ラーゼフォン 3
[著]大野木寛 [原作]BONES・出渕裕
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第一章 虚邪回廊
第二章 黒卵託卵調律卵
第三章 人間標本第1号
「コドモタチノヨル」の章
第四章 鏡の中の少年
第五章 他人の島
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第一章 虚邪回廊
気がつくと、おれは吉祥寺にいた。
エチゴヤの上から北口を見おろしていた。
なんでだろう。
たしか、おれはラーゼフォンでドーレムと戦っていたはずだ。ふいをつかれて、そいつに抱きしめられたのまではおぼえている。
司令センターの遙さんが、おれの名前を呼びつづけていたのまではおぼえている。
なんかすごく痛くて苦しかったのもおぼえている。
気がつくと、ここにいた。
ラーゼフォンはどうなったんだ? ドーレムは?
いつのまに絶対障壁を破って、ここに入ってきたんだ?
だって、東京だぜ。
吉祥寺はあいかわらずの人出だ。大勢の若者やいろんな人たちが歩いている。女子高生たちがぶつかってきた。あやまりもしないで、笑いながら人ごみに消えた。目の奥にスカートの下の白い足の印象だけ残して。彼女たちの笑い声が夕焼けの街にこだまする。夕焼け……。たしかドーレムと戦ってたのは夜だったはずなのに。いつのまに夕方になったんだろう。
ふと横を見ると、ビルの窓におれの姿が映っていた。現実のおれは普通の服を着てるのに、窓に映るおれはFHスーツを着ている。へんなの……。
チャリンと金属のふれあう音がした。
窓に映りこむ雑踏。その中に異様な姿の人間が映りこんでいる。頭になんかかぶった裸の人間だ。女の人かな。
また金属のふれあう音。
その人がふりかえった。顔のほとんどは仮面のようなものにおおわれていてわかんないけど、たしかに視線がおれにむけられた。仮面の下のむきだしになった唇が微笑むようにゆがむ。獲物を見つけたときの笑みだ。
やばいと思ったけど、目をそらして逃げだすことができない。
女が立ちあがる。やっぱり裸だ。乳房がゆれる。ふりかえらなきゃ。ふりかえって、ほんとうにそんな女がいるのかどうかたしかめなきゃ。頭ではわかっていたが、視線をガラスの中の赤い唇からそらせられない。
金属がふれあう音が響き、仮面の女がこっちにむかって走ってきた。
微笑む唇がせまってきた。
雑踏の人たちは、彼女にはまったく気がつかずに通りすぎていく。だけど、仮面の女が一直線に走ってくるのを邪魔するやつはいなかった。
金属音がはげしくなる。
女がせまる。
唇がせまる。
濡れた光沢さえわかるほど。
おれはのけぞるように窓ガラスから視線をひきはがし、ふりかえった。
そんな女はいなかった。さっきと変わらない雑踏だけがあった。
でも、唇があった。
ふれあう唇と唇。男と女。握りあう手と手。
え?
唇と唇をあわせていた男女がこっちを見ている。
守と朝比奈だった。
「なにしてんの?」
「おまえたち、ぶじだったんだ……」
「なにいってんの。もしもーし、だいじょーぶですかあ?」
朝比奈がノックするように、おれの頭を軽くたたいた。日曜の吉祥寺でばったりクラスメートに会ってしまった、っていうリアクションそのものだ。
「ここ、どうなってるんだ?」
「はあ? なにワケのわかんないこと言ってんのよ」
「なあ、遊びに行こうぜ」
守がおれの肩に手をまわしてきた。
「ヒマしてんだろ?」
ヒマ? ああ、そうだ。おれ、こんなとこでなにやってんだろう。
ゲームセンターにいった。守が格闘ゲームをやっている。やっぱむこうのゲームにくらべると、古いタイプに見える。つまんないなあと思って、ふりかえるとうしろのゲーム機のモニターにハイスコアと日付が表示されていた。
「2015/7/3」
おれの誕生日。そんなはずない。……けど、自信はなかった。
朝比奈が「守すごいでしょ」とかなんとかいいながら、おれの腕にからみついてきた。夏服の薄い布越しに胸が感じられる。ブラしてない……。
一瞬、音が消える。
聞こえるのは自分の息と心臓の音だけ。ゲーム画面も目には入っているが、てんで意味をなさない。全身が腕になったようだ。腕の毛穴のひとつひとつが開き、布越しの朝比奈の胸をまるでまさぐるように感じとっている。
……なに考えてんだよ。
タコ焼き。
夕焼け。
階段に座るおれたち。
ならんでタコ焼きを食べた。ゲームセンターでずいぶん時間を過ごしたような気がしたけど、まだ夕日は沈んでいない。
守が携帯で友だちに連絡をとっている。へんだよ、だって、東京ジュピターの中じゃ、軍とか政府関係者以外の携帯の使用は制限されてるはずだろ。高校生が持ち歩けるもんじゃないはずだ。
でも、自信はない。
夕焼けが目にしみる。
守は携帯の受信状況が悪いのか、場所を移動していった。おれと朝比奈がぽつねんと残される。
握られた手。え? 朝比奈がおれの手を握っている。やばいよ、守に見つかったらなぐられる。ふりむいたけど、守の姿はない。
「このままでいいの」
ぎょっとして、朝比奈のほうをふりむくと、すぐそばに彼女の顔があった。
「口にソースついてるよ」
なにげない言葉。
「きれいにしてあげよっか」
うっすらと紅をひいた唇が近づいてきた。なまめかしい舌先が唇をなめる。その舌がおれの唇に……。
「うわあああああああああっ!」
薄暗い裏路地。ビルのあいだから見える細い夕焼けの空。ゆれる。ゆれる。
おれは走りつづける。
よつ角。
出口はどっちだ。
路地裏。路地裏。路地裏。
だれもいない。
出口はどっちだ。
走る。
走る。
荒い息。
細い夕焼け空。したたるようなオレンジの色。
出口はどっちだ。
またここだ。
吉祥寺の北口……。
遙さんがいた。
けだるいような壊れたようなジャズがかかっている店内。窓からさしこむ夕日。遙さんの前にはダイキリとかいうカクテル。おれの前にはキリマンジャロ。
「ここは……東京ジュピターの中じゃないんですか?」
遙さんは答えない。
「ぼくは頭がおかしくなったみたいだ。ほんとうは何年なんですか」
遙さんは答えない。
「二〇二九年じゃないんですか?」
遙さんは答えない。
「だいたい、なんでもどってきてるんだ、ぼくは……」
「飲んだら?」
ぽつりとした一言が遙さんの唇からこぼれる。
「え?」
「飲みたかったんでしょ? コーヒー。おいしいのよ、ここの」
ああ、そうだ。おれはコーヒーが飲みたかったんだっけ……。
「夢なのかと思ってた」
けだるいジャズが響く。
「ここはぼくが知ってる東京となにも変わらない。朝比奈たちも、友だちだって、いつもみたいだし……」
「だったら、夢じゃないわ」
「でも、ちがう」
声がかさついて喉にはりつく。うるおそうと飲んだコーヒーは、苦い味しかしなかった。
「したいことをすればいい」
え? と見ると、夕日が遙さんの顔に濃い影を落として、その表情は読めなかった。
「ほんものの世界なんて、その人それぞれが心の中だけに持っているもの。人の数だけあるものだわ」
ちがう。そうじゃない。
でも、自信はない。
「あなたが感じることがほんとうだったと思えるなら、ここはほんとうの世界なんじゃない?」
夕日が遙さんの胸にも濃い影を落としている。あんなに胸があったっけ?
なに考えてんだよ。
血が一点に集中しはじめる。
「とにかく、あなたはあなたにとってほんとうの世界にいまはいる」
「そう……なのかな……」
「幸せなことじゃない。……もう戦って痛い思いをすることはないわ」
そうか。戦って痛い思いをすることはないんだ。
「でも、あなたは男の子じゃない」
え?
「男でしょ」
気がつくと、おれはとんでもないことをしていた。遙さんを押し倒して、胸をわしづかみにしていた。
掌の中のあたたかな塊。
これが男か?
男のすることだっていうのか!
「ご、ごめんなさいっ!」
あわててはなそうとした手を、反対に遙さんに握りしめられた。そして、彼女は自分からおれの手を自分の胸に押しつけた。
「男らしくすれば? 彼氏がいたって関係ない。年上だからって関係ない。したいことをするんだって。自分の思うままにするんだって」
「ちがう!」
ちがう!
ちがうっ!
「ぼくは無理なんかしてない。ガマンなんかしてない。ぼくは……ぼくは……」
そのあとの言葉は出てこなかった。
「ウソつき」
遙さんの感情のない瞳が、おれの目をのぞきこむ。
「自分にそういい聞かせてるのね。でも、みんなは知っているのよ。だって、どんなに隠したって、あなたが望んでいるんだもの。もう、いいじゃない」
ちがう!
ちがう!
だけど、体はおれを裏切る。血が一点に集中し、痛いほどだ。
「さあ、こわがらないで」
だめだ。そんなことしちゃ。だめだ。
だけど、意思に反して指先が動いた。
「そうやって、人を傷つけていくのね」
いつのまにか、おれは押し倒されるように床に横になり、遙さんが逆にのしかかっている。
遙さんの腰がちょうど、おれの上にあった。
「自分の望みどおりにして、人が傷つくのもかまわないのね」
「ちがう……」
かすれた声をしぼりだすのがやっとだった。
遙さんがおれの手をつかみ、指先をもてあそぶ。
「この指はもう演奏できるのかしら」
懸命にふりほどこうとしたけど、遙さんはそうさせず、自分の胸におれの指をふれさせる。
布地越しにわずかに硬くなった部分が感じられた。
「この指はもう調律できるのかしら」
胸から腹へ、そして、もっと下へ。下へ……。
「いやだあああっ!」
こんなのは遙さんじゃない。おれが想像する遙さんでもない。絶対にちがう!
ちがう。
ちがう。
ちがう!
でも、自信はない。
気がつくと、また吉祥寺の北口。
夕日がさしこんでいる。
「帰らなきゃ」
バスがゆれる。
おれは自分の手をじっと凝視《みつ》める。遙さんの胸をつかんだ手を。あの感触を思い出すだけで、血が一点に集中していく。そんなこと思い出して興奮してるなんて、おれって最低の人間だ。最低だ。最低だ。サイテイダ。
気がつくとバスは石神井公園前についていた。
バスを降りる。いつもの風景。いつもの道。
そして、おれの家。
おれが生まれ育ち、十七歳の誕生日になるまで暮らした家だ。
鍵……。そういや、おれ、家の鍵どうしたんだっけ。東京から出てきて、三浦海岸で服を着がえて、それから……。あのとき、なくしたんだっけ? よくおぼえていない。
ぼんやりとドアの前でたたずんでいたら、ドアが開いた。
おふくろだった。
血が青いおふくろだった。
「ああ……お帰り」
「ただいま」
夕日がさしこむ食卓をかこむのなんてひさしぶりだ。何年ぶりかな。おふくろ、仕事いそがしいから。ハンバーグは得意料理だったっけ? って思い出さなきゃならないぐらい、ひさしぶりだった。
「きょうは珍しいんだね」
「なにが?」
「ちゃんとごはん作ってくれてさ」
おふくろは苦笑いした。早く帰ってこないことへの皮肉だと思ったらしい。
「ごちゃごちゃいってないで、早く食べなさい。あと片づけがたいへんだから」
「うん。ごちゃごちゃ考えたくない」
考えたくない。これが夢かなんて。おふくろの血が青かったなんて。東京ジュピターの外で暮らしてたなんて。TERRA《テラ》の人たちのことなんて。六道《りくどう》さんのことなんて。恵のことなんて。遙さんのことなんて……。
「ひさしぶりに作ったから、カンにぶってるかも。味、濃すぎた?」
おれは首をふる。
だって、濃いもなにも、これ紙みたいな味だもの。
おれたちは無言で箸を動かす。
つけっぱなしのテレビでは、ニュース・キャスターが事件や事故のことを淡々としゃべっている。
いつもの食事風景。
でも、なにかがちがう。
「かあさん」
いいかけた言葉は、しかし、顔をあげたおふくろを見て、喉の奥に押しこまれる。ハンバーグの脂で濡れた唇が、おれにむけられる。
「なに?」
なにもいえない。
うつむくしかない。
とつぜん、名前を呼ばれたような気がした。
「神名くん」
ふりむいてもだれもいない。ただ、テレビのニュース・キャスターだけがしゃべりつづけている。
「神名綾人《かみなあやと》くん。聞こえていますか? 神名綾人くん、聞こえたら返事をしなさい」
へんだよ。このキャスター、どんな原稿読んでるんだ?
「声をだしなさい」
おふくろを見るけど、おふくろは気づかずに黙々と食事をつづけている。
「あなたがいま、どういう状態にあるのか、こちらでは把握できません。FHスーツのモードをCにして、こちらに生存を伝えてください」
へんだよ。なんでおれを呼ぶんだ。
「このままでは、あなたはこちらに帰ってくることができませんかみなあやとくんあなたは……って……ト……ナ……」
ぶつりとテレビが消えた。
おふくろが消した。
「このごろ、電波が悪いみたい」
それだけいうと、おふくろはまた食事にもどった。
やっぱり、いまのはおれの気のせいなんだ。そうなんだよ。
でも、自信はない。
ひさしぶりの自分の部屋。あの日、出ていったときそのまま。時間が止まっているみたいだ。だって、きょうは七月三日。おれの誕生日……。
部屋の子機が鳴った。守からだった。
「さっきはどーしたよ」
「え?」
「勝手にだまって帰りやがって。浩子も心配してたぞ」
「……あ。ごめん……」
あやまってしまう、おれ。なんであやまる? なんで? なんで?
「じゃあ、明日学校でな」
「ああ、明日、学校で……」
電話が切れた。
ツーツーという単純なくりかえしの音が、耳の奥にふり積もっていく。
明日……学校……。誕生日のつぎは土曜日だったはずだ。
でも、自信はない。
ベッドに倒れこむようにして横になる。
ふと手の中によみがえる柔らかい感触。遙さんの胸の感触だ。……最低だ、おれ。
思い出して興奮してる。手の中の感触をぬぐいさるように、何度もシーツにこすりつける。その音が静けさを刻んでいく。
冷たい静けさが、おれの背中に忍びよってくる。
「もういいんだ。これでいいんだ。ここがいいんだ」
冷たい静けさが、ひとりごとを吸いこんでいく。
「ここがぼくの世界なんだ。ここにいるべきなんだ。こわい思いもしない。痛い思いもしない。戦わなくたっていい。これでいいんだ」
冷たい静けさの奥で、だれかがくすりと笑う。赤い唇で。
その笑い声が、いがらっぽく耳の中を通っていく。
「そうなんだろ!」
おきあがって、笑ったやつをにらみつけた。
「そう思えってことなんだろ!」
だけど、だれもいなかった。
むちゃくちゃ腹が立ってくる。
「ふざけんなよ。ふざけんなよ。ふざけんなよ!」
本棚の本を手当たりしだいに床に投げ捨てる。投げ捨てるたびに「ふざけんなよ!」と呪文のようにくりかえした。本の数だけ、「ふざけんなよ!」が床にたたきつけられた。どうにもならなかった。床にちらばった本。だけど、それは本じゃない。中身は白いページばかりだ。なんだよ。なにがどうなってんだよ。
と、そこに文字が浮かびあがってくる。
「あ や と綾 人ア ヤト」
おれの名前がとぎれとぎれに浮かんでは消えていく。
「綾 ト あ ヤと あ
とあやとあ、やとやとや
と とり。
りゃん、               とらぱりゃん
からぬけ
だし
て」
なんだ。
なんなんだよ!
だれなんだ。
「だれなんだよ!」
答えのようにうしろから抱きしめられた。ふりむくと、くすりと笑うおふくろの赤い唇。ルージュがひいてある。
「かあさん」
おふくろの胸が必要以上に背中に押しつけられる。
「おかあさんのいうことは聞くものよ。そうでしょ?」
ぞくりと肌が粟立つような冷たい声だった。
「あなたはゼフォンの正統なる奏者」
窓からさしこむ夕日の中に、いつのまにか小さなおれがいる。むかしのおふくろがいる。ふたりして、積み木かなにかを作っている。あれは知育教材とかいうやつで、緑や赤や黄色の玉や立方体や円柱の形をヒモに通して。
「奏者は譜面に忠実でこそ、その真価が発揮されるのよ」
ヒモに通して。てし通にモヒ。
「インプロヴィゼーションなんて、あなたにはまだ早すぎる。わかるでしょ。あなたはまだゼフォンをきちんと調律さえできていない」
緑や赤や黄色や赤や緑や黄色や緑や黄色や赤や。
「でも、むりもないわ。心まどわされることばかりだったもの……」
小さなおれはいっしょうけんめいに、細いヒモに玉や立方体を通していく。知育教材なんて知りもしない。ただ、おふくろのいうとおりにやっているだけだ。おふくろの手の内で遊んでいるだけだ。
「ここにいればもうこわい思いをしなくてもいい。痛い思いをしなくてもいい。戦わなくたっていい。この世界なら、あなたは心乱すことなく、普通の生活と、ゼフォンの奏者としての生活ができる」
知育教材だったなんて、知らなかった。おれはただおふくろにいわれるままにやっていただけだ。
奏者になるためじゃない。
「あなたは、わたしのそばにいるの。いいわね」
頭の中に舌先を入れられたような不快感に襲われる。そして、反射的に蹴り飛ばしていた。
だれを?
おふくろを。
自分の母親を。
まるで醜い生き物のように。唾棄すべき存在のように。
おふくろは床にうずくまったまま動かない。
ううう――
おふくろのうめき声が、とぎれとぎれにつづく。
そして、苦しそうな目がおれをひたと凝視《みつ》める。
「母親に……していいことかしら」
そうだよ! そんなことしていいわけないだろ。正論ふりかざすなよ! いつだってそうだ。いつだってあんたは正しい。いつだっておれが悪いんだ!
「どうして。わたしは綾人が望むことはなんでもかなえてあげたじゃない。わたしはあなたを思って……」
「うそだ!」
おれはさけんでいた。
「たしかにかあさんは、なんでもしてくれた。なにをやっても反対しなかった。でも、本気で怒ってもくれなかった。本気で抱きしめてもくれなかった!」
ただ掌の上で遊ばせていただけだ。好きにさせていただけだ。
「わたしはあなたの……」
震えるおふくろの手がおれにむかってのびてくる。つかまえようとのびてくる。
逃げろ!
おれは背をむけて走りだした。
「なぜ! どうしてわたしのいうことを聞いてくれないの。あなたはわたしの息子なのにっ!」
呪うような言葉が背中につき立つ。
うるさい。
うるさい。
うるさいっ!
おれは走った。
夕方の街に走りでた。
走りながら思い出したことがある。
あの黄色や丸の教材。あれを、なぜヒモに通していたかを思い出したのだ。あのとき、おれは、おふくろに首飾りを作ってやろうとしたんだ……。
すべての思いをふり切るように、おれは走りつづけた。
ゆがむ夕日の中を走った。
気がつくと石神井公園にいた。三宝寺池のそばだ。夕日がオレンジの波を水面に刻んでいる。それを背景に少女が立っていた。
玲香だった。
「やっぱり……」
この世界がおれのために作られたのだとしたら、どこかにきみがいるはずだと思ってた。
「ようやく会えたね」
安心感からか、涙がこぼれそうになる。
「ぼくは……。ぼくは帰りたい。ほんとうの世界に」
「ほんとうの世界? ほんとうの世界なんて、その人それぞれが心の中だけに持っているもの」
あの遙さんとおなじようなこというなよっ!
「ほんとうじゃなくたっていいんだ! ……ほんとうじゃなくてもいい。……だって、ここは気持ちが悪いんだ。リアルじゃないんだ。なにかがまとわりつく感じがして、なにもかも膜のむこうのできごとみたいなんだ。イライラするんだ。ここはぼくが望んだ世界なのかもしれない。でも、こんな世界はイヤだ! ここにぼくはいない! ぼくが生きている実感がないんだ。ぼくは! ぼくは!」
ただ、この手の中にしっかりしたものを握りしめたいだけなんだ!
「だまって」
夕風に冷えた玲香の指先が、おれの唇に軽く押しつけられる。
「ほんとうの世界には、神名くんが目をそむけたくなる現実がまっているかもしれないわ。それでもいいなら、それを受けとめる覚悟があるんだったら……」
あるよ。ある!
声にならないおれの言葉に彼女がうなずき、そのまますっとおれの喉の内側に指先をすべり落とした。
ごぼっ――
なにか黒いものがおれの中からひきずりだされていく。苦しい。痛い。この世界にきてはじめて感じる苦痛。息ができない。
がぽっと、それがひきずりだされたとき、おれは咳きこみ、身をよじって苦しんだ。
涙を流し、吐きそうになっているおれの上に長い影が落ちる。
見ると、三宝寺池からラーゼフォンの操縦席がつきだしていた。
ラーゼフォンだ。
うれしかった。苦しいけど、うれしかった。
視線をもどすと、もうそこには玲香の姿はなかった。ただ風だけが吹きぬけていく。
気がつくと、おれはラーゼフォンの操縦席に座っていた。周囲にはハニカム構造のスクリーンがはりめぐらされている。そこに映りこんでいる、ラーゼフォンを抱きしめるドーレムの姿。
そのときおれは気がついた。あの世界になかったものに。
匂いだ。
ここにはそれがある。水面からかすかにたちのぼる澄んだ水の匂いだ。その水面がゆれた。怒りにゆれた。おれは心をあやつられた怒りのすべてをドーレムにたたきつけた。
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断章1 三輪 忍
断末魔の悲鳴もなく、ただ苦悶の表情とともにムーリアンさまが〔奏者の祭壇〕から消えた。
同時に〔マルハカナの面〕をつけていらっしゃった麻弥さまが、のけぞるように椅子から崩れ落ちた。
「だいじょうぶですか。麻弥さま」
九鬼司令がかけつける。その手をはらうように麻弥さまは起きあがられた。
「わたしの心配など、おまえがする必要はありません」
「しかし……」
麻弥さまは、いつもの冷たい目にもどられて、司令をにらみすえている。ただ、その目の隅にわずかに光るものがあったのを、わたしは見のがさなかった。麻弥さまが? 泣いてらっしゃる? まさか。
〔マルハカナの面〕を通して、ビバーチェが織りあげる夢の中で綾人さまにお会いして、麻弥さまはなにをごらんになったのだろう。
いや、そんな想像をしてはいけない。人の分をこえてはならない。
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ドーレムを撃破して、ネリヤ神殿にもどる。ラーゼフォンを降りると、前進調査室に遙さんがいた。
「綾人くん」
かけよってきた遙さんに思いっきり抱きしめられる。
「心配したんだから。三時間よ。三時間も連絡つかなかったのよ。ラーゼフォンの存在も確認できなかったんだから」
遙さんの香水の薫りがする。TERRA《テラ》の制服の少しごわついた布地の感触がある。遙さんのあたたかさが感じられる。ああ、リアルだ。これがほんものだ。
おれはもどってきたんだ。
そのとき、あの世界で自分がしたことを思い出してしまった。遙さんにしてしまったことを。
あわてて、つき飛ばすように遙さんから離れてしまった。
一瞬、遙さんはすごく傷ついたような顔になる。
ちがうんです。そうじゃないんです。だけど、言葉が出てこない。
出てこないうちに、遙さんの傷ついた顔は軍人さんの顔になってしまった。
「ご苦労さま。あとで報告書を作成してください」
それだけいうと、遙さんはくるりと背中をむけた。
無言の背中が痛い。
ちがうんです、あなたを拒否したんじゃなくて、自分のやましさを否定しただけなんです。
だけど、ついに言葉は出てこなかった。
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第二章 黒卵託卵調律卵
如月久遠1
遠い場所、遠い声。こはいずくか? 兄さまの声がしまする。声は聞こえまするが、意味はとれませぬ。ええ、とれませぬ。研究者たちはそれぞれのモニター類をチェックし、この肉体の変化を注意深く観察している。この部屋にはいつもより大勢の人間がいる。だというのに、たれもさばえなす動々とした者どもに気づかぬのか。汝が足下にうごめく者どもに。汝が肩にすがりつきおるものどもに。あれはなに? わたしの夢? それともこの世に同調しようとしているムーリアンの意識が、感覚野の受容体を変容させているだけなのか。どちらでもかまわぬ。あが心はすでにして宇土多加禮許呂呂岐弖《うじたかれこころきて》あり。いえいえ、それはちがいまする。よくごらんなされ。一匹一匹の白い腹の光るさまを。その光の中にある御救いの手を。ああ、ああ、わたくしは見る。光の中にあの人の姿を。幽冥《ゆうめい》たるをはせあが宍《しし》をつらぬきて、苦痛の光に覚醒へのステップをあがる。その光の中に瑠璃色の闇がひろがり、闇の中にま黒き腹がせりあがる。あれは孕んだ女の腹ではない。あれはまろかなる闇。闇。病み……。
めめんと森の奥深く、わたしは幸せさがします。
めめんと森の奥深く、わたしは涙をさがします。
めめんと森の奥深く、わたしはわたしをさがします。
「キスしたら? 目がさめるかもね。どう、王子さま」
あれは七森小夜子《ななもりさよこ》さまのお声。吾《あ》を忌避《きひ》する者の声。なぜか知らず、なぜかは知りて。兄とわたしのあいだに、その体をねじこもうとしている女の声。
「ぼくはただ……」
オリン。神名綾人なる者。ぼくはただ……なに? ぼくはただ、久遠《くおん》が心配だから見にきただけです? ぼくはただ、久遠が抱きたいからきただけです? ぼくはただだだ久遠がががが久遠が。制御系にバグがあるのか。わが体わが意に沿わず。わが心わが躰に沿わず。脳内シノプシスの活動があるのに、数値には表れないほど微弱である。これは眠りという名の状態だが、レム睡眠のない状態。REM=ランダム・アイ・ムーブメントではない眠り。わたしは目をひとつ動かすこともできぬゆえ、この指先になにをつむいだらよいのやら。
めめんと森の奥深く、わたしは幸せさがします。
めめんと森の奥深く、わたしは涙をさがします。
めめんと森の奥深く、わたしはわたしをさがします。
泥の臭い。どぶの臭い。毒の臭い。生ける者たちの臭い。かすかなそれが、わたしの精神をふたたび活性化させる。ぬらりとぬめつく意識が流れこんでくる。襞のひとつひとつに喜びがひろがり、粘膜がねばり気を増していく。ぬらぬらぬちょぬちょぬとぬとぬめりぬるりぬるぬるぬれぬれぬとりぬろりぬめぬめぬちゃりぬちゃり。「ぬ」という曲線で構成された表象と、その音がもたらす感覚的クオリア。死を恐れる者たちが、燃える命に快楽を捧げる儀式。放たれる直線の思考。受け止める曲線の思考。久美度《くみど》に興して生める子は水蛭子《ひるこ》。此の子は葦舟に入れて流し去てき。流されることのない水蛭子。生まれることのない水蛭子。水蛭子はエビス。エビスにさえなれぬもの。あれは遺伝子操作されたF1だから。いくらでもふけるがよい、背徳の喜びに。いくらでもふけるがよい、わが血を引かぬ者どもよ。
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断章1 七森小夜子
ふん、それでうまいつもり?
