い所じゃろうに」
母が、ぽつりと呟《つぶや》いた。
気づまりな沈黙が広がった。いまは両親と妹だけになった広い家のなかを見廻すと、賑《にぎ》やかだった子供の頃が思い出されてくる。
あの頃は兄や姉も、弟や妹もいて、きょうだい揃って川向うの竹原小学校に通っていた。校舎は川をへだてた真向いにあったが、橋は五、六町上流にしかなかった。そこで、きょうだいの多かった浜竹の家では、渡し舟を出した。朝は一緒に送ってもらい、帰りは対岸の桜堤で待ち合せ、全員が揃ったところで大声を張り上げる。
――おおい、帰るよう。
その声を合図に、迎えの舟が出た。
あれから十数年、子供たちは次々に巣立って竹原を離れた。長兄は早稲田の商科を出てシンガポールに行き、ゴム栽培を始めた。次兄は六高から九州帝大の工科へ進み、北海道|炭礦《たんこう》汽船に入社して北海道へ渡ってしまった。弟は北野中学から慶応義塾へ進んだ。竹原に残って酒造りという古めかしい家業を継ごうとする者はいなかった。
唯ひとり跡を継いでくれるのは、理科が得意で大阪高等工業の醸造科に進んだ政孝だと両親はひとり決めしている。その息子が家業を継がずに洋行したいと許しを請うていた。留学して学びたいというのは、酒とはいってもウイスキーという洋酒のほうだ。
「わしもそろそろ年じゃけんのう」
父は力なく言った。すでに本家では長男が成長したため後見を降りていたが、父は朝鮮の釜山で新たに酒造業を興していた。その跡を息子に継がせようと考えていたのであった。
「……政孝が帰ってきてくれるのを楽しみにしとったんじゃが」
政孝は、いつのまにか父の鬢《びん》に白いものがめっきり多くなっているのに気づいた。そろそろ六十、隠居してもおかしくない齢である。母は押し黙ったまま、庭にほころび始めた海棠《かいどう》の花を見つめている。
母は次々と事業に意欲を見せた活動的な父とは対照的に、物静かな趣味人であった。竹原の名家の娘にふさわしく、琴から茶道まで稽古事《けいこごと》といわれるものは一通り身につけており、なかでも琴と三味線は玄人はだしの腕だった。また、母の自慢の一つに、四季の花を欠かしたことのないこの庭があった。蜜柑《みかん》、無花果《いちじく》、柿など、果樹も多かった。果実が実ると、母は袋に分けて詰め、通りかかる子供たちに持って帰らせた。花の季節には馳走をととのえ、一族の者を呼ぶことも忘れなかった。
――見事に咲きよったろうが。わたしらだけで見とるのもったいないけん、皆に見てもらわんとな。
二階から見下ろすと、母が丹精こめて育て上げた庭に大輪の牡丹《ぼたん》が競うように咲きほこっていた。花香漂う庭の向うには一面に塩田が広がり、その先には碧青の海と明神の緑の丘陵が続いていた。大人たちは花を賞《め》でつつ酒を汲《く》み交わし、子供たちは馳走を前にして箸《はし》を動かすのに余念がなかった。
夏祭りには、浜竹の庭に床几《しようぎ》が出された。寄り集った一族の者は、うちわ片手に河口から内海に滑っていく供奉《ぐぶ》船を眺めた。満艦飾にかざりたてた船に色とりどりの提灯がともると、子供も大人もうっとり眺めつづけたものだ。
冷い海風が吹き抜けるころになると、明神の尼寺では寒行が始まる。この季節には、浜竹の家では甘酒をこしらえた。
――尼寺さんがおいでんさる、早う暖めておきんされ。
母がこう言って女中を促す声を、政孝は何度となく耳にした。
尼寺から竹原の町並みへは、塩田の畔道を渡ってこなければならない。烈風に吹きさらされる長い道程である。畔道に豆粒のような尼さんの姿が現われると、母は女中を従え、熱い湯気の立つ甘酒の鍋を持ち出した。そして、門前で合掌する尼を小柄なからだで抱えこむようにして玄関に招き入れ、甘酒の碗《わん》を差し出すのだった。
尼がうやうやしく押しいただき、凍えた手で熱い碗を飲み干すと、母は無理矢理もう一杯注がせた。
――なぜ、尼さんに差し上げるんじゃ。
政孝が尋ねると、母は静かな声で答えた。
――この寒いなか、御修行のためじゃとて、一日中歩かれるのはどんなに辛かろう。
幼かった政孝は、川を渡った尼が浜竹の家を振り向いて深く腰を折り、合掌するのを不思議な気持で眺めたものである。長い間、思い出すこともなかったこの記憶が、老いた母を前にして突然よみがえった。
翌日、政孝は中学時代に通い慣れた峠道を辿り、二里ほど離れた隣町の忠海《ただのうみ》に出かけた。竹原の町並みが後に消えると、代って右手に海が姿を見せた。峠を登るにつれ、水平線は弧を描いて広がり、鏡のような海面には航跡が数条、流れていた。枯草を踏みしだき、萌《も》え始めた木立ちを眺めながら、口笛を吹いた。ときおり茂みがざわめき、山鳩があわただしく飛び立っていった。
忠海に着くと、郵便局に急いだ。
〈オウヱン コフ」 タケツル〉
短い電報を打つと、いくらか肩の荷がおりたように思えた。宛先《あてさき》は摂津酒造社長、阿部喜兵衛である。君の洋行は御両親にとって悲しみの種にちがいない、大事な御子息を預るのだから、わたしも同行して御挨拶しよう。阿部社長は竹鶴の帰郷に際し、こう申し出てくれた。政孝は一応謝絶したものの、不首尾の場合には説得に来てもらうよう手筈《てはず》をととのえておいたのである。
竹原は小さな町だ。郵便局をやっているのも顔見知りである。電報を打てば、噂《うわさ》はその日のうちに町中に広まってしまう。政孝がわざわざ忠海に出向いたのもそのためだった。
電報を打ち終えると、ほかに用はなかった。中学時代を過した町をなつかしんで、竹鶴は足の赴くまま歩き廻った。気がつくと、町を見下ろす黒滝山の頂に出ていた。かつて忠海中学時代、好んで散歩に来た場所だった。
正面の内海には瓢箪《ひようたん》形の大久野島《おおくのしま》が浮んでいる。町の西、集落のはずれに建つ白い洋風の建物は、五年間を学んだ忠海中学校の校舎である。竹鶴は初めて忠中の制服を着た時のことを思い返していた。リボンの付いた水兵帽、夏は白地、冬は黒地の水兵服、胸のリボンは学年ごとの色分け……海軍水兵服と同じ制服は全国でも珍しかった。気取った生徒は海軍ナイフを白紐に付け、首から吊《つ》って左ポケットにさりげなく差したものだ。
はじめ政孝は、兄とともに二里の道を徒歩で通った。八時の始業に間に合うためには、五時に起床、五時半には家を出なければならない。朝早く女中を起すのはかわいそうだと、母は前の晩に二食分の弁当を作ってくれた。兄と政孝は、途中の峠に差しかかると鞄《かばん》から弁当を取り出し、海を見ながら朝飯を食べた。
二年になると、政孝は寮に入った。同時に創部まもない柔道部に入部した。
寮生活はすべてにわたって軍隊式だった。ランプの火屋《ほや》掃除、蒲団《ふとん》の上げ下ろし、洗濯、靴磨き、一切が下級生の仕事である。政孝の入学後、制服が詰襟小倉服に変えられたため、政孝ら上級生のみが水兵服の制服を誇った。
花か磯部の桜貝
拾ふ旅人のほほ笑みに
もゆる血潮のをどりては
波に希望のささやきや
何ささやくか塵《ちり》の世を
越えて自然の霊の声
政孝は高らかに愛唱歌をうたいながら黒滝山に登り、夕暮のひとときを紅色に染まる海と島影を眺めて過したものだった。
五年になると、政孝は寮長に推された。下級生のなかに、開校以来の秀才と評判の青年がいた。夜、柔道で鍛えた竹鶴寮長が竹刀を手にして見廻りに歩くと、その池田|勇人《はやと》という秀才は部屋の隅で小さくなった……。
数日後、阿部社長が竹原にやってきた。
「御両親のお気持、お察し申し上げます。家業を継がせたいいわはるのんも、もっともだす。そやけど、政孝君の将来のことも考えてやっていただきとう存じます」
阿部は両親に諄々《じゆんじゆん》と説き始めた。政孝は祈るような気持で阿部の言葉に耳を傾けた。
「ウイスキーいうのは、まだ日本で始まったばかりで、ほんまもんが造れず、模造品でごまかしとるのが実情だす。ちょうどアルコールに香りをつけて清酒でございと売ってるようなもので、ほんまもんいうたら輸入もんだけだす。政孝君が勉強しよういうのは、本場スコットランドのほんまの造り方だす。これを知らんうちは日本のウイスキーも二等ウイスキーでしかあらしまへん。世界の一等国に仲間入りしよういう時代に、まがいもんをウイスキーやいうて造っとったんでは、なんとも恥かしい話やおまへんか」
阿部は話を切り、茶碗を手にとった。そして口まで運んだが、そのまま茶托《ちやたく》に戻して続けた。
「この大役は政孝君を措《お》いて、ありまへん。醸造の学問はある、洋酒造りの実績もある、英語も得意、真面目な努力家や、それに勘が抜群やと皆が誉《ほ》めとります。わたし、先ほど政孝君の将来のためや言いましたが、正直言うと日本の洋酒界のためでもありますのや。……政孝君の洋行を許してやってくださるように、わたしからもこれこの通りお願い申します」
阿部は座蒲団から降り、畳に両手をついて額がつかんばかりに頭を下げた。だれも口を開こうとはしなかった。阿部は父、母、政孝の順に顔を見渡した。
母チョウが、父のほうを向いた。
「あなた、わたしからもお願いします。政孝を異国にやるのは心配じゃし、できたら竹原に戻ってほしいとわたしも思うてます。ですけど社長さんも政孝をえろう買うてくださって、こんなに熱心に頼んでくださっとる。本人もウイスキーいうもんを本場で勉強したい言うてます。家業は親戚《しんせき》のもんでもやっていけますが、政孝の生涯は一つしかありませんがな」
父敬次郎は唇を固く結び、畳の縁に視線を落していた。父は遠縁に当る四国の杉家から養子に来た男である。竹鶴家に入って以来さまざまな事業に手を染めたが、そのいずれも成功したとは言いがたい。事業を道楽にたとえれば、道楽|三昧《ざんまい》に生きながらなお満ち足りぬ極道者といえるかもしれない。その最後の事業の一つが、釜山で始めた酒造業だった。わしもそろそろ年じゃけんのう……、父が珍しく弱音を吐いたことを思うと、政孝の胸は痛んだ。
長い沈黙ののち、父はようやく口を開いた。
「お願いいたします。わたしどもの家業は親戚の者に譲りましょう。社長さん、どうか政孝をよろしゅう頼みます」
深々と頭を下げる父と母の姿に、政孝はいまさらながら胸をつかれた。二人の気持を推しはかると、ただ黙って頭を下げるしかなかった。
緊張の糸がほぐれると、母は朗らかな声で新しい茶を命じた。
「政孝はこう見えて、芯《しん》はしっかりしております。子供の時分は手に負えない腕白でして、一度などはひどい悪戯《いたずら》をやらかし、蔵に閉じこめたこともありましたですよ。夕方になってわたしと娘たちがそっと覗きに行きますと、この子はなんと絹の蒲団を引っ張り出してぐっすり眠っておりました。芯が強いいうか、胆《きも》っ玉《たま》が坐っとるいうのでしょうか」
広い座敷に笑いが起った。政孝は苦笑しながら、無意識のうちに鼻の下に手をやった。この家で階段から転げ、二階の窓から落ち、怪我をしたのは一度や二度ではない。七針も縫った傷跡はこうしていまも消えていない。
母の思い出話は尽きなかった。政孝は母がいつまでも自分を子供扱いしていることに閉口しながら、胸のつかえが一挙に降りていくのを感じた。
英国留学に旅立つことになった大正七年(一九一八)、ヨーロッパは第一次大戦のさなかにあった。前年二月にはドイツが無制限潜水艦攻撃を開始し、四月にはアメリカも参戦した。戦火はヨーロッパの大陸から大西洋海域全体に広がっていた。
「Uボートいうドイツの潜航艇は恐しいもんや。イギリス船、フランス船、アメリカ船、いまや味方以外の船は残らず攻撃しとる。イギリスへ渡るのも命がけやな」
「社長、そんなことおっしゃれば、日本船やて敵国ですけん危いですわ。気にしてたら戦争終るまで出発できんことになります」
「まあ、そうやな。Uボートいえば、ルシタニア号いう三万トンのイギリス船が撃沈されよったの、いつになるやろ」
「わたしが学校卒業する前の年でしたよって、ぼちぼち三年になります」
留学が決ると、竹鶴政孝はしばしば阿部社長の自宅に招かれるようになった。話題はいつも英国留学のあれこれになったが、青年は阿部夫人タキにもすぐ気に入られた。
「まあちゃん、日本とイギリスが同盟国やよって、ほんまによかったなあ。ウイスキーいうのがドイツでできるもんやったら、いまごろ洋行話どころやあらしまへんで」
そうした会話を、部屋の片隅で長女マキが黙って聞いていた。まもなく十八になろうとする細面の娘は、竹鶴の視線を感じると涼しい目許にかすかな恥じらいを浮べた。
「それはそうと、スコットランドに行ってウイスキーを勉強するのんに、なんぞ伝手《つて》があったらええがなあ」
「ようわからんですが、日本で心配しとってもどないにもなるもんではないですけん。話に聞けば、高等学校の卒業証明書さえあったら向うは大学に入学できるいいます。でしたら、なんも困ることあらしまへん」
洋行といえば、いまだ選ばれた者だけが留学、視察、商用などで海を渡った時代であった。渡航者数も明治九年にはわずか七百九人、四十年に四万三千余人、大正六年になっても六万三百余人にすぎなかった。しかも、そのうち明治四十年には二万六千余人、大正六年には二万二千余人が移民であり、渡航先の大部分がアジア近隣諸国であったことを考えれば、欧米渡航者はほんの一握りの人々といってよかった。
当時、英国へ渡るには欧州航路を利用するのが一般的だった。これだと五十日余りでロンドンに着く。もう一つは太平洋航路を利用してアメリカ大陸を横断、英国へ渡る方法があった。
忠海中学の先輩に高井誠吾という男がいた。三歳上の兄と学友でもあった高井は、卒業後カリフォルニアに渡っていちごの栽培を始め、成功を収めていた。スコットランド留学が決ったある日、帰国中の高井が思いがけず摂津酒造を訪ねてきた。
留学の話を聞くと、高井は後輩の肩を叩いた。
――洋酒の勉強に行くなら、カリフォルニアに寄らんか。サクラメントいう町には葡萄酒工場がある。そこの経営者はわしの知り合いじゃけん、見学するなら紹介してあげられるしな。
高井の提案に阿部社長も賛成した。目的はウイスキーやが、葡萄酒工場も見ておいて損はないやないか……。こうして、竹鶴はアメリカ経由英国行きを選んだ。
出発は大正七年六月二十九日と決った。乗船するのは東洋汽船の天洋丸である。天洋丸は香港から上海、長崎、神戸、横浜、ホノルルに寄港してサンフランシスコに向う。神戸からサンフランシスコまでは二十日間、運賃は一等二百七ドル五十セント、二等百三ドル七十五セント、三等は日本円で八十四円。為替相場は一ドルが二円であった。高等学校・専門学校卒業生の初任給が二十三〜二十五円の時代に、二等が二百七円五十銭、一等になると四百十五円もしたことになる。
出発当日、正午を廻って出航時刻が近づくと、神戸港第二波止場、通称メリケン波止場は見送りの人波で埋まった。竹鶴のまわりにも厚い人垣の輪ができていた。阿部社長、岩井常務以下摂津酒造の全社員、竹原の両親と姉妹たち、取引先関係者のなかには寿屋の鳥井信治郎、この秋に日本|製壜《せいびん》を興すことになっている山為硝子の山本為三郎の顔も見える。
――竹鶴君、なんやかんや苦労も多いやろうが、あんじょう頼むで。きっちり勉強してきとくれやっしゃ。
――家の心配はもういらん。皆さん方のご期待にこたえて、立派に勉強してくるようにな。
次々と寄せられる激励の言葉に頭を下げながら、竹鶴は汗を拭《ぬぐ》った。新調のワイシャツが襟首にくいこみ、帽子を持つ手も汗で湿っている。
万歳の声に送られて艀船《ランチ》に乗り込むと、メリケン波止場はしだいに遠ざかっていった。もはや顔が見分けられなくなった人垣の中に、自分をスコットランドまで遣《や》ってくれる阿部社長がいた。身体《からだ》に気いつけいと目頭を押えていた母がいる。取引先の一若手社員にすぎない自分のために、わざわざ足を運んでくれた鳥井や山本の姿があった。別れの言葉を交わす余裕もなかったが、阿部夫人と娘のマキも……。
昼下りの港をときおり夏の陽が照りつけていた。雲間から陽がさすと、海面は無数の照り返しにきらめき、そのなかに一万三千余トンの巨船天洋丸が浮んでいた。船体上部には二本の太い煙突が空を突き、漆黒の船腹からはすでに昇降階段《ハツチ》が降ろされている。
内航船や運搬船が行き来する湾内を、艀船は天洋丸に近づいた。上甲板にはパラソルをかざした西洋婦人や夏服姿の男たちが、手すり越しに艀船を見下ろしていた。白い肌をもつ長身の西洋人を見上げていると、竹鶴は旅行鞄を握る手がいっそう汗ばんでくるのを感じた。
振り返ると、もはやメリケン波止場は遠く、人垣は小さな黒い点にすぎなかった。
神戸出港二十日後の七月十九日、天洋丸はサンフランシスコに入港した。
「よう来んさった。どうや、サンフランシスコいうのは立派な町じゃろが」
先輩の高井は竹鶴を出迎え、さっそく目抜き通りを案内してくれた。
すでに船が金門《ゴールデン・ゲート》海峡を通って湾に入ったときから、竹鶴は町の美しさに驚嘆していた。
町は碧い水をたたえたサンフランシスコ湾から、なだらかな起伏をつくって迫り上っていた。そこに、白い洋館が木々の緑を背景に立ち並んでいた。坂には広い道が帯状に走り、路面電車《ケーブル・カー》が人々を乗せて登っていく。竹鶴は目抜き通りに建つ高い建物を見上げた。かぞえてみると、十二階もある。
二人は一軒の店に入った。日常品を売る店とは信じられない豪華な造りで、天井にはシャンデリアが吊られている。初めての買物はワイシャツだった。店員の口にする金額が聞き取れず、竹鶴は慌てて財布から十ドル札を引っぱり出した。受け取った釣りをかぞえると、九ドル十セントあった。
店を出ると、陽射しが目に痛いほどだ。空には一片の雲もなかった。
「カリフォルニアいうところは、雨が少のうて天気がいいんよ。竹原よりももっとじゃ。わしがいちご栽培で成功できたちゅうのも、この気候のおかげいうわけじゃ。葡萄も同《おんな》じじゃけん、その旨《うま》い葡萄から造るとなれば、葡萄酒もさぞ旨かろうよ」
高井は屋台の前で立ち止り、慣れた口調でアイスクリームを二つ買い求めた。そして、竹鶴に一つを手渡し、歩きながら無造作に嘗《な》めはじめた。
「立ち食いですか」
「郷に入れば郷に従えというじゃろが。ここじゃ、こうして歩きながら嘗めるのが粋《いき》いうもんじゃ」
高井は浅黒く陽焼けした顔に白い歯を見せて笑った。あみだにかぶった鳥打帽が異国の街頭で様《さま》になっている。外国暮しに慣れるとは高井さんのようになることか。竹鶴は目抜き通りをアイスクリーム片手に歩きつつ思った。
数日後、竹鶴は高井の運転するフォード四輪|幌《ほろ》付き自動車に乗せられ、サンフランシスコを離れた。町をはずれると、沿道にはほとんど人家が見当らない。高井はハンドルを握る手を放し、沿道の繁みを指さした。葡萄の樹が地面に這《は》うように連なり、近づく収穫を前にたわわに房を実らせている。
サンフランシスコからおよそ三時間、車はカリフォルニア州の州都サクラメントに着いた。高井が案内してくれたのは、世界有数の銀行、バンク・オブ・アメリカの創始者であるジャンニーニ一族が経営するカリフォルニア・ワイナリーだった。竹鶴は研修生として自由に見学させてもらえるよう、高井に一切の手筈を整えてもらった。
「それと、夜は暇になるけん、英語も勉強しよう思《おも》てます」
昔から竹鶴は英語が得意で、中学の寮にいた頃などは、竹原にいる従兄と英語で文通していたくらいだ。英語力には自信があった。ところが、カリフォルニアに来てみると、聞きとれない、こちらの言うことが通じない。
「それは慣れというもんじゃ。それにな、アメリカの英語とイギリスの英語は少うし違ういいよる」
高井はそう慰めてくれたが、竹鶴は英会話の先生を紹介してくれるよう頼んだ。昼は葡萄酒工場の見学、夜は英会話の訓練という日々が始まった。
カリフォルニア・ワイナリーには、摘み取られた葡萄が各農園から貨物列車で運び込まれる。それを搾ってタイル貼《ば》りの巨大なタンクに放り込み、発酵させるのである。摂津酒造でも混成葡萄酒を造っていたが、フランス産生葡萄酒を輸入して加工するだけであったから、初めて目にする生葡萄酒造りは大変興味深かった。
しかし、その造り方は幼い頃から目にしていた酒造りとくらべ、あまりに大雑把だった。設備は立派だが、職工たちは無造作に流れ作業を行うだけだ。酒は造る者の心が移るもんじゃけん、と父が口癖のように言っていた心は、この大量生産方式の葡萄酒工場には見当らなかった。アメリカ人には酒という繊細な生き物がわかっていない。竹鶴は学校時代、話に聞いたヨーロッパの手造りに近い葡萄酒造りを思い浮べながら考えた。
竹鶴のサクラメント滞在は、一か月ほどで打切られた。英国では秋から新学年が始まるというから、急がなければならない。サクラメントからは鉄道でロッキー山脈を越え、ニューヨークへ向った。
列車には一人の日本人が乗り合せていた。鈴木といいます、とその青年は名乗った。青年は列車の中で一通の電報を受け取った。
「すぐ帰らんなりまへん。米騒動が起っとるちゅうこと聞いて心配しとりましたが……。家がとうとうやられよって洋行どころではあらしまへんのです」
青年は大戦景気で急成長した神戸の鈴木商店の長男だった。米騒動の打ち壊しにあって、家も商売も危いらしい、と沈痛な面持ちで語る鈴木に、竹鶴は慰めの言葉もなかった。
ニューヨークに着くと、ただちに英国へ渡る船の予約と査証の申請を行った。戦時のさなかにあったので、欧州大陸への船は軍需物資と兵士の輸送が最優先と聞かされた。しばらく待たされることになりそうだ。竹鶴はホテルを引き払い、下宿屋に移ることにした。
いくつかの町を見てきたが、高層建築が林立する大都会ニューヨークは、いままでの比ではなかった。竹鶴は世界の金融市場を支配するというウォール街を見学してみた。五番街を歩き、はなやかな商店の硝子窓《シヨー・ウインドウ》に目を瞠《みは》った。ライオン像に護《まも》られた立派な図書館に立ち寄ったり、メトロポリタン博物館を覗いてみることもあった。ある日などは、マンハッタン島を北から南まで歩いて往復したこともあった。英国の都会もこんなだろうか……。竹鶴は町を歩きながら夢をふくらませた。
しかし一か月経っても通知はなかった。いたずらに滞在が永びくにつれ、竹鶴は焦った。費用はいくらでも使えと阿部社長は言ってはくれたが、それはウイスキーを学ぶためにであって、この町で無為に時を過すためにではあるまい。しだいに英語にも慣れ、言葉には不自由しなくなったものの、そのことを考えると阿部社長への心苦しさがつのった。
査証はいつになったら下りるのか。移民局に問い合せてみたが埒《らち》はあかなかった。交付が遅れているのは大戦のためだった。戦時下の事情とあってはただ待つしかない。唯一、希望をいだかせたのは、欧州戦線で連合国側が圧倒的な優位に立っているという新聞記事だった。
五番街を歩くと、中央公園《セントラル・パーク》の柵《さく》越しに木々がいろづき、枯葉が寒々とした木の椅子《ベンチ》に舞い降りるようになった。秋も深まった十一月、ドイツ降伏のニュースが新聞の大見出しを飾った。時を同じくして、移民局から呼び出しがあった。待ちかねた査証が交付されるという知らせである。
十二月を迎えていた。ニューヨークからリヴァプールに向う英国船オルドナ号は大西洋をほぼ横断し、イギリス諸島を間近にしていた。やがてグレイト・ブリテン島とアイルランド島をへだてるセントジョージ海峡にさしかかる。あと一日の航海である。
上甲板に立つと、夕闇《ゆうやみ》につつまれた海原は群青色から灰青色に変っていた。吹きすさぶ烈風にあおられ、凍《い》てつくような海面には白い波頭が湧《わ》き立った。船尾から眺めると航跡がゆるやかな曲線を描いている。魚雷の攻撃を避けるため、戦争が始まって以来とられてきた航法であると聞く。
オルドナ号は一万五千総トンの豪華客船であった。はじめ南米航路の花形として就航したが、大戦開始とともに徴用され、ニューヨーク・リヴァプール間を走る貨客船に変えられた。就航当初は美しさを誇った漆黒の船体も、今は灰色に塗り変えられている。ドイツの降伏を迎えた現在も、米国兵を乗せ、避難訓練を繰り返していた。そんな有様を目のあたりにしていると、竹鶴はいまさらながら熾烈《しれつ》な欧州戦線の一端を垣間見る思いがした。
夜は更けたが、いつまでも寝つけなかった。
いよいよ明日は英国である。サンフランシスコに渡ったときは先輩の高井が出迎え、葡萄酒工場の研修も一切手配してくれた。もともと事のついでの見学のつもりだったから、気も楽だった。
しかし、今度は違う。英国には頼る人も、訪ねる当てもない。すべて自分で道を拓《ひら》いていかなければならないのだ。頼りといえば、携えてきた英文の卒業証明書だけである。とりあえずはスコットランド最大の大学というエディンバラ大学に当ってみるつもりだ。はたして、簡単に入学が許されるのか。醸造科ではどの程度ウイスキー造りを教えてもらえるのか。工場で実習をするときには、どのような手続きをとればよいのか。
英国に着けばなんとかなる。いままでそう自分を励ましてきたものの、上陸を前にして不安は堰《せき》を切ったように押し寄せてきた。船室の丸窓を覗《のぞ》くと、闇に閉ざされた海には白い飛沫が霙《みぞれ》のように飛び散っている。
眠られぬままに、竹鶴は便箋《びんせん》を取り出し、机に向った。査証待ちの落ち着かない日々が続いて、しばらく郷里に便りを出していなかった。無事に英国に着くことを知らせ、安心させてやらなくてはなるまい。波静かな瀬戸内の碧《あお》い海を思い浮べ、竹鶴はペンを走らせた。
突然、強い衝撃が船室を襲った。
気がつくと、船室の扉のところまで投げ飛ばされていた。かすり傷一つ負っていないところを見ると、無意識のうちに柔道の受け身で身を護っていたらしい。
敵の潜水艦にやられた。竹鶴は咄嗟《とつさ》にそう思い込むと、ともかくも救命具を手にして階段を駈け昇った。
甲板に出ると、船員たちが走り廻り、探照灯があかあかと灯《とも》されていた。乗客はまだ誰も姿を見せていない。探照灯の灯が暗い夜空から波浪渦まく海上に流れた。オルドナ号のすぐ傍に一隻の船が船首を上にして沈み始めていた。衝撃は船同士の衝突によるものであったらしい。沈みかけた船はまたたくまに闇に閉ざされた波間に没していった。
オルドナ号は救助に来た駆逐艦に護られ、予定よりも一日遅れて翌々日、リヴァプール港に入港した。ジグザグ航進を続けているうち、同じ英国籍の貨物船コナクリ号の横腹に衝突したのである。オルドナ号は無事だったが、コナクリ号の乗務員は一名を除いて全員が死亡した。衝突地点はアイルランド島南部のガレイ・ヘッド沖と聞かされた。
竹鶴は冷い靄《もや》のかかったマーシイ河畔リヴァプール港に、英国留学の第一歩をしるした。日本を発って六か月目に入ろうとしていた。
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第二章 |生命の水《アクア・ヴイテ》、そしてリタ
エディンバラのスコットランド国立美術館はヨーロッパ各国及び英国絵画のコレクションで知られている。ここはまた、外国人にとって目にする機会の少ないスコットランド絵画の宝庫でもある。
そのなかに、十九世紀の中期、デイヴィド・ウィルキー卿《きよう》によって描かれ、『アイリッシュ・ウイスキー・スティル』と題された百号ほどの油彩画がある。光の明暗を駆使した端正な画面は数あるスコットランド絵画のなかでも、ひときわ光彩を放っている。
画面中央には、竈《かまど》に据えられた銅製の釜《かま》、すなわち単式蒸溜器《ポツト・ステイル》と木製|桶《おけ》が描かれている。ともに高さは大人の肩ほどである。ポット・スティルの頂部から煙突状に伸びる蛇管の先は木製桶に浸り、桶下部の蛇口からは透明な液体が滴っている。樋《とい》が引かれ、水が桶に流れこんでいるところから、木製桶は冷却器であり、透明な液体は蒸溜を終えた酒であることがわかる。
場所は谷間の洞窟《どうくつ》のようである。入口近くには初老の男が立ち、コップを目の高さまで持ち上げて光にかざし、ためつすがめつ出来映えを吟味している。その様子を左端に坐り込んだ息子夫婦や竈に火をくべている幼な児が、固唾《かたず》を呑《の》んで見守っている。もう一人の幼な児は瓶《かめ》から透明な液体を小さな樽《たる》に注いでいる。
表題から窺《うかが》えるように、絵はウイスキー造りを描いている。弊衣をまとった人物、むき出しの泥の床、床に転がった魚の燻製《くんせい》や玉葱《たまねぎ》……、貧陋《ひんろう》をきわめた光景に彩りを添えるのは、一家の柔和で充ち足りた表情と竈から立ち昇る紫の煙である。
注意して眺めると、片隅にはもう一つ瓶が置かれ、天井からは樽が吊《つる》されている。床の上に無造作に置かれた銃と毛皮は、一家が狩猟のかたわらウイスキー造りを行っていたことを物語っている。
これはさほど昔の光景ではない。ウイスキー蒸溜に必要な道具は簡単なポット・スティルと蛇管だけだ。原料の大麦、燃料の草炭《ピート》、そして水、これらはケルトの国々では無尽蔵にあった。アイルランドやスコットランドではつい前世紀の初めまで、こうした家内生産によってウイスキーが蒸溜されていたのである。
スコットランドはブリテン島の北部にある。緯度からいえば、南部のエディンバラやグラスゴーさえ北緯五十六度、すなわち樺太(サハリン)よりさらに北になるが、メキシコ湾から北上する暖流の影響で寒さは緯度の割には厳しくない。ただし、葡萄栽培の北限を越え、農作物も大麦、馬鈴薯《ばれいしよ》などに限られる。十八世紀、サミュエル・ジョンソンによって編まれた『英語辞典』では、燕麦《オーツ》を〈穀物の一種、イングランドではふつう馬に与えられるが、スコットランドでは人間を養う〉と皮肉を混えたユーモアで定義している。イングランド人の眼にはそれほど辺鄙《へんぴ》な貧乏国に映ったのである。
酒は人類の歴史とともにあった。古くメソポタミア文明の時代から、蜂蜜酒《ミード》、ビール、葡萄酒の造られていたことが知られている。四千年以上も昔のことである。
これらはすべて醸造酒、すなわち果物や穀類をアルコール発酵させた酒である。果実を例にとると、搾って甘い汁をとり、酵母の働きによって糖分をアルコールに変える。ただし、穀類の場合は澱粉《でんぷん》をいったん糖分に変えてからでないと、酵母の発酵作用は始まらない。この糖化に際し、西洋のビールには大麦|麦芽《モルト》、東洋の清酒には麹菌《こうじきん》の糖化酵素が用いられる。いずれも酵母の働きによるだけに、醸造酒のアルコール度はそれほど高くはない。
これに対し、いったんアルコール発酵させた液体を蒸溜したものが蒸溜酒である。蒸溜とは一言でいえば、加熱し、沸点の違いを利用してアルコールを抜き出すことである。当然アルコール度は高くなり、加えてまったく別の香り、風味を持つようになる。その代表がブランディであり、ウイスキーであり、ラムやジン、ウォトカである。
蒸溜酒の登場は蒸溜技術の開発を待たねばならない。ヨーロッパでは、中世の錬金術が蒸溜酒の道を拓いた。葡萄酒を二度、三度と蒸溜した酒は、神が新たに人類に示された「|生命の水《アクア・ヴイテ》」と呼ばれたのである。
十五世紀末、スコットランド大蔵省文書《エクスチエツカー・ロールズ》には〈王命により托鉢修道士《フライアー》ジョン・コーにアクア・ヴィテ製造のため麦芽《モルト》八ボルを与える〉という記述が現われている。アクア・ヴィテこそ、葡萄に代って大麦が茂る|北の国《スコツトランド》の蒸溜酒ウイスキーであることはいうまでもない。
ラテン語のアクア・ヴィテ(AQUA VITAE)は、ゲール語ではウシュク・ベーハー(UISGE BEATHA)である。フランス語になったオー・ド・ヴィ(EAU DE VIE)が葡萄酒からできるブランディを指すように、ウシュク・ベーハーはアイルランド、スコットランドでビールを蒸溜した酒に付けられるようになった。ウシュク・ベーハー、今日でいうウイスキーの誕生である。
ウイスキーが造られたのは、主にハイランドと呼ばれるスコットランド北部の山間部とアイルランドにかけての島嶼《とうしよ》部であった。ここはブリテン島でももっとも未開発の地域で、気候はきびしく生活は貧しかった。住民たちは畑で採れる大麦から、家ごとに蒸溜酒《ウシユク・ベーハー》を造った。この酒は冬の寒さをしのぐとともに、貴重な現金収入ともなったのである。
ラテン文化とキリスト教を中心に形成されたヨーロッパ社会では、飲み物といえば葡萄酒を指した。葡萄の採れないスコットランドでも同じことで、上流階級の者は大陸から海を越えて運ばれる葡萄酒を飲んだ。庶民は代用品として南部ローランドの蒸溜所で造られた安価な蒸溜酒《ウシユク・ベーハー》を、ハイランドの住民は自家製の蒸溜酒を愛飲していた。この時代、ウイスキーは文字どおりスコットランドの地酒にすぎなかった。
このままではウイスキーは永久に地酒で終ったかもしれない。だが、十八世紀に入ると、ウイスキーのあり方に変革を迫るものが現われた。税金である。
スコットランドでは十七世紀中期、すでにウイスキー税が施行されたこともあるが、本格的な酒税は十八世紀に入り、一七〇七年、イングランドによって合併されてからである。
一七一三年、それまでイングランドで施行されていた麦芽《モルト》税がスコットランドにも実施され、十八世紀末には蒸溜器に対して税金が課せられた。そのため大手製造業者は税金をできるだけ逃れようと、麦芽だけでなく生麦を使ったり、蒸溜器を改良したりして増産体制を図った。いっぽう農民や中小業者、ことに先祖代々ウイスキーを造りつづけてきたハイランドの住民は、密造の道を選んだ。取締りに当る収税官《ゴージヤー》がイングランド人であったことも、誇り高きスコットランド人の反英感情を刺激した。
十九世紀に入って一八一四年、ハイランド地方で五百ガロン以下の蒸溜器を使用することが禁止された。農民や中小業者を締め出し、税収入を管理しやすい大手業者の育成が狙いだった。
だが、事態は逆に密造を助長することになる。ハイランドの人里離れた谷間や島々では、何千という密造所が生れた。ある者は羊飼小屋に、ある者は山に穴を掘ってまわりを樹木で擬装し、密造酒を造った。なかには大胆にも教会の地下室を利用する者さえ出た。
密造者《スマグラー》は馬《ポニー》に樽を積み、夜間に谷を渡り山を越え、町に運んだ。そして白昼、収税官の目の前を、空になった樽を叩きながら堂々と歩み、町の者は拍手|喝采《かつさい》でこの行列を見送ったといわれる。ウイスキーは樽に入れて貯蔵、熟成を待つが、これも収税官の目をごまかすためにシェリー酒の空樽に詰めた密造時代の産物である。
皮肉なことに、品質のほうは密造ウイスキーが正規業者の製品を凌駕《りようが》した。
ウイスキー造りは大自然の神秘にもたとえられる。二キロも離れていない二つの蒸溜所で、同じ大麦、ピート、水を使いながら、まったく別の味のウイスキーができてしまうこともあるほどだ。ハイランドの風土で伝統的な蒸溜技術を駆使した密造者が、大量生産をめざす大手業者にまさったのは当然といってよい。今日でも、有名なモルト・ウイスキーの蒸溜所はハイランドの谷間や島嶼部にある。
それゆえに、庶民はもちろん領主や地主、議員や役人、そして牧師ですら密造ウイスキーを飲んだ。すでに十八世紀末に首都エディンバラでさえ、免許を受けた蒸溜器八に対し、不法蒸溜器は四百に達していた。一八二三年には公式記録だけで一万四千件の密造が告発されている。
この時代のウイスキーは、すべて単式蒸溜器《ポツト・ステイル》を使ったモルト・ウイスキーであった。ところが一八三一年、イオニアス・コフィという酒税局監査主任が画期的な蒸溜機を開発した。
従来のポット・スティルの場合は蒸溜器をいったん空にしてからでないと次の蒸溜に取りかかれない。しかも、蒸溜を二度行う。ところが新しい連続式蒸溜機は流れ作業が可能で、大量生産ができる。さらにポット・スティルと違ってどこの土地でも同じ条件で造れるうえ、トウモロコシなど雑穀類を原料とするので安くあがる。この連続式蒸溜機はパテント・スティルあるいはコフィ(カフェ)・スティルと呼ばれ、造られるウイスキーをグレイン・ウイスキーと呼んだ。
連続式蒸溜機《パテント・ステイル》で造られるグレイン・ウイスキーは単式蒸溜器《ポツト・ステイル》によるモルト・ウイスキーにくらべると、中性アルコールに近い。ウイスキーをウイスキーたらしめている風味や芳香を大幅に失ってしまうわけである。
それゆえ、グレイン・ウイスキー自体は魅力に乏しい。だが、モルト・ウイスキーにグレイン・ウイスキーをブレンドすると、第一に単価が安く、第二に高品質であると同時に個性の強すぎるモルト・ウイスキーの癖が和らぎ、飲みやすくなる。一八五三年、エディンバラのアンドリュウ・アッシャーは、このブレンドを試み、発売した。今日のブレンディド・ウイスキーの誕生である。
ウィンストン・チャーチルは『わが半生記』のなかで、ウイスキーの香りがなかなかなじめなかったことを告白し、〈このウイスキーというやつは、これまで英国上流社会ではほとんど飲まれなかった。私の父などは、沼沢地とかきわめて湿寒の地で猟をやる以外、けっしてウイスキーを飲まなかった〉と述べている。だが、ブレンディド・ウイスキーの出現により、こうした風潮も変りつつあった。ウイスキーは一八六〇年以降、ロンドン市場でしだいに人気を博するようになり、スコットランド人のみならずイングランド人の間にもウイスキーを飲む世代が誕生したのである。
ウイスキーが英国人の酒として定着するのは一八八〇年代といってよいだろう。七〇年代後半、フランスの葡萄園にフィロキセラ病虫害が蔓延《まんえん》し、葡萄酒、ブランディの輸入が難しくなったためだ。ウイスキーは全英に広まるとともに、アメリカ合衆国及び英自治領にももたらされた。そして、またたく間に世界に広まっていったのである。
竹鶴政孝が赴いた当時、ウイスキーはロンドン市場を制覇してまだ半世紀にすぎない。酒の歴史のなかでは比較的新しい酒であった。
十二月のグラスゴーは重苦しい鉛色に塗りこめられていた。
竹鶴政孝が|北 英 鉄 道 駅《ノース・ブリテイシユ・レイルウエイ・ステイシヨン》、別名クイーン・ストリート駅に降り立つと、夕闇は早くも街をつつんでいた。
道をへだてて広場があった。広場には葉を落した木々の間に彫像が黒々とした姿を見せている。中央、ひときわ高い円柱の上には肩掛をかけた彫像が聳《そび》え立っていた。広場もその周囲をかこむ重厚な石造建物群も、灰色の粒子におおい尽くされ、街灯のおぼろな灯が暈《かさ》をかむっていた。
宿に着くと、竹鶴は買い求めた地図を取り出した。駅前を走る道がジョージ街、広場はジョージ広場、広場を囲む建物には市役所、中央郵便局、蘇格蘭《スコツトランド》銀行、商工会議所の名があった。広場の中央にあった円柱上の彫像はウィリアム・スコット卿と、この国の国民的詩人の名が読める。
数日後、竹鶴はジョージ広場から一ブロックほど離れた王立工科大学を訪れた。
来英以来、捜し求めたのはウイスキー研究にふさわしい大学だった。はじめ、竹鶴はスコットランドの首都エディンバラに向った。そこには三百年の伝統を誇るエディンバラ大学があったが、医学と神学を中心に発展した名門校には理学部に適切な学科がない。リヴァプールからエディンバラ、ついでグラスゴーへ、竹鶴は町を見物する余裕もなく旅を急いだ。
エディンバラを政治と文化の中心地とすれば、グラスゴーは商工業の中枢をなすスコットランド一の大都会である。ここには同じく三百数十年の歴史をもつグラスゴー大学があった。王立工科大学は十九世紀の産業革命期に入って創設された実学中心の単科大学で、同じ化学科でもグラスゴー大学の純粋化学に対し、王立工科大学は応用化学を誇っていた。
竹鶴は携えた英文卒業証明書を示し、入学申込みの手続きをとった。志望は応用化学科である。学期はすでに始まっていたが、外国人聴講生という資格で、すぐに入学の許可はおりた。
翌日、竹鶴はさっそく講義に出た。
教えられた講義室に入ると、そこは階段教室になっていた。講義にあたるのは応用化学科の主任教授ウィリアムと知らされた。
ウィリアム教授は教壇に立つと、いちばん隅に離れて坐った東洋人学生の顔をまじまじと見つめた。
「新顔ですな。ミスター……タケツルでしたか、君はスペイン人かね」
「いえ、日本人です」
竹鶴が「ジャパニーズ」と語調を強めると、見守っていた学生たちの間から、嘆声が洩《も》れた。
「日本では、これまでどんな勉強を?」
「中等学校を卒業後、高等工業学校で醸造学を三年間学びました」
「ほう、そのうえスコットランドでさらに勉強を……」
「はい。ウイスキーの勉強をするつもりです。スコットランドでウイスキーの造り方を学び、日本でウイスキー造りを始めたいと考えています。そのために私の所属する会社から派遣されてきました」
