TITLE : 晩年
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目 次
思い出
魚服記
列 車
地球図
猿が島
雀 こ
道化の華
猿面冠者
逆 行
彼は昔の彼ならず
ロマネスク
玩 具
陰 火
めくら草紙
注 釈
撰ばれてあることの
恍惚と不安と
二つわれにあり
ヴェルレエヌ
死のうと思っていた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。着物の布地は麻であった。鼠色のこまかい縞《しま》目《め》が織りこめられていた。これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った。
ノラもまた考えた。廊下へ出てうしろの扉をばたんとしめたときに考えた。帰ろうかしら。
私がわるいことをしないで帰ったら、妻は笑顔をもって迎えた。
その日その日を引きずられて暮しているだけであった。下宿屋で、たった独《ひと》りして酒を飲み、独りで酔い、そうしてこそこそ蒲《ふ》団《とん》を延べて寝る夜はことにつらかった。夢をさえ見なかった。疲れ切っていた。何をするにも物憂かった。「汲み取り便所はいかに改善すべきか?」という書物を買って来て本気に研究したこともあった。彼はその当時、従来の人糞の処置にはかなりまいっていた。
新宿の歩道の上で、こぶしほどの石塊《いしころ》がのろのろ這《はし》って歩いているのを見たのだ。石が這って歩いているな。ただそう思うていた。しかし、その石塊は彼のまえを歩いている薄汚い子供が、糸で結んで引《ひき》摺《ず》っているのだということがすぐに判《わか》った。
子供に欺かれたのが淋しいのではない。そんな天変地異をも平気で受け入れ得た彼自身の自棄《やけ》が淋しかったのだ。
そんなら自分は、一生涯こんな憂鬱と戦い、そうして死んで行くということになるんだな、と思えばおのが身がいじらしくもあった。青い稲田が一時にぽっと霞《かす》んだ。泣いたのだ。彼は狼狽《うろた》えだした。こんな安価な殉情的な事柄に涕《なみだ》を流したのが少し恥かしかったのだ。
電車から降りるとき兄は笑うた。
「莫《ば》迦《か》にしょげてるな。おい、元気を出せよ」
そうして竜の小さな肩を扇子でポンと叩《たた》いた。夕闇のなかでその扇子が恐ろしいほど白っぽかった。竜は頬のあからむほど嬉しくなった。兄に肩をたたいて貰ったのが有《あり》難《がた》かったのだ。いつもせめて、これぐらいにでも打ち解けて呉《く》れるといいが、と果《は》敢《か》なくも願うのだった。
訪ねる人は不在であった。
兄はこう言った。「小説を、くだらないとは思わぬ。おれには、ただ少しまだるっこいだけである。たった一行の真実を言いたいばかりに百ペエジの雰《ふん》囲《い》気《き》をこしらえている」私は言い憎そうに、考え考えしながら答えた。「ほんとうに、言葉は短いほどよい。それだけで、信じさせることができるならば」
また兄は、自殺をいい気なものとして嫌《きら》った。けれども私は、自殺を処世術みたいな打算的なものとして考えていた矢先であったから、兄のこの言葉を意外に感じた。
白状し給え。え? 誰の真似なの?
水《みず》到《いた》りて渠《きよ》成《な》る。
彼は十九歳の冬、「哀《あわれ》蚊《が》」という短篇を書いた。それは、よい作品であった。同時に、それは彼の生涯の渾《こん》沌《とん》を解くだいじな鍵となった。形式には、「雛」の影響が認められた。けれども心は、彼のものであった。原文のまま。
おかしな幽霊を見たことがございます。あれは、私が小学校にあがって間もなくのことでございますから、どうで幻燈のようにとろんと霞んでいるに違いございませぬ。いいえ、でも、その青《あお》蚊《が》帳《や》に写した幻燈のような、ぼやけた思い出が奇妙にも私には年一年といよいよはっきりして参るような気がするのでございます。
なんでも姉様がお婿《むこ》をとって、あ、ちょうどその晩のことでございます。御《ご》祝《しゆう》言《げん》の晩のことでございました。芸者衆がたくさん私の家に来て居りまして、ひとりのお綺麗な半玉さんに紋附の綻《ほころ》びを縫って貰ったりしましたのを覚えて居りますし、父様が離座敷《はなれ》の真暗な廊下で背のお高い芸者衆とお相撲をお取りになっていらっしゃったのもあの晩のことでございました。父様はその翌年お歿《な》くなりになられ、今では私の家の客間の壁の大きな御写真のなかに、おはいりになって居られるのでございますが、私はこの御写真を見るたびごとに、あの晩のお相撲のことを必ず思い出すのでございます。私の父様は、弱い人をいじめるようなことは決してなさらないお方でございましたから、あのお相撲も、きっと芸者衆が何かひどくいけないことをなしたので父様はそれをお懲《こら》しめになっていらっしゃったのでございましょう。
それやこれやと思い合せて見ますと、確かにあれは御祝言の晩に違いございませぬ。ほんとうに申し訳がございませぬけれど、なにもかも、まるで、青蚊帳の幻燈のような、そのような有様でございますから、どうで御満足の行かれますようお話ができかねるのでございます。てもなく夢物語、いいえ、でも、あの晩に哀蚊の話を聞かせて下さったときの婆様の御めめと、それから、幽霊、とだけは、あれだけは、どなたがなんと仰言《おつしや》ったとて決して決して夢ではございませぬ。夢だなぞとおろかなこと、もうこれ、こんなにまざまざ眼先に浮かんで参ったではございませんか。あの婆様の御めめと、それから。
さようでございます。私の婆様ほどお美しい婆様もそんなにあるものではございませぬ。昨年の夏お歿くなりになられましたけれど、その御死顔と言ったら、すごいほど美しいとはあれでございましょう。白《はく》蝋《ろう》の御両頬には、あの、夏木立の影も映らんばかりでございました。そんなにお美しくていらっしゃるのに、縁遠くて、一生鉄漿《かね*》をお附けせずにお暮しなさったのでございます。
「わしという万年白歯を餌《え》にして、この百万の身代ができたのじゃぞえ」
富本《*》でこなれた渋い声で御生前よくこう言い言いして居られましたから、いずれこれには面白い因縁でもあるのでございましょう。どんな因縁なのだろうなどと野《や》暮《ぼ》なお探りはお止しなさいませ。婆様がお泣きなさるでございましょう。と申しますのは、私の婆様は、それはそれは粋《いき》なお方で、ついに一度も縮《ちり》緬《めん》の縫《ぬい》紋《もん》の御羽織をお離しになったことがございませんでした。お師匠をお部屋へお呼びなされて富本のお稽古をお始めになられたのも、よほど昔からのことでございましたでしょう。私なぞも物心地が附いてからは、日がな一日、婆様の老《おい》松《まつ》やら浅《あさ》間《ま》やらの咽《むせ》び泣くような哀調のなかにうっとりしているときがままございましたほどで、世間様から隠居芸者とはやされ、婆様御自身もそれをお耳にしては美しくお笑いになって居られたようでございました。いかなることか、私は幼いときからこの婆様が大好きで、乳《う》母《ば》から離れるとすぐ婆様の御懐に飛び込んでしまったのでございます。もっとも私の母様は御病身でございましたゆえ、子供にはあまり構うて呉れなかったのでございます。父様も母様も婆様のほんとうの御子ではございませぬから、婆様はあまり母様のほうへお遊びに参りませず四六時中、離座敷のお部屋にばかりいらっしゃいますので、私も婆様のお傍にくっついて三日も四日も母様のお顔を見ないことは珍しうございませんでした。それゆえ婆様も、私の姉様なぞよりずっと私のほうを可愛がって下さいまして、毎晩のように草双紙を読んで聞かせて下さったものでございます。なかにも、あれあの八百屋お七の物語を聞いたときの感激は私は今でもしみじみ味わうことができるのでございます。そしてまた、婆様がおたわむれに私を「吉三」「吉三」とお呼びになって下さった折りのその嬉しさ。らんぷの黄色い燈火《ともしび》の下でしょんぼり草双紙をお読みになっていらっしゃる婆様のお美しい御姿、さよう、私はことごとくよく覚えているのでございます。
とりわけあの晩の哀蚊の御寝物語は、不思議と私には忘れることができないのでございます。そう言えばあれは確かに秋でございました。
「秋まで生き残されている蚊を哀蚊と言うのじゃ。蚊《か》燻《いぶ》しは焚《た》かぬもの。不《ふ》憫《びん》のゆえにな」
ああ、一言一句そのまんま私は記憶して居ります。婆様は寝ながら滅《め》入《い》るような口調でそう語られ、そうそう、婆様は私を抱いてお寝になられるときには、きまって私の両足を婆様のお脚のあいだに挟んで、温めて下さったものでございます。ある寒い晩なぞ、婆様は私の寝巻をみんなお剥《は》ぎとりになっておしまいになり、婆様御自身も輝くほどお綺麗な御素肌をおむきだし下さって、私を抱いてお寝になりお温めなされてくれたこともございました。それほど婆様は私を大切にしていらっしゃったのでございます。
「なんの。哀蚊はわしじゃがな。はかない……」
仰言《おつしや》りながら私の顔をつくづくと見まもりましたけれど、あんなにお美しい御めめもないものでございます。母《おも》屋《や》の御祝言の騒ぎも、もうひっそり静かになっていたようでございましたし、なんでも真夜中ちかくでございましたでしょう。秋風がさらさらと雨戸を撫《な》でて、軒の風鈴がそのたびごとに弱々しく鳴って居りましたのも幽《かす》かに思いだすことができるのでございます。ええ、幽霊を見たのはその夜のことでございます。ふっと眼をさましまして、おしっこ、と私は申しましたのでございます。婆様の御返事がございませんでしたので、寝ぼけながらあたりを見廻しましたけれど、婆様はいらっしゃらなかったのでございます。心細く感じながらも、ひとりでそっと床から脱け出しまして、てらてら黒光りのする欅《けやき》普《ぶ》請《しん》の長い廊下をこわごわお厠《かわや》のほうへ、足の裏だけは、いやに冷や冷やして居りましたけれど、なにさま眠くって、まるで深い霧のなかをゆらりゆらり泳いでいるような気持ち、そのときです。幽霊を見たのでございます。長い長い廊下の片隅に、白くしょんぼり蹲《うず》くまって、かなり遠くから見たのでございますから、ふいるむのように小さく、けれども確かに、確かに、姉様と今晩の御婿様とがお寝になって居られるお部屋を覗いているのでございます。幽霊、いいえ、夢ではございませぬ。
芸術の美は所《しよ》詮《せん》、市民への奉仕の美である。
花きちがいの大工がいる。邪魔だ。
それから、まち子は眼を伏せてこんなことを囁《ささや》いた。
「あの花の名を知っている? 指をふれればぱちんとわれて、きたない汁をはじきだし、みるみる指を腐らせる、あの花の名が判ったらねえ」
僕はせせら笑い、ズボンのポケットへ両手をつっ込んでから答えた。
「こんな樹の名を知っている? その葉は散るまで青いのだ。葉の裏だけがじりじり枯れて虫に食われているのだが、それをこっそりかくして置いて、散るまで青いふりをする。あの樹の名さえ判ったらねえ」
「死ぬ? 死ぬのか君は?」
ほんとうに死ぬかも知れないと小早川は思った。去年の秋だったかしら、なんでも青井の家に小作争議が起ったりしていろいろのごたごたが青井の一身上に振りかかったらしいけれど、そのときも彼は薬品の自殺を企て三日も昏睡し続けたことさえあったのだ。またついせんだっても、僕がこんなに放蕩をやめないのもつまりは僕の身体がまだ放蕩に堪え得るからであろう。去勢されたような男にでもなれば僕は初めて一切の感覚的快楽をさけて、闘争への財政的扶助に専心できるのだ、と考えて、三日ばかり続けてP市の病院に通い、その伝染病舎の傍の泥溝の水を掬《すく》って飲んだものだそうだ。けれどもちょっと下痢をしただけで失敗さ、とそのことを後で青井が頬あからめて話すのを聞き、小早川は、そのインテリ臭い遊戯をこのうえなく不愉快に感じたが、しかし、それほどまでに思いつめた青井の心が、少なからず彼の胸を打ったのも事実であった。
「死ねば一番いいのだ。いや、僕だけじゃない。少なくとも社会の進歩にマイナスの働きをなしている奴等は全部、死ねばいいのだ。それとも君、マイナスの者でもなんでも人はすべて死んではならぬという科学的な何か理由があるのかね」
「ば、ばかな」
小早川には青井の言うことが急にばからしくなって来た。
「笑ってはいけない。だって君、そうじゃないか。祖先を祭るために生きていなければならないとか、人類の文化を完成させなければならないとか、そんなたいへんな倫理的な義務としてしか僕たちは今まで教えられていないのだ。なんの科学的な説明も与えられていないのだ。そんなら僕たちマイナスの人間は皆、死んだほうがいいのだ。死ぬとゼロだよ」
「馬鹿! 何を言っていやがる。どだい、君、虫が好すぎるぞ。それはなるほど、君も僕もぜんぜん生産にあずかっていない人間だ。それだからとて、決してマイナスの生活はしていないと思うのだ。君はいったい、無産階級の解放を望んでいるのか。無産階級の大勝利を信じているのか。程度の差はあるけれども、僕たちはブルジョアジイに寄生している。それは確かだ。だがそれはブルジョアジイを支持しているのとはぜんぜん意味が違うのだ。一のプロレタリアアトへの貢献と、九のブルジョアジイヘの貢献と君は言ったが、何を指してブルジョアジイへの貢献と言うのだろう。わざわざ資本家の懐を肥してやる点では、僕たちだってプロレタリアアトだって同じことなのだ。資本主義的経済社会に住んでいることが裏切りなら、闘士にはどんな仙人が成るのだ。そんな言葉こそウルトラ《*》というものだ。小 児 病《キンデルクランクハイト》というものだ。一のプロレタリアアトへの貢献、それで沢山。その一が尊いのだ。その一だけの為に僕たちは頑張って生きていなければならないのだ。そうしてそれが立派にプラスの生活だ。死ぬなんて馬鹿だ。死ぬなんて馬鹿だ」
生れてはじめて算術の教科書を手にした。小型の、まっくろい表紙。ああ、なかの数字の羅列がどんなに美しく眼にしみたことか。少年は、しばらくそれをいじくっていたが、やがて、巻末のペエジにすべての解答が記されているのを発見した。少年は眉をひそめて呟《つぶや》いたのである。
「無礼だなあ」
外はみぞれ、何を笑うやレニン像。
叔母の言う。
「お前はきりょうがわるいから、愛《あい》嬌《きよう》だけでもよくなさい。お前はからだが弱いから、心だけでもよくなさい。お前は嘘がうまいから、行いだけでもよくなさい」
知っていながらその告白を強いる。なんといういんけんな刑罰であろう。
満月の宵。光っては崩れ、うねっては崩れ、逆《さか》巻《ま》き、のた打つ浪のなかで互いに離れまいとつないだ手を苦しまぎれに俺が故意と振り切ったとき女はたちまち浪に呑まれて、たかく名を呼んだ。俺の名ではなかった。
われは山賊。うぬが誇をかすめとらん。
「よもやそんなことはあるまい、あるまいけれど、な、わしの銅像をたてるとき、右の足を半分だけ前へだし、ゆったりとそりみにして、左の手はチョッキの中へ、右の手は書き損じの原稿をにぎりつぶし、そうして首をつけぬこと。いやいや、なんの意味もない。雀の糞を鼻のあたまに浴びるなど、わしはいやなのだ。そうして台石には、こう刻んでおくれ。ここに男がいる。生れて、死んだ。一生を、書き損じの原稿を破ることに使った」
メフィストフェレスは雪のように降りしきる薔《ば》薇《ら》の花《か》瓣《べん》に胸を頬を掌を焼きこがされて往生したと書かれてある。
留置場で五、六日を過ごして、ある日の真昼、俺はその留置場の窓から背のびして外を覗《のぞ》くと、中庭は小春の日ざしを一杯に受けて、窓ちかくの三本の梨《なし》の木はいずれもほつほつと花をひらき、そのしたで巡査が二、三十人して教練をやらされていた。わかい巡査部長の号令に従って、皆はいっせいに腰から捕縄を出したり、呼笛を吹きならしたりするのであった。俺はその風景を眺め、巡査ひとりひとりの家について考えた。
私たちは山の温泉場であてのない祝言をした。母はしじゅうくつくつと笑っていた。宿の女中の髪のかたちが奇妙であるから笑うのだと母は弁明した。嬉しかったのであろう。無学の母は、私たちを炉ばたに呼びよせ、教訓した。お前は十六魂《たまし》だから、と言いかけて、自信を失ったのであろう、もっと無学の花嫁の顔を覗き、のう、そうでせんか、と同意を求めた。母の言葉は、あたっていたのに。
妻の教育に、まる三年を費やした。教育、成ったころより、彼は死のうと思いはじめた。
病む妻や、とどこおる雲 鬼すすき。
赤《あが》ぇ赤ぇ煙こぁ、もくらもくらと蛇《じや》体《だえ》みたいに天さのぼっての、ふくれた、ゆららと流れた、のっそらと大浪うった、ぐるっぐるっと渦まえた、間もなくし、火《し》の手ぁ、ののののと荒けなくなり、地ひびきたてたて山ばのぼり始めたじぉん。山ぁ、てっぺらまで、まんどろに明《あが》るくなったじぉん。どうどうと燃えあがる千本万本の冬木立ば縫い、人《ふと》を乗せたまっくろい馬こぁ、風みたいに馳せていたじぉん。(ふるさとの言葉で)
たった一言知らせて呉れ! “Nevermore”
空の蒼く晴れた日ならば、ねこはどこからかやって来て、庭の山茶花《さざんか》のしたで居眠りしている。洋画をかいている友人は、ペルシャでないか、と私に聞いた。私は、すてねこだろう、と答えて置いた。ねこは誰にもなつかなかった。ある日、私が朝食の鰯《いわし》を焼いていたら、庭のねこがものうげに泣いた。私も縁側へでて、にゃあ、と言った。ねこは起きあがり、静かに私のほうへ歩いて来た。私は鰯を一尾なげてやった。ねこは逃げ腰をつかいながらもたべたのだ。私の胸は浪うった。わが恋は容れられたり。ねこの白い毛を撫でたく思い、庭へおりた。背中の毛にふれるや、ねこは、私の小指の腹を骨までかりりと噛《か》み裂いた。
役者になりたい。
むかしの日本橋は、長さが三十七間四尺五寸あったのであるが、いまは二十七間しかない。それだけ川幅がせまくなったものと思わねばいけない。このように昔は、川と言わず人間と言わず、いまよりはるかに大きかったのである。
この橋は、おおむかしの慶長七年に初めて架けられて、そののち十たびばかり作り変えられ、今のは明治四十四年に落成したものである。大正十二年の震災のときは、橋のらんかんに飾られてある青銅の竜の翼が、焔に包まれてまっかに焼けた。
私の幼時に愛した木版の東海道五十三次道中双《すご》六《ろく》では、ここが振りだしになっていて、幾人ものやっこのそれぞれ長い槍《やり》を持ってこの橋のうえを歩いている画が、のどかにかかれてあった。もとはこんなぐあいに繁華であったのであろうが、いまは、たいへんさびれてしまった。魚河岸《うおがし》が築《つき》地《じ》へうつってからは、いっそう名前もすたれて、げんざいは、たいていの東京名所絵葉書から取り除かれている。
ことし、十二月下旬のある霧のふかい夜に、この橋のたもとで異人の女の子がたくさんの乞食の群からひとり離れて佇《たたず》んでいた。花を売っていたのはこの女の子である。
三日ほどまえから、黄昏《たそがれ》どきになると一束の花を持ってここへ電車でやって来て、東京市の丸い紋章にじゃれついている青銅の唐《から》獅《じ》子《し》の下で、三、四時間ぐらい黙って立っているのである。
日本のひとは、おちぶれた異人を見ると、きっと白系のロシヤ人にきめてしまう憎い習性を持っている。いま、この濃霧のなかで手袋のやぶれを気にしながら花束を持って立っている小さい子供を見ても、おおかたの日本のひとは、ああロシヤがいる、と楽な気持ちで呟《つぶや》くにちがいない。しかも、チェホフを読んだことのある青年ならば、父は退職の陸軍二等大尉、母は傲《ごう》慢《まん》な貴族、とうっとりと独断しながら、すこし歩をゆるめるであろう。また、ドストエーフスキイを覗きはじめた学生ならば、おや、ネルリ《*》! と声を出して叫んで、あわてて外《がい》套《とう》の襟を掻《か》きたてるかも知れない。けれども、それだけのことであって、そのうえ女の子に就いてのふかい探索をして見ようとは思わない。
しかし、誰かひとりが考える。なぜ、日本橋をえらぶのか。こんな、人通りのすくないほの暗い橋のうえで、花を売ろうなどというのは、よくないことなのに、――なぜ?
その不審には、簡単ではあるがすこぶるロマンチックな解答を与え得るのである。それは、彼女の親たちの日本橋に対する幻影に由来している。ニホンでいちばんにぎやかな良い橋はニホンバシにちがいない、という彼らのおだやかな判断にほかならぬ。
女の子の日本橋でのあきないは非常に少なかった。第一日目には、赤い花が一本売れた。お客は踊子である。踊子は、ゆるく開きかけている赤い蕾《つぼみ》を選んだ。
「咲くだろうね」
と、乱暴な聞きかたをした。
女の子は、はっきり答えた。
「咲キマス」
二日目には、酔いどれの若い紳士が、一本買った。このお客は酔っていながら、うれい顔をしていた。
「どれでもいい」
女の子は、きのうの売れのこりのその花束から、白い蕾をえらんでやったのである。紳士は盗むように、こっそり受け取った。
あきないはそれだけであった。三日目は、すなわちきょうである。つめたい霧のなかに永いこと立ちつづけていたが、誰もふりむいて呉れなかった。
橋のむこう側にいる男の乞食が、松葉杖つきながら、電車みちをこえてこっちへ来た。女の子に縄張りのことで言いがかりをつけたのだった。女の子は三度もお辞儀をした。松葉杖の乞食は、まっくろい口髭を噛みしめながら思案したのである。
「きょう切りだぞ」
とひくく言って、また霧のなかへ吸いこまれていった。
女の子は、間もなく帰り仕《じ》度《たく》をはじめた。花束をゆすぶって見た。花屋から屑花を払いさげてもらって、こうして売りに出てから、もう三日も経っているのであるから、花はいい加減にしおれていた。重そうにうなだれた花が、ゆすぶられるたびごとに、みんなあたまを顫《ふる》わせた。
それをそっと小わきにかかえ、ちかくの支《し》那《な》蕎《そ》麦《ば》の屋台へ、寒そうに肩をすぼめながらはいって行った。
三晩つづけてここで雲《わん》呑《たん》を食べるのである。そこのあるじは、支那のひとであって、女の子を一人並の客として取り扱った。彼女にはそれが嬉しかったのである。
あるじは、雲呑の皮を巻きながら尋ねた。
「売レマシタカ」
眼をまるくして答えた。
「イイエ。……カエリマス」
この言葉が、あるじの胸を打った。帰国するのだ、きっとそうだ、と美しく禿げた頭を二、三度かるく振った。自分のふるさとを思いつつ釜から雲呑の実を掬っていた。
「コレ、チガイマス」
あるじから受け取った雲呑の黄色い鉢を覗いて、女の子が当惑そうに呟いた。
「カマイマセン。チャシュウワンタン。ワタシノゴチソウデス」
あるじは固くなって言った。
雲呑は十銭であるが、叉《ちや》焼《しゆ》雲《わん》呑《たん》は二十銭なのである。
女の子はしばらくもじもじしていたが、やがて、雲呑の小鉢を下へ置き、肘《ひじ》のなかの花束からおおきい蕾のついた草花を一本引き抜いて、差しだした。くれてやるというのである。
彼女がその屋台を出て、電車の停留場へ行く途中、しなびかかった悪い花を三人のひとに手渡したことをちくちく後悔しだした。突然、道ばたにしゃがみ込んだ。胸に十字を切って、わけの判らぬ言葉でもって烈しいお祈りをはじめたのである。
おしまいに日本語を二言囁いた。
「咲クヨウニ。咲クヨウニ」
安楽なくらしをしているときは、絶望の詩を作り、ひしがれたくらしをしているときは、生のよろこびを書きつづる。
春ちかきや?
どうせ死ぬのだ。ねむるようなよいロマンスを一篇だけ書いてみたい。男がそう祈願しはじめたのは、彼の生涯のうちでおそらくは一番うっとうしい時期においてであった。男は、あれこれと思いをめぐらし、ついにギリシャの女詩人、サフォ《*》に黄金の矢を放った。あわれ、そのかぐわしき才色を今に語り継がれているサフォこそ、この男のもやもやした胸をときめかす唯一の女性であったのである。
男は、サフォに就いての一、二冊の書物をひらき、つぎのようなことがらを知らされた。
けれどもサフォは美人でなかった。色が黒く歯が出ていた。ファオンと呼ぶ美しい青年に死ぬほど惚れた。ファオンには、詩が判らなかった。恋の身投げをするならば、よし死にきれずとも、そのこがれた胸のおもいが消えうせるという迷信を信じ、リュウカディアの岬から怒涛めがけて身をおどらせた。
生活。
よい仕事をしたあとで
一杯のお茶をすする
お茶のあぶくに
きれいな私の顔が
いくつもいくつも
うつっているのさ
どうにか、なる。
思い出
一 章
黄昏《たそがれ》のころ私は叔母と並んで門口に立っていた。叔母は誰かをおんぶしているらしく、ねんねこを着て居た。その時の、ほのぐらい街路の静けさを私は忘れずにいる。叔母は、てんしさまがお隠れになったのだ、と私に教えて、生《い》き神《がみ》様《さま》、と言い添えた。いきがみさま、と私も興深げに呟いたような気がする。それから、私は何か不敬なことを言ったらしい。叔母は、そんなことを言うものではない、お隠れになったと言え、と私をたしなめた。どこへお隠れになったのだろう、と私は知っていながら、わざとそう尋ねて叔母を笑わせたのを思い出す。
私は明治四十二年の夏の生れであるから、この大帝崩《ほう》御《ぎよ》のときは数えどしの四つをすこし越えていた。多分おなじ頃の事であったろうと思うが、私は叔母とふたりで私の村から二里ほどはなれたある村の親類の家へ行き、そこで見た滝を忘れない。滝は村にちかい山の中にあった。青々と苔《こけ》の生えた崖から幅の広い滝がしろく落ちていた。知らない男の人の肩車に乗って私はそれを眺めた。何かの社《やしろ》が傍にあって、その男の人が私にそこのさまざまな絵《え》馬《ま》を見せたが、私は段々とさびしくなって、がちゃ、がちゃ、と泣いた。私は叔母をがちゃと呼んでいたのである。叔母は親類のひとたちと遠くの窪地に毛《もう》氈《せん》を敷いて騒いでいたが、私の泣き声を聞いて、いそいで立ち上がった。そのとき毛氈が足にひっかかったらしく、お辞儀でもするようにからだを深くよろめかした。他のひとたちはそれを見て、酔った、酔った、と叔母をはやしたてた。私は遙かはなれてこれを見おろし、口惜《くや》しくて口惜《くや》しくて、いよいよ大声を立てて泣き喚《わめ》いた。またある夜、叔母が私を捨てて家を出て行く夢を見た。叔母の胸は玄関のくぐり戸いっぱいにふさがっていた。その赤くふくれた大きい胸から、つぶつぶの汗がしたたっていた。叔母は、お前がいやになった、とあらあらしく呟くのである。私は叔母のその乳房に頬をよせて、そうしないでけんせ、と願いつつしきりに涙を流した。叔母が私を揺り起した時は、私は床の中で叔母の胸に顔を押しつけて泣いていた。眼が覚めてからも私は、まだまだ悲しくて永いことすすり泣いた。けれども、その夢のことは叔母にも誰にも話さなかった。
叔母についての追憶はいろいろとあるが、その頃の父母の思い出はあいにくと一つも持ち合せない。曾祖母、祖母、父、母、兄三人、姉四人、弟一人、それに叔母と叔母の娘四人の大家族だったはずであるが、叔母を除いて他のひとたちの事は私も五、六歳になるまではほとんど知らずにいたと言ってよい。広い裏庭に、むかし林《りん》檎《ご》の大木が五、六本あったようで、どんよりと曇った日に、それらの木に女の子が多人数で登って行った有様や、そのおなじ庭の一隅に菊畑があって、雨の降っていたとき、私はやはり大勢の女の子らと傘さし合って菊の花の咲きそろっているのを眺めたことなど、幽《かす》かに覚えて居るけれど、あの女の子らが私の姉や従姉《いとこ》たちだったかも知れない。
六つ七つになると思い出もはっきりしている。私がたけという女中から本を読むことを教えられ、二人でさまざまの本を読み合った。たけは私の教育に夢中であった。私は病身だったので、寝ながらたくさん本を読んだ。読む本がなくなれば、たけは村の日曜学校などから子供の本をどしどし借りて来て私に読ませた。私は黙読することを覚えていたので、いくら本を読んでも疲れないのだ。たけはまた、私に道徳を教えた。お寺へしばしば連れて行って、地獄極楽の御《お》絵《え》掛《かけ》地《じ》を見せて説明した。火を放《つ》けた人は赤い火のめらめら燃えている籠を背負わされ、めかけ持った人は二つの首のある青い蛇にからだを巻かれて、せつながっていた。血の池や、針の山や、無《む》間《げん》奈《な》落《らく》という白い煙のたちこめた底知れぬ深い穴や、到るところで、蒼白く痩《や》せたひとたちが口を小さくあけて泣き叫んでいた。嘘を吐《つ》けば地獄へ行ってこのように鬼のために舌を抜かれるのだ、と聞かされたときには恐ろしくて泣き出した。
そのお寺の裏は小高い墓地になっていて、山吹かなにかの生垣に沿うてたくさんの卒《そ》堵《と》婆《ば》が林のように立っていた。卒堵婆には、満月ほどの大きさで車のような黒い鉄の輪のついているのがあって、その輪をからから廻して、やがて、そのまま止ってじっと動かないならその廻した人は極楽へ行き、いったんとまりそうになってから、またからんと逆に廻れば地獄へ落ちる、とたけは言った。たけが廻すと、いい音をたててひとしきり廻って、かならずひっそりと止るのだけれど、私が廻すと後戻りすることがたまたまあるのだ。秋のころと記憶するが、私がひとりでお寺へ行ってその金輪のどれを廻して見ても皆言い合せたようにからんからんと逆廻りした日があったのである。私は破れかけるかんしゃくだまを抑えつつ何十回となく執《しつ》拗《よう》に廻しつづけた。日が暮れかけて来たので、私は絶望してその墓地から立ち去った。
父母はその頃東京にすまっていたらしく、私は叔母に連れられて上京した。私はよほどながく東京に居たのだそうであるが、あまり記憶に残っていない。その東京の別宅へ、ときどき訪れる婆のことを覚えているだけである。私はこの婆がきらいで、婆の来るたびごとに泣いた。婆は私に赤い郵便自動車の玩具をひとつ呉れたが、ちっとも面白くなかったのである。
やがて私は故郷の小学校へ入ったが、追憶もそれと共に一変する。たけは、いつの間にかいなくなっていた。ある漁村へ嫁に行ったのであるが、私がそのあとを追うだろうという懸《け》念《ねん》からか、私には何も言わずに突然いなくなった。その翌年だかのお盆のとき、たけは私のうちへ遊びに来たが、なんだかよそよそしくしていた。私に学校の成績を聞いた。私は答えなかった。ほかの誰かが代わって知らせたようだ。たけは、油断大敵でせえ、と言っただけで格別ほめもしなかった。
同じ頃、叔母とも別れなければならぬ事情が起った。それまでに叔母の次女は嫁ぎ、三女は死に、長女は歯医者の養子をとっていた。叔母はその長女夫婦と末娘とを連れて、遠くのまちへ分家したのである。私もついて行った。それは冬のことで、私は叔母と一緒に橇《そり》の隅へうずくまっていると、橇の動きだす前に私のすぐ上の兄が、婿《むご》、婿《むご》と私を罵《ののし》って橇の幌《ほろ》の外から私の尻を何遍もつついた。私は歯を食いしばってこの屈辱にこらえた。私は叔母に貰われたのだと思っていたが、学校にはいるようになったら、また故郷へ返されたのである。
学校に入ってからの私は、もう子供でなかった。裏の空《あき》屋敷にはいろんな雑草がのんのんと繁っていたが、夏のある天気のいい日に、私はその草原の上で弟の子守から息苦しいことを教えられた。私が八つぐらいで、子守もそのころは十四、五を越えていまいと思う。苜蓿《うまごやし》を私の田舎では、「ぼくさ」と呼んでいるが、その子守は私と三つちがう弟に、ぼくさの四つ葉を捜して来いと言いつけて追いやり私を抱いてころころと転げ廻った。それからも私たちは蔵の中だの押入の中だのに隠れて遊んだ。弟がひどく邪魔であった。押入のそとにひとり残された弟が、しくしく泣きだしたため、私のすぐの兄に私たちのことを見つけられてしまった時もある。兄が弟から聞いて、その押入の戸をあけたのだ。子守は、押入へ銭《ぜに》を落したのだ、と平気で言っていた。
嘘は私もしじゅう吐《つ》いていた。小学二年か三年の雛祭りのとき学校の先生に、うちの人が今日は雛さまを飾るのだから早く帰れと言っている、と嘘を吐いて授業を一時間も受けずに帰宅し、家の人には、きょうは桃の節句だから学校は休みです、と言って雛を箱から出すのに要らぬ手伝いをしたことがある。また私は小鳥の卵を愛した。雀の卵は蔵の屋根瓦をはぐと、いつでもたくさん手にいれられたが、さくらどりの卵やからすの卵などは私の屋根に転《ころが》ってなかったのだ。その燃えるような緑の卵や可笑《おか》しい斑点のある卵を、私は学校の生徒たちから貰った。その代り私はその生徒たちに私の蔵書を五冊十冊とまとめて与えるのである。集めた卵は綿でくるんで机の引き出しに一杯しまって置いた。すぐの兄は、私のその秘密の取引に感づいたらしく、ある晩、私に西洋の童話集と、もう一冊なんの本だか忘れたが、その二つを貸して呉れと言った。私は兄の意地悪さを憎んだ。私はその両方の本とも卵に投資してしまって、ないのであった。兄は私がないと言えばその本の行先を追求するつもりなのだ。私は、きっとあったはずだから捜して見る、と答えた。私は、私の部屋はもちろん、家中いっぱいランプをさげて捜して歩いた。兄は私についてあるきながら、ないのだろう、と言って笑っていた。私は、ある、と頑強に言い張った。台所の戸棚の上によじのぼってまで捜した。兄はしまいに、もういい、と言った。
学校で作る私の綴方も、ことごとくでたらめであったと言ってよい。私は私自身を神妙ないい子にして綴るよう努力した。そうすれば、いつも皆にかっさいされるのである。剽《ひよう》竊《せつ》さえした。当時傑作として先生たちに言いはやされた「弟の影絵」というのは、なにか少年雑誌の一等当選作だったのを私がそっくり盗んだものである。先生は私にそれを毛筆で清書させ、展覧会に出させた。あとで本好きのひとりの生徒にそれを発見され、私はその生徒の死ぬことを祈った。やはりそのころ「秋の夜」というのも皆の先生にほめられたが、それは、私が勉強して頭が痛くなったから縁側へ出て庭を見渡した、月のいい夜で池には鯉や金魚がたくさん遊んでいた、私はその庭の静かな景色を夢中で眺めていたが、隣部屋から母たちの笑い声がどっと起ったので、はっと気がついたら私の頭痛がなおって居た、という小品文であった。この中には真実がひとつもないのだ。庭の描写は、たしか姉たちの作文帳から抜き取ったものであったし、だいいち私は頭のいたくなるほど勉強した覚えなどさっぱりないのである。私は学校が嫌いで、したがって学校の本など勉強したことは一回もなかった。娯楽本ばかり読んでいたのである。うちの人は私が本さえ読んで居れば、それを勉強だと思っていた。
しかし私が綴方へ真実を書き込むと必ずよくない結果が起ったのである。父母が私を愛して呉れないという不平を書き綴ったときには、受持訓導に教員室へ呼ばれて叱られた。「もし戦争が起ったなら」という題を与えられて、地震雷火事親爺、それ以上に怖い戦争が起ったならまず山の中へでも逃げ込もう、逃げるついでに先生をも誘おう、先生も人間、僕も人間、いくさの怖いのは同じであろう、と書いた。この時には校長と次席訓導とが二人がかりで私を調べた。どういう気持でこれを書いたか、と聞かれたので、私はただ面白半分に書きました、といい加減なごまかしを言った。次席訓導は手帖へ、「好奇心」と書き込んだ。それから私と次席訓導とが少し議論を始めた。先生も人間、僕も人間、と書いてあるが人間というものは皆おなじものか、と彼は尋ねた。そう思う、と私はもじもじしながら答えた。私はいったいに口が重い方であった。それでは僕とこの校長先生とは同じ人間でありながら、どうして給料が違うのだ、と彼に問われて私はしばらく考えた。そして、それは仕事がちがうからでないかと、と答えた。鉄縁の眼鏡をかけ、顔の細い次席訓導は私のその言葉をすぐ手帖に書きとった。私はかねてからこの先生に好意を持っていた。それから彼は私にこんな質問をした。君のお父さんと僕たちとは同じ人間か。私は困って何とも答えなかった。
私の父は非常に忙しい人で、うちにいることがあまりなかった。うちにいても子供らと一緒には居らなかった。私はこの父を恐れていた。父の万年筆をほしがっていながらそれを言い出せないで、ひとりいろいろと思い悩んだ末、ある晩に床の中で眼をつぶったまま寝《ね》言《ごと》のふりをして、まんねんひつ、まんねんひつ、と隣部屋で客と対談中の父へ低く呼びかけた事があったけれども、もちろんそれは父の耳にも心にもはいらなかったらしい。私と弟が米俵のぎっしり積まれたひろい米蔵に入って面白く遊んでいると、父が入口に立ちはだかって、坊主、出ろ、出ろ、と叱った。光を背から受けているので父の大きい姿がまっくろに見えた。私は、あの時の恐怖を惟《おも》うと今でもいやな気がする。
母に対しても私は親しめなかった。乳母の乳で育って叔母の懐《ふところ》で大きくなった私は、小学校の二、三年のときまで母を知らなかったのである。下男がふたりかかって私にそれを教えたのだが、ある夜、傍に寝ていた母が私の蒲団の動くのを不《ふ》審《しん》がって、なにをしているのか、と私に尋ねた。私はひどく当惑して、腰が痛いからあんまやっているのだ、と返事した。母は、そんなら揉《も》んだらいい、たたいてばかりいたって、と眠そうに言った。私は黙ってしばらく腰を撫でさすった。母への追憶はわびしいものが多い。私は蔵から兄の洋服を出し、それを着て裏庭の花壇の間をぶらぶら歩きながら、私の即興的に作曲する哀調のこもった歌を口ずさんでは涙ぐんでいた。私はその身装《みなり》で帳場の書生と遊びたく思い、女中を呼びにやったが、書生はなかなか来なかった。私は裏庭の竹垣を靴先でからからと撫でたりしながら彼を待っていたのであるが、とうとうしびれを切らして、ズボンのポケットに両手をつっ込んだまま泣き出した。私の泣いているのを見つけた母は、どうした訳か、その洋服をはぎ取って了って私の尻をぴしゃぴしゃとぶったのである。私は身を切られるような恥辱を感じた。
私は早くから服装に関心を持っていたのである。シャツの袖口にはボタンが附いていないと承知できなかった。白いフランネルのシャツを好んだ。襦《じゆ》袢《ばん》の襟も白くなければいけなかった。えりもとからその白襟を一《いち》分《ぶ》か二《に》分《ぶ》のぞかせるように注意した。十五夜のときには、村の生徒たちはみんな晴衣を着て学校へ出て来るが、私も毎年きまって茶色の太い縞のある本ネルの着物を着て行って、学校の狭い廊下を女のようになよなよと小走りにはしって見たりするのであった。私はそのようなおしゃれを、人に感附かれぬようにひそかにやった。うちの人たちは私の容貌を兄弟中で一番わるいわるい、と言っていたし、そのような悪いおとこが、こんなおしゃれをすると知られたら皆に笑われるだろう、と考えたからである。私は、かえって服装に無関心であるように振舞い、しかもそれはある程度まで成功したように思う。誰の眼にも私は鈍重で野暮臭く見えたにちがいないのだ。私が兄弟たちとお膳のまえに坐っているときなど、祖母や母がよく私の顔のわるい事を真面目に言ったものだが、私にはやはりくやしかった。私は自分をいいおとこだと信じていたので、女中部屋なんかへ行って、兄弟中で誰が一番いいおとこだろう、とそれとなく聞くことがあった。女中たちは、長兄が一番で、その次が治《おさ》ちゃだ、とたいていそう言った。私は顔を赤くして、それでも少し不満だった。長兄よりもいいおとこだと言って欲しかったのである。
私は容貌のことだけでなく、不器用だという点で祖母たちの気にいらなかった。箸の持ちかたが下手で食事のたびごとに祖母から注意されたし、私のおじぎは尻があがって見苦しいとも言われた。私は祖母の前にきちんと坐らされ、何回も何回もおじぎをさせられたけれど、いくらやって見ても祖母は上手だと言って呉れないのである。
祖母も私にとって苦手であったのだ。村の芝居小屋の舞台開きに東京の雀三郎一座というのがかかったとき、私はその興行中いちにちも欠《か》かさず見物に行った。その小屋は私の父が建てたのだから、私はいつでもただでいい席に坐れたのである。学校から帰るとすぐ、私は柔かい着物と着換え、端に小さい鉛筆をむすびつけた細い銀鎖を帯に吊《つ》りさげて、芝居小屋へ走った。生れて初めて歌舞伎というものを知ったのであるし、私は興奮して、狂言を見ている間も幾度となく涙を流した。その興行が済んでから、私は弟や親類の子らを集めて一座を作り自分で芝居をやって見た。私は前からこんな催物が好きで、下男や女中たちを集めては、昔話を聞かせたり、幻燈や活動写真を映して見せたりしたものである。そのときには、「山中鹿之助」と「鳩の家」と「かっぽれ」の三つの狂言を並べた。山中鹿之助が谷川の岸のある茶店で、早川鮎之助という家来を得る条《くだり》をある少年雑誌から抜き取って、それを私が脚色した。拙者は山中鹿之助と申すものであるが、――という長い言葉を歌舞伎の七五調に直すのに苦心をした。「鳩の家」は私がなんべん繰り返して読んでも必ず涙の出た長篇小説で、その中でもことに哀れな所を二幕に仕上げたものであった。「かっぽれ」は雀三郎一座がおしまいの幕の時、いつも楽屋総出でそれを踊ったものだから、私もそれを踊ることにしたのである。五、六にち稽古していよいよその日、文《ぶん》庫《こ》蔵《ぐら》のまえの広い廊下を舞台にして、小さい引幕などをこしらえた。昼のうちからそんな準備をしていたのだが、その引幕の針金に祖母が顎《あご》をひっかけて了った。祖母は、この針金でわたしを殺すつもりか、河原乞食の真《ま》似《ね》糞《くそ》はやめろ、と言って私たちをののしった。それでもその晩はやはり下男や女中たちを十人ほど集めてその芝居をやってみせたが、祖母の言葉を考えると私の胸は重くふさがった。私は山中鹿之助や「鳩の家」の男の子の役をつとめ、かっぽれも踊ったけれど少しも気乗りがせずたまらなく淋しかった。そののちも私はときどき「牛盗人」や「皿屋敷《*》」や「俊徳丸《*》」などの芝居をやったが、祖母はそのつどにがにがしげにしていた。
私は祖母を好いていなかったが、私の眠られない夜には祖母を有難く思うことがあった。私は小学三、四年のころから不眠症にかかって、夜の二時になっても三時になっても眠れないで、よく寝床のなかで泣いた。寝る前に砂糖をなめればいいとか、時計のかちかちを数えろとか、水で両足を冷せとか、ねむのきの葉を枕のしたに敷いて寝るといいとか、さまざまの眠る工夫をうちの人たちから教えられたが、あまり効《きき》目《め》がなかったようである。私は苦労性であって、いろんなことをほじくり返して気にするものだから、なおのこと眠れなかったのであろう。父の鼻眼鏡をこっそりいじくって、ぽきっとその硝《がら》子《す》を割ってしまったときには、幾夜もつづけて寝苦しい思いをした。一軒置いて隣りの小間物屋では書物類もわずか売っていて、ある日私は、そこで婦人雑誌の口絵などを見ていたが、そのうちの一枚で黄色い人魚の水彩画が欲しくてならず、盗もうと考えて静かに雑誌から切り離していたら、そこの若主人に、治《おさ》こ、治こ、と見とがめられ、その雑誌を音高く店の畳に投げつけて家まで飛んではしって来たことがあったけれど、そういうやりそこないもまた私をひどく眠らせなかった。私はまた、寝床の中で火事の恐怖に理由なく苦しめられた。この家が焼けたら、と思うと眠るどころではなかったのである。いつかの夜、私が寝しなに厠《かわや》へ行ったら、その厠と廊下ひとつ隔てた真暗い帳場の部屋で、書生がひとりして活動写真をうつしていた。白熊の、氷の崖から海へ飛び込む有様が、部屋の襖《ふすま》へマッチ箱ほどの大きさでちらちら映っていたのである。私はそれを覗いて見て、書生のそういう心持が堪《たま》らなく悲しく思われた。床に就いてからも、その活動写真のことを考えると胸がどきどきしてならぬのだ。書生の身の上を思ったり、また、その映写機のフィルムから発火して大事になったらどうしようとそのことが心配で心配で、その夜はあけがた近くになるまでまどろむ事が出来なかったのである。祖母を有難く思うのはこんな夜であった。
まず、晩の八時ごろ女中が私を寝かして呉れて、私の眠るまではその女中も私の傍に寝ながら附いていなければならなかったのだが、私は女中を気の毒に思い、床につくとすぐ眠ったふりをするのである。女中がこっそり私の床から脱け出るのを覚えつつ、私は睡眠できるようにひたすら念じるのである。十時頃まで床のなかで輾《てん》転《てん》してから、私はめそめそ泣き出して起き上がる。その時分になると、うちの人は皆寝てしまっていて、祖母だけが起きているのだ。祖母は夜番の爺と、台所の大きい囲《い》炉《ろ》裏《り》を挟んで話をしている。私はたんぜんを着たままその間にはいって、むっつりしながら彼らの話を聞いているのである。彼らはきまって村の人々の噂話をしていた。ある秋の夜《よ》更《ふけ》に、私は彼らのぼそぼそと語り合う話に耳傾けていると、遠くから虫おくり祭の太鼓の音がどんどんと響いて来たが、それを聞いて、ああ、まだ起きている人がたくさんあるのだ、とずいぶん気強く思ったことだけは忘れずにいる。
音に就いて思い出す。私の長兄は、そのころ東京の大学にいたが、暑中休暇になって帰郷するたびごとに、音楽や文学などのあたらしい趣味を田舎へひろめた。長兄は劇を勉強していた。ある郷土の雑誌に発表した「奪い合い」という一幕物は、村の若い人たちの間で評判だった。それを仕上げたとき、長兄は数多くの弟や妹たちにも読んで聞かせた。皆、判らない判らない、と言って聞いていたが、私には判った。幕切の、くらい晩だなあ、という一言に含まれた詩をさえ理解できた。私はそれに「奪い合い」でなく「あざみ草」と言う題をつけるべきだと考えたので、あとで、兄の書き損じた原稿用紙の隅へ、その私の意見を小さく書いて置いた。兄は多分それに気が附かなかったのであろう、題名をかえることなくそのまま発表してしまった。レコオドもかなり集めていた。私の父は、うちで何かの饗応があると、必ず遠い大きなまちからはるばる芸者を呼んで、私も五つ六つの頃から、そんな芸者たちに抱かれたりした記憶があって、「むかしむかしそのむかし」だの「あれは紀のくにみかんぶね」だのの唄や踊りを覚えているのである。そういうことから、私は兄のレコオドの洋楽よりも邦楽の方に早くなじんだ。ある夜、私が寝ていると、兄の部屋からいい音《ね》が漏れて来たので、枕から頭をもたげて耳をすました。あくる日、私は朝早く起き兄の部屋へ行って手当り次第あれこれとレコオドを掛けて見た。そしてとうとう私は見つけた。前夜、私を眠らせぬほどに興奮させたそのレコオドは、蘭《らん》蝶《ちよう*》だった。
私はけれども長兄より次兄に多く親しんだ。次兄は東京の商業学校を優等で出て、そのまま帰郷し、うちの銀行に勤めていたのである。次兄もまたうちの人たちに冷く取り扱われていた。私は、母や祖母が、いちばん悪いおとこは私で、そのつぎに悪いのは次兄だ、と言っているのを聞いた事があるので、次兄の不人気もその容貌がもとであろうと思っていた。なんにも要らない、おとこ振りばかりでもよく生れたかった、なあ治、と半分は私をからかうように呟いた次兄の冗談口を私は記憶している。しかし私は次兄の顔をよくないと本心から感じたことが一度もないのだ。あたまも兄弟のうちではいい方だと信じている。次兄は毎日のように酒を呑んで祖母と喧《けん》嘩《か》した。私はそのたんびひそかに祖母を憎んだ。
末の兄と私とはお互いに反目していた。私はいろいろな秘密をこの兄に握られていたので、いつもけむったかった。それに、末の兄と私の弟とは、顔のつくりが似て皆から美しいとほめられていたし、私はこのふたりに上下から圧迫されるような気がしてたまらなかったのである。その兄が東京の中学に行って、私はようやくほっとした。弟は、末子で優しい顔をしていたから父にも母にも愛された。私は絶えず弟を嫉妬していて、ときどきなぐっては母に叱られ、母をうらんだ。私が十《とう》か十一のころのことと思う。私のシャツや襦袢の縫目へ胡麻をふり撒《ま》いたようにしらみがたかった時など、弟がそれをちょっと笑ったというので、文字通り弟を殴り倒した。けれども私はやはり心配になって、弟の頭に出来たいくつかの瘤《こぶ》へ不《ふ》可《か》飲《いん》という薬をつけてやった。
私は姉たちには可愛がられた。いちばん上の姉は死に、次の姉は嫁《とつ》ぎ、あとの二人の姉はそれぞれ違うまちの女学校へ行っていた。私の村には汽車がなかったので、三里ほど離れた汽車のあるまちと往き来するのに、夏は馬車、冬は橇《そり》、春の雪解けの頃や秋のみぞれの頃は歩くよりほかなかったのである。姉たちは橇に酔うので、冬やすみの時も歩いて帰った。私はそのつど村端《はず》れの材木が積まれてあるところまで迎えに出たのである。日がとっぷり暮れても道は雪あかりで明るいのだ。やがて隣村の森かげから姉たちの提燈《ちようちん》がちらちら現われると、私は、おう、と大声あげて両手を振った。
上の姉の学校は下の姉の学校よりも小さいまちにあったので、お土産《みやげ》も下の姉のそれに較べていつも貧しげだった。いつか上の姉が、なにもなくてえ、と顔を赤くして言いつつ線香花火を五《いつ》束《たば》六《むつ》束《たば》バスケットから出して私に与えたが、私はそのとき胸をしめつけられる思いがした。この姉もまたきりょうがわるいとうちの人たちからいわれいわれしていたのである。
この姉は女学校へはいるまでは、曾祖母とふたりで離座敷に寝起きしていたものだから、曾祖母の娘だとばかり私は思っていたほどであった。曾祖母は私が小学校を卒業する頃なくなったが、白い着物を着せられ小さくかじかんだ曾祖母の姿を納棺の際ちらと見た私は、この姿がこののちながく私の眼にこびりついたらどうしようと心配した。
私はほどなく小学校を卒業したが、からだが弱いからと言うので、うちの人たちは私を高等小学校に一年間だけ通わせることにした。からだが丈夫になったら中学へいれてやる、それも兄たちのように東京の学校では健康に悪いから、もっと田舎の中学へいれてやる、と父が言っていた。私は中学校へなどそれほど入りたくなかったのだけれどそれでも、からだが弱くて残念に思う、と綴方へ書いて先生たちの同情を強いたりしていた。
この時分には、私の村にも町制が敷かれていたが、その高等小学校は私の町と附近の五、六か村と共同で出資して作られたものであって、まちから半里も離れた松林の中に在った。私は病気のためにしじゅう学校をやすんでいたのだけれどその小学校の代表者だったので、他村からの優等生がたくさん集まる高等小学校でも一番になるよう努めなければいけなかったのである。しかし私はそこでも相変らず勉強をしなかった。いまに中学生に成るのだ、という私の自《じ》矜《きよう》が、その高等小学校を汚く不愉快に感じさせていたのだ。私は授業中おもに連続の漫画をかいた。休憩時間になると、声《こわ》色《いろ》をつかってそれを生徒たちへ説明してやった。そんな漫画をかいた手帖が四、五冊もたまった。机に頬杖ついて教室の外の景色をぼんやり眺めて一時間を過ごすこともあった。私は硝子窓の傍に座席をもっていたが、その窓の硝子板には蝿がいっぴき押しつぶされてながいことねばりついたままでいて、それが私の視野の片隅にぼんやりと大きくはいって来ると、私には雉《きじ》か山鳩かのように思われ、幾たびとなく驚かされたものであった。私を愛している五、六人の生徒たちと一緒に授業を逃げて、松林の裏にある沼の岸辺に寝ころびつつ、女生徒の話をしたり、皆で着物をまくってそこにうっすり生えそめた毛を較べ合ったりして遊んだのである。
その学校は男と女の共学であったが、それでも私は自分から女生徒に近づいたことなどなかった。私は欲情がはげしいから、懸命にそれをおさえ、女にもたいへん臆病になっていた。私はそれまで、二人三人の女の子から思われたが、いつでも知らない振りをして来たのだった。帝展《*》の入選画帖を父の本棚から持ち出しては、その中にひそめられた白い画に頬をほてらせて眺めいったり、私の飼っていたひとつがいの兎にしばしば交尾させ、その雄兎の背中をこんもりと丸くする容姿に胸をときめかせたり、そんなことで私はこらえていた。私は見え坊であったから、あの、あんまをさえ誰にも打ちあけなかった。その害を本で読んで、それをやめようとさまざまな苦心をしたが、駄目であった。そのうちに私はそんな遠い学校へ毎日あるいてかよったお蔭で、からだも太って来た。額の辺にあわつぶのような小さい吹出物がでてきた。これも恥かしく思った。私はそれへ宝《ほう》丹《たん》膏《こう》という薬を真赤に塗った。長兄はそのとし結婚して、祝言の晩に私と弟とはその新しい嫂《あによめ》の部屋へ忍んで行ったが、嫂は部屋の入口を背にして坐って髪を結わせていた。私は鏡に映った花嫁のほのじろい笑顔をちらと見るなり、弟をひきずって逃げ帰った。そして私は、たいしたもんでねえでば! と力こめて強がりを言った。薬で赤い私の額のためによけい気もひけて、なおのことこんな反撥をしたのであった。
冬ちかくなって、私も中学校への受験勉強を始めなければいけなくなった。私は雑誌の広告を見て、東京へいろいろの参考書を注文した。けれども、それを本箱に並べただけで、ちっとも読まなかった。私の受験することになっていた中学校は県でだいいちのまちに在って、志願者も二、三倍は必ずあったのである。私はときどき落第の懸念に襲われた。そんな時には私も勉強をした。そして一週間もつづけて勉強すると、すぐ及第の確信がついて来るのだ。勉強するとなると、夜十二時ちかくまで床につかないで、朝はたいてい四時に起きた。勉強中は、たみという女中を傍に置いて、火をおこさせたり、茶をわかさせたりした。たみは、どんなにおそくまで宵っぱりしても翌る朝は、四時になると必ず私を起しに来た。私が算術の鼠が子を産む応用問題などに困らされている傍で、たみはおとなしく小説本を読んでいた。あとになって、たみの代りに年とった肥えた女中が私へつくようになったが、それが母のさしがねである事を知った私は、母のその底意を考えて顔をしかめた。
その翌春、雪のまだ深く積っていた頃、私の父は東京の病院で血を吐いて死んだ。ちかくの新聞社は父の訃《ふ》を号外で報じた。私は父の死よりも、こういうセンセイションの方に興奮を感じた。遺族の名にまじって私の名も新聞に出ていた。父の死骸は大きい寝棺に横たわり橇に乗って故郷へ帰って来た。私は大勢のまちの人たちと一緒に隣村近くまで迎えに行った。やがて森の蔭から幾台となく続いた橇の幌が月光を受けつつ滑って出て来たのを眺めて私は美しいと思った。
つぎの日、私のうちの人たちは父の寝棺の置かれてある仏間に集まった。棺の蓋《ふた》が取りはらわれるとみんな声をたてて泣いた。父は眠っているようであった。高い鼻筋がすっと青白くなっていた。私は皆の泣声を聞き、さそわれて涙を流した。
私の家はそのひとつきもの間、火事のような騒ぎであった。私はその混雑にまぎれて、受験勉強を全く怠ったのである。高等小学校の学年試験にもほとんどでたらめな答案を作って出した。私の成績は全体の三番かそれくらいであったが、これは明らかに受持訓導の私のうちに対する遠慮からであった。私はそのころすでに記憶力の減退を感じていて、したしらべでもして行かないと試験には何も書けなかったのである。私にとってそんな経験は初めてであった。
二 章
いい成績ではなかったが、私はその春、中学校へ受験して合格した。私は、新しい袴と黒い沓《くつ》下《した》とあみあげの靴をはき、いままでの毛布をよしてラシャのマントを洒落《しやれ》者《もの》らしくボタンをかけずに前をあけたまま羽《は》織《お》って、その海のある小都会へ出た。そして私のうちと遠い親戚にあたるそのまちの呉服店で旅装を解いた。入口にちぎれた古いのれんのさげてあるその家へ、私はずっと世話になることになっていたのである。
