ラーゼフォン 1
[著]大野木寛 [原作]BONES・出渕裕
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第一章 首都侵攻
第二章 神人覚醒
第三章 綾人と遙
第四章 二つの時計
第五章 ニライカナイ
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第一章 首都侵攻
1
おれを呼ぶ声がする。
おれを呼ぶ声がする。
目覚めよ、と。
目覚めよ、そして、立ちあがれ。
と……。
時計の音で目を覚ます。
いつもと同じ時計の音。
いつもと同じ時刻。
いつもと同じ部屋。
だけど、きのうとは違う。
なぜって、きょうは七月三日。おれの十七歳の誕生日。
十七。
素数ってやつ。
割り切れない数。
はあ……。
十七になったからって、なにかになるわけじゃない。おれはおれのまま。
キッチンに降りていくと、いつものように朝食がテーブルの上で冷え切っていた。ラップについた水滴が、置かれた時間を物語る。
その隣には弁当箱。いつもながら、おふくろは偉いな、と思う。クラスの連中と話してても、ちゃんと朝飯作ってくれる母親は少ないらしい。働いていたりすると、手抜き料理ばかりだという。ひどいのになるとお金が置いてあるだけで、コンビニ弁当が朝飯だったりする。
おふくろはちゃんと朝飯と弁当を作って、それから出勤していく。
偉いよ。だけど、たまにうっとうしくなるときもある。なにもそこまで頑張らなくてもいいじゃない。母ひとり子ひとりだからって、そこまで肩肘張らなくてもさ。
そんなことを思いながら、冷えたソーセージにフォークをつきたてた。
駅はいつものように人だらけ。いったい、こんだけの人が小さな町のどこにいるんだろうと思いたくなるぐらい、黒い頭が海のようにホームにあふれている。
「綾人《あやと》くん」
ふりむくと長い髪の少女がひとり。うちの高校の制服だ。
あれ? こんな子いたっけ? こんな美人なら目立つのに……。
少女がにこりと微笑んだ。
不思議な微笑みだった。
笑みが彼女の顔に広がるのといっしょに、おれの記憶回路がつながっていく。
「美嶋《みしま》……」
美嶋玲香《みしまれいか》じゃないか。寝ぼけて忘れるなんて、友だちとしてサイテーだな、おれ。
「誕生日おめでとう」
「あ、ありがとう。覚えててくれたんだ」
「あなたの十七歳の誕生日。特別な日。忘れるはずないでしょ」
? ? ?
やばいぞ、やばい。おれ、美嶋の誕生日なんて覚えてない。
腕組みして考えているうちに、いつのまにか彼女の姿が見えなくなった。
「美嶋? あれ?」
黒い頭の列越しにあたりを見まわしたけど、どこにも見当たらない。さっきまでここにいたはずなのに。どこ行っちゃったんだよ。忘れ物か?
学校についても美嶋の姿はなかった。彼女と仲のいい朝比奈《あさひな》に訊いてみる。
「なあ、美嶋は? 駅で一緒だったんだけど」
斜めうしろに美嶋のいない席。
「美嶋? 美嶋って?」
「玲香だよ」
「はあ?」
朝比奈は、頭だいじょうぶ? ってな表情で、ボーイフレンドの守《まもる》と顔を見あわせる。
「綾人、おまえ、だいじょぶか?」
おいおい、守、おまえのほうこそだいじょぶか? なんて思ってたら、当の美嶋が現れた。重役出勤じゃん。
「おはよ」
そういわれても、朝比奈も守も、まるではじめて会ったみたいな不思議そうな顔で彼女を見た。
彼女が微笑む。そのとたん、ふたりは時が戻ったみたいに、いつもの態度になった。
「玲香、遅刻だよー」
「ごめんね」
「さては……」
いいかけた守の頭を朝比奈がはたいた。
「いってえなあ」
守は大げさに頭を押さえてうずくまる。
「いま、品のない冗談いおうとしたでしょ」
「なんでわかるのお」
「わからんで、おのれと付き合ってられるか」
「あいかわらず仲いいわね」
美嶋が笑う。
「なあ、美嶋。なんで急にいなくなっちゃったんだよ」
おれがたずねると、彼女はちょっと困ったような顔をした。
「忘れ物したの思いだしちゃって」
「そっか、ならいんだけど……」
「心配してくれたの?」
「お? もしかして、もしかして、ふたりで朝を迎えたとか?」
守が横から口をはさむ。
「バカ」
朝比奈とおれが同時に口にする。
はじける笑い声。
よかった、いつものみんなだ。さっきの朝比奈と守はどうしちゃったんだろう。
金曜の一限は英語。いつもどおり。退屈な授業。退屈な日常。
おれは教師の言葉を右から左に聞き流しながら、ぼんやりと世界地図を見ていた。
円形の世界地図。教科書に出てくるプトレマイオスの世界地図みたいな丸いやつ。
プトレマイオスはエルサレムを中心に世界を丸く描いたけど、こっちは東京を中心にした半径約四十八キロの地図。
大阪人が見たら激怒しそうだよな。だけど、これがいまの世界。
その外は……。どうなってるんだろう。あまり話題にものぼらない。興味もない。
だっておもしろそうじゃないもの。
だれもいない世界なんて。
2
あの日のことは絶対忘れない。
なぜって、おふくろに起こされたからだ。
目覚まし時計で起きるのは、おれにとっては普通のことだった。小さなころは出勤前に朝飯を一緒に食べたものだが、それでもおふくろはけっして起こそうとはしなかった。
遅刻してきた友だちが「きょうは、かあさんが起こしてくれなくてさあ」というのを聞いて、普通は母親が起こしてくれるのか、と驚いたのは小学校も高学年になってからだ。
「おかあさんは、どうして起こしてくれないの?」
と訊くのを、なぜかはばかってしまうような歳になっていた。だから、たずねたことは一度もない。
だけど、あの日はなぜかおふくろが起こしてくれた。
「綾人、起きなさい」
びっくりして、はね起きたよ。
ほんと。
あわててパジャマのまま降りたら、ダイニングでおふくろはテレビをじっと見ていた。
各地の朝、みたいなくだらない番組だ。おふくろが見る類の番組じゃない。
にもかかわらず、おふくろはおれをふりかえりもせずに、じっと凝視めていた。
声をかけられず、ただぼんやりとパジャマのままつっ立っているしかなかった。
そして、それがはじまった。
「番組の途中ですが」
のことわりもなく、画面が切り替わり、そこに巨大なクレーターが映し出された。
アナウンサーが懸命にこれは現実であり、ひとつの街が消えたのだといっていたが、その意味がなかなかつかめなかった。
「これがいまの大阪の姿です」
といわれても、ピンとこなかった。
ただひとつ思ったのは……。
くだらないことだが、
吉本興業はどうなったんだろう。ということだった。
おれにとって、世界の終わりは、こんなくだらない感想からはじまってしまった。
侵略大戦。三年前の戦争はそう呼ばれている。
おれは中坊だった。中学生なりに世界を理解し、将来を考えていたつもりだった。
あの日、二〇一二年十二月二十九日。おれの世界も、おれの将来も一変した。たぶん日本中の、いや世界中の人々にとってもそうだろう。
突如あらわれた侵略者によって、世界は滅ぼされたのだ。
ほんと、こんな一行であらわせられるぐらい、アッというまだった。あっけない終わり方だった。アメリカもヨーロッパもインドも中国もその他の国々も、おれが行く前になくなってしまった。
東京だけは、ちょうど研究されていた安全障壁によって守られた(おふくろが勤めている研究所だ)。ファインマン・ダイヤグラムがどうのこうの、次元位相の異なる障壁でどうのこうの、と新聞にはよく解説記事がのっているけど、何度読んでも理解できない。とにかくそのシステムのおかげで東京は生き残り、あとの世界は滅んだ。
8000000000の生命が失われた。
あ、いまゼロの数読み飛ばしたろ。
まあ、おれだって読み飛ばすけどね。八十億なんていわれてもピンとこないもん。そんな感じで、八十億のそれぞれの人生は、ただの「八十億」という数字に成り果てた。世界人口は二千三百万人になった。
あっけないもんだ。
いちばん驚いたのは、世界が滅んだっていうのに、自分の生活が大して変わらなかったこと。半月ぐらいは混乱で学校も当然休校、おふくろの研究所も閉鎖してたけど、じょじょに復旧し、すぐに元に戻った。
ほんと元どおり。変わったことといえば、世界紀行みたいな番組がなくなったことと、遠くまで行けなくなったこと、物価が高くなったことぐらい。あとは変わらない。学校ではあいかわらず英語(滅んじまった言葉だぜ)の授業があったし、受験にむけて試験がきつくなっていた。
大人たちは無理してでも、普通の生活を演じたがっているみたいだった。
でも、おれたちはわかっていた。
将来があっけないものだということを。
世界があっけないものだということを。
そして、その確信もまた日常の中に埋没し、いつのまにやらつまらない高校生と成り果ててしまっている自分がいた。
あれからずいぶん時間がたった。あの日のことは忘れないけど、思いだすこともめったになくなってしまった。たぶん、それも心理学でいうところの自己防衛ってやつだろう。人間、思いだしたくないものは、思いださないようになる。
だけど、思いだすたびに不思議に思うことがある。
なぜおふくろはおれを起こしたんだろう。
なぜあんな番組を見ていたんだろう。
なぜ滅びゆく世界を見ながら、口元を歪めていたんだろうか。
微笑むように……。
さげすむように……。
3
部室に行くと、いつものようにコーヒーのいい匂いが漂っていた。
「先生、今日の豆は?」
「当ててみろ」
「キリマンジャロ?」
「神名《かみな》。おまえ、キリマンジャロとブルマンしか知らないのか? こりゃイロカタイだ。代用コーヒーじゃない、本物の豆だぞ」
熊ちゃんはそういって、無精髭をはやした頬をゆるめた。
部室といっても美術教室だし、部員といってもおれひとり。さびしい部だ。まあそれだから、こうやって定年間際の教師とふたりでコーヒーを飲んだりする。教師の熊沢《くまざわ》をつかまえて、熊ちゃん呼ばわりする。
おれと熊ちゃんはしばらくのあいだ無言でコーヒーを飲んだ。
「なあ、神名。考えてみたか?」
「美大……のこと?」
「ああ」
このあいだ、熊ちゃんは美大に行ってみないか、といいだしたのだ。
「おかあさんには相談してみたのか」
「そういうこと気軽に話せる雰囲気じゃないんだよね、うちのおふくろ」
「そっか。じゃあ、どこへ行けっていうんだ? 医学部か?」
「なんか理数系に進めって感じ?」
「……って感じ、ねえ。どうも先生はそういう言葉づかいは嫌いだなあ」
熊ちゃんはそういって、ぼさぼさの頭をかいた。
「おまえはどうなんだ。どこに行きたいんだ」
いわれて言葉に詰まる。そんなこといわれてもなあ。まだ高校生だし……。
友だちだって、別に、大学で数学やりたいんだよう、おれはあ! なんてやつもいないし、医学部に入って難病の子どもたちを助けるんだあ! なんてやつもいない。
まったりと高校生活送っている。そりゃいまから必死になってるやつもいるけどさ、まだ高校二年生だぜ。そのうちイヤでも選択しなきゃならない時がくるってのに、いまからそんなことで悩みたくない。
絵も好きだけど、理数系も嫌いじゃない。
「まだはっきりしないんなら、絵に訊いてみるといい。自分と対話するには絵を描くのがいちばんだ。悩んでること、考えてることは正直に絵筆に出てくる。絵を完成させるってのは、そのときの自分を完成させるって意味でもあるんだぞ。おれも若いころなあ……」
熊ちゃんは熱く語りはじめた。
この先生、嫌いじゃないんだけど、こういうとこがうっとうしい。
全共闘《ぜんきょうとう》世代ってやつ?
自分たちが熱っ苦しい青春を送ったから、それが美しいと思ってる世代。だから、こっちが冷めてると、みょうに説教しはじめる。熱く自分たちの青春を語りだす。
ほんとは自分たちができなかったことを、押しつけてるだけ。
もちろん、そんなことは口にはしない。考えてもいないって顔してる。
熊ちゃんとの関係性を壊したくないもんね。
そのあとしばらく熊ちゃんとくだらない話をだべり、デッサンのひとつもしないで部室を出た。
音楽室の前を通ったら、ピアノの曲が聞こえてきた。聞いたことのある曲だった。でも、曲名が思いだせない。なんだったっけ?
のぞいてみると、西陽のさしこむ窓辺で女の子がひとり、ピアノを弾いていた。
美嶋だった。
彼女がこちらを見て、にっこりと微笑んだ。
「……の定め、よ」
いま弾いていた曲の名前だ。訊きかえしたけど、彼女はてんで違う話をしはじめた。
「絵の調子はどう?」
「なんとかね。まだまだって感じだけどさ」
「タイトル、決まった?」
「まだ。ほら、おれってさ、描きあげてからつけるタイプだから」
「描きつづけてね。なにがあっても」
「美嶋、今朝からヘン。なにがあるってんだよ。十七になったからってさ」
「特別な歳よ」
「どう特別なんだ?」
「……」
美嶋は笑って答えない。どう大切な歳だっていうんだろ。
西陽が黒いピアノの上に赤っぽい色を置いている。
そして、逆光になった美嶋の姿。
あれ?
なんか、この感じ……。
どっかで……。
西陽のあたった音楽室。あの曲。逆光になった少女の姿。かすかな彼女の微笑み……。
「なあ、美嶋。いつだったかもこんなことなかったっけ?」
「こんなことって?」
「ほら、きみが音楽室でピアノ弾いてて、おれがのぞきこんで、それで……。それで……。なんだったっけ」
「やだあ。神名くん。だれかと勘違いしてる。だれ? 中学のころの想い出?」
美嶋は笑いながらツッコミを入れてきた。
勘違い? 美嶋じゃなきゃ、だれだ? しばらく考えこんだけど答えは出てこない。
「ほんとにきみじゃ……」
顔をあげたら、彼女の姿はどこにもなかった。
「美嶋? あれ? おーい、美嶋ぁ」
おれの声だけが、むなしく音楽室に響いた。
なんだよ、おれがぼんやりしてるうちに、先帰っちゃったのかあ? ひっでえなあ。
4
家に入ろうとしたら、鍵が開いている。そっとドアを開けると、おふくろの靴が置いてあった。
珍しい。明日は雨かな。おふくろがこんな早く戻ってくるなんて。
一歩、足を踏みいれたおれの鼻を、料理の匂いがくすぐる。
「かあさん、ただいま」
「おかえりなさい」
キッチンのおふくろは、ふりかえると、にっこり微笑んだ。
「早く手を洗ってらっしゃい。うがいも忘れずにね」
うがいも忘れずにね、なんて小学生じゃないっての。
「今日は珍しく早いんだね」
「ええ、あなたの誕生日だから」
「……」
ウソだ。息子の誕生日だからって、おふくろは早く帰ってきやしない。去年だって、おととしだって、ひとりで料理を温め直し、小さなケーキを食べた。
「研究、一段落したの?」
「まあそうね」
曖昧に笑うと、おふくろは料理に戻っていった。なんで急に息子の誕生日を祝う気になったんだろう。
ま、いいか。どうでも。
その夜の料理は久しぶりに豪勢だった。おふくろも珍しくワインを飲んだ。
「かあさん、誕生日なんだから、一口いいだろ」
「そうねえ……」
「いいだろ。もう十七なんだから」
「一口だけよ」
そっとさしだされるワイングラス。わずかに残った口紅の跡を見ながら、渋味のある赤い液体を飲みこむ。
生まれてはじめての酒というわけじゃない。付き合いで何度か飲んだことがある。だけど、それほどうまいと思ったことはない。
きょうのワインはちょっとだけおいしかった。するすると喉に入っていくじゃないか。
「将来、飲んべになるわね」
おふくろは笑いながら、ワイングラスをおれの手から奪った。
「もう一口ぐらい、いいじゃない」
「未成年は、とりあえずケーキでしょ」
笑うおふくろ。ケーキには大きいロウソク一本と小さいのが七本立ててある。
「手作りの誕生日ケーキなんて何年ぶりかな」
「あらそうだった? ごめんね。研究が忙しいと、なかなかあなたの相手もできなくて」
「なんで急に祝う気になったのさ」
おっとっと、酔いが回ったのか、つい訊いてしまった。
「あなたがいったように、研究が一段落したから。それに、ほら、十七歳は特別だから」
「特別? どう特別なのさ」
美嶋と同じような曖昧な優しい笑みが、おふくろの顔に広がっていく。
「とにかく大切な歳よ。かあさんにとってもそうだったわ。あなたのこの一年はとても特別な一年になるの」
「なんだかなあ……。美嶋もそんなこといってたよ」
「美嶋? だれ?」
妙にひっかかる訊き方だった。それとも酔ってるからそう聞こえたのかな。
「ほら、中学から一緒でさあ。近所の。覚えてない?」
「さあ……」
そうだよな。おふくろがクラスメートのことを知っているはずがないよな。
「あ、ほら、そんなこといってるから。ロウソクが垂れちゃう。早く、早く」
あわててロウソクを吹き消す。
垂れたロウが、白いクリームの上に青く広がっていた。
部屋に戻ったおれは、ベッドに腰を下ろし、はあとため息をつく。いい息子って役も、けっこう疲れるんだぜ。いまどきの男子高校生がケーキひとつに歓声あげなきゃならない。
やれやれ。でも、おふくろって、そういうことを要求してくる空気を持ってるんだ。
母ひとり子ひとりの理想の家庭みたいなやつをね。なんか、他の家庭を想像できないみたいなとこあるんだ。だから、鋳型みたいにそこに自分と息子を流しこんで安心してる。
安心はしてないのかな?
まあ、ほんとやれやれ、だよ。
おれは気をとり直して、絵にむかった。
十五号の絵。いま描きかけのやつ。まだデッサンに毛が生えたぐらいだけど。けっこう気に入っている。岸壁に立つ少女。海のむこうにはうねるような気配。
将来への不安、成長への恐怖、そういったもの。
くー、自分でいってて自分に酔っちゃうね。なんかゲイジツって感じじゃない?
ま、そんなのはあとでつけたウソっぱち。なんとなく描きたかったってのが、ほんと。
こんな感じだとおもしろいんじゃないか、ってのがほんと。
熊ちゃんじゃないけど、自分のいまの状態にぴったりの絵っていったらいいのかな。
とにかく、パレットに色を出す。油絵の具独特の匂いが部屋に滲みだす。
そして、絵筆を握る。自分との対話がはじまる。自分の理想とするものと、自分が表現できるものの間を必死で埋めていく作業をはじめる。
たしかに熊ちゃんのいうように、筆は正直だ。こっちがイラついているとイラついた色しか出てこない。おだやかなときはおだやかな色になる。不思議なもんだ。
まあ、それも作業を中断して、絵を離れたときにわかるんだけどね。描いてるときは夢中で気がつかない。
自分がどんな気分の色を塗っているのか。自分が何者なのかわからず描きつづけている。
おれは描きつづける。
自分を。
未来を。
世界の姿を。
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断章1 紫東 遙
十五年ぶりの東京は変わらなかった。
渋谷のハチ公前はあいかわらず人であふれ、三面のプラズマビジョンもわたしが見ていたCMを流していた。あまりの変化のなさに、めまいさえおぼえる。
ほんと変わらない。人々の顔も無関心さも、ファッションさえも。あっちでは目立った流行遅れの服が、東京ではまったく目立たない。
ステアリングを握りながら、しばらく茫然としていたら、うしろから盛大にクラクションを鳴らされた。
青だ。あわてたわたしは、一瞬、どちらへ進むべきかわからなくなり、思わずダッシュボードを見た。そこにはあるべきものがない。カーナビがないのだ。
あらためて、ここが外からの干渉を受けない世界だということを思いだす。
東京の人間は不思議に思わないのだろうか。世界一の輸入大国であった日本の首都が、外からの干渉なしに成立できていることを。完全無公害型のエンジンがいつのまにか実用化されているということを。二千三百万の人口だけで、かつてと同じ経済活動ができていることを。
すべてがヒラニプラの存在にかかっているということを。
そんなことを思いながら、わたしは十五年間変化のない街をすりぬけ、記憶の旅に出た。
山手線《やまのてせん》沿いに走り、早稲田《わせだ》通りで西武《せいぶ》線沿いに石神井公園《しゃくじいこうえん》へ。
案の定ターゲットの家は、厳重に警備されていた。目立たないように、しかし、死角なく監視モニターが設置されている。警備の人間は見えないが、おそらくあそこ。むかいの家。なにかあれば、即座に対応できるように、常に数人の男たちが詰めているはずだ。
わたしは、かれらがいる部屋の、張りつめた空気さえ感じられる。
それほど、ここは警備されていた。
おそらく東京首相官邸よりも厳重に。
これではターゲットの捕捉は無理だ。
やはり計画どおりにしなければならないだろう。
そう思いながら、ふと二階を見あげると、カーテンのむこうで影が揺れた。
ターゲットだ。
わたしはステアリングをぐっと握りしめた。
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断章2 エルフィ・ハディヤット
シートに腰を下ろすと、機体最終点検の|白シャツ《ホワイト・シャート》が射出座席の赤い安全ピンを抜いた。これで射出可能状態。いつでも好きなときに逃げ出せるというわけだ。ハーネスを留めて体を固定し、酸素と耐G用のホースをつなぐ。白シャツがハーネスを確認し、あたしのヘルメットを軽くたたき、親指をあげてみせた。
あたしも親指をあげる。
それを合図に装甲キャノピーが下りてくる。
じょじょに暗くなっていく。わずかな隙間から洩れていた線のような外光が消え、完全にロックされるとあたりは計器の緑色の光で不気味に照らしだされる。
自動スキャニングシステムのように、目が右に左に上に下に動き、計器に異常がないかどうか確認していく。
いつもどおりの手順。
WCS《ウエポン・コントロール・システム》スタンバイ。液冷装置のスイッチをオフからAWG9に。航法モードのスイッチをNaVに入れる。敵味方識別装置のスイッチをSTBYに。通信装置のノブをBOTHとオンに入れる。そして、小さなディスプレイに表示されているサーキット・ブレーカーが定位置にあるかどうか確かめる。パッドに吸収しておいた作戦データを、航法コンピュータに呑みこませる。データの再チェック。プラズマバリアをONにして数値設定。異常がないことを確認してから、ほんの一瞬だけ息をつき、この暗がりと無音の空間に身を置く。
ふと、いけすかない声が耳の奥でよみがえった。
「オーヴァーロード作戦に参加する諸君。わたしはTERRA《テラ》司令の功刀仁《くぬぎじん》だ。東京ジュピター突入後は、こちらからの連絡は途絶する。すべては突入部隊の判断に任せられる。また、東京ジュピター内でいかなるMU《ムウ》の兵器と遭遇するかもシミュレーションの域を出ない。いかなる敵と遭遇するかわからない戦場に、われわれは諸君らを送り出そうとしているが、人類の命運はきみたちの双肩にかかっている。……などとはいわない。ただ健闘を祈る。以上だ」
つまらない作戦前の演説だった。だいたい、なんでTERRAが今回の作戦の主導権を握らねばならないのか、さっぱりわからない。
まあ、出港前に飲んだTERRA情報士官のシトウとかいうやつは、なかなかいいやつだったけど。
あたしはくだらない感想を頭の隅に追いやり、スイッチを押した。
HUD《ヘッド・アップ・ディスプレイ》が下りてくると、それまでの無音の暗がりが、途端に明るく騒々しい外界とつながる。
がくんとわずかな衝撃があり、エレベーターが上昇した。
海風があたしの晨星《しんせい》二型の表面をなでていく。その風に晨星は折り畳まれた翼を広げる。
直後、背中を殴られるような轟音が通りすぎていく。
プラズマカタパルトがティターニアを射ちだしたのだ。
機体が回転し、リーリャ・リトヴァクの甲板が見えた。
赤シャツが搭載ミサイルの安全ピンを抜いていき、発射可能状態にしていく。
緑シャツが機体にもぐりこみ、ブースター・アタッチメント・ロックを確認する。
そして、晨星はプラズマカタパルトをまたいだ。
二隻の空母を合体させ、その中心を貫くように装備された巨大なプラズマカタパルト。人類最大のカタパルトシステムだ。
湾曲してのびるレール。その先に広がる青い海、青い空、そして東京ジュピター。
「TDDユニットブースター装着」
甲板下のアームが巨大なTDDブースターをつかみ、スライドしてきた。
軽い衝撃。
両側にブースターが装着される。
装着確認。
ブースターの燃料パイプと冷却パイプがカットされる。見おろすと、両側に赤いブースターの丸みを帯びた表面が見える。これだけの巨体を射出するには、プラズマカタパルトが必要だった。そして、このブースターがなければ、東京ジュピターに突入することは不可能だった。
「エンジン始動」
エンジンを点火する。
始動音につづき、エンジンの轟音があたしの全身を包みこんでいく。
発艦総重量の確認。
カタパルト・スピードの確認。
発艦官制室を見ると、ライトはグリーン。
水平に動いている。
スロットル、ミリタリー!
エンジンが轟音をあげ、早く疾走したくていななきあがく馬のように、巨大な機体全体が軋み、うなりはじめる。
カタパルトの巨大なプラズマ発生システムも、うなりはじめた。
操縦桿を軽く左右前後に動かす。
「ファーザー、サン、ホーリー・ゴースト」
士官学校の教官だったマエストロがアメリカ人だったので、あたしはいまでもアメリカ風のチェックの仕方をする。言葉に意味はない。ただのクセだ。
「操縦翼面正常」
外から見ていた黄シャツが確認してくれた。
これでいつでも飛び出せる。
そして、カタパルト加速に備えるためやや頭を前方に傾ける。
グリーンのライトが上下に揺れた。
わずか数秒で時速二百四十キロに加速されるのである。
人間の耐えられる限界の加速だ。
地獄の数秒である。
何度やっても緊張する一瞬。
ゴー!
プラズマが発射された。
頭がヘッド・レストに押しつけられる。
プラズマ独特のぞわぞわするような感覚が肌を走るが、そんなことに気をとられているヒマはない。
いま、わたしは加速という濁流の中にいた。
甲板上のすべてが帯となって、後方に飛びさっていく。
カッ――。
という音が聞こえそうなほどくっきりと、視界が変わった。
濁流がなくなり、青い空が広がっている。
操縦桿をわずかに動かし、プラズマからはずれる。
いまや晨星は自分の力で飛んでいるのだ。
あたしは上昇し、ランデブー・ポイントにむかった。
他の部隊機もつぎつぎと上昇してくる。
「ホットショット・リードから各機へ。異常ないか」
あたしが虚空にむかって問いかけると、
「異常ありません」
という言葉が異口同音に返ってくる。
「“スティール”・ジョー。今日もウサギの足つきか?」
「あったりまえでさあ」
ヤンキーなまりの明るい声だ。
部隊の全員はこれで気をひきしめる。
MUに反撃をくらわすのだということを思いだすはずだ。なぜなら、全員がジョーの持っている幸運のお守りは、MU大戦で死んだ妹のものだと知っているからだ。
他の連中も同じような思いをしている。
“バムバム”・ブリソン。“ポーキィー”・ワン。“ボーボー”・ムハンマド……。
みな、きょうという日のために、死ぬほどシミュレーションや訓練飛行をくりかえした仲間たちだ。
「予定どおり高度一万五千、速度八百五十キロを維持。十秒後にTDDユニットを始動する」
「了解」
操縦桿を握りしめ、いまや視界いっぱいになりつつある東京ジュピターをにらみつけた。
東京ジュピター。
人類の怨嗟《えんさ》を封じこめた忌まわしい木星。
そこに、いま、突入しようとしている。先でなにが待ちかまえているか、いっさい不明。
それでも行く。なぜなら、あたしたちは兵士だから。
5
気がついたら朝だった。
明日は日曜だからって、夜遅くまで画を描いてたけど、きょう模試だぜ。
きのう、朝比奈から確認の電話があったってのに、遅刻じゃないか。いや、それどころか、模試のために教科書の一ページも開かなかったじゃないか。
あわててキッチンに降りていくと、朝食と「模試がんばってね」というメモ。
はいはい、ありがとさん。日曜出勤ごくろうさん。
パンにサラダをはさみこみ、口にくわえてダーッシュ。
だけど、喉につまらせ三秒遅れた。
三秒でも遅れは遅れ。
駅についたら発車ブザー。
あわてて階段二段飛び。
たれたれ登ってる中年オヤジを追い越してホームについたけど、まさに目の前でドアがしまった。窓のむこうにあきれ顔の朝比奈と、アホ、バカ、マヌケと笑っている守の顔が並んでいる。
あ〜あ、行っちゃった。急行。
あれ逃すと、遅刻ぎりぎり。人生ままならないや。
しかたがない。ホームのベンチに腰を下ろし、参考書を開く。付け焼き刃だってわかってるよ。でもまあ、見ないよりはいいだろ。偶然、同じ問題が出ないとも限らない。
と、視界の隅に黄色い色が映りこんだ。
あ?
