ラーゼフォン 2
[著]大野木寛 [原作]BONES・出渕裕
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第一章 静かな家
第二章 集まる日
第三章 凍る聖夜
第四章 弐神譲二の報告
第五章 追憶の青きソナタ
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第一章 静かな家
1
カーテンからもれる陽の光に目をさます。天板の節目が見える。子どものころ、なにかの本で、天板の節目が奇妙な生き物に見えたというような文章を読んだことがある。そのときは、正直わからなかった。だって、うちの天板はのっぺりしたボードだったから。
いま、合板だろうけど節目のある天井を見あげながら、なるほどそういうこともあるかもしれないと思った。
布団の匂い。人の家の匂い。
だけど、どこかなつかしい。
「起きてるぅ?」
恵の声だ。がらっと乱暴に襖が開いた。
わったった! ちょ、ちょっと待ってよ。おまえ、男の朝の生理がわかってないよ。
だからって、あわてて押さえるわけにもいかない。おれはできるだけ不自然にならないように、それでいながら急いで起きあがった。
気づかれなかったよな。ちらりと見るけど、恵の表情は変わらない。
「朝ごはんできてるぞ」
「ん。あ、ああ」
「洗面所わかる?」
「うん」
「着がえ。これ」
たたまれた服が置かれる。なんかヘンな気分だ。恵に世話されるなんて。
そう思ったとたん、手をたたくパンという音がして、ハッとなる。
「急げよ。もう、みんな、とっくに起きてるんだから」
「わかったよ。わかったから、とっとと出てけ」
「だれがいるかよ。こんな臭い部屋」
勢いよく襖が閉められて、大きな音に顔をしかめる。
臭い部屋っていってたよな。
おれの匂いがもうしみついているんだろうか。まだ他人の部屋の匂いのような気がするけど、自分じゃわからない。
服を着がえはじめる。ぴったりのサイズだ。真新しい、着なれてない生地独特のごわごわした感じがする。ジーンズのチャックをあげるのに少し苦労する。
ほら、まだおれ若いから。
下におりていくと、あたたかな匂いがした。不思議にこの家のぬくもりとあっている。おれの家に毎朝ただよっていたのは冷めた朝食の匂いだ。
でも、ここは朝ご飯の匂いだ。それだけで、なんとなく幸せな気分になる。
ほんわかとした朝ご飯が食卓にならび、六道《りくどう》さんと恵がいる。
あれ? 遙さんは?
「お姉ちゃんはね、仕事の都合で早めに行ったの」
「そうなんだ。……いただきまーす」
おれは座るなり、うまそうな食事に箸をのばした。そのとたんに六道さんが咳ばらいをする。
え?
見ると恵も箸を手にしていない。
え? なんで?
すると、六道さんがおもむろに手をあわせ、「いただきます」と、まるで食事にお礼をいうように頭をさげた。恵も同じようにする。おれも見よう見まねで、手をあわせる。
へんなの。ちょっとしたカルチャーショックだよね。うちじゃあ、「いただきます」だけだったもんな。
「あとで本部に連れてってあげるから」
恵がおれの顔を見ながらいった。
「本部って?」
「TERRA《テラ》の」
「なんで」
だってそうだろ。なんでTERRAに行かなきゃならないんだよ。
「じゃあ、あんたこれからどうすんの?」
どうするの、って。そういわれても……。
「ラムネ買うお金もないくせにさ。ずーっとここで養われてるわけ?」
ちらりと六道さんを見るけど、おじさんはわれ関せずって顔でご飯を黙々と食べている。
「そういうつもりじゃないけど」
「なら、いいじゃない」
「でも、軍隊だろ」
「TERRAは軍隊じゃないよ」
どう見たって軍隊だろ。航空母艦持ってる民間企業なんてありかよ。
「東京がああなっちゃったあと、日本じゅうが混乱したの。その混乱をなんとかするために作られたのがTERRA。まあ、いまは日本政府がちゃんとあるけどね。れっきとした国連の組織なんだよ。こないだのだって、国連のPKO活動にTERRAが協力した形」
形はどうだかわかんないけど、軍隊みたいじゃないか。
「ぼく……ラーゼフォンのパイロットとして雇われるのかな」
「だよ。ほかになにがあんの」
「やだよ、ぼく」
イヤだ。おれは戦いたくない。東京から来るものと戦いたくなんかないよ。ついこないだまで、あっちの人間だったんだぜ。こっちに来たからって、はいそうですか、って戦えるかよ。
「なんで?」
無神経なやつだ。
「どうしても」
「そう……」
恵は、どうしたもんかなあ、というような顔をした。
「とにかく、本部に行こうよ」
こいつ、わかってんのか? イヤだっていってんだろ。
「だって、ここで日がな一日、おじさんの将棋の相手して、ボーッとしてるわけにもいかないでしょ。本部でなら、いろいろ相談に乗ってくれるよ」
たしかにボーッとしてるわけにもいかない。人間、働かざる者食うべからずだ。
「じゃあ、決まりね」
恵は、にっこり微笑んだ。微笑まれると、反論できない。
しかたないか……。
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断章1 金 胡月《キム ホタル》
さわやかな潮風が、胸元からただよっていた残り香を吹き消していく。胸の奥で一抹のさびしさが、くしゅりと音をたてた。そんなことは知らずに、静かにフェリーは根来《にらい》湾を横切っていく。ふと気がつくと、下のほうからにぎやかな声が聞こえてきた。
「おかしいよ」
「そんなことないよ」
いいあらそう若い男女の声だ。なんだろうと思って見おろすと、車載デッキにメグと神名くんがいるのが見えた。なんだ、あのふたりだったんだ。おもしろそうだから、デッキにおりてみよ。
「東京ジュピターの人って、みんなそうなの?」
と恵。
「同じ日本人だよ。そりゃ、そっちから見れば十五年も時代遅れかもしれないけどさ」
と神名くん。
「やっぱ、おかしいよ。エビフライに醤油なんて」
メグは、わたしが近づいたのも気づかずに、両手を腰にあてて、神名くんをにらみつけている。彼女らしい。
「おはよう、メグ」
わたしの顔を見たメグは、一瞬、不思議そうな顔をした。
「キム? なんで?」
かるがるしく声をかけたことをくやむ。朝からわたしがフェリーに乗っているなんて、不自然そのものだったわ。でも、動揺をさとられないほどには、わたしは大人だった。
「こっちにちょっと用があってね」
「ふーん」
「そっちこそ同伴出勤?」
「ちがうよー」
メグがあわてて否定する。素直でいいわね。自分のことを詮索されないためには、相手のことを話題にするものよ。
「聞いたよ。一緒に暮らしはじめたんだって?」
「ただのお隣さんだって」
「あ〜あ、わたしもカレシ欲しいな」
なんて、とぼけていってみたりする。
「だからちがうって」
メグはムキになって否定する。ほんと素直なんだから。わたしはこみあげてくる微笑みをこらえきれない。バカにされたと思われるとこまるので、視線を神名くんにむける。
「はじめまして……かな? わたし、キム・ホタル。恵の同僚。よろしくね」
司令センターで会ってるけど、ちらっとだから、はじめましてでいいわよね。
「どうも……。ぼくは……」
「知ってる。東京ジュピターから来た神名綾人くん。恵のお隣さんで、ちょっとかわいい顔してて、おまけにラーゼフォンのパイロット」
持ちあげたつもりなのに、神名くんはムッとしたような顔をした。
「パイロットなんかじゃない!」
きつい声がかえってくる。
「戦うなんてゴメンだ」
……なによ。MUと戦えるのに。その力があるのに。「戦うなんてゴメンだ」なんて。
どこをどうしたら、そんなことがいえるんだろ。いま、この地球に、かれの力を手に入れたいと心の底から願う人間が、どれほどいると思っているんだろ。あのMUに復讐できるなら、この命と引きかえにしたいと思う人間が。
わたしだって……。
あふれでそうな言葉を押さえこむために唇にかるく手をあてる。と、かすかな残り香が指輪の隙間から立ちのぼった。生きる営みの生々しい匂い。
吐き気がした。
死の記憶と生きる思いが、複雑に入りまじり、わけがわからなくなる。思わず、神名くんをにらみつけた。こんな思いをさせるかれが、ほんの少し嫌いになった。
2
「イヤです」
はっきりそういったときの八雲さんの顔は見物だった。おどろいたようなこまったような顔だ。
「なぜ?」
「なぜって……戦うのがイヤだからです」
「そうだよね」
意外なことに、八雲さんはうなずいた。
「だれだって戦うのはイヤだよ。だけどね、戦わなきゃならないこともあるだろ」
「でも、イヤです」
かれは救いをもとめるように隣の樹さんを見た。
「きみは……」
樹さんの冷めた視線が、おれにむけられる。
「なにができる?」
「なにって……」
「働かざる者食うべからず。だろ? きみにできることはなにかな」
「絵を描くこと」
「芸術家かい?」
ちがう。おれは首をふる。
「ではそれでお金はもらえないね。ほかにはなにか資格があるかい? もちろん、こちらのではなく、東京のでかまわないけど」
資格なんかない。絵が好きなただの高校生だ。おれは首をふる。
「なにもなしかい」
やさしげな言葉の裏のトゲが胸を刺す。
急に無力感に襲われる。さっきまでの威勢のよさはどこへやらだ。
ただの高校生だよ。ほんと、値段がつかないタダの高校生。なにもできない。絵が好きなだけで、べつに将来それで食べていこうっていう希望に胸をふくらませていたわけでもなく、漫然と日々を送っていた十七歳だ。
あはは。東京飛びだしたから高校生でさえなかったっけ、おれは。なにもかもはぎとられた自分が、これほど無価値な存在だとは思ってもいなかった。
「だったら、どうだろう」
樹さんの言葉が、からみつくように耳に響く。
「戦わなくていい。ラーゼフォンのパイロットとして、データ収集に協力してくれないだろうか。ラーゼフォンのシステム解析は必要なことなんだよ。唯一MUのドーレムを破壊できる力を持っているんだからね。そのシステムを解析し、原理を解明できれば、ラーゼフォンに頼らなくても、われわれはドーレムと対抗できる。そうすれば、きみは戦わなくてもすむようになるよ、いずれね」
戦わなくていいなら……。思わず、うなずいてしまった。
「決まりだね」
樹さんは八雲さんに笑みをみせた。
「では、神名綾人くんをTERRAの特別職員として採用します」
八雲さんの口調はどこかホッとしたような感じだった。そりゃそうだよね。おれをいいなりにできたんだから。
「わたしはまだ研修生だっていうのに……」
恵がうしろでブツブツつぶやいた。それが聞こえたのだろう、八雲さんが彼女に目をむける。
「恵ちゃん。しょうがないよ、研究部に研修生制度がないんだから」
そういわれてもあまり納得していないみたいだ。早く正式職員になりたいっていうより、早くだれかに認めてもらいたいっていう顔をしていた。
「おめでとう!」
いきなり背中をたたかれる。ふりかえると、レゲエあんちゃんとむっつりあんちゃんがいた。そういえば、このふたりはまだ名前も知らない。
「おれはヨモダ洋平。ヨーヘーさんでもいいよ」
レゲエあんちゃんがそういって手をさしだしてきた。意外と柔らかい手だった。
「ヨモダって……どういう字を書くんですか」
突然、ヨモダさんは笑いだした。ずいぶんと大げさな人だ。
「そりゃそうだよな。おれだって親に教えてもらわなきゃ、読めなかったと思うよ。ヨモダってこう書くのさ」
ヨモダさんはまだくすくすと笑いながら、紙に書いてくれた。
「四方田《よもだ》」? たしかに教えてもらわなきゃ、そう読めない。訊いたら、むかしは「四方」って書いて「よも」って読んだらしい。
今度はむっつりあんちゃんが手をさしだしてきた。
「ぼくは五味勝《ごみまさる》。五つの味と書いて五味。ゴミ箱のゴミじゃない」
まじめな人らしいや。わざわざゴミじゃないって断らなくてもいいだろうに。
四方田だの、五味だの、六道だの、この島にはへんな名前の人しかいないんだろうか。あ、おれも神名だから人のことはいえないか。
そう思ったら、笑いがこみあげてきた。どうしたの? と、いいたげな視線がおれに集中する。
「なんでもないんです」
そういいながら、くすくす笑う。最初の意気ごみとはちがうけど、なんとなくうまくやっていけそうな気がした。
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断章2 功刀 仁
いっせいにたかれたフラッシュの残像が、視界をせまくする。いくつものレンズがわたしたちにむけられている。記者会見というやつは、何度経験してもなれるものではない。隣の亘理《わたり》長官のようにはどっしりとかまえてはいられない。
「国連の中では、TERRA解体という意見も出ているようですが」
さっそくの質問だ。が、当然予想された質問だった。亘理長官もかるくいなすように答える。
「そうした意見も出るくらいのほうが、組織としては健全でしょう」
「調査段階で、いっさい不手際はなかったとお考えですか」
「調査活動には細心の注意をはらっておりますが、完璧をもとめることは困難です」
「今回、十数年ぶりにドーレムが東京ジュピターの外に出てきたのですが、TERRAの作戦と関連があるのではないのですか?」
質問が核心に近づいていく。
「われわれの活動とドーレム出現とのあいだに、直接の因果関係があるかどうか現在、鋭意調査中です」
亘理長官がいいはなったとたん、会場はざわめいた。どよめいたといってもいい。
「しかしですねえ……」
「あんたらTERRAが動かなきゃ……」
「人間が手を出してはいけないものがあるんじゃないか……」
「この責任は……」
記者たちのさまざまな声がひとつの塊となって雛壇のわたしたちに押しよせてくる。TERRAはよけいな手出しをするな。手を出さなければ、MUは永遠に閉じこもっていてくれる。と考える連中が多いことはたしかだ。だが、かれらはなにも知らないのだ。人類に残された時間があとわずかだという事実を。
そして、わたしたちはそれをかれらに教えてやることはできない。なぜなら……。
「それにしてもみょうな話ですなあ」
とぼけたような、それでいながらよく通る声がした。見るとひとりの男が立ちあがっている。どこにでもいそうな男だ。人ごみでスレちがえば、十秒後には忘れてしまうタイプの顔だ。
「天戸《あまと》通信の弐神《ふたがみ》です。いや、なにね、先日、国連の輸送艦が根来《にらい》島に行ってるんですよ。まあ、ニライカナイといったほうが通りがいいですけどね。……ところが、もどってきた輸送艦の中身は出たときと同じ空っぽときた」
そういって、探るような目をむけてくる。ユリシーズによるムーリアン・アーティフィクト搬送計画は国連でも最極秘事項だ。その情報を握っているとは、この弐神という男は、人畜無害の顔をして一筋縄ではいかないようだ。
「国連の事情だ。われわれに訊かれてもこまる」
わたしの答えが聞こえなかったふりをして、弐神は言葉をつづけた。
「国連はなにを受け取りにいったんでしょうなあ。でっかい輸送艦まで準備して、受け取ろうとして受け取れなかったもの……」
人のよさそうな目が一瞬だけ、ぎらりと光った。
「ズバリ! TERRAの秘密兵器!」
ダメだ。まだわたしは人間ができていない。秘密兵器などという使い古された陳腐な言葉が出てくるとは思ってもいなかったので、頬がわずかだが動いてしまった。弐神は目ざとくそれを見つけて、さらに切りこもうとしてくる。が、亘理長官がとぼけた口調で、さらりとかわした。
「ほう、初耳ですな。どうやらわたしにも秘密兵器があるらしい。それは心強い」
陳腐な言葉であるだけに、それは記者たちの失笑を買った。
「さて、秘密兵器のことをこれ以上さぐられると困るので、記者会見はこれくらいにしておきましょう。では」
長官が立ちあがった。
「待ってください」
「まだ責任の所在があきらかになっていません」
「国民の知る権利が……」
記者たちのたわごとを無視して、わたしたちは雛壇からおりた。ちらりと会場に目をやると、くちぐちに騒いでいる記者たちの中でただひとり、弐神だけは鋭い目でこちらを見ていた。
「あの男、危険です」
だれもいないところで長官にささやく。
「弐神くんかね?」
「お知り合いでしたか」
これは意外だった。
「いや。しかし、くんづけしたくなるような親しみがあるな、かれは」
「そうですが……」
「間合いをつめる風でもないのに、こちらの懐にすっと入りこんでくる。いやはや、なかなかの難物だな」
排除もむずかしいということか。天戸通信だけプレスからはずすなどといえば、ほかのマスコミも騒ぎたてる。
「まあ難物だが、使いようによってはこちらの利にもなるだろう」
危険な選択ではないだろうか。あれは諸刃の剣だ。敵を傷つけることもできるが、こちらも傷つく可能性がある。亘理長官ならば使いこなすこともできようが。
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3
わたされたFHスーツとかいうのは、ちょうど体にぴったりだった。伸縮性の素材で動きも楽だ。グローブとブーツまでついている。
素直にカッコいいと思う。だけど、更衣室の鏡に映ったおれの姿は、なんとなくヘンだった。カッコいいけど、こんな服、ふだん着ることなんか絶対ないもんな。ちょっとポーズをつけると、鏡の自分の姿に笑ってしまう。
「終わった?」
カーテンの外から七森さんが声をかけてきた。
「え、ええ」
自分の姿で遊んでいたところを見とがめられたようで、ちょっと恥ずかしい。
「開けるわよ」
そういって、七森さんが入ってきた。おれを見て、にっこりと微笑む。
「にあってるわ」
「そ、そうですか?」
「でも、首のホックもちゃんと止めてね」
「ちょっときつくて……」
おれはむりやり首のホックを止めた。
「あとでサイズは調節するわ。きょうはこれでがまんしてね」
「はい」
「それからFHスーツを着たら、必ずスイッチを入れてね。こちらでモニターできなくなるから」
「これでしたっけ」
腕のバンドのような部分についているスイッチをオンに入れる。
「そう。それでいいわ。ラーゼフォンの中は、わたしたちがうかがい知れない世界なの。外の世界とつながるのは、唯一その服だけなんだから」
そっか。そうだよな。ラーゼフォンの中には、おれしか入れないんだ。
「如月博士がお待ちよ」
更衣室から出ると、樹さんがおれを上から下までながめまわした。
「にあってるじゃないか」
そうまでにこやかにいわれると、恥ずかしくなってくるじゃないか。
「FHスーツは外との音声通信システムがある。首のところがそうだ。ただし勝手に切ることはできない。ラーゼフォンの中でぼくの悪口をいったら、筒抜けだから、そのつもりで。あと、きみの生体反応をモニタリングするシステムがついている。もし異常が発生したら、こちらでもすぐにわかる」
「異常が発生って。なにかあったら、どうするんです?」
樹さんはこまったように肩をすくめた。
「ぼくたちには手出しできない。残念だけどね」
ち、ちょいまち。それってつまり、ラーゼフォンの中でおれが重傷を負ったら、だれも助けてくれないってこと?
「でも、ここでのテストはそんな危険なものじゃない。絶対にきみは安全だよ」
「わかりました」
おれの声には、不安の響きがあったことはまちがいない。七森さんが口をはさんできた。
「だいじょうぶだって。如月博士を信頼しなさいな」
「さて、では前進調査室をネリヤ結界の最前線まで移動させるよ」
ごくん――
クレーンが動きだすような音とともに、おれたちがいる小さな部屋のような場所が動きだした。隔壁のような大きなドアが開き、そのむこうにネリヤ神殿が広がる。
ほぼ円筒形のドーム型で、壁面には古代のレリーフが彫りこまれている。床はねっとりとした水が波うっていて、そこに十二本の六角形の柱がそそり立っている。柱の上には円形の空中回廊みたいな石の列がある。あ、あれ。イギリスのストーン・ヘンジみたいなもんを想像してくれればいい。そしてそのストーン・ヘンジの中に水の柱がそそり立っている。ほんと柱としかいいようがない。ピラミッドの上部に開いた穴から床までつづく円筒形の水。永遠に落ちつづける滝だ。それも上にむかって落ちつづけている。
水の柱の中にはラーゼフォンがいる。
頭の羽根を閉じて顔をおおい、手は胸のところで交差させている。まるで教科書で見たエジプトのミイラみたいだ。その頭越しに、水面にゆがんだ青空が見える。このあいだは、ここから入ってきたらしい。ぜんぜんおぼえてないや。
空中回廊みたいな石の列のところには、調査用のキャットウォークがある。それ以上内側に入りこむと、人間は“ネリヤの結界”の力によって精神の安定を保つことができなくなるって話だ。さらに滝の上のほうには、ワイヤーで支えられたチタニウム製の輪が滝を取り囲むように取りつけられていて、センサーが滝の流れる速度やなんかをつねに監視しているらしい。
七森さんの話だと、滝の中心まではセンサーはとどかないんだってさ。たとえチタニウムだろうと合成ダイアモンドなんだろうと、人類が知っているものは、原子レベルにまで分解されてしまうらしい。おっかないねえ。
だけど、そんな中でもラーゼフォンは平気で立っている。
前進調査室とやらは、水の柱を囲む通路の前で止まった。目の前に、そろばん玉みたいな“欠けるものなきネリヤ”とかいうやつが浮いている。TERRA本部にあったオブジェとよく似てる。あ、そうか。これを真似して、あそこにオブジェを置いたんだな。
「さて、ラーゼフォンに乗ってもらおうか」
は? 乗るって……。
「で、でも、どうやって乗っていいのかわかりません」
樹さんと七森さんは顔を見あわせた。そんな顔されたって、しょうがない。
「だって、そうでしょ。いつだって、気がつくとラーゼフォンに乗ってたんです。だから、どうやって乗ったらいいのか、ちっともわからない」
「心配することはないよ」
樹さんが微笑んだ。
「きみはラーゼフォンに選ばれた人間なんだ。きみがラーゼフォンを受け入れれば、必ず受け入れられる。自分を信じたまえ」
信じたまえっていわれてもなあ……。うながされるまま、おれはしかたなく通路に出て、ラーゼフォンを見あげた。
白く冷たい金属の巨人がいる。三浦海岸でも大きいと思ったけど、あのときはよつんばいの格好だった。いまは直立している。あらためて大きいと思った。
おれ、ほんとうにあれを操縦したのかな……。ほんとうに操縦できるのかな。受け入れさえすれば。樹さんにいわれたとおり、目をつぶり、ラーゼフォンに乗っていたときのことをできるだけ思いだしてみて、そのときの気分を思い起こしてみる。
「もっと呼吸を深く。肚からするように」
腹ねえ、腹。深く息を吸う。大きく吐く。深く息を吸う。大きく吐く。
……いくらやってもダメだった。
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断章3 八雲総一
「だったら、収容所にでも送ってしまえ」
一色監察官が冷たくいいはなった言葉が、ごろりと生のまま三人のあいだに転がった。
「それともなにかね、TERRAは無能なムーリアンを飼っておける酔狂なボランティア団体だというのかい」
きつい言い方だ。ソファーに深く腰かけた監察官は、その言葉と同じぐらい冷たい目で、立っている如月博士を見た。
「かれはムーリアンではありません」
「さりとて人間でもない」
「すぐに結果が出ないからといって、廃棄処分にしてしまうのはいかがなものかと思いますが」
「そんなことをするのは、金の卵を産むガチョウを殺したばあさんと同じだといいたいのか。だがな、ガチョウは金の卵を産んだ。神名はなにを産んだというのだ」
「なにも。……では、ぼくたちがなにを産んだというのですか」
監察官はあいかわらず口元を冷たくゆがめたままだったが、その手は白くなるほど強く握りしめられていた。冷たい言葉の応酬だけど、このふたりの会話のあいだには入りこめないほどの親密さを感じる。如月博士はなにもいわないけど、絶対にふたりのあいだにはなにかがあったにちがいない。
「結果を待てと」
「ええ」
「どれくらい待てばいいんだ」
「あなたの忍耐がつづくかぎり」
「わたしの忍耐はそろそろ限界だが」
「限界に挑戦するのが人間でしょ」
そろそろぼくのほうが限界だった。
「あの、お話し中すみませんが」
四つの冷たい瞳がむけられる。
「功刀司令がいない状況で、このような重大な決定を、われわれだけでくだすのは危険だと思います」
「きみは副司令だ。功刀司令が不在のときは、きみに全権が与えられている」
つまりその決定ができない者に全権を与えたということは、司令の責任問題でもあるというわけか。頭いいね、さすが監察官だ。ここは下手に出ることにしよう。
「わかりました。神名綾人の身柄を国連収容所に移管する手続きをとりましょう」
こっちが素直にそういうとは思っていなかったらしく、ちょっとおどろいたような顔をしている。
「監察官もサインをしてくださいますよね」
かれは露骨にイヤそうな顔をした。口ではいろいろいっているが、案の定、責任をとるのは嫌いらしい。
「自分でいうのもなんですが、わたしはこのように未熟者です。ですから、副司令とはいえ、組織内部でも軽んじられる傾向にあります。監察官のサインをいただければ円滑に手続きが進むと思うのですが」
「それは……」
いいよどんでいる監察官に、如月博士がまるでとりいるようなとどめの一言をいってくれた。
「かれはまだ若いんです。できれば、功刀司令がおもどりになるまで猶予をいただきたいのですが」
「わかった。そうしよう」
苦渋の選択をするような声だったけど、その実、ぼくと如月博士にやりこめられたことに腹をたてていることはまちがいなかった。
「司令がもどってくるまでに神名がラーゼフォンに乗れなかった場合は、収容所に移す。それでいいな」
「かまいません」
という如月博士の口元にはわずかに笑みが浮かんでいた。
「では話は以上だ」
敗北宣言のように切りあげると、監察官はさっさと立ちあがった。かれが出ていったあとは、なんとなくホッとした空気がただよう。
「座りましょう」
如月博士にソファーを勧め、ぼくは司令官の椅子に座る。
「なかなかにあってるよ、それ」
そういって如月博士は司令官の椅子を目で示した。
「からかわないでくださいよ」
「きみは全権を委任された副司令だろ」
「やっぱりからかってる」
如月博士は小さく笑った。
