ラーゼフォン 夢みる卵
[著]大野木寛 [原作]BONES・出渕裕
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序章 眠り姫
第一章 13月のギムナジウム
第二章 わたしの青い鳥
第三章 シンデレラの聖夜
第四章 夜のピアノ
第五章 カトゥンの定め
最終章 プレリュード――そして、はじまりと終わり
巻末特別対談 出渕裕×大野木寛
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編集●松田孝宏(ブレインナビ)
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序章 眠り姫
青い空にのびあがった入道雲が少年を見おろしていた。
少年はつぶった瞼《まぶた》の裏に夏の太陽を感じながら、草のあいだに横になっていた。周囲には草いきれが満ち、名も知れぬ虫たちが羽音をたてて飛びまわっている。
どこからか、かれの名前を呼ぶのが聞こえて来た。
寝ころんでいた少年は体をおこし、見つからないように体を低くして、移動しはじめた。
「おーい」
声が近づいて来る。少年はくすくす笑い、メガネをひっかけないように手で押さえながら、下ばえのなかをくぐり、古い石垣を登った。石のあいだでまどろんでいたトカゲが驚いて逃げだした。
少年はそのまま登りきると、ふりかえり手をふった。
銀色の髪の少年がそれを見つけ、笑いながら追いかけて来た。石垣の上の少年は笑って身をひるがえすと、風のように走りだした。そして、ひろい庭をかけぬけた。ちょうど花壇を手入れしていた執事の奥さんがびっくりしたような顔をしたが、メガネの少年が笑って唇に指をあてると、奥さんはにっこりして見送ってくれた。かれはそのまま奥の林にかけこむ。そこにはひとつの彫像がある。彫像の裏にまわりこむと、巧妙に重ねてある枝や草をどかせた。すると、そこにぽっかりと地下へとつづく通路が姿を現した。といっても、子どもがようやく通りぬけられるていどのものである。
「おーい」
また声が近づいてきた。メガネの少年は通路に飛びこむと、草や枝をひきよせ、自分の体を隠した。銀色の髪の少年が近づいて来る気配がした。少年は笑いだしそうになってしまう自分の口を押さえた。隠れている枝のあいだから、子どもの足が見えた。それはかれにはまったく気づかずに、目の前をいったり来たりしたのち、むこうに消えていった。
かれは小さく笑った。
そこは偶然発見した通路だった。ほかの子どもたちも、もちろんおとなも知らない、かれだけの秘密の場所だ。
しばらくしてメガネの少年は隠れ場所からはいだして来た。そして、銀色の髪の少年の名前を呼ぶ。が、答える声はなかった。近づいて来る気配もない。どうやらかれを探しあぐねて、林をぬけていってしまったらしい。
風が少年の足元を吹きぬけていった。かれは急につまらなくなった。だれかが追いかけてくれなければ、鬼ごっこにはならない。
少年はしばらくセミの死骸を運ぶアリの行列を見ていたが、それにも飽きて立ちあがった。そして、近くに咲いていた名も知れない雑草の小さな花をつむと、それを手にもう一度通路へもぐりこんでいった。
子どもがはっていけるほどのせまい通路がどこまでもつづく。入り口からさしこんでいた光は消え、あたりはそれこそ鼻をつまんでもわからないほどの暗闇になる。少年は怖いとは思わなかった。もう何度も通っているからだ。やがて前方に星のような明かりが見えてきた。
出口は別の彫像の足元に口を開けている。その彫像が立っているのは、サンルームのように玻璃《はり》天井から太陽がふりそそぐ大きな温室だった。むっとむせかえるほど湿気を帯びた空気が満ち、緑の濃い植物が無数に生い茂っている。室内の真ん中を小川が流れ、その中洲のようにある場所に彫像は立っていた。
少年は澄んだ水のせせらぎを飛び越え、かれの背丈ほどにものびた羊歯《しだ》をかきわけ、また子どもしか通れないほどの通路にはいりこむ。
さっきの通路にくらべれば、それは短いが、ついた先は薄暗い場所である。
少年はせまい通路のなかでむりやり体をまわし、足から先に出ていく。その通路は、こちら側ではなぜか壁の途中に口を開けているのだ。通路の縁に手をかけて体をのばしても、床に足がとどかない。少年は衝撃に身をそなえ、縁から手をはなした。
かれが飛びおりた音が、ひろい室内にかすかに響いた。
そこはさっきまでの温室と違い、肌寒いほどの空気が流れる静謐《せいひつ》とした空間だった。
西洋の大聖堂のようにひろい空間で、薄暗いために反対側の壁をはっきりと見ることさえできない。そして、黒い大理石の床が一面どこまでもつづいている。壁にも装飾はなく、ただはるか頭上に弧を描くようにしてある天井にステンドグラスがはまっている。そこには翼をひろげた天使がふたり、歌いながら飛んでいる姿が描かれている。ひとりの翼は雪のように白く、もうひとりの翼は夜のように黒い。そして、そのステンドグラスからさしこむ一条の光は、広大な室内のほぼ真ん中を照らしだしていた。そこには黒い大理石ではなく白い大理石で作られた壇がある。そして、壇のうえにはガラスの天蓋でおおわれた柩《ひつぎ》というかベッドがあり、ひとりの少女が眠っていた。
眠り姫だった。
少年はベッドに近づき、もって来た一輪の花をベッドの縁においた。前にかれがおいた花がしおれていたので、それはポケットにいれた。ポケットいっぱいにはいっている、きれいな虫の死骸や川でひろった縞々《しましま》の小石などのあいだに、しおれた花がねじこまれた。
「また来たよ」
やさしく語りかけたが、少女は眠りつづけている。少年は慣れた手つきでスイッチを操作して、ガラスの天蓋を開いた。
それでも少女は眠りつづけている。彼女はまどろみのなか、答えるもののない問いを発する。
――いつからわたしは眠っているのでしょう。わたしはいつかおきるのでしょうか。
「きみはいつ目を覚ますの?」
少年は問いかける。彼女の心の声が聞こえたわけではない。ただ静かに彼女に語りかけているだけだ。
――まただれかがわたしを呼んでる気がするの。あなたはだあれ? あのときのヒト?
少年がこの場所を見つけたのは、ほんの偶然からだった。好奇心のおもむくまま屋敷のなかを探検していたときに、たまたま見つけだしたのである。
少女を見たときには、胸が苦しくなってくるほどどきどきした。
こんなにきれいな子がいるなんて、信じられなかった。紫の髪は波打つようにその顔をふちどり、閉じられた瞼《まぶた》は長いまつ毛にふちどられ、唇は朱《しゅ》をさしたように紅《あか》く、肌は白く透きとおっている。最初、自分の目が信じられず、何度もメガネをぬぐったほどだった。それでも少女は美しいまま、そこに横たわっていた。
「ねえ、どこか悪いの?」
声をかけたが、少女は眠ったままだった。どんなに大きな声をだしても、少女の目は動きもしなかった。
もっと顔を近づけて声をかけてみようと、ベッドの縁に手をおいたとたん、カチリと音がして、ゆっくりとガラスの天蓋が開いた。
思春期前の少女特有の甘やかな匂いが、封印を解かれ静かにひろがっていく。
少年の喉がこくりと音をたてる。
「おきなよ」
おそるおそる少女の腕をつついてみた。だが、彼女は身動きひとつしない。こんどは腕をつかみ、乱暴にゆすってみた。それでも彼女は目を覚まそうとしない。そのとき、かれは気がついた。自分がつかんでいる腕の温度が異様に低いことに。まるで死んですぐの体のようだった。
(死んでるのかも)
そう思うと、ちょっと怖くなった。死骸なら、いくつも見たことがある。石垣のあいだでひからびたトカゲ、ひっくりかえったカエル、腐りかけたネズミ、そうしたものはあくまでも死骸だった。死体ではなかった。それにこの少女のように美しくもなかった。
こんなにきれいなのに、死んでしまった少女のことを思うと、胸のあたりがしくしくと痛みはじめた。少年はまだ小さかったころに読んでもらった童話を思いだした。そのなかでガラスの柩におさめられたお姫さまは王子さまのキスで死の淵からよみがえった。
少年の小さな心臓が、これまでにないほど大きな音をたてて打ちはじめた。
つま先立ちになってのびあがるようにして、少女に顔を近づける。朱をさしたような唇が近づいてくる。
そして、少年は柔らかな唇にふれた。
甘やかな匂いがひろがっていく。
陶酔。
という言葉はまだ少年は知らなかった。が、そのときのかれの気持ちを表すもっとも適した言葉はそれしかなかった。唇の感触といっしょに、なんともいえない感覚が全身にひろがっていくのがわかる。
気がつくと、少女がうっすらと目を開けていた。
「うわっ!」
少年は声をあげてのけぞる。その拍子にベッドの縁から転がり落ちて、床にへたりこんでしまった。
まさかほんとうに死んだ人間がよみがえるとは思っていなかった。あまりのことに足がすくんでしまって、身動きひとつとれない。少年が座りこんでしまった位置からでは少女の様子はわからないが、いまにも彼女がおきあがって、にっこりと死者の凄絶な笑みを浮かべそうだった。
だが、いくら時間がたっても、そんなことはおこらなかった。
少年がおそるおそるおきあがってみると、少女は目をつぶったまま横たわっている。さっきのは錯覚だったのだろうか。それとも願望?
と、それとわからないほどかすかに少女の胸が上下した。
(生きてるんだ!)
注意してみると、ごくゆっくりとだが、少女の胸は動いているのがわかった。息をしているのだ。
思いきって、少女のまだふくらみやらぬ胸元に耳を押しあててみた。耳にわずかなぬくもりが感じられる。そして、そのぬくもりの奥で、かすかにゆっくりと鼓動が聞こえた。
「生きているんだ」
もう一度、こんどは静かにつぶやいてみた。なにか胸の奥のあたりが、ゆっくりとあたたかくなっていく。少年は彼女の耳元に唇を近づけ、そっとつぶやくようにささやいた。
「きみ、名前は?」
問いかけても少女は答えない。ただひたすらに眠りつづけている。
「なんで、こんなところに眠っているの?」
少女は答えない。
「病気なの? それとも頭のケガかなにか? 前に読んだことあるんだ。頭にケガをしてずうっと眠っていた人がある日とつぜん目を覚ますっていう話を。そんなふうにきみも目を覚ますのかい?」
少女は答えない。
「いくつなの?」
少女は答えない。あらためてよく見ると、少しだけ年上かもしれないが、たいして歳は違わないようだ。
手足は生まれてから一度も地にふれたことがなさそうにきゃしゃで、肌は陽の光を浴びたことのないように白い。
(たぶん、ほんとうに一度もないんだ)
少年は確信した。
(この子は生まれてからずうっと眠りつづけている。一度も、五月の風を髪に受けて走ったことがないんだ。夏の太陽に肌を焼いたこともなければ、そのあと冷たい水に飛びこんだこともないんだ。それだけじゃない。友だちもいないんだ)
そう思うと、胸がしめつけられるように痛んだ。
(生まれてからずうっとひとりなんだ)
鼻の奥がつうんとなってくる。ひとりで屋敷をさまよっただけでさびしくなってくるというのに、彼女はずうっとそうなんだ。こんなところにたったひとりで……。
「ねえ、友だちいないの? ぼくが友だちになってあげようか」
少年には、紅い唇が微笑んだように見えた。
「約束するよ」
少女は安心しきったように眠りつづけている。
「約束するよ」
もう一度いうと、少年は契約であるかのように少女の額にそっと唇をよせた。
それからかれは、こうやってときおり、ここをおとずれる。友だちにはだれもいっていない。もちろん、おとなたちにも。それはかれと少女だけの秘密だった。少年は眠りつづける少女の顔を見ながら、きょうあったこと、勉強したことなどをしゃべりかける。それが聞こえているかどうかはわからない。でも、きっと胸のどこかには響いていると信じている。
かれは少女が完全に意識を失っていると思っていた。だが、それはまちがいである。少女は深い深いまどろみのなかにあり、ときおり、ふっと目覚めてはまた眠るのだ。少女にとって目を覚ましたときだけが時間であり、眠っているあいだは時間ではなかった。彼女の時間はとぎれとぎれに流れた。
子ども部屋のような病室のような場所で目覚め、ひどく歳をとった人がのぞきこんでいたことがあった。と思って目をつぶり、また目を開けたら、老人は少年になり、場所は聖堂のようなところになっていた。と思うと、だれもいないで、ただ天井のステンドグラスだけが見えるときもある。
だから、少年が語りかける言葉はとぎれとぎれに彼女の耳にはいっていた。彼女はいつもそれに答えているのだが、唇は言葉をつづることはなく、ただ声のみがその小さな胸に響いているのだった。
――あなたを知ってる気がする。でも知らない。わたしはオリン、あなたもオリン?
――わたしはあなたを知るでしょうか。わたしはあなたを知っていたのでしょうか。
――わたしはあなたを愛してる? あなたはわたしを愛してる?
表情にはまったく変化がなかったが、少年には彼女が微笑んでいるような気がした。
「ぼくがきみを守ってみせる。……これからも、いつかきみが目覚めたあとも」
かれはいつものように、少女の額にキスをした。もろく崩れさりそうな彼女を守ってやれるのは自分だけだ、という想いをこめて。
――それではあなたに聞かせましょう。これからの……いつの日かの物語を語りましょう。
すでにかれの姿はなくなっているが、眠りつづけている少女にはわからない。わからないまま、聴くもののない物語を彼女は静かに語りはじめる。
だれにも聞こえない言葉で。
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第一章 13月のギムナジウム
これはわたしの見た夢。
夢紡《つむ》ぐ指先にともる真実の物語。
出会い。
別れ。
そして、また出会う。
だけど、過去は変えられてしまっている。
だけど、未来は変えられてしまっている。
悲しく、悲しく変えられてしまっている。
それはそれでしかたのないこと。
なぜなら、それはかれらが選びとった未来だから。時の器のなかからすくいとった未来だから。指先から幸せがこぼれるのも知らずに。
「転校生?」
銀色の髪をした――が裏返った声をあげた。イツキもメガネの奥でおどろいたように目を見ひらいている。ただひとりへレナだけが冷めきった目で“先生”を見ていた。――は不満そうにつぶやいた。
「だって、ヘンだよ。このお屋敷に転校生なんか来るなんて」
「どうしてだね」
先生がたずねた。
「だってそうでしょ。ここは学校じゃないもの。お館《やかた》さまの子どもたちがいる場所でしょ?」
「転校生もお館さまの子どもだとしたら?」
先生の言葉にはさすがのヘレナも眉を動かした。もうひとり? もうひとりお館さまの子どもがいるというのだろうか。
三人とも自分たちはお館さまの子どもだと教えられている。お館さまと呼ばれる人は、ごくまれにこの学院にやって来る。そして、三人の成長ぶりを微笑みながら見てくれる。子どもたちは、かれがやって来ると聞くと緊張し、ヘレナでさえ前に立つと口ごもってしまう。
先生と執事とその妻、それが三人の見るおとなのすべてだといっても過言ではない。ほかのおとなも見るが、ほとんどは先生と話すだけでかれらの世界にかかわろうとはしないのだ。先生たち以外のおとなでかれらと話すのはお館さまだけだった。
そして、お館さまはとても歳をとっていた。
執事とその妻も老人ではあったが、お館さまほどではない。イツキたちには老齢をはかるすべはなかったが、それでも直感的にとてつもなく歳をとっているということだけはわかった。品のいい笑みが口元にたえず浮かんでいるが、その奥ではなにを考えているのかわからない。なにもかもがわかった風な口をきくヘレナでさえ、お館さまがどう感じているのかはわからなかった。
「ねえ、どんな子だと思う?」
就寝時間がすぎて、執事さんの見まわりがすんでから、銀色の髪の少年ががたずねてきた。
「どんな子って……。ぼくにはわかんないよ」
イツキは慎重に答えた。
「男の子かなあ、女の子かなあ」
「ふん、どうせDに決まってるじゃない」
眠っていたと思っていたヘレナが、毛布から顔をおこしてつまらなそうにいった。Dという単語を聞いた――は、上目づかいに彼女を見る。
「どうして、そういえるのさ」
「エジプトの神話って知ってる?」
男の子ふたりは、なにをいい出すんだろうと顔を見あわせた。
「あのね、神様が最初の人間を作ったとき、粘土をこねて丁寧に作ったの。でも、あんまりめんどくさくなったから、そのあとは縄を泥の中でひきずりまわしたのよ。そうしたら、泥のひとはねひとはねが人間になったっていうわ。最初に丁寧に作られたのがわたしたち、泥のハネからできたのはD。だからよ」
そういってヘレナはいじわるい目でDと名指しした相手を見すえた。少年は怒りを爆発させる寸前だった。あわててイツキがかれのパジャマのすそをつかんだ。
「ダメだよ。夜中に騒ぐと、また先生に怒られるよ」
イツキにそういわれて、かれはヘレナをにらみつけたまま、くやしそうに下唇をかんだ。
「よかったじゃないの。あなたの同類が来て」
ヘレナの馬鹿にしきった顔に、――はこぶしを握りしめて屈辱に耐えた。
「ヘレナは無視して、こっちおいでよ」
イツキが自分のベッドから手招きをしている。イツキのベッドにもぐりこむかれを見て、ヘレナはフンと鼻を鳴らした。
「負け犬ね」
そう挑発したが、――はのってこない。ふたりで毛布を頭からかぶったままである。ヘレナはもう一度フンとつまらなそうに鼻を鳴らすと、自分も毛布を頭からかぶった。
毛布のなかでは、イツキたちがふたりだけの想像の世界を展開していた。
「やっぱり転校生って、男の子だよね」
「女の子のわけないだろ。女の子って、ヘレナみたいってことだよ」
ふたりはイツキの夜光時計のわずかな青白い光の下で、顔を見あわせてさもイヤそうな表情を作った。
「男の子だよね」
「そうだよ。決まってるじゃないか」
「いいやつかな」
「いいやつだとうれしいよね」
「悪いやつとか、いじめっ子はやだよな」
「バカな子とか」
「足の臭《くさ》いやつとか」
ふたりは同時に吹きだした。それからあわててふたりでたがいの口をふさぐ。それがまたおかしくて、ふたりは声をたてないようにしながら、しばらくのあいだ苦しそうに笑いつづけた。
「男の子でさ、いい子だったらどうする?」
「どうしようか」
ふたりはおたがいに理想の転校生のような子どもを脳裏に描いていた。
「秘密基地教えてあげる?」
「あそこはまだダメだよ。そんなすぐ教えてやれるわけないじゃないか。あれ作るの、どれほど苦労したか忘れちゃったのか? もしへたに教えて先生にバレちゃったらどうなると思うんだよ」
「だよね。……だったら、森の奥には連れてってあげるつもり?」
「どうしようか」
「ぼくは連れてってあげたいな。だって、はじめてだったら絶対わかんないよ。どこに小川が流れてて、どこが近づいちゃいけない岩場か、なんて」
屋敷の森はおとなにとってもひろく、奥は鬱蒼《うっそう》としていて、ふつうの子どもなら一時間とたたないうちに迷子になってしまうだろう。イツキたちは小さなころからそこで遊んでいるので、どこに危険な穴があるのか、どこに古代の遺跡へとつづいている穴があるのか熟知していた。
はじめての子にとっては鬱蒼とした恐ろしげな森かもしれないが、ふたりにとっては宝物がたくさんつまった遊び場だった。梢《こずえ》のあいだからもれてくる木もれ陽を肩にうけながら、ふたりは笑いながら追いかけっこをする。
「まてよ、イツキ!」
「やだよ」
メガネの少年は逃げていく。銀色の髪の少年は追いかけていたと思ったら、急にその姿が見えなくなった。イツキは立ちどまり、あれ? とあたりを見まわす。と、横の茂みから――が飛びだして来た。
「つかまえた!」
ふたりは抱きあうようにして地面にころがった。そのまま笑いながら、とっくみあいになる。
「やったな」
「このやろー」
いまは笑っているが、そのうちに歯止めがきかなくなり、しまいには服を破いて先生に鞭で手をイヤというほどたたかれる。食事をぬかれ、あとで執事の奥さんからそっとスープをもらうことになるのだ。ところが、そうなる前にイツキがさけんだ。