講義が終ると、竹鶴はウィリアム教授に呼ばれた。
「これまで日本で充分勉強してきたようだから、君には私の講義が物足りないかもしれんな」
いえ、そんなことは、と言いかけた竹鶴を制し、教授は続けた。
「だいいち、ここでは応用化学といっても、とくにウイスキー製法に関する講義はない。はるばる学びに来たのに残念だが、自分で勉強するしかないだろう。その代り、できる限り相談に乗ります」
教授は一枚の紙に書名を書いてくれた。〈J・A・ネトルトン著『|ウイスキー並び酒精製造法《ザ・マニユフアクチユア・オブ・ウイスキー・アンド・プレインスピリツト》』〉とあった。
「ウイスキー研究には欠かせない本だ。まだだったら、是非取り組んでみるといい。だいじょうぶ、君の英語力なら充分読みこなせるはずだ」
グラスゴーの近郊にはウイスキー蒸溜工場も多い。そのうち、折を見て紹介してくれる人を捜してみよう。教授はそうも言ってくれた。
英国に着いて以来、言葉の不安は消えていた。リヴァプールに上陸し、まず驚いたのは、英国人の発音が自分でも信じられないほどよく聴きとれることだ。話すほうも、おのずと自信が湧いてくる。教授とこうして不自由なく話し合えるとは、アメリカ人の英語に苦しんだことを思うと夢のようである。
教授や学生たちが去ったあとも、竹鶴は紙片に書かれた書名を見つめ、ひとり階段教室に坐りつづけた。
竹鶴の留学生活はウィリアム教授に教示された書物を求めることから始まった。移ったばかりの下宿に戻って包み紙を開くと、薄茶色の表紙に『THE MANUFACTURE OF WHISKY AND PLAIN SPIRIT BY J.A. NETTLETON』の文字が金色に刻まれている。大判の書物には数式や図表をまじえ、六百頁にわたって製造法が記されていた。
教授の言葉通り、工科大学の講義はさして参考にならなかった。英語の勉強と思って出席したものの、内容はすでに大阪高工時代に学んだ域を出なかった。
竹鶴はネトルトンに取り組んだ。使われている英語はそれほど難しくはない。しかし、製造法は製造過程の積み重ねの上に成っている。たった一行の説明、わずか一つの図表を把握するにも、数時間、半日がまたたく間に過ぎる。そのあげくにわからないままで終ることもある。
それでも一頁、また一頁と読み進むにつれて、竹鶴は日本でウイスキーと称してアルコールを調合していた一年前の仕事が、いかに本来の酒造りから遠かったかをあらためて実感した。
本当の酒造りとは、ウイスキーの場合でいえば、大麦を刈り取って麦芽を造り、糖化させたのち発酵させ、蒸溜して貯蔵するものだ。昔、父がよく言っていたように、一度死んだものを生き返らせるのである。
そこまで考えると、竹鶴は実験も実習もなしにウイスキーの製造法を学ぼうとする無謀さに気づいた。
――わからぬ。何故か。
――毎日が苦しい。しかし頑張らねばならぬ、耐えねばならぬ。
ネトルトンの書物に、読み進む日付とともにこんな走り書きが記されるようになった。
図書館にも通った。利用したのはグラスゴー大学の図書館である。広い書庫には古今の書物がさまざまな背文字を見せて高い棚を埋めつくしていた。「醸造」や「蒸溜」の文字が目に入ると、竹鶴はただちに手に取り、頁を繰ってみないではいられなかった。
陰鬱《いんうつ》な曇り空が広がるグラスゴーの冬を、竹鶴は下宿とジョージ街の王立工科大学やグラスゴー大学図書館を往復して過した。
スコットランドの朝食はポリッジと呼ばれるオートミール、それに|鰊の燻製《キツパーズ》かベーコンが普通だ。竹鶴はキッパーズを注文した。鰊《にしん》は少々塩味が強く、脂が多い。瀬戸内海の生干しというわけにはいかないが、好物の魚をこんなにも手軽に食べられるとは思っていなかっただけに、毎朝が楽しみだった。
日英同盟が結ばれていた当時、英国に在留する日本人は少なくなかった。ロンドンには商社員を中心に在留邦人二千人とも言われていた。ただしスコットランドには領事館もなく、日本人の姿を見ることもなかった。竹鶴には日本語で話す機会も日本食を食べる機会もなかったが、ネトルトンと格闘する日々にあって郷愁をおぼえる余裕はなかった。
三月も末に近づくと、ときおり青空が顔を覗《のぞ》かせるようになった。肌寒い日々は続いていたが、ジョージ広場を横切るときなど、スコット卿の彫像をいただく記念碑が長い影を落していることに気づいた。木々が芽を吹くのもそう長い先ではないように思えた。
ネトルトンは一通り読み了《お》え、二度目に入っていた。しかし二度目になっても、不明の箇所はいぜんとして不明のままであった。
理由はわかっていた。一度も実地の体験をもたずに、書物の上だけでウイスキー製造法を学びとることが、しょせん無理な話なのである。むろん竹鶴とて手をこまねいていたわけではない。ウィリアム教授はもちろん、知り合った新聞記者、応用化学科の学生などにも依頼し、実習の機会を待っていた。しかし、快い返事はどこからもなかった。
尽くすだけは尽くしている。待つのだ。
竹鶴はみずからに言い聞かせる。
四月に入った。スコットランドに来てから足掛け五か月をかぞえる。陽射しはしだいに春めいてきたが、竹鶴の心は重くなるばかりだった。
下宿した当座、珍しさも手伝っておいしいと思ったポリッジと|鰊の燻製《キツパーズ》の朝食も、しだいに鼻につくようになった。幼い頃から病気知らずで健啖《けんたん》を誇ってきた竹鶴青年が、生れてはじめて朝食をもてあました。
「ミスター・タケツル、どうかなさったのですか。あなたのような若い方がそんな食べ方ではいけません」
下宿の女主人は心配してさかんに勧めてくれたが、ポリッジは喉《のど》につかえ、鰊は脂の臭いが気になってしまう。
「どうやら風邪をひいたようです。さっぱり食欲がなくて……、残してしまって失敬します」
竹鶴はナプキンを置き、そそくさと立ち上って部屋へ帰るのであった。
いつの頃からか、夢を見るようになった。
竹鶴は天洋丸に乗って、ロンドンから一路神戸に帰っていく。メリケン波止場ではなぜか、母が一人だけ出迎えに来ている。
――政孝、ウイスキーの勉強は全部終ったんか。
竹鶴は旅行|鞄《かばん》を足元に降ろしたまま、答えられずにいる。と、母は悲し気に眉をひそめて諭すように言う。
――いけんよ。そんなことではいけん。政孝はウイスキーの勉強のためじゃいうて洋行したんではなかったのですか。いますぐイギリスに戻りんされ。
神戸からロンドンまでは、五十数日もかかるのである。それにしても、なぜ母だけが迎えに来ているのか。父や阿部社長はどうしたのだろう。だいいち、帰るといっても船はない。どうしたらよいのか……。
夢はそこで終る。奇妙なことに、見る夢はいつも同じだった。
このままではいけない、と竹鶴は考えた。実習の機会がめぐってくるのを他人任せで待っていても、いつになるやら知れない。この国の蒸溜所は日本の酒造所と同じく夏は閉めてしまうという。急がなければならない。
自力で勉強するしかないでしょう、と助言してくれたのはウィリアム教授であった。
――ならば、蒸溜所の実習先も自力で捜してみないけん。
竹鶴は下宿の部屋で声を出してひとりごちた。
手がかりといえば、『ウイスキー並び酒精製造法』の著者ネトルトンが、ハイランドのエルギンという町に住んでいることである。竹鶴はスコットランドの地図を取り出し、ネトルトンの本に収められているウイスキー蒸溜所所在図と見くらべた。
エルギンはグラスゴーから北方におよそ三百キロ、グランピアン山脈を越えた北海沿岸の町だ。所在図を見ると、エルギンから内陸にかけて数多くの工場が蝟集《いしゆう》している。
――そうだ。自力で捜さなならん。
竹鶴は地図を眺めながら、ふたたび呟《つぶや》いた。
その日、グラスゴーを出発したのは正午だった。グラスゴー北東部の古都パースに着いたのが午後二時半。ここでカレドニア鉄道からノース・ハイランド鉄道に乗り換える。いよいよハイランドである。
ハイランド中央部にはグランピアン山脈が背骨のように横たわっている。汽車はこの山岳地帯を北上する。車窓にはそれまでの森と平野に代って左右に山を見るようになった。
四月中旬、大阪にいれば住吉公園の桜も散る季節である。汽車は峡谷《グレン》を川に沿って走っている。地図を見ると、ハイランドは峡谷によって分断され、川と湖が複雑に入り組んでいるのがわかる。峡谷にも山肌にも緑は見えず、曇り空の下で白濁した谷川の流れが寒々と映った。
一等車には、乗客は竹鶴ひとりきりであった。ダルナスパイダルという小駅を過ぎるころ、車掌は、このあたりが英国でいちばん標高の高い地点であることを教えてくれた。海抜一四八四フィートというからおよそ四百五十メートルだ。
竹鶴はひとりきりであるのを幸い、忠海《ただのうみ》中学時代から親しんできた謡《うたい》を口ずさんだ。
所は海の上。所は海の上。国は近江の江に近き。山々の。春なれや花は宛《さなが》ら白雪の。降るか残るか時知らぬ。
寒い。山は雪をいただき、樹木も生えず岩を露表した曠野《ムーアランド》には、生き物の影は羊の群れだけである。ときおり湖が現われた。乳色の霧が湖水をかすめるように流れている。
山は都の富士なれや。なほ冴えかへる春の日に。比良《ひら》の嶺颪《ねおろし》吹くとても。沖|漕《こ》ぐ舟はよも尽きじ。
凄涼《せいりよう》な風景は続いていた。竹鶴は腹の底から声を絞り出した。『竹生島《ちくぶしま》』を口ずさみ、琵琶《びわ》湖の春におもいをはせていると、目の前に飛び去ってゆくハイランドの風景が幻のようである。
陽はしだいに暮れ、やがて曠野も山の稜線《りようせん》も夕闇《ゆうやみ》に溶けていった。めざすエルギンに着いたのは晩の九時であった。
汽車から降りると、改札口にいた男が声をかけた。ホテルの案内人であるという。案内されたのは駅の正面にある三階建てのステーション・ホテルである。部屋の窓を開けると、広場をへだてた駅舎から汽車が煙を上げて出ていくところであった。
一夜明けたエルギンの空は晴れ渡っていた。町を歩くと、家々の庭木や果樹がすでに花をつけていた。小鳥の囀《さえず》りのなかには雲雀《ひばり》の声もまじっている。ほとんど太陽を見ることのなかったグラスゴー生活のあとで、久しぶりに感じる春ののどかさであった。
エルギンに来たのは蒸溜所に実習の機会を見つけるためであったが、この町に住む『ウイスキー並び酒精製造法』の著者ネトルトンに会い、できれば直接教えを受けたいとも考えていた。
竹鶴政孝はさっそく、ネトルトンを訪ねた。
「そんなことも知らないのですか、きみ。蒸溜所は実習など、まず許してくれないものですよ」
ネトルトンは竹鶴の話を終りまで聞かず、言いはなった。
「もし、どうしても実習したけりゃ、工場長に謝礼《コミシヨン》を渡すことですな。二十ポンドほど渡しておけば、そのあとからわたしが頼んであげられないこともない。それと……わたしの講義を受けたいのなら、毎日午後五時から一時間半ということではいかがかな。もちろん、製造方法を実際に即して教えてあげられる。そうだな……、わたしの謝礼は最初の月が二十ポンド、次の月から十五ポンドでいい。ただし、きみ、月初めに現金でくれなきゃ困りますよ。で、いつからおいでになるかね」
名のきこえた権威者の口から、いきなり金銭の話が飛び出した。竹鶴はとまどいながら、申し出の金額を頭の中で換算していた。二十ポンドといえば、日本円で百六十円。この国でも、グラスゴーからエルギンまで一等往復汽車賃が三ポンドであることを考えれば、決して少ない金額ではない。竹鶴は留学に当り、横浜正金銀行(のちの東京銀行)に口座を開いてもらった。必要なだけ、いくらでも引き出すように。阿部社長はこう言ってくれた。だが、それも限度というものがある。
「ちょっとお待ちください」
ネトルトンは自分が東洋人なので侮っているのではないのか。竹鶴は憤りをおさえきれなかった。
「わたしにも都合があります。先生への月謝二十ポンドと工場長への謝礼二十ポンド、併せて四十ポンドはあまりに高すぎます」
竹鶴の返事を聞くと、ネトルトンは一瞬ためらったが、坐ったまま玄関の扉を手で指し示した。
「それでは、わたしは忙しいので、これで失敬」
その日、ホテルにいったん戻り、町を歩くと、無数の視線に捉《とら》えられているように感じられた。
「|よいお天気だね《イツツ・ア・フアイン・デイ》」
通りすがりに笑みを見せ、声をかけてくる老人がいる。かと思うと、気づかないふりをして通り過ごし、立ち止ってしげしげと眺める老婆がいる。小さな田舎町では東洋人がよほど珍しいのであろう。
日本を離れて以来、見つめられるのには慣れているつもりだった。が、この日は視線がことさら息苦しく感じられた。立ち話の輪を目にすると、自分のことを噂《うわさ》しているのではないかと、思わず振り向いてしまう。
海が見たい。
竹鶴はふいに思い立った。
エルギンの北、汽車で三十分ばかりのところに、ロセマウスという漁港があった。浜に立つと、北海を渡る烈風が波《なみ》飛沫《しぶき》を飛ばしていた。陽は眩《まぶ》しく、砂浜には人影一つなかった。竹鶴は靴を脱いで裸足《はだし》になり、砂の上に身を投げ出した。
見上げると蒼穹《そうきゆう》から陽がふりそそいでいた。潮騒《しおさい》と風の音にまじって、海鳥の鳴き声がどこからともなくきこえてくる。素足に柔らかな砂の感触が快い。こうして寝転がっていると、スコットランドへ来て以来頭から去らない重い塊が、春の陽に溶け、海風に洗い流されていくようだった。
いまごろ日本ではどうしているだろうか。大阪の摂津酒造では、きょうも蒸溜塔からは蒸気音が響き、職工たちは製品を樽《たる》詰めしているだろう。とうに彼岸を過ぎた四月中旬ともなれば、瀬戸内は水ぬるむ季節を迎えているはずだ。竹原では浜竹の庭に牡丹《ぼたん》の花が咲き始めるころだろう。庭越しに、明神の港とそれに続くおだやかな海が、この瞬間も春の陽を照り返していることだろうか。母は、父は、自分がウイスキー蒸溜所実習の機会をのがし、この北の海辺でひとり水平線を眺めていることを知ったら……。
不覚にも、涙がこぼれていた。
風は強まり、荒々しく三角波をたてる海は、きれぎれに飛沫を運んだ。それでも竹鶴は腰を上げず、涙が流れるにまかせて浜に佇《たたず》みつづけた。
ネトルトンという唯一の心当りをこばんでしまった今となっては、竹鶴は自力で実習先を捜さなければならなくなった。蒸溜所は実習など許してくれませんよ、とネトルトンは一蹴《いつしゆう》したが、竹鶴はそうは思わなかった。確証があるわけではなかったが、誠意をもって当れば相手に心は伝わるものではないのか。摂津酒造入社志願のおりもそうだったし、スコットランド留学に際しての両親もそうであった。風俗習慣がちがうとはいえ、人間の心に変りはあるまい。
さいわい、エルギンはウイスキーの蒸溜所を訪ねるには地の利がいい。町の周辺からハイランド内陸部のスペイ川流域にかけて、古くから名を知られた蒸溜所が連なり、ハイランド・モルトを代表する高品質のウイスキーを造っていた。
翌朝、竹鶴はネトルトンの『ウイスキー並び酒精製造法』に収められた蒸溜所所在図を頼りに汽車に乗った。
エルギンを出て最初の駅はロングモーンである。ここにロングモーン・グレンリヴェット蒸溜所がある。駅を降りると、訊《たず》ねるまでもなかった。見渡すかぎり麦畑や牧場がうねる野に一軒、高い煙突とパゴダ型の乾燥塔《キルン・タワー》をもつ建物が建っている。
工場長に面会を求めると、事務所の一室に通された。大きなマホガニーの机には白い顎鬚《あごひげ》をたくわえた初老の男が坐っていた。工場長は深い眼窩《がんか》に訝《いぶか》し気な表情を浮べた。竹鶴は自己紹介に続き、思いきって切り出した。
「グラスゴーの王立工科大学でウイスキー製造法の勉強をしていますが、書物だけではさっぱりわかりません。一度是非、蒸溜所の内部がどうなっているのか知りたくて、こうしてやって参りました……。見学させていただけないものでしょうか」
さすがに、実習させてほしいとは口にできなかった。
「ほう、日本から……、あの遠いお国からですか」
返事は思っていたよりも好意に満ちたものだった。工場長は机の引出しから大きな鍵《かぎ》の束を取り出した。
「いいですとも。ただ、きょうはあいにく蒸溜を終えるところで、蒸溜室以外は動いていない。それでもいいですかな」
立ち上ると、工場長は竹鶴より頭一つ高かった。大股《おおまた》で戸口に向って歩き始めた工場長を、竹鶴は慌てて追った。
「もちろんです。……ただ、できれば設備だけでなく、実際に造るところも見たいのです」
竹鶴はこの機会をのがすまいと必死の思いでさらにこう付け加えた。
「こちらの蒸溜所では……、実習ということは許していただけないのでしょうか」
「実習とおっしゃるんですな」
工場長は足を停め、竹鶴の顔から服装、靴へと視線を走らせた。
「残念ながら、いまのところ人手は足りている。うちでは代々同じ村の者を雇っているんです」
「いえ、給金をいただくつもりはありません。ウイスキーの正しい造り方を自分の眼で確めたいだけなのです。そのためには職工さんと一緒に働くのがいちばんだと思っています。……お願いします」
竹鶴はここが英国の地であることを忘れ、日本風に腰を折り、深く頭を下げた。
工場長は謹厳な表情を崩し、初めて笑顔を見せた。
「いいでしょう。来週月曜日にいらっしゃい。ご希望通り、職工と一緒に働かせて差上げます。期間は一週間でいいでしょうな」
竹鶴はふたたび歩き出した工場長の背後から、感謝の言葉を繰り返した。|本当にありがとうございます《サンクユー・ヴエリ・マツチ・フオー・ユア・カインドネス》。こんな決り文句しか出てこないのがもどかしかった。
早速、竹鶴は宿を移ることにした。エルギンのステーション・ホテルは宿賃が高いうえ、実習に通うには蒸溜所に近いほうが便利だ。ロングモーンに宿はないが、次の駅ローゼスには三軒ほどあると聞いた。ローゼスは蒸溜所が集ったウイスキーの町だから、見学するにも都合がいい。
ローゼスの駅を出ると、町で目につく建物といえば、乾燥塔や煙突ばかりである。蒸溜所の林立する町中《まちなか》を、時計塔を中心にして一本の道が走り、数軒の商店が並んでいる。
竹鶴は一軒のホテルに入った。エルギンと同じく三階建てのステーション・ホテルである。土曜日の午後であった。一階のバアもレストランも町の人達で混み合っていた。部屋があるかと訊ねると、バアのカウンター奥から男が手を拭きながら出てきた。
「あいにくだね」
男は竹鶴の顔をしげしげと眺め、素気なく言った。
次に訪ねたのは、民家と変らない小さなホテルである。戸口には「|空室あり《ヴエイカント》」の札が出ている。呼鈴を押すと扉が開き、老婆の顔が覗いた。
「泊りたいんですが、部屋をお願いします……」
竹鶴が言い終らないうちに、扉は鼻先で閉じられてしまった。三軒目も同じであった。
竹鶴はエルギンに戻り、ふたたびステーション・ホテルで週決めの安い部屋を借りることにした。今度の部屋は三階の隅にある屋根裏部屋で、窓も天窓がついているだけである。
食堂に下りると、ここも町の人間で賑《にぎ》わっていた。結婚の披露宴と見え、着飾った男女が楽団の演奏に合せてダンスを楽しんでいる。
竹鶴は隅のテーブルに押し込まれた。ドレスからこぼれる女たちの白い肩や愉《たの》しそうな笑い声が、ひとりきりの夕食をいっそう味気なくさせた。竹鶴は人々の視線を避けるように、うつむいてはやばやと夕食を済ませた。
部屋に戻ると、鞄から実験衣を取り出した。この時のために日本から持参した白衣は鞄の底ですっかり皺《しわ》になっていたが、久し振りに手にする厚い木綿地の感触はなつかしかった。来週からはいよいよこの白衣に袖を通すのだ。ようやく実現した実習のことを考えると、狭い部屋も、階下からきこえてくる陽気な音楽も、もう気にはならなかった。
翌週月曜日、竹鶴がロングモーン・グレンリヴェット蒸溜所に入ると、ウイスキー造りの第一段階である糖化作業がすでに始まっていた。
「きょうが糖化、次いで発酵、そして水曜日から土曜日にかけて蒸溜、つまり一週間かかって一通り終えるわけです」
説明役の製造主任の話によると、この工程とは別に麦芽《モルト》造りを行うが、この麦芽造りこそウイスキー造りの生命であるという。
「ご承知でしょうが、原料の大麦に水分を与えて発芽、乾燥させるわけです。乾燥に際し我々は草炭《ピート》を使います。石炭の火力では強すぎて、ビール用麦芽にはいいが、ウイスキー用には向かない。ピートを燃して乾燥させると、いわゆるピート・フレーバー、つまりスモークト・フレーバーという香気が滲《し》み込むわけですな」
ピートはヘザーなどの草木が地中で半ば炭化したものを指す。ハイランドの曠野《ムーアランド》には必ずといっていいほどあり、春に湿地帯から掘り出し、夏の陽で乾かしたあと使うそうである。
糖化作業は麦芽を粉砕し、糖化槽《マツシユ・タン》に入れ、温水を加える。こうすると澱粉質《でんぷんしつ》が温水に溶け、麦芽のなかに生じた糖化酵素の働きで糖分に変るわけである。
糖化室には円筒形の鉄製糖化槽が置かれ、その中では攪拌《かくはん》器が重い唸《うな》りをあげている。黒ずんだ糖化槽はだいぶ古そうである。
「そうですね、当蒸溜所ができた時からですから、二十六、七年は経つでしょうか」
製造主任の言葉に、竹鶴は思わず訊《き》き返した。
「そんなに古いのですか。で、近々新型の糖化槽に替える予定はありますか」
「ないと思います」
男は、断言した。
「いいものは、古くてもよい働きをします。この糖化槽は半世紀以上前の型ですが、どの蒸溜所もこれを使っていると思います。私はこれ以上新しい型など必要とは思いません」
英国人が伝統を重んじることは知っていたが、スコットランド人はイングランド人以上かもしれないと、竹鶴は古い糖化槽を眺めながら考えた。
発芽室を訪れた。水を吸ってまるまると太った大麦が床の上に積まれ、発芽を迎えているところだ。職工たちは根がからみ合わないよう、木製のシャベルを使って捲《ま》き上げている。部屋は発芽期の植物がもつみずみずしい精気に満たされていた。この間、大麦の固くしまった澱粉質が白く、やわらかになるはずである。
「麦をこうやって指先に取ってね、壁にすりつけてみるんですよ。それでもって、自分の名前が書けりゃ、もうわしらの仕事は終りってもんです」
職工の言葉に、竹鶴は思わず唸った。こうした説明はネトルトンの著書には一行も書かれていない。感心してメモをとる竹鶴を、職工は不思議そうな顔つきで眺めた。
乾燥室にも入ってみた。瞬間、濃い靄《もや》の立ちこめる森に入ったかのようである。炉ではピートが燃され、煙はその上に置かれた床の細い隙間《すきま》を通って、乾燥塔の煙出し口から逃げていく。床の上には発芽した緑麦芽が敷かれ、ピートの香りを吸いつつ乾燥していくわけである。
「炉から床までの距離はどのくらいあるんでしょうか」
熱と煙で咳《せ》きこみながら、竹鶴は訊ねた。だが、製造主任も職工も、正確な距離を答えられる者はいなかった。
午後からは糖化を終えた麦汁を発酵させる。発酵室には木製の大桶《おおおけ》が四個置かれていた。糖化液はこの発酵桶に移され、酵母を加えられる。
「発酵液の容量はどのくらいですか。発酵の温度は何度ですか。酵母はこの蒸溜所で培養しているのですか……」
竹鶴は立て続けに質問を浴びせた。前夜、疑問点を整理し、あらかじめ箇条書にして、念のために英文で書いておいたものだ。
発酵液のなかでは麦汁が白い気泡を見せはじめていた。泡立ちはしだいに勢いを増し、表面を白い泡でおおった。時間とともに表面は迫《せ》り上り、泡は勢いよくはじけて桶から飛び出さんばかりになった。水面上には泡を消すためにスクリューが廻っている。いま、酵母が糖化液の糖分をエチル・アルコールと炭酸ガスに分解している最中である。
桶からは甘ずっぱい刺激臭が立ち昇っていた。とても長時間覗き込んでいられるものではないが、竹鶴は飽かず眺めつづけた。
清酒造りでいえば、湧付《わきつ》きといわれるアルコール発酵の始まりである。この状態は二昼夜近く続く。竹鶴は湧立つ泡から目が離せなかった。酒は生きもんじゃ、いったん死んだものを生き返らせるもんじゃ。昂《たか》まった心に父の言葉が浮んだ。
三日目、水曜午後からはいよいよ蒸溜が始まる。発酵を終え、アルコール分六、七パーセントになった発酵液《ワオツシユ》を単式蒸溜器《ポツト・ステイル》で蒸溜する。
モルト・ウイスキー造りに用いるのは、底が広く上部に行くほど首が細くなる銅製のポット・スティルに限られている。首は頂部でほぼ直角に折れ、冷却装置に連結していく。
「ポット・スティルに関しては〈小さい蒸溜器《ステイル》ほどうまい酒ができる〉という言い伝えがありましてね……」
製造主任は説明を始めた。
「コツは炉の焚《た》き方と、アルコールが溜出するまで蒸気がどう上っているか内部の状態を把握しておくことです」
発酵液には、水、アルコールその他さまざまな副次成分が含まれている。液を沸騰させると水よりも沸点の低いアルコールは先に蒸発する。それを冷却すると、アルコール液が出てくる。ただし、ポット・スティルの溜出液はアルコール分だけでなく、現代化学でも分析できない副次成分が含まれている。この副次成分こそモルト・ウイスキーの味と香りを造り出すものなのである。
「でも、ポット・スティルの内部をどうやって知ることができますか」
竹鶴が質問すると、話を聞いていた蒸溜職工《ステイルマン》は手で招いた。蒸溜職工は炉の様子を見、次いで木製のハンマーでポット・スティルの首をたたいた。
――わかるか。
職工は目で合図すると、ふたたび炉の焚き口に戻った。
「反響の音を聞いて、蒸溜の進み具合を知るんだ。それによって火も加減しなきゃならん」
蒸溜は二度行われる。二度目の蒸溜液は水のように無色透明である。この生れたばかりのウイスキーは樽に入れて貯蔵される。そして、樽の中で眠るうちに琥珀色《こはくいろ》を帯び、芳醇《ほうじゆん》な味と香りを増していくのである。
その週の蒸溜がすべて終ったのは土曜日の正午だった。
蒸溜が終ると、蒸溜|釜《がま》に入って掃除しなければならない。これはだれもがいやがる仕事であるが、竹鶴はみずからその役を買って出た。
「そんなことは職工の仕事です。お客さんにやらせるわけにはいきません」
竹鶴はその言葉を振り切って、釜に入った。こんな機会でもなければ、内部をじっくり見られはしない。
竹鶴はロングモーン・グレンリヴェット蒸溜所実習の最後を、釜洗いで終えた。
本格的な春の訪れとともに、グラスゴーの街には曇り空に代って陽が顔を出すことも多くなった。五月から六、七月と、陽は日ごとに長くなり、夕食を済ませる八時過ぎになっても空は深い藍色《あいいろ》をたたえ、真夜中に近づくにつれて西の方角からしだいに茜色《あかねいろ》に染まっていった。
竹鶴がグラスゴー郊外、カーカンテロフの町にカウン家をはじめて訪れたのは、そうした初夏の一日だった。日本のジュージュツを習いたい少年がいるので、手ほどきをしてもらえまいか。竹鶴は人を介してこんな依頼を受けた。この依頼主がカウン家であった。
尋ねあてたカウン家は、急勾配《きゆうこうばい》の切妻屋根をもつ邸宅だった。玄関《ポーチ》に入ると、あざやかな光彩をはなつステンドグラスが目に飛び込んだ。
生徒は十四歳になるラムゼイという少年であった。華奢《きやしや》な身体つきにも似合わず、元気がいい。日本はジュージュツを武器にロシアやドイツを破った、と語って聞かせると、少年は目を輝かせて、手本を示した受身の稽古《けいこ》にとりかかった。
稽古を終えると、竹鶴は客間へ通された。
「主人は医者をしておりましたが、つい先月亡くなりました。もともと身体が丈夫でなかったうえに過労がたたったようですの。ですからこの子だけは丈夫に育てたいと思っております」
ラムゼイの母は言った。
テーブルには、皿の上にサンドウィッチとクッキーが山と積まれていた。客間にはラムゼイの姉たちが顔を揃《そろ》えている。リタ、エラ、ルーシーと名乗る三姉妹である。長女リタを頭にラムゼイまで、それぞれ三歳違いであるという。
「わたしはグラスゴー大学に通っています。あなたはたぶんお気づきでないでしょうが、何度かお見かけしたことがありますわ。いつでもすまし顔でいらっしゃいますわね」
次女のエラが冷やかすように言うと、客間は姉妹たちの笑いにつつまれた。赤面しながらも、竹鶴はまんざらでもなかった。こうした明るい笑いにつつまれるのは何か月ぶりのことであろうか。
「さあ、あなたはジュージュツの先生です。召し上がらなくてはいけません。たくさん飲み、たくさん食べる、本当の勇士だったらそうなさらなくては」
女主人の言葉にふたたび笑い声が湧いた。竹鶴は遠慮なくサンドウィッチに手を伸ばし、注がれた熱い紅茶を口にした。
窓の外には白いレースのカーテン越しに、庭の果樹園とそれに続く緑の野が広がっていた。なだらかにうねる野は低い丘陵に縁取られ、初夏の光のなかに野も丘陵も眩《まば》ゆいばかりに輝いていた。
「日本からどんな船で、どこに寄っていらして?」
「お家はどのようなお仕事を? 御兄弟は何人いらっしゃるのですか」
「スコットランドへは何を勉強にいらして?」
姉妹たちは好奇心を押えきれぬように、矢継ぎ早に訊ねた。
「お待ちなさい。そんなに一度にお訊ねするものではありません」
女主人はたしなめたが、ほほえみを浮べて返事を待つ姉妹たちを前にして、竹鶴の口もおのずと滑らかになった。日本の家族のこと、学生時代のこと、留学に来るようになったいきさつ、さらにスコットランドに来て以来の苦悩さえ――。
「……どんなに苦しいことがあっても、昼はまだいいのです。夜がいけません。自分はスコットランドにウイスキー造りを学ぶために来ているのに、思うように勉強は捗《はかど》らない。もしかすると、留学に来たこと自体が間違いではなかったのか、しょせんウイスキー造りを日本に伝えることなどできないのではないか。こう考えると、眠ろうと思っても寝つけず、そのまま夜明けを迎えることもありました」
竹鶴が語り終えると同時に、聞きとれない小さな呟《つぶや》きが洩《も》れた。いままで一度も口をきかなかった長女のリタだった。カウン家の姉妹に共通するのは、優しさをたたえた大きく澄んだ瞳《ひとみ》だ。竹鶴はいつになく饒舌《じようぜつ》になったことを悔いながらも、リタの碧《あお》い瞳を眩《まぶ》しく受けとめた。
竹鶴は一家に見送られ、戸口に立った。女主人の挨拶に続いて、リタが初めて声をかけた。
「ミスター・タケツル。日本のツヅミという楽器をお持ちだとおっしゃっていましたね。いつかお暇なおり、弟のジュージュツのあとで合奏いたしませんか。わたしはピアノでお相手させていただきます」
晴れ渡った初夏の夕べ、庭の植込みからは草木のすがすがしい香りにまじって花々のひめやかな甘い香りが漂っていた。そのまま下宿に帰るのが惜しく、竹鶴は町を見下ろす公園へと足を向けた。頭には、別れ際にいつか暇なおり合奏しませんかと誘ってくれたリタの声が、いつまでもこだましていた。
ハイランドでモルト・ウイスキーの実習を終え、竹鶴はふたたびグラスゴーの生活に戻っていた。王立工科大学の講義に顔を出すほかは下宿の部屋か図書館で原書と格闘する毎日である。
ロングモーン・グレンリヴェット蒸溜所での実習は、ウイスキー製造の一端を垣間見《かいまみ》たにすぎなかった。それでも実際の工程を自分の眼で捉えた収穫は大きい。その体験を踏まえ、竹鶴は新しい視点からネトルトンの本を読み返した。ネトルトンの人柄は別として、その著書はウイスキー製造法を学ぶうえでやはり必須の文献だった。分厚い本をひもときながら、竹鶴はウィリアム教授がこの書物をすすめてくれた理由をようやく実感できた。
初めてカウン家を訪れた頃と時を同じくして、竹鶴に思いがけない吉報が届いた。エディンバラ近郊のグレイン・ウイスキー製造工場から実習の許可が下りたという報せであった。以前、知り合った新聞記者を通して出しておいた実習願いが、半年以上もたって忘れた頃になり、ようやく実現をみたのだった。
穀類を連続蒸溜して造るグレイン・ウイスキーは、モルト・ウイスキーと違って大量生産が可能である。自然や風土に左右されることもない。したがって生産コストも安くあがる。
このため、連続式蒸溜機が発明された十九世紀の三〇年代から六〇年代にかけて、スコットランドのローランド各地にグレイン・ウイスキー蒸溜所が林立した。この時代、グレイン・ウイスキーは安価なだけが売りものの酒にすぎなかった。ところがブレンディド・ウイスキーが広まるにしたがい、モルト・ウイスキーとのブレンドに欠かせないグレイン・ウイスキーは、新たな脚光を浴びるようになった。
スコットランドでは、蒸溜所は自分のところで造ったモルト・ウイスキーを壜《びん》詰めでは直売せず、樽《たる》のまま販売会社に売る。販売会社は各蒸溜所から特徴の異るモルト・ウイスキーを買って混合《ヴアツテイング》し、さらにグレイン・ウイスキーとブレンドして発売する。ブレンドせずに、モルト・ウイスキーとして売ることもある。今日ピュアー・モルト、あるいはシングル・モルト・ウイスキーとして売られているものがそうであるが、ブレンディド・ウイスキー出現以降今日に至るまで、数量の上ではごくわずかである。
竹鶴の滞在した一九一九年当時、大手グレイン・ウイスキー業者の集りから出発した連合会社| D C L 《デイステイラリー・カンパニー・リミテツド》が次々と蒸溜所を買収、巨大企業に成長していた。DCLは以降六年間に、ブレンディド・ウイスキーのビッグ・ファイヴと呼ばれていた〈ブラック&ホワイト〉のブキャナン社、〈ホワイト・ラベル〉のデュワー社、〈ヘイグ〉のヘイグ社、〈ジョニー・ウォーカー〉のウォーカー社、〈ホワイト・ホース〉のマッキー社を次々と合併吸収することになる。蒸溜所並びにウイスキー業者が淘汰《とうた》されていた時代であり、かつて乱立したグレイン・ウイスキー蒸溜所はスコットランドでわずか三社に統合されていた。竹鶴が実習を許されたジェームス・カルダー社はそのうちの一社であった。
竹鶴が通うことになったのは、エディンバラの北、フォース河口の町ボネースにある同社ボネース工場であった。実習期間は二週間と定められた。
グレイン・ウイスキーは同じ穀類でも安価な原料を使って大量生産する。ボネース工場ではトウモロコシ、ライ麦、それに大麦|麦芽《モルト》を混ぜていた。この原料が糖化、発酵、蒸溜を経てウイスキーに変っていく仕組みはモルト・ウイスキーと同じだが、できあがるのはモルト・ウイスキーに較《くら》べて中性アルコールに近く、香気のほとんど感じられない無色透明な液体である。
いちばんの違いは、蒸溜器である。ボネース工場のカフェ式と呼ばれる連続式蒸溜機は高さ五十尺(十五メートル余)もある。単式蒸溜器《ポツト・ステイル》に較べれば、構造もはるかに複雑にできている。
ボネース工場は規模が大きいだけに、ハイランドのモルト・ウイスキー蒸溜所と違って、外部の人間に警戒心が強かった。折しもDCLの擡頭《たいとう》めざましく、各蒸溜所の買収を進めているときだけに、ことさらである。実習を許されたといっても、肝心の知りたいところは、詳しい説明はもとより、近寄らせてさえもらえなかった。
残された道は自分の眼でできうるかぎり観察し、職工たちから話を聞くことであった。
工場内は、歯車の廻る音や蒸気の湧き立つ音で鼓膜が痛いほどである。そのうえ、原料を粉砕、煮沸する器機から蒸溜機まで、全工程がすべて一つの建物のなかで行われるので、とても込み入っている。
機器の仕組みはどうなっているのか、どのくらいの量を入れ、何度に保って何時間稼動させるのか……。疑問を解こうと大声を張りあげる。答を聞きとるのがまた一苦労である。職工は訛《なまり》がひどく、夜《ナイト》はニヒトと、昼《デイ》はダイと発音する始末である。
そのうえ、職工自身が機器の構造について無知なことも多い。単式蒸溜器の場合なら、一度蒸溜を終えるごとに蒸溜釜を掃除するが、連続式蒸溜機になると操作の関係上掃除することもない。その結果、職工は内部がどうなっているかさえ知らない。
竹鶴は実習のたびに詳細なメモとスケッチをとるようにしていた。それらは報告書にしたため、阿部社長の許《もと》に送った。しかし、ボネース工場ではそれができない。とてもスケッチをとれる雰囲気ではないのだ。
やむを得ずポケットに紙片と短い鉛筆をしのばせ、手洗いに立つたびに最低限必要な数字や見取り図を、すばやく書きなぐった。そして夜、部屋に戻り、記憶をたどりながらノートをつけた。
二週間はまたたくまに過ぎていった。竹鶴がいちばん知りたかったのはカフェ式蒸溜機の操作法だ。ところが、これがわからない。
――操作のコツはどうやら、機内に送られる発酵液のアルコール濃度に従い、バルブをどう操るかにあるらしい。
わかったのはせいぜいこの程度のことだった。すなわち、バルブを開けすぎると薄いアルコールの液体が出てしまう。逆は濃すぎて失敗する。このバルブ加減は本を読んでもわからない。遠くから見ているだけでもだめだ。
竹鶴は実習期間の延長を願い出た。認められたのは一週間だけだった。
そうしたある日、昼休みに蒸溜主任の職工が竹鶴を隅に呼んだ。
「お若いの、おまえさん蒸溜機のバルブ操作をしてみたいんじゃないかね。隠さんでもいい。じつは、明後日《あさつて》からわしは三日間夜勤になる。晩の十時からだが来てみるかね」
老職工は片目をつむると、離れていった。
約束の日、竹鶴は昼間の実習を終えると、夜が更けるのを待って、ふたたび工場に足を運んだ。煌々《こうこう》と輝く電燈の下で、黒い鉄板におおわれた二基の蒸溜塔は巨大な鉄塊となってそそり立っている。工場三階のバルブ操作場では蒸溜主任が待っていた。
「おいでなさったね、ようく見ておきな」
竹鶴は胸を高鳴らせ、一瞬たりとも見逃すまいと、老職工の傍に立った。
竹鶴自身、摂津酒造で蒸溜機の扱いは体験していた。しかし、蒸溜機の種類が違えば、バルブ操作そのものも違ってくる。夢のような話だが、いつか日本でもモルト・ウイスキーとグレイン・ウイスキーをブレンドできる日が来たら、このバルブ操作が欠かせないものになるだろう。
竹鶴は老職工が発酵液や蒸気の変動を見極めながら、太い指で力強くバルブを動かしていくのを、息を呑《の》んで見守った。
「お若いの、疲れはせんか」
我に返って時計を見ると、針は午前二時を指していた。連日の工場実習で喉《のど》は痛く、耳から頭部一帯が痺《しび》れて感覚を失っていた。それでも竹鶴は精いっぱい笑顔を返した。
「それでは、一度だけおまえさんにもやらしてやろう。本当はわし以外が扱うのを禁じられとるんだが、おまえさんは遠くの国から来とるんだから例外じゃ。いいか、わしの指示どおり動かすんだぞ」
竹鶴は蒸溜主任に代ってバルブを握った。この瞬間、歯車と蒸気音が耳を聾《ろう》し続ける深更の工場で、二基の巨大な蒸溜機はもはや冷い鉄塊ではなく、ウイスキー造りをめざす若い一日本人の肉体の一部となって躍動を始めていた。
竹鶴がリタとの約束どおり鼓を携えてカウン家に出向いたのは、三週間にわたるボネース工場の実習を終えた翌週のことであった。
竹鶴はまず、鼓を打ちながら謡曲『猩々《しようじよう》』の一節を披露した。ついで、リタはピアノに向って流麗なシューマンのソナタ。
「さて、ところで何を合奏しましょうか」
二人は顔を見合せ、思わず笑い出してしまった。考えてみれば、ピアノと鼓に共通な曲は何があるだろうか。
「日本の音楽はあなたに無理だし、わたしは西洋音楽というのを知らんのです」
「それなら、スコットランド民謡ならどうかしら。ほら、『|今は懐しその昔《オールド・ラング・サイン》』のような曲ならマサタカさんもご存じよ、きっと」
いちばん下の妹ルーシーが快活な声をあげた。
リタは竹鶴から目を離さず、指を鍵盤《けんばん》の上に置いた。聴き覚えのある旋律が流れた。これならわかる。『オールド・ラング・サイン』の名をもつスコットランド民謡であることは知らなかったが、あの『蛍の光』ではないか。
「知っています。日本でも、よくうたわれます。悲しい、別れの曲ですね」
「悲しい曲ですって? いいえ、美しい曲ですが、悲しい曲ではありません。なつかしい昔を偲《しの》んで、杯を手に友と語り合おうという歌ですもの」
リタは、歌詞の内容を簡単に説明し、スコットランドの詩人、ロバート・バーンズの詩であると教えてくれた。
「さあ、おしゃべりではなく音楽よ。お姉さんはピアノ、マサタカさんはツヅミ、わたしはうたうわ」
ルーシーは二人をうながし、うたい始めた。Should auld acquaintance be forgot, And never brought to min'……高く澄んだ声でうたいながら、その眼は姉と竹鶴にも唱和するよう語りかけていた。リタが、つづいて竹鶴が和した。竹鶴は鼓で調子をとりながら、日本語でうたった。