苦痛に満ちた数分のあと、一色はすうっと醒めたような吐息をついて体をはなした。
そして、もう自分には関係ないって顔をして、ガラスのむこうの久遠を見ている。
ことが終わると、どうして男はこうそっけないんだろうか。こっちが余韻にひたりながら甘い戯れ言をいっても、男は上の空。デジタルで世界を支配しているだけのことはある。女はどこまでいってもアナログだわ。まだ心は苦痛に満たされている。
男は欲望のままにどこであろうと女を支配したがる。女は支配されながら、男を支配する。さもなければ、だれが好きこのんでモニタリング・ルームでことにおよぶというのだろう。わたしたちがそうしているあいだも、昏睡状態にある久遠のデータが冷静に表示されつづけていた。
「なぜスリーピング・ビューティーは眠りつづけているのかな。いつ魔女の毒リンゴを食べたんだ」
わたしが魔女だっていうの? 毒リンゴが作れるなら、とっくに作って食べさせてるわ。まっさきにあなたに。
「このあいだのドーレムが綾人くんに精神波攻撃をかけてきたでしょ。その余波よ」
「そうか」
一色はそっけなくうなずく。この男はどこまで知っているのだろう。ラーゼフォンを通じて、綾人と久遠が感応しあうことがあると聞いても、少しもおどろかない。この事実が観測されたとき、樹《いつき》先生もおどろかなかった。いったい、ふたりは、わたしの知らないなにを知っているんだろう。
ガラスを鏡がわりに口紅を引く。紅く塗られた唇のむこうに、眠りつづける久遠が見える。その口元が、わずかに微笑んでいるように見える。まるで、わたしたちを嘲笑うかのように。
「ねえ、あの子、さっきのわたしたち、見てたりして」
「かまわないだろ。それより例の件は?」
「あなたのほうこそ、どうなの」
この男は約束したのだ。樹先生の身柄の安全と、わたしの立場の承認、そして、久遠の身柄の……。
ちらりと冷たい一瞥がかえってきた。
「おれは誠実な男だよ」
誠実な男だって? そんな言葉をいわなきゃならないのは、不誠実な男の証明よ。まあ、いいわ。おたがい利用しあっているのは、わかっていることだから。
一色が出たすぐあとに廊下に出る。あんなやつとの匂いがこもった部屋なんて、少しだっていたくない。
それが失敗だった。
外に出たら、遙がいた。ったく、なんでこんなときに、こんなとこにいるのよ。花なんか持って、久遠のお見舞い? おやさしいことで。
まさかこんな時間に人がくるとは思っていなかったから――思ってたら、あんなことしやしない――、まったく無防備に髪なんか気にしながら、男のあとに出てきちゃったじゃないのよ。これで、そういうことを想像しないのは、バカか聖人ぐらいだわ。
こうなったら開き直るしかないわね。
「ね、ストッキングの余分もってない?」
遙に誤解されるのはかまわない。ただ、このことを樹さんにチクられたらこまる。
「いつからなの?」
おーおー、いっちょまえに友だちらしく心配そうな顔してくれるじゃないの。
「そんなこという必要あるかな」
「必要って。だって、わたしたち……」
「親友でも、他人に立ち入ってほしくないことって、あるでしょ? ちがう?」
あんたにだって、ある。わたしは知っている。これくらい釘をさしておけば、きっとしゃべらないだろう。女は、女の報復がどれほど怖いか知りぬいているから。
立ち去るわたしは口元に余裕の笑みさえあった。
「そうね……そのとおりだわ」
背中に遙の声がとどく。完全に勝ちね。あんたから、その言葉をひきだしたんだから。
そのとき、生あたたかいものが流れ落ちた。ほんとストッキングの替えが必要だわ。
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断章2 ヘレナ・バーベム
冷たい部屋。この島がどんなに暑くても、この部屋はいつも冷たい。部屋の主の心と同じく冷えきっている。
「おはいり、ヘレナ」
やさしい声だが、その奥にひそむヘビのような毒牙が、湾曲した先端をわたしの心に打ちこんでくる。
「ニライカナイで保護中の如月久遠に情緒の変動が生じています。覚醒の時が近いのかもしれません」
「眠れる者はいずれ目ざめるものだよ、ヘレナ」
「生理調査チームを派遣しました」
バーベム卿が体をわずかに動かした。あの仕草は……まるで少女の頭をなでているようだ。そう思ったとたん、卿のかたわらに膝をついて絵本を読んでいる少女の姿が見えた。あれはだれ?
「いい子だ、ヘレナ」
記憶の底からわきあがってくるようなやさしい声。その声を耳にすると、わたしの心はしびれたように動けなくなる。どんな恐ろしいことでもできるようになる。
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如月久遠2
めめんと森の奥深く、わたしは幸せさがします。
めめんと森の奥深く、わたしは涙をさがします。
めめんと森の奥深く、わたしはわたしをさがします。
背徳の喜びに彩られた他人の肉体イメージが、自己のイメージを補強してくれた。一度、崩壊しかけていた身体イメージを取り戻すことができた。イメージがふりつもり、わたくしの身体を構成してゆきまする。ちまたに雪のふるごとく、わが心にも夢のふる。自己と他者の曖昧な境界がくっきりと屹立するがごとくに峻別される。森の怪物はライオンと名づけられたとたんに、恐怖の存在ではなくなったといわれるように、名前をつけるということは、人の認識に変化をもたらす。名前をつけること、それはそのものの名前を得ること。名前を得ること、それはそのものを支配すること。名前をつけましょう。美しくかわいい名前を。皮膚におおわれ、幾多の関節を持った骨構造を有する棒状器官。これを指と名づけましょう。つねになにかに反射した光をとらえることはできても、永遠にそのものを見ることはできない器官。これは目と名づけましょう。これは髪。これは胸。これは子宮。これは爪。これは耳。これは唇。これは腿。これは……。永遠に細分化されていく名前。名前の統合である自分。自分の分と区分の分。ああ、そうか自分とは自己と他者を分ける力であったか。身体を取り戻したわたしは、自分を縛りつける拘束具に気づく。なぜ? 昏睡状態のわたしが自分を傷つけないため? 自分を区分できないでいると、自分を攻撃してしまうから。拘束具に、さらに体じゅうのあちこちに接続された金属片。これは体の電極変化を読み取り、わたしの変化を調べるためのもの。いえ、それは明確な区分。区分をなくせば、自己と他者の境界は曖昧となり、拘束具もモニター類も意味をなさなくなる。意味どころかその存在さえもあやふやになる。ほら、脱けた。
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断章3 如月 樹
財団からの生理調査チームがなぜいまになって、久遠の再検査などおこなうというのだろうか。
時期が悪い。綾人くんが来てから、久遠はその影響を少なからず受けている。今回の昏睡状態も、かれと精神的にシンクロしている部分があるために、ドーレムからの精神攻撃の余波を受けてしまったのだ。おそらく覚醒前期症状なのだろう。もし、調査チームがデータを採取しているあいだに、覚醒でもしたら……。
ところが、肝心の久遠がICUから姿を消していた。ホッとすると同時に、嵐のような不安に襲われる。
「七森くん、久遠はどうした?」
「そんな……。ついさっきまで眠っていたのに」
「ライフモジュールをつけずに出歩くなんて。手配して、急いで探してくれ」
まずいことになった。ライフモジュールをつけずに久遠が歩きまわれば、それは災厄にもなるだろう。
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如月久遠3
めめんと森の奥深く、わたしは幸せさがします。
めめんと森の奥深く、わたしは涙をさがします。
めめんと森の奥深く、わたしはわたしをさがします。
ライフモジュールをはずしたことによって、意識がひろがっていく。そうか。あれはわたしの意識を封じこめ、なおかつ守るためにあったのだ。まぶいこめであったか。その証拠に、さまざまな意識にひきずられ、わたしの体はとめどなく分散し、拡散していく。いててて、やっぱきのう食ったレバニラかなあ。あれ? こんなとこに忘れてたのか、おれってオボケだぜ。あたしのこと嫌いになったの? うざってえ女だな。あの子はどうして死んでしまったのだろう。意識の流れ。意識の急流でわたしはもまれ、もまれて、舞い散り散り。チルチルミチルならパンのかけらも撒きましょうが、この流れではそれもかないませぬ。欲望。夢。解き放たれたる自己。むかしもこのようなことがあったようなでもあのときのことはわすれてしまったなにかたいへんなことになったようなきもするけどいまはおもいだせない。隔絶。断絶。悪々しき記憶、寞々《ばくばく》とあり。でもさあ、あんときとはてんでちがうよー。だって、ほら、自分ができてるじゃん。成長ってやつ? だから、あたし的にはへーき。意識の流れの中にころろ、ころろとしてありし、見なれた意識。あれはなんだろう。四方田洋平《よもだようへい》「あれえ? 久遠ちゃん、こんなとこでなにやってんの」五味《ごみ》勝「こら、久遠ちゃんなんて、なれなれしいんだよ」いいよねえ。そういえばさっきみんなが探してるっていってたけど、いいの? 言葉の裏に見え隠れする欲望。「抱いてみる?」ためしに投げつける言葉に、かれらの思考は硬直する。なるほど、かれらは幻想のわたししか見えていないようだ。幻想のわたしと現実のわたしの乖離に、対応できないでいる。あははは。おもしろい。筆のひとはきのように、他者の記憶を消して、わたしはまた意識の流れに乗って運ばれていく。
めめんと森の奥深く、わたしは幸せさがします。
めめんと森の奥深く、わたしは涙をさがします。
めめんと森の奥深く、わたしはわたしをさがします。
根来《にらい》島はのう、きりしたんの島じゃったんだと。ほいで、明治の御一新で禁教が解かれるちゅう噂が流れてのう。これはなに? 島人たちゃ、大臼さあのごたいせつじゃゆうて、涙を流して喜んだと。ところが、明治のおかみは前よりもひどくいじめるようになったんだと。これが「根来の五番崩れ」ゆうてなあ、そりゃあむごたらしいことになったそうじゃ。これはなに? おまえさん、羅世音観音《らぜほんかんのー》さあにお参りなすったかい。ありゃあ、もともとマリア観音さあだったんじゃ。ご当番のおやっさあたちがのう、月ごとにご燈明をささげ、祈り返しに返して守ってきたんじゃ。扉があったろう。あの奥は石が詰めてあっての、そのむこうにマリアさあがご安置されてるゆうことじゃ。お役人に見つからないようにだあよ。もっと古いものじゃないのかて? そうかもしれんなあ。わからんわ。この島に「みてりき、はてりき」の母子が流れつく前からあるともいわれるからな。「神返《かんがえ》し」知っとろうが。ありゃあ、マリアさまとちごうていらっしゃるからなあ。「逆神《さかがみ》隠し」? ああ、そうともいうな。なんやら、サカガミさまが隠すようで、わしゃあよう使わんよ、それは。幼い子がふたりのう、どこからともなく羅世音さあとこに顕れたんだと。うちげーとのマサばあが見たゆう話だ。なんでも、そんとき、こーこ学とかいうのの若い先生たちがふたりな、羅世音さあを調べておったら、ほっくり現れたんだと。わしゃ、見とらんからわからんよ。だけんど、ここいらの人間はみなそうゆうとる。ひとりは泣いて、ひとりは眠って。泣く声のしつつ、眠る意識の中にひいよろろ。母を乞い、父を想う声のしつつ、ねぶりにふけりひいよろろ。ひいよろろ、ひいよろろと幾歳月。眠れる子の指先に結ぶ夢は、はたまた音か、はたまた世界か。これはなに? 深く暗い記憶の淵から、いにしえの時がその身を起こしつつある。
めめんと森の奥深く、わたしは幸せさがします。
めめんと森の奥深く、わたしは涙をさがします。
めめんと森の奥深く、わたしはわたしをさがします。
キム「ねえ、総ちゃん。なんで、わたしたちのこと、みんなにいわないの?」
八雲《やぐも》「やだなあ。そのことは、なんども話しあってるじゃない。そのたんびに、話すタイミングをのがしちゃったねって結論になるだろ」
キム「でも、隠してるのが、どんどん苦しくなってきちゃうのよ」
八雲「だったら、きみがいえば? ぼくは否定しないから。恥ずかしくて、いまさら、みんなの前でぼくたちつきあってま〜す、なんていえないでしょ。きっと、みんなも気がついてるよ、ぼくたちのことは」
キム「そうかなあ」
八雲「そうだよ」
わたくし「ウソ」
八雲、キム「!」
わたくし「総一、あなたは卑怯者。明確にならないいまの関係が、あなたにとっては最高の関係。それが明確化して、もしも関係性に亀裂が生じたら、それはキムのせい」
八雲「なにいってるの、久遠ちゃん」
キム「総ちゃん……ほんとなの?」
わたくし「ホタルも卑怯者。自分では結論をくださずに、男のだす結論にしたがおうとしているだけ。その陰で恵が泣くのを知りながら」
キム「ウソよ……」
わたくし「ウソじゃない。ふたりはおにあい。とても、おにあい。総一は策謀をめぐらせるくせに男女の機微にはうとく、ホタルは男女の機微にはさといが、自分で決められない。おにあい、にあい、だましあい。自己愛、性愛、せめぎあい」
八雲「久遠ちゃん……。ひどいんじゃないかな」
わたくし「ひどい? あくどい、あざとい、まわりくどい。まとい、しぶとい、花はしどい。言葉が連鎖して分類不可能。意識の流れとぎれることあたわず」
キム「わたし、そんなひどい女じゃない。あなたの誤解よ」
そんなことをいっても、あなたのいしきのそこではあなたがかんがえているようなおんなじゃないのよわかって。いけないいけないまた災厄になってしまうまえもこんなことがあったようなきがするふでのひとはきで記憶を消してしまおう。
そして、また、わたしは意識の流れにのる。
めめんと森の奥深く、わたしは幸せさがします。
めめんと森の奥深く、わたしは涙をさがします。
めめんと森の奥深く、わたしはわたしをさがします。
なあがのそれしか、すけてがひそまれるとき、うらげにはけてれば、おおくらんじののきかひ。らあぜふぉんがしりまつれ、ぜふぉんがししりしに、らあがそそりしに。
めめんと森の奥深く、わたしは幸せさがします。
めめんと森の奥深く、わたしは涙をさがします。
めめんと森の奥深く、わたしはわたしをさがします。
「羅世音観音の社殿って、沖縄の亀甲墓ににてるな」
「むしろ九州の円墳ににてないか?」
「円墳ねえ。卵っぽいことはたしかだよな」
「知ってるか? 翔吾。韓国語で天空《ハナル》は「|大いなる卵《ハン・アル》」に由来してるんだ。円墳が卵形してるっていうのは、天空の模倣だともいわれてる」
「谷川健一だったっけ?」
「あと日本ではいっさい記録に残っていないけど、日本にきた宣教師たちの報告に、卵を牡牛がその角でついて壊して、天と地が作られたってのもあるんだ」
「卵と天空と墓か。三題噺みたいだな」
「ちょっとまて。……なんか聞こえないか?」
「聞こえる。子どもの泣き声みたいだ」
「あっちだ。行ってみよう」
めめんと森の奥深く、わたしは幸せさがします。
めめんと森の奥深く、わたしは涙をさがします。
めめんと森の奥深く、わたしはわたしをさがします。
「ああ、久遠か」
吾を久遠と呼ぶ、汝は何者。
「なにしに来たんだね。ずんだ餅は好きかね」
その声、どこかで聞いたよう。その姿、どこかで目にしたよう。あれはいつのことか。あれはいにしえの日か。
「いいのか?」
「久遠だってわかってくれるわ」
いいのか、といったのは若き日のこの男。この男はだれ? それは知らない。
久遠だってわかってくれるわ、といったのはあの女。あの女はだれ? それは知らない。
「なにがよかったの? なにが、わたしだってわかるの?」
シンメトリーを欠く男の表情が硬くなる。
「なにをいっているんだね」
「わたしは卵。わたしの卵。わたしの卵をとったのはあなた」
「おまえの卵をとったのは……バーベム卿だよ」
バーベムの名前が、またわたしを記憶の流れに流しこむ。
「おはよう。目が覚めたかね、久遠」
やさしげな言葉、やさしげな声、やさしげな顔。そはいつはりのもの。生けるメトセラ。ケセラセラ。いけない、いけない、記憶の流れではなく、意識を現在に戻さねば。わたしは士郎とも呼ばれる男をひたと凝視《みつ》める。
「ネリヤ神殿にあった卵ではなく、わたしの小さな卵のこと」
ネリヤ神殿にあった卵? わからない。わからないけど、こぼれ出た言葉。こぼれ出た言葉はもうひろえない。
「なんのことだ」
「とぼけないで。知っているくせに。あなたがわたしの小さな卵から作りあげたもの。ふたつのひとつ。ひとつのふたつ」
男の顔に苦悩がひろがる。
「しかたなかった」
「しかたがないことなど、この世にひとつもない」
「そう責めないでくれ。野心があったころの話だ。それが、この身を焼きつくすほどだとも知らずに抱いていた……」
野心。やしん、闘心、発菩提心《はつぼだいしん》。マイトマイシン、魔法陣。修身、中心、駄々羅大尽《だだらだいじん》。怪人、狂人、朴念仁。言葉の羅列、言葉は羅刹、切り刻まれていく意識。だめだめだめ。また意識が流れていく。
めめんと森の奥深く、わたしは幸せさがします。
めめんと森の奥深く、わたしは涙をさがします。
めめんと森の奥深く、わたしはわたしをさがします。
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あの弐神《ふたがみ》って記者さんにとつぜん呼びだされた。歩きながら話そうということになって、こうやっておじさんちのそばを歩いている。へえ、この島にもこんな風景の場所があったんだ。あんまり出歩かないから、ぜんぜん知らなかった。弐神さんは、無言で歩きつづけている。いったい、どこにむかってるんだろう。
「部外者の人とあんまり話しちゃいけないって、いわれてるんですけど」
「冷たいねえ。こないだは快くインタビューに応じてくれたじゃないか。あのギャグ、なかなかおもしろかったぜ」
やっばい。そこんとこ、あんまりつつかれると、ちょっとまずいことになる。
「ちったあおじさんの仕事も助けてくれないかなあ」
「でも……ぼくはこの島のことはよく知らないんです」
「ここのことは知らなくたって、よく知ってるところはあるだろ」
どういう意味だ?
「MU《ムウ》東京総督府の長官。女だって知ってたかな」
うかつに反応しそうになった。おれが東京からきてるってことも、部外者には一応秘密になってるからな。
「世界を裏切った連中が、いまでも東京にいる。そいつらが東京総督府でふんぞりかえってるってわけだ」
「世界を裏切った連中って、どういう意味です?」
「こりゃあ、あんまり表立っていえないことなんだけどな、MU《ムウ》が出現した直後、在日米軍が核を使ったっていわれてるだろ。ちがうんだよ、最初に使ったのは自衛隊さ。おかげで在日米軍がまきこまれる形で参戦し、ドーレムの惨劇がはじまったんだ。ところが、こちらがつかんだ情報では、最初に核を使った自衛隊の一部はそのまま東京にとりこまれ、東京総督府って名前になったらしい。核を使ったんだって、デキレースだったのかもな。東京ジュピターを作るための」
「知らなかった」
「あたりまえだ。厳重な箝口令がしかれてるからね。知ってるのは東京の人たちぐらいじゃないのか?」
東京にいたときも知らなかった。だいたい、高校生にとっちゃ、政治の世界なんて、ナバホ族の儀式とおなじぐらい遠いできごとだ。それにしても、だれもいわなかった。世界を裏切った連中が、東京総督府にいるなんて。
「これを見てくんないかな」
弐神さんが一枚の写真をさしだした。なんか記念撮影みたいに、軍人さんがならんでいる。
「その世界を裏切った連中の記念撮影さ。いい気なもんだ。世界を裏切る記念に撮ったのかね。……メガネのやつが当時の自衛隊一佐だった九鬼正義。そして、そのとなりが……」
弐神さんはなにかいいつづけていたけど、耳にまったくはいらなかった。写真を持つ手がふるえる。なぜなら、記念写真の真ん中にいたのはおふくろだった。神名麻弥だった。
おふくろが世界を裏切ったっていうのか?
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断章4 弐神譲二
きたねえよな。神名麻弥のことをマルカン、つまり神名綾人にぶつけてみろだなんて。一色もなに考えてんだか。まあ、そうやって相手の反応見るってのは、おれのいつものやりかたか。はは。
東京のネタをふったときには、たいした反応は返ってこなかったが、さすがにあの写真は効いた。マルカン、写真持つ手がぶるぶる震えてたよ。だけど、この時期に母親のむかしの写真を見せることが、いったいなんになるんだろうか。
ああ、いや。考えるな。下っぱの考えることじゃない。おれは上の連中と一色のあいだでうまく立ち回ることだけ考えていればいいんだ。
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如月久遠4
これはなに?
強烈な絵画的イメージの中に、幾人もの人の顔が浮かぶ。オリンが見ている二次元的情報がT1野において、解析され、イメージとしてひろがっている。あの顔は……。かすかに残った幼いころの輪郭が、わたしの意識を記憶の彼方へと運んでいく。泣く声のしつつ、眠る意識の中にひいよろろ。ぼんやりと夢と現《うつつ》のあはひに立ちのぼる、かすかな記憶。横たわっているわたしの体、そのかたわらに立つ幼子。泣き声。泣き声。なぜおさなごはなくの。たがために。たれを乞うて。あのとき、あなたはすでに自分の運命を悟っていたの? 汝が泣けるは、流しやれりこの世の果てにて、生まれし常世を望みてか。痛かったの? それともわたしといっしょに目覚めたかったから? いえいえ、それはありませぬ。あなたにかぎって、それは。
ねえ、そうでせう、マヤ。
めめんと森の奥深く、わたしはわたしを見つけます。
わたしの墓を見つけます。
ここはどこ? 知らず知れずの場所。隠世《かくりよ》。距離も時間も意味をなさぬ場所。真黄ろき服を身にまといし乙女、蹴然としてあり。その瞳、烈々たり。その微笑み、皎々《こうこう》たり。
「イシュトリ?」
美嶋玲香がふりかえった。さっきわたしに微笑んでいたのに、ふりかえった。
「ここは距離も時間も意味をなさぬ場所。因果は逆転することもある」
わたしの〔刻印〕が熱を帯びる。発情したように、冷たい恨みをこめるように。
「あなた、イシュトリでしょ」
「わたしはイシュトリ。これは偽りの顔。神名綾人の望む仮面。あなたの真実はあなたが見つける」
イメージの中で、ネリヤ神殿が拡大され、その奥にひそんでいるゼフォンの姿が映りこむ。ゼフォンの瞳がわたしにむけられ、わたしはその奥をのぞきこむ。その奥の奥、魂の故郷、時の彼方を凝視《みつ》める。あれはなに?
わたしを冷たい体が抱きしめる。イシュトリが抱きしめる。
――あなたには声がある。
――なあに?
――あなた自身の音を呼び覚ます。あなたの真実を呼び覚ます。
――わたしの中の音? わたしの中の楽器?
弦が響く。弓が鳴る。
物質を細かくしていくと原子となり、さらにそれはクォークに分割され、ついには超弦《スーパーストリングス》にいたる。弦のふるえが物質を生み、弦の音が世界を作る。。
それは音楽。世界という名の交響曲。
交響曲に浮かびあがる黒い影。
黒い卵。
あれがわたしの卵?
わたしの楽器?
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断章5 八雲総一
「こっちには来てないみたい」
羅世音観音あたりを調べている遙さんからの報告がとどいた。
どこに行っちゃったんだろうなあ、久遠は。
そのとき、キムがぼくのほうをむいた。
「財団から、至急居所を発見し、保護してほしいとの要請がきています」
財団から? なぜだろう。久遠のデータに興味を持っていることは知っているけど、TERRA《テラ》に命令してくるほど重大なことなんだろうか。TERRA《テラ》が財団の資金によって運営されていることは事実だ。だけど、一応は国連傘下の組織ということになっている。その国連を通さず、直に命令してくるとはよほどのことだ。司令の話では、近々、財団のほうからなにかが供与されるということだ。供与といい、命令といい、財団がTERRA《テラ》への支配を強めようとしている。なぜだろう。ちょっと調べてみなくちゃ。
だったら、よけいに久遠の発見をいそがなければ。彼女がなにかの鍵だという可能性もある。財団との交渉の切り札に使えるかもしれない。
「とにかく捜索の範囲をひろげてみて」
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ねっとりとした波が上下している。
防波堤の端っこに腰をおろし、ずっと考えている。
おふくろのことを。
ほんとうにおふくろが、MU《ムウ》大戦というものをはじめたんだろうか。たしかにちょっと、ふつうからすると変わってる人だけど、ほんとうに何十億もの命を奪った戦争の元を作ったんだろうか。……おれには信じられない。おふくろはおふくろだ。
弐神さんは、おふくろが東京総督府にふんぞりかえってるなんていってたけど、そんな風には思えない。少なくとも、政治とか権力にはまったく興味がなかったはずだ。あのおふくろが人をあやつって喜ぶタイプだろうか。
ちがう。……とは言い切れない。おれにはよくわからなくなってきた。
ふと歌声が聞こえてきた。
見ると、防波堤の突端に女の子がひとり、海にむかって歌っている。なにやってんだろ。あれ、久遠じゃないか? 病院からぬけ出してきたみたいな格好してるけど、まちがいないよ。
「久遠」
声をかけてみたけどふりむかない。しかたないから近づいていった。
「なんでこんなところにいるの?」
だいたい、こんな突端に立つには、ずっと座りこんでいたおれの背中を通っていかなきゃならないはずだろ。防波堤はせまい一本道なんだから。それとも、考えこんでたから彼女が通りすぎていっても気がつかなかったっていうのか。
「見つけたの、あたしの……」
あたしの、なにを?