「ストップ。ストップ!」
「なんだよ。負けそうだからって」
「違うよ」
イツキはささやき、唇に指を押しあてた。――もかれが見ているほうに眼をむける。
梢にはリスの親子がいた。ふたりはあわてて離れ、草のあいだに身をふせる。それはふたりが長いあいだかかってなれさせたリスたちだった。
イツキがチッチと舌を鳴らした。梢にいたリスの親子が不思議そうな顔をして、こちらを見る。やがて用心しながら、ゆっくりと木の幹を伝っておりて来た。ふたりはこういうときのためにポケットにいつもいれているクルミのかけらをさしだした。
かれらの動きにリスたちはちょっとおどろいて、幹に戻りかけたが、ふたりが身動きもせずにじっとしていると、ゆっくりと近づいて来た。そして、ふたりがさし出すクルミのかけらを親リスがサッととって、安全なところにかけ戻り、人間たちを横目でちらちらと見ながら親子で食べはじめた。
「ねえ、このことも教えないの?」
イツキがささやいた。
「ヘレナにか? 教えるわけないじゃないか」
「違うよ。転校生にだよ」
「ダメだ」
しばらく考えてから、銀色の髪をした少年はきっぱりといった。
「せっかくなついてきたんだぜ。いま知らないやつ連れて来たら、びっくりして出てこなくなるよ」
「そうかな」
メガネの奥の目が不満そうな色になる。
「そうだよ」
「やっぱりダメ?」
「ダメ」
「ぜったい、ぜったいダメ?」
「ぜったい、ぜったい、ぜったい、ダメ」
かれの声が大きかったせいだろう、リスの親子はおどろいてクルミを口にくわえると、一気に幹をかけ登って梢のあいだに姿を消してしまった。ふたりの少年は、あーあ、と残念そうにそれを見送った。
ふたりはしばらくリスを呼んだが、おびえてしまったかれらはそれっきり姿を現さなかった。それにも飽きたふたりは、ごろりと草地にあおむけにひっくりかえって空を見あげた。
鳥がどこかで鳴いた。
「転校生が来たらさ……」
ふうっと眠ってしまいそうになったころ、――が思いだしたように口を開いた。
「まずお屋敷の案内だろ」
「そんなのはヘレナにまかせれば? つまんないよ」
イツキはほんとうにつまらなそうに、メガネをはずして服の裾でレンズをふいた。
「バカだなあ、ぼくたちの屋敷に決まってるじゃないか」
「あ、そっか」
ふたりは秘密の通路やだれもこない部屋のことを思いだして、くすくすと笑った。
「きっと気に入るよ」
「そうだよね。男の子だったら、ぜったい気に入ってくれるよ」
イツキはうつぶせになると、肘をついて友の顔をのぞきこんだ。
「ぜったい、ぜったいさ」
「最初は屋根裏かな」
「最初は図書室の奥だろ」
「えー、でも、あそこはいきなりじゃ……」
イツキは本棚と本棚のわずかな隙間にある通路が通じている不思議な部屋を心に思い描いた。転校初日にあんなところに連れてかれたら、驚いてしまうに違いない。
「だからいいんじゃないか。最初だよ。ガツンとやってやらなきゃ。なめられるよ」
「なめられたことあるの?」
イツキが真顔でたずねると、――は恥ずかしそうに視線をそらした。
「図書室の本にあったんだよ。最初の出会いでガツンとやるのがだいじだって」
ふたりはしばらく口をつぐんだ。ふたりもヘレナも、生まれてからずうっと自分たち以外の子どもに会ったことがない。だから、だれかになめられたこともなければ、バカにされたこともない。ある意味幸せな、ある意味不幸な子どもたちだった。
「転校生か……、ほんとどんな子かなあ」
イツキは木々のあいだに目をうつしてつぶやいた。梢にリスの影が躍ったように見えた。
「リス、また来ないかな」
「来ないだろ。ぼくがおどかしちゃったから」
「ねえ。……転校生にはさ、おとうさんやおかあさんはいるのかな」
ぎくりとなって――はイツキの顔を見た。
「……いないだろ。たぶん」
「そっか。そうだよね。この島に来るんだもの」
「そうだよ」
「兄弟はいるのかな」
「はじまったよ、イツキの“兄弟”が」
銀色の髪の少年が小馬鹿にしたように笑った。というのもイツキは自分には兄弟がいたような気がするといっているからだった。あとのふたりはそんなものはハナから信じていない。自分たちに兄弟がいるとはとても思えなかったからだ。
翌日、イツキが転校生はいつ来るのかとたずねると、先生は来ることは決まっているが、まだ先方の都合がつかないのでいつになるのかはわからないといった。
「先方ってどこさ?」
授業がおわってから――がたずねると、イツキは悲しそうに首をふった。
「知らないよ、ぼくだって。先方なんて想像できないよ」
かれらには屋敷のある島がすべてだった。ほかの世界は教科書や映像で見るだけの場所であり、想像することさえむずかしかった。
「パリかな。ロンドンかな。ニューヨークかな」
映像で見たことのある大都市を、――はつぎからつぎへとあげていった。そのいずれでもない。転校生がやって来るのは、すぐ近く、かれらのいる島の地下奥深くからだったのである。
「バージョン7・3シリーズは不安定だな」
老人はそういいながら、ベッドに横たわったまま目を見ひらき、ぶつぶつとつぶやきつづけている少女の、栗色の髪をやさしげな手つきでなでた。
「申し訳ありません。お館さま」
子どもたちから“先生”と呼ばれる若者がそういうと、老人は慈しみにあふれる笑みを浮かべた。
「いや、おまえのせいではないよ。遺伝子レベルでの改変を命じたのはわたしだし、創りあげたのはメディカル・スタッフだ。おまえに責任はない」
「そうですが……バージョン違いとはいえ、同じシリーズとして」
「ああ、そうだったね」
老人は思いだしたように少し笑った。
「つい忘れてしまうのだよ、これほどの時間を生きているとね。……バージョン7・3シリーズはただのお遊びのようなものだ。しかし、この程度の遺伝子改変さえ安定できないレベルなのだよ。この時間域の科学レベルは。……わたしが望んでいることが可能になるのかどうかさえ、不安になってくる」
老人は自分の節くれだった指を見おろした。そこには老いの不安があった。
「いや、可能にしなければならない。そうでなければ、きょうまで生きて来た意味がなくなってしまうのだ。わかるかね?」
若者は静かにうなずいた。
そのとき、ベッドで寝ていた少女が、がばっと上体をおこした。普段は冷静な先生でさえ、おどろきあとじさったが、老人はなにごともなかったかのように少女に微笑をむけている。
少女の眼がぎろぎろと動いた。
焦点があっていない瞳は、なにをみても認識できないようだった。その目が老人にひたとむけられる。
「うがらごくは、はさらしもしてける? どせぬくんでしょ。わらけくとでもかつがくの?」
少女の口から、しわがれた声で、とても人間の言葉とは思えない言葉がこぼれでた。
「ウェルニッケ野が安定していないようだな」
老人の口元に、それまでにないほど慈愛に満ちた微笑が浮かんだ。そして、少女をそっと抱きしめ、耳元でささやいた。
「愛しているよ」
少女はその言葉に、雷に打たれたようにびくんとなり、恐怖に目を見開いて虚空にむかって手をのばした。
「があああうがごおお」
意味のないしわがれた悲鳴が少女の口からもれ、そして、宙にのびていた腕がくたりと力を失って落ちた。老人の腕のなかにいる少女の体には、もはや命の兆候は見られなかった。
「処理班を」
若者が声をかけると、どこからともなく数人の男たちが現れ、命のうしなわれた少女のぬけがらをどこかへ運んでいった。
「こんどは7・34だね」
お館さまはなにごともなかったかのようにいうと、もぬけのからとなったベッドのとなりを見た。そこには同じようなベッドがあり、さきほどの少女とそっくりの顔をした少女が眠っていた。
シリーズD、バージョン7・34だった。
きれいな三つの声が絶妙のハーモニーになって、室内いっぱいにひろがっていく。先生はもっと音を澄みきらせて響かせるように目で合図をした。三人の子どもたちは声をあわせてのばしていく。が、三人で手をつないで走っていると、だれかがいつかは手をはなしてしまうように、ひとつの声が乱れた。一瞬にして、美しかったハーモニーはただの音になってしまう。
先生が鍵盤《けんばん》を両手でたたいた。不協和音が怒りとなって響く。
「いったい、きみたちはどうしてしまったんだね」
三人はだまって先生を見あげている。先生はアップライトのピアノの天板においた鞭を手にすると、それをイツキにつきつけた。
「背骨をのばし、声を一直線に体に響かせるようにいったはずだ」
「はい……」
「背骨をのばして、声を腹に響かせれば、きみの体は楽器になる。わかるね」
「はい、先生」
イツキは消えいりそうな声で返事をした。つぎに鞭は――にむけられる。
「わたしは、じゅうぶんな力で歌わなければならないといったよね」
「はい」
「この部屋いっぱいにひろがるのにじゅうぶんな力だよ。この部屋を越えて響くのではなく、また力つきて床に落ちてしまうようでもダメだ。部屋の壁ぎりぎりまで響く、ちょうどいい力で歌わなければならない」
「はい。そうおっしゃいました」
先生は男の子を見て、小さくため息をついた。
「ふたりともどうしたんだね」
うつむきかげんのふたりは、ちらりと視線をからませあった。
「わかっているよ」
先生はため息まじりにふたりを見た。
「わたしが転校生が来る、などといってしまったので、それが気になっているんだろ。こないだもいつ来るんだ、としつこかったしね」
「いつ来るんですか」
いきおいこんで――がたずねた。
「音楽の授業が終わってからと思ったのだが、これではしかたないねえ」
先生がため息まじりにいうと、少年たちは目を輝かせた。終わってからということは、つまり……。
「はいっておいで」
その声と同時にドアが開き、ひとりの少女が現れた。
栗色の髪が肩の下あたりまで波打ち、黒目がちの目は勝ち気ななかに不安げなさびしさを漂わせている。先生の話では、イツキよりひとつ年下ということだったが、体つきはもう少女というより小さな女性といったほうがいいようだった。イツキは男の子じゃなかったのを残念に思ったが、――はなにかに憑かれたように彼女を凝視めつづけている。そして、ヘレナはくだらない、といわんばかりの顔をしていた。
少女はなにもいわずに、ぺこりと頭をさげた。
「名前はまだない。お館さまにつけていただいていないのだ」
「やっぱりDね」
ヘレナがさも馬鹿にしたようにいった。いつもだったらDという呼び方にすぐに反応する――だったが、いまは少女の顔を凝視めつづけている。
「ヘレナ。そういう言い方はいけないといったよね」
「はい、先生」
「たとえまだ名前はなくとも、きみたちと同じお館さまの子どもなのだよ」
「はい。もうしません、とノートに百回書きます」
口ではそういっているが、ヘレナはまったく反省の色を見せていなかった。
「では、新しいお友だちもいっしょに音をあわせよう」
少女はうながされるまま、イツキのとなりにならんだ。銀色の髪の少年は、残念そうな顔をして、少女をちらちらと見た。
ピアノの澄んだ音が天井に響く。子どもたちの歌声がつづく。新しくくわわった少女の声は、まったく違和感なくかれらの声に溶けこんでいった。
音楽の授業のあと、イツキと銀色の髪の少年は少女を質問ぜめにした。
「どこから来たの?」
「おとうさんやおかあさんはいるの?」
「ねえ、島の外から見た感じはどうだった?」
「髪の色はおとうさんゆずり? おかあさんゆずり?」
「お館さまには会った?」
「先生とお館さま以外に会ったおとなはいる?」
質問をあびせられているうちに、少女の目に涙がたまりはじめた。イツキたちは、あっと声をあげた。
「女の子でも泣くんだ」
イツキが――にささやきかけた。
「泣くのは男だけかと思ってた」
銀色の髪の少年もうなずいた。
「バッカじゃないの、あなたたち」
ヘレナがふんと鼻を鳴らした。
「女の子だって泣くに決まってるじゃない。本にたくさん書いてあるでしょ。それくらい読みなさいよ」
「本に書いてあることがほんとだったら、死んでるお姫さまは王子さまの口づけでよみがえるのかよ」
いいかえす――の言葉を聞いて、イツキはドキッとなったが、かれの動揺はだれにも気づかれなかった。ただひとり、泣いているふりをして手のあいだからかれを凝視めている少女をのぞいて。
イツキは視線を感じてふりむいたが、少女は両手のあいだに顔をうずめて泣きつづけている。そして、ヘレナと銀色の髪の少年がやりあっているのを聞いているうちに、イツキにも彼女の不安が伝わってきた。
(転校して不安だっていうのに、ぼくたちは質問ばっかりしたんだ。これじゃあ泣きたくなるのもわかるよね)
「ねえ、森を案内してあげるよ」
イツキがそういうと少女は涙まじりの顔をあげ、にっこりと微笑んだ。
「あ、ずるいぞ。ふたりでしようっていったのに!」
ヘレナとやりあっていた――がふりむいたときには、すでにふたりは外へ飛びだしたあとだった。
「まてよ」
銀色の髪の少年もふたりのあとを追って飛びだしていった。ひとり残されたヘレナはつまらなそうにまた鼻を鳴らすと、いつも小脇にかかえている本を開いて読みだした。少年たちには子どもっぽいといっている彼女だったが、その本は『オズの魔法使い』だった。
イツキは唇に指をあてると、静かに森の一角を指さした。少女はそこにリスの親子を見つける。リスたちは用心しながらも、子どもたちのほうへ近づいて来た。イツキが用意しておいたクルミのかけらをそっとさしだしてやると、親リスがそれをサッと奪いとり、安全な距離まで離れてカリカリと食べはじめた。その様子を少女は目を丸くして見ている。
「きみもやってみる?」
イツキからクルミを受けとると、少女は好奇心で目をきらきらさせながら、そっとクルミをさしだした。親リスはそれを食べながら、まるで無関心であるかのような顔をしつつ、目だけはときおり少女の指のあいだのクルミにむけられた。そして、もっているのを全部食べ終わってから、顔をぬぐったりしていたが、風のように動いたかと思うと少女の手からクルミを奪いとった。その動きがあまりにとつぜんだったので、少女は小さな悲鳴をあげてしまった。リスの親子はそれにおどろき、クルミをかかえたまま、するすると幹を登って梢のあいだに消えてしまった。
「あ〜あ」
イツキは残念そうにそれを見送った。
「こうなると、もうきょうはダメだろうな」
そういいながらかれはクルミをそこらにまいた。おちついたリスたちがまたやって来て食べるためにである。
「名前は?」
急にいわれたのでかれは、最初だれに声をかけられたのかわからなかったほどだった。それは少女がはじめて発した声だった。
「あ? え? リスの親子っていうだけで、名前はないよ」
が、少女の指はかれにむけられている。
「ぼく? ぼくはイツキ」
「イツキ……。いい名前ね。わたしにもいい名前がつくかしら」
「うん、きっとお館さまがいい名前をつけてくださるよ」
「どんな名前かしら」
「さあ。わかんない」
イツキにはそれ以上答えようのない質問だった。
「ねえ、島の外には出たことないの?」
「うん。きみは外から来たんだろ?」
「わかんない」
「わかんないって……」
「だって、わたしこの島に来る前のことはほとんどおぼえていないんですもの。島の外にいたような気もするし、一歩も外に出たことがないような気もするわ」
イツキは、そうか、とうなずいた。彼女もお館さまの子どもなのだ。この島から外に出たことがないのかもしれない。この島で生まれ、この島で死ぬ運命にあるのかもしれない。イツキはふと老いた執事さんと奥さんの顔を思いだした。この子もいずれ、ああなるのだろうか。
「女の子が泣いたの見たことないの?」
「ヘレナは泣かないからね」
「なんで?」
「知らないよ。執事さんに怒られても、先生に怒られて鞭でぶたれても、涙ひとつこぼしたことないもの」
「先生は鞭でぶつ?」
少女は不安そうにイツキを見た。
「ときどきね。ぼくたちが言いつけを守らなかったり、ひどいいたずらをすると。そんなことしなければ、けっしてぶったりしないよ」
「そう」
少女はちょっと安心したのか、はにかむように微笑んだ。
「この島にはあなたたちしかいないの?」
「そうだよ。……さっきから質問ぜめだね」
「あら、さっきはわたしが質問されてたわ。おあいこよ」
少女はイツキに横顔をむけた。それはせいいっぱいすました感じだった。
「おあいこかもしれないけど、きみは答えてないじゃないか」
「答えることなんかないもの。答えられない質問ばっかりするじゃない。島の外のこともおとうさんとおかあさんのことも、わたし、なにも知らないもの」
そういってから、少女は、ね、わたしたちお友だちでしょ? といわんばかりの微笑をむけてきた。
「ねえ……」
「もう質問はかんべんしてよ。むこうにいこうよ。小川があるんだ。小さな魚もいるんだよ」
「最後、これが最後よ」
「最後だよ。……なに?」
「さっき王子さまのキスの話のとき、なんでびっくりした顔してたの?」
イツキはほんとうにびっくりした。だれにも気づかれていないと思ったのに……。
「ねえ、どうして?」
「だ、だってさあ。――がヘンなんだもん。死んだ人がキスでよみがえるはずないじゃない。そんなのお話のうえのことに決まってるよ」
しどろもどろで言い訳をしたが、少女はまるで信じていないようだった。
「もし、わたしが死んだらキスしてくれる?」
イツキは目を丸くして彼女を見た。
「してくれる?」
少女はそういいながら、体を近づけてきた。寄りそうように腕をからめてくる。まだふくらみやらぬ胸が、布地越しに感じられた。
「して……」
少女の紅い唇がイツキの顔にむけられる。なにかをこらえるように立ちつくしていたイツキは、ついにこらえきれなくなったように、彼女をつきとばした。
「あ」
と小さな悲鳴をあげて、少女は草地に倒れこむ。
「ヘンだよ。きみはヘンだ!」
イツキはそういうと、ダッとかけだした。
「イツキ! 待ってよ!」
少女は膝をついたままかれを呼んだが、かれは二度と戻っては来なかった。どこかで鳥がさびしそうな声をあげた。
やがて彼女は気だるそうに乱れた髪をかきあげて、ゆっくりと立ちあがった。
「ここにいたのか」
顔をあげると、ふたりを探して森じゅうをかけまわったのか荒い息をした銀色の髪の少年が立っていた。
「あれ? イツキは?」
「いっちゃった」
「きみをこんなとこにおいて?」
少女は傷ついたような表情を作って、小さくうなずいた。
「ひっどいなあ」
少年は同情する声をあげた。
「はじめての子をこんな森の奥におきざりにするなんて。もしも、アレが来たら……」
「アレって? この森にはなんかいるの?」
少女は不安そうに問いかけたが、――は小さく笑うばかりだった。
「怖い」
そういって彼女は少年に体をよせた。少年は当然のごとくのように、彼女を抱きよせる。
「だいじょうぶだよ。ぼくがついてるから」
どこかで鳥が騒がしく鳴いている。
「ご寝所が、また犯されました」
「そういう言い方は好まないといったはずだ」
「申し訳ございません」
執事はお館さまに静かに頭をさげた。
「きみの息子はやんちゃでこまるね」
お館さまが苦笑しながらふりかえった。右目に視力矯正装置をはめこんだ男が、すまなそうに目をふせた。
「おとなにはだれにも気づかれていない、と思っているところが子どもだがね。わたしが教え導かなかったら、自分の母親さえ見つけられないのに」
男は申し訳ありませんというような言葉をつぶやいた。視力矯正装置で見えはしないが、その右目は哀しみに満ちていた。この島ではどれほど多くの命が、自由意志が、目の前の老人に握られているのだろうか。いや、この世界のすべてかもしれない……。
そして、執事もまた同じようなことを考えていた。かれは自分と同じ血をくんでいる
“先生”と――のことを静かに思った。
少女はまどろみのなか、静かに覚醒しつつあった。このまえ覚醒したときには、だれもおらず、ただ天井のステンドグラスからやわらげられた夏の光がふりそそぐだけだった。いまはいつもの少年がのぞきこんでいる。
かれはまるでなにかから逃げて来たかのように、頬を上気させ、肩が上下するほど息が荒くなっていた。
「きょうね、転校生が来たんだ」
