ラーゼフォン 4
[著]大野木寛 [原作]BONES・出渕裕
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第一章 迷宮への帰還
第二章 蒼き血の絆
第三章 ブルーフレンド
第四章 綾なす人の戦い
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第一章 迷宮への帰還
1
ひさしぶりにみんなで渋谷に出た。人の波にもまれるようにして歩かなきゃならない。
「こっち、こっち」
センター街に行きそうになるおれと守《まもる》を、朝比奈《あさひな》が呼びとめる。
「だってよう、ハンズ行くなら、こっち通っていったっていいじゃん」
「きょうは109《いちまるきゅう》だっていったじゃない」
朝比奈は守の頭をこづいた。
「あー、そうだった。そうだった。行こうぜ、綾人《あやと》」
ようするに朝比奈のお買い物のおつきあいだ。なんでおれまでついていかなきゃならないんだろ。ファッションなんて、それほど興味がない。おふくろが買ってくれるものを、だまって着ているだけだ。
109でも、人の波にもまれるようにして店から店へ。朝比奈はあーでもない、こーでもないと色々探している。
「おー、これいいじゃん」
守が大胆な水着を見つけて、奇声をあげた。
「これにしろよ」
「水着買いにきたんじゃないの」
「いーじゃん、夏なんだからさあ、新しい水着買ったって。……綾人、おまえも見たいよなあ。浩子が新しい水着買ったら、みんなでとしまえんでも行こうぜ」
おれにふるなって。
「綾人くん、こまってるじゃないの。それに……」
朝比奈が声をひそめて守になにごとかささやいている。声は聞こえないけど、お腹を押さえるようなしぐさでわかる。おれのアザのことをいってるんだ。ま、いいけどね、と視線をそらしたとたん、星形が目に飛びこんできた。
ど真ん中に大胆に黄色い星の形をデザインした水着だった。黄色い星……。どっかで見たことあるような気がする。服についていたんじゃなかったっけ? だれの服だ?
「おいおい、神名《かみな》くん」
守がおれの肩に手をかけてきた。
「穴があくみたいに水着をながめてるなんて、大胆じゃないか」
「ち、ちがうよ」
あわてて首をふる。水着を見ていたわけじゃないんだ。でも、守は星をあしらった水着をしげしげとながめてから、眉をひそめた。
「おまえの趣味をどうこうする気はないけどさあ。センスがあるんだか、ないんだかわかんねえよなあ。こんなデッカイ星つけてどうすんだよ。……ほら、あの、なんだっけ」
守はなにかを思いだそうとしているようだ。やっぱり、こいつも見たことがあるんだろうか。
「だれかの服についてた?」
「そうだよ。おまえも知ってんだろ。ほら、あれだよ。あれ! オバQだ。ドロンパの腹についてたろ、黄色い星がさあ」
「オバQなんて、パパの世代じゃないの。なんで、あんたが知ってんのよ」
「おやじが大事にしてんだよ、オバQのマンガ」
くだらないことで、じゃれあうように言いあらそっているふたりの横で、おれは小さくため息をついた。マンガなんかじゃない。自信はないけど、実際にあったことなんだ。懸命に思いだそうとすると、なにかつかみかけたような気がした。潮の香りがしてたような気がする。どこかの海岸だろうか。どこの海岸?
そこまで思いだしかけたとき、守がバンと背中をたたいた。
「さ、アイスでも食って帰ろうぜ」
指先につかみかけていた想い出が、小さな泡のようにはじけて消えた。もうどこにもない。あれはなんだったんだろう。ここ何年も海なんか行ってないのに、どうして潮の香りがしたんだろう。
そのあとセンター街でアイスを買って、道端で食べた。
「しっかし、あっちいなあ」
「八月だから、しゃあないじゃん。きのうも、そういってたぞ」
「だってえ、あっついんだも〜ん」
「おまえが近づいてくるだけで、熱気がくるよ。しっし、むこう行けっての」
「そんなに冷たくしなくたっていいじゃないのー」
守はふざけて色っぽい声をだして、おれにしなだれかかってきた。
「やめろー。汗くせえんだよ。抱きつくなっての」
「あらあ、イヤよ、イヤよも好きのうちってね」
「男同士でなにやってんのよ。気色悪いわね」
「妬ける? 妬けちゃうよねえ、浩子ちゃ〜ん」
「だーれが」
朝比奈はバカにしたような一瞥を守にくれて、立ちあがった。
「帰るのかよ」
不満そうに守が見あげる。
「ねえ、久遠《くおん》のお見舞い行かない?」
朝比奈が急に思いついたようにいった。
久遠ってだれだっけ?
久遠? 久遠……。久遠……。ああ、そうだ。彼女は交通事故で意識不明の重体だった。かわいそうに。あんなかわいい娘なのに。彼女が交通事故にあったって聞いたときは、みんな絶句した。そのあとで大騒ぎになったんだっけ。……なんですぐに思いだせないんだろう。
「いいよ」
おれも立ちあがったけど、守はまだ座りこんでいる。
「どうしたのよ」
「なんか気がすすまねえなあ。急に思いついてお見舞いってのも、なんだかなあと思うぜ」
「いいじゃない。きっと久遠も喜ぶよ」
「絶対安静だろ」
「お見舞いぐらいできるでしょ」
「おれ、あの病院の臭いって嫌いなんだよね」
「あっそう。じゃあ、神名くんと行くから」
朝比奈はそういって、おれの腕に腕をからませてきた。ち、ちょっとまてよ。
「あんたはそこで根が生えたみたいに、ずーっと座ってれば?」
「わあったよ。行くよ。行きゃあいいんだろ」
守は、うざってえなあという顔で立ちあがった。
久遠の入院先は、渋谷からバスで一本の世田谷公園のすぐそばにある。
守じゃないけど、病院の臭いは好きになれない。消毒薬の匂いと薬の匂い。それにまじって、なにか別の匂いがある。死の臭い、病の臭いとでもいったらいいのかな、そんな感じのやつが。そして、久遠の病室にはもっとちがう匂いがした。
「なんだろ」
守が鼻をひくつかせる。
「お見舞いのフルーツが腐ってるのかな」
そうだ。熟しきったくだものみたいな濃い匂いだ。
「久遠。元気にしてた?」
朝比奈がやさしく声をかける。たったひとつ置かれたベッドのまわりには、生命維持装置なのかいろんな機械が置かれていて、そこからのびたチューブが久遠の体につながれている。
如月久遠《きさらぎくおん》。いつか屋上でヴァイオリンを弾いていたっけ。曲はたしか「ダッタン人の踊り」だったよな。「らら」とかいうのが口ぐせの、天然ボケ系キャラだった。それがいまじゃ、ベッドに寝たきり。なんか信じらんない。ついこのあいだまで元気に笑ってた人間が、いまこうして表情もなく、生きているのか死んでいるのかもはっきりせずに横たわっているなんて。目で見ても実感がわかない。
「ほら、あなたの好きなユリの花よ」
そういいながら、朝比奈は花束を彼女に見せてやった。
「ムダだろ」
守がそっけない言い方をする。
「意識不明なんだから、そんなのわかるはずないじゃないか」
「もう、守はどうしてそうなのよ」
朝比奈が怒ってふりかえる。
「週刊誌の記事にもあるじゃないの。本人は意識不明の重体のはずなのに、魂がさまよいでて、まわりでおきたことが全部わかってたって」
「へえ、そうですか。お〜い、久遠」
守は天井にむかって声をかけた。
「おまえ、期末受けられなくて、留年決定な」
「バカ」
朝比奈が守の頭をたたく。
「いってえなあ」
「ふたりともやめろよ」
しかたなく、わってはいった。
「ふざけにきたんじゃないだろ。久遠のお見舞いじゃないか」
ふたりはほら、怒られちゃったじゃないか、と顔を見あわせた。
「水いれてくるから。朝比奈は花束の包み解いておいてくれよ」
おれはそういってベッドサイドに置いてある花瓶をつかんで廊下に出た。洗面所どっちかな。見まわしてみたけど、それらしい表示が見あたらない。だれかに訊こうにも、人影さえない。まあ、いいか。この階のどっかにあるだろ。おれは花瓶をかかえて歩きだした。
歩きながら、ふと花瓶をのぞきこむ。底は乾ききっていてホコリさえついている。もう長いこと使われていないみたいだ。だれもお見舞い来なかったのかな。久遠はクラスでも人気者だったから、そんなこと考えにくいし……。って、いつから彼女は入院してるんだよ。
おれはびっくりして足をとめた。
わからなかった。いつから久遠が入院してるのか、まったくおぼえていないんだ。そんなことってあるだろうか。事故にあったって聞いたとき、クラスメートが大騒ぎしたのはおぼえてるのに、いつ事故にあって、いつ入院したのかまったくおぼえていないなんて。きのうだったんだろうか、それとも一ヶ月以上前だったのか。
そのときだった。立ちどまっているおれの視界の隅を黄色い色が流れた。
顔をあげると、廊下の角に黄色い服の少女が消えていった。あの娘。どっかで見たことがある。
「ねえ、ちょっと!」
おれは思わずかけだした。廊下の角を曲がったけど、もう彼女の姿はない。見まちがいだったかと、あたりを見まわした。すると、いまさっきおれが曲がった角のところに彼女がいた。
「ねえ、きみ!」
大声をだしたけど、少女は聞こえなかったのか、また角を曲がってしまった。あわてて追いかける。角を曲がったとたん、朝比奈と正面衝突しそうになった。
「うわ、びっくりした」
「なあ、いま、黄色い服の女の子がこっちに来なかった?」
「え?」
朝比奈は自分が来たほうをふりかえった。いっしょになって見てみるが、それらしい人影はどこにもない。
「夢だったのかな……」
「だいじょうぶ? 疲れてるみたいよ」
「ああ、だいじょうぶだよ」
といいながら、ドッと疲れを感じた。思いだせないこと、黄色い服の少女。そうしたものが頭の中を渦巻いていた。
「ちょっと座ろ。ね」
うながされるまま、近くにあるベンチに腰をおろす。
「どうしたの? 水いれてくるって出てったきりもどってこないから、心配になって探しにきてみたら、顔色変えて廊下走ってくるんだもん」
おれは小さく首をふる。
「だいじょうぶだよ」
「そう」
朝比奈はちょっとさびしそうに眉を動かした。
「なあ」
「なに?」
「久遠が入院したのっていつだったっけ」
「やだ。もう忘れちゃったの? 先々週の金曜じゃない」
そういわれたとたん、パズルの最後のピースがはまったように記憶がよみがえってきた。そうだ。一限の英語の教師がなかなか来ないんで騒いでいたら、血相変えた担任が飛びこんできて、如月久遠さんが事故にあいましたっていって、大騒ぎになったんだっけ。そうだよ。なんで、そんなこと忘れてたんだろ。……だけど、先々週の金曜だったら、おれがかかえている空の花瓶はなんだ? きょうまでだれもお見舞いに来なかったのか?
「ねえ、神名くん……」
心配そうに朝比奈が、おれの顔をのぞきこんできた。
「朝比奈。……きょう、なんかヘンなんだ。久遠が入院したときのことも思いだせなくなっちゃうし……。きみにいわれるまで、ほんと忘れてたんだ」
朝比奈は手を口にあてて、目を見開いた。
「そんな顔すんなよ」
力ない笑いしかでてこない。
「頭がおかしくなったわけじゃないよ。たぶん……」
「ちがうの」
彼女はあわてて首をふった。
「わたしにも似たような経験があるから」
「え?」
「こないだから、神名くんに訊こう訊こうって思ってたんだけど。ねえ、中学のころのこと、おぼえてる?」
「おぼえてるよ。あったりまえだろ」
「そっか。……なんかさ、わたし、中学のころのことって、断片的にしか思いだせないんだ。冬の朝、登校したばっかりだとスチームがキン、カンとか鳴ることとか、数学の前田がいっつもすだれ頭気にしてたとかさ、ほんとどうでもいい細かいことばっか。だけど、ちゃんと思いだそうとすると、するりって指先から逃げてく感じなのよね。……こんなんじゃさあ、中学時代、神名くんとわたしがつきあってたとしても、忘れてるかもね」
そういうと彼女は、おれを見て微笑んだ。いたずらっぽいけど、半分は本気の顔だった。
「なにやってんだよ!」
大声にふりむくと、廊下のむこうに怒った守が立っていた。そのまま大股でやってくる。
「ったく、綾人は出てったきり帰ってこないし、浩子まで帰ってこないから、二次遭難でもしたのかと思えば、おれの目を盗んでいちゃついてやがる」
「ちがうのよ」
「どうちがうんだ」
「ごめん。おれが気分悪くなっちゃってさ」
立ちあがろうとして、足元がふらつき、くずおれるようにベンチにまた座りこんでしまった。
「おい、だいじょうぶかよ」
さすがに守も心配そうにしてくれた。演技でやったわけじゃない。ほんとうは立ちあがりかけたとき、窓のむこうを見たからだ。窓のむこうに病院の別棟が見える。その二階ほど下の廊下に、あの娘がいた。黄色い服を着た少女は、こちらを見あげて微笑みを浮かべていた。それを見たとたん、体の力がぬけてしまったのだ。
彼女は知っている。このへんてこりんな事態がどういう意味をもっているかを。
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断章1 八雲総一
予想はしていたことだが、われわれのすべての追撃をふりはらって、ラーゼフォンは東京ジュピターに突入してしまった。だから、こうやってあわてて善後策を協議しなければならない。
「B―3マニュアルを作成したのは、TERRA《テラ》作戦司令部だと理解しているが」
口火を切ったのは一色《いっしき》監察官殿だった。さすがは監察官。細かい責任問題を追及しようっていうのか。
「そのマニュアルに不備があったために、今回のような事態が出来《しゅったい》したのではないのかね」
「ラーゼフォンの性能は、マニュアル作成時の想定以上だったということです。それに、お言葉を返すようですが、B―3マニュアルは国連統轄部の正式な承認をえたものです」
いまは、細かい責任問題をうんぬんしてるときじゃないだろ。いや、そんなこともわからずに話を進めるような男じゃない。なにかがあるはずだ。
「むしろ、スクランブルがかかっているというのに、ヴァーミリオン発進を中止させた財団に問題があるのではないですか?」
「それはちがいます」
ミス・ヘレナが冷たい目でこちらを見かえしてきた。
「ヴァーミリオンは昨日の習熟訓練の際に発見された故障部分を修理中でしたので、発進を見あわせていただきたいと申しあげただけです」
申しあげた? パイロットの生死には責任を負いかねるといわれたら、中止するしかないじゃないか。
「それに搭載されているTDDユニットは、最終的な調整がすんでいません。絶対障壁突破実験をおこなう予定は、いまのところありませんでしたので」
TDDユニットは、オーヴァーロード作戦で実証済みのシステムだ。それなのに、ヴァーミリオンで追撃をさせたくない理由がなにかあるのだろうか。そのことを考えて間をおいてしまったぼくに対し、功刀《くぬぎ》司令がとがめるような視線をむけてから、おもむろに口を開いた。
「しかし、いずれは突破実験をおこなわなければならない。だとしたら、それがいまであってはいけないのですかな」
功刀《くぬぎ》司令の言葉に、ミス・ヘレナの冷たい表情がゆらいだ。
「修理が終わりしだい、ただちに突破実験をおこないます。よろしいですな」
「わかりました」
彼女もそう答えるしかないだろう。司令はうなずき、今度は遙《はるか》さんに目をやった。彼女はぼんやりと、どこか投げやりな感じで椅子に座っている。
「情報部としては、今回の件は予知できなかったのかね」
遙さんは、司令の言葉も耳にはいっていないようだ。まずいなあ。これじゃあ、監察官がなにかいいだしたときの掩護射撃は、期待できそうにないや。
「紫東《しとう》大尉。今回の件は予知できなかったのかね」
うながされて、遙さんはあわてて首をめぐらせた。ようやく自分がどこにいるか思いだしたようだった。
「は? あ、いえ、こちらの押さえている情報では、神名綾人がエイリアン・アーテフィクト・クラス5Aを奪取したうえで脱走するなどということは、想定外でした」
「想定外か。副司令もお使いになる便利な言葉だな」
一色監察官が皮肉をきかせてつぶやいた。
「では、情報部としての提言は?」
「こちらとしても、すみやかにヴァーミリオンを作戦投入することを提言します。ラーゼフォン、いえ、ムーリアン・アーテフィクト・クラス5A。およびその操縦者としての神名綾人の身柄の確保は、われわれの最重要課題のひとつですから」
もちろん、遙さんのいう「われわれ」には、TERRA《テラ》と財団の両方がふくまれている。そのことはミス・ヘレナにはちゃんと伝わったようだ。
「財団は」
とわざわざ断りをいれたうえで、こういった。
「ムーリアン・アーテフィクト・クラス5Aの奪還には、もちろん全面的に協力します」
綾人くんに言及しなかったというのは、どういうことだろう。財団はかれには興味がないのだろうか。いや、そんなことはない。オーヴァーロード作戦の主眼は、かれの身柄確保にあったのだから。じゃあ、なぜ? あの作戦からきょうまでのあいだに、財団が方針を変えるようななにかがあったのだろうか。
「修理はどれくらいで終わるのですかな」
「十日近くかかります」
「長いですね」
司令が意図を見透かそうとするかのような目でミス・ヘレナを見た。
「根本的な修理が必要ですので」
「システムとしてずいぶんと不安定な兵器ですな」
「配備を強く要請したのはそちらではありませんか?」
ミス・ヘレナの目がいたずらっぽく光る。たしか亘理《わたり》長官がその配備をバーベム卿に直接願いでたという話だ。
「わかりました。総一《そういち》、十日後に奪還作戦を実行する。わかったな」
「はい」
司令の命令だけど、そんな短期間でどうやって立案しろっていうんだろう。これじゃあ、国連軍も自衛隊も協力してくれない。しかも当てにできる戦力はヴァーミリオン一機のみ。それでいて、オーヴァーロード作戦と同じ成果をあげなきゃならないなんて。作戦内容はたった一行ですみそうだ。「東京ジュピター内に侵入後、目標を捕捉し、これを奪取すべし、以上」。そんなの作戦なんていえない。でも、やらなきゃならないんだ。
「さて、今後の方針がいちおう立てられたわけだ。となると、今回の事件の責任はだれがとるのでしょうな」
一色監察官が冷笑するような目で、全員を見まわした。
「わたしとしても残念なことだが、この件を国連監察局に報告しないわけにはいかない。神名綾人は国連の最高機密を盗みだし、東京ジュピターに逃げこんだのだ。まあ、神名本人は第一級反逆罪として、それを許した者が、だれも処分されないというわけにはいかないでしょうな」
監察官は、意味ありげな視線で司令を見る。なるほど、B―3の不備を指摘したのは、このための前ふりだったのか。とうとう本領発揮してくるわけだ。しかし、司令はまったく相手にしなかった。
「では監察局に報告したまえ。わたしはいかなる処分もあまんじて受ける」
「ほう。覚悟がよろしいようだ」
「しかし、それは今作戦が終了した時点でのこと。現時点では、わたしが職務を遂行することがもっとも適切な判断だと思われる」
「なるほど。よろしいでしょう。でも、お忘れにならないように。ご自分の首が皮一枚でつながっているにすぎないということを。この作戦の成否いかんによっては、それが落ちることになる」
監察官は冷たく笑ったが、こまったことになった。司令のためにもこの作戦は成功してもらわないとならない。
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断章2 紫東 遙
疲れきって家にたどりついたのは、もう明け方近くになってからだった。情報部として意見をもとめられ、結局この一週間以上、司令センターに寝泊まりすることになってしまった。逆にその忙しさのおかげで、かれがいないという事実にむかいあわずにすんだともいえる。
母屋の玄関をはいると、つい階段のほうを見てしまう。「お帰りなさい」と、かれがいまにも階段をおりてきそうだ。それは幻想にすぎない。わかっていながら、その幻想を追うように、階段を登る。そして、かれの部屋の前に立った。
襖を開けると、かれの匂いがした。それを嗅いだとたん、わたしはその場にくずおれるようにうずくまってしまった。かれの匂い。主がいなくなったというのに、それだけはかれがいたときとおなじように漂い、わたしを包みこんでいる。
「ああ……」
ため息ににた嗚咽がもれる。わたしは何度かれを失えばいいんだろう。指からこぼれおちていくかれの姿を何度見ればいいんだろう。だけど、今度はちがう。今度はわたしが行かせてしまったのだ。泣いてすがることもせず、懇願もせず、行かせてしまったのだ。悔やんでもはじまらないとわかっているが、後悔が針のように胸をさす。
こうなることがわかっていながら、なぜあんなことを許してしまったんだろう。
かれの決意のほどがわかったから。というのは言い訳にすぎない。たとえそれがわかっていても、TERRA《テラ》情報部大尉としては絶対に行かせるべきではなかったし、紫東遙としてもひきとめるべきだったはずだ。もしあのとき、行かせなかったら、かれはわたしを拒否する目で見ただろう。そうされても、とめるべきだった……。
ちがう。これはかれにとって必要なことだったのだ。東京に行って、東京の真実を目にして、それが外とどうちがうのか現実に体験するべきなのだ。ここに居場所がないと思うなら、東京にそれを探すべきなのだ。たとえ、その結果がどうでようと、かれの選択にまかせるべきなのだ。
そう思って行かせた。
だけど……。頭ではわかっていたが、頬をぬらす涙をとめることはできない。
指先にからめとれそうなぐらい濃いかれの匂いの中で、わたしは自分を抱きしめて泣きつづけた。
くすりと笑う声が聞こえたような気がした。顔をあげると、描きかけの絵がイーゼルにかかっている。絵の中の描きかけの少女が笑ったの? まさか。凝視《みつ》めるわたしと、絵のあいだを静けさだけが通りすぎていった。崖から海を見ている黄色い服を着た少女の絵。かれはそれを完成することなく行ってしまった。ここにも、わたしのように見捨てられた女がいるというわけか。なんとなく、その暗喩がおかしくて笑いかけたが、笑みを形づくることなく唇のはしがふるえただけだった。
ふと見ると、机の上にかれの携帯と時計が置いてあった。かつてわたしのものだったTERRA《テラ》の時計だ。主から置き去りにされたそれは、ここと東京の時間を、わたしとかれのあいだの時間を残酷に刻みつづけている。こちらが六秒刻むたびに、むこうが一秒進む。刻一刻とはなれていく、ふたりの時間がそこにはあった。
「綾人……」
反射的に時計を握りしめた。もうかれの温もりはそこにはなく、ただ冷たい金属の感触しかない。その金属が熱くなってくる。それはわたしの涙が落ちるから。とめどなく濡らすから。わたしは時計を握りしめ、ただただ泣きつづけた。
ふと気がつくと、おじさんがうしろに立っていた。
「おじさん……」
あわてて涙をふいて立ちあがろうとしたら、おじさんは首をふってそれをとどめた。
「泣きたければ涙はふくな」
その一言にまた熱いものがこみあげてくる。
「人は泣かずに一生を過ごすことはできん。泣きたいときには泣けばいい。思いっきり泣くんだ」
「おじさん……」
わたしは思わず、おじさんの胸にすがりつき、声をあげて泣いた。ふりしぼる胸の苦しさをもって泣いた。おじさんはやさしく背中をなでながら、言葉をつづけた。
「かぐや姫を月にやってしまった竹取りの翁だったら、どうしたろうなあ。もし月に行けたら、行っていただろう。つれもどしにじゃない。月でかぐや姫が幸せにしているかどうかだけでも、見に行っていただろうな」
おじさんが麻弥を手放してから、彼女を育てた時間よりも長い時が流れた。そのあいだ、おじさんは彼女の幸せだけを願っていたんだ。竹取りの翁が月に行けなかったように、おじさんも東京には行けなかった。だけど、わたしは……。
「おじさん……わたし、やるべきことがあったわ」
「そうか。やるだけのことは、やるんだ。泣くのは、それからでもおそくない」
「うん。……ねえ、もしまた泣くようなことがあったら、おじさんの前で思いっきり泣いてもいい?」
「かまわんよ。涙が涸れるくらい泣くがいいさ」
「ありがとう」
今度こそ、わたしは涙をふいて立ちあがった。
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断章3 エルフィ・ハディヤット
ヴァーミリオンに乗りこもうと通路を歩いていると、ハンガーの前に紫東がいた。
「かれを連れもどしに行くんでしょ」
