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AHEADシリーズ
終わりのクロニクル@〈下〉
[#地から2字上げ] 川上稔
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)必要|最低限《さいていげん》の明かりが灯《とも》る
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#底本「○○○」]
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終わりのクロニクル
著●川上稔 イラスト●さとやす(TENKY)
@【下】
――諸君。
第一の終わりを見よう。
己の地平を決めるために。
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The Ending Chronicle
Act.01
CHARACTER
.Name :ブレンヒルト・シルト
.Class:美術部時期部長
.Faith:長寿の娘
.Name :ジークフリート・ゾーンブルク
.Class:司書
.Faith:???
.Name :獏
.Name :新庄・切
G-WORLD
・1st―Gについて・
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1st―Gとは文字が力を持つ世界である。
原初は遺伝子のような文字構造がうごめき、それが突然変異と進化を繰り返すことで表現形状 を得て、己の形をまとめていったとされる。
ゆえにこの世界の万物は己の中に文字としての属性を有している。
世界の形状は有限の海に囲まれたテーブル大地で、直径は約百キロほどの小型異世界である。
空はドーム上の宇宙が包み、そこに浮かぶのは太陽と星だけ。
また、太陽は沈むと大地の裏を回ってまた元の位置へと戻っていく。
首都はヴォータン。
近隣に村を幾つか持つ城塞都市で、王によって治められていた。
王を始め、人々は精霊を媒介に自然と意志を交わすことができ、各種族間の意思疎通も行われたため、狭い空間ではあるが、この世界では自然制御や子孫調整が行われていた
概念戦争に対し王は1st―Gの防衛を固め、崩壊時刻まで耐え抜こうとしていたとされるが……?
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CONTENTS
終わりのクロニクル 1ー下
プロット表
ボクが彼の迷いを忘れないように
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イラスト:さとやす(TENKY)
カバーデザイン:渡辺宏一(2725inc)
本文デザイン:TENKY
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第十四章
『意志の証』
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何を見せるのか考えることは
ひょっとしてみると
何かを見たいということかもしれなかったり
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●
ブレンヒルトが滑空《かっくう》に入ったのは、全力飛行を三十分ほど続けた後だった。
速度の中で見える風景。一時ずっと暗かった眼下が、また明るくなっていた。
今、下に広がるのは街の明かりで、その西南|側《がわ》が挟《えぐ》れているのは湾があるからだ。
「神戸、大阪、そして堺《さかい》ね」
ブレンヒルトは眼下の街の名をつぶやき、右の指先で|操縦《そうじゅう》用の青い賢石《けんせき》を軽く叩く。速度が緩むと同時、箒《ほうき》の下部に垂直の安定|翼《よく》が一枚出たのを確認。防風圏内で身体《からだ》を起こす。
ブラシに爪先《つまさき》をかけたまま、今の状態は正座の姿勢に近い。ブラシから出る光が青白い色に戻っていたため、ブレンヒルトは石を軽く叩いて光を不可視《ふ か し 》域《いき》に。
「――低速でやると燃費《ねんぴ 》悪いんだけど」
吐息。三角|帽子《ぼうし 》の先端に着いた霜《しも》を払い落とし、改めて眼下を見る。
眼下の光は少しずつ少なくなっていく。山間部の闇が段々と足下に押し寄せてくる。
彼女は大地を見下ろしたまま、柄《え 》の先端にしがみついている猫に声を掛けた。
「ねえ、森よ」
と、五秒待ったが返答がない。首を傾《かし》げ、ブレンヒルトは視線を前に。
見れば猫は箒の柄の先端に全身でしがみついている。そして、しがみついたままだ。
何故《なぜ》か月光の下で猫の身体がわずかに輝いている。
? と、よく見ると、猫の全身が霜に覆われていた。霜が月光に反射しているのだ。
綺麗《き れい》ね、とブレンヒルトがつぶやいたとき、不意に、猫の身体が柄から外れた。
バランスを失って、猫が下に落ちる。それを少し見届けてから、あ、と慌《あわ》ててブレンヒルトは手を伸ばした。尻尾《しっぽ》をホールド。掴《つか》んで引き上げる。
黒猫を眼前に掲げると、その顔は目を見開いて真っ正面を見たまま、口の両端を思い切り吊《つ 》り上げて固まっていた。ブレンヒルトは眉をひそめて黒猫を上下に振ると、
「何やってるのよ。危ないじゃない」
と、ややあってから猫が全身をびくりと震わせた。うわ、と声を上げて四肢《し し 》を振り、
「し、し、し、死ぬ! 殺される!」
「どうしたの? 物騒《ぶっそう》ね。怖い夢でも見てたんでしょう、また」
「そそそそそそうそうそう!何だか、思い切り空にぶん投げられて冷凍された……、夢?」
「夢よ。でも変ね。史上最高に楽しそうな顔して寝てたわよ」
とブレンヒルトは片腕で猫を抱く。
「まあ、たとえ怖い夢だったとしても安心なさい。私はここにいるから」
「信じていいんだろうか……」
「何か言った?」
いや何も、という答えを抱いた腕の中で聞く。その頃には眼下が闇で満ちていた。
ブレンヒルトは箒《ほうき》をわずかに右下へと傾ける。山奥へ。
ゆっくりと、確実に高度は下がっていく。しかし、眼下にある山地の闇と夜空だけでは上下の移動が読みにくい。ブレンヒルトは背後に流れた大阪の夜景を見て、水平線を確認する。
降下。
眼下の闇に段々と陰影が出てきた。月光が当たる山肌《やまはだ》や、木々の形が見えつつある。
「そろそろね」
とつぶやく視線は、月光に浮かんだ森の中に絞《しぼ》られた。
ブレンヒルトの視界に見えたのは、人工物の四角い並び。それは家屋の群れだ。
明かりの灯っていない家屋が山間部の森の中に並び、村を造っている。
胸元《むなもと》で抱かれた黒猫が言う。
「いつ見ても、人がいないね。廃村《はいそん》なんだろうなあ、本当に」
「……|G《ギア》の中で滅びていける場所があるなんて。贅沢《ぜいたく》の極みだわ」
「どうせこの村にいた人達も、あっちのデカイ街の人達も、皆、僕達のGが滅びたなんて知らないよ。知っていたら、少しは反省あったかもね」
足下を廃村がゆっくりと流れていく。それを見つつ、ブレンヒルトは、
「でも何故《なぜ》、このUCATは、概念《がいねん》戦争について人々に何も知らせなかったのかしら?」
「英雄気取りだったんじゃないの? 世界を混乱させるよりも、自分達で密かにカタをつけようって……。1st―Gの王様とは正反対だね。王様は、1st―Gを絶対に護《まも》ろうとしていたんだろう? 機竜《きりゅう》を防衛用に配置して、概念核も二つに分けて」
「そこをジークフリートにつけ込まれたのよね。――王城は破壊され、指揮《し き 》系統は麻痺《ま ひ 》。レギン先生は機竜ファブニールと同化し、1st―Gの概念の半分を中に収めて護ろうとしたが、レギン先生が作っていた聖剣《せいけん》グラムがジークフリートに奪われ……」
一息。
「レギン先生のファブニールが、ハーゲン翁《おう》のファブニール改だったら話は違ったかもね」
「どうして? 改型《かいがた》は、何か違うの?」
「あ、ちょっと待って。本拠《ほんきょ》が見えるから」
眼下、廃村から少し離れたところに大きな建物が二つ見えた。学校だ。校舎と体育館が見える。ブレンヒルトは、体育館に向けて高度を落としつつ、
「改型はね。防衛用として強化された機竜なの。稼働用と武装用に出力炉を二つ持ってるわ。
レギン翁が同化した旧ファブニールは出力炉を一つしか持っていなかったから、概念核の半分を収めた出力炉を聖剣グラムで破壊されたとき、死ぬしかなかった」
「それに対してハーゲン翁のファブニール改は……」
「武装用の出力炉に概念核の残り半分を封じているの。その力は――1st―Gの遺恨《い こん》そのものであり、もしそれが断たれても、残った稼働用出力炉の力で敵を潰すか、消滅させる」
猫が身を震わせるのをブレンヒルトは感じた。
「怖い? 大丈夫、ハーゲン翁《おう》は負けないわ」
「あ、いや、そーじゃなくて。身体《からだ》が冷えてトイレに――、って吊《つ 》るしプレイはやめてー! ああっ、漏れると屈辱《くつじょく》ー!」
●
夜の衣笠《きぬがさ》書庫の中で、風見《かざみ 》は出雲《いずも》と二人で会計作業を行っていた。
「春休みとはいえ、前期引き継ぎから結構《けっこう》動いてるわね。――あ、覚《かく》、そんなロボットのように領収書の貼《は 》り付けに夢中《むちゅう》にならなくていいから。目がマジよ」
「ああ、何てーかよ。糊《のり》のニオイって、結構ハマるよな。……こう、何というか、癖《くせ》に?」
風見は無視した。手元の帳簿《ちょうぼ》をちゃんと貸借《たいしゃく》割ってつけていく。
と、不意に風見は顔を上げた。横の出雲が気づいて、
「どうした? 何か変なこ、――がっ!! ば、馬鹿|野郎《や ろう》、俺まだ何も言ってねえぞ!」
出雲の抗議を無視して、風見は左に飛ばした張り手を戻す。カウンターからジークフリートが視線を送ってくるが、何でもないと手を軽く振ってみせた。そして風見は立ち上がり、
「……音?」
妙ね、とつぶやき、衣笠書庫の西端へと歩く。そこに準備室がある。
狭い入りロをくぐると、狭い内部は積まれた本や丸められた大型地図の積載所《せきさいしょ》だ。
「どうした?」
とジークフリートの声がカウンターから四教室分を飛んできた。衣笠書庫の端から端へという構図で、風見は振り向く。準備室の入り口から、こちらも通る声で、
「さっきから、鳥の鳴き声みたいなのが聞こえない?」
「そのあたりは、壁が共振《きょうしん》しているのか、上の階の音が聞こえる。三階の美術室や、二階の音楽室の音が別々にな」
「でも、何で鳥が? 私の聞き間違い?」
と問うなり、風見はまた、あ、と上を見た。やはり聞こえる。
「ふむ。美術部部長のブレンヒルト・シルトが飼っている筈《はず》だ。この春休み、美術室は彼女しかいない筈だ」
「詳しいな」
という出雲に対し、ジークフリートが頷《うなず》きを一つ。
「彼女には嫌われていてな」
自然体で言われてしまうと風見には返す言葉がない。
風見はテーブルへと足を向ける。彼女の足音が響《ひび》く中、場を取り繕《つくろ》うように、出雲が問うた。
「そういえば」
と無難《ぶ なん》な言葉を彼は使い、
「1st―|G《ギア》の実際戦力ってのはどんなもんなんだ? 残りの残党、確か市街派 だっけか。それはどのくらいの力を持ってる?」
問いかけはジークフリートに向いていた。
ジークフリートはカウンターの向こうでこちらを見ると、
「今日、闘争があったな」
「ああ、あれと比べて、どうよ?」
「今日の戦いなどは子供だましだ。1st―Gの本当の力とは、文字による魔法などではない。――文字に支えられた純然《じゅんぜん》たる暴力だ」
●
ブレンヒルトが降りていくのは水たまりが残る夜の校庭。
校庭には朽《く 》ちた落ち葉が散り、校舎と体育館には硝子《ガラス》がない。
廃校《はいこう》だ。
その体育館前にブレンヒルトは風を広げながら降下。高度五メートルを切ったあたりで着地|操縦《そうじゅう》を開始する。
使うのは箒《ほうき》の柄《え 》とともに青い石を掴《つか》む右手。その右手のグリップをゆっくりと緩めながら、ブラシ部を下に。時間を掛けて箒を垂直に立ち上げていく。
ブラシから吹く風が真下の地面を洗ったとき、まず黒猫が柄から剥《は 》がれるように飛び降りた。続き、ブレンヒルトが地面に足を着き、箒の出力を完全に止める。
「ふう」
と箒に鎖《くさり》で巻き付いていた青い石を外す。そして箒の柄を軽く叩き、お疲れ様、と。
その後、二人はどちらともなくお互いに固まっていた全身を伸ばす。
「ああ……、やっぱり大地の上が一番ね」
「僕は今、世界で一番|身勝手《み がって 》な台詞《せりふ》を聞いた……」
「今、上機嫌《じょうきげん》だから無視してあげるわね」
ブレンヒルトは笑顔で言って体育館の方へと歩いていく。
彼女の行く先、体育館の扉は傾いて外れていた。覗《のぞ》ける内部、床は朽ちて板張りが剥がれ、ところどころに大穴がある。二コート分用意されたバスケットゴールも、一つが傾き、二つが床に落ちていた。
その廃《すた》れた体育館の中へとブレンヒルトは足を運び、正面玄関から中に入った。
そのときだ。首から提《さ 》げたペンダントの中央、青い石がわずかな光をまとった。
声が聞こえる。機竜《きりゅう》の持つ概念核《がいねんかく》で作った、1st―Gの世界観を支える概念|条文《じょうぶん》が。
・――文字には力を与える能《のう》がある。
同時。ペンダントに彫り込まれた文字、その筆跡《ひっせき》が光を得る。
彼女の足下をついてきた猫も一瞬《いっしゅん》だけ青い光をまとった。
そして世界が変わる。
次にブレンヒルトが前を見たとき。そこは要塞《ようさい》だった。
●
体育館の内部は床やステージが撤廃《てっぱい》され、木床の格納庫《かくのうこ 》となっていた。幾《いく》つもの棚が並び、戦闘用の箒《ほうき》や| 長 銃 《ちょうじゅう》、槍《やり》などが掛けられている他、出場用のバックパック類も整理されて積み上げられている。
格納庫の中央にはやはり木で出来た地下への大型|搬出《はんしゅつ》リフトがあり、その脇に、地下への入りロとなるスロープの穴が一つ。
ブレンヒルトは地下に行くスロープへ進みつつ、格納庫内を見回る大型人種の兵士達と挨拶《あいさつ》を交わす。
「久しぶりに来るけど、大丈夫? 見つかったりしてない?」
大丈夫だよ、と大型人種の老人は頷《うなず》き、軽く手を上げ背を向けた。
ブレンヒルトも小さく手を上げスロープへと。スロープ傍《かたわ》らの搬出リフトを見ると、表面には鋼《はがね》を意味する字が彫り込まれていた。
が、その字が大きく削《けず》れている。
巨大な爪による足跡だ。ブレンヒルトは足下の黒猫に、
「ハーゲン翁《おう》は月光が好きでね。すぐ外に出てしまうから」
そう言って吐息。爪痕《つめあと》を見ながらスロープを下っていく。
スロープ内部は、天井に書かれた光を意昧する文字で明るく、また、床は滑り止めの字で覆《おお》われていて、足下を確実に掴《つか》んでくれる。
途中で一度踊り場に出て、更に下へ。
突き当たりは、本来ならば校舎の正面玄関に使われている扉だった。大判|硝子《ガラス》をはめ込まれた大扉は頑丈《がんじょう》 と表面に書かれており、そのため、硝子は透明でも向こうが見えない。
ブレンヒルトは扉を押した。
●
地下は広い空間だった。木の角材と板張りによってシールドされた五十メートル四方の広間。薄い朱色の光を放つ天井は高く、七、八メートルはある。天井の中央にある隔壁《かくへき》の扉は床にある搬出リフトが上がるためのものだ。
そして今、リフトの搬出《はんしゅつ》台の前に、影が幾《いく》つも集まっていた。
人や、それではない者達の集まりだ。
左右に約五十名ずつ分かれた影は、幾らかが立ち上がり、幾らかが向き合い、言葉を交わしていた。勢いのある言葉、叫びとも言える台詞《せりふ》を。
左の方には体格のよい若者が多く、右には線の細い老人が多い。
地下に響《ひび》く声を音として聞くブレンヒルトに、足下の黒猫が言う。
「またやってるよ、急進派と保守派の代表連中が」
「鬱屈《うっくつ》としてるのよ。私も事務方だったら、貴方《あなた》と一緒にあそこで叫んでいると思うわよ」
「ボクは外に出た君に拾われた猫だよ。君が地下にいたら、僕はここにいない」
それもそうね、とブレンヒルトは入り口|脇《わき》を見た。そこには棚があり、何本かの私用|箒《ほうき》が掛けられている。ブレンヒルトは並べられた箒を見ると眉をひそめて、
「最近のガキは伝統を忘れて奇態《き たい》なノーズアートに走るのね。何この六連ホーン」
「僕らの箒も花柄《はながら》のカバーがついてるけど」
「カバーじゃなくてベクターノズルって言いなさい」
と、自分の乗ってきた箒をそこに掛ける。
背後、皆の集まりの方からひときわ大きい声が響いた。黒猫が耳を下げ、
「ファーフナーだ」
「元気ねえ、和平派《わ へいは 》飛び出して転がり込んできたときは死にそうだったのに」
「そりゃ彼みたいな種族には」|Low《ロ ウ》―|G《ギア》の概念《がいねん》環境は最悪だよ」
面倒《めんどう》なことね、とブレンヒルトは振り向く。
皆の集まりの左の方、異形《いぎょう》の影がある。身長二メートル近い黒い甲殻《こうかく》の姿は、鋭角な顔面に三本|角《つの》と金の長髪を持っていた。彼はブレンヒルトが着ているような貫頭《かんとう》型の衣服ではなく、肩部《けんぶ 》固定式で背の開いたジャケットとシャツをまとっている。その理由は、
「背の翼《つばさ》を立てて……、威嚇《い かく》してるつもりなのかしら?」
甲殻に覆《おお》われた腕のようなシルエットの二枚|翼《よく》。黒のそれぞれは天井に向かってV字を描いて伸びていた。
ブレンヒルトの視線の先、彼、ファーフナーが相手側を見回し、叫ぶ。
「――俺達に必要なものとは何か!?」
●
ファーフナーは甲殻に覆われた両の腕を広げて言う。長い下腕《か わん》を振り、
「――俺達に必要なのは1st―Gの失われた世界を取り戻すことだろう! グラムをUCATから取り戻し、概念核を我々のものとする。それを解放することで、このLow―Gのマイナス概念に対抗した後、我々はこの世界を1st―Gと化せばいい!」
対し、相手側から一人の若者が立ち上がった。彼は手を振り上げ、
「違う! 我々に必要なのはこの|Low《ロ ウ》―|G《ギア》での権利だろう? 我々はグラムをUCATから取り戻した後は、それをもって和平派《わ へいは 》と合流すべきだ! その後、1st―Gの行うべき概念《がいねん》解放を管理しつつ、我々に有利となる交渉を行う!」
若者は更に、
「ファーフナー、我々は戦うために集まったわけではない。最終目的はグラムを手に入れ、Low―Gと対等以上の地位関係を得ることだ。それ以上を望んではいないし、戦いを手段として選んでも率先《そっせん》して望んではいない。お前の理論は単なる|逆 侵 略《ぎゃくしんりゃく》だぞ!」
言葉が響《ひび》き、若者のそばに座る影が、それぞれ小さく頷《うなず》いた。
重なる肯定の動きに見つめられたファーフナーは、しかし、首を傾《かし》げ、
「逆侵略? 違うな。失地《しっち 》回復と言え。俺達の祖先が護《まも》ってきた大地が滅ぼされたのだぞ。その代わりとなる地を求めて戦うのは、当然のことではないのか?」
「Low―Gがそれを認める筈《はず》がない! 私達の失地回復を認めたら、他のGが出す同様の要求も飲まねばならなくなる。Low―Gがそれを認めると思うか?」
「だから戦うのだ。解《わか》らないのか?」
ファーフナーは言った。
まるで、自分のそばに座る者達を掬《すく》うように両の腕を軽く曲げ、先にある大きな指を握る。
天井から降る朱色の光が、手指の動きを影として床に大きく映す。
「いいか? この|Low《ロ ウ》―|G《ギア》では、概念《がいねん》戦争など起きなかったことになっている。全ての情報は封鎖《ふうさ 》され、報復《ほうふく》活動や情報公開も全てUCATや各国軍隊、政府によって潰《つぶ》される。……一つ問うが、俺達は、このGのどこにいるのだ?」
足下を彼は指さした。
「今、俺達がいるのはこのGの影の部分だぞ? UCATの居留地《きょりゅうち》にいたときもそうだ。狭い土地に押し込められていた。空は低く閉じ、外と交流もない」
「だからこそ、戦闘に勝利し、このGで自由となる権利を得るのだろう?」
「……自由? 結局、この世を1st―Gと同様の概念に満たさなければ、俺や一部の種族はまともに呼吸も出来ない。このGの概念では俺達の心肺《しんぱい》機能を支えられないからな。お前らのいう自由とは、俺達全体に対する本当の自由を含んでいるのか?」
「それは――」
「解《わか》るまいな。お前はこのLow―Gにおける人間に近い種族だ。このGの概念下でも体は機能し、社会に紛《まぎ》れ込むことすら可能だ。ただ、一日の半分は水に触れてねばならぬということを除けば。――木精《こだま》よ。お前には俺達の苦痛が解るまい。いつも前線で戦う苦痛も」
相手が奥歯を噛《か 》むのをファーフナーは無視。
広間の入り口の方を見た。そこから、自分達の横を回って奥へ行こうとする影がある。
黒装束《くろしょうぞく》の、黒猫を連れた少女だ。ファーフナーは彼女に向かって言葉を飛ばす。
「奥に行くのか? ハーゲン様は眠っておられるぞ」
「貴方《あなた》の声に起きてるわよ、きっと」
「――は、そうであれば良いが! それよりもそちらの首尾《しゅび 》はどうだ? ナイン」
最後の呼び方に、少女が足を止めた。
自然と、という動きではなく、踏む足を地面に刺すような止め方だった。
響《ひび》く足音を聞いたファーフナーは腕を組む。対する少女が一瞥《いちべつ》をくれ、
「……その名で呼んでいいのはハーゲン翁《おう》だけよ。翁の権利を侵害する気?」
「これは失礼したな、ブレンヒルト。俺は、お前が失ったその名を取り戻すために戦っているのだと思っていたが……」
笑みの色を含んだ口調で、ファーフナーは言う。
「ジークフリートとやらの監視《かんし 》に赴《おもむ》き、隙《すき》あらば暗殺する、という話ではなかったのかな? それがもう三年目になろうというのに定期連絡だけだ。まさか言いくるめられたのではなかろうな? 何しろお前は、そのジークフリートと幼い時分に――」
ファーフナーの通る声を止めたのは、少女の足下から放たれた高い叫びだった。
「やめなよ!」
叫んだのは、彼女についてきていた黒猫だ。黒猫は床に爪立《つめた 》て身構えて、
「仕事はしてるよファーフナー! 今日だって、君らの話し合いはそれだろう? 僕達が見てきた王城派《おうじょうは》 の戦闘を元に会議しているんだろう? 君達は会議するだけだ! 僕達はちゃんと働いてる!」
そこまで言ってから、黒猫は身構えを崩さず小さく笑い、
「頑張《がんば 》れと言いたいなら、もっと素直に言ったらどうだい?」
「最近はそれを言うと欝《うつ》になるのが多くてな。遠回りで失礼した」
ファーフナーは変わらぬ笑みの口調で返す。そして少女に視線を移し、
「早く行け、長寿《ちょうじゅ》の女。あとで俺も話を聞きに行く」
そして彼は、正面を見た。
相手側の面々《めんめん》を、それこそ一人ずつ確認するように見渡し、
「解《わか》るか? こちらにいる全員は、お前達のように、この|G《ギア》の概念下《がいねんか 》で生活出来る者ではない。
俺達の自由とは、結局、この世界を1st―Gと同様にするということになる」
言って、ファーフナーは手を打った。
「俺達はこのGが1st―Gと同様にならない限り、このGに存在出来ないのだ! それをせずに得られる権利とは、果たして本物の権利か!? 狭い場所に押し込められて得る優遇《ゆうぐう》に、一体《いったい》何の意味がある?」
対する若者は、奥歯を噛《か 》んだ。
下がりそうになる彼の身体《からだ》を、支える者がいた。傍《かたわ》らに座っていた老人だ。
白髪《はくはつ》の彼は、若者の肩に手を当てて座らせると、ファーフナーに向き合う。
問うた。
「ファーフナー。いい演説だ。だがお前は一つ忘れておる」
「何をだ?」
老人はファーフナーを指さし、一つ頷《うなず》いた。
「お前は1st―Gが滅びたとき、生まれていなかった。滅びたのはお前の世界ではない。我我の世界だ。お前は――」
「だが俺は1st―Gの半竜《はんりゅう》だ」
ファーフナーは老人の言葉を止めた。
「聞け。俺は自分が1st―Gの者だと信じている。そしてそれこそが全ての始まりだ」
ファーフナーはわずかに身を沈め、老人の目を覗《のぞ》き込むように言った。
「――俺は何も知らぬ。俺は数多くの祖先を知らぬ。俺は王のいた国を知らぬ。俺は限りある大地を知らぬ。俺は月の無い夜を知らぬ。俺は飛ぶことの出来る空を知らぬ。俺は敗北による滅びの日を知らぬ。そして俺は護《まも》るべきものを知らぬ。だから俺は誇りとは何かを知らぬ!」
一息。
「だが年寄りどもよ、お前達はそれを知っている。誇りを知っている。だから狭いところに押し込められようとも、それに頼ることが出来る」
しかし、
「俺達には何もないのだ。しかし、俺は1st―|G《ギア》の者だ。そうでありたい。……ならば俺達は、どうすればいい? どうすればそれだけの誇りを得ることが出来る!」
ファーフナーの視線の先、老人は眉根《まゆね 》を詰め、しかし沈黙した。
その沈黙を一つの答えと受け止め、ファーフナーは身体《からだ》を起こす。
もはやここにいる皆ではなく、広間全体に向けて彼は声を響《ひび》かせた。
「俺が望むのは、1st―Gは俺達と共に未だあるという事実だ! この世を1st―Gにせずにすむ方法があるならば、それを言ってみるといい!」
●
衣笠《きぬがさ》書庫の中では、一つの声が響いていた。ジークフリートの声だ。
「――1st―Gは他のGに出ることが難しいGだった。内部の種族差があまりに強く、1st―Gの概念下《がいねんか 》でなければ多くの者が生きていけなかった」
カップを片手にテーブルの脇に立つ彼を、風見《かざみ 》が椅子《い す 》に座って見上げ、
「1st―Gでは、どうして彼らは生きていられたの?」
「文字の力だ。――未だ深く調査はしていないが、遺伝子《い でんし 》配列が字の役割もしているのだと考えられている。世界も同様でな、大気や空には精霊《せいれい》がおり、彼らが字の意味を果たす」
「概念と住人の噛《か 》み合いってやつだな」
と言ったのは風見の隣《となり》に座る出雲《いずも》だ。
「そのGに好かれてるヤツぁ、他のGに行こうとしても離してもらえねえんだろ」
「そうだな。――元々、1st―Gは強いGではなかった。が、種族を強化し、他Gとの戦闘を繰り返し、ようやく地上戦を主とする機竜《きりゅう》も建造出来るようになった。研究の末、旗竜《きりゅう》としてファブニール二機が製造された。しかし、1st―Gの機竜には欠点があった」
「欠点?」
「1st―Gの機竜は、搭乗《とうじょう》者が同化したとき、強い拒絶反応を起こし、大半《たいはん》の搭乗者を殺す。そしてそれを抜けたとしても、もはや二度と元の姿には戻れない。一生、機竜のままだ」
「その生き残りが、今でもいるわけだ。……機竜ファブニール改という大物が」
「ああ、ファブニールの内、王城用に整備されていた一機は私が殺した。だが、兵器研究所で改造を受けていた一機は1st―Gの崩壊《ほうかい》を逃れている」
「何故《なぜ》……、そんなものを? よほど1st―Gの代表は戦争好きだったのね」
ジークフリートは首を横に振る。
「戦争嫌いだったのだ。1st―Gの王は、概念戦争で王妃《おうひ 》を失った。だから滅びのときまで1st―Gを誰にも侵食させぬと、防衛のために機竜達を作り上げたのだ。そして| 抽 出 《ちゅうしゅつ》した概念核《がいねんかく》を二つに分け、世界構造を支配する概念で世界を閉じ、守りに入ろうとした」
「それって……、概念戦争を放棄するっていうこと?」
「ああ、そうだ。それゆえ――」
と、ジークフリートは言葉をつぐんだ。カップを口元で傾けてから、別の言葉を告げる。
「あとは、佐山《さ やま》次第《し だい》で解《わか》っていくことだろう」
●
1st―|G《ギア》の基地の地下、広間の奥に大きな隔壁《かくへき》がある。
ブレンヒルトは隔壁|脇《わき》の通用口から奥へと足を運んだ。
背後、ファーフナーの声が聞こえていたが、扉を閉じると聞こえなくなった。
代わりに周囲が暗くなった。足下の黒猫が闇に溶けつつ、
「冷えてるね」
と言うのに頷《うなず》き、上を見る。天井は高く、中心に一つだけ明かりが灯《とも》っている。朱色の光を放つのは灯火《とうか 》の文字が彫られた小さな吊《つ 》り鐘《がね》だ。
その光に目を馴《な 》らしてから、ブレンヒルトは下を見る。
ここは隣《となり》と同じような大きな広間。
「だけど、皆の場所ではない、個室……」
視線を下ろしたブレンヒルトの眼前。巨大な山のようなシルエットがある。
しかし、それは山ではない。表面は幾つもの面を持った構造体の集まりで、全体は白く塗られた七つの山によって出来ていた。頭部、胴体《どうたい》、四つの肢《し 》、そして尾《お 》の七つ。
鋼《はがね》の竜がそこにいる。
全長三十メートルを超す機竜《きりゅう》は、現在伏せた姿勢。全身は白と深緑《ふかみどり》色をベースに、可動部は黒の色彩で覆《おお》われている。そして武装はほとんど解除《かいじょ》状態だ。
各部のハードポイントには黒い擬装《ダミー》が接続されており、背や四肢《し し 》にある常備ブレードと折り畳んだ翼《つばさ》のような放熱器以外、表面に攻撃的なものは見当たらない。基本武装の多くは内蔵型だが、各種|装甲板《そうこうばん》にある開閉スリットにはどれも整備終了を示す黄色い符《ふ 》が貼《は 》られている。
「…………」
言葉無く竜を見つめるブレンヒルトに、ふと、上から声が掛けられた。
「どうしたね? ブレンヒルト」
はっ、と面《おも》を上げたブレンヒルトは、竜の背に人影を一つ認めた。
長身の老人だ。波打つ長い灰色の髪に同じような髭《ひげ》をたくわえた身は、やはり深緑色の外套《がいとう》をまとっていた。
薄い闇の中、わずかに光るその姿は、その向こうを透かす。
彼を見上げるブレンヒルトは一礼。
「ブレンヒルト、ここに戻りました。――ハーゲン翁《おう》。眠っておられましたか?」
「いや、起きてたよ。……よく戻ってきたねぇ」
老人は目を細めて口を動かすが、声はその口からは響《ひび》かない。聞こえるのはブレンヒルトの眼前に伏せる竜の背のあたり、通気ロに見える黒いスリットからだ。
また、ブレンヒルトが身動きを取ると、機竜《きりゅう》の各部から小さな音がする。光を小さく反射する音の正体は、保護素材で覆《おお》われた袖助|視覚素子《し かくそ し 》。竜の視線が彼女を追っている音だ。
しかしブレンヒルトは何も気にせず老人を見て、老人もその姿のままで問う。
「どうだった?」
「私の使《つか》い魔《ま 》が詳細を。――王城派《おうじょうは》 は?」
「降伏するそうだよ。三日後に。これで自分達の活動を終えると、使いが伝えてきた」
成程《なるほど》、とブレンヒルトは頷《うなず》き、足下の黒猫が吐息した。
「それでファーフナー達がアッパー入ってるんだねえ。シメちやってよ、ハーゲン翁」
「こらっ、何を言ってるのよっ」
猫を掴《つか》んで締め上げるブレンヒルトに、老人、ハーゲンは苦笑。
「そりゃあ出来ない相談だよ、小さなお仲間よ」
「そうなの? やっぱり仲間だから?」
「いや、私がやったら、……手加減《て かげん》しても死んでしまうだろう? そりゃイカン」
黒猫はブレンヒルトを見上げ、
「……今の、笑うところかな? 流すところかな?」
「そういう疑問を言わないところよ」
ハーゲンは苦笑。困ったように眉をひそめ、
「ブレンヒルト。とりあえず、報告はその猫からあとで聞こうかね。他、何か情報は?」
「ええ。UCATは|全 竜 交 渉《レヴァイアサンロード》の専門部隊を編成中のままで実戦投入しています。また、和平派《わ へいは 》としてUCATに与《くみ》するファーゾルトに、明日、|全 竜 交 渉《レヴァイアサンロード》の担い手が謁見《えっけん》するそうです」
「随分《ずいぶん》と急ぎだね。ファーゾルトも意志を完全に|Low《ロ ウ》―|G《ギア》へ傾けつつあるか……」
「ファーフナーが躍起《やっき 》になるのも解《わか》ります。彼は、ファーゾルトの息子《むすこ》ですから」
「父親を負け犬と呼ぶ戦士、か……。今、論戦《ろんせん》しておるだろ? どうだ? 若いか?」
「……若いというよりも青いと思います。稚拙《ち せつ》な論を重ねて正義にしているようで」
ブレンヒルトの言葉に、ハーゲンは苦笑を深くする。
「稚拙なのはしょうがない。何かをするのに理由が必要な大人達を、子供が説得しようとしておるんだ。だけど、……適当な理由で動くことに慣れた大人じゃあ、子供が本気で稚拙な正義を謳《うた》ったとき、遂《つい》には負けるんだよ、論じゃなくて、もっと厄介《やっかい》なものに」
「厄介な、……ものですか」―
「そう、厄介だ。かつて持っていたもの、二度と手に入らないもの、そして昔に自分達が大人を押しのけるのに使ったもの、だ」
彼は頬杖《ほおづえ》をつき、上を見る。
「――ファーゾルトの息子《むすこ》はまっすぐに育ったものだねえ」
「ファーゾルトは相当に苦労されているようですけどね。あのUCAT居留地《きょりゅうち》で」
そうだな、とハーゲンは上を見たまま告げる。
「ファーゾルトは実際、あのUCAT居留区でよくやっているよな。概念《がいねん》の管理をUCATに依存することを認め、狭い居留区の安全確保を願う。そのくらいしか出来んのかと皆は言うが、UCATに管理された居留区という中では、和平派《わ へいは 》自体が命を握られておるようなもんだ」
「概念空間を外されたら大半《たいはん》は半月と保《も 》たぬでしょう」
「ファーゾルト達が生活出来ているのは、彼らが脱出の際に持っていった持ち物と知識という交渉材料と、それこそ……、UCATの温情《おんじょう》というものだろうねぇ」
「皆には言ってはいけませんよ、その言葉」
ブレンヒルトは目を細めてハーゲンを見上げる。
頬杖をつく老人の口元には、わずかな笑みがあった。彼の笑みはゆっくり開き、
「解《わか》っているよ。何にせよ、私や皆を率《ひき》いてここに辿り着き、持ってきた概念核を使用してこの概念空間を作り上げた。……元指導者のはしくれとして、現保護者として、皆のリーダーである必要がある。面倒《めんどう》なことだがね」
こちらを見て、
「交換しないかね? 私のこのファブニール改と、お前さんの|鎮魂の曲刃《レークイヴェム・ゼンゼ》 を。私や冥界《めいかい》の住人と昔《むかし》話をしてる方がやっぱ気楽だぁね」
「無理ですよ。機竜《きりゅう》は同化したらそのままでしょう? それに、この|Low《ロ ウ》―|G《ギア》では冥界を作る概念が弱すぎます。曲刃《ゼンゼ》で開いたところで、住人はわずかな間しか出て来れませんから」
「そうだな。……もし彼らとしっかり言葉を交わせたら、皆の遺恨《い こん》も減るだろうによ」
ハーゲンは顔を上げた。広間とこちらを隔てる隔壁《かくへき》を見て、
「我々も、世界の崩壊《ほうかい》を恐れねば、もっと多くを救えたのかもしれないが」
目を伏せる。ファブニールの各所から小さな音がして視覚素子《し かくそ し 》に遮光《しゃこう》フィルターが入る。
「――あの鳥も、惜しいことをした」
「あれは、彼が悪いのです。見捨てた彼が」
「見捨てたのは彼かもしれん。だが、救えなかったのは私らだよ」
言って、ハーゲンは目を開けた。そして不意に、一つの名前を闇に告げる。
「ファーフナー」
視覚素子が動き、ハーゲンが顔をブレンヒルトの背後に向ける。
ブレンヒルトが振り返ると、闇の中、黒い甲殻《こうかく》の姿があった。ブレンヒルトと黒猫は慌《あわ》てて一歩を跳び、身構える。
「……いつから!?」
「今さっきだ。そう構えるな、俺の属性《ぞくせい》は闇。闇渡《やみわた》りの半竜《はんりゅう》だぞ。闇であるならば心の届く範囲においてどこへでも移動可能だ」
闇の中、気配から実体という形でファーフナーが現れた。
彼はこちらに振り向くことなく、ハーゲンに一礼。そして問うた。
「どうなされます?」
ファーフナーの問いに、ハーゲンは身を乗り出し、隔壁《かくへき》の方を顎《あご》で示した。
「ふむ、向こうで話し合っておったんじゃないのか?」
「俺達の意見が通った上で、ハーゲン様に判断を、ということで話がまとまりました」
また堅苦しい物言いを、とハーゲンは頭を掻《か 》く。うーむ、と唸《うな》って、
「明日の、ファーゾルトの動きを見てから結論を出そう、ってのはどうかね? ――ブレンヒルト、明日、確かにファーゾルトはUCATと事前交渉を?」
「ええ、和平派《わ へいは 》側にある情報なので確かかと」
ブレンヒルトは頷《うなず》き、ファーフナーを見た。
ファーフナーはこちらを一度見てから、肩を落とし、吐息。
「ハーゲン様、あのですね、俺がこんなこと言うのも何ですが」
「おお、いつもの調子だな、言ってみい」
ファーフナーは、長い両の下腕《か わん》を器用に交差。頬杖《ほおづえ》をつき、
「ハーゲン様はどうして結論を先延ばしにされる? 元々、俺達は貴方《あなた》の元に集まり、そして引っ張られ、ここまで来たんだ」
「いや、そう自主性ないこと言われても私ゃ困る」
「責任者としての務めでしょう」
「まあ、確かにそうだが……。御免《ご めん》なあ」
ハーゲンの言葉に、黒猫がブレンヒルトの足を叩く。そして、
「……この二人、どっちが偉いの?」
「私」
ブレンヒルトが答えると、ファーフナーとハーゲンが振り返った。ブレンヒルトは頷き、
「建設的な話をどうぞ」
ファーフナーは吐息。頬杖から顎を落とし、片手を頭に当てた。
頭部の殻《から》を爪で軽く叩き、ハーゲン様、と言った後で、
「弟、レギン翁《おう》と、姪《めい》であるグートルーネ様をジークフリートとやらに殺され、王を護《まも》ることが出来なかった。その恨みはハーゲン様のどこにあるのですか?」
「いやホントどこだろうねぇ。あるのは確かだろうが、場所は解《わか》らないぞ、ファーフナー。お前としては、私の武装出力炉の中にあって欲しいのだろうが。それに――」
ハーゲンは小さく頷《うなず》き、
「失われたのは私の係累《けいるい》だけではないぞ。私は私意《し い 》では動かないことに決めておる。動くのは、全てが認めるとき、正に機が到来したときだ。今、機は揃《そろ》いつつある、焦るなよ、ファーフナー。焦れば、何かが失われる」
ハーゲンは言葉を止めず、そのまま問いを放った。
「そして、お前さんは何のために戦っている? ファーフナー」
問われ、ファーフナーは顔を上げた。ハーゲンと視線を合わせると、ゆっくりと口を開き、
「我々が、持っている筈《はず》だったものを。――取り戻すために」
彼の言葉に、ハーゲンは、ふむ、と告げた。
ハーゲンは、ファーフナーから目を逸《そ 》らすことなく、こう答えた。
「ならば、その言葉を憶《おぼ》えておこうかね。……絶対に」
●
佐山《さ やま》と新庄《しんじょう》は夜の学校敷地を歩いていた。
二年次普通校舎の扉は表も裏も鍵《かぎ》が掛けられており、中には入れない。
佐山は肩に獏《ばく》を乗せたまま、ノブを二、三度|試《ため》して、
「やはり無理か……。孝司《こうじ 》のような技能があればいいのだが」。
「孝司って、昨日迎えに来た人?」
という新庄の言葉に佐山は頷きそうになって、やめる。横を見れば、自分の隣《となり》にいるのは、
「つい話してしまったが……。何故《なぜ》、新庄君が孝司を知っている?」
問うと、新庄はややあってから慌《あわ》てて手を左右に振る。
「あ、いや、姉さんから聞いててさ。凄《すご》い迎えが来たって」
と、新庄が手を止めた。こちらの顔を覗《のぞ》き込んできて、
「……何? その目は。まさかボクを姉さんじゃないかと疑ってない?」
「いや、その疑念に関しては先ほどのボディチェックですませてあるのでね。君は異常に似ているが、男だ」
「姉さんが来た方が良かった?」
「来ない人のことを言っても仕方があるまい。――ともあれ中を案内出来ねば意味がないな。先ほど屋上で妙な音がしたから、誰かがいると思ったのだが」
今日はもう寮《りょう》に戻ろう、と言うと新庄が肩を落とし、
「ボク、もうちよっと散歩していたいけど」
「だが君の荷物はまだ五箱も開封していないね」
佐山の言葉に、新庄が唸《うな》って腕を組んだ。そこに佐山は言う。
「明日の昼、私は用向きがあって出てしまうけど、帰ってきたら日用品でも買いに行こう。近くの店を案内するが、……明日に荷物整理を持ち越したら、何が足りないか解《わか》るまい?」
「それはまあ確かにそうだね。でも、驚いた。……佐山《さ やま》君、正論《せいろん》言えるんだね」
「……君とは一度よく話し合う必要を感じるが」
「ふふ、でも、不慣れだからいろいろ教えてもらわないと、道も、お店も、人も。――お風呂《ふろ》は今、使えないんだっけ? 春休みだから」
「ああ。学生|寮《りょう》の方ではこの時期シャワーしか使えない。急ぎでないならば、学校の正門を出たところに二十四時間営業の銭湯《せんとう》があるので利用したまえ」
うん、と新庄《しんじょう》が頷《うなず》いた。そしてわずかに目を伏せ、微笑して、横に並ぶ。
二人、肩を並べて歩き出す。
月光が歩く影を地面に落とす。ふと、横に並ぶ新庄が校舎|横《よこ》の校庭の方を指さし、
「佐山君。あの、校庭の向こうの塔《とう》みたいなのは?」
「ああ、去年、探検部が学園祭で作ったクライミングバンジー台だ。上から命綱《いのちづな》が何本も降りているから、それを足に結んで二十メートルを自力|登坂《と はん》し、上から飛び降りる」
「派手だねえ……」
「うむ。当然上から落ちる者と下から昇る者が激突して事件になったがね。ははは」
「ははは、じゃないよっ!」
「気にすることはない。人間、意外と頑丈《がんじょう》なものでね」
そうかなあ、と新庄が吐息。今度は食堂棟の横にある壁のようなオブジェを指さし、
「あれは?」
「ああ、あれはずっと昔の生徒の卒業記念制作でね。自分達の手形をつけた粘土板《ねんど ばん》を焼き上げてボードにしてあるのだよ。この学校の名所の一つでね」
「へえ、名所なんだ」
「うむ。記念のつもりが千人分くらい集めたから単なる恐怖アートになってしまってね。撤去《てっきょ》しようとしたらショベルカーがひっくり返って車体に手の痕《あと》がついていたとか。ははは」
「だから楽しそうに解説しなくていいって」
「他にもあるが? 向こうに見える巨大な| 掌 《てのひら》は――、あ、こら、引っ張るのはやめたまえっ」
佐山は新庄にスーツの裾《すそ》を引かれて寮の方へ。
ふと、視線が二年次普通校舎の方へ向く。
校舎の側面に非常階段の踊り場が見えた。今朝《けさ》も見た場所だ。
何故《なぜ》か、そこを見るたびに自分の現状が変わっているような気がして、佐山は苦笑する。
すると新庄が、こちらの視線に気づいたのか、
「どうかしたの?」
「ああ、君が来たこともだが、……、最近、自分の日常が変わりつつあるな、と思ってね」
佐山は自問する。どこまで変わっていくのだろうかと。
そして、不安に似た暗い思いもやってくる。
……変わっていくことが、私に出来るのだろうか。
心の中でつぶやいたときだ。横に並ぶ新庄《しんじょう》が、首を傾《かし》げてこちらを見上げつつ、こう言った。
「――どこまで変わるんだろう、とか、思ってる?」
●
問いに、佐山《さ やま》は新庄の顔を改めて見直した。
「――――」
月光の下、佐山の視界の中、新庄の顔が手の届く距離にある。
青白い月光を浴びた黒髪《くろかみ》が揺れる。その下、黒い瞳はこちらをまっすぐ見上げている。
佐山は目の前で揺れる髪の動きと、瞳の色を知っている。
新庄・運《さだめ》の髪と瞳だと、佐山はそう思う。だが、
……錯覚《さっかく》だ。
と佐山は思う。切《せつ》という個性を前に失礼なことだとも。だが、別の思いが心に絡まりついてくる。そこまで意識しているのは、彼女を認めているということだろう、と。
……私と正逆《せいぎゃく》の存在。
自分と、新庄と。日常と、非日常と。本来、相容《あいい 》れないものが重なりつつある。
そのことを思ったとき。我知らずと口が動き、つぶやいていた。
つぶやきはまず、新庄の問いへの返答だった。
「確かに……、思うとも」
言うと、新庄の目がわずかに細くなった。笑みかどうか佐山には解《わか》らない。
だが、佐山は新庄に向かって頷《うなず》いてみせた。微笑を口元に浮かべ、
「ただ、……どこまで変わるのだろう、とは思わない。自分から変わっていくことを選べるのだろうかと、そんなことを思っているよ」
「真剣なんだね、佐山君って」
「そんなことはない」
と、つい自分に対して言って、笑みが自嘲《じちょう》となった。そのときだ。
佐山の言葉に応えるように、一つの動きが来た。
風だ。
それは西の方角から、音でもなく、響《ひび》きでもなく、威圧《い あつ》としていきなり来た。
「……っ!」
叩きつけて来る風の名を豪風《ごうふう》という。
音が一瞬《いっしゅん》奪われるほどの風。
煽《あお》られた新庄が髪を押さえ、身をすくめるのが見えた。そのときだ。
ふと佐山《さ やま》は、動いていた。風に眉根《まゆね 》を詰めた新庄《しんじょう》を、その腕で引き寄せ、抱き留めた。
あ、という声とともに、新庄の細い肩が腕の中に収まってくる。
同時。佐山の肩に風が質量《しつりょう》としてぶつかってきた。
獏《ばく》が振り落とされそうになり、慌《あわ》てて肩にしがみつく。
豪風《ごうふう》。その中で佐山は見る。二年次普通校舎の屋上から、一陣の煙が舞い上がったのを。
「!?」
目を細めて風の中を見上げれば、霧のように広がった白い煙は、すぐに空へとかき消える。
……あれは……?
佐山の疑念に、新庄が更なる問いを重ねてくる。
「……砂? 違うよね? 屋上にそんなものがあるわけないし」
だが、そうとしか見ることの出来ない煙だった。
風が緩む。そして、消えていく。
風の順化《じゅんか》に応じるように、腕の中で、新庄の身が小さく緊張《きんちょう》するのが解《わか》った。
細い指がこちらの胸を突つき、黒い瞳が見上げてくる。
「あ、あの、もう大丈夫だから」
焦ったような声とともに、新庄がこちらの腕の中でわずかに抗《あらが》う。佐山が腕から力を抜くと、新庄は自分でその戒《いまし》めを解き、一歩の距離を取った。
砂利《じゃり》を踏む足音とともに、自分と新庄の間に西風の残滓《ざんし 》が割って入る。
佐山の腕に細い肩の感触《かんしょく》を残し、新庄は言う。
「びっくりした。いきなり抱きしめられるから」
「風が痛そうだったのでね」
「で、でもボク……、男だよ?」
佐山はその言葉に首を傾《かし》げた。何を言っているのだろうかと。
「君が男であることと、君が痛みを感じていたことに、何も関係はあるまい」
「そ、それは確かにそうだけど……」
「同室なのだ。そのくらいはしてもいいだろう。君が望んだとき、私も望んだならば、私は君の望みを叶《かな》える。そういうことだ。それが、私の信じる佐山家の礼節《れいせつ》でね」
右手を振ってシャツの袖《そで》を張らせ、新庄に右の手をさし伸べる。
「君が痛みを感じていたとき、君を護《まも》りたくなったら君を護ろう。君が独りを嫌だと感じたとき、君と話をしたかったら君と話をしよう。君が悩みを抱くと決めたとき、君を大事に思ったら君を一人にしよう。君がここにいたくないと思ったとき、君を想うならば君を嫌おう」
そして、
「君が誰かと親しくありたいと思ったとき、君を見たならば、私は君の隣《となり》に立とう」
どうかね? と佐山は問うた。
「私は君に何も要求しない。私は私に要求する。基礎に礼節《れいせつ》を敷き応用には信頼を広げよと。佐山《さ やま》の姓《かばね》は悪役を任ずる。ゆえに刃向《は む 》かわぬならばただ与えよ、――されば奪われぬ」
さし伸べた手に、新庄《しんじょう》の視線が落ちた。新庄は、手を取ろうとして、右手を軽く掲げ、
「――――」
やめた。
佐山は見る、動きをやめた新庄の手の向こう、眉尻《まゆじり》を下げた顔がある。
不安げ、とも見える表情で新庄は小首《こ くび》を傾《かし》げ、問うてきた。
「……堅苦しくない? 佐山君」
「私の礼節と信頼を預けるのだ。君は己《おのれ》のことをいい加減《か げん》に出来る人間かね?」
問うと、新庄は数秒、こちらを見つめてきた。
新庄は何かを言おうとして、口を開き、しかしやめた。そして、
「ううん」
と、首を横に振り、肩から力を抜いた。眉尻を下げて浮かべた笑みは、苦笑となる。
そして新庄の手が伸び、こちらの手を取った。
柔らかい右手。佐山はその指を大切に握ると、頷《うなず》き、安堵《あんど 》の息とともにこう言った。
「――では、改めて宜《よろ》しく。新庄君」
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第十五章
『多重の風声』
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流れていく風より速く
意志は走り事実は過ぎていく
一番大事なものはすれ違う声か
[#ここで字下げ終わり]
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●
森に囲まれた廃校《はいこう》の校庭で、ブレンヒルトは箒《ほうき》を両手に立っていた。
月光に作られた影を踏み、身体《からだ》が向くのは背後の体育館だ。その足下に猫はいない。
「ハーゲン翁《おう》とファーフナーに、ちゃんと今日のこと話せてるかしら?」
と、つぶやく問いに答えるように、風が吹いた。
東からの風だ。緩やかだが、大きさを感じさせる空気の動き。
ブレンヒルトは髪を押さえ、分厚い東風を堪《た 》える。
「大した風では……」
ない、という声が途切れた。周囲の森がざわめいたのだ。
聞こえるざわめきは、葉が打ち鳴らされる音ではない。風にゆっくりと押された木々がしなり、森そのものが揺れる音。突風とは違う重みのある風だ。
森の中から鳥の高い声が聞こえる。
ブレンヒルトの見回す視界の中、月光を浴びて、森から鳥の群が弾《はじ》け飛ぶ。
「……鳥を追い出すなんて、1st―|G《ギア》の狭い大地と風の精霊《せいれい》では作れない風ね」
森がしなったまま、東風の圧迫をざわめきで謳《うた》う。波音に似た音。その中を風に目覚めた鳥の叫びや獣《けもの》の叫びが走り、高音の彩《いろど》りを添える。
森《もり》全体が東から西へ歩き出したような感覚がある。森に囲まれた校庭に立つブレンヒルトは、全てのざわめきが自分の周囲を回る錯覚《さっかく》を受けた。
だが、そのざわめきは、彼女にそれ以上|迫《せま》らない。
音はゆっくりと、波が引くように収まっていく。風も、森の軋《きし》みも、鳥や獣の鳴き声も。
ゆっくりと消えた。
「…………」
ブレンヒルトは最後に鳥の一鳴《ひとな 》きを聞いてから吐息。
ふと、自分が箒の柄《え 》を強く掴《つか》んでいることに気づく。
怯《おび》えだろうかと、自嘲《じちょう》した。そのときだ。背後で大気の動く気配があった。
黒猫かと振り向いたブレンヒルトは、期待よりも大きなものを視界に収めた。
それは体育館から生《は 》えた巨大な白い影。ファブニール改だ。
体育館を包む概念《がいねん》空間から、ファブニール改は外に出つつあった。概念空間の内部は、外からでは見ることが出来ない。だから今、ファブニール改は体育館のわずかに外の空中から、顔を出した形でこちらの世界にアクセスしている。
巨大な細長い顔はもう外に出ている。
概念空間の中で一歩を踏んだのか。顔が首の根元から上下し、押されるように右の前|脚《あし》が出た。それは鉄の爪を校庭に食い込ませ、金属の重なる音を立てる。続き左の前脚が、胴《どう》が、右の後ろ足と左の後ろ足が、そして尾が。
竜の動きは重く確実で、金属の重音が地を震わす。
ブレンヒルトの視界の中、全てが月光の下に現れた。
全長三十メートル超。肩高七メートルを超える白と緑の大竜《たいりゅう》。顔面部の主視覚素子《しゅし かくそ し 》が赤い光をまとっている以外、外に自分を自己主張するものはない。
全身は月光を受けてただただ青白く光っている。
ファブニール改は、ブレンヒルトに顔を向けた。
歩み寄る動きはたった三歩。そして正確にブレンヒルトの眼前三メートルの位置で動きを止めた。軽く身体《からだ》を伏せると、その分の大気が動き、校庭を洗った。
校庭から剥《は 》がれ飛ぶ朽《く 》ちた落ち葉を見つつ、ブレンヒルトは竜に問うた。
「外に出るのは久しぶりですか? ハーゲン翁《おう》」
問いに、ファブニール改が答えた。ハーゲンの声と口調で。
「最近は会議が多くてねえ……。私がいなくなると概念《がいねん》空間は数時間で消失しちまうってこともあって、どんどん厳しくなっていってるんだよ。今もお前を送りに行くからと出てきてな」
最後の言葉に笑みの口調が混じっていることにブレンヒルトは安堵《あんど 》。
と、ファブニール改の頭の上から、
「ブレンヒルト」
と黒猫の声がした。彼女が見上げる頃には、もう黒い影はファブニール改の鼻先まで駆け下りてきている。黒猫は、ファブニール改の鼻先で停まろうとして、
「あ、と、――わ!」
足を滑らせて頭から滑り落ちる。校庭に対して斜めに突き刺さりそうな勢いの黒猫を、ブレンヒルトは受け止めようとして前に一歩。
「危ない」
と言って前に踏んだ膝《ひざ》、そこに黒猫がカウンターで入った。
控えめな打音。それに対し、悲鳴ではなく、ふ、と呼気《こ き 》を漏らした黒猫は、
「ナ、ナイスファイト……」
とブレンヒルトの臑《すね》をずり落ちていく。
ブレンヒルトは左腕に猫の小さな身体を拾い、右腕には箒《ほうき》を抱えてファブニール改を見る。兵器のファブニール改の外装に、表情を作る機能はない。だが、ブレンヒルトは吐息。
「おかしいでしょうけど、本意ではないですからね、こういうの」
「いや、良いことだと思うがね、私にゃ昔より遙かに良く見えるよ、明るくて何よりだ」
「真面目《ま じ め》になれる時間が少ないだけです。ハーゲン翁は逆に真面目ばかりで大変では?」
「そうだねえ……」
と、ファブニール改は肯定でも否定でもない答えを返した。
そしてわずかに身体《からだ》を伏せ、彼はこう言った。
「ブレンヒルト、君はこれから行くのかな、それとも帰るのかな」
「え……?」
ブレンヒルトは息を飲む。
「ハ、ハーゲン翁《おう》は……、私が1st―|G《ギア》を忘れたとお考えですか?」
「いや、そんなことはないよ。ただ、君は今の本拠《ほんきょ》の状態をよく思っていないようだからね」
「……私は、ああいう論争が嫌いです。長寿《ちょうじゅ》の一族の性《さが》が残っているのだと思いますが」
「だろうねぇ。でも、いいかい? 今、皆を疎《うと》ましく思うことはあっても、恨んではいけないよ、ブレンヒルト。遠ざけるのと嫌うのは違うことなのだから」
「わ、私は別に……」
「本当は、誰かが君のように長寿で、ずっと共にいられればいいのだがねぇ。君から見たら、誰も彼も私ですらも、急《せ》いて、勝手な方向を歩んでいるように見えるだろう」
腕の中、黒猫が顔を上げる。黒猫はファブニール改を見て、問うた。
「年寄り臭いよ、ハーゲン翁」
「こらっ!」
と叱《しか》るブレンヒルトと叱られる黒猫に、ファブニール改は笑みの声を寄越《よ こ 》す。
「はは、確かにそうだ。――自分の身体もそうそう長くはない。誰もが気づいているだろう? 機械としての寿命《じゅみょう》ではなく、私自身の寿命が尽きつつあると」
「ハーゲン翁……」
名を呼ばれ、ファブニール改は主視覚素子《しゅし かくそ し 》を正しくブレンヒルトに向けた。
「この身体だったから、あれから六十年を保っている。UCATでは魔術と呼ぶ術式《じゅつしき》や人体改造で延齢《えんれい》を行っているらしいが、彼らも君のような孤独を得ているのだろうかね……」
ファブニール改は小さく苦笑した。身をかすかに震わせ、
「――ファーフナー達が急ぐのも、あれでいて、私のことを少しは考えているからなのだろう。私が生きている内に、事件を解決しておきたいと」
「翁を利用したいだけなのでしょう。……ファーフナーは」
「いや、彼は私を動かしたいのだろうよ。懐《なつ》かしいねえ。憶《おぼ》えておるかね? ファーフナーがこの場所に連れてこられたときを」
「居留地《きょりゅうち》の次期|長《おさ》として養育されていたのが、自分達の歴史を知った後、私達の手引きによって飛び出してきたのでしたね。概念《がいねん》の薄い」|Low《ロ ウ》―|G《ギア》の中を抜け、半死半生《はんしはんしょう》でここまで辿り着いた未熟者が、……今では二世《に せい》連中のリーダーです」
ブレンヒルトは自分の言葉に頷《うなず》き、でも、と言葉を続ける。
「確かに、皆の焦りも解《わか》ります。UCATの動きが、あの元|護国課《ご こくか 》の佐山《さ やま》・薫《かおる》、ジークフリート達の仲間であった老人が亡くなって以来、活発になりました。何なのでしょうか?」
「世界がマイナスに落ちようとしているからだ。無論《む ろん》……、それは建前だろうが」
「何があるのでしょうか?」
「解《わか》らないよ。我々、いや、UCAT側にいるファーゾルト達もよく解っていない筈《はず》だ。UCATは何かを秘めている。我々の|G《ギア》を滅ぼした後、この六十年間の間、UCATは間違いなく何か動いていた、と思う。ただ、戦いの本流から離れ、自分達の建て直しをしていた我々には解るところではないが」
「亡くなった佐山《さ やま》と、あのジークフリートなら、それが解るのでしょうか?」
「そうだろうな。あとは――」
とつぶやき、ハーゲンは言葉を濁《にご》す。
首を傾《かし》げるブレンヒルトに、ファブニール改は言う。
「そろそろ戻らなくて良いのか? 来たとき、何か急いでいたようだったが」
ファブニール改の言葉に、ブレンヒルトよりも先に黒猫が反応した。柔らかい前|脚《あし》がこちらの胸を叩き、
「ほら、小鳥。胸が薄いからって忘れて――、ああっ! し、締め落としが今《いま》新しいっ!!」
絞《しぼ》り上げてからブレンヒルトはファブニール改に一礼。肩に黒猫を乗せる。
そして慌《あわ》てて箒《ほうき》を構えた彼女に、ファブニール改が問う。
「小鳥……?」
「ええ、性懲《しょうこ》りもなく。落ちていた小鳥を」
「ほほう、そうか。それでいい。ブレンヒルト……、いや、ナインと呼ぼうか」
「その呼び方は……、とうに捨てました」
「だが、私にとってはそれだ。姪《めい》のグートルーネに拾われ、我が弟、レギンの研究所に住み着いた小さな| 女 主 《おんなあるじ》よ。君にはつらい選択をさせているのかもしれないね。グートルーネも、レギンも、あのジークフリートとは――」
「おやめ下さい。お互いに知る入の名を告げられるのは、独り語りよりも惨《ひど》いものですよ」
ブレンヒルトは言い、微笑を見せた。つもりだった。
眉尻《まゆじり》がどうしても下がる。力を込められない。
ブレンヒルトはうつむき、箒を見た。無言でベストのポケットから鎖付《くさりつ》きの青い石を取り出すと、柄《え 》に巻き付けた。右手で石を鎖ごと握る。
ブラシ部分から青い光が生まれ、地面からゆっくり浮き上がろうとする。ブレンヒルトはその浮上を両手で押さえると、
「では、帰ります」
そこでようやく微笑することが出来た。
だが、それも一瞬《いっしゅん》。
右手に力を込めた。石を握る力に比例してブラシ部分から青白い光が噴《ふ 》き出す。ここは周囲に人の目がない土地だ。
「一気に飛び立ちますから、下がっていて下さい」
「可愛《かわい》い魔女の風で傷つく竜ではないよ」
「いえ、下着が見えますから」
「そりゃ失礼」
ファブニール改が一歩を下がり、ブレンヒルトは黒猫と共に会釈《えしゃく》を一つ。
同時にブレンヒルトは左手を柄《え 》に添え、一気に下へと引っ張った。まるで空と綱引きをするような姿勢で、右の手を絞《しぼ》り込んでいく。
箒《ほうき》のブラシ部から出る青白い光が、急激に色を失っていく。代わりに、箒を中心として、校庭に風が溢《あふ》れ始めた。
強い風が放射状に広がり、校庭を洗い流していく。
風に響《ひび》くのは高い音。それがある一定まで達したとき。
「では」
という声と共に、ブレンヒルトは腕《うで》以外の部位の力を緩めた。
あとは、一瞬《いっしゅん》だった。ブレンヒルトが身体《からだ》を前に投げるように、箒の柄にしがみついた直後。押さえを緩められた箒は、蹴飛《け と 》ばされたような勢いで空へと跳ね上がる。
軌道はわずかな弧《こ 》を描き、空へ。
「……!」
上から押し寄せる風の中、ブレンヒルトは眼下を見た。
既《すで》に森の形は見えず、廃校《はいこう》さえも数センチの大きさに見え、どんどん小さくなっていく。
だが、月光の下、森を切り取って生まれた廃校の校庭に、青白い影が一つ見えた。
「…………」
ブレンヒルトは上昇軌道を進む箒の柄にしがみついたまま、目を伏せた。
行く先は東。その方角を思い、彼女は風に消える声でつぶやいた。
「森を動かす風が吹いてきた場所……、ね」
●
ファブニール改は月浮かぶ空を見上げていた。
空に至る大気に青白い雲の一筋《ひとすじ》を残し、ブレンヒルトは東の空に向かった。
雲の一筋が風に消えるまでを見送ったファブニール改は、
「さて」
とつぶやき、顔を校庭の西|隅《すみ》へと向けた。体育館とは逆側、校舎の横に朽《く 》ちて屋根を失った体育倉庫のある方だ。月光の加減《か げん》で、そこには夜に生まれた影が固まっている。
ファブニール改は、深紅《しんく 》の主視覚素子《しゅし かくそ し 》を影の中に向けた。
「さて、そちらの話といこうか。――そこにいる貴様《き さま》達」
機械の声が響《ひび》いたときだ。
校庭の西|隅《すみ》に溜まる闇の中から、三つの影が現れた。
人影だ。
先頭に立つのはサンドイエローのサマーコートを羽織《は お 》った長身の初老《しょろう》。
ターバンのように巻かれたバンダナの下、日に焼けた四角い顔は鷲鼻《わしばな》にくぼんだ眼窩《がんか 》というアラブ風の特徴《とくちょう》を持つ。だが、眼窩からこちらを見る黒目がちの瞳は右目一つしかない。
かすかな風に| 翻 《ひるがえ》るコートの下、ベストにスーツズボンという身は、大股《おおまた》でこちらに歩き出す。
彼の左右に控えて歩くのは二人の少女だ。
右にいるのは黒髪《くろかみ》を頭の後ろで結った長身の少女。黒いサマーコートの下は隣《となり》の男と同様の衣装をまとっているが、左腰に棒のようなものが入った袱紗《ふくさ 》を下げている。
左にいるのはロングヘアを風になびかせる少女。こちらは黒いストールを肩から掛けているが、その下は白のシャツに黒のワンピースという格好《かっこう》だ。
右にいる長身の少女の方が年齢《ねんれい》が上。瞳も口元もやや鋭く、こちらを睨《にら》むように見ている。対する左の少女は背も低く、目尻《め じり》もやや下がり気味だ。
対照的な二人を従えた男の接近。それを見るファブニール改は、ふと、一つの音律《おんりつ》を聞いた。
左の少女の唇が浅く開き、月下《げっか 》に一つの歌を奏《かな》でている。
Silent night Holy night/静かな夜よ 清し夜よ
All's asleep, one sole light./全てが澄み 安らかなる中
Just the faithful and holy pair,/誠実なる二人の聖者《せいじゃ》が
Lovely boy-child with curly hair,/巻き髪を頂く美しき男の子を見守る
Sleep in heavenly peace/眠り給《たも》う ゆめ安く
Sleep in heavenly peace/眠り給《たも》う ゆめ安く
ファブニール改はその歌を知っている。
「脱出の後、ブレンヒルトが一人になるとよく謳《うた》っていたっけね。|Low《ロ ウ》―|G《ギア》の歌、題名は、清しこの夜、だったか」
少女は目を伏せて謳い上げ、ふと、右の手を軽く上に掲げた。
すると、夜空から幾《いく》つもの小さな影が降りてきた。
鳥だ。
月光の下、青と黒の陰影《いんえい》で見える翼《つばさ》は、風に煽《あお》られて森から飛び出した鳥達だ。所在を見失っていた一群が、少女の掲げた手に集まってくる。
羽音《は おと》の重連《じゅうれん》が夜風の中に鳴り響《ひび》く。
鳥達に対し、少女は細めた目とかすかに立てた眉で笑う。あは、と吐息のような声を漏らし、
「餌《えさ》は無いですよ。だから、ほら」
と少女はファブニール改の背後、森を指さした。
「お帰り、お家に」
少女の言葉が発されたと同時。鳥達が月の光を逆光《ぎゃっこう》として舞い上がった。
青黒い空に舞う黒の翼と陰影。まばらに聞こえるはばたきは一瞬《いっしゅん》でファブニール改の背を越え、背後の森の中へと消えていく。
鳥の鳴き声が森の中に消えていくのを、ファブニール改は全身の聴覚素子《ちょうかくそし 》で追った。
やがてそれは消え、沈黙が来る。
見れば男達は足を止めていた。お互いの間は、距離にして約二十メートル。
大型の機竜《きりゅう》にとっても数歩を必要とする距離だ。
それだけの距離を取って、ファブニール改と男達は向き合う。
先に動いたのはファブニール改だった。彼は四肢《し し 》を広げて構え、尻を上げた。
突撃《とつげき》姿勢。その姿勢からファブニール改は問う。
「また予告もなしに来たかね、情報屋。軍 を名乗るハジよ」
ファブニール改の言葉に、ハジと呼ばれた男は口元に笑みを浮かべた。白い口髭《くちひげ》と、無精髭《ぶしょうひげ》を抱く顎《あご》が上向きに歪み、
「こうして十何年にもなるが、その呼び方は初《はつ》だ。驚きだな、ハーゲン」
「貴様《き さま》に名を呼ばれる筋合いはないねえ……。どこの|G《ギア》の者だかも解《わか》らない。それでいて正確な情報や武装だけは揃《そろ》えてくる情報屋。親しくするのは仕事上だけにしたいね」
大体、とファブニール改は言った。
「その隣《となり》のイカれた二人は何だ?」
問われたハジは、笑みを崩さずに右と左の少女を見た。両手を軽く広げ、
「わしの娘のようなものだよ。こっち、背の高いのが命刻《みこく》。低いのが詩乃《し の 》だ。そろそろ二人にも仕事を覚えてもらおうと思ってな。可愛《かわい》いだろう? ん?」
紹介された二人は、命刻が会釈《えしゃく》を、詩乃が一礼を返した。ハジは口を開き、
「これでも一騎当千《いっき とうせん》の魔人《ま じん》だ。そして……」
不意に彼は笑みを消した。
が、すぐに彼は上げた大きな右手で顔を覆《おお》う。手が外し下ろされるまで三《さん》呼吸。そのときにはもう、頚に笑みが戻っている。
「まあいい。とにかく今夜も一つ、貴殿《き でん》らのために情報を携《たずさ》えてきたぞ」
「そしてまた言うのか? 自分達の麾下《き か 》に入れ、と?」
「麾下とは心外《しんがい》だ。うん、本当に心外だ。対等に、この|Low《ロ ウ》―Gの|全 竜 交 渉《レヴァイアサンロード》を停めようというのだ。我々の望みは同じ筈《はず》だが? 違うか? ――ん?」
「残念だが、答えは前にも述べた通りだ。――我々は、自分の問題を自分で解決する。素性《すじょう》も解らぬ者と共に戦う気はないね」
「もし同意するならば我々の素性も目的も教えるのだが」
「その笑みが本物だったら考えてやってもいいんだがね。……駄目《だ め 》なもんは駄目だよ」
ファブニール改の言葉に、ハジは再び口元を右手で覆った。
目に笑みは無く、口を覆う右手から声が漏れた。
「成程《なるほど》……」
と、いう言葉が響《ひび》き終わらぬ内、ファブニール改は射撃《しゃげき》した。
狙いは右の少女、命刻。
「――っ!!」
長身の少女が、車にひかれたような動きで背後に吹き飛んだ。身は自分の背よりも高く浮き、その数倍も背後へと飛んだ。
ファブニール改が使用したのは胴体《どうたい》右側部。最も安定性のいい位置に内蔵《ないぞう》された長さ一メートルの対人機銃《たいじんきじゅう》だ。それは封印《ふういん》の符《ふ 》を破り、夜の空気に飛び出していた。内部に装填《そうてん》されていた書物|弾丸《だんがん》は三頁を消費。直径二センチの光弾《こうだん》がほぼ同時に三発叩き出されたことになる。
全ては人の反応速度を上回る速度。そして全弾|命中《めいちゅう》だ。
命刻の衣服が胸側《むねがわ》のみならず、光弾の抜けた背部側でも散じた。
多くのものが飛び散って、身体《からだ》が後頭部から地面に落ちる。
激突《げきとつ》。
嫌な音とともに首が正しい方向へと曲がる。助からない場合に、曲がるべき方向へと。
身体はそのまま二、三転。最後に俯《ふ 》せになって停まったとき、曲がった首が戻ったのか、肺の中にあった空気が喉《のど》を通って表に出た。こ、という短い呼気《こ き 》となって。
ファブニール改は前面に向く視覚素子《し かくそ し 》の全てを使って彼女を見た。
「いい教育をしているねえ、ハジ。お前が笑みを無くしたとき、密《ひそ》かに袱紗《ふくさ 》の口を解いたよ」
彼は見る。一撃《いちげき》を受けて吹き飛んだ命刻《みこく》は、俯せに倒れても右手を左腰の方へと寄せていた。彼女の右手は、袱紗から突き出た柄《つか》を掴《つか》んでいる。
動きはない。それを確認してから、ファブニール改は視覚素子をハジに固定。
ハジは相変わらず右手を口元に当てていたが、やがてその手を左手ともども軽く上に掲げた。
ファブニール改は問う。
「魔人《ま じん》と言った少女は散ったぞ。そんな子供を出してきて、何が狙いだね?そして、何を知っている? 我々は1st―|G《ギア》の崩壊《ほうかい》しか知らぬ。が、軍 と名乗る貴様《き さま》らは――」
ハジと左の少女を見比べ、ファブニール改は告げる。
「幾《いく》つかのGの混成軍だな? 見たところ、ハジ、貴様は9th―Gの者だというのは解《わか》る。
そしてその少女二人は2nd―Gかこの|Low《ロ ウ》―Gの者のようだが……」
「意外と詮索《せんさく》が好きだな。そうだな? ハーゲン」
「それだけのものを貴様は持っていると言ラことだよ。解っているだろう? ハジ」
と、ファブニール改は突撃《とつげき》姿勢を崩し、一歩を前に踏み出そうとした。
瞬間。ファブニール改の右|側面《そくめん》視覚素子が一つの小さな光を捉《とら》えた。
「!」
ファブニール改はそれまでの重い動きを捨て、左へと跳躍《ちょうやく》した。踏み込んだ足の関節。駆動《く どう》部などの出力帯や木管《もっかん》シリンダーを瞬間《しゅんかん》的に組み替え、通常用から短距離移動用にシフト。
猫のような動きで左方向へ十メートルほど跳躍。
見えた光の方へと顔を向けたまま、尻を回すように跳んだ。
後ろ足から着地し、校庭を円弧《えんこ 》にえぐる。
木を折るような音とともに身を低く沈めたファブニール改は、先ほどまで自分が立っていた場所に二つの異変を認めた。
一つは、自分がいたあたりの地面が深さ五メートルほどの円球状に破砕《は さい》されていたこと。
そしてもう一つは、
「何故《なぜ》……、殺した筈《はず》の少女が、いる?」
命刻だ。校庭に作られた破砕|孔《こう》の前に、ぼろ布のような衣服をまとった命刻が立っている。右腕に下げているのは、
「賢石《けんせき》を含めた概念《がいねん》兵器。| 機 殻 剣 《カウリングソード》か……」
「そう、なかなか扱い手がいないものだが、軍 には優秀なインストラクターがいてな。こんな少女が、一瞬《いっしゅん》で距離を詰め、それだけの破壊をやってのける」
命刻《みこく》は無言。| 機 殻 剣 《カウリングソード》を持たぬ左手で、ちぎれず残った衣服を胸前に寄せる。
ファブニール改は、彼女が一度だけこちらを見たのを確認した。
表情のない顔。だがそれは、ブレンヒルトのように、感情を抑えるようなものではなく、
「興味がないとでも言いたげだな」
「いい顔だろう? 将来はクールビューティ確実だろう? ん?」
ハジは笑みを浮かべて言う。
「今日は特別サービスだ。本論の前に我々の狙いを伝えよう。うん」
は、とファブニール改は身構えを解かずに言う。
「|全 竜 交 渉《レヴァイアサンロード》の阻止、その前に、全|G《ギア》の残党を集めた反乱軍の組織化、か?」
問いにハジは目を伏せて首を横に振った。
「惜しいが、違う。違うんだな。我々が望むのは――」
一息。目を開き、笑みとともに一礼して。
「……全Gの概念《がいねん》の消滅だ」
「何……!?」
「何もなにも無い、言った通りだ、ハーゲン。我々軍 は、現状、我々を保つ以上の概念を消去することを望んでいる。そういうことだよ」
「……何故《なぜ》だ!? それは自分達のGをも捨て去るということだぞ!」
「そうする理由も、そうする意味も、そうする価値も、我々は持っている。持っているんだ」
ハジは言う。表情から熱が引くように笑みが消え、
「――明日の夜、島根にあるIAI本社のUCATに格納《かくのう》されていた聖剣《せいけん》グラムが、東京支社のUCATに輸送される。飛行機が通過するのは、丁度、このあたりだろうな」
「何故、教える? 我々は1st―Gの概念を取り返すが、貴様《き さま》らの言うように消失を望まぬ。……我々は、敵となるぞ」
「解《わか》っているとも。だから今日はサ―ビスしたんだ。精一杯《せいいっぱい》のサ――ヴィス、それだ」
笑み無く、視線を伏せ、
「まあ、今のところは、貴殿《き でん》らがどうであろうと構わない。少なくとも、UCATに概念があることだけは避けたい。もし貴殿らがグラムを取り戻したならば、そのとき、交渉しよう」
「何を交渉する、と?」
「まず我々は|Low《ロ ウ》―Gを視野に入れることなく、真実を貴殿らに伝え、要求する。このLow―Gの世界を本当に本当のものとするために」
「本当に、本当の、もの?」
そう、と言ってハジは右手を軽く上げた。指を鳴らす。
と、命刻《みこく》が下がった。彼女はハジの右が自分の定位置であるというように、大きなステップで、ずっとこちらを見ながら下がっていく。
同じタイミングで、ハジ達も下がりだした。背後、闇の方へと。
「お別れだ、ハーゲン。次に会うとき、お互いの立場は変わっているだろう」
「待て! 答えろハジ! 本当のものとは、どういう意味だ!?」
響《ひび》いた問いに対し、ハジはまず笑みを返した。
背後の闇。その中に追いついた命刻と共に沈んでいく。
サンドイエロ―のサマーコートが闇に沈む直前。ハジの声が響いた。
「簡単なことだよ。私達の全てを受け継ぐべき者に、真の意味で、全てを受け継がせようというだけだ……!」
放たれる答えは笑みを含んだ叫び。
それをファブニール改は、確かに聞いた。
彼の視界、三つの人影はもはや無い。
周囲、いつの間にか東からの風が吹き始めていた。
その風を浴びながら、ファブニール改はつぶやいた。
「グラムは明日、移送される……、か」
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第十六章
『善意の条件』
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私は囀る
上手く歌えば
誰かに通るだろうか
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
●
屋上に着陸したブレンヒルトは、三角|帽子《ぼうし 》と箒《ほうき》を手に校舎の中へ。屋上の鍵《かぎ》を賢石《けんせき》で解錠《かいじょう》 し、急ぐ足が向かうのは三階の美術室だ。足音高く、猫と共に階段を駆け下りる。
美術室の鍵を開けて中に入ると、そこには出たときと同じ薄闇《うすやみ》があった。
壁に掛かる時計を見れば午前二時。
カーテンを閉めた窓のそば、作業机の上に段ボール箱がある。
それは、出たときと同じ位置に置いてあった。誰かが手を触れた形跡《けいせき》などは無い。
そのことに対してブレンヒルトは安堵《あんど 》の吐息を一つ。
三角帽子と箒を近くの机の上に置き、彼女は段ボール箱を覗《のぞ》き込む。
小鳥は箱の中にいた。
だが、中央で眠ってはいなかった。餌入《えさい 》れの縁《ふち》に頭を乗せ、小さな身体《からだ》が倒れている。
動かない。
ブレンヒルトは膝《ひざ》を崩して床に落ちた。
●
ブレンヒルトは、ふと、自分が尻餅《しりもち》をついていることに気づいた。
どうして座り込んでいるのだろうか。その理由が欠落している。
何故《なぜ》、という疑念に答えるより早く、尻と太股《ふともも》に冷たい感覚が来た。木の床の温度だ。
再び思った。どうして座り込んでいるのだろうか、と。その直後に、
「ブレンヒルト!」
聞き慣れた黒猫の声が耳を貫《つらぬ》き、彼女は肩を震わせた。
目が覚める。状況を理解する。そして身体に力を感覚する。背中、肩、腕、腰、脚《あし》、全てが揃《そろ》えば意志も揃う。
自分の為《な 》すべきは何か、とブレンヒルトは弾《はじ》かれたように立ち上がった。
そして見た。眼前、段ボール箱の中に黒猫が身を乗り入れている。
「何を――」
してるの、と言いかけた言葉が、こちらを見上げる猫の視線に止められた。それはまっすぐな視線。余裕《よ ゆう》のない目だ。
「ブレンヒルト」
続いて告げられる言葉を、ブレンヒルトは止めそうになる。が、猫は口を開き、
「――まだ生きてる」
「え……?」
と問うた視界がふと歪みそうになる。その歪みを息で堪《こら》え、ブレンヒルトは問うた。
「どうなの?」
「餌《えさ》を喉《のど》に詰めたみたいだ。腹も減ってるんだと思う。――ピンセット」
言われ、ピンセットを探す。慌《あわ》てているのか、段ボール箱の横に置いてあったことを思い出すのに数秒。手にして前を見れば、黒猫が鳥の体を前|脚《あし》で軽く押さえていた。
嘴《くちばし》が開き、奥に黄色いものが見える。
「飲み込めなかったのね……」
ブレンヒルトはピンセットで鳥の喉にはまったトウモロコシの欠片《かけら》をつまむ。引っ張るが、力が甘く、二度失敗した。強く引くと喉を傷つける恐れがある。
ブレンヒルトはピンセットの先に水皿《みずざら》の水をつけた。そしてゆっくりと餌をつまみ、引くと取れた。見れば夕刻にあげていたものよりも小さい欠片だ。
猫が吐息とともに言う。
「多分、まだ、皿から餌を取るのに慣れてないんだよ。口移しで上を向いてないと、喉を餌が通らないんだ。――ほら、息してる。けど、衰弱《すいじゃく》してるのも確かだ。どうするの?」
問われたブレンヒルトは思う。
どうしよう。そして考える。思いついた順に正しいと感じたことを告げていく。
「布で軽く包んで、温めておいて、あとは餌を――」
「食べられるわけないじゃん」
言われ、困る。確かにそうだ。何を与えればいいのか。
解《わか》らない。
「このままだと……」
駄目《だ め 》だ。だからブレンヒルトは決めた。段ボール箱に手を掛け、
「解る人に、救いを求めましょう」
「いるの? だって君、寮《りょう》でもほとんど独りなんだろ? 部活《ぶ かつ》だって、春休み中、ずっと独りでこうしていて……」
「でも、そうするしかないのよ」
「だったら、まず、その、着替えないと」
言われて自分の姿を見ると、魔女《ま じょ》の黒装束《くろしょうぞく》のままだ。
「怪しまれたら終わりなんだよ、僕達」
でも、とブレンヒルトは言い掛け、しかし、奥歯を噛《か 》んだ。
歯が軋《きし》む。だが、首は頷《うなず》いた。
「1st―|G《ギア》の者だから……、ね」
ロッカーに駆け寄り開ける。|鎮魂の曲刃《レークイヴェム・ゼンゼ》 が鈍い光をもって出迎えてくれたが、何も言うことは無い。その下に落ちていた制服を拾い、作業机の上に掛ける。
黒装束を脱ぐ。身にフィットした服は、急ぎ脱ぐには不便だと感じながら。
十五秒。それだけの時間をもってブレンヒルトは黒装束《くろしょうぞく》を脱ぎ捨てた。制服のシャツを手に取りながら、カーテンを開ける。窓から見える校舎や女子|寮《りょう》には明かりが灯《とも》っていない。
誰もいないか、眠っているか、だ。救《たす》けがあるのかどうか。それを思って目の前の闇を見ると、膝《ひざ》の力が抜けそうになった。首を横に振り、上を仰げば、シャツを掴《つか》む手が震えている。
耳に聞こえるのは沈黙。ただそれだけ。
ブレンヒルトは袖《そで》を歯で噛《か 》んで通しつつ、崩れた声を漏らした。
「どうしよう……」
●
佐山《さ やま》は深夜の衣笠《きぬがさ》書庫に入るため、二年次校舎内の入り口をくぐっていた。
外、正門前のコンビニエンスストアからの帰りだ。手に提《さ 》げた袋に入っているのはガムテープとペットボトルのジュースが二本。そして握り飯などの軽食が少々。
今、新庄《しんじょう》・切《せつ》は荷物を部屋に展開している。床が一時的に使えなくなる間、獏《ばく》を連れて夜食を買いに行っていたのだが、戻ってくると衣笠書庫に明かりが灯っていた。
「先ほど新庄君と来たときは閉まっていた筈《はず》だが……?」
……まさか、1st―|G《ギア》の者が来ている、ということはあるまいな?