転校生といわれても、久遠《くおん》にはなんのことかわからない。意味を把握することができない。たずねてみたが、彼女の声は聞こえなかったようだ。少年はかまわず、そのテンコウセイというものに関するいろいろなことを話しはじめた。
かれの声は少女のまだ覚醒しきっていない脳の部分にふりつもり、ひとつの夢を思いださせた。それは静かな悲しい夢だった。
少女の頬が自然と濡れる。少年はおどろいて指をのばすと、そのしずくを指先にすくいとった。
「泣いてるの? なんで泣いてるの?」
少女はそれに答えたが、かれにはその声は聞こえない。聞こえたとしても、かれにはどうしようもなかったかもしれない。だが、それはかれに関することでもあったのだ。
――あなたと彼女の運命を思って。
だから、少女は泣いていた。悲しい女の未来に涙していた。
お館さまと呼ばれる老人は、慈愛に満ちた目で少女を凝視めた。
「友だちはどうだったね」
「女の子はいじわるだわ」
「そうか」
「あの子をしかってくださる?」
少女は媚びるような目で老人を見た。
「しかってあげよう、おまえのために。……男の子たちはどうだね。――は?」
「あの子は嫌いよ。なんかわたしのほうばっかり見てるし、泥いじりばかりしてるから、爪が黒いの。わたし、指が汚い子は嫌いよ。それに恐がらせるようなこと平気でいうの」
「男の子は好きな子をいじめたくなるものさ」
「わたしのこと好きなの?」
「そうだよ」
「でも、嫌い」
はっきりした彼女の言葉に、老人は静かに笑った。
「イツキはどうだね」
「あの子はいいわ。やさしいし、指がきれいだし。ちょっと幼いところがあるけど」
老人の目が笑うように光ったが、少女はそれが狡猾《こうかつ》という意味だということをまだ知らない。
「そうか。でも、あの子は久遠《くおん》が好きなのだよ」
「くおん?」
少女はその名前は知らなかったが、自分の胸に嫉妬が渦巻くことだけはわかった。
「でも、好き。とても気にいったんですもの。あの子の白い指も、黒い髪も、みんな好き」
老人は小さく笑った。いつくしむような響きだったが、裏には悪意がうごめいている。
「そうか。では、おまえがいつもあの子のそばにいられるようにしてあげよう」
「ほんと? うれしい」
少女はにっこりと微笑んだ。
「ほんとうさ。それに両親もあげよう」
少女は自分にもたらされる幸運が信じられなかった。
「名前もあげよう。サヨコというのはどうだね」
「サヨコ? わたしにぴったりだわ。ありがとう」
少女はそういうと老人の首に腕を巻きつけ、しわの刻まれた頬に子どもらしい口づけをした。お館さまと呼ばれる老人はそうされながら、静かに微笑んだ。
「ウソだ!」
先生にむかって――がさけんだ。
「ウソでしょ」
「そんなことをして、なんになるんだね。彼女はまた旅立っていった。みんなによろしく、ということだったよ」
「だって、一日もたってないよ。友だちにだってなってないじゃないか」
「これはお館さまがお決めになったことだ」
銀色の髪の少年はだまるしかなかった。島ではこの言葉が発せられたら、あらゆる質問は封殺される。すべてのことはお館さまの決定にしたがわねばならないのだ。
数学の授業が終わって、ぼんやりしているとヘレナが近づいて来た。危険を察知して ――は身がまえる。
「そんなにおびえなくてもいいでしょ」
ヘレナは口元に冷笑を浮かべた。
「彼女のことが気になるんでしょ」
少年は答えなかったが、その顔はそうだ、といっているのも同じだった。
「ホムンクルスって知ってる?」
わからない、と少年は首をふった。
「あのね、人間の細胞から人間を作り出すのよ。そうすると、ホムンクルスって呼ばれる生き物ができるの。彼女、それじゃないかしら」
またヘレナらしい、奇妙な話だとは思ったが、そういわれるとあの不思議な雰囲気はホムンクルスだからなのかもしれない。
「この島でホムンクルスを作るとしたら、どこかしらね」
それだけでじゅうぶんだった。――は走りだしていた。この島でそんなものを作るとしたら、屋敷のなかであるはずがない。地下しかなかった。この島の地下には、奇妙な石組みがあって、どこへ通じているかおとなもよくわかっていない。そこしかなかった。
結局、――は地下奥深くまでもぐったが、少女を発見できなかった。
代わりに歌を聞いた。
悲しい歌だった。
それに誘われるまま、――は奥へ奥へとはいりこみ、泥人形を見つけた。泥人形はひとりぼっちのようだった。かれと同じ哀しい目をしていた。
じょきり……
じょき……
じょきり……
じゃき……
ハサミの音だけが聞こえる。先生はやさしい手つきで――の髪にこびりついた塊を、髪ごと切り落とした。かつて泥人形だったもの、かつて――の友だちだったものの成れの果ては、いまはただの硬い土くれとなって床に散っていた。
ドアが開く音がして、お館さまがはいって来た。
「お帰りでしたか」
先生が手をとめて一礼すると、老人はかまわないからつづけなさい、と手を軽くふってみせた。先生のはさみがまた髪を切っていく。
じょきり……
じょき……
「おまえはずいぶんつらい思いをしたようだね」
しかし、――は答えない。お館さまにたずねられて、答えないなどという非礼はこの島では許されるはずがない。先生がとがめようとすると、お館さまがまたしてもそれを制した。
「わたしにもわかるよ。仲間をうしなうつらさは。わたしもこの世界に来てから、幾人もの仲間をうしなった……」
老人はさびしげに言葉を切った。
「しかし、――おまえはいずれ、アレと同じ物と会うことができる」
少年はなにもいわず、ただ虚空の一点を凝視めつづけている。
「そろそろ、おまえにも新しい名前をやろう。大きくなったごほうびだよ」
――の目がわずかに動く。
「マコト。というのはどうだ?」
かつて――であった少年、マコトはこの世に生まれた。悲しみを背負って生まれた。
かれがマコトとして最初にしたこと。それはいつの日か、この老人に自分の存在を認めさせてやる、と誓うことだった。
そして、十数年の時が流れた。
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第二章 わたしの青い鳥
その少年は教室でいちばん大きかった。クラスのだれよりも、いや、教師さえ見おろすことができた。だが、クラスの友だちはだれもそのことに気づいていない。背丈はふつうの少年だったからだ。大きいのはその精神だった。知能だった。
だから、かれは孤独だった。だれも仲間になれないがゆえに、たったひとりだった。
少女はチルチル、ミチルの『青い鳥』が大嫌いだった。幸せになろうと努力したあげく、その努力は水泡に帰し、じつは幸せは身近にあったなんて、許せないと思った。なぜなら、彼女の身近には幸せのかけらもなかったからだ。
「どうも。八雲総一《やぐもそういち》です」
自己紹介をして、司令センターを見渡した。いくつもの目が返ってくる。いずれも慣れたものばかりだ。無関心をよそおった嫉妬、いきどおり、反感、そうした感情が、自分にむけられている。いつものことだ。
ただ、そのなかに周囲のものよりも強烈な感情がひとつあった。女性である。たしか名前は……金湖月《キムホタル》だ。なぜ彼女がそんな目で自分を見るのか、かれにはわからなかった。ただ、そうした感情をぶつけられることに慣れすぎていた。
「八雲少佐には副司令としてこれから実務を担当してもらう」
功刀《くぬぎ》の一言にTERRA《テラ》職員たちは少しざわめいた。新しい副司令が来るといわれて待っていれば、少年ともいえそうな若者が現れたのである。まさか、というとまどいがあった。功刀《くぬぎ》の一言はその疑念を砕いたのである。
――やれやれ。
八雲は内心で吐息をついた。こんなことをすればよけいみんなの反感を買うだけなのに。そして、功刀《くぬぎ》がそれをわかっていながら、あえてやっているのだということも八雲には理解できた。
――わざわざ前途多難なはじまりにしてくださいましたね。
ちらりと見ると、功刀《くぬぎ》はこれくらい乗り越えられないで、なにが副司令だ、といわんばかりの目で見返してくる。
――やれやれ。
八雲はもう一度、内心でため息をつく。そして、あらためて、これからの楽しい職場になるTERRA司令センターを見まわした。
技術部や航空管制部といった職場をひととおり見てまわったあと、八雲は功刀《くぬぎ》の自室に呼ばれた。
「いい自己紹介だった」
まるで小学生の自己紹介のような凡庸な言葉を、功刀《くぬぎ》はいいといった。計算された凡庸さだからだ。ただでさえ歳若いうえにかれのような幼い顔立ちの若者が、少佐という権威をカサに着たような言葉をつかっても反感を買うだけである。
「どうだ。TERRAは」
「表面的には緊張感がかけらもないのがいいですね。でも、それなりにみんなプロの顔をしてます」
功刀《くぬぎ》は静かにうなずいた。かれの感想に満足しているのかどうかはよくわからない。もともとそういう内面を悟られないような訓練を受けている男だった。
「プロは厳しいぞ」
八雲はその言葉を重く受けとめた。プロは技術とプライドを持っている。少しでもこちらに弱みがあれば、かれらはバカにして、ついてこようともしないだろう。そこをどうやってうまくついてこさせるか、それがこれからの勝負だった。
金湖月《キムホタル》は怒っていた。いや、いきどおっているといったほうがよかったかもしれない。それほどはげしい感情が、彼女のなかに渦巻いていた。新任の副司令というからどんな人間かと思えば、自分とさほど変わらない歳の若者だった。にもかかわらず、少佐でそのうえ副司令だ。べつに自分が副司令になれるとは思っていないが、だからといって、いま目の前でにこにこと笑っているたよりなげな若者にその重職がつとまるとは思えなかった。
「いや、運がよかっただけですよ」
歳若く副司令になれた感想を聞かれたかれは、悪びれもせずにそう答えた。運がいい。その言葉を、キムは嫌っていた。世間ではよく運と努力が同等のものとして語られることがある。努力なくその地位を得たものは運がいいと答え、運なくその地位を得たものは努力の結果だと答える。キムは、努力もせずにただ運がいいという一言で片づける人間が嫌いだった。
彼女は努力の人だった。
あの日、MU《ムウ》大戦がはじまった日から、努力をつづけてきたのだ。そして、ようやくTERRAにこうやってひとつの場所を確保することができた。にもかかわらず、そんなことをあざ笑うかのように「運がいい」というだけで副司令になる人間がいる。
「どう思う?」
八雲が出ていったあとで、四方田《よもだ》に声をかけた。
「どうって、そうだなあ。あれだけ歳が若くて副司令になるっていうんなら、かなりやり手なんじゃないかな」
「そうかしら、そうは見えないけど」
「そう見えないのが、いちばん怖いね」
横から五味《ごみ》が口をはさんできた。
「TERRAの副司令が見かけだおしだったら、こまるだろ」
「そうそう」
四方田《よもだ》がうなずく。
「見かけだおしの付焼刃《つけやきば》だったら、すぐはがれるよ。いや、おれがはがして、カラシでも塗ってやるさ」
「キムチものせてね」
「キムチはきつそうだ」
四方田《よもだ》が笑うとドレッドヘアがゆれた。考えてみれば、かれも「そうは見えない」タイプだ。外見から、かれが天才的ハッカーだとはだれも思わないだろう。人は見かけによらない。それはたしかにそうだが、あの八雲という男に副司令がつとまるのだろうか。
「ただいま」
キムはそういいながら、電気をつけた。だれもいない部屋がさびしげに明るくなっていく。彼女は靴を脱ぎ、小さくため息をついた。昼間の微笑がふとよみがえって来る。彼女の視線に気づいた八雲が送ってきた、なんの邪気もない笑みだ。もちろん、彼女は反感のこもった目で見返したが、その微笑みはいつまでも脳裏からはなれずに、こうして家までついて来たのである。
リビングでもう一度「ただいま」と声をかける。壁にかけられた両親の写真が彼女を迎えてくれる。まだ若いころのふたりは、永遠に変わらない微笑を浮かべて、こちらを見ている。いや、若いころというのは正確ではない。ふたりの歳は変わらない。たとえキムがふたりの歳を越しても、変わらない。なぜなら、あの日、同じ場所で五百万以上の人々がMUの手によって、歳を重ねる機会を永遠に奪われてしまったのだ。
一風呂浴びて汗を流す。それからソファーに腰をおろし、両親の写真にきょうあったできごとを報告する。それがキムの習慣だった。
「きょう、八雲総一っていう若い子が副司令としてやって来たわ。いけすかないやつ。なんかずうっとニコニコしてて、悪気なんてかけらもないって顔してる。だけど、本心はなに考えてるんだか、ちっともわかんないのよ」
写真の両親は、少し眉をひそめたように思えた。キムは気にせず、むくみかけた足をもみながら話をつづけた。
「ほんとは腹黒いんじゃないかしらね。あの歳で副司令になったんですもの。きっと陰謀とかめぐらせて、いまの地位を獲得したんだわ。きっとそうよ。両親だって健在だし、絶対、お金持ちのおぼっちゃまだわ。そういう顔してるもの。小さなころから苦労とかしたことなくて、成績もよくってさ。友だちもたくさんいて、きっと誕生パーティーとか開いて祝ってもらったクチよ。それに……」
言葉がとぎれる。いっている自分がむなしくなった。キムは小さくため息をつくと、冷蔵庫からビールを出し、プルトップを引いた。ひとりで飲むビールがおいしい、といつのまにか感じるようになったひとりの女がそこがいた。
一気に飲んで大きく息をつく。その音が、ひとりの部屋にむなしく響いた。
翌日、司令センターにいってみると、四方田《よもだ》が八雲となにごとか話しこんでいた。しかも楽しそうに笑っている。キムは自分の目が信じられなかった。
「じゃ、そういうことで」
八雲は親しげに四方田《よもだ》の肩を軽くたたいて、観葉植物のほうへいってしまった。
「ねえ、どういうこと?」
「どういうことって?」
キムの声にふくまれている怒りに、四方田《よもだ》は意外そうな顔をした。
「だってそうでしょ。きのう、付焼刃はおれがはがしてやるとかいってたじゃない」
「ああ、そうだったね」
四方田《よもだ》はそんなこといってたっけねえ、とちょっとだけ視線をそらせた。
「だけどさ、八雲くんは……」
八雲くん! 副司令でも少佐でもなく、もう八雲くんなの? キムはちょっと信じられなかった。四方田《よもだ》は彼女の目の色の変化には気づかず、言葉をつづける。
「意外と腰が低くてさあ。あ、意外とってのは、ヘンか。見たとおりだもんな。とにかく、歳若くして副司令なんかになっちゃったから、いろいろとわからないことがある、バカみたいに質問するかもしれないけど教えてくれ、っていわれたら、悪い気しないじゃん」
単純に喜んでいる四方田《よもだ》に、キムは小さく鼻を鳴らした。
「相手の思うつぼじゃない」
「思うつぼなんて、けっこうきつい言い方だね」
「きつくもなるわよ。あんなやつがわたしたちの上官だなんて……」
「あんなやつって……あ、あれかあ? イヤよ、イヤよも好きのうち。一目惚れってやつですか?」
キムは、四方田《よもだ》のにやついた顔をはりとばしてやろうかと思った。
「そんなわけないでしょ。一目嫌いよ」
――ぼくは水だ。
水はどんな容器にもいれることができる。四角い容器にいれれば四角く、丸い容器にいれれば丸くなる。それと同じで、八雲はどんな環境にも自分をあわせることができるし、どんな人間ともあわせることができると思っていた。それはかれの特技であり、また欠点でもあった。
――おまえは我が弱い。だから、人とぶつかることができない。
功刀《くぬぎ》にはそういわれ、自分でもそう思ってはいたが、なかなか直るものではない。たとえばいま目の前の四方田《よもだ》という男を相手にしてもそうである。かれの口ぶりから瞬時に、ほとんど天性の勘といってもいいほどに、かれが人になにを望むのかがわかってしまう。わかってしまうから、それにあわせてしまう。初心者のふりをしてかれの技術に感嘆し、ほめそやし、自尊心を満足させてやればいいのだ。ちょっと技術を要するのは、バカではダメだということぐらいだ。なにも知らないが鋭い質問を返さなければならない。そのさじ加減ぐらいだ。
ただ、かれがハーンの名を口にしたときには、少し困惑した。
「MU《ムウ》大戦の直後ぐらいだったかな、ネット上に現れたハッカーでさあ。すごいんだよ」
「四方田《よもだ》さんがそういうんだから、ほんとにすごいんでしょうね」
八雲は四方田《よもだ》の顔を見ながら、さも感心したようにいってみた。
「プログラムってさあ、ふつうの人からすると出発点と目的地があったら、そのあいだは一本道のように思うじゃん。でも、じつは何通りもの通り道があるんだ。最適な道を通るのがプログラマーの仕事なんだよ。ときにはほんと、どうしてこんな通り道を見つけられたんだって感動するプログラムってのがあるんだ。なんていうか……そう、美しいんだよ。美しいプログラムっていうのがあるんだ。ハーンのプログラムはほんと小さなものでも美しかった」
四方田《よもだ》は、まるで遠いむかしのヒーローを思い出すような目でとうとうと語りつづけた。八雲は適当なあいづちをいれながら、ひとつの考えをずうっともてあそんでいた。
――いま目の前にいるのがハーンですよ、っていったら、この人どんな顔をするだろう。そして、むかし作ったプログラムのひとつも打ちこんでみせたら、どう思うだろう。
でも、そんなことは口が裂けてもいわない。たしかにそうすれば尊敬はされるだろうが、畏怖《いふ》される。避けられる。そう思うと、口にはできなかった。
八雲とはそういう男だった。
ところがキムとはどうにもうまくいかない。水としてあわせようとするたびに切りつけられる感じだ。いくら水とはいえ、何度も切りつけられるのはいい気持ちはしない。いつもなら反感を抱く人間にも自然と心を開かせられる自信があるのだが、彼女だけはどうやったらいいのかさえわからなかった。
「どうしてですか」
二言目には八雲にそういってしまう。キムもまた自分の感情をもてあましぎみだった。反感をおぼえたのはたしかだが、それにしてもこうまで反発するのはあまりに子どもっぽい。四方田《よもだ》も五味《ごみ》もほかの人たちも、いつのまにか八雲が司令センターにいることに慣れ、かれに命令されることに慣れたというのに、自分だけがなぜか反発してしまうのだ。
「どうしてっていわれてもねえ……」
命令だから、という言葉を呑みこみ、八雲は苦笑するしかない。
「できないの?」
「わたしの能力を疑うような発言はしないでください。わたしはただ、どうしてなのかという理由をお聞きしているんです」
――ほんと、どうしちゃったんだろ、わたし。
――ほんと、どうしたんだろうね、ぼくは。
ふたりとも自分に困惑しながら、対立しつづけた。
「どうだ? もう慣れたか」
功刀《くぬぎ》がひさしぶりに自室に八雲を呼びつけた。
「ええ、まあ」
「なにかひっかかっているような口ぶりだな。キム・ホタルのことか」
「功刀《くぬぎ》さんにはかなわないな。そのとおりです」
「おまえにもうまくいかないことがあるんだな」
そういって功刀《くぬぎ》は薄く笑った。
「そりゃありますよ。人間ですから」
「人間なら考えてみろ。おまえとキムは男と女だということを」
そういわれても、八雲にはぴんとこない。いままでたくさんの女性を上司や部下にもったことがある。だが、うまくいかなかったという経験はない。ただ、ときおり、かれの人当たりのよさを好意と勘違いした女性同士が争うことはあったが、あまりたいしたことではない。理解できない八雲に、功刀《くぬぎ》はわずかに苦笑した。
「まあ、いいだろう。二、三日留守にする。そのあいだのことは副司令であるおまえが決めろ」
「わかりました」
「それとミチルの世話をたのむ」
功刀《くぬぎ》のとなりで、お願いね、といわんばかりに青い鳥が小さく鳴いた。
「毎日、二、三時間は日光浴をさせてくれ。ガラス越しでは意味がないからな。それからケージはいつも清潔にしておいてくれ」
わかりました、と答えたものの正直、八雲には不安だった。TERRAという組織をまかせられるのは覚悟していたことだからかまわないが、鳥とはいえ命をあずけられるのはやっかいだ。