蛍の光窓の雪、書《ふみ》よむ月日かさねつつ……。
ピアノの前ではリタがうたっていた。ピアノの音の背後から消え消えにきこえてくるリタの歌声は、ルーシーの凜《りん》と響くソプラノと対照的に囁《ささや》くようなアルトだったが、そこには不思議な情感がたたえられていた。竹鶴はリタの瞳を捉《とら》えた。悲しい曲ではありませんと断言したリタの、その澄んだ瞳はかすかに潤んでいるように思えた。
リタは竹鶴の視線に気づき、ほほえみを返した。眼差《まなざ》しを横切った愁いはすでに消えていた。
……いつしか年もすぎの戸を、明けてぞ今朝は別れゆく。
竹鶴は繰り返し、日本語でうたった。
曲が終ると、ルーシーが元気よく手をたたいた。リタと竹鶴はたがいに見つめ合った。竹鶴はリタのほほえみに自分もまたほほえみを返していることに気づいた。照れくさかったが、それでいて嬉しくもあった。
夏には大学もウイスキー蒸溜所も休みとなる。竹鶴は八月に入ると、葡萄酒造りを見学するためフランスに渡った。銘醸地ボルドーで一か月ほど見学する予定であった。
パリで、竹鶴は旅行社トーマス・クックの主催する戦場視察団に加わった。パリに行く車中で知り合った同志社大学前総長原田助博士が一緒だった。
パリから北東に二時間ほど行くと、ランス市がある。町はことごとく破壊され、元の形を留《とど》める建物は一つとしてなかった。焼跡の至る所でドイツ人捕虜が取片付け作業に従事しており、ときおり不発弾が爆発し、爆音とともに黒煙を吹き上げた。
「悲惨なものですな。町に見かけるのも、少年少女と喪服姿の未亡人だけではありませんか」
「わたしも激戦の様子は新聞で知っていましたが、首都から百キロ余りの都市がこれほどひどいとは……」
西部戦線の惨状を目にしつつも、思いはいつかウイスキーに戻った。ハイランドで蒸溜所を見学したおり、戦時中工業用アルコールを造らなかったモルト・ウイスキー蒸溜業者のうちには、閉鎖を余儀なくされたところもあると聞いた。それを思うにつけても、故国が戦場にもならず、大戦景気でこうして留学に来られるわが身の幸運を感謝するのだった。
九月末、竹鶴は一か月余りの葡萄酒研修旅行を終え、グラスゴーに戻った。フランスからはリタへの贈物として、一瓶の香水を買い求めてきた。
十月に入ったある日、下宿の扉をノックする音があった。扉を開けると、リタだった。
「このあいだは香水をありがとうございました。心ばかりのお礼です。お受けとりください」
リタは一冊の本を差し出した。ロバート・バーンズの詩集だった。表紙をめくると、〈私の愛する詩集を日本の大切な友に捧《ささ》げます。ジェシー・ロベールタ・カウン〉と献辞が記されていた。ジェシー・ロベールタはリタの正式の名称である。
「ロバート・バーンズの詩はスコットランド人ならだれもが一度は愛誦《あいしよう》したことがあるほどです。いつぞやの『|今は懐しその昔《オールド・ラング・サイン》』も、あなたが学んでいるウイスキーを讃《たた》えた詩も、入っていますわ」
それだけ言うと、リタは笑顔を残して立ち去った。
リタは文学好きの少女であったらしい。グラスゴー大学に通う妹エラの話によると、幼少の頃から偏頭痛に悩むことが多く、十五の歳になると学校に通えず、しばらくのあいだ個人教授を受けていたほどだという。のち十八歳でグラスゴー学院《アセニウム》に入るころ、ようやく健康を取り戻した。リタはここで音楽と英、仏文学を学んでいる。
卒業後のリタは見違えるほど元気になり、大戦が始まって運転手が戦争にとられたあとは、医師であった父のために自動車の運転を習い、往診の助手を勤めたほどだ。また、父が好んだ釣にも必ず供をするようになった。それでも、幼い頃からの読書好きは変らなかった。姉は本を読んでいる時がいちばん幸せみたい、お気に入りはウォルター・スコット、サッカレー、ディケンズ……、かしら。エラは訊《たず》ねもしないのに、こんなことも話してくれた。
竹鶴は下宿でリタが贈ってくれた本を手にとった。リタと違い、竹鶴は文学書に親しむ機会はあまりなかった。趣味といえば、柔道、囲碁、古典芸能、芝居の観賞、と文学には縁が薄い。それでも、リタの手の温もりとかすかな香りが残っている詩集を手にして、頁を繰らずにはいられなかった。『今は懐しその昔』はすぐわかった。ウイスキーを讃えた詩とは『スコットランドの酒』というものらしい。こちらは手強《てごわ》そうだ。竹鶴はとりあえず『今は懐しその昔』を声に出し、辞書を片手に読み始めた。
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昔|馴染《なじみ》が忘れられていいものか、決して思い出されぬままに。
昔馴染が忘れられていいものか、遠い昔の日々が。
(|折り返し《リフレイン》) 遠い昔のため、きみよ、遠い昔のため、
我ら旧情の杯を上げよう、遠い昔のために。
我らともに丘の斜面を駈けたもの、腕いっぱいに雛菊《ひなぎく》を摘んで。
だが、我らいつか旅路にさまよい疲れた、遠い昔のあの時以来。
(折り返し)
我らともに小川に魚|獲《と》ったもの、陽が昇ってから昼の御飯となるまで。
だが、我らのあいだに大きな海が吼《ほ》えたけた、遠い昔のあの時以来。
(折り返し)
さあ、手を握ろう、我が信ずる友よ、さあ、手を。
そして我ら旧情の杯を上げよう、遠い昔のために。
(折り返し)
…………
[#ここで字下げ終わり]
竹鶴は繰り返し、口に出してみた。確かに『蛍の光』の訳詞とはまったく異っている。リタが悲しい歌ではありませんと断言したのもなるほどと思われた。が、それならばなぜリタはあんなに寂しそうな表情を浮べたのだろう。
詩集を閉じると、竹鶴は寝台に身を投げ出した。そして、天井を見上げながら、リタのことを考えつづけた。
エディンバラの町はなだらかな丘陵の上に広がっている。岩肌を剥《む》き出しにした丘の上に聳《そび》えるのは、エディンバラ城である。城の真下は緑の窪地《くぼち》になっており、窪地をはさんでヨーロッパ一美しい街と呼ばれるプリンセス街《ストリート》が走っていた。芝生が一面に敷きつめられた窪地はプリンセス街公園と呼ばれ、市民の格好の散歩道になっている。
秋がしだいに深まろうとしていた。早くも黄に染まった落葉が緑の芝生に散り敷いていた。スコットランドへ来てから、まもなく一年。竹鶴政孝は二十五歳を迎えていた。この間、書物で学ぶかたわらハイランドでモルト・ウイスキーの造り方を目にし、ボネース工場でグレイン・ウイスキー製造の実習を重ねた。この夏にはフランスへ赴き葡萄酒造りまで見学した。スコットランドへ来た直後、焦燥感にくるしめられ望郷の念にかられたことも、いまとなってはなつかしい思い出になろうとしていた。
竹鶴はリタと並んでベンチに腰を下ろし、緑のスロープに続く城を見上げていた。もともと、日本でも女性との付き合いは得意のほうではない。こうして二人きりで坐っていると、リタという存在がいつにもまして眩しく感じられる。
カウン家を訪ねるようになって数か月、リタと会うのもまだ指折りかぞえるほどにすぎなかったが、竹鶴は会うたびにその無垢《むく》な笑みに魅《ひ》かれていった。この日、リタはエディンバラ見物に出かける竹鶴に案内役を買って出てくれたのだった。
「フランス旅行のご印象はいかがでしたの」
沈黙を破るように、リタは訊ねた。
「わたしは酒造りを学びに来ていますから、ボルドーの葡萄酒工場が印象的でした。ボルドーといえば、ご存じのようにこの国でクラレットと呼ばれる銘酒の産地です。ところが、工場の設備にはとりたてて見るべきものはありません。どこも木製の圧搾器を手で廻して葡萄を搾っているんです。英国へ来る途中、わたしはアメリカで葡萄酒工場を見学しました。アメリカでは新しい機械を導入して大量生産をはかっています。ところが……」
竹鶴は言葉を切った。こんな話をしてはリタが退屈するのではあるまいかと思ったからである。しかし大きく見開かれた眼差しは、覗《のぞ》き込むようにして次の言葉を待っている。
「言うまでもなく、米国産はボルドーの足許にも及びません。昔、日本酒《ジヤパニーズ・ワイン》を造っていた父は、酒は人間の心が造るものだ、つまり心が乗り移って出来上るものだと言っていました。ボルドーに行って、葡萄酒も日本酒も同じだと思いました。機械では本当の酒は造れません、結局は人間のこの手なんですね。スコットランドのウイスキーも、同じことではありませんか」
知らず知らず、声もうわずっていた。英語に不自由しなくなったとはいえ、日本語ならもっとうまく説明できるものをともどかしい。
ウイスキーの場合とて同じことだ。蒸溜酒であるから工程は多少複雑になるが、手で造ることには変りないのである。
「あるいは、自然が造るものだといっていいかもしれません。ウイスキーを決定するのは、大麦、ピート、空気、そして水だといいます。人間はそうした自然を利用し、心を籠《こ》めて造り上げる。あとは時の熟成を待つだけなんです」
竹鶴がこうしたことを強く感じるようになったのは、ボネース工場の実習を終えてからである。
ボネース工場の連続式蒸溜機と較べると、以前実習した単式蒸溜器《ポツト・ステイル》はまるで玩具のように頼りない。しかし、ウイスキー本来の味はモルト・ウイスキーにあるのであって、グレイン・ウイスキーはブレンディド・ウイスキーの補助役をつとめるにすぎない。最良の麦芽を糖化、発酵させ、単純な構造の単式蒸溜器を使って手間をかけて蒸溜し、樽の中で長い時を眠らせる。これこそがウイスキー造りの王道であり、機械に頼らず人間の勘による分だけ、習得も難しい。書物の勉強を一通り終えようとしているいま、竹鶴はモルト・ウイスキーの製法をより深く研究する必要性を痛感していた。
「もしかしたら、また実習に出かけるかもしれません」
「どちらへいらっしゃるの」
「キャンベルタウンです。申請してあった実習願いが受け入れられるかもしれないのです。今度は二、三か月、じっくり実習できそうです」
その言葉を聞くと、リタはかすかに眉を曇らせた。竹鶴は理由もなく動顛《どうてん》し、慌てて話題を変えた。
「フランスでは戦場跡も見学しました。目を覆うばかりでした。たくさんの人間が死んでいったことを考えると言葉もありません」
「そうですか……」
リタはそのまま黙ってしまった。
窪地になった公園に、風が舞い降りていた。風は小高い城砦《じようさい》に当って吹き下ろしてくるらしい。灰黒色の城壁を見上げていると、冷い風が頬を打ち、どこからともなく枯葉が舞ってきた。
「こんなこと申し上げるつもりではなかったのですが」
リタは居住いを正し、竹鶴の目を見据えた。碧く澄んだ瞳には長い睫毛《まつげ》が秋の陽を浴びて光っていた。
「わたしには婚約者がおりました。その人は大戦が始まるとまもなく出征し、中東戦線に出て、ダマスカスで戦死しました。だいぶ前のことですが」
それだけ言うと、口を閉じた。リタは視線をそらしたが、その肩は小刻みに震えていた。
言うべき言葉を捜したが、見つからなかった。それにしても、なぜ婚約者がいたことなど自分に告げたのか。そう尋ねてみたい誘惑にかられたが、勇気はなかった。
しかし、一つだけはっきりしていることがあった。リタは東洋人である自分と、たんなる儀礼や好奇心から付き合おうとしているのではない。少なくとも一人の人間として、ひょっとすると一人の男として……。
「ごめんなさい。つい、余計なことをお話してしまって。許してくださいますわね」
リタの顔にはふたたび屈託のない笑みが戻っていた。
「ロバート・バーンズの詩集、お気に召しまして」
「じつは、スコットランドの方言が入っているためか、日本人のわたしには手に負えないところがあるんです。正直に言うと、まだウイスキー讃歌とやらが読めない。『今は懐しその昔』はどうやらこなしたんですが……。あなたに教わらなくてはいけないと思っていたんです」
「それは、あなたが難しい長詩をお選びになって、ウイスキーと同じように厳密に研究なさろうとするからですわ」
リタは白い歯を見せ、おかしくてたまらないように笑いつづけた。そして真面目な表情に戻ると、抑揚をつけて口ずさんだ。
Scotland, my auld, respected mither! Tho' whiles ye moistify your leather……、わが敬いし母なる国、スコットランドよ。汝《な》がときに肌をしめらそうとも、ヒースの茂みまで乾ききっているではないか。自由あるところにウイスキーはある。さあ、ひと息に杯《ドラム》を空けよ。
意味ははっきりとはわからなかったが、竹鶴はリタの唇の動きを追った。Scotland, my auld, respected mither……、低く口ずさみながら、リタを心から美しいと思った。
カウン家を初めて訪れてから、すでに半年が経っていた。ラムゼイに柔道を教えつづけてはいたが、いまではリタに会いたくて通うようなものであった。
ときおり、リタが用事で不在なことがあると、竹鶴は次の訪問日までがひどく長く感じられた。リタも同じだと見え、用件にかこつけて竹鶴の下宿を訪れた。二人は霧につつまれた冬の街を歩き、ジョージ広場のスコット卿《きよう》やバーンズの彫像を飽くことなく眺めた。
竹鶴は自分の心がしだいにリタに傾いていくのを感じた。それと同時にリタも自分に対して好意以上のものをいだいていると確信するようになった。
では、この先……。
そのことは、考えたくはなかった。もし、自分が気持を正直に告げ、求婚《プロポーズ》したらどうなるのか。いや、そんなことは有り得べからざることだ。自分はウイスキー造りの勉強に来ている身で、やがては日本に帰らなければならない。万が一リタが自分を好いてくれても、リタを遠い日本に連れて帰るなど狂気の沙汰ではないか。
だいいち、リタが自分に好意以上のものをもっていると、本人の口から確めたわけではない。自分に示す態度も、婚約者を失った寂しさがなせる業かもしれぬ。独りよがりから告白などして恥をかいたら、二度と顔を合せることはできないだろう。
思いはいつも堂々巡りであった。
年も暮れに近づき、スコットランドで二度目のクリスマスを迎えた。前年はひとり下宿で侘《わび》しく過したことを思い返しながら、竹鶴は招かれたカウン家に向った。
カウン家では毎年この日のために大きなプディング・ケーキを用意した。この中には新しい六ペンス銀貨と裁縫に使う指貫《ゆびぬき》が埋め込まれている。
クリスマスのクライマックスはプディング占いであった。すなわち、プディング・ケーキをそれぞれ切って食べる際、六ペンス銀貨が入っていれば金持ちに、指貫を当てた女の子はいいお嫁さんになれるというものである。もし、女の子に指貫、男に六ペンス銀貨が入っていれば、二人は将来結ばれるという。
ケーキにナイフを入れるたびにルーシーやラムゼイは歓声をあげた。そして、リタに指貫、竹鶴に六ペンス銀貨が当ると、歓声は家族全員に伝わった。
冷やかしの言葉に照れながら、竹鶴はリタの表情を盗み見た。リタは珍しく顔を赫《あか》らめている。その瞬間、心に期するものが生れた。夜になってカウン家を辞するころには、それは固い決意に変っていた。
「…………」
「あなたにその意志がなければ、はっきりおっしゃってください。……もし……もしあなたが望まれるなら、わたしは日本に帰るのを断念してこの国に留まり、職を捜してもいいと考えています」
竹鶴はリタの顔を正視できず、いっきょに述べ立てた。最後のせりふはリタと会う前に何度も心の中で繰り返し用意した言葉である。竹鶴は祈るような気持で返事を待った。
とてつもなく長い数秒が過ぎると、網膜の片隅にリタの頷《うなず》く姿がはっきり映った。
「わたしたちは……スコットランドに留まるべきでありません。日本へ向うべきだと思います」
リタの大きな瞳《ひとみ》がこの日はいっそう輝きを帯びていた。
「マサタカさんは大きな夢に生きていらっしゃる。その夢は日本で本当のウイスキーを造ることですね。わたしもその夢を共に生き、お手伝いしたいのです」
ワタシモソノ夢ヲ共ニ生キタイ。竹鶴はリタの言葉を心で繰り返していた。その言葉はしだいに熱くたぎるものとなって胸の中に広がった。
「しかし、日本は遠い国です。スコットランドとはあらゆる点で違う。日本に帰れば、わたしも日本の習慣にしたがって生きなければなりません。この国のように、あなただけを大事にしてはいられません」
「わたしは日本の国とでなく、マサタカさんと結婚いたします。本当に愛してさえくださっていれば、何も申しません」
「それに、ご家族の許しも得ないと……」
リタは初めて顔を曇らせた。家族といえば、竹鶴とて同じだ。竹鶴は両親の顔とともに、阿部社長や令嬢マキの顔を思い浮べた。
「たぶん、反対するでしょう。父を亡くしてまだ一年も経ちません。それでなくとも、わたしがマサタカさんと結婚して日本へ行くなどと言い出したら……」
竹鶴はその夜、日本に二通の手紙をしたためた。一通は竹原の両親|宛《あて》、もう一通は大阪の阿部社長宛である。日本への手紙は片道五十数日かかる。折り返し返事が来たとしても、それまで恐らく待ってはいられまい。そう考えると、心苦しさは増した。
竹鶴は夜を徹して机に向った。両親と阿部社長に、胸中を率直に、心を籠めて書き綴《つづ》った。そして、厚い書簡の封を閉じた。
年が明けた一月八日、竹鶴とリタはグレート・ハミルトン街にあるカールトン地区登記所に赴いた。
リタの危惧《きぐ》したとおり、リタの母も後見の叔父も、真向から反対だった。わしはゲイシャ・ガールのことを本で読んだことがある。あんな国に姪《めい》を行かせるなど、不幸を背負わせるようなものだ。叔父はこう言って強硬に反対したという。
「母も私たちの結婚を認めてくれません。頭から反対して説得しようにも話を聞こうとしないのです。悲しいことですが、ほかに方法はありません。結婚するのは私自身ですもの、家族の祝福がなくともかまいません。いつかは解ってくれます」
リタは寂しそうな表情のなかにも強い決意を籠めて言った。反対は母と叔父だけではなかった。すぐ下の妹エラ、竹鶴が柔道を教えたラムゼイすらも反対した。いちばん下の妹ルーシーだけが、家族でただひとりの味方となってくれた。
竹鶴は結婚を急ぐことにした。以前から申請していたキャンベルタウンの実習もようやく正式に許可が下りていた。年明けのなるべく早いうちに出発したい。いったん実習を始めれば数か月はグラスゴーに戻らないつもりだった。いつかは解ってくれます、と口惜《くや》しさをこらえ、どんなことがあっても自分と添い遂げようというリタの心を思いはかれば、その間、反対する家族のなかに置いておくのは不憫《ふびん》でならない。
だが、戸主の反対にあって結婚は可能なのだろうか。
「教会結婚《レギユラー・マリツジ》はだめだと思います。ですが、登記所結婚《イレギユラー・マリツジ》なら、二人の立会人がいればいいんです。立派に結婚できます」
立会人は妹のルーシー、それにリタの幼な友達のジェシーという娘がつとめてくれることになった。
登記所では、登記官による意志の確認、立会人の宣誓、そして二人が署名を済ませると結婚は成立する。教会結婚式ではないため、牧師名の欄はなく、ラナーク州執政長官代理の名の下に行われたことが、結婚登録書に記された。最後に、登記官が署名した。ジェームス・ムーア。竹鶴は二度と会うことはないであろう登記官の名を、はっきりと記憶にとどめた。
登記所を出ると、鉛色の空からはいつのまにか小雪が散らついていた。グラスゴーの街はいつもどおり、自動車が慌しくエンジン音を響かせ、くろずんだ街路を人々がせわしなく歩いていた。
一行はノース・ブリティシュ・ホテルで昼食を摂《と》った。
「|お姉さん《リタ》、マサタカさん、おめでとう」
「タケツルさん、リタ、おしあわせに」
ルーシーとジェシーが口々に祝ってくれた。シャンパンがグラスの中で泡立っているものの、四人だけの寂しい宴である。竹鶴にはまだ故国の両親を説得する大役が残されている。
「お姉さん、教えてちょうだい、日本のサムライの心をどうやって射止めたの」
ルーシーが冷やかすように訊ねると、リタは真面目な顔で答えた。
「射止めたのではなく、魅かれたんです。マサタカさんには潔い心があるのよ、日本のサムライとスコットランド氏族社会《クラン》の勇士に共通する魂が。……わたしも、きょうから同じ心をもって生きます。もう、ジェシー・ロベールタ・カウンではありません、リタ・タケツルです」
心なしか熱を帯びた眼差しが竹鶴をもとめていた。祝福されぬ出発ゆえに二人で力を合せて生きていくしかありません。笑顔のなかにもリタはこう訴えていた。
そのけなげな姿を見ていると、新妻リタがたとえようもなくいとおしく思えてくるのだった。
リタを伴い、竹鶴政孝はグラスゴーを離れた。めざすキャンベルタウンは汽船で五時間ほど、グラスゴー南西のキンタイア半島にある。
キャンベルタウンは鰊漁《にしんりよう》とウイスキー産業で栄えた町である。かつて二十数社に及んだ蒸溜所は合併を重ねた結果、当時は十四になっていた。それでもほかに産業のない小さな町であるから、依然ウイスキーの町といってよかった。
竹鶴が赴くことになったのは、ヘーゼルバーン蒸溜所である。ここは〈ホワイト・ホース〉のマッキー社の蒸溜所で、実習願いを出したのち、王立工科大学ウィリアム教授の尽力によって、ようやく実現に漕《こ》ぎつけたのであった。マッキー社はここのほかに、ハイランドのエルギン近郊とここよりさらに西部のアイレイ島にモルト・ウイスキーの蒸溜所、グラスゴーにグレイン・ウイスキーの蒸溜所を持っている。それらをブレンドし、〈ホワイト・ホース〉の名の下に市場に送り出していたのである。
マッキー社を選んだのは、たんに有名であるというだけではなかった。モルト・ウイスキーを樽《たる》に詰めて販売会社に売るだけの蒸溜所とちがい、マッキー社は自社の蒸溜所を持ち、ブレンドして自社の名で売っている。
これができるのは、それぞれ気候風土が異り、異った特色のウイスキーを産する右の四つの蒸溜所を持つからである。むろん、日本でそこまでは無理だが、早晩、自社の産するウイスキーを自社の名で売る時代が来るだろう。そのことを考え、モルト・ウイスキーの製法に加え、ブレンドの方法や会社の運営法までも、できれば学んでみたいと思ったのである。
さいわい、イネスという工場長は、ウィリアム教授と友人の間柄だった。
「ウィリアム君の教え子とあらば大歓迎です。お好きなだけ実習してください。むろん、質問には答えられるかぎりお答えします。ただ、わたしのほうからもお願いがある。実は日本の酒を造る麹《こうじ》に興味をもっているんだが、ひとつご教示いただけませんか」
スコットランドでは米はカンサス米が手に入る。そこで、日本から種麹を取り寄せ、麹を造ってみることを約束した。
すでにモルト・ウイスキーの製法は一通り体験している。ここではあらためて冷静な眼で観察することができた。竹鶴は設備の一つ一つを克明にスケッチし、製造する容量から職工の賃金に至るまでメモをとった。
「どうぞご遠慮なく。ウイスキー造りには、世間の人が考えるような秘密なんぞありゃしません。なにしろ、まったく同じものを造っているつもりが、自然というやつの微妙な働きで年ごとに出来が違っているくらいですから」
イネス工場長はこう言って太鼓腹の底から豪快に笑った。竹鶴にとってなによりもありがたかったのは、この工場長の存在だった。いままで職工たちから体験的に学んできたことを、工場長の知識と説明を得て、新たに体系立てて学ぶことができたのである。
夜はリタの待つ部屋に帰った。リタはキャンベルタウンに来て以来、ますます読書を好むようになっていた。竹鶴が机で一日のメモを整理していると、リタは仕事の邪魔にならないように黙って開いた頁に目を落し、ときおり励ますような眼差しを向けた。竹鶴はノートにペンを走らせながら、この結婚がけっして間違いでなかったことに確信を深めていた。
春を迎え、ようやく日本から手紙が届いた。竹原の両親からであった。
〈……碧《あお》き眼の異国の女と婚姻されたき由、甚だ驚き入り候。そのことばかりは、返す返すも御見合せ下さるべく存じ候〉
筆跡は母のものであった。長い文面を目にしていると、浜竹の奥座敷で硯《すずり》を前に端座した母の小柄な姿が浮ぶ。
文面には、両親の狼狽《ろうばい》ぶりがにじみでていた。どうやら親族会議も開かれたようである。その結果が記されていないところを見ると、誰もがこの結婚話に反対であったのだろう。留学にあたってはおまえの願いを聞き入れ、家業を親戚《しんせき》に譲ってまでして父と母は許した、だから今度は親の希望を容《い》れ、英国女との結婚はやめてほしい。母はそう書いている。末尾には、
〈……当地では政孝を婿にほしいと言ふ話がいくつも参り居り候。お前様さへよければ、すぐにでも写真を送りませう〉
と加えられていた。
リタが心配そうに覗き込んでいた。このままでは見合写真を送ってくる。手紙ならまだしも、写真まで送られてはいっそう厄介になる。
竹鶴は折り返し、手紙を書いた。両親の心配ももっともかもしれない。しかしそれは、西洋の女をよく知らないからである。前便で知らせたように、リタは医師をしていた名家の出で、気だても優しい。心の細やかさなど、日本の女以上で、日本に行ったら日本女になりきるというけなげさである。だから、少しも心配いらない。それに自分としても、帰朝後はウイスキーを造るつもりだから、英国人の妻がいたほうが、なにかと便利だ。
最後の言葉は方便であったが、竹鶴は自分の決意が固いことを告げ、是非許してくれるよう重ねて記した。
「日本では、親の許しがないと結婚できない。だが、もう大丈夫。なにしろ外国人を見たこともないので、心配しているだけなんだから」
カウン家では、妹ルーシーの説得などもあって時間が経つにつれ、リタの母の気持もしだいにほぐれていた。リタは竹鶴の言葉を耳にし、ようやく少し安堵《あんど》の色を浮べた。
キャンベルタウンはクライド湾に面した古い港町である。同じスコットランドでも、ハイランドの峻厳《しゆんげん》な高地や曠野と違って気候も穏やかで、四月に入ると町を囲む牧草地帯には金鳳花《きんぽうげ》や蒲公英《たんぽぽ》が花をつけた。
町はずれの牧場はなだらかな丘陵になっており、散策の足を伸ばすと、町並みと入江が望見できた。入海からクライド湾に広がる海はかつてロセマウスの港で見た猛々《たけだけ》しい北海と異って鏡のように静まり返り、柔らかな春の陽射しに輝いていた。
リタと肩を並べ、故郷の瀬戸内をおもわせる海を眺めていると、想いはいつか故国日本に立ち返っていった。
自分の留学は自分ひとりだけのものではない。竹鶴はスコットランドへ来て以来、この言葉を忘れたことはなかった。ウイスキー造りを伝えるのは摂津酒造のためであり、同時に日本の洋酒界のためでもあった。
その際に求められるのは、まず技術の習得だ。ウイスキー製造技術は人間の勘によるところが多いが、その最たるものはブレンド技術だろう。
ウイスキーの生命ともいうべきモルト・ウイスキーは、立地条件や製造方法によって味や香りはさまざまだ。十の蒸溜所があれば十種類の異ったモルト・ウイスキーができるものであり、さらにそれぞれ製造時期や貯蔵年数によっても異る。それらは人間と同じく、長所もあれば短所もある。よい例は、ここキャンベルタウンのモルト・ウイスキーである。
――なんや、これ。
摂津酒造の阿部社長や岩井常務だったら、恐らくこう叫ぶであろう。飲めしまへんで、と竹鶴も摂津時代の大阪弁を使って心の中で悪態をついたほどである。
一般にモルト・ウイスキーは癖が強い。それでも、ハイランド各地のものは、それぞれ重厚さのなかにも輝きがあった。だから、慣れるとブレンディド・ウイスキーより格段に旨《うま》い。ところが、キャンベルタウンのものは、香りといったら思わず鼻をつまみたくなるほどなのである。
だが不思議なことに、キャンベルタウンのものとハイランドのものを混合《ヴアツテイング》すると、見違えるように旨くなる。なぜだか解らないが、ともかく驚くほど旨くなるのである。それをさらにグレイン・ウイスキーとブレンドし、マッキー社では〈ホワイト・ホース〉として発売する。
――ブレンドは神秘である。
という言葉がある。竹鶴はイネス工場長の下でその意味をじっくり噛《か》みしめることができた。モルト・ウイスキーが造られたのち、樽の中で眠りながら成長するのが、時と自然の恵みによるものだとすれば、各種モルト・ウイスキー同士を混合《ヴアツテイング》し、グレイン・ウイスキーとブレンドする技術は、ブレンダーの鼻のみが行う魔術といっていい。
四か月に及ぼうとするキャンベルタウン生活で、竹鶴はモルト・ウイスキー造りからブレンド技術まで、学べるだけは学んだつもりだった。しかし、ウイスキー造りは技術だけでは実現しない。原料の供給、工場設備、立地条件、技師・職工の人材、販売路……、これらのどれ一つが欠けても成り立たない。
日本ではたして、スコットランドと同じように本格ウイスキーを造れるものだろうか……。
これは日本出発以来の重い課題だった。
なんといっても自然風土が違う。日本も酒造りが盛んなだけに、水はいい。気温もスコットランドより高いとはいえ、夏期を避ければ問題はあるまい。貯蔵に必要といわれる湿度も充分である。ただ、大麦や草炭《ピート》となると、話は別だ。この国でウイスキー造りが始まったのも、良質の大粒な大麦が採れ、無尽蔵のピートを麦芽乾燥用に使えたからである。
だが、ヘーゼルバーン蒸溜所で、ある日思いがけない発見をした。ここで使っている大麦がハイランドで見ていたものと少々違う気がしたのである。念のため確めると、カナダ産だという。手にとって眺めると、日本のものに大変似ている。
――そうなんです。昔と違って、農村の若者たちも手っ取り早く金になる炭鉱に行きたがって……。最近、使っているのはもっぱらカナダ産ですな。もちろん、スコットランド産に較《くら》べて、なんら遜色《そんしよく》ありませんとも。
イネス工場長はそう説明してくれた。
カナダ産大麦でスコッチウイスキーが造れるなら、日本産も立派に通用するはずなのである。
竹鶴はこの事実に巨《おお》きな味方を得た思いだった。
イネス工場長はまた、ピートの問題に対し、こう答えてくれた。
――確かにスコッチウイスキー特有の燻香《スモークト・フレーバー》はピートにあります。しかし、ほぼ同じ香りをピートなしで出せんことはないでしょう。なぜかというと、あの香りはピートだけでなく、大麦自身にも含まれているからです。ですから乾燥に際し、大麦自体のもつ芳香を最大限引き出す工夫をすればいいんです。
ピートが日本で採れるものかどうか、竹鶴はまだ調べたことはなかった。しかし、たとえ採れなくとも、イネス工場長の言葉のように方法はある。最悪の場合は輸入する手もあるだろう。
竹鶴は日本におけるウイスキー造りにしだいに自信を深めていた。リタを伴って帰国したあかつきには、摂津酒造ですぐ準備に着手することになるだろう。ここ数日はその日のために、技師や職工の待遇問題にまで報告書の筆を進めていた。
スコットランドでは、蒸溜所の職工は週五日半の労働で、日本円に直して週給三、四十円を貰《もら》う。技師ともなればさらに収入は多い。しかも日曜日には教会に集い、一家|揃《そろ》って団欒《だんらん》を楽しむ。この日は蒸溜所だけでなく、山間|僻地《へきち》に至るまで国民こぞって仕事を休むのだ。
日本ではどうだろうか。
休日はわずかに月二回、それも職工は日給であるから給金は貰えない。生活の安定を欠くのは、中産階級たるべき技師社員も同じことだ。もちろん、日本には日本の事情がある。しかし、職工に対して少なくとも月二回の公休日は平日給金の半額を支給し、日曜日には一時間程度の早引きの制度を設けてもいいではないか。技師社員なら支障のない限り日曜日は休むようにしたいものである。
こうして、生活に余裕をもたせ、人格の向上をはかることは生産性の向上にもつながる。職工の定着率が高まれば作業能率も上り、自社の製造方法の秘密保持にも役立つ。
要はこの国のように仕事の効率を第一に考えることではないのか。そして、退社時間が来たら、〈誰ニ遠慮ナクサツサト仕事ヲ終ツテ帰リ、家族ヲ持ツモノハ皆揃ツテ楽シイ夕ベヲ過スト云フヤウニナツテ欲シイト思ヒマス。コレハ単ニ人生ヲ有意味ニ暮スト云フ事ノミナラズ、凡ソ人トシテ踏ムベキ道デハアリマセンデセウカ〉。
このように報告書を結んだのである。
伝えるべきは、たんにウイスキーの製造技術だけであっていいはずはない。ウイスキー造りの伝統を受け継ぎ、心を籠《こ》めて造り上げる造り手、そのウイスキーに対してふさわしい飲み方のできる飲み手、そのいずれもが誕生して初めて、ウイスキーが日本という風土に根づくのではあるまいか。
竹鶴は傍のリタに目を遣《や》った。リタは自分を大きな夢に生きていると言ってくれた。その夢は自分の力に及ばない壮大なものかもしれない。しかし、いま夢に向って自分は一歩ずつ近づきつつある。自分と共にウイスキー造りの道を歩んでくれるという妻のリタがいる。
留学三年目を迎えた二十六歳の竹鶴は、茫洋《ぼうよう》と広がるクライド湾の彼方《かなた》に、はるかなる日本を夢みていた。
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第三章 国産ウイスキー第一号
大正九年(一九二〇)、秋も深まった十一月。横浜港大桟橋にシアトルからの日本郵船客船、伏見丸が接岸した。
この日、出迎えの人波の中には、竹鶴の妹|沢能《さわの》の姿があった。二十三歳になった沢能は、縁談がまとまり、嫁入り準備のため在京の姉を頼って上京中だった。
「どこにおるんかいな」
「あそこや。阿部社長が帽子振っとられるやないか。隣におるんが竹鶴はんや」
「ほんまや。いつのまにやら口髭《くちひげ》はやしよって。洋行帰りの貫禄やな」
先ほどから大阪弁で大声を上げているのは、摂津酒造の東京出張所員らしい。
沢能は男たちの視線を追った。甲板の乗客の中に、なつかしい兄政孝の顔が見える。一昨年の初夏、神戸の港で見送ったときは心もち緊張で蒼《あお》ざめているように感じられたが、いまは口許《くちもと》を綻《ほころ》ばせ、隣の紳士と談笑している。口髭をたくわえた浅黒い顔はいちだんと逞《たくま》しくなったようだ。
紳士は摂津酒造の阿部社長、そして兄の隣に並んだ女性が……。沢能は明るい色のドレスに身をつつんだ西洋女性に目を移した。
兄政孝が英国女性と結婚すると手紙で告げてきて以来、竹鶴家は上を下への大騒ぎだった。竹原からスコットランドへ結婚を思い留《とど》まるよう説得の手紙が出され、二度にわたって親族会議が開かれた。遠い異国のことだけに、両親はうろたえ、気を揉《も》むばかりだった。あのとき、長姉の夫がこう言い出さなかったら、兄政孝は勘当になっていただろう。名古屋の医大に勤める義兄は、医者らしく冷静な口調で集った一同を諭した。
――毛唐の女だからといって頭から毛嫌いするのはどんなものでしょう。ご存じかもしれませんが、新渡戸稲造博士や尾崎行雄さんも国際結婚されて立派な家庭を営んでおられる。要は相手次第です。政孝君が結婚したいという娘さんは、なんでも名家の出というじゃありませんか。
義兄の言葉に、ようやく母チョウが折れた。わたしもずっと反対でしたが、言われてみれば碧い眼の嫁といっても同じ人間、気立てさえよければ情は通じます。ここは政孝を信じて、結婚を許してやったらどうでしょう。
家名が汚れる、と反対していた父も、母の意見にしぶしぶ頷いた。ただし、政孝をいったん除籍し、新たに分家届けを出してからとの条件付きである。
折しも、摂津酒造の阿部社長が欧州視察旅行に出る旨、報《しら》せを寄こした。視察を終えたのちは政孝を伴い、アメリカ経由で帰国する予定だという。そこで竹鶴家では、政孝に結婚許可の電報を打つとともに、阿部社長に息子とその英国人妻を連れ帰るよう依頼したのだった。
兄嫁となったリタがいま、初めて日本の土を踏もうとしている。笑みを浮べた兄とは対照的に、リタの表情はこわばり、固く結ばれた唇の紅だけが、欧米人特有の白い肌に鮮やかだった。
下船の合図があったらしい。甲板の人波が揺れ動き、いつのまにか兄と阿部社長の姿が消えていた。ひとり取り残されたリタは蒼白《そうはく》な顔に怯《おび》えたような表情を浮べ、慌てて甲板の乗客に目を走らせたが、やがて近づいてくる兄の姿を認めると、安堵の表情を取り戻し、初めて笑みを見せた。
「リタ、妹の沢能だ」
政孝は摂津酒造の社員たちと挨拶を済ませると、出迎えの妹を見つけ、リタに紹介した。
「ドウゾ、ヨロシク」
たどたどしい日本語とともに手が差し出された。沢能は一瞬ためらったが、思いきってその手を握った。手入れの行き届いた白い手からは、嗅《か》いだことのない香水の香りが立ち昇った。
「こりゃ困った。おまえが着物の後ろに着けているのは何かと訊《き》きおる。何と説明したらいいんだ」
政孝はリタの言葉を通訳しながら、笑った。沢能のお太鼓のことらしい。
「早く日本のことを知りたいと言って、このとおり質問攻めだ。船の中でも箸《はし》を貸して下さいと言い出した。なんせ日本で暮すには箸くらい使わにゃならんけん、練習するいいよる……」
政孝は照れくさそうに笑い声を上げた。リタはほほえみを絶やさず、兄妹の姿を見くらべている。背は兄よりも高いぐらいだ。明るいカナリヤ・イエローのドレスが白い肌と碧い大きな瞳《ひとみ》に気品を添えていた。まるで西洋の活動写真を見るようだ。沢能は遠い国からやってきた兄嫁に、気恥しさと同時にひそかな誇りをいだいた。
その夜、摂津酒造東京宿舎では帰朝歓迎の宴がもたれた。
「留守中、お世話になりました。長い間、イギリスで勉強させてもろうて感謝しております。おかげさんで、本場で本格ウイスキーの造り方をじっくり研究できました。本社に帰りましたら、その日から留学の成果を生かして本格ウイスキー造りに取り組む決意です。準備はすべて整っています。本格ウイスキーにふさわしい嫁はんまで貰うてきました」
竹鶴が隣に控えたリタを改めて紹介すると、宴に連なった社員たちは二人に喝采《かつさい》を浴びせた。だが、阿部社長ひとりは浮かない顔で拍手に加わっている。旅行中も、阿部は竹鶴の摂津酒造本格ウイスキー製造計画に耳を傾けるだけで、自分からは一切話題にしなかった。そのことを思い浮べると、竹鶴の心にかすかな翳《かげ》りがさした。
歓迎の宴を辞する時が来ると、リタは社長以下ひとりひとりに「グッド・ナイト」と言って手を差し出した。
――グッド・ナイト。
初めて接する外人の一挙手一投足に目を瞠《みは》っていた社員たちは、照れながら同じ言葉を返した。摂津酒造東京出張所では、以後しばらくの間、社員たちは顔を見合せてはグッド・ナイトを口にした。
大阪の住吉では、竹鶴夫妻のために姫松(現|帝塚山《てづかやま》)に一軒の家が用意されていた。阿部社長が船中から電報を打って借り上げさせておいたものだった。
「まあちゃん、リタはん異国でひとりっきりやさかい、大事にしたげななあ。気いついたことはしときましたが、不便なことあったらなんぼでも遠慮のう言わはるように、よう話しといてや」
阿部夫人タキは、リタのために寝台を運び入れ、洋式便所を取り付けさせていた。
――マキさんもお元気やろうか。
竹鶴は訊《たず》ねてみたい気もしたが、口にはしなかった。阿部社長が自分を娘婿候補と考えていたことは、うすうす感づいていた。しかし、こればかりは仕方がない。なんら約束があったわけではないのだから、社長令嬢マキとのことは、自分ひとりの思い込みであってくれればよいのだ。竹鶴は以前と変らず我が子同様細々と気を配ってくれるタキ夫人に、感謝と同時に心苦しさをおぼえた。
借家は家賃が月五十五円だった。決して安くはないが、帰国後の摂津酒造では技師長待遇を受けて月給百五十円ほどが支給されたから、生活には困らない。
――マアチャン。
リタはタキ夫人に倣い、英語の会話のなかで竹鶴をこう呼ぶようになった。
「リタ、日本ではそういう呼び方を、妻が夫にするものではないんだ」
「でも、マサタカサンとは呼びづらいし、他人みたいです」
考えてみれば、リタの言うとおりだ。欧米風に敬称なしでマサタカと呼ばれるよりはまだよかろう。結局、マサタカサンを縮めてマッサンにしましょう、とリタの意見が勝った。
「マッサン、お仕事が忙しいのはわかります。でも、日曜日は安息日ではありませんか」
日曜休日を返上して出社する竹鶴を、リタは怪訝《けげん》な面持ちで見送った。
「仕方がないんだ。前にも話したように、日本ではおまえたちの国より余計に働かなくてはやっていけない。ほかの社員が働いているのに、自分ひとり休むわけにはいかんのだ」
「わかっています。ただ、お身体が……」