私は何ごとにも有頂天になりやすい性質を持っているが、入学当時は銭湯へ行くのにも学校の制帽を被り、袴をつけた。そんな私の姿が往来の窓ガラスにでも映ると、私は笑いながらそれへ軽く会釈をしたものである。
それなのに、学校はちっとも面白くなかった。校舎は、まちの端《はず》れにあって、しろいぺンキで塗られ、すぐ裏は海峡に面したひらたい公園で、狼の音や松のざわめきが授業中でも聞えて来て、廊下も広く教室の天井も高くて、私はすべてにいい感じを受けたのだが、そこにいる教師たちは私をひどく迫害したのである。
私は入学式の日から、ある体操の教師にぶたれた。私が生意気だというのであった。この教師は入学試験のとき私の口答試問の係りであったが、お父さんがなくなってよく勉強もできなかったろう、と私に情ふかい言葉をかけて呉れ、私もうなだれて見せたその人であっただけに、私のこころはいっそう傷つけられた。そののちも私はいろんな教師にぶたれた。にやにやしているとか、あくびをしたとか、さまざまな理由から罰せられた。授業中の私のあくびが大きいので職員室で評判である、とも言われた。私はそんな莫《ば》迦《か》げたことを話し合っている職員室を、おかしく思った。私と同じ町から来ている一人の生徒が、ある日、私を校庭の砂山の陰に呼んで、君の態度はじっさい生意気そうに見える、あんなに殴られてばかりいると落第するにちがいない、と忠告して呉れた。私は愕《がく》然《ぜん》とした。その日の放課後、私は海岸づたいにひとり家路を急いだ。靴底を浪になめられつつ溜息ついて歩いた。洋服の袖で額の汗を拭いていたら、鼠色のびっくりするほど大きい帆がすぐ眼の前をよろよろととおって行った。
私は散りかけている花瓣であった。すこしの風にもふるえおののいた。人からどんなささいなさげすみを受けても死なんかなと悶《もだ》えた。私は、自分を今にきっとえらくなるものと思っていたし、英雄としての名誉をまもって、たとい大人の侮《あなど》りにでも容赦できなかったのであるから、この落第という不名誉も、それだけ致命的であったのである。その後の私は兢《きよう》兢《きよう》として授業を受けた。授業を受けながらも、この教室のなかには眼に見えぬ百人の敵がいるのだと考えて、少しも油断をしなかった。朝、学校へ出掛けしなには、私の机の上へトランプを並べて、その日いちにちの運命を占った。ハアトは大吉であった。ダイヤは半吉、クラブは半凶、スペエドは大凶であった。そしてその頃は、来る日も来る日もスペエドばかり出たのである。
それから間もなく試験が来たけれど、私は博物でも地理でも修身でも、教科書の一字一句をそのまま暗記してしまうように努めた。これは私のいちかばちかの潔癖から来ているのであろうが、この勉強法は私のためによくない結果を呼んだ。私は勉強が窮屈でならなかったし、試験の際も、融通がきかなくて、ほとんど完璧に近いよい答案を作ることもあれば、つまらぬ一字一句につまずいて、思索が乱れ、ただ意味もなしに答案用紙を汚している場合もあったのである。
しかし私の第一学期の成績はクラスの三番であった。操行も甲であった。落第の懸念に苦しまされていた私は、その通告簿を片手に握って、もう一方の手で靴を吊り下げたまま、裏の海岸まではだしで走った。嬉しかったのである。
一学期をおえて、はじめての帰郷のときは、私は故郷の弟たちに私の中学生生活の短い経験を出来るだけ輝かしく説明したく思って、私がその三、四か月間身につけたすべてのもの、座蒲団のはてまで行《こう》李《り》につめた。
馬車にゆられながら隣村の森を抜けると、幾里四方もの青田の海が展開して、その青田の果てるあたりに私のうちの赤い大屋根が聳《そび》えていた。私はそれを眺めて十年も見ない気がした。
私はその休暇のひとつきほど得意な気持でいたことがない。私は弟たちへ中学校のことを誇張して夢のように物語った。その小都会の有様をも、つとめて幻妖に物語ったのである。
私は風景をスケッチしたり昆虫の採集をしたりして、野原や谷川をはしり廻った。水彩画を五枚えがくのと珍しい昆虫の標本を十種あつめるのとが、教師に課された休暇中の宿題であった。
私は捕虫網を肩にかついで、弟にはピンセットだの毒壺だののはいった採集鞄を持たせ、もんしろ蝶やばったを追いながら一日を夏の野原で過ごした。夜は庭園で焚《たき》火《び》をめらめらと燃やして、飛んで来るたくさんの虫を綱や箒《ほうき》で片っぱしからたたき落した。末の兄は美術学校の塑像科へ入っていたが、まいにち中庭の大きい栗の木の下で粘土をいじくっていた。もう女学校を卒えていた私のすぐの姉の胸像を作っていたのである。私もまたその傍で、姉の顔を幾枚もスケッチして、兄とお互いの出来上り案配をけなし合った。姉は真面目に私たちのモデルになっていたが、そんな場合おもに私の水彩画の方の肩を持った。この兄は若いときはみんな天才だ、などと言って、私のあらゆる才能を莫《ば》迦《か》にしていた。私の文章をさえ、小学生の綴方、と言って嘲っていた。私もその当時は、兄の芸術的な力をあからさまに軽蔑していたのである。
ある晩、その兄が私の寝ているところへ来て、治、珍動物だよ、と声を低くして言いながら、しゃがんで蚊帳の下から鼻紙に軽く包んだものをそっと入れて寄こした。兄は、私が珍しい昆虫を集めているのを知っていたのだ。包の中ではかさかさと虫のもがく足音がしていた。私は、そのかすかな音に、肉親の情を知らされた。私が手《て》暴《あら》くその小さい紙包をほどくと、兄は、逃げるぜえ、そら、そら、と息をつめるようにして言った。見ると普通のくわがたむしであった。私はその鞘《しよう》翅《しよう》類《るい》をも私の採集した珍昆虫十種のうちにいれて教師へ出した。
休暇が終りになると私は悲しくなった。故郷をあとにし、その小都会へ来て、呉服商の二階で独りして行李をあけた時には、私はもう少しで泣くところであった。私は、そんな淋しい場合には、本屋へ行くことにしていた。そのときも私は近くの本屋へ走った。そこに並べられたかずかずの刊行物の背を見ただけでも、私の憂愁は不思議に消えるのだ。その本屋の隅の書棚には、私の欲しくても買えない本が五、六冊あって、私はときどき、その前へ何気なさそうに立ち止っては膝をふるわせながらその本のペエジを盗み見たものだけれど、しかし私が本屋へ行くのは、なにもそんな医《い》学《がく》じみた記事を読むためばかりではなかったのである。その当時私にとって、どんな本でも休養と慰安であったからである。
学校の勉強はいよいよ面白くなかった。白《はく》地図に山脈や港湾や河川を水絵具で記入する宿題などは、なによりも呪わしかった。私は物事に凝るほうであったから、この地図の彩色には三、四時間も費やした。歴史なんかも、教師はわざわざノオトを作らせてそれへ講義の要点を書き込めと言いつけたが、教師の講義は教科書を読むようなものであったから、自然とそのノオトへも教科書の文章をそのまま書き写すよりほかなかったのである。私はそれでも成績にみれんがあったので、そんな宿題を毎日せい出してやったのである。秋になると、そのまちの中等学校どうしのいろいろなスポオツの試合が始まった。田舎から出て来た私は、野球の試合など見たことさえなかった。小説本で、満塁《フルベエス》とか、アタックショオトとか、中堅《センター》とか、そんな用語を覚えていただけであって、やがてその試合の観方《みかた》をおぼえたけれどあまり熱狂できなかった。野球ばかりでなく、庭球でも、柔道でも、なにか他校と試合のあるたびに私も応援団の一人として、選手たちに声援を与えなければならなかったのであるが、そのことがなおさら中学生生活をいやなものにしてしまった。応援団長というのがあって、わざと汚い恰《かつ》好《こう》で日の丸の扇子などを持ち、校庭の隅の小高い岡にのぼって演説をすれば、生徒たちはその団長の姿を、むさい、むさい、と言って喜ぶのである。試合のときは、ひとゲエムのあいまあいまに団長が扇子をひらひらさせて、オオル・スタンド・アップと叫んだ。私たちは立ち上がって、紫の小さい三角旗をいっせいにゆらゆら振りながら、よい敵よい敵けなげなれども、という応援歌をうたうのである。そのことは私にとって恥かしかった。私は、すきを見ては、その応援から逃げて家へ帰った。
しかし、私にもスポオツの経験がない訳ではなかったのである。私の顔が蒼黒くて、私はそれを例のあんまのゆえであると信じていたので、人から私の顔色を言われると、私のその秘密を指摘されたようにどぎまぎした。私は、どんなにかして血色をよくしたく思い、スポオツをはじめたのである。
私はよほど前からこの血色を苦にしていたものであった。小学校四、五年のころ、末の兄からデモクラシイという思想を聞き、母までデモクラシイのため税金がめっきり高くなって作米のほとんどみんなを税金に取られる、と客たちにこぼしているのを耳にして、私はその思想に心弱くうろたえた。そして、夏は下男たちの庭の草刈に手つだいをしたり、冬は屋根の雪おろしに手を貸したりなどしながら、下男たちにデモクラシイの思想を教えた。そうして、下男たちは私の手助けをあまりよろこばなかったのをやがて知った。私の刈った草などは後からまた彼らが刈り直さなければいけなかったらしいのである。私は下男たちを助ける名の陰で、私の顔色をよくする事をも計っていたのであったが、それほど労働してさえ私の顔色はよくならなかったのである。
中学校にはいるようになってから、私はスポオツに依っていい顔色を得ようと思いたって、暑いじぶんには、学校の帰りしなに必ず海へはいって泳いだ。私は胸泳といって雨蛙のように両脚をひらいて泳ぐ方法を好んだ。頭を水から真直ぐに出して泳ぐのだから、波の起伏のこまかい縞目も、岸の青葉も、流れる雲も、みんな泳ぎながらに眺められるのだ。私は亀のように頭をすっとできるだけ高くのばして泳いだ。すこしでも顔を太陽に近寄せて、早く日焼けがしたいからであった。
また、私のいたうちの裏がひろい墓地だったので、私はそこへ百メエトルの直線コオスを作り、ひとりでまじめに走った。その墓地はたかいポプラの繁みで囲まれていて、はしり疲れると私はそこの卒堵婆の文字などを読み読みしながらぶらついた。月穿潭底とか、三界唯一心とかの句をいまでも忘れずにいる。ある日私は、銭《ぜに》苔《ごけ》のいっぱい生えている黒くしめった墓石に、寂性清寥居士という名前を見つけてかなり心を騒がせ、その墓のまえに新しく飾られてあった紙の蓮華の白い葉に、おれはいま土のしたで蛆《うじ》虫《むし》とあそんでいる、とあるフランスの詩人《*》から暗示された言葉を、泥を含ませた私の人《ひと》指《さし》ゆびでもって、さも幽霊が記したかのようにほそぼそとなすり書いて置いた。そのあくる日の夕方、私は運動にとりかかる前に、まずきのうの墓標へお参りしたら、朝の驟《しゆう》雨《う》で亡魂の文字はその近親の誰をも泣かせぬうちに跡かたもなく洗いさらわれて、蓮華の白い葉もところどころ破れていた。
私はそんな事をして遊んでいたのであったが、走る事も大変巧くなったのである。両脚の筋肉もくりくりと丸くふくれて来た。けれども顔色は、やっぱりよくならなかったのだ。黒い表皮の底には、濁った蒼い色が気持悪くよどんでいた。
私は顔に興味を持っていたのである。読書にあきると手鏡をとり出し、微《ほほ》笑《え》んだり眉をひそめたり頬杖ついて思案にくれたりして、その表情をあかず眺めた。私は必ずひとを笑わせることの出来る表情を会《え》得《とく》した。目を細くして鼻を皺め、口を小さく尖らすと、児熊のようで可愛かったのである。私は不満なときや当惑したときにその顔をした。私のすぐの姉はそのじぶん、まちの県立病院の内科へ入院していたが、私は姉を見舞いに行ってその顔をして見せると、姉は腹をおさえて寝台の上をころげ廻った。姉はうちから連れて来た中年の女中とふたりきりで病院に暮していたものだから、ずいぶん淋しがって、病院の長い廊下をのしのし歩いて来る私の足音を聞くと、もうはしゃいでいた。私の足音は並はずれて高いのだ。私がもし一週間でも姉のところを訪れないと、姉は女中を使って私を迎えによこした。私が行かないと、姉の熱は不思議にあがって容態がよくない、とその女中が真《ま》顔《がお》で言っていた。
その頃はもう私も十五、六になっていたし、手の甲には静脈の青い血管がうっすりと透いて見えて、からだも異様におもおもしく感じられていた。私は同じクラスのいろの黒い小さな生徒とひそかに愛し合った。学校からの帰りにはきっと二人してならんで歩いた。お互いの小指がすれあってさえも、私たちは顔を赤くした。いつぞや、二人で学校の裏道の方を歩いて帰ったら、芹《せり》やはこべの青々と伸びている田溝の中にいもりがいっぴき浮いているのをその生徒が見つけ、黙ってそれを掬って私に呉れた。私は、いもりは嫌いであったけれど、嬉しそうにはしゃぎながらそれをハンカチへくるんだ。うちへ持って帰って、中庭の小さな池に放した。いもりは短い首をふりふり泳ぎ廻っていたが、次の朝みたら逃げてしまっていなかった。
私はたかい自矜の心を持っていたから、私の思いを相手に打ち明けるなど考えもつかぬことであった。その生徒へは普段から口もあんまり利かなかったし、また同じころ隣の家の痩せた女学生をも私は意識していたのだが、この女学生とは道で逢っても、ほとんどその人を莫迦にしているようにぐっと顔をそむけてやるのである。秋のじぶん、夜中に火事があって、私も起きて外へ出て見たら、つい近くの社《やしろ》の陰あたりが火の粉をちらして燃えていた。社の杉林がその焔を囲うようにまっくろく立って、そのうえを小鳥がたくさん落葉のように狂い飛んでいた。私は、隣のうちの門口から白い寝巻の女の子が私の方を見ているのを、ちゃんと知っていながら、横顔だけをそっちにむけてじっと火事を眺めた。焔の赤い光を浴びた私の横顔は、きっときらきら美しく見えるだろうと思っていたのである。こんな案配であったから、私はまえの生徒とでも、またこの女学生とでも、もっと進んだ交渉を持つことができなかった。けれどもひとりでいるときには、私はもっと大胆だったはずである。鏡の私の顔へ、片眼をつぶって笑いかけたり、机の上に小刀で薄い唇をほりつけて、それへ私の唇をのせたりした。この唇には、あとで赤いインクを塗ってみたが、妙にどすぐろくなっていやな感じがして来たから、私は小刀ですっかり削りとってしまった。
私が三年生になって、春のあるあさ、登校の道すがらに朱で染めた橋のまるい欄干へもたれかかって、私はしばらくぼんやりしていた。橋の下には隅田川に似た広い川がゆるゆると流れていた。全くぼんやりしている経験など、それまでの私にはなかったのである。うしろで誰か見ているような気がして、私はいつでも何かの態度をつくっていたのである。私のいちいちのこまかい仕草にも、彼は当惑して掌を眺めた、彼は耳の裏を掻きながら呟いた、などと傍から傍から説明句をつけていたのであるから、私にとって、ふと、とか、われしらず、とかいう動作はあり得なかったのである。橋の上での放心から覚めたのち、私は寂しさにわくわくした。そんな気持のときには、私もまた、自分の来《こ》しかた行末を考えた。橋をかたかた渡りながら、いろんな事を思い出し、また夢想した。そして、おしまいに溜息ついてこう考えた。えらくなれるかしら。その前後から、私はこころのあせりをはじめていたのである。私は、すべてに就いて満足し切れなかったから、いつも空虚なあがきをしていた。私には十《と》重《え》二十《はた》重《え》の仮面がへばりついていたので、どれがどんなに悲しいのか、見極めをつけることができなかったのである。そしてとうとう私はあるわびしいはけ口を見つけたのだ。創作であった。ここにはたくさんの同類がいて、みんな私と同じようにこのわけのわからぬおののきを見つめているように思われたのである。作家になろう、作家になろう、と私はひそかに願望した。弟もそのとし中学校へはいって、私とひとつ部屋に寝起していたが、私は弟と相談して、初夏のころに五、六人の友人たちを集め同人雑誌をつくった。私の居るうちの筋向かいに大きい印刷所があったから、そこへ頼んだのである。表紙も石版でうつくしく刷らせた。クラスの人たちへその雑誌を配ってやった。私はそれへ毎月ひとつずつ創作を発表したのである。はじめは道徳についての哲学者めいた小説を書いた。一行か二行の断片的な随筆をも得意としていた。この雑誌はそれから一年ほど続けたが、私はそのことで長兄と気まずいことを起してしまった。
長兄は私の文学に熱狂しているらしいのを心配して、郷里から長い手紙をよこしたのである。化学には方程式あり幾何には定理があって、それを解する完全な鍵が与えられているが、文学にはそれがないのです、ゆるされた年齢、環境に達しなければ文学を正当に掴《つか》むことが不可能と存じます、と物堅い調子で書いてあった。私もそうだと思った。しかも私は自分をその許された人間であると信じた。私はすぐ長兄へ返事した。兄上の言うことは本当だと思う、立派な兄を持つことは幸福である、しかし、私は文学のために勉強を怠ることがない、そのゆえこそいっそう勉強しているほどである、と誇張した感情をさえところどころにまぜて長兄へ告げてやったのである。
なにはさてお前は衆にすぐれていなければいけないのだ、という脅迫めいた考えからであったが、じじつ私は勉強していたのである。三年生になってからは、いつもクラスの首席であった。てんとりむしと言われずに首席になることは困難であったが、私はそのような嘲りを受けなかったばかりか、級友を手ならす術まで心得ていた。蛸《たこ》というあだなの柔道の主将さえ私には従順であった。教室の隅に紙屑入の大きな壺があって、私はときたまそれを指さして、蛸もつぼへはいらないかと言えば、蛸はその壺へ頭をいれて笑うのだ。笑い声が壺に響いて異様な音をたてた。クラスの美少年たちもたいてい私になついていた。私が顔の吹出物へ、三角形や六角形や花の形に切った絆創膏をてんてんと貼り散らしても誰も可笑《おか》しがらなかったほどなのである。
私はこの吹出物には心をなやまされた。そのじぶんにはいよいよ数も殖《ふ》えて、毎朝、眼をさますたびに掌で顔を撫でまわしてその有様をしらべた。いろいろな薬を買ってつけたが、ききめがないのである。私はそれを薬屋へ買いに行くときには、紙きれへその薬の名を書いて、こんな薬がありますかって、と他人から頼まれたふうにして言わなければいけなかったのである。私はその吹出物を欲情の象徴と考えて眼の先が暗くなるほど恥かしかった。いっそ死んでやったらと思うことさえあった。私の顔に就いてのうちの人たちの不評判も絶頂に達していた。他家へとついでいた私のいちばん上の姉は、治のところへは嫁に来るひとがあるまい、とまで言っていたそうである。私はせっせと薬をつけた。
弟も私の吹出物を心配して、なんべんとなく私の代りに薬を買いに行って呉れた。私と弟とは子供のときから仲がわるくて、弟が中学へ受験する折りにも、私は彼の失敗を願っていたほどであったけれど、こうしてふたりで故郷から離れて見ると、私にも弟のよい気質がだんだん判って来たのである。弟は大きくなるにつれて無口で内気になっていた。私たちの同人雑誌にもときどき小品文を出していたが、みんな気の弱々した文章であった。私にくらべて学校の成績がよくないのを絶えず苦にしていて、私がなぐさめでもするとかえって不機嫌になった。また、自分の額の生えぎわが富士のかたちに三角になって女みたいなのをいまいましがっていた。額がせまいから頭がこんなに悪いのだと固く信じていたのである。私はこの弟にだけはなにもかも許した。私はそのころ、人と対するときには、みんな押し隠してしまうか、みんなさらけ出してしまうか、どちらかであったのである。私たちはなんでも打ち明けて話した。
秋のはじめのある月のない夜に、私たちは港の桟橋へ出て、海峡を渡ってくるいい風にはたはたと吹かれながら赤い糸について話し合った。それはいつか学校の国語の教師が授業中に生徒へ語って聞かせたことであって、私たちの右足の小指に眼に見えぬ赤い糸がむすばれていて、それがするすると長く伸びて一方の端がきっとある女の子のおなじ足指にむすびつけられているのである。ふたりがどんなに離れていてもその糸は切れない、どんなに近づいても、たとい往来で逢っても、その糸はこんぐらかることがない。そうして私たちはその女の子を嫁にもらうことにきまっているのである。私はこの話をはじめて聞いたときには、かなり興奮して、うちへ帰ってからもすぐ弟に物語ってやったほどであった。私たちはその夜も、波の音や、かもめの声に耳傾けつつ、その話をした。お前のワイフは今ごろどうしてるべなあ、と弟に聞いたら、弟は桟橋のらんかんを二、三度両手でゆりうごかしてから、庭あるいてる、ときまり悪げに言った。大きい庭下駄をはいて、団扇《うちわ》をもって、月見草を眺めている少女は、いかにも弟と似つかわしく思われた。私のを語る番であったが、私は真暗い海に眼をやったまま、赤い帯しめての、とだけ言って口を噤《つぐ》んだ。海峡を渡って来る連絡船が、大きい宿屋みたいにたくさんの部屋部屋へ黄色いあかりをともして、ゆらゆらと水平線から浮かんで出た。
これだけは弟にもかくしていた。私がそのとしの夏休みに故郷へ帰ったら、浴衣《ゆかた》に赤い帯をしめたあたらしい小柄な小間使が、乱暴な動作で私の洋服を脱がせて呉れたのだ。みよと言った。
私は寝しなに煙草を一本こっそりふかして、小説の書き出しなどを考える癖があったが、みよはいつの間にかそれを知ってしまって、ある晩私の床をのべてから枕元へ、きちんと煙草盆を置いたのである。私はその次の朝、部屋を掃除しに来たみよへ、煙草はかくれてのんでいるのだから煙草盆なんか置いてはいけない、と言いつけた。みよは、はあ、と言ってふくれたようにしていた。同じ休暇中のことだったが、まちに浪花《なにわ》節《ぶし》の興行物が来たとき、私のうちでは、使っている人たち全部を芝居小屋へ聞きにやった。私と弟も行けと言われたが、私たちは田舎の興行物を莫迦にして、わざと螢をとりに田圃へ出かけたのである。隣村の森ちかくまで行ったが、あんまり夜露がひどかったので、二十そこそこを、籠にためただけでうちへ帰った。浪花節へ行っていた人たちもそろそろ帰って来た。みよに床をひかせ、蚊帳をつらせてから、私たちは電燈を消してその螢を蚊帳のなかへ放した。螢は蚊帳のあちこちをすっすっと飛んだ。みよもしばらく蚊帳のそとに佇《たたず》んで螢を見ていた。私は弟と並んで寝ころびながら、螢の青い火よりもみよのほのじろい姿をよけいに感じていた。浪花節は面白かったろうか、と私はすこし固くなって聞いた。私はそれまで、女中には用事以外の口を決してきかなかったのである。みよは静かな口調で、いいえ、と言った。私はふきだした。弟は、蚊帳の裾に吸いついている一匹の螢を団扇でばさばさ追いたてながら黙っていた。私はなにやら工合がわるかった。
そのころから私はみよを意識しだした。赤い糸と言えば、みよのすがたが胸に浮かんだ。
三 章
四年生になってから、私の部屋へは毎日のようにふたりの生徒が遊びに来た。私は葡《ぶ》萄《どう》酒と鯣《するめ》をふるまった。そうして彼らに多くのでたらめを教えたのである。炭《すみ》のおこしかたに就いて一冊の書物が出ているとか、「けだものの機械」というある新進作家の著書に私がべたべたと機械油を塗って置いて、こうして発売されているのだが、珍しい装幀でないかとか、「美貌の友」という翻訳本のところどころカットされて、そのブランクになっている箇所へ、私のこしらえたひどい文章を、知っている印刷屋へ秘密にたのんで刷りいれてもらって、これは奇書だとか、そんなことを言って友人たちを驚かせたものであった。
みよの思い出もしだいにうすれていたし、そのうえに私は、ひとつうちに居る者どうしが思ったり思われたりすることを変にうしろめたく感じていたし、ふだんから女の悪口ばかり言って来ている手前もあったし、みよに就いてたとえほのかにでも心を乱したのが腹立たしく思われるときさえあったほどで、弟にはもちろん、これらの友人たちにもみよの事だけは言わずに置いたのである。
ところが、そのあたり私は、あるロシアの作家の名だかい長篇小説《*》を読んで、また考え直してしまった。それは、ひとりの女囚人の経歴から書き出されていたが、その女のいけなくなる第一歩は、彼女の主人の甥《おい》にあたる貴族の大学生に誘惑されたことからはじまっていた。私はその小説のもっと大きなあじわいを忘れて、そのふたりが咲き乱れたライラックの花の下で最初の接吻を交したペエジに私の枯葉の枝《し》折《おり》をはさんでおいたのだ。私もまた、すぐれた小説をよそごとのようにして読むことができなかったのである。私には、そのふたりがみよと私とに似ているような気分がしてならなかった。私がいま少しすべてにあつかましかったら、いよいよこの貴族とそっくりになれるのだ、と思った。そう思うと私の臆病さがはかなく感じられもするのである。こんな気のせせこましさが私の過去をあまりに平坦にしてしまったのだと考えた。私自身が人生のかがやかしい受難者になりたく思われたのである。
私はこのことをまず弟へ打ち明けた。晩に寝てから打ち明けた。私は厳粛な態度で話すつもりであったが、そう意識してこしらえた姿勢が逆に邪魔をして来て、結局うわついた。私は、頸《くび》筋《すじ》をさすったり両手をもみ合せたりして、気品のない話しかたをした。そうしなければかなわぬ私の習性を私は悲しく思った。弟は、うすい下唇をちろちろ舐《な》めながら、寝がえりもせず聞いていたが、けっこんするのか、と言いにくそうにして尋ねた。私はなぜだかぎょっとした。できるかどうか、とわざとしおれて答えた。弟は、おそらくできないのではないかという意味のことを案外なおとなびた口調でまわりくどく言った。それを聞いて、私は自分のほんとうの態度をはっきり見つけた。私はむっとして、たけりたったのである。蒲団から半身を出して、だからたたかうのだ、たたかうのだ、と声をひそめて強く言い張った。弟は更《さら》紗《さ》染《ぞ》めの蒲団の下でからだをくねらせて何か言おうとしているらしかったが、私の方を盗むようにして見て、そっと微笑んだ。私も笑い出した。そして、門《かど》出《で》だから、と言いつつ弟の方へ手を差し出した。弟も恥かしそうに蒲団から右手を出した。私は低く声を立てて笑いながら、二、三度弟の力ない指をゆすぶった。
しかし、友人たちに私の決意を承認させるときには、こんな苦心をしなくてよかった。友人たちは私の話を聞きながら、あれこれと思案をめぐらしているような恰好をして見せたが、それは、私の話がすんでからそれへの同意に効果を添えようためのものでしかないのを、私は知っていた。じじつその通りだったのである。
四年生のときの夏やすみには、私はこの友人たちふたりをつれて故郷へ帰った。うわべは、三人で高等学校への受験勉強を始めるためであったが、みよを見せたい心も私にあって、むりやりに友をつれて来たのである。私は、私の友がうちの人たちに不評判でないように祈った。私の兄たちの友人は、みんな地方でも名のある家庭の青年ばかりだったから、私の友のように金《きん》釦《ぼたん》のふたつしかない上着などを着てはいなかったのである。
裏の空屋敷には、そのじぶん大きな鶏舎が建てられていて、私たちはその傍の番小屋で午前中だけ勉強した。番小屋の外側は白と緑のペンキでいろどられて、なかば二坪ほどの板の間で、まだ新しいワニス塗の卓子や椅子がきちんとならべられていた。ひろい扉が東側と北側に二つもついていたし、南側にも洋ふうの開き窓があって、それを皆いっぱいに明け放すと、風がどんどんはいって来て書物のペエジがいつもぱらぱらとそよいでいるのだ。まわりには雑草がむかしのままに生えしげっていて、黄いろい雛が何十羽となくその草の間に見えかくれしつつ遊んでいた。
私たち三人はひるめしどきを楽しみにしていた。その番小屋へ、どの女中が、めしを知らせに来るかが問題であったのである。みよでない女中が来れば、私たちは卓をぱたぱた叩いたり舌打ちしたりして大騒ぎをした。みよが来ると、みんなしんとなった。そして、みよが立ち去るといっせいに吹き出したものであった。ある晴れた日、弟も私たちと一緒にそこで勉強をしていたが、ひるになって、きょうは誰が来るだろう、といつものように皆で語り合った。弟だけは話からはずれて、窓ぎわをぶらぶら歩きながら英語の単語を暗記していた。私たちはいろんな冗談を言って、書物を投げつけ合ったり足踏みして床を鳴らしたりしていたが、そのうちに私は少しふざけ過ぎてしまった。私は弟をも仲間にいれたく思って、お前はさっきから黙っているが、さては、と唇を軽くかんで弟をにらんでやったのである。すると弟は、いや、と短く叫んで右手を大きく振った。持っていた単語のカアドが二、三枚ぱっと飛び散った。私はびっくりして視線をかえた。そのとっさの間に私は気まずい断定を下した。みよの事はきょう限りよそうと思った。それからすぐ、なにごともなかったように笑い崩れた。
その日めしを知らせに来たのは、仕合せと、みよでなかった。母屋へ通る豆畑のあいだの狭い道を、てんてんと一列につらなって歩いて行く皆のうしろへついて、私は陽気にはしゃぎながら豆の丸い葉を幾枚も幾枚もむしりとった。
犠牲などということは初めから考えてなかった。ただいやだったのだ。ライラックの白い茂みが泥を浴びせられた。ことにその悪戯《いたずら》者《もの》が肉親であるのがいっそういやであった。
それからの二、三日は、さまざまに思いなやんだ。みよだって庭を歩くことがあるではないか。彼は私の握手にほとんど当惑した。要するに私はめでたいのではないだろうか。私にとって、めでたいという事ほどひどい恥辱はなかったのである。
おなじころ、よくないことが続いて起った。ある日の昼食の際に、私は弟や友人たちといっしょに食卓へ向かっていたが、その傍でみよが、紅い猿の面の描かれてある絵団扇でぱさぱさと私たちをあおぎながら給仕していた。私はその団扇の風の量で、みよの心をこっそり計っていたものだ。みよは、私よりも弟の方を多くあおいだ。私は絶望して、カツレツの皿へぱちっとフォクを置いた。
みんなして私をいじめるのだ、と思い込んだ。友人たちだってまえから知っていたに違いない、と無《む》闇《やみ》に人を疑った。もう、みよを忘れてやるからいい、と私はひとりできめていた。
また二、三日たって、ある朝のこと、私は、前夜ふかした煙草がまだ五、六ぽん箱にはいって残っているのを枕元へ置き忘れたままで番小屋へ出掛け、あとで気がついてうろたえて部屋へ引返して見たが、部屋は綺麗に片づけられ箱がなかったのである。私は観念した。みよを呼んで、煙草はどうした、見つけられたろう、と叱るようにして聞いた。みよは真面目な顔をして首を振った。そしてすぐ、部屋のなげしの裏へ背のびして手をつっこんだ。金色の二つの蝙《こう》蝠《もり》が飛んでいる緑いろの小さな紙箱はそこから出た。
私はこのことから勇気を百倍にもして取りもどし、まえからの決意にふたたび眼ざめたのである。しかし、弟のことを思うとやはり気がふさがって、みよのわけで友人たちと騒ぐことをも避けたし、そのほか弟には、なにかにつけていやしい遠慮をした。自分から進んでみよを誘惑することもひかえた。私はみよから打ち明けられるのを待つことにした。私はいくらでもその機会をみよに与えることができたのだ。私はしばしばみよを呼んで要らない用事を言いつけた。そして、みよが私の部屋へはいって来るときには、私はどこかしら油断のあるくつろいだ恰好をして見せたのである。みよの心を動かすために、私は顔にも気をくばった。そのころになって私の顔の吹出物もどうやら直っていたが、それでも惰性で、私はなにかと顔をこしらえていた。私はその蓋のおもてに蔦《つた》のような長くくねった蔓《つる》草《くさ》がいっぱい彫り込まれてある美しい銀のコンパクトを持っていた。それでもって私のきめを時折りうめていたのだけれど、それをなおすこし心をいれてしたのである。
これからはもう、みよの決心しだいであると思った。しかし、機会はなかなか来なかったのである。番小屋で勉強している間も、ときどきそこから脱け出て、みよを見に母屋へ帰った。ほとんどあらっぽいほどばたんばたんとはき掃除しているみよの姿を、そっと眺めては唇をかんだ。
そのうちにとうとう夏やすみも終りになって、私は弟や友人たちとともに故郷を立ち去らなければいけなくなった。せめてこのつぎの休暇まで私を忘れさせないで置くような何かちょっとした思い出だけでも、みよの心に植えつけたいと念じたが、それも駄目であった。
出発の日が来て、私たちはうちの黒い箱馬車へ乗り込んだ。うちの人たちと並んで玄関先へ、みよも見送りに立っていた。みよは、私の方も弟の方も、見なかった。はずした萌《もえ》黄《ぎ》のたすきを数《じゆ》珠《ず》のように両手でつまぐりながら下ばかりを向いていた。いよいよ馬車が動き出してもそうしていた。私はおおきい心残りを感じて故郷を離れたのである。
秋になって、私はその都会から汽車で三十分ぐらいかかって行ける海岸の温泉地へ、弟をつれて出掛けた。そこには、私の母と病後の末の姉とが家を借りて湯治していたのだ。私はずっとそこへ寝泊りして、受験勉強をつづけた。私は秀才というぬきさしならぬ名誉のために、どうしても、中学四年から高等学校へはいって見せなければならなかったのである。私の学校ぎらいはそのころになって、いっそうひどかったのであるが、何かに追われている私は、それでも一《いち》途《ず》に勉強していた。私はそこから汽車で学校へかよった。日曜ごとに友人たちが遊びに来るのだ。私たちはもう、みよの事を忘れたようにしていた。私は友人たちと必ずピクニックにでかけた。海岸のひらたい岩の上で、肉鍋をこさえ、葡萄酒をのんだ。弟は声もよくて多くのあたらしい歌を知っていたから、私たちはそれらを弟に教えてもらって、声をそろえて歌った。遊びつかれてその岩の上で眠って、眼がさめると潮が満ちて陸つづきだったはずのその岩が、いつか離れ島になっているので、私たちはまだ夢から醒《さ》めないでいるような気がするのである。
私はこの友人たちと一日でも逢わなかったら淋しいのだ。そのころの事であるが、ある野《の》分《わき》のあらい日に、私は学校で教師につよく両頬をなぐられた。それが偶然にも私の仁《にん》侠《きよう》的な行為からそんな処罰を受けたのだから、私の友人たちは怒った。その日の放課後、四年生全部が博物教室へ集まって、その教師の追放について協議したのである。ストライキ、ストライキ、と声高くさけぶ生徒もあった。私は狼狽した。もし私一個人のためを思ってストライキをするのだったら、よして呉れ、私はあの教師を憎んでいない、事件は簡単なのだ、簡単なのだ、と生徒たちに頼みまわった。友人たちは私を卑怯だとか勝手だとか言った。私は息苦しくなって、その教室から出てしまった。温泉場の家へ帰って、私はすぐ湯にはいった。野分にたたかれて破れつくした二、三枚の芭焦の葉が、その庭の隅から湯《ゆ》槽《ぶね》のなかへ青い影を落としていた。私は湯槽のふちに腰かけながら生きた気もせず思いに沈んだ。
恥かしい思い出に襲われるときにはそれを振りはらうために、ひとりして、さて、と呟く癖が私にあった。簡単なのだ、簡単なのだ、と囁いて、あちこちをうろうろしていた自身の姿を想像して私は、湯を掌で掬ってはこぼし掬ってはこぼししながら、さて、さて、と何回も言った。
あくる日、その教師が私たちにあやまって、結局ストライキは起らなかったし、友人たちともわけなく仲直り出来たけれど、この災難は私を暗くした。みよのことなどしきりに思い出された。ついには、みよと逢わねば自分がこのまま堕落してしまいそうにも、考えられたのである。
ちょうど母も姉も湯治からかえることになって、その出《しゆつ》立《たつ》の日が、あたかも土曜日であったから、私は母たちを送って行くという名目で、故郷へ戻ることが出来た。友人たちには秘密にしてこっそり出掛けたのである。弟にも帰郷のほんとのわけは言わずに置いた。言わなくても判っているのだと思っていた。
みんなでその温泉場を引きあげ、私たちの世話になっている呉服商へひとまず落ちつき、それから母と姉と三人で故郷へ向かった。列車がプラットフオムを離れるとき、見送りに来ていた弟が、列車の窓から青い富士額を覗かせて、がんばれ、とひとこと言った。私はそれをうっかり素直に受けいれて、よしよし、と機嫌よくうなずいた。
馬車が隣村を過ぎて、しだいにうちへ近づいて来ると、私はまったく落ちつかなかった。日が暮れて、空も山もまっくらだった。稲田が秋風に吹かれてさらさらと動く声に、耳を傾けては胸を轟《とどろ》かせた。絶えまなく窓のそとの闇に眼をくばって、道ばたのすすきのむれが白くぽっかり鼻先に浮かぶと、のけぞるくらいびっくりした。
玄関のほの暗い軒燈の下でうちの人たちがうようよ出迎えていた。馬車がとまったとき、みよもばたばた走って玄関から出て来た。寒そうに肩を丸くすぼめていた。
その夜、二階の一間に寝てから、私は非常に淋しいことを考えた。凡俗という観念に苦しめられたのである。みよのことが起ってからは、私もとうとう莫迦になってしまったのではないか。女を思うなど、誰にでもできることである。しかし私のはちがう、ひとくちには言えぬがちがう。私の場合は、あらゆる意味で下等でない。しかし、女を思うほどの者は誰でもそう考えているのではないか。しかし、と私は自身のたばこの煙にむせびながら強情を張った。私の場合には思想がある!
私はその夜、みよと結婚するに就いて、必ずさけられないうちの人たちとの論争を思い、寒いほどの勇気を得た。私のすべての行為は凡俗でない、やはり私はこの世のかなりな単位にちがいないのだ、と確信した。それでもひどく淋しかった。淋しさが、どこから来るのか判らなかった。どうしても寝つかれないので、あのあんまをした。みよの事をすっかり頭から抜いてした。みよをよごす気にはなれなかったのである。
朝、眼をさますと、秋空がたかく澄んでいた。私は早くから起きて、むかいの畑へ葡萄を取りに出かけた。みよに大きい竹籠を持たせてついて来させた。私はできるだけ気軽なふうでみよにそう言いつけたのだから、誰にも怪しまれなかったのである。葡萄棚は畑の東南の隅にあって、十坪ぐらいの大きさにひろがっていた。葡萄の熟するころになると、よしずで四方をきちんと囲った。私たちは片すみの小さい潜《くぐり》戸《ど》をあけて、かこいの中へはいった。なかは、ほっかりと暖かかった。二、三匹の黄色いあしながばちが、ぶんぶん言って飛んでいた。朝日が、屋根の葡萄の葉と、まわりのよしずを透して明るくさしていて、みよの姿もうすみどりいろに見えた。ここへ来る途中には、私もあれこれと計画して、悪党らしく口まげて微笑んだりしたのであったが、こうしてたった二人きりになって見ると、あまりの気づまりからほとんど不機嫌になってしまった。私はその板の潜戸をさえわざとあけたままにしていたものだ。
私は背が高かったから、踏台なしに、ぱちんぱちんと植木鋏で葡萄のふさを摘んだ。そして、いちいちそれをみよへ手渡した。みよはその一房一房の朝露を白いエプロンで手早く拭きとって、下の籠にいれた。私たちはひとことも語らなかった。永い時間のように思われた。そのうちに私はだんだん怒りっぽくなった。葡萄がやっと籠いっぱいになろうとするころ、みよは、私の渡す一房へ差し伸べて寄こした片手を、ぴくっとひっこめた。私は、葡萄をみよの方へおしつけ、おい、と呼んで舌打ちした。
みよは、右手の附根を左手できゅっと握っていきんでいた。刺されたべ、と聞くと、ああ、とまぶしそうに眼を細めた。ばか、と私は叱ってしまった。みよは黙って、笑っていた。これ以上私はそこにいたたまらなかった。くすりつけてやる、と言ってそのかこいから飛び出した。すぐ母屋へつれて帰って、私はアンモニアの瓶を帳場の薬棚から捜してやった。その紫のガラス瓶を、出来るだけ乱暴にみよへ手渡したきりで、自分で塗ってやろうとはしなかった。
その日の午後に、私は、近ごろまちから新しく通い出した灰色の幌《ほろ》のかかってあるそまつな乗合自動車にゆすぶられながら、故郷を去った。うちの人たちは馬車で行け、と言ったのだが、定紋のついて黒くてかてか光ったうちの箱馬車は、殿様くさくて私にはいやだったのである。私は、みよとふたりして摘みとった一籠の葡萄を膝の上にのせて、落葉のしきつめた田舎道を意味ふかく眺めた。私は満足していた。あれだけの思い出でもみよに植えつけてやったのは私として精いっぱいのことである、と思った。みよはもう私のものにきまった、と安心した。
そのとしの冬やすみは、中学生としての最後の休暇であったのである。帰郷の日のちかくなるにつれて、私と弟とは幾分の気まずさをお互いに感じていた。
いよいよ共にふるさとの家へ帰って来て、私たちはまず台所の石の炉ばたに向かいあってあぐらをかいて、それからきょろきょろとうちの中を見わたしたのである。みよがいないのだ。私たちは二度も三度も不安な瞳をぶっつけ合った。その日、夕飯をすませてから、私たちは次兄に誘われて彼の部屋へ行き、三人して火《こ》燵《たつ》にはいりながらトランプをして遊んだ。私にはトランプのどの札もただまっくろに見えていた。話の何かいいついでがあったから、思い切って次兄に尋ねた。女中がひとり足りなくなったようだが、と手に持っていた五、六枚のトランプで顔を被うようにしつつ、余念なさそうな口調で言った。もし次兄が突っこんで来たら、さいわい弟も居合せていることだし、はっきり言ってしまおうと心をきめていた。
次兄は、自分の手の札を首かしげかしげしてあれこれと出し迷いながら、みよか、みよは婆様と喧嘩して里さ戻った、あれは意地っぱりだぜえ、と呟いて、ひらっと一枚捨てた。私も一枚投げた。弟も黙って一枚捨てた。
それから四、五日して、私は鶏舎の番小屋を訪れ、そこの番人である小説の好きな青年から、もっとくわしい話を聞いた。みよは、ある下男にたったいちどよごされたのを、ほかの女中たちに知られて、私のうちにいたたまらなくなったのだ。男は、他にもいろいろ悪いことをしたので、そのときはすでに私のうちから出されていた。それにしても、青年はすこし言い過ぎた。みよは、やめせ、やめせ、とあとで囁いた、とその男の手柄話まで添えて。
正月がすぎて、冬やすみも終りに近づいたころ、私は弟とふたりで、文庫蔵へはいってさまざまな蔵書や軸物を見てあそんでいた。高いあかり窓から雪の降っているのがちらちら見えた。父の代から長兄の代にうつると、うちの部屋部屋の飾りつけから、こういう蔵書や軸物の類まで、ひたひたと変って行くのを、私は帰郷のたびごとに、興深く眺めていた。私は、長兄がちかごろあたらしく求めたらしい一本の軸物をひろげて見ていた。山吹が水に散っている絵であった。弟は私の傍へ、大きな写真箱を持ち出して来て、何百枚もの写真を、冷くなる指先へときどき白い息を吐きかけながら、せっせと見ていた。しばらくして、弟は私の方へ、まだ台紙の新しい手札型の写真をいちまいのべて寄こした。見ると、みよが最近私の母の供をして、叔母の家へでも行ったらしく、そのとき、叔母と三人してうつした写真のようであった。母がひとり低いソファに坐って、そのうしろに叔母とみよが同じ背たけぐらいで並んで立っていた。背景は薔薇の咲き乱れた花園であった。私たちは、お互いに頭をよせつつ、なおちょっとの間その写真に眼をそそいだ。私は、こころの中でとっくに弟と和解していたのだし、みよのあのことも、ぐずぐずして弟にはまだ知らせてなかったし、わりにおちつきを装うてその写真を眺めることが出来たのである。みよは、動いたらしく顔から胸にかけての輪郭がぼっとしていた。叔母は両手を帯の上に組んでまぶしそうにしていた。私は、似ていると思った。
魚服記
本州の北端の山脈は、ぼんじゅ山脈というのである。せいぜい三、四百メエトルほどの丘陵が起伏しているのであるから、ふつうの地図には載っていない。むかし、このへん一帯はひろびろした海であったそうで、義経が家来たちを連れて北へ北へと亡命して行って、はるか蝦《え》夷《ぞ》の土地へ渡ろうとここを船でとおったということである。そのとき、彼らの船がこの山脈へ衝突した。突きあたった跡がいまでも残っている。山脈のまんなかごろのこんもりした小山の中腹にそれがある。約一《いつ》畝《せ》歩《ぶ》ぐらいの赤土の崖がそれなのであった。
小山は馬《ま》禿《はげ》山《やま》と呼ばれている。ふもとの村から崖を眺めるとはしっている馬の姿に似ているからと言うのであるが、事実は老いぼれた人の横顔に似ていた。
馬禿山はその山の陰の景色がいいから、いっそうこの地方で名高いのである。麓の村は戸数もわずか二、三十でほんの寒村であるが、その村はずれを流れている川を二里ばかりさかのぼると馬禿山の裏へ出て、そこには十丈ちかくの滝がしろく落ちている。夏の末から秋にかけて山の木木が非常によく紅葉するし、そんな季節には近辺のまちから遊びに来る人たちで山もすこしにぎわうのであった。滝の下には、ささやかな茶店さえ立つのである。
ことしの夏の終りごろ、この滝で死んだ人がある。故意に飛び込んだのではなくて、まったくの過失からであった。植物の採集をしにこの滝へ来た色の白い都の学生である。このあたりには珍しい羊歯《しだ》類《るい》が多くて、そんな採集家がしばしば訪れるのだ。
滝壺は三方が高い絶壁で、西側の一面だけが狭くひらいて、そこから谷川が岩を噛みつつ流れ出ていた。絶壁は滝のしぶきでいつも濡れていた。羊歯類はこの絶壁のあちこちにも生えていて、滝のとどろきにしじゅうぶるぶるとそよいでいるのであった。
学生はこの絶壁によじのぼった。ひるすぎのことであったが、初秋の日ざしはまだ絶壁の頂上に明るく残っていた。学生が、絶壁のなかばに到達したとき、足だまりにしていた頭ほどの石ころがもろくも崩れた。崖から剥《は》ぎ取られたようにすっと落ちた。途中で絶壁の老樹の枝にひっかかった。枝が折れた。すさまじい音をたてて淵《ふち》へたたきこまれた。
滝の附近に居合せた四、五人がそれを目撃した。しかし、淵のそばの茶店にいる十五になる女の子が一番はっきりとそれを見た。
いちど、滝壺ふかく沈められて、それから、すらっと上半身が水面から躍りあがった。眼をつぶって口を小さくあけていた。青色のシャツのところどころが破れて、採集かばんはまだ肩にかかっていた。
それきりまたぐっと水底へ引きずりこまれたのである。
春の土用から秋の土用にかけて天気のいい日だと、馬禿山から白い煙の幾筋も昇っているのが、ずいぶん遠くからでも眺められる。この時分の山の木には精気が多くて炭をこさえるのに適しているから、炭を焼く人達も忙しいのである。
馬禿山には炭焼小屋が十いくつある。滝の傍にもひとつあった。この小屋は、他の小屋とよほどはなれて建てられていた。小屋の人がちがう土地のものであったからである。茶店の女の子はその小屋の娘であって、スワという名前である。父親とふたりで年中そこへ寝《ね》起《おき》しているのであった。
スワが十三の時、父親は滝壺のわきに丸太とよしずで小さい茶店をこしらえた。ラムネと塩せんべいと水《みず》無《なし》飴《あめ》とそのほか二、三種の駄菓子をそこへ並べた。
夏近くなって山へ遊びに来る人がぼつぼつ見え始めるじぶんになると、父親は毎朝その品物を手籠へ入れて茶店まではこんだ。スワは父親のあとからはだしでぱたぱたついて行った。父親はすぐ炭小屋へ帰ってゆくが、スワは一人いのこって店番するのであった。遊《ゆ》山《さん》の人影がちらとでも見えると、やすんで行きせえ、と大声で呼びかけるのだ。父親がそう言えと申しつけたからである。しかし、スワのそんな美しい声も滝の大きな音に消されて、たいていは、客を振りかえさすことさへ出来なかった。一日五十銭と売りあげることがなかったのである。
黄昏《たそがれ》時《どき》になると父親は炭小屋から、からだ中を真黒にしてスワを迎えに来た。
「なんぼ売れた」
「なんも」
「そだべ、そだべ」
父親はなんでもなさそうに呟きながら滝を見上げるのだ。それから二人して店の品物をまた手籠へしまい込んで、炭小屋へひきあげる。
そんな日課が霜のおりるころまでつづくのである。
スワを茶店にひとり置いても心配はなかった。山に生れた鬼子であるから、岩根を踏みはずしたり滝壺へ吸いこまれたりする気づかいがないのであった。天気が良いとスワは裸身になって滝壺のすぐ近くまで泳いで行った。泳ぎながらも客らしい人を見つけると、あかちゃけた短い髪を元気よくかきあげてから、やすんで行きせえ、と叫んだ。
雨の日には、茶店の隅でむしろをかぶって昼寝をした。茶店の上には樫の大木がしげった枝をさしのべていていい雨よけになった。
つまりそれまでのスワは、どうどうと落ちる滝を眺めては、こんなに沢山水が落ちてはいつかきっとなくなって了《しま》うにちがいない、と期待したり、滝の形はどうしてこういつも同じなのだろう、といぶかしがったりしていたものであった。
それがこのごろになって、すこし思案ぶかくなったのである。
滝の形はけっして同じでないということを見つけた。しぶきのはねる模様でも、滝の幅でも、眼まぐるしく変っているのがわかった。はては、滝は水でない、雲なのだ、ということも知った。
滝口から落ちると白くもくもくふくれ上がる案配からでもそれと察しられた。だいいち水がこんなにまでしろくなる訳はない、と思ったのである。
スワはその日もぼんやり滝壺のかたわらに佇《たたず》んでいた。曇った日で秋風がかなりいたくスワの赤い頬を吹きさらしているのだ。
むかしのことを思い出していたのである。いつか父親がスワを抱いて炭《すみ》窯《がま》の番をしながら語ってくれたが、それは、三郎と八郎というきこりの兄弟があって、弟の八郎がある日、谷川でやまべというさかなを取って家へ持って来たが、兄の三郎がまだ山からかえらぬうちに、そのさかなをまず一匹焼いてたべた。食ってみるとおいしかった。二匹三匹とたべてもやめられないで、とうとうみんな食ってしまった。そうするとのどが乾いて乾いてたまらなくなった。井戸の水をすっかりのんで了って、村はずれの川端へ走って行って、また水をのんだ。のんでるうちに、体中へぶつぶつと鱗《うろこ》が吹き出た。三郎があとからかけつけた時には、八郎はおそろしい大蛇になって川を泳いでいた。八郎やあ、と呼ぶと、川の中から大蛇が涙をこぼして、三郎やあ、とこたえた。兄は堤の上から、弟は川の中から、八郎やあ、三郎やあ、と泣き泣き呼び合ったけれど、どうする事も出来なかったのである。
スワがこの物語を聞いた時には、あわれであわれで父親の炭の粉だらけの指を小さな口におしこんで泣いた。
スワは追憶からさめて、不《ふ》審《しん》げに眼をぱちぱちさせた。滝がささやくのである。八郎やあ、三郎やあ、八郎やあ。
父親が絶壁の紅《あか》い蔦《つた》の葉を掻きわけながら出て来た。
「スワ、なんぼ売れた」
スワは答えなかった。しぶきにぬれてきらきら光っている鼻先を強くこすった。父親はだまって店を片づけた。
炭小屋までの三町ほどの山道を、スワと父親は熊《くま》笹《ざさ》を踏みわけつつ歩いた。
「もう店しまうべえ」
父親は手籠を右手から左手へ持ちかえた。ラムネの瓶がからから鳴った。
「秋土用すぎて山さ来る奴もねえべ」
日が暮れかけると山は風の音ばかりだった。楢《なら》や樅《もみ》の枯葉が折々みぞれのように二人のからだへ降りかかった。
「お父《ど》」
スワは父親のうしろから声をかけた。
「おめえ、なにしに生きでるば」
父親は大きい肩をぎくっとすぼめた。スワのきびしい顔をしげしげ見てから呟いた。
「判らねじゃ」
スワは手にしていたすすきの葉を噛みさきながら言った。
「くたばった方あ、いいんだに」
父親は平手をあげた。ぶちのめそうと思ったのである。しかし、もじもじと手をおろした。スワの気が立って来たのをとうから見抜いていたが、それもスワがそろそろ一人前のおんなになったからだな、と考えてそのときは堪《かん》忍《にん》してやったのであった。
「そだべな、そだべな」
スワは、そういう父親のかかりくさのない返事が馬鹿くさくて馬鹿くさくて、すすきの葉をべっべっと吐き出しつつ、
「阿《あ》呆《ほ》、阿呆」
と呶《ど》鳴《な》った。
ぼんが過ぎて茶店をたたんでからスワのいちばんいやな季節がはじまるのである。
父親はこのころから四、五日置きに炭を背負って村へ売りに出た。人をたのめばいいのだけれど、そうすると十五銭も二十銭も取られてたいしたついえであるから、スワひとりを残してふもとの村へおりて行くのであった。
スワは空の青くはれた日だとその留守に蕈《きのこ》をさがしに出かけるのである。父親のこさえる炭は一俵で五、六銭も儲《もう》けがあればいい方だったし、とてもそれだけではくらせないから、父親はスワに蕈を取らせて村へ持って行くことにしていた。
なめこというぬらぬらした豆きのこは大変ねだんがよかった。それは羊歯類の密生している腐木へかたまってはえているのだ。スワはそんな苔を眺めるごとに、たった一人のともだちのことを追想した。蕈のいっぱいつまった籠の上へ青い苔をふりまいて、小屋へ持って帰るのが好きであった。
父親は炭でも蕈でもそれがいい値で売れると、きまって酒くさいいきをしてかえった。たまにはスワへも鏡のついた紙の財布やなにかを買って来て呉れた。
凩《こがらし》のために朝から山があれて小屋のかけむしろがにぶくゆられていた日であった。父親は早暁から村へおりて行ったのである。
スワは一日じゅう小屋へこもっていた。めずらしくきょうは髪をゆってみたのである。ぐるぐる巻いた髪の根へ、父親の土産の浪模様がついたたけながをむすんだ。それから焚《たき》火《び》をうんと燃やして父親の帰るのを待った。木々のさわぐ音にまじってけだものの叫び声が幾度もきこえた。
日が暮れかけて来たのでひとりで夕飯を食った。くろいめしに焼いた味噌をかてて食った。
夜になると風がやんでしんしんと寒くなった。こんな妙に静かな晩には山できっと不思議が起るのである。天《てん》狗《ぐ》の大木を伐り倒す音がめりめりと聞えたり、小屋の口あたりで、誰かのあずきをとぐ気配がさくさくと耳についたり、遠いところから山《やま》人《ふと》の笑い声がはっきり響いて来たりするのであった。
父親を待ちわびたスワは、わらぶとん着て炉ばたへ寝てしまった。うとうとと眠っていると、ときどきそっと入口のむしろをあけて覗き見するものがあるのだ。山人が覗いているのだ、と思って、じっと眠ったふりをしていた。
白いもののちらちら入口の土間へ舞いこんで来るのが燃えのこりの焚火のあかりでおぼろに見えた。初雪だ! と夢心地ながらうきうきした。
疼《とう》痛《つう》。からだがしびれるほど重かった。ついであのくさい呼吸を聞いた。
「阿呆」
スワは短く叫んだ。
ものもわからず外へはしって出た。
吹雪! それがどっと顔をぶった。思わずめためた坐って了った。みるみる髪も着物もまっしろになった。
スワは起きあがって肩であらく息をしながら、むしむし歩き出した。着物が烈風で揉《も》みくちゃにされていた。どこまでも歩いた。
滝の音がだんだんと大きく聞えて来た。ずんずん歩いた。てのひらで水《みず》洟《ばな》を何度も拭《ぬぐ》った。ほとんど足の真下で滝の音がした。
狂い唸る冬木立の、細いすきまから、
「おど!」
とひくく言って飛び込んだ。
気がつくとあたりは薄暗いのだ。滝の轟きが幽《かす》かに感じられた。ずっと頭の上でそれを感じたのである。からだがその響きにつれてゆらゆら動いて、みうちが骨まで冷たかった。
ははあ水の底だな、とわかると、やたらむしょうにすっきりした。さっぱりした。
ふと、両脚をのばしたら、すすと前へ音もなく進んだ。鼻がしらがあやうく岸の岩角へぶっつかろうとした。
大蛇!