むかいのホームに人影。
美嶋だ。黄色い服を着ている。
一瞬、おれたちの視線が空中で交差した。
ほぼ同時にむかいの電車がホームにすべりこんできた。窓のむこうに黄色い服を探したが、それらしい姿は見つからない。そして、電車は出ていき、ホームに美嶋の姿はなかった。
あれ……美嶋だったよなあ。
なんか笑ってた。不思議な笑い方だった。
すべてを見透かすような、運命の先さえも見通すような……。
まあ、いいや。小さく首をふり、また参考書に目を通す。わかりもしない数式を端から頭に詰めこんでいく。
ようやく来た普通電車で高田馬場《たかだのばば》。そこから池袋《いけぶくろ》、|新丸の内線《しんまるのうちせん》に乗り換える。
地下鉄ってそんな好きじゃない。窓の外に色がない。すすけたような黒いコンクリートの壁面がどこまでもつづいていく。そこを数本の黒いビニール被膜のパイプだかコードだかが走っていく。わずかに上になったり、下になったり。変化といえばただそれだけ。
つまんない。だけど、そんな単調な風景を見る余裕さえない。そんなヒマがあったら、英単語のひとつも覚えなきゃならない。話す相手もない言葉を覚えなきゃならない。
むなしい。受験と同じくらいむなしい。
「escape」って単語が目に入ったとたん、急ブレーキの音が耳をつんざき、立っていたおれはつんのめりそうになった。一瞬、車内の電気がすべて消え、悲鳴が暗闇に重なりあった。
「痛い、痛い」
「どうなったんだ」
「すみませーん。ケガしてる女性《ひと》がいるんですけどぉ」
「だれか説明しろよ」
不満の声が噴出する。
ようやく車内の電気が復活すると、同時にアナウンスがとんでもないことをいいだした。
「侵略者の攻撃がはじまりました」
侵略大戦を覚えているおれたちは、背筋を凍らせる。
「この電車はただちに最寄りの駅に停車します。乗客のみなさまはホーム係員の誘導にしたがい、地下|防空壕《ぼうくうごう》に避難してください。これは演習ではありません」
最後の言葉が、重苦しく乗客の上にのしかかってきた。
いま、だれかが悲鳴をあげたら、過飽和溶液が小さなかけらで一瞬に結晶化するように、車内はたちまちパニック状態になるだろう。
一分とたたないうちに電車は駅についた。
ついたとたんに遠くで爆発の震動が起きた。
やっぱり演習じゃないんだ。ほんとにはじまったんだ。
侵略者たちが来たんだ!
「押さないでください。落ちついて係員の誘導にしたがってください」
拡声器で駅員が喚いていたが、だれも聞いていない。先を争って防空壕にむかって階段をかけ上がっていった。第二撃が、階段をかけ上がっていた人々の足元をすくう。
近い。
爆風が前方のトンネルを吹きぬけて、止まってる車輌の前面にたたきつける。
もしかして地下鉄直撃?
朝比奈! 守!
おれは手近の駅員をつかまえた。
「いまの直撃ですか?」
「わからないよ、そんなこと!」
駅員だって顔面蒼白だった。だれもが、この現実にどう対処したらいいかわかっていない。足は自然と、みんなと反対方向にむかっていた。万世橋《まんせいばし》方向へ。
「きみ! そっちは危ないぞ!」
知るか! 朝比奈と守がどうなったか教えてくれたら止まってやるよ!
階段をかけあがり、改札を飛び越え、A5出口に走った。
明るい外に出たとたん、轟音が頭上を飛びぬけていく。見たこともない、不気味なカラーリングの戦闘機だ。
ほんとうに敵が来たんだ!
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断章3 紫東 遙
作戦が予定どおりはじまったとき、わたしはターゲットを捕捉するどころか、その近くにさえいなかった。ホット・ショットの連中が侵攻を開始したとたんに、すべての車は地下誘導路に入るように指示されてしまった。
戦闘車輌のために、地上からいっさいの車を排除するらしい。こういうシステムは、国連も見習うべきじゃないかしら、などとくだらない考えをもてあそんでいるヒマはない。
すぐにでもターゲット近くに移動しなければ。きのう傍受に成功した電話の内容では、きょうはお茶の水の受験ゼミの模試に行く。電話の相手との約束からすると、池袋発八時二十五分の新丸の内線に乗っているはずだ。
地下防空壕に避難していく東京人の流れに逆らうように、かつ目立たないように、わたしは地上への出口へむかった。
足元の地面をゆるがすように、キャタピラが通過していった。
三式自走高射機関砲だ。
ガガガガガッ!
耳をつんざくどころか、直接、脳髄にたたきこまれるような発射音が轟ろく。
曳光弾《えいこうだん》が上空のティターニアを追尾する。
ティターニアは軽くそれをかわし、空対地ミサイルを発射した。
三式は高射機関砲を連射しながらビルの角を曲がっていく。
ミサイルは複雑に軌道を変えながら、そのあとを追う。
そして、爆発。
炎と煙が角のむこうから路上に噴き出し、あたりに広がっていく。
まずい。
あれは新丸の内線の方向だ。
もし、ターゲットの乗っている車輌に影響が出たら……!
わたしは走った。
走りながら、完全無線封鎖の任務を恨んだ。
ホット・ショットの連中と交信さえできれば。ターゲットの安全がなによりも最優先されるという、今回の作戦目的を伝えることができるなら。
恨みごとはいうな。ターゲットを捕捉できていない、自分の無力さを噛みしめろ、遙。
わたしは悲鳴をあげそうになる心臓を叱咤しながら走りつづけた。
三式は跡形もなく破壊されていた。
搭載していた弾薬が誘爆したのだろう。
周囲のビルの壁面にこぶし大の穴が無数に開いている。
そして、地面には地下を貫くほどの大きな穴。
わたしはためらわずに穴に飛びこんだ。
案の定、新丸の内線の線路まで破壊されている。
そして、そこにある池袋発八時二十五分の列車。
ひしゃげた車体。
まるで子どもがむりやり箱に詰めこんだオモチャのように、列車は、あるいは天井、あるいは側壁にぶつかって、幾重にも折れている。
わたしは足が震えそうだった。
ここまできて……。
そんな……。
いや、そんなはずはない。
おののく自分を叱りつけ、車輌にかけよる。
先頭車輌から乗りこみ三両目。あちこちで人が倒れ、うめき声をあげている。わたしを見て、救助の人間だと思ったのか、助けをもとめてくる。痛みに苦しむ人の声を、心から閉め出すことはむずかしい。でも、いまはそんなことに関わっている時間はない。
と、
少女がひとり倒れていた。
どこかで見たことがあるような……。
思わず足を止める。
どこだったろうか……。
少女が目を開けた。
その瞳……。記憶が奔流となって蘇ってくる。
「朝比奈さん……」
少女は自分の名前を呼ばれ、一瞬、とまどいの表情を浮かべる。
しまった!
思わず呼びかけた自分の不用意さを後悔したが、いまさら発せられた言葉をひっこめることはできない。うかつだった。きのう電話を傍受したときの声で思いだすべきだった。
「神名くんは……どこ?」
自分でも声が震えてしまっているのがわかる。
茫然としたまま少女は首をふる。
「この電車には乗ってないの?」
少女はうなずく。それだけ確認できればいい。わたしは電車を飛びだした。ふりかえると、少女はとなりの少年と抱きあいながら、わたしのうしろ姿を見送っていた。
わたしは走る。
十五年前の記憶から逃れるために。
東京とわたしの間に流れた時間の差に圧倒されながら。
6
爆発。
うわあああっ。
なんか、とんでもないことになっちゃったよ。
いまさらながら、おれは自分のまぬけさを呪った。
こんなことなら、地上になんか出ないで地下防空壕に避難してりゃよかった。
一度は戻ろうとしたけど、どこもブ厚い装甲シャッターが降りていて、入りこむことなんかできない。
おれはただひとりで戦場にたたきこまれていた。
それにしても……。
爆音。
こんなひどいなんて……。
閃光。
爆風。
だれも教えてくれなかったじゃないかあっ!
衝撃波が轟ろく。
上空を飛んでいたF2改が破壊された。
その機体が炎となって、どこかに落ちていく。
そして、あの不気味な戦闘機。
明日はこの話題で教室は持ち切りだぞ。
生きて帰れりゃ、の話だけどさ。
ずううん!
地面の下から響いてくる爆発音。きっとどこかが爆撃されたんだ。
東京のどこかが。
おれの世界のどこかが。
くそっ!
おれだって三式に乗れれば、あんな戦闘機片っ端から叩き落としてやるのに!
でも、おれに自走高射砲なんてない。あったとしても、どうすることもできない。逃げまわることしかできない、おととい十七になったばかりのただのガキだ。
くやしかった。
噛みしめた唇から血がにじむぐらいくやしかった。
そのくやしさにつき動かされ、おれは闇雲に走りつづけた。
と、目の前に黒塗りの車が現れた。
足を止める。車も急ブレーキで止まる。
ドアがいっせいに開き、数人の黒ずくめ黒サングラスの男が現れた。
な、なんだよ、こいつら。戦場に場違いな服装。だけど、全身から漂ってくる気配は戦場そのもの。
「神名綾人くんだね……」
野太い声だった。
「だ、だったら、どうしたんだ」
思わずいってしまう。ほんとは助けて! って叫びたかったのに。
「一緒に来てもらおう」
「いきなり、なんだよ。おれ、友だちを見捨てるわけにはいかないんだぜ」
「きみの友人の安全は当方で確認する」
「勝手だな。まず、名乗るのが普通だろ」
「たしかにな……」
男はうなずくと、懐からオートマチックを引きぬいた。
「説明してきみの同意をもとめているヒマはないんだ」
かちゃり――。
安全装置がはずされる。
こいつら本気だよ。こっちはただの十七のガキ。どうしろってんだ。
おれが立ちつくしていると、影が飛びこんできた。
一閃!
手刀が男の手のオートマチックをたたき落とす。
横にいた男がすぐさま銃を抜こうとしたが、それよりも早く蹴りがそれをはじき飛ばす。
背後から組みつこうとしたもうひとりの顔面に肘が決まる。
すべては一瞬のことだった。
一瞬ののち、うめく男たちの中央に女の人が立っていた。
きれいな人だった。ショートカットの髪に、イヤリングが揺れていた。でも、またしてもサングラス。
サングラスって流行りなのか?
「うう」
肘をもろに受けた男が、顔を押さえながら立ちあがった。指の間から液体が流れ出る。
血? まさか。
だって青いんだぜ。青い血なんてありかよ。
男が吼えるように叫びながら、こぶしを振りかざした。
女の人がやられちゃう。
だけど、動けない。男はどう見たって防衛軍タイプ。体育会系で頭は弱いけど、腕っぷしだけは強そう。なにもできない自分が情けない。
と思っているうちに、彼女が流れるように動いた。
すうっとリーチの内側に入りこみ、掌を男の腹にたたきこんだ。
男は数メートルもはね飛ばされる。
よくわかんないけど、彼女が使ってるのは中国武術ってやつ? もしかして。
彼女がこっちをむいて、ちらりと微笑んだ。
おれは……
「あぶないっ!」
そういえるのが精一杯。
だけど、言葉もむなしく、男のひとりが彼女をはがいじめにした。もうひとりがこぶしを固める。女ひとりに男がふたりがかりかよ!
さすがにおれの足が動いた。
ほんのちょっとだけだったけどね。ほんと情けない。
男のこぶしが彼女の頬に炸裂した。
ごっ!
ここまで聞こえてくるぐらいの、骨をとらえた音。反動でふり戻った彼女の唇の端から赤い血が流れる。
もうダメ。なんで後生大事に持ち歩いてたんだよ、といわれると困るけど、参考書がたっぷりはいったカバンを、二発目を決めようとしている男の頭にふり下ろした。
バンッ!
手が痺れるほどの衝撃。男の体がくたりと沈みこむ。
うわっ!
反射的とはいえやっちゃったよ。
人をなぐったりするの生まれてはじめて。
やばっ。どうしよ。
おれが茫然としている間に、彼女は自分をはがいじめにしている男の股間を蹴りあげていた。男は悶絶して倒れる。
男たちが全員反撃できそうにないのを確かめてから、彼女はようやく全身から放っている戦闘オーラみたいなもんを解いた。そして、こちらをむき、サングラスをはずすと、にっこり微笑んだ。
「ありがとう」
きれいな声だ。背はおれよりちょっと高いぐらいかな? 思わず浮かんだ場違いな感想に、頬が熱くなるのを覚える。
「神名綾人くんよね」
「う、うん」
「一緒に来て」
またかよ。
「待ってください。ぼくはあなたなんか知らないし」
なにげにいった一言だったけど、なぜか彼女は深く傷ついたような顔をした。と同時に覚悟はできていたといいたげな表情がよぎる。
そして、
「そういわずにつきあってよ」
手にはいつのまにやら、男たちの落としたオートマチック。
「東京ジュピターの外まで」
やばっ。この人、侵略者だったんだ。
でも……。
じゃあ、男たちは? 青い血を流してる連中はなんだよ。赤い血を流してる彼女とどっちが侵略者なんだ? それに……悪い人じゃないような気がする。
「知りたくない? 青い血の秘密を。東京の真実の姿を……」
「……」
「わたしと一緒に来れば、真実を教えてあげる。すべての真実を」
しぶしぶだけど、うなずいてしまったのは、その言葉のせいだろうか、それともオートマチックのせいだろうか……。
あるいは彼女の瞳の奥にあった、哀しいような、懐かしいような色のせいだろうか。
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第二章 神人覚醒
断章1 三輪 忍
「綾人さまが、侵略者と接触、拉致された模様」
わたしの切迫した声に、戦況モニターを見ていた九鬼《くき》司令がふりかえった。
「なんだと! 綾人さまを保護できなかったというのか」
「こちらの工作員が接触しましたが、直後、侵略者に襲われました」
「攻撃機の侵入は、綾人さま奪取のための陽動だったのか。……失態だな」
九鬼が吐き捨てるようにいう。なんでわたしが失態呼ばわりされなければならないんだろう。作戦の統轄責任者は自分のくせに。できるのは部下を叱責することと、判断をあおぐことぐらいなのに。
「いかがいたしましょう」
ほら見なさい。すぐにおうかがいを立てるんじゃない。
九鬼の声に応じて、中央作戦指令室の椅子がわずかに動いた。
「綾人のことはほうっておきなさい」
冷たい声。
「よろしいのですか?」
思わずわたしが確認すると、冷たい射すくめるような視線が返ってきた。この世でいちばん恐ろしい視線だ。わたしは言葉を失い、コンソールに目を落とすことしかできない。
麻弥さまは恐ろしい人だ。
何年か前に一度だけ綾人さまが、ここに電話をかけてきたときがあった。そのとき、麻弥さまは優しく綾人さまをたしなめられた。でも、わたしは見た。そのとき麻弥さまは口調とはまったく裏腹に、冷たい表情をしていたことを。あれほど優しい声を、あれほど冷たい口元から出せる人を、わたしは他に知らない。
もしかしたら、綾人さまを見殺しにするおつもりなのかも……。
「そんなことより、いまは首都圏防衛のほうが先決。フォルテシモを出撃させなさい」
「了解、フォルテシモ出撃準備」
わたしは仕事を与えられて、むしろホッとした。ムーリアンさまがこの世界と重なりあい、静かに〔奏者の祭壇〕に浮かびあがってくる。フォルテシモとシンクロされたムーリアンさまだ。
白い肌。様式にかたどられた仮面をつけて、中空に浮いているように見える。
「同調率八十七パーセント。安定しています」
麻弥さまはムーリアンさまにうなずいてみせた。
「出撃」
「フォルテシモ出撃します」
フォルテシモが歌った。
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断章2 エルフィ・ハディヤット
F2改をつぎつぎと撃破していく。レベル的には十年以上前の戦闘機だ。
こちらがやられるはずがない。
「ホット・ショット・リード!」
切迫した声がヘッドフォンから聞こえてきた。
「新たな敵です。これは……」
断ち切るような音が、耳に痛みをもたらす。つづいて通信途絶を示す雑音。
三次元ディスプレイから“スティール”・ジョーの機影が消えた。
急いでコンソールを操作。
いた。
ズームをかける。
そこには見たこともない兵器があった。まるで子どもが遊んだ不細工な粘土細工か、芸術家が作った前衛アートのような人型兵器が、なんの支えもなく空中に浮かんでいる。
三次元ディスプレイに「D1」表示が明滅しはじめる。
ドーレムだ。
MU大戦で人類に地獄の業火《ごうか》を浴びせた兵器が、いま目の前にいる。
「ホットショット・リードから各機へ。D1だ。305《スリー・オー・ファイブ》、306《スリー・オー・シックス》はプロスペローミサイル発射」
「了解、フォックス・ツー」
ディスプレイ上の僚機からミサイルがD1にむかって発射された。
D1にミサイルが吸いこまれていくのを目視で確認。
そして、爆発。
が、D1はなにごともなかったかのように浮いている。
「303、304、対ドーレム用クレイ・カッター発射」
「了解。フォックス・ツー」
対ドーレム用ミサイルが発射されるのとほぼ同時に、D1の頭部にある口が開いた。
強烈な音が脳髄に響いてくる。あわててD1アリア・シールドをかけるが、それでも手が震えてきそうな音だ。
核にもっとも近いクレイ・カッターの爆発がD1に襲いかかる。
空中にひろがる巨大な火球。
しかし、ディスプレイには火球の中の無傷のD1が表示されていた。
さらにD1アリアが収束していく様子が表示される。
反射的に操縦桿を引きあげる。
すさまじいGと同時に血流が下がり、耐Gスーツの腕や足が絞めつけられるのを感じた。
Gに軋む機体。
HUD《ヘッド・アップ・ディスプレイ》自体が震え、表示と風景が震動する。
その震動の中で、静かにふたつの敵味方識別信号が消えた。
なんということだ……。
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1
赤紫のへんな兵器が現れたのが見えた。
きっと噂に聞く首都圏防衛兵器ってやつだろう。
おれは、黒ずくめの男たちが乗ってきた黒塗りの車に押しこめられ、どこかへ連れさられる途中だった。
侵略者の戦闘機のミサイルが炸裂したけど、赤紫のやつは平気な顔で浮かんでいる。
さすがあ。
「え! なんですって!」
美人さん(名前知らないんだもの)が、すっとんきょうな声をあげたと思ったら、急ハンドルを切り、首都圏防衛兵器の勇姿がビルの陰に隠れた。
強烈な横Gに体が彼女のほうに倒れこむ。
肌と肌が触れ合う。どきりとする間もなく、急ブレーキで前につんのめりそうになる。
「舌噛んだらどうすんだよ」
という、抗議はなかばまでも言えなかった。
「すぐに耳をふさいで!」
美人さんが切迫した声をあげた。
「口を開いて叫んで! さもないと鼓膜が破れるわよ」
なんだかわからないまま、いわれたとおり耳をふさいで叫んだとたん、衝撃波が走った。
言葉では知っていたが、生まれてはじめて衝撃波というものを味わった。
壁だ。
見えない透明な壁がたたきつけてきたような感じだ。
それは体の中まで通過し、内臓をかきまわした。
直後、車のガラスが割れ、はげしい雨のようにビルの壁面ガラスの破片が降り注いできた。
ざああああっ――!
が、が、が――
大きなガラスの破片が、まるでナイフのように車の天井をへこませて鋭い切っ先をつっこんでくる。破片のひとつが、足の間に落ち、ざっくりとシートにつき立った。
あまりの恐怖に、しばらく声さえ出ない。わあああんという耳鳴りがするだけで、他の音はいっさい聞こえない。
ぐらりと床が揺れた。
そして、吐いた。
すべてを吐き出した。
恐怖を。
内臓をかきまわす衝撃波を。
この不条理な事態を。
どれくらい時間がたったろうか。気がつくと、優しい手が口元をぬぐってくれていた。
美人さんだった。
吐瀉物は彼女の服にまでかかっているが、気にせず、介抱してくれた。
「あ、ありがとう」
といったつもりだけど、自分の声が聞こえない。
耳鳴りだ。お礼の言葉が聞こえたかどうかわからないけど、彼女は微笑んでハンカチを渡してくれた。そして、美人さんは窓枠に残っているフロントガラスの破片を肘で割ってはらいのけ、エンジンをかけた。
やっぱ、どっかにおれを連れていくつもりだってことは変わらないらしい。
優しいけど、職務には忠実ってことか。
ようやく耳が聞こえるようになってきたのは、六本木《ろっぽんぎ》に近づいたころだった。
「クレイ・カッターよ」
「はあ?」
「さっきの爆発。対ドーレム用ミサイルの爆発なの。こっちから通信はできないけど、傍受ぐらいはできるからね」
そういうと、彼女は自分のサングラスを指さした。
どうやらHMD《ヘッド・アップ・ディスプレイ》と通信機もかねているらしい。
「ぼくをどこに連れてくつもりなんです」
「国土防衛庁」
なんだ、侵略者じゃなかったんだ。やっぱ青い血の連中が侵略者だったんだ。
「残念でした」
美人さんが、こっちの心を見透かしたようにいった。
「わたしは、あなたからしてみると、侵略者よ」
証拠はこれ、とばかりにオートマチックの銃口がおれのほうにむけられた。
「でも、国土防衛庁って……」
「必要なものがあるの。マジメよねえ、日本人って。ちゃんと手順どおり、鹵獲《ろかく》したものは国土防衛庁に運んで研究するんだから。おかげで土浦《つちうら》まで戻らずにすむわ」
語尾に力がこめられたのは、思いっきりハンドルを回したからだ。
タイヤを軋らせて、車は六本木交差点を曲がった。
国土防衛庁前に装甲車がバリケードを組んでいる。だけど、車は速度をゆるめない。
「うわあああっ。ぶつかる」
おれは悲鳴をあげた。
物凄い勢いで装甲車が大きくなっていく。
装甲のへこみまで見えるようになって、おれはもう覚悟を決めた。
そのとき、装甲車が急に後退した。
わずかな隙間ができる。
その隙間を車はくぐりぬけた。
サイドミラーが装甲車のフェンダーにぶつかってはじき飛ばされ、目の前を凶悪な砲口が流れさっていった。
思わずふりかえる。
兵士たちがアサルトライフルをかまえている。一撃で車の鉄板なんか撃ちぬきそうだ。
だけど、撃ってこない。
なぜ?
「あなたがいるから」
またしても美人さんに心を見透かされる。
「どうして?」
「あなたは、自分が考えている以上に凄いのよ」
「おれはただの……」
……高校生だぜ! といいかけた言葉を飲みこまねばならなかった。
また急ハンドルでタイヤが悲鳴をあげ、車はフェンスをぶちぬいて、むこうのヘリ発着場のような場所に到着した。
「降りて」
美人さんがシートベルトをはずしながらいった。
「降りないよ」
もしかしたら、これが最後のチャンスかもしれない。まわりじゅう、アサルトライフルをかまえた兵士たちに囲まれている。彼女はたったひとりだ。
おれはちょっと強気に出た。
「だってそうだろ。少しは説明してくれてもいいじゃないか」
「これが説明」
ぐっとオートマチックが脇腹につきつけられる。
けっこう痛い。
「いいこと。わたしはね、あなたが敵の手に渡るぐらいだったら、殺してもかまわない、いえ、殺せ、という命令を受けているの」
そういう彼女の目は、本気だった。
「そんなことはしたくない。だから、いうことを聞いてちょうだい」
銃口が降りろと動いた。降りるしかないようだ。
「手をあげて、あなたが無力だということを示しなさい」
いわれたとおり手をあげる。テレビや映画ではよく見るけど、これってけっこう屈辱的なポーズだ。ほんとうに自分が無力だと思い知らされる。
彼女は背中にオートマチックを押しつけるようにして、おれをうながした。
こっちの動きにあわせて、幾十というアサルトライフルの銃口も動いている。
だけど、兵士たちはだれも撃とうとしない。
ぎらつく目で見送るだけだ。
なぜだ?
彼女のいうように、おれは特別なんだろうか。
まさか……。
彼女がむかったのは、格納庫の中だった。そこには見たこともないVTOL機があった。
「これは……?」
「いいから乗りなさい」
おれと彼女は同時にタラップを登る。
彼女は、銃の狙いをつけさせないように、できるだけ体を密着させてきた。
ふといい匂いがしてくる。
あれ?
この匂いどこかで……。
記憶をまさぐるおれの横腹を銃口がつつく。
はいはい。
しかたなく、後部座席に乗りこんだ。
「行くわよ」
前部座席に乗りこんだ彼女はそういって、エンジンを始動させた。
その背中を見ながら考えた。
なぜ、あのときタラップから飛び降りなかったのだろうか。
と……。
もし飛び降りていれば、彼女はアサルトライフルで蜂の巣になっていたはずだ。そして、おれは助かり、また普通の高校生に戻れたはずだ。
なんでだろう。
……たぶん見たくなかったんだ。
彼女が殺されるところなんて……。
2
VTOLは垂直上昇していく。東京が眼下に小さくなっていく。
それを見ながら、あることに気がついた。
いま、肉眼で東京を見おろしているんだ。侵略大戦以降、東京の空を飛ぶ人間は限られている。防衛軍のパイロットか、報道関係のヘリ操縦者、それくらいだ。
この世界に、飛行機で行かなければならないほどの場所はない。
テレビでよく見ているから違和感はないのだが、肉眼で見ているのだと思うと奇妙な感じだった。同時に、自分はほんとうに侵略者の手の中にあるのだという感じもあった。
「ちょっと加速するね」
美人さんがいい終わると同時に、VTOLは加速した。
頭がヘッドレストに押しつけられ、一瞬、舌を噛みそうになる。つくづく軍用機ってユーザーフレンドリーに作られていない。音もうるさいし、加速も容赦ない。
なんてのんびりした感想しか浮かばないのが、なにやら情けなかった。
でも、彼女と一緒にいると、敵の本拠地に連れていかれるという感じがしない。どこか秘密めいたデートみたいな感じなのだ。
「全システムカット。TDDシステムに切り替える」
エンジンがフルパワーで回転するのがわかる。だけど、加速しない。
たぶんエンジンのパワーのすべてをそのTDDとかいうのに使っているんだろう。
その証拠に、いままで聞いたこともないような奇妙な音が聞こえてきた。
金属のコマが回転するような、カン高い音だ。そして、キャノピーのむこうに、不思議な光が舞いはじめた。たぶん機体全体をおおっているんだろう。
本気で安全障壁をつきぬけるつもりらしい。
いまさらながら足をつっぱった。
だけど……。
エンジンの回転音がやんだ。同時にカン高い音も消え、不気味な静寂が訪れる。
「システムがダウンした!」
システムダウンって……。
それって……。
思う間もなく、機体は傾き、急激に降下しはじめる。
玉が縮みあがる。目の前いっぱいに地面が広がる。
そこにむかって、いま、おれは落ちこんでいる。
と、衝撃もなく機体が水平になった。
不思議な感じだ。Gもなにもなかった。
「うるさいわねっ!」
どなられて、ようやく喉を震わせているこの感覚が、自分の悲鳴だと気がついた。
知らずに絶叫していたらしい。
「ど、どうなってるんですか」
「どうなってるか、わたしに訊かないで。エンジンは完全に停止、全システムがダウンしてるのよ」
「でも、それじゃあ……」
「それでも落ちないの! それどころか、あそこに引き寄せられているのよ」
指さす先に東京湾基地があった。侵略者に対する砦。東京湾基地。
そこにむかってVTOLは動力もなしに引き寄せられている。
そんなバカな。だけど、事実、東京湾基地がアップになって迫ってくるじゃないか。
いや違う。
なんだか知らないけど違う。東京湾基地なんかじゃない。
あそこじゃない。なんでそんな断言ができるのか、わからないけど確信できた。
おれを呼んでいるのは、あそこじゃない……。
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断章3 紫東 遙
操縦はまったく不能のまま、わたしたちは東京湾基地に吸い寄せられていった。
もう覚悟はできている。きっとムーリアンたちは、わたしを洗脳し、すべての情報を引き出すつもりだろう。それくらいなら、綾人くんを……。
わたしは手の中の銃の安全装置を凝視《みつ》めた。うしろでガチャガチャという音がする。
ふりかえると綾人くんがハーネスと格闘していた。
「なにやってんの」
「行かなきゃ。おれを呼んでる……」
目の焦点が合っていない。危険だ。
「どうしたの。しっかりして!」
といったとたんに、機首が下がり、海面が目の前に広がった。反射的に対ショック姿勢を取る。VTOLエーリアルは急角度で海面に突入した。
すさまじい衝撃がある。
……はずだった。
ところが、わずかな衝撃があっただけで、わたしたちは再び青空の中を飛んでいた。
青空? どうして?
東京湾の下になぜ青空が広がっているの。
「行かなきゃ」
綾人くんだ。わたしはできるだけ体をねじって、後部座席をふりかえった。
「しっかりして!」
「呼んだのはきみ?」
焦点の合わない目が、わたしにむけられる。かれの見ているのはわたしじゃない。わたしのむこうにあるなにかだ。
そして、爆発ボルトが作動した。キャノピーが吹き飛び、強烈な風が吹きこむ。
綾人くんがハーネスをはずし、機外に身を投げようとする。
とっさに手をのばす。
が、わたしが捕まえたのは虚空だった。
綾人くんの手がわたしの指先をすりぬけていく。
どんどん離れていく。
いやだ。
いやだ。
いやだ!
わたしの絶叫を乗せたまま、エーリアルは落下していった。
3
頬に当たる岩の冷たく荒々しい感触で、目が覚めた。見まわして唖然となる。
ここはどこだ?
奇妙としかいいようがない場所だった。どこまでも広がる青い海。青い空。白い雲。
それを背景にそそり立つ、ローマのコロシアムのような円柱の群れ。円柱の群れは時の侵食にあったのか、ところどころ崩れ、剥落している。一部は上部を欠き、一部は根元がなくなってしまっている。にもかかわらず一本も倒れていない。
まるで侵食などなかったかのように、根元を失った円柱が空中にそそり立っているのである。
ところどころが欠けた鳥籠のような円柱の群れ。
その中央に卵があった。
卵としかいいようがない形状のものだ。表面には見たこともないような文字が刻まれている。しかも、それは水におおわれている。
ただの水じゃない。もっと透明な、もっとねっとりとした液体だ。
それが足元の海から盛りあがるようにして、卵全体をおおっている。
なんだよ。
ここは……?