「いや。わたしの受けた命令はラーゼフォンおよび久遠の身柄の確保だけだ」
「かれのことは?」
「パイロットに関しては、その生死を問わない。抵抗した場合には射殺も許可されている」
さすがにそこまでの命令がでているとは思っていなかったのか、紫東は一瞬言葉につまった。
「だれが……。功刀《くぬぎ》司令がそんな命令をだしたの?」
「一色とかいう監察官だ。緊急事態における第なんとか条による監察官特権とからしい」
「あの人らしいわね……」
「命令は命令としても、おまえの希望にはそえないと思う」
「まだなにもいってないわ」
「防寒服を持って、決意しきった目をして立っているんだ。だれでもわかるだろう」
「そっか。……でも、つれてって」
「ヴァーミリオンは単座だ」
「構造的な隙間ならいくらでもあるわ。だから、こうやって防寒服を持ってきたんじゃない」
「その結果、どうなるかわかっていってるんだろうな。わたしは降格。おまえも重営倉行きだ」
「わかってるわ」
それだけだった。いつもの彼女なら、酔ったとき介抱してあげたのだれかしら、とかなんとか軽い口調でいうはずだった。それがないということは、よほど決心をかためてのことだろう。
「おまえは神名をつれもどしに行くのか」
「いいえ。かれが東京で幸せかどうか見に行くだけ」
「それでいいのか?」
「いいのよ」
「もし、わたしが命令を遂行しようとして神名が抵抗したら、おまえはどうする」
「もし、神名くんがそのとき幸せだったら、ためらわずにあなたを撃つわ」
ためらわずにあなたを撃つ、か。そこまでいわれたら、つれて行かざるをえないだろう。
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断章4 如月久遠
茫漠たる意識。かなわぬ想ひ。さらさるる、さらさるる。夢の時間、現実の時間。ここはどこ? わたしをのぞきこむ目。なつかしきかなその色、その深み。
「気がついて? 姉さん」
吾《あ》を姉と呼びし、そは何者。わたしを姉と呼べるのは、この世にただひとり。神名麻弥のみ。のみ。のみみみみみ。またバグかしら。シナプスの連携がうまくいっていない。
「ひさしぶりね」
そう。何十年ぶりだろう。おまえに会うのは。わたしが眠っているあいだに、おまえは大きくなってしまった。もはやソウシャにはなれぬ。
「そうよ。まちがいだったの。わたしたちがあそこに現れてしまったのは」
まちがい。過ち。誤り。ミス。いくら言葉をかさねたところで、おきてしまったことはもはやもどらない。
「おぼえている? MU《ムウ》の世界を」
断片的な記憶。音、歌、世界、密室的宇宙観、人が人であったころの記憶、滅んでしまったひとつの可能性。
「わたしはおぼえている。はっきりと。もしかしたら、その記憶がわたしたちのあいだを割いて、しかもまちがった時間にわたしたちを放りだしてしまったのかもしれない」
やもしれぬ。屋も痴《し》れぬ。わが魂はナーカルの兄弟たちによりて喚上《めさ》げたまい。なが魂もナーカルの兄弟たちによりて喚上げたまい。されど、ひとつよりなりしふたつはひとつにならず。あやまてり。あやまてり。
「お眠りなさい。目覚めたときには、きっとあなたもわたしのしたことがわかるはず。なんのためにこの世界を作りあげたか。それを思いだすわ」
そうかもしれませぬ。眠《ねぶ》りに落ちる人の夢は、さやけき、さやけき色を結びて、わが魂の奥津城《おくつき》に封じこめられた記憶をよびさますやもしれませぬ。あるいは血の色、憎しみの叫びをあげるやもしれませぬ。やもしれませぬ。麻弥の指先がわたしの唇にふれる。冷たい指先が、喉元に、胸に、そして、わたしの〔刻印〕の上をなでていく。
麻弥、麻弥、おまえにもあるはず。これと同じものが、おまえの腹にも。なぜなら、おまえも奏者だから。もはやオリンではなくなったとしても。
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2
翌日の放課後、部室に顔をだした。あいかわらず、コーヒーの匂いがする。
「おう、神名。きょうはなあ、イロカタイだ」
熊ちゃんがうれしそうに豆の種類を教えてくれた。一口飲んでみたけど、いつものようにおいしいとは思わなかった。香りもこくもない。これじゃあ、ただの苦いお湯だ。だけど、なんでそう思うんだろう。きのうまでは、これがひどくおいしいと思えたのに。
「ねえ、先生。キリマンジャロをさあ、酸味がなくなるぐらいまでローストして飲むとおいしいんだってさ。知ってた?」
「いや、知らんな。おまえ、どこでそんなことおぼえてきたんだ?」
どこだったろう。
「そういえば美大のこと、おかあさんには相談してみたのか」
「そういうこと気軽に話せる雰囲気じゃないんだよね、うちのおふくろ」
「じゃあ、どこへ行けっていうんだ? 医学部か?」
「なんか理数系に進めって感じ?」
「……って感じ、ねえ。どうも先生はそういう言葉づかいは嫌いだなあ」
熊ちゃんはそういって、頭をかいた。あれ? へんだぞ。こんな会話、いつかしたような気がする。
「これって前に話さなかったっけ。迷ったら絵を描け。絵は正直だぞとかなんとか、先生、そういってたよ」
「そうだったか? いかんなあ。物忘れがひどくなっちゃあ、もう歳だな」
熊ちゃんは笑って、かなり薄くなった頭をぺろりとなでた。
「とにかくまあ、将来のことはおまえ自身が決めることだな」
自分自身が決めること……。将来ってそうなんだろうか。まだなんか漠然としすぎていて、よくわからない。
そのあともしばらく熊ちゃんとバカ話をして、デッサンを軽くしてから、部室をあとにした。廊下を歩いていると、音楽室の前を通った。なぜかは知らないけど、ここを通りかかると、つい中をのぞいてしまう。音楽室にはだれもいなかった。
赤と黒の遮光カーテンが窓からの風に重そうにゆれている。その窓からさしこむ西日が、黒光りするピアノに紅く映りこんでいる。この光景を見ていると、なにかを思いだしそうになる。なにがあったんだろう。
なにがあったにしても、思いだせないんじゃしょうがない。おれは思いだせない記憶をそこに残して家路をたどった。
家に戻って自分の部屋でごろごろしていると、玄関のチャイムが鳴った。この鳴らし方はおふくろだ。ドアチェーンをはずすと、やっぱりおふくろだった。
「ただいま」
遅くまで営業しているスーパーで買い物をすませてきたらしい。重そうな袋をかかえていた。
「ごはんは?」
「まだ。でも、帰ってからパン食べたから」
「ごめんね。いま作るから」
おふくろはそういうなり、外出着のままエプロンをかけてキッチンに立った。すぐにいい匂いがキッチンからただよいだした。
「きょうはなに?」
「綾人の好きな中華風鳥の唐揚げと豆腐のそぼろあんかけよ」
このごろ、おふくろはよくおれの好物を作ってくれる。なんか急にやさしくなった感じがする。
「ねえ、ここ何日かちゃんとメシ作ってくれてるよね」
「皮肉?」
「ううん、そうじゃなくてさ、めずらしいなと思ってね」
「めずらしいかな。そうかもしれないわね。べつになにがどうってわけでもないんだけど」
「ま、いいや。かあさんの作ってくれる料理はいつもうまいから」
「お世辞いっても、なにもでてこないわよ」
なんかおふくろは上機嫌だ。そこへ電話がかかってきた。
「おれが出るよ」
電話は朝比奈からだった。
「なんだよ」
「なに怒ってるの?」
怒ってるつもりはなかったけど、めずらしく会話がはずみかけたところへかかってきたから、ちょっと声に険があったかもしれない。
「べつに。……なんか用?」
「たいしたことじゃないのよ。学校で話してもよかったんだけど、なんかチャンスがなかったから。……あのさ、きのう久遠のお見舞い行ったじゃない。そのとき、むかしのことがよく思いだせないって話したでしょ」
そういえばそんなこともあった。あのときは守が来たから、それ以上深くつっこむことはしなかった。
「ねえ、中学のころさあ、音楽室でなんかなかったっけ?」
その言葉が耳の奥にざらつく感覚をよびさました。音楽室……。西日があたるピアノ。西日に茶色っぽく変色してしまった遮光カーテンの黒。陽に当たらないので毒々しいまでに赤い内側。あのときだれかが弾いていた曲。曲名も旋律も思いだせないけど、印象だけはかすかに残っている。そして、ピアノの前の人影。あれはだれだったんだろう。
あれは……。
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断章5 紫東 遙
寒い。防寒着の前をあわせても、かなり寒い。わたしが乗っているからエルフィはむりな飛行はしないけど、もぐりこんだ点検用ハッチはもちろん冷暖房完備というわけじゃないから外の冷気が直接はいりこんでくる。
「まだ生きてるか?」
持ちこんだ無線機からエルフィの声が聞こえてきた。
「生きてるわ。それにしてもこの新車、乗り心地は悪いわね」
「無賃乗車のくせに文句が多いよ」
そのうえ、乗員以外の人間を乗りこませたとわかったら、命令違反、規定違反、その他で謹慎どころか降格もありえるだろう。それでもエルフィは乗せてくれた。彼女の友情には感謝しなきゃならない。
「なあ」
「なに?」
「おまえはほんとうにそれでいいのか? 神名をつれもどさなくて」
やめてよ。決心がにぶるようなこというのは。
「いいの。神名くんが東京で幸せだったら、それでいいの」
「だが、オーヴァーロード作戦は、あいつを東京の外につれてくるための作戦だったんだろ?」
「そうだけど……。TERRA《テラ》どころか、国連のうしろにバーベム財団がいるのは知ってるでしょ。あの作戦も財団の思惑からはじまったことなのよ」
「そうだったのか。……財団はあいつを東京からつれだして、なにをたくらんでたんだ?」
「さあ、それはわからないわ」
そうとしか答えようがない。財団の、バーベム卿の思惑がどこにあるかなど、だれにもわからないのだ。
「それがいまになって、ラーゼフォンの奪還だけを命じてきた。そこに財団の思惑がからんでるのか?」
「たぶんね。一色監察官からの命令だったんでしょ? かれ、財団の人間よ」
「そうだったのか」
おどろくと同時に、それでなにもかも納得できるといいたげな声だった。
「だとしたら、もうかれはおとなたちの思惑にふりまわされることはないでしょ。かれの道を歩むべきよ」
「おまえの本心はそれなのか?」
あいかわらず単刀直入な言い方ね。わたしの本心がどこにあるか、わたしさえよくわかっていない。かれが幸せなら、それでいいのか。それともたとえどうなろうと、東京からもう一度つれもどしたいのか。
「そう……」
わたしはつぶやくようにいった。
「強いていうなら、かれが笑っている顔をもう一度、もう一度だけ見たいの……」
しばらく無線機から応答はなかった。かなり長い間があってから、エルフィの声がようやく聞こえてきた。
「いままでに聞いたなかで、いちばん本心に近い言葉だろうな」
たぶん彼女のいうとおりだろう。わたしの許から永遠に去ってしまうのだとしたら、もう一度だけ、かれが笑っている顔を見たいのだ。
「エルフィ」
「なんだ」
「ありがとう」
無線機の奥で、ふっと笑うような息がした。
「さて、そろそろTDDユニットを起動する。かなりキツいよ」
「覚悟のうえだわ」
わたしは体をできるだけ丸め、対ショック姿勢をとった。
ピアサー・シークエンスが起動した。ここからは見えないけど、ヴァーミリオンの腰についている二枚の羽根のようなTDDユニットが展開しているのだろう。独特の音が聞こえてくる。高回転の金属がたてるような、女の悲鳴のような音が。
鈍い衝撃が走り、音がわずかに変化した。たぶんピアサー・シークエンスのフェイズ2が起動したはずだ。確率共鳴場が展開されていく。
そして衝撃。
ヴァーミリオンが東京ジュピターに突入していく。東京ジュピターを構成しているファインマン・ダイアグラムと確率共鳴場をすりあわせて侵入していく。まえに四方田《よもだ》くんがいっていたが、女子寮に忍びこむのに女装するようなものだ。
それにしても……。これは……。
準備してきたとはいえ、セイフティ・スーツなしに突入するというのはかなりきつい。いや、無謀だったかも。意識がうすれていく……。
気がついたときには、無線機からエルフィの声が響いていた。
「紫東! 紫東!」
「……だいじょうぶ」
頭がまだ痛い。はっきりするかと思って左右にふってみたが、めまいがよけいにひどくなっただけだった。
「よかった。死んだかと思ったよ」
エルフィは安心したという吐息をついた。
「ごめんね、心配かけて」
「いいよ、そんなことは。ヴァーミリオンは着陸した。もう外に出ていいぞ」
着陸した。……東京に着いた。わたしが育った街に。時間がとまった街に。
ロックをはずしてハッチを開けると、むわっとした熱気が流れこんでくる。外は夜だというのに、ねっとりとした暑さだ。ニライカナイは五月でも、まだ東京は去年の八月だ。このあいだ侵入したときからまだ一月ほどしかたっていないのだ。ハッチをさらに開けると、濃い緑の匂いがした。
ここはどこ? おり立ってあたりを見まわす。木々のあいだから見える風景の感じでは多摩丘陵あたりだろう。ヴァーミリオンは木々のあいだに寝転がるようにしてある。環境迷彩、俗にいうカメレオン迷彩システムをほどこしてはいるが、これで隠したつもりだろうか。
「こんなとこに置いといてだいじょうぶ?」
コクピットからおりようとしているエルフィに声をかける。
「これでも少しは身を隠したつもりなんだから。見つからないように幸運を祈るんだね」
たしかに。いまわたしたちに必要なものは幸運だろう。エルフィは拳銃のマガジンを確認してからわきの下のホルダーにしまい、ゆっくりとあたりを見まわした。
「とりあえず、この丘をおりよう」
「そうね」
ふたりで林の中の道をおりていく。木々のあいだに民家の明かりが見えた。なんの変哲もない民家だ。人々がささやかな幸せをかこち、静かな日々のいとなみをくりかえしている光景だ。ここにはここの幸せがある……。
「なにやってるの?」
足をとめたわたしに、エルフィが不審そうに声をかけてきた。
「べつに……」
「行く先に心あたりは?」
「あるわ」
綾人くんが行くとしたら、家しかないだろう。
「道案内できるの?」
「わたしの街ですもの……」
わたしの街だ。いつわりの平和に眠りつづける、わたしの街だ。もし、それが幸せな眠りだったとしたら、わたしたちにそれを壊す権利があるのだろうか。
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3
食事はいつものようにはじまったけど、味なんてさっぱりわからなかった。頭の中では中学のことを思いだそうと懸命だった。思いだせるのは、朝比奈がいったみたいに断片的なことばかりだ。スチームに尻を押しつけて遊んだこと、友だちの笑い声、黒板を走るチョークが立てる音、理科室の棚のうえでホコリをかぶっている動物の剥製、雨の日の校舎の匂い、晴れた日に教室から見た校庭で渦巻いている土ボコリ……。そんなものばかりだ。
「ねえ」
箸をとめて、できるだけふつうの感じでおふくろに訊いてみた。
「おれって中学のころ、どんなだった?」
「中学のころ?」
ふっと、おふくろの眉が曇った。
「かあさんから見てさ」
「ふつうの子だったわよ」
「ふつうって?」
「ふつうよ」
そのとき、急にある印象がよみがえってきた。懸命に心の指先をのばしてそれをつかまえようとしたけど、それはするりと逃げてしまった。ほんの少しだけ心の指先が思い出に濡れた。
「そうだ。ねえ、クラスメートの女の子を家につれてきたことなかったっけ」
おふくろの目がすっと細く冷たくなった。ぞくりと肌が騒ぐほどの冷たさだった。
「ソース切れちゃったわね」
話を打ち切るように、おふくろは空のソース差しをもってキッチンに行ってしまった。でも、そのときソース差しに爪をたてるようににぎっていたのを、おれは見逃さなかった。
気まずいまま食事が終わり、おれは逃げるように自分の部屋にもどった。ベッドに寝転がって天井を見あげる。おふくろはなんであそこまで冷たい目をしたんだろう。心の指先にまとわりついた記憶のかけら。それは、うちのリビングにだれだかわからないけど女の子が座っているという映像だった。どういう理由でいるのか、うれしいのか、緊張しているのか、まったくわからない。ただ、うすぼんやりとした印象だけが、ソファーに腰をかけていた。
あれはだれだったんだろう。
なんでおふくろは、そのことで怒るんだろう。
答えの出ない問いをくりかえしながら、ベッドの中でごろごろしていると、部屋の隅のイーゼルにある絵が見えた。
あれ?
あんな絵だったっけかな。女の子が崖に立って背をむけているっていう構図は変わらないけど、もっと描きこんでなかったっけ? それにあんな不安げな空じゃなくて、青く澄んだ空にしたと思ってたのに。それとも、夢の中で青い空にして、現実でもそうしたと思いこんでるだけなのかな。
まあ、いいや。
おれは絵から目をはなし、また考えこんだ。あんな冷たい目をしたっていうことは、おふくろはこの家でなにがおきたのか知っている。おれはおぼえていないけど、おふくろはおぼえている。
「おふくろ……ほんとうのこと教えてよ」
だれにたずねるわけでもない問いなのに、答える声があった。
「教えてほしい?」
え? と顔をあげると、ベッドのかたわらに美嶋が立っていた。
「美嶋……」
「知りたいの? 知りたいんでしょ」
美嶋は残酷に微笑みながら、窓のほうを指さした。
見ちゃいけない。見たら真実から眼をそむけられなくなる。わかっていながら、おれの首はゆっくりと窓のほうをむき……そして、見た。
窓のむこうには、へんてこりんな部屋があった。軍隊の司令室みたいな感じだけど、デザインがへんだ。ゆがんでる。人間がおちつくデザインじゃない。こっちに背をむけてふたりの人影がある。ひとりは男、ひとりは女。男がなにかに気がついて、横をむいた。九鬼正義《くきまさよし》。という名前が閃光のようにひらめいた。なんで、おれはあいつの名前を知ってるんだ。女のほうも横をむいた。三輪忍《みわしのぶ》だ。ごく自然に名前がでてくる。なんでだよ。
そして、ふたりの視線を目で追ったおれは、その視線の先にあるものを見て、うめき声をあげた。
「おふくろ……」
そこにいるのはたしかにおふくろだった。みょうちくりんな民族衣装を身にはつけていたけど、おふくろにまちがいない。
「どうしました」
家では聞いたことがない冷たい声だった。
「同乗してきた如月久遠の状態はよくありません。長時間ライフモジュールを着用していなかったため……」
九鬼の言葉をおふくろが冷たくさえぎる。
「原因などわかっています。対策とその効果のみ、報告なさい」
「しかし……」
「しかし?」
おふくろの目が冷ややかに問いかえす。
「九鬼、おまえも偉くなったものですね。東京総督府の代表であるわたくしにさからうとは」
「さからうなんて、とんでもありません。麻弥さまのご意向にしたがうのみです」
九鬼は首をすくめ、あわてて平身低頭した。麻弥さまと呼ばれて、おふくろは平然としている。耳の奥で聞いたこともない、だけどどこかなつかしい声がかすかによみがえってきた。
「世界を裏切った連中が、いまでも東京にいる。そいつらが東京総督府でふんぞりかえってるってわけだ」
世界を裏切った……。
東京総督府……。
はるかさん……。
急に床がドンとつきあげるようにゆれた。
ちがう。
濁流のような記憶の流れがよみがえってきた衝撃だった。去年の誕生日にはじまったすべてのことを思いだした。東京脱出、ニライカナイ、TERRA《テラ》、東京ジュピターという名のウソ、人との出会い、恵、八雲《やくも》さん、功刀《くぬぎ》司令、久遠《くおん》、樹《いつき》さん、そして遙《はるか》さん。すべてがはっきりと思いだされた。そして、なぜ東京にもどってきたかも。
おれは真実を見つけるために東京にもどってきたんだ。
その真実は目の前にあった。おふくろは東京総督府代表として、MU《ムウ》の代表として、異言語で祈りをささげている。
「これが真実だっていうのか」
笑いだしてしまいそうな真実だ。おふくろは東京ジュピターを作った張本人、おれはその息子……。そして、この東京での生活は作られた記憶によって成り立っていた……。全部ウソだったんだ。おれが自分のものだと思っていたもの、たとえすべてのものが奪われたとしても、これだけは奪われることはないと思っていた記憶は、全部作られたものだったんだ。
「やっぱりそうなのかよ!」
椅子を思いっきり窓に投げつけた。盛大な音とともにガラスが割れ、夜空が見えた。いつわりの空が見えた。そして、いままで見えなかったものが見えてきた。水に絵の具が広がるようにぼんやりと人形のようなドーレムがいくつも見えてきた。あんなものが浮かんでいる。それがほんとうの東京の空だった。
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断章6 エルフィ・ハディヤット
夜空に、人形のような奇妙なドーレムがいくつも浮いている。街の明かりに下から照らされてよけいに不気味に見える。だというのに、電車に乗っている人間はだれも、ホームにいた人間もだれもそれを気にしてないようだ。
「この人たち、なんであのドーレムが気にならないの?」
「まえは、あんなもの浮いてなかったわ」
紫東は、電車の中で享楽的に体を寄せあっているカップルを重い表情で凝視《みつ》めている。
「精神支配が強まってるんだわ」
なぜだろう。精神支配を強める必要がどこにあるんだろうか。
疑問をかかえたわたしたちを乗せて、電車は夜の闇を走っていく。紫東の横顔が窓ガラスに映りこんでいる。その横顔はきびしく、しかもさびしそうだ。
「ねえ、ひとつ訊いていい? なんでそこまで神名にこだわる」
なんで? という自問が紫東の目に浮かんで消えた。
「だいじな人だから……」
そういって彼女はまた視線を街にむけた。だいじな人だから、か。いままで聞いた中でもいちばん強烈な告白かもしれないな。
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4
洗面所の鏡に自分の顔を映す。自分の顔だと思っている顔。でも、ほんとうはちがうかもしれない。鏡がほんとうのことを映すなんて、どうやって証明するんだ。本当はおれの顔だけ、いつわりの顔、ちがう顔。みんなもそのことを知っていながら、おれにウソをついていたとしたら。そんなことはありえないはずだけど、東京ではありえてしまう。
なぜならウソの街だから。
東京を出るまえだって、ウソの記憶でできてたんだ。おれは。
だったら、おれはだれ? だれなんだよ。自分の記憶が自分のものじゃないとしたら、おれはだれなんだよ。おれのほんとうの姿はなんなんだよ。人間なの? ムーリアンなの? ほんとうのことってなんだよ。真実って。ウソにかためられた世界のどこにそんなものがあるんだ。それが真実なのか、ウソなのかの区別もできないのに。この世界でたったひとつの真実があるとしたら、おれの体だけだ。この体はウソをついていない。こうやって唇をかめば、痛みが走る。この痛みだけがリアルだ。
まえに雑誌でリストカットする少女の記事を読んだことがある。
少女は、死ぬためにリストカットするんじゃない。生きている実感をえるためにやるんだといっていた。読んだときにはさっぱりわからなかった。生きている実感なんて、リストカットしなくたって、いくらでもあるだろうと思った。だけど、いまはわかる。この痛みだけが、生きている実感をもたらしてくれる。この痛みだけが……。
強くかんだために、口の中に鉄の味がひろがった。
唇に指をあてると、指先に薄く赤い血の色がついた。赤い。赤い。だけど、これはほんとうは赤じゃなくて、青なのかもしれない。青じゃないって、どうやって証明できるんだ。自分が見ているものすべてが信じられないっていうのに。
ふと顔をあげると、鏡におふくろが映りこんでいた。
いや、おれからかあさんと呼ばれる女性だ。
あなたはだれなの? ぼくのかあさん? ほんとうに?
心の声が聞こえたのか、彼女は薄く笑ってから、おれとおなじように唇をかみ、にじみ出た血を指先につけてみせた。その指を、背後からおれの顔の前にさしだした。
青い。薄青い液体が指先を染めている。
青いんだ。あなたの血は……。
おれの血は赤いよ。
だったら、あなたはだれ?