「イヤか」
あわてて八雲は首をふった。
「とんでもない。おまかせください」
「では、たのむ」
「ったく、こんなときになにのんびり休んでるのかしらね」
キムはいらだたしげに歩きつづけた。もう終業時間だというのに八雲の裁可をあおがなければならない書類ができてしまったのだ。ところが当の本人が司令センターにいないのである。ここにいなければ、たぶん司令官室だ。いくら功刀《くぬぎ》司令が留守にしてるとはいえ、副司令が司令官室にふんぞりかえっているっていうのは、どういうことだろうか、と思いながらキムはドアの前に立った。
「キム・ホタルです」
答えるように、ドアが静かに開いた。八雲は案の定、司令官の椅子に座り、こちらに背をむけている。
「副司令の裁可をいただきたくまいりました」
が、八雲はふりかえろうともしない。たかが一介のオペレーターには返事もしないっての? とばかりに、キムはことさら声を大きくした。
「副司令!」
八雲の背中は微動だにしない。ことここにいたって、ようやくキムも様子がヘンだと思いはじめた。
「副司令?」
ようやく八雲が顔をあげた。その顔は不安におびえた少年のそれだった。
「どうしたんですか?」
「ミチルが……」
不安に声がふるえている。見ると、八雲の手の中にはタオルがあり、そこに青い塊があった。青い鳥、ミチルだった。
「どうしたんですか?」
とがめるように聞こえたのだろうか、かれの肩がぴくりとふるえる。
「いわれたとおりに日光浴をさせたんだ。ちょっとやらなきゃいけないことがあって、それに時間がかかっちゃって……戻って来たら、こんなになってた」
「死んじゃったんですか?」
「死んじゃいない! そんなこといわないでよ」
八雲はおびえた声をはりあげた。
「ネット獣医に相談したら、今夜一晩様子を見て、明日、獣医に連れていけって」
かれは、手のなかで小さくなっているミチルのように、肩を小さく丸めた。
「ごめん。……書類にサインするんだっけ?」
「え、ええ」
キムが書類をさし出すと、八雲は少しふるえるように見える手でサインをした。
「もうこんな時間なのか。……ご苦労さま。もう帰っていいよ」
八雲は彼女に書類を返し、また手のなかに視線を落とした。ミチルの目の縁には血の気がなく、真っ白になっている。そして、ときおり羽根を寒そうにふるわせるのだった。心配そうにその羽根をなでてやっていた八雲が顔をあげると、キムはまだそこに立っていた。
「もう帰ってもいいって、いわなかったっけ?」
「そういわれたからって、ハイわかりました、じゃあ、失礼しますっていえないじゃないですか」
キムは怒ったように答えた。
「わたしもいます」
「いや、これはぼくが司令に頼まれたことだから。ぼくの仕事なんだよ」
「いいえ、います」
「じゃあ、好きにしていいよ」
いいあらそうことに疲れた八雲がいうと、キムは当然でしょ、とうなずいて、かれのそばに椅子をひっぱってきた。かれには怒ったような目をむけるが、ミチルにはほんとうに心配そうな目をするのだった。
「だいじょうぶでしょうか」
「わからないよ。きみ、鳥を飼った経験ある?」
「いえ、ないです。親戚の家を転々としてましたから、そんなのは一度も……」
両親をなくし、それから親戚の家を転々としていた、と経歴に書いてあったことを、八雲は思い出した。
――ぼくとはずいぶん違う人生を歩んで来たんだろう。たぶん、共通点もないほどに。
共通点のないふたりが、苦しんでいる鳥をあいだに、不安な時間をきざんだ。
八雲はふと、鼻の奥に病院の匂いを感じた。理由はわかっている。十数年前に同じような経験をしたからだ。死の匂いが漂う病院で、不安をかかえてすごしたのだ。あのときと同じだった。死んでしまうかもしれないものの近くで、なすすべもなく、ただ時間だけを刻んでいく。小さく首をふって、記憶をふりはらおうとしたが、意識すればするほどそれは鮮明に思い出されてきた。ミチルをささえている指先が冷たくふるえはじめる。
「どうかしたんですか?」
かれの変化に気づいたキムがたずねると、八雲は青白くなった顔をあげ、微笑んでみせた。
「なんでもないよ」
そういったとたん、八雲の目に薄い膜がかかったような感じがした。ああ、そうだ。とキムは思った。
――このせいでわたしはこの人が気にいらないんだ。自分をさらけ出さない。自分を見せないからだ。
キムはいきなり立ちあがると、八雲を抱きしめた。あまりにとうとつな行動に、八雲はどう反応していいのかとまどうばかりだった。とまどうばかりなのは、キムも同じだった。どうしてそんなことをしたのか、自分でもわからなかったからだ。
とまどうまま、彼女は抱擁をつづけた。ミチル以外のぬくもりが、八雲に伝わっていく。それはかれの硬い殻のようなものをゆっくりと溶かしていった。ひさしぶりの人のぬくもりだった。どれくらいひさしぶりだろうか。もしかしたら、母に抱きしめられて以来ではないだろうか……。肩がおびえにふるえる。目頭が熱くなってくる。
――ぼくが泣くはずがない。
八雲は思った。
――涙はあのとき、捨てたはずだ。
それでも熱い液体がかれの頬を流れていった。そして、かれは十数年ぶりに泣いた。それはずいぶんと前に、かれが心の片隅に押しこめたかれの少年時代の涙だった。
「もうだいじょうぶだよ」
どれくらいの時間がたっただろうか、八雲にそういわれて、キムはようやく自分がまだかれを包むように抱きしめていることに気がついた。抱擁を解くと、おどろいたことにかれは微笑を浮かべていた。涙に頬をぬらしながら微笑んでいた。
「怖かったんだよ」
八雲は静かに語りはじめた。なぜ、自分が死に対しておびえるかということを。
八雲の最初の記憶は、大きなことをひとつ成しとげたという満足しきった笑みを浮かべて、かれをのぞきこむ母親の顔だった。汗にまみれた額に後れ毛がはりついているのを鮮明におぼえている。おそらく出産直後のものだろう。
さすがに言語を獲得する以前の記憶は断片的な映像でしかないが、それでもかれは自分の人生のほとんどをおぼえていた。使いこまれたベビーベッドの桟《さん》、天井の木目、はじめて外の緑を見たときのこと、自分の手足が思いどおりにならないいらだち、立ったときの足元のなんともたよりなげな感触、父の顔、姉の顔、そして、母の乳房のぬくもり。そうしたものが、かれにはしっかりと記憶されていた。
かれは神奈川県のごく普通の家庭に生まれた。サラリーマンの父親と同じく職を持つ母親、五歳違いの姉、という一般的な家庭である。父親が中堅の商社に勤めていたため、社宅住まいだったかれらの生活が一変するのは、長男総一《そういち》が生まれてしまったためである。
もちろん、ふつうの意味でも子どもが生まれれば生活は一変する。ベビーベッドがおかれ、赤ん坊のための小さな服が増え、台所には哺乳壜《ほにゅうびん》を煮沸《しゃふつ》する道具や専用の洗剤などが買い足され、なんといっても部屋じゅうが乳臭くなる。総一が生まれたことによるほんとうの変化は、かれが少し成長してからはじまった。
最初にしゃべった言葉が、「まんま」「マァマ」といったものではなく、「おかあさん」だったのだ。これには父親も母親も仰天した。そして、もしかしたら天才児なのでは、と思いはじめた。そうした目で見なくとも、かれの異常な発達ぶりはだれの目にもあきらかだった。二歳になる前には文字を読むようになり、簡単な算数をこなすようになっていた。当然、父親も母親もかれの成長に注目し、期待するようになった。
一方で姉の静《しずか》はないがしろにされたといってもいい。総一の頭のよさがはっきりしてからは、両親はかれにかかりきりになっていった。総一が二歳半になったころには、某国立大学が興味をしめし、英才教育をほどこしてさらに天才性に磨きをかけようともちかけて来た。両親は舞いあがった。母親と総一は遅くまで大学にでかけることとなり、仕事で父親も遅いため、静はひとりで夕食をとることが多くなった。
父と同期の社員も多く、社宅には静と同い年の子どももたくさんいた。かれらは子ども特有の残酷さから、ただの人である天才の姉をいじめの対象にした。家に帰っても、彼女をなぐさめてくれる家族はいない。ただテーブルの上に、伝言を書いた一枚の紙があるだけだ。静は何度涙をぬぐいながら、電子レンジで夕食をあたためなおしたことだろう。
だからといって、彼女は弟をねたんだり、うらんだりはしていなかった。むしろ、かれのことを心配していたのである。弟は天才だ。そのことは彼女もみとめていた。おとなたちはかれの天才性に狂喜乱舞しているといっていい。でも、だれも気づいていない。自分たちが幼い子どもに踊らされているということに。父親も母親も息子をコントロールしているつもりで、逆にコントロールされている。もちろん、まだ小さな彼女がそんなことを見ぬいたわけではない。ただ、違和感を感じるのだ。
総一は、ふつうの意味で人間なのだろうか。
静は弟にいったことがある。おとなをしむけるのはやめたら、と。すると弟はチェスの駒を動かしながら、なんでと問いかえしてきた。その悪気も邪気もない笑みに、彼女はこのままではいけないと思った。このままでは、かれは人を動かすことだけに慣れ、友だちもなくさびしい人間になってしまうと考えたのである。
しかし、総一にとって、人間はすべていま目の前にあるチェスの駒のようなものだった。ボリス・スパスキー=ボビー・フィッシャー戦を再現しているチェスの駒だ。かれは人を動かし、盤上に美しい世界を織りあげようとしているだけなのだ。ただ、ときおりふと思うのは、ふたりのチェスの天才がまみえることができたように、自分と同じ力をもった人間が現れるだろうか、ということだけだった。
総一にとっての世界は、チェス盤と同じだった。
すべてを見わたし、すべてを動かすことができる。しかし、それ以上のひろがりはなにもない、白と黒だけの世界だ。静は、弟がその世界に耽溺《たんでき》していくのを、心配して見ていることしかできなかった。
ある日のことだった。静は伯父夫婦に連れられて小旅行にでかけ、弟へのおみやげに小さな青い鳥のおもちゃを買ってきた。ボタンを押すとさえずりながら首をふり、はばたく。そのしぐさがおもしろくて買ってきたのである。総一にわたすと、かれはありがとうというなり、それを分解しはじめた。
「なんで? なんで、そんなことをするの?」
静は自分の目が信じられなかった。
「え? どうして? いけないの?」
総一には、姉が肩をふるわせるのがわからなかった。興味をいだかせるシステムがあるなら、それを分解して理解しようと思うのは当然のことではないか。実際、それは思ったより単純なシステムであり、一度分解してしまえばすぐに理解できるものだった。
「やめて!」
姉は、ばらばらにされた鳥のおもちゃをひったくった。
「かわいそうじゃない」
「かわいそう? ただのおもちゃでしょ」
邪気のかけらもない声だった。
「ただのおもちゃだから、かわいそうなんでしょ」
それだけいうと、壊れたおもちゃの頭をさすりながら静は部屋を出ていってしまった。残された総一は姉の言葉を反芻《はんすう》するが、その意味はわからない。わからないから不安だった。おもちゃなら分解できるが、姉は分解できない。そう思ったとき、かれのチェス盤のような世界が少しほころびはじめた。
――もしかして、お姉ちゃんがいいたいのはこういうことだったの?
それを姉に問いただそうとかれが立ちあがったとき、表で大きなブレーキの音となにかがぶつかる大きな音がした。
かれの世界が崩壊する音だった。
「ねえ、お姉ちゃんは死んじゃうの?」
総一は、病院の集中治療室の前で父親にたずねた。姉が社宅の前で交通事故にあったのである。
「そんなわけないじゃないか」
と答える父親の声には、自信なさげな響きがある。このとき、総一は生まれてはじめて死というものを意識した。母親と大学に出かけるとき、総一は子ども部屋をかならずのぞく。そこには静の勉強机だけがあり、学校にいっている姉の姿はない。もし姉が死んだら、あの光景が毎日になる。二段ベッドの下から聞こえてくる寝返りの音もなくなる。ふとこぼれる笑みも、リコーダーのへたな練習の音も、なにもかもがなくなる。残るのは喪失感だけだ。
お姉さんはこれをはなさなかったよ、と警官にわたされた、青い鳥のおもちゃを総一は握りしめる。それは、かれに分解され、さらに車に轢かれて、二度ともとには戻らない。チェス盤のように完全だったはずの世界も、壊れて二度ともとには戻らない。
かれはこの悲劇が自分という怪物のような存在のせいだとわかっていた。もし、自分がふつうの人間だったら、こんなことはおこらなかったに違いない。
「ただのおもちゃだから、かわいそうなんでしょ」
その言葉が重くのしかかってくる。死という、かれにはどうしようもないものが存在するのだということが痛いほどわかった。そして、姉が懸命につたえようとした言葉の意味も。
幸い静は一命をとりとめた。面会が許されたとき、総一にできたことはひたすら「ごめんなさい」をくりかえすだけだった。姉はなにもいわず、弟の頭をやさしくなでるだけだった。
静の退院とほぼ同時に、総一の聡明さがなくなっていった。両親はうろたえ、大学の教授たちは姉の事故が精神的なショックをもたらしたとか、天才性は一時的なもので衰退はいたしかたがないとか、いろいろと推論をたてた。とにかく、総一はどんどんふつうの男の子になっていった。そして、三ヶ月もたったころには、かれが天才だったとはだれも思わないほど、ごくふつうの子どもになっていた。ただひとつ違うのは、泣かないということだった。かれは天才性とともに涙をなくしたように見えた。
それが総一のだした結論だった。ふつうの子どものふりをしたのだ。それは教授たちも見ぬけないほどの演技だった。
実際、ときおり両親がかれの顔を見ては嘆息することはあっても、少しずつ八雲家はふつうの家庭に戻っていった。ただ、静がほんの少しではあるが、足をひきずるようになったことをのぞいては。
一度選んでしまったからには、かりそめの姿を押し通すしかなかった。総一はごくふつうの子どもとして小学校にあがり、ごくふつうの学校生活を送った。友だちとも遊び、中間程度の成績をとる。だれもかれのほんとうの姿には気づかない。おとなも、子どももだれひとりとして。
「さびしかったでしょうね」
長いこと聞いていたキムが口をはさむと、八雲は小さく首をふる。
「さびしくはなかった。ぼくと同じような人間はいないってわかっていたから」
――ほんとうにそうだろうか。
心の一部がそう声をあげた。もしそうだとしたら、ネットにはいる理由はなかったはずだ。そこでは年齢性別の区別はなく、あらゆる人間が平等だった。ただ情報工学の才能さえあればよかった。総一はハーンというハンドルネームでネット世界に出没し、現実世界では得られない解放感を手にすることができた。
やがてMU《ムウ》大戦がはじまり、いやおうなく世界が変わった。
総一=ハーンもMU《ムウ》大戦以降は、政策提言などをおこなうようになった。その指摘するところはいつも鋭く、いくつかは実際の政策にも反映されるようにさえなった。まさか指導者層もそれが十代前半の子どもがやっているとは思わなかっただろう。が、あまりにも鋭すぎた。多くのおとなたちの反感を買ってしまったのである。
ある日、かれが外に出たとたん、数人の男たちにかこまれた。
「八雲総一くんだね」
そうですが、とうなずく間もあらばこそ、かれは黒塗りの車に押しこめられた。連れていかれたのは警察だ。何年か前にやった簡単なハッキングを追跡されたのだ。だが、警察はかれがハーンであることを追及してきた。総一は、警察は状況証拠は握っていても、直接証拠がないのでかれを自白に追いこむ気だとすぐに見ぬいた。かれはコンピューターが好きだが、ほかのことはなにもわからない少年のふりをした。警察は、十代前半の少年のことだから、取調室に連れこめば容易に自白するものと思いこんでいたのだが、あてがはずれた。総一はなにもわからないふりをつづけ、ときには家族に会いたいと涙さえ流してみせた。確証のなかった警察は、別件逮捕の勇み足をふんでしまったかと思った。そんなとき、かれの前にひとりの男が現れた。
眼光の鋭い男だった。総一は男をよく観察した。役職名はいわなかったが、人を使うことになれた雰囲気がある。警察官だとしたらかなりのエリートだろうが、むしろ軍人の鋭さがあるようだった。なぜ警察の取調室に軍人が現れたのかはだいたい想像がつく。国家機密の漏洩実態を把握したいのだろう。
「功刀《くぬぎ》仁だ」
名前だけ名乗ると、男は黙ってかれの前に座った。一時間だけという限定で調書作成の係官も席をはずすようにいわれ、取調室は功刀《くぬぎ》と総一だけになった。つまりは警察の決まりも反古にできるほどの力をもつ男だった。
かたむいた秋の日が、窓からさしこんで来る。功刀《くぬぎ》は長いあいだ、なにもいわなかった。総一は気の弱いコンピューター少年のように、ときおりかれの顔を見ては、床に目を落とし、不安そうに時計を見ることをくりかえした。ただ、かれにはわかっていた。この時間を乗りきれば、自分は釈放されると。数年前のハッキングなどささいな説諭ていどのものであり、自白さえしなければ釈放されるのは確実だった。
時間はゆっくりとすぎていく。
功刀《くぬぎ》はなにもいわない。総一はだんだんと不安になってきた。これまでのおとなたちのほうがどれほど相手しやすかったことか。かれらは恫喝するか、猫なで声で説得するか、のどちらかしかなかった。だから、こちらも対応しやすかった。にもかかわらず、功刀《くぬぎ》はそのいずれの方法もとらなかった。総一はどう対応していいのかわからなくなった。
責めたてる沈黙ではなく、功刀《くぬぎ》のそれはどこかしら包容力のようなものを感じさせた。だからといって、総一の気が休まるわけではない。むしろ、責めたてられたほうがまだましだった。静けさが不安を高めていく。
――計算された沈黙だ。
総一はそう結論づけた。もうそろそろで時間切れというところで、功刀《くぬぎ》はなにか一言いうに違いない。家族に関することか、なにかかれの心に直接斬りつけてくるような言葉をいって、それに逆上することをねらっているに違いない。そのための無言の圧力だ。それで感情的になったら、自分の負けだ。総一は、功刀《くぬぎ》がいうであろういくつもの言葉を想定し、それにどう対応したらいいかを考えつづけた。
あと三分になった。功刀《くぬぎ》はあいかわらずなにもいわない。総一は壁の時計を見あげた。秒針の動きがやけに遅い。
あと二分になった。なにかいうならいまだろうと、総一は身がまえたが、功刀《くぬぎ》は静かにかれを凝視《みつ》めるだけだった。
あと一分。これを乗りきればなんとかなる。なにをいわれようと、どうにか切りぬける自信はあった。なのに、総一の胸には不安がいっぱいにひろがっていた。
あと三十秒。秒針はねばつく糖蜜のなかを進むようにゆっくりと動いていく。
そして、時間が来た。
ホッと安心した瞬間に言葉で斬りこんでくるものと、総一は覚悟した。功刀《くぬぎ》が立ちあがった。総一はびくっとなった。とうとう来る! だが、功刀《くぬぎ》はあいかわらず口を閉ざしたまま、静かに部屋を出ていった。
功刀《くぬぎ》がいなくなった取調室に、かれはひとりで残された。安堵の息もなければ、虚脱感もない。あるのは静かな混乱だけだった。その混乱のなかに功刀《くぬぎ》の目が浮かびあがる。なにもかも見透かすような透徹《とうてつ》とした瞳が、総一の心の奥底にある暗がりを凝視めていた。
――もしかしたら、あの人なら……。
総一は取調室を飛びだした。ちょうどはいってこようとした係官とぶつかりそうになった。かれが脱走しようとしていると思った係官は、なにごとかわめきながら総一の腰をつかまえた。ふりはらおうとしても、ふりはらえない。廊下のむこうに功刀《くぬぎ》が消えていこうとしている。
「功刀《くぬぎ》さん!」
総一はありったけの声でさけんだ。廊下のむこうにいる功刀《くぬぎ》がふりかえった。
「あなたはぼくをすくってくれますか?」
功刀《くぬぎ》はしかし、冷たくいいはなった。
「おまえを救えるのは、おまえ自身だけだ」