「綾人くん」
ふりあおぐと、美嶋がいた。ホームで見かけた黄色い服を着ている。
「美嶋……なんでここに?」
彼女はその問いには答えず、微笑みながら手をさしだした。
「いらっしゃい、綾人くん」
おれも手をのばした。ふたりの手が重なる。
美嶋のあたたかなぬくもりが、掌につたわってくる。
そして……。
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断章4 紫東 遙
なんとか機を水平に起こし、着水に成功した。それでもコンクリートにたたきつけられたような衝撃があり、ハーネスがなかったら、体は前方に投げだされていただろう。
ようやく機が止まったと思うと、今度は沈みはじめた。
安全を確保してくれていたハーネスが、一瞬にして拘束具となる。四点支持のバックルにこぶしをたたきつけ、ロックを解除する。
機体に足をかけたときには、もうすぐそこまで水面が迫っていた。
わたしは目星をつけ、すぐ近くの岩棚のような場所に飛び移った。
間一髪。
ふりかえるとエーリアルはもう尾翼の一部を残すのみで、完全に水没していた。
しかし、そんなことはまったく目に入らなかった。
わたしは茫然と見あげていた。
卵を。ゼフォンの卵を。
あまりにも大きくて上のほうが平板に見えてしまい、ほんとうに卵形をしているのかどうかさえ自信がなくなってくるほどである。羊水のような液体が絶えず卵の表面をおおっている。それは滝のように還流しているが、いかなる物理原理でそうなっているか、まったく理解の範疇《はんちゅう》を超えていた。
そして、卵を囲むようにある神殿の残骸。
このゼフォン神殿はすでに遺跡だった。時の牙に刻まれたあわれな残骸にすぎない。
しかし、ここにはゼフォンの卵がある。われわれには完全な神殿があるが、卵はない。
ゼフォンの卵のすぐ近くに人影が見えた。
綾人くんだ。
「綾人くん!」
大声で叫んだが、聞こえていないようだ。
なんとかかれのそばに行こうとしたが、わたしが飛び移った岩場は離れ小島のような場所で、どうにも近づけそうにない。
「綾人くん!」
無駄とわかっていても、もう一度呼んでみる。
かれが反応した!
いや、違う。虚空にむかって手をのばしているのだ。
なににむかって? わからないなにかにむかってのばされた手が、ぐっと虚空をつかんだ。
そのとたん、
足元が揺れた。
羊水の海が泡立つように波打つ。
わたしはできるだけ高い所へ避難しながら、綾人くんの名前を呼びつづけた。
そして、見た。
ゼフォンの卵にヒビが入るのを。上部が割れ、白い金属の腕がつきだされるのを。
「ラーゼフォン……」
割れた卵のかけらが、巨大な壁のようにつぎつぎと羊水の海に落ちて水柱をあげていく。
いにしえより伝えられている巨人が姿を現そうとしていた。
綾人の呼びかけに応じて。
卵からこの世に生まれ出ようとしていた。
腕につづいて、頭部が現れた。顔は羽根のようなものにおおわれている。
ラーゼフォンにはわかっている。綾人がどこにいるか。なにをすべきか。
まだ割れた卵の中に半身を入れたまま、ラーゼフォンが綾人にむかって手をのばす。
すると、綾人の体がすうっと消えていった。
「綾人っ!」
呼びかけに応えるようにラーゼフォンが身を起こした。
そして、吼える。
巨人が誕生の悲鳴をあげる。
4
おれは見たこともない椅子に座っていた。
気絶していたという記憶はない。美嶋の手を握ったと思ったら、ここに座っていたのだ。
水面がどこまでもつづいている。その中から、まるで水中につきささった羽根の矢ような操縦席がつきだしているのだ。
操縦席? いまなにげにいったけど、どうしてそんなことがわかってるんだ?
なぜ?
そのとき、なつかしい声が聞こえてきた。
「綾人!」
え? いまのおふくろの声? おれの意識に反応したのか、モニターのようなものが現れ、外の様子が映しだされた。岩のひとつにおふくろが立っていた。
「かあさん……ここはどこなんだよ。おれ、どうなっちゃってんの」
「綾人、あなたはわたしのもの」
「なにいってんだよ。こっから出るにはどうしたらいいのさ」
「イシュトリごときにそそのかされて。あなたにはまだそこに座る資格がないはず」
言っていることがさっぱりわからない。こっちの声も聞こえてないんだろうか。
「かあさん」
そういって体を前に動かしたとたん、それに呼応するようにこの訳のわかんない部屋全体が動いたようだった。
おふくろの顔がアップになったように近づく。というか、おれが乗っているものが近づいたんだ。
おふくろの顔が恐怖に歪んだ。自分が殺されるという恐怖に。
「フォルテシモッ!」
おふくろがふりあおぐ。ほぼ同時にガラスを割るような音が響いた。
反射的に見あげる。
頭の動きをトレースするように、六角形の小さな画面が虚空に現れては消えた。
そして、空中に固定された画面に外の様子が映る。
青空を破壊して、あの赤紫の人型兵器が降りてきた。
白い顔が笑っている。
いや、歌ってやがる。
あれは悪い歌だ。
歪んだ歌だ。
反射的におれは右手を動かしていた。
すると、まるでおれの手の延長であるかのように白い金属の腕がのび、赤紫の人型兵器の顔面を破壊していた。
これって……。
つまり、おれはロボットみたいなのに乗ってるってことか?
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断章5 紫東 遙
降下してきたドーレムの頭部を、ラーゼフォンは一撃で粉砕した。ドーレムの巨大な体がゆっくりと羊水の海に落ちこむ。そして、ねばつく羊水が津波のように盛りあがった。
あぶない! だが、逃げ場はどこにもない。
と、ラーゼフォンの手がわたしを優しくつかみあげてくれた。直後、津波がわたしのいた岩棚に襲いかかり、すべてを沸きたつ白い泡の下に隠してしまった。
助かった。ふうっと息をついたとき、わたしは柱の陰に人影を見つけた。
女の人だ。あれは……。
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5
おれは、美人さんをなんとか救い出すことに成功した。なぜ助けたのかは、自分でもよくわからない。
「おーい、聞こえるか?」
呼びかけてみたが、答えはない。やっぱり聞こえないようだ。なんとか呼びかける方法ってないのかよ。見まわしてみたが、それらしいものはなにもない。
と、美人さんがあらぬ方を見ている。彼女の視線の先を追ったおれは、息を呑んだ。そこにはおふくろがいた。
頬にケガをしている。たぶん、さっきの赤紫野郎の破片で傷ついたんだろう。
ただ……。流れている血は赤くなかった。
青かった……。
疑問が嵐になって、おれの中を吹き荒れる。
なんで血が青いんだよ。
おれの血は赤いぞ。
ウソついてたのか?
おれはおふくろの子じゃないのか?
どうしてあのときみたいな冷たい目をしてるんだよ。
侵略大戦がはじまったときみたいな!
なんとかいえよ、おふくろ!
おふくろは銃をむけてきた。
違う。
おれじゃない。
おふくろが銃をむけているのは……。
首をめぐらせると、巨大な肩の上に美嶋が立っているのが見えた。
美嶋はおれを見て、微笑んでいる。
奇妙な四角形。
美人さんはおふくろを凝視め、おふくろは美嶋を凝視め、美嶋はおれを凝視め……。
おれは……。
「歌いなさい。ラーゼフォン。禁じられた歌を。歌いなさい。ラーゼフォン。いつかすべてがひとつとなるために」
美嶋がいった。
「イシュトリ。あなたに綾人を自由にはさせない!」
おふくろの声と同時に銃声が轟いた。
そして、美嶋は……。
黄色いスカーフが宙を舞った。
おれは……。
おれは……。
「いやだああああっ!」
すべてを拒否した。
この事実を。
この欺瞞を。
この世界を。
この真実の姿を……。
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第三章 綾人と遙
断章1 エルフィ・ハディヤット
リーリャ・リトヴァクの甲板上に柩《ひつぎ》が並べられている。国連旗に包まれた十三の柩。それぞれに兵士がつき、厳粛な中に儀式は進行していく。
ほんとうだったら、あたしもあそこに並ぶはずだった。十四番目の柩として。
なのに、たったひとり生き残ってしまった。たった一匹のドーレムと交戦し、精鋭十三名が死んだ。
……ボーボーだけは離脱命令にしたがい、最後までわたしについてきた。TDDユニットで絶対障壁を越えようとした。だけど、あの壁を越えることができたのはわたしの晨星《しんせい》だけだった……。
おめおめと自分だけ生き残った。部下を見殺しにして。
艦内ですれちがうだれもがそういう目で見る。いや、いちばんその目で見ているのは自分だ。鏡をのぞくたびに、さげすむように自分を見ている瞳とぶつかる。
正装した海兵隊員がアサルトライフルを空にむける。
そして斉射。
連続した発射音が青空に吸いこまれるように響く。
虚しい音だ。
ゆっくりと柩がかつぎあげられ、祈りの言葉とともに海に落とされる。
ひとつ水柱があがる。またひとつ。またひとつ……。
沈んでいく泡が、ゆっくりと後方に流れていく。哀しい葬送の列。
しかし、中身は空だ。戦闘機乗りの宿命だ。あたしたちが死んでも、だれもその死体を回収することはない。認識票《タグ》さえも回収されることはない。ただ死んで宙に散るのみ。柩に入れることができるのは、自分が最後に聞いた、機体が炸裂する音だけだ。
なのに葬儀は行われる。
欺瞞だ。無意味な行為だ。死ねという命令を出した上層部が、自分を安心させるためだけに行う儀式にすぎない。にもかかわらず、人はそうしなければ気がすまない。たいした効果は期待できないとわかっていながら実行された、オーヴァーロード作戦と同じだ。
残ったのは虚しい死だけだ。
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1
腐った魚の臭いで目が覚めた。起きあがると頭がつかえそうな天井がある。
狭い室内だ。というより、ここは……。古ぼけた漁船の中だ。
海鳥の声がする。防波堤の消波ブロックに打ち寄せる波の音がかすかに聞こえる。そのたびに揺れている。
寒い。かけられていたカビ臭い毛布を体に巻きつけると、ふらつく足で立ちあがり、船室から甲板に出てみた。そのとたん、圧倒されそうになり、実際、よろめいた。
すぐ横に壁がそそり立っている。黄色っぽいような赤っぽいような壁が、見あげることができるはるか上までつづいている。横も見渡せるかぎりつづいている。
最初はなにかわからず、理解できるまで時間がかかった。
これ……安全障壁じゃないか。テレビで何度も見たことがあるぞ。
でも、いま目の前にあるのは、端が丸く消えている。
……? ? ?
しばらく茫然としていたと思う。
「目、覚めたの?」
という声にふりむいた。どこまでもつづく水平線を背景に、美人さんが船着き場に立っている。どこまでもつづく水平線だ。
「ウソだ……」
自分を抱きしめるように、その場にしゃがみこむ。
美人さんが、あわてて漁船に飛び乗ってきた。そして、優しく背中をなでてくれた。
その手のあたたかさが、これは現実なんだと教えてくれる。
「ぼ、ぼく……安全障壁の外にいるんですか?」
「そうよ」
こともなげな答えに、恐怖に襲われ、思わず口をふさいだ。息をしちゃダメだ。
「なにやってんの?」
不思議そうにたずねられた。
「だって死ぬんでしょ。安全障壁の外では人間は生きていけないって……。無人の荒野が果てしなく広がってるんだ」
おれは真剣だっていうのに、笑われた。
「そう信じこまされてたんでしょ。……ほら、立ってみて」
脇に手をそえられて、ようやく立ちあがる。
「見てごらんなさいよ」
美人さんがぐるりと指さした。
背中には安全障壁。右手に山。左手に水平線。その間にはさまれたように広がる町。
「ね、これがあたしたちの世界」
「だれもいない……」
実際、人の気配というものが感じられない町だった。打ち捨てられてもうずいぶんたつという感じだ。
「う〜ん。最初に見たのがここっての、よくないよねえ。人間でいうと第一印象が悪いってやつ?」
彼女はぶつぶついいながら、頭をかいた。
「でも、ま、しょうがないよね」
そういうと、美人さんは手をさしだした。
「?」
「握手」
いわれるまま手を握りかえす。すると、彼女はにっこりと微笑んだ。
「わたしたちの世界へ、ようこそ。神名綾人《かみなあやと》くん」
わたしたちの世界……。
「わたし、紫東遙《しとうはるか》。よろしくね」
「は、はい」
美人さんは紫東遙さんていうのか。いい名前だな。
「紫東さん」
「遙でいいわよ」
だからって、すぐ呼べるもんじゃないよ。
「紫東さん、どうやって外に出たんですか?」
「どうやってって、覚えてないの?」
「ええ」
「あれよ」
そのとき、おれたちはちょうど船室の前の甲板で話していた。船室があるためにそれまで気がつかなかったが、紫東さんが指さした先にとんでもないものがあった。
大きな白い顔のようなものが、こっちをのぞきこんでいる。
「うわあっ」
彼女の前で情けないが、またしてもしゃがみこんでしまった。
「なにびっくりしてんの。こっちのほうが驚くわ」
またしても脇を支えられて立ちあがる。
「ほんとに覚えてないの? こっち来なさいよ」
いわれるまま船首のほうに回ってみる。四本の柱のようなもの。それに支えられた白い天井。そして、その先に顔みたいなものがついている。
ようやく顔の正体がわかった。船をおおうように、巨大な白い人型のものがよつんばいになっているのだ。
どこかで見たことがある。どこだったろう……。
「ラーゼフォンよ」
「ラーゼフォン……」
くりかえす舌の動きが記憶を呼び覚ます。手の中の操縦桿の感触。あの赤紫のやつを倒したときの映像。そして、おふくろの冷たい目。
宙に舞う黄色いスカーフ……。
「ぼく、これに乗ったんだ……」
「そうよ。あなたはこれに同化してたの」
「これで安全障壁を?」
「ええ。わたしたちが絶対障壁と呼ぶものを突破したのよ」
安全障壁、いや、絶対障壁、どっちでもいいよ。とにかく、のしかかるような壁を見あげた。あれを突破したんだ……。
「ここからじゃわからないでしょうけどね。もう少し離れた場所から見ると、これって木星そっくりなの。だから、だれいうこともなく東京ジュピターって呼ばれてるわ」
「東京ジュピター……」
頭が痛くなってくる。信じていたものがウソで、こっちが真実だなんて。
じゃあ、いままでの人生ってなに? だれか説明してくれよ。
寒かった。猛烈に寒気を感じた。毛布を体にしっかりと巻きつける。
「寒い……」
「わたしも寒いわ」
寒そうに鳥肌のたった二の腕をこする。
「温暖化であったかくなったとはいえ、十一月に薄着じゃね」
「十一月?」
いきなりいわれて、混乱する。
「ちょっと待ってください。おれ、半年近く意識失ってたんですか?」
「そうじゃないわ。ほんの数時間かしらね」
「数時間? だって、いま十一月だって……」
「えっとねえ……。説明は難しいから後回し。時差だと思ってちょうだい」
「時差ねえ」
時差なんていわれてもピンとこない。そういえば侵略大戦が起きる前は、そんな言葉もあったっけ。
「とにかく、いまは服の調達。風邪ひきたくないでしょ?」
そういうと、紫東さんはおれの手を引いて船を降り、町にむかった。
2
打ち捨てられた町だ。原色の町だ。
アスファルトはヒビ割れ、そこから秋枯れの雑草が風に揺れている。あるいはビルの壁面をおおいつくしたツタが黄色い葉を繁らせている。ビルの窓からつきだした枝が赤い葉を揺らせている。アスファルトを盛り上げて生えている灌木のような木が、青々とした葉をつけている。こんもりとした竹林だと思ったら、その根元には屋根に穴が開いた民家があった。
だれも住まなくなって、ずいぶんたつらしい。いったい、どれくらいの時間がたったのだろう。
壁にポスターが貼ってあった。
マグロが躍っている絵と「三浦市観光協会」の文字がかすかに読める。
三浦? ここが三浦かあ。
あっけにとられているおれにかまわず、紫東さんはどんどん町に入っていった。
「旅の い出 浦湾周遊フ リー ど ぞ」と、にこやかに煤けた笑みを浮かべている女性のポスター。
店先にぼろぼろになった布がはためいている。どうやら店の造りからすると料理屋だから、たぶん屋号を染めた暖簾だったのだろうが、いまはあせて元の色が何色だったのかもわからない。
壁に貼られた紙がなびいている。雨と風にさらされてなにが書いてあるのかはっきりしないが、消えかかった文字から二、三年前に公開された映画のポスターだとわかった。
二、三年でこんなにさびれるんだ。
「ほんとにだれもいないんですか?」
「ええ。だれもいないわ。絶対障壁ができて、いちおう緩衝地帯ってことで住民は避難したの。最初のうちは犯罪者とか流れこんできたんだけどね。あれがあると……」
紫東さんはうしろにそびえる東京ジュピターを指さした。
「あんなの毎日見てたら、人間おかしくなるわよ。だから、だれもいないの」
同じような話を聞いたことがある。
あの内側でも円周状に緩衝地帯があって、そこはだれも住んでいない。いや、精神的な圧迫感から住めないという話を。
それはほとんど意識したことがない。おれたちは東京で普通に暮らしていた。東京の外のことなんか考えたことがない。安全障壁のそばに人が住んでいようが、住んでいなかろうが、どうでもいいことだった。
そして、いま、おれは安全障壁の外にいる。
また寒気が襲ってきた。おれはカビ臭い毛布をさらに巻きつけた。
「ここがいいわ」
一軒のブティックの前で立ちどまると、紫東さんは、落ちていたブロックの塊を持ち上げるなり、ガラス戸に投げつけた。
あー。いいのかあ?
器用にロックをはずし、割れた破片に気をつけながらガラス戸を開けている。自動ドアなのに。
あ、そうか。電気が来てないんだ。
「ご来店ありがとうございます」
ようやくドアを開けた紫東さんは、ふざけて頭を深々とさげた。いい歳した女性がなにやってんだろ。
薄暗い店内に足を一歩踏みいれると、とたんにカビ臭さが強烈にただよってきた。
一面ホコリだらけだ。吊り下げられている服も棚の服も全部、ホコリをかぶっている。
外のガラスはひどく曇っていてわからなかったが、ショーウインドウにあるマネキンはカツラも落ち、つるつるの頭にホコリをのせてにこやかに微笑んでいる。その服も元は何色かわからないほど色あせすすけていた。
「ひで」
「文句いわないの。風邪ひくよりはましでしょ」
紫東さんはそういいながら、棚の奥のほうから服を引っぱりだした。それだけでホコリがもうもうと舞う。
「これなんか、だいじょうぶそうでしょ」
そういいながら布地に鼻を押しつけ、カビ臭さに顔をしかめる。
「でも、奥にならなんかあるかも」
ふたりして店内を大捜索して、ようやく着られそうなものを何点か選ぶ。女物の服も選んだ。気がつけば、紫東さんの服にはきのう吐きかけてしまったものが点々とこびりついている。
「すみませんでした」
「え? ああ、これ。気にしない。気にしない」
そういいながら、自分の選んだ服を見る。
ふたつある試着室を使えるようにするまでがまた一苦労だった。なにしろ指がもぐるんじゃないかと思うぐらいホコリが溜っている。彼女は自分の服を手に、試着室に入ってしまった。
残った服をためつすがめつする。あまり服装には頓着しないほうだ。オシャレな守にいわせると、だからモテないんだそうだ。
服に鼻を近づけ、臭いの薄いほうを選んで試着室でさっさと着替えた。試着室から出ると電話があった。
いまがチャンスかもしれない。
受話器を持ち上げてみた。そのかすかな音が聞こえたのだろうか、
「ためすだけ無駄よ」
という声がした。それでも耳に押し当ててみる。
なんの音もしない。考えてみれば、電気も通じてないんだ。電話もダメになってて当然だ。ため息をついて、試着室をふりかえる。
ドキッ!
生足だ。
カーテンの下のわずかな隙間から紫東さんの足が見えている。
慣れた大人の手つきで反対側のつま先からストッキングを脱いでいる。
鼓動が早くなる。
しかも、ほんの少しカーテンが開いていて、そこに白い背中がうねっていた。
おれはあわてて背をむけた。
それでも着替えの衣擦れの音が聞こえてくる。
全身が熱くなるのがわかった。
血が一点に集中していく。
ダメだ。やばいよ。
カーテンが開く音がした。
「なにやってんの」
とがめるような声。また見透かされたのか。
ゆっくりふりむくと、着替え終わった紫東さんはヒンシュクの目をむけている。
いや、おれが選んだ服を見ていた。
「却下! こっちにしなさい」
指さしたのはちょっと臭いほうだった。なんだよー。だったら最初からいいと思う服選んどいてくれよー。
同時に血の集中が解かれていく。
いわれるままに着替え終わると、上から下までなめるように見まわしてから、彼女は、
「いい男になったわよ」
と微笑んだ。
「さて、衣食住の衣がまかなわれたら、つぎは食!」
3
大型ショッピングセンターの中も、ブティックと五十歩百歩だった。
カーペットのようにホコリが降りつもっている床のあちこちから、雑草が顔を出し立ち枯れている。棚の香辛料やインスタントコーヒーの容器の上にも黒い綿帽子のようなホコリがある。
そして、異臭。
いたるところに食料品の箱が散乱し、ネズミの糞が棚といわず床といわず、まきちらされていた。寒々とした光景だった。
ふたつのカートを押して、紫東さんのあとについていく。
「ネズミ、だいじょぶかな」
「え?」
「だってほら、集団だとあいつら人間襲ったりするんでしょ」
「映画の見すぎよ。それにね、ここはもう食べられるものは、すべて食べつくされたあと。安心していいわ」
彼女はペットボトルのラベルをいちいち見て、製造年月日を確かめてから、ふたつのカートにふり分けて入れた。ペットボトルはネズミの襲撃をまぬがれたらしい。
「あのー」
「なに?」
「なんで分けるんですか?」
「こっちは新しいの。こっちは古いの」
「古いのなんか、飲めないんでしょ」
「あら、トイレ行ったあとに手を洗わない気? ばっちいわね」
そっか。電気も水も来てないんだ。手を洗う水も必要なんだ。
つぎは食料品だ。彼女が選んだ缶詰が次から次へとカートに投げこまれる。
ポークビーンズ、コンビーフにウナギの蒲焼き、つぶ貝煮……。
つまみばっかりじゃない。
「塩気の強いほうが、少しは防腐性が高いのよ」
なるほど、それも一理あるか。
キャンプ用品売り場でラジオを見つけた。乾電池のほとんどは潮風にあてられたのか、ビニールの包装をされたままふくらみ、赤錆びた液体をしたたらせていた。ようやくだいじょうぶそうなのをいくつか見つけることができた。これでラジオは聞ける。こっちでも、おれが聞いてたようなJポップスやってんのかな。
「やったー。ラッキー!」
紫東さんが突然さけんだのでなにごとかと思ってみれば、非常用食料の缶詰を発見したからだった。飲料水の缶もある。どれも十年賞味期限だ。
「賞味期限はずいぶん過ぎてるけど、なんとか食べられそうね」
紫東さんは、缶がどこも破れてないかためつすがめつしながら、ぽつりといった。
「二〇一二年製造って書いてあるじゃないですか。じゅうぶん食べられますよ」
おれは主張したが、彼女はあわれむような目で見かえしてきただけだった。
「まだわかんないよね」
「なにが?」
「いまにわかる。ほら行くわよ」
それについて考える間を与えないとでもいうように、彼女は指示を飛ばし、おれはカートの中の缶詰を捨て、非常用食料をカートいっぱいに詰めこんだ。飲料用ペットボトルは生活用水に格下げとなった。
それからランタン、ガソリンストーブ、マッチ、食器セット、ポット、双眼鏡……。
キャンプするみたい。いや、サバイバルか。でも、なんのために生き残るんだろう。
東京のため? それともこの外の世界のため?
わからない。
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紫東 遙 1
ショッピングセンターを出たときには、すでに陽は傾きかけていた。カートをガラガラ押しながら船に戻る。
ガソリンストーブでなんとか湯は沸いた。味見をしてみるが、お湯の味だ。
問題は缶詰の類だ。賞味期限十年のすぐれものだが、それでも五年もすぎている。
御飯にカレー。キャンプの定番料理だが、必要以上に煮てみた。
「もういいんじゃないですか?」
と訊かれても、やはり不安が残る。
お湯から引き上げ、開けてみる。カレーの匂いがちゃんとする。腐敗臭はない。スプーンをつけようとする綾人くんをとどめ、まず最初にわたしが口にする。よく噛んでみるが、舌を刺す感じもない。缶詰製造業万歳、といいたくなった。
「いいわよ」
おあずけをくらっていた犬のように、綾人くんはがつがつと食べはじめた。やはり十七歳だ。かなりの食欲である。けっこう多めに持ってきたつもりだが、この様子じゃ、明日の朝も「買い出し」に行かなきゃならなくなる。
その先はどうなるだろう。不安がよぎる。
もやってある船の無線機はすべてダメになっていた。さっきのショッピングセンターでも無線機の類は見つからなかった。このまま連絡がつかなかったらどうしよう。
そのときは歩いてでも戻らなければ。
缶詰の肉を食べながら、綾人くんがラジオのスイッチを入れた。雑音が聞こえてくる。自然放電で空になっているかと思ったが、なんとかもっているようだ。
チューニングを回しても、聞こえてくるのは雑音ばかりだった。やはり中継局から離れすぎている。それでもかれは、ラジオに耳を押し当て、ほんのわずかな声も聞きのがすまいと必死にチューニングを合わせようとしている。
努力がみのり、かすかだが声が聞こえてきた。
「……来年の……冬季オリンピックは……前回二〇二四年の平壌大会で……」
その声が遠のいていき、やがて聞こえなくなってしまった。
「東京ジュピター周辺では電離層も影響を受けているからね」
綾人くんは奇妙な眼つきをして、わたしを見た。
「いまいったよね」
「え?」
「ラジオ」
「ラジオがどうかした?」
「いま二〇二四年っていったよね」
そろそろちゃんと説明してあげなきゃならないようだ。
「いったわよ。それがどうかしたの?」
「だって今年は二〇一五年だろ。それなのに、前回二〇二四年って……。あ、そっか。ラジオドラマか」
「違うわ」
え? と驚いたような目がむけられる。
「今日は十一月二十九日。二〇二七年のね」
わかるはずがない。
かれのぽかんとした顔もけっこうかわいいわね。つぎの言葉がまたふるっていた。
「あなた、未来人?」
思わず吹き出してしまった。
「なにがおかしいのさ」
ムッとしたようにいうのが、またおかしい。
未来人ね。
かれにとっては、ほぼ正しいわ。とうとう真実ってやつを話さなきゃならないか。
「説明してあげるわ」
わたしの声の真剣な響きを聞きとって、かれは居ずまいを正した。
「これを見て」
TERRAの時計をみせる。
「ほら、ふたつの表示があるでしょ。上がわたしたちの時刻。下があなたたちの時刻」
上には二〇二七年十一月二十九日十八時三十分の表示。
下には二〇一五年七月六日〇三時五分ちょうどの表示。
「よく見て。秒表示を」
綾人くんは真剣な目で時計をのぞきこんだ。
目の前でわたしたちの時間が秒を刻む。だが、綾人くんの時間はまだ一秒進んでいない。
そして、わたしたちの時間で六秒すぎたところで、ようやくかれの時間が一秒すぎた。
「なに、これ?」
「これが現実。東京ジュピターの中と外では、時間の流れが違うの」
「うそだあ」
容易には信じられないわよね。あたりまえだわ。
「どうして、そんなことが起きるのさ」
「物理的な説明は難しすぎて、とてもわたしにはできないわ。でも、これはいま起きている現象なのよ」
「だって……」
「じゃあ、二、三年であんなにホコリが積もると思う? あなたも見たでしょ。腐ってふくらんだ缶詰や電池を。三年ぐらいほっといて、あんなになると思ってるの?」
「潮風にさらされたんだ。ほら、潮風って塩分ふくんでるんでしょ。朝比奈のおじさんが横浜に住んでてさ、銀製品が潮風で黒くなって困るって……」
「さっきのラジオはどう説明するの」
「それは……」
懸命にわたしの言葉を否定しようとするかれが痛ましかった。そんな哀しそうなかれの顔は見たくなかった。
ついに言葉は見つからなかったようだ。泣きそうな、救いをもとめるような目がむけられる。抱きしめてやりたい衝動にかられる。
しかし、わたしが動くよりも早く、かれの混乱が怒りとなって爆発してしまった。
「じゃあ、帰してくれよ! おれを東京に帰してくれよ!」
「……」
「あんた入ってきたんだろ。また入ることもできるんだろ。そうだろ?」
「無理よ」
ああ、なんて冷たい言い方しかできないんだろう。わたしは。
「最近やっと、あの時間ポテンシャルの壁を突破する技術が開発されたけど、それには膨大なエネルギーが必要なの。簡単にはいかないわ」
「そんな……。なんでこんなことするんだよ! おれがなにしたっていうんだ! おれ、東京に帰りたいんだよ!」
「きみがどんなに戻りたいと願っても、いまのわたしにはなんの手助けもできない。意地悪でいってるんじゃないのよ」
ウソ。手助けしようと思えば、できないわけじゃない。手助けしようと思ってないだけ。せっかく東京から連れ出したっていうのに、そうはいかない。
……ああ、わたしはどうしてこう汚い大人になってしまったんだろう。
かれは手の中に顔をうずめる。
わたしだって、できることならウソだといってあげたい。こんなのはエープリルフールの他愛ないウソだと。あなたが困る顔を見たかっただけだと。しかし、これは現実だった。
わたしにできることは、かれの背中をなでてやることぐらいだった。
布地越しにかれの悲しみが手に伝わってきて、わたしも哀しくなってきた。
どれくらいそうしてあげていただろうか。
かれはゆっくりと顔をあげると、涙のあふれた目でわたしを見た。
「浦島太郎の気持ちがわかったような気がする」
微笑む口元に、わたしは強さを感じ取った。そう、かれは強い。まだ混乱はつづくだろうが、きっとこの現実を受け入れてくれるにちがいない。
「ラーゼフォンは玉手箱にしては大きすぎるけどね」
わたしもできるだけ軽く答えた。ふたり同時に吹き出した。
そして、笑いはいつまでも終わらなかった。笑いながらも、ふたりともその裏に哀しみがあることを理解していた。たださっきまでと違い、それは上昇していく中での哀しみだったことだけは確かだった。
ようやく笑いがやむ。
「ねえ」
綾人くんは笑いすぎたふりをして涙をぬぐう。
「ひとつだけ教えてよ」
「なに?」
「かあさん……それから友だち。いまでもいるんだよね。あの壁のむこう。東京ジュピター?」
「わたしたちはそう呼んでるわ」
「生きてるんだよね。そこで」
わたしはうなずいてみせた。
「生きてるんだ……」
自分にいい聞かせているようだった。
ガソリンストーブの炎が、うつむきかげんのかれの顔に陰影を踊らせる。
「みんな、おれのこと思っててくれるのかな……」
「絶対にね」
「ほんと?」
「ほんとよ。ただ、あなたも思っていられる? むこうの一日はこちらの六日。むこうの一年はこちらの六年。あなたの想いが六倍強くないと、むこうには伝わらないわよ」
「できます」
かれは力強く答えた。わたしも、必ず想いは通じるものだと、思っていた。
しかし、通じないこともある。それに通じたとしても意味のないこともある。
「やめましょ」
思わず自分への言葉が声になってしまった。
「え?」
「ううん? なんでもないの。でも想いは必ず通じるわ。必ずね」
自分の言葉がいかにむなしいか、一番よく知っているのはわたしだ。それでもこういってしまうのは、大人のずるさだった。
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断章2 朝比奈浩子
学校はきのうの攻撃にもかかわらず平常通り行われるという電話連絡網がまわってきた。クラスの話題といえば、もちろんきのうの侵略者についてだ。やれ、おれはどこそこにいただの、首都防衛用特殊兵器が投入されただの、あたしはそれを見ただの。最後のはウソっぽいけど。
そうした話題が、耳に入ってきては、流れていく。
あたしはといえば、空席になった綾人くんの席を見ていた。
きのう、電話はずっと話し中だった。かれのおかあさんの研究はたしか安全障壁にまつわるものだから、きっとそのことだろう。安全障壁が突破されて侵略者が入りこんだんだから、当然のことだ。わたしはそう思いこもうとしている。
ほんとうはあのあと、すぐにでも綾人くんの家に行きたかったのだが、守のバカが……。
「よ、おはよ」
守がノーテンキな笑顔を近づけてきた。
「あんたのせいよ」
「なにがあ?」
「なにがじゃないでしょ。きのう、あんたがケガしてなきゃ、すぐに綾人くんの家に行けたのに」
「あー、そうやって恋人ほったらかしにして、幼馴染みのとこに行こうってのかあ」
「ほったらかしにしてないでしょ。ちゃんと病院までつきあって、家までつきあったじゃないの」
「はいはい、ありがとうございます」
「心がこもってない!」
「ありがとうございます」
守は大げさに深々と頭をさげた。バカっぽい行動に吹きだしてしまう。
こういうところが守の憎めないところだ。
「で、隙間は?」
「きのう、ずーっと話し中」
「おれもかけたけど話し中だったな」
「守も心配だったんだ」
「そりゃそうだよ。親友だかんな」
守はだれもいない綾人の席を見た。
「ねえ、そういえばさ。電車の中に女の人が入ってきたでしょ。あんたがケガしたとき」
「女?」
「そう、きれいな女の人」
「きれいなって、おまえ、いまの言い方トゲあったぞ」
「茶化さないでよ。その人、どっかで見たことあるような気がするんだ」
「どこで?」
「思いだせないから訊いてるんじゃない」
「おれに訊くなよ。おまえの記憶だろ」
「でも、守なら知ってるかもしれないじゃない」
「知らないよ。あんな女……」
そういいながら守は横顔をむけた。いいたくないことがあるときの癖だ。
「ほらあ、いつまで騒いでるんだあ」
先生が入ってきて、守をそれ以上追及できなくなった。
みな、だるそうにしながらも、それぞれの椅子にむかう。
「先生」
あたしは手をあげた。
「なんだ、朝比奈」
「綾人、いえ、神名くんが来てないみたいなんですけど、先生聞いてますか?」
「神名か……」
先生は、なにかを隠しているような間を置いた。それから生徒たちをゆっくりと見まわしていった。
「神名のおかあさんが安全障壁研究にたずさわっていることはみんなも知っているだろう。ところがきのう破られてしまった。政府の緊急閣議でな、さらなる障壁の研究を行うことが決定され、神名のおかあさんはそれに関わることになった。だから移転したのだが、それがどこか絶対秘匿あつかいになっている。……そういうことだ。朝比奈、わかったか」
「はい」
わからないけど、そういうしかない。
「……さてと、きょうは教科書のなんページだったかな」
先生は一番前の席の子に質問した。もうあたしのほうは見てもいない。
授業という名の、人生でいちばんつまらない時間が流れていく。
綾人くんのいない時間。それがこんなに虚しく感じるなんて。
ちらりと守をふりかえると、視線に気づき、鼻の穴にエンピツを入れて見せた。
バカ。でも、かれの普通さに救われる。なんといってもカレシなんだ。綾人くんがカレシってわけじゃない。しっかりしなさいよ。浩子。
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4
朝比奈が泣いている。
「なんで泣いてんだよ」
「だって綾人くんが死んじゃったから」
彼女の言葉に驚きの声をあげた拍子に目が覚めた。
夢か。
窓の外はもう薄明るい。弱々しいランタンの影が、波に揺れる船の天井にかすかに踊っている。いま何時だろ。時計を見たが、意味がないことを思いだした。この時計はおれの時間。ここの時間じゃないんだっけ。
紫東さんの時計を見ようとして、ドキッとなる。
彼女はむこうをむいて寝ていた。
寝袋にくるまって。寝袋は体にそって微妙なラインを作っている。
あの下にきのう見たつま先があるんだ。白い背中があるんだ……。
きのうの鮮烈な光景を思い出し、鼓動が早くなる。
やばいぞ。体が熱くなっていく。
小さく呻いて、彼女が寝返りを打った。
顔がこちらをむく。後れ毛が、頬にかかっている。まぶたは閉じられ、長い睫毛がかすかに震えている。
唇が紅い。なにかささやきかけるかのように、わずかに開いている。
胸が昂る。
知らず知らずのうちに体が動いていた。
ぐっと行動を押しとどめるものがある。自分がくるまっている寝袋だ。それで理性が呼び覚まされた。
なに考えてんだよ!
