TITLE : 走れメロス
本作品の全部または一部を無断で複製、転載、配信、送信したり、 ホームページ上に転載することを禁止します。また、本作品の内容 を無断で改変、改ざん等を行うことも禁止します。
本作品購入時にご承諾いただいた規約により、有償・無償にかかわ らず本作品を第三者に譲渡することはできません。
本書は著作権継承者の了解を得て、現代表記法により、原文を新字・新かなづかいにしたほか、漢字の一部をひらがなに改めた。
(編集部) 目次
富《ふ》嶽《がく》百景
懶《らん》惰《だ》の歌《か》留《る》多《た》
八十八夜
畜《ちく》犬《けん》談《だん》
おしゃれ童子
俗天使
駈《かけ》込《こ》み訴え
老《アルト》ハイデルベルヒ
走れメロス
東京八景
富《ふ》嶽《がく》百景
富士の頂角、広《ひろ》重《しげ》の富士は八十五度、文《ぶん》晁《ちよう》の富士も八十四度くらい、けれども、陸軍の実測図によって東西および南北に断面図を作ってみると、東西縦断は頂角、百二十四度となり、南北は百十七度である。広重、文晁に限らず、たいていの絵の富士は、鋭角である。いただきが、細く、高く、華《きや》奢《しや》である。北《ほく》斎《さい》にいたっては、その頂角、ほとんど三十度くらい、エッフェル鉄塔のような富士をさえ描いている。けれども、実際の富士は、鈍角も鈍角、のろくさと拡がり、東西、百二十四度、南北は百十七度、決して、秀《しゆう》抜《ばつ》の、すらと高い山ではない。たとえば私が、インドかどこかの国から、突然、鷲《わし》にさらわれ、すとんと日本の沼《ぬま》津《づ》あたりの海岸に落とされて、ふと、この山を見つけても、そんなに驚嘆しないだろう。ニッポンのフジヤマを、あらかじめ憧《あこが》れているからこそ、ワンダフルなのであって、そうでなくて、そのような俗な宣伝を、一さい知らず、素《そ》朴《ぼく》な、純粋の、うつろな心に、はたして、どれだけ訴え得るか、そのことになると、多少、心細い山である。低い。裾《すそ》のひろがっている割に、低い。あれくらいの裾を持っている山ならば、少なくとも、もう一・五倍、高くなければいけない。
十《じつ》国《こく》峠《とうげ》から見た富士だけは、高かった。あれは、よかった。はじめ、雲のために、いただきが見えず、私は、その裾《すそ》の勾《こう》配《ばい》から判断して、たぶん、あそこあたりが、いただきであろうと、雲の一点にしるしをつけて、そのうちに、雲が切れて、見ると、ちがった。私が、あらかじめ印《しるし》をつけて置いたところより、その倍も高いところに、青い頂《いただ》きが、すっと見えた。おどろいた、というよりも私は、へんにくすぐったく、げらげら笑った。やっていやがる、と思った。人は、完全のたのもしさに接すると、まず、だらしなくげらげら笑うものらしい。全身のネジが、他《た》愛《あい》なくゆるんで、これはおかしな言いかたであるが、帯《おび》紐《ひも》といて笑うといったような感じである。諸君が、もし恋人と逢《あ》って、逢ったとたんに、恋人がげらげら笑い出したら、慶《けい》祝《しゆく》である。必ず、恋人の非《ひ》礼《れい》をとがめてはならぬ。恋人は、君に逢って、君の完全のたのもしさを、全身に浴びているのだ。
東京の、アパートの窓から見る富士は、くるしい。冬には、はっきり、よく見える。小さい、真っ白い三《さん》角《かく》が、地平線にちょこんと出ていて、それが富士だ。なんのことはない、クリスマスの飾り菓子である。しかも左のほうに、肩が傾いて心細く、船《せん》尾《び》のほうからだんだん沈没しかけてゆく軍艦の姿に似ている。三年まえの冬、私はある人から、意外の事実を打ち明けられ、途《と》方《ほう》に暮れた。その夜、アパートの一室で、ひとりで、がぶがぶ酒のんだ。一睡もせず、酒のんだ。あかつき、小《こ》用《よう》に立って、アパートの便所の金網張られた四角い窓から、富士が見えた。小さく、真っ白で、左のほうにちょっと傾いて、あの富士を忘れない。窓の下のアスファルト路を、さかなやの自転車が疾《しつ》駆《く》し、おう、けさは、やけに富士がはっきり見えるじゃねえか、めっぽう寒いや、など呟《つぶや》きのこして、私は、暗い便所の中に立ちつくし、窓の金網撫《な》でながら、じめじめ泣いて、あんな思いは、二度と繰りかえしたくない。
昭和十三年の初秋、思をあらたにする覚悟で、私は、かばんひとつさげて旅に出た。
甲《こう》州《しゆう》。ここの山々の特徴は、山々の起伏の線の、へんに虚《むな》しい、なだらかさにある。小《こ》島《じま》烏《う》水《すい》という人の日本山水論にも、「山の拗《す》ね者は多く、この土《ど》に仙《せん》遊《ゆう》するがごとし」とあった。甲州の山々は、あるいは山の、げてものなのかも知れない。私は、甲《こう》府《ふ》市からバスにゆられて一時間。御《み》坂《さか》峠《とうげ》へたどりつく。
御坂峠、海抜千三百メートル。この峠の頂上に、天下茶屋という、小さい茶店があって、井《い》伏《ぶせ》鱒《ます》二《じ》氏が初夏のころから、ここの二階に、こもって仕事をしておられる。私は、それを知ってここへ来た。井伏氏のお仕事の邪魔にならないようなら、隣室でも借りて、私も、しばらくそこで仙遊しようと思っていた。
井伏氏は、仕事をしておられた。私は、井伏氏のゆるしを得て、当分その茶屋に落ちつくことになって、それから、毎日、いやでも富士と真正面から、向き合っていなければならなくなった。この峠は、甲府から東海道に出る鎌《かま》倉《くら》往《おう》還《かん》の衝《しよう》に当たっていて、北面富士の代表観望台であると言われ、ここから見た富士は、むかしから富士三景の一つにかぞえられているのだそうであるが、私は、あまり好かなかった。好かないばかりか、軽《けい》蔑《べつ》さえした。あまりに、おあつらいむきの富士である。まんなかに富士があって、その下に河《かわ》口《ぐち》湖が白く寒々とひろがり、近景の山々がその両《りよう》袖《そで》にひっそり蹲《うずくま》って湖を抱きかかえるようにしている。私は、ひとめ見て、狼《ろう》狽《ばい》し、顔を赤らめた。これは、まるで、風呂屋のペンキ画だ。芝居の書《かき》割《わり》だ。どうにも註《ちゆう》文《もん》どおりの景色で、私は、恥ずかしくてならなかった。
私が、その峠の茶屋へ来て二、三日経って、井伏氏の仕事も一段落ついて、ある晴れた午後、私たちは三《み》ツ《つ》峠《とうげ》へのぼった。三ツ峠、海抜千七百メートル。御坂峠より、少し高い。急坂を這《は》うようにしてよじ登り、一時間ほどにして三ツ峠頂上に達する。蔦《つた》かずら掻《か》きわけて、細い山路、這うようにしてよじ登る私の姿は、決して見よいものではなかった。井伏氏は、ちゃんと登山服着ておられて、軽快の姿であったが、私には登山服の持ち合わせがなく、ドテラ姿であった。茶屋のドテラは短く、私の毛《け》臑《ずね》は、一尺以上も露出して、しかもそれに茶屋の老爺《ろうや》から借りたゴム底の地《じ》下《か》足《た》袋《び》をはいたので、われながらむさ苦しく、少し工夫して、角帯をしめ、茶店の壁にかかっていた古い麦《むぎ》藁《わら》帽《ぼう》をかぶってみたのであるが、いよいよ変で、井伏氏は、人のなりふりを決して軽《けい》蔑《べつ》しない人であるが、このときだけはさすがに少し、気の毒そうな顔をして、男は、しかし、身なりなんか気にしないほうがいい、と小声で呟《つぶや》いて私をいたわってくれたのを、私は忘れない。とかくして頂上についたのであるが、急に濃い霧が吹き流れて来て、頂上のパノラマ台という、断《だん》崖《がい》の縁《へり》に立ってみても、いっこうに眺《ちよう》望《ぼう》がきかない。何も見えない。井伏氏は、濃い霧の底、岩に腰をおろし、ゆっくり煙草を吸いながら、放《ほう》屁《ひ》なされた。いかにも、つまらなそうであった。パノラマ台には、茶店が三軒ならんで立っている。そのうちの一軒、老爺と老《ろう》婆《ば》と二人きりで経営しているじみな一軒を選んで、そこで熱い茶を呑《の》んだ。茶店の老婆は気の毒がり、ほんとうにあいにくの霧で、もう少し経ったら霧もはれると思いますが、富士は、ほんのすぐそこに、くっきり見えます、と言い、茶店の奥から富士の大きい写真を持ち出し、崖《がけ》の端に立ってその写真を両手で高く掲示して、ちょうどこの辺に、このとおりに、こんなに大きく、こんなにはっきり、このとおりに見えます、と懸命に註《ちゆう》釈《しやく》するのである。私たちは、番茶をすすりながら、その富士を眺《なが》めて、笑った。いい富士を見た。霧の深いのを、残念にも思わなかった。
その翌々日であったろうか、井伏氏は、御坂峠を引きあげることになって、私も甲府までおともした。甲府で私は、ある娘さんと見合いすることになっていた。井伏氏に連れられて甲府のまちはずれの、その娘さんのお家へお伺《うかが》いした。井伏氏は、無雑作な登山服姿である。私は、角帯に、夏羽織を着ていた。娘さんの家のお庭には、薔《ば》薇《ら》がたくさん植えられていた。母堂に迎えられて客間に通され、挨《あい》拶《さつ》して、そのうちに娘さんも出て来て、私は、娘さんの顔を見なかった。井伏氏と母堂とは、おとな同士の、よもやまの話をして、ふと、井伏氏が、
「おや、富士」と呟《つぶや》いて、私の背後の長押《なげし》を見あげた。私も、からだを捻《ね》じ曲げて、うしろの長押を見上げた。富士山頂大噴火口の鳥《ちよう》瞰《かん》写真が、額縁にいれられて、かけられていた。まっしろい睡《すい》蓮《れん》の花に似ていた。私は、それを見とどけ、また、ゆっくりからだを捻じ戻すとき、娘さんを、ちらと見た。きめた。多少の困難があっても、このひとと結婚したいものだと思った。あの富士は、ありがたかった。
井伏氏は、その日に帰京なされ、私は、ふたたび御坂にひきかえした。それから、九月、十月、十一月の十五日まで、御坂の茶屋の二階で、少しずつ、少しずつ、仕事をすすめ、あまり好かないこの「富士三景の一つ」と、へたばるほど対談した。
いちど、大笑いしたことがあった。大学の講師か何かやっている浪《ろう》漫《まん》派《は》の一友人が、ハイキングの途中、私の宿に立ち寄って、そのときに、ふたり二階の廊下に出て、富士を見ながら、
「どうも俗だねえ、お富士さん、という感じじゃないか」
「見ているほうで、かえって、てれるね」
などと生意気なこと言って、煙草をふかし、そのうちに、友人は、ふと、
「おや、あの僧《そう》形《ぎよう》のものは、なんだね?」と顎《あご》でしゃくった。
墨《すみ》染《ぞめ》の破れたころもを身にまとい、長い杖《つえ》を引きずり、富士を振り仰ぎ振り仰ぎ、峠をのぼって来る五十歳ぐらいの小男がある。
「富士見西《さい》行《ぎよう》、といったところだね。かたちが、できてる」私は、その僧をなつかしく思った。「いずれ、名のある聖僧かも知れないね」
「ばか言うなよ。乞食《こじき》だよ」友人は、冷淡だった。
「いや、いや。脱俗しているところがあるよ。歩きかたなんか、なかなか、できてるじゃないか。むかし、能《のう》因《いん》法師が、この峠で富士をほめた歌を作ったそうだが、――」
私が言っているうちに友人は、笑い出した。
「おい、見給え。できてないよ」
能因法師は、茶店のハチという飼犬に吠《ほ》えられて、周《しゆう》章《しよう》狼《ろう》狽《ばい》であった。その有様は、いやになるほど、みっともなかった。
「だめだねえ。やっぱり」私は、がっかりした。
乞食の狼狽は、むしろ、あさましいほどに右往左往、ついには杖をかなぐり捨て、取り乱し、取り乱し、いまはかなわずと退散した。実に、それは、できてなかった。富士も俗なら、法師も俗だ、ということになって、いま思い出しても、ばかばかしい。
新《につ》田《た》という二十五歳の温厚な青年が、峠を降りきった岳《がく》麓《ろく》の吉《よし》田《だ》という細長い町の、郵便局につとめていて、そのひとが、郵便物によって、私がここに来ていることを知った、と言って、峠の茶屋をたずねて来た。二階の私の部屋で、しばらく話をして、ようやく馴れて来たころ、新田は笑いながら、実は、もう、二、三人、僕の仲間がありまして、皆で一緒にお邪魔にあがるつもりだったのですが、いざとなると、どうも皆、しりごみしまして、太宰さんは、ひどいデカダンで、それに、性格破産者だ、と佐《さ》藤《とう》春《はる》夫《お》先生の小説に書いてございましたし、まさか、こんなまじめな、ちゃんとしたお方だとは、思いませんでしたから、僕も、無理に皆を連れて来るわけには、いきませんでした。こんどは、皆を連れて来ます。かまいませんでしょうか。
「それは、かまいませんけれど」私は、苦笑していた。「それでは、君は、必死の勇をふるって、君の仲間を代表して僕を偵察に来たわけですね」
「決死隊でした」新田は、率直だった。「ゆうべも、佐藤先生のあの小説を、もういちど繰りかえして読んで、いろいろ覚悟をきめて来ました」
私は、部屋のガラス戸越しに、富士を見ていた。富士は、のっそり黙って立っていた。偉いなあ、と思った。
「いいねえ。富士は、やっぱり、いいとこあるねえ。よくやってるなあ」富士には、かなわないと思った。念々と動く自分の愛憎が恥ずかしく、富士は、やっぱり偉い、と思った。よくやってる、と思った。
「よくやっていますか」新田には、私の言葉がおかしかったらしく、聡《そう》明《めい》に笑っていた。
新田は、それから、いろいろな青年を連れて来た。皆、静かなひとである。皆は、私を、先生、と呼んだ。私はまじめにそれを受けた。私には、誇るべき何もない。学問もない。才能もない。肉体よごれて、心もまずしい。けれども、苦悩だけは、その青年たちに、先生と言われて、だまってそれを受けていいくらいの、苦悩は、経て来た。たったそれだけ。藁《わら》一すじの自負である。けれども、私は、この自負だけは、はっきり持っていたいと思っている。わがままな駄《だ》々《だ》っ子のように言われて来た私の、裏の苦悩を、一たい幾人知っていたろう。新田と、それから田《た》辺《なべ》という短歌の上手な青年と、二人は、井伏氏の読者であって、その安心もあって、私は、この二人と一ばん仲良くなった。いちど吉田に連れていってもらった。おそろしく細長い町であった。岳《がく》麓《ろく》の感じがあった。富士に、日も、風もさえぎられて、ひょろひょろに伸びた茎のようで、暗く、うすら寒い感じの町であった。道路に沿って清水が流れている。これは、岳麓の町の特徴らしく、三《み》島《しま》でも、こんなぐあいに、町じゅうを清水が、どんどん流れている。富士の雪が溶けて流れて来るのだ、とその地方の人たちが、まじめに信じている。吉田の水は、三島の水に較べると、水量も不足だし、汚《きたな》い。水を眺《なが》めながら、私は話した。
「モウパスサンの小説に、どこかの令嬢が、貴公子のところへ毎晩、河を泳いで逢《あ》いにいったと書いてあったが、着物は、どうしたのだろうね。まさか、裸ではなかろう」
「そうですね」青年たちも、考えた。「海水着じゃないでしょうか」
「頭の上に着物を載せて、むすびつけて、そうして泳いでいったのかな?」
青年たちは、笑った。
「それとも、着物のままはいってずぶ濡《ぬ》れの姿で貴公子と逢って、ふたりでストーヴでかわかしたのかな? そうすると、かえるときには、どうするだろう。せっかく、かわかした着物を、またずぶ濡れにして、泳がなければいけない。心配だね。貴公子のほうで泳いで来ればいいのに。男なら、猿《さる》股《また》一つで泳いでも、そんなにみっともなくないからね。貴公子、鉄槌《かなづち》だったのかな?」
「いや、令嬢のほうで、たくさん惚《ほ》れていたからだと思います」新田は、まじめだった。
「そうかも知れないね。外国の物語の令嬢は、勇敢で、可愛《かわい》いね。好きだとなったら、河を泳いでまで逢いに行くんだからな。日本では、そうはいかない。なんとかいう芝居があるじゃないか。まんなかに川が流れて、両方の岸で男と姫君とが、愁《しゆう》嘆《たん》している芝居が。あんなとき、何も姫君、愁嘆する必要がない。泳いでゆけば、どんなものだろう。芝居で見ると、とても狭い川なんだ。じゃぶじゃぶ渡っていったら、どんなもんだろう。あんな愁嘆なんて、意味ないね。同情しないよ。朝顔の大井川は、あれは大水で、それに朝顔は、めくらの身なんだし、あれには多少、同情するが、けれども、あれだって、泳いで泳げないことはない。大井川の棒《ぼう》杭《ぐい》にしがみついて、天《てん》道《どう》さまを、うらんでいたんじゃ、意味ないよ。あ、ひとりあるよ。日本にも、勇敢なやつが、ひとりあったぞ。あいつは、すごい。知ってるかい?」
「ありますか」青年たちも、眼を輝かせた。
清《きよ》姫《ひめ》。安《あん》珍《ちん》を追いかけて、日《ひ》高《だか》川を泳いだ。泳ぎまくった。あいつは、すごい。ものの本によると、清姫は、あのとき十四だったんだってね」
路を歩きながら、ばかな話をして、まちはずれの田辺の知合いらしい、ひっそり古い宿屋に着いた。
そこで飲んで、その夜の富士がよかった。夜の十時ごろ、青年たちは、私ひとりを宿に残して、おのおの家へ帰っていった。私は、眠れず、どてら姿で、外へ出てみた。おそろしく、明るい月夜だった。富士が、よかった。月光を受けて、青く透きとおるようで、私は狐《きつね》に化かされているような気がした。富士が、したたるように青いのだ。燐《りん》が燃えているような感じだった。鬼火。狐火。ほたる。すすき。葛《くず》の葉。私は、足のないような気持で、夜道を、まっすぐに歩いた。下《げ》駄《た》の音だけが、自分のものでないように、他の生きもののように、からんころんからんころん、とても澄んで響く。そっと、振りむくと、富士がある。青く燃えて空に浮かんでいる。私は溜《ため》息《いき》をつく。維新の志士。鞍《くら》馬《ま》天《てん》狗《ぐ》。私は、自分を、それだと思った。ちょっと気取って、ふところ手して歩いた。ずいぶん自分が、いい男のように思われた。ずいぶん歩いた。財布を落とした。五十銭銀貨が二十枚くらいはいっていたので、重すぎて、それで懐《ふところ》からするっと脱け落ちたのだろう。私は、不思議に平気だった。金がなかったら、御坂まで歩いてかえればいい。そのまま歩いた。ふと、いま来た路を、そのとおりに、もういちど歩けば、財布はある、ということに気がついた。懐《ふところ》手《で》のまま、ぶらぶら引きかえした。富士。月夜。維新の志士。財布を落とした。興あるロマンスだと思った。財布は路のまんなかに光っていた。あるにきまっている。私は、それを拾って、宿へ帰って、寝た。
富士に、化かされたのである。私は、あの夜、阿《あ》呆《ほう》であった。完全に、無意志であった。あの夜のことを、いま思い出しても、へんに、だるい。
吉田に一泊して、あくる日、御坂へ帰って来たら、茶店のおかみさんは、にやにや笑って、十五の娘さんは、つんとしていた。私は、不潔なことをして来たのではないということを、それとなく知らせたく、きのう一日の行動を、聞かれもしないのに、ひとりでこまかに言いたてた。泊まった宿屋の名前、吉田のお酒の味、月夜富士、財布を落としたこと、みんな言った。娘さんも、機《き》嫌《げん》が直った。
「お客さん! 起きて見よ!」かん高い声である朝、茶店の外で、娘さんが絶叫したので、私は、しぶしぶ起きて、廊下へ出て見た。
娘さんは、興奮して頬《ほお》をまっかにしていた。だまって空を指さした。見ると、雪。はっと思った。富士に雪が降ったのだ。山頂が、まっしろに、光りかがやいていた。御坂の富士も、ばかにできないぞと思った。
「いいね」
とほめてやると、娘さんは得意そうに、
「すばらしいでしょう?」といい言葉使って、「御坂の富士は、これでも、だめ?」としゃがんで言った。私が、かねがね、こんな富士は俗でだめだ、と教えていたので、娘さんは、内心しょげていたのかも知れない。
「やはり、富士は、雪が降らなければ、だめなものだ」もっともらしい顔をして、私は、そう教えなおした。
私は、どてら着て山を歩きまわって、月見草の種を両の手のひらに一ぱいとって来て、それを茶店の背《せ》戸《ど》に播《ま》いてやって、
「いいかい、これは僕の月見草だからね、来年また来て見るのだからね、ここへお洗《せん》濯《たく》の水なんか捨てちゃいけないよ」娘さんは、うなずいた。
ことさらに、月見草を選んだわけは、富士には月見草がよく似合うと、思い込んだ事情があったからである。御坂峠のその茶店は、いわば山中の一軒家であるから、郵便物は、配達されない。峠の頂上から、バスで三十分ほどゆられて峠の麓《ふもと》、河口湖畔の、河口村という文字通りの寒村にたどり着くのであるが、その河口村の郵便局に、私宛《あて》の郵便物が留め置かれて、私は三日に一度くらいの割で、その郵便物を受け取りに出かけなければならない。天気の良い日を選んで行く。ここのバスの女車掌は、遊覧客のために、格別風景の説明をしてくれない。それでもときどき、思い出したように、はなはだ散文的な口調で、あれが三ツ峠、向こうが河口湖、わかさぎという魚《さかな》がいます、など、物憂《う》そうな、呟《つぶや》きに似た説明をして聞かせることもある。
河口局から郵便物を受け取り、またバスにゆられて峠の茶店に引返す途中、私のすぐとなりに、濃い茶色の被布を着た青白い端正の顔の、六十歳くらい、私の母とよく似た老《ろう》婆《ば》がしゃんと坐《すわ》っていて、女車掌が、思い出したように、みなさん、きょうは富士がよく見えますね、と説明ともつかず、また自分ひとりの詠《えい》嘆《たん》ともつかぬ言葉を、突然言い出して、リュックサックしょった若いサラリーマンや、大きい日本髪ゆって、口もとを大事にハンカチでおおいかくし、絹物まとった芸者風の女など、からだをねじ曲げ、一せいに車窓から首を出して、いまさらのごとく、その変哲もない三角の山を眺めては、やあ、とか、まあ、とか間抜けた嘆声を発して、車内はひとしきり、ざわめいた。けれども、私のとなりの御隠居は、胸に深い憂《ゆう》悶《もん》でもあるのか、他の遊覧客とちがって、富士には一《いち》瞥《べつ》も与えず、かえって富士と反対側の、山路に沿った断《だん》崖《がい》をじっと見つめて、私にはその様《さま》が、からだがしびれるほど快よく感ぜられ、私もまた、富士なんか、あんな俗な山、見たくもないという、高《こう》尚《しよう》な虚無の心を、その老《ろう》婆《ば》に見せてやりたく思って、あなたのお苦しみ、わびしさ、みなよくわかる、と頼まれもせぬのに、共鳴の素振りを見せてあげたく、老婆に甘えかかるように、そっとすり寄って、老婆とおなじ姿勢で、ぼんやり崖《がけ》の方を、眺《なが》めてやった。
老婆も何かしら、私に安心していたところがあったのだろう、ぼんやりひとこと、
「おや、月見草」
そう言って、細い指でもって、路《ろ》傍《ぼう》の一か所をゆびさした。さっと、バスは過ぎてゆき、私の目には、いま、ちらとひとめ見た黄《こ》金《がね》色《いろ》の月見草の花ひとつ、花《か》弁《べん》もあざやかに消えず残った。
三七七八メートルの富士の山と、立派に相《あい》対《たい》峙《じ》し、みじんもゆるがず、なんというのか、金《こん》剛《ごう》力《りき》草とでも言いたいくらい、けなげにすっくと立っていたあの月見草は、よかった。富士には、月見草がよく似合う。
十月のなかば過ぎても、私の仕事は遅々として進まぬ。人が恋しい。夕焼け赤き雁《がん》の腹《はら》雲《ぐも》、二階の廊下で、ひとり煙草を吸いながら、わざと富士には目もくれず、それこそ血の滴《したた》るような真っ赤な山の紅葉を、凝視していた。茶店のまえの落葉を掃《は》きあつめている茶店のおかみさんに、声をかけた。
「おばさん! あしたは、天気がいいね」
自分でも、びっくりするほど、うわずって、歓声にも似た声であった。おばさんは箒《ほうき》の手をやすめ、顔をあげて、不審げに眉《まゆ》をひそめ、
「あした、何かおありなさるの?」
そう聞かれて、私は窮した。
「なにもない」
おかみさんは笑い出した。
「おさびしいのでしょう。山へでもおのぼりになったら?」
「山は、のぼっても、すぐまた降りなければいけないのだから、つまらない。どの山へのぼっても、おなじ富士山が見えるだけで、それを思うと、気が重くなります」
私の言葉が変だったのだろう。おばさんはただ曖《あい》昧《まい》にうなずいただけで、また枯葉を掃いた。
ねるまえに、部屋のカーテンをそっとあけてガラス窓越しに富士を見る。月のある夜は富士が青白く、水の精みたいな姿で立っている。私は溜《ため》息《いき》をつく。ああ、富士が見える。星が大きい。あしたは、お天気だな、とそれだけが、幽《かす》かに生きている喜びで、そうしてまた、そっとカーテンをしめて、そのまま寝るのであるが、あした、天気だからとて、別段この身には、なんということもないのに、と思えば、おかしく、ひとりで蒲団《ふとん》の中で苦笑するのだ。くるしいのである。仕事が、――純粋に運筆することの、その苦しさよりも、いや、運筆はかえって私の楽しみでさえあるのだが、そのことではなく、私の世界観、芸術というもの、あすの文学というもの、いわば、新しさというもの、私はそれらについて、まだぐずぐず、思い悩み、誇張ではなしに、身悶《もだ》えしていた。
素《そ》朴《ぼく》な、自然のもの、従って簡潔な鮮明なもの、そいつをさっと一挙動で掴《つか》まえて、そのままに紙にうつしとること、それより他にはないと思い、そう思うときには、眼前の富士の姿も、別な意味をもって目にうつる。この姿は、この表現は、結局、私の考えている「単一表現」の美しさなのかも知れない、と少し富士に妥協《だきよう》しかけて、けれどもやはりどこかこの富士の、あまりにも棒状の素朴には閉口しているところもあり、これがいいなら、ほていさまの置物だっていいはずだ、ほていさまの置物は、どうにも我慢できない、あんなもの、とても、いい表現とは思えない、この富士の姿も、やはりどこか間違っている、これは違う、と再び思いまどうのである。
朝に、夕に、富士を見ながら、陰《いん》鬱《うつ》な日を送っていた。十月の末に、麓《ふもと》の吉田のまちの、遊女の一団体が、御坂峠へ、おそらくは年に一度くらいの開放の日なのであろう、自動車五台に分乗してやって来た。私は二階から、その様を見ていた。自動車からおろされて、色さまざまの遊女たちは、バスケットからぶちまけられた一群の伝《でん》書《しよ》鳩《ばと》のように、はじめは歩く方向を知らず、ただかたまってうろうろして、沈黙のまま押し合い、へし合いしていたが、やがてそろそろ、その異様の緊張がほどけて、てんでにぶらぶら歩きはじめた。茶店の店頭に並べられてある絵葉書を、おとなしく選んでいるもの、佇《たたず》んで富士を眺《なが》めているもの、暗く、わびしく、見ちゃおれない風景であった。二階のひとりの男の、いのち惜しまぬ共感も、これら遊女の幸福に関しては、なんの加えるところがない。私は、ただ、見ていなければならぬのだ。苦しむものは苦しめ。落ちるものは落ちよ。私に関係したことではない。それが世の中だ。そう無理につめたく装い、かれらを見下ろしているのだが、私は、かなり苦しかった。
富士にたのもう。突然それを思いついた。おい、こいつらを、よろしく頼むぜ、そんな気持ちで振り仰げば、寒空のなか、のっそり突っ立っている富士山、そのときの富士はまるで、どてら姿に、ふところ手して傲《ごう》然《ぜん》とかまえている大親分のようにさえ見えたのであるが、私は、そう富士に頼んで、大いに安心し、気軽くなって茶店の六歳の男の子と、ハチというむく犬を連れ、その遊女の一団を見捨てて、峠のちかくのトンネルの方へ遊びに出かけた。トンネルの入口のところで、三十歳くらいの痩《や》せた遊女が、ひとり、何かしらつまらぬ草花を、だまって摘《つ》み集めていた。私たちが傍《そば》を通っても、ふりむきもせず熱心に草花をつんでいる。この女のひとのことも、ついでに頼みます、とまた振り仰いで富士にお願いして置いて、私は子供の手をひき、とっとと、トンネルの中にはいって行った。トンネルの冷たい地下水を、頬《ほお》に、首筋に、滴々と受けながら、おれの知ったことじゃない、とわざと大《おお》股《また》に歩いてみた。
そのころ、私の結婚の話も、一頓《とん》挫《ざ》のかたちであった。私のふるさとからは、全然、助力が来ないということが、はっきり判ってきたので、私は困ってしまった。せめて百円くらいは、助力してもらえるだろうと、虫のいい、ひとりぎめをして、それでもって、ささやかでも、厳《げん》粛《しゆく》な結婚式を挙げ、あとの、世帯を持つに当たっての費用は、私の仕事でかせいで、しようと思っていた。けれども、二、三の手紙の往復により、うちから助力は、全く無いということが明らかになって、私は、途方にくれていたのである。このうえは、縁談ことわられても仕方がない、と覚悟をきめ、とにかく先方へ、事の次第を洗いざらい言ってみよう、と私は単身、峠を下り、甲府の娘さんのお家へお伺《うかが》いした。さいわい娘さんも、家にいた。私は客間に通され、娘さんと母堂と二人を前にして、悉《しつ》皆《かい》の事情を告白した。ときどき演説口調になって、閉口した。けれども、割に素直に語りつくしたように思われた。娘さんは、落ちついて、
「それで、おうちでは、反対なのでございましょうか」と、首をかしげて私にたずねた。
「いいえ、反対というのではなく」私は右の手のひらを、そっと卓の上に押し当て、「おまえひとりで、やれ、というぐあいらしく思われます」
「結構でございます」母堂は、品よく笑いながら、「私たちも、ごらんのとおりお金持ではございませぬし、ことごとしい式などは、かえって当惑するようなもので、ただ、あなたおひとり、愛情と、職業に対する熱意さえ、お持ちならば、それで私たち、結構でございます」
私は、お辞儀するのも忘れて、しばらく呆《ぼう》然《ぜん》と庭を眺《なが》めていた。眼の熱いのを意識した。この母に孝行しようと思った。
かえりに、娘さんは、バスの発着所まで送って来てくれた。歩きながら、
「どうです。もう少し交際してみますか?」
きざなことを言ったものである。
「いいえ。もう、たくさん」娘さんは、笑っていた。
「なにか、質問ありませんか?」いよいよ、ばかである。
「ございます」
私は、何を聞かれても、ありのまま答えようと思っていた。
「富士山には、もう雪が降ったでしょうか」
私は、その質問に拍《ひよう》子《し》抜《ぬ》けがした。
「降りました。いただきのほうに、――」と言いかけて、ふと前方を見ると、富士が見える。へんな気がした。
「なあんだ。甲府からでも、富士が見えるじゃないか。ばかにしていやがる」やくざな口調になってしまって、「いまのは、愚問です。ばかにしていやがる」
娘さんは、うつむいて、くすくす笑って、
「だって、御坂峠にいらっしゃるのですし、富士のことでもお聞きしなければ、わるいと思って」
おかしな娘さんだと思った。
甲府から帰って来ると、やはり、呼吸ができないくらいにひどく肩が凝《こ》っているのを覚えた。
「いいねえ、おばさん。やっぱし御坂は、いいよ。自分のうちに帰って来たような気さえするのだ」
夕食後、おかみさんと、娘さんと、かわるがわる、私の肩をたたいてくれる。おかみさんの拳《こぶし》は固く、鋭い。娘さんのこぶしは柔らかく、あまり効《き》きめがない。もっと強く、もっと強くと私に言われて、娘さんは薪《まき》を持ち出し、それでもって私の肩をとんとん叩《たた》いた。それほどにしてもらわなければ、肩の凝りがとれないほど、私は甲府で緊張し、一心に努めたのである。
甲府へ行って来て、二、三日、さすがに私はぼんやりして、仕事する気も起こらず、机のまえに坐《すわ》って、とりとめのない楽書をしながら、バットを七箱も八箱も吸い、また寝ころんで、金剛石も磨《みが》かずば、という唱歌を、繰り返し繰り返し歌ってみたりしているばかりで、小説は、一枚も書きすすめることができなかった。
「お客さん。甲府へ行ったら、わるくなったわね」
朝、私が机に頬《ほお》杖《づえ》つき、目をつぶって、さまざまのことを考えていたら、私の背後で、床の間ふきながら、十五の娘さんは、しんからいまいましそうに、多少、とげとげしい口調で、そう言った。私は、振りむきもせず、
「そうかね。わるくなったかね」
娘さんは、拭《ふ》き掃《そう》除《じ》の手を休めず、
「ああ、わるくなった。この二、三日、ちっとも勉強すすまないじゃないの。あたしは毎朝、お客さんの書き散らした原稿用紙、番号順にそろえるのが、とっても、たのしい。たくさんお書きになっていれば、うれしい。ゆうべもあたし、二階へそっと様子を見に来たの、知ってる? お客さん、ふとん頭からかぶって、寝てたじゃないか」
私は、ありがたい事だと思った。大げさな言いかたをすれば、これは人間の生き抜く努力に対しての、純粋な声援である。なんの報《ほう》酬《しゆう》も考えていない。私は、娘さんを、美しいと思った。
十月末になると、山の紅葉も黒ずんで、汚《きたな》くなり、とたんに一夜あらしがあって、みるみる山は、真っ黒い冬《ふゆ》木《こ》立《だち》に化してしまった。遊覧の客も、いまはほとんど、数えるほどしかない。茶店もさびれて、ときたま、おかみさんが、六つになる男の子を連れて、峠のふもとの船《ふな》津《つ》、吉田に買物をしに出かけて行って、あとには娘さんひとり、遊覧の客もなし、一日中、私と娘さんと、ふたり切り、峠の上で、ひっそり暮らすことがある。私が二階で退屈して、外をぶらぶら歩きまわり、茶店の背《せ》戸《ど》で、お洗《せん》濯《たく》している娘さんの傍《そば》へ近寄り、
「退屈だね」
と大声で言って、ふと笑いかけたら、娘さんはうつむき、私はその顔を覗《のぞ》いてみて、はっと思った。泣きべそかいているのだ。あきらかに恐怖の情である。そうか、とにがにがしく私は、くるりと廻《まわ》れ右して、落葉しきつめた細い山路を、まったくいやな気持で、どんどん荒く歩きまわった。
それからは、気をつけた。娘さんひとりきりのときには、なるべく二階の室から出ないようにつとめた。茶店にお客でも来たときには、私がその娘さんを守る意味もあり、のしのし二階から降りていって、茶店の一隅に腰をおろしゆっくりお茶を飲むのである。いつか花嫁姿のお客が、紋付を着た爺《じい》さんふたりに付き添《そ》われて、自動車に乗ってやって来て、この峠の茶屋でひと休みしたことがある。そのときも、娘さんひとりしか茶店にいなかった。私は、やはり二階から降りていって、隅の椅《い》子《す》に腰をおろし、煙草をふかした。花嫁は裾《すそ》模《も》様《よう》の長い着物を着て、金《きん》襴《らん》の帯を背負い、角《つの》隠しつけて、堂々正式の礼装であった。全く異様のお客様だったので、娘さんもどうあしらいしていいのかわからず、花嫁さんと、二人の老人にお茶をついでやっただけで、私の背後にひっそり隠れるように立ったまま、だまって花嫁のさまを見ていた。一生にいちどの晴の日に、――峠の向こう側から、反対側の船津か、吉田のまちへ嫁入りするのであろうが、その途中、この峠の頂上で一休みして、富士を眺《なが》めるということは、はたで見ていても、くすぐったいほど、ロマンチックで、そのうちに花嫁は、そっと茶店から出て、茶店のまえの崖《がけ》のふちに立ち、ゆっくり富士を眺めた。脚《あし》をX形に組んで立っていて、大胆なポーズであった。余裕のあるひとだな、となおも花嫁を、富士と花嫁を、私は観賞していたのであるが、間もなく花嫁は、富士に向かって、大きな欠伸《あくび》をした。
「あら!」
と背後で、小さな叫びをあげた。娘さんも、素早くその欠伸《あくび》を見つけたらしいのである。やがて花嫁の一行は、待たせて置いた自動車に乗り、峠を降りていったが、あとで花嫁さんは、さんざんだった。
「馴《な》れていやがる。あいつは、きっと二度目、いや、三度目くらいだよ。おむこさんが、峠の下で待っているだろうに、自動車から降りて、富士を眺《なが》めるなんて、はじめてのお嫁だったら、そんな太いこと、できるわけがない」
「欠伸《あくび》したのよ」娘さんも、力こめて賛意を表した。「あんな大きい口あけて欠伸して、ずうずうしいのね。お客さん、あんなお嫁さんもらっちゃ、いけない」
私は年がいもなく、顔を赤くした。私の結婚の話も、だんだん好転していって、ある先輩に、すべてお世話になってしまった。結婚式も、ほんの身内の二、三のひとにだけ立ち会ってもらって、まずしくとも厳粛に、その先輩の宅で、していただけるようになって、私は人の情に、少年のごとく感奮していた。
十一月にはいると、もはや御坂の寒気、堪《た》えがたくなった。茶店では、ストーヴを備えた。
「お客さん、二階はお寒いでしょう。お仕事のときは、ストーヴの傍《そば》でなさったら」と、おかみさんは言うのであるが、私は、人の見ているまえでは、仕事のできないたちなので、それは断わった。おかみさんは心配して、峠の麓《ふもと》の吉田へ行き、炬《こ》燵《たつ》をひとつ買って来た。私は二階の部屋でそれにもぐって、この茶店の人たちの親切には、しんからお礼を言いたく思って、けれども、もはやその全容の三分の二ほど、雪をかぶった富士の姿を眺《なが》め、また近くの山々の、蕭《しよう》条《じよう》たる冬《ふゆ》木《こ》立《だち》に接しては、これ以上、この峠で、皮膚を刺す寒気に辛抱していることも無意味に思われ、山を下ることに決意した。山を下る、その前日、私は、どてらを二枚かさねて着て、茶店の椅《い》子《す》に腰かけて、熱い番茶を啜《すす》っていたら、冬の外《がい》套《とう》着た、タイピストでもあろうか、若い知的の娘さんがふたり、トンネルの方から、何かきゃっきゃっ笑いながら歩いて来て、ふと眼前に真っ白い富士を見つけ、打たれたように立ち止まり、それから、ひそひそ相談の様子で、そのうちのひとり、眼鏡かけた、色の白い子が、にこにこ笑いながら、私のほうへやって来た。
「相すみません。シャッター切って下さいな」
私は、へどもどした。私は機械のことには、あまり明るくないのだし、写真の趣味は皆無であり、しかも、どてらを二枚もかさねて着ていて、茶店の人たちさえ、山賊みたいだ、といって笑っているような、そんなむさくるしい姿でもあり、多分は東京の、そんな華《はな》やかな娘さんから、はいからの用事を頼まれて、内心ひどく狼《ろう》狽《ばい》したのである。けれども、また思い直し、こんな姿はしていても、やはり、見る人が見れば、どこかしら、きゃしゃな俤《おもかげ》もあり、写真のシャッターくらい器用に手さばきできるほどの男に見えるのかも知れない、などと少しうきうきした気持も手伝い、私は平静を装い、娘さんの差し出すカメラを受け取り、何気なさそうな口調で、シャッターの切りかたをちょっとたずねてみてから、わななきわななき、レンズをのぞいた。まんなかに大きい富士、その下に小さい、罌《け》粟《し》の花ふたつ。ふたり揃《そろ》いの赤い外套を着ているのである。ふたりは、ひしと抱き合うように寄り添《そ》い、屹《き》っとまじめな顔になった。私は、おかしくてならない。カメラ持つ手がふるえて、どうにもならぬ。笑いをこらえて、レンズをのぞけば、罌粟の花、いよいよ澄まして、固くなっている。どうにも狙《ねら》いがつけにくく、私は、ふたりの姿をレンズから追放して、ただ富士山だけを、レンズ一ぱいにキャッチして、富士山、さようなら、お世話になりました。パチリ。
「はい、うつりました」
「ありがとう」
ふたり声をそろえてお礼を言う。うちへ帰って現像してみた時には驚くだろう。富士山だけが大きく大きく写っていて、ふたりの姿はどこにも見えない。
その翌《あく》る日に山を下りた。まず、甲府の安宿に一泊して、そのあくる朝、安宿の廊下の汚《きたな》い欄《らん》干《かん》によりかかり、富士を見ると、甲府の富士は、山々のうしろから、三分の一ほど顔を出している。酸漿《ほおずき》に似ていた。
懶《らん》惰《だ》の歌《か》留《る》多《た》
私の数ある悪徳の中で、最も顕《けん》著《ちよ》の悪徳は、怠《たい》惰《だ》である。これは、もう、疑いをいれない。よほどのものである。こと、怠惰に関してだけは、私は、ほんものである。まさか、それを自慢しているわけではない。ほとほと、自分でも呆《あき》れている。私の、これは、最大欠陥である。たしかに、恥ずべき、欠陥である。
怠惰ほど、いろいろと言い抜けのできる悪徳も、少ない。臥《が》竜《りよう》。おれは、考えることをしている。ひるあんどん。面《めん》壁《ぺき》九年。さらに想を練り、案を構え。雌《し》伏《ふく》。賢者のまさに動かんとするや、必ず愚色あり。熟慮。潔癖。凝り性。おれの苦しさ、わからんかね。仙脱。無《む》慾《よく》。世が世なら、なあ。沈黙は金。塵《じん》事《じ》うるさく。隅の親石。機未だ熟さず。出る杭《くい》うたれる。寝ていて転ぶうれいなし。無《む》縫《ほう》天《てん》衣《い》。桃《とう》李《り》言わざれども。絶望。豚《ぶた》に真珠《しんじゆ》。一朝、事あらば。ことあげせぬ国。ばかばかしくって。大器晩成。自矜《じきよう》、自愛。のこりものには、福が来る。なんぞ彼らの思い無げなる。死後の名声。つまり、高級なんだね。千両役者だからね。晴耕雨読。三度固辞して動かず。鴎《かもめ》は、あれは唖《おし》の鳥です。天を相手にせよ。ジッドは、お金持なんだろう?
