ラーゼフォン 5
[著]大野木寛 [原作]BONES・出渕裕
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目次
第一章 ゼフォンの刻印
第二章 木星消滅作戦
第三章 ここより永遠に
第四章 調律への扉
第五章 神の不確かな音
第六章 遙か久遠の果て
最終楽章
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第一章 ゼフォンの刻印
断章1 ヘレナ・バーベム
あのまま狂ってしまえばよかったのに。久遠《くおん》なんか。
卵から強制的に分離したとき、彼女は精神錯乱状態にあった。意味不明の言葉をつぶやきつづけ、幻覚におびえて、自分の目をえぐりだそうとさえした。それをおじさまが手厚く看護され――あのおじさまが寝ずの看病をなさるなんて、とても信じられない――ようやく精神の平衡をとりもどしたのだった。
そしていま、久遠はまるでなにごともなかったかのように、暗い部屋でおじさまの前に立っている。
「見せておくれ」
極上の貴腐ワインのように甘い言葉が、おじさまの口からもれる。あの言葉を聞くのは、わたしだったはず。なのに、いまおじさまの前で肌を見せているのは久遠だ。おじさまは歓喜で震える指を彼女の〔刻印〕の上にはわせる。醜いアザでありながら、至高の〔刻印〕の上を、老い枯れた指がまるで別個の生き物のように息づきはいまわっていく。
「エルンスト、わたし、彼女に会ったわ」
彼女? ああ、麻弥《まや》のことか。
「そうか。あれは元気にしていたかね」
「大きくなっていた。わたしを置いて、奏者の資格も通りこして」
「あれはおまえの兄と同じく、オリンとなれなかったものだ」
おじさまの残酷な言葉に、封じこめていたはずの傷がうずきはじめる。
「おまえは十七歳になるのだね」
「もう、なったわ」
「ではおまえには資格がある」
「あなたはわたしになにを望むのでしょう」
「奏でておくれ。美しい音楽を」
「わたしの意志で? ナーカルの兄弟《はらから》よ」
「おまえの意志で美しいオリンよ」
美しいオリンという言葉が胸につきささる。それは、わたしがいわれるべき言葉だったはずだ。ずっと前に。
十七歳の誕生日、おじさまがわたしを呼びだしてこういわれた。
「ヘレナ。おまえは自分が奏者だと勘違いしていないかね」
やさしい言葉だったが、胸に深くつきささって血が流れだす。それまで自分は特別だと、樹や真とまったくちがう“チルドレン”だと思っていた。おじさまの計画を知り、そこにある奏者こそが自分だろうと思っていた。十七歳の誕生日に呼ばれたということは、まさにその証明であり、樹とともに世界を調律するのだと有頂天になっていた。
それが奈落の底へつき落とされたのだ。
「おまえはわたしにもっとも近い“魂の器”なのだ」
あのあと、わたしは久遠の病室に忍びこんだ。まだ目覚めることなく、永遠にも思える夢を見つづける少女の額に銃を押しつけた。許せなかったのだ。わたしにあたえられないものを、生まれながらにもっていながら眠りつづけている彼女が。しかし、引き金はひけなかった。おじさまが望まないことをできるほど、わたしには自由意志があたえられていない。
あの日、わたしの涙は涸れ果てた。
それにくらべれば、いまおじさまが久遠にむけている慈愛に満ちた視線がなんだというのだろうか。なのに、わたしの胸はうずく。嫉妬の黒い炎《ほむら》に。
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1
絵筆を走らせる。
「悩んだら絵に訊いてみろ。絵は正直だ」
という熊ちゃんの言葉にしたがって、おれは無心に絵を描きつづける。
「ほんとうはだれを守りたいの?」
美嶋にいわれたとき、なんで遙さんの顔が思い浮かんだんだろうか。よくわからないから絵を描きつづける。答えが見つかるかもしれないと思って絵筆を走らせる。ほんと、なんで遙さんなんだろう。おれはほんとうは遙さんを守りたいのか? 守でも恵でもなく、遙さんなのか?
そう思うと、胸がきゅっとしめつけられた。イヤな感じじゃない。むしろあったかい感じだ。これってつまり……。
「浩子、どうしてっかな」
守のなにげない一言に、青をぬろうとしていた手がとまる。守はブチの背中をなでながら、言葉をつづけた。
「おれがいなくて泣いてたりしてな。」
守がおれのほうをちらりと見た。
「あいつ、ああ見えてあんがい泣き虫なんだぜ。……元気にしてるといいんだけどな」
いまだ。いうなら、きっといまだ。
守、浩子はもう泣くことはないんだよ。笑うこともないんだよ。なぜって、死んじゃったんだ。殺されたんだよ。だれにかって? それは……。
いえない。そんなことはいえない。守はなにかいいたいことあんのか? ってな顔で、こっちを見ている。いいかけた言葉が口元をゆがませた。自分からいいだせないという静かな時間が針のように心にささってくる。
その苦痛をすくってくれたのは、玄関の戸をたたく音だった。
「見つかるとやばいから、おまえ、隠れてろよ」
守はうなずき、押し入れに隠れた。そっちじゃなくて納戸のほうだよ、といおうと思ったが、戸をたたく音にせかされた。
「はーい。いま行きます」
玄関を開けて、うんざりする。そこに立っていたのは、一色新司令どのとハルカ少尉だった。やれやれ。なんでこのふたりがここにいるんだよ。
「どうだ? 少しはおとなになれたかね?」
なれたよ。だから、あんたたちをおれの部屋にあげてるんだろ。追いかえしもせずに。
「善意を解さないこまった子どもだ。ならしかたない。システムとして不安定なものは組織の利益にはならんからな」
意味のない言葉は、おれの耳をす通りしていく。学校の校長の話よりつまらない話があるとは思ってもいなかったよ。
「まあ、ラーゼフォンはヴァーミリオン改良のデータ採りぐらいには使えるかもしれんがね。きみは……」
それまでだまっていたハルカ少尉が、急に押し入れのほうに目をやった。やばい。守のことバレたか?
「だれかいるのかしら」
「ネコがいるんです。ひろってきたやつで……その…ブチってのが」
思わず言い訳したけど、ハルカ少尉はふうんと興味なさげな顔をした。
「ひろってきたネコは飼える」
白ヘビ野郎が言葉をつづけた。まだいい足りないことがあるらしい。
「さて、ひろってきたムーリアンはどうしたらいいものかねえ」
どうしたらいいものかねえ、もないだろ。あんたはどうせ処分の方法はとっくに考えてるはずだ。
「こちらのふる役をすなおに演じるなら、わたしとしてもきみを助けてやれるんだがねえ」
思いっきり反抗することだってできた。だけど、しなかった。おれには守を助ける義務があるんだ。いまここで反抗したら、おれだけじゃない、守もつかまってしまう。ここは白ヘビのご意見にしたがうしかないようだ。
「わかりました」
「ほう、すなおだねえ」
「だけど、もう少しだけ時間をくれませんか。冷静になりたいんです」
「時間をねえ」
白ヘビがもったいぶった間をおいたときだった。まわりの音が急に消えた。消えたようにおれには思えた。その静寂にハルカ少尉の声だけが聞こえてきた。
「あなたは、あなたのやり方で世界をつむいだらいい」
え? ハルカ少尉は静かな目でおれを見ている。それから、ちらりと描きかけの絵を見た。そういえばはじめて会ったとき、いってたっけ。絵を描かれるんですかって。そんなに人の絵に興味があるんだろうか。
「あなたにはそのための時間があたえられる」
少尉がそういったとたん、まわりの音がもどってきた。同時に白ヘビが口を開いた。
「いいだろう。どうせダウンフォール作戦では、きみの活躍場所を見つけてやれそうにないからな。作戦終了までは好きに考えていたまえ」
ダウンフォール作戦? なんだろう。でも、とにかくハルカ少尉の言葉どおり時間があたえられたわけだ。
「ああ、それから、あとで如月《きさらぎ》博士のところに行きたまえ。きみの役まわりについて、打ち合わせをしたいといっていたからね」
「わかりました」
「そうそう。役者は演出家のいうとおりに動けばいいのさ」
白ヘビ野郎はそういって笑った。
笑ってるがいいさ。とにかく、ここは忍の一字しかない。守を助けるためにもそうするしかないんだ。それに、樹《いつき》さんのところにはいかなきゃいけないと思ってたじゃないか。久遠のことがあるし……。そのことを話すのも気が重いんだけど。
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断章2 鳥飼《とりがい》 守
来客が帰ったあと、綾人は如月とかいうやつに会いに出かけていった。
ふう、命がちぢんだぜ。ちょっとした好奇心で盗み聞きしてやろうと思ってたのに、まさかイシュトリに会うとは思わなかった。イシュトリがオリンだけじゃなくて、おれにまで見えるってことは、そのときが近いってことじゃないか。
それにしても、あの白っちゃけた男は完全にイシュトリの手に落ちてたな。イシュトリの言葉をそのまんま口にしてるだけじゃないか。イシュトリのことだ、それもこれも全部、ゼフォンのためだろうけど、いったいなにをやろうってんだ?
まあ、そんなことはいいや。おれは綾人を苦しめることだけを考えてりゃいい。
綾人がいなくなったのをいいことに、おれは家捜しをはじめた。ほんと悪いやつだねえ、おれって。
恥ずかしい日記でも出てこないかと思って引き出しをあけたら、携帯がしまってあった。おいおい、TERRA《テラ》のマークがついてるから、これ支給品だろ。いいのか? こんなとこに置いといて。
東京の外の携帯はシステムが少しちがうからあつかいに手間どったが、なんとか登録ナンバーを呼びだすことができた。といっても、ふたつしかない。たぶん、こりゃこの家とTERRA《テラ》の本部のだろうな。メールも残ってないし、さびしすぎるぞ、神名綾人《かみなあやと》。と思ったら、メッセージがひとつだけ残ってた。これは……? 恵ちゃんの声か。
聞いているうちにムカムカしてきた。
綾人! てめえ、こっちにこんな女がいるのに、浩子に手を出しやがったのか。許せねえ!
思わず携帯を壁にたたきつけそうになった手を、反対側の手で押しとどめる。
ダメだ。これを使って、綾人を苦しめなきゃ。そのためにおれはここにいるはずだ。
血ヘドをはくぐらいの思いをさせたあげく、殺してやる。
浩子のために。
おれのために。
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2
波の音が聞こえてる。樹さんところのベランダはいつでも気持ちがいいはずなのに、いまはやっぱり気が重い。久遠のことをあやまらなきゃならないからだ。
樹さんが紅茶のカップをもってやってきた。
「またせてすまなかったね。七森《ななもり》くんがいないんだ」
「小夜子《さよこ》さんとなにかあったんですか?」
「いや、べつに」
口ではそういってるけど、樹さんは眉のあたりを苦々しくゆがめた。
「それよりなんだい、急に」
「司令がここをたずねるようにって」
「功刀《くぬぎ》さんが? ああ、そうか。真……一色新司令官のことだね。打ち合わせなんて、ただの口実さ。自宅謹慎を命じられてるって聞いたから、たまには外の空気を吸うのもいいだろと思ってね。それにあれ以来きみとはあってないから」
樹さんが言葉を切ると、ふたりのあいだに静けさがわだかまりはじめた。小さな波の音だけが聞こえてくる。
おれは出された紅茶を凝視《みつ》めながら、ようやく口を開いた。
「ぼくは妹さんを守れませんでした。守ってみせるとかいったのに……。その言葉さえ守れなかった」
「気にしなくていい。久遠は元気にしてるさ」
え? と顔をあげる。樹さんは確信があるといわんばかりにうなずいてみせた。
「妹を守れなかったのは、ぼくも同じさ。そういうところ、似てるよね、ぼくらは」
なにいってるんだろ。おれをなぐさめてくれてるのかな。でも、なんで久遠が元気にやってるってわかるんだろう。兄妹だからか?
「ダウンフォール作戦でいそがしいだろうけど、遙は元気?」
「たぶん……」
なぜか知らないけど、急に頬が熱くなってきた。
「そう……」
樹さんは意味ありげにおれのほうを見てから、手許のカップに視線を落とした。
「きみは誤解してるかもしれないけど、彼女が一色のところにいるのも事情があってのことだ。それは理解してやってほしい」
やさしい言葉なのに、なぜか胸の内にわだかまりに似た黒いなにかがこみあげてきた。なんでだろう。そして、なんの脈絡もなく樹さんと遙さんがキスしてるところを思いだした。あれっておとなのキスだよな。ガキのおれになんか、できっこない。そう思うと、また黒いわだかまりに似たものが胸の内でうごめいた。
「樹さん、遙さんのことはなんでも知ってるんですね。やっぱり……その……つきあってるからですか?」
思い切ってたずねると、樹さんは小さく笑った。
「きみはまだ子どもだね」
ガキあつかいしないでくれよ。とはいえない。樹さんから見れば、おれなんかただの世間知らずのガキだろう。
「彼女がほんとうに愛してる男はほかにいるよ」
一瞬、なにをいわれてるかわからなかった。ようやく理解してからびっくりした。そして、びっくりしている自分に驚いた。
「ほんとですか?」
って訊く声がわずかにうわずっているのが自分でもよくわかった。なにやってんだろ。遙さんがだれかを好きになるなんて、ごくふつうのことじゃないか。あんなすてきな女性だもの。あ、いや、そうじゃなくて、樹さんのことを好きじゃないってことにびっくりしてるんだよ。そうだよ。そうにちがいない。
樹さんはゆっくりと立ちあがり、おれに背をむけるようにベランダから海をながめた。
「彼女はずーっとひとりの男を想いつづけてるんだ。なのに、相手は気づいてもいない」
ひゅっと言葉がおれの心を傷つけた。遙さんの気持ちが伝わったような気がした。想いつづけてる人がふりむいてもくれないなんて、つらいだろうなあ。
「ひどいですね」
「そう思うかい」
「遙さんがかわいそうだ」
「残酷だね」
え? なんで? 遙さんに同情したのに、なんでそんないわれかたしなきゃいけないんだ。
「そういうことをさらりといってのける、きみがさ」
おれが残酷? なんでだろ。
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断章3 如月 樹
ほんと、わたしたちは似てるよ。
女性に対しても同じように残酷にふるまう。ただちがうのは、わたしは小夜子の気持ちを知っている。知っていながら無視するのだから、よけいに残酷かもしれない。でもなんでこんな残酷だかわかってるのかい? それはきみのせいだよ。
遠いあの日、わたしは彼女のアパートにいた。彼女は夕飯の買い物にいってくると出かけていった。手持ちぶさたになったわたしは、いけないとは思いながら、彼女の机の引き出しを開けた。そこにあったのは一枚の写真だった。中学のころの彼女と男の子が仲良く映っている写真だった。見た瞬間にすべてが理解できたよ。なぜわたしとならんで歩きながら彼女が遠い目をするのか、なぜ楽しくおしゃべりをしながらふとさびし気な表情を浮かべるのか。そして、なぜ学問一筋のわたしとつきあう気になったのかまでも……。そのときのおどろきが、きみにわかるかい? 一生わからないだろうね。なぜなら、きみは選ばれた人間だからだ。わたしは選ばれなかった人間だ。〔刻印〕をもちながら奏者としてもわたしは選ばれなかった。逆にいえば、だからこそごくふつうの人間として野にはなたれたのだ。ただのクズとして捨てられたのだ。ただのクズが、ようやく愛することができる女性にめぐり会えたと思ったとたん、あんな目にあうなんて。残酷だよ。……兄さん。
断章4 功刀《くぬぎ》 仁
時間というものがこれほどゆったりと流れるものだということを、わたしは知らなかった。一日じゅうレコードを聞いていても、まだ時間があまる。TERRA《テラ》の司令官としていそがしい日々を送り、いつかはゆっくりしたいものだと思っていたのに、いざその時間があたえられると膨大な長さにとまどってしまうとは。なんとつまらない人間だろうか。
「ワルキューレの騎行」が最高潮に達したとき、急に音がとぎれた。
閉じていた目をゆっくりと開けると、ネコが見えた。そして、ネコを抱いた少年が。
少年は針をもちあげ、歳にはにあわない不敵な笑みを浮かべながらわたしをふりむいた。
「ムーリアンか」
確証はなかったが、雰囲気からそう判断せざるをえなかった。
「まあ、そんなとこだね」
少年はそういいながらネコを床におろした。ネコは油断なくあたりを見まわしてから、ミチルの鳥籠の下に近づいた。獣のねめあげるような視線に、ミチルはおちつかなげに鳥籠の中ではねまわる。
「きれいな鳥だね。でも、翼はなんのためについてるのかな」
「なにがいいたい?」
少年は答えずに鳥籠を開けると、中に手をいれた。ミチルは急にさしいれられた指に最初のうちはおどろいていたが、とろけるような少年の視線に警戒心を解いていった。
「自由にはばたくためにあるんだろ。それがこんなせまい籠の中じゃ……かわいそうだ」
ミチルは少年の指先にとまって、小さく甘えるような声で鳴きはじめた。
「別にわたしがはいれといったわけじゃない。……としたら?」
「だったら、外から悪いものが入ってこないように、かな?」
少年の手がふわりと動き、ミチルをつかまえた。
「こんな風にさ」
ミチルの命が握りしめられたというのに、わたしは動くことさえできなかった。
「おれ、こっちでの名前、鳥飼守っていうんだ。守だぜ。笑っちゃうよな。……こいつだって籠がなければ、自由に逃げられたのにさ」
少年は笑いながらミチルを外に出し、そしてゆっくりと離した。ミチルはひさしぶりの自由に声をあげて部屋の中を飛びまわり、やがてわたしの肩にとまると毛づくろいをはじめた。かれはその様子を微笑みながら見ている。
「鳥はバカだね。……だけど、おれたちはちがうよ」
なにがいいたいのかはわかっている。一色のやろうとしているダウンフォール作戦のことだ。まさかムーリアンがそこまで知っているとは思ってもいなかっただけに、ショックはおおきかった。
「あんたらはパンドラの箱を開けようとしてるのかもね」
「パンドラの箱の底には、つねに希望が残っている」
かれはそれを聞くと、にやりと笑った。
「あんたいいよ。うちにいる九鬼《くき》なんかよりよっぽどいい」
「九鬼? 九鬼|正義《まさよし》か」
「あんたがこっちに寝返ればよかったのにな。ま、いいや。……遠からずゼフォンはオリンによって調律され、〔ラー〕の称号をえる。ほんとうのラーゼフォンになるのさ。オリンはイシュトリに導かれ、真実の心臓たるヨロテオトルへといたる。そして世界は調律される。もちろん、おれたちの世界にね」
ふわりと少年の姿は消えた。あとには勝ち誇ったような笑みだけがかすかに残った。そしてネコも。
ネコだけは残しておいてほしくなかった。
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断章5 紫東 遙
TJバスターの巡洋艦への艤装《ぎそう》作業は順調に進行している。白ヘビ司令もことのほかお喜びのようだ。
ダウンフォール作戦はオーヴァーロード作戦より大がかりな作戦だ。東京ジュピターを中心にした半径ほぼ百キロの円周上に五つ、海上にも消滅艦隊のJB―1を配置し、計六つのTJバスターで東京ジュピターを崩壊させようというのだ。こんな大がかりな作戦が、国連の下部組織にすぎないTERRA《テラ》単体だけで可能なはずがない。裏に財団からの資金の流れがある。財団から金が流れこめば流れこむほど、白ヘビ司令もふんぞりかえっていく。
「MU《ムウ》を排除したあとは東京圏として独立させてみるのもいいな」
トラタヌもここまでくればりっぱなものね。だけど、このトラタヌのおかげで、わたしもおぼえめでたく、こうやってここにいる。キムに腰巾着とののしられながらも。
そういえばキムだいじょうぶかしら。いまがだいじな時期だと思うけど。
「きみを東京圏総裁にしてやってもいい」
白ヘビ司令がへんなことをいいだした。え? ああ、きみってわたしのことか。となりのハルカ少尉のことかと思った。はいはい、ありがとうございます。せいいっぱいの笑みを浮かべてさしあげますわ。
にっこり笑いながら、わたしは書類の裏に白ヘビ司令のいたずら描きをしている。悪意まるだしの似顔絵だけど、われながらにてると思う。意外と絵うまいじゃない、わたし。まあ、綾人くんほどじゃないけど。
そう思うと胸の奥が、ちりちりと痛んだ。
綾人くんは、まだわたしを許してはくれないだろう。みんなを裏切り、白ヘビ司令についたわたしを。
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断章6 紫東 恵
むかし、まだおかあさんといっしょに暮らしていたころ、学校の帰り道で小犬をひろった。
うちはマンションだったから当然飼えないじゃない。いっしょにいた友だちもマンション住まいだったから、どちらからともなく空き地で飼おうってことになったの。ピーターって名前をつけて、給食の残りやらおやつを分けてやってたけど、そのうちにいなくなっちゃった。噂じゃ、保健所につれてかれたって。
守くんの食事の用意をしながら、ピーターの濡れた鼻面を思いだした。
まるでひろってきた犬の世話をしてるみたい。おじさんの目を盗んでおかずをよけいに作ったり、これでもけっこうたいへんなんだから。
きょうの献立は焼き魚とかぼちゃの煮物と香の物、おミソ汁の具は豆腐とおネギ。かぼちゃの煮物は会心のできだね。ぽくぽくに煮あがってるもの。
そっと階段をあがって、納戸の戸を静かにたたく。
「守くん?」
音をたてないように襖が開き、守くんが不安そうに顔をのぞかせた。
「ゴメンね、お腹すいたでしょ」
「んもう、ぺこぺこ」
そういうなり、お盆をひったくるようにして受けとると、いただきますもそこそこに食べはじめた。よっぽどお腹すいてたんだろうなあ。
ほら、あわてて食べるからごはんつぶこぼして。
あ、ひろった。
ひろったごはんつぶを口元に運ぼうとした守くんは、あたしと目があってしまって、恥ずかしそうに視線をそらした。
ちょっとかわいいじゃない。
守くんはごまかすようにまた勢いよく食べはじめたけど、箸がだんだんゆっくりになってとうとう止まっちゃった。
どうしたんだろ。
と思ったら、お茶碗をもつ手がふるえてる。
肩も震えてる。
「守くん?」
って声をかけたとたん、お茶碗を落とすようにお盆におくと、自分を抱きしめて震えはじめた。
「どうしたの? 守くん!」
すがるような目がむけられた。
ピーターの目とおんなじだった。道端でくんくんって泣きながらあたしを見あげてた小犬にそっくりだった。
「こわいんだ。こんなふうに綾人やきみにやさしくしてもらうと、よけいこわくなるんだ。どうせ収容所おくりになっちゃうんだ。いつまでもこんなとこに隠れていられないって思うと……」
ピーターも保健所につれてかれちゃった。
守くんもそれがこわいんだ。
ピーターもこわかったろうな。あたしたちがいない午前中とか夜とか、あの空き地の小さな空を見あげて鳴いてたんじゃないかな。
守くんはそんな目にあわせない。綾人とふたりで守ってあげるよ。
そういおうとしたとき、黒い影があたしにのしかかってきた。
あっ――
って声をあげたときにはもう押したおされてた。
押しつけてくる力。
荒い息。
恐怖が喉元をしめつける。
頭がまっしろになった。生まれてはじめての経験だった。
声さえでない。
天井が乱暴にゆれて見える。
もうダメ……。
男のゆがんだ顔がのぞきこむ。
そのとたん、あたしはものすごく冷静になった。
かれのぎらつく目の奥に、切り立った崖のように深い哀しみがあったからだ。なにかとてもたいせつなものをうしなった喪失感があった。
「いいんだよ。泣いても」
自分でも信じられない言葉が口をついて出た。そして、腕は守くんの頭を抱き寄せていた。
一瞬、守くんはさっきまでのあたしのようにあらがったけど、すぐに力がぬけたようにぐったりとおおいかぶさってきた。
そして、泣きはじめた。
小さな男の子のようにすすり泣いている。
ぐうって胸がしめつけられた。
さびしかったんだ。さびしくて、さびしくてどうしようもないから、あたしにすがりついたんだ。ぬくもりがほしかっただけなのに、それをうまく伝えられなかったんだ。
ピーターと同じだ。
あたしの左手の親指には、もうほとんどわからないけど、小さな白い傷がある。
ピーターはあたしたちがいくと、ちぎれるんじゃないかってぐらいにシッポをふって、ぐるぐるまわったあげく、こんどは自分のシッポをうなりながら追いかけるっていうみょうなクセがあった。そのたんびにしかりつけてやめさせるんだけど、あるとき、首輪をつかもうとしたあたしの指をかんだ。あたしは悲鳴をあげて血の吹き出す親指を押さえて、恐怖の目でピーターを見てしまった。すぐにピーターは気がついて、しまったって顔をした。あのときの、なんともいえない哀しげな犬の目を、あたしは忘れない。
あたしは抱きしめている守くんの頭ごしに、左手の親指にうっすらとついている傷を見あげた。
……あたしたちはだまって抱きあうような形で重なりあっていた。
守くんの重みはあったかかった。
どれくらいの時間がたったろう。泣きやんだ守くんはなにもいわずに、あたしの体を離した。目もあわせられずにただうつむいている。あたしもだまって部屋を出た。
正直、階段をおりる足は少し震えていた。
まだ学校に行けてたころ、友だちと暗い夜道で襲われたらどうするかって話、冗談でしたことあったっけ。大声でわめいて急所けってやる、一生、女に近づけなくしてやる、なんてあのときはいってたけど、そんなのてんでムリだ。
悲鳴さえあげられなかったもん。
玄関の音がして、お姉ちゃんが帰ってきた。
げっ。バッドタイミング。最悪。
階段をおりてくるあたしを、お姉ちゃんはけげんそうな顔で見る。そりゃそうだ。綾人に用でもないかぎり、二階に行くことなんてないもんね。
「なに、綾人くんとこ?」
「あ、ううん。その……納戸でさがしもの」
「綾人くんは?」
「どっか、そこらへんじゃない?」
あたしはそういって、すれちがおうとした。
「恵?」
やば。気がついたかな。あたしの様子がヘンだって。
そしたら、お姉ちゃんはのんきな顔で自分の髪を指さしている。
「ごはんつぶ」
「えっ? あっ、どこ?」
あわてて髪をまさぐったら、ごはんつぶがひとつぶ指にさわった。
「なんでこんなとこについてんだろ」
あとは笑ってごまかせ。あはははは。
お姉ちゃんはヘンに思ったろうけど、かまうもんか。
あたしはつっかけをはいて、玄関から飛び出して離れの自分の部屋にかけこんだ。
部屋でまくらを抱いて寝ころがる。
守なんて大ッ嫌い。
……っていえないよね。
だれもたよれる人いないんだもの。しょうがないよ。あれくらいのことは。
なんにもなかったんだし。
犬にかまれたと思って忘れられりゃいいんだけどさ。ピーターの残した傷は、ピーターがいなくなっても残ってる。
きっとあたしは一生きょうのことを忘れないんだろうな。
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3
まだ早い時間だったけど、風呂にはいった。
湯船につかりながら、樹さんとの会話を思いかえした。久遠のことあやまりにいったっていうのに、あれじゃあまるで好きな女の子のこと、それとなくたずねてるみたいだったよなあ。
美嶋にいわれてから、みょうに意識しちゃってるのはたしかだけどさ、ずっと年上なんだぜ。でも考えてみれば、東京ジュピターの中じゃあ時間の流れは遅いんだから、おれはこっちの時間だと二十八歳。遙さんはたしか……。えっと、いくつだったっけ。
そのとき、脱衣所の戸が開く音がした。恵のやつだな。
「はいってるよ!」
「ごめん」
恵だと思ったら遙さんだった。噂をすれば影ってやつか?
「ゆっくりはいってて。あたしはあとにする」
すりガラスのむこうの人影が出ていこうとする。
「遙さん」
「なに?」
「遙さんっていくつでしたっけ」
「女に歳を訊くもんじゃないわよ」
しばらく間をおいてからかえってきた声は、なんかさびしそうだった。傷つけちゃったのかな。おれも不用意に傷つけてるんだろうか。遙さんが好きな人と同じで。
「ぼくも……。ぼくもだれかを傷つけてるのかな」
こんどは答はなかった。かわりにガラス戸のむこうの人影が消え、脱衣所の戸がしまる音がした。
「やっぱりそうなのかな……」
おれも知らないうちにだれかを傷つけてるんだ。
っていうか、ここんとこのおれは遙さんを無意識にさけてたかもしれない。遙さんのほうも、なんか大がかりな作戦でそれどころじゃないみたいだし。一色べったりだもんな。
それにしても、遙さんが好きな人ってだれだろう。樹さんじゃないなら、功刀《くぬぎ》さん? まさかね。もしかして八雲《やぐも》さんかな。それとも堅物の五味さんとか……。
そんなこと考えてるうちに気分が悪くなってきた。湯あたりしたらしい。
もうやめよう。
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断章7 鳥飼 守
もう三日目だ。綾人をねちねちイジメるのもあきてきた。そろそろ決着をつけようじゃないの。綾人くん。
ってわけで、おれはまたも家捜し守くんだ。あいつは買い物があるとかいって街へ出かけていった。「買ってきてほしいものあるか?」ときたもんだ。のんきなやつだぜ。
携帯だけじゃなくて、もっと決定的にあいつらの仲を証明するようなものがあるといいんだけどなあ。ツーショットの写真とか、ラブラブのメールとかさ。そう思いながら、バッグをひっかきまわしていたときだった。
女物の手帳を見つけた。
見たことがある。
浩子のだ。
胸がざわざわとかきまわされた。
のぞいちゃいけない、そんなことをしたらおまえが傷つくぞ、という声がどこからか聞こえたけど、おれは無視して手帳を開いた。
「五月二十四日
外。
安全障壁……あ、こっちでは絶対障壁っていうんでした。その外に自分がいるなんて信じられません。しかもこんな緑がいっぱいあるなんて、ウソみたいです……」
ページをめくる手が震える。
「もし、かれになにかあったら、どうしましょう」
「でも、綾人くんだったら、いいのに……」
「きっとはたから見れば恋人同士に見えたことでしょう」
めくるたびにおれの胸は血を流す。ページの縁で指を切ったときのような、すっぱりと深い一直線の傷がいくつもついていく。もうやめろ、これ以上イタイ思いをすることはない。頭ではわかっていても、指をとめることができない。そして……。
「アヤトクンヤメテ
コンナコトシタクナイ
ホントウノコトガイイタイ
モットハナシガシタイ
イタイ イタイ ヤメテ
ホントウノコトガイイタイ
アヤトクン
ダイスキダヨッテイイタイノニ
アヤトクン
サヨナラ」
最後の文字が流れるように見えるのは、浩子の力がつきたのか。
それともおれの涙でゆがんで見えるのか……。
どこかで風鈴の音がしたような気がした。哀しい青色の音だった。
どれくらいそうしていたろうか。おれは手帳を開いたまま、ぼんやりと宙を凝視《みつ》めていた。
心はからっぽだった。青い血の色にからっぽだった。
「守くん。おかし食べる?」
襖が開いて、恵が顔をのぞかせた。
感情を抑えつけながらゆっくりとふりむくと、恵の顔には同情めいた表情があった。
おれはこんなやつにまであわれみをうけるのか……。
自分が情けなくて笑いがこぼれそうだった。
「ごめん!」
おれは殺意を気どられないように、おおげさに頭をさげる。
「きのうはごめん。おれ、どうかしてたんだ」
「いいよ、気にしてないから」
ほんとノーテンキ娘だよ、こいつは。おれは顔をあげ、大きく吐息をついてみせた。
「よかった。恵ちゃんに嫌われたらどうしようかと思ってさ。だって、ほら、ごはんの心配しなきゃならないじゃない」
いつもどおりの守くん。そんな演技が心につらい。いますぐにでもこいつを殺して、血をこの部屋一面にぶちまけてやりたい。だが、それはできない。だいじなものが目の前で壊されていくときの綾人の顔が見えないじゃないか。
「ほんとに怒ってない? だったら甘えちゃうけど、島内観光したいなあ」
そんなのむりだよという恵に、こんなとこに一日じゅういるのあきちゃったよとか、壁ばっかり見てるとそれが収容所の壁に見えてくるんだとか、ならべたてる。バカな娘はいいくるめやすい。しまいには、しかたないなあと恵はうなずいた。
綾人のために浩子の手帳を置いといてやる。いくらバカでも、これで気がつくだろう。
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4
神至《かない》市に絵の具を買いにいった。帰りがけ、守のためにジャンプやらサンデーを買いこんだ。あいつもひとりで部屋にじっとしてるのなんか、つまんないだろう。家にもどってから納戸をのぞきこんだが、守の姿はなかった。おれの部屋かと思って襖を開けると、すぐのところに浩子の手帳が置いてあった。
心臓がぎゅうっとだれかにつかみあげられた。
読まれた!