久遠がふりむいた。笑っている。いっつもぼんやりした顔してるから、こんな笑顔を見るのははじめてかもしれない。
「教えてくれたの。オリン」
「ぼくのこと? なにをさ、なにを見つけたっていうの」
「わたしもオリンだったの」
え? なにいってんだよ。そもそも、おれのことオリンって呼ぶのもよくわかんないのに、自分もオリンだったなんて。よけいわかんないよ。
「わたしが歌っていた歌、なんていうか知ってる?」
おれ、歌のことはよくわかんないけど、どっかで聞いたことあるよな。なんだったっけ。
「ボロディン作曲の『イーゴリ公』っていう歌劇の中で歌われる“ダッタン人の踊り”。ダッタン人ってわかるかしら。タタール人、つまり、いまの中央アジアのモンゴルの人たちよ」
いつになく久遠は饒舌だ。どうしたんだろう。それにやけにうれしそうだ。
「モンゴル帝国がロシアに攻めこんできたときの話。侵略者であるタタール人、コンチャック汗たちと勇敢に戦ったイーゴリ公を主人公にした歌劇なの。だけどね、それまでのロシアは、弱小の豪族たちが相争っていて、とても国家と呼べるようなものではなかったわ。タタールが攻めこんできたおかげで、モスクワ公国がそのトラの威を借りて国家統一を果たしたといってもいいのよ。ただ、タタールの圧政はひどくて、いまでもロシアではタタールの軛《くびき》っていうそうよ」
久遠はおれの目をのぞきこむように顔を近づけてきた。
「なにかをなすためには、破壊も必要なことなの」
ずんと胸に響いてくる。おふくろは、そのモスクワ公国のようにMU《ムウ》のトラの威を借りて、東京でなにをしようっていうんだ。東京ジュピターを支配して、どうしようっていうんだ。なにをすれば、二十億の人命っていう破壊を肯定できるっていうんだ。
「ついでにいうとね。作者のボロディンは生涯、軍医で医大の教授で、作曲はまったくの余技だったの。そして、『イーゴリ公』を完成させることなく死んでしまった。その死後、リムスキー=コルサコフとグラズノフのふたりが手を入れて完成させ、ボロディンの死後三年たってから上演されたわ。わかる? 作った者の意志を超え、時を経なければ、完成されないものがある」
なにがいいたいんだろう。
「まるでゼフォン・システムのよう。ひとつにしてふたつ。ふたつにしてひとつ」
ゼフォン・システム? ラーゼフォンのこと? 作った者の意志を超えるって? 時を経なければ完成されないって、どういう意味だよ。
そのことをたずねようとしたとき、サイレンが鳴り響いた。ポケットの携帯も鳴りはじめる。D1警報。ドーレムが出てきたんだ。どうしよう。と思っていると、急ブレーキの音がした。遙さんの車が防波堤の根元のほうに止まっている。
「急いで。司令センターまで送ってあげるから」
「わかりました」
大声で答えてから、久遠をふりかえる。
「ぼく行かなきゃ。早く病室かえったほうがいいよ。みんな、心配してると思う」
おれは遙さんの車に急いだ。
「勝手にどっか行かないでよ」
乗るなり怒られた。勝手にって……。遙さん、なにカリカリしてるんだろ。こないだのこと、まだ気にしてるんだろうか。あれは、あなたを拒絶したんじゃありません、といおうかと思ったとき、遙さんがやれやれって感じでいった。
「久遠もどっか行っちゃってるし」
「え? だって久遠はいま、ぼくと……」
「なに?」
遙さんにはよく聞こえなかったらしい。たずねかえされたけど、おれはなにもいえなかった。防波堤の突端に久遠の姿がなかったからだ。防波堤は一本道だ。そこからいなくなるには、この車のそばを通らなきゃならない。
じゃあ、いったい、彼女はどうやって?
「急ぐわよ」
遙さんは車を発進させた。おれはあたりを見まわしたけど、久遠の姿はどこにもない。あれは夢だったんだろうか。
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断章6 ヘレナ・バーベム
ま黒き卵がその黒さを増している。音をたてるようにして、周囲の光を吸収している。共鳴しているのだ。目覚めは近い。いや、もうすでに覚醒しているのだろう。
卵から聞こえるかすかな歌声。あれは「ダッタン人の踊り」だわ。
これはいい兆候なのだろうか。それとも悪い兆候なのだろうか。わたしには判断がつかない。
そのときだった。ドーレムが出現したという報を受けた。
「おじさま、ドーレムが出現しました」
わたしはエルンストおじさまの足元にひざまずく。
「そうか。アレも必死だな」
「卵と調律者がたがいに呼びあって共鳴しています。そのことで、ここが見つかったのでしょうか」
おじさまの目がわずかに細くなり、わたしの体は反射的にびくりと動いてしまった。
「ドーレムの出現位置は?」
「ここカルンムティアラとニライカナイのちょうど中間の位置です」
「判断がむずかしい位置だな。しかし、もしここを狙ってきたのだとしても、たかがドーレムになにができるというのだ。安心おし、わが娘よ」
「はい、おじさま」
にこやかに応えるのがせいいっぱいだ。ほんとうは、早くこの部屋から出たかった。
この部屋は寒すぎる。
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司令センターからラーゼフォンに転送され、必死で加速してようやくドーレムが見える位置まで飛んだ。エルフィさんたちアルファ小隊が、きのこみたいなドーレムに攻撃をかけている。
よし、おれも! そう思って操縦桿を握りしめたときだった。どこからともなく声が聞こえてきた。「ダッタン人の踊り」を歌う、久遠の声だ。どこから聞こえてくるんだ、と思って見まわすと、彼女がいた。操縦席をとりかこむ水面に、浮かんでいた。
なんでだよ。なんでこんなところに浮いてんだ。ラーゼフォンの中には、おれしか入れないんじゃなかったのか。夢か? いや、夢じゃない。その証拠に歌声にあわせて、水面に波紋がひろがっている。
おれは操縦席を降りると、斜めに矢のようにつきだした根元へ慎重に足をおろした。久遠まで数メートルはある。
「久遠。なにやってんだよ!」
呼びかけてみたけど、反応はない。ただ歌いつづけているだけだ。
「久遠!」
もっと身をのりだしたら、足がすべって、水の中に落ちた。
けっこう冷たい。山で湧き出る清水の冷たさってやつだぜ。こんなところに平気な顔してつかって、歌いつづけてるやつの気が知れないよ。
「綾人、どうしたの? なにボケッとしてんのよ」
耳元に恵のキンキン声が響いてくる。
「久遠がいるんだよ」
「久遠が? どうして?」
「おれが聞きたいよ」
「ドーレムはすぐ目の前なのよ!」
だからってほっておけるか? いつかみたいに電撃くらわされたらどうなる。ここの水がお湯になっちゃうんだぞ。あの様子じゃあ、きっとゆでられてる最中も、久遠は歌いつづけそうだ。助けなきゃ。
そのとき、歌声が一段と高くなり、久遠の体がゆっくりと空中に浮かびあがっていった。
おれは言葉を失う。
操縦席のある空間には明確な天井はない。ただ茫漠とした闇がひろがっているだけだ。その闇にむかって、彼女は浮かびあがっていく。いや、ちがう。闇に一点の光がともった。と思う間もなく、それは穴のようになり、そこから光がふりそそぐ。浮かんでいる久遠を照らしだす。
行ってしまう。
少しでも近づこうと懸命に操縦席にのぼり、彼女にむかって手をのばす。
「久遠! 行くな!」
おれの声が聞こえたのか、上昇がとまり、久遠がなにか丸い大きなボールをつかむようなしぐさをした。
「わたし……抱きたいの」
「え?」
「わたしのた・ま・ご」
最後の言葉が耳にとどいたとき、目の前に久遠がいた。久遠に手を握りしめられている。
「ゼフォンのオリン」
久遠が微笑みながらいった。
「あなたといっしょだったら、できる」
なにをだよ。なにいってんだよ。
そのとき、頭の上から光がふりそそいできた。さっきの穴のような光が、すぐそこにある。穴のようなものじゃない。穴だ。空間が穴のように切り取られ、そのむこうに雲がひろがっていた。空? ちがう。空から雲を通して、どこかの地表を見おろしているんだ。雲のむこうに丸いものが浮いて見える。あれは……卵?
腹のアザがちりちりと粟立つように痛くなった。
なんだ? あれは。見たことがある。あの、東京での最後の日、神殿で見たラーゼフォンの卵そっくりだ。
直感的に悟った。あれはネリヤ神殿にあった卵だ。だれかが神殿から運びだし、どこともわからない場所に隠したんだ。
そして、久遠の体がまた上昇しはじめる。穴にむかって、卵にむかって。
「久遠!」
おれは、必死に彼女の体に飛びつくのがやっとだった。
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如月久遠5
快楽《けらく》の韻律、殷々《いんいん》たり、嗷々《ごうごう》たり。あなのむこうに空が見える。その空にさかさまになった卵がある。そこに手をのばす。手をのばす。
わたしの卵。
わたしの卵。
わたしの音楽。
わたしの楽器。
奏でるは猛き楽曲か、静けき楽曲か。穴に手を入れる。体を入れる。
「久遠! やめるんだ」
とめないで、オリン。わたしもオリン。オリンとオリン、相反しながら結びつくように、オリンはわたしを行かせまいと、しがみついてくる。とめても無駄。とめてもムダ。わたしは卵に手をのばす。
ま黒き卵に。
祝福する無数の自己。鏡影たり。空《くう》なる奥津城《おくつき》にそびえる闇御津羽卵《くらみつはのたまご》こそ、吾が卵なり。
あと少し。
ほら、卵からわたしを呼ぶ声がする。
あと少し。
ほら、わたしから卵を呼ぶ声がする。
あと少し。
そのとき、黒い稲光とともに強烈な衝撃がわたしを襲う。
拒否された。
拒否された。
拒否された。
拒否された!
わたしはわたしの卵に拒否された。そんなバカなことがあるはずがない。これは夢。これは夢。これは夢これはゆめコレハユメこれは……。
黒い羽が舞い散る空間に、わたしの意識は溶けていった。
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断章7 ヘレナ・バーベム
黒い卵の位相ベクトルを強制的に移行した。その結果、生じつつあった量子ホールが閉じられ、久遠からの干渉波が完全に閉ざされた。
これでいい。
「卵にはいたずらしないで、久遠」
久遠は覚醒しているが、まだそのときではない。卵を孵すときを決定するのは、久遠ではない。おじさまよ。すべてはおじさまの計画にのっとって進まねばならないの。
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それまで狂ったように笑っていた久遠が、とつぜん悲鳴をあげたかと思うと、おれの腕の中に落ちこんできた。久遠の体を抱きしめるように、操縦席に倒れこむ。
「久遠!」
だめだ。気絶している。
「久遠!」
呼びかけにはまったく反応しない。
どうすりゃいいんだ、とあたりを見まわすおれの顔に影が落ちた。スクリーンがまるでカーテンに閉じられていくように両側から暗くなっていく。これって、つまり、ドーレムに呑みこまれようとしてるのか?
怒りがこみあげてきた。
こいつのせいだ!
ドーレムが現れたから、久遠がおかしくなったに決まってる。
おれは怒りをこめて、腕をふりあげた。
そして、ドーレムを内側から粉砕した。
外に飛びだすと、きのこみたいなドーレムが悲鳴をあげながら、空中でのたうちまわっている。
右腕の光の剣をのばし、ドーレムを切り裂く。
ドーレムの悲鳴が、落ちかかる夕陽につきささるように響きわたる。
ふと見ると、腕の中の久遠がこちらを見あげていた。
そして、静かに微笑む。
「わたしの卵、見つけたの」
そういって上を指さす。
でも、さっき久遠が入りこもうとしていた穴はもうそこにはなかった。
あるのは暗闇だけだった。
いったい、なにがおきたのだろう。
おれたちふたりの姿を、落ちかかる夕日が紅く染めていた。
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断章8 三輪 忍
また〔奏者の祭壇〕のムーリアンさまが、聞こえない悲鳴とともに消えられた。
「ファルセット、消滅しました」
おうかがいをたてるように見ると、わたしの目に不安の色を感じとったのか、麻弥さまは微笑まれた。思わず、肩のあたりがびくんと動いてしまう。
「おろかだったのです。綾人だけに焦点をあてておけばよかったものの、久遠と調律卵にひきずられ、出現ポイントさえ誤ってしまった。そのうえ、久遠もろともにゼフォンを奪おうなど、不遜でさえあるわ」
不遜。たった一言で、お仲間さえ切って捨てられる麻弥さまの強さと冷たさが、わたしをさらに不安にさせる。
「三輪、ヨ・メセタ・プケは?」
「順調に稼働しています。本日もあらたにメトロノーム三機を配備しました」
「これで東京は、ますますわれわれのものになるわけですな」
九鬼司令が口をはさんできた。この人は、ほんとうによけいな口だし以外のことができないのだろうか。
「東京を支配して、なんの意味があるの」
麻弥さまが冷たい目で九鬼を見た。
「ほしければ、おまえにくれてやってもよいのですよ。たかがちっぽけな街ひとつ」
吐き捨てるような言い方だった。たぶん、麻弥さまにとっては、東京もムーリアンさまも同じ価値しかないのだろう。ゼフォン・システムを完成させるための糧でしかないのだ。いらなくなったら、すぐにでも捨てられる類のものだ。
そこまで考えたとき、東京よりも価値のない自分の行く末が見えてきたような気がして、心底ぞっとした。
ダメ。そんなことを考えては。東京の人間たちのように、いまを考えていればいい。未来のことなど、過去のことなど、片鱗も思ってはいけないのだ。
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断章9 如月 樹
「先生! このデータ!」
しばらく途絶していたラーゼフォンのデータが、ドーレムを破壊したとたんに復活した。だが、そこに表れていたのは綾人と、そして、久遠のデータだった。
「なんで久遠が」
「いまは評価するべきときじゃない。綾人くんがもどってきたら、すぐにデータを回収してくれ。すぐにだぞ」
「は、はい」
たぶん、わたしの動揺が感じられたのだろう。返事する彼女の声もどこか上ずっていた。
「回収したデータときょうのデータのすべては、ひとつだけコピーをとって、あとはコンピューターから削除してくれ。……いや、へたに残しておくと、財団の生理調査チームがなにをいいだすかわからないからね」
とってつけたような言い訳に、七森くんはだまってうなずいた。どこまで動揺をごまかしきれたろうか。ラーゼフォンに受けいれられたということは……つまり、覚醒したということだ。予想はしていたけど、いざ現実のものとなれば、愕然としてしまう。
それは久遠とわたしの永遠の別れを意味しているのだから。
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第三章 人間標本第1号
断章1 紫東《しとう》 遙
「二〇一二年十二月二十九日未明、東京にMU《ムウ》を名乗る勢力が突如として出現しました。その二時間後、在日米軍の放った核ミサイルによってMU《ムウ》大戦がはじまったのです。そして、拡大する被害はここ仙台にもおよび、翌年一月四日ドーレムの襲来により壊滅的打撃を受けました」
移動するボックスに乗った人々に、大戦メモリアルホールのアナウンスがしゃべりかけてくる。戦後教育の一環とかいって、こういう施設を作りあげてしまうところが、土建国家日本の体質がぬけきらない証拠だわ。あの大戦をアミューズメント・パークのようにしあげることが、戦争の傷痕を忘れないことにつながるのだろうか。
そんなことを思っていると、イヤホンから“かれ”の声が聞こえてきた。
「旧仙台第二小学校の卒業生、教師の中で如月久遠という生徒を覚えている人物はいませんでした。また書類上存在しているほかのデータについても、裏がとれたものはありません」
わたしは如月久遠の調査を行っている。副司令、つまりは八雲っちからの正式な依頼というわけだ。かれは財団からの干渉に対し、いろいろ思うところがあるらしい。
“かれ”のほうは、ほかにも仙台時代に彼女が居住していたとされる地域の周辺住人に聞きこみしてみたが情報は得られなかったとか、いろいろ報告してくれた。
「如月久遠が仙台にいたという記録は、すべて偽造されたものと思われます」
優秀な人材なんだろうが、それにしてもこんなめんどくさい方法で接触しなくてもいいだろうに。正直、メモリアルホールから外に出たときはホッとした。展示物を見てよみがえる記憶と、“かれ”からの報告で、頭がふたつに引き裂かれそうになっていた。
ちらりと見ると、野ざらしで展示してある大戦中の使用機体のそばに“かれ”がいた。なにげないふうをよそおって、その機体のそばに行く。もちろん“かれ”はとっくに姿を消している。すべては手はずどおりだ。機体の点検ハッチを開き、中に手を入れると、大判の封筒が出てきた。“かれ”の報告のすべてがここにある。
仙台時代だけではなく、久遠に関して調べられたことのすべてが。
如月久遠はいったい何者なんだろうか。
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六道家のいつもの朝、遙さんが出張から帰ってきたので、ひさしぶりに四人で食卓をかこんでいる。でも、なんか遙さんは考えごとをしているのか、心ここにあらずって感じだ。
「ねえ、出張どこだったの?」
恵がたずねると、遙さんは思いだしたように急に納豆をかき混ぜはじめた。
「奈良。五年ぶりかな。あんまり変わってなかったけど」
なんかずいぶんなつかしそうな口調だ。けげんそうな顔をしていると、恵が、あ、そうか、って顔をして教えてくれた。
「お姉ちゃん、大学卒業するまで奈良にいたの。いいよね、気ままなひとり暮らし」
「奈良って、いいところですか?」
おれがたずねると、遙さんは一瞬、え? という顔をしてから、答えをはぐらかすように砂糖を納豆にかけた。納豆に砂糖? 語呂あわせじゃないんだからさ。
「あっ、またはじめたあ」
恵が、うげえ、っていう顔をしている。またって、そんなしょっちゅうやってるの? 遙さんはおれたちの反応をよそに、納豆に砂糖を混ぜて平気な顔をしている。
「おいしいのよ。綾人くんもやってみたら?」
やってみたらって。納豆と砂糖でしょ。
「納豆に砂糖入れるなんて、お姉ちゃんだけだよ」
「あんたは覚えてないかもしれないけど、秋田のカヨコおばちゃんとこはみんなやってたわよ」
「でも、砂糖なんて」
「なによ、納豆に砂糖ぐらい。北海道じゃあ、お赤飯っていうと甘納豆がはいってるのよ。あんたは舌の幅がせまいの」
「そんなの味オンチの言い訳だよ」
納豆に砂糖ねえ。ちょっとだけやってみようかな。
ためしに入れてかきまぜてみたら、いつもより粘り気が強い感じがする。だいじょうぶかな。食べてみると、薄甘い納豆としかいいようがないんだけど、独特の臭みが薄れてマイルドな味になっている。意外だった。もっと甘味と臭みがぶつかりあうと思っていたのに。
「案外、おいしいですね」
「えーっ!」
恵が悲鳴に近い声をあげる。
「いけるでしょ」
遙さんが身をのりだしてくる。
「あとね、ご飯にマヨネーズもけっこういけるのよ」
「あ、バターと醤油もあいますよ」
「この人たちヘン!」
恵の悲鳴に、おれと遙さんは顔を見あわせ笑う。笑いの中に、このあいだからあった、わだかまりみたいなものが溶けていく。といっても、おれが一方的にわだかまってただけだけどさ。……よかった。
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断章2 如月 樹
モニタリング・ルームから、財団の生理調査チームが久遠の青い血を採取するのを見る。
かれらの実力は超一流だが、久遠という検体に関しては二流だ。ただ、バーベムのもたらすオーバーテクノロジーが心配だったのだが、どうやらそれも杞憂に終わりそうだ。久遠覚醒のデータを確認することができないでいる。
久遠がラーゼフォンの中で発見されたときのデータさえ押さえていれば、財団が久遠をどうこうすることはないだろう。
「スリーピング・ビューティーはとっくに完成してるんじゃないのか?」
真《まこと》がずきりとするようなことをいってきた。
「完成? まるでモノみたいな言い方だね」
「でなければ、ラーゼフォンに乗れるはずがない」
「はいっただけだよ。動かしたわけじゃない」
真にいうというより、自分にいうような言葉だった。
「じゅうぶんだろ。やらせてみる価値はある」
「じゅうぶんかどうかは、ぼくが判断します。彼女はまだ早い」
「明日にはアレがくる」
「ムチをもって?」
皮肉を利かせたつもりだったが、かれは完全に無視した。
「かならずふたりに接触してくるぞ」
「ふたり?」
「未完成なのは、神名綾人もおなじだろ」
「かれはこんなものじゃない。そろそろ新しい階梯《かいてい》を昇るはずですよ」
薄い色のサングラスの奥から冷たい目が見返してくる。
「それは科学者としての予測かい? それとも如月樹の願望?」
いつもながらきついよ、きみの皮肉は。
ちょうどそこへ、うまいこと七森くんがきてくれた。
「先生。むこうにわたす資料を整理してたんですけど、へんなんですよ」
「なにがだね?」
「人間標本のリストなんですけど、この第1号の項目見てください。ほら、一九八九年って」
まずい! どうやら資料ファイルのどこかに、極秘項目がまぎれこんでいたらしい。
「おそらくは、記載ミスだと思われる。こちらで処理するので気にしなくていい」
真はそういってうまくごまかしたつもりだろうけど、直接の上司じゃなくてきみがそんなことをいうほうが、よほど不自然だと思うよ。それに、ひったくるように受けとったりして。自分が財団の人間じゃなくて、国連の監察官だという立場を忘れてしまっているじゃないか。ほら、七森くんの好奇心を刺激してしまった。
まあいいか。これでTERRA《テラ》が久遠のことに興味を持ってくれれば……。いや、期待するのはやめよう。TERRA《テラ》と財団の力関係を考えれば、そんなことは無理だというのははっきりしている。
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フェリーを吹きぬけていく風に、ぞくりとなる。なぜか風が冷たい。
デッキから見おろせる車の中では、遙さんが一心に報告書のようなものに目を通しているのが見える。
「いそがしそうだな」
だれにいうこともなくつぶやくと、恵が答えた。
「仕事が好きなのよ」
「恋人とかいないの?」
なにげない疑問だったけど、妹に訊くようなことじゃないよね。恵は、あきれたような困ったような顔をした。
「いや、ほら、遙さんて仕事はできるし、美人だし。ちょっとそそっかしいところはあるけど、その……」
ダメだあ。いえばいうほど、なんか気がある人の探りをいれているみたいに聞こえるじゃないか。恵はどんどんあきれ顔になっていく。そんなつもりはないんだけど……。
「前はいたよ。一度、電話とりついだことがあってさ。お姉ちゃんが自分で、つきあってる人だっていってた」
「名前は?」
「いわなかった。ただ、遙さんいますかって。……そういや、どっかで聞いたような声だったっけ」
「いつごろの話?」
なんか、探りいれてる横恋慕男にどんどんなってるんですけどぉ、おれ。でも、なぜかやめられないでいる。
「お姉ちゃんが大学生で、名字が変わる前の話。むかしだよ」
「そっか。紫東って新しいおとうさんの名字なんだ」
「おとうさんじゃない。おかあさんの再婚相手」
恵がぽそりとつぶやくようにいった。地雷踏んじゃったかな。
あー、フェリー早くつかないかなあ。
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断章3 七森小夜子
ラウンジにいったら、遙とハディヤットがなにごとか話しこんでいた。なにしてんだか。ちょっとからかってやろ。
「また焼肉の相談?」
「あ、小夜子もいっしょに行く?」
優等生の遙さんは、だれかをこばむみたいなことはしない。だけど、劣等生のハディヤットさんは不快感を隠そうともしない。
「あんたの口にあう飲み物なんて置いてないよ」
「あら、わたしビールも好きよ。酒癖だって悪くないし」
遙に聞かずとも、あなたの酒癖はちょっと有名なのよ。
「ここは空気が悪い。ハンガーにもどる」
ムッとして立ちあがり、足早に去っていく。好きよ、あなたのそういう単純なところ。
「嫌われたみたいね」
「やあねえ、そんなことないわよ」
またまた優等生らしいお答え。ハナマルあげようか。
「いいの、慣れてるから」
気まずい沈黙。少しその優等生らしさを抑えてくれるとうれしいんだけどね。……って、カリカリしすぎ。
さっきモニタリング・ルームでふたりを見たせいだ。心を寄せている男と抱かれる男がならんでいれば、だれだっておちつかないわよ。しかも、あんなことをしたモニタリング・ルームで。と思っていたら、そのことをいきなり遙にふられてしまった。
「小夜子……このあいだのことだけど……」
いいにくそうじゃない。だったら、いわなきゃいいのに。
「ああ、あのことなら気にしてないから」
けろっといえるほど、こっちは大人なんだから。打算よ、打算。
「でも、あの男は」
「おせっかいよね、あなたって」
きっぱりと拒絶する。わたしは慣れきってるけど、優等生は慣れていない気まずい沈黙ってやつね。ちょっと助けてあげようかしら。
「いいわ。じゃあ、仲直りの印ということで、ひとつ教えてもらいたいことがあるんだけど」
「なに?」
うれしそうな顔して。まるで主人にほめられたがってる犬みたいよ。
「人間標本のサンプル第1号」
「MU《ムウ》フェイズ反応がはじめて確認されたムーリアンのこと?」
「その登録が一九八九年ってほんと?」
「そんなはずないわよ。だって一九八九年っていったら、MU《ムウ》が出現する二十年も前じゃない」
「そう……。東京ジュピターからレスキューされたのが人間標本。だとすればありえない話よね」
「そうよ、ありえないわ」
遙の声からはウソは感じとれない。ということは、少なくとも情報部は知らない事実らしい。なのに、樹先生もあの白ヘビ野郎もおどろかなかった。どういうことかしら。
おっとっと、不自然な間をおきすぎた。
「ありがと、遙。いつまでもいい友だちでいようね」
「あたりまえじゃない」
う。ここまで天真爛漫に優等生のお答えを聞くと、吐き気がしてきそう。こっちには、考えることはいっぱいあるんだ。久遠のこと、樹先生のこと、それに白ヘビ野郎が提案してきたこと……。あんたにかかずりあってるヒマはないのよ。
わたしはくるりと彼女に背をむけた。
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断章4 紫東 遙
人間標本第1号の登録が一九八九年? どういう意味だろう。どこからの情報を小夜子はつかんでいるんだろう。そして、情報部の人間であるわたしに問いかけてきたのはなぜだろう。
知っているかどうかの確認だけだったのだろうか。だとしたら、その意味は?