彼女は答えずに、その指先でやさしくおれの唇にふれた。鏡に映っているおれの唇に、青い血がたれていく。そして、背後から静かに凝視《みつ》めるおふくろの、無表情な顔。冷たい陶器のような美しい顔が映りこむ。その口元が静かに笑った。
それは冷たい表情よりも怖かった。
笑えるおふくろが怖かった。
おれは悲鳴をあげて、彼女から離れた。足がもつれて床に倒れこむ。どこにも逃げられずに、壁際に追いつめられるように逃げこむ。そんなおれを、おふくろは冷たい目で見おろしている。どこまでも冷たい目で。
喉からふりしぼられるような絶叫があふれだした。
いつわりの家に響いた。
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第二章 蒼き血の絆
断章1 紫東 遙
だれもいない夜の中学校は、あたりまえのごとく静まりかえっていた。昼間は青春を謳歌している少年少女たちの歓声に包まれている校庭も、いまは夜に沈み、冷たい蛍光灯の明かりに不気味に照らしだされている。
わたしはためらいもせず、低い校門を乗り越えた。
「おい、なにするんだ」
といいながらエルフィもあとについてくる。
「だれかに見つかったらどうするつもりだ」
「警備の鈴本さん、この時間仮眠とってるのよ」
「どうして、そんなこと知ってる」
「まえにね、クラスの友だちが夜の学校に忍びこんだことがあったの。そのとき、警備の鈴本さんが仮眠とってるってバレちゃったのよ」
あれからわたしの人生は半分近くの時間がすぎた。なのに、ここでは二年しかたっていない。警備員の習慣が変わるにはじゅうぶんとはいえない時間だ。
「ここなんだ。わたしのかよってた中学」
はじめて制服に袖を通したときの、うれしいような恥ずかしいような感覚がよみがえってくる。小学校のころはズボンで通していたので、スカートはなれていなかった。あの気恥ずかしさと、無防備になってしまったような不安、それに少しおとなになったという誇りがないまぜになった感情は、もう記憶ではなく思い出になってしまっていた。
「ここには思い出がいっぱいあるの。いっしょにかよって、いっしょに勉強して……」
「そういうことだったのか」
だれといっしょだったのか、エルフィにはいわなくてもわかったようだった。
「こっちよ」
わたしは彼女を案内して、校内に忍びこんだ。校舎の裏に面した窓でひとつだけ締まりの悪いのがあって、いつもめんどくさがって閉められていないのだ。これも忍びこんだ悪ガキから聞いたとおりだった。だれもいない廊下におり立つと、エルフィがくすくすと笑った。
「むかしを思いだすよ。子どものころ、夜の学校に忍びこむのって夢だったんだ。日本人もそうか?」
「そうね。夜の学校って、気味が悪いと同時に魅力的だったわね」
静かに眠る教室の前を通りすぎる。階段を登って二階にあがる。そこにも同じくだれもいない教室が整然と眠りについている。
「ここが、わたしのクラス。二年D組。となりが綾人くんの三年A組。かれの学年、児童数が多くてね、一クラスだけ二年生と同じ階に……」
気恥ずかしさから、自分がみょうに饒舌になっているのはわかっていた。だから、わたしは言葉を切り、自嘲的につぶやいてみた。
「あこがれてたんだ。神名くんのこと」
その言葉が思い出の扉を開く。おとなにとっては大した差はないけれど、中学生にしてみれば一年の差は大きい。だから、一学年上の綾人くんはとてもおとなびて見えた。はじめて廊下ですれちがったとき、ふくらみはじめた胸が恥ずかしいほどときめいたことを、いまでも忘れない。かれが美術部だと知って、絵を練習してみたこともあった。親友の聡美は美術部にはいっちゃえとたきつけたけど、へたな絵で恥はかきたくなかった。とくにかれの前では。だから、ひとり家で練習してはみたけど、わかったのは自分に絵の才能がないという事実だけだった。
それでも同じ中学にかよい、同じ空気を吸っているというだけで、毎日が充実していた。
授業中、ふと校庭を見ると体育でかれが走っているのが見えた。授業が終わって廊下に出ると、かれが友だちとふざけながら笑っていた。その笑い声を聞くだけでも、頬が熱くなった。
「あのさ、佐々木先生んとこの二年生だろ」
「え、ええ」
「これ、前田先生が佐々木先生に渡しとけって」
「はい」
わたしたちがかわした最初の会話は、なんてそっけなかっただろう。だけど、その日は一日じゅう晴れがましいようなうきうきした気分だった。そんなことでさえ、幸せになれた日々が、ここにはあった。いや、いまでもある。廊下のリノリウムの隅に、教室のドアの傷に、わたしの思い出はつぎつぎと開かれていく。
朝比奈さんのこともあった。
「遙、たいへんよ」
ある日、聡美がわたしの席に息急《いきせ》きるようにしてかけつけてきた。
「うちのお姉ちゃんのクラスにさあ、朝比奈さんっているんだけど」
「きれいな女性《ひと》でしょ。知ってる」
「あの人、神名先輩ねらってるんだって。小学校のころからだってさ」
ねらってる、という攻撃的な言葉が胸に痛かった。その日は一日、胸がしくしくと痛んだ。当然だとは思う。あんなにすてきな人だもの、好きになる女性《ひと》がいないほうがおかしい。自分があこがれている人が同性から見てまったく魅力がないというのもイヤだが、ライヴァルがいるというのもこまる。まして相手はあの人と同学年でしかも小学校からの気安い間柄ともなれば、わたしは分が悪い。このまま静かにこの恋を殺してしまおうかとも思った。だけど、日陰に置いた花が懸命に陽にむかって芽をのばしていくように、わたしの想いも秘すれば秘するほどあの人にむかっていった。
「そろそろ、行こう。いつまでも思い出にひたってるわけにはいかないよ」
エルフィが背をむけそうになったのを、あわててとどめる。
「もう少しだけ。ね、お願い」
「おい」
彼女がとめるのも聞かず、わたしは足早に三階へとむかった。三階には音楽室がある。わたしはためらわずに蛍光灯のスイッチを入れた。そこには十六年前の時間があった。
「見つかったら、どうするんだよ」
エルフィはあきれながらも、わたしをとめようとはしない。
音楽室はほんとうにあのときのままだった。
包まれるとホコリ臭いけどなんだか安心できた遮光カーテンは、あいかわらず黒の面は陽に焼けて茶色っぽく、陽にあたらない赤はやけにあざやかだ。段ボールのような安っぽい色の穴だらけの遮音壁も、夜になると目が動くといわれていたモーツァルトやベートーベンの肖像画も、黒いカバー布がかかったピアノも、ほんとうにそのままだった。
涙がこぼれてくる。あれから十六年もたつというのに、この光景を見るだけで肌が粟立ち、胸がしめつけられそうだ。
「だいじょうぶか」
エルフィが心配そうに声をかけてくれなかったら、たぶんその場に泣き崩れてしまったかもしれない。彼女がいるというだけでようやく立っていられる状態だった。
「だいじょうぶ。……ここだったの」
「なにが」
「なにもかもがはじまったのが。そのあとの十六年を決めてしまったことが、ここでおきたのよ」
語尾があふれる涙に消えた。エルフィがそっと肩を抱いてくれた。
「苦しいなら、なにもいうな」
やさしさが時には胸をしめつけるほどつらいというのは、そのときはじめて知った。なにも聞かないでもわかってくれるエルフィのやさしさがうれしかったけど、一度封印を解かれた思い出はすでにわたしの中で出口をもとめて荒れ狂いはじめていた。
「いいの。聞いてくれる?」
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断章2 音楽室
あの日、わたしは放課後、ここに来たの。だれもいない部屋に、いまみたいにピアノがぽつんて置かれてた。西日の中でさびしそうだった。なんか弾かれたがってるみたいに見えたの。中学にはいってからやめさせられちゃったけど、幼稚園から小学校までずっとピアノならってたのよ。好きだったし、そこそこうまかったんだ。中学にはいったら受験だから、もうやめなさいっていわれたときは、親と大ゲンカしたぐらい。結局、押し切られる形でやめちゃったんだけどね。いまでもおぼえてるわ。幼稚園のころ、ドは赤、レは黄色、ミは緑、ファはオレンジって、いろんなモールを指にしてもらうのがなんかうれしくって。それに先生がすごくやさしかった……。
あ、ごめん。そんなことじゃないよね。あの日のこと。
ピアノの前に座るのもひさしぶりだった。ピアノって独特の匂いがあるの知ってる? たぶん塗料かなんかの匂いだと思うけど、とがった感じじゃなくて、すごくやさしい匂いなんだ。わたしはそれを胸いっぱいに吸いこみながら、鍵盤に指を走らせた。
そのころはやってた「カトゥンの定め」って曲を弾いたの。どうってことのない恋の歌よ。どんなに時間がたとうとも、わたしたちの愛は永遠だとか、そういう歌詞だったわ。それを弾いてたの。そしたら、戸口にかれがいた。綾人くんよ。ううん、そのころはあこがれの先輩だった神名さんがね、「それ、なんて曲だっけ」って、ごくふつうに声かけてくれたの。もう、びっくりしちゃって。思わず目を丸くしてかれのこと凝視《みつ》めてたんだと思う。すごくうれしかったけど、すごく怖くもあったの。自分の気持ちが見透かされたみたいでね。
「これは『カトゥンの定め』です」
そういうのがせいいっぱいだった。そしたら、かれがはいってきて、わたしのそばまできたわ。かれの匂いも感じられるほどの距離よ。もう胸が高まるのを抑えられなかった。頬が紅らむのをとめられなかった。
「いい曲だよね。曲名がわからなくてさ、店でもさがせなかったんだ」
「わたし、メディア持ってますから、お貸ししましょうか」
それからみょうに話がはずんじゃって。好きなアーティストとか、ドラマの話をずっとしてた。自分でもこんなにすらすら話がでてくるのが、不思議だったわ。ほら、好きな人のまえにでると、あがっちゃって、なんの話題も思い浮かばなかったりするじゃない。でも、そのときはほんとごく自然にかれと話せたし、すごく楽しかった。あの人が現れるまでね。
朝比奈さんが来たの。
夕日のさしこむ紅色の音楽室で、わたしたちは凍りついたように動けなかった。べつにだれがだれと付き合ってたとかそういうのじゃなかったし、幼かったけど、三人ともその状況がどういう意味をもっているかわかってしまったのよ。朝比奈さんは、親密そうなわたしたちを見て、なにがふたりのあいだに流れているか感じてしまったんだと思うわ。見開かれたまま動きをとめた目に、みるみる涙があふれだした。そして、彼女は口元を押さえて走りさっていった。
「朝比奈!」
神名さんが彼女を追いかけようと走りだそうとしたとき、わたしはその手を反射的につかんでしまった。そして、いままでいおうと思って、どうしてもいえなかったことが口からするりとこぼれでたわ。
「好きです。ずっとずっと好きでした」
って。
瞬間、握った手に電気が走ったみたいに、なにかが走ったわ。そして、かれの手がカッと熱くなって汗ばんできた。かれは恥ずかしそうに頬を紅らめて、こういったの。
「ぼくも……」
いまでも、なんでいえる勇気があったのか、どうしてあのタイミングでいえたのかわからない。神さまがあたえてくれたチャンスだったとしかいいようがないわ。
その日から、ほんとうの幸せっていうものがわかったような気がした。つまらない通学路の木々さえ緑があざやかに見えたし、いつだってかれのことを考えていれば口元に笑みが浮かんだ。それまで無意味に思えていた世界が急にすばらしいものに感じられるようになったのよ。天動説が地動説になったみたいに、ううん、逆ね。世界がわたしたちを中心に回りはじめたの。あ、ごめん。そんなのろけ話聞いたってしょうがないよね。
そんな幸せも長くはつづかなかった。冬休みになったら、父の仕事の都合で急に引っ越すことになってしまったの。つらくて毎日泣いたわ。だけど、おとなの都合は子どもの涙でどうこうできるものじゃなかった。いやおうなく、わたしたちは離れ離れにされてしまった。もちろん、メールや電話はかけつづけてたわ。でも、出てくるのは親への文句とこんな運命――いまから考えるとたいしたことじゃないけど、中学生にとっては運命としかいいようがないわよね。そんなものをなげく言葉しか出てこなかった。
「クリスマスプレゼント、わたせなくてごめんね。お正月になったら、一度東京に帰ることになってるから、そのとき会おうよ」
「わかった。約束だよ」
それがわたしたちが電話でかわした最後の会話だったわ。
お正月になる前に、東京があんなことになっちゃったから。そのときがくることはなかったわ。オーヴァーロード作戦がはじまるまでね……。
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断章3 エルフィ・ハディヤット
紫東は長い話をようやく話しおえた。なるほど、そういう訳だったのか。
「いまでも好きなのか」
「まさか」
彼女は自嘲的に笑って、苦く目をふせた。
「あこがれの先輩もいまじゃ十一も年下の少年よ。かれから見たら、わたしなんかただのおばさん……」
そして、ピアノのカヴァーを開けると、鍵盤を指ではじくようにたたいた。静かな音が音楽室にしみこむように広がっていく。
「やっぱり。あいかわらずドの音がほんの少しずれてるわ。むかしのまんま」
彼女はさびしそうに室内を見まわした。
「なのに、わたしは、あこがれだった先輩の歳を通りすぎて、年上になってしまった……」
言葉を切る苦さが、こっちの胸にもしみてくる。いままであたしは彼女を誤解していたようだ。
「あんた強いね」
「強くないわよ」
「いや、強いよ」
距離が離れた恋人同士なら、いつかは会えるかもしれない。だけど時にへだてられたふたりは姿さえ見ることもできない。なのに、ひとりの男を想いつづけられるなんて強くなければできることじゃない。東京とその外にへだてられた恋人同士は彼女だけじゃない。そんなものはごろごろとはいわないけど、かなりの人数いる。そのほとんどは運命とあきらめ、だれひとりとして彼女みたいにTERRA《テラ》に身を投じ、むかしの恋人をとりもどそうとはしなかった。
こうなるとますます、神名が幸せであればそれでいい、などという言葉は信じられなくなる。いや、たぶん彼女だったら幸せな神名の姿を見たら身をひいてしまうだろう。十年以上想いつづけながら、そのそぶりさえ見せていなかったのだから、きっとそうするだろう。きれいかもしれないけど、信じられない。
また別れ別れになってしまうなんて、あたしが許さない。
「ほんと強いよ。さもなきゃ十年以上も想ってられるか」
「さっきいったじゃない。わたしなんか、かれからしてみればもうおばさんよ。恋の対象外だわ」
「ウソだね。そんなのは、ほら、あれだよ。グリムのキツネと同じだ」
「なにそれ」
「とれないブドウを、あれは酸っぱいにちがいないってあきらめるキツネだよ。あんたはそうやって、自分をだましてるんだ。あんたはいまでも神名にほれてるよ」
一気にいってやると、図星をさされた紫東は気をのまれたように目を見ひらいて、それから力なく首をふった。
「バカなこといわないでよ……」
彼女は反論しようとしたけど、語尾は力なく静けさに溶けていった。そのとき、あたしは近づいてくる足音に気がついた。反射的に銃をひきぬき、電気を消す。暗闇の中、カーテンの隙間からもれてくる街灯の明かりだけをたよりに、壁際に身をよせようとしたら、紫東に手をひかれてピアノの陰につれこまれた。
息を殺してまっていると、靴音はどんどん近づいてきた。そして音楽室のドアが開き、懐中電灯の明かりが、おざなりになめるように室内を照らしていった。ちらりとのぞくと、眠そうな目をした気の弱そうな初老の警備員だった。あたしたちを発見できなかったのか、警備員は小さく首をふって、行ってしまった。その靴音が完全に消えさったのを確認してから、あたしたちははいってきたときと同じようにして外に出た。
学校からかなり離れてから、どちらからともなく笑いだした。
「なんかほんと中学のころみたいだった。先生の目を盗んでいたずらしてる子どもの気分よ」
「あたしもひさしぶりだったな。こんな感じ」
ひとしきり笑ってから、紫東はまじめな顔であたしを見た。
「ありがとう、エルフィ」
そんなまじめな顔していわれると、こっちが照れるだろ。あたしはくるりと背をむけた。
「さ、行くよ」
どこへ行くかは、ふたりともよくわかっていた。ふたりの足音が夜の街に響く。
「ねえ、エルフィ」
「なんだ」
「さっきのキツネ。グリムじゃなくて、イソップの話よ」
……これだから情報部ってやつは。
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断章4 朝比奈浩子
おかあさんは宇宙人かもしれない。
夕飯のしたくをしているときだった。わたしは中学のころのことをぼんやりと思いかえそうとしていた。綾人くんに電話でもしゃべったけど、うまく思いだせない。音楽室でなにかあったことはたしかなんだけど。そんなことを思いながら手伝いをしていると、おかあさんが小さく悲鳴をあげた。包丁で指を切ったのだ。そうしたら指先から血があふれだした。だけど、その色は青だった。夏の空みたいに真っ青だった。
「バンドエイド、バンドエイド」
なんていいながら、おかあさんは薬箱をごそごそやりだした。
「おかあさん!」
「なによ、浩子。急に大きな声だしたりして、びっくりするでしょ」
「だって、その血」
「だいじょぶ、ちょっと切っただけだから」
「そうじゃなくて、血の色」
「え? どこかおかしい?」
そういいながら、わたしに見せた血はもうふつうの赤だった。
夕飯が終わってから、わたしは部屋にこもってぬいぐるみを抱えて、不安な気持ちを押さえつけた。あのときはまちがいなく青だった。それがつぎに見たときには赤になってるなんて。目の錯覚じゃない。きっと精神コントロールされてるんだ。いつか夜中にやっていたB級映画を思いだした。その映画では、宇宙人たちがいつのまにか地球人に入れ代わってしまっていて、家族さえ気がつかないのだ。主人公の少年はあるとき、父親が大ケガをしたのを目撃してしまう。だけど、翌日にはケガは治っていて、そのことを主人公も不思議に思わない。というのも強力な精神コントロールを受けてしまったからだ。そのうちに主人公は老人――ひとりだけ精神コントロールを受けつけないために、周囲からは頭がヘンになったとおもわれてる老人の力を借りて、精神コントロールをぬけだし、ついに人類の反撃がはじまる。そんな他愛のないストーリーだった。だけど、いまこの家でおきていることは、そのまんまだ。
青い血なんてあるはずがない。
それに、わたしはむかしのことを思いだせない。神名くんも思いだせない。守はごまかすけど、やっぱり思いだせないみたいだ。だれもそれをヘンなことだって思わない。
「怖いよ、綾人……」
ぬいぐるみを強く抱きしめたけど、不安な気持ちは少しも楽にならなかった。
この街はどうなっちゃったのよ……。
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1
悲鳴に似た声をあげながら、おれは家の中を逃げた。そして、とうとう浴室に追いつめられ、倒れこんだ。その拍子にコックにふれてしまったのか、シャワーがおれの体にふりそそいだ。頭が混乱してパニック状態だ。息が速い。速すぎる。心臓だって、爆発しそうになってる。熱いお湯が体にかかっているのに、おれは立ちあがることもできず、恐怖にすくんだままお湯の中から、あれがやってくるのを見た。
おふくろだ。
無言のおふくろが、静かにおれを見おろしていた。
おふくろは聖母のような慈愛に満ちた微笑みを浮かべて、おれの体を抱きおこしてくれた。さからおうと思えば、高校生の男子だ。女なんかに負けない自信はある。だけど、パニック状態だったおれはさからうこともできず、ただおふくろにされるがままになっていた。
「なにも心配することはないわ」
そういうとおふくろはおれを抱きしめた。首筋に冷たい痛みが走る。なにかの注射だ。それはさされたと同時に、あたたかい心地よさとなって体にひろがっていった。
「あなたはいい子。むかしからずっといい子。それはわたしがいちばんわかってる。だって、あなたはわたしがこの手で育ててきたんですもの」
いい子……。
おれはいい子……。
言葉といっしょにだるいような感覚が、おれの脳のすみずみまでしみわたっていった。
落ちついたっていうより、指先までぼんやりとしている。体がだれかほかの人の体のように遠くに感じられる。
いつのまにかシャワーがやんでいる。いつおふくろはとめてくれたんだろう。おふくろはだれかと話している。
「脳内の一時的電荷異常です。ゼフォンの自律活動を阻止しなさい」
だれと話しているんだろう。あれはたしか……九鬼だったっけ。弐神《ふたがみ》さんに見せてもらった写真に映っていた自衛隊の男だ。ゼフォンって? ラーゼフォンのことかな。そういえば、ラーゼフォンはどこにいるんだろう。またあの神殿にはいってるのかなあ。
ぼんやりとそんなことを考えているおれの目の前に、おふくろがもどってきた。
「ぼくはだれ?」
ようやくふりしぼるようにいった声も、自分でだしているのかどうか自信はない。
「あなたは綾人」
おふくろの声も、目の前にいるっていうのにどこか遠くで聞こえる。
「カミナアヤト……ほんと?」
「いま、あなたが自分だと思っている綾人。それ以外のだれでもない」
「記憶が作られたものでも?」
「記憶が全部なくなったら、あなたはあなたでなくなるの? 作られた記憶でもあなたは綾人。わたしのかわいい息子よ」
「これが現実……」
現実にしてはあまりに現実感がない。
「これがぼくの世界……」
「この世界は、あなたのためにあったのよ、綾人。あなたひとりのためにあったの」
「ぼくのため?」
「でも、あなたは真の奏者となるために外へ出た」
「ちがうよ。ぼくは……」
おふくろが、かわいそうになにもわかっていない子ねえ、とでもいうような笑みを浮かべて首をふった。
「あなたは自分の意志で出たつもりでしょうけど、それはちがうわ。あなたが真の奏者になるために必要だと思ったから、わたしが出してあげたの」
おふくろが……。そうか……。
「だから、この世界は変わったの。あなたにあわせる必要がなくなったの。ね、わかるでしょ」
そうか……。掌を見ると、うっすらと血がにじんでいた。赤い血だ。シャワーのお湯で薄められて、紅色ににじんでいる。
「かわいそうに。あんなに逃げたから、どっかにぶつけて切ったのね」
おふくろはおれの手をつかむと、そっと傷口に唇を押しあてた。遠い掌の感覚に、あたたかいやさしさが混じってくる。むかし、小さかったころ、転んでケガをしたときにも、こうしてくれたような気がする。……でも、それも作られた記憶かもしれない。
「いまは赤い血。それももうすぐ、青くなるわ。わたしたちと同じ色に。真の奏者となる証よ」
ソウシャ……。どこかで聞いたおぼえのある言葉だけど、それも作られたものかもしれない。
「ぼくは……なんなんだ」
「あなたはオリン」
なつかしい感じの声がした。顔をあげると、浴室の鏡に黄色い服の少女が映っていた。
ミシマレイカ……。
いや、それも作られたものかもしれない……。
「美嶋……」
鏡の中の美嶋はおれをじっと凝視《みつ》め、ゆっくりと微笑んだ。
「あなたはオリン」
「イシュトリ……」
そういって、おふくろは冷たい目で鏡の中の美嶋を見た。おふくろには見えているんだ。ここにいるはずのない美嶋の姿が。そうか……。夢じゃないんだ。
おれの意識はまた遠くなっていった。
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断章5 如月久遠
黄なる服を身にまといし少女、吾がかんばせを見おろしつ、「目覚めなさい、久遠」とのたまう。わたしはもう目覚めているの? 子宮のあたりが疼く。おぞおぞと疼く。その波動にそって、青空に見ゆる真黒き卵ひとつあり。あれはわたしの卵。わたしを呼ぶもの。わたしだけのもの。あれを呼ばねばならない。ここへ。時間の流れの異なる世界へと招きいれねばならない。なぜなら、あれは親を見失のうている嬰児と同じゆえ。母を慕い、ねぶる乳をもとむる嬰児と異ならず。吾をもとめ、吾が腕をもとめ、抱かれることを夢見ている。わたしは歌う。「ダッタン人の踊り」を。子宮の波動にそって、それはファインマンダイヤグラムを変質させ、この球体の外へと想いを飛ばす。距離は意味をなくし、時間は存在をなくし、直接卵へと想いは到達する。そして、黒い卵は量子崩壊を起こしつつ、この母の許へと急ぐだろう。それを目にしたとき、ナーカルの兄弟はわたしが目覚めたことを知るだろう。だが、これはいまだ真の覚醒ではない。まったきの目覚めの日は遠からずくるだろう。それでも、まだわたしの指先に夢の音がからみついてこない。世界が夢見るその音が。だから歌おう。卵を呼び寄せ、世界の音を聞くために。
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断章6 紫東 遙
わたしたちは、綾人くんの家を見おろせるマンションの踊り場に身をひそませた。状況はオーヴァーロード作戦で潜入したときよりも、緊迫している。隠れていたはずの公安が神名邸をかこむように配備されているし、防衛軍の車輌まである。東京側も綾人くんを奪還されることを恐れているのだろう。
「おまえのいう幸せな綾人くん、じゃなさそうだな」
「監禁状態ね」
とても幸せとはいえそうにない。
「どうする突入するか?」
「突入するには、じゅうぶんな戦力ね」
皮肉をこめて、おたがいを見る。
「もう少し様子を見ましょう」
「そうだな」
わたしたちはまた道路の様子をうかがった。そのとき、道路を歩いてくる少女の姿が目にはいってきた。一気に十数年前の記憶がよみがえる。かつてセンパイだった女性が変わらない姿でそこにいた。朝比奈さんだった。
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断章7 朝比奈浩子
「どこ行くの。こんな真夜中」
「ちょっとコンビニ。マーカーが切れちゃったから」
おかあさんはべつに気にもとめずに、わたしを外に出してくれた。いつもとおなじだ。でも、おかあさんの血は青い。
不安な気持ちをかかえたまま夜の町をあてもなく歩く。いつもの街並み、いつもの夜。だけど、きょうはちがって見える。あそこを歩いている酔っぱらいのおじさんも、夜中に高そうな犬の散歩をしているおばさんも、親しそうにしゃべっているカップルも、もしかしたら血が青いのかもしれない。派出所の明かりが見える。おまわりさんが机にむかって、なにか書類に書きこんでいる。おまわりさんだったら頼りになるかな。ううん、ダメ。もし青い血だったらどうするの。わたしは足早に派出所の前を通りすぎた。家もダメ、派出所もダメ。じゃあ、どこへ行ったらいいの? だれだったら助けてくれるの。
いつのまにか足は綾人くんの家のほうにむかっていた。だらだら坂を登っていくと、目の前に防衛軍の装甲車がいた。
「え?」
と声をあげたときには、数人の兵隊に銃をむけられていた。
「なにものだ、きさま!」
きさまっていわれたって、なんで? なんで兵隊がこんなとこにいるのよ。
「あの……わたし……」
そのとき、聞き慣れた声がした。
「その子はいい」
兵隊たちがふりかえった先に人影があった。逆光でシルエットになっているその人が、兵隊たちを押しのけるようにして街灯の明かりの下に出てきたとき、わたしはあっと声をあげてしまった。
守だった。
「よう。こんな真夜中に、ボーイフレンドの目をかすめて綾人んちに行こうってのかい?」
「なんで? 守こそ、なんでここにいるのよ」
「なんでかねえ」
守はにやにやと笑いだした。
「お友だちの綾人くんのためなのかなあ」
「とぼけないで。この兵隊さんたちはなんなの」
「なんだと思う?」
いつもみたいにいたずらっぽい口調でいってるけど、その目は残酷なまでに冷たい。これはだれ? わたしの知ってる守じゃない!
「なにものなんだ」
守のうしろから防衛軍の制服を着たメガネのおじさんが出てきた。なんか守と親しそうな雰囲気だった。
「こいつは関係ない」
小バカにしたような言い方だった。そう感じたのはメガネのおじさんもいっしょだったらしい。
「しかし、な」
と、なおも食い下がろうとしたけど、守の一瞥で黙ってしまった。わたしの知ってる守じゃない。ふつうの高校生ができることじゃない。そのとき、玄関からひとりの女の人が出てきた。きれいな人。綾人くんのおかあさんだ。
「九鬼」
綾人くんのおかあさんは、メガネのおじさんを呼びつけた。
「イシュトリが出ました。時間がありません。アレグレットとファルセットを出して、ゼフォンを押さえなさい」
「はっ!」
メガネのおじさんは、綾人くんのおかあさんに深々と頭をさげた。守といい、綾人くんのおかあさんといい、どうなってしまったんだろう。
「それから、病院に何名か派遣しなさい。久遠が歌っています」
「しかし、いまだ覚醒したという報告は……」
「わたしにはわかるのです」
綾人くんのおかあさんは、ぴしゃりといった。
「それとも、わたしを疑うのですか」
「い、いえ、とんでもない」
メガネのおじさんは、あわてて首をふった。それから綾人くんのおかあさんは、ようやくわたしに気がついたというように、こちらを見た。まるで人形か虫けらでも見るみたいな目だった。
「この娘は?」
「不審なものです。調べたほうがよろしいかと」
メガネのおじさんがいったけど、おかあさんは聞いてもいないらしい。すぐに守に視線をむけた。
「あなたにまかせます。いいように処理しなさい」
守が、はい、と丁寧に答えている。
「あとは、おまえたちにまかせました。わたしには、まだやるべきことがある」
そういうと綾人くんのおかあさんは、すっと家の中にはいってしまった。残されたメガネのおじさんが、やれやれ、といいたげな表情を守にむけた。
「麻弥さまも綾人さまのお相手、いいかげんにしていただきたいものだな」
綾人さま? なんで綾人くんが「さま」づけなの?
「で、その娘をどうするつもりだ」
「おまえもその生意気な口閉じとくことだな。さもないと、おまえの苦手な麻弥さまにご注進するぞ」
メガネのおじさんは苦虫を噛みつぶしたような顔になった。守は、こんな小者の相手してられるか、って顔をしてる。どういうことなの? なんであなたは綾人くんのおかあさんを知ってるの。なんでそんなエラそうなの。教えて。
「守。あなた、だれなの?」
「さあ、だれでしょう」
そういたずらっぽく笑うかれの目は、いままでに見たことがないほど冷たかった。
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2
おれはリビングのソファーに、投げだされた服の塊みたいに力なく座っていた。目の前のテレビに巨人戦の野球中継が映っている。興奮したアナウンサーと解説者がなんかしゃべっていたけど、内容は耳にはいってこない。ただの雑音として通りすぎていく。そして、テレビの横、庭が見える大きなガラス戸にへんてこりんな格好をした女の人がふたり、映っている。庭にいるわけじゃないのは、はっきりとわかる。実体がないんだ。ただ映っているだけだ。どこかで見たことがある。いつかドーレムに取りこまれて東京の幻想を見たとき、やっぱりガラスに映りこんでいた女によく似ているんだ。おなじような仮面をつけている。あいつは裸だったけど、いま目の前にいるのは服を着ていた。
おれはそれをぼんやりと見ているだけで、不思議だとか、ヘンだとか、なんにも思わない。心が平板になった感じだ。そこへおふくろがもどってきた。そういえば、あのふたりが窓ガラスに映るようになったのは、おふくろがでていったすぐあとだったっけ。
野球中継の映像が急に乱れたと思ったら、そこにラーゼフォンが映った。東京の街並みの上に、吊るされた人形みたいに浮いている。顔は翼で閉じられていて、その表情は読めない。そこにD1アリアが響いた。いつかのキノコみたいなドーレムが歌っている。もう一体、青い逆三角形の翼をひろげたようなドーレムが、ラーゼフォンのうしろに浮かんできた。両方ではさみ撃ちするように歌いはじめた。
二体のドーレムの口から、まるで霧みたいな光の粒がたたきつけるようにラーゼフォンにむかって撃ちだされた。ラーゼフォンは苦しみにもだえ、苦痛の叫び声をあげる。光の粒の流れにラーゼフォンは押しつぶされそうだ。めきめきとその体がつぶされる音が聞こえてきそうになったとき、とつぜん、光の流れがとまった。ラーゼフォンは糸が切れた人形みたいに落ちていく。落ちながらラーゼフォンは、両手から光の弾を無数に発射した。おれが思ったのは、ただきれいだなあという感想だけだった。光の散弾は扇のように空中に広がっていく。青い三角形のやつはすばやく回避したけど、キノコみたいなほうは動きが少しにぶかった。いくつもの光の弾を前面に食らってしまった。青い袋がいくつもふくれるようにして、ドーレムは夜空に消えた。
そのとたん、ガラスに映りこんでいたへんてこりんな女のうちのひとりが身もだえて苦しみはじめた。おふくろはその様子をただじっと見ている。女が苦しみながらおふくろに救いをもとめるように手をのばしたかと思うと、吹き飛ぶように消えていった。あとにはなにも残らない。もうひとりのほうは、なにごともなかったかのように歌いつづけている。
そして、テレビは真っ暗になり、もう野球中継さえ映らなかった。
巨人勝ったのかな……。
「さようなら、ファルセット」
おふくろは女が消えたあたりを静かに見ながら、なんの感慨もなくつぶやいた。それから、おれに視線をむけてきた。
「少しは落ちついた?」
「それ……だれなの?」
残った女に目をむける。
「ムーリアンよ。ほとんどがまだこちらに出てこられないでいる。サルベージできたのは、ほんのわずかな者だけ。いまはまだドーレムか人にシンクロしなければ、存在しつづけられない青い血の人々。そう、ムーリアンもニンゲンなの。怪物じゃないのよ」
そうか。もう遠いむかし、おれをつれさろうとした男たちもムーリアンとシンクロしてたんだ。だから、青い血を流したんだ。ドーレムもそうなんだ。
「ぼくもムーリアンなの?」
「そうよ」
「小さいころ死んだっていうとうさんも?」
おふくろはそれには答えず、ただ静かにはぐらかしただけだった。
「愛してるわ、綾人」
「じゃあ、ほんとうなの?」
「なにが」
「かあさんが世界を裏切ったって。二十億の人を死に追いやった張本人だって」
おふくろの顔からいっさいの表情が消え、ただ地底湖の水のように冷たく澄んだ瞳だけがおれにむけられた。
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断章8 朝比奈浩子
守にマンションの前まで送ってもらった。っていっても、防衛軍の装甲車だ。守はわたしをうながすように、マンションの入り口を指でしめした。
「一眠りして、きょうのことは忘れるんだね」
なんかちょっとした事故かなにかにあったときみたいな、軽い言い方ね。わたしは足をとめて、守をふりかえる。
「あなたはだれ?」
「おれはおれさ、鳥飼《とりがい》守」
「わたしの知ってる鳥飼守は、ただのおバカな高校生よ。防衛軍の車をタクシー代りに使ったりはしないわ」
守の顔が、なんかつらそうにゆがんだ。
「おれは……おれだよ」
「ずっとだましてたの?」
「そんなことないよ」
「そんなことあるわよ。ずっとだましてたんでしょ。いつからなの? 最初に会ったときから? そうなんでしょ。最初からだますつもりで、わたしに……」
「だまれ!」
肩を乱暴につかまれ、思わず口をつぐんでしまった。いままでにないぐらい真剣な守の顔がすぐそばにある。
「浩子、おれは……おれは……」
自分がなにものかいえない苦しさに、かれの顔がゆがみはじめた。
そんなのってないよ。だって、わたしにもいえないことがあるなんて。信じてたのに。
胸の底から嫌悪感がこみあげてきた。
「ずっとだましてきたんじゃないの!」
手をはらいのけようとしたら、守はそうはさせじと力をこめてきた。
「はなしてよ。はなしてってば!」
もみあった拍子に、肘が守の顔に当たってしまった。にぶい音といっしょに、守の足元に鼻血がたれた。青い血だった。
おかあさんと同じ青い血。
人間じゃない血。
ふたりとも一瞬、無言でその血を凝視《みつ》めた。
つぎの瞬間、わたしは守に背をむけて走りだした。全身でかれを拒絶しながら。守は茫然として追いかけることもできないでいる。
わたしは懸命に走った。
小さな音がしたと思ったら、腕に焼け火箸を押しあてられたような痛みが走った。ふりかえると、防衛軍の兵士たちが銃をかまえていた。そのうしろには守がいる。守が撃たせたの?