ゆっくりと寝袋を這い出し、彼女を起こさないようにそっと船室を出た。
十一月の朝の風が、ほてった胸を冷ましてくれた。
船首に立ち、あたりを見まわす。
静けさ。
それが風景を支配している。風景の一部になってしまった動かない巨人。だれもいない港。だれもいない町。永遠の眠りについた町。
ぞくっとしたのは、寒さのせいばかりじゃない。
おれはほんとうに町が永遠の眠りについているのか確かめたくなった。
ちょっと行ってみるか。
ふりかえって船室を見る。窓越しに紫東さんが寝ているのが見える。
いいよね、ちょっとぐらい。
おれは朝の冷たさの中を歩きだした。
町はきのうと変わらず、屍のような姿をしていた。生きる物の姿さえない。
市役所の前を通りかかった。掲示板にところせましとポスターが貼られている。
避難する住民は住民票とか健康保険証を持っていけという指示。各避難者収容施設の場所と連絡先。避難者収容施設で受けられるサービスと、持っていくべき最低限の荷物。掲示板はガラスで守られていたので、それほど色あせてはいなかったが、カビで黒く汚れていた。
そういえば、おそらく近親者や友人へのものだろうが、移転先を記した貼り紙を玄関にしてある家が多かった。
どれくらいの人間がいたのか知らないが、何千、何万という人々があの禍々しい存在感の壁から逃げ出したのだろう。
どれほどのドラマがここで起こったのだろうか。
そんなことを思いながら、坂道をゆっくり登っていく。
べつにあてがあったわけじゃない。なんとなく高いところに登ったら、少しは違う風景が見えるかと思っただけのことだ。
坂道を登りきったところに高校があった。
金網ごしに、枯れた雑草がまばらに生えている校庭が見える。だれも遊ぶものがなくなったバスケットゴールが、腐ったベニヤ板の残骸をはためかせている。
テニスコートには錆びたワイヤーだけが張ってあり、その下に蛇の死骸のように色あせた網がうねっている。
どうして高校の校舎って、どこでも似たりよったりなんだろう。なんか軍隊の建物っぽいいかめしさがある。白かった壁は薄汚れ、そこに虚しい声をあげる無数の口のように窓が並んでいる。破れた窓のむこうに無人の教室があった。
いまごろ、朝比奈や守たちはなにしてるだろう。
おれがいなくても授業受けてるのかな。
おれがいなくても笑ってるのかな。
おれがいなくても……。
ガシャン――。
金網を握りしめた音が、あたりに響いた。
くるりと背をむけ、坂道をかけおりる。
かけおりる背中を「おれがいなくても……」という自分の声が追いかけてきた。
おれは走った。
坂道で転びそうになりながら走った。
ようやく止まったときは、息も熱くなっていた。膝に手をつき、肩で息をする。
見あげると、建物の隙間に港があった。ラーゼフォンの姿が少し見えていた。
結局、あそこに戻るしかないのか。
ため息ひとつ――。
あきらめて歩きだそうとしたとき、電話の音がした。
え?
見まわすと傾きかけた店先で電話が鳴っている。
「たばこ」「塩」というホーローびきの看板が風に揺れている。
その下で電話が鳴りつづけている。
おれを呼んでいる。受話器を取れといっている。
ゆっくり近づき、熱いものにでも触れるかのように恐る恐る受話器を手にした。
耳に当ててみる。そのむこうは深淵の静けさ。
と、その深淵のむこうから声が聞こえてきた。
「……ヤト……」
おふくろだ。おふくろの声に間違いない。
「かあさん! かあさんだろ?」
「綾人……」
「そうだよ。おれだよ!」
「綾人……気をつけるのよ」
「かあさん、おれ、いま……」
おふくろはおれの言葉が聞こえなかったように、しゃべりつづけた。
「かれら……わたしたちの街を破壊していったやつら……かれらが、あなたにわたしのことを忘れさせようとする」
「どういうこと? なにいってんの」
「憎むようにしむける。……信じさせようとするはず。色々なことを……。偽りを真実といって……。用心して……」
「じゃあ、あの女性はやっぱり?」
「待ってるわ。かあさんはいつまでも待ってるから……。綾人……」
「かあさん! ねえ、教えてよ。あの血はなんなの。どうしてかあさんの血が……」
青いの? といいかけた言葉はしかし、ふたたび深淵に吸いこまれていった。
電話は切れていた。だけど確信がある。おれの声はおふくろに聞こえていた。絶対にまちがいなく。おふくろは答えたくなかったんだ。
……でも、おふくろはいっていた。
「かあさんはいつまでも待ってるから」
って。
おれは東京ジュピターを見あげた。圧倒的な存在感でそびえたつそれ。
そのむこうにおふくろがいる。友だちがいる。
おれはためらうことなくかけ出していた。
東京にむかって。
5
懸命に走っていたおれは、あるところで足を止めざるをえなかった。
その先は……。
断崖絶壁だった。
まるで鋭利な刃物で切り取ったように道路がすっぱり切られている。
いや、道路だけじゃない。山もなにもかも、ナイフでえぐられたバターのように切られている。のぞきこむと、崖はどこまでも、どこまでも垂直に落ちこみ、底に横たわる闇に消えていた。ためしに白い石を投げこんでみたが、石はすうっと闇に沈みこみ、静けさだけが返ってくる。
落ちた音はついに聞こえなかった。
見あげると、東京ジュピターがそびえ立っている。そこまでは暗い闇が広がっている。それほどこの谷間は深いようだ。闇の上を白い靄《もや》が漂っていた。
茫然と東京ジュピターを見あげた。
手をのばしてみる。届くわけがないが、少しでも東京に近づきたかった。
おれの故郷に。生まれ育った場所に。
自然と涙があふれてきた。
もう帰れないんだ。あそこには。
もう……。
ふいに錆びついた自転車の音が聞こえてきた。ふりむくと遙さんだった。
「このむこうに……」
「ええ。あなたの街がある。でも、ここからあの障壁までは十キロぐらいあるのよ」
「すぐ近くに見えるのに……」
「人間の距離感が狂ってしまうほど、あれは大きすぎるの」
遙さんは崖を見おろした。
「この下はどれくらいつづいているか計測できない。衛星からは絶対障壁の影響で観測できないし、地質学者がね、こんなすばらしいことはないって勇んでワイヤーを垂らしてみたけど、ワイヤーが自重で千切れるほど垂らしても底にはつかなかったわ。たぶん東京ジュピターにそって半球形にえぐれてると推定されるけどね」
「そうなんだ……」
「こういう崖が、ずうっと関東平野を丸く切るように千葉のほうまでつづいているわ」
「海も?」
「海もよ」
「だけど水は? 海の水は」
「コロンブスのころの人たちが想像した地球の端っこみたいに、どうどうと音を立てて落ちているわ。循環してるらしいんだけど、どういう風に循環してるかだれもわからない」
映像ライブラリーで見たイグアスの滝のむこうにある東京ジュピターを想像してみた。実感はちっともわかなかった。
「行けないんですか」
「行けないわね」
「ほんとうに?」
「ええ」
もう一度東京ジュピターを見あげた。木星に似ているというそれは、しかし、ここからではただの茶褐色の壁にしか見えない。
ぷつりとなにかが切れたような気がする。
「ちくしょーぉぉぉぉっ!」
東京ジュピターにむかって叫んだ。その声は、さっきの石と同じでなんの反響も呼ばずに、東京ジュピターとおれの間を吹きぬける風に吸いこまれていった。
絶望感がおれを押しつぶす。
その場にひざまずき、肩をふるわせた。その泣き声も、ただ崖の底に横たわる闇に落ちていっただけだった。
泣きつづけるおれの背中を、遙さんが優しくなでてくれた。また、掌のあたたかさが胸にしみこんでくる。いまはこのあたたかさを信じるしかないんだ。
東京に帰れないんだから。
涙をぬぐい立ちあがる。遙さんは、涙をふくハンカチを渡してくれるわけでもなく、手を貸してくれるわけでもなく、優しさから情けないおれの姿を見ないように視線をそらすわけでもなく、ただじっと立ちあがるのを凝視めていてくれた。
それがありがたかった。
「ありがとう」
素直にそういえた。すごく気が楽になった。
遙さんは小さくうなずくと、自転車のハンドルを握った。
「乗る?」
と荷台を軽くたたく。
「まさか」
「あら、こう見えても足はじょうぶよ」
「ぼくだって」
「東京の人間は、目上の人にしたがうって言葉を知らないのかしら?」
「外の人間は、レディーファーストって言葉を知らないの?」
「そうね。じゃあ、服を選んであげたお礼ということで」
遙さんはおれにハンドルを渡すと、自分は荷台に横座りに腰を下ろした。
「行くよ!」
ペダルを勢いよく漕いだ。風が気持ちよく流れていく。
東京ジュピターに背をむけて、遙さんと一緒に走りつづける。遙さんはおれの腰に腕をまわし、体を密着させてきた。柔らかな胸が背中に押しあてられる。
やばいよ。
「ねえ、もっと飛ばして」
いわれなくても。必死で漕がなきゃ、自分がどうかなってしまいそうだった。
いつだったか保健体育の教師が、大昔の学生は性欲を昇華させるために体を動かすことを奨励されたんだぞ、といった。みんな、笑った。
だけどもしかしたら、本当かも知れない。
おれは、悲鳴があがるほど全身の筋肉をこき使いながらそう思っていた。
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紫東 遙 2
「遙さん。外の世界って、どういう歴史を歩んできたんですか?」
いい? あなたたちが侵略大戦と呼ぶものをわたしたちはMU《ムウ》大戦と呼んでいるの。
「MU?」
それについては、あとあと説明するわ。とにかく、あなたたちがいうところの侵略大戦勃発の日、二〇一二年十二月二十九日がMU大戦勃発の日でもあるの。この日、あなたたちは侵略者が攻めてきたと記憶してるでしょうけど、わたしたちは違う。MUの基地のような都市のようなものが東京上空にとつぜん現れたの。
前兆はあったわ。世界中の科学者がわずかな次元震動を観測していた。〔ホール〕と呼ばれるものが少しずつ現れはじめていたの。だけど、まさかあんなものが現れるなんてだれも想像していなかったわ。とにかく、現れたかれらはMUと名乗るのみで、こちらからの呼びかけにいっさい応答しなかったわ。
攻撃するわけでもなく、ただそこにいる。こんな不気味な存在がある?
当時の人々は、きっとなにかあると想像したの。われわれを攻撃する機会をうかがっているのだとか、人類を融合しようとしているのだとか、いろいろな想像がされたわ。そして、人類は自分たちが夢見た悪夢に押しつぶされてしまったの。先制攻撃をしかけてしまったのね。
MU側は反撃してきたわ。それはもう、とてつもない反撃の仕方だった。われわれが見たこともない兵器、ドーレムが投入されたの。
「ドーレム?」
あなたが倒した巨大人型兵器みたいなやつよ。
「ああ、あの赤紫野郎?」
赤紫野郎か、言い得て妙ね。ま、いいわ。
とにかく、あの攻撃の前に人類は手も足も出なかった。あるドーレムは都市を丸ごと消滅させ、あるドーレムは人間だけを殺戮した。いま世界の人口はどれくらいだか知ってる?
「二千三百万人……じゃなかった。えっと八十億でしょ」
違うわ。六十億。じつに二十億もの人々が街とともに消えたわ。
「二十億……。こないだまで世界の人口は二千三百万人だって信じてたんだよ。想像もつかない」
想像できる人間なんていないわよ。二十億の人間がたった一週間でこの地上から消えてしまうなんて……。ところが、急にすべての戦線からドーレムが消えたの。
「なぜ」
東京ジュピターよ。MUの都市を囲むように、半径四十八キロの球状の次元障壁が、突然、東京を包んだ。そして、世界中からムーリアンの姿もドーレムの姿もなくなったの。
なぜだかはわからない。ある人は、MU側の防衛システムだという。ある人は、われわれの次元とMU側の次元が重なりあった泡のようなものだという。最初はうまく出てこられたけど、ムーリアンたちもあの中に閉じこめられてるんだって。
どっちが正しいのかわからない。どっちにしても世界からムーリアンは消えたわ。人類はムーリアンたちのことはできるだけ無視することに決めたのよ。ちょっと攻撃しただけで、二十億の損失ですものね。むこうがなにもしてこないなら、こっちもなにもするまい、ということ。
「そうだったんですか。……じゃあ、いまの日本の首都は?」
京都を中心にした関西圏ね。一局集中じゃなくて、分散型首都というわけ。
「でも、当たらず触わらずで十五年も過ごしてきたのに、なんで急に攻めてきたんですか? どうして遙さんはぼくを外に連れ出そうとしたんです」
命令だったから。わたしもくわしいことは知らないわ。
小さな、だけど、とても大きなウソをつく。
イヤなわたし。
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6
「すんなり受け入れるのね」
語り終えた遙さんは意外そうにいった。
「すんなりっていうか……。実感が湧かないっていったほうがいいかな。だって、いままで事実だと思っていたものが、全部違うっていうわけでしょ。そう簡単に納得できませんよ」
自分でもあきれるぐらい軽い言い方。人間、ある程度のキャパシティを過ぎると、なにが起きても大して驚かないらしい。おれにとっては、きのうの時間が違うっていうほうがショックだったことはたしかだ。
そのとき――。
うしろのほうで物音がした。
遙さんの体に緊張が走る。
さっと手が動き、銃を握りしめる。
あらためて、この人は軍人さんなんだと思った。
彼女は、動くなと手で示し、物音のした建物の間にむかって銃をつきつけた。
戦う顔だ。
ところが、その顔が驚きに変わる。
「あなた、ひとり?」
え? だれかいるの?
遙さんは銃をゆっくりと下ろし、敵意のないところを見せている。
「どうしたの。みんなはどこへ行ってしまったの?」
彼女の見ている建物の陰をのぞこうとしたとたん、にゃあ、という声がした。
崩れたビールケースの山の下に子猫がいた。顔が茶色でお腹が白のブチ猫だった。
警戒しきって全身の毛を逆立てている。
「なんだ子猫だったんだ」
「子猫でも勇敢だわ。だれもいないこの街でたったひとりで生きてたんだから。……おいで」
遙さんはしゃがみこむと、おれにもむけないような極上の笑みを浮かべて呼んだ。
子猫はたぶん人間を見るのは生まれて初めてなのだろう。もう毛は逆立てていないが、どう反応していいのか、とまどっているようだ。
「おいで」
ためらう。
「おいでよ。ひとりじゃ、さびしいでしょ」
子猫は、小さく鳴くと、遙さんの指先にすり寄るように近づいてきた。
「えらいわ。よくがんばって生きてたわねえ」
そういって遙さんは子猫を抱きあげた。頭をなでてやると、うれしそうに喉をごろごろ鳴らす。なかなかかわいいやつだった。
「ごはんをあげなきゃ」
よほど餓えていたのだろう、船に戻ってエサをやると、猫は皿に頭をつっこんで食べはじめた。遙さんはあたたかな目でその様子を見ている。さっき一瞬だけ見せた戦いの顔とは一転して、ほんとうに優しげな顔だ。人間っていろんな顔があるんだな。
子猫はエサを食べ終わると、ヒゲについた食べかすをぬぐい、満足そうに手をなめた。
そして、あくびをひとつすると、すとっと遙さんの膝に乗った。背中をなでられ、ごろごろとうれしそうに喉を鳴らしている。
「どうするの、このネコ」
「連れてっちゃ、ダメ?」
「なんでぼくに訊くんですか」
「もうエサあげちゃったのよ。それっきりにしたらきっと思うわ。なんてひどい人間たちだって。ね、だからいいでしょ」
「そんなことぼくにいわれても……」
ちょっと苦笑がもれた。
「なにがおかしいの?」
「だって……そいつも、ぼくもたったひとりなのかと思うとね。両方とも遙さんに拾われたのかなって」
遙さんは少し笑った。
「両方とも拾ったの。わたしは、おかあさんみたいなもんね」
そういいながら、遙さんは子猫をなでた。彼女がいった単語が、喉のあたりにひっかかっている。おれはじっと彼女の顔を凝視めた。
「遙さん?」
「ん?」
にこやかな顔が、おれのつぎの質問に厳しく固まる。
「かあさんもムーリアンなの?」
とがった質問が、凍りついたように動けないふたりの間に、無造作につきささった。
窓の外は夜の風が吹いている。
室内はランタンとガソリンストーブの明かりが揺らめいている。
暖かいはずなのに、冷たい気配が漂いはじめる。
遙さんは、言葉を選ぶような間を置いてからしゃべりだした。
「わからないわ」
あっさりした言い方に、ついムカッとなる。
「わからないって! だって、かあさんの血は青かったよ!」
「わからないのよ。ムーリアンは実体がないと思われるの。たぶん、この世界と完全に融合できているわけじゃないのよ。だから、ムーリアンは人間の体を借りなきゃ、この世界で活動できない」
「借りる?」
「そう。わたしたちは簡単に、ムーリアンにとり憑かれたっていうけどね」
「とり憑かれる……」
「とにかく、ムーリアンと同化してしまうのよ。そうすると、人間の血は青くなってしまう」
おふくろの頬を流れる青い血の映像が、脳裏をよぎる。
「じゃあ、やっぱり……」
「違うの。人間は人間のままなのよ。脳組織の受容体の一部が変容するだとか、ヘモグロビンの本質的変化があるだとかいうけど、わたしにはよくわからない。ただ、人間がムーリアンになったわけじゃない。一時的にとり憑かれた状態なのよ」
「よくわからないけど、かあさんはかあさんのままなの?」
遙さんはなにか答えようとする。同情するような哀れむような複雑な表情が顔をよぎっていく。しかし、そのときはまだその表情が意味するものを、理解していなかった。
「あのね……」
なにかをいいかけたとき、猫が顔をあげ、遙さんの膝から飛びおりた。
「ちょっとどこ行くの?」
子猫は彼女の声など聞こえない風に、トットットと軽い足取りで出口のほうに行く。
行かせてやればいいのに。どこかに家族がいるかもしれないじゃないか。だけど、遙さんは猫のあとを追いかけて外に出ていってしまった。
ひとり船室に残される。
十一月の風が冷たく戸口から吹きこんできた。外をのぞいてみると、遙さんは甲板で子猫を抱き、空を見あげている。
つられて見あげた。星空だった。
あ――。
声が出そうになった。
きのうは気がつかなかったけど、星が見えるんだ。東京じゃあ安全障壁のおかげで、星なんか見えない。月が出てもいつも笠をかぶったようにしか見えない。おかげで夜空を見あげるという習慣がなくなっていた。
星空だ……。二年ぶりぐらいかな。侵略大戦以来だ。
あ、こっちじゃMU大戦っていうんだっけ?
そんなことを思っていたら、ぐいっと手をひっぱられた。
「うわっ」
「船から降りて、いますぐ。この子をお願い」
あたたかい塊が腕に押しつけられる。そして、船から蹴りだされるように追い出されてしまった。
「なにするんですか」
「にゃあっ!」
ひとりと一匹は抗議の声をあげたが、彼女はまるっきり無視して、船室に入ってしまった。
液体をまく音がする。つづいて灯油の臭い。
「遙さん、なにするつもりですか」
といったときには、すでに船窓のむこうにオレンジ色の炎が見えた。
遙さんが飛び出してくる。
「遙さん!」
「いいから、黙って」
目が真剣だ。
どうかなってしまったんだろうか。
炎が見あげるほど高く昇った。熱が直接、痛いほど肌に伝わってくる。
そして、木に含まれていた水分が蒸発する音や、焼け崩れる音がすさまじく響く。
炎は、もやってある隣の船にも燃えうつっていく。ラーゼフォンも焦がさんばかりの勢いで、どんどん広がっていく。
どうするつもりなんだ?
と、かすかにエンジン音がした。見あげると、赤と青の明滅灯が並んでいる。
飛行機?
あの飛行機に知らせるために、遙さんは火をつけたんだ。
飛行機が大きく二回、上空を旋回した。こっちを見つけたらしい。
そりゃそうだろ。これだけ大がかりに燃やせば。
「国連のC―230偵察機よ」
遙さんはうれしそうにしている。
おれはちょっとさびしかった。
彼女は自分の世界に戻るのだろう。だけど、おれは自分の世界から引き離される。
それだけじゃなかった。だけど、どうしてさびしいのかは、よくわからなかった。
無線の連絡が入ったのだろう。迎えのヘリが来たのは、数時間後だった。
「あれはどうするんですか?」
炎に照らされたラーゼフォンを指さす。
「運搬専門の部隊がくるわよ。それより早く乗ってちょうだい」
「どこへ行くんですか?」
「あとのお楽しみということで。ね?」
ね? じゃないだろ。ね? じゃ。
口では気軽なことをいいながら、もうふたりっきりのときと違う空気を漂わせている。
おれたちを乗せたヘリは、すぐに沖合いにむけて飛び立った。窓から見おろしていたおれは「あ」と声をあげた。船を焼いた炎が、風にあおられて町へも広がっているのだ。
「か、火事ですよ」
「どうせ、だれも住んでいないし」
遙さんは例の子猫を抱いたまま、外を見ようともしない。
「でも……」
「いいの。想い出だけをかかえて腐っていく町なんて、燃えてしまえば……」
遙さんは吐き捨てるようにいった。そのくせ横顔は、哀しく、せつなく見えた。
なぜだろう?