腕時計を見ると午前二時一分。夜の雰囲気《ふんい き 》に佐山は身構え、暗い中央ロビーの中を歩く。
肩の上に乗った獏が、左右を見回している。監視《かんし 》のつもりなのか、小さな心強さに佐山は笑みを得る。と、自分の身体《からだ》にある緊張感《きんちょうかん》と、左|拳《こぶし》の傷から来る小さな幻痛《げんつう》を感じた。
そして、今の自分を客観的に見ると、笑みを苦笑に変化。
「深夜の学校で、コンビニ袋を手に提げつつ、敵襲《てきしゅう》かと身構えて歩く、か」
……一体、何をしているのだろうね、私は。
だが、自分にとって、世界は随分《ずいぶん》と物騒《ぶっそう》になってしまったと思う。
そして今、その物騒の根元たる、|全 竜 交 渉《レヴァイアサンロード》に関わるべきかどうかを迫られている。
どうしたものか、と壁に背をつける。その角を左に曲がれば衣笠書庫前の廊下だ。
行けば、明かりがついている理由が解《わか》る。佐山は頷《うなず》き、一度、前を見た。
闇がある。
ふと、目の前にある漆黒《しっこく》の空白に、昨日の戦闘を思い出した。
森の中、駆けた息吹《い ぶき》と、人狼《じんろう》と、その決着前に見た彼の表情を。
「…………」
あのとき、敵を倒すことを自分は選び、背後の新庄は選ばなかった。
だが、あの人狼の表情に対し、自分は本当に倒す必要を有していたのか。
今日も同様だ。自分は戦闘を選び、新庄は人を救うことを選んだ。
だが、あの騎士《き し 》達は、本当に倒されることが必要だったのか。
佐山《さ やま》は無言。新庄《しんじょう》のことを思い、わずかに目を伏せ、自分を思った。
……私は間違っている。
何故《なぜ》、自分はそんな選択しか出来ないのか。
……新庄君のような選択が出来るならば、私は自信を持てるだろうに。
それは叶《かな》わないことだ。だから考えねばならない。
「どうすれば、私は自分の選択を誇れるのだろうか」
祖父からも教わらなかったこと。
必要なことだ。|全 竜 交 渉《レヴァイアサンロード》に関わるためだけではなく、自分が本気になるために。
一息。伏せていた目を開けた。その直後に佐山は動いた。
足音を立てることなく衣笠《きぬがさ》書庫前の廊下へと飛び込み、状況を確認。扉は開いており、中が見える。書庫内は明るく、無人に見えた。
「――――」
中に入った。後ろ手にドアを閉めつつ、身を低く。コンビニの袋が音を立てるので、手提《て さ 》げ部分よりも下を絞《しぼ》って中のものを押さえ込んだ。
前を見る。すると、入り口|横《よこ》のカウンターにジークフリートがいた。
長身の老人は、眠っていた。椅子《い す 》に浅く座った姿勢、腹の上で腕を組み、ただ静かに。
見ればカウンターには佐山が持っているのと同じコンビニの袋と、空《から》になった弁当がある。
「……そういうことか」
佐山は立ち上がって、吐息。横に置かれた小さな達磨《だるま 》ストーブは、赤い火を見せている。その火を暖かいと感じ、身構えていた自分の腕を振って緊張《きんちょう》を解く。
肩の上、獏《ばく》が伸びを一つ。やはりこちらも緊張していたのか、吐息。
気が合うな、とつぶやき、佐山は獏の頭を撫《な 》でた。
直後。佐山の視界は、目の前の風景からずり落ちた。
●
佐山の目が見るのは、薄暗い空間だった。
衣笠書庫ではない、木で出来た五メートル四方の一室。その中央にはテーブルがあった。
部屋はわずかな朱色の光で満ちている。光に映される天井は高く、屋根の斜面がむき出しだ。壁は天井に届かず、梁《はり》の渡りで予測できる部屋数は六部屋。ここが一番広い部屋のようだ。
そして佐山は自分を見る。
……また、視覚だけか。
これは獏が見せる過去だ。佐山は、こんな場所を知らない。
誰の過去だろうかと思ったとき、テーブルの向こうに人影が二つあることに気づいた。一つは若い女性。もう一つはテーブル脇の椅子で眠る男性の後ろ姿。
女性は、男性の身体《からだ》に掛かった毛布の位置を直していた。赤毛の柔らかい長髪を頂《いただ》いた細面《ほそおも》の下、薄緑《うすみどり》色の貫頭衣《かんとうい 》のようなものに、シャツとスト―ルを合わせて着込んでいる。
中世時代のようだと佐山《さ やま》は思い、女性に視線を向けた。彼女の身振りに残身《ざんしん》が少ないことと、爪先《つまさき》だった歩き方から、佐山は彼女の身分を想像する。そして、佐山は不意に笑みを得た。彼女のシャツの袖《そで》に、汚れのようなものがついているのを見つけたからだ。
……絵の具か。
意識で頷《うなず》き、佐山は歩く。テーブルの向こう側、彼らの見える位置へ。
テーブルの向こう、壁には暖炉《だんろ 》があった。見れば、暖炉には薪《まき》も無く、火も無い。
……何?
暖炉の中には一枚の石板《せきばん》が掛けてあった。
三十センチ四方のかすかにひび割れた青い石板には、一つの字が彫り込まれている。異国の字、佐山の知らない字だ。しかし、佐山はそこに彫られた字を感じ取ることが出来た。
火。
石板の周囲に朱色の淡い光が生まれている。熱も、陽炎《かげろう》の揺らめきさえもある。
そして佐山は一つの事実を悟る。ここは1st―|G《ギア》なのだ、と。
佐山は暖炉前の二人を見た。先ほどの女性は今、眠る男性に掛かった毛布の裾《すそ》を直している。椅子《い す 》に座る彼を、ここからだと正面に見ることが出来る。
そこにいるのは一人の青年。広い肩幅の上、鼻筋《はなすじ》の通った顔がある。金の短髪を頭に頂く彼は、目を伏せ眠っている。黒い長衣《ちょうい》をまとった長身にとって、椅子の中は狭そうだ。
佐山は彼を知っている。そして、彼の名を、毛布の裾を直していた女性が口にした。
「ジークフリート……」
女性は佐山に背を向けた姿勢て、ふと、首を捻《ひね》った。そして不意に、椅子の下、下がる毛布の向こうに手を入れた。何かを見つけたらしい。
彼女はややあってから、ゆっくりと、ゆっくりと、毛布に隠れた椅子の下から横に手を回す。下にあったものをどかし、取り出そうとする動きだ。
出てきた。それは鳥籠《とりかご》だ。新品の、木枝を組んで出来た鳥籠。中にいるのは右の翼《つばさ》に包帯《ほうたい》を巻いた青い鳥だ。
女性が吐息。鳥籠を抱えるようにして立ち上がり、佐山の方に身体を向ける。
やや詰められた眉の下、目が伏せられている。彼女は吐息とともに、
「ナインがせがんだのね。籠まで揃《そろ》えて……」
聞こえる言葉は、昼に騎士《き し 》達が放っていたものと同じ。こちらに聞こえるのは、言葉ではなくて意味だ。
と、籠の中の鳥が顔を上げた。止まり木から女性を見上げ、包帯の巻かれていない左翼《さ よく》を開く。中央から二つに分かれた翼。鳥はその羽を女性に見せながら、高い声で短く囀《さえず》る。
鳥の声に、女性は慌《あわ》てて背後のジークフリートを見た。
彼は眠っているが、その顔はわずかに横に、眉は寄せられている。
女性は急ぎ鳥籠《とりかご》を暖炉《だんろ 》の上に置いた。首を傾《かし》げてこちらを見る鳥を無視。近くにあった編み途中の茶色い毛糸の布を、籠の上に掛けて押さえつける。
彼女は眠るジークフリートと鳥の囀《さえず》りを交互に見聞き。鳥籠に小さな声で話しかける。静かに、とか、寝てなさい、という言葉が感じられ、佐山《さ やま》は笑みを一つ。
女性の意が届いたのか、鳥はしばらく囀っていたが、やがて大人しくなった。
彼女は一息。鳥籠を抱えるように、
「飼うしかないのね……」
「だろうねえ」
という声が小さく響《ひび》いた。
佐山は彼女と共に見る。暖炉の横。廊下に出る鴨居《かもい 》の下から一人の老人が顔を出していた。
黒に近い緑の衣をまとった老人だった。背の低い痩躯《そうく 》、頭に髪は無く、顔には皺《しわ》も多いが、顔の中にある目は力強い光を持っている。
老人は部屋の中に入ってくると暖炉の前に立った。腰の後ろに両手を当てつつ、
「グートルーネ様。……彼は他|G《ギア》からの兵士だ。あまり気を許さぬように」
「ですが、レギン先生、彼は私達の街を救って下さいました。そして……」
と、女性、グートルーネは毛糸の編みかけをかぶぜた鳥籠を指し、
「何故《なぜ》でしょうね。彼、ジークフリートは、この世界を滅ぼすために来たというのに、私の父王《ちちおう》が貴方《あなた》に作らせた機竜《きりゅう》の暴走を停め、飛べなくなった鳥を治そうとしています」
「……ナインは?」
「寝てる……、と思います。夕食を終えてから、彼が弾《ひ 》く楽器の音をずっと聞いていました」
と、グートルーネは廊下の方を見る。その視線を佐山は追う。
何も見えない、が、佐山と同じように、レギンと呼ばれた老人も彼女の視線を追って、
「あの六行|鍵盤《けんばん》が音を奏《かな》でたのは、久しぶりだったな……。彼が弾いた曲は?」
「聞き覚えのないものです。ただ、彼は昔に故郷《こきょう》で教わったものだと」
「他のGでも、我々と同じような文化がある、か」
ええ、と頷《うなず》き、グートルーネはジークフリートを見た。そして小声で告げる。
「もう何年も弾いていなかったものですけど、でも、それは私達が忘れていたからですね。父王がこのGの防衛を固めようとしてから忙しかったですから。……機竜を生産し、概念《がいねん》を| 抽 出 《ちゅうしゅつ》して概念核を作り、この1st―Gを閉鎖《へいさ 》防衛しようなんて」
「ふむ、姫は彼をどう思う? 彼が街を救ったのも、鳥を救ったのも、我々に取り入るためとは考えないのかね? お人好しのお姫様は」
「取り入るも何も、ここは狭い世界です。そんなことしなくても、彼の力ならば滅ぼせるんじゃありませんか? それをせず、今は言葉を学ぼうとしているのですよ、彼は」
「言語体系や、単語、文字類が似た国から来た、と言っていたな」
「ええ、そして今日、あの鍵盤《けんばん》を弾《ひ 》きながら謳《うた》う歌詞の意味を教えてもらいました」
佐山《さ やま》の目の前、ジークフリートを見るグートルーネは目を細めた。
「聖なる歌でした。猜疑《さいぎ 》していた人が言うような、悪魔《あくま 》の歌ではありませんでしたよ」
「それはわしへの嫌味《いやみ 》か」
「いえ、レギン先生は猜疑も何も、いつも疑《うたぐ》り深いじゃないですか」
と、グートルーネはレギンの禿《は 》げた頭を撫《な 》でた。
レギンが両手でそれを制すると、グートルーネは困ったように腕を組み、
「男の人って頭を撫でられるのを嫌がりますよね」
「……彼にもしたのか?」
「ええ、言葉を教えていて、上手《うま》く意味が通じたときに。何故《なぜ》か嫌がりました。ナインはそうすると喜ぶんですけどね……」
ふう、と吐息。しかし、グートルーネはすぐに表情を戻すと、再びジークフリートを見た。
「でも、彼の|G《ギア》の住人は、皆、彼のような人ばかりなのでしょうか? 戦うつもりが、救いに回るような……」
「逆に言えば、彼は、救うつもりであっても戦える、ということだぞ」
「そうでしょうね。……でも、そこには可能性があると思います。あやふやで危険かもしれませんが、彼のような人が多くいるならば、滅びようとするものでさえ救えるのではないかと」
「姫は育ちがいいせいか良い方にものを考えたがる……」
「でも、どうです? 先生が作られている聖剣《せいけん》グラムも、こういう方がお使いになられるのではないですか? 意志ある聖剣は、単純な人間を己《おのれ》の主人に選ばないでしょう?」
と、不意に、佐山の視界へとグートルーネが振り向いた。
ね? と弓になった目。その視線がこちらの視線とかち合う。
直後、佐山は理解する。彼女が呼びかけたのは自分の背後、こちらの部屋の隅《すみ》だと。
佐山は振り返る。部屋の隅、暖炉《だんろ 》の光の届かぬ闇の中に、背の低い影がいた。
少女だ。背の低い、痩《や 》せた少女。結われた灰色の髪の下、| 紫 《むらさき》色の瞳がこちらの背後に立つ、グートルーネを見上げていた。手は、暖炉の上の鳥籠《とりかご》に伸びようとしている。
背後、グートルーネの笑みを含んだ声が聞こえる。
「ずっと隠れてたの? 大丈夫、もう持っていかないわよ。……こんな夜中まで隠れて番をしてるなんて、そんなに大事だったら、離さないで自分の部屋に持って行きなさいな」
その言葉に少女は笑みを浮かべた。グートルーネは嫌味のない吐息を一つ。
「彼に感謝するのよ? いい? ナイン」
それは少女の名前。
短い響《ひび》きを聞いたと同時、まるで夢が覚めるように過去が覚めた。
●
過去から覚めれば、そこは先ほどと同じ衣笠《きぬがさ》書庫だった。
ただ、違うことが一つあった。ジークフリートが起きていた。彼は椅子《い す 》から立ち上がり、
「獏《ばく》に、過去を見せられていたのか?」
「解《わか》るのかね?」
「昔、我々も用いた方法だ。わずか数秒で相当なものが見えるだろう」
言われて時計を見れば午前二時三分。見えた過去は、彼の言う通り短い時間の流れだ。
と、ジークフリートがカウンターの下に仕込まれた小型冷蔵庫からインスタントコーヒーの瓶《びん》を取り出す。カップはやはりカウンター下から取り出した紙コップだ。
佐山は、達磨《だるま 》ストーブの薬缶《や かん》を取るジークフリートを見て、
「独逸《ドイツ》人はコーヒーにこだわるものと思っていたがね」
「こだわりには質と量がある。書を主とする場で質を極めるほど無粋《ぶ すい》ではない」
そして彼は、丁度いい、と言った。彼が指さすカウンターの上、幾つかのハードカバーの本や書類がある。
「準備室の整理中に出てきた。一番上のを見たまえ」
? と、鼻に染みるようなコーヒーの匂《にお》いを嗅ぎつつカウンターへ。
コンビニ袋を上に置いて見れば、積まれた書類や本の上に一つの写真が載っていた。
木枠《き わく》に打たれた大判の白黒写真だ。古ぼけ、汚れていて、隅《すみ》の方には膨張《ぼうちょう》によって生まれた皺《しわ》まである。特に左半分は光に当たりすぎたのか、白い霧が掛かったようになっていた。
「色あせていてほとんど見えないな……」
「前任者が見つけたときにはそうなっていたようだ」
「時|既《すで》に遅し、か。これは、――山を背景にした記念写真、か?」
場所はどこかの山。背景は眼下に広がる森と、草原、そして空。
陰影《いんえい》が無事なところにある被写体《ひ しゃたい》は、十人ほどの人影だ。軍服らしい姿や作務衣姿《さ む えすがた》に、登山用の服をまとった者まで、ばらばらだ。女性と見える影もあった。
カウンターにこちらの分のカップを置きながらジークフリートが言う。
「護国課《ご こくか 》時代のものだ。――撮って皆で誰が犯罪者顔かを論じた後、ここがあまりに殺風景《さっぷうけい》なので飾っておいたのだが、まさかまだあろうとは」
「結局|誰《だれ》が一番犯罪者|風《ふう》だ?」
「その情報の公開は|全 竜 交 渉前提《レヴァイアサンロードぜんてい》で禁じられている」
教える気はないか、と佐山は鼻で吐息。
だが、不意に左胸が鼓動《こ どう》を一つ打った。右手で胸を押さえ、原因を思う。
それはすぐに解《わか》った。護国課《ご こくか 》の記念写真となれば、
「……私の祖父は、どれだ?」
「私の隣《となり》だ。見えないか?」
佐山《さ やま》は先ほどの過去で見たジークフリートを探すが、残念ながら、中央付近が汚れて見えなくなっている。その事実を認めると、波が引くように左胸の軋《きし》みが消えた。
吐息。
そして、ふと、佐山の視線が停まった。過去の陰影《いんえい》の中、見知った衣装があったからだ。
一行の中央、最後列、背中を向けて写っている者がいる。空を見上げる背中と衣装は、夢で見たバベルの発見者のものだ。片腕のない老人。
ジークフリートがこちらの視線を見て言った。
「テンキョー先生だな。……この学校の創設者だ。隻腕《せきわん》は日露《にちろ 》戦争で失ったと言っていた」
「よくよく思うが、テンキョーとはいささか狂った名前だな」
「一説には天恭《あまよし》だか天恭《あまやす》と読むと言われているが、実のところ、本人がそれを使ったのを聞いたことがない。自分と親しい者には、テンキョーと呼ばせていたよ」
「天を恭《うやうや》しく、か」
「大層《たいそう》過ぎて照れくさかったらしい。そのせいで、衣笠《きぬがさ》という名字《みょうじ》も皆|偽名《ぎ めい》ではなかろうかと言っていたくらいだしな。言葉を選んで言えば、――変人だった」
「いい選び方だ」
佐山はカウンターに出されていた紙コップを手に取る。
飲むと、当然のように苦《にが》い。苦さとともに写真を見て、ジークフリートの言葉を聞く。
「とにかく人をからかうのが好きな人でな。皆、何かしらの被害を確実に受けた」
「マジ顔で言っていただけるので説得力は充分だ」
ふむ、と頷《うなず》き、佐山は写真をカウンターに置くと書庫内を歩き出す。行く先は衣笠の著《ちょ》による本棚だ。距離は短い。歩けばすぐに辿り着く。朝《あさ》見た本が入った列は下から三段目。
一冊、第一巻の北欧の伝説を調べた本を開いてみれば、中身は横書きで左とじ。
「まさか――」
と近くのテーブルに載せてみた。今、左腕の使えない佐山には解《わか》る。横書きのこの本は、
「右手で本をめくるのに向いているな……」
「我《わ 》が儘《まま》な人だろう? 公家《く げ 》の出だ、とか吹聴《ふいちょう》していたよ。あとで嘘《うそ》だと解ったが」
「ろくな大人ではないね。この学校を作ったのは」
「とにかくほら吹きで闊達《かったつ》な方だった。護国課の立ち上げに関わり、概念《がいねん》戦争に我々が気づく以前に、世界各地の神話などの研究をされていた。――知っていたのだ、各|G《ギア》が戦っていることを。それに我々が気づくまで、待っていたのだ」
彼は言う。
「この学校の創設者であり、民俗《みんぞく》学と神話学の権威《けんい 》。この図書室を設計したのも彼だ。護国課《ご こくか 》時代、資料が必要になるとここに入り浸《びた》っていた。バベルを見つけたことから神話学に強く傾倒《けいとう》したと聞くが、出雲《いずも》社では技術関係も強かったな。初期の頃の概念《がいねん》兵器を構築《こうちく》していたのは彼だ」
佐山《さ やま》が本棚の他の列を見ると、神話関係の著書や工学系のものが見つかった。
また、神話は世界の十の神話の他、聖書《せいしょ》関係が多い。
「つまり……、私達の居場所は概念戦争によって生まれてきたようなものか」
「いろいろあったのだ、あの頃に」
佐山は頷《うなず》き、本を戻すとカウンターに足を運ぶ。
カウンターに置いておいた写真を、ジークフリートが片手で持ち、
「護国課がUCATになったのは第二次大戦の後だ。それまではこのメンバーを主としていた。没頭した時期だった、今思うと」
「戦後にUCATになったということは……」
「ああ、元々、UCATは米国や欧州の組織だ。彼らが我々に気づいたのは独逸《ドイツ》が敗れたとき、私の送っていた資料が発覚したことからだ。その後、日本が米国に大敗《たいはい》してな」
「独逸が敗れた のに対し、日本は大敗 かね」
「独逸のあれは首都を占領《せんりょう》されただけだ。屈してはいない」
「この期に及んで右翼《う よく》か貴様《き さま》」
気にするな、とジークフリートは言った。カウンターに辿り着いた佐山に写真を渡し、
「ともあれ、その後、米国や英国が乗り込んできて我々を見つけた。各国は戦争中に謎《なぞ》の化け物などの被害を受けており、その対策としてUCATを作っていた。だが、護国課の調査結果や技術はそれを上回っていた」
「それはそうだろうね。神州《しんしゅう》世界対応の地脈|活性化《かっせいか 》によって、日本は他の国よりも概念戦争に触れることが出来たはずだ」
「そう。向こうが調査研究段階であるのに、我々は戦闘直前まで持っていっていた。だが、米国達のメンツのために、護国課は日本UCATとなり、米国側に協力するという態勢をとった。しかし結局、現場は現場の者でしか回らず、戦勝国《せんしょうこく》からきた連中もはみだし者が多くてな。いろいろと衝突《しょうとつ》しながらも、――各|G《ギア》を滅ぼしたというわけだ」
言って、ジークフリートは数秒。その後に、彼は不意にカップをカウンターに置いた。
硬い音とともにカップがカウンターに立つ。その頃には、彼はもう、動いていた。
「?」
佐山は目で大股《おおまた》のストライドを追う。
長身の老人は、カウンターから扉までをたった五歩で詰めた。
どうした、と佐山が言うより早く、ジークフリートはノブに手を掛け、横に引いた。
そのとき、佐山《さ やま》は一つの声を聞いた気がした。
それがジークフリートのつぶやきか、書庫で見た過去の残滓《ざんし 》か、佐山には解《わか》らない。だが、その声が告げた、佐山が記憶《き おく》した一つの名前を。
「――ナイン」
小さな声とともにドアがスライドし、その向こうに冷えた廊下が見えた。
●
ブレンヒルトは衣笠《きぬがさ》書庫の前に立っていた。履《は 》いた上履《うわば 》きは、外の土で汚れている。
身体《からだ》を支える脚《あし》も、肩も、小さく震えて停まらない。
抱える段ボール箱の中、小鳥は横向きに、小さく息をしているだけ。
ブレンヒルトは唇を動かした。声は出さず、言うべき台詞《せりふ》を唇の動きでつぶやく。
お願いします。
その一言を言わねばならない。
食堂も女子|寮《りょう》も、教員棟の前にも行ってみた。が、声を掛けるべき人は見つからなかった。だからここしかない。衣笠書庫しかない。それが解ったときには急いでいた。しかし、
「…………」
脚の震えは止まることはなく、眉尻《まゆじり》は下がり、顔はうつむく。胃の中には重いものが居座っているような感覚がある。
「どうして……」
つぶやくのは震える声。
「どうしてまた、……彼なの?」
だが、視線を落とした先、小鳥が見えた。
小さく息をしている。その身体《からだ》が浅く上下しているのを見たとき、ブレンヒルトは決めた。身体の震えを消しもせず、ドアの方へと一歩を踏んだ。
足音は小さく。
しかし返答は勢いよく、強い音を立てた。
眼前の扉がいきなり横へと開いたのだ。
目の前にあったものが取り払われ、光が見える。
光の中央、そこに長身の影が立っていた。
ジークフリート・ゾーンブルク。それが影の名前だ。
こちらを見る蒼《あお》い瞳の視線はまっすぐで、表情に険《けん》は無い。
顎髭《あごひげ》を抱いた口が動き、問うた。彼女にとって懐《なつ》かしい声で。
「どうしたのか?」
そして彼は言った、彼女の名を。
「ブレンヒルト・シルト君」
今の名前を呼ばれた。それを合図とするように、ブレンヒルトは視界の歪みを得る。
「あ……」
吐息が漏れ、小さな咳《せき》のようになる。用意しておいた言葉を言おうと思った。
お願いします。この小鳥を救《たす》けて下さい。
それを言わねばならない。相手に対して意志を伝えるため、しっかりとした態度と口調で。自分の正体を悟られることなどないように。
言う。そのつもりだった。
「…………」
唇は動かず震え、吐息が出て、ひ、と吸った。
肩の震えと息の荒れに、頬《ほお》を伝うものがあると気づく。自分の体温よりも熱く感じるもの。
これは何だろうか。
解《わか》らない。
解っているのは、言うべき台詞《せりふ》があることだ。前を見る。歪んだ視界に見える影は、やはり歪んでいた。造形の定かではない彼に対し、ブレンヒルトは言う。
お願いします。
「救けて……」
この小鳥を、
「救けて……!」
言って、吸う息が喉《のど》に詰まった。
そのときだ。自分の足下を何かが抜けた。黒猫の感触《かんしょく》。下を見ると、視界の歪みが頬をこぼれた。わずかに明らかになった視覚が見るのは、目の前に立つ影の臑《すね》に黒猫が首をなすりつけている光景。そして、上から声が降ってきた。
「解った。……救けよう」
ブレンヒルトは顔を上げた。その動きに目から何かが大きくこぼれ落ち、視界がクリアに。
そして見上げた視線はジークフリートを見る。彼も、こちらを見ていた。四角い顔には笑みも怒りも哀《かな》しみもない。ただ、こちらの瞳をじっと見ている。
ブレンヒルトは、まだ震えの残る声で問うた。
「――いいの?」
「確かに君はたびたび私と衝突《しょうとつ》していた」
頷《うなず》いた彼は扉の前から一歩を横に、手でこちらに入れと促《うなが》しながら、
「だが、君は今、自分に出来ぬものを認め、私のところへ来た。そして何か言葉を作り、この扉を開けようとしていた。自分以外のために」
一息。
「――それは勇気のある行いだ。私にその意志を拒む理由はない。そして君が泣く理由もない。何故《なぜ》ならば私はこの鳥を救うし、この鳥は判断を間違わなかった君に感謝するからだ。……入りたまえ、少女よ。それが君の判断だ」
●
佐山《さ やま》は徹夜《てつや 》状態になることが確定した図書室から、寮《りょう》に戻っていた。
薬缶《や かん》に水を入れ直し、校舎横の販売機からコーンスープを三本買うところまでは手伝った。
……随分《ずいぶん》と私も親切になったものだ。
と思いつつ、寮の二階へ。廊下に出れば、部屋の前にもう荷物はない。
「おや」
見れば部屋の明かりが消えている。
新庄《しんじょう》君は先に寝てしまったか、と扉をくぐる。
月光に青白く照らされた部屋の中は、片づいていた。床にあった荷物は、まだ幾つか積まれたままだが、
「私との共同設備用の荷物だけになったか」
ベッド脇の棚や壁際《かべぎわ》の物入れ、佐山と共同で使う収納場所には、手を触れた気配がない。それらの前にはまだ未開封《み かいふう》の荷物があって、中に入れてもらえるのを待っている。
早く戻ってくるべきだったか、と思い、佐山は自分の机の上にコンビニの袋を置いた。
と、机の上にメモがあった。ルーズリーフの一枚を使用したメモだ。中央にある言葉は、
「眠くなってきたので先に寝るね。御免《ご めん》」
読み、二段ベッドの下段側を見ると、マットレスの上に新庄の陰影《いんえい》がある。
……これが同室の人間がいるという感覚か。
ふむ、と頷《うなず》き、メモを机に置いたときだ。不意に肩から獏《ばく》が降りてきて、自分の机に着地。獏は走って新庄のものとなる机の上に飛び乗った。
そこには新庄が持ってきた筆記用具などがある。
赤い布の筆入れに、ルーズリーフの束とバインダー。そしてノートタイプのパソコンが一つ。ルーズリーフは二種類あった。一種は罫線型《けいせんがた》、もう一種は原稿用紙型だ。
獏はルーズリーフのバインダーの上に乗って、いきなり眠り始めた。
……それが新庄君にとって大事なものなのか?
獏は応えも振り向きもしない。既《すで》に身体《からだ》を丸めるようにして睡眠中だ。
佐山は小さく笑う。
視線を前に向ければ、自分の机の上、一年次からの勉強道具が置いてあった。
机の隅《すみ》に手を伸ばす。そこにあるのは一つの写真立てだ。
木で出来た小さな枠を包帯《ほうたい》の巻かれた左手で取り、月明かりに照らす。
写っているのは広い体育館。照明は明るく、下に置かれた白い| 表 彰 《ひょうしょう》台が照らされている。
表彰台は三段に組まれたものだった。空手《からて 》着《ぎ 》を着た少年が、一位と、三位の段にいる。
そして佐山《さ やま》はそこに写っていない。
佐山は無言で写真立てを元の位置に戻した。左手の拳《こぶし》についた傷が月明かりに白く光る。
「…………」
と、不意に物音がした。衣擦《きぬず 》れの音。
はっ、として振り返り、音のした場所を見る。
二段ベッドの下段側。そこに寝ている新庄《しんじょう》の寝返りが、音の原因だ。
ほどいた髪をベッドのマットレスに広げて眠る新庄は、くの字に折った身体《からだ》を薄い毛布で隠している。着ている服は白のシャツという姿。
毛布がわずかにはだけていて、足先と白い太股《ふともも》が見えていた。
「ん……」
という小さな声を漏らし、小さく表情が動き、
「ふ」
と小さく寝相《ね ぞう》が整う。力無く動く姿勢は、くの字を更に深くしたもの。
毛布がずれて、尻を覆《おお》う白い下着がシャツの裾《すそ》から覗《のぞ》けた。わずかに前後にずれた太股から上へ進むラインを目で追うと、曲線は長く、曲がるところで曲がっている。
佐山は白い下着の尻を見て、首を傾《かし》げる。
「本当に運《さだめ》君ではないのだろうか……?」
顎《あご》に手を当てて、考える。今、目の前の下着を脱がせば解《わか》るだろうか、と。
思い、更に考えた。
状況、突発性、その後の展開や、事後処理などを考え、そして自分の方針をこう結論した。
「話せば解る」
口に出して深く頷《うなず》くと、非常に説得力のある言葉に感じられた。
疑念は消えた。実行に入る。ベッドに身を乗せ、新庄に覆い被《かぶ》さるような姿勢を取る。
そして丸い尻を浮き上がらせる布地に、手を伸ばそうとした。
直後。新庄の唇から小さな声が聞こえた。それは震えて崩れる口調で、こう言った。
「……御免《ご めん》ね」
佐山は顔を上げて、新庄の顔を見た。
新庄は目を伏せ、わずかに眉根《まゆね 》を詰めた表情。口は浅く開き、何かを告げている。
「ボクは、いつも間違って……」
かすかに乱れた寝息が、言葉を吸う。台詞《せりふ》はもはや作られないが、表情は変わらない。
佐山は新庄の告げた言葉を思い出し、首を横に振った。
ここ数日のことから、他人の寝言に勝手な意味を与えようとする自分がいる。
……私はそんなにあやふやだったろうか?
佐山《さ やま》は新庄《しんじょう》の顔を見ると、しかし、自分に言い聞かせるようにこう言った。
「そんなことはない。……絶対に」
言葉とともに、佐山は伸ばしかけていた手で毛布を掴《つか》んだ。新庄の身体《からだ》に掛け直す。
そして軽く新庄の背を叩く。子供を寝かしつけるように、ゆっくりと。
「ん……」
新庄の寝息が、少しずつ整っていく。だが、表情の険《けん》は完全に取れることがない。
今の自分にはここまでだ、と佐山は悟る。
佐山は自分を納得《なっとく》させるように頷《うなず》き、ベッドから身体を起こす。窓の外を見れば、空には白い月がある。冷たいとも言える白光を寄越《よ こ 》す月を見て、佐山は口を開いた。
「らしくないことをしているが、こんなことが出来るのも今の内だろうか。恨まれ続けて身を滅ぼすか、何もかも諦《あきら》めるか、……近い内に、どちらか選択することになるのだから」
左手を月に伸ばした。包帯《ほうたい》の巻かれた左腕は、その下にある痛みを肩から頭に寄越す。
だが、佐山は傷の残る左の拳《こぶし》を広げ、握り、その向こうに月を掴んだ。
吐息とともに、言葉が漏れた。
「悪役の条件とは、何だろうかね……?」
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第十七章
『静謐の花』
[#ここから3字下げ]
静かに静かに静かにとく
騒がしい者ほど静寂を望みく
騒がしい者ほど静寂に沈む
[#ここで字下げ終わり]
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●
ブレンヒルトの目覚めは、驚きから始まった。
いきなり、右の頬《ほお》に小さな感触《かんしょく》が来たのだ。
「……!」
肩を震わせて目を開ける。が、振り向いた右肩には何もいない。
何だろうか、と思う視界は、見慣れぬ風景を得た。目に見えるのはいつもの薄暗い寮室《りょうしつ》ではない。ここにあるのは高い天井と、本棚の列。そして朝の光だ。
壁の時計は寮室のものより大きく、針が指すのは午前六時半。その時刻を見てわずかに慌《あわ》てる。焦りとともに鼓動が高鳴り目が覚めていき、心にははっきりと疑問が浮かぶ。
「ここは……」
どこだろうか。自分の寮室ではない。もっと別の空間。もっと広く暖かい場所。
見回す視界に意識が向くようになるが、見えるのはやはり高い天井と、本棚と、広い空間。しかし、ブレンヒルトはこの場所を知っていた。記憶《き おく》から出てきた言葉は、
「――図書室のカウンター」
身が寝ているのはベッドではなく椅子《い す 》の上。いつの間にか眠っていた自分と、傍《かたわ》らのストーブ、そして誰かに掛けられていた緑色の毛布に不覚《ふ かく》を感じる。
だが、他人に毛布を掛けられるのは何年ぶりだろうか。起きたばかりだというのに、ややずり落ちている縁《へり》を肩まで上げ直し、改めて毛布の温かみに浸《ひた》る。
すると、目覚めの原因が見えた。毛布の上、自分の胸のあたりに、小さな影がある。
本棚に狭められた窓から入る光と、天井からの明かりに照らされるのは、青い頭と黒い翼《つばさ》を持った小さな鳥。
ブレンヒルトと目が合うと、小鳥は尻を上げて小さく鳴いた。
ブレンヒルトは、身動きを止めた。
「あ……」
口から小さく声が漏れ、眉尻《まゆじり》が下がった。
手を動かして毛布を持ち上げ、胸の上にいる小鳥を毛布ごとゆっくりと掲げる。
ブレンヒルトは、椅子に軋《きし》みを一つ残して立ち上がった。彼女の手の上、毛布の上、小鳥は首を傾《かし》げ、翼の内側を突つきつつ、しかしじっとしたまま。
「箱を跳び出せても、まだ飛べないのね」
ブレンヒルトは段ボール箱の方に小鳥を乗せた手を差し出す。
すると小鳥は毛布の斜面を飛び跳ね、箱の中に降りた。
箱の中の様相《ようそう》は昨夜と変わっていた。餌皿《えさざら》に、今は黄色い微少な粒《つぶ》が入っている。
粟《あわ》だ。ジークフリートが朝に鳥達へ撒《ま 》いているもので、ブレンヒルトが寝ている間に幾《いく》らかつついた跡がある。が、ブレンヒルトを見上げると小鳥は上を向いて口を開いた。
そんな鳥に対する感想は、横から来た。
「なつかれているな」
低い声とともに、白い紙コップが差し出されてきた。湯気《ゆ げ 》の立つカップからは、わずかに酸味《さんみ 》のある匂《にお》い。コーヒーだ。
ブレンヒルトはカップを差し出す手の持ち主に振り返る。
そこに、長身の老人が立っていた。ジークフリート。彼は首を下に一度振り、
「飲んだら、鳥と黒猫を連れて帰りたまえ」
念を押すように言うと、老人はカップをカウンターに置く。
彼は背を向けた。ストーブを消し、カウンター下の整理を始める。
ブレンヒルトは毛布を椅子《い す 》に掛け、その下で丸まって寝ている黒猫を起こす。黒猫が起き上がり、あたりを見回す。半分|寝《ね 》たような目が、ジークフリートの背を見る。
一つ、黒猫は頷《うなず》いた。こちらの足を軽く叩いてくる。
黒猫は右の前|脚《あし》でジークフリートの背を示してから、両の前足を合わせて彼を拝《おが》む。
ブレンヒルトは頷き、立ち上がる。
ええと、と口の中でつぶやき、顔に触れる。表情はいつも通りの無表情。髪に乱れはあるが、許容《きょよう》範囲と判断する。そして彼女は置かれたカップを手に取り、コーヒーに口を付ける。
久しぶりに、食品としての味のあるものを口に含んだ気がした。口の中にあった緊張《きんちょう》の残滓《ざんし 》、鉄のような妙な味が消えていく。
味覚は身体《からだ》が温まる感覚に移行。飲み干してから、底に砂糖があったと気づくが、スプ―ン無しだったのでどうしようもない。しゃがみ込んでカウンター下の整理を続ける背に、苦笑を漏らしそうになり、
「…………」
表情を戻した。カップを、軽い音立ててカウンターに置く。言うべき台詞《せりふ》は解《わか》っている。
「昨夜は、……すいませんでした」
「突然、訪ねてきたことか?」
背の問いに、ブレンヒルトは、それもですが、と前置きし、
「私が眠ってしまった後も、暖房や、スープを与えたりを……」
「君が眠った時点でもう終わりは見えていた。気にすることはない。君は私に救《たす》けを求めてきた。その時点で、君は眠っているだけでも良かった」
言いながら、ジークフリートが書類を手に立ち上がった。
彼がゆっくりと振り向くのと同様に、ブレンヒルトも静かに一歩を下がろうとした。が、その臑《すね》を後ろから押さえるものがある。黒猫の背だ。
ブレンヒルトは下がるのをやめた。ジークフリートと向き合う。身長差は頭二つ分。ブレンヒルトは青い目を見上げた。無表情な目だ。自分も同様の目をしているのだろうか、とブレンヒルトは思う。
危険を感じた。彼ではなく自分の過去に。これ以上の思いの連鎖《れんさ 》は危険だ。
だから、目を逸《そ 》らすために、ブレンヒルトは頭を下げる。
「――有《あ 》り難《がと》う御座《ご ざ 》いました」
この後の動作は考えてある。一に頭を上げ、二で小鳥の箱を手に取り、三で後ろを向き、四で黒猫をさりげなく蹴飛《け と 》ばし、五でドアまで行けばいい。では行動開始。
一の段階でいきなり止められた。
「――あ」
下げて、そして上げかけた頭が、大きなもので上から柔らかく押さえられたのだ。
ジークフリートの手だ。彼の手が、こちらの頭を撫《な 》で、
「よく頑張《がんば 》った」
言葉と、髪を通す感触《かんしょく》に頬《ほお》が赤くなるのが解《わか》った。
「や、やめて下さいっ」
頭を振って、手で頭を抱えるようにして、ブレンヒルトは彼の手から逃げる。急ぎ小鳥の段ボール箱を抱きしめるように腕に乗せ、背を向けた。
首と横目で振り返ると、ジークフリートが表情を変えずにこちらを見ていた。
「失礼した」
彼の言葉に、ブレンヒルト、自分が避けた意味を知る。
ブレンヒルトは彼から視線を逸らした。完全に背を向け、眉尻《まゆじり》を下げる。
「いえ、……こちらもびっくりしました」
「昔、こうされると喜ぶ子がいたのだよ」
告げられた台詞《せりふ》。それに対してブレンヒルトは目を伏せた。口を開き、
「……ゾーンブルクさん?」
「何か?」
「昨夜、どうしてこの鳥を救おうと思ったんですか?」
「それは君が救いを――」
「私が救いを求めたから、貴方《あなた》は鳥を救《たす》けようと思ったんですか?」
ジークフリートの言葉を遮断《しゃだん》する問いに、わずかな沈黙が応えた。
ブレンヒルトが息をつく。一度、二度、三度、四度と、五度目で答えが来た。
「罪滅《つみほろ》ぼしのようなものだ。自然の摂理《せつり 》には逆らっているのだろうが……」
ブレンヒルトは伏せていた目を開ける。そして聞く、彼の声を。
「取り戻せないから、失いたくはなくてな」
その言葉に、ブレンヒルトは、ゆっくりと動いた。腕に載せた箱を胸に寄せ、ドアの方へと身体《からだ》を向ける。
我《われ》知らず、全身の力が抜けていた。
何故《なぜ》だろう、と思いつつ、ブレンヒルトはドアの前に立ち、開ける。
ジークフリートの言葉が飛んできた。
「また何かあったときや、外出する場合は、私に預けていくといい」
ブレンヒルトは頷《うなず》いた。そして廊下に出る。ドアを閉める。学校の廊下とは言え、春休みの早朝だ。昇降口は薄暗く、空気も冷たい。
その暗さと冷たさに、目ではなく身体が覚めた。
覚あた身体は、しかし、上手《うま》く力が入らない。
は、と吐息。ブレンヒルトは中央ロビーにまで足を運ぶと、壁に背をついた。胸には箱を抱え、背には壁の冷たさを。鳥の鳴き声と背の冷たさに身体が震え始める。
足下にやってきた黒猫が、
「大丈夫? 寮《りょう》まで歩くより、一度、美術室で休もう」
ええ、と頷き、ブレンヒルトは息を吸う。天井を見上げ、口を開け、喉《のど》をまっすぐにして。
自分の姿勢を、まるで小鳥が餌《えさ》を欲しがるようだ、と思う。
息を肺の中に飲み、ブレンヒルトは身を襲う疲れのようなものの原因を考えた。
解《わか》らない。
だが、一つだけ解ったことがある。ジークフリートのことだ。
「罪滅《つみほろ》ぼし……」
ブレンヒルトは目を伏せ、口を閉じ、面《おもて》を伏せた。
彼女は自分を閉じて、しかし心で思う。六十年を経て、解ったことを。
彼も忘れてはいなかったのだと、そんなことを。
●
学校の壁に掛かった大時計が午前九時を指す。
春休みなので時報はない。代わりに聞こえてくるのは単車の音だ。
正門からの大通りを通って、寮|裏《うら》の駐車場へと黒いツアラーが走ってくる。乗っているのは二人の男女、出雲《いずも》と風見《かざみ 》だ。
ツアラーは校舎帯の横に来るとエンジンを吹かすのをやめる。ブラウンのコートをはためかせた出雲は、クラッチを握ってエンジンを自由《フリー》に。踵《かかと》を地面に着け、速度を落としていく。
右手一本でメットを外すと、誰にともなくつぶやいた。
「……意地を張れば寝《ね 》不足だ、と」
「つき合わせて御免《ご めん》ね」
と言うのは、タンデムの風見だ。出雲が単車を止めて振り返れば、ノースリーブの防寒用に男物の革ジャンを着た彼女は、ザックと共にメットを外して抱きかかえている。
風見《かざみ 》の表情はわずかに眉を下にしならせたもの。それでいて、口元には笑みが作られている。出雲《いずも》はそんな風見の顔を見て、また前を見た。
「まあ、納得《なっとく》するまでつき合ってやるよ」
「御免《ご めん》ね。少なくとも、佐山《さ やま》が自分を決めるまでは、こんな感じだと思うから」
「まあ、俺はいいけどよ。お前の友人つき合いの方、五月の全連祭《ぜんれんさい》用の新曲はちゃんと出来てんのか? 学バン対抗、もうポスター刷るぞ」
「ストックあるし、いざとなったら実家で父親に救援|乞《こ 》うから大丈夫」
そうか? と視線で振り向くと、風見は頷《うなず》き表情を変える。眉は浅く立て、目はこちらをまっすぐ見上げ、
「……友人関係もだけど、他に優先するべきがあるから。まずはそっちから」
「|全 竜 交 渉《レヴァイアサンロード》か」
「うん。先に関わってる者としてのさ、見せるべきものって、あるじゃない?」
「ああ、見て欲しい願望ってや――、あ、待て、俺、まだ終わりまで言ってねえぞ!」
「ちっ。小賢《こ ざか》しい知恵がついてきたわね……」
出雲の視線の先、風見はえぐり込むために上に向けた右の拳《こぶし》を下ろす。
そのまま彼女は嘆息《たんそく》。力の抜けた肩からジャンパ―の襟《えり》が落ちる。
露《あら》わになった風見の右肩の上、そこに一つ、肌とは違う色彩がある。
と、出雲の手が前置き無く伸びた。風見のかすかに冷えた鎖骨《さ こつ》のあたりに手を載せると、
「あ、……何?」
風見は小さく身を竦《すく》ませザックとメットを抱きしめる。が、すぐ出雲の手に肩を合わせてきた。困ったような顔で見上げてくる彼女に、出雲は指でつまんだものを見せた。
それは黄色く細い花びらだ。
「…………」
その形と色を確認した風見の表情が沈む。わずかに目を伏せ、眉も垂れる。
出雲は吐息。
「千里《ち さと》」
「ん? な、何?」
と問うて開いた唇に、出雲はいきなり指ごと花びらを押し込む。
ん、と風見が息を飲み、花びらを飲み込む。出雲は指を抜いて、
「いいか? 暗い顔してるのはいつものお前らしく――、ててて! いつも通りだ畜生《ちくしょう》!」
「うるさいっ! いきなり何てことすんのよっ!」
「いきなりは駄目《だ め 》か? じゃあ、今度は断ってからする」
「そ・う・じゃ・ないでしよ!!」
スタッカートで殴打《おうだ 》を入れる風見《かざみ 》。ボディを入れて前に出てきた顔面を左|裏拳《うらけん》で左に張り、空《あ 》いた右|脇腹《わきばら》にフックを入れて、そこから左アッパーで、
「あら……?」
と動きを止めた。来るはずのアッパーを受ける姿勢の出雲《いずも》は息をつきつつ、
「あ、あれ? 何か物足り……、じゃなくて、どうした千里《ち さと》?」
「オルガン」
と風見はこちらに裏を見せる二年次普通校舎を指して応えた。出雲が耳を澄ませると、確かに聞こえる。二年次普通校舎の二階、音楽室から聞こえるのは、
「清しこの夜、か。たまに聞こえるよな。防音悪いのか」
「そんな音楽室あるわけないでしょ。ほら、二階、窓開いてるからよ」
見れば確かに二階、音楽室の窓は開いている。風見が、ね? と言って、
「実際、美術室も音楽室もかなり防音いいわよ。私達、練習で音楽室使うから解《わか》るんだけど」
「その割には、昨日|衣笠《きぬがさ》書庫で、何やら上で飼ってるらしい鳥の鳴き声がしたよな」
「何か通気口でも通ってるんでしょ。……書庫の準備室の方からは、いつも静かだから何も聞こえてこないんだと思うけどね」
風見が、ふと、三階に視線を止めた。
「珍しい。美術室のカーテンが一枚開いてるわ。――あ、シルトの黒猫」
風見の言葉よりも最後の言葉に引かれて出雲は三階、美術室の窓を見る。窓際《まどぎわ》、開いたカーテンの窓に黒猫が一匹いる。猫はこちらに気づいていない。風見がメットを胸に抱えて、
「可愛《かわい》い〜。シルトみたいな極端《きょくたん》セメント独逸《ドイツ》娘って、ああいう猫が似合《に あ 》うのよねi」
「お前の言うことの方が極端にセメントだと思うんだけどよ……」
と、出雲が風見の方を見た瞬間だ。風見が、あ、と目を見開いた。
出雲が彼女の視線を追い、美術室の窓を見ると、カーテンが閉まってる。そして横から、
「か、かかか覚《かく》?」
「何だより?」
「い、今、猫がカーテン閉めた。閉めた。閉めたの!」
「どうやって」
「こ、こう、立ち上がって、両手で、えいって、えいって……」
「そうか。……大変だな、千里」
出雲はそれだけ言って、よいしょ、と前を見た。単車を進ませるために地面を蹴《け 》る。
「さて、寝《ね 》不足|解消《かいしょう》に帰って寝るか」
「信じなさいよっ!!」
出雲は背中の連打に揺れながら、やれやれ顔でつぶやいた。
「別に驚くことでもねえだろ。……俺達の常識だと」
●
佐山《さ やま》はIAIの近く、多摩川《た ま がわ》を挟んだところにあるIAI付属病院に来ていた。
IAIのロビーからやってきた新庄《しんじょう》に連れられて、白い五棟建ての建物の内、中央棟へと入っていく。新庄が受付で一枚のカードを見せると、受付|脇《わき》にある階段を案内された。
五階分ほど下に歩いて、幾《いく》つかの隔壁《かくへき》が開いたあとを抜ける。そして分岐《ぶんき 》する階段を新庄の行く左方向に下りていくと、そこは、
「部屋……? いや、広間に通じる待ち合い室か?」
階段の終端《しゅうたん》は、小さなセメント造りの部屋と、その奥に開いた暗い空間だった。
部屋の北側に大型のエレベーターがあるが、階数|表示《ひょうじ》は一階部分に通じていない。地下三階と、地下七階までを結ぶものだ。
と、佐山はその場の雰囲気《ふんい き 》に眉をひそめた。肩に乗る獏《ばく》も鼻をひくつかせている。
佐山は、鼻に届く匂《にお》いを知っている。線香《せんこう》の匂いだ。祖父の葬儀《そうぎ 》で得たばかりの匂い。
そして、耳に届くのは空調の音。
それらは部屋の奥、向こうにある暗い空間からやってくる。
見ればこの部屋には、水道付きの石で出来た流しが一つと、その傍《かたわ》らにゴミ箱、そして待合い用のソファがある。ゴミ箱には背の高い花が萎《しお》れた姿で白い布と共に放り込まれていた。
「…………」
無言の佐山に、部屋の中央に立った新庄が振り向いた。着ているブラウンのジャケットを脱ぐと、その下は黒いシャツに、黒いトルーザーという姿。首元のスカーフだけが白い。
「え、ええとさ。ボクは二度目なんだけど、つまり、ここは、その」
「言わなくても解《わか》るとも。ここに連れてこられると教えてもらえれば、喪服《も ふく》で来たのだが」
「大城《おおしろ》さんが、交渉前に見ておけ、って。こう、親指上げて」
「それで今日、浮かない顔をしていたのかね。弟さんが来たことなど話をしても上《うわ》の空《そら》で」
「あ、そ、そうだね、御免《ご めん》。一応、これ……」
と、新庄は手に吊《つる》したジャケットの内ポケットから、黒いネクタイと小さなビニール袋を出した。ネクタイは葬祭《そうさい》用、ビニール袋の中にあるのは、
「一昨日《おととい》に着ていた服の中にあったものか」
IAI製の、マイクつきのカメラで音声と映像を収録出来る携帯電話に、メモリ式の携帯録音機。そして黒革の印鑑《いんかん》ケース。
「ペンと壊れた時計は分析の方に回ってるって」
佐山はまずビニール袋を受け取り開けてみる。携帯録音機のバッテリーが切れていた。
「どこかで間違ってスイッチが入ってしまったか……」
ともあれ携帯電話や印鑑とともに| 懐 《ふところ》に収めると、ビニール袋をソファに置いた。
そして佐山《さ やま》は首に巻いたネクタイを一瞬《いっしゅん》で外し、新庄《しんじょう》から黒ネクタイを受け取った。
首を傾けて回し、締める。と、
「あ、ちょっと、曲がってる」
と新庄が歩み寄ってきて、ネクタイに手を掛けた。
締めた部分を押さえる彼女の右手、その動きに合わせ中指にはまる指輪が小さく光る。新庄は一度直して、一歩離れる。うーん、と唸《うな》ってもう一度。根本の部分をずらしながら、
「切《せつ》は……、どうっ?」
「今朝《けさ》方、そちらの家の方に向かったそうだね。起きたらもういなかったが」
「あ、いや、そうじゃなくて、どう思う、って」
「本人のいないところで、その人のことは評さないことにしている」
言葉に、新庄は苦笑。こちらの肩に乗る獏《ばく》の頭を撫《な 》でながら、
「佐山君らしい」
「そうかね? まあ、一部限定|解除《かいじょ》の者もいる。出雲《いずも》や御老体《ご ろうたい》などだが」
そこらへんも佐山君らしいよ、と新庄は笑みの顔で言ってから、問うた。
「切は言ってたよ、変わった人だって」
「ああ、いきなり身体《からだ》を調べたりしたせいだろうね。少々早まったことをした」
「少々って基準はどこなんだかなー……」
「気にしないでくれたまえ。切君のことを、君ではないかと思ったものでね」
え? と問うた新庄に、佐山は言う。
「昨夜、君かどうかを調べるために、寝ている切君の下着を脱がそうと思ったのだがね」
「さ、佐山君? ……頭、大丈夫?」
「失敬《しっけい》な。……大体、君こそ何を笑顔でネクタイ締めようとしているのかね?」
「……しちゃ駄目《だ め 》だよ? 切は、その、男なんだからね? 解《わか》る? ボクの言葉」
「ああ、解るとも。まだつき合いも浅いことだしね。代わりに君に頼みがあるのだが」
「え? 何?」
「うむ。昨夜、切君の脚《あし》から尻へのラインを記憶《き おく》した。君の身体と照合したいのだが――」
言い終えるまでもなく、ネクタイが限界まで絞《しぼ》られた。
●
数分の後に、佐山達が一礼して入った部屋は広かった。石で出来た壇《だん》が縦《たて》に四つ、横に五つ並び、今、その内の七つが使用されていた。
六つには白い布が掛けられ、一つには黒い布が掛けられていた。
どの布の傍《かたわ》らにも献花《けんか 》がある。が、白布の一つに、名前を知らぬ| 薄 紫 《うすむらさき》色の花が飾られていた。
「雪割草《ゆきわりそう》だよ。UCATの裏の花壇《か だん》にあるの。さっき通信と整備担当のシビュレさんが摘《つ 》んでた。佐山《さ やま》君はまだ会ったことないよね? ……多分、彼女じゃないかな、この花」
「ふむ。この六人は……?」
「先遣《せんけん》部隊の人達。あの人狼《じんろう》を追ってたんだよ。本来は警備なんかの任務に就《つ 》くんだけど、今回は急だったせいで、自分達で申請して出ていったんだ。不審《ふ しん》存在や過激《か げき》派《は 》を捕らえるのはUCATの仕事だしね」
それでどうなったのか。結果を目の前に見て、佐山は思う。
……新庄《しんじょう》君が、|全 竜 交 渉《レヴァイアサンロード》をやめた方がいいという理由は、こういうことか……。
新庄がトルーザーの尻ポケットから未開封の線香《せんこう》とライターを取り出した。使い古しの安物ライターは大城《おおしろ》のもので、マジックで名前の他、テレビの上、と置き場が書いてある。
着火。
二人は六人の傍《かたわ》らに置いてある石の台座に、それぞれ線香を置き、手を合わせる。
「そちらとそちらの人は、遺族《い ぞく》から許可が出てるから見ても大丈夫」
ふむ、と佐山は再び手を合わせてから布をめくる。ためらうことも、驚くこともない。田宮家《た みやけ 》や、祖父とのつき合いがあった以上、幾《いく》つか同じようなものを見ている。
ただ、獣《けもの》に切り裂かれた遺体《い たい》を見るのは初めてだった。
一つ目の遺体は、首の右下から左の脇腹《わきばら》までがスコップでえぐられたようになっていた。質の悪い刃物《は もの》でえぐったためか、黒くなった肉襞《にくひだ》の中に白い骨の切片《せっぺん》が見える。
二つ目の遺体は頭部に大きな三本傷と痣《あざ》がある他は、外傷が見えなかった。が、首と腹が空気が抜けたようにへこんでいる。打撃を受けたときにそこが折れたのだ。
佐山は布を戻し、手を合わせる。隣《となり》の新庄も同様に。
二度目だという新庄の顔は、それでも青ざめているが、佐山は気遣《き づか》わなかった。
ここは死者が上にいる場所だ。
新庄は、遺体を隠す布に視線を送り、
「今回の事件のおかげで、体制の見直しが入るみたい。特課《とっか 》と通常課の入課《にゅうか》条件や、仕事区分、そして、もしこうなったときの事後処理の方法が」
「もし死んだとしたら、家人《か じん》にはどう伝わる?」
「一応、正式社員の場合、活動期間中は海外に出ていることになってるんだ。それで、海外|紛争《ふんそう》地域の警備中に事故 があったことになる。でも、家人がUCATだった場合にはそのまま伝わるよ」
「風見《かざみ 》のような学生が死んだ場合は?」
「UCATやIAIとは無関係なところで、事故があったことになる」
言って、新庄はこちらを見上げてきた。
「……怒ってる?」
「まさか。企業が保身に走るのは当然のことだ。そして……、このような闘争など、話して通じるはずもない。各国UCATが政府や企業に同調を持ちかけ、情報整備するだろうしね」
そうだね、と新庄《しんじょう》は頷《うなず》いた。そして、新庄は残る一つの布を見た。離れて置かれる黒布《くろぬの》を。
佐山《さ やま》には、布の下に置かれたのが誰かは予測できる。
「一昨日《おととい》の、人狼《じんろう》か」
うん、と頷き、新庄は尻のポケットから佐山に一枚の布を渡した。白いキャンバス地のものだ。表面に黒い塗料で文字が書いてある。
「初めて来た人はこれ置くの。1st―|G《ギア》の礼儀《れいぎ 》なんだって」
見れば、顔のあたりに置かれた献花《けんか 》とは別に、足の下あたりにそれが置かれている。
佐山が布を置いている間。新庄は献花と共に置かれた硝子《ガラス》のコップの水を指に浸《ひた》していた。盛り上がった布の、胸のあたりに滴《しずく》を垂らす。
佐山も同様に。
冷たい水を垂らすとき、献花の組み合わせが目にとまった。
先の六人に置かれていた白い花とは別に、黄色い菊の花束が二つ。佐山は花びらの崩れ方を見て、一束《ひとたば》は昨日、もう一束は今日に置かれたものと判断する。
コップの中の水は冷たく、よどみも気泡《き ほう》もなかった。
……誰かがちゃんと彼を見ているということか。
ふと、目が捧《ささ》げられた菊の茎《くき》にとまる。どの茎も高い位置で横《よこ》一直線の削れがある。
削れからわずかに見える水っぽい緑色に、佐山は吐息。
「どうしたの? 佐山君」
「いや、……私はどうもお人好しに囲まれているらしい。まあ、彼らがそうありたいなら、私もそのつもりでつき合えばいいのだろうがね」
え? と首を傾《かし》げた新庄に、佐山は気にしないようにと言う。
目の前の黒布のトップに手を掛け、
「彼の、許可は?」
「和平派《わ へいは 》の方と、昨日捕らえた……、王城派《おうじょうは》 ? そんなとこからも出てるよ」
そうか、と佐山は頷く。交渉前だ、隠し事など一切《いっさい》無しで行くつもりだろう。
手を合わせて一礼し、布をめくる。
頭の中にあるのは、一昨日の決着の際に見た人狼の表情だった。
……あの表情がここに残っていたならば、自分はどう思うだろうか?