「やめろーっ!」
って声が聞こえたけど、守のかどうか自信がない。たしかめる勇気もない。あるのは、この場を逃げだそうとする恐怖だけだった。わたしは懸命に夜の街を走りぬけた。
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3
おふくろはくるりと背をむけた。その背中がおれを拒否している。ガラスに映りこんだおふくろの姿が、もともと映りこんでいる実体のないムーリアンの姿と重なる。おふくろがムーリアンの衣裳をつけたようにも見える。そして、そのほうが自然に思えた。
「かあさん……。あなたはほんとうに、ぼくのおかあさんなんですか?」
ガラスに映りこんだおふくろの目がちらりとおれにむけられ、それから下に沈みこんでいった。
「できるなら、わたしがあなたを産んであげたかった……」
おふくろ……。きょうまでのさまざまな思い出が浮かんでは消えていく。知育玩具で遊んでいたときのこと、友だちのオモチャをとりあげて静かにしかられたときのこと、おふくろの髪の匂い。授業参観にこなかったし、運動会もいつもおれへの声援はなかった。小学校のころ、ケンちゃんに「おまえんちのおふくろはヘンだ」といわれてケンカしたこともあった。泣きながら家に帰ってきても、おふくろはなにもいわなかったし、おれもなにもいわなかった。あのときの傷は膝にまだ小さく残っている。それでもおふくろは、おふくろだった。疑うこともない事実だと思っていた。それがちがっていたのか……。
雨の音がしはじめた。いや、またテレビがついて、真夜中の砂嵐みたいな音をたてているだけだ。どこかの広い公園が映しだされている。と、その上空に小さな黒い曲面が現れた。縁はきらきらとひかる帯のような光に包まれている。その光の帯がさがっていくにつれて、黒い曲面がのびていき、ひとつの形を作りあげはじめる。卵だ。卵が夜の公園の上空に現れた。
どこかで見たことがあるような気がする。ああ、そうだ。何時《いつ》か久遠がラーゼフォンのコクピットに現れたとき、天井にみえた卵だ。それがいま、東京の明るい夜空を背景に、くっきりと黒く浮かんでいた。
おふくろもきびしい表情で、それを見ていた。そして、ガラスに映りこんでいるムーリアンにむかってなにごとかしゃべりはじめた。人の言葉ではない、なにか別種の言語のようなものを。そこには、さっきまでおれとしゃべっていた人間の雰囲気さえなかった。世界を裏切り、二十億の死をもたらしたムーリアンの姿だ。おふくろは……おふくろは人間でさえなかった。
もどってきた東京での生活が楽しくなかったといえばウソになる。ここには戦いもなければ、逃げだしたくなるような事実もない。記憶は変えられてしまったけど、それも気がつかなければ幸せに暮らせた。生まれ育った自分の家もあったし、好きなものにかこまれた自分の部屋もあった。だけど、それは全部、おふくろが用意したものだった。いや、おふくろと名乗るこのムーリアンが用意したものだ。
「かあさん……」
最後に一回だけ、ささやくように声をかけてみた。だけど、あの人にはおれの声が耳にはいらなかったのか、それを聞きとる余裕もなかったのか、ガラスに映るムーリアンと異言語で会話しつづけている。
もうここにはいられない。
ニライカナイにいられなくなったから東京にもどってきたのに、もうここにはいられない。見るべき真実は見てしまった。いま、目の前にいるあの人の姿こそがすべてだ。
もうここにはいられない。
おれはゆっくりと立ちあがった。おふくろは息子が出ていこうとしているのにも気がつかないようだった。
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断章9 紫東 遙
どおん、どおんとビルを建設する重機がたてるような音が近づいてくる。なんだろうと思って見ると、建物の列のむこう側に巨大な影が浮かびあがっていた。ラーゼフォンだった。上空を何機ものヘリが舞い、サーチライトを当てて、その異様な姿を夜の闇に浮かびあがらせていた。
「ラーゼフォンよ」
「なぜ動いてるんだ。あれは神名が操縦しないと動かないんじゃないのか?」
「わからないわ。だけど、こっちにむかってる」
「神名が呼んでるのか」
綾人くんが呼んでる。なんのために?
「ヴァーミリオンを起動させるよ」
「なんのために?」
「ラーゼフォンの奪還がいちおうの目的だからね」
エルフィは腕に装着した遠隔命令システムに座標数値を打ちこみはじめた。
「どれくらいかかる?」
「起動して、システムチェックしなきゃならないから、二十分はかかると思うよ」
エルフィはシステムの数値を読みながら、半分うわの空で答えた。二十分なんて悠長にまっていられない。ラーゼフォンがこっちにむかっているということは、なにかあの家の中で動きがあったってことだわ。エルフィはヴァーミリオンの起動にかかりっきりだ。こうなったら、わたしひとりでも突入しなきゃ。銃の安全装置をはずして、わたしはひとり潜伏していたマンションの踊り場を離れた。
綾人くんの家の周囲ではあわただしい動きがあった。おそらく近づいてくるラーゼフォンに対してアクションをおこそうというのだろう。軍の装甲車などがタイヤをきしらせて発進していく。好都合だった。わたしは警備の手薄になった路地裏に走りこんだ。私服の男たちがいる。足音に気づいてこちらをむいたところへ、手刀を決める。反撃しようとしたもうひとりに蹴りをいれて昏倒させる。そして、路地裏を走りきり、建物の陰に身をひそませた。ここからだと綾人くんの家の裏口が見える。
十数年まえの記憶をまさぐり、あの家の構造を思いだそうとした。一気に突入して、綾人くんの部屋までいくのにどれくらいかかるだろう、と計算をめぐらせた。
と、そのときだった。裏口から飛びだしてくる人影があった。
「綾人くん!」
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断章10 神名麻弥
綾人がいつのまにかいなくなっていた。ラーゼフォンが近づいてきている。こうなってはなりふりかまってはいられない。やりたくはないが、ヨ・メセタ・プケに直接〔捧げ〕なくては。裏のドアが開く音が聞こえた。外へ出たのだろうか。いそいで出てみると、声が聞こえた。
「綾人くん!」
そして、女があわてて走ってくるのが見えた。女はわたしの姿に気づき、足をとめた。その目がおどろきに見ひらかれる。わたしを知っているようだけど、手にはしっかりと銃が握られていた。
「おばさま」
だれ? わたしを「おばさま」と呼ぶあなたは。
「六道翔吾《りくどうしょうご》の姪です!」
六道の姪? ああ、そうか。そういうことか。ようやく思いだしたわたしは、運命の皮肉というものに、口元に笑みが浮かぶのをとめられない。
「そう……。だから、あなた……」
近づこうとしたとたん、銃を両手で握りしめて女はさけんだ。
「動くと、撃ちます!」
いさましくなったことだ。あのとき、家のソファーで緊張で身をかたくしていた少女が、いま、わたしに銃をむけている。女は銃をむけたまま少しずつ体を移動させ、そして、走りだした。綾人を追いかけるために。
たしかハルカ。そう遙だ。
三年前、中学生だった綾人が、ガールフレンドというものをわが家へつれてきたことがあった。うっとうしいとは思ったが会ってみた。長い髪で、まだ頬のあたりに幼さを残す少女だった。ボーイフレンドの母親に会うという緊張で震えていた彼女は、べつにどうでもいいと思ったはずなのに、なぜか心の底には奇妙なわだかまりがあった。ごくふつうの女の子なのに、彼女の一挙手一投足が気にいらなかった。
そのあと、九鬼に彼女の身辺を洗わせてみると、六道の姪だということがわかった。親戚が東京にいるとは知っていたが、まさかこんな近くにいるとは予想していなかった。いまだったらそんな状況は作るはずがないのだが、あのときはまだ権力を握っていなかったころだ。そういうささいな失敗もある。綾人には、あなたは受験生なんだからとか世間の母親なみのことをいってみたが、あれはあきらめなかった。声をあらげて、反抗してきた。いままですなおにわたしのいうことにしたがっていたというのに、そんなことをするのはめずらしいことだった。だから、財団に父親の会社に手をまわしてもらった。父親の左遷にともなって、たしか関西方面に移転していったはずだ。そのあとのことは知らない。
しかし、彼女がTERRA《テラ》にはいって、こうやって綾人を追ってここまでくるとは予想もしていなかった。亘理《わたり》のやることと思ってほっておいたが、これはすこし調べなければならないだろう。
いや、それよりも早く綾人の身柄を押さえなければ。
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4
おれは走った。このごろ走ってばかりいるような気がする。それも、なにかから逃げてだ。ここはどこらへんだろう。石神井公園のあたりかな。ふりむいてみたけど、うしろの町は静かだった。だれも追いかけてこないとわかったとたん、苦しくなって、自然と足がとまってしまった。だいじょぶだよな。なんどもふりかえりながら、おれはゆっくりと石神井公園の長い壁ぞいに歩きはじめた。
角まで来たとき、ぎょっと足がすくんだ。真っ黒な影が立っていたからだ。影はよろめきながら、こっちに手をのばしてきた。助けをもとめるみたいだった。びびったおれは逃げだそうかと思ったけど、よく見るとそいつは朝比奈だった。
「綾人くん」
朝比奈が、がっくりと膝をついた。おれはあわててかけよった。
「朝比奈。どうしたんだよ」
見あげる朝比奈の目は焦点がさだまらない。
「見て……」
腕のところの青い模様に手をあてて、その掌をおれに見せた。それは血でべっとりとしていた。青い血だった。そんな……、朝比奈まで血が青くなっちゃったのかよ!
朝比奈がおれを見あげて、小さく笑った。
「わたしの血……赤いでしょ。ね、赤いよね」
すがるような目を見たら、ほんとのことなんていえなかった。
「ああ……赤いよ」
「よかった」
安心したように、朝比奈はがっくりと首を落とした。
「よかった……」
語尾が涙にくすんでいくのがわかった。おれのウソに泣いてる。おれがウソをついたってわかったうえで泣いている。こっちまで悲しくなって、胸がしめつけられそうだった。
背後でなにか物音がしたような気がする。ふりむいてもだれもいなかったけど、こんなところでのんびりしちゃいられない。ラーゼフォンの足音が近づいてくるんだ。いそがなくちゃ。
「朝比奈。おれ、もうここにはいられないんだ。いちゃいけないんだよ」
それを聞いた彼女は、がばっと顔をあげた。
「だったら、わたしもそうだよ!」
「ごめん……」
きみをつれてくことはできない。おれは東京の外へ出ようとしてるんだ。いや、帰ろうとしてるんだ。きみはここにいたほうがいいんだ。青い血なんだから。
「おかあさんが青い血になっちゃったんだ」
朝比奈が飛びつくように抱きついてきた。
「みんな、おかしくなっちゃった。守はわたしの知ってる守じゃないし、わたしはむかしのことが思いだせないの」
「朝比奈……」
「つれてって!」
つれてけるわけないだろ。外できみがどんなあつかいを受けると思ってるんだ。みんな、ムーリアンは人類の敵だと思ってるんだぞ。むりやり立ちあがろうとしたけど、朝比奈がすがりついてくる爪が肩にくいこんだ。
「つれてって! つれてってよ! お願い。綾人!」
立ちあがれないでいるうちに、首にしがみつかれた。恐怖に満ちた息が耳元でする。からみつく腕には、まるで溺れた人間が浮き輪にしがみつくみたいな力がこめられている。
「つれてって……。綾人の行くところへ」
おれの行くところ……って、どこだろう。ニライカナイにいられなくなって、東京にもどってきたっていうのに、ここにもいられない。じゃあ、どこへ行けばいいんだ。考えてみれば、朝比奈もおなじだ。どこにも行けやしない。ここにもいられないし、外に出たって居場所なんかない。
だったら、居場所がないもの同士、ひっそりとどこかへ隠れてみよう。
それしかない……。
「行こう」
おれは立ちあがった。
「どこへ」
「どこか、ここではない場所に」
そして、おれたちは歩きだした。夜の闇にむかって。
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断章11 如月久遠
ひいゆるり、ゆうるりい、まろかなる鶏卵のごとき、真黒き床に立つ我ひとり。風の舞う夜空に漆黒の卵が浮いている。保護という名のもとに拘引されたわたしは、病室という名の拘禁室に、ライフモジュールという名の拘束服なしに横たわり、ベルゼフォンという名のわたしの卵を呼んだ。プフ・ル・モノトス・ラ・ギランドス。レメ・ケ・エセ・キラールグイ・ラウ。そう呼んだわけではない。これはいまわたしの脳内に生まれた意味のない音の連なり。ツラナリ。ゆいりりゆうゆうとわたしは卵に呼ばれ、いつのまにやら病室からここに来ていた。ここに立っていた。回転翼の機械が放つ光芒が、闇の暗さからわたしたちを切り取る。切り取られる痛みに、静かに涙が流れでる。と、回転翼の機械が左右に別れ、飛び去った。さった、さった、ボーディーサッタ。おお、金剛菩薩《こんごうぼさつ》よ、その金剛|杵《しょ》によりて、一切の罪苦を打ち砕きたまえ。また少し意識が流れはじめる。それがなぜなのかもわかっている。青きゆうとどろきの悪しきものが近づいてきているために、その波動がわたしの意識を穢し犯しなぶるからであり、この卵のまろき様のせいではない。あれは悪しきもの。ま黒き穢れた鏡と同じ歪んだ波動をもたらすもの。ダメ。ダメ。来てはダメ。わたしを壊してはダメ。卵を壊してはダメ。わたしの叫びを無視するように、翼をもつ女のような青き泥人形が迫りきて、その頭上に生じる光環より殺戮《さつりく》の叫びをあげる。撃滅の音は卵の力場にさえぎられ、ネジマガリ、拡散していく。宙に大輪の死の花が咲き、無数に拡散した光が、足元の公園を破壊していく。築山《つきやま》、機関車、噴水、永遠の平和の火。先ほどまでそこにありましたものが、もう次の瞬間には、ほれ、のうなっておりまする。これも諸行無常。形あるものはいつかはなくなり、移ろいゆくたとえでございましょうや。なう、妹御前《いもごぜ》殿、われを責むるはいかなる理《ことわり》なりや。卵《とりのこ》現出したるはお導きなり、定めなり。おしへけむちくあらたかに、七《なな》月のわずらい、九《ここの》月の苦しみ、当たる十月はなけれども、玉を磨き、瑠璃をのべたるごとくなるこの卵《とりのこ》は、あたしのもんにきまってるでしょー。あんたのもんじゃねえよ。またアレグレットが吼えそうになった。許さない。怒りに呼応するように、卵の一部が割れてまっくろなふっというでがとびだしてきて、まっくろなこうせんをはなったとおもったら、それにあたったあれぐれっとは時空反転させられ、あだし世を去りたまいき。そして、腕は卵の中に戻り、割れていた殻もなにごともなかったかのように、ふたたびつややかに丸くなった。アレグレットにシンクロしていた、わが世に属する者の意識が消えていくのが指先に感じられる。この悲しみ、苦しみを、わたしは忘れないようにしよう。帰りましょう。と呼ぶ声がする。「だめなの……。わたしにはまだ彼女と話さなければいけないことがあるの」
「こわがらないで」
ふりむくと、あの少女がいた。黄色い服を着た少女がいた。彼女は微笑みながら立っているが、ふたたびもどってきたヘリコプターのサーチライトがあたっても、その影が落ちることはない。なぜなら実体がないのだから。
「これはあなたのものよ。あなたは、あちらでもうひとりのわたしと出会う」
あちら、ちらちら、雪のふる。冷たき夜の雪原《ゆきはら》に身を横たえてただひとり、月の光に溶けてゆく。いけない、また意識が流れそうになる。しっかりと自分をとらえねば。そう思う先から、少女のあたたかな、それでいながら残酷な指先が魂にふれ、わたしの体を構成するイメージが保てなくなる。卵に吸収され、その羊水に満ちた球形の宇宙で、殻座にささえられてたゆたう。たゆたう夢に結びしは世界か、はたまた崩落か。その気持ちよさ。その快楽《けらく》。意識は羊水に溶けだしていき、卵が量子崩壊をおこしていくのにも気づかない。量子の不思議なふるまいは、一瞬にして、わたしをあの島に送りこんだ。ナーカルの兄弟《はらから》の島へ。
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5
重い。意識をなくしかけた人間がこんなに重いもんだなんて知らなかった。よくテレビとか映画で、傷ついた仲間に肩を貸してやって軽々と歩いてるけど、ドラマで見るほどかんたんなもんじゃない。おぶったほうが楽かと思ったけど、一度おろしてしまったら、そのままふたりともへたりこみそうだ。自分と朝比奈をはげましながら、一歩、一歩歩いていく。
ヘリのローター音が近い。その投げかける光の中に、無言のラーゼフォンが立ちつくしている。あとちょっとだ。
「ねえ……音楽室でなにがあったのかな……」
「だまってろよ」
「なにがあったんだろ……。思いだせない」
「だまってろって。そんなことより、階段だ。足あげてくれよ。あげろってば」
力がなくなってる朝比奈をしかりつけるようにして階段をあがる。ラーゼフォンは区営グランドのど真ん中で、おれたちをまっていた。
ラーゼフォン……。
こいつがすべてのはじまりだった。こいつさえいなければ、おれは東京ジュピターでなんにも知らずに、ごく普通の高校生活を送っていたんだ。つまんない授業にアクビして、友だちとバカ話をして、熊ちゃんと静かにデッサンしていたんだ。それをこいつが全部、ぶっ壊してくれた。だけど、壊してもらったおかげで、それがウソだったってわかった。高校生活も、おれ自身もウソだったんだ。おふくろが作った幻想みたいなもんだ。幻想だったなんて知らないほうがよかったかもしれないけど、知ってしまったからもうもどれない。東京ジュピターでは暮らせない。だけど、外は……? ムーリアンだと見るや、つかまえて収容所に放りこみそうな連中ばかりだ。それでも外に行くのか? ウソでもいいから、生ぬるい現実にいたほうがいいんじゃないのか。なにもきびしくて冷たい世界に行くことはないだろ。
決意がゆるみはじめた。
おれはもう一度ラーゼフォンを見あげた。ラーゼフォンはなにもいわず、羽根を閉じ、ただだまってそこに立っている。意志があるはずないのに、まるでおれにむかって「どうするんだ」と問いかけてくるようだった。さまざまな想いがこみあげてくる。
そして、おれは叫んだ。
ラーゼフォンがそれに応えて、翼を左右に開いた。静かな瞳がおれにむけられる。いいんだな、と問いかける。いいんだよ、と胸の内で答える。ラーゼフォンはゆっくりと片膝をつき、おれたちを掌にのせてくれた。朝比奈は完全に意識をうしなって、水がはいったビニール袋みたいに重い。彼女を掌の上に残し、おれは光に包まれて、ラーゼフォンに同化した。
静かな水の匂いに満ちた空間に座る。おれの意志に呼応したのか、すでにラーゼフォンの上空に光の輪が生じはじめたのが見える。それはゆっくりと広がっていく。ラーゼフォンを通すために。
おれはもう一度、町を見わたした。おふくろのいる“やさしい”町を。そこには、いくつもの明かりが灯っている。明かりのひとつひとつの下に、小さな幸せがある。テレビを見ながら、家族で笑っているかもしれない。恋人同士ふたりっきりで幸せな時間を過しているのかもしれない。たったひとりで、明日への希望をかかえこんでいるのかもしれない。でも、そのすべてはウソの幸せだ。おれは幸せの姿から目をひきはがし、光の輪を見あげた。
そして、ゆっくりとラーゼフォンを上昇させた。
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断章12 紫東 遙
ダメ!
ラーゼフォンが上昇していく。わたしの指先からまた綾人が逃れていく。なんで? なんでなの。しっかりつかまえたと思うたびに、かれは指先からするりと逃れていく。なんで? なんで? なんでいつも、わたしをおいてっちゃうの!
「だめー! 綾人!」
わたしは叫んで、グランドへとつづく階段をかけあがった。もうすでに頭上の光の輪に、ラーゼフォンはつま先まで飲みこまれつつあった。そして、まるでそこへいくのをはばむみたいに、グランドの高いフェンスがわたしの前にそびえたっていた。
ガシャン――
フェンスをわしづかみにした。
「ダメ! 行っちゃダメよ! 綾人! もどってきて! わたしのところへもどってきてよ!」
喉がかれるほど叫んだけど、その声はとどかず、ラーゼフォンの姿は光の輪のむこうに消えていった。そして、ゆっくりと光の輪は小さくなり、やがてなにごともなかったかのような夜空だけになった。
わたしはひとり、フェンスをつかんで立ちつくす。
いってしまった……。また自分の胸にかれをかきいだけなかった苦しみがこみあげてくる。何度……何度こんなことをくりかえせばいいんだろう。もうやめちゃおう。こんなに苦しむぐらいなら、かれを追いかけるのなんかあきらめたほうがよっぽど楽だ。
だけど、そんなことはできないのは、自分でもよくわかっていた。わたしはフェンスをつかんだまま、その場に膝をつき、泣きくずれた。
どれくらいそうしていたろうか。大きな足音とともにエルフィの声が、背中にふってきた。
「紫東! もうここにはいられない、早くしろ!」
だから? 綾人は行っちゃったんだよ……。
「紫東!」
痛いほどの力でわたしは顔をあげさせられる。そして、頬をはられた。
「しっかりしろ! シトウハルカ!」
乱暴に何度も肩をゆすられる。
「あんたがしっかりしないで、どうするの!」
わたしはハッとわれに返った。そうだ。綾人はニライカナイにも、この東京にもいられなくなった。たったひとりぼっちで、血を流す心の傷をかかえたまま、どこかへ逃げていってしまった。かれをひとりにしちゃいけない。その傷を、血を流すままにしちゃいけない。助けてあげなきゃ。
低い音とともにヴァーミリオンがようやく到着した。
「急いで! 綾人を追いかけましょう」
「そうこなくちゃ」
わたしたちはヴァーミリオンに乗りこみ、東京をあとにした。
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断章13 三輪 忍
わたしの管理下にあった久遠さまが、いなくなってしまわれた。そのことを報告に麻弥さまのお宅にかけつけたところ、こっちも綾人さまがいなくなってしまわれて、大騒ぎになっていた。
「そう」
わたしの報告を受けた麻弥さまは静かにおっしゃった。
「わかりました。追って指示します」
抑揚を欠いた静かな口調はぎゃくに恐ろしい。お怒りになっていらっしゃる証拠だ。なのに、そういうことのまったくわからない九鬼司令が横からしゃしゃりでてきた。
「麻弥さま。TERRA《テラ》の機動兵器への攻撃命令を」
麻弥さまは、司令のほうに目もくれずに、静かに考えこんでいらっしゃる。なのに、それを単純な無視と思った司令は、よせばいいのにうながすようにいった。
「麻弥さま」
「話しかけないでちょうだい」
「ですが……」
「九鬼」
ようやく麻弥さまは司令をごらんになり、にっこりと微笑まれた。
「殺しますよ」
微笑みとは裏腹の言葉に、九鬼司令は完全に硬直してしまった。そばで聞いていたわたしも、息をつめてしまう。ウソでも冗談でもなく、麻弥さまはそれをおやりになるだろうからだ。
でも、どうしてだろう。どうしてゼフォンを逃がし、なおかつTERRA《テラ》の機動兵器まで逃がしてしまうのだろう。久遠さまもそうだ。なぜだろう。アレグレットとファルセットはいなくなったけど、まだ使えるドーレムは何体かある。すぐにでもムーリアンさまたちをご召喚なされば、TERRA《テラ》の機動兵器ぐらいは捕獲できるはずだ。
いや、ちがう。麻弥さまの冷たい決意したお顔を見れば、なにか深いお考えがあってのことだとわかる。わたしのようなものにはとうてい理解できないような、ご計画があるにちがいない。そうに決まっている。
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6
外だ。
東京ジュピターの外に出た。もうもどれない。ウソの幸せは、自分ですてたんだ。
ふりむくと夜空を背景に東京ジュピターが毒々しく輝いていた。全景が見えるってことは、かなり離れた場所にでてきたんだろう。どこだろう、ここは。どこでもいい。東京ジュピターでもニライカナイでもない場所なら。
右手に目を落とした。ハニカム構造のスクリーンがそこまで展開され、自分の右手のうえにラーゼフォンの手がかさなって見える。そこに浮かぶように横たわっている朝比奈がいる。どこにもいられない朝比奈と、どこにもいられないおれ。いったい、これから、どこに行くんだろう。
……わからない。
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第三章 ブルーフレンド
断章1 紫東 恵
TERRA《テラ》本部のセンサーが、東京ジュピター表面の量子波をとらえた。ほぼ一週間ぶりにヴァーミリオンが外にでてきた。量子場の影響で雑音まじりだけど通信が確保された。
「こちらアルファV1。東京ジュピターより脱出に成功。TDDユニットに異常なし。これより帰投する」
「こちらTERRA《テラ》コントロール。了解しました」
あたしがラーゼフォンのことをいおうとしたとたん、ヘッドフォンの奥から信じられない声が聞こえてきた。
「ラーゼフォンは? かれは先に脱出したはずよ」
お姉ちゃんだった。
やっぱり、ヴァーミリオンに乗ってたんだ。
エルフィさんが出発すると同時に姿を消したから、そうじゃないかと思ってたけど、情報部の仕事でいなくなったんだって、あたし、自分にいい聞かせてたんだよ。
ずるいよ。
自分ひとりで東京に行っちゃうなんて。
わたし、ずっとがまんしてたんだよ。東京に行きたかったのに、綾人んとこに行たかったのに、がまんしてたんだよ。なのに……。
ズルいっ!