「俺のことは心配いらん。柔道で鍛えあげてある。それよりも、おまえのほうこそ気をつけなくては」
日本にやって来る欧米人が、何にも増して閉口するのは夏の暑さと湿気だそうだ。少女時代、あまり身体が丈夫でなかったリタだけに、一日も早く日本の気候に慣れ、生活に馴染《なじ》んでほしい。そのためにも、日曜日くらいは一緒に過し、心の安らぎを与えてやりたい気持は山々だった。
しかし、竹鶴にはもっと気がかりなことがあった。リタには話さなかったが、勇んで帰国し、摂津酒造に戻ってみると、本格ウイスキーの製造計画は棚上げにされていたのである。
第一次大戦の終焉《しゆうえん》にともない、戦後恐慌が始まっていた。未曽有の大戦景気で沸いた各業界は軒並み操業停止や操業短縮に追い込まれ、あげくに倒産する業者も少なくなかった。
酒造業界も例外ではなかった。竹鶴がスコットランドへ派遣されたのは本格ウイスキー製造のためだったが、不況風の吹き始めた現在では、大規模な設備投資を行う余裕などなくなっていたのである。
せめて、工場のどこかに単式蒸溜器《ポツト・ステイル》だけでも据えつけてもらえたら……。
帰国後、従来どおりアルコールにエッセンスを処方、添加する仕事を繰り返しながら、竹鶴の心はモルト・ウイスキーに飛んでいた。ウイスキー造りにふさわしい土地を捜し、新たに工場を建てるのが無理なら、現在の工場敷地内で構わない。設備も最小限に抑えてみせよう。模造ウイスキーを即時本格ウイスキーに切り換えろとはいわない。が、たとえ一パーセントでもモルト・ウイスキーを加えれば、品質は見違えるほどよくなることを知ってほしいのだ。
竹鶴は繰り返し岩井常務や阿部社長に説いた。そして、諸設備と予算見積りを〈本格スコッチウイスキー醸造計画書〉としてまとめ上げた。
「そうやな。一日も早う実現したいもんや」
二人はこう返事をするものの、数か月、半年と時は過ぎても話は一向に具体化する様子はなかった。
なんのために自分はスコットランドへ行ったのだろう。
竹鶴は模造ウイスキーが樽《たる》詰めされ、出荷されていくのを眺めてはいらだった。世をあげて不景気なのはわかるが、これではいつまでたっても日本のウイスキーはまがいもののままではないか。会社にとっても、自分を英国へまで遣ってくれた意味がない。だいいち、本当のウイスキーの造り方を知ってしまったいま、ウイスキーの名の下にエッセンスを処方してアルコールに添加するなどという邪道は、技術者として耐えがたい。
大正十年も晩秋を迎えていた。帰国してからやがて一年になる。
「社長、この前からお願いしとります本格ウイスキーの件、いかがでっしゃろか」
竹鶴はなんとか造らせてほしいと重ねて懇願した。
「わかっとる、わかっとる。もうちょっとや、もうちょっとだけ待っといてや……」
阿部社長は竹鶴の縋《すが》るような言葉に気圧《けお》され、次回の役員会にかけることを約束した。
「どないでっしゃろか。いま言いましたように、洋酒はこの先どんどん伸びますねん。正直いうて、模造ウイスキーはいまやからこそ通用してますが、その時になったらあきまへん。ほんまもんのウイスキーを造らんかったらあかんのだす」
阿部社長が最後の念を押すように言い終ると、重役陣のあいだには重苦しい沈黙がいっそう広がった。この日の議題は〈スコッチ風ウイスキーに取り組むか否か〉である。ある者は竹鶴の手になる〈本格スコッチウイスキー醸造計画書〉に目を落し、ある者は腕組みをしたまま天井を睨《にら》んでいる。
「冒険だすな」
役員会の雰囲気を代表するように、営業担当重役が一言放った。その言葉をきっかけに、重役たちはわれ先に発言を求めた。
「初めは規模を小そうにいうても、銭のかかることには違いがあらしまへん。こないなご時世に、急いでやらんでもええのんとちゃいますか」
「モルト・ウイスキーいうのんは、三年も五年も貯蔵せなあかんいいはりましたな。その間どないしますねん、金利もぎょうさんかさみまっしゃろ」
「金利もそらそうだすわな、品物のほうかてでけてみんことには何とも言えんのとちゃいまっか。万が一にだすな、三年も五年もかけたのに失敗《しくじ》った、売れへなんだ、なんちゅうことになりよったら取り返しのつかんことになりまっせ」
阿部社長は並みいる重役たちを見渡した。反対する重役たちの意見ももっともだ。なにしろ時期がまずい。好況で沸いていた三、四年前なら、なんら問題なく実現できたであろう。反対意見はさまざまだが、つまるところは摂津酒造の財政が苦しくなっていることに尽きる。
阿部は援護射撃を求めて岩井に視線を移した。大阪高工で竹鶴の先輩に当り、自分の片腕となって本格ウイスキー製造計画を推し進めてきたこの男さえ、この日は一言も発さず、押し黙って書類を見つめているだけだ。
「わかってます。なるほど金繰りも苦しゅうなっとるのんは承知してます。そやけど、竹鶴もかわいそうやおまへんか。はるばるスコットランドまで勉強に行ってきて、苦労もしこたましてきよった。ここはひとつ、やらせてやってもええとわたしは思いますのやが……」
「社長はん」
と、阿部社長を遮ったのは、銀行出身の重役だった。
「わしら竹鶴君ひとりのために道楽しとる余裕なんかあらしまへんで。いまの摂津酒造には、はっきり言うて、事業を拡張する力はありまへん」
もはや、社長の権限をもってしても、どうすることもできなかった。
年が明けて大正十一年を迎えていた。産業界の不況はますます深刻化し、工場閉鎖、休業、操業短縮が相次いだ。
街頭には浮浪者や行路病者が目につくようになり、職業紹介所には失業者が群がった。前年からこの年にかけ、大阪市内外の工場だけで一年間に一万二千余名が職を失っていた。この年実現することになった陸、海軍の軍縮が、不況に拍車をかけるであろうことも明らかだった。
――竹鶴君、本格ウイスキーの件、やっぱりいまは無理や。もうちょっとだけ、景気が持ち直すまで待っといてくれや。昔と違うて、わしの独断ででける時代やのうなったんや。
阿部社長の返事は半ば覚悟していたものの、衝撃は大きかった。景気の見通しが暗いことを考えると、摂津酒造では本格ウイスキーを造らないという最終宣告に等しい。
本格ウイスキー製造という事業目標あればこそ、自分は英国に遣わされ、準備に邁進《まいしん》してきた。もし、本格ウイスキーを諦《あきら》め、いままでどおり模造ウイスキーを調合するだけなら、自分でなくてもできる者はいくらでもいる。自分が技師長として高給を食《は》む意味はないではないか……。
残された道は、身を退くことしかないように思われた。
社長に何と申し上げたらよいだろう……。竹鶴は退社を決意しながら、悩んだ。もともと洋酒の世界に入ることになったのが阿部社長の配慮なら、思いもかけず英国でウイスキー造りを学ぶことができたのも阿部社長の尽力だ。就職に際して家業の酒造業を継ぐまでと無理を言って働かせて貰い、留学に際しては両親の説得にまで乗り出してもらった。摂津酒造を去ることは、そうした阿部社長の恩を仇《あだ》で返すことにほかならない。
しかし一方、これ以上模造ウイスキーを調合するのは耐えられなかった。スコットランドで二年余り、苦労を苦労と思わず学んだのも、一日も早く日本でウイスキーの名に値する本格ウイスキーを造らんがためだった。阿部社長の気持も同じだったはずだ。
いま摂津酒造を辞めて、当てがあるわけではない。しかし、資金のめどがつきしだい、どんなにささやかなものでもよいから自力で本格ウイスキーを造るつもりだ。そして、その夢が実現したら、真先に阿部社長にお持ちし、摂津酒造で使っていただく。いまはわかって貰えなくとも、その時になれば、きっと自分の選択を許して貰えるはずだ。
竹鶴は長い逡巡《しゆんじゆん》ののち、丁重に一通の辞表をしたためた。
「本気かいな」
竹鶴の差し出した辞表に目を通しながら、阿部は大きく肩を落した。
窓の外には曇天が広がり、葉をそぎ落した木々の枝には固い蕾《つぼみ》が綻びはじめていた。竹鶴は、初めてこの社長室を訪れたのが、やはり早春の季節であったことを思い出した。あれはまだ大阪高工卒業を前にした大正五年のことだから、六年前になる。
「君が辞めたい言う気持もわからんでもないが、どうや、もうちょい辛抱してみいへんか。わしはこの摂津で、君にほんまもんのウイスキーを造ってほしいのや。その気持はちっとも変ってえへんのやで」
「……社長はんのお気持、本当に有難う存じますが、やはりしばらく浪人してみよう思います」
いつか、きっと御恩に報いる日が来ます。竹鶴は心のなかでこの言葉を噛みしめながら、退社の決意を重ねて告げた。残念だが、これ以外に方法はなかった。
――そうか、辞めてしまうんか……。
早春の夕暮、通い慣れた道を家路へ辿《たど》りながら、竹鶴の耳からは阿部社長の沈んだ声がいつまでも消えなかった。この年、竹鶴は二十八歳を迎えていた。
酒屋の壁に一枚のポスターが貼《は》られた。渋いセピア色に刷り上げられた画面中央には、肌を晒《さら》した若い女性が葡萄酒グラスを片手に艶然《えんぜん》とほほえみかけている。グラスにたたえられた深緋《こきひ》色の液体は、含羞《がんしゆう》と大胆さをあわせもつ大正美人の眼差《まなざ》しと相俟《あいま》って、眺める者の心をあやしくかきたてた。画面の下には浅緋《うすあけ》の抜き文字で、〈美味 滋養 葡萄酒 赤玉ポートワイン〉とあった。寿屋による、わが国初のこのヌード・ポスターが世間を驚かせたのは、大正十一年。竹鶴政孝が摂津酒造を去った年のことである。
寿屋の鳥井信治郎が赤玉ポートワインを製造発売したのは、明治四十年。鳥井は発売後さっそく〈洋酒問屋。親切ハ弊店ノ特色ニシテ出荷迅速ナリ〉と新聞に広告を出している。葡萄酒の販売に新聞広告を使おうとは、まだだれも考えなかった時代のことである。
寿屋の創業八年目に発売したこの商品は、当った。輸入した生《き》葡萄酒を日本人向きに甘味剤や香料を添加し、飲みやすくしたためである。寿屋はそののち〈ヘルメスウ井スキー〉〈赤玉ムスカト葡萄酒〉〈トリスウ井スキー〉〈トリスウ井スタン〉と次々に新製品を発売したが、主力商品は〈赤玉ポートワイン〉だった。
ちょっぴりハイカラで、口当りもいいこの甘味葡萄酒は、鳥井の宣伝力と販売力の巧みさに支えられ、伸びつづけた。戦後恐慌で不況風が吹き荒れたこの時代も、赤玉ポートワインだけは売れた。寿屋では三年前、大阪の築港《ちつこう》に本工場を、市内西区富島町には輸出専用の保税工場を設け、委託をやめて自社生産に入っていた。
赤玉ポートワインが軌道に乗るにしたがい、鳥井は本格ウイスキーの製造と販売を考え始めた。ウイスキーこそ洋酒の王者、ここでひとつ〈ヘルメスウ井スキー〉のような模造でなく、正真正銘の本格ものを造ってみたい。
鳥井の本格ウイスキー製造計画には、摂津酒造の場合と同様に寿屋の全役員が反対した。スコットランド以外の土地で、はたして造れるのか、長い年月の貯蔵期間中、資金や金利はどうするのか、出来上って品質が思わしくなかったら……。反対理由はいずこも同じだった。
しかし、鳥井には切札があった。ヌード・ポスターの商品だ。赤玉ポートワインという安定商品があるいまこそ、新製品に挑む好機であると訴えたのである。強引に反対意見を捩《ね》じ伏せると、鳥井はただちに本場英国から技師を招くべく、三井物産ロンドン支店に人選を依頼した。
鳥井の許には、ロンドンから折り返し返事が届いた。ウイスキーの権威であるスコットランドのムーア博士に交渉を進めたところ、日本にはミスター・タケツルという適任者がいるはずだと聞かされたという。念のため調べてみると、竹鶴氏はつい最近摂津酒造を退社、現在は勤めに就いていないはずだ、とも付記してあった。
そうや、竹鶴君がおりよった。ころっと忘れとったが、そうや、あの男がおったんや。
鳥井は五年前、青年の洋行に当って神戸港に見送りに出かけたことを思い出した。摂津酒造と取引きが少なくなるにしたがい疎遠になっていたが、あの竹鶴なら腕も人物も信用できる。模造ウイスキーの調合とはいいながら、かつてあれほどにも厳格に仕事と取組んだ男だ。留学の成果は確実に挙げているに違いない。同じ招くなら、外国人より日本人のほうが何かと好都合ではないか。
大阪の阿倍野に英国伝道協会によって創設された桃山中学があった。摂津酒造を退社して浪人生活を送っていた竹鶴は、妻リタが校長ローリングの夫人と親しくなっていたところから、この中学で化学を教えることになった。
「やっと日曜日が安息日になりましたわ。ワタシ、アナタトギョウサンイッショ、ウレシイ。コノニホンゴ、エエデスカ」
日本語を習い始めていたリタは、ときおり会話にあやしげな日本語を使い、竹鶴を笑わせた。リタ自身も、帝塚山学院で教えるかたわら、英語とピアノの個人教授をして家計を助けている。
摂津酒造に在社中のおり、竹原から一度、母チョウが訪ねてきたことがあった。お母さんにどう挨拶しましょう、何を造って食べていただきましょうか、とリタは何日も前から気を揉んだ。
出迎えに行った竹鶴が母を伴って戻ってみると、リタは和服に帯を締めて日本髪を結い、いささか表情を固くして初対面の姑《しゆうとめ》を待ち受けていた。
リタは玄関で膝《ひざ》をつき、深々と頭を下げた。
「オカアサマ、ヨロシイ、オネガイマス」
竹鶴はリタの挨拶を聴いて、いきなり笑い出した。母も、女中も、こらえきれず吹き出した。ひとり困惑顔のリタに竹鶴が誤りを正してやると、リタは顔をあからめ、今度は間違いなく、ヨロシュウ、オネガイイタシマスとふたたび頭を下げた。
初対面のよそよそしさが吹き飛ぶと、母とリタは竹鶴を通訳にしてしゃべり始めた。竹鶴が中座して戻ってみると、リタは片言の日本語と手ぶりとで、一所懸命母に話しかけていた。
――政孝、よい嫁さんじゃのう。よう気がつくし、心もやさしい。まるで日本の女子《おなご》のようじゃ。
リタが席をはずすと、母はそっと囁《ささや》いた。
翌日、母は晴れやかな顔で帰っていった。
「わたし、早く日本語を覚えなければ。話すだけでなく、書いたり読んだりできなければいけませんわね」
だれかいい先生がいないかという声に、竹鶴はしばらく思案していたが、やがて口を開いた。
「リタ、いくら頑張っても、おまえにとって日本語はしょせん外国語にすぎない。不自由なく話せるようにさえなればいい。読み書きは無理に勉強する必要はない。それよりも、日本の料理を習ってみたらどうか。日本料理は日本語に劣らず難しい。一人前に日本料理が造れるようになれば、立派な日本人だ」
竹鶴は自身のスコットランド留学生活を思い起してこうすすめた。
いまでは、竹鶴のすすめにしたがい、近所の夫人たちから日本料理も習い始めているらしい。今度竹原からオカアサマがいらしたときは、スイモノとオスシでもてなしたい、日本のオヨメサンのように。リタはそんな言葉を口にした。
浮草のような浪人生活ではあったが、姫松の家は、ピアノを習いにやってくる少女たちの明るい声に満ちていた。リタも子供たちに負けず、朗らかな声を上げた。潮が引くように子供たちが帰ると、リタは傍の竹鶴に言うともなく呟《つぶや》くことがあった。
――子供がいるって、賑《にぎ》やかでいいものですね。
たくさんのきょうだいに恵まれた幼少時代を振り返り、竹鶴も頷《うなず》いた。幼い頃から病気がちだったというリタの健康が心配だったが、いつかその時も来るだろう。
屈託のないリタの笑い声を耳にしていると、不安や鬱屈《うつくつ》を覚えることはなかった。
年が明けて大正十二年の春、姫松の竹鶴家に思いもかけない来客があった。永らく疎遠になっていた寿屋の鳥井信治郎だった。
「ウイスキー造りたいのや。竹鶴はん、ほんまもんのウイスキーを造るつもりなんや」
鳥井は挨拶もそこそこに切り出した。
「竹鶴はん、いま日本に輸入されとる洋酒のおあし、なんぼしてるか知ってはりますか。ぜんぶで二百万、三百万円にもなりますのや。日本で本場に負けんウイスキー造れたら、半分に減らせます。それがでけるの、日本で竹鶴はん、あんただけや」
摂津酒造を辞めてやがて一年になる。むろん竹鶴も、一介の化学教師で終るつもりなどさらさらなかった。なんとか本格ウイスキーを造りたいと、再三再四、機会を求めてはいた。
「正直いいましてな、ウイスキー造りはあんたはんのほかに誰も知らしまへん、あんたはんの財産を頼むしかないのだす。どうやろ、一切合切任せるよって、寿屋で働いてくれはらしまへんやろか」
入社条件は、ウイスキー製造に関してはすべて竹鶴に任せる、そのために必要な資金を用意する、製造が軌道に乗るまで十年間は働く、という三点だった。
「年俸は四千円出します。どうやろか、竹鶴はん」
語り終えて笑顔を見せながら、眼だけは笑っていなかった。敏腕をうたわれた大阪商人の眼は、十五歳下のこのウイスキー技師を試すように見つめた。
当時、大学卒業生の初任給が月給で四、五十円、高文試験を通った高等官官吏で七十円、総理大臣になって千円であったから、四千円の年俸は二十代の青年にとって破格の待遇といっていい。
――さて、いよいよだな。
鳥井が去ったあと、竹鶴は客間でひとりごちた。突然の申し出であったため即答は避けたが、すでに肚《はら》は決っていた。高額の年俸も当初、ムーア博士|招聘《しようへい》の条件として提示した額だという。同じ仕事をして貰《もら》うんやさかい、当然同じおあし払わせて貰います。鳥井がここまで自分を信じてくれるのかと思うと、嬉しかった。
まず、何から手掛けるべきだろうか。工場の土地捜し、施設設備の設計、原料の手配と生産計画、技師・職工の募集……。手掛けるべき仕事は次から次に浮んでくる。明日からは早速、留学時代のノートをひもとき、机に向わなければなるまい。
「よいお話でしたの」
いつのまにかリタが傍の椅子に坐っていた。
「そうだ。とうとう日本で本物のウイスキーを造る機会がやってくる。また、忙しくなるぞ」
はずんだ声に、リタもひき込まれるように耳を傾けた。妻の前で鬱屈した表情こそ見せなかったが、竹鶴が今夜のように嬉しそうに話をするのは、二年余り前に帰国して以来初めてのことだった。
この年六月、竹鶴は寿屋に正式入社した。まず最初の仕事は、工場の用地を定めることだった。竹鶴のかねてからの持論は、スコットランドの風土に似た北海道である。
「あきまへん。北海道いうたら、あんさん、大阪から何日かかると思《おも》てはんのや」
一切を竹鶴に任せると約束した鳥井であったが、一方で大阪商人の合理主義は徹底していた。
「そやかて、ウイスキー工場には立地条件いうのがあります。空気、水、気温、湿度……それに草炭《ピート》が採れるか採れんかとなったらなおのことだす」
「わかってま。そやけど、もっと大事なこともありまっしゃろ。これからの時代はな、お客はんに工場見学に来てもらえるようやないと損や。見学に来てもらえん場所というのでは、宣伝に不利なんや。品物《しなもん》も売れしまへんで。大阪から近うのうてはあきまへん」
鳥井は自説を曲げなかった。口惜《くちお》しい気持を、竹鶴は辛うじて押えた。摂津酒造時代、工場の片隅にでもと念じた日々にくらべれば、まだしもではないか。
大阪の近所にかて、スコットランドみたいな土地がないとは限らんやないか、探してみなはれ、探してみなわかれしまへんで――。鳥井は商人の気魄《きはく》をみなぎらせてたたみかけた。
モルト・ウイスキーの製造には、自然風土の微妙な働きが大きな影響を及ぼす。その最大のものは水質であろう。北海道が許されないとなれば、次善の土地もやむをえない。竹鶴は水質と交通の便とを主眼に、候補地を物色した。大阪周辺という制限内で最後に残ったのは、佃《つくだ》(大阪府西成郡)、小林《おばやし》(兵庫県|武庫《むこ》郡)、吹田《すいた》(大阪府三島郡)、枚方《ひらかた》(大阪府北|河内《かわち》郡)、山崎(大阪府三島郡)、などである。
――山崎がいいと思います。ほかは足の便はともかく、肝心の水質がもう一歩です。
これが竹鶴の意見だった。七月二十七日付の『工場候補地議定書』には〈山崎駅付近ハ水質最モ良ク、且ツ河水ノ便アリ。交通ヨクシテ理想ナル敷地ナリ〉と記している。
山崎は大阪平野と京都盆地の接点にあたっている。北に天王山を背負い、目の前は桂川、宇治川、木津川の合流点となっていた。深い竹藪《たけやぶ》におおわれた天王山|山裾《やますそ》からは良質の水が湧《わ》き出している。地形柄濃霧が発生しやすく湿度も高い。
「スコットランドにローゼスいうウイスキー造りの町がありまして、ここはほんまによう似とります。地形だけでのうて、湿っぽいところもそっくりだす」
「湿気は貯蔵にええ、言うてはりましたな。そうや、日本のローゼス峡や。これ、宣伝に使えまんな。竹鶴はん、いきまひょ、山崎を日本のローゼス峡にしとくんなはれ」
再度にわたる水質検査を経て、用地買収を済ませたのは、十月一日。いよいよ本格的なスタートである。そのちょうど一月《ひとつき》前の九月一日、東京地方は関東大震災に見舞われていた。鳥井は震災発生の報告に接するや、ただちに船をチャーターして〈赤玉ポートワイン〉〈ヘルメスウ井スキー〉などを東京に送り込み、東京進出の足がかりをつかんだ。
寿屋は大阪の東区住吉町に店舗を構えていた。その一画に、山崎工場建設事務所が設置された。ウイスキー製造を始めるにあたって、建物から諸設備まで、日本では初めてのものばかりだ。設計、見積りから発注、取り付けまで、すべて竹鶴がやらねばならない。スコットランドでの実習体験とその折にメモしておいた覚え書が唯一の頼りである。
発芽室、乾燥室、粉砕室、糖化室、発酵室、蒸溜室、汽罐《ボイラー》室、貯蔵庫、試験室。建物は延べにして三百坪余り、発注すべき設備や機器は四十種を越えた。そのうち、大麦の粉砕機と濾過機《ろかき》は英国に発注、発酵の際に使う木製|大桶《おおおけ》はアメリカから葡萄酒用のものを買い入れることにしたが、あとはすべて国内の業者に設計図を渡して造らせることになった。
ウイスキー造りの生命は蒸溜にあるといわれている。蒸溜の主役は、スワン・ネックと呼ばれるく≠フ字型の首を持つ単式蒸溜器《ポツト・ステイル》である。これは、言ってみれば銅製の巨大な釜《かま》で、構造そのものは単純であるが、そのかわりわずかな形状のちがいが製品の質を大きく左右する。蒸溜は、初溜釜と再溜釜の二基で行われる。竹鶴はそれぞれ、大阪の谷甚鉄工所、渡辺銅工所に発注した。
困ったのは発注を受けた職人たちである。
――設計図があるよって、そら造れいわれたら造れますけどな、なんせこないなもん初めてやよって。ウイスケいうもん、けったいなもんで蒸しはるんだすな。
設計図を渡しただけでは不安だった。竹鶴は何度も製作現場に足を運び、進み具合を確め、説明を加えた。
しだいに形をなしていく単式蒸溜器を見上げながら、竹鶴はさて、どうやってこれを運んだものかと思案した。なにしろ、二基とも高さ十五メートル、直径三メートル以上もある。
「山崎でっか。淀川を船で遡《さかのぼ》るしかおまへんやろな」
「そこまではそれでええわいな、難儀するんはその先や。ええか、陸上げしてから工場《こうば》までは省線が走っとるんや。そいつをまたがんならん。こないに大きなもんが渡りきらんまに汽車が来てもたら、どないするんや」
竹鶴は思わず溜息《ためいき》をついた。すべてが竹鶴に、というより日本において初めてのことばかりである。
大正十三年七月。この年四月に起工式をあげた山崎工場予定地では、着々建築が進んでいた。
緑したたる天王山の山麓《さんろく》一画が切り拓《ひら》かれ、緩斜面に折り重なるように数棟の建物が連なった。真新しい煉瓦《れんが》の壁や木の香もすがすがしい洋風木造建築は、緑の山肌を背に瀟洒《しようしや》なたたずまいを見せた。とんがり帽子をおもわせる乾燥塔《キルン・タワー》の尖塔《せんとう》がひときわエキゾティックである。
建物が完成に近づくにつれ、発注した機器がつぎつぎに送られてきた。七月二十日には、単式蒸溜器《ポツト・ステイル》二基が川蒸気に乗せられ、淀川を遡った。陸上げののちは転子《ころ》(回転棒)を使って馬に引かせたが、東海道線の線路を越えるのが難業である。駅側と談合を重ね、汽車の時間間隔の長い夜中がいいだろうということになった。真夜中の零時半、上り最終列車が通り過ぎるのを見計らい、巨大な単式蒸溜器は線路を越えてようやく工場内に運ばれた。
竣工式《しゆんこうしき》を間近に控え、竹鶴は泊り込みで陣頭指揮に当った。
まだ夏の盛りではあったが、陽が落ちると背後の山からは涼風が駈けおりてきた。竹鶴は終日、蒸溜室で単式蒸溜器の取り付けを指図した。夜に入っても裸電球の下で格闘は続いたその時、ふと重大な手抜かりに気づいた。足の力が急速に萎《な》えていった。
――俺としたことが……。
問題は石炭の焚《た》き口から釜の底までの距離であった。むろん、距離によって熱度が異ってくる。竹鶴はこの日のため、スコットランドで逐一詳細なメモをとり、図面を残したつもりであった。しかし、この距離だけがノートにないのだ。
――そうだ。釜の中は職工と一緒に掃除して調べたが、焚き口までは入ってみることをしなかった。
こればかりは書物で調べてもわかるものではない。とりあえずは、試みに稼動させ、試行錯誤を繰り返していくほかはあるまい。
竹鶴は銅製の巨大な釜を見上げながら、前途|遼遠《りようえん》の思いにとらわれていた。
寿屋山崎工場の竣工式が行われたのは、この年十一月十一日であった。起工式からかぞえて約七か月、用地買収の日からは一年余りが経っていた。式典に際しては在阪の名士、業界関係者のほか、新聞社の記者と広告担当者にも洩《も》れなく招待状が発送された。
――見とくんなはれ、日本でもほんまもんのウイスキーがでけるんだす。もう、模造なんかやあらしまへんで。輸入やのうて、お客はんはみぃんな寿屋のウイスキー買《こ》うてくれはる、そないな時代がもうじき来るんだっせ。
鳥井は満面に笑みを浮べ、参列者の誰彼となく話しかけた。工場には二百万円の巨費をつぎこんでいる。やがてそれに見合って余るものが生れてくるはずなのだ。
式典が終ると、土産物が配られた。各新聞社の広告担当者には、一品多く別の土産が配られた。
――よろしゅう頼んます。
受取った客が帰社ののち怪訝《けげん》な顔で開いてみると、それは六段分の寿屋の広告紙型であった。さすがは鳥井はんやな、目のつけ所が違うわ。広告担当者たちは土産の広告紙型を眺め、思わず嘆声を洩らした。
広島は、灘《なだ》や伏見とならぶ銘醸地である。もっとも、広島の酒が知られるようになるのは明治に入ってからだ。
清酒造りの第一条件は水、灘の宮水といえば酒造りにふさわしい理想的な硬水とされている。しかし、広島の西条、三津、竹原といった醸造地にはこの条件が欠けていた。軟水であった。
このハンディキャップを覆したのが、三津出身の酒造家、三浦仙三郎であった。明治中期、三浦は麹《こうじ》や酒母などの改良につとめ、広島酒独得の軟水醸造法を確立するとともに杜氏《とうじ》の養成に力をそそいだ。こうした努力の甲斐《かい》あって、広島酒は明治末年から始まった全国清酒品評会で上位入賞を続け、三津杜氏の名は一躍高まった。
山崎工場でウイスキー職工を養成するにあたり、竹鶴が真先に思い浮べたのは、郷里竹原の隣町三津の杜氏だった。工場竣工に先立ち、竹鶴は三津町酒造組合を訪れ、評判の高かった杜氏岡田常一と面談、その場で採用を決めた。杜氏を監督に据え、ほかに蔵人を十五名ほど雇い入れて各室に配置するつもりだった。
岡田常一ら一行が山崎にやってきたのは、竣工式直前の十月下旬だった。
――鳥井はん、ウイスキー職工には勘が必要だす。鼻と舌は一朝一夕にできあがらしまへんよって、三津の杜氏に優る職工はおりまへん。
竹鶴は敷地内に一行の宿舎を用意し、岡田に月給九十円、蔵人たちに日給一円六十銭から一円八十銭を支給するよう認めさせた。新参の蔵人である下人《しもびと》は、当時酒場と呼んだ酒造業者の許で一円内外の給与であったから、一円六十銭は好条件であった。
ウイスキーの製造期間は十月から五月までである。従って職工は季節雇いとなる。工場ではこうした季節雇いの職工が大部分を占め、寿屋正社員は工場長の竹鶴、事務担当の白江滋道二人だけだった。
十二月二日、麦芽製造が開始された。大麦は収穫を終えたばかりの河内産である。第一号|浸漬槽《ステイープ》に浸されたのは午後三時。
「いいか、水の温度は十四度だ。明日《あした》の朝八時と明後日《あさつて》の朝十時ごろには水を替えないけん。麦芽造るんは酒場の麹造りといっしょでウイスキーの魂じゃけん、気い抜かんようにな。浸水池のことは、ウイスキーではスティープというんだ」
たんに言葉で説明するだけではなかった。水分を吸った大麦は発芽室で床の上に広げられる。竹鶴はスコットランドの麦芽製造職人《モルトマン》さながらに、木製シャベルを使って鮮やかに大麦の山をならしていった。そして、指の先に大麦の粒を取ると、壁にすりつけてみせた。
――大麦を手にとってこうしてみるんだ。それで自分の名前が書けりゃ大丈夫だと、スコットランドでは言われとる……。
さすがのベテラン杜氏や蔵人たちも、固唾《かたず》を呑《の》んで見守るばかりであった。
麦芽製造を始めて二週間ほどののち、大麦は乾燥室に運ばれ、スコットランド産ピートの煙でいぶされ、豊かな薫香《スモークト・フレーバー》をもつ麦芽として生れ変った。
年が明けた十四年一月、麦芽は糖化、発酵を経ていよいよ蒸溜を迎えた。蒸溜釜に火が入る。発酵液はまず初溜釜、ついで再溜釜の蒸溜を迎える。
きわめて刺激臭の強い前溜液《フオア・シヨツト》に続き、本溜液《ハート》がしたたる。かすかに碧《あお》みを帯びたり白濁していた前溜液とちがって、清冽《せいれつ》な湧水をおもわせる本溜液は荒々しさのなかにも高い香りをはなった。
日本で初めてのウイスキーが、いま誕生しつつあるのだ。これから五年、七年と樽《たる》の中で眠るうちに、荒々しさに代ってまろやかな香りを発するようになるだろう。
「工場長、具合よういってますか」
職工たちの心配をよそに、竹鶴は両手でチューリップ型のテイスティング・グラスを包み込み、大きな鼻が透明な液体に触れんばかり、一心に嗅《か》ぎつづけた。
工場の背後はすぐ山が迫っている。そこに九十九折《つづらおり》の道が刻まれ、急な坂を登ると職工たちの寄宿舎、さらに上には竹鶴の木造洋風社宅があった。窓からは、眼下の乾燥塔に続いて三つの川が合流する川洲《かわす》、その先に椀《わん》を伏せたような男山の姿を一望することができた。冬は厳しいが、夏はさぞかし涼しかろうと思われた。竹鶴にとっては、なによりも工場に近いのがいい。
スコットランドでは、工場長や常駐税務官の居宅は工場敷地内にあるのがふつうである。ウイスキーは生き物だ。機器を使うが、それも扱い方一つで品質を大きく変えてしまう。三津からやってきた蔵人たちも慣れ、ようやく機器の名が英語で口をついて出るようになったが、それでも竹鶴は職工たちが製造に取り組んでいる間は、早朝であろうと夜間であろうと、九十九折の道を下った。
ときおり、リタが坂を下り、姿を見せた。
――コンニチワ、マッサン、オリマスカ。
弁当を届けることもあれば、外出姿で立ち寄ることもあった。山上の工場長社宅からは、買物一つするにも工場敷地内を通り抜けていかなくてはならない。
――ほんにきれいな奥さんや。それに、この外人さんはご亭主のことをマッサンと呼びおる。変っとるのう。
職工姿が板についた三津の蔵人たちは、こう噂《うわさ》しながら、立ち去るリタの後姿をうっとり眺めた。
スコットランドで今日のウイスキーが生れる過程には、酒税とのさまざまな確執があった。同様に、日本でも酒と税金は切っても切れない縁にあった。
現代の酒税制度が始まったのは、明治に入ってからである。江戸時代、酒税は「運上金」あるいは「冥加金《みようがきん》」という名目で徴収されていたが、財政難にあえいだ明治新政府は徐々に税率を高め、自家醸造や零細業者を制限して徴税制度を固めた。度重なる増税とともに、明治三十二年からは酒類の自家醸造が禁止された。酒造りは完全に国家の統制下に入り、明治三十三年には酒税収入が租税収入の三分の一を占めるに至ったのである。
酒税は直接消費者にではなく、生産者にかけられる。いわゆる間接消費税である。明治政府は造石《ぞうこく》税制度、すなわち製造した石数に応じて税金をかけた。酒といえば清酒の時代であるから、酒造年度が終ると酒税官は桶を調べて容量を測定、酒造業者が算出された税金を年四回に分け、消費者に替って支払うという方式をとっていた。
寿屋山崎工場でウイスキー製造を始めるに当り、この酒税制度が障碍《しようがい》になった。清酒とちがい、ウイスキーは出来たものをすぐ商品にするわけにはいかない。しかも清酒は製造翌年の分割払いなのに対し、酒精含有飲料は製造直後の一括払いだ。鳥井は頭を痛めた。
「何とかせんとあかんで。四年も五年も寝かせるんやから、でけたその場で税金かけられてしもたりしたら、どないにもこないにもやってけへん」
「貯蔵中にちょっとずつ蒸発して、嵩《かさ》も減ります。造石税は不合理いうもんだす。本場では倉から出すとき、初めて税金がかかる仕組みになってますな」
「そうや、そうあるべきや。これからの時代は、酒いうても清酒ばかりやあらしまへんで」
鳥井の命を受け、竹鶴はさっそく嘆願に動くことになった。さいわい大蔵省主税局に親戚の者がいた。その紹介をとりつけて、大阪税務監督局の間税部長星野直樹のところに出向いた。
「せっかくですけど、どないしようもおまへんなあ。酒税は造石税ということできっちり決ってしもうとります。あんたとこだけ、というわけにはいきまへんのや」
無理もなかった。それまではウイスキーといっても、アルコールにエッセンスを添加するだけだったから、造石税でなんら支障はなかったのである。本格ウイスキーは、樽に入れて長年貯蔵しないと製品にならないということさえ、酒税の担当官は知らなかった。
竹鶴は二度、三度と足を運んだ。むろん鳥井も手をこまねいていたわけではない。大蔵省に何度も働きかけた。しかし、まず星野を説得しないことには話も進展しない。竹鶴は本格ウイスキーの製法と英国の酒税制度を繰り返し説明した。
「お願いします。これは寿屋だけの問題ではありまへん。日本に本格ウイスキーが生れるかどうかの問題だす。造石税があるのは知ってますが、そこを何とかできまへんでっしゃろか」
頑固者で通っていた星野も、とうとうその熱意に折れた。
「あんさんには、ほんま往生するわ。わかりましたがな。何とか手口を考えてみたげましょ」
星野は大蔵省主税局の諒承《りようしよう》をとりつけたうえ、庫出《くらだし》課税をとってくれた。ウイスキー原酒は半製品であるから、倉庫を出て製品になる時点で税金をかけるという特別措置で、その間、樽に封印をするということで折合いがついた。正式に造石税から庫出税に変るのは昭和十九年を待たなければならないが、寿屋山崎工場はひとまず造石税を免れることができたのである。
庫出課税の許可は下りたが、税務署のほうも初めてのケースであり、貯蔵中の欠減をどうしてチェックするか、検査簿をどう作ったらよいのか、皆目見当がつかない。竹鶴は英国の検査簿を説明し、みずから税務監督局の検査簿作りにまで手を貸した。
蒸溜を終えた液体はシェリー酒用酒樽に詰められ、倉庫に運ばれた。出来たばかりのウイスキーは無色透明に近い。琥珀色《こはくいろ》を帯び、芳香をたたえたモルト・ウイスキーに成長するまで、少なくとも四年あるいは五年を待たなくてはならない。
天王山の山裾に建てられた工場には、秋になると大麦の俵や空樽が運ばれていった。
――けったいな工場《こうば》や。大麦からウスケいう酒造っとるそうやが、でけた酒が出ていくのん見たことない。
――ウスケいうのんは毛唐の酒やでして、あんじょう行くわけないやんか。造るはたからワヤにしとるんやろ。
村人たちは首をひねって、こう噂し合った。ウイスキーという存在はもちろん、寿屋の名もまださほど知られていなかった。
――ウスケ様。
出入りの商人たちは、請求書にこう書いてくる始末だった。
大麦を運び込むだけのけったいな工場――。これは寿屋にとっても放蕩息子《ほうとうむすこ》のようなものである。二百万円の設備費を投じたうえ、原料費や人件費など出費がかさむ一方である。にもかかわらず蒸溜を終えたウイスキーは貯蔵庫に眠るばかりで、商品になる気配もない。
事務担当の白江滋道は大阪の本社に支払い依頼に出向くたび、肩身の狭いおもいをしなければならなかった。
――ウイスキーちゅうのは、気いの長あい商売やなあ。ほんま金ばっかし食うぼんぼんや。
赤玉ポートワインの儲《もう》けを、そっくり山崎工場にもっていかれる。わりのあわん話やで。これは鳥井信治郎を除く寿屋全社員の偽らざる声といってよかった。
蒸溜が始まる時期になると、鳥井は毎日のように山崎工場に姿を見せた。竹鶴が陣頭指揮に立つ姿を黙って見守っているだけだが、その眼は、
――竹鶴はん、あんじょういっとるやろか。樽のなかでは具合よう眠ってるやろか。
と、問いかけているようだった。
最初の蒸溜を終えた大正十四年初夏、竹鶴は単身ふたたび英国に渡り、スコットランドを訪れていた。ウイスキー製造上の疑問点をいま一度確めるためである。竹鶴はキャンベルタウンに旧知のイネス工場長を訪ね、持参のサンプルを示して助言を仰いだ。工場では単式蒸溜器《ポツト・ステイル》の釜の焚き口に入り、煤《すす》にまみれながら釜までの距離を測った。
――心配いりません。スコットランドへ足を運んでみて、山崎工場の製法が間違っていなかったことに自信をもちました。鳥井さん、任してください。
時は大正から昭和に移っていた。昭和三年、秋を迎えたある日のことである。
「竹鶴はん。今度の冬で丸四年だすな」
鳥井が何を言いたいのか、次の言葉を聞くまでもなくわかっていた。
「もう、そろそろえんやないのんか。社員だけやのうて、わてもしびれがきれてきたわ」
「そうおっしゃるのんも無理おまへんけど……。出せるのは最初の年の蒸溜分だけだっせ。二年目のやつはもうちょい寝かせといてやらんと」
貯蔵庫の樽のなかでは、初めての年に蒸溜した原酒《モルト・ウイスキー》がようやく熟成に入り始めたところである。原酒は年度によって出来映えに癖のあるのがふつうだ。それらの特徴を生かすよう互いに混合《ヴアツテイング》し、はじめてモルト・ウイスキーとして魅力をもつ。また、そのモルト・ウイスキーにグレイン・ウイスキーをブレンドして、ブレンディド・ウイスキーにする。スコットランドで行われているように、混合するのは、八年、十年といった古い原酒と四、五年の新しい原酒との組合せがよく、さらに樽で再貯蔵するのが理想的なのだ。
「あんたの気持はわかってま。けど、理想だけでは商いでけしまへん。資金繰りのこともあるよって、これ以上は待てへんのや」
詳しい経理内容は知る由もないが、社内的にも山崎工場への風当りが強いことは白江から何度となく聴かされている。鳥井の立場を考えれば、これ以上待ってくれとは言えなかった。竹鶴は発売に向けて、大阪工場でできたアルコールとブレンドする手筈《てはず》を整えた。
翌四年四月一日、わが国初の本格ウイスキーは〈白札サントリー〉として発売された。サントリーの命名は、赤玉(太陽《サン》)の鳥井、すなわち赤玉ポートワインで成長した寿屋が、ウイスキーに命運をかけようとした決意を表わしていた。値段も、当時輸入もののジョニー・ウォーカーの赤が五円であったところへ、四円五十銭をつけた。
〈醒《さ》めよ人! 舶来盲信の時代は去れり 酔はずや人 吾に国産 至高の美酒 サントリーウ井スキーはあり!〉
白札サントリー発売に当って新聞広告はこう謳《うた》い上げ、〈サントリーウ井スキーは 本場 蘇格蘭《スコツトランド》の風土を凌《しの》ぐ山崎在 天王山谷の大洋酒工場で内地移植の大麦を原料に 彼地仕込み出藍《しゆつらん》の技師が 精根傾けて造り上げ 空気清澄な酒庫で まる七年貯蔵した生《き》一本! 恐らく舶来陶酔の虚栄は やがてもう昔譚《むかしばなし》となるでせう!〉と続けている。
白札サントリー発売を俟《ま》って、さっそく山崎工場の案内も刷られた。鳥井は工場案内を次のような言葉で結んだ。
……弊社多年 東方に使して寿薬を求むるの思ひを敢《あへ》てし 具《つぶさ》に其地《そのち》を探りて漸《やうや》く山崎を得醸造創始 既に八年を閲《けみ》す 蓋《けだ》し山崎|醸《かも》すに宜き 蘇格蘭のローゼス峡に等しく 和酒に於ては灘に当る
国産初の本格ウイスキーが生れたこの年、鳥井信治郎五十歳、竹鶴政孝は三十五歳であった。
しかし、思惑ははずれた。国産第一号ウイスキー〈白札サントリー〉は、鳥井信治郎や竹鶴政孝の期待に反して、売れなかった。
――なんやしらん、焦げくさいもんやな。