数十分後に機体は大きく傾いた。
「ほら、あれ」
「あれ?」
ほとんど真っ暗な海面に小さな明かりが見える。
「あれがTERRA所属の特務航空母艦、われらが貴婦人リーリャ・リトヴァクよ」
空母? 空母にしちゃ小さいな。と見えたのだが、それは上空だったせいと、あたりに比較するものがなかったせいだった。
近づくと、それがいかに大きなものかわかる。ほとんど浮かぶビルだ。
おれたちが乗った大型ヘリコプターが、甲板の片隅に小さく着陸するほどだった。
まだローターが回っているうちに、ヘリから降ろされた。
あの町とは違う。外の人たちが生活している空間に最初の一歩を踏みだした。青やら赤のヘルメットをつけた人たちが、忙しそうに走りまわっている。匂いも、生きている人たちが集まっている場所の匂いだ。
そして、遙さんは……。
おれにむかって敬礼した。町で子猫を抱いていた顔はどこにもない。
もう軍人の顔だった。
「TERRA情報部第二諜報課特務大尉、紫東遙。敬礼はしなくてよろしい」
なんだか、状況がめまぐるしく変わりすぎてついていけない。
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断章3 三輪 忍
麻弥さまが、目の前でわたしがまとめた報告書に目を通してらっしゃる。
この時間がいちばんストレスを感じる。刑の宣告を待つ被告の気持ちがよくわかる。
「なるほど、よくまとまっています」
麻弥さまの言葉に、ホッと肩の力がぬける。
「かれらのシステムを応用すれば、ドーレムを外に出すことができるわけですね」
かれらのシステムは、東京と外の世界を隔てている安全障壁に対し、確率共鳴場を展開して同化する。簡単にいえば、内側と外側の位相のズレをむりやりすりあわせることによって障壁を突破してくるのだ。
「ドーレムを外に出せるということは、武力によって、われわれが再びこの世界を支配できるということですな」
九鬼司令が口をはさんできた。
「それを支配と呼ぶならば」
麻弥さまが口元を皮肉に歪めた。それだけで九鬼司令は、口をつぐむ。
どうして麻弥さまは、こんな俗物を司令にして、おそばに仕えさせておくのだろう。
「ですが、それではむこうの連中になめられるのでは?」
九鬼が食い下がったが、麻弥さまは一蹴なさった。
「だから?」
「……」
「おまえも三輪の報告書に目を通したのならわかっているはず。ドーレムをむこうに送りこんだからといって、シンクロのためにこちらとの回線のような空間を保持しなければなりません。それにどれだけのエネルギーを必要とするか、おわかり?」
九鬼はもう黙っているしかない。
「当面は綾人の攻撃にのみ使用します」
「どうしてですか?」
思わずいってしまってから、後悔した。
麻弥さまのご意向に疑問をさしはさむなんて、ですぎたまねだ。
「す、すみませんでした」
「いいのよ、三輪」
麻弥さまは優しくおっしゃってくださった。
「綾人を外に出してしまったのは、わたしの失策でした。十七歳になったとはいえ、綾人がゼフォンに乗れるほど成長しているとは思っていなかったからです。ゼフォンが東京の外に出すことを許すはずがないと思っていました」
麻弥さまがご自分の失策をお認めになるのは、珍しいことだった。
「綾人はまだ成長しきっていません。その成長をうながすのには、外の世界に触れさせるのは絶好の機会でしょう。おそらくあの組織……」
言葉を探していらっしゃるようなお顔をなさったので、わたしがお助けした。
「TERRAですか」
「そう。不遜にも対MUを標榜する組織の人間も、それを目論むはず。むこうが成長させてくれるのです。こちらもお手伝いのひとつもするのが当然ではなくて?」
綾人さまを攻撃することが、どう成長につながるのか、いまひとつ理解できなかったが、うなずくしかない。
「しかし」
また九鬼が口をはさんだ。
「それではドーレムとシンクロされている方が危険な目にあうのでは?」
「ムーリアンの二、三人どうだというのです」
麻弥さまの冷たい声が響いた。
「必要とあれば、千人の同胞が失われたところで、どうということはありません。必要なのは綾人の目覚めなのです」
九鬼はまた口をつぐむしかなかった。その顔は、麻弥さまは綾人さまのこととなると甘くなる、といいたげだった。
確かに、その傾向はある。でも、綾人さまの目覚めが、わたしたちの運命とどう結びついているのか? それを知っていらっしゃるのは麻弥さまだけだった。
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第四章 二つの時計
断章1 エルフィ・ハディヤット
リーリャ・リトヴァクの甲板に強烈な風が吹きつけてきた。夜明けの光に照らされた大きな白い影が見える。大型ヘリに吊るされたラーゼフォンとかいうロボットだ。
話には聞いていたが、かなりでかい。ドーレムも破壊する力を秘めているらしい。あれ一体でどうなるものでもないが、あの技術を転用できれば、われわれはMUに対し攻撃するすべを持つことになる。もう、手も出せずに、二十億の人間がただ殺されていくのを見ずにすむ。そう思えば、スティールやボーボーたちが死んだことにも償いがつく。あのオーヴァーロード作戦も少しは意味があったと思える。
甲板要員たちが走りまわって甲板にラーゼフォンをワイヤーで固定し、出港準備が整ったのは数時間後のことだった。
[#改ページ]
1
「採血するので腕をめくって」
一瞬ためらう。
リーリャ・リトヴァクに着くなり、医務室に連れていかれて、さっそくそういわれた。そりゃためらうさ。おふくろの頬を流れる青い血が脳裏をよぎった。
もし血が青かったら……?
「腕をめくって」
えいやっとばかりに腕をめくった。上腕をゴムで縛られる。医者が慣れた手つきで関節の内側をたたいて、血管を浮きたたせる。
ぴしゃぴしゃ――。
まぬけな音だ。なんか、生きのよさを調べられている店先の魚の気分だね。
針刺す瞬間って、子どものころから好きじゃない。
反射的に目をつぶってしまう。チクッとわずかな痛みがあり、ゴムがはずされた。
恐る恐る目を開けてみると、注射器に血が勢いよく吸い上げられていく。
よかった。
赤い。
おふくろとは違う……。
「血、赤いですね」
おれがいっても医者はなにも答えない。血が赤いなんて、あたりまえすぎて答える気にもならないのか。あるいは、赤い血も青い血も見慣れているから、ごく普通の言葉として聞き流したのか……。
とにかく、おれの血は赤かった。
リーリャ・リトヴァクが揺れはじめた。たぶん外洋に出たんだ。医務室で簡単な検査のあとで連れてこられたのは、窓もない部屋だった。船独特のペンキの匂いが充満している。それに真新しい服の匂い。医務室で下着からなにから真新しいものをわたされた。ちょっとカビ臭かった服とおさらばできたのはうれしかったけど、これでもう東京から持ちこんだものは、時計だけになった。東京の時間を刻みつづける時計だけ。
それも朝比奈たちの時間とはどんどんずれていく。
東京から離れていく……。
朝比奈はどうしてるだろう。おふくろは? 守は? 友だちは? とりとめのない考えが浮かんでは消えていく。ラーゼフォンのことも考えた。遙さんのこともちょっと考えた。
ノックの音がした。
入ってきたのは遙さんだった。
「ごめんなさいね。もっと早く来るつもりだったんだけど、いろいろ報告書かかなきゃならなかったり、雑務があってね」
そりゃそうだ。この人には、この人の生活があるし、やらなきゃいけないことがある。
「広いわね」
椅子に座ると、彼女は室内を見まわして、そういった。
「そうですか」
「船の部屋なんて、どこも狭いもの」
「……そんなことをいいに?」
「違うわ。ちょっと予備知識をね」
予備知識?
「リーリャ・リトヴァクがむかっているのは、ニライカナイ」
「にらいかない?」
「そう。本当は根来《にらい》島。そこに神至《かない》市があるから、ニライカナイっていうの」
「どこらへんですか」
「屋久島のそば。そこにTERRAの本部があるの」
「テラって?」
「国連の下部組織よ、一応はね。対MU戦略ポイントってとこかしら」
対MUってことは、東京の敵ってことか。
その敵とおれはいま一緒にいる。ってのに、実感がまったくわかない。
「そのにらいかないについたら、ぼく、どうなっちゃうんですか?」
一瞬、遙さんの顔が曇ったのを、おれは見逃さなかった。
「当分、そこに住むことになると思うわ。そのあとは……。そうねえ、たぶん自由になれると思う」
「……美大って、こっちにもありますか?」
「え?」
いきなりな質問に、遙さんはうろたえ気味だ。
「熊ちゃんが……いえ、学校の熊沢って教師が、美大に行ったらどうだっていうから」
「もちろん、あるわよ」
あるんだ。やっぱり。よかった。
急にいま絵が描きたくなった。っていうか、それぐらいしか、東京とつながるすべがないっていうのかな。少なくとも、このへんてこりんな状況を考えずにすみそうだ。
「あ、それからあとちょっとでニライカナイには着くと思うけど……」
「もう着くんですか? だって屋久島の先でしょ」
「リーリャ・リトヴァクは航空母艦よ。航空母艦っていうのはねえ、三十ノット以上平気で出せるの」
三十ノットって、時速五十キロか六十キロだろ、たしか。そんなんで……。
あ、そうか。海の上には渋滞もないし、越えなきゃならない山もないんだ。
「どこまで話したんだっけ? あ、そうそう。もう少しでニライカナイに到着すると思うけど、その前に功刀《くぬぎ》司令に会うと思うの」
「功刀司令?」
「TERRAの司令官よ。ちょっと難しい人だから、ね?」
「ね?」っていわれても……。
会ってみると、功刀というおっさんはちょっとどころか、かなり難しそうだった。
人を完全に見下した目をしている。
若者を、「バカなやつら」ってくくりにしたがるオヤジ世代だ。第一印象で、おれはなんとなく反感を抱いてしまった。
「神名綾人くんだな」
たいしてデカくもない声なのに、おれたちがいる艦橋に響きわたるような声だ。
「ええ」
「きみの処遇については、まだ決定が下されていない。よって当面の自由は確保されるが、特定区域への立ち入りは制限されるから、そのつもりでいるように」
なんかこう、普通のしゃべり方できないのかね。どうあつかっていいか、わかんないから、しばらくは好きにしててもいいよ、とかさあ。
「それから、艦内にあの猫を持ちこんだのはきみか?」
「ワシントン条約にひっかかるんですか?」
嫌味のひとつもいってやったら、遙さんがあわてた。
「司令。あれは自分が……」
おっさんは、じろりと厳しい目で遙さんを見た。
「まもなくニライカナイに入港する。きみが降りるとき責任を持って艦内から連れ出すように」
「はい。了解しました」
遙さんは敬礼した。やっぱり軍人さんの顔だ。また少し遙さんが遠くなった気がした。
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断章2 如月 樹
頭をすっと風のような冷たさが走る。
「どうかしましたか?」
七森くんが心配そうに、ぼくを見あげた。
「だいじょうぶだよ、なんでもない」
笑ってみせるが、だいじょうぶなものか。あれが来たんだ……。
「ネリヤ神殿に異常エネルギー反応を観測」
彼女が切迫したような声をあげた。パラメーターが異常な数値を示しはじめる。
が、いずれ、これが常態になる。
あれが来たのだから。
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2
許可が出たので甲板に出てみると、むわっとした空気がおれを押し包んだ。
南の海だ。なるほど半袖が支給されたはずだ。最初は空調が完全に効いた船内にいるからだと思っていたが、これじゃあ長袖なんかいらないや。
むこうにニライカナイが見える。ヘンな島だ。
右側の未来都市と左側の緑豊かな島を、むりやりひっつけたような形をしている。街は自然にできたというより、都市計画にのっとり一気に作りあげた感じだ。人が住んでいるって感じがあまりしない。こうもすっきりしてると、生活してるときはそうは思わなかったが、東京のごちゃごちゃした感じが懐かしかった。
その左側に緑の山が見える。そっちが本来の根来《にらい》島で、未来都市はサンゴ礁の遠浅を埋め立てて作った神至《かない》市ってやつだ。建設はずいぶん前にはじまったらしいけど、こんな離れ小島に街ができてるなんてちっとも知らなかった。
防波堤を過ぎて湾内に入る。防潮堤の下で、大きなフロートが波に揺られていた。あとで聞いたところによると、波力発電と潮汐発電を行っているらしい。
そんなことはどうでもいい? ま、たしかに。
湾に入った正面、ちょうど緑の島と未来都市の境目あたりを背景に、湾内に小島のようなものが浮かんでいた。なんだろう。どこかで見たような懐かしさがある。
あれは……。
ラーゼフォンの卵があった神殿みたいな感じだ。
そのとき、頭をすっと風のような冷たさが走った。
リーリャ・リトヴァクはその小島を横目に見ながら、本部ビルとかいう潰れた円錐形を半分に断ち割ったようなビルの下に入りこんだ。ビルの下にこんなでかい船が入りこめるなんて、驚きだ。そのうえ、まだ何隻も入れるほどの余裕がある。
東京ビッグサイトみたい。ちょうどあんな風にピラミッドを砂時計みたいにしてつないだ柱が何本も建っていて、厚みのある天井を支えている。
穴が開いていて陽光がふり注いでいるが、近くにいた兵隊さんに訊いたら、緊急時には入り口も天井も装甲板でふさがれるそうだ。
「ブンカーだよ」
と、その人はいっていたが、ブンカーってなんだ?
リーリャ・リトヴァクは接岸した。なんていうのか知らないけど、直径が三メートルぐらいはありそうな黒いゴムの塊が、接岸のショックをやわらげる(ちなみにあとで訊いたら、フェンダーっていうんだってさ)。もやい綱が投げられ、結びつけられる。こういうとこって案外原始的っていうか、昔っから変わらないんだな。
入り口のほうを見ると、もう一隻大きな船が近づいてくるのが見えた。あれもここに入ってくるのかな。艦名は「ユリシーズ」。大型輸送艦かな?
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断章3 功刀仁
ユリシーズの接舷作業が終わらないうちに、艦長のユルナー・ホフマン大佐が乗りこんできた。勝ち誇った顔で、降伏調印文書のごとく命令書をつきつけてきた。
「あの大きな人形は、ムーリアン・アーティフィクト・クラス5Aとして、国連のムーリアン・テクノロジー基礎研究所の管轄下に入った。すぐにもこちらの艦への積み替え作業をはじめたい」
一応、命令書に目を通すふりをする。このテの男は、形式を重んじるようだからな。
が、長く目を通しすぎた。ホフマン艦長はいらだったような声をあげた。
「きみがあのオーパーツの軍事的運用を計画しているのは耳にしているが、今回の東京侵攻作戦には、われわれもずいぶん多くのものを支払った」
「お気づかいは無用です。TERRAは国連傘下の組織ですから」
かれは、あたりまえだといわんばかりに鼻を鳴らした。
「そういうことだ」
その言葉が終わらないうちに、背をむけていた。長居は無用というわけか。
「あの5Aパーツ回収時に、ウチの情報部員と一緒に出てきた少年、かれの身柄はどうします?」
背中に視線を感じる。窓から外を見ている一色《いっしき》とかいう青年が、こちらをちらりとふりかえったのがわかる。国連の監察官だという触れ込みで、TERRAに居座るつもりらしいが、この男、ただの監察官ではないらしい。神名の身柄で反応するのだから……。
「いまさら子どもなどに用はない」
ホフマンが決めつけるようにいった。
「東京ジュピターの人間標本なら、こちらでも相当数確保している」
言うことはそれだけだ、とばかりに、かれは大股で艦橋を出ていった。
一色を残して。
わたしはゆっくりとふりかえった。白い服を着た涼しげな青年が窓際に立っている。いや、爬虫類の冷たさだ。
「みごとなお手前でしたよ、功刀司令」
「なんのことですかな」
「監察官であるわたしの前で、国連派遣の輸送部隊責任者から、神名くんの身柄の言質《げんち》を取るんですから。今後、なにがあろうと、わたしは証人にならなければならない。違いますか?」
「よくおわかりですね」
「あの男はただの俗物ですよ。ハードだけ持ち帰れば、ことたれりと思っていますからね。ソフトはこちらにあるというのに」
サングラスの奥で冷たい目が光った。
「しかも、あのハードはソフトに従属する」
そこまで知っているということは、やはり財団側の人間か。
やれやれ、またひとりやっかいな人間が増えたというわけか。
3
迷った。
航空母艦なんてひとつの街だ。慣れている人間はいいだろうが、初めての人間は自分がどこにいるかもわからない。どこだ、ここ?
すぐ先に見慣れたものがあった。白と青と赤のねじり模様が、くるくると回っている。カッティング・サロンというより、床屋だよね。このねじり棒があると。
そこから、ふわりと風が吹いた。本当に吹いたわけじゃないけど、ふわりとひとりの少女が現れた。
なんていうか……。
紫――
かな。
服が紫っぽいのも確かだけど、そうじゃなくて雰囲気が紫だ。ちょっと人を不安にさせるような、それでいながら惹かれてしまう。強いような、守ってやりたいような、不安定な感じがする。歳だっていくつだかわからない。年上のような印象もあるし、年下のような印象もある。手には日傘と帽子とベストのようなもの。ベストといっても、なんか色々な機械がひっついてるみたい。いったい、どういうセンスだ。日傘と機械なんて。
「らら?」
少女が微笑んだ。そのこぼれるような無防備な笑みに、「らら?」なんていうへんてこりんな言葉を聞いたことも忘れてしまった。
好みかも。
彼女はねじり棒を指さし、初対面のおれにむかって友だちのようにしゃべりだした。
「この看板はもともと、野戦病院の印だったの。この色は、赤い血管と青い血管をあらわしてるんだって」
「そ、そうなんですか」
われながらマヌケな答えしかできなかった。
「人の血は赤いのに、どうして二色の血管があるんでしょう」
おふくろの横顔がよみがえる。
赤い血と。
青い血。
どちらかが人間?
どちらも人間?
「手伝って」
「は?」
自分の世界に入っていたおれは、なにを言われたかわからず、問い返してしまった。
「着るの」
着るって、なにを? あ、ベストか。
ったって、どうすんだよ。女の姉妹《きょうだい》はいないから、そんなの手伝ったことないぞ。逆に脱がしたこともないし……。
少女は恥ずかしいとか思わないらしい。手伝うのが当然だとばかりに、ごく普通にベストに腕を通した。
前閉めればいいのかな。手をのばそうとすると、
「前はダメ」
少女は背をむけた。うしろったって、なにをどうすりゃいいんだ。
「ここ、うしろから」
少女はそういいながら、前の、それも胸のふくらみの下にあるホックのようなものをカチャカチャいわせている。
なんで? なんでうしろからしなきゃならないんだよ。しかも、おれが。
「早く」
ええい、ままよ。彼女の体に腕をまわし、ホックのようなものを手探りでさがした。手許見えないんだぜ。それにこんなとこ人に見られたら、恥ずかしいったらありゃしない。
なのに、彼女はまったく安心しきって、体をあずけてくる。腕に、意外と肉感的な感触が伝わってくる。おいおい、やばいとこに触っちゃったら、どうすんだよ。
と思ったが、そのベストのようなものの胸は軽く硬い素材でできていた。
安心すると同時にちょっと残念に思ってしまう。あー、おれってなんて正直なんだろう。
しかし、このベストみたいなもんはなんだ?
「これ、なんですか?」
「フロントホック。お腹のところで留めるの」
「いや、そうじゃなくて……」
この子、頭弱いのかも。
「ライフモジュール。美容室の椅子に座るときはなるべくリラックスしたいから、いつもはずすの。本当は身につけているもの全部取っちゃいたいんだけど、全部とって髪切ったりしたら、ここではきっとしかられるよね」
一瞬、椅子に座る彼女の裸身が浮かぶ。
ダメだ、ダメ! こんなこというやつアブナイよ。いっちゃってる系の人だよ。
それにしても、なんでホックははまんないんだよ。
おれはアセった。
カチッ――。
正直、その音聞いたときは、ホッとしたよ。
「これでいいの?」
「いいの」
思わず長い吐息がもれる。頼まれたことやったんだから、もういいよな。いっちゃってる系の人とは、あまり親しくなりたくない。
離れようとしたおれの手を、少女がごく普通の仕草で握った。
ふりほどこうと思えばできたのに、そうしなかった。
「行きましょ。オリン」
「え? あ、その……オリンて?」
「いいの」
少女は手を引いて歩きだした。おれはされるがままについていく。
いっちゃってる系の人とは、親しくならないんじゃなかったのか、神名綾人。
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断章4 エルフィ・ハディヤット
ラーゼフォンを固定していたワイヤーがはずされていく。積み下ろし作業かと思っていたら、見たこともない連中が混じっている。イヤな予感がする。
すぐ隣にはユリシーズが接舷《せつげん》している。就航したばかりの新鋭艦のはずだ。
「どこに運ぼうというんですか」
責任者のような男にたずねてみたが、きみには関係ないと木で鼻をくくったような答えが返ってくるばかりだった。
作業に混じっていた親しい作業員に聞いたところでは、ユリシーズに積み替え、そのあとは国連のムーリアン・テクノロジー基礎研究所に運ばれるという。
怒りがこみ上げてきた。
TERRAが国連傘下の組織であることはわかっている。だが、対MUの組織が率先して研究開発を行うならばまだしも、さらに外部の組織であるムーリアン・テクノロジー基礎研究所にそれを許すとは。いや、最初から研究所が横槍を入れてくることは、わかっていたはずだ。それを易々と渡してしまうということは、はなから渡すつもりだった……。
TERRAは、残りのあの少年だけで満足しているというのか。あたしはそれが許せない。たかだかあの少年ひとりのために、スティールやボーボーが死んでいったというのか?
許せない。
あたしはTERRAの人間ではなく、国連軍の人間だ。あくまでも今回のオーヴァーロード作戦に関しては、TERRAの立案指揮にしたがっただけで、その結果が国連のためになるならばよしとするべきだ。
しかし……。血であがなったラーゼフォンを、ああも易々と渡してしまうのが許せない。あたしたちはなんのために戦った。あの情報士官が少年を連れ帰るための、陽動だったというのか?
許せない。
許せない!
「あら、もう積み替えはじまっちゃってるの?」
のんきな声に、思わずふりかえると、シトウだった。
「ねえ、猫見なかった? まだ子猫の。ブチっていうんだけど」
こぶしを握りそうになるが、むりやり自分を抑えつける。
「なるほど、初対面でおごってもらったアブサンは高くついたよ」
わたしがそういうと、シトウは手をさしだしてきた。あたしが、それをにこやかに握るとでも思っているのか。
「生還したのは、あなただけと聞きました。さすがですね、エルフィ・ハディヤット」
ニコッと微笑む。そうやってあなたはだましたんだ。あたしを。
「ハルカ・シトウ。情報部の人間と知ったうえで、あえてたずねます。答えはイエスかノーでいい」
「あ、言っておくけど、あの日の飲み代は領収書もらってないから。ホントよ」
情報部の命令であたしと飲んだのか、なんてことは訊いていない。こいつがすべてを知ったうえで、あたしと何も知らない顔で飲み、なおかつ仲間を死地に追いやることをよしとしていたのか、ということだ。あたしは、自分を抑えつけるだけで精いっぱいだったが、なんとか言葉をつづけた。
「今回のオーヴァーロード作戦の全容、あなたも把握していたのですか」
シトウは、情報部の人間らしい探るような目をむけてきた。
「わたしの仲間の血の見返りが、あのつまらない少年なわけですか!」
笑顔が、ほんの一瞬とはいえ崩れ、驚いたような表情を見せた。
しかし、すぐに元の顔に戻った。
「どこでそれを聞いたの」
情報部が! あたしは反射的に彼女の胸倉をつかんでいた。
「わたしが知りたいのは、あなたがこの作戦を把握していたか、どうかだ」
彼女は大げさに残念そうな顔を作ると、ふざけたことを言い放ってくれた。
「来週のチャイニーズレストランはお流れみたいね」
もうダメだ。抑えきれずに、こぶしが動いてしまった。
バシッ――!
いい音だ。ちょっとすっきりしたかな。
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4
彼女は久遠《くおん》とだけ名乗った。
久遠は日傘をもてあそぶように回しながら、前を歩いている。
それにしても、なんで日傘なんだ? 航空母艦の中で。
なんでついていくんだ? いっちゃてる系の人だっていうのに。
はっきりしているのは、彼女といるのは決してイヤな感じじゃなかったってことだけだ。
「らら?」
ハッチのひとつをくぐると、外だった。
ここは?
斜めになった壁がどこまでもつづいている。反対側にも斜めの壁。峡谷みたい。
その下は泡立つ海。その峡谷の間をいくつものシャフトがつなぎ、その上に一本のレールがある。
久遠が奇妙なことを口走った。
「戦う鳥、空へと翼広げ。死と夢を運ぶ」
なにいってんだかなあ。
久遠はと見ると、細いシャフトの上をすたすたと歩いている。
「お、おい、ちょっと待ってよ」
あわててシャフトの上に乗った。乗ったけど、足元を見てしまった。
肩幅ほどのシャフトの下には、泡立つ青い海が広がっている。
うう――。
男にしかわからない感覚。おれは一歩引いてしまった。なのに、彼女ときたら、まるで散歩でもするかのように軽々と、シャフトの上を歩いていく。
落ちたらどうすんだよー。
「らら? 持ってっちゃうの?」
持ってっちゃう?
なにを?
視線を追うと、その先にラーゼフォンがいた。ワイヤーで吊り上げられ、巨大なクレーンで運ばれていく。
え? なんで? おれのラーゼフォンをどこ持ってく気だよ。
「なにしてるんだよ」
作業を見あげながら思わず口にすると、答える声があった。
「きみこそ、なにしてるんだね」
ふりむくと、白い男が立っていた。白い帽子に白い服、まったく軍人らしくない雰囲気。
イヤな感じ。ヘビみたいな視線だ。
「われわれの戦利品をどうしようと、きみには関係ない」
戦利品って。戦って勝ち取ったみたいな口ぶりじゃないか。
あんたたちがなにしたんだよ。おれが乗って出てきたんだろ。さもなきゃ、あれはまだ東京だ。
「そうだろ。神名綾人くん」
ムッ――。
どうして、こっちの大人たちは、みんな、おれの名前を知ってんだよ。そのくせ、人の名前を訊くときは自分が名乗ってから、って礼儀は知らない。
やな大人ばかりだ。
「あんた、だれですか」
やなやつらばかりとかいっときながら、語尾が敬語になってしまった。べつに理由はない。白ヘビ野郎の射すくめるような視線が怖かったからじゃないぞ。絶対。
「きみは上から見下すのが好きかね」
やな言い方。しかたなく、シャフトから降りる。
「そうそう。素直に言うことを聞く子は好きだよ」
子! 人を子どもあつかいしやがって。
「わたしは一色真《いっしきまこと》」
イッシキ? どういう字書くんだ?
「TERRAの協力者だよ」
「協力者?」
「そう。国連の監察官をしている」
「国連がラーゼフォンをどうするつもりなんですか」
「ラーゼフォン? きみがそう名前をつけたのか」
そういうと、白ヘビ野郎は小さく笑いやがった。
「買ったばかりのオモチャに、さっそく名前をつける子どもみたいだねえ」
ムカつく。絶対、ムカつく。こいつ!
「どうするつもりか、功刀司令に直接訊いてみたらいい」
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断章5 八雲総一
遙さんが艦橋に出頭してきたとき、ちょうど神名くんが食ってかかるところだった。
「どうするつもりなんです!」
若いなあ。司令につっかかるなんて。あ、ぼくと歳の差はそんなにないんだっけな。
「国連の研究施設に輸送する」
司令は言い放つように答えた。
「あの人形の管理および所有権は、すでに国連のものだ。……そうでしたね」
司令が敬語を使って、隣に立っている一色監察官を見た。かれは尊大な態度でうなずいてみせる。
セレモニーだね。一色監察官が、自分の権力を綾人くんに見せつけるための儀式だよ。見せつけられるのは、もちろん、ぼくや遙さんも含まれるのは当然だけどさ。
ちらりと遙さんを見ると、頬のあたりが不自然に紅い。
「その顔……どうしたんです」
「ちょっとね」
そういってごまかすような笑みを浮かべる。
ちょっとね、か。いろいろあるよね。人間関係は。
「もめごとなら、ぼくに言ってくださいね」
「八雲くん……いい男ね」
ウソでもいいから、遙さんにそういわれると、うれしいな。
「きみはなにを勘違いしてるんだ」
司令の言葉が響いた。おっと、いまはセレモニーの最中だったんだ。
「きみは、あのオーパーツに対して、自分がなんらかの権利を主張したいとでもいうのか!」
あーらら。司令も、ああいう言い方して。本心は違うのに、ついいっちゃうんだよね。
だから、敵も多いっていうのに。ああいわれたら、別にそんなつもりなくても、怒っちゃうよね。
神名くんみたいに。
「あんたは!」
かれが動く前に、遙さんが動いた。なんでだろう。そのうえ優しい言葉をかける。
「ごめん。神名くん。あなたには事前に説明しておくべきだったかもね」
神名くんが反発するように、遙さんをにらみつけた。その目で見られたとたん、彼女は殴られたようにひるむ。
目の奥を哀しみが走った。
なんで彼女は神名くんにああいう態度をとるんだろう。そういえば、オーヴァーロード作戦にも自ら志願したっていう話だし。よくわからない。彼女は、そのことについては口をつぐんでいるし、たぶんだれも知らないなにかがあるんだろう。
ふたりの間に流れている気まずい空気を無視して、司令は窓をふりかえった。
そのむこうを、ラーゼフォンを積んだユリシーズが出港していく。
たぶん、神名くんは自分の無力さを噛みしめたことだろう。かれがなんといおうと、大人は自分たちが思ったことを押し通していく。それが大人という生き物だ。
「それで……ぼくもどこかに連れていかれるわけですか」
神名くんの言葉には、あきらめたような響きがあった。
「ワシントン条約には違反しないだろ」
神名くんの頬がぴくりと動いた。よくわからないけど、ふたりの間では通じる皮肉らしい。遙さんがあわてて、また横から口をはさむ。
「あ、わたしがちゃんと話しておきますから」
司令は窓の外を見たまま、彼女をふりかえりもしない。
「きみはよく知るべきだな。いま、自分が置かれている状況を。神名綾人くん」
置かれている状況を冷静に判断し、その中で最善の努力をする。それが軍人の、いや、人としての在り方である。というのが司令の考え方だ。
ぼくにはよくわかる。
でも、そのことが神名くんに伝わるには、時間がかかるだろうな。ああいう言い方をされちゃあね。ただでさえ、若者は自分が特別な存在だと思いたがる。プライド高い生き物だ。それをずたずたにされたんだ。素直に聞く耳なんか持たないよ。
だけど、素直に聞く耳さえ持てば、司令の言葉はいつもあたたかい。
そのことが神名くんにもわかるのは、いつのことだろう。
……こんなこと考えるから、キムに「おじいちゃんみたい」っていわれるのかな?
ふと気がつくと、一色さんがぼくたちを見ていた。なにもかも見透かしているよ、といわんばかりの目だった。
だけどね、一色さん。
ほんとうに見透かしている人間は、そんなあからさまな目はしないものですよ。
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5
「らしくないよ、綾人くん」
遙さんにいわれなくても、そのことはよくわかっていた。
なんか、こっちに来てからイラついている。やっぱりまだこっちの人たちに慣れていないからだろう。おれはけっこう、自分は環境に順応できるタイプだと思っていた。学校でも家でもそうやって波風立てずに生きてきたはずだ。なのに、こっちに来てからはなんかうまく行かない。小さなことで、イラついてしまう。
「司令はあなたに早く外の世界になじんでもらいたいのよ。それはわたしもそうよ」
「そうじゃないんです」
「じゃあなに?」
「自分でもうまくいえない。でも、イライラしちゃうんです。ちょっとしたことで」
遙さんは困ったような顔になった。
そりゃそうだよね。自分にさえどうすることもできないのに、他人がどうこういえないもの。
みんな他人さ。ここでは。
だけど、なぜか、みんなぼくの名前を知っている。他人なのに。
「……なんで、みんな、ぼくの名前を知ってるんですか?」
「それは、わたしが報告書に書いたから」
それだけ? ほんとにそれだけ?