「まだ座りなれていないし、それにぼくはミチルの世話係として、ここにいるようなもんですから」
同意するように机のそばに置いてある鳥籠の中から小鳥の声がした。
「功刀司令はきみのことを高く評価している。そこに座るのも当然だと思うけどね」
「司令の期待に精いっぱい応えてるつもりですけど、実力が……。さっきの監察官のサインだって、実際問題ぼくだけの許可で手続きがすんなりいくかどうかわかりませんよ」
「やってみなきゃ、わからないだろ」
「やってみろっていうんですか?」
「きみの責任でね」
ふたりの笑い声が部屋にひろがった。空気がなごんできたけど、ぼくは訊かなければならない。副司令としての義務だ。
「綾人くんは、ほんとうのところどうなんです」
「そうだねえ……」
如月博士はいいよどみ、一拍の間を置いた。
「ラーゼフォンに対して心を開いていないっていったらいいのかな。なぜ自分が乗らなければならないのか、そこのところがわかってないようだね。実際乗れたとしても、今度は戦えるかどうかという問題も出てくるだろう」
「戦ってもらわないと……。われわれにドーレムを破壊する力はないんですよ」
「綾人くんが、そこのところを理解してくれるといいんだけどね」
「パンドラの箱は開けられてしまったんです。災厄が世界じゅうにばらまかれようとしている。なのに、綾人くんが戦ってくれなきゃ」
「ラーゼフォンはそもそも戦うためのものじゃない」
「だとしても、ほかにMUに対抗する力がないんですよ」
如月博士の口から、大きな吐息がもれた。
「いずれにしろ、まず綾人くんがラーゼフォンに乗れるかどうか、いや、乗る気になってくれるかどうかだ」
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4
家に帰る。自分の家ではないけど、六道さんちは「家」としかいいようがない。
「お帰り」
「ただいま」
という会話がごく普通に出てくる雰囲気がある。
「恵は?」
「恵は? とはなんだね」
六道さんが笑いながらとがめる。
「恵はもどっていませんか? というのが、正しいだろ」
そうだよね。だけど、なんか軽くいってしまいたくなる雰囲気がこの家にはあるんだ。もちろん、ちゃんといいなおした。
「恵はまだ帰ってない。遙もきょうは遅くなるそうだ。……はは。細かいことまで気にしすぎるじいさんだと思ってるな」
「いえ、そんな……」
「そういう細かいことを大事にしなければいけないんだよ」
「六道さんは……」
「おじさんでいいといってるだろ」
「おじさんは国語の先生だったんですか?」
「先生というのは半分当たっているが、国語じゃない。……まあ、入りなさい。コーヒーでも入れよう」
サイフォンがコポコポと優しい音をたてはじめる。
おじさんの部屋にコーヒーの香りが広がっていく。いい匂いだ。東京で飲むことができたのは、高級なものでも冷凍豆だったから、匂いの深さがちがう。こっちのは香りの奥にさらに甘いような酸っぱいような匂いが隠れている。
ふとテレビン油の匂い、そして熊ちゃんの笑顔がよみがえってきた。考えてみれば、六道さんとどっこいどっこいの歳のはずだ。熊ちゃんは、いまでも学校の美術室でコーヒーをいれているだろうか。このコーヒー分けてあげたいな。
朝比奈や守はどうしてるだろう。
「どうしたね」
六道さんの声に、おれの夢想は乱された。
「あ、いえ、べつに」
「東京のことを思いだしていたのかい」
「なんでわかったんですか?」
「ダテに生きとらんからな」
おじさんは、笑みをもらした。
「さ、どうぞ」
厚手の湯呑みでコーヒーが出された。だけど、まったく違和感がない。どっしりとざらついた湯呑みのほうが、気取ったカップで出されるよりいいな、と思えてくる。ミルクと砂糖を入れて、湯呑みで手をあたためながら、コーヒーの香りを楽しむ。
おじさんは無言でブラックを飲みはじめた。
静かな香りだけが広がっていく。
なぜ、この家が好きなのかわかった。静かだからだ。
東京の家も静かだった。
だけど、それはだれもいないうそ寒い静けさだった。学校から帰るたびに胸のどこかが痛む静けさだった。でも、ここには人がいる静けさが横たわっている。おれはそれにもたれかかるように、コーヒーを飲んだ。豊かな時間を飲んだ。東京は静かだといっても、いつでもなにかしらの音がしていた。車の音、工事の音、テレビの音。ここにはそうしたものがいっさいない。
豊かだが圧倒的な静けさだ。
「これ、イロカタイですか?」
静けさに負けたおれが、それを破った。
「いや、キリマンジャロだよ」
キリマンジャロなら、東京でも飲んだことあるぞ。
「キリマンジャロって、もっと酸っぱいでしょ」
「酸っぱい、か」
六道さんは笑った。
「コーヒーの場合は、酸味が強いといったほうがいいな。キリマンジャロをな、酸味が飛ぶくらいローストしたんだよ。なかなかいけるだろ」
へえ、そういう飲み方もあるんだ。なんかコーヒーのおかげで、六道さんとの距離がちぢまったのか、悩んでいることがするりと口からこぼれ出た。
「ラーゼフォンって知ってます?」
六道さんが、ん? と眉をあげる。
「イシュトリ・イン・ヨリョトル……」
「え?」
「いや、なんでもない。……あのロボットだろ。ネリヤ神殿に入っていくのを見たよ」
「あれ、ぼくが操縦してたんです」
「そうか」
おじさんはやけにあっさりとうなずいた。もうちょっとおどろいてくれることを期待してたのに。
「でも、乗れなくなったんです」
「そうか」
「前は気づかないうちに乗ってたんです。だけど、乗ろうと思ったら乗れない……」
「そうか」
六道さんはコーヒーを一口すすった。
「将棋はするかね」
いきなり将棋だ。
「いえ」
「そうか。……まあいい。だったら聞き流してくれていいんだが、将棋では、実力の差というのは如実にわかる。相手が上ならば、ほぼまちがいなく、こちらが駒を進める間もあらばこそ、いつのまにかむこうの駒が陣地に入りこんでいて、防戦に追われるばかりだ」
なにいいだすんだろう。さっぱりわかんない。
「こっちが攻めこもうといくら気負っても、攻め入ることはできない。ところが、するするっと敵陣に入りこめることが、たまにある。そういうときは、なにも気負っていないときだ。勝ってやろう、攻めてやろうと思っていないときだ。ラーゼフォンに乗るってのも、そういうもんじゃないのかね」
「そういうもんでしょうか」
「そういうもんだろ」
おじさんはまたコーヒーをすすった。
わかったようなわからないような話だ。乗ろうって思っていると乗れない。だったら、どうやって乗ったらいいんだろう。
「しかし、きみもこれでこの島にいられるな」
「そうですね」
「よかった。もし、きみが追い出されたりしたら、どうしようかと思っていたよ。もし、どうしてもラーゼフォンに乗れないようだったら、わたしに相談してくれ。なんとかしよう。まあ、隠居したじいさんだから、できることは限られてるが」
なんか胸があったかくなった。心から心配してくれている人がここにいる。そう思うだけで、うれしかった。
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断章4 紫東 遙
やれやれ。
仕事で疲れきった体に家までの坂道はきつい。時計を見ると十一時をまわっている。もうだれも起きてないだろうな。と、ようやく見えた家の二階に電気がついている。綾人くんが起きているんだ。それだけで自分の足がちょっと軽くなるなんて、現金なものだわ。
家に帰りつくなり、そっと階段をあがり、襖の前で声をかける。
「起きてる?」
「ええ」
「ちょっといい?」
「どうぞ」
襖を開けると、ふわりと匂いがした。かすかだが、いままで家にただよったことのないジャコウに似た若い匂いだ。綾人くんは机にむかってなにかをしていたらしい。わたしが入ってきたのであわてて隠したのだろう、ノートの下から描きかけの絵がちらりと見えた。
「眠れないの?」
「ええ、まあ」
こまったような表情を浮かべている。
「遙さんも聞いてるでしょ……」
「うん。……でも、気にしないで。ラーゼフォンに乗れなかったからって、綾人くんは綾人くんでしょ」
そういうと、かれは微笑みながらピースサインを出してきた。意味がわからず、わたしもピースを返す。そしたら思いっきり笑われた。
「ちがいますよ。ピースじゃなくて、ふたりめってことですよ」
「なにが、ふたりめなの」
「乗れなくても許してくれる人」
そういうことか。
「もうひとりは想像つくわ。おじさんでしょ」
綾人くんはうなずいた。やっぱり。おじさんらしいわ。
「絵、描いてたの?」
「ええ、まあ」
恥ずかしそうに、ちらりと見えていた描きかけの絵をさらにノートの下にしまいこむ。
「わたしもね、むかし、絵を描こうとしたことあるのよ」
「遙さんの描いた絵って見てみたいな」
「残念でした。こっちに引っ越してきたとき、全部捨てちゃった」
青春の苦い想い出だ。
「ほんと自分でいうのもなんだけど、へただったし、描こうって動機が不純だったから。好きだった人がね、美術部だったからって、ちょっとやってみようかなあって。……その人に認めてもらいたかっただけ。ほんと幼いわよね」
ちらりと綾人くんを見る。初めて聞いたというようなかれの表情が、わたしの胸を少し痛める。
「認めてもらいたかった……」
わたしの言葉をくりかえすと、かれはしばらく考えるように間をおいた。
「ぼくもそうしてみようかな」
「え?」
「遙さんみたいにですよ。みんなに認めてもらうために、乗ってみようかな。そうすれば、いずれパイロットじゃないぼくのこともわかってくれるでしょ?」
あのときのわたしもそうだった。あの人に認めてもらいたかったから。それから、わたしという人間を知ってもらいたかった。
だから、かれのいうことはわかる。だけど、心のどこかでは自分がイヤになっていた。その気はなかったのに、まるでかれを誘導するみたいに話してしまったことを後悔した。
「でも、ほんと、あなたが乗れなかったとしても、わたしはパイロットじゃないあなたを認めているわよ」
「ありがとう。そういってもらって、うれしいです」
綾人くんはにっこりと微笑んだ。心からの笑みが、ほんの少し胸をあたたかくしてくれた。
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5
またラーゼフォンの前に立つ。
真白き巨人。羽根を閉じ、その顔を人の目から隠し、水の柱の中で死んだように動かない。
これに乗るんだ。
みんなに認めてもらうために。
だけど、乗れなかったらどうしよう。いや、そんなことは考えるな。おじさんがいってたじゃないか。気負っちゃいけないって。
目を閉じて、深呼吸をくりかえす。心をおちつけて、自分がラーゼフォンに乗ったときのことをできるだけ思いだしてみる。あのとき、なにがおこったんだ。なにがあったんだ。
だれかがいたような気がする。
「もっと息を深くして」
樹さんの言葉どおり、静かに深く息をととのえる。
ふっと脳裏に美嶋のイメージが浮かんできた。黄色い服を着て微笑む美嶋。そう、彼女がいたんだ。なぜかはわからないけど、いたという確信だけはある。彼女の手を握ったはずだ。
美嶋のイメージを心に描きながら、虚空にむかって手をのばす。イメージの中の美嶋が微笑んで、こっちに手をのばしてきた。そして、手がふれあう。
虚空にむかってのばしていたはずの指先に、やわらかな少女のそれが触れた。
そう思ったときには、すでにラーゼフォンの中にいた。
「やったじゃない」
どこからともなく七森さんの声が聞こえる。あ、そうか。FHスーツに音声システムがついてるんだっけ。
あらためて操縦席を見まわした。操縦席がある空間はどれくらい広いのかわからない。こんな広いのがラーゼフォンに入るはずがないんだけど、入っている。空間が折りたたまれてるっていったら正しいのかな。
そこに水面がある。
深さがどれくらいあるのかわからない。操縦席は水面からつきだした感じなんだけど、身をのりだしても根元は見通せない。水は澄みきっているんだけど、光が届かないんだ。こんど小銭持ちこんで投げこんでみようかな。ほら、日本人てさ、水があると小銭投げこむじゃない。果てはディズニーランドのビッグ・サンダー・マウンテンの給水樋まで。
そんなことはどうでもいいよね。
操縦席はどんな椅子より座りやすい。おれの体にすごくフィットしてる。特注で作ったみたいだ。そして、前方につきだした、操縦桿っていったらいいのかな、そんな感じのもの。どうやって動かすかは訊かないでくれ。どうやって動かしてるのか、自分でもよくわからない。ただ、わかるんだ。自転車を動かす感覚に近いかな。あれもさ、右に倒れそうだから、左にハンドルを切ってとかいちいち考えないじゃない。なにも考えずに、それをやってる。曲がるときだって、いちいちこのタイミングでハンドルを切ってなんて考えないで、体が勝手に反応してる。
そういうこと。
なぜ知ってるのかは、わからない。ほんとなぜなんだろう。
そんなことを考えていたら、樹さんの声が聞こえてきた。
「どうだい、綾人くん、苦しくないかい。少しでも異常を感じたら、すぐにいってくれよ。実戦のことを考えると基準は厳しいぐらいがちょうどいい」
実戦……ひっかかるよね。
「わかってるよ」
樹さんが言葉をつづけた。
「あくまでもテストに協力するだけ。戦うのはゴメン……だろ」
「そうですね」
「ぼくも平和主義者だから、わかるよ。さて、テストに入ろうか」
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断章5 如月 樹
「ほんとうのことを知ったら、かれ怒るでしょうね」
七森くんはのんびりと頬杖をついている。
「あれがモルモットにつけられた電極だって知らないんでしょ」
モルモットの電極はひどいな。FHスーツは各種データをこちらに送ってくれるだけだ。
「ウソはついてないよ。訊かないから話さないだけさ」
「じゃあ、わたしが教えてもいいのね」
七森くんがいたずらっぽくたずねてきた。は。そんなことぐらいで、ぼくをこまらせられるつもりだろうか。
「きみはやらないよ」
「どうして?」
「真実と幸せは意外に遠いものさ。それがわかるくらいには大人でしょ」
「いじわるね」
そう、ぼくはいじわるだ。七森くんがなぜそんなこというのかわかっていながら、彼女を利用している。それができるくらいには、大人だから。
綾人のことだって……。
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断章6 金 胡月
タウンライナーの中で綾人くんに会った。神至市に買い物にいく途中らしい。
「ラーゼフォンに乗ったんですって?」
「ええ」
これで少しはかれも心を入れかえただろう。
「じゃあ、いつドーレムが出てきても安心ね」
「どうしてですか? ぼくは戦いませんよ」
胸の中が苦くしこっていく。この期におよんでも、まだこんなことをいっているのだろうか。
「なぜ?」
「なぜって、イヤだからです」
「傲慢ね」
吐き捨てるように言葉をたたきつけると、かれはびっくりしたような顔をした。
「できる力があるのに、どうしてしようとしないの。餓えた子どもを前にした金持ちが、寄附をしぶるようなもんだわ」
「むちゃくちゃな理屈だ」
「そうよ。むちゃくちゃよ」
もう歯止めがきかない。いままで押しこめていた想いが爆発してしまった。
「だけど、同じこと。わからないあなたがおかしいのよ。どうして戦わないの」
「イヤだから。嫌いだから」
「好きや嫌いで物事を片づけるなんて、子どもだわ」
「子どもっぽくてもいいんです!」
とうとうかれは開き直った。
「戦うなんて絶対イヤだ。平和主義者だから」
「平和主義者? 悪くいうと負け犬っていうのよ。わたしがあなただったら、絶対に戦うわ。たとえ最愛の人が止めたとしてもね」
きつい言葉が角ばって相手の胸に刺さっていく。
かまわない。傷つけたって。嫌われたって。わたしのような想いをしている人間が、何千万、いえ、何億人もいるんだってことを少しは知ったほうがいいのよ。
「なんでそこまで戦わせようとするんです」
だんだん胸のしこりが大きくなっていく。どこまでこの子はおぼっちゃんなんだろう。 本気で怒りをぶつけそうになったとき、タウンライナーが駅についた。自分のおりる駅じゃなかったけど、飛びおりる。さもないと、怒りにかられて、かれを殴ってしまいそうだった。
東京の人間はみんな、ああなんだろうか。あのMU大戦が、わたしたち人類にどれほどのトラウマを背負わせたかまったく理解できないのだろうか。如月博士のいうように記憶を改変されているからだろうか。
「ただいま」
返事はかえってこないことはわかっているが、なぜか部屋にもどるとかならずいっている。崔姉さんがいるかどうか確かめるときのクセがまだぬけない。
親戚の中でただひとり、やさしかった崔姉さん……。姉さんが家にいるかどうかは、わたしにとって大事な問題だった。
シャワーを浴びる。
熱い湯を浴びているうちに、胸の奥の硬いしこりも少し溶けだしていく。
少しいいすぎたかもしれない。かれには、「子どもね」なんていったけど、自分がやったこともずいぶん子どもっぽい。
シャワーを浴び終わってから、バスローブをはおる。そして、きのうから乱れていないベッドに腰をおろし、サイドチェストにしまってある箱を取り出す。
木づくりのオルゴール。
蓋を開けると静かに曲がはじまる。あの日から、いろいろなものがなくなった。大事にしていた人形も、本も、アルバムもなにもかもなくなってしまった。ただ、どんなことがあっても、このオルゴールだけは手放さなかった。
蓋の内側に貼ってある両親の写真。
写真の中の両親はいつも、わたしに笑いかけてくれる。その下に書かれた母の手書きのハングル。きれいな女性らしい字だ。
「おたんじょうびおめでとう。おみやげたくさん持って帰るから、いい子にしててね」
わたしはいい子にしていた。
それからずっと。
だけど、母はもどってこなかった。
おかあさんはウソつきだった……。
オルゴールを抱きしめる手に、さびしい涙が落ちた。
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6
帰ってから恵に訊いてみた。なんでキムさんは、あんなこといったのかな。
「しかたないかもね」
恵はポッキーを口にくわえて寝ころがっている。
「しかたない?」
「うん。MU大戦ってさあ、すごいことだったんだよ」
「二十億ぐらい死んだんだろ」
「簡単にいうけどさ、それってつまり、そのころ生きていた人たちは親か子どもか友だちを必ずなくしてるってことだよ。わかる?」
突然、ただの数字が重い意味を持ってくる。
「まあ、あたしも軽くいっちゃうけどさ。おぼえてない世代の人間だから。でも、おぼえてる人たちにとっては、すっごいことなんだ。いまだに暗闇じゃ眠れないって人もたくさんいるし、夢にうなされる人もいっぱいいるよ。戦後増えたのは孤児と精神科医だって話もあるぐらいだしさ。日本だけでも、まだいくつも大戦跡地が残ってるんだ。MU大戦祈念館とか合同慰霊碑なんて山ほどある。まだみんな、傷痕から完全に立ち直ってないんだよ。キムはおぼえてる世代の人間だし。それに彼女、両親をなくしてるの」
「そうだったんだ」
「あたしもくわしくは知らないけどね、おとうさんとおかあさんは彼女を親戚にあずけて、オーストラリアかどっかに出かけたらしいの。たしか商売上の人と会うためとかだったかな。そんでさ、そしたら……」
「MUが攻めてきた」
「そ。あとはお決まりのコース。親戚じゅうをたらいまわしにされて、けっこうつらい目にあったらしい。あたしにだってちゃんとはしゃべってくれないけどね。きっと、いまでもしゃべれないぐらいつらかったんだと思う」
恵はガバッと起きあがったが、こっちを見ようとはしない。
「あたしだってそう。っていっても、あたしにはおかあさんもお姉ちゃんもいたし、親戚連中はまあまあ優しかったから、比較にならないけどね。……キムはきっと両親の敵が討ちたいっていうか、怒りをぶつけたいからTERRAに入ったんだと思う」
彼女の背中が悲しそうに丸かった。
「キムだけじゃないよ。世界じゅうの人間がそうなんだよ」
どんと胸に落ちてくるような言葉だった。
世界じゅうの人間がMUに恨みをぶつけようとしている。親を殺された憎しみを、子どもをなくした痛みを、友だちを失った怒りを。その悲しみをもたらしたドーレムを一発で破壊できるラーゼフォン。それに乗れるってのに、戦わないなんて、ドーレムをやっつけないなんて、やっぱり傲慢なのかな。
でも、おれにとっては東京は、つまり、MUの世界は故郷だった。
東京にいたときは、実際、ドーレムを見ても「首都圏防衛兵器だあ!」なんて思ったもんだ。
この差をどうやって埋めたらいいんだ。
それに、ドーレムがもし、おれを連れもどしに来てるだけだとしたら。
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断章7 鳥飼 守
「ねえ」
休み時間ちょっと考えごとをしていたら、いきなり浩子が顔を近づけてきた。
「な、なんだよ。いきなり」
「いきなりって、さっきから声かけてるじゃん。ぼーっとしてるあんたが悪い」
「ちょっと考えごと。……それより、なんだよ」
「あのさあ、侵略大戦の前のことおぼえてる?」
「やっぱ、いきなりじゃんか」
「ほら、綾人がいなくなった日、侵略者が東京攻撃したじゃない」
「ああ、おれが英雄的に活躍して、おまえを助けだし……」
ばこっ――
調子に乗んじゃないわよ、とたたかれる。これでいい。調子のいい守でなきゃいけないんだ。
「あの日さあ、電車の中で女の人が声かけてきたじゃない。朝比奈さんって」
「前もそれ訊いたっけな」
とぼけてみせるが、どこまでごまかせるか。
「あれからさあ、ときどき思い出そうとするんだ。どこで会ったんだろうって。だいたい、年下にさんづけなんてヘンよ。だから気になって思い出そうとするんだけど、侵略大戦の前のことって、なんかはっきりしないんだ」
「そういうのって、ほら、テレビでもよくいってるじゃん。えっと、なんだっけ……」
「全人類的健忘症」
「そう、それ。人間、つらいことがあると、そのことを忘れるって。んでもって、その、ほら、人間は未来にむかって指向する生き物だから、なんたらかんたら。むずかしいことはわかんないけどさ、過去にとらわれてないで未来見てようよって話だろ」
「未来なんてあるの?」
ぎょっとするような返しだった。せっかく、こっちがアホなふりしてごまかそうってのに、どうしてこいつは本質的なツッコミを入れてくるんだろ。
「絶対安全圏内だけにいて、未来なんてあるのかな。外には出られないまま、過去も未来もわかんなくて、いまだけでいいのかな」
やばいなあ。朝比奈レベルでこういうこと思いはじめてるなんて。やっぱりゼフォンが外に出てから、ちょっとシステム的にやばくなってるんじゃないか。
「それでほんとにいいの?」
「おれ、バカだから、そんなこといちいち考えられないよ」
ちょうどそのとき教師が入ってきた。よかった。退屈な授業がはじまるのが、こんなにうれしいと思ったことはない。休み時間になったらバスケにでも熱中してるふりをしよう。アホな守を通していくしかない。
学校帰り、東京湾基地に寄った。
「あら、鳥飼くん。めずらしいわね」
麻弥がわざとふざけて、こっちでの名前を呼ぶ。
「やめてくれよ」
「いいじゃないの。あなたはわたしの綾人の友だちなんだから」
「綾人がいなくなったら、監視役《ともだち》になんの意味があるんだよ」
「イヤならいつでもやめてかまわないのよ。それをつづけてるのは、あなただわ」
一応、監視役が必要なくなってからの表向きというか麻弥むけの説明としては、東京の一般生活に入りこみ、かれらの思考を調査分析することになっている。ほんとの理由はしゃべっていない。まあ、麻弥のことだからカンづいてはいるだろうけどさ。
「そのことなんだけどさ。なんか侵略大戦以前のことを話題にするやつらが出てきたよ。システムやばくなってんじゃないの?」
麻弥が顔を曇らせる。
「〔虚空回廊〕のほうにダハルカウ・システムを回しているから、全体的に不備が出てくることは予想していたわ」
「でも、やばいだろ」
「そうね。少しヨ・メセタ・プケを強化しておく」
「〔虚空回廊〕をやめようとはしないんだろ。それがシステム全体に負荷をかけることであっても」
麻弥は当然でしょうという顔でおれを見る。
「ちょうどいまもドーレム発進させるところ。あなたも見ていく? わたしの息子の成長ぶりを」
は。なにが「わたしの息子」だよ。笑わせんな。失敗した自分の身代わりじゃないか。でもまあ、つきあわないと、あとが怖いからな。
ふと見ると、三輪がこっちにおびえたような目をむけている。麻弥にタメ口きいてるだけでもビビッちゃうらしい。ウサギの目だね。ちょっといじわるしたくなる。
「忍ちゃぁん」
「は、はい」
肩にかけた手の下で、三輪の体が硬くなるのがはっきりとわかる。
「ここでゆっくり見せてもらうから。モニターのほうよろしくね。……終わったらさあ、ホテルでも行かない?」
生意気にもためらいの間を作りやがったので、肩にかけた手に力をこめる。
「いいよね」
「は、はい」
麻弥は、まるで犬猫でも見るような目でおれを見ている。身代わりを作るためにあんなことをしたやつに、そんな目で見られたかないね。
「さ、早いとこ見せてよ。素敵な綾人くん主演のショーを」
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7
どっかで電話が鳴ってる。おれの部屋だ。一瞬、わけがわかんなくなったけど、すぐにそれが支給された携帯電話だってわかった。どうもまだなれてないよね。送話スイッチだって、どれだかわかりにくい。操作にとまどったあげく、ようやく出ることができた。
「はい」
「綾人くん?」
キムさんの硬い声が聞こえてくる。またお説教かよ。
「ドーレムが出現したわ」
心臓がドクンとはねる。怖れていたことが起きてしまった。このまま来なければいいと思っていたのに。キムさんやほかの人たちにとっては憎しみの対象だってのに、おれにとっては故郷から来たもの。もしかしたら、おれをつれもどそうとするおふくろの意志のあらわれ。
戦うのか?
……戦えない。
逃げるのか?
……逃げることはできない。
だったらどうする?