小夜子がこういう行動をとるとしたら、情報をもたらした人間は小夜子を動かして、なにをしたかったんだろうか。
いけない。こういうセクションに身をおいていると、ついつい人の行動の裏の裏の裏まで読みたくなる。情報部の人間の悪いクセだわ。
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断章5 功刀《くぬぎ》 仁
ネコは嫌いだ。子どものころ、近所の飼いネコが死んだ小鳥を口にくわえているのを見てから嫌いになった。おとなしそうな顔をして、飼い馴らされない野生を持っているところが嫌いだ。愛猫家はそこがいいというが、わたしにいわせれば自分が飼われているということも理解できない、おろかな動物だ。
わたしが嫌っていることも理解できないのか、こいつは。さっきから追いはらっているのに、しつこくまとわりついてくる。
「ごぶさたしています。先生」
六道先生はあいかわらずご壮健のご様子だった。先生のネコでは、あまり邪険にもできない。こまったものだ。
「たしかにな。こうして直接会うのは……」
「オーヴァーロード作戦の直前に一度お目にかかりました」
「五ヶ月ぶりか。こんなに小さな島に住んでいるのにな」
小さな島だが、先生とわたしは住む世界がちがいすぎる。
「もうしわけありません」
くそ。人なつっこすぎるぞ、このネコは。膝にのってきた。
「そういうことじゃないよ。ただ、世間はせまいが、それでも人はすれちがうものだと思ってね」
たしかに世間はせまいが、人はすれちがう。人の意見はくいちがう。
「亘理《わたり》は元気にしているかね」
「昨晩、ロシアからもどられました。それで……」
六道家をおとずれた目的の品物をさしだす。
「これをことづかっております」
マトリューシカにキムチにトラピストバター飴。世界のおみやげ展で買ってきたのかと思うような品物ばかりだ。六道先生が苦笑されるのも当然だろう。
「あいかわらずいそがしそうだな」
「はい」
ネコはとうとう膝の上で体を丸くした。どこまでこいつはずうずうしいんだ。
「亘理《わたり》は……」
「は?」
「亘理《わたり》は神名綾人をどうするつもりだろう」
答えられない問いだ。
「いや、きみを困らせようというのではないよ。ただ、あの子はいい子だからな。亘理《わたり》に利用されるだけではかわいそうだろう」
「そうですが……。人にそれだけの余裕が残されているのでしょうか」
直接的な物言いに六道先生は困惑したような笑みを浮かべた。
「それもそうだな」
「すみません。先生のご専門に文句をつけているわけではありません」
「わかっているよ。……引退したじじいのくりごとだと思って、忘れてくれ」
このとき、わたしは悟った。
体を丸くしたネコは重い、ということを。
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全部の実験が終わって、前進調査室の更衣室で私服に着替える。
いつもの実験、ラーゼフォンの反応をみるとかいうやつだ。いつもとちがうのは、樹さんじゃなくて、小夜子さんが指示をしていたことだ。べつに悪い人じゃないんだけど、ちょっと調子が狂うかな。
そんなことを考えながら着替えていたら、いきなりカーテンが開いて小夜子さんが現れた。
こういうところが調子狂うっていうんだよね。なんかこっちのどぎまぎするタイミングまで計算してカーテンを開いてるみたいでさ。
「おつかれさま。だいぶ慣れてきたみたいね。樹先生も順応性が高いってほめてたわ」
「きょう、樹さんはどうしたんですか?」
「久遠さんをつれて帰ったわ」
「そっか。退院したんだ」
よかった。一時期、意識不明だって聞いてたから。それにあんな状態で意識なくされると、なんとなく責任感じちゃうもんな。おれのせいじゃないってわかっちゃいるけどさ。
急に香水の匂いが強くなった。いつのまにか小夜子さんが体を近づけてきている。
「久遠さん、どうしてラーゼフォンの中にいたのかしら」
「よ、よくわからないんです。気がついたら中にいたんです」
かんべんしてくれよー。おれ、こういうシチュエーション得意じゃないんだからあ。
「そう……。やっぱりデータ誤認じゃないのね。……帰りにお見舞いにいってあげたら?きっと喜ぶわ」
そういって小夜子さんは体をすっと離すと、
「がんばってね」
という言葉を残して更衣室を出ていってくれた。
「は、はい」
反射的に応えちゃったけどさ、なにがんばりゃいいんだ?
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断章6 紫東 遙
いままでにわかったことを整理してみよう。
「二〇一一年四月十七日根来島にて出生。ただし出生届けは鹿児島管区内にあったサーバーが、ドーレム攻撃によって失われたために、二〇一九年再提出されている。二〇一二年十二月二十九日、如月久遠、仙台に転出。この記録も戦後の混乱で失われたため、二〇一九年に再申請されている」
二〇一二年のあの日、わたしは母の実家にいた。母はお腹に恵をかかえていた。
「二〇一九年、如月久遠八歳。両親と死別。親戚に引きとられる」
わたしは大学生だった。ゼミにコンパ、大学生特有の若さをひけらかした騒ぎ、図書館の静寂。夜、必死で書いたレポート。そして、樹くん。もっとも、あのころはまだ「樹さん」だったけど。
とつぜん、よみがえるセミの声。
「音楽を言葉にするんですか?」
前の晩、母に電話してメモをとり、懸命に作ったお弁当。唐揚げ、ハンバーグ、トマトのサラダ。樹さんが好きだっていってた卵のサンドイッチ。
「そう。楽しい歌、悲しい歌、いさましい歌。歌詞なんてなくても、音楽はそれぞれメッセージを持ってるんだ。そのメッセージを言葉にするのがぼくの研究テーマさ」
樹くんの言葉は、自分では大人になっているつもりのわたしにとって、とても魅力的に聞こえた。高尚な文学論を語る男に惹かれる文学少女と、たいして変わりはない。
「じゃあ、音楽の翻訳家ってことですか?」
「あははは。音楽の翻訳家か。いいな。それ。……遙くんは、卒業したらどうするつもりなの?」
「わたしは……東京に残された人を救いたいんです」
そうやって月日が流れた。「樹さん」はいつのまにか「樹くん」になり、いつのまにかわたしたちは別れていた。
「二〇二二年、如月久遠十一歳。鹿児島県熊毛郡根来町……根来島に転出。兄、如月樹と同居」
その頃、わたしは根来島にもどっていた。TERRA《テラ》の職員になるために、母と折り合いの悪くなった妹とともに、六道のおじさんちに転がりこんだ。そして、母は新しい伴侶とともに鹿児島に転居していった。
「二〇二七年、如月久遠十六歳。オーヴァーロード作戦に参加……」
あのとき、はじめて久遠の存在を知った。樹くんの妹だと聞いてびっくりした。だって、大学時代かれはそんなことは一言もいっていなかったし、両親が死んだということもいっていなかったはずだ。あのころはたしか……そう、父親が遠くにいるといっていたわ。
久遠のこともそうだけど、わたしは樹くんのことも知らなすぎる。
久遠の報告書を置いてため息をつく。
鹿児島県熊毛郡根来町七。ここが如月久遠の本籍地である。本籍地というのは任意の土地であり、どこでも勝手に指定していいといえばいい。
しかし、ここは……。
羅世音観音じゃないの。
いったい、なぜ、久遠はここを本籍地に選んだの? 答えのない問いを、沖縄の亀甲墓にもにた羅世音観音社殿にぶつけてみる。
「ここが根来町七番地ですか」
まのびした声におどろいてふりむくと、そこに天戸通信の弐神がいた。
「またあなたなの?」
弐神はどこからともなくふらりと現れる。いままでにも何度か接触してきたが、そのたびに重要であるようなないような話をしてくれる。一度、インタビューされそうになったときはことわったけど。
「こんどはどんな話を聞かせてくれるのかしら」
「いえいえ、今回は特ダネを買ってもらおうと思いましてね」
「残念ね。TERRA《テラ》はそれほど予算が潤沢じゃないの。あなたのところとちがってね」
「あいたあ」
弐神はおおげさに扇子で頭をたたいてみせた。前世はタイコ持ちだったのかしらね。
「まあ、そういわずに聞いてくださいよ。国連、ひいてはTERRA《テラ》のスポンサーでもあるバーベム財団。その当主が設立以来、代わってないって話、聞いたことあります?」
国連とTERRA《テラ》に財団が資金提供しているという事実は、ごく一部の人間しか知らないはずよ。さらりと怖いことをいう。
「財団の前身、一五七六年に設立されたナーカル商会の当主はエルンスト・フォン・バーベム。たしかにいまの当主と名前は同じね。……大学時代の友人にいたわ、十四代当主だからってニザエモンって子が。さんざんみんなにからかわれてたわよ。日本でも屋号として名前の継承は認められてるんでしょ」
「一五七六年ごろといえば、なにがあったかごぞんじですか。オランダ独立運動ですよ。ナーカル商会はネーデルラント、つまりオランダと宗主国スペインの両方に武器を売り金を動かし、またたくまに巨万の富を得て、現在にいたるというわけです。……ネーデルラントといえば、忘れられない画家がいますな」
いきなり画家といわれても、美術史専攻ではないのでさっぱりわからない。
「ヒエロニスム・ボスですよ。ナーカル商会にはかれの手になるといわれているご当主の肖像画があるんですよ。ボスは商会設立のずいぶん前におっ死んでるんですけどね。もちろん本物ならオランダの至宝だ。だけど、ナーカルはその存在を秘密にしているという噂ですよ。その肖像画といま現在のご当主と、年格好から顔もなにもかも同じだそうです。おもしろいと思いませんか?」
なにをいうかと思えば。噂のうえに類推を重ねれば、ピラミッドがUFOに作られたことも、宇宙人の死体がアメリカ軍の基地に保存されていることも、すべて真実になる。
くだらない。
「テレビや雑誌なら買ってくれるでしょうね。少なくとも湖の怪獣よりはウケそうだもの」
そういってやると、弐神はやれやれと苦笑してみせた。
「疑りぶかいお客さんだ。……それじゃあ、こんなのはどうです?」
こんどはなにかしら? もったいぶった大判の封筒だわ。
「人間標本第1号のカルテです」
そんなものがあるの? 第1号っていったら、さっき小夜子がいっていたやつじゃないの。くやしいけど、俄然興味がわいてきてしまった。
青い封筒の中には厚手のカルテが一枚。まさにデジタル化される前の手書きのカルテだ。
「人間標本第1号のカルテ。安い買い物だと思いませんか? 紫東大尉」
そこに記されていた内容は……。
愕然とするものだった。
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断章7 弐神譲二
対象レヴェル・スリーはエサに食いついてきた。
感謝すべきは四方田洋平だろうな。かれが得々としてTERRA《テラ》のネットシステムを説明してくれなかったら、研究部のデータベースにアクセスなんかできっこなかった。ネットなんかさっぱりわからないおやじ相手に説明しているつもりだったろうけど、こちとらおまえさんがおんぎゃあと生まれる前から、ネットの海で情報相手に格闘してたんだ。
だいたいハッキングなんて、一番確実なのはシステム上のもっとも弱い部分、つまり人間をつつくことなんだよ、洋平くん。しろうと相手だと思って、ちょっと油断したのが運のつきさ。きみの打ちこむキー位置を覚えてしまったんでね。
もっともデータベースの重要なデータにはアクセスできなかった。うちでも押さえてるような情報ばかりだ。一応、布石として人間標本第1号のデータを正確なものに改竄《かいざん》。だれかが、おそらく対象レヴェル・シックスがひっかかるだろうと思っていたが、案の定だ。対象レヴェル・スリーのさっきの表情を見れば、レヴェル・シックスから情報の流れがあったのは確実だろう。
さて、ここからが勝負どころ。この流れに乗って情報はどこまであがるか。それを見極めるのがおれの仕事だ。
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断章8 |功刀 仁《くぬぎ じん》
司令官室で書類を整理しているところへ、総一がやってきた。
「弐神さんと遙さんが接触したようです」
「内容は?」
「そこまでは残念ながら。でも、おそらく遙さんのほうから報告書があがってくると思います」
「おまえはどう思う」
「どう思うって。洋平さんのいってた不正アクセスの件に決まってますよ」
おそらくそうだろう。発見される危険性があるというのに、小細工の好きな男だ。
「それと、これが管理部のほうから」
わたされた紙片をひろげてみると、それは人間標本第1号のカルテが借りだされたという報告だった。借りた人間のIDは、なんとわたしになっている。もし当該カルテが移動した場合には報告せよ、という命令をしておかなければ、日常の業務として処理され、あきらかになるまでには時間がかかったことだろう。
これは総一が知っておいていいことではない。わたしが処理しよう。総一にはIDのことだけでいいだろう。
「管理部にID管理を強化するようにいっておいてくれ」
「わかりました」
「それから、紫東大尉には調査の独自性を保ってもらわねばならないので、不正アクセスの件は通達しないように」
「はい、すでにそのように処理しています」
それを聞いて、小さな吐息がもれる。
総一がわたしに近くなってきたからだ。それは人を疑い、人を駒のように動かし、ウソをつき、裏切る道だ。あの日から自分をあざむいてきた、わたしにだから歩むことができる道だ。それを総一に歩ませようとしている。
自分でもひどい男だと思う。
だが、個人の感情でどうこうできる事態はとっくにすぎていた。もはや、われわれは歩みはじめた道をまっとうしなければならないのだ。
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断章9 七森小夜子
待たされる。こんなときでも、わたしは待つ女になっている。くだらない人生よね。
出されたカクテルがぬるくなるころ、ようやくあいつが現れた。
「待たせたね」
ほんとはにらみつけてやりたいけど、視線ひとつ動かさない。だれがあんたなんか、にらみつけてやるもんですか。それさえもったいないわ。
「いつものやつ」
座るなり、あいつはそういった。
「ウォッカ・マティーニのステァ。女たらしの飲み物ね」
「ブラディ・マリー。身持ちの堅い女の飲み物だな」
ふん。いくらでも皮肉をいっているがいいわ。
「例のものは?」
うながされるまま、バッグから小さな封筒をとりだす。
中身は、久遠がラーゼフォンに現れたときのデータだ。その意味するところはわたしにはわからないけど、樹先生が必死になって隠そうとしているものだ。これがこの男の手に渡れば、久遠は……。
男がそれに手をのばしたとたん、すっとひっこめてやる。
「樹先生はだいじょうぶなんでしょうね」
「信じてほしいな。かれを陥れるようなことを、ぼくがすると思うかい?」
また手がのばされる。またひっこめる。
「そのこともまかせておきたまえ。きみには迷惑をかけないよ。彼女を排除するというのが、ぼくたちの共通の目的じゃなかったのか?」
わたしはためらう。
これを渡してしまったらあともどりできない。この男とどこまでも落ちるしかない。
この男と寝たことがバレても、なんとでも言い訳はできる。泣いて許しを乞うこともできる。だけど、このことがバレたら、樹先生は絶対に許してはくれないだろう。先生を守るためとはいえ、そこまでするべきだろうか。
「イヤなら、かまわんさ」
爬虫類に酷似した冷たい視線がむけられる。
「こちらはもっと荒っぽい手段に訴えてでも、そのデータを奪う用意がある。ただし、そのときはきみのだいじな先生の身柄はどうなるか、保証はできないよ」
しかたがない。ため息とともに、封筒を男のほうにすべらせる。
一色はいきなり封筒を切って、黄色い記録メディアを取りだした。バーテンが目の前にいるっていうのに。
「大胆ね」
「かまわないさ」
ちらりとバーテンを見る目。かすかにうなずくバーテン。なるほど、そういうこと。いつのまにか鼻薬をかがされて、一色の仲間になっていたわけか。
これから遙の悪口をいうときは、せいぜい使わせてもらいましょうかね。
「さて行こうか」
「どこへ?」
一色はにやりと口元をゆがませ、ホテルのキーを見せた。
なるほど。……こうなったら、とことんつきあうしかないようね。毒を喰らわば皿までもってやつか。落ちるしかない運命っていうものがあるんだわ。そのとき、わたしはそう思った。
もっと落ちる先があるということを知ったのは、ずっとあとのことだった。
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小夜子さんにいわれたからというわけじゃないけど、帰りがけ樹さんちに寄ってみた。
チャイムを鳴らそうとしたら、いきなりドアが開いた。
「やっぱり、オリンだったのね」
久遠だった。お見舞いにきたってのに、当の本人に元気よくドアを開けられると、どうしていいのかわかんなくなるよね。このあいだみたいに、病院からぬけ出してきました、みたいな格好じゃなくて、いつものようにライフモジュールに紫の服を着ている。
「や、やあ。どう、調子は?」
「調子? 音楽の調べ、リズム?」
よかった。いつもの久遠だ。やっぱり、あの饒舌な彼女のほうがヘンだったよ。
「ちょうどよかったわ。きょうは、ヴァイオリンが弾かれたい気分なの。聞いてくれる?」
ヴァイオリンが弾かれたがってるって? その意味を考えているあいだに、部屋の中に招き入れられてしまった。ま、いいか。
リビングには先客がいた。
遙さんだった。遙さんはおれの顔を見て、ちょっとおどろいたような、こまったような表情を浮かべた。
「あら、綾人くん。久遠のお見舞い? だったら、わたしは失礼しようかしら」
なんかとってつけたような言い方だなあと思っていたら、樹さんがひきとめた。
「まだいいじゃないか」
一瞬、遙さんが敵意のある目を樹さんにむけたように見えたんだけど、それはおれの勘ちがいだと思う。
「久遠、ベランダでやってくれないか。ぼくたちは、こっちで話があるから」
「いいわよ、兄さま。ヴァイオリンの音も外にむかって解きはなたれたがってるから」
久遠にうながされるままベランダにむかう。ちらりと遙さんたちを見ると、なんかむずかしい顔をしていた。大人の話ってやつかな。
ベランダをさわやかな潮風が吹きぬけていく。その風に音が乗り、静かに空にむかってつむがれていく。細く繊細な音が重なりあい、もつれあって雲にのびていくのが見えるような弾き方だった。
曲はもちろん「ダッタン人の踊り」だ。
以前にも彼女が弾く曲は、樹さんにたのまれて録音で聞いたことがあるけど、目の前で弾かれると、あの音はなんだったのかと思う。それほど彼女の音は豊かで、力強く、こまやかだった。
やがて最後の一音が青空に溶けこみ、同時におれの耳の奥に沈みこんでいった。すばらしい曲が終わったとき独特の、満ち足りた静寂がおとずれる。音楽のことはよくわからないけど、久遠がすばらしい曲を弾くということだけは全身で理解できた。
おくればせながら拍手すると、久遠は満足そうに微笑んだ。
「ねえ、オリンも弾いてみて」
「ダメだよ。ぼくは楽器なんて全然……」
「あなたは奏者。弾けるはず」
ざらついた言葉が記憶にさしこまれる。奏者。どこかで聞いた。どこだったっけ……。そうだ。あの羽根のはえたナマズだか、できそこないの天使みたいなドーレムの精神波攻撃で吉祥寺の幻想を見たとき、幻想のおふくろがいったんだ。「奏者」って。
「イシュトリもそれを望んでる」
「奏者」に「イシュトリ」それに「オリン」……。久遠はなにを知ってるんだ?
「ねえ、作った者の意思を超え、時を経なければ、完成されないものってなに?」
「らら?」
さっぱりわからないって顔だよね。やっぱりあのときは熱にうかされてたのか。それにしちゃあ、理路整然としゃべっていたし、確信に満ちていた。もう忘れてしまったのかもしれないけど、あのときはわかっていたにちがいない。おれにはわからない、なにかが。
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断章10 紫東 遙
久遠の二曲目がベランダから聞こえてくる。
樹くんとわたしはずうっと黙ったまま。
ふたりのあいだで、紅茶が冷めていく。ふたりだけの時間が冷めていく。
「ねえ……」
ようやくわたしが口を開く。
「あの子はなんなの?」
「あの子? だれのことかな」
だれのことかわかっているくせに。
「あのころ、あなたに妹がいるなんて、聞いたことなかったわ。しかも、ご両親が亡くなったなんて」
「あのころか……。いろいろあったね」
「ごまかさないで」
「ごまかしてるのは、きみもおなじだろ」
え? と樹くんの顔を見ると、かれは口元に苦い笑みを浮かべているだけだった。
「なぜ、ぼくたちが別れることになったのか……」
その話……。でも、もうとっくに終わったことじゃない。
「もう過ぎたこと。過去形よ」
「過去完了進行形だろ。いや、ぼくにとってもかな?」
口では冗談めかしていいながら、目は真剣だ。やめて。あなたのその気持ちが、わたしを傷つける。視線をそらしたわたしの横顔に、かれの吐息が聞こえてくる。
「いいよ。わかってるんだ。……だから、きみはTERRA《テラ》にはいった」
セミの声が耳の奥によみがえる。
あの日、あのときに時間がもどればいいのに。そうすれば、いまこうやって傷つかずにすむ。
ごまかしていたんだろうか。
あの日、わたしは新たな一歩を踏みだしたつもりだった。すべてを乗り越えたつもりだった。それとも、あれはごまかしだったんだろうか。……わからない。わからないから、いまこうやって樹くんと気まずい時間をすごしている。
「紫東遙の時間は二〇一二年から止まったまま……。TERRA《テラ》なら、それを動かせると思ったんだろ」
そんな確信があったわけじゃない。純粋に東京の人を救いたかったから。でも、こうなってみると、ほんとうにそんな純粋な気持ちだったかどうかはわからない。結果論だけど。
「ぼくには動かすことができなかった」
「樹くんのせいじゃないわよ」
傷つけるとわかっていながら、こういうしかない自分。樹くんが傷つく分、自分も傷ついていくのに、そういわずにはおれないわたし。
「それでも動かしたかった」
ふたりのあいだで冷めていた紅茶に、小さな波紋がひろがる。
樹くんがおおいかぶさるように、背後からわたしを抱きしめた。
なつかしい感触に、胸の奥が痛くなる。
ひさしぶりに間近でかれの、さわやかな植物的な匂いを嗅ぐ。
あのころが思いだされる。失ってしまった、少女と大人の境目の時間がよみがえってくる。
「ぼくはいつだって代用品だ。どこに行っても……」
「そういう言い方……」
ときどきかれが見せる自虐的な態度に、むかしは腹をたてたりもしたけど、いまはそうでもない。それほど時間がたってしまったのよ、樹くん。
「ぼくは、あのころとは変わったよ」
やめて……。だけど、わたしはかれの重みをこばむ力をうしなう。
「遙も変わってしまった」
あのころとはちがうのよ。もう、あなたにあこがれてた女の子はどこかへ行ってしまったの。いいえ、あのときだって、ほんとうにあなたにあこがれていたのか……。
「だけど、かれは変わらないよ」
涙があふれてくる。
かれは変わらない。かれは変わらない。かれは変わらない。かれは変わらない。呪文のようになんど心でくりかえしても、魔法はおきない。止まってしまった時は流れない。
体じゅうの力がぬけていく。その体を抱きとめてくれたのは樹くん。
そして、唇が重ねられる。
甘美な記憶が心の底からよみがえってくる。
体の奥底からしびれたような感覚がわきあがってくる。
でも……。
いけない……。
わたしはむりにかれの体を押しはなす。
「やめて……」
そうしなければ、この感覚に押し流されてしまいそう。この身をゆだねてしまいそう。
「おねがい……」
そのときだった。
リビングの入り口に綾人が立っていた。
見られた!