ふたりの間に、わだかまりに似た沈黙が横たわった。
時間だけがいたずらに過ぎていった。
そういえば、いま何時だろう。
「いま何時ですか」
「時計見れば……」
いいかけて、遙さんはおれが東京の時計をまだしていることに気がついた。
「まだ直してなかったんだ」
「ええ。……直すと、東京が遠くなっちゃうような気がして」
「それでもズレてくわよ。六倍の速度で」
わかってる。わかってるけど、どうしようもない。
「いいことがある。これあげるわ」
そういうと、遙さんは自分の時計をはずした。
東京の時間とこっちの時間が表示されるやつだ。
「これなら、どちらの時間も正確に示してくれる。東京が遠くなることはないでしょ」
「ありがとうございます」
素直にそういえた。こっちに来てから、はじめて素直になれたような気がする。
「でも、ただもらっちゃ悪いから。ぼくのと交換ってことでどうですか?」
さらっと交換なんて言葉が出てきたのには、自分でもちょっと驚いた。
「もちろん」
遙さんはにっこり微笑む。そして、おれたちは時計を交換した。
東京の時間とこっちの時間が流れていく。
不思議な気分だった。地続きなのに、ついこないだまでそこにいたのに、時間の流れが違うなんて……。時計をじっとながめているおれを見て、遙さんは少し誤解したようだ。
「……ほんとは、こっちの時間だけに慣れてほしいんだけどね」
そういう遙さんの声は、どこかさびしげでもあった。
だよね。遙さんはこっちの人だもん。こっちの時間を優先するよ。
おれはどっちの時間を優先していいのか、わからない。
戻れない世界の時間か。
こっちの世界の時間か。
そのとき、
もしかしたら、いまさっき自分で選択してしまったのかもしれない、ということに気がついた。戻れない世界の時間を、遙さんに渡してしまったのだから。
いや、そんなことはない。
こうして時計を見れば、朝比奈や守がいま何なにしてるかだいたいわかる。東京を忘れたわけじゃない……。
遙さんを見ると、おれの時計をポケットにしまおうとしてる。せっかくあげたんだから、腕にすればいいのに。目があうと、急にどぎまぎしたような顔になって、いきなりへんなことをいいだした。
「絵でも描いたら?」
「え?」
なにいきなりいいだすんだ、この人は。
「だって、美大入りたいんでしょ」
「あ、いや、あれは、あのときはそうするのもいいかなって思っただけで」
「いまが不安なら、未来の希望を凝視める。そうじゃない?」
そりゃそうかもしれないけどさ。
「うまいんでしょ」
「好きで描いてるだけだから」
「なんだったら、モデルになってあげてもいいわよ。こう見えても、脱ぐとすごいんだから」
な、な、なにいいだすんだよぉ。耳まで真っ赤になったのが、自分でもはっきりとわかった。
「冗談、冗談。……でも、その顔はちょっとだけ期待してた顔ね」
ぎくり。
「そ、そんなことないですよ」
必死に言いつくろうと、遙さんは笑った。
「よかった。普通の綾人くんに戻ってくれて」
そう。遙さんといるときは、いつものようにしてられる。
いつもって……東京にいたときのことだよな。ここでのいつもって、どんなだろう。
そのとき、遙さんを呼び出す声があった。
「せっかく綾人くんがいつもみたいになったっていうのに……。ちょっと待っててね。すぐ戻ってくるから」
そういって遙さんは出ていってしまった。やけにドアが閉まる音がうるさかった。
怒ってるのかな。
そんなことないよね。自動ドアだもの。
おれは時計に目を落とす。東京の時間とこっちの時間。東京の時間が一秒刻むたびに、こっちの時間は六秒進む。これがひとつになる日はくるんだろうか。くるとしたらどっちの時間で? 東京の時間で、それともこっちの時間で?
やめよう。
そんなこと気にしてもはじまらない。遙さんのいうように絵でも描いてみるか。
そこらへんにある紙に、エンピツでデッサンをはじめた。東京に置いてきてしまった絵と同じ構図にしよう。そうだ。時間もなにもかも東京に置いてきてしまったけど、この絵だけはおれのものだ。この絵だけが、おれがここにいるという証明なんだ。
おれは憑かれたようにエンピツを走らせはじめた。
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断章6 八雲総一
きょうは功刀司令は食ってかかられる日らしい。今度は遙さんだ。
「司令! 解除してください」
彼女が怒るのも無理はないかもしれない。大事な綾人くんを閉じこめたのだから。
対ムーリアン仕様の防護扉によって、かれをあの部屋に完全に監禁してしまった。あれは司令の音声認識がないと解除できないようになっているし、十センチの複合装甲はプラスチック爆弾でもないかぎり爆破不可能だ。もっともあの装甲が吹き飛ぶほどの爆弾をしかけたら、中の人間は確実に死んでしまうけど。
だけど、しかたがないんだ……。
「指標生体分子の解析結果が出たんです」
ぼくは遙さんに説明してあげた。
「ヌクレオチド、ペプチドのすべてにわたって、MU《エムユウ》フェイズ反応が見られたんです」
不思議な現象だった。血は赤いのに、MUフェイズ反応が得られた。ムーリアンだともいえない。もちろん人間だともいえない。いま科学者が必死に仮説を立てて、実験をくりかえしているところだが、その結論を待っている余裕はない。
このリーリャ・リトヴァクを、そんな人間がうろうろされては困るんですよ。
でも、MUフェイズ反応が出たところで、遙さんの反応が変わるわけではなかった。
「でも、かれは何も知らないんですよ! お願いします。解除してください」
功刀司令はまったく動じる様子はない。ただ静かに背中をむけているだけだ。
「かれは協力的なはずです。たとえMUフェイズ反応が出たとしても……。赤い血の人間なんです!」
それこそ血をふりしぼりそうな声だった。
懸命だ。
なにが遙さんをして、あそこまで懸命にさせるんだろう。ぼくにはわからない。ほんとに泣きそうな顔で訴えている。なのに、功刀司令は冷徹に立ちつづけていた。
ぼくだったら、女性にあそこまでいわれたら、ちょっと耳をかたむけるぐらいするかもしれない。そこがぼくの甘いところだけどね。
そのとき、久遠が入ってきた。手には猫を抱いている。
全員の目が、彼女に注がれる。
「この分類自体にふくまれるもの。いましがた壺を壊したもの……」
解析不明の言葉だ。しかし、功刀司令にはわかったようだ。
「やつらか!」
やつらって? まさか、MU?
そう思ったとき、オペレーターのひとりが叫んだ。
「哨戒中のU―07より入電、コンタクトイエロー」
コンタクトイエロー。つまり正体不明の存在との遭遇。
「目標イエローワンはアンバー48―04より05へ微速で移動中。SOSUSに感あり! コンタクトレッド!」
コンタクトレッド! D1! ドーレムだ!
D1警報が鳴り響き、即座に全島に防御レベル・デフコンIIIが敷かれた。
ぼくは久遠を見た。久遠はまるでなにごともなかったかのように、髪をなびかせながら艦橋から去っていこうとしていた。彼女がなぜリーリャ・リトヴァクに乗っているのか、いまのいままで理解できないでいた。
ただ、如月《きさらぎ》博士の妹さんだというだけなのだと思っていた。まさか、こんな能力があるなんて。それがわかったうえで、功刀司令は彼女に乗艦許可を出したのだろうか。
ぼくは功刀司令に目をやった。
「わたしはこのリーリャ・リトヴァクから指揮をとる」
ここから……。ここからだと全島の指揮は難しい。現場にそれだけ負担がかかる。それでもやるというのは、司令の重大な決意のあらわれだった。
ぼくたちは、とうとう十五年ぶりに東京ジュピターの外でD1と戦うのだ。もしかして、ぼくたちはオーヴァーロード作戦でとんでもないものを解放してしまったのかもしれない。
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断章7 紫東 遙
モニターに接近するふたつの点。ドーレムとU―07。
「U―07。ドーレムと交戦」
ふたつの点がひとつになった。たぶん、ほんの少しの間だったろうが、艦橋にいる人間には永遠にも感じられる時間が流れた。ひとつになった点が静かに移動しはじめる。敵味方識別反応はU―07であることを示している。
が……
「こちらリーリャ・リトヴァク。U―07応答せよ」
応答はない。
「U―07、急速浮上。海上に出ます」
別のモニターに十キロ以上はなれた海上の様子が映しだされる。
静かな波。
それが突如として破られ、白い鋭角的な先端が現れた。
ドーレムだ。
つづいて、紡錘形のような巨体が飛び出してきた。下に無数の触手のようなものをのばし、そこにはU―07がからめとられている。
U―07の船体が歪んだ。ミシッという音が聞こえてきそうだった。
そして、深海の圧力にも耐える船殻が、ぐしゃりとひしゃげた。
爆発の閃光が走る。
あの艦には何人の……。
考えちゃいけない。これは戦争なのだ。
「U―07、破壊されました」
いわれなくてもわかっていることをオペレーターが報告した。
その声が、わたしたちの間に重く楔のように打ちこまれる。
「D1、速度八十ノットで侵攻中」
「目標、第一次警戒水域を突破! エリア88に侵入します」
司令が命令を発する。
「第二|邀撃《ようげき》システム起動、レベル四」
ニライカナイの北端にある防衛システム島のレールガンが起動した。“死のオルガン”と呼ばれるシステムだ。電磁的に加速された無数の重金属ペレットが白いドーレムにむかって撃ちこまれた。
直撃!
いくつもの閃光がドーレムの表面を走った。
およそ通常の装甲なら紙のように撃ちぬかれてしまうはずだった。
だが、ドーレムは傷ひとつつかず、悠々と浮いている。
「D1、速度変わらず。なおも接近中」
オペレーターのかすれた声が、艦橋を支配していた沈黙をいっそう重くした。
そのとき、かすかに
どおん――。
という音が聞こえた。U―07が爆発したときの音が、ようやく届いたのだった。
艦橋にいるだれもが、はじめて遭遇する敵におののいていた。
ただひとり功刀司令をのぞいて。
「EIDOLON出撃!」
冷静な声だった。そして、海中から五本の水柱が立ちあがった。
EIDOLON無人戦闘機だ。
五機のEIDOLONは垂直に上昇していたかと思うと、とつぜん水平に移行し、音速を超えるほど加速する。人間には耐えられない高機動性だ。その分、複雑な判断はできないが、高機動性を生かしたフォーメーション攻撃が可能だった。
たがいに前になり後になり、上になり下になり、まるで綾取りの糸のような軌跡を引きながら、EIDOLON隊はドーレムに急接近していった。
防水カバーが四散し、ミサイルが発射された。
爆発の閃光が、真珠の連なりのようにふくれあがり、ドーレムの姿を包み隠す。
炎の塊となった爆煙がまだ宙にあるうちに、ぐらりと傾いたドーレムの巨体がゆっくりと沈みはじめた。
やったの?
そして、ドーレムは白い波を押し分けるように、海中に沈んでいった。
「やった!」
思わず声がでる。
「ほう、やりますね」
静かな声にふりむくと、一色監察官がすぐ横にいた。いつのまにここに来たんだろう。
海上では、ドーレムが噴きあげた巨大な水柱の上空を、獲物をもとめる鷹のようにEIDOLONが舞っていた。その様子がモニターに映しだされている。
でも、なにかがヘン。
なにがおかしいんだろう。
と思った瞬間、水柱から薄い壁のような水が海中から噴き出してきた。
なに?
低空飛行していたEIDOLONにむかっていく水の壁。
直下にきたとき、水の壁が高くそびえ、EIDOLONに触れた。
スパッ!
まるでカミソリで切られたように、EIDOLONはまっぷたつにされた。
茫然として声もでない。
さらにウォーター・カッターは走った。
また一機、餌食にされた。
残った四機が四方から同時攻撃をかける。
一閃!
十字に走ったウォーター・カッターが四機に触れた。
瞬間、EIDOLONが止まって見えた。
そして、空中で四つの爆発が広がった。
「これはすごい。われわれの範疇を越えている」
横にいる一色監察官が感想のような言葉をもらした。その声は、どこかうれしそうだった。でも、かれのいうとおりだ。われわれの力をはるかに超えている。
どうやって撃退しろというのだろう。
「第二次防衛ライン突破されました!」
「目標D1、九十ノットで侵攻中!」
見えた。
ドック入り口のむこうに白い小さな点がある。
白く大きな波を蹴立てながら、ドーレムがものすごい速度で接近してくる。
とても海中を進んでいるものとは思えない。
飛行機の速度だ。
波を切り裂く音がここまで聞こえくる。
ざああああっ――!
「ゲート閉鎖!」
波を蹴立てる音が途切れた。
消えている。波が……。
ドーレムの姿はない。
あるのは静かな波だけ。
その静かな海が、下からせりあがってくるゲートで見えなくなっていく。
「入港ドック、ゲートロック完了しました」
上部ハッチも閉じられ、あたりは暗くなった。
「外部レーダーにD1の反応なし!」
「D1消失しました!」
なんですって? 消えたって、どういうこと?
「そんなバカな!」
八雲くんが叫ぶようにいった。
「反応ありません。完全にロストです」
とまどうような沈黙が艦橋を支配する。
ドーレムはどこに?
あんな攻撃力を誇る兵器が、逃げるはずがない。
となると、どこに?
どこからわたしたちを狙っているのだろうか。知らず知らずと、喉がごくりと鳴る。
ほぼ同時に、警報が艦内に響きわたった。
「ドップラー急上昇! D1です!」
「目標、相対方位……ゼロ!」
オペレーターが信じられないといった悲鳴に近い声をあげた。
「ほ、本艦の真下です!」
真下!
6
熱中して絵を描いていると、ものすごくでっかい音とともに艦全体が揺れ、衝撃で床に投げだされた。警報が鳴り響く。
「D1、本艦に直接攻撃、総員緊急迎撃態勢! 緊急迎撃態勢!」
攻撃? D1ってなんだよ。なにが起こったんだよ。
また爆発したような衝撃があり、地震か嵐にでも巻きこまれたみたいに、部屋全体が大きく揺れはじめた。警報がさっきより鳴り響いている。
ヤバイよ。こんなとこで死ぬのヤダよ。
ドアの開閉スイッチを押した。だけど開かない。何度押しても開かない。
「だれかいますか?」
返事はない。ドアに耳を押しつけてみるが、通路の音はまったく聞きとれない。
懸命にドアをたたいた。喉をふりしぼって叫んだ。
「だれか! 開けてくれよ! 聞こえないの? おーい! おーい!」
こぶしが痛くなるほどたたきつづけたのに、ドアは開く気配さえみせない。
艦は揺れつづけている。ミシッと艦がきしる音が聞こえてきた。
怖い。
正直、怖かった。
死んじゃうんだ。だれにも気づかれずに。そう思うとパニクりそうになった。
「遙さん! 開けてよ! 遙さん! 遙さん! ねえ、開けてってば!」
だけど返事はない。
怖い。
怖いよ。
やめてよ!
おれ、死ぬのヤダよ!
そのとき――。
水音がした。
一滴の雫が静かな水面に広がる音。
え?
おそるおそるふりかえった。
描きかけの絵がある。
こちらに背をむけ、海の彼方を見ている少女のエンピツデッサンだ。
そのはずだ。
しかし、
それがいま、ふりかえろうとしていた。
ゆっくりと――。
おれのほうに顔をむけようとしていた。
そして、ふりかえった。
微笑みが広がる。
それは……。
美嶋玲香だった……。
うそだ。
きみは死んだはずだ。
死んだ?
だったら、なぜおまえは泣かない。
東京から出てきて、彼女のことを少しでも思いだしたのか。
友だちなんて、おまえにとってその程度のものなのか。
しかし、美嶋の微笑みが、すべての疑問を吹き飛ばしてしまった。
岸壁に立つ美嶋が、おれにむかって微笑んでいる。
その背景には青空。
まるで自分が描こうとしていた絵の中に入ってしまったかのようだ。
なのに、おれはちっともそれを不思議と思わない。
彼女が微笑みながら、手をのばしている。
こちらへおいでと。
行かなくちゃ。
彼女が呼んでるんだ。
おれを……。
ふとふりかえると、背後に久遠がいた。
遙さんが拾ってきた猫を抱いている。
気のせいだ。
そんなことより、呼ばれている。
美嶋に。
すぐ目の前に美嶋の手がある。
あれを握ればいいんだ。
握れば……。
握れば……。
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断章8 八雲総一
これが……。ラーゼフォン……。
D1ではない未確認物体が急速接近してくると思ったら、もうそれはリーリャ・リトヴァクの艦上にいた。
ラーゼフォン。
国連の輸送艦ユリシーズに搬入され、すでに洋上に離れていったはずのものが、いまここにいる。最初見たときは、巨大な人形のようにしか見えなかったが、いまは違う。
美しかった。流れるような、それでいて無骨な人型のフォルム。輝く白い金属の表面。頭部から左右に広がる翼。あきらかに運ばれていったときとは、別のものだった。
これは……。
意志を持っているのか。その意志を縛る鎖を、ぼくたちは持ち得ないのだろうか。
リーリャ・リトヴァクのプラズマカタパルトを破壊するようにドーレムがつきだしている。対峙するように甲板上に降りたったラーゼフォンは、しかし、背をむけると甲板に手をついた。
なにをしてるんだろう。
「綾人くんを連れに来たの?」
遙さんが叫んだ。
そうか。
綾人くんを。もしリーリャ・リトヴァクを破壊してかれを連れ出すつもりだとしたら、ぼくたちは攻撃しなければならない。
功刀司令を見ると、同じ思いのようだ。
ドーレム一体をどうにもできないのに、このうえラーゼフォンを相手に戦えるのか?
ぼくたちは……。
そのとき、
「監禁室の生体反応が消えています!」
オペレーターのひとりがいった。
監視カメラのモニターを見たが、綾人くんの姿はどこにもない。オペレーターが別角度のカメラに切り替えたが、やはりどこにもいない。
そんなバカな。まさか、もうラーゼフォンに同化してしまったのだろうか。
功刀さんも遙さんも全員、驚きの目で甲板上のラーゼフォンを見た。
そのときだった。
ちらりと見た一色監察官が笑った。かすかだが、たしかに笑った。この人は、なにを知っているんだろう。
そして、ラーゼフォンのゴーグルのような部分が上がり、目が現れた。
涼しい。
そう形容するのが正しい瞳だった。
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7
気がつくと、おれは操縦席にいた。
え?
なに?
どうなってんの?
なんで、ここにいるの?
ほんとだったら、パニクッて当然なのに、なぜか落ちついていた。母親の胎内にいるような安心感ってやつ? なにのんきなこと考えてんだよ。おまえ、またラーゼフォンに乗っちゃったんだぞ。なごむなよ。
空中に六角形がいくつも現れ目の前を埋めつくし、モニター画面のようなものになる。
そこに白いイカみたいなやつが大映しになっている。あの赤紫野郎の親戚みたいなやつだ。なんかへんてこりんな白い壺にとんがった羽根つけて、壺のふくらんだところに顔つけたみたい。
ドーレムっていうんだっけ? その顔がおれを見て、吼えた。
いや、歌った。赤紫野郎と同じだ。
おれはラーゼフォンのこぶしを固め、殴りかかろうとした。
寸前、ためらう。
これって東京から来たんだよな。おふくろんとこから来たんだよな。だとしたら、こいつは、おれを東京に連れ戻すために、わざわざここまで来てくれたのかもしれない。
いま、こいつと戦うって、おれは東京に絶対帰らないって意味になっちゃうのかな。
わからない。それに、あのヤな大人たちのために戦わなきゃならないのかな。
耳の底でおふくろの声がよみがえった。
「憎むようにしむける。……信じさせようとするはず。色々なことを……。偽りを真実といって……。用心して……」
さっき閉じこめられたの……故障じゃなかったら。最初から閉じこめる気だったとしたら。そういえば、遙さんが出ていったとき、やけに大きな音がしたっけ。
あの功刀とかいう司令官が、閉じこめたのかも知しれない。
いや、遙さんもグルだった……。
そんなはずないだろ!
でも……。
こっちがためらっているのを見たドーレムが、攻撃にでてきた。無数の触手みたいなやつが、リーリャ・リトヴァクの装甲の下をはいまわりはじめた。
それでも、ためらう。
ビチビチと音が聞こえてきそうな光景だった。皮膚の下をはいまわる寄生虫みたいだ。
はがされた装甲板の下にあらわになった通路に人影があった。
久遠だ。おびえた猫を抱いたまま、おれをじっと見あげている。
彼女の瞳は、ただ静かになんの表情も見せず、心の奥底まで届いた。
触手が艦橋にまで走っていく。艦橋には遙さんがいた。
おれを見ている。助けて、という目で見ている。
あの遙さんが。東京でも三浦海岸でも、おれを守ってくれていた遙さんが。
おれの中で、なにかが音を立てて切れた……。
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断章9 紫東 遙
ラーゼフォンが吼えた。その声が、艦橋の装甲ガラスを震わせる。
ラーゼフォンはこぶしをドーレムにたたきつけた。
レールガンでも、EIDOLONのミサイルでも撃ちぬけなかった装甲が、いとも簡単に破壊され、ドーレムは悲鳴に似た声をあげた。
ラーゼフォンはこぶしでドーレムを刺し貫いたまま、飛び上がった。
まるでひきぬかれる球根の根にからみつく土塊のように、触手がからみついた装甲板がばりばりと音をたてて引きはがされていく。
そして、ラーゼフォンはドーレムをかかえたまま急上昇していった。
わたしたちは窓際に体を押しつけるようにして見あげた。
上空でドーレムは触手をラーゼフォンに巻きつけ、力まかせに引き離そうとする。
ラーゼフォンはまだドーレムの体の奥深くにめりこんだままの右腕のそばに、左腕をたたきこんだ。そして、左右に引き裂こうとする。
ラーゼフォンの全身の力がこめられた。
ドーレムの体が、ミシミシいいはじめる。
断末魔の絶叫が青空にこだますると同時に、ドーレムはまっぷたつに引き裂かれた。
空中に青い血のような液体が、咲き乱れる花のように飛び散った。
「おおっ!」
歓声に似たどよめきが艦橋を包む。
だれもが、ラーゼフォンの力に感嘆した。
綾人くんの力に驚いていた。
でも、違う。これは綾人くんの戦い方じゃない。
わたしは確信を持って、そういえた。
絵を描くことが大好きなかれが、こんな残酷な戦い方をするはずがない。
なのに、だれもそのことには気づいていない。まるで、ラーゼフォンがいれば、すべてが解決するかのように思っている。
わたしはラーゼフォンが綾人くんに力を与えてくれると信じていた。だから、東京にまで行った。そして、綾人くんとラーゼフォンを外に連れ出すことに成功した。
だけど……。
ほんとうに、それでよかったのだろうか。
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断章10 如月 樹
「リーリャ・リトヴァクの八雲くんから連絡です。ラーゼフォンがネリヤ神殿にむかってるそうです」
七森くんの声はたしかに耳には届いていた。
「博士?」
その声でようやく金縛りが解ける。
かれがラーゼフォンに同調した影響が、わたしにもおよんだのだ。
「ん? ああ、だいじょうぶだよ」
わたしは、さも平気そうな顔でうなずいてみせた。
とうとうここにあれが来るのか。
この神殿に。
「ラーゼフォン、来ます」
わたしは七森くんにうなずいた。
「わたしは展望台に上がるよ」
「でも……」
七森くんが眉をひそめた。
「なにが起きるかわかりません。〔ネリヤの結界〕が膨張するかもしれませんよ」
「だいじょうぶさ。それに、もしそんなことが起きたら、きみがちゃんとしてくれるだろ」
「はい、わかりました」
七森くんは信頼されたのがうれしいのか、微笑んだ。
単純な女だ。
わたしはタラップをあがり、上部展望台に出た。といっても、前進調査室の屋根に手すりが少しついているというだけのものだ。
そこから水の柱を見あげる。流れで常に歪みながら、ピラミッドの上部に開いた穴から青空が見える。その青空を背景に黒い人影のようなものが見えた。
あれだ。
巨体が水中に飛びこむと盛大な泡がその姿をかき消し、泡が消えたときにはすでにそれはゆっくりと降下しはじめていた。人類がついに到達できなかった滝の内側にいても、それはまったく影響されていない。
あたりまえか。いってしまえば、この神殿はラーゼフォンのためにあるといってもいいのだから。まあ、正確にはそうではないけど……。
ラーゼフォンはいま、わたしの目の前にいる。そして、その胸のコアが開かれ、光の中から綾人が現れた。
綾人……。
かれが綾人か。静かに眠っているような顔は、はじめて見るが、どこか懐かしい。髪がわずかにくせっ毛なのは、やはり母親ゆずりだろう。わたしの心の中を複雑な感情がうごめく。
かれにむかってのばされた手は、自分でいうのもヘンだが、殺してしまおうか、抱きしめようか悩むかのように震えていた。
「お帰り……オリン……」
オリンは帰ってきた。ラーゼフォンも帰ってきた。
しかし、ほんとうにこれでよかったのだろうか。
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断章11 三輪 忍
「これでいいのです」
麻弥さまは静かにおっしゃった。グラーベは完全に破壊され、シンクロしていたムーリアンさまも〔奏者の祭壇〕で悲鳴とともにお姿をかき消された。
たしかに〔虚空回廊〕の有効性は証明された。われわれはTERRAの技術を応用して、短期間で虚空回廊システムを完成させ、ドーレムを外に出すことに成功した。
が、そのドーレムはものの見事にラーゼフォンによって破壊されてしまった。
ほんとうにこれでいいのだろうか。わたしの心の疑問に答えてくださるかのように、麻弥さまが口を開かれた。
「おまえが心配することではありません。綾人は、こちらの攻撃によって大きく成長するのです。ゼフォンを操ることに慣れるでしょう。そして、ゼフォンに操られることに慣れるのです」
ゼフォンに操られる? いったい、ゼフォン・システムというのは、なんなのだろうか。いや、そんな疑問を心に浮かべてはいけない。麻弥さまに見透かされてしまうかもしれないからだ。
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第五章 ニライカナイ
1
日焼けサロンの日焼けマシンみたいな機械の中で横になる。
動けない。動くと正確なデータが取れないと怒られる。
目を開けられない。目を開けると、眼底が焼かれて失明の恐れがあるという。
かといって眠れない。ベッドじゃないから硬いし、なんだか知らないけど鈍い機械音が連続してうるさい。
なにもできない。それだけがおれに許されたこと。
レーザースキャンみたいな光が、ちょうど腹をゆっくりと移動しているのがわかる。
アザのあたりだ。おれには生まれつき、大きなアザがある。なんか模様みたいな、ヘビがのたくった跡みたいなやつだ。はじめて見た人は必ずといっていいほど、
「痛くない?」
「病気かなんか?」
「伝染らないよね」
と訊いてくる。
小さいころだと、
「まあ、まだこんな小さいのに」
「いまのうちに手術でとっておいたほうがいいわよ。あとあと苦労するから」
「気持ち悪りぃ。神名の腹腐ってんぞ」
なんていわれた。トラウマだよ。小学校のころは、これでバカにされるのがイヤで体育の水泳の時間はほとんど見学してた。
おふくろは、なにも恥ずかしがるようなことじゃないから、堂々と見せなさいというけど、おれにはできなかった。おかげで、いまだに泳ぎは得意じゃない。
医者たちは、はじめてそれを見ても、驚く顔ひとつ見せず、淡々と検査をつづけた。医師の倫理として驚いたりしない、ってのじゃなくて、検査対象にいちいち感情移入できないって感じかな。
モルモットだよ。データを提供するためだけの生き物だ。なんか腹立ってくるなあ。
功刀のおっさんといい、あの白ヘビ野郎といい、ここの医者といい、みんな、おれの名前を知っていて、おれをいいようにあつかおうとしている。遙さんだったら、また「らしくないよ」っていうかもしれないけど、だんだん怒りがこみあげてきた。
その遙さんだって、もしかしたらあのとき、おれを閉じこめるの認めてたのかもしれないじゃないか。会いに来てもくれないし。
なんだよ。あの連中は。
おれのラーゼフォンまで、自分たちのもんだみたいな顔しやがってさ。えらそうに。
おれの……?