ためらいも驚きもない。ただ、疑問とともに佐山は布をめくり下ろした。が、
「……人?」
そこにあるのは、茶色の髪をした異人《い じん》の男だった。短めの蓬髪《ほうはつ》と四角い顔。目は伏せられており、まるで眠っているかのような表情。
新庄の声が聞こえる。
「1st―|G《ギア》の人狼《じんろう》はね、緊張《きんちょう》状態に入ると狼化《ろうか 》するんだよ。そして、緊張が解けると元に戻る。本当なら|Low《ロ ウ》―Gの概念《がいねん》下では狼化出来ないんだけど、胃の中から1st―Gの文字概念を劣化《れっか 》複製した賢石《けんせき》が出てきたって。……一昨日《おととい》の戦闘の名残《な ごり》は、解《わか》る?」
見れば唇が割れ、胸の中央あたりに刺し傷がある。唇と胸、どちらも周囲が焼けて引きつっているのは、佐山《さ やま》の腕時計とボールペンのせいだ。
また、左右|脇腹《わきばら》に名刺ほどの幅で一線が入っていた。これが風見《かざみ 》の狙撃痕《そ げきこん》だ。
「あのとき、和平派《わ へいは 》の方からも状況によっては射殺を許可する旨《むね》が出てたんだって」
「彼は最後に自害したが……、自分に味方はないと解っていたのだろうな」
佐山は布を戻した。
一礼してから、周囲を見る。静かな薄暗い広間の中、既《すで》に失われたものが七つある。
……自分がこうなるかもしれない、か。
考えて、一つの疑問を得た。自分がこうなるかもしれない。だがそれをしなかった場合は、
「他人が、こうなってしまうということか……」
「……え?」
疑問の声を送ってくる新庄《しんじょう》と佐山は目を合わせた。
佐山は新庄の黒い瞳を見て、ふと思う。
新庄は、自分が失われるかもしれない戦場を、しかし選ぶのだろうか、と。
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第十八章
『砕きの地平』
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何を見に行く?
そう問われて答えられるものだろうか
何しろそれを知りに行くのだから
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佐山《さ やま》は大城《おおしろ》・一夫《かずお 》の先導《せんどう》で1st―|G居留地《ギアきょりゅうち》に向かい、UCAT裏の丘を登っていた。
UCATの輸送管理庫を通り過ぎ、菜園や花畑を抜けて杉の森をくぐると、舗装《ほ そう》道路は終わっていた。そこで先を行く大城が振り向いた。彼は焼け焦《こ 》げた白衣《はくい 》の裾《すそ》を| 翻 《ひるがえ》し、
「持ち物の中で、文字の書いてあるものや、刻印《こくいん》の入っているものはあるかな?」
問いに答えようとしたとき、ふと、佐山は周囲の森を見た。
「……?」
何か妙だ、と佐山は思った。何らかの気配のようなものを感じたのだ。
ただ、周囲を見ても何もない。沈黙があるだけだ。
「随分《ずいぶん》と静かなところだね」
「概念《がいねん》空間が近いからじゃないのかな? でも、昔に何度か見学に来たけど、そのときは――」
新庄《しんじょう》が首を傾《かし》げた。もっと鳥の鳴き声がしてた気がする、と。
佐山は思う。注意に越したことはないな、と。だから頷《うなず》き、彼は先の質問に答えた。
「文字のある製品は用心のため持ってきてはいない。ただ、電子機器類は動作するのかね?」
佐山は| 懐 《ふところ》から携帯電話を出して見せた。マイクと一体型のカメラが付いた、音声映像を収録可能な携帯電話だ。
佐山がカメラ部分を指して示すと、大城は、うーん、と唸《うな》って頭を掻《か 》き、
「一応は動かせる。居留地の中は反乱防止のこともあって、|Low《ロ ウ》―Gの概念をベースにしておるのでな。上手《うま》く使えば居留地に付加した概念を利用して、別の使い方を得ることも可能であろうよ。しかし……」
「しかし、電話機能はさすがに無理かね。外に中継施設があるわけだから」
「外部連絡も可能な専用通信機はあるけど、貴重品でな」
大城の言葉に、佐山は携帯電話をスーツの胸ポケットへしまう。カメラが表に出るように。
そして佐山は大城の左脇を見た。そこにはノート型のパソコンがある。
こちらの視線に気づいたのか、大城は灰色のボディを軽く叩いて右の親指を立て、
「記録用でな。キーボードやスイッチ類は無地。ボタン一つでディスプレイを写さない設定も可能なものだよ」
「御老体《ご ろうたい》にそんな技能があるとは知らなかったが……」
隣《となり》の新庄がこちらを見る。軽い登坂によってかすかに乱れた息で、
「私室ではよくゲームしてるよ。ボク達や、|Sf《エスエフ》さんが画面を見ようとすると慌《あわ》ててディスプレイオフにしちゃうんだけど。そのことで前、至《いたる》さんに何か叱《しか》られてた気もする」
「……そうなのかね」
「うん。それでね、何だか大城さんの部屋って壁に縦長《たてなが》のポスターが貼《は 》ってあったりするんだよね。結構《けっこう》ケバい絵のエッチっぽい女の子のヤツ」
新庄《しんじょう》の言葉を吟味《ぎんみ 》して佐山《さ やま》は大城《おおしろ》を見た。ノートパソコンを抱える彼に対し、佐山は微笑で、
「御老体《ご ろうたい》」
「な、何かな?」
「遠回しに言わせてもらうがね。――貴様《き さま》ろくな死に方せんぞこのエロ爺《じじ》い」
「うわ言い切りおったな。……それより新庄君、告げ口はよくないなっ!」
「え? だ、だって、ゲームは一日一時間で、趣味の延長だったらいいんじゃないの?」
と、首を傾《かし》げ、新庄は尻ポケットからカードのようなものを出す。
「ボクも一応持ってるよ。大城さんのとは違うけど、UCATでもらった携帯ゲーム機」
佐山が手に取って見たのは、小型の液晶《えきしょう》ゲーム機だ。中央に白黒の液晶があり、ボタンは丸いのが左右に一つずつとセレクト系が二つほど。液晶のパターンを見るに、ビルから飛び降りた人間を担架《たんか 》で空高く跳ねとばし、救急車に叩き込むという代物《しろもの》だ。
「時計モードもあるし、ゲームは普通のAモードと難しいBモードが選べるんだよ。Aモードは一度カンストしたことがあるんだけど、電池が切れて記録消えちゃった」
佐山は新庄の言葉を聞いて理解ありげに頷《うなず》き、しかし大城に言った。
「新庄君がおかしい原因はUCATにあることが今|解《わか》ったが、どうすればいいかね」
「ボ、ボク、おかしくないよっ」
「君は洗脳《せんのう》されている。ゲームと言えばテレビゲームやカラー液晶の携帯が普通だろう?」
「え? テレビでゲーム出来るの?」
「――御老体ー!これはもはや人格改造の域だぞ!」
「いや私もよく知らんよそのあたりは……。課員が余ったものをあげとるだけだしなあ……」
ふむ、と佐山は頷く。新庄に携帯ゲーム機を返して、
「これは大切にしておくといい。……で、今度、切《せつ》君の方にいろいろと啓蒙《けいもう》しておくので待っていたまえ。卒業生が置いていったものが保管されている筈《はず》だから」
「え? そ、そんな、いいよ、何か悪いよ」
「いや、君が住む国の年号が昭和ではないことを教える良い機会だ」
佐山は吐息一つで前に進む。と、同じように歩き出した大城の姿がいきなり消えた。
何事か、と眉をひそめたときだ。いきなり左手首の時計が振動した。
・――文字とはカの表現である。
声が聞こえ、時計の文字|盤《ばん》に赤い字が流れる。
皇居《こうきょ》で聞いた概念条文《がいねんじょうぶん》と同じ内容だ、と佐山は気づく。
が、何も変化がないように感じる。
周囲の風景もほとんど変わりがない。少し木々の種類が違い、土の匂《にお》いが強いくらいか。以前に重力方向が変わる概念《がいねん》空間を体験したせいか、
「ここは刺激《し げき》が少ないようだね」
「そりゃいつも派手なことばかりではないでな」
横を見ると大城《おおしろ》と新庄《しんじょう》がいる。
ふむと頷《うなず》き、佐山《さ やま》達はまた歩き出す。左右の森の向こう、畑が見えてくる。
農作物を遠くに見つつ、木々の間にある土の地面を前に進む。と、すぐに丘の上に出た。
視界が開ける。
青空と雲があり、その下には村があった。ずっと見てきた左右の畑は村と繋《つな》がっている。
村。木々を多く残しながら、その間に幾つもの家がある。家の多くは、石を積み、セメントで隙間《すきま 》を埋めた木屋根のもの。それぞれの家屋の横には、小さな菜園や倉庫がある。
木々や家屋の群れの奥、更に開けた土地があり、そこには緑の海が見えた。
「麦か」
「それと個々でジャガイモなど、といったところかな。概念空間内なので不安定でな。土壌《どじょう》改造で外からの土などを多量に用い、二十年ほど前に自給自足出来るところまで持ってきた」
「UCATの仕事の一環《いっかん》か?」
「ああ、だけどUCATの予算も有限でな。それ以上のこととなると、居留地《きょりゅうち》の住人に少し稼いでもらう方法を取っておる。技術や知識の提供や、UCATへの参加などで、な。……そして、帰化《き か 》を希望する場合は、率先《そっせん》して対処しておる」
「居留地内の人数が少なければ少ないほど、食糧管理などは楽、そういうことかね?」
大城が頷いたときだった。横の畑の中から低い声が響《ひび》いてきた。
「そう。そして新しい者を迎えるためにも、外に出せる者は外に出してむかねばならぬ」
土手《ど て 》を上ってきた影は巨大。佐山は身長ニメートルはあるその姿を見て、
「竜……?」
問う先にいるのは、黒い甲殻《こうかく》と皮膚《ひ ふ 》によって身を作った人型《ひとがた》の竜だった。
先鋭的な顔の中、鋭い目はこちらに向いている。わずかに長い首の下、なで肩の身体《からだ》は白の貫頭衣《かんとうい 》の上に大きめのフィッシャーマンベストをまとっており、足下は、
「地下足袋《じ か た び 》……」
スーパーで安売りされてるタイプのものだ。爪先《つまさき》に、土と苔《こけ》がついている。
佐山の視線に気づいたのか、ファーゾルトは口を開けて喉《のど》で笑った。爪先で地面を蹴《け 》って土と苔を落とし、左腕に抱えていた花と藁束《わらたば》を揺らす。
「竜神《りゅうじん》の御代《み だい》より受け継がれる二本|爪《つめ》にはこの靴が一番合っているのだよ。そして農作業にも合っている。そう思わないか? 人間の若者|Low《ロ ウ》―|G《ギア》の少年よ汝《なんじ》の名は? 私はファーゾルト、この1st―G居留地の長《おさ》であり語り部《べ 》だ」
体が大きく肺活量があるのか、言葉が一気に来る。
佐山《さ やま》は肩の獏《ばく》が尻尾《しっぽ》を丸めて腰を引くのを見つつ、
「私は佐山・御言《み こと》、|Low《ロ ウ》―|G《ギア》の暫定《ざんてい》代表らしい。宜《よろ》しく、異世界の長《おさ》よ」
言うと、佐山は右の手をさし伸べた。
対するファーゾルトは、あー、と喉《のど》を鳴らし、大きめの軍手《ぐんて 》をはめた右手を差し出した。が、彼の出した手は拳《こぶし》を握っている。
「1st―Gではこうだよ佐山・御言。民俗《みんぞく》学によれば武器を掴《つか》まぬことを意味するがそれよりも手を握り合うと怪我《け が 》をさせる連中が多くてな」
確かに、ファーゾルトの手は、軍手の先から爪が突き出ている。先は丸くなっているが、そこに白い削り痕《あと》が見える。だから佐山も右の拳を握った。
ファーゾルトの拳がこちらの拳を打つ。返すように佐山も打った。
「そうそれでいい女性のときは| 掌 《てのひら》で行うことを忘れずに。それが1st―Gの挨拶《あいさつ》で簡単に述べれば男は殴れ女性は撫でろというやつだ。市街十四番区の格言《かくげん》であり私も昔はよく従った」
ファーゾルトの言葉は、一気に放たれるものだが、聞いている分には聞き取りやすい。
音律《おんりつ》があるのだな、と佐山は分析。横の大城《おおしろ》が言う。
「1st―Gは文字を書くと力になるから、あまり書面技術が発達していない。竜族《りゅうぞく》は長寿《ちょうじゅ》で肺活量もあり、記憶《き おく》力も高いから記録係や裁判官、歴史の語り部《べ 》となっておったのだな」
「そう、裁判官の任は歳《とし》なので他に譲《ゆず》ったが語り部《べ 》としての役割は死ぬまで続く。今はこの喋《しゃべ》りをする者も少なくなったがそれも時代か。ああしかし私を見てもあまり驚かないので少し残念だよ佐山《さ やま》・御言《み こと》。そちらの新庄《しんじょう》も確かそうだったな」
「あ、あれは、その、子供だったし、よく解《わか》ってなかったんだよ」
うつむいて赤くなる新庄の横で、大城《おおしろ》が腕を組んでこちらに言う。
「初めて会わせたときにな。ファーゾルトの背におぶさって、……ジッパーが無い、と」
「だ、だって、あの頃見てたアレトルマン・セメントの背にはあったもの」
「また昭和のマイナー特撮《とくさつ》を何故《なぜ》君が……。奥多摩《おくた ま 》は電波が時差《じ さ 》つきで届くのかね」
ファーゾルトは喉《のど》で笑う。目を伏せ懐《なつ》かしそうに、
「大城の子供時代、初めて会ったときはもっと凄かったぞ。こちらを見るなりいきなり小便|漏《も 》らして驚いた挙《あ 》げ句《く 》わけの解らん奇声《き せい》を挙げて襲いかかってきたのでつい殴り倒してしまった。後の交渉に響《ひび》かなかったのが謎《なぞ》と言えば謎」
「殴って当然の人間だから殴ったところで交渉には響くまいよ」
「成程納得《なるほどなっとく》五十年来の謎が氷解《ひょうかい》した感謝する佐山・御言」
佐山とファーゾルトは拳《こぶし》を軽くぶつけ合う。半竜《はんりゅう》は、何か言いたげな大城を無視して、
「さて宜《よろ》しいかね暫定《ざんてい》交渉と行こう。| 公 《おおやけ》のことは公の場でゆえに広場で行うのがしきたりだ」
彼の言葉に頷《うなず》き、しかし、佐山はこう言っていた。
「出来れば、その前に語り部としての仕事をしてもらえないだろうか」
佐山の告げたことに、ファーゾルトと大城がこちらを見た。新庄だけが頷き、
「そう……、だね。佐山君もボクも、1st―|G《ギア》のことあまり知らないから」
「大城とは随分《ずいぶん》と違うものだな同じ種族だというのに。少々感動した」
|Tes《テスタメント》.とファーゾルトは短く言って、こちらに背を向けた。歩き出す。
大城はファーゾルトの後を追おうとしたが、一寸《ちょっと》こちらを見て、親指を下に向け、
「憶《おぼ》えておれよ」
「それが大人の言うことかね」
佐山が返すと、大城はわざとらしい嘘《うそ》泣きでファーゾルトの後を追う。
佐山は新庄と顔を見合わせて吐息。苦笑とともに早足でファーゾルトの後ろについた。
そして佐山はファーゾルトの背を見た。貫頭衣《かんとうい 》とベストの襟《えり》から生《は 》えるなで肩。その両脇に、甲殻《こうかく》や鱗《うろこ》に覆《おお》われていない箇所があった。腕《うで》一本分の太さと長さで、そこの肌が、火傷《やけど》の痕《あと》のように赤黒くひきつれて固まっている。
傍《かたわ》らに立つ新庄が小さく告げた。
「翼《つばさ》を自ら断った痕だって、そう、聞いたことがあるよ……」
その声が聞こえているのかいないのか、ファーゾルトが前を、木々と家屋の間、麦畑の横にある土の広場を見て言う。
「よく晴れている空気も風も良い過去の語りは遠く広く流れるだろう。まずは交渉の前に聞かせようか我らの大地の過去と――」
一息と言うよりも、呼吸を更にためてから、ファーゾルトはこう告げた。
「――滅びの語りを」
●
ブレンヒルトは夢を見ていた。1st―|G《ギア》の崩壊《ほうかい》を再現する夢だ。
夜の闇に、自分達の住む小屋が揺れていた。地面ごと、殴られたかのように振動する。
小屋の中、ブレンヒルトは走っていた。両の腕で鳥の入った籠《かご》を抱え、自分の信じる者の名を呼びながら、部屋を行き来する。
遠く、地響《じ ひび》きの音が腹を打つように聞こえ、近く、巨大な振動音が骨を震わせる。
音を聞き、涙を流しながら彼女は叫ぶ。そして何度も見た部屋をまた回る。
中央の部屋は暖炉《だんろ 》が崩れて中の石が焦《こ 》げ散らばっていた。
奥の部屋、壁際《かべぎわ》に据《す 》えられた六行|鍵盤《けんばん》は落ちてきた梁《はり》で砕かれていた。
傾く部屋の壁や天井には幸運の意が書かれた巻き布が飾られている。祭りの品だ。
「どうして、お祭りの日に……」
地響きが強く来て、彼女は転んだ。籠を地面にぶつけ、その上に倒れそうになる。
そのときだ。背後から腰を支えてくれる腕があった。
籠を抱き上げ、振り返れば、そこには赤い髪の女性がいた。
「お姉ちゃん……」
ええ、とグートルーネは頷《うなず》いた。こちらを抱きしめようとして、抱えられた鳥籠《とりかご》に目をとめる。揺れる小屋の中、彼女は笑み一つで頬《ほお》にキスをくれた。
「ナイン、いい? お姉さんはこれから王城《おうじょう》に行きます。王城に置かれた概念核《がいねんかく》に何かが起きているとしか思えないわ」
「……え?」
ナインと呼ばれたブレンヒルトの疑問とともに、また地面が揺れ、屋根が軋《きし》んだ。
グートルーネは一度上を見て、
「ここからだと兵器研究所の方が近いでしょう。いざとなったら門 が開くから、そこで待っていて。研究所には先生のお兄さん、ハーゲン様もいるから、御菓子《お か し 》でももらうのよ?」
「やだ、皆、一緒じゃないと嫌。先生達はどこ? いないの?」
問いに、グートルーネは口を噤《つぐ》んだ。が、ブレンヒルトは問いを重ねる。
「奥の部屋、グラムの御本《ご ほん》が無かったよ。ファブニールの御本も。……ジークフリートは? 裏切ったの? ねえ、あの人は、裏切ったの!?」
問いを、グートルーネは正面から受け止めた。目を伏せ、一度|口《くち》を開き、
「――――」
閉じた。
一息を吸い、グートルーネは目を開けた。こちらをまっすぐ見つめ。
「裏切った――、かもしれない。でも、そうじゃないかもしれないわ」
彼女の言葉にブレンヒルトは自分の表情がわずかに明るくなったことに気づく。グートルーネも、彼のことを信じているのだと、そんなことを思う。
グートルーネはこちらを引き寄せ、鳥籠《とりかご》ごと浅く抱きしめる。
「お姉さんが確かめてくるから、貴女《あなた》は先に逃げなさい」
「い、一緒に、お姉ちゃんだけでも」
言うと、グートルーネがゆっくりと身体《からだ》を離した。首を横に振る。
「私は王家の人間なの。今夜は祭りで重臣《じゅうしん》達も地元に戻ってるから、地下に入ることが出来るのは私や先生だけ。そしてそこで、何かが起きてるはず。――行かないと」
「何故《なぜ》? 何故行くの?」
「何かを救うためよ、きっとね」
苦笑。
「お父さんは、お母さんがいなくなってしまって弱くなられたわ。本当なら私が救《たす》けてあげるべきだったんだけれども、……そのときが今、来てるのよね。何が起きようと何がどうなろうと、私には王家の人間としてすることがあるわ」
「ジークフリートが裏切っていたら、どうするの?」
「大丈夫、何があっても、彼を説得するから。共に、この世界を残し、救うために。……でも私は王家の人間だから、彼に対して厳しいことを押しつけるかもしれない。もしそうなったら、貴女は、――彼をお願い」
「そうしたら、そうしたら、いつか、また皆、一緒になれる?」
「なれるわ。私が彼を説得して、貴女が彼を支えるの。そしたら……、ずっと一緒よ」
絶対だよ、と約束したブレンヒルトにグートルーネは笑う。
「ええ、ずっと一緒にいられるようになるわ。きっとね」
頭を撫《な 》でられた。柔らかい感触《かんしょく》にブレンヒルトは安堵《あんど 》して、ふと、笑顔を作る。
「いい子ね、ナイン」
グートルーネはそう言って、自分も笑顔になった。
周囲の揺れと振動音の中、鳥籠の鳥が鳴く。
その声が耳元で聞こえ、ブレンヒルトは夢から覚めた。
●
目を開けたブレンヒルトがまず見たのは、横向きになっている美術室だ。
作業台に顔を載せて寝ていた。向きは左。体を起こすと首が固まってる。
頬《ほお》に触れる。指に来る感触《かんしょく》は、作業台の削れた表面を写したタイル模様《も よう》。
「このところ、ろくな生活してないわね」
と、作業台に視線を落とすと、小鳥が箱から出てこちらを見上げていた。
餌皿《えさざら》を見ると中身は明らかに減っている。食欲は充分なようだ。
気まぐれに手をさし伸べると、羽根をばたつかせて跳ね、一気に肩まで飛び乗ってきた。
あは、とブレンヒルトは微笑。首を回すと痛みがあるが、我慢。囀《さえず》る小鳥と視線を合わせる。
目に浮かんだ涙は夢のせいか首の痛みのせいか、それとも小鳥が元気なためか、解《わか》らない。
ブレンヒルトは視線を落とし、黒猫を探した。
が、いない。
記憶《き おく》を思い返すと、眠りに落ちる直前に風に変えたシーンが脳裏《のうり 》に浮かんだ。
ドアの方に目を向けると、鍵《かぎ》は開いている。
「とりあえず、定時連絡には送ってあげたのね……」
飼い主として安堵《あんど 》の吐息。ドアから視線を外すと、目は自然と美術室の中央に向いた。
そこにはイーゼルに載った描きかけの絵がある。
黒と緑の二色で固められた森の中、一軒の小さな小屋が見える。薄い黒で下地が塗られた小屋を見て、ブレンヒルトは小鳥に告げる。
「これがね、私のいた世界……」
苦笑。
「この世界で最後に交わされた約束は、全て反古《ほ ご 》にされたわ。姉さんは戻らなかった。彼を説得出来なかったのね、きっと。そして、彼は裏切り、私達を見捨てたらしいの。残されたのは、全てを信じていた私だけ」
でも、とブレンヒルトは言い、小鳥を見た。
小鳥は囀っている。楽しそうに尾を上下に小さく振りながら。
ブレンヒルトは囀りを聞きながら、イーゼルの前の椅子《い す 》に座った。わずかに顔を伏せ、
「聞くんじゃなかったわ……。彼がお前を救った理由を」
そして、ブレンヒルトは夢で見た光景を思い出し、つぶやいた。
「彼に殺されに城へ行ったようなものなのに、どうしてあんなことを言ったの? 姉さん。彼をお願いとか、ずっと一緒にいられるから、なんて……」
問いに答える者はいない。ただ、小鳥が囀りをやめ、首を傾《かし》げた。
●
1st―|G《ギア》居留地《きょりゅうち》にある広場の中央。地面の上に置かれた幾《いく》つかの青いプレートがひっくり返されていた。それらプレートの裏面には床 とあり、表面には広場 とある。
佐山《さ やま》達は自分の尻の下のプレートを床 にして座り込み、ファーゾルトの話を聞いた。
それは数知れぬ時の果てから始まる竜神《りゅうじん》の大地|作成《さくせい》の要約だった。
数分の語りの後、連なる言葉が人の生まれを語り、王国の発生を謳《うた》った。
ヴォータン王国かね、と問うた佐山にファーゾルトは頷《うなず》いた。
広場を通りかかる村人、有翼《ゆうよく》の者や大型人種と挨拶《あいさつ》を交換しつつ、彼は語りを続ける。
王国の指導者が三代《さんだい》前にさしかかったあたり、他の竜神の世界から来た空を舞う黒竜《こくりゅう》を捕らえた頃から、ファーゾルトの語りに伝聞形《でんぶんけい》が無くなった。
時は進み、あるとき、自分達の世界に独りの妙な来客《らいきゃく》があったと言う。
「彼は竜神の子孫《し そん》ではなく我々にとって無意味な土地から来た。折りしも妻を失ったヴォータン王の機竜《きりゅう》の一つが暴れるところに彼は駆けつけそれを打ち伏せた」
一息。ファーゾルトの首筋《くびすじ》や脇腹《わきばら》のあたりから吸気音《きゅうきおん》が入る。
一分ほどの後に口を開いて出るのは、語りとしての音律《おんりつ》ではなく、会話としての音律だ。
「ジークフリートが概念《がいねん》を護《まも》ろうとした王とファブニールに同化したレギンを聖剣《せいけん》グラムで殺し、概念を暴走させて1st―|G《ギア》を閉鎖《へいさ 》消滅に向かわせた。更には駆けつけてきたグートルーネ姫を殺害したというのが大方《おおかた》の意見でありジークフリート本人も認めていることだ」
そして、
「1st―Gの住人の多くは今でもそれを恨んでおり彼らは|Low《ロ ウ》―Gに避難《ひ なん》した後も聖剣グラムの破壊とジークフリートの暗殺を狙っている」
「何故《なぜ》、聖剣グラムを破壊することを望んでいるのかね? 君らの世界の武器だろうが」
「聖剣グラムは意志を持つ概念兵器として作られたのだよ少年佐山・御言《み こと》。主人をジークフリートと定めたことに罪はあると考えられている。1st―Gの武闘派《ぶ とうは 》はグラムから1st―Gの概念核を入手したら、それをもって本格的な復讐《ふくしゅう》に動き出すだろう」
ふむ、と佐山は頷《うなず》いた。
「あのジークフリートの過去がそのようなものだったとはね……」
「街を救ったとき、彼は負傷して賢者《けんじゃ》のレギン翁《おう》に保護された。レギン翁のところには妻を亡くして悲嘆《ひ たん》にくれる王が遠ざけておいた姫君グートルーネと概念戦争で孤児となった長寿《ちょうじゅ》族のナインという少女がいてな。初めはこのLow―Gの情報を聞くつもりだった」
「敵対は、しなかったのか?」
「幾《いく》つか衝突《しょうとつ》もあったらしいがジークフリートと姫は仲が良かったよ。音楽、――そうジークフリートは音楽も上手《じょうず》でそこから共通項が見えたのだよ」
だが、とファーゾルトは言う。
「星祭りの日だった。我々がそれぞれの治める土地に戻り王城が最も手薄《て うす》となったときそれが起きた。いきなりに地震と空が割れ、世界は取り返しがつかなくなった」
「……ジークフリートが、それを?」
「彼はそのとき既《すで》に王城《おうじょう》内の門 で去ってしまっていた。二度と会っていない。我々は姫君の望み通り姫君を城の展望台に連れて行き演説を行ってもらった。1st―|G《ギア》が敗北し崩壊《ほうかい》するので王城内と市街側にある両の門 から|Low《ロ ウ》―|G《ギア》へと避難《ひ なん》しろと。それがなければ市街中央部の混乱は収まらなかったろうが姫君はそこで力つき……」
「…………」
佐山《さ やま》達の無言に対し、ファーゾルトは目を伏せて頷《うなず》いた。
「世界が崩壊する中を我々は東西の門 に別れた。王城に近い門 からはここに。兵器研究所に近い門 からはおそらくこの日本の中国地方という地域に出たはずだ。元々我らの門 は欧州|独逸《ドイツ》方面に多く開いていたからな、向こうが主だろう」
これが私の知る1st―G崩壊の話だと、ファーゾルトは言った。
横に座る大城《おおしろ》が胡座《あぐら》の上に置いたノートPCを叩きながら、
「そこからが一《ひと》苦労だったらしいんだな。……王城側から脱した和平派《わ へいは 》はすぐUCATの保護下に入ったが、他の過《か 》――、武闘派《ぶ とうは 》は保護を拒否して、今も争いを続けておってな。ただ、王城側の脱出者の内、概念《がいねん》空間技術をもって分化して武闘派になった王城派 の者達は、昨日、ああいう結論を迎えてな」
大城は頷く。日の下で、笑みを作り、
「そういうことを含めての暫定《ざんてい》交渉だな。……まあ、気楽に行こうか」
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第十九章
『意の尚早』
[#ここから3字下げ]
焦ることと急ぐことはどう違うか
答えは非常に簡単で
勝敗の結果がそれを決めるだけ
[#ここで字下げ終わり]
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144 ●
ファーゾルトとの事前交渉は前提《ぜんてい》確認から始まった。
「今のところ市街派 は合流する気配がない。王城派《おうじょうは》 の合流に関することを主に据《す 》えて交渉しよう。――|全 竜 交 渉《レヴァイアサンロード》の前準備となる交渉だな」
そして幾《いく》つかの事項を告げ合っていく。
今後もファーゾルトが代表を継続するのをUCAT側からも推《お 》すことや、王城派 合流後の一定期間は居留地《きょりゅうち》にUCAT特課《とっか 》の警備部を仮設すること、警備にはなるべく文化面で似たところのある独逸《ドイツ》UCATからの派遣が望ましいことなどを確認。
佐山《さ やま》が応答し、新庄《しんじょう》が頷《うなず》き、大城《おおしろ》がキーボードを叩き、記録をとっていく。
そして前提の確認が終わった後、ファーゾルトは言った。
「明後日《あ さ っ て》には王城派 の者達一六七名がここに合流する。彼ら全員が生活して耕《たがや》していく土地の確保は不可能だ」
「それは、この居留地を造る概念《がいねん》空間の拡大を要求しているのかね?」
ファーゾルトは頷かない。佐山は大城に問うた。
「拡大を行うと、どうなるかね?」
「既《すで》にここの半径は一キロに渡っておる。たとえば半径を百メートル拡大した場合、面積比は二十一パ―セント増し。……単純計算ではあるが、年間予算がこれからずっと二割増えるとはどういうことか、解《わか》るかな? なお、ここの維持費には年間十|桁《けた》の予算がつぎ込まれておる」
成程《なるほど》、と佐山は姿勢を正していた。そして、ファーゾルトに向かって、
「――王城派 が合流するからと言って、単純に居留地|拡大《かくだい》の許可は出来ん」
「何故《なぜ》か?」
「先ほど帰化《き か 》の推進も行っていると聞いた。それはつまり、この1st―|G《ギア》の概念下でなくても生活出来る者は、なるべくここに置かぬということだね?」
「そうだ」
「ならば合流者の種族リストを確認し、どれだけ帰化出来るかを考える必要がある。帰化する者には仮設住宅を造って食糧配給を優先し、最終的に残る者達は家屋を建てて畑を広げてもらおう。そうやって残存者《ざんぞんしゃ》数を出した上で、改めて土地問題を協議するべきだと思うが?」
苦笑。
「そのことくらいは解《わか》っている筈《はず》だ。だから先ほど言ったのだね? 彼ら全員が生活して耕していく土地の確保は不可能だ、と。だから私の問いに無言で答えたのだろう?」
言うと、わずかな沈黙の後、ファーゾルトは喉《のど》で笑った。
「そうとも私は事実を述べただけだ少年佐山・御言《み こと》よ君が曲解《きょっかい》しただけでね」
佐山が口元に笑みを浮かべると、隣《となり》にいた新庄が一息つく。
佐山《さ やま》は思う。何か始まりつつあるな、と。
素早く彼我《ひ が 》の戦力計算を行う。
こちらはUCATとしてこの概念《がいねん》空間をどうとでも出来る力を持つ。が、その力を振るったが最後、1st―|G《ギア》の|全 竜 交 渉《レヴァイアサンロード》への協力は遠のくだろう。
逆に向こうは佐山の知らぬ過去を有し、被害者という立場から要求を行ってくる。特に王城派《おうじょうは》 の急な合流を盾にされると、不明な点が多く、その要求の真偽《しんぎ 》が見分けづらい。
……向こうはとにかく要求をしてくる、か。
駄目《だ め 》でも構わず何か理由をつけて要求し、こちらの判断ミスで要求が通れば儲《もう》けもの、だ。
良心は、持った方が悪い。
佐山は、自分の予測を信じることにした。交渉は既《すで》に始まっている、と。
一息。それとともに、佐山は胸のポケットからハンカチを取り出し、額《ひたい》を拭《ぬぐ》った。
●
ファーゾルトは佐山を見ていた。
今、佐山は胸のポケットから取り出したハンカチを片手で畳んでいる。
空を見ると太陽は中天《ちゅうてん》。空を見上げたこちらに教えるように、佐山の声がする。
「暑いものだね」
そうだな、とファーゾルトは頷《うなず》き、視線を下に。
まっすぐこちらを見てくる佐山を、若いのだろうな、とファーゾルトは思う。
先ほどの会話を思い出す。目の前の少年は軽い試験にちゃんと反応し、こちらの意図を見抜いた。そのあたりはUCATの交渉役でも行う。注意力の問題だ。
が、この少年は故意《こ い 》に自分が勘違《かんちが》いした振りをして、実際の対処策まで浅いなりに考えた。
出てきた対処策は未熟だが、そのあたりを詰めるのは専門家の役だ。
指導者は過《あやま》たずに交渉し、指針を決めることが肝要《かんよう》。
ファーゾルトはまだ佐山を完全には判断しない。
眼前、空を、中天の太陽を見上げていた佐山が上着を脱ぎ始めていた。
袖《そで》を粗《あら》く揃《そろ》えて表面が見えるように畳むと、それを隣《となり》にいる新庄《しんじょう》に手渡す。
そのとき、ファーゾルトは佐山が新庄に何かを囁《ささや》くのを見た。
直後。新庄が目を見開き、小さな声で佐山にこう告げていた。
「な、何言ってるんだよ。ボク、で、出来ないよそんなこと……」
新庄はこちらを見た。そして慌《あわ》てて身を正し、佐山の上着を抱えた。
佐山はやや撫然《ぶ ぜん》とした表情で身を戻す。ハンカチで額を拭うと、シャツのポケットにそれを入れた。ハンカチはシャツからわずかにこぼれた状態。
そのまま、佐山はこちらを向いた。
横、新庄《しんじょう》が視線を窺《うかが》うようにちらちら送っていることに、佐山《さ やま》は気づいているのだろうか。
そしてファーゾルトは新庄が抱える佐山の上着を見る。胸ポケットがこちらを向いていた。
ファーゾルトは目の前の少年を思う。若いのだろう、と彼は結論し、次の動きに入った。
●
佐山はファーゾルトの声を聞いた。
「要求は簡単なことだよ少年佐山・御言《み こと》。――ジークフリートと聖剣《せいけん》グラムを概念核《がいねんかく》ごとこちらへ引き渡してもらいたい。それまで1st―|G《ギア》の概念核の使用権を君達に認めぬし市街派 の説得工作にも協力をしない」
「……何?」
疑問に、ファーゾルトは頷《うなず》きもせず、
「我々は概念戦争の戦後においてこの居留地《きょりゅうち》で協力することは認めてきたが|全 竜 交 渉《レヴァイアサンロード》については全くの白紙状態だ故《ゆえ》にここで今一度の仕切り直しを要求したい。戦争犯罪者の引き渡し。これが約束されれば王城派《おうじょうは》 も市街派 もこの和平派《わ へいは 》に準ずる。いや準じさせてみせよう」
「聖剣グラムを概念核ごと君達に引き渡すということは――」
「市街派 の説得には必要なことだと思うがどうだろうか。もし私達が彼らに合流を説いても私達に力が認められていないことを知ったら準じてはくれぬと思うが?」
佐山は沈黙。言葉を作らないこちらを見て、ファーゾルトは言う。
「この概念空間を解くことを交渉材料に使っても無駄《む だ 》だとは言っておく」
そんなことはしない、と佐山は言わなかった。必要ならば、する。ファーゾルトは無駄だと牽制《けんせい》したが、言葉だけのものだ。実際に行えばどうなるかは解《わか》らない。
しかしそれは最後の手段であり、使えば両者の関係が終わる手段だ。
佐山は一息。
「こちらを試すのはやめていただこう。余計《よ けい》な物言いは交渉の妨げになる」
「物事を立て続けに言ってしまうのが語り部《べ 》の特徴でね」
謝罪も無しだ。そのことに佐山は妙な安心感を得た。
誇り高い相手だ。1st―Gの特性なのか。たとえどのように身を落としていようと、どのような方法を用いようと、自分達の自尊心《じ そんしん》を優先するところがある。
……意固地《い こ じ 》で、直線的だ。
味方としては扱い易《やす》いが、敵に回った場合、逸《そ 》らして避けることが出来ない相手だ。
それを思うと、佐山はまた、胸のポケットからハンカチを取り出した。
額《ひたい》を拭《ぬぐ》うと、横の新庄が小さく肩を震わせた。
そのときだ。ファーゾルトが新庄の方へと顔を向けた。
「そう怯《おび》えることはない大城《おおしろ》がさっき言った通り気楽に構えるといい」
あ、うん、と新庄《しんじょう》が頷《うなず》き、正座していた脚《あし》を軽く崩した。
直後。ファーゾルトの手が動いていた。
「あ」
という新庄の声より早く、ファーゾルトが新庄が抱えていた上着を手にかっさらっていた。
「いい上着だな。見せてもらって構わないかな?」
という疑問とともに、ファーゾルトは手にしたスーツから一つのものを下に落とした。
佐山の視界の中、落下するのは携帯電話。音声付きの録画も出来るものだ。
ファーゾルトが、おっと、と声を挙げ、空中でそれを掴《つか》む。
そして彼は、快音とともに携帯電話を握り潰した。
「あ、これは申し訳ない。個人的に謝罪しよう。しかし……」
ファーゾルトが新庄にスーツを戻し、空《あ 》いた手に携帯電話の残骸《ざんがい》を掲げながら、
「まさか稼働中だったということはなかろう? 私を警戒《けいかい》して、合図とともに横から映像録画しようと。そのようなことがありはしないだろうな」
●
ファーゾルトは見た、己《おのれ》の言葉に佐山《さ やま》が表情を二度変えるのを。それは緊《きん》から険《けん》に、そして険から喜《き 》へと。表情の変化を見て取るファーゾルトは思考を走らせる。
……仕掛けたことに気づいただろうか。
ファーゾルトは、一昨日《おととい》自殺した人狼《じんろう》の検死《けんし 》に立ち会ったとき、佐山の装備品などを検分《けんぶん》していた。そして佐山が交渉役になると知ったとき、ファーゾルトは一つの細工《さいく 》を思いついた。
録音機のスイッチを入れてバッテリーを切らしておき、映像録画出来る携帯電話は手つかずにしておく。もし佐山がそれらを持って交渉に来て、何か証拠《しょうこ》を残そうとしたら、携帯電話を使うしかなくなる。
……だが、携帯電話のマイクは弱いから、一体型のカメラとともに表に出さねばならない。
隠し場所は解《わか》りやすい。先ほど上着のポケットからカメラが浅く覗《のぞ》いていた。
録画は行われていたという確信がある。先ほどの佐山と新庄の小さな遣《や 》り取り、そして今見た新庄の身動き。
稚拙《ち せつ》な連携《れんけい》だ、とファーゾルトは思う。だから上着を奪い、携帯電話を砕いた。
携帯電話の稼働は佐山が交渉に危険を感じ、隠れて証拠を残そうと思った証拠。ならばそれを諌《いさ》める形で取り上げ、破壊することは、退路は無いということを知らせるプレッシャーだ。
今、佐山は砕かれた携帯電話を見ている。うつむきのまま、確認するように、
「確かに、稼働はさせていなかったな」
嘘《うそ》をつけ、とファーゾルトは内心で苦笑。視界の中、佐山がこちらの左に座る大城《おおしろ》を見た。
「まあいいか、記録は……、そこの御老体《ご ろうたい》がつけておられるし」
ファーゾルトはやれやれと佐山《さ やま》の視線を追い、キーボードを叩く大城《おおしろ》を見た。一つ頷《うなず》き、
「残念だが大城の記録は証拠《しょうこ》にならない」
「……何故《なぜ》? ど、どうして?」
戻した上着を抱え込む新庄《しんじょう》の問いに、ファーゾルトは首を下に振った。
「そのデータは楽に改竄《かいざん》出来るからだ。故《ゆえ》にこのたびの交渉はここでこのような形で決着をつけていきたい」
と、ファーゾルトは自分のベストの| 内 懐 《うちふところ》から一枚のキャンバス生地《き じ 》を取り出した。
1st―|G《ギア》の文字。読めるはずだ、ここではイメージが先行する。
内容は、自分の要求条件を飲む契約書だ。承諾文《しょうだくぶん》の最後には下線が五センチほど設けてある。
佐山が下線に目をとめたのを悟り、ファーゾルトはわずかに笑みの入った口調で言う。
「そこに捺印《なついん》を。……印鑑《いんかん》は持ってきているな? バッテリー切れで動かぬ録音機とともに」
●
新庄は佐山の上着を抱きしめた。腕に強く力を込める。
そして横にいる佐山を見る。
この人は、これからどうするんだろう、と思う。どうにか出来るのだろうか、と。
窺《うかが》う視界の中、佐山は差し出された契約書を無表情に見ている。
と、不意に佐山が動いた。右手で胸ポケットのハンカチを引き抜き、手首で軽く振る。
ファーゾルトを見て、
「お見通しのようだな。確かにこちらはバッテリーが切れていた。無用の品か」
と、ハンカチの中からメモリ式の携帯録音機を出す。見れば動作ランプは沈黙で、電源は入っていない。彼の視線は携帯録音機ではなく、砕けて地面に落ちた携帯電話に。
「言質《げんち 》の記録を取り、後で要求修正でも行うつもりだったのだがね」
吐息とともに佐山は空《あ 》いた左手で| 懐 《ふところ》から印鑑ケースを出した。
そして佐山は自分の横に携帯録音機をハンカチごと置き、印鑑を目の前に置いた。口を開き、
「捺印する気はまだ無い」
「いずれはあるということか?」
ファーゾルトの声に佐山は答えない。
無言。そして表情も無い。
佐山に対するファーゾルトが動きを止めていた。
新庄は、初めて見る佐山の沈黙と無表情に対して浅く息を飲み、しかし、
「…………」
鼓動《こ どう》が落ち着いた。
何故だろう、と思う。こんな風になった彼を、かつて見たことがある。そんな気がした。
それはいつか。
記憶《き おく》を働かせ、一つの過去に辿り着いた。
一昨日《おととい》の夜。人狼《じんろう》を向こうに、彼は自分の前に立ったのだ。
新庄《しんじょう》は思う。あのときは、あれから一体どうなっただろうか。
思い出す。あのとき、佐山《さ やま》は前に出て、敵に告げたのだ。挑発《ちょうはつ》の一言を。そしてまた今も、
「――文字を信じる者は文字に裏切られることを憶《おぼ》えておくといい」
佐山が右手を軽く上げ、
「最初に言っておく。出された要求は一つも飲むことが出来んと、ね」
「ならばこれを見てはどうだろうか?」
と、新庄達に見えるように、ファーゾルトはベストの内側から分厚い本を出した。
キャンバス地を束ね、板と布で作られたハードカバー。それを新庄は見たことがある。
「昨日の騎士《き し 》が持っていた……」
「そう我々のいたヴォータン王国の消滅に関する調査書だよ王城派《おうじょうは》 の有志が我々|和平派《わ へいは 》と市街派 の両方を訪ねて記録を取りそしてまとめたものだ。我々や市街派 には作り得ない中間志向の王城派 だから作り得た記録だな」
佐山が調査書を受け取り開く。
横から覗《のぞ》き見た本の中身、そこに記されているのは危険な文字を取り払われて綴《つづ》られた破壊の数量計上だ。佐山が頁をめくるたびに、横から覗く新庄は破壊のイメージを感じていく。
アートン中央通りは、小《しょう》公園で開かれていた祭りの飾りごと砕かれ死者三十八名。
エトス三丁目は木造の学校があったが、避難した人々ごと潰《つぶ》されて死者九十一名。
再開発三番区は避難|勧告《かんこく》が届かず、開拓《かいたく》村は何も知らずに消されて死者四十六名。
他、幾つもの地区や自然の上で起きた家屋被害、家畜など含む財産の消失、そして土地などにおける損失価値計算など、そこには全てが計上されていた。被害総額は、
「――賢石《けんせき》を通貨として換算《かんざん》するとUCATがこの居留地《きょりゅうち》にかける維持費にして七千二十二年分だ。現状六十年を世話になっていると計算しても六千九百六十二年分。一人の男と剣で引き替えに出来るならば安いものだと思うのだがどうだろうか」
暴論《ぼうろん》だ、と新庄は彼の言葉に息を飲んだ。
内心に浮かんだ焦りを、ファーゾルトに悟られないように、ゆっくりと目を動かして佐山を見る。すると、視線の先に座る彼は、相変わらずの無表情と無言だ。
新庄は思う。彼はこれからどうするのだろうか、と。
そして新庄はもう一つのことを思った。
ファーゾルトが先ほど携帯電話を壊してから言った言葉。
……合図とともに横から映像録画しようと……。
その言葉の意味が解《わか》らない。そんな役割を、自分は与えられていなかった。
だが、解《わか》らないままであっても、全てが進行していくことを新庄《しんじょう》は知っている。その上で、おそらく佐山《さ やま》が何かを考えているということも。
●
佐山はファーゾルトを見ていた。
ファーゾルトも、先ほどからずっとこちらを見ている。それを知った上で口を開く。
「人の命を価値化《か ち か 》するとは、また忍びないことだね」
「それが必要な交渉ならばその通りにするのが我らの武器の選び方だ」
「つまりは今、君は、金の代わりに人の命を要求しているわけだね?」
「要求? 違うなそれは今ここで私が行っているのは可能性の提示であり君が行うのは選択だ少年佐山・御言《み こと》よ。私は損害|賠償《ばいしょう》の支払い方法を提示する。君は祖先の過《あやま》ちに対して七千年分の費用を払うのか彼とグラムを差し出すのかを選ぶのだ」
「私が彼らを差し出したとき、私は人の命を代価として売ったことになるのか」
「そうその場合はな。私達は違う道も用意しているのに金の払えぬ君がその道を選んだだけだ。――私達に痛むところはない」
佐山は思う。先ほどの大城《おおしろ》の話によると、この居留地《きょりゅうち》の維持費は、年二割を増やすことさえも不可能だ。七千年分の負債《ふ さい》を払うことは絶対に出来ない。だからまず問うた。
「それほどまでにジークフリートとグラムには価値があるか?」
「あるとも」
そうか、と佐山は、目の前に置かれた契約書と印鑑《いんかん》ケースを手に取った。
「新庄君、上着の胸ポケットからペンを」
あ、はい、と新庄が一本の銀色をしたボールペンを引き抜いて寄越《よ こ 》す。
佐山は契約書を裏返すと、調査書の表紙を机代《つくえが》わりにして一文を書いた。印鑑をケースから出して自分の書いた一文の上に捺印《なついん》し、ファーゾルトの前に置く。
「それほどまで価値を求めるならば、こういう方法で解決しようではないか」
皆が佐山の提示した契約書の裏側を見た。
新庄が息を飲み、ファーゾルトが手指を握り込み、大城が苦笑した。
契約書の裏側に書いた一文を佐山は読み上げた。
「現状存在する七千年分の負債に、更に七千年分を追加し、半竜《はんりゅう》ファーゾルトの身柄《み がら》はそのままに彼の全権利を買い取る。――命を代価にさせようとする輩《やから》にはこれでいいだろう」
●
「……交渉相手を買うだと!?」
ファーゾルトが叫んだ。風が起き、髪が乱れるが佐山は構わない。口を開き、
「――それが必要な交渉ならばその通りにするのが我らの武器の選び方だ。貴様《き さま》らの言葉だな。そして私達の共通|見解《けんかい》になった筈《はず》だ。……金が払えねば命を売れ、と」
苦笑。
「逆に言えば、金が払えれば命を買えると言うことだ」
「――――」
「我々は必要ならば払うぞ。何年かかろうと誰が苦しもうと貴様らが拒否しようとも。だから敢《あ 》えて言おう。――金のない貴様らが持つのは誇りではなく貧乏人《びんぼうにん》の奴隷根性《どれいこんじょう》だ」
「奴隷だと? 言ったな? 原住民風情《げんじゅうみんふぜい》が……」
「原住民? 我々も随分《ずいぶん》と進化したものだ。黄色い獏と呼ばれた頃が懐《なつ》かしいものだね」
佐山《さ やま》は苦笑を深くする。
「ファーゾルト、我々の種族を教えよう。経済的動物《エコノミックアニマル》日本人だ。金の問題なぞ恐れるものではない。負債《ふ さい》? 積み上げよう。政治? 金で動くものだよ。遺恨《い こん》? 金のない者のひがみだよそれは。さあ、だからファーゾルトよ、同胞《どうほう》達の合計一万四千年の安寧《あんねい》のため、我らが元に下《くだ》れ。そして言うのだ、身柄《み がら》だけは1st―|G《ギア》に置いたまま我々の持ち物として――」
頷《うなず》き、
「……交渉要求を全て取り下げます、と。ああ、頭を下げることはない、君は買い取られて同胞になるのだから。資格は充分だ。我々さえしたことのない命の買い取りを推《お 》すのだから」
そこまで告げて、佐山は調査書を地面に叩きつけた。そして告げた。
「戯言《ざれごと》だなファーゾルト……」
息を吸い、
「一体《いったい》何だこの調査書は? これは確かに真実を含んでいるかもしれんがね、だが、事実はどれだけ含まれている? 調査と言うならば、第三者機関、もしくは我々の立ち会いの元で行え。
そうでなければこれは単なる参考資料だ。……交渉の場に不確かなものを出すのが1st―Gのやり方か!?」
並べられた言葉よりも、最後の一言に対してファーゾルトは反応した。
噛《か 》みしめた口の奥から、牙《きば》の軋《きし》みを強く立てた。
が、ファーゾルトの力が見えたのはそこまでだった。
彼はゆっくりと手を伸ばし、叩きつけられた本を取る。そのまま長い一息をつき、
「――確かにこれは調査書としては私意《し い 》が入っていよう。だがこの会話が記録に残らぬことを逆手《さかて 》にとって、我々の思いに対して暴言《ぼうげん》を吐く、か?」
問いに対し、佐山は笑みを作り、見せる。
「暴言? 君の調査書が使い物にならぬことへの叱責《しっせき》だ。……私としては、君がしていることは1st―Gの価値を貶《おとし》める行為だと言ったつもりだが? 曲解《きょっかい》したならば謝罪しよう」
否、とファーゾルトは身を引き、本を胸に抱く。怒りを押し殺した声で問うてきた。
「どちらにしろ我々の要求を認めなければ我々は概念核《がいねんかく》の使用権を与えぬ。……どうやって私から概念核の使用権を得るつもりか聞こう」
問いに、佐山《さ やま》は、周囲を見渡した。ここから見える家屋は日中であるため窓が開いており、中を覗《のぞ》くことが出来る。影となる家の中、自分達の世界とは調度《ちょうど》品の類が少し違うことが見て取れた。どの家も壁はむき出しで、花などが活けられている。
その中で、佐山は一《・》つ《・》の《・》も《・》の《・》を探していた。
が、幾つかの家屋を遠目に見たところ、無い。自分達の世界ではあって当然なのに。
……外から簡単に持ち込むことも出来るだろうに、そ《・》れ《・》が無いのは……。
理由は簡単だ。1st―|G《ギア》では|そ《・》れ《・》が元から存在しない、もしくはあまり必要とされない。またはUCATが1st―Gにそれを渡すことを警戒《けいかい》し、渡していない。
そのどちらかか、両方だ。
そこに気づいたとき、佐山はもう一つの事実に気づいた。この交渉の真意《しんい 》に。
「…………」
無言とともに、身体《からだ》から力が抜けた。そして熱く本気になりかけていた頭が冷える。
佐山は思う、もし自分が考えるこの交渉の真意が正しいのならば、
……ファーゾルトを叩き潰《つぶ》すように話を進めるのは得策ではない。
だから佐山は告げていた。一息をつき、吸い、落ち着いた声で、
「我々はジークフリートと聖剣《せいけん》グラムの代わりに、……七千年分の予算に等しい技術|供与《きょうよ》を行うか、もしくはその技術の使用許可を与えよう」
「七千年分の予算に等しい技術……?」
ファーゾルトは問い、そして喉《のど》で笑った。
「何だそれは。我々は自給自足で既《すで》に生きている。これ以上|何《なん》の技術がいるだろうかそして今更《いまさら》我々が|Low《ロ ウ》―Gから得るべき技術があるだろうか?」
「あるとも」
「何だそれは?」
佐山は考え、告げる。
「|そ《・》れ《・》は兵器となりうるものだ。そ《・》れ《・》は文化や文明となりうるものだ。そ《・》れ《・》は力となり、およそ現実にあるもの何にでもなれるものだ」
「は! これはまたおかしな話だ! 我々文字に生きる1st―Gにこれ以上の文化や文明が必要だというのか! そして機竜《きりゅう》をも用いた我々に兵器が要るというのか?」
ファーゾルトは胸に寄せたハードカバーを強く抱き、
「言ってみたまえ少年佐山・御言《み こと》よ我々が概念核と引き替えにしてもいいと思える技術とは何かね? 我々に与えられずまたUCATによって差し止められている技術とは」
佐山は頷《うなず》いた。一言で答えを言う。
「――紙だ」
●
ファーゾルトは胸に抱いた本を落としそうになった。
「何故《なぜ》に紙と――」
「君達の持つ筆記用具は羊皮紙《ようひ し 》やキャンバスばかりだ。そして、1st―|G《ギア》の家の中にはどこにも本棚がない。紙は、ある一定以上に社会が発展するには必要な条件だが、それが何らかの形で規制されている。……だから思った、その規制|解除《かいじょ》と支援を交渉材料に出来ると」
佐山《さ やま》の言った意味は解《わか》っている。
1st―Gでは文字が力を持つため、何かを綴《つづ》ることは危険を生む可能性がある。無論《む ろん》、力を生む文字を正しい形で刻むことは難しく、それが出来ねば単なる落書きだ。
が、万が一の事故ほど恐ろしいものはない。
ゆえに自分のような語り部《べ 》が文字を音として口伝し、多くの記録には文字とは言い難《がた》い記号が使われた。調査書に使用された文字などは、イメージを喚起《かんき 》しても実行力がないものを厳選《げんせん》しているほどだ。
そんな世界だから、筆記用具の技術は伸びていない。明確な字を引ける筆記用具はほとんどが王家の管理によるもので、それも少量生産品だ。
1st―Gの文化はその上で成り立っていると、語り部は知っている。
だが、と彼は思う。もしその前提《ぜんてい》が崩れたならば?