半ば押しつけ気味に試しに飲んで貰うと、みな一様に口をゆがめた。舌というのは保守的なものだ。当時、酒といえば清酒、夏にビールが出てくるぐらいがせいぜいの時代だった。清酒の味に馴染《なじ》んでいた人々にとっては、ウイスキー特有の薫香《スモークト・フレーバー》も、たんなる異臭としか感じられなかった。時機尚早だったのである。
「竹鶴はん、誰も彼もうちの酒、焦げくそうてかなわんいいよるがな。どないかならへんか。このあんばいやと、この先も売れしまへんで」
「焦げくさいいうのんはピートの焚きすぎかもしれまへん。けど、このスモークト・フレーバーはウイスキーに欠かせへんもんでっさかい……」
「そやかて、売れんことにはしょうないがな。飲みやすうのうては売れしまへん」
「それはそうだすが、鳥井はん……」
寿屋では鳥井を社長と呼ばず「大将」と呼ぶしきたりがある。昭和二年にはこのしきたりが社内通達されていたほどだ。しかし、竹鶴はこの言葉に馴染めず、いまもって「鳥井はん」のままだった。竹鶴は続けた。
「わてら、本格ウイスキー造るつもりでやってきたんとちゃいまんのか。いまの品物《しなもん》が最良やとは、わたしかて言いはしまへん。原酒はもっと寝かさなあきまへんさかい、年が経つにつれて旨《うま》くなります。そやから、いま売れんいうて客の好みに合せるいうの、賛成できまへん」
「本格ウイスキー造りたいいうのは、そりゃわても一緒や。けどな、寿屋のウイスキーは日本人に飲ませるんや。お客はんが買うてくれへんようなウイスキーはウイスキーやあらしまへん」
「いまじきには売れんかもしれしまへん。そやけどお客はんかて阿呆《あほ》やあらしまへん。模造ウイスキー買うてるお客はん、清酒しか飲まへんお客はんでも、いつかはきっと本格ウイスキー飲むようになります。そのとき売れるのは、スコッチに肩を並べられるほんまのウイスキーとちゃいまっか。いまは舌が慣れとれへんだけで、旨い酒は誰が飲んでも旨いはずだす」
「竹鶴はん、あんたも強情やな」
いささかうんざりした面持ちのなかにも、口許《くちもと》は綻《ほころ》んでいた。わてはあんたのそういうとこ好きやけどな。一瞬そうした表情を見せたかと思うと、鳥井はふたたび厳しい顔に戻っていた。
「ウイスキー造りいうのんは、あんたも知ってなはるとおり大事業なんや。あんたがおらんかったらわてかて造らへんかったし、わてがおらんかったら誰も取りかからへんかった。……そやから、成功させたいんや。この日本で成功させるためには、スコッチと何から何まで一緒いうんでは、どないなもんやろ。そこんとこを考えてもらいたいのんや」
洋酒造り一筋に生きてきただけに、鳥井の鼻はするどい。竹鶴はそれを認め、尊敬してもいた。しかし、ウイスキーの味や香りを造り出す段になると、鳥井と自分の考えが大きく違うことを認めざるを得なかった。竹鶴は黙って聞き入った。
「それはそうと、これはお願いや。あんたはんは十年間、寿屋のために働いてやろと約束してくれてはる。じつはな、うちの吉太郎がもうじき学校卒業やが、どやろ、しばらくあんたはんとこで面倒見てくれへんやろか。吉太郎が一人前に仕事でけるようになるまで、十年間と言わずに居《お》ってもらいたいのやが」
鳥井の長男吉太郎は、神戸の高等商業に通っていた。六年の春には卒業の予定である。竹鶴から技術を、リタから英会話や欧州事情を授けてほしいという頼みだ。
「よろしゅおます」
竹鶴は朗らかな表情を取り戻して答えた。
昭和六年四月六日、寿屋山崎工場は日本産業協会の総裁、伏見宮博恭殿下を迎えることになった。
――竹鶴はん、殿下はウイスキーにはお詳しい言いまっしゃろ。落度のないようくれぐれも頼んまっせ。
緊張した面持ちの鳥井の背後には、珍しくクニ夫人の姿も見える。日頃は人前に出ることの少ない夫人も、この日は紋服姿で列に連なっていた。
鳥井はこの年、五十二歳。丁稚《でつち》奉公から身を起し、洋酒造りを志して以来三十年余りが経っている。この間、赤玉ポートワインを人気商品に押し上げ、日本人で初めて本格ウイスキーに取り組んだ。その自慢のウイスキー工場に、皇族を迎えるという栄誉をになおうとしているのである。
寿屋が手がけてきたのは、甘味葡萄酒とウイスキーだけでなく、スモカ歯磨、トリスソース、トリスカレー、トリス胡椒《こしよう》、トリス紅茶と多岐にわたった。その多角経営の一画に、三年前からビールも加わった。
昭和三年末、日英醸造のビール工場が、経営難のため競売に付されることになった。竹鶴は鳥井に工場の見積りを頼まれ、入札金額を六十七万円とはじき出した。競売では、一回目は予定の最低価格に達さず入札となったが、他の二社が降りたため指定価格で寿屋の手に落ちた。
翌四年、寿屋は〈新カスケードビール〉、つづいて五年に〈オラガビール〉を発売した。竹鶴は山崎工場とビールの横浜工場の工場長兼任を命じられた。もっとも、竹鶴自身はビール部門とウイスキー部門を同じ経営の下で行うのには反対だった。製造の上でも販売の上でも、短期型のビールと長期型のウイスキーは正反対だ。二つは切り離して別経理にすべきだというのが竹鶴の意見だった。
――心配あらしまへん。ビールは売れるよって、ウイスキーを守り育てていくためにも是非やってほしいのや。
たとえ売れへんかて、ウイスキーを切りつめるつもりはありまへん。鳥井はこう約束した。そして独立採算制にすべきであるという意見は容《い》れられないまま、竹鶴は両工場の工場長を兼任したのである。
伏見宮殿下を迎えるこの年はまた、鳥井の長男吉太郎が学校を終え、後継者として寿屋に入社した年でもあった。竹鶴は吉太郎を自宅に預って妻リタに英語の手ほどきをさせており、夏からはリタと吉太郎を伴い半年間の予定で欧州に出向くことになっていた。竹鶴にとって三度目の洋行になる。吉太郎に本場のウイスキー蒸溜所や葡萄酒醸造場を案内するのが主目的であるが、妻リタの帰郷旅行も兼ねている。
――わたし、もう日本人です。スコットランドへ帰ってみたいとは思いません。
口ではそう言っているが、母や妹から手紙を貰《もら》うたびに、リタが何度もいとおしむように読み返しているのを知らぬわけではなかった。来日に際しては、母や叔父と気まずい別れ方をしたままであったから、これを機会に正式な和解の場を作ってやりたかったのである。
この日、伏見宮殿下の山崎工場見学は、工場長竹鶴政孝の案内により、つつがなく終った。長い滞欧生活のなかで海軍武官として三年間英国に駐在していた伏見宮は、日本初のウイスキー工場に大変興味をいだいた様子だった。竹鶴の説明に熱心に耳を傾ける伏見宮の姿を、鳥井は緊張のなかにも誇りやかな表情で見守った。
伏見宮殿下一行を見送ったあと、竹鶴はいつのまにか額がうっすらと汗ばんでいるのに気づいた。鳥井が歩み寄り、相好をくずした。
――ご苦労《くろ》はんやった、ご苦労はんやった。
傍ではクニ夫人が深々と頭を下げ、吉太郎が眼鏡の奥から感謝の眼差《まなざ》しを注いでいた。
竹鶴は、鳥井一家の謝意を受けとめながら、鳥井のウイスキー事業がようやく第一期の頂点にさしかかったことを感じていた。そのことはとりもなおさず、自分の任務が終りつつあることを意味していた。いずれこの鳥井一家とも訣別《けつべつ》する時が来るだろう。ウイスキーの理想像に関して、鳥井はんと自分とは、どうやら互いに混合《ヴアツテイング》不可能な考えらしい。そもそも自分はウイスキー製造技術を指導するため、十年間の約束で来た男に過ぎない。八年が経ったいま、自分自身で心から納得のいくウイスキー造りをしてみたいと、ひそかに青写真を描いていることも事実だ。訣別の時は少しずつ近づいている。だが、約束の十年間は、任されたウイスキーとビール造りに、吉太郎の世話に、力の及ぶかぎり努力を惜しむまい……。
竹鶴はからだから一気に力が抜けていくのを感じながら、この日の鳥井一家の喜びを、そのままわが喜びにしたいと思った。
寿屋が日英醸造から買い取ったビール工場は横浜の鶴見区にあった。両工場の工場長兼任を命じられた竹鶴は、住居を鶴見に、次いで鎌倉に移した。新たにビール製造を始めるにあたり、軌道に乗りはじめたウイスキー工場を事実上離れなければならなかったのである。
鳥井の思惑では、ビールは儲かる商品であるはずだった。売行きの悪いウイスキーを援護するため、赤玉ポートワインに続く第二の武器をもくろんだといってもいい。
当時、ビール業界はヱビス、アサヒ、サッポロの三銘柄をもつ大日本麦酒が市場の半ばを占めていた。これに麒麟麦酒、日本麦酒鉱泉を加えた三社で市場の九割を占め、価格協定によって値段は一本三十三銭と決められていた。日英醸造のカスケードは、わずか二パーセントを占めるにすぎなかった。
昭和四年、〈新カスケードビール〉をひっさげてビール市場に乗り出すにあたり、鳥井が考えたのは廉価商法だった。他社が三十三銭のところを二十九銭で売り出したのである。もともと、ビールは一本当りの利益率が低い商品である。そこへもってきてのこの値段は驚異であった。
さらに翌五年、〈オラガビール〉と名を改めると、一本二十七銭で発売した。当時、「オラガ大将」と庶民に人気を博した前総理田中義一大将と、ラガービールをもじったネーミングの巧みさ。〈出た オラガビール 飲め オラガビール〉と宣伝攻勢をかけ、他社より六銭、二割近くも安く売り出す大胆さ。不況の世の中にあって、寿屋の〈オラガビール〉は大いに売れるかと思われた。
これが関西なら、結果は違っていたかもしれない。が、寿屋横浜工場がめざしたのは、東京市場だった。東京人はもともと上方商法に対し偏見がある。安過ぎるものに対しては安かろう悪かろうの先入観念が強い。加えて、現在と違って他社瓶を使った瓶詰はできなかった時代である。弱小メーカーは瓶の回収方策ひとつにもハンディキャップがあった。寿屋の廉価商法は失敗した。既成の市場に食い込めなかったのである。
昭和七年二月、竹鶴がリタと吉太郎を伴い欧州視察から帰国してみると、鳥井はビールの売行きが思わしくないところから、事業の縮小に着手していた。この年秋には、寿屋人気商品の一つ、スモカ歯磨さえ手放すことになった。前年にはついに資金繰りのめどが立たず、山崎工場でウイスキーの仕込みさえ中止しなければならないほどだったのである。
――鳥井はん、やっぱりビールとウイスキーは別にせんと無理だす。
ビールの売行き不振を聞かされるたびに、この言葉が胸までこみあげてくる。自分の仕事がしだいにウイスキーから遠ざかっていくのも寂しかった。それでも、鳥井との約束を思い出し、気持を宥《なだ》めた。
――たとえビールが売れへんかて、ウイスキーを縮小するつもりはおまへん。そやから竹鶴はん、我慢してや。
すべてはウイスキーを護《まも》るためなのだ。竹鶴は横浜工場の窓から緑したたる山崎の天王山におもいをはせ、気乗りのしないビール製造を続けた。
八年に入ると、意外にも大阪の本社から、ビール工場を拡張するよう指示があった。多少なりとも業績が上向いたのか。竹鶴はさっそく見積りをとり、鳥井の諒承を得たうえで基礎工事にとりかかった。
竹原にいる母が亡くなったのは、この年の十一月である。臨終には間に合わなかった。鶴見に住居を移して以来、顔を見る機会は少なくなっていたものの、幼少の頃から事あるごとに深い理解を示してくれた母であった。突然の死は大きな衝撃だった。
重い心を引きずって横浜工場に戻り、ふたたび拡張工事の陣頭指揮に立ったある日のことである。竹鶴は思いがけない報《しら》せを受けた。工場が売却されることになったというのである。
「工場長は知らはれへんかったんでっか。半年も前からでっせ、東京麦酒いうとこと売却の交渉しとったいいます。大将、法外な値で売れたいうて大喜びされてはるそうだす」
竹鶴は部下の言葉を聞き、声もなかった。
売却価格は三百万円とも三百六十万円ともいわれた。
――どや、うまいこといきよったやろ。
鳥井は幹部連をつかまえては、嬉しそうな顔で売却のいきさつを自慢した。五年前に買いとった値が六十七万円であったから、寿屋にとって大きな儲けとなったことはいうまでもない。
「竹鶴はん、ご苦労やったな。あんたはんも知ってのとおり、わてらの台所火の車やったんや。拡張工事までやらしといて急に売るいうの驚きはったやろが、これもやむを得んかったんだす」
鳥井の気持はわからないこともなかった。ビールを始めたのもウイスキーを護るためであり、そのビールが売れなければ工場を有利な条件で転売する。経営者なら誰もが考えることかもしれない。しかし、一方で拡張指令を下しながら、裏で売却交渉を進め、工場長に一言の相談もなく売り払ってしまった。拡張指令も、工場長である自分に極秘で通したのも、戦略であったのか。たとえそうであったとしても寂しかった。
「さあ、もう安心やで。これで金繰りのほうも一息ついたよって、あんたはんも山崎工場に戻って、また以前のようにバリバリ働いてや」
鳥井の言葉を耳にしながら、いまほど自分が一介の技術者にすぎないと感じたことはなかった。
独立しよう。
竹鶴は以前からいだいていた計画を、ふたたび胸に浮べた。やがて、不惑四十。鳥井は前人未到の本格ウイスキーに踏み出した勇気ある開拓者であるが、しょせん自分とは棲《す》む世界が違う。約束の十年間は働いたし、吉太郎もいまは副社長として立派に活躍している。
昭和九年、三月一日付をもち、竹鶴は寿屋を去った。
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第四章 余市ニッカ沼
闇《やみ》のなかから遠い海鳴りにも似た唄声がきこえていた。やーせい、ヤーセイ。……えんやさ、エーンヤサ。……えーんやさ、エーンヤサ。唄と呼ぶより掛け声に近いその響きは、深更の静寂《しじま》の底から海原をゆるがす潮のように迫《せ》り上った。宿の内儀《おかみ》が話してくれた鰊漁《にしんりよう》の網起しの唄に違いない。
――この季節になると、北の風が凪《な》いで、どんよりした曇り空の日が来ますの。そんな日を浜では鰊曇りと呼びまして、決って鰊が群来《くき》るものなんです。
昼、浜に立つと、余市《よいち》湾は空も海も灰青色に塗りこめられていた。建網を張って沖泊りする枠船や起し船のはるか沖合には、ゴメと呼ばれる鴎《かもめ》が群れをなして乱舞していた。夜に入り、余市の海にはいよいよ鰊の群来が始まったようである。
昭和九年、四月。竹鶴政孝は北海道の余市を訪れていた。東京から汽車と連絡船を乗り継ぎ、およそ三十時間。ウイスキー工場建設にふさわしい地を求めての旅であった。
ウイスキー造りの成否は、工場の立地条件にかかっている。寿屋で工場建設を任されたおり、竹鶴が推した候補地は北海道だった。鳥井信治郎の反対で実現はみなかったが、北海道こそ最適の地であるという確信は以来揺らぐことはなかった。
理由は、いうまでもなく気候風土である。長い樽詰《たるづめ》貯蔵期間を必要とするウイスキーが、いかに自然の環境に左右されやすいか、竹鶴はスコットランド留学時代に肌で感じていた。適度な寒冷地であって乾燥しすぎず、水質に恵まれ、草炭《ピート》が採れる地。スコットランドでもこうした条件を欠いた土地では、よいウイスキーは造れない。
――草炭《ピート》が採れなければ、輸入して使う。そうした方法でもむろんウイスキーを造れないわけではない。しかし、忘れてならないのは、ウイスキー造りには草炭《ピート》が採れる土地の空気、草炭層を潜《くぐ》り抜けて湧《わ》き出す水が必要なことだ。
ウイスキー造りにおいて、空気に含まれるどの成分がどのような影響を及ぼすのか、草炭層を潜り抜けた水がなぜよいのか。こうした問いには最新化学でも解答が出ていない。仮に将来分析研究が進もうと、その条件を人工で造り出すことは恐らくできまい。また、すべきでもないのだ。これが竹鶴の、ウイスキー製造技師としての信念であった。世界の第一級の酒がすべてそうであるように、ウイスキーを造り出すのは自然の営みであり、人間はその手助けをするにすぎない。
日本でウイスキー造りにふさわしい地は北海道、それも湿度の高い日本海沿岸がいい。そう考えた竹鶴は、寿屋在社時代から暇を見ては候補地を渉猟した。
当初見当をつけたのは石狩川河畔の江別《えべつ》であった。河畔一帯は草炭の産地であり、気候、水質が良好なことに加え、原料の大麦、燃料の石炭などの供給先にも恵まれている。
寿屋からの独立を思い描いて以来、竹鶴は工場建設資金も試算してきた。とりあえずは蒸溜器を一基で辛抱し、初溜再溜に兼用するつもりであるが、それでも土地代、建築費、機械器具代などに十万円近くは必要だ。
この年三月一日付をもって寿屋を退社したのを機に、竹鶴は念願の工場建設に向け、行動を開始した。当初の予定地江別は、詳しく調べてみると何度か石狩川の氾濫《はんらん》に曝《さら》されていることがわかった。そこで、江別に代えて選んだのが余市だった。
さいわい、余市は土地代が安かった。それでも工場設備費のほかに、原料費や人件費などの流動資金も考えなければならない。十万円といえば、寿屋の山崎工場建設費二百万円とくらべればささやかなものだが、竹鶴個人の力では二万円を調達するのが精いっぱいである。
竹鶴は知人に新しいウイスキー工場建設の夢を説いた。その結果、三人が資金援助を申し出てくれた。ひとりは山崎に住む加賀証券社長、加賀正太郎。加賀とは妻のリタが加賀家で英語を教えたのが縁で親しく交際していた。もうひとりは、やはり家族ぐるみ交際していた大阪|帝塚山《てづかやま》の大地主、芝川又四郎、そして英国時代に知り合った柳沢保恵伯爵である。
余市は小樽の西、積丹《しやこたん》半島の付根にある。背後を山で囲まれ、余市川が町を流れて日本海に注ぎ込んでいた。
自然の条件は申し分なかった。オゾンをたっぷり含んだ空気、草炭層を通り抜けてきた清冽《せいれつ》な水、適度な湿り気……。原料の大麦や燃料の石炭は道内各地から汽車で簡単に運搬でき、人口二万の町は労働力にも不自由しない。
加えて、林檎の産地である。ウイスキーが商品化するまで、ジュースを作って食いつなごうと考えていた竹鶴にとって、余市は願ってもない土地だった。
――ここに決めました。
竹鶴は用地を踏みしめ、みずからに言いきかせるようにきっぱり断言した。宿で蒲団《ふとん》に身を横たえているいまも、脳裡《のうり》には昼間目にした光景がまざまざと浮ぶ。
そこには、凄涼《せいりよう》たる湿原が広がっていた。用地は余市のほぼ駅前に当っていたが、商人宿と雑貨屋のほか人家の見当らぬ寒々とした一画にあった。敷地はおよそ三千六百坪。雑草と土塊におおわれた荒蕪地《こうぶち》は沼に続いており、沼は中洲《なかす》をへだててそのまま余市川につながっている。葦《あし》の原には水鳥が舞い降り、沼からは突き刺すような冷気が立ち昇っていた。
竹鶴はこの年、不惑四十歳。この寂寞《せきばく》たる北の地で、新たなる出発を決意したのだった。
ほーらあーえーえ、この網起せば、やーあえーい、ヤートコセ。
目をつむると、ふたたび闇夜に網起しの唄がきこえてくる。
――鰊が群来《くき》ると、海が盛り上るようでしてね。やがて、海一面乳を流したように真っ白になりますの。わたしら群来汁《くきじる》といってますが、それはすさまじいものなんです。
内儀の言葉が甦《よみがえ》った。竹鶴は暗い波間に銀鱗《ぎんりん》を翻す鰊の群れにおもいをめぐらせた。
鰊は英国留学時代から縁が深かった。朝食には|鰊の燻製《キツパーズ》を欠かさなかったし、イネス工場長の許で実習を重ねたキャンベルタウンは鰊業の港町だった。十五年前の昔、英国に渡って初めてキッパーズを口にしたとき、自分がスコットランド娘と結婚し、余市という鰊の産地にウイスキー工場を興すことになろうなど、想像さえできなかったが……。
「お客さん、変った方ですのね。せっかく拵《こしら》えたご馳走より、困った人が食べるようなものを喜んで口にされる……」
宿の内儀が言った。
「そうですか。わたしは、別にそんなつもりじゃないんですがね」
「昨日も今日もほら、海鞘《ほや》とか鮑《あわび》をご所望なさって。あんなものわたしら、困った者でなければ食べませんですよ」
「いやあ、美味《うま》いもんですよ。内地じゃ貧乏人でなくとも食べます。余市の人は海の幸山の幸に恵まれすぎて贅沢《ぜいたく》しとるんじゃないですかな」
四月下旬の余市は、山桜がようやく綻びはじめていた。やがて、林檎畑は一面に白い花を咲かせるそうである。春の訪れは京阪地方より一か月以上も遅い。季節の移ろいまでスコットランドのハイランド地方と似ているように思われた。
「変っとるといえば、お客さんは余市に工場を造られるそうで」
今度は内儀に代って宿の亭主が声をかけた。竹鶴の投宿先は海岸近くの大川町にある|※《かねまた》服部旅館といった。服部精介と名乗る主人は竹鶴より一廻り上、五十年輩と見受けられた。
「いまじゃ、しがない旅館の主《あるじ》ですが、これでも昔は事業に野心を燃やしましてね……。わたしゃ、こう見えても、かつては林檎貿易で鳴らした男なんです」
明治四十年から十二年間、手広く大陸貿易を続けてきたと、亭主は問わず語りに話し出した。
「相手はウラジオです。余市で林檎を集め、小樽から船に積んでウラジオの問屋に納めてました。当時、余市林檎の評判といったらなかったですな。青森林檎にくらべて、春が遅いぶんだけ長もちする。ぼけないんです。だから春ものは余市林檎の独擅場《どくせんじよう》で、わたしも鰊場の土蔵を冬の間だけ借りて貯蔵しました」
余市は鰊の千石場所として早くから開けてきた。和人がこの地を知る前に、すでにアイヌは余市川の鮭《さけ》と余市湾の鰊を獲《と》って暮していた。江戸時代には余市場所が開かれて請負人が置かれ、幕末から明治にかけては鰊を追って松前や江差から移り住む者もふえた。
明治に入ると、鰊漁の町に旧会津藩の開拓民がやってきた。しかし、鰊の千石場所で知られる町も、賑《にぎ》わうのは海岸沿いのごく一部である。遅れてやってきた開拓民は、熊笹におおわれた深い原生林を切り拓《ひら》かねばならなかった。刀を鋤《すき》に代えたさむらいたちであったが、開墾は遅々としてはかどらない。そのおり、開拓使が交付した林檎の苗木が、四年の歳月を経て実をむすんだ。明治十二年のことである。
翌十三年、林檎ざむらいの手になる腐心の果実は、札幌農業博覧会に出品されて脚光を浴びた。品種は「緋ノ衣」「国光」の二種。我が国で初めて、民間の手になる林檎がここに誕生することになった。
以来、余市林檎は鰊とならんで、この町を代表する産物となった。林檎栽培は年を追って盛んになり、明治三十七〜八年の日露戦争のころからは、ロシアのウラジヴォストークへの輸出が加わった。生産力も飛躍的に増大した。
「あのころ、余市産林檎の四分の一くらいはウラジオに出ていました。輸出分は国内価格より高いので、農家にとっても御の字だったし、わたしらも潤った。いい時代でした。……だが、ロシアに革命が起きてすべてがだめになりました。輸入禁止令は出る、ルーブル札は紙屑《かみくず》同然になる。わたしも十数年かかって貯えた財産を一夜にして失い、こうして家の旅館業を継いどるというわけです」
鰊と林檎の町余市にとって、昭和の幕明けも明るいものではなかった。
鰊の漁獲量が激減したのである。大正十四年、六万余石の豊漁であったものが、昭和二年にはその三分の一を割り、翌三年には九千四百石に落ちた。そして五年にはわずかの八石と、鰊がほとんど姿を見せなかった。
さいわい、六年に三万五千石、八年には六万石弱の豊漁を記録して盛り返したが、昭和五年の極端な不漁は鰊場が開かれて以来なかったことだけに、鰊業者の脳裡に悪夢としてとどまることになった。
いっぽう、林檎を中心とした果樹栽培のほうは、ウラジオという輸出先を失い、昭和恐慌で農作物の下落が続くにもかかわらず、悪くなかった。林檎のほかにも梨、葡萄、桜桃、杏《あんず》、桃などを産し、余市はいつか北海道を代表する果樹王国になっていた。
「で、お客さんは工場で何をお造りになるつもりです」
「林檎ジュースを造ろうと思っています。林檎を搾って、瓶詰めにします。天然のジュースは欧米ではたくさん飲まれてますからな」
「ほう、林檎ジュース、つまり林檎汁ですな」
「林檎ジュースだけでなく、林檎酒からブランディも造ることになるでしょうな。わたしの本当の夢はウイスキー造りでして、林檎ジュースはその繋《つな》ぎというわけですわ」
「ウイスケ……」
亭主は信じられぬ顔をして、カイゼル髭《ひげ》をたくわえた客人の顔をまじまじと見つめた。
「わたしゃ酒をやらんので飲んだことありませんが、ウイスケというのは、なんでも珍しい匂いがする洋酒だそうですな。そんな洋酒がこの余市でできるんですか」
「わたしが造るんです」
嬉し気にそう言うと、竹鶴は鮑の刺身に箸《はし》を伸ばし、杯を傾けた。
「昨日、余市川を遡《さかのぼ》ってみたら、農家じゃ湿原から草炭《ピート》を切り出し、竈《かまど》や風呂の燃料に使っているんですな。昔、実習に行ったことがあるスコットランドを思い出しました。水も確めてみるとすばらしい。こういう土地がいいんです。ウイスキー造りにぴったりの土地だ」
客人は黒々としたカイゼル髭をふるわせ、朗々とウイスキー造りの話を続けた。
昭和九年七月、北海道余市に大日本果汁株式会社が設立された。加賀正太郎、芝川又四郎、柳沢保恵、それに竹鶴政孝、計四名の出資により、資本金十万円の会社としてスタートすることになったのである。出資額は大半を加賀と芝川に負った。
――わては株屋や。ウイスキーのほうはわかりまへん。わては金出すさかい、竹鶴はん、あんたは技術を出しなはれ。
竹鶴は代表取締役専務として、会社の運営いっさいを任されることになった。配当を出してくれはるかぎり、口出しはせえしまへん、好きにやっとくれやす。筆頭株主である加賀の意向に、芝川や柳沢も同意した。
大日本果汁の名のとおり、とりあえずジュース製造会社としてスタートすることになった。当初からウイスキー製造にとりかかるには、資金の上でも、製造体制の上でも力不足であった。ジュースなら割砕機や圧搾機などを用意すれば、すぐ瓶詰めにして商品になる。そのジュースを売りながらウイスキーを造り、じっくり、よい原酒《モルト・ウイスキー》をはぐくんでいきたい。これが山崎工場時代の反省を踏まえた竹鶴の計画であった。
とりあえず、事務所が造られた。わずか十六坪ほどの木造平屋建てだが、北海道の風雪に耐え得るよう堅牢《けんろう》重厚な造りとした。同時に、割砕機、圧搾機、濾過機《ろかき》を収納する建物、林檎倉庫。この時のため、あらかじめ手配をしておいた割砕機などは、東京から小樽を経由して海路余市へ運ばれた。
機器とともに五人の技師たちも余市にやってきた。いずれも、鶴見にあった寿屋ビール工場で竹鶴の下に働いていた者たちである。竹鶴が余市に新工場を興すのを知り、同道を願い出た者ばかりだ。機械、醸造、蒸溜、瓶詰めと、各分野に一通り体験者の揃《そろ》っていることが心強い。地元の余市からは二十名が入社した。あとは必要に応じて臨時雇いを募る予定である。
十月、林檎の収穫を待って、製造が開始された。農家から、林檎の山が馬車に積まれて運び込まれる。それらを洗い、割砕機で砕き、圧搾機で搾る。できあがった林檎ジュースは大きなタンクに貯め込まれてゆく。
深まる秋と競うように、もう一つの建物が建設中だった。瓶詰め工場であった。完成を待って、女子作業員を雇い、瓶詰めにかかる。それまでは、ひたすら林檎を搾り続けるだけの仕事である。
余市の農家の間では、新しい会社の噂《うわさ》がまたたく間に広まった。
――林檎汁を搾っとるそうだ。林檎を持っていけば、いくらでも買ってくれる。汁にするから見映えは悪くとも構わんのだ。
余市駅前には、春になると鰊を貨車に積み込む馬車の列が雪融《ゆきど》け道に長い列を作った。この年、秋から冬にかけ、駅前広場は鰊に代って林檎を満載した馬車が連なった。林檎は搾るそばから運び込まれ、倉庫に入りきらない分は構内一画にうず高く積まれた。積み上げられた林檎の山は事務所の屋根より高く、構内には林檎の甘酸っぱい香りが漂った。
本格的な冬が訪れるようになった。
鉛色の空からは白い雪片が音もなく舞い、残り少なくなった林檎の山をうっすらと染めた。事務室では達磨《だるま》ストーヴが薪《まき》をはぜ、傍では竹鶴がカイゼル髭をひねりながら図面の束をめくっている。今後、敷地内に建設すべきウイスキー製造のための建物設計図である。そのうちの一枚は竹鶴自身の住む家であった。
まだ、リタは鎌倉に留《とど》まっていた。初年度は竹鶴も単身赴任、宿舎に技師たちと寝泊りしていた。この臨戦体制も林檎ジュース製造が軌道に乗るまでの辛抱である。冬が明けたら住居を造り、一日も早くリタを迎えてやりたい。
余市は北海道でも過しやすい土地だという。雪も多くなければ、気温も氷点下を大きく下廻ることはない。それでも、冬はやはり冬である。海からの烈風が吹き荒れると、広い湿原に佇《たたず》むちっぽけな事務室は、雪煙にすっぽりくるまれてしまう。
――凍《しば》れるなあ。
窓辺に立って、竹鶴は独りごちた。初めて迎える北海道の冬であった。
昭和十年、九月。竹鶴政孝の妻リタが余市に移ってくることになった。
その日、余市駅には竹鶴をはじめ社員たち総勢五十名余りが迎えに出た。
――専務さんの奥さん、イギリス人とおっしゃっていたが、何とご挨拶したらいいんだろうか。
――外人さんは頭を下げないで、手を握って挨拶するそうだ。
――だけど、わしらはやはり頭を下げんとな。それに、日本に永いことお住みになっとられるから、少しは日本語もお出来になろうよ。
余市出身の社員たちは落ち着きなく囁《ささや》き合った。外国人など目にする機会のない土地柄だけに、生れて初めて見るという者も少なくない。
林檎畑の彼方《かなた》に白煙とともに黒い鉄塊が姿を見せると、誰からともなく口を噤《つぐ》んだ。竹鶴はひとりホームの前方に仁王立ちになっている。
函館本線下り列車は速度をゆるめて余市駅に滑り込み、車輪を軋《きし》ませながらゆっくり停った。ホームに待ち構える人垣の眼は、一等車の乗降口にそそがれた。
扉が開き、技師の五十嵐留治が降り立った。竹鶴の命を受け、リタ夫人を案内するため乗り込んでいた社員の一人だ。つづいて、優美な洋装に身をつつんだ西洋女性が姿を見せた。天鵞絨《ビロード》の帽子の下から碧《あお》い瞳《ひとみ》が竹鶴を見つけ、ほほえみかけた。
――きれいなご婦人だなあ。
人垣のなかから、思わずこんな声が洩《も》れた。
リタは長身を軽やかにかがめ、片手でスカートをつまみ、タラップに足を掛けた。と、竹鶴はその様子を見て乗降口に近づき、手を差し伸べた。陽焼けした骨太の手にほっそりした白い指が重ねられ、リタは竹鶴に支えられるようにしてホームに降り立った。
固唾《かたず》を呑《の》んで見守っていた人垣の間から、どよめきにも似た嘆声が沸いた。
――あれがあちら流の作法ってものなんですね。専務さん、さすがハイカラなもんですな。
囁き合う社員たちの傍では、汽車から降り立った乗客たちがホームに釘《くぎ》づけになったように立ち止り、二人を遠巻きに取り囲んだ。
リタはホームの視線に気づき、出迎えの人垣に向って改めてほほえんだ。寒々としたホームに突然あでやかな大輪が咲きほこったかのようであった。
――ミナサン、オオキニアリガトサマ。主人トオナジク、ドウゾヨロシュウ。
出迎えの人波を見渡しながら、リタははっきり発音した。うたうような響きは、余市ではめったに耳にすることのない大阪言葉だった。
余市にリタを迎えたこの年五月、大日本果汁は林檎ジュースの販売を開始した。
一本あたり林檎五個分の果汁が入った本格ジュースで、価格は一本三十銭。ラベルには〈日果林檎ジュース〉と印刷された。
当時、ジュースという飲み物はほとんど飲まれていなかった。清涼飲料水といえばラムネやサイダーの時代であり、ラムネ六銭、サイダー十銭であったから、価格の上でも数倍の開きがあった。加えて、味もまた当時の日本人には馴染《なじ》めなかった。
一口に言うと、酸っぱかった。林檎そのものが、当時のものは香り、甘み、酸味、いずれも強い。人間の味覚は酸味をより敏感に感じるので、林檎本来の甘みも負けてしまうのである。その林檎を搾り、いっさい添加物を加えないとあれば、酸っぱく感じられるのも無理はない。
――なんとも飲みづらい汁ですな、これが売れるんでしょうか。
たまに、こんな意見を述べる問屋があると、竹鶴は大きな眼を剥《む》いた。
――当り前です。林檎ジュース一本でどのくらい栄養があるか、あなたご存じないんですか。林檎そのもののうまさを生かした天然ジュースこそ、これからの飲み物ですわ。日本では何でも甘みを加えたがる。あれはいけません。
出荷されるジュースは小樽まで鉄道で運ばれ、船積みされて東京、大阪に向った。
しかし、竹鶴のもくろみに反し、売行きは芳しくなかった。そのうえ、やっかいな問題が持ち上った。
小樽から船積みされたジュースは、東京、大阪に着くまでに時間がかかる。船は各地に寄港しながら向うので、船便によっては一か月たっても届かないことがある。なかには寄港中、積荷が雪をかぶり、目的地に着くころにはラベルの糊《のり》に黴《かび》がはえ、商品として出せないものも出た。
いちばん困ったのは、二か月、三か月たつうちにジュースのペクチンが凝固し、濁りが出てくることだった。もともと、天然ジュースは混濁するのが自然である。ところが当時、清涼飲料水営業取締規則により〈混濁シタルモノ〉や〈沈澱《ちんでん》物又ハ固形ノ夾雑《きようざつ》物アルモノ〉は販売できなかった。そのため大日本果汁では一度濾過し、透明にしてから瓶詰めにしていた。
瓶の中身が濁ってくると、お手上げになる。まず、消費者が気味悪がって買ってくれない。加えて、清涼飲料水営業取締規則に抵触するところから、所轄警察衛生部の摘発を受ける。
――専務さん、今度は東京の本富士警察署から呼び出しがかかっています。また例の件です。
こうした報告を受けるたび、竹鶴は夜行列車に飛び乗った。濁りを摘発されれば結果はわかっている。どう抗弁しようと、規則を盾に撤去命令の一点ばりなのである。
回収されたジュースの瓶は、ふたたび船と汽車で余市に送り返された。
――濁るほうが天然であることの証拠なんだが……。ともかくこの調子ではジュースが繋ぎの役を果たしてくれん。ジュースだけでなく、早く、林檎酒《アツプル・ワイン》やブランディを造らにゃならんな。
返品された林檎ジュースの函《はこ》から藁苞《わらづと》にくるまれた瓶を取り出し、陽にかざしてみる。瓶の中では林檎ジュースが本来の白濁色に立ち返り、無数の顆粒《かりゆう》を浮べていた。
この年の末になり、ようやく一基の単式蒸溜器《ポツト・ステイル》が届いた。山崎工場の時と同じく大阪の渡辺銅工所に造らせたものである。ウイスキーの蒸溜は二回行い、初溜と再溜では異った蒸溜器を使うのがふつうである。ところが、竹鶴には二基発注する資金のゆとりがなかった。
――構わん。これ一基と麦芽を糖化する釜《かま》さえあればウイスキーは造れる。問題は設備じゃない。スコットランドではしばらく前までこうして造っとったんだ。
竹鶴は運び込まれた銅製の蒸溜器を、用意した木造建物に据えつけさせた。単式蒸溜器さえあれば、ウイスキーばかりでなく林檎酒《アツプル・ワイン》から|林檎ブランディ《カルヴアドス》が造れる。
しかし、ここでもそれに先立つ手続きが必要だった。酒を造るには免許がいる。竹鶴は酒造免許申請のため、札幌税務監督局に出向いた。
「間税係長にお会いしたい、取りついでいただきたい」
竹鶴はこう言うなり、もどかしげに担当責任者となる係長の前に腰を下ろした。
「このたび余市でウイスキー製造を始めようと思っています。免許をいただきたい」
竹鶴の声は人一倍大きい。カイゼル髭をたくわえた精気あふれる顔には射すくめるような炯眼《けいがん》がめだった。
事務を執る係員たちはいっせいに手を止めた。
「ほう、清酒でなく、ウイスキーを……」
酒造りの免許は簡単に下りるものではない。製造に必要な技術や設備、それに事業を支える資本力など、あらゆる面から慎重に検討される。資本金十万円で始めた大日本果汁は、翌年二十万円に増資し、住友銀行から百万円の融資を受けていたが、なにぶんまだ無名である。ウイスキー製造も北海道では例がない。
「ウイスキーというのは、造るのも大変だそうだ。あなた、本気で造るおつもりですか」
竹鶴が熱を籠《こ》めて説明し終えるのを待つように、間税係長は尋ねた。
「無論です。そうでなければ、私はこんなところへお邪魔しません」
「それも札幌ではなく、鰊の余市でねえ」
「ご説明申し上げたように、余市こそウイスキー造りにもってこいの土地なんです」
竹鶴は焦立《いらだ》ちを隠そうとせず、拳《こぶし》で机を叩いた。
「そうですなあ、しばらく検討させてもらいましょうか。なにしろ、ウイスキーというのはあまり例がないし、上級官庁に伺いを立ててみませんと。まあ、そのうち連絡しましょう」
竹鶴が靴音を荒げて部屋を出ていくと、係長はあきれ顔で言った。
――いやあ、驚いた。世の中にはいろんな人間がいるもんだ。
余市の町を自転車で駈け抜ける男がいた。斜めにかぶった鳥打帽、外国仕立てのダブルの背広、襟元には真紅のマフラーを風に翻している。自転車もこのあたりでは見かけることのない外国製である。
カイゼル髭のいかめしい男は、顔を真赤に力ませ全速力でペダルを漕《こ》ぎつづけていた。風で飛ばされないよう、片手は鳥打帽を必死に押えている。
――あれがそうか。
――そうだ。
――変っとるのう。
――林檎汁ばかり搾って赤字出してる会社だそうだ。変り者じゃなけりゃ、できん。
――女房も外人さんだと。外人さん女房にするのは、あのくらいの男じゃなきゃ、できんことじゃ。
道行く者は駈け抜けていく男の後姿を、足を停めて見送った。
時に、男は外国人の妻を連れ、連れ立って馬を走らせた。すらりと伸びた長躯《ちようく》を乗馬服につつみ、巧みに手綱を操る外国人女性に、町の人々は目を丸くした。
日曜日など、二人は馬を余市川の流れに乗り入れ、釣糸を垂れることがあった。余市川は鮎掛《あゆか》けで知られる川である。
――おい、見ろや。
――すげえなあ。馬に乗ったまま釣してるじゃねえか。
――あれが外国流つうのか。馬の膝《ひざ》さとこまで水に漬って。
――釣れるんだろか。
――馬鹿いえ。鮎はあんな真似さして掛けるもんじゃあんめい。
悪童たちは釣竿《つりざお》を放り出して、川洲の葦原から二人の一挙一動を瞬《まばた》きもせずに見つめた。
余市の五月はいっときに春を迎える。林檎、杏、桃、梨などの花が果樹園を華やかにいろどり、背後には残雪をいただく山並みが柔らかな花浅葱色《はなあさぎいろ》につつまれている。川原に立つと雲雀《ひばり》が飛び立ち、清冽な流れが目に眩《まぶ》しかった。
「お仕事のほう、いかがですの」
「ふむ……」
「昨日もまた、ジュースの函が戻ってきましたわね」
「そうだな」
リタが心配するのも無理はあるまい。工場経営は確かにうまくいっていない。繋ぎ商品のつもりで林檎ジュースを発売して丸一年。ようやく、道内のめぼしい病院で使ってもらえるまでにはなったが、店頭では相変らず売行きが悪い。ジュースという言葉が馴染まないので、ラベルは〈林檎汁〉と刷り直したが、それでも効果はなかった。
林檎を買い入れて選別し、一方はジュース用に割砕、圧搾し、もう一方は林檎酒《アツプル・ワイン》用に大桶《おおおけ》に入れて発酵させる。……資金ばかりが出ていった。このうえ、ウイスキーの製造を始めることになれば、大量の大麦を買い付け、長い年月貯蔵することになるだろう。
「そういえば、昨日、こんなことがありましたわ。小樽聖公会のアン・ステブリに電話していたら、わたしの口から突然、英語でなく日本語が口をついて出ましたの。彼女もわたしも、電話のそばにいた社員も大笑い……」
こうしてのんびり釣糸を垂れ、リタの朗らかな声を聴いていると、工場経営の苦労も忘れてしまいそうだ。寿屋時代の自分だったら、こんな情況でとてものんびり釣などしていられなかっただろう。
――俺も変ったな。
竹鶴は奔流に揺れる浮きを見つめながら思った。焦っても仕方がないことだ。ウイスキー原酒が樽《たる》のなかで、四年、五年の歳月を眠ってようやく一人前になることを思えば、一年や二年の歳月で一喜一憂しても始まらない。
なによりも、これから造ろうとしているのは、自分のウイスキーなのだ。独立したいまやっと、青年時代から追い求めてきた理想のウイスキーを造り上げる機会を掴《つか》んだ。この喜びにくらべれば、工場経営の苦労など……。
「マッサン……マッサン、あなた、わたしの話を聞いていらっしゃるんですか」
これだから、西洋女はいかん。以心伝心という呼吸がわからんか。少々うんざりしながらも、竹鶴は浮きから目を上げた。
「わたし、お仕事を手伝って差し上げようと……。専門的な知識はありませんが、何かお役に立つことがあるはずですわ」