ハッとなる言葉だった。おとなの言葉だった。ふつうのおとなは保護者づらをしたうわべだけのことをいって、その場をごまかすのに、功刀《くぬぎ》はちがっていた。率直な真実だけを口にした。この人にはごまかしもウソも通用しない、と総一は確信した。もしこのチャンスをのがせば、一生、こんなおとなとは出会えないだろう。
「功刀《くぬぎ》さん、ぼくがハーンです」
気がつくと、自分でもよくわからない理由で、かれはそう名乗っていた。それを聞いた係官は、おれはそうじゃないかとにらんでたんだとかいいながら、かれをふたたび取調室に連れこもうとした。と、係官の腕を功刀《くぬぎ》が押さえこんだ。
「かれの身柄はいまこの瞬間から、われわれの組織が管轄するところとなりました。よろしいですね」
有無をいわせぬ言葉だった。係官はただうなずくしかなかった。書類手続きもなにもなく、ごくふつうに功刀《くぬぎ》は総一を警察署の玄関へ連れだした。ひさしぶりの外だ。陽はかたむき、空には秋の茜雲《あかねぐも》があった。
「ひとつだけ聞かせてください。なんで取調室ではなにもいわなかったんですか」
「わたしがしゃべらずとも、きみは自分をわかってもらいたがっている」
「え?」
「さもなければ、きみのように頭のいい少年がハーンなんてわかりやすいハンドルネームを使うはずがないじゃないか」
もちろん小泉八雲《こいずみやくも》=ラフカディオ・ハーンからとったのだが、その単純さがきゅうに恥ずかしくなった。うつむく総一の肩に功刀《くぬぎ》は軽く手をおいて、先をうながした。階段の下には一台の黒塗りの車がとまっている。なかにはひとりの壮年の男がいた。黒いコートを身にまとい、片目に視力矯正装置をつけた男が、総一を待っていた。
「のりたまえ。きみの新しい人生が待っている」
功刀《くぬぎ》はうながしながら、かれに笑みをむける。
ひとを魅了する深い微笑みだった。それを見た瞬間、総一は一生このひとについていこうと思った。
ようやく八雲の長い話が終わったころには、すでに東の空が白々と明けはじめていた。
「地球連合軍で特命少佐に任命されたけど、ぼくはずうっとTERRAの人間だったんだ」
キムは静かにうなずいた。いうべき言葉が見つからなかった。いいところのおぼっちゃまで苦労ひとつせず、ここまで来たと見えたかれも、かれなりの苦労を味わい、孤独をかかえていたのだ。天才の考えることなどキムには理解できなかったが、すくなくとも孤独のつらさだけはわかった。なぜなら、シドニーが攻撃されたあの日から孤独はつねに彼女のすぐそばにいたからだ。孤独な魂が、もうひとつの孤独な魂を見つけた。
「あ」
キムが声をあげた。見ると、いつのまにかミチルは元気をとり戻し、八雲の手のなかで小さくさえずっていた。
「ミチル。元気になったのかい?」
八雲が声をかけると、ミチルはそれに答えるように一声さえずり、はばたいた。そして、さえずりながら、朝日がさしこむ部屋のなかを飛びまわった。きのう、死にそうだったのが、ウソのようだった。
「強いですね。命って」
はばたく小鳥を見ながら、キムは感心したようにいった。
「そうだね」
「そろそろいいんじゃないですか?」
「なにが?」
キムは八雲の顔をのぞきこむように、かれの目を凝視めた。
「許してあげても」
「だれを」
「ご自分を」
八雲はハッとした顔をした。それからゆっくりとうなずき、小さく微笑んだ。
「もうはばたいてもいいんですよ。自分の翼で」
「そうだね」
もう一度、今度ははっきりとかれはうなずいた。
「きみもだよ。きみもはばたいてもいいんじゃないかな?」
ハッとするのはキムの番だった。問いかけるような目をむけると、かれは安心させるような笑みを浮かべてうなずいてくれた。胸の奥がほんのりとあたたかくなってくる。
「善哉《ぜんざい》、善哉」
それはキムの口グセだった。が、いつもにもましてそういいたい気分だった。
「よきかな。よきかな。……それ、仏教用語だよね」
八雲はそういうと、ほんとうにそうだねとうなずいて、口許をゆるめた。そして、キムも微笑みを返した。
こうしてチルチルとミチルはそれぞれの青い鳥を見つけました……。
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第三章 シンデレラの聖夜
早春の京都は、まだ冬の寒さの残るなかで目を覚ましつつあった。
「おはようさん」
通りでかわされる京都言葉が、はんなりとしたやさしさを運んでくる。それを布団のなかで聞きながら、遙《はるか》は、ああ、わたし、京都にいるんだ、とあらためて思った。
布団にくるまったまま、慣れない室内を見まわしてみた。学生相手の安アパートだ。畳は新しくなっているが、壁には前の住人が残していったポスターの焼け跡が残っている。流しも冷蔵庫も、まだ荷ほどきをしていない段ボールも、なにもかもが一目で見わたせるせまい部屋だった。
それでも、彼女が手にいれた自分だけの城だった。
どこからともなく、さああっとやわらかい布を引くような音が聞こえてくる。
雨だった。
「初日から雨か……」
うらめしげに外を見ると、まだカーテンのはっていない窓のむこうに五重の塔がかすかにけぶって見えた。
なにもかも荷作りしたと思ったのに、カーテンを入れ忘れていた。あれほどあわただしかったのだから、それもしかたのないことだ。まだ小さな妹のめんどうを見るのにいそがしい母親の手をわずらわせるわけにはいかない、と我をはって、入学の手続きから不動産屋めぐりまでたったひとりでやったのだ。関西にいってくると家を出るたびに、母の文恵《ふみえ》は悲しげな目で彼女を見送った。おそらく、さびしかったのだと思う。恵《めぐみ》が小さいとはいえ、娘のためになにもしてやれない自分がなさけなかったのかもしれない。
部屋にそれだけがぽつんとさがっている紺色のスーツが、風もないのにわずかにゆれた。
遙がいいのにと断るのを、文恵が強引にデパートに連れていき、きょうの日のために買ってくれたのだ。どうせ一日しか着ないんだから、こんなのより普段着を買った方がいいよ、という娘に対し、こういうことは大事なの、どうせあんたのお財布がさびしくなるわけじゃないんだからいいじゃない、と押しつけるようにして持たされたのだ。なにもしてやれなかった母親が、せめて娘のためにしてやれるせいいっぱいのことだったのだろう。
その紺色のスーツを見ているうちに、家族のことが思いだされてしまった。
思わず目頭が熱くなってくるのを、布団のへりに押しつけてこらえた。布団のへりからは真新しい匂いがした。
そんなことをしているうちに時間がすぎていき、式がはじまる時間になってしまった。遙はあわてて服を着替え、朝食もそこそこに市電に飛び乗った。市電の駅で三つ目が彼女の通う大学である。
傘をさしているというのに、静かにふる雨は傘の下にも忍びこみ、ボリュームをもたせていたはずの髪は、大学につく前にぺったりとはりついてしまった。やんなっちゃう、とひとりごちながら、遙はショートの髪をかきあげる。
髪はショートと決めていた。長い髪は悲しい思い出につながるからだ。あの日、あのときの思い出に……。
ふと横を見ると、同じように大学の門をくぐる大勢の若者たちがいた。かれらにも、それぞれの思い出があるのだろう。あの日の思い出が。そして、雨に濡れる大学の門はかれらを静かに迎えいれていた。
とつぜん、腹に響くような低いエンジン音がとどろいたかと思うと、急ブレーキの音が遙の背中に聞こえてきた。びっくりしてふりむくと、そこには真っ赤なスポーツカーが停まっていた。ほとんど遙の腰ぐらいの高さしかない車体から、翼のように左側のドアが開き、けっこうカッコイイ男の子が飛び降りてきた。あの人もこの大学に通うんだろうか。と思っていると、かれは助手席にかけより、ドアを開いて傘をさしだした。
すらりとした足が濡れた地面におろされ、栗色の髪をした女性が降りて来た。肉感的な体というのは彼女のような体をいうのだろう。そういう感じの女性だった。
そして、くだんの女性はさしだされた傘を受けとると、かれにしなだれかかるようにして人前にもかかわらず口づけをしはじめた。
あまりのことにこっちまで恥ずかしくなってくる。遙は視線をカップルからひきはがすと、大学の門をくぐった。
門をくぐったとたん、「新入生の子でしょ」と声をかけられた。雨のなか、各サークルが出店のように机をだして、新入生勧誘にいそがしかった。テニス同好会から奇術部、弁論部、はてはただのナンパ・サークルまで、さまざまな同好会が新入生に入ってもらおうと、さかんに声をかけていた。
「彼女ぉ、新入生でしょ」
いきなり腕をつかまれた。びっくりして見ると、まだニキビの残るにやけた男子学生だった。
「テニス興味あるんじゃない? そういう顔してるよ」
「い、いえ、べつに……」
「やったことないなら、教えてあげるよ。もちろん、おれたちがやさしくさ」
まるでそれが助けてくれるかのように傘の柄をしっかりと握りしめたが、男子は彼女のおびえには気づきもしないで、なかば強引に自分たちのサークルの机のほうにひっぱっていった。そのとき、うしろから声がした。
「こんなとこにいたんだ」
ふりかえると、さっきスポーツカーで乗りつけた女性が立っていた。遙をひっぱっていた学生は、彼女の体に圧倒されたのか、視線を釘づけにして遙の手をはなしてしまっている。
「早くいこうよ、ね」
そういうなり、遙の手をつかむと、さっさと歩きはじめてしまった。遙は、とまどいながらついていくしかない。
「ああいうのは、きっぱり断らないとね」
建物のなかにはいってからようやく遙の手をはなすと、彼女はそういって、うん、とうなずいてみせた。
「ありがとうございます」
遙がぺこりと頭をさげると、彼女は笑った。
「同い年なのに、敬語なんかいいわよ。同じ新入生同士でしょ」
同い年? 遙は信じられなかった。同い年でこんな肉体があるのだろうか。ようやく丸みをおびて来た自分の体とはあまりに違いすぎる。彼女にくらべれば遙のは、幼女のような体だった。
「そんなにびっくりしなくてもいいんじゃない?」
いわれてようやく自分がいかにまじまじと彼女を凝視《みつ》めていたか気がついた。
「ごめん。……はじめて会う人に失礼よね」
「はじめてじゃないわ」
「え?」
「だって、ほら、さっき車から降りたところ、じいっと見てたじゃない」
気づかれてた! 遙は全身が熱くなり、それこそ穴があったらはいりたいと思った。
「見るつもりはなかったんだけど……。恋人に車で送ってもらうなんて……」
そういうと彼女は噴きだした。
「やめてよ。あんなやつ、恋人でもなんでもないわ。ただ送ってもらっただけ」
送ってもらっただけの男と、あんなに堂々とキスできる同世代というのも信じられない。大学にはこういう人たちがたくさんいるんだろうか。そう思うと、これからの大学生活がちょっと不安になってきた。
送ってもらったら、お礼するのが当然でしょ、というと、彼女はあらためて遙を見て、手をさしだしてきた。
「あたし、工学部一年の七森小夜子《ななもりさよこ》」
学部は違うが、それから小夜子とはよく構内で出会うことがあった。一般教養としてとった授業がふたつほどいっしょで、ふたりは机をならべて授業を受けるようになった。昼のランチもときどき、いっしょにとった。小夜子が男子学生のだれかにおごってもらっていないとき、という条件づきではあったが。
高校時代とはずいぶん違う友だちのありようを、遙はおもしろいとさえ思った。あのころの友だちといえば、べったりしてトイレの果てまでいっしょにつきあうか、同じクラスなのに疎遠なまま口さえろくにきかずに卒業してしまうか、のどちらかだった。それにくらべれば、大学の友だちはずいぶんとおとなっぽい関係のように思えた。たがいに友だちでありながら、束縛しないでいるというのがうれしかった。それは同時に、深いりしすぎて傷つかずにすむ距離の取り方でもあった。
大学の授業は楽しかった。これが自分の学びたかったことだと思った。高校までの授業は選択できる科目はほとんどなく、つまらない授業ばかり朝から聞かされるだけだったが、大学では自分の興味ある分野の授業だけを選ぶことができた。専攻とは関係ない一般教養の授業でも、興味さえもてばとてもおもしろい内容だったのである。
だから、五月病になっているひまはなかった。授業であつかわれる高度な知識を身につけるだけでせいいっぱいで、あっというまに季節は夏になった。夏になっても、遙は名古屋の実家には帰らず、圧倒するほどの蝉時雨《せみしぐれ》を聞きながら大学図書館にかよった。飢えた子どもが食べ物をむさぼるように、知識をむさぼったのである。
そして、新学期がはじまり、いつのまにか風に冷たさがまじるような季節になっていた。
小夜子といっしょにとっている一般教養の社会学概論の教授が「AMPM理論」というのを紹介した。
「AMPMといったって、午前午後でもコンビニでもないぞ。アフターMU、プレMUということだ。MU《ムウ》大戦前後の社会状況の変化を理論づける仮説だ。外的要因によるカタストロフ仮説とも呼ばれている。提唱者はUCLAバークレーのT・トンプスンとデイヴィッド・ゴールディングで……」
「MU《ムウ》大戦」とノートに書いたとたん、遙の意識がふうっと飛んだ。あの日以前の平和だった思い出がどっとよみがえってくる。父親のタバコの匂い、区立の菜園で土をたがやしていた母のうしろ姿、せまい庭にだされたビニールプールの日向水《ひなたみず》のぬくもり、そして、かれとの思い出。そうしたものが一気になだれのようによみがえってきた。
「だいじょうぶ?」
となりに座っていた小夜子が、心配そうに顔をのぞきこんできた。
「だいじょうぶよ。なんでもない」
遙はそう答えたが、かれとのことを思い出したために高まった心臓の音は、小夜子にも聞こえてしまいそうなほど大きかった。
「しっかりしてよ。遙のノートは絶対に売れるんだから。字はきれいだし、うまくまとまってるし……」
小夜子はそういいながらノートをのぞきこむと、ちょっと不思議そうな顔をした。
「これ、だれの名前?」
え? と見ると、そこにはかれの名前が書かれていた。おそらく思い出に圧倒されていたとき、無意識のうちに書いてしまったのだろう。
「神名《かみな》……」
「あなたの知らない人よ」
自分でも邪険だと思う声でいうと、乱暴に新しいページをめくる。消しゴムで消してもよかったのだが、そのときはできなかった。かれの名前を消してしまうことが、自分の記憶から消してしまうことになりそうで。
「だれ? 恋人?」
「ううん、死んじゃった人。MU《ムウ》大戦で」
小夜子はそれを聞くと、すまなそうな顔をして、ごめんとつぶやいた。そして、遙は言葉のうえとはいえ、かれのことを殺してしまったことで自分を責めた。
それから遙は小夜子とも口をきかず、ただ機械的に教授のいうことをノートに書きとめた。書きとめながらも、意識は一ページ前の名前に戻っていた。
忘れることができないかれの名前は、薄いページ越しにも、ノートをとりつづける遙の右手に熱く伝わってくる。かれは死んではいない。生きている。ただし、二度と会うことはできないのだ。なぜなら、かれは「東京」にいるのだから。それが気になって気になって、授業どころではなかった。
ようやく授業が終わって、学食でランチをたのむ前に、やはり消してしまおうと遙は思った。そして、カバンをさぐったが、ノートがない。どうやら教室に忘れてきてしまったらしい。
「ごめん、ノート忘れた」
「もう、あわてんぼうなんだから」
小夜子の言葉を背中で聞きながら、遙はもう走りだしていた。
きょうはどうかしている。毎日のように聞く、MU《ムウ》大戦という言葉に反応して、むかしのことを思い出すわ、ノートに名前を書いてしまうわ、さらに忘れてしまうなんて。遙は教室に急いだ。もし、かれの名前が刻んであるノートをだれかに見られでもしたら、自分の記憶を盗まれるような気がした。
教室のドアを開けようとすると、ピアノの音が隙間からこぼれでて来た。社会学概論がおこなわれていた階段教室の隅にはピアノがおかれていて、昼休みなど学生のだれかが弾いていることがあった。たぶん、そういうことなのだろうけど、この曲は……。
教室にはいったとたん、ピアノの前にいる男子学生の姿が目に飛びこんできた。遙はあまりのことに短い悲鳴をあげ、カバンをとり落としてしまった。
その音が、ピアノの音しか聞こえていなかった大教室に、やけに大きく響いた。ピアノの音がやみ、男子学生がこちらを見た。
よかった。遙は思わず内心で安堵の息をついた。かれじゃない。でも、似ている。
さっきはかれがいるのではないかと思って、カバンをとり落としてしまったが、よく見れば違う人であることはあきらかだった。たしかにとてもよく似ている。目元といい口元といい、そっくりといってもいい。でも、男子学生のほうはメガネをかけているし、とても悲しそうな目をしていた。そのくせ、口元には静かな、すべてを笑うような笑みがあった。
それにしてもなんという偶然だろう。かれの名前を記したノートを忘れ、かれそっくりの人と出会うなんて。
「ごめんなさい。おどろかせてしまって。ちょっと忘れ物したからとりに来たの」
遙は男子学生にそういうと、階段をゆっくりと下りはじめた。さっき座っていたのは前のほうの席である。こんなことなら、小夜子がいうようにうしろのほうの席にしておけばよかった。階段を下りて来る遙を、男子学生はじっと凝視めている。その視線を感じながら、遙はいかにも忘れ物はどこかしら、とあたりを見まわすふりをして、かれの姿を見るまいとした。
ノートは、やはりさっき座っていた席の長椅子のところにおかれていた。中身をたしかめ、かれの名前にまた心臓を高ぶらせながら、遙はノートをカバンにしまった。それからもう一度だけ男子学生を見た。
「さっきの曲……」
「知ってるの?」
男子学生の声は、かれとは違っていた。もっと太くてよく通る声だった。よかった、やっぱりかれじゃない。
「『カトゥンの定め』でしょ」
「そう」
「むかしはやったラヴ・ソングよね」
「むかしはやったよね」
じゃあ、と手をふって、遙は階段を上りはじめた。背中に男子学生の視線を痛いほど感じる。
「ねえ」
呼び止められて、ふりむいた。
「どっかで会ったことあったっけ」
そういわれて、どきりと胸が鳴った。そんなことがあるわけがない、と自分に言い聞かせて、そっけなく答えた。
「たぶんないわ」
「ぼくの勘違いだったかな」
「そうね」
「『カトゥンの定め』好きなの?」
「いいえ。むかし、好きだった人が好きだったの。それだけ」
男子学生はちょっと意外そうな顔をした。
「でも、あなたのピアノ上手だったわ」
「ありがとう。……たまにここで弾いてるから、気がむいたらまた来ていいよ。こんどはきみの好きな曲を弾いてあげる」
「いいえ、もう二度とこないと思う」
そういうと遙は背をむけて教室から走り出た。外に出てもなお、彼女の足はとまらなかった。
とまったら、自分の想いにとらわれそうだったから。
「二度とこないと思う」そういったときの男子学生の傷ついた顔が、いつまでも脳裏から消えない。自分でもひどいことをいったと思う。だけど、こうするしかなかったのだ。こうしなければ、自分は惹かれてしまうかもしれない。それはあの人がかれに似ているからだ。そんなことで人を好きになったとわかったら、相手がどれほど傷つくだろう。だから、これでいい。これでいいの。遙は、そう自分に言い聞かせていた。
小走りに急ぐ彼女の肩でカバンがゆれていた。そのなかには一冊のノートがある。ノートには小さな、しかし、しっかりとした字でかれの名前が書かれている。
「神名綾人《かみなあやと》」と。
その夜、遙はひさしぶりに綾人の夢を見た。夢のなかの綾人は、あのときと変わらず、中学三年生のままで、微笑んでいた。
「神名くん」
「美嶋《みしま》」
あのときと同じ声、同じしぐさで、綾人は彼女を抱きしめてくれた。体の芯が熱くなってくるのがわかる。
「神名くん」
もう一度呼びかけたときには、しかし、綾人は笑いながらまるで映像が小さくなるように、彼女の手のとどかないところにさっていってしまった。遙は泣きながら、かれのあとを追った。走って倒れて、また起きあがって走って倒れる。何度目かに倒れたとき、膝にアスファルトの感触があった。見上げると、そこには東京ジュピターがあった。綾人を、東京を呑みこみ、永遠にふたりを引き裂いてしまった。いまわしい地上の惑星が……。