……
「綾人くん? 聞いてるの?」
キムさんの声が携帯電話の奥のほうから聞こえてくる。
「ええ」
そう答えるのがやっとだった。
「出現ポイントは松本。急がないと被害が広がるわ」
頭のどこかを冷たく鋭い風が吹いた。
松本? ってことは、連れもどしにきたわけじゃない。そんな可能性を考えていたのは、おれだけだったってわけか。笑っちゃうよね。そんなことで悩んでたなんて。
「やっぱり戦わないのね」
「いいえ、出ます」
キムさんがうれしそうになにかいっていたけど、まったく耳に入らない。おれは行くんだ。戦いに。故郷と戦いに。ちがう。故郷なんかじゃない。MUだ。ムーリアンと戦いに行くんだ。
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断章8 功刀 仁
さまざまな展示物がならんだ長い廊下を歩いているときに、携帯に連絡が入った。
「亘理長官」
先を行く長官がふりかえる。
「ラーゼフォンが松本に出現したドーレムの破壊に成功しました」
ささやき声でいったつもりなのに、十メートル近く先に立っているバーベム卿がこちらをふりかえった。
「ドーレムなど、まがいものだよ」
エルンスト・フォン・バーベム。先祖はエルサレム奪回の十字軍に参加して、ソロモン王の第一神殿跡近くにあった井戸から聖杯を見つけだし、そこから水を飲んだといわれている。代々、不死の伝説を持つ謎の一族の長だ。
「そもそも〔奏者の祭壇〕などと“奏者”を名のるのもおこがましい」
わたしたちがうしろにならぶと、そういいながら卿は顔を前にむけた。
そこには巨大な石板がある。“パレンケの石板”と呼ばれているが、見つかったのはパレンケではない。この島のどこかだ。こんな島にあるはずのないもの。オーパーツというやつだ。
「四十年だ。これを実現するのに四十年かかったよ」
卿は、感慨深げに石板を見あげながらつぶやいた。
「なんとか間に合いそうですね」
長官が慎重に言葉を選ぶようにしていった。
「例の日までに、予定数は用意できるだろう」
「運用は、うちにまかせていただけるのでしょうか」
「そのつもりだよ」
不安が頭をよぎる。危険な会話だ。ふたりは互いに利用しあっている。財団が供与するものはつねにこちらの臓腑をえぐる危険をはらんでいるといってもいい。亘理長官はバーベム卿でさえ自分の思いどおりに利用できると思っている。が、相手はバーベムだ。現代のメフィストフェレス、望みのものを与えてはくれるが、代償は魂そのものであるといわれる男だ。
その男がちらりとわたしを見た。
「きみとはアレ以来だな」
「はっ。ご壮健でなによりです」
できるだけ無難な応え方をする。つまらない男だと思ってくれたのか、卿はわたしに興味をなくしたようだった。
「会議のほうは?」
「国連はTERRAのラーゼフォン運用に関して、注視しつつ有事に備えるという結論に合意しました」
「事実上の黙認だな。……いや、ラーゼフォンがドーレムを破壊したとあっては承認だ。おめでとう。亘理くん」
「これも財団のおかげです。お力ぞえありがとうございました」
「いやいや、わたしはなにもしていないよ」
どうということはない会話のようでいながら、たがいにスキを見つけたら相手を刺そうとするような緊張感のある会話。わたしはまだ未熟だ。バーベム卿を相手にこんな普通にはしゃべれない。
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第二章 集まる日
紫東 遥
「ひさしぶりにいっぱい買っちゃったわね」
「あー、疲れた。疲れたけど、やっぱりストレス解消にはショッピングよ」
「遙なににする? あたしはウォッカ・マティーニ」
「ソルティ・ドッグにしとく」
「あいかわらず飲んべね」
「ウォッカ・マティーニ飲む人にいわれたくないわ」
「いえてる」
笑い声が小さなバーに響く。わたしたちはあわてて背を丸くして、こそこそ声で話しはじめる。
「小夜子、ずいぶんと大胆なドレス買ったじゃない」
「ほら、パーティとか近いでしょ。女は飾ってなんぼよ」
「クリスマスかあ」
「独身女性最大のイベントだもんね。気ばらなきゃ」
「イブの夜も仕事、だわ。たぶん」
「働く女性の多くが、そうやって恋も実らせずに散っていくのよ。遙だって、まだまだ捨てたもんじゃないでしょ」
「まだまだってつけないと拾ってくれない歳ね」
「歳のことはいわないでよう」
「こいつはすまんこってす」
ふざけた言葉に、また笑いがはじける。
「仕事のほう、いそがしいの?」
「まあね。そっちもでしょうけど、ラーゼフォンが来てから、ばたばたしてるわ。国連情報部との連携もとっていかなきゃならないし」
「あたしも毎日、毎日、検査、分析、評価。検査、分析、評価、のくりかえし。いいかげんヤになっちゃう」
「綾人くんは、研究室でうまくやってる?」
「綾人くん。綾人くん。あなた、東京から帰ってきてから、そればっかりね、つまみ食いするつもり?」
小夜子がいじわるい目で、グラス越しにこちらを見る。
「そりゃあ、ラーゼフォンのパイロットだもの。いちばん気にかけるわよ。あなただってそうでしょ。研究所はそのためにあるんだから」
「まあ、そうね。だけど、なんかちょっとね。……あ、ちがうの。綾人くんはいい子よ。素直だし、最初はほら、うまくいかなかったけど。いまじゃ協力的だし。明日は転送実験もやるっていうし。だけどね……」
奥歯にもののはさまったようないい方だ。
「なによ、いっちゃいなさいよ。友だちじゃない」
「樹先生がね。なんかヘンなのよ」
「そうかしら。いつもどおりの博士に見えるけど」
「あたし、ずっといっしょに研究してるから。あなたにはわからないかもしれないけど」
むけられた視線は、少し勝ち誇ったような色をふくんでいた。小夜子は樹くんとわたしのあいだにどんなことがあったのか知らないのだろう。いや、知っているのかも。だから、こんなことをいいだすのかもしれない。
「樹先生って、どこか人をつき放したようなところがあるじゃない。だけど、綾人くんには、よけいにつき放した感じがするっていうのかな。やけに親しげな言葉をかけたかと思えば、優しく冷たい言葉をいったりするの。あの人って、ほら、いつも超然としてて人とのあいだに一定の距離を持つじゃない。だけど、綾人くんに関しては、その距離が一定じゃないのよ。はかりかねてるみたいな、ためらいがあるの」
樹くんが? なぜだろう。
「ラーゼフォンに関してもそうかな。憎んでるみたいな目で見たりするのよ。それにね、研究室ではラーゼフォンのことを『あれ』とか呼ぶことが多いの。わたしとふたりっきりのときだけだけどね」
小夜子としては最後の一言をいいたかったのだろうけど、わたしはそんなことは聞いていなかった。樹くんがラーゼフォンを憎んでる? なぜ? 少し調べてみる必要があるのかも。そのとき、あることに気がついた。
わたし、樹くんのことをほとんどなにも知らない。どこで生まれて、どんな生い立ちをしてきたのか。
笑ってしまいそうだった。かれのことを、よく知りもしなかったなんて。
かれはいったい、何者なんだろう。
BGMが聞きなれた曲にかわった。「カトゥンの定め」だ。
「なつかしいわね。あのころ、よく聞いたわ」
ふともらした言葉に、小夜子はすっと目を細めた。あ、そうか。「カトゥンの定め」は樹くんも好きだったっけ。「あのころ」って言葉が誤解をあたえてしまったらしい。だけど、樹くんとはなんでもないんだって、いくらいったところで、「わたし、先生のことはなんとも想ってないから」っていわれるのがオチだろう。そういう性格の女性《ひと》だから。
ほんとに樹くんとはなんでもないのよ。
「もう」がつくけど……。
功刀 仁
「へ〜え、十二月の平均気温が二十三度。泳げますな。こいつは楽しい旅になりそうだ」
だれにいうでもないひとりごとのような言葉が、機内に響きわたった。後部座席の弐神記者だ。
「なぜあの男に独占取材を?」
亘理長官にたずねてみる。
「今後は統自との共同作戦も増える。うちの秘密兵器が秘密でなくなるのも時間の問題だよ。リップサービスも必要だろう」
「そういうものですか」
「そういうものだよ」
すでに松本でドーレムを倒したとき、ラーゼフォンは何十人というアマチュアカメラマンにその姿を撮られている。統自の秘密兵器ということで、情報統制をしてはいるが、それも時間の問題だろう。いずれバレるなら、窓口はひとつに絞っておいたほうがいい。
それはそうだが、なぜ弐神なんだろうか。
検索してみたが、天戸通信の過去二十年間の記録に弐神譲二の署名記事はない。十年間籍を置いていたという北海道支社の給料明細は振りこみの日づけがあやしい。本人のいうようなただの記者ではないことだけはたしかだ。ただ、どこの組織の人間かはわからない。まあ、だいたいの予想はついているが。
「いやあ、南の島、楽しみですなあ」
のんきな声が頭上からふってくる。自分の席でひとりごとをいうのに飽きたのか、弐神が近づいてきた。
「で、当地での取材なんですが……」
言外にそれなりの便宜をはかってほしそうな匂いをただよわせる。
「ご心配なく。かわいいコをガイドにつけますよ」
長官がさらりというと、弐神はうれしそうに笑った。
「そうですか。そりゃあ、楽しみだ」
かわいいコ? ああ、なるほど。そういう意味か。長官がなにをいいたかったのかようやく理解できて、思わず笑みがもれた。
「おっ、見えてきた」
弐神がわたしにのしかかるようにして窓から外をのぞく。
「あれが人類の砦、対MUの最前線ニライカナイですか」
窓の外にニライカナイがその弧の字型の姿を見せていた。
対MUの最前線……。いや、ラーゼフォンを保有したことによって、最前線にならざるをえなくなった島というのが正解だろう。
紫東 恵
司令センターに現れた綾人を見て、思わず吹いちゃった。
「なんだよ」
「馬子にも衣裳ってやつ?」
そういいたくなるカッコ。
FHスーツとかいうの見るのはじめてだもん。
ま、カッコいいっちゃカッコいいんだけどさ。
綾人が着てるとね、なんか笑っちゃうよ。
「ほっといてくれ」
綾人はソロバン玉――あたしたちはセンターの真ん中にあるオブジェをそう呼んでる――の前に立った。転送実験とかいうのをやるってのに、なんでソロバン玉の前に立つの?
「オブジェじゃなかったんだ」
キムが当然の疑問を口にする。
「ネリヤ神殿から運んできた遺跡の一部だってさ」
ヨモやんが教えてくれた。
へえ、そうだったんだ。
でも、なんでそんなもんわざわざ司令センターのど真ん中に?
前から邪魔くっさいオブジェだとは思ってたんだけどさ。
「なにがはじまるの?」
ヨモやんにたずねたら、お姉ちゃんが横から口をはさんできた。
「心配しなくても、だいじょうぶよ」
あー、いや、そうじゃなくってさあ。
って、お姉ちゃんのほうが心配顔だよ。
目、真剣だもん。
「樹さんから、むこうでは受けいれ体制ととのったって。じゃあ、やってみようか」
八雲さんがそういうと、綾人はちょっとだけうなずいた。
そして、ソロバン玉の中央にあるTERRAマークに手をかざす。
これが転送実験?
わっかんないなあ。
と、マークのあたりが光りはじめた。
そう思う間もなく綾人の手が、光るソロバン玉の表面に吸いこまれていく。
え?
なんでよ。
あたし触ったことあるけど、冷たい石だよ。
それがなんで水みたいに綾人の体を通すのさ。
あきれるあたしたちの目の前で、綾人の姿はソロバン玉のむこうに消えた。
消えると同時に、ソロバン玉の光もなくなった。
あとにはなにもない。
実験終了ってこと?
はあ、そうですかあ、って感じ。
なにが起こったのか、あたしの脳ミソでは理解不能。
なんかこうもっと、すっごいことかと思ってたら、意外とあっけなかった。
みんなもそうらしく、期待はずれみたいな間があってから、パチパチとまばらな拍手があった。
どうせなら、みんなの頭がわれるように痛くなる、とか。
司令センターの計器が全部吹っ飛ぶ、とか。
大音響がとどろく、とか。
そういうのがあってもよかったんじゃないかな。
盛りあがらないまんま、ごく普通に転送されていっちゃった。
ああ、そうか。
ネリヤ神殿も、司令センターのみんなみたいに、ごく普通に綾人を受け入れるようになったってわけか。
「でも、どういう仕組みなんだろね」
「知らない。如月先生なら知ってるんじゃない」
もっともなキムのお答え。
そうだよね。
あの人、なんでも知ってそうだもん。
如月 樹
「ほんとどういう仕組みなんだろうねえ」
自分に問うてみるが、答えはわからない。まったく理屈はわからないが、“欠けることなきネリヤ”が光り、それに呼応するようにラーゼフォンの胸が開いて、“ゼフォンのクリスタル”が輝きを増している。“欠けることなきネリヤ”から一本の光が“ゼフォンのクリスタル”に走った。徐々に太くなっていく光の通路、それが極限まで太くなったとき、すうっと幽体離脱した魂が浮かぶように宙空に綾人の姿が現れた。綾人は光の通路を運ばれ“ゼフォンのクリスタル”に吸いこまれていく。
「FHスーツからデータは?」
「まったく送られてきていません」
小夜子が事務的に答える。このネリヤ神殿のオーバーテクノロジーを利用して作られたスーツのデータシステムさえも、あれは拒否しているのか。おそらく綾人自身意識してはいないだろう。気づいたらコクピットにいるといういつものパターンだ。
“ゼフォンのクリスタル”の輝きが薄れ、ゆっくりと胸が閉じられていき、静寂が訪れる。
「FHスーツからのデータ、正常にもどりました。心拍数、血圧、脳波レベル、すべて通常値を示しています」
転送が完了した。まるで綾人が乗りこんだことなどなかったかのように、ラーゼフォンはそこに立っている。
ただわずかに頭部の羽根が開き、そこからのぞいている“静かな瞳”がぼくにむけられていた。魂の奥底までのぞきこんでくるような視線だった。おまえの本当の望みはなにか知っているぞ、といわんばかりの輝きだった。
まあいい。こいつにぼくの望みが知れようと、綾人に知れなければいいのだ。
これで“ネリヤの翼の道”が有効であることは証明された。
ジャン・パトリック・シャプラン
輸送機からおりるとすぐに、南方独特の熱気をはらんだ空気がわたしを押し包んだ。潮の匂いが鼻腔に広がる。あまり好きにはなれない。塩分をふくんだ空気は、あらゆる機械を腐蝕させていく。整備兵は毎日きちんと整備しているから気のせいだというが、機体の魂が腐蝕していくような気がする。
滑走面に手をあてる。最初におりたった飛行場では必ずする儀式のようなものだ。それに、きょうから毎日つかう場所だ。押しあてた掌にわずかな震動が感じられる。メガロフロート独特の波が打ちつけるリズムだ。四方からの波が干渉しあい、低いリズムになっている。母なる海の音楽だ。わたしはその音にしばし耳をかたむける。
足音に気づき、顔をあげるとエルフィが立っていた。
「あいかわらずね、マエストロ」
ひとりで遊んでいたところを見つけられてしまった子どものような、気恥ずかしさを隠して立ちあがる。
エルフィ・ハディヤット。わたしのバラは、もののみごとに大輪の花を咲かせたようだ。強い瞳がそれを物語っている。
「ひさしぶりだな。ブンガマワール」
「そう呼ばれるのもひさしぶりだわ」
エルフィはうれしそうに微笑んだ。
「どう? 元教官として、教え子が成長した姿を見るのは」
「画家にして偉大なる音楽家のレオナルド・ダ・ヴィンチの言葉に、弟子が師を越えないことは師にとって最大の侮辱だ、という言葉がある。わたしは侮辱されずにすんでよかったよ」
「そんなことないわ。まだ、あなたから学ばなければならないことは山ほどある」
「いや、もうほとんど残っていない」
「でも少しは残ってるんでしょ。だったら、それを絞りとらせて」
「貪欲だな。訓練生時代から変わらない」
男でもネをあげるきつい訓練でも、歯をくいしばってついてきた彼女の姿がよみがえる。いや、男でもというのは政治的に正しくない用語だった。男女の区別なく、彼女が最高の教え子であったことはまちがいない。その教え子がいま上官として目の前にいる。これほどうれしいことがあるだろうか。
「おーい」
聞きなれた声にふりむくと、金髪のポニーテールがまさに馬のシッポのようにはねている。“じゃじゃホース”キャシーだ。隣には“トンプー”ドニーもいる。むかしの仲間たちだ。
四人で新しいわれわれの「住処《すみか》」となる空港設備を点検した。
「晨星はいい機体ですね」
「加速も旋回性能もじゅうぶんだよ。ま、あたしの腕をすりゃ、どんな機体でもドニーには勝てるけどね」
キャシーの嫌味を無視してドニーは言葉をつづける。
「やや離陸特性に難があるようですが、出力でじゅうぶんカバーできます。……滑走路、ハンガーともにレベル4をクリア。ハードは問題ありません」
「無人戦闘機との連携も国連軍で使っていたプログラムを応用できそうだしね」
「いちばんの問題は整備か」
キャシーの言葉につづいて、わたしがつぶやくと、エルフィがこちらをうかがうような目で見た。
「不満なの?」
なにをいいたいのか、わかっているくせに。
「もちろん整備兵たちは仕事を完璧にこなしているが、それ以上ではない。ようは魂が入っていないのだ」
「魂とか運命とか、二十世紀生まれは目に見えないものが好きねえ」
キャシーがさもバカにしたような口調でいったが、それはウソだ。パイロットほど運命の存在を確信している人間はいない。
「白人の悪いクセだよ」
ドニーがまぜっかえす。
「目に見えるものしか信じないっていうのは」
「はいはい。リビングに黄色いもの置けっていうんでしょ。おかげで、うちは黄色い小物だらけだわ」
ふたりのやりとりに苦笑してしまう。ドニーもキャシーも別々の部隊から集められてきたというのに、ずっと同じ部隊にいたような気安さだ。
「二年ぶりだというのに、あいかわらずだな。おまえたちは」
「そっかあ!」
キャシーがすっとんきょうな声をあげる。
「二年ぶりなんだ。四人で集まるのって」
みんな、わたしがいうまで気がつかなかったというような顔をしている。たしかに二年というブランクを感じさせない、いいチームだ。以前のクセで、わたしがこぶしを最初に出してしまった。
しまったという顔をすると、エルフィが笑って小さく目でうなずいた。そして、真っ先に手を重ねてくる。つづいてキャシーとドニーも。
四人の手が重なる。四人の暖かさが広がる。
まさにカルテットだ。わたしたち四人はいい音楽を奏でるだろう。
キャシー・マクマホン
ったく、なんだって、あたしたちがこんなことしなきゃならないってのさ。くっだらないよね。なんか見たこともない飛行艇が着水したかと思ったら、長官と司令が帰還したから出迎えろだって。
リフトがあがってきた。ひとりをのぞいて、みんな、おっさんばっかり。若い白っちゃけたやつはパイロットにしたらすぐに落とされそうだけど、残りのおっさん連中はしぶとく生き残りそうな顔をしているやつらばかりだ。あきらかに民間人だとわかるやつも、人畜無害のふりしてるけど、歴戦のエースにありがちな顔だ。
まあ、そんなことはおくびにも出さず、あたしたちは敬礼して迎える。
「エルフィ・ハディヤット中尉。本日づけでTERRA航空団アルファ小隊長を拝命しました」
「聞いているよ。よろしく頼む、中尉」
背の高い渋めのおっさんがうなずいた。これが功刀司令か。となるとうしろの不気味な黒コートのほうが亘理長官ね。残りの民間人のおっさんと若造はなにもんだ? と思ったら、若造のほうが嫌味なことをいった。
「エルフィ・ハディヤット……。ああ、オーヴァーロード作戦で唯一生き残ったパイロットだね」
あきらかに皮肉をこめた言い方だ。隊長の肩がわずかに動くのが、あたしたちにはわかった。
「強運の女神か……。いや死神かな」
最後の言葉に、あたしたちのあいだに張りつめた空気が流れる。隊長を侮辱されて黙ってられるか。文句のひとつもつけたろ、とあたしが一歩踏みだそうとしたとき、民間人のおっさんが隊長に顔を近づけてきた。
「いやあ、べっぴんさんですなあ。東京ジュピターの中って、どうなってるんです? あ、わたし、天戸通信の弐神譲二っていいます。東京タワーが青いってほんとうですか? 郵便ポストとかも青いんですって? ぜひ一度、くわしい話を聞かせてもらいたいもんですなあ」
やっぱこいつタダモンじゃない。まのびした言葉で、張りつめていた空気に切りこんできた。空戦中だったら、気づかれずに旋回半径内に入りこまれているところだ。隊長もどう対処していいのか、はかりかねた顔をしている。
「中尉、管理部へは?」
功刀司令が助け船を出してくれた。そうだよ。さっさとこんなとこから引きあげようよ。
「行きたまえ。中尉が着任したらよこすようにいわれている」
「はっ」
あたしたちは敬礼し、いっせいに背をむけた。うしろでこそこそ話す声が聞こえてくる。
「りりしい方ですなあ」
この声は弐神とかいうおっさんのほうだ。
「わたしは、あの子が女神のほうに賭けますよ」
「ギャンブルは嫌いでね」
冷たい声。あの若造……。ぶっ飛ばしてやろうかと思ったら、マエストロと目があった。ダメだって目がいってる。はいはい、わかりましたよ。どうせあたしは“じゃじゃホース”ですよ。乗り手をふりとばす雌馬だい。
あー、でも腹立つなあ。晨星の習熟訓練に入ったら、移動標的にあの若造の写真貼ってやる。
八雲総一
「お帰りなさい」
ようやく功刀司令がもどってきてくださった。
ほかの人には――キムはちがうけど――わからなかったろうけど、この数日というもの、ぼくは緊張のしっぱなしだった。副司令という重責が肩にのしかかってきたからだ。正直、司令の顔を見たときには、ほっとした表情になっていたんだろう。功刀さんはぼくの顔を見るなり、きびしい目をした。
「すまないね。現場のほう、まかせっぱなしにして。はい、これ、本土のおみやげ」
亘理長官がにこにこしながら、おみやげをくれた。かわらけまんじゅう? どこ行ってきたんだろう。
「ありがとうございます。甘いもの好きなんですよ」
「それと、きみに案内を頼みたいんだ」
「なるほど、こりゃあかわいいコだ」
苦笑いをふくんだ声にふりむくと、人のよさそうな中年おじさんが立っていた。これが弐神さんか。天戸通信とかいってるけど、ほんとのところはどうなんだろう。
「人工島を案内すればいいんですね」
「すまないが、よろしく頼むよ」
亘理長官はそういいながら、目はぼくの肩越しに司令センターを見まわした。だれかを見つけたようだ。
「あ、五味くん。おつかれさん。これ本土のみやげなんだけど……」
といいながら、おみやげの袋を大事そうにかかえて、五味さんのところへかけよっていく。そして、京都の甘納豆をわたしている。ほんと、どこ行ってたんだろう。
「あいかわらずですねえ。亘理さん」
ぼくがそういうと功刀司令は苦笑した。
ほんとよかった。司令がもどってきてくださって。
七森小夜子
ラーゼフォンの実験はつづいている。
「気分はどうだい?」
樹先生の問いかけに綾人くんが素直に答える。
「だいじょうぶです。ちょっとぴりぴりしますけど」
「つぎはもう少しレベルをあげるよ」
「いいですよ」
樹先生は実験室のラットを見る目で、ラーゼフォンを見ている。遙にもいったけど、だれよりも冷たい目でラーゼフォンを見ている。でも、なんでそんな目をするのかしらね。
ラーゼフォンが憎いのかしら、それとも綾人くんが?
「最近、協力的ですね。かれ」
「エライよねえ。故郷を離れてひとり、世界を救うために戦う少年」
「いじわるないい方」
「心外だな。素直に感心してるんだけど」
ちっとも感心してない。まるで自分じゃないのが腹立たしいみたいな口ぶりだわ。
「きょうのデータはすぐに回収したいんだ」
「わかりました」
FHスーツには、外部にリンクしているデータ送信システムと内部だけのデータシステムがある。めんどくさいとは思うけど、たまにこのふたつのデータにずれが生じていたりする。特にきょうみたいに、転送実験をしてデータ送信が途切れていたりすると、その可能性が高い。
ラーゼフォンからおりた綾人くんが着がえ終わるころを見はからって、前進調査室の更衣室に入る。更衣室っていっても、小さなキッチンをかれのために使っているにすぎない。
「いい?」
「あ、はい。どうぞ」
あわてる衣ずれの音。ちょっとのぞいてみようか。若い少年の肌ってのもいいわよね。遙じゃないけどツマミ食いしてもいいかも。カーテンを開けると、残念、Tシャツを着終わったあとだった。
「ご苦労さま。スーツはそのままでいいわ」
「それじゃ」
わたしはスーツを取りに奥へ。かれは外へ。せまい室内でふたりがすれちがう。ちょっといたずらしちゃおうかしら。
一瞬だけ、たがいの体温がわかるほど体が密着する。Tシャツ越しにまだ薄い少年特有の胸を感じる。こちらの感触も味わったのだろう、くすぐったいような若い視線がわたしの胸に落ちる。かれはすぐにどぎまぎと目をはなした。でも、ふっと若いオトコの匂いが強くなったのは確かだった。ごまかそうとしても、お姉さんはごまかされないわよ。
くすりと背中で笑いながら、なにごともなかったように、FHスーツをたたむ。たたみながら、データボックスからメモリースティックをぬきとる。
「七森さん」
あら、まだいたの。
「七森さんは遙さんと親しいんですよね」
なにいいだすのかしら、この子は。わかっていってるの? ううん、こんな子にわかるはずがない。遙にだってわかってないんだから。
「そうね」
と軽くいなすのが、大人の余裕ってもんでしょ。
「親友とまではいかないぐらいかな」
「遙さんって、どんなものが好きなんですか。お酒が好きなのは知ってるけど」
「遙だけ? メグちゃんはいいの?」
「彼女はわかりやすいから」
わかりやすいねえ。あなただって相当わかりやすいわよ。知ってる?
「クリスマスプレゼントってわけ?」
「あ、その、そういうんじゃなくて。お世話になったお礼っていうか。もう少しではじめてお給料もらえますから。ちょっと前借りしちゃってるから少ないけど。……って、ぼく、なにいってんだろ」
照れたように頭をかき、それからまっすぐにこっちを凝視める。
「東京もここも、そんなに変わらないですね」
あーあー、もののみごとに順化しちゃって。それで最近、協力的なわけか。遙と恵のおかげってわけね。こういうの見てると、ちょっとイジワルのひとつもしたくなる。
「家族と離れてさびしくない? つらかったら、がまんすることないのよ」
せいっぱい同情した声をしてみたが、通用しなかったらしい。
「ありがとう、七森さん。でも、だいじょうぶですから」
そういって行っちゃった。
……嫌いだな。ああいう単純な子って。人を疑うってことしないのかしら。ありがとうだって。ほんとに同情したと思われるなんて、ムカつくわ。せいいっぱいの強がりなのか、それとも本気で家族と離れてだいじょうぶだと思ってるのかしら。
なんか胸の奥のあたりが、ぎゅううっと苦く硬くなっていった。
「スーツのデータ回収しました」
樹先生のところにもどってみると、先生はやけにむずかしい顔をしている。どうしたんだろう。
「先生?」
「あ、いや、ごめん。綾人くんは?」
「帰りましたけど」
「そうか」
「どうかしたんですか?」
「いや……。ちょっと連絡があってね。これから人に会わねばならない。プライベートで」
プライベートで? また胸の奥が苦く硬くなっていく。
「だれかがいるところならば、まだいいが、ふたりっきりとなると……気が重いよ」
樹先生はほんとうに気が重いというような顔をしているけど、逆にわたしの心は軽くなる。楽しい相手じゃないことだけは確かだ。でも、だれなんだろう。先生がここまで気にしている人って……。
八雲総一
弐神さんから解放されて司令センターにもどると、ちょうど遙さんと司令が話しているところだった。
「そうか。きみも今日づけで作戦部に異動だったな。……かれはどうだね」
「綾人くんですか。よくやってくれてます。解析班の実験にも協力的だと聞いてます」
あ、そうだ。かわらけまんじゅう。遙さんに押しつけちゃおう。ぼく、甘いものあんまり好きじゃないんだよね。
「案外タフですよね、かれ。あ、どうぞ、これ。亘理長官のおみやげです」
かわらけまんじゅうを勧めながら、話しかける。
「それとも、いい人に出会えたのかな」
「なあに? それって八雲くんの経験かしら」
わかってるくせに。
「総一、新聞記者はどうした?」
功刀司令がたずねてきた。口調はのんびりしてるけど、ぼくにむけられた視線はするどい。
「それが、取材もそこそこに本島のほうに」
「根来《にらい》島へか」
「ええ。しばらくいることになるから、なじみの店を決めるんだって。あの人、なにしに来たんでしょうね」
遙さんの手前、できるだけのんびりとしゃべったけど、必要なことは伝えた。本島に移動したので監視を解いた。そして、かれの目的はいっさい不明だと。
「ああ、そういえば。一色監察官。新聞記者がくるって聞いて、ずいぶんあわてて出迎えにいってましたよ。意外とマスコミ気にしてるんですね」
監察官がどこに所属しているかはまだよくわからないけど、どうやら弐神さんの組織とはあまり反りがあわないようだ。でも、司令はそれを聞いても、表情を動かさなかった。たぶん、司令にはふたりが所属する組織がどちらもわかってるんだろう。
一色 真
「あなたが国連からの監察官ですって?」
樹が吹きだしそうにおもしろい冗談をいった。冗談には冗談で返さねばならないだろう。
「きみを観察しにね」
なのにかれときたら、少しも笑わずにボートの操縦にかまけているふりをする。つれないねえ。
ボートはネリヤ神殿の水路を進んでいく。あたりは彫刻がほどこされた柱が、林立して水面からのび、複雑な形の天井を支えている。はじめて見るはずなのに、なぜかなつかしい。あたりまえだ。あの島でさんざん見て育ってきた光景だ。くそ。いらぬことを思いだしてしまった。
「おぼえていないか? 夜中にふたりで船を出して……」
秘めた夜の、ふたりだけの想い出。さすがにこれには、かれも反応した。
「あなたがぼくを誘った」
「みごとに失敗に終わったけどね」
あの夜のことを思いだして、ひとりで笑う。水面をたたくオールの音。深くよどんだあの島の水の臭い。少年だった樹の肌の色。……そう。われわれは選ばれた人間なのだ。
「あんなやつらの中に、たったひとりで虚しくないのかい?」
「べつに……。ぼくは、むかしからひとりでしたから」
「さびしいことをいうね」
「それにいまは……」
かれは謎めいた言葉を口にすると同時に、傘を手にした。なぜ傘だ? と思ったとたん、水の落ちる音が背中で聞こえてきた。ふりむくと、もうそこには水のカーテンがあった。あっと声をあげる間もなく、ボートはそこへつっこんだ。
ざばあっ――。
なるほどね、このための傘だったわけか。かれは少しも濡れずに、無表情にこっちを見ている。こっちは濡れネズミだっていうのに……。ほんとつれないね。
ボートはラーゼフォンがいる神殿の中心部に出てきた。
白い巨人。歌を禁じられた巨人を見あげる。ふと見るとかれは、なんともいえない目でラーゼフォンを見あげているじゃないか。哀しいような、恨むような。
なるほど。つれない女神がここにいるわけか。わたしといたって楽しいはずがない。
弐神譲二
ラムネか。ひさしぶりだな。スロットにカードを通すと、大きな音がしてロックがはずれた。おほ、こりゃかなり旧式だ。ぬきとったラムネに栓抜きをたたきつけ、玉を下に落とす。おっとっと乱暴にあつかったから、あふれちまったぜ。うわったった、ズボンが濡れちまった。くそ、一張羅だってのに。クリーニング代は出張費にふくまれてないんだぞ。そのうえ、これじゃあ、まるでもらしたみたいな濡れ方じゃないか。しょうがないなあ。舌打ちしながら店先で飲もうとしたら、「あ」ととがめるような声がした。
マルカン。つまりは観察対象者、神名綾人だ。
綾人だ、って、おまえはそれを追いかけて、こんな駄菓子屋くんだりに入りこんだんだろうが。でもまあ、最初の接触としてはいい形にもちこめたはずだ。
「いえ、そのままだとラムネ玉で飲めないから」
ん? 見ると、たしかにこのままじゃ玉が飲み口のほうに転がってくる。ひさしぶりだと、こういうことを忘れちまう。
「このくぼみにラムネ玉をひっかけて飲むんです」
知ったかぶりでも嫌味でもなく、純粋に親切からそういってくれているらしい。なかなかいいやつだ。
「ありがとうよ」
礼をいい、マルカンの隣に腰をおろす。ラムネが喉をうるおす。風がさわやかに吹きぬけていく。
「旅行ですか?」
「単身赴任。サラリーマンはつらい……って、学生さんにいってもわからないかな」
「ぼくも働いてますから……少しはわかります」
「そりゃ失敬。どんな仕事を?」
さて、マルカンは素直にいうか? いうはずないな。どうごまかす?