足元がくずれたような不安に襲われる。なにも考えられない一瞬がすぎた。いや、もしかしたらしばらく茫然と立ちつくしていたのかもしれない。いつまでも隠しとおせるものじゃないとわかっていながら、先送りにしていたことがとうとう現実のものになってしまった。しかも最悪の形で。
「守!」
おれは懸命にあいつの姿をさがしたが、どこにも見あたらない。母屋もさがしてみたけど、守どころか恵までいない。恵が守をつれだして、どうしようっていうんだ。もし、守が恵をつれだしたんだとしたら、なにをするつもりなんだ。浩子の手帳を読んだあいつが……。
ほうっておいた傷口に膿がたまって白く盛りあがるように、不安がぶよぶよと大きくなっていく。
どこへ行ったんだ! ふたりとも。
気がつくと、おれは後生だいじに画材やマンガ雑誌のはいった袋をかかえたままだった。それを投げだして、外へ飛びだす。見つけなきゃ。ふたりをなんとか見つけなきゃ。そして、守に事情を説明しなきゃ。もしかしたら、なぐられるかもしれない。もっとひどいことをされるかもしれない。それでもかまわない。なんとかしなきゃ。
おれは裏山をかけのぼった。
ふたりが人目につくような場所を行くはずがない。としたら、裏山から風力発電所へ行ったにちがいないとふんだ。
案の定、ふたりは風力発電所の海の見える広場にいた。
「守!」
守がふりかえった。ようやく来たか、という顔をしていた。
「デート見つかっちゃったな」
いつものあいつらしいけど、どこか声が冷めている。
「やめてよー。綾人が誤解するよ」
恵はそういって、おれに顔をむけた。
「ちがうからね。ただちょっと島を案内してくれって、たのまれただけだから。デートなんかじゃないよ」
でも、そんな言葉はおれの耳にはとどかなかった。目も守からひきはがせない。
「読んだのか」
「読んだよ」
笑うような声だったが、底知れない悪意の響きがあった。
守の手がヘビのように音もなく恵の首にまわされ、ぐうっとしめあげた。かけよろうとしたけど、足が一歩も動かせない。
「やだぁ、やめてよ」
最初、恵は冗談だと思ったらしく、笑って腕をはずそうとしたけど、その腕は冗談でもなんでもなかった。本気でしめあげられて、恵の顔から笑みが消え、苦しみにゆがんだ。
「なにする気だ! 恵をはなせ!」
「なにする気って、それはおまえがいちばんよくわかってることだろ、オリン!」
オリン? その名前でおれを呼ぶってことは、おまえ……。
「奏者としての〔刻印〕をもつ者。あるだろ、印がさ」
無意識に腹に手をあてる。布地の下でアザが熱く息づきはじめる。そこにアザがあることは、守も知っている。だけど、それを守は「奏者としての刻印」とは呼ばないはずだ。おれのことをオリンとは呼ばないはずだ。そう呼ぶのは久遠と……そしておふくろだけだ。
「おまえ、守じゃないな!」
「バッカだなあ。鳥飼守くんに決まってるじゃないか」
そういって守は笑った。
「おれは、おまえをずっと監視してたんだよ。東京でも友だちヅラしてな」
うそだ! それじゃあ、いままでのことはなんだったんだ。東京で浩子と三人でバカ話をしたり、騒いでいたのは? 教室でもふざけてたのは? あれは監視だったのか?
「おれはおまえを友だちだと思って……だからおまえを守るんだって……」
「守る? 守るだと!」
さもおかしいことを聞いたかのように、守は大笑いをはじめた。
「あいつがおれを守ってくれるんだってさあ。おかしいよなあ、恵ちゃん」
恵は答えられない。守はさらに力をこめ、苦痛にゆがむ彼女の顔をさもおもしろそうにながめた。それから、おれを見た。冷たい呪うような視線だった。
「浩子も守れなかったのにか」
静かな言葉が、おれの腹にたたきこまれる。
守のいうとおり、おれは浩子を守れなかった。ぶよぶよとふくらんでいた心の膿が、一気に噴きだし、胸がつらぬかれる激痛が走った。
「そのことをおれにいう勇気さえなかったのにか!」
なにもいいかえせない。浩子の手帳を読むなんて形で、彼女の死を知ったなんてつらすぎる。守にそれを強いたのは……おれだ。
「浩子はおまえが好きだった。おれのことでなくおまえのことが」
はきだすような苦しい声だった。
「そして、その浩子を殺したのはおまえだ、オリン!」
守の苦しみが、一気におれにむかってたたきつけられる。浩子を失った守の苦しみが、おれの心の内側をあばれまわる。おれはただ歯をくいしばり、その苦しみに耐えるしかなかった。すべての罪は自分にあるんだ。
守がポケットをごそごそやりはじめた。一瞬、拳銃がぬかれる、と思った。だけど予想に反してあいつの手に握られていたのは携帯電話だった。TERRA《テラ》のマークがついている。おれのか?
「綾人? もうどこにいんのよ。わたし、よ」
守が操作すると携帯から恵の声が聞こえてきた。いつこんなメッセージいれてたんだよ。
「あのさ……あのね……。紫東恵は、本日をもって正式にTERRA《テラ》職員となりました。だれよりも真っ先に教えてあげてんのに、バカ! 少しは乙女心ってもんわかってよ!」
メッセージが終わった。守はおれを見て、にやりと笑った。それから恵を見て、わざとやさしげにこういった。
「かわいそうにね、恵ちゃん」
そのときだった。恵が意外な言葉を口にした。
「いいんだよ。泣いたって。思いっきり」
いわれたとたん、守の顔に驚きが走った。それからすぐに守は恵の首をしめようとした。だけど、苦痛に顔をゆがませたのは守のほうだった。悲しいような苦しいような表情がいくえにも折りかさなって現れる。腕には力がはいっている証拠にぶるぶると震えているのに、恵を殺せないでいる。しめあげようとする意志とやめようとする意志が戦っているようだ。それから、どうすりゃいいんだよ、という泣きそうな顔をおれにむけた。
そして……。
消えた。
がっくりとくずおれた恵が倒れこむ。
ようやくおれは動くことができた。恵にかけより、助けおこす。
「しっかりしろ。恵」
恵は目をあけ、そして、おれにすがりつくようにして泣きはじめた。
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断章8 紫東 恵
あたしは綾人にすがりつくようにして泣きはじめた。
「もうだいじょぶだよ」
そういって綾人はあたしを抱きしめてくれた。
だけど、わかっちゃいないんだ、このバカは。なんであたしが泣いてるかなんて。
守があんなことしようとしたなんて、悲しすぎるよ。
とても好きだったヒロコって人をなくした痛みを、綾人にも味わわせようっていうんだ。そんなことしたって、自分の胸の穴はふさがらないのに。
あのとき、さびしかったから抱きついてきたんじゃなかったんだ。悲しかったから、身を切られるほど悲しかったから抱きついてきたんだ。
イタイよ。そんなの……。
だからって、あたしはあいつのために泣いてるわけじゃない。
あたしは自分のために泣いていた。
だって、わかっちゃったんだもん。
あの再生されたメッセージを聞いたとき、綾人の目の奥にはなんにもなかった。あたしはつたない言葉で懸命に想いを伝えようとしたってのに、あのバカにはなんにも伝わってなかったんだ。
しかもそれは、あたしのことが眼中にないとか、いままでそんなこと考えもしなかったなんてもんじゃない。なんかがある。心の奥底にだれかへの想いを封じこめてるんだ。だから、あたしがはいる余地がない。
それくらい、いっくらあたしにだってわかる。
だから、あたしは泣いてんの。
失恋に泣いてんだよ。
自分に「いいんだよ。泣いても。思いっきり」っていってあげたんだ。
それくらいわかってよ、バカ……。
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断章9 鳥飼 守
やれなかった。
恵を殺すことができなかった。なぜだかはわからない。「いいんだよ、泣いたって」と聞かなかったら殺せてたはずなのに。たった一言聞いてしまったために、おれの胸はしめつけられた。
恵の顔が一瞬、浩子の顔に重なった。浩子は悲しそうに笑っていた。おれの手にかかる自分の運命を受けいれようとしていた。
おれは腕に力をいれることができなくなっていた。
ただの下等な人間じゃないかと自分にいい聞かせても、できなかった。綾人におれと同じ想いを味わわせてやるためにするんだ! やらなきゃならないんだ! 心の中でなんどもさけんだのに、できなかった。
くそ。くそっ。
なんでこんなことで悩まなきゃならないんだ。
なんでこんなことで苦しまなきゃならないんだ。
みんな、綾人がいけないってのに!
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第二章 木星消滅作戦
断章1 紫東 遙
あれから一ヶ月近くたつ。白ヘビさまの腰巾着ぶりもずいぶん板についてきた。と思っていたら、一色に急に呼びだされて、意外なことをいわれた。
「紫東大尉、きみにはTERRA《テラ》をはなれてもらう」
「は?」
って思わず訊きかえす。だって、そうでしょ。みんなに白い目で見られるのに耐えて、忠犬ハチ公みたいにつくしてきたってのに。
「理由はいわずともわかっているだろう」
一色がハルカ少尉に目をやると、彼女は小さくうなずき、レポート用紙のようなものを机の上にすべらせた。なんだろと思って見ると、いつかわたしがいたずら描きした白ヘビ一色の似顔絵だった。われながらケッサクだと思ったんだけど、白ヘビさまはお気にめさなかったようね。
「きみはもっと頭のいい女だと思っていたのだがな」
さげすむような目をむけてくる。つくづくこいつ小者だわ。たかだか似顔絵一枚で、少なくとも表面上は味方に見える人間をあっさりと切ってすてるなんて。それとも、わたしが裏で策謀をめぐらせているのを、感づいたのかしら。ううん、そんなことはないと思う。
「長いあいだ、お世話になりました」
それだけいうと、わたしは外へでた。
やれやれ。長い一ヶ月だったわ。ようやく解放されたよろこびにひたっていると、むこうから八雲くんがやってきた。
こんなグッドニュースはすぐに教えてあげなきゃね。
「クビになっちゃった」
「いいなあ、遙さんは」
八雲くんは、さもうらやましそうにそういった。そりゃそうだよね。人使いがうまいとはいいがたい上司だもんね。おかげでこっちは気が楽になった。あとは心おきなく、一色の周辺を調べられる。
「とりあえず、こっちのことはヤグモっちにまかせた」
えー、ぼくひとりですかあ、と不満気な八雲くんの肩を軽くたたいてあげる。くさるな青少年。人生、山あり谷ありよ。いろいろな経験が将来の役に立つんだから。
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断章2 八雲総一《やぐもそういち》
いいなあ、遙さんは。いちぬけたっていえて。おかげでぼくはまだまだ一色のお相手しなきゃならない。樹さんからわたされたダウンフォール作戦の評価レポートを見せると、一色は一読するなり顔をくもらせた。
「科学調査部のレポート、いかがでしたか?」
「特に問題はない」
そんなこといっちゃっていいのかなあ。樹さんは今回の作戦については懐疑的だ。あまりにも財団のテクノロジーがはいりすぎていて、どのような結果になるかまったくわからないといっていた。レポートにはそう書いてあったはずだけど。まあ、財団の人間であるこの人が、そんな内容のレポートを信じるはずがないんだ。
そのとき、メールが届いた音がして、ハルカ少尉がパソコンモニターから顔をあげた。
「司令。国連統轄部からの緊急メールです」
「こっちにまわしてくれ」
自分のパソコンに転送させて目を通していた一色の眉がぴくりと動いた。かなりきつい内容だったようだ。何度か読みかえしてから、ようやく一色は口元をゆがめるようにして笑った。
「少佐、ダウンフォール作戦実施時間を一時間くりあげる」
「そういう命令だったのですか?」
ぼくもとぼけちゃって。あとで協力者に内容の確認はとるけど、統轄部がこの期におよんでくりあげ命令なんかくだすはずがない。
「わたしは消滅艦隊旗艦に移乗。そこで直接指揮をとる」
そういいながら一色は立ちあがって、ぼくに背をむけた。たぶん不安げな表情を読まれないようにだと思う。
「リーリャ・リトヴァクでですか?」
「じかに勝利を見たくなってね」
小さく笑ったけど、背中で組んだ指先がおびえたみたいに震えてますよ、一色さん。
ほんとだいじょうぶかな。こんな人にまかせちゃって。ぼくの立場は複雑だ。この人に失敗してもらって功刀《くぬぎ》司令がもどっていらっしゃることを望みつつ、成功してもらわないと人類の未来がかかっている作戦だ。いちばんいいのは、功刀《くぬぎ》司令が後始末できるぐらいに失敗してくれるとうれしいんだけど、この様子じゃあ大コケにこけそうな気もする。やれやれ、無能な上司をもつと部下が苦労するよね。
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1
功刀《くぬぎ》司令から、あ、いまは元司令か。とにかく功刀《くぬぎ》さんから急に荷物をとりにこいといわれた。行ってみると、ブチが段ボール箱につめこまれていた。ここんとこ見ないから心配してたら、こんなとこにいたのか。でも、なんでこのネコが功刀《くぬぎ》さんちにいるんだ?
「きみの家のネコだろ」
功刀《くぬぎ》さんは窓際でおれに背をむけたままぶっきらぼうにいった。
「これだけですか?」
「そうだ」
うしろ手に組まれた指が、バンドエイドだらけだ。段ボール箱につめるとき、ブチにひっかかれたにちがいない。
「ネコ、きらいなんですか?」
「そうだ」
やれやれ。とりつく島もないや。考えてみれば、この人とまっとうに話したことなんて、あんまりないもんな。いつだっておれが怒ってぶつかるのを、この人がかわすだけだった。
鳥の声がした。見ると、部屋のすみに鳥籠があって青いきれいな小鳥がはいっていた。鳥がいるんじゃ、ネコ嫌いだよね。おれが籠をのぞきこむと、小鳥はエサでもくれると思ったのか、止まり木の上ではねまわりながらさかんに鳴きはじめた。
「名前、なんていうんですか?」
「ミチルだ」
「功刀《くぬぎ》さんもロマンチストなんですね。チルチルミチルですか」
「娘の名前だ」
え? 娘の? 功刀《くぬぎ》さんに娘さんなんていたのかな。そういや、奥さんがいたって話だれかに聞いたっけな。自分の名前がつけられた小鳥を父親が飼ってるなんて、娘さんが知ったらどう思うんだろう。
「紫東大尉……」
背中をむけたまま急に功刀《くぬぎ》さんが遙さんのことをしゃべりだした。
「彼女がいなかったら、きみはとっくに収容所送りだった。いや、最高機密を盗みだしたかどで極刑もありえただろう」
遙さんのことをいわれて、胸がざわめきだした。
「彼女が一色新司令のそばにいたのも、そのためだ。きみに自由をあたえる交換条件だったんだよ」
そうだったんだ。だから、みんなに、恵にまで腰巾着とかいわれるのもかまわずに、あんなやつの下で働いてたんだ。
おれのために……。
胸があたたかくなって、痛くなった。おれなんかのためにそんなイヤなことまで引き受けざるをえなくなった遙さんに感謝すると同時に、なんとなく避けていた自分が恥ずかしくなった。やっぱり遙さんはそんなことをする人じゃなかったんだ。
「どうしてですか?」
「なにがだね」
「なんで、そんなことぼくに教えてくれるんです」
「紫東大尉はTERRA《テラ》をクビになった」
初耳だ。そんなことだれも教えてくれなかった。
「だからもう隠しておく必要もない。彼女がどう思ってあのような行動にでたのか、きみに説明してやる人間がひとりぐらいいてもいいだろう」
「功刀《くぬぎ》さんって、案外、おせっかいなんですね」
おれがいったなにげない一言に功刀《くぬぎ》さんはおどろいたみたいにふりかえり、それからツボにはいったのか、小さく笑いだした。
「おせっかいか。……年寄りのおせっかいと思ってくれていいよ」
ちょっと意外だった。この人はいつも苦虫をかみつぶしたみたいな顔して、人生の悲哀をもろにしょいこんでるから、笑うなんて想像もつかなかった。けっこう誤解してたかも。
「功刀《くぬぎ》さんも笑うんですね」
「あたりまえだろ」
そういってまた笑った。小さな日だまりができた部屋に、小さな笑い声が広がっていく。
「綾人くん」
「はい?」
「こんどいっしょにメシでも食わんか」
おれは素直にうなずいた。たまにはそういうのもいいかもしれない。いまは絵でいそがしいけど、いつかこの人とメシを食うってのもいいかもね。
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断章3 紫東 遙
ひさしぶりに見る小夜子の肌は荒れていた。噂では毎晩のように神至市の繁華街で飲み歩いているっていうけど、化粧もしていない疲れきった顔を見るとどうもほんとらしい。その顔を見せたくないのか、それともわたしと顔をあわせたくないのか、小夜子は地下駐車場にとめた車から一歩もおりようとはしなかった。
「あいつとのやりとりは思いだせるかぎり書いたわ」
ブ厚い報告書を手渡される。小夜子が一色とどういう関係にあったかはつかんでいる。そんな女性《ひと》に、報告書を書かせるなんてつくづく因果な商売だと思う。
「ごめんね。イヤなことさせちゃって」
「いいの」
小夜子は疲れきったように力なく微笑んだ。
「結局、あたしはこういう女なのよね。お兄ちゃんやおとうさんのことも……。表向きは、財団でTDDの基礎研究をしてて、その実験中の事故で亡くなったってことになってるけど。ほんとは……ほんとは……わたしが殺したの。殺したのもおなじ」
え? 急になにいいだすのよ。
「あのときね、バーベムのやつらにいわれたのよ。そうすることが、おとうさんたちのためになるって。安全は保証するって……」
そんなことがあったんだ。たぶん、まだ小さかった小夜子は財団のおとなにいわれるままに、おとうさんたちの秘密をもらしてしまい、それが結果的に肉親の不幸につながったんだ。だから自分を許せないんだろう。そんな経験をしているから、よけいにかれを裏切った自分が許せないんだ。
ぺらぺらとめくる報告書には、何度も何度もくりかえし「如月博士」という単語が出てくる。これは報告書じゃない。哀しいラブレターだ。
「よくいうじゃない? パンを落とすと、バターをぬったほうがかならず下になるって。あたしはいつも、このくりかえし。あのひとのことだって……」
「そんなことない。樹くんは小夜子のこと……」
「樹くん、樹くん、樹くん! あんたはいつだって樹くん! あたしはいつだって樹さん! 樹先生! 如月博士!」
引き裂かれるようにさけぶと、小夜子はハンドルにつっぷすように顔をふせた。
見ているだけで、こちらの胸がつぶれそうだった。
自分ではまったく意識していなかったけど、たしかに樹くんとの関係は親しすぎたと思う。小夜子にしてみれば、わたしがかれと話すたびにおもしろくない思いをしてきたのだろう。そのうえ、彼女に同情したとはいえ、自分でも見えすいたなぐさめまでしてしまった。
自分が高慢な女に思えた。自分がイヤになった。そして、
「嫌いよ。ほんとうは大嫌いだった。あんたのこと」
ほんと、小夜子にそういわれて当然だわ。
「知ってた」
おどろいたように彼女が顔をあげた。
「小夜子の気持ちわかってて、でも……」
利用していたのだ。情報部の人間として、科学調査部がつかんでいる事実をひきだすために。ほんと、どうしてこんな高慢な女になってしまったんだろう。
「最低だよね、わたし」
「サイテーなのは、あたしよ」
地下駐車場の蛍光燈が、自分を嫌う女をふたり、青白く照らしだしていた。
サイテーなのは、あたしよ、とくりかえしながら、小夜子はエンジンをかけ、どこかへ走りさってしまった。帰りの足取りは重かった。そのうえ彼女の報告書を読んで、さらに報告書を書かなければならないかと思うと、よけいに重かった。
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2
油絵の具のにおいは嫌いじゃない。なんか嗅いでいるとおちついてくる感じがする。自分の世界のにおいだ。ヘタクソかもしれないけど、いままでだれも見たことがない自分だけの世界を、おれはいま作りあげようとしている。
ほんとうは没頭したいんだけど、さっきから気になることがある。暑いから開け放した襖のむこうに影が落ちているんだ。その影はさっきから動こうとしない。やれやれ、こっちから声をかけないといけないのか。
「いつまでそうやってるつもりですか?」
声をかけてやると、照れくさそうに遙さんが顔をのぞかせた。まるで少女みたいな顔だった。
「気がついてたの?」
「わかりますよ、それくらい」
遙さんは照れたように笑った。でも、どこか陰のある顔だった。
「どうしたんです? なんか疲れてるみたいだけど」
「ううん、べつに。ただちょっとね。……おとなにはいろいろあるのよ。自分が嫌いになっちゃうこととかね」
なんだかよくわからないけど、そういうことなんだろう。ふっと、おれはいまこの瞬間が不思議に思えた。こないだまでなんかわだかまりがあったのに、いまはまた前みたいにごく自然にしゃべれてる。
遙さんはおれのとなりに腰をおろして、絵をのぞきこんだ。ふわりと彼女の髪のにおいがただよってくる。
「ごめんなさい」
「なに?」
「ぼく、このあいだから遙さんのこと避けてたみたいで……」
「うん、避けてたね」
そういう彼女の声があまりにあっけらかんとしてるので、よけいにイタい。
「だから……ごめんなさい」
うん、と小さくうなずく遙さんは、おれの謝罪を受けいれてくれたんだと思う。
「でも、やけに素直じゃない。どういう心境の変化?」
ぎくっ。絵を描いているうちになんて、とてもじゃないけどいえやしない。
「あ、その……功刀《くぬぎ》さんが、遙さんはぼくをかばってくれたって。誤解しちゃいけないって……」
しどろもどろの言い訳だよね。
「そう。ほんとおせっかいな元司令よね。でも、元がとれるのももうすぐかもしれない」
遙さんは謎めいたことをいってから、それをごまかすようにおれの顔をのぞきこんだ。
「ねえ、もうすぐ誕生日ね」
え? そうだったっけ? 壁のカレンダーを見ると、もう六月も終わりだ。七月になればすぐにおれは十八歳になるんだ。十八歳。二でも三でも六でも九でも割り切れる数だ。少しは自分の気持ちを割り切れるようになっているんだろうか。
「誕生日プレゼントなにがいい?」
「なにがいいって……いきなり聞かれても……」
「じゃあ、考えておいてよ」
遙さんはそういって微笑むと、描きかけの絵に目をやった。
「もうすぐできあがりそうね」
「うん」
「まえから訊こうと思ってたんだけど、この女の子だれなの?」
それは答えられない。それにいま答えるわけにもいかない。絵が完成するまではダメだ。
「あ、あのさあ、遙さん。この絵ができあがったらさ、一番はじめに見てくれないかな?」
ちょっと恥ずかしいけど、おれは意味をこめて伝えた。
遙さんは少し間をおいてから、また小さくうなずいた。
おれ、ようやく自分の気持ちがわかったんだ。熊ちゃんのいうように、ほんと絵は正直だと思う。
崖ぎわで青い海を凝視《みつ》める少女の絵を東京で描きはじめたときは、少女はだれでもなかった。しいていえば、自分の中の理想の女性の姿だ。それをこっちにきてからあらためて描き直して、ここんとこずっと描きつづけて……ようやくその少女がだれなのかがわかったんだ。
ようやくわかったんだよ、遙さん。
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断章4 八雲総一
リーリャ・リトヴァクは予定の海域に停泊している。ぼくと一色、樹さん、それとハルカ少尉の四人は艦橋でダウンフォール作戦がはじまるのをまっていた。でも、だいじょうぶなんだろうか。そもそも作戦自体が乱暴なものだ。
そもそも東京ジュピターとよばれている、次元間不連続面の内部は、ぼくたちの次元とは別個のファインマン・ダイヤグラムをたどって進化した異質の次元だと想定されている。つまりは量子レベルで存在の位相が異なる時空領域というわけだ。
TDDユニットは、対象物を確率共鳴場で包んで、いわば自分を東京ジュピターに同化して融合させるという方法で、次元間不連続面を突破する。四方田《よもだ》さんにいわせると、女子寮に忍びこむのに女装するようなもの、というわけだ。
でも、そんなことで東京ジュピターを突破しても送りこめる兵力はたかがしれているし、たとえ制圧に成功したとしても次元間不連続面が存在することにはかわりない。ダウンフォール作戦とは、その異質な次元をわれわれの次元へと完全に同化させる作戦なのだ。
ジュピター不連続面そのものを消滅させようというのだ。
そのためにTJバスターと呼ばれるシステムを、東京を中心とした同心円状に六基も配置して一気に中和してしまうつもりだ。TJバスターは、TDDユニットと同じ原理にもとづいて確率共鳴場を発生させる。ヒトの大脳内にきわめてまれにできる超知覚野のカオティックな活動状態を量子コンピューターで再現し、そこに生じるジュピター内時空との共鳴回線を高エネルギー場で強制的に拡張する。
TDDユニットとはもちろんレベルがちがう。四方田さんいうところの女子寮に忍びこむために女装する、なんてかわいいもんじゃなくて、女子寮の壁全体を一気に壊そうっていうんだから、使われるエネルギーはケタはずれだ。地球上で人類が使ってきた全エネルギーをすべて投入してもできないかもしれない。
それを可能にしてしまったのが、零点放射炉だ。プランク長の中性真空領域からゼロ・ポイント・エネルギーをひきだすことによって、真空1ミリ立方あたり少なくとも10の27乗ワット、つまり太陽出力の二倍以上のパワーをえることができる。最初聞いたときは不可能だと思ったけど、聞くところによると超小型のものがヴァーミリオン・シリーズにも搭載されているらしい。もう既存の技術になっていたなんて、驚きだった。
もちろん、こんなとっぴょうしもない技術を人類が作れるわけがない。バーベム財団とムーリアンテクノロジー基礎研究所がもたらしたものだ。
ただし、これだけ規模の大きなシステムになると、最初に中性真空の均衡状態を破るときに、極微の空間への極度のエネルギー集中を必要とするため、作戦開始にあたっては一基あたり1.5ギガワットの電力を二十時間にわたって供給しなければならない。こういうと簡単なように聞こえるけど、ほぼ関東全域が一日停電してるってことだ。たぶん、いま関東の人たちは電気のありがたさを身をもって体験していることだろう。
すでに予定の二十時間は経過している。あとは作戦開始の合図をまつばかりだ。
でも、ぼくは不安でたまらない。樹さんの予想では成功率は三十パーセント以下だという。成功したとしても、その結果どうなるのかはだれにもわからないというのだ。それでもこれはいつかは実行にうつさなければならない作戦だった。だから、ぼくも一色に協力してきたんだ。
「全システム配置完了。起動時のトラブルもみとめられません。あとは最高責任者のご命令をまつのみです」
最高責任者っていわれて、一色はにやけきっている。でも、最高責任者ってことは成功しても失敗しても、その責任を負わされるんだよ。たとえ成功したとしても、そのあとの事態に対処するにはあなたじゃ役不足だ。功刀《くぬぎ》司令にもどってきていただかねば。
ぼくがそんなことを考えているのもしらずに、一色はうれしそうに命令をくだした。
「ダウンフォール作戦発動!」
とうとう賽《さい》はなげられてしまった。
TJバスターが起動した。東京を中心とする半径九十七キロの円周状にある大島、富士吉田、本庄、笠間、犬吠崎《いぬぼうざき》そして消滅艦隊の特務艦JB―1のTJバスターがいくつもの砲身を宙にむけ、人類がいまだかつて手にしたことのない強大なエネルギーを放出した。
瞬間、双胴空母であるリーリャ・リトヴァクでさえ大きくゆれたほどだ。
収束したエネルギー・ビームは超高々度に位置する六機のプロップサットに反射され、巨大な六芒星《ろくぼうせい》を宙に描きだす。六芒星は東洋にも西洋にもある避邪《ひじゃ》の印だというが、はたしてこれは邪を避ける力があるのだろうか。それとも邪を解放する力があるのだろうか。
六機のプロップサットのあいだで増幅されたビームが、上空六方向から一気に東京ジュピターにむかってふりそそいだ。
東京ジュピターの頭頂部に閃光が走り、木星そっくりの模様が一瞬にして黒くまがまがしく染めあがった。全員がモニターに注目している。そこには東京ジュピターが空白として表示されている。電波も赤外線もニュートリノでさえ通さない絶対障壁の内側は、外からはけっして観察できないので白く表示されている。だが、もしこの作戦が成功して絶対障壁がとりのぞかれたとしたら、東京の内側の様子が映るはずなのだ。
だれもが息をとめて、モニターを凝視《みつ》めた。
沈黙の数瞬がすぎた。そして、東京が映った。白くぬけていた表示がまちがっていたとでもいうように、ごく当然の姿として東京が映った。十数年前の東京が、われわれの次元にもどってきたのだ。
リーリャ・リトヴァクの艦橋は、なおも沈黙に支配されていた。
赤外線や電磁波による情報がつぎつぎともたらされ、あらたに生じるウィンドウでモニターが埋めつくされていく。それでもだれも口を開こうとしない。いま、目の前でおきている光景が信じられないのだ。
「東京ジュピター絶対障壁、消滅を確認」
ぼくがようやく口を開くと、艦橋全体がワッとわいた。だれもが肩をたたき、作戦の成功をいわった。艦橋の窓にかけより、十数年ぶりに姿をあらわした東京を凝視《みつ》めるものもいる。地平線近くに見える東京湾、そのむこうにかすかにベイサイトの高層ビルが見え、その頭上に空中都市が浮いているのが見える。MU《ムウ》の都市がついに白日の元に姿をさらした。
一色もこぶしを握りしめ、得意満面のご様子だ。
でも、ぼくはまた沈黙する。
これは成功なんだろうか。それとも新たな脅威を解き放っただけなのか。災厄がもたらされるパンドラの箱をあけてしまったのではないだろうか。
ご満悦の一色のとなりで、ハルカ少尉が謎めいた微笑を浮かべていた。
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3
最後の色をおく。
なんともいえない充足した気持ちが胸の奥底からわいてくる。
完成した。ようやく絵ができあがったんだ。海にむかってつきだした岬に立ち、海の彼方のなにかを凝視《みつ》めつづける少女の絵が。タイトルはどうしよう。「恋人」じゃベタすぎるし、現代美術風に「非線形Dの不安」じゃわけわかんないし……。そうだ、遙さんにつけてもらおう。
そう思ったとたんだった。
「できたのね」
という声が頭の上からふってきた。えっとふりあおぐと、すぐそばにハルカ少尉が立っていた。なんであんたがここにいるの?