大蛇になってしまったのだと思った。うれしいな、もう小屋へ帰れないのだ、とひとりごとを言って口ひげを大きくうごかした。
小さな鮒《ふな》であったのである。ただ口をぱくぱくやって鼻さきの疣《いぼ》をうごめかしただけのことであったのに。
鮒は滝壺のちかくの淵をあちこちと泳ぎまわった。胸《むな》鰭《びれ》をぴらぴらさせて水面へ浮かんで来たかと思うと、つと尾鰭をつよく振って底深くもぐりこんだ。
水のなかの小えびを追っかけたり、岸辺の葦のしげみに隠れて見たり、岩角の苔をすすったりして遊んでいた。
それから鮒はじっとうごかなくなった。時折り、胸鰭をこまかくそよがせるだけである。なにか考えているらしかった。しばらくそうしていた。
やがてからだをくねらせながらまっすぐに滝壺へむかって行った。たちまち、くるくると木の葉のように吸いこまれた。
列 車
一九二五年に梅鉢工場という所でこしらえられたC五一型のその機関車は、同じ工場で同じころ製作された三等客車三輛と、食堂車、二等客車、二等寝台車、おのおの一輛ずつと、ほかに郵便やら荷物やらの貨車三輛と、都《つ》合《ごう》九つの箱に、ざっと二百名からの旅客と十万を越える通信とそれにまつわる幾多の胸痛む物語とを載せ、雨の日も風の日も午後の二時半になれば、ピストンをはためかせて上野から青森へ向けて走った。時に依って万歳の叫喚で送られたり、ハンカチで名《な》残《ご》りを惜しまれたり、または嗚《お》咽《えつ》でもって不吉な餞《はなむけ》を受けるのである。列車番号は一○三。
番号からして気持が悪い。一九二五年からいままで、八年も経っているが、その間にこの列車は幾万人の愛情を引き裂いたことか。げんに私がこの列車のため、ひどくからい目に遭《あ》わされた。
つい昨年の冬、汐田がテツさんを国元へ送りかえした時のことである。
テツさんと汐田とは同じ郷里で幼いときからの仲らしく、私も汐田と高等学校の寮でひとつ室に寝起していた関係から折りにふれてはこの恋愛を物語られた。テツさんは貧しい育ちの娘であるから、少々内福な汐田の家では二人の結婚は不承知であって、それゆえ汐田は彼の父親と、いくたびとなく烈しい口論をした。その最初の喧嘩の際、汐田は卒倒せんばかりに興奮して、しまいに、滴々と鼻血を流したのであるが、そのような愚直な插話さえ、年若い私の胸を異様に轟《とどろ》かせたものだ。
そのうちに私も汐田も高等学校を出て、一緒に東京の大学へはいった。それから三年経っている。この期間は、私にとっては困難なとしつきであったけれども、汐田にはそんなことがなかったらしく、毎日をのうのうと暮していたようであった。私の最初間借していた家が大学のじき近くにあったので、汐田は入学当時こそほんの二、三回そこへ寄って呉れたが、環境も思想も音を立てつつ離《り》叛《はん》して行っている二人には、以前のようなわけへだて無い友情はとても望めなかったのだ。私のひがみからかも知れないが、あのときもし、テツさんの上京さえなかったなら、汐田はきっと永久に私から遠のいてしまうつもりであったらしい。
汐田は私とむつまじい交渉を絶ってから三年目の冬に、突然、私の郊外の家を訪れてテツさんの上京を告げたのである。テツさんは汐田の卒業を待ち兼ねて、ひとりで東京へ逃げて来たのであった。
そのころには私もある無学な田舎女と結婚していたし、いまさら汐田のその出来事に胸をときめかすような、そんな若やいだ気持をしだいにうしないかけていた矢先であったから、汐田のだしぬけな来訪に幾分まごつきはしたが、彼のその訪問の底意を見抜く事を忘れなかった。そんな一少女の出《しゆつ》奔《ぽん》を知己の間に言いふらすことが、彼の自尊心をどんなに満足させたか。私は彼の有《う》頂《ちよう》天《てん》を不愉快に感じ、彼のテツさんに対する真実を疑いさえした。私のこの疑惑は無残にも的中していた。彼は私にひとしきり、狂喜し感激して見せたあげく、眉《み》間《けん》に皺を寄せて、どうしたらいいだろう? という相談を小声で持ちかけたではないか。私はもはや、そのようなひまな遊戯には同情が持てなかったので、君も利巧になったね、君がテツさんに昔ほどの愛を感じられなかったなら、別れるほかはあるまい、と汐田の思うつぼを直《ちよく》截《せつ》に言ってやった。汐田は、口角にまざまざと微笑をふくめて、しかし、と考え込んだ。
それから四、五日して私は汐田から速達郵便を受け取った。その葉書には、友人たちの忠告もあり、お互いの将来のためにテツさんをくにへ返す、あすの二時半の汽車で帰るはずだ、という意味のことがらが簡単に認《したた》められていた。私は頼まれもせぬのに、テツさんを見送ってやろうと即座に覚悟をきめた。私にはそんな軽はずみなことをしがちな悲しい習性があったのである。
あくる日は朝から雨が降っていた。
私はしぶる妻をせきたてて、一緒に上野駅へ出掛けた。
一○三号のその列車は、つめたい雨の中で黒煙を吐きつつ発車の時刻を待っていた。私たちは列車の窓をひとつひとつたんねんに捜して歩いた。テツさんは機関車のすぐ隣の三等客車に席をとっていた。三、四年まえに汐田の紹介でいちど逢ったことがあるけれども、あれから見ると顔の色がたいへん白くなって、頤《あご》のあたりもふっくりとふとっているのであった。テツさんも私の顔を忘れずにいて呉れて、私が声をかけたら、すぐ列車の窓から半身乗り出して嬉しそうに挨拶をかえしたのである。私はテツさんに妻を引き合せてやった。私がわざわざ妻を連れて来たのは妻もまたテツさんと同じように貧しい育ちの女であるから、テツさんを慰めるにしても、私などよりなにかきっと適切な態度や言葉をもってするにちがいないと独断したからであった。しかし、私はまんまと裏切られたのである。テツさんと妻は、お互いに貴婦人のようなお辞儀を無言で取り交しただけであった。私は、まのわるい思いがして、なんの符号であろうか客車の横腹へしろいペンキで小さく書かれてある 134273 という文字のあたりをこつこつと洋傘の柄でたたいたものだ。
テツさんと妻は天候について二言三言話し合った。その対話がすんでしまうと、みんなはいよいよ手持ぶさたになった。テツさんは、窓縁につつましく並べて置いた丸い十本の指をやたらにかがめたり伸ばしたりしながら、ひとつ処をじっと見つめているのであった。私はそのような光景を見て居れなかったので、テツさんのところからこっそり離れて、長いプラットフオムをさまよい歩いたのである。列車の下から吐き出されるスチイムが冷い湯気となって、白々と私の足もとを這い廻っていた。
私は電気時計のあたりで立ちどまって、列車を眺めた。列車は雨ですっかり濡れて、黝《あおぐろ》く光っていた。
三輛目の三等客車の窓から、思い切り首をさしのべて五、六人の見送りの人たちへおろおろ会釈している蒼黒い顔がひとつ見えた。そのころ日本では他のある国と戦争を始めていたが、それに動員された兵士であろう。私は見るべからざるものを見たような気がして、窒息しそうに胸苦しくなった。
数年まえ私はある思想団体にいささかでも関係を持ったことがあって、のちまもなく見《み》映《ば》えのせぬ申しわけを立ててその団体と別れてしまったのであるが、いま、こうして兵士を眼の前に凝視し、また、恥かしめられ汚されて帰郷して行くテツさんを眺めては、私のあんな申しわけが立つ立たぬどころではないと思ったのである。
私は頭の上の電気時計を振り仰いだ。発車までまだ三分ほど間があった。私は堪《たま》らない気持がした。誰だってそうであろうが、見送人にとって、この発車前の三分間ぐらい閉口なものはない。言うべきことは、すっかり言いつくしてあるし、ただむなしく顔を見合せているばかりなのである。まして今のこの場合、私はその言うべき言葉さえなにひとつ考えつかずにいるではないか。妻がもっと才能のある女であったならば、私はまだしも気楽なのであるが、見よ、妻はテツさんの傍にいながら、むくれたような顔をして先刻から黙って立ちつくしているのである。私は思い切ってテツさんの窓の方へあるいて行った。
発車が間近いのである。列車は四百五十マイルの行程を前にしていきりたち、プラットフオムは色めき渡った。私の胸には、もはや他人の身の上まで思いやるような、そんな余裕がなかったので、テツさんを慰めるのに「災難」という無責任な言葉を使ったりした。しかし、のろまな妻は列車の横壁にかかってある青い鉄札の、水玉が一杯ついた文字をこのごろ習いたてのたどたどしい智識でもって、FOR A-O-MO-MIとひくく読んでいたのである。
地球図
ヨワン榎《えのき》は伴《バ》天《テ》連《レン》ヨワン・バッティスタ・シロオテの墓標である。切《キリ》支《シ》丹《タン》屋敷《*》の裏門をくぐってすぐ右手にそれがあった。いまから二百年ほどむかしに、シロオテはこの切支丹屋敷の牢のなかで死んだ。彼のしかばねは、屋敷の庭の片隅にうずめられ、ひとりの風流な奉行がそこに一本の榎を植えた。榎は根を張り枝をひろげた。としを経て大木になり、ヨワン榎とうたわれた。
ヨワン・バッティスタ・シロオテは、ロオマンの人であって、もともと名門の出であった。幼いときからして天主の法をうけ、学に従うこと二十二年、そのあいだ十六人もの先生についた。三十六歳のとき、本師キレイメンス十二世からヤアパンニアに伝道するように言いつけられた。西暦一千七百年のことである。
シロオテは、まず日本の風俗と言葉とを勉強した。この勉強に三年かかったのである。ヒイタサントオルムという日本の風俗を記した小冊子と、デキショナアリヨムという日本の単語をいちいちロオマンの単語でもって翻訳してある書物と、この二冊で勉強したのであった。ヒイタサントオルムのところどころには、絵をえがきいれたペエジがさしはさまれていた。
三年研究して自信のついたころ、やはりおなじ師命をうけてペッケンにおもむくトオマス・テトルノンという人と、めいめいカレイ一隻《せき》ずつに乗りつれ、東へ進んだ。ヤネワを経て、カナアリヤに至り、ここでまたフランスヤの海舶一隻ずつに乗りかえ、とうとうロクソン《*》に着いた。ロクソンの海岸に船をつなぎ、ふたりは上陸した。トオマス・テトルノンは、すぐシロオテと別れてペッケンへむかったが、シロオテはひとりのこって、くさぐさの準備をととのえた。ヤアパンニアは近いのである。
ロクソンには日本人の子孫が三千人もいたので、シロオテにとって何かと便利であった。シロオテは所持の貨幣を黄金に換えた。ヤアパンニア《*》では黄金を重宝にするという噂話を聞いたからであった。日本の衣服をこしらえた。碁盤のすじのような模様がついた浅黄いろの木綿着物であった。刀も買った。刃わたり二尺四寸余の長さであった。
やがてシロオテはロクソンより日本へ向かった。海上たちまちに風逆し、浪あらく、航海は困難であった。船が三たびも覆《くつがえ》りかけたのである。ロオマンをあとにして三年目のことであった。
宝永五年の夏のおわりごろ、大隅の国の屋《や》久《く》島《しま》から三里ばかり距てた海の上に、見なれぬ船の大きいのが一隻うかんでいるのを、漁夫たちが見つけた。また、その日の黄昏《たそがれ》時《どき》、おなじ島の南にあたる尾《お》野《の》間《ま》という村の沖に、たくさんの帆をつけた船が、小舟を一隻引きながら、東さしてはしって行くのを、村の人たちが発見し、海岸へ集まって罵《ののし》りさわいだが、ようやく沖合いのうすぐらくなるにつれ、帆影は闇の中へ消えた。そのあくる朝、尾野間から二里ほど西の湯《ゆ》泊《どまり》という村の沖のかなたに、きのうの船らしいものが、強い北風をいっぱい帆にはらみつつ、南をさしてみるみる疾航し去った。
その日のことである。屋久島の恋《こい》泊《どまり》村の藤兵衛という人が、松下というところで炭を焼くための木を伐《き》っていると、うしろの方で人の声がした。ふりむくと、刀をさしたさむらいが、夏木立の青い日影を浴びて立っていた。シロオテである。髪を剃ってさかやきをこしらえていた。あの浅黄色の着物を着て、刀を帯び、かなしい眼をして立っていた。
シロオテは片手あげておいでおいでをしつつ、デキショナアリヨムで覚えた日本の言葉を二つ三つ歌った。しかし、それは不思議な言葉であった。デキショナアリヨムが不完全だったのである。藤兵衛は幾度となく首を振って考えた。言葉より動作が役に立った。シロオテは両手で水を掬《すく》って呑む真似を、烈しく繰り返した。藤兵衛は持ち合せの器に水を汲んで、草原の上にさし置き、いそいで後ずさりした。シロオテはその水を一息に呑んでしまって、またおいでおいでをした。藤兵衛はシロオテの刀をおそれて近よらなかった。シロオテは藤兵衛の心をさとったと見えて、やがて刀を鞘《さや》ながら抜いて差し出し、また、あやしい言葉を叫ぶのであった。藤兵衛は身をひるがえして逃げた。きのうの大船のものにちがいない、と気附いたのである。磯辺に出て、かなたこなたを見廻したが、あの帆掛船の影も見えず、また、他に人のいるけはいもなかった。引返して村へ駆けこんで、安兵衛という人にたのみ、奇態なものを見つけたゆえ、参り呉れるよう、村中へ触れさせた。
こうしてシロオテは、ヤアパンニアの土を踏むか踏まぬかのうちに、その変装を見破られ、島の役人に捕えられた。ロマオンで三年のとしつき日本の風俗と言葉とを勉強したことが、なんのたしにもならなかったのである。
シロオテは、長崎へ護送された。伴天連らしきものとして長崎の獄舎に置かれたのである。しかし、長崎の奉《ぶ》行《ぎよう》たちは、シロオテを持てあましてしまった。オランダの通事《*》たちに、シロオテの日本へ渡って来たわけを調べさせたけれど、シロオテの言葉が日本語のようではありながら発音やアクセントの違うせいか、エド、ナンガサキ、キリシタン、などの言葉しか聞きわけることができなかったのである。オランダ人を背教者のゆえをもってか、ずいぶん憎がっているような素振りも見えるので、オランダ人をして直接シロオテと対談させることもならず、奉行たちはたいへん困った。ひとりの奉行は、一策として、法廷のうしろの障子の陰にふとったオランダ人をひそませて置いて、シロオテを訊《じん》問《もん》してみた。ほかの奉行たちも、これをいい思いつきであるとして期待した。さて、奉行とシロオテとは、わけの判らぬ問答をはじめた。シロオテは、いかにもしてその思うところを言いあらわし自分の使命を了解させたいとむなしい苦悶をしているようであった。よい加減のところで訊問を切りあげてから、奉行たちは障子のかげのオランダ人に、どうだ、と尋ねた。オランダ人は、とんとわからぬ、と答えた。だいいちオランダ人には、ロオマンの言葉がわからぬうえに、まして、その言うところは半ば日本の言葉もまじっているのであるから、なおなお、聞きわけることがむずかしかったのであろう。
長崎では、とうとう訊問に絶望して、このことを江戸へ上訴した。江戸でこの取調べに当ったのは新《あら》井《い》白《はく》石《せき*》である。
長崎の奉行たちがシロオテを糺《きゆう》問《もん》して失敗したのは宝永五年の冬のことであるが、そのうちに年も暮れて、あくる宝永六年の正月に将軍が死に、あたらしい将軍が代ってなった。そういう大きなさわぎのためにシロオテは忘れられていた。ようやくその年の十一月のはじめになって、シロオテは江戸へ召喚された。シロオテは長崎から江戸までの長途を駕《か》籠《ご》にゆられながらやって来た。旅のあいだは、来る日も来る日も、焼栗四つ、蜜柑二つ、干柿五つ、丸柿二つ、パン一つを役人から与えられて、わびしげに食べていた。
新井白石は、シロオテとの会見を心待ちにしていた。白石は言葉について心配をした。とりわけ、地名や人名または切支丹の教法上の術語などには、きっとなやまされるであろうと考えた。白石は、江戸小《こ》日向《びなた》にある切支丹屋敷から蛮語に関する文献を取り寄せて、下調べをした。
シロオテは、ほどなく江戸に到着して切支丹屋敷にはいった。十一月二十二日をもって訊問を開始するようにきめた。ときの切支丹奉行は横田備中守と柳沢八郎右衛門のふたりであった。白石は、まえもってこの人たちと打ち合せをして置いて、当日は朝はやくから切支丹屋敷に出掛けて行き、奉行たちと共に、シロオテの携えて来た法衣や貨幣や刀や、その他の品物を検査し、また、長崎からシロオテに附き添うて来た通事たちを招き寄せて、たとえばいま、長崎のひとをして陸奥の方言を聞かせたとしても、十に七、八は通じるであろう、ましてイタリヤとオランダとは、私が万国の図を見てしらべたところに依ると、長崎陸奥のあいだよりは相さること近いのであるから、オランダの言葉でもってイタリヤの言葉を押しはかることもさほどむずかしいとは思われぬ、私もその心して聞こうゆえ、かたがたもめいめいの心に推しはかり、思うところを私に申して呉れ、たとえかたがたの推量にひがごとがあっても、それは咎《とが》むべきでない、奉行の人たちも通事の誤訳を罪せぬよう、と諭《さと》した。人々は、承知した、と答えて審問の席に臨んだ。そのときの大通事は今村源右衛門。稽古通事は品川兵次郎、嘉福喜蔵。
その日のひるすぎ、白石はシロオテと会見した。場所は切支丹屋敷内であって、その法廷の南面に板縁があり、その縁ちかくに奉行の人たちが着席し、それより少し奥の方に白石が坐った。大通事は板縁の上、西に跪《ひざまず》き、稽古通事ふたりは板縁の上、東に跪いた。縁から三尺ばかり離れた土間に榻《こしかけ》を置いてシロオテの席となした。やがて、シロオテは獄中から輿《こし》ではこばれて来た。長い道中のために両脚が萎《な》えてかたわになっていたのである。歩卒ふたり左右からさしはさみ助けて、榻につかせた。
シロオテのさかやきは伸びていた。薩州の国守からもらった茶色の綿入れ着物を着ていたけれど、寒そうであった。座につくと、静かに右手で十字を切った。
白石は通事に言いつけて、シロオテの故郷のことなど問わせ、自分はシロオテの答える言葉に耳傾けていた。その語る言葉は、日本語にちがいなく、畿内、山陰、西南海道の方言がまじっていて聞きとりがたいところもあったけれど、かねて思いはかっていたよりは了解がやさしいのであった。ヤアパンニアの牢のなかで一年をすごしたシロオテは、日本の言葉がすこし上手になっていたのである。通事との問答を一時間ほど聞いてから、白石みずから問いもし答えもしてみて、その会話にやや自信を得た。白石は、万国の図を取り出して、シロオテのふるさとをたずね問うた。シロオテは板縁にひろげられたその地図を首筋をのばして覗いていたがやがて、これは明《みん》人《じん》のつくったもので意味のないものである、と言って声たてて笑った。地図の中央に薔《ば》薇《ら》の花のかたちをした大きい国があって、それには「大明」と記入されているのであった。
この日は、それだけの訊問で打ち切った。シロオテは、わずかの機会をもとらえて切支丹の教法を説こうと思ってか、ひどくあせっているふうであったが、白石はなぜか聞えぬふりをするのである。
あくる日の夜、白石は通事たちを自分のうちに招いて、シロオテの言うたことにつき、みんなに復習させた。白石は万国の図がはずかしめられたのを気にかけていた。切支丹屋敷にオオランド鏤《ろう》版《ばん》の古い図があるということを奉行たちから聞き、このつぎの訊問のときにはひとつそれをシロオテに見せてやるよう、言いつけて散会した。
一日おいて二十五日に、白石は早朝から吟味所へつめかけた。午前十時ごろ、奉行の人たちもみんな出そろって着席した。やがてシロオテも輿ではこばれてやってきた。
きょうは、だいいちばんに、あのオオランド鏤版の地図を板縁いっぱいにひろげて、かの地方のことを問いただしたのである。地図のここかしこは破れて、虫に食われた孔《あな》がそちこちにちらばっていた。シロオテはその図をしばらく眺めてから、これは七十余年まえに作られたものであって、いまでは、むこうの国でも得がたい好地図である、とほめた。ロオマンはどこであるか、と白石も膝をすすめて尋ねた。シロオテは、チルチヌスがあるか、と言った。通事たちは、ない、と答えた。なにごとか、と白石は通事たちに聞いた。オランダ語ではパッスルと申し、イタリヤ語ではコンパスと申すもののことである、と通事のひとりが教えた。白石は、コンパスというものかどうか知らぬが、地図に用ありげな機械であるから、私がこの屋敷で見つけていま持って来てある、と言いつつ懐中から古びたコンパスを出して見せた。シロオテはそれを受けとりちょっとの間いじくりまわしていたが、これはコンパスにちがいないが、ねじがゆるんで用に立たぬ、しかし、ないよりはましかも知れぬ、という意味のことを述べ、その地図のうちに計るべきところをこまかく図してあるところを見て、筆を求め、その字を写しとってから、コンパスを持ち直してその分数をはかりとり、榻に坐ったまま板縁の地図へずっと手をさしのばして、そのこまかく図してあるところより蜘《く》蛛《も》の網のように画かれた路線をたずねながら、かなたこなたへコンパスを歩かせているうちに、手のやっと届くようなところへいって、ここであろう、見給え、と言いコンパスをさし立てた。みんな頭を寄せて見ると、針の孔のような小さいまるにコンパスのさきが止っていた。通事のひとりは、そのまるのかたわらの蕃字をロオマンと読んだ。それから、オランダや日本の国々のあるところを問うに、また、まえの法のようにして、ひとところもさし損ねることがなかった。日本は思いのほかにせまくるしく、エドは虫に食われて、その所在をたしかめることさえできなかった。
シロオテは、コンパスをあちらこちらと歩かせつつ、万国のめずらしい話を語って聞かせた。黄金の産する国。たんばこの実る国。海鯨の住む大洋。木に棲《す》み穴にいて生れながらに色の黒いくろんぼうの国。長人国。小人国。昼のない国。夜のない国。さては、百万の大軍がいま戦争さいちゅうの曠《こう》野《や》。戦船百八十隻がたがいに砲火をまじえている海峡。シロオテは日の没するまで語りつづけたのである。
日が暮れて、訊問もおわってから、白石はシロオテをその獄舎に訪れた。ひろい獄舎を厚い板で三つに区切ってあって、その西の一間にシロオテがいた。赤い紙を剪《き》って十字を作り、それを西の壁に貼りつけてあるのが、くらがりを通して、おぼろげに見えた。シロオテはそれにむかって、なにやら経文を、ひくく読みあげていた。
白石は家へ帰って、忘れぬうちにもと、きょうシロオテから教わった知識を手帳に書いた。
――大地、海水と相合うて、その形まどかなること手《て》毬《まり》のごとくにして天、円のうちに居る。たとえば、鶏子の黄なる、青きうちにあるがごとし。その地球の周囲、九万里にして、上下四《し》旁《ぼう》、皆、人ありて居れり。凡《およそ》、その地をわかちて、五大州となす。云々。
それから十日ほど経って十二月の四日に、白石はまたシロオテを召し出し、日本に渡って来たことの由をも問い、いかなる法を日本にひろめようと思うのか、とたずねたのである。その日は朝から雪が降っていた。シロオテは降りしきる雪の中で、悦びに堪えぬ貌《かお》をして、私が六年さきにヤアパンニアに使するよう本師より言いつけられ、承って万里の風浪をしのぎ来て、ついに国都へついた、しかるに、きょうしも本国にあっては新年の初めの日として、人、皆、相賀するのである、このよき日にわが法をかたがたに説くとは、なんという仕合せなことであろう、と身をふるわせてそのよろこびを述べ、めんめんと宗門の大意を説きつくしたのであった。
デウス《*》がハライソ《*》を作って無量無数のアンゼルス《*》を置いたことから、アダン、エワの出生と堕落について。ノエの箱船のことや、モイセスの十誡のこと。そうしてイエズス・キリストスの降誕、受難、復活のてんまつ、シロオテの物語は、尽きるところなかった。
白石は、ときどき傍《わき》見《み》をしていた。はじめから興味がなかったのである。すべて仏教の焼き直しであると独断していた。
白石のシロオテ訊問は、その日をもっておしまいにした。白石はシロオテの裁断について将軍へ意見を言《ごん》上《じよう》した。このたびの異人は万里のそとから来た外国人であるし、また、この者と同時に唐へ赴《おもむ》いたものもある由なれば、唐でも裁断をすることであろうし、わが国の裁断も慎重にしなければならぬ、と言って三つの策を建言した。
第一にかれを本国へ返さるる事は上策也(此《この》事《こと》難《かた》きに似《に》て易《やす》き歟《か》)
第二にかれを囚となしてたすけ置かるる事は中策也(此事易きに似て尤(もっとも)難し)
第三にかれを誅《ちゆう》せらるる事は下策也(此事易くして易かるべし)
将軍は中策を採って、シロオテをそののち永く切支丹屋敷の獄舎につないで置いた。しかし、やがてシロオテは屋敷の奴《ぬ》婢《ひ》、長助はる夫婦に法を授けたというわけで、たいへんいじめられた。シロオテは折《せつ》檻《かん》されながらも、日夜、長助はるの名を呼び、その信を固くして死ぬるとも志を変えるでない、と大きな声で叫んでいた。
それから間もなく牢死した。下策をもちいたもおなじことであった。
猿が島
はるばると海を越えて、この島に着いたときの私の憂愁を思い給え。夜なのか昼なのか、島は深い霧に包まれて眠っていた。私は眼をしばたたいて、島の全貌を見すかそうと努めたのである。裸の大きい岩が急な勾《こう》配《ばい》を作っていくつもいくつも積みかさなり、ところどころに洞窟のくろい口のあいているのがおぼろに見えた。これは山であろうか。一本の青草もない。
私は岩山の岸に沿うてよろよろと歩いた。あやしい呼び声がときどき聞える。さほど遠くからでもない。狼であろうか。熊であろうか。しかし、ながい旅路の疲れから、私はかえって大胆になっていた。私はこういう咆《ほう》哮《こう》をさえ気にかけず島をめぐり歩いたのである。
私は島の単調さに驚いた。歩いても歩いても、こつこつの固い道である。右手は岩山であって、すぐ左手には粗《あら》い胡《ご》麻《ま》石がほとんど垂直にそそり立っているのだ。そのあいだに、いま私の歩いているこの道が、六尺ほどの幅で、坦々とつづいている。
道のつきるところまで歩こう。言うすべもない混乱と疲労から、なにものも恐れぬ勇気を得ていたのである。
ものの半里も歩いたろうか。私は、再びもとの出発点に立っていた。私は道が岩山をぐるっとめぐってついてあるのを了解した。おそらく、私はおなじ道を二度ほどめぐったにちがいない。
私は島が思いのほかに小さいのを知った。
霧はしだいにうすらぎ、山のいただきが私のすぐ額《ひたい》のうえにのしかかって見えだした。峯が三つ。まんなかの円い峯は、高さが三、四丈もあるであろうか。さまざまの色をしたひらたい岩で畳《たた》まれ、その片側の傾斜がゆるく流れて隣の小さくとがった峯へ伸び、もう一方の側の傾斜は、けわしい断崖をなしてその峯の中腹あたりにまで滑り落ち、それからまたふくらみがむくむく起って、ひろい丘になっている。断崖と丘の硲《はざま》から、細い滝がひとすじ流れ出ていた。滝の附近の岩はもちろん、島全体が濃い霧のために黝《あおぐろ》く濡《ぬ》れているのである。木が二本見える。滝口に、一本。樫に似たのが。丘の上にも、一本。えたいの知れぬふとい木が。そうして、いずれも枯れている。
私はこの荒涼の風景を眺めて、しばらくぼんやりしていた。霧はいよいようすらいで、日の光がまんなかの峯にさし始めた。霧にぬれた峯は、かがやいた。朝日だ。それが朝日であるか、夕日であるか、私にはその香気でもって識別することができるのだ。それでは、いまは夜明けなのか。
私は、いくぶんすがすがしい気持になって、山をよじ登ったのである。見た眼には、けわしそうでもあるが、こうして登ってみると、きちんきちんと足だまりができていて、さほど難渋でない。とうとう滝口にまで這いのぼった。
ここには朝日がまっすぐに当り、なごやかな風さえ頬に感ぜられるのだ。私は樫に似た木の傍へ行って、腰をおろした。これは、ほんとうに樫であろうか。それとも楢《なら》か樅《もみ》であろうか。私は梢までずっと見あげたのである。枯れた細い枝が五、六本、空にむかい、手ぢかなところにある枝は、たいていぶざまにへし折られていた。のぼってみようか。
ふぶきのこえ
われをよぶ
風の音であろう。私はするするのぼり始めた。
とらわれの
われをよぶ
気疲れがひどいと、さまざまな歌声がきこえるものだ。私は梢にまで達した。梢の枯枝を二、三度ばさばさゆさぶってみた。
いのちともしき
われをよぶ
足だまりにしていた枯枝がぽきっと折れた。不覚にも私は、ずるずる幹づたいに滑り落ちた。
「折ったな」
その声を、つい頭の上で、はっきり聞いた。私は幹にすがって立ちあがり、うつろな眼で声のありかを捜したのである。ああ。戦《せん》慄《りつ》が私の背を走る。朝日を受けて金色にかがやく断崖を一匹の猿がのそのそと降りて来るのだ。私のからだの中でそれまで眠らされていたものが、いちどにきらっと光り出した。
「降りて来い。枝を折ったのはおれだ」
「それは、おれの木だ」
崖を降りつくした彼は、そう答えて滝口のほうへ歩いて来た。私は身構えた。彼はまぶしそうに額へたくさんの皺をよせて、私の姿をじろじろ眺め、やがて、白い歯をむきだして笑った。笑いは私をいらだたせた。
「おかしいか」
「おかしい」彼は言った。「海を渡って来たろう」
「うん」私は滝口からもくもく湧いて出る波の模様を眺めながらうなずいた。せま苦しい箱の中で過ごしたながい旅路を回想したのである。
「なんだか知らぬが、おおきい海を」
「うん」また、うなずいてやった。
「やっぱり、おれと同じだ」
彼はそう呟き、滝口の水を掬って飲んだ。いつの間にか、私たちは並んで坐っていたのである。
「ふるさとが同じなのさ。一目、見ると判る。おれたちの国のものは、みんな耳が光っているのだよ」
彼は私の耳を強くつまみあげた。私は怒って、彼のそのいたずらした右手をひっ掻いてやった。それから私たちは顔を見合せて笑った。私は、なにやらくつろいだ気分になっていたのだ。
けたたましい叫び声がすぐ身ぢかで起った。おどろいて振りむくと、ひとむれの尾の太い毛むくじゃらな猿が、丘のてっぺんに陣どって私たちへ吠えかけているのである。私は立ちあがった。
「よせ、よせ。こっちへ手むかっているのじゃないよ。ほえざるという奴さ。毎朝あんなにして太陽に向かって吠えたてるのだ」
私は呆《ぼう》然《ぜん》と立ちつくした。どの山の峯にも、猿がいっぱいにむらがり、背をまるくして朝日を浴びているのである。
「これは、みんな猿か」
私は夢みるようであった。
「そうだよ。しかし、おれたちとちがう猿だ。ふるさとがちがうのさ」
私は彼らを一匹一匹たんねんに眺め渡した。ふさふさした白い毛を朝風に吹かせながら児猿に乳を飲ませている者。赤い大きな鼻を空にむけてなにかしら歌っている者。縞《しま》の美事な尾を振りながら日光のなかでつるんでいる者。しかめつらをして、せわしげにあちこちと散歩している者。
私は彼に囁いた。
「ここは、どこだろう」
彼は慈悲ふかげな眼《まな》ざしで答えた。
「おれも知らないのだよ。しかし、日本ではないようだ」
「そうか」私は溜息をついた。「でも、この木は木曾樫のようだが」
彼は振りかえって枯木の幹をぴたぴたと叩き、ずっと梢を見上げたのである。
「そうでないよ。枝の生えかたがちがうし、それに、木肌の日の反射のしかただって鈍いじゃないか。もっとも、芽が出てみないと判らぬけれど」
私は立ったまま、枯木へ寄りかかって彼に尋ねた。
「どうして芽が出ないのだ」
「春から枯れているのさ。おれがここへ来たときにも枯れていた。あれから、四月、五月、六月、と三つきも経っているが、しなびて行くだけじゃないか。これは、ことに依ったら挿《さし》木《き》でないかな。根がないのだよ、きっと。あっちの木は、もっとひどいよ。奴らのくそだらけだ」
そう言って彼は、ほえざるの一群を指さした。ほえざるは、もう啼きやんでいて、島は割合に平静であった。
「坐らないか。話をしよう」
私は彼にぴったりくっついて坐った。
「ここは、いいところだろう。この島のうちでは、ここがいちばんいいのだよ。日が当るし、木があるし、おまけに、水の音が聞えるし」彼は脚下の小さい滝を満足げに見おろしたのである。
「おれは、日本の北方の海峡ちかくに生れたのだ。夜になると波の音が幽《かす》かにどぶんどぶんと聞えたよ。波の音って、いいものだな。なんだかじわじわ胸をそそるよ」
私もふるさとのことを語りたくなった。
「おれには、水の音よりも木がなつかしいな。日本の中部の山の奥の奥で生れたものだから。青葉の香はいいぞ」
「それあ、いいさ。みんな木をなつかしがっているよ。だから、この島にいる奴は誰にしたって、一本でも木のあるところに坐りたいのだよ」言いながら彼は股の毛をわけて、深い赤黒い傷跡をいくつも私に見せた。「ここをおれの場所にするのに、こんな苦労をしたのさ」
私は、この場所から立ち去ろうと思った。「おれは、知らなかったものだから」
「いいのだよ。構わないのだよ。おれは、ひとりぼっちなのだ。いまから、ここをふたりの場所にしてもいい。だが、もう枝を折らないようにしろよ」
霧はまったく晴れ渡って、私たちのすぐ眼のまえに、異様な風景が現出したのである。青葉。それがまず私の眼にしみた。私には、いまの季節がはっきり判った。ふるさとでは、椎《しい》の若葉が美しいころなのだ。私は首をふりふりこの並木の青葉を眺めた。しかし、そういう陶酔も瞬時に破れた。私はふたたび驚愕の眼を見はったのである。青葉の下には、水を打った砂利道が涼しげに敷かれていて、白いよそおいをした瞳の青い人間たちが、流れるようにぞろぞろ歩いている。まばゆい鳥の羽を頭につけた女もいた。蛇の皮のふとい杖をゆるやかに振って右左に微笑を送る男もいた。
彼は私のわななく胴体をつよく抱き、口早に囁《ささや》いた。
「おどろくなよ。毎日こうなのだ」
「どうなるのだ。みんなおれたちを狙《ねら》っている」山で捕われ、この島につくまでの私のむざんな経歴が思い出され、私は下唇を噛みしめた。
「見せ物だよ。おれたちの見せ物だよ。だまっていろ。面白いこともあるよ」
彼はせわしげにそう教えて、片手でなおも私のからだを抱きかかえ、もう一方の手であちこちの人間を指さしつつ、ひそひそ物語って聞かせたのである。あれは人妻と言って、亭主のおもちゃになるか、亭主の支配者になるか、ふたとおりの生きかたしか知らぬ女で、もしかしたら人間の臍《へそ》というものが、あんな形であるかも知れぬ。あれは学者と言って、死んだ天才にめいわくな註釈をつけ、生れる天才をたしなめながらめしを食っているおかしな奴だが、おれはあれを見るたびに、なんとも知れず眠たくなるのだ。あれは女優と言って、舞台にいるときよりも素面《しらふ》でいるときのほうが芝居の上手な婆で、おおお、またおれの奥の虫歯がいたんで来た。あれは地主と言って、自分もまた労働しているとしじゅう弁明ばかりしている小胆者だが、おれはあのお姿を見ると、鼻筋づたいに虱《しらみ》が這って歩いているようなもどかしさを覚える。また、あそこのベンチに腰かけている白手袋の男は、おれのいちばんいやな奴で、見ろ、あいつがここへ現われたら、もはや中天に、臭く黄色い糞の竜巻が現われているじゃないか。
私は彼の饒《じよう》舌《ぜつ》をうつつに聞いていた。私は別なものを見つめていたのである。燃えるような四つの眼を。青く澄んだ人間の子供の眼を。先刻よりこの二人の子供は、島の外郭に築かれた胡麻石の塀からやっと顔だけを覗きこませ、むさぼるように島を眺めまわしているのだ。二人ながら男の子であろう。短い金髪が、朝風にぱさぱさ踊っている。ひとりは、そばかすで鼻がまっくろである。もうひとりの子は、桃の花のような頬をしている。
やがて二人は、同時に首をかしげて思案した。それから鼻のくろい子供が唇をむっと尖《とが》らせ、烈しい口調で相手に何か耳うちした。私は彼のからだを両手でゆすぶって叫んだ。
「何を言っているのだ。教えて呉れ。あの子供たちは何を言っているのだ」
彼はぎょっとしたらしく、ふっとおしゃべりを止し、私の顔と向こうの子供たちとを見較べた。そうして、口をもぐもぐ動かしつつしばらく思いに沈んだのだ。私は彼のそういう困却にただならぬ気配を見てとったのである。子供たちが訳のわからぬ言葉をするどく島へ吐きつけて、そろって石塀の上から影を消してしまってからも、彼は額に片手をあてたり尻を掻きむしったりしながら、ひどく躊《ちゆう》躇《ちよ》していたが、やがて、口角に意地わるげな笑いをさえ含めてのろのろと言いだした。
「いつ来て見ても変らない、とほざいたのだよ」
変らない。私には一切がわかった。私の疑惑が、まんまと的中していたのだ。変らない。これは批評の言葉である。見せ物は私たちなのだ。
「そうか。すると、君は嘘をついていたのだね」ぶち殺そうと思った。
彼は私のからだに巻きつけていた片手へぎゅっと力こめて答えた。
「ふびんだったから」
私は彼の幅のひろい胸にむしゃぶりついたのである。彼のいやらしい親切に対する憤《ふん》怒《ぬ》よりも、おのれの無智に対する羞恥の念がたまらなかった。
「泣くのはやめろよ。どうにもならぬ」彼は私の背をかるくたたきながら、ものうげに呟いた。「あの石塀の上に細長い木の札が立てられているだろう? おれたちには裏の薄汚く赤ちゃけた木目だけを見せているが、あのおもてには、なんと書かれてあるか。人間たちはそれを読むのだよ。耳の光るのが日本の猿だ、と書かれてあるのさ。いや、もしかしたら、もっとひどい侮辱が書かれてあるのかも知れないよ」
私は聞きたくもなかった。彼の腕からのがれ、枯木のもとへ飛んで行った。のぼった。梢にしがみつき、島の全貌を見渡したのである。日はすでに高く上がって、島のここかしこから白い靄《もや》がほやほやと立っていた。百匹もの猿は、青空の下でのどかに日向《ひなた》ぼっこして遊んでいた。私は、滝口の傍でじっとうずくまっている彼に声をかけた。
「みんな知らないのか」
彼は私の顔を見ずに下から答えてよこした。
「知るものか。知っているのは、おそらく、おれと君とだけだよ」
「なぜ逃げないのだ」
「君は逃げるつもりか」
「逃げる」
青葉。砂利道。人の流れ。
「こわくないか」
私はぐっと眼をつぶった。言っていけない言葉を彼は言ったのだ。
はたはたと耳をかすめて通る風の音にまじって、低い歌声が響いて来た。彼が歌っているのであろうか。眼が熱い。さっき私を木から落としたのは、この歌だ。私は眼をつぶったまま耳傾けたのである。
「よせ、よせ。降りて来いよ。ここはいいところだよ。日が当るし、木があるし、水の音が聞えるし、それにだいいち、めしの心配がいらないのだよ」
彼のそう呼ぶ声を遠くからのように聞いた。それからひくい笑い声も。
ああ。この誘惑は真実に似ている。あるいは真実かも知れぬ。私は心のなかで大きくよろめくものを覚えたのである。けれども、けれども血は、山で育った私の馬鹿な血は、やはり執拗に叫ぶのだ。
――否《いな》!
一八九六年、六月のなかば、ロンドン博物館附属動物園の事務所に、日本猿の遁走が報ぜられた。行方が知れぬのである。しかも、一匹でなかった。二匹である。
雀 こ
井伏鱒二へ。津軽の言葉で。
長《なげ》ぇ長ぇ昔《むがし》噺《こ》、知らへがな。
山の中《なが》に橡《とじ》の木いっぽんあったじぉん。
そのてっぺんさ、からす一羽来てとまったじぉん。
からすぁ、がーて啼けば、橡の実ぁ、一つぼたんて落《お》じるじぉん。
また、からすぁ、がーて啼けば、橡の実ぁ、一つぼたんて落じるじぉん。
また、からすぁ、がーて啼けば、橡の実ぁ、一つぼたんて落じるじぉん。
……………………
ひとかたまりの童児《わらわ》、広《ひろ》い野はらに火三昧《しんじやまえ》して遊びふけっていたじぉん。春になればし、雪こ溶け、ふろいふろい雪の原のあちこちゅ、ふろ野の黄はだの色の芝生こさ青い新芽の萌えいで来るはで、おらの国のわらわ、黄はだの色の古し芝生こさ火《し》をつけ、そればさ野火と申して遊ぶのだぉん。そした案配こ、おたがい野火をし距《へだ》て、わらわ、ふた組にわかれていたじぉん。かたかたの五、六人、声をしそろえて歌ったじぉん。
――雀《しんじめ》、雀、雀こ、欲《ほ》うし。
ほかの方《ほ》図《ず》のわらわ、それさ応《こた》え、
――どの雀、欲うし?
て歌ったとさぇ。
そこでもってし、雀こ欲うして歌った方図のわらわ、打ち寄り、もめたじぉん。
――誰をし貰《も》ればええべがな?
――はにやすのヒサこと貰れば、どうだべ?
――鼻たれで、きたなきも。
――タキだば、ええねし。
――女《おなご》くされ、おかしじゃよ。
――タキは、ええべさぇ。
――そうだべがな。
そした案配こ、とうとうタキこと貰るようにきまったじぉん。
――《みぎ》りのはずれの雀こ欲うし。
て、歌ったもんだじぉん。
タキの方図では、心根っこわるくかかったとさぇ。
――羽《はね》こ、ねえはで呉れらえね。
――羽こ呉れるはで飛んで来い。
こちで歌ったどもし、向こうの方図で調子ばあわれに、また歌ったじぉん。
――杉の木、火事で行かえない。
したどもし、こちの方図では、やたら欲しくて歌ったとさぇ。
――その火事よけて飛んで来い。
向こうの方図では、雀こ一羽はなしてよこしたじぉん。タキは雀こ、ふたかたの腕こと翼みんたに拡げ、ぱお、ぱお、ぱお、て羽ばたきの音をし口でしゃべりしゃべりて、野火の焔よけて飛んで来たとさぇ。
これ、おらの国の、わらわの遊びごとだぉん。こうして一羽一羽と雀こ貰るんだどもし、おしめに一羽のこれば、その雀こ、こんど歌わねばなんねのだぉん。
――雀、雀、雀こ欲うし。
とっくと分別しねでもわかることだどもし、これや、うたて遊びごとだまさね。一ばん先に欲しがられた雀こ、大《おお》幅《はば》こけるどもし、おしめの一羽は泣いても泣いても足《た》えへんでば。
いつでもタキは、一ばん先に欲しがられるのだじぉん。いつでもマロサマは、おしめにのこされるのだじぉん。
タキ、よろずよやの一人あねこで、うって勢よく育ったのだじぉん。誰にかても負けたことねんだとさぇ。冬、どした恐ろしない雪の日でも、くるめんば被らねで、千《せん》成《なり》の林《りん》檎《ご》こよりも赤ぇ頬ぺたこ吹きさらし、どこさでも行けたのだじぉん。マロサマ、たかまどのお寺の坊《ぼん》主《ず》こで、からだつきこ細くてかそぺないはでし、みんなみんな、やしめていたのだじぉん。
さきほどよりし、マロサマ、着物ばはだけて、歌っていたじぉん。
――雀、雀、雀こ欲うし。雀、雀、雀こ欲うし。
不《ふ》憫《びん》げらに、これで二度も、売えのこりになっていたのだじぉん。
――どの雀、欲うし?
――なかの雀こ欲うし。
タキこと欲しがるのだじぉん。なかの雀このタキ、野火の黄色ぇ黄色ぇ焔ごしに、悪だまなくこでマロサマば睨めたじぉん。
マロサマ、おっとらとした声こで、また歌ったじぉん。
――なかの雀こ欲うし。
タキは、わらわさ、なにやらし、こちょこちょと言うつけたじぉん。わらわ、それ聞き、にくらにくらて笑い笑い、歌ったのだじぉん。
――羽こ、ねえはで呉れらえね。
――羽こ、呉れるはで飛んで来い。
――杉の木、火事で行かえない
――その火事よけて飛んで来い。
マロサマは、タキのぱおぱおて飛んで来るのば、とっけらとして待っていたじぉん。したどもし、向こうの方図で、ゆったらと歌るのだじぉん。
――川こ大水で、行かえない。
マロサマ、首こかしげて、分別したじぉん。なんて歌ったらええべがな、て打って分別して分別して、
――橋こ架けて飛んで来い。
タキは人魂みんた眼《まなく》こおかなく燃やし、独りして歌ったじぉん。
――橋こ流えて行かえない。
マロサマは、また首こかしげて分別したのだじぉん。なかなか分別は出て来ねじぉん。そのうちにし、声たてて泣いたのだじぉん。泣き泣きしゃべったとさぇ。
――あみださまや。
わらわ、みんなみんな、笑ったじぉん。
――ぼんずの念仏、雨、降った。
――もくらもっけの泣けべっちょ。
――西くもて、雨ふった。雨ふって、雪とけた。
そのときにし、よろずよやのタキは、きずきずと叫びあげたとさぇ。
――マロサマの愛《め》ごこや。わのこころこ知らずてお念仏。あわれ、ばかくさいじゃよ。
そうしてし、雪だまにぎて、マロサマさぶつけたじぉん。雪だま、マロサマの右りの肩さ当り、ぱららて白く砕けたじぉん。マロサマ、どってんして、泣くのばやめてし、雪こ溶けかけた黄はだの色のふろ野ば、どんどん逃げていったとさぇ。
そろそろと晩げになったじぉん。野はら、暗くなり、寒くなったじぉん、わらわ、めいめいの家さかえり、めいめい婆《ば》さまのこたつさもぐり込んだじぉん。いつもの晩げのごと、おなじ昔《むがし》噺《こ》をし、聞くのだじぉん。
長ぇ長ぇ昔噺、知らへがな。
山の中に橡の木いっぽんあったじぉん。
そのてっぺんさ、からす一羽来てとまったじぉん。
からすぁ、がーて啼けば、橡の実ぁ、一つぼたんて落じるじぉん。
また、からすぁ、がーて啼けば、橡の実ぁ、一つぼたんて落じるじぉん。
また、からすぁ、がーて啼けば、橡の実ぁ、一つぼたんて落じるじぉん。
……………………
道化の華
「ここを過ぎて悲しみの市《まち》」
友はみな、僕からはなれ、かなしき眼もて僕を眺める。友よ、僕と語れ、僕を笑え。ああ、友はむなしく顔をそむける。友よ、僕に問え。僕はなんでも知らせよう。僕はこの手もて、園を水にしずめた。僕は悪魔の傲慢さもて、われよみがえるとも園は死ね、と願ったのだ。もっと言おうか。ああ、けれども友は、ただかなしき眼もて僕を眺める。
大庭葉蔵はベッドのうえに坐って、沖を見ていた。沖は雨でけむっていた。
夢より醒《さ》め、僕はこの数行を読みかえし、その醜さといやらしさに、消えもいりたい思いをする。やれやれ、大《おお》仰《ぎよう》きわまったり。だいいち、大庭葉蔵とはなにごとであろう。酒でない、ほかのもっと強烈なものに酔いしれつつ、僕はこの大庭葉蔵に手を拍った。この姓名は、僕の主人公にぴったり合った。大庭は、主人公のただならぬ気《き》魄《はく》を象徴してあますところがない。葉蔵はまた、何となく新鮮である。古めかしさの底から湧き出るほんとうの新しさが感ぜられる。しかも、大庭葉蔵とこう四字ならべたこの快い調和。この姓名からして、すでに画期的ではないか。その大庭葉蔵が、ベッドに坐り雨にけむる沖を眺めているのだ。いよいよ画期的ではないか。
よそう。おのれをあざけるのはさもしいことである。それは、ひしがれた自尊心から来るようだ。現に僕にしても、ひとから言われたくないゆえ、まずまっさきにおのれのからだへ釘《くぎ》をうつ。これこそ卑怯だ。もっと素直にならなければいけない。ああ、謙譲に。
大庭葉蔵。
笑われてもしかたがない。鵜《う》のまねをする烏。見ぬくひとには見ぬかれるのだ。よりよい姓名もあるのだろうけれど、僕にはちょっとめんどうらしい。いっそ「私」としてもよいのだが、僕はこの春、「私」という主人公の小説を書いたばかりだから二度つづけるのがおもはゆいのである。僕がもし、あすにでもひょっくり死んだとき、あいつは「私」を主人公にしなければ、小説を書けなかった、としたり顔して述懐する奇妙な男が出て来ないとも限らぬ。ほんとうは、それだけの理由で、僕はこの大庭葉蔵をやはり押し通す。おかしいか。なに、君だって。
一九二九年、十二月のおわり、この青松園という海浜の療養院は、葉蔵の入院で、すこし騒いだ。青松園には三十六人の肺結核患者がいた。二人の重症患者と、十一人の軽症患者とがいて、あとの二十三人は恢復期の患者であった。葉蔵の収容された東第一病棟は、いわば特等の入院室であって、六室に区切られていた。葉蔵の室の両隣は空室で、いちばん西側のへ号室には、背と鼻のたかい大学生がいた。東側のい号室とろ号室には、わかい女のひとがそれぞれ寝ていた。三人とも恢復期の患者である。その前夜、袂《たもと》が浦で心中があった。一緒に身を投げたのに、男は、帰帆の漁船に引きあげられ、命をとりとめた。けれども女のからだは、見つからぬのであった。その女のひとを捜しに半鐘をながいこと烈しく鳴らして村の消防手どものいく艘もいく艘もつぎつぎと漁船を沖へ乗り出して行く掛声を、三人は、胸とどろかせて聞いていた。漁船のともす赤い火影が、終夜、江の島の岸を彷徨《さまよ》うた。大学生も、ふたりのわかい女も、その夜は眠れなかった。あけがたになって、女の死体が袂が浦の浪打際で発見された。短く刈りあげた髪がつやつや光って、顔は白くむくんでいた。
葉蔵は園の死んだのを知っていた。漁船でゆらゆら運ばれていたとき、すでに知ったのである。星空のしたでわれにかえり、女は死にましたか、とまず尋ねた。漁夫のひとりは、死なねえ、死なねえ、心配しねえがええずら、と答えた。なにやら慈悲ぶかい口調であった。死んだのだな、とうつつに考えて、また意識を失った。ふたたび眼ざめたときには、療養院のなかにいた。狭くるしい白い板壁の部屋に、ひとがいっぱいつまっていた。そのなかの誰かが葉蔵の身元をあれこれと尋ねた。葉蔵は、いちいちはっきり答えた。夜が明けてから、葉蔵は別のもっとひろい病室に移された。変を知らされた葉蔵の国元で、彼の処置につき、取りあえず青松園へ長距離電話を寄こしたからである。葉蔵のふるさとは、ここから二百里もはなれていた。
東第一病棟の三人の患者は、この新患者が自分たちのすぐ近くに寝ているということに不思議な満足を覚え、きょうからの病院生活を楽しみにしつつ、空も海もまったく明るくなったころようやく眠った。
葉蔵は眠らなかった。ときどき頭をゆるくうごかしていた。顔のところどころに白いガアゼが貼りつけられていた。浪にもまれ、あちこちの岩でからだを傷つけたのである。真野という二十歳くらいの看護婦がひとり附き添っていた。左の眼《ま》蓋《ぶた》のうえに、やや深い傷痕があるので、片方の眼にくらべ、左の眼がすこし大きかった。しかし、醜くなかった。赤い上唇がこころもち上へめくれあがり、浅黒い頬をしていた。ベッドの傍の椅子に坐り、曇天のしたの海を眺めているのである。葉蔵の顔を見ぬように努めた。気の毒で見れなかった。
正午ちかく、警察のひとが二人、葉蔵を見舞った。真野は席をはずした。
ふたりとも、背広を着た紳士であった。ひとりは短い口《くち》髭《ひげ》を生やし、ひとりは鉄縁の眼鏡を掛けていた。髭は、声をひくくして園とのいきさつを尋ねた。葉蔵は、ありのままを答えた。髭は、小さい手帳へそれを書きとるのであった。ひととおりの訊問をすませてから、髭は、ベッドへのしかかるようにして言った。「女は死んだよ。君には死ぬ気があったのかね」
葉蔵は、だまっていた。
鉄縁の眼鏡を掛けた刑事は、肉の厚い額に皺を二、三本もりあがらせて微笑みつつ、髭の肩を叩《たた》いた。「よせ、よせ。可《か》哀《わい》そうだ。またにしよう」
髭は、葉蔵の眼つきを、まっすぐ見つめたまま、しぶしぶ手帳を上衣のポケットにしまい込んだ。その刑事たちが立ち去ってから、真野は、いそいで葉蔵の室へ帰って来た。けれども、ドアをあけたとたんに、嗚《お》咽《えつ》している葉蔵を見てしまった。そのままそっとドアをしめて、廊下にしばらく立ちつくした。
午後になって雨が降りだした。葉蔵は、ひとりで厠《かわや》へ立って歩けるほど元気を恢復していた。
友人の飛騨が、濡《ぬ》れた外套を着たままで、病室へおどり込んで来た。葉蔵は眠ったふりをした。
飛騨は真野へ小声でたずねた。「だいじょうぶですか?」
「ええ、もう」
「おどろいたなあ」
彼は肥えたからだをくねくねさせてその油土くさい外套を脱ぎ、真野へ手渡した。
飛騨は、名のない彫刻家で、同じように無名の洋画家である葉蔵とは、中学校時代からの友だちであった。素直な心を持った人なら、その若いときには、おのれの身辺ちかくの誰かをきっと偶像に仕立てたがるものであるが、飛騨もまたそうであった。彼は、中学校へはいるとから、そのクラスの首席の生徒をほれぼれと眺めていた。首席は葉蔵であった。授業中の葉蔵の一《いつ》顰《ぴん》一《いつ》笑《しよう》も、飛騨にとっては、ただごとでなかった。また、校庭の砂山の陰に葉蔵のおとなびた孤独なすがたを見つけ、ひとしれずふかい溜息をついた。ああ、そして葉蔵とはじめて言葉を交した日の歓喜。飛騨は、なんでも葉蔵の真似をした。煙草を吸った。教師を笑った。両手を頭のうしろに組んで、校庭をよろよろとさまよい歩く法もおぼえた。芸術家のいちばんえらいわけをも知ったのである。葉蔵は、美術学校へはいった。飛騨は一年おくれたが、それでも葉蔵とおなじ美術学校へはいることができた。葉蔵は洋画を勉強していたが、飛騨は、わざと塑像科をえらんだ。ロダンのバルザック像に感激したからだと言うのであったが、それは彼が大家になったとき、その経歴に軽いもったいをつけるための余念ないでたらめであって、まことは葉蔵の洋画に対する遠慮からであった。ひけめからであった。そのころになって、ようやく二人のみちがわかれ始めた。葉蔵のからだは、いよいよ痩せていったが、飛騨は、すこしずつ太った。ふたりの懸隔はそれだけでなかった。葉蔵はある直《ちよく》截《せつ》な哲学に心をそそられ、芸術を馬鹿にしだした。飛騨は、また、すこし有頂天になりすぎていた。聞くものがかえってきまりのわるくなるほど、芸術という言葉を連発するのであった。つねに傑作を夢みつつ、勉強を怠っていた。そうしてふたりとも、よくない成績で学校を卒業した。葉蔵は、ほとんど絵筆を投げ捨てた。絵画はポスタアでしかないものだ、と言っては、飛騨をしょげさせた。すべての芸術は社会の経済機構から放たれた屁《へ》である。生活力の一形式にすぎない。どんな傑作でも靴下とおなじ商品だ、などとおぼつかなげな口調で言って飛騨をけむに巻くのであった。飛騨は、むかしに変らず葉蔵を好いていたし、葉蔵のちかごろの思想にも、ぼんやりした畏敬を感じていたが、しかし飛騨にとって、傑作のときめきが、何にもまして大きかったのである。いまに、いまに、と考えながら、ただそわそわと粘土をいじくっていた。つまり、この二人は芸術家であるよりは、芸術品である。いや、それだからこそ、僕もこうしてやすやすと叙述できたのであろう。ほんとの市場の芸術家をお目にかけたら、諸君は、三行読まぬうちにげろを吐くだろう。それは保証する。ところで、君、そんなふうの小説を書いてみないか。どうだ。
飛騨もまた葉蔵の顔を見れなかった。できるだけ器用に忍びあしを使い、葉蔵の枕元まで近寄っていったが、硝子戸のそとの雨脚をまじまじ眺めているだけであった。
葉蔵は、眼をひらいてうす笑いしながら声をかけた。「おどろいたろう」
びっくりして、葉蔵の顔をちらと見たが、すぐ眼を伏せて答えた。「うん」
「どうして知ったの?」
飛騨はためらった。右手をズボンのポケットから抜いてひろい顔を撫《な》でまわしながら、真野へ、言ってもよいか、と眼でこっそり尋ねた。真野はまじめな顔をしてかすかに首を振った。
「新聞に出ていたのかい?」
「うん」ほんとうは、ラジオのニウスで知ったのである。
葉蔵は、飛騨の煮え切らぬそぶりを憎く思った。もっとうち解《と》けてくれてもよいと思った。一夜あけたら、もんどり打って、おのれを異国人あつかいにしてしまったこの十年来の友が憎かった。葉蔵は、ふたたび眠ったふりをした。
飛騨は、手持ちぶさたげに床をスリッパでぱたぱたと叩いたりして、しばらく葉蔵の枕元に立っていた。
ドアが音もなくあき、制服を着た小柄な大学生が、ひょっくりその美しい顔を出した。飛騨はそれを見つけて、唸《うな》るほどほっとした。頬にのぼる微笑の影を、口もとゆがめて追いはらいながら、わざとゆったりした歩調でドアのほうへ行った。
「いま着いたの?」
「そう」小菅は、葉蔵のほうを気にしつつ、せきこんで答えた。
小菅というのである。この男は、葉蔵と親戚であって、大学の法科に籍を置き、葉蔵とは三つもとしが違うのだけれど、それでも、へだてない友だちであった。あたらしい青年は、年齢にあまり拘《こう》泥《でい》せぬようである。冬休みで故郷へ帰っていたのだが、葉蔵のことを聞き、すぐ急行列車で飛んで来たのであった。ふたりは廊下へ出て立ち話をした。
「煤《すす》がついているよ」
飛騨は、おおっぴらにげらげら笑って、小菅の鼻のしたを指さした。列車の煤《ばい》煙《えん》が、そこにうっすりこびりついていた。
「そうか」小菅は、あわてて胸のポケットからハンケチを取りだし、さっそく鼻のしたをこすった。「どうだい、どんな工合いだい」
「大庭か? だいじょうぶらしいよ」
「そうか。――落ちたかい」鼻のしたをぐっとのばして飛騨に見せた。
「落ちたよ。落ちたよ。うちでは大変な騒ぎだろう」
ハンケチを胸のポケットにつっこみながら返事した。「うん。大騒ぎさ。お葬《とむら》いみたいだったよ」
「うちから誰か来るの?」
「兄さんが来る。親《おや》爺《じ》さんは、ほっとけ、と言ってる」
「大事件だなあ」飛騨はひくい額に片手をあてて呟いた。
「葉ちゃんは、ほんとに、よいのか」
「案外、平気だ。あいつは、いつもそうなんだ」
小菅は浮かれてでもいるように、口角に微笑を含めて首かしげた。「どんな気持ちだろうな」
「わからん。――大庭に逢ってみたいか」
「いいよ。逢ったって、話することもないし、それに、――こわいよ」
ふたりは、ひくく笑いだした。
真野が病室から出て来た。
「聞えています。ここで立ち話をしないようにしましょうよ」
「あ。そいつあ」
飛騨は恐縮して、おおきいからだを懸命に小さくした。小菅は不思議そうなおももちで真野の顔を覗《のぞ》いていた。
「おふたりとも、あの、おひるの御飯は?」
「まだです」ふたり一緒に答えた。
真野は顔を赤くして噴きだした。
三人がそろって食堂へ出掛けてから、葉蔵は起きあがった。雨にけむる沖を眺めたわけである。
「ここを過ぎて空《くう》濛《もう》の淵」
それから最初の書きだしへ返るのだ。さて、われながら不手際である。だいいち僕は、このような時間のからくりを好かない。好かないけれど試みた。ここを過ぎて悲しみの市《まち》。僕は、このふだん口馴れた地獄の門の詠嘆を、栄《はえ》ある書きだしの一行にまつりあげたかったからである。ほかに理由はない。もしこの一行のために、僕の小説が失敗してしまったとて、僕は心弱くそれを抹殺する気はない。見得の切りついでにもう一言。あの一行を消すことは、僕のきょうまでの生活を消すことだ。
「思想だよ、君、マルキシズムだよ」
この言葉は間が抜けて、よい。小菅がそれを言ったのである。したり顔にそう言って、ミルクの茶碗を持ち直した。
四方の板張りの壁には、白いペンキが塗られ、東側の壁には、院長の銅貨大の勲章を胸に三つ附けた肖像画が高く掛けられて、十脚ほどの細長いテエブルがそのしたにひっそり並んでいた。食堂は、がらんとしていた。飛騨と小菅は、東南の隅のテエブルに坐り、食事をとっていた。
「ずいぶん、はげしくやっていたよ」小菅は声をひくめて語りつづけた。「弱いからだで、あんなに走りまわっていたのでは、死にたくもなるよ」
「行動隊のキャップだろう。知っている」飛騨はパンをもぐもぐ噛《か》みかえしつつ口をはさんだ。飛騨は博識ぶったのではない。左翼の用語ぐらい、そのころの青年なら誰でも知っていた。「しかし、――それだけでないさ。芸術家はそんなにあっさりしたものでないよ」
食堂は暗くなった。雨がつよくなったのである。
小菅はミルクをひとくち飲んでから言った。「君は、ものを主観的にしか考えれないから駄目だな。そもそも――そもそもだよ。人間ひとりの自殺には、本人の意識してない何か客観的な大きい原因がひそんでいるものだ、という。うちでは、みんな、女が原因だときめてしまっていたが、僕は、そうでないと言って置いた。女はただ、みちづれさ。別なおおきい原因があるのだ。うちの奴らはそれを知らない。君まで、変なことを言う。いかんぞ」
飛騨は、あしもとの燃えているストオブの火を見つめながら呟《つぶや》いた。「女には、しかし、亭主が別にあったのだよ」
ミルクの茶碗をしたに置いて小菅は応じた。「知ってるよ。そんなことは、なんでもないよ。葉ちゃんにとっては、屁でもないことさ。女に亭主があったから、心中するなんて、甘いじゃないか」言いおわってから、頭のうえの肖像画を片眼つぶって狙《ねら》って眺めた。「これが、ここの院長かい」
「そうだろう。しかし、――ほんとうのことは、大庭でなくちゃわからんよ」
「そりゃそうだ」小菅は気軽く同意して、きょろきょろあたりを見廻した。「寒いなあ。君は、きょうここへ泊るかい」
飛騨はパンをあわてて呑みくだして、首肯《うなず》いた。「泊る」
青年たちはいつでも本気に議論をしない。お互いに相手の神経へふれまいふれまいと最大限度の注意をしつつ、おのれの神経をも大切にかばっている。むだな侮《あなど》りを受けたくないのである。しかも、ひとたび傷つけば、相手を殺すかおのれが死ぬるか、きっとそこまで思いつめる。だから、あらそいをいやがるのだ。彼らは、よい加減なごまかしの言葉を数多く知っている。否という一言をさえ、十色くらいにはなんなく使いわけて見せるだろう。議論をはじめる先から、もう妥協の瞳を交しているのだ。そしておしまいに笑って握手しながら、腹のなかでお互いがともにともにこう呟く。低脳め!