そこで目を覚ました。
心臓がはげしく動悸《どうき》を打っているのは、夢のなかで走ったからではない。抱きしめられたからだ。夢のなかでもかれの腕は力強くてあたたかく、そして、胸元からはかれの匂いがした。自分でもイヤになるぐらい、欲望があらわになった夢だった。
おかげで朝から洗濯機をまわすはめになった。
夢の記憶を体の芯に残したまま、大学にいった。授業を受けているうちに、そうした想いはどこかへ消えていってしまう。また普通の生活が戻ってきたのだ。
昼休み、構内を歩いていると、前に小夜子が歩いていた。だれか男子学生と話しながら歩いていた。小夜子はずいぶんと親しげだったが、男子学生は彼女とはさほど親しくはなさそうだった。
――彼女にああまでされて、なびかない男もいるんだ。
くだらない感想を抱いたとき、小夜子がふりかえって遙に気がついた。
「遙ぁ」
男子学生もつられてふりかえった。
心臓がどくんと大きく脈打った。
きのう、ピアノを弾いていたメガネのかれだった。一瞬だけ、ふたりの視線がからみあう。遙はあわてて目をひきはがし、小夜子だけを見た。男子学生のほうも、それまで目をあわせようともしなかったのに、なぜか急に小夜子のほうに顔をむける。
「きみの友だち?」
「ええ。そうです。ちょうどいいわ。ご紹介しておきます。この人は情報心理学部の美嶋遙さん。遙、こちらは工学部の秀才、如月樹《きさらぎいつき》さん」
紹介されても、ふたりは「どうも」と軽く頭をさげたっきり、できるだけ相手を見ないようにしていた。気まずい感じがする。遙は「お邪魔だから」といって、その場を立ちさろうとした。小夜子が、待ってよ、と追いかけて来る。
「ねえ、今晩ヒマ?」
「今晩?」
「うん」
「ヒマっていえば、ヒマだけど」
「じゃあさ、合コンしない? じつはさ、予定してた女の子が急に来れなくなったって連絡があって、こまってたのよ。遙ならちょうどいいわ」
「いいけど……」
遙がいいよどんでいると、これで決まりね、と小夜子はひとりでうなずき、樹《いつき》のほうにかけ戻っていった。そして、ふたりは遙を残してさっていった。ただ、一瞬だけ、樹《いつき》がふりかえり、なんともいえない視線で遙を見た。彼女の胸が少し痛んだ。
――合コンしてもいいかも。こんなことでどぎまぎするぐらいなら、いっそ新しい男でも見つけたほうがいい。そう。わたしもそろそろ新しい一歩を踏み出すべきなんだろうな。
生まれてはじめての合コンは、まったく想像どおりのものだった。同じ大学の男の子五人と、女の子五人でわいわいと騒ぐ。
「あれえ、おれの携帯見つかんないな。ねえ、ちょっと鳴らしてみてくれない? 番号はねえ……」
「だっさー。それって番号知るためのテじゃん。みんな、知ってるよ」
「カラオケ行こうよ、カラオケ」
「ユースケぇ、またアニメの歌ばっか歌うんじゃねえぞ」
「彼女、生年月日は? おれ、こう見えても占いできるんだよ」
騒がしい声にかこまれながら、遙はこれでいいと思った。これはこれで楽しいのだから、その楽しさに身をまかせればいい。東京に残してきた想いなど、捨ててしまったほうがいいのだ。
小夜子も楽しそうに騒いでいる。浮かれ騒いでるように見えながら、じつは遙の表情を追っていた。
樹《いつき》と遙が一瞬だけかわした視線を彼女は見逃していなかった。出会うのがはじめてではない男女の視線であると、すぐに理解した。そして、本能的に恐れたのである。だから、遙を合コンにさそった。樹《いつき》から意識をそらさせるためだった。
「ごめんね。むりにさそったりして」
みんなと別れたあと、小夜子は遙にすまなそうにいった。
「いいのよ。わたしもひさしぶりに楽しかったから」
「だったら、いいんだけどさ」
そのとき、小夜子の携帯が鳴った。
「はい。あ、なんだ。ユキハル?」
名前からすると、さっきの合コンに参加していた男の子らしい。そういえばたしかユキハルという子は、遙の前にいて、やたら彼女を笑わせようとしてくれていた。明るい今風の若者だった。
「あ、うん。……うん。……ちょっと待っててね」
小夜子は保留ボタンを押すと、遙に意味ありげに微笑んでみせた。
「ユキハルがね。遙のこと気に入ったみたい。つきあってみたら?」
「え?」
たしかに明るくて、悪感情は抱かなかったが、だからといってつきあうなんて。遙がためらっているうちに、小夜子が勝手に話を進めてしまった。
「ユキハル? うん、遙もいいって」
小声で抗議したが、小夜子は笑いながら携帯を押しつけてきた。
「あ、遙さんですか? ユキハルです」
「はい、遙です」
われながらまぬけな応答だ。
「さっきはどうもありがとうございました。おれ、すっごく楽しかったですよ」
それから当たり障りのない話をして、とりあえず深刻に考えずに軽くつきあってくれないだろうかといわれた。遙はまるで小夜子とユキハルにはめられたような気がしたが、とりあえず「はい」と返事をしておいた。
――新しい一歩を踏み出すべきなんだわ。
「いいのよ。こういうことはまかせておいて」
携帯を切ってから、小夜子が恩きせがましくいった。
「遙も少しは学生生活を楽しまなきゃ。ずうっとお勉強ばっかりしてると、おばはんになっちゃうわよ」
歳をとるということをまだ明確に想像できない遙は、あいまいにうなずいた。でも、ユキハルは会った印象ではそう悪い人間ではないようだ。親密な関係になれるかどうかはわからないが、つきあうぐらいはいいかもしれない。
「まだこんな時間かあ」
時計を見て時間をたしかめた小夜子は、つまらなそうに夜空を見あげた。
「ねえ、うち寄ってかない?」
小夜子にさそわれるまま、近くにあるという彼女のマンションにいった。賃貸を想像していた遙は、その豪華な造りにおどろいた。玄関ホールだけで、遙のような学生だったら四人は共同生活ができそうなほどひろい。通された部屋もりっぱな3LDKで、とても学生がひとりで住むようなところではなかった。
「すごいわねえ。小夜子のご両親って、お金持ちなんだ」
「ううん。これはね、パパが買ってくれたの」
あきらかに肉親ではない言葉の響きに、遙がびっくりしていると、小夜子はくすりと笑った。
「そうやって、なんでもすぐに信じるあなたが好きよ。いくら、あたしでもそんなわけないじゃない」
小夜子は笑ってから、すぐに真顔になった。
「おかあさんはわたしが小さなころ出てったの。おとうさんと兄さんは何年か前に死んだわ」
「やっぱり……?」
はっきりとMU《ムウ》大戦といわなくても、それだけで意味が通じる。遙も小夜子もそういう世代だった。
「ううん、MU《ムウ》大戦のちょっと前。……研究者だった父が、少しばかり遺産を残してくれたのよ」
小夜子はさびしそうに微笑んだ。遙の胸を湿り気をおびた風が吹きぬけていった。
「そうなんだ。……うちは父親がMU《ムウ》大戦で死んだわ。母と妹がいるの」
「うらやましいわ」
彼女の瞳が哀しく光った。父親と兄が死んだというのはほんとうなのだろう。ただ、遺産があるのかどうかはわからない。もしかすると、「パパ」に買ってもらった、というほうが事実なのかもしれない。
「こんなしんみりした話するために呼んだんじゃないわ」
小夜子は明るくそういって、首をふった。
「もうちょっと飲もうよ」
それからチーズを肴においしいワインを飲み、ふたりは大学のことやアイドル・グループのことなど他愛のない話をした。
「ねえ、如月《きさらぎ》さん、どう思う?」
水をむけて来たのは小夜子のほうだった。
「どうって、べつに。年上なんでしょ?」
「あら、あの人、わたしたちと同い年よ」
「だって、小夜子が敬語使ってるから、てっきり二回生か三回生だと思ってた」
「あの人はね、特別なの。すごく頭がよくて、教授だって一目おくぐらいなんだから。高校時代からうちの大学に出入りしてたんだって。だからね、なんとなく敬語使ってるの」
「そうなんだ」
そんなに頭がいいんだ……と思いかけて、遙はあわててそれを否定した。そんな人には小夜子のようなハデな女性のほうがにあっている。自分のようなのはユキハルあたりが適当なのだ。
「どう思う? なんて訊いてくるところをみると、もしかして?」
遙がたずねると、小夜子は一瞬、目を丸くしておどろいた。そのあと、小さくこくんとうなずく仕草は、ひごろの彼女の姿からは想像もできないほど少女っぽかった。男を手玉にとるのが習い性のような彼女も、ほんとうに人を好きになることがあるようだった。
「だいじょうぶ。ほら、わたしはユキハルくんだっけ? かれから申しこまれてるから」
遙は笑ってみせた。綾人を思いださせる人を好きになるはずがなかった。小夜子も少し安心したように笑った。
そのユキハルは、見かけどおりの軽いやつだった。何度か映画に行ったり、食事に行ったりもしたが、遙は少しもときめかなかった。なんというか、体の奥の奥が乾いたままなのだ。そのくせユキハルは、手を握ったり、肩を抱いたり、すぐに肉体的な接触をもとめて来る。嫌悪というほどではないが、ときめきを感じないことだけはたしかだった。
――やっぱり、ダメかも。
一度は新しい一歩を踏み出すんだと心に決めた遙だったが、やはり東京に残してきた想いは大きかった。たぶんユキハルとはうまくいかないだろう。だからといって、それをかれにきっぱりと伝える勇気はなかった。
どうしたものかと、なんとなく気落ちしていたとき、構内でむこうからやって来るユキハルに気がついた。なにも逃げなくてもいいのだが、体は自然と近くにあったドアをくぐっていた。
「二度と来ないんじゃなかったのかい?」
ふりむくと、階段教室の下に如月《きさらぎ》がいた。そこは彼女がかれとはじめて会った教室だった。あのときと同じように、樹《いつき》はピアノの前に座っていた。
「そんなつもりはなかったの」
遙は出ていこうとしたが、いまのタイミングではユキハルとばったり出くわしてしまうかもしれない。出るに出られず、しかたなく樹《いつき》に目をやった。かれはあいかわらず哀しそうな目をして、口元に笑みを浮かべている。
「おいでよ」
いわれるまま足が勝手に階段を降りていた。そして、ピアノが見えるいちばん前の席に腰をおろした。
「『カトゥンの定め』弾こうか?」
「ううん」
「好きだった人が好きな曲だから?」
「うん」
「別れたの?」
「……かれ、東京にいるの」
いつもはこうもさらりといえないのに、ごく自然に言葉が口から流れていく。
「そうか。ぼくも兄が東京にいる……」
え? と遙は樹《いつき》を見た。この人も、愛する人間を失っているんだ。永遠ではないかもしれないけど、永遠に近い時間の彼方に、愛する人間がいる。遙は胸の奥が湿ってくるのを感じた。涙がこぼれた。
「ごめん。こんなつもりじゃなかったんだけど、つい……」
カバンからあわててハンカチを探していると、ハンカチがさしだされた。樹《いつき》が微笑んでいた。小さく礼をいって、ハンカチで涙をふく。洗剤の清潔な香りがした。
「まさか、お兄さんも『カトゥンの定め』が好きだった、なんていわないでよ」
それを聞いて、樹《いつき》は小さく笑った。
「知らないんだ。うちはいろいろ事情が複雑でね、兄には会ったことがないんだよ」
「そうなの」
「会いたかった。……きっと近いうちに会えると思う。といっても兄にとっての近いうち、ぼくらにとっての遠いうちだけどね」
遙は不思議な気分だった。これほど確信をもって、東京ジュピターに捕われた人間と再会できるといってのけた人にはじめて会ったからだ。
「ヘンだな。こんなこと、いままでだれにもいったことがないのに」
樹《いつき》はそういって静かに微笑んだ。体の奥底がうるおって来るような笑みだった。遙は小学校のころの夏休みの宿題を思い出した。百年一日のごとく、学校でくりかえされる朝顔の観察日記というやつだ。家族旅行で家を空けて帰ってみると、朝顔はぐったりとしおれてしまっていた。遙はもう枯れちゃった、宿題ができないといって泣いたが、父親はやさしく水さえやればだいじょうぶだといった。半信半疑のまま水をやってみると、枯れたとしか思えなかった朝顔はその日のうちに、元のように青々と葉をのばしたのである。
それと同じだった。体の奥底がうるおい、枯れたと思っていたなにかが葉をのばしたのだ。
「ピアノ好き?」
「ええ。子どものころ、やってたわ」
樹《いつき》が弾いてみる? と少し椅子をずらせた。
「とんでもない。もう何年も弾いてないし、せいぜい習い事レベルだから」
「そう。残念だな」
そういって樹《いつき》はピアノを弾きはじめた。サティの曲だった。静かなそれは、いまの気分にぴったりだった。樹《いつき》の弾く音はどこまでも澄んでいて、奥底に悲しみがあった。
曲が終わり、遙は小さく拍手をした。
「ありがとう。へたなピアノを聞いてくれて。お礼といっちゃなんだけど、今度コンサート行かないか?」
「コンサート?」
「うん、KBホールでピアノ・リサイタルがあるんだけど、あそこは音響がいいんだ。最新の音設計がされてるからね、高音はのびるし、低音にはふくらみがある。端のほうの席だとわずかにひずむのが難点かな」
遙はくすりと笑った。ふつうコンサートに誘ったら、アーチストはだれかというだろう。なのにホールの音響がいいだなんて、おもしろい人、そう思ったからだった。
しかし、遙はそのホールの音響がいいかどうかはまったくわからなかった。おぼえているのは、となりの樹《いつき》の腕から伝わってくるかれの温かさ、そして、自分の心臓の音だけだった。
自分でもとまどうぐらいにときめいていた。ついこのあいだ、小夜子から気持ちを聞かされていたにもかかわらず、である。しかも相手は綾人くんにそっくりなのだ。かれを好きになったのは、綾人くんににているからだ、と何度自分に言い聞かせても、気がつけばかれと樹《いつき》の違うところを数えあげている自分がいた。
どう自分に言い聞かせても、この気持ちはどうしようもなかった。
樹《いつき》にしても、とまどいはいっしょだった。ただかれの場合は、自分のなかにわきあがってくる感情をどう処理していいのかがわからない、というとまどいだった。最初、出会ったときから、遙のことが気になっていた。二度と来ない、とひどいことをいわれても、それでもずっと気になっていた。あれから毎日、あの教室でピアノを弾いていたのも、彼女をまちつづけていたからだった。もちろん、それが恋愛感情であるということは理解できた。理解はできたが感覚としてわからなかったのだ。そういう感情が自分にもあるということにとまどいさえおぼえていた。
「ああ、ぼくは人だったんだ」
ひとり、部屋に帰って、つぶやいてみた。自分でいっておきながら、抱きしめたくなるほどいとおしい言葉だった。なにかが許されたような気分になれた。そして、その許しをもたらしてくれたのは遙だった。
遙は、コンサートにさそってもらった礼の電話をしようと携帯を手にしていた。そのとたん、携帯が鳴った。樹《いつき》からだった。
「あ、いま電話しようと思ってたの。きょうは、ありがとう」
「お礼をいうのは、こっちのほうさ。楽しかったよ」
それからふたりは他愛のない話をしはじめた。くだらないどうでもいい話がこれほど、楽しいとは樹《いつき》は思ってもいなかった。遙にとっては、まるで中学のころが戻って来たようだった。そのことを思うと、少しだけ胸が痛んだ。小夜子のことを思うと、少しだけ胸が痛んだ。
痛んだが、その痛みを乗り越えてもなお、かれをもとめる心のほうが大きかった。
あの日以来、閉じられていた世界が自分にむかって開かれたようだった。空の青さを見ても、前と同じに思えない。木々のざわめきを聞いても、前と同じに思えない。
人々の微笑みも、なごやかな街の雰囲気も、路地で日向ぼっこをしている猫の背中のぬくもりまでも、この世のなかの素敵なものは、すべて自分と樹《いつき》のためにあるように感じられた。
小夜子の目を避けるため、デートは足をのばすことが多かった。MU《ムウ》大戦のときに一度は壊滅したのに、みごとに首都圏として復興した大阪よりは、戦災をのがれ古さを残している神戸にいくことが多かった。須磨《すま》の海岸で打ち寄せる波に足首を洗われて、そのくすぐったさに笑いあったり、モトコーの怪しげな店で怪しげなアジアの小物を見たり、昭和の香りを残す古いホテルでカフェを飲むのが楽しかった。
六甲山から見おろす夜の神戸はとても美しい。神戸は山が海際まではりだし、山と海のはざまにひろがった細長い街である。夜ともなれば、街の明かりが地上にひろげられた銀河のように横たわるのだった。
「きれい。まるで宝石箱をひっくりかえしたみたい」
「ありがちな表現だよ」
「じゃあ、なんていったらいいの」
「夜空にむかっておろされたシャンデリアとか、さ」
「シャンデリアにしては数が多すぎるわ。星空にしては少ないし、やっぱり宝石箱をひっくりかえしたっていうのがぴったり……」
「遙……」
言葉途中でとうとつに名前を呼ばれた。
「え?」
と樹《いつき》を見る。かれはいつになく真剣な表情だった。体の奥が一瞬にして熱くなるのがわかった。樹《いつき》はユキハルとはちがって、肉体的な接触はほとんどもとめてこない。紳士的というよりは、そうすることへのためらいがありすぎる、といったほうがいいだろう。その樹《いつき》が心までのぞきこむように、彼女の瞳を凝視めた。遙は心のなかだけでうなずいて、樹《いつき》に少し体を寄せていった。
そっと肩が抱き寄せられる。
唇と唇が近づく。
そして、地上にもうひとつの星がともった。
だれにも見えない、ふたりだけの星だった。
「最近、どうかした?」
学食でひさしぶりに会った小夜子に、いきなりそういわれた。
「え?」
「なんかずいぶん変わった感じ。輝いてるってやつかな。ははん、さては……ズバリ恋をしてる」
どう答えていいかわからなかった。あれからたしかに樹《いつき》とつきあいはじめたが、そのことはみんなには秘密にしていた。みんなに発表するというのは気恥ずかしかったし、なにより小夜子にどう説明していいかわからなかったからだ。内心の動揺をさとられないように、なんとかこの場をうまくごまかさなければならない。
「べつにそういうわけじゃないわよ」
「ユキハルとうまくやってるんじゃないの?」
「ちょっとつきあってみたけど、やっぱりわたしとは肌があわないみたい。だから、お断りしたの」
「えー、もったいない。かれ、ああ見えても、関西財界の御曹司《おんぞうし》なんだよ」
「御曹司だろうとなんだろうと、肌があわないと……」
「遙って意外と贅沢なんだ」
「そ、恋には貪欲なの」
自分の冗談に明るく笑う遙に、小夜子は違和感を感じていた。こんな他愛のないことに笑えるのは、恋をしている証拠だ。小夜子の胸の奥で黒いものがうごめいた。
ふうっと空にむかって吐いた息が白くなる。
京都の冬は袖口から染みこむほど寒い。それでも遙と樹《いつき》はふたりでいれば、寒さなど忘れてしまえた。街にはクリスマスのイルミネーションが輝き、ふたりをきらきらと包んでいた。
イブの夜だった。
すべては恋人たちのためにある夜だった。子どものころはサンタクロースに胸をはずませ、いまは好きな人に胸をときめかせる時間だった。
遙と樹《いつき》はホテルのレストランでフランス料理を食べた。
「子どものころ、クリスマスって好きだったなあ。サンタクロースがいつ来るかって、ツリーの前で一晩じゅうおきてたんだけど、朝気がつくとベッドに寝てるの。不思議だなあって思うんだけどね、両親に聞くと、そりゃサンタさんがベッドに運んでくれたんだよって」
おいしいワインの酔いもあって、遙はくすくすと笑った。
「樹《いつき》くんはそういことなかった?」
「いや、施設だったから」
それが普通でしょ、といわんばかりの軽い言い方だっただけに、よけいにそれは遙の胸にとどいた。樹《いつき》は自分の子ども時代のことは、ほとんどしゃべろうとしない。どこかの施設にいたらしいのだが、そこがどんなところだったのか、どんな少年だったのか、なにもいおうとしない。遙には絶対に踏みこませない領域だった。
ふっと楽しい雰囲気が逃げてしまいそうになるのを、遙は必死でつかまえようとした。