だまっているあたしのかわりに、キムが応えた。
「十五分前にこちらでもラーゼフォンの脱出を確認しました。しかし、こちらからの呼びかけにも応じず北上、その後、TJ磁気異常によってロストしました。現在、空自の早期警戒機が探索中です。どうなっているのか、状況を報告してください。ラーゼフォンおよび神名くんの身柄はどうなったんですか」
「中でなにがあったのよ!」
たまらず、あたしはさけんだ。
「なんで綾人をとりかえしてこなかったのよ! なんで、綾人はあたしたちんとこに帰ってこないの!」
だけど、お姉ちゃんはなにもいわない。ただ、涙をこらえるような小さなうめき声のようなものがヘッドフォンから聞こえてくるだけだった。
中でなにがあったのよ。
「司令いかがいたしますか」
キムが司令をふりかえって指示をあおいだ。
でも、応えたのは白ヘビ監察官だった。
「とりあえずアルファV1に帰還命令を」
「了解しました」
「楽しくなりそうですな」
白ヘビは立ったまま見くだすように功刀《くぬぎ》司令に目をやり、冷たく口元をゆがめた。
「一機しか配備されていないヴァーミリオンを支援もなしに東京ジュピターに突入させたあげく、ラーゼフォンの奪還にも失敗した。みごとな作戦指揮ぶりですよ、功刀《くぬぎ》司令官どの」
功刀《くぬぎ》司令は眉ひとつ動かさないでいる。
あたしだったら、いまごろあいつの顔ぶんなぐってるだろうな。
「紫東大尉にもこまったものだ。命令権限もなしに、われわれの機密事項であるヴァーミリオンにもぐりこみ、あまつさえ東京に潜入したのですからな。彼女の報告を聞くまではわかりませんが、サボタージュの疑いをかけられても当然でしょう。軍事法廷にかけるべきですな」
司令がちらりと白ヘビを見あげた。
「おや、ご不満ですかな。残念ながら、人事権もすでにあなたから剥奪されている。それに……」
やけに芝居がかったしぐさで、白ヘビはポケットから一枚の紙をとりだしてみせた。
「連合統轄部から今朝とどいた命令書です。功刀《くぬぎ》仁大佐、あなたは本日づけをもって、その任を解かれ、追って指示があるまで謹慎を命じます。よろしいですな」
わざとらしく司令の顔をのぞきこんだ。なんて、イヤなやつなんだろ。
「なお、処分に不満のある場合は、三日以内に上申する権利があります。その権利を行使しますか?」
「いや」
功刀《くぬぎ》司令が静かに答えると、白ヘビは満足そうにうなずいた。
「それがよろしい。いかなる処分もあまんじてうけようとおっしゃったあなただ。悪あがきはやめておくことです」
そして、命令書をおりたたむと司令の胸ポケットに押しこんで、小バカにするように上からかるくたたいた。ほんと、やることなすことイヤミったらしいよね。
白ヘビはもう司令のことは無視して、わたしたちをねっとりした目で見まわした。
「なお、監察官権限により、これよりTERRA《テラ》の指揮はわたくし、一色真がとる」
げえっ、あたしたちに、あんなやつの下で働けっての。
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朝比奈浩子の日記 五月二十四日
外。
安全障壁……あ、こっちでは絶対障壁っていうんでした。その外に自分がいるなんて信じられません。しかもこんな緑がいっぱいあるなんて、ウソみたいです。なぜって、学校では絶対障壁の外には、無人の荒野が広がってるだけだって教わったからです。空気だって、べつにヘンじゃありません。神名くんは、最初でてきたとき思わず口を押さえてしまったって笑ってました。そうしたくなる気持ちはよくわかります。それまで、ずっとそう信じてきたんですもの。だいたい時間がちがうって、どうやって信じればいいんでしょう。今年が二〇二八年だなんて、なんかの冗談みたいです。大戦が二年まえじゃなくて、十六年も前に終わっていたなんて。十六年なんて、わたしの人生と同じくらいです。そんなのすぐに信じろっていわれてもムリ。実感がわきません。地動説だったのが、じつは天動説でしたっていわれたようなものです。はあ、そうですか、っていいたくなります。
それがほんとうかもしれないと思ったのは肌寒さです。いくら山の中とはいっても、八月、夏のまっさかりにこんな寒いなんて信じられません。もしかすると、綾人くんのいってることはほんとうなのかも。そのとき、そう思いました。
ふりかえると、夜空に稜線だけが見える山と山のむこうにかすんで東京ジュピター――大都市の光が障壁に反射して、光って見えるのだそうです――が見えました。夜だっていうことを感謝したくなりました。昼間だったら、遠近感がおかしくなりそう。遠くの山が小さくなっているのに、それより大きなものがそのむこうにあるんですもの。あそこからでてきたんだ。って頭ではわかってるけど、あんまり感慨はわきませんでした。
わたしたちはダムの堤防に立っていました。満々と水をたたえているダム湖に、大きなロボット――神名くんはちがうっていってますけど、どう見たってロボット――が沈んでいこうとしています。これにのって安全……じゃない、絶対障壁を越えてきたっていわれても。そんな力があるロボットを、なんで神名くんは操縦できるの? たずねても、ちゃんと答えてくれません。ただ、おれだけが操縦できるんだっていうだけです。
東京で、ただひとり前と変わらないと思っていた神名くんが、じつはいちばん変わってしまったのかもしれません。
あそこにいたときは、少なくともごくふつうの高校生だったはずです。それがわずかのあいだに――神名くんがいうには、東京の時間で一ヶ月ぐらい、こっちの時間だと半年もいなくなってたらしいんですけど、わたしの記憶にかれがいない時間はありません――こんなになってしまうなんて。
でも、とにかくいまはかれのあとについていくしかないのです。たよれるのは神名くんだけです。
かれのあとにしたがって山道をおりました。ダムへと通じる一本道は車一台通らず、心細くてしかたありませんでした。怖いぐらいの虫の声と、ときおり聞こえる口笛みたいなカン高い鳥の鳴き声、それとわたしたちの足音しかありません。
「ここはどこなの?」
たずねたけど、神名くんはちゃんと答えられませんでした。かれもよく知らないようです。
「とにかく、街へおりていけばなんとかなるよ」
そういうだけです。でも、なんとかなるっていえるだけでも、かれは強いと思います。わたしはとてもそんなことはいえませんでした。ただ、おびえているだけでした。
夜がしらじらと明けてきたころ、ようやくバス停を見つけました。時刻表を見ても、ほとんど空欄でわずかに午前中に二本、午後に二本通るだけです。東京からすると信じられませんでした。
時間をたずねると、神名くんは首をふりました。
「おれ、東京にはいるとき自分の時計置いてきたんだ。だから、これはおふくろが買った東京の時計。きみのとおなじで正確な時間じゃないよ」
ここでは正確じゃないけど、わたしたちだけの時間です。
長いこと歩いたので、足が疲れたわたしはバス停のベンチに腰をおろしました。かれが近くにある展望台のような場所にいってくれたおかげで、ちょっと靴をぬぐことができました。少しヒールが高い靴だったので、足がマメだらけです。でも、弱音ははきません。どこまでも綾人くんについていかなきゃならないんですもの。
そのとき、わたしを呼ぶ声がしました。びっくりして、あわてて靴をはきなおします。みっともないとこ、見られなかったよね。さいわいかれは展望台からの風景に見入っていて、わたしのほうは見ていませんでした。
展望台にいくと、あたりが一望できました。朝靄がたなびく山々のあいだに、まだ夜のなごりをとどめた盆地がありました。そこは宝石箱をひっくりかえしたように明かりがきらめいています。人の生活がきらめいています。綾人くんは、それをすがすがしい顔で見ていましたけど、わたしは怖いです。暖かいはずの街の光が……。
ふたりとも疲れきっていて、ベンチで肩をよせあうようにして眠ってしまいました。バスのクラクションにおこされたときには、もうずいぶんと日が高くなっていました。バスにゆられて、展望台から見えた街――京多《きょうだ》市といいます――に着きました。
東京ほどではありませんが、人がたくさんいる街でした。知らない人ばかりで、わたしは不安のあまり神名くんの袖をしっかりとつかんだのです。
「だいじょうぶだよ。葉を隠すには、葉の中。人を隠すには人の中って、むかしからいうだろ。人が多い街のほうが安全なんだ」
そうなのかもしれません。でも、なんでかわかりません。わたしが逃げるのは当然でしょう。だけど、神名くんは? こっちで一度受けいれられたんじゃないんでしょうか。それがだれから逃げるんでしょう。神名くんは教えてくれません。ただ、あのラーゼフォンとかいうロボットと関係していることでしょう。だって、あんなもの軍隊かなんかから盗んでこないかぎり、高校生が手にいれられるもんじゃないからです。かれはきっと、軍隊から逃げだしてきたんだと思います。
「ねえ、時計貸してくれないかな」
って神名くんがとつぜんいいだしました。なにするんだろうと訊いてみると、質屋に持っていくというのです。たしかに着のみ着のままで飛びだしてきたから、お金ももってないし――もってたわずかなお金は、さっきのバス代で使いきってしまいました――ほかに売れそうなものなんて、高校生が身につけてるはずがありません。だから、わたしは時計をはずして、かれにわたしました。
わたしたちの時間を、かれに託しました。
じゃ、ここでまってて、といわれて、わたしは質屋さんの外に残されました。街ゆく人々が歩きながら、ちらり、ちらりとこちらを見ます。視線がつきささるようでした。東京の人間だってバレてるのかと思って、ドキドキしました。ほんとうはわたしの格好が夏服だったので、ヘンな子だなあって見てたんでしょうけど、神名くんのいない時間はものすごく心細かったです。なんども質屋さんに飛びこもうとしましたけど、やめておきました。ここでまってろっていわれたんですもの、たとえなにがあってもまちつづけなきゃ。
時間にしてたぶん二十分もかからなかったでしょうけど、その時間は二時間ぐらいに感じられました。ようやく神名くんが質屋さんからでてきました。どうだったの? とたずねると、
「意外と高く売れたよ。朝比奈のがさ、MU《ムウ》大戦の翌年発売されるはずだった型で、ほとんど市場に出まわってないんだって。レアものなんだってさ」
といいました。ウソだと思います。かれの表情はそんなに高い値段で売れたという感じではありませんでしたし、だいいち、あれは高校入学のお祝いにもらったとはいえ安物です。そんなに高く売れるはずがありません。でも、わたしはせいいっぱいの微笑みを浮かべて、かれの苦労をねぎらってあげました。
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正直、質屋には買いたたかれた。さんざん時計を調べて、二〇一三年生産モデルは発表されたけど、市場に出まわらなかったレアものだとかなんとかいっときながら、たいした値段ではひきとろうとはしない。文句をつけたら、オヤジは無言で看板を指さしやがった。そこには「十八歳以下の未成年の方は、保護者の同意書が必要です」と大きく書かれていた。くそっ。人の足元見やがって。でも、とにかくお金を手にいれなきゃ。しかたがないから、その金額でがまんしてプリペイドカードにしてもらった。
質屋から出ると、ガードレールに腰かけた朝比奈がいた。見てるこっちの胸がしめつけられそうになるほど、心細そうだった。そして、おれの顔を見るなり、かなしいぐらいに露骨に顔を輝かせた。こいつは……おれが守ってやらなきゃ。
「どうだった?」
「意外と高く売れたよ。朝比奈のがさ、MU《ムウ》大戦の翌年発売されるはずだった型で、ほとんど市場に出まわってないんだって。レアものなんだってさ」
「そっかあ、よかった」
といって朝比奈は笑ったすぐあとに、大きなクシャミをした。
「とにかく服買わないとね」
「そうだね」
彼女は恥ずかしさに顔を紅らめながら、うなずいた。とにかく、手にいれたお金で服を買う。ちょうどシーズン最後のバーゲンをやっていたので、けっこう安く服が買えた。朝比奈はもこもこのパーカー。おれはトレーナーにアポロキャップとメガネ。メガネは度のはいってないオモチャみたいなやつだ。通りのウィンドウに映してみると、まあ、たいした変装じゃないけど、パッと見はごまかせそうだ。
少し目深にかぶったほうがいいかな、なんてウィンドウを見ながら帽子をいじっていたら、朝比奈がウィンドウのおれをのぞきこんだ。
「だしてくれて、ありがと」
え? それって、どういう意味だ? お金だしてくれてってことかな、それとも東京の外にだしてくれてってことかな。彼女のほうを見たけど、こっちに背中をむけたから、どんな表情がその顔に浮かんでるかはわからない。
「プ・レ・ゼ・ン・ト」
彼女は区切るようにいいながら、調子をあわせて、ぴょんぴょんと跳んだ。そっか、やっぱ買ってもらえて、そんなにうれしかったんだ。
「金の半分はおまえんだぜ。自分で買ったようなもんじゃないか」
どうってことないよ、って感じでいったつもりなのに、朝比奈はぴたりと足をとめてしまった。
「ううん、だしてくれたのは神名くんでしょ」
その言い方とその背中は、やっぱり東京の外にでてきて後悔してるっていいたげだ。
「朝比奈、ほんとうにこれでよかったのか?」
「いいの。いいのよ、これで……」
すぐにかえってきた答えが、彼女の気持ちを裏切っている。ほんとうによかったかどうか、自分でもわかってないんだ。そんなことないよ、絶対、こっちのほうがよかったんだよ、っていえないおれがいる。おれにだってわかんないんだもの。
「とりあえず、なんか食べようぜ」
「うん、そうしよ」
ふたりともウソっぽい笑いをかわして、うなずきあった。
「すみません。長距離切符買いたいんですけど、プリペイドカードでいいですか」
京多駅のみどりの窓口でたずねてみる。大都市だとクレジットじゃなくて、プリペイドではらうのをイヤがるらしいけど、ここではそんなことはなかった。
「どちらまでですか?」
「鹿児島まで、一枚」
帽子もかぶらず、メガネもかけず、わざわざ東京からでてきたまんまのかっこうで切符を買った。ちゃんと目的があってのことだ。朝比奈がその切符をすぐに金券ショップに持ちこんで、別のプリペイドカードにしてもらい、青森までの深夜バスのチケットを買った。そして、帽子とメガネで変装して、朝比奈とはわざと少し時間をずらして乗りこむ。さも、知りあいじゃありませんよ、って顔で。
めんどくさい方法だけど、これで少し追跡の手を逃れられる。おれのオリジナルってわけじゃなくて、前に安っぽいミステリーで読んだ方法だ。自慢じゃないけど、こんなこと思いつかないよ。
深夜バスの車窓のむこうに夜が見える。京多市はほんとに小さな街で、バスで十分も走ればすぐに街はずれになり、あっというまに田んぼだらけになった。ときおり、街灯が通りすぎるだけの短調な風景が、いつまでもつづく。窓ガラスに通路をはさんだ反対側の座席に座った朝比奈の顔が映る。その横顔は心細そうだ。
おれが東京の外にでたときも、あんな不安そうな顔してたのかなあ。遙さんはどういう想いで、それを見てたんだろう。あのとき、おれも信じていた世界がウソだとおしえられて、たよるものもいない世界に放りだされた。それを遙さんはやさしくはげましてくれた。ムーリアンだっていうのに、ニライカナイで自分の家族のようにあつかってくれた。おれがラーゼフォンを操縦できるから、やさしくしてくれたのかな。 あの遙さんにかぎって、それはないような気がする。
ニライカナイのみんなもどうしてるかな。きっと怒ってるだろうな。勝手にラーゼフォンを持ちだして、東京にはいりこんでまた飛びだしてきて、帰ってくるかと思ったら、こうやって逃げまわってるんだもの。おれが八雲さんだったとしても、ゆるさないよな。それがわかっているけど、逃げまわらなきゃならない。だって、この世界で朝比奈がたよれるのは、おれだけだもの。
おれは窓ガラスに映りこんだ朝比奈の顔をじっと凝視《みつ》めた。
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朝比奈浩子の日記 五月二十四日つづき
わたしは窓ガラスに映りこんだ神名くんの顔をじっと凝視《みつ》めました。ほかに凝視《みつ》めるものもないからです。
なんかすごくめんどくさい方法で深夜バスに乗りました。神名くんはこうすれば、少し追跡をかわせるっていってたけど……。かれはだれから逃げてるんでしょう。でも、それはかれを必要としているからです。この世界には、かれをもとめている人がいるのです。
窓のむこうには夜しか見えません。どうしようもないほど不安です。
終点の青森まで行かずに、途中の大竹という町でおりました。あたたかいバスからおりたとたん、夜の冷たい空気に思わずぶるっとなってしまいます。ずいぶんと北に来たものです。そのあと長距離トラックに乗せてもらいました。トラックの運転手さんは「かけおちか?」とかひやかしたけど、でもいい人でいろいろ楽しい話も聞かせてくれました。そして、渕穴《ふちあな》という街の近くでおろしてもらいました。渕穴市は海ぞいに身をちぢこませるようにしてある町です。埋立地は東京の湾岸みたいに、新しそうな奇抜な建物がならんでいます。ただどれも低くて、ひとつだけ塔のように高層ビルが建っています。そういう町です。
「どうするの?」
と、たずねると神名くんは、しばらくここに隠れていようといいました。夜おそくに着いたので、ホテルはどこもやってなくて――ハデな外見のホテルは空いてましたけど、さすがにそれはちょっと――しかたなく、オールナイトの映画館にはいりました。オールナイトの映画館ってはじめてです。はいったとたんに、へんな臭いがします。床はジュースのこぼしたのかなんかで、ねちねちしてるし、椅子だって古くさくて座りにくい。でも、ぜいたくはいってられません。上映しているのは、赤い血がいっぱいでてくるB級のホラーばっかりです。わたしは嫌いですけど、どうせ英語は聞き流せるし、目をつぶってしまえばどうってことはありません。
明日になったら、ちゃんとしたホテルをさがさなくちゃ。しばらくこの街に隠れているんだもの。しばらくってどれくらいでしょう。隠れるって、つまり、ふたりっきりで暮らすことになるんですよね。不安がいっぱいなのに、ちょっとうれしいと思ってしまう自分がいました。イヤでした。自分が汚い女になったみたいで。ついきのうまでは、鳥飼守っていう彼氏がちゃんといたのに、いまは神名くんと暮らす想像をして、ちょっとうれしくなっているなんて……。
そんなことを考えているうちに、眠ってしまいました。
そして、悲鳴に近い声をあげてはねおきました。イヤな夢を見ました。怖かった……。だけど、どんな夢だったかは思いだせませんでした。青い血がべっとり手につくような夢でした。息をついて顔をあげると、スクリーンに「政府広報」とでていました。つづいて、子どもにもかけそうな簡単なアニメが映しだされ、ナレーションがかぶります。
「わたしたちの生活をおびやかす人類の敵ムーリアン! ムーリアンは青い血を流します。青い血の人間を見たかたは、いますぐもよりの警察署にご一報ください。倒せ、ムーリアン! ムーリアンは地球の敵。おそろしい侵略者なのです」
むごいナレーションでした。神名くんに聞いたときはピンとこなかったけど、ここでは東京の人間はみんな、人類を二十億も殺してしまったムーリアンの仲間なんです。
肌がざわりと粟立ちました。東京でのことが思いだされます。母の血、守の血、そして、わたしの血。いいえ、わたしの血は赤いです。だってあのとき、流れた血は赤かったんですもの。青く見えたのは、母や守の血を見て動転してたからです。傷には神名くんが巻いてくれたハンカチがあります。それが青いのは、そういう模様だからです。
それに神名くんがいってくれたんです。赤い血だよって。わたしはそれを信じます。
となりを見ると、神名くんはぐっすりと眠っていました。わたしはおこさないように、かれの手をそっと握りしめました。この手のあたたかさ。それだけが、いま信じられることのすべてです。あとはこの世界全体が、わたしに敵意をもっています。どうしたらいいんでしょうか。
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断章2 弐神譲二
カウンターに座りつづけて三十年、人生の悲喜こもごもみんな見てきましたよ、ってな感じの質屋のオヤジだよな、こいつは。ついでにいやあ、あんた守秘義務って言葉知ってんのか、っていいたげな顔してる。守秘義務なんざ、おれにとっちゃ屁でもないね。
「そいつでIDをチェックしたのはわかってる」
机の上にある旧式のIDチェッカーを指さしてみせる。
「すなおに質草を見せな」
オヤジは一瞬ためらった。国連権限で銃つきつけたろか、と思ったとき、オヤジはあきらめたようにため息をつき、おもむろにふたつの時計さしだした。質草は時計か。さぞかしこまってるだろうな、時間を売っちまって。だけどなあ、レヴェル・ワン、おまえさんに残されてる時間は少ないんだぜ。なぜなら、おれが追っかけてるからだ。
「証拠だ。返ってくるなんて思うなよ」
指紋が消えないようにハンケチで時計をくるむと、オヤジが抗議の声をあげた。レアものを安く買いたたいたくせに、えらそうな顔すんじゃないよ。おれはおもむろにオヤジの前に書いてある注意書を指でたたいて教えてやった。「十八歳以下の未成年の方は、保護者の同意書が必要です」って、わざわざ大きく書いてあるじゃないか。
「あんたみたいな良心的な経営者が、違法な売買行為をするわけないよなあ」
せいぜい皮肉をきかせてやると、オヤジは小さくため息をついて、首をふってみせた。そうそう。長いものには巻かれな、それが利口ってもんだぜ。
外はどしゃぶりの雨だ。死んだ親父が好んで使った表現をするなら、「車軸をくつがえすような雨」ってやつだ。草薙の車に乗りこもうとちょっと傘をとじただけで、肩のあたりがズブ濡れになっちまったほどだ。
「だしてくれ」
「どちらへ?」
「とにかく走れ。それからだよ」
草薙をどやしつけて、車をださせる。
「このあたりにまちがいない。5Aはたぶん山のほうだ。おい、地図」
「すみません。カーナビしかつんでないもんで」
草薙がすまなそうにいう。
「バカヤロウ。運転にはカーナビが必要だろうけどなあ、捜査には地図が必需品なんだよ。ったく」
ぶつぶついいながら、カーナビを操作する。山のほう、山のほう……。おっと、岡崎ダム。たぶん、これだな。
「おい、ここのダム管理にきのうかおととい、水位変化がなかったかどうか確認とっとけ」
「ラーゼフォン一体で、ダム全体の水位があがるとは思えませんが」
「おまえは、どうしてそう一言多いんだよ。あんなでっかいものが沈んだら、でっかい波がおきるに決まってるじゃないか。だまって、運転してろ」
「ですから、どちらへ」
ったく、こいつは気がまわらねえやつだな。
「駅だよ」
JR京多駅はすぐ近くだったが、駅にはいるまでに、またぞろ濡れちまった。まあいいや、今回はクリーニング代もきっちり請求できるんだから。もっとも、獲物をつかまえられれば、の話だがな。窓口の駅員は、写真を見せるとたしかに切符を買いにきたと証言した。
「髪型はこんな感じでした。服装は半袖で、さすがに寒くないのかなあって思いましたよ」
半袖のまま? くさいなあ。
「メガネとかで変装してなかったか?」
「いいえ。この写真どおりでしたよ」
「切符はどこまで」
「鹿児島までです。めずらしいですよね。こっからなら、飛行機使えば早いのに」
たしかに。……もっと賢い獲物だと思ってたんだが。半袖、鹿児島、半袖、鹿児島。そのふたつの言葉がみょうにひっかかるな。駅員に礼をいって、またぞろ濡れて車に飛びこむ。
「見つかりました?」
「まあな。……この街の金券ショップわかるか? とくに身分証明にうるさくないところだ」
草薙はまかせてください、とばかりにキーボードをたたき、またたくまにいくつかの店をリストアップした。三軒目でビンゴだった。たしかに鹿児島行きの切符を売りにきたやつがいた。ただし、少女である。大藪芳子と名乗っていたそうだが、おそらく偽名だろう。人相風体《ニンテイ》は、さすが未成年から金券を買いたたく店だけのことはある。パーカーとショートの髪型しかおぼえていなかった。残りの店にもあたって、鹿児島行きの切符を買ったかどうか確認したが、三軒目以外どこも買っていなかった。
少しは賢いようだが、同伴者こみかい。連れがいるのは、こっちにとって好都合だ。それだけ逃げにくくなるからな。おれは車にもどると、さっそく携帯で連絡をとった。
「鹿児島行きの切符を買っていますねえ。たぶん、そのあたりに潜伏してるんでしょうな。いえいえ、……それでは」
けっ。あいかわらず、いけすかないやつだぜ。
「どちらへかけてたんですか」
「一色の野郎だよ」
「ああ、白ヘビかあ」
草薙にまで白ヘビ呼ばわりされちゃあな。思わず一色に同情したくなったぜ。
「連合統轄部に暗号連絡。……目標は鹿児島方面にむかうと見せかけて、他方面に逃走中。調査はなお続行。以上だ」
「はい。……あの、TERRA《テラ》へはどうします?」
「あそこはほっとけ」
ほっといたっていい。おれを使ってマルカンあらため追跡対象レヴェル・ワンの捜索にあたらせるってことは、統轄部はTERRA《テラ》ぬきに5Aの運用をしようってことだからな。おっとっと、そんなことは下っぱの判断することじゃないな。へたに動いて政治にまきこまれちゃあ、たまったもんじゃない。
「さあて、靴底をへらしに行くぞ」
「弐神さん、なんか楽しそうですね」
草薙が車を発進させながらいった。
「猟犬は、きつねが賢いほど、やる気をだすものさ」
さて、きつねどん。どこまでおれを楽しませてくれる?