「ようやくできあがったのね、あなたの世界が」
「ハルカ少尉……どっからはいってきたんですか」
「わたしはハルカじゃない」
直後、ハルカ少尉は美嶋《みしま》になっていた。
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断章5 如月久遠
音。音色。なぜ音の色というのでしょう。音が見えるのでしょうか。なぜ人がおとずれるというのでしょう。ふたりの人間が出会うと音がずれるのでしょうか。不協和音によって、ひずむのでしょうか。わたしはピアノを弾きつづけます。弾きながらふと顔をあげると、ピアノのむこうに少年の姿が見えます。あなたはどなた? ああ、あなたはオリン。「どうしたの? だれかによばれたの?」「きみに、そしてあの卵に……ぼくはあそこへ帰らねばならないから」奇妙にひずんだ言葉の列が耳に響きまする。「あなたはオリンではないのね」「そうわたしはイシュトリ。ヨロテオトルに至るオリンの証、ゼフォンよりはなたれたラーの歌。そしてあなたが真実の心臓より欲する人の姿」とくとくとく。わたしの心臓の鼓動。とくとくとく。わたしの生きているリズム。真実の心臓より欲する人の姿がオリンなのならば、わたしはオリンに恋をしているのかしら。いえいえ、それはなりませぬ。愛護若《あいごのわか》ではありませぬ。恋ではなけれど、恋に似たもの。死ではなけれど、死ににたるもの。「あなたはだあれ?」「わたしは正しき者の階《きざはし》。……さあ、きみが必要だ。ひとつとなろう」「わたしもよ。いっしょにいたい……」そして、わたしはすべての束縛から解き放たれる。
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4
「きみは美嶋じゃないのか」
「美嶋玲香は真実の顔の偽りの名。わたしはイシュトリ」
なにいってんだよ、美嶋!
「わたしは道標にして、あなたがいまだ正しく見られぬあなたの顔。あなたはヨロテオトルを得て、世界の心臓となる。ともにいきましょう。世界の王にして、捧げられし人」
そういうと、美嶋はにっこりと微笑みかけてきた。だけど、おれはきみに微笑めない。
「ちがう! この絵の彼女はきみじゃない! 最初に見てほしかったのもきみじゃない! 描いたのもきみのためなんかじゃない!」
彼女はなにもいわず、じっとおれの顔を見ている。
「おれはきみとはいかない!」
「あなたが望まなくても、いずれそうなるの。……先にいっています」
そういうと美嶋の姿は消え、同時に絵の中の少女もその形に白くぬけてしまった。
それはきみじゃない。きみじゃないんだ!
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断章6 八雲総一
「やったぞ! ついにやったぞ!」
一色は艦橋の窓に顔をこすりつけんばかりのよろこびようだ。
「いまだかつてだれもやりとげられなかったことを、このわたしが……この一色真がやりとげたんだ!」
そのとき、オペレーターのひとりが悲鳴に近いうわずった声をあげた。
「なんだ!」
興に水をさされた一色は、いらついてふりむいた。
「ニュ、ニューヨーク上空にMU《ムウ》の空中都市が出現しました」
艦橋が一瞬、凍りついた。ちらりと樹さんを見ると、かれも驚いている。ぼくはモニターにかけよった。
「モスクワ上空にも出現を確認」
「ジャイプール、北京でも確認」
「キンシャサにも現れました!」
艦橋は騒然となった。ぼくの目の前で、モニター上につぎつぎとMU《ムウ》の空中都市が確認されていく。これってつまり……MU《ムウ》が増殖している!
一色は愕然と立ちつくしていた。
かれの目の前でも、東京の空中都市を中心にして、まるでカビが周囲にひろがっていくようにMU《ムウ》の空中都市がぞくぞくと増えていく。
国連統轄部からぼくあてにある命令がくだった。もう終わりだね、一色司令官。
そもそもダウンフォール作戦は第二次大戦の連合軍の東京侵攻作戦にあやかってつけられた名前だったけど、そのまんま、あなたの没落になったわけだ。
「国連統轄部からの連絡です」
「なんだ!」
一色さん、そんなこわい目で見なくてもいいんじゃない?
「一色真どの。貴殿は本日づけをもって、国連監察官およびTERRA《テラ》臨時司令の任を解かれました。理由はおわかりですね?」
「きさまぁ……」
一色の声が怒りに震えた。
「本作戦の危険性を警告した科学調査部からの報告を握りつぶし、統轄部からの中止命令を無視したうえに作戦を一時間早めてこの結果ですから」
ぼくの言葉を聞いているうちにひきつってきた顔が、怒りにゆがんだ。
「おれをおとしいれたな」
まってたんだよ。その言葉を。
「いやだなあ。自分から落ちたんじゃないですか」
とびっきり上等の笑顔をむけてさしあげる。せめてこれくらいはしないと、気がすまない。早いとこ、こんな男は排除しないと、この事態を収拾できなくなる。
「きさまあ!」
怒りで顔を紅くした一色がぼくの襟首をつかんできた。その腕を横から樹さんが抑えてくれた。
「お、おまえまで……」
樹さんまでが自分を裏切っていたと知った一色は、ぼくの襟首をはなすと、よろよろ二、三歩あとずさった。
「ハルカ……。どこにいる、ハルカ!」
「遙さんはあなたがクビにしたんじゃないですか」
「ちがう! もうひとりのほうだ!。きょうだって四人でリーリャ・リトヴァクに乗りこんだじゃないか」
なにいってんだろ、この人。最初から、ぼくとあんたと樹さんの三人だったじゃないか。あまりの事態の急展開に頭がおかしくなったんだろうか。
「遙さんは最初からひとりしかいませんよ」
ぼくの言葉に一色はなぐられたように、よろめいた。
「うそだ! ハルカ! どこにいるんだ。わたしをひとりにしないでくれ! ひとりはイヤだ! いやだあああっ!」
混乱しきった一色の声が艦橋に響きわたった。そして、かれは頭をかかえるように床にうずくまってしまった。
「とりあえず、罪状が確定するまで自室に閉じこめておきましょうか」
意見をもとめようとしたけど、樹さんの顔はまっ白だった。なにかあったのかな。
「いま司令センターから連絡があった。ラーゼフォンが自律行動をとりはじめたそうだ」
「え?」
「綾人が乗りこんでいないのに、動きだしたんだよ」
ラーゼフォンが? 自分の意志を獲得したっていうんですか?
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断章7 紫東 遙
スーパーで夕食の買い物をしていたら、とつぜん店の中に閃光が走った。
直後、地響きがとどろき、買い物客の悲鳴が店内を満たした。蛍光燈がいっせいに消えて、明かりは窓からのものだけになる。それがやけに明るい。
逃げだすおばちゃんたちにもみくちゃにされながら、わたしも店の外に飛びだした。
そして、立ちつくした。
夕焼けにオレンジ色に染められた雲のあいだから、薄青い夕暮れの空にむかって二本の白い光がのびていた。いや、薄いカゲロウの羽根のような光の翼だ。そして歓喜の震えをおびた歌声が、わたしの足元まで響いてくる。
これは……ラーゼフォンだ。見ると、ネリヤ神殿の前に立ったラーゼフォンが夕空にむかって翼をのばし、いままさに飛び立とうとしている。
なにがおきたのだろうか。綾人がどうかなってしまったんだろうか。わたしは、買い物袋を投げすてて走りだした。
ラーゼフォンに綾人がいないことはわかっていた。なぜわかったのかは説明できない。直感としかいいようがない。その直感につき動かされるままに、わたしは走りつづけた。
光の翼が大きく打ちおろされた。風圧にかき消されるというより、そのエネルギーによって夕焼け雲が蒸散していく。ラーゼフォンの足が宙に浮きあがった。
そのときだった。ラーゼフォンの胸にななめに光の筋が走った。まるでだれかがナイフかなにかで切りつけたような光だった。
おおおおおおおおお――
ラーゼフォンの絶叫が夕日にむかってのびていく。宙に浮きあがっていたラーゼフォンの体が、がくりとかたむいた。まるでつられていた人形の片方の糸が切れたようだ。そして、また一閃の光が走る。ラーゼフォンは苦痛に顔をゆがめ、すくいをもとめるように虚空に手をのばした。だが、それもむなしく体は根来《にらい》湾に落ち、盛大な水しぶきがあがった。
もう一度、ラーゼフォンは立ちあがろうとした。
だが、力つきたように膝をつき、背をまるめた。その背中からのびた光の翼がささえをうしなったようにゆらいだ。ゆらいだ翼はまるで意志のある生物のように大きくうねり、力つきたラーゼフォンをおおいはじめた。そして卵の形になり、沈黙した。
「綾人!」
なにかが綾人におきたんだ。そうでなければ、こんなことになるはずがない。わたしは家へむかって走りつづけた。
靴をぬぐのも忘れて、階段をかけあがった。襖をいきおいよく開けると、そこに綾人がいた。よかった……。
だけど、綾人は心ここにあらずといった感じで、ペインティング・ナイフを手に茫然と立ちつくしている。声をかけることもできない空気がある。そして、かれの前にはななめ十字に切り裂かれたキャンバスがあった。かれがずっと描きつづけていた絵だ。よく見ると、なぜか少女のところが白ヌキになってしまっている。どうしたんだろう。たしか黄色い服の少女が立っていたはずなのに。
ふと、そのななめ十字の切り口が、ラーゼフォンの胸に走った光の筋に重なった。
「ちがう……」
綾人がつぶやくようにいった。
「これじゃない。これじゃないんだ。これはぼくの絵じゃない。あなたに見せたかったのは、この絵じゃないんだ!」
最後は涙声だった。なにがあったのかわからないけど、描き手が自分の描いた絵を切り裂くなんてそうとうなことにちがいない。たぶん自分の身を裂かれる痛みを感じながら、絵を切り裂いたのだ。
わたしの胸も痛くなってきた。わたしにできるのは、かれをそっと抱きしめることだけだった。綾人は翼をなくした小鳥のように肩を震わせて泣きつづけた。
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断章8 ヘレナ・バーベム
卵の間に黒い卵が浮いている。その卵からは黒い羽根がつきだし、いまにも孵りそうだ。
「ラーゼフォンのオリンがイシュトリをこばんだわ」
久遠がまるで遠くのできごとのようにぼんやりとつぶやいた。
「そうか。だが、わたしにはおまえがいる。おまえはヨロテオトルの地平に達したもの。さあ、歌いなさい。わたしのために」
おじさまの言葉にしたがって、いくつものシュヴァルツァーが卵の周囲に降下しはじめる。まるでまがまがしい救世主の誕生を祝う黒き天使たちのようだ。シュヴァルツァーはヴァーミリオンの後継機種であり、機能的にはヴァーミリオンとほぼ同じだ。
久遠がくるりとおじさまを見た。
「あれは歪んだ鏡。わたしの歌をゆがめて返す」
久遠がふわっと手をふった。そのとたん、卵から手がのび、黒い光であたりをなぎはらった。シュヴァルツァーは両断され、空中にピンでとめられたように動きをとめた。人類最強の兵器をこともなげに破壊した久遠は、おじさまをふりかえるとにっこり微笑んでみせた。
「さようなら、エルンスト」
その言葉がまだ空中にあるうちに、久遠の姿はふわりとたなびく煙のようにかき消えてしまった。卵も姿を消し、それまで時をとめられて宙づりになっていたシュヴァルツァーの残骸がつぎつぎと爆発しはじめた。爆風が卵の間の床にたたきつけられ、おじさまとわたしのまわりを吹きぬけていく。おじさまの力場がなければ、たぶんわたしの体は吹き飛ばされてしまったかもしれない。
「よろしいのですか。久遠を行かせてしまって」
おじさまはうなずいて、久遠が行ってしまった卵の間の天井を見あげた。
「かまわんよ。しょせん、ヴァーミリオン・シリーズはまがいものだ。あれで世界が調律されてしまっては、わたしの望みは半分しかかなわない。これでよかったのだ。久遠は自分の意志で調律をおこなおうとしている。それが本来の姿だ。……そして、こんどはおまえの番だよ、ヘレナ」
おじさまがわたしのほうをむいて、にこやかに微笑んでくださった。たぶん、それがわたしにむけてくださる最後の微笑みだ。
あるいは、あのときシュヴァルツァーの爆風に巻きこまれて、この体が千々に砕けちったほうが幸せだったかもしれない。
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第三章 ここより永遠に
1
ニライカナイの七月の熱気が、根来湾からの浜風にほんの少しやわらげられた。
「きみはコーヒーが好きだったよね」
そういいながら樹さんがコーヒーをだしてくれた。
「好きっていうか……。東京で学校の先生がよく飲ませてくれたんです」
「東京か」
樹さんは思いだすようにつぶやいて、おれの前に座った。
「もうもどれるよ。絶対障壁はなくなったから」
「ええ、でも……」
部屋で絵ばっかり描いていたおれだって、いまの事態がどういうものかわかっている。MU《ムウ》の空中都市が世界各地に現れたんだ。ふたつの世界がいま、ひとつに重なろうとしている。
「いいんですか? ぼくなんかとのんびり話してて。TERRA《テラ》も大騒ぎじゃないんですか」
「そうだよ。これが終わったら、すぐに本部にもどらなきゃならない。本部にも身の回りのものを整理するだけだといってある」
「だったらなんで」
「だいじな話なんだ」
そういったっきり樹さんはだまってコーヒーを飲みはじめた。世界がたいへんなことになっているっていうのに、このバルコニーから見るニライカナイは平和そのものといった感じだ。根来湾に巨大な卵がある。おれがあのとき、東京湾の地下で見たラーゼフォンの卵だ。もうずいぶん前のことになる。東京の時間で十七歳になったすぐのことだった。そして、こっちの時間でもうすぐおれは十七歳でなくなってしまう。
おれの視線にあわせるように、樹さんもラーゼフォンの卵をじっと凝視《みつ》めている。
「ラーゼフォンがね」
「え?」
「いや……、ラーゼフォンはおそらく次元結界とでもいうべき構造で包みこまれてしまった。ああなると接触はおろか、搬送することもできない」
「そうですか」
「それから、もうきみはラーゼフォンに乗れないよ」
え? おれはいぶかしげに樹さんの顔を見た。どういうことだよ。
「ラーゼフォンは最終段階に入ろうとしている。あの卵はいわば、そのための繭みたいなものなんだよ」
「最終段階って?」
「いまは知らなくていいことだ。いや、知らないほうがきみのためだよ。とにかくラーゼフォンはシステムとして完成しつつある。ただひとつ、必要なものが欠けているだけだ。それはなんだと思う?」
いわれなくても、なんとなくわかっていた。
「ぼくですね」
樹さんは静かにうなずいた。
「きみが乗らないかぎり、ラーゼフォンはシステムとして完成しない。そして、システムとして完成してしまったら、もうあともどりができなくなる。つまり、きみはこんどラーゼフォンに乗ったら、もうおりることができなくなる。ひとでなくなってしまうんだ」
ヒトデナクナッテシマウ。意味があるような、ないような言葉にしか聞こえない。ひとでなくなったら、おれはなんになるんだろう。静かに考えながら、そんな重大なことをさらっと受けとめてしまっている自分に驚いた。おまえ、いまひとじゃなくなるっていわれたんだぞ。わかってんのか? わかってるのかといわれても、どうにもとらえようがない。現実感がない。
「わからないだろうね」
樹さんが同情するようにいった。
「明日から、きみは鳥になるんだよ、っていわれてるようなものだからね、わかるはずがないんだ。だけど覚悟だけはしておいてほしい。こんどラーゼフォンに乗るってことは、もう二度とこうやってコーヒーを飲めなくなることだ。遙やほかのみんなとも会えなくなるってことなんだ」
そういわれて、はじめてズンと腹のあたりが重くなった。ラーゼフォンに乗ったら、二度と遙さんに会えなくなるのか……。それがひとでなくなるってことなんだ。胃の中がひっかきまわされそうな不快感を感じる。なんでだよ、なんでおれがそんな目にあわなきゃならないんだ。運命の皮肉だっていうのか。そんな一言で片づけられてたまるかよ。おれの人生なんだぞ。だけど、そんなうらみごと、樹さんにぶつけたからってどうなるわけでもなかった。おれはこぶしを握りしめ、だまっているしかなかった。
「つらいだろうね。代われるものなら、代わってあげたいぐらいだよ」
「そんな!」
おれは樹さんをにらみつけた。
「そんなごまかし、聞きたくありません!」
「ちがうね。心の底からそう思っている。ぼくにはきみの気持ちがわからないように、きみにはわからないよ、ぼくの気持ちなんて。ぼくはずうっと世界と音の関係を調べてきた。ラーゼフォン・システムになるということは、それを体感できるってことなんだ。そんなチャンスがどうしてぼくでなく、きみにあたえられたのかと思うと嫉妬さえおぼえるね」
嫉妬なんて言葉が樹さんの口からもれるとは思わなかった。顔つきまで、いつもの樹さんらしくなくなっている。科学者って考えることが、おれたちとはちがうらしい。
「あ、いや、すまないね」
樹さんは自嘲的に首をふった。
「こんなことをいっても、きみの気持ちは晴れやしないってことはわかっている。ただ、きみにあたえられた運命は、ひとによってはたとえどんなことをしてでも、世界を滅ぼしてでも手にいれたいと思うようなことなのさ」
世界を滅ぼしてでも……。その言葉のほんとうの意味がわかったのは、もう少しあとのことだった。
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断章1 如月久遠
「姉さん、気がついて?」
われを姉と呼びしは妹御前《いもごぜ》なるや。こはいずくか。ひらにぷらか。ナーカルの兄弟《はらから》の軛《くびき》をのがれしわれは、ここにいたりしか。いたりしか。
「姉さん、とうとうこの時がきたわね」
この時、かの時、はるか永劫の過去より定められし時、まさにいたらん。幸いなるかな。主をほめたたえよ。
「わたしたちの世界、MU《ムウ》の世界は滅びる運命にあった。それをさけるためにナーカルの兄弟と名のるわざおぎたちが、ゼフォン・システムを作りあげたわ。そして、その奏者たるわたしたちを作りだした。滅びる世界を捨てるために新しい世界を織りあげるのが、わたしたちの使命だった。おぼえてる?」
かすかなる記憶の残滓の中にわたしはいる。そういえば遠い遠いむかしにそんなことがあったような気もする。夜の底の国にいたる道を見つけようとしていた気がする。
「でも、わたしたちが作動させるまえにゼフォン・システムは作動してしまった。それがイシュトリのせいなのか、なんのせいなのかいまもってわからないわ。そのときの次元震でナーカルの兄弟たちもまた次元の彼方に、つまりこの地球に飛ばされてしまって、もはやゼフォン・システムを作りだすことはできなくなった。残された道はただひとつ。多元宇宙をさまようゼフォン・システムがつぎに確実に現れる時空は特定することができたから、そこにわたしたちを送りこむことだった。そうすれば、わたしたちがそこにMU《ムウ》の世界を再現できるはずだったから。でも、どうしても当時のわたしたちの技術では、こちらの世界での二〇一二年十二月二十九日には間にあわなかった。だから、しかたなく三十年近く前の時間にあらわれて、あとは眠りながらその時をまつはずだった。おぼえてる? 時空回廊にはいった日のことを」
双子の姉妹、おなじ遺伝子をもつ者として生まれたわたくしたちは、あの日まで平和に暮らしておりました。わたくしたちを育ててくださった方々は、とくに奏者としての教育をなさったわけではありません。十七歳のそのときに、遺伝子が発動して使命に目覚めるはずでございました。だから、なにも知らずに育ちました。ゆうるりゆうらりゆらゆらり。われら育ちし聖所は、天を翔けるつばさ、地を走る獣《けだもの》までも、女子《にょし》というものは入るけれども、男子というもの入れざる所にてそうらえば、われら聖《ひじ》りきって暮らしおり。あれはたっとき日々なれど、遠きに思い近きに知る無宇《むう》の世界のことなり。無とはなきこと、宇とは時間の広がり、時間の広がりのない世界、閉じた世界、もう果ててしまう世界、もう終わっちゃった世界なんだよ。そんなむかしのことに縛られたって、しゃーないじゃんって感じ。でも、まあ、弟姫《おとひめ》の申《まお》さくこと、わかんないわけでもないしさあ。そういや、時空回廊に入るあの日、なんか甘ったるい薬飲まされたっけか。ソーマだとか相馬だとかそんなものだった。飲んだとたんに眠くなった。汝《な》は眠《ねぶ》りに陥らざるや。
「不幸がおきたのは、そのときだったわ。わたしだけが目覚めてしまった。そのときをまたずして、成長をはじめてしまった。奏者の資格を得るのは十七の歳、そのときから一年間だけ。十七歳になって、遺伝子に刻まれた自分の使命を思いだしたわたしの苦悩がわかる? 二〇一二年十二月二十九日にはわたしは三十をすぎている。資格などとうになくしてしまっている。あなた、わかる? 奏者の資格の歳の一年をわたしがどういう気分ですごしたか。十八の誕生日の前日、資格がこぼれ落ちていくのを、ただ見ていなければならない奏者の気持ちがわかる?」
哀れなり、哀れなり。踊る舞台を与えられぬ傀儡《くぐつ》は、いかなる生をすごせばよいのやら。たれに見せるか傀儡舞。見るものとてない場所で、あなたはむなしく踊りつづけたのね。奏者の資格をうしなう日まで、ただただむなしく日を継いだのね。吾が心根、悲しみにふたがり、哀れみに涙する。汝、切々たり。哀々たり。
「そんなときだったわ。財団が接触してきた」
財団? ああ、バーベム財団のことね。死んでしまったと思われていたナーカルの兄弟《はらから》の最後の生き残り、エルンストとか名乗ってる。メトセラとかいろいろいわれてるけど、体を乗り継ぎ、代《よ》を継ぎ、きょうまで必死に生きつづけてきた人だ。かれらもたいへんだったでしょうね。自分たちの作ったゼフォン・システムが作動して、気がついてみたら、こんな文明が遅れた世界に飛ばされたんだもの。かのはらからたち、世に散りて、ある者は平満殿《ひらみつとの》を、ある者はカルナック、ストーンヘンジを作れり、かれらに導かれたるマヤの民人、みずからの暦にその時を記したり。ゼフォン・システムがこの世界に降臨する日、西暦にして二〇一二年十二月二十三日を記したり。ほんとは二十九日なんだけどさ、ま、多少の誤差は許してやんなよ。まだ時計だってなかった時代の話なんだからさ。
「財団は新しい奏者を作ろうと提案してきたのよ。そんな提案に乗らないはずがないじゃない。そして生まれたのが綾人と樹だった。生まれたときのふたりを見せてあげたかった。保育器の中でわたしを見あげる四つの瞳を見たとき、この子たちはわたしの子だって思えた。だって、遺伝子はおなじものですもの。できることなら、ふたりともわたしがこの手で育ててあげたかった。でも、それはできなかった。その後、わたしと財団は袂をわかち、綾人だけをなんとかひきとって、いずれくる二〇一二年の終末の日にそなえて自衛隊の反動分子たちと接触をもったわ。そして、その日がきた」
MU《ムウ》大戦記念日としてみんながおぼえているその日のことは、わたしはまったくわかりましぇん。だって眠ってたんだも〜ん。
「ゼフォン・システムがネリヤ神殿とゼフォン神殿とともに、この世界に出現した。その結果として、かつてのMU《ムウ》の世界がひきずられて現れてしまった。ふたつの世界が重なろうとしてしまったの。まだ奏者の資格を綾人も樹も手にいれていないというのに。だから、わたしは、現れたMU《ムウ》の科学力で時をぬいとめたわ。ふたつの世界が重なろうとするのをふせいだのよ。MU《ムウ》の言葉でフン・ラカン・トゥクール。TERRA《テラ》がいうところのトウキョウジュピターよ。そして、綾人が成長するのをまった。でも、それをまっていたのはわたしだけではなかったの。バーベムもまたそれをまちつづけたわ。そして、綾人が十七歳になったそのとき、東京ジュピターにむりやり侵入してきて、綾人をさらっていった。わたしの綾人を」
麻弥が言葉を苦く切ったは、母の苦しみか、女の高慢か。自分にかなえられなかった夢を子どもに託すのは、母親として当然のことだわ。だけどさあ、それでいいのかなあ。
「わたしもむりに引きとめはしなかった。十七歳になったというのに、あの子は使命に気づきもしなかったから。残された方法はあの子がゼフォンをうまく奏でられるようにすることだけ。ドーレムを使ってゼフォンの歌をひきだすには、東京ジュピターは小さすぎたのよ。だから、外につれだされたのはいい結果を生むと思ったわ。実際、あの子はうまくゼフォンを奏でられるようになった。イシュトリはヨロテオトルにいたり、ゼフォンはラーの称号を得て、真聖ラーゼフォンとなろうとしているわ」
獅子は子を千尋の谷に落とすといわれるが、この女はわが子をだれも落ちたことのない千尋の谷につきおとしたわけか。それも子を愛するがゆえに。子を世界の生贄となる神にするために。
「わたしは世界が調律される日を、いつまでもこの東京ジュピターでまつつもりだった。ところが、地球人どもはおろかにも、その封印を解いてしまった。世界がふたたび重なろうとする。相反する世界が重なれば、ふたつとも滅びるというのに……」
おろかなり地球人。おろかなりMU《ムウ》。まろかなり黒き卵。黒き卵の孵りてベルゼフォンになれり。その色黒き、ま黒き巨人、地に生まれ、天に吼える。世界を調律せんものと。宇宙を創造せんものと。
「もう時間がないわ。姉さん、わたしたちのために調律してくれるわね。綾人といっしょに……。世界を」
世界を。世界を。この宇宙を。夢見るのはわれらの使命か。夢見る指先にいかなる世界を紡ぐのか。紡ぐ、むぐむぐむぐらの子。綾人と名乗る男が資格を得ている時間はあとわずか。きょうと明日と明後日と。七月になったら、わずかに二日。三日になったら、もうできない。当年とって三六《さぶろく》十八となりまする。鬼も十八番茶も出花、だけど奏者は役立たず。歌を忘れたカナリヤは銀の船にも乗せようが、資格をなくした奏者はなんとしよ。柳の枝でぶちましょか。いえいえ、それはなりません。ゼフォンとともに常闇《とこやみ》の国へと流しやりましょか。いえいえ、それはなりません。それではいかにせんとや。答は生まれぬ。なぜなら、世界は調律される運命にあるから。綾人がどう思おうと。
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断章2 八雲総一
功刀《くぬぎ》司令がもどってらっしゃった。事態は急を告げ、かなりたいへんなときだけど、司令がもどってらっしゃれば、もうだいじょうぶだ。
「おかえりなさい。功刀《くぬぎ》司令」
敬礼するぼくの声は、だれが聞いても元気よく明るかったにちがいない。
「長いこと留守にしてすまなかったな」
功刀《くぬぎ》司令は、ひさしぶりの司令センターとみんなをなつかしそうに見まわした。
「いえ、みな、司令官のお帰りをおまちしておりました」
「みんな、変わりはないな」
全員がうなずく。功刀《くぬぎ》司令は、きのうまで一色の腰巾着とののしられながらも情報を集めつづけていたぼくと遙さんに小さくうなずいてみせた。それだけで、苦労はむくわれるってものだ。
そこへ警報が鳴り響いた。緊張感が走り、全員が持ち場に走った。各地からMU《ムウ》接触事例の報告がつぎつぎともたらされた。
はじまったんだ。
「目撃情報は関西首都圏エリアだけで八十を突破」
「うちムーリアンが二十八、建造物が三十一、ほかは特定できませんでした」
「いずれも目撃は数秒単位からせいぜい三十秒ほどです」
キムと恵ちゃんの声がかさなるように聞こえた。
「世界が重なろうとしているんだ」
樹さんが重々しい口調でいった。
「どういうことだね」
功刀《くぬぎ》司令の言葉に、樹さんがうなずいて説明しはじめた。
「絶対障壁は、ふたつの世界が重ならないように次元の差によって食いとめていたんです。それをわれわれは解き放ってしまった。だから、ふたつの世界が重なろうとしているんです」
「重なったら、なにがおきる」
「同じものが同じ空間を占めることはできません。完全に重なったときには、おそらく両方とも対消滅するでしょう」
それって……つまり……世界の破滅ってこと? この地球もMU《ムウ》の世界もなくなってしまうことなんだ……。
「科学調査部からの提案は?」
「TJバスターを使用して、ふたたび次元障壁を作りだすことは理論的に可能かもしれません。ですが……」
「なにか問題が?」
「本庄の一基がダウンフォール作戦によって、完全にオーバー・ヒートしました。稼働できるのは五基です。しかもいかに零点放射炉といっても、TJバスターが起動するまでには四十時間以上かかります」
「総一、このままの増殖率でいくと、MU《ムウ》の世界がわれわれの世界と完全に重なるにはどれくらいかかる」
「おそらくは三十時間前後……」
三人のあいだに重苦しい沈黙が落ちた。功刀《くぬぎ》司令が時計を見て、つぶやくようにいった。
「明日、七月二日二十四時前後か。それまでが勝負だな。……如月博士、大島のTJバスターを捨て、すべての零点放射炉で三基のTJバスターを起動させるんだ」
「しかし、それでは必要なエネルギーが」
「標的を東京湾地下のゼフォン神殿に設定するんだ」
あ! と声がでそうになった。そうか、そのテがあったか。ゼフォン神殿のエネルギーを解放させて、ジュピター化現象をひきおこそうってわけか。
「もし使えるなら、ネリヤ神殿の次元エネルギーを使ってもかまわん。なんとしてでも世界の破滅だけは食いとめろ」
そういいながら功刀《くぬぎ》司令は、司令センター中央に置かれている“欠けることなきネリヤ”を見た。ネリヤ神殿は、人間の目には石のように見えるし、肌ざわりも石のようだけど、いってしまえば次元エネルギーそのものを構造材としている。それを解放すれば、10の何十乗というエネルギーが一瞬にして得られるだろう。だけど、それは……。
「きゃああっ!」
恵ちゃんの悲鳴が司令センターに響いた。彼女が指さす先に、人影があった。とうとうこのニライカナイもMU《ムウ》と重なりはじめたのか。だけど、その姿を見るなり、功刀《くぬぎ》司令は顔色を変え、こぶしを握りしめた。
「九鬼……」
九鬼って、まさか東京ジュピターの九鬼正義なのか? よく見ると、それはたしかに写真で見たことのある九鬼一佐だった。MU《ムウ》大戦直後に行方をくらまし、東京総督府にひそんでいた人類の裏切り者が、ついに姿をあらわしたのだった。
「TERRA《テラ》の諸君」
九鬼はぼくたちを見くだすように笑った。
「われわれは時の牢獄より解き放たれた。その手助けをしてくれたことを、諸君に感謝しよう。そのうえでわれわれは諸君に命ずる。すみやかに武装解除をし、ゼフォンを引き渡せ、十二時間の猶予をあたえる。もしこれを拒絶した場合、頭上に大いなる災厄がもたらされるであろう」
九鬼はおおげさな口ぶりでモニターのひとつを指さした。いつのまにか切り替わっていて、東京の空中都市が映しだされている。その下部が音もなくはずれた。ドーレムだった。モニターの中でほかに比較対象物がないから大きさがピンとこなかったけど、よく考えてみると、都市ひとつぶんはあろうかという超巨大ドーレムだ。
「これはほんのご挨拶がわりだよ」
九鬼がそういって、かるく手をひとふりした。超巨大ドーレムが四方八方にビームをはなった。そのビームはすぐにモニターの画面の外に消えた。と同時に九鬼の姿もまた司令センターから消えさった。
かれがなにをねらったのかわかったのは、そのすぐあとだった。
「富士吉田のTJバスター、破壊されました」
四方田さんの悲鳴ににた声につづいて、五味さんがさけんだ。
「笠間、大島、犬吠崎も、一瞬にして破壊されました」
「巨大ドーレム南西にむかってきます」
超巨大ドーレムのおでましか。まちがいなく、それがニライカナイにむかってくる。
決戦だ。
ふたつの世界が完全に重なりあってしまえば、両方とも破滅だということはむこうにもわかっているだろう。だからこその決戦だ。
こうなれば徹底抗戦あるのみだ。だいじょうぶ、ぼくたちには功刀《くぬぎ》司令がいる。きっと司令なら……。
「承服できません!」
ぼくは思いきり、司令官の机をたたいた。九鬼の最後通告のすぐあとに司令官室に呼ばれて伝えられた作戦は、とてもじゃないけど納得できるものじゃなかった。めずらしくぼくが感情的になってるっていうのに、功刀《くぬぎ》司令はいつものように冷静だった。
「命令だ」
「副司令には無謀な作戦に反対意見をのべる権利と義務があります」
「どこが無謀だね」
そういわれても、口からついでてしまった言葉だ。どこも無謀なんかじゃない。被害を最小限に抑えて、効果を最大限にするにはこうするのがいちばんいいだろう。頭ではわかってるけど、とてもじゃないがこんな作戦は遂行できない。
「なにもかも無謀です」
自分でもいってることがむちゃくちゃだってわかってるけど、どうしようもない。なんとしても、こんな作戦はとめなきゃならないんだ。
「総一」
功刀《くぬぎ》司令が静かな目で、机の前に立っているぼくを見あげた。
「少しは彼女のことも考えてやれ」
! まさか、司令がキムのことを知ってるなんて。
「それとこれとは……」
「どうするつもりだ」
しどろもどろのぼくに、たたみかけるように司令が問いかけてくる。功刀《くぬぎ》司令の目がするどく、ぼくの胸の奥底まで見透かしてくる。侍の目だ。生半可な答えをすれば、問答無用に斬り捨てられる覚悟を決めなければならない。ぼくは大きく息を吸って、また吐いた。
「ぼくが守ります」
真剣なぼくの答に、功刀《くぬぎ》司令は満足げにうなずいた。そして、ゆっくり立ちあがると、ぼくに背をむけるようにして窓の外を見た。
「では守ってやりたまえ、少佐」
ふとさびしげな視線が鳥籠の青い鳥にむけられる。
「……わたしは守ってやれなかった」
ミチルが小さく鳴いた。守ってやれなかったというのが、だれのことか、ぼくにはよくわかっていた。そして、功刀《くぬぎ》司令が背負いこんでいる十字架がどんなに重くつらいものかということも。
ずるい。ずるいですよ、功刀《くぬぎ》さん。
司令はだまって外を見つづけている。そのうしろ姿はむしろすがすがしいとさえいえた。
ぼくはこらえきれずに涙を流した。
そして、背をむけた。功刀《くぬぎ》司令の作戦を指揮するために。その作戦でたったひとりの犠牲者となるはずの人間、それは功刀《くぬぎ》司令本人だとわかっていながら。
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断章3 功刀《くぬぎ》 仁
新しい花を、月命日にたむけた花のそばにおいた。前の花はまだしおれていなかった。ミチルの好きな花であったら、と思う。そんなことも知らない父親だった。
「ミチル、もうすぐだよ」
手をおいた墓石は、七月の熱に人肌と同じくらいあつくなっていた。しかし、わたしの指先は氷のような冷たさを感じる。それは罪の冷たさだった。
「どうしてもやるのかね」
ふりむかずとも、その声が亘理《わたり》長官の声だということはわかった。
「これは、わたしの記憶にささったトゲのようなものです。いつかは、ぬかなくてはなりません」
「そうか……」
「TERRA《テラ》に誘っていただいたこと、感謝しています」
応えはなかった。静けさがふたりのあいだを吹きぬけていった。しばらくして、ふりかえるともう亘理《わたり》長官の姿はなかった。ただ風だけがそこにあった。
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2
ニライカナイが遠ざかる。静けさが島の形になって黄昏の水平線に横たわっているみたいだ。
超巨大ドーレムがやってくるので、リーリャ・リトヴァクやほかのTERRA《テラ》の船に乗って、ニライカナイの人々は全員脱出した。おれもこうしてリーリャ・リトヴァクの甲板にいる。ラーゼフォンはおいてくしかない。ラーゼフォンがなけりゃ、おれはただの民間人だ。
遠ざかる島を見ながら、東京ジュピターから脱出してからの日々を思いかえした。久遠にあったこと、六道さん、いや、おじさんちにやっかいになったこと、恵に受けいれられたこと、八雲さん、四方田さん、五味さん、樹さん、功刀《くぬぎ》さん、七森さんたちと知り合いになったこと、そして、遙さんに会えたこと。
みんな、いろんな思い出をおいて出ていかねばならないんだ。
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断章4 エルフィ・ハディヤット
状況はどうなっているんだろう。超巨大ドーレムはもうニライカナイに到達したんだろうか。そう思って艦橋に行ったら、緊迫したオペレーターの声が聞こえてきた。
「八雲副司令、EIDLON《エイドロン》邀撃《ようげき》コースにはいりました」
もうはじまってるのか。モニターのひとつをのぞいたら、ニライカナイの防衛システム島が動きだしていた。え? あんなもの、こっからコントロールできるのか?