すべて、のらくら者の言い抜けである。私は、実際、恥ずかしい。苦しさも、へったくれもない。なぜ、書かないのか。実は、少しからだのぐあいがおかしいのでして、などと、せっぱつまって、伏目がちに、あわれっぽく告白したりなどするのだが、一日にバット五十本以上も吸い尽くして、酒、のむとなると一《いつ》升《しよう》くらい平気でやって、そのあとお茶漬を、三杯もかきこんで、そんな病人あるものか。
要するに、怠惰なのである。いつまでも、こんなぐあいでは、私は、とうてい見込みのない人間である。そう、きめてしまうのは、私も、つらいのであるが、もうこれ以上、私たち、自身を甘やかしてはいけない。
苦しさだの、高《こう》邁《まい》だの、純潔だの、素直だの、もうそんなこと聞きたくない。書け。落語でも、一《ひと》口《くち》噺《ばなし》でもいい。書かないのは、例外なく怠惰である。おろかな、おろかな、盲信である。人は、自分以上の仕事もできないし、自分以下の仕事もできない。働かないものには、権利がない。人間失格、あたりまえのことである。
そう思って、しかめつらをして机のまえに坐《すわ》るのであるが、さて、何もしない。頬《ほお》杖《づえ》ついて、ぼんやりしている。別段、深遠のことがらを考えているわけではない。なまけ者の空想ほど、ばかばかしく途方もないものはない。悪事千里、というが、なまけ者の空想もまた、ちょろちょろ止めどなく流れ、走る。何を考えているのか。この男は、いま、旅行について考えている。汽車の旅行は退屈だ。飛行機がいい。動揺がひどいだろう。飛行機の中で煙草を吸えるかしら。ゴルフパンツはいて、葡萄《ぶどう》たべながら飛行機に乗っていると、恰《かつ》好《こう》がいいだろうな。葡萄は、あれは、種を出すものなのかしら、種のまま呑《の》みこむものなのかしら。葡萄の正しい食べかたを知りたい。などと、考えていること、まるで、おそろしく、とりとめがない。あわてて、がらっと机の引き出しをあけ、くしゃくしゃ引き出しの中を掻《か》きまわして、おもむろに、一箇の耳かきを取り出し、大げさに顔をしかめ、耳の掃《そう》除《じ》をはじめる。その竹の耳かきの一端には、ふさふさした兎《うさぎ》の白い毛が付いていて、男は、その毛で自分の耳の中をくすぐり、目を細める。耳の掃除が終わる。なんということもない。それから、また、机の引き出しを、くしゃくしゃかきまわす。感冒除《よ》けの黒いマスクを見つけた。そいつを、素早く、さっと顔にかけて、屹《き》っと眉《まゆ》毛《げ》を挙げ、眼をぎょろっと光らせて、左右を見まわす。なんということもない。マスクをはずして、引き出しに収め、ぴたと引き出しをしめる。また、頬《ほお》杖《づえ》。とうもろこしは、あれは下品な食べものだ。あれの、正式の食べかたは、どういうのかしら。一本のとうもろこしに、食いついている姿は、ハーモニカを懸命に吹き鳴らしているようである。などと、ばかなことを、ふと考える。どんなにひどいニヒルにでも、最後まで付きまとうものは、食べものであるらしい。しかもこの男は、味覚を知らない。味よりも、方法が問題であるらしい。めんどうくさい食べものには、見向きもしない。さんまなぞ、食べてみれば、あれは、おいしいものかも知れないが、この男は、それをきらう。とげがあるからである。いったいに魚肉をきらうようである。味覚の故ではなくして、とげを抜くのが面倒くさいのである。たいへん高価なものだそうであるが、鮎《あゆ》の塩焼など、一向に喜ばない。申しわけみたいに、ちょっと箸《はし》でつついてみたりなどして、それっきり、振りむきもしない。玉子焼を好む。とげがないからである。豆腐を好む。やはり、食べるのに、なんの手数もいらないからである。飲みものを好む。牛乳。スープ。葛《くず》湯《ゆ》。うまいも、まずいもない。ただ、摂《せつ》取《しゆ》するのに面倒がないからである。そう言えば、この男は、どうやら、暑い、寒いを知らないようである。夏、どんなに暑くても、団扇《うちわ》の類《たぐい》を用いない。めんどうくさいからである。ひとから、きょうはずいぶんお暑うございますね、と言われて団扇をさし出され、ああそうか、きょうは暑いのか、とはじめて気が付き、大いにあわてて団扇を取りあげ、涼しげの顔してばさばさやってみるのであるが、すぐに厭《あ》きて来て手を休め、ぼんやり膝《ひざ》の上で、その団扇をいじくりまわしているような始末である。寒さも、知らないのではなかろうか。誰《だれ》かほかのひとでも火《ひ》鉢《ばち》に炭をついでくれないことには、一日、火のない火《ひ》鉢《ばち》を抱いて、じっとしている。動くものではない。ひとから、注意されないうちは、晩秋、初冬、厳寒、平気な顔をして夏の白いシャツを黙って着ている。
私は、腕をのばし、机のわきの本《ほん》棚《だな》から、ある日本の作家の、短篇集を取出し、口を、への字型に結んだ。何か、顕微鏡的な研究でもはじめるように、ものものしく気取って、一ページ、一ページ、ゆっくりページを繰っていった。この作家は、いまは巨匠といわれている。変な文章ではあるが、読み易いので、私は、このような心のうつろな時には、取り出して読んでみるのである。好きなのであろう。もっともらしい顔して読んでいって、突然、げらげら笑い出した。この男の笑い声には、特色がある。馬の笑いに似ている。私は、呆《あき》れたのである。その作家自身ともおぼしき主人公が、ふんべつ顔して風《ふ》呂《ろ》敷《しき》持って、湖《こ》畔《はん》の別荘から、まちへ夕食のおかずを買いに出かけるところが書かれていたのであるが、いかにもその主人公のさまが、いそいそしていて、私には情けなく、笑ってしまった。いい年をして、立派な男が、女房に言いつけられて、風呂敷持って、いそいそ町へ、ねぎ買いに出かけるとは、これは、あまりにひどすぎる。怠《なま》け者にちがいない。こんな生活は、いかん。なんにもしないで、うろうろして、女房も見かねて、夕食の買い物をたのむ。よくあることだ。たのまれて、うん、ねぎを五銭だね、と首《しゆ》肯《こう》し、ばかなやつ、帯をしめ直して、何か自分がいささかでも役に立つことがうれしく、いそいそ、風呂敷もって、買い物に出かける。情けない、情けない。眉《まゆ》ふとく、鬚《ひげ》の剃《そ》り跡青き立派な男じゃないか。私は、多少狼《ろう》狽《ばい》して、その本を閉じ、そっと本棚へ返して、それからまた、なんということもない。頬《ほお》杖《づえ》ついて、うっそりしている。怠けものは、陸の動物にたとえれば、まず、歳《とし》とった病犬であろう。なりもふりもかまわず、四足をなげ出し、うす赤い腹をひくひく動かしながら、日《ひ》向《なた》に一日じっとしている。ひとがその傍《そば》を通っても、吠《ほ》えるどころか、薄目をあけて、うっとり見送り、また眼をつぶる。みっともないものである。きたならしい。海の動物にたとえれば、なまこであろうか。なまこは、たまらない。いやらしい。ひとで、であろうか。べっとり岩にへばりついて、ときどき、そろっと指を動かして、そうして、ひとでは何も考えていない。ああ、たまらない、たまらない。私は猛然と立ち上がる。
おどろくことはない。御《ご》不《ふ》浄《じよう》へ行って来たのである。期待に添《そ》わざること、おびただしい。立ったまま、ちょっと思案し、それから、のそのそ隣りの部屋へはいっていって、
「おい、何か用がないかね?」
隣室では、家の者が、縫いものをしている。
「はい、ございます」顔もあげずに、そう答えて、「この鏝《こて》を焼いて置いて下さい」
「あ、そうか」
鏝を受けとり、大きな男が、また机のまえに坐《すわ》って、かたわらの火鉢の灰の中に、ぐいとその鏝をさし込むのである。
さし込んで、何か大役をすました者のごとく、落ちつきはらって、煙草を吸っている。これでは、何も、かの、風呂敷持って、ねぎ買いに行く姿と、異なるところがない。もっと悪い。
つくづく呆れ、憎み、自分自身を殺したくさえなって、ええッ! と、やけくそになって書き出した、文字が、なんと、
懶《らん》惰《だ》の歌《か》留《る》多《た》。
ぽつり、ぽつり、考え、考えしながら書いてゆく所存と見える。
い、生くることにも心せき、感ずることも急がるる。
ヴィナスは海の泡《あわ》から生まれて、西風に導かれ、波のまにまに、サイプラスの島の浦《うら》曲《み》に漂着した。四《し》肢《し》は気品よく細長く、しっとりと重くて、乳白色の皮膚のところどころ、すなわち耳《じ》朶《だ》、すなわち頬《ほお》、すなわち掌の裡《うち》、一様に薄い薔《ば》薇《ら》色に染まっていて、小さい顔は、かぐようほどに清浄であった。からだじゅうからレモンの匂《にお》いに似た高い香気が発していた。ヴィナスのこの美しさに魅せられた神々たちは、このひとこそは愛と美の女神であると言ってあがめたて、心ひそかにけしからぬ望みをさえいだいたのである。
ヴィナスが白鳥に曳《ひ》かせた二輪車に乗り、森や果樹園のなかを駈《か》けめぐって遊んでいると、けしからぬ望みを持った数十人の神々たちは、二輪車の濛《もう》々《もう》たる車《しや》塵《じん》を浴びながら汗を拭《ふ》き拭き、そのあとを追いまわした。遊び疲れたヴィナスが森の奥の奥の冷たい泉で、汗ばんだ四肢をこっそり洗っていると、あちらの樹間に、また、ついそこの草の茂みのかげに、神々たちのいやらしい眼が光っていた。
ヴィナスは考えた。こんなに毎日うるさい思いをするよりは、いっそ誰かにこのからだをぶち投げてあげようか。これときめた一人の男のひとに、このからだを投げてやってしまおうか。
ヴィナスは決意した。一月一日の朝まだき、神々の御父ジュピター様の宮殿へおまいりの途中で逢《あ》った三人目の男のひとを私の生《しよう》涯《がい》の夫ときめよう。ああ、ジュピター様、おたのみ申します、よい夫をおさずけ下さいますように。
元旦。ま白き被布を頭からひきかぶり、飛ぶようにして家を出た。森の小路で一《いち》人《にん》目《め》の男のひとに逢《あ》った。見るからにむさくるしい毛むくじゃらの神であった。森の出口の白《しら》樺《かば》の下で二人目の男のひとに逢った。ヴィナスの脚《あし》は、はたと止まって動かなんだ。男、りんりんたる美丈夫であったのである。朝霧の中を腕組みして、ヴィナスの顔を見もせずにゆったりと歩いていった。「ああこの人だ! 三人目はこの人だ。二人目は、――二人目はこの白樺」そう叫んでますらおの広いみ胸に身を投げた。
与えられた運命の風のまにまに身を任せ、そうして大事の一点で、ひらっと身をかわして、より高い運命を創《つく》る。宿命と、一点の人為的なる技術。ヴィナスの結婚は仕合わせであった。ますらおこそはジュピター様の御《おん》曹《ぞう》子《し》、雷電の征服者ヴァルカンその人であった。キューピッドという愛くるしい子をさえなした。
諸君が二十世紀の都会の街路で、このような、うらないを、暮《ぼ》靄《あい》ひとめ避けつつ、ひそかに試みる場合、必ずしも律《りち》儀《ぎ》に三人目のひとを選ばずともよい。時によっては、電柱を、ポストを、街路樹を、それぞれ一人に数え上げるがよい。キューピッドの生まれることは保証の限りでないけれども、ヴァルカン氏を得ることは確かである。私を信じなさい。
ろ、牢《ろう》屋《や》は暗い。
暗いばかりか、冬寒く、夏暑く、臭く、百万の蚊群。たまったものではない。
牢屋は、これは避けなければいけない。
けれども、ときどき思うのであるが、修身、斉《せい》家《か》、治国、平天下、の順序には、固くこだわる必要はない。身いまだ修らず、一家もとより斉《ととの》わざるに、治国、平天下を考えなければならぬ場合もあるのである。むしろ順序を、逆にしてみると、爽《そう》快《かい》である。平天下、治国、斉家、修身。いい気持だ。
私は、河《かわ》上《かみ》肇《はじめ》博士の人柄を好きである。
は、母よ、子のために怒れ。
「いいえ、私には信じられない。悪いのは、あなただ。この子は、情のふかい子でした。この子は、いつでも弱いものをかばいました。この子は、私の子です。おお、よし。お泣きでない。こうしてお母さんが、来たからには、もう、指一本ふれさせまい!」
に、憎まれて憎まれて強くなる。
たまには、まともな小説を書けよ。おまえこのごろ、やっと世間の評判も、よくなって来たのに、また、こんなぐうたらな、いろは歌留多なんて、こまるじゃないか。世間の人は、おまえは、まだ病気がなおらないのではないかと、また疑い出すかも知れないよ。
私のいい友人たちは、そう言って心配してくれるかも知れないが、それは、もう心配しなくていいのだ。私は、まだ、老人でない。このごろそれに気がついた。なんのことは、ない、すべて、これからである。未熟である。文章ひとつ、考え考えしながら書いている。まだまだ自分のことで一ぱいである。怒り、悲しみ、笑い、身《み》悶《もだ》えして、一日一日を送っている始末である。やはり、三十一歳は、三十一歳だけのことしかないのである。それに気がついたのである。あたりまえのことであるが、私は、これをありがたい発見だと思っている。戦争と平和や、カラマゾフ兄弟は、まだまだ私には、書けないのである。それは、もう、はっきり明言できるのである。絶対に書けない。気持だけは、行きとどいていても、それを持ちこたえる力量がないのである。けれども、私は、そんなに悲しんではいない。私は、長生きをしてみるつもりである。やってみるつもりである。この覚《かく》悟《ご》も、このごろ、やっとついた。私は、文学を好きである。その点は、よほどのものである。これを茶化しては、いけない。好きでなければ、やれるものではない。信仰、――少しずつ、そいつがわかって来るのだ。大きな男が、ふんべつ顔して、いろは歌留多などを作っている図は、まるで弁《べん》慶《けい》が手まりついて遊んでいる図か、仁王様が千代紙折っている図か、モーゼがパチンコで雀《すずめ》をねらっている図ぐらいに、すこぶる珍なものに見えるだろうと、思う。それは、知っている。けれども、それでいいと思っている。芸術とは、そんなものだ。大まじめである。見ることのできる者は、見るがよい。
もちろん私は、こんな形式のものばかり書いて、満足しているものではない。こんな、ややこしい形式は、私自身も、骨が折れて、いやだ。既成の小説の作法も、ちゃんと抜からずマスターしているはずである。現に、この小説の中にも、随所にずるく採用してある。私も商人なのだから、そのへんは心得ている。いわゆる、おとなしい小説も、これからは書くのである。どうも、こんなこと書きながら、みっともなく、顔がほてって来てしようがない。でも、これも、私のいい友人たちを安心させるために、どうしても、書いて置きたく思うのである。純粋を追うて、窒《ちつ》息《そく》するよりは、私は濁っても大きくなりたいのである。いまは、そう思っている。なんのことは、ない、一言で言える。負けたくないのである。
この作品が、健康か不健康か、それは読者がきめてくれるだろうと思うが、この作品は、決して、ぐうたらではない。ぐうたら、どころか、私は一生懸命である。こんな小説を、いま発表するのは、私にとって不利益かも知れない。けれども、三十一歳は、三十一歳なりに、いろいろ冒険してみるのが、ほんとうだと思っている。戦争と平和は、私にはまだ書けない。私は、これからも、さまざまに迷うだろう。くるしむだろう。波は荒いのである。その点は、自《うぬ》惚《ぼ》れていない。充分、小心なほどに、用心しているつもりである。この作品の形式も、情感も、結局、三十一歳のそれを一歩も出ていないに違いない。けれども、私は、それに自信を持たなければいけない。三十一歳は、三十一歳みたいに書くよりほかに仕方がない。それが一ばんいいのだと思っている。書きながら、へんに悲しくなって来た。こんなことを書いて、いけなかったのかも知れない。けれども、胸がわくわくして、どうしても書かずにいられなかったのだ。このごろは、全く、用心して用心して、薄氷を渡る気持で生活しているのである。ずいぶん、ひどく、やっつけられたから。
でも、もういい。私は、やってみる。まだ少し、ふらふらだが、そのうち丈夫に育つだろう。嘘《うそ》をつかない生活は、決してたおれることはないと、私は、まず、それを信じなければ、いけない。
さて、むかしの話を一つしよう。
不仕合わせである、と思った。ひと、みな、私を、まだまだ仕合わせなほうだよ、と評した。私は気弱く、そうとも、そうとも、と首《しゆ》肯《こう》した。なにが不足で、あがくのだろう。好き好んで苦しみを買っているのだ。人生の、生活のディレッタント、運がよすぎて恐縮していやがる、あんなたちの女があるよ苦労性と言ってね陰口だけを気にしている。
あるいはまた、佳《か》人《じん》薄命、懐玉有罪、など言って、私をして、いたく赤面させ、狼《ろう》狽《ばい》させて私に大酒のませる悪戯《いたずら》者《もの》まで出て来た。
けれども、某夜、君は不幸な男だね、と普通の音声で言って平気でいた人、佐《さ》藤《とう》春《はる》夫《お》である。私は、ぱっと行くてがひらけた実感に打たれ、ほんとにそう思いますか、と問いただした。私は、うすく微《ほほ》笑《え》んでいたような気がする。うん、不幸だ、とやはり気易く首《しゆ》肯《こう》した。
もう一人、文芸春秋社のほの暗い応接室で、M・Sさん。きみと、しんじゅうするくらいに、きみを好いてくれるような、そんな、編《へん》輯《しゆう》者《しや》でも出て来ぬかぎり、きみは、不幸な、作家だ、と一語ずつ区切ってはっきり言った。そのように、きっぱり打ち明けてくれるSさんの痩《そう》躯《く》に満ちた決意のほどを、私は尊いことに思った。
多くの場合、私はただ苦笑をもって報いられていたのである。多くの人々にとって、私は、なんだかうるさい、ただ生意気な存在であった。けれども私は、みんなを畏《い》怖《ふ》して、それから、みんなすこしでも、そうして一時間でも永く楽しませ、自信を持たせ、大笑いさせたく、そのことをのみ念じていた。私は盗賊のふりをした。乞《こ》食《じき》の真似をさえして見せた。心の奥の一隅に、まことの盗賊を抱き、乞食の実感を宿し、懊《おう》悩《のう》輾《てん》転《てん》の日夜を送っている弱い貧しい人の子は、私の素振りの陰に罪の兄貴を発見して、ひそかに安《あん》堵《ど》、生きることへの自負心を持ってくれるにちがいない、と信じていた。ばかなことを考えていたものである。たちまち私は蹴《け》落《お》とされた。審判の秋。私は、にくしみの対象に変化していた。ある重要な一線において、私は、明確におろそかであった。怠《たい》惰《だ》であった。一線、やぶれて、決《けつ》河《か》の勢《いきおい》、私は、生まれ落ちるとからの極悪人よ、と指摘された。弱い貧しい人の怨《えん》嗟《さ》、嘲《ちよう》罵《ば》の焔《ほのお》は、かつての罪の兄貴の耳《じ》朶《だ》を焼いた。あちちちち、とおかしい悲鳴をあげて、右往、左往、炉縁に寄れば、どんぐりの爆発、水《みず》瓶《がめ》の水のもうとすれば、蟹《かに》の鋏《はさみ》、びっくり仰天、尻《しり》餅《もち》つけばおしりの下には熊《くま》蜂《ばち》の巣、こはかなわずと庭へ飛び出たら、屋根からごろごろ臼《うす》のお見舞い、かの猿《さる》蟹《かに》合戦、猿への刑罰そのままの八方ふさがり、身もたえだえ、魔《ま》窟《くつ》の一室にころがり込んだ。
あの夜のことを、私は忘れぬ。死のうと思っていた。しかたがないのである。酔いどれて、マントも脱がずにぶったおれて、
「やい、むかしの名《めい》妓《ぎ》というものは」女は傍《そば》で笑っていた。「どんな奴《やつ》にでも、なんでもなく身をまかせたんだ。水みたいに、のれんみたいに、そのまま身をまかせるんだ。そうしてモナ・リザみたいに少し唇《くちびる》ゆがめて、静かにしていると、お客は狂っちゃうんだ。田《でん》地《ち》田《でん》畑《ぱた》売りはらうんだ。いいかい、そこんところは大事だぞ。むかしから名妓とうたわれているひとは、みんな、そうだった。むやみに、指輪なんかねだっちゃいけないんだ。いつまでも、だまって足りなそうにしているんだ。芸は売っても、からだは売らぬなんて、操《みさお》を固くしている人は、そこは女だ、やっぱりからだをまかせると、それっきりお客がつかず、どうしたって名妓には、なれないんだ」ひどい話である。サタンの美学、名妓論の一端とでも言うのか。めちゃくちゃのこと怒鳴り散らして、眠りこけた。
ふと眼をさますと、部屋は、まっくら。頭をもたげると枕もとに、真っ白い角封筒が一通きちんと置かれてあった。なぜかしら、どきッとした。光るほどに純白の封筒である。キチンと置かれていた。手を伸ばして、拾いとろうとすると、むなしく畳をひっ掻《か》いた。はッと思った。月かげなのだ。その魔《ま》窟《くつ》の部屋のカーテンのすきまから、月光がしのびこんで、私の枕もとに真四角の月かげを落としていたのだ。凝《ぎよう》然《ぜん》とした。私は、月から手紙をもらった。言いしれぬ恐怖であった。
いたたまらず、がばと跳《は》ね起き、カーテンひらいて窓を押し開け、月を見たのである。月は、他人の顔をしていた。何か言いかけようとして、私は、はっと息をのんでしまった。月は、それでも、知らんふりである。酷冷、厳徹、どだい、人間なんて問題にしていない。けたがちがう。私は醜く立ちつくし、苦笑でもなかった、含《がん》羞《しゆう》でもなかった、そんな生やさしいものではなかった。唸《うな》った。そのまま小さい、きりぎりすに成りたかった。
甘ったれていやがる。自然の中に、小さく生きて行くことの、孤独、峻《しゆん》厳《げん》を知りました。かみなりに家を焼かれて瓜《うり》の花。その、はきだめの瓜の花一輪を、強く、大事に、育てて行こうと思いました。
ほ、蛍《ほたる》の光、窓の雪。
清《せい》窓《そう》浄《じよう》机《き》、われこそ秀才と、書物ひらいて端《たん》坐《ざ》しても、ああ、その窓のそと、号外の鈴の音が通るよ。それでも私たちは、勉強していなければいけないのだ。聞けよ、金魚もただ飼い放ちあるだけでは月余の命もたず、と。
へ、兵を送りてかなしかり。
戦地へ行く兵隊さんを見送って、泣いては、いけないかしら。どうしても、涙が出て出て、だめなんだ。おゆるし下さい。
と、とてもこの世は、みな地獄。
不忍《しのばず》の池、とある夜ふと口をついて出て、それから、おや? おかしな名詞だな、と気づいた。これには、きっとこんな由来があったのだ。それにちがいない。
たしかな時代は、わからぬ。江戸の旗本の家に、冠《かんむり》若太郎という十七歳の少年がいた。さくらの花びらのように美しい少年であった。竹馬の友に、由《ゆ》良《ら》小次郎という、十八歳の少年武士があった。これは、三日月のように美しい少年であった。冬の曇日、愛馬の手《た》綱《づな》の握りかたについて、その作法について、二人のあいだに意見の相違が生じ、争論の末、一方の少年の、にやりという片《かた》頬《ほお》の薄笑いが、もう一方の少年を激怒させた。
「切る」
「よろしい。ゆるさぬ」決闘の約束をしてしまった。
その約束の日、由良氏は家を出ようとして、冷《ひ》雨《さめ》びしょびしょ。内へひきかえして、傘《かさ》さして出かけた。申し合わせたところは、上野の山である。途中、傘なくしてまちの家の軒下に雨宿りしている冠氏の姿を認めた。冠氏は、薄紅の山茶花《さざんか》のごとく寒しげに、肩を小さくすぼめ、困惑の有様であった。
「おい」と由良氏は声をかけた。
冠氏は、きょろとして由良を見つけ、にっと笑った。由良氏も、すこし頬《ほお》を染めた。
「行こう」
「うむ」冬雨の中を、ふたり並んで歩いた。
一つの傘に、ふたり、頭を寄せて、歩いていた。そうして、さだめの地点に行きついた。
「用意は?」
「できている」
すなわち刀を抜いて、向き合って、ふたり同時にぷっと噴き出した。切り結んで、冠氏が負けた。由良氏は、冠氏の息の根を止めたのである。
刀の血を、上野の池で洗って清めた。
「遺恨は遺恨だ。武士の意地。約束は曲げられぬ」
その日より、人呼んで、不忍《しのばず》の池。味気ない世の中である。
ち、畜生のかなしさ。
むかしの築城の大家は、城の設計にあたって、その城の廃《はい》墟《きよ》になったときの姿を、最も顧慮して図をひいた。廃墟になってから、ぐんと姿がよくなるように設計して置くのである。むかしの花火つくりの名人は、打ちあげられて、玉が空中でぽんと割れる、あの音に最も苦心を払った。花火は聞くもの。陶器は、掌に乗せたときの重さが、一ばん大事である。古来、名工と言われるほどの人は、皆この重さについて、最も苦慮した。
などと、もっともらしい顔をして家の者たちに教えてやると、家の者たちは、感心して聞いている。なに、みな、でたらめなのだ。そんなばからしいこと、なんの本にだって書かれてはいない。
また言う。
こいしくば、たずね来て見よいずみなる、しのだの森のうらみくずの葉。これは、誰《だれ》でも知っている。牝《めす》の狐《きつね》の作った歌である。うらみくずの葉というところ、やっぱり畜生の、あさましい恋情がこもっていて、はかなく、悲しいのである。底の底に、何か凄《すご》い、この世のものでない恐ろしさが感じられるのである。むかし、江戸深《ふか》川《がわ》の旗本の妻女が、若くして死んだ。女児ひとりをのこしていった。一夜、夫の枕もとに現われて、歌を詠《よ》んだ。闇《やみ》の夜の、におい山《やま》路《みち》たどりゆき、かな哭《な》く声に消えまよいけり。におい山路は、冥《めい》土《ど》に在る山の名前かも知れない。かなは、女児の名であろう。消えまよいけりは、いかにも若い女の幽霊らしく、あわれではないか。
いまひとつ、これも妖《よう》怪《かい》の作った歌であるが、事情は、つまびらかでない。意味も、はっきりしないのだが、やはり、この世のものでない凄《せい》惨《さん》さが、感じられるのである。それは、こんな歌である。わぎもこを、いとおし見れば青《あお》鷺《さぎ》や、言《こと》の葉なきをうらみざらまし。
そうして白状すれば、みんな私のフィクションである。フィクションの動機は、それは作者の愛情である。私は、そう信じている。サタニズムではない。
り、竜宮さまは海の底。
老《ろう》憊《はい》の肉体を抱き、見果てぬ夢を追い、荒涼の磯《いそ》をさまようもの、白髪の浦島太郎は、やはりこの世にうようよ居る。かなぶんぶんを、バットの箱にいれて、その虫のあがく足音、かさかさというのを聞きながら目を細めて、これは私のオルゴールだ、なんて、ずいぶん悲惨なことである。古くは、ドイツ廃帝。または、エチオピア皇帝。きのうの夕刊によると、スペイン大統領、アサーニア氏も、とうとう辞職してしまった。もっとも、これらの人たちは、案外のんきに、自適しているのかも知れない。桜の園を売り払っても、なあに山野には、桜の名所がたくさんある、そいつを皆わがものと思って眺《なが》めてたのしむのさ、と、そこは豪傑たち、さっぱりしているかも知れない。けれども私は、ときどき思うことがある。宋《そう》美《び》齢《れい》は、いったい、どうするだろう。
ぬ、沼の狐《きつね》火《び》。
北国の夏の夜は、ゆかた一枚では、肌《はだ》寒い感じである。当時、私は十八歳、高等学校の一年生であった。暑中休暇に、ふるさとの邑《むら》へかえって、邑のはずれのお稲《いな》荷《り》の沼に、毎夜、毎夜、五つ六つの狐火が燃えるという噂《うわさ》を聞いた。
月の無い夜、私は自転車に提《ちよう》灯《ちん》をつけて、狐火を見に出かけた。幅一尺か、五寸くらいの心細い野道を、夏草の露を避けながら、ゆらゆら自転車に乗っていった。みちみち、きりぎりすの声うるさく、ほたるも、ばらまかれたようにたくさん光っていた。お稲荷の鳥居をくぐり、うるしの並木路を走り抜け、私は無意味やたらに自転車の鈴を鳴らした。
沼の岸に行きついて、自転車の前輪が、ずぶずぶぬかった。私は、自転車から降りて、ほっと小さい溜《ため》息《いき》。狐火を見た。
沼の対岸、一つ、二つ、三つの赤いまるい火が、ゆらゆら並んでうかんでいた。私は自転車をひきずりながら、沼の岸づたいに歩いていった。周囲十丁くらいの小さい沼である。
近寄ってみると、五人の老《ろう》爺《や》が、むしろをひいて酒《さか》盛《もり》をしていた。狐火は、沼の岸の柳の枝にぶらさげた三個の燈《とう》籠《ろう》であった。運動会の日の丸の燈籠である。老爺たちは、私の顔を覚えていて、みんな手をうって笑って、私を歓迎した。私は、その五人のうちの二人の老爺を知っていた。ひとりは米屋で破産、ひとりは汚い女をおめかけに持って痴《ち》呆《ほう》になり、ともにふるさとの、笑いものであった。沼の水を渡って来る風は、とても臭い。
五人のもの、毎夜ここに集《つど》い、句会をひらいているというのである。私の自転車の提《ちよう》灯《ちん》の火を見て、さては、狐火、と魂《たましい》消《け》しましたぞ、などと相かえり見て言って、またひとしきり笑いさざめくのである。私は、冷たいにごり酒を二、三杯のまされ、そうして、かれらの句というものを、いくつか見せつけられたのである。いずれも、ひどく下手くそであった。すすきのかげの、されこうべ、などという句もあった。私はそのまま、自転車に乗って家へかえった。
「明月や、座に美しき顔もなし」芭蕉《ばしよう》も、ひどいことを言ったものだ。
る、流《る》転《てん》輪《りん》廻《ね》。
ここには、ある帝大教授の身の上を書こうと思ったのであるが、それが、なかなかむずかしい。その教授は、つい二、三日まえに、起訴された。左傾思想、ということになっている。けれども、この教授は、五、六年まえ、私たち学生のころ、自ら学生の左傾思想の善導者をもって任じていたはずである。そうして、そのころの教授の、善導の言論も、やはり今日の起訴の理由の一つとして挙げられている。そのへんが、なかなかむずかしいのである。
もう四、五日余裕があれば、私も、いろいろと思案し、工夫をこらして、これを、なんとか一つの物語にまとめあげて、お目にかけるのだが、きょうは、すでに三月二日である。この雑誌は、三月十日前後に発売されるらしいのだから、きょうあたりは、それこそぎりぎりの締切日なのであろう。私は、きょうは、どんなことがあっても、この原稿を印刷所へ、とどけなければいけない。そう約束したのである。こんな、苦しい思いをするのも、つまりは日常の怠《たい》惰《だ》の故である。こんなことでは、たしかにいけない。覚悟ばかりは、たいへんでも、今までみたいに怠けていたんじゃ、ろくな小説家になれない。
を、姥《おば》捨《すて》山のみねの松風。
もって自戒とすべし。もういちど、こんな醜態を繰りかえしたら、それこそは、もう姥捨山だ。懶《らん》惰《だ》の歌留多。文字どおり。これは懶惰の歌留多になってしまった。はじめから、そのつもりでは、なかったのか? いいえ、もう、そんな嘘《うそ》は吐《つ》きません。
わ、われ山にむかいて眼を挙ぐ。
か、下民しいたげ易く、上天あざむき難し。
よ、夜の次には、朝が来る。
八十八夜
諦《あきら》めよ、わが心、獣《けもの》の眠りを眠れかし。(C・B)
笠《かさ》井《い》一《はじめ》さんは、作家である。ひどく貧乏である。このごろ、ずいぶん努力して、通俗小説を書いている。けれども、ちっとも、ゆたかにならない。くるしい。もがきあがいて、そのうちに呆《ぼ》けてしまった。いまは、何も、わからない。いや、笠井さんの場合、何もわからないと、そう言ってしまっても、ウソなのである。ひとつ、わかっている。一寸さきは闇《やみ》だということだけが、わかっている。あとは、もう、何もわからない。ふっと気がついたら、そのような五里霧中の、山なのか、野原なのか、街頭なのか、それさえ何もわからない、ただ身のまわりに不愉快な殺気だけがひしひしと感じられ、とにかく、これは進まなければならぬ。一寸さきだけは、わかっている。油断なく、そろっと進む、けれども何もわからない。負けずに、つっぱって、また一寸そろっと進む。何もわからない。恐怖を追い払い追い払い、無理に、荒《すさ》んだ身振りで、また一寸、ここは、いったいどこだろう、なんの物音もない。そのような、無限に静寂な、真っ暗《くら》闇《やみ》に、笠井さんは、いた。
進まなければならぬ。何もわかっていなくても絶えず、一寸でも、五分でも、身を動かし、進まなければならぬ。腕をこまぬいて頭を垂れ、ぼんやり佇《たたず》んでいようものなら、――一瞬間でも、懐《かい》疑《ぎ》と倦《けん》怠《たい》に身を任せようものなら、――たちまち玄《げん》翁《のう》で頭をがんとやられて、周囲の殺気は一時に押し寄せ、笠井さんのからだは、みるみる蜂《はち》の巣《す》になるだろう。笠井さんには、そう思われて仕方がない。それゆえ、笠井さんは油断をせず、つっぱって、そろ、そろ、一寸ずつ真の闇《やみ》の中を油汗流して進むのである。十日、三《み》月《つき》、一年、二年、ただ、そのようにして笠井さんは進んだ。まっくら闇に生きていた。進まなければならぬ。死ぬのが、いやなら進まなければならぬ。ナンセンスに似ていた。笠井さんも、さすがに、もう、いやになった。八方ふさがり、と言ってしまうと、これもウソなのである。進める。生きておれる。真っ暗闇でも、一寸さきだけは、見えている。一寸だけ、進む。危険はない。一寸ずつ進んでいるぶんには、間違いないのだ。これは、絶対に確実のように思われる。けれども、――どうにも、この相も変わらぬ、無際限の暗黒一色の風景は、どうしたことか。絶対に、ああ、ちりほどの変化もない。光はもちろん、嵐《あらし》さえ、ない。笠井さんは、闇の中で、手さぐり手さぐり、一寸ずつ、いも虫のごとく進んでいるうちに、静かに狂気を意識した。これは、ならぬ。これは、ひょっとしたら、断頭台への一本道なのではあるまいか。こうして、じりじり進んでいって、いるうちに、いつとはなしに自滅する酸《さん》鼻《び》の谷なのではあるまいか。ああ、声あげて叫ぼうか。けれども、むざんのことには、笠井さん、あまりの久しい卑《ひ》屈《くつ》により、自身の言葉を忘れてしまった。叫びの声が、出ないのである。走ってみようか。殺されたって、いい。人は、なぜ生きていなければ、ならないのか。そんな素《そ》朴《ぼく》の命題も、ふいと思い出されて、いまは、この闇の中の一寸歩きに、ほとほと根《こん》も尽き果て、五月のはじめ、あり金さらって、旅に出た。この脱走が、間違っていたら、殺してくれ、殺されても、私は、微《ほほ》笑《え》んでいるだろう。いま、ここで忍従の鎖を断ち切り、それがために、どんな悲惨の地獄に落ちても、私は後悔しないだろう。だめなのだ。もう、これ以上、私は自身を卑屈にできない。自由!