「そうか、ありがとう。だが……いや、それでは頼もうか。じつは従業員の慰安会を計画しとるんだが、その切りまわしをやってくれんか」
「それはいいことですわ。大丈夫、任せてください。スコットランドでは、こんな美しい季節にはピクニックに出ます。どうでしょう、山に行ってみんなでお食事をしては。ひとりひとりにプレゼントを用意して。そう、おやつにわたしがドーナツをつくりましょう……」
屈託のないアルトが川面を渡っていった。
この調子じゃ釣れんな。心で舌打ちしながらも、竹鶴はいつかリタの話に魅《ひ》き込まれていた。
余市工場の事務所脇に大きな時鐘《ベル》が吊《つる》されていた。竹鶴政孝は朝七時、寸毫《すんごう》も違えることなく時鐘の下に立ち、朝靄《あさもや》漂う構内に始業合図を打ち鳴らした。
「おはよう」
竹鶴は従業員の姿を目にすると、元気よく声をかける。
「どうだね、一郎兄さん風邪ひいて寝込んどるそうだが、まだ良くならんか」
「最近お見かけしないが、彦爺さんはもう畑仕事に出とられるのか」
は、おかげさまで。従業員は頭を下げたまま返事をかえす。頭を上げるころ、竹鶴の姿はもう足早に事務所に消えている。
――専務さん、わしらの家族の名前まで諳《そら》んじてくださっとる。六十人も七十人もおるというのに……。
従業員たちは恐縮した面持ちで語り合った。
工場ではすでにウイスキーの蒸溜が始まっていた。十一年夏、札幌税務監督局に日参の末ようやく製造免許を得ると、さっそく秋から大麦を買い入れ、製造にとりかかった。竹鶴以下全従業員、林檎ジュースを造りながらのウイスキー製造である。
林檎ジュースに加え、十二年にはアップル・ゼリーとグレープ・ゼリー、十三年には林檎酒《アツプル・ワイン》を発売した。また、ウイスキーとともに林檎酒からも林檎ブランディの蒸溜を行い、貯蔵庫のなかで眠りにつかせた。フランスでいうところのシードル、カルヴァドスである。
この間、余市の町には大きな異変が起っていた。昭和十年、とうとう鰊《にしん》がまったく姿を見せなかったのである。鰊業者たちの間に、あの五年前の悪夢が甦った。事実、十一、十二、十三年と不漁は続き、十二年にわずか二千石弱を記録したのが最大であった。
――余市は鰊に見捨てられた。
一縷《いちる》の希望にすがりながらも、鰊業者や漁師たちはこう考えざるを得なかった。鰊以外の漁業や樺太・千島出漁に活路を求める者、農業に転業する者とさまざまであったが、数年前まで町外から二千人のヤン衆を迎えて賑わった町は火が消えたように寂しくなった。
余市の町には農漁業のほかに何もなかった。働き口といえば大日本果汁の工場くらいである。
――人が食わん林檎を買い集めて林檎汁にしとる会社らしい。頼めば臨時に雇ってもらえるという話だ。
こんな噂を頼りに、工場を訪れる若者も少なくなかった。しかし、入社してみると、人手不足をかこつどころか、倉庫には売れずに出荷できぬ瓶の山、返品されて帰ってくる函の重なり……。造れば造るだけ損になるから、今週はひとつ、皆で他の作業をしよう、と醸造係長の音頭で草むしりが続く日々もあった。
事務長が大きな磁石をもち、掃除に現われることもあった。
――掃除するのに、あんな磁石がなぜ要るんですか。
新入りの目には、なんとも奇妙な光景だ。
――いまにわかる。見てろや。
事務長は、しばし集められた木片や鉋屑《かんなくず》の間をまさぐっていた。磁石が引き上げられると、古釘が数十本付いている。函を解体したときに出る釘らしく、いずれも曲り、変形していた。
すぐさま、ハンマーが渡された。
――どうするんですか。
――決ってるじゃないか。真っすぐにするんだ。
――この曲った釘、真っすぐにしてまた使うんですか。
決りきったことを聞くな、という表情を見せると、事務長は言った。
――ジュースが売れずに苦しいんだ。小さなもの一つでも大事に使っていかなきゃ、やっていけん。
その言葉は誇張ではなかった。赤字は年を追うごとに膨らんでいたのである。しかも、売行きのいかんにかかわらず、大麦の買い入れと醸造蒸溜は一年たりとも欠かすわけにはいかない。これは、ウイスキー造りの宿命だ。苦しいからといって投資を控えたら負けなのだ。
なあに、こんなことは初めからわかっとったことだ。
竹鶴は帳簿を前にして自分に言い聞かせる。まだ借入金は残っている。こいつがなくなればまた銀行から借りればいい。貯蔵庫に貯えはじめた原酒が立派に育ちさえすれば、投資額など及びもつかぬ財産になるのだ……。
秋になると、農家から林檎を積んだ馬車がやってきた。大風の吹いた翌朝など、馬車が蜒々《えんえん》と長蛇の列をつくった。赤字会社と悪口をいいながらも、農家にとって大日本果汁は有難い存在だった。形の悪い林檎、傷がついたり色の悪い林檎を無理して市場に出さなくとも、持っていけばそれ相応の値段で買い取ってもらえるからである。
林檎は何函も函に詰めて運ばれた。納められた林檎はいちいち重量をはかっている余裕がない。品質を吟味したあと、重量は目見当ということになる。これは竹鶴の方針であった。
――構わん。相手を信用して、申告させなさい。そのほうが早い。
正味何貫目の函が何函あるか売り手に訊《たず》ね、確めもせずに集積場に積ませる。ときおり抜取り検査を行うことになってはいたが、忙しくなるとそれもできない。農家にとってはこうした納入方法は初めてであった。
――あの赤字会社は秤《はかり》を使わねえで、めっそで買ってくれる。
めっそとは、目見当という意味である。一段落ついたところで帳簿上の申告数量と実際上の数量とをくらべてみる。いつも帳簿より実際のほうが多いくらいだった。
その報告を聞いて、竹鶴は満足気に頷《うなず》いた。
林檎の山が野積みにされ、構内の空地を埋めていた。傍ではコスモスの花が乾いた風に揺らいでいる。高い空には刷毛《はけ》で掃いたような白い絹雲が浮び、明澄な陽光が残り少なくなった北国の秋を惜しむように降りそそいでいた。
表札には〈大日本果汁株式会社〉と大書されていた。その表札の掛った門をくぐり、右手に工場の建物を見ながら通り過ぎ、マッチ箱のような事務所に至ると、奥には二階建ての木造洋風家屋が目と鼻の先に見えている。裏に廻ると、物干台には大根が数十本、たっぷり肥えた白い根を秋の陽にさらしていた。
「奥さん、まあ日本育ちではないのに、よく漬物ができますなあ。えらいもんじゃ」
野菜の行商に来た農婦がそう言いながら、肩から大きな荷を下ろした。
「余市ノ冬、漬物ナシデ過ゴセマスカ。ワタシノ家ダッテ同ジコトデス」
リタは農婦に笑いかけながらも、女中を指図して大きな樽に干し上った大根を漬けている。塩、足リマセン、モット。漬物は塩加減が大事だ。リタは女中の振りかける塩から目を放さない。
いったん始めるとなると、完璧《かんぺき》にやらねば気が済まない性質であった。いつ覚えたのか、二度目の秋からは大根の漬物や鰊漬を、材料の吟味、買い付けから始めて一切を自分の手で行うようになった。
竹鶴邸には一部屋だけ日本間がある。ある日、リタは畳職人を呼んで、裏返しを命じた。
「ドノクライ時間イリマスカ」
「そうですな、まあ二時間あれば」
職人が仕事を始めて、ちょうど二時間が経った。見違えるようにすがすがしくなった畳が、何枚か青い表を見せていた。
「やあ、奥さん、もうすぐ終りますから」
「二時間経チマシタ。アナタ、二時間デオワルイイマシタ」
「それが、少々手間取りましてね。大丈夫、任しといてください。すぐ済みますで」
「イイエ、モウイイデス。帰ッテクダサイ」
日本のサムライは命に代えても約束を守ったと、昔、本で読んだことがあります。それが、なぜ今の日本人は約束を破って平気なのですか。
――やれやれ、またいつもの完璧症か。
合点がいかない顔つきで、肩をいからせながら帰っていく畳屋を、竹鶴は苦笑を噛《か》み殺して見送るほかなかった。
竹鶴家では、ときおり主人自らが厨房《ちゆうぼう》に立つこともあった。
――いいか、よく見ておくんだぞ。烏賊《いか》はこう色が透きとおっていなきゃだめだ。白くなったらおしまいだ。海のものは鮮度が命だから、市場に行って自分の眼で確めたもんでなきゃ、食ってはいかん。人にも食わすな。
口に劣らず、手さばきも早い。庖丁《ほうちよう》を手にすると、すばやく烏賊をおろし始める。横ではリタや鎌倉から連れてきた女中が、その鮮やかな手つきに見とれている。
だがリタは、漫然と見とれていただけではなかった。ときに、社員を呼んで食事を振舞うおりなど、社員たちを感激させたのはリタの手になる漬物や烏賊の塩辛だった。
――驚きました。お袋の漬物よりうまいです。
――烏賊の塩辛もたいした味ですなあ。だいいち、歯にはさまらずに食べやすい。こりゃ、何か秘訣《ひけつ》があるんですか。
口々に社員たちが褒める言葉はまんざら世辞だけでもないようだった。竹鶴は改めて烏賊の塩辛を噛みしめてみた。味は余市の漁師たちが造るそのままの味だった。
竹鶴は箸《はし》でもう一片をつまみ上げ、ためつすがめつ観察し、ゆっくり口に放り込んだ。
――そうか。刻み方が逆なんだ。日本人なら筋にそって縦に刻むから、繊維が残る。ところがリタは、横に細く刻んでいくから繊維が歯にはさまらない。
恐らくはリタが知恵を絞った結果であろう。西洋人らしい合理主義である。だがそれ以上に、塩辛づくりひとつにも、精いっぱい余市の生活に溶け込もうとしているリタの努力がありありと窺《うかが》えた。
――リタ、ほんとうだ。いい味にできている。
塩辛を噛みしめながら褒めると、リタは嬉しそうな笑顔を返した。
蒸溜釜一つで始まった蒸溜室に、やがてもう一基の単式蒸溜器《ポツト・ステイル》が運ばれ、据え付けられた。二基の蒸溜器のあいだには、蒸溜器を見下ろせる位置に税務官室が造られ、鉄骨階段で登り降りできるようになっていた。蒸溜の季節が始まると、小樽の税務署から税務官が通い、ここに詰めた。
ときおり竹鶴が見廻りにやってくる。白の実験衣に毛糸の帽子をかぶっているところを見ると、研究室から抜け出してきたらしい。税務官室から見下ろすと、毛糸の帽子とカイゼル髭《ひげ》の取り合せがどことなくユーモラスだ。
蒸溜とは見た目よりやっかいな作業のようである。釜に石炭をくべる焚《た》き方ひとつにも、竹鶴は常に目を光らせている。腕を組んで見つめているかと思えば、次の瞬間大きな声で、「これではいかんのだよ、この前も言ったろう」などと注意を与えているのがガラスの窓越しにきこえてくる。はてはスコップを奪いとるようにみずから手にし、黒い石炭を炎のなかに小気味よい放物線を描いて投げ入れていく。
税務官は、蒸溜を始めた最初の年のことをよく憶《おぼ》えていた。その秋、税務官の立ち会うなか、竹鶴と技師、職工たちの見守る目の前で、蒸溜を終え、冷却器を通ってウイスキー原酒となった無色透明の水滴が静かにしたたったのである。
その瞬間を待っていたように、竹鶴は立ち上った。
――さあ、査定を始めてください。
満面に笑みがたたえられていた。日頃、職人たちを指導するおりに見せる厳しい表情は微塵《みじん》もなかった。口許《くちもと》をほころばせた顔からは、隠しきれない嬉しさがひしひしと伝わってくるようだった。
あれから三年、初年度の原酒に続き、毎年、ウイスキー原酒の蒸溜は続いていた。税務官の主な任務は、蒸溜に際して立ち会い、査定を行うことである。この査定に従い、酒精含有飲料税という税金額が決る。
査定はウイスキー原酒のアルコール度と容量を計る。アルコールの度数は、蒸溜を終えたばかりのウイスキー原酒を、酒精計にかけて測定するのである。
ときに、微妙な問題が起る。表面張力により、読む者によって目盛りの違いを生じてくることがあるのだ。
「七十度ですな」
「いや、ちょっと待ってください。私の目は昔から自信があります。この目盛りから計算すれば六十九度です。間違いありません」
アルコール度数が一度違えば、税金の額に少なからぬ影響がある。税務官も竹鶴もなかなか譲ろうとしない。
「竹鶴さん、あなたの目もいいかもしれませんが、私の目だって節穴じゃありません」
「いやあ、六十九度だな……」
「そう読みたい気持はわかります。だが、竹鶴さん、この目盛りで六十九度と査定するわけにはいきませんな」
「まあ、待ってください」
竹鶴はシリンダーを手にとると、ストーヴのそばに持っていった。そしてしばらくすると、上機嫌で戻ってきた。
「さあ、どうです」
酒精計は今度は間違いなく六十九度を示している。液温が上ったため、アルコールが飛んで度数が下ったのである。
「いやあ、まいったなあ」
さしもの税務官も苦笑して、竹鶴の主張を認めざるを得なかった。
「竹鶴さん、あなたにあっちゃ敵《かな》いません。今日のところ、六十九度と査定します。だけど、シリンダーを暖めるのは今回限りにしてもらいますよ」
昭和十二年の日中戦争突入以来、戦時体制を迎えて経済統制は強化された。十三年の国家総動員法に続き、十四年十月には価格等統制令が発令され、清酒などの酒類には公定価格が実施されるようになった。
余市工場の貯蔵庫では、初年度のウイスキー原酒が四年目の眠りに入っていた。水のように透明であった原酒も、樽で眠るうちに淡い琥珀色《こはくいろ》を帯び、荒々しい酒の精は丸みを帯びて馥郁《ふくいく》たる香りをたたえはじめた。
いつ、発売に踏み切るか。
テイスティング・グラスを掌《てのひら》の中にくるみ、竹鶴は立ち昇る香りをひと息たりとも逃すまいと、鼻を近づける。
出来は悪くない。だが、混合《ヴアツト》し、特徴の異る原酒同士の魅力を引き出すには、たかだか四年の眠りでは残念ながら若すぎる。山崎工場で〈白札サントリー〉第一号を送り出したときも同じ悩みがあったが、あの時は鳥井の要請によって妥協したいきさつがあった。
今度は違う。余市に工場を設立したのも、いちばん納得のいく製品を世に問うためではなかったか。
――できれば、あと二、三年。いや、もう一年でもいい。
時代が時代なら、それができるのだが。竹鶴はテイスティング・グラスに鼻を近づけつつ、思う。ところが現在、戦争が拡大するのは必至の情勢であり、価格統制と配給の時代を迎え、いま発売しなければ永久に機を逸してしまうかもしれない。税務官が早くウイスキー発売に踏み切るよう重ねて勧告してくるのも、それを裏付けているように思われた。
戦争に入って以来、輸入ウイスキーは激減し、代って国産ウイスキー、なかでも寿屋の〈サントリー〉が洋酒ファンの間で人気を博していた。竹鶴が去ったのちも、鳥井は岩ノ原葡萄園や山梨農場で新たに葡萄栽培と生《き》葡萄酒醸造を開始するなど、相変らず旺盛《おうせい》な事業欲を示し、十二年には〈サントリーウ井スキー十二年もの角壜《かくびん》〉を発売した。同じ年に東京醸造が寿屋に次いで本格ウイスキー〈トミー〉を発売したが、当時日本で最良のウイスキーといえば、寿屋の〈サントリー角壜〉であった。
こうした傑作が生れたのも、ひとえに長い歳月を眠ったからにほかならない。竹鶴はみずからの手で造った山崎工場の原酒が、売れずに残ったがために〈角壜〉に結実した皮肉を考えるにつけ、時を待つことの大切さを思い知らされた。
しかしいっぽうで、戦争がもたらす切迫した状況は、もはやそうした余裕を許さないところまできている。
――発売の機を逸することだけは、避けねばならん。会社を存続させていくためにも、どんなことがあっても……。
迷い抜いた末、竹鶴は発売に踏み切ることを決意した。
若い原酒群ではあったが、竹鶴は慎重に混合《ヴアツテイング》を繰り返し、アルコールとブレンドした。ピートの香りをきかせた原酒をたっぷり使い、スコッチと同様、重厚な気品をたたえたウイスキーに仕上げたのである。
初めて世に送り出す製品を、竹鶴は「大日本果汁」を略して「日果」、すなわち〈ニッカウヰスキー〉と命名した。ラベル文字は〈Rare Old NIKKA WHISKY〉。
研究室の机の上に、生れたばかりの〈ニッカウヰスキー〉が置かれた。角型の透明壜には斜めに線が刻まれ、琥珀色の液体をたたえて前面と後面の斜線が格子模様を描いていた。窓から射しこむ陽の光を受け、底のカットが乱反射している。いつのまにか、リタが報《しら》せを受けて部屋に入ってきたが、竹鶴もまわりを囲んだ技師たちも、気づくものはなかった。一同はかすかに頬を紅潮させ、言葉を発するのも忘れて、食い入るように壜を見つめていた。
みずからの手になる念願のウイスキーであった。スコットランド留学から帰国して、二十年。その機会を作ってくれた阿部社長とは不本意ながら袂《たもと》を分かつままになっていた。竹鶴はようやく造りあげたウイスキーを前にして、この一本を、誰よりも先に阿部社長に届け、その恩に報いたいと心から思った。
昭和十五年十月、〈ニッカウヰスキー〉ならびに〈ニッカブランデー〉が発売された。馬車に積まれて工場の門を出るウイスキーの函を、竹鶴以下全従業員が並んで見送った。
発売と前後して、酒税法上雑酒と呼ばれたウイスキーにも公定価格が設けられるようになった。ウイスキーは一級、二級、三級に等級分けがなされ、ニッカウヰスキーは寿屋の〈サントリー〉、東京醸造の〈トミー〉とともに、大蔵省、商工省の共同告知により、一級ウイスキーの指定銘柄品として公示された。同時に余市工場は、ウイスキーという軍納製品を造るところから、海軍の監督工場に指定された。
工場の門には〈大日本果汁株式会社〉の表札と並んで、真新しい〈海軍監督工場〉の木札が掲げられた。
軍靴の音は日増しに高まっていた。十六年十二月にはついに太平洋戦争に突入、余市の工場からも召集される従業員が相次いだ。産業報国会が結成され、朝の国旗掲揚、敬礼にはじまり、軍事訓練や神社参拝など、工場生活も軍事色一色に塗りつぶされるようになった。
物資もしだいに乏しくなった。小麦粉が統制下に入ると食パンが手に入らなくなり、リタは毎朝、自分でパンを焼いた。それでも、海の幸山の幸に恵まれた土地柄だけに食糧事情は内地より良好で、ときおり闇《やみ》商人が買い付けに姿を見せるようになった。
ある日、竹鶴家に特高警察が踏み込んできた。ラジオのアンテナを見咎《みとが》め、捜索に来たのだった。あいにく竹鶴は上京中で不在だった。
――ラジオの雑音がひどいので、わたしらが見兼ねてアンテナを立てたんです。そんなに疑うなら調べてください。
従業員たちがリタに代って答えると、警部は探知器で探った末にようやく引き揚げていった。
リタは竹鶴と結婚後、日本に帰化していた。そのため拘禁の対象にはならなかったが、敵国人の烙印《らくいん》は碧《あお》い眼と鳶《とび》色の髪をもつかぎり消えなかった。汽車に乗って小樽や札幌に向うと、特高警察の尾行がつき、訪れる先々をマークした。
町に買物に出ると、少年たちが廻りを囲んだ。ヤーイ、毛唐、毛唐。以前は物珍しげに観察するだけだったが、いまでは公然と侮蔑《ぶべつ》し囃《はや》し立てた。なかには石を投げる者もあった。
――アナタタチ、ワタシ、生レハイギリスデスガ、イマハ日本人デス。イイデスカ、ワタシモ、アナタタチト同ジ日本人デス。
リタは立ち止ると、少年たちに向って声を張り上げた。
人前で愚痴をこぼすのを嫌ったリタも、そんな日は珍しく耐えかねたように竹鶴に綿々とうったえた。
「わたし、心のなかはまったくの日本人になりきっているつもりです。いったい、このわたしのどこがいけないんです。……このごろ思うんです、わたしのこの鼻がもう少し低くなってくれたら、髪の毛や瞳《ひとみ》が黒くあってくれれば……」
竹鶴自身にも苦い体験がある。リタを伴い上京しようとしたおりだった。函館で青函連絡船に乗り込もうとしたリタが特高警察に阻まれ、みすみす余市に送り返さなくてはならなくなったのだ。
「一つだけはっきりしていることがある。……リタ、おまえが悪いのではない。……こんな酷《ひど》い時代は、そう長く続くもんじゃない」
竹鶴はそう言って、リタの肩をしっかりと抱いた。
工場敷地と余市川のあいだに葦《あし》の茂る沼地が広がっていた。沼地には中洲《なかす》が浮び、工場敷地とは一本の土手道でつながれていた。その土手道も、大雨が降ると水に没さんばかりになってしまう。中洲は文字どおり沼に浮ぶ孤島であった。
この中洲に貯蔵庫が建てられていた。建物は石積みだが床は土のままである。夏でも、貯蔵庫に足を踏み入れると、湿気を帯びた暗い土床からはひんやりした冷気が立ち昇った。
――こうでなくてはいかんのだよ。床は土のままがいい。原酒は樽の木目を通してじかに大地の湿り気を吸い、育っていくんだ。樽も二段までしか積んではいかん。
貯蔵庫はたんなる倉庫とは違う。原酒は樽のなかで眠りながら成長している。生き物なのだから大事に見守ってやらなくてはならないのだ。竹鶴は技師たちに機会あるごとにこう教えた。
ウイスキー原酒が溜《たま》るにしたがい、貯蔵庫は数を増していった。貯蔵庫は間隔を充分にとって万一の火災に備え、同じ年の原酒は各貯蔵庫に分散して貯蔵させた。
戦争の時代に入っても、竹鶴の生活は変らなかった。朝七時に始業の時鐘《ベル》を鳴らし、研究室に入る。そこでみずから先頭に立って技師たちを指導し、ウイスキーの混合《ヴアツテイング》やブレンドを行う。すでに発売していた林檎酒やゼリーなどのほかに、時代の要請でいくつか新製品を出さねばならなかった。それらの準備や実験もある。工場の現場に足を運び、醸造や蒸溜の具合を確めるのも欠かせない仕事だった。
ときおり、竹鶴の姿が見えなくなることがあった。
――専務さん、知らないか。
――たぶん、あそこだ。
――あそこって、沼の向うか。
――きっとそうだ。
沼の向うとは、中洲に建つ貯蔵庫のことだ。従業員が捜しに行くと、薄暗い貯蔵庫の片隅に腕組みをしてたたずむ竹鶴の姿がきまってあった。
冷く、湿気が土からじかに這《は》い昇ってくる貯蔵庫は、けっして居心地のよいものではない。しかし、竹鶴にとってここはいかなる宮殿にもまさる場所だった。製造年号が書き入れられ、年ごとに増えていく楢材《ならざい》の樽を目の前にしていると、それだけで心が休まった。
ウイスキー造りを闘いにたとえれば、時との闘いといってよい。闘いに勝つ原動力は、たんなる技術でも設備でも資本力でもない。スコットランドでハイランドの住人たちが古くから守り続けてきたように、大麦を水と草炭《ピート》と空気の働きに委《ゆだ》ねて、一人前のウイスキー原酒に成長するまで、辛抱強くいとおしんでやることだ。
やさしいようでいて、これが難しい。新しいものへの挑戦にのみ活力を求めてきた日本社会においてはなおさらである。さながら、それは子育てにも似ている。本当の愛情をいだく者でなければ、長い時を耐えて共に生きることはできないのだ。
竹鶴は貯蔵庫の薄闇で、幼な児を気遣って鼓動に耳を澄す父親のように、一樽一樽に目を配りながらゆっくり歩んだ。
貯蔵庫に眠る原酒の樽には、スコットランドで学んで以来一日も忘れることのなかった大きな夢が詰っていた。いつの日か、スコッチに匹敵するウイスキーを日本で造り出すこと――。樽のなかで眠る原酒は、その可能性を秘めて眠っていた。
貯蔵庫の外では、米英諸国との戦争、妻リタに対する圧迫、戦時の経済統制、と不幸な出来事が続いている。しかし、それらは永久に続くわけではあるまい。いつか終る時が来る。その間、どんなことがあろうと眠る樽を守っていかなくてはならない。
すでに発売を開始したウイスキーは順調に出ていた。皮肉なことに、戦争のおかげだった。海軍監督工場に指定された大日本果汁では、原料の大麦をはじめ製造に必要な諸材料が優先的に配給になっただけでなく、統制経済下で製品は配給組合が買い上げてくれた。戦火が広がるにしたがい、清酒を筆頭に酒類は軒並み製造量が減っていた。酒であれば飛ぶように売れた時代であった。
大日本果汁も宣伝や販売の努力がいらず、製品を造ることだけに努力を傾ければよかった。積み重なっていた大幅の赤字も、はじめて解消のめどがついた。出発したばかりのウイスキー製造会社にとって、これほど幸運なことはない。
ウイスキーの主要納入先は小樽にあった海軍暁部隊だった。北方のアリューシャン方面へ出撃する同部隊の注文で、罐入りのウイスキーも製造した。また、電波兵器に欠かせない酒石酸を製造するため、山葡萄から葡萄酒を造った。
――日本の風土は葡萄酒造りには適しておらん。一級品はできん。したがって、手を染めるべきではない。
これが竹鶴の持論であった。葡萄酒を造ったのは、酒石酸を採るためであったが、この副産物は砂糖を添加し、甘味葡萄酒となって配給に廻された。砂糖もアルコール飲料も貴重になりつつあった時代ゆえ、余市の人々にこの甘味葡萄酒は喜んで迎えられた。
戦時体制が圧迫したのは、国民の経済ばかりではない。
ある日、工場の一係長が、眉をひそめて竹鶴の許に注進に来た。
「専務さん、お耳に入れとかなければいけないと思いまして……」
係長は工場に勤める一男子従業員と女子従業員の問題を話し始めた。二人はいつのまにか良い仲となり、いまでは公然と付き合っている、町の人からは軟派と呼ばれ、顰蹙《ひんしゆく》を買っている、と。
「私も従業員の間から後指さされるような輩《やから》を出したことを恥じております。うって一丸となり、お国のために命を捧《ささ》げ、汗水流して働いている時に、とんでもない奴らです。一応ご報告して、厳しく説教します」
竹鶴は話を聞き終ると、開口一番言った。
「きみ、そりゃ間違っとるよ」
当然竹鶴も同意見と決めてかかっていた係長は、戸口へ向けかけていた足を一瞬止めて振り返った。
「お国のために頑張ることと、男と女が好き合うことは別だ。二人に干渉するのはやめときなさい。仕事が終ったら、あとは散歩しようとお茶を飲もうと、構わんじゃないか。仕事に支障が出てこんかぎり、二人をそっとしときなさい」
係長はうろたえた。専務は何ということを……。万一外にきこえたら、非国民呼ばわりされます。係長はそう言いたげだった。
だが竹鶴は一向に平気だった。召集されて残り少なくなった町の青年たちが、竹鶴を囲む集いを開いたおりも、請われるままにこう話し始めたことがある。
「イギリスではタクシーの運転手に大学出もいる。新聞を毎朝三紙も四紙も読んでいて、誰とでも対等に世間話ができるんだな。客は運転手に命を預けるんだから、運転手のほうも客を信頼させなきゃ、一人前の職業人とは言えません。日本もこれからはそうならなきゃいかんと思う」
身体を鍛えるのも大事だが、勉強することを忘れてはいけない。そう結論づけたあと、竹鶴は青年たちの顔を見廻した。
「さきほど、結婚と家庭という話があった。わたしは、若いうちはすぐ子供を作らんほうがいいと思う。二人だけで過す機会は人生でそうあるものじゃない。結婚しても一年や二年は、二人だけで青春を楽しむべきなんだ」
巷《ちまた》では、「鬼畜米英」が合言葉となり、生んで増やしてお国に捧げよ、と叫ばれた時代である。が、幹事たちの心配に気づかぬように、竹鶴は悠然と語り続けた。
「子供はせいぜい二人まででいい。三人以上は、経済的にも人格的にも、責任を持って育てられる者でなければ作るのはおよしなさい」
工場からきこえていた低いモーター音がとぎれると、深い静寂《しじま》が訪れた。窓辺に立つと、工場の灯はすでに消え、降りしきる雪片が窓の光のなかに浮び上っている。ときおり、海からの風が荒々しく吹きつのり、雪は渦を巻いて猛《た》けた。風がおさまると、北国の夜はふたたび物音一つない世界に立ち返った。
暖炉が赫々《あかあか》と燃えていた。投げ入れられた太い薪はやわらかな炎を上げて燃えさかり、心地よい温《ぬく》もりを放った。戦時ではあったが、樽造りに際して出る残り材やピートなど、燃料には事欠くことがなかった。
リタは肘掛《ひじか》け椅子に腰を下ろし、繕いものに余念がなかった。シャツ、セーター、靴下、いずれも新しいものが手に入る時代ではなかった。手に入ったとしても、代用品まがいの粗悪品でしかなかった。そんなものを身につけるくらいなら、古いものを繕ったほうがはるかに着心地もよかった。
竹鶴はリタと共に暖炉の前に坐っていた。手にしたグラスには、黄金色の液体が生《き》のままそそがれている。竹鶴はみずから造り上げたウイスキーのグラスをかざし、軽くゆすって香りを深く吸い込むと、口に含んで目をつむった。
苦行僧を思わせる表情に、ほのかな笑みが浮んだ。
――ふうん。
呟《つぶや》きとも嘆声ともとれる声に、リタはふと目を上げたが、すぐ視線を繕いものに戻した。
遠くで潮騒《しおさい》の音がしたように思った。耳を澄した。しかしきこえてきたのは薪の樹皮がはぜる音だけだった。竹鶴は暖炉の火を見守りながら、グラスを口に運んだ。舐《な》めるようにゆっくりと、一滴一滴をいとおしむように啜《すす》った。
「マッサン」
リタは繕いものの手を休めずに話しかけた。
「何を考えていらっしゃるの」
「あれやこれやな。こうした夜はつい、いろいろなことが思い浮んでくる」
「わたしもそうですの。……ついいましがたは、わたしたちに子供が生れていたら、と考えていました。まだ大阪にいた頃、流産したことがありましたわね。あの時に生れていたら、いま何歳ぐらいになっているかを数えていたんです。愚かなことですわね」
「いや、そんな時もあるものだ」
「不思議なものですわ。あれから子供を欲しいと思いながら生れなかった。生れないと、余計に流産した子が悔まれるんです。だけどいまとなってみると、この時代ですもの、かえってよかったような気がします」
子供が生れなかったことは、竹鶴にとっても寂しくなくはなかった。しかし、男には仕事がある。貯蔵庫に眠る樽《たる》一つ一つが、子供のようなものであった。
――ノースランド。ホワイト・ベアー。ハイウェイ。スノーランド。オシャマンベ。シャコタン。……
すでに竹鶴は、こうした名を商標登録してあった。これから生れてくる子供たちに付けようと思って考えた名であった。
――子供が生れないのは残念ですが、あなたは大きな夢を実現しようとしていらっしゃる。ウイスキーという夢がわたしたちの子供なんですのね。
リタはかつてそう言ってくれた。だが、女はやはり男と違うところがあるらしい。竹鶴は靴下を繕い続ける妻を見ながら、かねて心に暖めてきた考えを打ち明けようと思った。
「リタ、私は養子を貰《もら》おうと思っているんだ」
「…………」
「養子をな、貰おうと思っている」
「ほんとですの」
リタは繕いの手を止め、竹鶴の顔を驚いたように見つめた。
「姉の子に威《たけし》というのがいる。いま、広島の学校で醸造学を勉強しているところだ。前からそれとなく話を進めておいたが、先方に異存はないらしい。どうだね、威なら気立てもいいし、我が子同然だ」
「ほんとうですの。ほんとうですのね。……嬉しいですわ」
リタは信じられぬように、訊《き》き返した。
「いつからですの。ほんとうに威さんは来てくれますのね」
「なに、明日《あす》明後日《あさつて》というわけじゃない。威には将来私の跡を継がせたいと思っている。広島の学校を卒業したら、余市に呼び寄せ、札幌の北大でさらに勉強できる機会を作ってやりたい」
「すばらしいですわ。早くそうなるといいですわね。威さんの部屋を整えなくてはいけませんが、さてどこに……食事はいままで通りで……そうですわね、家族が増えると賑《にぎ》やかになるでしょうね」
竹鶴はやがて五十歳、昭和十八年には取締役社長に昇格している。リタも四十代の後半にさしかかる。リタの上気した嬉しそうな表情を見ていると、早急にこの話を実現させたいと思った。
窓の外には雪が止《や》むことなく降りつんでいた。窓の灯《あか》りがこぼれる雪面のほかは、すっぽり闇にくるまれている。闇の先には、沼に囲まれた中洲がある。沼には冬になると白鷺《しらさぎ》が必ずやってきた。町の人は白鷺の飛んでくる沼を、いつか「ニッカ沼」と呼ぶようになった。
闇のなかに雪片が舞いつづけ、白鷺を、葦の沼を、中洲に立ち並ぶ貯蔵庫を、白く染めていた。いまこの瞬間も、貯蔵庫では原酒が呼吸し成長を続けているはずである。竹鶴はふたたびウイスキーを口に含み、目をつむった。
昭和二十年、本土各地は空襲を受け、日増しに敗戦の色が濃くなっていた。米軍機は全国津々浦々に出没するようになった。北海道も例外ではなかった。
余市の町にも空襲警報が鳴り響いた。竹鶴は従業員たちとともに防空壕《ぼうくうごう》に避難し、入口に立つと空の彼方《かなた》を見つめた。遠く、小さな点のように見えていた物体が、しだいに豆粒ほどの大きさになっている。
――社長さん、中にお入りになっててください。わたしら、ここで見張ってます。
従業員は気遣ってくれたが、竹鶴はとても防空壕にじっとしてはいられなかった。貯蔵庫にはアルコール度七十度もの原酒の樽が詰っている。万が一、被弾すればたちまち火の海になるだろう。間隔を空けて建ててはあるものの、すぐ消火作業にとりかからねば、取り返しのつかないことになる。
青い空にグラマン機がはっきり捉《とら》えられた。米軍機はほぼ上空にさしかかっている。竹鶴は祈るような気持で見上げた。
米軍機は大きく旋回しながら高度を下げ、海岸沿いに爆弾を投下した。そして、そのまま去っていった。被弾の響きも、炎上の火の手も、上らなかった。竹鶴は胸を撫《な》でおろして防空壕を離れ、若い従業員は投下された方角に向って駈け出した。
この年八月十五日、戦争は終った。原酒の樽はニッカ沼の貯蔵庫で無事生き延びた。初年度蒸溜した原酒は九年の歳月を経て、立派なウイスキー原酒に成長していた。
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第五章 キング・オブ・ブレンダーズ
深い藍色《あいいろ》をたたえた余市《よいち》湾の海岸に沿って、国道五号線が走っている。小樽を後にすると道は海を右手に臨み、余市の街に入って二手に分れる。直進すると積丹《しやこたん》半島に至り、南に九十度折れると国鉄余市駅前を通り函館本線に沿って函館に向う。
昭和二十年秋、米軍ジープが台を連ねて国道を疾駆し、余市の町に姿を現わした。ジープはそのままスピードを弛《ゆる》めず余市駅前にある大日本果汁の敷地に乗りつけ、土埃《つちぼこり》を捲《ま》き上げて停った。
――急げ。社長さんに知らせろ。
慌てて駈け出した従業員の後から、長身の米軍将校が大股《おおまた》で歩き始めた。片手に自動小銃を持ち、小脇に紙包みをかかえている。その後を重そうな包みを手にした兵卒たちが続いた。眩《まば》ゆいばかりにアイロンの当った軍服の一行は、事務所に押し入り、つづいて竹鶴を先頭に立て、今度は事務所の裏手にある竹鶴の居宅に向った。
工場構内にはただならぬ緊張が走った。敗戦と同時に札幌や小樽に占領軍が進駐してきたが、余市の町にまで米軍将兵がやってくることは珍しい。女子従業員は息を殺して身を寄せ合い、男子従業員も心配気な顔で戸口から様子を窺《うかが》った。
――進駐軍が何の用で来たんだろう。
――ウイスキーじゃなかろうか。まさか工場を……。
――そんなこと……。ウイスキーだ、ウイスキーを接収に来たのに決っとる。
従業員たちは声をひそめて言葉を交わし、女たちに姿を隠しているよう合図を送った。万が一、米兵たちが狼藉《ろうぜき》を働くようなことがあれば、男たちで女を守ろう。こんなことさえ囁《ささや》かれた。
やがて、竹鶴邸の門に米軍将兵がふたたび姿を見せた。将校たちはウイスキーの酒壜《さかびん》をかかえたまま、竹鶴やリタ夫人となごやかに握手を交わし、兵卒たちは挙手の姿勢をとった。従業員たちは呆気《あつけ》にとられた。
竹鶴が何やら英語で話している。その太い声、カイゼル髭《ひげ》、広い肩幅……長身|揃《ぞろ》いの米国将兵たちに混って、堂々とした物腰は一歩も引けをとらない。
エンジンの爆音とともに、ジープはふたたび土埃を上げ、去っていった。従業員たちはわれ先に竹鶴のところに駈け寄った。
「社長さん、ご無事でしたか」
「心配せんでよろしい。リタを慰問に来てくれただけだ」
「でも、アメリカさん、鉄砲を持って」
「あれも、慰問の手土産だよ。ほら、君らも朝鮮人の坑夫たちが町を襲ってくるという噂《うわさ》を耳にしたことがあるだろう。アメリカさんは噂を真に受けて、リタのため護身用に持ってきてくれたんだ」
「ソンナウワサ、ウソニキマッテマス。ワタシ、テッポウナンカ、イリマセン」
「リタはああ言っとるんで、代りにわしが使うことにする。熊狩りをやってみたいと思うんだが、あれがあれば心強い」
従業員たちの間にようやく笑顔が戻った。
「いつだったか一度、空襲があって砂浜に爆弾が落ちたことを憶《おぼ》えとるだろう。あれははじめから水産試験所が目標だったらしい」
「社長さん、その話を進駐軍からお聞きになられたんですか」
「そうだ。敵さんはわしらの工場がウイスキー造っとることをとっくに知っとったんだ。わしら慌てて防空壕に隠れたが、そうとわかってりゃ、ゆっくり見物しとるんだった」
豪快な笑い声をあげる竹鶴に向って、従業員の一人が尋ねた。
「進駐軍がウイスキーを奪いに来やしないかと心配ですが、大丈夫でしょうか」
「心配いらん」
竹鶴は断言した。
ウイスキーは戦時中、貴重品扱いだった。ウイスキー一本を小樽のゴム会社に持っていくと、ゴム長靴と交換できた。長靴は農家にとって欠かせないものだから、ゴム長靴で米一俵が手に入った。ウイスキー一本で米一俵といわれた時代だった。敗戦後はますますその傾向が強まり、大工からウイスキー三本で家を建ててやると持ちかけられた従業員もいるほどであった。
「しかし、気をつけなきゃいかん。たった今も、ウイスキーをアメリカ煙草一箱と交換せんかといいおった。とんでもないことだ。相手が誰であろうと、そんな勝手はさせん。そうした強要は略奪行為になると撥《は》ねつけてやったら、しぶしぶ引き退《さが》りおった。……今日のところは慰問のお返しに持たせたが、今後は進駐軍だからといって勝手な振舞いはさせん」
敗戦を迎えたこの年、竹鶴は五十一歳になっていた。余市に大日本果汁を興して十一年、資本金十万円で始めた会社は、戦時経済が幸いして十九年には資本金百万円に増資できるまでになった。なによりの財産は貯蔵庫に眠る原酒の樽であった。余市という北の辺にあったため、海軍の指定工場でありながら徴集は少なく、爆撃にも遭わなかった。原酒はたっぷり残り、倉庫には配給を受けた大麦が麦芽として貯蔵されていたのである。
焼けただれたコンクリート造りの建物を、急拵《きゆうごしら》えの木造家屋やトタン屋根のバラックが囲んでいた。路上では自動車に代って大八車やリヤカーが荷を運び、復員兵姿の男やモンペ姿の女たちが、口に入る物を求めて、蠢《うごめ》いている。久しぶりに訪れた東京は、焦土のなかにも早くも逞《たくま》しい生命力が溢《あふ》れていた。
窓ガラスが割れたままの省線から、押し出されるようにホームに降り立った。新橋駅だった。駅前はすさまじい人だかりで、人波は銀座方面に絶えることなく続いている。戦前までは勤め人や観劇、買物客で賑わった街並みもいまは一変して巨大な闇市と化していた。
古着、時計、金物、古靴、万年筆……浮浪児が地面に坐りこんで、新聞紙に並べているのは吸い殻をほぐした「巻き直し」だ。
――おい、いくらだ。
――十本、五円だよ。
――ふうん、五円か。
――そう、五円。いらなきゃいいんだよ。
人波を掻《か》き分けてゆくと、屋台が連なっている。肉入りうどん、五円。いわしバター焼、一皿六円。お好み焼、二枚五円。食べ物の屋台には蟻《あり》のように人が群がっていた。よれよれの戦闘帽、カーキ色ズボン、肩から雑嚢《ざつのう》をさげた男たちが、立ったまま一心に貪《むさぼ》り食っている。目つきまでが違う。話には聞いていたものの、余市では想像できない光景だ。
屋台の隅には一升瓶も並んでいる。その下には黄ばんだ半紙に、焼酎《しようちゆう》、お酒、ウヰスキーと書かれてあった。竹鶴は足を止めた。
「おやじさん、ウイスキーをくれ」
薄汚れたコップに飴色《あめいろ》の液体が注がれた。口に近づけると、強い刺激臭が鼻をうち、毒々しい液体の色は一見して合成色素で着色したことがわかった。喉《のど》に流し込むと、粘膜が痛み、甘ったるい香りが吐気を催させた。
「これがウイスキーか」
竹鶴が呟くと、屋台の男は鋭い一瞥《いちべつ》を投げかけた。どの客もコップの中身などあじわおうとはせず、黙々と喉に流し込んでいる。
無理もなかった。世をあげて物不足の時代だった。物価は統制下にあり、一級ウイスキーの公定価格は二十一年に入って六十円、九十円、百三十円と上っていたが、一本百三十円のニッカウヰスキーは闇《やみ》で千五百円もした。物不足、闇経済、そしてインフレ……、品質を吟味する余裕などなかった。
国民がこぞって飢えていたように、酒好きの男たちは一様に渇《かつ》えていた。酔えるものならなんでもよかったのだ。模造ウイスキーや合成清酒ならまだよいほうで、カストリやバクダンといった密造酒が幅を利かせていた。