目の前の少年が、口を開いた。
「……その調査室で使用された安全な文字を基礎に、力の弱い文字で常用文字を厳選したならば? 今ある文化とやらを伝え、誰でも研究することが出来るようになるのではないかね?」
それは、1st―Gのあり方が変わると言うことだ。
佐山が、こちらに手を伸ばしてきた。こちらの、胸にある本に。
ファーゾルトは、望まれるままにハードカバーを手渡した。
受け取った佐山は、頁をめくり、
「幾つもの民家があり、そこに住まう者達が学校や、商家や、政治の現場で働いていた。が、その記録を、文字の暴発を恐れて書くことが出来ない。そして、記録を支える筆記用具の技術も発展せず、今、UCATに抑えられている」
「確かにそうだ……」
「その技術の規制解除をUCATは代償《だいしょう》として行う」
佐山の言葉にファーゾルトは大城《おおしろ》を見た。大城はこちらに視線を送り、
「……まあ、各国UCATとの交渉があるけどな」
やれやれという大城の口調にファーゾルトは喉《のど》で小さく笑った。そして佐山の言葉を聞いた。
「我々の世界は未熟だ、ファーゾルト。千年ほど前まで自分達の世界が君達の世界のようなテーブル状だと信じていた。しかし人々は歩き、記録を残し、真実を事実に変えていった。そして今でも、記録を重ね、この世における本物と偽物《にせもの》を分けていっている」
「我々にもそれを行えというのか?」
成程《なるほど》、とファーゾルトは頷《うなず》いた。
いい話だと思う。大量生産出来る筆記用具があるならば、あとは正しく文字を書く力を有した者がいればいい。王家がやっていたように、筆記用具を規制するのではなく、力のある文字を規制し、書くことの出来る文字を広めればいい。
知識は広まり、また、他文化との交流も出来るようになるだろう。だが、
「――少年|佐山《さ やま》・御言《み こと》よ。いい話だが問題は残っている。そして交渉もまだ続く」
え? という新庄《しんじょう》の声を聞きつつ、ファーゾルトは佐山を改めて見た。
佐山は、こちらの言葉に慌《あわ》ても驚きもしていない。ただ、こう言った。
「そう、解《わか》っているだろうね? 文字は使う者を裏切ることがある。記録の積み重ねと流布《る ふ 》は、何かを育むだけではなく、壊すこともある」
と言い、佐山は手にしたハードカバーを掲げた。
「君達が出版の技術を手に入れれば、このような本が出る。そして遺恨《い こん》も後代《こうだい》に伝わるわけだ。私達の与えた力で、私達の敵が増えていくことになる」
「ゆえに私は問うそ少年いやもはや佐山・御言である佐山・御言よ。君は遺恨が広まることを恐れず我々に技術を与えてジークフリートと聖剣《せいけん》グラムを護《まも》り概念核《がいねんかく》を手に入れるのか?」
問いに、佐山は答えた。
「当然だ」
●
新庄は佐山が言うのを聞いて、目を見開いた。
「だ、駄目《だ め 》だよ! 佐山君! そんな、敵を作るなんて……!」
「大丈夫だと思うがね。ファーゾルトも、この調査書が参考資料にしかならないと解《わか》っている。先ほど叱責《しっせき》した後に彼も認めただろう。私意《し い 》が入っていると」
「言ったけど……、でも」
ファーゾルトが頷いた。
「それらの発言と記録は無駄《む だ 》だ。ここは結論のみが重視される交渉の場だぞ」
その言葉に大城《おおしろ》が顔を上げ、
「あのな、一応わし、必死に口述《こうじゅつ》タイプしておるんだが……。無駄言われるとな……」
ファーゾルトは無視した。彼は、自分と佐山の間に落ちた携帯電話の残骸《ざんがい》を見て、
「私がその調査書が私意あるものだとは認めた言葉は記録に残らない。故《ゆえ》に私はその調査書を推《お 》すことが出来る。君が何と言おうともこれは正確であり――、たとえ君が何かを言おうとも出版して皆に流布《る ふ 》すれば皆の多くは君の言《げん》よりもこの調査書の内容を信じるだろう!」
「ファーゾルト、これから君に注意力のテストをするが、いいかね?」
佐山《さ やま》の突然の言葉に、ファーゾルトは顔を上げた。
「……何?」
「問うているのは私だ。君はまず答えたまえ。いいね? ――今、私の目の前にある携帯電話の残骸《ざんがい》、君はこれを壊すとき……、動作しているか確認したかね?」
問いかけの意味が、新庄《しんじょう》には解《わか》らなかった。
そして、ファーゾルトも同様だったのか、わずかに身を沈め、こう言った。
「稼働していた……、のではないのか?」
半竜《はんりゅう》にしては歯切れの悪い言葉に、新庄は、あれ? と首を傾《かし》げた。
「……どういうことなの?」
と言った新庄に、ファーゾルトが勢いよく振り向いた。
「……どういうこと、とは?」
「あ、いや、何でもない、何でもないよっ。ちょっとした勘違《かんちが》いかもしれないし」
こちらが慌《あわ》てて手を振ってもファーゾルトは視線を外さない。牙《きば》の並ぶ口を開き、
「どういうことだ? 新庄よ君と佐山は連携《れんけい》していたはずだ。彼の合図で録画を――」
「ちょ、ちょっと待って!」
意味の解らない単語が幾《いく》つも出てきた。そして問題の単語は、前にファーゾルトが言ったときも気になっていた言葉だ。新庄は疑念の語を問う。
「……連携とか合図って、何?」
ファーゾルトが、前屈《まえかが》みになっていた身を瞬間《しゅんかん》的に起こした。
彼はこちらを見たまま、歯を剥《む 》き、体を一度震わせると、
「佐山・御言《み こと》が上着と共に携帯電話を渡し……、ハンカチを上げた合図と同時に君が録画を始めたのではないのか? 私が暴言《ぼうげん》を吐くのを撮るために」
「え? ち、違うよ、それ。ボク、そんな役目を任せられてないよ……」
何か勘違いがある。この半竜は、話を聞いていただけの自分を何故《なぜ》か重要視してる。
その証拠《しょうこ》だというように、ファーゾルトは告げた。
「では何故佐山・御言がハンカチを出して額《ひたい》を拭《ぬぐ》ったときに小さく身動きした? その前に上着を預かるとき佐山・御言から指示を受けたのではないのか? だから自分はそんなこと出来ないという言葉を漏らし」
新庄は息を詰めた。
「ち、違うよ!」
横を見ると、佐山は無表情に空を見上げている。彼はこちらの視線に気づいたのか、左肩の上の獏《ばく》を手に取ると、頭の上に乗せた。
彼と獣《けもの》は目を細めて空を見ている。
無視を決め込むつもりだ。
ならば仕方ない。頬《ほお》が赤くなるのを覚悟《かくご 》で、新庄《しんじょう》はファーゾルトに身の潔白《けっぱく》を証明した。
「さ、佐山《さ やま》君はね、上着を預けるとき、こう言ったんだよ!」
やや迷って、
「緊張《きんちょう》感のため君の尻を触りたくなりつつある。我慢出来なくなったらハンカチを上げて合図するから尻を出してくれ って! でも、そんなの出来ないし。だ、だけど佐山君のお願いだから、ボク、ハンカチ出されたら、ちょ、ちょっと驚いてビクって……!」
赤面付きの説明に、ファーゾルトが力が抜けるように口を開いた。
彼は開いた口から何の声も出さぬまま、ゆっくりと前を見た。
彼の視線の先、佐山がいる。頭に獏を乗せたままの佐山が。
●
皆の視線に答えるように、佐山は自分の横に置いていたものを手に取り、掲げてみせた。
ハンカチに包んでいたメモリ式の録音機だ。今、その作動ランプが赤く光っている。
佐山は、ふむ、と頷《うなず》き、新庄を見た。そして己《おのれ》の興味のため、静かに言った。
「さあ。――続けてくれたまえ新庄君。ビクっとして、どうなったのかね?」
「何故《なぜ》それが作動している!? バッテリー切れではないのか!?」
「静かにしてくれないかねファーゾルト。後で編集が面倒《めんどう》だ」
「め、面倒とかそういうことじゃないよっ! どういうことなのか説明してってば!」
新庄の言葉に、佐山は目の前にある携帯電話の残骸《ざんがい》から一つのパーツを取り上げた。
それは、くの字に曲がったバッテリーだ。
「……何故動くか? このくらいの疑問が解けぬようでは紙を得てからが苦難で楽しいぞファーゾルト。答えは簡単だ。この概念《がいねん》空間に入る前に携帯電話のバッテリーと入れ替えたからだよ。IAIに限らず今の携帯電子機器の多くはバッテリーが汎用《はんよう》型だ、憶《おぼ》えておきたまえ」
頷き、問うた。
「ファーゾルト、我々がこの概念空間に入る直前、君はここから出ていたね? あのとき、君は自分の制限時間を知りつつ、私を監視《かんし 》した。その通りだね?」
「何故、そんなことが解《わか》る?」
「森が静かすぎた。人が潜《ひそ》んでいると、獣や鳥は警戒《けいかい》するが、それ以上に沈黙していた。つまりは人以上のものがいたせいだ。また、君は畑の中から出てきたが、地下足袋《じ か た び 》には苔《こけ》がついていた。森の中を走ってきた証拠《しょうこ》だね。私の視線に気づき、慌《あわ》てて蹴《け 》り払っていたが」
佐山はファーゾルトに録音機を見せた。
「これのバッテリーが切れていた時点で、何らかの手が加わったことには気づいていた。相手がこの機械を排除したと思っているならば、逆手《さかて 》に取るまでだ。……だから、新庄《しんじょう》君から受け取った後にバッテリーを入れ替え、携帯電話を囮《おとり》に使うことに決めていた」
「じゃあ、佐山《さ やま》君、この交渉は初めから……」
「そう、録音している。ただ一度だけ、これを取り出して横に置くときに告げた私の台詞《せりふ》はカットされている。バッテリーが無いように見せかけたかったのでね。電源を落とした」
ファーゾルトが一度|喉《のど》を鳴らし、あのときこちらが言った台詞の内容を口にした。
「録音機のバッテリーが切れていると言い、携帯電話でこちらの言質《げんち 》を取るつもりだったと……。全てはそこに安心して私が強い要求を出せるようにするためか!」
「おやおや、証拠《しょうこ》がない台詞を言うのはやめていただきたいものだね」
佐山は言う。
「何ならばここで再生するかね? 私の叱責《しっせき》に対し、原住民《げんじゅうみん》と告げた言葉も入っているが」
「いや。それよりも――、何が望みだ?」
佐山は彼の言葉に対し、応じるように首を横に振った。
「望みはない。ただ、当然のことをしていただこう。我々の技術|供与《きょうよ》に対して概念核《がいねんかく》の使用権を認めること。そして――、1st―|G《ギア》の崩壊《ほうかい》調査を、我々UCATと共同で行うこと。両者の和解《わ かい》と理解のために、君達が記録を持とうと言うならば、我々も持つ必要がある。それらを終えた後、その後のことを考えるべきではないかね? ……違うか?」
答えの代わりというように、ファーゾルトが両の手を上げた。
佐山は一息をついた。終わったか、と思う。そして頭から獏《ばく》を下ろし、一言をつぶやいた。
「茶番《ちゃばん》劇だ」
●
佐山のうんざり口調に、新庄は首を傾《かし》げた。視線の先、佐山の眉はひそめられている。
「茶番劇って……、どうして? 不機嫌《ふ き げん》そうだけど」
佐山は頷《うなず》き、一度こちらを見てから、大城《おおしろ》を見る。
「御老体《ご ろうたい》、二度とこんなことはしないでもらいたい」
という佐山の呼びかけに、大城が顔を上げ、苦笑した。新庄は訳が解《わか》らない。
「ど、どういうこと? 大城さんが……」
「途中で気づいた。御老体が全て仕組んでいたのだとね。考えてみたまえ、ファーゾルトが私の遺失物《い しつぶつ》に触れた経緯《けいい 》は? 誰がそれを私に渡すよう君に預けた? 何故《なぜ》この概念空間に入る直前、制限時間のあるファーゾルトが待ち構えていることが出来た? そして誰が、そのファーゾルトの眼前で私達の足を止めさせ、何か持っているか問うた?」
一息。
「要するにこの事前交渉はテストだ。紙の技術に思い至ったときに気づいたよ。1st―|G《ギア》は|Low《ロ ウ》―Gの規制に準じるほど| 従 順 《じゅうじゅん》なのだと。ならばファーゾルトが攻撃的なのはおかしい。
その理由があることに思い至らず、| 徒 《いたずら》にムキになった自分に恥を感じるね、私は……」
腕を組み、佐山《さ やま》が目を伏せた。こうなると新庄《しんじょう》には声の掛け方が解《わか》らない。
対するファーゾルトが喉《のど》を笑わせて、
「恨むな佐山・御言《み こと》。信じぬだろうが私は本気だったのだぞ」
「本気か……」
佐山が目を伏せたまま、吐息。
肩を落とした彼には、やはり彼なりの思いがあるのだろう。
……手加減《て かげん》されてると思ってるのかな?
「お、大城《おおしろ》さん。今日の交渉って、活きるの?」
「ああ、製紙《せいし 》技術の規制|解除《かいじょ》など、確かに有用なアイデアだと思うし、活きるだろうな」
「ちゃんとしてあげて。佐山君、遊びで論議《ろんぎ 》したわけじゃないんだから」
言うと、佐山が目を開けた。新庄は彼と目を合わせる。そして思った。
この人は、どんな状況も、どうにか出来てしまう人なんだ、と。
「ものすごい屁理屈《へ り くつ》魔王《ま おう》だね……」
「直接的な感想を有《あ 》り難《がと》う」
言って、佐山が苦笑した。だが、新庄は佐山を改めて見る。暴論《ぼうろん》とも言えるものを出してきた相手に対し、まともな交渉を拒否して更なる暴論を返す少年がここにいる。
……佐山の姓《かばね》は悪役を任ずる、か。
佐山が言っていたことを思い出す。悪を果たすための能力を持っている、と。
そういうことなのか、と新庄は思う。
果たして自分だったならば、あの場を、切り抜けられたのか。
……正論で切り抜けられても、次の暴論が来るだけかも。
それは解らないことだ。そして、佐山の暴論でファーゾルトが退《しりぞ》いたのは確かなことだ。
その他に解るのは、佐山の表情と肩の落ち具合。
……本気を出せてないね。おそらく、途中で気づいてしまったから、大城さんのこと。
うん、と頷《うなず》いた。今日、もし彼が何か愚痴《ぐ ち 》を言うことがあったら聞き役に回りたいと思う。
それはきっと、今日ここで終わったことに対して、価値《か ち 》のあることだから。
新庄が自分の思いを決めたときだ。
ファーゾルトが佐山を見てつぶやくように、こう言った。
「しかしなかなか上手《うま》くいかないものだ。流石《さすが》は佐山の孫か」
佐山が左の胸を押さえるのを新庄は見た。彼は眉をひそめてファーゾルトを見上げ、
「――知っているのか? 祖父を」
「わずかな時間だけだが知っているとも。我らがこの世界に降り立ったときにこの居留地《きょりゅうち》の元となる場所を用意したのがUCATの彼だった。彼はジークフリートから受けとった聖剣《せいけん》グラムから概念《がいねん》を| 抽 出 《ちゅうしゅつ》してここを造り我々と第一交渉を行いあとは知らない」
「そうか……。だとすると、父のことなども何も知らないか。IAIに勤めていたのだが」
「我々はまずここから出ないので何も知らない」
ただ、佐山《さ やま》の祖父のことは良く憶《おぼ》えているとファーゾルトは言った。
「先ほどの暫定《ざんてい》交渉と似たものをやり合ったのだよ六十年前に。君の祖父も私が死者の量と引き替えに賠償《ばいしょう》を求めようとしたら一喝《いっかつ》した。死者の量や価値《か ち 》を計上して賠償を求めるのではなくたとえ反対派がいてもこの地に安住して失われた誇りを取り戻すための策を練《ね 》れと」
それはまだ叶《かな》えられていないが、とファーゾルトは告げた。
ふと、新庄《しんじょう》は彼の隣《となり》の大城《おおしろ》を見る。大城はファーゾルトの背に目を向けていた。
大城の視線の先、かつて自分がしがみついた背には、翼《つばさ》を断った傷がある筈《はず》だ。
ああ、と新庄は心の中で頷《うなず》く。そういうことなんだ、と。
短い沈黙。その雰囲気《ふんい き 》をどう思ったのか。ファーゾルトはおもむろに自分を見上げる大城に視線を移した。横目を向けると、やや非難めいた口調で、
「そちらの問題ではあろうがUCATは謎《なぞ》が多すぎるぞ」
「世界を救うために世界に潜《もぐ》った組織でな。そりゃ謎は多くなるもんさ」
「1st―|G《ギア》の代表でさえ、詳細は知らないのかね」
佐山の言葉にファーゾルトは頷いた。
「UCATの活動に関しては我々にもほとんど知らされていない。ただ大規模な改変《かいへん》が一九九五年に起きたことは誰もが知っていることだ。日本UCATの一時解体と再編成は」
彼の言葉に、新庄は佐山と共に口を開いていた。
「……一時解体と再編成?」
●
佐山の視界の中、ファーゾルトは新庄とこちらを見て、
「やはり知らぬか。新庄がUCATに拾われた頃とほぼ同時の九五年末にそれは突然に行われ重鎮《じゅうちん》クラス以外ほとんどの職員が場を去った」
「何故《なぜ》……」
「それは私には解《わか》らないことだ佐山・御言《み こと》よ私の方が教えて欲しいくらいでな。事実を知っているのはこの大城と一部の者だけだろう。――一説には、関西|大震災《だいしんさい》の救助活動中に多くの死者を出した引責《いんせき》とされているがな」
そうか、と佐山は頷く。落胆《らくたん》はない。
元々、|全 竜 交 渉《レヴァイアサンロード》には祖父のつけた条件があったのだ。全ての情報は自分達で集めろ、と。
ここでは1st―|G《ギア》の話を聞けただけで充分だ。それに、
……十のGの他に、UCATのことも調べていけばいいだけか。
佐山《さ やま》が頷《うなず》くと、ファーゾルトも頷き返す。そして半竜《はんりゅう》は新庄《しんじょう》の方を向くと、口を開いた。
「これは言うべき情報か迷っていたことだが数年ぶりに新庄が来たので伝えよう」
「え……? ボクが?」
「そうだ君達にとっては古い話だろう。この概念《がいねん》空間を構築《こうちく》したのは佐山・薫《かおる》だが彼は元となるデータを譲り受けたからそれが出来たと言っていた」
「UCATの仲間から、か?」
「いや護国課《ご こくか 》時代の仲間だと言っていた。その人は護国課時代の調査で既《すで》に各Gの所有概念の見当をつけており自分はそれに従っただけだと」
ファーゾルトは空を見上げた。まるで概念空間を作る透明な壁が見えるかのように視線をゆっくりと回し、
「その人は元々|衣笠《きぬがさ》教授とやらの助手として護国課に関わり、しかしUCATに加わっていなかったようだ。その人がどこへ消えたのか私は知らない」
「その人とは……、誰かね?」
こちらの問いに、ファーゾルトは一つの姓《かばね》を告げた。
「――新庄。私はそれだけを聞いている」
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第二十章
『気付きの心』
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何も知らないから気づくのか
全て知るから気づかないのか
どちらでもないという人もいる
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●
衣笠《きぬがさ》書庫の中は、午後の入り際だというのに暗い。
天井の蛍光灯は点《つ 》いているが、その位置は高く、林立する本棚が影を作る。
わずかに青く陰った書庫内には、人影が三つあった。
一つはカウンターの内側、電話を掛けているジークフリートのもの。
一つは、階段状に下るフロアの中央、テーブルに鉄杖《てつづえ》を掛けて椅子《い す 》に座る大城《おおしろ》・至《いたる》のもの。
最後の一つは奥側の本棚を検分《けんぶん》している|Sf《エスエフ》のものだ。
大城はカウンターに立つ長身の背をちらりと見た。
ジークフリートの電話は長く続いている。まだ終わりそうには見えない。
至は椅子に浅く座り直し、足を組んだ。来賓《らいひん》用スリッパを靴下の先に掛けて揺らしていると、
「至様」
声に振り向けばSfが無表情に立っている。手に持つのは、
「おや、持ってきたか、俺の一生における汚点の一つを」
「|Tes《テスタメント》.、卒業アルバムです。アルバムという割には、単なる印刷物なのですが」
「これはこれは、独逸《ドイツ》製が英語に関して説教するとは驚きだな。敵性《てきせい》言語じゃないのか?」
「いえ、真の敵はソ連です。英国や米国は装甲《そうこう》が薄くて相手をするまでもありません」
「……お前が言っているのは一体《いったい》何の話だ」
「|Tes《テ ス》.、自動人形の話です。……何でしょうその視線は。業界では常識ですが、何か?」
「俺の常識ではソ連はお前が生まれる前に無くなった筈《はず》だが。気のせいだろうか」
「Tes.、その通りです。が、ソ連は至様の心の中に生きておられます」
「ほう、驚きだな人形が心を語るとは。というか俺の心はお前の敵か」
「いえ。ですがソ連製と判断します。装甲が厚くて放つ一撃《いちげき》は必殺なのに個性は薄い。――あと、装甲が斜めに傾いているのも特筆《とくひつ》てす。大量生産されていないのが違いますが」
「ついでに冷たい、と付け加えておけ」
「いえ、私には心がありませんので判断しかねます」
Sfは無表情に一礼。両手で古ぼけた青いアルバムを差し出す。
至は何も言わずに天鴛絨《ビロ―ド》で覆《おお》われたアルバムを手に取った。
開き、めくる。クラス写真の連続を見ながら吐息を一つ。と、後ろに回ったSfが、
「何も考えてないと判断出来る顔が並んでいます」
「――俺の台詞《せりふ》を取るな」
「至様の手間を省くのが私の役目です」
「お前が壊れたときの捨てる手間は?」
「いえ、私は至様の崩壊日《ほうかいび 》と同じ時刻に停止する設定になっております。手間は――」
至《いたる》は目を伏せ、己《おのれ》の言葉で|Sf《エスエフ》の台詞《せりふ》を遮断《しゃだん》した。
「言うな。それはもう何度も聞いた」
至は無表情にそう言って、Sfは|Tes《テスタメント》.と応じる。
Sfが無言になり、至はアルバムをめくる手を動かしていく。頁は卒業文集に辿り着き、
「ここだ。この馬鹿の文を読んで見ろ」
「|Tes《テ ス》.、声を出してですか?」
「そうだ」
「Tes.、読み上げとは久しぶりの御要求です。私が日本に来て五日目に行って以来です。――この記憶《き おく》は深層《しんそう》五度の確認を行いましたので間違いは御座《ご ざ 》いません」
「ああ、俺も憶《おぼ》えているよ。職員から取り上げたエロ漫画を嫌がらせに渡したらいきなり大きな声挙げて読みやがって。倫理《りんり 》規定は外国同様かお前」
「捨てろ、と| 仰 《おっしゃ》られませんでしたので。――読み上げは侍女《じ じょ》や執事《しつじ 》の大切なお仕事です。ただ、あのように叫び声や擬音《ぎ おん》の多い内容は感情のない私には向いておりません」
至は無言。半目《はんめ 》でSfに振り返り、アルバムを差し出す。対するSfが受け取り、
「題名、――シャブ 」
「違う。そのいきなりなヤツの下だ」
「Tes.。題名、――無題 」
待ち望んだ時間が来たのかと思えば
我々にはまた待つだけの時間が来る
教えられたことは時間の蓄積であり
新しい時間などは夢想《む そう》の末にもない
ここで知ったのは時間の搾取《さくしゅ》であり
無こそが救いの時間なのだと解《わか》った
Sfが読み終えると、至は顔を右手で押さえ、
「自分が使役する者に読ませると格別だな。身の毛のよだつ感覚が最高だ」
「至様の文章だと判断します」
「ああそうだ。解るか?」
「Tes.、単にの を横に並べたいという意志が見いだせます。また、書かれたものには嫌がらせ以外の内容が見いだせません」
「――は、お前は本当に優れた機械だ。本気で言ったから喜べそして動きで表せ」
Tes.、とSfは無表情に両手を頭上に上げて、下ろし、
「今ので御要求通りでしょうか? 激しく御求《お もと》めならば三度連続で行うことも可能です」
「独逸《ドイツ》製は高性能だな」
「|Tes《テスタメント》.、サポ―トも万全です。これからも安心して御利用下さい」
至《いたる》は頷《うなず》きもせず、顎《あご》で書庫の奥を示す。|Sf《エスエフ》はアルバムを手にそちらに足を向け、
「――――」
至の組んだ脚《あし》の先、水色のスリッパが揺れて落ちかけているのをはめ直した。
彼女は無表情にまた歩き出す。
と、背後、カウンターの方から小さな音がした。電話の受話器を置く音だ。
至が振り向くと、ジークフリートがこちらを見ていた。至はサングラスを上げて、
「男の長《なが》電話は宜《よろ》しくないですな」
「十年ぶりに話したかつての仲間だ。大城《おおしろ》・至、君の方こそ、何の用だ?」
「ええ、全竜交渉部隊《チームレヴァイアサン》の監督として、聖剣《せいけん》グラムの移送の話や、諸処《しょしょ》の確認のために。1st―|G《ギア》の崩壊《ほうかい》に最も関わったのは、……ゾーンブルク翁《おう》、貴方《あなた》ですから」
●
1st―Gの市街派 、彼らが使用する体育館地下の基地で、白い機竜《きりゅう》、ファブニール改は眠りについていた。
暗い中、風が入ってくる。
風には色があった。黒の一色だ。黒の風はファブニール改の身体《からだ》の上を踊るように行き来し、天井へと。そこには文字の彫り込まれた小さな鐘《かね》が一つぶら下がっていた。
風が鐘に当たり、鐘が鳴る。
高音。それとともに、風がいきなり一つの身体を持った。
黒猫だ。ブレンヒルトの飼い猫。
「――と」
宙で身を捻《ひね》り、黒猫はファブニール改の背の上に着地した。装甲《そうこう》の滑面《かつめん》に爪ではなくて足の裏全体を使って貼《は 》り付き、ゆっくりと身を伏せる。
「ハーゲン翁《おう》」
と声をたてると、
「ここにいるよ」
と、黒猫の横に薄く光る老人の姿が現れた。彼は欠伸《あくび》を一つして、
「定時連絡かね?」
「うん、そうだよ。昨日のようなニュ―スはないから、ちょっと顔見せだけど」
「こっちも新しい動きはないぞ。まあ、鐘の音が消えるまでに外で何か食べるものでももらっていくといい。あれでいてナインは気がつかない子だから」
と、ハーゲンは欠伸をまた一つ。猫は老人の横顔を見上げ、
「やっぱり、ハーゲン翁も夢を見るの?」
あ? とハーゲンは黒猫を見た。やがて、笑みを浮かべ、
「ああ、見るよ。さっきはブレンヒルトが泣きながら救いを求めてきたときのことを、な」
「ファブニール改と同化したときのこと? ……どうして同化を決めたの? 王族の身で」
「あの場所で、皆を率《ひき》いる身分の者は私だけだったんだよ。そして、こちらの世界に移ったとき、内部の概念《がいねん》を放出し、1st―|G《ギア》の者達が生きていける概念空間を作る必要もあった。つまり、誰かがファブニール改と同化せねばならなかったのさ」
頬杖《ほおづえ》を着き、実のない吐息をつく。
「ブレンヒルト……、否、ナインにはすまないことをしているね。ナインは、ジークフリートと、どうしてるね?」
問われ、黒猫は沈黙した。ハーゲンから視線を外し、三呼吸ほど置いてから、
「か、監視《かんし 》してるよ。……ちゃんとバレないように、うん、距離をもって」
そうか、とハーゲンは頷《うなず》いた。表情には笑みがある。が、眉尻《まゆじり》は浅く下がっていた。
彼は改めてまた、そうか、とつぶやく。そして、
「なあ」
「な、何?」
黒猫が疑問の声を返すと、ハーゲンは一度頷き、前を見て、下を見て、
「私達はいろいろと立場があって、面倒《めんどう》でね……。でも」
「でも?」
「少なくとも、我々の中で、お前だけは彼女の味方でいてくれ」
黒猫は、ハーゲンの言葉を聞いた。薄い闇の中、頷き、それだけで| 了 承 《りょうしょう》とする。
直後。部屋に入る扉がノックとともに開き、白い貫頭衣《かんとうい 》を来た女性が入ってきた。
急いでいる。部屋に入ってくる足取りは速く、焦りを含んだ声が、
「調査が、――調査が終了しました。ハーゲン様の| 仰 《おっしゃ》った通りです」
一息。その後に、女性は息を整えてこう言った。
「IAI本社の方で輸送機の離陸《り りく》準備が始まっています。おそらく……、聖剣《せいけん》グラムは今夜、我々の頭上を通過して空輸されます……!」
●
衣笠《きぬがさ》書庫の中にジークフリートの言葉が響《ひび》いた。
「……グラムの移送を今夜中に、か。とうとう1st―Gの|全 竜 交 渉《レヴァイアサンロード》が本格的に始まるな」
カウンターの彼に対し、至《いたる》は変わらず椅子《い す 》に座ったまま、
「ガキに全てを任せようとは父もヤキが回ったものですな。本日、暫定《ざんてい》交渉を無事に終えたそうですが、聞いたところ、交渉の真似事《ま ね ごと》のようで」
「手|厳《きび》しい」
「自分には優しいですよ、俺は。だからこそ頭のいい奴らは救かる。俺から逃げるので」
「……佐山《さ やま》・御言《み こと》達が手を引くことを望んでいるか?」
「望んだところで決めるのはガキどもです」
ただ、と至《いたる》はサングラスを鼻の上に持ち上げ直し、
「グラムがこちらのUCAT本部に格納《かくのう》され次第、1st―|G《ギア》との本格交渉に入ります」
「|全 竜 交 渉《レヴァイアサンロード》の本格的な開始、というわけだ」
「ええ、そこまで関わったら、もはや手を引くことは出来ない。佐山・御言にとって、グラムの到着までがタイムリミットですな。――自分を決めるための」
と、至は組んだ脚《あし》の先に手を伸ばした。|Sf《エスエフ》がはめたスリッパを、脱ぎかけの状態に戻す。
爪先《つまさき》で水色のスリッパを揺らしながら、
「先ほどの電話は?」
「昔の仲間だと言っただろう? ……佐山・御言が動き出したことを喜んでいた。彼は言っていたよ、佐山・御言も、当時の我々と同じように、方向性が見えぬままいろいろなことを知ろうとするだろう、と」
「それを続けていく内に、百個の中の一個くらいが正解になる、と?」
「そう、失敗や疑いを続けて、真実に至るものだ」
ジークフリートは口元に小さな笑みを浮かべた。
「――憶《おぼ》えている。護国課《ご こくか 》時代、我々が概念《がいねん》戦争に初めて気づいたときのことを。そう、あれは私が……、護国課に協力すると見せかけ、実は独逸《ドイツ》方面への地脈|改造《かいぞう》施設を破壊しに来たというのがバレたときだ」
苦笑。
「私が壊していない筈《はず》の施設が、先に破壊されていてな。私の仕業《し わざ》だと追走してきた仲間達とと向き合い、戦闘をしていた。そんなときだったか、いきなり――」
「聞いたことがありますよ。いきなり空を裂いて機竜《きりゅう》と武神《ぶ しん》が落ちてきた、と」
「あれは、1st―Gと3rd―Gの戦闘だった。そのとき以来、我々は、もはや自分達の世界のことだけではないと、護国課の意味を捉《とら》え直したのだ」
ジークフリートは言う。
「多くのことが解《わか》り、そして失われた。我々のことだけではなく、その後のことも。――佐山・御言は、もし|全 竜 交 渉《レヴァイアサンロード》を受けるならば手当たり次第にぶつかっていって、全てを見ていくことになるのだろうか?」
「どうでしょう? それより先に、逃げるかもしれない、死ぬかもしれない。憶えていますか? 佐山|翁《おう》の言葉を」
「佐山の姓《かばね》は悪役を任ずる、か」
至は頷《うなず》き、笑みを口元に浮かべた。
「佐山《さ やま》・御言《み こと》は自分が本気で行う悪に誇りを持てるのかどうか。小規模の過激《か げき》派《は 》相手ではなく、手加減《て かげん》付きの暫定《ざんてい》交渉ではなく、……本当の相手を前に、悪を是《ぜ 》として決着をつけることが出来るのかどうか。――それ以前に、戦場に来ることを選べるのかどうか。解《わか》りはしない」
告げた大城《おおしろ》の言葉に、ジークフリートは目を伏せた。
「大城・至《いたる》、君は佐山という姓《かばね》にこだわるのだな。ディアナから聞いたよ、その理由を」
「ならば解るでしょう。俺はあのガキが嫌いだ。見たくもない。――俺の知る佐山の姓はあんなガキとは違う。あんな、無知で、何もかもに護《まも》られているような人間ではないのに……」
「至様」
背後から掛けられた|Sf《エスエフ》の声に、至は身体《からだ》の力を抜いた。
彼が振り向くのと、Sfが腰を屈《かが》めるのは同時。
Sfがまた無言で至のスリッパを足にはめ直す。
そして至は立ち上がる。と、その右足が震え、崩れそうになった。
横からSfの手が伸び、無言で彼を支える。彼女は鉄杖《てつづえ》を掴《つか》み、
「どうぞ」
至は杖をついて立ち上がる。
背筋《せ すじ》を伸ばした彼に、ジークフリートが会釈《えしゃく》を一つ。
「しかし、……もし|全 竜 交 渉《レヴァイアサンロード》が進んだ場合、私の仲間も動くことになるのか?」
「ええ、ディアナもですが、護国課《ご こくか 》の生き残り、そして、初期UCATの生き残りも全員、動くことになります。――ゾーンブルク翁《おう》の御友人も、まだ在命ですよ」
「先ほど電話で言われたよ。サンダーソンのことだろう?」
ジークフリートは、眉をひそめる。
「あのヤンキーがまだ生きているとは残念だ。曾孫《ひ まご》を連れて今年中に来るそうだが」
ジークフリートの言葉に、至は口元の笑みを深くする。
サングラスを上げ、目を隠し、至は軽く一礼した。衣笠《きぬがさ》書庫の中央、本棚が作る谷の底で。
「過《あやま》ちを思う同窓会のつもりでお越し下さい、ゾーンブルク翁」
彼の動きと言葉に、Sfが遅れて頭を下げる。その後に、至はゆっくりとこう告げた。
「――我らが全竜交渉に」
●
新庄《しんじょう》は傾いた日の入る奥多摩《おくた ま 》駅で、佐山とジュースを飲んでいた。
木造|駅舎《えきしゃ》はセメントの床。二人がいるのは駅舎のエントランス、壁際《かべぎわ》にある木のベンチだ。
ここまで来るのに、UCATから送迎バスでIAI前に出て、そこからまたバスで一本だ。佐山の乗る電車は二十分待ち。話す時間は充分ある。
午後だが、学校もない時期だ。エントランスに人影は少ない。遠く、車やバスの排気音を聞きつつ、新庄《しんじょう》は手の中の缶ジュースを見た。
初めて飲むメロンソーダ。味は、UCATにあるものより無個性だと思う。
一息ついて、隣《となり》の佐山《さ やま》を見た。肩の獏《ばく》にミネラルウォーターを与えている佐山を。先ほどまで、UCATでもらった携帯電話に番号入力していたばかりなのに、
……何かしてないと落ち着かない人なのかな?
自分で思った疑問に、新庄は苦笑。何か話しかけようとして、話題を探し、
「――あのさ、さっきの話、どう思う? 今日、いきなり聖剣《せいけん》グラムが移送されてくるって」
言葉に、佐山が獏から視線を外した。ああ、と頷《うなず》いて獏と瓶《びん》を横に置き、
「確かにいきなりだね。UCATを出るときに、突然連絡があったが……。だが、始まるときには始まってしまうものだ」
「……で、佐山君はどうするの? |全 竜 交 渉《レヴァイアサンロード》に関わっていくの?」
「君は関わっていくのだろう? ファーゾルトが告げた護国課《ご こくか 》の新庄という姓《かばね》を追って」
「うん……。でも、今はボクのことじゃなくて、佐山君のことを話して」
そうか、と佐山は静かに前置きし、
「現状は、――関わらない方向に進んでいると思う」
そうなの? と首を傾《かし》げると、佐山は頷いた。
「ああ、そうだ。結局、私は自分の答えを見つけていない。が、時間が先に来てしまった。まるで準備不足のままテストを迎えるようなものだ。問題なのは、――このテストは下手《へた》な結果を出すくらいならば身をひいた方がマシだということだが」
「答えって、……佐山の姓は悪役を任ずる、っていうことの意味?」
言うと、佐山はわずかに驚いた顔を見せた。そして表情を戻すと、ゆつくり頷く。
「難しいものだね、恨まれるということは。そして……、昨日の騎士《き し 》達や、今日のファーゾルトは、それを飲んだ上で動いているのだよ。昨日も今日も、私はいい結果を出したようでいて、根本の部分で相手になっていない」
一息。
「たとえばファーゾルトは平和の持続を求めている。そこに妥協《だきょう》はあり、裏切りといわれることもある。が……、彼はそれを成り立たせていこうと考えている。何故《なぜ》だろうね?」
「何故って、それが正しいからだよ。過激《か げき》派《は 》みたいに戦って得られるものがあると思う?」
あるとも、と佐山は言う。
「勝利し、相手がいなくなれば、自分達だけの平和な世界を得る。そして、勝利せずとも自分達の力を見せつけることが出来れば、恐れた相手に譲歩《じょうほ》を引き出せるかもしれない」
「何事も力で解決するってことだよね、それって……」
「力は初歩的な言語|概念《がいねん》だよ、新庄君。| 了 承 《りょうしょう》なら握手、否定なら殴る、言葉がなくてもこれは通じる。今でも力を慣習として持つ部族は地球上の至るところに残っている。逆に問うが……、なぜ、言葉で解決しなければならない? 言葉なんてものは人間が生まれたときに持っていなかった文明、力の代理物だ。何故《なぜ》、そんなもので物事を解決する必要がある?」
「だ、だって、相手や自分に害が及ぶじゃないか」
つい、手を強く握って言ってしまった。
掴《つか》んでいた缶ジュースから緑色の泡《あわ》がこぼれた。
あ、と新庄《しんじょう》は慌《あわ》ててポケットからハンカチを出した。手を拭《ふ 》くきながら思うのは、佐山《さ やま》がそんなことすら解《わか》らないのだろうかという不安。
……大事だよ、それって、絶対。
心の中で頷《うなず》き、佐山に言うべきだと考える。眉根《まゆね 》に力を入れ、ハンカチを畳みながら、
「あ、あのね? 佐山君――」
聞いてくれる? と続く言葉が停まっていた。
新庄の視線の先、佐山はこちらを見ていた。力のない笑みを顔に浮かべて。
何のことはない、ただの笑みだ。だが、
……怒ったボクに対して、どうしてそんな顔を?
返る言葉はすぐに来た。彼は頷き、
「――それが君の出せる答えだ、新庄君。君はテストを受ける権利がある」
私などよりも遙かに、と続けられた言葉に、新庄は背筋《せ すじ》を震わせる。
「そ、そんな、ボクは、ボクは……」
「こう言いたいのかね? 自分は、今日の暴論《ぼうろん》を吐くファーゾルトや、昨日のような連中、そして一昨日《おととい》の人狼《じんろう》とは話が出来ない。そして、戦うことも出来ない、と」
新庄は頷いた。対する佐山は、問うてくる。
「……何故、連中はまともに話をしないときがあるのだろうね?」
「そ、それは、えーと……、言葉では、収まりのつかない恨みがあるから?」
「そう。それゆえ、彼らはまともな話し合いのテーブルにつこうとしない。逆に言えば、平和を望む者は、同じように平和的解決を望む者としか話し合えない。だが」
「……だが?」
「平和を望まない者だって、戦争によって損失を得ているのだよ。否……、その損失を許せぬ彼らこそが、本当に戦争を憎んでいるのかもしれない」
「…………」
「ならば私達の罪の償《つぐな》いとはなんだろうな? 既《すで》に和解|前提《ぜんてい》の者達にだけ償ってすむものだろうか? ――こちらに死を求める者には、手を触れぬのが一番なのだろうか?」
「だ、だけど彼らの前に立ったら、君は殺されるかもしれないよ、佐山君」
「それゆえ|全 竜 交 渉《レヴァイアサンロード》は私達にも力が与えられている」
佐山は言う。
「解《わか》ってきた気がする。――祖父が作った|全 竜 交 渉《レヴァイアサンロード》における前提《ぜんてい》条件の意味。何故《なぜ》、私達には何の情報も与えられず、そして、戦うことまで許されているのか、が」
●
佐山《さ やま》は腕を組み、背を木のベンチに預けた。段差のある粗《あら》い板張りの冷たさを感じつつ、
「十の|G《ギア》の中には我々に死や敗北を望む者がいるのだろう。何故、彼らが死を望むのか。その理由を真の意味で知り、活用するために、我々には過去の情報が一切《いっさい》与えられていない」
「調べる気もなく与えられた知識に価値《か ち 》はない……?」
「そう、学ぶ意志があって初めて知恵となる知識だ。一方的なパッケージングで渡された知識を私達が盾にしても、遺族《い ぞく》達は誠意を感じないだろうね」
佐山は、獏《ばく》を手に取った。透明な瓶《びん》に顔をつけて中の水を覗《のぞ》いていた獏は、吊《つる》されてしばらく四肢《し し 》をじたばたさせていたが、佐山と視線を合わせると大人しくなる。
佐山は獏を下ろし、瓶を横に倒した。獏は瓶の口に顔をつけ、瓶を抱えて水を飲む。
小《しょう》動物の仕草《し ぐさ》に新庄が苦笑。佐山も同じ笑みを作り、
「私達はこの獏を利用し、自らの調査により、美化も歪曲《わいきょく》もない過去を知り、それを自ら判断する必要がある。その上で――」
「力も言葉も、ありとあらゆる手段を利用して交渉せよ、と?」
「そういうことだろうね。祖父が私に|全 竜 交 渉《レヴァイアサンロード》を預けた理由……、佐山の姓《かばね》は悪役を任ずる、ということは、それらの知識と知恵を持って、いかなる判断も下せということだ」
佐山は言って、目を伏せた。
新庄の方も、周囲の何も見ることなく、佐山は、だが、と前置きした。
「……知識と知恵があったからと言って、私の悪が必要だとは限らない。何しろ祖父は、そのやり方をもってしても恨まれたのだ」
隣《となり》、新庄が身を固くする気配があった。ややあってから、
「やっぱり、考え直した方がいいよ。これは――、確かに佐山君が適役なことかもしれない。でも、間違ってる。誰かが悪役になって終わりだなんて良くないよ。佐山君にとって大事なことでも、ボクにとって間違ってる」
「だけど私は|全 竜 交 渉《レヴァイアサンロード》に興味を持っている。……出来れば関わってみたいと思っているよ」
「でも……、佐山君は自分の本気を信用出来るの?」
新庄の言葉に佐山は一息をついた。
目を開けた。見れば、新庄は眉尻《まゆじり》を下げ、こちらをじっと見つめている。
有《あ 》り難《がた》い人だ、と佐山は思う。
視線を合わせ、沈黙が数秒続いた。
やがて、新庄がわずかにうつむいた。確認するような口調で、
「……佐山《さ やま》君は、本当に|全 竜 交 渉《レヴァイアサンロード》に関わりたいの?」
問いに対して、佐山は考える。そして思い返して見ても、答えは一つだった。
「ああ」
「そっか。じゃあ……、何か解決方法を考えて。佐山君が自信を持って本気を出せる方法」
新庄《しんじょう》が、うつむいたまま、浅く身体《からだ》を抱く。
「佐山君が自分の行為が必要|悪《あく》かどうかを悩んだとき、確かにそうだと解《わか》る基準があればいいんだよ。……それをどういう方法で知るのか、ボクには解らないけど」
「必要悪の基準……。つまりは、悪役の条件ということだね」
佐山はつぶやき、思う。自分の足下を見て、
……自分が間違っているということを確信出来る基準、か。
考えてみれば、単純なことだ。自分が間違っているかどうかは、
……正しい者がそばにいればいい。
自分と正逆《せいぎゃく》の存在。そう思ったとき、鼓動《こ どう》が跳ね上がった。
「――――」
基準となるべき者。条件を果たすための者は、既《すで》にそばにいる。
新庄の言う通り、自分が間違っているかどうかは、その人を見ていれば充分に解る。
だが、佐山はその人のことを意識から排除しようとした。
何故《なぜ》ならば、もし自分が全竜交渉に関われば、その人を自分と同じ場所に連れて行くことになる。遺恨《い こん》を受け、死ぬかもしれない現場に、だ。それは避けたい、と佐山は思った。
「…………」
無言とともに汗が出た。鼓動は速くなっている。
どうしたことだ、と佐山は思う。自分らしくないことだ。
その人に告げればいい。君が必要だと。だから私と共に戦場や交渉の場に出て、遺恨も死も共に受けて欲しいと。
我が儘《まま》だ。
悪役として恨まれることも前提《ぜんてい》とした自分だけの問題に、その人を巻き込もうとしている。
だが、耳にはその人の声が聞こえた。柔らかく、つぶやくような声。それは、こう告げた。
「――佐山君の基準が、見つかるといいね」
声とともに、佐山は身体を起こしていた。
スーツの衣擦《きぬず 》れの音とともに、その人を見る。自分の基準となるべき、正逆の人を。
新庄という、その人を。
●
新庄はジュース缶を両手に軽く身を引いていた。
眼前。先ほどまで元気なさそうにうつむいていた佐山《さ やま》が、今は身体《からだ》を起こしてこちらを見ている。表情は、眉根《まゆね 》を詰め、何か言いたげで。だから対する新庄《しんじょう》は身体を竦《すく》めながらも、
「な……、何?」
という問いに、佐山が、は、と気づいたように身を震わせた。
そして、不意に彼が表情から力を抜いた。次に見えるのはいつもの表情。無に近い表情だ。だが、新庄には、ややうつむきで見る彼の表情が、何か迷っているようにも見えた。
……どうかしたの?
新庄は首を傾《かし》げ、
「何かあったの? |全 竜 交 渉《レヴァイアサンロード》のことや、基準とかで……」
つぶやきながら、新庄は思う。自分は何を心配しているんだろう、と。
全竜交渉が危険だと言っているくせに、彼がそれに関わりたいと言ったら、偉そうに助言して、今、彼のことを助けようとしている。
……きっと、ボクの本心は……。
彼が|全 竜 交 渉《レヴァイアサンロード》に関わることを望んでいる。
彼に死んで欲しくないし、恨まれて欲しくもないけれど、彼は自分には出来ないことを出来るし、それを望んでいる。
まず思い出すのは、初めて会ったときのことだ。森の中、彼に膝《ひざ》を与えたときのこと。彼は、こちらのことを正しいと認めてくれた。ずっと間違っていると思っていた自分のことを。
そしてその夜の帰りにも、自分の思いを押しつけてしまったことを御免《ご めん》というと、そんなことはない、と言って笑ってくれた。
自分の思いを否定されて嬉《うれ》しいというのは、おかしなことだろうか。
……この人は、ボクにとってきっと正しく、有《あ 》り難《がた》い人だ。
新庄は心の中で頷《うなず》いた。そして、
……ボクはこの人に、何かを返してあげられるのかな。
ファーゾルトとの交渉の後、本気を出せずに沈んだ彼に対し、自分は何も言えなかった。
今は言うべきだ、と新庄は決めた。口を開き、一度| 唇 《くちびる》を動かし、二度目に声を作る。
「――ボクに何か出来ることって、あるかな?」
佐山がこちらに改めて目を向けた。彼はまた一度うつむき、顔を上げ、
「――――」
電車がホームに入る音がした。線路を車輪が軋《きし》ませる音が響《ひび》き、佐山が背後に振り向いた。
ホームから響く電車の音はゆっくりと、やがて停まる。
こちらに振り返った佐山は完全にいつもと同じ表情。だが、新庄はもはや安堵《あんど 》を感じない。彼は強くありたいと思っているのだから、だからいつだって、普通に振る舞うのだから。
佐山は背後、ホームからエントランスにくる乗客の足音をバックに、こちらを見た。
「――新庄《しんじょう》君。いいかね?」
頷《うなず》きとともに放たれた声はやはりいつも通り。
先ほどの揺れた表情で彼が抱いていた言葉は、もはや来ないだろう。新庄は、落胆《らくたん》のような空白感を胸に、しかし首を傾《かし》げてみせる。もし愚痴《ぐ ち 》でもあったら聞こうとして、
「何? 何かあるの?」
少し傾げた視界の中で、佐山《さ やま》は| 懐 《ふところ》から録音機を抜き出し、手に掲げた。
周囲、ホームの方から人の流れと足音が満ちてくる。
それらを無視して、佐山は、真剣な顔でこう言った。
「先ほどの続きを忘れていた。――私に尻を触られる予感にビクっとして、それからどうなったのかね? きっちりと聞いておきたい」
コノヤロウ結構《けっこう》タフだな、と引きつり思った視界の中央で、佐山が左腕の時計を見ると、
「時間がない。だが、何とも非常に興味があるね。さあ、恐れることはない。強く激しく言ってみたまえ。――さあ!」
最後の呼び掛けと同時。新庄は佐山に強く激しく平手《ひらて 》を叩き込んだ。
●
カーテンが朱色に染まり始めた美術室の中。
ブレンヒルトは目の前の床に黒猫を置いて立ち竦《すく》んでいた。右手には風を猫に戻すために使った青い石を握ったまま。肩には小鳥を乗せたまま、彼女はわずかに震えた声で問う。
「聖剣《せいけん》グラムが……、何?」
彼女の視線の先、四肢《し し 》を床に広げた黒猫が息を整えながら、
「IAIの本社が、聖剣グラムをこちらのIAI東京支社に空輸するそうだよ。それを……」
一息。
「撃墜《げきつい》するって」
「闘争は、……もはや避けられないわけね」
「ファーフナーが早く戻れといっているよ。そして、こうも言っていた。ジークフリートとの決着の場を与えてやる、と」
え? と問うブレンヒルトの無表情に、動きが生まれた。力という動きが。
対する黒猫は、一度ブレンヒルトの表情を見てから、顔を背《そむ》けた。
「聖剣グラムが奪取《だっしゅ》されたら、その主人としてジークフリートは必ず動く。彼の担当はブレンヒルト、君に任せるとファーフナーは言っていた」
ブレンヒルト、と黒猫は呼びかけた。
「皆が期待してる。――冥界《めいかい》の鎌《かま》に含まれた怨嗟《えんさ 》の叫びを見せるときだよ」
ブレンヒルトは首を縦《たて》に振ろうとして、動きを止めた。
彼女の肩で、小鳥が小さく鳴いた。
その囀《さえず》りを聞くブレンヒルトは動かない。
彼女の顔から表情が消えていた。無表情という、それすらも無い。何かがあるとすれば、顔の色が失われていることだけだ。
「…………」
ブレンヒルトは無言で、しかし、うつむき、目を伏せた。
下《した》唇を噛《か 》み、眉をしかめる。
喉《のど》の奥で、く、と小さな息を壊した。
そんなブレンヒルトを、黒猫は見上げていた。彼女が目を伏せていることを見て取ると、黒猫は同じように浅く目を伏せ、やはりうつむき、小さく頷《うなず》いた。
黒猫は、よし、と口の動きだけでつぶやいた。顔を上げ、
「ブレンヒルト?」
問いに、ブレンヒルトが目を開けた。視線を合わせてくる頃には、もう、黒猫はいつもの顔で、自分の主人を見ていた。
黒猫は言う。もう一度、ブレンヒルト、と彼女の今の名を呼ぶと、
「――僕は、君の味方のつもりだよ」
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第二十一章
『安堵の至る道証』
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その道を踏み外したとき
目の前には苦痛が開く
ならば苦痛を望めばどうなのか
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●
佐山《さ やま》は学校に戻ると、その足で衣笠《きぬがさ》書庫に寄っていた。
カウンター近くのテーブルに席を設け、一冊の本を広げて目を通す。
テーブルに片面を置き、右手一つでめくられるのは衣笠・天恭《てんきょう》の著《ちょ》による神話研究書の一冊目。ニーベルンゲン叙事詩《じょじ し 》にまつわる部分。
古い凸版《とつぱん》印刷は、写真などを| 頁 上 《ページじょう》でにじませているが、内容は充分に判読《はんどく》出来る。
ニーベルンゲン叙事詩は北欧のヴォルスンガ・サガと呼ばれる伝説を原盤《げんばん》に、独逸《ドイツ》を中心に欧州に伝わる英雄譚《えいゆうたん》だ。
「サガによれば、青年シグルズは、レギンという男の下で修行を積み、与えられた聖剣《せいけん》グラムでファブニールという竜を倒す。ファブニールの血を舐《な 》めたとき、彼は突然に動物の声が聞こえるようになり、鳥達からレギンが自分を殺して栄誉《えいよ 》を奪おうとしていることを知る……」
頁をめくり、
「レギンを殺したシグルズは、ブリュンヒルデという女性と恋に落ちるが、彼は魔術によって彼女のことを忘れ、グズルーンという女性を選ぶ。が、ブリュンヒルデは、この事実に気づいて彼を恨み、皆は破滅《は めつ》に向かっていく……、か」
佐山が本を閉じたとき、一つの声が彼の台詞《せりふ》に続いた。
「――サガでは暗殺者に就寝《しゅうしん》中を殺されるシグルズだが、ニーベルンゲン叙事詩では落ち葉一枚によってファブニールの血を浴びなかった左の背、心臓側に一撃を受け、死ぬ」
言葉を放つのはカウンターの向こうで紙コップを手にしている長身だ。
佐山は彼の方に振り向いて問う。
「幾《いく》つか、現実との符号がある。……意識したことはあるかね? シグルズは独逸においてジークフリートという名になった。グズルーンはグートルーネだ。他、……自分以外にその符号を確かめたことは?」
「確かめたことなど、無いな」
そうか、と佐山はハードカバーの背を軽く叩く。
「確かめる必要がないときも、そう返答出来るのだよな」
小さな打音《だ おん》に肩の獏《ばく》が顔を上げ、真似《まね》をしてこちらの肩を叩く。佐山は苦笑し、
「……しかし、恨まれるとは、どういう感覚だろうか?」
問いに、ジークフリートはカップを口に傾けてから答えた。
「ただ一つ救いがあるとすれば、私が死ねば、全ての遺恨《い こん》は終わるということだ。今まで幾度《いくど 》か狙われたことはあるが、理想的なものではなかったので死んではいない」
「は、困った自殺|願望《がんぼう》だね。――どういった死に方を望んでいる?」
「そうだな。裏切った者に、恨まれながら殺されるというのは、どうしようもなく救いが無くて観念《かんねん》するしかない。正にシグルズの死に様《ざま》、だ」
ジークフリートはカップをカウンターに置く。紙の硬い音に失笑をつけて、
「佐山《さ やま》・御言《み こと》、君は考えていよう。ならばよく考えろ。恨まれるのは必定だ。問題なのは――、恨みをどれだけ少なく出来るかと、誰が理解をしてくれているか、だ」
「貴方《あなた》はどちらにも失敗したのかね?」
ジークフリートは無言。だからこそ、佐山は吐息。
「面倒《めんどう》な話だね。大人とは本当に面倒だ。――そのようなことが待ち受けている可能性は充分に解《わか》っていただろう? それなのに何故《なぜ》……」
佐山はジークフリートに身体《からだ》を向けた。そしてゆっくりと、自分に問うように、
「何故、貴方は概念《がいねん》戦争に関わろうと思った?」
佐山の視界の中央。老人は、目を合わせたまま、動きもしない。
佐山は待つ。書庫の中、自分の言葉が響《ひび》き終え、消えるのを。
そして、全てが静けさに変わろうとしたとき、答えが来た。
「……第二次大戦を傍観《ぼうかん》してくぐり抜けた後だ。戦えば何かを失うと、嫌と言うほど解っていた。もう戦争はしたくない、と。だが」
言いかけ、しかしジークフリートはやめた。首を横に振る。
「何故戦うか、それについては個人それぞれだ。私が君に教えて意味のあることではない。いかに理想を持っていても銃弾《じゅうだん》一発で人は死ぬ。その事実を眼前に捉《とら》えたとき、自分の本音が見えるだろう」
「――銃弾一発の死と引き替えにしても良いものとは何だろうか、と?」
ジークフリートは首を下に振った。
「死を恐れるな、とは言わない。が、退《ひ》いては見えぬ。自分が理想家でいたいならば戦場には出るな。そして戦場に出るならば、死ぬな。少しは解っているだろう? 1st―|G《ギア》との小競《こ ぜ 》り合いで、二度、戦場を経験したはずだ。そこにいた者達は、そして君はどうだった?」
頷《うなず》く佐山は、人狼《じんろう》や騎士《き し 》を思い、最後に新庄《しんじょう》のことを思う。
震え、しかし戦場に出る彼女のことを心に残し、佐山は、一度だけ、何かを言おうとして、
「…………」
上手《うま》く言うことが出来ない。
ただ、彼女と自分に共通のものは解る。お互いが求めているもの、それは、
「死ぬかもしれない戦場、……か」
そこに何かがあるのは、疑いようがない。
あとは、自分の問題だけだ。と、そのことだけを思い、佐山は立ち上がった。
「有《あ 》り難《がと》う。指針になった」
本を机の上で滑らせ、縁《へり》から落とすようにして右手で掴《つか》む。まだ左手は本調子ではない。
そして本を右手で吊《つる》すように持ち、佐山《さ やま》は衣笠《きぬがさ》の著書《ちょしょ》棚へと足を向ける。
と、そのときだ。佐山は本棚で狭く区切られた窓の外を見た。
窓の向こう、西日の南、正門側へと向かう道路を、早足に駆けていく人影がある。
新庄《しんじょう》・切《せつ》だ。髪を首の後ろで束ねた姿は、胸の前に洗面器とタオルを抱えていた。
……昨夜《さくや 》教えた銭湯《せんとう》へ、か。
随分《ずいぶん》と早い入浴だ。腕の時計を見ればまだ午後四時半。
何故《なぜ》こんな時刻に、と思った直後、佐山は一つのことに気づいた。
「――まさか、やはり彼は彼女なのでは」
「今、おかしな発言が聞こえたが?」
佐山は無視。
……だから誰もいない今の内に入浴するのか?