さて、僕の小説も、ようやくぼけて来たようである。ここらで一転、パノラマ式の数《すう》齣《こま》を展開させるか。おおきいことを言うでない。なにをさせても無器用なお前が。ああ、うまく行けばよい。
翌る朝は、なごやかに晴れていた。海は凪《な》いで、大島の噴火のけむりが、水平線の上に白くたちのぼっていた。よくない。僕は景色を書くのがいやなのだ。
い号室の患者が眼をさますと、病室は小春の日ざしで一杯であった。附添いの看護婦と、おはようを言い交し、すぐ朝の体温を計った。六度四分あった。それから、食前の日光浴をしにヴェランダへ出た。看護婦にそっと横腹をこ突かれるさきから、もはや、に号室のヴェランダを盗み見していたのである。きのうの新患者は、紺《こん》絣《がすり》の袷をきちんと着て籐椅子に坐り、海を眺めていた。まぶしそうにふとい眉をひそめていた。そんなによい顔とも思えなかった。ときどき頬のガアゼを手の甲でかるく叩いていた。日光浴用の寝台に横たわって、薄目あけつつそれだけを観察してから、看護婦に本を持って来させた。ボヴァリイ夫人。ふだんはこの本を退屈がって、五、六ペエジも読むと投げ出してしまったものであるが、きょうは本気に読みたかった。いま、これを読むのは、いかにもふさわしげであると思った。ぱらぱらとペエジを繰り、百ペエジのところあたりから読み始めた。よい一行を拾った。「エンマは、炬火《たいまつ》の光で、真夜中に嫁入りしたいと思った」
ろ号室の患者も眼覚めていた。日光浴をしにヴェランダへ出て、ふと葉蔵のすがたを見るなり、また病室へ駈けこんだ。わけもなく怖かった。すぐベッドへもぐり込んでしまったのである。附添いの母親は、笑いながら毛布をかけてやった。ろ号室の娘は、頭から毛布をひきかぶり、その小さい暗闇のなかで眼をかがやかせ、隣室の話声に耳傾けた。
「美人らしいよ」それからしのびやかな笑い声が。
飛騨と小菅が泊っていたのである。その隣の空いていた病室のひとつベッドにふたりで寝た。小菅がさきに眼を覚まし、その細ながい眼をしぶくあけてヴェランダへ出た。葉蔵のすこし気取ったポオズを横眼でちらと見てから、そんなポオズをとらせたもとを捜しに、くるっと左へ首をねじむけた。いちばん端のヴェランダでわかい女が本を読んでいた。女の寝台の背景は、苔のある濡れた石垣であった。小菅は西洋ふうに肩をきゅっとすくめて、すぐ部屋へ引き返し、眠っている飛騨をゆり起した。
「起きろ、事件だ」彼らは事件を捏《ねつ》造《ぞう》することを喜ぶ。「葉ちゃんの大ポオズ」
彼らの会話には、「大」という形容詞がしばしば用いられる。退屈なこの世のなかに、何か期待できる対象が欲しいからでもあろう。
飛騨は、おどろいてとび起きた。「なんだ」
小菅は笑いながら教えた。
「少女がいるんだ。葉ちゃんが、それへ得意の横顔を見せているのさ」
飛騨もはしゃぎだした。両方の眉をおおげさにぐっと上へはねあげて尋ねた。「美人か?」
「美人らしいよ。本の嘘読みをしている」
飛騨は噴きだした。ベッドに腰かけたまま、ジャケツを着、ズボンをはいてから、叫んだ。
「よし、とっちめてやろう」とっちめるつもりはないのである。これはただ陰口だ。彼らは親友の陰口をさえ平気で吐く。その場の調子にまかせるのである。「大庭のやつ、世界じゅうの女をみんな欲しがっているんだ」
すこし経って、葉蔵の病室から大勢の笑い声がどっとおこり、その病棟の全部にひびき渡った。
い号室の患者は、本をぱちんと閉じて、葉蔵のヴェランダの方をいぶかしげに眺めた。ヴェランダには朝日を受けて光っている白い籐椅子がひとつのこされてあるきりで、誰もいなかった。その籐椅子を見つめながら、うつらうつらまどろんだ。ろ号室の患者は、笑い声を聞いて、ふっと毛布から顔を出し、枕元に立っている母親とおだやかな微笑を交した。へ号室の大学生は、笑い声で眼を覚ました。大学生には、附添いのひともなかったし、下宿屋ずまいのような、のんきな暮しをしているのであった。笑い声はきのうの新患者の室からなのだと気づいて、その蒼黒い顔をあからめた。笑い声を不《ふ》謹《きん》慎《しん》とも思わなかった。恢復期の患者に特有の寛大な心から、むしろ葉蔵の元気のよいらしいのに安心したのである。
僕は三流作家でないだろうか。どうやら、うっとりしすぎたようである。パノラマ式などと柄でもないことを企て、とうとうこんなにやにさがった。いや、待ち給え。こんな失敗もあろうかと、まえもって用意していた言葉がある。美しい感情をもって、人は、悪い文学を作る。つまり僕の、こんなにうっとりしすぎたのも、僕の心がそれだけ悪魔的でないからである。ああ、この言葉を考え出した男にさいわいあれ。なんという重宝な言葉であろう。けれども作家は、一生涯のうちにたったいちどしかこの言葉を使われぬ。どうもそうらしい、いちどは、愛嬌である。もし君が、二度三度とくりかえして、この言葉を楯《たて》にとるなら、どうやら君はみじめなことになるらしい。
「失敗したよ」
ベッドの傍のソファに飛騨と並んで坐っていた小菅は、そう言いむすんで、飛騨の顔と、葉蔵の顔と、それから、ドアに倚《よ》りかかっている真野の顔とを、順々に見まわし、みんな笑っているのを見とどけてから、満足げに飛騨のまるい右肩へぐったり頭をもたせかけた。彼らは、よく笑う。なんでもないことにでも大声たてて笑いこける。笑顔をつくることは、青年たちにとって、息を吐き出すのと同じくらい容易である。いつのころからそんな習性がつき始めたのであろう。笑わなければ損をする。笑うべきどんなささいな対象をも見落とすな。ああ、これこそ貪《どん》婪《らん》な美食主義のはかない片鱗ではなかろうか。けれども悲しいことには、彼らは腹の底から笑えない。笑いくずれながらも、おのれの姿勢を気にしている。彼らはまた、よくひとを笑わす。おのれを傷つけてまで、ひとを笑わせたがるのだ。それはいずれ例の虚無の心から発しているのであろうが、しかし、そのもういちまい底になにか思いつめた気がまえを推察できないだろうか。犠牲の魂。いくぶんなげやりであって、これぞという目的をも持たぬ犠牲の魂。彼らがたまたま、いままでの道徳律にはかってさえ美談と言い得る立派な行動をなすことのあるのは、すべてこのかくされた魂のゆえである。これらは僕の独断である。しかも書斎のなかの模索でない。みんな僕自身の肉体から聞いた思念ではある。
葉蔵は、まだ笑っている。ベッドに腰かけて両脚をぶらぶら動かし、頬のガアゼを気にしいしい笑っていた。小菅の話がそんなにおかしかったのであろうか。彼らがどのような物語にうち興ずるかの一例として、ここへ数行を挿入しよう。小菅がこの休暇中、ふるさとのまちから三里ほど離れた山のなかのある名高い温泉場へスキイをしに行き、そこの宿屋に一泊した。深夜、厠へ行く途中、廊下で同宿のわかい女とすれちがった。それだけのことである。しかし、これが大事件なのだ。小菅にしてみれば、ちょっとすれちがっただけでも、その女のひとにおのれのただならぬ好印象を与えてやらなければ気がすまぬのである。別にどうしようというあてもないのだが、そのすれちがった瞬間に、彼はいのちを打ちこんだポオズを作る。人生へ本気になにか期待をもつ。その女のひととのあらゆる経緯を瞬間のうちに考えめぐらし、胸のはりさける思いをする。彼らは、そのような息づまる瞬間を、少くとも一日にいちどは経験する。だから彼らは油断をしない。ひとりでいるときにでも、おのれの姿勢を飾っている。小菅が、深夜、厠へ行ったそのときでさえ、おのれの新調の青い外套をきちんと着て廊下へ出たという。小菅がそのわかい女とすれちがったあとで、しみじみ、よかったと思った。外套を着て出てよかったと思った。ほっと溜息をついて、廊下のつきあたりの大きい鏡を覗いてみたら、失敗であった。外套のしたから、うす汚い股引をつけた両脚がにょっきと出ている。
「いやはや」さすがに軽く笑いながら言うのであった。「股引はねじくれあがり、脚の毛がくろぐろと見えているのさ。顔は寝ぶくれにふくれて」
葉蔵は、内心そんなに笑ってもいないのである。小菅のつくりばなしのようにも思われた。それでも大声で笑ってやった。友がきのうに変って、葉蔵へ打ち解けようと努めて呉れる、その気ごころに対する返礼のつもりもあって、ことさらに笑いこけてやったのである。葉蔵が笑ったので、飛騨も真野も、ここぞと笑った。
飛騨は安心してしまった。もうなんでも言えると思った。まだまだ、と抑えたりした。ぐずぐずしていたのである。
調子に乗った小菅が、かえってやすやすと言ってのけた。
「僕たちは、女じゃ失敗するよ。葉ちゃんだってそうじゃないか」
葉蔵は、まだ笑いながら、首を傾《かし》げた。
「そうかなあ」
「そうさ。死ぬてはないよ」
「失敗かなあ」
飛騨は、うれしくてうれしくて、胸がときめきした。いちばん困難な石垣を微笑のうちに崩したのだ。こんな不思議な成功も、小菅のふとどきな人徳のおかげであろうと、この年少の友をぎゅっと抱いてやりたい衝動を感じた。
飛騨は、うすい眉をはればれとひらき、吃《ども》りつつ言いだした。
「失敗かどうかは、ひとくちに言えないと思うよ。だいいち原因が判らん」まずいなあ、と思った。
すぐ小菅が助けて呉れた。「それは判ってる。飛騨と大議論をしたんだ。僕は思想の行きづまりからだと思うよ。飛騨は、こいつ、もったいぶってね、他にある、なんて言うんだ」間髪をいれず飛騨は応じた。「それもあるだろうが、それだけじゃないよ。つまり惚《ほ》れていたのさ。いやな女と死ぬはずがない」
葉蔵になにも臆測されたくない心から、言葉をえらばずにいそいで言ったのであるが、それはかえっておのれの耳にさえ無邪気にひびいた。大出来だ、とひそかにほっとした。
葉蔵は長い睫《まつげ》を伏せた。虚傲。懶《らん》惰《だ》。阿《あ》諛《ゆ》。狡猾。悪徳の巣。疲労。忿《ふん》怒《ぬ》。殺意。我利我利。脆《ぜい》弱《じやく》。欺瞞。病毒。ごたごたと彼の胸をゆすぶった。言ってしまおうかと思った。わざとしょげかえって呟いた。
「ほんとうは、僕にも判らないのだよ。なにもかも原因のような気がして」
「判る。判る」小菅は葉蔵の言葉の終らぬさきから首肯《うなず》いた。「そんなこともあるな。君、看護婦がいないよ。気をきかせたのかしら」
僕はまえにも言いかけて置いたが、彼らの議論は、お互いの思想を交換するよりは、その場の調子を居心地よくととのうるためになされる。なにひとつ真実を言わぬ。けれども、しばらく聞いているうちに、思わぬ拾いものをすることがある。彼らの気取った言葉のなかに、ときどきびっくりするほど素直なひびきの感ぜられることがある。不用意にもらす言葉こそ、ほんとうらしいものをふくんでいるのだ。葉蔵はいま、なにもかも、と呟いたのであるが、これこそ彼がうっかり吐いてしまった本音ではなかろうか。彼らのこころのなかには、渾《こん》沌《とん》と、それから、わけのわからぬ反撥とだけがある。あるいは、自尊心だけ、と言ってよいかも知れぬ。しかも細くとぎすまされた自尊心である。どのような微風にでもふるえおののく。侮辱を受けたと思いこむやいなや、死なんかなともだえる。葉蔵がおのれの自殺の原因をたずねられて当惑するのも無理がないのである。――なにもかもである。
その日のひるすぎ、葉蔵の兄が青松園についた。兄は、葉蔵に似てないで、立派にふとっていた。袴《はかま》をはいていた。
院長に案内され、葉蔵の病室のまえまで来たとき、部屋のなかの陽気な笑い声を聞いた。兄は知らぬふりをしていた。
「ここですか?」
「ええ。もう御元気です」院長は、そう答えながらドアを開けた。
小菅がおどろいて、ベッドから飛びおりた。葉蔵のかわりに寝ていたのである。葉蔵と飛騨とは、ソファに並んで腰かけて、トランプをしていたのであったが、ふたりともいそいで立ちあがった。真野は、ベッドの枕元の椅子に坐って編物をしていたが、これも、間がわるそうにもじもじと編物の道具をしまいかけた。
「お友だちが来て下さいましたので、賑《にぎ》やかです」院長はふりかえって兄へそう囁きつつ、葉蔵の傍へあゆみ寄った。「もう、いいですね」
「ええ」そう答えて、葉蔵は急にみじめな思いをした。
院長の眼は、眼鏡の奥で笑っていた。
「どうです。サナトリアム生活でもしませんか」
葉蔵は、はじめて罪人のひけ目を覚えたのである。ただ微笑をもって答えた。
兄はそのあいだに、几帳面らしく真野と飛騨へ、お世話になりました、と言ってお辞儀をして、それから小菅へ真面目な顔で尋ねた。「ゆうべは、ここに泊ったって?」
「そう」小菅は頭を掻き掻き言った。「となりの病室があいていましたので、そこへ飛騨君とふたり泊めてもらいました」
「じゃ今夜から私の旅籠《はたご》へ来給え。江の島に旅籠をとっています。飛職さん、あなたも」
「はあ」飛騨はかたくなっていた。手にしている三枚のトランプを持てあましながら返事した。
兄は、なんでもなさそうにして葉蔵のほうを向いた。
「葉蔵、もういいか」
「うん」ことさらに、にがり切って見せながらうなずいた。
兄は、にわかに饒《じよう》舌《ぜつ》になった。
「飛蝉さん、院長先生のお供をして、これからみんなでひるめしたべに出ましょうよ。私はまだ江の島を見たことがないのですよ。先生に案内していただこうと思って。すぐ、出掛けましょう。自動車を待たせてあるのです。よいお天気だ」
僕は後悔している。二人のおとなを登場させたばかりに、すっかり滅茶滅茶である。葉蔵と小菅と飛騨と、それから僕と四人かかってせっかくよい工合いにもりあげた、いっぷう変った雰囲気も、この二人のおとなのために、見るかげもなく萎《な》えしなびた。僕はこの小説を雰囲気のロマンスにしたかったのである。はじめの数ペエジでぐるぐる渦を巻いた雰囲気をつくって置いて、それを少しずつのどかに解きほぐして行きたいと祈っていたのであった。不手際をかこちつつ、どうやらここまでは筆をすすめて来た。しかし、土《ど》崩《ほう》瓦《が》解《かい》である。
許して呉れ! 嘘だ。とぼけたのだ。みんな僕のわざとしたことなのだ。書いているうちに、その、雰囲気のロマンスなぞということが気はずかしくなって来て、僕がわざとぶちこわしたまでのことなのである。もしほんとうに土崩瓦解に成功しているのなら、それはかえって僕の思う壺だ。悪趣味。いまになって僕の心をくるしめているのはこの一言である。ひとをわけもなく威圧しようとするしつっこい好みをそう呼ぶのなら、あるいは僕のこんな態度も悪趣味であろう。僕は負けたくないのだ。腹のなかを見すかされたくなかったのだ。しかし、それは、はかない努力であろう。あ! 作家はみんなこういうものであろうか。告白するのにも言葉を飾る。僕はひとでなしでなかろうか。ほんとうの人間らしい生活が、僕にできるかしら。こう書きつつも僕は僕の文章を気にしている。
なにもかもさらけ出す。ほんとうは、僕はこの小説の一《ひと》齣《こま》一齣の描写の間に、僕という男の顔を出させて、言わでものことをひとくさり述べさせたのにも、ずるい考えがあってのことなのだ。僕は、それを読者に気づかせずに、あの僕でもって、こっそり特異なニュアンスを作品にもりたかったのである。それは日本にまだないハイカラな作風であると自惚《うぬぼ》れていた。しかし、敗北した。いや、僕はこの敗北の告白をも、この小説のプランのなかにかぞえていたはずである。できれば僕は、もすこしあとでそれを言いたかった。いや、この言葉をさえ、僕ははじめから用意していたような気がする。ああ、もう僕を信ずるな。僕の言うことをひとことも信ずるな。
僕はなぜ小説を書くのだろう。新進作家としての栄光がほしいのか。もしくは金がほしいのか。芝居気を抜きにして答えろ。どっちもほしいと。ほしくてならぬと。ああ、僕はまだしらじらしい嘘を吐いている。このような嘘には、ひとはうっかりひっかかる。嘘のうちでも卑劣な嘘だ。僕はなぜ小説を書くのだろう。困ったことを言いだしたものだ。仕方がない。思わせぶりみたいでいやではあるが、仮りに一言こたえて置こう。「復讐」
つぎの描写へうつろう。僕は市場の芸術家である。芸術品ではない。僕のあのいやらしい告白も、僕のこの小説になにかのニュアンスをもたらして呉れたら、それはもっけのさいわいだ。
葉蔵と真野とがあとに残された。葉蔵は、ベッドにもぐり、眼をぱちぱちさせつつ考えごとをしていた。真野はソファに坐って、トランプを片づけていた。トランプの札を紫の紙箱におさめてから、言った。
「お兄さまでございますね」
「ああ」たかい天井の白壁を見つめながら答えた。「似ているかな」
作家がその描写の対象に愛情を失うと、てきめんにこんなだらしない文章をつくる。いや、もう言うまい。なかなか乙な文章だよ。
「ええ。鼻が」
葉蔵は、声をたてて笑った。葉蔵のうちのものは、祖母に似てみんな鼻が長かったのである。
「おいくつでいらっしゃいます」真野も少し笑って、そう尋ねた。
「兄貴か?」真野のほうへ顔をむけた。「若いのだよ。三十四さ。おおきく構えて、いい気になっていやがる」
真野は、ふっと葉蔵の顔を見あげた。眉をひそめて話しているのだ。あわてて眼を伏せた。
「兄貴は、まだあれでいいのだ。親爺が」
言いかけて口を噤《つぐ》んだ。葉蔵はおとなしくしている。僕の身代りになって、妥協しているのである。
真野は立ちあがって、病室の隅の戸棚へ編物の道具をとりに行った。もとのように、また葉蔵の枕元の椅子に坐り、編物をはじめながら、真野もまた考えていた。思想でもない、恋愛でもない、それより一歩てまえの原因を考えていた。
僕はもう何も言うまい。言えば言うほど、僕はなんにも言っていない。ほんとうに大切なことがらには、僕はまだちっとも触れていないような気がする。それは当り前であろう。たくさんのことを言い落としている。それも当り前であろう。作家にはその作品の価値がわからぬというのが小説道の常識である。僕は、くやしいがそれを認めなければいけない。自分で自分の作品の効果を期待した僕は馬鹿であった。ことにその効果を口に出してなど言うべきでなかった。口に出して言ったとたんに、また別のまるっきり違った効果が生れる。その効果をおよそこうであろうと推察したとたんに、また新しい効果が飛び出す。僕は永遠にそれを追求してばかりいなければならぬ愚を演ずる。駄作かそれともまんざらでない出《で》来《き》栄《ばえ》か、僕はそれをさえ知ろうと思うまい。おそらくは、僕のこの小説は、僕の思いも及ばぬたいへんな価値を生むことであろう。これらの言葉は、僕はひとから聞いて得たものである。僕の肉体からにじみ出た言葉でない。それだからまた、たよりたい気にもなるのであろう。はっきり言えば、僕は自信をうしなっている。
電気がついてから、小菅がひとりで病室へやって来た。はいるとすぐ、寝ている葉蔵の顔へおっかぶさるようにして囁いた。
「飲んで来たんだ。真野へ内緒だよ」
それから、はっと息を葉蔵の顔へつよく吐きつけた。酒を飲んで病室へ出はいりすることは禁ぜられていた。
うしろのソファで編物をつづけている真野をちらと横眼をつかって見てから、小菅は叫ぶようにして言った。「江の島をけんぶつして来たよ。よかったなあ」そしてすぐまた声をひくめてささやいた。「嘘だよ」
葉蔵は起きあがってベッドに腰かけた。
「いままで、ただ飲んでいたのか。いや、構わんよ。真野さん、いいでしょう?」
真野は編物の手をやすめずに、笑いながら答えた。「よくもないんですけれど」
小菅はベッドの上へ仰《あお》向《むけ》にころがった。
「院長と四人して相談さ。君、兄さんは策士だなあ。案外のやりてだよ」
葉蔵はだまっていた。
「あす、兄さんと飛騨が警察へ行くんだ。すっかりかたをつけてしまうんだって。飛騨は馬鹿だなあ。昂奮していやがった。飛騨は、きょうむこうへ泊るよ。僕は、いやだから帰った」
「僕の悪口を言っていたろう」
「うん。言っていたよ。大馬鹿だと言ってる。この後も、なにをしでかすか、判ったものじゃないと言ってた。しかし親爺もよくないと附け加えた。真野さん、煙草を吸ってもいい?」
「ええ」涙が出そうなのでそれだけ答えた。
「浪の音が聞えるね。――よき病院だな」小菅は火のついてない煙草をくわえ、酔っぱらいらしくあらい息をしながら、しばらく眼をつぶっていた。やがて、上体をむっくり起した。「そうだ。着物を持って来たんだ。そこへ置いたよ」顎《あご》でドアの方をしゃくった。
葉蔵は、ドアの傍に置かれてある唐草の模様がついた大きい風呂敷包に眼を落とし、やはり眉をひそめた。彼らは肉親のことを語るときには、いささか感傷的な面貌をつくる。けれども、これはただ習慣にすぎない。幼いときからの教育が、その面貌をつくりあげただけのことである。肉親と言えば財産という単語を思い出すのには変りがないようだ。「おふくろには、かなわん」
「うん、兄さんもそう言ってる。お母さんがいちばん可哀そうだって。こうして着物の心配までして呉れるのだからな。ほんとうだよ、君。――真野さん、マッチない?」真野からマッチを受け取り、その箱に画かれてある馬の顔を頬ふくらませて眺めた。「君のいま着ているのは、院長から借りた着物だってね」
「これか? そうだよ。院長の息子の着物さ。――兄貴はその他にも何か言ったろうな。僕の悪口を」
「ひねくれるなよ」煙草へ火を点じた。「兄さんは、わりに新しいよ。君を判っているんだ。いや、そうでもないかな。苦労人ぶるよ、なかなか。君の、こんどのことの原因を、みんなで言い合ったんだが、そのときにね、おお笑いさ」けむりの輪を吐いた。「兄さんの推測としてはだよ、これは葉蔵が放《ほう》蕩《とう》をして金に窮したからだ。大真面目で言うんだよ。それとも、これは兄として言いにくいことだが、きっと恥かしい病気にでもかかって、やけくそになったのだろう」酒でどろんと濁った眼を葉蔵にむけた。「どうだい。いや、案外こいつ」
今宵は泊るのが小菅ひとりであるし、わざわざ隣の病室を借りるにも及ぶまいと、みんなで相談して、小菅もおなじ病室に寝ることにきめた。小菅は葉蔵とならんだソファに寝た。緑色の天鵞絨《ビロード》が張られたそのソファには、仕掛がされてあって、あやしげながらベッドにもなるのであった。真野は毎晩それに寝ていた。きょうはその寝床を小菅に奪われたので病院の事務所から薄《うす》縁《べり》を借り、それを部屋の西北の隅に敷いた。そこはちょうど葉蔵の足の真下あたりであった。それから真野は、どこから見つけて来たものか、二枚折りのひくい屏《びよう》風《ぶ》でもってそのつつましい寝所をかこったのである。
「用心ぶかい」小菅は寝ながら、その古ぼけた屏風を見て、ひとりでくすくす笑った。「秋の七草が画かれてあるよ」
真野は、葉蔵の頭のうえの電燈を風呂敷で包んで暗くしてから、おやすみなさいを二人に言い、屏風のかげにかくれた。
葉蔵は寝ぐるしい思いをしていた。
「寒いな」ベッドのうえで輾《てん》転《てん》した。
「うん」小菅も口をとがらせて相槌うった。「酔いがさめちゃった」
真野は軽くせきをした。「なにかお掛けいたしましょうか」
葉蔵は眼をつむって答えた。
「僕か? いいよ。寝ぐるしいんだ。浪の音が耳について」
小菅は葉蔵をふびんだと思った。それは全く、おとなの感情である。言うまでもないことだろうけれど、ふびんなのはここにいるこの葉蔵ではなしに、葉蔵とおなじ身のうえにあったときの自分、もしくはその身のうえの一般的な抽象である。おとなは、そんな感情にうまく訓練されているので、たやすく人に同情する。そして、おのれの涙もろいことに自負を持つ。青年たちもまた、ときどきそのような安易な感情にひたることがある。おとなはそんな訓練を、まず好意的に言って、おのれの生活との妥協から得たものとすれば、青年たちは、いったいどこから覚えこんだものか。このようなくだらない小説から?
「真野さん、なにか話を聞かせてよ。面白い話がない?」
葉蔵の気持ちを転換させてやろうというおせっかいから、小菅は真野へ甘ったれた。
「さあ」真野は屏風のかげから、笑い声と一緒にただそう答えてよこした。
「すごい話でもいいや」彼らはいつも、戦《せん》慄《りつ》したくてうずうずしている。
真野は、なにか考えているらしく、しばらく返事をしなかった。
「秘密ですよ」そうまえおきをして、声しのばせて笑いだした。「怪談でこざいますよ。小菅さん、だいじょうぶ?」
「ぜひ、ぜひ」本気だった。
真野が看護婦になりたての、十九の夏のできごと。やはり女のことで自殺を謀った青年が、発見されて、ある病院に収容され、それへ真野が附添った。患者は薬品をもちいているのであった。からだいちめんに、紫色の斑点がちらばっていた。助かる見込みがなかったのである。夕方いちど、意識を恢復した。そのとき患者は、窓のそとの石垣を伝ってあそんでいるたくさんの小さい磯《いそ》蟹《がに》を見て、きれいだなあ、と言った。その辺の蟹は生きながらに甲《こう》羅《ら》が赤いのである。なおったら捕って家へ持って行くのだ、と言い残してまた意識をうしなった。その夜、患者は洗面器へ二杯、吐きものをして死んだ。国元から身うちのものが来るまで、真野はその病室に青年とふたりでいた。一時間ほどは、がまんして病室のすみの椅子に坐っていた。うしろに幽《かす》かな物音を聞いた。じっとしていると、また聞えた。こんどは、はっきり聞えた。足音らしいのである。思い切って振りむくと、すぐうしろに赤い小さな蟹がいた。真野はそれを見つめつつ、泣きだした。
「不思議ですわねえ。ほんとうに蟹がいたのでございますの。生きた蟹。私、そのときは、看護婦をよそうと思いましたわ。私がひとり働かなくても、うちではけっこう暮してゆけるのですし。お父さんにそう言って、うんと笑われましたけれど。――小菅さん、どう?」
「すごいよ」小菅は、わざとふざけたようにして叫ぶのである。「その病院ていうのは?」
真野はそれに答えず、ごそもそと寝返りをうって、ひとりごとのように呟いた。
「私ね、大庭さんのときも、病院からの呼び出しを断ろうかと思いましたのよ。こわかったですからねえ。でも、来て見て安心しましたわ。このとおりのお元気で、はじめから御不浄へ、ひとりで行くなんておっしゃるんでございますもの」
「いや、病院さ。ここの病院じゃないかね」
真野は、すこし間を置いて答えた。
「ここです。ここなんでございますのよ。でも、それは秘密にして置いて下さいましね。信用にかかわりましょうから」
葉蔵は寝とぼけたような声を出した。「まさか、この部屋じゃないだろうな」
「いいえ」
「まさか」小菅も口真似した。「僕たちがゆうべ寝たベッドじゃないだろうな」
真野は笑いだした。
「いいえ。だいじょうぶでございますわよ。そんなにお気になさるんだったら、私、言わなければよかった」
「い号室だ」小菅はそっと頭をもたげた。「窓から石垣の見えるのは、あの部屋よりほかにないよ。い号室だ。君、少女のいる部屋だよ。可哀そうに」
「お騒ぎなさらず、おやすみなさいましよ。嘘なんですよ。つくり話なんですよ」
葉蔵は別なことを考えていた。園の幽霊を思っていたのである。美しい姿を胸に画いていた。葉蔵は、しばしばこのようにあっさりしている。彼らにとって神という言葉は、間の抜けた人物に与えられる揶《や》揄《ゆ》と好意のまじったなんでもない代名詞にすぎぬのだが、それは彼らがあまりに神へ接近しているからかも知れぬ。こんな工合いに軽々しくいわゆる「神の問題」にふれるなら、きっと諸君は、浅薄とか安易とかいう言葉でもってきびしい非難をするであろう。ああ、許し給え。どんなまずしい作家でも、おのれの小説の主人公をひそかに神へ近づけたがっているものだ。されば、言おう。彼こそ神に似ている。寵愛の鳥、梟《ふくろう》を黄昏の空に飛ばしてこっそり笑って眺めている智慧の女神のミネルヴァに。
翌る日、朝から療養院がざわめいていた。雪が降っていたのである。療養院の前庭の千本ばかりのひくい磯《そ》馴《なれ》松《まつ》がいちように雪をかぶり、そこからおりる三十いくつの石の段々にも、それへつづく砂浜にも、雪がうすく積っていた。降ったりやんだりしながら、雪は昼ごろまでつづいた。
葉蔵は、ベッドの上で腹這いになり、雪の景色をスケッチしていた。木炭紙と鉛筆を真野に買わせて、雪のまったく降りやんだころから仕事にかかったのである。
病室は雪の反射であかるかった。小菅はソファに寝ころんで、雑誌を読んでいた。ときどき葉蔵の画を、首すじのばして覗いた。芸術というものに、ぼんやりした畏敬を感じているのであった。それは、葉蔵ひとりに対する信頼から起った感情である。小菅は幼いときから葉蔵を見て知っていた。いっぷう変っていると思っていた。一緒に遊んでいるうちに、葉蔵のその変りかたをすべて頭のよさであると独断してしまった。おしゃれで嘘のうまい好色な、そして残忍でさえあった葉蔵を、小菅は少年のころから好きだったのである。ことに学生時代の葉蔵が、その教師たちの陰口をきくときの燃えるような瞳を愛した。しかし、その愛しかたは、飛騨などとはちがって、観賞の態度であった。つまり利巧だったのである。ついて行けるところまではついて行き、そのうちに馬鹿らしくなり身をひるがえして傍観する。これが小菅の、葉蔵や飛騨よりもさらになにやら新しいところなのであろう。小菅が芸術をいささかでも畏敬しているとすれば、それは、れいの青い外套を着て身じまいをただすのとそっくり同じ意味であって、この白昼つづきの人生になにか期待の対象を感じたい心からである。葉蔵ほどの男が、汗みどろになって作り出すのであるから、きっとただならぬものにちがいない。ただ軽くそう思っている。その点、やはり葉蔵を信頼しているのだ。けれども、ときどきは失望する。いま、小菅は葉蔵のスケッチを盗み見しながらも、がっかりしている。木炭紙に画かれてあるものは、ただ海と島の景色である。それも、ふつうの海と島である。
小菅は断念して、雑誌の講談に読みふけった。病室は、ひっそりしていた。
真野は、いなかった。洗濯場で、葉蔵の毛のシャツを洗っているのだ。葉蔵は、このシャツを着て海へはいった。磯の香がほのかにしみこんでいた。
午後になって、飛騨が警察から帰って来た。いきおい込んで病室のドアをあけた。
「やあ」葉蔵がスケッチしているのを見て、大《おお》袈《げ》裟《さ》に叫んだ。「やってるな。いいよ。芸術家は、やっぱり仕事をするのが、つよみなんだ」
そう言いつつベッドへ近寄り、葉蔵の肩越しにちらと画を見た。葉蔵は、あわててその木炭紙を二つに折ってしまった。それをさらにまた四つに折り畳みながら、はにかむようにして言った。
「駄目だよ。しばらく画かないでいると、頭ばかり先になって」
飛騨は外套を着たままで、ベッドの裾へ腰かけた。
「そうかも知れんな。あせるからだ。しかし、それでいいんだよ。芸術に熱心だからなのだ。まあ、そう思うんだな。――いったい、どんなのを画いたの?」
葉蔵は頬杖ついたまま、硝子戸のそとの景色を顎でしゃくった。
「海を画いた。空と海がまっくろで、島だけが白いのだ。画いているうちに、きざな気がして止した。趣向がだいいち素人《しろうと》くさいよ」
「いいじゃないか。えらい芸術家は、みんなどこか素人くさい。それでよいんだ。はじめ素人で、それから玄人《くろうと》になって、それからまた素人になる。またロダンを持ち出すが、あいつは素人のよさを競った男だ。いや、そうでもないかな」
「僕は画をよそうと思うのだ」葉蔵は折り畳んだ木炭紙を懐にしまいこんでから、飛騨の話へおっかぶせるようにして言った。「画は、まだるっこくていかんな。彫刻だってそうだよ」
飛騨は長い髪を掻《か》きあげて、たやすく同意した。「そんな気持ちも判るな」
「できれば、詩を書きたいのだ。詩は正直だからな」
「うん。詩も、いいよ」
「しかし、やっぱりつまらないかな」なんでもかでもつまらなくしてやろうと思った。「僕にいちばんむくのはパトロンになることかも知れない。金をもうけて、飛騨みたいなよい芸術家をたくさん集めて、可愛がってやるのだ。それは、どうだろう。芸術なんて、恥かしくなった」やはり頬杖ついて海を眺めながら、そう言い終えて、おのれの言葉の反応をしずかに待った。
「わるくないよ。それも立派な生活だと思うな。そんなひともなくちゃいけないね。じっさい」言いながら飛騨は、よろめいていた。なにひとつ反《はん》駁《ばく》できぬおのれが、さすがに幇《ほう》間《かん》じみているように思われて、いやであった。彼のいわゆる、芸術家としての誇りは、ようやくここまで彼を高めたわけかも知れない。飛騨はひそかに身構えた。このつぎの言葉を!
「警察のほうは、どうだったい」
小菅がふと言い出した。あたらずさわらずの答を期待していたのである。
飛騨の動揺はその方へはけぐちを見つけた。
「起訴さ。自殺幇《ほう》助《じよ》罪《ざい》という奴だ」言ってから悔いた。ひどすぎたと思った。「だが、けっきょく、起訴猶予になるだろうよ」
小菅は、それまでソファに寝そべっていたのをむっくり起きあがって、手をぴしゃっと拍《う》った。
「やっかいなことになったぞ」茶化してしまおうと思ったのである。しかし駄目であった。
葉蔵はからだを大きく捻《ねじ》って、仰向になった。
ひと一人を殺したあとらしくもなく、彼らの態度があまりにのんきすぎると忿《ふん》懣《まん》を感じていたらしい諸君は、ここにいたってはじめて快《かい》哉《さい》を叫ぶだろう。ざまを見ろと。しかし、それは酷である。なんの、のんきなことがあるものか。つねに絶望のとなりにいて、傷つきやすい道化の華を風にもあてずつくっているこのもの悲しさを君が判って呉れたならば!
飛騨はおのれの一言の効果におろおろして、葉蔵の足を蒲団のうえから軽く叩いた。
「だいじょうぶだよ。だいじょうぶだよ」
小菅は、またソファに寝ころんだ。
「自殺幇助罪か」なおも、つとめてはしゃぐのである。「そんな法律もあったかなあ」
葉蔵は足をひっこめながら言った。
「あるさ。懲役ものだ。君は法科の学生のくせに」
飛騨は、かなしく微笑んだ。
「だいじょうぶだよ。兄さんが、うまくやっているよ。兄さんは、あれで、有《あり》難《がた》いところがあるな。とても熱心だよ」
「やりてだ」小菅はおごそかに眼をつぶった。「心配しなくてよいかも知れんな。なかなかの策士だから」
「馬鹿」飛騨は噴きだした。
ベッドから降りて外套を脱ぎ、ドアのわきの釘へそれを掛けた。
「よい話を聞いたよ」ドアちかくに置かれてある瀬戸の丸火鉢にまたがって言った。「女のひとのつれあいがねえ」すこし躊《ちゆう》躇《ちよ》してから、眼を伏せて語りつづつけた。「そのひとが、きょう警察へ来たんだ。兄さんとふたりで話をしたんだけれどねえ、あとで兄さんからそのときの話を聞いて、ちょっと打たれたよ。金は一文も要らない、ただその男のひとに逢いたい、と言うんだそうだ。兄さんは、それを断った。病人はまだ昂奮しているから、と言って断った。するとそのひとは、情ない顔をして、それでは弟さんによろしく言って呉れ、私たちのことは気にかけず、からだを大事にして、――」口を噤んだ。
おのれの言葉に胸がわくわくして来たのである。そのつれあいのひとが、いかにも失業者らしくまずしい身なりをしていたと、軽侮のうす笑いをさえまざまざ口角に浮かべつつ話して聞かせた葉蔵の兄へのこらえにこらえた鬱《うつ》憤《ぷん》から、ことさらに誇張をまじえて美しく語ったのであった。
「逢わせればよいのだ。要らないおせっかいをしやがる」葉蔵は、右の掌を見つめていた。
飛騨は大きいからだをひとつゆすった。
「でも、――逢わないほうがいいんだ。やっぱり、このまま他人になってしまったほうがいいんだ。もう東京へ帰ったよ。兄さんが停車場まで送って行って来たのだ。兄さんは二百円の香《こう》奠《でん》をやったそうだよ。これからはなんの関係もない、という証文みたいなものも、そのひとに書いてもらったんだ」
「やりてだなあ」小菅は薄い下唇を前へ突きだした。「たった二百円か。たいしたものだよ」
飛騨は、炭火のほてりでてらてら油びかりしだした丸い顔を、けわしくしかめた。彼らは、おのれの陶酔に水をさされることを極端に恐れる。それゆえ、相手の陶酔をも認めてやる。努めてそれへ調子を合せてやる。それは彼らのあいだの黙契である。小菅はいまそれを破っている。小菅には、飛騨がそれほど感激しているとは思えなかったのだ。そのつれあいのひとの弱さが歯がゆかったし、それへつけこむ葉蔵の兄も兄だ、と相変らずの世間の話として聞いていたのである。
飛騨はぶらぶら歩きだし、葉蔵の枕元のほうへやって来た。硝子戸に鼻先をくっつけるようにして、曇天のしたの海を眺めた。
「そのひとがえらいのさ。兄さんがやりてだからじゃないよ。そんなことはないと思うなあ。えらいんだよ。人間のあきらめの心が生んだ美しさだ。けさ火葬したのだが、骨壺を抱いてひとりで帰ったそうだ。汽車に乗ってる姿が眼にちらつくよ」
小菅は、やっと了解した。すぐ、ひくい溜息をもらすのだ。「美談だなあ」
「美談だろう? いい話だろう?」飛騨は、くるっと小菅のほうへ顔をねじむけた。機嫌を直したのである。「僕は、こんな話に接すると、生きているよろこびを感ずるのさ」
思い切って、僕は顔を出す。そうでもしないと、僕はこのうえ書きつづけることができぬ。この小説は混乱だらけだ。僕自身がよろめいている。葉蔵をもてあまし、小菅をもてあまし、飛騨をもてあました。彼らは、僕の稚拙な筆をもどかしがり、勝手に飛《ひ》翔《しよう》する。僕は彼らの泥靴にとりすがって、待て待てとわめく。ここらで陣容を立て直さぬことには、だいいち僕がたまらない。
どだいこの小説は面白くない。姿勢だけのものである。こんな小説なら、いちまい書くも百枚書くもおなじだ。しかしそのことは始めから覚悟していた。書いているうちに、なにかひとつぐらい、むきなものが出るだろうと楽観していた。僕はきざだ。きざではあるが、なにかひとつぐらい、いいとこがあるまいか。僕はおのれの調子づいた臭い文章に絶望しつつ、なにかひとつぐらいなにかひとつぐらいとそればかりを、あちこちひっくりかえして捜した。そのうちに、僕はじりじり硬直をはじめた。くたばったのだ。ああ、小説は無心に書くに限る! 美しい感情をもって、人は、悪い文学を作る。なんという馬鹿な。この言葉に最大級のわざわいあれ。うっとりしてなくて、小説など書けるものか。ひとつの言葉、ひとつの文章が、十色くらいのちがった意味をもっておのれの胸へはねかえって来るようでは、ペンをへし折って捨てなければならぬ。葉蔵にせよ、飛騨にせよ、また小菅にせよ、何もあんなにことごとしく気取って見せなくてよい。どうせおさとは知れているのだ。あまくなれ、あまくなれ。無念無想。
その夜、だいぶ更けてから、葉蔵の兄が病室を訪れた。葉蔵は飛騨と小菅と三人で、トランプをして遊んでいた。きのう兄がここへはじめて来たとき、彼らはトランプをしていたはずである。けれども彼らはいちにちいっぱいトランプをいじくってばかりいるわけでない。むしろ彼らは、トランプをいやがっているほどなのだ。よほど退屈したときでなければ持ち出さぬ。それも、おのれの個性を充分に発揮できないようなゲエムはきっと避ける。手品を好む。さまざまなトランプの手品を自分で工夫してやって見せる。そしてわざとその種を見やぶらせてやる。笑う。それからまだある。トランプの札をいちまい伏せて、さあ、これはなんだ、とひとりが言う。スペエドの女王。クラブの騎士。それぞれがおもいおもいに趣向こらしたでたらめを述べる。札をひらく。当ったためしのないのだが、それでもいつかはぴったり当るだろう、と彼らは考える。あたったら、どんなに愉快だろう。つまり彼らは、長い勝負がいやなのだ。いちかばち。ひらめく勝負が好きなのだ。だから、トランプを持ち出しても、十分とそれを手にしていない。一日に十分間。そのみじかい時間に兄が二度も来合せた。
兄は病室へはいって来て、ちょっと眉をひそめた。いつものんきにトランプだ、と考えちがいしたのである。このような不幸は人生にままある。葉蔵は美術学校時代にも、これと同じような不幸を感じたことがある。いつかのフランス語の時間に、彼は三度ほどあくびをして、その瞬間瞬間に教授と視線が合った。たしかにたった三度であった。日本有数のフランス語学者であるその老教授は、三度目に、たまりかねたようにして、大声で言った。「君は、僕の時間にはあくびばかりしている。一時間に百回あくびをする」教授には、そのあくびの多すぎる回数を事実かぞえてみたような気がしているらしかった。
ああ、無念無想の結果を見よ。僕は、とめどもなくだらだらと書いている。さらに陣容を立て直さなければいけない。無心に書く境地など、僕にはとても企て及ばぬ。いったいこれは、どんな小説になるのだろう。はじめから読み返してみよう。
僕は、海浜の療養院を書いている。この辺は、なかなか景色がよいらしい。それに療養院のなかのひとたちも、すべて悪人でない。ことに三人の青年は、ああ、これは僕たちの英雄だ。これだな。むずかしい理屈はくそにもならぬ。僕はこの三人を、主張しているだけだ。よし、それにきまった。むりにもきめる。なにも言うな。
兄は、みんなに軽く挨拶した。それから飛騨へなにか耳打ちした。飛騨はうなずいて、小菅と真野へ目くばせした。
三人が病室から出るのを待って、兄は言いだした。
「電気がくらいな」
「うん。この病院じゃ明るい電気をつけさせないのだ。坐らない?」
葉蔵がさきにソファへ坐って、そう言った。
「ああ」兄は坐らずに、くらい電球を気がかりらしくちょいちょいふり仰ぎつつ、狭い病室のなかをあちこちと歩いた。「どうやら、こっちのほうだけは、片づいた」
「ありがとう」葉蔵はそれを口のなかで言って、こころもち頭をさげた。
「私はなんとも思っていないよ。だが、これから家へ帰るとまたうるさいのだ」きょうは袴をはいていなかった。黒い羽織には、なぜか羽織紐《ひも》がついてなかった。「私も、できるだけのことはするが、お前からも親爺へよい工合いに手紙を出したほうがいい。お前たちは、のんきそうだが、しかし、めんどうな事件だよ」
葉蔵は返事をしなかった。ソファにちらばっているトランプの札をいちまい手にとって見つめていた。
「出したくないなら、出さなくていい。あさって、警察へ行くんだ。警察でも、いままで、わざわざ取調べをのばして呉れていたのだ。きょうは私と飛騨とが証人として取調べられた。ふだんのお前の素《そ》行《こう》をたずねられたから、おとなしいほうでしたと答えた。思想上になにか不《ふ》審《しん》はなかったか、と聞かれて、絶対にありません」
兄は歩きまわるのをやめて、葉蔵のまえの火鉢に立ちはだかり、おおきい両手を炭火のうえにかざした。葉蔵はその手のこまかくふるえているのをぼんやり見ていた。
「女のひとのことも聞かれた。全然知りません、と言って置いた。飛騨もだいたい同じことを訊問されたそうだ。私の答弁と符合したらしいよ。お前も、ありのままを言えばいい」
葉蔵には兄の言葉の裏が判っていた。しかし、そしらぬふりをしていた。
「要らないことは言わなくていい。聞かれたことだけをはっきり答えるのだ」
「起訴されるのかな」葉蔵はトランプの札の縁を、右手のひとさし指で撫でまわしながらひくく呟いた。
「判らん。それは判らん」語調をつよめてそう言った。「どうせ四、五日は警察へとめられると思うから、その用意をして行け。あさっての朝、私はここへ迎えに来る。一緒に警察へ行くんだ」
兄は、炭火へ瞳をおとして、しばらく黙った。雪解けの雫《しずく》のおとが浪の響にまじって聞えた。
「こんどの事件は事件として」だしぬけに兄はぽつんと言いだした。それから、なにげなさそうな口調ですらすら言いつづけた。「お前も、ずっと将来のことを考えて見ないといけないよ。家にだって、そうそう金があるわけでないからな。ことしは、ひどい不作だよ。お前に知らせたってなんにもならぬだろうが、うちの銀行もいま危くなっているし、たいへんな騒ぎだよ。お前は笑うかも知れないが、芸術家でもなんでも、だいいちばんに生活のことを考えなければいけないと思うな。まあ、これから生れ変ったつもりで、ひとふんぱつしてみるといい。私は、もう帰ろう。飛騨も小菅も、私の旅籠に泊めるようにしたほうがいい。ここで毎晩さわいでいては、まずいことがある」
「僕の友だちはみんなよいだろう?」
葉蔵は、わざと真野のほうへ背をむけて寝ていた。その夜から、真野がもとのように、ソファのべッドへ寝ることになったのである。
「ええ。――小菅さんとおっしゃるかた」静かに寝がえりを打った。「面白いかたですわねえ」
「ああ。あれで、まだ若いのだよ。僕と三つちがうのだから、二十二だ。僕の死んだ弟と同じとしだ。あいつ、僕のわるいとこばかり真似していやがる。飛騨はえらいのだ。もうひとりまえだよ。しっかりしている」しばらく間を置いて、小声で附け加えた。「僕がこんなことをやらかすたんびに、一生懸命で僕をいたわるのだ。僕たちにむりして調子を合せているのだよ。ほかのことにはつよいが僕たちにだけおどおどするのだ。だめだ」
真野は答えなかった。
「あの女のことを話してあげようか」
やはり真野へ背をむけたまま、つとめてのろのろとそう言った。なにか気まずい思いをしたときに、それを避ける法を知らず、がむしゃらにその気まずさを徹底させてしまわなければかなわぬ悲しい習性を葉蔵は持っていた。
「くだらん話なんだよ」真野がなんとも言わぬさきから葉蔵は語りはじめた。「もう誰かから聞いただろう。園というのだ。銀座のバアにつとめていたのさ。ほんとうに、僕はそこのバアへ三度、いや四度しか行かなかったよ。飛騨も小菅もこの女のことだけは知らなかったのだからな。僕も教えなかったし」よそうか。「くだらない話だよ。女は生活の苦のために死んだのだ。死ぬるまぎわまで、僕たちは、お互いにまったくちがったことを考えていたらしい。園は海へ飛び込むまえに、あなたはうちの先生に似ているなあ、なんて言いやがった。内縁の夫があったのだよ。二、三年まえまで小学校の先生をしていたのだって。僕は、どうしてあのひとと死のうとしたのかなあ。やっぱり好きだったのだろうね」もう彼の言葉を信じてはいけない。彼らは、どうしてこんなに自分を語るのが下手なのだろう。「僕は、これでも、左翼の仕事をしていたのだよ。ビラを撒《ま》いたり、デモをやったり、柄にないことをしていたのさ。滑《こつ》稽《けい》だ。でも、ずいぶんつらかったよ。われは先覚者なりという栄光にそそのかされただけのことだ。柄じゃないのだ。どんなにもがいても、崩れて行くだけじゃないか。僕なんかは、いまに乞食になるかも知れないね。家が破産でもしたら、その日から食うに困るのだもの。なにひとつ仕事ができないし、まあ、乞食だろうな」ああ、言えば言うほどおのれが嘘つきで不正直な気がして来るこの大きな不幸!「僕は宿命を信じるよ。じたばたしない。ほんとうは僕、画をかきたいのだ。むしょうにかきたいよ」頭をごしごし掻いて、笑った。「よい画がかけたらねえ」
よい画がかけたらねえ、と言った。しかも笑ってそれを言った。青年たちは、むきになっては何も言えない。ことに本音を、笑いでごまかす。
夜が明けた。空に一《いち》抹《まつ》の雲もなかった。きのうの雲はあらかた消えて、松のしたかげや石の段段の隅にだけ、鼠いろして少しずつのこっていた。海には靄《もや》がいっぱい立ちこめ、その靄の奥のあちこちから漁船の発動機の音が聞えた。
院長は朝はやく葉蔵の病室を見舞った。葉蔵のからだをていねいに診察してから、眼鏡の底の小さい眼をぱちぱちさせて言った。
「たいていだいじょうぶでしょう。でも、気をつけてね。警察のほうへは私からもよく申して置きます。まだまだ、ほんとうのからだではないのですから。真野君、顔の絆《ばん》創《そう》膏《こう》は剥《は》いでいいだろう」
真野はすぐ、葉蔵の顔のガアゼを剥ぎとった。傷はなおっていた。かさぶたさえとれて、ただ赤白い斑点になっていた。
「こんなことを申しあげると失礼でしょうけれど、これからはほんとうに御勉強なさるように」
院長はそう言って、はにかんだような眼を海へむけた。
葉蔵もなにやらばつの悪い思いをした。ベッドのうえに坐ったまま、脱いだ着物をまた着なおしながら黙っていた。
そのとき高い笑い声とともにドアがあき、飛騨と小菅が病室へころげこむようにしてはいって来た。みんなおはようを言い交した。院長もこのふたりに、朝の挨拶をして、それから口ごもりつつ言葉を掛けた。
「きょういちにちです。お名残りおしいですな」
院長が去ってから、小菅がいちばんさきに口を切った。
「如才がないな。蛸《たこ》みたいなつらだ」彼らはひとの顔に興味を持つ。顔でもって、そのひとの全部の価値をきめたがる。「食堂に、あのひとの画があるよ。勲章をつけているんだ」
「まずい画だよ」
飛騨は、そう言い捨ててヴェランダへ出た。きょうは兄の着物を借りて着ていた。茶色のどっしりした布地であった。襟もとを気にしいしいヴェランダの椅子に腰かけた。
「飛騨もこうして見ると、大家の風貌があるな」小菅もヴェランダへ出た。「葉ちゃん、トランプしないか」
ヴェランダへ椅子をもち出して三人は、わけのわからぬゲエムを始めたのである。
勝負のなかば、小菅は真面目に呟いた。
「飛騨は気取ってるねえ」
「馬鹿。君こそ。なんだその手つきは」
三人はくつくつ笑いだし、いっせいにそっと隣のヴェランダを盗み見た。い号室の患者も、ろ号室の患者も、日光浴用の寝台に横たわっていて、三人の様子に顔をあかくして笑っていた。
「大失敗。知っていたのか」
小菅は口を大きくあけて、葉蔵へ目くばせした。三人は、思いきり声をたてて笑い崩れた。彼らは、しばしばこのような道化を演ずる。トランプしないか、と小菅が言い出すと、もはや葉蔵も飛騨もそのかくされたもくろみをのみこむのだ。幕切れまでのあらすじをちゃんと心得ているのである。彼らは天然の美しい舞台装置を見つけると、なぜか芝居をしたがるのだ。それは、記念の意味かも知れない。この場合、舞台の背景は、朝の海である。けれども、このときの笑い声は、彼らにさえ思い及ばなかったほどの大事件を生んだ。真野がその療養院の看護婦長に叱られたのである。笑い声が起って五分も経たぬうちに真野が看護婦長の部屋に呼ばれ、お静かになさいとずいぶんひどく叱られた。泣きだしそうにしてその部屋から飛び出し、トランプをよして病室でごろごろしている三人へ、このことを知らせた。
三人は、痛いほどしたたかにしょげて、しばらくただ顔を見合せていた。彼らの有頂天な狂言を、現実の呼びごえが、よせやいとせせら笑ってぶちこわしたのだ。これは、ほとんど致命的でさえあり得る。
「いいえ、なんでもないんです」真野は、かえってはげますようにして言った。「この病棟には、重症患者がひとりもいないのですし、それにきのうも、ろ号室のお母さまが私と廊下で逢ったとき、賑やかでいいとおっしゃって、喜んで居られましたのよ。毎日、私たちはあなたがたのお話を聞いて笑わされてばかりいるって、そうおっしゃったわ。いいんですのよ。かまいません」
「いや」小菅はソファから立ちあがった。「よくないよ。僕たちのおかげで君が恥かいたんだ。婦長のやつ、なぜ僕たちに直接言わないのだ。ここへ連れて来いよ。僕たちをそんなにきらいなら、いますぐにでも退院させればいい。いつでも退院してやる」
三人とも、このとっさの間に、本気で退院の腹をきめた。ことにも葉蔵は、自動車に乗って海浜づたいに遁《とん》走《そう》して行くはればれしき四人のすがたをはるかに思った。
飛騨もソファから立ちあがって、笑いながら言った。「やろうか。みんなで婦長のところへ押しかけて行こうか。僕たちを叱るなんて、馬鹿だ」
「退院しようよ」小菅はドアをそっと蹴った。「こんなけちな病院は、面白くないや。叱るのは構わないよ。しかし、叱る以前の心持ちがいやなんだ。僕たちをなにか不良少年みたいに考えていたにちがいないのさ。頭がわるくてブルジョア臭いぺらぺらしたふつうのモダンボーイだと思っているんだ」
言い終えて、またドアをまえよりすこし強く蹴ってやった。それから、堪えかねたようにして噴きだした。
葉蔵はベッドへどしんと音たてて寝ころがった。「それじゃ、僕なんかは、さしずめ色白な恋愛至上主義者というようなところだ。もう、いかん」
彼らは、この野蛮人の侮辱に、なおもはらわたの煮えくりかえる思いをしているのだが、さびしく思い直して、それをよい加減に茶化そうと試みる。彼らはいつもそうなのだ。
けれども真野は率直だった。ドアのわきの壁に、両腕をまわしてよりかかり、めくれあがった上唇をことさらにきゅっと尖《とが》らせて言うのであった。
「そうなんでございますよ。ずいぶんですわ。ゆうべだって、婦長室へ看護婦をおおぜいあつめて、歌《か》留《る》多《た》なんかして大さわぎだったくせに」
「そうだ。十二時すぎまできゃっきゃっ言っていたよ。ちょっと馬鹿だな」
葉蔵はそう呟きつつ、枕元に散らばってある木炭紙をいちまい拾いあげ、仰向に寝たままでそれへ落書きをはじめた。
「ご自分がよくないことをしているから、ひとのよいところがわからないんだわ。噂ですけれど、婦長さんは院長さんのおめかけなんですって」
「そうか。いいところがある」小菅は大喜びであった。彼らはひとの醜聞を美徳のように考える。たのもしいと思うのである。「勲章がめかけを持ったか。いいところがあるよ」
「ほんとうに、みなさん、罪のないことをおっしゃっては、お笑いになっていらっしゃるのに、判らないのかしら。お気になさらず、うんとおさわぎになったほうが、ようございますわ。かまいませんとも、きょう一日ですものねえ。ほんとうに誰にだってお叱られになったことのない、よい育ちのかたばかりなのに」片手を顔へあてて急にひくく泣き出した。泣きながらドアをあけた。
飛騨はひきとめて囁いた。「婦長のとこへ行ったって駄目だよ。よし給え。なんでもないじゃないか」
顔を両手で覆ったまま、二、三度つづけさまにうなずいて廊下へ出た。
「正義派だ」真野が去ってから、小菅はにやにや笑ってソファへ坐った。「泣き出しちゃった。自分の言葉に酔ってしまったんだよ。ふだんは大人くさいことを言っていても、やっぱり女だな」
「変ってるよ」飛騨は、せまい病室をのしのし歩きまわった。「はじめから僕、変ってると思っていたんだよ。おかしいなあ。泣いて飛び出そうとするんだから、おどろいたよ。まさか婦長のとこへ行ったんじゃないだろうな」
「そんなことはないよ」葉蔵は平気なおももちを装ってそう答え、落書きした木炭紙を小菅のほうへ投げてやった。
「婦長の肖像画か」小菅はげらげら笑いこけた。
「どれどれ」飛騨も立ったままで木炭紙を覗きこんだ。「女怪だね。けっさくだよ、これあ。似ているのか」
「そっくりだ。いちど院長について、この病室へも来たことがあるんだ。うまいもんだなあ。鉛筆を貸せよ」小菅は、葉蔵から鉛筆を借りて、木炭紙へ書き加えた。「これへこう角を生やすのだ。いよいよ似て来たな。婦長室のドアへ貼ってやろうか」
「そとへ散歩に出てみようよ」葉蔵はベッドから降りて背のびした。背のびしながらこっそり呟いてみた。「ポンチ画《*》の大家」
ポンチ画の大家。そろそろ僕も厭《あ》きて来た。これは通俗小説でなかろうか。ともすれば硬直したがる僕の神経に対しても、また、おそらくはおなじような諸君の神経に対しても、いささか毒消しの意義あれかし、と取りかかった一齣であったが、どうやら、これは甘すぎた。僕の小説が古典になれば、――ああ、僕は気が狂ったのかしら、――諸君は、かえって僕のこんな註釈を邪魔にするだろう。作家の思いも及ばなかったところにまで、勝手な推察をしてあげて、その傑作である所以《ゆえん》を大声で叫ぶだろう。ああ、死んだ大作家は仕合せだ。生きながらえている愚作者は、おのれの作品をひとりでも多くのひとに愛されようと、汗を流して見当はずれの註釈ばかりつけている。そして、まずまず註釈だらけのうるさい駄作をつくるのだ。勝手にしろ、とつっぱなす、そんな剛《ごう》毅《き》な精神が僕にはないのだ。よい作家になれないな。やっぱり甘ちゃんだ。そうだ。大発見をしたわい。しん底からの甘ちゃんだ。甘さのなかでこそ、僕は暫時の憩いをしている。ああ、もうどうでもよい。ほって置いて呉れ。道化の華とやらも、どうやらここでしぼんだようだ。しかも、さもしく醜くきたなくしぼんだ。完璧へのあこがれ。傑作へのさそい。「もう沢山だ。奇蹟の創造《つくり》主《ぬし》、おのれ!」
真野は洗面所へ忍びこんだ。心ゆくまで泣こうと思った。しかし、そんなにも泣けなかったのである。洗面所の鏡を覗いて、涙を拭き、髪をなおしてから、食堂へおそい朝食をとりに出掛けた。
食堂の入口ちかくのテエブルにへ号室の大学生が、からになったスウプの皿をまえに置き、ひとりくったくげに坐っていた。
真野を見て微笑みかけた。「患者さんは、お元気のようですね」
真野は立ちどまって、そのテエブルの端を固くつかまえながら答えた。
「ええ、もう罪のないことばかりおっしゃって、私たちを笑わせていらっしゃいます」
「そんならいい。画家ですって?」
「ええ。立派な画をかきたいって、しょっちゅうおっしゃって居られますの」言いかけて、耳まで赤くした。「真面目なんですのよ。真面目でございますから、真面目でございますから、お苦しいこともおこるわけね」
「そうです。そうです」大学生も顔をあからめつつ、心から同意した。
大学生はちかく退院できることにきまったので、いよいよ寛大になっていたのである。
この甘さはどうだ。諸君は、このような女をきらいであろうか。畜生! 古めかしいと笑い給え。ああ、もはや憩いも、僕にはてれくさくなっている。僕は、ひとりの女をさえ、註釈なしには愛することができぬのだ。おろかな男は、やすむのにさえ、へまをする。
「あそこだよ。あの岩だよ」
葉蔵は梨の木の枯枝のあいだからちらちら見える大きなひらたい岩を指さした。岩のくぼみには、ところどころ、きのうの雪がのこっていた。
「あそこから、はねたのだ」葉蔵は、おどけものらしく眼をくるくると丸くして言うのである。
小菅は、だまっていた。ほんとうに平気で言っているのかしら、と葉蔵のこころを忖《そん》度《たく》していた。葉蔵も平気で言っているのではなかったが、しかしそれを不自然でなく言えるほどの伎《ぎ》倆《りよう》をもっていたのである。
「かえろうか」飛騨は、着物の裾を両手でぱっとはしょった。
三人は、砂浜をひっかえしてあるきだした。海は凪《な》いでいた。まひるの日を受けて、白く光っていた。
葉蔵は、海へ石をひとつ抛《ほう》った。
「ほっとするよ。いま飛び込めば、もうなにもかも問題でない。借金も、アカデミイも、故郷も、後悔も、傑作も、恥も、マルキシズムも、それから友だちも、森も花も、もうどうだっていいのだ。それに気がついたときには、僕はあの岩のうえで笑ったな。ほっとするよ」
小菅は、昂奮をかくそうとして、やたらに貝を拾いはじめた。
「誘惑するなよ」飛騨はむりに笑いだした。「わるい趣味だ」
葉蔵も笑いだした。三人の足音がさくさくと気持ちよく皆の耳へひびく。
「怒るなよ。いまのはちょっと誇張があったな」葉蔵は飛騨と肩をふれ合せながらあるいた。
「けれども、これだけは、ほんとうだ。女がねえ、飛び込むまえにどんなことを囁いたか」
小菅は好奇心に燃えた眼をずるそうに細め、わざと二人から離れて歩いていた。
「まだ耳についている。田舎の言葉で話がしたいな、と言うのだ。女の国は南のはずれだよ」
「いけない! 僕にはよすぎる」
「ほんと。君、ほんとうだよ。ははん。それだけの女だ」
大きい漁船が砂浜にあげられてやすんでいた。その傍に直径七、八尺もあるような美事な魚籃《びく》が二つころがっていた。小菅は、その船のくろい横腹へ、拾った貝を、力いっぱいに投げつけた。
三人は、窒息するほど気まずい思いをしていた。もし、この沈黙が、もう一分間つづいたなら、彼らはいっそ気軽げに海へ身を躍らせたかも知れぬ。
小菅がだしぬけに叫んだ。
「見ろ、見ろ」前方の渚《なぎさ》を指さしたのである。「い号室とろ号室だ!」
季節はずれの白いパラソルをさして、二人の娘がこっちへそろそろ歩いて来た。
「発見だな」葉蔵も蘇生の思いであった。
「話しかけようか」小菅は、片足あげて靴の砂をふり落とし、葉蔵の顔を覗きこんだ。命令一下、駈けだそうというのである。
「よせ、よせ」飛騨は、きびしい顔をして小菅の肩をおさえた。
パラソルは立ちどまった。しばらく何か話し合っていたが、それからくるっとこっちへ背をむけて、またしずかに歩きだした。
「追いかけようか」こんどは葉蔵がはしゃぎだした。飛騨のうつむいている顔をちらと見た。
「よそう」
飛騨はわびしくてならぬ。この二人の友だちからだんだん遠のいて行くおのれのしなびた血を、いまはっきりと感じたのだ。生活からであろうか、と考えた。飛騨の生活はややまずしかったのである。
「だけど、いいなあ」小管は西洋ふうに肩をすくめた。なんとかしてこの場をうまく取りつくろってやろうと努めるのである。「僕たちの散歩しているのを見て、そそられたんだよ。若いんだものな。可哀そうだなあ。へんな心地になっちゃった。おや、貝をひろってるよ。僕の真似をしていやがる」
飛騨は思い直して微笑んだ。葉蔵のわびるような瞳とぶつかった。二人ながら頬をあからめた。判っている。お互いがいたわりたい心でいっぱいなんだ。彼らは弱きをいつくしむ。
三人は、ほの温かい海風に吹かれ、遠くのパラソルを眺めつつあるいた。
はるか療養院の白い建物のしたには、真野が彼らの帰りを待って立っている。ひくい門柱によりかかり、まぶしそうに右手を額へかざしている。
最後の夜に、真野は浮かれていた。寝てからも、おのれのつつましい家族のことや、立派な祖先のことをながながとしゃべった。葉蔵は夜のふけるとともに、むっつりして来た。やはり、真野のほうへ背をむけて、気のない返事をしながらほかのことを思っていた。
真野は、やがておのれの眼のうえの傷について話しだしたのである。
「私が三つのとき」なにげなく語ろうとしたらしかったが、しくじった。声が喉へひっからまる。「ランプをひっくりかえして、やけどしたんですって。ずいぶん、ひがんだものでございますのよ。小学校へあがっていたじぶんには、この傷、もっともっと大きかったんですの。学校のお友だちは私を、ほたる、ほたる」すこしとぎれた。「そう呼ぶんです。私、そのたんびに、きっとかたきを討とうと思いましたわ。ええ、ほんとうにそう思ったわ。えらくなろうと思いましたの」ひとりで笑いだした。「おかしいですのねえ。えらくなれるもんですか。眼鏡かけましょうかしら。眼鏡かけたら、この傷がすこしかくれるんじゃないかしら」
「よせよ。かえっておかしい」葉蔵は怒ってでもいるように、だしぬけに口を挟んだ。女に愛情を感じたとき、わざとじゃけんにしてやる古風さを、彼もやはり持っているのであろう。「そのままでいいのだ。目立ちはしないよ。もう眠ったら、どうだろう。あしたは早いのだよ」
真野は、だまった。あした別れてしまうのだ。おや、他人だったのだ。恥を知れ。恥を知れ。私は私なりに誇りを持とう。せきをしたり溜息ついたり、それからばたんばたんと乱暴に寝返りをうったりした。
葉蔵は素知らぬふりをしていた。なにを案じつつあるかは、言えぬ。
僕たちはそれより、浪の音や鴎《かもめ》の声に耳傾けよう。そしてこの四日間の生活をはじめから思い起そう。みずからを現実主義者と称している人は言うかも知れぬ。この四日間はポンチに満ちていたと。それならば答えよう。おのれの原稿が、編輯者の机のうえでおおかた土《ど》瓶《びん》敷《しき》の役目をしてくれたらしく、黒い大きな焼跡をつけられて送り返されたこともポンチ。おのれの妻のくらい過去をせめ、一喜一憂したこともポンチ。質屋の暖《の》簾《れん》をくぐるのに、それでも襟元を掻き合せ、おのれのおちぶれを見せまいと風采ただしたこともポンチ。僕たち自身、ポンチの生活を送っている。そのような現実にひしがれた男のむりに示す我慢の態度。君はそれを理解できぬならば、僕は君とは永遠に他人である。どうせポンチならよいポンチ。ほんとうの生活。ああ、それは遠いことだ。僕は、せめて、人の情にみちみちたこの四日間をゆっくりゆっくりなつかしもう。たった四日の思い出の、五年十年の暮しにまさることがある。たった四日の思い出の、ああ、一生涯にまさることがある。
真野のおだやかな寝息が聞えた。葉蔵は沸きかえる思いに堪えかねた。真野のほうへ寝がえりを打とうとして、長いからだをくねらせたら、はげしい声を耳もとへささやかれた。
やめろ! ほたるの信頼を裏切るな。
夜のしらじらと明けはなれたころ、二人はもう起きてしまった。葉蔵はきょう退院するのである。僕は、この日の近づくことを恐れていた。それは愚作者のだらしない感傷であろう。この小説を書きながら僕は、葉蔵を救いたかった。いや、このバイロンに化け損ねた一匹の泥狐を許してもらいたかった。それだけが苦しいなかの、ひそかな祈願であった。しかしこの日の近づくにつれ、僕は前にもまして荒涼たる気配のふたたび葉蔵を、僕をしずかに襲うて来たのを覚えるのだ。この小説は失敗である。なんの飛躍もない、なんの解《げ》脱《だつ》もない。僕はスタイルをあまり気にしすぎたようである。そのためにこの小説は下品にさえなっている。たくさんの言わでものことを述べた。しかも、もっと重要なことがらをたくさん言い落としたような気がする。これはきざな言いかたであるが、僕が長生きして、幾年かのちにこの小説を手に取るようなことでもあるならば、僕はどんなにみじめだろう。おそらくは一ペエジも読まぬうちに僕は堪えがたい自己嫌悪におののいて、巻を伏せるにきまっている。いまでさえ、僕は、まえを読みかえす気力がないのだ。ああ、作家は、おのれのすがたをむき出しにしてはいけない。それは作家の敗北である。美しい感情をもって、人は、悪い文学を作る。僕は三度この言葉を繰りかえす。そして、承認を与えよう。
僕は文学を知らぬ。もいちど始めから、やり直そうか。君、どこから手をつけていったらよいやら。
僕こそ、渾《こん》沌《とん》と自尊心とのかたまりでなかったろうか。この小説も、ただそれだけのものでなかったろうか。ああ、なぜ僕はすべてに断定をいそぐのだ。すべての思念にまとまりをつけなければ生きて行けない、そんなけちな根性をいったい誰から教わった?