こうした時代を迎え、新たに二十軒を越える酒造会社がウイスキー製造免許を得ていた。造るのはむろん、ウイスキー原酒など一滴も入らない模造《イミテーシヨン》ウイスキー、粗悪なアルコールを色と香りでごまかしたものにすぎなかった。戦前、鳥井信治郎や竹鶴らの努力でようやく本格ウイスキーを誕生させたウイスキー業界も、たちまちイミテーション時代に逆戻りしてしまった。
――こんなものでも売れてゆくのか……。
竹鶴は屋台に群がる男たちと得体の知れぬ一升瓶とを見くらべた。人間は酒なしでは生きてゆけない。生命を維持するのに食糧が不可欠のものとするならば、酒は心の飢えをしのぐ糧といっていいだろう。人間というのは、怪しげな密造酒と知りながら、手を出さざるを得ない存在なのだ。
こうした時代だからこそ、本格ウイスキーを造り続けなくてはならない。馬鹿正直に造ると損をする、と世間は言う。しかし、いまここでそうした風潮に屈したら、日本のウイスキーは永遠にイミテーションのままで終るだろう。
――おやじ、こんなものをウイスキーと呼んで恥かしくないのか。ウイスキーというのは、違う。ウイスキーはな……。
闇市の雑踏のなかで、竹鶴は余市の貯蔵庫に眠る原酒の樽をおもいつづけた。
昭和二十一年も暮れようとするある冬の日のことである。
月曜日であった。ウイスキー製造は一週間単位で行われ、蒸溜釜は土曜日にはいったん空にされ、月曜日から新たな蒸溜に入る。その朝、初溜釜にはマンホールと呼ばれる注ぎ口から発酵を終えた醪《もろみ》が注がれ、炉に火が入った。ここで蒸溜されて出てくる初溜液はアルコール度が二十度ほど。これをさらに再溜釜で蒸溜する。
昼休みを終えた直後、蒸溜棟では再溜釜に火が入り、蒸溜作業はフル回転に入ろうとしていた。炉では石炭が燃えさかり、検度器には流出を始めた溜出液がしたたっていた。シャベルを手にした職工は炎の勢いを見計らって石炭をくべ、蒸溜技師はしたたる溜出液を見守りながら、酒精計と温度計に目を走らせている。雪にすっぽりくるまれた蒸溜棟も、建物内部は蒸溜釜から放射される熱でうっすらと汗ばむほどだった。
蒸溜棟には十数名の従業員が働いていた。が、蒸溜釜上部にあるマンホールから一滴の雫《しずく》が釜の表面を伝って流れ始めたことに気づく者はいなかった。雫はしだいに広い帯となり、燃えさかる炉に近づいた。
気がついた時はすでに遅かった。一条の炎が細い川となって再溜釜の表面を遡《さかのぼ》り、次の瞬間、マンホールは吹き飛んでいた。再溜釜のなかは二十度余りの初溜液が熱せられ、アルコール度六十度、七十度の水蒸気となって蒸溜されている最中である。そこに炎が走った。再溜液は大きな火柱となった。
いったん勢いのついた火は手がつけられなかった。炎は流れ出た液とともに隣の初溜釜に、ついで蒸溜棟の隅に置かれた樽に燃え移った。樽には前週末に蒸溜を終えたウイスキー原酒が詰っている。
火炎は舐めるように床を這い、樽から樽へ走った。蒸溜棟はたちまち、巨大な竈《かまど》と化した。石積みではあったが、建物は木骨石造建築である。またたくまに柱に燃え移り、屋根に昇っていった。
手をこまねいて見ているほかはなかった。不幸中の幸いは、他の作業棟が離れていたことだった。そのうえ、降り積った雪が窓をふさいでいた。おかげで延焼は免れた。
原因は再溜釜マンホールのボルトに鬆《す》(小さな穴)ができていたためらしい。そのためボルトで締めつけたにもかかわらず、そこから吹き出してしまったのである。あってはならない事故であったが、不注意と呼ぶより不可抗力に近いものだった。夕方、火はようやく鎮まった。
「雪が助けてくれたんだ」
周囲の石壁を残して焼け落ちた蒸溜棟を見上げ、竹鶴はつぶやいた。
「大変な事故を……」
蒸溜主任が、煤《すす》に薄汚れた顔で目を真赤にしてうなだれた。誰もが、目の前にくすぶる焼跡を見ながら、いまだ信じられない気持だった。
「悔んでも始まらんよ。焼けてしまったものは仕方ない。なあに、石の壁は残っとるから、建て直すのは簡単だ。蒸溜釜はつぶれたが、銅はまた新しい釜に生れ変っていく……」
竹鶴は胸を撫《な》でおろした。これが、もし貯蔵庫であったら……。戦争の時代を守り抜いてきた原酒の樽をおもうと、いまさらながら突発事故の恐しさを痛感した。
――貯蔵庫に万が一、火が出たと仮定して対策を考えとかなきゃいかん。
竹鶴は技師たちを集め、ともに対策を講じた。むろん、貯蔵庫は間隔を充分に空けて建ててある。それでも、原酒に火がついて流れ出したら、火の海となって燃え移っていくだろう。
――貯蔵庫のあいだに溝を掘って流すようにしてはどうでしょうか。
――うん、そうすりゃ、隣には火は移らんな。
――ただ、余市川に流したら危ないです。葦《あし》がありますから燃え移ります。
――もちろん、そのまま流すわけにはいかん。火を消してからでなくては危険だ。……隧道《すいどう》だ。隧道を通して火を消すようにしたらいい。
火は隧道のなかでは酸素不足で消えるはずである。問題はどのくらいの距離を通せば火が消えるかだ。さっそく実験を繰り返した。その結果、十メートルの隧道を潜《くぐ》らせば火は消えると結論が出た。
この冬、新たな蒸溜釜ができてくるまで、蒸溜作業は停止を余儀なくされた。同時に、突発事故の教訓から貯蔵庫間には溝が掘られ、隧道を経て余市川に通じるよう工事が施された。
「何か心配がおありですの」
リタは傍の夫に声をかけた。すでに寝入ったはずの竹鶴が、隣の寝台で目を見開き天井を見つめている。共に暮し始めて、三十年。灯りは消えていたが、薄闇の中でも夫の様子はその気配から手にとるようにわかった。
「どうかなさいまして」
答のない夫にリタは重ねて尋ねた。
「いや、何でもない。ちょっと機械の音が気になっただけだ」
「機械の音……」
リタは耳を澄した。蒸気の吹き出る音であろうか、低い湧出音《ゆうしゆつおん》が断続的にきこえている。隣接して建つ仕込み工場からのようである。昼夜兼行で仕込みを続けているのであろう。余市の工場敷地に住み始めて以来、すっかり慣れ、いまのリタには気にもならなくなった音である。
「そんなに気になりますの」
「いや、音がするのはいいんだ。ただ、その音が……」
「音がどうかなさいましたの」
「音が違う。おかしいんだ。あれは、ギアの組み合せがいかんようだ」
「そうなのでしょうか。わたしには同じ音にきこえますが……」
いつのまにか竹鶴は寝台から降り、寝巻のまま腕組みをして窓辺に立っていた。低い湧出音は相変らず続いていた。工場から洩《も》れる灯に、仁王立ちになった後姿が黒い影となって浮んだ。
「余市に来てからもう十三年になる」
「そうですわ。工場に住んでいると、あなたも休まる時がありません」
「ウイスキーを造っているかぎり、宿命のようなものだ。だが、夜くらい解放されてもいいと、このごろ思い始めた」
竹鶴は背を向けたまま、続けた。
「余市川をへだてた山田町に格好な土地がある。そこに家を建てて移ろうと思っとるんだ。どうだね」
「いいですわね。威もまもなく戻ってきますわ」
養子に迎えた甥《おい》の威は、札幌に下宿して北海道大学の工学部応用化学科に通っていた。広島工業専門学校で醸造学を修めた威は、竹鶴の跡を継ぐべく北大で研究を重ねていた。二十四年には卒業の予定である。竹鶴は卒業を待って、威を工場に迎え、仕事を手伝わせるつもりだった。
配給と物価統制はまだ続いていた。統制価格の下では、本格ウイスキーを造るのは模造ウイスキーにくらべて収益ははるかに少ない。それでも、ともかく造れば売れていった。
だが、この制度がいつまでも続くわけではあるまい。配給と物価統制が終りを告げたあかつきには、安い模造ウイスキーが市場を席捲《せつけん》するのは目に見えている。いまでも経営が楽ではない大日本果汁は、いったいどうなるのか……。考えても、結論は出なかった。
唯一の対策は最良の原酒をできるかぎり造り、貯蔵庫に眠らせることであった。戦時中から欠かすことのなかったこの繰り返しこそ、ウイスキー造りにとって最大の武器となるはずだ。竹鶴は売上げの収益はもちろんのこと、銀行に足を運んで融資を受け、許すかぎりの資金でウイスキー原酒を仕込んでいた。
「わたしの母は若い頃、スイスで植物学を学んだほどの人でした」
寝台に戻って目をつむろうとした竹鶴を、今度はリタの声が遮った。
「……園芸が好きで、花といえば知らない名がないくらいでした。カーカンテロフの家を想い出すと、母の自慢だった庭が浮んできます」
「じゃあ、リタ。新居の庭はおまえに任そう」
竹鶴はそう言うと、目を閉じた。おもいは貯蔵庫に眠る原酒の樽とこれからの行末にあった。目を閉じたものの、竹鶴はやはりすぐには寝つくことができなかった。
戦後五年目を迎えた昭和二十四年、敗戦直後の混乱時代をおおった物資欠乏とインフレもようやく鎮静の兆しを見せはじめた。この年は下山、三鷹、松川の三事件が勃発《ぼつぱつ》するかたわら、ビアホールが復活し、戦後初めて来日した米野球チームが後楽園球場で巨人軍と対戦、球場内でコカ・コーラが自由販売された。
経済の復興にともない、戦時中から続いていた物資の配給と価格統制も撤廃された。前年、マッチや電球など百十二種の公定価格が廃止されたのに続き、酒類もこの年六月に配給が、翌二十五年四月にはウイスキーなど雑酒の公定価格がなくなった。戦中戦後の十年間を経て、ようやく自由競争の時代に立ち返ったのである。
ウイスキーの輸入は昭和十五年を最後に跡絶《とだ》えていた。国産ウイスキーはこの年、寿屋、大日本果汁、東京醸造、三楽酒造など三十数社が製造免許をもっていたが、なかでもめざましい伸びを示したのは寿屋だった。
鳥井信治郎が率いる寿屋は、戦時中、空襲によって本社と大阪工場を焼失する痛手を受けたが、戦後いち早く立ち直った。敗戦直後の二十年十月には駐留軍軍納契約を取り付け、翌二十一年四月には三級ウイスキー〈トリスウ井スキー〉を発売した。ウイスキーが配給から自由販売に移った二十四年十月には戦後初の新聞広告を出し、トリスウ井スキーに〈うまい・やすい〉のキャッチフレーズを使っている。
当時、ウイスキー市場の八割近くは三級ウイスキーで占められていた。現在の二級に相当する三級ウイスキーは、税法上〈原酒が五パーセント以下、〇パーセントまで入っているもの〉と規定されていた。〇パーセント、つまりウイスキー原酒が一滴も入っていなくとも、税金さえ納めればウイスキーとして堂々と通用した。
経済の復興期とはいえ、ウイスキーはまだ高嶺《たかね》の花である。現在の特級に当る一級ウイスキーなど、一般庶民に手の届くものではなかった。戦中戦後、軍納や配給ウイスキーでその味に親しんだ者も少なくなかったが、ウイスキーの魅力自体もまだ薄い。自由競争になって、三級ウイスキーが市場を席捲したのも、安い酒であったからにほかならない。じじつ大部分の三級ウイスキーは、アルコールに色と香りをつけただけの粗悪な模造ウイスキーにすぎなかった。
自由競争の時代に入っても、大日本果汁は以前と変らぬ一級ウイスキー〈ニッカウヰスキー〉しか発売しなかった。値段は一本千三百五十円。三級ウイスキーが三百円台の時代であった。
ニッカウヰスキーのブランドは滲透度《しんとうど》も低い。北海道の余市にあるところから、地の利も悪い。すなわち、壜を東京に発注し、余市で壜詰ののち製品をふたたび東京や大阪に運ばねばならない。こうしたハンディキャップを負いながら、これまでやってこられたのは、配給と価格統制のおかげといってよかった。
配給時代が終りを告げると、事態は変った。三級ウイスキーに押され、売行きががた落ちしたのである。それでも、原料の大麦を買い入れ、原酒を造り続けることは、ウイスキー造りの業ともいうべき営みだ。銀行から金を借りる。製品の売行きがおもわしくない。赤字が重なり、さらに金を借りる。この繰り返しだった。
竹鶴は金策に奔走した。出向く先は主に、創業以来の付き合いである住友銀行小樽支店であった。
「そういうわけです。今後もひとつ、よろしく頼みます」
「そういわれても、今度ばかりはどうもねえ。実績を見せていただきましたが、とても無理ですな」
「何をおっしゃるんです。わたしらの仕事に先行投資が必要なことはわかっていただいているはずです。原酒として造っておけば、いまに何十倍、何百倍という値打ちが出るんです」
「それはわからないことありませんが……。でも、もうこれ以上お貸しできんのです。いくら竹鶴さん、あなたでも」
「そうですか。……では、わたしも、ここから動くわけにはいきません」
竹鶴はそう言うと、腕組みをして支店長の前に坐りこんだ。
「竹鶴さん、だめです。どんなに頑張られても、ご融資できません」
「…………」
「だいたい、あなたのところは販売努力が足りないんじゃありませんか。東京や大阪のウイスキー会社はだいぶ景気がいいそうじゃないですか。おたくは蒸溜設備があるそうだから、アルコール製造も手がけられたらどうです」
「あなた、そりゃ間違っとる。わたしはウイスキー造っとるんです。アルコール屋じゃありません。わたしのところは模造ウイスキー造って儲《もう》けるつもりはありません」
「だが、売れんことには始まらんでしょう」
「いまは売れなくても、将来は売れる。こんな時代だからこそ、いい原酒を造っとくことが必要なんです。何度も申し上げとるように、近い将来、貯蔵庫の原酒は大変な値打ちが出るようになる。貸さんという法はないでしょう」
「…………」
「いままでも貸していただいてきた。今度に限って貸して下さらんとは、いったいどういうことですか」
「竹鶴さん。原酒をお造りになるのはご自由ですが、わたしらがお願いしたわけではないのですよ」
竹鶴は音を荒げて椅子を引き、立ち上った。が、思い直して腰を下ろすと、腕を組んで支店長のうんざりした表情を睨《にら》みつけるように見据えた。
積丹《しやこたん》半島は余別岳を中心に千メートルに及ぶ山々でおおわれている。冬になると一帯は深い雪に埋もれ、交通は途絶する。海岸に沿って点在する集落を除いて、人の気配は絶え、雪と風の世界に還《かえ》っていくのである。
四月に入り、里で雪融《ゆきど》けを迎えるころになると、熊狩りの季節が始まる。熊が冬眠を終えて穴から出てくるこの時期、山々はまだ三、四メートルの雪に埋っているが、雪は締って歩きやすくなる。積丹の山々は格好の猟場となった。
猟友会の会長をつとめていた竹鶴は、この季節を待ち兼ねたように山に分け入った。熊狩りは猟仲間がチームを組んで行うのが原則だ。嗅覚《きゆうかく》のするどい熊は、人の気配を敏感に嗅《か》ぎ分け、逃げる。熊の通り道を知る猟師たちは、二手に分れて追いつめるのである。
猟師が二、三人、竹鶴、それに勢子《せこ》代りに同伴する従業員が数人――、一行は総勢十人近くになる。食糧とウイスキーをたっぷり背負い、一行は山に入っていく。竹鶴は五十代半ばを迎えていたが、足腰は若い従業員に負けなかった。
自慢は自動小銃だった。
――そんな鉄砲、危ないから止《や》めときなされ。熊には村田銃でなけりゃ立ち向えんわい。
猟師は諫《いさ》めた。自動小銃では性能がよすぎて、弾は熊のからだを貫通してしまうのだ。熊を仕留めるには、肉に食い込む村田銃の鉛の弾がいいと説得されたが、竹鶴は自動小銃を手放そうとせず、もう一|挺《ちよう》二連銃を肩から下げた。
夜は雪洞を掘って露営する。一行が車座になって坐れるだけの穴を掘り、木の枝と笹で頭上をおおうのである。炭火をおこすと、雪のなかとは信じられないほどの暖さになる。雪の壁は蒼《あお》く輝き、一行を優しくつつみこんでくれた。
赤い燠《おき》を前にして、坐る。猟師の話に耳を傾け、コップにウイスキーを注ぎこむ。冷えた身体がしだいに温《ぬく》もってくる。コップを傾けて舌の上に転がし、香りを心ゆくまであじわいながら喉に流し込む。
熱い液体が静かに舞い降りる。胸の奥底に達すると、はじけるように燃え上り、身体の隅々にゆっくりひろがっていく。
――このウイスキーでなければいかんのだ。ウイスキーの名を汚す三級を造るくらいなら、原酒屋でいたほうがいい……。
原酒屋か、と竹鶴は心のなかで繰り返した。
経営悪化をたどる大日本果汁は、いよいよ決断を迫られるようになっていた。一級ウイスキー一本槍では立ち向えなくなった以上、三級ウイスキーを出すしかなかった。その際、竹鶴が窮余の策として思い立ったのが原酒屋、つまり原酒をウイスキー業者に売る道だった。
スコットランドでは、ウイスキー蒸溜所は原酒を造るだけで、ブレンドや壜詰は他の業者に任せることが普通だ。蒸溜所は原酒だけを売って生計を立てている。日本でこの原酒屋を始めておかしいはずはない。それにもし、他のウイスキー業者が模造ウイスキーに代って、少しでも自分の原酒を使ってくれれば、日本のウイスキーにささやかながらも貢献できるではないか……。
猟師の話が跡切れると、突然深い静寂が訪れた。燠の内側で燃えさかる炎の音まできこえてくるかのようである。ときおり、頭上遠く、雪の上を吹き荒れる風の音にまじって、笹や梢《こずえ》の揺らぐ音がきこえてくる。猟師はすでに目を閉じている。従業員たちも身体を横たえ、眠りについた。
明日は、熊と対決だ。うまく見つかればの話だが……。竹鶴はゆっくり最後のコップを傾ける。手筈《てはず》では、勢子役の一団が熊を追い、竹鶴は熊の道で待ち構えることになっている。いつ現れるともわからない黒い獣を、雪の中で待ち続けることになるだろう。
春の雪山は、晴れれば陽射しは目に痛いほどだ。木々には早くも山鳥が囀《さえず》りはじめる。それでも、山の静寂はこの夜の時と同じく、深く大きい。そのなかでひとり、待つ。全身を緊張でみなぎらせ、二連銃を頼りに熊を待ち受けるのだ。
熊狩りの勝者は、待つことに耐えうる者だ。静寂のなかで雑念を捨てて全身を耳にし、沈着さを失わず、やがて姿を見せる獣に立ち向っていく者なのだ。
原酒屋になろう。原酒屋でいいではないか。最後に勝つのは、最上の原酒を貯えた者だ。それまで、原酒の一部を売って、会社を支えていけばいい。誇りをもってウイスキーの名を口にできる製品こそ、近い将来必ず売れるようになる。その時が来るまで、三級ウイスキーには手を出さず、原酒屋として耐え抜いてみせる。むろん、原酒屋の名に恥じぬ、第一級の原酒を造ってみせよう……。
地上の雪原には風が吹き荒れているようである。笹を揺るがす音がいちだんと荒々しくきこえてくる。雪洞のなかは凍る闇からまもられ、暖い。
竹鶴は昂《たか》ぶる心を静めるかのように、最後の液体を一気に流し込んだ。
「竹鶴はん、あんたはんはウイスキー造りにかけては一流だす。そやけど、会社いうのは道楽やあらしまへん、儲けなあきまへんで」
「それは知ってます。わたしだって精いっぱい努力しているんです」
「わてはな、あんたはんの仕事ぶり見とって歯がゆうてならんのや。竹鶴はん、いまはウイスキーいうたら、出せば売れる時代や。トリス見てみいや、飛ぶように売れとる。あんたが努力してるて口で言わはっても、この赤字や。税金も滞納しとる言うやないか」
「加賀さん……」
「まあ、待ちなはれ。わてらこう思《おも》とるのや。いまは三級ウイスキーの時代や、三級ウイスキーがウイスキーなんや。そやさかい、大日本果汁かて当然三級ウイスキーを発売すべきや」
「ですが、三級ウイスキーというのは、原酒をごくわずかしか入れられません。出廻っているのもほとんど原酒を入れてません」
「それが売れとるんや。売れんもんは、なんぼようてもただの水や。そういう時代なんや」
大阪で加賀証券をいとなむ加賀正太郎は、たまに余市に足を運ぶと、従業員たちに「御主人様」と呼ばせ、ひとりひとりに熨斗袋《のしぶくろ》を配って歩いた。芝川又四郎とともに大日本果汁の資本金の大半を出資する株主であり、工場では少々場違いな株屋の旦那だった。
加賀は当初の約束どおり、会社の運営いっさいを竹鶴に任せてくれた。しかし、決算期の経理内容だけは別だった。さらに、ウイスキー自由販売の再開以来、大日本果汁の経営不振を知ると、何かにつけて会社の運営に口を差し挟むようになった。
三級ウイスキーが飛ぶように売れていたのは、事実だった。安いからである。しかし、竹鶴の考えは違った。三級ウイスキーという模造まがいのものなど、ウイスキーではない。自分は原酒をたっぷり使った本当のウイスキーしか造らない。いいものを造れば、値段は高くなって当然ではないか……。
「そうや、安いからや。品質をどうこう考えとる時代やあらしまへん。売れなあかんのや、売れな」
「わたしも売れる方法は考えました」
「原酒を売るんでっしゃろ。あきまへん、あんなもんでは焼石に水や。原酒を売ったかて、しょせんは一時しのぎに過ぎまへん」
加賀の指摘に、竹鶴も言葉がなかった。
確かに原酒を売り出すと、すぐに買い手がついた。三十数社をかぞえるウイスキー業者のうち、原酒を造ることができたのは大日本果汁や寿屋、東京醸造など数社に限られていたから、原酒は全国の業者に歓迎され、引き取られていったのである。が、赤字続きの経理が一息ついたと思ったものの、しばらくすると以前どおり従業員の給与支払いにも困り、税金を滞るようになっていた。
「よろしいな。売れるウイスキーでないとあきまへん。三級ウイスキーを出しなはれ。竹鶴はん、これは株主の総意として聞いてもらいまっせ」
形ばかりの株しか持たない竹鶴にとって、最後通告に等しい言葉だった。
勧告は加賀からだけではなかった。
――竹鶴さん、あなたの理想もわからんことありませんが、わが国はまだ三級ウイスキーの時代なんです。ほかの業者を見てごらんなさい、着々大衆市場を押えている。せっかくいい原酒をもちながら、あなたのところに万一の事態が起ったら、われわれ監督官庁としても困ります。
竹鶴を呼び出し、こう諭したのは、二十四年に発足したばかりの国税庁初代長官、高橋衛だった。
「威《たけし》、やってみてくれ」
竹鶴は研究室に出向くと、試験管を前にして坐った。机の上に林立する壜《びん》は、いずれも市販されている三級ウイスキーである。北大を卒業後、大日本果汁で働き始めた威は、壜から琥珀色《こはくいろ》の液体を試験管に注いだ。
「親父さん、これもやはり……。原酒は一滴も使っていません」
慎重に検査を繰り返した威は、そう言って一本の毛糸をかざした。試験管から抜き出したばかりの毛糸は鮮やかな茶色に染っていた。原酒を入れていないばかりか、着色にカラメルではなく合成色素を使っている証拠だった。
「わしゃ、出さん」
竹鶴は威から毛糸を受け取ると、低く呻《うめ》いた。毛糸をかざす手が震えていた。
「こんな……こんなまがいものと同じ三級など……出せん。わしゃ出さんぞ」
カイゼル髭《ひげ》の下では、固く閉じた唇がわなないていた。しかし、そうは言っても、周囲の情勢は三級ウイスキー発売にこれ以上|躊躇《ちゆうちよ》することを許さないところまで来ている。
長い沈黙が続いた。
「威……工場長の五十嵐君に、明日従業員全員を集めてもらうよう、伝えてくれ」
竹鶴はようやく立ち上り、気を取り直したように大股《おおまた》で研究室から出て行った。
「わしは取りたてて取り柄のない男かもしれん。だが、ウイスキー造りに関しては誰にも負けんつもりだ」
竹鶴は集った従業員を前に話し始めた。工場長は指示に従い、賄婦に至るまで全従業員を集めていた。六十人に達する従業員たちは、時ならぬ招集に緊張した表情で聴き入った。
「わしがどんなウイスキーを造ってきたか、技師の諸君はよく知っておるはずだ。ほかの諸君も、知っておいてほしい。……わしはスコットランドで勉強し、寿屋で初めて本格ウイスキーを造った。この余市で今日のニッカウヰスキーを造ってきた。その間、わしは本格ウイスキーしか手掛けなかった。ウイスキーの名を騙《かた》って模造ウイスキーを造ることなど、良心が許さん。ウイスキーの名に愧《は》じぬのは、ほんものの原酒をたっぷり使った本格ウイスキーだけだ。だから、わしのところでは一級ウイスキーしか造ってこなかった」
竹鶴が言葉を切ると、従業員たちのあいだに新たな緊張が走った。次の言葉を待って、視線がいっせいに壇上へ向った。
「その気持はいまも変らん。これからも変えるつもりはない。……だが、諸君も知ってのとおり世は三級ウイスキーの時代だ。他社は三級ウイスキーで伸び、わが社は苦しんでいる。それでも、わしは耐えうるかぎり耐えてきた。三級ウイスキーという名ばかりの製品は出さずに、誇りを貫いてきたつもりだ。だが、それも限度に来てしまった。……会社の将来を考え、われわれの生活を支えるためには、やむを得んのだよ」
張りのある太い声は集会室の隅々にまで響きわたった。言葉はしだいに震えを帯びていた。従業員たちが見上げると、うるんだ目頭には白く光るものがあった。
「わが社でも三級ウイスキー発売に踏み切ることにした。諸君、ニッカウヰスキーの誇りを忘れず、この事情をよくかみしめてほしい」
竹鶴は続いて、規定いっぱいの五パーセントまで原酒を入れ、合成色素やエッセンスを一切使用しないことを告げた。同じ三級ウイスキーでも、酒税法の範囲内で、アルコールに合成着色、エッセンス添加という模造ウイスキーと対決するつもりだった。
――価格は五百ミリリットル壜で三百五十円とする。
当時、いちばん売れていた寿屋の〈トリスウ井スキー〉は六百四十ミリリットル壜で三百六十円であったから、二割ほども割高になる。
――同じ三級ウイスキーでも、他社よりは絶対よいものを造る。品質がよければ値段は高くて当り前ではないか。
これが、竹鶴のせめてもの抵抗であった。
昭和二十五年、初夏のことである。
昭和二十五年八月、ニッカポケット壜ウヰスキーが、翌二十六年十月にはニッカ角壜ウヰスキーが発売された。ともに大衆市場をめざした三級ウイスキーである。以前の一級ウイスキーと同じ角壜であったため、三級ウイスキーのほうを「新角」と呼んだ。
世は三級ウイスキー全盛時代である。この新角ウヰスキーこそ、大日本果汁の逼迫《ひつぱく》した財政を扶《たす》けてくれるはずであった。
だが、売行きは期待していたほどではなかった。一つには、他社と較べて容量が少なく、逆に価格の高いことがあった。
――新角はどうも色が薄いし、香りも少ない。ウイスキーらしくなくていけない。
こんな評判も耳にした。
技師たちはそうした批判を聞かされるたびに、唇を噛《か》んだ。見た目に鮮やかな琥珀色、一見ウイスキーらしい強烈な香り、そうしたものは合成色素やエッセンスを添加すれば簡単に出せるのだ。
ウイスキーは色を調整するため、カラメルなどで着色するのが普通である。当時の技術では、天然色素のカラメルを使った場合、アルコール耐性が弱く、時間が経つと色が薄くなる傾向があった。また、光線が当ると、同じく退色してしまう。だいいち、原酒が五パーセントしか入れられないから、残りの大部分は中性アルコールだ。エッセンスを添加すれば別だが、これでは香りが立ちにくい。
竹鶴政孝は研究室に籠《こも》り、技師たちの先頭に立ってブレンド作業に没頭した。
――合成色素やエッセンスを使ったら負けだ。本格ウイスキーをこころざした意味がなくなる。
竹鶴はブレンドを続けながら、みずからに言いきかせる。
確かに、見かけや安さに魅《ひ》かれて他社の三級ウイスキーを買い求める客は多い。しかし、彼らの舌がひとたび本格ウイスキーというものを知ったら、模造ウイスキーや合成添加をほどこしたウイスキーなど受けつけようとはしないはずだ。残念なことに、それが知られていない。加えて、戦中戦後の物不足のなかで、酔えるものなら何でもよいという風潮ができあがっている。客も、酒を売る者も……。
ある日、卸問屋を招待した宴席のことだった。
「皆さんがたには日頃大変お世話になっております。だが、今日は一言苦言を呈さなければなりません」
竹鶴は立ち上ると、突然こう切り出した。大日本果汁の社長と言えば、卸問屋のあいだでは風変りな社長として知られていた。売れないウイスキー会社の社長だが、鼻っぱしらだけはひどく強い。酒造業の社長というのは、卸問屋に挨拶廻りをするのが大きな仕事と思われていたのだが、カイゼル髭の社長は地元北海道の卸問屋にさえほとんど顔を出さないのである。
「……どうやら皆さんはウイスキーというのがどんなものであるのか、ご存じないらしい。はっきり言わせていただくと、勉強不足なようです。いま、世間にはたくさんの三級ウイスキーが出廻っております。それらと、わが社の新角ウヰスキーがどう違うか、お集りの皆さんの、はたして何人がはっきりわかってくださっておるでしょうか」
同席した大日本果汁の営業関係者は顔をこわばらせた。お得意様を招待した席で、よりによって苦言とは。竹鶴社長のことだから、この先さらに何を言い出すことか。
「皆さんはわが社の新角が売れないとおっしゃる。理由は色が薄いから、香りが少ないからだ、と。それは間違いです。皆さんご自身が他社の製品と飲みくらべて下さればすぐわかるはずです。わが社の新角のほうがずっと旨《うま》い。合成色素やエッセンスを加えず、原酒だけで旨みを出しているからです。わが社は三級ウイスキーを発売するにあたって、以前の一級ウイスキー同様、酒税法の範囲内で最大限の品質を心掛けた。ウイスキー造り一筋に歩んできたわたしの口から、そのことをはっきり申し上げておきます」
竹鶴は言葉を切ると、招待者たちをゆっくり見渡した。
「皆さん、ニッカのよさをわからん方には売っていただく必要はありません。やめていただいて一向に構いません。その代り、売って下さる限り、他社と較《くら》べ何故容量が少なく価格が高いか、よく認識していただきたい。われわれが誇りをいだいて造っているように、皆さんにも誇りをもって売っていただきたい」
宴席がはねると、営業幹部の一人は冷汗を拭《ぬぐ》いながら竹鶴に近づいた。
――社長、あんなことをおっしゃって大丈夫なんでしょうか。
――決っとる。言いたいことははっきり言ったほうがいい。
竹鶴の読みに狂いはなかった。言い方は乱暴だが理に適《かな》っている、あの頑固さはいかにもニッカの社長らしいじゃないか、と卸問屋のあいだでかえって好評を呼んだのである。
昭和二十七年、大日本果汁は本社を東京の中央区日本橋に移すとともに、社名を〈ニッカウヰスキー株式会社〉と改めた。同時に、港区麻布にウイスキー壜詰工場を建てた。壜を東京に発注、これを余市に取り寄せて壜詰し、そしてまた東京、大阪市場に運ぶというのでは、二重の運送費がかかる。東京工場建設は、北海道の地方業者から全国に通用するウイスキー製造業者に飛躍する上で、是非必要であった。竹鶴は忠海《ただのうみ》中学時代の後輩にあたる池田勇人大蔵大臣の仲介により、大蔵省の所管となっていた旧毛利藩下屋敷の払下げを受けた。二千五百万円の資金を捻出《ねんしゆつ》の末、ようやくこの年十一月に実現をみたのであった。
余市の山田町にある竹鶴邸では、五月下旬ともなれば、北国の遅い春を迎えて、リタの丹精になる花々がいっせいに咲きほこった。クロッカス、ラッパ水仙、エゾムラサキ・ツツジ……。色とりどりに咲きみだれる花は、長い冬のあとでひときわ目に鮮やかだった。
威が加わり、三度目の春を迎えた昭和二十六年、竹鶴家に家族がもう一人増えた。威が結婚し、嫁の歌子が同じ屋根の下で暮すことになったのである。
――歌子さん、わたしの手、汚なくて恥かしいです。
リタは初めて嫁を迎え、本心から恥かしそうに両手を隠した。台所仕事で荒れた手の甲だった。女中は使っていたものの、料理は他人に任せず、すべて自分でしなければ気が済まないリタであった。
竹鶴家に入った歌子は、まず一家が食べ物の味にうるさいことに驚いた。
――食べ物は鮮度が命だ。採ってきてから茹《ゆ》でるんではいかん。必ず先に湯を沸騰させて、それから採ってくるように。
舅《しゆうと》はこう諭して、裏の畑に採りにいくよう命じた。何のことかと思えば、たかがトウモロコシである。魚に関しては言うまでもなかった。
姑《しゆうとめ》もまた舅に劣らず厳しい。どんな高価な材料を使った料理でも、出来上りが悪いと惜し気もなくその場で捨ててしまう。米飯を焦がそうものなら、釜《かま》ごと捨てさせるのである。
――お母様、もったいないですわ。
歌子が言っても、リタは改めようとはしなかった。そのいっぽうでパンだけは、屑《くず》が出るとかけらまで寄せ集め、パン粉に使った。
時間のけじめをつけることにもうるさかった。それは竹鶴家の家訓といえるほど厳格をきわめた。
――夕方は何時に帰るのか。夕食は家で食べるのか食べないのか。それをはっきり告げるのが男の礼儀ではありませんか。日本の男はとてもだらしがないです。
これがリタの口癖の一つであった。そしてそれを竹鶴にも、息子の威にも厳守させた。
――わたしたちは、食事の時間に合せて料理します。いつ帰るのかはっきりしなければ、ジャガイモを茹でることさえできません。
たとえジャガイモ一つでも、常に家族にいちばんおいしい状態で食べさせてあげたい。リタの時間厳守はこうした思いからであったらしい。弁当などは、朝造るようなことをせず、昼近くになってみずから自転車に乗り、温いものを工場に届けた。
竹鶴が家で食事をするという日は、家の中は戦場のようになる。
――お父さん、帰ってきます。早く、早く。
リタは嫁や女中をせきたてて準備にとりかかる。竹鶴は約束の時間を違えず帰宅する。それだけに、準備が出来ていないと機嫌が悪い。
玄関を荒々しく押し開くと、そのまま風呂場に直行だ。
――熱いぞ。
時に、風呂場から大声が上る。女中があわてて飛んでいく。冬場なら雪を浴槽に直接放り込んでしまう。湯を流す音がきこえたかと思うと、浴衣一枚の姿がもう食堂に現われる。
――酒。
テーブルに坐った瞬間、燗《かん》をした銚子《ちようし》二本が差し出される決りになっている。風呂上りでいちだんと血色のよくなった顔は、杯と肴《さかな》を前にして、ほころぶ。
――これだから大変です。お父さんはわたしたち三人をダンスさせます。
杯をゆっくり傾ける竹鶴を横目に、リタは歌子に嘆いてみせる。歌子が嫁に来て以来、リタは竹鶴に対しても日本語で話すことが多くなったという。竹鶴は和食、リタと若夫婦は洋食という食事のパターンも出来上った。
――食事の時は和食なら日本酒、洋食なら葡萄酒にするのが当り前。ウイスキーは食後にその味だけを愉《たの》しんで飲むものだ。
この原則を竹鶴は破ったことがない。食事と清酒のあとは、ゆっくりウイスキーを愉しむ。家族を相手に語りはじめると、竹鶴の独り舞台となる。夜が更けるまで、竹鶴は語り、飲む。目を細め、舐《な》めるようにゆっくり口に運び、あじわうのである。
深更、床につくころには、決ってボトル一本が空になった。
リタは、散歩がことのほか好きであった。
――歌子さん、明日散歩に行きましょう。
台所の片付けが終る頃、姑は毎晩のようにこう言った。
いったん決めると、その日がたとえどんな雨降りでも、レインコートとレインハットに身を固め、約束の時間に玄関に現われた。
散歩に出るおりは、姑はいつもピクニック・バスケットを手に提げた。これにはお茶の道具などが用意されている。大変重い。
――お母様、わたくしがお持ちします。
歌子が声をかけても、リタはかたくなに拒んだ。時に荷物が二つになり、一つを歌子に持たせることもあるが、歌子が途中で持つ手を変えようものなら、即座にたしなめた。
――どんなに重くても、手を変えるなんていけません。みっともないことです。
そう言うと、胸を張り、荷物を提げたまま、歩調をゆるめず歩き続けた。
目的地に着くとはじめて、リタはバスケットを降ろした。手の平が鬱血《うつけつ》し、紫色に染っていることすらあったが、リタは顔色一つ変えず、バスケットを開いててきぱきと紅茶の用意を始めるのだった。
昭和二十八年、酒税法が改正され、従来の一級から三級までの級分けは、特級、第一級、第二級と呼称が改まった。自由販売に入った二十四年に四千三百キロリットルであったウイスキー消費量も、四年のあいだに一万六百キロリットルと二倍半になった。が、そのうち第二級が九割近くを占め、第二級の原酒混和率は相変らず〈五パーセント以下、〇パーセントまで〉であった。
ニッカウヰスキー株式会社と名を改め、東京に壜詰工場を建てたものの、新角ニッカの売行きは依然として芳しくなかった。逆に先行投資がふえて資金の食い込みも多額にのぼり、ふたたび税金の滞納をみるようになった。
――竹鶴はん、やっぱり安いのんが一番や。この期に及んではもうあかん。品物は二の次や。思いきりなはれ。本格、本格と意地を張ってんと、よそさんのように安うして売らなあきまへん。
株主を代表して、加賀正太郎は以前にもまして口を差し挟むようになった。加賀は当時、喉頭癌《こうとうがん》を患って声帯を失い、筆談に頼らざるを得なくなっていた。その不自由をおして繰り返すのも、存続の危機に立たされたニッカが最大の心残りだからであろう。竹鶴はそれを知りながら、なお要請を拒み続けた。
――案じてくださるお気持はわかります。しかし、これ以上値段を下げたら、模造まがいのものしか造れません。それをやったら、もうウイスキーではなくなってしまいます。これだけは加賀さん、わかってください。
この頃、小山内祐三東京工場長ら、創業以来の社員が先頭に立って、従業員組合を結成した。社員たちは、背水の陣を余儀なくされた竹鶴を安閑と見てはいられなかった。
組合の代表は大阪に向った。
――加賀さん、株主さんへの配当はわれわれの責任で今までどおり、必ず続けます。その代り、ウイスキー造りに関しては、口を挟まないでいただきたい。どうか、お願いします。
大日本果汁の名で出発して以来、ニッカウヰスキーは竹鶴一人で築き上げてきたようなものである。むろん加賀の資本がなければ生れなかったが、本格ウイスキー製造会社となったのは竹鶴の技術、運営の賜物といっていい。竹鶴社長を擁《まも》ることは、ニッカウヰスキーを擁ることにほかならない。組合結成に立ち上った社員たちはそう考えた。
二十九年、夏。
加賀とニッカ社員の確執は思いがけない結末を迎えた。病床にあった加賀が、持株を売却してしまったのである。
――それだけは止めていただきたい。われわれが資金は工面します。その間、せめて売るのは待っていただきたい。
組合代表は、株売却の知らせを聞いて再度加賀の許《もと》に駈けつけたが、すでに手遅れであった。加賀は自分の死が近いことを知り、朝日麦酒社長の山本為三郎に後事を託し、手放したのである。当時、加賀は最大の株主であり、芝川の持株を加えると、ニッカの株の大半を占めていた。ニッカは自動的に朝日麦酒の傘下に入ることになった。
――じつはな、銀行へ行って頭を下げるのもそろそろ嫌気がさしとった。かえってさっぱりした。……山為《やまため》さんとは知らぬ仲ではなし、心配いらん。
竹鶴の言葉はまんざら強がりでもなかった。さいわいなことに山本とは、摂津酒造時代からの知己である。スコットランド留学の折は、神戸港まで見送りに来てくれたほどだ。
山本は竹鶴より一歳年長である。十六歳にして家業の山為硝子を継ぎ、製壜業、麦酒醸造業、ホテル業に辣腕《らつわん》を振ういっぽう、柳宗悦、浜田庄司らの民芸運動を援《たす》け、外国音楽家|招聘《しようへい》に尽力する趣味人であった。なによりも麦酒という酒造業に生きる実業家だけに、ウイスキー造りにも深い理解を示した。
――竹鶴さん、あなたがウイスキー造りに高い理想を持っておいでのことはよく承知してます。このたびニッカの株の過半数を持ちましたが、あなたの方針に干渉するつもりはありません。好きにおやりなさい。
山本は経営権も指導権も行使せず、経営一切をいままでどおり竹鶴の手に委《ゆだ》ねることを約束してくれた。朝日麦酒からは総務担当専務を一人送り込むだけで、みずからは相談役に甘んじたのである。竹鶴の理想とするウイスキー造りをできるかぎり応援したい。三十六年前、神戸港で竹鶴の壮途を見送ってくれた実業家は、当時と変らぬ穏やかな表情で語った。
――ただ、一つだけ条件を付けさせて貰《もら》います。それはな、あなたの営業スタッフのことですわ。あなたは技術も第一級だし、経営者としても立派だ。だが、その理念を実行に移す営業面で人材を欠いている。どうです。
山本は、営業担当重役として格好の人物を世話したいと提言した。
推薦の人間は彌谷《やたに》醇平といい、かつて関西のマルキン醤油《しようゆ》が関東進出を図った際、たちまちのうちに一新参銘柄を四印の一つといわれるまでにした男だ。当時は病気で療養中だった。二年前、経理面では日本銀行統計局長の土井太郎を迎えて強化を図っていたが、販売宣伝面はいまだ弱体であったから、酒類食品業界に明るい人材とあれば心強い。
竹鶴に異存はなかった。
彌谷は入社すると、まず販売網の整備にとりかかった。
――メーカーはいいものを造らなきゃいけない。だが、それが売れるかどうかはお得意さんの協力しだいです。
それまでのニッカも努力を払ってはいたが、他社と較べると余りに微弱であった。彌谷がまず手掛けたのは、卸業者のあいだにニッカのシンパとなる特約店を作っていくことであった。それも販売力をもつ主要業者を網羅していくことだ。