仮定は仮定だが、確かめねば答えは出ない。
ならば行かねば、新庄・切が新庄・運《さだめ》なのかどうかを再確認するために。
意思が全てを決め、体を動かしていた。
「――――」
佐山は本を慌《あわ》てて本棚に戻し、書庫の中を速いステップで横断した。
立てる足音。それにジークフリートが眉をひそめるのに対し、
「失敬《しっけい》」
という一言と腕の振りを一つ返す。書庫の扉を出て、学生|寮《りょう》まではダッシュで二分。追いかければ丁度《ちょうど》新庄が湯船《ゆ ぶね》に浸《つ》かったあたりだろう。現場を押さえることが出来る。
勝利だ。そう思い、辿り着いた書庫の扉を開けた。が、佐山は、
「っ、――と」
制動の足音と、動きをもって身を止める。
正面。そこに人影がいた。開けた扉の向こう、西日の入る廊下に、小さな人影がある。
足下に黒猫。腕には小鳥の入った段ボール箱を抱えた少女。
彼女の名を、背後に立つジークフリートが呼んだ。
「……ブレンヒルト君」
●
ブレンヒルトは、横を佐山・御言《み こと》が駆けていくのをわずかに見送った。風呂《ふろ》、風呂、と訳の解《わか》らない戯言《たわごと》を言っている分だと、自分達1st―|G《ギア》に関わることではないようだ。
ブレンヒルトは遠ざかっていく足音を耳に、前に一歩を。
すると、ジークフリートがカウンターから出て来た。足早に、大股《おおまた》に、五歩で。
「――また、鳥が何か問題を?」
ブレンヒルトは無表情に首を横に振った。言うべきことがある。
……今度は、ちゃんと言えるかしら。
昨夜のことを思い出しながら、ブレンヒルトは口を開く。一度、唇を震わせて言葉の演習。
口を動かし気づくのは、今、足の震えも身の怯《おび》えもないこと。
だからブレンヒルトは面《おもて》を上げた。髪を揺らし、自分では無表情だと思う顔を作り、彼の青い目を見上げた。
「明日の朝まで、ちょっと出ますので、この子を預かって下さい」
「それは随分《ずいぶん》と急なことだ」
ジークフリートが軽く目を開いた、ように見えた。
だがそれは否定でも咎《とが》めでもない。彼女は目を伏せ、頭を下げ、箱を抱えた腕を前に出す。
「ええ、でも、……だから任せます」
更に頭を下げ、
「御願いです。明日の朝までちゃんと世話をしてあげて下さい」
顔を上げた。起こす体の動きで、なるべく箱を引いてしまわないように気をつけながら。
すると視線の先、ジークフリートが、ややあってから頷《うなず》いた。
「明日の朝、だな?」
「――はい。それまでには戻ります」
うむ、と頷き、ジークフリートが箱を受け取った。
ブレンヒルトは安堵《あんど 》の吐息をつきそうになり、我慢。
表情を変えることなく、箱の中の小鳥を見る。小鳥は首を傾《かし》げ、こちらを見上げている。ジークフリートが箱を引き寄せると、遠ざかることに不安を憶《おぼ》えたのか、羽を広げた。
はばたく。
「――――」
が、飛べない。転んで、身体《からだ》を起こして、また見上げてくる。
そんな小鳥にブレンヒルトは告げた。
「大丈夫。この人は、……鳥達の声が解《わか》る人だから」
言ったときだ。ブレンヒルトは小さな笑みの吐息を聞いた。はっとして上を、ジークフリートの顔を見る。が、彼はいつもの表情だ。
「どうかしたのか?」
「い、いえ、何でもありません。……では、御願いいたします」
手短《てみじか》に挨拶《あいさつ》をすると、ブレンヒルトは背を向けた。
三歩目で、後ろから書庫の扉が閉じる音がして、小鳥の囀《さえず》りが遠のいた。
中央ロビーを抜け、彼女は美術室へと向かう。その足下で黒猫が吐息を一つつき、
「用意してた台詞《せりふ》を、ちゃんと言えたね」
「そうね、何でかしら」
「……君にとって大事なものが解《わか》ったからだよ」
そうかしら、と疑問系で頷《うなず》いて、ブレンヒルトは思う。
黒猫の言う通りならば、小鳥と彼と、どちらが大事なのだろうか、と。
●
学校の正門正面に構えを持つ商店街。
その中に二十四時間営業|銭湯《せんとう》永世《えいせい》―ひまわり がある。
コンクリ―トに瓦《かわら》屋根という古びた施設だが、南にある鉄骨フレ―ムの大型温室を構えているのが目立つ。三階建て分はある中に見えるのは熱帯性の植物に、季節はずれの向日葵《ひ ま わ り》。
男湯と女湯を分ける暖簾《のれん》も、それぞれ向日葵のマークがプリントされている。
「学内ボイラー施設の熱を地下|配管《はいかん》利用した二十四時間システムの銭湯永世―ひまわり 。学外に姉妹《し まい》施設が数件あるが、新庄《しんじょう》君が来ているのは昨夜教えたここだろう」
と、番台をくぐり、日中|番頭《ばんとう》の老婆《ろうば 》に挨拶《あいさつ》をし、自動改札に百円ワンコインをリリース。
改札機の出口から出されるカード式のロッカー鍵《かぎ》を受け取ると、肩に乗っていた獏《ばく》を頭の上に移動。板の間では衣服を脱いでロッカーに叩き込み、肩にはタオルを装備する。
左腕、包帯《ほうたい》をほどくと、下から傷口を覆《おお》う符《ふ 》が露《あら》わになった。昨日シャワーを浴びたが湿っている気配などは全くない。何らかの力が働いているのだろうと佐山《さ やま》は思う。
ともあれ、ロッカーの鍵を施錠《せじょう》すれば突入準備は完了だ。
確認のため、体重計で重量測定を行うが昨日と変わるところはない。
万事《ばんじ 》良好。あとはただタオル一本で行くのみだ。洗面器は銭湯備え付けを使うのが粋《いき》というもの。そして浴場の扉は両手で開けるのが佐山流。
「――参る」
告げて、佐山は中に一歩を踏み込んだ。
蒸気で曇った浴場は広い。十メートル四方の浴槽《よくそう》が左右に四つ並び、外側に洗い場が連続。
浴槽の間、中央を歩けば足下が冷えた湯を踏み、小さな音を立てる。
佐山は白の色に覆《おお》われそうになる不確かな視界の中、目標を捜索《そうさく》。
そして発見した。佐山から見て一番左|奥《おく》の浴槽。手前の角に、黒の色彩が見えた。
黒は、髪の色だ。
佐山は蒸気を割るようにしてそちらへと歩を進める。
近づくと、確かに細い肩が黒髪《くろかみ》を浴槽の外、洗面器の中に束ねて落としている。
肩の下あたりまで湯に浸《つ》かるその後ろ姿は、間違いなく新庄だ。
……ちゃんと首まで浸かるべきだ。
あとで注意する必要がある、と思った上で、佐山はアプローチ方法を思考した。
昨日の初対面での反応を見るからに、新庄《しんじょう》・切《せつ》は意味もなく警戒心《けいかいしん》を高める傾向がある。
警戒心を緩める接触をしなければならない。
いきなり湯船《ゆ ぶね》に飛び込んで意外性を見せる方法や、大股《おおまた》で頭をまたぎ越えておおらかなところを見せる方法も思索《し さく》されたが、結局、無難《ぶ なん》が妥当と結論した。
思考の間も、接近して観察を怠《おこた》らない。湯船に浸《つ》かる新庄の横顔、目を伏せた表情からは力が抜けている。気になる身体《からだ》は、浴槽《よくそう》内側の段差に浅く腰かけ、自分の腕で抱かれていた。
腕と、湯船の中に入れたタオルでその身は隠されている。
……湯船にタオルを入れるとは。
新庄の行為に軽い目眩《めまい》を憶《おぼ》えたが、佐山《さ やま》は堪《こら》えた。ここで警戒心を与えてはならない。ただ、タオルがなければ身体は確認出来たことは確かだ。トラップは解除《かいじょ》せねばならない。
まずは、警戒心だ。それを失った相手は容易《たやす》く手中に落ちる。その通りだ。
佐山は音もなく、湯船に浸かる背の後ろに無音で正座した。そして近くにあった洗面器を手に取り、警戒心を緩めるために、
「お客さん。――お背中流しましようか?」
新庄がびくりと振り向き、そして、
「う、わ、わあっ!!」
叫びを挙げて全力で湯船の方へと転ぶ。
飛沫《しぶき》と蒸気が上がり、そして長髪が湯船の中へと引かれていった。
佐山は浴槽の縁《ふち》を越えてきたお湯の波を脚《あし》に受け、しかし正座を崩さない。
「――騒がしい子がいたものだね。湯船の中で泳いではいかんのだが」
「な、何だよ一体いきなり! お背中って」
「君の背中を流したいだけだ。怪《あや》しむことはない」
「充分怪しいよっ!!」
佐山は、言葉の通じない人だ、と思いながら額《ひたい》に手を当てる。が、新庄はタオルで身体を隠したまま湯船に立ち、動かない。佐山は蒸気の向こうで新庄の眉が立っているのを見ると、
「どうしてそんなに猜疑《さいぎ 》的なのかね……、君は」
「猜疑的も何も。……人目《ひとめ 》があることとか考えないの!?」
新庄が指さすのは、壁際《かべぎわ》、洗い場の側の方。浴槽の縁に両手を広げて浸《つ》かっているのは、
「出雲《いずも》か」
よう、と出雲は片手を上げてこちらに挨拶《あいさつ》。佐山は頷《うなず》き、
「気にするな新庄君、あれは人じゃない、人目にはならん」
「おい馬鹿《ば か 》佐山、お前は俺の染色体《せんしょくたい》を見たことあんのか?」
「見なくても解《わか》る、人より二本ほど多いだろう」
「おおそうか、やっぱ俺|偉《えら》いもんなあ、人より多いか」
「……あのさ、人より二本多いって、チンパンジーの染色体《せんしょくたい》だよ?」
「あ? こら佐山《さ やま》、テメエ、この、……頭いいじゃねえか馬鹿|野郎《や ろう》」
「どうでもいいから落ち着きたまえ」
立ち上がりかけた出雲《いずも》は湯船《ゆ ぶね》に沈み直し、一息。こちらと新庄《しんじょう》を交互に見て、
「何かゴタついてるらしいが、佐山、身体《からだ》は洗ってから浴槽《よくそう》に入れ。それがこの銭湯《せんとう》永世―ひまわり に伝わる五つの掟《おきて》の一つだ」
ふむ、と頷《うなず》き、佐山は新庄を見た。新庄は浴槽の中央に立っている。
「何故《なぜ》、そんな怒ったような顔を」
「だ、だって、それは……」
「私は君にまだ何もしていないつもりだが」
「存在自体がおかしいってのはどうよ。ってか、まだ何も、って何だ?」
出雲の意見を佐山は無視した。ともあれ、身体を洗ってしまえば新庄に逃げ場はない。
立ち上がり、洗い場に向かう。背後で新庄が湯船を歩き、元の位置に戻る音が聞こえた。洗い場の鏡《かがみ》にもそれは写っている。佐山はその鏡の前、出雲の近くに置いてある椅子《い す 》に座った。シャワーがあるが、まずは近くの洗面器に人肌《ひとはだ》よりぬるい湯を作り、獏《ばく》を入れた。
獏はしばらく浮いていたが、暴れることもなく、沈んだ。
取り上げて洗面器の縁《ふち》に前足をかけてやる。基本的に無抵抗《む ていこう》型の動物のようだ。
一息。後ろへ固めた髪をシャワーでほぐし、掻《か 》き上げる。そして小さな声で、
「出雲」
「何だ馬鹿」
「貴様《き さま》に一つだけ答えさせてやろう」
「ほほう、では、偉大な俺に卑賎《ひ せん》なお願いを言ってみろ」
佐山は頷き、タオルに備え付けの石鹸《せっけん》を刷り込みつつ、
「新庄君の身体はどうだった?」
問いに、鏡の中で出雲が振り向いた。真剣な表情で一つ頷き、
「それに対する俺の見解《けんかい》はこうだ。――お前の頭はイカれてる。どうだ? 解《わか》ったか? 解らないならもっと解りゃすく言ってやろう。……:御《お 》・馬《ば 》・鹿《か 》・さ・ん。どうだ? 解ったな?」
「貴様はまた人が傷つくことを平気で言う男だね。地獄《じ ごく》に堕《お 》ちろサノバビッチ」
吐息。そして鏡を通じてまっすぐな視線を出雲に向ける。
「私は遊びではなく、真剣なのだがね? ……新庄君の身体はどうだったと聞いている」
言葉を放つと、鏡の中で、出雲の表情が翳《かげ》り、曇り、そして、つと目を逸《そ 》らした。
「――すまん。真剣な問いだったか」
「そうだ。解ればいい」
「ああ、すまんな。マジだとは思わなかったからよ……。俺、千里《ち さと》で満足だしな」
「そうか、ならばこちらも無理を問うた。死ね役立たず、と言っていいだろうか」
「失せろホモ野郎《や ろう》、と言っていいだろうか」
佐山《さ やま》が無言でシャワーを左手に、熱湯のバルブを右手に掴《つか》んだときだ。
背後、大量の飛沫《しぶき》の落ちる音がした。
鏡の中を見れば、黒い長髪を持った後ろ姿が、抜き足差し足で浴場を出ようとしている。
逃がすか。佐山は髪を一度|掻《か 》き上げると、振り向くなり、腰を落としてダッシュした。
「待ちたまえ……!」
疾走する視界の中、新庄《しんじょう》がこちらに振り向こうとした。
身構えさせてはならない。それには気づかせないことが先決だ。
佐山は新庄の視界から逃れるため、濡《ぬ 》れたタイルの床の上で膝《ひざ》を落とした。
正座のまま、床に溜まった水を切って滑り込む。
濡れた音で滑る頭上、新庄の目が何かを見失ったように横へさまよう。
直後。佐山は新庄の腰を眼前でホールドした。
●
後ろ向きの裸身《ら しん》は、両の手で腰を固定されるなり、大きく震えた。
頭上、新庄がこちらを見ていた。肩と首で身を捻《ひね》って振り返った姿勢で、
「な、何だよ佐山君……! いきなり!」
佐山は身を捻って逃げようとする新庄を正座で下から押さえたまま、言う。
「落ち着きたまえ」
「そ、そんな! 言ってる意味が解《わか》らないよ!」
「解らない? 心静かに慌《あわ》てず急がず自然体でいうと言っているのだが」
「そーいうことじゃないっ!!」
叫び、しかし、それで新庄は逃げようとする動きを止めた。頬《ほお》を赤くして、
「……な、何? 一体。用件あるなら早く言ってよ!」
「君を見て確かめたいことがある。言って解ることではない。そして――、それは、君にとって大事なことだ」
「大事なこと……?」
新庄は眉をしかめて、目を逸《そ 》らした。ややあってから、
「こ、これ以上変なことしない?」
「そんな、私がいつ君に変なことをしたと言うのかね」
「あ、あのね? 佐山君? ……御願いだから、右か左か、どっちかを見て」
言われて左を選択。見ると、洗い場の鏡《かがみ》に自分と新庄が映っている。
自分は正座の姿勢で、立っている新庄の尻を両の手で抱え込んでいた。
それは新庄《しんじょう》が女かどうかを確かめるため、そのプロセスの一手に過ぎない。
「――何かおかしなところがあるかね?」
問うと、新庄はうつむき、醒《さ 》めた表情の顔を背《そむ》け、
「ああ、そうか……。おかしい人は、自分がおかしいって気づかないんだよね……」
「哀《あわ》れな話だね」
「君のことだよっ!!」
「何か被害|妄想《もうそう》があるようだね。……ともあれ、じっとしていてくれ」
うー、と唸《うな》った新庄の顔から視線を外し、佐山《さ やま》は前を見た。
尻がある。抱えているため、ややこちらに突き出された二つの丸みは、表面に湯の滴《しずく》を浮かべていた。ウエストと太腿《ふともも》と、上下両方から伸びるラインを膨《ふく》らませた形は、
……丸い。
見事だ、と佐山は思う。わずかに手に力を入れると、その丸が柔らかく歪む。肉の合間に溜まった湯の滴が、回るように下へとこぼれていく。その光景を見て、佐山は内心で感嘆《かんたん》の吐息。しみじみと、思う。
……何とエロい……。
思い、しかし自分の思考に気づくと、佐山は首を横に振った。
今は新庄が女性かどうかを確かめるときだ。尻の鑑賞会《かんしょうかい》をしている場合ではない。だが、
「この美を一言でどう告げるべきか……」
丸く、そしてエロい。佐山は淡く考え、それを一語で言い表した。ふう、と息をつき、
「まロい……」
「な、何? 何か変なこと言ってない!?」
「いや、新しい表現を追求していただけだ。君は安心したまえ」
そして佐山は考える。尻では女かどうか解《わか》らない、と。それは当然だ。だから言った。
「――さあ、これからが本番だ。こちらを向きたまえ、新庄君」
「あ、あ、あの、佐山君? 自分が何言ってるか解ってる? ってか本番って何?」
「今更《いまさら》疑問を感じている場合か! これは大事なことだぞ!」
一喝《いっかつ》すると、新庄は身体《からだ》から力を抜いた。見上げれば、眉尻《まゆじり》を下げた顔がこちらを向いて、
「そ、そっちを、……向かないと、駄目《だ め 》?」
「ああ、そうでなければ解らないことがある」
「…………」
新庄が無言で目を逸《そ 》らした。だから、佐山は新庄の尻を抱える手から力を抜いた。
ゆっくりと新庄がこちらに振り向く。膝《ひざ》を合わせた姿勢だ。が、佐山は甘やかすことなく、
「何を恥ずかしがっているのかね? ――そのタオルと腕をどけたまえ」
「み、見せないと駄目なの? お、おかしいよこれ。多分、今、おかしいことしてるよ?」
「何度も言っている通り、これは私と君にとって大事なことだ。新庄《しんじょう》君」
「そうなの? ……ボクと佐山《さ やま》君にとって、ホントに大事? 絶対?」
無言で視線を返すと、新庄は目を浅く伏せた。頬《ほお》赤く、下《した》唇を噛《か 》み、身を硬くして、
「変なこと、しないでね」
タオルを落とした。濡《ぬ 》れた布地が床を軽く打つ。
だが、まだ両の腕が胸と脚《あし》の間を隠している。だから佐山は言った。
「手を」
佐山の言葉に、新庄は頷《うなず》かない。だが、両の手を上げ、ああ、と声を漏らして顔を覆《おお》った。
佐山は手の動きを追って上がった視線を、ゆっくりと下へ動かしていく。
手に覆われた赤面の顔、指の間からは、閉じかけた目が、しかしこちらを見ている。
肩は竦《すく》められ、その間にある胸は、薄い。昨日に触れた、そのままの胸だった。
胸から脇腹《わきばら》、そして臍《へそ》にかけ、湿った肌の上を水滴がつるりと落ち、肌に溶ける。
緊張《きんちょう》があるのか、膀下のあたりが浅く上下していた。そしてまたその動きで水滴が落ちる。
佐山は落ちる滴《しずく》を追うようにして、下を見た。新庄の脚の間を。
「ふむ……」
「ふ、ふむ、って何? や、やだよ、そんなじっくり見られたら」
「これは失敬《しっけい》」
佐山《さ やま》は新庄《しんじょう》が男だと確認する。目の前に証拠《しょうこ》はある。確かなものが。
もはや疑いはなく、佐山は心の中で、疑念が晴れたことによる喪失感《そうしつかん》を得た。
頭上からは新庄の声が聞こえた。震える言葉で、
「も、もういい? いいよね? 充分、見たよね?」
ああ、と頷《うなず》きかけた佐山は、だが、自分の思考を止めた。少し待て、と。
……目の前に今、事実は見えている。だが――。
これがトリックだったならば、どうだろうか。
UCATの技術力は解《わか》っている。このくらいの細工《さいく 》は、簡単にやってのけるだろう。
確かめるならば、最後まで、疑いのないところまで確かめねばならない。
だが、新庄は現在、警戒心《けいかいしん》を高めつつあるようだった。ここで何か許可を得ようとしても、いたずらに時間を浪費する可能性が高い。
だから佐山はおもむろに掴《つか》んだ。
手に伝わる感触《かんしょく》、温度、重量、素材共にオールクリア。後は強度だ。
確認作業というよりも、点検するように、佐山は引っ張った、下へと。
一度、二度、三度と、引く向きをやや変えて牽引《けんいん》し、試行《し こう》。
「――ふむ」
だが、外れない。それは、トリックではないということだ。
今、確かに解った。間違いはない。昨日からの疑念はこの場にて遂《つい》に消えた。
ああ、これで完璧《かんぺき》だ、と佐山は顔を上げた。安堵《あんど 》の吐息をつき肩を落とす。新庄と視線を合わせると、自然に微笑が生まれた。嬉《うれ》しいことだ。大きく頷き、佐山は言う。
「安心したまえ新庄君。――君は男だ」
「そんなの解ってるよっ!!」
視界の下側、死角《し かく》の陰から、掬《すく》い上げるような平手《ひらて 》が来た。
それは顎《あご》に当たり、首がくるりと回って、佐山は横に倒れ込んだ。
●
夕日が、西の山並みに沈んでいこうとする。
街の中、朱色の光の動きを追うことが出来るのは、高い位置にある視線だけだ。
尊秋多《たかあきた 》学院二年次普通校舎、その屋上に、沈む夕日を追う目があった。目があるのは屋上に構えられた鐘楼《しょうろう》の上。そこに人影が一つ座っていた。
黒装束《くろしょうぞく》と三角|帽子《ぼうし 》の姿。巨大な鎌《かま》を結びつけた箒《ほうき》を手にしているのは、ブレンヒルトだ。
彼女は夕日で逆光《ぎゃっこう》の影となる西の山並みを見ている。じっと静かに、膝《ひざ》を抱えて下から自分の姿が見えぬよう、身を隠したままで。
彼女の傍《かたわ》らには、黒猫がいる。猫は身動き一つしない主人を見上げ、首を傾《かし》げる。
すると、西の方角を見たまま、ブレンヒルトが無表情に口を開いた。
「大丈夫。……もう、私の方の問題は預けてしまったから」
「本当に?」
「ええ、これで全て解《わか》るわ。――もし聖剣《せいけん》グラム奪取《だっしゅ》に彼がやって来たら、彼は私が預けた鳥を見捨てたことになる。裏切り者よ」
「もし、彼が来なかったら?」
「そのとき、私は彼を赦《ゆる》すわ」
ブレンヒルトは告げ、かすかに目を細めた。小さな吐息を唇からこぼし、
「――でも、この問いかけは一方的なものね。私はきっと、ここに戻ってこれない。勝てば1st―|G《ギア》の者として、もはやハーゲン様と共に交渉に当たるでしょうし、負ければ死よ」
「戻ってこれない、か」
黒猫はうなだれ、
「今だから白状するけど君の部屋のカレンダーを破いたのは僕です」
「いいわよ、学校側からの備品だし、許してあげる」
「有《あ 》り難《がと》う。でも、同じように学校側からもらったカップを割ったのも僕です」
「そう、……あれは気に入ってたけど、戻ってこれないものね。許してあげる」
「枕《まくら》にヨダレでシミを付けて、でも君がやったようにカモフラージュしたのも僕です」
「そう、……あれはそうだったのね」
「あと、布団《ふとん》の下にはちょっと漏らしたものを隠してあります。最近の臭いはそれです」
「……そう。そうなのね。他にもあったら、全部言った方が楽になるわよ」
「参考までに聞くけど、楽に、ってどういう風に?」
「一瞬《いっしゅん》で済むから。――って、こら、逃げないの!」
わずかに腰を上げたとき、逆光《ぎゃっこう》の西側ではなく、夕日に照らされた街並みが見えた。
「――――」
動きを止め、四方を見渡す。家屋や、建物や、畑や、小さな林、そして道の編み目を。
風音が薄く聞こえる中、全ての風景はこちらに気づいていない。
眉根《まゆね 》が何故《なぜ》か詰まる。そんな彼女に、黒猫が振り向いた。
「どうしたの?」
何でもないわ、とブレンヒルトは手を伸ばして黒猫を掴《つか》み上げ、
「さようなら、私の住んでいた森とは全く違う風景よ」
言葉とともに、ブレンヒルトは頷《うなず》き、制裁《せいさい》を加えた。
●
銭湯《せんとう》永世《えいせい》―ひまわり 前の待合いベンチで、佐山《さ やま》と出雲《いずも》は瓶《びん》のコーヒー牛乳を飲んでいた。赤いペンキが剥《は 》げた木のベンチは、出雲《いずも》の大柄《おおがら》な身体《からだ》で軋《きし》みを挙げる。
佐山《さ やま》は手にしていた瓶《びん》の中身がまだあるのを見ると、横にして傍《かたわ》らに置いた。頭に乗っていた獏《ばく》を下ろすと、獏は横になった瓶の口に顔を突っ込んでわずかな残りを舐《な 》め始める。
「思い切り役立たずな動物だよな……」
「実際、人の過去や夢を見たり与えることで生きているようだね。与えると何でも食うが」
「――しかし佐山、どう思う? やっぱコーヒー牛乳は片手を腰にだが、両手では無理か?」
口の周りに瓶の跡を付けて出雲が振り向く。佐山は、女湯の暖簾《のれん》を見て、
「風見《かざみ 》はまだか」
「……お前、俺の荘厳《そうごん》な話を聞いてっか?」
「人生において無駄《む だ 》なことはしない主義でね」
「さっきの風呂《ふろ》場での奇行が人生において有益《ゆうえき》だとは思えねえんだが……」
「有益だ。私はこれで新庄《しんじょう》君を誤解せずにすむのだから」
「お前の方が誤解されるようになったんじゃねえかなー……。見事に脳震盪《のうしんとう》起こしやがって。風呂場で尻出《しりだ 》して倒れてる男ほど形容しがたいものはねえぞ」
「あそこまで綺麗《き れい》に入れられたのは久しぶりだ。油断《ゆ だん》があったようだね」
その言葉に出雲は吐息。あたりを見回し、自分達以外に誰もいないのを確認する。
空《から》になった瓶を地面に置く。そして、
「有益ついでに聞いておいてやる。――|全 竜 交 渉《レヴァイアサンロード》 、どうするよ?」
「死人も出る現場、か」
「……そうだな。千里《ち さと》が狙撃《そ げき》したの、見たろ? そして敵は自害した。ああいう状況が、今度は俺達自身に来るかもしれねえ」
「ならばお前は何故《なぜ》、そこに出る。風見も」
「俺ぁIAI社長の息子《むすこ》として、……まあ、他にもいろいろあって、な」
出雲はこちらに顔を向けた。笑みの要素が一つもない表情で、
「俺達ゃ、覚悟《かくご 》決めてる。お前はどうよ? 学生生活、何もねえけど、死ぬよりマシだろ?」
「確かにそうだが、もし、私が|全 竜 交 渉《レヴァイアサンロード》を飲まなかった場合、どうなると思う?」
「きっと俺達の部隊は解散。大人達が処理する手筈《て はず》だ。あの大城《おおしろ》・至《いたる》って監督がな」
「大城・至……、か。あの男は、それほどの力を与えられる人間なのかね?」
「よくは知らねえよ。日本UCATの人間の多くは、一九九五年末の関西|大震災《だいしんさい》でIAIの救助チームと共に死亡してる。話によれば、二次災害に巻き込まれてな」
「それが契機《けいき 》なのか、日本UCATは一時解散してるようだな。ファーゾルトも言っていた」
「だろ? その後も残っているのは、上のクラスの連中と、あの大城・至だけらしいぜ。実質、日本UCATには中堅《ちゅうけん》世代があの人しかいねえらしいんだな」
「らしい、の連発だな……、貴様《き さま》は出雲社の跡取《あとと 》りではないのかね?」
「すまんけど、俺、その頃はこっちにいなくてな」
言って、出雲《いずも》は腕を組む。うーむ、と唸《うな》った後、出雲は上を見て、下を見て、首を傾《かし》げ、
「――あのな。俺な。ぶっちゃけ言うと、10th―|G《ギア》の娘と|Low《ロ ウ》―Gの親父《おやじ》の間に生まれた面倒《めんどう》なガキなんだよ」
「そうかね。これは驚いた。わあびっくりだね本当に」
「お前は俺の心持ち重大発言をしれっと流しやがったな……」
「私にとって有益《ゆうえき》な話ではないのでね。それに、混血というならば、今どこにでもいる」
「――はは、さすが、面倒な家庭をもったヤツは動じねえな。だが、先に教えておいてやる。もしお前が|全 竜 交 渉《レヴァイアサンロード》を受けなかった場合でも、俺と風見《かざみ 》は、大城《おおしろ》・至《いたる》が交渉役となる全竜交渉部隊《チームレヴァイアサン》に組み込まれる」
「何故《なぜ》? 拒否権がないように聞こえるのだがね?」
ねえんだよ、と出雲は言った。
「俺と風見の武器は、俺が二年前、ここに来たときの騒動《そうどう》で得た概念《がいねん》兵器だからな。俺の|V―Sw《ヴ ィ ズ ィ》は6thのヴァジュラとヴリトラ、風見の|G―Sp《ガ ス プ》2は10thのガングニールだ」
佐山《さ やま》は、出雲が持っていた片刃《かたば 》の大剣《たいけん》と、風見の片刃の長槍《ちょうそう》を思い出した。
「どちらも概念核を|機 殻《カウリング》して武器の形状を与えてんだ。概念兵器は存在自体が概念そのものだから、自ら場を作ってどのような概念下でも自分の力を発揮《はっき 》する。しかも、俺達の武器は概念核式だ、一般の賢石式《けんせきしき》とは力のケタが違う。――扱い手は、最後まで面倒《めんどう》見ねえとな」
「どちらも、君達を主《あるじ》と認めているのか?」
「ああ。どちらも意思を持っている。そして、二年前の騒動を抜けた俺達がそれらを持っているから、6thは完全にUCATと同調、10thは大部分がUCATについている。だから少なくとも6thと10th―Gの|全 竜 交 渉《レヴァイアサンロード》は既《すで》に終わっている、ってわけだ」
出雲は苦笑。
「マジに、呼べば飛んでくるんだぜ、あの概念兵器は」
「怪奇《かいき 》現象だな」
「ははは俺の御言葉を信じてねえな馬鹿|野郎《や ろう》」
「ははは戯言《ざれごと》は寝ながら言いたまえよ糞《くそ》野郎」
二人して同時に吐息。佐山は顎《あご》に手を当て、
「別に私がいなくても|全 竜 交 渉《レヴァイアサンロード》は続くということか。君達と、大城・至とで」
「ああ。……正直、俺のイレギュラーな騒動で交渉がまとまっちまったから、佐山|翁《おう》はかなり血圧を上げたと聞いている。佐山翁の遺言に、お前が権利を破棄した際の事後処理があったと思うけど、それがUCATに一諾《いちだく》されていたのは当てつけだろ」
「二年前といえば……、祖父が私の受験などに口を出してきたときだな。いろいろと小うるさかったが、そういう背景があったのか」
「だが、新庄《しんじょう》は俺達と別だぜ。……きっとアイツは、お前が|全 竜 交 渉《レヴァイアサンロード》の権利を放棄すれば、この部隊から外される。大城《おおしろ》・至《いたる》も、その上も、新庄にだけは甘いんだ」
佐山《さ やま》は、眉をひそめる。
「……どういうことだ?」
「マジになるんじゃねえ。そんな気がする、ってだけだ。彼女、大城|爺《じい》さんの推薦《すいせん》で入ってきたんだが、どうも大城・至の方は新庄を遠ざけてえ風なんだ」
それに、と出雲《いずも》は言う。
「何故《なぜ》か大城・至は、お前のことを嫌っている」
「それは充分に解《わか》っている。昨日の雰囲気《ふんい き 》でね」
頷《うなず》くと、傍《かたわ》らで硬い音が一つ。何事かと振り向くと、獏《ばく》が瓶《びん》から頭を抜こうとして、抜けなくなっていた。佐山は必死に後ろ足を空回りさせる獏を掴《つか》み、栓《せん》のように引き抜いた。
出雲の声が聞こえる。
「ともあれ新庄・切《せつ》の方はご機嫌《き げん》とっておけ。お前にゃ解《わか》らねえかもしれねえが、普通の人間は気遣《き づか》われると気を許すもんだ」
「御忠告|痛《いた》み入るね」
佐山は苦笑。空《から》になっている瓶を掴み、ベンチ脇のケースに収めると、出雲に背を向けた。
「ご機嫌取りをしてくるとするよ。――風見《かざみ 》に宜《よろ》しく」
●
佐山が去ってから出雲は一息。ベンチの背に身体《からだ》を預け、千里《ち さと》、と声を掛ける。
すると、女湯の暖簾《のれん》を分けて風見が顔を出した。左右を見回している彼女を見て、
「何を避けてんだ。先に|全 竜 交 渉《レヴァイアサンロード》関わってる者として、厳しいとこ見せるんじゃねえのか?」
「う―ん……。ちょっといきなりだったから」
複雑な女だな、と言う出雲の横に、風見が歩いてきて座る。
風見が手にしているものを見て、出雲は眉をひそめた。
「お前、一体《いったい》何を……」
「トマトジュースよ。風呂《ふろ》上がりはこれで鉄分《てつぶん》補給。女の子だもの」
「俺の千里は性《せい》差別をするような女じゃなかったのに……」
「はいはいワザとらしくうなだれなくていいから。牛乳じゃないとそんなに駄目《だ め 》?」
「だってお前、牛乳飲まないと胸が大きくなんねえぞ」
「今のままでも充分大きいわよっ!」
そうか? と出雲は首を傾《かし》げ、両手で虚空《こ くう》を下から軽く掴み、また首を傾げる。そして、
「……そうかもしれねえな」
「同意していいもんかどうか凄《すご》く悩むわね―……」
風見《かざみ 》はプルを開けて一口。そして空を見上げ、
「でも、難しいね……」
「何がだよ? 乳の大きさか? そりゃ確かに、うん、……なあ?」
「違うわよ馬鹿。――いろいろと、よ」
と言ったときだ。女湯の方から、新しい人影が出てきた。出雲《いずも》が振り返り、
「大樹《おおき 》先生か」
と声を掛けた。大樹はジャージ姿にTシャツという軽装。出雲に、やほー、と声を返す。
ふと、風見がトマトジュースを口に運びながら、出雲の脇腹《わきばら》を肘《ひじ》で突いた。
? と思い、出雲は大樹を見る。彼女が手に持っているものを確認した出雲は、小声で、
「炭酸ジュースか……。あれは太るな」
「うん、骨が溶けるってのも有効意見よ。そして歯がボロボロになって痛ましい姿に……」
「ふ、二人とも何を不吉《ふ きつ》なこと言ってるんですかあっ!!」
大樹は、うー、と唸《うな》って二人を牽制《けんせい》。そして見せつけるようにジュースを飲んだ。
「――こ、子供にゃ解《わか》らない味ですよー」
そうですか、と風見が半目《はんめ 》で下を見つつ、自分の台詞《せりふ》にこう付け加えた。
「炭酸で涙|浮《う 》かべる人の台詞じゃないと思うんだけど……」
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第二十二章
『不忘の秘め事』
[#ここから3字下げ]
記憶とは言葉に出来るものだけど
言葉にしなくてもいいもので
だからどこまでも知ってみたくなる
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
●
佐山《さ やま》は日が沈んだ街の中、新庄《しんじょう》・切《せつ》と共に立っていた。
佐山は相変わらずのスーツ姿。新庄はシャツにブラウンの半パンという軽装《けいそう》だ。
佐山は新庄が持つべきホビーセンターの紙袋を両腕で抱え、頭の上には獏《ばく》を一匹。
二人の目の前には、緑の垣根に囲まれた大きな屋敷がある。こちらから見えるのは屋敷の側面。広い芝の庭には松や桜の木に置き石があり、向こうの母家《おもや 》は瓦葺《かわらぶ》きの大きな和風|家屋《か おく》だ。
周囲は薄暗くなっているが、屋敷の障子《しょうじ》や窓からの光で敷地内は明るい。
新庄は百メートルほど続く垣根を左右に見渡し、
「うわ……。こ、ここが佐山君のお家?」
「私の家ではないよ。田宮家《た みやけ 》、この秋川《あきがわ》市とその周辺の裏側を治める――、解《わか》りゃすく言うと自警《じ けい》集団だ。警備会社を基礎に活動している」
「へぇ、偉いんだ」
佐山は新庄を見て、抱えていた紙袋を少し上げてみせる。
「お詫《わ 》びがてらに今日はここで夕食といきたいが、許してもらえるかね?」
問いに、新庄はこちらを見上げた。ややあってから、目を弓にして歯を見せ、
「うん。――充分」
と両手を差し出してきた。荷物を引き取ろうということらしいが、佐山は苦笑。
「これは私が自分の意志で持つと決めたものだよ。来賓《らいひん》には来賓なりの礼儀があるだろう?」
「そう言われてもなあ……。でも、有《あ 》り難《がと》う。ボク、こんなお屋敷に入るの初めてだよ」
「一応、諸処《しょしょ》の打ち上げ場所などとしても活用する家だ。恐れることはない。出雲《いずも》のように池にダイブすると品種改良した鰐《わに》に襲われることもあるが」
「後半無視して質問するけど、どうしてここから通わないの?」
「田宮家が借りを持つのは祖父だ。私もよくは聞かされていないのだが、祖父がいなければ滅びていたのだとか。――だが、祖父の手柄《て がら》と私は、無関係だろう?」
「堅いなあ……。家族として考えられないの?」
「考えられれば、いいのだがね。と、門は向こうだ」
垣根の東辺《とうへん》を佐山は顎《あご》で指し示す。と、新庄が佐山の頭上を見て小さく笑った。
「何かね?」
「今、頭の上のその子が真似《まね》したの」
「ああ、獏か。段々となついてきたようだね」
「佐山君の周りって、変わった人やものばかりだね」
「常人の私としては気苦労が絶えないが」
そ、そうだね、と視線を逸《そ 》らして新庄が言い、佐山が頷《うなず》く。
直後。屋敷の入り口がある東の方から声がした。
「――っ!」
よくは聞き取れないが、怒鳴《ど な 》り声だ。見れば、東側の垣根の中央。小さな木造の門の前に大きな黒塗りの車が止まっている。門と車の間では、一人の青年と女性が、一人の太った初老《しょろう》を相手に応対している。
「あれは……? 何? 抗争《こうそう》ってヤツ?」
「どこでそんな言葉を知ったのかね? まあ、それほどのことじゃない。あれが田宮《た みや》・孝司《こうじ 》と遼子《りょうこ》、今の田宮家の柱となる姉弟だ。……相手が誰だか解《わか》らないが、見ているといい」
佐山は、色シャツにスーツズボンの青年と、蒼《あお》い和服の女性の後ろ姿を見て、
「――あれを家族として考えるには、私はまだ未熟だ」
●
屋敷の明かりを背に置いて、蒼色《あおいろ》の和服を着込んだ女性は前を向く。眼鏡《めがね》をかけた細い垂れ目が見るのは黒塗りの車と、その前に立つスーツ姿の初老だ。
太った身体《からだ》に灰色のスリーピースと白いマフラー、煙草《たばこ》を口にくわえた顔。
そんな初老に対し、蒼い着物の彼女は和《なご》やかな口調で、
「健康そうで何よりですねー。社長さん」
「正直にハゲデブと蔑《さげす》んでくれても構わんよ、田宮の遼子さん。今日の用件は――」
ええ、と遼子は頷《うなず》いた。後ろにひっつめた髪に軽く手を当て、
「そちらの若い人が、うちの警備してる会社に深夜の御用があったみたいですね」
「そう、それだ。さっき言ったように、それを勘違《かんちが》いだったということに――」
「残念ですけど、えー、既《すで》に警察が処理に回っていますよ」
遼子は腰の前で両の手を合わせ、微笑した。
「うちとしても信用第一ですので。今更《いまさら》取り消しは出来なかったりします」
「馬鹿か手前《て めえ》は。……手前の都合なんか聞いてねンだよこっちは」
初老は段々と声のトーンを落としていく。下から遼子を睨《にら》みつけ、
「若造《わかぞう》が。まあ先代の顔たててやってりゃいい気になりやがって――」
そうですね、と微笑のまま、遼子が言った。
「社長さん、あとどのくらい続きますか? 口上《こうじょう》は」
微笑のままの彼女の台詞《せりふ》に、相手はわずかに黙り、口の煙草を手に取ると、
「手前……」
口を開いた直後。遼子が動いた。
前に一歩。初老の手にあった煙草が遼子の胸に押しつけられる。
「あらやだ熱い」
小さな焦音《こげおと》とともに和服に穴が開く。初老《しょろう》が慌《あわ》てて手と身を引き、
「ば、馬鹿|野郎《や ろう》……」
と言いかけたときだ。遼子《りょうこ》の目が、眼鏡《めがね》の奥で更に細くなる。
「いけませんよね。女の胸にいきなり触れるなんて――」
微笑とともに、遼子の手が上がった。目に見えぬ速度で。
瞬間的な動きが止まった。そのときにはもう、初老の開いた口に、煙草《たばこ》とは違うものが突っ込まれていた。
黒い鉄の| 塊 《かたまり》。拳銃《けんじゅう》だ。
引き金が遼子によっていきなり絞《しぼ》られた。
「――!」
初老の声にならぬ叫びが漏れ、撃鉄《げきてつ》が震え、
「あらら?」
遼子は首を傾《かし》げた。
引き金が絞り切れない。細い指で何とかアタックを掛けるが、引き金は数ミリ動いて停まる。初老が荒い息をつき、砕けそうになった腰を整える。その前で、遼子は傍《かたわ》らの弟に告げた。
「孝司《こうじ 》、これ、ポンコツよ」
紺色《こんいろ》のシャツに角刈りの若者は、やれやれと、
「あのね、姉さん」
「うん、孝司《こうじ 》、こういう場合、どうすればいいの?」
二人が言っている間に、初老《しょろう》はゆっくりと両の手を上げていた。口から拳銃《けんじゅう》を引き抜くため、遼子《りょうこ》の手を押さえようとする。タイミングを計り、呼吸を三つで落ち着け、動こうとした。
同時。孝司が頷《うなず》き、姉の質問に答えた。
「安全装置を外すんだよ。前に教えたろう?」
「あ、そっかそっか、お姉ちゃん早とちりっ」
嬉《うれ》しそうに言って、初老の動きを超え、遼子は安全装置を外した。
「御免《ご めん》なさい。お待たせしましたぁ」
引き金が絞《しぼ》られた。一発から一気に六発まで。銃声が連続して響《ひび》き、初老の身体《からだ》が震える。
最後の銃声が空に抜けたとき、初老はしゃがみ込むように倒れ込んだ。
そのときになって黒塗りの車の運転席が開き、
「――て、手前《て めえ》!」
スーツ姿の若い男、運転手が飛び出してきた。
彼が| 懐 《ふところ》に手を入れた直後。その眼前、車のボンネットに一つのものが生《は 》えた。
金属音とともにボンネットに突き立ったのは、一振《ひとふ 》りの出刃包丁《で ばぼうちょう》だ。
飛び出してきた運転手は、懐に手を突っ込んだまま動きを止めた。
彼は目の前に見える刃物と、それを投じた者を凝視《ぎょうし》する。
田宮《た みや》・孝司が、運転手の方に右手を軽く差し出していた。
「申し訳ありませんが、当家は現在、来客のために料理中でして、臨戦《りんせん》態勢です」
言葉とともに、孝司の手の先に光るものが一つぶら下がった。四角い刃《は 》の料理包丁だ。
人指し指と中指で四角い刃を吊《つ 》るし、孝司は瞼《まぶた》を浅く伏せて告げた。
「キャベツを千切りにしていた途中なのです。早く続きをしないと萎《しお》れて可哀《かわい》想《そう》で……」
倒れた初老の足下、しゃがみ込んだ遼子の声が聞こえる。
「あら?」
孝司の方を振り向き、ねえ、と上げた手で気軽に包丁の刃を叩く。
「孝司、孝司、これ、弾《たま》、出てないんだけど」
見れば、倒れた初老の口からは硝煙《しょうえん》の煙が漏れてはいるが、何も穿《うが》った形跡はない。孝司は口から煙を噴《ふ 》いている初老の傍《かたわ》らに立ち、
「弾は空砲《くうほう》にしてあるよ。銃の使い方を憶《おぼ》えたら実弾《じつだん》入れてあげるから」
「もう、孝司はどうしていつもお姉ちゃんを子供扱いするの?」
「だったら銃の使い方を憶えようよ姉さん。あと、ビデオとレンジとステレオと洗濯機も」
「手順が二つ以上ある機械は苦手《にがて 》なのっ」
と、遼子に膝《ひざ》を叩かれた孝司の手から、包丁が落ちた。
「あ」
と言った姉弟と、
「あー!」
と叫んだ運転手の声の中。包丁《ほうちょう》が初老《しょろう》の頭の上に突き立った。
快音一つ。
長方形の刃《は 》は、アスファルトに五センチほど食い込み、初老の髪に浅くめり込む形で停まる。
運転手が慌《あわ》てて車を回り込んでやってくる。三人の視線の先、初老は大の字に仰向けで、目を見開き、煙を噴《ふ 》き出す口の両方を吊《つ 》り上げていた。遼子《りょうこ》は地面に立つ包丁の柄《え 》を撫《な 》でつつ、
「不思議……。何だかとても満足したような表情ね」
「ば、馬鹿|野郎《や ろう》!」
運転手が慌てて初老を助け起こそうとするが、遼子が彼を見上げた微笑で、
「馬鹿野郎?」
「あ、いえ、その、俺が、です、俺の馬鹿馬鹿っ、御免《ご めん》なさい」
「そう……。でも、自分をそんな風に言ったら駄目《だ め 》ですよ」
「姉さん、相手を馬鹿って肯定してるよそれ」
そう? と遼子は| 懐 《ふところ》から小さな黒い機械を取り出す。ワンボタン式の簡易カメラだ。
ストロボなしで初老を数枚|撮影《さつえい》した遼子は、眼鏡《めがね》の奥の微笑を満足そうな笑みに変え、
「何はともあれ、じゃ、お帰りいただきましょう」
運転手は答えもせずに後部座席に初老を積む。その間、孝司は無言でボンネットから包丁を引き抜いた。そして不意に横を見て、
「あ、……若」
と一礼。孝司《こうじ 》の声に気づいて振り返る遼子との間、車が慌てて出ていく。
遠ざかる排気音の中、彼らの視線の先、二つの人影が立っていた。
一人は茶色い紙袋を抱えたスーツ姿の少年で、傍《かたわ》らに立つシャツに半パンのもう一人は、引きつった笑顔で両手を腰の前に組んでいる。スーツ姿の少年が笑顔でこう言った。
「相変わらずで何よりだ。――メシに来たよ」
●
田宮家《た みやけ 》に入った新庄《しんじょう》は、結局、夕食の準備から参加することになった。
新庄は口を開けっ放しだ。今まで見ただけで、寝そべれる玄関に、人が五人は並べる廊下に、流しが二つもあるキッチン。そして使用人として控える、動きに無駄《む だ 》がない男達や、女達。
背の低い新庄は、長身の彼らに笑顔で挨拶《あいさつ》されながらキッチンの手伝いに。
佐山は隣《となり》の居間だ。広い廊下を挟んだ向こう、座布団《ざ ぶとん 》の上で新聞を読む背が見える。
新庄は、| 橙 色 《だいだいいろ》の着物に着替えてきた遼子と、孝司に挟まれる形でジャガイモを剥《む 》く。
孝司《こうじ 》は左側、エプロンをまとった彼の手つきは素早く、無駄《む だ 》なく、バリエーションが多い。見ている間に、使用人が持ってきた野菜や魚、肉までを捌《さば》き、流しで洗って次の動きに行く。
包丁《ほうちょう》がまな板に当たる連打と、切ったものを捌《は 》く音と、洗い場の音が絶え間ない。
対して右にいる遼子《りょうこ》は弱火に当たる煮物の鍋《なべ》の前が定位置。何もせず立っているが、
「――さ、姉さん、どいて、魚が焦《こ 》げる」
「孝司がまた人を邪魔扱《じゃまあつか》いする……。姉さんの方が偉いんだからねっ」
「うん、偉いね。でも邪魔だよ姉さん」
「孝司が若みたいになってきたあっ」
「私はもう少し断定的だがね」
居間の方から佐山《さ やま》の声が聞こえてくる。
「孝司、誠三《せいぞう》達は?」
「町内会の旅行で熱海《あたみ 》に。……バナナワニ園が楽しみだと、何故《なぜ》か| 猟 銃 《りょうじゅう》持って」
新庄《しんじょう》は、天然《てんねん》一家なんだ、と言葉を選んでつぶやき、目の前のジャガイモを剥《む 》いていく。
横の遼子がそわそわと手伝いたさそうに、
「何かすることありますか?」
「姉さんは自分の手元に集中してて」
「煮物《に もの》見ててもつまんない」
うんうん、と孝司は頷《うなず》き、
「でも姉さんの煮物は皆が自分のより美味《うま》いと褒《ほ 》めるから」
そう? と遼子《りょうこ》は新庄に笑みを見せる。新庄はコメントを避け、
「……いつも、こんな感じなんですか?」
「うん、最近は若がいないけど、その分、皆で楽しくやってるんですよ」
新庄は頷きながら、自分への遼子の口調が孝司や佐山に対するのと違うことに気づく。
そのことも含めて頷きを深く続け、新庄は問う。
「佐山君って、どういう人なんです……、か?」
問いに、孝司が手を止めた。前を見て、真剣な表情で、
「若は、間違いなく、大きな事を為《な 》し遂げられる方です。根拠《こんきょ》はありませんが、間違いない」
「そ、それは――」
「切《せつ》君、思い切り引いていいんですよ、孝司はちょっと若右翼《わかう よく》だから」
背後から肩を押さえて告げられて、新庄は返答に困る。と、肩越しに遼子がこちらを覗《のぞ》き込んできた。眼鏡《めがね》の奥で微笑の目が緩く弓になり、
「切君は、どんな人なんです?」
ええと、と新庄はジャガイモと包丁を持つ手を止めた。
そのときだ。新庄は気づいた。自分の右の手指に、遼子が目をとめていることに。
何も付けていない右手。それを見ていた遼子《りょうこ》は、不意にこちらの肩から手を離す。
「御免《ご めん》ね。お料理止めちゃ駄目《だ め 》よね」
「え、ええ」
と新庄《しんじょう》はジャガイモ剥《む 》きを再開する。左手の方から鍋《なべ》が湯気《ゆ げ 》を噴《ふ 》く音がして、孝司《こうじ 》が調理場から離れた。
遼子と自分だけになる。
見れば、遼子は目の前の煮物を微笑で眺《なが》めてる。鼻歌のようにつぶやかれる声は、
「料理は愛情〜」
目つきからしてその言葉は本気らしい。新庄は、念を込める作業を邪魔《じゃま 》しては悪いかと思いながら、先ほどの遼子の質問に答えていなかったことに気づく。とりあえず、ジャガイモを剥く手を止めぬようにしながら、
「ボク……、身の上がよく解《わか》らないんです。六|歳《さい》くらいから前の記憶《き おく》がなくて」
「そう、でもここでは大丈夫ですよ。記憶があっても身分証|無《な 》い人多いから」
「そ、そうですか……」
ふふ、と遼子は笑みを漏らし、
「でも、若が他人に興味を持つというのは珍しいことですね」
そして新庄は遼子の声を聞く。こちらにだけ聞こえるような、小さな声。
「――若は、君や君の姉さんに興味があるようですけど?」
え? と疑問の声を返した新庄は、思わず頬《ほお》を赤くする。遼子は煮物を見たまま苦笑。
「いいことです。でも、若はやっぱり女性に対してトラウマ抱いていたのかな……」
「どういうことです? トラウマって……」
うん、と頷《うなず》き、遼子はしれっと言った。
「昔、私、若と寝たことあるから」
●
新庄は、思わず手を止めていた。いきなり全身に汗が浮いたことを感覚しつつ、
「え、ええと、あの、その」
「うん? ……止めたら駄目ですよ、手を」
言われて新庄はジャガイモ剥きを再開。だが、上手《うま》く手に力が入らず、仕方ないので刃《は 》のエッジで芽を掘り出すことに集中する。
そんな風に小さく動いているこちらを見て、遼子が初めて苦笑した。
「気にしない気にしない。勢い勢い。もう十年前のことですから」
「いや、十年前って、その」
「お姉ちゃん、若かったんですよ。今でもまだ充分若いですけど」
遼子《りょうこ》は、最後の言葉に力を入れて煮物《に もの》を見つめる。ふと、さい箸《ばし》で煮物の中身を軽く混ぜた。湯気《ゆ げ 》が立ち、醤油《しょうゆ》と砂糖を混ぜた匂《にお》いが下から上に。
「私ね、若のお父さんに惚《ほ 》れていたの。でもね、若のお父さんは、あの関西|大震災《だいしんさい》の救助活動で亡《な 》くなってしまって、若のお母さんも、若と一緒に……」
頷《うなず》き、
「その頃は、佐山翁《さ やまおう》も仕事に掛かりきりで、若はふさぎ込んでいてね。それで……、まあ」
「……佐山君が、ふさぎ込んでいたなんて、本当ですか?」
「反動がね、あったの。若はお父さんを亡くされてからお母さん子だったけど、お母さんがよくこう言っていたの。いつか、何かが出来る人になれるといいね、って。それは約束ではなく、子供に対する親なりの期待なんだろうけど」
でも、と遼子は言葉を止めた。ややあってから、
「――若がお母さんと過ごした部屋は、今、開かずの間になっているの」
「…………」
「だけど、本当に若は男の子なの。私のことも、責任とろうとしてくれたのよ。でも、若は頭がいいから、気づいちやったのよね」
「何を、ですか?」
「私が若にそんなことを望んでいなかったことを」
「だから……」
「若は、自分には誰も期待していないと思っているんじゃないかな。それでいて……、何かを出来るようになりたいと、ずっと思ってるの」
そして、
「……お姉さん、喋《しゃべ》りすぎ?」
考えてから、新庄《しんじょう》は頷き、でも、とうつむいて言った。
「佐山君、自分のことを他人のようにしか言わないから……」
「知りたいと、思ってくれる?」
「うん……」
そう、と遼子は告げただけだった。彼女はわずかに肩から力を抜き、
「若の隣《となり》にいる人は、そういう人だと有《あ 》り難《がた》いですよね。若に何か望んでくれる人」
「…………」
「若は寮《りょう》に入って、私は田宮家《た みやけ 》の長《おさ》となった。それからまた、ちゃんと私とも話をしてくれるようになったし、……切《せつ》君のような友人も連れてきてくれた。だけど」
遼子は箸で煮物を混ぜながら、こちらを向いた。微笑は薄く、瞳が見える。
薄く紅《べに》の引かれた唇が開き、いい? と前置きした。
「――私は若の味方だけど、切君に無理強《む り じ 》いする気はないですよ。そして、もし切君が若に襲われたら、若にそっち方面走らせた原因は私にあるわけだから、若じゃなくて私に文句プリーズ。出来れば切《せつ》君のお姉さんを襲ってくれるといいのにね?」
「いいのにね、って何ですか!? ってか、ボクは佐山《さ やま》君とはフツーに――」
「そう、フツーね、フツー」
遼子《りょうこ》は大きく頷《うなず》いた。表情に微笑を戻すと、
「……風呂《ふろ》場でおちんちん引っ張られるのがフツーって、凄《すご》いわあ。発展してるのねっ」
「さ、佐山君! 何をバラしてるんだよ!!」
居間の方から、新聞をめくる音とともに、
「――私は事実を述べただけだが。君が| 憤 《いきどお》ったので謝罪したいため、食宴《うたげ》を開きたいと」
新庄《しんじょう》は肩を落として深く吐息。
気づくと、手には力が戻っていた。
●
鳥の囀《さえず》りが響《ひび》く衣笠《きぬがさ》書庫の中、ジークフリートは手にしていた電話の受話器を置いた。
「グラムを積んだ輸送機が飛び立った、か」
つぶやいた、そのときだ。書庫の扉がノックされて開き、人影が一つ、入ってきた。白いジャージ姿の大樹《おおき 》だ。ジークフリートは首を傾《かし》げ、
「また戸締まりか、大樹先生。用務員もいるだろうに」
「まだまだこの学校というか、いろいろと慣れてませんし」
大樹は鍵束《かぎたば》を手に笑顔を見せる。そして、
「ブレンヒルトさん、知りませんかあ?」
「ああ、何か用事があると言って出ていった。明日の朝には帰ると」
「そうですかー……。何やら寮《りょう》の方に届けが出てないようなんですよね。今、屋上まで戸締まりしてみたんですけど、美術室が開いてて」
首を傾げ、
「絵が、完成していたんですよー。森の中に、小屋があって、四人の人がいて、鳥がいて」
そうか、とジークフリートは首を下に振り、カウンターの上の段ボール箱を見た。彼の視線に釣《つ 》られて大樹が箱を見て、歩み寄り、
「あ、シジュウカラですね―」
「ほう、詳しいな」
「ええ、私の家の方、木ばっかりですから。詳しいですよー」
ちぢち、ど鳥に手を伸ばして、大樹は目を細める。
「昨夜、ずっとこの鳥の世話してたんですよね? それでいて、午前から音楽室で……」
ほう、とジークフリートが眉を上げる。
「気づかれていたのかね? 短い時間ですませているのに」
「ええ、私がこの学校に来た二年前からですってね。ジークフリートさんが土日や、休みの日に音楽室へ行くようになったのって」
大樹《おおき 》は微笑のまま目を伏せ、つぶやくように言う。
「……何か理由があるんですね。聞かせたい人でもいるんですか? オルガンの音を」
●
田宮家《た みやけ 》の前、門の前に二つの人影がある。
エプロンを外した孝司《こうじ 》と、遼子《りょうこ》だ。二人は遠く、去っていく佐山《さ やま》と新庄《しんじょう》の後ろ姿を見送り、
「行っちゃった。……孝司、もっと引き留めないと駄目《だ め 》よっ」
「姉さんが引き留めるの下手《へた》なんだよ、今の若い人は超合金《ちょうごうきん》じゃ釣《つ 》られないって」
「折角《せっかく》取り引き先から頂いたのに。レアなのよ、合体巨神《がったいきょしん》チャックとノリス は……」
でも、と遼子は微笑の頬《ほお》に手を添えて、
「切《せつ》君、若といい感じねえ」
「敢《あ 》えて言うけど彼は男だよ、姉さん」
「いいじゃない。お姉さんもいるんでしょ? だったら若も満足よ」
「な・に・が? 自分が見た限り、切君も、姉の運《さだめ》君もノーマルだよ」
「孝司の横目|怖《こわ》い。もっと柔和《にゅうわ》に、お姉ちゃんを見習いなさいっ」
孝司は吐息。はいはい、と姉の肩を軽く叩いて、
「だけど姉さん、先ほど、切君の右手を見て怪訝《け げん》な表情をしていたけど、あれは?」
「うん……、新庄っていう名前に、まあ、他人だろうけど、私、ちょっと因縁《いんねん》があるのよね。もう亡くなったようだから、とやかく言わないけど。……それでね、それでね」
と、遼子は首を傾《かし》げて右の手を上げる。
「さっきの、切君、……あの子の指にね、指輪の跡が残っていたのよ、薄くだけどね」
遼子の顔から、微笑が消えていた。
「ファッションならはめていてもおかしくないし、そうではないなら、つけていないと変でしょう? ……どういうことなのかしら?」
問いかけ、しかし、遼子は微笑に戻った。弟の顔を見て、
「まあ、でも、若が何とかしちゃうでしょう」
●
夜の空。
月の光が青白く照らす山々の上を、一つの影が飛んでいた。
大きな翼《つばさ》に太い胴体《どうたい》を持つのは、四発式の輸送機だ。
月光を浴びた機影《き えい》は、森に覆《おお》われた山野の頭上《ずじょう》を、高く高く越えていく。音は上から遠く響《ひび》き、空から染みるように降る。
機影が空に浮かぶ月に重なったときだ。
下。
そちらの方から、白い一線が伸びた。
線は掠《かす》れながらも停まることなく、斜め一直線に機影を縫《ぬ 》い、月を割った。
五秒。
その後に、空に朱の蕾《つぼみ》が生まれた。
そして空から音が降ってきた。
籠《こ 》もるような、それでいて高い音。
聞こえてきたのは、高空の爆発音だった。
応じるように朱色の花が空に開いた。が、それはすぐに黒くしぼむ花弁に覆《おお》われた。
朱と黒の二色は、複数の形に散らばると、黒の尾を引いて落下。下へ、下へと、散りながら回り、滑り、宙を転がり闇の底へと。
落ちる。そして落ちていく。眼下の広がる黒い森の中へと、月光を浴びながら。
落ちた。
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第二十三章
『月の風空』
[#ここから3字下げ]
月の下
風の中
そこに地平は何とともに
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
●
佐山《さ やま》と新庄《しんじょう》は学校の中を歩いていた。
二年次普通校舎の裏側、並木のある砂利《じゃり》の上を二人は歩く。自分達の住む学生|寮《りょう》に向かって。
月光の下、頭に獏《ばく》を乗せて紙袋を抱えた佐山が行く。その横、てぶらの新庄は笑顔で、
「偉そうに聞こえるかもしれないけど、少し見直したよ、佐山君のこと」
「そうかね?」
「うん。遼子《りょうこ》さんと話をしていて思ったけど、……意外と小心者《しょうしんもの》なんだね、佐山君は」
「それで何故《なぜ》に見直される?」
佐山は苦笑。
その苦笑に対して、新庄は言う。笑みを消し、しかし力を緩めた表情で、
「だって佐山君、何かずっと考えごとしてるよね? ボクには言えないこと、君にとって大事なことを、ものすごく考えてる。……それは君にとって大事なことなんだろうけど、でも、すぐに決められないのは、きっとそれが、他の誰かに繋《つな》がることでもあるから、だよね?」
一息。
「他の誰かを思うとき、小心者になれる人は、きっと、その人と一緒にいたいと思う人だよ」
言われ、石を踏む足音が一つ停まった。
佐山だ。佐山の足音が停まっていた。
二歩|先行《せんこう》して、月光を浴びる新庄が振り向く。目が合った。新庄の瞳《ひとみ》を受ける形となった佐山は、わずかに目を細め、口を開く。新庄の言葉に何かを返そうとして、
「――――」
しかし口から地面に落ちたのは無言だった。
一度うつむき、頷《うなず》く。その後に佐山は顔を上げた。頭の上、振り落とされまいとする獏に視線を送ってから、
「――君達姉弟は、面白いね。私の痛いところを確実に突いてきて、そして、私に何が痛かったかを言わせようとする」
「そう……、かな?」
「ああ、そうだとも。……今も、私が一番迷っているところを突いてくる」
「佐山君は、何を迷っているの?」
問いに、佐山は一度口を開けて、ややあってから、答えた。
「本気になろうと思っていることを、……諦《あきら》めた方がよさそうだということだ」
「……え?」
「周囲はやめた方がいいのではないかと言う。私は自分に自信が持てていない。私が今いる世界は狭いけれどもそれはそれで充分刺激がある。そして――」
頷《うなず》き、
「私は本気になろうとするとき、自分の鏡《かがみ》となる役を欲する。自分の正逆《せいぎゃく》の人を。……だがそれは、その人を危険の場所に誘うということだ」
ならば、と佐山《さ やま》は言った。
「諦《あきら》めてしまえば、何も問題は起きない。私の中以外に」
そう、と新庄《しんじょう》は頷きを一つ。
しかし、新庄は軽く地面を蹴《け 》った。影落ちる大地の、白い砂利《じゃり》を小さく蹴り飛ばし、こちらに改めて顔を向けた。新庄の眉はまっすぐに、視線もまっすぐに、ただ口が開き、問いが来る。
「それで……、いいの?」
問いかけ、だが、新庄は答えを得ようとしない。
自分の身体《からだ》を軽く抱くと、新庄は新しい問いを重ねてきた。
「ねえ? さっきの話の続き。……佐山君は、誰のことを想っているの?」
「それは」
「何か出来るといいね、って言ってくれたお母さん? それとも一時ながら大事にしてくれた遼子《りょうこ》さん? それとも、危険の場所に誘いたくないその人? 佐山君と正逆の……」
新庄が口を開く。一つの名前が告げられようとした、そのときだ。
電子音が二人の間に割って入った。
携帯電話の呼び出しだ。佐山の| 懐 《ふところ》。一定時間ごとに響《ひび》く電子の呼び子が彼を欲している。
新庄と佐山は顔を見合わせた。
そして新庄は頷き、佐山との距離を詰めた。手の届くところに至ると、両の手を前に。
新庄は佐山から大きな荷物を受け取った。
自由になった佐山は懐から黒い携帯電話を取り出した。耳元に構え、
「――私だ」
佐山は携帯電話から響く声を耳に入れた。
それは聞いたことのない女性の声。落ち着き、通る発音が言葉を作り届けてくる。
『初めまして、佐山様、日本UCAT全竜交渉部隊《チームレヴァイアサン》通信係のシビュレと申します』
自己紹介の後、シビュレと名乗った女性はこう言った。
『――宜《よろ》しいでしょうか?』
●
「当然だ」
言葉とともに、佐山は目の前の新庄を一瞥《いちべつ》し、空を見る。
「用件を言いたまえ」
『|Tes《テ ス》.、緊急の出場|要請《ようせい》につき、その肯否《こうひ 》の御判断を』
シビュレは言葉を続ける。
『本日一八・三七、聖剣《せいけん》グラムを移送中の輸送機が中国《ちゅうごく》山地東側|氷ノ山《ひょうのせん》上空にて消息を絶ちました。一八・五九、氷ノ山一帯に広大な概念《がいねん》空間が張られていることを確認。現実世界側に輸送機の残骸《ざんがい》、形跡は発見されず。概念空間内に取り込まれたものと判断しました』
佐山《さ やま》が腕時計を見れば、時刻は七時十二分。
「そちらの対応、進展はどうなっているかね?」
『|Tes《テ ス》.、1st―|G《ギア》市街派 からの記念写真付き犯行《はんこう》声明文が届いています。現在、IAI本社のUCATが聖剣グラムの探索を巡って1st―Gの先遣《せんけん》部隊と交戦中です。全竜交渉部隊《チームレヴァイアサン》監督《かんとく》の大城《おおしろ》・至《いたる》は、これを機に|全 竜 交 渉《レヴァイアサンロード》を本格的に開始すると宣言』
「そうか。では……、私には何が出来るのかね?」
『佐山様は未だ|全 竜 交 渉《レヴァイアサンロード》の交渉権|受諾《じゅだく》の決定をされておられません。――しかし、私達は、1st―Gとの決着はこの戦闘でつくと判断しています。この戦闘に加わらない場合、我々は、佐山様が|全 竜 交 渉《レヴァイアサンロード》の交渉権を放棄《ほうき 》されたものと見なします』
「…………」
『一九・三〇までに秋川市《あきがわし 》中央公園に来て下さい。そこに迎えのヘリを送ります』
「もし行かなかった場合は――」
『今後|一切《いっさい》、我々は佐山様と関係いたしません』
そしてシビュレは、始まりと同じ言葉を、もう一度言った。
『――宜《よろ》しいでしょうか?』
佐山は答えた。
「まだ、Tes.とは言わんよ」
『Tes.、――確かに契約とは刀持つ主《あるじ》に大《ひろ》く約すもの。力を持つことを自覚し、世に己《おのれ》を確かめるための言葉です。時間はわずかですが、佐山様が悔い無き御決断を出せますよう、お祈り申し上げます』
では、と言って通話は切れた。
佐山は耳元から携帯電話を離し、一息。
夜に青黒く染まる校舎を見上げ、そのまま、夜空を仰いだ。
頭の上から獏《ばく》が肩へと落ち、同じように見上げる。月浮かぶ空を。
●
佐山は思った。
決めよう、と。
夜の天上には月が一つ白くあり、星と風が全てを埋める。
その下、空を区切る形で、青黒く四角い学校の影が左右にある。
ここから見えるのは、狭い空だ。
「…………」
視線をわずかに落とせば、二年次普通校舎の側面に非常階段の影も見える。
夜空を区切る影と、そこから突き出た小さな非常口の足場を見て、佐山《さ やま》は思う。
あの非常階段からならば、空は広く見えるだろうか。
……変わりはない。
見る位置が違うだけだ。校舎の範囲から出るものではない。
結局、自分はその程度の選択肢《せんたくし 》しか選べていない。
「それが……」
全ての結論だろうか。自分の行いに自信も誇りも持てず、誰かを戦場の奥深くに導くことも出来ず、だから本気になることが出来ぬまま。狭い場所で満足するしかない。
今までも、これからもずっと。
確かに小心者《しょうしんもの》だ、と佐山は思う。
しかし、それで全てが収まる。この世界は狭く、失うことがあってはならない。
この考えは正しい。
対する自分は間違っている。
そういうものだ。
決めよう。ここで新庄《しんじょう》から荷物を受け取り、二人で寮室《りょうしつ》に戻れば、全ては終わる。
佐山はうつむき、視線を下に落とした。
そのときだ。佐山は一つのことに気づいた。
自分の考えが未熟だと言うことに。
●
佐山の思考を走らせたのは足下、そういうものかと下を見た視線だ。視覚が見るものは、校舎に狭められた大地。その筈《はず》だった。だが、
「そういうものでは……」
なかった。
眼下。砂利《じゃり》の上に、先ほど見上げた天上の空や光と繋《つな》がるものがあった。四角く区切られた天上の世界と密接に繋がるものが、自分の足下に落ちていたのだ。
それは、影だ。
「…………」
月光の青白い光が、自分の影を砂利の上に落としている。
そして、周囲の校舎も、己《おのれ》の影を等しい高さで地に打ち付ける。
ここでは空は区切られている。
だが、閉じてはおらず、己《おのれ》の足下と繋《つな》がっている。
「――――」
今こそ佐山《さ やま》は天上を見上げた。青白い光に満ちた空を。
そして佐山は足下の地面を踏みしめた。空と繋がるからこそ落ちる影の大地を。
自分の頭上に光があり、自分の足下に影がある。
夜の影とは、夜の光の正逆《せいぎゃく》に他ならない。
ふと、目を伏せそうになったときだ。もう一つ、空と大地を繋げるものが来た。
風。
それは、いきなりだった。
「……く!」
轟音《ごうおん》と、身体《からだ》を波打つ空気の冷たさ。
耳をかする音をまとった大気の動きが、身を包む。
強い風、厚みのある大きな風が来るのは、西からでも、東からでも、南からでもない、ましてや北からでもない。
上からだ。
「!」
高い位置を吹いた風が、校舎の壁にぶつかって落ちてきた。
どこから来た風なのかは解《わか》らない。だが、風は佐山達の周りで踊り、小さな声が聞こえた。
「……きゃ」
という軽い驚きの声に、佐山は手を伸ばしていた。
紙袋を抱えた新庄《しんじょう》。その身を、佐山は引き寄せ、風から護《まも》るように抱きしめた。
風が踊って散っていく中、細い肩と薄い背の感触《かんしょく》がある。自分の腕に新庄の体温が伝わってきて、温かいという言葉を佐山は思った。
腕の中、ふと、新庄の力が抜けた。腕に抱えていた紙袋が、ゆるりと下に落ちた。
砂利《じゃり》の鳴る音一つ。新庄がこちらの腕の中、胸の中に身を沈めてきた。
風が収まり、消えていく。代わりに声が聞こえた。