書こうか。青松園の最後の朝を書こう。なるようにしかならぬのだ。
真野は裏山へ景色を見に葉蔵を誘った。
「とても景色がいいんですのよ。いまならきっと富士が見えます」
葉蔵はまっくろい羊毛の襟巻を首に纏《まと》い、真野は看護服のうえに松葉の模様のある羽織を着込み、赤の毛糸のショオルを顔がうずまるほどぐるぐる巻いて、いっしょに療養院の裏庭へ下駄をはいて出た。庭のすぐ北方には、赭《あか》土《つち》のたかい崖がそそり立っていて、それへせまい鉄の梯子がいっぽんかかっているのであった。真野がさきに、その梯子をすばしこい足どりでするするのぼった。
裏山には枯草が深くしげっていて、霜がいちめんにおりていた。
真野は両手の指先へ白い息を吐きかけて温めつつ、はしるようにして山路をのぼっていった。山路はゆるい傾斜をもってくねくねと曲っていた。葉蔵も、霜を踏み踏みそのあとを追った。凍った空気へたのしげに口笛を吹きこんだ。誰ひとりいない山。どんなことでもできるのだ。真野にそんなわるい懸念を持たせたくなかったのである。
窪地へ降りた。ここにも枯れた茅がしげっていた。真野は立ちどまった。葉蔵も五、六歩はなれて立ちどまった。すぐわきに白いテントの小屋があるのだ。
真野はその小屋を指さして言った。
「これ、日光浴場。軽症の患者さんたちが、はだかでここへ集まるのよ。ええ、いまでも」
テントにも霜がひかっていた。
「登ろう」
なぜとは知らず気がせくのだ。
真野は、また駈け出した。葉蔵もつづいた。落葉松の細い並木路へさしかかった。ふたりはつかれて、ぶらぶらと歩きはじめた。
葉蔵は肩であらく息をしながら、大声で話しかけた。
「君、お正月はここでするのか」
振りむきもせず、やはり大声で答えてよこした。
「いいえ。東京へ帰ろうと思います」
「じゃ、僕のとこへ遊びに来たまえ。飛騨も小菅も毎日のように僕のとこへ来ているのだ。まさか牢屋でお正月を送るようなこともあるまい。きっとうまく行くだろうと思うよ」
まだ見ぬ検事のすがすがしい笑い顔をさえ、胸に画いていたのである。
ここで結べたら! 古い大家はこのようなところで、意味ありげに結ぶ。しかし、葉蔵も僕も、おそらく諸君も、このようなごまかしの慰めに、もはや厭《あ》きている。お正月も牢屋も検事も、僕たちにはどうでもよいことなのだ。僕たちはいったい、検事のことなどをはじめから気にかけていたのだろうか。僕たちはただ、山の頂上に行きついてみたいのだ。そこに何がある。何があろう。いささかの期待をそれにのみつないでいる。
ようよう頂上にたどりつく。頂上は簡単に地ならしされ、十坪ほどの赭土がむきだされていた。まんなかに丸太のひくいあずまやがあり、庭石のようなものまで、あちこちに据えられていた。すべて霜をかぶっていた。
「駄目。富士が見えないわ」
真野は鼻さきをまっかにして叫んだ。
「この辺にくっきり見えますのよ」
東の曇った空を指さした。朝日はまだ出ていないのである。不思議な色をしたきれぎれの雲が、沸きたっては澱《よど》み、澱んではまたゆるゆると流れていた。
「いや、いいよ」
そよ風が頬を切る。
葉蔵は、はるかに海を見おろした。すぐ足もとから、三十丈もの断崖になっていて、江の島が真下に小さく見えた。ふかい朝霧の奥底に、海水がゆらゆらうごいていた。
そして、否、それだけのことである。
猿面冠者
どんな小説を読ませても、はじめの二、三行をはしり読みしたばかりで、もうその小説の楽屋裏を見抜いてしまったかのように、鼻で笑って巻を閉じる傲《ごう》岸《がん》不《ふ》遜《そん》の男がいた。ここにロシヤの詩人《*》の言葉がある。「そもさん何者。されば、わずかにまねごと師。気にするがものもない幽霊か。ハロルドのマント羽《は》織《お》ったモスクワッ子。他人の癖の翻案か。はやり言葉の辞書なのか。いやさて、もじり言葉の詩とでもいったところじゃないかよ」いずれそんなところかも知れぬ。この男は、自分では、すこし詩やら小説やらを読みすぎたと思って悔いている。この男は、思案するときにでも言葉をえらんで考えるのだそうである。心のなかで自分のことを、彼、と呼んでいる。酒に酔いしれて、ほとんど我をうしなっているように見えるときでも、もし誰かに殴られたなら、落ちついて呟《つぶや》く。
「あなた、後悔しないように」ムイシュキン公爵の言葉である。恋を失ったときには、どう言うであろう。そのときには、口に出しては言わぬ。胸のなかを駈けめぐる言葉。「だまって居れば名を呼ぶし、近寄って行けば逃げ去るのだ」これはメリメのつつましい述懐ではなかったか。夜、寝床にもぐってから眠るまで、彼は、まだ書かぬ彼の傑作の妄想にさいなまれる。そのときには、ひくくこう叫ぶ。「放してくれ!」これはこれ、芸術家のコンフィテオール《*》。それでは、ひとりで何もせずにぼんやりしているときには、どうであろう。口をついて出るというのである、“Nevermore”という独白が。
そのような文学の糞から生れたような男が、もし小説を書いたとしたなら、いったいどんなものができるだろう。だいいちに考えられることは、その男は、きっと小説を書けないだろうと言うことである。一行書いては消し、いや、その一行も書けぬだろう。彼には、いけない癖があって、筆をとるまえに、もうその小説にいわばおしまいの磨きまでかけてしまうらしいのである。たいてい彼は、夜、蒲団のなかにもぐってから、眼をぱちぱちさせたり、にやにや笑ったり、せきをしたり、ぶつぶつわけのわからぬことを呟いたりして、夜明けちかくまでかかってひとつの短篇をまとめる。傑作だと思う。それからまた彼は、書きだしの文章を置きかえてみたり、むすびの文字を再吟味してみたりして、その胸のなかの傑作をゆっくりゆっくり撫《な》でまわしてみるのである。そのへんで眠れたらいいのであるが、いままでの経験からしてそんなに工合いがよくいったことはいちどもなかったという。そのつぎに彼は、その短篇についての批評をこころみるのである。誰々は、このような言葉でもってほめてくれる。誰々は、判らぬながらも、この辺の一箇所をぽつんと突いて、おのれの慧《けい》眼《がん》を誇る。けれども、おれならば、こう言う。男は、自分の作品についてのおそらくはいちばん適確な評論を組みたてはじめる。この作品の唯一の汚点は、などと心のなかで呟くようになると、もう彼の傑作はあとかたもなく消えうせている。男は、なおも眼をぱちぱちさせながら、雨戸のすきまから漏《も》れてくる明るい光線を眺めて、すこし間抜けづらになる。そのうちにうつらうつらまどろむのである。
けれども、これは問題に対してただしく答えていない。問題は、もし書いたとしたなら、というのである。ここにあります、と言って、ぽんと胸をたたいて見せるのは、なにやら水際だっていいようであるが、聞く相手にしては、たちのわるい冗談としか受けとれまい。まして、この男の胸は、扁平胸といって生れながらに醜くおしつぶされた形なのであるから、傑作は胸のうちにありますという彼のそのせいいっぱいの言葉も、いよいよ芸がないことになる。こんなことからしても、彼が一行も書けぬだろうという解答のどんなに安易であるかが判るのである。もし書いたとしたなら、というのである。問題をもっと考えよくするために、彼のどうしても小説を書かねばならぬ具体的な環境を簡単にこしらえあげてみてもよい。たとえばこの男は、しばしば学校を落第し、いまは彼のふるさとのひとたちに、たからもの、という陰口をきかれている身分であって、ことし一年で学校を卒業しなければ、彼の家のほうでも親戚のものたちへの手前、月々の送金を停止するというあんばいになっていたとする。また仮りにその男が、ことし一年で卒業できそうもないばかりか、どだい卒業しようとする腹がなかったとしたなら、どうであろう。問題をさらに考えよくするために、この男がいま独身でないということにしよう。四、五年もまえからの妻帯者である。しかも彼のその妻というのは、とにかく育ちのいやしい女で、彼はこの結婚によって、叔母ひとりを除いたほかのすべての肉親に捨てられたという、月並みのロマンスを匂わせて置いてもよい。さて、このような境遇の男が、やがて来る自《じ》鬻《いく*》の生活のために、どうしても小説を書かねばいけなくなったとする。しかし、これも唐突である。乱暴でさえある。生活のためには、必ずしも小説を書かねばいけないときまって居らぬ。牛乳配達にでもなればいいじゃないか。しかし、それは簡単に反《はん》駁《ばく》され得る。乗りかかった船、という一語で充分であろう。
いま日本では、文芸復興とかいう訳のわからぬ言葉が声高く叫ばれている、いちまい五十銭の稿料でもって新作家を捜しているそうである。この男もまた、この機を逃さず、とばかりに原稿用紙に向かった、とたんに彼は書けなくなっていたという。ああ、もう三日、早かったならば、あるいは彼も、あふれる情熱にわななきつつ十枚二十枚を夢のうちに書き飛ばしたかも知れぬ。毎夜、毎夜、傑作の幻影が彼のうすっぺらな胸を騒がせては呉れるのであったが、書こうとすれば、みんなはかなく消えうせた。だまって居れば名を呼ぶし、近寄って行けば逃げ去るのだ。メリメは猫と女のほかに、もうひとつの名詞を忘れている。傑作の幻影という重大な名詞を!
男は奇妙な決心をした。彼の部屋の押入をかきまわしたのである。その押入の隅には、彼が十年このかた、有頂天な歓喜をもって書き綴《つづ》った千枚ほどの原稿が臼《いわ》くありげに積まれてあるのだそうである。それを片っぱしから読んでいった。ときどき頬をあからめた。二日かかって、それを全部読みおえて、それから、まる一日ぼんやりした。そのなかの「通信」という短篇が頭にのこった。それは、二十六枚の短篇小説であって、主人公が困っているとき、どこからか差出人不明の通信が来てその主人公をたすける、という物語であった。男が、この短篇にことさら心をひかれたわけは、いまの自分こそ、そんなよい通信を受けたいものだと思ったからであろう。これを、なんとかしてうまく書き直してごまかそうと決心したのである。
まず書き直さねばいけないところは、この主人公の職業である。いやはや。主人公は新作家なのである。こう直そうと思った。さきに文豪をこころざして、失敗して、そのとき第一の通信。つぎに革命家を夢みて、敗北して、そのとき第二の通信。いまはサラリイマンになって家庭の安楽ということにつき疑い悩んで、そのとき第三の通信。こんなふうに、だいたいの見とおしをつけて置く。主人公を、できるだけ文学臭から遠ざけること。そうして革命家をこころざしてからは、文学のブの字も言わせぬこと。自分がそのような境遇にあったとき、心から欲しいと思った手紙なり電報なりを、事実、主人公が受けとったことにして書くのだ。これは楽しみながら書かねば損である。甘さを恥かしがらずに平気な顔をして書こう。男は、ふと、「ヘルマンとドロテア」《*》という物語を思い合せた。つぎつぎと彼を襲うあやしい妄念を、はげしく首振って追い払いつつ、男はいそいで原稿用紙にむかった。もっと小さい小さい原稿用紙だったらいいなと思った。自分にも何を書いているのか判らぬくらいにくしゃくしゃと書けたらいいなと思った。題を「風の便り」とした。書きだしもあたらしく書き加えた。こう書いた。
――諸君は音信をきらいであろうか。諸君が人生の岐路に立ち、痛《つう》哭《こく》すれば、どこか知らないところから風とともにひらひら机上へ舞い来って、諸君の前途に何か光を投げて呉れる、そんな音信をきらいであろうか。彼は仕合せものである。いままで三度も、そのような胸のときめく風の便りを受けとった。いちどは十九歳の元旦。いちどは二十五歳の早春。いまいちどは、つい昨年の冬。ああ。ひとの幸福を語るときの、ねたみといつくしみの交錯したこの不思議なよろこびを、君よ知るや。十九歳の元旦のできごとから物語ろう。
そこまで書いて、男は、ひとまずペンを置いた。やや意に満ちたようであった。そうだ、この調子で書けばいいのだ。やはり小説というものは、頭で考えてばかりいたって判るものではない。書いてみなければ。男は、しみじみそう心のうちで呟き、そうしてたいへんたのしかったという。発見した、発見した。小説は、やはりわがままに書かねばいけないものだ。試験の答案とは違うのである。よし。この小説は唄いながら少しずつすすめてゆこう。きょうは、ここまでにして置くのだ。男は、もいちどそっと読みかえしてみてから、その原稿を押入のなかに仕舞い込み、それから、大学の制服を着はじめた。男は、このごろたえて学校へ行かないのであるが、それでも一週間に一、二度ずつ、こうして制服を着て、そわそわ外出するのである。彼ら夫婦はある勤人の二階の六畳と四畳半との二間を借りて住まいしているのであって、男はその勤人の家族への手前をつくろい、ときどきこんなふうに登校をよそうのであった。男には、こんな世間ていを気にする俗な一面もあったわけである。またこの男は、どうやら自分の妻にさえ、ていさいをとりつくろっているようである。その証拠には、彼の妻は、彼がほんとうに学校へ出ているものだと信じているらしいのだ。妻は、まえにも仮定して置いたように、いやしい育ちの女であるから、まず無学だと推測できる。男は、その妻の無学につけこみ、さまざまの不貞を働いていると見てよい。けれども、だいたいは愛妻家の部類なのである。なぜと言うに、彼は妻を安心させるために、ときたま嘘を吐くのである。輝かしい未来を語る。
その日、彼は外出して、すぐ近くの友人の家を訪れた。この友人は、独身者の洋画家であって、彼とは中学校のとき同級であったとか。うちが財産家なので、ぶらぶら遊んでいる。人と話をしながら眉をしじゅうぴりぴりとそよがせるのが自慢らしい。よくある型の男を想像してもらいたい。その友人の許へ、彼は訪れたのである。彼は、もともとこの友人をあまり好きではないのである。そう言えば、彼は、彼のほかの二、三の友人たちをもたいして好いてはいないのであるが、ことにこの友人が、相手をいらいらさせる特種の伎倆を持っているので、彼はことにも好きになれないのだそうである。彼がでもこの友人を、きょう訪問したのは、まず手近なところから彼の歓喜をわけてやろうという心からにちがいない。この男は、いま、幸福の予感にぬくぬくと温まっているらしいが、そんなときには、人は、どこやら慈悲深くなるものらしい。洋画家は在宅していた。彼は、この洋画家と対坐して、開口一番、彼の小説のことを話して聞かせた。おれはこういう小説を書きたいと思っている、とだいたいのプランを語って、うまく行けば売れるかも知れないよ、書きだしはこんな工合いだ、と彼はたったいま書いて来た五、六行の文章を、頬をあからめながらひくく言いだしたのである。彼は、いつでも自分の文章をすべて暗記しているのだそうである。洋画家は、れいの眉をふるわせつつ、それはいいと吃《ども》るようにして言った。それだけでたくさんなのに、要らないことをせかせか、つぎからつぎとしゃべりはじめた。虚無主義者の神への揶《や》揄《ゆ》であるとか、小人の英雄への反抗であるとか、それから、彼にはいまもってなんのことやら訳がわからぬのであるが、観念の幾何学的構成であるとさえ言った。彼にとっては、ただこの友人が、それはいい、おれもそんな風の便りが欲しいよ、と言って呉れたら満足だったのである。批評を忘れようとして、ことさらに、「風の便り」などというロマンチックな題材をえらんだはずである。それを、この心なき洋画家に観念の幾何学的構成だとかなんだとか、新聞の一行知識めいた妙な批評をされて、彼はすぐ、これは危いと思った。まごまごして、彼もその批評の遊戯に誘いこまれたなら、「風の便り」も、このあと書きつづけることができなくなる。危い。男は、その友人の許からそこそこにひきあげたという。
そのまま、すぐうちへ帰るのも工合いがわるいし、彼はその足で、古本屋へむかった。みちみち男は考える。うんといい便りにしよう。第一の通信は、葉書にしよう。少女からの便りである。短い文章で、そのなかには、主人公をいたわりたい心がいっぱいにあふれているような、そんな便りにしたい。「私、べつに悪いことをするのではありませんから、わざと葉書にかきます」という書きだしはどうだろう。主人公が元旦にそれを受けとるのだから、いちばんおしまいに、「忘れていました。新年おめでとうございます」と小さく書き加えてあることにしよう。すこし、とぼけすぎるかしら。
男は夢みるような心地で街をあるいている。自動車に二度もひかれそこなった。
第二の通信は、主人公がひところはやりの革命運動をして、牢屋にいれられたとき、そのとき受けとることにしよう。「彼が大学へはいってからは、小説に心をそそられなかった」とはじめから断って置こう。主人公はもはや第一の通信を受けとるまえに、文豪になりそこねて痛い目に逢っているのだから。男は、もう、そのときの文章を胸のなかに組立てはじめた。「文豪として名高くなることは、いまの彼にとって、ゆめのゆめだ。小説を書いて、たとえばそれが傑作として世に喧《けん》伝《でん》され、有頂天の歓喜を得たとしても、それは一瞬間のよろこびである。おのれの作品に対する傑作の自覚などあり得ない。はかない一瞬間の有頂天がほしくて、五年十年の屈辱の日を送るということは、彼には納得できなかった」どうやら演説くさくなったな。男はひとりで笑いだした。「彼にはただ情熱のもっとも直《ちよく》截《せつ》なはけ口が欲しかったのである。考えることよりも、唄うことよりも、だまってのそのそ実行したほうがほんとうらしく思えた。ゲエテよりもナポレオン。ゴリキイよりもレニン」やっぱり少し文学臭い。この辺の文章には、文学のブの字もなくしなければいけないのだ。まあ、いいようになるだろう。あまり考えすごすと、また書けなくなる。つまり、この主人公は、銅像になりたく思っているのである。このポイントさえはずさないようにして書いたなら、しくじることはあるまい。それから、この主人公が牢屋で受けとる通信であるが、これは長い長い便りにするのだ。われに策あり。たとえ絶望の底にいる人でも、それを読みさえすれば、もういちど陣営をたて直そうという気が起らずにはすまぬ。しかも、これは女文字で書かれた手紙だ。「ああ。様という字のこの不器用なくずしかたに、彼は見覚えがあったのである。五年前の賀状を思い出したのであった」
第三の通信は、こうしよう。これは葉書でも手紙でもない、まったく異様な風の便りにしよう。通信文のおれの腕前は、もう見せてあるから、なにか目さきの変ったものにするのだ。銅像になりそこねた主人公は、やがて平凡な結婚をして、サラリイマンになるのであるが、これは、うちの勤人の生活をそのまま書いてやろう。主人公が家庭に倦怠を感じはじめている矢先。冬の日曜の午後あたり、主人公は縁側へ出て、煙草をくゆらしている。そこへ、ほんとうに風とともに一葉の手紙が、彼の手許へひらひら飛んで来た。「彼はそれに眼をとめた。妻がふるさとの彼の父へ林《りん》檎《ご》が着いたことを知らせにしたためた手紙であった。投げて置かないで、すぐ出すといい。そう呟きつつ、ふと首をかしげた。ああ。様という字のこの不器用なくずしかたに、彼は見覚えがあったのである」このような空想的な物語を不自然でなく書くのには、燃える情熱が要るらしい。こんな奇遇の可能を作者自身が、まじめに信じていなければいけないのだ。できるかどうか、とにかくやってみよう。男は、いきおいこんで古本屋にはいったのである。
ここの古本屋には、「チェホフ書翰集」と「オネーギン《*》」があるはずだ。この男が売ったのだから。彼はいま、その二冊を読みかえしたく思って、この古本屋へ来たわけである。「オネーギン」にはタチアナのよい恋文がある。二冊とも、まだ売れずにいた。さきに「チェホフ書翰集」を棚からとりだして、そちこちペエジをひっくりかえしてみたが、あまり面白くなかった。劇場とか病気とかいう言葉にみちみちているのであった。これは「風の便り」の文献になり得ない。傲岸不遜のこの男は、つぎに「オネーギン」を手にとって、その恋文の条《くだり》を捜した。すぐ捜しあてた。彼の本であったのだから。「わたしがあなたにお手紙を書くそのうえ何をつけたすことがいりましょう」なるほど、これでいいわけだ。簡明である。タチアナは、それから、神様のみこころ、夢、おもかげ、囁き、憂愁、まぼろし、天使、ひとりぼっち、などという言葉を、おくめんもなく並べたてている。そうしてむすびには、「もうこれで筆をおきます。読み返すのもおそろしい、羞恥の念と、恐怖の情で、消えもいりたい思いがします。けれども私は、高潔無比のお心をあてにしながら、ひと思いに私の運を、あなたのお手にゆだねます。タチアナより。オネーギン様」こんな手紙がほしいのだ。はっと気づいて巻を閉じた。危険だ。影響を受ける。いまこれを読むと害になる。はて。また書けなくなりそうだ。男は、あたふたと家へかえって来たのである。
家へ帰り、いそいで原稿用紙をひろげた。安楽な気持で書こう。甘さや通俗を気にせず、らくらくと書きたい。ことに彼の旧稿「通信」という短篇は、さきにも言ったように、いわば新作家の出世物語なのであるから、第一の通信を受けとるまでの描写は、そっくり旧稿を書きうつしてもいいくらいなのであった。男は、煙草を二、三本つづけざまに吸ってから、自信ありげにペンをつまみあげた。にやにやと笑いだしたのである。これはこの男のひどく困ったときの仕草らしい。彼は、ひとつの難儀をさとったのである。文章についてであった。旧稿の文章は、たけりたけって書かれている。これはどうしたって書き直さねばなるまい。こんな調子では、ひともおのれも楽しむことができない。だいいち、ていさいがわるい。めんどうくさいが、これは書き改めよう。虚栄心のつよい男は、そう思って、しぶしぶ書き直しはじめた。
わかい時分には、誰しもいちどはこんな夕を経験するものである。彼はその日のくれがた、街にさまよい出て、突然おどろくべき現実を見た。彼は、街を通るひとびとがことごとく彼の知合いだったことに気づいた。師《し》走《わす》ちかい雪の街は、にぎわっていた。彼はせわしげに街を往き来するひとびとへいちいち軽い会釈をして歩かねばならなかった。とある裏町の曲り角で思いがけなく女学生の一群に出逢ったときなど、彼はほとんど帽子をとりそうにしたほどであった。
彼はそのころ、北方のある城下まちの高等学校で英語とドイツ語とを勉強していた。彼は英語の自由作文がうまかった。入学して、ひとつきも経たぬうちに、その自由作文でクラスの生徒たちをびっくりさせた。入学早々、ブルウル氏という英人の教師が、What is Real Happiness?ということについて生徒へその所信を書くよう命じたのである。ブルウル氏は、その授業はじめに、My Fairylandという題目でいっぷう変った物語をして、その翌る週には、The Real Cause of Warについて一時間主張し、おとなしい生徒を戦慄させ、やや進歩的な生徒を狂喜させた。文部省がこのような教師を雇いいれたことは手柄であった。ブルウル氏は、チェホフに似ていた。鼻眼鏡を掛け短い顎《あご》鬚《ひげ》を内気らしく生やし、いつもまぶしそうに微笑んでいた。英国の将校であるとも言われ、名高い詩人であるとも言われ、老《ふ》けているようであるが、あれでまだ二十代だとも言われ、軍事探偵であるとも言われていた。そのように何やら神秘めいた雰囲気が、ブルウル氏をいっそう魅惑的にした。新入生たちはすべて、この美しい異国人に愛されようとひそかに祈った。そのブルウル氏が、三週間目の授業のとき、だまってボオルドに書きなぐった文字がWhat is Real Happiness?であった。いずれはふるさとの自慢の子、えらばれた秀才たちは、この輝かしい初《うい》陣《じん》に、腕によりをかけた。彼もまた、罫《けい》紙《し》の塵をしずかに吹きはらってから、おもむろにペンを走らせた。Shakespeare said,"――さすがにおおげさすぎると思った。顔をあらかめながら、ゆっくり消した。右から左から前から後から、ペンの走る音がひくく聞えた。彼は頬杖ついて思案にくれた。彼は書きだしに凝《こ》るほうであった。どのような大作であっても、書きだしの一行で、もはやその作品の全部の運命が決するものだと信じていた。よい書きだしの一行ができると、彼は全部を書きおわったときと同じようにぼんやりした間抜け顔になるのであった。彼はペン先をインクの壺にひたらせた。なおすこし考えて、それからいきおいよく書きまくった。Zenzo Kasai,one of the most unfortunate Japanese novelists at present,said,"――葛西善蔵は、そのころまだ生きていた。いまのように有名ではなかった。一週間すぎて、ふたたびブルウル氏の時間が来た。お互いにまだ友人になりきれずにいる新入生たちは、教室のおのおのの机に坐ってブルウル氏を待ちつつ、敵意に燃える瞳を煙草のけむりのかげからひそかに投げつけ合った。寒そうに細い肩をすぼませて教室へはいって来たブルウル氏は、やがてほろにがく微笑みつつ、不思議なアクセントでひとつの日本の姓名を呟いた。彼の名であった。彼は大《たい》儀《ぎ》そうにのろのろと立ちあがった。頬がまっかだった。ブルウル氏は、彼の顔を見ずに言った。Most Excellent !教壇をあちこち歩きまわりながらうつむいて言いつづけた。Is this essay absolutely original ! 彼は眉をあげて答えた。Of course.クラスの生徒たちは、どっと奇怪な喚声をあげた。ブルウル氏は蒼白の広い額をさっとあからめて彼のほうを見た。すぐ眼をふせて、鼻眼鏡を右手で軽くおさえ、If it is,then it shows great promise and not only this, but shows some brain behind it.と一語ずつ区切ってはっきり言った。彼は、ほんとうの幸福とは、外から得られぬものであって、おのれが英雄になるか、受難者になるか、その心構えこそほんとうの幸福に接近する鍵である、という意味のことを言い張ったのであった。彼のふるさとの先輩葛西善蔵の暗示的な述懐をはじめに書き、それを敷《ふ》衍《えん》しつつ筆をすすめた。彼は葛西善蔵といちども逢ったことがなかったし、また葛西善蔵がそのような述懐をもらしていることも知らなかったのであるが、たとえ嘘でも、それができてあるならば、葛西善蔵はきっと許してくれるだろうと思ったのである。そんなことから、彼はクラスの寵を一身にあつめた。わかい群集は英雄の出現に敏感である。ブルウル氏は、それからも生徒へつぎつぎとよい課題を試みた。Fact and Truth. The Ainu.A Walk in the Hills in Spring. Are We of Today Really Civilised ? 彼は力いっぱいに腕をふるった。そうしていつもかなり報いられるのであった。若いころの名誉心は飽くことを知らぬものである。そのとしの暑中休暇には、彼は見込みある男としての誇りを肩に示して帰郷した。彼のふるさとは本州の北端の山のなかにあり、彼の家はその地方で名の知られた地主であった。父は無類のおひとよしの癖に悪《あく》辣《らつ》ぶりたがる性格を持っていて、そのひとりむすこである彼にさえ、わざと意地わるくかかっていた。彼がどのようなしくじりをしても、せせら笑って彼を許した。そしてわきを向いたりなどしながら言うのであった。人間、気のきいたことをせんと。そう呟いてから、さも抜け目のない男のようにふいと全くちがった話を持ちだすのである。彼はずっと前からこの父をきらっていた。虫が好かないのだった。幼いときから気のきかないことばかりやらかしていたからでもあった。母はだらしのないほど彼を尊敬していた。いまにきっとえらいものになると信じていた。彼が高等学校の生徒としてはじめて帰郷したときにも、母はまず彼の気むずかしくなったのにおどろいたのであったけれど、しかし、それを高等教育のせいであろうと考えた。ふるさとに帰った彼は、怠けてなどいなかった。蔵から父の古い人名辞典を見つけだし、世界の文豪の略歴をしらべていた。バイロンは十八歳で処女詩集を出版している。シルレルもまた十八歳、「群盗」に筆を染めた。ダンテは九歳にして「新生」の腹案を得たのである。彼もまた。小学校のときからその文章をうたわれ、いまは智識ある異国人にさえ若干の頭脳を認められている彼もまた。家の前庭のおおきい栗の木のしたにテエブルと椅子を持ちだし、こつこつと長編小説を書きはじめた。彼のこのようなしぐさは、自然である。それについては諸君にも心あたりがないとは言わせぬ。題を「鶴」とした。天才の誕生からその悲劇的な末路にいたるまでの長編小説であった。彼は、このようにおのれの運命をおのれの作品で予言することが好きであった。書きだしには苦労をした。こう書いた。――男がいた。四つのとき、彼の心のなかに野性の鶴が巣くった。鶴は熱狂的に高慢であった。云々。暑中休暇がおわって、十月のなかば、みぞれの降る夜、ようやく脱稿した。すぐまちの印刷所へ持って行った。父は、彼の要求どおり黙って二百円送ってよこした。彼はその書留を受けとったとき、やはり父の底意地のわるさを憎んだ。叱るなら叱るでいい、太腹らしく黙って送って寄こしたのが気にくわなかった。十二月のおわりに、「鶴」は菊半裁判、百余ペエジの美しい本となって彼の机上に高く積まれた。表紙には、鷲に似た妙な鳥がところせましと翼をひろげていた。まず、その県のおもな新聞社へ署名して一部ずつ贈呈した。一朝めざむればわが名は世に高いそうな。彼には、一刻が百年千年のように思われた。五部十部と街じゅうの本屋にくばって歩いた。ビラを貼った。鶴を読め、鶴を読めと激しい語句をいっぱい刷り込んだ五寸平方ほどのビラを、糊のたっぷりはいったバケツと一緒に両手で抱え、わかい天才は街の隅々まで駈けずり廻った。
そんな訳ゆえ、彼はその翌日から町中のひとたちと知合いになってしまったのに何の不思議もなかったはずである。
彼はなおも街をぶらぶら歩きながら、誰かれとなくすべてのひとと目礼を交した。運わるく彼の挨拶がむこうの不注意からそのひとに通じなかったときや、彼が昨晩ほね折って貼りつけたばかりの電柱のビラが無《む》慙《ざん》にも剥ぎとられているのを発見するときには、ことさらに仰山なしかめつらをするのであった。やがて彼は、そのまちでいちばん大きい本屋にはいって、鶴が売れるかと、小僧に聞いた。小僧は、まだ一部も売れんです、とぶあいそに答えた。小僧は彼こそ著者であることを知らぬらしかった。彼はしょげずに、いやこれから売れると思うよ、となにげなさそうに予言して置いて、本屋を立ち去った。その夜、彼は、さすがに幾分わずらわしくなった例の会釈を繰り返しつつ、学校の寮に帰って来たのである。
それほど輝かしい人生の門出の、第一夜に、鶴は早くも辱かしめられた。
彼が夕食をとりに寮の食堂へ、ひとあし踏みこむや、わっという寮生たちの異様な喚声を聞いた。彼らの食卓で「鶴」が話題にされていたにちがいないのである。彼はつつましげに伏目をつかいながら、食堂の隅の椅子に腰をおろした。それから、ひくくせきばらいしてカツレツの皿をつついたのである。彼のすぐ右側に坐っていた寮生がいちまいの夕刊を彼のほうへのべて寄こした。五、六人さきの寮生から順々に手わたしされて来たものらしい。彼はカツレツをゆっくり噛み返しつつ、その夕刊へぼんやり眼を転じた。「鶴」という一字が彼の眼を射た。ああ。おのれの処女作の評判をはじめて聞く、このつきさされるようなおののき。彼は、それでも、あわててその夕刊を手にとるようなことはしなかった。ナイフとフオクでもってカツレツを切り裂きながら、落ちついてその批評を、ちらちらはしり読みするのであった。批評は紙面のひだりの隅に小さく組まれていた。
――この小説は徹頭徹尾、観念的である。肉体のある人物がひとりとして描かれていない。すべて、すり硝子越しに見えるゆがんだ影法師である。ことに主人公の思いあがった奇々怪々の言動は、落丁の多いエンサイクロペヂアと全く似ている。この小説の主人公は、あしたにはゲエテを気取り、ゆうべにはクライスト《*》 を唯一の教師とし、世界中のあらゆる文豪のエッセンスを持っているのだそうで、その少年時代にひとめ見た少女を死ぬほどしたい、青年時代にふたたびその少女とめぐり逢い、げろの出るほど嫌悪するのであるが、これはいずれバイロン卿あたりの翻案であろう。しかも稚拙な直訳である。だいいち作者は、ゲエテをもクライストをもただ型としての概念でだけ了解しているようである。作者は、ファウストの一ペエジも、ペンテズィレエア《*》の一幕も、おそらくは、読んだことがないのではあるまいか。失礼。ことにこの小説の末尾には、毛をむしられた鶴のばさばさした羽ばたきの音を描写しているのであるが、作者はあるいはこの描写に依って、読者に完璧の印象を与え、傑作の眩惑を感じさせようとしたらしいが、私たちは、ただ、この畸《き》形《けい》的《てき》な鶴の醜さに顔をそむけるばかりである。
彼はカツレツを切りきざんでいた。平気に、平気に、と心掛ければ心掛けるほど、おのれの動作がへまになった。完璧の印象。傑作の眩惑。これが痛かった。声たてて笑おうか。ああ。顔を伏せたままの、そのときの十分間で、彼は十年も年老いた。
この心なき忠告は、いったいどんな男がして呉れたものか、彼にもいまもって判らぬのだが、彼はこの屈辱をくさびとして、さまざまの不幸に遭遇しはじめた。ほかの新聞社もやっぱり「鶴」をほめては呉れなかったし、友人たちもまた、世評どおりに彼をあしらい、彼を呼ぶに鶴という鳥類の名でもってした。わかい群集は、英雄の失脚にも敏感である。本は恥かしくて言えないほど僅少の部数しか売れなかった。街をとおる人たちは、もとよりあかの他人にちがいなかった。彼は毎夜毎夜、まちの辻々のビラをひそかに剥《は》いで廻った。
長編小説「鶴」は、その内容の物語とおなじく悲劇的な結末を告げたけれど、彼の心のなかに巣くっている野性の鶴は、それでも、なまなまと翼をのばし、芸術の不可解を嘆じたり、生活の倦怠を託《かこ》ったり、その荒涼の現実のなかで思うさま懊《おう》悩《のう》呻《しん》吟《ぎん》することを覚えたわけである。
ほどなく冬季休暇にはいり、彼はいよいよ気むずかしくなって帰郷した。眉根に寄せられた皺も、どうやら彼に似合って来ていた。母はそれでも、れいの高等教育を信じて、彼をほれぼれと眺めるのであった。父はその悪辣ぶった態度で彼を迎えた。善人どうしは、とかく憎しみ合うもののようである。彼は、父の無言のせせら笑いのかげに、あの新聞の読者を感じた。父も読んだにちがいなかった。たかが十行か二十行かの批判の活字がこんな田舎にまで毒を流しているのを知り、彼は、おのれのからだを岩か牝牛にしたかった。
そんな場合、もし彼が、つぎのような風の便りを受けとったとしたなら、どうであろう。やがて、ふるさとで十八の歳を送り、十九歳になった元旦、眼をさましてふと枕元に置かれてある十枚ほどの賀状に眼をとめたというのである。そのうちのいちまい、差出人の名も記されてないこれは葉書。
――私、べつに悪いことをするのでないから、わざと葉書に書くの。またそろそろおしょげになって居られるころと思います。あなたは、ちょっとしたことにでも、すぐおしょげなさるから、私、あんまり好きでないの。誇りをうしなった男のすがたほど汚いものはないと思います。でもあなたは、けっして御自身をいじめないで下さいませ。あなたには、わるものへ手むかう心と、情にみちた世界をもとめる心とがおありです。それは、あなたがだまっていても、遠いところにいる誰かひとりがきっと知って居ります。あなたは、ただすこし弱いだけです。弱い正直なひとをみんなでかばってだいじにしてやらなければいけないと思います。あなたはちっとも有名でありませんし、また、なんの肩書をもお持ちではございません。でも私、おとといギリシャの神話を二十ばかり読んで、たのしい物語をひとつ見つけたのです。おおむかし、まだ世界の地面は固まって居らず、海は流れて居らず、空気は透きとおって居らず、みんなまざり合って渾沌としていたころ、それでも太陽は毎朝のぼるので、ある朝、ジューノーの侍女の虹の女神アイリスがそれを笑い、太陽どの、太陽どの、毎朝ごくろうね、下界にはあなたを仰ぎ見たてまつる草一本、泉ひとつないのに、と言いました。太陽は答えました。わしはしかし太陽だ。太陽だから昇るのだ。見ることのできるものは見るがよい。私、学者でもなんでもないの。これだけ書くのにも、ずいぶん考えたし、なんどもなんども下書きしました。あなたがよい初夢とよい初日出をごらんになって、もっともっと生きることに自信をお持ちなさるよう祈っているもののあることを、お知らせしたくて一生懸命に書きました。こんなことを、だしぬけに男のひとに書いてやるのは、たしなみなくて、わるいことだと思います。でも私、恥かしいことは、なんにも書きませんでした。私、わざと私の名前を書かないの。あなたはいまにきっと私をお忘れになってしまうだろうと思います。お忘れになってもかまわないの。おや、忘れていました。新年おめでとうございます。元旦。
(風の便りはここで終らぬ)
あなたは私をおだましなさいました。あなたは私に、第二、第三の風の便りをも書かせると約束して置きながら、たっぷり葉書二枚ぶんのおかしな賀状の文句を書かせたきりで、私を死なせてしまうおつもりらしうございます。れいのご深遠なご吟味をまたおはじめになったのでございましょうか。私、こんなになるだろうということは、はじめから知っていました。でも私、ひょっとするとあの霊感とやらがあらわれて、どうやら私を生かしきることができるのではないかしら、とあなたのためにも私のためにもそればかりを祈っていました。やっぱり駄目なのね。まだお若いからかしら。いいえ、なんにもおっしゃいますな。いくさに負けた大将は、だまっているものだそうでございます。人の話に依りますと、「ヘルマンとドロテア」も「野鴨《*》」も「あらし《*》」も、みんなその作者の晩年に書かれたものだそうでございます。ひとに憩いを与え、光明を投げてやるような作品を書くのに、才能だけではいけないようです。もしも、あなたがこれから十年二十年とこのにくさげな世のなかにどうにかして炬火《たいまつ》きどりで生きとおして、それから、もいちど、忘れずに私をお呼びくだされたなら、私、どんなにうれしいでしょう。きっときっと参ります。約束してよ。さようなら。あら、あなたはこの原稿を破るおつもり? およしなさいませ。このような文学に毒された、もじり言葉の詩とでもいったような男が、もし小説を書いたとしたなら、まずざっとこんなものだと素知らぬふりして書き加えでもして置くと、案外、世のなかのひとたちは、あなたの私を殺しっぷりがいいと言って、喝采を送るかも知れません。あなたのよろめくおすがたがさだめし大受けでございましょう。そしておかげで私の指さきもそれから脚も、もう三秒とたたぬうちに、みるみる冷くなるでございましょう。ほんとうは怒っていないの。だってあなたはわるくないし、いいえ、理屈はないんだ。ふっと好きなの。あああ。あなた、仕合せは外から? さようなら、坊ちゃん。もっと悪人におなり。
男は書きかけの原稿用紙に眼を落としてしばらく考えてから、題を猿面冠者とした。それはどうにもならないほどしっくり似合った墓標である、と思ったからであった。
逆 行
蝶 蝶
老人ではなかった。二十五歳を越しただけであった。けれどもやはり老人であった。ふつうの人の一年一年を、この老人はたっぷり三倍三倍にして暮したのである。二度、自殺をし損った。そのうちの一度は情死であった。三度、留置場にぶちこまれた。思想の罪人としてであった。ついに一篇も売れなかったけれど、百篇にあまる小説を書いた。しかし、それはいずれもこの老人の本気でした仕業ではなかった。いわば道草であった。いまだこの老人のひしがれた胸をとくとく打ち鳴らし、そのこけた頬をあからめさせるのは、酔いどれることと、ちがった女を眺めながらあくなき空想をめぐらすことと、二つであった。いや、その二つの思い出である。ひしがれた胸、こけた頬、それは嘘でなかった。老人は、この日に死んだのである。老人の永い生涯において、嘘でなかったのは、生れたことと、死んだことと、二つであった。死ぬるまぎわまで嘘を吐いていた。
老人は今、病床にある。遊びから受けた病気であった。老人には暮しに困らぬほどの財産があった。けれどもそれは、遊びあるくのには足りない財産であった。老人は、いま死ぬることを残念であるとは思わなかった。ほそぼそとした暮しは、老人には理解できないのである。
ふつうの人間は臨終ちかくなると、おのれの両のてのひらをまじまじと眺めたり、近親の瞳をぼんやり見あげているものであるが、この老人は、たいてい眼をつぶっていた。ぎゅっと固くつぶってみたり、ゆるくあけて瞼をぷるぷるそよがせてみたり、おとなしくそんなことをしているだけなのである。蝶蝶が見えるというのである。青い蝶や、黒い蝶や、白い蝶や、黄色い蝶や、むらさきの蝶や、水色の蝶や、数千数万の蝶蝶がすぐ額のうえをいっぱいにむれ飛んでいるというのであった。わざとそういうのであった。十里とおくは蝶の霞。百万の羽ばたきの音は、真昼のあぶの唸りに似ていた。これは合戦をしているのであろう。翼の粉末が、折れた脚が、眼玉が、触角が、長い舌が、降るように落ちる。
食べたいものは、なんでも、と言われて、あずきかゆ、と答えた。老人が十八歳で初めて小説というものを書いたとき、臨終の老人が、あずきかゆを食べたいと呟くところの描写をなしたことがある。
あずきかゆは作られた。それは、お粥《かゆ》にゆで小豆を散らして、塩で風味をつけたものであった。老人の田舎のごちそうであった。眼をつぶって仰《あお》向《むけ》のまま、二《ふた》匙《さじ》すすると、もういい、と言った。ほかになにか、と問われ、うす笑いして、遊びたい、と答えた。老人の、ひとのよい無学ではあるが利巧な、若く美しい妻は、居並ぶ近親たちの手前、嫉妬でなく頬をあからめ、それから匙を握ったまま声しのばせて泣いたという。
盗 賊
ことし落第ときまった。それでも試験は受けるのである。甲斐ない努力の美しさ。われはその美に心をひかれた。今朝こそわれは早く起き、まったく一年ぶりで学生服に腕をとおし、菊花の御紋章かがやく高い大きい鉄の門をくぐった。おそるおそるくぐったのである。すぐに銀杏《いちよう》の並木がある。右側に十本、左側にも十本、いずれも巨木である。葉の繁るころ、この路はうすぐらく、地下道のようである。いまは一枚の葉もない。並木路のつきるところ、正面に赤い化粧煉瓦の大建築物。これは講堂である。われはこの内部を入学式のとき、ただいちど見た。寺院のごとき印象を受けた。いまわれは、この講堂の塔の電気時計を振り仰ぐ。試験には、まだ十五分の間があった。探偵小説家の父親の銅像に、いつくしみの瞳をそそぎつつ、右手のだらだら坂を下り、庭園に出たのである。これは、むかし、さるお大名のお庭であった。池には鯉と緋鯉とすっぽんがいる。五、六年まえまでには、ひとつがいの鶴が遊んでいた。いまでも、この草むらには蛇がいる。雁や野鴨の渡り鳥も、この池でその羽を休める。庭園は、ほんとうは二百坪にも足りないひろさなのであるが、見たところ千坪ほどのひろさなのだ。すぐれた造園術のしかけである。われは池畔の熊笹のうえに腰をおろし、背を樫の古木の根株にもたせ、両脚をながながと前方になげだした。小径をへだてて大小凸凹の岩がならび、そのかげからひろびろと池がひろがっている。曇天の下の池の面は白く光り、小波の皺をくすぐったげに畳んでいた。右足を左足のうえに軽くのせてから、われは呟く。
――われは盗賊。
まえの小径を大学生たちが一列に並んで通る。ひきもきらず、ぞろぞろと流れるように通るのである。いずれは、ふるさとの自慢の子。えらばれた秀才たち。ノオトのおなじ文章を読み、それをみんなみんなの大学生が、一律に暗記しようと努めていた。われは、ポケットから煙草を取りだし、一本、口にくわえた。マッチがないのである。
――火を貸してくれ。
ひとりの美男の大学生をえらんで声をかけてやった。うすみどり色の外套にくるまった、その大学生は立ちどまり、ノオトから眼をはなさず、くわえていた金口の煙草をわれに与えた。与えてそのままのろのろと歩み去った。大学にもわれに匹敵する男がある。われはその金口の外国煙草からおのが安煙草に火をうつして、おもむろに立ちあがり、金口の煙草を力こめて地べたへ投げ捨て靴の裏でにくしみにくしみ踏みにじった。それから、ゆったり試験場へ現われたのである。
試験場では、百人にあまる大学生たちが、すべてうしろへうしろへと尻込みしていた。前方の席に坐るならば、思うがままに答案を書けまいと懸念しているのだ。われは秀才らしく最前列の席に腰をおろし、少し指先をふるわせつつ煙草をふかした。われには机のしたで調べるノオトもなければ、互いに小声で相談し合うひとりの友人もないのである。
やがて、あから顔の教授が、ふくらんだ鞄をぶらさげてあたふたと試験場へ駈け込んで来た。この男は、日本一のフランス文学者《*》である。われは、きょうはじめて、この男を見た。なかなかの柄であって、われは彼の眉《み》間《けん》の皺に不覚ながら威圧を感じた。この男の弟子には、日本一の詩人《*》と日本一の評論家《*》がいるそうな。日本一の小説家、われはそれを思い、ひそかに頬をほてらせた。教授がボオルドに問題を書きなぐっている間に、われの背後の大学生たちは、学問の話でなく、たいてい満洲の景気の話を囁き合っているのである。ボオルドには、フランス語が五、六行。教授は教壇の肘掛椅子にだらしなく坐り、さもさも不機嫌そうに言い放った。
――こんな問題じゃ落第したくてもできめえ。
大学生たちは、ひくく力なく笑った。われも笑った。教授はそれから訳のわからぬフランス語を二言三言つぶやき、教壇の机のうえでなにやら書きものを始めたのである。
われはフランス語を知らぬ。どのような問題が出ても、フロオベエルはお坊ちゃんである、と書くつもりでいた。われはしばらく思索にふけったふりをして眼を軽くつぶったり短い頭髪のふけを払い落としたり、爪の色あいを眺めたりするのである。やがて、ペンを取りあげて書きはじめた。
――フロオベエルはお坊ちゃんである。弟子のモオパスサンは大人である。芸術の美は所詮、市民への奉仕の美である。このかなしいあきらめを、フロオベエルは知らなかったしモオパスサンは知っていた。フロオベエルはおのれの処女作、聖アントワンヌの誘惑に対する不評判の屈辱をそそごうとして、一生を棒にふった。いわゆる刳《こ》磔《たく》の苦労をして、一作、一作を書き終えるごとに、世評はともあれ、彼の屈辱の傷はいよいよ激烈にうずき、痛み、彼の心の満たされぬ空洞が、いよいよひろがり、深まり、そうして死んだのである。傑作の幻影にだまくらかされ、永遠の美に魅せられ、浮かされ、とうとうひとりの近親はおろか、自分自身をさえ救うことができなんだ。ボオドレエルこそは、お坊ちゃん。以上。
先生、及第させて、などとは書かないのである。二度くりかえして読み、書き誤りを見いださず、それから、左手に外套と帽子を持ち右手にそのいちまいの答案を持って、立ちあがった。われのうしろの秀才は、この時あわてふためいた。われの背こそは、この男の防風林になっていたのだ。ああ。その兎に似た愛らしい秀才の答案には、新進作家の名前が記されていたのである。われはこの有名な新進作家の狼狽を不《ふ》憫《びん》に思いつつ、かのじじむさげなる教授に意味ありげに一礼して、おのが答案を提出した。われはしずしずと試験場を、出るが早いかころげ落ちるように階段を駈け降りた。
戸外へ出て、わかい盗賊は、うら悲しき思いをした。この憂愁は何者だ。どこからやって来やがった。それでも、外套の肩を張りぐんぐんと大股つかって銀杏の並木にはさまれたひろい砂利道を歩きながら、空腹のためだ、と答えたのである。二十九番教室の地下に、大食堂がある。われは、そこへと歩をすすめた。
空腹の大学生たちは、地下室の大食堂からあふれ、入口よりして長蛇のごとき列をつくり、地上にはみ出て、列の尾の部分は、銀杏の並木のあたりにまで達していた。ここでは、十五銭でかなりの昼食が得られるのである。一丁ほどの長さであった。
――われは盗賊。稀《き》代《たい》のすね者。かつて芸術家は人を殺さぬ。かつて芸術家はものを盗まぬ。おのれ。ちゃちな小利巧の仲間。
大学生たちをどんどん押しのけ、ようやく食堂の入口にたどりつく。入口には小さい貼紙があって、それにはこう書きしたためられていた。
――きょう、みなさまの食堂も、はばかりながら創業満三箇年の日をむかえました。それを祝福する内意もあり、わずかではございますが、奉仕させていただきたく存じます。
その奉仕の品品が、入口の傍の硝子棚のなかに飾られている。赤い車海老はパセリの葉の蔭に憩い、ゆで卵を半分に切った断面には、青い寒天の「寿」という文字がハイカラにくずされて画かれていた。試みに、食堂のなかを覗くと、奉仕の品品の饗応にあずかっている大学生たちの黒い密林のなかを白いエプロンかけた給仕の少女たちが、くぐりぬけすりぬけしてひらひら舞い飛んでいるのである。ああ、天井には万国旗。
大学の地下に匂う青い花、こそばゆい毒消しだ。よき日に来合せたるものかな。ともに祝わん。ともに祝わん。
盗賊は落葉のごとくはらはらと退却し、地上に舞いあがり、長蛇のしっぽにからだをいれ、みるみるすがたをかき消した。
決 闘
それは外国の真似ではなかった。誇張でなしに、相手を殺したいと願望したからである。けれどもその動機は深遠でなかった。私とそっくりおなじ男がいて、この世にひとつものがふたつは要らぬという心から憎しみ合ったわけでもなければ、その男が私の妻の以前のいろであって、いつもいつもその二度三度の事実をこまかく自然主義ふうに隣人どもへ言いふらして歩いているというわけでもなかった。相手は、私とその夜はじめてカフェで落ち合ったばかりの、犬の毛皮の胴着をつけた若い百姓であった。私はその男の酒を盗んだのである。それが動機であった。
私は北方の城下まちの高等学校の生徒である。遊ぶことが好きなのである。けれども金銭には割にけちであった。ふだん友人の煙草ばかりをふかし、散髪をせず、辛抱して五円の金がたまれば、ひとりでこっそりまちへ出てそれを一銭のこさず使った。一夜に、五円以上の金も使えなかったし、五円以下の金も使えなかった。しかも私はその五円でもって、つねに最大の効果を収めていたようである。私の貯めた粒粒の小銭を、まず友人の五円紙幣と交換するのである。手の切れるほどあたらしい紙幣であれば、私の心はいっそう跳《おど》った。私はそれを無雑作らしくポケットにねじこみ、まちへ出掛けるのだ。月に一度か二度のこの外出のために、私は生きていたのである。当時、私は、わけの判らぬ憂愁にいじめられていた。絶対の孤独と一切の懐疑。口に出して言っては汚い! ニイチェやビロン《*》や春夫よりも、モオパスサンやメリメや鴎外のほうがほんものらしく思えた。私は、五円の遊びに命を打ち込む。
私はカフエにはいっても、決して意気込んだ様子を見せなかった。遊び疲れたふうをした。夏ならば、冷いビイルを、と言った。冬ならば、熱い酒を、と言った。私が酒を呑むのも、単に季節のせいだと思わせたかった。いやいやそうに酒を噛みくだしつつ、私は美人の女給には眼もくれなかった。どこのカフエにも、色気に乏しい慾気ばかりの中年の女給がひとりばかりいるものであるが、私はそのような女給にだけ言葉をかけてやった。おもにその日の天候や物価について話し合った。私は、神も気づかぬ素早さで、呑みほした酒瓶の数を勘定するのが上手であった。テエブルに並べられたビイル瓶が六本になれば、日本酒の徳利が十本になれば、私は思いだしたようにふらっと立ちあがり、お会計、とひくく呟くのである。五円を越えることはなかった。私は、わざとほうぼうのポケットに手をつっこんでみるのだ。金の仕舞いどころを忘れたつもりなのである。いよいよおしまいにかのズボンのポケットに気がつくのであった。私はポケットの中の右手をしばらくもじもじさせる。五、六枚の紙幣をえらんでいるかたちである。ようやく、私はいちまいの紙幣をポケットから抜きとり、それを十円紙幣であるか五円紙幣であるか確かめてから、女給に手渡すのである。釣銭は、少ないけれど、と言って見むきもせず全部くれてやった。肩をすぼめ、大股をつかってカフエを出てしまって、学校の寮につくまで私はいちども振りかえらぬのである。翌る日から、また粒粒の小銭を貯めにとりかかるのであった。
決闘の夜、私は「ひまわり」というカフエにはいった。私は紺色の長いマントをひっかけ、純白の革手袋をはめていた。私はひとつカフエにつづけて二度は行かなかった。きまって五円紙幣を出すということに不審を持たれるのを怖れたのである。「ひまわり」への訪問は、私にとって二月ぶりであった。
そのころ私のすがたにどこやら似たところのある異国の一青年が、活動役者として出世しかけていたので、私も少しずつ女の眼をひきはじめた。私がそのカフエの隅の椅子に坐ると、そこの女給四人すべてが、さまざまの着物を着て私のテエブルのまえに立ち並んだ。冬であった。私は、熱い酒を、と言った。そうしてさもさも寒そうに首筋をすくめた。活動役者との相似が、直接私に利益をもたらした。年若いひとりの女給が、私が黙っていても、煙草をいっぽんめぐんでくれたのである。
「ひまわり」は小さくてしかも汚い。束髪を結った一尺に二尺くらいの顔の女のぐったりと頬杖をつき、くるみの実ほどの大きな歯をむきだして微笑んでいるポスタアが、東側の壁にいちまい貼られていた。ポスタアの裾にはカブトビイルと横に黒く印刷されてある。それと向かい合った西側の壁には一坪ばかりの鏡がかけられていた。鏡は金粉を塗った額縁に収められているのである。北側の入口には赤と黒との縞のよごれたモスリンのカアテンがかけられ、そのうえの壁に、沼のほとりの草原に裸で寝ころんで大笑いをしている西洋の女の写真がピンでとめつけられていた。南側の壁には、紙の風船玉がひとつ、くっついていた。それがすぐ私の頭のうえにあるのである。腹の立つほど、調和がなかった。三つのテエブルと十脚の椅子。中央にストオヴ。土間は板張りであった。私はこのカフエでは、とうてい落ちつけないことを知っていた。電気が暗いので、まだしも幸いである。
その夜、私は異様な歓待を受けた。私がそこの中年の女給に酌をされて熱い日本酒の最初の徳利をからにしたころ、さきに私に煙草をいっぽんめぐんで呉れたわかい女給が、突然、私の鼻先へ右のてのひらを差し出したのである。私はおどろかずに、ゆっくり顔をあげて、その女給の小さい瞳の奥をのぞいた。運命をうらなって呉れ、と言うのである。私はとっさのうちに了解した。たとえ私が黙っていても、私のからだから予言者らしい高い匂いが発するのだ。私は女の手に触れず、ちらと眼をくれ、きのう愛人を失った、と呟いた。当ったのである。そこで異様な歓待がはじまった。ひとりのふとった女給は、私を先生とさえ呼んだ。私は、みんなの手相を見てやった。十九歳だ。寅のとし生れだ。よすぎる男を思って苦労している。薔《ば》薇《ら》の花が好きだ。君の家の犬は、仔犬を産んだ。仔犬の数は六。ことごとく当ったのである。かの痩《や》せた、眼のすずしい中年の女給は、ふたりの亭主を失ったと言われて、みるみる頸をうなだれた。この不思議の的中は、みんなのうちで、私をいちばん興奮させた。すでに六本の徳利をからにしていたのである。このとき、犬の毛皮の胴着をつけた若い百姓が入口に現われた。
百姓は私のテエブルのすぐ隣のテエブルに、こっちへ毛皮の背をむけて坐り、ウイスキイと言った。犬の毛皮の模様は、ぶちであった。この百姓の出現のために、私のテエブルの有頂天は一時さめた。私はすでに六本の徳利をからにしたことを、ちくちく悔いはじめたのである。もっともっと酔いたかった。こよいの歓喜をさらにさらに誇張してみたかったである。あと四本しか呑めぬ。それでは足りない。足りないのだ。盗もう。このウイスキイを盗もう。女給たちは、私が金銭のために盗むのでなく、予言者らしい突飛な冗談と見てとって、かえって喝采を送るだろう。この百姓もまた、酔いどれの悪ふざけとして苦笑をもらすくらいのところであろう。盗め! 私は手をのばし、隣のテエブルのそのウイスキイのコップをとりあげ、おちついて呑みほした。喝采は起らなかった。しずかになった。百姓は私のほうをむいて立ちあがった。外へ出ろ。そう言って、入口のほうへ歩きはじめた。私も、にやにや笑いながら百姓のあとについて歩いた。金色の額縁におさめられてある鏡を通りすがりにちらと覗いた。私は、ゆったりした美丈夫であった。鏡の奥底には、一尺に二尺の笑い顔が沈んでいた。私は心の平静をとりもどした。自信ありげに、モスリンのカアテンをぱっとはじいた。
THE HIMAWARIと黄色いロオマ字が書かれてある四角の軒燈の下で、私たちは立ちどまった。女給四人は、薄暗い門口に白い顔を四つ浮かせていた。
私たちは次のような争論をはじめたのである。
――あまり馬鹿にするなよ。
――馬鹿にしたのじゃない。甘えたのさ。いいじゃないか。
――おれは百姓だ。甘えられて、腹がたつ。
私は百姓の顔を見直した。短い角刈にした小さい頭と、うすい眉と、一重瞼の三白眼と、蒼黒い皮膚であった。身丈は私より確かに五寸はひくかった。私は、あくまで茶化してしまおうと思った。
――ウイスキイが呑みたかったのさ。おいしそうだったからな。
――おれだって呑みたかった。ウイスキイが惜しいのだ。それだけだ。
――君は正直だ。可愛い。
――生意気いうな。たかが学生じゃないか。つらにおしろいをぬりたくりやがって。
――ところが僕は、易者だということになっている。予言者だよ。驚いたろう。
――酔ったふりなんかするな。手をついてあやまれ。
――僕を理解するには何よりもまず勇気が要る。いい言葉じゃないか。僕はフリイドリッヒ・ニイチェだ。
私は女給たちのとめて呉れるのを、いまかいまかと待っていた。女給たちはしかし、そろって冷い顔して私の殴られるのを待っていた。そのうちに私は殴られた。右のこぶしが横からぐんと飛んで来たので、私は首筋を素早くすくめた。十間ほどふっとんだ。私の白線の帽子が身がわりになって呉れたのである。私は微《ほほ》笑《え》みつつ、わざとゆっくりその帽子を拾いに歩きはじめた。毎日毎日のみぞれのために、道はとろとろ溶けていた。しゃがんで、泥にまみれた帽子を拾ったとたんに、私は逃げようと考えた。五円たすかる。別のところで、もいちど呑むのだ。私は二あし三あし走った。滑った。仰《あお》向《むけ》にひっくりかえった。踏みつぶされた雨蛙の姿に似ていたようであった。自身のぶざまが、私を少し立腹させたのである。手袋も上衣もズボンもそれからマントも、泥まみれになっている。私はのろのろと起きあがり、頭をあげて百姓のもとへ引返した。百姓は、女給たちに取りまかれ、まもられていた。誰ひとり味方がない。その確信が私の凶暴さを呼びさましたのである。
――お礼をしたいのだ。
せせら笑ってそう言ってから、私は手袋を脱ぎ捨て、もっと高価なマントをさえ泥のなかへかなぐり捨てた。私は自身の大時代なせりふとみぶりにやや満足していた。誰かとめて呉れ。
百姓は、もそもそと犬の毛皮の胴着を脱ぎ、それを私に煙草をめぐんで呉れた美人の女給に手渡して、それから懐のなかに片手をいれた。
――汚い真似をするな。
私は身構えて、そう注意してやった。
懐から一本の銀笛が出た。銀笛は軒燈の灯にきらきら反射した。銀笛はふたりの亭主を失った中年の女給に手渡された。
百姓のこのよさが、私を夢中にさせたのだ。それは小説のうえでなく、真実、私はこの百姓を殺そうと思った。
――出ろ。
そう叫んで、私は百姓の向こう臑《ずね》を泥靴で力いっぱいに蹴あげた。蹴たおして、それから澄んだ三白眼をくり抜く。泥靴はむなしく空を蹴ったのである。私は自身の不恰好に気づいた。悲しく思った。ほのあたたかいこぶしが、私の左の眼から大きい鼻にかけて命中した。眼からまっかな焔が噴き出た。私はそれを見た。私はよろめいたふりをした。右の耳《みみ》朶《たぶ》から頓にかけてぴしゃっと平手が命中した。私は泥のなかに両手をついた。とっさのうちに百姓の片脚をがぶと噛んだ。脚は固かった。路傍の白楊の杙《くい》であった。私は泥にうつぶして、いまこそおいおい声をたてて泣こう泣こうとあせったけれど、あわれ、一滴の涙も出なかった。
くろんぼ
くろんぼは檻《おり》の中にはいっていた。檻の中は一坪ほどのひろさであって、まっくらい奥隅に、丸太でつくられた腰掛がひとつ置かれていた。くろんぼはそこに坐って、刺繍をしていた。このような暗闇のなかでどんな刺《し》繍《しゆう》ができるものかと、少年は抜けめのない紳士のように、鼻の両わきへ深い皺をきざみこませ口まげてせせら笑ったものである。
日本チャリネ《*》がくろんぼを一匹つれて来た。村は、どよめいた。ひとを食うそうである。まっかな角が生えている。全身に花のかたちのむらがある。少年は、まったくそれを信じないのであった。少年は思うのだ。村のひとたちも心から信じてそんな噂をしているのではあるまい。ふだんから夢のない生活をしているゆえ、こんなときこそ勝手な伝説を作りあげ、信じたふりして酔っているのにちがいない。少年は村のひとたちのそんな安易な嘘を聞くたびごとに、歯ぎしりをし耳を覆い、飛んで彼の家へ帰るのであった。少年は村のひとたちの噂話を間抜けていると思うのだ。なぜこのひとたちは、もっとだいじなことがらを話し合わないのであろう。くろんぼは、雌だそうではないか。