そうして、笠井さんは、旅に出た。
なぜ、信《しん》州《しゆう》を選んだのか。他に、知らないからである。信州にひとり、湯《ゆ》河《が》原《わら》にひとり、笠井さんの知っている女が、いた。知っている、と言っても、寝たのではない。名前を知っているだけなのである。いずれも宿舎の女中さんである。そうして信州のひとも、伊《い》豆《ず》のひとも、つつましく気がきいて、口《くち》下《べ》手《た》の笠井さんには、何かとありがたいことが多かった。湯河原には、もう三年も行かない。いまでは、あのひとも、あの宿屋にいないかも知れない。あのひとが、いなかったら、なんにもならない。信州、上《かみ》諏《す》訪《わ》の温泉には、去年の秋も、下手くその仕事をまとめるために、行って、五、六日お世話になった。きっと、まだ、あの宿で働いているにちがいない。
めちゃなことをしたい。思い切って、めちゃなことを、やってみたい。私にだって、まだまだロマンチシズムは、残ってあるはずだ。笠井さんは、ことし三十五歳である。けれども髪の毛も薄く、歯も欠けて、どうしても四十歳以上のひとのように見える。妻と子のために、また多少は、俗世間への見栄のために、何もわからぬながら、ただ懸命に書いて、お金をもらって、いつとはなしに老けてしまった。笠井さんは、行ない正しい紳士である、と作家仲間が、決定していた。事実、笠井さんは、良い夫、良い父である。生来の臆《おく》病《びよう》と、過度の責任感の強さとが、笠井さんに、いわば良人の貞操を固く守らせていた。口下手ではあり、行動はきわめて鈍重だし、そこは笠井さんも、あきらめていた。けれども、いま、おのれの芋《いも》虫《むし》に、うんじ果て、爆発して旅に出て、なかなか、めちゃな決意をしていた。何か光を。
下《しも》諏《す》訪《わ》まで、切符を買った。家を出て、まっすぐに上諏訪へ行き、わきめも振らずあの宿へ駈《か》け込み、そうして、いきせき切って、あのひと、いますか、あのひと、いますか、と騒ぎたてる、そんな形になるのが、いやなので、わざと上諏訪から一つさきの下諏訪まで、切符を買った。笠井さんは、下諏訪には、まだいちども行ったことがない。けれども、そこで降りてみて、いいようだったら、そこで一泊して、それから多少、紆《う》余《よ》曲《きよく》折《せつ》して、上諏訪のあの宿へ行こう、という、きざな、あさはかな気取りである。含《がん》羞《しゆう》でもあった。
汽車に乗る。野も、畑も、緑の色が、うれきったバナナのような酸《す》い匂《にお》いさえ感ぜられて、いちめんに春が爛《らん》熟《じゆく》していて、きたならしく、青みどろ、どろどろ溶けて氾《はん》濫《らん》していた。いったいに、この季節には、べとべと、噎《む》せるほどの体臭がある。
汽車の中の笠井さんは、へんに悲しかった。われに救いあれ。みじんも冗談でなく、そんな大げさな言葉を仰《あお》向《む》いてこっそり呟《つぶや》いたほどである。懐中には、五十円と少しあった。
「アンドレア・デル・サルトの、……」
ばかに大きな声で、突然そんなことを言い出した人があるので、笠井さんは、うしろを振りむいた。登山服着た青年が二人、同じ身《み》拵《ごしら》えの少女が三人。いま大声を発した男は、その一団のリーダー格の、ベレ帽をかぶった美青年である。少し日焼けして、なかなかおしゃれであるが、下品である。
アンドレア・デル・サルト。その名前を、そっと胸のうちで誦《ず》してみて、笠井さんは、どぎまぎした。何も、浮かんで来ないのだ。忘れている。いつか、いつだったか、その名を、仲間と共に一晩言って、なんだか議論をしたような、それは遠い昔のことだったように思われるけれども、たしかに、あれは問題の人だったような気がするのだが、いまは、なんにもわからない。記憶が、よみがえって来ないのだ。ひどいと思った。こんなにも、綺《き》麗《れい》さっぱり忘れてしまうものなのか。あきれたのである。アンドレア・デル・サルト。思い出せない。それは、一体、どんな人です。わからない。笠井さんは、いつか、いつだったか、その人について、たしかに随筆書いたことだってあるのだ。忘れている。思い出せない。ブラウニング。――ミュッセ。――なんとかして、記憶の蔓《つる》をたどっていって、その人の肖《しよう》像《ぞう》に行きつき、あッ、そうか、あれか、と腹に落ち込ませたく、身《み》悶《もだ》えをして努めるのだが、だめである。その人が、どこの国の人で、いつごろの人か、そんなことは、いまは思い出せなくていいんだ。いつか、むかし、あのとき、その人に寄せた共感を、ただそれだけを、いま実感として、ちらと再び掴《つか》みたい。けれども、それは、いかにしても、だめであった。浦島太郎。ふっと気がついたときには、白髪の老人になっていた。遠い。アンドレア・デル・サルトとは、再び相見ることはない。もう地平線のかなたに去っている。雲煙模《も》糊《こ》である。
「アンリ・ベックの、……」背後の青年が、また言った。笠井さんは、それを聞き、ふたたび頬を赤らめた。わからないのである。アンリ・ベック。誰だったかなあ。たしかに笠井さんは、その名を、かつて口にし、また書きしたためたこともあったような気がするのである。わからぬ。ポルト・リッシュ。ジェラルデイ。ちがう、ちがう。アンリ・ベック。……どんな男だったかなあ。小説家かい? 画家じゃないか。ヴェラスケス。ちがう。ヴェラスケスって、なんだい。突拍子もないじゃないか。そんなひと、あるのかい? 画家さ。ほんとうかい? なんだか、全部、心細くなって来た。アンリ・ベック。はてな? わからない。エレンブルグとちがうか。冗談じゃない。アレクセーフ。ロシア人じゃないよ。とんでもない。ネルヴァル。ケラー。シュトルム。メレディス。なにを言っているのだ。あッ、そうだ、デュルフェ。ちがうね。デュルフェって、誰《だれ》だい?
何も、わからない。めちゃくちゃに、それこそ七花八裂である。いろんな名前が、なんの連関もなく、ひょいひょい胸に浮かんで、乱れて、泳ぎ、けれども笠井さんには、そのたくさんの名前の実体を一つとして、鮮明に思い出すことができず、いまは、アンドレア・デル・サルトと、アンリ・ベックの二つの名前の騒ぎではない。何もわからない。口をついて出る、むかしの教師の名前、ことごとくが、匂《にお》いも味も色彩もなく、笠井さんは、ただ、聞いたような名前だなあ、誰だったかなあ、を、ぼんやり繰りかえしている始末であった。一体あなたは、この二、三年、何をしていたのだ。生きていました。それは、わかっている。いいえ、それだけで精一ぱいだったのです。生活のことは、少し覚えました。日々の営みの努力は、ひんまがった釘《くぎ》を、まっすぐに撓《た》め直そうとする努力に、全く似ています。何せ小さい釘のことであるから、ちからの容《い》れどころがなく、それでも曲がった釘を、まっすぐに直すのには、ずいぶん強い圧力が必要なので、傍《はた》目《め》には、ちっともはででないけれども、そもそも、満面に朱をそそいで、いきんでいました。そうして笠井さんは、自分ながら、どうも、はなはだ結構でないと思われるような小説を、どんどん書いて、全く文学を忘れてしまった。呆《ぼ》けてしまった。ときどき、こっそり、チエホフだけを読んでいた。その、くっきり曲がった鉄釘が、少しずつ、少しずつ、まっすぐになりかけて、借金もそろそろ減って来たころ、どうにでもなれ! 笠井さんは、それまでの不断の地味な努力を、泣きべそかいて放《ほう》擲《てき》し、もの狂おしく家を飛び出し、いのちを賭《と》して旅に出た。もう、いやだ。忍ぶことにも限度がある。とても、この上、忍べなかった。笠井さんは、だめな男である。
「やあ、八《やつ》が嶽《たけ》だ。やつがたけだ」
うしろの一団から、れいの大きい声が起こって、
「すげえなあ」
「荘《そう》厳《ごん》ね」とその一団の青年、少女、口々に、駒《こま》が嶽《たけ》の威容を賞讃した。
八が嶽ではないのである。駒が嶽であった。笠井さんは、少し救われた。アンリ・ベックを知らなくても、アンドレア・デル・サルトを思い出せなくっても、笠井さんは、あの三角に尖《とが》った銀色の、そうしていま夕日を受けてバラ色に光っているあの山の名前だけは、知っている。あれは、駒が嶽である。断じて八が嶽では、ない。わびしい無智な誇りではあったが、けれども笠井さんは、やはりほのかな優越感を覚えて、少しほっとした。教えてやろうか、とちょっと、腰を浮かしかけたが、いやいやと自制した。ひょっとしたら、あの一団は、雑誌社か新聞社の人たちかも知れない。談話の内容が、どうも文学に無関心の者のそれではない。劇団関係の人たちかも知れない。あるいは、高級な読者かも知れない。いずれにもせよ、笠井さんの名前ぐらいは、知っていそうな人たちである。そんな人たちのところへ、のこのこ出かけて行くのは、なんだか自分のろくでもない名前を売りつけるようで、おもしろくない。軽《けい》蔑《べつ》されるにちがいない。慎しまなければ、ならぬ。笠井さんは、溜《ため》息《いき》ついて、また窓外の駒が嶽を見上げた。やっぱり、なんだかいまいましい。ちぇっ、ざまを見ろ。アンリ・ベックだの、アンドレア・デル・サルトだの、生意気なこと言っていても、駒が嶽を見て、やあ八が嶽だ、荘厳ねなんて言ってやがる。八が嶽は、ね、もっと信濃《しなの》へはいってから、この反対側のほうに見えるのです。笑われますよ。これは、駒が嶽。別名、甲《か》斐《い》駒《ごま》。海抜二千九百六十六メートル。どんなもんだい、と胸の奥で、こっそりタンカに似たものを呟《つぶや》いてみるのだが、どうも、われながら、栄《は》えない。俗っぽく、貧しく、みじんも文学的な高《こう》尚《しよう》さがない。変わったなあ、としんから笠井さんは、苦笑した。笠井さんだって、五、六年まえまでは、新しい作風を持っている作家として、二、三の先輩の支持を受け、読者も、笠井さんを反逆的な、ハイカラな作家として喝《かつ》采《さい》したものなのであるが、いまは、めっきり、だめになった。そんな冒険の、ハイカラな作風など、どうにも気はずかしくて、いやになった。一向に、気が跳《はず》まないのである。そうしてすこぶる、非良心的な、その場限りの作品を、だらだら書いて、枚数の駈《か》けひきばかりして生きて来た。芸術の上の良心なんて、結局は、虚栄の別名さ。あさはかな、つめたい、むごい、エゴイズムさ。生活のための仕事にだけ、愛情があるのだ。陋《ろう》巷《こう》の、つつましく、なつかしい愛情があるのだ。そんな申しわけを呟きながら、笠井さんは、ずいぶん乱暴な、でたらめな作品を、眼をつぶって書き殴っては、発表した。生活への殉《じゆん》愛《あい》である、という。けれども、このごろ、いや、そうでないぞ。あなたは、結局、低劣になったのだぞ。ずるいのだぞ。そんな風の囁《ささや》きが、ひそひそ耳に忍びこんで来て、笠井さんは、ぎゅっとまじめになってしまった。芸術の尊厳、自我への忠誠、そのような言葉の苛《か》烈《れつ》が、少しずつ、少しずつ思い出されて、これは一体、どうしたことか。一口で、言えるのではないか。笠井さんは、昨今、通俗にさえ行きづまっているのである。
汽車は、のろのろ歩いている。山の、のぼりにかかったのである。汽車から降りて、走ったほうが、早いようにも思われた。実に、のろい。そろそろ八が嶽の全容が、列車の北側に、八つの峯《みね》をずらりとならべて、あらわれる。笠井さんは、瞳《ひとみ》をかがやかしてそれを見上げる。やはり、よい山である。もはや日没ちかく、残光を浴びて山の峯々が幽《かす》かに明るく、線の起伏も、こだわらずゆったり流れて、人生的にやさしく、富士山の、人も無げなる秀《しゆう》抜《ばつ》と較べて、相まさること数倍である、と笠井さんは考えた。二千八百九十九メートル、笠井さんはこのごろ、山の高さや、都会の人口や、鯛《たい》の値段などを、へんに気にするようになって、そうして、よくまた記憶している。もとは、笠井さんも、そのような調査の記録を、写実の数字を、極端に軽《けい》蔑《べつ》して、花の名、鳥の名、樹木の名をさえ俗事と見なして、てんで無関心、うわのそらで、いわば、ひたすらにプラトニックであって、よろずに疎《うと》いおのれの姿をひそかに愛し、高尚なことではないかとさえ考え、甘い誇りにひたっていたものであるが、このごろ、まるで変わってしまった。食卓にのぼる魚の値段を、いちいち妻に問いただし、新聞の政治欄を、むさぼるごとく読み、シナの地図をひろげては、何やら仔《し》細《さい》らしく検討し、ひとりうなずき、また庭にトマトを植え、朝顔の鉢をいじり、さらに百花譜《ひやつかふ》、動物図鑑、日本地理風俗大系などを、ひまひまに開いてみては、路《ろ》傍《ぼう》の草花の名、庭に来て遊んでいる小鳥の名、さては日本の名所旧蹟を、なんの意味もなく調べてみては、したり顔して、すましている。なんの放《ほう》埒《らつ》もなくなった。勇気もない。たしかに、疑いもなく、これは耄《もう》碌《ろく》の姿でないか。ご隠居の老《ろう》爺《や》、それと異なるところがない。
そうして、いまも、笠井さんは八が嶽の威容を、ただ、うっとりと眺めている。ああ、いい山だなあと、背を丸め、顎《あご》を突き出し、悲しそうに眉《まゆ》をひそめて、見とれている。あわれな姿である。その眼前の、凡《ぼん》庸《よう》な風景に、おめぐみ下さい、とつくづく祈っている姿である。蟹《かに》に、似ていた。四、五年まえまでの笠井さんは、決してこんな人ではなかったのである。すべての自然の風景を、理智によって遮《しや》断《だん》し、取捨し、いささかも、それに溺《おぼ》れることなく、いわば「既成概念的」な情緒を、薔《ば》薇《ら》を、すみれを、虫の声を、風を、にやりと薄笑いして敬遠し、もっぱら、「我は人なり、人間の事とし聞けば、善きも悪しきも他《よ》所《そ》事《ごと》とは思われず、そぞろにわが心を躍《おど》らしむ」とばかりに、人の心の奥底を、ただそれだけを相手に、鈍刀ながらも獅《し》子《し》奮《ふん》迅《じん》した、とかいう話であるが、いまは、まるで、だめである。呆《ぼう》然《ぜん》としている。
――山よりほかに、……
なぞという大時代的なばかな感慨にふけって、かすかに涙ぐんだりなんかして、ひどく、だらしない。しばらく、口あいて八が嶽を見上げていて、そのうちに笠井さんも、どうやら自身のだらけ加減に気がついた様子で、独りで、くるしく笑い出した。がりがり後頭部を掻《か》きながら、なんたることだ、日《ひ》頃《ごろ》の重苦しさを一挙に雲散霧消させたくて、何か悪事を、死ぬほど強烈なロマンチシズムを、と喘《あえ》ぎつつ、あこがれ求めて旅に出た。山を見に来たのでは、あるまい。ばかばかしい。とんだロマンスだ。
がやがや、うしろの青年少女の一団が、立ち上がって下車の仕度をはじめ、富《ふ》士《じ》見《み》駅で降りてしまった。笠井さんは、少し、ほっとした。やはり、なんだか、気取っていたのである。笠井さんは、そんなに有名な作家ではないけれども、それでも、誰《だれ》か見ている。どこかで見ている。そんな気がして群集の間にはいったときには、煙草の吸いかたからして、少し違うようである。とりわけ、多少でも小説に関心持っているらしい人たちが、笠井さんの傍《そば》にいるときなどは、誰も、笠井さんなんかに注意しているわけはないのに、それでも、まるで凝固して、首をねじ曲げるのさえ、やっとである。以前は、もっと、ひどかった。あまりの気取りに、窒息、眩暈《めまい》をさえ生じたという。むしろ気の毒な悪《あく》業《ごう》である。もともと笠井さんは、たいへんおどおどした、気の弱い男なのである。精神薄弱症、という病気なのかも知れない。うしろのアンドレア・デル・サルトたちが降りてしまったので、笠井さんも、やれやれと肩の荷を下ろしたよう、下駄を脱いで、両脚をぐいとのばし、前の客席に足を載せかけ、ふところから一巻の書物を取り出した。笠井さんは、これは奇妙なことであるが、文士のくせに、めったに文学書を読まない。まえは、そうでもなかったようであるが、この二、三年の不勉強については、許しがたいものがある。落語全集なぞを、読んでいる。妻の婦人雑誌などを、こっそり読んでいる。いま、ふところから取り出した書物は、ラ・ロシフコーの金言集である。まず、いいほうである。さすがに、笠井さんも、旅行中だけは、落語をつつしみ、少し高級な書物を持って歩く様子である。女学生が、読めもしないフランス語の詩集を持って歩いているのと、ずいぶん似ている。あわれな、おていさいである。パラパラ、ページをめくっていって、ふと、「汝《なんじ》もし己《おの》が心裡に安静を得る能《あた》わずば、他《よ》処《そ》に之を求むるは徒労のみ」というれいの一句を見つけて、いやな気がした。悪い辻《つじ》占《うら》のように思われた。こんどの旅行は、これは、失敗かも知れぬ。
列車が上諏訪に近づいたころには、すっかり暗くなっていて、やがて南側に、湖が、――むかしの鏡のように白々と冷たくひろがり、たったいま結氷から解けたみたいで、鋭く光って肌《はだ》寒く、岸のすすきの叢《くさむら》も枯れたままに黒く立って動かず、荒《こう》涼《りよう》悲惨の風景であった。諏訪湖である。去年の秋に来たときは、も少し明るい印象を受けたのに、信州は、春は駄目なのかしら、と不安であった。下諏訪。とぼとぼ下車した。駅の改札口を出て、懐《ふところ》手《で》して、町のほうへ歩いた。駅のまえに宿の番頭が七、八人並んで立っているのだが、ひとりとして笠井さんを呼びとめようとしないのだ。無理もないのである。帽子もかぶらず、普段着の木綿の着物で、それに、下駄も、ちびている。お荷物、一つ無い。一夜泊まって、大散財しようと、ひそかに決意している旅客のようには、とても見えない。土地の人間のように見えるのだろう。笠井さんは、さすがに少し侘《わ》びしく、雨さえぱらぱら降って来て、とっとと町を急ぐのだが、この下諏訪という町は、またなんという陰惨低劣のまちであろう。駄馬が、ちゃんちゃんと頸《くび》の鈴ならして震えながら、よろめき歩くのに適した町だ。町はば、せまく、家々の軒は黒く、根強く低く、家の中の電燈は薄暗く、ランプか行《あん》燈《どん》でも、ともしているよう。底冷えして、路には大きい石ころがごろごろして、馬の糞《ふん》だらけ。ときどき、すすけた古い型のバスが、ふとった図体をゆすぶりゆすぶり走って通る。木《き》曾《そ》路《じ》、なるほどと思った。湯のまちらしい温かさが、どこにもない。どこまで歩いてみても、同じことだった。笠井さんは、溜《ため》息《いき》ついて、往来のまんなかに立ちつくした。雨が、少しずつ少しずつ強く降る。心細く、泣くほど心細く、笠井さんも、とうとう、このまちを振り捨てることに決意した。雨の中を駅前まで引き返し、自動車を見つけて、上諏訪、滝の屋、大急ぎでたのみます、と、ほとんど泣き声で言って、自動車に乗り込み、失敗、こんどの旅行は、これは、完全に失敗だったかも知れぬ、といても立ってもいられぬほどの後悔を覚えた。
あのひと、いるかしら。自動車は、諏訪湖の岸に沿って走っていた。闇《やみ》の中の湖水は、鉛のように凝然と動かず、一魚一介も、死滅してここには住まわぬ感じで、笠井さんは、わざと眼をそむけて湖水を見ないように努めるのだが、視野のどこかに、その荒涼悲惨がちゃんとはいっていて、のど笛かき切りたいような、ガンと一発ピストル口の中にぶち込みたいような、どこへも持って行き所のない、たすからぬ気持であった。あのひと、いるかしら。あのひと、いるかしら。母の危《き》篤《とく》に駈《か》けつけるときには、こんな思いであろうか。私は、魯《ろ》鈍《どん》だ。私は、愚《ぐ》昧《まい》だ。私は、めくらだ。笑え、笑え。私は、私は、没落だ。なにも、わからない、渾《こん》沌《とん》のかたまりだ。ぬるま湯だ。負けた、負けた。誰にも劣る。苦悩さえ、苦悩さえ、私のは、わけがわからない。つきつめて、何が苦しと言うならず。冗談よせ! 自動車は、やはり、湖の岸をするする走って、やがて上諏訪のまちの灯が、ぱらぱらと散点して見えて来た。雨も晴れた様子である。
滝の屋は、上諏訪において、最も古く、しかも一ばん上等の宿屋である。自動車から降りて、玄関に立つと、
「いらっしゃい」いつも、きちっと痛いほど襟《えり》元《もと》を固く合わせている四十歳前後の、その女将《おかみ》は、青白い顔をして出て来て、冷たく挨《あい》拶《さつ》した。「お泊まりで、ございますか」
女将は、笠井さんを見覚えていない様子であった。
「お願いします」笠井さんは、気弱くあいそ笑いして、軽くお辞儀をした。
「二十八番へ」女将は、にこりともせず、そう小声で、女中に命じた。
「はい」小さい、十五、六の女中が立ち上がった。
そのとき、あのひとが、ひょっこり出て来た。
「いいえ。別館、三番さん」そう乱暴な口調で言って、さっさと自分で、笠井さんの先に立って歩いた。ゆきさんといった。
「よく来たわね。よく来たわね」二度つづけて言って、立ちどまり、「少し、おふとりになったのね」ゆきさんは、いつも笠井さんを、弟かなんかのように扱っている。二十六歳。笠井さんより九つも年下のはずなのであるが、苦労し抜いたひとのような落ちつきが、どこかにある。顔は、天《てん》平《ぴよう》時代のものである。しもぶくれで、眼が細長く、色が白い。黒っぽい、じみな縞《しま》の着物を着ている。この宿の、女中頭である。女学校を、三年まで、修めたという。東京のひとである。
笠井さんは、長い廊下を、ゆきさんに案内されて、れいの癖の、右肩を不自然にあげて歩きながら、さっき女将《おかみ》の言った二十八番の部屋を、それとなく捜していた。ついに見つからなかったけれど、おそらくは、それは、階段の真下あたりの、三角になっている、見るかげもない部屋なのであろう。それにちがいない。この宿で、最下等の部屋に、ちがいない。服装が、悪いからなあ。下駄が、汚い。そうだ、服装のせいだ、と笠井さんは、しょげ抜いていたのである。階段をのぼって、二階。
「ここが、お好きだったのね」ゆきさんは、その部屋の襖《ふすま》をあけ、したり顔して落ちついた。
笠井さんは、ほろ苦く笑った。ここは別棟になっていて、ちゃんと控えの仕度部屋もついているし、まず、最上等の部屋なのである。ヴェランダもあり、宿の庭園には、去年の秋は桔梗《ききよう》の花が不思議なほど一ぱい咲いていた。庭園のむこうに湖が、青く見えた。いい部屋なのである。笠井さんは、去年の秋、ここで五、六日仕事をした。
「きょうは、ね、遊びに来たんだ。死ぬほど酒を呑《の》んでみたいんだ。だから、部屋なんか、どうだって、いいんだ」笠井さんは、やはり少し機《き》嫌《げん》を直して、快活な口調で言った。
宿のどてらに着換え、卓をへだてて、ゆきさんと向かい合ってきちんと坐《すわ》って、笠井さんは、はじめて心からにっこり笑った。
「やっと、――」言いかけて、思わず大きい溜《ため》息《いき》をついた。
「やっと?」とゆきさんも、おだやかに笑って、反問した。
「ああ、やっと。やっと、……なんといったらいいのかな。日本語は、不便だなあ。むずかしいんだ。ありがとう。よく、あなたは、いてくれたね。たすかるんだ。涙が出そうだ」
「わからないわ。あたしのことじゃないんでしょう?」
「そうかも知れない。温泉。諏訪湖。日本。いや、生きていること。みんな、なつかしいんだ。理由なんて、ないんだ。みんなに対して、ありがとう。いや、一瞬間だけの気持かも知れない」きざなことばかり言ったので、笠井さんは、少してれたのである。
「そうして、すぐお忘れになるの? お茶をどうぞ」
「僕は、いつだって、忘れたことなんかないよ。あなたには、まだわからないようだね。とにかくお湯にはいろう。お酒を、たのむぜ」
ずいぶん意気込んでいたくせに、酒は、いくらも呑《の》めなかった。ゆきさんも、その夜は、いそがしいらしく、お酒を持って来ても、すぐまた他へ行ってしまうし、ちがった女中も来ず、笠井さんは、ぐいぐいひとりで呑んで、三本目には、すでに程度を越えて酔ってしまって、部屋に備えつけの電話で、
「もし、もし。今夜は、おいそがしいようですね。誰《だれ》も来やしない。芸者を呼びましょう。三十歳以上の芸者を、ひとり、呼んで下さい」
しばらく経って、また電話をかけた。
「もし、もし。芸者は、まだですか。こんな離れ座敷で、ひとりで酔ってるのは、つまりませんからね。ビールを持って来て下さい。お酒でなく、こんどは、ビールを呑みます。もし、もし。あなたの声は、いい声ですね」
いい声なのである。はい、はい、と素直に応答するその見知らぬ女の少し笑いを含んだ声が、酔った笠井さんの耳に、とても爽《さわ》やかに響くのだ。
ゆきさんが、ビールを持ってやって来た。
「芸者衆を呼ぶんですって? およしなさいよ。つまらない」
「誰《だれ》も来やしない」
「きょうは、なんだか、いそがしいのよ。もう、いい加減お酔いになったんでしょう? おやすみなさいよ」
笠井さんは、また電話をかけた。
「もし、もし。ゆきさんがね、芸者は、つまらないと言いました。よせというから、よしました。あ、それから、煙草。スリー・キャッスル。ぜいたくを、したいのです。すみません。あなたの声は、いい声ですね」また、ほめた。
ゆきさんに寝床を敷いてもらって、寝た。寝ると、すぐ吐いた。ゆきさんは、さっさと敷布を換えてくれた。眠った。
あくる朝は、うめくほどであった。眼をさまし、笠井さんは、ゆうべの自身の不《ふ》甲《が》斐《い》なさ、無気力を、死ぬほど恥ずかしく思ったのである。たいへんな、これは、ロマンチシズムだ。げろまで吐いちゃった。憤《ふん》怒《ぬ》をさえ覚えて、寝床を蹴《け》って起き、浴場へ行って、広い浴槽を思いきり乱暴に泳ぎまわり、ぶていさいもかまわず、バック・ストロークまで敢行したが、心中の鬱《うつ》々《うつ》は、晴れるものでなかった。仏頂づらして足音も荒々しく、部屋へかえると、十七、八の、からだの細長い見なれぬ女中が、白いエプロンかけて部屋の拭《ふ》き掃《そう》除《じ》をしていた。
笠井さんを見て、親しそうに笑いながら、「ゆうべ、お酔いになったんですってね。ご気分いかがでしょう」
ふと思い出した。
「あ、君の声、知っている。知っている」電話の声であった。
女は、くつくつ肩を丸くして笑いながら、床の間を拭きつづけている。笠井さんも、気持が晴れて、部屋の入口に立ったまま、のんびり煙草をふかした。
女は、ふり向いて、
「あら、いいにおい。ゆうべの、あの、外国煙草でしょ? あたし、そのにおい大好き。そのにおい逃がさないで」雑《ぞう》巾《きん》を捨てて、立ち上がり、素早く廊下の障子と、ヴェランダに通ずるドアと、それから部屋の襖《ふすま》も、みんな、ピタピタしめてしまった、しめて、しまってから、二人どぎまぎした。へんなことになった。笠井さんは、自惚《うぬぼ》れたわけではない。いや自惚れるだけのことはあったのかも知れない。いたずら。悪事が、このように無邪気に行なわれるものだとは、笠井さんも思ってなかった。笠井さんは、可愛らしいと思った。田舎《いなか》くさい素朴な、直接に田畑のにおいが感じられて、白い立《たち》葵《あおい》を見たと思った。
すらと襖があいて、
「あの」ゆきさんが、余念なくそう言いかけて、はっと言葉を呑んだ。たしかに、五、六秒、ゆきさんは、ものを言えなかったのだ。
見られた。地球の果ての、汚いくさい、まっ黒い馬小屋へ、一瞬どしんと落ちこんでしまった。ただ、もやもや黒煙万丈で、羞《しゆう》恥《ち》、後悔など、そんな生ぬるいものではなかった。笠井さんは、このまま死んだふりをしていたかった。
「幾時の汽車で、お発《た》ちなのかしら」ゆきさんは、さすがに落ちつきを取りもどし、何事もなかったように、すぐ言葉をつづけてくれた。
「さあ」その女のひとは、奇怪なほどに平気であった。笠井さんは、そのひとを、たのもしくさえ思った。そうして、女を、なかなか不可解なものだと思った。
「すぐかえる。ごはんも、要らない。お会計して下さい」笠井さんは、眼をつぶったままだった。まぶしく、おそろしく、眼をひらくことが、できなかった。このまま石になりたいと思った。
「承知いたしました」ゆきさんは、みじんも、いや味のない挨《あい》拶《さつ》して部屋を去った。
「見られたね。まぎれもなかったからな」
「だいじょうぶよ」女は、しんから、平気で、清らかな眼さえしていた。「ほんとうに、すぐお帰りになるの?」
「かえる」笠井さんは、どてらを脱いで身仕度をはじめた。下手におていさいをつくろって、やせ我慢してぐずぐずがんばっているよりは、どうせ失態を見られたのだ、一刻も早く脱走するのが、かえって聡《そう》明《めい》でもあり、素直だとも思われた。
かなわない気持であった。もう、これで自分も、申しぶんのない醜態の男になった。一点の清潔もない。どろどろ油ぎって、濁って、ぶざまで、ああ、もう私は、永遠にウェルテルではない! 地《じ》団《だん》駄《だ》を踏む思いである。行為に対しての自責ではなかった。運がわるい。ぶざまだ。もう、だめだ。いまのあの一瞬で、私は完全に、ロマンチックから追放だ。実に、おそろしい一瞬である。見られた。ひともあろうに、ゆきさんに見られた。笠井さんは、醜怪な、奇妙な表情を浮かべて、内心、動乱の火の玉を懐《いだ》いたまま、ものもわからず勘定をすまし、お茶代を五円置いて、下駄をはくのも、もどかしげに、
「やあ、さようなら。こんどゆっくり、また来ます」くやしく、泣きたかった。
宿の玄関には、青白い顔の女将《おかみ》をはじめ、また、ゆきさんも、それから先刻の女中さんも、並んでていねいにお辞儀をして、一様に、おだやかな、やさしい微笑を浮かべて笠井さんを見送っていた。
笠井さんは、それどころではなかった。もはや、道々、わあ、わあ大声あげて、わめき散らして、雷神のごとく走り廻《まわ》りたい気持である。私は、だめだ。シェリー、クライスト、ああ、プーシュキンまでも、さようなら。私は、あなたの友ではない。あなたたちは、美しかった。私のような、ぶざまをしない。私は、見られて、みんごと糞《くそ》リアリズムになっちゃった。笑いごとじゃない。十万億土、奈《な》落《らく》の底まで私は落ちた。洗っても、洗っても、私は、断じて昔の私ではない。一瞬間で、私はこんなに無残に落ちてしまった。夢のようだ。ああ、夢であってくれたら。いやいや、夢ではない。ゆきさんは、たしかにあのとき、はっと言葉を呑んでしまった。ぎょっとしたのだ。私は、舌噛《か》んで死にたい。三十五年、人は、ここまで落ちなければならぬか。あとに何がある。私は、永久に紳士でさえない。犬にも劣る。ウソつけ。犬と「同じ」だ。
どうにも、やり切れなくて、笠井さんは停車場へ行って二等の切符を買った。すこし救われた。ほとんど十年ぶりで、二等車に乗るのである。作品を。――唐突にそれを思った。作品だけが。――世界の果てに、蹴《け》込《こ》まれて、こんどこそは、いわば仕事の重大を、明確に知らされた様子である。どうにかして自身に活路を与えたかった。暗黒王。平気になれ。
まっすぐに帰宅した。お金は、半分以上も、残っていた。要するに、いい旅行であった。皮肉でない。笠井さんは、いい作品を書くかも知れぬ。
畜《ちく》犬《けん》談《だん》
伊《い》馬《ま》鵜《う》平《へい》君に与える――
私は、犬については自信がある。いつの日か、必ず喰《く》いつかれるであろうという自信である。私は、きっと噛《か》まれるにちがいない。自信があるのである。よくぞ、きょうまで喰いつかれもせず無事に過ごして来たものだと不思議な気さえしているのである。諸君、犬は猛獣である。馬を斃《たお》し、たまさかには獅《し》子《し》と戦ってさえこれを征服するとかいうではないか。さもありなむと私はひとり淋《さび》しく首《しゆ》肯《こう》しているのだ。あの犬の、鋭い牙《きば》を見るがよい。ただものではない。いまは、あのように街路で無心のふうを装い、とるに足らぬもののごとく自ら卑《ひ》下《げ》して、芥《ごみ》箱《ばこ》を覗《のぞ》きまわったりなどして見せているが、もともと馬を斃すほどの猛獣である。いつなんどき、怒り狂い、その本性を暴露するか、わかったものではない。犬は必ず鎖に固くしばりつけて置くべきである。少しの油断もあってはならぬ。世の多くの飼い主は、自ら恐ろしき猛獣を養い、これに日々わずかの残飯を与えているという理由だけにて、全くこの猛獣に心をゆるし、エスやエスやなど、気楽に呼んで、さながら家族の一員のごとく身近に近づかしめ、三歳のわが愛子をして、その猛獣の耳をぐいと引っぱらせて大笑いしている図にいたっては、戦《せん》慄《りつ》、眼を蓋《おお》わざるを得ないのである。不意に、わんと言って喰《く》いついたら、どうする気だろう。気をつけなければならぬ。飼い主でさえ、噛《か》みつかれぬとは保証でき難い猛獣を、(飼い主だから、絶対に喰いつかれぬということは愚かな気のいい迷信に過ぎない。あの恐ろしい牙《きば》のある以上、必ず噛む。決して噛まないということは、科学的に証明できるはずはないのである)その猛獣を、放し飼いにして、往来をうろうろ徘《はい》徊《かい》させて置くとは、どんなものであろうか。昨年の晩秋、私の友人が、ついにこれの被害を受けた。いたましい犠牲者である。友人の話によると、友人は、何もせず横町を懐《ふところ》手《で》してぶらぶら歩いていると、犬が道路上にちゃんと坐《すわ》っていた。友人は、やはり何もせず、その犬の傍《そば》を通った。犬はその時、いやな横目を使ったという。何事もなく通りすぎた、とたん、わんと言って右の脚《あし》に喰いついたという。災難である。一瞬のことである。友人は、呆《ぼう》然《ぜん》自《じ》失《しつ》したという。ややあって、くやし涙が沸《わ》いて出た。さもありなむ、と私は、やはり淋しく首《しゆ》肯《こう》している。そうなってしまったら、ほんとうに、どうしようも、ないではないか。友人は、痛む脚をひきずって病院へ行き手当を受けた。それから二十一日間、病院へ通《かよ》ったのである。三週間である。脚の傷がなおっても、体内に恐水病といういまわしい病気の毒が、あるいは注入されてあるかも知れぬという懸《け》念《ねん》から、その防毒の注射をしてもらわなければならぬのである。飼い主に談判するなど、その友人の弱気をもってしては、とてもできぬことである。じっと堪《た》えて、おのれの不運に溜《ため》息《いき》ついているだけなのである。しかも、注射代など決して安いものではなく、そのような余分の貯えは失礼ながら友人にあるはずもなく、いずれは苦しい算段をしたにちがいないので、とにかくこれは、ひどい災難である。大災難である。また、うっかり注射でも怠ろうものなら、恐水病といって、発熱悩乱の苦しみあって、果ては貌《かお》が犬に似てきて、四つ這《ば》いになり、ただわんわんと吠《ほ》ゆるばかりだという、そんな凄《せい》惨《さん》な病気になるかも知れないということなのである。注射を受けながらの、友人の憂慮、不安は、どんなだったろう。友人は苦労人で、ちゃんとできた人であるから、醜く取り乱すこともなく、三七、二十一日病院に通い、注射を受けて、いまは元気に立ち働いているが、もしこれが私だったら、その犬、生かして置かないだろう。私は、人の三倍も四倍も復《ふく》讐《しゆう》心《しん》の強い男なのであるから、また、そうなると人の五倍も六倍も残忍性を発揮してしまう男なのであるから、たちどころにその犬の頭《ず》蓋《がい》骨《こつ》を、めちゃくちゃに粉砕し、眼玉をくり抜き、ぐしゃぐしゃに噛んで、べっと吐き捨て、それでも足りずに近所近辺の飼い犬ことごとく毒殺してしまうであろう。こちらが何もせぬのに、突然わんと言って噛みつくとはなんという無礼、狂暴の仕草であろう。いかに畜生といえども許しがたい。畜生ふびんの故をもって、人はこれを甘やかしているからいけないのだ。容《よう》赦《しや》なく酷刑に処すべきである。昨秋、友人の遭難を聞いて、私の畜犬に対する日頃の憎悪は、その極点に達した。青い焔《ほのお》が燃え上がるほどの、思いつめたる憎悪である。
ことしの正月、山《やま》梨《なし》県、甲《こう》府《ふ》のまちはずれに八畳、三畳、一畳という草《そう》庵《あん》を借り、こっそり隠れるように住み込み、下手な小説あくせく書きすすめていたのであるが、この甲府のまち、どこへ行っても犬がいる。おびただしいのである。往来に、あるいは佇《たたず》み、あるいはながながと寝そべり、あるいは疾《しつ》駆《く》し、あるいは牙《きば》を光らせて吠《ほ》え立て、ちょっとした空地でもあると必ずそこは野犬の巣のごとく、組んずほぐれつ格闘の稽《けい》古《こ》にふけり、夜など無人の街路を風のごとく、野盗のごとくぞろぞろ大群をなして縦横に駈《か》け廻《まわ》っている。甲府の家ごと、家ごと、少なくとも二匹くらいずつ養っているのではないかと思われるほどに、おびただしい数である。山梨県は、もともと甲《か》斐《い》犬の山地として知られているようであるが、街頭で見かける犬の姿は、決してそんな純血種のものではない。赤いムク犬が最も多い。採るところなきあさはかな駄犬ばかりである。もとより私は畜犬に対しては含むところがあり、また友人の遭難以来、一そう嫌《けん》悪《お》の念を増し、警戒おさおさ怠るものではなかったのであるが、こんなに犬がうようよいて、どこの横町にでも跳《ちよう》梁《りよう》し、あるいはとぐろを巻いて悠《ゆう》然《ぜん》と寝ているのでは、とても用心し切れるものでなかった。私は実に苦心した。できることなら、すね当《あて》、こて当、かぶとをかぶって街を歩きたく思ったのである。けれども、そのような姿は、いかにも異様であり、風紀上からいっても、決して許されるものではないのだから、私は別の手段をとらなければならぬ。私は、まじめに、真剣に、対策を考えた。私はまず犬の心理を研究した。人間については、私もいささか心得があり、たまには的確に、あやまたず指定できたことなどもあったのであるが、犬の心理は、なかなかむずかしい。人の言葉が、犬と人との感情交流にどれだけ役立つものか、それが第一の難問である。言葉が役に立たぬとすれば、お互いの素振り、表情を読み取るよりほかにない。しっぽの動きなどは、重大である。けれども、この、しっぽの動きも、注意して見ているとなかなかに複雑で、容易に読み切れるものではない。私は、ほとんど絶望した。そうして、はなはだ拙《せつ》劣《れつ》な、無能きわまる一法を案出した。あわれな窮余の一策である。私は、とにかく、犬に出《で》逢《あ》うと、満面に微笑を湛《たた》えて、いささかも害心のないことを示すことにした。夜は、その微笑が見えないかも知れないから、無邪気に童謡を口ずさみ、やさしい人間であることを知らせようと努めた。これらは、多少、効果があったような気がする。犬は私には、いまだ飛びかかって来ない。けれどもあくまで油断は禁物である。犬の傍を通る時は、どんなに恐ろしくても、絶対に走ってはならぬ。にこにこ卑《いや》しい追《つい》従《しよう》笑いを浮かべて、無心そうに首を振り、ゆっくり、ゆっくり、内心、背中に毛虫が十匹這《は》っているような窒息せんばかりの悪寒にやられながらも、ゆっくりゆっくり通るのである。つくづく自身の卑屈がいやになる。泣きたいほどの自己嫌悪を覚えるのであるが、これを行なわないと、たちまち噛みつかれるような気がして、私は、あらゆる犬にあわれな挨《あい》拶《さつ》を試みる。髪をあまりに長く伸ばしていると、あるいはウロンの者として吠えられるかも知れないから。あれほどいやだった床屋へも精出して行くことにした。ステッキなど持って歩くと、犬のほうで威《い》嚇《かく》の武器と勘ちがいして、反抗心を起こすようなことがあってはならぬから、ステッキは永遠に廃棄することにした。犬の心理を計りかねて、ただ行き当たりばったり、むやみやたらに御機嫌とっているうちに、ここに意外の現象が現われた。私は犬に好かれてしまったのである。尾を振って、ぞろぞろ後について来る。私は、地《じ》団《だん》駄《だ》踏んだ。実に皮肉である。かねがね私の、こころよからず思い、また最近にいたっては憎悪の極点にまで達している、その当の畜犬に好かれるくらいならば、いっそ私は駱《らく》駝《だ》に慕われたいほどである。どんな悪女にでも、好かれて気持の悪いはずはない、というのはそれは浅薄の想定である。プライドが、虫が、どうしてもそれを許容できない場合がある。堪《かん》忍《にん》ならぬのである。私は、犬をきらいなのである。早くからその狂暴の猛獣性を看破し、こころよからず思っているのである。たかが日に一度や二度の残飯の投与にあずからむがために、友を売り、妻を離別し、おのれの身ひとつ、その家の軒下に横たえ、忠義顔して、かっての友に吠《ほ》え、兄弟、父母をも、けろりと忘却し、ただひたすらに飼主の顔色を伺い、阿《あ》諛《ゆ》追《つい》従《しよう》てんとして恥じず、ぶたれても、きゃんと言い尻尾《しつぽ》まいて閉口して見せて、家人を笑わせ、その精神の卑劣、醜怪、犬畜生とはよくも言った。日に十里を楽々と走破し得る健脚を有し、獅子をも斃《たお》す白光鋭利の牙《きば》を持ちながら、懶《らん》惰《だ》無頼の腐り果てたいやしい根性をはばからず発揮し、一片の矜《きよう》持《じ》無く、てもなく人間界に屈服し、隷属し、同族互いに敵視して、顔つき合わせると吠え合い、噛《か》み合い、もって人間の御機嫌を取り結ぼうと努めている。雀《すずめ》を見よ。何ひとつ武器を持たぬ繊弱の小《しよう》禽《きん》ながら、自由を確保し、人間界とは全く別個の小社会を営み、同類相親しみ、欣《きん》然《ぜん》日々の貧しい生活を歌い楽しんでいるではないか。思えば、思うほど、犬は不潔だ。犬はいやだ。なんだか自分に似ているところさえあるような気がして、いよいよ、いやだ。たまらないのである。その犬が、私を特に好んで、尾を振って親愛の情を表明して来るに及んでは、狼《ろう》狽《ばい》とも、無念とも、なんとも、言いようがない。あまりに犬の猛獣性を畏《い》敬《けい》し、買いかぶり節度もなく媚《び》笑《しよう》を撒《ま》きちらして歩いたゆえ、犬は、かえって知己を得たものと誤解し、私を組し易しと見てとって、このような情けない結果に立ちいたったのであろうが、何事によらず、ものには節度が大切である。私は、いまだに、どうも、節度を知らぬ。