「決めるんだよ……、ね」
見れば、新庄がこちらを見上げていた。結った髪を、しかし風に乱してこちらの腕に浅く絡めた新庄だ。新庄の目、黒の瞳《ひとみ》が、まっすぐ、こちらの目を見つめてくる。
新庄は口を開き、先ほどの言葉を言い直すように、こう告げた。
「決めに、……行くんだよね?」
●
問い、こちらに向いた新庄の顔が月の光に映《は 》えた。その面《おもて》は青白く、瞳は蒼《あお》く見える。
対する佐山《さ やま》は新庄《しんじょう》と視線を合わせる。そして頷《うなず》き、口を開いた。
「新庄君」
佐山は告げる。目の前、これ以上はないほど近くにいる人に向かって、
「私は……」
わずかに迷い、
「自分の為《な 》す事に、ある人を巻き込んでいくだろう」
「……悩み事は、それ? それがずっと、怖いの?」
佐山は頷いた。
「ああ、考えている。その人は、私にとって大事な人だ。だが、何せ危なっかしい人でね」
「佐山君は、その人をどう思っているの?」
「大事だよ。私と同じくらいに」
そう、と、新庄は吐息する。わずかに目を伏せ、そして言う。
「佐山君。君は、……結構《けっこう》悪人ぶってるけど、そうじゃないね」
「では、何かね?」
うん、と新庄は小さく頷いた。眉尻《まゆじり》を下げ、しかし笑みを口元に作る。
そして目を細めると、新庄は佐山の瞳《ひとみ》を見上げてこう言った。
「君は、悪役だ」
一息。
「悪人だったならば、そんなこと気にせず、他人を巻き込むよ。そうじゃない君は……」
一度| 唇 《くちびる》を動かし、その後に新庄は告げた。
「君は有《あ 》り難《がた》い人だよ、佐山君」
頷き、
「そして、君が大事に思っている人は、きっとそのことに気づいていると思う。だから停めようとしたんだと思う。……でも、その人にだけは、少しはわがままを言ってもいいと思うよ。悪役としてではなく、君として」
そうか、と佐山は頷く。腕をほどき、新庄を離す。
新庄は自分の身体《からだ》を軽く抱いた姿勢て、苦笑。
「もう……。ボク、男の子だよ、一応」
「私だってそうだが?」
問われ、新庄は肩から力を抜く、
「今のは、どっちが望んだの?」
「答えないのが華《はな》だよ、新庄君」
笑みでそう言うと、佐山は新庄に背を向けた。
「行って来る。そしてなるべく早く戻ってくる」
「どこに、って聞いていい?」
「行くべきところに、と答えていいかね?」
うん、と新庄《しんじょう》は頷《うなず》き、片手を軽く上げた。そして言う。
「――頑張《がんば 》ってね」
頷き、獏《ばく》を肩に佐山《さ やま》は走り出した。学校の外へと。しかし、自分の影を確かに踏みながら。
●
闇の中、連なる足音をブレンヒルトは聞いた。
視界は閉じている。聞こえるのは一定のテンポで行く足音の群だ。
尻と足に感じるのは苔《こけ》むした土の湿り気、背に感じるのは杉の幹の硬さ、腕の中にあるのは金属の鎌《かま》の刃《やいば》と柄《え 》の重さ。そして頬《ほお》には、柔らかい湿った感触《かんしょく》が来た。
「…………」
目を開けると、瞼《まぶた》の裏とは違う色の闇があった。
閉じていた視覚はすぐに新しい闇に慣れる。
ここは森。木々が乱雑に並ぶ斜面。自分は斜面の上、切り立った低い崖の上に座っている。
木に肩から上をもたれかけて仮眠《か みん》中だったが、
「……起こしたのはアンタね」
見れば顔の横に黒い小さな影がある。
黒猫だ。瞳《ひとみ》だけが闇の中で黄色く光り、自分の位置と表情を教えてくる。
「ブレンヒルト、皆が動くよ」
視界を起こして下を見る。眼下、数メートルの位置に浅い斜面を持つ森がある。その中を、黒い影が幾《いく》つも幾つも歩き、一つの方向へと進んでいた。東へと。
彼らの影は人のものもあれば、そうではないものもある。翼《つばさ》を持つものや、人型《ひとがた》なのにサイズの大きいものや、竜の形をしたものなど。
「これは――、皆じゃないわ。まだ初めの一陣、他の場所にいた者達も集《つど》ってくるのよ」
「へえ、そんなにいたんだ……。で? 肝心《かんじん》のグラムは見つかったの」
「ハーゲン翁《おう》が張ったこの概念《がいねん》空間の中、東の方に落ちたみたい。ただ、反応が無いから……、コンテナ自体にも概念による障壁が掛けてあったに違いないわ。見えなくなる仕掛けがね。概念空間を作るとき、それごと読み込んでしまったのよ」
ふうん、と頷いた猫の視線の先で、ブレンヒルトは体を完全に起こして膝《ひざ》を抱えた。
「ハーゲン翁が輸送機を読み込んだ際の記録に概念分析を掛けてるわ。それが解《わか》ればグラムを隠す概念が明確になる筈《はず》。捜索隊が通り過ぎてなければいいけど」
「じゃあ、この皆は、気合い入ってるけど大体の方向に向かって適当に進んでるんだ」
「そういう言い方しないの。進軍するに愚《ぐ 》はないのよ、グラムを手に入れるには、ね」
ブレンヒルトは頷《うなず》いた。
「私達はとりあえず、追ってきたUCATを排除しましょう。既《すで》にファーフナー達は戦闘《せんとう》に入ってるんでしよう?」
「うん、見てきたけど、……ハシャいでた」
ブレンヒルトは吐息。皆の行進を足下に見つつ、空を見上げた。
月があり、光がある。
邪魔《じゃま 》な光だ、とブレンヒルトはつぶやいた。夜だというのに光があるせいで、闇とは別の影が生まれ、周囲が解《わか》りにくい。闇は闇であるべきなのに、と。
ふと、黒猫がつぶやいた。
「――ジークフリート、来るかなあ?」
「どうでもいいわよ。私達はもう、するべきことはしたんだから」
ブレンヒルトはそう言って、腕の中の|鎮魂の曲刃《レークイヴェム・ゼンゼ》 を抱きしめた。
頭上《ずじょう》、月光を見上げるが、その光を止めることは出来ない。
●
佐山《さ やま》は月光の下を走っていた。
足音が穿《うが》つのは尊秋多《たかあきた 》学院の敷地内、その南側に位置する秋川市《あきがわし 》中央公園だ。敷地内と外を結ぶ五日市《いつか いち》街道沿いにある中央公園は、中に陸上競技場を持つ。
ヘリが来るならば、そこだ。
佐山は木に囲まれた公園内を走り、赤|煉瓦《れんが 》の地面を蹴《け 》り、競技場に向かう。
足下の頼りは月光と外灯だけ。足音と息が全ての動きの表現だ。
急げ。
腕の時計は午後七時二十八分。もう目的地に着いているから、これ以上走るのは無意味だ。
だが急げ。
競技場の観客席に出る。木々の影の下を抜け、並ぶ椅子《い す 》の間を駆け下り、足音一つでトラックに跳躍《ちょうやく》した。柔らかい音とともに着地してみれば、周囲にあるのは赤いクレーと白いライン。中央には芝の広場といった風景。
来てしまった、と佐山は思う。そして、
「行かねばならない」
つぶやき、そこで佐山は初めて歩き出した。競技場の中央へと向かって。
右腕に力は入る。左腕は痛みがあるが、
……動く。
ならば良し。随分《ずいぶん》と久しぶりに両手を自由に使う。佐山は肩の獏《ばく》をベストの胸ポケットに入れると、歩みを止めることなく、上着の襟《えり》を両の手で掴《つか》んだ。
上に勢いよく跳ね上げて腕を左右に振ると、衣服の生地《き じ 》が張り、紙を打つような音を立てた。
衣服の乱れを正した両の腕は、快音の後に身体《からだ》の左右へと。
革靴の足音も高らかに、緩い風の中を佐山《さ やま》は歩く。競技場の中央。四方からの外灯の光が照らす真ん中へと向かって。
佐山は自分の行くべき場所を見ていた。そこに、先客《せんきゃく》が一名いる。
長身の老人。彼は禿頭《とくとう》と白髭《しろひげ》の下、いつもの黒のベストとトルーザーに黒のコートだ。
風に黒衣《こくい 》の裾《すそ》をはためかせる彼に歩み寄りながら、佐山は言った。
「今晩は、魔法使い、――ジークフリート・ゾーンブルク」
名を呼ばれ、ジークフリートは頷《うなず》いた。
そして彼は、空を仰ぐ。佐山も彼の視線を追って空を見上げた。
天上に浮かぶ白い月の中、こちらに舞い降りてくる影がある。
黒く細長い固まりは、ヘリコプターの影だ。
風が上から降り、断続的な音が響《ひび》いてくる。
風と音が踊れば周囲の芝生《しばふ》がちぎられ、まるで横殴《よこなぐ》りの雨のように宙を舞う。
その中で、しかしジークフリートは口を開いた。はっきりとした声が、告げる。
「ようこそ。――君の選んだ場所へ。佐山・御言《み こと》」
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第二十四章
『舞いの入り口』
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ゆっくりとゆっくりと
動き出せば必ず見えてくる
終わりへの加速というものか
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●
佐山《さ やま》とジークフリートは日本の西へと向かっていた。
ヘリでIAI東京支社に行き、そこから飛行機で名古屋のIAI中部支社に移動。更にはへリを使用して中国山地へ。今は|氷ノ山《ひょうのせん》南側に設けられたべースへと向かっている。
爆音と風音、そして空の寒さに対して、佐山は与えられたフライトジャケットだけで眠る。
そして彼は過去を見る。
「――――」
眠った視界の中にあるのは、木造の静かな部屋だった。
見覚えのある部屋だ。1st―|G《ギア》の、レギンという老人が住む小屋の一室。
中は暗く、暖炉《だんろ 》の中に仕掛けられた石板《せきばん》が朱色の光をわずかに放っている。
緩やかな淡い光の中、二人の男が向かい合っていた。
一人は小屋の主《あるじ》である老人。緑の衣をまとったレギンだ。
もう一人は長身の青年。黒い長衣をまとったジークフリートだ。
レギンは暖炉の前を緩やかに往復しながら、ジークフリートに1st―Gの現状を告げていく。ジークフリートは彼の発音する言語に頷《うなず》き、佐山はそこから喚起《かんき 》されるイメージに頷く。
1st―Gでは、概念《がいねん》戦争を恐れる王が防衛のための機竜《きりゅう》を量産していること。
1st―Gは防衛のためにこの世界の概念核を| 抽 出 《ちゅうしゅつ》したこと。
概念核の内、文字に関する概念の多くを兵器研究所の研究用に置き、この世界を構築《こうちく》する概念を、この世界を操作するために王城地下に置いたこと。
そしてもし他のGに侵攻した場合を考え、そのGの概念核を得るため、概念核を封じることの出来る聖剣《せいけん》グラムを作成したこと。それらをレギンはジークフリートに教え告げる。
だが、とレギンは足を止めて、下を向いた。目を伏せ、
「たとえ軍勢を作っても、1st―Gの人員量では他Gには勝てない」
「聡明《そうめい》だな。――私達とは違って」
言った後、どちらともなく苦笑が漏れた。
しかし、苦《にが》い笑いはやはりどちらともなく停まる。
レギンが踵《かかと》を揃《そろ》え、ジークフリートに身体《からだ》を向けた。顔を上げ、青年を見上げる。その表情には笑みも何もない。
「……1st―Gの構造はグートルーネ姫から聞いているな?」
「ああ、ドーム型宇宙に包まれた、内向型世界だ」
「王はこの1st―Gの内向する概念を使用し、閉鎖を望んでいる。以前には専守《せんしゅ》防衛に徹し、崩壊《ほうかい》時刻のときに残ったGと交渉に入ると言っていたが、本意かどうか疑わしい」
「証拠《しょうこ》は?」
「王は今日、祭りの中で献上《けんじょう》しようとした聖剣《せいけん》グラムを、必要ないと言って地下|封印室《ふういんしつ》に封印した。そして私にこう言った。……絶対的な防衛に入ると」
それがどういう意味かこれから確認に行きたい、とレギンは言った。
「防衛ではなく、この|G《ギア》を閉じ、二度と門を開かないように概念《がいねん》設定することも、今の王には全く簡単だ。概念核を手にしているのだから。……だがそれが私の思い過ごしかどうか、この祭りの夜、側近《そっきん》達が己《おのれ》の領地に戻っている間、眠りについている間に確かめたい」
「貴方《あなた》の気の迷いであったならば良し。だがもし、王がその気であったならば、どうする?」
「姫を立てる」
レギンの言葉に、ジークフリートは表情を変えた。緊《きん》から険《けん》へと。
その表情をまっすぐに見上げながら、レギンは告げる。
「姫には| 了 承 《りょうしょう》を得てある。他の者達には逆臣《ぎゃくしん》と言われるかもしれんが」
「必要なことか?」
「そうだ。そして私は……、事態を収めた後、語り部《べ 》に私の記録を頼むことなく死ぬことにするよ。全ての悪意は私が引き受ければいい」
「…………」
「そんな顔をするな、異なる世界から来た若者よ」
「別に、そんな顔などしていない」
ジークフリートの言葉に、レギンは小さく笑った。笑みのまま、顔を上げ、
「姫は言っていたよ。もし自分が人の上に立つことになったら、お前の住むGと協定を結ぼうと。……お前の教えた鍵盤《けんばん》の音がそれほど気に入ったのか」
頷《うなず》き、
「付いてきてくれるか? もし王がこのGを防衛するのではなく、門を閉じて崩壊時刻の滅びを得ようとしていた場合、私は地下の概念施設への道を開き、そこにある概念核を奪取《だっしゅ》するため、王城守護に用意してあるファブニールと同化する。お前は王城裏の封印庫からグラムを奪取し、地下へと向かってくれ。――二人で行けば、抑える確率は高くなる」
「グートルーネ達は……」
「寝かせておこう。これは、場合によっては裏切りとなる話だ。今宵《こよい》は祭りの夜、余計な政治家達も家に戻っている。だが、そんな中、姫様が深夜に忍んで王城へ向かったと解《わか》ってみろ。冗談《じょうだん》ではすまない……」
眉をひそめたジークフリートは、一息とともに、
「レギン、私が裏切るとは考えないのか? 聖剣グラムを奪取した後、概念核を奪って私が逃走すれば、この世界は滅びるぞ」
「その場合も私はファブニールに同化するが、それを抑えられると?」
「既《すで》に機竜《きりゅう》を倒した経験がある。――私は、向こうの世界では最高の魔法使いだ」
そうか、とレギンは頷《うなず》き、しかしジークフリートの肩を叩く。
乾いた音が二、三と響《ひび》き、
「しかしな、そのような人間にナインはなつかない筈《はず》だ。……この|G《ギア》に一人だけ生き残った長寿《ちょうじゅ》の少女は臆病《おくびょう》でな。拾ってきた姫にも少し距離を置いていたのに」
レギンは暖炉《だんろ 》の上を見る。毛糸の布地がかぶせられた鳥籠《とりかご》を。
彼はそちらをじっと見て、ふと、つぶやいた。表情を緩め、
「全て私の勘違《かんちが》いで、……何もかもがこのままだといいんだがなあ」
言葉が聞こえ、遠ざかっていく。
佐山《さ やま》は、目の前が暗くなっていくのを感じた。
過去が覚《さ 》める。眼前から古い記憶《き おく》が消えて、代わりに響くのは風の音と爆音だ。
●
目を開けた佐山が見たのは、ヘリの暗い後部座席と、天井だった。
吹きつけてくる寒気《かんき 》と、体に響く振動と爆音が、まだ飛行中だと教えてくれる。
右|隣《どなり》には黒衣《こくい 》のジークフリートが座り、襟《えり》を持ち上げて| 懐 《ふところ》を覗《のぞ》き込んでいた。内ポケットの整理か何かをしているらしい。
佐山が腕時計を見て、午後九時近いと確認したときだ。副|操縦《そうじゅう》席のナビについていた老人、四吉《よんきち》という男が振り向いた。医務《い む 》室で見た二順《にじゅん》という老人の弟だ。彼は長い黒髪《くろかみ》を揺らし、
「宜《よろ》しいですか? そろそろ大阪方面の空に入ります……」
風にかき消える声に頷き、佐山は左の窓の外を見た。
遠く、進行方向に光の粒《つぶ》が見える。左弦《さ げん》の| 弓 状 《きゅうじょう》に広がる光は、神戸から大阪、そして堺《さかい》方面へと至る大阪湾沿岸の光だ。
眼下には黒い波のようなものが見えた。波の正体は月光に照らされた山と森。ヘリの速度によって現出する高速の波間だ。
佐山は地理の知識を頭の中に出し、生駒《い こま》山系のあたりかと憶測《おくそく》。
頷いた。そのときだ。眼下が不意に開けた。森が途切れ、草原が見えた。
直後。佐山はヘリの横の空に影を見た。
「……!?」
それは巨大な影。視界の全てに広がったものは、まるで壁だ。月光の下、視界に見えるのは横幅だけで一キロは下らない建造物。見上げる空の先には、壁のようにそびえる影があるだけで、頂上を確認することも出来ない。
……これは――。
知っている。
「バベル!?」
佐山《さ やま》が窓に貼《は 》り付いたとき、右側の座席から声が来た。
「馬鹿な。バベルは概念《がいねん》空間の中にある。まず見えるはずがない……」
言われ、佐山は改めて窓の外を見た。
無い。
先ほど、明確に見えたはずの巨大な塔《とう》の影が消えている。
呆然《ぼうぜん》と、佐山は窓から離れた。背後よりジークフリートの声が聞こえる。
「偶然、自弦震動《じ げんしんどう》が近づいたのだろうか。……それとも、獏《ばく》の見せたものか」
解《わか》りはしない。眼下を見ても、先ほどの草原は消えていた。
どこまでが本物だったのか。そして、
……一体、何が本物なのか。
思う眼下に、堺《さかい》の光が流れ込んできた。副|操縦《そうじゅう》席から四吉《よんきち》の声が聞こえた。
「宜《よろ》しいですか? あと五分で危険地帯へと到着いたしますそ……」
●
森の中。崖《がけ》の縁《へり》に座るブレンヒルトは、向こうの空を降りてくる光を見ていた。
距離にして五キロほど遠く。人工の飛行物が放つ光が、山並みの間に沈んでいく。
風が吹き、ふと、遠くの爆音を波音のように届けてきた。
光が山並みの向こう側に消えた。
座る彼女の傍《かたわ》らで、小さな影が体を起こす。黒猫だ。彼は首を傾《かし》げ、
「忙《いそが》しいね。十分くらい前にも一機|降《お 》りたばかりなのに」
「でも、これ以上は来ないみたいね。空が静かだわ」
「ファーフナー達と合流する?」
ええ、とブレンヒルトは立ち上がった。
そのときだ。自分達が背を向けていた山の向こうから、わ、という声の重なりが響《ひび》いた。
そして聞こえてくるのは、金属がぶつかる音と、射撃《しゃげき》の連続音。
それはやむことがない。
ずっと聞こえてくる叫びと、震える音を聞きながら、ブレンヒルトは目を細めた。
「声はこちらのものね。……一方的に押してるわ」
「何だかんだ言って、このあたりは慣れた土地だよ」
黒猫に頷《うなず》き、ブレンヒルトは歩き出す。声と音のする方へと。
ただ、数歩の位置で、彼女は後ろへと振り向いた。先ほど光が降りていった方向へ。
目を細めると、小さな声が唇から生まれた。
「……来ないで、ね」
頼む言葉は、風と、そこに乗ってきた射撃の音に飲まれて消える。
●
UCATのべースは山中にあるキャンプ場だった。
オフシーズンで荒れた広場にはランプによるマーカーが施《ほどこ》され、ヘリの発着場が二つ設けられている。また、山の側の入り口にはコンテナ類を置いたテントと、ベースとなっている人員用テントが構えられていた。
周囲にあるのは人工照明の白い光と、それを包むように広がる闇。そしてヘリのローターが起こす波ある風と、断続的な風切り音。
テントの前、照明によって強く照らされた空間に、佐山《さ やま》はジークフリートと共にいた。
佐山の衣服はもはやスーツではない。着替えとして渡されたUCATの対|G《ギア》戦闘服だ。
白のボディスーツに、黒の厚いタイツ。その上から白の半パンと上着をまとう。皇居《こうきょ》で出雲《いずも》や風見《かざみ 》が、そして一昨日《おととい》の森で新庄《しんじょう》がまとっていたものにデザインは近い。
獏《ばく》を頭に乗せた佐山の前、テントから小さな影が出てきた。
趙《ちょう》だ。彼女は後ろからついて出てきた一人の老人に、装備の説明を促《うなが》す。
白衣を着た白髪《はくはつ》短髪の老人。二順《にじゅん》や四吉《よんきち》と同じ雰囲気《ふんい き 》がある。彼は細い目をしならせ、
「初めまして、三明《みつあき》と申します。さて、佐山様、着心地《き ごこち 》はいかがで?」
「悪くない。やや軽い向きもあるが、行軍には妥当だろう」
「六十年間、作り込んできたものです」
各部、仕込まれたプレートやパッド、そして小さくプリントされた文字類は、大部分の概念《がいねん》下で防護の力を発揮《はっき 》するとのことだ。
「隠密《おんみつ》用の色彩などは考慮《こうりょ》しないのかね? 白だと、夜などは標的《ひょうてき》になると思うが」
「|Tes《テ ス》.、他|G《ギア》では、色でこちらを見ないものも多いわけでして。敵対するものから見にくくなる という概念で賢石迷彩《けんせきめいさい》を施《ほどこ》してあります。逆に、迷彩などの個性を消すパターンは、概念によってはその衣服や装着者の意味 を変えてしまって危険です」
かつて迷彩装備で挑《いど》んだ一隊が、そのまま森の地面と同化して消失したことがあるという。
「現代の鎧《よろい》、と、そういうわけか」
「Tes.、実際、頭部などは視界確保のため、無装備状態でも防護の……、場のようなものが働いています。物理打撃に関しては、よほどの運動量があるか、概念的に違うものでなければ打ち抜けません。ただ、概念上、遅いものは通すので、近接|格闘時《かくとうじ 》は御注意下さい」
成程《なるほど》、と佐山《さ やま》は頷《うなず》き、隣《となり》のジークフリートを見た。
ジークフリートはここに来たときと同じ格好《かっこう》だ。黒の長衣に黒の上下。黒革の手袋を身につけている他、何の装備も持っていない。
「その格好で、山は大丈夫なのかね?」
「私とて、六十年前とは違う。魔法使いとは年齢と強さが比例するものだ」
苦笑し、ジークフリートは趙《ちょう》を見た。
「彼に武器は無いのか? 趙」
「アンタがガードするだろ? それに、佐山の武器は先行した本隊が持ってる」
「……本隊が?」
「そう、出雲《いずも》や風見《かざみ 》達が先に入ってるよ。追いな」
頷いた佐山に、趙は口元に笑みを浮かべ、
「Tes.、って言うもんだよ」
そう言ってから、趙は佐山の左腕を手に取った。グラブのリスト部分の下から左肩にかけてバンテージが巻かれている。
「大丈夫だとは思うけど、あまり無理するんじゃないよ。傷口が開いたらまたやり直しだ」
「Tes.」
言うと、趙は目で笑う。嘘《うそ》つけ、と佐山の尻を一つ叩く。
そのときだ。テントから別の老人が出てきた。佐山と似たような白の戦闘服に身を包んだ彼は、白い行軍ザックを手にしている。波打つ白の総髪《そうはつ》を揺らし、佐山と視線を合わせ、
「これはこれは、一光《いっこう》と申します。四兄弟の長男でして」
「意外と皆、個性が薄いな」
「手前どもも気にしております。一度、個性付けのためにそれぞれ語尾を変えたらどうかという話になったこともあるのですが、四吉《よんきち》が、まあ、腹の立つ語尾を選んだので上の三人でタコ殴りにしまして。以来、個性は薄目でいいではないかと、まあ、そのようなところで」
「前言|撤回《てっかい》しよう。四人まとめて一《いち》個性なのだね」
「お気遣《き づか》い有《あ 》り難《がと》う御座《ご ざ 》います。さてこちらのザック、中には食料と水筒、サイドには筆記用具とハンドライトを入れてあります。それと……、前線キャンプからの通信が途絶《と だ 》えました」
ち、と趙《ちょう》は舌打《したう 》ち。
「佐山《さ やま》、よくお聞き、これからルートを説明する。――携帯電話見ろ。以上」
言われて、スーツから持ってきた携帯電話を佐山は見る。
いつの間にか、液晶《えきしょう》画面上に|氷ノ山《ひょうのせん》の地図が表示されている。
「内部では恐らく通信機能は使えないが、逆に、最低限|詰《つ 》められた賢石《けんせき》でデータバンクとして単体使用が出来る。マニュアル類などは全部メモリに叩き込んであるし、進軍ルート、最短のものが表示されるの、解《わか》るね?」
氷ノ山の地形上。中心の氷ノ山を東側から迂回《う かい》して北に至る曲線が描かれる。途中、線が途切れて小さな円が描かれていた。
「前線キャンプには、先に他のメンバーが行っている。そしてグラムの回収班を追っているはずさね。そして、アンタらが来るよりも十分くらい前に、――新庄《しんじょう》も入っていったよ」
「新庄君が?」
「UCATから出るのが遅れたらしい。アンタ達の隣《となり》のヘリがそれさ」
急ぎな、と趙は言う。
「前線キャンプが崩壊《ほうかい》するなんざ滅多《めった 》にないことさ。多分、ファブニール改が動いてる。交戦中だと思うから、急ぐんだ。1st―|G《ギア》が聖剣《せいけん》グラムを見つける前に」
「危険を避けるため、現実の側を移動し、要所に到着した後に概念《がいねん》空間に入るというのは無理なのか?」
「自弦震動《じ げんしんどう》は中心点から響《ひび》く。中心は音の固まりみたいなもんだ。いきなりそこに飛び込んだらアンタ壊れて消えるよ? 概念空間|作成時《さくせいじ 》に子体《こ たい》自弦震動を先行登録しておけば別だけど、今回は1st―G側の作った概念空間だ。こっちは外から攻め込むしかない。解るね?」
「|Tes《テ ス》.、楽は出来ない、ということだな」
佐山は頷《うなず》き、差し出されていた行軍ザックを受け取り、背負った。
ジークフリートと共に、北を、山の方を見る。黒い森と、その背に担われる青黒い夜空。そこに向かって佐山達は脚《あし》を進めた。木の匂いを含んだ夜風が吹く中を。
そして、森の中に入ろうとしたとき、佐山は左腕の時計が震えたことに気づく。
同時、声が聞こえた。
・――文字には力を与える能《のう》がある。
今まで聞いたものよりも、強い概念《がいねん》だ。
そして、同じように聞こえてきたものがあった。
空気を震わせ、空に抜ける重低音。遠くから響《ひび》く爆発の音だ。
眉を動かした佐山《さ やま》に、ジークフリートが告げる。
「急ぐぞ。出雲《いずも》と風見《かざみ 》が敵をひきつけている筈《はず》だ。――出雲はIAIの跡取り、そして二人が持つ武器は6thと10thの概念核。餌《えさ》としては充分なものだからな」
●
森の中、わずかに開けた直径十五メートルほどの空き地。
そこは戦場になっていた。
空き地の中央で立ち回るのは白の装甲服《そうこうふく》をまとった男女。出雲と風見だ。
彼らの色は白と黒。それぞれが持つ大剣《たいけん》と盾つきの長槍《ちょうそう》も同じ色のあしらいだ。
彼らの立つ場所には白い布が広がっている。設営されていたテントの残骸《ざんがい》だ。裂かれ広がる白布の周囲には、篝火《かがりび》のように幾《いく》らかの火がある。
「ああ、しつこいったらありゃしねえ! 馬鹿ばっかかよ!」
彼らの視線の先、周囲には別の色がある。空き地の中、そして周囲の森や空にある色は、月光を浴びてなお己《おのれ》を誇示する黒緑《くろみどり》色。1st―|G《ギア》の者が装備類の上に着込む外套《がいとう》の色だ。
黒緑に包まれ動く影の数は、見渡すだけでも五十を下らない。
敵が動き、出雲達も動く。足音は軽く、重く、ただ止めることなく速く。
出雲が眼前に来る敵をはねのけて討《う 》ち、風見がその向こうや、背後の敵を貫《つらぬ》いていく。
重なる足音と響きに揺れる森の音。どれも短い音の重なりと連なりだ。
出雲は前から来る三人を下段の一撃で吹き飛ばし、
「皆、逃げ切ったと思うか?」
「さあ、どっちにしろマズイ状況ね、これ」
と風見が眉を立て、左右の手にある全機殻《フルカウル》された片刃《かたば 》の槍と盾を見る。
側面に|G―Sp《ガ ス プ》2とマークされた曲線フォルムの白い槍。片刃の付け根、弧を描いた柄《え 》のトップにスピードメーターのような小型コンソールがあり、今はその液晶に文字が映っている。
『オコマリサマ?』
「ええそーよG―Sp2。何人かぶっ飛ばしてみて、どう思う?」
『ツヨイノ』
「アンタ1Oth―Gの概念核っていう自覚ある……?」
「こっちの|V―Sw《ヴ ィ ズ ィ》も同意見だぜ」
出雲は右腕に握った大型片刃の| 機 殻 剣 《カウリングソード》を掲げた。グリップのコンソールには、
『タノシイ? タノシイ?』
とある。風見《かざみ 》は| 機 殻 槍 《カウリングランス》|G―Sp《ガ ス プ》2を右脇に手挟《て ばさ》むと吐息。左の細長い盾を構え直し、
「……どっちも出来の悪いペットみたいね」
言葉と同時に彼女が左にステップ。
直後。出雲《いずも》は、先ほどまで風見がいた位置に左手の散弾銃《さんだんじゅう》を一発。
射撃音《しゃげきおん》とほぼ同時に響《ひび》く打撃音。
それをもって吹っ飛んだのは影だ。地面から身体《からだ》を持ち上げていた黒い人影が、顎《あご》を天に向けて後ろに飛び、地面に平たく倒れ込んだ。
出雲は地面に倒れた平面の人影を見て、
「動作影《シェード》にも当たることは、こっちの弾丸《だんがん》がミスってるってわけじゃねえ。――向こうの鎧《よろい》はどんな攻撃も打撃系に変える鎧みてえだ」
「防御力を上げるんじゃなくて、我慢出来る形に変換してる、ってわけね」
出雲が散弾銃を腰に収めた。ホルスター内部で弾倉《だんそう》の入れ替えが行われ、わずか二秒で再使用が可能。出雲は弾倉の切り替わる音とともに散弾銃をホルスターから引き抜いた。
瞬間《しゅんかん》。
「!」
出雲は宙に散弾銃を放り投げると、傍《かたわ》らの風見を横に突き飛ばした。
彼は風見とは逆の方向に跳躍《ちょうやく》する。
「な、何!?」
風見の疑問が終わるより早く、それが来た。
黒の風。それは地面から生まれ、弧《こ 》を描いて跳躍してきた。
生まれた場所は先ほど倒した人影の中。そして出てきた姿は、
「半竜《はんりゅう》……!?」
「左様《さ よう》。ファーフナーと憶《おぼ》え、そしてここで死んでいけ」
翼《つばさ》を打った身長ニメートル近い姿は、前進力に満ちている。
黒の半竜は爪を地面に立て、足音一つで距離を詰めてきた。その狙いは、出雲だ。
出雲は、ファーフナーが肩に担った黒い| 機 殻 剣 《カウリングソード》に息を飲んだ。
ファーフナーの振り上げる四角い黒い刃《やいば》から、陽炎《かげろう》が立っている。
刃に彫り込まれた文字がイメージとして読めた。
「圧力か!」
叫んだ瞬間。力が振り下ろされた。陽炎は走る刃の軌道上で膨れ上がり、直径数メートルの打撃武器となる。軌道の途中、出雲が宙に手放した散弾銃が陽炎に飲まれた。
散弾銃は砂で作られたかのように散った。
しかし出雲の耳に聞こえるのは陽炎が大気を食う高音のみ。
出雲《いずも》が奥歯を噛《か 》み、腕の|V―Sw《ヴ ィ ズ ィ》を振り上げようとした。
そのときだ。空気を貫《つらぬ》く叫びが聞こえた。
少女の声、告げられる内容は、全てを止める意味を持っていた。
「駄目《だ め 》――!」
出雲は戦闘の最中だというのに、ファーフナーから視線を外した。
右手、森の中に白の人影がある。
新庄《しんじょう》だ。
●
新庄は疾走で荒れる息を無視して、抱えてきた| 機 殻 杖 《カウリングストック》を構えた。
止めねばならない。
焦りがある。が、しかし、それが逆に自分のすべきこと以外を無視させた。周囲に布陣《ふ じん》した敵が振り返るのも、乱れる息も何もかも無視して、意識が前に向く。
見るのは出雲へと振り下ろされる歪みの力。
対する出雲は下から| 機 殻 剣 《カウリングソード》を振り上げているが、間に合わねば終わりだ。
新庄は杖を構えた。中央の湾曲グリップを右肩に、前に伸びる三角型の砲《ほう》に両手を添える。
「――く」
腰を落として前を見れば、|Ex―St《エグジスト》とマークされた砲塔《ほうとう》上には、ハードカバーが三冊バインド。どれもマイナーな言語の辞書類、それも全て初版だ。
辞書が震えて眼前の虚空《こ くう》に| 照 準 《しょうじゅん》が展開。それは十センチ四方の四角い平面映像。宙に浮く表示内容は砲塔の向く先、ファーフナーと出雲が映っていた。
照準映像の中央、十字の狙いはファーフナーを選択した。
撃《う 》て、と新庄は思う。
右手のサイドグリップにあるトリガーを絞《しぼ》ればいい。それで力は発される。
だが、迷った。
「……!」
何故《なぜ》か、指先に力が入らない。
……どうして!?
驚きを含んだ問いかけに、自分の記憶《き おく》が応えていた。
それは明確な答えではない。思い出したのは一昨日《おととい》の森の中、こちらを見た人狼《じんろう》の顔だ。
獣《けもの》の顔に浮かんだ感情。それを記憶の板面《ばんめん》に彫り出した瞬間。新庄は叫んでいた。
「駄目――!」
自分自身に叫び、目を閉じた。引き金を絞ろうとする。
目の前には何もいないと、自分はただ引き金を絞るだけだと思い込もうとして。
ふと、心に疑問が生まれた。
何故《なぜ》、自分は戦おうとしているのだろうか、と。
それは、両親を追うために戦いを利用しているという、そのことへの後ろめたさだろうか。
……それともボクは――。
ふと、新庄《しんじょう》は一つのことを思った。自分とは逆の姿勢を持つ少年のことを。
「――――」
彼を思う心に己《おのれ》で驚き、新庄は自分の思いを改めた。
駄目《だ め 》。
……目を伏せて力を選んでは駄目!
その思いの意味は解《わか》らない。だが、新庄はもはや目を閉じない。
目を開け、前を見た。
瞬間。新庄の視界は、破砕《は さい》を見た。空き地を挟んだ向かいの森が吹き飛んだのだ。
立ち並ぶ木々を砕き、それが現れた。
それは、白い竜だった。
「ファブニール改!?」
新庄の叫びに応えるように、全てが動いた。
その結果、一つの爆発が生じた。
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第二十五章
『猜疑の越える道』
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急げと決めるのは自分
急げと命じるのは足音
急げと果たすのは意志
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●
佐山《さ やま》とジークフリートは明かりのない山中を走っていた。
地図として頼りになるのは携帯の液晶《えきしょう》だ。現在位置は、
「向こうの山影からするに、あと少しだ」
目の前、森の奥が黒ではなく、蒼《あお》に見えた。月光が広く落ちる場所。そこが目的地だ。
先ほど響《ひび》いた爆発音からもう五分が経過している。
佐山は急ぐ。草を踏み、土を踏み、ただ前へ。思うことは一つだけだ。
……まだ新庄《しんじょう》君を見つけていない。
先に戦場に入ったのは確実だ。
どうしているだろうか。
彼女に望まねばいけないことがある。その前に、失われないでいて欲しいと、佐山は思う。
急げとわずかに焦る足の先、森が切れた。続くように目の前に月の光が広がってくる。
高さ一メートルほどの段差の向こうは、空き地だ。
土を蹴《け 》って佐山は跳躍《ちょうやく》した。横をジークフリートが息も乱さず続く。
宙にいる間に佐山は周囲を確認した。
空き地の中央には白いテントの残骸《ざんがい》がある。が、その周辺が破壊されていた。
穴がある。何か巨大な鍬《くわ》でも叩き込まれたかのように、人が数人は入れるほどの穴が、幾《いく》つか地面に開いている。また、向かいの森も破壊の力を受けていた。幅五メートルほどに渡って、森を作る杉の木や広葉樹の幹がなぎ倒されている。
「これは……」
つぶやき着地した瞬間だ。
「佐山」
というジークフリートの言葉に押されるようにして、佐山は走り出す。
今まで走り続けてきた身だが、一歩目から全力を行使した。
●
走る佐山は、背後の足下で風の動く気配《け はい》を察知《さっち 》。
その正体は視界の隅《すみ》に見える弾丸《だんがん》。それも蛍《ほたる》のような光の弾《たま》だ。
北の森の方から、紙を破くような音が連続。
そして、音の数だけ光弾《こうだん》が追ってきた。
速い。走るこちらの足跡を追い、土と草が跳ね上がってくる。
着弾《ちゃくだん》の音を聞きながら足に力を込めた瞬間《しゅんかん》。佐山は、着弾音の異常に気づいた。
……テンポが単調だ――。
思ったときには身を動かしていた。
前傾になりかけた身体《からだ》。それを、力|任《まか》せに上へと跳ね上げ起こす。
直後。眼前を光弾《こうだん》が通過した。それも一発だけ。
佐山《さ やま》はまた身体を倒して前へと身を跳ばす。そして回避した一発が野を削る音を聞く。
……顔面を狙うのが本命か。
着弾《ちゃくだん》のテンポに気づかねばどうなっていたか。
佐山は走る。
気づけば、ずっと追ってきていた着弾音が消えていた。
相手が遊ぶのをやめた印《しるし》だ。油断《ゆ だん》が出来なくなったことを佐山は悟る。
先ほど回避するとき、もっとぎりぎりか、かする程度を狙えれば良かった。そうすれば敵は警戒《けいかい》しなかったろうに。
舌打《したう 》ち一つ。地面に開いた穴の中へと跳躍《ちょうやく》。
剥《む 》き出しの緩い土の穴。滑り込むのではなくて飛び込んだ。
足が底に着くなり北側の斜面に背をつける。
と、こちらの頭を押さえるように、頭上の地面の縁《ふち》を弾丸《だんがん》が削った。
……随分《ずいぶん》と用意の良い反応だ。
首を竦《すく》めて周りを見る。穴の深さは一メートルほどで、広さは三メートルほど。
ここからだと北側の森は山側。ぎりぎりまで顔を上げると、北側の森が見えた。が、肝心《かんじん》の森の中は闇に満ちて解《わか》らない。
目の前の地面が爆《は》ぜた。跳んだ土の破片がこちらの顔の近くで何かに当たって落ちる。
後からまた、北の森から紙を破くような音が聞こえてくる。
……狙撃兵《そ げきへい》。一人か?
否、と佐山は自分の安易な疑問を否定する。
先ほど走っているとき、追ってきた弾足《たまあし》は連射《れんしゃ》だった。そこを間髪《かんぱつ》入れずに一発だけ頭部を狙ってきた弾《たま》がある。その二つを噛《か 》み合わせて考えれば、
「敵は二人以上の可能性がある」
1st―|G《ギア》の銃に対する知識はほとんどない。
ただ、敵が持つのは昨日の騎士《き し 》と同様の| 長 銃 《ちょうじゅう》であろう。だとすれば、敵は本やそれに該当《がいとう》するものを弾倉《だんそう》とする。その場合、銃の大型化は免《まぬが》れない。敵が狙撃というスタイルを取っているのは、武器が大きく、あまり移動性に優れていないからだろう。
敵が二人いる理由もそこから解る。連射派と狙撃派がいれば、共に測距《そくきょ》出来るし、突撃《とつげき》されても逃げられても、冷静に相手をすることが出来るからだ。
先ほどのように、連射で距離を測り、狙撃で倒すというのは遊びのパターンに違いない。
しかし、と佐山は眉をひそめた。
向こうが撃《う 》つのは小型の光弾《こうだん》。撃てば自分の位置が識別《しきべつ》されやすい。日中ならまだしも夜間|狙撃《そ げき》するには不利な弾丸《だんがん》だ。それを使用する理由は推測で二つ。
こちらが舐《な 》められているか、もしくは自分達に注意を引きつけておきたい場合だ。
後者を思って、佐山《さ やま》は息を詰めた。
……新庄《しんじょう》君達に追いつかねばならないのだが。
共にいたジークフリートは、窺《うかが》う視界の中にいない。やはりどこかの穴の中にいるのか。
「私がどう打開するかを見ているのではあるまいな」
口元に笑みを浮かべたと同時。穴の中に石が転がってきた。
? と自分の足下に転がってきたそれを、佐山は見る。拳《こぶし》で握れる程度の円《まる》い石だ。黒く、そして、その表面には文字が彫り込まれていた。
文字のイメージは解《わか》る。爆発物・五秒後 と。
「!」
投げ込まれたのだ。北側の森の中から、差し入れるように。
驚きも、怯《おび》えも、竦《すく》みも無かった。佐山は反射的な動きで石を握っていた。
自然と口元に笑みが出た。心の中の焦りとは別に、言葉が唇から漏れる。
「私は、この死を回避出来る」
そして佐山は動いた。
●
森の中の空き地を山側から見下ろす森の中、1st―|G《ギア》の兵士が二人、標的《ひょうてき》を狙っていた。
二人は深緑《ふかみどり》色の外套《がいとう》を頭からかぶり、二脚《にきゃく》支持型の| 長 銃 《ちょうじゅう》を空き地へと向けていた。
長銃の一丁、右側のものは、上部にキャンバス地のハードカバー本をバインドするもので、弾倉《だんそう》交換は楽だが安定性が悪い。もう一丁、左側は下部に本をバインドするもので、弾倉交換は手間だが装弾《そうだん》も一発ずつで安定性がいい。
前者は連射《れんしゃ》を基礎に、後者は単発狙撃を主《しゅ》用途に使い分けられていた。
狙撃側の射手《しゃしゅ》が、爆石《ばくせき》を投じた腕を戻して身体《からだ》を沈めた。
彼は長銃の装弾が成されていることをグリップ脇のコッキングレバーで視認《し にん》、スコープを覗《のぞ》き込もうとする。
瞬間《しゅんかん》。
爆石を投げ込んだ穴の中から動きが一つ出た。
穴の右|縁《ふち》を越え、標的の頭が飛び出たのだ。
右にいる連射長銃の射手が喜びに舌を鳴らした。
音を立てるとは悪い癖《くせ》だと思いつつ、狙撃手はスコープを覗くこともなく引き金を絞《しぼ》った。
長銃が振動。コッキングレバーが前に跳ね、そして光弾が飛んだ。
そして弾丸《だんがん》がヒット。
穴の縁《ふち》から出たのはやはり頭だろうか。白いものが飛び散り、手応《て ごた》えが返る。
やった、とそう思い、浅く顔を上げた瞬間《しゅんかん》だ。右の射手《しゃしゅ》が声を挙げた。
「生きてる……!」
声に細めた視界の中、穴からはなおも白い影が右に飛び出そうとしていた。
致命傷《ちめいしょう》ではなかったのか。慌《あわ》てることなく狙撃手《そ げきしゅ》はスコープを覗《のぞ》く。
拡大された白い影は上着。そこに、隣《となり》から連射《れんしゃ》の弾丸《だんがん》が叩き込まれた。連射| 長 銃 《ちょうじゅう》だ。
隣の長銃からキャンバスの破ける音が連続する。その数だけ黄緑《きみどり》色の光弾《こうだん》が飛び、穴から飛び出した白い影を打ち、穴を穿《うが》った。
隣の長銃の弾倉《だんそう》、本の表紙が弾《はじ》けて散った。本が己《おのれ》の持つ力を使い切ったのだ。
だが、狙撃手は次の瞬間に気づいていた。
あの敵には中身がない、と。
飛び出してきたのは人間ではない。上着だけだ。敵は生きている。
コッキングレバーに手を掛け、引こうとする。が、スコープの中、力を失って穴の中に落ちていく上着が目に付いた。
あれを着ていた者はどこへ。
「――?」
スコープから目を外して前を見た。
いた。
穴の左縁、上着を飛ばしたのとは逆方向から既《すで》に一人の少年が飛び出していた。
彼が上がってきたタイミングは、こちらがスコープを覗いて上着を猟った瞬間に合致《がっち 》する。
狙撃手は不安を感じた。相手はこちらの動きを計っているのではないかと。
隣、連射長銃の射手も同様のことに気づいたらしい。舌を強く鳴らして書物交換に入った。
今は自分の出番だ。
敵がこちらへと身を倒し、走り始めていた。
彼我《ひ が 》の距離は約二十歩。少年ならば五秒で埋めることの出来る距離だ。
だが、まだ、こちらの方が速い。コッキングを行うのには一秒ですむ。下部からキャンバスページの破ける音が一枚|響《ひび》き、構えるのに一秒。スコープを使用せず、裸眼《ら がん》で狙いを付けるのに一秒。そして引き金を絞るのに一秒。合計四秒ここで終わりだ、と思ったときだ。
「――おい」
隣から声がした。
「アンタの投げた爆石《ばくせき》は、どうなった?」
狙撃手は、引き金に掛けた指を離していた。
目が、一つの事実を見ている。
眼前、少年が動きを止めていた。
こちらに走り込んでいたはずの身体《からだ》が、まるで撃《う 》ってくれと言わんばかりに立ち止まり、軽く両腕を左右に広げている。上空に浮かぶ円《まる》い月の光を浴びて、彼が笑顔を見せた。
同時。自分と横の射手《しゃしゅ》の間に一つのものが落ちた。
木の実か、と思ったがそうではない。
それは円い石だった。表面には見知った文字が彫り込まれている。爆発物・五秒後 と。そして、石の表面には、黒い塗料で更なる文字が書き込まれていた。
知らぬ文字だが、イメージは解《わか》った。それは、こう告げていた。
「追加十秒……!」
上着を放り出したのは、穴から飛び出すための時間稼ぎではなく、空に大きく石を放るのを気づかせないため。そしてこちらに走り込んできたのは、
「自分達に射撃《しゃげき》体勢をとらせ、移動させぬようにするため……」
解ったところでどうにもならない。
眼前、少年が両の腕を振り上げるのと同じタイミングで、傍《かたわ》らの石が爆発した。
●
佐山《さ やま》は森の中に発生した炎と煙から、二人の兵士が飛び出してきたのを見る。
距離十メートル。木や葉を焼く熱風に巻かれた二人は、爆発の衝撃《しょうげき》に身を折って空《あ 》き地に転がった。見たところ、顔などに傷は負っているが、息はある。
佐山はあたりを見回した。
すると、横に黒い長身が立っていた。ジークフリートだ。
「上着と引き替えか。二度は出来んぞ」
「何、そう照れず、素直に賞賛《しょうさん》していただいても構わぬよ、私は」
「佐山・薫《かおる》と同じようなことを言うな」
「それは素晴らしい。今、祖父と同じことを言うならば、明日には祖父よりももっと素晴らしいことを口走るだろうね、私は」
ジークフリートは口元に笑みを浮かべ、佐山は苦笑。
それより、と、佐山は前を見た。正面の森の中、爆発の煙が流れ消えていく向こう。
そこに一つの人影が立っていた。黒の色に染まった人影が。
顔を隠す三角|帽子《ぼうし 》に黒のワンピース。背の低い姿は、
「新手《あらて 》……、魔女か」
と佐山はつぶやき、否、と否定する。
「――死に神か」
影は、長大な鎌《かま》を携《たずさ》えていた。
ふと、佐山《さ やま》は隣《となり》のジークフリートが身構えたことに気づく。
猜疑《さいぎ 》の視線を送ると、ジークフリートが右手を下へと振りながら、
「1st―|G《ギア》にいたとき、聞いたことがある。あの閉鎖されたテーブル世界の中、失われた| 魂 《たましい》達はどこに行くのかという話を」
「興味ある話だね。続けたまえ」
「ああ。失われた魂は、歴史のある一点で開発された冥界《めいかい》に住まうことになったのだと。その冥界とは一種の概念《がいねん》空間で、プラスとマイナスの境界線に近い自弦振動《じ げんしんどう》を持ち、あらゆるG上で展開出来るのだと」
「その冥界を開く道具とは何かね?」
「長鎌《ちょうれん》|鎮魂の曲刃《レークイヴェム・ゼンゼ》 。レギンの兄、ファブニール改と同化したハーゲンという老人が、冥界の管理者として所持していたものだ」
声に応じるように、一つの響《ひび》きが返った。猫の鳴き声だ。
「――――」
そして死に神が動いた。
鎌を右の肩上に、垂直に高く掲げていく。
右手は柄《え 》を真上へと、指は柄の表面に彫り込まれた文字をなぞっていく。
声が聞こえた。高く、抑揚《よくよう》のない少女の声が。
「我は汝《なんじ》と共にあるものなり」
告げる言葉とともに、鎌の柄と、刃《やいば》に彫り込まれた文字が光を放つ。
「失われても失われぬものよ」
光は初めは青く、
「其《そ 》は汝が誇り」
そして白く、
「其は汝が記憶《き おく》」
黄色く、赤く、やがて紅色《べにいろ》になり、
「其は汝が御霊《み たま》」
光が黒となった直後。口を開き、少女が鎌の切《き 》っ先《さき》を自分の背後へと向けた。
応じるように、佐山の横で風が動いた。
いかん、とつぶやきを置いて前に出たのはジークフリートだ。
無言のまま、黒衣《こくい 》の長身が森の中に飛び込む。振った右手の先、袖口《そでぐち》から出たのは一枚の紙。何か文字が書き付けてあると、それだけを佐山は確認した。
紙から宙に文字が伸びた。青白く光り、長さ一メートルまで走り伸びたのは独逸《ドイツ》語。
「――|Schneide《剣》!」
ジークフリートは紙の柄《つか》を握りしめ、相手との距離を一気に詰めた。
文字の刃《やいば》が相手の首に向かって振り抜かれる。
下段から狙うのは最短距離の終点。その軌道上、数本の樹木が刃に断たれた。繊維《せんい 》質のちぎれるような音、それをジークフリートは背後に置いて更に前に。
届く。
一撃が走り抜けた。
だが、黒装束《くろしょうぞく》の少女は彼の一撃を回避した。たった一歩を後ろに下がって。
佐山《さ やま》の眼前、ジークフリートの背の向こう。
ジークフリートの剣圧《けんあつ》により、少女の三角|帽子《ぼうし 》が跳ね上がった。ジークフリートの刃はその先を割り、帽子のつばを上に弾《はじ》く。
帽子の下に隠れていた顔が見えた。ジークフリートが持つ文字の刃に照らされた顔は、
「ブレンヒルト・シルト……」
佐山はつぶやいた。
そして彼は気づく。ジークフリートの動きが止まっていることに。
対するブレンヒルトは、回避運動で仰《の》け反《ぞ 》らせた顔をこちらに向けた。
いつもの無表情ではない。彼女は眉尻《まゆじり》を下げ、唇を横に歪ませ、
「―!」
うつむいた。そして彼女は鎌《かま》の柄《え 》を両手で強く握りしめ、口を開く。
「……開け」
息を吸い、
「――開け深淵《しんえん》の門!」
●
ブレンヒルトは、鎌を引いた。真下へと。
背後、鎌が空間を切り裂く。
その音は紙を破く音に等しい。
落差一メートルの切り裂きは、鎌の柄尻《え じり》が地面に突き立つことによって停止する。黒装束の肩の上、わずか数センチの位置で刃が止まる。
そしてブレンヒルトは柄を握って回し、切《き 》っ先《さき》を前に向けた。
応じるように、背後、光が生まれていく。黄緑《きみどり》色の光の形は、鎌の刃が走った線そのままだ。線は縦に割れ、横に破れ、広がっていく。
ブレンヒルトはつぶやいた。
「どうして……」
目の前にいる黒衣《こくい 》の長身が、身構えた。
その動きに対し、ブレンヒルトはうつむきのまま叫んだ。
「……どうしてなのよ!!」
鎌《かま》を前に突き出し、声を放つ。
「討《う 》て遺恨《い こん》の騎士《き し 》よ!」
ブレンヒルトが一歩を下がると同時、開いていた光の裂け目からそれが現れた。
それは鎧《よろい》をまとった巨大な騎士だった。
光で出来た鎧騎士は、空間から上半身だけを突き出した。大きさは六メートルほど。両手に握る刃《やいば》の長さはその倍近くを有する。
両腕の剣が轟音《ごうおん》とともに振り上げられた。
音が空に昇り、大気が動くなり、攻撃は振り下ろされる。
長大な双《そう》の打撃が二発、落ちるように叩き込まれる。
ブレンヒルトは目を伏せた。
そのときだ。右と上。森の中と空から、重なる男女の声が響《ひび》いた。
「この馬鹿……!」
●
佐山《さ やま》は見た。振り下ろされてくる二双《に そう》の大剣《たいけん》に対し、二つの力が突っ込んでくるのを。
視界の右から来たのは、白い装甲服《そうこうふく》をまとった出雲《いずも》だった。
彼が手に握る巨大な片刃《かたば 》の大剣は、その刃から白い光を放射した。
そして視界の上から来たのは、やはり白い装甲服をまとった風見《かざみ 》だった。
光の騎士の頭上、高さ十メートルほどから一直線に落下をかける彼女は、一本の長槍《ちょうそう》を真下へと向けていた。下に突き込んだ片刃の穂先《ほ さき》、そこからも白い光が放射される。
両者は騎士の振り下ろす刃に己《おのれ》の武器をぶつける。
あ、の声で始まる気合いがお互いの口から漏れた。
「……!」
激突《げきとつ》。
響《ひび》いたのは硝子《ガラス》を割るような金属音。
出雲が騎士の右の剣を内側へと弾《はじ》き飛ばした。
風見が騎士の左の剣をやはり内側へと弾き飛ばした。
騎士の両剣が、宙でそれぞれぶつかった。
新しい金属音が響く。
直後。出雲が騎士の両腕の下に回り込み、下段からの一撃を両剣《りょうけん》に叩き込んだ。
応じるように、先の一撃で宙を跳《は 》ねた風見が、真上からの二撃目を両剣に叩き込む。
風見が宙をこちらに跳躍《ちょうやく》し、出雲が剣を振り抜いた動きでこちらを向いた。
次の瞬間《しゅんかん》。身長六メートルの騎士に、二双の刃から一直線の亀裂《き れつ》が入り、出雲が叫んだ。
「見てんな! 逃げろ!」
あからさまな内容の言葉とともに、騎士《き し 》が爆発した。
●
豪風《ごうふう》が空気を洗う森の中。
|鎮魂の曲刃《レークイヴェム・ゼンゼ》 を前に掲げたまま、ブレンヒルトは立っていた。
「…………」
周囲、森が消えていた。
自分の立つところから後ろだけ、地面を| 扇 状 《おうぎじょう》に残し、直径十メートルほどのクレーターが出来ている。鎌《かま》の刃《やいば》がわずかに赤く光っているのを見てブレンヒルトは吐息。
「ちゃんと回収した?」
刃に問いつつ、あたりを見ると、蛍《ほたる》のように跳ぶ光が数個。
ブレンヒルトは|鎮魂の曲刃《レークイヴェム・ゼンゼ》 を両手で大きく振り回す。刃の重さによる慣性《かんせい》は、踵《かかと》を軸に身体《からだ》を倒してバランス取り。すると振った刃に光が近寄り、飲まれていく。
五回ほど身を回すと周囲は闇に戻った。
「月の光付きの闇だけど、ね」
改めてあたりを見回す。
クレーターによって繋《つな》がった空《あ 》き地の方には、1st―|G《ギア》の射撃手《しゃげきしゅ》が二人倒れているだけ。敵と認めた連中の姿はない。
ブレンヒルトは吐息を一つ。足下を見る。自分の足の影に隠れた黒猫を。
「彼らを起こしたら、皆と合流しましょう」
「そうだね。でも……、今ので尻尾《しっぽ》の毛が削れた」
「そう」
という返事に、黒猫は首を傾《かし》げてきた。
「……元気、ない? ブレンヒルト」
「そんなことはないわ。全て、元通りよ」
「元通り?」
ええ、と頷《うなず》き、ブレンヒルトは無表情にこう言った。
「私の恨みも何もかも」
●
佐山《さ やま》は、先行する出雲《いずも》の後をついて走った。
二分ほど走り続けると、森を抜け、広い窪地《くぼち 》に到着していた。
草の野原、そこが新しく設営されたUCATのべースだった。
ランプの火があり、自分達と同じような格好《かっこう》をした者達が集まっている。
共に走ってきた出雲《いずも》や風見《かざみ 》の他、多くの者達がいるが、新庄《しんじょう》だけがいない。
そうか、と佐山《さ やま》は息を整えながら頷《うなず》いた。
見つけに行かねばならない。
そのことを心に決め、佐山は再び皆を見渡した。
人数は五十人ほど。ほとんどが白の装甲服《そうこうふく》をまとう中、ジークフリートとは別に黒に身を包んだ二人組がいた。鉄杖《てつづえ》をついた大城《おおしろ》・至《いたる》と、背負子《し ょ い こ》を装備した|Sf《エスエフ》だ。
至がサングラスを鼻の上に持ち上げ、こちらを見ていた。彼は眉をひそめ、
「――来たか、何も知らないガキが」
佐山は頷き、そして、腕を組んだ。口を開き、
「――来たとも、何もかもを知っていくために」
言葉に応えるように、周囲、人々がぽつりぽつりとこちらに注目し始める。足音と衣擦《きぬず 》れの音。装備品の金属音が、全てこちらを向いてくる。
対する佐山は胸を張り、全員を見回した。全ての視線を受け止め、返し、
「|全 竜 交 渉《レヴァイアサンロード》の専門部隊は、この中にいるかね?」
「いるともよ。たとえばまず俺だ」
手始めに眼前に立ったのは、すぐ横に立っていた出雲だ。
「全竜交渉部隊《チームレヴァイアサン》、軽くメンバー確認と行こうか」
●
大型の| 機 殻 剣 《カウリングソード》を携えたままの彼は、笑みを見せ、
「よし、では俺の名前を言って見ろ。最後に様 をつけると喜ばれるぞ」
「馬鹿か貴様《き さま》」
言って三秒待ってから、佐山は出雲の顔を下から覗《のぞ》き込み、
「はて……、喜んでいないようだが」
「……もういい、お前に常識を期待した俺が馬鹿だった」
「二人とも何を馬鹿やってんのよ」
と声を放つのは出雲の隣《となり》に立つ風見だ。佐山は彼女と出雲を見て、
「風見と出雲でツートップというところか」
「そうね、私と覚《かく》で実動時の前衛《ぜんえい》。新庄は前衛|援護《えんご 》。後衛は――」
背後の集団から、頭一つ大きな影が出てきた。焦《こ 》げ茶色の肌の男だ。禿《は 》げた頭に、顎《あご》の先端にだけ短い髭《ひげ》がある。着ている装甲服はサイズが合わないのか開襟《かいきん》のまま。
彼は歩み寄り、手を出した。
握り返すと、強い力が返ってきた。相手は、ふむ、と口元に笑みを浮かべ、
「ロベルト・ボルドマン。こんな名前だが6th―|G《ギア》の帰化《き か 》二世だ」
「元《もと》米国空軍少佐、――通常課の連携《れんけい》と指揮《し き 》、また有事《ゆうじ 》の際の援護《えんご 》は彼が行うの」
笑みを見せる風見《かざみ 》の解説に、横の出雲《いずも》がやはり笑顔で、
「愛称ハゲ。苛《いじ》めちゃ駄目《だ め 》だぜ」
「言葉の定義付《ていぎ づ 》けが何か間違っている気もするが、気のせいかね?」
風見が笑顔のまま出雲に蹴《け 》りを飛ばして、次のメンバーを呼ぶ。
「シビュレ。佐山《さ やま》は通信受けたでしょ? 彼女」
はい、という声とともに光の色が来た。
金の長髪を頂いた長身の女性だ。女性用の白い装甲服《そうこうふく》に、スカートや長袖《ながそで》などをきっちりと接続して着込んでいる。垂れ目の中の蒼《あお》い瞳がこちらを見て、
「通信係と機材の現場整備担当、シビュレと申します。――来られましたね、佐山様」
と、一礼。佐山は会釈《えしゃく》を返し、
「来たとも」
という言葉に、シビュレは口元に笑みを浮かべた。静かに一歩を引く。
彼女の代わりに前に出てきたのは、ノート型のパソコンを抱えた大城《おおしろ》・一夫《かずお 》だ
右手の親指を上げてみせる大城に、風見は笑顔で頷《うなず》き、
「――充分よね? じゃ、次」
「ああっ風見君! それ老人|虐待《ぎゃくたい》だなあ! 鬼嫁《おによめ》!」
「うるさい。ええと、次、概念《がいねん》空間の制御《せいぎょ》器など一切を扱う――」
風見の言葉が終わるより早く、佐山の目の前に白い装甲服をまとった大樹《おおき 》が立った。
見れば大樹の耳は何故《なぜ》か横に長い。
大樹は目を弓にした表情。こちらを見ると片手を上げ、
「やほー」
佐山はいきなりその額《ひたい》に右のデコピンを叩き込んだ。
「い、いたあっ!! な、何をするんであたたたたた!」
佐山は大樹の長くなった両耳を引っ張るが、取れない。本物だ。
「何だこれは。大樹先生か? 本物か? ならば証拠《しょうこ》を言ってみたまえ」
「ええと、あの、その、証拠って、あ、あー! いきなりそんなの無理ですよう!」
「くそこの馬鹿っ振りは本物のようだね全く。それで、だ」
佐山は大樹の両耳を掴《つか》んだまま、
「どうしてこんなところに大樹先生がいる。ここは危険な場所だ。早く奥多摩《おくた ま 》のアパートに戻ってこの前台所に出たというゴキブリを退治《たいじ 》したまえ。あと、ゴミも捨てるように」
「ゴ、ゴキブリにはもう殺虫剤|撒《ま 》きましたよー! ゴミはまだですけど」
と、大樹は一息。
「先生はこれでも全竜交渉部隊《チームレヴァイアサン》の一員なんです。君より先輩《せんぱい》なの、解《わか》りますかあ?」
「つまりは私の部下になるわけだね」
くー、と唸《うな》った大樹《おおき 》の耳から佐山《さ やま》は手を離す。風見《かざみ 》を見ると、
「うん、大樹先生は10th―|G《ギア》の木精《こだま》で、まあ、よく解らないけどそういうこと」
「よく解らないは余分ですよう」
「そうだ風見君。大樹君は優秀だぞ。……テキトーに機械いじってるようにしか見えんが」
大城《おおしろ》の言葉に、背後の皆も頷《うなず》いたり囁《ささや》いたりを始める。
大樹は両の拳《こぶし》を肩のあたりで握って、
「テキトーなんかじゃないですよう! 思いついた通りにやってるんですっ!」
「それをテキトーって言うんだ!」
皆が団結して応えた。
佐山は大樹のしょげた肩を叩き、
「とりあえず、大樹先生のおかげで皆の共通項が得られた。有《あ 》り難《がた》い話だ」
「い、いやですよぅそんな共通項!」
抗議を無視して、さあ、と佐山は言う。
「皆、――ここから始めよう」
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第二十六章
『伏臥の推奨』
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かつての痛みが
今の自分に関わってくる
いつかの痛みとなるように
[#ここで字下げ終わり]
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●
佐山《さ やま》達は出撃前の諸処《しょしょ》確認を行っていた。
まず窪地《くぼち 》の中央に簡易《かんい 》テーブルが置かれ、そこが会議の場となった。
テーブルの山側の方に大城《おおしろ》・|至《いたる》と|Sf《エスエフ》が立っている。
彼に対し、テーブルを挟み、皆を周囲において立つのは佐山《さ やま》だ。
佐山の視線の先、至が杖で地面をつく。
「――|全 竜 交 渉《レヴァイアサンロード》の最終目的は、全ての概念《がいねん》をUCATに置き、同時に解放することだ。それをすることによって、この|Low《ロ ウ》―|G《ギア》にあるマイナス概念を抑え込む。解《わか》っているな?」
「……そのマイナス概念はどこにある? 1st―Gの概念は概念核としてグラムという剣やファブニール改に収められたと聞く。このLow―Gのマイナス概念は、どうなのだ?」
大城は答えない。が、彼の口元に笑みが浮かんだのを見て、佐山は考える。
その思考を、佐山は告げた。
「各Gの概念核はそのG特有の兵器などに含まれている……」
「だとすると?」
「十のGに含まれぬ神話、聖書に該当《がいとう》するものの中に、マイナス概念は含まれている」
「だとしたら? このLow―Gでマイナス概念を収めるものとは、何かな?」
問いに、佐山は頷《うなず》く。肩の獏《ばく》をちらりと見て、
「それは……、バベルだ。違うかね?」
問いに、皆が至を見た。出雲《いずも》と風見《かざみ 》は頷き、他の皆は眉をひそめる。
バベル? と囁《ささや》く声も聞こえる中、至は口元に笑みを浮かべたまま、小さくうつむいた。
「本当にムカつくガキだ。御名答《ご めいとう》。――見たか? あの塔《とう》を」
「ああ」
「そうか。あれが貴様《き さま》らの最終目的の場だ。十のマイナス概念が宿る塔。そして関西|大震災《だいしんさい》を発生させた震源地だ。そこに届くまで、貴様らは全てのGと渡り合わねばならない」
そう言って、至は簡易テーブルの下から、一つの鉄のケースを取り出した。
重い金属の音とともに、テーブルに置かれたのは、三十センチ四方の鉄色《てついろ》をしたケース。厚みは十センチほどで、表面にはL の刻印《こくいん》がある。
佐山は至を見る。が、至は無言でケースを佐山の方へと差し出した。
至の代わりとでも言うように、右に出てきた大城が頷く。
「開けてみるといい」
言われるまでもなく、佐山はケースの側面に付いているロックを外した。
空気が抜けるような音とともに、上蓋《うわぶた》がずれる。
佐山は上蓋に手を掛け、開けた。
ケースの内部は、左右二つのブロックに分かれていた。
左のブロックには直径五センチほどの金属メダルがある。銀色の表面には+という記号が刻印《こくいん》されていた。対し右のブロックにあるのは、
「グラブ……?」
ブロック内の窪《くぼ》みに収まる形で、指抜きの黒い手甲《て こう》が一つ、そこにある。
作りは手首などを護るもの、上部に丸い鉄のハードポイントを持ったものだ。
左手用。
それを見つめる佐山《さ やま》の耳に、大城《おおしろ》の声が聞こえてくる。
「これを君に預けよう。――名を、ゲオルギウスという。聖槍《せいそう》の名だ」
佐山は眉をひそめた。
「聖人ゲオルギウスが竜を倒したときに用いた槍のことかね? 一説には、神の子を刺したロンギヌスの槍と同一であるともいう……」
「そう、それに習《なら》っておるらしい。神を傷つけ竜を倒すことの出来る槍としてな。ただ――」
言いよどんだ大城に、佐山は視線を向けた。目を合わせると、大城は頷《うなず》き、
「このゲオルギウスがどのような力を持っておるのかわしらは知らん。わしらにはこれがどのようなものか、詳細がほとんど知らされておらんのだよ」
謎《なぞ》の多い概念《がいねん》兵器だ、と大城は言う。
佐山は、周りを見た。皆、自分の目の前にあるゲオルギウスに注目している。背後にいた風見《かざみ 》が、ふとこちらの視線に気づき、
「初めて見た。そんなの」
と頷いてみせる。と、皆も同様に首を下に振った。
彼らの表情には怪訝《け げん》なものがある。だから佐山は、皆の疑念と自分の疑問を大城に告げた。
「用途不明の手甲が、何故《なぜ》、大層《たいそう》に保管されていたのかね?」
「君の母の形見なのだよ」
言葉の内容が解《わか》った瞬間《しゅんかん》。佐山の左胸が軋《きし》みを挙げた。
身体《からだ》の中に来るのは激痛。それも今まで感じたことがないようなものだ。
「――っ」
皆が身動きを止め、こちらの背を見ているのが解る。佐山は右の手を左胸に当て、掴《つか》んだ。
背後にはわずかな身動きにしか見えないはずだが、知られたかもしれない。
まあいい、知られたところで、どうしようもないことだ。
痛みを堪《こら》え、一息をついた、そのときだ。テーブルを挟んだ向こう、至《いたる》が口を開き、
「御両親、もしくは祖父のことなどを聞くと、狭心症《きょうしんしょう》になる、か。妙な爆弾を抱えたまま|全 竜 交 渉《レヴァイアサンロード》を行うつもりだな? 父親には先立たれ、母親には心中《しんじゅう》を迫られ、祖父には肝心《かんじん》のものを教えられることなく逝《ゆ 》かれた。……佐山・御言《み こと》。哀《あわ》れだな、本当に、――哀れだよ、お前は」
周囲、小さなざわめきが起きた。声と吐息の重なりは、至《いたる》の台詞《せりふ》の最後に反応したものだ。
哀《あわ》れと。
まるでこちらを包み見下ろすような雰囲気《ふんい き 》に、佐山《さ やま》は勢いよく顔を上げた。
睨《にら》む。佐山の視線の先、真正面、至はサングラスを下げ、こちらを見上げるように目を向けている。その目と笑みの口元に向かって、貴様《き さま》、と言おうとしたときだ。
「誰だって弱みはあるもんですよー」
と、左に立つ影があった。
皆が、至が、|Sf《エスエフ》が、大城《おおしろ》が、背後の風見《かざみ 》達の気配までもがこちらの左を見る。
全ての視線の先に立つのは、大樹《おおき 》だ。
彼女は自分の胸に手を当て、えーと、と空を見上げた後、こう言った。
「でもそれは克服して、味になるもんです。足が不自由な至さんが杖をつき、Sfさんが助けるように。佐山君も自分にとっての杖や、Sfさんを見つけますよ。それがその手袋や、UCATの誰かは解《わか》りませんけど……、でも」
頷《うなず》き、大樹は周囲を見渡した。至を、Sfを、出雲《いずも》と風見を、シビュレとボルドマンを、そして大城と他多くの仲間達を見て、大樹は言う。
「佐山君は大丈夫です。私が保証します」
うんうん、と自分の言葉に満足したのか、大樹は、