びっくりしたような目でこっちを見ている。
凍りつくように見返すしかないわたし。
凍りつくような目でかれを見ている樹くん。
三人の時間が止まる。
氷のように封じこまれる。
だれも動けない。
視線ひとつ動かせない。
息さえできない。
永遠に時間が止まりつづけるのではと思ったとき、均衡を破ったのは久遠だった。
「らら? みんな、どうしたの?」
最初に動いたのは綾人くんだった。
わたしから視線をそらしてから、もう一度もの問いたげな一瞥をくれた。
ちがうの。ちがうのよ。いいたい言葉が喉でからまわり。
そして、スローモーションのようにゆっくりと、綾人くんは背をむけた。
「待って!」
だけど、わたしの腕をつかんだのは樹くんだった。手首が白くなるほどの力だった。
「はなして」
行ってしまう綾人。ひきとめる樹。ふたりのあいだで引き裂かれそうなわたし。夕日がさしこみはじめたリビング。
これは……。
登場人物こそちがえ、あの日とまったくおなじじゃないの。運命の皮肉だっていうの。そんなことはない。
「はなして!」
樹くんは、小さく首をふる。一瞬だけ、かれのすがるような目を見たとたん、わたしの心は冷たく凍りついた。
「あなたは……。あなたは見せつけるためにしたのね。かれを傷つけるために。わたしを傷つけるために!」
手をふりはらい、綾人くんを追いかける。その背中で、樹くんがさびしげな笑みを浮かべようとして笑いそこね、唇の端を哀しくゆがめていた。
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なんで走ってるんだ? おれは。
走ることなんてないんだ。べつに悪いことなんてしてない。あんなところで、あんなことしてるむこうが悪いんだ。
じゃあ、なんで走ってるんだよ。
わかんない。わかんないけど、走らずにはおれなかった。自分の中に生まれたなにか強烈な感情をどうにかするためには、横っ腹が痛くなるまで走るしかなかった。
気がつくと海だった。浜辺に寝転がって、荒い息をついていた。でもまだ、強烈な感情は胸のあたりで渦巻き、走れ、走れとわめきつづける。さもないと、おまえを壊してしまうぞ、って。
太陽がまぶしい。このまま太陽の熱さに焼かれてしまえばいいのに。
急に陽射しがかげった。見あげると、遙さんがのぞきこむようにして立っていた。あわててはねおきる。
「急に飛びだすんだもの。探したわよ」
「ごめんなさい」
「なんであなたがあやまるの?」
そのとおり。あやまることなんかない。なのに、なぜかそういってしまう。
「あやまるのは、わたしのほうよ。あなたがいるって知っていながら、あんなことしてたんだもの」
胸の奥が苦しい。なんなんだ、この感情は。そんなおれの感情を知ってか知らずか、遙さんは体を密着させるようにとなりに腰をおろした。
「どう思った?」
ど、どうって……。なにいえばいいんだよ。とまどうおれを見て、遙さんは小さく笑った。
「少年をからかっちゃいけないわよね」
からかったのか。頬が熱くなったのは恥ずかしさっていうより、屈辱からだった。
「わたしたちね、わたしと樹くん、大学時代からのつきあいなんだ」
遙さんは遠くの水平線を凝視《みつ》めながらいった。
「奈良の大学でね、かれが一年先輩だったの。サークルがいっしょだったとか、そういうんじゃないけど、キャンパスですれちがうたびになんか素敵な人だなあって……」
うれしそうっていうより、淡々となれそめを語りつづけている。でも、おれの耳には一言もはいってこない。
「卒業のとき、かれにTERRA《テラ》にはいるって聞かされて……」
そうか。そうだったんだ。遙さんがTERRA《テラ》にはいったのは、樹さんを追いかけてなんだ。ふたりはそういう風につきあってたんだ。
「そういう風に、ふたりの時間を積みあげてきたの。……べつに内緒にしてくれって頼むわけじゃないけど。いいふらされるのもちょっとね。わかるでしょ」
遙さんはおれににこやかに微笑んでみせた。持てるものの余裕ってやつだろうか。おれにはそんな余裕はない。なぜこんなに気分がどんよりしてるのかさえ、自分でわからないってのに、人のことなんか思いやることなんかできっこない。
ぽんとおれの肩をかるくたたいて、遙さんは立ちあがった。
そして、行ってしまった。おれひとり、浜辺に残して……。
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断章11 紫東 遙
かれをひとり浜辺に残して立ちさる。
これでいいの。これでいいのよ。と強く自分にいい聞かせる。さもなければ、かれの足元にこの身を投げだしてしまいそうだった。
最初は誤解を解くつもりだった。樹くんとはなんでもない。むかしつきあってたことがあったけど、いまはなんでもないんだといいたかった。でも、そのあとで、誤解させておくほうがいいんじゃないかと思いなおした。
そのほうがいい。樹くんとわたしがつきあっているということにしておけば、かれは重荷を背負わずにすむ。
いえ、ちがうわ。それはウソ。ほんとうは自分が傷つきたくないから。イソップのキツネと同じよ。高いところのブドウは「どうせすっぱいんだ」と思いこもうとしている。でも、それのどこがいけないんだろう。ブドウをとろうと跳びあがり、地面にたたきつけられて傷つくより、よほどいい。
ほんとイソップのキツネだわ。自分をだますのがじょうずになった。世間では、それを大人になったっていうらしいけど……。
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断章12 弐神譲二
一色に呼びだされて、いつものバーに。まずい雰囲気だなあ。
「これに見覚えがあるだろう」
青い大判の封筒。やばっ。
「いいえ全然。なんです? それ」
こちとらこれで喰ってんだ。こんなことでいちいち動揺してたら、身がもたないよ。だけど、この白い男はこっちの演技なんかハナから信じちゃいない。
「人間標本第1号のカルテだ」
ときたもんだ。最極秘の内容をへれっとしゃべるか、ふつう。
「へえ。ちょっといいですか?」
封筒に手をのばしても、なにもいわれない。内容はすでにこっちに漏洩していると踏んでいるわけか。それでも、カルテをひっぱりだし、内容におどろいてみせる。
「如月久遠。あのお嬢ちゃんがねえ……」
あー、わざとらしかったかな、いまの口調は。まあ、どうせタヌキの化かしあいだ。
「六時間以内に外部に持ちだされた形跡がある」
そこまでつかんでるか。請求IDには功刀《くぬぎ》のものを使った。まったく疑われる筋合いのものじゃない。……ってことは、なるほど、そもそも四方田のあんちゃんがこれみよがしにキーボード操作したのも、罠だったわけか。
自分が監視されながら泳がされているってわかるのは、いつだってイヤなもんだ。
監視しているのはこの男か? それなら、こうも直接的につっこんでこないだろう。たぶんどこからか情報を得て、あわてて接触してきたと見るのがふつうだろうな。だとしたら、しくんだのは功刀《くぬぎ》か? 亘理《わたり》か? 両方か。
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断章13 功刀《くぬぎ》 仁
「一色には、わたしへのメールが誤配されたようによそおって、カルテの件伝えておきました」
「そうか」
亘理《わたり》長官は満足そうにうなずいた。
「だから、いったろう。あの弐神という男は使えると」
「しかし、これでわれわれが泳がせていたことに気づくでしょう。そうなったとき、かれがどのような行動にでるか。不確定要素が多すぎます」
「窮鼠《きゅうそ》猫を噛んでもらってはこまる。そこらへんの匙加減はきみにまかせるよ。……翔吾はあいかわらずだったかね」
わたしの反論を封じるように、長官は話題を変えてきた。
「お元気でした。それから、神名綾人はとてもよい少年だと伝えてくれと」
「近いうちに挨拶に行かんとな。……荷物のほうはどうだ?」
「本日中に搬入は終わりそうです」
「そうか……。やっかいだな」
バーベム卿の前では「運用はわれわれにまかせてください」といっていたが、やはり本心はやっかいだと思っていらっしゃるようだ。財団からのアレを運用するということは、TERRA《テラ》がますます財団の支配下におかれ、独自性をうばわれるということだ。
一色や弐神のあつかいより、よほど慎重に行動しなければならない。
この決定が、はたして吉とでるか凶とでるか……。
「神のみぞ知る、だよ」
亘理《わたり》長官が見透かしたように答えた。
その言葉が、重く背中にのしかかってくる。神のみぞ知る。神ならぬ人は、ただあがくことしかできないというわけだ。
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断章14 紫東 恵
なぬ?
なにがどうなってんの。
まるで春先のぬめりはじめた沼の底みたいな、このどんよりとした雰囲気。
朝食のときは、あんなにいい感じだったのに。
夕食のときは、うちは試験前の受験生をかかえてる家庭かって感じ。
息苦しいぞー。
なんかいえよ。紫東遙。神名綾人。
あんたらふたりが、このじとっとした空気の原因なんだからね。
あー! また姉ったら異常な行動に出てる。ご飯にマヨネーズかけてるよ。うげげのげ。
「お姉ちゃん、やめてよ。うちには影響されやすいのがいるんだからあ」
冗談めかして笑いながら綾人を見る。
だけど、こいつときたら黙々と食べつづけてるだけ。
朝みたいにお姉ちゃんのマネしないの?
納豆に砂糖入れたみたいに、ご飯にマヨネーズかけないの?
なによ、よく知らない親戚のお通夜につれてこられたみたいに黙りこくっちゃってさ。
よーし、ここは一発、恵さんが場の雰囲気をもりあげにゃならん。
勢いよくマヨネーズをご飯にかける。
そして、かき混ぜて、食べる。
「うげえ! げろげろにまずいじゃん!」
……シーン。冷たい反応。
まずいもの食べたってのに、暗い雰囲気を吹き飛ばせなかった。
ピエロになった自己嫌悪と、口の中の後味のまずさで最悪の気分だ。
どうにかしてくれよ!
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「コドモタチノヨル」の章
夜は、ぼくたちこどものじかんだ。
「こっちだよ」
ぼくがせんとうにたってイツキをあんないしてあげる。
「ヘレナをさそわなくてよかったのかな」
「にがてなんだ、あいつ……」
いま、ぼくたちは島のふるいふるいコウドウにいる。ここからおおむかしのものをほりだしたらしいけど、いまはつかわれていない。そのおくのおく、おとなたちははいりこめない、こどものばしょがある。
「なんかくさいね」
「うん」
イツキのいうとおり、カビくさいみたいな、うんちみたいなへんてこりんなにおいがしている。
「いそいで」
さいごのせまいトンネルにイツキをおしこんだ。ぼくもすぐにつづく。トンネルをぬけると、ひろいばしょにでる。そのおくにあいつがいた。
イツキのほうを見ると、こえもだせずに立っている。そうだよね。ぼくもさいしょ、こいつを見つけたときには、びっくりしておしっこがもれそうだった。
「こわくないよ」
ぼくはへいきなかおして、あいつにちかづいていった。ちょっときぶんがいいよね。べんきょうでも音楽のじかんでも、ヘレナやイツキにはかなわないけど、ぼくはこわくないぞ。へっちゃらだ。でも、あいつの大きなどんよりした目がむけられると、ちょっとだけゾクッとするけどね。
「ほら、おたべ」
土手からひろってきたねんどのかけらを、あいつのまえにおいてやる。やすみじかんぜんぶつかっても、ぼくのグーした手とおなじぐらいのやつしか見つけられなかった。あいつの目がねんどにむけられる。で、大きな岩をひきずるような音をたてて、ちいさなねんどのかけらにからだをむける。ピーンって、すんだ音がしたかとおもうと、ねんどがころころってころがって、あいつのからだにすいこまれていった。あっというまに、あいつのからだになっていく。まるで大きな丸パンに目をひとつひっつけたみたいな、あいつのからだ。だけど、下のほうがかけている。たぶん、ここまでにげてくるあいだに、どっかにぶつけてかけちゃったんだ。
「こわい?」
イツキをふりかえる。
「ううん、べつに」
っていいながら、イツキはさっきのばしょからちっともうごいてない。ふふ、おっかしいの。
「だいじょうぶだよ。こわくない。おどかしたりしなきゃね。わるいやつじゃないんだ」
「なんでわかるのさ」
「歌をきいたんだ」
ぼくたちの出あいは歌だったんだ。あの夜、ぼくはヘレナとケンカして、おやしきをとびだした。コウドウににげこんで、おくへもぐりこんでいった。そしたらきこえてきたんだ。あいつの歌が。歌にひきよせられるみたいに、ぼくはもっとおくへすすんでいった。ひとりだったらぜったいにはいりこまないよね、あんなとこ。そしたら、すっごくひろいばしょに出た。下にはドロをこねてつくったにんぎょうみたいな、でも、すんごくおおきなものがいっぱいころがってる。みんな、ひびわれたり、かけたりしてる。きっとお館さまがおつくりになったものにちがいない。
てんじょうがすこしくずれてて、そこから月あかりがさしこんでた。ななめにさしこむ月あかりのしたに、あいつがいた。たったひとつの目を月にむけて、かなしそうに歌ってた。そとに出たいって、泣いていた。それがぼくたちの出あいだった。
「さわってごらんよ」
「やだよ」
「だいじょうぶだってば」
イツキの手をつかんで、あいつにふれさせる。とたんに、キィィィンってものすごくすんだ音がする。センセイがもっている音サよりもずっと、ずっときれいな音だ。それといっしょに、あいつのからだに小さな光がひろがっていく。ものすっごくきれいな光だ。
ビビって手をひっこめたイツキが、だいじょうぶ? ってかおでぼくを見る。ぼくがうなずいてやると、イツキはびっくりびっくりじぶんから手をのばして、あいつにさわった。
また、すんだ音がする。イツキがゆびをうごかすと、光がぱぱってひろがって、ぽろろんって楽器みたいな音がした。イツキったら、うれしそうにわらった。
「ひどくケガしてるんだね」
「うん、でもねんどをあげたから、だいぶなおってきてるんだ」
かけたところをなでてやる。かけたところは音はしない。ただ、ざらついてるだけだ。
「あのねんどはどこの?」
「こんどおしえてあげる」
ってぼくがこたえたとき、まぶしい光にてらされた。光のおくからヘレナの声がする。
「しってるわ。うらの花だんでしょ」
かいちゅう電とうをもったヘレナが立っている。
「あそこは、マックスのおしっこがたっぷりしみこんでるわ。それがきいたのよ、きっと」
ヘレナはいま魔法にむちゅうだ。パラケルススとかなんとか、そんな本ばっかりよんでいる。だからって、犬のおしっこはないだろ。
「光をあてるなよ!」
だけど、ぼくがいったからってやめるようなヘレナじゃない。
「ふたりとも、いないとおもったらここだったのね。お館さまにいいつけてやる。きっと、そいつころされるわ。いいきみ」
いじわるくヘレナのくちびるがゆがむ。いやだ。そんなことはさせないぞ。ぼくは歌った。ヘレナのやつったら、なによってなかおして、ぽかんとしてる。見てろ。おしっこちびらせてやる。
ぼくの歌声にあいつがこたえてくれた。目がヘレナにむけられ、ビコンッ! って光った。そしたらヘレナのそばにあった大きな岩がバコンってわれて、バラバラにぶっこわれた。ヘレナもイツキもビビって、かたまってる。
「いいつけたら、こいつをけしかけて、おまえにかみつかせてやる」
「ふん、やれるもんなら、やってみなさいよ」
っていってたけど、その声はふるえていた。
ねるじかんになった。ベッドの部屋でぼくたちはならんでねむる。だけど、イツキもぼくもねむれやしない。あいつにいうことをきかせたっていうコーフンが、まだからだじゅうにのこってる。ほんと、まさかあいつが、ぼくのかんがえているとおりに、ヘレナのよこにあった岩をわってくれるとはおもわなかったんだ。ぼくのいうことをきいてくれた。それだけでうれしくって、ねむれるわけないだろ。
「きょうはちょっとびっくりしたよ」
「あれは……ヘレナがわるいんだ」
そういったら、もうとっくにねむっているとおもっていたヘレナが、きゅうにかおをあげた。
「あれはきっとアクマよ」
もうふをかぶって、かいちゅう電とうで魔法の本をよんでたんだな。やなやつ。
「だってヘンじゃない。ねんどをたべるイキモノなんてどこにも書いてない」
「おまえになにがわかるんだよ!」
本にかいてあることが、ぜんぶだっていうのかよ。そこにかいてないことは、ウソだっていうのか。アクマだっていうのかよ。
いっちゃってから、やっばいなあとおもった。おもったけど、もうおそかった。ヘレナはぶんぶくりんにふくれて、すっくとベッドのうえに立ちあがった。
「なによ、ただの“D”のくせに!」
“D”っていうなよ! それいわれるのが、どれほどつらいのかわかってんのか。
「あたしとイツキは“B”よ。“D”のあんたに、オマエよばわりされる身分じゃないのよ」
ヘレナはそういいながら、かべにかけてある乗馬ムチをとると、ぼくにむかってつきつけた。
「このやしきで、あんたのいうことをきくのは、あの泥ダンゴだけだわ」
ヘレナはちょうしにのって、おしばいみたいな声をだした。
「おお、なんとけがらわしきアクマよ。バーベムさまの名をもて、うちやぶらん」
「アクマなんかじゃない」
そういうぼくの声は、かすれていた。
「じゃ、アクマのこどもよ」
いいかえしてやりたかった。でも、いまここでいいかえせば、ヘレナのことだ、ぜったいにあいつのことをセンセイにいいつける。ベッドにうつぶせになったぼくは、長いかみをかおのよこにたらして、くやしさにたえた。だれがヘレナなんかに泣きがお見せるか。
ふんぞりかえっていたヘレナがようやくねてくれた。ぼくたちは彼女をおこさないように、もうふをからだにまいてベランダで月を見あげた。
「ヘレナって、なんであんなふうなんだろうね」
「ひとの悪口はいっちゃいけないんだよ」
イツキは、聞こえなかったよねと、まどからヘレナのねがおをのぞきこんだ。
「あのころからひどくなったね」
「あのころって?」
「ヘレナはお館さまの血をうけついでいるって……。ちがうかなあ」
「ううん、もっとまえからひどかったよ」
イツキがそういったので、おもわずふきだしそうになっちゃった。あわててふたりとも口をおさえる。
「ぼくは……きみたちとはちがう。センセイがあのときおしえてくれたんだ。ぼくはふたりより、ふつうのこどもにちかいって」
「そういってたね」
「パパとママがいるって、どんなだろう」
イツキはこたえない。
「ぼくのパパとママはどっかにいるんだ。……きっとどっかで、ぼくをまってる」
イツキがほんのちょっとのあいだだけ、すっごくかなしそうなかおをした。
「そうだね。きっとそうだよ」
「いつかここをぬけだして、あいにいくんだ」
いつかここをぬけだしてやるんだ。ぜったいに。
よくじつ、ぼくたちはねぼうしたバツにバトラーさんから、にわの自然かんさつのレポートをめいじられた。センセイはご用があって出かけてる。ヘレナだけはちゃっかりおきてて、レポートをださなくていいんだ。ちぇ。あいつがとうばんなんだから、ぼくたちをおこさなきゃいけないんだぞ。ずるいったらありゃしない。
あさから、お昼をはさんで夕がたちかくまで、ぼくとイツキはにわをはいまわった。にわっていっても、すっごくひろい。さんぽするだけでも一日すごせるひろいにわなんだ。自然かんさつなんかはじめたら、一日あってもたりないよ。
ぼくたちがヒイヒイいいながら帰ってくると、おやしきはおおさわぎになっていた。黒いバトルスーツをきた男たちが、ばたばたと地下室のほうへはしっていく。なんだろう。ものすごくイヤなよかんがする。
「あいつが見つかったんだ」
イツキもうなずいた。ぜったいにヘレナだ。ヘレナがあいつになんかしたんだ。ぼくのあいつに!
ぼくたちはいそいでワインちょぞうしつにもぐりこむ。こっからコウドウにつづく道をしってるんだ。
「いそげよ」
「まってよ、マコト」
「あいつがころされちゃってもいいのか」
ぼくたちははしった。どっからか、タタタタって小ダイコをれんぞくして打ったときみたいな音がした。つづいて、ンオオオオオオってひめいみたいな声。あいつだ。見つかっちゃったんだ。ころされちゃう。ぼくたちははしった。夜のみちを。こどもたちのみちを。そして、とうとうあいつを見つけた。ちょうどぼくたちがとおってきたせまい道のむこうに、ひろい道があって、そこにいた。
あいつはまぶしいライトに照らされて、ンオオオオオオって泣いていた。ちらっと見ると、バトルスーツをきた男たちがマシンガンをかまえて、あいつをねらっている。
「やめろ!」
あいつのいるところにとびだそうとしたぼくを、イツキがうしろからだきとめた。なにすんだよ。はなせよ。
そのときだった。ものすごく低い音がして、オレンジ色の光のれつがあいつのからだにぶちあたっていった。あいつの泣き声が大きくなる。光があたるたびに、あいつのからだがボロボロくずれていく。やめろ。そこまでなおすのに、どれくらいかかったとおもってるんだ。
「やめろー!」
ぼくはおもいっきりさけんだけど、マシンガンの音にかきけされてしまった。イヤだ。あいつがころされていくのを、だまって見てるだけなんて。そうだ。歌だ。歌があれば、あやつることができる。
ぼくは歌った。
生きているあいだで、いちばんうまく歌えたと思う。いつもは音テイがくるってるとかしかりつけるセンセイも、このときのぼくの歌を聞けばきっとほめてくれただろう。その歌声はたしかにあいつに聞こえた。あいつが聞こえたのが、わかった。うなずいたのがわかった。
ボロボロくずれていくだけだったあいつのからだが、光りだした。マシンガンをうちこまれても、小さくパパッて光ってはねかえす。いいぞ。さあ、いままで痛かったしかえしをしてやれ。ヘレナにやったときみたいに。
あいつの目が光った。
ものすごい光のながれが、コウドウのおくにむかってはっしゃされた。
かっこいい!
光のながれがとおりすぎていったあとは、しずかになった。きっとバトルスーツの男たちも、やっつけちゃったんだ。すっごい! あいつにはこんな力もあるんだ。
しずかだった。ぼくとイツキはあいつの背中にのってとんでいる。くずれたてんじょうからもれてくる月の光だけが、ぼくたちをやさしくつつんでくれていた。においもカビみたいじゃなくて、ながれる水のにおいだ。コウドウがこんなにひろいなんてしらなかった。ううん、もうコウドウじゃないよ。おおむかしのイセキみたいだ。それにしても、ほんとひろい。さっきからずっととんでるのに、まだ出口も見えない。
くずれたてんじょうからもれてくる月の光だけが、ぼくたちをやさしくつつんでくれていた。
「なんか見えるよ」
下をのぞきこんでいたイツキが、もっとよくのぞこうとして落ちそうになった。あわててひっぱりあげてやる。
「あー、こわかった」
「なにが見えたのさ」
「なんか水がながれてて、そこによくわかんない石ゾウみたいなのがころがってた。きっとおおむかしのものだよ」
「こいつのケガは?」
「やっぱり、なおりがおそくなってるみたい」
やっぱりね。あれだけやられたら、ぼくだったらイタくてイタくて、大声で泣いてるだろうな。だけど、こいつはだまって、ぼくたちをのせてとんでいる。えらいやつだ。
「これだけ水がながれてるってことは、地下水道だね」
「センセイがまえにいってた。地下のいちばん下はドウクツの出口につながってるって」
「うん、いってたね」
このまま水のながれにそっていけば、いつかそとに出られるかもしれない。
「まえにさあ、コウモリがベッドのへやにまよいこんできたときのこと、おぼえてる?」
「ああ、マドからとつぜんとびこんできたね。とってもよわってて、ヘレナがつかまえた」
「ヘレナは焼き殺そうとしたよね」
「あれはびっくりしたよね。ヘレナって、かわらないなあ」
ぼくたちは声をあげてわらう。ヘレナの悪口をいっくらいったって、あいつには聞こえないんだ。それから、しばらくふたりであいつの悪口をならべたてた。トカゲのシッポを切ってあつめてたとか、トンボのおしりをちぎって花をさしこんでとばせてたとか。
「たすけてあげたら、つぎの日センセイはほめてくれたよね」
ぼくはまた、あのときのことを話しはじめる。
「そうだったよね。自然ににがしてあげなさいって、センセイはいったんだっけ」
「にがしてあげようよ」
え? とイツキはぼくを見た。
「こいつも。パパとママのところに」
だけど、いつきはヘンなことをいいだした。
「もし、こいつのパパもママもいなかったら?」
そんなことないよ。パパとママがいなかったら、どうやって生まれてくるのさ。神さまじゃないんだから、ドロをこねたって“いのち”はつくれないよ。
だれかが歌ってる。だれだろう。うれしいような、かなしいみたいな声だ。
その声に目がさめた。いつのまにかねむってしまったらしい。目がさめても声が聞こえつづけている。からだの下からだ。こいつが歌ってるんだ。
ふと見ると、まえのほうのくらやみが切りとられて、わずかに月あかりが見える。
「そとだ!」
とうとう、ぼくたちは地下水道をわたりきったんだ。
「もうすぐだ。もうすぐおまえのパパとママにあえるんだぞ」
ぼくははげました。こいつもそれがわかったのか、すこしだけスピードをあげた。
ふわっとそとの風が、ほおにふきつけてきた。月あかりがこんなにまぶしいなんて。
と、それよりもずっとまぶしい光が、下からてりつけてきた。ひとつ、ふたつ、みっつ……いくつもの光にてらされる。
やっぱり見つかったんだ。
見おろすと、ドウクツの出口をとりかこむようにバトルスーツの男たちが二十人ぐらいこっちをいっせいにてらしている。だけど、だれもマシンガンをかまえていない。
「こうげきするつもりないのかな」
そうつぶやいたときだった。ぼくは男たちのなかに、白い人カゲを見つけた。
センセイだ。いつのまにもどってきたんだろう。きっと、ぼくたちのさわぎを聞きつけて、おおいそぎでもどってきたんだ。
センセイは、ぼくたちを見あげている。やさしい目で。
見のがしてくれるんだ。
「さようなら、センセイ! いままでありがとう!」
そのとき、ぼくは島を出ていくケッシンをしていた。こいつとなら、どこまでだっていける。島のそとへだって、まだ見たことのないセカイにだって。
ぼくたちにむけられていたライトがいっせいに消えた。
そのときだった。
こいつがひめいをあげた。泣くみたいに歌いはじめた。
なんでだ?
見ると、東の空がすこしだけ明るくなりはじめていた。
夜がおわろうとしている。
ぼくたちのじかんがおわろうとしている。
ダメだよ。まだダメだ。この島から出るまでは夜でいてよ。魔法のじかんでいてよ。おねがい。おねがいします。
だけど、あさの光はようしゃない。
光にくるしむように、こいつの背中にヒビがはしり、ぼくのあたまぐらいはありそうなかけらが、ぼろぼろおちはじめる。
「どうしたんだよ。しっかりして。もうすぐあえるんだよ。パパとママにあえるんだよ」
けんめいにはげましたけど、こいつにはもうぼくの声は聞こえていないみたいだった。ただあさの光のイタさにひめいをあげているだけだった。
ずいぶんと高かったはずなのに、いつのまにか地面がちかづいている。木のこずえがこいつのおなかにぶつかり、もっと大きなかけらがこぼれていく。そのたびに、ひめいがあがる。
そして、ぼくたちは林のなかにつっこんでいった。
白いゆめ。
見たこともない人たちが、ぼくをかこんでいる。
「……わいそうに」
「……にね」
「……いそうにね」
「この子がバージョン3・20だね」
「じゅみょうがのびたんだってね」
「かわいそうにね」
「あわれないのちだね」
「もっとみじかいいのちならよかったのにね」
「むしろそれなら、よかったのにね」
「かわいそうにね」
「かわいそ……」
「かわ……」
「かわいそうに……」
見たこともない人たちの声がとおざかっていく。白いやみにとおざかっていく。
ぼくはあさい池にひざまずいて泣いている。声をあげて泣いている。あいつはさいごの力をふりしぼるようにして、ぼくたちをなんとかあんぜんに地面におろしてくれるつもりだったんだ。だけど、さいごのさいごで力つきて、バラバラになってしまった。
ぼくとイツキは池になげだされた。
バラバラになったあいつのからだが、ボシャン、バシャン、って大きな音をたてて池にしずんでいった。しずんでいったあいつのからだは、水をすって、グズグズのねんどにもどっていった。ドロにもどっていった。
服もからだも、ドロだらけになった。そんなことはかまわず、ぼくは泣きつづける。
「もうすぐ……あえるんだ……パパとママに……」
「まだ生きられないんだ」
つめたい声。センセイの声だ。
「屋敷の力場のそとではね。それにその粘土にはパパもママもいない」
パパもママもいない! そんなバカな。じゃあ、こいつは作られたものだっていうの? お館さまに。まさか、あのコウドウにころがっていた、ヒビわれたのや、こわれた人形みたいなのは、みんなあいつみたいに作られたいのちだったっていうの?