「え? その……乗り物にのって……」
こまったような間を置いてから、いってくれたよ。
「ピザを!」
ってな。
吹きだすのをこらえるのがつらかったぜ、ほんと。いうにことかいてピザの宅配か。そんなもん、東京ならいざ知らず、こっちじゃとっくのむかしになくなってるよ。
「へえ。宅配ピザか。まだあるんだ」
感心したようにいってみせる。よ、役者だね。おれ。
「あ……」
こまったような顔をして、どうしようかとおろおろしている。かわいいじゃないか。
「学生のころよく食ったよ。そうか。こっちの島じゃあ、そういうのも残ってるんだ」
「そ、そうなんですよ。ぼくもおどろいたんですけど」
助け船にこうも素直に乗っかってくると、笑うのも忘れちまうね。もう少しいじって遊ぼうかと思ったら、マルカンの携帯が鳴った。
マルカンの携帯が鳴るということは事態が動いたということか。ドーレムだろうか。
……こんな素直な少年がドーレムと戦えるのだろうか。
「仕事かい?」
「はい、すみません」
あやまるようなことじゃないけどな。マルカンは立ちあがり、走りだしたかと思うと、ふりかえった。
「その空き壜、よかったらお店に返すと壜代もらえるんです」
「ああ、わかったよ。ありがとう」
またぺこりと頭をさげ、マルカンは走りさっていく。
やれやれ。いい少年じゃないか。正直、もっとひねくれたガキを想像してたんだが、あそこまで素直だと報告書にも悪く書けなくなる。……いやいや、調査に私情をはさんじゃいけない。あくまでも中立公正の報告書を心がけなきゃいかんよ。
それをどう判断するかは、上の仕事だ。下っぱのおれの仕事じゃない。
紫東 恵
「ラーゼフォン、発進完了」
「アルファ小隊、現在の交信バンドからデジタル・スキップしてください」
「アルファ小隊、全機、発進完了しました」
司令センターはおおいそがし。
「太平洋上で確認されたD1は時速四十キロでニライカナイにむけて侵攻中。会敵予想時刻はヒトヨンマルハチ」
さっすが恵ちゃん。すらっといえたじゃないの。
だってのに綾人《バカ》が訊きかえしてくる。
「ヒトヨンマルハチって?」
説明しようとしたら、横からお姉ちゃんが答えてしまった。
「十四時八分のことを軍隊用語でそういうの。いまからおよそ二十分後ね。目標のD1は二足歩行タイプ。足と思われる部位の全高はおよそ十キロ。左右に完全な相似形をなし、機能も同一と想定されるわ」
あー、硬いよねえ。軍隊の言葉ってさあ。お姉ちゃんはよくすらすらいえるもんだ。
しっかし、こんどのドーレムはなんちゅうやつだろう。
低くたれこめた雲から二本の柱が海につき立っているのが、司令センターのスクリーンに映しだされてる。
なんかヘン過ぎ。
そのうちの一本がゆっくりと水面から離れ、雲の中に少し入ったかと思うと、前方にある小島のそばにつき立てられた。
大きな水柱があがる。
たぶん、何十メートルとかの水柱なんだろうけど、遠近感がよくわからないから、柱の根元に小さなしぶきが飛んだようにしか見えない。
ほんとヘン。
エルフィ・ハディヤット
すぐ隣をラーゼフォンが飛んでいるという感覚は奇妙なものだった。
あたしたちはなんのためにいるんだろう。なんのためにドーレムにむかっているのだろう。ラーゼフォンがいれば、それですむのではないか。という疑問が胸の奥に浮かんでは消える。そのたびに、ラーゼフォンのパイロットがだれかを思いだす。
神名綾人だ。
あの少年は戦うべきではない。
だから、あたしはここにいる。
「目標捕捉、十一時方向と十三時方向、距離一万」
マエストロの声が夢想を破り、あたしは前方の敵を見すえた。たれこめた雲からつきだした二本の柱が敵だ。
「状況確認。各機そのまま隊形を維持してアプローチ。ラーゼフォンは後方で待機」
もちろんアルファ小隊の仲間からはすぐに返事がくる。かなり遅れてためらいがちに綾人の声が聞こえてきた。
「は、はい。でも、だいじょうぶですか?」
おまえに心配されるいわれはない。
晨星を加速して、敵にむかう。
かなり接近したつもりだったが、ほとんど大きさは変わらない。あまりに大きいので遠近感がわからなくなっている。モニターの上を照準が躍る。そして、ロックオン。といってもこれだけデカいと、はずしようがない。
「アルファ小隊各機、ミサイル発射」
「了解、フォックス・ツー」
空を八本の光の帯が切り裂き、柱に吸いこまれていく。
「全弾命中」
閃光が柱に走り、いくつもの火球が広がる。爆煙につっこむようにして、アルファ小隊は柱の近傍を飛びぬけていく。
「どうだ?」
「変化なしです」
やはりドーレムに通常弾頭は効かないのだろうか。そう思ったとき、音もなく柱に亀裂が走った。そして、まるで陶器が崩れるように、ミサイルが命中した部分が粉々に砕けた。
ゆうに三百メートルはある下部が、まるでスローモーションでも見ているかのように、ゆっくりと倒れはじめる。一直線の水柱があがり、折れた柱は海に沈んでいった。
「やったか!」
マエストロの声だ。そう。だれもがやったと思った。
が、倒れない。二足歩行なら、一本折れれば倒れるのが普通だろう。
「立ってるんじゃない。浮かんでるんだ」
ヤグモの声がヘッドセットから聞こえてきた。
「まぎらわしい!」
キャシーがののしる。
そのとき、警告音が響きわたり、レーダーモニターに多数の敵が映りこんだ。どこだ?
と、雲の間からばらばらとゴルフのピンに小さな玉をつけたようなものが落ちてきた。
D2警報が鳴り響く。あれがドーテムか。
ドーテムは高度二百五十まで落ちたところで、いっせいに羽根を広げ、減速した。
「十六時方向へ、アルファ・ブラボー散開。フォーメーションα」
指示を飛ばし、晨星を加速させる。
ドーテムの頭部からビームが照射される。
僅差でそれをかわし、バルカンを撃ちこむ。
ブン――と一斉射!
頭部が破壊されたドーテムは、ばらばらになって落ちていく。
新手のドーテムが背後につく。
旋回性能のよさを生かして、右にひねりながら機体をすべらせて、ビームをかわす。
視界の隅でドーテムに追われるキャシーの機体が見えた。
キャシーは機首を起こし、衝撃波を広げながら、急速に減速してドーテムの後につこうとしている。
「アルファ・フォー。アルファ・スリーの援護」
指示を飛ばしながら、ミサイルを発射する。
命中。
砕け散るドーテムの破片をかわして、機首を大きくあげる。
一瞬で空と海が入れ代わる。
Gが体をねじあげる。
「アルファ・ツーよりアルファ・ワン。D2主力、ラーゼフォンにむかっています」
なに!?
目の前にドーテムが現れる。
バルカンでそいつをしとめる。
くそ。落としても、落としても、いくらでもわいてくるみたいだ。
ラーゼフォンに複数のドーテムが迫る。
ビームの一連射。
ラーゼフォンが火球に包まれる。
そうなりながらもラーゼフォンはこぶしをくりだした。
遅い!
案の定、ドーテムはそれをかるがるとかわしていく。
くそうっ。エルフィ・ハディヤット。なにが神名綾人は戦うべきじゃない、だ。こんなところでザコ相手に苦戦しているだけじゃないか。
ドーテムが一直線につっこんでいく。
「あぶない!」
あたしの警告が届くより早く、ドーテムがラーゼフォンに体当たりした。
一瞬、ラーゼフォンが右手をかざしたように見えたが、すべては爆発にかき消された。
やられたのか?
まさか!
薄れた爆煙のむこうに、ぼんやりと光が見える。
なんだ? なんの光だ。
と、ラーゼフォンが姿を現した。
ドーテムにかざした右手に光が乱舞している。
あれは……
盾なのか?
D2警報がふたたび鳴り響く。
ふりあおぐと、まるで散弾をまいたように、雲間からドーテムが落ちてくるのが見えた。
これじゃあ、キリがない。
戦況を一瞥すると、ラーゼフォンもキャシーたちもドーテム相手に乱戦に持ちこまれている。
あたしだけ、静かに飛んでいる。
乱戦で一瞬だけ訪れる静寂。
パイロットはこの一瞬に判断をくださなければならない。どの敵をたたくか。どの味方を援護するか。
あたしはためらわずに操縦桿を引きあげた。
敵の本拠地をたたく!
「ブンガマワール!」
とがめるマエストロの声が聞こえるが、無視して加速する。
まだ落下してくるドーテムのかたわらをかすめるようにして急上昇し、雲海につっこむ。
「子どもの手など借りない!」
これは大人の戦いなのだ。
あたしたちの戦いなのだ。
雲海に突入する。
いや、これは雲じゃないなにかだ。
かまうものか。
エンジンが吼える。
雲海をぬけた。
巨大な青空が広がる。
そして、雲の上に広がる歌声。
D1アリアだ!
金 胡月
恵が悲鳴をあげてヘッドフォンをむしり取った。脳髄にねじこまれるようなD1アリア。これだけ離れていてもかすかに響き、司令センターのガラスを震わせる。
「司令!」
戦況を見ていた総ちゃんが、功刀司令をふりあおぐ。
「退避だ。ハディヤットをさがらせろ」
「アルファ・ワン。聞こえますか! アルファ・ワン」
通信回線を開いて、エルフィに指示を伝えようとする。
しかし、返ってくるのは雑音ばかりだった。
「アルファ・ワン、応答ありません」
「くりかえし呼びかけろ」
「アルファ・ワン、聞こえますか。応答してください」
「アルファ・ワン、速度ゼロ!」
洋平さんの声があたりに響いた。どういうこと? 速度ゼロって。モニターを見ると、たしかにアルファ・ワンを示す識別光点は停止したまま動かない。いったい、雲海の上でなにが起こってるというの。
エルフィ・ハディヤット
D1アリア・シールドを全開にするが、この距離ではまったく意味をなさない。鳴り響くD1アリア。頭の中に直接手を入れられてかきまわされているような気分だ。吐き気をこらえるだけで、精神力のすべてを使いはたしそうだ。
巨大なドーレムの脚がすぐそばにある。
その脚のあいだにはりめぐらされたクモの巣のようなものに、晨星はからめとられていた。エンジン出力を最大にするが、まったく動くことができない。速度ゼロの恐怖。地上にいるときはまったく感じないが、上空三千メートルの地点で静止しているという状況は恐怖そのものでしかない。そのうえD1アリア。いたれりつくせりというわけか。
脳がぐずぐずに溶けていきそうだ。
体すべてが、腐った肉のように重い。
あきらめかけたとき、音がやんだ。
見ると、かすんだ視界いっぱいにラーゼフォンがいる。
歌っている。
ラーゼフォンが。
その歌がD1アリアを完全に打ち消してくれている。
くそ。ラーゼフォンに助けられるしかないのか。
「だいじょうぶですか、エルフィさん」
おまえの声をここで聞きたくなかった。あたしが聞きたいのは、敵の断末魔だ。
「あたしのことより、敵だ……」
それだけいうのがやっとだった。
ラーゼフォンが上昇し、ドーレムの体を粉砕する。
……はずだった。だが、ラーゼフォンは上昇できない。よく見ると、足に雲がまとわりついている。いや、雲じゃない。あれはドーレムの防衛システムだ。
そして、雲海が光った。
その内部に溜めこんでいたエネルギーをすべて放出した。
放出されたエネルギーは、ラーゼフォンに集中する。
「うわああああっ!」
耳をふさごうにも、手が重すぎて動かない。綾人の悲鳴が聞こえる。D1アリアより、つらく苦しい。いやだ。聞きたくない。
電光プラズマがラーゼフォンの表面を走り、空中にむかって死の指先をのばす。
「はあ……はあ……熱い……」
ラーゼフォンに守られているのだろう、綾人は生きている。しかし、かなり苦しそうだ。
「熱い……」
がんばれ。
「はあ……はあ……」
なにかできることはないのか、あたしには。
両手で操縦桿をつかみ、全身の力をこめるようにして発射ボタンに指をあてる。いつもなら一瞬でできることが、まるで晨星ばかりではなく、あたしの体にまで糸がまとわりついているように、ゆっくりとしかできない。そのあいだも苦しそうな声が耳の奥に響く。
「はあ……はあ……はあ……」
ようやく発射ボタンを押したときには、気絶しそうだった。
すべての想いをこめたミサイルがラーゼフォンにむかっていく。
そのかたわらをかすめるようにして、ドーレム本体に吸いこまれていく。
命中!
だが、クモの巣のようなバリアが広がり、爆発の衝撃を吸収してしまった。
「くっ!」
もうあたしにはどうすることもできないのか。
ただ、上空三千メートルの地点に浮かび、綾人が苦しむ声を聞いていなければならないのか。
「ラーゼフォン、作動停止」
「パイロットの生命維持、レベル3に低下」
「綾人くん。応答して。綾人くん! 聞こえる? 返事して綾人!」
司令センターの緊迫した声にまじって、ハルカの悲鳴に近い声が聞こえる。
ちくしょうっ!
あたしにはもうなにもできない!
如月久遠
脳内のシノプシスの連合による覚醒。いつもの部屋。いつもの場所。いつもの空気。でも音だけはちがうの。馥郁たる悪しき音なれば。ゼフォンの奏でし悪しき音なれば。オリン。それはだめ。誰がために奏でるのか、人の心を腐す音を。熱きまほろばの地に、夢たがうことなく響きし暁の想い。それは憎しみ。それは哀しみ。夢。まぼろし。宙にからめとられし必死なる想いが、届かぬのかオリンよ。小さなバグの集合体にすぎないのだ。分岐点を誤てば、その先に分かれる未来のひとつひとつが消えていく。しゃぼんのあわのきえるよに、みらいがひとつきえまする。生命の活動がすなわち選択。熱力学の第三法則に抗いつづける生命体の哀しき動きが未来を決めていく。おのれの使命に目覚めよ。だけど、わたしの声は聞こえない。オリンの耳には響かない。峨々たる殺戮の亀裂のみが強く、強く、強くつよくつよくツヨクツヨクツ・ヨ・ク……。
紫東 遙
「ラーゼフォンパイロットの生命維持、レベル9まで上昇。なおも上昇中……計測できません」
恵の声が司令センターに響いたけど、だれも聞いていない。
全員の目がモニターに釘づけになっている。アルファ・ワンからかすかに送られてくる映像の中で、ラーゼフォンとドーレムが対峙している。もうだめだと思ったとき、ラーゼフォンが突如として動きだしたのだ。
量子力場がラーゼフォンの腕に光となって躍る。そして、ビームのようなものがドーレムにむかってのびていった。
いや、ビームというより、固体の剣に近い。
ドーレムの防御バリアがすぐさま展開されるが、プラズマの閃光が走ったかと思うと、バリアは蒸散し、光の剣はドーレムにつきささった。
ドーレムが震えている。
断末魔の苦しさに身もだえしている。
やったの?
やったわ!
光の剣がドーレムを切り裂いた。
ドーレムはまるで土の塊みたいにぼろぼろになって崩れていく。
音もなく崩れたドーレムは、ばらばらになって海面に落ちた。
巨大な水柱があがる。
この距離ではわからないけど、おそらくは新宿の高層ビル群ほどの水柱だろう。それが海面をおおいつくしていく。
「周辺地域に津波警報を出せ」
冷静な司令の声が聞こえ、司令部は対応に追われはじめる。だけど、わたしは聞いていない。モニターに見えるラーゼフォンを凝視めている。ラーゼフォンは空の彼方を凝視めつづけている。なにを? あの視線の先になにかがあるとしたら……。
それは東京ジュピター……。
六道翔吾
弐神は不思議な男だった。突然たずねてきて、大学時代の教え子の名前をだし、かれのことを聞きたいとあがりこんできた。そして、いつのまにかこうやって将棋をさしはじめたのだ。将棋の腕は普通だろう。
「全国小学生絵画コンクール」
いきなりだった。桂馬がひとつ、わたしの陣に近づいた。
「その二〇〇九年の参加者の中に神名綾人の名前がありましてね」
ようやく核心にふれる質問だ。
「当時五年生だから、生きていれば二十九歳。しかし、こちらの神名綾人くんは十七歳ときた」
「では別人でしょう。珍しい名前だが、同姓同名がありえないわけじゃない」
金で桂馬を取る。その動きでできた隙に角が切りこんできた。
「そうですかね。いまの世界にはひとつだけ時間の進み方がちがう場所がある」
金銀の動きにまどわされて、こちらの玉を忘れたようだ。切りこんできた角をすぐさま玉で取る。
「偶然でしょうな。絶対障壁を破る技術はまだできていないと聞いていますが」
玉の目前に歩が打たれる。
「まだ、ですよ。でも、いつできても不思議はない。ちがいますか」
玉で歩をとる。弐神は飛車を進ませた。これを待っていた。矢倉の中にしまいこまれた王の側面ががらあきになる。そこへ角を打つ。
「だとしても、どうだというんですかな。ただの偶然の一致をいいたてたところで、なにも出てこない」
そういって先ほど取った桂馬を指さす。もし角が金で取られればすぐさま桂馬を打つ。もはや弐神に逃げ道はなかった。
「うーむ」
かれは腕組みをして考えこんだ。
「出直しますか」
「ええ。またよらせていただきますよ」
手にしていた香車を置くと、弐神は去っていった。
香車。もしそれが4六に置かれていたら……。
弐神という男、なかなかあなどれないようだ。
紫東 遙
司令官室に呼びだされたエルフィの顔は無表情だった。
「実体不明の雲に単機で突入するなんて、独断専行、軍規違反よ。あんな戦い方じゃ、そのうち命を落とすわ」
「あたしの命だ」
低い声だった。本気だ、この人。
「ハディヤット中尉。どうして単機で突入した」
功刀司令が問いかける。
「指揮官として、それが最善だと判断しました」
「根拠は?」
「……カンです」
「……いいだろう。ただし軍規違反であることにちがいはない。中尉には二日間の謹慎を命じる。以上だ」
エルフィは無表情のまま敬礼し、司令官室を出ていった。全員がそれを見送る。
「ということです。監察官殿」
司令が声をかけると、一色監察官はサングラスをゆっくりとはずし、満足そうに微笑んだ。
「賢明ですな。規律がないところに組織はありませんからね」
くだらない。ただ処分されるのがおもしろかったんでしょ、あなたは。内心でむかついているのを見透かされてしまったのだろうか、司令に監察官と話があるので退出してよろしいといわれてしまった。「しまった」ということはないわよね、ラッキーじゃない。
廊下に出ると、窓辺にエルフィがいた。落ちかけた夕日が彼女の顔にきびしい影を落としている。
「似てるんだ。兄に……」
彼女がぽつりとつぶやく。だれが似ているかは、すぐにわかった。
「お兄さんいるんだ」
「いや、過去形だ。“災厄の一週間”にな。わたしはやめろといったのに、みんなを守るんだといって……」
苦い静寂。なぜかわたしたちはMU大戦の死者のことを語るとき「死んだ」という言葉を使おうとせず、かならず間を置く。苦い間を。あれからどれほどの人たちと、この重苦しい沈黙をともにしたことだろう。
「それでいいと思っているのか……」
「え?」
「あの少年を戦わせて、それでいいと思っているのか」
「イヤに決まってるでしょ!」
堰を切ったように言葉が口をついてでる。
「綾人くんに戦ってもらいたいから、東京から救い出したと思ってるの? そんなことをするためだけだったら、東京にずっといたほうがかれは幸せだったわよ」
いけない。それ以上触れてしまうと守秘義務違反になる。わめきちらしながらも、わたしは冷静に話題をすり替えていった。
「でも、わたしたちはそれをしなければならなかったのよ。そんなことまでして、かれを戦わせてまで、守らなければならないの。この地球を。みんなの未来を」
自分としてはうまくすり替えたつもりだったが、エルフィはすぐに見ぬいたようだった。冷たい視線が返ってくる。
「そんなにまでして守らなければならないものが、おまえにあるとは思わなかったよ。……あたしにはない。だから、あたしはここにいる。綾人が戦いにいらないと証明するためにここにいる。兄のように民間人が戦いに参加する時代は終わったんだ。いや、もう終わらせなきゃならない。そのために、あたしたち軍人がいる」
強い人だ。純粋にこういえる人は強い。
「だから、むかしの仲間にも声をかけた。ともに戦おうと。命をかけて」
胸がしめつけられそうだ。こんなにも綾人くんのことを考えてくれる人間が、ここにいたなんて。
「情報部の人間にはいらぬ言葉だったようだな」
立ち去りかけた彼女の手を反射的に握ってしまう。わたしの行動の真意をはかりかねたように、エルフィはとまどったような表情をした。
綾人くんにならって二本指を見せると、彼女はさらりと応えた。
「なにがふたりめなんだ」
「綾人くんを思ってくれる人」
「そうか。……ひとりめはおまえか」
エルフィが微笑んだ。
わたしも微笑みをかえす。
そして、ふたりは握手した。
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1
疲れた。
きょうはむちゃくちゃ疲れた。
ドーレムと戦ったからだけじゃない。
電撃くらわされて、コクピットの中の水がお湯になって、サウナに入ってるみたいになった。頭のなかまで蒸しあげられそうになって、もうダメかって思ったとき、ドーレムのむこうにかすかに東京ジュピターが見えた。地平線の彼方から、赤い球体がほんのわずかに頭をのぞかせていた。
おれの故郷。帰るべき場所。帰れない場所。朝比奈や守、ほかの友だちがいる場所。おふくろがいる場所。
あのとき、ドーレムを倒したいとか、そういうことは思わなかった。ただ、東京ジュピターにむかおうとするのを邪魔するやつをぶっ飛ばしてやりたかっただけだ。そうしたらビームの剣がのびて、ドーレムをつらぬいた。
ドーレムがいなくなったとき……。
おれを邪魔するものはいなくなったとき……。
行こうと思えば、東京に帰れた。
だけど、帰れなかった。
ふりむくとニライカナイが見えた。
遙さんや恵やほかの人たちがいる場所。おれとつながりを持ってしまった場所。そのつながりを捨てるのか? と自分に問いかけた。
答えはでなかったけど、なぜかおれは東京ジュピターに背をむけていた。
おふくろに背をむけていた。
そんなことを思いかえしながらフェリーに乗るために海岸通りを歩いていると、堤防に寝ている人の影があった。昼間のラムネのおじさんだ。
「よう」
帽子の下から、人のよさそうな目がのぞいている。起こしちゃったかな?