早春のこと。夕食の少しまえに、私はすぐ近くの四十九連隊の練兵場へ散歩に出て、二、三の犬が私のあとについて来て、いまにも踵《かかと》をがぶりとやられはせぬかと生きた気もせず、けれども毎度のことであり、観念して無心平生を装い、ぱっと脱《だつ》兎《と》のごとく走り逃げたい衝動を懸命に抑え、抑え、ぶらりぶらり歩いた。犬は私について来ながら、途々お互いに喧《けん》嘩《か》などはじめて、私は、わざと振りかえって見もせず、知らぬふりして歩いているのだが、内心、実に閉口であった。ピストルでもあったなら、躊《ちゆう》躇《ちよ》せずドカンドカンと射殺してしまいたい気持であった。犬は、私にそのような、外《げ》面《めん》如《によ》菩《ぼ》薩《さつ》、内心如《によ》夜《や》叉《しや》的の奸《かん》佞《ねい》の害心があるとも知らず、どこまでもついて来る。練兵場をぐるりと一廻りして、私はやはり犬に慕われながら帰途についた。家へ帰りつくまでには、背後の犬もどこかへ雲散霧消しているのが、これまでの、しきたりであったのだが、その日に限って、ひどく執《しつ》拗《よう》でなれなれしいのが一匹いた。真っ黒の、見るかげもない小犬である。ずいぶん小さい。胴の長さ五寸の感じである。けれども、小さいからと言って油断はできない。歯は、すでにちゃんと生えそろっているはずである。噛まれたら病院に三、七、二十一日間通わなければならぬ。それにこのような幼少なものには常識がないから、したがって気まぐれである。一そう用心をしなければならぬ。小犬は後になり、さきになり、私の顔を振り仰ぎ、よたよた走って、とうとう私の家の玄関まで、ついて来た。
「おや、へんなものが、ついて来たよ」
「おや、可愛《かわい》い」
「可愛いもんか。追い払ってくれ、手荒くすると喰《く》いつくぜ、お菓子でもやって」
れいの軟弱外交である。小犬は、たちまち私の内心畏《い》怖《ふ》の情を見抜き、それにつけ込み、ずうずうしくもそれから、ずるずる私の家に住みこんでしまった。そうしてこの犬は、三月、四月、五月、六、七、八、そろそろ秋風吹きはじめて来た現在にいたるまで、私の家に居るのである。私は、この犬には、幾度泣かされたかわからない。どうにも始末ができないのである。私は仕方なく、この犬を、ポチなどと呼んでいるのであるが、半年も共に住んでいながら、いまだに私は、このポチを、一家のものとは思えない。他人の気がするのである。しっくり行かない。不和である。お互い心理の読み合いに火花を散らして戦っている。そうしてお互い、どうしても釈《しやく》然《ぜん》と笑い合うことができないのである。
はじめこの家にやって来たころは、まだ子供で、地べたの蟻《あり》を不審そうに観察したり、蝦《が》蟇《ま》を恐れて悲鳴をあげたり、その様《さま》には私も思わず失笑することがあって、憎いやつであるが、これも神様の御心によってこの家へ迷い込んで来ることになったのかも知れぬと、縁の下に寝床を作ってやったし、食い物も乳幼児むきに軟らかく煮て与えてやったし、蚤《のみ》取《とり》粉《こ》などからだに振りかけてやったものだ。けれども、ひとつき経つと、もういけない。そろそろ駄犬の本領を発揮して来た。いやしい。もともと、この犬は練兵場の隅に捨てられてあったものにちがいない。私のあの散歩の帰途、私にまつわりつくようにしてついて来て、その時は、見るかげもなく痩《や》せこけて、毛も抜けていてお尻の部分は、ほとんど全部禿《は》げていた。私だからこそ、これに菓子を与え、おかゆを作り、荒い言葉一つ掛けるではなし、腫《は》れものにさわるように鄭《てい》重《ちよう》にもてなして上げたのだ。他の人だったら、足《あし》蹴《げ》にして追い散らしてしまったにちがいない。私のそんな親切なもてなしも、内実は、犬に対する愛情からではなく、犬に対する先天的な憎悪と恐怖から発した老《ろう》獪《かい》な駈け引きに過ぎないのであるが、けれども私のおかげで、このポチは、毛並もととのい、どうやら一人前の男の犬に成長することを得たのではないか。私は恩を売る気はもうとうないけれども、少しは私たちにも何か楽しみを与えてくれてもよさそうに思われるのであるが、やはり捨犬は駄目なものである。大めし食って、食後の運動のつもりであろうか、下駄をおもちゃにして無残に噛み破り、庭に干してある洗《せん》濯《たく》物をいらぬ世話して引きずりおろし、泥まみれにする。
「こういう冗談はしないでおくれ。実に、困るのだ。誰《だれ》が君に、こんなことをしてくれとたのみましたか?」と、私は、内に針を含んだ言葉を、精一ぱい優しく、いや味をきかせて言ってやることもあるのだが、犬は、きょろりと眼を動かし、いや味を言い聞かせている当の私にじゃれかかる。なんという甘ったれた精神であろう。私はこの犬の鉄面皮には、ひそかに呆《あき》れ、これを軽《けい》蔑《べつ》さえしたのである。長ずるに及んで、いよいよこの犬の無能が暴露された。だいいち、形がよくない。幼少のころにはもう少し形の均《きん》斉《せい》もとれていて、あるいは優れた血が雑《まじ》っているのかも知れぬと思わせるところあったのであるが、それは真赤ないつわりであった。胴だけが、にょきにょきに長く伸びて、手足がいちじるしく短い。亀のようである。見られたものでなかった。そのような醜い形をして、私が外出すれば必ず影のごとくちゃんと私につき従い、少年少女までが、やあ、へんてこな犬じゃと指さして笑うこともあり、多少見栄坊の私は、いくら澄まして歩いても、なんにもならなくなるのである。いっそ他人のふりをしようと早足に歩いてみても、ポチは私の傍《そば》を離れず、私の顔を振り仰ぎ振り仰ぎ、あとになり、さきになり、からみつくようにしてついて来るのだから、どうしたって二人は他人のようには見えまい。気心の合った主従としか見えまい。おかげで私は外出のたびごとに、ずいぶん暗い憂《ゆう》鬱《うつ》な気持にさせられた。いい修行になったのである。ただ、そうして、ついて歩いてくるころは、まだよかった。そのうちにいよいよ隠してあった猛獣の本性を暴露して来た。喧《けん》嘩《か》格闘を好むようになったのである。私のお伴をして、まちを歩いて行き逢《あ》う犬、行き逢う犬、すべてに挨《あい》拶《さつ》して通るのである。つまりかたっぱしから喧嘩して通るのである。ポチは足も短く、若年でありながら、喧嘩は相当強いようである。空地の犬の巣に踏みこんで、一時に五匹の犬を相手に戦ったときはさすがに危く見えたが、それでも巧みに身をかわして難を避けた。非常な自信をもって、どんな犬にでも飛びかかって行く。たまには勢《いきおい》負《ま》けして、吠《ほ》えながらじりじり退却することもある。声が悲鳴に近くなり、真っ黒い顔が蒼《あお》黒《ぐろ》くなって来る。いちど小牛のようなシェパードに飛びかかっていって、あのときは、私が蒼くなった。はたして、ひとたまりもなかった。前足でころころポチをおもちゃにして、本気につき合ってくれなかったのでポチも命が助かった。犬は、いちどあんなひどいめに逢うと、大へん意気地がなくなるものらしい。ポチは、それからは眼に見えて、喧嘩を避けるようになった。それに私は、喧嘩を好まず、否、好まぬどころではない、往来で野獣の組打ちを放置し許容しているなどは、文明国の恥《ち》辱《じよく》と信じているので、かの耳を聾《ろう》せんばかりのけんけんごうごう、きゃんきゃんの犬の野《や》蛮《ばん》のわめき声には、殺してもなおあき足らない憤《ふん》怒《ぬ》と憎悪を感じているのである。私はポチを愛してはいない。恐れ、憎んでこそいるが、みじんも愛しては、いない。死んでくれたらいいと思っている。私にのこのこついて来て、何かそれが飼われているものの義務とでも思っているのか、途で逢《あ》う犬、逢う犬、必ず凄《せい》惨《さん》に吠え合って、主人としての私は、そのときどんなに恐怖にわななき震えていることか。自動車呼びとめて、それに乗ってドアをばたんと閉じ、一目散に逃げ去りたい気持なのである。犬同士の組打ちで終わるべきものなら、まだしも、もし敵の犬が血迷って、ポチの主人の私に飛びかかって来るようなことがあったら、どうする。ないとは言わせぬ。血に飢えたる猛獣である。何をするか、わかったものでない。私はむごたらしく噛《か》み裂かれ、三、七、二十一日間病院に通わなければならぬ。犬の喧嘩は、地獄である。私は、機会あるごとにポチに言い聞かせた。
「喧嘩しては、いけないよ。喧嘩するなら、僕からはるか離れたところで、してもらいたい。僕は、おまえを好いてはいないんだ」
少し、ポチにもわかるらしいのである。そう言われると多少しょげる。いよいよ私は犬を、薄気味わるいものに思った。その私の繰り返し繰り返し言った忠告が効を奏したのか、あるいは、かのシェパードとの一戦にぶざまな惨敗を喫したせいか、ポチは、卑屈なほど柔弱な態度をとりはじめた。私と一緒に路を歩いて、他の犬がポチに吠《ほ》えかけると、ポチは、
「ああ、いやだ、いやだ。野蛮ですねえ」
と言わんばかり、ひたすら私の気に入られようと上品ぶって、ぶるっと胴震いさせたり、相手の犬を、仕方のないやつだね、とさもさも憐《あわ》れむように流し目で見て、そうして、私の顔色を伺《うかが》い、へっへっへっと卑しい追従笑いするかのごとく、その様子のいやらしいったらなかった。
「一つも、いいところないじゃないか、こいつは。ひとの顔色ばかり伺っていやがる」
「あなたが、あまり、へんにかまうからですよ」家内は、はじめからポチに無関心であった。洗濯物など汚されたときはぶつぶつ言うが、あとはけろりとして、ポチポチと呼んで、めしを食わせたりなどしている。「性格が破産しちゃったんじゃないかしら」と笑っている。
「飼い主に、似て来たというわけかね」私は、いよいよ、にがにがしく思った。
七月にはいって、異変が起こった。私たちは、やっと、東京の三《み》鷹《たか》村に、建築最中の小さい家を見つけることができて、それの完成し次第、一か月二十四円で貸してもらえるように、家主と契約の証書交わして、そろそろ移転の仕度をはじめた。家ができ上がると、家主から速達で通知が来ることになっていたのである。ポチは、もちろん、捨てて行かれることになっていたのである。
「連れて行ったって、いいのに」家内は、やはりポチをあまり問題にしていない。どちらでもいいのである。
「だめだ。僕は、可愛いから養っているんじゃないんだよ。犬に復《ふく》讐《しゆう》されるのが、こわいから、仕方なくそっとして置いてやっているのだ。わからんかね」
「でも、ちょっとポチが見えなくなると、ポチはどこへ行ったろう、どこへ行ったろう、と大騒ぎじゃないの」
「いなくなると、一そう薄気味が悪いからさ、僕に隠れて、ひそかに同志を糾《きゆう》合《ごう》しているのかもわからない。あいつは、僕に軽《けい》蔑《べつ》されていることを知っているんだ。復讐心が強いそうだからなあ、犬は」
いまこそ絶好の機会であると思っていた。この犬をこのまま忘れたふりして、ここへ置いて、さっさと汽車に乗って東京へ行ってしまえば、まさか犬も、笹《ささ》子《ご》峠《とうげ》を越えて三鷹村まで追いかけて来ることはなかろう。私たちは、ポチを捨てたのではない。全くうっかりして連れて行くことを忘れたのである。罪にはならない。またポチに恨まれる筋合もない。復讐されるわけはない。
「大丈夫だろうね。置いていっても、飢え死するようなことはないだろうね。死霊の祟《たた》りということもあるからね」
「もともと捨犬だったんですもの」家内も、少し不安になった様子である。
「そうだね。飢え死することはないだろう。なんとかうまくやって行くだろう。あんな犬、東京へ連れて行ったんじゃ、僕は友人に対して恥ずかしいんだ。胴が長すぎる。みっともないねえ」
ポチは、やはり置いて行かれることに、確定した。すると、ここに異変が起こった。ポチが、皮膚病にやられちゃった。これが、またひどいのである。さすがに形容をはばかるが、惨状、眼をそむけしむるものがあったのである。折からの炎熱と共に、ただならぬ悪臭を放つようになった。こんどは家内が、まいってしまった。
「ご近所にわるいわ。殺して下さい」女は、こうなる男よりも冷酷で、度胸がいい。
「殺すのか」私は、ぎょっとした。「もう少しの我慢じゃないか」
私たちは、三鷹の家主からの速達を一心に待っていた。七月末には、できるでしょうという家主の言葉であったのだが、七月もそろそろおしまいになりかけて、きょうか明日かと、引っ越しの荷物もまとめてしまって待機していたのであったが、なかなか、通知が来ないのである。問い合わせの手紙を出したりなどしている時に、ポチの皮膚病がはじまったのである。見れば、見るほど、酸《さん》鼻《び》の極である。ポチも、いまはさすがに、おのれの醜い姿を恥じている様子で、とかく暗《くら》闇《やみ》の場所を好むようになり、たまに玄関の日当たりのいい敷石の上で、ぐったり寝そべっていることがあっても、私が、それを見つけて、
「わあ、ひでえなあ」と罵《ば》倒《とう》すると、いそいで立ち上がって首を垂れ、閉口したようにこそこそ縁の下にもぐり込んでしまうのである。
それでも私が外出するときには、どこからともなく足音忍ばせて出て来て、私について来ようとする。こんな化け物みたいなものに、ついて来られて、たまるものか、とそのつど、私は、だまってポチを見つめてやる。あざけりの笑いを口角にまざまざと浮かべて、なんぼでも、ポチを見つめてやる。これは大へんききめがあった。ポチは、おのれの醜い姿にハッと思い当る様子で、首を垂れ、しおしおどこかへ姿を隠す。
「とっても、我慢ができないの。私まで、むず痒《がゆ》くなって」家内は、ときどき私に相談する。
「なるべく見ないように努めているんだけれど、いちど見ちゃったら、もう駄目ね。夢の中にまで出て来るんだもの」
「まあ、もうすこしの我慢だ」がまんするよりほかはないと思った。たとえ病んでいるとはいっても、相手は一種の猛獣である。下手に触ったら噛《か》みつかれる。「明日にでも、三鷹から、返事が来るだろう。引っ越してしまったら、それっきりじゃないか」
三鷹の家主から返事が来た。読んで、がっかりした。雨が降りつづいて壁が乾かず、また人手も不足で完成までには、もう十日くらいかかる見込み、というのであった。うんざりした。ポチから逃れるためだけでも、早く、引っ越してしまいたかったのだ。私は、へんな焦《しよう》燥《そう》感で、仕事も手につかず、雑誌を読んだり、酒を呑《の》んだりした。ポチの皮膚病は一日一日ひどくなっていって、私の皮膚も、なんだか、しきりに痒《かゆ》くなって来た。深夜、戸外でポチが、ばたばたばた痒さに身《み》悶《もだ》えしている物音に、幾度ぞっとさせられたかわからない。たまらない気がした。いっそひと思いにと、狂暴な発作に駆られることも、しばしばあった。家主からは、更に二十日待て、と手紙が来て、私のごちゃごちゃの忿《ふん》懣《まん》が、たちまち手近のポチに結びついて、こいつあるがために、このように諸事円滑にすすまないのだ、と何もかも悪いことは皆、ポチのせいみたいに考えられ、奇妙にポチを呪《じゆ》詛《そ》し、ある夜、私の寝巻に犬の蚤《のみ》が伝《でん》播《ぱ》されてあることを発見するに及んで、ついにそれまで堪えに堪えて来た怒りが爆発し、私はひそかに重大の決意をした。
殺そうと思ったのである。相手は恐るべき猛獣である。常の私だったら、こんな乱暴な決意は、逆立ちしたってなし得なかったところのものなのであったが、盆地特有の酷暑で、少しへんになっていた矢先であったし、また、毎日、何もせず、ただぽかんと家主からの速達を待っていて、死ぬほど退屈な日々を送って、むしゃくしゃいらいら、おまけに不眠も手伝って発狂状態であったのだから、たまらない。その犬の蚤を発見した夜、ただちに家内をして牛肉の大片を買いに走らせ、私は、薬屋に行きある種の薬品を小量、買い求めた。これで用意はできた。家内は少なからず興奮していた。私たち鬼夫婦は、その夜、鳩《きゆう》首《しゆ》して小声で相談した。
翌る朝、四時に私は起きた。目覚時計を掛けて置いたのであるが、それの鳴り出さぬうちに、眼が覚めてしまった。しらじらと明けていた。肌寒いほどであった。私は竹の皮包をさげて外へ出た。
「おしまいまで見ていないですぐお帰りになるといいわ」家内は玄関の式台に立って見送り、落ち着いていた。
「心得ている。ポチ、来い!」
ポチは尾を振って縁の下から出て来た。
「来い、来い!」私は、さっさと歩き出した。きょうは、あんな、意地悪くポチの姿を見つめるようなことはしないので、ポチも自身の醜さを忘れて、いそいそ私について来た。霧が深い。まちはひっそり眠っている。私は、練兵場へいそいだ。途中、おそろしく大きい赤毛の犬が、ポチに向って猛烈に吠《ほ》えたてた。ポチは、れいによって上品ぶった態度を示し、何を騒いでいるのかね、とでも言いたげな蔑《べつ》視《し》をちらとその赤毛の犬にくれただけで、さっさとその面前を通過した。赤毛は、卑《ひ》劣《れつ》である。無法にもポチの背後から、風のごとく襲いかかり、ポチの寒しげな睾《こう》丸《がん》をねらった。ポチは、咄《とつ》嗟《さ》にくるりと向き直ったが、ちょっと躊《ちゆう》躇《ちよ》し、私の顔色をそっと伺《うかが》った。
「やれ!」私は大声で命令した。「赤毛は卑《ひ》怯《きよう》だ! 思う存分やれ!」
ゆるしが出たのでポチは、ぶるんと一つ大きく胴震いして、弾丸のごとく赤犬のふところに飛び込んだ。たちまち、けんけんごうごう、二匹は一つの手《て》毬《まり》みたいになって、格闘した。赤毛は、ポチの倍ほども大きい図体をしていたが、だめであった。ほどなく、きゃんきゃん悲鳴をあげて敗退した。おまけにポチの皮膚病までうつされたかもわからない。ばかなやつだ。
喧《けん》嘩《か》が終わって、私は、ほっとした。文字どおり手に汗して眺《なが》めていたのである。一時は二匹の犬の格闘に巻きこまれて、私も共に死ぬるような気さえしていた。おれは噛《か》み殺されたっていいんだ。ポチよ、思う存分、喧嘩をしろ! と異様に力んでいたのであった。ポチは、逃げて行く赤毛を少し追いかけ、立ちどまって、私の顔色をちらと伺《うかが》い、急にしょげて、首を垂れすごすご私のほうへ引返して来た。
「よし! 強いぞ」ほめてやって私は歩き出し、橋をかたかた渡って、ここはもう練兵場である。
むかしポチは、この練兵場に捨てられた。だからいま、また、この練兵場へ帰って来たのだ。おまえのふるさとで死ぬがよい。
私は立ちどまり、ぽとりと牛肉の大片を私の足もとへ落として、
「ポチ、食え」私はポチを見たくなかった。ぼんやりそこに立ったまま、「ポチ、食え」足もとで、ぺちゃぺちゃ食べている音がする。一分たたぬうちに死ぬはずだ。
私は猫背になって、のろのろ歩いた。霧が深い。ほんのちかくの山が、ぼんやり黒く見えるだけだ。南アルプス連峯も、富士山も、何も見えない。朝露で下駄がびしょぬれである。私は一そうひどい猫背になって、のろのろ帰途についた。橋を渡り、中学校のまえまで来て、振り向くとポチが、ちゃんといた。面目なげに、首を垂れ、私の視線をそっとそらした。
私も、もう大人である。いたずらな感傷はなかった。すぐ事態を察知した。薬品が効かなかったのだ。うなずいて、もうすでに私は、白紙還元である。家へ帰って、
「だめだよ。薬が効かないのだ。ゆるしてやろうよ。あいつには、罪がなかったんだぜ。芸術家は、もともと弱い者の味方だったはずなんだ」私は、途中で考えて来たことをそのまま言ってみた。「弱者の友なんだ。芸術家にとって、これが出発で、また最高の目的なんだ。こんな単純なこと、僕は忘れていた。僕だけじゃない。みんなが、忘れているんだ。僕は、ポチを東京へ連れて行こうと思うよ。友がもしポチの恰《かつ》好《こう》を笑ったら、ぶん殴ってやる。卵あるかい?」
「ええ」家内は、浮かぬ顔をしていた。
「ポチにやれ、二つあるなら、二つやれ。おまえも我慢しろ。皮膚病なんてのは、すぐなおるよ」
「ええ」家内は、やはり浮かぬ顔をしていた。
おしゃれ童子
子供のころから、お洒落《しやれ》のようでありました。小学校、毎年三月の修業式のときには必ず右総代として校長から賞品をいただくのであるが、その賞品を壇上の校長から手渡してもらおうと、壇の下から両手を差し出す。厳粛な瞬間である。その際、この子は何よりも、自分の差し出す両腕の恰《かつ》好《こう》に、おのれの注意力の全部を集めているのです。絣《かすり》の着物の下に純白のフランネルのシャツを着ているのですが、そのシャツが着物の袖《そで》口《ぐち》から、一寸ばかり覗《のぞ》き出て、シャツの白さが眼にしみて、いかにも自身が天使のように純潔に思われ、ひとり、うっとり心酔してしまうのでした。修業式のまえの晩、袴《はかま》と晴着と、それから仕立おろしの白のフランネルのシャツとを、枕もとに並べて置いて寝て、なかなか眠れず、二度も三度も枕からそっと頭をもたげては、枕もとの品々を見ました。まだ、そのころはランプゆえ部屋は薄暗いものでしたが、それでもフランネルのシャツは、純白に光って、燃えているようでした。一夜明けて修業式の朝、起きて素早くシャツを着込み、あるときは、年とった女中に内緒にたのんで、シャツの袖口のボタンを、更に一つずつ多く縫いつけさせたこともありました。賞品をもらうときシャツの袖がちらと出て、貝のボタンが三つも四つも、きらきら光り輝くように企てたのでした。家を出て、学校へ行く途中も、こっそり両腕を前方へ差し出し、商品をもらう真似をして、シャツの袖が、あまり多くもなく、少なくもなく、ちょうどいいぐあいに出るかどうか、なんどもなんども下検分してみるのでした。
誰《だれ》にも知られぬこのような侘《わ》びしいおしゃれは、年一年と工夫に富み、村の小学校を卒業して馬車にゆられ汽車に乗り十里はなれた県庁所在地の小都会へ、中学校の入学試験を受けるために出かけたときの、そのときの少年の服装は、あわれに珍妙なものでありました。白いフランネルのシャツは、よっぽど気に入っていたものとみえて、やはり、そのときも着ていました。しかも、こんどのシャツには蝶《ちよう》々《ちよう》の翅《はね》のような大きい襟《えり》がついていて、その襟を、夏の開《かい》襟《きん》シャツの襟を背広の上衣の襟の外側に出してかぶせているのと、そっくり同じ様式で、着物の襟の外側にひっぱり出し、着物の襟に覆《おお》いかぶせているのです。なんだか、よだれ掛けのようにも見えます。でも、少年は悲しく緊張して、その風俗が、そっくり貴公子のように見えるだろうと思っていたのです。久《く》留《る》米《め》絣《がすり》に、白っぽい縞《しま》の、短い袴《はかま》をはいて、それから長い靴下、編《あみ》上《あげ》のピカピカ光る黒い靴。それからマント。父はすでに没し、母は病気ゆえ、少年の身のまわり一切は、やさし嫂《あによめ》の心づくしでした。少年は、嫂に怜《れい》悧《り》に甘えて、むりやりシャツの襟を大きくしてもらって、嫂が笑うと本気に怒り、少年の美学が誰にも解せられぬことを涙が出るほど口《く》惜《や》しく思うのでした。「瀟《しよう》洒《しや》、典雅」少年の美学の一切は、それに尽きていました。いやいや、生きることのすべて、人生の目的全部がそれに尽きていました。
マントは、わざとボタンを掛けず、小さい肩から今にも滑《すべ》り落ちるように、あやうく羽織って、そうしてそれを小《こ》粋《いき》な業だと信じていました。どこから、そんなことを覚えたのでしょう。おしゃれの本能というものは、手本がなくても、おのずから発明するものかも知れません。
ほとんど生まれてはじめて都会らしい都会に足を踏みこむのでしたから、少年にとっては一世一代の凝《こ》った身なりであったわけです。興奮のあまり、その本州北端の一小都会に着いたとたんに、少年の言葉つきまで一変してしまっていたほどでした。かねて少年雑誌で習い覚えてあった東京弁を使いました。けれども宿に落ちつき、その宿の女中たちの言葉を聞くと、ここもやっぱり少年の生まれ故郷と全く同じ、津《つ》軽《がる》弁でありましたので、少年はすこし拍子抜けがしました。生まれ故郷と、その小都会とは、十里も離れていないのでした。
中学校へはいってからは、校規のきびしい学校でしたので、おしゃれもなかなかむずかしく、やけくそになって、ズボンの寝押しも怠り、靴も磨《みが》かず、胴《どう》乱《らん》をだらんとさげて、わざと猫背になって歩きました。そのときの猫背が癖になって、十五年のちの、いまになっても、なおりません。あのころは、おしゃれの暗黒時代と言えましょう。
その小都会から更に十里はなれたある城下まちの高等学校にはいってからは、少年のお洒落も、のびのびと発展いたしました。発展しすぎて、やはり珍妙なものになりました。マントを三種類つくりました。一枚のマントは海軍紺《ネビーブルー》のセル地で、吊《つり》鐘《がね》マントでありました。引きずるほど、長く造らせました。少年もそのころは、背丈もひょろひょろ伸びて五尺七寸ちかくになっていましたので、そのマントは、悪魔の翼のようで、すこぶる効果がありました。このマントを着るときには、帽子を被《かぶ》りませんでした。魔法使いに、白線ついた制帽は不似合いと思ったのかも知れません。「オペラの怪人」という綽《あだ》名《な》を友人たちから貰《もら》って、顔をしかめ、けれども内心まんざらでもないのでした。もう一枚のマントはプリンス・オブ・ウエルスの、海軍将校としてのあの御姿を美しいと思って、あれをお手本にして造らせました。ところどころに少年の独創も加味されていました。第一に、襟《えり》です。大きい広い襟でした。どういうわけか広い襟を好んだようです。その襟には黒のビロードを張りました。胸はダブルの、金ボタンを七つずつ、きっちり並べて付けました。ボタンの列の終わったところで、きゅっと細く胴を締めて、それから裾が、ぱっとひらいて短く、そこのリズムが至極軽妙を必要とするので、洋服屋に三度も縫い直しを命じました。袖も細めに、袖口には、小さい金ボタンを四つずつ縦に並べて付けさせました。黒の、やや厚いラシャ地でした。これを冬の外《がい》套《とう》として用いました。この外套には、白線の制帽も似合って、まさしく英国の海軍将校のように見えるだろうと、すこし自信もあったようです。白のカシミヤの手袋を用い、厳寒の候には、白い絹のショールをぐるぐる頸《くび》に巻きつけました。凍え死すとも、厚ぼったい毛糸の類は用いぬ覚悟のようでした。けれども、この外套は、友人たちに笑われました。大きい襟を指さして、よだれかけみたいだね、失敗だね、大《だい》黒《こく》様《さま》みたいだね、と言って大笑いした友人がひとりあったのでした。また、やあ君か、おまわりさんかと思った、と他意なく驚く友人もありました。北方の海軍士官は、情けなく思いました。やがて、その外套をよしました。さらに一枚、造りました。こんどは、黒のラシャ地を敬遠して、コバルト色のセル地を選び、それでもって再び海軍士官の外套を試みました。乾《けん》坤《こん》一《いつ》擲《てき》の意気でありました。襟は、ぐっと小さく、全体を更に細めに華《きや》奢《しや》に、胴のくびれは痛いほど、きゅっと締めて、その外套を着るときには少年はひそかにシャツを一枚脱がなければならなかったのでした。この外套に対しては、誰もなんとも言いませんでした。友人たちも笑わず、ただへんに真《ま》面《じ》目《め》なよそよそしい顔になって、そうしてすぐ顔をそむけました。少年も、その輝くほどの外套を着ながら、さすがに孤独寂《せき》寥《りよう》の感に堪えかね、泣きべそかいてしまいました。お洒落《しやれ》ではあっても、心は弱い少年だったのです。とうとうその苦心の外套をも廃止して、中学時代からのボロボロのマントを、頭からすっぽりかぶって、喫茶店へ葡《ぶ》萄《どう》酒《しゆ》飲みに出かけたりするようになりました。
喫茶店で、葡萄酒飲んでいるうちは、よかったのですが、そのうちに割《かつ》烹《ぽう》店《てん》へ、のこのこはいっていって芸者と一緒に、ごはんを食べることなど覚えたのです。少年は、それを別段、わるいこととも思いませんでした。粋な、やくざなふるまいは、つねに最も高《こう》尚《しよう》な趣味であると信じていました。城下まちの、古い静かな割烹店へ、二度、三度、ごはんを食べに行っているうちに、少年のお洒落の本能はまたもむっくり頭をもたげ、こんどは、それこそ大変なことになりました。芝居で見た「め組の喧《けん》嘩《か》」の鳶《とび》の者の服装して、割烹店の奥庭に面したお座敷で大あぐらかき、おう、ねえさん、きょうはめっぽう、きれえじゃねえか、などと言ってみたく、ワクワクしながら、その服装の準備にとりかかりました。紺の腹掛。あれは、すぐ手にはいりました。あの腹掛のドンブリに、古風な財布をいれて、こう懐《ふところ》手《で》して歩くと、いっぱしの、やくざに見えます。角帯も買いました。締め上げると、きゅっと鳴る博《はか》多《た》の帯です。唐《とう》桟《ざん》の単衣《ひとえ》を一まい呉服屋さんにたのんで、こしらえてもらいました。鳶《とび》の者だか、ばくち打ちだか、お店《たな》ものだか、わけのわからぬ服装になってしまいました。統一がないのです。とにかく、芝居に出て来る人物の印象を与えるような服装だったら、少年はそれで満足なのでした。初夏のころで、少年は素足に麻《あさ》裏《うら》草《ぞう》履《り》をはきました。そこまでは、よかったのですが、ふと少年は、妙なことを考えました。それは股《もも》引《ひき》についてでありました。紺の木綿《もめん》のピッチリした長股引を、芝居の鳶の者が、はいているようですけれど、あれを欲しいと思いました。ひょっとこめ、と言って、ぱっと裾《すそ》をさばいて、くるりと尻をまくる。あのときに紺の股引が眼にしみるほど引き立ちます。さるまた一つでは、いけません。少年は、その股引を買い求めようと、城下まちを端から端まで走り廻りました。どこにも無いのです。あのね、ほら、あの左官屋さんなんか、はいているじゃないか、ぴちっとした紺の股引さ、あんなの無いかしら、ね、と懸命に説明して、呉服屋さん、足《た》袋《び》屋《や》さんに聞いて歩いたのですが、さあ、あれは、いま、と店の人たちは笑いながら首を振るのでした。もう、だいぶ暑いころで、少年は、汗だくで捜し廻り、とうとうある店の主人から、それは、うちにはございませぬが、横丁まがると消防のもの専門の家がありますから、そこへ行ってお聞きになると、ひょっとしたら、わかるかも知れません、といいことを教えられ、なるほど消防とは気がつかなかった、鳶《とび》の者と言えば、火消しのことで、いまで言えば消防だ、なるほど道理だ、と勢いづいて、その教えられた横丁の店に飛び込みました。店には大小の消火ポンプが並べられてありました。纏《まとい》もあります。なんだか心細くなって、それでも勇気を鼓《こ》舞《ぶ》して、股《もも》引《ひき》ありますか、と尋ねたら、あります、と即座に答えて持って来たものは、紺の木綿の股引には、ちがいないけれども、股引の両外側に太く消防のしるしの赤線が縦にずんと引かれていました。さすがにそれをはいて歩く勇気もなく、少年は淋しく股引をあきらめるよりほかなかったのです。
おのれの服装が理想どおりにならないと、きっと、やけくそになる悪癖を、この少年は持っていました。希望どおりの紺の股引を求めることが、できなくなって、少年の小粋な服装も目立って、いけなくなりました。紺の腹掛、唐《とう》桟《ざん》の単衣《ひとえ》に角帯、麻《あさ》裏《うら》草《ぞう》履《り》、そのような服装をしていながら、白線の制帽をかぶって、まちを歩いたのは、一たい、どういう美学が教えた業でしょう。そんな異様の風俗のものは、どんな芝居にだって出て来ません。たしかに少年は、やけくそになっているとしか思えません。カシミヤの白手袋を、再び用いました。唐桟、角帯、紺の腹掛、白線の制帽、白手袋、もはや収拾つかないごたごたの満艦飾です。そんな不思議な時代が、人間一生のあいだに、一時はあるものではないでしょうか。なんだか、まるで夢中なのです。持ち物全部を身につけなければ、気がすまぬのです。カシミヤの白手袋が破れて、新しいのを買おうとしても、カシミヤのは、なかなか無いので、しまいには、生地は、なんであっても白手袋でさえあればという意味で、軍手になりました。兵隊さんの厚ぼったい熊の掌のように大きい白手袋であります。なにもかも、めちゃめちゃでした。少年は、そのような異様の風態で、割《かつ》烹《ぽう》店へ行き、泉《いずみ》鏡《きよう》花《か》氏の小説で習い覚えた地《じ》口《ぐち》を、一生懸命に、何度も繰りかえして言っていました。女など眼中になかったのです。ただ、おのれのロマンチックな姿態だけが、問題であったのです。
やがて夢から覚めました。左翼思想が、そのころの学生を興奮させ、学生たちの顔がさっと蒼《そう》白《はく》になるほど緊張していました。少年は上京して大学へはいり、けれども学校の講義には、一度も出席せず、雨の日も、お天気の日も、色のさめたレインコート着て、ゴム長靴はいて、何やら街頭をうろうろしていました。お洒落《しやれ》の暗黒時代が、それから永いことつづきました。そうして、間もなく少年は、左翼思想をさえ裏切りました。卑《ひ》劣《れつ》漢《かん》の焼印を、自分で自分の額に押したのでした。お洒落の暗黒時代というよりは、心の暗黒時代が、十年後のいまに至るまで、つづいています。少年も、もう、いまでは鬚《ひげ》の剃《そ》り跡の青い大人になって、デカダン小説と人に曲解されている、けれども彼自身は、決してそうではないと信じている悲しい小説を書いて、細々と世を渡っております。昨年まずしい恋人が、できて、時々逢《あ》いに行くのに、ふっと昔のお洒落の本能が、よみがえり、けれども今となっては、あの、やさしい嫂《あによめ》にたのむことも、できなくなっているし、思うようにお金使って服装ととのえるなぞ、とても不可能なことなのでした。普段着いちまいあるきりで、他には、足袋の片一方さえ無い始末でした。よほど落ちぶれて、困《こん》窮《きゆう》しているものと見えます。もともと、お洒落《しやれ》な子だったのですし、洗いざらしの浴衣《ゆかた》に、千切れた兵《へ》児《こ》帯《おび》ぐるぐる巻きにして恋人に逢《あ》うくらいだったら、死んだほうがいいと思いました。さんざ思い迷って、決意しました。借衣であります。お金を借りるときよりも、着物を借りる時のほうが、十倍くるしいものであること、ご存じですか。顔から火が出るという言葉がありますけれど、実感であります。それに、着物ばかりか、兵児帯も、下駄も借りなければ、いけなかったのです。そうして、恋人を欺《あざむ》くのです。どんなに落ちぶれても、ロマンスの世界にはいると、彼のお洒落の本能が、むっくり頭を持ち上げて、彼の痩《や》せひからびた胸をワクワクさせるようであります。彼のような男は、七十歳になっても、八十歳になっても、やはりはでな格子縞のハンチングなど、かぶりたがるのではないでしょうか。外面の瀟《しよう》洒《しや》と典雅だけを現世の唯一の「いのち」として、ひそかに信仰しつづけるのではないでしょうか。昨年、彼が借衣までして恋人に逢いに行ったという、そのときの彼の自《じ》嘲《ちよう》の川柳を二つ三つ左記して、この恐るべきお洒落童子の、ほんのあらましの短い紹介文を結ぶことに致しましょう。落人《おちゆうど》の借衣すずしく似合いけり。この柄は、このごろ流行《はやり》と借衣言い。その袖《そで》を放せと借衣あわてけり。借衣すれば、人みな借衣に見ゆる哉《かな》。味わうと、あわれな狂句です。
俗天使