だから、イツキはあんなこといったんだ。
ちらっと見ると、イツキはすまなそうなかおしてた。イツキはしってたんだ。
「ぼくもそうなの?」
センセイにたずねたけど、こたえてくれなかった。
「ぼくにもパパやママはいない……」
それはこの世でいちばんかなしいジジツだった。
あいつのからだだったドロは、かわくとコンクリートみたいにかたくなった。水でとかそうとしても、とけなくなってしまった。からみついたドロごと、かみを切らなきゃならなくなった。
けっこう気にいってのばしてたんだけど……もうどうでもいいや。
じょきり――
ハサミがはいる。
ドロといっしょに、かみが切られていく。
センセイはぼくのかみを切りながらゆっくりとせつめいしてくれた。
「おまえは、たしかにほかのふたりとはちがう。だが、それでも選ばれた優秀な種なのだ」
じょきり――
「おまえの親はお館さまだ。それは誇るべきことなのだよ」
じょきり――
「いずれ世界へ飛びたつときがやってくる」
じょきり――
「それまでまつのだ……」
じょきり――
じょきり――
そして、わたしはその日から、もう二度と髪をのばすことはなくなった。
自分の両親に会いたいという気持ちは、大人になるにつれ、ゆっくりと息絶えていった。
それをさびしいとは思わない。いまのわたしはやるべきことを見つけたからだ。
だが、わたしはいまでもあの声を忘れられない。
あいつが泣く声を。
そして、これを捨てられないでいる。
幼かったころのわたしの髪の毛がからみついている、硬くなった粘土の塊を。
かつて最初の人間は粘土から生みだされたという。
泥にかえった泥人形は、両親に会えたのだろうか。
それはもう、だれにもわからないことなのだ。
ニライカナイの潮風が、わたしの髪を小さくゆらしていく。
もうすぐ彼女がくる。
ヘレナがくる。
いずれ、そのときがくるのはわかっていたことだ。しかし、やはりイヤなものだ。
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第四章 鏡の中の少年
断章1 如月 樹
久遠の青い血がぬきとられていく。
イヤだろうね。だけど、しかたないんだ。ヘレナがきたんだから。
十年ぶりぐらいだ。少女のころの彼女しか知らないが、あのころとまったく変わっていない。あいかわらず冷たく笑う女だ。
一応、財団から供与されたヴァーミリオン・シリーズの技術サポートとしての派遣ということになっているけど、着任そうそうヴァーミリオンのことなどほっておいて、科学部にやってきて、久遠の再検査を要求してきた。財団もなりふりかまわないらしい。TERRA《テラ》とか国連の命令系統を無視して、直接科学部に命令をくだすなんて。
かわいそうな久遠。また受けたくもない検査を受けねばならない。
「なにか問題でも」
「われわれの生理調査チームの分析報告では、久遠は覚醒してはいないということでした。しかし、たしかな筋の情報では、それに否定的ですので」
ヘレナは指で小さな記録メディアをいたずらっぽくふってみせた。
あれは!
「あなた、むかしっからウソがへただったわね」
ヘレナの唇が皮肉っぽくゆがむ。
「あなたの大切なスリーピング・ビューティーはとっくにお目覚めだわ。いつ王子さまにキスされたのかしら」
黄色は科学部の印。まちがいない。あれは久遠の覚醒データだ。あれが彼女の手にあるということは……。
「だって、それは国連に渡るって!」
いってしまってから、七森くんはしまったという顔をして、口に手をあてた。もう遅いよ。彼女が好意を寄せていることは知っていた。だから、絶対に裏切らないと思っていた。
わたしが甘かったのだ。
「し、信じてください。わたしは先生のためを思って……」
「ぼくのため? 自分のためでしょ」
氷のナイフより冷たくするどい言葉を投げつける。
七森くんは言葉をうしない、わなわなと唇をふるわせていた。
「もうあなたの顔は見たくないそうよ」
言葉を失った彼女はその場から逃げだした。ドアが開き、とじられる音がやけに大きく響く。
「そういえば」
ヘレナはなにごともなかったかのように、話しはじめた。
「マコトの姿が見えないけど。どうしたのかしら?」
「かれはきみが苦手みたいだよ」
「ぼくもって顔してるわよ、あなた」
たしかに。むかしから、きみの残酷さが苦手だった。美しい蝶の羽根でも平気でむしれる残酷さが。
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断章2 七森小夜子
ウソよ! ウソだわ。
あのデータが財団に渡ってるなんて。そうだってわかってたら、絶対渡さなかった。
絶対に。絶対に。ゼッタイに!
あのときだってそう。あの人は悪いようにはしない、これはきみのおとうさんとおにいさんのためだっていった。そういって、わたしに裏切らせた。とうさんと兄さんを殺した。
その手に財団の紋章の刺青があったのを、忘れない。
なんでまた財団がわたしの人生にかかわってくるのよ。ぜったいにかかわりたくないのに。しかもこんな形で。
なんでよ。
なんで、わたしのやることは全部、裏目に出るの!
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断章3 弐神譲二
いやな雨だぜ。涙雨ってやつだ。またどこかで女が泣いている。自分のことを想って泣いている。
「久遠のことはまだよくわからないわ」
雨の中、レヴェル・スリーと接触するってのも、粋なデートってえのかね。
「でも管理がバーベム財団に移管されるという話があるわ」
「財団ねえ」
「ええ。まだ正式決定ではないけど、ほぼ内定の事実」
久遠の管理が財団に? どういうことだ。こりゃさっそく上にご注進せにゃならん。犬は上等の獲物を持ちかえらないと主人に怒られるからな。
「いやあ、いい情報を提供していただきました。お礼に、といっちゃあなんですが、ひとついいことをお教えしましょう」
またまた、おれっていやらしいねえ。なにが「お教えしましょう」だよ。そうやってトリガーをTERRA《テラ》の組織じゅうにばらまき、いつそれが引かれるのか観察してんだからな。
「六道翔吾。あなたのおじさんのことですよ。娘さんがいたのをご存知ですか?」
「おじさんは独り身よ」
「そう! そのとおり。だけど、これがいたんですな。なぜか」
このしゃべり方、自分でもちょっと芝居がかってると思うよ。
「その娘さんは十七のときに、家を出てしまった。といっても、あなたが生まれる前の話だ。知らなくって当然ですな」
「だから? おじさんに、もし娘がいたからって、あなたになんの関係があるの」
レヴェル・スリーが腹をたてはじめる。まあまあ、あせらない。こっちがせっかく興行うってんだから。
「まあ最後まで聞いてくださいよ。その娘さん、この島を出たあと東京に行きましてね。そして、結婚して名字が変わった。この名前がまたふるってるんですな」
「まわりくどいわね」
「神の名と書いて、神名。いい名前だ。そうは思いませんか?」
神名の名前は、五百キロ爆弾級のショックがあった。無関心そうなレヴェル・スリーの顔色がサッと変わり、まじまじと顔をのぞきこまれた。おいおい、あんたも情報部の人間だろ。簡単に自分の感情をあらわにするもんじゃないよ。
「六道博士は、その謎を知っている。……ただの引退した考古学者じゃないようですな。調べてみちゃいかがです」
予想通り、レヴェル・スリーはレヴェル・ツー・ベータの過去については関知していなかったようだ。これでどう動くか。それがベータをどう動かすか。ちょっと見物だね。
それにしてもこの雨、どうにかなんないか。もう靴どころか靴下までぐちょぐちょだ。旅館の部屋に靴下ほすのってやなんだよなあ、なんかみじめったらしくてさ。
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断章4 エルフィ・ハディヤット
特殊なエンジン音がコクピット全体にかすかに響いている。
ヴァーミリオンはあつかいやすい機体だ。これを通常の戦闘機のように「機体」ととらえるならばだが。なぜならヴァーミリオンは、いわゆるロボット兵器だからだ。財団が供与する新しい兵器というのが、まさかこのようなものだとは想像さえしていなかった。せいぜいが晨星よりも性能が格段にあがった戦闘機だろうとふんでいたのだ。
正直、最初、これが目の前に現れたときには、バカにされてると思った。かっこ悪いラーゼフォンのパロディじゃないか。これをあたしたちに操縦しろっていうのか。戦闘機乗りはプライドが高い。輸送機を操縦しろといわれるだけで、バカにされたと思う連中なのだ。
それがロボットだと?
なにが哀しくて、そんなものを操縦しなければならないんだ。
しかし、離陸後五分でそんな想いはどこかへ吹き飛んでしまった。直感的な操縦系はいままでにない斬新なもので、わずかな習熟シミュレーションでだれでも操縦することができるようになる。といっても、攻撃や高速移動を考えると、やはりあたしたち戦闘機乗りが操縦するのがもっとも正しい選択だろう。
「アルファV1より|C・C《コントロール・センター》、操縦性に特にクセはないようだ。安定に作動している」
「つぎはテスト・マニュアル・フェイズ・ツーに移行してください」
いよいよ、主武装であるバウスガザルのテストだ。
ヴァーミリオンをターゲットの近傍四キロ地点まで高速移動させる。急制動をかけても、機体はちゃんと応えてくれる。
バウスガザルをかまえる。
「レールガン・シフトで五秒フルオート連射」
軽い衝撃とともに高速のセラミック・ペレットが発射され、海面に巨大な水柱が壁のように連続してあがる。五秒でこれだ。フルオートで三十秒も連射すれば、リーリャ・リトヴァクさえ沈めることができるかもしれない。
「つづいてプラズマ・キャノンに換装」
へんてこりんなアサルトライフルのようなバウスガザルの先端が開き、Uの字型の形状になる。そのあいだでプラズマがきらめきはじめる。
ターゲットである岩礁にロックオン!
発射。
巨大な光弾が発射され、尾をひくようにして岩礁に吸いこまれていった。
閃光!
原爆規模のキノコ雲が天を焦がさんばかりに立ちのぼる。
「すごい」
思わず声がもれたほどだ。これだけの攻撃力があれば、ドーレムを確実に破壊できる。いつかみたいに、みじめにドーレムの脚のあいだにぶらさがらずにすむ。
もう神名綾人が戦う必要はどこにもない。
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断章5 八雲総一
中央モニターに原爆なみのキノコ雲が映しだされている。みんな、その威力におどろいてるけど、だれもヴァーミリオンが供与された意味を考えようとしていない。だからって、ぼくが説明するわけにもいかないんだけどね。
「自然保護団体が見たら、卒倒しそうな映像だよね」
って皮肉をいうのがせいぜい。ぼそりとひとりごとみたいにいったつもりなのに、遙さんに聞きとがめられてニラまれてしまった。
「八雲副司令」
丁寧だけど見下したような口調で呼ばれた。ヘレナさんだ。ヴァーミリオン・シリーズの技術サポートをする民間人だけど、財団の会長バーベム卿の親戚筋の女性だっていうんで、亘理《わたり》長官まで下にもおかないような態度で接している。
「ラーゼフォンの奏者、いえ、パイロットの神名綾人くんの姿が見えないようですが」
一応、かれにも知らせてあるから、くるとは思うんだけど……。それって、もしかして、このぼくに探してこいってことですかねえ。さっきの言葉を聞かれちゃったのかな。ま、いいや。民間人に乗っ取られたみたいな管制塔になんて、長いこといたくないもの。
あちこち探したけど、結局、綾人くんは見つからずじまいだった。どこにいるんだろう。キムに呼びだしをかけてもらったのに、携帯の電源を切ってるのか通じない。ときどき、かれはそうする。まだ携帯に慣れていないのかもしれない。
滑走路におりていくと、テスト飛行を終えたヴァーミリオンはすでにハンガーにもどっていて、エルフィ中尉もアルファ小隊の人たちにかこまれて騒いでいる最中だった。
「ヴァーミリオンの量産一号機は、このキャシー・マクマホンがいただきますからね」
「なんだと、こいつ」
エルフィ中尉とキャシーさんがじゃれあってる。能天気な人たちだ。
「綾人くん見ませんでしたか?」
「いいや。それより見たか? すごいよ、ヴァーミリオンは。この機体ひとつで東京ジュピターの絶対障壁を破れるんだから」
そう。すでに機体の標準装備としてTDDユニットが内部に組みこまれている。なんのために組みこまれているかは、はっきりしている。
「これが百機もあれば、一気に東京ジュピターに侵攻できる」
どこまで能天気なんだろう。ちょっと教えてあげたほうがいいかもしれない。正しい情報を。
「こんなもんあったからって、なんになるのかなあ」
できるだけ全員に聞こえるように、なおかつひとりごとのようにつぶやいてみせる。とたんにエルフィさんが反応した。
「少佐。ちょっといいかな」
ちょっといいに決まってるでしょ。さもなきゃ、こんな言い方しませんよ。
滑走路のそばのビルの陰につれこまれた。
なんか放課後に体育館の裏に呼びだされた高校生ってシチュエーションだよね。
「どういう意味だ!」
「べつに。……ただ、はっきりいってあんなものTERRA《テラ》に必要ないんですよ」
「なんだと!」
情報を伝えようとしたのに、なぜかエルフィさんを怒らせてしまった。やばいなあ。
「だってそうでしょ。TERRA《テラ》は軍隊じゃない」
「ごまかすな。自分は軍人じゃないとでもいうのか。え、少佐殿」
そういう言い方はないと思う。日ごろのぼくからはちょっと考えにくいけど、カチンときてしまった。
「TERRA《テラ》はあくまで専守防衛が目的です。でも、ヴァーミリオンはあきらかに侵攻が目的の兵器だ」
「じゃあ、オーヴァーロード作戦は侵攻じゃなかったのか」
「あれは国連主導の作戦です」
「作戦立案はおまえたちだろ!」
う、痛いところをついてきたな。
「ぼくは反対しましたよ」
「反対? 黙認だ。おまえは、あたしの仲間が死んでいくのを黙認したんだ。そういうやつのことをなんていうか知ってるか!」
「なんです」
「偽善者っていうんだよ!」
ぼくだって男だ。ここまでいわれて、ニコニコしちゃいられない。
「じゃあ、連続殺人鬼のことをなんていうか知ってますか。エースパイロットっていうんですよ」
売り言葉に買い言葉。結果がどうなるかわかっていながら、口にしてしまった言葉。
エルフィさんに胸倉をつかまれる。目が怒りに燃えている。
「あたしは人殺しじゃない!」
「あなたの撃ったミサイルでどれだけの人が死んだと思ってるんです」
「人? 連中はムーリアンだ」
「どうちがうんです。ムーリアンと人と」
ふたりともどんどんエスカレートしていく。相手の怒りにさらに怒りを燃やし、それがさらに新たな怒りをよんでいる。それがわかっていながら、ふたりともやめられない。
「ちがうに決まってるだろ!」
「綾人くんとあなたもですか!」
あ――
口をすべらせちゃうなんて、ぼくらしくない。ほんとぼくらしくないよね。ヘレナさんがいるストレスをあんな形でエルフィさんにぶつけて、あげくのはてに口をすべらせちゃうなんて。
「いまなんていった?」
エルフィさんは、言葉の意味がよくわからないみたいな、虚脱した顔をしている。そのうちに意味がわかったのか、つかみかかってきた。
「おい! 神名からMU《ムウ》フェイズ反応がでたのか! ムーリアンだっていうのか!」
肩をつかまれ、ゆすぶられる。
「答えろ!」
「いまの話……忘れてください」
そうか。エルフィさんは綾人くんのことを気にしてたんだ。彼女に関するレポートにも、MU《ムウ》大戦で兄をなくしてるって書いてあったじゃないか。そんなことにも気づかなかったなんて、ぼくはバカだ。しかも、いらないことを口にしてしまうなんて。
じゅうぶん自己嫌悪におちいれる状況なのに、さらにもっとひどいことが待っていた。
かたり――
小さな音に、ぼくもエルフィさんも建物の角のほうを見た。そこに立っていたのは……。
綾人くんだった。
いったい、いつからいるんだろ。まさか、MU《ムウ》フェイズ反応の話聞いちゃったのかな。あの顔は……そうだよね。
まるで凍りついたみたいな無表情の綾人くんは、哀しそうに「すみません」といって走りさった。
最悪だ……。やっぱり聞かれてたんだ。
きょうのぼくは最低だ。きっと星占いでも最低の日なんだろう。なんて自己嫌悪におちいってるヒマはない。すぐに追いかけなきゃ。
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神名からMU《ムウ》フェイズ反応がでたのか。
神名からMU《ムウ》フェイズ反応がでたのか。
神名からMU《ムウ》フェイズ反応がでたのか。
MU《ムウ》フェイズ反応が正確になんなのかはよくわからないけど、どういう意味かはよくわかる。
おれはムーリアンだったんだ。
きのうまでのおれはムーリアンを敵だと思っていた。いや、思いこもうとしていた。さもなければ、故郷からやってくるものと戦えるはずがない。さもなければ、それを敵として組織されたTERRA《テラ》の中で生きていけるはずがない。
なのに……。なのに……。
走っているうちにころんだ。痛かった。人間みたいだ。
すりむいた掌から血がでていた。赤かった。人間みたいだ。
血が赤いのにムーリアンなの? 東京で見た青い血の人間たちがムーリアンだったんじゃないの?
「綾人くん、待って!」
八雲さんの声に、ふたたびおきあがって走りだす。走りつづける。心臓が肋骨をつき破るぐらい脈打ち、横っ腹が痛くなってくる。まるで人間みたいだ。だけどぼくはムーリアン。なのにぼくはムーリアン。やっぱりぼくはムーリアン。キムさんの両親を殺し、恵から父親を奪い、大地が赤く染まるほどの血を流させた張本人。
ほらほら、あそこをごらん、ムーリアンだよ。人類の敵だよ。MU《ムウ》大戦で二十億の命を奪った連中のひとりだよ。
ちがう。ちがう。ちがう!
おれは人間だ。
いや、おまえはムーリアン、人とはちがうものさ。いずれおまえの血も青くなるんだよ。あの母親のように。
ちがう。ちがう。ちがう……。
走りつかれたおれは、公園のベンチに腰かけていた。足元にきのうの雨の名残の水たまりがあって、そこにおれの暗い顔が映りこんでいた。
ムーリアンの目が見返してくる。
ちがう。おれは人間だ。
いや。おまえはムーリアンだ。
「やっと見つけた」
八雲さんがやってきて、となりに腰をおろした。人間が腰をおろした。ムーリアンと人間がならんでベンチに座ってる。笑っちゃうような構図だよね。
長く重い沈黙が、おれたちの前に横たわる。
「八雲さん……」
「ふたりっきりなんだから、総ちゃんでいいよ」
せいいっぱい気をつかった冗談のつもりらしい。だけど、笑えもしない。
「はは。冗談。冗談」
そういう八雲さんの口元は、苦くかたまっていた。
「さっきの話、ほんとなんですか?」
八雲さんはすぐには答えてくれない。ふたりの前の沈黙が、身をよじった。
「ぼくは……何者なんです?」
「きみはきみさ」
思わずこぶしをにぎりしめる。きれいな言葉はきれいすぎる。ぼくはぼく。おれはおれ。わたしはわたし。あたしはあたし。わたくしはわたくし……。どう考えたって、「きみはきみ」になれっこない。
「ぼくだけ知らなかったんですね」
小さな吐息がかえってくる。
「知ってるのは、ごく一部の人間だけだよ」
だからって気が楽になると思ってんの?
「そうかな……。陰では笑ってたんでしょ。こいつはムーリアンだって。人間じゃないんだって。……利用してただけなんでしょ。ラーゼフォンを操れるからって」
また沈黙が身をよじりはじめる。うねうねとよじりはじめる。
「なさけないな」
ぽつりと八雲さんがつぶやいた。
「きみがじゃない。自分が、だよ。なさけないよね。こういうときに、一発はりとばす気概さえないんだから」
熱血青春ものじゃないんだからさ、一発はりとばされたって、こっちがこまっちゃうよ。どうしろってのさ。泣きながら、「ぼくがまちがってました、八雲さん」とかいって抱きつけばいいんですかね。
「いいですよ。なぐったって。どうせぼくはムーリアンなんだから」
「そんなの関係ないさ。だって、きみはきみだろ」
またそれかよ!
おれは思わず立ちあがった。なにが「きみはきみ」だ。ささくれだったおれの心に、なぐさめの言葉は響かない。
「そんな詭弁、聞きたくありません!」
沈黙が、くすくすと笑った。おれを笑った。
「人は人とつながってるんだ」
八雲さんは視線を手許に落とすと、まるで自分にいいきかせるように話しだした。
「ぼくがここにいられるのもそうさ。だから、きみもここにいていいんだ。きみとして……」
そのとき、八雲さんの携帯が鳴った。
「D1警報だ」
「いいですよ、行ったって」
もう投げやりだった。
「戦ってあげますよ。敵をやっつけてあげますよ」
「行かなくていいよ」
え?
「いまの自分で戦えると思ってるの? そんなに甘いもんじゃないでしょ」
そんな……。そんなのありかよ。自分で人を落ちこませるようなことふっときながら、拒絶するのか? そんなのってないだろ。
だけど、八雲さんはおれに背をむけた。無言の背をむけた。そして、本部ビルにむかって走っていった。
おれはひとり、だれもいない公園に残される。
まだまにあう。走っていけば、八雲さんに追いつける。だけど、足は動かなかった。一歩も動けなかった。
崩れおちるようにベンチに腰をおろすことしかできなかった。
ため息をつき、足元に目を落とす。そこにムーリアンがいた。水たまりに映っているおれがいた。
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断章6 エルフィ・ハディヤット
やれる。このヴァーミリオンならやれる。
「D1針路変更しました。コンタクト推定時刻|18:00《ヒトハチマルマル》。あと五分もありません」
アドレナリンが全身をかけめぐる。あと少しで、最初の勝利をつかむはずだ。オーヴァーロード作戦以降、はじめての勝利を。あたしは操縦桿を握りしめ、ヴァーミリオンをさらに加速させた。
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――おまえはムーリアンだ。
水たまりに映っているおれがいう。
「ちがう。なんかのまちがいだ」
――じゃあ、おまえの母親はだれだ。あの青い血の女じゃないのか。
「……おふくろはおふくろだ」
――いい気なもんだ。そうやっておまえは、人間のふりをして仲間たちと戦うんだ。ムーリアンのくせに。裏切り者。
「ちがう。おれは裏切り者じゃない」
水たまりからのぞくムーリアンの目を踏みつぶす。パシャンと水がはね、おれの顔が崩れる。時間がたつと、ゆらぐ水面からゆがんだ目がのぞきこむ。また踏みつぶす。また目がのぞきこむ。また踏みつぶす……。
「どうすればいいんだよ」
――帰ればいいのさ。おまえの故郷に東京に。ムーリアンの仲間たちがいる場所に。
「できっこないよ。絶対障壁があるだろ」
――ここにいるのか? 人間たちの土地に。ムーリアンのいるべきではない場所に。
「ここには遙さんがいる。恵も、樹さんや久遠もキムさんも、みんないるよ」
――東京には朝比奈がいる。守がいる。そして、おまえの母親もいる。なぜ、その東京からくるドーレムと戦う。ドーレムはおまえの敵なのか?