「じゃあ、もしかして、わたしがはじめてのサンタさんかしら」
できるだけ楽しそうにいって、用意しておいたプレゼントを渡す。樹《いつき》はまるで子どものように目を輝かせて、包みを開け、中身を見ると小さな歓声をあげた。
「ありがとう。前から欲しかったんだ」
なんのことはない金属片に見える。しかし、サウンド・スクウェアという商品名のそれは、イタリアの芸術家が何度も焼きいれをしたり、部分的に焼きなましたりしたもので、たたくととても澄んだいい音がする。以前、デパートで見かけたとき、樹《いつき》が長いことそれを手にとっていたのを遙はしっかりとおぼえていたのだ。
「ぼくもプレゼントがあるんだ」
樹《いつき》からのプレゼントは指輪だった。いいの? と目で問うと、樹《いつき》はいいんだ、とうなずいた。そろそろ小夜子に気がねするのも、よしたほうがいいだろう。たしかに傷つけることになるだろうが、しかたがないことだった。きょうという日をすぎれば……。
遙はリングで樹《いつき》の持っている金属片に軽くふれた。
澄んだ幸せがふたりのあいだでひろがった。
レストランを出たふたりは外には出ずに、エレベーターにむかう。あがっていくエレベーターという密室のなかで、遙の鼓動はどんどん早くなっていった。酔いのせいばかりではなく、頬がほてってくる。
これでいいのよ、と何度も自分にいい聞かせた。
幸せな日々のうちに、ふとふりかえると背後に不安がひそんでいることがある。不安は遙の目をのぞきこむと、小さな声でささやきかけるのだ。
――おまえはほんとうに樹《いつき》が好きなのかい。
――おまえが好きなのは綾人じゃなかったのかい。
――樹《いつき》にいったらどうだ。あなたはわたしが好きだった人にそっくりなの。だから、あなたが好きって。
不安から目をそらしても、それが消えさるわけではない。くすくすと笑う声が聞こえてくる。やがて笑い声は消えてしまうが、つぎにふりかえったときに、不安は以前よりもっと大きくなっている。もっとたくさんのことをささやきかけてくる。
その口をふさぐことは簡単なことのように思えた。綾人と樹《いつき》が決定的に違うところを見つければいいのだ。それがどういうことなのかもわかってはいた。ただ、なかなか決心がつかなかった。
でも、このイブの日、すべてが幸せのためにある夜ならば、それができそうだった。
エレベーターが停まる。
ドアが開く。
そして、ふたりは目を見かわした。
ことが終わったとき、樹《いつき》は充足感に包まれていた。男としての充足感だった。
二千年近くまえの今夜、ひとりの男が生まれ、すべての人に許しをあたえたという。まさにその夜、樹《いつき》はひとりの男として許されたような気がした。かれにとってのこれまでの人生は影からの逃亡だった。その影はかれがいくところ、どこへでもついて来た。ふりはらおうと思っても、できない影だった。父はかれのむこうにかならずその影を見ていた。母はそんなことはしなかったが、かれが望むようには愛してはくれなかった。父からも母からも離れて、たったひとりで京都にいるのも、その影から逃れるためだったといってもいい。それでもまとわりつづけていたものを、今夜ついにふりきったのだ。
自分で愛を抱きしめた確信がもてた。人として生きることを許された。そうした充足感に包まれたのだった。
遙もまた充足感に包まれていた。女としての充足感だった。
これで樹《いつき》を愛して生きていけると確かめられた。新しい一歩を踏みだせる気がした。小夜子には悪いことをしたと思う。でも、胸をはって説明する勇気がもてた。もし許してくれなかったら、そのときはしょうがない、と思える力がわいてきた。綾人との思い出は穢すことなく、そっと胸のうちにしまっておけるやさしさがもてた。
ふたりは幸せのうちにまどろんでいった。そして、遙は夢を見た。
綾人の夢だった。場所はあの音楽教室なのに、なぜかピアノを弾いているのは綾人で、彼女は入り口に立っていた。綾人はピアノを弾きながら、静かにたずねた。
「ねえ、遙は幸せ?」
遙は答えられない。「カトゥンの定め」はつづいている。へだてられながらもたがいに想いあう恋人同士の歌が静かに聞こえて来る。
「きみが幸せなら、ぼくはそれがいちばんさ」
そういって綾人は微笑んだ。心の底からそう思っている、という笑みだった。
「神名くん!」
思わずさけんでかけよろうとしたが、空気が糖蜜のようにねばり、遙は一歩も出ることができなかった。そのことは少しも恐くなかった。微笑みつづける綾人のほうが恐かった。
そのとなりでは、樹《いつき》が目を覚ましていた。なにか胸がざわついて目が覚めてしまったのだ。室内はまっくらだった。そこにうなされた声が響いている。苦しそうに寝返りをうつ遙をおこそうとしたとき、彼女の口から信じられない名前がこぼれてきた。
「神名くん……」
おこそうとのばしていた手が宙で凍りつく。
そんなバカなことがあるものか。いまのは聞きまちがいに決まってる。東京にいる、かつて好きだった人の名前は聞いたことがない。だけど、そんな偶然があるわけがない。そう自分にいい聞かせようとしたとき、また同じ名前を遙がつぶやいた。
「神名くん」
こんどこそはっきりと。聞きまちがいようのないほどはっきりと耳にとどいた。
心臓に凍てつくナイフがつきたてられたような痛みが走る。つきたてられたナイフは、ぎりぎりと心臓をえぐっていくが、血は一滴もでない。代わりに流れたのは涙だった。
やっぱり影からは逃れられなかった。
兄という影からは……。
神名綾人、それこそ兄の名前だった。そして、今夜、かれが抱いたのは、兄を好いていた人だった。おそらくはその胸のうちには、まだ兄への想いがあるのだろう。もしかしたら、近づいて来たのも、自分の姿のむこうに兄を見ていたかもしれない。
不思議と怒りはわいてこなかった。
それはいままでの人生が、兄の影との戦いだったからだ。しょせん、影とは勝負にならないのだ。逃げきったと思った瞬間、影はそこにまちかまえていたのだ。
凍てつくナイフでえぐられた穴が、胸にぽっかりと口を開けた。窓から漂って来るわずかな冷気が、その穴に静かに流れこんでいった。彼女がしゃべりたがらなかったから、東京にいるという遙が愛した男のことはあえて聞かなかった。影を恐れるあまり、兄のことを遙には語らなかった。信じて愛せると思った女に隠しごとをした罰がいまこの身にふりかかって来たのである。
樹《いつき》は自分を抱きしめ、静かに涙を流した。ふるえているのは寒さばかりではなかった。
涙をぬぐおうとしたとき、遙が小さくうめきながら目を覚まそうとした。樹《いつき》はすぐに背をむけて寝たふりをした。
入れ代わるようにして、遙が目を覚ます。
夢から覚めた遙は、暗闇のなかに不安といっしょに残された。さっき、暗くして、といったのは彼女自身だった。それがいまではうらめしい。樹《いつき》からもらった指輪を指でなでてみるが、不安は消えない。ぬくもりをもとめて手をのばすが、かれは背をむけて寝息をたてていた。
少し冷えてきたようだ。ぶるっと小さくふるえ、せめて下着ぐらいはつけておこうと、サイドボードのスイッチに手をのばす。
室内が明るくなり、あまりのまぶしさに目をしばたたく。遙はベッドから降りると、かれをおこさないように静かに下着をつけ、それからエアコンの設定を少しあげた。
そのときだった。樹《いつき》が寝返りを打ったのは。
はだけられた毛布のあいだから、かれのたくましい腹部が見える。遙はそれを見て、反射的に口に手をあてた。さもないと、声がもれそうだったからだ。
樹《いつき》の腹には複雑な、まるで文様のようなアザがあった。
異様なアザをはじめて見たおどろきに声をあげそうになったのではない。見たことがあるからだった。
中学のころ、授業の水泳の時間だった。授業の前に綾人に呼びだされ、おどろかないでほしいといわれた。そのときはなんのことだかわからなかったが、プールサイドにいるかれの腹部を見て納得した。そこにはたしかに大きなアザがあった。しかし、それは驚くようなものではなく、遙にはむしろ好ましくさえ思えた。
そのアザが、いま時をへだてて目の前にあった。
遙は打ちのめされたようにおののき、下着姿のまま壁によりかかった。
かれがしゃべりたがらなかったから、東京にいるという樹《いつき》の兄のことはあえて聞かなかった。不安を恐れるあまり、綾人のことを樹《いつき》には語らなかった。信じて愛せると思った男に隠しごとをした罰がいまこの身にふりかかって来たのである。
樹《いつき》はうっすらと目を開けて、彼女を見ていた。
かれとしては賭けだった。もし、彼女がアザを見ても兄のものと同じだと気づかなかったら、なにもかもなかったことにして封印してしまおうと思っていた。だが、彼女は気がついてしまった。
寝入る前までの幸せなぬくもりは消え、冷めたなにかがふたりのあいだに横たわった。
時計は十二時すぎをさし、イブという魔法の時間はすぎさっていた。
ふたりにとっての魔法の時間も終わったのだった。
翌日、街は一変していた。きのうまで星のように美しく輝いていたイルミネーションは光をうしない、街を飾っていた化粧板も安っぽい絵の具の色をあらわにしている。
まだクリスマスという残り香はあるものの、寂寞とした冷たさがひろがりはじめた街を、樹《いつき》は無言で歩きつづける。遙とはぎくしゃくしたまま別れた。
関係は修復できるのだろうか。自分たちはここを新たな出発点に、もう一度いっしょに歩みはじめることができるのだろうか。何度も何度も、かれは自問した。そのたびに同じ疑問が返ってくる。
――兄を愛した人と? 兄が愛した人に?
はたしてそれができるのかどうか、自分ではわからなかった。ただ、彼女をうしないたくない、という気持ちも強かったことは事実だ。
遙もまた同じように自分に問いかけながら、昼の娼婦のように薄汚れた街を歩いていた。
――愛した人の弟を? 愛された人の弟に?
彼女もまたかれをうしないたくない、という気持ちが強かったことは事実である。
樹《いつき》はマンションのエレベーターを降りて、自分の部屋の前に人影がいるのを見ておどろいた。人影は小夜子だった。
「樹《いつき》さん……」
一睡もせず、泣きはらした目だった。
「遙といっしょだったんですか? なんであんな女と」
「あんな女? 友だちだろ?」
樹《いつき》は疑問に疑問で答えた。
「友だちなんかじゃありません。最初に会ったときから気に入らなかったんです」
「でも仲良くしてたじゃないか」
「女は、自分を引き立ててくれる同性を本能的に嗅ぎわけるんです。相手も、自分にないものをすべてもっている同性にあこがれをいだくんです。おたがい打算です」
すべては打算だった。樹《いつき》のつぎの言葉も。
「美嶋《みしま》くんとはいっしょじゃないよ」
「ウソ」
「ウソじゃないさ。どうやったら信じてくれるかな」
樹《いつき》はいつものように微笑んでみせた。小夜子は疑わしげな目をしてはいたが、溺れる人間がワラにさえつかまろうとするように、たとえウソだとわかっていてもそれにすがりつきたかった。
「だから帰りたまえ」
「でも……」
「帰りたまえ」
きっぱり拒絶するようにいうと、樹《いつき》は部屋にはいり、ドアを閉めた。しばらくドアのむこうでかれの名前を呼ぶ声が聞こえていたが、やがてそれもとだえた。
自分が汚い人間だということを、自分が傷ついたから、そのぶん人を傷つけているだけのことだということも、樹《いつき》はじゅうぶんわかっていた。わかっていながらウソをついた。そのことでよけいに自分を傷つけた。傷つけずにはいられなかった。兄がいない以上、兄とそっくりな自分を傷つけるしか道を見いだせない不幸な人間だった。
遙は荷物をまとめていた。夏休み帰らなかったぶん、正月にはかならず帰省しろと母親からつよくいわれていたからだ。きのうまでは名古屋に帰るのは気が進まなかったが、いまはむしろすくわれるような気分だった。
家で出迎えてくれたのは母親と、そして、様子のおかしな恵だった。もう四歳になるのに母親に抱かれ、指をしゃぶっているのだ。しばらく見ないうちに変わってしまった妹に、遙はおどろきの声をあげた。
「どうしたの?」
「話せば長いわ、とりあえず家にはいってちょうだい」
ひさしぶりの家はどこか空気が違う感じがした。ひさしぶりだから、というだけではなく、なにかがたしかに変わっていた。
洗面所で手を洗おうとして、それがなにかわかった。おいてあるコップに青い見慣れない歯ブラシがさしてあったのだ。
「かあさん、これ……」
しかし、母は恵に目をやってから、小さく首をふった。恵のまえではしゃべれるようなことではないらしい。
ようやく母親が重い口を開いたのは、夜もふけ、恵が親指をしゃぶりながらぐっすり眠ったあとだった。
「再婚しようと思うの」
「再婚?」
考えてもいなかった事態に、思わず声が裏返ってしまった。
「ちょっと待ってよ。そんなこといつ決めたの」
「いつって、相談しようにも、あなたは帰ってこなかったじゃないの」
そういわれると、二の句がつげない。
再婚しようと思っている相手は、母のパート先の従業員らしい。なんでもむこうもMU《ムウ》大戦で奥さんをなくされたとかで、たがいに惹かれあったというのだ。それにしても……。
「おかあさんは、おとうさんのことあんなに愛してたじゃないの」
ふたりがいかに惹かれあっていたかは、子ども心に遙にもわかっていた。あのころ、父と母はケンカすることもなく、出かけるときもいつもいっしょだった。いまでも彼女にとっての理想の夫婦は、実の父と母なのだ。
「今年の頭だって、お屠蘇に酔っておとうさんのこといまでも愛してるっていってたじゃない」
「それはそうよ。……だけどね、天国との長距離恋愛に疲れちゃったのよ。それに、電話したくても天国の電話番号知らないし……」
母はつらそうに言葉を切った。
「おかあさんだって母親であるまえに女なのよ。あなたももうおとなの女だからわかるでしょうけど、ひとり寝はさびしいの」
ひとり寝といわれて、きのうの晩のことが思いだされる。ふたりで寝てもさびしい夜というものがあることを、遙はようやく知ったのだった。
「もしかして、恵の赤ちゃんがえりは、そのせい?」
母はすまなそうに視線をそらせた。
遙は混乱していた。父がなくなってから母がひとりで苦労して自分や恵をここまで育ててくれたのは理解しているし、感謝もしている。娘としては父を忘れるような行為を許すことはできないかもしれないが、女としては母が幸せになることに反対するつもりはない。しかし、その結果、恵に精神的な影響が出るのはどう考えても許せることではない。
「母親が女として幸せを追ったらいけないのかねえ。その罰なのかも……」
ぽつりとつぶやいた言葉が遙の胸につきたってくる。
――もしかして、これはわたしへの罰でもあるかもしれない。
遙はそう思った。
――わたしが樹《いつき》くんと遊んでばかりいなかったら、恵がこんなになる前にどうにかできたかもしれない。母から電話をうけても、なにかと理由をつけて時間をひきのばしてしまったのは、わたしなんだ。それに樹《いつき》くんにあのことを隠したりしたから、きっとこれは天罰なんだ。
すべてが自分の罪のような気がして、遙はため息をついた。母親はそれを自分に対する非難とうけとめた。
「だから、こうやって遙に相談してるんじゃないの」
遙はもう一度ため息をついた。
樹《いつき》はもう一度ため息をついた。
携帯をとりあげ、遙の番号を押す。しかし、発信することはできなかった。こんな卑怯な男が、いったい彼女のなにを責めることができるというのだろうか。
そのとき、携帯が鳴った。見たこともない番号からだった。見たこともない番号からこの携帯にかかってくるとき、それはたったひとつの場所からだった。
「はい。如月《きさらぎ》です」
しばらく沈黙ののち、低い声が聞こえてきた。
「わたしだ」
「あなたでしたか」
かけてきたのがだれかわかり、自分の声が冷たくなっていくのを樹《いつき》は感じていた。
「なんのご用でしょう」
「D1アリアの解析が遅れているという報告があった」
「その件に関しては、もう遅れることはありません。ご心配なく」
「ほう、自信たっぷりだな」
その声は、なにもかも知っていそうな響きがあった。
「多少の遅れはとり戻せます。ご安心ください」
「そうか。では頼んだぞ」
「おまかせください」
「そういえば……」
携帯のむこうの相手がなにかいいだそうとする前に、樹《いつき》はぴしゃりとそれを拒絶した。
「なにかまだおっしゃりたいことが?」
「いや、なんでもない。……元気でやってくれ」
「はい、あたたかいお言葉、ありがとうございます。そちらもお元気で」
樹《いつき》は一息でいうと、もうそれ以上聞きたくないとばかりに乱暴に携帯を切った。そして、手が血の気をうしなうほどの力で携帯を握りしめる。
「あなたは!」
怒りが喉をついて出たが、そのつづきは喉にはりついたままだった。ぶつけることのできない怒りはかれのなかで、黒く硬いとぐろを巻きはじめた。
樹《いつき》がそうやっているころ、遠くはなれたある場所で、ひとりの男がため息をついた。樹《いつき》が悲劇に巻きこまれないようにと思って電話をしたのだが、どうやら遅かったようだ。なぜかはわからないが、男はそれを確信した。
ふと手許がぼやけはじめた。男は右目の視力矯正装置を調節したが、視界ははっきりしない。
「歳をとると、涙もろくなるな」
男はひとりごとをいうと、またため息をついた。息子とうまく話すことができない、ぶきような父親のため息だった。
結局、恵を連れて心療内科めぐりをしたり、自分も情緒不安定になってしまった母親の相手やらなにやらで、遙が大学に戻ったのは二月にはいってからだった。
そのあいだ、樹《いつき》とはほとんど連絡がとれなかった。こちらもいそがしかったし、むこうも論文やらなにやらでいそがしかったようで、電話が通じてもほんの二、三分話しただけで切れてしまう。遙は家族のことは樹《いつき》には相談できなかった。たとえ、自分とのあいだになにがあろうと、かれのことだ、そんな相談をしたら、親身になって考えてくれるだろう。それが遙には負担だった。樹《いつき》を傷つけ、そのうえ甘えることなど、できそうになかった。
ひさしぶりの大学は、なにか以前とは違う雰囲気に感じられた。わずか二月ほど来なかったというのに、知らない世界にまぎれこんでしまったような違和感をおぼえる。
構内で偶然樹《いつき》に会った。
「ひさしぶりだね」
いつもと変わらない樹《いつき》の笑みは、しかし、遙にはどこか違う風に思えた。
「こっちに戻るからって留守録いれといたんだけど、聞いてくれた?」
「うん。だけど、なんかいそがしそうだからね。ぼくのほうから連絡するのはやめとこうって思ったんだ」
「樹《いつき》くんもいそがしそうね」
「ああ、ちょっと論文をまとめなきゃならなくなってね」
ふっと会話に間ができた。
以前はそんなことはなかった。しゃべってもしゃべっても話題はつきることはなく、とめようと思ってもできなかった。思いかえしても実のある会話ではなかったかもしれないが、樹《いつき》としゃべることだけでじゅうぶん幸せになれたのだ。
会話の間に風が吹きこんだ。
「じゃあ、教授のところにいかなきゃならないから」
「ごめんね。引きとめたりして」
「少し時間ができるようになったら電話するよ」
そういって樹《いつき》はさっていった。
樹《いつき》はふりかえらなかった。ふりかえらずとも、遙が背をむけて自分の道を歩みさっていくのがわかっていた。
――ユークリッド空間で交差する二本の直線みたいなもんだったんだ。一点では強く結びつくが、あとは離れていくだけだ。
自分にいい聞かせるようにつぶやいてみても、凍てつくナイフで開けられた胸の穴からは血があとからあとから流れでていた。
遙もふりかえらなかった。樹《いつき》とのあいだのことは、小さな誤解のうえにできた大きなあやまちだった。もう二度とこんなあやまちはくりかえすまい、と心に決めた。
その翌年のことである。遙はとてもなつかしい人と再会した。
「おひさしぶりです」
「ああ、きみも元気そうだな」
そういって微笑む顔は、以前と変わらなかった。
「紹介しよう。かれは功刀仁《くぬぎじん》」