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朝比奈浩子の日記 五月二十五日
映画館をでたときには、すっかり明るくなっていました。ふたりともせまい椅子で寝ていたので、腰が痛くなっていましたけど、朝の空気はとても気持ちよかったです。それから市の観光案内で安いホテルをいくつか教えてもらいました。お金がそんなにないので、歩いてまわらねばならないのですが、小さな街のようでも歩くとかなり広いです。一軒目のホテルはことわられました。二軒目は高い部屋しか空いてませんでした。そうやってホテルをめぐっているうちに、とうとう夕方になってしまいました。足はもうくたくたです。でも、ようやく泊めてくれる安いビジネスホテルを見つけました。
カウンターで宿泊名簿に名前を書かされます。神名くんはためらわずに「三島守」と書きました。「守」という字を見て、胸が少し痛みました。わたしは神名くんの下に「三島綾」と書きました。
部屋は海に面したとても気持ちのいい部屋でした。だけど、ベッドは大きいのがひとつだけです。しかたありません。ダブルとツインでは値段がちがうからです。いいんです、わたしたちは兄妹ですから。宿泊名簿では。
「疲れたろ」
部屋にはいると、神名くんがやさしくいってくれました。
「ううん」
「ウソつけ」
ほんとはもう足がくたくたでした。
「先にシャワーでも浴びたら?」
といわれて、ドキドキしました。わたしがちょっとびっくりした顔をしているのを見て、神名くんはきょとんとしていましたけど、すぐに気がついたようです。
「あ、そういう意味じゃないよ」
顔を真っ赤にしてあわてて否定しました。神名くんの、こういうまぬけなところが、わたしは好きです。
いわれるままにシャワーを浴びることにしました。でも、そのまえに歯をみがかなきゃ。だって、もうずいぶんみがいてないから、気持ち悪かったんです。ホテル備えつけの歯ブラシでみがきました。ホテルの歯ブラシって、硬いじゃないですか。わたしは知らないうちに、口のなかを傷つけていました。ゆすごうと思って歯ブラシを口からはなしたら……。
ブラシの先は真っ青でした。
まるで絵の具をぬったみたいに……。わたしはブラシを投げ捨てました。
ウソ。だって、神名くんは赤いっていってくれたのに。このハンカチだって、青い模様なのに。おそるおそるハンカチをはがしてみると、そこには小さな傷が走っていました。
それはどこまでも青く、わたしを裏切っていました。
「わたしたちの生活をおびやかす人類の敵ムーリアン! ムーリアンは青い血を流します」
頭の中で、きのう見た政府広報がくりかえされます。
「青い血の人間を見たかたは、いますぐもよりの警察署にご一報ください」
警察に電話しなきゃ。青い血の人間を見ました。それは、わたしです……。そんなこといったらどうなったでしょう。警察がここに突入してきて、射殺されるのかしら。それとも、みんなが石や棒を持ってわたしを追いかけまわすのでしょうか。
「倒せ、ムーリアン! ムーリアンは地球の敵。おそろしい侵略者なのです」
神名くんがなにかいっていました。だけど、わたしは返事もできず、よろめくように洗面台からはなれ、ドアによりかかりました。
「朝比奈! 返事してくれよ! 気分でも悪いのか?」
わたしはあわててドアノブをつかみました。もし、いま神名くんにはいってこられたら、わたしがムーリアンだってバレてしまいます。返事をしなきゃと思っても、声が喉のあたりにはりついていました。
「なんでもない」
ようやく声がでました。
「なんでもないの。ちょっと目まいがしただけ。お腹がへってるせいよ、きっと……」
ウソつきです。この世界の人たちから攻撃されたくないからウソをつきました。神名くんに捨てられたくないから、ウソをつきました。いいえ、それもウソです。ほんとうは、わたしがムーリアンだとわかったとき、神名くんの目に浮かぶであろう嫌悪の色が見たくないからウソをついたのです。
「なんだ。じゃあ、どっか食べにいこうぜ」
明るい神名くんの声が背中につきささりました。痛くて、涙がでてきました。
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2
腹がへったっていう朝比奈をつれて、夜の街に出た。
「なに食べよっか。って、ここらへんの店知ってるわけじゃないけどさ。歩いてりゃなんかあるよ」
「神名くんにまかせる」
朝比奈はなんか元気がない。まあ、歩きまわって疲れきったろうし、目まいするほど腹がへってるんじゃしかたないか。
「トンカツはどう?」
「お肉って気分じゃない」
「だったらあっさり系だよな。ウドンかソバだったら、どっちがいい?」
ふりむくと朝比奈は立ちどまってたたずんでいた。
「やっぱぐあいでも悪いんじゃないのか?」
首をふる朝比奈の顔はあまりよくなさそうだった。歩行者用信号の青いライトがあたってるせいかな。
「神名くん、あのね……、わたしね……」
なにかいいたそうだけど、いいだせないでいる。
「聞いてほしいことがあって」
「なんだよ、急にあらたまって」
「あのね……」
信号が赤に変わった。朝比奈がなにかいいかけたけど、その声は通過する大型トラックの爆音にかき消えてしまった。
「なんだよ」
うながしてやると、彼女の顔に笑いそこねたような笑みが浮かんだ。
「ボンゴレがいい……」
「そっか」
ふたりともわざとらしい笑みをかわして、うなずきあった。
「なあ」
「ん?」
ボンゴレの皿から朝比奈が顔をあげた。ようやく見つけたスパゲッティ屋で、おれたちは遅い食事をとっていた。
「守どうしてっかな」
彼女の顔が凍りついたように堅くなるのがはっきりとわかった。
「そのメガネ、けっこうにあってるわよ。……ちょっと貸してくれる?」
答えをはぐらかされた。守とのことをしゃべりたくないんだ。そういえば、東京をでる直前、「守はわたしの知ってる守じゃない」っていってたっけ。なにがあったんだろう。「ねえ、ねえ、にあってる?」
という彼女の目は、メガネの奥で、不安の色を隠しきれないでいた。
さっきだって、そうだ。信号のところで、なにをいいかけたかだいたいは想像できる。自分がムーリアンだってことだと思う。きみはそうだっていうのは、簡単なことだ。だけど、万が一おれみたいに知らなかったら、万が一自分はふつうの人間だっていうウソにしがみついていたとしたら……。おれは八雲さんみたいな立場になりたくなかった。
できればムーリアンや守の話題はさけるべきだ。いまの彼女は薄いガラスの風鈴みたいにもろい。これ以上傷つけたら、こわれてしまうかもしれない。
「ねえ、ボンゴレ少し食べる?」
「ああ、もらうよ」
器用に一口分フォークにまきとられたボンゴレは、なんとなくしょっぱかった。朝比奈の涙の味だった。
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断章3 弐神譲二
雨はふりつづける。いやな雨だぜ。女の涙にしても泣きすぎだ。
おれは長距離バスの営業所で聞きこみだ。長距離バスの運ちゃんへの聞きこみってのは時間だけがすぎて行く。いって帰ってくるだけでも一日がかりって連中が相手だ。ものによっちゃ、むこうで一泊してからってやつまでいる。待合室の湿り気をおびた安っぽい椅子に腰かけて、ただタバコだけを吸いつづける。草薙たちには市内のタクシー会社を片っぱしから当たらせている。まあ、金のない連中がぜいたくにもタクシーを使うとは思えないが、5Aが岡崎ダムに沈んでるとしたらそこからあまり遠くに行きたくないってのは人情だ。もちろん、できるだけはなれておきたいってのも人情だ。人情なんてよくわかんねえものがあるから、おれはいまここに座っていまいましい雨を見あげている。……それにしても、この椅子、ケツがすぐに痛くなってくるな。
そのいまいましい椅子をけり飛ばしてやろうかと思いかけたとき、ようやく青森行きの運ちゃんがもどってきた。さっきネットで連絡したら、たしかに少年を乗せたという有力候補のひとりだ。バスからおりようとした片足がまだステップにあるうちに、おれは運ちゃんをつかまえて、レヴェル・ワンの写真を見せた。
「ああ」
お、脈ありって顔だ。
「メガネをかけてましたけど、たぶんこの子だと思います」
ビンゴ。ようやくおまえの足跡を見つけたぜ、きつねどん。
「つれはいなかったか?」
「おつれさんかどうかは、わかりませんけど、おなじ年頃の女の子がいっしょにおりましたね」
「おりたのは?」
「大竹です」
「大竹?」
「青森の手前ですよ」
運ちゃんはそういって営業所の壁にかかげてある古ぼけた運行地図を指さした。停留所でいうと青森のふたつ手前だ。
「ありがとよ」
語尾がまだふたりのあいだでただよっているあいだに、もうおれは走りだしていた。臭跡を見つけたときの猟犬は早いんだよ。走りながら草薙に連絡して、車を持ってこさせる。
草薙のケツをたたき、制限速度なんか無視させて高速を走らせる。こんなスポーツカーに乗ってて、安全運転もねえだろうが。おれが若いころまではガソリン車全盛だったから、スピードをあげると低音が心地よく腹に響いたもんだ。だけど、電気自動車ってのはどうも感心しない。スピードをいっくらあげたって、気のぬけたみたいな音が高くなるだけだ。
ようやく大竹に着く。JRの駅に小さな町がしがみついてるみたいな、なんにもない場所だぜ。
「ラッキーですね。ここだったらすぐに見つかる。山に逃げこまれると、ちょっとめんどうですけど」
草薙が大マヌケなことをぬかしやがった。レヴェル・ワンはサバイバル訓練うけた潜入ムーリアンじゃねえんだぞ。ただのガキが、まだ頂上に雪がのこってるような山に逃げこむかよ。
「ばかやろう。こんなところに男の子と女の子が逃げこんだら、それこそコート・ジボワールの日本人ぐらいには目立つ。こっからヒッチハイクしたんだよ」
「どこですかね」
草薙が地図をひろげた。
「国道を北上すると、神楽を通ってそのまま青森まで行きます。南下すると宮前、渕穴、三の下……」
南下したか北上したか。こうなると頭の出番は少なくなって、足の出番になるな。
「よし、聞きこみだ」
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朝比奈浩子の日記 五月二十六日
きょう、朝おきたら、神名くんはもう服を着て出かける用意をしていました。バイトにいってくるといいます。日雇いの仕事らしいです。
「だいじょうぶ?」
って訊いたら、平気さって答えたけど、きのうだってわたしにベッドをわたして、自分は冷たくて硬い床に寝てたから、あんまり眠れてないはずです。
「ねえ、ムリしないでよ。わたしも働くから。ほら、女のほうが割がいいんでしょ」
割がいいといっても、神名くんはなんのことかわかっていないようでした。だから、しかたなく、「夜のバイト……」といいました。かれの顔がものすごく怖くなりました。ぶたれる、と思いました。だけど、神名くんはわたしの手をとって、やさしくぴしゃりとたたいただけでした。
「そんなこというなよ。おまえのほうが働けるなんて、こっちがへこむじゃないか」
笑いながらいってましたけど、目はものすごく悲しそうでした。ごめんね、神名くん。もう二度とあんなこといわない。ごめんね。でも、本気だったんだよ。わたし、あなたのためなら汚れてもいいと思ったの。
「むりしないでね」
「わかってるよ。じゃ……」
そういって出ていく神名くんのうしろ姿を、わたしはホテルの窓からいつまでも見おくりました。
神名くんのいなくなった部屋は、ものすごく広いです。なんとなく寒く感じられます。そんなところに、わたしはひとり、ぽつんと投げだされています。備え付けのテレビをつけたら、大戦前によくドラマで見ていた少年役の俳優さんが、おじさんになって出ていてびっくりしました。そのすぐあとにコマーシャルがはじまり、またあの政府広報がはいりました。
「わたしたちの生活をおびやかす人類の敵ムーリアン! ムーリアンは青い血を流します」
あわててスイッチを切りました。テレビが黙ると、静けさが窓のほうから忍びよってきます。押しつぶされそうになって、あの放送がはいったら切ればいいのよ、とまたスイッチをいれました。朝のワイドショーをやっていましたけど、知りもしないタレントさんの噂ばかりで少しもおもしろくありません。コマーシャルがはいると、そのたびに政府広報が流れるのではないかと心臓がドキドキして、耐えられなくなってスイッチを切ってしまいました。そうすると、また静けさが忍びよってきます。それがイヤでテレビをつけると、あれが気になって消す。そんなことを何回かくりかえしてから、とうとうプラグをひきぬいてしまいました。
ベッドにひっくりかえってもすることがありません。時間はイヤというほどひきのばされて、時計を見るたびに一分もたっていないので腹がたってきます。
東京のことをいろいろ考えました。守のこと、かあさんのこと。中学のころのこと……。音楽室のイメージがまた浮かびました。あそこでなにかあったことは確実です。たぶん神名くんと。なにがあったのかはまだ思いだせません。でも、これだけ印象にのこってるんですから、きっといいことだったにちがいありません。
いいことだったにちがいありません。絶対に。
神名くん早く帰ってこないかなあ。
ノックの音がしました。帰ってきたようです。よかった。
いま、神名くんは寝ています。現場でもらってきたという段ボールを床にしいて、毛布を体にまきつけるようにして丸くなっています。あまりはっきりとはいいませんけど、肉体労働のようです。身元にうるさくなくて、日払いでくれるバイトは、そういうのしかないのかもしれません。
もし、かれになにかあったら、どうしましょう。
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3
日曜になった。たった二日働いただけなのに、くたくたで午前中ずっと眠っていた。目を覚ますと、朝比奈がじっとおれの顔をのぞきこんでいた。
「なんだよ」
「ううん。ただ神名くんの寝顔見てただけ」
そういって笑う朝比奈は、きっとおれを眠らせておくために、おきてからも息を殺していたにちがいない。
「悪いな」
「え?」
「なんでもないよ。さてと」
おきあがったとたん、筋肉痛に顔をしかめる。やっぱ美術部の人間に、港湾労働はあまりむいていない。こんなことなら、ウェイトリフティングでもやって体力つけておくべきだった。ラーゼフォンに乗ってたって、体力がつくってわけじゃないもんなあ。
「ねえ、これから神名くんがベッドで寝なよ。わたし、下でいいから」
「いいんだよ。男の見栄なんだから」
実際、ベッドになんか寝たら、疲れから爆睡してしまってきっと朝おきられないと思う。
「メシは?」
ベッドサイドにおいてある買いおきのパンを見たが、手をつけた様子がない。
「なんだ、おれのことなんか気にせず、食べればいいのに」
「そんなにお腹すいてないから」
でも、おれがおきるのをずっとまってたのは、あきらかだった。
「外に食べに行こうぜ」
「でも、パンがあるよ」
「肉体労働者はパンぐらいじゃ力がでないの。さ、行こ。行こ」
朝比奈をせきたてるようにして、外につれだす。外は春の陽ざしがまぶしかった。
街で朝食兼昼食をすませて、商店街をぶらぶらした。生活するって、けっこうたいへんだと思う。東京ではおふくろがすべてやってくれたし、ニライカナイでも遙さんや恵がなんのかんのやってくれたことを全部やらなきゃならないんだ。このトレーナーもそろそろ替えが必要だな。なんて思いながらぶらついていたら、すずしげな音がした。ふたりとも同時に足をとめる。一軒のファンシーショップの店先にガラスの風鈴が風に音をなびかせていた。
「かわいい音」
青い鳥の絵が描いてあるごくふつうのガラスの風鈴だったけど、ふたりの心になぜか響きわたった。考えてみれば、朝比奈はおれがいないあいだ、見つからないようにって物音ひとつたてずにホテルの部屋にいるんだ。静かすぎる部屋だよな。せめて風鈴ぐらいあったほうがいいかもしれない。
「買ってやろうか」
「いいよ。もったいない」
「それくらい、だいじょうぶだよ」
「いいの。ぜいたくだわ」
風鈴ひとつをぜいたくだといってしまう朝比奈が、抱きしめてやりたくなるぐらいかわいそうだった。
月曜日になって港に行くと、監督に「おまえみたいなへなちょこは、月曜になったらこないって思ってたぞ」とおどろかれた。よっぽどおどろいたのか、その日の賃金はほんの少し多かった。生活必需品を買って、ホテルの支払いをすませても、まだ少しあまりそうだ。よし、あれ買ってやるか。
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朝比奈浩子の日記 五月二十九日
日記を書いているうちに眠ってしまいました。おきたときにはもう夜でした。窓からの月明かりが部屋を青白く照らしています。なにもかけずにベッドで日記を書いていたはずなのに、目がさめたら毛布をかけていました。あれ? と思ったら、綾人くんが帰っていました。
「おこしちゃった?」
月明かりの逆光のなかで綾人くんがやさしく微笑みます。
「ううん」
「そ。……体は疲れてるんだけど、なんか寝られなくってね」
「お帰り。ごめんね、寝ちゃってて」
「いいよ。朝比奈の寝顔見てたから」
恥ずかしさに耳まで紅くなりました。
「ひどかった?」
「なにが」
「寝相」
「ひどかった。歯ぎしりはするし、うなされるし、すごかったよ」
「ウソ」
「ウソだよ」
といって、また綾人くんは笑います。
「もう。ふざけても女の子にいっていいことと、悪いことがあるのよ」
わたしがかるくぶとうとしたら、静かな音がしました。あれ? なんの音? 見ると、きのうの昼間お店で見た風鈴が、エアコンのわずかな風にゆれています。
「あれ」
「安かったから、買っちゃった」
「いいのに」
「いいんだよ。この部屋静かすぎるだろ。東京から出てくるとさ、静かさにとまどったりするんだよね」
昼間、この部屋にひとり残されるわたしのことを心づかってくれるのが、とてもうれしかった。涙がでてきそうでした。
「ありがとう」
「いいって。さ、寝よ」
そういって、綾人くんは段ボールの上に体を丸めました。疲れているだろうに……その姿はとても痛々しく思えました。
「ねえ、こっちで寝たら?」
「こないだもいったじゃない。男の見栄。やせがまんってやつ。だから、ほっといて」
「そうじゃなくて、ダブルなんだから半分ずつ使えばいいじゃない」
綾人くんはしばらく黙ってしまいました。
「やっぱりダメだよ。そんなことしたら、おれ……。おれ……」
つらそうに言葉をきると、かれは毛布をひっかぶると背中をむけて横になってしまいました。その背中はわたしをこばんでいます。いえ、自分の欲望をこばんでいる姿です。
男の子のそういうのってよくはわかりません。
でも、綾人くんだったら、いいのに……。
かれはいま寝ています。この日記はサイドボードの明かりで書いています。
風鈴がゆれました。
静かな音をたてています。
哀しい音にも聞こえます。
いつまでこの生活がつづくのかわかりません。これがもろいガラスのようなものだというのも、よくわかってます。だけど、いつまでもつづいてほしい。このままずっと。
また風鈴が哀しいガラスの音をたてました。
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断章4 弐神譲二
くそっ。ここんとこのおれはずっと雨男だ。八戸でも、三の下でもずっと雨だった。渕穴はきょうは曇りって予報だったのに、おれがついたとたん、小雨だけどふりだしてきやがった。
レヴェル・ワンと同伴者は、この街にいる。この数日、ほんと靴の底をへらすみたいに飛びまわった。上の連中は毎日、報告しろ、結果をだせ、っていってきたけど、だったらもっと人員と金を増やせってんだ。そしたら、ふたりを乗せた長距離トラックの運ちゃんなんて、一日で見つけてやったよ。金はださない、人はださない、だけど口だけはだすんだからな。
とにかく、ここまで追いつめた。あとは時間の問題だ。ここから先に行ったという可能性は考えないことにしている。おれの長年のカンは、ふたりはここにひそんでいると告げているからだ。しかし、渕穴市は小さいとはいえ、人をふたり隠すにはじゅうぶんすぎる街だな。どこから手をつけるか。市内のホテルにあたるか。週貸しのマンションにあたるか。渕穴は港街だから、きっと港湾関係ならあまりうるさいこといわない日払いの仕事があるだろう。そこをあたるか。そのまえに腹ごしらえだな。たしか、渕穴は白湯スープのラーメンが有名だったよな。
店にはいって一息ついて、ようやくラーメンが出てきたとき、草薙から連絡がはいった。
「5Aが動きだしました」
「なんだって!」
くっ。うまそうな白湯ラーメンちゃん、食べてあげられなくてゴメンな。泣く泣く代金をはらって、領収書をもらう。食べられなかったんだから、せめて出張費で落としたい。
「くわしく説明しろ」
おれは本ぶりになりやがった外に飛びだし、携帯にむかってわめいた。
「それが……うわっ!」
携帯からのけぞるような草薙の声が響いたかと思ったら、なにか巨大なものが大量の水を落として移動していくような音が聞こえてきた。
「……方向に……です……」
くそっ。雑音で聞こえない。5Aが移動しはじめたというのか。
「どうした!」
携帯をどなりつけてみたが、雑音しか返ってこない。くそ。いったい、なにがおころうとしてるんだ。おれはどしゃぶりの雨をふらす重い空を見あげた。
[#改ページ]
朝比奈浩子の日記 五月三十一日
あれから六日たちました。でも、東京ではまだ一日しかすぎてないなんて、まだ実感がわきません。
きょう、朝でかけたと思ったら綾人くんがすぐに帰ってきてしまいました。バイト先で、入港予定の船がはいらないから、きょうはいいと帰されてしまったそうです。部屋でくさくさしていてもはじまらないので、綾人くんをさそって外へでました。
小雨でした。
傘はありましたけど、綾人くんのにいれてもらいました。きっとはたから見れば恋人同士に見えたことでしょう。
「どこ行く?」
「神名くんの働いてるところ」
「港か。それもいいね」
わたしたちは港に行きました。潮の匂いがします。お台場の海浜公園みたいな海ぞいの公園がありましたけど、雨だから人はほとんどいません。なんかわたしたちで貸りきってるみたいでした。屋根つきのベンチがあって、そこに腰をおろすと、ゆきかう船を間近で見ることができました。綾人くんは、あれはLPG船だとか、パナマ船籍の貨物船だとかいろいろ説明してくれました。かれがいうには、このわずか数日間でくわしくなったんだそうです。港で働く人たちにいろいろ教えてもらったようでした。
「あの船どこいくのかなあ」
わたしがつぶやくと、外国だよ、たぶんヨーロッパか、アフリカ。と綾人くんが教えてくれました。
「いいなあ。わたし、このあいだまで世界って東京だけだって信じてたんだよね」
「おれもそうだよ。おれのほうが、ちょっと早いだけ」
綾人くんは、いずれアメリカかアフリカに行きたいそうです。アメリカはわかるけど、アフリカはどうして、とたずねると、ピカソやそのほかの芸術家に影響をあたえたアフリカン・アートの源流を見てみたいんだそうです。アフリカのサバンナにライオンと立ってる綾人くんを想像して、ちょっと笑ってしまいました。ひさしぶりに笑った感じがします。
「なあ、朝比奈はどっか行ってみたい国ってある?」
そんなこと急にいわれても答えようがありませんでした。
「どこでもいい。どこでもいいけど……ここじゃない、どこかの国。すごく遠い」
汽笛の音がものがなしく響きました。小雨にぬれた海鳥が、公園の手すりで羽根を休めています。海鳥をうらやましく思いました。だって、かれらはその翼で好きな場所に行けます。だけど、わたしには翼はありません。わたしを乗せて、ここじゃない、どこかの国へつれていってくれる船もありません。わたしをムーリアンだっていって追いかけない国なんて、この地球のどこにもないのです。
たったひとつだけあるとしたら、そこは東京です。だけど、そこへは帰れません。
悲しくなってきました。
わたしはムーリアンです。この世界の人間ではありません。
そのときでした。綾人くんが小さな声をあげて、指を口にはこびました。木のベンチのささくれをさしてしまったようです。
「見せて」
トゲをとってあげようと、なにげなく見たその指先には、ぽっつりと針でつついたように血がにじみだしていました。
赤い血が。
わたしとちがう血が。
わたしと綾人くんのあいだに流れる深い河をのぞきこんだ感じでした。
こらえきれず、涙がこぼれてきました。声をあげて泣いてしまいました。
ほんとうにこの世界で、わたしはひとりぼっちです。たったひとり信じられる綾人くんも、赤い血の人なのです。
そんなのって悲しすぎます。
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4
「なに書いてるの?」
「いいの。気にしないで」
朝比奈は、あわててメモ帳を閉じた。その目はまだ真っ赤だし、声も涙で少しかれていた。
公園で朝比奈の涙にあわせるように、どしゃぶりの雨がふってきた。泣きつづける朝比奈をひきずるようにしてホテルに帰ってきた。傘はさしていたけど、ふたりともずぶ濡れになった。シャワーでも浴びたらといったけど、朝比奈はベッドに腰をおろして、首をふるだけだった。雨はふりつづけている。雰囲気にたえられなくなって、おれはシャワーを浴びることにした。熱いシャワーを頭から浴びながら、石鹸をつけたら、指先にしみた。まだぽつりと赤い指先を見ながら、きっとこのことだろうと思う。自分の青い血を気にしてるんだ。
この問題を話さずにきたことが悔やまれた。
ふたりともごまかしながら、避けて通ってきたんだ。でも、もうごまかせない。ちゃんと話しあおうと心に決めて、バスルームからでたら、朝比奈はなにかをメモ帳にいっしょうけんめい書いていた。ふりむいた彼女の髪は、まだ少し濡れて光っている。
「シャワーは?」
「まだいい」
「寒くない?」
「だいじょうぶ」
しかたなく、おれはベッドの反対側に腰かけた。話のとっかかりが見つからない。どうしたらいいんだろう。
「あのさ……」
声はかけてみたものの、つづきがでてこずに、不器用な言葉だけがベッドのうえに無造作に転がった。
雨はふりつづける。その音が部屋に満ちていくけど、それは沈黙を重くする役にしかたっていなかった。この静かさは、東京の家の静かさだ。そうだ。おふくろの話をしよう。とにかく話していれば、沈黙だけはなくなる。
「あのさ。おれのおふくろ、ほんとうはおふくろじゃなかったんだ。けっこう冷たいひとなんだけど、それはそれでいいところもあってさ。うまくいえないけど、信じてたんだ。おふくろのこと」
話してるうちに、おふくろの顔が思いだされた。やさしく微笑んでいたおふくろの顔が。
「笑っちゃうよな。ほんとうのおふくろじゃなかったなんて。ほんとうの母親はどこにいるんだろう。……おれってなんなんだろう。……おれ、なんで生まれてきたんだろう」
おれは苦く言葉を切った。ほんと、なんで生まれてきちゃったんだろう。
「そのおふくろがいったんだ。あんたの血もいずれ青くなるって」
朝比奈がふりかえるのが、背中でわかった。
「ほんとうなんだ。おれ、ムーリアンなんだ。だからこっちにいられなくなって、東京に逃げ帰って、やっぱりそこにもいられなくって……。おまえとおんなじなんだよ」
やさしくて、でも熱い塊が背中にぶつかってくるように押しつけられた。朝比奈の体だった。小さくすすりあげる声が聞こえる。
「朝比奈……」
「ごめんね」
朝比奈が涙声でいった。
「わたし、自分のことしか考えてなかった。神名くんのこと、なんにも考えてなかった」
「おれ……」
「だまって。いまはこうさせて」
おれの背中に顔が押しつけられ、声がくぐもった。背中が涙で熱くなっていくのがわかる。彼女のつらさが伝わってきて、おれも涙がでそうになった。
「ねえ、音楽室でなにがあったのかな」
朝比奈が懸命に話題を変えるようにいってきた。
「わかんない。おれも思いだせないんだ」
「でも、いいことだよね。ゼッタイ」
「そうだよ。絶対にいいことだよ」
「そうだよね。ゼッタイ、ゼッタイいいことがあったんだ。だから、忘れられないのよ。ふたりが忘れられないってことは、わたしたちにとって、とってもいいことがあったんだわ」
明るい口調でいいながら、朝比奈はつらそうに息をのんだ。
「わたし、むかしのことさえ思いだせないの。もう自分の記憶も信じられない。神名くんしかいないのよ。ほかになにも信じられない。信じられるのは……」
細い腕がおれの胸にまわされた。
「このあたたかさだけ」
彼女の手に、手をかさねる。雨にあたったまま冷えてつめたい手だった。そのかわいそうな手を握りしめてやる。おれの手であたためられるなら、いつまでも握っていてやりたい。
「朝比奈……」
ベッドに倒れこんだのは、どちらが先かわからない。気がつくと、ふたりともベッドに倒れこんでいて、朝比奈がおおいかぶさるようにおれを抱きしめていた。そのときおれは、人のやさしい重さというものをはじめて知った。人の体がこんなにも熱いって、はじめて知った。
おれの顔のすぐそばに、朝比奈の顔がある。髪からいい匂いがした。彼女の匂いだった。
「朝比奈……ダメだよ」
そういうのがやっとだった。おれの声はかすれていたし、弱々しかった。
「神名くん……綾人くんって、あったかいね」
つめたい手がおれの手にかさねられる。だけど、つめたさの下に息づく熱さがある。その熱さに溶けてしまいそうだ。
おれは彼女の瞳を見た。こんなに深い色をしていたのか。小学校からいっしょだっていうのに、彼女のことはなにも知らなかったんだ。
瞳のなかにおれが映りこんでいた。彼女もおれの瞳のなかに自分を映しこんでいるんだろうか。
すぐそばに唇がある。濡れて、熱をおびてふくよかになった唇がある。
彼女の息の音が伝わってくる。
おれの息の音も伝わっていく。
彼女の心臓の音が伝わってくる。
おれの心臓の音も伝わっていく。
いっしょに時を刻みはじめる。
苦しい。こんなことしてちゃいけないって頭がいうのに、心がついていかない。朝比奈の手をなんども強く握ってははなす。
「いいのよ」
その言葉で、おれは自分にさからえなくなった。
ふたつの唇が重ねられそうになったとき、おれは強烈な気配を感じて身をおこした。
「どうしたの?」
想いを断ち切られた朝比奈が、おどろいたような声をあげたけど、そんなことにかまっちゃいられなかった。おれはベッドからとびおりると窓にかけより、カーテンをあけた。
「綾人くんっ!」
窓のむこうに重く厚い雲がひろがっている。と、窓ガラスがわずかに震動しはじめた。そして、雲のなかで雷のような光がきらめいたかと思うと、どおんという衝撃音とともにホテルがゆれた。雲が円周状に割れ、満月が切れ目に見えた。その満月を背に、黒い巨大な影が浮かびあがった。ドーレムだ。スカートをつけたみたいなドーレムが、おれをむかえいれるように両手をひろげながらおりてくる。
おふくろだった。おれをさがしもとめているのは、TERRA《テラ》だけじゃない。おふくろもまたもとめているんだ。また東京につれもどすために。
ドーレムは口元にやさしく冷たい微笑みを浮かべながら、街の上をゆっくりとこっちに近づいてくる。
「なに、あれ……」
朝比奈がすがるように、おれの服をつかむ。
「ドーレムだ」
「ドーレムって?」
「おれたちの敵だよ」
「敵……」
そう、敵だ。その一文字が胸にはっきりと刻まれた。
近づいてくるドーレムとはちがう音がした。視界の隅にすごい速度でやってくる影が映りこんだ。あれは、ラーゼフォンだ。
ラーゼフォンは、近づいてくるドーレムとホテルのあいだに体を割りこませるようにして空中でとまった。そして、ドーレムの前に立ちはだかる。
ラーゼフォンはおれを守ろうとする。だけど、ラーゼフォンがいなければ、おれがドーレムにねらわれることはない。その皮肉に、思わず口元がゆがんだ。
でも、これは逃れられない運命なんだ。やるしかない。やるしかないんだ。
「朝比奈……。おれ、東京で自分はうしなうものなんてなにもないって思ったんだ」
ラーゼフォンがおれを受けいれる光を放ちはじめた。
「でも、ちがった。おれには守らなきゃいけないものがあった」
おれは伊達メガネをはずしてふりかえった。ラーゼフォンの放つ光のなかに、不安そうな朝比奈がいた。
「おれは、おまえを守る。おまえを守りたいんだ」
朝比奈の顔が、うれしさにくしゃっとくずれて、泣きそうになった。
「神名くん……」
「だから戦ってくる。おれ、あいつを倒してくるよ」
「わたし、いわなきゃいけないことがあるの」
朝比奈は思いつめた目でおれを見あげた。
「だいじょうぶ。かならず帰ってくる。だから……ここでまっててくれ」
「わたし、わたしね。綾人くんともっといっぱい話したいの」
おれもだよ。だけど、もう体がラーゼフォンの放つ光にひきあげられていく。
「だから神名くん。……綾人くん!」
彼女が手をのばした。
「浩子ッ」
おれもつかもうと手をのばしたけど、指先がふれあいそうになっただけで、とどきはしなかった。ふたりのあいだは、どんどんはなれていく。
「わたし、まってるから。ずっと、ずっと、ずーっとまってるから」
おれのほうに手をのばしたまま、懸命に叫ぶ彼女に青い翼のような光の影が落ちた。まるで天使のようにも見える。
ガラスの風鈴がちりんと鳴った。そうか、風鈴に描いてある青い鳥の絵が、ラーゼフォンの光であんなふうに見えたんだ。
ラーゼフォンにひきよせられて、おれの体は窓を越えた。朝比奈のいるホテルの窓が、どんどん小さくなっていく。
「ここでまってるから! 綾人ッ!」
その声を聞きながら、おれはラーゼフォンに吸いこまれていった。まってろよ、かならず勝って帰るから。
「やってやるよ」
おふくろがそうまでして、おれをとりもどしたいんだったら、おれは戦ってやる。
たしかに大人から見れば、ままごとみたいなもんだったろうさ。
もろいものだったかもしれない。
ごまかしっていう砂のうえに建てられたものだったかもしれない。
だけど、小さいけど、幸せにはちがいなかったんだよ。
それをぶっ壊しやがって。浩子を悲しませやがって!