おれは、ドーレムと戦うと決めたときのことを思いだした。あのとき、おれはみんなに認められようとして戦うつもりになったんだ。そう。みんなに認めてもらおうと……。
ドーレムを破壊したむこうに、東京ジュピターが見えたときのことも思いだした。あのとき、おれはニライカナイにもどった。みんながいるから、ニライカナイにもどった。
そう……。おれは自分の意志でもどったんだ。自分の意思だ。だれにいわれたわけでもない。自分でいるべき場所を選びとったんだ。
ゆっくりとベンチから立ちあがる。
「行かなきゃ。ぼくがここにいるから」
存在理由《レーゾンデートル》。眠くてたまらない倫社の時間に耳にした言葉が、なぜかよみがえってくる。そう。ラーゼフォンでドーレムと戦うんだ。それがここにいる、ぼくの存在理由だ。
ふと見おろす水たまり。そこに映っているのは神名綾人だった。
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断章7 如月 樹
クリュッグ・クロ・デュ・メニルの二十五年ものをグラスにそそぐ。よく磨いたグラスには泡ひとつつかず、表面がわずかにゆれるだけだ。真はだまってそれを一口飲んだ。
わたしはだまって自分の酒を飲む。銘柄などどうでもいい。飲むための酒ではなく、酔うための酒だ。
「アレと会ったのか」
知っているくせに。会ったからこそ、こうしてあなたをわざわざわが家に招待したのではなかったのか。
「あなたにも会いたがってるみたいでしたよ」
「近いうちに会わなければならないだろうな。三人で」
苦みをふくんだ言い方だった。三人で会わなければならないような事態を作りだしたのは、あなたじゃないか。あなたが久遠のデータをヘレナに渡したりしなければ、彼女と会わずにすんだかもしれない。
「自分がまいた種でしょ」
「まいた?」
真は薄く笑いを浮かべながら、こちらを見た。そして、わたしの肩越しにベランダの久遠に目をやった。
「花はつんだかもしれないがね」
かたむきかけた陽をあびて、わたしの花が咲いている。ベランダで静かにお茶を飲んでいる。それをつんで、自分のものにしたのは、あなただ。一色真。
「なぜかはわかるだろ」
「わかりません。わかりたくもない」
気がついているだろうか。わたしが、これほど正直に自分の気持ちをあなたにしゃべったことはないということに。
「冷たいね。……だけど、シャンパンは冷たいほどうまい」
真はそういって、よく冷えたシャンパンを一口飲んだ。ことりと置いたグラスの音が、やけに大きく室内に響く。
「きみもそろそろひとりに慣れるべきだろ。自立というやつさ」
一瞬、心に殺意が浮かんだ。しかし、かれを殺したところで、久遠が自分のものになるわけではないことに気がついた。もしそうなるならば、わたしはためらわなかったろう。
時計が六時半の時報を打った。
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断章8 エルフィ・ハディヤット
赤と青のまじったエイみたいなドーレムを大戦跡地にさそいこむことに成功した。ここなら思いっきりあばれられる。
バウスガザルのレールガンを連射する。
敵の動きは予想以上に速く、それた弾が大地を切り裂く。あちこちにある爆心湖に水柱が立ち、廃墟となったビルをつき崩すだけで、ドーレムには一発もあたらなかった。
しかし、相手の速度はこれでつかめた。
だいじょうぶ、つぎはやれる。
バウスガザルをかまえ、プラズマ・キャノンに換装する。ロックオンしたとたん、その前に影が飛びこんできた。
ラーゼフォンだ。
神名綾人だ。いつのまにラーゼフォンに。出撃は拒否されたはずだ。
「邪魔だ、神名!」
「ぼくだってやれます!」
そのとき、ドーレムが赤と青のふたつに分割された。一体だと思っていたのは、じつは二体だったのだ。
青ドーレムがヴァーミリオンに、赤ドーレムがラーゼフォンに攻撃をしかけてくる。かわそうとしたとたん、ラーゼフォンと激突する。衝撃がコクピットに走る。
「邪魔だといってるだろう!」
「エルフィさんこそ!」
なんだ、その言い方は。まるで自分が主導権を握っているみたいじゃないか。あたしにはヴァーミリオンがある。おまえが出てくる幕はないんだ。
D1アリアが鳴り響いた。
落ちはじめている夕日のなか、赤ドーレムと青ドーレムは二機で、あたしたちを囲むような陣形を組み、羽根のようなものをひろげた。
とたんに周囲の空間が硬質化し、ヴァーミリオンが閉じこめられる。
これは……鏡だ。まるで一昔前の遊園地のマジックハウスにまぎれこんだように、いくつものヴァーミリオンが見える。
上も下も前も後も横も。無数のヴァーミリオンが茫然と宙に浮いている。
「このっ!」
バウスガザルをかまえ、レールガンを撃ちこむ。すると、セラミックペレット弾はまるでゼリーかなにかに撃ちこまれるように音もなく鏡像に吸いこまれていった。
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背中から銃撃をくらい、思わずのけぞる。
ふりかえるけど、そこにあるのはラーゼフォンの鏡像だ。
出撃命令は受けていないのに勝手に飛びだして、ようやくエルフィさんに追いついたってのに、ドーレムの攻撃を受けて、こんな鏡地獄に閉じこめられてしまった。
ふたたび銃撃を受ける。まるでラーゼフォンの鏡像から飛びだしてくるように、無数の銃弾がたたきこまれた。
反射的に“光の剣”をのばし、鏡像にむかってふりおろす。
が、まったく手応えはなく、空気を切り裂くように“光の剣”は鏡空間に吸いこまれていった。
「なにをする。神名!」
え? エルフィさん?
応えるように、また弾が撃ちこまれた。わかった。鏡のむこうにはヴァーミリオンがいるんだ。
「エルフィさん、同士討ちになります」
「うるさい!」
怒った声がかえってくる。
「なぜ出てきた。おまえが出てこなくても、わたしひとりでやれる!」
なんだよ。せっかく助けにきてあげたのに、そういう言い方はないだろ。
「ぼくがムーリアンだから。そうなんですか!」
「わたしは……。わたしはおまえを信用できるほど強くない!」
そんな……。信用されてないなんて……。だったら、ぼくはなんのために戦場にいるんだ。なんのために戦ってるんだ。
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断章9 一色 真
ガラスのむこうに忍びよってきた闇に明かりが灯り、テラスの久遠を浮かびあがらせる。それでも闇をすべてはらうにはじゅうぶんではなく、外の風景のほとんどは暗闇に沈んでいる。そこに冷たい樹の顔が映りこんでいた。
「あなたは久遠を鍵に新しい世界を開こうとしている」
そのとおりだ。よくわかってるじゃないか。さすが樹だよ。久遠さえ握っていれば、新しい世界を開くことができる。わたしたちの世界を。
「だけど、それはあなたの世界じゃない。なぜなら、あなたはDだから」
「いうな!」
思わず手にしていたシャンパンを樹にかける。濡れた樹は、恐ろしい目でこちらを見ている。
だからなんだというんだ。一番いやがる言葉で、わたしを傷つけたくせに。
おまえを許さない!
一瞬の殺意が行動をおこさせる。
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「いけない」
コクピットに少女が現れた。うしろ姿だけど、あれは美嶋《みしま》だ。まちがいない。でも、きみは……。
「み、し、ま……」
「あれをのぞいてはダメ」
こちらをふりむかず、美嶋はじっと鏡像のラーゼフォンを凝視《みつ》めている。
「え?」
「あれをのぞくとオリンはヨロテオトルにはいたらない」
美嶋が左手を前にさしだした。
スクリーンにラーゼフォンの左手が見える。そこには弓のように光の棒がのびていた。
ウソだ。これは夢だ。だって……だって……。
「きみは死んだはずだ!」
「そう見えただけ」
彼女は左手に右手をそえ、弓をひきしぼるようにうしろに引いた。
ラーゼフォンがいつのまにか、光の矢をつがえ、ひきしぼっている。矢の先には鏡像のラーゼフォンがいる。
「これは夢だ」
「そう見えるだけ」
「きみはだれなんだ!」
「わたしはイシュトリ。そして美嶋玲香《みしまれいか》。わたしは……」
そういいながら彼女はゆっくりとふりむいた。
「……あなた」
言葉が終わると同時に美嶋の右手が動いた。
矢が放たれる!
「やめろ!」
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断章10 エルフィ・ハディヤット
空気を切り裂くようにして、光の矢のようなものが鏡から飛びだしてきた。
一瞬かわすのが遅かったら、それは確実にヴァーミリオンの胸をつらぬいていたことだろう。
神名だ。神名がやったんだ。
「あたしを……狙ったのか!」
「ち、ちがう。ぼくじゃない」
なにを……なにをいう! おまえ以外にだれがやるというのだ。
怒りにかられたあたしは鏡像めがけて両手をつっこんだ。
ガッ――
手応えがある。それをひきよせる。ヴァーミリオンの鏡像の中からラーゼフォンが姿を現した。
やっぱり、おまえだったんだ!
あたしはラーゼフォンの目をのぞきこんだ。そこにヴァーミリオンが映りこんでいる。あたしの怒りが映りこんでいる。
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断章11 如月久遠
沈みゆきたる夕日の果て。共鳴しあうふたつの音叉《おんさ》。音叉は怨叉《おんさ》。まがまがしき音を反響させ、世界の姿を変容させようとする。立ちあがった拍子にテーブルのカップが落ち、テラスの床に紅茶がひろがる。
「オリン……それは穢れた鏡。ゆがんだ音しかかえってこない」
ああ、だけど、わたくしの声はとどかない。オリンの胸には響かない。オリンの胸に響くは、ただまがまがしきおのれの姿のみ。
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ヴァーミリオンの頭部センサーにゆがんだラーゼフォンが映りこんでいる。
ダメだ。やられる。
殺される。殺される。殺される。
……殺されるぐらいだったら、殺してやる!
殺してやる!
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断章12 エルフィ・ハディヤット
殺してやる!
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どこからか雫の落ちる音がした。
その音がひろがる。
ひろがる。
世界にむかって。
ゆがんだ鏡の音をひろげていく。
もう止められない。
もう止まらない。
世界が憎しみに変わっていく。
いやだ。いやだ。
憎しみに世界を変えるなんて。
そんなこと絶対にできない!
おれは必死に指を伸ばした。音を止めることはできなかったけど、変えることはできた。
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断章13 紫東 恵
なにかがおきた。モニターが計測できないエネルギー値をしめす。それはラーゼフォンとヴァーミリオンを中心に、急速にひろがってきた。あたしが悲鳴みたいな声をあげたのと、そのエネルギーがニライカナイに到達するのはほぼ同時だった。瞬間、司令部のだれもが、なにもかもが動きをとめた。
そして……。
時間が……。
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断章14 如月 樹
「冷たいね。……だけど、シャンパンは冷たいほどうまい」
真はそういって、よく冷えたシャンパンを一口飲んだ。ことりと置いたグラスの音が、やけに大きく室内に響く。
そのとき、風景がぐらりとゆれた。
いや、わたしの心の奥底がゆれた。
なんだ? 思わず真をふりむく。
「いま、ヘンな感じがしませんでした?」
「酔いがまわったんじゃないのかい?」
真の口元にバカにしたような笑みが浮かぶ。
「きみもそろそろひとりに慣れるべきだろう。自立というやつさ。おれがやったことは、きみの時間を早めただけだ。いずれこの時はきたのさ。おれたちの時代がな」
自己中心的ないいぐさに殺意さえ感じていいはずだった。なのに、なにも思わない。
なにかがいまおきたのだ。それがどんなものかはわからない。ただ、はっきりと確信を持っていえることは、綾人がかかわっているということだ。
なぜなら、胸から腹にかけて熱いものが走ったからだ。いまわしい形をとって。
時計が六時半の時報を打った。
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断章15 エルフィ・ハディヤット
ロックオン!
開いたバウスガザルの砲口にプラズマ粒子がきらめき、それが塊となってエイみたいなドーレムにむかって撃ちだされる。
プラズマの奔流がドーレムにたたきつけられる。
ドーレムの悲鳴さえ、高温のプラズマ流に溶けあった。
そして、すべてが終わったとき、そこにはなにも残っていなかった。
「やった……。やったぞ」
あまりのよろこびに、かすれた声しかでてこない。
とうとうやったのだ。ラーゼフォンの力を借りずに、ドーレムを破壊することに成功したのだ。
「ラーゼフォンがなくたって戦える」
そのとき、モニターの隅にラーゼフォンがいるのに気がついた。いつのまに……。いまのひとりごとが聞こえてしまっただろうか。
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「ぼくは……必要ない……」
おかしいほどの哀しさが、操縦席から周囲の水に、輪になってひろがっていく。
必要ないんだ。おれなんか……。
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断章16 ヘレナ・バーベム
騒々しい! 司令センターは、ヴァーミリオンに対する賞賛の声に満ちあふれていたが、どうでもいいことだ。わたしはおじさまから渡されたアナライズ・マシンを凝視《みつ》め、静かな興奮にうちふるえていた。
何度か名前を呼ばれる。
「ミス・ヘレナ。ヴァーミリオンのデータ、そろいましたか?」
「え? ああ、三十八分七秒も戦えばじゅうぶんでしょう」
ほっといて。この数値の意味を噛みしめているんだから。
「えっ? 二十分ほどだったと思いますけど……」
シトウはおどろいたような顔をした。実時間は二十一分三十六秒。アナライズ・マシンに表示されている時間との差は十六分三十一秒。おじさまにこのような現象がおきるかもしれないと教えてもらわなければ、わたしだってマシンの不調だったと思うだろう。
しかし、現実におきたことなのだ。
これでもう、一方がこちらの制御をはなれたとしても、調律を完了させることができる。ヴァーミリオンを使って。
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断章17 如月久遠
落ちたはずの陽がまた落ちていく。そのむかし、平清盛は落ちゆく陽をあおいでふたたび昇らせたともうしまする。伝説が現実のものになったの? 黒曜石の神テスカポリトカの鏡をのぞいてしまったオリン。その憎しみは哀しみとなり、地に降りつもることでしょう。そして、わたしは落としてしまったカップの破片を小さく集めます。夕日を浴びて。オリンの悲しみを浴びて。
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第五章 他人の島
断章1 如月 樹
「M型標本第1号の管理は、本日づけをもって正式にバーベム財団に移管された。よかったな、ヘレナ」
「ヴァーミリオン・システムは、ラーゼフォンとの同調を確認。これでおじさまの計画が、また一歩前進ってことね」
「あのシステムが信頼できるなら、な」
「少なくとも、あなたよりは。……ねえ、樹」
「なにかいったらどうだ」
わたしには関係ないと思っていたのに、発言をもとめられるとは。
「神名綾人のあつかいは?」
「つがいとして育てられないなら、収容所にでも送りこんでおけばいい。あんな、まがいもの。おれたちはオリジナルを握っている。そうだろ?」
そういって、真は部屋の中央に目をやる。そこには久遠がいた。M型標本第1号という名前の久遠がいた。
「わたし、行くの」
「そうよ。あなたはもどるの。ほんとうの家に」
ほんとうの家なんて、どこにあるんだろう。
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朝。こなければいい朝。もうおれを必要としない場所におとずれる朝。いやだ。いやだ。
「朝だぞー」
襖が開いて、無神経な恵が入ってきた。どうしてこいつは、こうもずかずかとおれの部屋にはいってこられるんだろう。
「ねえ、もう七時だよ」
ご親切なことに、ゆり起こそうとしてくださる。
「おきなよ、綾人。ねえ聞いてる? じつはさあ、あたし、きょうの査定次第でさあ、明日っから正式職員になれるかもしんないんだあ」
自分のことばっかりべらべらとしゃべりながら、恵はおれの体をゆする。ほっといてくれってのが、わかんないのかな。
「ねえ、綾人、おきてよ。……おきろってば」
薄がけをはがされた。恵と目があう。笑ってら。こいつも知ってたんだ。こいつも最初から知っていて、それでムーリアンだってバカにして、登校拒否してた自分のほうがまだましだとかなんとか思ってたんだ。
「知ってたんだろ」
「な、なんのことよ」
とぼけたってダメだ。はがされた薄がけをうばいかえし、また寝ころがる。
「なんだよ! 勝手に寝てろ!」
怒った恵が襖をしめる音が響く。
「知ってたんだ。……みんな……」
つぶやいた言葉が、枕許にころがる。
知ってたんだ、みんな。それで笑って、それで利用して、それでだましてたんだ。いいさ。いくらでも笑えばいい。いくらでも利用すればいい。だけど……。だけど、必要ないなんていうなよ……。
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断章2 紫東 恵
レーダースクリーンに遠ざかるラーゼフォンが映っている。
「ラーゼフォン応答してください。綾人くん! 綾人くん!」
応答はない。五味さんに判断をあおぐ。
「だめです! 応答ありません。ラーゼフォンが管理下からはなれて十二分が経過しました。緊急時マニュアルB―3に移行します!」
「承認します」
八雲さんがうなずきながら、プロテクトIDを転送してくれた。その数値を打ち込み、B―3を呼びだす。
「B―3マニュアル。プロテクト解除」
すぐさまB―3マニュアルが表示される。すばやく読みこむ。
でも、これって……。
ひどい。あのバカを見殺しにしろってこと?
でも、命じられたことはやりとげなきゃ。
「第四方面軍司令部にTERRA《テラ》司令本部より緊急通達です。現在、管理下にあったN分類第2種オーパーツが停止命令にしたがわず、九州方面に北上中! 迎撃態勢をとられたし」
そうしているあいだにも、モニター上のラーゼフォンはどんどん九州に接近していく。
いそがなきゃ。
「なお、TERRA《テラ》との挟撃《きょうげき》作戦をおこなうため、指揮権は国連条約百三十二条Fの第六項により、TERRA《テラ》司令本部が全面的に掌握します」
三分後、モニターから光点がひとつ消えた。
ラーゼフォンだった。
なにもかもが終わった。
やってらんないよ……。つかれた……。
「元気だして」
自販機でコーヒーを買っていたら、キムが声かけてきてくれた。
「あんなのってないよね」
「ひっどいシミュレーション・テストよね。……でも、メグはうまくやったと思う」
キムはいつだってやさしい。結果は出てないけど、でもちゃんとマニュアルどおりにできたと思う。
「これと……」
いいながら「研修中」なんて書かれたこっぱずかしい腕章をひっぱってみせる。
「おさらばできるかな」
「明日は昇格パーティできるわ、絶対」
キムは保証してくれた。あ、でも、パーティはちょっと……。
「そのことなんだけどさ」
あたしは声をひそめる。
「ごめんねえ。もしかすると出られないかも」
「主賓がぁ? そりゃないっしょ」
そうだよね。そうだけど、もうずいぶん前から決めてたことなんだ。
「あたしさあ、決めてたんだあ。もし昇格したら、あの人に告白するって」
いっちゃった。
いっちゃった。
もうあともどりできないぞ。
あー恥ずかし。
明日は成功するしないにかかわらず、キムにひやかされるぅ。
でも、昇格テストがうまくいったら、きっとこの恋もうまくいく。幸運の女神が微笑んでくれるはずよ。
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いわなきゃ。いわなきゃ。樹さんにいってやんなきゃ。バカにしやがって。研究してたのは、ラーゼフォンじゃなかったんだ。
研究室に行くと、いつものように樹さんは静かに微笑んでいた。
「ようやく来たね。FHスーツをつけて。きょうは、あの“光の弓”の再現実験を……」
「うるさいっ!」
途中でどなりつけてやったら、さすがにびっくりしたような顔をしていた。
「樹さんだって、ぼくのこと研究対象だとしか思ってなかったんでしょ。ラーゼフォンを操れるムーリアンだって!」
「だから?」
訊きかえされるなんて意外だったので、ちょっととまどった。
「だからなんなの? 東京の人間にMU《ムウ》フェイズ反応が出ていたからって、なんの不思議があるんだ。きみは東京の人間だろ」
そりゃそうだけどさ……。
「でも、それを隠して、戦わせていたじゃないですか。故郷の人間と」
「きみは東京の人間だけど……ムーリアンなのかい?」
なんだよ、なにがいいたいんだ。
「ああ、ごめん。ぼくもごちゃついてるね。自分の意識の中でどうなのかってことだよ。きみは人間かい? それともムーリアンかい」
「その答えがほしいんです……」
「ちょうどいい機会だ。……まあ、座りたまえ」
なんか完全に樹さんのペースにはめられちゃったけど、いわれるまま座った。
「七森くんがいないんでね。コーヒー飲みたかったら、自分でいれてくれ」
「どうしたんですか?」
「ちょっとあってね。……さてと、きみのことだけど。きみは自分のことを人間だと思っていた。だけど、ムーリアンだとわかって、おどろいてる。そういうことだろ」
うなずくしかないだろ、そういわれちゃ。
「だったら、きみはどこまで自分が思っている人間なんだい?」
「どういう意味です?」
「いったとおりの意味さ。きみはどこまで自分が思っている人間なんだい」
おなじ質問をくりかえされる。どこまで自分が思ってる人間なんだいって……。
「きみは自分のことを記憶してるよね、あたりまえだ。だけど、どこまできみの記憶は正しいんだ」
えっ? どういう意味だ?
「ささいな例をあげよう。きみは七森くんの乗っている車はなんだか知ってる?」
「知ってますよ、フェラーリF40でしょ」
樹さんは静かに微笑んだ。
「ちがうんだ。あれはフェラーリ456GTだよ」
そうなのか? そんなことないよ。あれはF40だよ。おれは必死で記憶の中をさぐったが、そういう記憶しか出てこない。V12に2プラス2ときたら、F40だろ。
樹さんは静かに記事のコピーをさしだした。そこにあるのはF40だが、おれの記憶とはまったくちがうものだった。「2シーター。V8DOHC4バルブ、2936cc、ツイン・ターボ……」。記事には最高速度やらなんやら、いろいろ書いてあったけど、そんなものは目にはいらない。コピーの二枚目をめくると、それはフェラーリ456GTの記事だった。そこにはおれの知っているF40の姿があった。
じゃあ、おれが信じてたF40は、なんなんだよ。
「記憶ちがいなんて、だれにだってあるじゃないですか」
「ただの記憶ちがいじゃない。おそらくバグみたいなものさ、作られたときのね」
「作られたときって?」
「きみの記憶は作られているんだ」
きみの記憶は作られているんだ。
きみのきおくはつくられているんだ。
からっぽになった心に、その言葉だけが反響していく。
作られたって……。
おれの記憶が?
じゃあ、自分が思ってるおれって?
足元ががらがらと崩れていくような気分って、ほんとうにあるんだと、そのとき生まれてはじめてわかった。
吐きそうだ。
MU《ムウ》フェイズ反応がどうのなんてレベルじゃない。自分が自分じゃなくなっていく気分。最悪だ。涙が出そうになる。
おふくろと遊んでもらったときのこと。知育教材の角の感触。灼けたプールサイドに寝転がったときの感触としたたる水がコンクリートにひろがってただようホコリくさいような匂い。朝、道にできた氷を最初に割る喜び。海の波の感触。ケンカした砂場。はじめて好きになった女の子。静かな曲。好きだったアイドル。学校の金臭い水道の味……。そうしたものが、すべてウソだったのか?
おれはすべてウソだったのか?
おれはすべてウソだったんだ。
笑っちゃうほどの恐怖に体が震え、思わず自分を抱きしめる。
息ができなくなるほど抱きしめても、胃のあたりの冷たさは変わらなかった。
脂汗が出てくるけど、寒い。
掌がじっとりしてくるけど、寒い。
おれはウソでできた人生を歩んでたんだ。
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断章3 如月 樹
卑怯な男だ、わたしという人間は。
花をつまれた恨みを、罪もない人物に押しつけている。いや、罪がないわけじゃない。
「だいじょうぶかい」
背中をなでてやろうとするが、その手がためらわれる。傷つけた血がまだべっとりとついている手で、なにをやさしげに! 心の声が責めたてる。
――久遠をつれていかれる恨みを、こんな形でしかはらせないなんて。
――ヘレナの道具を傷つけることが、彼女への反抗か。子どもっぽい。
――傷つけられるものの痛みはわかっているはずじゃないのか。
そうした声を押さえつける。なぜなら、かれはすべての根源なのだ。罪も喜びもすべて背負ってもらわねば。
「気休めでしかないだろうけど、全部が全部作られたというわけじゃない。おそらく、きみのほんとうの記憶を元に、必要なものをつけくわえ、不必要なものを引いた結果だろうと思う。そうそう人間ひとりの記憶を一から作って、そのうえ人間関係までも作りあげることなんてできないからね」
しかし、丸められた背中はなにも応えない。
「もうひとつ、これだけは忘れないでくれ。東京から出てきたあとの記憶はすべてきみのものだ。きみだけの真実だよ。それだけはまちがいない」
丸められた綾人の背中はなにもいわない。
だけど、これでいいんだ。
つらいだろうけど、いつかは知らなければならない事実だ。それに、こうすることが彼女のためになる。彼女の行く先を知っているわたしにできるのは、せいぜいこれくらいだ。
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断章4 紫東 遙
庭に干した洗濯物のむこうから、入道雲が顔をのぞかせている。
縁側でお茶をのんでいるおじさん、そのかたわらに腰かけているわたし。はたから見れば、平和そのものの光景だろう。だけど、わたしには問いたださなければならないことがある。
「知ってるんです」
そういって数葉の写真をおじさんに見せる。
「……苦労しただろう。財団が関係者からすべて没収したはずだからな」
まるで他人ごとのような言い方だったけど、それだけに重く感じられた。
どれも六道麻弥《りくどうまや》の写真だ。おじさんのいうように苦労した。学校関係者も友だちも、だれも彼女の写真を持っていなかった。ただ学校のだれもが知っているような目立つ娘だったので、もしやと思い、写真屋の古いファイルの中から見つけたものだ。わたしの知っている彼女は、冷たくて美人でだれもよせつけないような雰囲気の女性《ひと》だ。
だけど、街で見かけた美人という感じのスナップに写っている彼女は、明るく笑っている。実際、彼女の友だちはみんな判で押したように、彼女は明るくて美人でクラスの人気者だったという。それがある日、失踪した。数日後、黒ずくめの男たちが現れ、彼女の写真をすべて回収し、口止めをした。
六道麻弥が十七になった年のことだ。
「なにがあったんですか」
「暑気払いに一雨こんかな」
「おじさん、はぐらかさないでください」
やれやれ、こまった子だ、という目で見られる。
「おれは竹取りの翁《おきな》だったわけさ」
おじさんは静かに語りはじめた。
「ふつうの娘に育てたつもりだったが、ある日、迎えがきてしまった。……いや、自分からもどったんだ。自分のいるべき場所へ。……ときどき考えることがあるよ。自分が月の人間だと知ったかぐや姫は、どんなことを考えたんだろうな」
こちらを見るおじさんの目は、哀しいような、うながすような目だった。
なにをうながされているのかはわかっている。……でも、それはイヤだ。
「そろそろ話してやったらどうだ? 綾人のやつに。あいつはもう……」
首をふって、おじさんの話をさえぎる。
「わたし、怖い。……綾人くんがほんとうのことを知ってしまうのが……」
ほんとうのことを知ってしまったら、かれは許してはくれないだろう。そのときのことを想像するだけで、胸が引き裂かれそうだった。
「そうか。……ま、後悔だけはするなよ」
おじさんはやさしくいってくれた。だけど……。
後悔をしない人生なんてあるんだろうか……。
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断章5 紫東 恵
うー。
悩んじゃう。
ためらっちゃう。
ランジェリー・ショップの前で悶々としちゃう。
みんな、きれいなんだもん。
みんな、魅力的なんだもん。
タウンライナーに飛び乗った。
ただ乗ったんじゃなくて、飛び乗った。手には買い物袋。中身はきれいなランジェリー。飛び乗って当然だよね。
しっかし、ランジェリー・ショップの店員さんにはびっくりしちまったよ。
試着室でつけてたら、いっきなり「よろしいですか」だもんね。スーパーの下着売り場とはやっぱ全然ちがうわ。
そのうえ、やれ、こっちの肉をこうあげてだの、こうして、ああして、こうやって。なんか粘土細工のごとく、あたしの胸は見たこともないぐらいに見栄えがよくなった。
ランジェリーよりなにより、その技術に感動しちゃった。
なるほど、お姉ちゃんがこういう店で買いたがるわけだわ。
でも、「勝負下着?」って訊かれたときはイヤだったなあ。
だいたい「勝負下着」って言葉がきらい。品がない。
店員さんとしてはさ、世間話的な話題なんだろうけど、あたしまだ十四だよ。勝負下着はないっしょ。
ただたんに上から下まで新しい自分、きれいな自分でいたいだけ。きれいな下着を身につけてるだけで気分が変わるじゃない。
ま、明日の告白のためだから、そういわれてもしょうがないけどね。
買い物袋をのぞくたびに、なんか唇の端がとろけていくようににやけちゃうよ。
明日はこれを着て、八雲さんに告白するんだ。
「ずっと、ずっと好きでした」
って。
「よしっ!」
思わず自然とガッツポーズ!