晩ごはんを食べていて、そのうちに、私は箸《はし》と茶《ちや》碗《わん》を持ったまま、ぼんやり動かなくなってしまって、家の者が、どうなさったの、と聞くから、私は、あ、厭《あ》きちゃったんだ、ごはんを、たべるのが厭きちゃったんだ、とそう言って、そのことばかりではなく、ほかにも考えていたことがあって、それゆえ、ごはんもたべたくなくなって、ぼんやりしてしまったのであるが、けれども、それを家の者に言うのは、めんどうくさいので、もうこのまま、ごはんを残すから、いいかね、と言ったら、家の者は、かまいません、と答えた。傍《そば》にミケランジェロの「最後の審判」の大きな写真版をひろげて、そればかりを見つめながら箸を動かしていたのであるが、図の中央に王子のような、すこやかな青春のキリストが全裸の姿で、下界の動乱の亡者たちに何かを投げつけるような、おおらかな身振りをしていて、若い小さい処女のままの清《せい》楚《そ》の母は、その美しく勇敢な全裸の御子にういういしく寄り添い、御子への心からの信頼にうつむいて、ひっそりしずまり、幽《かす》かにもの思いつつある様が、私の貧しい食事を、とうとう中絶させてしまった。よく見ると、そのようにおおらかな、まるで桃太郎のように玲《れい》瓏《ろう》なキリストのからだの、その腹部に、その振り挙げた手の甲に、足に、まっくろい大きい傷口が、ありありと、むざんに描かれてある。わかる人だけには、わかるであろう。私は、堪えがたい思いであった。また、この母は、なんと佳《よ 》いのだ。私は、幼時、金太郎よりも、金太郎とふたりで山にかくれて住んでいる若く美しい、あの山《やま》姥《うば》のほうに心をひかれた。また、馬に乗ったジャンダークを忘れかねた。青春のころのナイチンゲールの写真にも、こがれた。けれども、いま、眼のまえにあるこの若い、処女のままの母を見ると、てんで比較にも何も、なりゃしない。この母は、怜《れい》悧《り》の小さい下《か》婢《ひ》にも似ている。清潔で、少し冷たい看護婦にも似ている。けれども、そんなんじゃない。軽々しく、形容してはいけない。看護婦だなんて、ばかばかしいことである。これは、やはり絶対に、触れてはならぬもののような気がする。誰《だれ》にも見せず、永遠にしまって置きたい思いである。「聖母子」私は、その実相を、いまやっと知らされた。たしかに、無上のものである。ダヴィンチは、ばかな一こくの辛《しん》酸《さん》を嘗《な》めて、ジョコンダを完成させたが、むざん、神品ではなかった。神と争った罰である。魔品が、できちゃった。ミケランジェロは、卑屈な泣きべその努力で、無智ではあったが、神の存在を触知し得た。どちらが、よけい苦しかったか、私は知らない。けれども、ミケランジェロの、こんな作品には、どこかしら神の助力が感じられてならぬのだ。人の作品でないところがあるのだ。ミケランジェロ自身も、おのれの作品の不思議な素直さを知るまい。ミケランジェロは、劣等生であるから、神が助けて描いてやったのである。これは、ミケランジェロの作品ではない。
そんな、いいものを見て、私は食事を中止し、きょときょと部屋を見《み》廻《まわ》した。家の者が、うつむいて、ごはんをたべている。私は、「最後の審判」の写真版を畳んで、つぎの部屋へ引き上げ、机に向かった。おそろしく自信がないのである。何も書きたくなくなった。私はこの雑誌「新潮」に、明後日までに二十枚の短篇を送らなければならぬので、今夜これから仕事にとりかかろうと思っていたのだが、私は、いまは、まるで腑《ふ》抜《ぬ》けになってしまっている。腹案は、すでにちゃんとできていて、末尾の言葉さえ準備していた。六年前の初秋に、百円持って友人三人を誘って湯《ゆ》河《が》原《わら》温泉に遊びに行き、そうして私たち四人は、それぞれ殺し合うほどの喧《けん》嘩《か》をしたり、泣いたり、笑って仲直りしたときのことを書くつもりであったのだが、いやになった。なんということもない、いわば、れいのごとき作品である。可もなく、不可もない「スケッチ」というものであろうか。あれ、見なければよかったのだ。「聖母子」に、気がつかなければ、よかったのだ。私は、しゃあしゃあと書けたであろう。
さっきから、煙草ばかり吸っている。
「わたしは、鳥ではありませぬ。また、けものでもありませぬ」幼い子供たちが、いつか、あわれな節をつけて、野原で歌っていた。私は家で寝ころんで聞いていたが、ふいと涙が湧《わ》いて出たので、起きあがり家の者に聞いた。あれは、なんだ、なんの歌だ。家の者は笑って答えた。蝙蝠《こうもり》の歌でしょう。鳥獣合戦のときの唱歌でしょう。「そうかね。ひどい歌だね」「そうでしょうか」と何も知らずに笑っている。
その歌が、いま思い出された。私は、弱行の男である。私は、御《ご》機《き》嫌《げん》買いである。私は、鳥でもない。けものでもない。そうして、人でもない。きょうは、十一月十三日である。四年まえのこの日に、私はある不吉な病院から出ることを許された。きょうのように、こんなに寒い日ではなかった。秋晴れの日で、病院の庭には、まだコスモスが咲き残っていた。あのころの事は、これから五、六年経って、もすこし落ちつけるようになったら、たんねんに、ゆっくり書いてみるつもりである。「人間失格」という題にするつもりである。
あと、もう書きたくなくなった。けれども、私は書かなければならぬ。「新潮」のNさんには、これまでも、いろいろと迷惑をおかけしている。やぶれかぶれで、こんな言葉が、ふいと浮かんだ。「私にも、陋《ろう》巷《こう》の聖母があった」
もとより、痩《やせ》意《い》地《じ》の言葉である。地上の、どんな女性を描いてみても、あのミケランジェロの聖母とは、似ても似つかぬ。青《あお》鷺《さぎ》と、ひきがえるくらいの差がある。たとえば、私が荻《おぎ》窪《くぼ》の下宿にいたとき、近くのシナそばやへ、よく行ったものであるが、ある晩、私が黙ってシナそばをたべていると、そこの小さい女中が、エプロンの下から、こっそり鶏卵を出して、かちと割って私のたべかけているおそばの上に、ぽとりと落としてくれた。私は、みじめな気がして、顔をあげることが、できなかった。それからは、なるべく、そのおそばやに、行かないことにした。実に、恥ずかしい記憶である。
また私が、五年まえに盲腸を病んで腹《ふく》膜《まく》へも膿《うみ》がひろがり、手術が少しややこしく、その折に用いた薬品が癖になって、中毒症状を起こしてしまい、それをなおそうと思って、水《みな》上《かみ》温泉に行き、二、三日は神に祈ってがまんをしたが、苦しさに堪え切れず、水上町の小さい医院に駈《か》け込んで老医師に事情を打ち明け、薬品を一回分だけ、わけてもらったことがある。帰りしなに、丸顔の看護婦さんが、にこにこ笑って、こっそり、もう一回分だけ、薬を手渡してくれた。私は、そのぶんだけのお金を更に支払おうとしたら、看護婦さんは、だまってかぶりを振った。私は早く病気をなおしたいと思った。
水上でも、病気をなおすことができず、私は、夏のおわり、水上の宿を引きあげた。宿を出て、バスに乗り、振り向くと、娘さんが、少し笑って私を見送り急にぐしゃと泣いた。娘さんは、隣りの宿屋に、病身らしい小学校二、三年生くらいの弟と一緒に湯《とう》治《じ》しているのである。私の部屋の窓から、その隣の宿の、娘さんの部屋が見えて、お互い朝夕、顔を見合わせていたのであるが、どっちも挨《あい》拶《さつ》したことはなし、知らん振りであった。当時、私は朝から晩まで、借銭申し込みの手紙ばかり書いていた。いまだって、私はちっとも正直ではないが、あのころは半狂乱で、かなしい一時のがれの嘘《うそ》ばかり言い散らしていた。呼吸して生きていることに疲れて、窓から顔を出すと、隣りの宿の娘さんは、部屋のカーテンをさっと癇《かん》癖《ぺき》らしく閉めて、私の視線を切断することさえあった。バスに乗って、ふりむくと、娘さんは隣りの宿の門口に首筋ちぢめて立っていたが、そのときはじめて私に笑いかけ、そのまま泣いた。だんだんお客たち、帰ってしまう。という抽象的な悲しみに、急激に襲われたためだと思う。特に私を選んで泣いたのではないと、わかっていながら、それでも、強く私は胸を突かれた。も少し、親しくして置けばよかったと思った。
これだけのことでも、やはり、「のろけ」という事になるのであろうか。こんなことが、私のとって置きの「のろけ」だとしたなら、私はずいぶんみじめな、あわれな、野郎にちがいない。みじんも「のろけ」のつもりではないのだ。シナそばやの女中さんから、鶏卵一個を恵まれたからとて、それが、なんの手柄になることか。私は、自身の恥《ち》辱《じよく》を告白しているだけである。私は自身の容《よう》貌《ぼう》のおかしさも知っている。小さい時から、醜い醜いと言われて育った。不親切で、気がきかない。それに、下品にがぶがぶ大酒を呑《の》む。女に、好かれるはずはないのである。私には、それをまた、少し自慢にしているようなところもあるのである。私は、女には好かれたくはないと思っている。あながち、やけくそからでもないのである。ぶんを知っているのである。好かれるほどの価値がないと自覚している人が、何かの拍子で好かれたなら、ただ、狼《ろう》狽《ばい》、自身みじめな思いをするだけのことではないかと思われる。私が、こんなことを言っても、ほんとうにしない人があるかも知れないけれど、ばかめ! おまえみたいな下劣な穿《せん》鑿《さく》好《ず》きがいるから、私まで、むきになって、こんな無智な愚かな弁明を、まじめな顔して言わなければならなくなるのだ。人の話は、だまって聞いているがよい。私は、嘘をついているのではないから。
恥辱を告白している、とまえに言った。けれども、それは少し言葉が足りなかった。「恥辱を告白することに、わずかな誇りを持ちたくて、書いているのだ」と言い直したほうが、やや適切ではなかろうか。みじめの心境であるが、いたしかたがない。私は女に好かれることはないのであるから、ときたまのわずかな、女の好意でも、そのときは恥辱にさえ思っていたのであったが、いまは、その記憶だけでも大事にしなければならぬのではないか、というすこぶるぱっとしない卑《ひ》屈《くつ》な反省によって、私は、それらの貧しい女性たちに、「陋《ろう》巷《こう》のマリヤ」という冠を、多少閉口しながら、やぶれかぶれで捧げている現状なのである。かのミケランジェロのマリヤが、この様を見下して、怒り給うことなく、微笑してくれたら、さいわいである。
私は、肉親以外の女の人からは、金銭を貰《もら》ったことは、いちどもないが、十年まえに、ある種類のめいわくをかけたことがある。十年まえと言えば、二十一である。銀《ぎん》座《ざ》のバーへはいったのであるが、私の財布には五円紙幣一枚と、電車切符しか無かった。大阪言葉の女給である。上品な人である。私は、その人に五円しか無いことを言って、なるべくお酒をゆっくり持って来てくれるように、まじめにたのんだ。女の人も笑わずに、承知してくれた。一本呑むと酔って来て、つぎの一本を大至急たのんだ。女の人は、さからわず、はいはいと言って持って来た。ずいぶん呑んでしまった。お勘定は、十三円あまりであった。いまでも、その金高は、ちゃんと覚えている。私が、もそもそしたら、女の人は、ええわ、ええわ、と言って私の背中をぐんぐん押して外へ出してしまった。それっきりであった。私の態度がよかったからであろうと思い、私は、それ以上の浮いた気持は感じなかった。二、三年、あるいは四、五年、そこは、はっきりしないけれども、とにかく、よっぽど後になって、ふらとそのバーへ立ち寄ったことがある。南無三、あの女給がまだいたのである。やはり上品に、立ち働いていた。私のテーブルにも、つい寄って、にこにこ笑いながら、どなただったかなあ、忘れたなあ、と言い、そのまま他のテーブルのほうへ行ってしまった。私は卑《ひ》屈《くつ》で、しかも吝《りん》嗇《しよく》であるから、こちらから名乗ってお礼を言う勇気もなく、お酒を一本呑んで、さっさと引き上げた。
もう、種が無くなった。あとは、捏《ねつ》造《ぞう》するばかりである。何も、もう、思い出がないのである。語ろうとすれば、捏造するよりほかはない。だんだんみじめになって来る。
ひとつ、手紙でも書いて見よう。
「おじさん。サビガリさん。サビシガリさんでもなければ、サムガリさんでもないの。サビガリさんが、よく似合う。いつも、小説ばっかり書いているおじさん。けさほどは、お葉書ありがとう。ちょうど朝御飯のとき着きましたので、みんなに読んであげました。そんなに毎日毎日チクチク小説ばっかり書いてらしたら、からだを悪くする。ぜひ、スポーツをなさいますようおすすめいたします。おじさんのように、いつもドテラ着て家に居る人間には、どうしても運動の明るさと、元気を必要としますから。きょうも、またおじさんを、うんと笑わせてあげます。これから書くことは、もっとおしまいに書くつもりでしたけれど、早くお知らせしたく我慢できなくなっちゃったから、書くわ。いったい、なんでしょう? 何しろ、きょう買って貰《もら》ったものですからね。私たちムスメが、それを身につけると、たまらなく海の見える砂丘に立ってみたくなるものです。旅行がしたくなって、たまらなくなるものです。きょう、銀座のローヤルで見つけて、かえりにすぐ身につけて来ましたの。私、歩くのが嬉《うれ》しくって、楽しくって、自然に眼が足もとへいってしまうのです。もう、おわかりでしょう? 靴なのよ。あたし、きょう、靴ばかり歩いているような気がしましたわ。みんなが私の靴を見つめているような、たいへんな、おごりの気持よ。つまらない? おじさんは、なんでもつまらない、つまらないだから困るのです。私も靴の話は、つまらなく思います。
それでは、何が、いいでしょう。きょう夕方、お母さんが『女生徒』を読みたいとおっしゃいました。私は、つい、『厭《いや》よ』って断わりました。そして、五分くらい経ってから、『お母さん意地悪ね。だけど、仕方がないわ。困ったわ』なんて変なことばかり言って、あの本を書斎から持って来てあげましたの。今お母さん読んでいらっしゃるらしいのよ。かまわないわね。お母さんにわるいことなんか、ちっとも書かれてないんだし、それに叔父さんだって、いつもお母さんを尊敬していらっしゃるのだから、大丈夫よ。お母さん、おじさんをお叱《しか》りになることないと思うわ。ただ、あたしが少し恥ずかしいの。どうしてだか、自分でもよくわかりませんわ。あたしは、このごろずっと、お母さんに変に恥ずかしがってばかりいるの。お母さんだけじゃない。みんなに。もっと、平気になりたいのですけれど。
つまらないわね、そんなこと。ふきとばせ、シャボン玉。きのうは、お寺さんと買い物にまいりました。お寺さんの買ったものは、白い便《びん》箋《せん》と、口紅と、(口紅は、お寺さんに、とてもよく合う色でした)それから、時計の皮でした。あたしは、お金入れと、(とてもとても気に入ったお金いれよ。焦茶と赤の貝の模様です。だめかしら。あたし、趣味が低いのね。でも、口金の所と貝の口の所が、金色で細くいろどられて、捨てたものでもないの。あたしこれを買う時に、お金入れを顔に近づけてみましたの。そしたら、口金にあたしの顔が小さく丸く映っていて、なかなか可愛《かわい》く見えました。ですから、これからあたしは、このお金いれを開ける時には、他の人がお金入れを開ける時とは、ちがった心構えをしなければならなくなりました。開ける時には、必ずちらと映してみようと思っています)それから口紅も買ったんだけれど、こんな話、やっぱり、つまらない? どうしたのでしょうね。おじさんにも、わるいところがあるのよ。あたし、ときどき、そう思って淋《さび》しくなります。お酒は、しかたないけれども、煙草は、もすこしつつしんで下さい。ふつうじゃないわ。デカダンめ。
こんどは、いいお話を聞かせてあげます。なんだか、みんな自信がなくなっちゃった。犬の話をしようと思ったんだけど、おじさんと私とでは、犬についての趣味は全然、反対なのだから、それを考えると、もう言いたくなくなりました。ジャピー、可愛いのよ。いま散歩から帰って来たところらしく、窓の下で、ツウアアなんて、あくびのような甘え声をたてています。あすは、火曜日。火曜日っていう字は、意地悪そうできらいです。
ニュースをお知らせしましょうね。
一、白蘭の和平調停を、英仏婉《えん》曲《きよく》に拒否す。
そもそもベルギー皇帝レオポール三世は、そのあとは、けさの新聞を読んで下さい。
二、廃船は意外わが贈物、浮かぶ「西《せい》太《たい》后《こう》の船」
そもそも北京《ペキン》郊外万《まん》寿《じゆ》山《さん》山《さん》麓《ろく》の昆《こん》明《めい》湖、その湖の西北隅、意外や竜が現われた。とし古く住む竜にして、というのは嘘《うそ》。
おじさんが、いま牢《ろう》へはいっているんだったら、いいな。そうすると私は、毎日、大得意で、ニュースをお送りできるのだけれど。新聞を読むと、ちゃんと書いてあることなのに、なぜみんな、あんなに得々と、欧州の状勢は、なんて自分ひとり知っているような顔をしているのでしょう。おかしいと思います。
三、ジャピーは、この二、三日あまり元気がないのです。日中は、ずっとウツラウツラしています。
このごろ、急に老けた顔つきになりました。もうきっと、おじいさんになってしまったのでしょうね。
四、サビガリ君は、白衣の兵隊さんにお辞儀をなさいますか? あたしは、いつも『今度こそお辞儀をしましょう』と決心しながら、どうしても、できませんでした。それが、この間、上《うえ》野《の》の美術館に行く途中、向こうから白衣の兵隊さんが歩いていらっしゃいました。あたし、こっそりあたりを見まわして、誰《だれ》も居りませんでしたので、ここぞと、ちゃんとお辞儀をしましたの。そしたら、兵隊さんも、ていねいにお辞儀をして下さいました。あたしは、涙が出そうなくらい、うれしくって、足がピョンピョンはね上がって、とても歩きにくくなりました。ニュースは、これでおしまい。
私は、このごろ、とても気取っております。おじさんが私のことを、上手に書いて下さって、私は、日本全国に知られているのですものね。あたしは、寂しいのよ。笑っては、いや。ほんとうよ。私は、だめな子かも知れません。朝、目がさめて、きょうこそは、しっかりした意志を持ちつづけて悔いなく暮らそうと、誓ってお床から起き出すのですけど、朝御飯まで、とっても、もちません。それまでは、それはそれは、ひどい緊張で物事に当たりますの。シャッチョコ張って、御不浄の戸を閉めるのにも気をつけて、口をきゅっと引きしめ、伏《ふし》眼《め》で廊下を歩き、郵便屋さんにもいい笑い声を使ってしとやかに応対するのですけれど、あたしは、やっぱり、だめなの。朝御飯のおいしそうな食卓を見ると、もうすっかりあの固い誓いが、ふっとんでしまっているのです。そして、ペチャペチャおしゃべりして、げびてまいります。ごはんも、たしなみなく大食いして、三杯目くらいに、やっと思い出して、『しまった!』と思います。そうなると、がっかりしてしまって、もうくだらない自分だけで安心してしまうのですの。それを毎日、くりかえしています。だめだわね。おじさんは、このごろ何を読んでいらっしゃいますか。私は、ルソーの『懺《ざん》悔《げ》録《ろく》』を読んでおります。先日、プラネタリウムを見て来ました。朝になると、日が暮れる時に、美しいワルツが聴こえて来ました。おじさん、元気でいて下さい」
だらだらと書いてみたが、あまりおもしろくなかったかも知れない。でも、いまのところ、せいぜいこんなところが、私の貧しいマリヤかも知れない。実在かどうかは、言うまでもない。作者は、いま、理由もなく不《ふ》機《き》嫌《げん》である。
駈《かけ》込《こ》み訴え
申し上げます。申し上げます。旦《だん》那《な》さま。あの人は、酷《ひど》い。酷い。はい、厭《いや》な奴です。悪い人です。ああ。我慢ならない。生かして置けねえ。
はい、はい。落ちついて申し上げます。あの人を、生かして置いてはなりません。世の中の仇《あだ》です。はい、何もかも、すっかり、全部、申し上げます。私は、あの人の居《い》所《どころ》を知っています。すぐに御案内申します。ずたずたに切りさいなんで、殺して下さい。あの人は、私の師です。主です。けれども私と同じ年です。三十四であります。私は、あの人よりたった二《ふた》月《つき》おそく生まれただけなのです。たいした違いがないはずだ。人と人との間に、そんなにひどい差別はないはずだ。それなのに私はきょうまであの人に、どれほど意地悪くこき使われて来たことか。どんなに嘲《ちよう》弄《ろう》されて来たことか。ああ、もう、いやだ。堪《た》えられるところまでは、堪えて来たのだ。怒る時に怒らなければ、人間のかいがありません。私は今まであの人を、どんなにこっそり庇《かば》ってあげたか。誰も、ご存じないのです。あの人ご自身だって、それに気がついていないのだ。いや、あの人は知っているのだ。ちゃんと知っています。知っているからこそ、なおさらあの人は私を意地悪く軽《けい》蔑《べつ》するのだ。あの人は傲《ごう》慢《まん》だ。私から大きに世話を受けているので、それがご自身に口惜《くや》しいのだ。あの人は、阿《あ》呆《ほう》なくらいに自惚《うぬぼ》れ屋だ。私などから世話を受けている、ということを、何かご自身の、ひどい引《ひけ》目《め》ででもあるかのように思い込んでいなさるのです。あの人は、なんでもご自身でできるかのように、ひとから見られたくてたまらないのだ。ばかな話だ。世の中はそんなものじゃないんだ。この世に暮らして行くからには、どうしても誰《だれ》かに、ぺこぺこ頭を下げなければいけないのだし、そうして歩一歩、苦労して人を抑えてゆくよりほかにしようがないのだ。あの人に一体、何ができましょう。なんにもできやしないのです。私から見れば青二才だ。私がもし居らなかったらあの人は、もう、とうの昔、あの無能でとんまの弟子たちと、どこかの野原でのたれ死《じに》していたに違いない。「狐《きつね》には穴あり、鳥には塒《ねぐら》、されども人の子には枕するところ無し」それ、それ、それだ。ちゃんと白状していやがるのだ。ペテロに何ができますか。ヤコブ、ヨハネ、アンデレ、トマス、痴《こけ》の集まり、ぞろぞろあの人について歩いて、背筋が寒くなるような、甘ったるいお世辞を申し、天国だなんて馬鹿げたことを夢中で信じて熱狂し、その天国が近づいたなら、あいつらみんな右大臣、左大臣にでもなるつもりなのか、馬鹿な奴らだ。その日のパンにも困っていて、私がやりくりしてあげないことには、みんな飢え死してしまうだけじゃないのか。私はあの人に説教させ、群集からこっそり賽《さい》銭《せん》を巻き上げ、また、村の物持ちから供《く》物《もつ》を取り立て、宿舎の世話から日常衣食の購求まで、煩をいとわず、してあげていたのに、あの人はもとより弟子の馬鹿どもまで、私に一言のお礼も言わない。お礼を言わぬどころか、あの人は、私のこんな隠れた日々の苦労をも知らぬ振りして、いつでも大変な贅《ぜい》沢《たく》を言い、五つのパンと魚が二つあるきりの時でさえ、目前の大群集みなに食物を与えよ、などと無理難題を言いつけなさって、私は陰で実に苦しいやり繰りをして、どうやら、その命じられた食いものを、まあ、買い調《ととの》えることができるのです。いわば、私はあの人の奇蹟の手伝いを、危い手品の助手を、これまで幾度となく勤めて来たのだ。私はこう見えても、決して吝《りん》嗇《しよく》の男じゃない。それどころか私は、よっぽど高い趣味家なのです。私はあの人を、美しい人だと思っている。私から見れば、子供のように慾《よく》がなく、私が日々のパンを得るために、お金をせっせと貯めたっても、すぐにそれを一厘《りん》残さず、むだな事に使わせてしまって、けれども私は、それを恨みに思いません。あの人は美しい人なのだ。私はもともと貧しい商人ではありますが、それでも精神家というものを理解していると思っています。だから、あの人が、私の辛苦して貯めて置いた粒々の小金を、どんなに馬鹿らしくむだ使いしても、私は、なんとも思いません。思いませんけれども、それならば、たまには私にも、優しい言葉の一つくらいはかけてくれてもよさそうなのに、あの人は、いつでも、私に意地悪くしむけるのです。一度、あの人が、春の海辺をぶらぶら歩きながら、ふと、私の名を呼び、「おまえにも、お世話になるね。おまえの寂しさは、わかっている。けれども、そんなにいつも不《ふ》機《き》嫌《げん》な顔をしていては、いけない。寂しいときに、寂しそうな面《おも》容《もち》をするのは、それは偽善者のすることなのだ。寂しさを人にわかって貰《もら》おうとして、ことさらに顔色を変えて見せているだけなのだ。まことに神を信じているならば、おまえは、寂しい時でも素知らぬ振りして顔を綺《き》麗《れい》に洗い、頭に膏《あぶら》を塗り、微《ほほ》笑《え》んでいなさるがよい。わからないかね。寂しさを、人にわかって貰わなくても、どこか眼に見えないところにいるお前の誠の父だけが、わかっていて下さったなら、それでよいではないか。そうではないかね。寂しさは、誰にだってあるのだよ」そうおっしゃってくれて、私はそれを聞いて、なぜだか声出して泣きたくなり、いいえ、私は天の父にわかって戴《いただ》かなくても、また世間の者に知られなくても、ただ、あなたお一人さえ、おわかりになっていて下さったら、それでもう、よいのです。私はあなたを愛しています。ほかの弟子たちが、どんなに深くあなたを愛していたって、それとは較べものにならないほどに愛しています。誰よりも愛しています。ペテロやヤコブたちは、ただ、あなたについて歩いて、何かいいこともあるかと、そればかりを考えているのです。けれども、私だけは知っています。あなたについて歩いたって、なんの得するところも無いということを知っています。それでいながら、私はあなたから離れることができません。どうしたのでしょう。あなたがこの世にいなくなったら、私もすぐに死にます。生きていることができません。私には、いつでも一人でこっそり考えていることがあるんです。それはあなたが、くだらない弟子たち全部から離れて、また天の父の御教えとやらを説かれることもおよしになり、つつましい民のひとりとして、お母のマリヤ様と、私と、それだけで静かな一生を永く暮らして行くことであります。私の村には、まだ私の小さい家が残ってあります。年老いた父も母も居ります。ずいぶん広い桃《もも》畠《ばたけ》もあります。春、いまごろは、桃の花が咲いて見事であります。一生、安楽にお暮らしできます。私がいつでもお傍《そば》について、御奉公申し上げたく思います。よい奥さまをおもらいなさいまし。そう私が言ったら、あの人は、薄くお笑いになり、「ペテロやシモンは漁人《すなどり》だ。美しい桃の畠も無い。ヤコブもヨハネも赤貧の漁人《すなどり》だ。あのひとたちには、そんな、一生を安楽に暮らせるような土地が、どこにも無いのだ」と低く独りごとのように呟《つぶや》いて、また、海辺を静かに歩きつづけたのでしたが、後にもさきにも、あの人と、しんみりお話できたのは、そのとき一度だけで、あとは、決して私に打ち解けて下さったことがなかった。私はあの人を愛している。あの人が死ねば、私も一緒に死ぬのだ。あの人は、誰のものでもない。私のものだ。あの人を他人に手渡すくらいなら、手渡すまえに、私はあの人を殺してあげる。父を捨て、母を捨て、生まれた土地を捨てて、私はきょうまで、あの人について歩いて来たのだ。私は天国を信じない。神も信じない。あの人の復活も信じない。なんであの人が、イスラエルの王なものか。馬鹿な弟子どもは、あの人を神の御子だと信じていて、そうして神の国の福《ふく》音《いん》とかいうものを、あの人から伝え聞いては、あさましくも、欣《きん》喜《き》雀《じやく》躍《やく》している。今にがっかりするのが、私にはわかっています。おのれを高うする者は卑《ひく》うせられ、おのれを卑《ひく》うする者は高うせられると、あの人は約束なさったが、世の中、そんなに甘くいってたまるものか。あの人は嘘《うそ》つきだ。言うこと言うこと、一から十まででたらめだ。私はてんで信じていない。けれども私は、あの人の美しさだけは信じている。あんな美しい人はこの世にない。私はあの人の美しさを、純粋に愛している。それだけだ。私は、なんの報酬も考えていない。あの人について歩いて、やがて天国が近づき、その時こそは、あっぱれ右大臣、左大臣になってやろうなどと、そんなさもしい根性は持っていない。私は、ただ、あの人から離れたくないのだ。ただ、あの人の傍《そば》にいて、あの人の声を聞き、あの人の姿を眺《なが》めておればそれでよいのだ。そうして、できればあの人に説教などをよしてもらい、私とたった二人きりで一生永く生きていてもらいたいのだ。あああ、そうなったら! 私はどんなに仕合わせだろう。私は今の、この、現世の喜びだけを信じる。次の世の審判など、私は少しも怖れていない。あの人は、私のこの無報酬の、純粋の愛情をどうして受け取って下さらぬのか。ああ、あの人を殺して下さい。旦《だん》那《な》さま。私はあの人の居《い》所《どころ》を知っております。御案内申しあげます。あの人は私を賤《いや》しめ、憎悪しております。私は、きらわれております。私はあの人や、弟子たちのパンのお世話を申し、日々の飢《き》渇《かつ》から救ってあげているのに、どうして私を、あんなに意地悪く軽《けい》蔑《べつ》するのでしょう。お聞き下さい。六日まえのことでした。あの人はべタニヤのシモンの家で食事をなさっていたとき、あの村のマルタめの妹のマリヤが、ナルドの香油を一ぱい満たしてある石《せつ》膏《こう》の壺《つぼ》をかかえて饗《きよう》宴《えん》の室にこっそりはいって来て、だしぬけに、その油をあの人の頭にざぶと注《そそ》いで御足まで濡《ぬ》らしてしまって、それでも、その失礼を詫《わ》びるどころか、落ちついてしゃがみ、マリヤ自身の髪の毛で、あの人の濡れた両足をていねいに拭《ぬぐ》ってあげて、香油の匂《にお》いが室に立ちこもり、まことに異様な風景でありましたので、私は、なんだか無《む》性《しよう》に腹が立って来て、失礼なことをするな! と、その妹娘に怒鳴ってやりました。これ、このようにお着物が濡れてしまったではないか、それにこんな高価な油をぶちまけてしまって、もったいないと思わないか、なんというお前は馬鹿な奴だ。これだけの油だったら、三百デナリもするではないか、この油を売って、三百デナリ儲《もう》けて、その金をば貧乏人に施してやったら、どんなに貧乏人が喜ぶか知れない。無駄なことをしては困るね、と、私は、さんざ叱《しか》ってやりました。すると、あの人は、私のほうを屹《き》っと見て、「この女を叱ってはいけない。この女のひとは、大変いいことをしてくれたのだ。貧しい人にお金を施すのは、おまえたちには、これからあとあと、いくらでもできることではないか。私には、もう施しができなくなっているのだ。そのわけは言うまい。この女のひとだけは知っている。この女が私のからだに香油を注いだのは、私の葬《とむら》いの備えをしてくれたのだ。おまえたちも覚えて置くがよい。全世界、どこの土地でも、私の短い一生を言い伝えられる処には、必ず、この女の今日のしぐさも記念として語り伝えられるであろう」そう言い結んだ時に、あの人の青白い頬《ほお》は幾分、上気して赤くなっていました。私は、あの人の言葉を信じません。れいによって大げさなお芝居であると思い、平気で聞き流すことができましたが、それよりも、その時、あの人の声に、また、あの人の瞳《ひとみ》の色に、いままでかつて無かったほどの異様なものが感じられ、私は瞬時戸惑いして、更にあの人の幽《かす》かに赤らんだ頬と、うすく涙に潤《うる》んでいる瞳とを、つくづく見直し、はッと思い当たることがありました。ああ、いまわしい、口に出すさえ無念至極のことであります。あの人は、こんな貧しい百姓女に恋、ではないが、まさか、そんな事は絶対にないのですが、でも、危い、それに似たあやしい感情を抱いたのではないか? あの人ともあろうものが、あんな無智な百姓女ふぜいに、そよとでも特殊な愛を感じたとあれば、それはなんという失態。取りかえしのできぬ大醜聞。私は、ひとの恥《ち》辱《じよく》となるような感情を嗅《か》ぎわけるのが、生まれつき巧みな男であります。自分でもそれを下品な嗅《きゆう》覚《かく》だと思い、いやでありますが、ちらと一目見ただけで、人の弱点を、あやまたず見届けてしまう鋭《えい》敏《びん》の才能を持っております。あの人が、たとえ微弱にでも、あの無学の百姓女に、特別の感情を動かしたということは、やっぱり間違いありません。私の眼には狂いがないはずだ。たしかにそうだ。ああ、我慢ならない。堪《かん》忍《にん》ならない。私は、あの人も、こんな体《てい》たらくでは、もはや駄目だと思いました。醜態の極だと思いました。あの人はこれまで、どんなに女に好かれても、いつでも美しく、水のように静かであった。いささかも取り乱すことがなかったのだ。ヤキがまわった。だらしがねえ。あの人だってまだ若いのだし、それは無理もないと言えるかも知れぬけれど、そんなら私だって同じ年だ。しかも、あの人より二《ふた》月《つき》おそく生まれているのだ。若さに変わりはないはずだ。それでも私は堪《た》えている。あの人ひとりに心を捧げ、これまでどんな女にも心を動かしたことはないのだ。マルタの妹のマリヤは、姉のマルタが骨組頑《がん》丈《じよう》で牛のように大きく、気象も荒く、どたばた立ち働くのだけが取《とり》柄《え》で、なんの見どころもない百姓女でありますが、あれは違って骨も細く、皮膚は透きとおるほどの青白さで、手足もふっくらして小さく、湖水のように深く澄んだ大きい眼が、いつも夢みるよう、うっとり遠くを眺めていて、あの村では皆、不思議がっているほどの気高い娘でありました。私だって思っていたのだ。町へ出たとき、何か白絹でも、こっそり買って来てやろうと思っていたのだ。ああ、もう、わからなくなりました。私は何を言っているのだ。そうだ、私は口《く》惜《や》しいのです。なんのわけだか、わからない。地《じ》団《だん》駄《だ》踏むほど無念なのです。あの人が若いなら、私だって若い、私は才能ある、家も畠もあるりっぱな青年です。それでも私は、あの人のために私の特権全部を捨てて来たのです。だまされた。あの人は、嘘つきだ。旦《だん》那《な》さま。あの人は、私の女をとったのだ。いや、ちがった! あの女が、私からあの人を奪ったのだ。ああ、それもちがう。私の言うことは、みんなでたらめだ。一言も信じないで下さい。わからなくなりました。ごめん下さいまし。ついつい根も葉もないことを申しました。そんなあさはかな事実なぞ、みじんもないのです。醜いことを口走りました。だけれども、私は、口惜しいのです。胸を掻《か》きむしりたいほど、口惜しかったのです。なんのわけだか、わかりませぬ。ああ、ジェラシーというのは、なんてやりきれない悪徳だ。私がこんなに、命を捨てるほどの思いであの人を慕《した》い、きょうまでつき随《したが》って来たのに、私には一つの優しい言葉も下さらず、かえってあんな賤《いや》しい百姓女の身の上を、御頬を染めてまでかばっておやりなさった。ああ、やっぱり、あの人はだらしない。ヤキがまわった。もう、あの人には見込みがない。凡夫だ。ただの人だ。死んだって惜しくはない。そう思ったら私は、ふいと恐ろしいことを考えるようになりました。悪魔に魅《み》こまれたのかも知れませぬ。そのとき以来、あの人を、いっそ私の手で殺してあげようと思いました。いずれは殺されるお方にちがいない。またあの人だって、無理に自分を殺させるように仕向けているみたいな様子が、ちらちら見える。私の手で殺してあげる。他人の手で殺させたくはない。あの人を殺して私も死ぬ。旦那さま、泣いたりしてお恥ずかしゅう思います。はい、もう泣きませぬ。はい、はい。落ちついて申し上げます。そのあくる日、私たちはいよいよあこがれのエルサレムに向かい、出発いたしました。大群集、老いも若きも、あの人のあとにつき従い、やがて、エルサレムの宮が間近になったころ、あの人は、一匹の老いぼれた驢《ろ》馬《ば》を道ばたで見つけて、微笑してそれに打ち乗り、これこそは、「シオンの娘よ、懼《おそ》るな、視《み》よ、なんじの王は驢馬の子に乗りて来たり給う」と予言されてある通りの形なのだと、弟子たちに晴れがましい顔をして教えましたが、私ひとりは、なんだか浮かぬ気持でありました。なんという、あわれな姿であったでしょう。待ちに待った過《すぎ》越《こし》の祭、エルサレム宮に乗り込む、これが、あのダビデの御子の姿であったのか。あの人の一生の念願とした晴れの姿は、この老いぼれた驢馬に跨《またが》り、とぼとぼ進むあわれな景観であったのか。私には、もはや、憐《れん》憫《びん》以外のものは感じられなくなりました。実に悲惨な、愚かしい茶番狂言を見ているような気がして、ああ、もう、この人も落目だ。一日生き延びれば、生き延びただけ、あさはかな醜態をさらすだけだ。花は、しぼまぬうちこそ、花である。美しい間に、剪《き》らなければならぬ。あの人を、いちばん愛しているのは私だ。どのように人から憎まれてもいい。一日も早くあの人を殺してあげなければならぬと、私は、いよいよ、このつらい決心を固めるだけでありました。群衆は、刻一刻とその数を増し、あの人の通る道々に赤、青、黄、色とりどりの彼らの着物をほうり投げ、あるいは棕《しゆ》櫚《ろ》の枝を伐《き》って、その行く道に敷きつめてあげて、歓呼にどよめき迎えるのでした。かつ、前にゆき、あとに従い、右から、左から、まつわりつくようにして果ては大浪のごとく、驢《ろ》馬《ば》とあの人をゆさぶり、ゆさぶり、「ダビデの子にホサナ、讃《ほ》むべきかな、主の御名によりて来たる者、いと高き処にて、ホサナ」と熱狂して口々に歌うのでした。ペテロやヨハネやバルトロマイ、そのほか全部の弟子どもは、ばかなやつ、すでに天国を目のまえに見たかのように、まるで凱《がい》旋《せん》の将軍につき従っているかのように、有頂天の歓喜で互いに抱き合い、涙に濡《ぬ》れた接《せつ》吻《ぷん》を交わし、一徹者のペテロなど、ヨハネを抱きかかえたまま、わあわあ大声で嬉《うれ》し泣きに泣き崩れていました。その有様を見ているうちに、さすがに私も、この弟子たちと一緒に艱《かん》難《なん》を冒して布教に歩いて来た、その忍苦困《こん》窮《きゆう》の日々を思い出し、不覚にも、目がしらが熱くなって来ました。かくしてあの人は宮に入り、驢馬から降りて、何思ったか、縄を拾いこれを振りまわし、宮の境内の、両替する者の台やら、鳩《はと》売る者の腰掛けやらを打ち倒し、また、売り物に出ている牛、羊をも、その縄の鞭《むち》でもって全部、宮から追い出して、境内にいる大勢の商人たちに向かい、「おまえたち、みな出て失せろ、私の父の家を、商いの家にしてはならぬ」と甲《かん》高《だか》い声で怒鳴るのでした。あの優しいお方が、こんな酔っぱらいのような、つまらぬ乱暴を働くとは、どうしても少し気がふれているとしか、私には思われませんでした。傍《そば》の人もみな驚いて、これはどうしたことですか、とあの人に訊《たず》ねると、あの人の息せき切って答えるには、「おまえたち、この宮をこわしてしまえ、私は三日の間に、また建て直してあげるから」ということだったので、さすが愚直の弟子たちも、あまりに無鉄砲なその言葉には、信じかねて、ぽかんとしてしまいました。けれども私は知っていました。所《しよ》詮《せん》はあの人の、幼い強がりにちがいない。あの人の信仰とやらでもって、万事成らざるはなしという気概のほどを、人々に見せたかったのに違いないのです。それにしても、縄の鞭を振りあげて、無力な商人を追い廻したりなんかして、なんてまあ、けちな強がりなんでしょう。あなたにできる精一ぱいの反抗は、たったそれだけなのですか、鳩売りの腰掛けを蹴《け》散《ち》らすだけのことなのですか、と私は憫《びん》笑《しよう》しておたずねしてみたいとさえ思いました。もはやこの人は駄目なのです。破れかぶれなのです。自重自愛を忘れてしまった。自分の力では、この上もう何もできぬということをこの頃そろそろ知り始めた様子ゆえ、あまりボロの出ぬうちに、わざと祭司長に捕えられ、この世からおさらばしたくなって来たのでありましょう。私は、それを思った時、はっきりあの人を諦《あきら》めることができました。そうして、あんな気取り屋の坊ちゃんを、これまで一《いち》途《ず》に愛して来た私自身の愚かさをも、容易に笑うことができました。やがてあの人は宮に集まる大群の民を前にして、これまで述べた言葉のうちで一ばんひどい、無礼傲《ごう》慢《まん》の暴言を、めちゃくちゃに、わめき散らしてしまったのです。さよう、たしかに、やけくそです。私はその姿を薄汚くさえ思いました。殺されたがって、うずうずしていやがる。「禍害《わざわい》なるかな、偽善なる学者、パリサイ人《びと》よ、汝《なんじ》らは酒杯《さかずき》と皿との外《そと》を潔《きよ》くす、然れども内は貪《どん》慾《よく》と放《ほう》縦《じゆう》とにて満つるなり。禍害《わざわい》なるかな、偽善なる学者、パリサイ人よ、汝らは白く塗りたる墓に似たり、外は美しく見ゆれども、内は死人の骨とさまざまの穢《けがれ》とに満つ。斯《かく》のごとく汝らも外は正しく見ゆれども、内は偽善と不法とにて満つるなり。蛇よ、蝮《まむし》の裔《すえ》よ、なんじら争《いか》で、ゲヘナの刑罰を避け得んや。ああエルサレム、エルサレム、予言者たちを殺し、遣《つかわ》されたる人々を石にて撃つ者よ、牝《めん》鶏《どり》のその雛《ひな》を翼の下に集むるごとく、我なんじの子らを集めんと為《せ》しこと幾度ぞや、然《さ》れど、汝らは好まざりき」馬鹿なことです。噴《ふん》飯《ぱん》なものだ。口真似するのさえ、いまわしい。たいへんな事を言う奴だ。あの人は、狂ったのです。まだそのほかに、饑《き》饉《きん》があるの、地震が起こるの、星は空より堕《お》ち、月は光を放たず、地に満つ人の死《し》骸《がい》のまわりに、それをついばむ鷲《わし》が集まるの、人はそのとき哀哭《なげき》、切歯《はがみ》することがあろうだの、実に、とんでもない暴言を口から出まかせに言い放ったのです。なんという思慮のないことを、言うのでしょう。思い上がりも甚《はなはだ》しい。ばかだ。身のほど知らぬ。いい気なものだ。もはや、あの人の罪は、まぬかれぬ。必ず十字架。それにきまった。