おれは、浩子を守ってやらなきゃならないんだ。
ラーゼフォンが吼える。戦いに歌う。
それに応えるようにドーレムもまた、歌いはじめた。
戦いがはじまった。
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断章5 弐神譲二
やれやれ、なんてこった。街中でおっぱじまっちまったぜ。街を舞台に対峙する5Aとドーレムなんて、これじゃあ、東宝の怪獣映画だよ。雨がやんでくれたのが、せめてものすくいだ。
街の連中ときたら、ぼんやりと見あげているばかりだ。中にはビデオをまわしてるやつまでいやがる。十年以上たつと、ドーレムの恐怖なんて忘れさられちまうのかね。もっとも5Aだって見るのははじめてだろうから、どっちがイイモンかなんてわかりっこない。
バチバチ――
火花が散るような音がして、街の明かりがゆらめいた。見あげて、ちょっとたまげる。なんだい、ありゃあ? でっかいビルの窓があるものは消え、あるものはつき、形をとりはじめた。ほら、年末なんかに梅田のビルの窓明かりでツリーを映しだすみたいなもんだ。電光掲示板みたいに文字が浮かんできやがる。
「コ・ン・ニ・チ・ハ・オ・ゲ・ン・キ・デ・ス・カ」
どうなってんだ? 見まわすと、電気屋の店先にならんだテレビにも同じ文字が映しだされている。果てはおれの携帯の表示まで。
「ア・ヤ・ト・ク・ン」
なんだよ。なんでレヴェル・ワンに語りかけてんだ。まさか、あのドーレムがしゃべってるとでもいうのか?
「ヤ・メ・テ」
おい。こりゃ、たいへんなことになるぞ。
「レヴェル・ワン! いや、神名! いますぐやめろ」
声をかぎりと叫んだが、聞こえるはずもない。もっとも声がとどいたところで、いまのあいつには聞こえなかったかもしれない。
5Aが歌うように声をはりあげ、そして、一気にドーレムにつっこんでいった。
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ふたりの歌
「おまえを守る」
綾人くんの言葉が、いまも熱く胸に反響している。でも、戦って傷つかないでほしい。わたしを守るために傷ついたりしたら、たぶんわたしは一生自分がゆるせないだろう。
目の前で、ドーレムとかいうのと、綾人くんが乗ってるラーゼフォンとかいうのが対峙している。ラーゼフォンはこちらに背をむけていて、そのむこうにドーレムがいる。まるでフードを目深にかぶったような感じで目は見えないはずなのに、その眼がくっきりとわたしにむけられたのがわかった。
ぞわりと背筋が粟立った。
背中になにかがのしかかってくる。
苦しい。
息ができない。
くいしばった歯のあいだから息がもれ、胸がしめつけられるように痛い。
ダメ。なんだかわからないけど、それはダメよ。
こばんだのに、それは内臓をつかみあげるような不快感をもって、わたしの魂をしばりあげた。
悲鳴がもれる。
目の前にラーゼフォンの姿がだぶる。
ひとつは背中をむけて、ひとつはこちらをむいて。
その意味するところはただひとつ。わたしがドーレムだということ。
背中にのしかかられる重みで、わたしは窓際のテーブルにつっぷしてしまった。もうわたしの体はわたしのものじゃない。なにかにとってかわられたようだ。綾人がいっていた。ムーリアンは別世界にあって、人間とシンクロしないかぎり、この世にはでてこられないって。本物のムーリアンが、わたしの体にとりついているんだ。
そして、わたしを綾人と戦わせようとしている。
そんなのはイヤだ! って、いっくら叫ぼうとしても、声は喉にはりついてしまって出てこない。むりやり目を開くと、メモ帳が目の前にあった。
伝えなきゃ……伝えなきゃ……伝えなきゃ……綾人くんに。わたしのほんとうの気持ちを。
わたしは歯をくいしばって、ペンを握った。
D1アリアが、ラーゼフォンの体に響いてきた。
「うおおおおっ!」
おれの口からも、それに対抗するように叫び声があがった。そして、ラーゼフォンを一気につっこませる。スカートはいたみたいなドーレムが目の前に迫ってくる。
ドーレムが右手をあげた。
全身の力をこめてぶつかったラーゼフォンを軽々と受けとめやがった。
くそっ。やってやろうじゃないか。
右手をふりあげたとき、ドーレムの口が開き、強烈なD1アリアがたたきつけられた。
すさまじい衝撃だった。
バランスを崩したラーゼフォンは倒れこみ、地面をえぐるようにしてはじき飛ばされた。
まずい!
このままじゃ、浩子のいるホテルにぶつかってしまう。
おれは渾身の力をこめて、ラーゼフォンをあやつり、なんとかその手前で体をとめた。
たった一発のD1アリアでラーゼフォンをふっ飛ばすなんて、とんでもないやつだ。
と、スクリーンいっぱいに飛んでくるドーレムが迫ってきた。
ものすごい質量にのしかかられ、ラーゼフォンの体が地面に沈みこむ。
同時にドーレムの右腕がラーゼフォンの腹にめりこんできた。
操縦席のある水面に衝撃波が走り、おれの頭のなかまでかきまわされた。
一瞬、ふらっとしてしまうほどだ。
まずい。これじゃあ、やられちゃう。
浩子を守れなくなる。
背中にだれかがのしかかっている。わたしの意志を奪おうとしている。わたしは懸命にペンを動かした。小学生が書くような震えた字しか書けない。
「コンナコトシタクナイ……」
こんなことしたくないよ、綾人。わたしがあなたを傷つけるなんてしたくない。信じられるたったひとりの人間を傷つけるなんて、ほんとうにしたくないよ。
助けて。こんなこと、わたしにやらせないで。
なのに、わたしはドーレムの右腕をラーゼフォンの腹につきたてていた。
いやな音がする。
ラーゼフォン自体がきしんでいる音だ。その衝撃は直接おれの体にも響いてくる。
ドーレムが右手を腹につきたてたまま、おしりを浮かせるような格好をとった。
スカートみたいなフレアの下に、蜂の腹のようにふくらんだ部分がある。そこから針が息づくように出たりはいったりしている。針の先は毒をふくんでいるのか濡れて見える。たぶん、あれをラーゼフォンにつきたてる気だ。
気がつくと、おれは叫んでいた。
「決めたんだ、おれ。決めたんだ。おれは……浩子を守るんだああっ!」
その声が、そのままラーゼフォンの声になった。全身から光が放たれ、その衝撃波でドーレムの体をふっ飛ばしてやった。
なぐられたみたいに、わたしの体がテーブルからはじき飛ばされた。あまりの衝撃に声もでない。床に倒れたまま、しばらくうめくことしかできなかった。でも、立ちあがらなきゃ。立ちあがって、つづきを書かなきゃ。わたしは懸命におきあがろうとした。
なんでおきるんだよ。そのまま、ぶっ倒れてりゃいいのに。
「守るんだ! おれは守ってやるんだ」
ちらりとホテルをふりかえった。おれたちの部屋の窓に明かりが灯っている。あの明かりを守らなきゃならないんだ。
「おれは浩子を守るんだあっ!」
渾身の怒りを歌にして、おきあがりかけたドーレムにたたきつけた。ドーレムはまるで人形のように投げだされ、港の大きな倉庫に激突して、倉庫を半壊させた。ざまあみろ。
「伝えなきゃ。……いわなくっちゃ。……綾人に……」
わたしは懸命におきあがり、ペンを握ろうとした。だけど、痛みで指がいうことを聞かずに、ペンをとり落としてしまった。ひろわなきゃ。ひろって、綾人に伝えなきゃ。
「ホントウノコトガイイタイ」
って。
「モットハナシガシタイ」
って。
だけど、指が……。激痛に目がくらみそうになりながら、わたしはペンをひろい、文字を書きつづけた。わたしの最後の想いを……。
まだ、おきあがるつもりかよ!
おれはラーゼフォンを飛ばし、一気に間合いをつめた。
苦しそうなドーレムが、最後の力をふりしぼるように腕をつきだしてきた。
だけど、そんなもんはもう通用しない。
おれは、ラーゼフォンのこぶしをドーレムのつきだしてくる腕にたたきつけた。
こぶしとこぶしがぶつかりあう。
一瞬、あたりに昼間のような閃光が走り、すべてが光と影にわかれた。
そして、ベキベキと音がして、ラーゼフォンのこぶしが、ドーレムの腕を打ちくだいた。
ドーレムは絶叫した。
悲鳴が街に、海に響きわたった。月も陰るほどの悲鳴だった。
だけど、おまえだけは許さない。小さな幸せを壊しにきたおまえだけは許さない。
あいつをあんなに悲しませたおまえらが悪いんだ。
おれは、全身の力をこめて、右腕をふりあげた。
この一発は浩子のためだ!
もういいの……。
痛くない……。
苦しくないの……。
もうこれで、綾人を傷つけずにすむ。楽になれる。
綾人、この一週間楽しかった。夢みたいだった。
「ア ヤ ト……」
自分の顔に笑みがひろがるのがわかる。きっととびっきりの笑顔だろうな。綾人くんに見せてあげたかったぐらいの。
そして、ラーゼフォンのこぶしが、わたしの胸にたたきつけられた。
静けさが広がっていく。
その中で、わたしが最後に聞いたのは、窓際の風鈴がゆれた音だった。
おれは怒りとともに、ラーゼフォンのこぶしをドーレムの胸にめりこませた。つらぬけとばかりにたたきつけた。
ドーレムの悲しい声が夜空に響き、そして、その全身から力がぬけていくのがわかった。ドーレムは、棒につらぬかれた人形みたいに動きをとめた。ざまあみろ。おれは荒い息をしながら、破壊されたドーレムをにらみつけてやった。勝ったんだ。おれは浩子を守ったんだ。守りぬいたんだ。
そのとき、風鈴の音がした。
え? と顔をめぐらせると、高いビルが目に飛びこんできた。
その壁面に、窓の明かりで文字がつづられていた。
「ダ・イ・ス・キ・ダ・ヨ」
ウソだ……。
その瞬間、ラーゼフォンの腕の中のドーレムがはじけ、あたりに青い液体をまきちらした。青い液体を全身に浴びながら、ラーゼフォンは、おれは凍りついたように動けないでいた。
ビルの壁面の文字がつづく。
「ア・ヤ・ト……サ・ヨ・ナ・ラ……」
ウソだ。
ウソだ。
ウソだあああっ!
おれの叫び声は、歌となって夜空の満月に響いていった。
どこかで風鈴の音がした。
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断章6 弐神譲二
びっくりまなこの支配人を外にまたせて、ドアを開けると、血の臭いがした。いつかいでもイヤな臭いだ。青い血でも、人間のものとおなじように臭いやがる。
部屋の中は静かだった。季節はずれの青い風鈴がひとつ、もろそうな音をたてていた。
あたり一面に青い血が飛び散っている。
血の海の真ん中で、レヴェル・ワンが死んだように座りこんでいる。手にした少女っぽい手帳には、乱れた字で「サヨナラ」と書かれていた。たぶん、最後の一字を書いてたときに逝っちまったんだろう、「ラ」の字が涙みたいに長く流れていた。その手帳をレヴェル・ワンはじっと凝視《みつ》めたまま、固まったように動かない。
そして、ベッドのうえには少女の動かない体が横たえられている。おだやかな死に顔だ。気が動転しちまってるのはわかるけどよ、ホトケさんの手ぐらい組んでやれよ。おれは彼女の手を組んでやり、そっと手をあわせて成仏しろよとつぶやいた。さてと、あとの処理は日本政府の対ムーリアン部隊にまかせて、こちとらレヴェル・ワンを奪取しなきゃならない。
「さあ、行こうか」
おれにしちゃあ最大限にやさしく声をかけて、手までそえてやったっていうのに、レヴェル・ワンときた日には、ふぬけた人形のように体から力がぬけきってやがる。
「立つんだ!」
声をはりあげたら、ようやくこっちに気がついたようだ。
「弐神……さん」
「そら、立て」
レヴェル・ワンを立たせる。いろいろいってやりたいこともあったが、その茫然とした悲しみに満ちた目を見たら、なにもいえなくなっちまった。おれはだまって、質屋から証拠として没収した同伴者のものと思われる女物の時計をわたしてやった。こっちだって人情ぐらいある。この時計ひとつぐらいこいつに持たせたところで、大勢に影響はないだろう。
茫然としたレヴェル・ワンは、震えるような指先でそれをつかみ、じっと凝視《みつ》めた。
小さな嗚咽がもれた。そのとたん、堰を切ったようにこらえきれない感情が吹きだし、泣きはじめた。5Aを操縦できるとか、東京総督府の神名麻弥の息子だとかぬかしても、こいつはただの子どもだ。親しい人間の死を経験するのははじめてだろう。ましてや、それを自分の手でやっちまうなんて。
だがな、人生、長いこと生きてると、そういうことに慣れちまう。いまだけだ。思いっきり泣けるのはいまだけだ。
おれもちょいとばかりつらくなって視線をそらした。ふん、歳のせいかもしれない。
壁に一枚の絵がかかっている。ルネ・マグリットの「大家族」の模写のような絵だ。曇り空から鳥の形に切りとられた青空。一発勝負のアイデアだよな。たしかマグリットの晩年のころの作品じゃなかったか? しかし、なんでまたこの絵のタイトルが「大家族」なのかね。鳥の形に切りとられた青空に浮かんでいる雲が大家族なのか、それとも周囲の空から切り離されているから大家族なのか。だいたい、ここに鳥はいるのか? それとも青空があるだけなのか?
そんな解釈をあざわらうかのように、絵の中の鳥は青いむなしい翼を広げ、永遠に飛びつづけていた。
レヴェル・ワンをひきずるようにしてホテルを出た。
ところがどっこい、表にはお出迎えの人たちがまちかまえていやがった。黒ずくめの男たちが銃をむけている。草薙まで銃をつきつけられて両手をあげて、バンザイしてやがる。おまえなあ、銃つきつけられてすまなそうにへらへら笑うなよ。
そして、男たちの真ん中に美女ひとり。こいつはすごい。バーベム財団の魔女ヘレナ・バーベムさまがおんみずからご出馬なさったってわけかい。
魔女はおれを見て、小さく笑った。
「ごくろうさま。弐神さん」
ち、やられたぜ。財団がおとなしいと思ってたら、おれを泳がせておいて、こういう騒ぎがおっぱじまるのをまってやがったのか。さすがは財団、効率いいわな。バカみたいに靴底すりへらすことはない。
こりゃあきらめるしかないわな。獲物も、ついでに年金のほうも。
「猟犬は、追われるのには慣れてないんだ」
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第四章 綾なす人の戦い
断章1 |金 湖月《キム ホタル》
ここのところ、総ちゃんとは口をきいていない。功刀《くぬぎ》司令が解任されて一色司令になったとたんに、まるで子犬みたいにシッポをふってすりよってくんだもの。いくらなんでもそりゃないでしょう。功刀《くぬぎ》司令は総ちゃんの恩人なのに、その人に後足で砂かけるようなことしていいの? そのことを問いつめても、かれは笑ってはぐらかすだけだ。なにかあるのだとしたら、わたしに相談しないなんてひどすぎる。なにもないなら、もっとひどい。
わたしが怒ってるっていうのに、総ちゃんはどうってことないって顔している。だから、きのう、かれの部屋に行って鍵をポストにいれてきた。なのに、今朝はただ「おはよう、キム」。わたし、捨てられたの? もうどうでもいいの?
考えていたら、気持ちが悪くなってきた。総ちゃんとのことがあったせいか、ここんとこ体調も悪い。吐き気がしてくる。すっきりするんじゃないかと思って、炭酸飲料や酸っぱいレモンをかじってみるけど、そのときはいいけど、すぐ気持ち悪さがもどってくる。
あ、そういえば……。いや、まさか……。でも……心当たりがないわけじゃない。
総ちゃんが、司令センターに神名くんをつれてきた。
わたしは見てないけど、財団の手でつれもどされてきたとき、ショック状態でまともに反応しなかったという。それから四、五日入院してたはずだけど、やっぱり心ここにあらずって感じがする。ふわふわとしてとらえどころがない。
「司令、おつれしました」
背中をむけていた一色司令がゆっくりとふりむいた。芝居がかったやり口よね。なにも背中むけてなくたっていいのに。
「意外そうだな」
司令の口元に勝ち誇ったような笑みが浮かんでる。だけど、いまの神名くんが相手じゃはりあいがないでしょ。おどろいた顔ひとつしないで、焦点があってるんだかあってないんだかわからない目で、ただ一色司令を見あげているだけだものね。
「功刀《くぬぎ》司令は管理能力を問われ、解任されたんだ。現在は自宅で謹慎されている」
功刀《くぬぎ》司令が謹慎中だと聞いても、神名くんはまったく動じない。言葉はかれの体をつきぬけていってしまってる。
「あれだけのことをしでかしたのだ。ことの重大さは理解できるな。きみがムーリアンであっても、なくてもわたしはもともときみが嫌いだ。だが、わたしはフェアな人間だ。利用すべき価値があるならば使う主義だ。人間関係はすべて利害関係でしかない。きみは生かしてもらっているんだよ。このわたしに」
こうまでいわれたら以前のかれなら、きっとムカっときて、言い返すかなぐりかかっていたはずだ。だけど、神名くんは一歩も動かない。
「まあ、まあ、司令官。綾人くんもまだ復帰したばかりですし」
総ちゃんがふたりのあいだに割ってはいる。なにが復帰したばかりですし、よ。まるで幇間じゃないの。見てらんないわ、あなたのそんな姿。
「わたしの命令にしたがうつもりがないのなら、前司令同様、きみもしばらく謹慎でもしていたまえ」
一色司令は冷たい目で神名くんを見ている。と、その横にもうひとり、わたしが最近口をきいてないやつがあらわれた。遙だ。
遙も遙よ。東京でなにがあったのか知らないけど、もどってきたとたん彼女は一色司令の直属情報解析士官に昇進、で、エルフィ中尉は謹慎なんてあり? 中尉は乗っけてあげただけじゃないの。それなのに、遙だけはおとがめなしだなんて。
彼女が一色司令の横に立つと、さすがに神名くんの目が動いた。ようやくひきだせた反応に、司令がしてやったりといった笑いを浮かべる。あ、でも、ちがう。神名くんの目は、遙が立っているほうじゃなくて、反対側を見ている。え? なに? いつのまにか髪の長い少女が、司令の横に立っているじゃないの。TERRA《テラ》の制服着てるけど、あれ、だれなの。司令だっておどろいたような顔して見てる。
わたしが侵入者警報に手をのばしかけたとき、神名くんが動いた。
「みしま? 美嶋だよね。ちがうの?」
そういって、神名くんは少女に近づいていった。知り合いなんだろうか。でも、少女はなにもいわずにかれを見かえすだけだった。その瞳がすっと流れて、司令にむけられた。司令はハッとわれにかえったような、あるいはなにかを思いだしたような顔をした。
「そう。彼女は新しくきたTERRA《テラ》の幹部候補生だ。名前は……」
なんだっけと目で問いかける司令に、少女は口元を薄くゆがめた。
「ハルカです」
そうよ。ハルカ少尉じゃない。きのう紹介されたばかりだっていうのに、なんで忘れちゃったんだろう。印象に強く残るタイプなのに。総ちゃんのことがひっかかってると、こういうところまでボケちゃうのかな。
ハルカ少尉が神名くんに、やさしげな微笑みをむけた。
「はじめまして。あなた、絵を描くそうですね。こんどぜひ見たいですわ」
どういう意味だろう。
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断章2 紫東 遙
だれもいないラウンジに、ひとりぽつねんと座る。五味くんも四方田くんも笑いながらやってきて、わたしの姿をみとめると目をふせて行ってしまった。キムにいたってはあからさまに軽蔑しきった一瞥を投げつけてきた。当然だわ。功刀《くぬぎ》司令を追い落とした一色司令の腹心になってしまったんだから。
でも、しかたがなかった。
こうしなかったら神名くんは、ムーリアン収容所にいれられてしまっていた。
「きみが決めることだ」
TERRA《テラ》に帰投したわたしをまちかまえていた一色の言葉がよみがえってくる。
「神名は収容所にいれる。あそこはいいところだよ。人権などまったく考慮されていないからね。それときみは軍籍を剥奪され、さまざまな罪で軍事法廷に立つことになる。それがイヤなら、わたしに忠誠を誓うことだ。この一色真にね」
軍事法廷に立つ覚悟なら、ヴァーミリオンに乗ったときからできていた。たとえ成功したとしても、自分は軍籍を剥奪されるだろうと。東京から出てきたときも、軍籍を剥奪されたら独力で綾人くんをさがすつもりでいた。
一色のうしろにいる財団は、たとえどんなことがあっても綾人くんだけは手放さないと思っていた。手放さないというのはイコールTERRA《テラ》にのこしておくことだと勝手に想像していた。だけど、一色ならやりかねない。TERRA《テラ》だろうと収容所だろうと、手放さないことにはちがいないのだから。
わたしに選択の余地はなかった。
こうするしかなかったのだ。だけど、そのことを公にはできない。たとえ司令センターのなかが針のむしろになろうと、五味くんたちやキムに軽蔑されようと、口にすることができない。
でも、いちばんつらかったのは、いましがた綾人くんに会ったときだ。一色のとなりに立ったわたしを見たときのあの目が痛い。目の奥にあった、おどろきと軽蔑の色がつらい。おねがい、そんな目で見ないで、といいそうになったけど、そんなことをしたら、すぐさま一色がどういう決定をくだすかわかりきっていた。
悲しいけど、しかたがない。誤解されようが、恨まれようが、こうするのがいちばんいいのだ。
かれを守るためなら、わたしは悪魔にだって魂を売ってみせる。そして実際、悪魔に魂を売った。一色の腹心になったのだ。
ラウンジのソファがわずかに沈みこんだ。
見ると、少しはなれてエルフィが座っていた。彼女にもすまないことをしたと思っている。いくらあやまったところで、どうにもならないけど。
エルフィは視線をあわせようとはせず、ただ窓の外を見つづけている。
気まずい沈黙がつづいた。耐えきれなくなったわたしは、立ちあがると、彼女のまえを通りすぎるようにして司令官室にむかった。
エルフィは通りすぎようとするわたしに目もくれない。わたしも目をあわせようとはしない。いいのよ。高慢な裏切り女なんだから。
「好きなやつを守るためなら、なんだってできるんだな」
エルフィのあきれたような、だけどやさしい言葉が背中にとどいた。
えっとふりむいたときには、エルフィも立ちあがって、こちらに背をむけていた。その背中は、なにもかも理解したうえでわたしを許してくれていた。
ありがとう、エルフィ。
わたしはその場に立ちつくし、さっていく彼女を見おくった。
ありがとう、エルフィ。
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1
家路をたどる。東京に行くときとおなじ道を逆にたどる。あのときは久遠がいっしょだった。でも、いま彼女はいない。あのときは手ぶらだった。でも、いまは小さなコンビニ袋をさげている。中には風鈴と時計、それに手帳がはいっている。朝比奈の思い出だ。こんな安っぽい袋にいれられて……かわいそうだよ。だけど、袋を捨ててむきだしで持ち歩く勇気もない。
守れなかったんだ。
朝比奈も守れなかった。樹さんに約束したのに、久遠も守れなかった。おれの力なんて、このていどのものなのか。
足取りが重い。無力感に押しつぶされそうだ。いや、押しつぶされてしまえばいい。そのほうが楽かもしれないんだ。そう思って歩いていると、名前を呼ばれた。
だれだろう。聞きおぼえのある声だ。きょろきょろ見まわすと、林の中から人影があらわれた。
「やっぱり、おまえだったのか」
守だった。
とたんに手の中のコンビニ袋が、ずんと重くなった。
逃げだしたかった。
でも、逃げだせない。
「よかったよ、こんなとこで偶然おまえに会えるなんてさ」
守はなつかしそうにいった。その声が、おれの罪をあばきたてるように聞こえた。浩子を守れなかったのはおまえだ、と告発しているように聞こえた。
「どうした? あんまり奇遇なんでびっくりしたか?」
握りしめた袋の中で、ガラスの風鈴と時計がふれあって、じゃりっとイヤな音をたてた。
「どうしたんだよ、綾人」
守がおれの肩をつかんだ。それから、あたりをうかがうように見まわした。
「おれ、追っかけられてんだよ。かくまってくれないか。なあ、友だちだろ」
おれはうなずくのがやっとだった。
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断章3 紫東 恵
ったく、なにやってんだかなあ。
こうやって下のコンビニまで行ってお菓子まで買ってきてやったってのに、てんで帰ってこやしない。
小学生じゃないんだからさあ、道草くってんじゃないよ。
恵さんがさっきから、首を長くしてまってますよーだ。
あ、玄関の開く音がした。
綾人だ。
廊下に飛びだして、玄関にむかったとたん、気が急いていたせいか、あたしはハデにつんのめった。
どったーん――
あたしが廊下に倒れこんだのと、綾人がはいってくるのと、ほぼ同時だった。
うう、かなり、かっこいい再会シーンだわ。
浮わっついちゃってる自分がみじめにならないうちに、がばっと顔をあげて、にっこり微笑んだ。
「おかえり!」
綾人は目をぱちくりさせている。
「なんだよー。ただいまぐらいいったら?」
「た、ただいま」
そういう声はどことなく力ない。顔も少しやつれた感じだ。
東京でなにがあったんだろ。
ま、いいや。帰ってきたんだから、いつだって話は聞けるさ。
「わざわざ有休とったんだから、もちっと感激してくれてもいいんじゃないの」
「有休って? アルバイトにもあるの」
あ、そっか。このバカは、あたしのメッセージも聞かずに飛びだしていっちゃったんだ。TERRA《テラ》の職員試験に合格したのも知らないんだ。
あんまりにもむかしのことなんで、あたしのほうがびっくりしちゃうよ。まだ知らない人間がいたなんてさ。
「ぼっとしてないで、早くあがんなよ」
あたしがうながすと、綾人はうしろをふりかえった。すると、見たこともない男の子が、すまなそうな顔して綾人のうしろから姿をだした。なに、こいつ。
「だれ?」
「友だち」
「あ、鳥飼守。よろしくね」
やけに明るいじゃない。
暗い綾人と好対照だわ。
髪は天パーはいってるのか、かるくカールしてる。ちょっと見、そこそこイケてる。あたしのタイプじゃないけどさ。
「あ、はい。紫東恵です」
あたしはあわてて座りなおした。そして、綾人をにらみつけてやる。
友だちつれてくるんなら、つれてくるで一言いってくれればいいのに。そうしたら、こんな印象深い初対面なんてしなくたってよかったのにさ。
「もしかすると、しばらくいることになるかも」
って、綾人がいったけど、しばらくいるってどういうこと?
だいたい、綾人の友だちってなによ。東京での知り合い以外に、友だちがいたの?