「ずっとここで寝てたんですか?」
「風が気持ちよくてね。つい寝こんじまったよ」
よっこらしょ、っておじさんは起きあがった。風がおれの髪をなでていく。たしかに気持ちいいや。
「きみはどうして働いてるんだい?」
いきなりの問いかけに、どぎまぎしてしまう。
「家庭の事情ってやつかい?」
「そういうわけじゃないんです。ただ……」
ただ、なんだよ。ラーゼフォンに乗って戦ってるんです、っていうのか? 機密あつかいだよな。機密保持なんたらかんたらっていう書類にサインさせられたもの。二度しか会ったことのないおじさんにしゃべれるわけがないや。おれはてんで関係ないことを口にした。
「東京ってどっちですか?」
おじさんは黙って、ある方向を指さした。そうか、あっちにあるのか。
「なぜだい?」
「ただ、つながってる気がするんです」
そう。つながってるんだ。おれは。
東京と。
離れてたって、つながってるんだ。
「そうかい……」
そうつぶやくおじさんの横顔に、夕日が複雑な影を落としていた。
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第三章 凍る聖夜
断章1 如月 樹
「壮観ですなあ。これがご神体ですか」
やれやれ。やっかいな男だ。なんにでも興味をもつ。司令部もなぜプレスにネリヤ神殿の取材許可まで出したのだろう。
「しかし、神さまもケガをすることがあるんですな」
ラーゼフォンはこのあいだの戦闘で一部破損している。
「だいじょうぶ。あの水柱がご神体の傷をいやしてくれます」
べつに探られたからどうということはないが、七森くんが出かけているので、相手をしなければならないのがうっとうしい。ぼくにはやるべきことがある。作業班が海底百二十メートルから引きあげたドーレムの一部を調べねばならない。
それにしてもドーレムは不思議なものだ。動力システムがまったくわからない。分析にかけてみても、それらしい構造は見つけられない。単純にいってしまえば土と石の塊だ。これが動くなんて、まるでユダヤ教の伝説の巨人ではないか。
「ほう、これがやつらの残骸ですか……」
「最重要極秘資料です」
ほうほう、と感心しながら弐神は写真を撮ろうとする。おっと、それはダメだ。カメラを横から取りあげ、メディアをひきぬく。
「取材許可はおりたんですがねえ」
「撮影はダメなんです」
「そりゃあ、すみません」
悪びれた風もない。あっさりしたものだ。たぶん、服のどこかに隠しカメラをしこんでいるのだろう。あとで出るときに電磁波を一瞬だけ浴びせれば、対処できることだ。ぼくはドーレムの残骸を調査する仕事にもどった。
おや? なんだろう、これは。乾いた土の塊から青い結晶がのぞいている。指先でつまむと、簡単にはがれた。見たこともない結晶体だ。
弐神が手許をのぞきこんでくる。ぼくはその結晶をポケットにしまい、立ちあがった。
「出ましょうか」
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1
「泳ぎ行こっか」
恵がとつぜんいいだした。
「はあ?」
「海よ。海。クリスマスだしさあ」
クリスマスに海……。なんかピンとこないなあ。ほんとニライカナイは南の島だ。
「いいよ」
「遠慮すんなって。お姉ちゃんたちと行く約束してるんだ。綾人も誘えっていわれてんの」
と、なかば強引に浜辺に連れてこられた。砂浜は焼けるように熱く、むっとした潮風が頬をなでていく。といってもおれは、ほら、泳ぎが得意じゃないから、ビーチパラソルの下にディレクターズ・チェアを広げて絵を描きはじめた。例の絵だ。岸に立つ少女のうしろ姿。波の感じをつかみたいと思ってたから、ちょうどいい。
熱中して描いていたら、ひと泳ぎしてきた恵が近づいてきた。
「ねえ、いつもなに描いてるわけ?」
「いいだろ。べつに」
描きかけの絵を見られるのヤなんだよ。
「なんだったらさあ、わたしがモデルになったげようか」
水着の恵がポーズをつけた。色気もなにもあったもんじゃない。
「遠慮しときます」
「んだとー!」
怒った恵がスケッチブックを奪おうとする。されてたまるかともみあっているうちに、ウィンドパーカーの胸がはだけ、例のアザが見えてしまった。おれのトラウマだ。
恵がきょとんと不思議そうな顔をする。
「それなに? むこうで流行ってたの?」
これ見てそんなこというやつに生まれてはじめてお目にかかったよ。好きでこんなことするやつがいると思ってんのかね。
「小さいときからあんの」
「モーコハン?」
はあ? 蒙古斑っていったら、赤んぼのお尻にあるやつだろ。
でも、そうやって混ぜっかえしてくれるのがちょっとうれしかった。たぶん、彼女はおれがこれを気にしているってわかったんだと思う。だから、わざとおボケなことをいっているんだ。
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断章2 紫東 遙
むこうで恵と綾人くんがじゃれあってる。いいなあ、若い連中は。わたしはといえば、浜辺にまでモバイル持ちこんで仕事している。〆切前の小説家みたいだ。
「遙さん、なにテンパってるの?」
日光浴しているキムが不思議そうにたずねてきた。
「ちょっとねえ、残務整理」
「きょう、オフじゃないの?」
恵があきれたようにこちらを見た。
「オフよ。だからこうして、のんびり遊んでるんじゃない」
「それ……遊びじゃありませんよ」
綾人くんのいうとおり。ほんとうはU―06からの探査データだ。この解析結果が正しいとしたら……。
そのとき、背後から聞きなれた声がした。
「やあ、いい陽気でなにより」
樹くんだ。
「明日の夜、わが家でささやかなパーティを開くんだ」
「学者ってヒマよねえ」
思わずちょっと皮肉をいってみたくなる。
「こんなときにクリスマス・パーティなんてよく開けるわね」
「きみの栄転祝いもかねてね」
「あなたに祝ってもらう義理はないわ」
「かたく考えないで」
あいかわらず優しい声だわ。だけど、もうその声に心は動かない。
「たまにはみんなで楽しむのもいいだろ? 作戦部からもおおぜい来るし。五味くんとか八雲くんとか」
八雲くんの名前を聞いたとたん、恵がうれしそうに反応した。
「ほんとですか? わたしも行く行く!」
恵が八雲くん狙いなのは見え見えだ。だけど、かれは表面ほどにはいい男だとは思わない。一度、姉としてゆっくり恵と話さなきゃならないんだけど。
「もちろんきみも来てくれるよね」
「わかったわ。そのテに乗ってあげる」
「そういってくれると思ってたよ。……では、みなさん、明日七時にお待ちしております」
ほんと調子いいんだから。
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断章3 七森小夜子
ほんと調子いいんだから。パーティやるっていうから、ふたりっきりのかな、なんて期待してたのに、いつのまにやら大がかり。研究部から作戦部の連中まで呼ぼうなんてさ。遙にまで声かけることないじゃないの。
あん。なによ、前の車。のろのろ!
あたしはシフトレバーをたたきこみ、エンジンをうならせて、ぬきさった。だけど、まだ前に一台大きなトラックがいた。ちぇっ。ついてないの。盛大にクラクションを鳴らしてやったけど、トラックは聞く耳もたず。のんびり、のろのろ走りつづけてる。
ようやく先生のお宅についたときには、雲がどんよりとたれこめ、少し肌寒くなってきていた。浜辺でうかれてる連中ざまーみろっての。
「あのさ」
浜辺からこっち黙っていた樹先生が、ちょっといいにくそうに口を開いた。
「なんです」
つっけんどんに聞きかえす。
「少し早いんだけど。これ……クリスマスプレゼント」
え? え? ほんと?
自分の目が信じられない。でも、それはたしかに樹先生の指先にぶらさがっている。きれいな青い宝石のペンダント。いままで何年も先生といっしょに研究しつづけてきたけど、プレゼントもらえるなんて……。さっきまで硬くちぢこまっていた心が、ゆっくりと溶けていく。
「見たこともない石……。高いんでしょ?」
「いつもよくやってくれるから」
ふわりと先生の匂いが広がる。まるで抱きかかえるようにして、わざわざペンダントを首にかけてくれた。
い、生きててよかった。
わずかな重さが首にかかる。これって樹先生の思いの重さですよね。わたしには世界でいちばんうれしいプレゼント。ヘッドの青い宝石を指でもてあそぶ。なんだろう、これ。見たこともない石だわ。青く透きとおっているのに、その奥に不思議なきらめきを秘めている。わずかな指の動きでも、きらきらと反射して美しい。
うれしい。胸がしめつけられるほどうれしい。
ふと見あげると、どんよりと重い空。
「あ……先生、ほら」
冬の使者が空から舞いおりようとしていた。
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2
急に寒くなったと思ったら、雪だ。いくらなんでも、そりゃないだろ。さっきまで泳げるほど暑くて、いまは雪。恵はウィンドブレーカーはおって大騒ぎしてる。
「雪だ。雪だあ」
はしゃぎすぎだよ。恵は掌で受けたり、口をバカみたいに開けて落ちてくる雪をなめたりしてる。
「冷たぁ。これが雪なんだあ」
「雪、知らないの?」
「だって、引っ越してきてから島から出たことないもん」
恵は抗議するように口をとがらせた。そうか。雪見たことないんだ……。この南の島にいたら雪なんか知らないだろうけどさ、海見たことないっていわれたぐらいのカルチャーショックは受けた。
「降雪なんて観測史上初ね」
キムさんが、よどんだ空を見あげながらいった。
「つもるのかな」
「まさか」
恵の言葉を否定していたけど、その顔は自信なげだった。
「だよね。どうせなら明日のイブにふればよかったのに」
そんなの期待するなよ。ホワイトクリスマスなんて、東京でもないぞ。そんなことより、早く帰ろうよ。風邪ひいちゃう。こんな寒いと。
「へくしょん」
ほら、くしゃみが出た。
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断章4 一色 真
暖房装置などはなからないショット・バーの中は、うすら寒かった。
「ホットラム」
接触者が隣の席につくなり、そう注文した。ホットラムが冷えた店内にあたたかそうな湯気をあげる。
「まさかこんな南の島でこいつを注文するとは思ってませんでしたよ。……キリストさんの誕生日に乾杯。おっとこりゃ前祝いですな」
わたしは品のない男は嫌いだ。
「クリスマスはもともと冬至の祝日だ。ミトラ教における太陽の神ミトラが、冬至に死んでその三日後に復活したという伝承があり、冬至の祭があった。それをキリスト教が勝手に誕生日にしたんだ」
「三二五年ニケア公会議で正式に制定されたんでしたっけね」
この男、やはり見かけどおりの男ではないようだ。手を組むにはいいかもしれない。
窓の外を雪がふっている。道も人も白く染めて。白はいい。なにものにも穢されず、なにものにも染まらず、ただひたすらに白。わたしは雪が好きだ。
白い色で思いだしたのだろうか、男がみょうなことをいいだした。
「子どものころ、漁師だったじいさんが白いクジラを見たっていいましてね。それで、おまえにこれをやろうって、だいじにしてたナイフをいきなりおれにくれたんですよ」
間を置き、ホットラムを音をたててすする。
「で、つぎの漁にでたっきり、じいさんは帰ってこなかった……。じいさん、やっぱりあのとき自分が死ぬの知ってたんですかね。あなた、どう思います?」
自分が死ぬべきときを知り、死んでいった老人の話。そのあとを託された男の話。つまりは自分が信頼できる男だといいたいのだろう。だが、無駄だ。わたしはだれも信頼しない。信じていいのは自分だけだ。そのことを、あの島で徹底的に教えこまれた。だから、きみもせいぜい利用させてもらおう。弐神くん。
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3
はくしょん――。
くしゃみで目がさめた。寒い。寒すぎるよ。きのうまで暑くてはいでしまっていた夏がけに、頭の先までくるまっても芯から冷えてくる。起きだしても着る服がないじゃないか。そもそも東京から服なんてなんにも持ってこなかったし、あるものといえば夏服ばっかり。探してみても、出てきたのはブチを入れたスーツケースにいっしょに押しこまれていたビラビラのガウンだけだ。趣味悪すぎ。だけど背に腹はかえられぬ。長袖はこれくらいしかない。
あるものを重ね着して、そのうえにビラビラガウンを着おわったころ、表から雪を踏む足音が聞こえてきた。だれだ? こんな朝にジョギングしてるやつは。
玄関先からのぞいてみると遙さんだった。走りおえた遙さんは、両手を膝につき、苦しそうに息をしている。その息が白い。
「なんでそんな一生懸命なの?」
「はあ……はあ……なんでだと思う……」
おれを見た遙さんがあきれたような顔になった。
「なに、そのカッコ」
「しょうがないでしょ。冬服なんて持ってないんだから」
そんな、どーしようもないセンスねって顔で見ないでくれる? おれのセンスじゃないんだから。遙さんは、しかし、急になにかを思いだしたように、うれしいような恥ずかしいような顔になった。
「ちょっとまってて」
まってて、って。ちょっと。おれ、こんな寒い玄関先に、こんなサムい格好でつっ立ってなきゃならないわけ? おーい。遙さーん。
しばらくして離れからもどってきた遙さんが、恥ずかしそうになにかをさしだした。
「これ、使って」
手袋だ。男物みたいだけど、クローバーの刺繍が少女趣味っぽい。手編みかな。だけど、遙さんがこんな少女趣味なの編むかあ?
「ありがとう。でも、これ、どうしたんですか?」
そういっても遙さんは笑って答えない。ただ、すごくうれしそうな顔をしていたことだけはまちがいない。
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断章5 功刀 仁
「U―06の報告書からすると、しとめそこなったのかねえ」
亘理長官がのんびりとしているが、懸念をふくんだ声でいった。
「断定はできませんが」
「クリスマスだというのに、だいじょうぶかね」
作戦部の人員の多くがクリスマス休暇をとっている。もし、復活ドーレムの攻撃があったとしたらどうするのか、という「だいじょうぶかね」だ。
「シフトに問題はありません」
そうはいったものの、窓の外は雪。この異常気象がドーレムのもたらしたものだとしたら……。
「ホワイトクリスマスだねえ。……そういえば、樹のところでパーティをやるそうだ」
雪を見ていた長官が思いだしたようにいった。
「わたしには関係ありません」
そういう晴れやかな場所は、わたしにはにあわない。いるべき場所を十五年前にうしなった男だ。それより……。
「それより、会ってやらないんですか?」
長官の背中に言葉がぶつかり、床に落ちた。
だれに会ってやるべきなのか、いわなくてもわかっているはずだ。長官は答えないが、いいのだろうか、それで。わたしにはわからない。いるべき場所を十五年前にうしなった男だから。
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断章6 金 胡月
不思議な感じ。ニライカナイに雪が降るなんて。南の島に雪ぞ降る、というわけね。
神至市の雑踏の人々も傘をさしつつ、その視線は空を見あげている。みんな、雪がめずらしいのだ。
「すごい。ほんとにホワイトクリスマスだね」
ここにもひとり、寒さにめげず雪を単純によろこんでいる人がいる。メグだった。
「白いツリーが見られるかも。……あたし、雪に足跡つけるのってはじめて。おもしろいよね。きゅ、きゅって鳴るんだね。まるで片栗粉の袋をもんでるみたいな音」
そういったとたん、彼女がはでにコケた。
「だいじょうぶ? メグ」
「いたたた」
顔をしかめながらも、さっき買ったばかりのプレゼントはしっかりと胸に抱きしめている。
「やっぱり、ちょっと高すぎじゃないの? そのヒール。今度はケガするよ」
手を貸して立たせてやりながらそういうと、メグはうつむいて不機嫌そうな顔になる。
「姉さんは……」
「え?」
「姉さんは、あたしの年齢には、もうこれくらい背があったんだ……」
むりに背のびをしているメグの横顔は、どこかさびしげだった。兄弟がいないからわからないけど、これだけ歳がはなれた姉妹というのはそんなにもたがいのことを意識するのだろうか。とくに妹は。
「明日から、妹がくるの。なかよくしてやってね」
耳の奥でTERRAにメグがくる前日の遙の言葉がよみがえる。
「ちょっとわけありでね。……学校でいじめにあったり、いろいろあって登校拒否してたのよ。だから、やさしくしてやってくれる?」
遙はメグのことをかわいい妹だと思っているけど、メグのほうはどう思っているのだろう。
「お姉さんにプレゼントは?」
「買うわけないじゃん」
メグは笑った。
なんか、わたしまで哀しくなってきた。
おなかがすいたので、ハンバーガーショップに入る。しかたない。プレゼント買ったばかりだから、緊縮財政だ。
「ねえ、お姉さんのこと、そんなに嫌いなの?」
メグにはへんにまわりくどいいい方をしても通用しない。直接、疑問をぶつけてみた。
「そんなにイヤってわけじゃないよ。お姉ちゃんのこと……。完璧っぽいけど、あれで女の子らしいオバカなところもあんだ」
オバカ? 遙にはいちばんにあわない言葉だろう。それこそ、メグではないけど、完璧を演じることに努力しているタイプだから。
「むかし、すっごくあこがれてた男の子がいたらしいの。その男の子のことは忘れられないみたいで、わたせなかったプレゼントいまだに引き出しにしまいこんでるんだ」
へえ、そうなんだ。ほんと意外だった。
「ほら、引っ越したりなんだりで想い出の品なんかずいぶん処分したのにさ、あれだけはどうしても捨てられないみたい。オバカでしょ。まだ“オンナノコ”は卒業できてないのよ」
そういって笑う彼女は、“オンナノコ”を卒業できているのだろうか。むかし、とどかなかった遙の想い。メグは自分の想いを、かたわらに置いたプレゼントに託してとどけようとしている。だれに? わたしはまだ知らない。知らないことになっている。だけど、メグの行動を見ていれば、だれだかすぐにわかる。それでも確かめるために訊かねばならないだろう。
「メグ、あのさ……」
いいかけたとき、メグがアッと声をあげて立ちあがった。
窓の外を傘をさした総ちゃんが通っていく。最悪だ。
メグは聞こえるはずないのに「待ってください」とさけびながら、プレゼントをひっつかむと、店を飛びだしていった。ち、ちょっと、ちょっと。傘はどうすんの。コートは。わたしは彼女の荷物をまとめて、そのあとを追う。
「これ、使ってください」
ちょっとおどろいたような総ちゃん。この想いとどけとばかりにプレゼントをさしだす懸命なメグ。だけど、こういうとき、わたしはどうしたらいいの?
「ありがとう。中、見てもいいかな」
総ちゃんもどうして受けとるかね。あーあー、包装紙開けちゃって。箱まで開けて。これじゃあ、お店に返せないじゃない。四つ葉のクローバーの刺繍がしてある少女趣味まるだしのネクタイ。ああいうの、総ちゃんの趣味じゃないよね。なのに、かれときたら……。
「うわあ、欲しかったんだ、こういうの」
どうしてそういうかね。
「あ、あの……今夜の如月先生のパーティには?」
「うん行くつもり。恵ちゃんもくるんでしょ」
「はいっ」
「それじゃ、今夜ね」
「はいっ」
二度目のハイのトーンが高いこと。いたいけな少女にいつわりの希望。いいの? 総ちゃん、そういうことして。うしろにわたしがいるの知っててそうするの? こういうとき、かれがなにを考えているかわからなくなる。不安になる。なのに、総ちゃんはにこやかに手をふって行ってしまった。わたしの中に不安だけが残る。
「八雲さんて、やっぱお姉ちゃんのこと好きなのかな」
え? 思わず声をあげてしまう。たぶん、直感的にさっきのかれの言葉のウソを見ぬいたんだわ。だけど、真実までは見ぬけないでいる。
「そうかな……」
真実を告げるべきだ。メグにいつわりの希望をあたえてはいけない。なのに、わたしのいった言葉は……。
「そんなことないんじゃない?」
ずるいわたし。メグの傷ついた顔を見たくないから。直接、彼女を傷つけたくないから。こんな逃げかたしかできない。
「わたしも姉さんみたいだったら……」
「でも、メグと遙さんってわりと似てると思うよ。雰囲気とか仕草とかさ」
もう総ちゃんのことを非難できない。わたしもおなじだ。いつわりの希望をあたえてしまった。べつに秘密にしているわけじゃない。ただ、いう機会を逸してしまっていたら、ずるずるとこんな状況になってしまった。遅らせれば遅らせるだけ、人が深く傷つくとわかっている。ああ、いやだ。いやだ。こんなの。総ちゃんと相談して、ちゃんと決着をつけるべきなんだわ。
それができない、ずるいわたしたち。
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断章7 七森小夜子
「先週たたいたD1のかけらは、現時点においてもまだ分子結合力を失っていない。そうだな」
「はい」
功刀司令の言葉を樹先生が肯定した。
「ということは機能を保持したままの個体が、まだ近くに潜伏している可能性がある」
「非常に興味深いケースですね。ラーゼフォンが破壊したD1はいずれも分子結合力を失い、いってしまえばただの土塊《つちくれ》となってしまいました。ところが、今回は一部分とはいえ回収に成功したばかりか、U―06の報告によれば海底を移動した跡が確認されています。このようなケースを詳細に分析できれば、あるいはD1の作動原理を解明できるかもしれません」
「研究は状況が終了してからにして、いまはD1の殲滅《せんめつ》が最優先よ」
遙が横から口をはさむ。作戦司令部づき情報士官になったからって、ちょっとエラそうじゃない?
「もちろんだよ、紫東大尉」
樹先生は意味ありげな視線を遙におくった。彼女はムッとしたような顔を……ううん、ちがう。あれはまんざらでもないって顔よ、ほんとうは。胸のあたりがどんよりと冷たい。
自販機の前で遙にまた会った。会いたくなかったけど。
「さすがね。新しいセクションでも、問題なくこなすじゃない」
皮肉をこめたつもりだけど、ちっとも効かなかった。
「職場にさあ、気になる人がいるとさ、はりきっちゃうじゃない」
なに、こいつ。そんなことさらっと、こんなところでいえちゃうわけ? 胸のあたりが冷たく硬くなっていく。
「そうなんだ……。最近?」
「前からずっとよ」
「そう」
できるだけ平静をたもっていったつもりだけど、ほんとは胸倉をつかんで訊いてやりたかった。
「わたしの知ってる人?」
樹先生なんでしょ。そうなんでしょ。
「ないしょ」
ないしょ、じゃないでしょ。知ってるんだから。わかってるんだから。あんた、樹先生のこと好きなんだ。だから、はりきっちゃうんだ。だから、人がいる前ではぶつかっているようなふりしてるんだ。ふたりでしめしあわせた芝居なんだ。
「あら、すてきなペンダントしてるじゃない」
もの欲しそうな女の目が、樹先生からもらったペンダントにそそがれる。イヤよ! あんたにはわたさないから。これは、わたしがもらったんだからね。樹先生に直接かけてもらったんだから。
と握りしめた宝石はやけに冷たかった。指先まで凍りつきそうな冷たさだった。
遙と窓際の席に座る。なんで、平気な顔して座ってられるんだろう、わたし。ううん、平気じゃない。だって顔が凍りついてるもの。心が凍りついてるもの。遙も話しかけられずにこまってる。でも、彼女がいけないんだ。わたしの樹先生に心をよせたりするから。好きになったりするから。あんたなんかよりずっと長く樹先生のことを思ってるんだから。ずっとずっと生まれる前から好きなぐらい、好きなんだから。
あんたなんかにわたさない。
樹先生をわたしたりはしない。先生はわたしのもの。わたしだけのもの。ほかのだれも先生の心に指一本ふれさせない。
「紫東大尉、至急司令センターまでおいでください」
すくわれたような顔してあんたは立ちあがる。
「じゃ、今夜のパーティで」
今夜のパーティで……。なにするつもり? 酔って先生を口説くの? そんなことはさせない、絶対に。先生はわたしのもの。わたしだけのもの。ほかのだれも先生の心に指一本ふれさせない。先生はわたしのもの。わたしだけのもの。ほかのだれも先生の心に指一本ふれさせない……。
おなじ言葉がくりかえされ、そのたびに心の涙は氷のように冷たく硬く結晶していく。
先生はわたしのもの。わたしだけのもの。ほかのだれも先生の心に指一本ふれさせない。
そうよ。だれにもわたさない。わたすぐらいだったら……。
壊してしまおう。
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断章8 如月 樹
かれの定期検診。変化の兆候はない。まだぼくと同じだ。しかし、いずれこれが変化していくのだろう。モニタリングシステムの中のかれ。腹に刻まれた〔ゼフォンの刻印〕。
ドアが開く音がして、長官が入ってきた。目で挨拶し、モニターに視線をもどす。まだまともに見ることができない。ぶきようなぼく。長官はモニターに映る〔ゼフォンの刻印〕を見て、小さくため息をついた。
「あの印でイヤな思いをさせたのかもしれんな」
あなたは……。あなたはそんなことをいうのですか。ぼくの前で。
「あの子は寒くないのか?」
あたたかな長官の言葉。
「さあ、ぼくはかれじゃないので」
冷たいぼくの言葉。
ちらりと見あげると、一瞬、ふたりの視線がからみあったような気がするけど、たぶん気のせいだろう。長官がそんなあたたかな目をむけてくるはずがない。
長官の来訪に心を乱されたぼくは、検査結果表を見ても、その数値の意味がまったくわからない。意味不明の数字が目から入って、どこか遠くへ消えていく。廊下を歩きながら、つかまえようとしたけど、それは指先をすりぬけていくばかりだった。
寒いな。
ふと目の前を雪が舞う。
おいおい、いくらなんでも幻覚を見るほどじゃないだろう。と顔をあげると、奥にある階段の上からちらほら雪が舞っている。……だって、室内だよ。
まさか! ぼくは一気に階段をかけあがった。そこに七森くんがいた。
雪の舞いちる中に七森くんが立っていた。窓はすべて閉まっているのに、雪はまるで彼女の周囲からわきだすように舞いちっている。
「わたしはちゃんとやっている……。なのに、なんでわたしにイジワルするの。わたしは悪くない……。わたしは悪くない……」
言葉がつむがれるたびに、宙に雪片が生まれ舞いちる。
「七森くん」
呼びかけると、彼女がこちらをむいた。哀しい女の瞳だ。
「おまえがあたためてくれないからだ……」
その胸にぶらさがっているペンダント。青い石がいつのまにか増殖している。べつになんの気なしに彼女にあたえたけど、やはりあれがドーレムの本体だったんだ。
「七森くん、それを捨てろ!」
とたんに彼女の背後の窓が割れ、猛烈な吹雪がふきこんできた。
「小夜子!」
「とうさんも兄さんも……許してくれない……」
ふらりと七森くんの体がかたむく。窓の外にむかって。虚空にむかって。
「小夜子!」
もう一度さけんで窓際にかけよる。そのときにはもう彼女の姿は、はるか下の運河にあった。運河が凍っていく。彼女の通ったあとを氷の道がつづく。氷の指先がすべてを凍てつかせ、水も、木も、道路も、ビルも、なにもかもが冷たい結晶に包まれる。
なんということだ……。
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4
へくしょん――。
寒いよ。ラーゼフォンのコクピットって空調ないのかな。ったく、こんなときに呼びだされたうえに、功刀《くぬぎ》のおっさんにさっさと倒せなんていわれる。クリスマスに来ていいのは、サンタさんだけだぞ。ドーレムなんか出てくんなよ。おっさんじゃないけど、さっさと倒してやる。
モニターに氷でできたツリーみたいなドーレムが映った。やってやるよ。やってやろうじゃないか。
ラーゼフォンのこぶしをふりあげたとき、ドーレムの顔が見えた。額のところにある氷に、なにかが封じこまれてる。あれは……。
ためらった瞬間、ドーレムが吼えた。
収束したD1アリアが一気にラーゼフォンにたたきつけられる。
盾でふせぐのがせいいっぱいだ。ものすごい衝撃が襲いかかってくる。
「なにやってんのよ、バカ! さっさと反撃しなさいよ」
恵のキンキン声が鼓膜につきささりそうだ。
「ダメだよ。そんなことしたら、死んじゃう!」
「死ぬって、なにわけのわかんないこといってんの」
見えないのかよ、あれが。
「あのドーレムの中には、小夜子さんが取りこまれてるんだ!」
そう。小夜子さんだった。氷の中に封じこめられているのは、まちがいなく彼女だ。
こっちが攻撃できないと思って、何発もビームを撃ってきやがる。
かわすのがやっとだ。
「あいつを倒したら、小夜子さんまでまきぞいにしちゃうよ!」
おれが必死でいってるってのに、功刀のおっさんが冷たくいいはなちやがった。
「D1殲滅が最優先だ。人命はかまわん」
な……、なんだと!
「なにいってんのか、わかってんのか! あんたは!」
「TERRAは人命救助の組織ではない。もし、七森くんを助けたいなら、奇蹟でもおこしたまえ」
ふざけんなよ!
人の命をなんだと思ってんだよ。おれに小夜子さんを殺せっていうのか!