チャリネの音楽隊は、村のせまい道をねりあるき、六十秒とたたぬうちに村の隅から隅にまで宣伝しつくすことができた。一本道の両側に三丁ほど茅《かや》葺《ぶき》の家が立ちならんでいるだけであったのである。音楽隊は、村のはずれに出てしまってもあゆみをとめないで、螢の光の曲をくりかえしくりかえし奏しながら菜の花畠のあいだをねってあるいて、それから田植まっさいちゅうの田圃へ出て、せまい畦道を一列にならんで進み、村のひとたちをひとりも見のがすことなく浮かれさせ橋を渡って森を通り抜けて、半里はなれた隣村にまで行きついてしまった。
村の東端に小学校があり、その小学校のさらに東隣が牧場であった。牧場は百坪ほどのひろさであってオランダげんげが敷きつめられ、二匹の牛と半ダアスの豚とが遊んでいた。チャリネはこの牧場に鼠色したテントの小屋をかけた。牛と豚とは、飼主の納屋に移転したのである。
夜、村のひとたちは頬被りして二人三人ずつかたまってテントのなかにはいっていった。六、七十人のお客であった。少年は大人たちを殴りつけては押しのけ押しのけ、最前列へ出た。まるい舞台のぐるりに張りめぐらされた太いロオプに顎をのせかけて、じっとしていた。ときどき眼を軽くつぶって、うっとりしたふりをしていた。
かるわざの曲目は進行した。樽。メリヤス。むちの音。それから金襴。痩せた老馬。まのびた喝采。カアバイド。二十箇ほどのガス燈が小屋のあちこちにでたらめの間隔をおいて吊《つる》され、夜の昆虫どもがそれにひらひらからかっていた。テントの布地が足りなかったのであろう、小屋の天井に十坪ほどのおおきな穴があけっぱなしにされていて、そこから星空が見えるのだ。
くろんぼの檻が、ふたりの男に押されて舞台へ出た。檻の底に車輪の脚がついているらしくからからと音たてて舞台へ滑り出たのである。頬被りしたお客たちの怒号と拍手。少年は、ものうげに眉をあげて檻の中をしずかに観察しはじめた。
少年は、せせら笑いの影を顔から消した。刺繍は日の丸の旗であったのだ。少年の心臓は、とくとくと幽《かす》かな音たてて鳴りはじめた。兵隊やそのほか兵隊に似かよったような概念のためではない。くろんぼが少年をあざむかなかったからである。ほんとうに刺繍をしていたのだ。日の丸の刺繍は簡単であるから、闇のなかで手さぐりをしながらでもできるのだ。ありがたい。このくろんぼは正直者だ。
やがて、燕尾服を着た仁丹の髭のある太夫が、お客に彼女のあらましの来歴を告げて、それから、ケルリ、ケルリ、と檻に向かって二声叫び、右手のむちを小粋に振った。むちの音が少年の胸を鋭くつき刺した。太夫に嫉妬を感じたのである。くろんぼは、立ちあがった。
むちの音におびやかされつつ、くろんぼはのろくさと二つ三つの芸をした。それは卑猥の芸であった。少年を置いてほかのお客たちはそれを知らぬのだ。ひとを食うか食わぬか。まっかな角があるかないか。そんなことだけが問題であったのである。
くろんぼのからだには、青い藺《い》の腰《こし》蓑《みの》がひとつ、つけられていた。油を塗りこくってあるらしく、すみずみまでつよく光っていた。おわりに、くろんぼは謡をひとくさり唄った。伴奏は太夫のむちの音であった。シャアボン、シャアボンという簡単な言葉である。少年は、その謡のひびきを愛した。どのようにぶざまな言葉でも、せつない心がこもっておれば、きっとひとを打つひびきが出るものだ。そう考えて、またぐっと眼をつぶった。
その夜、くろんぼを思い、少年はみずからを汚した。
翌朝、少年は登校した。教室の窓を乗り越え、背戸の小川を飛び越え、チャリネのテントめがけて走った。テントのすきまから、ほの暗い内部を覗いたのである。チャリネのひとたちは舞台にいっぱい蒲団を敷きちらし、ごろごろと芋虫のように寝ていた。学校の鐘が鳴りひびいた。授業がはじまるのだ。少年は、うごかなかった。くろんぼは寝ていないのである。さがしてもさがしても見つからぬのである。学校は、しんとなった。授業がはじまったのであろう。第二課、アレキサンドル大王と医師フイリップ。むかしヨーロッパにアレキサンドル大王という英雄があった。少女の朗朗と読みあげる声をはっきり聞いた。少年は、うごかなかった。少年は信じていた。あのくろんぼは、ただの女だ。ふだんは檻から出て、みんなと遊んでいるのにちがいない。水仕事をしたり、煙草をふかしたり、日本語で怒ったり、そんな女だ。少女の朗読がおわり、教師のだみ声が聞えはじめた。信頼は美徳であると思う。アレキサンドル大王はこの美徳をもっていたがために、一命をまっとうしたようであります。みなさん。少年は、まだうごかずにいた。ここにいないわけはない。檻は、きっとからっぽのはずだ。少年は肩を固くした。こうして覗いているうちに、くろんぼは、こっそりおれのうしろにやって来て、ぎゅっと肩を抱きしめる。それゆえ背後にも油断をせず、抱きしめられるのに恰好のいいように肩を小さく固くしたのであった。くろんぼは、きっと刺繍した日の丸の旗をくれるにちがいない。そのときおれは、弱味を見せずこう言ってやる。僕で幾人目だ。
くろんぼは現われなかった。テントから離れ、少年は着物の袖でせまい額の汗を拭って、のろのろと学校へ引き返した。熱が出たのです。肺がわるいそうです。袴に編みあげの靴をはいている老教師を、まんまとだました。自分の席についてからも、少年はごほごほと贋の咳ばらいにむせかえった。
村のひとたちの話に依れば、くろんぼは、やはり檻につめられたまま、幌馬車に積みこまれ、この村を去ったのである。太夫は、おのが身をまもるため、ピストルをポケットに忍ばせていた。
彼は昔の彼ならず
君にこの生活を教えよう。知りたいとならば、僕の家のものほし場まで来るとよい。そこでこっそり教えてあげよう。
僕の家のものほし場は、よく眺望がきくと思わないか。郊外の空気は、深くて、しかも軽いだろう? 人家もまばらである。気をつけ給え。君の足もとの板は、腐りかけているようだ。もっとこっちへ来るとよい。春の風だ。こんな工合いに、耳《みみ》朶《たぶ》をちょろちょろとくすぐりながら通るのは、南風の特徴である。
見渡したところ、郊外の家の屋根屋根は、不揃いだと思わないか。君はきっと、銀座か新宿のデパアトの屋上庭園の木柵によりかかり、頬杖ついて、巷の百万の屋根屋根をぼんやり見おろしたことがあるにちがいない。巷の百万の屋根屋根は、皆々、同じ大きさで同じ形で同じ色あいで、ひしめき合いながらかぶさりかさなり、はては黴《ばい》菌《きん》と車塵とでうすく赤くにごらされた巷の霞のなかにその端を沈没させている。君はその屋根屋根のしたの百万の一律な生活を思い、眼をつぶってふかい溜息を吐いたにちがいないのだ。見られるとおり、郊外の屋根屋根は、それと違う。一つ一つが、その存在の理由を、ゆったりと主張しているようではないか。あの細長い煙突は、桃の湯という銭湯屋のものであるが、青い煙を風のながれるままにおとなしく北方へなびかせている。あの煙突の真下の赤い西洋甍《いらか》は、なんとかいう有名な将軍のものであって、あのへんから毎夜、謡曲のしらべが聞えるのだ。赤い甍から椎の並木がうねうねと南へ伸びている。並木のつきたところに白壁が鈍く光っている。質屋の土蔵である。三十歳を越したばかりの小柄で怜悧な女主人が経営しているのだ。このひとは僕と路で行き逢っても、僕の顔を見ぬふりをする。挨拶を受けた相手の名誉を顧慮しているのである。土蔵の裏手、翼の骨骼のようにばさと葉をひろげているきたならしい樹木が五、六ぽん見える。あれは棕《しゆ》梠《ろ》である。あの樹木に覆われているひくいトタン屋根は、左官屋のものだ。左官屋はいま牢のなかにいる。細君をぶち殺したのである。左官屋の毎朝の誇りを、細君が傷つけたからであった。左官屋には、毎朝、牛乳を半合ずつ飲むという賛沢な楽しみがあったのに、その朝、細君が過まって牛乳の瓶をわった。そうしてそれをさほどの過失ではないと思っていた。左官屋には、それがむらむらうらめしかったのである。細君はその場でいきをひきとり、左官屋は牢へ行き、左官屋の十歳ほどの息子が、このあいだ駅の売店のまえで新聞を買って読んでいた。僕はその姿を見た。けれども、僕の君に知らせようとしている生活は、こんな月並みのものでない。
こっちへ来給え。このひがしの方面の眺望は、また一段とよいのだ。人家もいっそうまばらである。あの小さな黒い林が、われわれの眼界をさえぎっている。あれは杉の林だ。あのなかには、お稲荷《いなり》をまつった社《やしろ》がある。林の裾のぽっと明るいところは、菜の花畠であって、それにつづいて手前のほうに百坪ほどの空地が見える。竜という緑の文字が書かれてある紙凧がひっそりあがっている。あの紙《かみ》凧《たこ》から垂れさがっている長い尾を見るとよい。尾の端からまっすぐに下へ線をひいてみると、ちょうど空地の東北の隅に落ちるだろう? 君はもはや、その箇所にある井戸を見つめている。いや、井戸の水を吸《すい》上《あげ》ポンプで汲みだしている若い女を見つめている。それでよいのだ。はじめから僕は、あの女を君に見せたかったのである。
まっ白いエプロンを掛けている。あれはマダムだ。水を汲みおわって、バケツを右の手に持って、そうしてよろよろと歩きだす。どの家へはいるだろう。空地の東側には、ふとい孟宗竹が二、三十本むらがって生えている。見ていたまえ。女は、あの孟宗竹のあいだをくぐって、それから、ふっと姿をかき消す。それ。僕の言ったとおりだろう? 見えなくなった。けれど気にすることはない。僕はあの女の行くさきを知っている。孟宗竹のうしろは、なんだかぼんやり赤いだろう。紅梅が二本あるのだ。蕾《つぼみ》がふくらみはじめたにちがいない。あのうすいあかい霞の下に、黒い日本甍の屋根が見える。あの屋根だ。あの屋根のしたに、いまの女と、それから彼女の亭主とが寝起している。なんの奇もない屋根のしたに、知らせて置きたい生活がある。ここへ坐ろう。
あの家は元来、僕のものだ。三畳と四畳半と六畳と、三間ある。間取りもよいし、日当りもわるくないのだ。十三坪のひろさの裏庭がついていて、あの二本の紅梅が植えられてあるほかに、かなりの大きさの百日紅《さるすべり》もあれば、霧《きり》島《しま》躑躅《つつじ》が五株ほどもある。昨年の夏には、玄関の傍に南天燭を植えてやった。それで家賃が十八円である。高すぎるとは思わぬ。二十四、五円くらい貰いたいのであるが、駅から少し遠いゆえ、そうもなるまい。高すぎるとは思わぬ。それでも一年、ためている。あの家の家賃は、もともと、そっくり僕のお小遣いになるはずなのであるが、おかげで、この一年間というもの、僕はさまざまのつきあいに肩身のせまい思いをした。
いまの男に貸したのは、昨年の三月である。裏庭の霧島躑躅がようやく若芽を出しかけていたころであった。そのまえには、むかし水泳の選手として有名であったある銀行員が、その若い細君とふたりきりで住まっていた。銀行員は気の弱々しげな男で、酒ものまず、煙草ものまず、どうやら女好きであった。それがもとで、よく夫婦喧嘩をするのである。けれども家賃だけはきちんきちんと納めたのだから、僕はそのひとについてあまり悪く言えない。銀行員は、あしかけ三年いて呉れた。名古屋の支店へ左遷されたのである。ことしの年賀状には、百合とかいう女の子の名前とそれから夫婦の名前と三つならべて書かれていた。銀行員のまえには、三十歳くらいのビイル会社の技師に貸していた。母親と妹の三人暮しで、一家そろって無愛想であった。技師は、服装に無頓着な男で、いつも青い菜葉服を着ていて、しかもよい市民であったようである。母親は白い頭髪を短く角刈にして、気品があった。妹は二十歳前後の小柄な痩せた女で、矢絣模様の銘仙を好んで着ていた。あんな家庭を、つつましやかと呼ぶのであろう。ほぼ半年くらい住まって、それから品川のほうへ越していったけれど、その後の消息を知らない。僕にとっては、その当時こそ何かと不満もあったのであるが、いまになって考えてみると、あの技師にしろ、また水泳選手にしろ、よい部類の店《たな子《こ》であったのである。俗にいう店子達がよかったわけだ。それが、いまの三代目の店子のために、すっかりマイナスにされてしまった。
いまごろはあの屋根のしたで、寝床にもぐりこみながらゆっくりホープをくゆらしているにちがいない。そうだ。ホープを吸うのだ。金のないわけはない。それでも家賃を払わないのである。はじめからいけなかった。黄昏《たそがれ》に、木下と名乗って僕の家へやって来たのであるが、玄関のたたきにつったったまま、書道を教えている、お宅の借家に住まわせていただきたい、というようなそれだけの意味のことを妙にひとなつこく搦《から》んで来るような口調で言った。痩せていて背のきわめてひくい、細面の青年であった。肩から袖口にかけての折目がきちんと立っているま新しい久《く》留《る》米《め》絣《がすり》の袷を着ていたのである。たしかに青年に見えた。あとで知ったが、四十二歳だという。僕よりも十も年うえである。そう言えば、あの男の口のまわりや眼のしたに、たるんだ皺がたくさんあって、青年ではなさそうにも見えるのであるが、それでも、四十二歳は嘘であろうと思う。いや、それくらいの嘘は、あの男にしては何も珍しくないのである。はじめ僕の家へ来たときから、もうすでに大嘘を吐《つ》いている。僕は彼の申し出にたいして、お気にいったならば、と答えた。僕は、店子の身元についてこれまで、あまり深い詮索をしなかった。失礼なことだと思っている。敷《しき》金《きん》のことについて彼はこんなことを言った。
「敷金は二つですか? そうですか。いいえ、失礼ですけれど、それでは五十円だけ納めさせていただきます。いいえ。私ども、持っていましたところで、使ってしまいます。あの、貯金のようなものですものな。ほほ。明朝すぐに引越しますよ。敷金はそのおり、ごあいさつかたがた持ってあがりましょうね。いけないでしょうかしら?」
こんな工合いである。いけないとは言えないだろう。それに僕は、ひとの言葉をそのままに信ずる主義である。だまされたなら、それはだましたほうが悪いのだ。僕は、かまいません、あすでもあさってでもと答えた。男は、甘えるように微笑みながらていねいにお辞儀をして、しずかに帰っていった。残された名刺には、住所はなくただ木下青扇とだけ平字で印刷され、その文字の右肩には、自由天才流書道教授とペンで小汚く書き添えられていた。僕は他意なく失笑した。翌る朝、青扇夫婦はたくさんの世帯道具をトラックで二度も運ばせて引越して来たのであるが、五十円の敷金はついにそのままになった。よこすものか。
引越してその日のひるすぎ、青扇は細君と一緒に僕の家へ挨拶しに来た。彼は黄色い毛糸のジャケツを着て、ものものしくゲエトルをつけ、女ものらしい塗下駄をはいていた。僕が玄関へ出て行くとすぐに、「ああやっとお引越しがおわりましたよ。こんな恰好でおかしいでしょう?」
それから僕の顔をのぞきこむようにしてにっと笑ったのである。僕はなんだかてれくさい気がして、たいへんですな、とよい加減な返事をしながら、それでも微笑をかえしてやった。
「うちの女です。よろしく」
青扇は、うしろにひっそりたたずんでいたやや大柄の女のひとを、おおげさに顎でしゃくって見せた。僕たちは、お辞儀をかわした。麻の葉模様の緑がかった青い銘仙の袷に、やはり銘仙らしい絞り染の朱色の羽織をかさねていた。僕は、マダムのしもぶくれのやわらかい顔をちらと見て、ぎくっとしたのである。顔を見知っているというわけでもないのに、それでも強く、とむねを突かれた。色が抜けるように白く、片方の眉がきりっとあがって、それからもう一方の眉は平静であった。眼はいくぶん細いようであって、うすい下唇をかるく噛んでいた。はじめ僕は、怒っているのだと思ったのである。けれどもそうでないことをすぐに知った。マダムはお辞儀をしてから、青扇にかくすようにして大型の熨斗《のし》袋《ぶくろ》をそっと玄関の式台にのせ、おしるしに、とひくいがきっぱりとした語調で言った。それから、もいちどゆっくりお辞儀をしたのである。お辞儀をするときにもやはり片方の眉をあげて、下唇を噛んでいた。僕は、これはこのひとのふだんからの癖なのであろうと思った。そのまま青扇夫婦は立ち去ったのであるが、僕はしばらくぽかんとしていた。それからむかむか不愉快になった。敷金のこともあるし、それよりもなによりも、なんだか、してやられたようないらだたしさに堪えられなくなったのである。僕は式台にしゃがんで、その恥かしく大きな熨斗《のし》袋をつまみあげ、なかを覗いてみたのである。お蕎麦屋の五円切手がはいっていた。ちょっとの間、僕には何も訳がわからなかった。五円の切手とは、莫《ば》迦《か》げたことである。ふと、僕はいまわしい疑念にとらわれた。ひょっとすると敷金のつもりなのではあるまいか。そう考えたのである。それならこれはいますぐにでもたたき返さなければいけない。僕は、我慢できない胸くその悪さを覚え、その熨斗袋を懐にし、青扇夫婦のあとを追っかけるようにして家を出たのだ。
青扇もマダムも、まだ彼らの新居に帰ってはいなかった。帰途、買い物にでもまわったのであろうと思って、僕はその不用心にもあけ放されてあった玄関からのこのこ家へはいりこんでしまった。ここで待ち伏せていてやろうと考えたのである。ふだんならば僕も、こんな乱暴な料簡は起さないのであるが、どうやら懐中の五円切手のおかげで少し調子を狂わされていたらしいのである。僕は玄関の三畳間をとおって、六畳の居間へはいった。この夫婦は引越しにずいぶん馴れているらしく、もうはや、あらかた道具もかたずいていて、床の間には、二、三輪のうすい赤い花をひらいているぼけの素焼の鉢が飾られていた。軸は、仮表装の北斗七星の四文字である。文句もそうであるが、書体はいっそう滑稽であった。糊刷毛かなにかでもって書いたものらしく、ぎょうさんに肉の太い文字で、そのうえ目茶苦茶ににじんでいた。落《らつ》款《かん》らしいものもなかったけれど、僕はひとめで青扇の書いたものだと断定を下した。つまりこれが、自由天才流なのであろう。僕は奥の四畳半にはいった。箪笥や鏡台がきちんと場所をきめて置かれていた。首の細い脚の巨大な裸婦のデッサンがいちまい、まるいガラス張りの額縁に収められ、鏡台のすぐ傍の壁にかけられていた。これはマダムの部屋なのであろう。まだ新しい桑の長火鉢と、それと揃いらしい桑の小綺麗な茶箪笥とが壁際にならべて置かれていた。長火鉢には鉄瓶がかけられ、火がおこっていた。僕は、まずその長火鉢の傍に腰をおちつけて、煙草を吸ったのである。引越したばかりの新居は、ひとを感傷的にするものらしい。僕も、あの額縁の画についての夫婦の相談や、この長火鉢の位置についての争論を思いやって、やはり生活のあらたまった折りの甲斐甲斐しいいきごみを感じたわけであった。煙草を一本吸っただけで、僕は腰を浮かせた。五月になったら畳をかえてやろう。そんなことを思いながら僕は玄関から外へ出て、あらためて玄関の傍の枝《し》折《おり》戸《ど》から庭のほうへまわり、六畳間の縁側に腰かけて青扇夫婦を待ったのである。
青扇夫婦は、庭の百日紅の幹が夕日に赤く染まりはじめたころ、ようやく帰って来た。案のじょう買い物らしく、青扇は箒をいっぽん肩に担《かつ》いで、マダムは、くさぐさの買いものをつめたバケツを重たそうに右手にさげていた。彼らは枝折戸をあけてはいって来たので、すぐに僕のすがたを認めたのであるが、たいして驚きもしなかった。
「これは、おおやさん。いらっしゃい」
青扇は箒をかついだまま微笑んでかるく頭をさげた。
「いらっしゃいませ」
マダムも例の眉をあげて、それでもまえよりはいくぶんくつろいだようにちかと白い歯を見せ、笑いながら挨拶した。
僕は内心こまったのである。敷金のことはきょうは言うまい。蕎麦の切手についてだけたしなめてやろうと思った。けれど、それも失敗したのである。僕はかえって青扇と握手を交し、そのうえ、だらしのないことであるが、お互いのために万歳をさえとなえたのだ。
青扇のすすめるがままに、僕は縁側から六畳の居間にあがった。僕は青扇と対坐して、どういう工合いに話を切りだしてよいか、それだけを考えていた。僕がマダムのいれてくれたお茶を一口すすったとき、青扇はそっと立ちあがって、そうして隣の部屋から将棋盤を持って来たのである。君も知っているように僕は将棋の上手である。一番くらいは指《さ》してもよいなと思った。客とろくに話もせぬうちに、だまって将棋盤を持ちだすのは、これは将棋のひとり天狗のよくやりたがる作法である。それではまず、ぎゅっと言わせてやろう。僕も微笑みながら、だまって駒をならべた。青扇の棋風は不思議であった。ひどく早いのである。こちらもそれに釣られて早く指すならば、いつの間にやら王将をとられている。そんな棋風であった。いわば奇襲である。僕は幾番となく負けて、そのうちにだんだん熱狂しはじめたようであった。部屋が少しうすぐらくなったので、縁側に出て指しつづけた。結局は、十対六くらいで僕の負けになったのであるが、僕も青扇もぐったりしてしまった。
青扇は、勝負中は全く無口であった。しっかとあぐらの腰をおちつけて、つまり斜めにかまえていた。
「おなじくらいですな」彼は駒を箱にしまいこみながら、まじめに呟いた。「横になりませんか。あああ。疲れましたね」
僕は失礼して脚をのばした。頭のうしろがきちきち痛んだ。青扇も将棋盤をわきへのけて、縁側へながながと寝そべった。そうして夕闇に包まれはじめた庭を頬杖ついて眺めながら、
「おや。かげろう!」ひくく叫んだ。「不思議ですねえ。ごらんなさいよ。いまじぶん、かげろうが」
僕も、縁側に這いつくばって、庭のしめった黒土のうえをすかして見た。ぱっと気づいた。まだ要件をひとことも言わぬうちに、将棋を指したり、かげろうを捜したりしているおのれの呆け加減に気づいたのである。僕はあわてて坐り直した。
「木下さん。困りますよ」そう言って、例の熨斗袋を懐から出したのである。「これは、いただけません」
青扇はなぜかぎょっとしたらしく顔つきを変えて立ちあがった。僕も身構えた。
「なにもございませんけれど」
マダムが縁側へ出て来て僕の顔を覗いた。部屋には電燈がぼんやりともっていたのである。
「そうか。そうか」青扇は、せかせかした調子でなんども首肯《うなず》きながら、眉をひそめ、何か遠いものを見ているようであった。「それでは、さきにごはんをたべましょう。お話は、それからゆっくりいたしましょうよ」
僕はこのうえめしのごちそうになど、なりたくなかったのであるが、とにかくこの熨斗袋の始末だけはつけたいと思い、マダムについて部屋へはいった。それがよくなかったのである。酒を呑んだのだ。マダムに一杯すすめられたときには、これは困ったことになったと思った。けれども二杯三杯とのむにつれて、僕はしだいしだいに落ちついて来たのである。
はじめ青扇の自由天才流をからかうつもりで、床の軸物をふりかえって見て、これが自由天才流ですかな、と尋ねたものだ。すると青扇は、酔いですこし赤らんだ眼のほとりをいっそうぽっと赤くして、苦しそうに笑いだした。
「自由天才流? ああ、あれは嘘ですよ。なにか職業がなければ、このごろの大家さんたちは貸してくれないということを聞きましたので、ま、あんなでたらめをやったのです。怒っちゃいけませんよ」そう言ってから、またひとしきりむせかえるようにして笑った。「これは、古道具屋で見つけたのです。こんなふざけた書家もあるものかとおどろいて、三十銭かいくらで買いました。文句も北斗七星とばかりなんの意味もないものですから気にいりました。私はげてものが好きなのですよ」
僕は青扇をよっぽど傲慢な男にちがいないと思った。傲慢な男ほど、おのれの趣味をひねりたがるようである。
「失礼ですけれど、無職でおいでですか?」
また五円の切手が気になりだしたのである。きっとよくない仕掛けがあるにちがいないと考えた。
「そうなんです」杯をふくみながら、まだにやにや笑っていた。「けれども御心配は要りませんよ」
「いいえ」なるたけよそよそしくしてやるように努めたのである。「僕は、はっきり言いますけれど、この五円の切手がだいいちに気がかりなのです」
マダムが僕にお酌しながら口を出した。
「ほんとうに」ふくらんでいる小さい手で襟元を直してから微笑んだ。「木下がいけないのですの。こんどの大家さんは、わかくて善良らしいとか、そんな失礼なことを言いまして、あの、むりにあんなおかしげな切手を作らせましたのでございますの。ほんとうに」
「そうですか」僕は思わず笑いかけた。「そうですか。僕もおどろいたのです。敷金の」滑らせかけて口を噤《つぐ》んだ。
「そうですか」青扇が僕の口真似をした。「わかりました。あした持ってあがりましょうね。銀行がやすみなのです」
そう言われてみるときょうは日曜であった。僕たちはわけもなく声を合わせて笑いこけた。
僕は学生時代から天才という言葉が好きであった。ロンブロオゾオ《*》やショオペンハウエルの天才論を読んで、ひそかにその天才に該当するような人間を捜しあるいたものであったが、なかなか見つからないのである。高等学校にはいっていたとき、そこの歴史の坊主頭をしたわかい教授が、全校の生徒の姓名とそのおのおのの出身中学校とをことごとくそらんじているという評判を聞いて、これは天才でなかろうかと注目していたが、それにしては講義がだらしなかった。あとで知ったことだけれど、生徒の姓名とそのおのおのの出身中学校とを覚えているというのは、この教授の唯一の誇りであって、それらを記憶して置くために骨と肉と内臓とを不具にするほどの難儀をしていたのだそうである。いま僕は、こうして青扇に対坐して話し合ってみるに、その骨骼といい、頭恰好といい、瞳のいろといい、それから音声の調子といい、まったくロンブロオゾオやショオペンハウエルの規定している天才の特徴と酷似しているのである。たしかに、そのときはそう思われた。蒼《そう》白《はく》痩《そう》削《さく》。短躯猪首。台詞《せりふ》がかった鼻音声。
酒が相当にまわって来たころ、僕は青扇にたずねたのである。
「あなたは、さっき職業がないようなことをおっしゃったけれど、それでは何か研究でもしておられるのですか?」
「研究?」青扇はいたずら児のように、首をすくめて大きい眼をくるっとまわしてみせた。
「なにを研究するの? 私は研究がきらいです。よい加減なひとり合点の註釈をつけることでしょう? いやですよ。私は創るのだ」
「なにをつくるのです。発明かしら?」
青扇はくつくつと笑いだした。黄色いジャケツを脱いでワイシャツ一枚になり、
「これは面白くなったですねえ。そうですよ。発明ですよ。無線電燈の発明だよ。世界じゅうに一本も電柱がなくなるというのはどんなにさばさばしたことでしょうね。だいいち、あなた、ちゃんばら活動のロケエションが大助かりです。私は役者ですよ」
マダムは眼をふたつながら煙ったそうに細めて、青扇のでらでら油光りしだした顔をぼんやり見あげた。
「だめでございますよ。酔っぱらったのですの。いつもこんなでたらめばかり申して、こまってしまいます。お気になさらぬように」
「なにがでたらめだ。うるさい。おおやさん、私はほんとうに発明家ですよ。どうすれば人間、有名になれるか、これを発明したのです。それ、ごらん。膝を乗りだして来たじゃないか。これだ。いまのわかいひとたちは、みんなみんな有名病という奴にかかっているのです。少しやけくそな、しかも卑屈な有名病にね。君、いや、あなた、飛行家におなり。世界一周の早まわりのレコオド。どうかしら? 死ぬる覚悟で眼をつぶって、どこまでも西へ西へと飛ぶのだ。眼をあけたときには、群集の山さ。地球の寵児さ。たった三日の辛抱だ。どうかしら? やる気はないかな。意気地のない野郎だねえ。ほっほっほ。いや、失礼。それでなければ犯罪だ。なあに、うまくいきますよ。自分さえがっちりしてれあ、なんでもないんだ。人を殺すもよし、ものを盗むもよし、ただ少しおおがかりな犯罪ほどよいのですよ。大丈夫。見つかるものか。時効のかかったころ、堂々と名乗り出るのさ。あなた、もてますよ。けれどもこれは、飛行機の三日間にくらべると、十年間くらいの我慢だから、あなたがた近代人にはちょっとふむきですね。よし。それでは、ちょうどあなたにむくくらいのつつましい方法を教えましょう。君みたいな助平ったれの、小心ものの、薄志弱行の徒輩には、醜聞という恰好の方法があるよ。まずまあ、この町内では有名になれる。人の細君と駈落ちしたまえ。え?」
僕はどうでもよかった。酒に酔ったときの青扇の顔は僕には美しく思われた。この顔はありふれていない。僕はふとプーシュキンを思い出したのである。どこかで見たことのある顔と思っていたのであるが、これはたしかに、えはがきやの店頭で見たプーシュキンの顔なのであった。みずみずしい眉のうえに、老いつかれた深い皺が幾きれも刻まれてあったあのプーシュキンの死面なのである。
僕もしたたか酔ったようであった。とうとう、僕は懐中の切手を出し、それでもってお蕎麦屋から酒をとどけさせたのである。そうして僕たちはさらにさらにのんだのである。ひとと初めて知り合ったときのあの浮気に似たときめきが、ふたりを気張らせ、無智な雄弁によってもっともっとおのれを相手に知らせたいというようなじれったさを僕たちはお互いに感じ合っていたようである。僕たちは、たくさんの贋の感激をして、幾度となく杯をやりとりした。気がついたときにはもうマダムはいなかった。寝てしまったのであろう。帰らなければなるまい、と僕は考えた。帰りしなに握手をした。
「君を好きだ」僕はそう言った。
「私も君を好きなのだよ」青扇もそう答えたようである。
「よし。万歳!」
「万歳」
たしかにそんな工合いであったようである。僕には、酔いどれると万歳と叫びたてる悪癖があるのだ。
酒がよくなかった。いや、やっぱり僕がお調子ものだったからであろう。そのままずるずると僕たちのおかしなつきあいがはじまったのである。泥酔した翌る日いちにち、僕は狐か狸にでも化かされたようなぼんやりした気持ちであった。青扇は、どうしても普通でない。僕もこのとしになるまで、まだ独身で毎日毎日をぶらりぶらり遊んですごしているゆえ、親類縁者たちから変人あつかいを受けていやしめられているのであるが、けれども僕の頭脳はあくまでも常識的である。妥協的である。通常の道徳を奉じて生きて来た。いわば、健康でさえある。それにくらべて青扇は、どうやら、けたがはずれているようではないか。断じてよい市民ではないようである。僕は青扇の家主として、彼の正体のはっきり判るまではすこし遠ざかっていたほうがいろいろと都合がよいのではあるまいか、そうも考えられて、それから四、五日のあいだは知らぬふりをしていた。
ところが、引越して一週間くらいたったころに、青扇とまた逢ってしまった。それが銭湯屋の湯槽のなかである。僕が風呂の流し場に足を踏みいれたとたんに、やあ、と大声をあげたものがいた。ひるすぎの風呂には他のひとの影がなかった。青扇がひとり湯槽につかっていたのである。僕はあわててしまい、あがり湯のカランのまえにしゃがんで石鹸をてのひらに塗り無数の泡を作った。よほどあわてていたものとみえる。はっと気づいたけれど、僕はそれでもわざとゆっくりカランから湯を出して、てのひらの泡を洗いおとし、湯槽へはいった。
「先晩はどうも」僕はさすがに恥かしい思いであった。
「いいえ」青扇はすましこんでいた。「あなた、これは木曾川の上流ですよ」
僕は、青扇の瞳の方向によって、彼が湯槽のうえのペンキ画について言っているのだということを知った。
「ペンキ画のほうがよいのですよ。ほんとうの木曾川よりはね。いいえ。ペンキ画だからよいのでしょう」そう言いながら僕をふりかえってみて微笑んだ。
「ええ」僕も微笑んだ。彼の言葉の意味がわからなかったのである。
「これでも苦労したものですよ。良心のある画ですね。これを画いたペンキ屋の奴、この風呂へは、決して来ませんよ」
「来るのじゃないでしょうか。自分の画を眺めながら、しずかにお湯にひたっているというのもわるくないでしょう」
僕のそういったような言葉はどうやら青扇の侮蔑を買ったらしく彼は、さあ、と言ったきりで、自分の両手の手の甲をそろっと並べ、十枚の爪を眺めていた。
青扇は、さきに風呂から出た。僕は湯槽のお湯にひたりながら、脱衣場にいる青扇をそれとなく見ていた。きょうは鼠いろの紬《つむぎ》の袷を着ている。彼があまりにも永く自分のすがたを鏡にうつしてみているのには、おどろかされた。やがて、僕も風呂から出たのであるが、青扇は、脱衣場の隅の椅子にひっそり坐って煙草をくゆらしながら僕を待っていてくれた。僕はなんだか息苦しい気持ちがした。ふたり一緒に銭湯屋を出て、みちみち彼はこんなことを呟いた。
「はだかのすがたを見ないうちは気を許せないのです。いいえ。男と男のあいだのことですよ」
その日、僕は誘われるがままに、また青扇のもとを訪れた。途中、青扇とわかれ、いったん僕の家へ寄り頭髪の手入れなどを少しして、それから約束したとおり、すぐに青扇のうちへ出かけたのである。けれども青扇はいなかったのだ。マダムがひとりいた。入日のあたる縁側で夕刊を読んでいたのである。僕は玄関のわきの枝折戸をあけて、小庭をつき切り、縁先に立った。いないのですか、と聞いてみると、
「ええ」新聞から眼を離さずにそう答えた。下唇をつよく噛んで、不機嫌であった。
「まだ風呂から帰らないのですか?」
「そう」
「はて。僕と風呂で一緒になりましてね。遊びに来いとおっしゃったものですから」
「あてになりませんのでございますよ」恥かしそうに笑って、夕刊のペエジを繰った。
「それでは、しつれいいたします」
「あら。すこしお待ちになったら? お茶でもめしあがれ」マダムは夕刊を畳んで僕のほうへのべてよこした。
僕は縁側に腰をおろした。庭の紅梅の粒々の蕾は、ふくらんでいた。
「木下を信用しないほうがよござんすよ」
だしぬけに耳のそばでそう囁かれて、ぎょっとした。マダムは僕にお茶をすすめた。
「なぜですか?」僕はまじめであった。
「だめなんですの」片方の眉をきゅっとあげて小さい溜息を吐いたのである。
僕は危く失笑しかけた。青扇が日ごろ、へんな自《じ》矜《きよう》の怠惰にふけっているのを真似て、この女も、なにかしら特異な才能のある夫にかしずくことの苦労をそれとなく誇っているのにちがいないと思ったのである。爽快な嘘を吐くものかなと僕は内心おかしかった。けれどこれしきの嘘には僕も負けてはいないのである。
「でたらめは、天才の特質のひとつだと言われていますけれど。その瞬間瞬間の真実だけを言うのです。豹《ひよう》変《へん》という言葉がありますね。わるくいえばオポチュニスト《*》です」
「天才だなんて。まさか」マダムは、僕のお茶の飲みさしを庭に捨てて、代りをいれた。
僕は湯あがりのせいで、のどが渇いていた。熱い番茶をすすりながら、どうして天才でないことを言い切れるか、と追及してみた。はじめから、少しでも青扇の正体らしいものをさぐり出そうとかかっていたわけである。
「威張るのですの」そういう返事であった。
「そうですか」僕は笑ってしまった。
この女も青扇とおなじように、うんと利巧かうんと莫迦かどちらかであろう。とにかく話にならないと思ったのだ。けれど僕は、マダムが青扇をかなり愛しているらしいということだけは知り得たつもりであった。黄昏の靄《もや》にぼかされて行く庭を眺めながら、僕はわずかの妥協をマダムに暗示してやった。
「木下さんはあれでやはり何か考えているのでしょう。それなら、ほんとの休息なんてないわけですね。なまけてはいないのです。風呂にはいっているときでも、爪を切っているときでも」
「まあ。だからいたわってやれとおっしゃるの?」
僕には、それが相当むきな調子に聞えたので、いくぶんせせら笑いの意味をこめて、なにか喧嘩でもしたのですか、と反問してやった。
「いいえ」マダムは可笑《おか》しそうにしていた。
喧嘩をしたのにちがいないのだ。しかも、いまは青扇を待ちこがれているにきまっている。
「しつれいしましょう。ああ。またまいります」
夕闇がせまっていて百日紅の幹だけが、軟らかに浮きあがって見えた。僕は庭の枝折戸に手をかけ、振りむいてマダムにもいちど挨拶した。マダムは、ぽつんと白く縁側に立っていたが、ていねいにお辞儀を返した。僕は心のうちで、この夫婦は愛し合っているのだ、とわびしげに呟いたことである。
愛し合っているということは知り得たものの、青扇の何者であるかは、どうも僕にはよくつかめなかったのである。いま流行のニヒリストだとでもいうのか、それともれいの赤か、いや、なんでもない金持ちの気取りやなのであろうか、いずれにもせよ、僕はこんな男にうっかり家を貸したことを後悔しはじめたのだ。
そのうちに、僕の不吉の予感が、そろそろとあたって来たのであった。三月が過ぎても、四月が過ぎても、青扇からなんの音沙汰もないのである。家の貸借に関するさまざまの証書も何ひとつ取りかわさず、敷金のことももちろんそのままになっていた。しかし僕は、ほかの家主みたいに、証書のことなどにうるさくかかわり合うのがいやなたちだし、また敷金だとてそれをほかへまわして金利なんかを得ることはきらいで、青扇も言ったように貯金のようなものであるから、それは、まあ、どうでもよかった。けれども家賃をいれてくれないのには、弱ったのである。僕はそれでも五月までは知らぬふりをしてすごしてやった。それは僕の無頓着と寛大から来ているという工合いに説明したいところであるが、ほんとうを言えば、僕には青扇がこわかったのである。青扇のことを思えば、なんとも知れぬけむったさを感じるのである。逢いたくなかった。どうせ逢って話をつけなければならないとは判っていたが、それでも一寸のがれに、明日明日とのばしているのであった。つまりは僕の薄志弱行のゆえであろう。
五月のおわり、僕はとうとう思い切って青扇のうちへ訪ねて行くことにした。朝はやくでかけたのである。僕はいつでもそうであるが、思い立つと、一刻も早くその用事をすましてしまわなければ気がすまぬのである。行ってみると、玄関がまだしまっていた。寝ているらしいのだ。わかい夫婦の寝ごみを襲撃するなど、いやであったから、僕はそのまま引返して来たのである。いらいらしながら家の庭木の手入れなどをして、やっと昼頃になってから僕はまたでかけたのだ。まだしまっていたのである。こんどは僕も庭のほうへまわってみた。庭の五株の霧島躑躅の花はそれぞれ蜂の巣のように咲きこごっていた。紅梅は花が散ってしまって青青した葉をひろげ、百日紅は枝々の股からささくれのようなひょろひょろした若葉を生やしていた。雨戸もしまっていた。僕は軽く二つ三つ戸をたたき、木下さん、木下さん、とひくく呼んだ。しんとしているのである。僕は雨戸のすきまからこっそりなかを覗いてみた。いくつになっても人間には、すき見の興味があるものなのであろう。まっくらでなんにも見えなかった。けれど、誰やら六畳の居間に寝ているような気はいだけは察することができた。僕は雨戸からからだを離し、もいちど呼ぼうかどうかを考えたのであるが、結局そのまま、また僕の家へひきかえしてきたのである。覗いたという後悔からの気おくれが、僕をそんなにしおしお引返させたらしいのだ。家へ帰ってみると、ちょうど来客があって、そのひとと二つ三つの用談をきめているうちに、日も暮れた。客を送りだしてから、僕はまた三度目の訪問を企てたのである。まさかまだ寝ているわけはあるまいと考えた。
青扇のうちにはあかりがついていて、玄関もあいていた。声をかけると、誰? という青扇のかすれた返事があった。
「僕です」
「ああ、おおやさん。おあがり」六畳の居間にいるらしかった。
うちの空気が、なんだか陰気くさいのである。玄関に立ったままで六畳間のほうを頸かしげて覗くと、青扇は、どてら姿で寝床をそそくさと取りかたづけていた。ほのぐらい電燈の下の青扇の顔は、おやと思ったほど老けて見えた。
「もうおやすみですか」
「え。いいえ。かまいません。一日いっぱい寝ているのです。ほんとうに。こうして寝ているといちばん金がかからないものですから」そんなことを言い言い、どうやら部屋をかたづけてしまったらしく、走るようにして玄関へ出て来た。「どうも、しばらくです」
僕の顔をろくろく見もせず、すぐうつむいてしまった。
「家賃は当分だめですよ」だしぬけに言ったのである。
僕はさすがにむっとした。わざと返事をしなかった。
「マダムが逃げました」玄関の障子によりそってしずかにしゃがみこんだ。電燈のあかりを背面から受けているので青扇の顔はただまっくろに見えるのである。
「どうしてです」僕はどきっとしたのだ。
「きらわれましたよ。ほかに男ができたのでしょう。そんな女なのです」いつもに似ず言葉の調子がはきはきしていた。
「いつごろです」僕は玄関の式台に腰をおろした。
「さあ、先月の中旬ごろだったでしょうか。あがらない?」
「いいえ。きょうは他に用事もあるし」僕には少し薄気味がわるかったのである。
「恥かしいことでしょうけれど、私は、女の親元からの仕送りで生活していたのです。それがこんなになって」
せかせかと言いつづける青扇の態度に、一刻もはやく客を追いかえそうとしている気がまえを見てとった。僕はわざわざ袂から煙草をとりだし、マッチがありませんか? と言ってやったのである。青扇はだまって勝手元のほうへ立って行って、大箱の徳用マッチを持って来た。
「なぜ働かないのかしら?」僕は煙草をくゆらしながら、いまからゆっくり話し込んでやろうとひそかに決意していた。
「働けないからです。才能がないのでしょう」相変らずてきぱきした語調であった。
「冗談じゃない」
「いいえ。働けたらねえ」
僕は青扇が思いのほかに素直な気質を持っていることを知ったのである。胸もつまったけれど、このまま彼に同情していては、家賃のことがどうにもならぬのだ。僕はおのれの気持ちをはげました。
「それでは困るじゃないですか。僕のほうも困るし、あなただっていつまでもこうしている訳にいきますまい」吸いかけの煙草を土間へ投げつけた。赤い火花がセメントのたたきにぱっと散りひろがって、消えた。
「ええ。それは、なんとかします。あてがあります。あなたには感謝しています。もうすこし待っていただけないでしょうか。もうすこし」
僕は二本目の煙草をくわえ、またマッチをすった。さっきから気にかかっていた青扇の顔をそのマッチのあかりでちらと覗いてみることができた。僕は思わずぽろっと、燃えるマッチをとり落としたのである。悪鬼の面を見たからであった。
「それでは、いずれまた参ります。ないものは頂戴いたしません」僕はいますぐここからのがれたかった。
「そうですか。どうもわざわざ」青扇は神妙にそう言って、立ちあがった。それからひとりごとのように呟くのである。「四十二の一白水星。気の多いとしまわりで弱ります」
僕はころげるようにして青扇の家から出て、夢中で家路をいそいだものだ。けれど少しずつ落ちつくにつれて、なんだか莫迦をみたというような気がだんだんと起って来たのである。また一杯くわされた。青扇の思い詰めたようなはっきりした口調も、四十二歳をそれとなく呟いたことも、みんな堪らないほどわざとらしくきざっぽく思われだした。僕はどうも少し甘いようだ。こんなゆるんだ性質では家主はとてもつとまるものではないな、と考えた。
僕はそれから二、三日、青扇のことばかりを考えてくらした。僕も父親の遺産のおかげで、こうしてただのらくらと一日一日を送っていて、べつにつとめをするという気も起らず、青扇の働けたらねえという述懐も、僕には判らぬこともないのであるが、けれど青扇がほんとうにいま一文も収入のあてがなくて暮しているのだとすれば、それだけでもすでにありふれた精神でない。いや、精神などというと立派に聞えるが、とにかくそうとう図太い根性である。もうこうなったうえは、どうにかしてあいつの正体らしいものをつきとめてやらなければ安心ができないと考えたのだ。
五月がすぎて、六月になっても、やはり青扇からはなんの挨拶もないのであった。僕はまた彼の家に出むいて行かなければならなかったのである。
その日、青扇はスポオツマンらしく、襟附きのワイシャツに白いズボンをはいて、何かてれくさそうに恥じらいながら出て来た。家ぜんたいが明るい感じであった。六畳間にとおされて、見ると、部屋の床の間寄りの隅にいつ買いいれたのか鼠いろのビロードが張られた古ものらしいソファがあり、しかも畳のうえには淡緑色の絨《じゆう》氈《たん》が敷かれていた。部屋のおもむきが一変していたのである。青扇は僕をソファに坐らせた。
庭の百日紅は、そろそろ猩々《しようじよう》緋《ひ》の花をひらきかけていた。
「いつも、ほんとうに相すみません。こんどは大丈夫ですよ。しごとが見つかりました。おい、ていちゃん」青扇は僕とならんでソファに腰をおろしてから、隣の部屋へ声をかけたのである。
水兵服を着た小柄な女が、四畳半のほうから、ぴょこんと出て来た。丸顔の健康そうな頬をした少女であった。眼もおそれを知らぬようにきょとんと澄んでいた。
「おおやさんだよ。ご挨拶をおし。うちの女です」
僕はおやおやと思った。先刻の青扇の恥じらいをふくんだ微笑みの意味がとけたのであった。
「どんなお仕事でしょう」
その少女がまた隣の部屋にひっこんでから、僕は、ことさらに生野暮をよそって仕事のことをたずねてやった。きょうばかりは化かされまいぞと用心をしていたのである。
「小説です」
「え?」
「いいえ。むかしから私は、文学を勉強していたのですよ。ようやくこのごろ芽が出たのです。実話を書きます」澄ましこんでいた。
「実話と言いますと?」僕はしつこく尋ねた。
「つまり、ないことを事実あったとして報告するのです。なんでもないのさ。何県何村何番地とか、大正何年何月何日とか、そのころの新聞で知っているであろうがとかいう文句を忘れずにいれて置いてあとは、必ずないことを書きます。つまり小説ですねえ」
青扇は彼の新妻のことでさすがにいくぶん気おくれしているのか、僕の視線を避けるようにして、長い頭髪のふけを掻き落としたり膝をなんども組み直したりなどしながら、少し雄弁をふるったのである。
「ほんとうによいのですか。困りますよ」
「大丈夫。大丈夫。ええ」僕の言葉をさえぎるようにして大丈夫を繰りかえし、そうしてほがらかに笑っていた。僕は、信じた。
そのとき、さっきの少女が紅茶の銀盆をささげてはいって来たのだ。
「あなた、ごらんなさい」青扇は紅茶の茶碗を受けとって僕に手渡し自分の茶碗を受けとりしなに、そう言ってうしろを振りむいた。床の間には、もう北斗七星の掛軸がなくなっていて、高さが一尺くらいの石膏の胸像がひとつ置かれてあった。胸像のかたわらには、鶏頭の花が咲いていた。少女は耳の附け根まであかくなった顔を錆びた銀盆で半分かくし、瞳の茶色なおおきい眼をさらにおおきくして彼を睨《にら》んだ。青扇はその視線を片手で払いのけるようにしながら、
「その胸像の額をごらんください。よごれているでしょう? 仕様がないんです」
少女は眼にもとまらぬくらいの素早さで部屋から飛び出た。
「どうしたのです」僕には訳がわからなかった。
「なに。てい子のむかしのあれの胸像なんだそうです。たったひとつの嫁入り道具ですよ。キスするのです」こともなげに笑っていた。
僕はいやな気がした。
「おいやのようですね。けれども世の中はこんな工合いになっているのです。仕様がありませんよ。見ていると感心に花を毎日とりかえます。きのうはダリヤでした。おとといは螢草でした。いや、アマリリスだったかな。コスモスだったかしら」
この手だ。こんな調子にまたうかうか乗せられたなら、前のように肩すかしを食わされるのである。そう気づいたゆえ、僕は意地悪くかかって、それにとりあってやらなかったのだ。
「いや。お仕事のほうは、もうはじめているのですか?」
「ああ、それは」紅茶を一口すすった。「そろそろはじめていますけれど、大丈夫ですよ。私はほんとうは、文学書生なんですからね」
僕は紅茶の茶碗の置きどころを捜しながら、
「でもあなたの、ほんとうは、は、あてになりませんからね。ほんとうは、というそんな言葉でまたひとつ嘘の上塗りをしているようで」
「や、これは痛い。そうぽんぽん事実を突きたがるものじゃないな。私はね、むかし森鴎外、ご存じでしょう? あの先生についたものですよ。あの青年という小説の主人公は私なのです」
これは僕にも意外であった。僕もその小説はよほどまえにいちど読んだことがあって、あのかそけきロマンチシズムは、永く僕の心をとらえて離さなかったものであるが、けれどもあのなかのあまりにもよろずに綺麗すぎる主人公にモデルがあったとは知らなかったのである。老人の頭ででっちあげられた青年であるから、こんなに綺麗すぎたのであろう。ほんとうの青年は猜《さい》忌《き》や打算もつよく、もっと息苦しいものなのに、と僕にとって不満でもあったあの睡蓮のような青年は、それではこの青扇だったのか。そう興奮しかけたけれど、すぐいやいやと用心したのである。
「はじめて聞きました。でもあれは、失礼ですが、もっとおっとりしたお坊ちゃんのようでしたけれど」
「これは、ひどいなあ」青扇は僕が持ちあぐんでいた紅茶をそっと取りあげ、自分のと一緒にソファの下へかたづけた。「あの時代には、あれでよかったのです。でも今ではあの青年も、こんなになってしまうのです。私だけではないと思うのですが」
僕は青扇の顔を見直した。
「それはつまり抽象して言っているのでしょうか」
「いいえ」青扇はいぶかしそうに僕の瞳を覗いた。「私のことを言っているのですけれど?」
僕はまたまた憐《れん》愍《びん》に似た情を感じたのである。
「まあ、きょうはこれで帰りましょう。きっとお仕事をはじめて下さい」そう言い置いて、青扇の家を出たのであるが、帰途、青扇の成功をいのらずにおれなかった。それは、青年についての青扇の言葉がなんだか僕のからだにしみついて来て、自分ながらおかしいほどしおれてしまったせいでもあるし、また、青扇のあらたな結婚によって何やら彼の幸福を祈ってやりたいような気持ちになっていたせいでもあろう。みちみち僕は思案した。あの家賃を取りたてないからといって、べつに僕にとって生活に窮するというわけではない。たかだか小遣銭の不自由くらいのものである。これはひとつ、あのめぐまれない老いた青年のために僕のその不自由をしのんでやろう。
僕はどうも芸術家というものに心をひかれる欠点を持っているようだ。ことにもその男が、世の中から正当に言われていない場合には、いっそう胸がときめくのである。青扇がほんとうにいま芽が出かかっているものとすれば、家賃などのことで彼の心持ちをにごらすのは、いけないことだ。これは、いますこしそっとして置いたほうがよい。彼の出世をたのしもう。僕は、そのときふと口をついて出た He is not what he Was. という言葉をたいへんよろこばしく感じたのである。僕が中学校にはいっていたとき、この文句を英文法の教科書のなかに見つけて心をさわがせ、そしてこの文句はまた僕が中学五年間を通じて受けた教育のうちでいまだに忘れられぬ唯一の智識なのであるが、訪れるたびごとに何か驚異と感慨をあらたにしてくれる青扇と、この文法の作例として記されていた一句とを思い合せ、僕は青扇に対してある異常な期待を持ちはじめたのである。
けれども僕は、この僕の決意を青扇に告げてやるようなことは躊《ちゆう》躇《ちよ》していた。それはいずれ家主根性ともいうべきものであろう。ひょっとすると、あすにでも青扇がいままでの家賃をそっくりまとめて、持って来てくれるかも知れない。そのようなひそかな期待もあって、僕は青扇に進んでこちらから家賃をいらぬなどとは言わないのであった。それがまた青扇をはげますもとになってくれたなら、つまり両方のためによいことだとも思ったのである。
七月のおわり、僕は青扇のもとをまた訪れたのであるが、こんどはどんなによくなっているか、何かまた進歩や変化があるだろう。それを楽しみにしながら出かけたのであった。行ってみて呆然としてしまった。変っているどころではなかったのである。
僕はその日、すぐに庭から六畳の縁側のほうへまわってみたのであるが、青扇は猿股ひとつで縁側にあぐらをかいていて、大きい茶碗を股のなかにいれ、それを里芋に似た短い棒でもって懸命にかきまわしていたのだ。なにをしているのですと声をかけた。
「やあ。薄茶でございますよ。茶をたてているのです。こんなに暑いときには、これに限るのですよ。一杯いかが?」
僕は青扇の言葉づかいがどこやら変っているのに気がついた。けれども、それをいぶかしがっている場合ではなかった。僕はその茶をのまなければならなかったのである。青扇は茶碗をむりやりに僕に持たせて、それから傍に脱ぎ捨ててあった弁慶格子の小粋なゆかたを坐ったままで素早く着込んだ。僕は縁側に腰をおろし、しかたなく茶をすすった。のんでみると、ほどよい苦味があって、なるほどおいしかったのである。
「どうしてまた。風流ですね」
「いいえ。おいしいからのむのです。わたくし、実話を書くのがいやになりましてねえ」
「へえ」
「書いていますよ」青扇は兵児帯をむすびながら床の間のほうへいざり寄った。
床の間にはこのあいだの石膏の像はなくて、その代りに、牡丹の花模様の袋にはいった三味線らしいものが立てかけられていた。青扇は床の間の隅にある竹の手文庫をかきまわしていたが、やがて小さく折り畳まれてある紙片をつまんで持って来た。
「こんなのを書きたいと思いまして、文献を集めているのですよ」
僕は薄茶の茶碗をしたに置いて、その二、三枚の紙片を受けとった。婦人雑誌あたりの切り抜きらしく、四季の渡り鳥という題が印刷されていた。
「ねえ。この写真がいいでしょう? これは、渡り鳥が海のうえで深い霧などに襲われたとき方向を見失い光りを慕ってただまっしぐらに飛んだ罰で燈台へぶつかりばたばたと死んだところなのですよ。何千万という死骸です。渡り鳥というのは悲しい鳥ですな。旅が生活なのですからねえ。ひとところにじっとしておれない宿命を負うているのです。わたくし、これを一元描写でやろうと思うのさ。私という若い渡り鳥が、ただ南から北、北から南とうろうろしているうちに老いてしまうという主題なのです。仲間がだんだん死んでいきましてね。鉄砲で打たれたり、波に呑まれたり、飢えたり、病んだり、巣のあたたまるひまもない悲しさ。あなた、沖の鴎に潮どき聞けば、という唄がありますねえ。わたくし、いつかあなたに有名病についてお話しいたしましたけど、なに、人を殺したり飛行機に乗ったりするよりは、もっと楽な法がありますわ。しかも死後の名声という附録つきです。傑作をひとつ書くことなのさ。これですよ」
僕は彼の雄弁のかげに、なにかまたてれかくしの意図を嗅いだ。果たして、勝手口から、あの少女でもない、色のあさぐろい、日本髪を結った痩せがたの見知らぬ女のひとがこちらをこっそり覗いているのを、ちらと見てしまった。
「それでは、まあ、その傑作をお書きなさい」
「お帰りですか? 薄茶を、もひとつ」
「いや」
僕は帰途また思いなやまなければいけなかった。これはいよいよ、災難である。こんなでたらめが世の中にあるだろうか。いまは非難を通り越して、あきれたのである。ふと僕は彼の渡り鳥の話を思い出したのだ。突然、僕と彼との相似を感じた。どこというのではない。なにかしら同じ体臭が感ぜられた。君も僕も渡り鳥だ、そう言っているようにも思われ、それが僕を不安にしてしまった。彼が僕に影響を与えているのか、僕が彼に影響を与えているのか、どちらかがヴァンピイル《*》 だ。どちらかが、知らぬうちに相手の気持にそろそろ食いいっているのではあるまいか。僕が彼の豹変ぶりを期待して訪れる気持ちを彼が察して、その僕の期待が彼をしばりつけ、ことさらに彼は変化をして行かなければいけないように努めているのではあるまいか。あれこれと考えれば考えるほど青扇と僕との体臭がからまり、反射し合っているようで、加速度的に僕は彼にこだわりはじめたのであった。青扇はいまに傑作を書くだろうか。僕は彼の渡り鳥の小説にたいへんな興味を持ちはじめたのである。南天燭を植木屋に言いつけて彼の玄関の傍に植えさせてやったのは、そのころのことであった。
八月には、僕は房総のほうの海岸でおよそ二月をすごした。九月のおわりまでいたのである。帰ってすぐその日のひるすぎ、僕は土産の鰈《かれい》の干物を少しばかり持って青扇を訪れた。このように僕は、ただならぬ親睦を彼に感じ、力こぶをさえいれていたのであった。
庭先からはいって行くと、青扇は、いかにも嬉しげに僕をむかえた。頭髪を短く刈ってしまって、いよいよ若く見えた。けれど容色はどこやらけわしくなっていたようであった。紺絣の単衣《ひとえ》を着ていた。僕もなんだかなつかしくて、彼の痩せた肩にもたれかかるようにして部屋へはいったのである。部屋のまんなかにちゃぶだいが具えられ、卓のうえには、一ダアスほどのビイル瓶とコップが二つ置かれていた。
「不思議です。きょうは来るとたしかにそう思っていたのです。いや、不思議です。それで朝からこんな仕度をして、お待ち申していました。不思議だな。まあ、どうぞ」
やがて僕たちはゆるゆるとビイルを呑みはじめたわけであった。
「どうです。お仕事ができましたか?」
「それが駄目でした。この百日紅に油蝉がいっぱいたかって、朝から晩までしゃあしゃあ鳴くので気が狂いかけました」
僕は思わず笑わされた。
「いや、ほんとうですよ。かなわないので、こんなに髪を短くしたり、さまざまこれで苦心をしたのですよ。でも、きょうはよくおいでくださいました」黒ずんでいる唇をおどけものらしくちょっと尖らせて、コップのビイルをほとんど一息に呑んでしまった。
「ずっとこっちにいたのですか」僕は唇にあてたビイルのコップを下へ置いた。コップの中には蚋《ぶよ》に似た小さい虫が一匹浮いて、泡のうえでしきりにもがいていた。
「ええ」青扇は卓に両肘をついてコップを眼の高さまでささげ、噴きあがるビイルの泡をぼんやり眺めながら余念なさそうに言った。「ほかに行くところもないのですものねえ」
「ああ。お土産を持って来ましたよ」
「ありがとう」
何か考えているらしく、僕の差しだす干物には眼もくれず、やはり自分のコップをすかして見ていた。眼がすわっていた。もう酔っているらしいのである。僕は、小指のさきで泡のうえの虫を掬いあげてから、だまってごくごく呑みほした。
「貧すれば貪すという言葉がありますねえ」青扇はねちねちした調子で言いだした。「まったくだと思いますよ。清貧なんてあるものか。金があったらねえ」
「どうしたのです。へんに搦みつくじゃないか」
僕は膝をくずして、わざと庭を眺めた。いちいちとり合っていても仕様がないと思ったのである。
「百日紅がまだ咲いていますでしょう? いやな花だなあ。もう三月は咲いていますよ。散りたくても散れぬなんて、気のきかない樹だよ」
僕は聞えぬふりして卓のしたの団扇をとりあげ、ばさばさ使いはじめた。
「あなた。私はまたひとりものですよ」
僕は振りかえった。青扇はビイルをひとりでついで、ひとりで呑んでいた。
「まえから聞こうと思っていたのですが、どうしたのだろう。あなたは莫迦に浮気じゃないか」
「いいえ。みんな逃げてしまうのです。どう仕様もないさ」
「しぼるからじゃないかな。いつかそんな話をしていましたね。失礼だが、あなたは女の金で暮していたのでしょう?」
「あれは嘘です」彼は卓のしたのニッケルの煙草入から煙草を一本つまみだし、おちついて吸いはじめた。「ほんとうは私の田舎からの仕送りがあるのです。いいえ。私は女房をときどきかえるのがほんとうだと思うね。あなた。箪笥から鏡台まで、みんな私のものです。女房は着のみ着のままで私のうちへ来て、それからまたそのままいつでも帰って行けるのです。私の発明だよ」
「莫迦だね」僕は悲しい気持ちでビイルをあおった。
「金があればねえ。金がほしいのですよ。私のからだは腐っているのだ。五、六丈くらいの滝に打たせて清めたいのです。そうすれば、あなたのようなよい人とも、もっとわけへだてなくつき合えるのだし」
「そんなことは気にしなくてよいよ」
家賃などをあてにしていないことを言おうと思ったが、言えなかった。彼の吸っている煙草が、ホープであることにふと気づいたからでもあった。お金がまるっきりないわけでもないな、と思ったのだ。
青扇は、僕の視線が彼の煙草にそそがれていることを知り、またそれを見つめた僕の気持ちをすぐに察してしまったようであった。
「ホープはいいですよ。甘くもないし、辛くもないし、なんでもない味なものだから好きなんだ。だいいち名前がよいじゃないか」ひとりでそんな弁明らしいことを言ってから、今度はふと語調をかえた。「小説を書いたのです。十枚ばかり。そのあとがつづかないのです」煙草を指先にはさんだままてのひらで両の鼻翼の油をゆっくり拭った。「刺激がないからいけないのだと思って、こんな試みまでもしてみたのですよ。一生懸命に金をためて、十二、三円たまったから、それを持ってカフエへ行き、もっともばからしく使って来ました。悔恨の情をあてにしたわけですね」