「おじさんは?」
「出かけてる。知り合いんとこだって」
ぶらりと出かけてるおじさんがいれば、ぶらりとやってくる知らないやつもいるってわけか。
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断章4 功刀《くぬぎ》 仁
ひさしぶりに六道先生が、わが家をたずねてくださった。
「トラジャでかまいませんか」
「ああ、かまわんよ」
考えてみれば、こうやってコーヒーを挽き、ゆっくりとドリップするなど何年ぶりだろう。ポットのお湯をまわすように静かにそそぐと、コーヒーの粉がふっくらとふくれあがり、深い香りがただよいはじめた。
「いそがしいのに、わざわざすまんね」
「皮肉ですか? 謹慎中の軍人など、することもありませんよ。たまっていた本を読んだり、むかしのレコードをひっぱりだしてきて聞くだけです」
「わたしの生活とたいして変わらんよ」
「これは失礼しました。失言でした」
そういうと、窓際のベンチに腰かけた六道先生はお笑いになった。
「きみは堅苦しくていかん。もっと気を楽にしたまえ」
「すみません。生きるのがヘタな人間ですから」
「じょうずな人間などおらんよ」
たしかにじょうずな人間はいないのかもしれない。だが、じょうずに生きているように見える人間もいるし、わたしのようにどう見ても不器用な人間がいる。
「綾人くんがもどったそうですね」
「ああ、いろいろとすまなかったね」
「礼をいわれることではありません」
「いやあ、骨折ってくれたんだろ。あいつの身の安全のために。聞いてるよ」
ドリップし終わったコーヒーをカップにそそぐ手が少しとまる。亘理《わたり》長官もおせっかいな人だ。わざわざ先生に知らせなくてもいいだろうに。
「つくづくあいつは幸せなやつだと思うよ。きみだけじゃない。いろんな人が、あいつのためにしてくれている。ありがたいことだ」
先生はまるで自分のことのように感謝しているようだ。どうしたら、そんな境地に達するんだろうか。わたしは、いまだに神名との距離をはかりかねているというのに。
「先生がうらやましい。血の色などまるで気にしていらっしゃらないようだ。どうすれば先生みたいに思えるんですか」
六道先生はわたしを見あげ、それからフッと口元をほころばせた。
「簡単だよ。きみもいっしょにメシでも食えばいい。そうすりゃわかるさ」
メシか。神名とメシを食べるのも悪くないかもしれない。
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2
「へえ、海が見えるんだ。いい部屋じゃないか」
守は東京にいたときと変わらない、かるい口調だった。風鈴を持つ手がとまってしまう。 おれは口まででかかった言葉を飲みこみ、風鈴を窓際にさげた。そして、残った時計と手帳を机の引き出しにしまう。ここだと、まかりまちがって守が見てしまうかもしれない。あとでちゃんと隠し場所を考えておこう。それから、おれは机の上に置いた時計を腕にした。TERRA《テラ》の時計はふたつの時間を刻みつづけている。外の時間と東京の時間。いや、ここの時間とちがう場所の時間を。
「なあ、お通夜かなんか?」
暗く気落ちしているおれを見て、守がつっこみをいれてきた。
「ちがうよ。……いろいろあってさ。ちょっとね」
いまはいえない。とてもじゃないけど。
「そっか。おれもいろいろあってさ」
そうだよ。自分のことより、こいつのことだ。
「おまえ、よく出てこられたな」
「よくぞ聞いてくれました。もう大冒険だったんだぜ。TERRA《テラ》とかいうのにつれだされたんだよ。見たこともないロボットで、バー、バーなんだっけな」
「ヴァーミリオン?」
「そ、それそれ。そのなんとかいうやつにさ、むりやり乗っけられてこっちつれてこられて。施設にいれられそうになったけど、おまえがここにいるらしいって聞いて、監視の目を盗んで……。銃撃をかいくぐって、追っ手をかわし、地雷原をぬけ……」
あいかわらずの守に苦笑がもれる。
「銃撃はないだろ」
「はい。ウソをついてしまいました。どーもすみません」
守はふざけて、おおげさに頭をさげてみせた。だけど顔をあげたときには、そこにわずかな不安があった。
「でもさあ、そんな目にあうんじゃないかって、どきどきしながら逃げてきたんだよ。ほんと、あのとき、おまえに会えてよかった。さもなきゃ、いまごろおれ……」
財団も弐神さんも、あれだけしつこく追いかけてきたんだ。TERRA《テラ》がヴァーミリオンで東京まで追いかけてきたとしても、少しも不思議はない。そして、守を実験材料としてつれてきたとしても。功刀《くぬぎ》さんだったらそんなことはしないかもしれないけど、一色の野郎だったら考えられなくもない。
あとで遙さんに訊いてみようか。いや、なんか遙さん、一色直属の情報分析士官だとかいってたし、おれとも目をあわせようともしなかった。訊きづらい。恵は……あいつはなんにも知らなそうだ。
「綾人いい?」
その恵が菓子盆を持ってはいってきた。なんかちょっと不機嫌そうだ。なんでだろ。
「鳥飼くん、食べる?」
「食べる。食べる。……それからさあ、守でいいよ。友だちにもそう呼ばれてたから」
守はいつも調子がいい。恵ははにかんだようにちょっと笑った。
「となりの納戸が空いてるから。そこ使っていいよ。ちょっとホコリくさいけどね」
「サンキュー。やっかいになるね。恵ちゃん」
「守のこと、おじさんには内緒にしといてくれるかな」
おれがいうと、恵は意外そうな顔をした。
「なんで? いまさらやっかいもんが増えたからって、おじさんは気にしないと思うよ」
「迷惑かけたくないんだ。東京からの人間かくまってるなんて」
「あ、やっぱ東京の人だったんだ」
「おうよ。生まれも育ちも東京でい」
横から守がまぜっかえす。
「おりをみて、おれから話すからさ。当分はふたりだけの秘密にしといてよ」
なぜか恵はびっくりしたような顔をしてから、ほんの少し頬を紅らめたように視線をそらした。たぶん気のせいだ。秘密っていっても、そんなによろこぶことじゃないもんな。
「わかった。でも、いつかはちゃんとおじさんに説明してよ」
「わかってる」
「それとさあ……ちょっといい?」
恵はちらりと守に目をやって、外で話したいというしぐさをした。席をはずすと守につたえ、ふたりで廊下に出た。
「なんだよ」
「あのさ。わたし、気にしてないから。綾人がその……」
いいにくそうな言葉尻が宙によどんだ。
「おれがムーリアンだってこと?」
え? と恵は顔をあげた。そうなの、って顔してる。
「おれも気にしてない。しなくなった」
気にしなくなったんだ。ムーリアンだからどうのなんて気にしてたら、朝比奈がかわいそうだ。血が青くなったからって、彼女は彼女のままだったじゃないか。血の色なんて、どうでもいいことなんだ。
「いいたかったのは、それだけ」
恵はニコッと笑った。
「じゃ、あたしごはん作んなきゃならないから」
階段をおりていく彼女を見送りながら、恵っていい子だよなあ、と思った。
部屋にもどってみると、守は窓から海を見ていた。
「海ってさあ、東京までつづいてるんだよな」
まるで、いつかのおれみたいなことをいう。
「ああ。絶対障壁があるけどね」
「絶対障壁か。浩子とおれのあいだにもあるんだ、そいつが」
その名前が守の口からでると、胸のあたりがずきりと痛くなる。
「なあ、恵ちゃんってさあ。浩子に似てるよな」
「そ、そうかな」
「似てるよ。雰囲気がさ。……ああ、この海泳いで、東京帰りたいなあ」
「帰してやるよ。いつか、おれが」
「信じていいのか?」
「信じていいよ」
こんどこそ。こんどこそ、それがウソにならないようにしよう。
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断章5 紫東 恵
ふんふふんふふ〜ん。
なんか鼻歌のひとつもでてきちゃう。
単純おバカな恵さん。
ふたりだけの秘密だなんて、いい響きじゃない。せっかく有休とって、しかもおじさんまでいないってのに、友だちつれてきやがって、って不機嫌になってたのがウッソみたい。
うふふ。
お姉ちゃんにも秘密なんだ。お姉ちゃんは綾人追っかけて東京まで行っただろうけど、いまじゃ白ヘビにべったりでポイント低し。だけど、あたしは「ふたりだけの秘密」をもってポイント高し。
それにさあ、あいつ、たぶん守くんがいるせいだろうけど、「おれ」っていったんだよ。自分じゃ気がついてないだろうけどね、あたしのまえで「おれ」ってはじめて使ったんだ。
ポイント高し!
あ、守くんのためにお風呂いれてあげよっかな。これでまた恵ちゃん、ポイントだね。
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3
守は疲れたからといって、納戸で眠っている。そりゃそうだろ。頼れるものがだれもいない土地で、懸命に逃げまわって、ようやくここへたどりついたんだから。
おれは机の引き出しから、朝比奈の時計をとりだした。
時計はとまっている。とめたのはおれだ。
いえるのか? 守に。おまえの彼女を殺したのは、おれだって。
いえない。いえるはずがない。少なくともいまはムリだ。もう少しおちついて、心の整理ができてからじゃなきゃ。それに守だって、外の生活に慣れておちついてからじゃなきゃ、とても受けいれられる心境にはならないだろう。
おれはそう自分にいいきかせ、時計をボストンバッグにしまった。朝比奈の最期の言葉を書きとめてある手帳といっしょに。そして、それを押し入れの奥につっこんだ。
こうするのは守のためなんだ。遙さんがおれを東京からつれだして、少しずついろいろと教えてくれたようにしなくちゃいけないんだ。あのとき、いっぺんに教えられていたら、きっとおれは自分が保てなくなったにちがいない。
そうしなきゃいけないんだ。それが守のためなんだ。
ガラスの風鈴がちりんと鳴った。
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断章6 鳥飼 守
となりで綾人が、いや、オリンがなにかやっている音が聞こえる。林から出てきたおれを見たときの、あいつの顔ったらなかったな。びっくりしたみたいな、すまないみたいな顔しちゃってさ。
そんな顔するんなら……浩子を返せよ。
おれは表むきはTERRA《テラ》の組織調査ってことで、ここに送りこまれてきた。だけどなあ、オリン。おれはおまえを苦しめるためにきたんだよ。おれはおまえを苦しめて、苦しめて、じっくり殺してやる。
おれはあのとき〔指揮者の間〕にいたんだよ。おまえがヴィブラートをたたきのめしたとき、浩子の絶叫がおれの耳に響いた。おれはなんにもできなかった。麻弥のとなりに立って、おまえが浩子をなぶり殺しにしていくのをただ見ているしかなかったんだよ。あのときの無力感と絶望感をおまえに味わわせてやる。
浩子を殺しやがって。そのくせ、おれにはそのことをいう勇気がなくて、ただの上べだけの友だちづらしやがって。なにが「信じていいよ」だ。おまえみたいなやつをだれが信じるか。
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断章7 エルフィ・ハディヤット
することもなくパイロット・ラウンジのテーブルに腰かけ、習熟飛行に飛び立っていくヴァーミリオンを見送った。あたしがいないあいだに配備されたらしい。
あの動きはキャシーだろう。あいかわらず急降下の角度が深い。あれでは敵に肉迫できるが、ひきおこしに時間がかかる。一撃がかわされたときの対応がおくれる。
そのむこうはドニーにまちがいない。慎重すぎるぐらい的確な動きですぐにわかる。
となりに人の気配を感じてふりむくと、マエストロが立っていた。手にはふたつのコーヒーカップを持っている。
「ここのまずいコーヒーがなつかしくなったのかい」
あたしは黙ってカップを受けとり、一口すすった。ほんと、まずいコーヒーだ。あたしは謹慎になったし、キャシーたちにはヴァーミリオンが配備された。変わらないものがひとつぐらいあったっていい。
「謹慎中でも部下が気になるかね」
「いや、マエストロがいるから心配はしてない」
「そういいながら、キャシーたちの動きを見ている目は、心配そうだったぞ」
「ちがうって。謹慎中だとやることがなくてね」
マエストロはあたしの目をのぞきこみ、それから小さく首をふった。
「それだけじゃない、という顔をしている。なにがあったのか、話してごらん。ブンガマワール」
さすがマエストロ。あたしの教官だっただけのことはある。それでも話すべきかどうか決心がつかず、間をもたせるようにあたしはまずいコーヒーを飲みつづけた。しまいには底が見え、しかたなくあたしは話しはじめた。
「あたしはムーリアンと戦うために国連軍にはいった。そして、このTERRA《テラ》に来たのも、それが目的だ。ムーリアンをたたく。やつらに二十億の人類を殺した報いを受けさせる。なのに……。あたしが東京で見たのは、人間の生活だった。オーヴァーロード作戦のときにはわからなかったが、あそこにあったのはふつうの生活だったんだよ。おかしなところはあったけど、みんなふつうに笑って、ふつうに暮らしていた。でも、あたしは知っている。連中の血は青いということを、連中がムーリアンだということを」
「神名のことが、まだひっかかっているのか」
思わず口元に苦笑が浮かぶ。ほんとマエストロはするどい。いわれるまで気づかなかったけど、あたしはまだ神名がムーリアンだということをひきずっていたんだ。
マエストロは小さくうなずいてから、腰にさげている鍵束をテーブルに置いた。キーホルダーは二十ミリ機関砲弾だ。
「わたしが一度だけ被弾したときのものだ。MU《ムウ》大戦あとの内戦時代だよ。おそらく、あれが記録にのこっている最後の戦闘機同士のドッグファイトだろうな」
なるほど、それで先端がこんなにひしゃげているんだ。たぶん不発弾だったのだろう。
「これを撃ちこんだ男、な。……いまはわたしの親友だ」
そういうことか。かれのいいたいことがわかって、ふわっと胸のあたりが軽くなった。うれしさに目頭が熱くなってくる。
「ありがとう。マエストロ」
マエストロはなにもいわず、キーホルダーをしまうと、コーヒーを一口すすり、さもまずそうに顔をしかめた。
そのとき、ラウンジにD1警報が鳴り響いた。
ドーレムだ!
戦えるか? いや、あれはドーレムだ。ムーリアンじゃない。それに、傷ついてぼろぼろになっている神名がまたかりだされてしまう。それだけはなんとしても、とめなくては。
いそいでハンガーに走ろうとした足が、力をなくしたようにとまった。
あたしは謹慎中の身なのだ。戦いたくても戦えない。晨星さえ操縦できないのだ。
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断章8 金 湖月
「D1急速接近中!」
「アルファ小隊はどうした!」
一色司令の悲鳴に近い声が飛ぶ。
「習熟訓練中でしたので、バウスガザルには模擬弾しか搭載していませんでした。現在、換装中!」
五味さんが叫ぶ。
「EIDOLON《エイドロン》を発進させろ」
司令の命令が飛ぶ。
「紫東恵はなにをやっている」
「紫東は本日、有給休暇中です」
わたしが答えると、司令は憤然とコンソールをたたいた。
「この非常時になにが有給休暇だ。まだ正式職員になって日があさいだろうが」
恩きせがましく恵に有休あたえたの、あんたじゃないの。そうは思ったものの、わたしは命令されるまま携帯を呼びだしたけど、彼女からの応答はなかった。
「なにをやっている! この昼間っから風呂にでもはいってるのか!」
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4
恵は風呂にはいってる。風呂はことわったのに守は結局、あまりに疲れすぎてたのか寝つけないといって、おきだしてきていた。
「いいながめだな」
そういって守は海をながめた。
「東京の外に出たんだって思ったのは、水平線見たときだよ。目隠しされてつれてこられて、ここが外だっていわれたってわかんないじゃん。だけど水平線見せられて、はじめて納得したよ」
おれとおなじだ。おれも水平線見て、いやでもここが外なんだってわかった。
「大戦まえに見たっきりだもんなあ。浩子にも見せてやりたいよ」
胸がぎりっと痛くなった。風鈴がそよ風に小さく鳴った。
彼女がこの風景を見ることはないんだ……。
「おい、ありゃなんだ」
守が空の一角を指さした。見ると、折れ線グラフのような複雑な飛行機雲がいくつものびている。EIDOLONだ!
ってことはドーレムか? そう思ったとき、可視域にまで圧縮されたD1アリアがEIDOLONをひとなぎした。パパッと宙に爆発の閃光が走った。そして、翼をやられた一機のEIDOLONがカン高い音をたててこっちにむかってきた。
「あぶないっ!」
茫然としている守をひき倒すようにしてふせさせる。墜落音は大きくなり、EIDOLONが細部まで見えるぐらい近づいてきた。
轟音が屋根の上をかすめるように通過していった。
柱や壁までがびりびりと震動し、ホコリが落ちてきた。
そして、一拍の静けさののち、ものすごい爆発音がして、家がゆれた。
おそるおそる首をあげ、外の様子をうかがった。EIDOLONとドーレムはまだ戦っているようだ。雲のせいでドーレムは見えないけど、EIDOLONはつぎつぎと落とされていく。首をのばすと、裏山に小さく一筋の煙があがっている。
「裏山に落ちたみたいだな」
と守を見おろすと、守は頭をかかえて震えていた。
「おい。どうした?」
とつぜん、不安と恐怖にとりつかれたような守がおれにつかみかかってきた。
「助けてくれよ! おれ、このまま死ぬのはイヤだよ」
そういいながら、こっちが顔をしかめるぐらいの力でおれの肩をつかんでいる。と思ったら急に力がぬけ、守は折れたかと思うぐらい、ガクンと首をうなだれた。かすかな嗚咽がもれてくる。
「綾人……おれ、死にたくないよ。……おねがいだ。助けてくれよ……」
そうか。そうだったんだ。本人はいいたがらないし、平気なふりをしてるけど、東京からつれだされるときなんかあったんだ。こんな恐怖におびえるぐらいのなにかが。
守はまるで掌にのりそうなぐらい小さく見えた。こいつを守ってやらなきゃ。
おれは立ちあがった。その足に守がすがりついてくる。
「どこいくんだよ、綾人。おれをおいてかないでくれよ」
「だいじょうぶだ。すぐもどる。おまえは必ず守ってやる。こんどこそ、必ず」
すがりつく守の手をふりほどき、おれは部屋を飛びだした。玄関にかけおりると、バスタオル姿の恵が風呂場から飛びだしてきた。
「綾人、どこいくの」
「ラーゼフォンに乗る。もう……もうだれも失いたくないんだ!」
こんどこそ守ってやるんだ。もう悲しみはかかえたくないんだ。
おれは外へ飛びだした。
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断章9 鳥飼 守
よくいうよ。かならず守ってやるだって? いままで、おまえはその約束を守ることさえできなかったじゃないか。
戦場で苦しむがいいさ。
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5
ラーゼフォンで飛びだしたおれは、ドーレムを見て愕然とした。
スカートをつけてフードをかぶったようなドーレム……浩子のドーレムだ。そんなバカな。
「アルファ小隊、バウスガザル発射!」
ふりむくとキャシーさんたちのヴァーミリオンがバウスガザルをかまえている。
やめろ!
おれは反射的にラーゼフォンの光の盾をひろげてしまった。
バウスガザルのレールガンから撃ちだされた高速ペレット弾を全弾はねかえす。
「きさまあっ! 裏切ったか」
一色が通信機のむこうでどなっている。
「ちがうんだ! ちょっとまってくれ!」
「うるさいっ! アルファ小隊、ラーゼフォンもろともドーレムを倒せ!」
ヴァーミリオンがためらいがちに、ラーゼフォンにむかってバウスガザルをかまえた。
「ちがう! ちょっと聞いてくれ」
三つのバウスガザルが、ガバッと開き、プラズマ・キャノンのきらめきがおどった。
「ちょっとだけまってくれ!」
そして、プラズマの奔流がラーゼフォンの光の盾に集中した。いくら光の盾だってふせぎきれるもんじゃない。すごい衝撃が操縦席のおれにもたたきつけられた。同時に背後からドーレムが攻撃してくる。やっぱり、こいつは……。いや、あのときだって浩子はいやいやながら攻撃してきたじゃないか。
ドーレムの両腕がふりおろされ、ラーゼフォンは海面にたたきつけられた。大量の水が一気に波になり、ラーゼフォンを飲みこんでいく。
「おまえは、浩子なのか!」
フードの下に見えているドーレムの口元が、微笑むようにゆがんだ。そして、また腕がふりあげられる。そこへ、バウスガザルのプラズマが撃ちこまれた。
ドーレムが悲鳴をあげる。とたんにスクリーンに文字が踊りはじめた。
「イタイ イタイ イタイ」
やめてくれ……。浩子のときとおなじじゃないか。
「コンナコトシタクナイ」
おれは目をそむけた。その目の動きにあわせて、文字が追いかけてくる。
「タスケテ」
「やめろーっ!」
たまらずにさけんだ。さけんだが、文字は消えはしない。胸がしめつけられるように痛み、苦しみににぎりしめたこぶしが小刻みに震えた。
どこかで風鈴が鳴った。
「あなたはなにがしたいの?」
これは? 美嶋の声だ。
そのとき、体勢をたてなおしたドーレムが、ラーゼフォンの上からのしかかるようにして、腕をたたきつけてきた。ラーゼフォンの体が海底にめりこんでいく。痛みが全身を走る。
ドーレムはなんどもなんども腕をたたきつけてきた。
ラーゼフォンの体がぎしぎしときしみはじめ、激痛にラーゼフォンが身をよじった。なのに、おれは反撃することさえできない。
ヴァーミリオンもただ見ていたわけではなく、つぎつぎと攻撃をくりだしてくる。
その攻撃にさらされるたびに、ドーレムは悲鳴をあげた。浩子とおなじ文字をつづった。
「イタイ イタイ イタイ」
あまりにつらくて見ていられなかった。
「おれは……おれはもう浩子みたいな悲しみはくりかえしたくないんだ」
「ほんとうは、なにをしたいの?」
なおも美嶋の声が問いかけてくる。
「守りたいんだ」
「だれを」
「守を……みんなを……」
「ほんとうはだれを?」
え?
その言葉を聞いたとき、瞬間的に頭に浮かんできたのは遙さんの姿だった。
おれは目を見開いた。
スクリーンに文字が踊る。
「アヤトクン……ヤメテ」
衝撃に震動するスクリーンのむこうに、ドーレムの冷酷な笑みがあった。
「ちがう。……ちがう! おまえは浩子なんかじゃない!」
どこかで風鈴が鳴った。
おれは迷いをふりきった。こいつは浩子じゃない。浩子は死んだんだ。こいつはその思い出をけがすものだ。浩子との思い出を利用して、おれを倒そうとするだけだ。おれはラーゼフォンの拳をたたきつけた。ドーレムは悲鳴をあげ、身もだえる。その背中が膨れあがり、中から青黒い手足の長いドーレムが姿をあらわした。やっぱり! こいつが浩子のドーレムのふりをしてたんだ。
こいつが浩子の思い出を穢したんだ!
そんなやつはゆるさない!!
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断章10 八雲総一
やられっぱなしだったラーゼフォンが、ドーレムの腕をつかんだ。
その腕は、ラーゼフォンの手のなかでくだけちり、青い液体が吹きだしてきた。ドーレムが悲鳴をあげ、一歩しりぞく。ラーゼフォンがゆっくりと立ちあがり、ドーレムを見すえた。怒りに燃えるようなはげしい目だ。こんなラーゼフォンをはじめて見る。
ドーレムがふたたび突進してきた。ラーゼフォンは体をかわし、目標を失ったドーレムの背中にこぶしをふりおろした。ドーレムは大量の水しぶきをあげて、海中につっこんだ。そこへラーゼフォンは馬乗りになって、なんどもなぐりつけた。怒りをたたきつけるようなはげしさだ。
ラーゼフォンが体をはなすと、ドーレムはよろけるように立ちあがった。まだ戦闘意欲はあるのか、破壊されていない腕をラーゼフォンにむかってふりあげようとした。ラーゼフォンが、その胸めがけてこぶしをたたきこむ。衝撃波がひろがり、二体の動きがとまった。一瞬後、ドーレムの背中から光の剣がつきだし、空の彼方までのびていった。そして、ドーレムははじけるように爆発して、あたりに青い液体を飛びちらせた。
青い海に、毒々しい青色がひろがっていく。その中に、まだ怒りの波動をだしているラーゼフォンが立ちつくしていた。その姿に、司令センターのだれもが声を失った。
「D1、完全に消滅しました」
キムが冷静に報告する。ぼくもその声に、ハッとわれにかえった。
「パイロットの安全確認をいそげ。……使えますね、かれは」
ぼくがたたみかけるようにいうと、まだ茫然としていた一色は一瞬とまどったような無防備な顔をして、すぐにいつもの一色にもどった。
「使えるものか。あいつは裏切ったんだ。神名は収容所送りだな」
視界の隅で遙さんが手を口にあてるのが見えた。だいじょうぶ、ここはまかせてください。目で合図を送ると、まかせたわ、と彼女はうなずいた。
「なんらかの危険な兆候を読みとっていただけじゃありませんか。それに、ドーレムは倒したんです。裏切りとはいえないのでは」
「それは副司令としての提言か」
最後まで自分では責任とりたくないのね。
「そうです」
「わかった。神名の処分は見送ろう。ただし、このことは報告書に明記しておく」
「ありがとうございます」
一礼しながら遙さんはと見ると、彼女はごめんね、と小さくウインクした。いいえ。これくらい、どってことないですよ。
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断章11 鳥飼 守
ドーレム、セフィローゾが沈んだ。まあ、浩子の幻影に殺されるんじゃあ、楽しみがないってもんだ。まだまだおまえには苦しんでもらわなきゃな。じわじわと苦しめて、だいじなものをひとつひとつ奪って、おまえが泣き叫ぶのをだまって聞いていてやるよ。浩子のときは苦しみでしかなかったけど、おまえの悲鳴はきっと心地いいだろうな。
窓際につってある風鈴が風にゆれて、鳴りはじめた。
うるさい風鈴だな。そういえば綾人はことあるごとに、これを見ていたな。なんの思い出があるのかわからないけど、おまえがだいじにしているものは、おれはきらいなんだよ。
おれは風鈴をひきちぎり、窓から投げ捨てた。
かしゃん――とかわいた音をたてて、風鈴が割れた。
ざまあみろ。
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6
疲れきった体をひきずるようにして家に帰り、庭を歩いていたら、ぱりんという音がした。見ると、靴の下でガラスが割れていた。これは浩子の風鈴だ! 見あげると、窓が開いている。きっとおれのつり方が悪かったから、風で落ちたか、さっきの戦闘の衝撃波で落ちてしまったんだ。
またひとつ、浩子の思い出が消えていった。
目頭が熱くなってくる。
これじゃあドーレムと変わらないじゃないか。浩子の思い出を踏みにじるやつと。
おれはできるだけ風鈴の破片を集め、庭に穴を掘って埋めてやった。小さな風鈴の墓だ。
そして手をあわせ心のなかであやまった。ごめん、浩子。おまえのこと守ってやれなくて。そのとき胸の中で、美嶋の言葉がよみがえってきた。
「ほんとうはだれを守りたいの?」
つらくなって墓から目をそらす。もちろん、守のことはまかせてくれ。だけどわかったんだ。ほんとうはだれを守りたいのか。おれのこころのなかにあるのはだれの姿なのか。
遙さん……。おれはあなたを守りたい。あなたを守れる男になりたいんだ。
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あとがき 大野木寛
ラーゼフォン小説版四巻をお届けします。
いやあ、めっきり寒くなってきましたねえ。って、読者のみなさんがこれを読んでるころにはもっと寒くなってるんだろうなあ。
ご近所の庭先にカマキリが卵を産みつけていた。例年よりも高い位置にあるような気がする。もしかすると、今年は東京も大雪にみまわれるかもしれないなあ。
なんて時節柄の文章を書くのもほかでもない。この小説版を書くために自分の書いたシナリオを整理していたら、十四話のプロットが去年の十月三十一日であった(ちなみにいまはちょうど十月三十一日)。
げえ、一年以上ラーゼフォンにつきあってんのか、おれ。
一年といやあ長い。三百六十五日。五十二万五千六百分。わざわざ電卓で計算することもないが、かなりの時間である。去年産みつけられたカマキリの卵がかえって、消しゴムのカスのように小さな幼虫が無数に生まれて、それが夏じゅうハエやガをつかまえて親と同じぐらい大きくなって、命がけで卵を生んで死んでいく時間だ。まかりまちがってデキちゃった結婚して子どもが生まれて、まあかわいい赤ちゃんねえ、だけど計算があわないじゃない、などと親戚のおばさんにいわれてもおかしくない時間だ。今年こそ読むぞといきおいこんで『カラマーゾフの兄弟』を読みはじめて、五ページ読んだだけでストップしたままホコリをかぶっていてもおかしくない時間だ。去年小学校にはいったガキが……。いいかげんにやめよう。とにかく、かなりの時間なのだ。
すでに放送も終わってンヶ月なんて信じられない。
五月ごろだったろうか、監督に冗談で「監督はいいよなあ、テレビシリーズが終わったらそれっきりだもん。だけど、おれは今年いっぱいラーゼフォンだぜ」といったのだが、その監督も映画版の作業でいそがしいことだろう。
あっというまに時間は流れていく。
つぎの一年が、読者の方々にとっていい年でありますように。
そして、おれにとってもいい年でありますように。
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書名:ラーゼフォン 4
著者名:[著]大野木寛 [原作]BONES・出渕裕
初版発行:2002年12月31日
発行所:株式会社メディアファクトリー
住所:東京都中央区銀座8-4-17
電話:(0570)002-001/(03)5469-4760(編集)