ムカついて、どなりつけてやろうと思ったら、直撃をくらった。
ものすごい衝撃。
それだけじゃない。
これは……。
冷気だ。
ものすごい冷気がたたきつけられるように、コクピットに侵入してきた。ラーゼフォンの腕も白く凍りはじめる。腕だけじゃない。全身が凍りついていく。
寒い。
寒いよ、遙さん。
寒すぎるよ、ここは。
ラーゼフォンは動かない。どんなに動かそうとしても、指先ひとつ動いてくれない。氷に閉じこめられてしまった。
寒い。
ガチガチと歯が鳴るぐらい震えがくる。震えってのは体温をあげようとする自己防衛機能のひとつだっていうけど、ちっとも体はあたたまらない。腰のあたりが痛くなってくるほど冷たい。
指先の感覚はもうない。
さっきまでは握ったり、開いたりできたんだけど、もう動かない。まるで手首から先に氷の塊をつけているみたいだ。
静かだ。
司令センターからの声も聞こえない。
おれの声もむこうに聞こえないんだろう。
このまま死んじゃうのかな。
遙さんに手袋のお礼いわずじまいか……。
寒い……。
ふうっと寒さを感じなくなった。
どれくらい意識を失っていたろう、自分の名前を呼ばれたような気がして、目がさめた。
とたんに冷気がしめつけるように襲いかかってくる。
寒い。
指先が、ふわりと暖かくなった。
ウソだ。
これだけ冷えたあとに暖められたら、痛みを感じるはずだ。じんじんと刺すような痛みを。だから、これは幻想だ。
そう思って目をあけると、手袋をはめていた。
遙さんにもらった手袋だ。
そんなはずないよ。だって、これは置いてきたはずだもの。
だけど、あったかい。
遙さんに手を握られてるみたいにあったかい。
東京から連れだされたとき、おれの背中を温めてくれた手のぬくもりだ。
澄んだ音がした。
コクピットのある水面に波紋がひろがった。
そして、ラーゼフォンは自由になった。
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断章9 七森小夜子
これ……。
なに……。
わたし……。
光。
光。
いや! いやああっ!
羽根の生えた巨人。ラーゼフォン。あれはイヤなもの。わたしを傷つけるもの。
封じこめた氷からよみがえってきて、またわたしを傷つけようとしている。
いやっ!
傷つけられたくない!
わたしは叫ぶ。
声がするどい剣になる。
だけど、ラーゼフォンはかわす。
わたしを傷つけるために。
なんで?
なんで?
なんで、わたしは傷つけられなきゃならないの。ただ幸せになりたいだけなのに。みんなだってそうでしょ。それなのに、なんでいじめられなきゃならないの。
いやあああっ!
痛い。
痛い。
ラーゼフォンが傷つける。
綾人が傷つける。
子どものくせに。
なにもわからないガキのくせに。
なんの権利があるの。あんたに!
あんたなんか、あんたなんか、あんたなんか、あんたなんか、あんたなんか……。
ラーゼフォンの剣が、わたしの体をえぐっていく。
わたしの心をえぐっていく。
痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。いたい。いたい。いたい。イタイ。
やめて。
やめてえええええっ!
そのとき、わたしの心に光がさしこんだ。
光の中に、とうさんと兄さんの影が見える。ふたりともなにかいっている。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
みんなのためだったの。そう信じてたの。だって、あの人がそういうから。みんなのためだって。とうさんや兄さんのためだって。幸せになるためにはしかたがないと思ったの。そうしたら、あんなことになってしまって。許して。許して。ごめんなさい。ごめんなさい。やめて。そんな目で見ないで。そんなやさしい目で。そんなやさしい目で見られたら、わたし……。
泣いてしまう。
「気がついたかい?」
あれ? 樹先生。なんで、わたし、ベッドに寝てるんだろう。ここ、病室よね。あれ?
「おぼえていないのかい?」
なにを? なにがあったの? たしか、功刀司令のところで遙をふくめてミーティングして、それから……。それから……。気がつくと、ここにいた。
「わたし……貧血おこしたんですか?」
「ま、そんなとこかな」
樹先生はやさしげに笑った。その笑顔を見て、反射的に胸元に手をやる。ない! ない。ない。どうしよう。
「先生にいただいたペンダント……」
「ここに運ばれてきたときには、もうしてなかったよ」
そんな……。せっかくもらったペンダントなのに。先生にはじめてもらったプレゼントなのに。それをなくしてしまうなんて。胸がしめつけられるほど痛くなった。
「泣かなくてもいいよ」
「だって……せっかく高価なものをいただいたのに……」
「気にしなくていい」
先生はなぐさめてくれた。なんでそんなにやさしいの? わたしが倒れたから?
わたしは先生を凝視めた。気づいてみると、いつもとちがう格好をしてる。素敵なスーツ姿だ。わたしの視線に気づいて、先生は、ああ、これ? とうなずいた。
「ほら、パーティだからね」
そうだ。今晩はパーティじゃない。起きあがろうとするけど、体に力が入らない。
「起きちゃダメだよ」
だけど、今晩のためにあのドレス買ったのに! むだになっちゃう。
「残念だけど、今夜はおとなしく寝てなさい」
少しきびしい声でいって、先生はいい子いい子するようにわたしの頭をなでてくれた。ほんの少しだけ先生の肌のぬくもりを感じる。だけど、だからって悲しくなくなるわけじゃない。涙が流れなくなるわけじゃない。
プレゼントはなくすわ、ドレスは見せられないわ。わたしがなにしたっていうの。なんでこんな目にあわなきゃならないの。
先生が出ていったあと、毛布をかぶって泣いた。声を殺して泣いた。
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断章10 八雲総一
パーティは盛況だった。作戦部や研究部のみんなが大勢あつまって、ホスト役の樹さんはいそがしそうだった。料理もおいしいし、お酒もおいしい。いうことないね。なのに、キムはやけに深刻そうな顔して、ぼくを外のテラスに誘った。まだあのドーレムの影響が残っていて、外は少し肌寒い。あちらこちらに雪が溶けのこっていて、クリスマスって感じがする。
「それ、メグが贈ったやつでしょ」
キムの視線がネクタイにそそがれる。
「どうして、それをつけられるわけ?」
どうしてって、きのうもらっといてつけなかったら、失礼ってもんじゃないのかな。なんでそんな非難がましい目で見られなきゃならないんだろう。
「顔、けわしいよ。せっかくのパーティなんだからさあ、楽しまなきゃ」
そのとき、ドアが開いて、恵ちゃんが姿を現した。彼女を見て、キムはばつの悪そうな顔になる。なんでだろう。
「メリークリスマス。恵ちゃん」
「メ、メリークリスマス」
恵ちゃんはにっこりと満面の笑みを浮かべた。
「かわいいドレスだね」
「ほんとですか?」
「うん、とてもにあってるよ」
「ありがとうございます。お世辞でもそういってもらえるとうれしい。……あ、それ」
「さっそくつけてみたよ。にあう?」
「ええ。……って、自分のセンスをほめてることになるのかな?」
「そうかもね」
「よかった。八雲さんによろこんでもらえて」
はにかむように笑う恵ちゃん、ちょっとかわいいよね。ちらりと見ると、キムがすごく怖い目でこっちを見ている。きょうはヘンだよ、キム。少しぐらい恵ちゃんと話したってかまわないだろ。
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断章11 紫東 遙
少し酔いがまわった体をソファーにあずける。ほんとうは報告書とか書かなきゃいけないんだけど、むりして参加してよかったと思う。
「どう、楽しんでる?」
いそがしい合間をぬって樹くんが声をかけてきた。
「楽しいわ。さすがあなたがホストだけのことはあるわね。そつがない」
「おほめいただいて光栄です。……でも、ほめたからって、プレゼントはないよ」
ツリーに飾ってあるサンタ人形が笑っている。
「ねえ、樹くんはいつまでサンタさん信じてた?」
「サンタ?……ぼくは子どものころから、そんなものは信じていなかった」
へんなこといったのだろうか。やけに傷ついたような顔をしている。
「きみは?」
「わたし……?」
こんどはわたしが傷つく番だ。
十五年前のクリスマス。わたそうと決心していたプレゼント。なのに、急に引っ越すことになって……。そして、確信したのだ。サンタなんかいないって。いたら奇蹟をおこして、会わせてくれるはずだった。
「さてと、ぼくはみなさんのお相手をしなきゃならないから。……お酒はまだいくらでもあるから、どうぞ。酔いつぶれたら泊まっていけばいい」
「そのテにはのらないわよ」
笑ってグラスをかかげる。そのむこうから今度は綾人くんがやってきた。
「遙さん」
「綾人くん。きょうはお疲れさま。D1は完全にその活動を停止したっていう報告を受けてるわ。……って、仕事のこと忘れるためにきてるのに、ダメねえ」
綾人くんは小さく笑った。
「でも、ほんと心配したわよ。ラーゼフォンの活動は完全に停止しちゃうわ、あなたとの連絡はつかないわ。死んじゃったんじゃないかと思って」
「心配かけてすみませんでした。……あ、そうだ。これ」
そういってポケットから手袋を出した。胸がきゅんとなる。
「ありがとうございました。とってもあったかかった」
「ほんとに?」
「ええ。ラーゼフォンの中でも」
「ラーゼフォンにまで持ちこんだの?」
「あ、いえ。そういうわけじゃなくて。……でも、役にたちました」
「べつに返してくれなくてもいいのよ」
「ええ。でも、手編みだし、だいじにしてるんじゃないんですか?」
「いいの。きっときみがもらってくれれば、その手袋もよろこぶと思うわ」
できるだけ軽くいってみたけど、胸が熱いのは酔いのせいばかりじゃなかった。
「そうですか。……じゃあ、クリスマスプレゼントだと思って」
かれは微笑んで手袋を抱きしめるように胸元にあてた。
涙が出そうだった。
「代わりにっていうとなんですけど……」
綾人くんはまたポケットをごそごそとやって、小さな包みを出した。
「なに?」
ポケットの中でもまれてシワのよったプレゼントの包み。かれらしい。
「ちゃんと選ぼうと思ってたんですけど、ドーレムが現れて時間がなくて、それで、そんなものしか思いつかなくて……」
包みをあけると、洋酒のミニボトル。吹きだしてしまった。さぞかし大酒呑みと思われていることだろう。
そのとき、ピアノを弾いていた久遠が曲を変えた。あれは……「カトゥンの定め」だ。なぜ? なぜ、その曲を弾くの。音をたてて記憶がよみがえってくる。その強さに圧倒されそうになる。ダメ。それをいま弾かないで。わたしを引き裂かないで。
「あれ?」
不思議そうな顔をして綾人くんが久遠を見る。
「この曲、どっかで聞いたことある……」
心がうれしさと悲しさで、せつないほどにしめつけられる。
「思いだせないや。どっかで聞いたことあるはずなんだけど……絶対に」
あなたは聞いたことがあるのよ、この曲を。あの日、あの場所で。
でも、わたしにはわかった。サンタクロースはやっぱりいるんだって。
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第四章 弐神譲二の報告
四方田洋平
え? ああ、十五年前のきょう? あの日はねえ、なにやってたかなあ……。って、冗談、冗談。
忘れるわけないっしょ。二〇一二年十二月二十九日。MU大戦の勃発の日を。
だけどさあ、ほんとはあんまり思い出したくないんだよね。え? 特集記事? TERRA職員の生の声を載せたい? 匿名にしといてくれるかな。
あの日いた場所って、あんまりおれにとっちゃ重要じゃないんだよね。強いていえば、ネットの海をただよっていたってところ。うん、くそガキハッカーだね。いや、クラッシャーじゃないから、ウィルスばらまいたりってのは趣味じゃないし。どちらかっていうと、プロテクト・プログラムを解析したりっていう、おとなしい部類だよ。まあ、国連安全保障局《UNSA》に誘われたりもしたけどね。あ、もちろんそのころじゃないよ。大学時代だったかな。
ねえ、インターネットって、どうやってできたか知ってる?
あのさ、あれってじつは一九五〇年代、冷戦はなやかなりしころの産物なんだよ。むかしの電話回線網ってさあ、だいたいキー局があって、そこからいくつものサブ局に分かれ、さらに各家庭に分かれ、みたいに分岐してたんだ。いっちまえばピラミッド構造だったんだよね。
でもさ、原爆とか落ちて、キー局が破壊されたらどうなると思う? たとえ周辺がぶじでも、それだけで特定地域の電話は完全に不通になっちゃうでしょ。軍としちゃこまるんだよね。無線だけじゃ、情報量が限られちゃうもの。だけど、キー局ひとつ破壊されたら、不通になっちゃう電話もこまりもの。
そこで考えだされたのがインターネットってもんなんだ。つまり、それまでA地点からB地点に電話をかけるとすると、中継ポイントって決まってたんだ。たとえば、C局、D局、E局ってぐあいにね。これだとC局破壊されただけでも、電話かけられなくなっちゃうでしょ。それをやめちゃったの。
たとえC局が破壊されても、F局を迂回して、B地点までつなぐっていう風にね。ピラミッド構造の電話網じゃなくて、もっとフラットなまさに網《ウェブ》。網だったらさ、かなり破壊されても、ほかの生きてる場所同士は、迂回して、迂回してってやっていけばつなげられるでしょ。あみだくじみたいにさ。
え? ながながインターネットの説明されても、こまるって? まあ、聞いてよ。
そうやってできたインターネットだから、つまりはさ、どこが破壊されても通じるわけよ。アメリカがなくなろうが、日本がなくなろうがね。
ところがさ、あの日、二〇一二年十二月二十九日。インターネットはクラッシュしたんだ。おぼえてるだろ。
みんな、ムーリアンがどうの、ドーレムがどうのっていうけどさ、実質的な死亡原因の第一位はこれじゃないかと思うんだよ。
おれはあの日、ネットにつながってた。
それが一瞬にして、切断されちまったんだぜ。なにが起きたのかさっぱりわからんかった。最初はサーバーの問題か、コンピュータの問題かって悩んだけど、だんだん、ネット全体がクラッシュしたんだってわかってきた。
ぞっとしたよ。社会の根底がなくなっちゃったんだぜ。
あのときの孤独感を口で表現するのは、むずかしいね。なんていうのかな。自分がどこにいるのかもわからない。隣の人と手をつなぎたくともつなげない。そんな状態になっちゃったんだよ。
まあ、三日ぐらいで復旧したけどさ。
知り合いは大勢死んだ。ほとんどがネット上の知り合いだから、顔も名前も知らないけどね。だから、いまひとつ実感がわかないってのが本音かな。いまでも同じハンドルネームのやつ見つけると、ドキッとするなあ。
平和になってから、しばらくは世界各地を放浪した。ネットの海をただよいながらだけどさ。
気がつくと、TERRAにいた。
え? TERRAの情報ネットは安全なのかって? あ、これは完全にオフレコあつかいにしておいてほしいんだけどさ、バーベム財団から提供されたセイフティ・テクノロジーがほどこされてるから安全なんだってさ。信じられないけど、まあ、いまのところドーレムが出てきてもクラッシュしてないことは事実だよね。
紫東 恵
あ、パフェ頼んでいい? すみませーん。チョコパフェくださ〜い。
うんと、なんだっけ? MU大戦勃発の日なにしてたか? おじさん、おじさん。なんかカンちがいしてない? あたし、戦後生まれだよ。
じゃあ、MU大戦勃発について、どう思うか?
むずかしいことはわかんないけどさ、とにかく悪いムーリアンが攻めてきたわけでしょ。戦うのは当然じゃないかな。みんな、そうだよ。
あたしだっておとうさんなくしてるし。
うん。いないの。
おとうさんの顔は写真でしか知らない。それも一枚だけ。
さびしくないっていったら、ウソになるけどね。もうなれちゃってるよ。
ごめんね。記事の内容にあわないのにインタビューなんか受けちゃってさ。
チョコパフェは食べていいの? ありがとう。
……おじさん、不精ヒゲそったほうがいいと思うよ。
ドニー・ウォン
なんでコード・ネームがトンプーなのかって? 話すと長くなりますよ、いいですか?
おれ、中国名が王銅春っていうんです。じいさんが古典に明るくてね。あ、おれはダメですよ、てんで。
で、そのじいさんが杜甫の有名な「赤壁《せきへき》」の一文から銅春ってつけたんですよ。うろおぼえですけど、もし東風が吹かなかったら、曹操はしりぞかなかったろうって、たしかそんなような内容の詩です。だから東風《トンプー》。そういうわけです。
あの日ですか。すみません、小さかったんで、あんまりおぼえてないんです。そのあとの混乱のほうが印象が強くて。
日本からの引き揚げ組が、ぼくたちの街にもやってきたりして、かなり混乱してましたね。日帝の支配をもちだしてきて、日本への援助なんかするなって、強硬に主張する人たちもいれば、アジア全体の復興には日本経済が立ち直ることが必要だっていう人たちもいましたし。後者は引き揚げ組の人が多かったんで、一族の中でもいがみあったりしてね。ちょっとつらかったです。
大陸のほうでは内乱が起きるし、それがまたこっちでも混乱をまねくし、たいへんでした。だから、国連軍に参加したんです。ええ、ほんとうは戦うことはイヤなんですけど、戦うことはいけないんだって正論をふりまわしても、人は戦いをやめませんから。ある程度の武力は必要だと思っています。
特にTERRAは対MUの組織ですから、武力の増強はいたしかたがないことでしょう。
まるで政府の答申みたいな答え方だって? はは。いじめないでくださいよ。
キャシーたちとですか? ああ、エルフィ隊長たちとは国連の士官学校時代の仲間なんです。そのころは、マエストロ、いえ、シャプラン大尉が教官でした。きびしかったですよ。訓練、訓練、勉強、勉強、また訓練って感じでしたから。
たぶん、大尉も必死だったと思います。ただでさえMUという未知の相手がいるのに、いつまでもいがみあっていた国同士の戦いに嫌気がさしてたんじゃないですか?
そのあとは、それぞれ国連軍の一員としていろいろな場所に派遣されていましたけど、またこうやって集まってきたわけです。ええ、みんな、いい仲間ですよ。
八雲総一
MU大戦勃発の日ですか? 小さすぎておぼえてません。すみません、お役に立てなくて。
あ、ちょっと用がありますので、これで失礼します。
金 胡月
あの日ですか……。
ええ、鳥取の親戚の家に。いえ、疎開先というのではなく、大戦前からそこにやっかいになっていたんです。
両親は仕事の関係で外国に行っていました。二週間という約束であずけられていたんです。両親が行った先ですか? 大戦初日に壊滅したシドニーです。
……すみません。泣いてしまったりして。
あ、いいんです。いつかはだれかに話さなければならないことですから。
そうですね。かなりきつかったです。両親が死んだっていうのに、親戚のおばさんたちは、やれ広島のだれそれは今回の騒ぎで工場がフル回転だからあそこにあずけようだとか、香港のだれそれんとこがいいんじゃないかとか、わたしの押しつけ先の相談ばかりしていましたから。はい。わたしの目の前で。
いえ、みんな、悪い人じゃないんです。ただ、わたしのような子どもを引き取る余裕がなかったっていうだけです。そういう意味では、いままで育ててくれたことは感謝しています。
わかります? そうですよね。ウソっぽい言葉ですよね。感謝してるなんて。でも、大戦あとだとよくある話でしょ。親戚じゅうをたらいまわしにされたなんて。べつにわたしだけが特別じゃありませんから。
親戚の中でも、崔《チェ》姉さんには感謝してます。彼女だけは、かばってくれたし、やさしくしてくれたんです。ええ、姉さんとはいまでもときおり会っています。
シドニーですか?
一度、行ってみようかなって思ってます。両親が死んでしまった土地を、一度だけおとずれてみようかなって。そう思えるようになったのは、最近のことですけどね。
するどいですね。はい、彼氏ができたからです。
現金なものですよね。それで両親が死んだ土地をおとずれる決心がつくなんて。
TERRAに入ったのも、そんなに強く意識はしていませんでしたけど、両親の敵討ちっていう意識があったことは事実だと思います。
MUに対抗する組織はこれだけでしたから。
如月 樹
あの日ですか?
(長い間を置いて)
いえ、ちょうど個人的にもいろいろあった時期なので。
(ふたたび長い間)
ようやく父と再会したころなんですよ。ええ。それまでは孤児院みたいなところにいました。仲間ですか? 何人かはいました。そうですね。いまはバラバラですよ。学校とちがって、楽しい思い出から同窓会するようなところじゃありませんから。
(長い間)
ぼくにとって父親っていうのは、なんていうか不思議な存在なんですよ。孤児院みたいな場所でしたから、まわりの仲間たちにもいないし。おとぎ話の王さまとお妃さま程度のリアルさしか持ってなかったんです。大きくなるにつれて、生物の仕組みを学び、自分にも父親と母親がいるんだなあって漠然と思ったぐらいです。
ただ……。
ヘンゼルとグレーテルって知ってますよね。幼かったころ、ぼくはあれが大好きで、絵本がぼろぼろになるくらい読んだんですよ。そのせいでしょうか、父親と再会したら幸せになれると信じてたんですよ。あれって、最後は悪い魔女をやっつけて、家に帰ったら、悪い継母もなくなってて、家族三人で幸せに暮らしました、というお話でしょ?
……でも、実際はちがっていた。
(長い間)
そうです。如月姓はそのときからです。父は会ってはくれましたけど、ぼくを息子と認めてくれたかどうかわかりません。なにしろ忙しい人でしたから。
母ですか? 母は……。やめましょう。個人的なことをしゃべりすぎた。あの日ですよね。あの日のことは忘れません。ドーレムの歌をまた聞いた日ですから。
え? いま「また」っていいました? 聞きまちがいか、いいまちがいですよ。はじめてに決まってるじゃないですか。
はじめて聞いたD1アリアは美しいものでした。
へんですか? 地上最大の殺戮を生みだした歌を美しいというなんて。ぼくからいわせれば、あれを美しいと思わないほうがへんですよ。殺戮がどうのとか、そういうのをぬきにすれば、あれほど美しい歌はほかにありませんよ。地上のものではない、ムダがいっさいない歌ですよ。
いっぺんで心ひかれましたね。
あれがぼくの人生を決定的なものにしてしまいました。あれがなければ、ぼくは音響学を専攻しなかったろうし、いま、ここにもいなかったでしょうね。
D1アリアの分析結果については、ちょっと。それは守秘義務違反になりますから。
妹? ああ、久遠のことですか。久遠とはいっしょじゃありませんでしたよ。ええ、ちがう施設に引き取られていたってところですかね。そうです。彼女と再会できたのは大戦後のことです。
実際のぼくたちは、ヘンゼルとグレーテルのように「幸せに暮らしましたとさ」にはならないんですよ。
如月久遠
らら?
ジャン・パトリック・シャプラン
ワーグナーのラインの黄金を知ってるか。|神々の黄昏《ラグナロク》を題材にした壮大な楽曲《オペラ》だよ。MU大戦がはじまったとき、まっさきに思い出したのは、それさ。ラグナロクがはじまったんだ。世界の終わり。ハルマゲドンがきたんだとね。人類は太古の昔から、いずれ自分たちの時代は終わるという確信があったんだよ。
ああ、わたし自身のことだね。あのころは、カナダ空軍に入りたてでね、まだ以前の夢がふっきれないころだった。
以前の夢は指揮者だよ。そんなにおどろかなくてもいいだろう。これでもスプリングフィールド音楽院にいたんだ。ワーグナーが好きでね。ワーグナーの楽曲《オペラ》は、人類が生みだしたもっとも壮大なもののひとつだと思う。音で作られた大聖堂だよ。大聖堂は職人が三代にわたって作りつづける。初代が設計し、二代目が建造し、三代目が完成させるといわれている。ほら、最近もニュースになったばかりだろう。サグラダ・ファミリアの建設が再開されたと。そうやって時間をかけて作りあげていく。それをワーグナーはたったひとりで作ってしまったんだ。しかし、楽曲は演奏されないかぎり完成しない。つまり、聖堂職人でいえば、三代目にあたるのが、わたしたちなんだよ。初代が設計し、二代目が道筋をつけてくれたものを、どのように完成させるか。それが指揮者だ。
悪いね。話が横にそれてばかりいて。音楽の世界でも差別はあるんだ。いまだに指揮者のほとんどは白人、それも男性が多くをしめている。とくにワーグナーは、前世紀にナチズムの音楽として使われたくらいだろ。黒人がタクトをふることを快く思わない政財界の人間がいるんだよ。オペラになるとセットが大がかりだからね、政財界の援助をあおがないとならないんだ。
そんなことはいい訳だな。ほんとうのところは、自分の才能の限界が見えてきてしまったんだ。タクトは軽いと思うだろう。とんでもない。あれは鉛のように重いんだよ。才能の限界が見えてきた人間にとってはね……。
だから、空軍に飛びこんだ。
ギャップに悩んだりしない。なぜなら、わたしにとっては、同一線上にあるものだから。音楽の壮大さと空の壮大さは一致しているんだよ。
それでも、ほんとうにこの道でよかったかと悩んだ時期は長かった。それがふっきれたのが、MU大戦だったね。あれで完全にふっきれた。これがわたしのとるべき道だとわかった。
知り合い? 大勢、死んだよ。みな、いいパイロットだった。
亘理士郎
悪いね。ちょっといそいでいるんだ。国連のMU対策委員会特別理事会に出席しなきゃならないんだよ。質問に答えている時間はない。……ああ、赤福がひとつあまっているけど、いらない? そうか。残念だね。
エルフィ・ハディヤット
おぼえているのは光だ。夜空にとつぜん閃光が走り、一瞬だけ、山や街が闇の中から浮かびあがった。そして、音。いまはD1アリアだとわかっているが、あのときはなにもわからなかった。両親と兄と抱きあって、おびえて泣いていたよ。
世界が狂った。そうとしか思えなかったね。インドネシアの混乱はひどかったんだ。
恐い顔してるって? MU大戦のことを思い出して、笑っていられるやつなんかいないだろ。みんな、あのときのことを忘れはしないさ。
インタビューはここらへんにしておいてくれ。あまり語りたくない。
神名綾人
二〇一二年十二月二十九日ですか。ぼくは中学生でしたね。あの日のことは忘れませんよ。テレビで大阪壊滅の第一報を見て……
え? 歳があわないって?