「それで書けましたか」
「駄目でした」
僕は噴きだした。青扇も笑い出して、ホープをぽんと庭へほうった。
「小説というものはつまらないですねえ。どんなによいものを書いたところで、百年もまえにもっと立派な作品がちゃんとどこかにできてあるのだもの。もっと新しい、もっと明日の作品が百年まえにできてしまっているのですよ。せいぜい真似るだけだねえ」
「そんなことはないだろう。あとのひとほど巧いと思うな」
「どこからそんなだいそれた確信が得られるの? 軽々しくものを言っちゃいけない。どこからそんな確信が得られるのだ。よい作家はすぐれた独自の個性じゃないか。高い個性を創るのだ。渡り鳥には、それができないのです」
日が暮れかけていた。青扇は団扇《うちわ》でしきりに臑《すね》の蚊を払っていた。すぐ近くに藪があるので、蚊も多いのである。
「けれど、無性格は天才の特質だともいうね」
僕がこころみにそう言ってやると、青扇は、不満そうに口を尖らせては見せたものの、顔のどこやらが確かににたりと笑ったのだ。僕はそれを見つけた。とたんに僕の酔いがさめた。やっぱりそうだ。これは、きっと僕の真似だ。いつか僕がここの最初のマダムに天才のでたらめを教えてやったことがあったけれど、青扇はそれを聞いたにちがいない。それが暗示となって青扇の心にいままで絶えず働きかけその行いを掣肘《せいちゆう》して来たのではあるまいか。青扇のいままでのどこやら常人と異ったような態度は、すべて僕が彼になにげなく言ってやった言葉の期待を裏切らせまいとしてのもののようにも思われた。この男は、意識しないで僕に甘ったれ、僕のたいこもちを勤めていたのではないだろうか。
「あなたも子供ではないのだから、莫迦なことはよい加減によさないか。僕だって、この家をただ遊ばせて置いてあるのじゃないよ。地代だって先月からまた少しあがったし、それに税金やら保険料やら修繕費用なんかで相当の金をとられているのだ。ひとにめいわくをかけて素知らぬ顔のできるのは、この世ならぬ傲慢の精神か、それとも乞食の根性か、どちらかだ。甘ったれるのもこのへんでよし給え」言い捨てて立ちあがった。
「あああ。こんな晩に私が笛でも吹けたらなあ」青扇はひとりごとのように呟きながら縁側へ僕を送って出て来た。
僕が庭先へおりるとき、暗闇のために下駄のありかがわからなかった。
「おおやさん。電燈をとめられているのです」
やっと下駄を捜しだし、それをつっかけてから青扇の顔をそっと覗いた。青扇は縁先に立って澄んだ星空の一端が新宿辺の電燈のせいで火事のようにあかるくなっているのをぼんやり見ていた。僕は思い出した。はじめから青扇の顔をどこかで見たことがあると気にかかっていたのだが、そのときやっと思い出した。プーシュキンではない。僕の以前の店子であったビイル会社の技師の白い頭髪を短く角刈にした老婆の顔にそっくりであったのである。
十月、十一月、十二月、僕はこの三月間は青扇のもとへ行かない。青扇もまたもちろん僕のところへは来ないのだ。ただいちど、銭湯屋で一緒になったことがあるきりである。夜の十二時ちかく、風呂もしまいになりかけていたころであった。青扇は素裸のまま脱衣場の畳のうえにべったり坐って足の指の爪を切っていたのである。風呂からあがりたてらしくやせこけた両肩から湯気がほやほやたっていた。僕の顔を見てもさほど驚かずに、
「夜爪を切ると死人が出るそうですね。この風呂で誰か死んだのですよ。おおやさん。このごろは、私、爪と髪ばかり伸びて」
にやにやうす笑いしてそんなことを言い言いぱちんぱちんと爪を切っていたが、切ってしまったら急にあわてふためいてどてらを着込み、れいの鏡も見ずにそそくさと帰っていったのである。僕にはそれもまたさもしい感じで、ただ軽侮の念を増しただけであった。
ことしのお正月、僕は近所へ年始まわりに歩いたついでにちょっと青扇のところへも立ち寄ってみた。そのとき玄関をあけたら赤ちゃけた胴の長い犬がだしぬけに僕に吠えついたのにびっくりさせられた。青扇は、卵いろのブルウズのようなものを着てナイトキャップをかぶり、妙に若がえって出て来たが、すぐ犬の首をおさえて、この犬は、としのくれにどこからか迷いこんで来たものであるが、二、三日めしを食わせてやっているうちに、もう忠義顔をしてよそのひとに吠えたててみせているのだ、そのうちどこかへ捨てに行くつもりです、とつまらぬことを挨拶を抜きにして言いたてたのである。おおかたまたてれくさい事件でも起っているのだろうと思い、僕は青扇のとめるのも振りきってすぐおいとまをした。けれども青扇は僕のあとを追いかけて来たのである。
「おおやさん。お正月早々、こんな話をするのもなんですけれど、私は、いまほんとうに気が狂いかけているのです。うちの座敷へ小さい蜘《く》蛛《も》がいっぱい出て来て困っています。このあいだ、ひとりで退屈まぎれに火箸の曲ったのを直そうと思ってかちんかちん火鉢のふちにたたきつけていたら、あなた、女房が洗濯を止し眼つきをかえて私の部屋へかけこんで来ましてねえ、てっきり気ちがいになったと思った、そう言うのですよ。かえって私のほうがぎょっとしました。あなたお金ある? いや、いいんです。それで、もうこの二、三日すっかりくさって、お正月も、うちではわざとなんの仕度もしないのですよ。ほんとうにわざわざおいで下さいましたのに。私たち、なんのおかまいもできませんし」
「新しい奥さんができたのですか」僕はできるだけ意地わるい口調で言ってみた。
「ああ」子供みたいにはにかんでいた。
おおかたヒステリイの女とでも同棲をはじめたのであろうと思った。
ついこのあいだ、二月のはじめころのことである。僕は夜おそく思いがけない女のひとのおとずれを受けた。玄関へ出てみると、青扇の最初のマダムであったのである。黒い毛のショオルにくるまって荒い飛白《かすり》のコオトを着ていた。白い頬がいっそう蒼くすき透って来たようであった。ちょっとお話したいことがございますから、一緒にそこらまでつきあってくれというのである。僕はマントも着ず、そのまま一緒にそとへ出た。霜がおりて、輪郭のはっきりした冷い満月が出ていた。僕たちはしばらくだまって歩いた。
「昨年の暮から、またこっちへ来ましたのでございますよ」怒ったような眼つきでまっすぐを見ながら言った。
「それは」僕にはほかに言いようがなかったのである。
「こっちが恋しくなったものですから」余念なげにそう囁いた。
僕はだまりこくっていた。僕たちは、杉林のほうへゆっくり歩みをすすめていたのである。
「木下さんはどうしています」
「相変らずでございます。ほんとうに相すみません」青い毛糸の手袋をはめた両手を膝頭のあたりにまでさげた。
「困るですね。僕はこのあいだ喧嘩をしてしまいました。いったい何をしているのです」
「だめなんでございます。まるで気ちがいですの」
僕は微笑んだ。曲った火箸の話を思い出したのである。それでは、あの神経過敏の女房というのはこのマダムだったのであろう。
「でもあれで何かきっと考えていますよ」僕にはやはり一応、反駁して置きたいような気が起るのであった。
マダムはくすくす笑いながら答えた。
「ええ。華族さんになって、それからお金持ちになるんですって」
僕はすこし寒かった。足をこころもち早めた。一歩一歩あるくたびごとに、霜でふくれあがった土が鶉《うずら》か梟《ふくろう》の呟きのようなおかしい低音をたててくだけるのだ。
「いや」僕はわざと笑った。「そんなことでなしに、何かお仕事でもはじめていませんか?」
「もう、骨のずいからの怠けものです」きっぱり答えた。
「どうしたのでしょう。失礼ですが、いくつなのですか? 四十二歳だとか言っていましたが」
「さあ」こんどは笑わなかったのである。「まだ三十まえじゃないかしら。うんと若いのでございますのよ。いつも変りますので、はっきりは私にもわかりませんのですの」
「どうするつもりかな。勉強なんかしていないようですね。あれで本でも読むのですか?」
「いいえ、新聞だけ。新聞だけは感心に三種類の新聞をとっていますの。ていねいに読むことよ。政治面をなんべんもなんべんも繰りかえして読んでいます」
僕たちはあの空地へ出た。原っぱの霜は清浄であった。月あかりのために、石ころや、笹の葉や、棒《ぼう》杙《くい》や、掃き溜めまで白く光っていた。
「友だちもないようですね」
「ええ。みんなに悪いことをしていますから、もうつきあえないのだそうです」
「どんな悪いことを」僕は金銭のことを考えていた。
「それがつまらないことなのですの。ちっともなんともないことなのです。それでも悪いことですって。あのひと、ものの善し悪しがわからないのでございますのよ」
「そうだ。そうです。善いことと悪いことがさかさまなのです」
「いいえ」顎をショオルに深く埋めてかすかに頸をふった。「はっきりさかさまなら、まだいいのでございます。目茶目茶なんですのよ、それが。だから心細いの。逃げられますわよ、あれじゃ。あのひと、それはごきげんを取るのですけれど。私のあとに二人も来ていましたそうですね」
「ええ」僕はあまり話を聞いていなかった。
「季節ごとに変えるようなものだわ。真似しましたでしょう?」
「なんです」すぐには呑みこめなかった。
「真似をしますのよ、あのひと。あのひとに意見なんてあるものか。みんな女からの影響よ。文学少女のときには文学。下町のひとのときには小粋に。わかっているわ」
「まさか。そんなチェホフみたいな」
そう言って笑ってやったが、やはり胸がつまって来た。いまここに青扇がいるなら彼のあの細い肩をぎゅっと抱いてやってもよいと思ったものだ。
「そんなら、いま木下さんが骨のずいからのものぐさをしているのは、つまりあなたを真似しているというわけなのですね」僕はそう言ってしまって、ぐらぐらとよろめいた。
「ええ。私、そんな男のかたが好きなの。もうすこしまえにそれを知ってくださいましたなら。でも、もうおそいの。私を信じなかった罰よ」軽く笑いながら言ってのけた。
僕はあしもとの土くれをひとつ蹴って、ふと眼をあげると、藪のしたに男がひっそり立っていた。どてらを着て、頭髪もむかしのように長くのびていた。僕たちは同時にその姿を認めた。握り合っていた手をこっそりほどいて、そっと離れた。
「むかえに来たのだよ」
青扇はひくい声でそう言ったのであるが、あたりの静かなせいか、僕にはそれが異様にちかちか痛く響いた。彼は月の光りさえまぶしいらしく、眉をひそめて僕たちをおどおど眺めていた。
僕は、今晩はと挨拶したのである。
「今晩は。おおやさん」あいそよく応じた。
僕は二、三歩だけ彼に近寄って尋ねてみた。
「なにかやっていますか」
「もう、ほって置いて下さい。そのほかに話すことがないじゃあるまいし」いつもに似ずきびしくそう答えてから、急に持ちまえの甘ったれた口調にかえるのであった。「私はね、このあいだから手相をやっていますよ。ほら、太陽線が私のてのひらに現われて来ています。ほら。ね、ね。運勢がひらける証拠なのです」
そう言いながら左手をたかく月光にかざし、自分のてのひらのその太陽線とかいう手筋をほれぼれと眺めたのである。
運勢なんて、ひらけるものか。それきりもう僕は青扇と逢っていない。気が狂おうが、自殺しようが、それはあいつの勝手だと思っている。僕もこの一年間というもの、青扇のためにずいぶんと心の平静をかきまわされて来たようである。僕にしてもわずかな遺産のおかげでどうやら安楽な暮しをしているとはいえ、そんなに余裕があるわけでなし、青扇のことでかなりの不自由に襲われた。しかもいまになってみると、それはなんの面白さもないいっそう息ぐるしい結果に立ちいたったようである。ふつうの凡夫を、なにかと意味づけて夢にかたどり眺めて暮して来ただけではなかったのか。竜《りゆう》駿《しゆん》はいないか。麒《き》麟《りん》児《じ》はいないか。もうはや、そのような期待には全くほとほと御免である。みんな昔ながらの彼であって、その日その日の風の工合いで少しばかり色あいが変って見えるだけのことだ。
おい。見給え。青扇の御散歩である。あの紙凧のあがっている空地だ。横縞のどてらを着て、ゆっくりゆっくり歩いている。なぜ、君はそうとめどもなく笑うのだ。そうかい。似ているというのか。――よし。それなら君に聞こうよ。空を見あげたり肩をゆすったりうなだれたり木の葉をちぎりとったりしながらのろのろさまよい歩いているあの男と、それから、ここにいる僕と、ちがったところが、一点でも、あるか。
ロマネスク
仙術太郎
むかし津軽の国、神梛木《かなぎ》村に鍬形惣助という庄屋がいた。四十九歳で、はじめて一子を得た。男の子であった。太郎と名づけた。生れるとすぐ大きいあくびをした。惣助はそのあくびの大きすぎるのを気に病み、祝辞を述べにやって来る親戚の者たちへ肩身のせまい思いをした。惣助の懸念はそろそろと的中しはじめた。太郎は母者人の乳房にもみずからすすんでしゃぶりつくようなことはなく、母者人のふところの中にいて口をたいぎそうにあけたまま乳房の口への接触をいつまでも待っていた。張子の虎をあてがわれてもそれをいじくりまわすことはなく、ゆらゆら動く虎の頭を退屈そうに眺めているだけであった。朝、眼をさましてからもあわてて寝床から這い出すようなことはなく、二時間ほどは眼をつぶって眠ったふりをしているのである。かるがるしきからだの仕草をきらう精神を持っていたのであった。三歳のとき、ちょっとした事件を起し、その事件のお蔭で鍬形太郎の名前が村のひとたちのあいだに少しひろまった。それは新聞の事件でないゆえ、それだけほんとうの事件であった。太郎がどこまでもどこまでも歩いたのである。
春のはじめのことであった。夜、太郎は母者人のふところから音もたてずにころがり出た。ころころと土間へころげ落ち、それから戸外へまろび出た。戸外へ出てから、しゃんと立ちあがったのである。惣助も、また母者人も、それを知らずに眠っていた。
満月が太郎のすぐ額のうえに浮かんでいた。満月の輪郭はにじんでいた。めだかの模様の襦袢に慈姑《くわい》の模様の綿入れ胴衣を重ねて着ている太郎は、はだしのままで村の馬糞だらけの砂利道を東へ歩いた。ねむたげに眼を半分とじて小さい息をせわしなく吐きながら歩いた。
翌る朝、村は騒動であった。三歳の太郎が村からたっぷり一里もはなれている湯《ゆ》流《ながれ》山《やま》の、林檎畑のまんまんなかでこともなげに寝込んでいたからであった。湯流山は氷のかけらが溶けかけているような形で、峯には三つのなだらかな起伏があり西端は流れたようにゆるやかな傾斜をなしていた。百メエトルくらいの高さであった。太郎がどうしてそんな山の中にまで行き着けたのか、その訳は不明であった。いや、太郎がひとりで登っていったにちがいないのだ。けれどもなぜ登っていったのかその訳がわからなかった。
発見者である蕨《わらび》取《と》りの娘の手籠にいれられ、ゆられゆられしながら太郎は村へ帰って来た。手籠のなかを覗いてみた村のひとたちは皆、眉のあいだに黒い油ぎった皺をよせて、天狗、天狗とうなずき合った。惣助はわが子の無事である姿を見て、これは、これは、と言った。困ったとも言えなかったし、よかったとも言えなかった。母者人はそんなに取り乱していなかった。太郎を抱きあげ、蕨取りの娘の手籠には太郎のかわりに手拭地を一反いれてやって、それから土間へ大きな盥《たらい》を持ち出しお湯をなみなみといれ、太郎のからだを静かに洗った。太郎のからだはちっとも汚れていなかった。丸々と白くふとっていた。惣助は盥のまわりをはげしくうろついて歩き、とうとう盥に蹴《け》躓《つまず》いて盥のお湯を土間いちめんにおびただしくぶちまけ母者人に叱られた。惣助はそれでも盥の傍から離れず母者人の肩越しに太郎の顔を覗き、太郎、なに見た、太郎、なに見た、と言いつづけた。太郎はあくびをいくつもいくつもしてからタアナカムダアチイナエエというかたことを叫んだ。
惣助は夜、寝てからやっとこのかたことの意味をさとった。たみのかまどはにぎわいにけり。発見! 惣助は寝たままぴしゃっと膝頭を打とうとしたが、重い掛蒲団に邪魔され、臍のあたりを打って痛い思いをした。惣助は考える。庄屋のせがれは庄屋の親だわ。三歳にしてもうはや民のかまどに心をつかう。あら有《あり》難《がた》の光明や。この子は湯流山のいただきから神梛木村の朝の景色を見おろしたにちがいない。そのとき家々のかまどから立ちのぼる煙は、ほやほやとにぎわっていたとな。あら殊勝の超世の本願や。この子はなんと授かりものじゃ。御大切にしなければ。惣助はそっと起きあがり、腕をのばして隣の床にひとりで寝ている太郎の掛蒲団をていねいに直してやった。それからもっと腕をのばしてそのまた隣の床に寝ている母者人の掛蒲団を少しばかり乱暴に直してやった。母者人は寝相がわるかった。惣助は母者人の寝相をみないようにして、わざと顔をきつくそむけながら呟いた。これは太郎の産みの親じゃ。御大切にしなければ。
太郎の予言は当った。そのとしの春には村のことごとくの林檎畑にすばらしく大きい薄紅の花が咲きそろい、十里はなれた御城下町まで匂いを送った。秋にはもっとよいことが起った。林檎の果実が手毬くらいに大きく珊《さん》瑚《ご》くらいに赤く、桐の実みたいに鈴成りに成ったのである。こころみにそのひとつをちぎりとり歯にあてると、果実の肉がはち切れるほど水気を持っていることとて歯をあてたとたんにぽんと音高く割れ冷い水がほとばしり出て鼻から頬までびしょ濡れにしてしまうほどであった。あくるとしの元旦には、もっとめでたいことが起った。千羽の鶴が東の空から飛来し、村のひとたちが、あれよ、あれよ、と口々に騒ぎたてているまに、千羽の鶴は元旦の青空の中をゆったりと泳ぎまわりやがて西のかたに飛び去った。そのとしの秋にもまた稲の穂に穂がみのり林檎も前年に負けずに枝のたおたおするほどかたまって結実したのである。村はうるおいはじめた。惣助は予言者としての太郎の能力をしかと信じた。けれどもそれを村のひとたちに言いふらしてあるくことは控えていた。それは親馬鹿という嘲笑を得たくない心からであろうか。ひょっとすると何かもっと軽はずみな、ひともうけしようという下心からであったかも知れぬ。
幼いころの神童は、二、三年してようやく邪道におちた。いつしか太郎は、村のひとたちからなまけものという名前をつけられていた。惣助もそう言われるのを仕方がないと思いはじめたのである。太郎は六歳になっても七歳になってもほかの子供たちのように野原や田圃や河原へ出て遊ぼうとはしなかった。夏ならば、部屋の窓べりに頬杖ついて外の景色を眺めていた。冬ならば、炉辺に坐って燃えあがる焚火の焔を眺めていた。なぞなぞが好きであった。ある冬の夜、太郎は炉辺に行儀わるく寝そべりながら、かたわらの惣助の顔を薄目つかって見あげ、ゆっくりした口調でなぞなぞを掛けた。水のなかにはいっても濡れないものはなんじゃろ。惣助は首を三度ほど振って考えて、判らぬの、と答えた。太郎はものうそうに眼をかるくとじてから教えた。影じゃがのう。惣助はいよいよ太郎をいまいましく思いはじめた。これは馬鹿ではないか。阿呆なのにちがいない。村のひとたちの言うように、やっぱしただのなまけものじゃったわ。
太郎が十歳になったとしの秋、村は大洪水に襲われた。村の北端をゆるゆると流れていた三間ほどの幅の神梛木川が、ひとつき続いた雨のために怒りだしたのである。水源の濁り水は大渦小渦を巻きながらそろそろふくれあがって六本の支流を合せてたちまち太り、身を躍らせて山を韋《い》駄《だ》天《てん》ばしりに駈け下りみちみち何百本もの材木をかっさらい川岸の樫や樅や白楊の大木を根こそぎ抜き取り押し流し、麓の淵で澱んで澱んでそれから一挙に村の橋に突きあたって平気でそれをぶちこわし土手を破って大海のようにひろがり、家々の土台石を舐《な》め豚を泳がせ刈りとったばかりの一万にあまる稲坊主を浮かせてだぶりだぶりと浪打った。それから五日目に雨がやんで、十日目にようやく水がひきはじめ、二十日目ころには神郷木川は三間ほどの幅で村の北端をゆるゆると流れていた。
村のひとたちは毎夜毎夜あちこちの家にひとかたまりずつになって相談し合った。相談の結論はいつも同じであった。おらは餓え死したくねえじゃ。その結論はいつも相談の出発点になった。村のひとたちは翌る夜また同じ相談をはじめなければいけなかった。そうしてまたまた餓え死したくねえという結論を得て散会した。翌る夜はさらに相談をし合った。そうして結論は同じであった。相談は果つるところがなかったのである。村が乱れて義民があらわれた。十歳の太郎がある日、両腕で頭をかかえこみ溜息をついている父親の惣助にむかって、意見を述べた。これは簡単に解決がつくと思う。お城へ行ってじきじき殿様へ救済をお願いすればいいのじゃ。おれが行く。惣助は、やあ、と突拍子もない歓声をあげた。それからすぐ、これはかるはずみなことをしたと気づいたらしくいったんほどきかけた両手をまた頭のうしろに組み合せてしかめつらをして見せた。お前は、子供だからそう簡単に考えるけれども、大人はそうは考えない。直《じき》訴《そ》はまかりまちがえば命とりじゃ。めっそうもないこと。やめろ。やめろ。その夜、太郎はふところ手してぶらっと外へ出て、そのまますたすたと御城下町へ急いだ。誰も知らなかった。
直訴は成功した。太郎の運がよかったからである。命をとられなかったばかりかごほうびをさえ貰った。ときの殿様が法律をきれいに忘れていたからでもあろう。村はおかげで全滅をのがれ、あくる年からまたうるおいはじめたのである。
村のひとたちは、それでも二、三年のあいだは太郎をほめていた。二、三年がすぎると忘れてしまった。庄屋の阿呆様とは太郎の名前であった。太郎は毎日のように蔵の中にはいって惣助の蔵書を手当りしだいに読んでいた。ときどき怪しからぬ絵本を見つけた。それでも平気な顔して読んでいった。
そのうちに仙術の本を見つけたのである。これを最も熱心に読みふけった。縦横十文字に読みふけった。蔵の中で一年ほども修業して、ようやく鼠と鷲と蛇になる法を覚えこんだ。鼠になって蔵の中をかけめぐり、ときどき立ちどまってちゅうちゅうと鳴いてみた。鷲になって、蔵の窓から翼をひろげて飛びあがり、心ゆくまで大空を逍遙した。蛇になって、蔵の床下にしのびいり蜘蛛の巣をさけながら、ひやひやした日蔭の草を腹のうろこで踏みわけ踏みわけして歩いてみた。ほどなく、かまきりになる法をも体得したけれど、これはただその姿になるだけのことであって、べつだん面白くもなんともなかった。
惣助はもはやわが子に絶望していた。それでも負け惜しみしてこう母者人に告げたのである。な、あまりできすぎたのじゃよ。太郎は十六歳で恋をした。相手は隣の油屋の娘で、笛を吹くのが上手であった。太郎は蔵の中で鼠や蛇のすがたをしたままその笛の音を聞くことを好んだ。あわれ、あの娘に惚《ほ》れられたいものじゃ。津軽いちばんのよい男になりたいものじゃ。太郎はおのれの仙術でもって、よい男になるように念じはじめた。十日目にその念願を成就することができたのである。
太郎は鏡の中をおそるおそる覗いてみて、おどろいた。色が抜けるように白く、頬はしもぶくれでもち肌であった。眼はあくまでも細く、口髭がたらりと生えていた。天平時代の仏像の顔であって、しかも股間の逸物まで古風にだらりとふやけていたのである。太郎は落胆した。仙術の本が古すぎたのであった。天平のころの本であったのである。このようなありさまでは詮ないことじゃ。やり直そう。ふたたび法のよりをもどそうとしたのだが駄目であった。おのれひとりの慾望から好き勝手な法を行った場合には、よかれあしかれ身体にくっついてしまって、どうしようもなくなるものだ。太郎は三日も四日も空しい努力をして五日目にあきらめた。このような古風な顔では、どうせ女には好かれまいが、けれども世の中には物好きが居らぬものでもあるまい。仙術の法力をうしなった太郎は、しもぶくれの顔に口髭をたらりと生やしたままで蔵から出て来た。
あいた口のふさがらずにいる両親へ一ぶしじゅうの訳をあかし、ようやく納得させてその口を閉じさせた。このようなあさましい姿では所詮、村にも居られませぬ。旅に出ます。そう書置きをしたためて、その夜、瓢《ひよう》然《ぜん》と家を出た。満月が浮かんでいた。満月の輪郭は少しにじんでいた。空模様のせいではなかった。太郎の眼のせいであった。ふらりふらり歩きながら太郎は美男というものの不思議を考えた。むかしむかしのよい男が、どうしていまでは間抜けているのだろう。そんなはずはないのじゃがのう。これはこれでよいのじゃないか。けれどもこのなぞなぞはむずかしく、隣村の森を通り抜けても御城下町へたどりついても、また津軽の国ざかいを過ぎてもなかなかに解決がつかないのであった。
ちなみに太郎の仙術の奥義は、懐手して柱か塀によりかかってぼんやり立ったままで、面白くない、面白くない、面白くない、面白くない、面白くないという呪文を何十ぺん何百ぺんとなくくりかえしくりかえし低音でとなえ、ついに無我の境地にはいりこむことにあったという。
喧嘩次郎兵衛
むかし東海道三島の宿に、鹿間屋逸平という男がいた。曾祖父の代より酒の醸造をもって業としていた。酒はその醸造主のひとがらを映すものと言われている。鹿間屋の酒はあくまでも澄み、しかもなかなかに辛口であった。酒の名は、水《みず》車《ぐるま》と呼ばれた。子供が十四人あった。男の子が六人。女の子が八人。長男は世事に鈍く、したがって逸平の指図どおりに商売を第一として生きていた。おのれの思想に自信がなく、それでもときどきは父親にむかって何か意見を言いだすことがあったけれども、言葉のなかばでもうはや丸っきり自信を失い、そうかとも思われますが、しかしこれとても間違いだらけであるとしか思われませんし、きっと間違っていると思いますが父上はどうお考えでしょうか、なんだか間違っているようでございます、とやはり言いにくそうにその意見を打ち消すのであった。逸平は簡単に答える。間違っとるじゃ。
けれども次男の次郎兵衛となると少し様子がちがっていた。彼の気質の中には政治家の泣き言の意味でない本来の意味の是々非々の態度を示そうとする傾向があった。それがために彼は三島の宿のひとたちから、ならずもの、と呼ばれて不潔がられていた。次郎兵衛は商人根性というものをきらった。世の中はそろばんでない。価のないものこそ貴いのだ、と確信して毎日のように酒を呑んだ。酒を呑むにしても、不当の利益をむさぼっているのをこの眼でたしかにいままで見て来た彼の家の酒を口にするのは御免であった。もしあやまって呑みくだした場合にはすぐさま喉へ手をつっこみ無理にもそれを吐きだした。来る日も来る日も次郎兵衛は三島のまちをひとりして呑みあるいていたのであったが、父親の逸平は別段それをとがめだてしようとしなかった。頭の澄んだ男であったからである。あまたの子供のなかにひとりくらいの馬鹿がいたほうが、かえって生彩があってよいと思っていた。それに逸平は三島の火消しの頭《かしら》をつとめていたので、ゆくゆくは次郎兵衛にこの名誉職をゆずってやろうというたくらみもあり、次郎兵衛がこれからもますます馬のように暴れまわってくれたならそれだけ将来の火消し頭としての資格もそなわって来ることだという遠い見透しから、次郎兵衛の放《ほう》埓《らつ》を見て見ぬふりをしてやったわけであった。
次郎兵衛は、二十二歳の夏にぜひとも喧嘩の上手になってやろうと決心したのであったが、それはこんな訳からであった。
三島大社では毎年、八月の十五日にお祭りがあり、宿場のひとたちはもちろん、沼津の漁村や伊豆の山々から何万というひとがてんでに団扇《うちわ》を腰にはさみ大社さしてぞろぞろ集まって来るのであった。三島大社のお祭りの日には、きっと雨が降るとむかしのむかしからきまっていた。三島のひとたちは派手好きであるから、その雨の中で団扇を使い、踊屋台がとおり山車《だし》がとおり花火があがるのを、びっしょり濡れて寒いのを堪えに堪えながら見物するのである。
次郎兵衛が二十二歳のときのお祭りの日は、珍しく晴れていた。青空には鳶が一羽ぴょろぴょろ鳴きながら舞っていて、参詣のひとたちは大社様を拝んでからそのつぎに青空と鳶を拝んだ。ひる少しすぎたころ、だしぬけに黒雲が東北の空の隅からむくむくあらわれ二、三度またたいているうちにもうはや三島は薄暗くなってしまい、水気をふくんだ重たい風が地を這いまわるとそれが合図とみえて大粒の水滴が天からぽたぽたこぼれ落ち、やがてこらえかねたかひと思いに大雨となった。次郎兵衛は大社の大鳥居のまえの居酒屋で酒を呑みながら、外の雨脚と小走りに走って通るさまざまの女の姿を眺めていた。そのうちにふと腰を浮かしかけたのである。知人を見つけたからであった。彼の家のおむかいに住まっている習字のお師匠の娘であった。赤い花模様の重たげな着物を着て五、六歩はしってはまたあるき五、六歩はしってはまたあるきしていた。次郎兵衛は居酒屋ののれんをぱっとはじいて外へ出て、傘をお持ちなさい、と言葉をかけた。着物が濡れると大変です。娘は立ちどまって細い頸をゆっくりねじ曲げ、次郎兵衛の姿を見るとやわらかいまっ白な頬をあからめた。お待ち。そう言い置いて次郎兵衛は居酒屋へ引返して亭主を大声で叱りつけながら番傘を一ぽん借りたのである。やいお師匠さんの娘。おまえの親爺にしろおふくろにしろ、またおまえにしろ、おれをならずものの呑んだくれのわるいわるい悪者と思っているにちがいない。ところがどうじゃ。おれはああ気の毒なと思ったならこうして傘でもなんでもめんどうしてやるほどの男なのだ。ざまを見ろ。ふたたびのれんをはじいて外へ出てみると、娘はいなくていっそうさかんな雨脚と、押し合いへし合いしながら走って通るひとの流れとだけであった。よう、よう、よう、ようと居酒屋のなかから嘲弄の声が聞えた。六、七人のならずものの声なのである。番傘を右手にささげ持ちながら次郎兵衛は考える。あああ。喧嘩の上手になりたいな。人間、こんな莫《ば》迦《か》げた目にあったときには理屈もくそもないものだ。人に触れたら、人を斬る。馬に触れたら、馬を斬る。それがよいのだ。その日から三年のあいだ次郎兵衛はこっそり喧嘩の修行をした。
喧嘩は度胸である。次郎兵衛は度胸を酒でこしらえた。次郎兵衛の酒はいよいよ量がふえて、眼はだんだんと死魚の眼のように冷くかすみ、額には三本の油ぎった横皺が生じ、どうやらふてぶてしい面貌になってしまった。煙管《きせる》を口元へ持って行くのにも、腕をうしろから大廻しに廻していって、やがてすぱりと一服すうのである。度胸のすわった男に見えた。
つぎにはものの言いようである。奥のしれぬようなぼそぼそ声で言おうと思った。喧嘩のまえには何かしら気のきいた台詞《せりふ》を言わないといけないことになっているが、次郎兵衛はその台詞の選択に苦労をした。型でものを言っては実際の感じがこもらぬ。こういう型はずれの台詞をえらんだ。おまえ、間違ってはいませんか。冗談じゃないかしら。おまえのその鼻の先が紫いろに腫れあがるとおかしく見えますよ。なおすのに百日もかかる。なんだか間違っていると思います。これをいつでもすらすら言い出せるように、毎夜、寝てから三十ぺんずつひくく誦した。またこれを言っているあいだ口をまげたり、必要以上に眼をぎらぎらさせたりせずにほとんど微笑むようにしていたいものだと、その練習をも怠らなかった。
これで準備はできた。いよいよ喧嘩の修行であった。次郎兵衛は武器を持つことをきらった。武器の力で勝ったとてそれは男でない。素手の力で勝たないことには、おのれの心がすっきりしない。まずこぶしの作りかたから研究した。親指をこぶしの外へ出して置くと親指をくじかれるおそれがある。次郎兵衛はいろいろと研究したあげく、こぶしの中に親指をかくしてほかの四本の指の第一関節の背をきっちりすきまなく並べてみた。ひどく頑丈そうなこぶしができあがった。このきっちり並んだ第一関節の背で自分の膝頭をとんとついてみると、こぶしは少しも痛くなくてそのかわりに膝頭のほうがあっと飛びあがるほど痛かった。これは発見であった。次郎兵衛はつぎにその第一関節の背の皮を厚く固くすることを計画した。朝、眼をさますとすぐに彼の新案のこぶしでもって枕元の煙草盆をひとつ殴った。まちを歩きながら、みちみちの土塀や板塀を殴った。居酒屋の卓を殴った。家の炉縁を殴った。この修行に一年を費やした。煙草盆がばらばらにこわれ土塀や板塀に無数の大小の穴があき、居酒屋の卓に罅《ひび》ができ、家の炉縁がハイカラなくらいでこぼこになったころ、次郎兵衛はやっとおのれのこぶしの固さに自信を得た。この修行のあいだに次郎兵衛は殴りかたにもこつのあることを発見した。すなわち腕を、横から大廻しに廻して殴るよりは腋下からピストンのようにまっすぐに突き出して殴ったほうが約三倍の効果があるということであった。まっすぐに突きだす途中で腕を内側に半廻転ほどひねったならさらに四倍くらいの効力があるということをも知った。腕が螺《ら》旋《せん》のように相手の肉体へきりきり食いいるというわけであった。
つぎの一年は家の裏手にあたる国分寺跡の松林の中で修行をした。人の形をした五尺四、五寸の高さの枯れた根株を殴るのであった。次郎兵衛はおのれのからだをすみからすみまで殴ってみて、眉間と水落ちが一番いたいという事実を知らされた。なお、むかしから言い伝えられている男の急所をも一応は考えてみたけれども、これはやはり下品な気がして、傲《ごう》邁《まん》な男の覘《ねら》うところではないと思った。むこうずねもまた相当に痛いことを知ったが、これは足で蹴るのに都合のよいところであって、次郎兵衛は喧嘩に足を使うことは卑怯でもありうしろめたくもあると思い、もっぱら眉間と水落ちを覘うことにきめたのである。枯れた根株の、眉間と水落ちに相当する高さの箇処へ小刀で三角の印をつけ、毎日毎日、ぽかりぽかりと殴りつけた。おまえ、間違ってはいませんか。冗談じゃないかしら。おまえのその鼻の先が紫色に腫れあがるとおかしく見えますよ。なおすのに百日もかかる。なんだか間違っていると思います。とたんにぽかりと眉間を殴る。左手は水落ちを。
一年の修行ののち、枯木の三角の印は椀くらいの深さに丸くくぼんだ。次郎兵衛は考えた。いまは百発百中である。けれどもまだ安心はできない。相手はこの根株のようにいつもだまって立ちつくしてはいない。動いているのだ。次郎兵衛は三島のまちのほとんどどこの曲りかどにでもある水車へ眼をつけた。富士の麓の雪が溶けて数十条の水量のたっぷりな澄んだ小川となり、三島の家々の土台下や縁先や庭の中をとおって流れていて苔の生えた水車がそのたくさんの小川の要処要処でゆっくりゆっくり廻っていた。次郎兵衛は夜、酒を呑んでのかえりみち必ずひとつの水車を征伐した。廻りめぐっている水車の十六枚の板の舌を、順々にぽかりぽかりと殴るのである。はじめは見当がむずかしくてなかなかうまく行かなかったのであるが、しだいに三島のまちで破れた舌をだらりとさげたまま休んでいる水車を見かけることが多くなった。
次郎兵衛はしばしば小川で水を浴びた。底ふかくもぐってじっとしていることもあった。喧嘩さいちゅうに過《あやま》って足をすべらし小川へ転落した場合のことを考慮したのであった。小川がまちじゅうを流れているのだから、あるいはそんな場合もあるであろう。さらし木綿の腹帯をさらにぎゅっと強く巻きしめた。酒を多く腹へいれさせまいという用心からであった。酔いどれたならば足がふらつき思わぬ不覚をとることもあろう。三年経った。大社のお祭りが三度来て、三度すぎた。修行がおわった。次郎兵衛の風貌はいよいよどっしりとして鈍重になった。首を左か右へねじむけてしまうのにさえ一分間かかった。
肉親は血のつながりのおかげで敏感である。父親の逸平は、次郎兵衛の修行を見抜いた。何を修行したかは知らなかったけれど、何かしら大物になったらしいということにだけは感づいた。逸平はまえからのたくらみを実行した。次郎兵衛に火消し頭の名誉職を受けつがせたのである。次郎兵衛はなんだか訳のわからぬ重々しげなものごしによって多くの火消したちの信頼を得た。かしら、かしらとうやまわれるばかりで喧嘩の機会はとんとなかった。ひょっとしたらもうこれは生涯、喧嘩をせずにこのまま死んで行くのかも知れないと若いかしらは味気ない思いをしていた。ねりにねりあげた両腕は夜ごとにむずかゆくなり、わびしい気持ちでぽりぽりひっ掻いた。力のやり場に困って身もだえの果て、とうとうやけくそな悪戯《いたずら》心《ごころ》を起し背中いっぱいに刺青《いれずみ》をした。直径五寸ほどの真紅の薔薇の花を、鯖《さば》に似た細長い五匹の魚が尖ったくちばしで四方からつついている模様であった。背中から胸にかけて青い小波がいちめんにうごいていた。この刺青のために次郎兵衛はいよいよ東海道にかくれなき男となり、火消したちはもちろん、宿場のならずものにさえうやまわれ、もうはや喧嘩の望みは絶えてしまった。次郎兵衛は、これはやりきれないと思った。
けれども機会は思いがけなくやって来た。そのころ三島の宿に、鹿間屋と肩を並べてともにともに酒つくりを競っていた陣州屋丈六という金持ちがいた。ここの酒はいくぶん舌ったるく、色あいが濃厚であった。丈六もまた酒によく似て、四人の妾を持っているのにそれでも不足で五人目の妾を持とうとしてさまざまの工夫をしていた。鷹の白羽の矢が次郎兵衛の家の屋根を素通りしてそのおむかいの習字のお師匠の侘《わび》住《ずま》いしている家の屋根のぺんぺん草をかきわけてぐさっとつきささったのである。お師匠はかるがるとは返事をしなかった。二度、切腹をしかけては家人に見つけられて失敗したほどであった。次郎兵衛はその噂を聞いて腕の鳴るのを覚えた。機会を狙ったのである。
三《み》月《つき》目に機会がやって来た。十二月のはじめ、三島に珍しい大雪が降った。日の暮れかたからちらちらしはじめ間もなくおおきい牡丹雪にかわり三寸くらい積ったころ、宿場の六個の半鐘が一時に鳴った。火事である。次郎兵衛はゆったりゆったり家を出た。陣州屋の隣の畳屋が気の毒にも燃えあがっていた。数千の火の玉小僧が列をなして畳屋の屋根のうえで舞い狂い、火の粉が松の花粉のように噴出してはひろがりひろがっては四方の空に遠く飛散した。ときたま黒煙が海坊主のようにのっそりあらわれ屋根全体をおおいかくした。降りしきる牡丹雪は焔にいろどられ、いっそう重たげにもったいなげに見えた。火消したちは、陣州屋と議論をはじめていた。陣州屋は自分の家へ水をいれるのはまっぴらであると言い張り、はやく隣の畳屋の棟をたたき落として火をしずめたらよいと命令した。火消したちはそれは火消しの法にそむくと言って反駁したのである。そこへ次郎兵衛があらわれた。陣州屋さん。次郎兵衛はできるだけ低い声で、しかもほとんど微笑むようにして言いだした。おまえ、間違ってはいませんか。冗談じゃないかしら。陣州屋はだしぬけに言葉をはさんだ。これは鹿間屋の若旦那、へっへ、冗談です、まったくの酔興です、ささ、ぞんぶんに水をおいれ下さい。喧嘩にはならなかった。次郎兵衛は仕方なく火事を眺めた。喧嘩にはならなかったけれどこのことで次郎兵衛はまたまた男をあげてしまった。火事のあかりにてらされながら陣州屋をたしなめていたときの次郎兵衛のまっかな両頬には十片《ひら》あまりの牡丹雪が消えもせずにへばりついていてその有様は神様のように恐ろしかったというのは、その後ながいあいだの火消したちの語り草であった。
その翌る年の二月のよい日に、次郎兵衛は宿場のはずれに新居をかまえた。六畳と四畳半と三畳と三間あるほかに八畳の裏二階がありそこから富士がまっすぐに眺められた。三月のさらによい日に習字のお師匠の娘が花嫁としてこの新居にむかえられた。その夜、火消したちは次郎兵衛の新居にぎっしりつまって祝い酒を呑み、ひとりずつ順々に隠し芸をして夜を更しいよいよ翌朝になってやっとおしまいのひとりが二枚の皿の手品をやって皆の泥酔と熟睡の眼をごまかしある一隅からのぱちぱちという喝采でもって報いられ、祝賀の宴はおわった。
次郎兵衛は、これはまたこれで結構なことにちがいないのだろう、となま悟りしてきょとんとした一日一日を送っていた。父親の逸平もまた、これで一段落、と呟いてはぽんと煙管を吐月峰《はいふき》にはたいていた。けれども逸平の澄んだ頭脳でもってしてさえ思い及ばなかった悲しい事が起った。結婚してかれこれ二月目の晩に、次郎兵衛は花嫁の酌で酒を呑みながら、おれは喧嘩が強いのだよ、喧嘩をするにはの、こうして右手で眉間を殴りさ、こうして左手で水落ちを殴るのだよ。ほんのじゃれてやってみせたことであったが、花嫁はころりところんで死んだ。やはり打ちどころがよかったのであろう。次郎兵衛は重い罪にとわれ、牢屋へいれられた。ものの上手すぎた罰である。次郎兵衛は牢屋へはいってからもそのどこやら落ちつきはらった様子のために役人から馬鹿にはされなかったし、また同室の罪人たちからは牢名主としてあがめられた。ほかの罪人たちよりは一段と高いところに坐らされながら、次郎兵衛は彼の自作の都々逸とも念仏ともつかぬ歌を、あわれなふしで口ずさんでいた。
岩に囁く
頬をあからめつつ
おれは強いのだよ
岩は答えなかった
嘘の三郎
むかし江戸深川に原宮黄村という男やもめの学者がいた。支那の宗教にくわしかった。一子があり、三郎と呼ばれた。ひとり息子なのに三郎と名づけるとはさすがに学者らしくひねったものだと近所の取沙汰であった。どうしてそれが学者らしいひねりかたであるかは誰にも判らなかった。そこが学者であるということになっていた。近所での黄村の評判はあまりよくなかった。極端に吝《りん》嗇《しよく》であるとされていた。ごはんをたべてから必ずそれをきっちり半分もどして、それでもって糊をこしらえるという噂さえあった。
三郎の嘘の花はこの吝嗇から芽生えた。八歳になるまでは一銭の小遣いも与えられず、支那の君子人の言葉を暗誦することだけを強いられた。三郎はその支那の君子人の言葉を水《みず》洟《はな》すすりあげながら呟き呟き、部屋部屋の柱や壁の釘をぷすぷすと抜いて歩いた。釘が十本たまれば、近くの屑屋へ持って行って一銭か二銭で売却した。花《か》林《りん》糖《とう》を買うのである。あとになって父の蔵書がさらに十倍くらいのよい価で売れることを屑屋から教わり、一冊二冊と持ち出し、六冊目に父に発見された。父は涙をふるってこの盗癖のある子を折《せつ》檻《かん》した。こぶしでつづけさまに三つほど三郎の頭を殴り、それから言った。これ以上の折檻は、お前のためにもわしのためにもいたずらに空腹を覚えさせるだけのことだ。それゆえ折濫はこれだけにしてやめる。そこへ坐れ。三郎は泣く泣く悔悟をちかわされた。三郎にとって、これが嘘のしはじめであった。
そのとしの夏、三郎は隣家の愛犬を殺した。愛犬は狆《ちん》であった。夜、狆はけたたましく吠えたてた。ながい遠吠えやら、きゃんきゃんというせわしない悲鳴やら、苦痛に堪えかねたような大げさな唸り声やら、さまざまの鳴き声をまぜて騒ぎたてた。一時間くらい鳴き続けたころ、父の黄村は、傍に寝ている三郎へ声をかけた。見て来い。三郎は先刻より頭をもたげ眼をぱちぱちさせながら聞き耳をたてていたのであった。起きあがって雨戸を繰りあけ、見ると隣の家の竹垣に結びつけられている狆が、からだを土にこすりつけて身《み》悶《もだ》えしていた。三郎は、騒ぐな、と言って叱った。狆は三郎の姿を認めて、これ見よがしに土にまろび竹垣を噛み、ひとしきり狂乱の姿をよそおい、きゃんきゃんと一そう高く鳴き叫んだ。三郎は狆の甘ったれた精神にむかむか憎悪を覚えたのである。騒ぐな、騒ぐな、と息をつめたような声で言ってから、庭へ飛び降り小石を拾い、はっしとぶっつけた。狆の頭部に命中した。きゃんと一声するどく鳴いてから狆の白い小さいからだがくるくると独楽《こま》のように廻って、ぱたとたおれた。死んだのである。雨戸をしめて寝床へはいってから、父は眠たげな声でたずねた。どうしたのじゃ。三郎は蒲団を頭からかぶったままで答えた。鳴きやみました。病気らしうございます。あしたあたり死ぬかも知れません。
そのとしの秋、三郎はひとを殺した。言《こと》問《とい》橋《ばし》から遊び仲間を隅田川へ突き落としたのである。直接の理由はなかった。ピストルを自分の耳にぶっ放したい発作とよく似た発作におそわれたのであった。突きおとされた豆腐屋の末っ子は落下しながら細長い両脚で家鴨《あひる》のように三度ゆるく空気を掻くように動かして、ぼしゃっと水面へ落ちた。波紋が流れにしたがって一間ほど川下のほうへ移動してから波紋のまんなかに片手がひょいと出た。こぶしをきつく握っていた。すぐひっこんだ。波紋は崩れながら流れた。三郎はそれを見とどけてしまってから、大声をたてて泣き叫んだ。人々は集まり、三郎の泣き泣き指さす箇処を見て事のなりゆきをさとった。よく知らせてくれた。お前の朋輩が落ちたのか。泣くでない、すぐ助けてやる。よく知らせてくれた。ひとりの合点の早い男がそう言って三郎の肩を軽くたたいた。そのうちに人々の中の泳ぎに自信のある男が三人、競争して大川へ飛び込み、おのおの自分の泳ぎの型を誇りながら豆腐屋の末っ子を捜しはじめた。三人ともあまり自分の泳ぎの姿を気にしすぎて、そのために子供を捜しあるくのがおろそかになり、ようやく捜しあてたものは全くの死骸であった。
三郎はなんともなかった。豆腐屋の葬儀には彼も父の黄村とともに参列した。十歳十一歳となるにつれて、この誰にも知られぬ犯罪の思い出が三郎を苦しめはじめた。こういう犯罪が三郎の嘘の花をいよいよ見事にひらかせた。ひとに嘘をつき、おのれに嘘をつき、ひたすら自分の犯罪をこの世の中から消し、またおのれの心から消そうと努め、長ずるに及んでいよいよ嘘のかたまりになった。
二十歳の三郎は神妙な内気な青年になっていた。お盆の来るごとに亡き母の思い出を溜息つきながらひとに語り、近所近辺の同情を集めた。三郎は母を知らなかった。彼が生れ落ちるとすぐ母はそれと交代に死んだのである。いまだかつて母を思ってみたことさえなかったのである。いよいよ嘘が上手になった。黄村のところへ教えを受けに来ている二、三の書生たちに手紙の代筆をしてやった。親元へ送金を願う手紙を最も得意としていた。たとえばこんな工合いであった。謹啓、よもの景色云々と書きだして、御尊父様には御変りもこれなく候や、と虚心にお伺い申しあげ、それからすぐ用事を書くのであった。はじめお世辞たらたら書き認《したた》めて、さて、金を送って下されと言いだすのは下手なのであった。はじめのたらたらのお世辞がその最後の用事の一言でもって瓦解し、いかにもさもしく汚く見えるものである。それゆえ、勇気を出して少しも早くひと思いに用事にとりかかるのであった。なるべく簡明なほうがよい。このたびわが塾において詩経の講義がはじまるのであるが、この教科書は坊間の書《しよ》肆《し》より求むれば二十二円である。けれども黄村先生は書生たちの経済力を考慮し直接に支那へ注文して下さることと相成った。実費十五円八十銭である。この機を逃がすならば少しの損をするゆえ早速に申し込もうと思う。大急ぎで十五円八十銭を送っていただきたいというような案配であった。そのつぎにおのれの近況のそれも些《さ》々《さ》たる茶飯事を告げる。昨日わが窓より外を眺めていたら、たくさんの烏《からす》が一羽の鳶《とび》とたたかい、まことに勇壮であった、とか、一昨日、墨《ぼく》堤《てい》を散歩し奇妙な草花を見つけた、花瓣は朝顔に似て小さく豌《えん》豆《どう》に似て大きくいろ赤きに似て白く珍らしきものゆえ、根ごと抜きとり持ちかえってわが部屋の鉢に移し植えた、とかいうようなことを送金の請求もなにも忘れてしまったかのようにのんびりと書き認めるのであった。尊父はこの便りに接して、わが子の平静な心境を思いおのれのあくせくした心を恥じ、微笑んで送金をするのである。三郎の手紙は事実そのようにうまくいった。書生たちは、われもわれもと三郎に手紙の代筆、もしくは口述をたのんだのである。金が来ると書生たちは三郎を誘って遊びに出かけ、一文もあますところなく使った。黄村の塾はそろそろと繁栄しはじめた。噂を聞いた江戸の書生たちは、若先生から手紙の書きかたをこっそり教わりたい心から黄村に教えを求めたのである。
三郎は思案した。こんなに日に幾十人ものひとの手紙の代筆をしてやったり口述をしてやったりしていたのではとても煩に堪えぬ。いっそ上《じよう》梓《し》しようか。どうしたなら親元からたくさんの金を送ってもらえるか、これを一冊の書物にして出版しようと考えたのである。けれどもこの出版に当ってはひとつのさしさわりがあることに気づいた。その書物を親元が購い熟読したなら、どういうことになるであろう。なにやら罪ふかい結果が予想できるのであった。三郎はこの書物の出版をやめなければならなかった。書生たちの必死の反対があったからでもあった。それでも三郎は著述の決意だけはまげなかった。そのころ江戸で流行の洒落《しやれ》本《ぼん》を出版することにした。ほほ、うやまってもうす、というような書きだしであとうかぎりの悪ふざけとごまかしを書くことであって、三郎の性格に全くぴたりと合っていたのである。彼が二十二歳の時酔い泥屋滅茶滅茶先生という筆名で出版した二、三の洒落本は思いのほかに売れた。ある日、三郎は父の蔵書のなかに彼の洒落本中の傑作「人間万事嘘は誠」一巻がまじっているのを見て、何気なさそうに黄村に尋ねた。滅茶滅茶先生の本はよい本ですか。黄村はにがり切って答えた。よくない。三郎は笑いながら教えた。あれは私の匿名ですよ。黄村は狼狽を見せまいとして高いせきばらいを二つ三つして、それからあたりをはばかるような低い声で問うた。なんぼもうかったかの。
傑作「人間万事嘘は誠」のあらましの内容は、嫌厭先生という年わかい世のすねものが面白おかしく世の中を渡ったことの次第を叙したものであって、たとえば嫌厭先生が花柳の巷に遊ぶにしてもあるいは役者といつわりあるいはお大尽を気取りあるいはお忍びの高貴のひとのふりをする。そのいかさまごとがあまりにも工夫に富みほとんど真に近く芸者末社もそれを疑わず、はては彼自身も疑わず、それは決して夢ではなく現在たしかに、一夜にして百万長者になりまた一朝めざむれば世にかくれなき名優となり面白おかしくその生涯を終るのである。死んだとたんにむかしの無一文の嫌厭先生にかえるというようなことが書かれていた。これはいわば三郎の私小説であった。二十二歳をむかえたときの三郎の嘘はすでに神に通じ、おのれがこうといつわるときにはすべて真実の黄金に化していた。黄村のまえではあくまで内気な孝行者に、塾に通う書生のまえでは恐ろしい訳知りに、花柳の巷ではすなわち団十郎、なにがしのお殿様、なんとか組の親分、そうしてその辺に些少の不自然も嘘もなかった。
そのあくるとしに父の黄村が死んだ。黄村の遺書にはこういう意味の事《こと》柄《がら》が書かれていた。わしは嘘つきだ。偽善者だ。支那の宗教から心が離れれば離れるほどそれに心服した。それでも生きて居れたのは、母親のないわが子への愛のためであろう。わしは失敗したが、この子は成功させたかったが、この子も失敗しそうである。わしはこの子にわしが六十年かかってためた粒々の小銭、五百文を全部残らず与えるものである。三郎はその遺書を読んでしまってから顔を蒼くして薄笑いを浮かべ、二つに引き裂いた。それをまた四つに引き裂いた。さらに八つに引き裂いた。空腹を防ぐために子への折檻をひかえた黄村、子の名声よりも印税が気がかりでならぬ黄村、近所からは土台下に黄金の一ぱいつまった甕《かめ》を隠していると囁かれた黄村が、五百文の遺産を残して大往生をした。嘘の末路だ。三郎は嘘の最後っ屁の我慢できぬ悪臭をかいだような気がした。
三郎は父の葬儀を近くの日蓮宗のお寺でいとなんだ。ちょっと聞くと野蛮なリズムのように感ぜられる和尚のめった打ちに打ち鳴らす太鼓の音も、耳傾けてしばらく聞いていると、そのリズムの中にどうしようもない憤怒と焦慮とそれを茶化そうというやけくそなお道化とを聞きとることができたのである。紋服を着て数珠を持ち十人あまりの塾生のまんなかに背を丸くして坐って、三尺ほど前方の畳のへりを見つめながら三郎は考える。嘘は犯罪から発散する音無しの屁だ。自分の嘘も、幼いころの人殺しから出発した。父の嘘も、おのれの信じきれない宗教をひとに信じさせた大犯罪から絞り出された。重苦しくてならぬ現実を少しでも涼しくしようとして嘘をつくのだけれども、嘘は酒とおなじようにだんだんと適量がふえて来る。次第次第に濃い嘘を吐いていって、切《せつ》磋《さ》琢《たく》磨《ま》され、ようやく真実の光りを放つ。これは私ひとりの場合に限ったことではないようだ。人間万事嘘は誠。ふとその言葉がいまはじめて皮膚にべっとりくっついて思い出され、苦笑した。ああ、これは滑稽の頂点である。黄村の骨をていねいに埋めてやってから三郎はひとつ今日より嘘のない生活をしてやろうと思いたった。みんな秘密の犯罪を持っているのだ。びくつくことはない。ひけめを感ずることはない。
嘘のない生活。その言葉からしてすでに嘘であった。美《よ》きものを美《よ》しと言い、悪《あ》しきものを悪《あ》しという。それも嘘であった。だいいち美《よ》きものを美《よ》しと言いだす心に嘘があろう。あれも汚い、これも汚い、と三郎は毎夜ねむられぬ苦しみをした。三郎はやがてひとつの態度を見つけた。無意志無感動の痴呆の態度であった。風のように生きることである。三郎は日常の行動をすべて暦にまかせた。暦のうらないにまかせた。たのしみは、夜夜、夢を見ることであった。青草の景色もあれば、胸のときめく娘もいた。
ある朝、三郎はひとりで朝食をとっていながらふと首を振って考え、それからぱちっと箸をお膳のうえに置いた。立ちあがって部屋をぐるぐる三度ほどめぐり歩き、それから懐手して外へ出た。無意志無感動の態度がうたがわしくなったのである。これこそ嘘の地獄の奥山だ。意識して努めた痴呆がなんで嘘でないことがあろう。つとめればつとめるほど私は嘘の上塗りをして行く。勝手にしやがれ。無意識の世界。三郎は朝っぱらから居酒屋へ出かけたのである。
縄のれんをはじいて中へはいると、この早朝に、もうはや二人の先客があった。驚くべし、仙術太郎と喧嘩次郎兵衛の二人であった。太郎は卓の東南の隅にいて、そのしもぶくれのもち肌の頬を酔いでうす赤く染め、たらりと下った口髭をひねりひねり酒を呑んでいた。次郎兵衛はそれと相対して西北の隅に陣どり、むくんだ大きい顔に油をぎらぎら浮かせ、杯を持った左手をうしろから大廻しにゆっくり廻して口もとへ持っていって一口のんでは杯を目の高さにささげたまましばらくぼんやりしているのである。三郎は二人のまんなかに腰をおろして酒を呑みはじめた。三人はもとより旧知の間柄ではない。太郎は細い眼を半分とじながら、次郎兵衛は一分間ほどかかってゆったりと首をねじむけながら、三郎はきょろきょろ落ちつかぬ狐の眼つきを使いながら、それぞれほかの二人の有様を盗み見していたわけである。酔いがだんだん発して来るにつれて三人は少しずつ相寄った。三人のこらえにこらえた酔いが一時に爆発したとき三郎がまず口を切った。こうして一緒に朝から酒を呑むのも何かの縁だと思います。ことにも江戸を半丁あるくと他郷だと言われるほどの混みあったところなのに、こうしてせまい居酒屋に同日同時刻に落ち合せたというのは不思議なくらいです。太郎は大きいあくびをしてから、のろのろ答えた。おれは酒が好きだから呑むのだよ。そんなに人の顔を見るなよ。そう言って手拭いで頬被りした。次郎兵衛は卓をとんとたたいて卓のうえにさしわたし三寸くらい深さ一寸くらいのくぼみをこしらえてから答えた。そうだ。縁と言えば縁じゃ。おれはいま牢屋から出て来たばかりだよ。三郎は尋ねた。どうして牢屋へはいったのです。それは、こうじゃ。次郎兵衛は奥のしれぬようなぼそぼそ声でおのれの半生を語りだした。語り終えてから涙を一滴、杯の酒のなかに落としてぐっと呑みほした。三郎はそれを聞いてしばらく考えごとをしてから、なんだか兄者人のような気がすると前置きをして、それから自身の半生を、嘘にならないように嘘にならないように気にしいしい一節ずつ口《く》切《ぎ》って語りだしたのである。それをしばらく聞いているうちに次郎兵衛は、おれにはどうも判らんじゃ、と言ってうとうと居眠りをはじめた。けれども太郎は、それまでは退屈そうにあくびばかりしていたのを、やがて細い眼をはっきりひらいて聞き耳をたてはじめたのである。話が終ったとき、太郎は頬被りをたいぎそうにとって、三郎さんとか言ったが、あなたの気持ちはよく判る。おれは太郎と言って津軽のもんです。二年まえからこうして江戸へ出てぶらぶらしています。聞いて下さるか、とやはり眠たそうな口調で自分のいままでの経歴をこまごまと語って聞かせた。だしぬけに三郎は叫んだ。判ります、判ります。次郎兵衛はその叫び声のために眼をさましてしまった。濁った眼をぼんやりあけて、何事ですか、と三郎に尋ねた。三郎はおのれの有頂天に気づいて恥かしく思った。有頂天こそ嘘の結晶だ、ひかえようと無理につとめたけれど、酔いがそうさせなかった。三郎のなまなかの抑制心がかえって彼自身にはねかえって来て、もうはややけくそになり、どうにでもなれと口から出まかせの大嘘を吐いた。私たちは芸術家だ。そういう嘘を言ってしまってから、いよいよ嘘に熱が加わって来たのであった。私たち三人は兄弟だ。きょうここで逢ったからには、死ぬるとも離れるでない。いまにきっと私たちの天下が来るのだ。私は芸術家だ。仙術太郎氏の半生と喧嘩次郎兵衛氏の半生とそれから僭《せん》越《えつ》ながら私の半生と三つの生きかたの模範を世人に書いて送ってやろう。かまうものか。嘘の三郎の嘘の火焔はこのへんからその極点に達した。私たちは芸術家だ。王侯といえども恐れない。金銭もまたわれらにおいて木葉のごとく軽い。
玩 具
どうにかなる。どうにかなろうと一日一日を迎えてそのまま送っていって暮しているのであるが、それでも、なんとしても、どうにもならなくなってしまう場合がある。そんな場合になってしまうと、私は糸の切れた紙凧のようにふわふわ生家へ吹きもどされる。普段着のまま帽子もかぶらず東京から二百里はなれた生家の玄関へ懐手して静かにはいるのである。両親の居間の襖をするするあけて、敷居のうえに佇《ちよ》立《りつ》すると、虫眼鏡で新聞の政治面を低く音読している父も、そのかたわらで裁縫をしている母も、顔つきを変えて立ちあがる。ときに依っては、母はひいという絹布を引き裂くような叫びをあげる。しばらく私のすがたを見つめているうちに、私には面皰《にきび》もあり、足もあり、幽霊でないということが判って、父は憤怒の鬼と化し、母は泣き伏す。もとより私は、東京を離れた瞬間から、死んだふりをしているのである。どのような悪罵を父から受けても、どのような哀訴を母から受けても、私はただ不可解な微笑でもって応ずるだけなのである。針の筵《むしろ》に坐った思いとよく人は言うけれども、私は雲霧の筵に坐った思いで、ただぼんやりしているのである。
ことしの夏も、同じことであった。私には三百円、かけねなしには二百七十五円、それだけが必要であったのである。私は貧乏が嫌いなのである。生きている限りは、ひとに御馳走をし、伊《だ》達《て》な着物を着ていたいのである。生家には五十円と現金がない。それも知っている。けれども私は生家の土蔵の奥隅になお二、三十個のたからもののあることをも知っている。私はそれを盗むのである。私はすでに三度、盗みを繰り返し、ことしの夏で四度目である。
ここまでの文章には私はゆるがぬ自負を持つ。困ったのは、ここからの私の姿勢である。
私はこの玩具という題目の小説において、姿勢の完璧を示そうか、情念の模範を示そうか。けれども私は抽象的なものの言いかたをあとう限り、ぎりぎりにつつしまなければいけない。なんとも、果てしがつかないからである。一こと理屈を言いだしたら最後、あとからあとから、まだまだと前言を追いかけていって、とうとう千万言の註釈。そうして跡にのこるものは、頭痛と発熱と、ああ莫迦なことを言ったという自責。つづいて糞甕に落ちて溺死したいという発作。
私を信じなさい。
私はいまこんな小説を書こうと思っているのである。私というひとりの男がいて、それがあるなんでもない方法によって、おのれの三歳二歳一歳のときの記憶を蘇らす。私はその男の三歳二歳一歳の思い出を叙述するのであるが、これは必ずしも怪奇小説でない。赤児の難解に多少の興を覚え、こいつをひとつと思って原稿用紙をひろげただけのことである。それゆえこの小説の臓腑といえば、あるひとりの男の三歳二歳一歳の思い出なのである。その余のことは書かずともよい。思い出せば私が三つのとき、というような書きだしから、だらだらと思い出話を書き綴っていって、二歳一歳、しまいにはおのれの誕生のときの思い出を叙述し、それからおもむろに筆を擱《お》いたら、それでよいのである。けれどもここに、姿勢の完璧を示そうか、情念の模範を示そうか、という問題がすでに起っている。姿勢の完璧というのは、手《て》管《くだ》のことである。相手をすかしたり、なだめたり、もちろんちょいちょい威《おど》したりしながら話をすすめ、ああよいころおいだなと見てとったなら、何かしら意味ふかげな一言とともにふっとおのが姿を掻き消す。いや、全く掻き消してしまうわけではない。素早く障子のかげに身をひそめてみるだけなのである。やがて障子のかげから無邪気な笑顔を現わしたときには、相手のからだは意のままになる状態に在るであろう。手管というのは、たとえばこんな工合いの術のことであって、ひとりの作家の真摯な精進の対象である。私もまた、そのような手管はいやでなく、この赤児の思い出話にひとつ巧みな手管を用いようと企てたのである。