祭司長や民の長老たちが、大祭司カヤパの中庭にこっそり集まって、あの人を殺すことを決議したとか、私はそれを、きのう町の物売りから聞きました。もし群衆の目前であの人を捕えたならば、あるいは群衆が暴動を起こすかも知れないから、あの人と弟子たちとだけの居るところを見つけて役所に知らせてくれた者には銀三十を与えるということをも、耳にしました。もはや猶《ゆう》予《よ》の時ではない。あの人は、どうせ死ぬのだ。ほかの人の手で、下《した》役《やく》たちに引き渡すよりは、私が、それをなそう。きょうまで私の、あの人に捧げた一すじなる愛情の、これが最後の挨《あい》拶《さつ》だ。私の義務です。私があの人を売ってやる。つらい立場だ。誰《だれ》がこの私のひたむきの愛の行為を、正当に理解してくれることか。いや、誰に理解されなくてもいいのだ。私の愛は純粋の愛だ。人に理解してもらうための愛ではない。そんなさもしい愛ではないのだ。私は永遠に、人の憎しみを買うだろう。けれども、この純粋の愛の貪《どん》慾《よく》のまえには、どんな刑罰も、どんな地獄の業《ごう》火《か》も問題でない。私は私の生き方を生き抜く。身震いするほどに固く決意しました。私は、ひそかによき折を、うかがっていたのであります。いよいよ、お祭りの当日になりました。私たち師弟十三人は丘の上の古い料理屋の、薄暗い二階座敷を借りてお祭りの宴会を開くことにいたしました。みんな食卓に着いて、いざお祭りの夕《ゆう》餐《げ》を始めようとしたとき、あの人は、つと立ち上がり、黙って上衣を脱いだので、私たちは一体なにをお始めなさるのだろうと不審に思って見ているうちに、あの人は卓の上の水《みず》甕《がめ》を手にとり、その水甕の水を、部屋の隅にあった小さい盥《たらい》に注ぎ入れ、それから純白の手巾をご自身の腰にまとい、盥の水で弟子たちの足を順々に洗って下さったのであります。弟子たちには、その理由がわからず、度を失って、うろうろするばかりでありましたけれど、私には何やら、あの人の秘めた思いがわかるような気持でありました。あの人は、寂しいのだ。極度に気が弱って、いまは、無智な頑《がん》迷《めい》の弟子たちにさえ縋《すが》りつきたい気持になっているのにちがいない。可哀《かわい》そうに。あの人は自分の逃れ難い運命を知っていたのだ。その有様を見ているうちに、私は、突然、強力な嗚咽《おえつ》が喉《のど》につき上げて来るのを覚えた。やにわにあの人を抱きしめ、共に泣きたく思いました。おう可哀そうに、あなたを罪してなるものか。あなたは、いつでも優しかった。あなたは、いつでも正しかった。あなたは、いつでも貧しい者の味方だった。そうしてあなたは、いつでも光るばかりに美しかった。あなたは、まさしく神の御子だ。私はそれを知っています。おゆるし下さい。私はあなたを売ろうとしてこの二、三日、機会をねらっていたのです。もう今はいやだ。あなたを売るなんて、なんという私は無法なことを考えていたのでしょう。御安心なさいまし。もう今からは、五百の役人、千の兵隊が来たとても、あなたのおからだに指一本ふれさせることはない。あなたは、いま、つけねらわれているのです。危い。いますぐ、ここから逃げましょう。ペテロも来い、ヤコブも来い、ヨハネも来い、みんな来い。われらの優しい主を護り、一生永く暮らして行こう、と心の底からの愛の言葉が、口に出しては言えなかったけれど、胸に沸《わ》きかえっておりました。きょうまで感じたことのなかった一種崇《すう》高《こう》な霊感に打たれ、熱いお詫《わ》びの涙が気持よく頬を伝って流れて、やがてあの人は私の足をも静かに、ていねいに洗って下され、腰にまとってあった手巾で柔らかく拭《ふ》いて、ああ、そのときの感触は。そうだ、私はあのとき、天国を見たのかも知れない。私の次には、ピリポの足を、その次にはアンデレの足を、そうして、次に、ペテロの足を洗って下さる順番になったのですが、ペテロは、あのように愚かな正直者でありますから、不審の気持を隠して置くことができず、主よ、あなたはどうして私の足などお洗いになるのです、と多少不満げに口を尖《とが》らして尋ねました。あの人は、「ああ、私のすることは、おまえには、わかるまい。あとで、思い当たることもあるだろう」と穏やかに言いさとし、ペテロの足もとにしゃがんだのだが、ペテロはなおも頑強にそれを拒んで、いいえ、いけません。永遠に私の足などお洗いになってはなりませぬ。もったいない、とその足をひっこめて言い張りました。すると、あの人は少し声を張り上げて、「私がもし、おまえの足を洗わないなら、おまえと私とは、もう何の関係もないことになるのだ」と随分、思い切った強いことを言いましたので、ペテロは大あわてにあわて、ああ、ごめんなさい、それならば、私の足だけでなく、手も頭も思う存分に洗って下さい、と平身低頭して頼みいりましたので、私は思わず噴き出してしまい、ほかの弟子たちも、そっと微《ほほ》笑《え》み、なんだか部屋が明るくなったようでした。あの人も少し笑いながら、「ペテロよ、足だけ洗えば、もうそれで、おまえの全身は潔《きよ》いのだ。ああ、おまえだけでなく、ヤコブも、ヨハネも、みんな汚れのない、潔いからだになったのだ。けれども」と言いかけてすっと腰を伸ばし、瞬時、苦痛に耐えかねるような、とても悲しい眼つきをなされ、すぐにその眼をぎゅっと固くつぶり、つぶったままで言いました。「みんなが潔ければいいのだが」はッと思った。やられた! 私のことを言っているのだ。私があの人を売ろうとたくらんでいた寸刻以前までの暗い気持を見抜いていたのだ。けれども、その時は、ちがっていたのだ。断然、私は、ちがっていたのだ! 私は潔くなっていたのだ。私の心は変わっていたのだ。ああ、あの人はそれを知らない。それを知らない。ちがう! ちがいます、と喉まで出かかった絶叫を、私の弱い卑《ひ》屈《くつ》な心が、唾《つば》を呑《の》みこむように、呑みくだしてしまった。言えない。何も言えない。あの人からそう言われてみれば、私はやはり潔くなっていないのかも知れないと気弱く肯定する僻《ひが》んだ気持が頭をもたげ、とみるみるその卑《ひ》屈《くつ》の反省が、醜く、黒くふくれあがり、私の五《ご》臓《ぞう》六《ろつ》腑《ぷ》を駈《か》けめぐって、逆にむらむら憤《ふん》怒《ぬ》の念が炎をあげて噴出したのだ。ええっ、だめだ。私は、だめだ。あの人に心の底から、きらわれている。売ろう。売ろう。あの人を、殺そう。そうして私も共に死ぬのだ、と前からの決意に再び眼覚め、私はいまは完全に、復《ふく》讐《しゆう》の鬼になりました。あの人は、私の内心の、ふたたび三たび、どんでん返して変化した大動乱には、お気づきなさることのなかった様子で、やがて上衣をまとい服装を正し、ゆったりと席に坐り、実に蒼ざめた顔をして、「私がおまえたちの足を洗ってやったわけを知っているか。おまえたちは私を主と称え、また師と称えているようだが、それは間違いないことだ。私はおまえたちの主、または師なのに、それでもなお、おまえたちの足を洗ってやったのだから、おまえたちもこれからはお互いに仲好く足を洗い合ってやるように心がけなければなるまい。私は、おまえたちと、いつまでも一緒にいることができないかも知れぬから、いま、この機会に、おまえたちに模範を示してやったのだ。私のやったとおりに、おまえたちも行なうように心がけなければならぬ。師は必ず弟子より優れたものなのだから、よく私の言うことを聞いて忘れぬようになさい」ひどく物憂そうな口調で言って、おとなしく食事を始め、ふっと、「おまえたちのうちの、一人が、私を売る」と顔を伏せ、呻《うめ》くような、歔欷《すすりなき》なさるような苦しげの声で言い出したので、弟子たちすべて、のけぞらんばかりに驚き、一斉に席を蹴《け》って立ち、あの人のまわりに集まっておのおの、主よ、私のことですか、主よ、それは私のことですかと、罵《ののし》り騒ぎ、あの人は死ぬる人のように幽《かす》かに首を振り、「私がいま、その人に一つまみのパンを与えます。その人は、ずいぶん不仕合わせな男なのです。ほんとうに、その人は、生まれて来なかったほうが、よかった」と意外にはっきりした語調で言って、一つまみのパンをとり、腕をのばし、あやまたず私の口にひたと押し当てました。私も、もうすでに度胸がついていたのだ。恥じるよりは憎んだ。あの人の今更ながらの意地悪さを憎んだ。このように弟子たち皆の前で公然と私を辱かしめるのが、あの人のこれまでの仕来たりなのだ。火と水と。永遠に解け合う事のない宿命が、私とあいつとの間にあるのだ。犬か猫に与えるように、一つまみのパン屑《くず》を私の口に押し入れて、それがあいつのせめてもの腹いせだったのか。ははん。ばかな奴だ。旦《だん》那《な》さま、あいつは私に、おまえのなすことを速やかになせと言いました。私はすぐに料亭から走り出て、夕《ゆう》闇《やみ》の道をひた走りに走り、ただいまここに参りました。そうして急ぎ、このとおり訴え申し上げました。さあ、あの人を罰して下さい。どうとも勝手に、罰して下さい。捕えて、棒で殴って素裸にして殺すがよい。もう、もう私は我慢ならない。あれは、いやな奴です。ひどい人だ。私を今まで、あんなにいじめた。はははは、ちきしょうめ。あの人はいま、ケデロンの小川の彼方《かなた》、ゲッセマネの園にいます。もうはや、あの二階座敷の夕《ゆう》餐《さん》もすみ、弟子たちと共にゲッセマネの園に行き、いまごろは、きっと天へお祈りを捧げている時刻です。弟子たちのほかには誰《だれ》も居りません。今なら難なくあの人を捕えることができます。ああ、小鳥が啼《な》いて、うるさい。今夜はどうしてこんなに夜鳥の声が耳につくのでしょう。私がここへ駈け込む途中の森でも、小鳥がピイチク啼《な》いておりました。夜に囀《さえず》る小鳥は、めずらしい。私は子供のような好奇心でもって、その小鳥の正体を一目見たいと思いました。立ちどまって首をかしげ、樹々の梢《こずえ》をすかして見ました。ああ、私はつまらないことを言っています。ごめん下さい。旦《だん》那《な》さま、お仕度はできましたか。ああ楽しい。いい気持。今夜は私にとっても最後の夜だ。旦那さま、旦那さま、今夜これから私とあの人とりっぱに肩を接して立ち並ぶ光景を、よく見て置いて下さいまし。私は今夜あの人と、ちゃんと肩を並べて立ってみせます。あの人を怖れることはないんだ。卑下することはないんだ。私はあの人と同じ年だ。同じ、すぐれた若いものだ。ああ、小鳥の声が、うるさい。耳についてうるさい。どうして、こんなに小鳥が騒ぎまわっているのだろう。ピイチクピイチク、何を騒いでいるのでしょう。おや、そのお金は? 私に下さるのですか、あの、私に、三十銀。なるほど、はははは。いや、お断わり申しましょう。殴られぬうちに、その金ひっこめたらいいでしょう。金が欲しくて訴え出たのではないんだ。ひっこめろ! いいえ、ごめんなさい、いただきましょう。そうだ、私は商人だったのだ。金銭ゆえに、私は優美なあの人から、いつも軽《けい》蔑《べつ》されて来たのだっけ。いただきましょう。私は所《しよ》詮《せん》、商人だ。いやしめられている金銭で、あの人に見事、復《ふく》讐《しゆう》してやるのだ。これが私に、一ばんふさわしい復讐の手段だ。ざまあみろ! 銀三十で、あいつは売られる。私は、ちっとも泣いてやしない。私は、あの人を愛していない。はじめから、みじんも愛していなかった。はい、旦那さま。私は嘘《うそ》ばかり申し上げました。私は、金が欲しさにあの人について歩いていたのです。おお、それにちがいない。あの人が、ちっとも私に儲《もう》けさせてくれないと今夜見極めがついたから、そこは商人、素遠く寝返りを打ったのだ。金。世の中は金だけだ。銀三十、なんとすばらしい。いただきましょう。私は、けちな商人です。欲しくてならぬ。はい、ありがとう存じます。はい、はい。申しおくれました。私の名は、商人のユダ。へっへ。イスカリオテのユダ。
老《アルト》ハイデルベルヒ
八年まえの事でありました。当時、私はきわめて懶《らん》惰《だ》な帝国大学生でありました。一夏を、東海道三《み》島《しま》の宿で過ごしたことがあります。五十円を故郷の姉から、これが最後だと言って、やっと送って戴《いただ》き、私は学生鞄《かばん》に着更えの浴衣《ゆかた》やらシャツやらを詰め込み、それを持ってふらと、下宿を立ち出で、そのまま汽車に乗りこめばよかったものを、方角を間違え、馴《な》染《じ》みのおでんやにとびこみました。そこには友達が三人来合わせていました。やあ、やあ、めかしてどこへ行くのだと、すでに酔っぱらっている友人たちは、私をからかいました。私は気弱く狼《ろう》狽《ばい》して、いやどこということもないんだけど、君たちも、行かないかね、と心にもない勧誘がふいと口から、辷《すべ》り出て、それからは騎《き》虎《こ》の勢いで、僕にね、五十円あるんだ、故郷の姉から貰《もら》ったのさ、これから、みんなで旅行に出ようよ、なに、仕度なんかいらない、そのままでいいじゃないか、行こう、行こう、とやけくそになり、しぶる友人たちを引っ張るようにして連れ出してしまいました。あとは、どうなることか、私自身にさえわかりませんでした。あの頃《ころ》は私も、随分、呑《のん》気《き》なところのある子供でした。世の中もまた、私たちを呑気に甘えさせてくれていました。私は、三島に行って小説を書こうと思っていたのでした。三島には高部佐吉さんという、私より二つ年下の青年が酒屋を開いていたのです。佐吉さんの兄さんは沼《ぬま》津《づ》で大きい造《つくり》酒《ざか》屋《や》を営み、佐吉さんはその家の末っ子で、私とふとした事から知合いになり、私も同様に末弟であるし、また同様に早くから父に死なれている身の上なので、佐吉さんとは、何かと話が合うのでした。佐吉さんの兄さんとは私も逢《あ》ったことがあり、なかなか太っ腹の佳《よ》い方《かた》だし、佐吉さんは家中の愛を独占しているくせに、それでも何かと不平が多いようで、家を飛出し、東京の私の下宿へ、にこにこ笑ってやって来た事もありました。さまざま駄々をこねていたようですが、どうにか落ちつき、三島の町はずれに小じんまりした家を持ち、兄さんの家の酒《さか》樽《だる》を店に並べ、酒の小売を始めたのです。二十歳の妹さんと二人で住んでいました。私は、その家へ行くつもりであったのです。佐吉さんから、手紙で様子を聞いているだけで、まだその家を見た事もなかったので、行ってみて工合が悪いようだったらすぐ帰ろう、工合がいいようだったら一夏置いて貰って、小説を一篇書こう、そう思っていたのでありましたが、心ならずも三人の友人を招待してしまったので、私は、とにかく三島までの切符を四枚買い、自信あり気に友人たちを汽車に乗せたものの、さてこんなに大勢で佐吉さんの小さい酒店に御厄介になっていいものかどうか、汽車の進むにつれて私の不安は増大し、そのうちに日も暮れて、三島駅近くなる頃には、あまりの心細さに全身こまかにふるえ始め、幾度となく涙ぐみました。私は自身のこの不安を、友人に知らせたくなかったので、懸命に佐吉さんの人柄の良さを語り、三島に着いたらしめたものだ、三島に着いたらしめたものだと、自分でもイヤになるほど、その間の抜けた無意味な言葉を幾度も幾度も操返して言うのでした。あらかじめ佐吉さんに電報を打って置いたのですが、はたして三島の駅に迎えに来てくれているかどうか、もし迎えに来ていてくれなかったら、私はこの三人の友人を抱えて、一体どうしたらいいでしょう。私の面目は、まるつぶれになるのではないでしょうか。三島駅に降りて改札口を出ると、構内はがらんとして誰《だれ》も居りませぬ。ああ、やはり駄目だ。私は泣きべそかきました。駅は田畑の真ん中にあって、三島の町の灯さえ見えず、どちらを見《み》廻《まわ》しても真っ暗《くら》闇《やみ》、稲田を撫《な》でる風の音がさやさや聞こえ、蛙《かえる》の声も胸にしみて、私は全く途方にくれました。佐吉さんでも居なければ、私にはどうにも始末がつかなかったのです。汽車賃や何かで、姉から貰《もら》った五十円も、そろそろ減っておりますし、友人たちにはもちろん持合わせのあるはずはなし、私がそれを承知で、おでんやからそのまま引っ張り出して来たのだし、そうして友人たちは私を十分に信用している様子なのだから、いきおい私も自信ある態度を装わねばならず、なかなか苦しい立場でした。無理に笑って私は、大声で言いました。
「佐吉さん、呑《のん》気《き》だなあ。時間を間違えたんだよ。歩くよりほかはない。この駅にはもとからバスも何もないのだ」と知ったかぶりして鞄《かばん》を持直し、さっさと歩き出したら、そのとき、闇《やみ》のなかから、ぼっかり黄色いヘッドライトが浮かび、ゆらゆらこちらへ泳いで来ます。
「あ、バスだ。今は、バスもあるのか」と私はてれ隠しに呟《つぶや》き、「おい、バスが来たようだ。あれに乗ろう!」と勇んで友人たちに号令し、みな道端に寄って並び立ち、速力の遅いバスを待っていました。やがてバスは駅前の広場に止まり、ぞろぞろ人が降りて、と見ると佐吉さんが白浴衣《ゆかた》着てすまして降りました。私は、唸《うな》るほどほっとしました。
佐吉さんが来たので、助かりました。その夜は佐吉さんの案内で、三島からハイヤーで三十分、古《こ》奈《な》温泉に行きました。三人の友人と、佐吉さんと、私と五人、古奈でも一番いい方の宿屋に落ちつき、いろいろ飲んだり、食べたり、友人たちも大いに満足の様子で、あくる日東京へ、ありがとう、ありがとうと朗らかに言って帰って行きました。宿屋の勘定も、佐吉さんの口利きで特別に安くして貰い、私の貧しい懐中からでも十分に支払うことができましたけれど、友人たちに帰りの切符を買ってやったら、あと、五十銭も残りませんでした。
「佐吉さん。僕、貧乏になってしまったよ。君の三島の家には僕の寝る部屋があるかい」
佐吉さんは何も言わず、私の背中をどんと叩《たた》きました。そのまま一夏を、私は三島の佐吉さんの家で暮らしました。三島は取残された、美しい町であります。町中を水量たっぷりの澄んだ小川が、それこそ蜘《く》蛛《も》の巣のように縦横無尽に残る隈《くま》なく駈けめぐり、清《せい》冽《れつ》の流れの底には水藻が青々と生えていて、家々の庭先を流れ、縁の下をくぐり、台所の岸をちゃぷちゃぷ洗い流れて、三島の人は台所に坐《すわ》ったままで清潔なお洗《せん》濯《たく》ができるのでした。昔は東海道でも有名な宿場であったようですが、だんだん寂れて、町の古い住民だけが依《え》怙《こ》地《じ》に伝統を誇り、寂れてもはでな風習を失わず、いわば、滅亡の民の、名誉ある懶《らん》惰《だ》に耽《ふけ》っている有様でありました。実に遊び人が多いのです。佐吉さんの家の裏に、時々糶《せり》市《いち》が立ちますが、私もいちど見に行って、つい目をそむけてしまいました。何でもかでも売っちゃうのです。乗って来た自転車を、そのまま売り払うのは、まだよい方で、おじいさんが懐《ふところ》からハーモニカを取り出して、六銭に売ったなどは奇怪でありました。古い達磨《だるま》の軸物、銀《ぎん》鍍《めつ》金《き》の時計の鎖、襟《えり》垢《あか》の着いた女の半《はん》纏《てん》、玩《がん》具《ぐ》の汽車、蚊《か》帳《や》、ペンキ絵、碁石、鉋《かんな》、子供の産《うぶ》衣《ぎ》まで、十七銭だ、二十銭だと言って笑いもせずに売り買いするのでした。集まる者は大てい四十から五十、六十の相当年輩の男ばかりで、いずれは道楽の果、五合の濁《にごり》酒《ざけ》が欲しくて、取《とり》縋《すが》る女房子供を蹴《け》飛《と》ばし張りとばし、家中の最後の一物まで持ち込んで来たという感じでありました。あるいはまた、孫のハーモニカを、爺《じい》に借せと騙《だま》して取り上げ、こっそり裏口から抜け出し、あたふたここへやって来たというような感じでありました。数《じゆ》珠《ず》を二銭に売り払った老《ろう》爺《や》もありました。わけてもひどいのは、半分ほどきかけの、女の汚れた袷《あわせ》をそのまま丸めて懐へつっこんで来た頭の禿《は》げた上品な顔の御隠居でした。ほとんど破れかぶれにその布を、(もはや着物ではありません)拡げて、さあ、なんぼだ、なんぼだと自《じ》嘲《ちよう》の笑を浮かべながら値を張らせていました。頽《たい》廃《はい》の町なのであります。町へ出て飲み屋へ行っても、昔の、宿場のときのままに、軒の低い、油障子を張った汚い家でお酒を頼むと、必ずそこの老主人が自らお燗《かん》をつけるのです。五十年間お客にお燗をつけてやったと自慢していました。酒がうまいもまずいも、すべてお燗《かん》のつけよう一つだと意気込んでいました。としよりがその始末なので、若い者はなおの事、遊び馴《な》れて華《きや》奢《しや》な身体をしています。毎日朝から、いろいろ大小の与太者が佐吉さんの家に集まります。佐吉さんは、そんなに見掛けは頑丈でありませんが、それでも喧《けん》嘩《か》が強いのでしょうか、みんな佐吉さんに心服しているようでした。私が二階で小説を書いていると、下のお店で朝からみんながわあわあ騒いでいて、佐吉さんは一きわ高い声で、
「なにせ、二階の客人はすごいのだ。東京の銀《ぎん》座《ざ》を歩いたって、あれくらいの男っぷりは、まず無いね。喧嘩もやけに強くて、牢《ろう》に入ったこともあるんだよ。唐《から》手《て》を知っているんだ。見ろ、この柱を。へこんでいるずら。これは、二階の客人がちょいとぶん殴って見せた跡だよ」と、とんでもない嘘《うそ》を言っています。私は、すこぶる落ちつきません。二階から降りて行って梯《はし》子《ご》段《だん》の上り口から小声で佐吉さんを呼び、
「あんなでたらめを言ってはいけないよ。僕が顔を出されなくなるじゃないか」そう口を尖《とが》せて不服を言うと、佐吉さんはにこにこ笑い、
「誰《だれ》も本気に聞いちゃいません。始めから嘘だと思って聞いているのですよ。話がおもしろければ、きゃつら喜んでいるんです」
「そうかね。芸術家ばかりいるんだね。でもこれからは、あんな嘘はつくなよ。僕は落ちつかないんだ」そう言い捨ててまた二階へ上がり、その「ロマネスク」という小説を書き続けていると、またも、佐吉さんの一きわ高い声が聞えて、
「酒が強いと言ったら、何と言ったって、二階の客人にかなう者はあるまい。毎晩二合徳利で三本飲んで、ちょっと頬《ほ》っぺたが赤くなるくらいだ。それから、気軽に立って、おい佐吉さん、銭湯へ行こうよと言い出すのだから、相当だろう。風呂へ入って、悠《ゆう》々《ゆう》と日本剃《がみ》刀《そり》で髯《ひげ》を剃《そ》るんだ。傷一つつけたことがない。俺の髯まで、時々剃られるんだ。それで帰って来たら、また一仕事だ。落ちついたもんだよ」
これもまた、嘘《うそ》であります。毎晩、私が黙っていても、夕食のお膳に大きい二合徳利がつけてあって、好意を無にするのもどうかと思い、私は大急ぎで飲むのでありますが、何せ醸《じよう》造《ぞう》元から直接持って来ているお酒なので、水など割ってあるはずはなし、すこぶる純粋度が高く、普通のお酒の五合分ぐらいに酔うのでした。佐吉さんは自分の家のお酒は飲みません。兄貴が慥《こしら》えて不当の利益を貪《むさぼ》っているのを、この眼で見て知っていながら、そんな酒とても飲まれません。げろが出そうだ、と言って、お酒を飲むときは、外へ出てよその酒を飲みます。佐吉さんが何も飲まないのだから、私一人で酔っぱらっているのも体裁が悪く、頭がぐらぐらしていながらも、二合飲みほしてすぐに御飯に取りかかり、御飯がすんでほっとする間もなく、佐吉さんが風呂へ行こうと私を誘うのです。断わるのも我《わが》儘《まま》のような気がして、私も、行こうと応じて、連れ立って銭湯へ出かけるのです。私は風呂へ入って呼吸が苦しく死にそうになります。ふらふらして流し場から脱衣場へ逃れ出ようとすると、佐吉さんは私を掴《つかま》え、髯がのびています、剃ってあげましょう、と親切に言って下さるので、私はまたも断わり切れず、ええ、お願いします、と頼んでしまうのでした。くたくたになり、よろめいて家へ帰り、ちょっと仕事をしようかな、と呟《つぶや》いて二階へ這《は》い上がり、そのまま寝ころんで眠ってしまうのであります。佐吉さんだって、それを知っているに違いないのに、何だってあんな嘘の自慢をしたのでしょう。三島には、有名な三島大社があります。年に一度のお祭は次第に近づいて参りました。佐吉さんの店先に集まって来る若者たちも、それぞれお祭の役員であって、さまざまの計画を、はしゃいで相談し合っていました。踊り屋台、手《て》古《こ》舞《まい》、山《だ》車《し》、花火、三島の花火は昔から伝統のあるものらしく、水花火というものもあって、それは大社の池の真ん中で仕掛花火を行ない、その花火が地面に映り、花火がもくもく池の底から涌《わ》いて出るように見える趣向になっているのだそうであります。およそ百種くらいの仕掛花火の名称が順序を追うて記されてある大きい番付が、各家ごとに配布されて、日一日とお祭り気分が、寂れた町の隅々まで、へんに悲しくときめき浮き立たせておりました。お祭りの当日は朝からよく晴れていて私が顔を洗いに井戸端へ出たら、佐吉さんの妹さんは頭の手《て》拭《ぬぐ》いを取って、おめでとうございます、と私に挨《あい》拶《さつ》いたしました。ああ、おめでとう、と私も不自然でなくお祝いの言葉を返す事ができました。佐吉さんは、超然として、べつにお祭りの晴着を着るわけでなし、ふだん着のままで、店の用事をしていましたが、やがて、来る若者、来る若者、すべてはでな大浪模様のお揃《そろ》いの浴衣《ゆかた》を着て、腰に団扇《うちわ》を差し、やはり揃いの手拭いを首に巻きつけ、やあ、おめでとうございます、やあ、こんにちはおめでとうございますと、晴々した笑顔で、私と佐吉さんとに挨拶しました。その日は私も、朝から何となく落ちつかず、さればといって、あの若者たちと一緒に山《だ》車《し》を引っ張り廻《まわ》して遊ぶこともできず、仕事をちょっと仕掛けては、また立ち上がり、二階の部屋をただうろうろ歩き廻っていました。窓に倚《よ》りかかり、庭を見下ろせば、無花果《いちじく》の樹《こ》蔭《かげ》で、何事も無さそうに妹さんが佐吉さんのズボンやら、私のシャツやらを洗《せん》濯《たく》していました。
「さいちゃん。お祭を見に行ったらいい」
と私が大声で話しかけると、さいちゃんは振り向いて笑い、
「私は男はきらいじゃ」とやはり大声で答えて、それから、またじゃぶじゃぶ洗濯をつづけ、
「酒好きの人は、酒屋の前を通ると、ぞっとするほど、いやな気がするもんでしょう? あれと同じじゃ」と普通の声で言って、笑っているらしく、少しいかっている肩がひくひく動いていました。妹さんは、たった二十歳でも、二十二歳の佐吉さんより、また二十四歳の私よりも大人びて、いつも、態度が清潔にはきはきして、まるで私たちの監督者でありました。佐吉さんもまた、その日はいらいらしている様子で、町の若者たちと共に遊びたくても、はでな大浪の浴衣《ゆかた》などを着るのは、断然自尊心が許さず、逆に、ことさらお祭に反《はん》撥《ぱつ》して、ああ、つまらぬ。今日はお店は休みだ、もう誰にも酒は売ってやらないとひとりで僻《ひが》んで、自転車に乗り、どこかへ行ってしまいました。やがて佐吉さんから私に電話がかかって来て、れいの所へ来いということだったので、私はほっと救われた気持で新しい浴衣に着更え、家を飛んで出ました。れいの所とは、お酒のお燗《かん》を五十年間やっているのが御自慢の老《ろう》爺《や》の飲み屋でありました。そこへ行ったら佐吉さんと、もう一人江島という青年が、にこりともせず大不機嫌で酒を飲んでいました。江島さんとはその前にも二、三度遊んだことがありましたが、佐吉さんと同じで、お金持の家に育ち、それが不平で、何もせずに、ただ世を怒ってばかりいる青年でありました。佐吉さんに負けないくらい、美しい顔をしていました。やはり今日のお祭の騒ぎに、一人で僻んで反抗し、わざと汚いふだん着のままで、その薄暗い飲み屋で、酒をまずそうに飲んでいるのでありました。それに私も加わり、しばらく、黙って酒を飲んでいると、表はぞろぞろ人の行列の足音、花火が上がり、物売りの声、たまりかねたか江島さんは立ち上がり、行こう、狩《か》野《の》川へ行こうよ、と言い出し、私たちの返事も待たずに店から出てしまいました。三人が、町の裏通りばかりをわざと選んで歩いて、ちぇっ! 何だいあれあ、と口々にお祭を意味なく軽《けい》蔑《べつ》しながら、三島の町から逃れ出て沼津をさしてどんどん歩き、日の暮れる頃、狩野川のほとり、江島さんの別荘に到着することができました。裏口から入って行くと、客間に一人おじいさんが、シャツ一枚で寝ころんでいました。江島さんは大声で、
「なあんだ、いつ来たんだい。ゆうべまた徹夜でばくちだな? 帰れ、帰れ。お客さんを連れて来たんだ」
老人は起き上がり、私たちにそっと愛想笑いを浮かべ、佐吉さんはその老人に、おそろしく叮《てい》嚀《ねい》なお辞儀をしました。江島さんは平気で、
「早く着物を着た方がいい。風邪を引くぜ。ああ、帰りしなに電話をかけてビールとそれから何か料理をここへすぐに届けさせてくれよ。お祭がおもしろくないから、ここで死ぬほど飲むんだ」
「へえ」と剽《ひよう》軽《きん》に返事して、老人はそそくさ着物を着込んで、消えるように居なくなってしまいました。佐吉さんは急に大声出して笑い、
「江島のお父さんですよ。江島を可愛くってしょうがないんですよ。へえ、と言いましたね」
やがてビールが届き、さまざまの料理も来て、私たちは何だか意味のわからない歌を合唱したように覚えています。夕《ゆう》靄《もや》につつまれた、眼前の狩野川は満々と水を湛《たた》え、岸の青葉を嘗《な》めてゆるゆると流れていました。おそろしいほど深い蒼《あお》い川で、ライン川とはこんなのではないかしら、と私はすこぶる唐突ながら、そう思いました。ビールが無くなってしまったので、私たちはまた、三島の町へ引っ返して来ました。随分遠い道のりだったので、私は歩きながら、何度も何度も、こくりと居眠りしました。あわててしぶい眼を開くと蛍《ほたる》がすいと額を横ぎります。佐吉さんの家へ辿《たど》り着いたら、佐吉さんの家には沼津の実家のお母さんがやって来ていました。私は御免蒙《こうむ》って二階へ上がり、蚊《か》帳《や》を三角に釣って寝てしまいました。言い争うような声が聞こえたので眼を覚まし、窓の方を見ると、佐吉さんは長い梯《はし》子《ご》を屋根に立てかけ、その梯子の下でお母さんと美しい言い争いをしていたのでありました。今夜、揚《あげ》花《はな》火《び》の結びとして、二尺玉が上がるということになっていて、町の若者たちもその直径二尺の揚花火の玉については、よほど前から興奮して話し合っていたのです。その二尺玉の花火がもう上がる時刻なので、それをどうしてもお母さんに見せると言ってきかないのです。佐吉さんも相当酔っておりました。
「見せるったら、見ねえのか。屋根へ上がればよく見えるんだ。おれが負《おぶ》ってやるっていうのに、さ、負さりなよ、ぐずぐずしていないで負さりなよ」
お母さんはためらっている様子でした。妹さんも傍《そば》にほの白く立っていて、くすくす笑っている様子でした。お母さんは誰《だれ》も居ぬのにそっとあたりを見《み》廻《まわ》し、意を決して佐吉さんに負《おぶ》さりました。
「ううむ、どっこいしょ」なかなか重い様子でした。お母さんは七十近いけれど、目方は十五、六貫もそれ以上もあるような随分肥《ふと》ったお方です。
「大丈夫だ、大丈夫」と言いながら、そろそろ梯子を上り始めて、私はその親子の姿を見て、ああ、あれだから、お母さんも佐吉さんを可愛くてたまらないのだ。佐吉さんがどんな我儘なふしだらをしても、お母さんは兄さんと喧《けん》嘩《か》してまでも、末弟の佐吉さんを庇《かば》うわけだ。私は花火の二尺玉よりもいいものを見たような気がして、満足して眠ってしまいました。三島には、その他にも数々の忘れ難い思い出があるのですけれども、それはまた、あらためて申しましょう。そのとき三島で書いた「ロマネスク」という小説が、二、三の人にほめられて、私は自信の無いままに今まで何やら下手な小説を書き続けなければならない運命に立ち至りました。三島は、私にとって忘れてならない土地でした。私のそれから八年間の創作は全部、三島の思想から教えられたものであると言っても過言でないほど、三島は私に重大でありました。
八年後、いまは姉にお金をねだることもできず、故郷との音信も不通となり、貧しい痩《や》せた一人の作家でしかない私は、先日、やっと少しまとまった金が出来て、家内と、家内の母と、妹を連れて伊《い》豆《ず》の方へ一泊旅行に出かけました。清《し》水《みず》で下りて、三《み》保《ほ》へ行き、それから修《しゆ》善《ぜん》寺《じ》へまわり、そこで一泊して、それから帰りみち、とうとう三島に降りてしまいました。いい所なんだ、とてもいい所だよ。そう言って皆を三島に下車させて、私は無理にはしゃいで三島の町をあちこち案内して歩き、昔の三島の思い出をおもしろおかしく、努めて語って聞かせたのですが、私自身だんだん、しょげて、しまいには、ものも言いたくなくなるほどけわしい憂《ゆう》鬱《うつ》に落ち込んでしまいました。今見る三島は荒涼として、全く他人の町でした。ここにはもう、佐吉さんも居ない。妹さんも居ない。江島さんも居ないだろう。佐吉さんの店に毎日集まっていた若者たちも、今は分別くさい顔になり、女房を怒《ど》鳴《な》ったりなどしているのだろう。どこを歩いても昔の香《か》が無い。三島が色《いろ》褪《あ》せたのではなくして、私の胸が老い干《ひ》乾《から》びてしまったせいかもしれない。八年間、その間には、往年の呑《のん》気《き》な帝国大学生の身の上にも、困苦窮《きゆう》乏《ぼう》の月日ばかりが続きました。八年間、その間に私は、二十も年をとりました。やがて雨さえ降って来て、家内も、母も、妹も、いい町です、落ちついたいい町です、と口ではほめていながら、やはり当惑そうな顔色は蔽《おお》うべくもなく、私は、たまりかねて昔馴《な》染《じ》みの飲み屋に皆を案内しました。あまり汚い家なので、門口で女たちはためらっていましたが、私は思わず大声になり、
「店は汚くても、酒はいいのだ。五十年間、お酒の燗《かん》ばかりしているじいさんが居るのだ。三島で由緒のある店ですよ」と言い、むりやり入らせて、見るともう、あの赤シャツを着たおじいさんは居ないのです。つまらない女中さんが出て来て注文を聞きました。店の食卓も、腰掛も、昔のままだったけれど、店の隅に電気蓄音機があったり、壁には映画女優の、下品な大きい似顔絵が貼《は》られてあったり、下等に荒《すさ》んだ感じが濃いのであります。せめてさまざまの料理を取寄せ、食卓を賑《にぎ》やかにして、このどうにもならぬ陰《いん》鬱《うつ》の気配を取払いたく思い、
「うなぎと、それから海《え》老《び》のおにがら焼と茶《ちや》碗《わん》蒸《む》し、四つずつ、ここで出来なければ、外へ電話を掛けてとって下さい。それから、お酒」
母はわきで聞いてはらはらして、「いらないよ、そんなにたくさん。無駄なことは、およしなさい」と私のやり切れなかった心も知らず、まじめに言うので、私はいよいよやりきれなく、この世で一ばんしょげてしまいました。
走れメロス
メロスは激《げき》怒《ど》した。必ず、かの邪《じや》智《ち》暴《ぼう》虐《ぎやく》の王を除かなければならぬと決意した。メロスには政治がわからぬ。メロスは、村の牧人である。笛を吹き、羊と遊んで暮らして来た。けれども邪悪に対しては、人一倍に敏感であった。きょう未明メロスは村を出発し、野を越え山越え、十里はなれたこのシラクスの市にやって来た。メロスには父も、母も無い。女房も無い。十六の、内気な妹と二人暮らしだ。この妹は、村のある律《りち》気《ぎ》な一牧人を、近々、花《はな》婿《むこ》として迎える事になっていた。結婚式も間近かなのである。メロスは、それゆえ、花《はな》嫁《よめ》の衣《い》裳《しよう》やら祝《しゅく》宴《えん》の御馳走やらを買いに、はるばる市にやって来たのだ。まず、その品々を買い集め、それから都の大路をぶらぶら歩いた。メロスには竹馬の友があった。セリヌンティウスである。今はこのシラクスの市で、石《いし》工《く》をしている。その友を、これから訪ねてみるつもりなのだ。久しく逢《あ》わなかったのだから、訪ねて行くのが楽しみである。歩いているうちにメロスは、まちの様子を怪しく思った。ひっそりしている。もうすでに日も落ちて、まちの暗いのは当たりまえだが、けれども、なんだか、夜のせいばかりではなく、市全体が、やけに寂しい。のんきなメロスも、だんだん不安になって来た。路で逢った若い衆をつかまえて、何かあったのか、二年まえにこの市に来たときは、夜でも皆が歌をうたって、まちは賑《にぎ》やかであったはずだが、と質問した。若い衆は、首を振って答えなかった。しばらく歩いて老《ろう》爺《や》に逢い、こんどはもっと、語勢を強くして質問した。老爺は答えなかった。メロスは両手で老爺のからだをゆすぶって質問を重ねた。老爺は、あたりをはばかる低声で、わずか答えた。