「八雲少佐、リーリャ・リトヴァクからコントロールしてるのか?」
「ちがいます」
意外な答に思わず八雲を見た。覚悟を決めた男の顔だった。じゃあ、だれがといいかけて、八雲のそばに鳥籠がおいてあるのに気づいた。これは功刀《くぬぎ》司令のじゃないか。ってことは、まさか! あの人は、TERRA《テラ》司令センターにひとり残って、防衛システム島をコントロールしているのか。
八雲はあたしをちらりと見て、苦くうなずいた。……そうか、そういう覚悟を決めてるんならしかたない。
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断章5 功刀《くぬぎ》 仁
「D1えりあ17ニ侵入、びるべるびんと迎撃みさいる発射準備」
電子音声がわたししかいない司令センターに響く。それを聞きながら、わたしはまるでルーチンワークをこなすようにつぎからつぎへとディスプレイに命令を打ちこんでいった。そこにかわいた拍手の音がした。
「あいかわらずよく働く男だ」
ホログラフの九鬼が目の前にいた。九鬼正義、かつては上司と思った男だ。そして、わたしを罪に落とした男だ。モニターのひとつから光点が消えた。EIDLONが撃墜されたようだ。
「第四小隊をC1地区の援護にまわせ、E1から4までの地区は放棄」
かれの存在を無視して命令をくだすわたしに、九鬼はさも小バカにしたような声をかけてきた。
「仕事の手をやすめて、旧交をあたためようという気にはなれんのかね? 功刀《くぬぎ》一尉」
あんたにそう呼ばれるのは、あの日いらいだよ。泥にまみれた一尉さ。
「いや、いまは司令官どのかな?」
そうしているあいだにもEIDLONは超巨大ドーレムに攻撃をかけている。だが、ドーレムからのビーム束が宙をなぎはらうようにして、つぎつぎと撃破していく。もともと通常のドーレムさえ倒せなかったシステムだ。しかし、それでもなにかをしつづけるのが人間だ。希望はないとわかっていながらも、最期まであがきつづけるのが人間だ。
「残存戦力をエリア60に集結せよ」
「了解シマシタ」
「TERRA《テラ》司令官とはりっぱになったものだ。りっぱになった部下の姿を見られるとは、上官としてこれほどうれしいことはない」
うるさい男だ。わたしは無視をきめて、つぎつぎと命令をくだしていった。
「フォーメーション・シグマ開始、十秒後にF1から3の対空ミサイル全弾発射」
「ありがとうございます。司令にまでのぼりつめたのも九鬼一佐のおかげです。というのが部下としての礼儀というものだろう」
「つづいて全高射砲D1下方エリアに集中砲火」
「ほう。あくまでもわたしに楯つくわけか。それもいい。しかしな、それは逆恨みというやつだ。たしかに命令をくだしたのはわたしだ。しかし、直接手をくだしたのは」
九鬼はすうっと顔を近づけてきた。
「おまえだよ。おまえのその手が娘を殺したんだ」
だめだ、仁。そんなやつのことはほっておけ、いまはドーレムと戦うことだけを考えろ。
「全門斉射!」
わたしは持てる武器のすべてを超巨大ドーレムにむかって放った。
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3
水平線のむこうに無数の閃光が走った。
超巨大ドーレムにむかって、ニライカナイから無数のミサイルが発射されていく。だけど、ニライカナイをおおうほど大きなドーレムが射ちだすビームの雨が、それをすべて空中で打ち砕いていった。ドーレムとニライカナイのあいだが、炎で埋めつくされた。そして、その炎はすべてを焼きはらっていく。神至市を、風力発電所を、港を、司令センターを、樹さんの家を、そしておれの家も……。
思わずうめき声がもれた。思い出が全部、ドーレムごと焼きつくされていく。東京の偽りの記憶じゃない。おれのほんとうの思い出が、なにもかも炎に沈んでいった。
船縁をつかんだ手が悲しみに震える。
もうなにも残ってない。思わず膝をつきそうになったとき、エルフィさんがとなりに立っているのに気づいた。
エルフィさんは静かに燃えるニライカナイを凝視《みつ》めていた。
「功刀《くぬぎ》司令……」
そのつぶやきに肌が粟立った。だって……まさか……そんな!
「功刀《くぬぎ》さんは残ってたんですか?」
エルフィさんはただ黙ってうなずいただけだった。
功刀《くぬぎ》さん! 最後に会ったとき、微笑んだ功刀《くぬぎ》さんの顔が脳裏に浮かんだ。あんなに笑える人が、あの炎の中にいるなんて。ウソだ! ウソだ! ウソだ!
こんどメシを食おうって約束したじゃないですか! いっしょにメシを食おうって!
喉の奥から悲しみの声がこぼれそうになったときだった。紅蓮の炎にゆらぐ水平線のむこうに影が浮かびあがった。
超巨大ドーレムの影だった。功刀《くぬぎ》さんが命とひきかえにしたっていうのに、あのドーレムには傷ひとつついていない!
走りだそうとしたおれの肩をエルフィさんがつかんだ。
「どこへいくつもりだ」
「どこって……ラーゼフォンに乗るに決まってるじゃないですか」
「どうやって? ラーゼフォンはニライカナイだぞ」
「はなしてください」
「ダメだ。功刀《くぬぎ》司令が死んだと決まったわけではない。それに司令がやろうとしたことは、あたしたちを逃がすことだ。おまえも、あたしもここにいなきゃならないんだ。生きなきゃならないんだ。それがあの人の遺志だ」
「でも、そんなの卑怯です!」
「生きていくっていうのは、卑怯なことなのさ。卑怯な自分を噛みしめて生きていくことなんだ。それが残されたものの仕事なんだ」
残されたものの仕事……。そんなこといわれたら、どうしたらいいんだよ。
「あのドーレムがリーリャ・リトヴァクに攻撃をしかけてきたら、そのときこそ立ちあがるんだ。こんどはほかの仲間を助けるために。わかったか」
そういっておれの肩をつかむエルフィさんの手が小刻みに震えた。頬を一筋の涙がつたっていた。
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断章6 功刀《くぬぎ》 仁
どれくらい気をうしなっていたのだろうか。気がついたとき、最初に目にはいってきたのは娘の顔だった。笑っているミチルの顔。許してくれるのか? おそるおそるのばす指先で、それが炎の中に溶けていく。わたしが司令センターに持ちこんだ写真だった。
またしても娘の微笑みを焼きつくすのは、おのれの手だったか。
その皮肉に口元をゆがめようとしたが、力がはいらなかった。
司令センターは見る影もなく破壊されている。天井は落ち、壁は崩れ、わたしが生きているのが奇蹟だった。生きてはいるが、全身が炎で焼かれるように痛い。コンソールに手をつき、立ちあがるだけで激痛に体が悲鳴をあげた。
「ほう、まだ生きていたのか」
崩れた壁のむこうに見える青空を背景に九鬼が立っていた。空には超巨大ドーレムが無傷のまま浮かんでいる。やはり通常兵器では、超巨大ドーレムを破壊することはできなかったか。
「ムリするな。きさまにしては上出来だったよ」
あなたにそんなことをいわれたくはない。わたしは最後の力をふりしぼって司令官コンソールにあるTERRA《テラ》マークにこぶしを打ちつけた。ガラスが砕けちった。
「そんなにくやしいか」
そういっていられるのも、いまのうちだと答えようとした言葉が喉につかえ、はげしく咳きこむ。いかんなあ。血が噴きだした。
「かなりソーゼツだな。しゃべろうとするだけで血がでるってことは、たぶん折れた肋骨で肺が傷つけられたんだ」
どうりで息が苦しいと思ったよ。
「さっさとラーゼフォンをわたせば、そんな苦しみを味わわなくてもよかったのにな。わたしの力であればラーゼフォンはいつでもおまえたちの手から奪えた。それをおまえの手でやらせてやろうという、元上司の恩義にさからった罰だ。つまらん余興だったよ」
「余興はこれからですよ。一佐どの」
わたしは顔をあげ、冷笑を浮かべている九鬼を見た。そして、割れたTERRA《テラ》マークの下からあらわれたパネルを操作した。よかった。このシステムはまだ動いているらしい。
司令センターの中央にある“欠けることなきネリヤ”にむかって、周囲からビームが撃ちこまれた。“欠けることなきネリヤ”全体が過負荷のエネルギー照射に真っ白に輝きはじめる。
「じゅぴたー・しすてむガ作動状態ニ入リマシタ。本部せんたーノ職員ハタダチニ避難シテクダサイ。クリカエシマス。じゅぴたー・しすてむガ作動状態ニ入リマシタ。本部せんたーノ職員ハタダチニ……」
いつもは嫌いなコンピューターの合成音声が、このときほど心地よかったことはない。
「こ、こ、こ、これは……」
九鬼は驚きのあまり声をうわずらせた。驚愕にゆがんだその顔を見ることができただけでうれしいよ。ちょうどいいみやげができた。
「功刀《くぬぎ》ぃぃぃぃっ!」
顔をゆがませた九鬼が悲鳴に近い声をあげた。かれの背後の空に浮かんでいる超巨大ドーレムに閃光が走った。そしてビームがわたしにむかって撃ちこまれる。
だが、遅い。
わたしはためらわずにジュピター・システムの作動レバーをたたきこんだ。
すべてが白色の光に包まれた。
ミチル……。まっていておくれ。いますぐそこへ逝くよ。
おまえのヴァイオリンをもう一度聞かせておくれ。おまえの好きな花を教えておくれ。
そして……そして、もう一度「おとうさん」と呼んでおくれ。
白い光の中に、一瞬、娘の顔が浮かんだような気がした。
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断章7 真理子
とつぜん足元がすくわれるほどの悲しみが襲ってきた。
よろめいた拍子にサイドテーブルに置いてあったミチルの写真を落としてしまった。
「どうした? だいじょうぶか?」
夫が心配そうにかけよってきて、わたしをやさしく抱きおこしてくれた。
「どうしたんだ?」
「わからない。わからない……」
そういう自分の声が震えているのがわかった。
「なんで泣いてるんだい」
心配そうな夫の声に、頬をつたう熱いものが涙だとわかった。なんで泣いているんだろう、わたしは。
わからないまま、涙はあとからあとからあふれつづけ、床にころがったミチルの写真の上に落ちた。
ガラスに広がるわたしの涙のむこうで、ミチルの微笑みがゆがんだ。
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断章8 八雲総一
白い閃光が水平線のむこうに光ったと思ったとたん、リーリャ・リトヴァクの艦橋は白い闇につつまれた。あらゆるものが白に沈み、影をうしなった。その白い闇のなかに、黒い小さな点が生まれた。生まれたと思ったとたん、その黒い点は急速に大きくなり、ふくらんでいく。ちょうどシャボン玉がふくらむと同時にその表面に虹色をおどらせるように、黒い球体の表面に複雑な縞模様が浮かびあがってきた。
ジュピターだ。ジュピター化現象がおきたんだ。ネリヤ神殿の構造材であるエネルギーが解放され、時空構造をゆがめたんだ。
白い闇のなかにうっすらと司令センターの影が見えた。それもすぐにジュピターに飲みこまれた。神至市の街並のシルエットが見えたが、同じようにジュピターに消えた。そして、超巨大ドーレムの影がおどった。ドーレムはジュピターから逃れようと懸命に身をよじったが、ジュピターのエネルギーはそれを許さず、ゆっくりと確実に呑みこんでいった。ドーレムに亀裂が走り、ばらばらのかけらとなってジュピターに沈んでいく。
九鬼の断末魔の悲鳴が聞こえたような気がする。
そして白い闇が消え、ふたたび艦橋にも影が生まれた。だれもが声もなく水平線のむこうのジュピターを凝視《みつ》めた。
「ジュピター化現象。ニライカナイ全土をほぼおおいつくしています」
オペレーターの声が沈黙を刻むように、静かに艦橋に響いた。
――司令、どうしてこんなことをなさったんですか。
――総一、それはおまえがいちばんよくわかっているはずだ。
――司令、あなたはぼくの父であり、師でした。こんなだいじなときに司令がいなくなったら、ぼくたちはどうすればいいんです。
――総一、それを決めるのはおまえだ。もうおまえはわたしの背中を見ないでも立っていられるはずだ。それだけのことは、おまえに伝えた。
――司令、どうしてぼくはあなたの名を呼びながら、泣けないのでしょう。
――総一、おまえがいちばんよくわかっているはずだ。
そう、自分がいちばんよくわかっている。ぼくはジュピターにむかって静かに敬礼した。
艦橋にいた全員、そして艦内にいるだれもがジュピターにむかって敬礼した。
ぼくが本気で泣けたのは、ずいぶんあとになってひとりで洗面所に行ったときだった。そこで、はじめてぼくは涙を流した。慟哭という言葉の意味が、そのときよくわかった。
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4
功刀《くぬぎ》さん……。
おれにはあなたの声が聞こえたような気がします。
守れって。
ただ一言。
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第四章 調律への扉
断章1 シノン・メル・バラム
それにしても麻弥は甘い。この期におよんでも、まだ綾人に世界を調律させようというのだから。すでに久遠とベルゼフォンはこちらのものになったのだから、われわれだけで世界を調律するべきだろう。麻弥がどう思おうと、綾人はすでに穢れている。むこうの世界に毒されすぎている。なんのためにオブリガードがあると思ってるんだ。
ほんとの名前はバハル・ン・アカナ、九鬼たちがいいにくいってんでオブリガードなんてぶざまな名前がつけられてる。おれとおんなじ。シノン・メル・バラムもこっちじゃ鳥飼守。もう使命はなくなったんだから、鳥飼の名前を捨てたっていいのに、捨てられない。だって、浩子にとっておれはシノン・メル・バラムじゃなくて、鳥飼守だからだ。くされ綾人はもう忘れてるかもしれないが、おれは浩子を忘れないためにこの名前を捨てはしない。おれまでこの名前を捨てたら、浩子をおぼえている人間がだれもいなくなってしまう。あいつの父親も母親ももう自分の娘の名前を思いだすこともない。MU《ムウ》の人間になってしまった。おれだけは忘れない。朝比奈浩子という女の子がこの世にいたことを。
その恨みを綾人にたたきつけてやるために、おれはいまここにいる。
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断章2 三輪 忍
麻弥さまに声をかけていただいた。おまえもフーフ・ザーンの仮面をつけるときだと、おっしゃっていただいた。いただいた面はアレグレットのムーリアンさまがおつけになっているものとおなじだった。自分がこんな栄誉に浴せるとは思ってもいなかった。ドーレムや守さまのようにMU《ムウ》の世界からサルベージされた貴重な品だ。手にすることさえ緊張で震えてしまう。
ほんの少しの釉薬《うわぐすり》がかかっただけの焼き物の面なのだが、もった感じは思いのほか軽かった。頭全体をおおうようになっていて、顔の両側には蝶の羽根のような飾りがついている。この羽根がドーレムとの交信に使われるものらしい。かぶってみると、まるでわたしの頭にあつらえたようにぴったりとしている。目をのぞかせるところがないので、前は見えない。これでどうやってドーレムを操縦しようというのだろうか。
と思ったときだった。頭に金属の棒をねじこまれるような激痛が走った。麻弥さまの前でみっともないことはできないと思いながらも、苦痛のうめきが口をついてでる。全身に悪感に似た寒気としびれが広がり、まるで体が自分のものではないかのように動いた。
そして、苦痛はやってきたと同じように急になくなった。
気がつけば、わたしはアレグレットだった。わたしの手はアレグレットの青い翼で、わたしの足はアレグレットの足だった。見ているのはアレグレットの光景だ。それをなんと表現したらいいのだろう。すべてが音だ。音の色に満ちている。世界がこれほど輝いているとは思わなかった。
二年ぶりに頭上からふりそそいでくる太陽は、青空という交響曲の中にひときわ燦然と輝き、複雑な色の音を織りなしている。ときおりまじる白い閃光に似た音は、太陽表面のプロミネンス活動だろう。その陽の光に照らされたヒラニプラは、美しく光り響いている。ヒラニプラの表面に飾られている彫像は、あるものは青く、あるものは赤く、あるものは見たこともない複雑な色に輝き、全体として調和のとれた美しさをもっていた。わたしがいままで見ていたヒラニプラは、この美しさにくらべれば、灰色にくすんだ世界でしかない。ムーリアンさまたちがごらんになっている世界は、これほど美しいのだ。
涙がでてきそうだった。美しさに圧倒された涙だった。
すなおによかったと思えた。麻弥さまについてきてよかったと、心の底から思えた。わたしはこの世界を体感するために、いまのいままでおつかえしてきたようなものだ。
九鬼にさそわれて謎めいた自衛隊内部の研究会に参加した。そこに現れた麻弥さまに、わたしは内心に隠していた秘密までも見ぬかれ、あの方の前に身を投げだして泣いた。そして、この方に身も心もささげようと決意した。その決意はむくわれたのだ、いま。
感謝の念をこめて麻弥さまを見た。麻弥さまのお姿は、美しくはげしく響いて見える。アレグレットの視点を保ちつつ、自分である三輪忍の視点をもつというのは、言葉にすると奇妙だけど、フーフ・ザーンの仮面をつけているわたしにとってはなんの不思議もない。ふたつは融合するわけでもなく、隔離されるわけでもなく、ごくふつうにそこにある。
「どう? 三輪」
麻弥さまのお声がする。その声は、拡大されたわたしの意識野の中では極彩色のつややかなものだった。
「すばらしいです」
そういうのがやっとだった。ほかにこの経験をあらわす言葉はなかった。
アレグレットさえあれば、わたしは世界を滅ぼすことだってできそうだった。そして、実際、その力がアレグレットにはあった。わたしはもうムーリアンさまたちと同じだ。いいえ、さまなんていわなくていい。わたしはムーリアンなんだ。音の世界に生きる者なんだ。
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断章3 六道翔吾
沖縄だか中国だか忘れたが、花酒《はなさけ》という風習があるそうだ。女の子が生まれたとき、酒を庭先に埋め、その娘が花嫁になったときにそれを掘りだして飲むのだ。麻弥をひきとったとき、上等のウィスキーを埋めてみた。はたしてうまく保存できるかどうかわからなかったが、おもしろいと思った。
麻弥が家からいなくなったときも掘りださなかった。生きているとわかっていたからだ。神名を名乗ったときも掘りださなかった。事実上、結婚したわけではないと知ったからだ。
その花酒を、避難するときに掘りだしてきた。土にまみれた壜の中で、十数年の時間がゆれていた。
窓の外に朝日にオレンジ色に染められた海と空がある。TERRA《テラ》の艦隊は沖縄に到着したのだ。考えてみれば、学生時代に沖縄を旅行したのがはじまりだったかもしれない。返還されたばかりの沖縄はまだ右側通行で、米軍関係の車以外はボディの下が赤く錆びている車ばかりが走るまずしい島だった。それでも人はあたたかだった。それにユタや御嶽《うたき》などの独特の民族文化があった。考古学的興味をかきたてられてしまった。それから南島の考古学調査ばかりしつづけた。そして、とうとう士郎といっしょに根来島の調査に出かけてしまった。
あの翌年のことだ。根来島に居をかまえ、庭先に花酒を埋めたのは。
小さくため息をつき、人生の出発点ともいうべき島に目をやった。オレンジ色の海に浮かぶその上に、雲影のようにMU《ムウ》の空中都市が浮かんでいる。ここも重なりはじめている。われわれに残された時間はもうわずかもない。
ふと人の気配に顔をあげる。
そこに麻弥がいた。MU《ムウ》の衣裳に身をつつみ、もはやひとでないものが。
なにもいえなかった。麻弥がもどってきたら、なんといおうかと思っていた。このバカ娘とどなりつけてやろうとか、よく帰ってきたと抱きしめようとか、いったい世界をどうするつもりだと難じてみようとか、いろいろ考えていた。なのに、そんなものは一言も脳裏に浮かびもしなかった。
ただ、おたがいのあいだに流れた異なる時間の、それでも同じ別離の時間を噛みしめただけだった。
「ありがとう。おとうさん」
麻弥は微笑んだ。最後の別れの言葉というわけか。そして、麻弥は消え去りそうな気配をみせた。
「まて。おまえはいま幸せなのか?」
娘は虚をつかれたような顔をした。それから微苦笑を浮かべて、わからないというように小さく首をふった。
「さようなら」
麻弥は消えていった。こんどこそ永遠に。もはや世界は重なりあい、消滅する運命にある。もしもふたつの世界どちらが存続することができたとしても、もう二度とふたりが出会うことはないだろう。
おれはため息をつき、さっきまで見ていたアルバムに目を落とした。
幼い麻弥と若いころの自分が、写真のむこうから幸せそうに微笑みかけていた。このときからの時の流れは、ふたりから幸せという言葉さえもうしなわせてしまったのだろうか。
手をつけられずにいた花酒の封を切る。だが、やはり素人の悲しさ、土も考えずに埋めたせいだろう。中のウィスキーはすっぱくなっていた。
それを涙の苦みといっしょに飲みくだす。
いまのおれにはふさわしい酒というわけだ。
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断章4 八雲総一
朝日がリーリャ・リトヴァクの甲板をオレンジ色に染めている。ニライカナイからの避難民を満載したTERRA《テラ》艦隊は、功刀《くぬぎ》司令の犠牲のおかげで避難民の犠牲をひとりもださずにここまでくることができた。
受けいれ側の国連連絡要員がくるというので、出迎えたぼくたちは、ヘリからおりてきたひとを見て声をうしなった。
弐神さんだった。
でも、国連軍の軍服に身をつつんでいたし、それがさまになっていた。やっぱりただの新聞記者じゃなかったようだ。
「国連統轄部六課の十文字《ともじ》です」
六課といえば、戦略諜報課と称される部署じゃないか。それも、階級章は中佐だ。
「国連統轄部からの通達です。リーリャ・リトヴァク麾下《きか》のTERRA《テラ》艦隊は沖縄の第七〇七補給基地において非戦闘員を下船させたのち、国連第八太平洋艦隊に編入。独立第十七|邀撃《ようげき》艦隊として任務にあたっていただきます」
「了解しました」
そういうしかない。独断でジュピター・システムを作動させてしまった責任を追及されてもおかしくないのだから。
「功刀《くぬぎ》大佐のこと残念でした。八雲司令」
事務的ではない口調に、胸のあたりが熱くなる。同時に、司令と呼ばれてとまどいと驚きを感じる。国連はぼくをTERRA《テラ》の新しい司令官に任命するつもりらしい。
「もしできれば、司令官職は辞退したいのですが」
「ほう。だれか適任者がいるのですかな」
「TERRA《テラ》の司令官は功刀《くぬぎ》大佐以外いません」
「たしかに」
十文字中佐は重々しくうなずいた。
「しかし、あなたが功刀《くぬぎ》大佐の遺志を継がないのなら、だれが継ぐのですかな。あのひと
の思いを実現するのはあなたではないのですか?」
そうまでいわれてはしかたないだろう。ぼくは司令職を受諾した。それが功刀《くぬぎ》司令の遺志のように思えたからだ。総一、あとはまかせるって声が聞こえたような気がした。
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断章5 十文字 猛
弐神譲二《ふたがみじょうじ》って名前もいただけないが、この十文字猛《じゅうもんじたけし》って名前もいただけないな。どうも六課にいると、本名がなんだったかも忘れちまう。だから六課は名ナシ顔ナシ賞罰ナシなんて陰口たたかれるんだよな。そりゃいいとして、感動の再会といきますか。
おれはすました顔をして、となりに立っている係官におもおもしくうなずいてみせた。
リーリャ・リトヴァクご自慢の対ムーリアン用隔離扉が解除され、でっかい音とともに開いた。中ではひとりの男が壁にむかって黙々となにかを描きつづけている。抽象画というか、プリミティブな連中のアートというか、単純な線と渦巻なんかの組み合わせだが、かなり力づよい絵だな。あんた、人生の選択まちがえたよ。これだけ描けるなら、絵かきになったほうがよかったんじゃないのか? 線が青く光った。どうやって描いてるんだろうかと男の手許を見ると、灰色の土の塊のようなものを握りしめている。ああ、あれか。カルムンティアラに命がけで潜入した六課の仲間が、島の泥を持ちかえったことがあったな。たしかあの泥もこんな感じに光ってた。
ま、そんなことはどうでもいい。こいつが絵かきになろうが、縛り首になろうが、どうでもいいことだ。
「さあ行きましょうか。査問委員会があなたをおまちだ」
絵を描いていた男が、ゆっくりとふりかえった。その疲れた顔が驚愕にゆがむ。六課に身を置いていてなにがいいって、こういう裏切られたって顔を何度でも見られることかな。ときには胸が痛むこともあるが、こんどはかけらも思わずにすんだ。あんたのおかげだよ。一色さん。
「弐神ぃ、きさまぁっ! 自分がなにいってるのかわかってるのか。おれは財団の人間だぞ。国連が手をだせるはずないだろ!」
「財団に問いあわせたところ、一色などという人間はいないそうです」
一色の肩が不安にゆれた。
「用がすめばポイですか。……失敬、これはあなたの専売特許でしたな。まもなくバーベム財団総裁も沖縄にみえられる。直接うかがってみてはいかがですか」
ったく、役者だよなあ。なんだったら一色に銃のひとつでもわたしてやろうか。そうすりゃ国連にとっての目の上のタンコブがひとつ消える。おっとっと、よけいな手出しは禁物だ。財団のおかげで、もうちょっとで年金ふいになりそうになったこと忘れるんじゃないよ。
[#改ページ]
断章6 |金 湖月《キム ホタル》
避難民の乗ったランチがつぎつぎとリーリャ・リトヴァクから離れていく。ほかの艦に乗っていた人たちもぶじに上陸することができるだろう。宜野湾《ぎのわん》市に臨時|罹災《りさい》者センターが設置されたというから、当分はそこで暮らすことになるんじゃないかな。
総ちゃんは、その船がシャトルのように行き交うのをじっと凝視《みつ》めている。わたしのことを思ってじゃない。功刀《くぬぎ》司令のことを思っているはずだ。いいの。あのひとと総ちゃんのあいだに入ることなんて、絶対にできないから。
「八雲司令」
わたしもまだ司令なんて呼びかけるのに慣れてないし、総ちゃんも呼ばれるのに慣れていない。ふりむいたかれの顔はとまどいぎみだった。
「民間人は補給基地に退避を終了しつつあります」
「ひきつづき、リーリャ・リトヴァク乗務員をのぞくTERRA《テラ》職員を避難させろ」
ちょっとまってよ、それってつまり、わたしもおろすつもりなの?