ここらで私は、私の態度をはっきりきめてしまう必要がある。私の嘘がそろそろ崩れかけて来たのを感じるからである。私は姿勢の完璧からだんだん離れていっているように見せつけながら、いつまたそれに返っていっても怪我のないように用心に用心を重ねながら筆を運んで来たのである。書きだしの数行をそのまま消さずに置いたところからみても、すぐにそれと察しがつくはずである。しかもその数行を、ゆるがぬ自負を持つなどという金色の鎖でもって読者の胸にむすびつけて置いたことは、これこそなかなかの手管でもあろう。事実、私は返るつもりでいた。はじめに少し書きかけて置いたあのようなひとりの男が、どうしておのれの三歳二歳一歳のときの記憶を取り戻そうと思いたったか、どうして記憶を取り戻し得たか、なお、その記憶を取り戻したばかりに男はどんな目に逢ったか、私はそれらをすべて用意していた。それらを赤児の思い出話のあとさきに附け加えて、そうして姿勢の完璧と、情念の模範と、二つながら兼ね具えた物語を創作するつもりでいた。
もはや私を警戒する必要はあるまい。
私は書きたくないのである。
書こうか。私の赤児のときの思い出だけでもよいのなら、一日にたった五、六行ずつ書いていってもよいのなら、君だけでも丁寧に丁寧に読んで呉れるというのなら。よし。いつ成るとも判らぬこのやくざな仕事の首途《かどで》を祝い、君とふたりでつつましく乾杯しよう。仕事はそれからである。
私は生れてはじめて地べたに立ったときのことを思い出す。雨あがりの青空。雨あがりの黒土。梅の花。あれは、きっと裏庭である。女のやわらかい両手が私のからだをそこまで運びだし、そうして、そっと私を地べたに立たせた。私は全く平気で、二歩か、三歩、あるいた。だしぬけに私の視覚が地べたの無限の前方へのひろがりを感じ捕り、私の両足の裏の触覚が地べたの無限の深さを感じ捕り、さっと全身が凍りついて、尻餅ついた。私は火がついたように泣き喚いた。我慢できぬ空腹感。
これらはすべて嘘である。私はただ、雨後の青空にかかっていたひとすじのほのかな虹を覚えているだけである。
ものの名前というものは、それがふさわしい名前であるなら、よし聞かずとも、ひとりでに判って来るものだ。私は、私の皮膚から聞いた。ぼんやり物象を見つめていると、その物象の言葉が私の肌をくすぐる。たとえば、アザミ。わるい名前は、なんの反応もない。いくど聞いても、どうしても呑みこめなかった名前もある。たとえば、ヒト。
私が二つのときの冬に、いちど狂った。小豆粒くらいの大きさの花火が、両耳の奥底でぱちぱち爆《は》ぜているような気がして、思わず左右の耳を両手で覆った。それきり耳が聞えずなった。遠くを流れている水の音だけがときどき聞えた。涙が出て出て、やがて眼玉がちかちか痛み、しだいにあたりの色が変っていった。私は、眼に色ガラスのようなものでもかかったのかと思い、それをとりはずそうとして、なんどもなんども目《ま》蓋《ぶた》をつまんだ。私は誰かのふところの中にいて囲《い》炉《ろ》裏《り》の焔を眺めていた。焔は、みるみるまっくろになり、海の底で昆布の林がうごいているような奇態なものに見えた。緑の焔はリボンのようで、黄色い焔は宮殿のようであった。けれども、私はおしまいに牛乳のような純白な焔を見たとき、ほとんど我を忘却した。「おや、この子はまたおしっこ。おしっこをたれるたんびに、この子はわなわなふるえる」誰かがそう呟いたのを覚えている。私は、こそばゆくなり胸がふくれた。それはきっと帝王のよろこびを感じたのだ。「僕はたしかだ。誰も知らない」軽蔑ではなかった。
同じようなことが、二度あった。私はときたま玩具と言葉を交した。木枯しがつよく吹いている夜更けであった。私は、枕元のだるまに尋ねた。「だるま、寒くないか」だるまは答えた。「寒くない」私はかさねて尋ねた。「ほんとうに寒くないか」だるまは答えた。「寒くない」「ほんとうに」「寒くない」傍に寝ている誰かが私たちを見て笑った。「この子はだるまがお好きなようだ。いつまでも黙ってだるまを見ている」
おとなたちが皆、寝しずまってしまうと、家じゅうを四、五十の鼠が駈けめぐるのを私は知っている。たまには、四、五匹の青大将が畳のうえを這いまわる。おとなたちは、鼻音をたてて眠っているので、この光景を知らない。鼠や青大将が寝床のなかにまではいって行くのであるが、おとなたちは知らない。私は夜、いつも全く眼をさましている。昼間、みんなの見ている前で、少し眠る。
私は誰にも知られずに狂い、やがて誰にも知られずに直っていた。
それよりもまだ小さかったころのこと。麦畑の麦の穂のうねりを見るたびごとに思い出す。私は麦畑の底の二匹の馬を見つめていた。赤い馬と黒い馬。たしかに努めていた。私は力を感じたので、その二匹の馬が私をすぐ身近に放置してきっぱりと問題外にしている無礼に対し、不満を覚える余裕さえなかった。
もう一匹の赤い馬を見た。あるいは同じ馬であったかも知れぬ。針仕事をしていたようであった。しばらくしては立ちあがり、はたはたと着物の前をたたくのだ。糸屑を払い落とすためであったかも知れぬ。からだをくねらせて私の片頬へ縫針を突き刺した。「坊や、痛いか。痛いか」私には痛かった。
私の祖母が死んだのは、こうしてさまざまに指折りかぞえながら計算してみると、私の生後八か月目のころのことである。このときの思い出だけは、霞が三角形の裂け目を作って、そこから白昼の透明な空がだいじな肌を覗かせているようにそんな案配にはっきりしている。祖母は顔もからだも小さかった。髪のかたちも小さかった。胡麻粒ほどの桜の花瓣を一ぱいに散らした縮《ちり》緬《めん》の着物を着ていた。私は祖母に抱かれ、香料のさわやかな匂いに酔いながら、上空の鳥の喧嘩を眺めていた。祖母は、あなや、と叫んで私を畳のうえに投げ飛ばした。ころげ落ちながら祖母の顔を見つめていた。祖母は下顎をはげしくふるわせ、二度も三度も真白い歯を打ち鳴らした。やがてころりと仰向きに寝ころがった。おおぜいのひとたちは祖母のまわりに馳《は》せ集《つど》い、一斉に鈴虫みたいな細い声を出して泣きはじめた。私は祖母とならんで寝ころがりながら、死人の顔をだまって見ていた。臈《ろう》たけた祖母の白い顔の、額の両端から小さい波がちりちりと起り、顔一めんにその皮膚の波がひろがり、みるみる祖母の顔を皺だらけにしてしまった。人は死に、皺はにわかに生き、うごく。うごきつづけた。皺のいのち。それだけの文章。そろそろと堪えがたい悪臭が祖母の懐の奥から這い出た。
いまもなお私の耳《じ》朶《だ》をくすぐる祖母の子守歌。「狐の嫁入り、婿さん居ない」その余の言葉はなくもがな。(未完)
陰 火
誕 生
二十五の春、そのひしがたの由緒ありげな学帽を、たくさんの希望者の中でとくにへどもどとまごつきながら願い出たひとりの新入生へ、くれてやって、帰郷した。鷹の羽の定紋うった軽い幌馬車は、若い主人を乗せて、停車場から三里のみちを一散にはしった。からころと車輪が鳴る。馬具のはためき、駅者の叱《しつ》咤《た》、蹄鉄のにぶい響、それらにまじって、ひばりの声がいくども聞えた。
北の国では、春になっても雪があった。道だけは一筋くろく乾いていた。田圃の雪もはげかけた。雪をかぶった山脈のなだらかな起伏も、むらさきいろに萎《な》えていた。その山脈の麓、黄いろい材木の積まれているあたりに、低い工場が見えはじめた。太い煙突から晴れた空へ煙が青くのぼっていた。彼の家である。新しい卒業生は、ひさしぶりの故郷の風景に、ものうい瞳をそっと投げたきりで、さもさもわざとらしい小さなあくびをした。
そうして、そのとしには、彼はおもに散歩をして暮した。彼のうちの部屋部屋をひとつひとつ廻って歩いて、そのおのおのの部屋の香をなつかしんだ。洋室は薬草の臭気がした。茶の間は牛乳。客間には、なにやら恥かしい匂いが。彼は、表二階や裏二階や、離れ座敷にもさまよい出た。いちまいの襖をするするとあけるたびごとに、彼のよごれた胸が幽《かす》かにときめくのであった。それぞれの匂いはきっと彼に都のことを思い出させたからである。
彼は家のなかだけでなく、野原や田圃をもひとりで散歩した。野原の赤い木の葉や田圃の浮藻の花は彼も軽蔑して眺めることができたけれど、耳をかすめて通る春の風と、ひくく騒いでいる秋の満目の稲田とは、彼の気にいっていた。
寝てからも、むかし読んだ小型の詩集や、真紅の表紙に黒いハンマアの画かれてあるような、そんな書物を枕元に置くことは、めったになかった。寝ながら電気スタンドを引き寄せて、両のてのひらを眺めていた。手相に凝っていたのである。掌にはたくさんのこまかい皺がたたまれていた。そのなかに三本の際だって長い皺が、ちりちりと横に並んではしっていた。この三つのうす赤い鎖が彼の運命を象徴しているというのであった。それに依れば、彼は感情と智能とが発達していて、生命は短いということになっていた。おそくとも二十代に死ぬるというのである。
その翌る年、結婚をした。べつに早いとも思わなかった。美人でさえあれば、と思った。華やかな婚礼があげられた。花嫁は近くのまちの造り酒屋の娘であった。色が浅黒くて、なめらかな頬にはうぶ毛さえ生えていた。編物を得意としていた。ひとつきほどは彼も新妻をめずらしがった。
そのとしの、冬のさなかに父は五十九で死んだ。父の葬儀は雪の金色に光っている天気のいい日に行われた。彼は袴のももだちをとり、藁《わら》靴《ぐつ》はいて、山のうえの寺まで十町ほどの雪道をぱたぱた歩いた。父の柩《ひつぎ》は輿《こし》にのせられて彼のうしろへついて来た。そのあとには彼の妹ふたりがまっ白いヴエルで顔をつつんで立っていた。行列は長くつづいていた。
父が死んで彼の境遇は一変した。父の地位がそっくり彼に移った。それから名声も。
さすがに彼はその名声にすこし浮わついた。工場の改革などをはかったのである。そうして、いちどでこりこりした。手も足も出ないのだとあきらめた。支配人にすべてをまかせた。彼の代になって、かわったのは、洋室の祖父の肖像画がけしの花の油画と掛けかえられたことと、まだある、黒い鉄の門のうえにフランス風の軒燈をぼんやり灯した。
すべてが、もとのままであった。変化は外からやって来た。父にわかれて二年目の夏のことであった。そのまちの銀行の様子がおかしくなったのである。もしものときには、彼の家も破産せねばいけなかった。
救済のみちがどうやらついた。しかし、支配人は工場の整理をもくろんだのである。そのことが使用人たちを怒らせた。彼には、永いあいだ気にかけていたことが案外はやく来てしまったような心地がした。奴らの要求をいれさせてやれ、と彼はわびしいよりもむしろ腹立たしい気持ちで支配人に言いつけた。求められたものは与える。それ以上は与えない。それでいいだろう? と彼は自身のこころに尋ねた。小規模の整理がつつましく行われた。
そのころから寺を好き始めた。寺は、すぐ裏の山のうえでトタンの屋根を光らせていた。彼はそこの住職と親しくした。住職は痩せ細って老いぼれていた。けれども右の耳朶がちぎれていて黒い痕をのこしているので、ときどき凶悪な顔にも見えた。夏の暑いまさかりでも、彼は長い石段をてくてくのぼって寺へかようのである。庫《く》裡《り》の縁先には夏草が高くしげっていて、鶏頭の花が四つ五つ咲いていた。住職はたいてい昼寝をしていたのであった。彼はその縁先からもしもしと声をかけた。時々とかげが縁の下から青い尾を振って出て来た。
彼はきょうもんの意味に就いて住職に問うのであった。住職はちっとも知らなかった。住職はまごついてから、あはははと声を立てて笑うである。彼もほろにがく笑ってみせた。それでよかった。ときたま住職へ怪談を所望した。住職は、かすれた声で二十いくつの怪談をつぎつぎと語って聞かせた。この寺にも怪談があるだろう、と追及したら、住職は、とんとない、と答えた。
それから一年すぎて、彼の母が死んだ。彼の母は父の死後、彼に遠慮ばかりしていた。あまりおどおどして、命をちぢめたのである。母の死とともに彼は寺を厭いた。母が死んでから初めて気がついたことだけれども、彼の寺沙汰は、母への奉仕を幾分ふくめていたのであった。
母に死なれてからは、彼は小家族のわびしさを感じた。妹ふたりのうち、上のは、隣のまちの大きい割《かつ》烹《ぽう》店《てん》へとついでいた。下のは、都の、体操のさかんなある私立の女学校へかよっていて、夏冬の休暇のときに帰郷するだけであった。黒いセルロイドの眼鏡をかけていた。彼らきょうだい三人とも、眼鏡をかけていたのである。彼は鉄ぶちを掛けていた。姉妹は細い金ぶちであった。
彼はとなりまちへ出て行ってあそんだ。自分の家のまわりでは心がひけて酒もなんにも飲めなかった。となりのまちではささやかな醜聞をいくつも作った。やがてそれにも疲れた。
子供がほしいと思った。少くとも、子供は妻との気まずさを救えると考えた。彼には妻のからだがさかなくさくてかなわなかった。鼻に附いたのである。
三十になって、少しふとった。毎朝、顔を洗うときに両手へ石鹸をつけて泡をこしらえていると、手の甲が女のみたいにつるつる滑った。指先が煙草のやにで黄色く染まっていた。洗っても洗っても落ちないのだ。煙草の量が多すぎたのである。一日にホープを七箱ずつ吸っていた。
そのとしの春に、妻が女の子を出産した。その二年ほどまえ、妻が都の病院におよそひとつきも秘密な入院をしたのであった。
女の子は、ゆりと呼ばれた。ふた親に似ないで色が白かった。髪がうすくて、眉毛はないのと同じであった。腕と脚が、気品よく細長かった。生後二箇月目には、体重が五キログラム、身長が五十八センチほどになって、ふつうの子より発育がよかった。
生れて百二十日目に大がかりな誕生祝いをした。
紙の鶴
「おれは君とちがって、どうやらおめでたいようである。おれは処女でない妻をめとって、三年間、その事実を知らずにすごした。こんなことは口に出すべきでないかも知れぬ。いまは幸福そうに編物へ熱中している妻に対しても、むざんである。また、世の中のたくさんの夫婦に対しても、いやがらせとなるであろう。しかし、おれは口に出す。君のとりすました顔を、なぐりつけてやりたいからだ。
おれは、ヴァレリイもプルウストも読まぬ。おおかた、おれは文学を知らぬのであろう。知らぬでもよい。おれは別なもっとほんとうのものを見つめている。人間を。人間といういわば市場の蒼蝿を。それゆえにおれにとっては、作家こそすべてである。作品は無である。
どういう傑作でも、作家以上ではない。作家を飛躍し超越した作品というものは、読者の眩惑である。君は、いやな顔をするであろう。読者にインスピレエションを信じさせたい君は、おれの言葉を卑俗とか生《き》野《や》暮《ぼ》とかといやしめるにちがいない。そんならおれは、もっとはっきり言ってもよい。おれは、おれの作品がおれのためになるときだけ仕事をするのである。君がまさしく聡明ならば、おれのこんな態度をこそ鼻で笑えるはずだ。笑えないならば、今後、かしこそうに口まげる癖をよし給え。
おれは、いま、君をはずかしめる意図からこの小説を書こう。この小説の題材は、おれの恥さらしとなるかも知れぬ。けれども、決して君に憐憫の情を求めまい。君より高い立場に拠って、人間のいつわりない苦悩というものを君の横面にたたきつけてやろうと思うのである。
おれの妻は、おれとおなじくらいの嘘つきであった。ことしの秋のはじめ、おれは一篇の小説をしあげた。それは、おれの家庭の仕合せを神に誇った短篇である。おれは妻にもそれを読ませた。妻は、それをひくく音読してしまってから、いいわ、と言った。そうして、おれにだらしない動作をしかけた。おれは、どれほどのろまでも、こういう妻のそぶりの蔭に、ただならぬ気がまえを見てとらざるを得なかったのである。おれは、妻のそんな不安がどこからやって来たのか、それを考えて三夜をついやした。おれの疑惑は、ひとつのくやしい事実にかたまって行くのであった。おれもやはり、十三人目の椅子に坐るべきおせっかいな性格を持っていた。
おれは妻をせめたのである。このことにもまた三夜をついやした。妻は、かえっておれを笑っていた。ときどきは怒りさえした。おれは最後の奸策をもちいた。その短篇には、おれのような男に処女がさずかった歓喜をさえ書きしるされているのであったが、おれはその箇所をとりあげて、妻をいじめたのである。おれはいまに大作家になるのであるから、この小説もこののち百年は世の中にのこるのだ、するとお前は、この小説とともに百年ののちまで嘘つきとして世にうたわれるであろう、と妻をおどかした。無学の妻は、果たしておびえた。しばらく考えてから、とうとうおれに囁いた。たったいちど、と囁いたのである。おれは笑って妻を愛撫した。わかいころの怪我であるゆえ、それはなんでもないことだ、と妻に元気をつけてやって、おれはもっとくわしく妻に語らせるのであった。ああ、妻はしばらくして、二度、と訂正した。それから、三度、と言った。おれはなおも笑いつづけながら、どんな男か、とやさしく尋ねた。おれの知らない名前であった。妻がその男のことを語っているうちに、おれは手段でなく妻を抱擁した。これは、みじめな愛慾である。同時に真実の愛情である。妻は、ついに、六度ほど、と吐きだして声を立てて泣いた。
その翌る朝、妻はほがらかな顔つきをしていた。あさの食卓に向かい合って坐ったとき、妻はたわむれに、両手をあわせておれを拝んだ。おれも陽気に下唇を噛んで見せた。すると妻はいっそうくつろいだ様子をして、くるしい? とおれの顔を覗いたではないか。おれは、すこし、と答えた。
おれは君に知らせてやりたい。どんな永遠のすがたでも、きっと卑俗で生野暮なものだということを。
その日を、おれはどうして過ごしたか、これをも君に教えて置こう。
こんなときには、妻の顔を、妻の脱ぎ捨ての足袋を、妻にかかわり合いのある一切を見てはいけない。妻のそのわるい過去を思い出すからというだけでない。おれと妻との最近までの安楽だった日を追想してしまうからである。その日、おれはすぐ外出した。ひとりの年少の洋画家を訪れることにきめたのである。この友人は独身であった。妻帯者の友人はこの場合ふむきであろう。
おれはみちみち、おれの頭脳がからっぽにならないように警戒した。昨夜のことが入りこむすきのないほど、おれは別の問題について考えふけるのであった。人生や芸術の問題はいくぶん危険であった。ことに文学は、てきめんにあのなまな記憶を呼び返す。おれは途上の植物について頭をひねった。からたちは、灌木である。春のおわりに白色の花をひらく。何科に属するかは知らぬ。秋、いますこし経つと黄いろい小粒の実がなるのだ。それ以上を考えつめると危い。おれはいそいで別な植物に眼を転ずる。すすき。これは禾《か》本《ほん》科《か》に属する。たしか禾本科と教わった。この白い穂は、おばな、というのだ。秋の七草のひとつである。秋の七草とは、はぎ、ききょう、かるかや、なでしこ、それから、おばな。もう二つ足りないけれど、なんであろう。六度ほど。だしぬけに耳へささやかれたのである。おれはほとんど走るようにして、足を早めた。いくたびとなく躓《つまず》いた。この落葉は。いや、植物はよそう。もっと冷いものを。もっと冷いものを。よろめきながらもおれは陣容をたて直したのである。
おれはAプラスBの二乗の公式を心のなかで誦した。そのつぎには、AプラスBプラスCの二乗の公式について、研究した。
君は不思議なおももちを装うておれの話を聞いている。けれども、おれは知っている。おそらくは君も、おれのような災難を受けたときには、いや、もっと手ぬるい問題にあってさえ君の日ごろの高雅な文学論を持てあまして、数学はおろか、かぶと虫いっぴきにさえとりすがろうとするであろう。
おれは人体の内臓器管の名称をいちいち数えあげながら、友人の居るアパアトに足を踏みいれた。
友人の部屋の扉をノックしてから、廊下の東南の隅につるされてある丸い金魚鉢を見あげ、泳いでいる四つの金魚について、その鰭《ひれ》の数をしらべた。友人は、まだ寝ていたのであった。片眼だけをしぶくあけて出て来た。友人の部屋へはいって、おれはようやくほっとした。
いちばん恐ろしいのは孤独である。なにか、おしゃべりをしていると助かる。相手が女だと不安だ。男がよい。とりわけ好人物の男がよい。この友人はこういう条件にかなっている。
おれは友人の近作について饒舌をふるった。それは二十号の風景画であった。彼にしては大作の部類である。水の澄んだ沼のほとりに、赤い屋根の洋館が建っている画であった。友人は、それを内気らしくカンヴァスを裏がえしにして部屋の壁へ寄せかけて置いたのに、おれは、躊躇せずそれをまたひっくりかえして眺めたのである。おれはそのときどんな批判をしたであろうか。もし、君の芸術批評が立派なものであるとしたなら、おれのそのときの批評も、まんざらではなかったようである。なぜと言って、おれもまた君のように、一言なかるべからず式の批評をしたからである。モチイフについて、色彩について、構図について、おれはひとわたり難癖をつけることができた。あとうかぎりの概念的な言葉でもって。
友人はいちいちおれの言うことを承認した。いやいや、おれは初めから友人に言葉をさしはさむ余裕をさえ与えなかったほど、おしゃべりをつづけたのである。
しかし、こういう饒舌も、しんから安全ではない。おれは、ほどよいところで打ち切って、この年少の友に将棋をいどんだ。ふたりは寝床のうえに坐って、くねくねと曲った線のひかれてあるボオル紙に駒をならべ、早い将棋をなんばんとなくさした。友人はときどき永いふんべつをしておれに怒られ、へどもどまごつくのであった。たとえ一瞬時でも、おれは手持ちぶさたな思いをしたくなかったのである。
こんなせっぱつまった心がまえは所詮ながくつづかぬものである。おれは将棋にさえ危機を感じはじめた。ようやく疲労を覚えたのだ。よそう、と言って、おれは将棋の道具をとりのけ、その寝床のなかへもぐり込んだ。友人もおれとならんで仰向けにころがり煙草をふかした。おれは、うっかり者。休止は、おれにとっては大敵なのだ。かなしい影がもうはや、いくどとなくおれの胸をかすめる。おれは、さて、さて、と意味もなく呟いては、その大きい影を追いはらっていた。とてもこのままではならぬ。おれは動いていなければいけないのだ。
君は、これを笑うであろうか。おれは寝床へ腹這いになって、枕元に散らばってあった鼻紙をいちまい拾い、折紙細工をはじめたのである。
まずこの紙を対角線に沿うて二つに折って、それをまた二つに畳んで、こうやって袋を作って、それから、こちらの端を折って、これは翼、こちらの端を折って、これはくちばし、こういう工合いにひっぱって、ここのちいさい孔からぷっと息を吹きこむのである。これは、鶴」
水 車
橋へさしかかった。男はここで引きかえそうと思った。女はしずかに橋を渡った。男も渡った。
女のあとを追ってここまで歩いて来なければいけなかったわけを、男はあれこれと考えてみた。みれんではなかった。女のからだからはなれたとたんに、男の情熱はからっぽになってしまったはずである。女がだまって帰り仕度をはじめたとき、男は煙草に火を点じた。おのれの手のふるえてもいないのに気がついて、男はいっそう白白しい心地がした。そのままほって置いてもよかったのである。男は女と一緒に家を出た。
二人は土堤の細い道を、あとになりさきになりしながらゆっくり歩いた。初夏の夕暮のことである。はこべの花が道の両側にてんてんと白く咲いていた。
憎くてたまらぬ異性にでなければ関心を持てない一群の不仕合せな人たちがいる。男もそうであった。女もそうであった。女はきょうも郊外の男の家を訪れて、男の言葉の一つ一つに訳のわからぬ嘲笑を浴びせたのである。男は、女の執拗な侮辱に対して、いまこそ腕力を用いようと決心した。女もそれを察して身構えた。こういうせっぱつまったわななきが、二人のゆがめられた愛慾をあおりたてた。男の力はちがった形式で行われた。めいめいのからだを取り返したとき、二人はみじんも愛し合っていない事実をはっきり知らされた。
こうやって二人ならんで歩いているが、お互いに妥協の許さぬ反撥を感じていた。以前にました憎悪を。
土堤のしたには、二間ほどのひろさの川がゆるゆると流れていた。男は、薄闇のなかで鈍く光っている水のおもてを見つめながら、また、引きかえそうかしら、と考えた。女は、うつむいたまま道を真直に歩いていた。男は女のあとを追った。
みれんではない。解決のためだ。いやな言葉だけれど、あとしまつのためだ。男は、やっと言いわけを見つけたのである。男は女から十歩ばかり離れて歩きながら、ステッキを振ってみちみちの夏草を薙《な》ぎ倒していた。かんにんして下さい、とひくく女に囁けば、何か月なみの解決がつきそうにも思われる。男はそれも心得ていた。が、言えなかった。だいいち時機がおくれている。これは、その直後にこそ効果のある言葉らしい。ふたりが改めて対陣し直したいまになって、これを言いだすのは、いかにも愚かしくないか。男は青蘆をいっぽん薙ぎ倒した。
列車のとどろきが、すぐ背後に聞えた。女は、ふっと振りむいた。男もいそいで顔をうしろにねじむけた。列車は川下の鉄橋を渡っていた。あかりを灯した客車が、つぎ、つぎ、つぎ、つぎと彼らの眼の前をとおっていった。男は、おのれの背中にそそがれている女の視線をいたいほど感じていた。列車は、もう通り過ぎてしまって、前方の森の蔭からその車輛のひびきが聞えるだけであった。男は、ひと思いに、正面にむき直った。もし女と視線がかち合ったなら、そのときには鼻で笑ってこう言ってやろう。日本の汽車もわるくないね。
女はけれども、よほど遠くをすたすた歩いていたのである。白い水玉をちらした仕立ておろしの黄いろいドレスが、夕闇を透して男の眼にしみた。このままうちへ帰るつもりかしら。いっそ、けっこんしようか。いや、ほんとうはけっこんしないのだが、あとしまつのためそんな相談をしかけてみるのだ。
男はステッキをぴったり小脇にかかえて、はしりだした。女へ近づくにつれて、男の決意がほぐれはじめた。女は痩せた肩をすこしいからせて、ちゃんとした足どりで歩いていた。男は、女の二、三歩うしろまではしって来て、それからのろのろと歩いた。憎悪だけが感ぜられるのだ。女のからだじゅうから、我慢のできぬいやな臭いが流れて出てくるように思われた。
二人はだまって歩きつづけた。道のまんなかにひとむれの川楊が、ぽっかり浮かんだ。女はその川楊の左側を歩いた。男は右側をえらんだ。
逃げよう。解決もなにも要らぬ。おれが女の心に油ぎった悪党として、つまりふつうの男として残ったとて、構わぬ。どうせ男はこういうものだ。逃げよう。
川楊のひとむれを通り越すと、二人は顔を合せずに、またより添って歩いた。たったひとこと言ってやろうか。おれは口外しないよ、と。男は片手で袂の煙草をさぐった。それとも、こう言ってやろうか。令嬢の生涯にいちど、奥様の生涯にいちど、それから、母親の生涯にいちど、誰にもあることです。よいけっこんをなさい。すると、この女はなんと答えるであろう。ストリンドベリイ《*》? と反問してくるにちがいない。男はマッチをすった。女の蒼黒い片頬がゆがんだまま男のつい鼻の先に浮かんだ。
とうとう男は立ちどまった。女も立ちどまった。お互いに顔をそむけたまま、しばらく立ちつくしていたのである。男は女が泣いてもいないらしいのをいまいましく思いながら、わざと気軽そうにあたりを見廻した。じき左側に男の好んで散歩に来る水車小屋があった。水車は闇のなかでゆっくりゆっくりまわっていた。女は、くるっと男に背をむけて、また歩きだした。男は煙草をくゆらしながら踏みとどまった。呼びとめようとしないのだ。
九月二十九日の夜更けのことであった。あと一日がまんをして十月になってから質屋へ行けば、利子がひと月分もうかると思ったので、僕は煙草ものまずにその日いちにち寝てばかりいた。昼のうちにたくさん眠った罰で、夜は眠れないのだ。夜の十一時半ころ、部屋の襖がことことと鳴った。風だろうと思っていたのだが、しばらくして、またことことと鳴った。おや、誰か居るのかなとも思われ、蒲団から上半身をくねくねはみ出させて腕をのばし襖をあけてみたら、若い尼が立っていた。
中肉のやや小柄な尼であった。頭は青青していて、顔全体は卵のかたちに似ていた。頬は浅黒く、粉っぽい感じであった。眉は地蔵さまの三日月眉で、眼は鈴をはったようにぱっちりしていて、睫《まつげ》がたいへん長かった。鼻はこんもりともりあがって小さく、両唇はうす赤くて少し大きく、紙いちまいの厚さくらいあいていてそのすきまから真白い歯《は》列《ならび》が見えていた。こころもち受け口であった。墨染めのころもは糊つけしてあるらしく折目折目がきっちりとたっていて、いくらか短かめであった。脚が三寸くらい見えていて、そのゴム毬みたいにふっくりふくらんだ桃いろの脚にはうぶ毛が薄く生えそろい、足頸が小さすぎる白足袋のためにきつくしめつけられて、くびれていた。右手には青玉の数《じゆ》珠《ず》を持ち、左手には朱いろの表紙の細長い本を持っていた。
僕は、ああ妹だなと思ったので、おはいりと言った。尼は僕の部屋へはいり、静かにうしろの襖をしめ、木綿の固いころもにかさかさと音を立てさせながら、僕の枕元まで歩いて来て、それから、ちゃんと坐った。僕は蒲団の中へもぐりこみ、仰向けに寝たままで尼の顔をまじまじと眺めた。だしぬけに恐怖が襲った。息がとまって、眼さきがまっくらになった。
「よく似ているが、あなたは妹じゃないのですね」はじめから僕には妹などなかったのだな、とそのときはじめて気がついた。「あなたは、誰ですか」
尼は答えた。
「私はうちを間違えたようです。仕方がありません。同じようなものですものね」
恐怖がすこしずつ去っていった。僕は尼の手を見ていた。爪が二分ほども伸びて、指の節は黒くしなびていた。
「あなたの手はどうしてそんなに汚いのです。こうして寝ながら見ていると、あなたの喉や何かはひどくきれいなのに」
尼は答えた。
「汚いことをしたからです。私だって知っています。だからこうして数珠やお経の本で隠そうとしているのです。私は色の配合のために数珠とお経の本とを持って歩いているのです。黒いころもには青と朱の二色がよくうつって、私のすがたもまさって見えます」そう言いながら、お経の本のペエジをぱらぱらめくった。「読みましょうか」
「ええ」僕は眼をつぶった。
「おふみさまです。夫《ソレ》人《ニン》間《ゲン》の浮《フ》生《ジヨウ》ナル相《ソウ》ヲツラツラ観ズルニ、オオヨソハカナキモノハ、コノ世ノ始《シ》中《チユウ》終《ジユウ》マボロシノゴトクナル一《イチ》期《ゴ》ナリ、――てれくさくて読まれるものか。べつなのを読みましょう。夫《ソレ》女《ニヨ》人《ニン》ノ身ハ、五《ゴ》障《シヨウ》三《サン》従《シヨウ》トテ、オトコニマサリテ、カカルフカキツミノアルナリ、コノユエニ一《イツ》切《サイ》ノ女《ニヨ》人《ニン》ヲバ、――馬鹿らしい」
「いい声だ」僕は眼をつぶったままで言った。「もっとつづけなさいよ。僕は一日一日、退屈でたまらないのです。誰ともわからぬひとの訪問を驚きもしなければ好奇心も起さず、なんにも聞かないで、こうして眼をつぶってらくらくと話し合えるということが、僕もそんな男になれたということが、うれしいのです。あなたは、どうですか」
「いいえ。だって、仕方がありませんもの。お伽《とぎ》噺《ばなし》がおすきですか」
「すきです」
尼は語りはじめた。
「蟹の話をいたしましょう。月夜の蟹の痩せているのは、砂浜にうつるおのが醜い月影におびえ、終夜ねむらず、よろばい歩くからであります。月の光のとどかない深い海の、ゆらゆら動く昆布の森のなかにおとなしく眠り、竜宮の夢でも見ている態度こそゆかしいのでしょうけれども、蟹は月にうかされ、ただ砂浜へ砂浜へとあせるのです。砂浜へ出るや、たちまちおのが醜い影を見つけ、おどろき、かつはおそれるのです。ここに男あり、ここに男あり、蟹は泡をふいてそう呟き呟きよろばい歩くのです。蟹の甲《こう》羅《ら》はつぶれやすい。いいえ、形からして、つぶされるようにできています。蟹の甲羅のつぶれるときには、くらっしゅという音が聞えるそうです。むかし、いぎりすのある大きい蟹は、生れながらに甲羅が赤くて美しかった。この蟹の甲羅は、いたましくもつぶされかけました。それは民衆の罪なのでしょうか。またはかの大蟹のみずからまねいたむくいなのでしょうか。大蟹は、ひと日その白い肉のはみ出た甲羅をせつなげにゆさぶり、とあるカフエへはいったのでした。カフエには、たくさんの小蟹がむれつどい、煙草をくゆらしながら女の話をしていました。そのなかの一匹、ふらんす生れの小蟹は、澄んだ眼をして、かの大蟹のすがたをみつめました。その小蟹の甲羅には、東洋的な灰色のくすんだ縞がいっぱいに交錯していました。大蟹は、小蟹の視線をまぶしそうにさけつつ、こっそり囁いたというのです。『おまえ、くらっしゅされた蟹をいじめるものじゃないよ』ああ、その大蟹に比較すれば、小さくて小さくて、見るかげもないまずしい蟹が、いま北方の海原から恥を忘れてうかれ出た。月の光にみせられたのです。砂浜へ出てみて、彼もまたおどろいたのでした。この影は、このひらべったい醜い影は、ほんとうにおれの影であろうか。おれは新しい男である。しかし、おれの影を見給え。もうはや、おしつぶされかけている。おれの甲羅はこんなに不恰好なのだろうか。こんなに弱弱しかったのだろうか。小さい小さい蟹は、そう呟きつつよろばい歩くのでした。おれには、才能があったのであろうか。いや、いや、あったとしても、それはおかしい才能だ。世わたりの才能というものだ。お前は原稿を売り込むのに、編輯者へどんな色目をつかったか。あの手。この手。泣き落としならば眼ぐすりを。おどかしの手か。よい着物を着ようよ。作品に一言も註釈を加えるな。退屈そうにこう言い給え。『もし、よかったら』甲羅がうずく。からだの水気が乾いたようだ。この海水のにおいだけが、おれのたったひとつのとりえだったのに。潮の香がうせたなら、ああ、おれは消えもいりたい。もいちど海へはいろうか。海の底の底の底へもぐろうか。なつかしきは昆布の森。遊牧の魚の群。小蟹は、あえぎあえぎ砂浜をよろばい歩いたのでした。浦の苫《とま》屋《や》のかげでひとやすみ。腐りかけたいさり舟のかげでひとやすみ。この蟹や。何処《いずく》の蟹。百《もも》伝《つた》う。角鹿《つぬが》の蟹。横《よこ》去《さら》う。何処に到る。……」口を噤《つぐ》んだ。
「どうしたのです」僕はつぶっていた眼をひらいた。
「いいえ」尼はしずかに答えた。「もったいないのです。これは古事記の、…………。罰があたりますよ。はばかりはどこでしょうかしら」
「部屋を出て、廊下を右手へまっすぐに行きますと杉の戸板につきあたります。それが扉です」
「秋にもなりますと女人は冷えますので」そう言ってから、いたずら児のように頸をすくめ両方の眼をくるくると廻して見せた。僕は微笑んだ。
尼は僕の部屋から出ていった。僕はふとんを頭からひきかぶって考えた。高邁なことがらについて思案したのではなかった。これあ、もうけものをしたな、と悪党らしくほくそ笑んだだけのことであった。
尼は少しあわてふためいた様子でかえって来て襖をぴたっとしめてから、立ったままで言った。
「私は寝なければなりません。もう十二時なのです。かまいませんでしょうか」
僕は答えた。
「かまいません」
どんなにびんぼうをしても蒲団だけは美しいのを持っていたいと僕は少年のころから心がけていたのであるから、こんな工合いに不意の泊り客があったときにでも、まごつくことはなかったのだ。僕は起きあがり、僕の敷いて寝ている三枚の敷蒲団のうちから一枚ひき抜いて、僕の蒲団とならべて敷いた。
「この蒲団は不思議な模様ですね。ガラス絵みたいだわ」
僕は自分の二枚の掛蒲団を一枚だけはいだ。
「いいえ。掛蒲団は要らないのです。私はこのままで寝るのです」
「そうですか」僕はすぐ僕の蒲団の中へもぐりこんだ。
尼は数珠とお経の本とを蒲団のしたへそっとおしこんでから、ころものままで敷布のない蒲団のうえに横たわった。
「私の顔をよく見ていて下さい。みるみる眠ってしまいます。それからすぐきりきりと歯ぎしりをします。すると如《によ》来《らい》様がおいでになりますの」
「如来様ですか」
「ええ。仏様が夜遊びにおいでになります。毎晩ですの。あなたは退屈をしていらっしゃるのだそうですから、よくごらんになればいいわ。なにをお断りしたのもそのためなのです」
なるほど、話おわるとすぐ、おだやかな寝息が聞えた。きりきりとするどい音が聞えたとき、部屋の襖がことことと鳴ったのである。僕は蒲団から上半身をはみ出させて腕をのばし襖をあけてみたら、如来が立っていた。
二尺くらいの高さの白象にまたがっていたのである。白象には黒く錆びた金の鞍が置かれていた。如来はいくぶん、いや、おおいに痩せこけていた。肋骨が一本一本浮き出ていて、鎧扉のようであった。ぼろぼろの褐色の布を腰のまわりにつけているだけで素裸であった。かまきりのように痩せ細った手足には蜘蛛の巣や煤がいっぱいついていた。皮膚はただまっくろであって、短い頭髪は赤くちぢれていた。顔はこぶしほどの大きさで、鼻も眼もわからず、ただくしゃくしゃと皺になっていた。
「如来様ですか」
「そうです」如来の声はひくいかすれ声であった。「のっぴきならなくなって、出て来ました」
「なんだか臭いな」僕は鼻をくんくんさせた。臭かったのである。如来が出現すると同時に、なんとも知れぬ悪臭が僕の部屋いっぱいに立ちこもったのである。
「やはりそうですか。この象が死んでいるのです。樟《しよう》脳《のう》をいれてしまっていたのですが、やはり匂うようですね」それから一段と声をひくめた。「いま生きた白象はなかなか手にはいりませんのでしてね」
「ふつうの象でもかまわないのに」
「いや、如来のていさいから言っても、そうはいかないのです。ほんとうに、私はこんな姿をしてまで出しゃばりたくはないのです。いやな奴らがひっぱり出すのです。仏教がさかんになったそうですね」
「ああ、如来様。早くどうにかして下さい。僕はさっきから臭くて息がつまりそうで死ぬ思いでいたのです」
「お気の毒でした」それからちょっと口ごもった。「あなた。私がここへ現われたとき滑稽ではなかったかしら。如来の現われかたにしては、少しぶざまだとは思わなかったでしょうか。思ったとおりを言って下さい」
「いいえ。たいへん結構でした。御立派だと思いましたよ」
「ほほ。そうですか」如来は幾分からだを前へのめらせた。「それで安心しました。私はさっきからそれだけが気がかりでならなかったのです。私は気取り屋なのかも知れませんね。これで安心して帰れます。ひとつあなたに、いかにも如来らしい退去のすがたをおめにかけましょう」
言いおわったとき如来はくしゃんくしゃんとくしゃみを発し、「しまった!」と呟いたかと思うと如来も白象も紙が水に落ちたときのようにすっと透明になり、元素が音もなくみじんに分裂し雲と散り霧と消えた。
僕はふたたび蒲団へもぐって尼を眺めた。尼は眠ったままでにこにこ笑っていた。恍《こう》惚《こつ》の笑いのようでもあるし、侮蔑の笑いのようでもあるし、無心の笑いのようでもあるし、役者の笑いのようでもあるし、諂《へつら》いの笑いのようでもあるし、喜悦の笑いのようでもあるし、泣き笑いのようでもあった。尼はにこにこ笑いつづけた。笑って笑って笑っているうちに、だんだんと尼は小さくなり、さらさらと水の流れるような音とともに二寸ほどの人形になった。僕は片腕をのばし、その人形をつまみあげ、しさいにしらべた。浅黒い頬は笑ったままで凝結し、雨滴ほどの唇はなおうす赤く、けし粒ほどの白い歯はきっちり並んで生えそろっていた。粉雪ほどの小さい両手はかすかに黒く、松の葉ほど細い両脚は米粒ほどの白足袋を附けていた。僕は墨染めのころものすそをかるく吹いたりなどしてみたのである。
めくら草紙
なんにも書くな。なんにも読むな。なんにも思うな。ただ、生きて在れ!
太古のすがた、そのままの蒼空。みんなも、この蒼空にだまされぬがいい。これほど人間に酷薄なすがたがないのだ。おまえは、私に一箇の銅貨をさえ与えたことがなかった。おれは死ぬるともおまえを拝まぬ。歯をみがき、洗顔し、そのつぎに、縁側の籐椅子に寝て、家人の洗濯の様をだまって見ていた。盥の水が、庭のくら土にこぼれ、流れる。音もなく這い流れるのだ。水到りて渠《きよ》成る。このような小説があったなら、千年万年たっても、生きて居る。人工の極致と私は呼ぶ。
鋭い眼をした主人公が、銀座へ出て片手あげて円タクを呼びとめるところから話がはじまり、しかもその主人公は高まいなる理想を持ち、その理想ゆえに艱難辛苦をつぶさに嘗《な》め、その恥じるところなき阿修羅のすがたが、百千の読者の心に迫るのだ。そうして、その小説にはゆるぎなき首尾が完備してあって、――私もまた、そのような、小説らしい小説を書こうとしていた。私の中学時代からの一友人が、このごろ、洋装の細君をもらったのであるが、それは、狐なのである。化けているのだ。私にはそれがよくわかっているのだけれども、どうも、可哀想で直接には言えないのだ。狐は、その友人を好いているのだもの。けだものに魅こまれた友人は、私の気のせいか、一日一日と痩せてゆくようである。私は、そしらぬふりをして首尾のまったく一貫した小説に仕立ててやり、その友人にそれとなく知らせてやったほうがよいのかもしれぬ。その友人は、「人生四十から」という本を本棚にかざってあるのを私は見たことがあって、自分の生活を健康と名づけ、ご近所のものたちもまた、その友人を健康であると信じているようである。もし友人が、その小説を読み、「おれは君のあの小説のために救われた」と言ったなら、私もまた、なかなか、ためになる小説を書いたということにならないだろうか。
けれども、もう、いやだ。水が、音もなく這い、伸びている様を、いま、この目で、見てしまったから、もう、山師は、いやだ。お小説。百篇の傑作を書いたところで、それが、私において、なんだというのだ。(約三時間)私は眠っていたのではないのだよ。そうだ。おまえの言葉を借りて言えば、私は、思いにしずんでいたのである。
私は、枕草紙の、ペエジを繰る。「心ときめきするもの――。雀のこがひ。児《ちご》あそばする所の前わたりたる。よき薫《たき》物《もの》たきて一人臥《ふ》したる。唐《からの》鏡《かがみ》の少しくらき見いでたる。云々」私、自分の言葉を織ってみる。「目にはおぼろ、耳にもさだかならず、掌中に掬すれども、いつとはなしに指股のあいだよりこぼれ失せる様の、誰にも知られぬ秘めに秘めたる、むなしきもの。わざと三円の借銭をかえさざる。(われは貴族の子ゆえ)ましろき女の裸身よこたわりたる。(生きものの、かなしみの象徴ゆえ)わが面貌のたぐいなく、惜しくりりしく思われたる。おまつり」もう、よし。私が七つのときに、私の村の草競馬で優勝した得意満面の馬の顔を見た。私は、あれあれと指さして嘲った。それ以来、私の不仕合せがはじまった。おまつりが好きなのだけれども、死ぬるほど好きなのだけれども、私は風邪をひいたといつわり、その日一日、部屋を薄暗くして寝るのである。
ああ、それで何枚になった?(私はお隣のマツ子ということし十六になる娘に、私の独白を筆記させていたのである)マツ子は、人差し指の先を嘗めて、一枚二枚三枚四枚、それから、ひいふうみい三行です、と答えた。もう、いいのだ。ありがとう。マツ子から五枚の原稿用紙を受けとり、一枚に平均、三十箇くらいずつの誤字や仮名ちがいを、腹を立てずに、ていねいに直して行きながら、私は、たった五枚か、とげっそりしていた。むかし、江戸番町にお皿の数をかぞえるお菊という幽霊があった。なんどかぞえても、お皿の数が一枚だけ、たった一枚だけ、たりないのである。私には、その幽霊のくやしさが、身にしみてわかった。
こんどは、寝ながら、私ひとりで筆をとって書いてみた。
いま、私の寝ている籐椅子のすぐちかくに坐って、かたわらの机に軽くよりかかり「非望」という文芸冊子を、あちこち覗き読みしているこのお隣の娘について少しだけ書く。
私がこの土地に移り住んだのは昭和十年の七月一日である。八月の中ごろ、私はお隣の庭の、三本の夾竹桃にふらふら心をひかれた。欲しいと思った。私は家人に言いつけて、どれでもいいから一本、ゆずって下さるよう、お隣へたのみに行かせた。家人は着物を着かえながら、お金は失礼ゆえ、そのうち私が東京へ出て袋物かなにかのお品を、と言ったが、私は、お金のほうがいいのだ、と言って、二円、家人に手渡した。
家人がお隣へ行って来ての話に、お隣の御主人は名古屋のほうの私設鉄道の駅長で、月にいちど家へかえるだけである。そうして、あとは奥さまとことし十六になる娘さんとふたりきりで、夾竹桃のことは、かえって恐縮であって、どれでもお気に召したものを、とおっしゃった。感じのいい奥さまです、ということである。あくる日、すぐ私は、このまちの植木屋を捜しだし、それをつれて、おとなりへお伺いした。つやつやした小造りの顔の、四十歳くらいの婦人がでて来て挨拶した。少しふとって、愛想のよい口元をしていて、私にも、感じがよかった。三本のうち、まんなかの夾竹桃をゆずっていただくことにして、私は、お隣の縁側に腰をかけ、話をした。たしかに次のようなことを言ったとおぼえている。
「くには、青森です。夾竹桃などめずらしいのです。私には、ま夏の花がいいようです。ねむ。百日紅《さるすべり》。葵《あおい》。日まわり。夾竹桃。蓮《はす》。それから、鬼百合。夏菊。どくだみ。みんな好きです。ただ木槿《むくげ》だけは、きらいです」
私は自分が浮き浮きとたくさんの花の名をかぞえあげたことに腹を立てていた。不覚だ! それきり、ふっと一ことも口をきかなかった。帰りしなに、細君の背後にじっと坐っている小さな女の子へ、
「遊びにいらっしゃい」と言ってやった。娘は、「はあ」と答えてそのまましずかに私のうしろについて来て、私の部屋へはいって来て、坐った。たしかに、そんな工合いであったようである。私は、多少いい気持ちで夾竹桃などに心をひかれたのをくやしく思っていたので、その木の植えかた一さい家人にまかせ、八畳の居間でマツ子と話をした。私には、なんだか本の二、三十ペエジあたりを読んでいるような、at homeな、あたたかい気がして、私の姿勢をわすれて話をした。
あくる日マツ子は、私のうちの郵便箱に、四つに畳んだ西洋紙を投げこんでいた。眠れず、私はその朝、家人よりも早いくらいに寝床から脱けだし、歯をみがきながら、新聞を取りに出て、その紙きれを見つけたのだ。紙きれには、こう書いていた。
「あなたは尊いお人だ。死んではいけません。誰もごぞんじないのです。私はなんでもいたします。いつでも死にます」
私は、朝ごはんのときに、家人へその紙きれを見せ、あれは、きっといい子だから、毎日あそびによこすよう、お隣へおねがいして来い、と言いつけた。マツ子は、それから毎日、かかさず、私の家へ来た。
「マツ子は、いろが黒いから産婆さんにでもなればよい」とある日、私がほかのことで怒っていたときに、言ってやった。そんなに醜く黒くはないのだけれども、鼻もひくいし、美しい面貌ではない。ただ、唇の両端が怜悧そうに上へめくれあがって、眼の黒く大きいのが取り柄である。姿態について、家人に問うと、「十六では、あれで大きいほうではないでしょうか」と答えた。また、身なりについては、「いつでも、小ざっぱりしているようじゃございませんか。奥さまが、しっかりしていますものですから」と答えた。
私は、マツ子と話をして居れば、たまたま、時を忘れる。
「私、十八になれば、京都へいって、お茶屋につとめるの」
「そうか。もうきまってあるのか」
「お母さまのお知合いで大きいお茶屋を、しているおかたがあるんですって」お茶屋というのは、どうも、料亭のようであった。父が駅長をしていても、そうしなければ、ならないのかなあ、そうかなあ、と断じて不服に思いながら、
「それでは女中じゃないか」
「ええ。でも、――京都では、ゆいしょのあるご立派なお茶屋なんですって」
「あそびに行ってやるか」
「ぜひとも」ちからをいれていた。それから、遠いところを見ているような眼ざしで、ぼんやり呟いた。「おひとりきりでおいでなさいね」
「そのほうがいいのか」
「うん」袖のはしをつまぐるのをやめて、うなずいた。「大勢さんだと、私の貯金が割合と早くなくなってしまうから」マツ子は私に、あそばせるつもりであった。
「貯金がそんなにあるのか」
「お母さまが、私に、保険をつけて下さっているの。私が三十二になれば、お金が何百円だか、たくさん取れるのよ」
また、ある夜、私は、気の弱い女は父《てて》無《なし》児《ご》を生むという言葉をふと思い出し、あんなに見えても、マツ子は、ひょっとしたら弱いのじゃないかしらと気がかりになって、これは、ひとつ、マツ子に聞いてみようと思った。
「マツ子。おまえは、おまえのからだを大事と思っているか」
マツ子は家人の手伝いをして、隣の六畳の部屋でほどきものをしていたのだが、しばらく、水を打ったように、ひっそりなった。やがて、
「ええ」
と答えた。
「そうか。よし」私は寝返りを打って、また眼をつぶった。安心したのである。
このあいだ、私は、マツ子のいるまえで、煮えたぎっている鉄びんを家人のほうにむけて投げつけた。家人が、私のびんぼうな一友人にこっそりお金を送ろうとして手紙を書いているのを、私は見つけ、ぶんを越えた仕儀はよせ、と言った。家人は、これは私のへそくりですから、と平気な顔で答えた。私は、かっとなり、「おまえの気のままになってたまるか」と言い、鉄びんを天井めがけて、力一ぱいに投げつけた。私はぐったりなって、籐椅子に寝ころび、マツ子を見た。マツ子は、鋏をにぎって立っていた。私を刺すつもりであったろうか。家人を刺すつもりであったろうか。私は、いつでも刺されていいのだから、見て見ぬふりをしていたが、家人は知らなかったようである。
マツ子のことについて、これ以上、書くのは、いやだ。書きたくないのだ。私はこの子をいのちかけて大切にして居る。
マツ子は、もう私の傍にいないのである。私が、家へ、かえしたのである。日が暮れたから。
夜が来た。私は眠らなければならないのだ。これでまる三日三晩、私はどのような手段をつくしても眠れず、そのくせ眠たくて、終日うつらうつらしているのだ。このようなときには、私よりも、家人のほうが、まいってしまって、私のからだをお撫で下さい、きっと眠れると思います、と言って声をたてて泣いたことがある。私は、それを、試みたが、だめであった。そのときの私の眼には、隣村の森ちかくの電燈の光が薊《あざみ》の花に似ていたのを記憶して居る。
私は、いま、眠らなければいけない。けれども、書きかけた創作を、結ばなければいけない。私は寝床の枕元に原稿用紙とBBBの鉛筆とを、そなえて寝た。
毎夜、毎夜、万《まん》朶《た》の花のごとく、ひらひら私の眉間のあたりで舞い狂う、あの無量無数の言葉の洪水が、今宵は、また、なんとしたことか、雪のまったく降りやんでしまった空のように、ただ、からっとしていて、私ひとりのこされ、いっそ石になりたいくらいの羞恥の念でいたずらに輾転している。手も届かぬ遠くの空を飛んで居る水色の蝶を捕虫網で、やっとおさえて、二つ三つ、それはむなしい言葉であるのがわかっていながら、とにかく、掴んだ。
夜の言葉。
「ダンテ、――ボオドレエル、――私。その線がふとい鋼鉄の直線のように思われた。その他は誰もない」「死して、なおすすむ」「長《なが》生《いき》をするために生きて居る」「蹉《さ》跌《てつ*》」「Factだけを言う。私が夜に戸外を歩きまわると、からだにわるいのが痛快にからだにこたえて、よくわかるのだ。竹のステッキ。(近所のものはムチと呼んでいるのを、おれは知って居る)これがないと、散歩の興味、半減。かならず、電柱を突き、樹木の幹を殴りつけ、足もとの草を薙ぎ倒す。すぐ漁師まち。もう寝しずまっている。朝はやいのだから。泥の海。下駄のまま海にはいる。歯がみをして居る。死ぬことだけを考えてる。男ありて大声叱咤、(だらしがねえぞ、しっかりしろ!)私つぶやいて曰く、(君は、もっとだらしがなくて、心配だ)船橋のまちには犬がうようよ居やがる。一匹一匹、私に吠える。芸者が黒い人力車に乗って私を追い越す。うすい幌の中でふりかえる。八月の末、よく観ると、いいのね、と皮膚のきたない芸者ふたりが私の噂をしていたと家人が銭湯で聞いて来て、(二十七、八の芸者衆にきっと好かれる顔です。こんど、くにのお兄さまにお願いして、おめかけさんでもお置きになったら? ほんとうに)と鏡台のまえに坐り、おしろいを、薄くつけながら言った。(もう一年、否、もう半年はやかったなら!)軒のひくい家の柱時計。それがぼんぼん鳴りはじめた。私は不具の左脚をひきずって走る。否、この男は逃げたのだ。精米屋は骨折り、かせいで居る。全身を米の粉でまっしろにして、かれの妻と三人のおとこの鼻たれのために、帯と、めんこのために、努めて居る。私、(おれだって、いま、こう見えていても、げんざい精出して居るじゃないか。肩身のせまい思い、無し)精米の機械の音」「佐藤春夫曰く、悪趣味の極端。したがってここでは、誇張されたるものの美が、もくろまれて居る」――「文士相軽。文士相重。ゆきつ、戻りつ。――ねむり薬の精緻なる秤器。無表情の看護婦があらあらしく秤器をうごかす」
始発の電車。
夜が明け、明け放れていっても、私には起きあがることができないのだ。このように、工合いのわるい朝には、家人に言いつけて、コップにすこし、お酒を持って来させる。もう起きて歯をみがかなければいけないという思いは、これは、しらじらしくて、かなしいものだ。そんなとき子供は、「おめざ」を要求する。私にとっては、厳粛なるお酒を、嘗めながら、私は、庭を眺めて、しぶい眼を見はった。庭のまんなかに、一坪くらいの扇型の花壇ができて在るのだ。そろそろと秋冷、身にたえがたくなって来たころ、「庭だけでも、にぎやかにしよう」といつか私が一言、家人のいるまえで呟いたことのあるのを思い出した。二十種にちかき草花の球根が、けさ、私の寝ている間に植えられ、しかも、その扇型の花壇には、草花の名まえを書いたボオル紙の白い札がまぶしいくらいに林立しているのである。
「ドイツ鈴蘭」「イチハツ」「クライミングローズフワバー」「君子蘭」「ホワイトアマリリス」「西洋錦風」「流星蘭」「長太郎百合」「ヒヤシンスグランドメーメー」「リュウモンシス」「鹿の子百合」「長生蘭」「ミスアンラアス」「電光種バラ」「四季咲ぼたん」「ミセスワン種チュウリップ」「西洋しゃくやく雪の越」「黒竜ぼたん」――私は、いちいち、枕元の原稿用紙に書きしるす。涙が出た。涙は頬を伝い、はだかの胸にまで這い流れる。生れて、はじめての醜をさらす。扇型の花壇。そうして、ヒヤシンスグランドメーメー。ざまを見ろ。もう、とりかえしがつかないのだ。この花壇を眺める者すべて、私の胸の中の秘めに秘めたる田舎くさい鈍重を見つけてしまうにきまって居る。扇型。扇型。ああ、この鼻のさきに突きつけられた、どうしようもないほど私に似ている残虐無道のポンチ画。
お隣のマツ子は、この小説を読み、もはや私の家へ来ないだろう。私はマツ子に傷をつけたのだから。涙はそのゆえにもまた、こんなに、あとからあとから湧いて出るのか。
否とよ。扇型、われに何かせむ。マツ子も要らぬ。私は、この小説を当然の存在にまで漕ぎつけるため、泣いたのだ。私は、死ぬるとも、巧言令色であらねばならぬ。鉄の原則。
いま、読者と別れるに当り、この十八枚の小説において十指にあまる自然の草木の名称を挙げながら、私、それらの姿態について、心にもなきふやけた描写を一行、否、一句だにしなかったことを、高い誇りをもって言い得る。さらば、行け!
「この水や、君の器《うつわ》にしたがうだろう」
注 釈
* 鉄漿 おはぐろ。化粧に歯を黒くそめること。江戸時代、婦人は結婚するとこれを行った。
* 富本 常磐津節の分派。江戸時代中期、富本豊前 の始めたもので、曲調は常磐津よりも更に優婉でつやがある。
* ウルトラ ultra 過激論者。極左翼。
* ネルリ ドストエーフスキイ「虐げられた人々」に登場する孤児で早熟な少女。
* サフォ Sappho(B.C.612ごろ?)ギリシア最大の女流詩人。
* 皿屋敷 菊という女が主家秘蔵の皿を割って成敗されて井戸に投げ込まれ、その亡霊が悲しげに皿の枚数をかぞえるという伝説。歌舞伎に河竹黙阿弥作「新皿屋敷舗月雨暈」、岡本綺堂作「番町皿屋敷」がある。
* 俊徳丸 歌舞伎狂言「摂州合邦辻」中の人物。高安左衛門の嫡子で、彼を悪人から守り、その業病をなおすため、左衛門の後妻となった合邦の娘玉手御前が偽りの恋をしかける、というもの。
* 蘭蝶 新内節の名曲。「若木仇名草」の通称。作者は鶴賀若狭 。浮世仮声身振師市川屋蘭蝶は遊女此糸と馴染むが、女房のお宮が此糸に夫との手切りを頼み、恋と義理の板ばさみから両人が心中するという筋。
* 帝展 大正八年設置の帝国美術院による帝国美術院展覧会の略。文展(文部省美術展覧会)を引きつぎ官展の新陳代謝をはかった。のち新文展、戦後日展で再興。
* フランスの詩人 ボオドレール Charles Baudelaire,(1821-67) をさす。詩集『悪の華』の「腐屍」に死体にたかる蛆虫の描写がある。
* 長篇小説 トルストイの「復活」。
* 切支丹屋敷 江戸時代、キリスト教の禁止後なお改宗しない信徒たちを投じた獄舎。今の東京都文京区茗荷谷切支丹坂の近くにおかれた。
* ロクソン 呂宋。フィリピン群島最北のルソン島。
* ヤアパンニア 日本。
* 通事 通辞。通訳官。
* 新井白石 (明暦三年Ι享保十年)学者。政治家。上総久留里藩の浪人の子で、木下順庵に朱子学を学び、甲府時代の家宣の侍講となる。そのまま幕閣に入り正徳の治を遂行。学者として「読史余論」ほかの歴史研究、「西洋紀聞」などの洋学先駆で有名。
* デウス Deus(ポルトガル語)天主。上帝。
* ハライソ Paraiso(ポルトガル語)天国。天堂。
* アンゼルス Angelus(ポルトガル語)天使。
* ポンチ画 寓意・諷刺のある滑稽画。漫画。
* ロシヤの詩人 プーシキン Aleksander Sergievich Pushkin (1799-1837)引用は「エヴゲニー・オネーギン」二十四のもの。
* コンフィテオール Confiteor(ポルトガル語)告白の祈り。
* 自鬻 自らをやしなう。
* 「ヘルマンとドロテア」 “Hermann und Dorothea”(1797)ゲーテ Joh ann Wolfgang Von Goethe(1749-1832)の叙事詩。
* オネーギン プーシキンの叙事詩。貴族の青年オネーギンと娘タチヤーナとの恋を描く。
* クライスト Heinrich Kleist (1777-1811)ドイツの劇作家。
* ペンテズィレエア クライストの戯曲(一八〇八年作)女人国の女王は自分が惨殺した英雄アヒレスが、実は自分の愛を受け入れるつもりで武装をしていなかったことに気付き、悔恨のあまり憤死するという悲劇。
* 野鴨 ノルウェーの劇作家イプセン Henrik Ibsen (1828-1906)の一八八四年の作品。
* あらし シェイクスピア William Shakespeare (1564-1616)の一六一一年の作品。その主人公プロスペロが最後に魔法のつえを折るように、作者自身も筆を折って故郷ストラットフォードへ隠退。
* 日本一のフランス文学者 辰野隆。
* 日本一の詩人 三好達治。
* 日本一の評論家 小林秀雄。
* ビロン Philon (B.C 30:3-A.D.45)ギリシアの哲学者。
* 日本チャリネ 「チャリネ曲馬団」は明治一九年夏来日したイタリアの曲馬団。団長をチャリネといった。
* ロンブロオゾオ Cesare Lonbroso (1836-1909)イタリアの精神病学者、刑事人類学の創立者。
* オポチュニスト Opportunist (英) 日和見主義者、御都合主義者。
* ヴァンピイル Vampire(仏) 吸血鬼。英語では「ヴァンパイア」。
* ストリンドベリイ Johan August Strindberg (1849-1912) スウェーデンの劇作家、小説家。九歳で初恋をして自殺を考え、十二歳で二〇歳の女性を、十五歳で三〇歳の女性を恋し、三度結婚して三度とも破婚、五九歳で十九の娘に求愛したという恋愛巡礼を意味するものか。
* 蹉跌 つまずくこと。失敗。
晩《ばん》年《ねん》
太《だ》宰《ざい》 治《おさむ》
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平成12年9月15日 発行
発行者  角川歴彦
発行所  株式会社 角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
shoseki@kadokawa.co.jp
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『晩年』昭和28年12月30日初版刊行