「そういうもんです。たとえば出雲《いずも》君は馬鹿だけど風見《かざみ 》さんが矯正《きょうせい》するし、風見さんの暴力|癖《へき》は出雲君が吸収するし。ボルドマン氏のハゲは皆が見ない振りをしつつあれは個性だということにしてるわけです。――違いますかあ?」
「今ので全てが無駄《む だ 》になった気がするのだがね、大樹《おおき 》先生」
え? と問うてきた大樹の襟《えり》を、三つの手が掴《つか》んで群衆の中に引きずり込む。
ひあああ、という大樹の声を聞きながら、佐山《さ やま》は吐息。
胸の痛みはない。消えている。だから、至《いたる》に告げた。
「哀《あわ》れかどうかはここから先の結果で判断するといい」
そして、
「一つ問おう。私の両親も、UCATの一員だったのか?」
「そうだ。IAI職員に偽装《ぎ そう》しており、そしてある任務で、そのゲオルギウスを入手した」
至は舌打《したう 》ち一つ。しかし口元から笑みを消さず、
「|全 竜 交 渉《レヴァイアサンロード》に仕事を追加してやる。――そのゲオルギウス、右側が存在するらしいのだが、紛失していてUCATでも見つけることが出来ない。貴様《き さま》が自分で見つけてみろ」
「|全 竜 交 渉《レヴァイアサンロード》を終えるためには必要なものなのかね?」
問いに答えたのは横の大城《おおしろ》・一夫《かずお 》だ。彼は頷《うなず》き、
「ただ伝えられているのは、これがあらゆる概念《がいねん》をねじ伏せる武器であるということと、ゲオルギウスは左右を揃《そろ》えて意味があるということ。他、その制作者も、何もかも不明でな」
「母が……、それだけを?」
「そう、君の母、諭命《ゆ め 》さんはそれを告げて我々に預け置いた。彼女は信じておったよ。これが|全 竜 交 渉《レヴァイアサンロード》において何らかの意味を持つと」
言葉を聞き終えた佐山は、ふと、自分の口から嘆息《たんそく》が漏れたことに気づく。
短い黒髪《くろかみ》に、やや鋭い目の女性。それは造形的な記憶だ。
何をしてもらったか、告げてもらったかというと、憶《おぼ》えは少ない。
……何かが出来る人になれるといいね、か。
そして、殺されそうになった、と思う。
曖昧《あいまい》な記憶。だが、そこに新しく付け加えるものが出来た。
ゲオルギウス。
「解《わか》らないものだな。期待して、失わせようとして、そして託《たく》して」
身勝手《み がって 》なのは確かなようだ。ただ、佐山はうつむき、ゲオルギウスを見た。
「――頂いていいのだね?」
「いいが、しかし、気をつけておくれ。このゲオルギウス、私達には装着が出来ない。触れようとすると空間的に弾《はじ》かれるようでな。無理に手を入れると手指が裂ける」
と、大城《おおしろ》は自分の左の| 掌 《てのひら》を見せた。わずかな裂傷《れっしょう》の痕《あと》が白く残る。
成程《なるほど》、と佐山《さ やま》はしかし、ゲオルギウスをためらいなく掴《つか》んだ。大城が怯《おび》えたように左手をひいたところを見ると、このタイミングで拒否反応が、
「無いようだね」
佐山は自分の利《き 》き手、左にゲオルギウスを装着した。サイズはやや大きめのようだが、手首のバンドを締めると落ち着く。傷のある拳《こぶし》は隠れ、革《かわ》特有の温かみが手を包む。
掌の側、甲にあるハードポイントと対応するように浅い半球型の金属パーツがある。その半球には、やはり+の刻印がある。それ以外は、特徴の無い手甲《て こう》だ。
佐山はケース内から+の記号が着いたメダルを取り出した。ゲオルギウスの上部。丸いハードポイントにメダルをはめ込むと、確かに合致《がっち 》した。
直後。いきなりゲオルギウスが振動した。
「――――」
メダルとゲオルギウスの間に風が集まり、吸い込まれていく。
周囲、皆が動きを止め、大樹《おおき 》の耳を引っ張っていた出雲《いずも》が叫ぶ。
「……何だこの特撮《とくさつ》は!?」
抗議の声を無視して、言葉が響《ひび》いた。手甲の表面から、聞いたことがない男の声で、
『我は――!』
だが、そこまでだった。始まりと同じように、不意に風が消えた。
ゲオルギウスの振動も止まり、周囲に静けさが戻る。
皆が身構えた姿勢でこちらを見ていた。その視線を受けながら、佐山はゲオルギウスをつけた左手を軽く振る。何事もない。そんな事実を確認してから、佐山は皆に告げた。
「両方|揃《そろ》うと、もっと凄《すご》いらしいね」
●
肩に黒猫を乗せたブレンヒルトは、仲間達と合流し、進軍していた。
皆が足音立てて急ぐ先は、聖剣《せいけん》グラムの落下した場所。先ほど遂《つい》にその大体の位置が割り出せたので、まずは該当《がいとう》地域の制圧を優先することとなった。
UCATの聖剣グラム回収班《かいしゅうはん》は先行している。彼らに追いつき、撃破《げきは 》しなければならない。
進軍の先頭を行くのはファブニール改だ。
彼が、並ぶ木を最低限の数で倒し、道を造っていく。
聞こえるのは大重量の足音四つと、木の幹が倒れる音。
ブレンヒルトは折れた木々の断面を一つ一つ見て、憶《おぼ》えながら足早に歩いていく。自分の周りの者達も同様だ。そしておそらく、
……ハーゲン翁《おう》も。
時折、待ち伏せの銃撃《じゅうげき》や爆発物の攻撃が来る。
が、どれもファブニール改のところで止められ、すぐに潰《つぶ》される。
銃声と爆風《ばくふう》の効果を受けながらファブニール改は言う。
「構うな」
と。その言葉に皆は従い、剣を抜かず、銃も構えない。
ブレンヒルトの視界の中、ファブニール改の後ろに続くファーフナーも同様だ。
戦うことは全て鋼鉄の白竜《はくりゅう》が引き受ける。
緑と黒の外套《がいとう》の群れは、ただ前へと足音を連ねていく。
と、前方。ファブニール改の行く先に白い入影が見えた。数は十を下らない。
「UCATに追いついたか!」
ファーフナーが声を挙げ、皆が歩く足に力を込めた。
UCATが先行させた聖剣《せいけん》グラムの回収班《かいしゅうはん》。ファブニール改の陰から見える彼らは、足を止め、こちらに武器を向けている。ここで防壁を張るつもりだ。
無駄《む だ 》なことを、とブレンヒルトは思う。
そのときだ。ふと、頬《ほお》に柔らかい感触《かんしょく》があった。肩に乗せた黒猫の尾だ。
「……?」
黒猫は、一瞬だけこちらと目を合わせると、背後に首を向けた。
ブレンヒルトは歩きながら、わずかに歩速を緩めた。
背後を見た。
まず見えたのは皆がこちらに歩いてくる光景。前傾《ぜんけい》姿勢での進軍は、まるで彼らが自分に向かってくるような錯覚《さっかく》を寄越《よ こ 》す。
わずかに竦《すく》んだ身体《からだ》の横を、緑と黒の外套がすれ違い、通り過ぎていく。誰も彼も何も言わず、ただ前を見て、戦うために前へと。
だが、ブレンヒルトは見た。彼らの背後、更に後ろを。
遠く。山並みの向こう。森の中。注意しなければ気づかない程度の明かりがある。
それは先ほどまで自分達がいた場所。森の中の窪地《くぼち 》があった場所だ。
既《すで》に集合場所としてはうち捨て、誰も何も残っていない筈《はず》。
「……来るのね」
つぶやき、足を止めた。
その横を、濁流《だくりゅう》のように皆が前に進んでいく。敵を追い、グラムを手に入れるために。
だが、ブレンヒルトは思う。自分達は本当に敵を追い立てているのだろうかと。
背後、皆の進む方向からファーフナーの声が飛んできた。どうした、と。
それに対し、ずっと先を進むファブニール改の声が答えた。風に掠《かす》れる声で、
「ここで敵の追撃《ついげき》を防ぐように言った。――我々は、グラム奪取《だっしゅ》の方へと急ぐぞ」
台詞《せりふ》の内容、言われた憶《おぼ》えのない気遣《き づか》いに、ブレンヒルトは目を伏せた。
ハーゲンに礼を言うことは出来ない。ただ、手にしていた|鎮魂の曲刃《レークイヴェム・ゼンゼ》 を軽く掲げた。彼の副視覚素子《ふくし かくそ し 》には見えるはずだ。
と、曲刃《ゼンゼ》の線の上、月光が滑るように伝い落ちた。
その光を、邪魔《じゃま 》なものだと思いながら、ブレンヒルトは歩き出す。
前へ。皆の背後へと。
●
佐山《さ やま》達は再《さい》出撃の準備を行っていた。
窪地《くぼち 》の中、佐山は立っている。対する皆は彼の正面、数メートルの距離をおき、壁を作るようにして集まっている。
皆を前に、佐山は右手を振った。風を切って止まった右手には、六枚の紙片がある。佐山は親指一つでその六枚をカード宜《よろ》しく広げて見せた。
どれも鉄 という字が書いてある。
「さて、……破ることが出来ず、曲がらぬ鉄 はこれで全部だね。|Sf《エスエフ》君、一つ頼む」
佐山の言葉に続き、至《いたる》の声が聞こえた。
「行け、恩を売ってやれ」
「|Tes《テ ス》.」
言葉とともに、Sfが皆より一歩前にでた。
直後。佐山は右の手首を振り、六枚の紙を空に投じた。
それはもはや紙の動きを持っていない。回転し、重さを持って舞い上がる紙は今や鉄 だ。
窪地の中、ランプの明かりに照らされた紙が、その朱色の光を反射したときだ。
Sfが右の手を上に挙げた。
そのときにはもう、銃音六つと空からの金属音が六つ、全て重なり響《ひび》き終わっている。
Sfの手は既《すで》に戻っていた。自分の目の前に広がった煙を気にも止めず、彼女は無言のまま佐山に一礼、皆に一礼。白髪《はくはつ》の頭が下がる動きとともに、その足下へ小さな光が六つ落ちた。
空《から》になった薬莢《やっきょう》だ。
その場にいる皆が硬い唾《つば》を飲む。が、Sfは構わず人の壁の中に戻る。出たときとは違い、人の壁は自ら割れて彼女を迎え入れた。
そして彼女の背を追うように、地面に六つの紙が落ちた。
それを拾い上げていくのは佐山だ。彼は柔らかい地面に刺さった紙を手に取り、
「――さて、これとこれとこれ、三つは駄目《だ め 》だな。穴が開いている」
次の四枚目は弾丸《だんがん》の形にへこみ、大きく窪んでいた。
「これも、防弾繊維《ぼうだんせんい 》と同じ程度といったところか。字は綺麗《き れい》なのだがね」
あー、と壁の先頭列にいた風見《かざみ 》が額《ひたい》に手を当てる。
「書道《しょどう》二段なんだけどなー」
「次の草書《そうしょ》の方が硬いな。折れ曲がるだけですんでいる」
「あ! それわし! わし!」
ノートパソコンに状況記録を打ち込んでいた大城《おおしろ》が右手の親指を上げて喜ぶ。
佐山《さ やま》は無視。最後の一枚を手に取ると、眉をひそめた。
「これは素晴らしい。曲がりも傷つきもしていない……、が」
皆に見せた。
「何かねこのミミズが腸捻転《ちょうねんてん》で断末魔《だんまつま 》|入《はい》ったような字は? 誰が書けるんだこんな呪文《じゅもん》」
「俺だ馬鹿|野郎《や ろう》ケンカ売ってんのか!」
出雲《いずも》が一歩を前に出ると、背後の皆が肩を落として声を揃《そろ》え、
「やっぱり……」
「何がやっぱりだあっ!」
叫ぶ出雲の肩を、風見が解《わか》った解った、と叩く。そして彼女は吐息。
「私の書道二段がミミズに負けるとは……」
「ああコラ、フォローすんのか文句言うのかどっちかにしろっ」
「要は、文字というものの根本は形式ではなくイメージだということだろうね。日本人向けに出来た字を綺麗《き れい》に書くことよりも、どんな人間が見てもそれと解る字……、絵に近い字の方が、世界にとっては有利なのだろう。ほら受け取るといい」
佐山は投じた紙を受け取った出雲に言う。
「さて出雲、君はここにある全ての筆記用具をかき集めて時間の許す限り皆の装備品や紙や石ころ棒きれに渡るまで文字を書き込みたまえ。装備を強化する」
そして、佐山は頷《うなず》く。
「この概念《がいねん》空間において、文字情報は力となる……、と」
歩く。足音の行く先は、ノートパソコンを脇に抱えている大城だ。
「御老体《ご ろうたい》」
「ん? 一体《いったい》何かな?」
「そのパソコンの記憶《き おく》装置を爆薬《ばくやく》として全部| 供 出 《きょうしゅつ》してもらおうか」
「――は!? な、何を言っておる! 爆薬!? そ、そんな文字がどこにある!?」
「黙れオタク爺《じじ》い。これからいう質問に正直に答えたまえ。……パソコン内にため込んだ十八|禁《きん》ゲームのデータはどれくらいある?」
「さ、三十|G《ギガ》くらいかな?」
「……三十?」
「五、五十、い、いやちょっととんで百二十だったような気が」
「……それは全て実名プレイでオールコンプリートかね?」
「そ、そんなまさか、わしもそこまで暇《ひま》では――」
「おーい誰かこのイタい老人を拷問《ごうもん》にかけろ」
「ある! あります! 暇であります! 今《いま》進行中の一本以外は、全部|自力《じ りき》で!」
「そうか。それはおそらく核爆弾《かくばくだん》級の破壊力を持った煩悩《ぼんのう》爆弾となるだろう」
よし、と佐山《さ やま》は頷《うなず》く。こちらから一歩引いて静まった皆を見ると、
「理解してやれ、彼も現代日本の被害者だ」
言うと、男|連中《れんちゅう》を初めとして、皆が一人ずつ、列になって大城《おおしろ》の肩を叩いていく。
「わ、わし、こんなフォローの方が傷つくんだがなあっ!」
「気にすることはない。これで大手《おおで 》を振って仕事中もエロス界に飛び込めるではないかね。爆弾|製造《せいぞう》中と背中に張っておきたまえ」
あ、そうか! と笑顔を見せた大城の肩を、至《いたる》が叩かず掴《つか》み、こう告げた。
「――あとで家族会議な」
●
新庄《しんじょう》は森の中を走っていた。
背後からはファブニール改の岩を砕くような足音と、1st―|G《ギア》の進軍する足音が聞こえる。彼らの進行をはっきりと伝えるのは木々が折れ、石が砕かれる音だ。
破壊音に追われる新庄の、その傍《かたわ》らを併走《へいそう》するのは、怪我《け が 》を負ったUCATの隊員達だ。
ベース跡地からファブニール改に追われ、出雲《いずも》達とはぐれた後、新庄は彼らと合流した。
彼らは聖剣《せいけん》グラム回収班《かいしゅうはん》だと言った。後続を断たれ、しかし先に行くと。
そして今、新庄達は白の機竜《きりゅう》に追われている。
「は」
息が切れる。
腕の中、抱える| 機 殻 杖 《カウリングストック》|Ex―St《 エ グ ジ ス ト》の重みを感じる。
ベース跡地でファブニール改と遭遇《そうぐう》したとき、出雲とファーフナーの攻撃を破ったのは、結局、風見《かざみ 》だった。彼女の横からの介入がファーフナーの圧力を弾《はじ》き、地殻《ち かく》が破壊された。
自分は何も出来ていない。
息が切れる。腕の中の武器は重い。
だが、思う。横を走る負傷した男達のことを。だから新庄は息を吸い、
「皆さん――」
横を走る男が振り向いた。負傷した仲間を肩に担った男だ。彼に新庄は告げる。
「ボクが彼らを引きつけるから。……前方、右側を見て」
走り、木々を抜ける向こう、森の中に岩が一つ突き出している。
「あの岩の前の影で分かれよう。そして隠れていて」
「馬鹿な……! 君《きみ》一人でどうなるものでもない!」
新庄《しんじょう》は男の顔を見上げた。無理に笑みを作って、
「大丈夫。すぐに全竜交渉部隊《チームレヴァイアサン》が追いついてくるから。……ボクの仲間が」
告げた部隊の名前に、男の表情が一度消えた。次の瞬間《しゅんかん》、困ったような笑みになる。
「参った話だな」
「な、何が……?」
「俺の友人は、一昨日《おととい》、全竜交渉部隊《チームレヴァイアサン》の到着が遅れて死んだよ」
新庄は言葉を失う。顔から笑みが消えたと自分でも解《わか》る。
走り、うつむいた。そして、御免《ご めん》なさい、と言おうとしたときだ。
「何も言うな。謝られても、まだ赦《ゆる》すことなど出来ない。だが」
と彼は告げた。
「俺達|通常課《つうじょうか》は特課《とっか 》の下にある。その関係は絶対だ。しかし、その関係を本当に絶対としたいならば、自分の言った意味を必ず護《まも》れ。そのことを君が憶《おぼ》えてくれるなら、俺達も忘れない」
「……何を、忘れない、と?」
「小さな事だ。誰かが、仲間の遺体《い たい》に花を捧《ささ》げてくれたことを」
言葉が聞こえたときだ。目印にした木に足が辿り着いた。
男達が背後に射撃《しゃげき》を入れ、何も言わずに右へと跳《と 》んだ。
新庄は左へ、身を回しながら背後を確認。飛んでいった銃声と弾丸《だんがん》の行く先、ファブニール改は木を倒し、他の者達は待避《たいひ 》に入っていた。
男達の動きが見えたかどうか、新庄には解らない。
ただ、新庄は走り出した。
自分の身が敵に見えるように。装甲服《そうこうふく》の裾《すそ》を| 翻 《ひるがえ》して。
●
白い機竜《きりゅう》は、目の前を行く獲物《え もの》を見た。
獲物、白い影の正体は一人の少女。
先ほどまで先行していた男達、彼らと共に走っていた少女だ。今、一人ということは、
……仲間を待避させたんだろうね。
ファブニール改の中でハーゲンは思う。
視界の中、彼女は大きな動作で身を翻し、自分の衣服の白を闇の中で見せつける。
そして走って行く。こちらに背を向け、森の奥へと。
どちらにしろ、彼女の行く先は自分達の行く先と重なっている。
彼女を選ぶに是非《ぜ ひ 》はない。走る獲物を追うように、機竜は木々を倒し、早足で進み出す。
「――――」
吠声《ほうせい》。響《ひび》く高音の軋《きし》みは、背後の仲間達にこちらが行く先だと教えるため。
ファブニール改は道を造り、獲物を追う。喉《のど》の下、加熱した武装出力炉が熱い風を噴出《ふんしゅつ》した。内部にある概念《がいねん》核が、今は確かに回っている。
ファブニール改の調子はいい。だが、と、機竜《きりゅう》と同化するハーゲンは思う。
……自分自身は長くあるまい。
体は動いても、わずかに倦怠感《けんたいかん》のようなものを感じている。機械にあるはずのない疲労だ。
機竜と同化するということは、単純に部品として組み込まれることとは違う。自分の情報を全て文字情報化して機械のそれに同調する。5th―|G《ギア》や3rd―Gで生まれていた機械生物型の同調システムを1st―Gとして作り替えたものだ。
紙に文字を書いて力を与えるように、自分を文字情報に換算《かんざん》し、機械に重ねる。
その同調にずれが生じつつある。
ずれの原因は、自分の文字情報の経年劣化《けいねんれっか 》だ。機械の中であろうと、自分が生きているという証拠《しょうこ》。それこそが自分を見失わぬ縁《よすが》であり、そして弱点となる。
自らが進む足音を聞きながら、ハーゲンは思う。
急いでくれ、と。
ここは戦場。動けば動くほどにファブニール改はその性能限界を引き出し、滅びていく自分とのずれを生じていく。まだこの身が動く内につけるべき決着がある。
聖剣《せいけん》グラムのこと。そして、ブレンヒルトのことを思い、ファーフナーのことを思った。
急いでくれ。急いでくれ、敵よ。
ファ―ブニール改の中、ハーゲンは敵を見る。先行する少女の背を。
急いでくれ。
……全ての決着をつけるには、敵の存在が必要なのだ。
思い、ファブニール改は吠《ほ 》えた。大きな声で。己《おのれ》が作った概念空間を支配するように。
思いを乗せて吠えたてる。
……勝ちたいねえ……。
●
破壊された森の跡を走る佐山《さ やま》達は、遠く響く獣声《じゅうせい》のようなものを聞いた。
「ファブニール改の声だ」
ジークフリートの言葉に、皆が身を固くし、しかし、
「急げ」
と結論した。
月光が降る竜の残した道を、白と黒の服に身を包んだ集団が行く。足音はそれぞれ揃《そろ》いもしていない。装備品も、幾人《いくにん》かが鳴らす口笛さえも。
だが皆は足を早めた。更に、更にと。
そのときだ。左手の森の中から、月光の中央へと黒い影がこぼれてきた。
「!?」
皆が身構え、急ぎ踏み込んだ足を止めた。
皆の目の前に出てきた影は、人影だった。
三角|帽子《ぼうし 》に黒装束《くろしょうぞく》。肩には黒猫。そして長大な鎌《かま》を携《たずさ》えたその人の名を、風見《かざみ 》が告げる。
「……ブレンヒルト・シルト」
苦笑。背のバックパックを担い直し、
「奇遇《き ぐう》ね。さっきこの近くで会ったばかりだけど、……忘れ物?」
「そうね、忘れ物よ。生徒会長に副会長、そして会計さんに、……図書室|司書《し しょ》さん」
ブレンヒルトは鎌を両手で横に構えた。
同時。出雲《いずも》が一歩を前に出る。つまらなさそうに、
「まさか、忘れ物は俺達の命とか、凄《すご》いことを言うんじゃねえだろうな?」
「いえ違うわ。忘れ物は一つ。……私の容赦《ようしゃ》よ」
無表情に、
「どこに忘れてきたかさっき思い出したの。――学校よ、きっと」
「そりゃ大変だ。名前を書いてたか? 俺のように綺麗《き れい》な字で」
と笑う出雲の肩を、ジークフリートが掴《つか》んだ。
「先に行ってもらおう。あと、字のことは訂正したまえ」
「爺《じい》さん。字のことは自虐《じぎゃく》ネタだ、笑え」
ジークフリートは出雲に応えない。ただ彼は、視線の先に立つ月下《げっか 》の少女を見て言った。
「――私の因縁《いんねん》だ。誰にも渡すことは出来ぬ」
その言葉に、ややあってから、出雲が動いた。
肩を落とし、吐息。そして落とした肩にまだ乗っていたジークフリートの腕を払う。
「シジイの少女趣味たあ長生きしねえぜ」
出雲の苦笑に、横にいた風見が笑《え 》みを返す。佐山も頷《うなず》き、隣《となり》にいる大城《おおしろ》を見て、
「長生きしないそうだが?」
「まだそのネタ引っ張るかなあっ!」
佐山は苦笑。ジークフリートの肩を叩くと、その手を上に挙げた。
「先《さき》急こう。我々は我々の相手を、彼は彼の相手を、私は私の大事な人を」
一息。皆が動き、ブレンヒルトを避けるコースを選んで歩き出す。
誰もが彼女に一瞥《いちべつ》をくれ、しかし、すぐに自分の行くべき方向へと急ぐ。
そして皆が去っていくのと合わせるように、ブレンヒルトが鎌を持ち上げていった。
月下《げっか 》の夜空に、まるで欠けた月のような刃《やいば》が掲げられる。
その下において、ブレンヒルトは、ジークフリートを見る。
小さな唇が動き、ごく当たり前の一言を小さく告げた。
「……さあ、始めましょうか」
●
新庄《しんじょう》は、後を追ってくる巨大な足音を聞いた。
振り返れば、木々を踏み折る音をつけて白い巨躯《きょく 》が迫ってくる。
新庄は走りながらわずかに身を竦《すく》める。だが、眉根《まゆね 》に力を込めて頷《うなず》いた。
……そう、それでいい。
上手《うま》く戦えぬ自分に、今《いま》出来ること。
走る身が思考を冴《さ 》えさせる。判断の純化は動きを生み、両腕が| 機 殻 杖 《カウリングストック》を構えていた。
走り、跳《と 》ぶ。身を捻《ひね》り、背後に身体《からだ》が向いた一瞬《いっしゅん》をもって射撃《しゃげき》。
狙いは背後、距離約百メートルの位置にいる白い機竜《きりゅう》の足下だ。当てることを狙っていない牽制《けんせい》だが、彼の注意を引き、一歩を踏みとどめる力は充分にある。
そうだ、と新庄は思う。
戦いに加わる方法はある。今はこのような方法しか思いつかないけれど、きっと、
「きっとボクも……」
つぶやき着地。身を回してまた前へと走りながら、新庄はつぶやき直す。
「きっとボクも……?」
それは誰との比較だろうか。そして、
「ボクも……、何を? 何をしたいって?」
ふと、鼓動《こ どう》が速くなった。頭の中に、一人の少年のことが思い浮かんだ。
どういうことだろう。
彼を思うとは、どういうことで、どうしてなんだろう。
疑問が走った瞬間《しゅんかん》だ。いきなり、眼前に光が広がった。
森が切れたのだ。
「!」
目の前に広がったのは、遮蔽《しゃへい》物のない空間。あるのは月光と、背の低い草原。前方、二百メートルほど向こうに森が見えた。月光に青黒く映える向かいの森は、ずっと遠く、闇の底で山並みの影と繋《つな》がっていた。
左右、見える範囲は全て同じ草原。風が吹き、
「く」
新庄は走り出した。向こうの森に向かって。
背後、追い立てるように重金属《じゅうきんぞく》の足音が来る。
●
「いた! 先行していた回収班《かいしゅうはん》だ!」
佐山《さ やま》達は、途中の岩場《いわば 》から負傷した仲間達を救出していた。
周囲は既《すで》に1st―|G《ギア》との戦闘に入ろうとしている。
始まりの銃撃《じゅうげき》音が頭を越えていく下、手空《て す 》きの者が十名ほどの負傷者の治療に入る。
大樹《おおき 》とシビュレが、趙《ちょう》から預かったという符《ふ 》を彼らの傷に当て、包帯《ほうたい》などを巻いていく。その治療中に彼らが荒れた息で言葉を放つ。
「お前達と同じ全竜交渉部隊《チームレヴァイアサン》の少女が、先に行った……」
聞こえた言葉に、佐山は眉を動かした。班長|格《かく》と思われる中年の男に目を向ける。と、相手は頷《うなず》いた。頭部から流れる血に片目を閉じながら、彼は言う。
「――この森を抜けた先が我々の目的地、聖剣《せいけん》グラムの在処《ざいしょ》だ」
そうか、と佐山は頷いた。それだけ聞けば充分だ。
佐山は見る。遠く。森を穿《うが》った焼け跡の道の先、敵がいる。敵は何かを追っている。
その先頭には白い機竜《きりゅう》の背が見える。
距離は約二百メートル。こちらに気づいた敵の後続が足を止め、駆け迫ってくるのが見える。
そして機竜の向こう、森の途切れた空間があった。草原、月下《げっか 》の広場だ。
新庄《しんじょう》がいるならそこだ。敵群を突破する必要がある。
佐山は強く響《ひび》き始めた剣戟《けんげき》音や、銃声、そして爆発音を耳にしつつ、立ち上がる。
自分の周りにいるのは全竜交渉部隊《チームレヴァイアサン》の面々《めんめん》だ。至《いたる》と|Sf《エスエフ》だけは後方での見物に入っており、大樹《おおき 》とシビュレは治療中だ。が、両|隣《どなり》には出雲《いずも》と風見《かざみ 》、背後にはボルドマンがいる。
よし、と佐山は言った。迫る敵影《てきえい》を見て、
「出雲、道をつけろ」
言われた言葉に、出雲が、ややあってから笑みを作った。
「そう来なくちゃあいけねえな! ボルドマン! 後ろまとめて援護《えんご 》頼む!」
そう言って、出雲は裾《すそ》の破れたコートから一枚の白い布のようなものを取り出す。
「これがあれば、――無敵」
●
新庄は下がりながらも交戦中だった。
月光の降る草原の上、走り、身を回し、| 機 殻 杖 《カウリングストック》を構えて攻撃。放たれる光の射撃《しゃげき》は、百メートルほど後ろを追ってくる白い機竜に対する牽制《けんせい》や、四肢《し し 》を狙ったものだ。
そこに今、空への注意と連射《れんしゃ》が追加された。
森を抜けたと同時に、空へ有翼《ゆうよく》系種族の兵士が飛び立ったのだ。
彼らの飛ばしてくる一直線の光矢《こうし 》が、こちらのいる位置や、行く位置に正確に突き立つ。
攻撃の音は白い飛沫《しぶき》の音に似ている。
「――は」
息は荒い。
射撃《しゃげき》。
構える| 機 殻 杖 《カウリングストック》、側面に|Ex―St《エグジスト》とマークされたそれは、新庄《しんじょう》専用のものだ。操作機能のある後部回りに賢石《けんせき》を使用した概念《がいねん》兵器。あらゆる概念にも対応出来るよう、攻撃機能の集中した前部を換装《かんそう》することで汎用《はんよう》性を持ち、
……ボクの意思力に比例して攻撃力を高める。
使用者が望む以上の破壊を作らない。それが唯一《ゆいいつ》、新庄の要求した仕様《し よう》。そして最大の足かせだ。一撃《いちげき》をためらって有効打を絞《しぼ》れなければ、強力な武器も単なる杖に過ぎない。
だが射撃。
光の鎌《かま》が飛び、白い機竜《きりゅう》の右前|脚《あし》に激突《げきとつ》する。鎌は硝子《ガラス》の割れるような音とともに砕け散った。が、竜の脚には傷一つ無い。
新庄の視界の隅《すみ》、Ex―St前部のブックストッカーから、一冊の本が排出された。内部に溜まった力を出し尽くしたのだ。
残るは二冊。
弾数《たまかず》は減っていく。が、攻撃は全く通用していない。
悔しい、と思ったとき、空から光が見えた。
「!」
もつれる脚で背後に跳躍《ちょうやく》。自分が先ほどまでいた位置に、光が連続して突き刺さった。
衝撃《しょうげき》爆発。
土と草の端切《は ぎ 》れが、空に舞って顔や脚にかかる。それをわずらわしいと思う間もなく、新庄は空に向かって盲管《もうかん》射撃。背後にステップを踏もうとした。
直後。自分の足下に来たのは威圧《い あつ》の感覚。
ファブニール改の砲撃《ほうげき》だ。
「……きゃ!」
地面が破裂し、耳の中から音が消えた。
視界が一瞬《いっしゅん》だけ暗転《あんてん》する。
気を失うことを拒否したのは、恐怖心のおかげ。自分が失われることに対する恐れが、鼓動《こ どう》と背筋《せ すじ》を震わせ、意思が沈むことをキャンセル。
目が覚めるように自分を取り戻す。そのときには視界が青黒く染まっていた。
……これは……。
と思うなり、意識が明確になった。
目の前にあるのは夜空だ。
自分は草原に倒れている、らしい。身体《からだ》の感覚が震えて、ほとんどない。
あ、と口から力のない声が漏れた。そんな気がした。
耳が聞こえない。
まずいと心の中で焦り、体を起こす。が、それは力のない動作。身体の芯《しん》がしびれていて、意識だけが先行する。酷《ひど》く大雑把《おおざっぱ 》な動きで身体を横に転がし、両手をつき、起きる。
立ち上がり、視界を元の角度に戻していく。
上には夜空、下には穴の開いた草原。これが本来あるべきものだ。
視界が左右に振れる。揺れの先に足を踏み、身体を整える。酔っぱらったらこうなのかなあ、と心の中で苦笑しながら前を見た。
百メートルの前方、白い機竜《きりゅう》がいる。対するこちらに逃げ場はなく、身もまともに動かない。
耳に音が戻ってくる。視界に焦点が定まってくる。
真正面。機竜が目を赤く光らせた。
……来るの?
そう疑問したときだ。白の機竜、ファブニール改はこう告げた。
「五秒の猶予《ゆうよ 》を与える。――1st―|G《ギア》に降伏せよ」
[#改ページ]
第二十七章
『正誤の渇望』
[#ここから3字下げ]
望む心とは何か
それははやりつつも待つ心
矛盾した勢いの宿る心
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
●
ファーフナーは、後続するUCATへの迎撃《げいげき》に入っていた。
彼の定位置は草原に入ったファブニールの後ろではなく、更に後ろの森の中だ。
そこは彼にとっては有利な舞台だ。その黒い全身に闇 の情報を持つ黒の半竜《はんりゅう》は、闇の中、影の中をある程度自由に移動し、渡ることが出来る。
前に突出してきた白い装甲服《そうこうふく》の一団、UCATの突撃隊《とつげきたい》に彼は飛び込む。
敵は四人。だがファーフナーは恐れない。翼《つばさ》を使用した水平の高速移動で突っ込む。
こちらの前進に対し、敵は全員迷わず銃を捨て、腰から短い剣を抜刀《ばっとう》した。
訓練が行き届いていると思いながら、ファーフナーは、無《む 》作為《さくい 》に正面の一人に激突《げきとつ》した。
半竜の身長は最低でもニメートル。その全身は鎧《よろい》のような甲殻《こうかく》と、翼をもって飛ぶことが出来る大型|筋《きん》の固まりだ。翼による加速を行えば、ぶち当たる衝撃《しょうげき》は岩の激突に等しい。
左肩からぶつかった。
破砕《は さい》音。
敵の先頭、一人が悲鳴もなく、身体《からだ》を歪ませて吹っ飛んだ。
反動を利用してファーフナーは前に進む慣性《かんせい》を消去。身体を時計回りに右に回す。
左から一人、横薙《よこなぎ》に短剣の一撃が来る。
狙いは腹、巨体にとって防護の甘いところ。だが、ファーフナーは介さない。
彼は右に回す身体の動きで、左の回し蹴《げ 》りを放った。狙いは相手の横腹《よこっぱら》。向こうが狙うのと同じ箇所をこちらも狙う。
しかし旋回《せんかい》がわずかに間に合わない。敵の短剣が届く。
瞬間《しゅんかん》。ファーフナーは左の翼を前にはばたいた。
左半身を前に押すように、風が背後で爆発。巨体は弾《はじ》かれたように高速で回った。
「!」
敵の短剣を左手で払い、左の脚《あし》を横腹にぶち込んだ。
敵が逆くの字に折れて飛ぶ。
旋回の動きを消すことなく、ファーフナーは一回転。一瞬《いっしゅん》相手に背を向け、そのまま右の腕を後ろに振り抜けば、バックハンドの通過位置に三人目の顔面が飛び込んで来ていた。
打撃。
右|拳《こぶし》の甲殻を伝わって来た細かい震動は、相手の歯と顎《あご》が砕ける音。
だが、腕を振り抜いた姿勢は、がら空《あ 》きのボディを四人目に向ける。
四人目は体当たりをするように、両手で短剣を構えて走ってきた。右手で柄《つか》を握り、左手で柄尻《つかじり》を押さえ込む。いい構えだ、とファーフナーは頷《うなず》いた。
森の木々に阻《はば》まれた空を見上げる。
月が出ていた。1st―|G《ギア》にはなかった光の円弧《えんこ 》を、ファーフナーは邪魔《じゃま 》だと思う。
「だが使える。――影を生む母として、我らの恨みを晴らすために」
視線を下に。眼前に四人目が踏み込んできた。
ファーフナーは慌《あわ》てもせず、相手の足下に自分の右足を入れた。
月が作る相手の影。その中に、ファーフナーは右|脚《あし》を腿《もも》まで入れる。
姿勢が敵の刃《やいば》よりも低い位置に移った。四人目が目を見開き、
「……な!」
声を挙げるようなことではない、と、ファーフナーは傍《かたわ》らを通り過ぎようとした相手の脚を振り抜いた肘《ひじ》で掬《すく》い取る。
相手が一回転して倒れるのと、影が失せてファーフナーが身体《からだ》を元に戻すのとは同時。
倒れた身体に上から踵《かかと》を踏み込めば、合計四人が始末《し まつ》出来たことになる。
「敵はまだ来る、か?」
疑問で見る視界、森の中には動きがある。白い影の群が、距離約五十メートルほどのあたりで散らばっている。こちらの防衛線に戸惑《と まど》い、足止めを食らっている形だ。時折、先ほどの四人のような者達が前に出てくるが、すぐに迎撃《げいげき》される。
戦いはここで終わりかもしれない、と、ファーフナーは前に出た。
自ら戦場に近づいていくために。
と、そのときだ。ファーフナーは新しい動きを見た。
いきなり、敵の集団の中から一つの白い影が飛び出してきたのだ。
射撃《しゃげき》と術《じゅつ》が激突《げきとつ》するが、相手は、飛び出した勢いを止めない。むしろ加速して、こちらへと一直線に突っ走ってくる。
……何だあれは?
ファーフナーは目を細めて見た。
それは、UCATの青年だ。前に空《あ 》き地で自分と戦った青年。情報によれば出雲《いずも》家の跡取りだったろうか。彼は両の腕で大型の| 機 殻 剣 《カウリングソード》を盾のように構え、
「ひょ――!!」
と奇声《き せい》を挙げながらこっちへの距離を詰めてくる。
彼の行く先、1st―Gの仲間達が慌《あわ》てて気づき、射撃|弾《だん》を叩き込むが、何故《なぜ》か効かない。
どういうことだ、とファーフナーは腰の| 機 殻 剣 《カウリングソード》に手を当てた。相手は人間だ。体格はいいが、自分のような甲殻《こうかく》に身を包まれているわけではない。
見る。
青年の身体の全面をほぼ完全に覆《おお》っているものがある。白い、鎧《よろい》のようなもの。それがこちらの攻撃を完全に防いでいた。新兵器か、という思いが叫びを挙げていた。
「注意せよ!|Low《ロ ウ》―Gの新兵器を狙え!」
そして近づいてくるそれを、ファーフナーは見た。
相手が身に着けている新兵器。それは、フリルのついた女物のエプロンだった。
エプロンの胸の部分と裾《すそ》の部分に、大きく文字が書いてある。ファーフナーの知識を持っても、|Low《ロ ウ》―|G《ギア》の文字に似ているものとしか判別出来なかったが、イメージは伝わってくる。
胸の部分にはがんじょー とあり、裾の部分にはかたい とある。
その意味を悟ったとき、ファーフナーは敵を指さし、改めて叫んでいた。
「あの馬鹿を狙えー!!」
●
鉄壁の防御を持って走る出雲《いずも》は、森の中、高速に距離を詰めた。
後ろ、佐山《さ やま》と風見《かざみ 》はボルドマンが指揮《し き 》する援護射撃《えんご しゃげき》を受けつつ駆ける。
先を行く出雲の装甲《そうこう》表面から聞こえてくるのは、金属音の連続だ。
「|Sf《エスエフ》君のエプロンがこうも役に立つとはな……。戦闘用と言っていたか」
佐山の落ち着きとは対象に、風見が眉尻《まゆじり》を下げていた。ああ、と口を横に開き、
「だ、大丈夫!? 覚《かく》! ガンガン音してるけど!」
「わははははははは!」
「駄目《だ め 》だ風見、銃撃《じゅうげき》を受けすぎて脳に振動が入ったのだ。ああなってはもう一生……」
「言っていい冗談《じょうだん》と悪い冗談があるでしよーが!!」
風見が走りながら佐山の首を絞《し 》め上げたときだ。爆発 がそのまま出雲に直撃《ちょくげき》した。
「!」
火花と爆音と大気の破裂《は れつ》は、後から来る。
金属音が飛沫《しぶき》を上げ、エプロンが破砕《は さい》。
衝撃波《しょうげきは》が出雲を中心に水蒸気の白い輪を作り、四方へと吹き飛ぶ。だが、
「甘い! 戦場の料理人は無敵だ!!」
出雲の本体は無事だった。
エプロンが失《う 》せていた。が、その下、着ている装甲服にも字が書き込んである。
マジックで、上下|逆《さか》さに、とてもがんじょう と。
●
「稼働部|少《すく》なくしただけの価値はあったぜ……!」
出雲は一気に前へ出た。装甲服が更に硬くなっているため動きに柔らかさはないが、その分、直線的で速い。出雲は己《おのれ》の視界の隅《すみ》、追ってくる後輩《こうはい》に対して叫ぶ。
「行け佐山! お前の行くべきところへ!」
森を抜けた。眼前、距離五十メートルにいるのは白の機竜《きりゅう》。
全長三十メートルを下らぬ竜はこちらに背を向けている。出雲《いずも》は迷わず突っ込み、
「|V―Sw《ヴ ィ ズ ィ》! 第二形態!」
叫び、走り込みながら出雲は上半身を捻《ひね》った、背後へと。
手にした| 機 殻 剣 《カウリングソード》のグリップ。そこにあるボタンを握り込む。
と、V―Swの分厚い片刃《かたば 》の背が展開した。装甲板《そうこうばん》が沈み、中から線型のスラスターが出る。
同期して、V―Swの刃《やいば》も変形した。ブレード部分を構築《こうちく》していた|機 殻《カウリング》がほどけるように収納される。間からせり上がるように出てくるのは、純粋な光だ。
出雲はグリップを握る力に手を込める。
V―Swの中にあるのは6th―|G《ギア》の概念核《がいねんかく》、ヴァジュラと呼ばれるエネルギー兵器と、ヴリトラと呼ばれるエネルギー体を合成したもの。扱いは慎重でなければならない。展開攻撃はいざというときの非常手段だ。
そして今がそのときだと、出雲は解《わか》っている。
いける、そう思って出雲はグリップを強く締めた。
応えるように、V―Swのコンソールが剣の意思を告げた。
『エモノガイタゼ』
次の瞬間、まず、V―Swの背から光の爆発が起きた。
噴射《ふんしゃ》。
出雲の身体《からだ》の捻りを軸に、極厚《ごくあつ》の光刃《こうじん》が高加速で機竜《きりゅう》を狙う。
直撃《ちょくげき》。その筈《はず》だった。
高圧の刃が何かに阻《はば》まれ、轟音《ごうおん》とともに宙を弾《はじ》いた。
「……!?」
出雲は横薙《よこなぎ》に振り抜いたV―Swを支点に、自分の身を右へと旋回《せんかい》。
森の切れ目と平行に、右手へと五メートルほど跳躍《ちょうやく》した。
見る。先ほど彼が踏み込んだ場所。そこに、まだ彼の影が残っていた。
「闇渡《やみわた》りの半竜《はんりゅう》か……!」
月下《げっか 》の草原に黒い巨躯《きょく 》が立った。黒の甲殻《こうかく》と皮膚《ひ ふ 》、そして衣服に身を包んだ翼《つばさ》ある姿。
「ファーフナー!」
半竜、ファーフナーは| 機 殻 剣 《カウリングソード》を携《たずさ》えて影の中から立ち上がった。
「丁度いい。――退屈しのぎに相手を願おうか」
●
佐山《さ やま》達は、横に離れた出雲とファーフナーに振り向かない。
前へ、前へと走り抜く。その前方、距離五十メートルの位置に巨大な質量があった。
全長三十メートル、全高は七メートルを下らぬ白い機竜だ。それは今、一歩一歩を踏みしめ、こちらの走りとほぼ同速で前に出ている。
急げ。
脚《あし》を加速して、佐山《さ やま》は一息。頭上、1st―|G《ギア》の有翼《ゆうよく》部隊がこちらに急降下を掛けている。
上空に迫る影を見て、佐山は背後の風見《かざみ 》に告げた。
「上空から敵が来ている。援護《えんご 》してくれ」
「何故《なぜ》、私が……」
「皇居《こうきょ》広場ての戦闘のとき、君は空から降ってきたね? そして先ほども、あの巨大な騎士《き し 》に対して、君は空から攻撃を加えた。――風見、その姓《かばね》の通りの力を与えられているのだろう?」
佐山は上空の敵の動きを見つつ、そう言った。
その台詞《せりふ》に対する風見の声は、わずかに遅れたものだった。問う声が、確認するように、
「佐山。……解《わか》ってる? アンタね、アンタ今ね、戦闘の天辺《てっぺん》に辿り着こうとしてるんだよ? 覚悟《かくご 》はあるの? 何かを失ったり、失わせたりする覚悟が」
「君にはあるのかね?」
「私は……、敵を狙撃《そ げき》して、自害にまで追いつめたこともあるわ。アンタらとは違う。甘くないのよ、戦場ってのは」
そうか、と佐山は息を吸い、告げた。
「それだからこそ、君は相手の遺体に献花《けんか 》するのかね? それも、自分が納得《なっとく》するまで、毎日、思いを引きずって」
! という風見の気配が、背後で硬くなるのが解った。続いて彼女の声が、
「ば、馬鹿なこと言わないでよ! 私は献花なんか――」
「人狼《じんろう》に献花された菊の花。茎《くき》の上部が横《よこ》一直線に削れていた。運ぶとき、ザックから花が出るようにして抱えていけば、ジッパー部分であのような削れがつくだろう」
佐山は身を低く、一気に身体《からだ》を前へと飛ばした。そして彼は振り向かず、言葉を告げる。
「風見、――君に援護を頼む」
●
風見は脚《あし》を緩めた。奥歯を噛《か 》み、眉根《まゆね 》を詰め、足を止めた。
「く」
歯を軋《きし》ませ、それから彼女は空を見上げた。
自分の位置はファブニール改まで三十メートルというところ。脚を緩めれば、前へ行く巨竜《きょりゅう》にはもう追いつけない。
一息。そして足を止めた。
視界の中、敵の有翼兵達が空に隊列を組んだ。弓を向ける狙いは、先行する佐山だ。
風見はうつむく。下を見た視線の先、右腕の| 機 殻 槍 《カウリングランス》|G―Sp《ガ ス プ》2のコンソールが光る。
『カザミ? ゲンキ?』
表示に、ややあってから、風見《かざみ 》は目を伏せた。歯を噛《か 》む口を、強引《ごういん》に開き、
「どうして男の子ってのは、格好《かっこう》つけたがるのかしらね……」
『カッコウイイカラ』
「――ごもっともな意見をありがと」
風見は吐息で応え、顔を上げた。
眉尻《まゆじり》は正しい形に上がっており、目には力がある。
空を見上げた。そこには敵群がいる。だが、風見は空を舞う翼《つばさ》の、更にその向こうを見る。
月。
青白い円弧《えんこ 》の光を風見は仰ぐ。口を開き、
「|X―Wi《エ ク シ ヴ イ》!」
叫びに、風見の背で音がした。
金属音。それと同時に、風見の腕時計に文字が走る。
・――光とは力である。
文字に答えるように、風見が背負うバックパックの背から、光が生《は 》えた。
はばたきの音。
空気を飛沫《しぶ》く鳴き声とともに生まれたのは、黄色い光の翼だ。その初めは放射で、次の一瞬《いっしゅん》に収束《しゅうそく》固定。ニメートルという効果範囲を持つ二枚の鋭角な光翼《こうよく》が、天に向かって突き立った。
それは光のままに風を切り、羽根としての光《ひかり》放射を生んで風を吸う。
光の全てが力の緊張《きんちょう》を漲《みなぎ》らせ、高音を放った。
月光を浴びることで、光の翼は自らの持つ音を更に高鳴らせ、可聴《かちょう》範囲を超えさせる。
風が生まれたその背後。
「――!」
風見は背に力を込めた。
肩胛骨《けんこうこつ》の圧迫に、背部バックパックのX―Wiは己《おのれ》の仕事を悟る。
それは、はばたくこと。
翼が大気を打った。
まるで爆発音のような音をたて、風見の背で空気が吠《ほ 》えた。
大跳躍《だいちょうやく》。
飛ぶと言うよりも、打ち出されるような軌道で風見は宙に身を躍《おど》らせた。
「は」
と息をついた瞬間には、風見の視界は空の中。月の光に至る。
眼下、敵の有翼《ゆうよく》隊がこちらを見失って戸惑《と まど》っている。
風見《かざみ 》は背の翼《つばさ》が展開していることを確認。そして空中で上下に身を回した。頭を下に、地上へと|G―Sp《ガ ス プ》2を向けると、左手首の細長い盾を外す。
動きは一瞬《いっしゅん》。風見は穂先《ほ さき》の下面に盾を添えて接続。盾が片刃《かたば 》を包み隠すと同時、
「G―Sp2! 第二形態まで持って行って!」
声とともに、| 機 殻 槍 《カウリングランス》が己《おのれ》を変形した。
まず歪曲《わいきょく》する柄《え 》の背がせり上がる。次に穂先の根本《ね もと》、コンソールの左からグリップが突き出すと同時、石突きの|機 殻《カウリング》が広がり、放熱口を突き出した。
そして最後に、穂先の背の機殻と下部に接続された盾の間、竜の口のような割れ目の奥から白い光が生まれた。それは目に見える光のざわめき、|機 殻《カウリング》の中にあるG―Sp2の本体だ。
槍は大型の| 長 銃 《ちょうじゅう》となる。
「10th―|G《ギア》の神槍《しんそう》ガングニール。アンタ達の弓矢に比べても、ちょっとしたものよ」
歪曲する柄を右脇に挟み、風見はグリップを左手で握り込む。
トリガー部分には指を当てておく。もはや、敵は明確なのだから。
倒立《とうりつ》姿勢の視界の下側、眼下に月が見えた。
笑みが出る。
その笑みのまま、風見ははばたいた。真下へと。
●
新庄《しんじょう》はファブニール改に答えなかった。
身体《からだ》が震えている。脚《あし》が震えている。歯の根も、わずかに合わない。
だが、新庄は動いた。ゆっくりと、ゆっくりと、身を沈め、自分の足下に手を伸ばす。
そこに| 機 殻 杖 《カウリングストック》|Ex―St《 エ グ ジ ス ト》が落ちていた。
見たところ、曲がりも折れもしていない。触れてみると、金属の冷たさを感じる。
その冷たさを頼るように、新庄はEx―Stを抱き上げた。
立ち上がる。そして力無くEx―Stを構える。それが答え。確かな、己《おのれ》の答えだ。
すると、正面から声がした。
「何故《なぜ》だい?」
歩みを止めたファブニール改の問いかけ。静かな口調に、新庄は首を振った。
「……貴方《あなた》達はただ間違っていると、そう思うんだ」
だから、
「そんな風に間違っている人に、ボクは、負けを認めない」
何を言っているんだろう、と、新庄は思う。
もはや逃げ場はない。竜の一撃《いちげき》は、手加減《て かげん》しても自分を殺すのに充分なほどだ。だが、
……ヤケになってるわけじゃない。
自分の言ったことに、意味を感じている。
対するファブニール改が身を低くした。そうか、と言いつつも、
「間違っているとは心外《しんがい》だね。私らは、自分達のものを取り戻そうとしているだけだが?」
口の中、主砲が覗《のぞ》いた。既《すで》に円《まる》い砲口《ほうこう》の奥には光がある。
ファブニール改が数を告げた。
「五」
数の意味を知り、しかし新庄はもはや逃げない。脚を肩幅に広げ、竜と向き合う。
思い出されるのは、かつての記憶《き おく》。人狼《じんろう》が最後に見せた表情や、仲間達の遺体《い たい》。
そして、一人の少年のこと。
「ボクはね……」
新庄はつぶやいた。
「本当に間違っている人を知っている。他人を攻撃して生きていく人を」
新庄は、自分に見せつけられた彼の背を思い出す。戦うための姿勢を。でも、
「その人は、貴方達とは違う。その人は、……自分が間違っていると知っていて、だけど、それだからこそ、そのことを恐れているんだ。自分を潰《つぶ》してもいいくらいに」
何故か、身体から余分な力が抜けていた。
「四」
言う。
「その人は、間違いたいと思ってる。貴方《あなた》達と違う。正しくあれたらと思っているけど、正しくありたいと思っていない。そして彼は言うんだ。自分自身と比較して、ボクのことを……」
一息。
「君は正しい、と」
それは記憶《き おく》の底に根を張った言葉。
「三」
彼のことと、自分のことを、新庄《しんじょう》は思った。
「貴方達は間違ってる。間違って、そして間違っている。彼と違う。正しく間違おうとしていない。だからボクは、貴方達に負けを認めない!」
声が漏れていた。ああ、と。
「二」
選べ。指に力を込めることを。
「ボクは彼の間違いだけを認めるよ! そして……」
戦おうと、新庄は思った。彼が戦場を望んだように。自分もそれを望もう。
彼と共にいるために。彼の背だけを見ずにすむように。
もはや選ぶのではなく、与えられるのでもなく、自ら望もう、ここにいることを。
理由は充分にある。彼と正逆《せいぎゃく》であるため、
「正しいままに、力を振るうために……!!」
「一」
告げられた数字を合図に、引き金を力|任《まか》せに絞《しぼ》り上げた。
こちらの杖が光を飛ばしたと同時。ファブニール改が叫ぶ。
「零《ゼロ》! ――無駄《む だ 》なことを!」
機竜《きりゅう》の主砲が光を放った。
無音とともに巨大な光が飛来する。質量という重さを持った文字の光に、新庄の放った光の一線が直撃《ちょくげき》した。それは野太《の ぶと》い光の中央を貫《つらぬ》き、穴を穿《うが》った。
快音。
竜の射撃《しゃげき》の先端が膨《ふく》れ、傘《かさ》のように広がった。破裂《は れつ》する。
竜の攻撃は砕かれた。が、新庄に出来たのはそこまでだった。
機竜の咆哮《ほうこう》が更に天地に響《ひび》き渡ったのだ。二発目の砲撃《ほうげき》として。
「……!」
後追いしてきた竜光《りゅうこう》の二撃《に げき》目は、新庄の一撃を飲み込み、一瞬《いっしゅん》で倍加した。
新庄は見る。ファブニール改の眼前、光が拡大し、そのままこちらに来るのを。
高《こう》質量の巨大な光がこちらに、わずかな弧《こ 》を描いて走り出す。
力の打つ先にいる新庄《しんじょう》は、しかし、ひるまなかった。奥歯を噛《か 》み、真っ正面を見る。
自分を消そうとする力の固まり。その向こうにいる機竜《きりゅう》の影を。
「――!」
誰かの名前を叫んだ。
すると、目の前にその人が現れた。
●
新庄の視界の中、自分と光の間に割り込むように、その人の背が入っていた。
彼は| 懐 《ふところ》からファブニール改の方へと何かを投じていた。それは四角いケースのようなもの。
次の瞬間《しゅんかん》、彼はゆっくりとこちらに振り向く。
肩に獏《ばく》を乗せた、鋭い目の少年。竜の光が迫る轟音《ごうおん》の中、彼の口がこう動いた。
「会いたかったよ。新庄君」
そして彼の腕が自分を抱き寄せ、抱き留め、抱きしめた。
新庄はもはやためらいなく彼の身体《からだ》に腕を回し、抱きついた。
直後。自分達とファブニール改の間。その空間で巨大な爆発が生じた。
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第二十八章
『二人の認証』
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それはとても大事なもの
どうしようもなく
とてつもなく――
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●
佐山《さ やま》が投じたのはノートパソコン用の内蔵ハードディスクだった。
表面に黒い塗料で書かれたのはたった一言。
ちいきげんていばくだん 。
強く投じられたハードディスクは、当然のように速く飛んだ。それは佐山達よりもファブニール改側に近い空間で、竜の放った光と激突《げきとつ》する。
地上五メートル、ファブニール改の眼前二十メートルの位置で、爆発が生じた。
初めは光。
その光に突き飛ばされるように、草原が波打った。
そして全ての破裂《は れつ》が発生する。
衝撃《しょうげき》と破砕《は さい》により、夜が割れて音が砕かれた。
光は力。音は圧力。そして風は全てを吹き飛ばして洗い流す。
爆発中央部から生まれた力は、半径五十メートルの効果範囲に破滅《は めつ》を確定。
光は大気を焼き、しかし押し上げながら、加速して展開する。風に、大地に、そして空浮かぶ雲に全ての残像《ざんぞう》を叩きつけるために。
ファブニール改の形が白い光に飲まれて消えた。
轟音《ごうおん》。
しかし本当の音は後からついてくる。
白く泡立《あわだ 》つような響き。爆発空間内を焼く音は風とともに宙を走り、空へと舞い上がった。音と風は高速に、千切《ち ぎ 》った草の端切《は ぎ 》れと巻き踊る。
月光に浮かぶ雲は霧散《む さん》し、空を昇る音と風は概念《がいねん》空間の内壁に当たって低音を立てた。
全てが空へと抜け、残響《ざんきょう》ががらんと広がっていく。
●
森の中、木々を揺らして吹き上がる土砂《どしゃ》と風の中、UCATも1st―|G《ギア》も区別無く、皆が伏せ、破壊の行方《ゆくえ》を見守った。
大樹《おおき 》とシビュレは、轟音の中、隣《となり》にいた大城《おおしろ》・一夫《かずお 》が一歩を前に踏み出すのを見る。
大城は、巻く風の中、両の手で何かを支え掴《つか》むようにして、
「美代子《み よ こ 》――!!」
そして、
「佐知子《さ ち こ 》も江美《え み 》も幸《さち》もナナエもハナコもジェーンもエリーも解決少女ラングレンも――!!」
「そっちへ行ったら駄目《だ め 》です大城さん! 皆もう還《かえ》ってこないんだから――!」
大城を大樹とシビュレが押さえつけた。大城は空に消えていく音に、泣きながら伏せた。
「大変だな」
と風の中を言うのは、後からやってきていた至《いたる》だ。上から降る草の端切《は ぎ 》れを払いながら、
「まあ、オヤジも寂しかったんだろう。美代子《み よ こ 》というのは亡くなった母の名だ……」
「そうなんですか。だからあんなにいつも深夜まで……」
シビュレの言葉に至は、ああ、と言うと、吐息を一つ。そして真剣な顔で、
「――だが許さん」
●
森の中、攻撃を交えていたジークフリートとブレンヒルトは、その爆発を光と風という形で受け取った。
森の木々が揺れ動き、光が真横から自分達を照らす。
ブレンヒルトは一瞬《いっしゅん》そちらを、草原の方を見た。
何かがあった。それは解《わか》る。だが、優先すべきは目の前の敵だ。
視線を戻し、木々の間を並び走り抜ける長身の姿を追う。
ジークフリート。
彼に対し、流れていく木々に気を取られていくことなく、ブレンヒルトは鎌《かま》を走らせた。
空間切断。開いた青白い光の向こうから青白い弓と矢が突き出した。
弓矢《ゆみや 》を携《たずさ》えるのは身長ニメートルの光の弓兵《きゅうへい》。絞《しぼ》り放たれた一発は直後に複数の矢となり、標的《ひょうてき》へと襲いかかる。光の矢は木々の間を縫《ぬ 》い、風を生み、高速に飛翔《ひしょう》。
対するジークフリートは両の手に紙を広げた。メモのような白い四辺形には文字が一つ。
|Schild《》 と。そう書かれた紙は宙に投じられるとジークフリートの周囲に固定。そのまま矢の直撃《ちょくげき》を受けた。
高音が連続で炸裂《さくれつ》し、ジークフリートの姿が光にまみれる。
だが、彼は無傷だ。光を振り払い、走り続けている。
対するブレンヒルトは追い続け、そして思い続ける。
何故《なぜ》、と。
それはこの六十年間に繰り返してきた問いかけ。この数日で加速した問いかけ。本人に問わねば答えの出ぬ問いかけだ。
……何故。
全てはそこから始まり、そこで最後になる。が、ブレンヒルトはもはや口で問わない。
何故、と鎌を走らせ。
何故、と英霊《えいれい》を生み。
何故、と攻撃を作り。
何故、と思いを募《つの》る。
何故《なぜ》なのか、何故そうなったのか、何故そうしたのか、何故こうなのか、何故、何故か。
思いが動きを作り、問い立てる加速とともに攻撃は急を増す。
走り、跳《と 》び、近づき、退《しりぞ》き、何故と問いかけ力をぶつける。
飛べぬ小鳥のことを思った。傷ついた鳥のことを思った。
学校のことを思った。故郷《こきょう》のことを思った。
大事な人のことを、自分自身のことを、頭を撫《な 》でられたことを、失ったことを。
全てを思い、何故と問う。
森を出た。
風吹きすさぶ月下《げっか 》の草原に出て、なお二つの影は走る。
何故。
うつむき、鎌《かま》を振る。
ブレンヒルトは思う。全てを、全てに対しての問いを。何故、と。
何故、答えは出ないのか、と。そして、答えを出してくれるはずだった入達のことを、思い出す。誰も彼も、鳥も森も風や空も。
「何故、滅びねばならなかったの……!」
ブレンヒルトは叫び、鎌を振る。
その脚《あし》は、草原を渡り、次の森へと飛び込んでいた。
●
何故、自分はこんなところにいるのかと、佐山《さ やま》は思った。
視覚にあるのは五十メートル四方の広い石造りの広間だ。天井までの高さは二十メートルほどある。まるで何かの格納庫《かくのうこ 》のようだと佐山は思う。しかしここはどこだろう、とも。
先ほど、新庄《しんじょう》を抱きかかえ、爆風に吹き飛ばされたのは憶《おぼ》えている。
聡明《そうめい》な自分としては、すぐに立ち上がり、新庄を抱き起こして感謝の言葉を頂く筈《はず》だった。
そして腕の中に抱いた新庄を見ようとして、佐山は、自分の身体《からだ》が無いことに気づく。
視覚だけ。ここは、過去だ。
見れば広間はその壁を大きく砕かれ、揺れていた。断続的な、縦揺《たてゆ 》れの振動に。
そんな波打つ揺れの中、中央では戦闘が行われていた。
戦闘の主役は、白の機竜《きりゅう》ファブニールと、一人の青年だ。
舞台は広間の中央にある石造りの祭壇《さいだん》。白い石で出来た壇の上、やはり同じ色で石塊《せきかい》が散らばっていた。 その石塊の下に、黒い衣装をまとった白髪《しらが 》の老人が倒れている。彼の頭の近くに金の飾りがこぼれていた。しかし、老人は、もはや動かない。
動くものは、青年とファブニールだけだ。
そして今、白の祭壇に乗りかかるようにして、ファブニールは上半身を振り抜いていた。
爪のある右の前足を、前へと。
壇《だん》の上、機竜《きりゅう》の爪が向かう先、一人の青年がいる。背を向けた姿は黒衣《こくい 》に身を包み、ニメートル近い長剣《ちょうけん》を構えたもの。
ジークフリートだ。
彼は剣を右手下段から上へと振り抜こうとしていた。
その姿勢では、ファブニールの攻撃をかわすことは出来ない。
相打ち覚悟《かくご 》で| 懐 《ふところ》に入り、喉《のど》を狙う気だ。
「――!」
佐山《さ やま》には、ジークフリートの身体《からだ》がファブニールの爪に当たったように見えた。
だが、違った。
ジークフリートの身体が一歩を退《しりぞ》いた。それは回避運動ではない。押しのけられた動き。
下がるジークフリートの胸前、佐山からは今まで見えなかった位置に、一人の女性が立っていた。朱色の衣服に身を包んだ女性は、グートルーネだ。
ジークフリートの身体を伝い、床に倒れていく彼女の身体。その前面に巨大な爪痕《つめあと》が一本残っている。まるで大剣《たいけん》の一撃を受けたような痕《あと》が。
グートルーネの身体が、壇上《だんじょう》に倒れた。横倒しになり、動かない。
佐山の視覚は思う。どういうことだ、と。
その疑問に答えるように、叫び声がした。
機竜だ。
白の機竜がいきなり、何かに気づいたようにその喉を天井に向け、吠《ほ 》えた。
「が」
という音。驚きとも嘆《なげ》きとも取れる声が広間の全域に響《ひび》き渡った。広間が震える。初めからあった振動に加えて、吠声《ほうせい》による鳴動《めいどう》が、石造りの結合を緩めた。
天井が落ちる、
その動きの下で、ジークフリートが新たな動きを作った。
大剣を振り抜き、巨竜《きょりゅう》の喉を一直線に貫《つらぬ》いたのだ。
一撃。
斬裂《ざんれつ》の音は全て振動に掻《か 》き消された。
後に残るのはやはり動きのみ。
ファブニールの喉を構成する逆鱗《げきりん》の装甲板《そうこうばん》と駆動《く どう》部が砕け散る。破砕《は さい》の痕から覗《のぞ》けるのはファブニールの心臓部。喉の奥に仕掛けられた出力炉だ。
そこに剣が半《なか》ばまで突き刺さっていた。
もはや、出力炉は動かない。
「――――」
周囲の震動の中、ジークフリートが息を詰めた声で、剣を引き抜いた。
剣身《けんしん》が露《あら》わになるのと連動するように、ファブニールの身体《からだ》から力が失われていく。
振り抜いた鉄の前脚《まえあし》が落ち、顎《あご》が落ち、身体が壇《だん》を砕きながら床へこぼれ落ちていく。
天井の石がまた落ちた。
振動が続く。
そして、ジークフリートは膝《ひざ》をついた。
剣を横に置き、自分の足下、倒れ込んだグートルーネに手を掛ける。
彼は彼女を抱き寄せ、抱きかかえる。
そのときだ。彼の傍《かたわ》ら、もはや床に伏したファブニールが、声を放った。
「終わった、か?」
ジークフリートはグートルーネの腹に手を当てつつ、問う。
「……意識が、戻ったのか?」
「ああ、随分《ずいぶん》と迷惑《めいわく》を掛けたな、ジークフリート。聖剣《せいけん》グラムは役目を果たしたか」
ファブニールの主視覚素子《しゅし かくそ し 》が、赤い光をもってジークフリートの剣、グラムを見て、その後にジークフリートへ向いた。赤に染まった手をグートルーネから離し、眺《なが》める彼を。
手を染めた色に顔を歪めていくジークフリート。そんな彼に、ファブニールは言う。
「……王が世界の閉鎖《へいさ 》を進め、世界はもはや滅びに傾いていた。こうするしかなかったと、私はそう思っているよ。暴走する概念《がいねん》核を私の炉で一度|中和《ちゅうわ》しようとして……」
「飲み込んだ概念核に、拒絶反応を起こした。暴走中ゆえ、出力が強すぎたのか?」
ファブニールは頷《うなず》いた。
ジークフリートは吐息。腕の中のグートルーネを見る。
「私をかばって……」
「ジークフリート、姫を連れて行ってくれるか? 君達の|G《ギア》へ、今なら救《たす》かるかもしれない」
ジークフリートは頷こうとした。
ただ、その頬《ほお》に触れるものがあった。
佐山《さ やま》は視覚で見る。彼に抱かれたグートルーネが血に濡《ぬ 》れた手を伸ばしているのを。
「駄目《だ め 》」
とグートルーネは言った。彼女は、床から来る震動に時折|苦《にが》い表情を作りながら、
「ねえ、ジークフリート、貴方《あなた》達のGは、私達を受け入れてくれる?」
彼は頷き、そして、彼女は笑みを見せた。
「ならば私は、そのことを皆に伝えるわ。――それが私の務めだから。貴方は先に行って。グラムを持って、私達が住むことの出来る土地を造って」
しかし、とジークフリートは言った。
直後、ファブニールが体を起こした。
揺れ、力|無《な 》く、それでいて機竜《きりゅう》はジークフリートを見た。
「行ってくれ。君が我々の力を奪い去らねば、この世界はどこにも残らなくなる。王の手引きにより、今、この1st―|G《ギア》は永遠に縮小|閉鎖《へいさ 》しているのだ。今はもう概念《がいねん》が正常化しているが、既《すで》に世界はマイナスに傾き、停まらない。世界自体が終わっているんだ」
ファブニールは顔を祭壇《さいだん》の上に向けた。そこに、石塊《せきかい》に埋まるように倒れた老人の姿がある。機竜は彼の身体《からだ》を見て、わずかにうなだれた。
「ここは、我らの持ち場だ。……さあ、行け。私は最後まで王を見届ける。逆臣《ぎゃくしん》として」
ジークフリートは頷《うなず》き、腕の中のグートルーネを見た。
朱色の髪を持った女性は、笑みを見せたまま、目を伏せた。
ジークフリートは彼女の唇に自分の唇を重ねる。
数秒。
それだけの時間を持って離れたとき、グートルーネは目を開けて頷いた。そして自ら立ち上がると、祭壇に腰を預けるように、身を固定。
「待っていて、王城の奥に門 があるから、その向こうで」
行き先は貴方《あなた》の大事な場所に設定してね、とグートルーネは笑う。
「そこで待っていてね。きっとまた、皆で一緒にいられるようになると思うから」
ジークフリートは、立ち上がり、頷いた。
見れば、白の機竜の目から光が消えていた。
ジークフリートは会釈《えしゃく》を一つで機竜に別れをすます。
そして彼はグラムを携《たずさ》え、グートルーネに背を向けた。
「告げてくれ。……私が1st―Gを滅ぼしたのだと。王と賢者《けんじゃ》と、そして君は1st―Gのために勇敢《ゆうかん》に戦ったが、破れたと」
「嘘《うそ》。……父がこの世界を滅ぼしたのよ? 何も傷つけたくないがために」
「だがそれを告げたら、君達のGの住人は主《あるじ》に裏切られたことになる」
ジークフリートは言った。
「グートルーネ、君が王族としての役目を果たすならば、私は侵略《しんりゃく》者としての役目を果たす。君達は私に敗北し、私はグラムを持って逃げた。……敗北を認める者には1st―Gの居留地《きょりゅうち》を用意しよう。そして認めぬ者は私を恨み、追ってくるといい」
「それによって、1st―Gの住人のほとんどが、避難《ひ なん》出来る、と?」
苦笑が響《ひび》いた。
「行って、ジークフリート。馬鹿な侵略者、偽善《ぎ ぜん》の異邦人《い ほうじん》よ。……大嫌いだったわ、私」
私もだ、と彼は答え、歩き出した。
歩きはやがて走りとなり、黒衣《こくい 》の姿は広間から出る階段へと消える。
砕けていく広間。その中で、一息とともにグートルーネが身体を祭壇から離し、歩き出す。
壇上《だんじょう》に倒れた王の顔に、手を当てる。痩《や 》せた顔は、しかし眠ったように目を伏せていた。
そしてグートルーネは左手を腹に当て、壇を降りていく。
倒れ伏す巨竜《きょりゅう》の身体《からだ》に触れながら、広間から出ていこうと脚《あし》を動かす。
彼女を見る佐山《さ やま》は、耳に歌を聴いた。
聞き覚えのある歌。聖歌《せいか 》、清しこの夜だ。
彼女の背が去っていく。歩き、遠ざかっていく。
ゆっくりと天井がたわみ、崩落《ほうらく》した。
●
佐山《さ やま》は過去から目覚めた。
「…………」
一瞬《いっしゅん》、自分がどこにいるのか解《わか》らなかった。
ここは浅く森の中に入ったところ、月光が降る小さな空《あ 》き地だ。森の木々が風に揺れており、熱い空気が立ち込めている。先ほどの爆発から時間はさほど経《た》っていないと佐山は判断。
爆風に吹き飛ばされた自分の姿勢は、草群《くさむら》に横たわり、誰かを抱きしめている。
視界の中央、こちらの左腕の中から、見知った顔がこちらを見上げ、覗《のぞ》き込んでいた。
新庄《しんじょう》だ。
彼女の表情は、わずかに眉尻《まゆじり》を下げたもので、黒の瞳《ひとみ》には戸惑《と まど》いが見て取れる。
彼女は、有《あ 》り難《がと》う、と何かに対して礼を言った後で、
「ね、ねえ、今の……」
彼女も見たのだ。そのことに頷《うなず》けば、獏《ばく》が彼女の肩の上に乗っていた。佐山は、見えた過去の映像に対してもう一度頷いてみせ、