おれのだよ。
おれがラーゼフォンを東京から出したんじゃないか。
おれがラーゼフォンに乗って、あのドーレムを倒したんじゃないか。もしかしたら、東京にもう帰れなくなるかもしれないってのに。おれがいなきゃ、なんにもできなかったくせに! こみあげてくる怒りは、だけど、自由を奪われているがゆえにどこにも行けず、石のようにおれの中で凝り固まりはじめた。
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断章1 八雲総一
「ラーゼフォンの石化現象が確認されました」
石化現象なんてヘンな言葉だけど、それ以外にいいようがない。金属体であるはずのラーゼフォンの構成物質が、その結晶構造を変えたのだ。どのような意味があるのかもわかっていない。如月博士も現段階ではなんともいえない、と判断を保留している。
「進行速度に変化はあるのか?」
司令がたずねた。
「如月博士からの報告ですと、ついいましがたから、速度があがり、現段階ではほぼ全身の九十七パーセントが石化しているそうです」
「神名綾人がラーゼフォンを降りたことと関係はあるのかい?」
一色監察官の目がサングラスの奥で光った。
「あると思われます。かれがラーゼフォンを降りてしばらくしてから、この現象がはじまりましたから」
答えながらぼくは不思議に思う。なぜ、こんな質問をするんだろう。ここにいる三人は、すでにその答えをある程度は知っているというのに、わざわざたずねるなんて。
あ、そうか。委員会に出席する功刀司令への念押しか。まあ、司令が委員会に出席するのは、ちょっと懸念がないわけじゃない。政治的なかけひきって嫌いだからなあ。
それに、司令がいない間は、ぼくが指揮を執らなきゃならない。
ぼくにとっては、そっちのほうが不安だった。
「やはり委員会に出席しなければならないのですか?」
司令は、ぼくの言葉に弱さを見たようだった。
「それも給料のうちだ」
そっけなく答える言葉に険がある。
「ラーゼフォンに代わる材料は、腐るほどありますからね」
一色監察官が横から口をはさむ。
「とりあえず、昨日のドーレムの残骸を提供していただきましたし……」
「あれは説得力があるでしょう。ラーゼフォンをTERRAが運用することが、いかに効果的か」
それが笑いだしそうな詭弁であることは、三人ともわかっている。TERRAはラーゼフォンを運用などしていない。いまだに運用段階ではないのだ。委員会では運用の一点ばりで連中を説得することになっているけど、現実とはほど遠い。遠すぎる。
「だからこそ、委員会に出席している場合ではないのではないですか?」
ぼくは不安を口にした。
「それが政治というやつだよ」
一色監察官が、さもバカにしたようにぼくを見た。あんたにいわれなくたって、わかってるよ。
「功刀さんはお嫌いのようですがね。……少なくともラーゼフォンとかれが同調しているという結果が出ている以上、引き離すわけにはいかないでしょう」
また念押しだ。よほど、ラーゼフォンと綾人くんを別々にするのがイヤらしい。ぼくたち以上にそれを懸念している。この人、国連の監察官のはずだろ。国連に益することじゃなくて、TERRAに益する意見いってどうするんだろう。それとも別のなにかの利益になるから、なのだろうか。
もしそうだとしたら、そことTERRAの利益が反するようになったら、この人はどういう行動に出るだろうか。
シミュレーションとして、おもしろそうだ。ちょっと考えてみてもいいな。
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断章2 七森小夜子
「調子はどう?」
ふりむくと、如月博士が立っていた。ただ久遠も一緒ってのが気に入らないけど。
「データ採取はうまくいっています。骨格データも完璧です。磁気透析映像データもほぼ完全です。DNAは分析にまわしておきました」
「綾人くんに、なんかへんなことしたのかい?」
「は?」
へんなことってなによ。わたし、なにもしてないわ。
「いえ、とりたてておかしなことはしていませんし、威圧的な言葉を使ってもいません」
「そう。ならいいんだけど」
ここからではモニタリングできないけど、ラーゼフォンの石化現象に変化でもあったのかしら。そのことを聞こうとしたときには、もう博士はわたしを見ていなかった。
「久遠《くおん》、二号|筐体《きょうたい》に入りなさい」
「はい」
久遠はそういうと、何もいわずに服を脱ぎはじめた。兄とはいえ、異性の前で服を脱ぐことを恥ずかしいと思わないっていうのは、いつ見てもへんだ。
あたしは兄さんの前でなんて、ダメだったなあ……。
やめなさいよ。兄さんのことを考えるなんて。思考が暗くなるわ。
久遠は下着一枚の姿になった。その腹にも〔刻印〕がある。神名くんと同じような、だけど、少し違う〔刻印〕。久遠はいつもどおりといった感じで、ドアを開け、二号筐体に身を横たえた。
「なんでいまさら久遠も検査するんです?」
「綾人くんに影響を受けて、なにかが変化してたら困るだろ」
「ラーゼフォンみたいに?」
博士は笑うだけだ。このテの質問にまともに答えてもらったことはない。
「このあいだのデータと照合しながら、慎重にやってくれたまえ」
「はい」
わたしは言うとおりに機器を操作する。これじゃただのオペレーター。少しは役に立つってところを見せておかなきゃ。
「古代紋様のデータベースにアクセスして、神名綾人の〔刻印〕と九十パーセント以上の類似率を示すデータを拾いあげておきました」
「ありがとう。あとで見せてもらうよ」
そういいながら、目はちっともありがたそうじゃない。むしろ迷惑だった? なんか、わたしのやることって、裏目に出るなあ。人生裏目街道かあ。
あー、考えちゃいけない。人間、過去をふりかえったらおしまいよ。
あたしはモニターを見た。モニターにふたつの〔刻印〕が並ぶ。神名綾人と如月久遠の。
よく似ている。このふたりはどういう関係なんだろうか。同じ一族の血を引いているとか? でも、神名がラーゼフォンと結びついている〔刻印〕が印されているとすれば、久遠はなにに結びついているのだろう。
[#改ページ]
2
朝だ。イヤな朝だ。
きのうの検査から、どうも胸のあたりにわだかまりが残っている。
おれはなんだ。モルモットか? ただの検査対象か? おもしろい見世物か?
なんかイラつく。窓から見ると、湾内のおだやかな風景しか見えない。ヨットが風に帆をはためかせながら走っていく。のんきな風景だ。
だけど、その裏でなにが行われているのか、いっさい知らされない。検査の結果だって知らされない。ただ、この部屋で休んでいろといわれただけだ。
リーリャ・リトヴァクにいたときと変わらないじゃないか。ここの大人たちは、なにも教えなくても、おれはへいへいと言うことを聞くやつだと思っているらしい。
ノックの音がした。
つづいてロックがはずされる。いい気なもんだ。こっちからは開けられないのに、むこうは自由に開けることができる。そのくせノックだけはするんだから。
ちらりと見ると、入ってきたのは八雲とかいうやつだった。副司令とかいってたけど、ほんとかな。
「おはよう」
そういわれても、ふりむかない。だれがふりむくか。犬じゃねえんだぞ。
「調子どう? あれ? 食べなかったの?」
朝食は手つかずのまま、テーブルの上にある。そんなのバクバク喰えるほど、ヴァイタリティあふれてるわけじゃないんだ、こっちは。けっこう繊細なんだぞ。
「司令センターに案内するから。一緒に来てよ」
イヤだっていったって、連れてくくせに。
やっぱ副司令じゃないよな。だって、副司令自らが案内するなんて、どう考えたっておかしいだろ。そういうことは下っ端の仕事だ。こっちが最重要人物っていうんなら、話は別だろうけどさ。
案内された司令センターっていう場所はヘンなところだった。
ど真ん中に、へんてこりんな円錐形のオブジェが置いてある。
邪魔だろ、普通。しかもその周りに池があって、コイが泳いでるんだぜ。湿気は電気機器に悪いだろ。それに、あっちにはヤシの木だ。なんで司令センターにヤシが植わってんだよ。
植物もあるし、司令センターなんていかめしい名前の割りにはのんびりした場所だ。そこにいる連中ものんびりしたやつらばかりだ。
文庫本読んでるぶっちょう面のにいちゃんに、レゲエなにいちゃん。レゲエなにいちゃんはご丁寧にヘッドフォンまで首にかけている。おまえはニューヨークのストリート・パフォーマーかっての。残りのおねえちゃんふたりは、なんかもそもそ食ってるし。司令センターでもの食うなよ。
緊迫感がないよなあ。
おかげで噛みついてやろうと思っていたこっちの気持ちもそがれてしまった。
一色とかいう白ヘビ野郎もいる。功刀のおっさんもいる。その隣には遙さん……。
彼女がおれに気づいてなにか言いかけたとき、八雲が口を開いた。
「綾人くんをお連れしました」
神名くんにしてくれよ。なれなれしいな。
ぷいと横をむいてやった。子どもっぽいってわかってるけどさ、なんかそれくらいしないと腹の虫がどうにもおさまらない。
おねえちゃんふたり組が、ぼそぼそいっているのが聞こえたが、どうせおれのことに決まってる。ほっとけ。
功刀のおっさんが、おれを見た。
「きのうの検査の結果、きみの体は問題ないそうだ」
あったら、どうすんのさ。
「ケガがなくてよかったって言ってるんだよ」
八雲がフォローをいれたけど、完全にガキあつかいだ。
なにが、ケガがなくてよかったねえ、だ。幼稚園児が転んだんじゃねえぞ。
「とりあえずだが、きみの住居が決まった。そうだな。紫東大尉」
おっさんにうながされ、遙さんがちらりとこっちを見る。
「じゃあ綾人くん、行きましょ」
行きましょって、どこへ?
あんたの言うとおりに東京から出てきた。
あんたの言うとおりにリーリャ・リトヴァクに乗った。
あんたの言うとおりにニライカナイにやってきた。
なのに、ここじゃモルモット。
なのに、だれも説明してくれない。
なのに、あんたはずっと会ってもくれない。
遙さんがまたおれをどこかへ連れて行こうとする。
今度はどこへ?
どこへ連れてくんだよ。
遙さんのさしだした手を、反射的にこばんだ。
「綾人くん……」
彼女は悲しそうな目でおれを見る。かまうもんか。そっぽをむいて、完全シカトを決めこんだ。司令センターじゅうにイヤーな空気が流れる。少しはイヤな気分になれよ。勝手におれを連れまわしてるんだから。
そのとたん、ぽんと肩に手を置かれた。
ぎょっとなって見あげると、なんかメガネをかけた髪の長いにいちゃんがいた。見るからに博士って感じだ。
「そういうことなら、ぼくがかれを送りましょう。……ぼくは如月樹。ここの人間じゃないから。いいだろ」
いいだろって、手はもうおれを連れて行こうと両肩に置いてるじゃないかよ。でも、なんかこの人、どっかで会ったような気がする。それにはじめて、おれの名前を呼ぶまえに、自分から名乗った。
なんて思っていたら、遙さんの視線とぶつかった。
悲しそうな目だ。彼女はなにかいいたげに口を開いたけど、うつむいてしまった。
もし、なにかいっていてくれたら、おれ、素直にあやまっていたと思う。
だけど、なにもいってくれなかった。
おれは弁解のチャンスを失ってしまった。
「じゃ、行こうか」
如月さんは、うながすように歩きだした。とぼとぼとついていくしかない。
結局、だれかがおれをどこかへ連れていくんだ。そういう運命らしい。
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断章3 紫東 恵
なんだかなあ。
ただのガキじゃん。
ガキ。
つっぱっちゃってさ。
なんかムカつくな。
ああいうの見てると。
みんなの目の前で、ああまでみごとに拒否されたお姉ちゃんの立場になってみなよ。
かわいそうじゃない。
ほら、泣きそうだよ。
って、ほんと涙目だよ。
なんで?
なんであんなガキのために涙流してんの?
わかんない。
そういえば、オーヴァーロード作戦のときだって、お姉ちゃんずいぶん……。
「恵ちゃん」
八雲さんに声をかけられて、わたしの思いは中断された。
「は、はい」
声がうわずってるぞ、紫東恵ぃ。
「ちょっと頼みがあるんだ」
「はい!」
八雲さんから頼み。
なんだろ。
恵はうきうきしてくるのを止められませ〜ん。
ラウンジで話そうということになった。
八雲さんとふたりっきりのシチュエーションなんて……。
夢かしらあ。
空まで青いじゃない。
きょうはいい日だわ。
「頼みがあるんだ。今日は早く上がっていいから」
「はい!」
そりゃもう八雲さんの頼みとあらば、たとえどんなことだろうと、紫東恵やりとげまーす。
「なんでしょう!」
「実はね」
八雲さんはあたりを見まわすと、そっと口を近づけてきた。
うわ。
うわ。
そんな。
耳元でささやかないで。
息吹きかけないで……。
「ええええええっ!」
天国から地獄とは、まさにこのこと。
八雲さんの頼みごとって、そんなことだったなんて。
ウソでしょ。
神さま。紫東恵はなにか悪いことしたんでしょうか。
ああ、ああ、ああ。
「イヤなの?」
「いえ、とんでもありません!」
本心とは裏腹に、元気よく答えて、しかも笑顔までふりまいちゃう自分が情けない。
「じゃ、頼んだよ」
八雲さんはそういうとにこにこ笑いながら手をふって、行ってしまった。
そんなあ……。
頼みごとするためだけに、恵を呼び出したんですかあ?
それだけだったんですかあ?
うう、不幸じゃ。
不幸のどん底じゃ。
でも、頼まれたことはやらなきゃならん。
気が重いけどさあ……。
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3
「きみは無口だね」
本部ビルの壁面を降りるケーブルカーの中で、如月さんがのんびりした口調でいった。
「でも、無駄な言葉を口にするよりは、ずっといい。きみはMUの歌を聴いたろ? あれは美しい歌声だ。無駄がないからね」
美しい? この人どういう感覚してるんだろ。おれ、あの歌は嫌いだな。
「無駄な言葉で世界を汚すなら、黙っていたほうがよほどいい。ぼくはそう思うよ」
なんか大層ないいまわしだなあ。言葉の環境汚染? そんな意識で言葉使ってないぞ。
と、電話の音がした。如月さんの携帯だった。
携帯だ。あらためて、外にいるんだって思う。東京じゃ、安全障壁のために電波状況が悪くて、携帯を持てるのは軍か政府関係の人に限られてたもん。
「……わかった。いまむかってる」
如月さんは携帯を切ると、おれのほうを見た。
「つぎで降りるよ」
うなずくしかないだろ。どこに連れていかれるかも知らないんだから。
ケーブルカーを降りると、そこに久遠がいた。つまらなそうな顔で立っていたが、おれを見つけるなり微笑んだ。
「らら?」
微笑みをむけられ、ちょっとうれしかった。
「今日はどうだった?」
如月さんがいうと、久遠はそっぽをむくように視線をはずした。
「ここの医者はバカ。本当に調子いいなら毎日検診なんて受けない」
「ちがいない」
如月さんは笑ったけど、おれは笑えない。検診を受けていない如月さんにはわからないだろうな。この気分。
……ってことは、久遠もモルモットなんだろうか。おれと同じ。
「手伝って」
久遠がライフモジュールに手を通しながらいった。
おれが動くより先に如月さんが久遠に近づき、背後から抱きつくようにしてフロントホックをはめてやる。
手慣れた感じ。
なんだよ、このふたり。どういう関係だ?
「兄さまはきょう帰れるの?」
兄さま?
「だからこうして迎えに来てるんだろ」
「ありがとう。兄さま」
なんだ。兄妹だったのか。
そっか。如月久遠っていうんだ。
如月樹に如月久遠か。ふたりとも如月さんだと、ごっちゃにしちゃいそうだな。
よし、久遠は久遠、メガネ兄は樹さんと呼ぶことにしよう。うん、そうしよう。
波を蹴立ててクルーザーが走る。おれたちは港を横切っていた。まあ、久遠が加わったからって、会話がはずむわけもなく、三人は押し黙ったままだ。一度、樹さんの家に久遠を置いてから、「きみの住居」ってとこに連れてかれるらしい。
轟音とともに頭上を一機のジェット機が飛んでいく。
「功刀司令の専用機だ」
あれが専用機。でっかいなあ。まるで一国の大統領専用機みたいだ。なんて感想を抱けるのも、外だからだけどさ。
「かれはしばらく関西で働くらしい。あのネリヤ神殿にあるきみのラーゼフォンを、うるさい連中から守るためにね」
ふーん。……え? いまなんて? 「きみのラーゼフォン」?
「そう、あれはきみのものだよ」
もしかして、この人いい人かも。こっちに来てはじめてまともな人に会った気分かな。
でも、なんであのラーゼフォンにそこまでこだわるんだろう。
なんで「おれの」なんて思えるんだろう。
「きみはきっと功刀司令のことを、いろいろ誤解してるんだろうな」
もっとラーゼフォンのことを聞きたかったが、樹さんは功刀のおっさんのことを話しだした。誤解もなにも、あのおっさんの決めつけるような顔が嫌いなんだよ。
「ほら、あそこをごらん」
樹さんはクルーザーを操りながら、岸を指さした。
緑のこんもりした林のむこうに、けっこうな屋敷が建っている。
「あれが功刀司令の別荘だ」
TERRAの司令官ともなれば、ご大層な別荘をお持ちだ。
「あの人はあれでとても人間的なんだよ。あの庭に見える木は桜でね。この島のちょっとした名所さ」
桜に囲まれりゃ人間的っていうなら、上野の西郷さんの銅像もずいぶん人間的だ。
「この前の春に、ぼくもはじめて招かれたが、あれは見事な桜だったな」
樹さんは遠い目をして、そういった。そんなに見事なのかね。
樹さんの家は海につきだすように建っていた。ガラスをふんだんに使ったモダン建築だ。クルーザーで玄関先にまで乗りつけられるなんて、かっこいい。
「お帰りなさい」
出迎えてくれたのは、巨乳美人だった。グラビア系アイドルになれそう。
「かれが神名綾人くんだ」
「いらっしゃい。わたし、七森小夜子」
そういって彼女は微笑んだ。とつぜん来たのに驚かないところを見ると、話はすでに聞いているらしい。あれ? この人の声どっかで聞いたことがあるような気がするなあ。あの検査の最中だったかも。検査のことを思いだして、胃のあたりがすうっと冷たくなった。
そのとき、おれたちの横を久遠がすりぬけるようにして、上がっていった。
「あ、久遠さん。荷物……」
「いいの」
久遠はそれだけいうと、七森さんにくるりと背をむけ、重そうな荷物をかかえて上がっていってしまった。
見送る七森さんの目はきつい。このふたり、うまくいってないのかな。
おれの視線に気づいた七森さんは、ごまかすように微笑みを浮べた。
「これ、D1アリアの録音ディスクだ」
樹さんが七森さんにディスクを渡した。
「新曲ですね」
D1アリア? 新曲?
けげんそうにしているおれの顔を、樹さんがのぞきこんだ。
「ぼくたちはここで音楽の研究をしてるんだよ」
音楽ねえ。TERRAって、やっぱのんびりしてるわ。
それにしても、樹さんと七森さんてどういう関係なんだ? 訊いてみるのがいちばん手っ取り早いや。
「あの、奥さんですか?」
そういうと、七森さんはちょっと驚いたような照れたような顔を樹さんにむけた。
「ですって、先生」
甘い声だった。
「七森くんはね、ぼくのチームで最も優秀なスタッフだよ」
優秀なといわれて、七森さんは眉を少しひそめるだけだった。
「この家はぼくと妹のふたり暮らしだから、いつでも遊びに来るといい」
七森さんが、いいことを思いついた、とばかりにおれを見た。
「綾人さんもここに住めばいいのに。久遠さんも喜ぶわ」
久遠が喜ぶ? そっか。それもいいかな。
だけど、樹さんが笑って首をふった。
「いや、これから案内する家は、ここよりもっといい所だよ。保証する。それに妹は、あれでけっこう人見知りするんだ」
なんだ……。それもいいかなって思ったのに。
4
「綾人くん、ちょっと話さないか」
リビングに通された。海が見える広々としたリビングだ。東京でこんな家建てたら、いくらかかるだろ。
「さっき、ぼくたちはD1アリアっていってただろ」
「ええ、新曲だって」
「なんのことだかわかる?」
わかるわけないじゃないか。
「D1っていうのは、ドーレムのコードネームみたいなもんさ。きみが戦ったドーレムね。あれが新しい歌をうたっていたんだよ。ぼくたちはその分析をするのが仕事さ」
「歌の分析? ですか」
「そう。ドーレムの歌は無駄がない。美しい歌だ。だから研究しがいがある」
そういうもんかねえ。
「あの、如月さん……」
「なんだい?」
「ラーゼフォンってなんですか?」
「いきなりだね」
樹さんは少し笑った。
「ぼく、遙さん……紫東大尉に聞いたんです。ラーゼフォンって名前を。だけど、一色って国連の監察官は、おまえがつけた名前かって。子どもがオモチャに名前つけるみたいだなって」
「あの人のいいそうなことだ」
笑うような口調でいいながら、目は少しも笑っていない。
「ラーゼフォンってなんですか?」
もう一度たずねた。
「その説明をするために、きみをここに呼んだんだけどね。ま、座りたまえ」
ソファーにむかいあって座る。
「いいかい、ラーゼフォンっていうのは、古代の超文明の産物なんだ」
「超文明? ムー大陸とか、アトランティス?」
中学生のころ、そのテの話は流行ったもんだ。UFOも流行ったけど、侵略大戦以来、だれも口にしなくなった。
「ムー大陸もアトランティスもお話の上の存在でしかない。大西洋も太平洋も地形調査されているけど、大陸があったという確証はどこにもないよ」
そうなんだ……。おれ、半分ぐらい信じてた。
「じゃあ、エジプトとか?」
「いや、人類が作ったものかどうかも定かじゃない」
どういうこと?
「そこらへんはよくわかっていないんだよ。わからないことだらけなんだ、残念だけどね」
「じゃあ、ラーゼフォンって名前はどこから」
「インドのモヘンジョダロの遺跡知ってる?」
それくらい歴史の時間に習ったぞ。
「あそこから発掘されたB三十七文書っていう粘土板にね、ラーゼフォンの名前が記されているんだ。ほかにもその名前が記された古文書や碑文は世界各地で見つかっている。いずれも歌を禁じられた巨人としてね」
「歌を禁じられた巨人?」
なんだか、さっぱりわからない。
「わからないのも当然だよ」
樹さんは笑った。
「ぼくたちだって、ほとんどなにもわかっちゃいない。そんなものがあるんだってことが、一部の考古学者や超古代文明大好きおたくの間でささやかれていたんだ。三十二年前まではね」
三十二年前?
「そう。この根来《にらい》島でひとつの遺跡が発見された。縄文文明でも中国の古代文明でもない。いや、世界のどこにも類似したもののない遺跡がね。それがネリヤ神殿だ」
「あのピラミッドみたいなやつですか」
「あれだよ。あれを研究するために神至市ができあがったわけだ」
たったひとつの遺跡を研究するために? でも、ただの遺跡だろ。
「ただの遺跡じゃない。そこには、われわれの物理学をはるかに凌駕する技術が使われていた。それをほんの一部解明するだけでも、われわれ地球文明が根底からひっくり返ってしまうような、ね」
頭痛くなってきそう。
「ぼく、とっくに生まれてましたけど、なにも知りませんでしたよ」
「知らないさ。いわば人類の最高機密だから」
樹さんはこともなげにいった。
「そして、われわれは研究をつづけ、ようやくこれがラーゼフォンに関係しているのだとわかった。さらにラーゼフォンが眠っている神殿は、ここじゃないってこともね」
「それが東京の?」
「遙くんの報告書読んだよ。きみと遙くんが見た地下神殿こそ、まさにそれだ。そして、伝承どおり、歌を封じられた巨人が卵として眠りつづけていた」
「はあ」
はあ、としかいいようがないだろ。キャパシティ・オーバーだよ。おれ、そんな頭よくないぞ。
「じゃあ、なんで“おれの”なんですか」
「それは……」
樹さんはちょっと困ったような顔をした。
「パガニーニとグァルネーリ・デル・ジュスの関係みたいなもんかな?」
はあ? パガニーニ? パスタ料理の名前?
「パガニーニっていうのはねえ、十八世紀にヨーロッパ中を熱狂させた天才ヴァイオリニストさ。そして、ジュゼッペ・グァルネーリはストラーディバリと並ぶ天才ヴァイオリン製作者だ。かれは自分の名前ではなく、IHSつまりイエス・キリストという意味の略語をサインの代わりにヴァイオリンに刻んだんだよ。だから、かれのヴァイオリンはグァルネーリ・デル・ジェズ、イエス・キリストのグァルネーリと呼ばれている」
はあ……。それとラーゼフォンとどういう関係に?
「そして、このグァルネーリ・デル・ジェズはいろいろな人の手をへてパガニーニに渡り、かれが弾いたとき、いままでだれも聞いたことのない“音楽”がそこに響き渡った。パガニーニはそのヴァイオリンを終生にわたって愛用し、死後はだれも手にふれないように遺言した。いまでも、それは博物館におさめられているよ。きみとラーゼフォンもそういう関係だ。運命が分かちがたく結びついている」
「運命? それはどういう運命なんですか」
「それはきみが見つけるのさ」
「え?」
「なぜなら、答はきみの中にある」
樹さんはおれを指さして、謎めいたことをいった。
おれの中……。樹さんの指先がアザを指し示したようだけど、たぶん気のせいだ。だって、おれにアザがあるなんて知らないはずだもの。
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断章4 エルフィ・ハディヤット
ヤキニクだ。日本人はなにかというと焼肉屋に人を連れてきたがるが、もしあたしがヒンドゥー教徒だったらどうするつもりだろう。イスラム教徒にもトントロとかいうのを勧めるのだろうか。いや、相手は情報部の人間だ。あたしの宗教ぐらい知っているだろう。
肉が焼けていく。ちょっと早いかなと思ったけど、口に入れたとたん、
「それ生じゃない?」
と指摘された。
このシトウという女は!
はいそうですかと口から出せるか?
あたしは生焼けの牛臭い肉を噛みしめた。このヤキニクというやつのタレは、中途半端に甘くて辛い。ママの作ってくれたルンダンが懐かしい。ココナッツミルクの甘味と、強烈な辛さがあたしにはちょうどいいんだ。今度のことが終わったら、一度、故郷に帰ろう。
「あ、おねえさん。生ね」
注文してからシトウはこういった。
「ウーロン茶でしょ、あなたは。昼間だもんね」
なんか小馬鹿にされたような気分だ。思わずあたしも「生もうひとつ!」と注文してしまった。そういってから少し後悔した。
ナマのなんだろう。
日本語はこういうところが難しい。当然、生ビールだとは思うが、時と場所によっては違う意味にもなったりする。生のジョッキが運ばれてきたときには、正直、ホッとした。
そうこうするうちに、肉はナマではなくなったようだ。
シトウが動いた。
それより早く、あたしは箸で肉をつまんだ。
シトウがとなりの肉をとろうとする。
それも横取りする。
恨めしそうな目がむけられる。
かまうものか。どうせ、この店はこの女のおごりだ。
「軍人なんだから、作戦に文句があるんなら、上官にいってよね」
なにいってる。
「自分の上官でもないやつに利用されたくない」
また肉を横取りする。
はん、ざまあみろ。
少しはあたしの気持ちがわかったか? あたしは道具じゃない。
あんたの意志に逆らうことができる人間なんだ。
「あの少年も、おまえの道具になるのか?」
皮肉をこめていったつもりだったが、情報部の人間には通用しないらしい。
「すでにおまえ呼ばわりなの?」
なにが、「なの?」だ。
「その道具に愛想つかされちゃ、どうしようもないな……」
さすがにこれは効いたようだ。シトウはものの見事に落ちこんだ顔をした。
ちょっと予想以上だった。それにシトウが、あたしの前でそんな弱い自分の姿をさらすのにもびっくりした。
やばいな。同情している。こういうのって、どうも弱い。
互いに攻撃しあっていたのに、いつのまにか懐に飛びこまれたうえに、スキだらけの姿を見せつけられるようなもんだ。どうやって攻撃しろっていうんだ。
シトウがひどく傷ついたような目でこっちを見た。
ダメだ。
こいつとは友だちになりそうだ。
5
送っていくよ、といわれて玄関に出た。
すげえ。フェラーリF40だ。何十年も前の往年の名車だ。東京でも、おれが中坊のころまではこの手のビンテージ・カーを見ることがあった。だけど、安全障壁ができてからこっち、ガソリン車はすべて廃車にされ、完全無公害型のエンジン車だけになった。
こんなのが走ってられるんだ。それだけでも東京の外という気分になる。
「乗っていいわよ」
七森《ななもり》さんがうながした。
乗りこもうとしたら、久遠がうしろから声をかけてきた。ふりかえると、なんやらでかい荷物をがらがらと押してきた。
「あげる」
あげるっていわれても……。どピンクのデカいスーツケースだぜ。玉手箱にしても、趣味悪すぎだ。
「とりあえず、きみが使えそうな日用品を用意したらしい」
樹《いつき》さんがそういうんだから、そうなんだろう。
「あ、ありがとう」
しかたなく受け取ってはみたが、フェラーリの後部座席にはでかすぎた。ほとんどその荷物に占領された残りに、尻をねじこむしかなかった。
「じゃ、行くわよ」
樹さんが助手席に乗ってから、七森さんは車を発進させた。
すげえ加速。さすがガソリン車。東京の車とは違うね。
それにフェラーリだもんな。
樹さんの家を離れると、あたりは急に田舎じみてきた。右手に山。左手に海。その間にへばりつくように点在する民家。日本のどこにでもあるような風景だ。
ときおり磯の匂いが漂ってくる。ほんと田舎だよ。
走りつづけても、風景はほとんど変わらない。だんだん飽きてくる。
「“きみの住居”って遠いんですか?」
ちらりと樹さんがふりかえった。
「あれでTERRAは、きみにはずいぶん気を使ってると思うよ」
気をねえ。使ってこれじゃあ、使わなかったらどういう目にあってたんだ。
「それにいい島だよ、ここは。常に刺激的で新鮮な空気に満ちている。魚はうまいしね」
魚かあ……。大戦からこっち、東京じゃあ高嶺の花だったもんなあ。
魚食ったっていうと、クラスで自慢できたもん。
あ、いや、そんなもんじゃダマされないぞ。
おれは、興味なさそうな顔をして、窓の外を見た。窓の外はあいかわらずの風景だった。
あ、コンビニだ。こんなとこにもコンビニあるんだ。
そこから車は裏道に入りこみ、少し坂道を登りはじめた。
「七森くん、そこだよ」
「え?」
樹さんにいわれて、七森さんは急ブレーキを踏んだ。
そこって?