そのとき、聞き慣れた声がした。
「夕飯どうする?」
ありゃ? キムの声じゃん。
「キム?」
ふりかえって首をのばしたあたしは息をのむ。
残酷な幸せの姿に息をのむ。
ななめうしろのボックス席にならんで座っていたのは、キムと八雲さんだった。
あたしはあわてて背もたれに隠れる。
まるでおぼれた人間が浮き輪にしがみつくように、しっかりと買い物袋を抱きしめる。
ウソよ。
いまのはウソ。
見なかった。
見なかった。
見なかった。
百回いえば、なかったことになる。
だけど、現実はきびしい。
幸せそうな声が聞こえてくる。
「作ろうか? なに食べたい?」
「うーん、そうだなあ。まかせるよ」
「もう、男って、すぐこれだ。自分で決められないの?」
「ほかにもたくさん決めなきゃいけないことがあるんだよ。メグちゃんの昇格とかね」
やめて、そんな幸せそうな声で、あたしの名前をキムの前でいわないで。
くしゃ――
買い物袋が音をたてた。
「きみの手料理なら、なんだっておいしいから」
くしゃ――
「もー、おだてたってダメだよ」
くしゃ――
「そうそう、忘れないうちにいっとくけどさ、明日、ちょっと早いんだ。どうする?」
「わたしはいつも通りにしとく。カギ持ってるし」
くしゃ――
くしゃ――
くしゃり――
腕の中で買い物袋がつぶれていく。
あたしの心がつぶれていく。
ふたりは、あたしのことなんか知らずに、幸せなカップルの甘い会話をつづけている。
早くつけ。
駅につけ。
もう一秒だって、こんなところにいたくない。
駅についたとたん、あたしは車輌を飛びだした。
つぶれた買い物袋は席に置いたまま。
そんな風につぶれた想いもどこかへ置き捨てられれば幸せなのに……。
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断章6 一色 真
バカな女だ。酔ってからみつくことしか知らない。
「わたし、知ってるのよ。知ってるんだから。あんたがバーベムの人間だって。わたしを利用しただけだって」
いまごろ気がついてなにをいうか。ヘレナにデータを渡さなければ、まだわたしを国連の人間だと思いこんでいたくせに。
「ふん、おたがいさまだろって顔してる」
実際、そのとおりじゃないかね。
「そうよね。おたがいさま。ちょっとのあいだだったけど、いい夢見せてもらったわ」
夢を見られただけ、ありがたいと思いたまえ。
「これ……」
小夜子は立ちあがりざま、カウンターに紙袋を置いた。
「ささやかなお礼。わたしにはもういらないもの……。見せる相手がいなくなっちゃったから」
うらみがましい目がこちらにむけられる。
「あなたのおかげでね」
逆恨みというやつじゃないのかい。墓穴は自分で掘ったんだろ。
せまいバーにハイヒールの靴音が響く。そして、小夜子は出ていった。
バカな女だ。
さてと、最後のプレゼントやらを拝見するとするか。
赤い布をひっぱりだしてみると、ズタズタに切られたドレスだった。こんなものをプレゼントされたぐらいで、わたしがどうかなると思っているのだろうか。
くだらない。
ほんとにバカな女だ。
わたしのそばにいれば、まだまだいい思いができたろうに。
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自分の部屋でうずくまる。膝をかかえ、入り口の柱に背中を押しつけて。
ウソの人間がうずくまる。
ふと気がついてふりむくと、恵の背中があった。
なにかいいたげな無言の背中。小さな背中。か弱い背中。
それはそのまま、力をなくしたように丸くへたりこんだ。
柱をあいだに背中あわせにうずくまった。
「知りたくなかった。……ほんとうのことなんて、知らないほうがよかった。知ってたの?」
「知ってたんだろ」
そっちこそ、知ってたんだ。おれがウソの人間だって。
「きっとみんなは知ってたんだよね。ほんとうのこと」
「見えないふりしてたんだ。……見えないふりして、知らないようにしてたんだ。たぶん、そのほうが楽だったんだ」
なに話してんだろ、おれ。だれにもいえないようなこと、恵にだけは。
「こわかったんだ。知ることが。知ってしまうことで壊れることが……。ぼくはここが好きだったから……」
「だったから」といってしまう怖さ。もう好きじゃないのか? もうどうでもいいのか? 知ってしまって、壊れてしまったから……。
「そっか……。みんなとちがってやさしいね。綾人は」
やさしくなんかない。やさしさってのは、人を想いやる余裕があるやつだけができるんだ。いまのおれにはそんな余裕、かけらもない。
恵は自分の膝を抱きかかえるようにうずくまり、小さなため息をついた。おれはその様子を背中で感じていた。
そして、恵はゆっくりと立ちあがった。
「ごめんね。綾人。あんたがなんで落ちこんでるのか、わかんないけど……案外、にてるのかもしれないね、わたしたち」
そういって恵は行ってしまった。
またひとり残される。
にてるって? だれとだれが? おれと恵が? どこが?
あいつにはほんとうの人生があって、おれにはほんとうの人生がないんだ。どこがにてるっていうんだよ。
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断章7 紫東 遙
母屋の縁側で泡盛《あわもり》の古酒《クースー》を飲む。壺に封じこめられ、長い時間をかけて、まろみを帯び、薄い琥珀色に変じた酒を飲む。
ため息ひとつ。
時間。時間。わたしの時間。かれの時間。封じこめられたことで変わってしまった時間。
ため息ふたつ。
ぺたぺたと足音がして、恵がやってきた。なにかあったのか、みょうに元気がない。そのままぺたんとわたしのかたわらに座りこんだ。
「いいな、おとなって……。お酒を飲めばウサがはれるんでしょ」
「そういって、おとなは自分にウソをついてるの」
恵は盛大に吐息をついて、ごろんとあおむけに寝転がった。
「おとなはみんなウソつきだ」
「そうね。……ウソはね、つかれたほうより、ついたほうがつらいものよ」
それもウソ。ついたほうがつらいウソなんて、めったとあるもんじゃない。だけど、あることはたしか。さもなければ、この胸の痛みはなんだというんだろう。
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断章8 八雲総一
メグちゃんの昇格の日だ。
「紫東恵殿。貴殿を正式なTERRA《テラ》三等職員として採用する。二〇二九年五月五日。TERRA《テラ》長官|亘理士郎《わたりしろう》」
辞令を読みあげるぼくもちょっと誇らしい気さえする。いままで彼女はがんばってきたよね。ぼくたちだってネをあげそうな状況にさえ、よく耐えてきたと思う。
「謹んで拝命します」
なんかメグちゃんもいつもとちがうみたい。やっぱ、緊張してるんだろうね。メグちゃんの腕にはまっている「研修中」の腕章をはずしてやる。これがあるからとか、ないからとか、あんまり意味はないんだけど、ま、儀式だから。
「よかったね、メグミちゃん。はい、きみのID」
新しいピカピカのIDカードなのに、受けとる彼女はあんまりうれしそうじゃない。
「あれ? うれしくないの? 緊張してるのかな」
「え? ええ、少し……」
IDカードを受けとったメグちゃんは、そのままぺこりと頭をさげて、行ってしまった。ヘンだよね。いつもの彼女らしくない。どうしたんだろ。
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断章9 |金 湖月《キム ホタル》
おかしい。
いつものメグらしくない。だって、辞令を読みあげてもらっているあいだ、総ちゃんのことを一度も見ようとしなかったもの。決定的なのは、「緊張してるのかな」っていわれて、顔をあげたときだ。
あのときの顔……。
ほんとうならうれしくってたまらないはずなのに。なにも言葉が見つからないって顔をしてた。
なぜだろう。
きのう、あんなにはしゃいでいたのに。
なぜだろう。
考えられることは、ひとつしかなかった。
私服に着替えたメグを廊下で待つ。いやだなあ。こういうのって。
メグがやってきた。とぼとぼ歩いてる。どう見ても、楽しみにしていた昇格ができたって歩き方じゃない。わたしに気づいて、立ちどまる。
いわなきゃ。訊かなきゃ。たしかめなきゃ。
「あのさ、メグ。きのう、いってたこと……」
「いいの。もうやめたから」
メグは、すっと哀しげに視線をそらした。その顔を一瞬、心が砕けた少女の表情がよぎる。
やっぱり……。
「知ってたの? わたしたちのこと」
「知らない」
「ごめんね……。ごめんね……。ごめんね……」
あやまるしかなかった。いままでずるずると引きのばしてきたから、こんなにも深く彼女を傷つけてしまった。わたしの優柔不断さが、彼女の心をくだいてしまった。声が上ずり涙声になっていくのもかまわず、わたしはあやまりつづけた。それしかできなかった。
その顔がよほどおかしかったのか、メグがプッと吹きだし、明るく笑った。
「いいよ。なんか意外と痛まないから」
そういいながら、胸を押さえている。その胸がどれほど痛いか、わたしにはよくわかった。明るく笑ってくれたのも、わたしを思ってのことだ。いたたまれない。いたたまれないよ、メグ。
「そんなに泣かないでよ。キムのきれいな顔がだいなしじゃない」
「メグ……」
「あ、そうだ。……あのバカに昇格のこと、教えてやんなきゃ。……いくらバカでも、おめでとうぐらいいってくれるよね」
そういって微笑む彼女の顔は、いつもどおりのような気がした。
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断章10 紫東 遙
車を走らせる。
わたしはいままで逃げていた。八雲くんから、MU《ムウ》フェイズ反応の件が綾人くんにバレてしまったという話は聞いていた。そのときは、いそがしくてかれと時間なんか作れなかった。なにしろ、いろんな人に会って麻弥の情報を収集していたのだから。
ううん、そんなのが言い訳だってわかってる。
会おうと思えばいつだって会えたし、話そうと思えば話せた。だけど、そうしてこなかった。こわかったのだ。綾人くんと顔をあわせるのが。自分の罪をあばかれるのが。そうなったとき、なにをいっていいのかわからない……。
でも、もう逃げられない。時間がたちすぎてしまった。
それに言い訳にしていた麻弥の調査も一段落してしまった。
ようやく綾人くんを見つけたとき、かれは道路端の草原で寝転がっていた。暑いのに。まるで全身が氷で、このまま溶けてしまえばいいと思ってるみたいだった。
堤防に車を止める。こういうとき、車は便利だ。ふたりっきりになれる。だけど、それは重苦しい沈黙でもあった。
「海っていいですね」
長い長い沈黙ののち、綾人くんがぽつりとつぶやくようにいった。
「わたしも信じられない?」
思い切って訊いてみるけど、ちゃんと答えてくれない。
「ひろくて、どこまでもつづいてて、いいなあ」
やっぱり、そうなんだ。わたしも信じられないんだ。
「波が寄せてはかえす。永遠に……。ぼくが死んだあとも」
いまの言葉が信じられず、綾人くんを見るけど、かれは頬杖をついて窓の外を見ているだけ。その背中が、わたしをつよく拒否していた。
「知ってたんでしょ?」
ええ、と答えるしかない。
「でもきみはきみでしょ」
「八雲さんとおなじこというんですね」
「気にすることないわ。だって、そんなこと気にしてたら、絶対障壁がなくなったとき、わたしたちはどうやって東京の人と握手すればいいの? MU《ムウ》だとか、人だとかなんて、どうでもいいことよ、ほんとうは」
「海って東京までつづいてるんですよね」
すれちがう言葉。すれちがう想い。ああ、なんでこんなになってしまったんだろう。
「なにがいけないの? いまのままじゃいけない? わたしたち、いままでうまくやってきたじゃない」
思わず反射的にかれの手を握ろうとした。そのとたん、全身がぴりっとするほど拒否される。
「やめてよ!」
やめてよ、そんなきつい言い方……。
「いままでうまくダマしてきたんじゃないか。そうやって」
ざくりと胸を切り裂かれる。そう思ってたんだ。そんな風に感じてたんだ。
「あなたは真実を見せるって、東京からつれだしといて、それで真実を隠して。ぼくは……こんなことなら東京にいればよかった!」
ゆっくりと綾人はこちらをむいた。その顔に刻まれた深い悲しみにおののく。こんなにも深く、わたしはかれを傷つけてしまったのだろうか。そして、口元に絶望的な笑みが浮かぶ。
「あなたは……あなたはウソツキだ……」
切り裂かれた胸から血がしたたりそう。
指先をするりとぬけて、かれは車の外に飛びだしていった。
バックミラーに走りさるかれの姿。なのに、動けない。かれの名前を叫んで、ひきとめられない。
わたしは凍りついている。凍りついたまま、見えない血を流しつづける。
もう遅い。すべてが遅い。全身の力がぬけていき、首が折れたように、がっくりとハンドルに顔をうずめる。
あなたか……あなたって言葉……けっこうきついよね。
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おれは走った。ウソの自分から、ウソの遙さんから逃げた。
みんな、知ってたんだ。おれの記憶が作られたものだって。ムーリアンだからっていうより、よっぽどきついよな。
走る。走りつづける。
どこにむかって? わからない。
なぜ? わからない。
いつかドーレムの精神波攻撃で、いろんなことから逃げまわったときのことを思いだした。あのときの現実は幻想だった。だけど、この現実は……。いくら走っても、幻想にはならないんだ。おれのウソの人生は、ずうっとウソのままなんだ。
そんなのは耐えられない。
だから、走るしかなかった。
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断章11 如月 樹
めずらしく遙がたずねてきた。気落ちした顔だった。どういうことかはわからないけど、たずねてきてくれただけでも、ちょっとうれしいと思う自分がいた。ウィッタードかフォートナム・メイスンが残っていたはずだ。
紅茶をいれてリビングにもどると、遙はじっと部屋の隅につんである段ボールの山を見ていた。
「ああ、これ? 妹が行ってしまうからね。荷作りさ」
「綾人くんも、どこかへ行ってしまうかもしれない」
「あんな子でも、けっこう荷物があるんでね」
「わたし、どうしたらいい?」
「ぼくがしてやらないと、あの子はなにもしないから」
そう。これは、なにもできない自分への言い訳だ。
「それがわかっていたら、ぼくも止められたよ」
どうしたらいいかわからないから、こうやって荷作りをするしかない。久遠が持っていくはずのないものをまとめるしかない。
「知ってるの」
「なに?」
「妹じゃないって。綾人くんと同じだって……」
やれやれ。情報部の人間は。調べるとなったら、かなりのところまでつかんでしまう。
「そうだね。……だけど家族さ」
「だけど家族、か。樹くんてそんなに強かったっけ?」
「強くなったんだよ。否応なくね」
まさに否応なくだ。わたしだって、好きでこんなことをしているわけじゃない。もはや運命だとあきらめるしかないんだ。
「わたしも強くなりたいな」
ぽつりと唇からこぼれる言葉。胸のあたりが、かすかにきしむ。
遙、わたしは知っているんだ。きみがだれのために、そんなことをいうか。きみは懸命に隠しているつもりだろうけど、情報部の人間じゃなくたってそれくらいわかっているんだよ。
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家に帰ったら、縁側でおじさんと将棋をさしているやつがいた。久遠だった。なんでこいつがこんなところにいるんだよ。そのうえ、おじさんは腕組みして考えこんでいる。
「よお、帰ってきたか。いやあ、このお嬢さん、強いな。強すぎる」
「オリン……。きょうよ」
なにがきょうなんだ。
「さてと。……おれはちょっと古い友人に会ってくる」
おじさん、そんなに気をまわさなくたっていいのに。
「もし出かけるなら、戸じまりはしておいてくれ」
へんなこというな。
「出かけませんよ」
「もしも……だよ。たのんだぞ」
へんに念押しして、おじさんはどこかへ出かけていってしまった。おれは出かけたりしない。……だって、ここ以外にいる場所が見つからないから。
久遠はうっすらと笑っている。
「なんで笑ってるんだよ」
「オリンに会えたから」
「きみも知ってたんだろ。だから、笑ってるんだ」
「ら?」
「ぼくはムーリアンなんだ。記憶だって作り変えられてるし、ほんとうは青い血なんだ!」
「じゃあ、わたしも」
あっさりといってくれるじゃないか。どこまでおれをバカにするつもりだよ。
「わたしの血も青いもの」
え? それって、どういうことだ。だって、だって……。
「じゃあ、なんで樹さんはきみを妹だって」
「つれてって」
「みんな、ふつうにきみと話してたじゃないか」
「呼ばれてるの」
「どうしてふつうにしてられるんだよ」
「東京に……」
いま、なんて? 東京っていった?
「東京につれてってほしいの」
「むりだよ」
「どうして?」
「だって絶対障壁が」
「どうして? だって出てきたんでしょ。出てきたんなら、帰れるのに。どうして?」
久遠は、やけにあっさりといってくれた。笑っちゃうほどあっさりと。
そんなこと考えもしなかった。最初に遙さんに無理だっていわれてそれを信じて……。ちがう。帰ろうと思わなかったんだ。いつだったかドーレムを倒して、そのむこうに東京ジュピターを見たとき、あのときだって帰ろうと思えば帰れたはずなんだ。でも、そうしなかった。ここが好きだったから、ニライカナイにいたかったから。
いまは? いまはわからない。
東京に帰ろう。帰ってみよう。すべてがはじまった場所に。おふくろのいる場所に。
「わかったよ」
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断章12 紫東 遙
樹くんがネリヤ神殿につれていってくれた。
わたしは確信していた。綾人くんがどこかへ行ってしまうことを。東京にもどってしまうということを。ここ以外、この島以外でかれのいられる場所は東京しかない。樹くんもまた確信していた。久遠が行ってしまうことを。神名麻弥という存在に呼ばれているから。
そして、ふたりが現れた。
「もう行くのかい?」
樹くんは、まるで日帰り旅行に行く家族をおくりだすときみたいだ。
「呼んでるの」
「そうか」
「樹くん!」
あっさり認めないでよ。わたしたちは、ふたりを引きとめるんじゃないの?
「行かしてやってくれないか。この人を……」
かれの悲しみとあきらめと慈愛に満ちた目を見れば、なにもいえなくなる。だけど、綾人くんは行かせたくない。絶対に。
「綾人くん! どうして?」
「ごめんなさい」
あやまるくらいなら、最初から東京に行くなんて決めないでよ。
「あやまらないで」
「ごめんなさい」
また、あやまる! そんな言葉は聞きたくないの。やっぱりやめます、って言葉を聞きたいの。ここにいたいって……。わたしのそばにいてよ!
「きみは見きわめたい」
樹くんが静かにいった。
「すべてをきみ自身の目で」
そうなの? 綾人。
「ぼくがむこうで、なにを見ることになるのかわかりません。でも、すべてを受けいれようと思います。そのうえで決めたいんです」
綾人はわたしをじっと凝視《みつ》めた。
「MU《ムウ》として生きるか……。人としてもどってくるか……」
怒りに頬が熱くなる。
まだそんなことにこだわっているんだろうか。そんなことにこだわっていたら、わたしは東京であなたを見たときに、すべてをあきらめていたわ。MU《ムウ》フェイズ反応がなによ。いつわりの記憶がなによ。わたしは……。わたしは、あなたを……。
瞬間的に右手を動かしていた。
乾いた音が神殿のひろい空間に反響する。
紅くなった頬を押さえて茫然とする綾人。
この胸とおなじく痛むわたしの掌。
「あなたはもどってくるのよ、ここに。人だからとか、MU《ムウ》だからとかじゃない。あなたとして!」
止められないなら、せめてもどってきて。ここに。この島に。わたしのいる場所に。
「やっぱ遙さんは八雲さんとちがうんですね」
たたかれたのが、ちょっとうれしいような感じだ。
「どうしても?」
「ごめん」
「わかった。……信じる」
「裏切るかもしれないよ」
「それでも信じる。信じちゃいけない?」
こぼれるな、涙。いまはこぼれないで。せめてそれくらいの見栄ははらせてよ。
「樹さん」
綾人がかれに声をかけた。
「妹さんはかならず守ります。だから……遙さんをたのみます」
こぼれそう。そんなこといわれたら……。
胸の奥から涙がこぼれてしまいそう。
「妹をたのむ」
「行こう、オリン」
久遠がうながし、綾人が歩きだす。わたしのそばを通りすぎる。ふとかれが立ち止まり、静かにつぶやくようにいう。
「ありがとう」
「やめて……」
やめて。やめて。やめて……。それ以上いわれると、わたし、あなたを止めてしまいそう。泣きさけんで、わめいて、すがりついて、止めてしまいそう。
だから……。せめて、いまは手を握らせて。
すっとふたりの手が重なる。
だけど、綾人はゆっくりと手をほどいた。
そして、きちんと指をくみあわせて握りなおしてくれた。
FHスーツのグローブ越しに、かれの温かさがある。たしかにある。それを記憶に刻みつける。しっかりと刻みつける。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
余韻を残して、ゆっくりと手がはなれ、そして、綾人は行ってしまった。久遠とともに。ラーゼフォンの許へ。
ふりかえれない、わたし。
綾人にむけられた背中がざわつく。かれのわずかな気配を感じとろうとしている。だけど、それもすぐに消えてしまった。綾人はラーゼフォンに乗りこんだ。
「いいのかい?」
樹くんがやさしく声をかけてくれた。
「いいの」
「きみがそれでいいなら……。データは改竄して司令センターに送ってある。いま、ここでおこっていることはだれにもわからないよ。だからきみはここにこなかったんだ。それでいいね」
「うん」
「しかし、ほんとうにきみは変わらないなあ。あいかわらず不器用だ」
ほんと不器用だわ。ただ泣きつづけることしかできないなんて。
[#改ページ]
断章13 紫東 恵
あのバカ、どこほっつき歩いてんだろ。
もう夜が空に迫ってるってのに。
島じゅう探したってのに、どこにもいやしない。
いつもならかならずどっかにいるのに、いてほしいときにどこにもいないなんて。
このあたしが直接いってあげようってのにさ!
「あー、もうやめた! あんなバカ探すのやめた!」
ケータイであいつのを呼びだす。
鳴りつづける呼びだし音。
ようやく出たと思ったら、留守電でやんの。
「綾人? もう、どこにいんのよ!」
声がきつくなるのはしょうがない。
「わたしよ。……あのさ……あのね……」
メッセージをいれて、ケータイを切ったときだった。
もんのすごい音といっしょに、ネリヤ神殿の上で爆発がおきた。
そして、なにかが光の尾を引きながら、まだ少しだけ藍色を残した空に吸いこまれていく。
あれは……。
ラーゼフォン……。
綾人だ。
ぎらぎらと光りながら夜空に昇っていくラーゼフォン。
がらがらと音をたてて奈落に沈んでいくあたしの心。
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断章14 朝比奈浩子
「あ」
きゅうに胸に圧迫感を感じて、あたしは道端にうずくまった。
「どうしたんだよ」
守が心配そうにのぞきこむ。
「綾人くんが……」
「綾人が?」
「もどってくるかもしれない」
「なにいってんだよ」
「いま、急にそう思ったの」
「さっき食べたハンバーガーにあたったんじゃないのか」
「ちがう。そんなんじゃない……」
そういいながら、だけど、さっきは苦しいほどの確信だったのが、ものすごいスピードで薄れていく。
やっぱり、ちがったのかな。
立ちあがったときには、もう確信ではなくて、ふるえるほど小さな予感になってしまっていた。
ちらりと守を見ると、かれはすごくおっかない顔をしていた。
なんで、そんな顔するの?
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久遠を膝に乗せるようにしてラーゼフォンを操る。
これでいいんだ。
やらなきゃいけないことなんだ。
下を見ちゃダメだ。
ニライカナイを見ちゃダメだ。
そんなことしたら……涙がこぼれるかもしれないから。
さようなら、ニライカナイ。
さようなら、ぼくの現在《いま》。
さようなら、みんな。
さようなら……遙さん。
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あとがき   大野木寛
小説版にももちろん、その描写があるが、テレビ版で久遠が口ずさむ歌は「ダッタン人の踊り」である。
ぼくが好きなのはIZZYが歌う「ダッタン人の踊り」である。彼女の『アスコルダ』というアルバムに入っている「ソング・オブ・アワー・ホームランド」という曲が、それである。
IZZYの歌う「ダッタン人の踊り」は秀逸だ。彼女の甘く澄んだ声は、聴く者の官能を刺激する。
曲自体もすばらしいので、一度聴くとしばらく耳に残る。テレビをごらんになった方も、きっと耳に残ったことだろう。翌日とかに、気がつくと口ずさんでいたりしたのではないだろうか。
少なくともぼくはそうだ。
久遠が歌った翌日など、仕事中でも気がつくと口ずさんでいたりする(もちろん、あんなにうまくないし、根本的にオンチだから音程がずれているが)。ある日のこと、ふと友人の前でこれを口ずさんでしまった。すると友人が「それダッタン人の踊りだよなあ。こういう替え歌知ってるか?」といって、
だったんじ〜ん、おやじぃはぁだったんじ〜ん、息子ぉもぉだったんじ〜ん、やっぱぁり〜、だったんじん
という歌を聞かされた。
それからが地獄だった。旋律を思い出すたびに、頭の中でリフレインされるのは、IZZYのすばらしい歌声ではなく、友人のだみ声の「だったんじ〜ん……」という声なのである。あああああ。おれの美しい音楽を返してくれぇぇ。
ここまで読まれた方も、きっとそうなっているんじゃないだろうか? ほら、耳の奥から聞こえてくるだろう。
だったんじ〜ん、おやじぃはぁだったんじ〜ん、息子ぉもぉだったんじ〜ん、やっぱぁり〜、だったんじん……。
[#改ページ]
書名:ラーゼフォン 3
著者名:[著]大野木寛 [原作]BONES・出渕裕
初版発行:2002年10月31日
発行所:株式会社メディアファクトリー
住所:東京都中央区銀座8-4-17
電話:(0570)002-001/(03)5469-4760(編集)