「わたしも残りたい! 総ちゃんといっしょにいる!」
思わず部下じゃなくて地がでちゃった。
「それはできない。わかるだろ」
総ちゃんは、いつものようにこまったような微笑みを浮かべた。こうやって微笑まれると、いつもわたしは反論できなくなる。いつだってそうだ。レストランが決まらないときだって、みんなにわたしたちの関係をあきらかにしようかどうしようかってときだって、この人はこの微笑みを浮かべてきた。こんどは丸めこまれないわよ。
「イヤ! ぜったいにイヤよ」
「だいじょうぶ。ぼくはかならずきみのところにもどる。だって……」
視線がお腹のあたりに落ちてきた。ほかの人にはわからないだろうけど、ふたりにだけはわかる。そこで新しい命が育ちつつあることを。
「だから、かならず生きて帰るよ」
あたたかな手がわたしの肩におかれた。
「総ちゃん……」
わかったわ。いつだって、そうよ。いいあらそって、あなたに勝ったためしなんてないもの。わたしはいつだってうなずくしかない。うなずくしかないの。だから、総ちゃん。帰ってきて。約束守ってよ。絶対だよ。
総ちゃんはだまってうなずいてくれた。
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断章7 ヘレナ=エルンスト・バーベム
美しい。わたしの乗った連絡機|毒蛇珠《ドゥシェージェ》は、眼下にニライカナイのジュピターを見ながら、MU《ムウ》の空中都市のわきをかすめるようにして飛んでいた。なんと美しい光景だろうか。ふたつの世界が重なろうとしている。断末魔の苦しみの中に見せる美しさだ。出産の苦しみにかいま見える美しさともいえる。
こうやって世界は終わる。
こうやって世界は創造される。
その瞬間に立ちあえるよろこびに、わたしは背筋の奥から震えるよ、正直。
世界は創造される。ゼフォン・システムによって。このわたしがMU《ムウ》の世界にあったころ作ったシステムによって。わたしが世界を創造するのだ。
その感動に水をさすように、うめき声が聞こえてきた。
ふりむくと、かつての肉体が車椅子の中でうごめいていた。こんなものをとっておくなんて、ただの感傷だな。わたしもこの世界に長くありすぎたというわけか。この前もたしか腐るまでほっておいたような気がする。まあ、それも遠いむかしのことだ。
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1
リーリャ・リトヴァクに乗っていたのはわずかなはずなのに、港におりたとたん、からだ全体がまだ船に乗ってるみたいにゆれてる感じがした。かるい船酔いなのかな。三浦海岸からニライカナイについたときには、もっと乗ってたのにこんなにはならなかった。
たぶん功刀《くぬぎ》さんのせいだ。そのことがまだ心にひっかかっている。
生きているあいだはいけすかないオヤジだと思っていたのに、死んだとたんになつかしがるなんてヘンだよ。って自分にツッコミをいれてみたところで、この感覚はなくなりはしない。もし父親が生きていたら、たぶん功刀《くぬぎ》さんみたいな男だったんじゃないだろうか。
「ここにいたの?」
ふりむくと遙さんがいた。
「あとで宜野湾市の罹災者センターで手続きをしてね。そうしないと罹災者として認められないわよ」
罹災者として認められることが、そんなに大事なんだろうか。
「あなたはもうTERRA《テラ》とは関係ないわ。ただの一般人。おちついたら、美大でもどこへでもいける」
「そんな時間があるんでしょうか」
おれは空に広がっていくMU《ムウ》の空中都市を不安げに見あげたけど、遙さんは答えてはくれなかった。
「遙さんはどうするんです?」
「TERRA《テラ》は解体されたの。わたしたち職員は、あなたたち一般の罹災者とはべつに嘉手納のほうにいくの。そこで国連軍に編入されるのよ」
じゃあ、お別れしなきゃならないんですか? そんなのってないよ。
「ごめんなさいね。ずっとあなたといっしょにいたかったんだけど……。でも、おちついたら、すぐにたずねていくわ」
これからは、おれひとりでやっていかなきゃならないんだ。もうTERRA《テラ》もないし、ラーゼフォンはジュピターの中に呑みこまれた。おれはただの一般人として生きていくんだ。働こう。もしこの世界がつづくとしたら、働いてひとりで生きてみよう。遙さんや六道さんたちにたよるんじゃなく、ひとりでやってみよう。そうじゃなきゃ、おれはいつまでも遙さんと……。
「神名綾人〜っ!」
まのぬけた声が聞こえてきた。見ると港をはなれようとしているランチに四方田さんや五味さんといっしょに恵が乗っていた。恵は両手を口のわきにあて、大声でわめくようにいった。
「紫東恵はぁ、ちょっとだけぇ、カミナアヤトが好きでした〜」
な、なにいいだすんだよ。
「でも、もう好きじゃないって……好きじゃなくなりましたぁ。そういうことにしました!」
ごめん、恵。おれはもう……。
「はるか〜っ!」
恵は最後にそういって、応援でもするように、ちぎれるぐらい手をふりつづけた。
「ありがとう」
遙さんは小さくつぶやいて、おれを見た。
「遙さんも行ってしまうんですか」
「ええ」
「ぼくは……。ぼくは……」
いうんだ。いまが最後のチャンスだ。
「ぼくは、あなたが……」
そのとき、警報が七〇七補給基地全体に鳴り響いた。
「きた! 敵よ!」
遙さんは、おれの肩をつかんで走らせた。
「すぐに避難しなきゃ」
一瞬ラーゼフォンに乗ろうとした自分がいた。でも、あれはニライカナイのジュピターの中で、だれも手出しできない。もうおれは一般人の少年だ。ただおとなのいうままに逃げるしかない。遙さんに守られているっていうのは複雑な気分だった。ほんとうはこんなときこそ戦わなきゃいけないのに。
いや、そうなのか? ラーゼフォンがあったからそう思えるだけで、もし最初から乗れなかったらそんなこと思いもしなかったんじゃないのか? わからない。「もし」なんてよくわからないよ。
とにかくいまはいわれるままに退避壕に逃げこむしかないんだ。
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断章8 八雲総一
緊迫したオペレーターの声がリーリャ・リトヴァクの艦橋にあふれるように響いた。
「第六艦隊、敵集団と交戦状態に入りました」
「第七、第六、第二十一航空団、現在邀撃中」
「国連司令部より出撃命令。独立第十七艦隊はただちに出撃、邀撃《ようげき》にあたられたし」
はるか彼方に浮かんでいる空中都市の下面が明るく照らしだされているのは、水平線のむこうではげしい戦いがくりひろげられているからだ。ときおり、ビームが空中都市に当たっては閃光を宙にちらしている。
あの戦いをここまで広げてはならない。ホタルを守らなきゃ。彼女の胎内にある新しい希望を守らなければ。
「全艦戦闘態勢! リーリャ・リトヴァク緊急出航! アルファ小隊はヴァーミリオンで出撃せよ!」
すでに基地内でスタンバイ状態にあったヴァーミリオンがつぎつぎと射出され、奇妙なエンジン音をたてながらリーリャ・リトヴァクの頭上をかすめていった。
とうとう決戦というわけだ。
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断章9 鳥飼 守
決戦というには、あまりにちゃちいよな。こっちの連中はアホの集団だ。通常の武器なんかドーテムにさえ通じないっていうのに、それでもむかってくる。むかし、浩子と見にいったバカ映画にアリの集団が人間に襲いかかってくるというB級ものがあった。一匹、一匹は無力だけど、集団で襲ってくるととんでもなく恐いというわけだ。
だけど、おれたちは数のうえでも圧倒的といっていい。なのになんでアリンコである地球人ははむかうんだ? 両手をあげて降伏するのがふつうだろう。もっとも降伏なんてみとめやしないけどな。殺戮あるのみ。殺して、殺して、殺しまくって。汚い赤い血で海を染めてみせるさ。
浩子、おまえも赤い血なんかきらいだろ。この地上にある赤い血なんか全部流しさってやるよ。オブリガードとドーテムさえあれば、二、三日でそれくらいできる。ちょっとつかれるけどさ。
最後の最後に流れるのは青い血だ。
わかってるだろ、浩子。
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断章10 紫東 恵
かっこわるい。かっこわるすぎるよ、恵。
あんなカッコつけて、最後に綾人にお別れいったってのに、警報がでてランチはそのままUターン。あたしはもののみごとに綾人と同じ退避壕。
そんなのありかあ?
人生、皮肉でいっぱいだけど、これってきわめつきじゃない。
あばよってキメたあとに、バナナの皮でひっくりこけた気分だよ。
最悪。
お姉ちゃんは、お姉ちゃんで、基地本部に用があるとかいっていっちゃうし。
「綾人くんのことたのんだわよ」
とまでいってくれちゃってさ。
ふたり仲よく退避壕でなにしゃべれってのよ。
「どうすんのよ」
長い沈黙のあと、いらだった言葉を投げつけてやったら、このバカは目を丸くした。
「どうすんのって……」
ああん、もう、ほんとにわかってないんだから。あたしがなんで最後に「はるかーっ」なんていったのかさえ、わからないって顔してる。
「お姉ちゃんのことよ!」
「遙さんのこと……?」
「そうよ。お姉ちゃんはねえ……。お姉ちゃんはねえ……」
あたしの中で言葉がぐるぐるまわる。
いいの? そんなことほんとにいっちゃって。そういうことは本人どうしの問題じゃないの?
いわなきゃ、このバカはわかんないし、お姉ちゃんはいいっこない。
なんであんたがいわなきゃいけないの。そこまでするなんて、お人よしのバカよ。
うるさい!
傷ついたうえに、もっと傷つきたいの?
「うるさいっ!」
自分のなかの声を、声にだしてどなりつけたら、このバカときたら自分が怒られたみたいにびっくりした顔になった。
あたしは、どこまでも底抜けのおバカさんをにらみつけてやった。
「まだわかんないの? お姉ちゃんはねえ、あんたが好きなのよ!」
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2
いきなり恵にそういわれて、驚くしかない。
「お姉ちゃんは中学のころ、あんたとつきあってたの!」
空白の間ができた。おれにはそんな記憶はない。記憶の奥底をさらったところで、でてくるはずもない。
「名前もちがうし、歳もちがうし、顔もそのころとはちがっちゃってるだろうけど……」
おれは恵の言葉を制した。
「ちがうんだ。おれの記憶は……作りかえられてるんだ。MU《ムウ》の力で」
こんどは恵がびっくりした顔になった。
「東京からでてくるまでの記憶は、かあさんに作られた、かあさんに都合のいいものなんだ。おれにはほんとうの記憶がないんだ。だから、教えてくれよ。中学のころ、なにがあったんだ」
恵は涙のあふれそうな目でおれを見た。
「綾人……」
ごめん。おれにはおまえの同情に感謝できるほどの余裕がない。なにがあったのか、教えてくれ。
「あのね。前からお姉ちゃんの行動はヘンだったんだよ。オーヴァーロード作戦も……あ、東京侵攻作戦つまり、あんたが東京からつれだされたときのこと。あれにも情報部からごり押しみたいな感じでむりやり参加してたしさ。そのあとも綾人のこと、すっごく気にしてたし。わかってるよね? 綾人がラーゼフォンに乗れたときだって、あたしなんかすっごくカッコいいかもなんて思ってたけど、お姉ちゃんは綾人くんがふつうじゃなくなっちゃうみたい、なんていってた」
遙さんはそんなこと思ってたんだ。
「綾人が久遠といっしょに東京に逃げたときだってそうだよ。あたしがなにもできないでいるってのに、さっさとエルフィさんといっしょにヴァーミリオンに乗って東京にいっちゃったんだよ。あのあと、東京からでてきてしばらくどっか東北のほうに隠れてたでしょ。あのときなんか、ごはんも喉に通らないぐらい心配してたんだよ」
恵はちょっと言葉を切り、おれから視線をそらした。横顔でも目から涙があふれそうなのが見える。ごめんよ。恵にはつらいだろうけど……どうしても聞きたいんだ。
「あたしだって、ヘンだとは思ったよ。だけど……だけどね。歳もちがうし、どっちかってえとお姉ちゃん気分なのかなって。ほら、おかあさんと別れてからお姉ちゃんは、あたしの母親代わりでもあったから、綾人にもそんな気分でいるのかなって思いこもうとしてたんだ」
恵はつらそうにうつむいた。
「守くんがあんなことした日。あたし、わかっちゃったんだ。綾人があたしを好きなんじゃないって。だけど、それでもがんばろうとしたんだよ。綾人があたしを好きじゃなくても、いつかあたしをむいてくれるって。……そしたらね、キムにね、呼びだされたの。非番の日に。お姉ちゃんが一色にクビにされたあとだよ。お姉ちゃんの私物とりにきてって。司令センターにいったら、キムから私物のはいった段ボールわたされて、これ、だいじそうだから別にしといたからって手帳わたされて。そのあと、見ちゃったんだ。見ちゃいけないってわかってたけど、ほら、なんか興味あるじゃない。人の携帯のアドレスとか、手帳って。そんで……見ちゃって……。そしたら、写真が落ちて。中学のころのお姉ちゃんの写真だった。となりに男の子がならんでた」
ぽつりぽつりと言葉をひろうようにうつむいてしゃべっていた恵が、おれのほうに顔をむけた。涙はあふれて頬を濡らしていた。恵の唇から震えた声がもれる。
「その男の子。綾人だった」
ぐらりと床がゆれた。攻撃があったわけじゃない。おれの心がゆれたんだ。遙さんとおれがいっしょに写真に写ってるなんて信じられなかった。なさけなくて涙がでそうだった。そんなことさえ忘れてしまっている自分に。
「ふたりとも幸せそうな顔してた。綾人、あたしの前じゃ、とてもしないような笑顔うかべてたよ」
恵は大きく息をついた。なにもかもはきだすための、ラストスパートのために息をついたって感じだった。そのあとは声もふるえなかった。
「裏にね、大好きな綾人くんと、って書いてあった。ハートマークまであって、ラブラブって感じだった。その裏まで少し黄ばんでるような古い写真よ。色あせちゃってさ。あったりまえだよね。日づけ見たら二〇一二年だった。二〇一二年だよ。生まれる前じゃん。あたしの一生より長い時間、お姉ちゃんはあんたのこと想いつづけてたんだよ。かなうわけないじゃん。そんなことだれにもいわないなんて、お姉ちゃんずるいよね」
きつい言葉とは裏腹に、恵は静かな口調でそういってしゃべるのをやめた。
静けさのなかで、彼女がいった言葉がおれの中で渦を巻いている。
おれは中学のころ、遙さんとつきあってたんだろうか。それってほんとうなんだろうか。その自信がない自分がうらめしい。
いや、うらんだからってどうなるわけでもない。記憶がよみがえるわけでも、作られるわけでもない。ないものはないんだ。
その記憶がなかったから、どうなんだ?
どうなんだよ。
遙さんの顔がつぎつぎと浮かんできた。笑ってる遙さん、こまってる遙さん、怒ってる遙さん、遙さん、遙さん。そして、はじめて会ったときの遙さん。あのとき、おれはいっしょに来てという遙さんに「ぼくはあなたなんか知らない」といってしまった。それを聞いた彼女が深く傷ついたような顔をしたのがなぜか、いまならわかる。覚悟はできていたといいたげな表情がよぎった理由もわかる。
だけど……。だけど、おれが思いだせるのは、いまの遙さんの姿だ。中学のころの思い出じゃない。いまの遙さんなんだ。
そして、おれはいまの遙さんが好きなんだ。
そう思ったとき、床がゆれた。今度はほんとうにゆれた。
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断章11 亘理士郎《わたりしろう》
「基地が攻撃されました。シェルターは閉鎖されます。もし外に出ているかたがいらっしゃいましたら、すみやかにシェルターにお戻りください。くりかえします。シェルターが閉鎖されます。もし外に出ているかたが……」
機械的なアナウンスが流れた。とうとうこの基地への攻撃がはじまったのだ。世界をかけての戦いが、ここまで広がってきた。人々はなすすべもなく、不安そうにコンクリートの天井を見あげている。わたしはといえば、すべてをひきおこした責任を背負いながら、こうやって一般人とおなじ退避壕にいる。八雲からたくされたミチルの鳥籠をもって。
本来なら、長官として事態の収拾をはかるべきなのはわかっている。だが、いまはもうTERRA《テラ》はない。わたしは所属さえはっきりしないただの国連職員にすぎない。それでも元長官という位がうとましいのだろう、本部に出頭したら門前ばらいといってもいいほどのあつかいを受けた。紫東遙はまだ情報部だから役に立つが、長官などつぶしが効かないというわけだ。
わたしは何度目かのため息をついた。
そのとき、広い室内の隅のほうで若い男女の争う声が聞こえてきた。見ると、綾人と紫東恵だった。
「ダメよ。放送聞いたでしょ」
「上には遙さんがいるんだ!」
綾人は紫東恵の腕をふりはらうと、人々のあいだを走りぬけてきた。上へいこうとしているんだ。そんなことはさせられない。わたしは、通路への出口と綾人のあいだに立ちはだかった。綾人はおどろいたような顔をして、こちらを凝視《みつ》めている。
おなじ部屋にいると知っていたら、おまえとは話しあいたいことがたくさんあった。世界の終わりに懺悔しなければならないことがある。おまえは……おまえは……。
「そこをどいてください」
「ダメだ。おまえを外にだすわけにはいかない」
「なんの権利があるんです。どいてください」
押しのけていこうとする綾人の腕をつかむ。
「そんなことはさせられない。人として……」
人として、なんだ? 人として、なにとして、そんなことはできないんだ。いえ。いうんだ。亘理《わたり》士郎。それをいうために逡巡しているところを、綾人につき飛ばされた。
「ごめんなさい」
倒れたわたしの上に謝罪の言葉を投げかけただけで、綾人は通路に飛びだしていってしまった。かれを追いかけてきた紫東恵に助けおこされる。
「わたしのことはいい。綾人を行かせるな」
紫東はうなずいて、綾人のあとを追った。わたしもすぐに通路にむかった。
だが、おそかった。通路の先には、遮蔽扉があるだけで、かれの姿はなかった。わたしも紫東もただ茫然と閉じられた扉を凝視《みつ》めるだけだった。
低い爆発音が聞こえてくる。扉のむこうは戦場だ。そして、そこに神名綾人はいってしまった。
わたしの息子が……。
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断章12 エルフィ・ハディヤット
すでにMU《ムウ》の空中都市は暗雲のようにあたりをおおいはじめている。空中都市を形づくっているわけのわからない彫刻やらなにやらが、下からの爆発にぶきみに照らされた。
ドーテムからの攻撃で、海上に展開していたレーザー巡洋艦とミサイル巡洋艦の艦隊が一気になぎはらわれた。ブ厚い鋼鉄の装甲がチーズのように切り裂かれ、あっというまに爆沈してしまった。あとには大きな水の泡立ちとわずかな煙が残った。
晨星では苦汁をなめさせられたが、ヴァーミリオンならドーテムに勝てる。あたしたちアルファ小隊の力を見せてやるよ。四つのバウスガザルが吼え、空をなぎはらう。
いくつもの爆球が空に一直線にならぶ。バウスガザルをまぬがれたドーテムが、いっせいに可視音波をはなってきた。だが、ヴァーミリオンの装甲はそれに耐えた。
乱戦だった。作戦もくそもない。
ただひたすらにバウスガザルを放ち、ドーテムを撃破していく。それでもドーテムはつぎからつぎへと飛来してくる。しかも、青い逆三角形のドーレムは全周囲に音波をはなち、味方ごとこちらを破壊するつもりでいやがる。
「キャシー! うしろ!」
「サンキュー隊長!」
キャシー機が、うしろについたドーテムをかわし、バウスガザルで撃破した。
モニターのひとつに警告が映った。見ると、沖縄が攻撃されている。別働隊がいたんだ。七〇七補給基地をピンポイントで攻撃しているようだ。あそこには、シトウや神名がいるんだぞ。
一瞬、戦場でやってはいけないことをしてしまった。
ためらったのだ。このままここで戦闘をつづけるべきか、離脱して基地を守るべきか。
「ブンガマワール!」
切迫したマエストロの声が聞こえてきた。ふりむくと、そこに薄笑いをうかべたドーレムの唇があった。東京で見たあの逆三角形の青いドーレムだ。唇は死の歌をつむぎはじめた。
この至近距離ではダメだ。あたしが覚悟を決めたとき、すさまじい衝撃とともに黒い影があたしとドーレムのあいだに割りこんできた。
「ドニー!」
さけぶあたしの声は、ドーレムの死の歌にさえぎられた。その歌をあたしの代わりに、ドニーのヴァーミリオンが全身で受けとめた。ドニーごとあたしもふき飛ばされ、海面にたたきつけられた。
「ドニー! しっかりしろ!」
荒れるモニターにドニーの顔がかすかに映った。
「隊長……」
「ドニー。だいじょうぶか」
「だいじょうぶですよ、これくらい。おれのことはほっといて、隊長は……」
そういって笑うドニーの下半身はすでに血まみれなのが見てとれた。あたしの視線に気づいたのだろうか、ドニーはまた笑った。
「おれ、ウソつくのヘタですね」
「そうだな……」
あたしは冷静に戦場を見まわした。マエストロとキャシー、さらにはTERRA《テラ》の戦闘機がドーテムやドーレムと戦っている。しばらくはだいじょうぶだろう。
「おれ……」
「しゃべるな。いま救護班を呼んだ」
「いえ、しゃべってないと気が遠くなりそうなんです。……隊長……こんなときになんですけど、おれ、隊長のこと好きでした」
「知ってたよ。おまえ、ウソつくのがヘタだからな」
知らなかった。だけどそう答えるしかなかった。あたしはドニー以上にウソをつくのがヘタだ。そうでもいわなければ、自分の気持ちを正直に伝えることしかできなかっただろう。おまえのことはなんとも思っていなかった、と。
「そっか、知ってたんだ。そいつはうれしいや」
ドニーはそういって笑うと、モニターカメラにむかって震える血だらけの指先をむけてきた。なにをするんだろうと思うと、ドニーはカメラのレンズに血でなにかのマークを描いた。焦点距離の内側なので、なにを描いたのかぼやけてわからない。そして、描きおわったかれはもう一度微笑むと、力つきたようにカメラの視界から消えた。
「ドニー!」
何度も呼んだが、もう二度とかれは立ちあがらなかった。
あたしが感傷にひたっていると、破裂音が響いてきた。なんだ? と外部モニターに目をやると、ドニーのヴァーミリオンの頭部装甲が内側からの圧力に破裂していくのが見えた。そして、その中からあらわれたのは巨大な肉の顔だった。顔としかいいようがないが、顔とはよべないもの。醜く白くただれ、目をうしなった女の唇が、虚空にむかって悲鳴をあげた。その舌先から青い血がしたたっている。
これは……ドーレムだ。
ヴァーミリオンはドーレムだったんだ!
全身におぞ気が走った。
あたしは世界に破滅をもたらしたものに乗っていたんだ。ドーレムを破壊するために、ドーレムに乗っていたんだ。こんな皮肉があるだろうか。
神名がムーリアンだとかいってさわいでいたけど、ドーレムに乗ってる自分のほうがよっぽどひどい。
反射的に脱出レバーに手がのびた。
そのとき、視界の隅にドニーがモニターカメラに描いたものが映った。ようやく、なにを描いたのかがわかった。いびつなハートマークだった。ドニーの最期の気持ちだ。
それをむげにすることはできない。
そして、あたしにできることは戦うことだ。
脱出レバーにのびていた手が自然にはずれ、あらためて操縦レバーを握りしめる。
あたしはヴァーミリオンのノズルを噴かして、戦場に飛びあがった。
ドニーのかたきを討つために。
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3
音。音。音。
すべてが音だ。
破壊される音、破壊する音、すさまじい音が嵐のようにおれのまわりに渦巻いていた。
いくつものミサイルが発射されていく。
複雑な軌道を描いて、ドーテムにむかっていく。
だけど、音波がそれを宙空でたたきつぶす。
光のように圧縮されたドーテムの音が地上をなぎはらう。
爆発の音がつづき、爆風で足をすくわれそうになる。こんなとこに飛びだしてきた自分を呪った。だけど、しなくちゃならないことなんだ。いま、いましかないんだ。遙さんにおれの気持ちを伝えるのは。
走る。走る。
そういえば、こんなこと前にもあったっけ。
そうだ。東京でだ。あのとき、TERRA《テラ》の攻撃があって、浩子と守が乗った電車がミサイルの直撃を受けたんじゃないかと思って、おれは外へ飛びだしたんだっけ。そして、いまみたいに必死に戦場を走りまわった。
また音波がふりそそいできた。
あわてて建物と建物のあいだに飛びこんだ。
すさまじい爆風が吹きぬけていく。
たぶん、あのまま走りつづけていたら、おれも吹き飛ばされたろう。
爆風がやむのをまって飛びだそうとしたとき、うしろで物音がした。ふりむくと人影があった。黄色い服の少女。美嶋玲香《みしまれいか》だった。
「オリン……」
ケガをしているのか、美嶋は壁によりかかるようにして力ない声で呼びかけてきた。
「助けて……」
背中で爆発の音がとどろいた。
「ごめん、きみを助けてあげることはできない。それにきみは美嶋じゃない」
行こうとふりむいたおれの目の前には戦場はなかった。白い空間があった。
驚いて美嶋を見ると、彼女は白い椅子に座っていた。投げだされた人形みたいに、座っているのがやっとって感じだった。
「こ、ここは?」
「ここはMU《ムウ》とよばれる人々が、ゼフォンとまじわる奏者を送りこむ、そのための通路」
そんなことはどうでもいいんだ。
「遙さんはどこだ!」
だけど、彼女は苦しそうに自分の話をつづける。
「わたしはイシュトリ。ゼフォンの心。不完全なオリンが十七歳の資格の歳にわたしを望んでくれたとき、イシュトリはオリンとひとつになれる。真実の心臓ヨロテオトルとなって調律する」
十七歳の資格の歳……。だから、おふくろは十七歳が特別な歳だっていったのか? でも、もうすぐおれは十八になっちゃうぞ。だいたい、おれはイシュトリなんて望んでない。おれが望んだのは遙さんだ。
「ぼくはきみなんか望んでない……」
美嶋の肩がぴくんと不安げにはねた。そして、すがるような目がむけられる。
「そんなはずない」
まるで彼女の不安を裏づけるみたいに、周囲の白い空間が溶けはじめていく。そのむこうには、ただ虚空がひろがっていた。彼女自身の体もうすく透けていく。
「おねがい、オリン。わたしを望んで」
そのとき、おれはわかった。美嶋がなにを望んでいるのか。彼女はおれにラーゼフォンに乗ってほしいんだ。人でなくなってほしいんだ。
「できないよ」
「できるわ。できるはず、オリンなら」
「できない。ぼくはまだひとでいたい」
遙さんにこの想いを伝えるまでは、ひとでいたいんだ。
「わたしを望めば、ひとなどを凌駕する存在になれるというのに」
「おれは遙さんとちがう存在になんかなりたくない」
遙さんの名前を口にしたとたん、美嶋はワッと泣きふすように両手に顔をうずめた。彼女が望んでいることもわかる。だけど、それをやってしまったら、ひとでなくなるんだ。もう遙さんと同じでいられなくなる。
美嶋が涙でいっぱいの目をむけてきた。
「こんなことはしたくない。だけど……」
溶けかけていく白い空間にむかって、彼女が指をむけた。すると、そこに映像が映った。
戦場があった。
沖縄の空にあるMU《ムウ》の空中都市が映しだされた。
そして、そこに一体のドーレムが立っていた。
でも……あれは……。
おれは直感でそれがなにかわかってしまった。あれは守の乗ったドーレムだ。
もうひとつの映像がうつる。それは破壊された基地本部ビルの残骸だった。そこにひとつの人影が立っている。遙さんだ。
「遙さん!」
そのとき、守の乗ったドーレムが遙さんを見つけた。すべてをなぎはらう音の剣を遙さんにむけようとした。
「やめろ!」
思わずさけんだけど、それが守にむけられたものか、美嶋にむけられたのかはわからない。
「わたしを望んで。そうすればあなたは助けられる。あなたが守りたい人を」
おれは美嶋をにらみつけた。きたないぞ。こんな選択をさせるなんて。
「それしか、わたしにもあなたにも残された道はないの」
おれは……。おれは愛する人を守るために、ひとでなくならければならないのか!