「王様は人を殺します」
「なぜ殺すのだ」
「悪心を抱いている、というのですが、誰《だれ》もそんな、悪心を持ってはおりませぬ」
「たくさんの人を殺したのか」
「はい、はじめは王様の妹《いもうと》婿《むこ》さまを。それから、御自身のお世《よ》嗣《つぎ》を。それから、妹さまを。それから、妹さまの御子さまを。それから、皇后さまを。それから、賢臣のアレキス様を」
「おどろいた。国王は乱心か」
「いいえ、乱心ではございませぬ。人を信ずる事ができぬ、というのです。このごろは臣下の心をも、お疑いになり、少しくはでな暮らしをしている者には、人質ひとりずつ差し出すことを命じております。御命令を拒めば十字架にかけられて、殺されます。きょうは、六人殺されました」
聞いて、メロスは激怒した。「呆《あき》れた王だ。生かして置けぬ」
メロスは単純な男であった。買い物を、背負ったままで、のそのそ王城にはいって行った。たちまち彼は、巡《じゆん》邏《ら》の警《けい》吏《り》に捕縛された。調べられて、メロスの懐中からは短剣が出て来たので、騒ぎが大きくなってしまった。メロスは、王の前に引き出された。
「この短刀で何をするつもりであったか。言え!」暴君ディオニスは静かに、けれども威厳をもって問いつめた。その王の顔は蒼《そう》白《はく》で、眉《み》間《けん》の皺《しわ》は、刻み込まれたように深かった。
「市を暴君の手から救うのだ」とメロスは悪びれずに答えた。
「おまえがか?」王は憫《びん》笑《しよう》した。「仕方のないやつじゃ。おまえなどには、わしの孤独の心がわからぬ」
「言うな!」とメロスは、いきり立って反《はん》駁《ぱく》した。「人の心を疑うのは、最も恥ずべき悪徳だ。王は、民の忠誠をさえ疑っておられる」
「疑うのが、正当の心構えなのだと、わしに教えてくれたのは、おまえたちだ。人の心は、あてにならない。人間は、もともと私慾のかたまりさ。信じては、ならぬ」暴君は落着いて呟《つぶや》き、ほっと溜息をついた。「わたしだって、平和を望んでいるのだが」
「なんのための平和だ。自分の地位を守るためか」こんどはメロスが嘲《ちよう》笑《しよう》した。「罪の無い人を殺して、何が平和だ」
「だまれ、下《げ》賤《せん》の者」王は、さっと顔をあげて報いた。「口では、どんな清らかな事でも言える。わしには、人の腹わたの奥底が見え透いてならぬ。おまえだって、いまに、磔《はりつけ》になってから、泣いて詫《わ》びたって聞かぬぞ」
「ああ、王は利巧だ。自惚《うぬぼ》れているがよい。私は、ちゃんと死ぬる覚悟でいるのに、命乞いなど決してしない。ただ、――」と言いかけて、メロスは足もとに視線を落とし瞬時ためらい、「ただ、私に情をかけたいつもりなら、処刑までに三日間の日限を与えて下さい。たった一人の妹に、亭主を持たせてやりたいのです。三日のうちに、私は村で結婚式を挙げさせ、必ず、ここへ帰って来ます」
「ばかな」と暴君は、嗄《しわが》れた声で低く笑った。「とんでもない嘘《うそ》を言うわい。逃がした小鳥が帰って来るというのか」
「そうです。帰って来るのです」メロスは必死で言い張った。「私は約束を守ります。私を、三日間だけ許して下さい。妹が、私の帰りを待っているのだ。そんなに私を信じられないならば、よろしい、この市にセリヌンティウスという石《いし》工《く》がいます。私の無二の友人だ。あれを、人質としてここに置いて行こう。私が逃げてしまって、三日目の日暮れまで、ここに帰って来なかったら、あの友人を絞め殺して下さい。たのむ。そうして下さい」
それを聞いて王は、残虐な気持で、そっとほくそ笑《え》んだ。生意気なことを言うわい。どうせ帰って来ないにきまっている。この嘘つきに騙《だま》された振りして、放してやるのもおもしろい。そうして身代りの男を、三日目に殺してやるのも気味がいい。人は、これだから信じられぬと、わしは悲しい顔して、その身代りの男を磔《たつ》刑《けい》に処してやるのだ。世の中の、正直者とかいう奴《やつ》輩《ぱら》にうんと見せつけてやりたいものさ。
「願いを、聞いた。その身代りを呼ぶがよい。三日目には日没までに帰って来い。おくれたら、その身代りを、きっと殺すぞ。ちょっとおくれて来るがいい。おまえの罪は、永遠にゆるしてやろうぞ」
「なに、何をおっしゃる」
「はは。いのちが大事だったら、おくれて来い。おまえの心はわかっているぞ」
メロスは口《く》惜《や》しく、地《じ》団《だん》駄《だ》踏んだ。ものも言いたくなくなった。
竹馬の友、セリヌンティウスは深夜、王城に召された。暴君ディオニスの面前で、佳《よ》き友と佳き友は、二年ぶりで相《あい》逢《お》うた。メロスは、友に一切の事情を語った。セリヌンティウスは無言でうなずき、メロスをひしと抱きしめた。友と友の間は、それでよかった。セリヌンティウスは、縄打たれた。メロスは、すぐに出発した。初夏、満天の星である。
メロスはその夜、一睡もせず十里の路を急ぎに急いで、村へ到着したのは、翌《あく》る日の午前、陽はすでに高く昇って、村人たちは野に出て仕事をはじめていた。メロスの十六の妹も、きょうは兄の代りに羊群の番をしていた。よろめいて歩いて来る兄の、疲労困《こん》憊《ぱい》の姿を見つけて驚いた。そうして、うるさく兄に質問を浴びせた。
「なんでもない」メロスは無理に笑おうと努めた。「市に用事を残して来た。またすぐ市に行かなければならぬ。あす、おまえの結婚式を挙げる、早いほうがよかろう」
妹は頬《ほお》をあからめた。
「うれしいか。綺《き》麗《れい》な衣《い》裳《しよう》も買って来た。さあ、これから行って、村の人たちに知らせて来い。結婚式は、あすだと」
メロスは、また、よろよろと歩き出し、家へ帰って神々の祭壇を飾り、祝《しゆく》宴《えん》の席を調《ととの》え、間もなく床に倒れ伏し、呼吸もせぬくらいの深い眠りに落ちてしまった。
眼が覚めたのは夜だった。メロスは起きてすぐ、花《はな》婿《むこ》の家を訪れた。そうして、少し事情があるから、結婚式を明日にしてくれ、と頼んだ。婿の牧人は驚き、それはいけない、こちらにはまだ何の仕度も出来ていない。葡《ぶ》萄《どう》の季節まで待ってくれ、と答えた。メロスは、待つことはできぬ、どうか明日にしてくれ給え、と更に押してたのんだ。婿の牧人も頑強であった。なかなか承諾してくれない。夜明けまで議論をつづけて、やっと、どうにか婿をなだめ、すかして、説き伏せた。結婚式は、真昼に行なわれた。新郎新婦の、神々への宣誓が済んだころ、黒雲が空を覆《おお》い、ぽつりぽつり雨が降り出し、やがて車軸を流すような大雨となった。祝宴に列席していた村人たちは、何か不吉なものを感じたが、それでも、めいめい気持を引きたて、狭い家の中で、むんむん蒸し暑いのも怺《こら》え、陽気に歌をうたい、手を拍《う》った。メロスも、満面に喜色を湛《たた》え、しばらくは、王とのあの約束をさえ忘れていた。祝宴は、夜に入っていよいよ乱れ華やかになり、人々は、外の豪雨を全く気にしなくなった。メロスは、一生このままここにいたい、と思った。この佳い人たちと生《しよう》涯《がい》暮らして行きたいと願ったが、いまは、自分のからだで、自分のものではない。ままならぬ事である。メロスは、わが身に鞭《むち》打ち、ついに出発を決意した。あすの日没までには、まだ十分の時がある。ちょっと一眠りして、それからすぐに出発しよう、と考えた。その頃《ころ》には、雨も小降りになっていよう。少しでも永くこの家にぐずぐずとどまっていたかった。メロスほどの男にも、やはり未練の情というものはある。今《こ》宵《よい》呆《ぼう》然《ぜん》、歓喜に酔っているらしい花嫁に近寄り、
「おめでとう。私は疲れてしまったから、ちょっとご免こうむって眠りたい。眼が覚めたら、すぐに市に出かける。大切な用事があるのだ。私がいなくても、もうおまえには優しい亭主があるのだから、決して寂しい事はない。おまえの兄の、一ばんきらいなものは、人を疑う事と、それから、嘘《うそ》をつく事だ。おまえも、それは、知っているね。亭主との間に、どんな秘密でも作ってはならぬ。おまえに言いたいのは、それだけだ。おまえの兄は、たぶん偉い男なのだから、おまえもその誇りを持っていろ」
花嫁は、夢見心地でうなずいた。メロスは、それから花婿の肩をたたいて、
「仕度のないのはお互いさまさ。私の家にも、宝といっては、妹と羊だけだ。他には、何も無い。全部あげよう。もう一つ、メロスの弟になったことを誇ってくれ」
花婿は揉《も》み手して、てれていた。メロスは笑って村人たちにも会《え》釈《しやく》して、宴席から立ち去り、羊小屋にもぐり込んで、死んだように深く眠った。
眼が覚めたのは翌る日の薄明の頃である。メロスは跳《は》ね起き、南《な》無《む》三《さん》、寝過ごしたか、いや、まだまだ大丈夫、これからすぐに出発すれば、約束の刻限までには十分間に合う。きょうは是非とも、あの王に、人の信実の存するところを見せてやろう。そうして笑って磔《はりつけ》の台に上ってやる。メロスは、悠《ゆう》々《ゆう》と身仕度をはじめた。雨も、いくぶん小降りになっている様子である。身仕度は出来た。さて、メロスは、ぶるんと両腕を大きく振って、雨中、矢のごとく走り出た。
私は、今《こ》宵《よい》、殺される。殺されるために走るのだ。身代りの友を救うために走るのだ。王の奸《かん》佞《ねい》邪智を打ち破るために走るのだ。走らなければならぬ。そうして、私は殺される。若い時から名誉を守れ。さらば、ふるさと。若いメロスは、つらかった。幾度か、立ちどまりそうになった。えい、えいと大声あげて自身を叱《しか》りながら走った。村を出て、野を横切り、森をくぐり抜け、隣村に着いた頃には、雨も止み、日は高く昇って、そろそろ暑くなって来た。メロスは額の汗をこぶしで払い、ここまで来れば大丈夫、もはや故郷への未練はない。妹たちは、きっと佳《よ》い夫婦になるだろう。私には、いま、なんの気がかりもないはずだ。まっすぐに王城に行き着けば、それでよいのだ。そんなに急ぐ必要もない。ゆっくり歩こう、と持ちまえの呑《のん》気《き》さを取り返し、好きな小歌をいい声で歌い出した。ぶらぶら歩いて二里行き三里行き、そろそろ全里程の半ばに到達した頃、降って湧《わ》いた災難、メロスの足は、はたと、とまった。見よ、前方の川を。きのうの豪雨で山の水源地は氾《はん》濫《らん》し、濁流滔《とう》々《とう》と下流に集まり、猛勢一挙に橋を破壊し、どうどうと響きをあげる激流が、木葉《こつぱ》微《み》塵《じん》に橋《はし》桁《げた》を跳ね飛ばしていた。彼は茫《ぼう》然《ぜん》と、立ちすくんだ。あちこちと眺《なが》めまわし、また、声を限りに呼びたててみたが、繋《けい》舟《しゆう》は残らず浪《なみ》に浚《さら》われて影なく、渡守りの姿も見えない。流れはいよいよ、ふくれ上がり、海のようになっている。メロスは川岸にうずくまり、男泣きに泣きながらゼウスに手を挙げて哀願した。「ああ、鎮めたまえ、荒れ狂う流れを! 時は刻々に過ぎて行きます。太陽もすでに真昼時です。あれが沈んでしまわぬうちに、王城に行き着くことができなかったら、あの佳《よ》い友達が、私のために死ぬのです」
濁流は、メロスの叫びをせせら笑うごとく、ますます激しく躍り狂う。浪は浪を呑《の》み、捲《ま》き、煽《あお》り立て、そうして時は、刻一刻と消えて行く。今はメロスも覚悟した。泳ぎ切るよりほかにない。ああ、神々も照覧あれ! 濁流にも負けぬ愛と誠の偉大な力を、いまこそ発揮して見せる。メロスは、ざんぶと流れに飛び込み、百匹の大蛇のようにのた打ち荒れ狂う浪を相手に、必死の闘争を開始した。満身の力を腕にこめて、押し寄せ渦巻き引きずる流れを、なんのこれしきと掻《か》きわけ掻きわけ、めくらめっぽう獅《し》子《し》奮《ふん》迅《じん》の人の子の姿には、神も哀れと思ったか、ついに憐《れん》愍《びん》を垂れてくれた。押し流されつつも、見事、対岸の樹木の幹に、すがりつく事ができたのである。ありがたい。メロスは馬のように大きな胴震いを一つして、すぐにまた先きを急いだ。一刻といえども、むだにはできない。陽はすでに西に傾むきかけている。ぜいぜい荒い呼吸をしながら峠《とうげ》をのぼり、のぼり切って、ほっとした時、突然、目の前に一隊の山賊が躍り出た。
「待て」
「何をするのだ。私は陽の沈まぬうちに王城へ行かなければならぬ。放せ」
「どっこい放さぬ。持ちもの全部を置いて行け」
「私には、いのちの他には何もない。その、たった一つの命も、これから王にくれてやるのだ」
「その、いのちが欲しいのだ」
「さては、王の命令で、ここで私を待ち伏せしていたのだな」
山賊たちは、ものも言わず一斉に棍《こん》棒《ぼう》を振り挙げた。メロスはひょいと、からだを折り曲げ、飛鳥のごとく身近かの一人に襲いかかり、その棍棒を奪い取って、
「気の毒だが、正義のためだ!」と猛然一撃、たちまち、三人を殴り倒し、残る者のひるむ隙《すき》に、さっさと走って峠を下った。一気に峠を駈け降りたが、さすがに疲労し、折から午後の灼《しやく》熱《ねつ》の太陽がまともに、かっと照って来て、メロスは幾度となく眩暈《めまい》を感じ、これではならぬ、と気を取り直しては、よろよろ二、三歩あるいて、ついに、がくりと膝《ひざ》を折った。立ち上がる事ができぬのだ。天を仰いで、くやし泣きに泣き出した。ああ、あ、濁流を泳ぎ切り、山賊を三人も撃ち倒し韋《い》駄《だ》天《てん》、ここまで突破して来たメロスよ。真の勇者、メロスよ。今、ここで、疲れ切って動けなくなるとは情けない。愛する友は、おまえを信じたばかりに、やがて殺されなければならぬ。おまえは、稀《き》代《たい》の不信の人間、まさしく王の思う壺《つぼ》だぞ、と自分を叱《しか》ってみるのだが、全身萎《な》えて、もはや芋虫ほどにも前進かなわぬ。路《ろ》傍《ぼう》の草原にごろりと寝ころがった。身体疲労すれば、精神も共にやられる。もう、どうでもいいという、勇者に不似合いな不《ふ》貞《て》腐《くさ》れた根性が、心の隅に巣《す》喰《く》った。私は、これほど努力したのだ。約束を破る心は、みじんもなかった。神も照覧、私は精一ぱいに努めて来たのだ。動けなくなるまで走って来たのだ。私は不信の徒ではない。ああ、できる事なら私の胸を截《た》ち割って、真《しん》紅《く》の心臓をお目にかけたい。愛と信実の血液だけで動いているこの心臓を見せてやりたい。けれども私は、この大事な時に、精も根も尽きたのだ。私は、よくよく不幸な男だ。私は、きっと笑われる。私の一家も笑われる。私は友を欺《あざむ》いた。中途で倒れるのは、はじめから何もしないのと同じ事だ。ああ、もう、どうでもいい。これが、私の定まった運命なのかも知れない。セリヌンティウスよ、ゆるしてくれ。君は、いつでも私を信じた。私も君を、欺かなかった。私たちは、本当に佳《よ》い友と友であったのだ。いちどだって、暗い疑惑の雲を、お互い胸に宿したことはなかった。いまだって、君は私を無心に待っているだろう。ああ、待っているだろう。ありがとう、セリヌンティウス。よくも私を信じてくれた。それを思えば、たまらない。友と友の間の信実は、この世で一ばん誇るべき宝なのだからな。セリヌンティウス、私は走ったのだ。君を欺くつもりは、みじんもなかった。信じてくれ! 私は急ぎに急いでここまで来たのだ。濁流を突破した。山賊の囲みからも、するりと抜けて一気に峠を駈《か》け降りて来たのだ。私だから、できたのだよ。ああ、この上、私に望み給うな。放って置いてくれ。どうでも、いいのだ。私は負けたのだ。だらしがない。笑ってくれ。王は私に、ちょっとおくれて来い、と耳打ちした。おくれたら、身代りを殺して、私を助けてくれると約束した。私は王の卑劣を憎んだ。けれども、今になってみると、私は王の言うままになっている。私は、おくれて行くだろう。王は、ひとり合点して私を笑い、そうして事もなく私を放免するだろう。そうなったら、私は、死ぬよりつらい。私は、永遠に裏切り者だ。地上で最も、不名誉の人種だ。セリヌンティウスよ、私も死ぬぞ。君と一緒に死なせてくれ。君だけは私を信じてくれるにちがいない。いや、それも私の、ひとりよがりか? ああ、もういっそ、悪徳者として生き伸びてやろうか。村には私の家がある。羊も居る。妹夫婦は、まさか私を村から追い出すような事はしないだろう。正義だの、信実だの、愛だの、考えてみれば、くだらない。人を殺して自分が生きる。それが人間世界の定法ではなかったか。ああ、何もかも、ばかばかしい。私は、醜い裏切り者だ。どうとも、勝手にするがよい。やんぬる哉《かな》。――四肢を投げ出して、うとうと、まどろんでしまった。
ふと耳に、潺《せん》々《せん》、水の流れる音が聞こえた。そっと頭をもたげ、息を呑《の》んで耳をすました。すぐ足もとで、水が流れているらしい。よろよろ起き上がって、見ると、岩の裂目から滾《こん》々《こん》と、何か小さく囁《ささや》きながら清水が湧《わ》き出ているのである。その泉に吸い込まれるようにメロスは身をかがめた。水を両手で掬《すく》って、一くち飲んだ。ほうと長い溜《ため》息《いき》が出て、夢から覚めたような気がした。歩ける。行こう。肉体の疲労恢《かい》復《ふく》と共に、わずかながら希望が生まれた。義務遂行の希望である。わが身を殺して、名誉を守る希望である。斜陽は赤い光を、樹々の葉に投じ、葉も枝も燃えるばかりに輝いている。日没までには、まだ間がある。私を、待っている人があるのだ。少しも疑わず、静かに期待してくれている人があるのだ。私は、信じられている。私の命なぞは、問題ではない。死んでお詫《わ》び、などと気のいい事は言っておられぬ。私は、信頼に報いなければならぬ。いまはただその一事だ。走れ! メロス。
私は信頼されている。私は信頼されている。先刻の、あの悪魔の囁《ささやき》きは、あれは夢だ。悪い夢だ。忘れてしまえ、五臓が疲れているときは、ふいとあんな悪い夢を見るものだ。メロス、おまえの恥ではない。やはり、おまえは真の勇者だ。再び立って走れるようになったではないか。ありがたい! 私は、正義の士として死ぬ事ができるぞ。ああ、陽が沈む。ずんずん沈む。待ってくれ、ゼウスよ。私は生まれた時から正直な男であった。正直な男のままにして死なせて下さい。
路行く人を押しのけ、跳《は》ねとばし、メロスは黒い風のように走った。野原で酒《しゆ》宴《えん》の、その宴席のまっただ中を駈《か》け抜け、酒宴の人たちを仰天させ、犬を蹴《け》とばし、小川を飛び越え、少しずつ沈んでゆく太陽の、十倍も早く走った。一団の旅人と颯《さ》っとすれちがった瞬間、不吉な会話を小耳にはさんだ。「いまごろは、あの男も、磔《はりつけ》にかかっているよ」ああ、その男、その男のために私は、いまこんなに走っているのだ。その男を死なせてはならない。急げ、メロス。おくれてはならぬ。愛と誠の力を、いまこそ知らせてやるがよい。風態なんかは、どうでもいい。メロスは、いまは、ほとんど全裸体であった。呼吸もできず、二度、三度、口から血が噴き出た。見える。はるか向こうに小さく、シラクスの市の塔《とう》楼《ろう》が見える。塔楼は、夕陽を受けてきらきら光っている。
「ああ、メロス様」うめくような声が、風と共に聞こえた。
「誰《だれ》だ」メロスは走りながら尋ねた。
「フィロストラトスでございます。あなたのお友達セリヌンティウス様の弟子でございます」その若い石《いし》工《く》も、メロスの後について走りながら叫んだ。「もう駄目でございます。むだでございます。走るのは、やめて下さい。もう、あの方をお助けになることはできません」
「いや、まだ陽は沈まぬ」
「ちょうど今、あの方《かた》が死刑になるところです。ああ、あなたは遅かった。おうらみ申します。ほんの少し、もうちょっとでも、早かったなら!」
「いや、まだ陽は沈まぬ」メロスは胸の張り裂ける思いで、赤く大きい夕陽ばかりを見つめていた。走るよりほかはない。
「やめて下さい。走るのは、やめて下さい。いまはご自分のお命が大事です。あの方は、あなたを信じておりました。刑場に引き出されても、平気でいました。王様が、さんざんあの方をからかっても、メロスは来ます、とだけ答え、強い信念を持ちつづけている様子でございました」
「それだから、走るのだ。信じられているから走るのだ。間に合う、間に合わぬは問題でないのだ。人の命も問題でないのだ。私は、なんだか、もっと恐ろしく大きいもののために走っているのだ。ついて来い! フィロストラトス」
「ああ、あなたは気が狂ったか。それでは、うんと走るがいい。ひょっとしたら、間に合わぬものでもない。走るがいい」
言うにや及ぶ。まだ陽は沈まぬ。最後の死力を尽くして、メロスは走った。メロスの頭は、からっぽだ。何一つ考えていない。ただ、わけのわからぬ大きな力にひきずられて走った。陽は、ゆらゆら地平線に没し、まさに最後の一片の残光も、消えようとした時、メロスは疾風のごとく刑場に突入した。間に合った。
「待て。その人を殺してはならぬ。メロスが帰って来た。約束のとおり、いま帰って来た」と大声で刑場の群衆にむかって叫んだつもりであったが、咽《のど》がつぶれて嗄《しわが》れた声が幽《かす》かに出たばかり、群衆は、ひとりとして彼の到着に気がつかない。すでに磔《はりつけ》の柱が高々と立てられ、縄を打たれたセリヌンティウスは、徐々に釣《つ》り上げられてゆく。メロスはそれを目撃して最後の勇、先刻、濁流を泳いだように群集を掻《か》きわけ、掻きわけ、
「私だ。刑吏! 殺されるのは、私だ。メロスだ。彼を人質にした私は、ここにいる!」と、かすれた声で精一ぱいに叫びながら、ついに磔《はりつけ》台《だい》に昇り、釣り上げられてゆく友の両足に、齧《かじ》りついた。群衆は、どよめいた。あっぱれ。ゆるせ、と口々にわめいた。セリヌンティウスの縄は、ほどかれたのである。
「セリヌンティウス」メロスは眼に涙を浮かべて言った。「私を殴れ。ちから一ぱいに頬《ほお》を殴れ。私は、途中で一度、悪い夢を見た。君がもし私を殴ってくれなかったら、私は君と抱《ほう》擁《よう》する資格さえないのだ。殴れ」
セリヌンティウスは、すべてを察した様子でうなずき、刑場一ぱいに鳴り響くほど音高くメロスの右頬を殴った。殴ってから優しく微《ほほ》笑《え》み、
「メロス、私を殴れ。同じくらい音高く私の頬を殴れ。私はこの三日の間、たった一度だけ、ちらと君を疑った。生まれてはじめて君を疑った。君が私を殴ってくれなければ、私は君と抱擁できない」
メロスは腕に唸《うな》りをつけてセリヌンティウスの頬を殴った。
「ありがとう、友よ」二人同時に言い、ひしと抱き合い、それから嬉《うれ》し泣きにおいおい声を放って泣いた。
群衆の中からも、歔欷《すすりなき》の声が聞こえた。暴君ディオニスは、群衆の背後から二人の様を、まじまじと見つめていたが、やがて静かに二人に近づき、顔をあからめて、こう言った。
「おまえらの望みは叶《かな》ったぞ。おまえらは、わしの心に勝ったのだ。信実とは、決して空虚な妄《もう》想《そう》ではなかった。どうか、わしも仲間に入れてはくれまいか。どうか、わしの願いを聞き入れて、おまえらの仲間の一人にしてほしい」
どっと群衆の間に、歓声が起こった。
「万歳、王様万歳」
ひとりの少女が緋《ひ》のマントをメロスに捧げた。メロスは、まごついた。佳《よ》き友は、気をきかせて教えてやった。
「メロス、君は、まっぱだかじゃないか。早くそのマントを着るがいい。この可愛い娘さんは、メロスの裸体を、皆に見られるのが、たまらなく口《く》惜《や》しいのだ」
勇者は、ひどく赤面した。
(古伝説と、シルレルの詩から)
東京八景
(苦難の或《あ》る人に贈る)
伊《い》豆《ず》の南、温泉が湧《わ》き出ているというだけで、他には何一つとるところのない、つまらぬ山村である。戸数三十という感じである。こんなところは、宿泊料も安いであろうという、理由だけで、私はその索《さく》寞《ばく》たる山村を選んだ。昭和十五年、七月三日の事である。その頃《ころ》は、私にも、少しお金の余裕があったのである。けれども、それから先の事は、やはり真っ暗であった。小説が、少しも書けなくなる事だってあるかも知れない。二か月間、小説が全く書けなかったら、私は、もとの無一文になるはずである。思えば、心細い余裕であったが、私にとっては、それだけの余裕でも、この十年間、はじめての事であったのである。私が東京で生活をはじめたのは、昭和五年の春である。このころすでに私は、Hという女と共同の家を持っていた。田舎《いなか》の長兄から、月々充分の金を送ってもらっていたのだが、ばかな二人は、贅《ぜい》沢《たく》を戒め合っていながらも、月末には必ず質屋へ一品二品を持運んで行かなければならなかった。とうとう六年目に、Hとわかれた。私には、蒲団《ふとん》と、机と、電気スタンドと、行《こう》李《り》一つだけが残った。多額の負債も不気味に残った。それから二年経って、私はある先輩のお世話で、平凡な見合い結婚をした。さらに二年を経て、はじめて私は、一息ついた。貧しい創作集もすでに十冊近く出版せられている。むこうから注文が来なくても、こちらで懸命に書いて持って行けば、三つに二つは買ってもらえるような気がして来た。これからが、愛《あい》嬌《きよう》も何もない大人の仕事である。書きたいものだけを、書いて行きたい。
甚《はなは》だ心細い、不安な余裕ではあったが、私は真底から嬉《うれ》しく思った。少なくとも、もう一か月間は、お金の心配をせずに好きなものを書いて行ける。私は自分の、その時の身の上を、嘘《うそ》みたいな気がした。恍《こう》惚《こつ》と不安の交《こう》錯《さく》した異様な胸騒ぎで、かえって仕事に手が付かず、いたたまらなくなった。
東京八景。私は、その短篇を、いつかゆっくり、骨折って書いてみたいと思っていた。十年間の私の東京生活を、その時々の風景に託して書いてみたいと思っていた。私は、ことし三十二歳である。日本の倫理においても、この年齢は、すでに中年の域にはいりかけたことを意味している。また私が、自分の肉体、情熱に尋ねてみても、悲しいかなそれを否定できない。覚えて置くがよい。おまえは、もう青春を失ったのだ。もっともらしい顔の三十男である。東京八景。私はそれを、青春への訣《けつ》別《べつ》の辞として、誰《だれ》にも媚《こ》びずに書きたかった。
あいつも、だんだん俗物になって来たね。そのような無智な陰口が、微風と共に、ひそひそ私の耳にはいって来る。私は、そのたびごとに心の中で、強く答える。僕は、はじめから俗物だった。君には、気がつかなかったのかね。逆なのである。文学を一生の業として気構えた時、愚人は、かえって私を組し易しと見てとった。私は、幽《かす》かに笑うばかりだ。万年若衆は、役者の世界である。文学には無い。
東京八景。私は、いまのこの期間にこそ、それを書くべきであると思った。いまは、差し迫った約束の仕事も無い。百円以上の余裕もある。いたずらに恍《こう》惚《こつ》と不安の複雑な溜《ため》息《いき》をもらして狭い部屋の中を、うろうろ歩き廻《まわ》っている場合ではない。私は絶えず、昇らなければならぬ。
東京市の大地図を一枚買って、東京駅から、米《まい》原《ばら》行の汽車に乗った。遊びに行くのでは、ないんだぞ。一生《しよう》涯《がい》の、重大な記念碑を、骨折って造りに行くのだぞ。と繰り返し繰り返し、自分に教えた。熱海《あたみ》で、伊《い》東《とう》行の汽車に乗りかえ、伊東から下《しも》田《だ》行のバスに乗り、伊豆半島の東海岸に沿うて三時間、バスにゆられて南下し、その戸数三十の見る影もない山村に降り立った。ここなら、一泊三円を越えることはなかろうと思った。憂《ゆう》鬱《うつ》堪《た》えがたいばかりの粗末な、小さい宿屋が四軒だけ並んでいる。私は、Fという宿屋を選んだ。四軒の中では、まだしも、少しましなところが、あるように思われたからである。意地の悪そうな、下品な女中に案内されて二階に上がり、部屋に通されて見ると、私は、いい年をして、泣きそうな気がした。三年まえに、私が借りていた荻《おぎ》窪《くぼ》の下宿屋の一室を思い出した。その下宿屋は、荻窪でも、最下等の代《しろ》物《もの》であったのである。けれども、この蒲団《ふとん》部屋の隣りの六畳間は、その下宿の部屋よりも、もっと安っぽく、侘《わ》びしいのである。
「他に部屋が無いのですか」
「ええ。みんな、ふさがっております。ここは涼しいですよ」
「そうですか」
私は、馬鹿にされていたようである。服装が悪かったせいかも知れない。
「お泊りは、三円五十銭と四円です。御中食は、また、別にいただきます。どういたしましょうか」
「三円五十銭のほうにして下さい。中食は、たべたい時に、そう言います。十日ばかり、ここで勉強したいと思って来たのですが」
「ちょっと、お待ち下さい」女中は、階下へ行って、しばらくして、また部屋にやって来て、「あの、永い御滞在でしたら、前に、いただいて置く事になっておりますけれど」
「そうですか。いくら差し上げたら、いいのでしょう」
「さあ、いくらでも」と口ごもっている。
「五十円あげましょうか」
「はあ」
私は机の上に紙幣を並べた。たまらなくなって来た。
「みんな、あげましょう。九十円あります。煙草《たばこ》銭《せん》だけは、僕は、こちらの財布に残してあります」なぜ、こんなところに来たのだろうと思った。
「相すみません。おあずかりいたします」
女中は、去った。怒ってはならない。大事な仕事がある。いまの私の身分には、これくらいの待遇が、相応しているのかも知れない、と無理矢理、自分に思い込ませて、トランクの底からペン、インク、原稿用紙などを取り出した。
十年ぶりの余裕は、このような結果であった。けれども、この悲しさも、私の宿命の中に規定されてあったのだと、もっともらしく自分に言い聞かせ、怺《こら》えてここで仕事をはじめた。
遊びに来たのではない。骨折りの仕事をしに来たのだ。私はその夜、暗い電燈の下で、東京市の大地図を机いっぱいに拡げた。
幾年振りで、こんな、東京全図というものを拡げて見る事か。十年以前、はじめて東京に住んだ時には、この地図を買い求める事さえ恥ずかしく、人に、田舎《いなか》者《もの》と笑われはせぬかと幾度となく躊《ちゆう》躇《ちよ》した後、とうとう一部、うむと決意し、ことさらに乱暴な自《じ》嘲《ちよう》の口調で買い求め、それを懐中し荒《すさ》んだ歩きかたで下宿へ帰った。夜、部屋を閉め切り、こっそり、その地図を開いた。赤、緑、黄の美しい絵模様。私は、呼吸を止めてそれに見入った。隅《すみ》田《だ》川。浅《あさ》草《くさ》。牛《うし》込《ごめ》。赤《あか》坂《さか》。ああなんでもある。行こうと思えば、いつでも、すぐに行けるのだ。私は、奇蹟を見るような気さえした。
今では、この蚕《かいこ》に食われた桑《くわ》の葉のような東京市の全形を眺《なが》めても、そこに住む人、各々の生活の姿ばかりが思われる。こんな趣きのない原っぱに、日本全国から、ぞろぞろ人が押し寄せ、汗だくで押し合いへし合い、一寸の土地を争って一喜一憂し、互いに嫉《しつ》視《し》、反目して、雌は雄を呼び、雄は、ただ半狂乱で歩きまわる。すこぶる唐突に、何の前後の関連もなく「埋《うもれ》木《ぎ》」という小説の中の哀《かな》しい一行が、胸に浮かんだ。「恋とは」「美しき事を夢みて、穢《きたな》き業《わざ》をするものぞ」東京とは直接に何の縁もない言葉である。
戸《と》塚《つか》。――私は、はじめ、ここにいたのだ。私のすぐ上の兄が、この地に、ひとりで一軒の家を借りて、彫刻を勉強していたのである。私は昭和五年に弘《ひろ》前《さき》の高等学校を卒業し、東京帝大のフランス文科に入学した。フランス語を一字も解し得なかったけれども、それでもフランス文学の講義を聞きたかった。辰《たつ》野《の》隆《ゆたか》先生を、ぼんやり畏《い》敬《けい》していた。私は、兄の家から三丁ほど離れた新築の下宿屋の、奥の一室を借りて住んだ。たとい親身の兄弟でも、同じ屋根の下に住んでおれば、気まずい事も起こるものだ、と二人とも口に出しては言わないが、そんなお互いの遠慮が無言の裡《うち》に首《しゆ》肯《こう》せられて、私たちは同じ町内ではあったが、三丁だけ離れて住む事にしたのである。それから三か月経って、この兄は病死した。二十七歳であった。兄の死後も、私は、その戸塚の下宿にいた。二学期からは、学校へは、ほとんど出なかった。世人の最も恐怖していたあの日《ひ》蔭《かげ》の仕事に、平気で手助けしていた。その仕事の一翼と自称する大げさな身振りの文学には、軽《けい》蔑《べつ》をもって接していた。私は、その一期間、純粋な政治家であった。そのとしの秋に、女が田舎《いなか》からやって来た。私が呼んだのである。Hである。Hとは、私が高等学校へはいったとしの初秋に知り合って、それから三年間あそんだ。無心の芸《げい》妓《ぎ》である。私は、この女のために、本《ほん》所《じよ》区東《ひがし》駒《こま》形《がた》に一室を借りてやった。大工さんの二階である。肉体的の関係は、そのときまでいちどもなかった。故郷から、長兄がその女の事でやって来た。七年前に父を喪《うしな》った兄弟は、戸塚の下宿の、あの薄暗い部屋で相会うた。兄は、急激に変化している弟の兇《きよう》悪《あく》な態度に接して、涙を流した。必ず夫婦にしていただく条件で、私は兄に女を手渡す事にした。手渡す驕《きよう》慢《まん》の弟より、受け取る兄のほうが、数層倍苦しかったに違いない。手渡すその前夜、私は、はじめて女を抱いた。兄は、女を連れて、ひとまず田舎へ帰った。女は、始終ぼんやりしていた。ただいま無事に家に着きました、という事務的な堅い口調の手紙が一通来たきりで、その後は、女から、何の便りもなかった。女は、ひどく安心してしまっているらしかった。私には、それが不平であった。こちらが、すべての肉親を仰天させ、母には地獄の苦しみを嘗《な》めさせてまで、戦っているのに、おまえ一人、無智な自信でぐったりしているのは、みっともない事である、と思った。毎日でも私に手紙をよこすべきである、と思った。私を、もっともっと好いてくれてもいい、と思った。けれども女は、手紙を書きたがらないひとであった。私は、絶望した。朝早くから、夜おそくまで、れいの仕事の手助けに奔走した。人から頼まれて、拒否した事はなかった。自分のその方面における能力の限度が、少しずつ見えて来た。私は、二重に絶望した。銀座裏のバーの女が、私を好いた。好かれる時期が、誰《だれ》にだって一度ある。不潔な時期だ。私は、この女を誘って一緒に鎌《かま》倉《くら》の海へはいった。破れた時は、死ぬ時だと思っていたのである。れいの反神的な仕事にも破れかけた。肉体的にさえ、とても不可能なほどの仕事を、私は卑怯《ひきよう》と言われたくないばかりに、引受けてしまっていたのである。Hは、自分ひとりの幸福の事しか考えていない。おまえだけが、女じゃないんだ。おまえは、私の苦しみを知ってくれなかったから、こういう報いを受けるのだ。ざまを見ろ。私には、すべての肉親と離れてしまった事が一ばん、つらかった。Hとの事で、母にも、兄にも、叔母にも呆《あき》れられてしまったという自覚が、私の投身の最も直接な一因であった。女は死んで、私は生きた。死んだひとの事については、以前に何度も書いた。私の生《しよう》涯《がい》の、黒点である。私は、留置場に入れられた。取調べの末、起訴猶《ゆう》予《よ》になった。昭和五年の歳末の事である。兄たちは、死にぞこないの弟に優しくしてくれた。
長兄はHを、芸《げい》妓《ぎ》の職から解放し、その翌るとしの二月に、私の手許に送ってよこした。言約を潔癖に守る兄である。Hはのんきな顔をしてやって来た。五《ご》反《たん》田《だ》の、島《しま》津《づ》公分譲地の傍《そば》に三十円の家を借りて住んだ。Hはかいがいしく立ち働いた。私は、二十三歳、Hは二十歳である。
五反田は、阿《あ》呆《ほう》の時代である。私は完全に、無意志であった。再出発の希望は、みじんもなかった。たまに訪ねて来る友人たちの、御機嫌ばかりをとって暮らしていた。自分の醜態の前科を、恥じるどころか、幽《かす》かに誇ってさえいた。実に、破《は》廉《れん》恥《ち》な、低能の時期であった。学校へもやはり、ほとんど出なかった。すべての努力を嫌《きら》い、のほほん顔でHを眺めて暮らしていた。馬鹿である。何も、しなかった。ずるずるまた、れいの仕事の手伝いなどを、はじめていた。けれども、こんどは、なんの情熱もなかった。遊民の虚無《ニヒル》。それが、東京の一隅にはじめて家を持った時の、私の姿だ。
そのとしの夏に移転した。神《かん》田《だ》・同《どう》朋《ぼう》町。さらに晩秋には、神田・和泉《いずみ》町。その翌年の早春に、淀《よど》橋《ばし》・柏《かしわ》木《ぎ》。なんの語るべき事もない。朱《しゆ》麟《りん》堂《どう》と号して俳句に凝ったりしていた。老人である。例の仕事の手助けのために、二度も留置場に入れられた。留置場から出るたびに私は友人たちの言いつけに従って、別な土地に移転するのである。何の感激も、また何の嫌悪もなかった。それが皆のために善《よ》いならば、そうしましょう、という無気力きわまる態度であった。ぼんやり、Hと二人で、雌雄の穴居の一日一日を迎え送っているのである。Hは快活であった。一日に二、三度は私を口汚く呶《ど》鳴《な》るのだが、あとはけろりとして英語の勉強をはじめるのである。私が時間割を作ってやって勉強させていたのである。あまり覚えなかったようである。英語はローマ字をやっと読めるくらいになって、いつのまにか、やめてしまった。手紙は、やはり下手であった。書きたがらなかった。私が下書を作ってやった。あねご気取りが好きなようであった。私が警察に連れて行かれても、そんなに取り乱すような事はなかった。れいの思想を、任《にん》侠《きよう》的なものと解して愉快がっていた日さえあった。同朋町、和泉町、柏木、私は、二十四歳になっていた。