あ、いや、その……ちょっとおじさんをからかってみようかなって思っただけですよ。やだなあ。はははは。
五味 勝
はい、父の仕事の関係で、ボストンにいました。ええ、アメリカの凋落を目の前で体験しました。アメリカに、孤立主義と連邦主義の伝統があるのはごぞんじでしょ? アメリカは世界の情勢などに左右されるべきではないという立場と、世界の情勢に積極的に介入していくべきだという立場のふたつ。
大戦初期の米軍敗退というか壊滅によって、この孤立主義が台頭してきたんですよ。先制攻撃などするからムーリアンが攻撃をしはじめた。だから、われわれはアメリカで生きるべきだ。アメリカにはそれだけ豊かな国土がある。というわけです。
ネット崩壊による経済的打撃も大きかったと思いますけど、やっぱり軍が負けたっていうのがいちばんじゃないでしょうか。たとえは悪いですけど、高校一の秀才だったやつが大学受験に失敗して落ちこんだ、っていうのが、全国民的レベルで起こったんですよ。ベトナム戦争の比じゃありませんね。ずるずるどろ沼に落ちていったんじゃなくて、一気にでしたから。
もちろん、わたしは幼かったので、よくはわかりませんでした。でも、騒然とした街の雰囲気はおぼえています。いたるところにプラカードを持った白人や黒人のグループがあって、すごくきつい目で子どものわたしまでにらみつけるんです。……ほら、ムーリアンを生みだした国のやつら、ってことです。
悲しかったのは……隣の家にエミリーっていう仲のいい女の子がいたんですよね。いつもいっしょに遊んでました。それが、あの日を境にあまり遊ばなくなって、しまいにはわたしの顔を見ただけで逃げるようになってしまいました。幼かったので、理由がまったく理解できなかったので、よけいに悲しかったですね。
第二次南北戦争のときはもう日本に帰っていましたので、わかりません。
当然じゃないですか? 孤立主義の結果、穀倉地帯をかかえる南部の発言力が強くなるっていうのは。なにしろ、第一次で負けた恨みもありますしね。アメリカに住んでいると、なんとなく肌でわかりますよ。
そういえばエミリーどうしてるかな……。
キャシー・マクマホン
くっだらないなあ。人間、むかしのことにいつまでもこだわってちゃいけないよ。前むきに生きなきゃ。
あー、アメリカ人だからってバカにしたでしょ、いま。いーや、した。わかるんだもん。
マクマホン家はねえ、メイフラワーとはいわないけど、初期のアメリカ移住者の家系なんだからね。たどろうと思えば、本家、アイルランドまでたどれるんだぞ。
え? おれんとこはセイワゲンジだって? セイワゲンジってなによ。アメリカが国家になるずっと、ずーっと前のころの話?……負けたかも。
七森小夜子
京都にいました。だから、大阪の一撃はおぼえています。ええ。最初の。
あのとき、地面は揺れもしなかったけど、すーって風が吹いたんです。朝食の時間でした。
施設にいたんです。ええ、MU大戦の直前に父と兄を事故でなくしてしまって。
風が吹くはずがないのはわかります。だけど、あのときは感じたんです。きっと京都や神戸の人はみんな感じたと思いますよ。あとで施設の友だちに聞いても、みんな、感じたみたいですから。
そのあとテレビをつけて、大阪の惨状を知りました。大阪ですか? 三年ぐらい前に行ってみました。日本の首都圏として復興しているのに、おどろきましたけど。だって、ただの大きな穴でしたものね、あのときは。日本人ってすごいなあって思っちゃいました。
戦後の混乱は、子どもにとっては生きるのがせいいっぱいでしたね。施設も潤沢とはいえませんでしたから、食事も満足にとれませんでした。畑の作物を盗んだりするのは日常茶飯事だったかも。中国や韓国の援助にはいまでも感謝してます。
そうです。復興奨学金で大学へ行かせてもらいました。そのあと担当教授の推薦もあって、大学院まで行かせていただいて、TERRAに就職しました。それからは静かな研究生活を送っています。
……こんなことをいうと不謹慎だってわかってるんですけど、MU大戦で肉親をなくされた人って幸せかもしれないって思うことがあるんですよ。
だって、そうでしょ。少なくともムーリアンっていう憎しみの対象があるんだから。事故で肉親をなくしたものには、それがないんです。あのとき、ああしていれば、こうしていれば、って自分を責める言葉しか知らないんです。
弐神譲二の追記:紫東遙と功刀仁には接触をこころみるも、インタビューはとれず。
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第五章 追憶の青きソナタ
功刀 仁 1
三月二十日。
きょうという日が来なければいい。十五年間そう思いつづけた。だが、カレンダーは一日、一日と時をきざみ、きょうという日が来てしまう。時とは残酷なものだ。
「おはようございます」
元気のいい明るい声とともに総一が入ってきた。
「おはよう、なにか変わったことは?」
「とくにありません。ここのところずっとMUの連中も静かですしね。管理部に郵便がたまっていたので持ってきました」
「すまんな」
手紙の束を受けとる。ほとんどがくだらない連絡だが、中に一通だけ色合いのちがう封筒があった。見なくてもわかる。真理子からだ。
総一はのんびり鳥籠のミチルをのぞきこんでいる。国連に出席しているあいだ、世話をされたものだからミチルもなれている。かれの顔を見て、さかんにさえずる。
「このまま平穏な日々がつづくといいのにねえ」
ミチルに語りかけた言葉を聞きとがめる。
「甘いぞ、総一」
「そうでした。すみません」
わたしはできるだけさりげなく真理子からの封筒をポケットに入れて立ちあがった。
「きょうはこれで退勤なさるんでしたよね」
「ああ。一日だけ留守にするが、そのあいだのことはよろしくたのむ」
「はい。まかせてください」
そういってから総一は鳥籠を見た。
「功刀さん。そろろそろミチルちゃんにお婿さんとか探さないんですか? お歳ごろなんでしょ」
なにげない言葉がわたしの眉間にきざまれる。わたしの胸にきざまれる。きざまれた言葉は、わたしの罪を告発する。
ケーブルカーに乗りこむとすでに先客がいた。亘理長官だった。
「よっ」
と軽く手をあげる、あいかわらずの長官に苦笑をもらす。そのふだんどおりの態度に、すくわれる部分もあった。長官は、きょうがわたしにとってどういう日なのか理解したうえでそうしてくれるからだ。
ふたりを乗せたケーブルカーが、ゆっくりと本部ビルの斜面をくだっていく。
「わたしも出かけるところでね。えーと、なんだったかな……MU……」
「MU大戦戦没者合同慰霊祭準備会」
「そう、それそれ。舌をかみそうだな」
「なにかしてやった気になるんでしょう」
「権力者というのは特にな。ああ、すまん。きみにはどうでもいい話だったな。……ゆっくりしてきたまえ」
「ありがとうございます」
長官がちらりとこちらを見た。
「どちらがいいのかねえ」
「は?」
「いや、きみとわたしと」
「どちらも不幸でしょう」
「……そうだな。不幸だ」
たぶん、ほかの人間が聞いたらたがいに何をいっているのかさっぱりわからないだろう。が、わたしにはわかる。長官もわたしも、どちらも不幸だ。生きていても、死んでいても……。
そのあとはどちらも口を開かず、無言をのせたままケーブルカーはくだっていった。
人類に火をあたえたプロメテウスは、その罪ゆえに岩につながれ、毎日、大ワシに肝臓をついばまれるという。血を流し、痛みに絶叫するプロメテウスは、しかし、神ゆえに死ねず、翌日にはふたたび傷はいえ、そこをまた大ワシについばまれる。
人類に火をあたえたわたしは、その罪ゆえに、毎年、こうやって手紙を送られる。中身は大ワシのくちばしよりも鋭いとわかっていながら封を切る。そして、送られてきたメディアを再生する。
画面に映るにこやかな笑み。それは爛漫ゆえに、わたしの臓腑をえぐる。
「毎日、毎日、譜面とにらめっこしているけど、大好きなバイオリンといっしょなので、すごく充実しています。あんまりパパと会えないのがさびしいけど、今度、発表会に来てくれると聞きました。そのとき、わたしからパパにプレゼントがあるの。きっとよろこんでくれると思うな。だから、絶対来てね。会えるのすごく楽しみにしています」
行けなかった新年発表会。開かれなかったコンサート。
画面に映るにこやかな笑みに指をのばすが、ふれるのは冷たいモニターのガラス面だけ。
このガラスをつきやぶって、そのふくよかな唇にふれてみたい。
狂おしいほどの想いが、胸の中を吹き荒れる。
が、それはかなわない。
これはわたしの罪だから。かなえることができるとしたら、たった一度だけ。彼女のそばに行ったときだけだろう。
再生画面が終わり、砂嵐のようになる。こんな風に人生が終われたら、どんなに幸せだろう。もう一度再生し、やりなおせたら、どんなに幸せだろう。
しかし、想いはとどかない。これがわたしに与えられた罰だ。
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1
司令センターにいたら、樹さんに呼びだされたので、さっそくお宅にうかがうことにした。恵もいっしょだった。
「なんでおまえがいっしょに来るんだ」
「しょうがないじゃない。八雲さんに、恵ちゃん、如月博士の家まで案内してやってくれないか? っていわれたんだから」
「だから、来たことあるからわかるって」
「八雲さんにたのまれたんだもん。あんたが、どっかで道草くわないように見はってなきゃ」
「道草なんかくうかよ。おまえじゃあるまいし」
「あたしがいつ道草くったっていうのよ。何年何月何日何時何分何秒!」
「小学生みたいなこというな!」
呼び鈴を押して待つあいだいいあらそっていたら、樹さんが笑いながら顔を出した。
「あいかわらず仲がいいね」
「ちがいます」
思わず声がそろっちゃったじゃないか。
「入りたまえ。おもしろいものを見せよう」
リビングに通され、見せられたのはみごとに咲いた花だった。カーネーションに似てるけど、なんていう花か知らない。
「おもしろいものって、これですか?」
ちょっと期待はずれだった。
「あら、きれいな花じゃないの。あたしは好きだな」
「だれもおまえの好き嫌い訊いてないだろ」
「まあまあ、痴話ゲンカはやめて」
「ちがいます!」
またしても声をそろえて樹さんにいってしまった。
「その花とこれが同じだって信じられる?」
みごとに咲いた花のとなりにある鉢には、肥料ろくにもらってません、ぼく、みたいな貧相な花があった。
「信じらんない」
恵がそういうのもむりはない。だって花の形も色も香りも、ぜんぜんちがうんだもの。まあ、葉っぱの形は近いけど、それでも量がちがう。貧相なほうは貧相な葉だったけど、もうひとつのほうはこんもりとした緑の葉がおいしげっている。
「ここ一月、久遠がバイオリンで弾いている曲をサンプリングして、発芽の段階から流しつづけてみたんだ」
といってみごとに咲いているほうを指さす。
「なにも聞かせなかったほうが、こっち」
ふ〜ん。よく牛にモーツァルトを聞かせると、乳の出がいいとかいうのと、同じようなたぐいの話かな。
「で、わざわざきみに来てもらったのは、その曲を聞いてもらいたいんだ。そして、率直な感想を聞かせてもらいたい」
「ぼく、音楽のことよくわかりませんから」
「いや、そんなことはない。ラーゼフォンをあそこまであやつれるんだから、当然、音楽の本質は理解できているよ」
「ラーゼフォンって、音楽に関係してるんですか?」
樹さんはそれには答えず、ヘッドフォンを準備しはじめた。
「久遠に訊いてみたけど、あの子はなにも自覚的にやっているわけじゃないからね。きみに協力してほしいんだよ」
ヘッドフォンをかけ、音楽を再生する。これが久遠の曲か。ヴァイオリンの澄んだ音色が波紋のように胸にひろがっていく。金属の弦をこすっているというのに、音はどこか、久遠のようにとらえどころがない。とらえどころがないけど、やわらかい。やわらかくて、哀しい。
「なにか感じたかい?」
樹さんの声が聞こえる。ああ、どこか樹さんの声にも似てるな。音の感じが。そりゃそうだろ。兄妹だもの。
でも、なにか感じたといわれても……。これを言葉にするのはむずかしい。
「でも……やっぱり……ちがうのかなあ」
「ちがう?」
「ええ。……聴いてると、どんどん悲しい気持ちになってくんです……」
悲しい色の音だ。でも、なにかが、どういっていいのかわからないけど、どこかひっかかる感じがする。
「なんかこう……違和感……そう。違和感があるんです」
「違和感ねえ……」
なんていったらいいのかなあ。言葉がうまく見つからない。旋律にのって言葉がでてくるのだが、つかまえようとすると指先から逃げてしまう。そう思いながら、同時にヘンな感じもする。だって、おれは音楽への感性はふつうだと思っていたのに、こんな細やかなところまで感じられるなんて、ヘンだよ。
「これ、久遠が作った曲なんですか?」
「さあ、わからない」
「曲のせいなのかな、弾き方なのかな。親が失った子どもを想うような悲しみ……でも、ねじれてる」
抽象的ないい方だったけど、樹さんの眉がぴくりと動いた。
一瞬、目がものすごく冷たく光った。
え? と思ったときには、いつものにこやかな樹さんにもどっている。いまのは目の錯覚だったんだろうか。
「ありがとう。役にたったよ」
ヘッドフォンをはずしてくれたとき、ちょっと力をこめられ、はぎとられたような感じだったけど、それもたぶん錯覚だ。……と思う。
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神名麻弥 1
東京は変貌しつつある。〔虚空回廊〕を開くためでもあるが、もはや以前のように維持していく必要性がなくなっている。ヨ・メセタ・プケも強化し、MUとの融合率を高めつつある。東京が東京でなくなる日も近いだろう。
ひさしぶりに家に帰る。綾人と暮らすための容れ物にすぎないものを家と呼ぶのもみょうだが、十七年間の習慣とはおそろしいものだ。そう呼ぶことになんら違和感を感じない。
「ただいま」
応えるものがいないとわかっていながら、そういって玄関を開ける。
しばらくぶりの家というのは、空気がねじれている。閉めきっていたせいもあるだろうが、自分の家の臭いが強烈に感じられる。枯れてしまった玄関の鉢植えがかさついた匂いをただよわせ、廊下もうっすらとホコリがつもっている。もはや維持する必要もない家だ。いや、必要はある。なぜなら、綾人はもどってくるからだ。ここへ。わたしと暮らした時間を取りもどしに。
二階の綾人の部屋にあがる。
とたんに男の子の部屋特有の、ベルベットの肌ざわりに似た若い動物的な匂いがしてくる。
主のいなくなった部屋は、むなしく時をすごしている。よどんだ時間が流れている。
壁のアイドルのポスター。参考書がだしっぱなしの机。起きたときのままに毛布が丸められているベッド。たしか十三歳の誕生日に買ってやったステレオ。記録メディアの棚。参考書やマンガのならんだ本棚。すべてがあの日、綾人がいなくなったときのままだ。
そして、イーゼルにかかった一枚の絵。
崖に立つ少女のうしろ姿。そのむこうにある奇妙な心象風景に、成長への恐怖を嗅ぎとる。おそらくは無意識での恐怖だろう。ふとむかしのことを思い出して、笑みがこぼれた。
ちょうど十七のころ、似たような風景の夢を見ていた。毎日のように見ていた。
絵が描けなかったわたしが描いた心の絵だ。そして、絵筆を握れる綾人はわたしの夢と同じような絵を描いている。やはり親子だわ。
あのころ、わたしはごく普通に生きていた。すべてが変わったのは十七になったからだ。
綾人にとっても十七ですべてが変わる。なにもかも変わる。
もはや、親子でもいられなくなるだろう。それでもかまわない。それが運命なのだ。あの日、わたしが目ざめてしまったためにはじまった、世界の運命なのだ。
それにしても雑然とした部屋だわ。せめて毛布ぐらいととのえておいてやろうと手にしたとたん、ふわりと立ちのぼる綾人の匂いに胸をしめつけられる。
十七年。
ひとりの人間とかかわりを持つには長い時間だ。そのうえ、親子だ。ただよいだした綾人の匂いの中に、さまざまな思い出がよみがえってくる。はじめて綾人を見た病院の匂い。乳幼児だったころの頭の匂い。いつも握っていたために、開くたびに汗ばんでいた掌の匂い。幼稚園のお弁当の匂い。小学校の新しいランドセルの革の匂い。中学生になってから、部屋の中にただよいだしたかすかな生臭い匂い。
頬が濡れている。
これは涙? まさか、わたしがそんな人間的な感情に左右されるはずがない。疲れていて情緒的に不安定になっているためにおきた、生理的な現象にすぎない。
それでもわたしは泣きつづけた。十七年という時間に涙した。
しかし、想いはとどかない。……いいえ、とどかせてみせる。とどかなければいけないのよ。この想いは。世界のすべてが賭けられているのだから。
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2
樹さんの家からの帰り道、どちらからともなく神至市に行こうってことになった。樹さんところから恵が花をせしめてきて、花瓶を買おうってわけだ。なんで、おれまでつきあってるかというと、「年頃の女の子をひとりでほっとくのー」とさんざんなじられたからだった。だれが年頃の女の子だっつーの。
「ねえ、おかあさんってどんな人だったの」
「おまえ、いきなりなんだよ。どうして、おかあさんネタが出てくるわけ?」
「だって、ほら、母の日が近いじゃない」
「母の日は五月だろ。まだ三月だぜ」
「なんとなくさ、この花見てたら……」
たしかにもらってきた花は、カーネーションに似ている。
「母の日って嫌いなんだよね。ほら、あたし、おかあさんが再婚したりして、いろいろあったから。おかあさん、いつもありがとう、なんて素直にいえないんだ」
おふくろかあ……。どうしてるかなあ。元気にやってるんだろうか。
東京をあとにしてからずいぶんたつ。青い血が流れたなんて、ほんとうのことだったのかなあ、と思えるほどの時間がすぎていた。
「ねえ、どんなおかあさんだったの?」
「おふくろはさあ」
遙さんの前では「かあさん」って呼ぶのに、恵の前では「おふくろ」って言葉が自然に出てくる。
「なんか不思議な人だよ。いつもなに考えてるのかわからないし、だけど、やさしくないってわけじゃないんだ。どちらかっていうとさ、息子とか肉親にどう接していいかわからないから、形から入るみたいなところあったな」
子どものころ、一度だけつれていってもらったディズニーランドのことが急に思いだされた。ミッキーマウスとかドナルドとかのキャラクターにかこまれて、おれはごきげんだったけど、ふとふりかえったら、おふくろは冷たい顔をしていた。ほかの親子づれは、みんな、自分も楽しまなきゃって、親まで楽しそうにしているのに……。いぶかしげなおれの視線に気づいて、おふくろはすぐに微笑んだ。だけど、それがウソだってことはもうわかっていた。
「小さなころは不思議でもなんでもなくて、それが普通だと思ってたけど、小学校あがってからかな、友だちの家にいって、そこんちのおふくろさん見て、母親ってこういうもんかっておどろいた。だって、友だちが悪さすると、どなりつけてんだもん」
「それって普通じゃん」
「おふくろは怒ったり、絶対しなかった。しからないわけじゃないけどさ、静かに論理的にしかりつけるんだよ。感情的には絶対にならなかった」
「いいなあ。あたし、親戚のおばさんやお姉ちゃんに怒られてばっかりだった」
「だけど、笑いもしなかった」
恵は、ずきりと言葉がつきささったような顔をした。
おふくろは笑いもしない。泣きもしない。いつも静かに冷たく微笑むだけだ。まだ幼稚園にも行っていないころ、テレビを見て、タレントたちが大きな口をあけて笑っているのが、少しも理解できなかったことをおぼえている。だって、大人の見本になる母親が、少しも笑わない人だったんだ。
「ヘンなところもあったけど……いいおふくろだと思うよ、ぼくにとってはね」
「おかあさんのいる東京に……もどりたい?」
「よくわかんない。もどりたい気もあるけど、もどりたくない気もある。ここでの生活になれちゃったしね」
「そう」
ふたりのあいだを、静かな風が吹きぬけていく。
「おまえのおふくろさんはどんな人なんだよ」
恵はちょっとこまったような顔をした。
「おかあさんはさあ、おとうさんが亡くなってから、苦労して女手ひとつであたしたちを育ててくれたってことはよくわかってるんだ。だから、母親じゃなくて、女性としての幸せをもとめたいって気持ちはわかるんだよ、頭では。だけどさ、体がついていかないっていうのかな。再婚したいって聞いたとき、あたし、マジで死んでやるってさわいだもん。だって、亡くなったおとうさんが、かわいそうじゃない」
大きなためいきをついて間を置いた。
「おとうさん、死んじゃったうえに、おかあさんにも忘れられちゃうんだよ」
涙まじりの目がむけられる。おとうさんっ子だったんだ。って、ちがうよ。恵がお腹にいるときにMU大戦がはじまって、おとうさんもそのとき死んだって聞いたぞ。
「でも、おまえ、おとうさん、知らないんだろ」
「そうよ。だからじゃない」
声が強くなる。
「子どもが生まれたことも知らない。あたしも知らない。そのうえ、おかあさんが再婚したことも知らない。……かわいそすぎるよ」
そういうもんかなあ。
おれも父親を事故で亡くしてるから、なんとなくわかるような気もするけど……。少なくとも、父親を恋しいと思ったり、いればいいなあと思ったことはない。
あ、ちがう。一度だけ思ったことがあった。図工の授業で、おとうさんの似顔絵を描きましょうっていわれて、こまりはてて、おふくろに「どうしてうちにはおとうさんがいないの」って泣きついたことがあったっけ。忘れてたよ、そんなこと。あのとき、おふくろはどうしたんだっけ?……よくおぼえてないな。ただ、おふくろの肩と髪越しに壁が見えてた。抱きしめられたのかな。
「あたしがいっくらおとうさんのこと思っても、その想いはとどかないのよ」
その言葉が、やけに哀しく吹きぬけていった。
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功刀 仁 2
ショッピングセンターの宝飾店に立ちよる。注文しておいた時計ができたという連絡があったからだ。
「あ、功刀さま。お待ちしておりました」
店主が奥から時計を取出した。
「お確かめください」
ふたを開けると、品のいい婦人物の時計が静かに眠るように箱の中におさまっていた。手にとり、裏ぶたを開ける。そこに名前が刻まれている。口にできない名前が……。
「こちらでよろしゅうございますね」
「ああ、ありがとう」
そこへ、横からむさくるしい顔がつきだされた。弐神だ。
「ほう、こりゃあ、いい品だ」
人好きのする笑顔がむけられる。が、この男、その笑みの奥でなにを考えているのか。
「奇遇ですなあ。いや、ちょっと店の前を通りかかったら、そっくりな人がいるじゃありませんか。こりゃ、もしかして功刀さんのそっくりさん? そんな人がここにいるなんて、こりゃあ功刀さんに会ったときのみやげ話になるぞってんで、入ってきたんですが、まさかご本人だったとはね」
弐神はべらべらとくだらないことをまくしたてる。しかし、いうにことかいて「まさかご本人」はないだろう。
「ちょうどいいや、おれもみつくろってもらおうかな」
「功刀さま、こちらさまは?」
店主は、丁寧な口調にも不快そうな響きを隠そうとしない。
「ともだち。ってとこ。おなじもん見せてよ」
あきれ顔をした店主が、同じ時計を見せる。
「えっと、なになに、いち、じゅう、ひゃく、せん……ま……ん……ガーン!」
弐神は値段を見てかたまってしまった。マンガのような臭い芝居に笑みがこぼれる。そのあいだに、わたしは包んでもらった時計をコートのポケットにしまい、店をあとにした。気づいた弐神があわてて追いかけてくる。
「あ、ちょっと、ちょっと待ってくださいよ」
いいのかね? 時計は。
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断章1 如月久遠
そのむかし、ヴァイオリンは金属の弦ではなく、羊の弦をはられ、弓もいまのように反ったものではなく、山なりになっていて、とてもやわらかな音がしたそうでございます。モーツァルトのころは、そのようなやわらかな音が、貴族の宮廷に響いていたのでございます。それがいまは金属の弦になり、弓も張りが強く、大きな音がでるようになりました。ですが、心はいかほどに変わったのでございましょうや。モーツァルトのころの人々と、わたくしたちと。楽譜に埋まりそ。音に埋まりそ。なにも生みだせない苦悶の静寂に埋まりそ。ヴァイオリンに対する呪詛がこぼれる。はるけき、はるけき音なれば、わが心のうちに響きてあまり、したたり落ちるその先に夢をつむぐか、死をつむぐのか。弦を押さえていた指が痛い。長いこと弾きつづけていると、きりきりと弦が食いこんでくる。きりきり、きりきり、わたしの心にねじこまれていく、不協和音。いいえ、これは現実の不協和音ではなく、心の不協和音。扉開きて、わが肉親たる者がおとないて、申さく。
「久遠……。今朝もどってから、少し寝た?」
寝た? ねた、ねた……。寝た子をおこすな。おきた子はネズミを喰らいまする。あよあよと、おののき、さけぶ夢のネズミを喰らいまする。ネズミは泣いて、泣いて、許しを乞います。こいます。恋ます。恋する乙女の胸のふくらみは、いったい何がつまっているのやら。この幻想はなに? 意味をつかもうにも、よく研いだナイフの切っ先のように、つかめない。疲れている。神経シナプスの連携を疲労物質が阻害して、レセプター機能がうまく働いていない。ほんの少しのイオン交換がうまくいかない。
「足りない」
「え?」
「足りない。ぜんぜん足りない。断ち切られた想い。とどかない風……かみあわない歯車……なにかがちがうの」
音。音。音。そこにこめられた想いを、わたしは理解することができない。時を失ひ、世に余されて、期する所なきものは、愁へながら止まりをり。滔々たり夢の流れ。
「やはりね。オリンもそういっていた」
「オリンも?」
オリンという名を舌先で転がしてみる。イシュトリ、オリン、ヨロテオトル。複数の名称がひとつになり、幾重にも幾重にも七色に輝く意味を帯びはじめる。
「聴かせてみたんだよ。かれも同じことをいっていた」
オリン。オリン。オリンとクオン。クオンとオリン。似た響き。似た想い。同じ運命。
「オリンと久遠は似ているもの」
樹の顔色がさっと変わる。それはなぜかわかっている。ねじれた関係。まるで床屋をしめす赤と青と白のねじり棒のように、ねじり重なり、模様を織りなす。赤と青。赤い血と青い血。くるりくるりとねじれゆく。
「ジンはいいのかな。この音でほんとうにいいのかな」
判断基準が明確化されず、曖昧になる。くらげなすただよへるわたしのおもひ。これでいいの? このおとでほんとうにあなたはまんぞくできるの?