彌谷はどこへでもこまめに足を運んだ。こうした業界は理念や原則だけでは動かない。積極的に相手の懐に飛び込み、心を掴《つか》んでいかなくては成功はおぼつかない。マルキン醤油時代の体験と勘が、ここで生きた。
それと同時に、彌谷は販売価格の引下げを主張した。
――社長、新角は値段を下げないとだめです。お得意さん廻りをやっていて、ネックになるのは、決って値段です。
彌谷は口数こそ少ないが、行動は早い。アメリカのコロンビア大学で商科を専攻しながら、近代経営とは裏腹のこの業界で力を発揮できるのも、その行動力と人柄の誠実さがあってこそだろう。竹鶴は彌谷の力を買い、販売面一切を任せたが、価格のこととなると話は別だった。
――彌谷さん、あんたの手腕には感心しとるが、それだけはいかん。値段を下げようと思ったら、品質を落さなきゃ無理だ。そんな製品を造ったところで、ほんの一時《いつとき》売れようとも長続きせん。絶対にいかん。
彌谷の価格引下げ案は一蹴《いつしゆう》された。
昭和三十年、竹鶴は新たに特級ウイスキー〈ゴールドニッカ〉を発売、長く寝かした自慢の原酒を入れ、値段も二千円と当時の最高価格をつけた。
この間、彌谷は少しもひるまず、何度も竹鶴に価格引下げを迫っていた。反応はいつも同じだったが、それでも彌谷は引き退《さが》らなかった。社長が品質に命を賭《か》けるなら、自分は販路の拡大に命を賭ける。彌谷は、あの手この手を考え、一度などはお得意、つまり卸業者のほうから価格の引下げを要請させもした。いくら頑固な社長でも、お得意さんの声とあればむげに一蹴はできまい。
同時に、彌谷は秘策を練った。竹鶴が価格引下げに応じないかぎり、主流となる新角ウヰスキーはこれ以上伸びない。どんなことをしてでも、ここは社長を説得する必要がある。竹鶴社長は技術者で、論理に強いと、日頃から自認している。ということは逆に、論理で迫れば頷《うなず》かせる道も拓《ひら》けるはずだ。
彌谷は克明なデータを取り揃《そろ》えたのち、社長室に踏みこんで竹鶴に切り出した。
「新角の売行きが相変らずですな。せっかくいいウイスキーを造りながら、競争に負けています。残念です」
口調こそ穏やかであったが、目はまっすぐに竹鶴を捉《とら》えていた。
「だが、こちらは品質では負けておらん。その証拠に、わかるお客さんはちゃんと買ってくれておる。彌谷さん、中身がよければ、どんな商品だってその分値段は高くなるでしょうが」
「しかし、すべてのお客さんに新角を手に取ってもらう機会を与えないことには、よさもわかっていただけません。本当の勝負はそれからじゃありませんか」
「…………」
「本当に品質で勝負しようと思ったら、まず同じ条件でたたかうべきです」
「それができりゃ、とうにやっとる。値段を下げれば、原価もけずらにゃいかんじゃないか」
社長、と彌谷は遮り、手にした書類を差し示した。当時、二級ウイスキーは、トリスが六百四十ミリリットルで三百四十円、オーシャンが五百五十ミリリットルで三百四十円、ニッカが五百ミリリットルで三百五十円であった。原価を変えず、業界第一位のトリスと同じ条件で売り出すとすると、一本当り三割の欠損になる。
「しかし、売上げが全国で八十七パーセント伸びれば、欠損は黒字に転化します」
書類に目を走らせる竹鶴に向って、彌谷は説明を続けた。ニッカの売上げは北海道六、内地四の割合だ。八十七パーセント増販を達成するためには、ライバル他社のフランチャイズ、つまり青森以西で現状の二倍売る必要がある。
「できるのか」
書類に目を遣《や》ったまま、竹鶴は呟《つぶや》いた。
「やらなければなりません。ニッカがいつかは越えるべきデッド・ラインです」
冒険であった。大きな賭けである。彌谷の試案は、ニッカという一地方業者が、全国市場を支配する寿屋や三楽酒造に正面から競争をいどもうというものであった。余市の荒蕪地《こうぶち》に大日本果汁の看板を掲げてから二十年余りが経っている。彌谷の説得を聞いているうちに、竹鶴は初めて余市の土を踏んだ日の緊張と昂奮が甦《よみがえ》ってくるのを感じた。
無意識のうちに、手は口許の髭に伸びていた。
「やりましょう。彌谷さん、やってください」
昭和三十一年十一月、ニッカの二級ウイスキーは〈丸壜ウヰスキー〉、通称、丸壜ニッキーとして粧《よそお》いを新たに登場した。価格はトリスと同じく六百四十ミリリットルで三百四十円。この年、ニッカは特級ウイスキー〈ブラックニッカ〉をも新発売している。
発売に備え、彌谷は販売網と同時に宣伝面の充実を急いだ。寿屋に在籍したこともある竹鶴は、広告の力を知らないわけではなかったが、ともかく金がなかった。彌谷は少ない予算が分散されて効果が薄れていたことを見てとり、最大手の広告代理店、電通の吉田秀雄社長を訪ね、宣伝費全額を預けて、一切を委ねた。今日のAE制を採用したのである。
丸壜ニッキーが発売された三十一年から三十二年にかけては、戦後第一回の洋酒ブームがピークに達していた。都会の盛り場では、トリス、ニッカ、オーシャンなどの名をつけたチェーン・バーが林立し、サラリーマンや学生たちを魅きつけた。戦後の生活洋風化の波に乗り、ウイスキー消費量は年ごとに増え、三十二年から三十三年にかけては前年比三十七パーセントという未曽有の消費増を示した。
価格を抑えた丸壜ニッキーは、この洋酒ブームに乗って、売れた。懸案だった青森以西の売上げは一年で倍増した。彌谷の試算では二年はかかると踏んでいただけに、嬉しい誤算だった。二十九年酒造年度の売上げを一〇〇とすると、三十年一三九、三十一年二七六、三十二年三三八、三十三年四六三、三十四年五三六、と毎年大台を更新した。
丸壜ニッキーはオーシャンを抜き、寿屋のトリスに次いだ。ようやく全国商品として通用するようになったのである。
余市山田町の竹鶴家では、次々と家族が増えた。昭和二十八年には威《たけし》夫妻に長男孝太郎が、続いて長女みのぶが生れていた。
リタは自身、子を生むことはなかっただけに、幼い孫を目にするたびに頬ずりをして、抱き上げた。
――孝太郎、パパやママと呼ぶ人がいますが、あれ、いけません。立派な日本語というものがあるんですから、お父さん、お母さんですよ。わたし、おばあちゃん、いいですか、おばあちゃんですよ。
リタはまだ言葉のわからない孫に向って、こう繰り返した。
その孫たちがそろそろ学齢期に達する三十四年、スコットランドに住む末の妹、ルーシーが来日した。
――ルーシー。
――リタ。
姉妹はなつかしい名を呼び合い、抱き合った。
余市に住むようになってから、リタは同国人と話し合う機会といえば、札幌や小樽に住む宣教師だけになっていた。戦時中はそれさえ遠慮しなければならなかった。ワタシ、エイゴヘタニナリマシタ。こう苦笑するリタであったが、二十数年ぶりに会う妹を前にして、堰《せき》を切ったように話し始めると、夜が更けるまで留《とど》まるところを知らなかった。
――リタ、ルーシーと一緒に、故郷にしばらく帰ってきてはどうかね。気分転換がなにより身体にいいと言うぞ。
竹鶴は頬を紅潮させて話し続ける妻に、三十年ぶりの里帰りをすすめた。
リタは六十歳を前後して、次第に健康を損ねるようになっていた。幼少時代の虚弱体質が気候風土の異る日本での生活を経て、一気に頭をもたげてきたようだった。厳冬期には神奈川の逗子《ずし》に避寒を兼ねて静養に赴き、暖くなると余市に戻る生活が繰り返された。故郷スコットランドへは、竹鶴が寿屋在社時代の昭和六年、鳥井信治郎の長男吉太郎を伴い、英国へ渡った折が最後になっていた。その吉太郎も二十年前、昭和十五年に急逝していた。
――今は船でなくて飛行機でしょ。わたしが飛行機を嫌いなこと、ご存じでなくて。
在日すでに四十年、リタはいまでは「竹鶴リタ」の名をもつ日本人になりきっていた。故郷をいま一度この目にしたくないと言えば嘘《うそ》になる。が、いまさら戻ったところで、なにが待っているだろう。妹に迷惑をかけるだけではないのか。自分にとって、故郷はもはやこの余市を措《お》いてはない。
リタは夫の勧めを断り、故国へ帰る妹ルーシーを見送った。
かつて乗馬、テニス、スキー、散歩、と戸外生活を好んだリタも、健康を損ねてからは家に閉じ籠《こも》ることが多くなった。若い頃からの読書好きは相変らずだったが、丸善から取り寄せる本はいまでは探偵小説が大部分になっていた。時に、ビールの入ったコップを片手に嫁を呼び寄せ、延々ととりとめのないおしゃべりを続けた。また時には、庭の花々を眺めてひとり長い物想いにふけった。
寒い日には、和服を着た。身体の具合が悪いときは、洋服より暖くていいです、そう言いながら自分で器用に帯を締めた。
しかしどんな時でも、柱時計が三時を打つと背筋を伸して立ち上った。
――お茶の時間です。わたしがいれます。
たとえ気分がすぐれない日でも、お茶だけは自分自身の手でいれなければ気が済まなかった。
妹ルーシーが帰国してしばらくたってからのことである。ミセス・リタ・タケツルの宛名《あてな》で、英国から小包が届いた。差出人はもう一人の妹、エラであった。
周囲の反対を押し切って竹鶴と結婚、日本へ移り住んで以来、二人の結婚にただ一人賛成してくれたルーシーや後に和解した母とは文通を欠かさなかったが、ほかの妹弟や親類からはまったく音沙汰がなかった。その母も先年、九十の齢《よわい》を重ねた末に他界していた。リタを故国につなぐ者は、ルーシーただ一人になっていた。わが目を疑う差出人の名であった。
エラの筆跡を目にするのは、あの時以来、四十年ぶりになる。リタはもどかしそうに包みをほどいた。白い麻のハンカチーフだった。隅にはリタのイニシャルが刺繍《ししゆう》されていた。
その日、リタは贈られたハンカチーフと添えられた手紙を持って自室に籠り、夕食の支度をする時間になっても姿を現わさなかった。
昭和三十六年一月十七日、リタは竹鶴に看取られ、眠るように逝った。半年ほど前から容態がすぐれず、肝硬変が命取りになった。六十四歳の誕生日を迎えたばかりだった。
この齢でなぜ……。
竹鶴は冷くなったリタの手を握ったまま、茫然《ぼうぜん》と枕許《まくらもと》に坐りつづけた。
来日して以来、リタは四十年の歳月を竹鶴の妻として生きた。滞日欧米人といえば自国語を話し、欧米風の生活を頑《かたく》なに守るのが普通だったが、リタは違った。ワタシ日本人デス。リタほどこの言葉を誇りとした外国人もいるまい。
はたしてリタは幸せだったろうか。
混乱した頭に、ふとこんな思いがよぎった。いまから考えれば、あれほど日本人になりきろうと努力したのも、煎《せん》じつめればリタが西洋人であったからではあるまいか。リタの生前、あまり考えてもみなかったが、肉体が温《ぬく》もりを失ったいまになって、この明白な事実が取り返しのつかない悔恨となって竹鶴の心に突き刺さった。
日本に住むようになって、四十年の間、その努力を一日も休むことができなかった妻をおもうと、いとおしく、哀れだった。もし、日本人の自分とでなく、故国で同国人と結婚していたら、その母と同様もっと長く生きられたのではなかったか……。
考えてみれば、リタはウイスキーと結婚したようなものだった。ウイスキーを造り始めて以来、竹鶴家の生活は製造が忙しくなると昼も夜もなかった。眠り続ける原酒の行末に一喜一憂し、売行きが悪いといっては苦しんだ。その間、リタの胸中はどんなであったか。自分の苦しみなどとはくらべものにならないほど、リタは苦しみもがいていたのではなかったか。安心して見守っていられるようになったのは、丸壜《まるびん》ニッキー発売後のここ四、五年にすぎない。日本に本格ウイスキーを造るという壮大な夢がようやく軌道に乗った姿を見てもらえたことは、せめてもの慰めだった。だがそんな慰めが何になろう。リタには、もっと生きていてほしかった。自分が命あるかぎり造り続けるウイスキーを、昔と変らぬ碧《あお》い大きな瞳《ひとみ》で見守っていてほしかった……。
竹鶴は異国で眠ることになった妻を、ウイスキー工場を見下ろす美園の丘に葬ってやりたいと思った。
昭和三十年代の洋酒ブームも、三十四、五年になると翳《かげ》りをみせるようになった。伸び悩みは、ブームを支えてきた二級ウイスキーに著しかった。生活に余裕ができるにしたがい、消費者の舌がより高品質のものを求めるようになったといってよいだろう。ウイスキー業界はこの情況に対処するため、大蔵省に二級ウイスキーの原酒混和率引上げを要望、これを受けて三十七年には、酒税法が改正されることになった。
酒税法改正を前にしたある日、竹鶴は山本為三郎に招かれた。
「いよいよですな、竹鶴さん」
「遅すぎたくらいです。なにしろ、これまでの五パーセントというのは話になりませんでした。欧米じゃ、とてもウイスキーと呼べません」
「確かにそうです。で、今度はどうです」
「ともかく、原酒がいままでの倍まで入れられます。そのぶん旨《うま》くなることは言うまでもありません」
今回の改正は、二級ウイスキーの原酒混和率を五パーセント以下から十パーセント未満へ引き上げることが主眼だった。同時に、従来「雑酒」の名でひとまとめに呼ばれていた洋酒が、ウイスキー類、スピリッツ類、リキュール類などに分類された。依然として、原酒が入っていなくともウイスキーと呼ばれる点では不徹底な改正ではあったが、ともかくウイスキーは、わが国酒税法上、ようやく清酒やビールと肩を並べるようになったのである。
「竹鶴さん、あなたのことだから、今度の改正で期するところをお持ちでしょう。が、わたしにも一つ提案がある。じつは……いや、これを見ていただきましょう」
山本は一冊の日記帳を取り出し、竹鶴の前に広げた。そこには英国のグレイン・ウイスキー蒸溜工場を見学したおりの記録が、几帳面《きちようめん》に細かな字で記されていた。英国製の日記帳には、一九二二と年号が刻まれていた。日本では大正十一年。竹鶴がスコットランドのジェームス・カルダー社ボネース工場で、苦心の末に連続式蒸溜機操作法を学びとったのは、その三年前のことだ。
「欧米視察にお出でのことは伺っておりましたが、ここまでお調べとは、いやあ兜《かぶと》を脱ぎます」
「なあに、わたしのはちょっとした見聞記にすぎません。あなたのウイスキー造りを応援するようになって、昔の日記を繙《ひもと》いてみたところ、グレイン・ウイスキーのことが出てきましてな」
グレイン・ウイスキー――。その名はウイスキー造りを志して以来、竹鶴の頭を離れたことはなかった。
ウイスキーがスコットランドの地酒から世界に通用する酒となったのは、ブレンディド・ウイスキーの誕生を待ってからである。スコットランドでは、大麦を単式蒸溜器で蒸溜した個性豊かなモルト・ウイスキーと、穀類を連続式蒸溜機で蒸溜したグレイン・ウイスキーとをブレンドする。ところが日本では、モルト・ウイスキーに薯《いも》や糖蜜《とうみつ》を精製した中性アルコールをブレンドしているのが現状であった。
ブレンディド・ウイスキーの香りや味を造るのは、モルト・ウイスキーである。が、その個性を生かし、飲みやすくしたのはグレイン・ウイスキーだ。もし、日本でも中性アルコールに代って、スコットランド同様に穀類から蒸溜するグレイン・ウイスキーを使えるようになれば……。
「そうです、グレイン・ウイスキーを使うようにならなきゃ、日本のウイスキーも一人前とは言えません。原酒混和率が少々増えたぐらいじゃ本当はいかんのです」
「ニッカでグレイン・ウイスキーに踏み切ったらどうかと、わたし思いましてな」
山本の言葉に、竹鶴は一瞬、胸をつかれた。
「むろん、やりたいです。何を投げ打ってもやりたい。しかし設備に莫大な金がかかります」
ニッカウヰスキーにその余裕はなかった。売上げはそのまま次の原酒製造、あるいは宣伝につぎこまなければ、まだまだやっていけない状況である。
「おやりなさいよ、竹鶴さん」
山本は励ますように言った。蒸溜釜一つでもなんとかなるモルト・ウイスキーと違って、連続式蒸溜機導入は多額の設備投資を必要とする。もし実現できれば、いままでとは較《くら》べものにならないソフトな旨さが出せるはずだ。
「おやりなさいよ。……資金はわたしのほうでなんとかしましょう。スコッチに負けないウイスキーを造るために、ひとつ連続式蒸溜機を入れましょうや」
山本の声を、竹鶴は半ば夢見心地に聞いた。
三十七年夏、竹鶴は単身ロンドンに飛び、三井物産ロンドン支店に蒸溜機買い付けを依頼した。同じ連続式蒸溜機でもアルコール・メーカーが使うのはカフェ式を改良した型だ。ところがこれだと純度の高いアルコールはできるが、グレイン・ウイスキーはできない。グレイン・ウイスキーは、穀類の不純分を残す旧型のカフェ式でなければならなかった。
――スコットランドでブレアーという会社がカフェ式蒸溜機を造っているはずだ。いまもあるかどうか調べてもらえんかね。
竹鶴は昔、留学時代に使っていた古い手帳を取り出し、ブレアー社の住所を読みあげた。手帳には蒸溜機製造会社がアルファベット順に書き込まれていた。
翌三十八年、ブレアー社製カフェ式連続蒸溜機の購入が決った。竹鶴は検査と同時に、ギルビー社との技術提携のため再度渡英した。このたびは息子の威《たけし》、東京工場長小山内祐三を伴っての一か月にわたる旅になった。
ロンドンで所用を済ませ、竹鶴一行はスコットランドへ北上、各地の蒸溜所を巡った。そうした一日、一行は首都エディンバラに遊んだ。
エディンバラ城を見上げるプリンセス街公園に来ると、竹鶴はベンチに腰を下ろし、二人を促した。
――君らは城を見物してくるといい。わしはここで待っている。
季節は初秋であった。夏の名残りをとどめた明るい陽射しの下、花壇ではバラやゼラニウムが輝くばかりに咲きほこっていた。花壇の前を腕を組んだ老夫婦が歩いてゆく。杖《つえ》にすがった老婦人が足を引きずり、駈け出した幼児のあとを追って母親が急ぎ足で追う。一隅では、肩を寄せ合った若い恋人たちが、二人だけの世界に浸っていた。……昔と同じだった。ただ一つ、リタがいないことを除けば、四十数年の昔とまったく変りはなかった。
あの日、リタが初めて好意以上のものを示してくれたのは、秋も終ろうとする日のこのベンチだった。若き竹鶴は使命感に燃え、むさぼるようにウイスキー製造技術を学び取ろうとしていた。障碍《しようがい》があればあるだけ、闘志は燃えた。一職工として身を粉にして働くのも苦にならなかった。リタと知り合ったのは、そうした日々のことだった。
なぜ、リタはこの自分に魅かれ、生涯を共にする気になったのだろう。……ふと、そんな思いが浮んだ。共に生きた四十年のあいだ、考えてもみなかった疑問が、六十九歳を迎えるいまになって突然|湧《わ》き起ってきた。
リタはあの日、戦死した婚約者のことを打ち明けた。それは自分に対して心を開いた証《あか》しであったが、そのことはまた、小さな棘《とげ》となって竹鶴の心に懸っていた。戦死した婚約者への未練を断ち切るために、故国を逃れようとしたのか。いや、そうではあるまい。哀《かな》しみが深かったことは事実としても、感傷だけで故国を捨てられるはずはない。ましてあれほどの不安な歳月を、生きられるはずはない。しかしもし、自分と結婚して日本に来ず、故国で同国人と結婚していたら、もっと幸せな生涯を送ることができたのではないか……。リタの死後、悲しみは去っても、苦い悔恨だけはいつまでも消えなかったのである。
紅《あか》く燃えるゼラニウムの向うを、一組の恋人たちが通りすぎようとしていた。女は顔を仰向け、青年にほほえみかけていた。少女の面影を残したあどけない表情に、こぼれんばかりの笑みがたたえられていた。あの日のリタのように、眩《まぶ》しく、心洗われるような笑みだった。
その瞬間、竹鶴はリタが自分と生涯を遂げようとした気持を理解できたように思った。心の隅から離れなかった悔恨も消えていた。リタは選び、賭けたのだ。この自分に、日本で初めてウイスキーを造る男と暮すことに。そして自分は精いっぱい尽してきたではないか、リタにも、ウイスキー造りにも……。
――ご気分でも悪いのですか。
いつのまにか、威と小山内が傍に佇《たたず》んでいた。
――一度戻ってきたんですが、親父さん考えごとに耽《ふけ》っていたんで、遠慮してもう一周りしてきました。それにしても二時間も動こうとしないんで、心配になりましてね。
まあ、坐れ。竹鶴は二人に合図し、覚めやらぬ夢の続きに耽るように、しばらく目をつむっていた。
――じつはな、いま、リタと共に過した四十年を遡《さかのぼ》って生きとるところだ。悪いが、もうしばらくひとりにしておいてくれんか。
六十九年の歳月を生きた浅黒い顔は、満足気に輝いていた。威も小山内も、これほど晴れやかな顔をした竹鶴を、久しく目にしたことはなかった。
ラベルの中にベレー帽をかぶった髯《ひげ》の男がいる。左手に麦の穂、右手にグラス。キング・オブ・ブレンダーズ。原酒を三十種類もかぎわけるというウイスキー造りの名人だ。
竹鶴は会心のラベルを眺めながら、みずからもグラスを口に運ぶ。香りが立ち昇って鼻腔《びこう》いっぱいに広がる。満面に笑みが浮ぶと、七十四の老人は幼な児に立ち還《かえ》る。無心に遊ぶ幼児のように、竹鶴は静かに一滴一滴をいとおしみ、夜の静寂《しじま》を相手に飲む。笑みの中には、くろぐろとした口髭《くちひげ》が踊っていた。スコットランド留学以来、一度も落すことのなかった口髭である。
春の宵であった。余市に住むようになって何度目の春になることだろうか。
キング・オブ・ブレンダーズ――。この伝説の人物を、一級ウイスキー〈ブラックニッカ〉のラベルに刻み込んで発売したのは、三年前の昭和四十年。その前年に発売した二級ウイスキー〈ハイニッカ〉と共に、日本で初めてグレイン・ウイスキーを使った製品であった。
この新製品が発売されると、業界一位のサントリーは、ハイニッカには〈サントリーレッド〉、ブラックニッカには〈サントリーゴールド・クレスト〉を、それぞれ対抗して発売した。値段が各五百円、千円であり、グレイン・ウイスキーを使ったニッカ製品がソフト・ウイスキーを謳《うた》ったところから、「千円ウイスキー戦争」、「ソフト・ウイスキー合戦」と騒がれた。宣伝合戦も熾烈《しれつ》をきわめた。
兵庫県西宮に念願のグレイン・ウイスキー工場を建設し、カフェ式連続蒸溜機のバルブをみずからの手で開けた瞬間、竹鶴の脳裡《のうり》をかすめたのは遠い半世紀の昔、スコットランドの工場で深夜、蒸溜主任の老人から手ずから教わった記憶であった。よもやあの老人は生きてはいまい。スコットランドへ遣ってくれた摂津酒造の阿部喜兵衛、山崎工場を任せてくれた寿屋の鳥井信治郎、余市に初めて竹鶴の城を築かせてくれた加賀正太郎、数億円の出資でカフェ式連続蒸溜機導入を実現してくれた山本為三郎……恩人はみな世を去っている。こうした先人を思い返すたびに、竹鶴はウイスキー一筋に生き、グレイン・ウイスキーまで造れるようになった僥倖《ぎようこう》を痛いほど感じるのだった。それにくらべたら、企業間の争いなど、所詮《しよせん》コップの中の嵐のようなものではないか。
生きることは、なんと愉《たの》しいことだろう。竹鶴は宵闇《よいやみ》に漂う花の香を深々と吸い込み、グラスに手を伸ばす。
この庭を愛した妻は、いま余市の工場を見下ろす美園の丘に眠っている。墓石には〈竹鶴政孝 竹鶴リタ 墓〉の日本字と並んで、〈IN LOVING MEMORY OF RITA TAKETSURU BORN 14th DEC 1896 DIED 17th JAN 1961〉と刻み込んだ。いつでも隣に行けるよう、自分の名も刻んだ。生者は朱を入れるというが、竹鶴はそのままにして朱を入れさせなかった。
東京から余市に戻ると、竹鶴は昔からの習慣通り、魚市場に出かけ、みずからの眼で鮮度を吟味して魚を選んだ。社員を呼び寄せ、気が向くと自分で庖丁《ほうちよう》を握った。
――命は食にあり。これを忘れてはいかん。
ウイスキー造りはたんなる技術ではない。造る側も飲む方も、それにふさわしい舌をもたねばならない。嗅覚《きゆうかく》を磨かねばならない。できることなら、英国人がウイスキー相手にじっくり生を愉しむように、酔うためでなく愉しむために飲んでほしい。それが、ウイスキー造りに一生を捧《ささ》げ、七十半ばにして毎日一本のウイスキーを愉しむ竹鶴の心からの願いだった。
不思議なことだ、と竹鶴は宵闇に沈む庭の花を見つめながら思いを馳《は》せる。日本人は数十年前までウイスキーを好まなかった。一部の外国帰りの人々を除けば、焦げ臭いといって飲まなかったものだ。また自分も、日本人の舌に合うものを造ろうとは考えもしなかった。なぜなら、日本人の舌に合せるだけならウイスキーでなくてよいからだ。
ところがどうであろう。戦後二十年にしてウイスキーは清酒に匹敵する国民酒になってしまった。摂津酒造で働いていた模造ウイスキー時代には想像もできなかったことだが、自分の始めたニッカウヰスキーでは単式蒸溜器でモルト・ウイスキーを造り、カフェ式連続蒸溜機によるグレイン・ウイスキーとブレンドできるまでになった。そして来年には仙台にもう一つ原酒工場ができる。余市をハイランドとすれば、ローランドの風土に新しいタイプのモルト・ウイスキーができることになる。
新しい原酒工場は仙台郊外宮城峡の広瀬川と新川が合流する三角洲《さんかくす》に建つ。竹鶴は候補地決定に当って自ら足を運び、河原に降りて水をすくい、口に含んだ。やわらかく清冽《せいれつ》な水をたたえた川を、土地の者は「新川《につかわ》」と呼んでいた。ニッカワ――。竹鶴は啓示にも似た符合に、感慨を新たにしたものである。
仙台の工場が蒸溜を始めたあかつきには、余市の原酒《モルト・ウイスキー》と仙台の原酒を混合《ヴアツト》し、西宮工場のグレイン・ウイスキーとブレンドしてブレンディド・ウイスキーの名にふさわしい製品が育っていくだろう。
――スコッチをしのごうとはいうまい。しかし、いつの日かスコッチに比肩しうるウイスキーを造ってみたい。
胸の奥深くしまい、亡妻リタにしか告げたことのなかった夢も、もはや見果てぬ夢ではなくなっている。
春の宵はすでに夜闇に閉ざされている。庭には今年もまたリタの愛したエゾムラサキ・ツツジが、ハクモクレンやフジが、以前と変らず可憐な花をつけた。その花もリタの眠る美園の丘も闇に沈んでいた。それでも、キング・オブ・ブレンダーズのラベルを前に、ひとり静かにグラスを運んでいると、リタはすぐ傍にいるように思えた。
リタ。
竹鶴は庭の宵闇に呼びかけた。七十四の老人とは思えぬ朗らかな若々しい声であった。ラベルの中でキング・オブ・ブレンダーズが、一瞬、微笑《ほほえ》んだように感じられた。
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エピローグ
雪がやんで薄陽が射すと、山々の稜線《りようせん》が姿を見せた。
一九八一年、冬。余市に来て初めて迎える晴天だった。海に面した西北部を除き、町は三方をなだらかな丘陵に囲まれている。リタは初めて余市の町を見た瞬間、故郷スコットランドに似ているといって大変喜んだそうである。わたしは晴れ上った余市の町に立ち、その意味を諒解《りようかい》した。丘陵の形が、リタの故郷カーカンテロフの生家から見た山々の形とそっくりなのである。
竹鶴政孝とリタが眠る美園の丘は、降り続いた雪にすっぽりとくるまれていた。腰まで埋る雪道をようやくのことで登り切ると、墓所は柔らかな雪に半ば没していた。雪を掻《か》くと、碑面に刻まれた文字が現われた。頂部に十字架が刻み出された御影石の墓碑には、〈竹鶴政孝 竹鶴リタ 墓〉と二人の名が並び、裏面には生前竹鶴が刻ませた墓碑銘〈IN LOVING MEMORY OF RITA TAKETSURU BORN 14th DEC 1896 DIED 17th JAN 1961/MASATAKA TAKETSURU BORN 20th JUN 1894 DIED〉に、いまは竹鶴自身の没年月日が〈29th AUG 1979〉と加えられている。
昭和五十四年八月二十九日、竹鶴は病気療養中の東京・順天堂大学付属病院で肺炎のため亡くなった。いつでも隣に行けるように、と墓の名に朱を入れさせなかったが、結局リタの没後十八年間を生きた。享年八十五歳であった。
竹鶴は亡妻リタと同じ英国聖公会に入信していた。通夜と密葬は東京・世田谷の日本聖公会東京聖三一教会、本葬は青山葬儀場で行われた。遺骨は余市に戻り、余市町葬を終えてリタの傍に眠った。
眼下には、雪におおわれた余市の町並みが広がっていた。雪景色を一条の流れが横切っている。町を流れて余市湾に注ぐ余市川である。浅葱色《あさぎいろ》の帯は雪原を押し開くように伸び、白い川原には枯木立ちが木叢《こむら》を川風に揺るがせている。
余市川をへだてて、貯蔵庫が連なっている。その先、乾燥塔《キルン・タワー》の尖塔《せんとう》が認められる一帯は、工場の中枢部である。昭和九年の創業時に三千六百坪であった工場敷地は、沼沢地の埋め立てなどで拡張を続け、現在四万五千坪余り。貯蔵庫の数も二十数棟をかぞえるに至った。日本を代表するウイスキー製造会社に成長した今日、「赤字続きの林檎汁会社」の記憶は、町の人々の間から急速に薄れつつある。
それでも、余市の町には創業時代の竹鶴を知る人は少なくない。
「竹鶴さんは、まず、変った人でした。冬には、脱ぐのが面倒なんでしょうね、長靴のまま、ひとの家の畳に上ってくるんです。そりゃ、雪の上を歩いてくるんですから汚ないことはありゃしません。でも、おい、親父いるかって、あの大声でどなりながら上り込むんですから、初めはびっくりしました。……でも不思議なもんで、竹鶴さんだと腹が立ちません。わたしらだけではありません、あの人と付き合った町のもんは皆そうですよ」
創業当初、変り者扱いされた竹鶴と付き合ったのは、床屋、靴屋、宿屋などの親父連中だった。いずれも碁が結ぶ縁だった。前夜わたしはそうした一軒、|※《かねまた》服部旅館に止宿し、服部精介の未亡人イシから話を聞いていた。
「わたしらは長く付き合ってきましたが、あの人はいつまでたっても子供みたいな人でした。碁が好きで、よく打ちにきていましたが、わたしは玄関の脇の部屋にいるだけで、どちらが勝ったかすぐわかるんです。あの人が負けたときは、ほんとに悔しそうに足音を荒げて、わたしらに挨拶もしないで帰ってしまうんです」
九十五歳になるというイシは、竹鶴の話となると、表情がいちだんと和らぐ。竹鶴のことを思い出すのが楽しくてならないかのように、わたしにいつまでも話し続けた。
「……それでいて思いやりがあった人でした。碁を打ちに来るとき、ポケット壜のウイスキーを二本持ってきましてね、一本は自分で飲み、もう一本を黙って置いていくんです。亡くなった連れ合いが全然飲めないのを知りながら……。ウイスキーが大変貴重な時代のことです」
自分からウイスキーを取ったら、何も残らない。生前、竹鶴は自身をこう評した。これだけの自負をもって自己の生を振り返ることができる人間は、そういない。
昭和三十七年、来日したヒューム英国副首相は政府主催の歓迎パーティ席上、こう語ったことがある。
「わがスコットランドに四十年前、頭のよい日本青年がやってきて、一本の万年筆とノートで、英国のドル箱であるウイスキー造りの秘密を盗んでいった……」
むろん、このせりふは、日本のウイスキーの品質を誉《ほ》めたたえた、英国流ユーモアと解するべきだろう。
これにこたえ、すでに壮年に達し、スコッチに比肩しうるウイスキーを造りはじめていた頭のよい日本青年≠ヘ、冗談まじりにこう言っている。
「世間には、スコットランド専売のウイスキー造りを持ち帰ったわたしに、英国人がよい感情をいだいていないのではないか、と危惧《きぐ》する人がいる。とんでもない。スコットランドでしかできないウイスキーを日本で造ったおかげで、いまではどんな片田舎でもウイスキーが飲まれている。日本はスコッチの大きな市場となったのだから、わたしのほうこそエリザベス女王から勲章をもらってもよいくらいだ」
昭和四十四年、このウイスキー造りの功労者に勲四等叙勲の申し入れがあった。余市税務署長から叙勲の内示を受けると、竹鶴は工場長の佐藤信義に丁重に断るよう申し付けた。困ったのは税務署長である。署長の依頼により、佐藤は再度竹鶴の意向を確めた。
「わたし個人としては、いただくのになんら異存はない。ただ、ビール会社の社長は勲三等を貰《もら》っている。わたしが勲四等をいただいてしまったら、ウイスキー業界関係者は将来とも勲四等ということになる。業界のために、お断りいたします」
その後、再度叙勲の打診があった。このたびは勲三等である。竹鶴が勲三等ならばと快諾したことはいうまでもない。
竹鶴は晩年、健康の秘訣《ひけつ》を問われるごとに白い歯を自慢した。
――この年で虫歯がないのは珍しいでしょう。ウイスキーです、ウイスキーを毎日飲んでいるからです。
やはり晩年のこと、長く交際のあった発酵・醸造学の権威、坂口謹一郎に、ある酒席で、
――先生、わたしも近頃は二本にしました。
と残念そうに語ったそうである。何が二本かというと、ウイスキーをそれまでの一日一本から、三日に二本――。これが八十を迎えた男の健康法だった。
竹鶴は終生、みずからの造ったウイスキーを愛し、飲み、愉しんだ。ウイスキー造りに一生をささげた男にとって、これにまさる勲章があるだろうか。
冬のさなかとあって、深い雪におおわれた美園の丘は訪れる人影もない。竹鶴政孝、リタ夫妻と生前|見《まみ》える機会のなかったわたしにとって、竹原、大阪、スコットランド、山崎、余市と、無言の対話を交わしつつ旅してきたこの一年は短いようで、長い。いつのまにかわたしの心に生きはじめた二人がこの冷い雪の中に眠っていることを考えると、なかなかその場を離れられなかった。
前日、わたしは眼下の山田町にある旧竹鶴邸を訪れた。いまは住む者もなくなった邸宅は予想していたよりも簡素であったが、堅剛で端正な造りはかつての住人の人柄をしのばせた。薄闇に閉ざされた寝室には、リタの使っていた寝台と鏡台がそのまま置かれていた。リタ亡きあと、竹鶴は寝台を止めて畳の部屋に寝るようになったが、寝室はそのままにしておいたようである。
その瞬間、わたしはスコットランドで会ったリタの令妹、ルーシーの言葉を思い出した。
――姉のリタからは毎月必ず手紙が来ていました。あの、不幸な戦争の間を除いては……。わたしが最後に会ったのは、亡くなる二年ほど前でした。ヨイチの家で、姉は日本に旅立った昔とまったく変っていませんでした。躰《からだ》をこわして、少々やつれてはいましたが……。姉はマッサンと結婚して幸せだ、故郷に戻らず日本で生を終えたとしても悔いはない、と別れる間際に言っていたのが印象に残っています。
目許《めもと》にリタの面影を残した老婦人は、余市を訪れたおりの写真を取り出し、本当に姉は幸せそうでした、と繰り返した。
四十年の結婚生活は、実際には順風ばかりではなく波風が立つことも再三ならずあったことだろう。生れ育った風俗習慣が異る外国人同士とあれば当然のことである。しかし、それでもリタが幸せだったとすれば、二人の間はよほど強い絆《きずな》で結ばれていたことになる。恐らくは、互いの差異を認めつつ、長い結婚生活を誠意を尽してまっとうしようとした努力によって。愛という言葉を使うなら、この互いの努力こそ愛と呼ぶべきではあるまいか。
わたしが二人を結ぶ奇妙な偶然に気づかされたのは、スコットランドでリタの生れ育ったカーカンテロフの町を訪れた時である。
その日、わたしは町の歴史と、開業医をしていたというリタの父について調べようと、町立図書館を訪れていた。うず高く積まれた郷土紙のマイクロフィルムの調査に手を貸してくれたのは、マーティンと名乗る司書だった。
どのくらいの時間がたっただろうか。
「やあ、ありました。あなたが捜している記事はこれですね」
司書はマイクロフィルムの拡大フィルムを示した。|その記事《ヽヽヽヽ》は、司書の調べていた束にあった。一九一八年六月二十六日付『カーカンテロフ・ヘラルド』に、リタの父サミュエル・キャンベル・カウン博士の追悼記事が見つかったのだ。〈過ぐる日曜日の晩、町内ミドルクロフトに住む医師S・C・カウン博士が急逝された。医師は数年来健康を損なっていたものの、突然の死は驚きをもって迎えられている。……〉
「いや、おもしろい。非常に興味深い偶然です。いいですか、聞いてください」
司書は読み始めたわたしを遮り、声をうわずらせた。
「わたしはカウンという名をどこかで聞いたことがあるような気がしていました。いま、ようやく思い出しましたよ。この町は一九六八年、つまり十三年前まで禁酒区だった。スコットランドで最後まで酒の販売を禁じていたんです。もう一人のカウンというのは、禁酒運動の指導者の名前でした。この町から、同じカウンという姓をもつ娘が、よりによって日本人と結婚してウイスキー造りを伝えるとは……」
その偶然を思い返すと、二人の愛がウイスキーと分かちがたく結びついているのは、宿命にも似たものがあるように思える。
わたしは、竹鶴が生涯を通していだき続けたウイスキーへの愛を思い浮べた。
スコットランド留学時代、竹鶴は貪《むさぼ》るようにウイスキー製造技術をもとめた。その原動力はたんなる企業留学生としての使命感だけではなかったように思う。家業の酒造りを捨ててウイスキー造りの道を選んだことからもわかるように、明治生れの男なら誰もがいだいた西洋文明への憧憬《どうけい》があったはずである。さいわいなことに、ウイスキーという名の西洋文明を摂取するさなかに、竹鶴はリタと結ばれた。竹鶴はこの結婚によって西洋文明の〈根〉に触れることができたのではないか。
それだから、竹鶴は日本でウイスキーを造るにあたり、当時の日本人の趣向に合せて味を変えるというような細工をしなかった。戦時中、軍部に取り入ったり、逆に敗戦を迎えて、占領軍に追従する醜態を演じないですんだ。宴席料理を嫌ってみずから庖丁を握るほど食べることを大切にし、魚料理にウイスキーを勧めるような無調法をしなかった。……わたしがプロローグで、西洋文明摂取の陥穽《かんせい》におちいらなかったと述べたのは、そのことである。竹鶴はウイスキー造りの生涯を通し、ものごとの本道、いわゆる〈常識《コモン・センス》〉を示してくれた。西洋文明の核にあり、近代日本人がいちばん不得手としてきたものを。
晩年の入院生活中のことだった。
ある日、入院先の担当医師がたまたま休診日に竹鶴を診察することになった。
――どうも、こんな格好で申訳ありません。
ポロシャツ姿の医師が恐縮すると、寝巻姿の病人は即座に答えたそうである。
――いやあ、わしのほうこそ、こんな格好で。
病床に伏せってからは、竹鶴は衰えた姿を人に見せることを嫌い、近親者以外とは面会をしなかったが、こうしたユーモアひとつ、心掛けひとつにも、最後まで〈コモン・センス〉を保ち続けようとした努力が窺《うかが》われるかのようである。
陽がふたたび翳《かげ》り、白い雪片がいくひらか風に運ばれるように舞った。気がつくと、足の指先にかすかな痛みを覚えていた。余市の町も、町を囲む山々も、降りしきる雪に閉ざされようとしていた。墓をあとにしていま一度振り返ると、降り始めた雪のなかに、〈竹鶴政孝〉〈竹鶴リタ〉と二人の名がくっきりと浮び上っていた。
後記
1.本書の執筆にあたり、次の方々から話を伺いました。ここに記して厚くお礼申し上げます。
阿部喜兵衛 石津仲二  稲村博行
牛尾元市  大木淑子  小山内祐三
菅野 恒  小柄義信  佐藤信義
関 沢能  関善次郎  竹鶴 威
竹鶴歌子  竹鶴初子  竹鶴壽夫
久松 貞  服部イシ  山口伯三
山本貞雄  吉岡 稔  吉田憙市
L. C. Robb
[#地付き](五十音順・敬称略)
2.参照させていただいた資料のうち、主なものは左記のとおりです。
『大日本洋酒缶詰沿革史』日本和洋酒缶詰新聞社
『日本のアルコールの歴史』加藤辨三郎編 協和醗酵工業株式会社
『ウイスキーの本』碧川泉・麻井宇介著 井上書房
『ウイスキー百科』福西英三著 柴田書店
『ウイスキー博物館』梅棹忠夫・開高健監修 講談社
『SCOTCH WHISKY』by D. DAICHES Andr・Deutsch
『日本の酒』坂口謹一郎著 岩波書店
『二人の母のこと』阿部喜兵衛著 私家版
『ウイスキーと私』竹鶴政孝著 ニッカウヰスキー株式会社
『ヒゲと勲章』ダイヤモンド社
『やってみなはれ・みとくんなはれ』株式会社サン・アド編 サントリー株式会社
『広島県史 通史近代1』広島県
『創立八十周年記念誌』広島県立忠海高等学校同窓会
『余市漁業発達史』余市町教育研究所
『余市農業発達史』余市町教育研究所
この作品は昭和五十七年十一月新潮社より刊行され、昭和六十年十一月新潮文庫版が刊行された。