ひとでありつづければ、守れない。守れば、ひとでなくなり、愛する人と別れなければならない。だけど……。だけど……。ほかに選択の余地はなかった。
おれは美嶋を見た。
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断章13 紫東 遙
一撃だった。
対ドーレム仕様になっている基地本部ビルは一撃で破壊されてしまった。それもたかがドーテムの攻撃にだ。
わたしは偶然柱のそばに立っていた。そのおかげもあっただろうが、ビルが倒壊してもかすり傷ていどですんだのは、ほとんど奇蹟といってもよかった。ほかに生きている人間はだれもいないようだった。しかし、爆音で耳が完全に聞こえなくなった。わんわんというひどい耳鳴りでほかの音がいっさい聞こえない。わたしは、倒壊した天井のすきまに見えるわずかな明かりだけをたよりに、崩れた建物のすきまをはいすすんだ。
ようやく外にでたとたん、爆風が吹きつけてきた。
頭上をドーテムが飛びさっていく。
基地の上空にのしかかるようにしてMU《ムウ》の空中都市があった。つきだしている彫像やらなにやらが陽の光にきらめいて見えるが、あれはよこしまな美しさだ。
そこに一体のドーレムがいた。
見たこともないタイプだ。それまでのドーレムがどちらかというと女性を連想させるような形をしていたのに、これはあきらかに男性を連想させる。それにそれまでのドーレムは一部はひとだが逆三角形だったりキノコのようだったりしたのに、これはひとの形をしている。まるでラーゼフォンのようだともいえた。
ドーレムの目が破壊された基地をねめまわし、そして、ひたとわたしにむけられた。
右腕がゆっくりとあがり、手首から先にぶきみなねばつくような光が踊りはじめる。
それは可視域まで圧縮された音波だった。
狙いはまちがいなく、わたしだった。
音が射ちだされた。
すべてを殲滅《せんめつ》する音が、一直線に襲いかかってきた。
わたしは死を覚悟した。耳鳴りのむこうから、心臓をえぐるような強烈な音がとどろいた。反射的につぶったまぶたの裏を強烈な閃光が照らしだし、つぶっていたのに目がくらんでしまった。
残響が、わたしの内臓をかきまわし、不快感がこみあげてきた。
苦しい。っていうことは生きてることなのかしら。
おそるおそる目を開けてみる。しぼりきった瞳孔はあたりの風景を暗くゆがませていた。最初に見えたのは、綾人くんの背中だった。なんで綾人くんの背中が? そんなはずないじゃない。わたしは首をふって、視界をはっきりさせた。
そこにあったのはラーゼフォンの背中だった。
ラーゼフォンがドーレムからはなたれた殲滅の音を、全身でふせいでくれたんだ。
でも、なんかおかしい。ラーゼフォンにしては、どこかヘンだ。全体が硬質ではなく、生物の体めいている。それに翼。背中から巨大な翼がはえている。でも、あれは……骨の翼だ。骨が幾重にも重なってできあがった翼だ。
異様なラーゼフォンの姿に、わたしは声をうしなった。
ラーゼフォンがゆっくりとこちらをふりむいた。
その顔は、苦しみにもだえる綾人のそれだった。
わたしは理解した。綾人は、わたしを守るためにラーゼフォンに同化してしまったのだ。ひとではなくなってしまった。
どこかで獣が吼えている。
それが自分の喉からほとばしるさけび声だと気がつくまでに、しばらく時間がかかった。わたしは全身をふるわせて慟哭していた。まさに慟哭としかいいようがない。意味のない悲しみのさけびが、わたしの喉からあふれでた。
わたしにできたのは、それだけだった。
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断章14 鳥飼 守
たぶんここいらに腰抜け野郎がひそんでいるはずだった。破壊されたチンケな基地をのぞいたら、生き残りの女がふらふらと出てきた。TERRA《テラ》の制服を着ている。ってことは綾人の知り合いかもしれない。こいつから血祭にあげてやれ。
右手にためこんだ壊音をたたきつけてやった。
そうしたら、ラーゼフォンが出てきやがった。ようやくお出ましかよ。なんだい、その女がおまえのほんとうにだいじなやつだったのか。だったら、やっぱり殺しとけばよかったな。それにしても、みっともない格好だぜ。ひとなんだか神像なんだか、よくわかんねえじゃんか。背中の翼はなんだよ。骨だけじゃん。まだ自分の体になじんでないみたいだなあ。痛いのかよ。苦しいのか。顔を手の中にうずめて、自分の苦しみにもだえてるのか。だいじょうぶ。おれがもっと苦しめてやるよ。
腕に壊音をためこみ、一気にラーゼフォンにむかってはなった。
光のようになった音が襲いかかる。と、ラーゼフォンは動物的反射で右手をかかげ、おれの壊音を掌でうけとめやがった。空にむかって過剰電荷粒子を飛びちらせながら、おれの音のエネルギーをすべて吸収してくれた。おもしろいやつだよ、おまえは。ほんと。こうでなきゃいけねえよな。
ほら、どこ見てんだよ。おれはここだぜ。
おまえが倒すべき相手はここにいる。
このおれだ。
楽しい合唱といこうじゃないか。おまえの音が強いのか。おれの音が強いのか。
世界のやつらに聞かせてやろうぜ。宇宙が崩壊する音を。
おいおい、なんだよ。こっちがテンション高くしてるってのに。うずくまって顔を両手でおおって、ガキみてえに泣いてやがるぜ。
どうした、綾人。立てないのか。おのれの醜さにうろたえることしかできないのか。それがこの世にあらわれた神の姿だというのか。
そんなもののために浩子は死んだのか!
オブリガードの腕をラーゼフォンにたたきつける。激痛に身をよじるように、ラーゼフォンが吼える。その歌が空間の亀裂となって天空にのび、上空にあった空中都市を分断した。やってくれるじゃないか。さすがだよな。だがな、こんなことじゃ許さないぜ。オブリガードの力を見せてやるよ。
こぶしを何度もラーゼフォンの腹にたたきつけた。苦痛に身もだえるラーゼフォンが、腕をひとふりした。その腕にオブリガードがはね飛ばされる。さすが神の一撃だ。おれはクラッときた頭をふってはっきりさせると、壊音で胸を切り裂いてやった。
青い神の血が噴きあがる。ラーゼフォンが吼えた。空間の亀裂がオブリガードのすぐわきをかすめた。それだけで、中にいるおれのフーフ・ザーンの面が割れそうになった。もしあいつが痛みのためにねらいをはずさなかったらと思うとゾッとするぜ。
だけど、当てられなかったのがおまえの不幸さ。
おれは一気に間合いをつめて、ふたたび壊音の剣をふりおろそうとした。
その腕をラーゼフォンがかかえこみやがった。もう一方の腕もとられる。オブリガードの体がぎしぎしときしみはじめた。
ラーゼフォンがおれの顔をのぞきこんだ。右と左の目がばらばらに動いてて、気持ち悪りぃんだよ、おまえは。見たことあんのか、自分の顔を。
オブリガードと同化しているおれの腕にも痛みが走る。だけど、それがなんだ。浩子の痛みはこんなもんじゃなかったはずだ。愛する者になぶり殺しにされたあいつの痛みは、さあっ!
おれは怒りをこめて、第三の腕をのばした。まさに奥の手ってやつだな。
第三の腕はラーゼフォンの喉にくらいついた。そのまま満身の力をこめる。ゆっくりじわじわと首をつぶしてやるよ。
苦しめ。苦しめ。もっと苦しめ。
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断章15 エルフィ・ハディヤット
なんなんだ、この光景は。
ドニーを殺した青いドーレムにむかおうとしたとき、それがはじまった。ラーゼフォンが突如として現れたのだ。これがラーゼフォンか? 醜い神の姿だ。骨の羽はだらりと力なく左右にたれたまま、ただ新しくあらわれたドーレムにされるがままになっている。
一瞬、その光景に気をそがれた瞬間、あたしの前に、青いドーレムが立ちふさがった。
ドニーのかたきだ!
バウスガザルをかまえたとたん、収束音をたたきつけられ、バウスガザルごと腕がふき飛んだ。
くそっ。
そこへ上空からレールガンのペレット弾が青いドーレムに撃ちこまれる。
キャシーだ。
「隊長! 騎兵隊ですよー」
「バカ! 急降下の角度が深い!」
あいつの悪いくせが、こんなときにでてしまった。キャシーのヴァーミリオンはバウスガザルを連射しながら、深い角度でつっこんでくる。
青いドーレムが見あげた。
その喉の奥に収束音のきらめきが見えた。
キャシーが機体をひきおこそうとしたが、角度が深すぎて一瞬おくれた。
空戦では一瞬のおくれが死を意味する。
収束音はキャシーのヴァーミリオンの腹をつらぬいた。
ヴァーミリオンは空中で光の針でぬいとめられたように、動きをとめた。
背中のTDDシステムが暴走したのか、強烈に輝きはじめた。そして、キャシーのヴァーミリオンをつつみこむように黒い球体が広がっていく。
マイクロ・ジュピターだ。
ヴァーミリオンの装甲をつきやぶって、苦しみから逃れるようにドーレムの首がマイクロ・ジュピターの外にのびた。だが、それもすぐに力場にからめとられ、悲鳴とともにひきずりこまれた。
そして、消えた。
せめてもの救いは、キャシーが苦しまなかっただろうことだけだ。
あたしは青ドーレムをにらみつけた。おまだけは絶対に許さない。
青ドーレムの頭上に光の円盤が生じる。安っぽい天使だな。そのとたんに、円盤が回転するように、ビームがあたりをなぎはらった。
それくらいかわせる。おまえだけは絶対にゆるさない。
おまえだけは!
ドニーとキャシーの苦しみを味わわせてやる!
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断章16 三輪 忍
わたしの名は三輪忍。そして、音に生きるMU《ムウ》の民、ファノラルカ・ヒヤパ。
わたしが同化したアレグレットの滅音ビームが、コンパスで円を描くようにあたりをないでいく。一瞬にして岩礁が分断され、海が沸きたち水蒸気爆発をおこす。青い海に映りこんだ美しいわれらの都ヒラニプラがゆれる。
なのに、あの片腕の泥人形ときたら。ムーリアンの知識を得たわたしは知っている。あれがMU《ムウ》のかつての同胞《はらから》だった、ナーカルの兄弟が作りだした泥人形にすぎないと。ナーカルの兄弟たちが、望郷の念をこめてこねあげた、ただの土塊だ。それなのに、アレグレットの攻撃をかわしつづける。
わたしの音をかわすな!
念をこめて放った滅音が狙いあやまたず、泥人形の腕に炸裂した。泥人形をおおっている装甲と、青い体液が宙に飛び散る。ああ、その破壊の音は、官能的なよろこびさえ、わたしにもたらす。
両の腕を失い、武器さえなくしたというのに、泥人形は突進をやめようとしない。
その狂気にもにた突進ぶりは、ムーリアンであるわたしでさえ恐怖を感じ、思わずたじろいだ。泥人形はそれより早く、わが肉体であるアレグレットを踏みつけるようにして接触してきた。
不遜であろう。おまえはゼフォンどころか、ドーレムでさえないじゃないの。
怒りにかられたわたしは、ゼロ距離射程で滅音をたたきこんでやろうとした。
それより早く泥人形の両の目からビームが撃ちこまれた。
アレグレットの装甲が破壊され、肉の奥深くへと熱いナイフがつきたてられた。
瞬間、性のもたらす快楽よりもなおはげしい悦楽がわたしの脊髄をつらぬいた。
死の近づく音がわたしとムーリアンを完全にひとつにしてくれた。三輪忍とファノラルカ・ヒヤパの音がひとつに重なり、脳蓋《のうがい》の内側に鳴り響いた。
それまでも音は見えていたが、完全にひとつとなった音のなんとすばらしいことか。
雲のごとく天空高くそびえる音、空をおおいつくそうとするヒラニプラの交響楽、青い音、白い音、戦いの音、消えていく音、音、音、音。すべては音の下にひとつとなり、すべてはまったくの位相を変えていく。
「見える。わたしにも見える。美しい理想郷が!」
その瞬間、フーフ・ザーンの仮面が割れ、死の音が炸裂した。
青く広がっていく死の音の中で、わたしは自分がしてきたことが正しかったのかとかすかに思った。
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断章17 エルフィ・ハディヤット
青いドーレムに撃ちこんだビームの傷口から、醜い膿嚢《うみのう》のような青いふくらみが吹きだしてきた。
一瞬早く離脱する。
膿嚢は見るまにふくれあがり、破裂して空中に青い液体を飛びちらせた。
こっちは両腕はうしなったもののまだ戦える。空中姿勢がとりにくいが、バランサー制御パラメーターをいじればなんとかなる。
そう思ったとたん、片足を打ち砕かれた。
いくつものドーテムがむかってくる。
くそっ! 姿勢制御を懸命にとろうとするが、高度が落ちていく。
そのとき、ドーテムの群れの中にヴァーミリオンが飛びこんできた。
「マエストロッ!」
モニターにマエストロが映る。
「ブンガマワール。きみはよく戦った。あとはわたしにまかせたまえ」
「マエストロッ! なにをする気だ!」
モニターのマエストロは答えずに、静かに笑いながら敬礼をした。
そして、モニターが黒くなった。
同時に黒い球体がドーテムの群の中央で広がった。
マエストロがTDDユニットを暴走させて、マイクロ・ジュピターを作ったんだ。
ヴァーミリオンを押し包むようにかたまっていたドーテムは、急速に散開しようとしたが、ジュピターの力場はそれよりも強く、逃げようとするドーテムをつかまえて自分の内側に封じてしまった。
上空の空中都市の一部さえはぎとられ、悲鳴とともに飲みこまれていく。
マイクロ・ジュピターは現れたときとおなじく、急速に姿を消した。
残ったのはわたしだけだ。
「マエストロ……」
そして、ヴァーミリオンが落ちるように、わたしも無意識の淵に落ちこんでいった。
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断章18 鳥飼 守
忍ちゃん、死んじゃった。
ま、いいや。抱いてもただ天井だけ凝視《みつ》めてるつまんない女だったし。
アレグレットがなくなったとなると、うるさいハエがよってくるな。さ、いそごうぜ、綾人。早いとこ世界を調律しちまおう。
おれはオブリガードの第三の腕に力をこめ、あえぎながらのけぞっていたラーゼフォンの首をこちらにむけさせた。
のぞけよ。テスカポリトカの目を。このオブリガードがなんのために作られたか知ってるか? おまえにもしものことがあったとき、ベルゼフォンだけでも世界が調律できるようにさ。つまり、バーベムの連中が作ったヴァーミリオンとかいうのと同じだよ。
しょせんはまがいものだって知ってるさ。
でも、ちょうどいいだろ。世界を破滅させるにはさ。
おれは浩子のいない世界なんか大嫌いなんだよ。ついでにいえば、浩子を殺したおまえがのうのうと生きてられる世界ってのもな。
ラーゼフォンのぎろぎろと動きまわる目が、オブリガードにむけられた。
そうだ。それでいいんだ。
さあ、望め。テスカポリトカの目をのぞきこみ、真実の心臓をおのれの胸からえぐりだせ。青く血塗られた心臓を、おのれの手で天空にかかげろ。
世界の心臓がとまる瞬間の音を、世界に響かせてやれ。
そして、死ね。
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4
苦しいよ。ひとでなくなることがこんなにも苦しいなんて、だれもいってくれなかったじゃないか。
苦しいよ。痛いよ。やめてよ。こんなのイヤだよ。
音が……。
音が全身を震わせる。
これはオブリガードと呼ばれるものの音だ。だれに教えられたわけでもないのに、それがわかる。それに乗っているのが守の音だということも。なにもかも音だ。音の世界だ。
悪しき音をはねのけようとした手に、新しい音がからみついてくる。
浩子の音だった。
「綾人くん、やめて」
浩子……。ちがう、これは浩子の音じゃない。守がはなつ歪んだ音だ。
「どうしてそんなこと思うのかな。あたし、浩子だよ。朝比奈浩子」
なぐろうとした手がためらう。
「綾人くん、なんでそんな格好してるの? 自分の姿見たことあるの? 自分の手を見たことあるの?」
おれは指先を見た。そこにあったのは白い、生物とも鉱物ともつかない指だった。これがおれの指? おれは自分の足を見た。これがおれの足? おれは自分の腹を見た。これがおれの腹? おれは自分の翼を見た。これがおれの翼? なんでおれには翼がはえてるんだ? なぜだ。なぜだ。思いだそうとしても、なにも思いだせない。なにかを、だれかを守ろうとしていたことだけはたしかだ。
「守る? あたしも守れなかったのに?」
浩子の音が笑いながらいった。髪が恨みにゆれた。
「痛かったんだよ。苦しかったんだよ。やめてっていったのに、綾人くんったら聞こえなかった。ずっと、ずっとやめてっていいつづけたのに」
わからなかったんだ。
「ふーん。だけど、それでいいの? わたしじゃないって思ったからって、わたしを殺した罪はなくなるの?」
どうすればゆるしてくれるんだ。
「どうしたらゆるされると思うの」
わからない。わからないよ。
「ウソ。あなたはわかってる」
ほんとだよ。
「あなたの手はなんのためにあるの。自分を罰するためにあるんじゃないの?」
自分を罰するため?
「そうよ。あなたの力はあなたを滅ぼすことができる。望みなさい。あなたの死を」
どうしてだよ。どうしてみんな、おれに望めっていうんだ。おれは自分でなんにも望んじゃいない。だれかがかならず望めっていうから、しかたなく望んでるだけだ。
「しかたなく? あなたに殺されたわたしのためにすることも、しかたなくなの?」
ちがう。ちがうけど、そうじゃない。おれが自分を滅ぼすことを望めっていうのか。
「望みなさい。そうすれば苦しみから逃れられるわ。簡単なことよ」
苦しみから解放される? この醜い体から逃れられる? 簡単なことなのか。
「簡単じゃない。それですむのよ」
それですむ。なんて甘い響きの言葉だろう。それですむのか。
それで……。
ふと心の奥底でだれかの名前が響いたような気がする。なつかしい名前だったような気がする。その人のためにおれはひとでなくなったような気がする。
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断章19 紫東 遙
すぐ近くの海上でラーゼフォンとドーレムの戦いがつづいていた。
ドーレムの第三の腕がラーゼフォンの喉をしめあげていく。
声がとどかないとわかっていながら、やめて、となんどさけんだろう。もう喉も嗄れはてた。
目の前で綾人が苦しめられていくのをこれ以上見ていられない。
苦しみにゆがんでいたラーゼフォンの顔が、急に陶然となった。人が死ぬ寸前の顔だ。
綾人が死んでしまう!
と、そのとき、ラーゼフォンの骨の翼が左右に開いた。まだ耳鳴りが消えないというのに、カラカラと骨と骨がぶつかるいまわしい音がはっきりと聞こえてきた。
なにをしようというの、綾人。
骨の翼が大きく開かれ、そのあいだに音が舞いはじめる。
陶然となったラーゼフォンの唇のあいだから歌がもれた。
それはこの世で聞いたもっとも美しく、もっともいまわしい歌だった。
狂気の歌だった。
世界の破滅を望む歌が、いま解き放たれようとしている。
「やめて! 綾人!」
だけど、わたしのさけびは狂気の歌にかき消され、自分の耳にさえはいらない。
そして、歌がはなたれた。
滅びがこの世に生まれた。
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断章20 エルフィ・ハディヤット
ぶきみな震動で、あたしは正気をとりもどした。
だけど一瞬、なにが起きているのか、軽い見当識喪失におちいった。
ドーレムとの戦闘で両腕を失い、海に落ちたのはおぼえている。
機体全体がぶきみな震動にふるえている。計器のすべては異常な数値を示している。なにがおきているんだ。
モニターのひとつを見たあたしは息をのんだ。
そこにはドーレムに組みつかれたラーゼフォンがいた。
背中の骨の翼が両側に大きく開かれ、からからとイヤな音をたてているのが聞こえる。
ラーゼフォンがどういう意味をもっているのか知らないけど、なにかとてつもないことをやろうとしていることだけはたしかだ。ヴァーミリオンであるドーレムも、恐怖に震えている。
やめろ! 神名! それはやっちゃいけないことなんだ。
あたしはヴァーミリオンを発進させた。
とめなきゃいけないんだ、神名を。
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断章21 それぞれの瞬間
あたしはヴァーミリオンのブースターを全開にして、ラーゼフォンに組みついているドーレムにむかっていった。同時にTDDユニットのパラメーターをむちゃくちゃに設定する。暴走させるんだ。ラーゼフォンの力を封じこめてやる。
ぼくは自分の無力さを呪った。TERRA《テラ》だといったところで、MU《ムウ》の通常兵器であるドーテムにさえ苦戦をしいられている。ラーゼフォンが現れ、ドーレムと戦っているのはわかっていたけど、ぼくにはなにもできなかった。ただドーテムが沖縄に攻撃をしかけるのをふせぐことしかできなかった。
ゆるしてください、功刀《くぬぎ》司令。ぼくは無力でした。
ラーゼフォンの歌がリーリャ・リトヴァクを震わせた。
あはははは。
綾人のバカはとうとう歌いやがった。
自分の心臓をえぐりとる歌を。
もう苦しまなくていいんだ。
もう苦しまなくていい。
姉さん、綾人が歌ったわ。世界が崩れるほどに。すべてのドーテムは同調して破壊されていくわ。沖縄から同心円状に広がる歌が、いずれはここへも到達する。そして、さらに地球全体へ。宇宙全体へと広がっていく。そして、この宇宙はなくなるの。まるで世界の創り主が、宇宙など造ったことはないと思うぐらいに完全に。
コクピットに浩子がいた。
おれをじっと非難めいた目で凝視《みつ》めていた。
「そんな目で見るな。幻影のくせに! 綾人の攻撃だろ。きたないぞ!」
おれはフーフ・ザーンの仮面をかなぐりすてた。それでも浩子の姿は消えない。ってことは、まぼろしじゃないのか? おれはおそるおそる浩子に近づいた。その肌のあたたかさが感じられ、息づかいまで聞こえてくる。
ってことは、おれが浩子を呼びよせたのか? これが世界の調律なのか?
おれは浩子の腕をつかもうとした。
浩子はさっと腕をひっこめた。
「そんなにまで綾人が好きなのか!」
悲しそうな目がむけられる。
「なぜだ! なんで、おまえは綾人なんか好きになったんだよ。なんで綾人に殺されたんだよ! おれだけを残して!」
涙があふれそうになり、思わず歯をくいしばりうつむいた。胸が苦しい。
ふわりと抱きしめられた。
全身から力がぬけていく。
浩子のあたたかさがおれを包みこんだ。
ああ ああ ああ
あたたかい喜びが、おれの胸にあふれた。
そのとき、ジュピターがすべてを呑みこんだ。
もう苦しまなくていいんだ。
だけど、いまはすっごく苦しいよ。
そのとき、とつぜん、エルフィさんの声が聞こえてきた。
「神名ぁっ! あいつはいい女だ! 守ってやれ!」
おれはハッとした。
そうだ。遙さんだ。
遙さん! 遙さん! おれはあなたに伝えたいんだ!
そのとき、ジュピターがすべてを呑みこんだ。
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断章22 紫東 遙
そのとき、ジュピターがすべてを呑みこんだ。
ラーゼフォンのいまわしい翼が広げられ、世界の滅びがはじまろうとしたとき、片足のうえに両腕のないヴァーミリオンがつっこんできた。あれはエルフィだ。そして、つっこむと同時にTDDユニットが暴走し、マイクロ・ジュピターが生まれた。
ラーゼフォンも、組みついているドーレムも、ヴァーミリオンも呑みこまれた。
ときはなたれた歌さえもジュピターは呑みこんだ。
すべてを呑みこんだジュピターは、ゆっくりとちぢんでいく。
声もない。
わたしは自分を抱きしめるようにしてひざまずいた。
そして、ゆるしを乞うた。
綾人に。
わたしが東京からつれださなければ、あんなに苦しまなかったろうに。そうしたのも、綾人との楽しかった思い出からのがれられないわたしの思いこみだ。エゴだ。つれだせば、きっとわたしのことを思いだしてくれると信じていたのに、わたしがあなたにあたえられたのは苦しみだけだった。
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
ただひたすら頭をたれてあやまるしかない。
綾人……。
そのとき、ちぢんでゆくマイクロ・ジュピターから白い腕がつきだされた。
ラーゼフォンの腕だ。
不可能なはずなのに、ちがう次元の壁を越えようとしている。
あらゆるものを呑みこむジュピターの力にあらがおうとしている。
綾人!
わたしのさけび声が聞こえたのか、ラーゼフォンの力強い歌が響いてきた。
懸命に生きようとしている歌が聞こえた。
綾人!
ラーゼフォンの頭がジュピターから現れた。そして、吼えた。その声がMU《ムウ》の空中都市を四散霧消《しさんむしょう》させる。ラーゼフォンはまるで自力で胎内からはいだすように、ジュピターに両腕をつき、体をひきあげようとした。
ジュピターはなおも呑みこもうとする。
ラーゼフォンの顔が苦痛にゆがんだ。
腹のあたりがきしむように震えた。
さらにラーゼフォンは腕に力をこめた。
極小化しつつあるジュピターの力は極限にまで高まっていく。
力をこめた腕にひびが走り、青い神の血が噴きだした。しめつけられた腹部にもひびが走り、皮膚にも似た装甲がはがれていく。青い粘液に包まれた生物の体にも似たなにかが見えた。
だが、ついにラーゼフォンはマイクロ・ジュピターの力から脱した。
自由になった。
ジュピターはあきらめたように急速に縮退し、この宇宙から消えていった。
「綾人!」
わたしは思わず岸壁までかけよった。
自由になったラーゼフォンは天空にむかって歌っている。
「綾人っ!」
声が聞こえたのか、満身創痍のラーゼフォンがこちらを見た。おだやかな顔だ。そして、微笑んだように見えた。
よかった。
綾人は次元不連続面のむこうがわに行ってしまうことはなかった。
そう思ったとたん、ラーゼフォンの体が力つきたようにかたむいた。
全身にひびが走り、指先が砕けるように宙に散った。散ったそれは白い球体となった。まるで白いジュピターだ。
ラーゼフォンの体が大小さまざまの白い球体になって、海にふりそそいだ。
海が嵐に翻弄されるように白く泡立った。
耳を聾《ろう》する轟音があたりに響いた。
だけど、わたしの耳にははいってこなかった。
気がついたとき、目の前の海は大小さまざまの白い球体で埋めつくされていた。
わたしを守るために死んだ神の死体だった。
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第五章 神の不確かな音
断章1 如月 樹
ヘレナ=バーベムに基地内の教会に呼びだされた。どうやらこの期におよんでもわたしになにかさせたいらしい。その途中で、大地にとどろく音がしたかと思うと、火を押しつけられたように〔刻印〕が熱くなった。
綾人になにかあったんだ。だけど、だれに訊けばいい。ここにいる避難民たちはなにも知らない。ただ閉じこめられ、不安をつぎの瞬間までかかえるだけだ。
ひとりしかいなかった。バーベムだ。
わたしはバーベムがいる教会へ急いだ。
入り口近くにさしかかったとき、パンと一発、かわいた銃声がした。
そして、真の声。
「なんだ? なんだ、こいつらは」
入り口にかけつけてみると、バーベムを守るためにいた財団職員たちの死体が累々ところがっていた。わたしは自分の〔刻印〕が急を告げているのも忘れて、その場に立ちつくしてしまった。親衛隊を名乗るかれらは独特のバイザーで顔を隠していたが、銃弾に打ちくだかれて素顔をさらしている。真とおなじ顔を。男性型Dタイプ・クローンだった。
それを茫然と見おろしながら、真がつぶやいた。
「これはなんだ? おれは……なんなんだ……」
答えをもとめるように、視線を教会の奥へむける。祭壇近くに老いたバーベム卿が車椅子に座って背を丸めている。その額に赤い点がともった。真の銃のレーザー照準があたったのだ。
「おれはなんなんだ?」
バーベム卿は後生だいじに本を抱きしめながら、ぶつぶつとひとりごとをつぶやいている。
「答えろよ!」
同時に銃が火を噴いた。
額にともっていた赤い点と同じ形に穴があいた。一瞬だけバーベム卿の体がびくんとはね、額の穴から赤い血がにじみだした。いや、赤というよりも黒に近い。長い時を生きすぎたために黒くよどんだ血だった。
手からゆっくりと本が落ちる音が、やけに大きく教会内に響いた。そして、真は笑いだした。狂ったような笑いだった。
「なにが不死者だ。なにがメトセラだ。ラスプーチンだ。撃たれりゃ、見ろ、死ぬじゃないか」
その瞬間、パスッと気のぬけたような音とともに真の体がゆれた。
「あれ?」
自分におきたことが信じられず、服にひろがる血の染みをじっと凝視《みつ》めている。
真……。バーベム卿が落とした本のタイトルに気づかなかったのか。あれは『オズの魔法使い』だ。ドロシーが苦難の果てに会ったオズは、ただの幻影だったんだよ。その証拠に、ほら、信者席から立ちあがった人影がおまえに銃をむけている。
「おまえはD」
人影が笑った。ヘレナだよ。
「Dはデザイナーズ・チルドレンのD。ドーレムのD。そして……」
ヘレナは薄く笑って、また撃った。
また真の体がゆれ、がっくりと膝をついた。そのまま、かれはのけぞるように倒れこんだ。その悲しげな顔が、入り口にいるわたしにまっすぐむけられた。たまらず、かれの名前を呼びながらかけよった。
「おれを……Dと……呼ぶな……」
それが真の最後の言葉だった。最後までDだった。
あの日、泥人形の背中に乗ってお屋敷を脱出しようとした日、両親に会えると瞳を輝かせていた少年の影はどこにもなかった。
「そしてDはできそこないのD」
ヘレナの笑う声にふりむく。
「あなたという人は!」
だが、そのあとの言葉はつづかない。もはや、この人はヘレナでさえないのだ。
「あなたという人はなんだね」
くすくすと笑いながらたずねてくる。
「いえ、なんでもありません。……それより、綾人の身になにかあったようです」
「ああ、わたしも感じるよ。死んだな」
ごんと腹に衝撃を感じる。どうして、そうもあっさりいえるんだ。
「まあ、怒るな。まだシュヴァルツァーがある。あれを使えば、ベルゼフォンの力だけで世界を調律できるよ。安心したまえ」
安心だと! なにを安心しろというのだ! わたしは反射的に真が落とした銃をひろいあげた。
「おもしろい。おまえまで反抗しようというのか。このわたしに」
怒りをこめて引き金をひく。
だが、なにもおこらない。
なんど引いてもカチカチという機械的な音がくりかえされるばかりだ。
弾切れだった。
……兄さん。ぼくはどこまでも選ばれない側にいるらしいや。
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断章2 如月久遠
〔刻印〕が熱い。脈打つように熱くなっている。わたしにはわかる。オリンの身になにがおきたか。だけど、麻弥はわからない。〔刻印〕をもちながら、奏者の資格をうしなってしまった女には。きっと彼女の〔刻印〕は、石のように冷えきっているにちがいない。
「あの子が死んでしまった……」
あらいたわしや妹御前《いもごぜ》は、流涕《りゅうてい》焦がれて、御泣きある。はらはらと涙の落つる。はらはらはらり、はらはらり。涙の先になにを結びつけましょう。悲しみ、それとも喜びか。
「あの子? 産みもしなかった子をなぜあの子と呼ぶの」
麻弥はぎょっとしたような顔をして、わたしを見た。汝にすべての事象の表象を理解することあたわず。章々《しょうしょう》たり。晶々《しょうしょう》たり。
「ベルゼフォンは元気よ。ほら」
吾、池の水面《みなも》を指させば、落つる影のさやけきかな、ひそけきかな。ベルゼフォンなり。わが影は黒きゼフォンなり。われはゼフォンなり。ふたつのゼフォンは、時の物質化した機械仕掛けの神〔デウス・エクス・マキナ〕にして、あまたの世界の放浪者。世界を調和させる調律者。わたしたちの歌が世界をひとつにする。
「ベルゼフォンひとつでなにができるというの」
麻弥がさけぶようにいった。
「もうバハル・ン・アカナはない。シノン・メル・バラムといっしょに次元の彼方に飛ばされてしまった。ドーレムもドーテムも綾人の歌に同調して自壊してしまった。どうやって世界を調律するつもりなの」
「あの子は生きているわ」
「え?」
「そして死んでいるわ。いまは生と死のはざまにただよっているの」
「教えて、姉さん。どうやったらあの子をとりもどせるの」
「わたしたちにはむりよ」
わたしは笑う。
「そこからひきもどせるのは、たったひとつの方法。たったひとつの言葉」
「なに? 教えてちょうだい」
「愛よ」
口にしてしまうと陳腐な言葉だけど、この世でもっとも尊くたっときもの。それがすべてだわ。
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断章3 紫東 遙
茫然と岸壁に立ちつくす。
かつてラーゼフォンであった無数の白い球体が、湾を埋めつくし海のうねりにあわせてゆっくりと上下している。わたしの足元でも大小さまざまの球体が波にゆられている。
静かだった。
さっきまでの戦闘がうそのようだ。わたしの耳鳴りもいつのまにかやんでいて、海を吹きわたる風の音さえも聞こえるようになっていた。
だけど聞こえない。
綾人の声は聞こえない。
鳥がどこかで鳴いた。
哀しげな声だった。伴侶をうしなった雌鳥《めどり》が雄鳥《おどり》をしたう声に聞こえた。
がくんと足から力がぬけた。悲しみが肩にのしかかってきたのだ。喉をついて嗚咽がもれる。涙がとめどなくあふれでる。
なにも考えられなかった。
こぶしをコンクリートの地面にたたきつけた。何度もたたきつけた。痛かったけど、はりさけそうな胸の痛さよりはましだ。
たたきつけては、綾人の名前を呼んだ。呼んではこぶしをたたきつけた。
血がにじんでもかまわなかった。いくらでも流れるがいい。もしも綾人がもどってくるならば、この命がなくなったってかまわない。だけど、それはかなわない願いだとわかっているから、よけいに悲しかった。よけいに苦しかった。だからまたこぶしをたたきつけた。
「綾人ーっ!!」
さけび声は、だれもいない海にむなしく響いていった。
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1
そのとき、おれはどことも知れない場所にいた。
暗くも明るくもない、寒くも暑くもない。茫漠とした広がりの中にいた。
さっきまで圧倒的に鳴り響いていたはずの音もなかった。静けさだけが、まわりにあった。
おれはだれだ?