窓ガラスに顔を押しつけるようにして見あげると、細い脇道が急な坂になって、山の上までつづいている。まあ、山の上ってのは大げさで、ほんとは麓っていったほうがいいぐらいなんだけど、なにしろ坂道が急だった。
たしかにそこに古ぼけた家があった。
「この坂道、フェラーリであがるんですかあ?」
七森さんでなくとも、そうたずねたくなる。
樹さんは笑いながら「うん」といったけど、すぐになにかに気がついてふりむいた。
ふりむいてみると、女の子がとぼとぼと歩いてくるのが見える。袋を下げているところを見ると、さっきのコンビニで買ったらしい。
樹さんが手をのばしてクラクションを鳴らした。女の子がこっちに気がついた。だけど、足取りは軽くなるどころか、よけい重くなったようだ。
「降りて」
樹さんにうながされ、車を降りる。女の子がとぼとぼやってくる。
あ。司令センターにいた、もの食ってた女の子のひとりだ。
「やあ、遅かったじゃないか」
樹さんは明るく声をかけたが、彼女はちっともうれしそうじゃない。
「はいはい、遅れましたよ」
そして、おれの顔を見ると、ため息まじりにこういった。
「まったく、もう着いたのか」
なんだよ、人の顔見るなり、失礼なやつだな。
「きみが住むのは彼女の家だから」
えっ! はじめて聞くぞ。こんなブ愛想なやつの家に住むのかよ。
「あたしん家じゃなくて、あたしのおじさん家」
彼女は訂正したけど、フェラーリの後部座席に頭をつっこんだ樹さんは聞いていない。
樹さんが聞いてないとわかると、今度はおれが噛みつかれた。
「あたしはたまたま隣に住んでんだから。喜ぶなよ!」
「だれも喜んじゃいねえよ」
「なによ、その言い方」
なんだよ、こいつ、けんけん噛みつきやがって。犬か、おまえは。
もう一発かましてやろうと思ったところに、樹さんが割って入ってきた。
「まあまあ。あ、これ、きみのね」
と、久遠のくれたピンクのスーツケースを押しつける。
「うわ、趣味わる〜」
また吠えついてくる。
「いちいちうるさいなあ」
いがみあうおれたちを樹さんは笑って見ている。
「ウマが合いそうじゃないか。じゃ、あとは若いふたりだけで」
「はあ?」
思わず、おれと彼女は同時にいって、同時に樹さんを見てしまった。
もうそのときには、フェラーリのドアが閉まるところだった。そして、樹さんと七森さんは、V12のエンジンを轟かせながら行ってしまった。
やれやれ。こんな女とふたりきりかよ。ちらりとおたがいに目をかわし、おたがいため息をつく。
「先行くよ」
彼女はそういって坂道を登りはじめる。
「待てよ」
ピンクのスーツケースを引いて追いかけようとしたが、これが重いのなんの。結局、押し上げるようにして、坂道を登るはめになった。
「手伝わないから」
「わかってるよ」
坂道を登っているあいだにかわした会話はそれくらいだった。
どっちにしろ、登るのに必死で会話どころじゃなかったけどね。
登りきったところに、古びた民家があった。古びたって言葉がぴったり。二階建ての母屋と棟つづきの離れ。昭和中期の建物っぽい。こんな作りの家がまだ残ってたんだ。
表札には「六道」とある。なんて読むんだ?
「ろくみち?」
「バッカじゃない。りくどうだよ、りくどう」
彼女はさもバカにしたようにいった。
「さあ、早く入れよ。綾人」
カチン――。
こいつもおれの名前を知っているやつだった。なんか同い年ぐらいなので、よけいに腹が立った。
「こっちの人間は自分の名前を名乗るってことを知らないのかよ。なんだい、人の名前勝手にばんばん呼びやがって」
「悪かったね。あたしは恵。わかった。め・ぐ・みぃっ!」
「耳元でどなるなあ!」
むちゃくちゃ感じ悪い女だ。こいつ。
玄関先でどなりあっていたら、引き戸ががらがらと開けられ、六十過ぎの人のよさそうなおじさんが現れた。
「玄関先でうるさいぞ、恵」
「すみません」
恵は急にシュンとなった。けげんそうな目で見ていると、おじさんはおれを見て、やわらかく笑った。
「わたしは六道|翔吾《しょうご》。話は聞いているよ。神名綾人くんだね」
ちゃんと自分から名乗ってくれた。
「よろしく」
握手をもとめられる。おれは六道さんの手を握り返した。あたたかい手だった。
「さあ、疲れたろう。あがりたまえ」
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断章5 紫東 恵
あー、最低最悪。
絵に描いた腐ったモチ。
なんて日よ。
雑誌の星占いのコーナーだと、「きょうは素敵なことが起きるはず。ラッキー・カラーは黄色」だってえのに、素敵なことなんかカケラも起きなかった。
八雲さんに呼ばれてうきうきしてりゃ、あのガキを押しつけられるし。
樹さんも車で上がりたくないからって、途中であいつを捨ててっちゃうし。
あいつはあいつで六道も読めないようなバカだし。
おじさんも「晩飯ができるまで時間があるから、そこらへん案内してやれ」だって。
あーあ、ついてない。
ガキとふたりで散歩道。
会話もはずもうってもんだ。
神社の裏をぬけて、風力発電の風車があるところまで来る。
その間、会話ゼロ。
楽しいったら、ありゃしないよ、ほんと。
風車がゆっくりと回転している。
あいつは、口開けて見あげてる。
バカみたい。
半径二十メートルの小さいほうでも、けっこう迫力あるからだろうけどさ、こんなの珍しくもなんともないじゃない。
ほっとけ。
困りゃついてくるだろ。
先に行こっと。
歩いていると案の定、あわててついてくる。
あたりまえか。
知り合い、他にいないんだから。
ふっと、むかしの光景がよみがえってきた。
先に行ってしまう友人の背中。
自分は害のない人間ですよって笑い方をして、懸命についていくあたし。
友人の笑い声。
……やめた。やめた。
不幸な日だからって、気分までブルーになってどうする。
歩いていくと、少し見晴らしのいいところに出る。
ここからの風景って好きだな。
海が見えるし。
かすかに風車の音だけが聞こえてくる。
立ち止まってしばらく風景に見とれていると、あいつが近づいてきた。
なにもいわない。
むこうもいわない。
ふたりして黙ったまま、時間が過ぎていく。
できるだけ隣は無視して、風景だけを凝視めるけど、意識しないわけにはいかない。
しょうがないじゃん。
そのうちに、あいつが口を開いた。
「おじさんはいつもなんていってるんだ?」
いまさら、なにいってんだよ、こいつ。
さっき、島を案内することをいやがったら、おじさんが「おまえには、いつもなんていってる」って言った。
おじさんの口癖みたいなもんだ。
それをいまごろ。
こっちがさんざん無視してやったあげくに、絶好のタイミングで自己嫌悪に陥らせてくれるよ、ほんと。
こんなやつとずっと暮らさなきゃならないのかな。
「おまえ、ほんとうにウチに住むつもりか?」
直接ぶつけたら、あいつムッとした顔しやがった。
「あ、そーかよ!」
バッと立ちあがった。
怒った?
ガキでも怒るんだ。
あ、行っちゃうよ。
「ちょっと待って」
人が呼び止めてんのに、あいつときたら、ずんずん歩きだす。
あわてて追いかけたら、すっころんだ。
いったぁっ!
あいつがふりかえった。
なにやってんの、みたいな目で見てる。
みっともないったりゃ、ありゃしない。
恥ずかしいったりゃ、ありゃしない。
そのうえ、ヘソ曲げて出ていかれた日にゃ、おじさんにも顔むけできないし、八雲さんにだってなんて謝ったらいいのよ。
「困るのよね。……あたしとケンカして出てくみたいなのは、絶対やめてよね」
あいつは同情したような顔をして、顔をそむけた。
「なんだよ。それ……」
そのむこうを、厚い雲が流れてくる。
風車の音が強くなった。
雨が降ってきた。
大粒の雨だった。
こうなると、ふたりで角つきあわせてるわけにもいかない。
あたしたちはどしゃぶりの中を走った。
近くに駄菓子屋があった。
サトおばちゃんの店だ。
軒下にかけこんだ。
走ったから息が熱い。
喉が渇く。
「おばちゃん、ラムネね」
奥から返事はなかったけど、かまうもんか。
おばちゃん、最近、耳遠いし。
ケースのスロットにカードを通す。
ランプが赤から緑になり、大きな音をたててロックがはずれた。
古いんだから。
いまはほとんど音しないよ。
ケースを開けて、ラムネを取り出すす。
あいつがじっとあたしを見てる。
ううん、ラムネを見てる。
物欲しそうな目するんじゃねえよ。
「飲むんだったら、自分で買ってよ」
「ここのお金、持ってない」
「あっそ」
だからって、優しくおごってもらえると思うなよ。
人生、厳しいんだから!
とばかりに栓抜きをラムネ壜にたたきつけた。
シュポッといい音がして、ラムネ玉が下がる。
ぐいっと一口。
うまいぜ。やっぱ。
炭酸が喉をぷちぷちと大騒ぎしながらかけおりていく。
この感じが好きかな。
また視線を感じた。
ラムネかよ。
今度はまちがいなく恵ちゃんだ。
なんかやらしい目つきだな。
「じろじろ見るな」
「いや……使えよ」
ちょっと驚き。ハンカチさしだされた。
やらしい目つきだなんて、誤解だったんだ。
だからって、こいつの親切、素直に受けられない。
「いいよ。おまえのハンカチなんか……」
素直じゃないねえ、恵ちゃん。
ありがとうって使えばいいのに。
バカなあたし。
「あんまり気安くしないでよね。一緒に住むことになるからって」
あ、いま一緒に住むって自分でいっちゃったじゃない。
ちっと優しくされたからって、すぐこれだ。
痛い目にいっぱいあってるってのに。
あわてて釘をさしとく。
「あ、離れには姉さんも住んでんだから、忍びこもうとか思うなよ」
「だれが」
バカにしたように鼻を鳴らされた。
ガキにバカにされた。
ムカつくな。
そのとき、笑い声が聞こえてきた。
一瞬であたしはそれがだれの声か聞き分ける。
ルナとミナだ。
やばっ。
すかさず顔をそむける。
だけど、横顔だけで見つかってしまった。
「登校拒否児がデートかよ」
痛い言葉が首筋につきささってくる。
うるさい。
うるさいっ。
けらけら笑う声が遠ざかる。
早くどっか行っちまえ。
気がつくと、あいつが同情するような目で見ていた。
そんな目であたしを見んな!
殴ってやろうか。
あんたに同情されるほど落ちぶれちゃいないよ!
「登校拒否……してるの?」
優しい声だからってダマされないぞ。
「それで軍隊でアルバイトしてるんだ」
わかったような口をきかれたとたん、あたしははじけてしまった。
「うるさいっ!」
あんたになにがわかるってんだよ!
学校に行けない者の気持ちがわかるってのか!
朝起きると体じゅうがだるくて、頭が重くて、なんにもできないんだぞ。
おじさんはなにもいわないし、お姉ちゃんも黙ってるけど、それだけでじゅうぶん自己嫌悪に陥れるんだぞ。
学校ぐらい行けない自分が情けなくって、つらくって、許せなくなるんだぞ。
絶対、明日こそは学校行ってやるって、どんなに誓ったって、朝になると体じゅう鉛を流しこまれたみたいになるんだぞ。
それでも這うようにして学校に行ってみたら、あたしの机は教室の隅に片づけられてた。
元の位置に戻そうとしても、だれも手伝ってくれなかった。
みんな、笑ってた。
そんなみじめな気持ちに一度だってなったことあんのかよ!
あいつはまだ同情したような目で、こっちを見てる。
悔しくって、涙が出てきた。
つらいことを思いだしたからじゃないぞ。
違うからな!
涙をこらえられないでいるあたしの目の前に、ハンカチがさしだされた。
だけど、紫東恵は……。
「だからいいって言ってんだろ! おまえのハンカチは!」
また噛みついちゃう。
なんでだろう。
どうして素直じゃないんだろう。
「ああ、そうかよ!」
ほら、怒らせちゃった。
いいさ、いいさ、勝手に怒ってろ。
恵はこういう性格なんだよ。
あたしはひとりでトンがっていた。
そのサボテンみたいなあたしのトゲの間に、あいつのさびしそうな言葉がすべりこんでくる。
「でもいいじゃん。とりあえずお姉ちゃんがいるんだろ。おじさんも。……それに居場所だってある」
そっか。
こいつ、たったひとりなんだ。
親も友だちも東京ジュピターの中なんだ。
拒否したくたって学校もない。
居場所だってないんだ。
空になった壜の中のラムネ玉が、からんと音を立てた。
心のトゲが一本、落ちた。
「ごめんね」
「なに?」
「ひとりで飲んじゃって」
「いいけど、それおいしいの?」
「え! ラムネ知らないの?」
「知ってるけど、飲んだことないんだ」
たぶん、シーラカンスかなにか見ているような目で凝視めていたんだと思う。あいつは恥ずかしそうに視線をそらした。
しっかし、この歳になるまでラムネ飲んだことないなんて。
東京って、やっぱヘンな場所だわ。
じゃあ、この恵ちゃんが教えてあげようじゃないの。
外の味ってやつを。
というわけで、新しいのを買ってやった。
「ありがとう」
素直に受け取ったけど、じろじろ見ているばかりで栓を抜こうとしない。
「これ、プルトップないよ」
「バッカねえ。こうやんのよ」
壜をひったくり、栓抜きでラムネ玉を、ポンと押しこむ。
炭酸のシュワーッて音が広がる。
「ほら」
あいつは、コレほんとに飲めるのか? みたいな顔で少しの間、壜を凝視めてから、一気に飲もうとした。
飲もうとした……。
それじゃ飲めないよ。
吹き出しそうになるのを懸命にこらえる。
「なにこれ、ビー玉で飲めないよ」
あまりにマヌケな言い草に、吹き出してしまった。
ダメだ。
こらえられない。
腹がよじれるほど笑えるぜ。
「バカねえ」
お腹が痛い。
「壜のくぼんだところにラムネ玉をひっかけるのよ」
「そうだったんだ」
なんか大発見したみたいな顔しちゃってさ。
おまえはリンゴが落ちるのを見たニュートンか、アテネの街をすっぽんぽんで走ったアルキメデスか。
それがまたたまらず、笑いの発作はいつまでもつづいた。
カランとラムネ玉が鳴った。
あいつは、うん、コレおいしいわ、てな顔をした。
「ねえ、知ってる?」
ちょっと知識をひけらかしてやろ。
「なにを」
「あんたビー玉っていったよね。ビー玉ってさあ、もともとはラムネ玉なんだよ」
「そうなんだ」
「ラムネの栓に使えないB級品が子どものオモチャとして出まわったから、ビー玉っていうんだ」
「へえ、知らなかった」
さも感心したような顔になる。
考えてみれば、こいつは世界という規格からはずれたビー玉だ。
あたしも学校という規格からはずれたビー玉だ。
どこかに歪みがあって、まっすぐに転がれないんだ。
……。
薄日が射してきた。
雨が上がった。
気持ちのいい風が海から吹いてきた。
案外、いいやつかもしれない。
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断章6 紫東 遙
「うえ〜、なんだよ。この坂道はぁ」
エルフィがわめきちらす。
失敗した。こんなに酒癖が悪いとは思わなかった。ちょっと親交を深めようと焼肉おごってやったのに、まさかこんなに深まってしまうとは。
「こら、聞いてんの? ハルカァ」
「はいはい、聞いてますよ」
すでに呼び捨て。いいけどね。
よくないのは坂道だ。ただでさえきついのに、酔って足取りもおぼつかないエルフィをひきずるようにして登るのはつらかった。こっちだって素面じゃない。登りきったときには、酔いが回って頭がガンガンしてきた。
なのに、エルフィときたら、玄関を思いっきり開けて、「エルフィで〜す」と吠えた。
「ただいまー」
「だから、ただいまじゃないでしょ、あなたは」
聞く耳持たず。うつむいてえずきはじめた。
え? 吐くの? 勘弁してよ、玄関先で。
とたんにエルフィがパッと顔をあげた。
「うっそー。本気にしたあ? あたしが、これっくらいの酒で吐くはずないでしょ」
殺す。いつか殺す。少なくとも、こいつとは一生飲まないことにしよう。
そのときだった。足音がした。聞き慣れない足音。
ブチだ。
「ブチッ! どこ行ってたのよ。探したんだからね」
ブチはわたしの胸元に飛びついてきた。
「んもう、甘えんぼうさんなんだから」
酔っ払ったエルフィなんかほっといて、わたしはしゃがみこむとブチを抱きしめた。
猫特有のホコリっぱいようなケモノの匂いがする。
「遙さん?」
その声に顔をあげると、いつのまにか綾人くんがいた。
「それじゃあ、恵ちゃんのお姉さんって……」
つらかった。
いま綾人くんの顔を見るのは。司令センターで無視されたからじゃない。自分が汚いテを使う大人だったから。酔っぱらって友だちになろうなんて姑息なことを考える大人だったから。綾人くんの気持ちを考えずに、むりやり東京からひっぱり出してくるような大人だったから。無視されたのには傷つくくせに、ほっておくことにはなんの痛みも感じなかったから。
わたしはブチを抱きしめた。
その腕が軽くひっぱられる。
え? と見ると、綾人くんがブチの体を支えていた。
優しい瞳だ。許してくれるの?
「お帰り……」
その普通の言葉が、なによりうれしかった。こんな言葉に涙が出そうになるなんて。
「ただいま……」
素直にそういえた。そして、ブチを綾人くんに渡す。
受け取るかれの手と、わたしの手が重なる。
「久遠が」
「え?」
「久遠がリーリャ・リトヴァクから連れてきたらしいんです」
「そうなの」
「わざわざピンクの派手なスーツケースに押しこんで。……さっき開けたらこいつが飛び出してきたから、びっくりしちゃいました」
「ブチよ」
「え?」
「こいつじゃなくてブチ」
わたしは綾人くんの手に抱かれたブチの頭をなでた。
「ブチか。おまえ、ブチっていうのか」
ふたりの間で、猫がにゃあとのんびり鳴いた。
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6
エルフィって人はただの酔っぱらいだった。あとで聞いたら、国連軍のエースパイロットだっていうけど、ほんとかな。
遙さんに連れられて玄関先でのびていたと思ったら、突然起きあがって居間に上がりこみ、勝手にビールを飲みはじめた。酔っぱらいは自分勝手だから嫌いだ。
「生、ジョッキで追加ねぇ」
とかいって恵をアゴで使ってる。
「おっ、かわい〜じゃん」
酔って座った目が、おれにむけられた。
「お姉さんにロックオンしないか。ロックオン。そんで、朝までドックファイトしよ。ドッグファイト!」
やっぱ酔っぱらいは嫌いだ。ほとほと困っていると、六道さんが助け船をだしてくれた。
「綾人くん、いいかな」
連れてこられたのは六道さんの部屋だった。六道さんは入るなり、机にむかって墨をすりはじめた。
そのかすかな音だけが、部屋の静けさを刻んでいく。
う、足、痺れそ。なんとなく雰囲気で正座しちゃったけど、けっこうつらいよね。
「六道さん……」
「おじさんでいい」
「おじさん……」
あわてていい直したけど、この言葉はむずかしい。親戚みたいに呼ばなきゃならないんだろうけど、どう聞いても知らない人にむかっていう言葉にしかならなかった。
おじさんって言葉にも、この家にも慣れていかなきゃならない。
そんなことより、なんかいわなきゃ。呼びかけたんだから、なんか話せよ。
「ほんとうなんですね。魚がおいしいって」
われながら脱力するぐらい関係ない話題。
「ん?」
六道さんがこっちを見た。
「如月博士がいってたんです。ニライカナイはいいところだって」
「そうか」
それっきり。六道さんはまた硯にむかう。
なんの会話もなし。これじゃあ、ただ墨の音だけが響いていたときのほうがまだましだった。なんか話題探さなきゃ。
「あっと、えっと……おじさんがいつも恵ちゃんにいってることってなんですか?」
またしてもへんな質問だったけど、六道さんにはなんのことかわかったようだった。
「ああ。いや、たいしたことじゃない。自分がされたらイヤなことを人にするな。それだけは守れって言ってるんだ」
なんだ、そんなことか。
「あれは人からイヤなことをされて苦しんだみたいだからな」
そういえば登校拒否がどうしたとかいってたっけ。
「それなのに、人には同じことをするなという。大人とは身勝手な価値観を子どもに押しつけるものなのかね」
「あ、いえ、そんなことは……」
「墨は、な」
六道さんは急に話を変えた。
「硯にあわせると、すぐに性質がわかる。いい墨は硯に吸いつくような感じなんだ。反発する墨もあるよ。だけどねえ、そういう素直じゃないやつだと思っていても、使っているうちにだんだんいい性質になって硯に慣れてくるのもあるんだよ」
なんのことをいっているのか、さっぱりわからない。
墨をすり終えた六道さんは筆にたっぷりと含ませると、小さな板にさらさらとなにごとか書きこんだ。
「すまんが、これを玄関にかけてきてくれ」
表札だった。墨痕あざやかに「神名綾人」と書いてあった。
「かみなあやと」
「カミナアヤト」
……。
自分の名前を見ているだけだというのに、胸のあたりが熱くなってきた。
「ありがとうございます」
素直にそういえた。
玄関に表札をかける。最初は六道さんの表札しか気がつかなかったけど、よく見るといくつもの表札が並んでいる。
「六道翔吾」
「紫東遙」
「 恵」
そして、
「神名綾人」
なんかへんな感じだ。こんなにたくさんの名前が並んだ家なんてはじめてだ。
東京の家にはただひとつ「神名」という表札がかかっていて、それがすべてだった。おれもおふくろも、死んだ父親も、たったひとつの名前だった。
なのに、ここには四人の名前がある。それぞれの名前。だけど、それぞれの家はひとつ。
なんかへんなの。なんかおかしくなって、ひとりでくすりと笑った。
ひさしぶりに笑った感じがした。
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断章7 八雲総一
ネリヤ神殿の前進調査室。ぼくはその展望台で、ラーゼフォンに背をむけてたたずんでいた。石化は、進行は止まったものの、解消されたわけじゃない。ぼくがとった手段は、緩解にもいたらなかったのか。ロボットに医学用語使うのもヘンだけど。
ふわっと風が吹いてきた。
ふりむくと、そこにラーゼフォンがいた。石になったラーゼフォンではなく、白く輝く金属体のラーゼフォンがネリヤの水流の中に静かにたたずんでいた。
石化が解けたんだ。
やっぱり恵ちゃんと六道さんで正解だった。綾人くんは心を開いてくれた。綾人くんが心を閉ざすことと、ラーゼフォンの石化には関連があったんだ。
ふと、こんなテを使ってでもラーゼフォンを運用しようという自分がイヤになった。ぼくたちのせいで自分が心を閉ざし、ぼくたちの計略にのって心を開かされたなんて知ったら、綾人くんは気を悪くするだろう。だけど、ぼくたちにはそんな個人の想いを斟酌している余裕はなかった。
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断章8 如月久遠
ピアノ。弦楽器と打楽器のあはひ。不可分なるものにして、重なりあうもの。幻妖なるその音。烈々たる深み、粛々たる甘さ。わたしはその中に影を見る。だれ? かの影ふりむいて曰く。綾人なり。ああ、オリン。オリンの影が音に現れたんだわ。わたしはその影としばし戯れる。音の中から立ちあがる影、その影にささやかれる音。弦楽器と打楽器のあはひ。音と影のあはひ。影に影が重なる。あれは幻? 現? 兄様だった。この世なる時空に血を分けし者。手にせしは赤い果汁と青いカクテル。ひとつは自分に、ひとつはわたしに。カクテルをピアノの上に置く音が、オリンの影を消す。影と音のあはひは消え、現が押し潰さんばかりにたち現れる。わたしはピアノを弾くのをやめた。「髪を梳いて」これは甘え。それとも習慣と名づけられた責め。わたしはライフモジュールという名の拘束具をはずす。解放感。ライフモジュールからもたらされる至福からの離脱にして、新たなる快楽のはじまり。できうるならば、この身を包むあらゆる事象から自由になりたい。が、それはかなわぬこと。習慣と名づけられた責め。周囲の、裸身をさらすことへの羞恥が音となって、わたしを責めたてるから。ライフモジュールをはずすだけで満足しなければなりませぬ。時間。時間。螺旋たる時間。解放され、新しい夢を見はじめるわたしという個。個の中の宇宙が広がりはじめる。瞳。瞳。螺旋たる瞳。にらいかないのやまをふきぬけるかぜのおと。こうそうのくもがじょうさんするおと。そのつぶのひとつひとつがきえゆくときにみるゆめ。広がりゆく思想を現実につなぎとめるように、兄様が音声を発しはじめる。
「よくいうだろ。桜の花が赤いのはその根元に死体が埋められているからだって。死体の赤い血を吸って、桜は色づくそうだ……」
梶井。それは丸善にレモン。坂口か。キーツか。それは静かに異教なる詩人。詩人と死人。広がっていた思想は、死体をめぐる狭隘たる道に入りこむ。峨々たる桜の下の豊かな黒土に埋まった白い骨。その白さは桜にすべての色を奪われたがゆえ。山奥の古木の桜が歳月の果てに倒れるとき、根に無数のしゃれこうべをつけ、しゃれこうべの虚空を見あげる真黒き眼窩は、数百年ぶりの陽光に、脳下垂体の残滓のような冷たい涙を流すのかしら。
「功刀司令の庭の桜の木は、それはそれは鮮やかな青い花を咲かせるそうだ」
鮮烈たり。青。
過去の記憶がよみがえる。未来の記憶がよみがえる。そよやかな風に舞う無数の青い桜花。その花弁のひとひら、ひとひらに、哀しみと憎しみをにじませて。散りつつ、散りつつ、なお散りつ。ならんだ桜の木は、ただ花を散らせることにのみ存在するかのごとく、ひたすらに哀しみと憎しみを降らせ、地を青く染めていく。血を青く染めていく。これは本当の記憶と偽りの記憶のあはひ。
「いったいかれの庭には、どんな人たちが埋められているんだろうね」
兄様は赤い果汁をしたたらせるように飲み干しました。わたしは青いカクテルを飲み干すようにしたたらせました。肌を流れる青い液体。液体と体液。青と赤のあはひ。
わたしの体を流れる血の色は……。
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7
自分の部屋。
といわれた見慣れない部屋。案内されたのは母屋の二階だった。隣にも部屋があるが、そっちは使ってないらしい。恵と遙さんはどこに住んでるんだろう。あ、そういえば昼間、離れに住んでるっていってたっけ。
空気は入れ換えたらしいけど、やっぱりまだ長いあいだ使っていなかった部屋特有のカビ臭さが残っている。部屋の隅に積まれた布団も、あたたかな陽射しの匂いにまじって、かすかにホコリ臭さがする。そして、座り机がひとつ。
これがおれの部屋……。
東京の自分の部屋と比較すると、落差にめまいがしそうだ。
あそこにはベッドがあった。机と椅子があった。テレビがあった。ゲームがあった。兵藤聡美のポスターもあった。参考書やマンガを入れとく本棚もあった。あれもあった。これもあった。
ここにはなにもない。
荷物といえば、久遠に押しつけられたブチ入りのどピンクのスーツケースと、よくわかんないびらびらのガウンだけだ。でも、ここには東京にないなにかがある。
あたたかさのようなもの。
これから、ここがおれの部屋だ。東京に戻れない以上、自分の部屋にしていかなきゃ。
窓を開けてみた。ちょうど恵の部屋がのぞける位置だった。
恵が見える。なにか写真を見ながら、物思いにふけっている表情だった。
けっこう絵になってるな。親指と人差し指をL字型にして上下に組み、絵のフレームに見立てて恵をのぞきこんだ。
なんの写真を見てるのかな。あの表情からすると、昔の写真か、好きな男の写真か……。
あ、こっちに気づいた。
べーっと舌を出し、カーテンを閉める。
ふっと笑みがこぼれる。その子どもっぽい表情がまたなんとも絵になりそうだった。
そうだ。絵を描こう。ここにイーゼルを置いて、東京の絵のつづきを描こう。少女が海にむかうあれだ。
風が通る。
海だ。海が見える。そして、ネリヤ神殿も。
あそこにラーゼフォンがある。そして、おれはここにいる。
ヘンな感じだ。ついこのあいだまで、おれはこんなところにはいなかった。
東京にいた。東京でごく普通の学生生活を送っていた。
大した悩みもなく、ただダラダラと日常を送りつづけていた。友だちとバカ話をして、つまらない授業受けて、熊ちゃんとコーヒー飲んで、家で絵を描いていた。
浩子どうしてっかな。守も。おふくろも。
なんか東京のすべてが遠い。ずいぶんと時間がたってしまった気がする。
遙さんにもらった時計で確かめると、まだあれから六日しかたっていなかった。
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断章9 朝比奈浩子
そして、綾人くんのいない一日が終わった。
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あとがき 大野木 寛
電話が鳴った。
ブッちゃんからだった(出渕監督のことを敬愛をこめてこう呼ばせていただいている)。
「ねえ、いまやってる作品、ちょっと手伝ってくれない?」
そりゃもう。
こちとら、自称大部屋脚本家。監督がビルから飛べっていったら、何階からですか? ってたずねかえす男だ。
しかも友人のブッちゃんからの頼みとあらば、なんでもいたしましょう。
考えてみれば、つきあいは長い。
河森や美樹本(こいつらが高校の同級生だったのが、おれの運のつき)と知り合ったのとほぼ同時期だから、かれこれ二十年以上のつきあいだ。
にもかかわらず、一緒にアニメの仕事をするのは初めてである。
まあ、ラーゼフォンが初監督作品だからしかたないっちゃしかたないけど、かれがメカデザインをした仕事でも、一緒に仕事をしたことがないのだ。
ただ、たまに呼びだされて酒を呑むのである。
だいたいが、おれは先につぶれてしまうのだが、とにかくそんな関係が二十年ぐらいつづいた。
奇妙な関係だと思う。
そんなわけでラーゼフォンのテレビ・シリーズの脚本を何本か手伝わせてもらった。
けっこう、自分では気に入った仕事のひとつである。
その余勢をかってというわけではないが、小説版も書くことになった。
テレビ・シリーズにのっとった小説だけど、少し違う。
大野木版ラーゼフォンと思っていただければいい。
これもこれで、かなり楽しんで書いたので、読者の方々も楽しんで読んでいただければ幸いである。
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書名:ラーゼフォン 1
著者名:[著]大野木寛 [原作]BONES・出渕裕
初版発行:2002年7月31日
発行所:株式会社メディアファクトリー
住所:東京都中央区銀座8-4-17
電話:(0570)002-001/(03)5469-4760(編集)