「それが彼女の言葉なら、かれはむきあうことを選ぶだろう」
とどかぬ想い。とどかぬ風。それとむきあえるのだろうか、ジンは。ジンといえばトウモロコシ、大麦などを原料に蒸留したアルコールに、ネズの実などで香りをつけた酒のこと。ジンといえば、中東の男性の魔物。陣といえば、軍隊が駐屯する場所。塵といえば、塵ほこり。悲しい風に吹き飛ばされる砂塵。砂塵は、涙でできた海を埋めようとするが、悲しみはけっして埋まらない。ああ、そうか。ジンは塵であったのか。
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功刀 仁 3
「すみませんねえ。姪のプレゼント選びなんかにつきあってもらっちゃって。子どものよろこぶもんなんて、よくわからないんでね」
ぬいぐるみをかかえながら、弐神は心にもないことをいう。そんなことを少しでも思っている人間が、人を野外音楽堂に連れてくるだろうか。さも、盗聴はしていませんよ、だれも聞いてませんよ、というポーズのごとく。
まだ約束の時間まで間があるからつきあってみたが、弐神は姪のプレゼントを選ぶといっているわりには、こちらにちょこちょこ探りを入れてきた。「TERRAにはいつから?」にはじまり、「好きな食べ物はなんですかね」まで。質問はじつに多種多様におよんだ。まあ、探りをいれていたのは、わたしも同じか。かれの言動から、少なくとも背後に財団がいないことだけはたしかだった。それさえわかれば残る可能性はひとつだ。
「それじゃあ」
「そういそぐこたあないでしょ。出港まではだいぶ時間もある」
ほう。こちらの行動を把握しているとは。財団がうしろにいなくとも、やはり一筋縄ではいかない男らしい。
「亘理さんはきょうは、ええと、MU……MU……」
「MU大戦戦没者合同慰霊祭準備会」
「そう、それそれ。その舌をかみそうな会にお出かけだそうで。でも、お祭もけっこうですが、その前にはっきりさせることがあるんじゃないですか?」
弐神はまぬけな記者の仮面をぬぎすて、本気で斬りこんできた。
「いきなりやってきたMUもなんだが、連中に先制攻撃をしかけて、逆にやられちまったのが当時の在日米軍だ。おかげでいまやアメリカに昔日の面影なし。みじめなもんだ」
耳の奥で、アフターバーナーの音がよみがえる。イヤな音だ。それを思いださせたイヤな男だ。
「それで?」
「話じゃあ、米軍が独断でってことになってますが、じつは本当のしかけ人はべつにいるって噂があるんですよ。これが当時の陸自幹部だってんだからね」
かなりの線までつかんでいるようだ。
「もっとも、当のそいつは部下に責任をおっかぶせて、行方をくらましたらしいですがね。おっかぶせられたほうはいい面の皮だ。なんでも将来有望な人物だったそうなのに」
「おもしろい噂だな。が、しょせん噂は噂だ。ちがうかね」
「まあ急かずに、この話にはまだつづきがありましてね。MUに戦術核を使ったのが、その部下って人でね。それも当の本人は核だなんて知らなかった。あたりまえか。核なんて自衛隊が、持ってるはずがないんだから。しかし、おかげで都市が丸々ひとつパア……。どう思います」
くそ。つきあったわたしがバカだった。ここまで把握しているとは思ってもいなかった。
ふたりしかいない野外音楽堂を風が吹きぬけていく。ずいぶん時間がたってしまったらしい。足元の影がいつのまにかのびていた。
「功刀さんも確か自衛隊にいらしたんですよね」
「……むかしな」
これはわたしの罪。
「二〇一三年におやめになった。一度、聞こうと思ってたんですがね、再編した統自じゃなく、なんでTERRAの司令官なんてやってるんです? やっぱ給料がダンチだから?」
「それほどでもないが……」
これはわたしの罪。
これはわたしの罪。
「そうですか? いや、おれなんかから見りゃ高給取りですよ。姪にこんな安っぽいぬいぐるみしか買ってやれないし。なにかいい仕事ありませんかね」
「わたしと同じところなら、紹介できるかもしれんが」
「へえ。TERRAにですか?」
「いや、国連だ」
静けさがふたりのあいだを流れた。
「は。ははははは。こいつは手きびしいや。一本取られた」
「さて、そろそろひとりにしてもらえないだろうか」
「どうぞ、どうぞ。ながながおひきとめしまして、どうも」
その場から歩みさるわたしの足が、震えていなかったかどうか、自信がない。まさかきょうという日に、そのことを聞かされるとは思ってもいなかったからだ。
これはわたしの罪。
これはわたしの罪。
プロメテウスは岩に縛りつけられ、毎日、肝臓を大ワシについばまれる。
では、わたしの贖罪はどこにあるのだろう。
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断章 記憶の残滓
「なにを迷う!」
「しかし、九鬼一佐。あそこにはまだ逃げ遅れた一般人がいるんですよ。わたしにはできません」
「心配ない。これは敵へのピンポイント攻撃だ。在日米軍からの技術供与を受けた新型爆弾であり、周辺住人への影響は最小限にとどまる」
「しかし、影響が絶無というわけでは……」
「きみは軍人だろ! 軍人にとって、上官の命令は絶対だ!」
「……」
そして、わたしは愚かにもその命令にしたがった。
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3
くだらない話をしながら歩いていると、うしろから声をかけられた。
「仕事帰りにデート?」
「ちがいます!」
ムキになって同時にふりかえる。そこには遙さんとエルフィさんがいた。
「お邪魔だったかしらね」
「じょ、冗談でしょ」
恵はあわてて手をふった。
「樹先生にお花もらったから、花瓶買いにきたの。こいつは荷物もち!」
「指さすなって」
恵が急に身をかがめたかと思うと、ふたりの匂いを嗅ぎはじめた。なにやってんだ? こいつ。
「また女ふたりで焼肉ぅ?」
図星の遙さんは、ちょっと頬を紅らめる。
「な、なによ。いーじゃない。自分のお金でなに食べようが」
「んー、まあいいか。エルフィもきょうは飲んでないみたいだし」
思わず吹きだしてしまった。そういや、いつかエルフィさんが酔っぱらって、家にあがりこんで、さんざんクダまいてたっけ。なんかスナックのママあつかいされて、ビール運ばされてたな。
「神名綾人」
エルフィさんがぐっと顔を近づけてきた。
「ちょっとつきあえ」
え? あ? は? ドッグファイトだけはかんべんしてください。
「ドッグファイトだ」
えー。やっぱりぃ!
つれていかれたのはゲームセンターだった。
ひさしぶりにアーケードゲームをする。東京のとはずいぶんちがう。やっぱり十年以上の技術的な差ってすごいよね。こっちのはずいぶん進歩してる。バーチャルゲームが主流だもんね。最初は操作性をおぼえるので必死だった。そのあとでエルフィさんと、戦闘機ゲームで対戦《ドッグファイト》したけど、手も足も出なかった。完敗だ。
「なかなかやるな」
ゲームが終わったあと、喫茶コーナーでコーラをおごってもらう。
「東京でもよくやってましたから」
「なぜ負けたかわかるか?」
「だって、まだなれてませんから」
「ちがうな。おまえは民間人で、わたしが軍人だからだ。知っているか? 軍人はこの世のだれよりも臆病者なんだ。とてつもなく死を恐れている。だから、自分だけは生き残ろう、とそれだけを念じて戦いつづけている。民間人はちがう。自分の死をちゃんと凝視めていないから、死を恐れない。死を恐れないから、スキができる」
たかがゲームで、なに熱くなってるんだろ。この人。
「あれから四ヶ月。ラーゼフォンはいい動きをするようになった」
なにがいいたいんだろう。
「おまえは自分が死ぬという可能性について考えたことがあるのか」
そんなこと……考えてもみなかった。戦うってそういうことだよな。いつだって、自分が死ぬ可能性があるんだ。死ぬ……? なんか実感がないよね。ニュースとかで毎日のように、事故や事件で人が死んでいく。だけど、おれの周りではそんなことはなかった。親戚づきあいもないから、親戚のおばあさんが死んだってこともなかった。
おれは自分の死を凝視めたことはなかった。
「いつまで乗りつづけるつもりなの?」
「なの」ってエルフィさんらしくない。
彼女がおれの顔をのぞきこむ。本気で心配してくれている顔だ。
だけど……だけど……。
「だけど……そんなことが許されるんですか?」
エルフィさんの顔がけわしくなる。そして、彼女は注文したビールを静かに飲みほした。答えのでない問いが、あてもなくふたりのあいだをただよっていた。
なんのかんので遅くなってしまった。もう陽がかたむきかけている。おれと恵はフェリーの船着き場にむかうために、ぽてぽて橋をわたった。
エルフィさんにいわれて、なんとなく気分がさえない。恵も遙さんとなんか話して(なに話したのかは訊かないけど)、気落ちした顔している。恵んとこの姉妹は仲が悪いってわけじゃないけど、いいってわけでもない。おれには兄弟がいないからわからないけど、歳のはなれた姉妹ってむずかしいのかな。なんか恵のほうが一方的に肩つっぱらかせてるような感じだけどね。あ、でも、樹さんとこは仲いいよな。ちょっとアブナイ感じがするぐらい。それとも、兄と妹だとちがうのかな。
「あ、花瓶……」
恵がぽそりとつぶやく。手の中で花は、ちょっとしおれはじめている。花瓶を買いに神至市へ行ったっていうのに、すっかり忘れてた。
「もどる?」
「いいの。べつに……」
どちらからともなく足がとまる。橋の真ん中。潮の香りをふくんだ風が、恵の手の中の花をゆらす。むこうに見える桟橋が、長い影を水面に落としている。
「船、見にいこう……」
「え?」
「早く!」
いきなり恵がおれの手をひっぱって走りだした。
「ち、ちょっと……!」
風がおれたちの肩を元気よく吹きぬけていく。
連れてこられた桟橋には豪華な船が停泊していた。マービンピークって船だった。
「へえ、こんな船、ニライカナイにあったんだ」
「うん、島のまわりを周遊するレストラン船。いま、すっごく流行ってんの」
ちょっとした周遊と豪華な食事を楽しむ人たちが、タラップをのぼり、マービンピークに乗りこんでいく。
「すてき……。あたしもあんな風なデートしてみたいなあ」
「デートってガラかよ」
「いいじゃない。夢見るぐらい」
「そうだよな。夢だよな」
「うるさいっ!」
そういう恵の顔には、しかし、さっきみたいな気落ちした表情はなかった。
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断章2 弐神譲二
功刀の行動を見はっていたら、思わぬ対象に出会った。マルカンだ。マルカンは女の子といっしょにいる。あれはたしか……対象レベル・セヴンの紫東恵だ。
「おにあいだねえ。おふたりさんデートかい」
からかってやったら、いきなり噛みつかれた。
「だから、ちがうってば!」
ふたり仲良くいっぺんにふりかえらなくたっていいだろ。おっかない顔してさ。マルカンがおれの顔を思いだしたようだ。
「なんで、こんなとこにいるんですか?」
「まあ、ちょっとね。それはいいとして、デートといえば」
おれはタラップを目でしめした。マービンピークへと入っていく善男善女の流れ。その中にやつがいる。
「あっ、功刀さん!」
対象レベル・セヴンが最初に気がついた。
「え? ええっ? 特別な日って、デートのこと?」
女の子らしい単純な発想に、思わず笑っちまったぜ。
「そりゃいい。独身司令官の秘密デートか。……もっとも、デートの相手はやつの娘さんだがね」
「娘ぇ?」
レベル・セヴンがすっとんきょうな声をあげる。
「功刀さんって結婚してたんだ」
そうか、やつはそのことも大っぴらにはしてなかったわけか。もっとも、おれにもできないだろうけどな。
「娘さんの誕生日だそうだよ」
またまた、おれってば。知っていながら、よけいなことをいう。事態に少しだけ介入して、反応をひきだそうなんて、やり方が汚いねえ。
「よしっ!」
レベル・セヴンが、なにかよからぬことを思いついたような顔をした。……そりゃ、まずいだろ。え、これも使うのか? かんべんしてくれよ。あーあ。ふがいないおじさんを許してくれ。おまえへのみやげを取りあげられちまったよ。これも仕事だからかんべんしてくれ。……って、そんな姪っ子、最初からいないんだけどな。
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功刀 仁 4
夕焼けに黄金色に染まる湾内。テーブルの上には赤ワインのボトルとグラスがふたつ。少し渋味をふくんだ香りが、静かに白いクロスの上を流れていく。今年もやはりだめだったか。
「あいかわらずね。ムートン・ロートシルトの赤」
顔をゆっくりとあげる。真理子だった。十五年ぶりに見る妻は、歳月を感じさせないほど美しかった。あのときのままだ。なのに……。
「それしか知らないものでね」
十五年前と同じ口調。
「知る気もないくせに」
十五年前と同じ口調。歳月はふたりの関係を変えはしなかったというわけか。たしかに、ふたりの関係はあの日のまま、凍りついてしまっている。溶けることのない悲しみの氷に封じこめられてしまっている。
「食事は?」
「すませてきた」
近づいてきたボーイにさりげなく手で合図してさがらせると、真理子はむかいに座った。そのとき、わたしはほんのささいなちがいに気がついた。香水だ。なんというのか知らないが、真理子はいつもおなじ香水をつけていたはずだ。それが、ちがう香りになっている。そうか……そういうことか。
「わたしが招待をうけて、おどろいた?」
「ああ」
正直、毎年、来るとは思っていなかった。来るはずもない妻を待ちつづけていた。それもきょうでおしまいか。……そういうことか。
「ビデオは見た?」
「ああ」
「ご感想は?」
なにをいえというのだろう。毎年、送られてくるビデオを見ながら、悔恨の念にかられて泣いているとでも?
「あの子には未来があった。すばらしい才能も」
耳の奥でヴァイオリンの音がする。あれはあの子がかなでるヴァイオリンだ。親バカだと思われるかもしれないが、あの子の音はすばらしかった。ぞくぞくとするほど美しかった。作った曲は、どれも一級のものばかりだった。
その才能を摘んだのは、わたしだ。
「わたしの罪だ」
「そうね。あなたがやったことですもの」
指先にいまでも、あのときの発射ボタンの感触がくっきりと残っている。そして、あがるはずのない閃光。その下に娘がいることも知らずに……わたしは……。
笑い声がはじけた。
見ると、ななめむかいのテーブルに親子づれがいる。娘さんの誕生日なのだろうか。親子三人で仲良く食事をしている。ちょうど、あのころのわたしたちと同じぐらいだ。胸の奥に苦いかたまりが生まれる。あれは……わたしが努力さえしていれば、手に入ったかもしれない家族の姿だ。
「仕事を理由にあの娘とむきあおうともせず……そのあげくに……」
冷静なふりをしているが、わたしをなじる真理子の声は暗くふるえていた。それは自分を責める声でもある。あのとき、真理子も急用ができて家を空けてしまっていた。せめて、自分がそばにいてやれば……。その想いで十五年苦しみつづけてきたにちがいない。
「きみのいうとおりだ」
わたしは、いくらなじられてもかまわない。だが、彼女が自分で自分を苦しめる姿を見たくはない。真理子は小さくため息をつき、窓の外を見た。湾を染めている夕日の照り返しが、妻の顔を美しく彩る。
「きょう、招待をうけたのはね、もうすぐ日本を出るからなの」
「そうか」
……そういうことか。
「名前も変わるの」
「そうか」
……そういうことか。
長いあいだ、わたしたちはなにも語らずに、ただ海を凝視めつづけた。
真理子が、すっと大判の封筒をさしだした。
「手紙には入れなかったんだけど、最後の一枚、やっとわたす決心がついたわ」
中身は譜面だった。
「あの子が、あなたを想って作った曲だから」
けっしてきれいとはいえない筆跡だ。目頭が熱くなるが、涙は出ない。なぜなら、わたしの涙はあの日、涸れてしまった。
「読めるようになった?」
「いいや、知る気もないやつだからな」
「そう」
ふとさびしげな笑みが、妻の顔に浮かぶ。
――これが四分音符で、こっちが……。
――おねがいだよ。とうさんは仕事でいそがしいんだ。
――こっちは二分音符っていうんだよ。
――仕事だといっているだろう!
仕事だといえば、子どもさえも黙らせられると思っていた。妻との記念日を忘れるのも、家族団欒をこわすのも、すべて仕事だといえば納得してもらえると思っていた。家族のためにしているのだから。家族のために……。その結果が、これだ。あまりの皮肉に笑いさえこみあげてくる。
「功刀さま」
フロア・マネージャーがやってきた。
「さきほど、こちらをおあずかりしました」
少しくたびれてきた花束とぬいぐるみ。そえられたカードを開くと、子どもっぽい字。
「女の子には、花を用意しましょうね、司令官。子分代表プラス1より」
プラス1は、弐神か。姪へのみやげなどといって、持てあましたというわけだな。
たぶん、子分代表は紫東恵だろう。こんなことをするのは、彼女ぐらいしか思いつかない。あまりの子どもっぽさに、思わず苦笑がこみあげてくる。
「笑ってるの?」
「ん? ああ」
「笑えるようになったんだ……」
笑みが凍りつく。
「いいのよ。わたしだって笑えるようになったから。おたがい、ずいぶん時間がかかったけどね」
「そうだな」
「だれから?」
「部下たちが、へんに気をまわしたらしい」
「見せてくれる?」
真理子はカードに目を落とした。
「あなたへの花よ」
「ああ」
「花を贈ってくれるような部下を持てて幸せね」
「……かもな」
「あなたも新しい人間関係を作っていく。わたしもそう。それでいいのよね」
「そうだな」
真理子はわたしにカードを返すと、バッグを手に持ち、立ちあがった。
「そろそろ行くわ。それじゃ」
「真理子」
わたしはふりかえらない。妻もふりかえらない。
「ありがとう」
「さようなら」
はなればなれに過ごした歳月。ようやく終止符を打てる。
真理子から返されたカードには、薄い一枚の紙がはさまれていた。
離婚届だ。
十五年というもの、彼女は離婚には応じず、功刀の姓を通すことで、わたしを責めつづけた。それはかまわない。わたしの罪だから。しかし、彼女にはいつまでもこの忌まわしい名前に縛られず、明日にむかって歩んでほしかった。
それがようやくかなった。
もう二度と会うことはないだろう。
それでいい。
それでいいのだ。
少し、ほんの少しだけ、心の枷が解かれた。
ありがとう。
わたしはムートン・ロートシルトを口にふくんだ。豊潤な味わいと渋味のある液体が、喉の奥に流れこんでいく。
二〇一二年物。あの子が死んだ年だ。
あの子の時間と、わたしの時間はあのときから止まった。しかし、この葡萄酒はその時間をかけて、ゆっくりと熟成されてきた。
汽笛が鳴り、マービンピークはゆっくりと黄金色の湾内に進みはじめた。
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4
根来《にらい》島の山なみを背景に、マービンピークが金色の水面をすべるように進んでいく。うしろに黒い影の波をひきながら。
その様子を見て、恵がつぶやいた。
「司令、娘さんとデートできたかな」
「なんか、よけいなお世話だったような気も……」
「なーにいってんの。女の子の気持ちは、女の子にまかせなさい。どうせ司令のこったから、花なんか絶対買ってないわよ」
「そうじゃなくって。親子のことなんてしょせん他人にはわからないことだろ……」
功刀のおっさん親子がどんな関係にあるか、わからないよ。おれだって、いまおふくろに会ったら、どんな話していいかわからないだろうな。
「あーもう!」
恵がむくれた。
「うるさい! うるさい! 早く帰ってごはんにしよ! おなかすいたぁ!」
そういうと、恵はさっさと歩きだした。彼女なりの気の使い方だったけど、それがうれしかった。
「あ、まってよ」
ふたりの歩く影が、桟橋に長く長くのびていった。
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断章3 如月 樹
かあさん。
おかあさん。
ママ。
母親。
なんと呼べばいいのだろう。
なんと呼ばせてくれるだろう。
いいや、彼女はそう呼ばせてくれないだろう。
ねじれてしまった長い長い時間。
歳月は人の関係を変えていく。
ぼくは、とうに彼女の背丈を越えてしまった。
もしかしたら、ぼくを抱きしめてくれたかもしれない腕を見ても、涙しか出てこない。
とどかない想い。
ふたりをへだてる時間。
ふたりをへだてる血の色。
悲しい血の色。
親子だというのに。
だけど、かあさん、あなたはいまどこにいるのですか。
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断章4 七森小夜子
「樹はいまどこに?」
「自分の家にいらっしゃるわ。きっと久遠と食事中でしょ」
「そうか。じゃあ、ゆっくりできるね」
冷たく白い視線がからみつくように、わたしの体をなめまわす。
ホテルのバー。薄暗い照明。アルコールにまじる男と女の欲望の匂い。そんなものの中で、わたしはなにやってるんだろう。
「ねえ、ほんとうに先生のためなの?」
白い顔をしたこの男は、研究所からあるデータを盗みだせという。国連の監察官を名のるこの男によれば、樹先生がいまとても危険な立場にいる。今回のプロジェクトに関し、データを意図的に隠匿しているという疑いがかけられている。プロジェクトは国連の最高機密に属する。その責任者がデータを隠匿していると発覚したら、罷免はおろか、反逆罪での処罰もやむをえないというのだ。
だから、樹先生を助けるためだという。
自分は樹先生の古くからの友人であり、そのような事態はどうしても避けたい。たとえ、樹先生の意志に反そうとも。もし、わたしがデータを盗みだせば、自分のほうで適切に処理し、絶対に罷免させたりはしないという。
霜がおりるほど冷やしたウォッカのように粘りつく視線が、わたしにむけられる。
「信じてほしいな」
信じるものか。
わたしは人の言葉なんか信じない。あの日から、一言だって信じない。とうさんや兄さんのためになるんだと、そそのかされたあの日から。
あれは、幼いからだまされただけだ。いまはもっと大人になっている。そう簡単にだまされたりはしない。
だけど、樹先生があぶない立場にいるというのは事実だ。先生がそのデータを秘匿しているのは知っている。それが明らかになれば、どうなるかも想像がついている。
もし、こいつから誘いがなければ、自分で漏洩させようか、とさえ思っていた。
それをやってしまえば、先生の立場自体があやうくなるからできないでいた。そこにこの白い男からの誘いだ。こいつは先生を罷免したりしないだろう。自分の支配下に置きたいだけだ。
乗ってみせるのもいいかもしれない。
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断章5 一色 真
バカな女だ。ろくに事態を知りもしないくせに、状況をコントロールできるつもりでいる。
わたしはふたりのあいだに、部屋のキーを置いてみせた。
「わたしのこと、もっと知りたいわけ?」
バカな女だ。状況どころか、このわたしまでコントロールできるつもりでいる。
「わたしは頭のいい女が好きだよ」
グラスをあげてみせると、むこうからあわせてきた。
いつわりの乾杯の音が、小さなバーに響いた。
ほんとうにバカな女だ。
[#改ページ]
功刀 仁 5
月がのぼっている。
月明かりに照らされた斜面を、わたしはゆっくりと登っていく。
丘の上にたたずむ無言の列。いや、あれは墓石の列だ。
死者たちの列に足を踏みいれる。
約束どおり、久遠が待っていてくれた。
「見てくれるかな」
妻から、いや、真理子からあずかった譜面を彼女にわたす。久遠はしばらくそれに目を通してから、ゆっくりと顔をあげた。まなじりが月明かりに光る。泣いているのか?
「よかった。ジン。よかったね」
わたしのために泣いているのか、久遠。
「ずっと、ずっと足りなかったの。だけど、これで完成した。想いは伝わるわ。猛き翼に捧げる想い、いま一度はばたかん。いにしえの時を」
久遠のヴァイオリンの第一音が月にむかって響いた。
あの子の作った旋律が、いまはじめて息を吹きこまれ、大地に空に誕生の喜びをうたいあげている。
わたしは墓石のひとつにひざまずき、紫東たちがくれた花束をささげた。
これは偽りの墓だ。
この下に、あの子はいない。
すべては、人類が作りだした最大の火の前に蒸発してしまった。
おまえが生まれた日、病院にかけつけると、真理子はベッドの中で微笑んでいた。
そのかたわらにおまえがいた。
かわいいとは思えなかった。「赤ん坊」とはよくいったものだ、と思うほど紅い顔をしていた。ただ、すでに利発そうな目が、ひたとわたしの魂までとどいた。そのとき、わたしはこの子を一生かけて守っていこうと誓った。
にもかかわらず、わたしは発射スイッチを押してしまった。
それがわたしの罪だ。
「誕生日おめでとう」
祈りの言葉だ。
「さびしいかもしれないが、もうしばらくのあいだだけ、ひとりで眠っていてくれ。もう少しだけ……。わたしには、まだやることがある。……真理子も、かあさんも許してくれた。もう迷いはしない」
ひざまずくわたしの背中に、やさしく旋律がふりかかり、やさしく月の光がふりかかる。
ミチル……。
最愛の娘よ。
[#改ページ]
断章3 如月久遠
わたしは弾く。死んでしまった娘の想いを。父を慕い、父を追いつづける娘の想いを、旋律にのせ、月にむかって弾く。赫々《かくかく》たる音、啾々《しゅうしゅう》たる月光。弾きはなたれた音は、父親を傷つけることなく、その肩にやさしい指先を重ねる。これは癒し? それとも責め? いいえ、許し。平らけく、あひまじこり、あひ口會へたまふ。わたしは曲に想いをこめて弾くことができる。が、音は弾かれた先から、わたしの指先をはなれていく。ただ、聞くものの胸に降り積もるのみ。墓地のかたわらにある十字架。たが立てし十字架なりや。そはつまびらかならずとも、キリストの御姿《みすがた》なり。キリストさまは地上に生きとし生けるものすべての罪科《つみとが》を背負って、十字架にかけられたのでございます。おお、びるぜんのマリヤよ。雪のさんたまるやよ。こんひさんのさからめんとをたてまつる。ここにひざまずく男は、罪科を背負っております。かれも悔い改めますれば、許しを得られましょうや。いいえ、すでに許しはあたえられておりまする。少なくとも娘からは。それはわかる。なぜなら、その曲を弾いているのはわたしだから。仁はわからないかもしれない。渺々《びょうびょう》たる悲しみ。月の光が仁の目元を照らす。あの輝きは涙? 涙の光が墓石の群れを、死者の群れを照らしだす。
[#改ページ]
神名麻弥 2
「あんた、息子の墓を本気で建てようっての?」
守くんが東京湾基地にやってくるなり、いいだした。
「またドーレムを出そうってんだろ」
「それがどうしたというの。綾人は着実にゼフォンを奏でるようになっているわ。少しのあいだ休みを置いたけど、もうじゅうぶんにシステムは復旧している。ヨ・メセタ・プケによる東京シンクロ率もあがっているわ」
「そうじゃなくてさ。あんたがなに考えてるかだよ」
「どういう意味?」
「ドーレムはどんどん強くなっている。それにあわせてゼフォンもどんどん強くなっていっている。そりゃいいさ。だけど、最初から殺されるために出撃するんじゃ、仲間がかわいそうだろう」
この子は、人間のあいだに長くいすぎて弱くなったのかしら? かわいそう、だなんて言葉を使うようになるとは。ここまでのコマでしかないのかもしれない。
それはそれでいい。使いようがあるから。
「最初から殺されるためじゃないわ。綾人を殺すつもりで戦わせているわよ」
「じゃあ、やっぱり息子の墓を建てようってんだ」
「ラーゼフォンがそんなことを許しはしない」
ラーゼフォンが、奏者を殺すようなことをすると思っているのだろうか。そんなことになれば、ゼフォン・システム全体が狂いはじめる。
「万が一ってこともあるだろ」
「そうね」
わたしがあっさり肯定したのが、守くんにはおどろきだったらしい。
「でも、あなたは息子の命も捧げないで、世界を変えろというの?」
冷たい言葉を、大きなナイフのように〔指揮者の間〕にふり下ろす。
だから?
わたしは綾人の命をどうとも思っていない。
同時に世界でいちばん愛している息子だと、胸をはってもいえる。
愛しているからこそ、わたしはかれに世界をプレゼントしたのだ。
[#改ページ]
あとがき 大野木 寛
ラーゼフォン小説版第二巻をおとどけします。
テレビでいえば、十話までの話の内容ですが、小説版ですから細部はちがっています。
たとえば、小説の綾人くんは、テレビよりいろいろなことに悩みます。ラーゼフォンに乗れなくて悩んだり、戦いたくないからって悩んだり。
そういうことをひとつひとつ、いろいろな人とのつながりで乗り越えていきます。
また、小説のほうでは綾人くんはずうっと「おれ」といっています。
でも、人にしゃべるときは「ぼく」。
こういうことってあるでしょ、みなさんも。
ふつうに友だちとしゃべるときには「おれ」を使うけど、知らない人や親しくない人にむかっては「ぼく」って使うことが。
綾人くんもそうです。
まだ恵ちゃんにも、「ぼく」っていっています。かなり親しげな会話でも、まだ「ぼく」です。
いったい、綾人くんが「おれ」っていえるのは、いつの日のことでしょうか。
それから遙さんとの関係が、テレビ版とは少しちがいます。
きっとこれは、のちの巻であきらかになることでしょう(いちおう、布石は打ってありますが)。
ほかにも一話ほぼまるまるなくなっている回などもあります。今後の巻でも、きっとなくなってしまう回や、あるいはてんでちがってしまう回などが出てくるでしょう。
テレビ版のファンの方々には怒られるかもしれませんが、そこはそれ小説版ということでごかんべんください。
また、もしかするとテレビ版とは日時がずれていることがあるかもしれません。
それは小説版の設定ということで納得してください。
さて、これからまだ三巻四巻と書きつづけますので、みなさま、よろしくおつきあいのほどを。
[#改ページ]
書名:ラーゼフォン 2
著者名:[著]大野木寛 [原作]BONES・出渕裕
初版発行:2002年8月31日
発行所:株式会社メディアファクトリー
住所:東京都中央区銀座8-4-17
電話:(0570)002-001/(03)5469-4760(編集)