だれだかわからない。かつては名前をもっていたような気もするけど、いまはなにもわからない。かつては思い出をもっていたような気もするけど、いまはなにもわからない。かつては友だちもいたような気がするけど……。
友だちのことを思うと胸が痛くなった。
すると少年の顔が浮かんできた。あれは鳥飼守だ。名前は知っているけど、おれにとってどんな友だちだったのかわからない。
今度は少女の顔が浮かんできた。あれは朝比奈浩子だ。名前は知っているけど、おれにとってどんな友だちだったのかわからない。
ふたりはならんで、おれをじっと凝視《みつ》めていた。
守がこっちへおいでよ、と笑いながら手をふった。
浩子がダメよ、と悲しそうに首をふった。
守のいってるこっちってなんだ?
いいところだよ。
まだあなたが来てはいけない場所よ。
なあ、守、浩子、おれ、だれなんだ?
そんなことも忘れちまったのかよ。バカだなあ。
いずれ思いだすわ。
思いだせるのかな。なにを思いだせるんだろう。作られた記憶かな。ほんとうの記憶かな。なんでいま、作られた記憶だって思ったんだろう。おれの記憶は作られたんだろうか。
ああ、それにしても静かだ。
この静けさの中に溶けこんでしまおうか。
だけど、心の奥にひっかかるものがある。ささくれのようにトゲのように、それがどこにあるかはっきりとはわからないくせに、指でさわると小さな痛みが走る。そんな感じでひっかかる。
なんだろう。
なんだろう。
なにがこんなにひっかかっているんだろう。
それさえ思いだせない。
とてもだいじなことだったような気もする。
とてもささいなことだったような気もする。
まあ、いいか。いまはそんなことに悩んだりするのはやめよう。この静けさに溶けこんでしまおう。守と浩子のそばに行こう。
指先が静寂に溶けていくのがわかる。
つま先が静けさに沈んでいくのがわかる。
このままでいい。このままでいいんだ。意識さえも静けさの中に流しこんでしまえ。
そのときだった。かすかに声が聞こえた。
だれかの名前を呼んでいる。
だれの名前だろう。
……あ や と アヤト あやと 綾人……あやと アヤト あ や と……
おれの名前だ。それがはっきりとわかった。おれの名前は綾人、神名綾人だ。
静けさに溶けこもうとしていた指先がくっきりと、悲しみの声を聞きとった。
だれかがおれのために泣いている。だれだろう。
思いだせ。思いだせ。
おれは、なにもない心の奥底をけんめいにまさぐった。さらさらと流れる砂の中に手をいれて、なにかをさがしていくような感じだった。
そして、指先がひとりの名前を聞きとる。
遙。
そうだ。遙さんだ。
明るくも暗くもなかった空間に光がさしこんできた。
まだやるべきことがある。
おれは立ちあがった。
光にむかって一歩足を進めた。
そこは海だった。海のうえに無数の白い球体が浮かんでいる。そのひとつにおれは乗っていた。目の前には岸壁があり、そこに彼女がいた。
遙さんがいた。
遙さんは驚いたような顔をして、ぼんやりとおれの顔を見ていた。それがくしゃっと崩れたかと思うと、また泣き顔になった。おれは球体から岸壁に飛びうつり、彼女を抱きしめた。細い体が震えていた。
「綾人……ほんとうに綾人なの?」
「そうだよ」
「ほんとうに?」
「ほんとうさ」
「ほんとなの? よく見せて」
遙さんはちょっとおれの体をはなし、泣きながら笑顔でおれの顔を見あげた。それから、また抱きついてきた。
「ほんとうだ。綾人だ」
おれの胸に顔をうずめる。
「心臓の音。トクトクって。生きてるのね、ほんとうに」
ふたりは長いあいだ抱きあった。おたがいが生きていることを確かめあった。どれくらいたったろうか、遙さんが顔をあげ、とがめるような目をむけてきた。
「なんであんなことしたの?」
「なにが」
「ラーゼフォンに乗ったこと」
「そうするしかなかった」
きみを助けるにはそれしか方法がなかった。
「でも……」
「でも、ひとではなくなってしまった」
おれは遙さんに掌をむけた。そこに聖痕のようにうっすらと血がにじみだす。青い血だった。こぶしをぶつけて泣きつづけた遙さんの手から流れているのは赤い血だった。
「だったら、なんで」
「想いを伝えるにはこうするしかなかったんだ」
遙さんが、驚いたようにおれの体をはなした。それから恥ずかしそうに視線をそらした。
「思いだしたの?」
「ううん」
「そう。やっぱり」
悲しげなそっけなさに、心が痛む。
「むかしのことは思いだせないけど、いまのことならわかる。おれが好きなのは現在《いま》のきみなんだ」
えっ? となった遙さんは、きっと中学のころはこんなだったろうなあ、と思うぐらいかわいく見えた。彼女の唇がなにかいいたげにふるえる。だけど、その言葉を飲みこんで彼女は小さく首をふった。
「ずっとあなたが好きだった。十四からずっと。だけどそんなもの、わたしのひとりよがりでしかないわ。そのために、わたしはあなたを傷つけて、苦しめて。とうとう……」
苦くとぎれた声は、こらえる嗚咽に消えた。
ちがう。どういったらわかってくれるんだろう。おれはそれを言葉にするかわりに、彼女の顔を手ではさみ、軽くこちらにむけさせた。涙に濡れた、とまどうような目がそこにはあった。
だいじょうぶだよ。おれは安心させるようにうなずいてみせた。
そして、そっと唇をよせた。
遙さんは目をそっと閉じ、静かに受けいれてくれた。
静かな時間がふたりの唇にともった。
このまま永遠に時間がとまってしまえばいいのに。
そのとき、おれの心の奥底に封じこめられていた記憶の残滓が、ほんのわずかだけど表面に浮き出てきた。指先でふれれば壊れてしまいそうなかすかなものだ。だけど、それはおふくろにいじられていない、おれだけの記憶だった。
あたたかい唇。どきどきしっぱなしの心臓。かすかな匂い。遙の匂い。
はじめての口づけの記憶だ。
おれはたったひとつだけ思いだせた自分の記憶を、しっかりと握りしめた。
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断章4 紫東 遙
綾人とはじめてキスしたときのことを思いだした。
石神井《しゃくじい》公園だった。息が白かった。ふたりでいるのが楽しくて、別れがたくて、ただ公園をぐるぐると回りつづけた。それにも疲れてベンチに腰をおろした。
三宝寺《さんぽうじ》池にのしかからんばかりに、冬枯れの桜が枝をのばしている。そのむこうを水鳥が小さな波をたてて泳いでいた。
さっきまで話しても話してもまだ足りないというぐらいにふたりでしゃべりつづけていたのに、急にふっと言葉がとぎれた。ふたりとも黙って、おたがいの顔を凝視《みつ》めた。
不安と期待に胸がしめつけられた。急にあたりの音が消えて、心臓の音だけが聞こえてきた。
ふわりと綾人がわたしの肩に手をおいた。言葉はいらない。それだけでじゅうぶんだった。わたしは目をつぶり、そっと上をむいた。
そして、唇がふれあった。
一瞬のことだった。
わたしたちは急にはなれ、たがいの顔さえ見られずに、ただ目を見開いたまま、いまおきたできごとがほんとうのことだったのかと思っていた。
うれしさと恥ずかしさで顔が真っ赤だった。
中学生らしい初々しいキスだった。
そのときとおなじように、でも、はっきりと長く、わたしたちは口づけをかわしている。そっと目を開くと、あのときと変わらない綾人の顔があった。その目の奥には思い出があった。確実にあった。
涙があふれてきた。
たぶん、かすかな記憶にすぎないのだろう。それでもわたしを思いだしてくれたのがうれしかった。
わたしは涙を見られるのがいやで、綾人の胸にまた顔をうずめた。
「ありがとう」
かすれた声でそういうのがやっとだった。
幸せだった。こわいほどに幸せだった。わたしはそれが恐ろしくなり、ふと顔をあげる。綾人は悲しそうな目でわたしを見ていた。なにかいおうとしている。それが聞きたくなくて、わたしは勢いこんでしゃべりはじめた。
「明日、誕生日よね。プレゼントあげるっていってたでしょ、覚えてる?」
あれだけはげしい戦いに巻きこまれたのに、ポケットの中のそれはなくなっていなかった。わたしはそれを綾人にわたす。
つまらない時計だった。
「ほんとはさ、絵筆とか絵の具とかがいいと思ったんだけど、わたし、よくわからないし、あなたにもこだわりがあるでしょ。ありがと、うれしいよ、とかいって受けとってもらえたのはいいけど、ちっとも使ってもらえないなんてさびしいじゃない。だから、時計にしたの。自分でラッピングもしようと思ってたんだけど、いろいろあって……。あなたの時計は、ほら、TERRA《テラ》のじゃない。東京とこっちのふたつの時刻が表示される。だけど、もう東京ジュピターはないから、いらないでしょ。それにあなたはもうふたつの時間に縛られるんじゃなく、あなたの時間を刻むべき……」
泣くまいと思ったのに、言葉尻は涙に消えてしまった。刻むべきかれの時間はもうないのだ。人ではなくなってしまったのだ。あと一日、あと数時間あれば、綾人はいまわしい運命から解き放たれるはずだった。十八になり資格をうしなうはずだった。ふつうの人間になるはずだった。
「ごめん。だけど、おれ、この時計をだいじにしたいんだ」
綾人はそういって小さく微笑んだ。
「東京の時間、こっちの時間。MU《ムウ》の時間、地球の時間。どっちを選ぶかわからないけど、おれはふたつの時間をだいじにしたい。だって、両方ともおれの時間だったんだから。さっききみのことをほんの少し、ほんの少しだけど思いだした。とてもあたたかなだいじな記憶だった。だけど、もし全部思いだしたらどうなるんだろう。いまのおれはどうなるんだろう。おれはきみのことを全部思いだしたい。だけど、いまきみが好きな気持ちもなくしたくはないんだ」
綾人は空を見あげた。そこはすでにMU《ムウ》の空中都市が無数に浮かび、そのあいだからいくつもの筋となって日の光が地上と海にさしこんでいた。そのむこうになにかがいるとでもいうような目で、綾人はじっと凝視《みつ》めている。
「彼女の歌が聞こえる」
「え?」
「久遠……。血のつながる女性《ひと》にして、わが半身」
そして、綾人はやさしい目をむけてきた。
「これでよかったんだよ。きみとは二回も知りあえたしね」
「だめよ! 行っちゃだめよ!」
「さようなら……遙。おれのいちばん好きな女性。そして、ありがとう」
綾人の体が糸でひきあげられるように、すうっと天にむかってのぼりはじめた。
「いやっ! 行っちゃいやああああっ!」
わたしはかけより、綾人の体を抱きしめようとした。だけど、わたしの手は虚空をかいただけだった。わたしの指先のすぐうえを綾人はゆっくりとのぼっていった。
かれの体が静かに光りはじめた。
海に広がっていた無数の白い球体が、かすかにゆれた。
綾人の体から光の翼のようなものが広がり、かれの体はそこに溶けていった。その光に球体もすべて溶けこんでいった。
そして、光の中にラーゼフォンが浮かびあがってきた。
神々しいまでに美しいラーゼフォンの姿だった。背中の翼は醜い骨のそれではなく、白く光り輝くものだった。そして、ラーゼフォンがおだやかに目を開いた。
綾人の目だった。
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第六章 遙か久遠の果て
断章1 神名麻弥
とうとうはじまった。
調律という名の戦いが。
そびえたつ雲の柱のあいだで、ふたりの神が対峙する。ひとりはラーゼフォン、ひとりはベルゼフォン。ひとりは綾人、ひとりは久遠。たがいに白い翼と黒い翼をひろげ、いどみあうように、愛しあうようにむかいあっている。
ふたりの上には蒼穹がひろがり、ふたりの足元にはヒラニプラがひろがる。
ヒラニプラが歌いはじめる。無数の彫像たちが、建物の内部の立像さえもが声をそろえて歌う。神の誕生と死を祝福し、世界の死と誕生を呪うために。
ベルゼフォンが歌った。
強烈な一撃がラーゼフォンに撃ちこまれる。
だが、ラーゼフォンはそれを受けとめず、右手ではらいのけた。
雲の柱に歌があたり、まるでえぐりとったように円筒形に蒸散する。
ダメよ、綾人。それを受けいれねば。
あなたはベルゼフォンに殺され、ベルゼフォンを殺さねばならない。そして、死の苦しみの中から世界を創造する。それが神の宿命なのよ。
今度はラーゼフォンが歌った。
ダメよ、綾人。愛をもって殺さねば。
ベルゼフォンがかわすと、歌は下にそれて、ヒラニプラをつらぬいた。
あまたの彫像たちが悲鳴をあげて、塵となって消えていく。ぽっかりと開いた穴からは、青い海が見えた。わたしたちのものではない地球の海があった。
ラーゼフォンとベルゼフォンはたがいに歌いあった。
輪唱ではなく、独唱をぶつけあった。
そのたびにヒラニプラが破壊され、あるいは雲が蒸散していく。
ついにひとつの声がラーゼフォンに炸裂した。
ラーゼフォンは落下し、ヒラニプラにたたきつけられた。彫像たちが歌いながらかれの体を抱きとめる。
ラーゼフォンは苦痛に身をよじるが、彫像たちははなそうとはしない。愛の歌をうたいながら、神の体をしめつけていく。
そこへさらに一撃がくわえられた。
ラーゼフォンは悲鳴の歌をうたった。核の閃光に似た歌がひろがり、上空の雲をすべてなぎはらう。歌のなかで彫像たちの顔はどろどろに溶け、溶けかけた顔をつきやぶってラーゼフォンの右手があらわれた。
右手からは光の剣がのびている。ラーゼフォンはそれをベルゼフォンにむかってふりあげた。
うなりをあげる剣のきっさきをベルゼフォンは完全に見切っていた。かわされた剣は一気にふりおろされ、上空の雲も下のヒラニプラも一直線に地平の果てまで分断される。
ベルゼフォンの歌が愛とともに死を歌い、ラーゼフォンは怒りとともに死を歌う。
いけない、綾人。あなたは自分がなんなのかわかっていない。自分がなにをするべきなのか、どう死ぬべきかさえも。
ああ、わたしの愛する息子。あなたのために東京を作ったのに、あなたのためにドーレムで攻撃して、ゼフォンをうまく操れるように悲しみと苦しみを積んでやったのに。あなたのためにこの死の舞台を用意してやったというのに。
もう導いてあげることはできない。
あとはあなたがひとりで見つけなければならないのよ。姉さんといっしょに死ぬ道を。
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断章2 紫東 恵
それがはじまったとき、退避壕にいただれもがわかった。なにがおきたのかはわからないけど、なにかがおきようとしていると。
いつのまにか遮蔽扉が開いていた。
あたしたちはなにかに導かれるように外へとでた。
外は夜と同じくらい暗かった。MU《ムウ》の空中都市が全天をほぼおおいつくしているからだ。星のない夜空だった。
ほんの少しだけ、そこに穴が開いていて、光がもれてくる。
光と同時に歌がもれてくる。
悲しい歌だった。
なぜかあたしには、それが綾人の歌だとわかった。
その歌に、かすかに別の歌がまじっていた。お姉ちゃんの声だ。あたしは歌声のするほうにむかって走った。
まだくすぶっている瓦礫の山になった基地をぬけて、なんとか岸壁までたどりついた。
お姉ちゃんがいた。綾人の歌が聞こえてくる天空の穴を見あげながら歌っていた。「カトゥンの定め」とかいう古い恋の歌だ。
「綾人が好きだった曲……」
あたしがとなりにならぶと、お姉ちゃんがぽつりとつぶやいた。
「わたしも好きだった……」
お姉ちゃんは自分の掌に目を落とした。その指先からすり落ちていったものをおしむように。
「行っちゃった。……また、なくしちゃった。こんどこそほんとうに」
こらえきれなくなったお姉ちゃんは、手の中に顔をうずめるようにして泣きはじめた。
ったくぅ。
らしくないよ、そんなの。なんかさあ、綾人のことは、ごちゃごちゃ悩むまえに行動してたんじゃないの? オーヴァーロード作戦に参加したときだって、東京に行っちゃったときだって。そこがカッコよかったのに。こんなとこでただ泣いてるだけなんて、絶対、らしくない。
「強くなって! 強くなってよ!」
お姉ちゃんは、ハッと顔をあげた。
「たいせつなものをなくしたからって、あきらめないで。そんなの紫東遙じゃないよ」
あたしにしては、めずらしく真剣だった。
「なくしたものはさがせばいい。またとりもどせばいいんだよ。何度でも、何度でも」
お姉ちゃんは小さくうなずいた。それから顔をあげ、決意したようににっこり微笑んでくれた。そうだよ。それでこそ、お姉ちゃん!
くるりと背をむけて走りだそうとするお姉ちゃんの背中に声をかける。
「お姉ちゃん!」
ふりむいた遙にむかって、あたしはせいいっぱいはげましの笑顔を見せて、それから親指をぐっとつきだしてみせた。がんばれ、お姉ちゃん! お姉ちゃんはぜったい幸せになるんだよ。
「うん」
お姉ちゃんはもう一度、強くうなずくと、こんどこそほんとうに背をむけて走りだしていった。どこにむかったかなんてわからない。わからないけどこれでいい。お姉ちゃんがなにかやろうとしているなら、それはきっと成功するはずよ。
でも、ほんとバカみたいだよね、恵。人にはなくしたものは探せばいい、とか威勢よくいっちゃったけど、自分はどうなんだあ?
でも、あたしはなくしてない。だって手にしてないんだもの。なくせないよ。
だったら、なんで泣いてるのさ。なんであとからあとから涙がこぼれるのさ。
答えてみなよ、めぐみ……。
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ここはどこだろう。どこかで、いつか見た室内だ。どこだっただろう。思いだせない。心のどこかにあるのはわかっているけど、見つからない。
西日があたっている。
それがグランドピアノの黒い表面にまぶしく映りこんでいる。
そして、聞こえる、ピアノの音色。だれが弾いているんだろう。
久遠だ。久遠が静かな曲を弾いている。
声をかけようとしたけど、言葉はでなかった。近づこうとしたけど、足は動かなかった。
ピアノがやんで、久遠が顔をあげた。
「迷っているの? なぜためらうの」
「きみはなにをしようとしてるんだ?」
「産みたいの」
「?」
「産まなくてはならないの」
「なにを?」
「わたしとあなたの奏でる音を。その想いをこめた卵を……」
「おれときみの?」
「わかった。あなた、歌を忘れてしまったのね。だから歌えないのね。……わたしは知ってる。……わたしにまかせて」
おれの足は一歩も動かない。動かせない。なんでためらっているのかもわからない。
「わたしのこと嫌い?」
「久遠……」
「そんなことないよね。だってあなたはわたしの……」
「おかしいよ。おれときみが調律をするなんて。やっぱりおかしい!」
久遠が手をのばしてきた。おれもとどかないまでも、手をのばそうとする。
だけど、ダメだ。なぜかは知らないけどダメだ。いま彼女の手を握ってしまえば、心のどこかにあるなにかが永遠にうしなわれてしまう。
おれは腕にしていた時計を見た。東京の時間とニライカナイの時間、おれの時間とおふくろの時間の両方をさししめす時計だ。ふたつの時間がおれの中で流れている。どちらかを選べなんて、できっこない。
おれは小さく首をふってみせた。
すると久遠は、悲しそうにピアノを指ではじいた。
その音が尾をひいて響いた。
ぼくは空をただよっている。これは現実だ。
とつぜん、光る歌が一直線に撃ちこまれてきた。雲が左右に切り裂かれ、歌の光に照らしだされた。
ぼくは右手をものうげにあげた。
歌は目前で炸裂した。ちょっと衝撃は感じたけど、エネルギーのほとんどは拡散させることができた。
前を見ると、切り裂かれた雲の通路のむこうに黒い人影が浮かんでいた。
ベルゼフォンだ。
久遠が歌った。死を歌う愛の歌だった。
おれはピアノのすぐそばに立っていた。悲しげに久遠がおれを見あげている。
いつのまにかピアノの上に砂時計が置かれていた。真ん中に回転軸があって、指で簡単にまわせるタイプのやつだ。青い砂が流れ落ちていた。
「なぜ?」
久遠が悲しげに問う。
「わからない」
おれがこまったように答える。
かたん――
と砂時計がひっくりかえった。
赤い砂が落ちはじめた。
ぼくは歌った。歌はうなりながら大きく軌道を変えて、大きな雲塊のむこうに消えた。雲のむこうに雷のような閃光が走った。
はずした。
お返しに雲をつらぬいて久遠の歌が撃ちこまれてきた。
とっさにかわす。ぼくをかすめてはるか彼方までとどいた歌は、にぶい音をたてて炸裂した。
青い砂が落ちていく。
「なぜ?」
久遠が悲しげに問う。
「わからない」
おれがこまったように答える。
かたん――
と砂時計がひっくりかえった。
赤い砂が落ちはじめた……。
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断章3 如月 樹
天上の戦いをうけてステンドグラスがきらめく。そのたびに、色とりどりのガラスからもれる光が、かつて世界のために死んだ男の影を教会の床にきざんだ。
「前奏曲《プレリュード》。思ったより悪くないな」
ヘレナ、いやもはやバーベムというべき人物が、きらめくステンドグラスを見あげながらつぶやいた。このひとは、はるか天空の彼方でおこなわれていることが手にとるようにわかるのだろう。ゼフォン・システムを造りあげたひとなのだから。
造りあげて……そして……なんの罰もうけないのだろうか。
「ぼくたちは罰を受けるべきだ」
ヘレナがふりむいた。
「そうかね」
「世界を創造して、その罰を受けないつもりですか」
「神を罰するものなど、だれもいないよ」
「あなたは神のつもりなのか!」
すぐそばに親衛隊のひとりが落とした銃が落ちている。今度こそはずすまい。そう思ったときだった。
「愛してるわ。……樹」
あれはヘレナだ。バーベムじゃない。まちがいなくヘレナの言葉だ。
「ヘレナ……」
つぶやいた瞬間、どんとなにかがぶつかってきた。火のように熱い感触が横腹いっぱいにひろがっていく。小夜子だった。その手にはナイフが握られていた。切っ先はわたしの体に深くつきささっている。熱い感触はこれだったのか。
「そうか……。きみか……」
小夜子が涙でいっぱいの目で見あげた。震える手はナイフを握りしめている。
火のように熱い感触が氷の冷たさに変わった。
全身の力がぬけて、わたしはその場にくずおれた。
「樹さん!」
小夜子は、自分のしてしまったことにおどろき、ナイフを投げ捨てるとわたしを抱きおこした。
「ごめんなさいっ! ごめんなさいっ! ごめんなさい……」
涙で声さえ嗄れてるじゃないか。いいんだよ、泣かなくたって。これはぼくが受けるべき罰なんだ。
「きみで……よかった」
「おねがい、もう……」
しゃべらないでと唇が形を作ったけど、小夜子は声をだせないでいる。
意識が遠のいていく。でも、これだけは伝えておこう。
「もし……やりなおせるなら……きみと……」
小夜子は全身の力をこめて、わたしを抱きしめてくれた。
「あなたが好きっ! 大好きなのっ!」
痛いよ。そんなに強く抱きしめたら。死ぬときぐらい、そっと静かに死なせてくれ。そういおうとして、目をあけた。
小夜子の顔に久遠の顔がかさなった。
かあさん……。
一度でいいから、あなたのことをそう呼びたかった……。
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断章4 七森小夜子
「やっと……青い鳥を見つけたよ」
それが樹さんの最期の言葉だった。そして、静かに微笑むようにこときれた。
あたしは樹さんの体を抱きしめて、泣きわめいた。
自分がしてしまったことなのに。
自分がしてしまったことなのに。
あたしは樹さんをうしないたくなかった。だから……。
みんなといっしょに外に出たとき、あたしはあてもなくふらふらと歩いていた。そうしたらナイフを見つけた。死ぬのもいいかもしれないと思った。そのままふらふら歩きつづけたら、教会があった。神さまの前で死ぬのもいいかもしれないと思った。そこに樹さんがいた。財団のヘレナがいた。ヘレナがいった。「愛してるわ……。樹」って。その瞬間、あたしは恐くなった。なにもかもが。樹さんをうしなうことが。うしなったことが。樹さんまでもが。
気がついたら、あたしはナイフをかれの体につきたてていた。
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
涙がかれるほど泣きさけんだところで、樹さんが生きかえるわけがないとわかっていたけど、あやまりつづけるしかなかった。
「わからないものだな」
静かな声が、あたしの頭上からふってきた。えっ? と顔をあげると、あたしたちの前にヘレナが立っていた。
「愛するよう。プログラムしたはずだが、これは予定外の行動だ」
な、なにいってんの。プログラムとか、なんとか、わけのわかんないこというんじゃないわよ。だけど、あたしの心のなかでなにかがうごめきはじめた。いけない。そんなものを見ちゃいけない。あたしはさけんだ。
「ウソよ! ウソよ! ウソに決まってるわ!」
「おぼえていないのかね。わたしだよ。……ヴァージョン七・三四五」
ヴァージョン七・三四五……デザイナーズ・チルドレン……女性型Dシリーズ……。
「知らない! あんたなんて知らない! あたしは……あたしは……」
そのつづきの言葉が喉にはりついてでてこない。
「いつわりの記憶をすてて、真実に目をむけなさい」
やさしく教えさとすようなヘレナの言葉が胸につきささった。
「そんなもの知らない!」
「知りたくないだけだよ」
ヘレナの言葉が恐怖のように追い打ちをかけてくる。
ぐるりと地面がひっくりかえった。
むかしの記憶が、時間の奥底からよみがえってくる。
足音。逃げる足音。
「逃げて、とうさん! バーベムの連中だよ」
あれは兄さんの声だ。乱闘の音がする。だれかの手がリビングの明かりにぶつかり、電球の傘がゆれた。争う男たちの影が戸口ごしに、廊下の壁におどる。
あたしは足がすくみ、隠れた階段下から一歩も動けない。
「逃げて、早く!」
兄さんに応えるおとうさんの声がやけに尾をひいて耳に響く。
「だめだ。〔 〕! おまえと小夜子をおいていけるか!」
……〔 〕……〔 〕…………
あたしは兄さんの名前を知らなかった。
兄さんの顔も知らなかった。
あれは……作られた記憶だったんだ。バーベムを憎むようにしむけたのも、バーベムだったのだ。すべてはプログラムされていた。
なにもかもが足元で崩れた。あたりがゆがみはじめる。ヘレナの顔も、ステンドグラスも、信者席も、なにもかもが砂のように崩れていく。
そのなかでただひとつ、はっきりと形をとどめているものがあった。
樹さんの血に染まったナイフだった。
あたしはなにかわめきながら、それを手にとった。
青い血に染まったナイフを握りしめた。
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断章5 金 湖月
退避壕から出てきたみんなは、なすすべもなく神の歌がもれてくる空の穴を凝視《みつ》めつづけていた。でも、わたしは暗く闇に閉ざされた海の彼方を凝視《みつ》めていた。
総ちゃん。
リーリャ・リトヴァクとの連絡はつかないらしい。総ちゃんがどうなったのかもわからない。だけど、わたしは悲しみはしない。だって、かれは約束したもの。絶対にもどってくるって。わたしとお腹の中の子どものために絶対だって。
だったら、なんでわたしは泣いているんだろう。
なんで涙がとめどなくあふれでるんだろう。
お腹がぐるんと動いた。はじめての胎動だった。
わたしはお腹をおさえ、その場にしゃがみこんだ。
もどってきてよ。約束なんだから。絶対に……。
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断章6 六道翔吾
かれは小高い丘の上にいた。手には空の鳥籠をもって、なにかの行方を追うようにヒラニプラにおおわれた空を凝視《みつ》めていた。
おれは黙ってそのとなりに立った。
「翔吾か」
「ひさしぶりだな、士郎」
士郎が手にしている空の鳥籠に目をやる。
「それは功刀《くぬぎ》のか」
「ああ、総一から託された」
「総一くんは生きているのだろうか」
士郎はそれには答えず、空に目をやった。
「いつまでも閉じこめていてはかわいそうだと思ってな」
おれと士郎はならんで、鳥が飛んでいった空を見あげた。ほとんどヒラニプラにおおいつくされた空だ。ただ一ヶ所だけ、ぽっかりと穴があき、そこからななめの柱のように陽の光が落ちてくる。暗くよどんだ海が一部分だけ青く照らされている。
「冷えてきたな」
「ああ、大地をあたためるべき陽の光がとどかないからな。でも、あそこにだけは光がある」
そして、そこには綾人がいる。おれたちはなにもいえずに、綾人がいる虚空を見あげる。
「とんだ竹取りの翁がふたりか」
おれがそういうと、士郎は自嘲的に笑った。
「これからどうするつもりだ」
「まだやるべきことがある」
この期におよんでも、まだやるべきことなど残っているのだろうか。
「残ったTDDユニットをかき集めて、ニライカナイに生まれたジュピターに避難する」
「できるのか?」
「わからん。しかし、やらねばならない。MU《ムウ》の世界がきたときのためだ。東京ジュピターとは逆に、こんどはおれたちがニライカナイ・ジュピターに逃げこむんだ」
「綾人が失敗するかもしれないんだぞ。あるいは、この世界に調律するかもしれない」
「わかっている。だからといって、やってはいけないって法はないだろう。ムダだとはわかっていても、最後の最後まであがきつづけるのが人間じゃないか?」
士郎は言葉を切り、また空の穴を見あげた。
おれは小さく吐息をつき、士郎とならんで空を見あげた。そのとき、ななめにのびた陽の光の中に、小さな青い点を見つけた。
「おい、見ろ」
あれは、功刀《くぬぎ》の飼っていた青い鳥だ。小さな体で、小さな翼を懸命にはばたかせ、ただひたすらに空の高みへと飛んでいく。ムリかもしれないとか、そんなことは考えず、ただ必死に飛びつづけていく。
おれたちは言葉もなく、その小さな力を凝視《みつ》めつづけた。
冷えた風が吹いてきた。士郎はもう一度、空の穴を凝視《みつ》めてつぶやいた。
「あそこで息子ががんばっているんだ。おれもあがいてみせるさ。あいつの弟にも手伝わせるよ。父子なんだからな」
そういう、やつの目には涙があった。父親の涙だった。
竹取りの翁だったのは、おれだけだったらしい。
おまえは父親になったようだな。亘理《わたり》士郎。
いや、神名士郎。ひさしぶりにそう呼ばせてもらうよ。
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断章7 神名麻弥
ラーゼフォンとベルゼフォンの歌はいまだにつづいている。
調律どころではない。このままではふたつの世界は完全に重なりあって、対消滅をおこすだろう。なのに、わたしはなにもできないでいる。
ただ座して、ふたりが調律へとむかうことを祈るしかない。
姉さん、ほんとうならわたしがそこにいて、綾人と戦いたかった。最愛の息子を抱きしめて、世界の創造のために息子とそしてこの身をさしだしたかった。
世界の王にして犠牲となるべき神々たちよ。わたしはただ、その行く末を見守ることしかできない。
と、三輪も九鬼もいなくなった〔指揮者の間〕のスクリーンに、雲のあいだを飛ぶ小さな青い光が映った。なんだろう、あれは。小さな翼でひたすらに空の高みへと昇りつめようとする小さなもの。あれはTERRA《テラ》のVTOLだ。拡大して見ると、コクピットに乗っていたのはあの娘だった。
ソファーで身を硬くしていた少女の姿と、わたしに銃をつきつけた彼女の姿が重なる。
わたしがただ座して祈ることしかしないというのに、あの娘はなにかをしようとしている。なにができるかとか、そんなことはなにも考えていない。ただ綾人に近づきたいという一心だけで行動している。
うるさい娘だ。わたしはヒラニプラの防衛システムを起動するべく手をのばしかけた。だが、その手を途中でとめ、もういちど、スクリーンのなかの懸命な彼女の姿を凝視《みつ》めた。
あがく。
それがいちばん近い言葉なのだろう。だけど、それだけではないなにかが、彼女の姿からはうかがえた。
ふと笑みがこぼれた。自嘲的な笑みだった。もう綾人にはわたしの声はとどかない。だけど、あの娘の言葉ならとどくだろう。
そう。
そうするのがいちばんだ。たぶん、それがわたしにできる唯一のことなのだ。
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断章8 紫東 遙
エーリアルのエンジンが悲鳴をあげている。警告ランプが点滅しっぱなしだけど、そんなものは無視する。かまうものか。とにかく上昇できればいいのよ。いまはただ、綾人のそばに行くことだけを考えるの。それだけ。行ったからどうなるってわけでもない。でも……でも、綾人のそばにいたいの!