そのとしの晩春に、私は、またまた移転しなければならなくなった。またもや警察に呼ばれそうになって、私は、逃げたのである。こんどのは、少し複雑な問題であった。田舎の長兄に、でたらめな事を言ってやって、二か月分の生活費を一度に送ってもらい、それを持って柏木を引揚げた。家財道具を、あちこちの友人に少しずつ分けて預かってもらい、身のまわりの物だけを持って、日《に》本《ほん》橋《ばし》・八《はつ》丁《ちよう》堀《ぼり》の材木屋の二階、八畳間に移った。私は北海道生まれ、落合一雄という男になった。さすがに心細かった。所持のお金を大事にした。どうにかなろうという無能な思念で、自分の不安をごまかしていた。明日についての心構えは何もなかった。何もできなかった。時たま、学校へ出て、講堂の前の芝生に、何時間でも黙って寝ころんでいた。ある日の事、同じ高等学校を出た経済学部の一学生から、いやな話を聞かされた。煮え湯を飲むような気がした。まさか、と思った。知らせてくれた学生を、かえって憎んだ。Hに聞いてみたら、わかる事だと思った。いそいで八丁堀、材木屋の二階に帰って来たのだが、なかなか言い出しにくかった。初夏の午後である。西日が部屋にはいって、暑かった。私は、オラガビールを一本、Hに買わせた。当時、オラガビールは、二十五銭であった。その一本を飲んで、もう一本、と言ったら、Hに呶《ど》鳴《な》られた。呶鳴られて私も、気持に張りが出て来て、きょう学生から聞いて来た事を、努めてさりげない口調で、Hに告げることができた。Hは半《はん》可《か》臭《くさ》い、と田舎《いなか》の言葉で言って、怒ったように、ちらと眉《まゆ》をひそめた。それだけで、静かに縫い物をつづけていた。濁った気配は、どこにもなかった。私は、Hを信じた。
その夜私は悪いものを読んだ。ルソーの懺《ざん》悔《げ》録《ろく》であった。ルソーが、やはり細君の以前の事で、苦汁を嘗《な》めた箇所に突き当たり、たまらなくなって来た。私は、Hを信じられなくなったのである。その夜、とうとう吐《は》き出させた。学生から聞かされた事は、すべて本当であった。もっと、ひどかった。掘り下げて行くと、際限が無いような気配さえ感ぜられた。私は中途で止めてしまった。
私だとて、その方面では、人を責める資格が無い。鎌倉の事件は、どうしたことだ。けれども私は、その夜は煮えくりかえった。私はその日までHを、いわば掌中の玉のように大事にして、誇っていたのだということに気づいた。こいつのために生きていたのだ。私は女を、無《む》垢《く》のままで救ったとばかり思っていたのである。Hの言うままを、勇者のごとく単純に合点していたのである。友人たちにも、私は、それを誇って語っていた。Hは、このように気象が強いから、僕の所へ来るまでは、守りとおす事ができたのだと。めでたいとも、何とも、形容の言葉が無かった。馬鹿息子である。女とは、どんなものだか知らなかった。私はHの欺《ぎ》瞞《まん》を憎む気は、少しも起こらなかった。告白するHを可愛《かわい》いとさえ思った。背中を、さすってやりたく思った。私は、ただ、残念であったのである。私は、いやになった。自分の生活の姿を、棍《こん》棒《ぼう》で粉砕したく思った。要するに、やり切れなくなってしまったのである。私は、自首して出た。
検事の取調べが一段落して、死にもせず私は再び東京の街を歩いていた。帰るところは、Hの部屋よりほかにない。私はHのところへ、急いで行った。侘《わ》びしい再会である。共に卑《ひ》屈《くつ》に笑いながら、私たちは力弱く握手した。八丁堀を引き上げて、芝《しば》区・白《しろ》金《がね》三《さん》光《こう》町。大きい空家の、離れの一室を借りて住んだ。故郷の兄たちは、呆れ果てながらも、そっとお金を送ってよこすのである。Hは、何事も無かったように元気になっていた。けれども私は、少しずつ、どうやら阿呆から眼ざめていた。遺書を綴《つづ》った。「思い出」百枚である。今では、この「思い出」が私の処女作という事になっている。自分の幼時からの悪を、飾らずに書いて置きたいと思ったのである。二十四歳の秋の事である。草蓬《ぼう》々《ぼう》の広い廃園を眺《なが》めながら、私は離れの一室に坐《すわ》って、めっきり笑いを失っていた。私は、再び死ぬつもりでいた。きざと言えば、きざである。いい気なものであった。私は、やはり、人生をドラマと見なしていた。いや、ドラマを人生と見なしていた。もう今は、誰《だれ》の役にも立たぬ。唯一のHにも、他人の手《て》垢《あか》がついていた。生きて行く張合いが全然、一つも無かった。ばかな、滅亡の民の一人として、死んで行こうと、覚悟をきめていた。時潮が私に振り当てた役割を、忠実に演じてやろうと思った。必ず人に負けてやる、という悲しい卑《ひ》屈《くつ》な役割を。
けれども人生は、ドラマでなかった。二幕目は誰も知らない。「滅び」の役割をもって登場しながら、最後まで退場しない男もいる。小さい遺書のつもりで、こんな穢《きたな》い子供もいましたという幼年及び少年時代の私の告白を、書き綴《つづ》ったのであるが、その遺書が、逆に猛烈に気がかりになって、私の虚無に幽《かす》かな燭《とも》燈《し》がともった。死に切れなかった。その「思い出」一篇だけでは、なんとしても、不満になって来たのである。どうせ、ここまで書いたのだ。全部を、書いて置きたい。きょうまでの生活の全部を、ぶちまけてみたい。あれも、これも。書いて置きたい事が一ぱい出て来た。まず、鎌倉の事件を書いて、駄目。どこかに手落ちがある。さらにまた、一作書いて、やはり不満である。溜息ついて、また次の一作にとりかかる。ピリオドを打ち得ず、小さいコンマの連続だけである。永遠においでおいでの、あの悪魔《デモン》に、私はそろそろ食われかけていた。蟷《とう》螂《ろう》の斧《おの》である。
私は二十五歳になっていた。昭和八年である。私は、このとしの三月に大学を卒業しなければならなかった。けれども私は、卒業どころか、てんで試験にさえ出ていない。故郷の兄たちは、それを知らない。ばかな事ばかり、やらかしたがそのお詫《わ》びに、学校だけは卒業して見せてくれるだろう。それくらいの誠実は持っている奴《やつ》だと、ひそかに期待していた様子であった。私は見事に裏切った。卒業する気は無いのである。信頼している者を欺《あざむ》くことは、狂せんばかりの地獄である。それからの二年間、私は、その地獄の中に住んでいた。来年は、必ず卒業します、どうか、もう一年、おゆるし下さい、と長兄に泣《きゆう》訴《そ》しては裏切る。そのとしも、そうであった。その翌るとしも、そうであった。死ぬるばかりの猛省と自嘲と恐怖の中で、死にもせず私は、身勝手な、遺書と称する一連の作品に凝っていた。これが出来たならば。そいつは所《しよ》詮《せん》、青くさい気取った感傷に過ぎなかったのかも知れない。けれども私は、その感傷に、命を懸《か》けていた。私は書き上げた作品を、大きい紙袋に、三つ四つと貯蔵した。次第に作品の数も殖《ふ》えて来た。私は、その紙袋に毛筆で、「晩年」と書いた。その一連の遺書の、銘題のつもりであった。もう、これで、おしまいだという意味なのである。芝の空《あき》家《や》に買手がついたとやらで、私たちは、そのとしの早春に、そこを引き上げなければならなかった。学校を卒業できなかったので、故郷からの仕送りも、相当減額されていた。一層倹約をしなければならぬ。杉並区・天《あま》沼《ぬま》三丁目。知人の家の一部屋を借りて住んだ。その人は、新聞社に勤めておられて、りっぱな市民であった。それから二年間、共に住み、実に心配をおかけした。私には、学校を卒業する気は、さらに無かった。馬鹿のように、ただ、あの著作集の完成にのみ、気を奪われていた。何か言われるのが恐ろしくて、私は、その知人にも、またHにさえ、来年は卒業できるという、一時のがれの嘘《うそ》をついていた。一週間に一度くらいは、ちゃんと制服を来て家を出た。学校の図書館で、いい加減にあれこれ本を借り出して読み散らし、やがて居眠りしたり、また作品の下書をつくったりして、夕方には図書館を出て、天沼へ帰った。Hも、またその知人も、私を少しも疑わなかった。表面は、全く無事であったが、私は、ひそかに、あせっていた。刻一刻、気がせいた。故郷からの仕送りが、切れないうちに書き終えたかった。けれども、なかなか骨が折れた。書いては破った。私は、ぶざまにも、あの悪魔《デモン》に、骨の髄まで食い尽くされていた。
一年経った。私は卒業しなかった。兄たちは激怒したが、私はれいの泣《きゆう》訴《そ》をした。来年は必ず卒業しますと、はっきり嘘を言った。それ以外に、送金を願う口実は無かった。実情はとても誰《だれ》にも、言えたものではなかった。私は共犯者を作りたくなかったのである。私ひとりを、完全に野良息子にして置きたかった。すると、周囲の人の立場も、はっきりしていて、いささかも私に巻《まき》添《ぞ》え食うような事が無いだろうと信じた。遺書を作るために、もう一年などと、そんな突飛な事は言い出せるものでない。私は、ひとりよがりのいわば詩的な夢想家と思われるのが、何よりいやだった。兄たちだって、私がそんな非現実的な事を言い出したら、送金したくても、送金を中止するよりほかはなかったろう。実情を知りながら送金したとなれば、兄たちは、後々世間の人から、私の共犯者のように思われるだろう。それは、いやだ。私はあくまで狡《こう》智《ち》佞《ねい》弁《べん》の弟になって兄たちを欺《あざむ》いていなければならぬ、と盗賊の三分の理《り》窟《くつ》に似ていたが、そんなふうに大真面目に考えていた。私は、やはり一週間にいちどは、制服を着て登校した。Hも、またその新聞社の知人も、来年の卒業を、美しく信じていた。私は、せっぱ詰まった。来る日も来る日も、真っ黒だった。私は、悪人でない! 人を欺く事は、地獄である。やがて、天沼一丁目。三丁目は通勤に不便のゆえをもって、知人は、そのとしの春に、一丁目の市場の裏に居を移した。荻窪駅の近くである。誘われて私たちも一緒について行き、その家の二階の部屋を借りた。私は毎夜、眠られなかった。安い酒を飲んだ。痰《たん》が、やたらに出た。病気かも知れぬと思うのだが、私は、それどころではなかった。早く、あの、紙袋の中の作品集を纏《まと》めあげたかった。身勝手な、いい気な考えであろうが、私はそれを、皆へのお詫《わ》びとして残したかった。私にできる精一ぱいの事であった。そのとしの晩秋に、私は、どうやら書き上げた。二十数篇の中、十四篇だけを選び出し、あとの作品は、書き損じの原稿と共に焼き捨てた。行《こう》李《り》一杯ぶんは充分にあった。庭に持ち出して、きれいに燃やした。
「ね、なぜ焼いたの」Hは、その夜、ふっと言い出した。
「要らなくなったから」私は微笑して答えた。
「なぜ焼いたの」同じ言葉を繰り返した。泣いていた。
私は身のまわりの整理をはじめた。人から借りていた書籍はそれぞれ返却し、手紙やノートも、屑《くず》屋に売った。「晩年」の袋の中には、別に書状を二通こっそり入れて置いた。準備が出来た様子である。私は毎夜、安い酒を飲みに出かけた。Hと顔を合わせているのが、恐ろしかったのである。そのころ、ある学友から、同人雑誌を出さぬかという相談を受けた。私は、半ばは、いい加減であった。「青い花」という名前だったら、やってもいいと答えた。冗談から駒が出た。諸方から同志が名乗って出たのである。その中の二人と、私は急激に親しくなった。私はいわば青春の最後の情熱を、そこで燃やした。死ぬる前夜の乱舞である。共に酔って、低能の学生たちを殴打した。穢《けが》れた女たちを肉親のように愛した。Hの箪《たん》笥《す》は、Hの知らぬ間に、からっぽになっていた。純文芸冊子「青い花」は、そのとしの十二月に出来た。たった一冊出て仲間は四散した。目的の無い異様な熱狂に呆《あき》れたのである。あとには、私たち三人だけが残った。三馬鹿と言われた。けれどもこの三人は生《しよう》涯《がい》の友人であった。私には、二人に教えられたものが多くある。
あくる年、三月、そろそろまた卒業の季節である。私は、某新聞社の入社試験を受けたりしていた。同居の知人にも、またHにも、私は近づく卒業にいそいそしているように見せかけたかった。新聞記者になって、一生平凡に暮らすのだ、と言って一家を明るく笑わせていた。どうせ露見する事なのに、一日でも一刻でも永く平和を持続させたくて、人を驚《きよう》愕《がく》させるのが何としても恐ろしくて、私は懸命にその場かぎりの嘘《うそ》をつくのである。私は、いつでも、そうであった。そうして、せっぱつまって、死ぬ事を考える。結局は露見して、人を幾層倍も強く驚愕させ、激怒させるばかりであるのに、どうしても、その興覚めの現実を言い出し得ず、もう一刻、もう一刻と自ら虚偽の地獄を深めている。もちろん新聞社などへ、はいるつもりもなかったし、また試験にパスするはずもなかった。完《かん》璧《ぺき》の瞞《まん》着《ちやく》の陣地も、今は破れかけた。死ぬ時が来た、と思った。私は、三月中旬、ひとりで鎌倉へ行った。昭和十年である。私は鎌倉の山で縊《い》死《し》を企てた。
やはり鎌倉の、海に飛び込んで騒ぎを起こしてから、五年目の事である。私は泳げるので、海で死ぬのは、むずかしかった。私は、かねて確実と聞いていた縊死を選んだ。けれども私は、再び、ぶざまな失敗をした。息を、吹き返したのである。私の首は、人並はずれて太いのかも知れない。首筋が赤く爛《ただ》れたままの姿で、私は、ぼんやり天沼の家に帰った。
自分の運命を自分で規定しようとして失敗した。ふらふら帰宅すると、見知らぬ不思議な世界が開かれていた。Hは、玄関で私の背筋をそっと撫《な》でた。他の人も皆、よかった、よかったと言って、私を、いたわってくれた。人生の優しさに私は呆《ぼう》然《ぜん》とした。長兄も、田舎から駈《か》けつけて来ていた。私は長兄に厳しく罵《ば》倒《とう》されたけれども、その兄が懐かしくて、慕わしくて、ならなかった。私は、生まれてはじめてと言っていいくらいの不思議な感情ばかりを味わった。
思いも設けなかった運命が、すぐ続いて展開した。それから数日後、私は劇烈な腹痛に襲われたのである。私は一昼夜眠らずに怺《こら》えた。湯たんぽで腹部を温めた。気が遠くなりかけて、医者を呼んだ。私は蒲団《ふとん》のままで寝台車に乗せられ、阿《あ》佐《さ》ケ《が》谷《や》の外科病院に運ばれた。すぐに手術された。盲腸炎である。医者に見せるのが遅かった上に、湯たんぽで温めたのが悪かった。腹《ふく》膜《まく》にまで膿《うみ》が流出していて、困難な手術になった。手術して二日目に、咽《の》喉《ど》から血塊がいくらでも出た。前からの胸部の病気が、急に表面にあらわれて来たのであった。私は、虫の息になった。医者にさえはっきり見放されたけれども、悪業の深い私は、少しずつ恢《かい》復《ふく》して来た。一か月たって腹部の傷口だけは癒《ゆ》着《ちやく》した。けれども私は伝染病患者として、世田谷《せたがや》区・経《きよう》堂《どう》の内科病院に移された。Hは、絶えず私の傍《そば》に付いていた。ベーゼしてもならぬと、お医者に言われました、と笑って私に教えた。その病院の院長は、長兄の友人であった。私は特別に大事にされた。広い病室を二つ借りて家財道具全部を持ち込み、病院に移住してしまった。五月、六月、七月、そろそろ藪《やぶ》蚊《か》が出て来て病室に白い蚊《か》帳《や》を吊《つ》りはじめたころ、私は院長の指図で、千葉県船《ふな》橋《ばし》町に転地した。海岸である。町はずれに、新築の家を借りて住んだ。転地保養の意味であったのだが、ここも、私のために悪かった。地獄の大動乱がはじまった。私は、阿佐ケ谷の外科病院にいた時から、いまわしい悪癖に馴《な》染《じ》んでいた。麻《ま》痺《ひ》剤の使用である。はじめは医者も私の患部の苦痛を鎮めるために、朝夕ガーゼの詰めかえの時にそれを使用したのであったが、やがて私は、その薬品に拠《よ》らなければ眠れなくなった。私は不眠の苦痛には極度にもろかった。私は毎夜、医者にたのんだ。ここの医者は、私のからだを見放していた。私の願いを、いつでも優しく聞き容《い》れてくれた。内科病院に移ってからも、私は院長に執《しつ》拗《よう》にたのんだ。院長は三度に一度くらいは渋々応じた。もはや、肉体のためではなくて、自分の慚《ざん》愧《き》、焦燥を消すために、医者に求めるようになっていたのである。私には侘《わ》びしさを怺《こら》える力がなかった。船橋に移ってからは町の医院に行き、自分の不眠と中毒症状を訴えて、その薬品を強要した。のちには、その気の弱い町医者に無理矢理、証明書を書かせて、町の薬屋から直接に薬品を購入した。気がつくと、私は陰惨な中毒患者になっていた。たちまち、金につまった。私は、その頃《ころ》、毎月九十円の生活費を、長兄から貰《もら》っていた。それ以上の臨時の入費については、長兄もさすがに拒否した。当然の事であった。私は、兄の愛情に報いようとする努力を何一つ、していない。身勝手に、命をいじくり廻《まわ》してばかりいる。そのとしの秋以来、時たま東京の街に現われる私の姿は、すでに薄《うす》穢《ぎたな》い半狂人であった。その時期の、さまざまの情けない自分の姿を、私は、みんな知っている。忘れられない。私は、日本一の陋《ろう》劣《れつ》な青年になっていた。十円、二十円の金を借りに、東京へ出て来るのである。雑誌社の編《へん》輯《しゆう》員《いん》の面前で、泣いてしまった事もある。あまりしつこくたのんで編輯員に呶《ど》鳴《な》られた事もある。その頃は、私の原稿も、少しは金になる可能性があったのである。私が阿佐ケ谷の病院や、経堂の病院に寝ている間に、友人たちの奔《ほん》走《そう》により、私の、あの紙袋の中の「遺書」は二つ三つ、いい雑誌に発表せられ、その反響として起こった罵《ば》倒《とう》の言葉も、また支持の言葉も、共に私には強烈すぎて狼《ろう》狽《ばい》、不安のために逆上して、薬品中毒は一層すすみ、あれこれ苦しさの余り、のこのこ雑誌社に出かけては編輯員または社長にまで面会を求めて、原稿料の前借をねだるのである。自分の苦悩に狂いすぎて、他の人もまた精一ぱいで生きているのだという当然の事実に気づかなかった。あの紙袋の中の作品も、一篇残さず売り払ってしまった。もう何も売るものが無い。すぐには作品も出来なかった。すでに材料が枯《こ》渇《かつ》して、何も書けなくなっていた。その頃の文壇は私を指さして、「才あって徳なし」と評していたが、私自身は、「徳の芽あれども才なし」であると信じていた。私にはいわゆる、文才というものはない。からだごと、ぶっつけて行くより、てを知らなかった。野暮天である。一宿一飯の恩義などという固苦しい道徳に悪くこだわって、やり切れなくなり、逆にやけくそに破《は》廉《れん》恥《ち》ばかりを働く類である。私は厳しい保守的な家に育った。借銭は、最悪の罪であった。借銭から、のがれようとして、更に大きい借銭を作った。あの薬品の中毒をも、借銭の慚《ざん》愧《き》を消すために、もっともっと、と自ら強くした。薬屋への支払いは、増大する一方である。私は白昼の銀《ぎん》座《ざ》をめそめそ泣きながら歩いた事もある。金が欲しかった。私は二十人ちかくの人から、まるで奪い取るように金を借りてしまった。死ねなかった。その借銭を、きれいに返してしまってから、死にたく思っていた。
私は、人から相手にされなくなった。船橋へ転地して一か年経って、昭和十一年の秋に私は自動車に乗せられ、東京、板《いた》橋《ばし》区のある病院に運び込まれた。一夜眠って、眼が覚めてみると、私は脳病院の一室にいた。
一か月そこで暮らして、秋晴れの日の午後、やっと退院を許された。私は、迎えに来ていたHと二人で自動車に乗った。
一か月振りで逢《あ》ったわけだが、二人とも、黙っていた。自動車が走り出して、しばらくしてからHが口を開いた。
「もう薬は、やめるんだね」怒っている口調であった。
「僕は、これから信じないんだ」私は病院で覚えて来た唯一の事を言った。
「そう」現実家のHは、私の言葉を何か金銭的な意味に解したらしく、深くうなずいて、「人は、あてになりませんよ」
「おまえの事も信じないんだよ」
Hは気まずそうな顔をした。
船橋の家は、私の入院中に廃止せられて、Hは杉並区・天沼三丁目のアパートの一室に住んでいた。私は、そこに落ちついた。二つの雑誌社から、原稿の注文が来ていた。すぐに、その退院の夜から、私は書きはじめた。二つの小説を書き上げ、その原稿料を持って、熱海《あたみ》に出かけ、一か月間、節度もなく酒を飲んだ。この後どうしていいか、わからなかった。長兄からは、もう三年間、月々の生活費をもらえる事になっていたが、入院前の山ほどの負債は、そのままに残っていた。熱海で、いい小説を書き、それで出来たお金でもって、目前の最も気がかりな負債だけでも返そうという計画も、私にはあったのであるが、小説を書くどころか、私は自分の周囲の荒涼に堪《た》えかねて、ただ、酒を飲んでばかりいた。つくづく自分を、駄目な男だと思った。熱海では、かえって私は、さらに借銭を、ふやしてしまった。何をしても、だめである。私は、完全に敗れた様子であった。
私は天沼のアパートに帰り、あらゆる望みを放棄した薄よごれた肉体を、ごろりと横たえた。私は、はや二十九歳であった。何も無かった。私には、どてら一枚。Hも、着たきりであった。もう、この辺が、どん底というものであろうと思った。長兄からの月々の仕送りに縋《すが》って、虫のように黙って暮らした。
けれども、まだまだ、それは、どん底ではなかった。そのとしの早春に、私はある洋画家から思いも設けなかった意外の相談を受けたのである。ごく親しい友人であった。私は話を聞いて、窒息しそうになった。Hがすでに哀しい間違いを、していたのである。あの、不吉な病院から出た時、自動車の中で、私の何でもない抽《ちゆう》象《しよう》的《てき》な放言に、ひどくどぎまぎしたHの様子がふっと思い出された。私はHに苦労をかけて来たが、けれども、生きてある限りはHと共に暮らして行くつもりでいたのだ。私の愛情の表現は拙《つたな》いから、Hも、また洋画家も、それに気がついてくれなかったのである。相談を受けても、私には、どうする事もできなかった。私は、誰にも傷をつけたくないと思った。三人の中では、私が一番の年長者であった。私だけでも落ちついて、りっぱな指図をしたいと思ったのだが、やはり私は、あまりの事に顛《てん》倒《とう》し、狼《ろう》狽《ばい》し、おろおろしてしまって、かえってHたちに軽《けい》蔑《べつ》されたくらいであった。何もできなかった。そのうちに洋画家は、だんだん逃げ腰になった。私は、苦しい中でも、Hを不《ふ》憫《びん》に思った。Hは、もう、死ぬるつもりでいるらしかった。どうにも、やり切れなくなった時に、私も死ぬ事を考える。二人で一緒に死のう。神さまだって、ゆるしてくれる。私たちは、仲の良い兄妹のように、旅に出た。水《みな》上《かみ》温泉。その夜、二人は山で自殺を行なった。Hを死なせては、ならぬと思った。私は、その事に努力した。Hは、生きた。私も見事に失敗した。薬品を用いたのである。
私たちは、とうとう別れた。Hをこの上ひきとめる勇気が私になかった。捨てたと言われてもよい。人道主義とやらの虚勢で、我慢を装ってみても、その後の日々の醜悪な地獄が明確に見えているような気がした。Hは、ひとりで田舎《いなか》の母親の許《もと》へ帰って行った。洋画家の消息は、わからなかった。私は、ひとりアパートに残って自炊の生活をはじめた。焼《しよう》酎《ちゆう》を飲む事を覚えた。歯がぼろぼろに欠けて来た。私は、いやしい顔になった。私は、アパートの近くの下宿に移った。最下等の下宿屋であった。私は、それが自分に、ふさわしいと思った。これが、この世の見おさめと、門《かど》辺《べ》に立てば月かげや、枯野は走り、松は佇《たたず》む。私は、下宿の四畳半で、ひとりで酒を飲み、酔っては下宿を出て、下宿の門柱に寄りかかり、そんなでたらめな歌を、小声で呟《つぶや》いている事が多かった。二、三の共に離れがたい親友の他には、誰《だれ》も私を相手にしなかった。私が世の中から、どんなに見られているのか、少しずつ私にも、わかって来た。私は無智驕《きよう》慢《まん》の無頼漢、または白痴、または下等狡《こう》猾《かつ》の好色漢、にせ天才の詐《さ》欺《ぎ》師、ぜいたく三《ざん》昧《まい》の暮らしをして、金につまると狂言自殺をして田舎の親たちを、おどかす。貞《てい》淑《しゆく》の妻を、犬か猫のように虐待して、とうとうこれを追い出した。その他、さまざまの伝説が嘲《ちよう》笑《しよう》、嫌《けん》悪《お》憤《ふん》怒《ぬ》をもって世人に語られ、私は全く葬り去られ、廃人の待遇を受けていたのである。私は、それに気がつき、下宿から一歩も外に出たくなくなった。酒の無い夜は、塩せんべいを齧《かじ》りながら探偵小説を読むのが、幽《かす》かに楽しかった。雑誌社からも新聞社からも、原稿の注文は何も無い。また何も書きたくなかった。書けなかった。けれども、あの病気中の借銭については、誰もそれを催促する人はなかったが、私は夜の夢の中でさえ苦しんだ。私は、もう三十歳になっていた。
何の転機で、そうなったろう。私は、生きなければならぬと思った。故郷の家の不幸が、私にその当然の力を与えたのか。長兄が代議士に当選して、その直後に選挙違反で起訴された。私は、長兄の厳しい人格を畏敬している。周囲に悪い者がいたのに違いない。姉が死んだ。甥《おい》が死んだ。従弟《いとこ》が死んだ。私は、それらを風聞によって知った。早くから、故郷の人たちとは、すべて音信不通になっていたのである。相続く故郷の不幸が、寝そべっている私の上半身を、少しずつ起こしてくれた。私は、故郷の家の大きさに、はにかんでいたのだ。金持の子というハンデキャップに、やけくそを起こしていたのだ。不当に恵まれているという、いやな恐怖感が、幼時から、私を卑屈にし、厭《えん》世《せい》的にしていた。金持の子供は金持の子供らしく大地獄に落ちなければならぬという信仰を持っていた。逃げるのは卑《ひ》怯《きよう》だ。りっぱに、悪業の子として死にたいと努めた。けれども、一夜、気がついてみると、私は金持の子供どころか、着て出る着物さえ無い賤《せん》民《みん》であった。故郷からの仕送りの金も、ことし一年で切れるはずだ。すでに戸籍は、分けられてある。しかも私の生まれて育った故郷の家も、いまは不仕合せの底にある。もはや、私には人に恐縮しなければならぬような生得の特権が、何も無い。かえって、マイナスだけである。その自覚と、もう一つ。下宿の一室に、死ぬる気《き》魄《はく》も失って寝ころんでいる間に、私のからだが不思議にめきめき頑健になって来たという事実をも、大いに重要な一因として挙げなければならぬ。なおまた、年齢、戦争、歴史観の動揺、怠《たい》惰《だ》への嫌悪、文学への謙虚、神は在る、などといろいろ挙げる事もできるであろうが、人の転機の説明は、どうも何だか空々しい。その説明が、ぎりぎりに正確を期したものであっても、それでも必ずどこかに嘘《うそ》の間《かん》隙《げき》が匂《にお》っているものだ。人は、いつも、こう考えたり、そう思ったりして行路を選んでいるものではないからでもあろう。多くの場合、人は、いつのまにか、ちがう野原を歩いている。
私は、その三十歳の初夏、はじめて本気に、文筆生活を志願した。思えば、晩《おそ》い志願であった。私は下宿の、何一つ道具らしい物の無い四畳半の部屋で、懸命に書いた。下宿の夕飯がお櫃《ひつ》に残れば、それでこっそり握りめしを作って置いて深夜の仕事の空腹に備えた。こんどは、遺書として書くのではなかった。生きて行くために、書いたのだ。一先輩は、私を励ましてくれた。世人がこぞって私を憎み嘲笑していても、その先輩作家だけは、始終かわらず私の人間をひそかに支持して下さった。私は、その貴い信頼にも報いなければならぬ。やがて、「姥《うば》捨《すて》」という作品が出来た。Hと水上温泉へ死にに行った時の事を、正直に書いた。これは、すぐに売れた。忘れずに、私の作品を待っていてくれた編《へん》輯《しゆう》者《しや》が一人あったのである。私はその原稿料を、むだに使わず、まず質屋から、よそ行きの着物を一まい受け出し、着飾って旅に出た。甲《こう》州《しゆう》の山である。さらに思いをあらたにして、長い小説にとりかかるつもりであった。甲州には、満一か年いた。長い小説は完成しなかったが、短篇は十以上、発表した。諸方から支持の声を聞いた。文壇をありがたい所だと思った。一生そこで暮らし得る者は、さいわいなる哉《かな》と思った。翌年、昭和十四年の正月に、私は、あの先輩のお世話で平凡な見合い結婚をした。いや、平凡ではなかった。私は無一文で婚礼の式を挙げたのである。甲《こう》府《ふ》市のまちはずれに、二部屋だけの小さい家を借りて、私たちは住んだ。その家の家賃は、一か月六円五十銭であった。私は創作集を、つづけて二冊出版した。わずかに余裕が出来た。私は気がかりの借銭を少しずつ整理したが、これはなかなかの事業であった。そのとしの初秋に東京市外、三《み》鷹《たか》町に移住した。もはや、ここは東京市ではない。私の東京市の生活は、荻窪の下宿から、かばん一つ持って甲州に出かけた時に、もう中断されてしまっていたのである。
私は、いまは一箇の原稿生活者である。旅に出ても宿帳には、こだわらず、文筆業と書いている。苦しさはあっても、めったに言わない。以前にまさる苦しさはあっても私は微笑を装っている。ばかどもは、私を俗化したと言っている。毎日、武蔵野《むさしの》の夕陽は、大きい。ぶるぶる煮えたぎって落ちている。私は、夕陽の見える三畳間にあぐらをかいて、侘《わ》びしい食事をしながら妻に言った。「僕は、こんな男だから出世もできないし、お金持にもならない。けれども、この家一つは何とかして守って行くつもりだ」その時に、ふと、東京八景を思いついたのである。過去が、走馬燈のように胸の中で廻《まわ》った。
ここは東京市外ではあるが、すぐ近くの井《い》の頭《かしら》公園も、東京名所の一つに数えられているのだから、この武蔵野の夕陽を東京八景の中に加入させたって、さしつかえない。あと七景を決定しようと、私は自分の、胸の中のアルバムを繰ってみた。しかしこの場合、芸術になるのは、東京の風景でなかった。風景の中の私であった。芸術が私を欺いたのか。私が芸術を欺《あざむ》いたのか。結論。芸術は、私である。
戸塚の梅雨。本郷の黄昏《たそがれ》。神田の祭礼。柏木の初雪。八丁堀の花火。芝の満月。天沼の蜩《ひぐらし》。銀座の稲妻。板橋脳病院のコスモス。荻窪の朝霧。武蔵野の夕陽。思い出の暗い花が、ぱらぱら躍《おど》って、整理は至難であった。また、無理にこさえた八景にまとめるのも、げびた事だと思った。そのうちに私は、この春と夏、更に二景を見つけてしまったのである。
ことし四月四日に私は小《こ》石《いし》川《かわ》の大先輩、Sさんを訪れた。Sさんには、私は五年前の病気の時に、ずいぶん御心配をおかけした。ついには、ひどく叱《しか》られ、破門のようになっていたのであるが、ことしの正月には御年始に行き、お詫《わ》びとお礼を申し上げた。それから、ずっとまた御無《ぶ》沙《さ》汰《た》して、その日は、親友の著書の出版記念会の発起人になってもらいに、あがったのである。御在宅であった。願いを聞きいれていただき、それから画のお話や、芥《あくた》川《がわ》龍《りゆう》之《の》介《すけ》の文学についてのお話などをうかがった。「僕は君には意地悪くして来たような気もするが、今になってみると、かえってそれが良い結果になったようで、僕は嬉《うれ》しいと思っているのだ」れいの重い口調で、そうも言われた。自動車で一緒に上野に出かけた。美術館で洋画の展覧会を見た。つまらない画が多かった。私は一枚の画の前で立ちどまった。やがてSさんも傍《そば》へ来られて、その画に、ずっと顔を近づけ、
「あまいね」と無心に言われた。
「だめです」私も、はっきり言った。
Hの、あの洋画家の画であった。
美術館を出て、それから茅《かや》場《ば》町《ちよう》で「美しき争い」という映画の試写を一緒に見せていただき、後に銀座へ出てお茶を飲み一日あそんだ。夕方になって、Sさんは新《しん》橋《ばし》駅からバスで帰ると言われるので、私も新橋駅まで一緒に歩いた。途中で私は、東京八景の計画をSさんにお聞かせした。
「さすがに、武蔵野の夕陽は大きいですよ」
Sさんは新橋駅前の橋の上で立ちどまり、
「画になるね」と低い声で入って、銀座の橋のほうを指さした。
「はあ」私も立ちどまって、眺《なが》めた。
「画になるね」重ねて、ひとりごとのようにして、おっしゃった。
眺められている風景よりも、眺めているSさんと、その破門の悪い弟子の姿を、私は東京八景の一つに編入しようと思った。
それから、ふたつきほど経って私は、更に明るい一景を得た。某日、妻の妹から、「いよいよTが明日出発する事になりました。芝公園で、ちょっと面会できるそうです。明朝九時に芝公園へ来て下さい。兄上からTへ、私の気持を、うまく伝えてやって下さい。私は、ばかですから、Tには何も言ってないのです」という速達が来たのである。妹は二十二歳であるが、柄が小さいから子供のように見える。昨年、T君と見合いをして婚約したけれども、結納の直後にT君は応召になって東京のある連隊にはいった。私も、いちど軍服のT君と逢《あ》って三十分ほど話をした事がある。はきはきした、上品な青年であった。明日いよいよ戦地へ出発する事になった様子である。その速達が来てから、二時間も経たぬうちに、また妹から速達が来た。それには、「よく考えてみましたら、先刻のお願いは、蓮葉《》はすっぱな事だと気がつきました。Tには何もおっしゃらなくてもいいのです。ただ、お見送りだけ、して下さい」と書いてあったので私も、妻も噴《ふ》き出した。ひとりで、てんてこ舞いしている様が、よくわかるのである。妹は、その二、三日前から、T君の両親の家に手伝いに行っていたのである。
翌朝、私たちは早く起きて芝公園に出かけた。増《ぞう》上《じよう》寺《じ》の境内に、大勢の見送り人が集まっていた。カーキ色の団服を着ていそがしげに群集を掻《か》きわけて歩き廻《まわ》っている老人を、つかまえて尋ねると、T君の部隊は、山門の前にちょっと立ち寄り、五分間休憩して、すぐにまた出発、という答えであった。私たちは境内から出て、山門の前に立ち、T君の部隊の到着を待った。やがて妹も小さい旗を持って、T君の両親と一緒にやって来た。私は、T君の両親とは初対面である。まだはっきり親《しん》戚《せき》になったわけでもなし、社交下手の私は、ろくに挨《あい》拶《さつ》もしなかった。軽く目礼しただけで、
「どうだ。落ちついているか?」と妹のほうに話しかけた。
「なんでもないさ」妹は、陽気に笑って見せた。
「どうして、こうなんでしょう」妻は顔をしかめた。「そんなに、げらげら笑って」
T君の見送り人は、ひどく多かった。T君の名前を書き記した大きい幟《のぼり》が、六本も山門の前に立ちならんだ。T君の家の工場で働いている職工さん、女工さんたちも、工場を休んで見送りに来た。私は皆から離れて、山門の端のほうに立った。ひがんでいたのである。T君の家は、金持だ。私は、歯も欠けて、服装もだらしない。袴《はかま》もはいていなければ、帽子さえかぶっていない。貧乏文士だ。息子の許嫁《いいなずけ》の薄《うす》穢《ぎたな》い身内が来た、とT君の両親たちは思っているにちがいない。妹が私のほうに話しに来ても、「おまえは、きょうは大事な役なのだから、お父さんの傍《そば》に付いていなさい」と言って追いやった。T君の部隊は、なかなか来なかった。十時、十一時、十二時になっても来なかった。女学校の修学旅行の団体が遊覧バスに乗って、幾組も目の前を通る。バスの扉に、その女学校の名前を書いた紙片が貼《は》りつけられてある。故郷の女学校の名もあった。長兄の長女も、その女学校にはいっているはずである。乗っているのかも知れない。この東京名所の増上寺山門の前に、ばかな叔父が、のっそり立っているさまを、叔父とも知らず無心に眺《なが》めて通ったのかも知れない等と思った。二十台ほど、絶えては続き山門の前を通り、バスの女車掌がそのたびごとに、ちょうど私を指さして何か説明をはじめるのである。はじめは平気を装っていたが、おしまいには、私もポーズをつけてみたりなどした。バルザック像のようにゆったりと腕組みした。すると、私自身が、東京名所の一つになってしまったような気さえして来たのである。一時ちかくなって、来た、来たという叫びが起こって、間もなく兵隊を満載したトラックが山門前に到着した。T君は、ダットサン運転の技術を体得していたので、そのトラックの運転台に乗っていた。私は、人ごみのうしろから、ぼんやり眺めていた。
「兄さん」いつの間にか私の傍に来ていた妹が、そう小声で言って、私の背中を強く押した。気を取り直して、見ると、運転台から降りたT君は、群集の一ばんうしろに立っている私を、いち早く見つけた様子で挙手の礼をしているのである。私は、それでも一瞬疑って、あたりを見《み》廻《まわ》し躊《ちゆう》躇《ちよ》したが、やはり私に礼をしているのに違いなかった。私は決意して群集を掻《か》きわけ、妹と一緒にT君の面前まで進んだ。
「あとの事は心配ないんだ。妹は、こんなばかですが、でも女の一ばん大事な心掛けは知っているはずなんだ。少しも心配ないんだ。私たち皆で引き受けます」私は、珍らしく、ちっとも笑わずに言った。妹の顔を見ると、これもやや仰向きになって緊張している。T君は、少し顔を赤らめ、黙ってまた挙手の礼をした。
「あと、おまえから言うこと無いか?」こんどは私も笑って、妹に尋ねた。妹は、
「もう、いい」と顔を伏せて言った。
すぐ出発の号令が下った。私は再び人ごみの中にこそこそ隠れて行ったが、やはり妹に背中を押されて、こんどは運転台の下まで進出してしまった。その辺には、T君の両親が立っているだけである。
「安心して行って来給え」私は大きい声で言った。T君の厳父は、ふと振り返って私の顔を見た。ばかに出しゃばる、こいつは何者という不《ふ》機《き》嫌《げん》の色が、その厳父の眼つきに、ちらと見えた。けれども私は、その時は、たじろがなかった。人間のプライドの窮《きゆう》極《きよく》の立脚点は、あれにも、これにも死ぬほど苦しんだ事があります、と言い切れる自覚ではないか。私は丙種合格で、しかも貧乏だが、いまは遠慮する事はない。東京名所は、更に大きい声で、
「あとは、心配ないぞ!」と叫んだ。これからT君と妹との結婚の事で、万一むずかしい場合が惹起《じやつき》したところで、私は世間体などに構わぬ無法者だ、必ず二人の最後の力になってやれると思った。
増上寺山門の一景を得て、私は自分の作品の構想も、いまや十分に弓を、満月のごとくきりりと引きしぼったような気がした。それから数日後、東京市の大地図と、ペン、インク、原稿用紙を持って、いさんで伊豆に旅立った。伊豆の温泉宿に到着してからは、どんな事になったか。旅立ってから、もう十日も経つけれど、まだ、あの温泉宿にいるようである。何をしている事やら。
走《はし》れメロス
太《だ》宰《ざい》 治《おさむ》
-------------------------------------------------------------------------------
平成12年10月13日 発行
発行者  角川歴彦
発行所  株式会社 角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
shoseki@kadokawa.co.jp
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました。
角川文庫『走れメロス』昭和45年12月10日改版初版刊行