「あれが、事実だ」
つぶやき、佐山は背後に目を向けた。
そこに、先ほどの過去で見たものがあった。地面に突き立つ、全長ニメートル近い大剣《たいけん》。
「あの記憶《き おく》は、君のものか。……聖剣《せいけん》グラム」
呼びかけに対し、剣の表面を細い光が走った。脈のように、生きているように。
そして、声が一つ響《ひび》いた。
『――そう、我はグラム。ただのグラムだ。聖剣と呼ばれるようなことは何一つしていない』
一拍の間を置き、
『当年とって|Low《ロ ウ》―|G《ギア》年齢六十|歳《さい》、そのほとんどを寝ていたようではあるが』
●
月光を浴び、風に揺れる森の中。崖に近い位置の木の上に、二つの人影があった。
それは二人の少女の影だ。
一人、太い枝の上で足を組んで寝ているのは、黒髪《くろかみ》を頭の後ろで結った長身の少女。黒いサマーコートの下は厚手の黒シャツにブラウンのスラックスという様相《ようそう》だ。
彼女の下の枝に、足を揃《そろ》えて座るのはロングヘアの少女。黒いストールを肩から掛けており、わずかに揺れる脚《あし》は黒のロングスカートでほとんど隠れている。
上にいる少女が、森の方を見る。深い闇の中で弾《はじ》ける火花や爆発、そして音を聞き、
「さて……、どっちが勝つかな。どう思う? 詩乃《し の 》」
詩乃と呼ばれた少女は、首をひねる。上を、相手を見て苦笑。
「解《わか》らないですよ、それは。……気になります? 命刻《みこく》|義姉《ねえ》さん」
「いや、別に。どうせハジ義父《とう》さんには結果は解ってることだろうしね。情報屋ハジには解らないことはない、そういうことだよ」
「そうですね。でも……、始まったんですね、|全 竜 交 渉《レヴァイアサンロード》」
爆発音が聞こえ、詩乃が、うわ、と声を挙げる。
「派手《は で 》です……」
「どうせ市街派 もこれが最後だ。ファブニール改は寿命が近い。……六十年、長いよな」
そうですね、と頷《うなず》いた詩乃の脚が揺れている。命刻は、木の幹を伝わる揺れに、目を伏せた。
「詩乃、またあの歌か」
「うん。ほら、また爆発音してますよね? 銃撃《じゅうげき》の音色《ね いろ》とかを聞いていると、自分を見失ってしまいそうな気がして」
「こういう現場に来れば来るほど、場違いな音色が頭に響《ひび》く」
うん、と詩乃は頷き、心で唱《うた》える歌詞の一部をつぶやいた。
「|All's asleep, one sole light《全 て が 澄 み 安 ら か な る 中》, |Just the faithful and holy pair《誠 実 な る 二 人 の 聖 者 が》――――」
目を伏せたまま、命刻は頷いた。腕組みを深くして、
「清しこの夜。……聖なる御子《み こ 》は今宵《こよい》生まれ、か」
●
月光の下。佐山《さ やま》は新庄《しんじょう》を抱きながら立ち上がり、グラムの柄《つか》を右手に取った。引き抜くと、
「軽い……」
『内部はほぼ中空《ちゅうくう》。ただ、内面構造を文字設定により七千倍まで面積拡張。そのほとんどに硬化と封印《ふういん》用の文字が書き込まれている』
成程《なるほど》、と佐山は右腕一本でグラムを持ち上げ、振ってみた。
周囲の熱を切って、笛のような音が鳴る。重量的には均等《きんとう》配分約三キロといった感覚だ。軽い、と先ほどつぶやいたが、違うな、と思う。バランスがいい。こちらの手の中で、剣としての重心が変わっていくような感覚。どのようにも振ることの出来る使い勝手の良さを感じる。
佐山《さ やま》はグラムを右手に携《たずさ》え、左腕に抱く新庄《しんじょう》に視線を向けた。
すると、新庄がこちらを見ていた。目が合うと彼女は慌《あわ》てて視線を下にして、
「グ、グラム……、回収《かいしゅう》出来たね」
「何故《なぜ》、目を背《そむ》けるのかね?」
「え? あ、いや、その……、さっき、ボクがファブニール改に言ったこと、聞いてた?」
佐山は正直に答えた。
「いや。全く」
「ああ、佐山君がそういうってことは、やっぱ聞こえてたんだ……」
「……新庄君、君は私のことを誤解しているようだが」
佐山が首を傾《かし》げると、右手の中から声がした。
『佐山に、新庄?』
グラムだ。低い声に問われて佐山は眉を動かす。新庄も視線を下げた。肩の獏《ばく》も、だ。
が、グラムはこちらが何かを言うより早く、自分の言葉を作った。
『この世は、……やはり|Low《ロ ウ》―|G《ギア》の治めるものとなっているのだな』
佐山は頷《うなず》く。グラムが寝ていたというのは事実らしい。
ならば現状に対する共通|認識《にんしき》が必要だ。その判断の上で、佐山は口を開く。
「――そうだ、現在、我々は各Gの生き残りとの戦後交渉を開始しつつある」
成程《なるほど》、と告げたグラムは、こう言った。
『そうか、十九年を眠っている間に、世界は謝罪を求めるようになったか』
「十九年……? 六十年の間違いではないのか? こちらのGで眠りにつき……」
『それについては、答えられぬ。前に目覚めさせた者との約束である』
グラムは言った。
『佐山、そして新庄、と言ったな。……君らはこれから、何を望む? 己《おのれ》の知らぬ過去か?』
佐山は、グラムの問いに左胸がわずかに軋《きし》むのを感じた。
|全 竜 交 渉《レヴァイアサンロード》を続けていけば、この痛みを作る過去と向き合っていくことになるだろう。
だが、佐山は言った。
「私が望むのは、――痛みだ。痛みの意味だ」
『それは、短いながらも私の主《あるじ》であったジークフリートが行った悪を始まりとし……、君らの祖先が行った全てのGの終わりを見て、なおそれを否定しないということか?』
そういうことだろうな、と佐山は心の中で頷く。自分の知らぬ身内の過去を、痛みとして知らされて、しかし全てを知っていかねばならない。何故ならば、
……そこに私が本気になれる場所がある。
他人に許可を得るでもなく、その場を望む。だから佐山は頷いた。
「そうだ。否定も拒否もしない。私はそれを望む」
『そうか、ならば、佐山《さ やま》の姓《かばね》を持つ少年よ』
わずかな間を持ち、
『少年よ。まだ何も知らず、語られもしない無知の固まりよ。覚悟《かくご 》しておけ、もしここで私を求めるならば、この先、己《おのれ》さえ疑うこととなると。大罪人《たいざいにん》の子孫《し そん》達という認識を受けると』
「……大罪人?」
『その意味は己で欲し、得るがいい』
「無責任な言葉だね」
『残酷《ざんこく》ですら自ら求めれば救済となる。ゆえに我は答えを押しつけぬ。それが文字を概念《がいねん》とする1st―|G《ギア》の我が信条。文字とは、そこにあるものを己の心に置きたいと願い生まれたもの。――同じだ。心に欲し、形を求めるならば行動せよ』
「今宵《こよい》、勝利すれば、痛みの答えが出ると思うかね?」
ああ、とグラムは頷《うなず》いた。
『1st―Gに対する君の痛みは無くなるだろう。だが』
「だが?」
『見えるのは一端《いったん》。しかもそれが始まりだ。覚悟せよ。入り口に立ったならば、もはや全ての終わりを見るまで退《しりぞ》くことは出来ぬ。我らから始まり、そして――』
一息。
『その少女にて全て終わるであろう歴史の展開を見ることになる。全ての終わりの歴史。終わりの年代記《クロニクル》を』
「新庄《しんじょう》君が――、何故《なぜ》?」
『彼女が、全てを繋《つな》ぐ鍵《かぎ》になるからだ。……その理由は、戦い続ける限り、得られるだろう』
新庄が息を飲んだのが、抱いた腕に伝わってきた。
それに同調するように、佐山は、自分も息を飲んだことを悟る。
『どうする少年。――それでも望むか? 我と共に1st―Gの痛みを切り裂くことを! 君が本気で望むならば、私は君の聖剣《せいけん》となろう!』
言葉と同時。佐山の視界は戦場の動きを見た。
森の向こう。草原の中央。風によって、陽炎《かげろう》が一気に晴れたのだ。
大気の揺れが消えた中、巨大な影が存在した。
「あれは――」
ファブニール改だ。
表面武装を失い、しかし主装甲板《しゅそうこうばん》などは全くの無傷で白の機竜《きりゅう》が立っている。身体《からだ》中の放熱器を全開しているのか、身の至るところから蒸気や陽炎が噴《ふ 》き出していた。
白い機竜は戦闘のための身支度《み じ たく》を整えつつある。防護シャッターの開いた赤い目はまっすぐにこちらを見ていた。おそらく、右手のグラムも目に入っている。
成程《なるほど》、と佐山《さ やま》は思う。あれが私の第一の痛みの相手、本気の対象か、と。
だから佐山はロを開いた。腕の中にいる少女に対し、口を開く。
「新庄《しんじょう》君」
一息。祖父の言葉を思い出し、こう告げた。
「私は、悪役になろうと思う……」
●
新庄は佐山の腕の中で、顔を上げた。
視線の先、彼の鋭い目が、わずかに細められ、こちらを見下ろしている。
彼の言葉の内容を確認するために、新庄は問い返した。
「それは……、ジークフリートさんみたいに?」
問いに返ってきたのは無言だ。彼は何も言わず、ただ、こちらを見ている。
鼓動《こ どう》が一つ鳴って、新庄は身を震わせた。
「どうしても、そうなの?」
彼はそれを望んでいる。そのことが解《わか》っている。先ほど自分がファブニール改に告げたことは確かなことだ。だが、面と向かって言われた台詞《せりふ》には、言葉が生まれた。
「佐山君が全ての罪をかぶっていくのは、……嫌だよ」
「だが、間違っている私は、そうしたい」
「でも……!」
と声を挙げた新庄のウエストを、佐山が軽く叩く。
落ち着け、と、そう言われているようで、新庄は赤面した。
新庄は佐山を見上げる。視線を合わせる。と、彼はやや迷ったように、目を背《そむ》けた。
初めて見る佐山の仕草《し ぐさ》に、新庄が軽い戸惑《と まど》いを感じ、首を傾《かし》げたときだ。
彼は、こう告げた。
「ならば、……私と共にいてくれないだろうか。新庄君」
新庄は、目の前にいる少年の言葉に、反応出来なかった。
言っている意味は解る。単に、彼の言葉をもっと聞きたくて、確かめたいと思った。
だから、問うた。
「……どういうこと?」
問うと、佐山はわずかに眉をひそめ、こちらを見た。
「君は正しい。そして、私は間違っている。だから、私は君と共にいたい」
「…………」
新庄は言葉を失った。その身体《からだ》を、佐山がゆっくりと解放する。
わずかな距離を取った後、佐山が、黒い手甲《て こう》を着けた左手をこちらに伸ばしてくる。
もはや彼の言葉はない。
次は、自分が答える番だ。彼の遠回しな物言いに、自分は率直《そっちょく》に答えよう。そう思い、新庄《しんじょう》は笑みを顔に得ると、彼の手を握り返した。
「ボクも……」
頷《うなず》き、簡潔《かんけつ》に答えた。
「ボクもだよ!」
そして彼女と彼は同時に相手を見る。草原の中央にて、今まさに身構えた白の機竜《きりゅう》を。
●
一方、ファブニール改は土を剥《む 》き出しにした大地の中で全感覚を働かせていた。
全身に違和《い わ 》感《かん》がある。予感とも、危険信号とも取れる違和感だ。
視覚、機械としての受像を受け取る際、自分とファブニール改の間にずれを感じる。
時間とともに進行しつつある、終焉《しゅうえん》のずれ。
そのずれが、意識差のようなものを作る。
先ほどの爆風のダメージに、身体《からだ》は耐えた。だが、意識が揺れ始めていた。
急いでくれ。
ハーゲンはそう思う。
駆動《く どう》はもはや自分で行っていない。姿勢|制御《せいぎょ》も、視覚《し かく》補正も、全てファブニール改に記録させたかつての自分の動きと記憶《き おく》をなぞっているだけだ。
視界の中央。正面。森の中に空《あ 》き地があり、そこに二つの人影が見えた。
白い衣装に身を包んだ少年と少女。少年は少女を横に、左手にグラムを持ち替えた。
そして少女は、近くに落ちていた杖を拾い、右腕に携《たずさ》えた。
彼らが全ての決着を望む者か。
少女一人では無かったのだな、答えを出そうとする者は。
……勝ちたいねえ。
ハーゲンは心の中で頷《うなず》いた。そして急ぎ、ファブニール改の動作系に自分の意志を介入させていく。かつての自分の記憶と記録から、あらゆる動作の最適化をやり直す。
自分が望むとき、この白い巨躯《きょく 》が最大効果で動作出来るように。
冷却系《れいきゃくけい》全開。動作駆動部の潤滑圧《じゅんかつあつ》をフリーに移行。
全感覚|素子《そ し 》を展開し、神経系と直接接続。
稼働出力炉、武装出力炉の出力を完全分割。
そして、全|砲門《ほうもん》開放。
予想動作時間は五分を切った。が、構うことはない、とハーゲンは思う。
一歩を機械|任《まか》せに進む。
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第二十九章
『竜の契約』
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動け
問うこととは
答えをくれぬものに抗うことだから
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●
森の中、出雲《いずも》はファーフナーと剣をぶつけ合っていた。
「単純な話……、どーして俺は相手につき合っちまうかなあ……」
目の前のファーフナーに光を放つ大剣《たいけん》を叩きつける。
と、光の刃《やいば》が当たる直前に、黒の半竜《はんりゅう》は木々が作る闇の中に溶けて消えた。
次の瞬間《しゅんかん》。出雲は背後に空気の乱れを感じて跳躍《ちょうやく》する。
前へ。
草を踏む足音一つ、四メートルほどを跳ぶ。片足が地面に着くと同時。背後、現れた影に振り向きざまの一撃を入れた。
と、剣の走る先から黒の巨体がまた闇にかき消えた。
くそ、と出雲はつぶやき一つ。影の無い場所を求めて走る。しかし、ここは森の中だ。どこへ行っても手の届く位置に闇がある。
右。石を踏むような音がした。
「!」
出雲は右に|V―Sw《ヴ ィ ズ ィ》を振り抜く。
同時。V―Swのコンソールに文字が表示された。
『ハズレ』
出雲は見た。右手に何もいないのを。
ならば、先ほどの足音は何だ。
空《くう》を切るV―Sw。その刃から漏れる光が周囲を照らす。青白い光に当てられた地面の上、拳大《こぶしだい》の石が一つ転がっていた。
ファーフナーが転がしたものだ。おそらくは影に沈む前に、囮《おとり》として。
出雲は奥歯を噛《か 》む。
こちらは既《すで》に攻撃し、空振りした。次は向こうの番だ。
回避運動。右と左、前と後ろ、数ある選択肢《せんたくし 》の中で、出雲は一つを選んだ。
下。
振り抜いたV―Swに引かれるようにして身を大地へと投げる。
草の地面に顎《あご》が当たった瞬間《しゅんかん》。頭上を高圧の固まりが薙《な 》いだ。ファーフナーの| 機 殻 剣 《カウリングソード》だ。
傍《かたわ》ら。左手の木々が球状の力を受けて破裂《は れつ》。数は一気に十二本。森の中に陥穽《かんせい》が作られ、木々の千切《ち ぎ 》れる繊維《せんい 》質な音が連続した。
出雲は身体《からだ》を起こす。
が、その腹に蹴《け 》りが着弾《ちゃくだん》。地面すれすれからのえぐるような衝撃《しょうげき》だ。
痛え、と思ったときには身体が吹き飛ばされていた。
「……!」
横向きに飛んだ身を、出雲《いずも》は片足を地面に突き立てて制御《せいぎょ》。ステップを大股《おおまた》に二つ踏み、太い木に背を押しつけて身を止めた。
一息する間もなく、背後に大気のうねりを聞いた。
「うお」
と声を挙げ、身を左へ飛ばす。
振り向いた視界。自分が寄りかかった幹の向こう、影の中に| 機 殻 剣 《カウリングソード》を横へ振り抜くファーフナーがいた。剣がまとった陽炎《かげろう》は出雲の腰の高さで幹を断ち、大気を上へと吹き飛ばす。
木が倒れた。
散った葉群《くさむら》は波が引くような音とともに月下《げっか 》を舞う。
雪のごとく踊る葉の中、出雲は身を低く。ファーフナーと対峙《たいじ 》した。
距離は四歩分。一撃を入れるには一歩を必要とする。そして二人の間には千切《ち ぎ 》れ残った幹の下半分がある。出雲にとっては邪魔《じゃま 》なものだが、闇を渡る向こうにとっては関係ないものだ。
出雲は一息。と、ファーフナーが| 機 殻 剣 《カウリングソード》の切《き 》っ先《さき》を下げた。
「……諦《あきら》めるか? 10th―|G《ギア》と|Low《ロ ウ》―Gの末裔《まつえい》よ」
「へえ、よく知っているもんだな」
「敵を知る。それは当然のことだ。……しかし、何故《なぜ》、貴様《き さま》はこのLow―Gのために戦う? 聞いた話からすれば、貴様は、10th―Gのために戦う方があるべき姿だと思うが」
「何でそう思うんだ? 聞いた話ってのを、教えてくれよ」
ファーフナーは、一拍の間を置いてから、言った。
「貴様のその体が持つ防護の加護《か ご 》は、……母親が死ぬときに与えられたものらしいな。10th―Gの神の末裔、神族の加護として」
「物知りじゃねえか。だけど、一つ知らねえことがあるんじゃねえの? オマエ」
「……何?」
「加護ってのは、何のために与えられるか、ってことだよ」
苦笑。
「加護ってのは、一族の血とか伝統のためじゃねえ。……そこから離れていくためのものだ」
言って、出雲は|V―Sw《ヴ ィ ズ ィ》の切っ先をファーフナーに向けた。口元には笑みを、視線は周囲の砕かれた木々を見て、
「これから一度、この| 機 殻 剣 《カウリングソード》を振る。そして俺の勝ちだ」
ファーフナーが身構えた。
同時。声が響《ひび》いた。遠く、森の向こう。草原の方から、一つの声が届いてきた。
風の中、距離を渡り、空に抜け、しかし、その声は聞こえてくる。
出雲は、通る声の持ち主を知っている。
佐山《さ やま》だ。
佐山の声が、戦場となる概念《がいねん》空間の中、強く響《ひび》いてきた。
「――諸君!」
第一の呼びかけ。そして、出雲《いずも》は、呼びかけに続く言葉を聞いた。
佐山だけが放てる言葉を。
「今こそ言おう。……佐山の姓《かばね》は悪役を任ずると!」
●
森の中、銃撃《じゅうげき》戦に入っていたボルドマン以下、UCATの隊員達は、木々を突き抜けてくる声を聞いた。首元の通信機からも佐山の声が響く。
『――六十年の時間を経《へ 》て、本当の交渉をここで行おう』
木の影で治療用の符《ふ 》を書いていた大樹《おおき 》が、次の声に顔を上げた。
「いいか諸君! 戦闘|態勢《たいせい》をとれ! 弾倉《だんそう》と刃《やいば》に責め問う声を、防具に抗議の声を詰めろ。それらを意思表示として交渉を行うのが今宵《こよい》一晩のやり方だ。――よく聞け諸君!」
過熱した| 長 銃 《ちょうじゅう》の整備を行っていたシビュレが、首元、通信機からの響きを聞いた。
『――|進撃せよ《ア ヘ ッ ド》、|進撃せよ《ア ヘ ッ ド》、|進撃せよ《ゴーアヘッド》、だ! 過去に立ち戻らせようとする連中の襟首《えりくび》を掴《つか》み、こちらに引きずり連れて来い!」
●
概念空間の内壁上部ぎりぎり、天蓋《てんがい》の内側で、風見《かざみ 》は空|昇《のぼ》る声を聞いた。
「全竜交渉部隊《チームレヴァイアサン》代表、佐山・御言《み こと》はその権利をもって宣言する。ここに|全 竜 交 渉《レヴァイアサンロード》のことごとくは開始されると。我々はいかなる力にも屈しないと。我々は正しく、そして間違っていくと。そして我々は――、最後まで全てを果たすと!」
一息。
「――最初の命令だ。総員、殴り倒してでも連中をこちらに連れてこい。今の言葉が通じる世界へ。文字に縛《しば》り付けられた文学者《ひきこもり》達を暗がりから叩き出せ!」
風見は眼下、こちらへと向かってくる有翼《ゆうよく》の兵士達の向こうを見た。
草原。そこには陽炎《かげろう》をまとった白の機竜《きりゅう》と、白い装甲服《そうこうふく》をまとった少年と少女がいる。
少年は剣を上に掲げ、一息とともに問うてきた。
「……返事はどうした?」
風見は口を開く。
答えは一つだ。
眉尻《まゆじり》を上げ、口元に笑みを浮かべて言えばいい。
「――|Tes《テスタメント》.!」
●
草原の中、ファブニール改と向かい合う佐山《さ やま》は、己《おのれ》の意志に対する答えを聞いた。
|Tes《テスタメント》.。
森の中、風の中、空の上、そこから重なり連なる数十の声が聖なる意を返す。
|Tes《テ ス》.。|Tes《テ ス》.。|Tes《テ ス》.。我はここに契約せり、だ。
重なる契約を身体《からだ》に浴びて佐山は歩き出す。
目の前、白の機竜《きりゅう》を見据《み す 》え、歩きを速め、そして加速する。横に一人の少女を並べ。
走り出す。
ファブニール改も、応じるように走り出した。
迫る白の一色。地響《じ ひび》きと轟音《ごうおん》。それを前から得ながら、佐山は隣《となり》の新庄《しんじょう》を見た。手に| 機 殻 杖 《カウリングストック》を携《たずさ》えた彼女は、力のある表情で頷《うなず》いた。行こう、と。
こちらこそ|Tes《テスタメント》.だ。だから佐山は頷き返した。左手のグラムを見る。グラムの表面、刃《やいば》に付加された金属プレートに緑色の光が走る。と、そこに文字が浮き上がった。
読むことの出来ない文字。だが、意味の解《わか》る文字。それはこう告げていた。
力 と。
佐山は左腕に本気を込めた。痛みがある。だが、それこそが現実である証拠《しょうこ》だ。佐山はグラムを振り上げ、柄《つか》に右手を添え、振り抜いた。
既《すで》に機竜との距離は充分に詰まっている。
直撃《ちょくげき》。
硝子《ガラス》が割れるような音を連れて、夜空に白の装甲板《そうこうばん》が飛んだ。
機竜の身体が横にずれ、大気が動く。
戦闘が本格的に開始された。
●
出雲《いずも》は遠く響く戦闘の音を聞きつつ、つぶやくように言った。
「|V―Sw《ヴ ィ ズ ィ》、第三形態は無しだ。このまま行くぜ」
『ノッテル?』
当たり前だ、と答えた出雲はV―Swを腹の高さに持ち上げる。
刃《やいば》は横に、身は前傾に。V―Swの背部スラスターは光を強くしつつある。
だが、視界の中央でファーフナーは動かない。腰を軽く下げているものの、構えない。
「どうした半竜《はんりゅう》」
「その剣の噴射《ふんしゃ》加速を用いて、俺が影を渡るよりも速く一撃を入れるつもりか」
言われ、出雲は眉をひそめた。
生まれた沈黙を消費して、ファーフナーは言う。
「俺も戦う者だ。先ほど貴様《き さま》は己《おのれ》の攻撃を告げた。俺も、告げておこう。――お前の初撃をかわし、その背後から首を頂く」
ファーフナーは頷《うなず》き、
「お前が予告した勝利は、無い」
そうかい、と出雲《いずも》は頷き身構えた。腰を落とし、一息をつく。
直後に動いた。
「っ!」
ただ一撃。
出雲は身体《からだ》を前に飛ばし、横殴《よこなぐ》りに|V―Sw《ヴ ィ ズ ィ》を叩き込んだ。ファーフナーのいる位置へと。
爆発。
白い光が刃《やいば》の後ろから噴《ふ 》き出した。同時に加速。
光の残像《ざんぞう》が巨大な弧《こ 》を描き、更に速度を追加する。
高速。風を巻き、大気を切る音|響《ひび》かせて、光は更に強くなり、走る。
「進め……!」
低姿勢からの横薙《よこなぎ》は、ファーフナーが下に逃れようとしても最後まで食らいつける軌道。
対するファーフナーの身が沈んだ。
出雲《いずも》は心の中で感嘆《かんたん》する。マジに勝負する気だこの馬鹿は、と。
小さな口笛とともに身を捻《ひね》る。全身の振り抜き運動を更に加速しながら、出雲はグリップ部分にあるトリガーを指で押し込んだ。
生まれたのは追加の光。それも、刃《やいば》側だ。刃の背から噴出《ふんしゅつ》していた加速用の光を、量、質ともに遙かに超える白光が、前方へと爆撃《ばくげき》する。
それは巨大な光の刃。全長十メートルを超える大剣《たいけん》だ。
|V―Sw《ヴ ィ ズ ィ》の第二形態|背部《はいぶ 》加速は、刃を叩きつけるためのものではない。この一撃を己《おのれ》の反動で無駄《む だ 》にしないためのもの。そしてこの状態を振り抜くには、出雲の全身|力《りょく》が必要となる。
出雲は全身をねじり、前に振り抜いて叫んだ。
「あああああああああぁっ!!」
だが、彼の視覚は見た。V―Swの刃で陰影《いんえい》が明確になった森の中、ファーフナーがその翼《つばさ》をかち上げ、振り下ろすのを。
轟音《ごうおん》。
半竜《はんりゅう》の加速は真下に。千切《ち ぎ 》れた幹の影へと。
その瞬間《しゅんかん》、V―Swの光刃《こうじん》がファーフナーを断ち切った。
だが、間に合わない。切れたのは彼の一辺。両の翼だ。
根本《ね もと》から切断された黒の両翼《りょうよく》が宙に舞う。その下で、影に等しい身が消えた。
闇を渡ったのだ。
「……!」
出雲はV―Swを振り抜いた。宙を断ち切るようにして。
●
ファーフナーは背を貫《つらぬ》く痛みを得ながらも、勝利を確信した。
闇の中、水を泳ぐような感覚から、一気に上昇に入る。
闇から外を窺《うかが》うことは出来ない。闇の中は闇でしかないからだ。外に出ることは、闇から出て自分を実体化させることでもある。
ただ、移動距離などはある程度の自由が利く。
そしてファーフナーは約束を思い出す。敵の背後に出ると。
敵は今、自分の大型| 機 殻 剣 《カウリングソード》を振り抜き、その姿勢|制御《せいぎょ》に入っている筈《はず》だ。
重い武器は、それを振り抜いて止めることが出来ない。
勝ちだ。10th―|G《ギア》と|Low《ロ ウ》―Gの間に生まれた子。二年前に6th―Gを傘下《さんか 》に入れ、その概念《がいねん》核までも収めた者よ。貴様《き さま》の敗北に対し、翼二枚では少々安かったかもしれない。
ファーフナーは上昇した。狙うのは敵の背後。出るのは木々の影の中だ。1st―Gの森と比べると些末《さ まつ》なものだが、敵を討《う 》つ舞台としては相応《ふさわ》しい。
出る。
ファーフナーは影から地上へと飛び出した。
無音。ただ彼は、影の残滓《ざんし 》を身にまとわせながら、空気の中へと上がり、前を見た。
すると、そこにあるべきものが無かった。
森が、消えて無くなっていたのだ。彼の大事な闇を作る森が。
●
ファーフナーは息を飲む。
「――!?」
森が無い。目の前にあるべき敵の背も、無い。
おかしい、と月光を背に浴びながらファーフナーは思った。どうしたことだ、と。
周りを見渡すと、異常が見えてきた。それは、ここがかつて森であったという事実だ。
半径十メートルの範囲、ファーフナーの膝《ひざ》より低い位置で、木々が伐採《ばっさい》されていた。切断は鋭利だが、切断された上の部分は遠く飛ばされ、外の木々の群へと叩きつけられている。
今、ここは広場になっていた。
そしてファーフナーは、広場の片隅《かたすみ》に一つのものを見つけた。
地面に転がった大型の| 機 殻 剣 《カウリングソード》。側面に|V―Sw《ヴ ィ ズ ィ》のマークがされた敵の| 機 殻 剣 《カウリングソード》だ。既《すで》に光を失い|機 殻《カウリング》を閉じた刃《やいば》の根本《ね もと》、コンソールに字が浮かんでいる。
『タノシイネ』
快気を告げる文字を読んで、ファーフナーは気づいた。
今、自分が月光を背にしているということを。
足下を見れば、影がある。
何もなくなった筈《はず》の空《あ 》き地の中央。そこに誰かの影がある。背後から月光を浴びた影が。
その影を作るのは誰なのか。
それは、| 機 殻 剣 《カウリングソード》を振り、こちらではなく、その逃げ場である周囲の森を裁《た 》ち切った者。
それは、振り抜いて止められぬ| 機 殻 剣 《カウリングソード》を投げ捨て、月を背にした者だ。
背後、声がした。
「振り向け」
ファーフナーは牙《きば》を噛《か 》みしめた。そして、
「お……!!」
| 機 殻 剣 《カウリングソード》を手に、身を回した。高速で、背の痛みを無視して、背後へと攻撃を叩きつける。
そこに一人の青年がいた。
振った剣の軌道よりも速く、彼の右|拳《こぶし》がこちらに直撃《ちょくげき》した。位置は鋭角な顎《あご》の先。打ち抜かれると脳に震動が最も入る場所。
声も息もなく、衝撃《しょうげき》を感じる間もなく、目の前が暗くなった。
●
ブレンヒルトは、耳に攻撃の音を聞いていた。
近くからは連なり響《ひび》く金属の激突《げきとつ》音が。
遠くからは前にも増して銃撃《じゅうげき》と剣戟《けんげき》の音が響いてくる。
全ては佐山《さ やま》の言葉があってから始まり、加速した。
……状況は……。
解《わか》らない。こちらも相手を追うことで手一杯《て いっぱい》だ。
ときにジークフリートは攻撃を送ってくる。こちらの足下や、行く先に近い木々を狙い、足止めや停滞を狙うやり方だ。
卑怯《ひきょう》だわ、とブレンヒルトは思う。何故《なぜ》、真剣に戦おうとしないの、と。
まるで自分の問いがはぐらかされているような錯覚《さっかく》。
……彼は他の戦闘が終わるまで時間を稼ぐつもりだわ。
|全 竜 交 渉《レヴァイアサンロード》として見れば、こちらの因縁《いんねん》などは無視で、これも単なる一《いち》戦闘に過ぎない。どちらかの勢力が勝利すれば、継続する戦闘は全て停止する必要がある。
ブレンヒルトは歯を噛《か 》んだ。こちらの本気が伝わっていないのか、と。
「これも貴方《あなた》の罪滅《つみほろ》ぼしということ?」
こちらを傷つけたくない、と。
ブレンヒルトは走りながら、前を見た。
前方約十メートルの位置で、森が切れていた。草原がある。
そこで決着しよう、とブレンヒルトは思った。
攻撃の手を止め、準備を開始。
|鎮魂の曲刃《レークイヴェム・ゼンゼ》 を握る手に力を込めた。
木々の間を駆け抜けながら、足音を高く響かせながら、ブレンヒルトは鎌《かま》を肩に担う。
刃《やいば》の先を空へと向けた。そして決める。残り十メートルと、そして草原に出ての数歩。それだけの距離と速度とためらいを、全て冥界《めいかい》を開くことに使用すると。
走った。森を駆け、先行するジークフリートを横から抜き去る。
初めて彼の前に出た。そのとき、森の外を見たジークフリートがこちらに何かを叫んだ。
聞こえない。
うつむき、ブレンヒルトは草原へと飛び出した。
「――――」
月光をまぶしく感じた。
草を踏むと、湿った足音が強く響く。だがそんな音よりも確かに聞こえるのは、耳元で|鎮魂の曲刃《レークイヴェム・ゼンゼ》 が風を切る音だ。
ブレンヒルトは動作した。身を前に折るようにして、肩に担った刃《やいば》を前へと打ち下ろした。
「開け深淵《しんえん》の門よ! 大きく、広く、天の仰げる場所へ!」
叫びと同時に振った刃が地面へと突き立った。
同時。自分の肩口から背後、そして彼の頭上。そこに光が発生した。裂け目の光が。
光の一端《いったん》を目で見据《み す 》え、ブレンヒルトは声を放つ。
「――出でよ曲刃の使い手!!」
振り返った頭上、既《すで》にそれは現れていた。
全長十数メートルの死に神。青白い光の外套《がいとう》をまとい、無紋《む もん》の面をかぶった姿だ。表面に何もない面の向こうは男か女か老人か若人《わこうど》かも解《わか》らない。死は全てに平等だ。
1st―|G《ギア》の冥界《めいかい》、そこに収められた力の結晶。遺恨《い こん》の死に神は、両の腕で巨大な鎌《かま》を構え、振り下ろしていた。
走る刃の軌道にあるのは、ジークフリート。
森から飛び出してきた彼は、カウンターを食らうように刃を受ける。今までとは質量の違う攻撃だ。簡単に受け止めることなど出来はしない。
だからブレンヒルトは思う。ジークフリートは驚いているだろうか、と。
しかし、目に見えたものは違った。
ジークフリートは、眉を立て、こちらに向かって口を開いていた。
「――ナイン!」
叱《しか》るような口調と視線に、ブレンヒルトは顔を上げた。
そして気づく。今、自分の姿が月光に照らされていないことに。
「……!」
振り返った背後。巨大な白い山のようなものがあった。
ファブニール改。
戦闘中の機竜《きりゅう》の身体《からだ》が、こちらに流れてきていたのだ。
ファブニール改の身体に備え付けられた副視覚素子《ふくし かくそ し 》が、こちらに気づいて赤く光った。
地殻《ち かく》を砕く轟音《ごうおん》。
それとともに機竜の全身が地面に対して制動《せいどう》開始。
だが、衝撃《しょうげき》は地面を伝い、風が宙を渡ってブレンヒルトを襲った。足下を不確かにされ、身体を掬《すく》われ、ブレンヒルトの身が浮いた。森の方へ、ジークフリートの方へ。
吹き飛ばされた、と思ったときには、視界の中、夜空に浮かぶ死に神がいる。
振り下ろされる刃が、宙に浮いた自分を引っかけようとしていた。
来る。全長十メートル近い刃が、軌道上の全てを、こちらの全身を両断するために。
「!」
死を思った瞬間だ。
宙に高く浮いた身体《からだ》。そのウエストが、いきなり下から横抱《よこだ 》きにされた。
●
……え?。
という疑念より早く、視界が回った。身体が力|任《まか》せに横へと放り投げられたのだ。
身は宙を飛ぶ。
そして草群《くさむら》に右肩から激突《げきとつ》した。
痛みはある。何が起きたのかという疑念もある。だがそれらより先に問いかけが来た。
「何故《なぜ》!」
問い、ブレンヒルトは草の間に腕をつき、体を起こした。
勢いよく顔を上げて前を見る。と、死に神の鎌《かま》が旋回《せんかい》する軌道の上、黒衣《こくい 》の長身がいた。
ジークフリート。
彼は、こちらへと振り下ろした手を向けて、一人、立っている。
そして彼女は見た、彼の顔を。
鋭い目も、結ばれた口の両端も、確かに笑みを浮かべていた。
彼の左手、鎌の先端が来た。
ブレンヒルトは、自分が放った攻撃の鋭角と彼の笑みを見る。口を開けば、何故、という言葉はもはや出なかった。心に直結した言葉が、
「駄目《だ め 》!」
叫んだ。
「駄目よ……!!」
叫び、そしてブレンヒルトは見た。
己《おのれ》の言葉に対する解答を。
●
ファブニール改と攻撃を交わしていた新庄《しんじょう》は、それを見た。
ジークフリートの死を見届けそうになる、その直前、死に神の鎌が空中で停まったのを。
「……あ」
草原に立つ黒衣の長身。その右手側、一メートルを切る距離で、青白い巨大な刃《やいば》が停止させられていた。彼と刃の間に立つ、一人の女性によって。
それは、ジークフリートの肩あたりまでの背を持つ、長身の女性。
こちらに背を向けた彼女の身は、死に神と同じように青白く、わずかに透《す 》けている。
冥界《めいかい》から来た女性。彼女の名を、新庄は知っている。
向かい合う巨竜《きょりゅう》が、小さな声でその名をつぶやいた。
「……グートルーネ姫」
呼ばれるように、彼女はこちらに振り向いた。押さえていた刃《やいば》から手を離し、身体《からだ》を向ける。
頭上《ずじょう》、死に神が刃と共に消えた。それを見届けると、グートルーネはこちらに視線を寄越《よ こ 》す。
柔らかそうな髪の下、目が弓を作り、口元に笑みを浮かべている。
柔らかな笑みどともに、滅びた世界の王族は、静かに皆へと視線を移す。
森の向こうの仲間へと。空の中の翼《つばさ》へと。そして、草原にいる白い機竜《きりゅう》へと。
一巡《いちじゅん》して全てを見た後、彼女は王族としての動きを見せた。
ただ静かに一礼したのだ。
新庄《しんじょう》は呆然《ぼうぜん》と、しかし、一つの声を聞いた。それはグートルーネの傍《かたわ》ら、黒衣《こくい 》の背から響《ひび》いてきた。両腕を下ろし、拳《こぶし》を握り、うつむいた老人の背が、震える言葉を放つ。
「何故《なぜ》だ……」
息を吸い、
「何故、君はまた私を救う……!?」
グートルーネは振り向かない。ただ、彼女は眉尻《まゆじり》を下げ、口元を笑みのまま、頷《うなず》いた。
そこで終わった。
姫の身体が光と散り、地面に突き立つ鎌《かま》の刃へと溶けた。
誰も動かない。
風が草原を洗い、月光が草の影を揺らす。
だが、一つの高い小さな音が聞こえてきた。
それは、鳥の鳴き声だった。
●
ブレンヒルトは見た。正面にうつむき立つジークフリートの| 懐 《ふところ》。
そこから、小鳥が顔を出したのを。
「――――」
小鳥は月光を見上げ、首を傾《かし》げた。
小さな声て囀《さえず》ると、身体を出し、ジークフリートの襟《えり》の上に立ち上がる。
そして小鳥はこちらを見た。翼を広げると、はばたき、こちらへと身を躍《おど》らせた。
滑空《かっくう》するような不慣れな飛翔《ひしょう》は、距離にしてわずか数メートル。
だが、小鳥は一瞬《いっしゅん》でこちらの肩に辿り着き、足の爪を黒の布地に立てた。跳ねて向きを変えると、三角|帽子《ぼうし 》の下、目を見開くこちらの顔を覗《のぞ》き込んでくる。
「あ……」
とブレンヒルトの口から声が漏れ、眼前に黒い小さな影が立った。
黒猫だ。
猫は黄色い瞳を持って、こちらの顔と、肩の小鳥を見上げた。ややあってから口を開き、
「ブレンヒルト、……今から、何を望む?」
問いに、ブレンヒルトは答えることが出来なかった。
うつむいた。その顔に両の手を当て、口を横に開き、声を挙げた。
大きな声で、大きな声で、ブレンヒルトは泣き出した。
泣き出して、彼女はそのまま、泣き続けた。
●
ファブニール改の中、ハーゲンは頷《うなず》いた。
1st―|G《ギア》崩壊《ほうかい》の真相がどのようなものであるか、ハーゲンには解《わか》らない。
ただ、|鎮魂の曲刃《レークイヴェム・ゼンゼ》 によって現れたグートルーネは頭を下げた。
それが全てだ。
周囲にあるのは風の音のみ。皆が動きを止めている。
終わったのか、とハーゲンは思う。自分の中にある違和《い わ 》感《かん》も、強く、確かになっていく。
ここで終わるのか。
駄目《だ め 》だ、とファブニール改の中、ハーゲンは否定する。これではまた元に戻ってしまう。
……不確かなまま、終わってはいかんよ。
得るべきものがある。敵と向かい、決着し、初めて得られるもの。
かつて1st―Gが滅びた際に失い、ファーフナー達に伝えることが出来なかったもの。
それが無ければ、また同じことになる。
だが、戦場は終わっている。自分の身体《からだ》も終わりつつある。
やはり駄目なのか。
浅く伏せた主視覚素子《しゅし かくそ し 》の中、ふと、ハーゲンは前を見た。
そこに、一人の少年がいた。聖剣《せいけん》グラムを左腕に下げた少年。|全 竜 交 渉《レヴァイアサンロード》の担い手だ。
彼はこちらを見上げていた。
彼の表情は眉を立て、口元を結んだもの。腕のグラムはしっかり握り、離していない。そして足は肩幅よりも広げ、腰を落として、待っている。こちらの動きを。
待っている。
「…………」
ハーゲンは、確かに彼を見た。次の瞬間《しゅんかん》には問いが出た。
「――情《じょう》で終わらせた結論は、情が忘れられた頃に| 覆 《くつがえ》される、そう思うかい?」
ああ、と少年は頷いた。ハーゲンもファブニール改の身体で頷いた。
「少年よ、もし君が勝てば、君はこの世界を変えていくことになる。それはある意味、この世界を滅ぼすということだ。――その覚悟《かくご 》はあるかね?」
少年の答えが来るよりも先に、ハーゲンは募《つの》る言葉を吐き出した。
「よく考えて答えてくれよ? 誠意ない答え、契約《けいやく》は世界を滅ぼすに値しない。必要なのは世界を滅ぼすに値する信頼――、解《わか》るかね? それが誠意というものだ」
「解るとも。誠意という文字は言にして成り立つ日の如《ごと》き心。――私はそれを見せよう」
少年、佐山《さ やま》は首を下に振ると、真剣な顔でグラムを上段に構えた。
皆がざわめき、少年の傍《かたわ》らにいる少女が驚きの表情を見せる。彼女は疑問の声を少年に放つが、その理由はハーゲンにはよく解る。少女よ、君は正しいのだから。
……勝ちたいねえ。
こちらの思いの向く先、少年がこちらを見たまま、彼女に告げた。
「つき合ってくれ、新庄《しんじょう》君」
そして、彼はまっすぐな言葉をこちらに告げる。
「過去は見た。今ここに戦いもする。未来は共にあるだろう。ならば我らは同じ思いの筈《はず》」
「では一言を告げよ。必ず、ここから得られたものを曲げず、その約束を違《たが》わぬと。汝《なんじ》、悪役を任ずる若者よ。ここで全てを決着することを契約出来るか?」
「――|Tes《テスタメント》.!」
少年の叫びとともに、ファブニール改は動いた。
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第三十章
『竜意の継承』
[#ここから3字下げ]
言葉とは声
そして声は響き伝う
答えをここに楔打つと
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
●
空き地になった森から草原へ出てきたファーフナーは、白の機竜《きりゅう》と、一人の少年と少女が踊るように立ち回っているのを見た。
地殻《ち かく》を削る鋼鉄の足音と、その巨体が巻き起こす風。そこに響《ひび》く金属の激突《げきとつ》音。月光の照明をもって動く姿を、周囲、遠巻きに1st―|G《ギア》の仲間とUCATの者達が見ている。
誰も彼も言葉|無《な 》く、立ち竦《すく》むようにして。
ファーフナーは背の痛みに身を震わせながら、挙動《きょどう》の風の中を歩き、口を開いた。
「何故《なぜ》だ!」
目は白の機竜を見ている。
「ハーゲン様! 戦闘を避けていた貴方《あなた》が、何故……」
背に激痛が来た。背骨を絞《しぼ》られたような感覚にファーフナーは膝《ひざ》をつく。
と、その傍《かたわ》らに影が立った。
見上げると、見知った顔がある。
自分と同じ黒の半竜《はんりゅう》。背に翼《つばさ》の無い姿は、
「親父《おやじ》……」
「間に合ったようだな。我が子ファーフナーよ前を見ろハーゲン様を」
ファーフナーは前を見た。
高速で走り、身を捻《ひね》り、土を吹き飛ばして吠《ほ 》える白の竜を見る。
傍ら、しゃがみ込んだ頭上《ずじょう》から低い声が響《ひび》く。
「あれがお前達の望むものとなるんだファーフナー。――お前達が持つべきものに」
●
ファブニール改の中、ハーゲンは心を動かしていた。
先ほどまでのずれが何故か消えている。理由は解《わか》る。自分が消えかけているからだ。
余分なものがなくなり、先鋭化の極がある。
風を肌で感じ、その草渡る匂《にお》いを嗅覚《きゅうかく》で得た。
土を踏む感触《かんしょく》が指にあり、爪が小石を跳ねとばす感覚までもがある。
身体《からだ》の動きはどれ一つを取っても機械と完全に連動している。
先ほどの調整が功《こう》を奏《そう》したのだ。意志に機械が噛《か 》み合い、無駄《む だ 》がない。
動く。
爪を伸ばして少年を追い、装甲板《そうこうばん》を展開して少女の攻撃を防御する。
少年はこちらの首元を狙ってくる。そうだ、そこに二つの出力炉がある。欲しいのは前にある武装出力炉の概念《がいねん》核だろうが、君のやり方ではこちらの命もろとも奪うしかない。
対する少女はこちらの視覚素子《し かくそ し 》や、足下、関節部を狙ってくる。だが、先ほどこちらの主砲を迎え撃《う 》ったほどの一撃はない。そうだろうな、とハーゲンは思う。まだこの戦闘における自分の役割が掴《つか》めていないのか。だがそこから答えを出すしかないのだ、少女よ。
ハーゲンは笑う。
「――は」
声が出る。久しい、久しい笑いだ。この身体《からだ》になってから、声を全開にしたことはなかった筈《はず》だ。久しく、久しく快い。いいね、これは、皆も笑え、この戦いの後のために。
勝ちたいねえ。
快気とともに周囲を見渡せば、皆がいる。自分についてきた者達だ。
そして今、彼らがついてこれない位置で自分は戦っている。自分がやらねばならないこと。王族に近しく、1st―|G《ギア》最大の攻撃力を得た者だけが出来ること。
ハーゲンは思い出す。
王ヴォータンは気弱で、しかし優しくあった。弟レギンは説教|臭《くさ》かったが他人を思っていた。姫グートルーネは気丈《きじょう》で損をするのが好きだった。あの世界は自分達と共にあった。
全てが失われた今も、それは確かだ。
「――!」
ハーゲンは視覚を全域で捉《とら》えた。
草原があり、森があり、山があり、空があり、雲があり、天の中央に月がある。
……ああ。
今の戦いが終わったら、この空間から外に出なければいけない。
……長い時間だったねえ。
目の前、正しき間違いと、過《あやま》つ正しさを選べる敵がいる。
敵が動いた。少年が大剣《たいけん》を構え、こちらの左に跳躍《ちょうやく》してくる。そして少女が、こちらの右の足下に光の鎌《かま》を飛ばした。
着弾《ちゃくだん》。右足の下で地面が崩れ、姿勢が乱れた。
右に傾いた身体は、左の喉《のど》と腹を敵に見せることになる。
それを機と見た少年が来た。だが、その判断は間違いだ。ファブニール改には内蔵された砲塔《ほうとう》がある。かつて廃校《はいこう》の校庭で情報屋ハジの連れた少女、命刻《みこく》という剣士を撃ち抜いた砲だ。
勝てるか、という思いをもって砲塔展開。
射撃《しゃげき》する。
狙うのは敵ではない。彼が持つ聖剣《せいけん》グラムだ。
「!」
至近距離で三|連撃《れんげき》。
衝撃波《しょうげきは》が白い蒸気の傘《かさ》を生み、大気の破裂《は れつ》が少年を吹き飛ばした。その位置はこちらの正面。礼儀を持って最大の攻撃を放てる位置だ。
ファブニール改の視覚素子《し かくそ し 》は己《おのれ》の攻撃成果を確認。敵の手の中、聖剣《せいけん》グラムがその光を失っていた。表面、文字が浮かぶはずの金属プレートは沈黙し、グラムの声が響《ひび》く。
『――復旧までに四秒! 捨てて逃げてくれ!』
……何、こちらは一秒あれば充分だ。
ハーゲンはファブニール改を動作。顎《あご》を開き、四肢《し し 》を構える。
衝撃《しょうげき》にグラムを手放しそうになっている敵と、背後の少女を見た。
これが最後だ、とハーゲンは思う。
快気《かいき 》の心、一つの思いをもって、彼は主砲《しゅほう》を発射した。
……勝ちたいねえ……。
●
佐山《さ やま》は衝撃に震える体に力を込めた。足下、地面は感じられる。ならば次は左腕だ。
グラム。全長ニメートルの大剣《たいけん》は現在沈黙中。
だが、と佐山は思う。この武器で決着せねばならないと。それが礼儀だ。
「……!」
震える左腕に力を込めた。
直後、激痛が来た。左腕の包帯《ほうたい》から噴《ふ 》き出るように血が溢《あふ》れ、筋肉と腱《けん》の感覚を露《あら》わにする。
だが構わない。激痛こそが現実だ。全身に響《ひび》く痛みが、身体《からだ》の存在を明らかにする。
感覚が戻った。
触覚《しょっかく》、聴覚、視覚、全てが戻り集中した眼前。ファブニール改が口を開いていた。
喉《のど》の奥、見える砲口《ほうこう》には光がある。
かわすことなど出来るはずもない。
だから佐山は選択《せんたく》しない。ただ望む、勝つことを。
前に出ようとした、そのときだ。傍《かたわ》ら、身を支えるように寄り添う人がいた。
新庄《しんじょう》だ。
彼女がつぶやく、
「君に出来ないことは、ボクに任せて……」
言葉とともに、新庄の手が動いた。それは一瞬《いっしゅん》。彼女はこちらの左腕から手指に血を採ると、グラムの金属プレートにこう書いた。
聖剣 と。
同時。主砲が来た。質量《しつりょう》ある光に向かい、佐山は聖剣グラムを打ち振るった。
「……っ!」
全力。自分が望んでいたものがここにある。
笑った。心から笑った。そのときだ。左腕に軽い衝撃《しょうげき》がきた。
「!?」
佐山《さ やま》は見る。左腕のゲオルギウス。黒い表面につけた+のメダルが白い光を放っている。
応えるようにグラムが吠《ほ 》えた。刃《やいば》の表面に己《おのれ》の持つ緑色の光を走らせ、
『その手甲《て こう》は……!?』
「解《わか》らん! だが、――私が受け継いだ力だ!!」
佐山は聖剣《せいけん》グラムを振り下ろした。
竜の攻撃力が鉄の刃に断ち割られる。音は光を断って飛び散らせる怒濤《ど とう》の音色《ね いろ》。その先端で佐山は振り下ろした刃を強引に上に捻《ひね》り、背後に回し、更に前に出た。
距離は一瞬《いっしゅん》で無視の対象となる。
ファブニール改の喉元《のどもと》に飛び込んだ。
構えは横殴《よこなぐ》りに近い斜め振りの一撃。叩きつける一発だ。
光を帯びたグラムの軌道は、その頂上で喉奥《のどおく》の武装出力炉を切断。終端《しゅうたん》で首元の稼働出力炉を狙う。それは佐山の戦い方。敵の完全な無力化を狙う方法だ。
だが、背後からそれを止める一撃が来た。
光。
佐山の持つグラムが喉に至ったとき。逆鱗《げきりん》の金属と武装出力炉の殻《かく》を破る手応《て ごた》えを得たとき。背後からの細い一線が傍《かたわ》らを通り過ぎた。
その閃光《せんこう》はファブニール改の右|前脚《まえあし》を貫《つらぬ》き、吹き飛ばす。
快音とともにファブニール改が崩れ落ちた。身を伏すように、一礼するように。
竜は動作し、グラムの軌道を下に封じた。伏して崩れた喉の中、部品が歪んでグラムを噛《か 》む。
聖剣《せいけん》の切断動作は、機械の部品に拝《おが》まれるように阻《はば》まれる。
佐山は斬撃《ざんげき》への抵抗を金属の衝突音《しょうとつおん》として感覚。だが、彼はグラムを振り抜いた。
「――――」
腕を振り抜き、前に流れ、ファブニール改の喉元から傍らを抜けた。
そして彼は己の手を見た。左手、血に濡《ぬ 》れたゲオルギウスは何も掴《つか》んでいない。
解っていた。
機竜《きりゅう》の力を奪いつつも、聖剣グラムがこちらの手から機竜の喉に奪われていたことを。
そして、この解決こそが、自分達の決着であることを。
●
佐山は背後に振り向いた。
視界の中、月光の下、一度身を沈めたファブニール改が身を起こしつつあった。
しかし、右の前脚を失った白の機竜は、もはや戦闘のために動こうとはしない。
ファブニール改は、ゆっくりと空を見上げ、身を反《そ 》らした。
見れば、彼の喉《のど》にはやはり、奪われた一本の剣が根本《ね もと》まで突き刺さっている。
月光に、白の装甲板《そうこうばん》と剣の黒が逆光《ぎゃっこう》となり、影を作った。
己《おのれ》で作る闇の中、機竜《きりゅう》が赤い瞳で月を見る。
ファブニール改は口を開く。喉を貫《つらぬ》かれているが、しかし月を食らうように牙《きば》並ぶ顎《あご》を開く。
金属の牙の間から放たれるのは、獣《けもの》の叫びではなく、人の呼びかけだ。
「――少年よ」
静かな声は、言葉を続ける。竜の心にある、一つの問いかけを、
「我ら1st―|G《ギア》は、強敵だったかね?」
佐山《さ やま》は息を整え、下ろした左の拳《こぶし》を握りしめた。自分の血を掴《つか》み、口を開き、
「……それ以外に、何があると」
答え、佐山は月の逆光にシルエットとして浮かぶ竜を見つめた。
竜の答えを待つ。
だが、返るのは無言。
風渡り、一つの歌が聞こえてくる。1st―Gの少女が朗《ろう》じる歌。その一節が耳に入った。
|Schlafe in《眠 り 給 う》 |himmlischer Ruh《ゆ め 安 く ――》――.
ふと、左、傍《かたわ》らに新庄《しんじょう》が来た。新庄はゆっくりと草を踏み、ねえ、と言った。
彼女の呼びかけが震えているのが解《わか》る。こちらの左腕に回された手が、同じように震えているのも。だから佐山は彼女を確かめるように、その腰に腕を回した。
新庄の細身《ほそみ 》を抱き寄せ、だが、目はずっと上を見ている。逆光に月を見上げた機竜を。
機竜の瞳に、もはや光は宿っていなかった。
●
森の中、木の枝の上にいた二人の少女は、どちらともなく吐息した。
背の低い方、詩乃《し の 》は、草原の方から聞こえてくる歌を、同じように口ずさんでいた。
それに対し、上に座る命刻《みこく》が苦笑した。
「ともあれこれで、|全 竜 交 渉《レヴァイアサンロード》が始まったわけだ」
と、下に飛び降りた。落差四メートルほどを難なく着地。詩乃が歌い終えるのを待ってから、上に手を差し出した。詩乃はためらいなく命刻の胸に飛び込んでくる。
重くなったな、と言う命刻を、詩乃は横目で見てから離れる。
そして詩乃はわずかに首を傾《かし》げ、背後に振り向いた。
「さて、帰りますか? 竜美《たつみ 》さん」
言葉に応じるように、森の中、闇の中から一人の女性が姿を現した。
長身の女性。命刻も背が高いが、彼女より視線一つは上だ。後ろに流したロングヘアが揺れる下、格好《かっこう》は、茶色の毛糸で編まれたセーターに、白のロングタイトで、足下は、
「サンダルはどうかと思う、竜美《たつみ 》」
「でも、ここまで近づかれても気づかなかったでしょう?」
竜美と呼ばれた女性は、垂れ目に嫌味《いやみ 》のない笑みを作って二人を見た。
「さ、どうだったの?」
「そこそこだな。新庄《しんじょう》は動けるようになり、出雲《いずも》と相方《あいかた》もそれなりに使える。佐山《さ やま》……、佐山・御言《み こと》はゲオルギウスを得た、か」
命刻《みこく》はつぶやき、草原に背を向けた。踵《きびす》を返す速さに詩乃《し の 》が肩を小さく震わせた。が、詩乃の震えを止めるように、その手を竜美が取る。
「帰りましょう。概念《がいねん》空間も薄れつつあるわ。全てが結論を得つつ、元に戻るのよ。――でも命刻、ゲオルギウスはどうなの? 私達にもほとんど情報のない概念兵器だけど」
「よくは解《わか》らない。妙な力が少し見えただけだ。ただ……」
「ただ?」
「ゲオルギウスは竜を倒した聖人《せいじん》の名だ。が、しかし、それは架空《か くう》の話であるとされ、聖ゲオルギウスは十五世紀に聖人の座を剥奪《はくだつ》されている」
苦笑。そして森の中、闇の中へ歩き出しながら、命刻はこう言った。
「偽《いつわ》りの聖人。相応《ふさわ》しい名前だな。……この|Low《ロ ウ》―|G《ギア》の概念兵器として」
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最終章
『誇りの系譜』
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思い出す言葉がある
それは何故か忘れぬ言葉
己に穿ち込まれた言葉
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●
春休みが終わろうとしていた。
昼前の空の下、佐山《さ やま》は二年次普通校舎の二階、非常階段にいた。
眼下、学校内の至るところで桜が咲いていた。
花びらが散り、舞う。そのことが緩やかな風の存在を教えてくれる。
桜花は乱れる雪のように。
花弁の降る道路や砂利《じゃり》道には、寮《りょう》に戻ってくる生徒の姿がある。
私服|姿《すがた》で歩き、再会を喜び合う彼らは、明日の入学式から新入部員の勧誘《かんゆう》や新しい授業を作る教科書の確認に走ることになる。
その中、見知った顔があった。運動系の部活代表と何か話し込んでいるのは、出雲《いずも》と風見《かざみ 》だ。二人は私服姿。二人で一つの、雑貨用品を入れたビニール袋を提《さ 》げている。
風見がこちらに気づき、顔を上げた。
彼女は、
「――――」
ただ笑みを見せ、何も言わず、視線を戻した。
佐山も軽く左手を上げ、それだけ。
そして彼は上げた手を見た。新しい包帯《ほうたい》を巻かれた左腕の先。中指に母親の形見《かたみ 》の指輪がはまった左手を。
手の甲に傷は残り、拳《こぶし》として握ると幻痛《げんつう》がある。
そして、過去を思うとそれだけで左の胸が軋《きし》む。
……1st―|G《ギア》の者達はあれからどうなっただろうか。
ファブニール改から残りの概念《がいねん》核を吸収したグラムは、日本UCATの地下に格納《かくのう》されたと聞く。次に表《おもて》に出るのは全概念を開放させるときだと。
現在、1st―G|居留地《きょりゅうち》には半竜《はんりゅう》を初めとした概念|無《な 》しでは生存《せいぞん》困難な種族を入植《にゅうしょく》させている。その維持や発展を見越し、いろいろな数字が計算されている最中であり、結果が出|次第《し だい》、居留地の拡大や、帰化の奨励《しょうれい》を行うことになる。
戦闘の被害はあり、責任者達は罪に問われることになるが、それらの多くはハーゲンが持って行ってしまった。元々、余程《よ ほど》の更生が必要でない限り、
「彼らの償《つぐな》いとは我々への全面協力と発展だ」
ファーゾルトは多忙《た ぼう》の中を縫《ぬ 》って、居留地に製紙産業を興《おこ》そうとしている。他から輸入するものではなく、自分達の記録は自分達で作るのだと。
彼の息子《むすこ》、ファーフナーと言った半竜も、いずれそれに従事することになるのだろうか。
もはや歴史も誇りも口伝《く でん》ではなく媒体《ばいたい》に移り、ずっと広く伝えられていくことになる。
自分と竜が交わした言葉も、全て、現実の陰にて伝わっていくのだ。
そして自分は、
「…………」
これからも先、ずっと本気で戦っていくことを決めた。
佐山《さ やま》は思う。記録されていくであろう先の戦いや、相手や、仲間達のことを。
空を見上げ、最後に思うのは白の機竜《きりゅう》のことだ。
……私の言葉は――。
彼に届いていたのだろうか。
ふと、空から視線を落とし、背後を見た。
非常口の横、壁がある。校庭の砂を浴び、風と雨で固まった埃《ほこり》まみれの壁だ。
左の手を伸ばし、指をつく。
佐山は寸断《すんだん》無く字を書き連ねた。
1st―|G《ギア》・ファブニール改。
「感傷《かんしょう》だな」
つぶやく口調には笑みも何もない。壁から指を離し、一歩を退《しりぞ》き、吐息した。
そのときだ。非常階段を足音が跳ねてきた。
見下ろす視界。階段を、揺れる長髪が上がってきた。
新庄《しんじょう》・切《せつ》だ。
新庄は小春《こ はる》の空気のためか、白の半袖《はんそで》に茶の半パンという軽装。手には小さな箱を一つ。こちらを見上げ、視線を合わせると、笑顔て横に並んだ。
「こんなところにいたんだ。探したよ」
「どうしたのかね? いや、その箱は?」
うん、と言って、新庄は手摺《て す 》りに肘《ひじ》をついて箱を開けた。中には小振りのショートケーキが二つある。新庄は小さく笑って、こちらの目を下から覗《のぞ》き込んでくる。
「ボクの入居祝い。……佐山君、傷口悪化させて帰ってきてから何か忙《いそが》しかったみたいだから。ほ、ほら、今更《いまさら》だけどこういうのって、大事だよね?」
問われ、ふと佐山は思う。祝い事か、と。
そういえば、1st―GがUCATと合流したことは、祝うべきではないのだろうか、と。
そうだ。
まだ片づいていないこともあり、不謹慎《ふ きんしん》だという誹《そし》りもあるだろう。
しかし周囲は春だ。1st―Gの居留地《きょりゅうち》、畑にある麦は青く伸び、野に咲く花は色づいているだろう。春とは、祝い事に良い季節だ。
そこまで考え、佐山は苦笑した。いい加減《か げん》、こっちの生活に戻ったらどうかと。
だから佐山は新庄の目を見た。黒い瞳を。そして、
「そうだね。あとで私から祝いの品を贈ろう。ゲーム機とか」
と言うと、新庄《しんじょう》は頬《ほお》に笑みを浮かべ、嫌味《いやみ 》のない吐息を一つ。
「部屋に行こうよ。左腕、不便でしょ? 食べさせてあげる」
「君には甘えてばかりだね」
「え? 気にしないでいいよ。だって、そのために来たんだよ、ボク」
ならばいいか、と佐山《さ やま》は納得《なっとく》。
階段を先に下りていく新庄を追うと、下から上がってきた足音の群とすれ違った。
美術部だ。
二十人ほどの私服|姿《すがた》が屋上へと上っていく。
これから屋上で風景|写生《しゃせい》をするのだろう。手に手に食堂で買ったばかりの学内特製ジュースや菓子に、スケッチブックや筆箱などを持っている。
話す笑い声と、ゆっくりとした足音が上に行く。
その終端《しゅうたん》に、佐山は一人の少女を見た。
ブレンヒルトだ。
制服|姿《すがた》のブレンヒルトは佐山と階段で並ぶと、無表情に足を止めた。
彼女の肩には小鳥が、足下には黒猫がいる。右手に持つのはスケッチブックに筆箱。左手には鳥の餌《えさ》が入った小さな箱。
皆は先に行き、佐山とブレンヒルトだけになる。
彼女は、佐山の視線がスケッチブックに向いていることに気づくと、わずかに目を背《そむ》けた。
「今日から、|Low《ロ ウ》―|G《ギア》の風景を描こうと思ってるの。……前に描いていた油絵は出来上がったから」
「ああ、見たとも。職員棟の廊下に飾られていたね」
ええ、と頷《うなず》くブレンヒルトの肩で、小鳥が首を傾《かし》げた。
沈黙。
数秒をそのままに、ブレンヒルトが目を背けたまま、口を開いた。
何かを言おうとした。
が、それを止めるように、階段の踊り場に足音が一つ戻ってきた。私服の女子が、
「部長。――先に行きますよ」
ブレンヒルトは身を震わせ、顔を上げて振り向いた。ええ、と頷き、佐山に背を向ける。
直後。彼女は動きを止めた。
停止の合図は、一つの音楽だった。
春の空気の中、オルガンの音が聞こえてくる。それは佐山とブレンヒルトが知る音色《ね いろ》だ。
清しこの夜。
「これは……」
とつぶやいたブレンヒルトに、踊り場の少女が笑う。
「部長、いつも美術室締め切ってるから聞いたことないんでしょう? 休みになると、衣笠《きぬがさ》書庫のジークフリート爺《じい》さんが趣味で弾《ひ 》いてるんですよ。話によると二年前から」
佐山《さ やま》の視界の中、ブレンヒルトの背が震えた。
だが、それだけだった。
ブレンヒルトは、階段に足を進めた。
「…………」
彼女は無言で階段を上がっていく。呼びに来た少女と肩を並べ、黒猫と小鳥を連れて。
彼女が踊り場で身を| 翻 《ひるがえ》し、折り返しの階段に消えるまで、佐山は見送った。
そして言葉もなく、佐山は階段を下りていく。
下、一階の上がり口で新庄《しんじょう》が待っていた。
新庄はこちらに気づくと、遅いよ、と言うが、その表情には笑みがある。
だが、歩き、並ぶと、新庄はこちらの顔を覗《のぞ》き込んできた。笑みを消し、首を傾《かし》げ、
「佐山君……?」
「どうしたのかね?」
足を止めず、歩きながらの問いに、新庄はついてくる。
うん、と頷《うなず》き、新庄はこう言った。
「何か哀《かな》しいことでもあったの?」
「いや、君の姉さんなら知っていると思う。……いつか聞かせてくれるだろう」
佐山はそれだけを言い、歩きながら、隣《となり》を行く人の肩を抱く。
「あ……」
という声はあったが、抵抗はない。
一息つくと、身が寄せられてきた。
身体《からだ》に新庄の温かみと柔らかさが伝わってくる。が、それよりも、身を委《ゆだ》ねられたというそのことに、佐山は一つの思いを得る。
有《あ 》り難《がた》いことだ、と。
佐山は歩き、空を見上げる。青の中、雪のように桜の散る空を。
「明日からまた、学校が始まる、か」
腕の中で頷く新庄と共に、胸の中、小さな軋《きし》みがある。
その二つを思いながら、佐山は更に高く空を見上げた。
少しは何かが出来たのだろうか。
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終わりのクロニクル
「いつか、また皆、一緒になれる……?」
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あとがき
そんなわけで下巻です。1―下 なんて巻数《かんすう》表示がつくのも前代未聞《ぜんだいみ もん》|双羽黒《ふたは ぐろ》って感じですが、何だか書いても書いても書いていきたいわけで。今後もこんなチョーシで行くと思いますので宜《よろ》しくお願いいたします。
作中情報など少し。
聖歌《せいか 》の清しこの夜 ですが、独逸《ドイツ》語の原盤の他、派生《は せい》バージョンが三|桁《けた》以上存在し、更には数十カ国語に翻訳《ほんやく》されて歌われているそうで。本書ではその中の一つを流用しており、訳もそこから作っておりますが、これが本物、という捉《とら》え方はしておりません。ここらへん、歴史などが面白いので調べてみるといいかもしれませんー。
でも戦後六十年とか考えてみると早いもので。自分が丁度、戦後三十年の生まれで、父親が戦争体験者。でも今の読者さんは戦争を知らない世代の人の子が多いんですなー。よく考えると湾岸戦争後に生まれた人も多いわけで……。そうか、更によく考えると今(二〇〇三年)の学生さんはメガドライブと同じ時代に生まれたのか……。メガドラ世代だ(違う)。
そんなわけで友人とチャットなんぞ入ってみんとす。
「そんなわけで下巻の解説をどうぞ」
『舐《な 》めればいいってもんじゃねえだろ』
「ブー、残念でした今回舐めてませんー。掴《つか》んで引っ張っただけですー」
『くあー! 畜生《ちくしょう》、読んでないのバレたかー!! ってか後半|不審《ふ しん》な言動あるんだが何よ?』
「つーか読んでから来なさい。いいか? 優しく言うからよく聞けよ? ――失《う 》せろ馬鹿」
『この野郎、今回強気だな。とりあえず拾い読みで大事なところは読んだんだぜ』
「どこ読んだんだ?」
『あとがき』
「おーい誰かこの嘘《うそ》つきの頭に何かインプラントを」
『できれば透視《とうし 》能力のチップを宜しく。でも懐《なつ》かしいなあ、インプラント。俺、高校時代に後ろのヤツが倒れてきてシャーペン首に刺さってさあ、芯《しん》がインプラントされてんのよ』
「明後日《あ さ っ て》あたり脳に達して身体《からだ》が痙攣《けいれん》始めるぞ」
『しねえよ。でも他にもいたな。小学校時代、鉛筆の芯を腕に刺してドラえ●んのタトゥー入れたヤツがいたんだけど、大人になったら身体が成長してドラえ●んの顔がスゲえ馬面《うまづら》の笑顔になってた。ドラえ●んって、デザイン上、結構《けっこう》鼻の下が長いんだよコレが』
「知りたくもない事実だな」
『だうな。本人、高校の頃なんかプール入れなかったってなあ』
「何か下巻じゃなくて過ぎ去りし痛い日々を語るチャットになってるんだが」
『まあいいんじゃねえの? やっぱりこれ読んでる読者世代の話題だろ。きっと一人は成長し続けるタトゥーを背負ってる人がいる。若かりし日の過《あやま》ちとか言ってみるといいか』
あんまし良くないような気が。
そういえば一応サイトを構えてます。URLはこちら。
http://www.din.or.jp/~arm/
絵を描いて下さっているさとやす氏のサイトのURLはこちら。
http://www.din.or.jp/~fnitt/
自分がつとめている会社、TENKYのURLはこちら。
http://www.tenky.co.jp/
さて今は下巻|執筆《しっぴつ》中によくBGMとして使用していたZABADAKの「満ち潮の夜」を聴きつつ校正終えたところですが、
「一体|誰《だれ》が始まったのやら」
などと改めて考えてもみたり。
さて、急いで次に行きたいところではあります。
平成十五年三月 アイスの美味《うま》い朝っぱら
[#地付き]川上《かわかみ》 稔《みのる》
[#改ページ]
[#改ページ]
|AHEAD《ア ヘ ッ ド》シリーズ
終わりのクロニクル@〈下〉
発 行 二〇〇三年七月二十五日 初版発行
著 者 川上 稔
発行者 佐藤辰男
発行所 株式会社メディアワークス
[#地付き]校正 2007.02.16