雲海をつきぬけて、エーリアルは太陽の下にでた。
そこにはふたりの巨人がいた。歌うふたつの魂があった。
わたしはそのあいだに割ってはいるようにエーリアルの機首をむけた。
綾人に近づいていく。どんどん。どんどん。
とうとうかれの顔がまぢかに見えた。
喉の奥にきらめく歌も見えた。
そして、ラーゼフォンはもうひとりの巨人にむかって歌を放った。
わたしが軸線上にいるのにも気づかずに。
すべてが綾人の歌声に溶けていく。
最後の瞬間、わたしはかれの名をさけび、そして、ありったけの微笑みをむけた。
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2
ぼくの目の前で、遙が乗った機体が光となって散った。
頭の中が真っ白になった。
脳天をつきぬけるような痛みが全身を走った。これは肉体の痛みじゃない。胸がはりさける痛みだ。
背中の翼がざわざわと広がっていく。
そして、ぼくはさけんだ。
遙の名前を天空にむかってさけんだ。
ヒラニプラが崩壊していく。
その下の地面も崩壊していく。
壊れてしまえばいい。なくなってしまえばいい。遙のいない世界に、なんの意味があるっていうんだ。
ぼくは世界の破壊王となる。
いちど、歌ったことのある歌を口にしようとした。
そこをベルゼフォンの歌にとらえられた。翼ももげよとばかりに歌圧がのしかかってくる。ベルゼフォンがぼくの両腕をつかみ、体ごとヒラニプラにたたきつけた。
至近距離で歌をぶちこんでやる。
ベルゼフォンの顔が砕けた。だけど、それはすぐに修復され、新たな歌がこんどはぼくの腕を吹き飛ばした。腕ぐらいすぐにはやしてやるよ。
ぼくたちはつかみあって歌いあった。
ピアノの上の砂時計は、青い砂を落としている。おれはそれを見ながら、静かに久遠にいった。
「MU《ムウ》の世界を創ろう。おれの傷つかない世界を創ろう」
「わかったわ」
久遠はうなずくと、ゆっくり立ちあがり、おれの目をのぞきこんだ。
「だけど、ほんとうにそれでいいの?」
真摯な瞳に、思わず視線をそらす。
「もうでてきなさい。自分の作った鳥籠から。知ってもいいの。知ろうとしていいのよ」
「いやだ。外は知らなくていいことばかりだ。苦しむだけじゃないか。傷つくだけじゃないか」
「受けいれなさい」
久遠がやさしく、だけど、きっぱりといった。
「自分を、他人を、周囲を世界を感じて」
そういいながら、久遠はおれを抱きしめた。ふわりとしたあたたかさに包まれた。
ぼくは激痛に身をよじった。久遠の歌がぼくの胸を砕いた。何度も、何度も。それでもラーゼフォンの腕はよみがえり、また久遠に打ち砕かれる。ぼくは永遠につづく苦痛の罠にはまっていた。
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断章9 弐神譲二《ふたがみじょうじ》
教会をのぞくと、こりゃまたびっくりだ。財団の親衛隊ってやつらは死んでるわ、一色は死んでるわ、如月博士と七森小夜子も死んでるわ、バーベム卿の果てまで死んでるじゃないか。ちょっとした死体見本市ってところだ。
その死体のあいだを、まるでなにごともなかったかのように金髪の魔女が歩いている。
ヘレナだ。いや、あの瞳はヘレナじゃない。バーベムだ。バーベムが乗りうつったんだ。
おれの猟犬の鼻がそう告げていた。
「いやあ、あなたの歩くあとには、人死にが多いですな。バーベム卿」
出てきたところに声をかけると、かつてヘレナと呼ばれた者はぞっとするほど冷たい微笑みをむけてきやがった。
「おぼえておきたまえ。それが歴史というものだよ」
へいへい、備忘録にでも書いときましょか。読みかえす時間が人類に残されてりゃ、の話だけどな。
「ひさしぶりだね、弐神くん。いや、十文字《ともじ》くんと呼べばいいかな」
「どちらでもお好きに。ところで、ひとつ教えちゃくれませんか。なんでまたゼフォン・システムは対にする必要があったんです。ひとつにしときゃあいいものを、対になんかするから話がここまでこんがらかったと思いませんか」
やっこさんの口元がバカにしきったようにゆがんだ。
「なぜ生物にオスとメスがあるか知っているかね」
「さあ、大学での専攻は経済人類学だったもので、そっちのほうはとんとうといんですよ」
「やれやれ、初等生物学の講義までしなければいけないのかね。いいかね、それまでの単性生殖生物は、増殖したところで自分の遺伝子の複製を作りつづけるだけだった。いわばクローンだな。ところがオスとメスが生まれ、たがいの遺伝子を交換するようになると、そこで思いもかけないことがおきたんだよ。進化が加速されたんだ。遺伝子の交換によって複雑性が生まれ、進化は加速され、いまのような生物世界ができあがった。それと同じことだよ」
「同じことっていわれましても……」
「わからないかね。単純に滅びゆくMU《ムウ》の世界をふたたび創りだすだけなら、ひとつでよかった。だが、わたしはその先を見たかったのだ。宇宙そのものを進化させたかったのだ」
宇宙そのものたあ、大きくでたな。まあ、何万年も体を継いで、きょうという日まで生きつづけてきた化け物のいいそうなことだ。
「で、そのゲームで世界はどう変わるんですかね」
「ヨロテオトルへ至ったあのふたりしだいだよ。わたしはただ、システムを造っただけだ」
は、とんだ言い草だぜ。
「まるで神さまのいいそうなことですね」
「そのとおりだよ。この世界はいま、わたしのシステムで動いている。その行きつく先を見とどけるのは、創造主の特権というものだろ?」
バーベムはそういって笑いやがった。凄絶な神の笑みってやつだ。
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断章10 紫東 遙
どこかで水のしたたり落ちる音がした。
目を覚ますと、わたしはベッドに横になっていた。
いったい、どうなっているんだろう。たしか、あのとき、わたしはラーゼフォンの放った歌にさらされて、エーリアルごと吹き飛ばされたと思ったのに……。なんで、こんなところにいるんだろう。だいたい、ここはどこなんだろう。
なつかしい匂いがする。これは綾人の匂いだ。
ハッと上体をおこして見まわすと、壁にはアイドルのポスターがかけられている。本棚には参考書やマンガ、そして美術書がならんでいる。本棚のとなりに、イーゼルがあった。イーゼルには描きかけの絵があった。おじさんの部屋でいちどは完成したあの絵だった。ここは綾人の部屋だ。
そして、おばさまがいた。
神名麻弥。東京総督府の長にして、世界に破滅をもたらした張本人。だけど、おばさまは室内にいるのになぜかコートを着こんで、寒そうに、さびしそうに立ちつくしていた。
「あなたがいなければよかった」
え?
「あなたがいなければ、あの子はここまで苦しまずにすんだのよ」
「ちがいます! わたしはただ……」
ただ、なんなのだろう。たしかにわたしがいなかったら、綾人はあれほど苦しまずにすんだのかもしれない。
「あの子を愛していたのは、わたしだけでよかったの。あの子に苦しみをあたえたのは、わたしの責任なの。あの子を作りだしてしまった、わたしの。だから、わたしはすべてをあたえるつもりだった。この世界のすべてを、あの子のために。……あの子の宿命をささえてあげられるのは、わたししかいないはずだった。なのに……」
山間の泉のように冷たく澄んだ瞳がむけられた。
「あの子は自分の世界を見つけてしまった。あなたがいる世界を。あなたとの世界を……。わたしは、もうあの子の苦しみをわかちあうことができないの。それはあの子が望まなかったから。……くやしいけれど、あの子がのぞんだのは……消したはずの遠い思い出」
ふっと心の中に、中学校の校庭が思いだされてきた。あそこから、すべてがはじまったのだ。
「さっさと行きなさい。そんなにあの子といっしょに苦しみたいんだったら、いっしょに苦しんであげて。それができるのはあなただけよ」
ふわりと幕が落ちるように、周囲の光景が変わった。綾人の部屋は消えさり、代わりにあらわれたのはどこまでもつづく荒野だった。
そのさびしい荒野の真ん中にたたずんでいるおばさまが、さびしげに微笑んだ。
「遙ちゃん。息子をたのみます」
それは慈愛に満ちた母親の言葉だった。やっぱり、おばさまは綾人を心の底から愛していたのだ。そして、わたしのこともゆるし、認めてくれたのだ。
「おばさま、わたし……」
おばさまは応えず、ただわたしのうしろを指さした。ふりむくと、さっきまではなかった建物がそびえていた。中学校だ。わたしと綾人がかよっていた思い出の場所だ。
まるでわたしの記憶から切りとられたように、それはそこに建っていた。
「急ぎなさい」
わたしはおばさまをもう一度、見た。いつのまにか距離がはなれ、おばさまはずいぶん小さくなったように見えた。
「ありがとう……。いってきます」
わたしは中学校にむかって走っていった。すべての出発点にむかって。
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3
おれは久遠に抱かれたままだった。
久遠の心臓の音が聞こえてくる。
静かな心臓の音だけが耳に響く。これがはじまりの音だ。すべてのはじまりの音だ。
その音になにかべつの音がまじる。なんだろう。どこかで聞いたことがある。記憶の水に指をひたすと、ある少女のイメージが浮かびあがってきた。
ああ、これは恵だ。恵の音だ。
ふわりとつかまえようとしたとたん、その音は微笑みながら指先から消えてしまった。
久遠の心臓の音だけが聞こえてくる。
と、またべつの音がまじった。恵かと思ったら、ちがうようだ。
これは朝比奈の音だ。胸がくしゃりと痛くなった。
つかまえようとしたとたん、その音は小さな喜びと悲しみを残して指先から消えてしまった。
久遠の心臓の音だけが聞こえてくる。
と、またべつの音がまじった。朝比奈かと思ったら、ちがうようだ。
これはエルフィさんの音だ。
つかまえようとしたとたん、その音はきっぱりといさぎよく指先から消えてしまった。
久遠の心臓の音だけが聞こえてくる。
と、またべつの音がまじった。エルフィさんかと思ったら、ちがうようだ。
これは八雲さんの音だ。
つかまえようとしたとたん、その音はやさしく指先から消えてしまった。
久遠の心臓の音だけが聞こえてくる。
と、またべつの音がまじった。八雲さんかと思ったら、ちがうようだ。
これは功刀《くぬぎ》さんの音だ。
つかまえようとしたとたん、その音は苦く指先から消えてしまった。
久遠の心臓の音だけが聞こえてくる。
と、またべつの音がまじった。功刀《くぬぎ》さんかと思ったら、ちがうようだ。
これは亘理《わたり》長官の音だ。
つかまえようとしたとたん、その音はなぜか奇妙になつかしい匂いを残して指先から消えてしまった。
久遠の心臓の音だけが聞こえてくる。
と、またべつの音がまじった。亘理《わたり》長官かと思ったら、ちがうようだ。
これは樹さんの音だ。
つかまえようとしたとたん、その音は悲しい微笑みをただよわせて指先から消えてしまった。
そうやって久遠の心臓の音にはつぎつぎといろいろな人の音がまじった。六道のおじさん、七森さん、四方田さん、五味さん、白ヘビ一色にヘレナ、弐神さんの音も聞こえた。いままでに会ったそのほかの人たちの音も聞こえた。クラスメート、学校の先生たち、熊ちゃん……おれがいまここにいるまでに会った人たちのすべての音が聞こえてきた。
ゆっくりと顔をあげ、久遠を見た。
「きみの胸には、いろんな人の音が響いてるんだね」
「いいえ、ちがうわ」
久遠は小さく首をふった。
「これはあなたの心臓の音。わたしはそれをそっと返してあげるだけ。ほら、こんどは自分で聞いてごらんなさい。いちばんだいじな音を」
久遠はおれの手をとると、おれの胸にあてさせた。掌に自分の心臓の音が聞こえてくる。
自分の心臓の音になにかの音がまじる。
なんだろう。いままで聞いた音のだれよりも強くはげしい音がする。それが強くなると同時に、おれの心臓の鼓動もはげしくなる。なんだろう。なんだろう。
ようやく、おれは思いだした。
この音は……遙だ。
胸がしめつけられた。苦しくなった。
コクピットの中で微笑みながら、おれの名を呼ぼうとしている彼女の顔が浮かんできた。
やっぱり、おふくろの世界を選ぼう。
そのとき、おれがいままでに耳にした音のすべてが、耳の奥に響きわたった。
わああああん――と響くそれは奇妙な美しさの余韻を残した。それを聞いて、おれはようやくわかった。
もういちど、時計を見る。おれの時間とおふくろの時間が表示されている。そのどちらかを選ぶしかないと思っていた。だけど、ちがった。
おれが選ぶべきは、おれたちの時間だったんだ。
そう思ったとたん、TERRA《テラ》の時計は消え、さっき遙さんがプレゼントにわたそうとしてくれた時計になった。時計はひとつの時間を刻んでる。おれたちの時間だ。
「そうだよね、久遠」
久遠がにっこりとうなずいた。
「だいじょうぶ。わたしにまかせて。そのかわり……やさしくしてね」
おれはすなおにうなずいた。
ぼくの体はもうぼろぼろだった。それでもベルゼフォンは攻撃の手をゆるめようとはしない。
彼女の翼がささえをうしなったように、ぼくにむかって降ろされた。と思ったら、その先端が針のようにするどくなる。両の手首に激痛が走った。針のような翼の先端でぼくの両腕はつらぬかれてしまった。そして、そのまま翼の力だけで、ベルゼフォンはぼくの体をもちあげた。
ぼくは反撃する力さえうしなっている。縫いとめられたまま、宙にたかだかとかかげられた。
ベルゼフォンの喉に歌がきらめいた。
やめてよ。もう苦しいよ。助けてよ。だけど、ぼくにはわかっていた。けっしてベルゼフォンが攻撃をあきらめようとしないのを。ぼくを殺すまでは。ぼくに殺されるまでは。
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4 ふたりの時間
気がつくと、さっきと部屋の雰囲気がちがっていた。西日はあたったままだけど、窓には遮蔽カーテンがかけられている。外側の黒は陽に焼けて茶色っぽくなっていて、内側の赤は毒々しいぐらいあざやかだ。くるまるとホコリくさい匂いがするやつだ。
おれがいるところは、どこの中学にでもありそうな音楽教室だった。チチと小さな声がしたかと思ったら、窓から青い小鳥が飛びこんできた。そして、そのまま教室を横切り、教壇のわきにあるアップライト・ピアノの上にとまった。ピアノの前では、髪の長い少女が曲を弾いている。どこかで見たことがあるうしろ姿だった。それに、この曲もどこかで聞いたことがあるような気がする。遠いむかしに、遠い場所で。
「それ、なんて曲だっけ」
思わず少女に声をかけてしまった。彼女は驚いたようにふりかえった。
その顔を見て、おれはすべてを思いだした。おふくろによって消しさられていたはずのすべてを。
「これは『カトゥンの定め』です」
そういうのがせいいっぱいだった。
おばさまにいわれるまま走りこんだ中学校は、しかし、だれもいなかった。走って、綾人の名を呼びつづけて、疲れきって音楽室にはいってきた。そして、ただ思い出のために「カトゥンの定め」を弾いていたのだ。そうしたら、だしぬけにうしろに綾人がいた。
綾人。わたしのだいじな男性《ひと》。もうはなしはしない。
遙。おれのだいじな女性《ひと》。もうはなしはしない。
「ようやくとりもどしたよ。ぼく自身を。そして、きみを」
「綾人……」
おれは遙を思いっきり抱きしめた。もう二度とはなすもんか。
わたしは綾人に抱きしめられた。わたしもかれを抱きしめた。
そして、おれたちは口づけをした。
そして、わたしたちは口づけをかわした。世界がおわるなら、いまこの瞬間におわってくれればいいのにと思った。
世界が終わるなら、いまこの瞬間に終わればいい。そして、おれたちの時間を創りだそう。ほら、ふたりの心臓の音が重なっていく。これが真実の心臓の音なんだ。
ぼくの手が、のしかかろうとするベルゼフォンの肩をつかんだ。そして、すぐ目の前にあるベルゼフォンの顔面に、歌をたたきつけた。
予想もしていなかった反撃に、ベルゼフォンはよろめき、ぼくの体をはなした。
チャンスだ。ぼくは満身の力をこめて、ベルゼフォンにつかみかかった。そして、彼女をヒラニプラに押し倒した。彫像が彼女の体の下で崩れていく。
ベルゼフォンが歌おうとする。
ぼくも歌おうとする。
ぼくの背中の翼が、天空にむかって限りなくのびていった。まるで太陽にむかって想いを伝えようとでもするように果てしなく、どこまでものびていく。
ベルゼフォンの翼も、押しつけられた彼女の体の下から左右にのびたかと思うと、角度をつけて上空にむかって走っていった。
いつのまにかぼくたちの翼はからみあい、二本の黒と白の二重螺旋になって空にむかってのびていく。
そして、ふたつの翼のあいだに歌が走った。
ぼくが歌った。
久遠が歌った。
歌もまたたがいにからみあい、二重螺旋となった。
歌は白い光となって、かつてヒラニプラだったもの、かつて地球だったものを大きく包みこみはじめた。
そして、ぼくたちは死んだ。
たがいに殺しあった。
たがいに愛しあった。
世界を生むために。
世界を創造するために。
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断章11 弐神譲二
とうとうはじまりやがったか。
空をおおうMU《ムウ》の空中都市にぽっかりと開いた穴に光が走ったかと思ったら、白い球体がひろがりはじめた。
それが歌であることは、見ただけでわかった。歓喜の歌だ。ベートーベンさんには悪いが、あんたの作った曲の何倍もすごそうだぜ、あっちは。
空中都市はつぎつぎとその中に呑みこまれていく。ここが呑みこまれちまうのも、時間の問題だろう。だけど、なぜか少しもイヤな感じはしない。
イヤだったのは、バーベムの笑い声だった。
「すばらしい」
やっこさんときたら、恍惚としてその光景を見あげていやがる。
「これがわたしの見たかったものだ。わたしが造ったものが、世界を創りあげていく」
虫酸が走るぜ。あんたのせいで、たくさんの涙が流れたってのに。
「そうですか。じゃあ、さぞかし満足でしょうね」
おれは懐から銃をひきぬいて、世界が滅んでまた創られるってのに歓喜にふるえていやがる野郎の背中にむけた。
そして、引き金をひいた。
全世界をおおいつくそうとする歓喜の歌に、かわいた銃声がまじった。やれやれ、おれときたら、最後まで無粋なやつだったぜ。
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断章12 如月久遠
「むかあし、むかしな、あだんとえわから数えて何代も世をへたあと、世の中は乱れおったそうじゃ。ひとびとは大臼《だいうす》さあのごたいせつも忘れ、ひいですも忘れてしまったんだと。大臼さあは、そりゃあおなげきになったんじゃけど、どうにもならんから、とうとうひとを滅ぼそうとしたんじゃと。だけど、みてりき、はてりきゆう母子だけはひいですを忘れず、日々のおこないも正しかったで、あんじょさまをさしつかわされてお告げをくだされた。みてりき、はてりき母子はあんじょさまにいわれたとおり、桶舟を作ったそうじゃ。すると雨が七日七夜ふりつづき、世のひとびとをすべて流してしまったそうじゃ。雨はやんだが、みてりき、はてりきのまわりは水ばかりじゃった。ほんでの、みてりきが懐から鳩を空にはなったんだと。すると、鳩は枝を一本くわえてもどってきた。みてりき、はてりきは鳩に導かれるままに桶舟をこいで、この根来の島についたそうじゃ。そして、この母子からいまの世のすべての人が生まれたっちゅうことだ」
島のおばあさんから聞いた昔話です。迫害から逃れたきりしたんたちが作りだした伝説だったのでしょう。まるでその話とおなじように、いま、地球は新しい美しい星に生まれ変わろうとしています。「MU《ムウ》」も「地球」もない、ただひとつの地球として。昔話ですべての罪が洪水に押し流されて清められたように、いま地球は白い卵に包まれて浄化されています。創ったのは、綾人とわたくしです。ラーゼフォンとベルゼフォンです。ふたりの歌が織りあげられ、卵となって、愛をもって星のすべてを包みました。
そこから生まれてくるのは、ふたりの世界です。
わたくしと綾人の。綾人と遙の。兄さまと小夜子の。仁とミチルの。総一とホタルの。そして、多くの対なるものたちのための世界が、いま生まれようとしています。
待ちましょう。すべてが新しく生まれてくるその瞬間を。
寛容と調和と融合と、そして光は無限の歓喜に包まれ、かくして世は歌に満つ。
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最終楽章
窓から五重の塔が見える小さな公団住宅の一室に、若い女の声が聞こえる。
「そっちも元気にしてる? はいはい、メグのその声聞けばわかるわよ」
天井からさがっているガラガラも、暑さにうなだれたように止まっている。でも、その下にいるくせッ毛の赤ん坊は、ベビーサークルの中で静かに眠っていた。
「さすがに根来島ほど暑くないけどね、盆地じゃない、かなりキツい暑さよ。クーラー使いたいけど、ほら、うち、赤ちゃんいるじゃない。あんまり使いたくないのよね」
赤ん坊は眠りつづけている。なにを夢見ているのか。世界をか。
「久遠は元気よ。元気すぎてこまっちゃうぐらい」
赤ん坊が眠るサークルからは、せまい室内が全部見わたせる。二間つづきの、いかにも若夫婦がつましく住みそうな部屋だ。キッチンに立った若い女はさきほどから携帯で話しつづけている。
「えーっ、なに。またくる気なの? なによ、そのお義兄さん、ひとりじめって。……ほっといてよ。わたしはもう美嶋の人間じゃないんだし。……このあいだは学会だったんだから。あの人も、もう助教授になるんだし」
その言葉を裏づけるように、夫の本棚には考古学関係の本がならんでいた。夫は父親の影響もあって、考古学の道を選んでいた。中学時代の熊沢という恩師のおかげで、趣味で描く絵だけはつづけているようだ。いまも絵筆をとって、なにかの絵を熱心に描きつづけている。
夫はやがて静かに絵筆をおいた。
満足そうに絵のできあがりをながめている。どうやら完成したらしい。
「できたのね?」
ようやく電話が終わった妻が、かれのうしろから絵をのぞきこんだ。
「ああ。長かった」
妻は、夫の作品の完成をよろこび、にっこりと微笑んだ。
「おめでとう」
目をさましたのか、ベビーサークルの中の赤ん坊も、うれしそうな声をあげた。
「あ、ほら、久遠もおめでとうって」
妻は幸せそうに娘を見やり、それから夫のかたわらに腰をおろした。
「ねえ」
「なんだい」
甘やかな夫婦のやりとりが、まだ絵の具もかわききっていない絵にむけられる。
「まえから訊こうと思ってたんだけど、この女の子だれなの?」
そういいながら夫を背中から抱きしめる。夫は妻の手に、やさしく自分の手を重ね、静かに微笑む。
「知ってるくせに」
「もう一度、聞かせて」
「この娘はね……」
夫は自分が描きあげたばかりの絵に目をやった。
岬に立つ黄色い服の少女が、こちらに背をむけ風に髪をなびかせながら、遠い海の彼方を凝視《みつ》めている絵だった。
岬に立つ黄色い服の少女が、こちらに背をむけ風に髪をなびかせながら、遠い海の彼方を凝視《みつ》めている。そして、ひとりの少年が浜辺の岩に腰をかけ、スケッチブックに彼女のうしろ姿を描きつづけている。
少年は彼女をふくむすべての風景があまりにも美しかったから、思わずその場でスケッチをはじめたのだ。かれはいまこの一瞬を紙の上にとどめようと、熱心に鉛筆を走らせる。
顔を紙からあげると、少女はいつのまにか、こちらを見て微笑んでいた。少年は気まずさに頬を紅らめる。
「あ、ゴメン。じゃまするつもりはなかったんだ。きみがその……」
少年は恥ずかしそうに間をおいた。
「きみがあんまり絵になってたもんだから」
「絵?」
少女はうれしそうにいうと、岬の岩の上からステップをふむように軽々とおりてきた。潮風に黄色い服のスカートがわずかにふくらんだ。
「見せて」
少年は最初はためらっていたが、少女に微笑みをむけられ、スケッチブックをおずおずとさしだした。紙の上に描きとめられた自分の姿に、彼女は正直に感心の声をあげる。
「うまいのね」
少年は少女の感嘆の声に、頬を紅らめる。
「ありがとう。……きみ、ここのひと?」
「ううん、東京から」
「ぼくも東京から。オヤジが、この根来島の遺跡調査で、それの手伝い」
「伯父もそうです」
それを聞いた少年はちょっとおどろいたように、彼女を見た。
「あ、もしかして、六道さんの姪子さんって……きみ?」
「ええ」
少女はいぶかしげに答える。自分のことを知っている風な少年を不思議そうに見る。それで少年は、ようやく自分がまだ名前さえ告げていなかったことに気づく。
「あ、ゴメン。ぼく、綾人。神名綾人です」
「わたし、美嶋。美嶋遙です」
少女はにっこりと微笑んだ。
そして、ふたりは出会った。
[#改ページ]
もうひとつのCODA
少女がひとり、岬に立っている。はるか水平線からの波が岬に寄せてはくだけ、くだけては寄せてくる。彼女は潮風に亜麻色の髪を梳かせ、服の裾をなびかせている。
彼女にはいっさいの記憶というものがない。名前さえ思いだせない。自分がどんな生まれだったのかも、だれなのかもわからない。ただわずかに印象めいて、なにかの使命があったような感じがあり、またある少年に深くかかわっていたような気がする。そのふたつしか、思い出と呼べるようなものはなかった。人の世よりも長く生きてきたような気もする。でも、それは確信ではない。
以前の自分がまったく思いだせないまま、気がつくとここにいた。ふりかえっても、そこはだれもいない浜辺だった。自分が何者か教えてくれるものはだれもいない。
そして、彼女は服を脱ぎはじめた。突如としてその黄色い服が、自分の背負ってきた重荷のように感じたからだ。世界の調律にかかわったことは、すべて過去のことだ。いま、彼女は限りある生を生きるために、生まれたままの姿になる。服を脱いだ少女は、まぶしそうに太陽を見あげた。あたたかな光にむかって指をのばした。
「いま、わたしは生まれた」
[#改ページ]
あとがき 大野木寛
ラーゼフォン小説版もとうとう最終巻をむかえることとなりました。これもひとえに読者のみなさまのおかげであり、同時にわたしの努力の結果であります。あっはっは。
小説版はTVシリーズとちょっと変えた部分がある。四巻目読むと、ああ、ここらへんがちょこっとちがうのね、と思うだろう。
この最終巻は、またTVシリーズに近い形でまとめようとしていたのだが、なんとなく少し変えてしまった。設定的にもTVシリーズとは少しちがっている。
ま、これもこれでラーゼフォン。多元宇宙のできごとですから、あはは、と笑って許してね。
しかし、まあ、ようやくここまでこぎつけたかと思うと、ほんと感無量ってやつだ。
二ヶ月ごとにやってくる〆切りにひいひい泣いて、そのたんびに編集さんを怒らせてた。ひとつの〆切をあげたと思ったら、あっというまにつぎの〆切りがくる。
四巻のあとがきのケツに「あっというまに時間は流れていく。つぎの一年が、読者の方々にとっていい年でありますように」なんて書いたと思ったら、もう新年だぜ。やんなっちゃうよなあ。
ああ、東京ジュピターみたいに時間が遅くなったらいいのに、なんてずぼらなことを考えちゃう。って、ちょっとまてよ。東京ジュピターにはいってたとしても、その時間が遅いって思うのは、外から見た場合であって、中では時間が遅いかどうかなんて変わらないんじゃん。
結局、東京ジュピターに入ったところで、仕事のできる量は変わらない。むしろ外から見たら、よけい遅筆になってるってわけだ。
くそー、フィクションの世界でも物書きはやっぱり〆切りに苦しめられるんだなあ。
でもまあ、おれはもうこれ以上、少なくともラーゼフォンの〆切りに泣くことはない。なぜなら、これは最終巻だからだ。
ほんとにこれで最後だ。読者の方々もおもいっきり楽しんでほしい。
追記:末尾ではありますが、毎度、〆切のたびに編集部の方々にはご迷惑をおかけいたしました。とくにこの五巻目に関しては、編集部ならびに関係者各位に多大なるご迷惑をおかけしたと思っております。
この大野木寛、七重の膝を八重に折って、伏してあやまりまするぅ。
[#改ページ]
書名:ラーゼフォン 5
著者名:[著]大野木寛 [原作]BONES・出渕裕
初版発行:2003年2月28日
発行所:株式会社メディアファクトリー
住所:東京都中央区銀座8-4-17
電話:(0570)002-001/(03)5469-4760(編集)