功刀《くぬぎ》と呼ばれた男は、礼儀正しく頭をさげた。浅黒い肌の眼光鋭い男である。
「元統自の一佐でね。いまはぼくの下で働いてもらっている。……美嶋くん」
「もうしわけありません。母が再婚したので、いまは紫東《しとう》姓を名乗ってます」
「わたしもいまは名前が違うんだ。……きみの論文は読ませてもらったよ。『東京ジュピター内住民の記憶改変の可能性について』。なかなかするどい論考だと思う」
「ありがとうございます」
「どうだろう。そこらへんもふまえて、うちへ来ないかね」
右目の視力矯正装置がわずかに動いて焦点を調節する。
遙はとつぜんの申し出にどう答えていいのかわからなかった。彼女がためらっていると、功刀《くぬぎ》と呼ばれた男が口を開いた。
「きみは思い出をとり戻すつもりはないのかね?」
「え?」
「われわれにはその力がある」
「われわれ?」
「人がなくしたものをとり戻すための組織だ」
遙はおどろいたように目を見開き、かつて愛した人の父親を見た。かれは、だまってうなずいた。
遙は決心した。
樹《いつき》は自室で絵筆を握っていた。目の前にはまっしろなキャンバスがある。描く題材は決まっていた。海にはりだした崖の上で、彼方を凝視める少女の姿だ。その題材はずっと以前、十代の前半のころ、天啓のようにかれにふってきた。何度か絵にしてみようと思ったのだが、何度チャレンジしてもうまくいかなかった。そして、またこうやってキャンバスにむかおうとしている。
だが、樹《いつき》は絵筆を走らせることができなかった。頭のなかにある少女の姿がどうしても遙に思えてならなかった。それも、一度アルバムで見せてもらった黄色い服を着ている彼女の姿に、である。
樹《いつき》は絵筆をおき、ため息をついた。そして、手のひらに顔をうずめ、小さく嗚咽をもらす。
胸の穴から哀しい血が流れはじめた。
かれにはわかっていた。その穴が一生ふさがらず、永遠に血を流しつづけるであろうことを。
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第四章 夜のピアノ
四月のまだ肌寒さが残る日曜日、非番の三輪《みわ》一尉はひさしぶりに御茶ノ水に出かけていた。ショパン・コンクールに日本人として何年かぶりに入賞をはたした女性ピアニストのリサイタルだ。とてもいいリサイタルだった。ピアノという楽器はそれこそ大砲のように大きな音から、衣ずれのような繊細な音までだせる。それを彼女はたくみにこなしてみせ、まだ若いながら曲の解釈にも独自の深みをあたえていた。なるほどショパン・コンクールに入賞するだけのことはある。ひさしぶりに音楽に全身をひたした満足感とともに、三輪はコンサートホールの階段を降りかけた。
「三輪さん?」
さんづけで呼ばれるのはひさしぶりだった。高校のころの同級生だろうかとふりむくと、そこに涼しげな眼があった。
「功刀《くぬぎ》一尉」
おどろいてパンフレットを落としそうになってしまう。職場の同僚であるかれがいたことに、というより、かれに「さん」づけで呼ばれたことにおどろいたといってよかった。
「びっくりした。まさか、こんなところで会うとは思ってもいませんでしたわ」
「ぼくもですよ。いやあ、三輪さんがピアノリサイタルに来るなんて思わなかったな」
「わたしがこんなところに来てはヘンですか?」
「イヤ、そういうわけじゃありません」
功刀《くぬぎ》はまいったなあと小声でいいながら、左手で頭をかいてみせた。薬指にはなにもはまっていなかった。
男性と出会ったとき、つい左手の薬指に目がいってしまう。三輪忍はいつのまにかそんな歳になってしまっていた。家に帰ると、両親もそれとなくいい相手はいないのか訊いてくる。べつに結婚がしたいのではない。ただドラマや小説などで目にするような恋がしてみたいと思っているだけだった。不倫はいやだった。だから薬指を見てしまうのだが、心のどこかでは二十代の恋は結婚を視野にいれねばならない、と思いこんでいたことも事実だ。
「おわびといっちゃあなんですが、お茶でもしませんか?」
とつぜんの申し出に、三輪はとまどった。ううん、申し出なんて堅苦しく考えるのがいけないのよ。彼女は自分にいい聞かせた。
――ただ偶然、職場の同僚に会ったから社交辞令としてお茶に誘ってるだけだわ。でも、だからってうれしそうに尻尾ふってついてったら、安く見られるでしょうね。
「少しでしたら」
彼女はわざと時計を見て、あまり時間はないの、というような顔をした。
「よかった。断られたら、どうしようかと思ってました」
功刀《くぬぎ》はそういって笑った。少年のような笑顔だった。
「近くに学生時代からかよってた喫茶店があるんですよ」
ええ、とうなずき、ならんで歩き出す。
「そういえば、功刀《くぬぎ》一尉は一般大学でしたね」
「ええ、それも歴史民族学なんていう自衛隊とはかけはなれた専攻です。親にも自衛隊にはいるんなら授業料返せっていわれました」
そのとき、彼女はふとあることに気づいてくすくすと笑った。
「なにかヘンなこといいましたか?」
「違います。ほら、自分たちは職業柄《しょくぎょうがら》、どうしてもならんで歩くと、歩幅も歩調も同じになってしまうでしょ。でも、あなたは違う」
自衛隊員はならんで歩くと、どうしても行進してしまう。それはほとんど職業病といっていいほどだ。なのに、かれはちがった。彼女をおいていくというのではなく、歩調をあわせずにごく自然にとなりを歩いている。それにさっきから官位ではなく「さん」づけで呼ばれている。だからといって、悪い感じではない。それがくすぐったく思われて、つい笑ってしまったのだ。
彼女が功刀《くぬぎ》を意識した瞬間があったとしたら、この歩調の違いに気がついたときだろう。
連れていかれた喫茶店はいかにも古くから学生街でやっているような店だった。壁は長年のタバコと、学生たちの論議と、ジャズがしみこんで茶色く古びている。マスターもきっと三十年ぐらいまえからいまの風貌ではなかったのかと思わせるような人だ。
運ばれて来たコーヒーは香りもよく、値段のわりにはとてもおいしいものだった。
「歴史民族学って、どんな学問なんですか?」
三輪がたずねると、功刀《くぬぎ》はまいったなあという顔で頭をかいた。
「ひとことでいうのはむずかしいですね。歴史のうねりみたいなものを民族の観点から見ようってこと、っていえばいいんでしょうか。たとえばマヤ文明はなぜジャングルに呑みこまれてしまったのか、新大陸の金によってヨーロッパがどううるおったか、その結果、ヨーロッパの民族地図はどう変わっていったのか。そういうことを考える学問ですね」
「でも、なんでそんな人が自衛隊に?」
功刀《くぬぎ》はまた頭をかいた。何度も人に説明しているが、だれもわかってくれない、というような顔だった。
「歴史って、おきたことの解釈でしかないんですよ。結局、自分のやっている学問は現実の変化になんの関係もない。変化がおきてからでしか、なにかを語ることはできないんだ、って思ったらむなしくなってしまって……。で、気がついたら自衛隊にはいってました」
たぶん、かれなりにいろいろ悩んだ結果なのだろうが、あまり語りたくはないようだった。三輪にはそれ以上聞くつもりはなかった。
少なくとも功刀《くぬぎ》は彼女よりは自覚的に自衛隊にはいったことだけはたしかだった。
三輪が育った家は軍人一家だった。軍人という言い方が悪ければ、自衛隊一家といってもいい。ご先祖さまは江戸の由緒正しい旗本、曽祖父は陸軍軍人、祖父も父と兄も自衛隊員だ。母方もそうで、おじは現幕僚長《ばくりょうちょう》である。そんな家だったから、小さいころから自衛隊にはいるのはごく当然のことと思っていた。
ただ、このごろはそれが正しかったのかどうか疑問に思えてきた。最初のころ、なにもかもが慣れずにあたふたとしていた期間がすぎ、少しおちついて周囲の状況が見えるようになってくると、組織というもののかかえている欠陥が目についてくるのだった。
「自衛隊にはいって、どう現実とかかわろうと思ったんです?」
「痛いところついてきますね」
功刀《くぬぎ》はそういって笑った。苦い笑いだった。
「民族の壁って、意外と厚いんですよ。歴史をやってると、そこらへんのことがよくわかります。政治的なイデオロギーじゃ越えられない。たとえば、前世紀に中越紛争ってありましたよね。それまでは共産主義国家同士の紛争なんてありえないってされてたんですよ。これってつまり、政治的なイデオロギーは民族の壁を越えられないって証明になってしまったんです。民族の壁を越えるイデオロギーは宗教しかありません。でも、それは排他的なイデオロギーでしかない。宗教と宗教がぶつかりあうと、民族と民族がぶつかりあうのより悲惨な結果になります。だから、宗教屋にもなれない」
功刀《くぬぎ》はちょっと間をおき、かわいた舌をコーヒーでうるおすと、また雄弁に語りはじめた。
「結局、民族の壁を越える最終的な手段って、話し合いしかないと思ってるんです。国連ですよ。国連を中心として、国家間、民族間、宗教間の軋轢《あつれき》をできるだけ排除していかねばならないと思うんです。まあ、世界が平和になる確実な方法はひとつだけあるんですよ。宇宙人が攻めてきてくれたら、すぐにでも民族の壁を越えて、手をとりあうと思うんです。夢物語ですけどね」
かれはそういって笑ったが、この会話のほんの数年後にそれが現実のものになるとは、かれも三輪も知らなかった。そして、その結果、平和な世界はやはりおとずれなかったということも。
「夢物語は横におくとして。国連を中心にした世界を考えていくと、どうしても武力っていうものを考えなきゃいけないと思ったんです。平和的な目的にのみ使用する武力を。そのために自衛隊にはいろうと考えたんです。日本は他国を侵略することを永久に放棄した国家、すなわち持てる武力のすべてを平和に投入できる唯一の国家ですから」
青臭い。そう切って捨てるのは簡単だった。現実的でない。というのも楽だった。しかし、あえてそれをはっきりと口にできる功刀《くぬぎ》という男が、三輪にはとても新鮮に感じられた。三輪にとって自衛隊にはいるのは家の問題であって、世界の平和の問題ではなかったからだ。
そのあと話は世間話になっていったが、彼女の心の奥にはいつまでも功刀《くぬぎ》の語った夢がのこっていた。他人のものとはいえ、それは彼女が抱いたはじめての夢だったかもしれない。
それから三輪は同じ職場の同僚である功刀《くぬぎ》のことが気になってしまった。彼女の勤務先は統合自衛隊市ヶ谷庁舎C棟、いわゆる情報調査室である。功刀《くぬぎ》は経歴も変わっているが、空自からの出向というめずらしい形をとっている。空自としては、ゆくゆくはかれを情報分析にたけた指揮官にしようと思っているらしかった。
かれらの仕事といえば情報の収集と分析だが、収集はベテランにまかせられ、若手は分析が主である。といっても国家の機密にかかわるようなものではなく、日々の情報の流れのなかから不穏な動きを見つけ出すという、言葉でいうとすごそうだが内実は地味な作業の毎日だった。
そうした作業をつづけてふと顔をあげると、目はいつのまにか功刀《くぬぎ》のほうに流れていった。真剣な眼差しのかれ、ディスプレイを見つづけて疲れた目をもんでいるかれ、膨大な作業に圧倒されて思わず嘆息をついているかれ、同僚と笑っているかれ、あくびしているかれ、かれ、かれ、かれ……。いけないと思っても、目は磁針《じしん》が北をさすように自然にかれにむけられてしまう。
「あら、ひさしぶり」
庁舎内のコンビニで声をかけられた。防衛大学時代の親友、綾莉《あやり》からである。
「ひさしぶり、元気にしてた?」
「元気よ。きまってるじゃない」
綾莉はそういって、豪快に笑い、名前にはそぐわない太い腕で三輪の背中をばんばんとたたいた。
「空挺《くうてい》じこみでたたかれたら、背中折れちゃうわ」
「だいじょうぶ。人間の背骨はかなりじょうぶにできてるから、折るにはこつがいるんだ」
彼女は冗談とも本気ともつかないことをいって、また笑った。大学時代はことあるごとにメールしたり、携帯していたのだが、職場が分かれてからは連絡がとだえがちになっていた。こんなところで立ち話もなんだからと喫茶コーナーにいくと、綾莉は学生時代のあだ名で話しかけてきた。
「しのっち、なんかいいことでもあった?」
「べつに」
「そう。でも、さっきひとりで買い物してるときもずいぶん明るく見えたよ。ほら、しのっちはさあ、ひとりでいるときもどこか矜持《きょうじ》を正しくしてるところあったから」
「ひとりでいるときに背筋ピーンとしてたり、笑ってたり、わたしはバカですか」
ふたりは声をあげて笑う。三輪はひさしぶりに笑った気がした。
「そうえいばさあ、わたし、結婚するんだわ」
三輪は飲んでいたコーヒーを吹きそうになってしまった。怒られるのを覚悟でいうなら、結婚という二文字からもっとも遠く思えるのが彼女だったからだ。身長は百八十を越え、学生時代は柔道でならした体はがっちりとして、腕なんかもへたな男よりも太い。その彼女が結婚だなんて。
「そんなにおどろかなくてもいいでしょ。……って、いちばんおどろいてるのはわたしなんだけどさ」
「わたしの知ってる人?」
「知らないんじゃないかな、たぶん。統括部の林三佐」
三輪は知らなかったが、綾莉の話では五つ年上で身長は彼女より低いという。
「お見合いでもしたの?」
「それがさあ、ひょんなことから知り合いになったのよね」
林三佐とはある研究会でたまたまとなりあわせになったのが縁だという。彼女自身は結婚など半分あきらめていたのだが、かれのほうがかなり強引に申しこんできたという。
「いいなあ、強引なんて。愛されてるってことじゃない。わたしもそんな人とめぐりあえるかしら」
「だいじょうぶよ。こんなわたしでも結婚できたんだから、しのっちは絶対だよ」
そういいながら、さりげなく左手を見せる。そこには大きな石の婚約指輪がはまっていた。綾莉の顔に、勝者の余裕といった感じの笑みがうかぶ。
「じゃあ、近々、林綾莉になるんだ」
「そ、悪くない語感でしょ」
「うん、いいんじゃない」
そういいながら頭の片隅では功刀《くぬぎ》忍という名前をもてあそぶ。いいえ、婿にはいれば三輪仁よ。三輪仁っていうのも悪くない語感よね。
「どうかした?」
三輪はあわてて首をふった。どうやら気づかないうちに口元がゆるんでしまったらしい。そんなありもしない想像をしている自分がたまらなく恥ずかしくなった。
「わ、もうこんな時間だ」
彼女がいいわけを考える前に、綾莉のほうが時計を見てすっとんきょうな声をあげた。
「きょう、こっち来たのも、林三佐の上官に会うためなんだ。だから、遅刻するわけにはいかないの。また連絡するから。式にはちゃんと来てよ」
あたふたとそれだけいうと、彼女は足早にさっていった。そのうしろ姿を見送りながら、三輪はそこに結婚にむかって走っていく女の幸せを見た。
――結婚かあ……。
「おまえもそろそろ結婚を考えたらどうだ」
ちょっと顔をだせといわれたので、ひさしぶりに家に帰ったとたん、父親に書斎に呼びばれて、そういわれた。いきなりな言葉にとまどい、視線をそらす。父の書斎にはたくさんの本があった。子どものころはこの部屋にはいると、その量に圧倒されたが、おとなになってみると、世界文学全集とかそういう、読む本ではなく見せる本のたぐいだったことがわかる。
「おじさん経由でな、お見合いの話がきている」
いまはそうでもないが、ひとむかし前まで警官や自衛官の結婚となれば、本人はいうにおよばず親族まで身元をさぐられたものだ。シュギシャがいてはこまるからである。幕僚長《ばくりょうちょう》のおじが勧める相手となれば、さぞかしごりっぱな経歴に違いない。おそらく三輪家と同じ軍人一家なのだろう。
「まあ、会うだけあってみたらどうだ」
そういいながら父は彼女に見合い写真をわたした。ごくふつうのおとなしそうな青年だ。見た瞬間に、ふたりのあいだに生まれる子どもの顔立ちから、結婚生活までが想像できてしまう。そんな感じの若者だった。娘が返答に窮していると、父はゆっくり考えろといった。その口調は不機嫌そうだった。おそらく、娘は素直にうなずいてくれるものと思っていたに違いない。
「見合いですか?」
どう考えていいのかわからなくなった三輪は、なぜか功刀《くぬぎ》に相談してみた。見合い話があるのだが、受けるかどうか悩んでいる、と。
「こんなこと、ぼくがいうのもなんですけど、見合いで結婚したからって幸せになれないわけじゃない。恋愛で結婚したからって幸せになれるわけじゃない」
その言葉にふくまれる苦さに、三輪は気がつかなかった。
「ようは男と女の出会いでしょ。悪くいえば出会い系サイトで出会ったって幸せな結婚はできますよ。だいたい、いまはむかしよりずっと自由ですからね、見合いしたからってその人と結婚しなきゃいけないわけじゃないでしょ」
「つまり、功刀《くぬぎ》一尉は見合いしてみろと?」
「ええ、それもいいんじゃないですか?」
「わかりました。あなたのお考えが」
自分でもわかるほどつっけんどんにいうと、三輪は踵をかえし、あっけにとられる功刀《くぬぎ》を残して足早にその場を立ちさった。歩きながら彼女は自問した。
――わたしはなにを怒っているんだろうか。
――功刀《くぬぎ》一尉からどんな言葉がかえってきたら、満足したんだろう。あなただって職場の同僚から、見合いしろって親がしつこいんです、なんていわれたら、同じような答えをかえしたんじゃないの?
――やめろっていわれると思ったの? そんなことあるはずないじゃない。
三輪の歩幅が短くなり、やがてとまった。
――そんなことあるはずないじゃない……。
そう思うと、なぜか涙がこぼれそうだった。どうして涙がこぼれそうになるのか、自分でもよくわからなかった。あるいはわからないふりをした。
三輪は小さく息をつくと、携帯をとりだした。庁舎内での携帯は使用を厳禁されているが、なに、かまうものか。そして、父親と連絡をとり、見合いの話を進めてくれ、とだけ伝えた。
見合い当日、その日は朝からいい天気だった。きっと小太りのおばはさぞかし上機嫌で和服に袖を通して、ご自慢のオパールの帯留めをつけていることだろう。三輪本人はといえば制服に身を包み、鏡の前でためつすがめつ点検した。化粧も決まっている。制服もしみひとつない。ただ、顔には作戦前のような緊張感があった。
「いいのよ、これで」
三輪はそう自分にいい聞かせると、官舎の自分の部屋をあとにした。
中央線で新宿で降りる。ホームの階段から左に出れば、約束の西口の高層ホテルだ。ところが、三輪は最後の一段を踏みおろせなくなった。これでいいのかという疑問が、もくもくと頭をもたげ足が凍りついてしまったのだ。
足早な東京の人間が、じゃまくさそうな一瞥《いちべつ》をくれて、凍りついたような彼女の脇を幾人もすりぬけていく。
ようやく三輪が動いた。左ではなく、右にむかって。
気がつくと、彼女は新宿御苑にいた。生まれてはじめての御苑だった。新宿にはよく来ていたが、御苑に足を踏みいれることはなかった。はじめてはいってみると、中は想像していたよりもひろく、しかも静かだった。ときおり、風にまじって親子づれの歓声が聞こえてくるぐらいだ。ビルの谷間のたよりない陽の光ではなく、さえぎるもののなにもない春の陽射しが足元まであたたかくさしこんでくる。ときおり見かける人たちも、外で見るようなぎすぎすした雰囲気ではなく、どこかなごやかなおちついた空気をまとわりつかせているようだ。外とは隔絶した世界だった。
三輪は中央の広場にむかった。そこには桜の木があり、すでに葉を青々としげらせている。桜の季節は終わっていた。名残《なごり》のように根元に茶色く変色した花びらが数枚落ちている。もちろん、だれも見あげるものではない。
花の盛りはすぎ、かえりみられることもなくなった桜。
三輪はふと自分の年齢を思った。ひとむかし前なら、クリスマス・イブだの当日だのと、揶揄された年齢を越している。見られていると思っているうちに、花を散らしてしまったのだろうか。いや、そんなことはない。小さく首をふって、桜の古木の前をはなれ、彼女は広場をわたっていった。
広場のむこうは木々が密集し、まだ肌寒さの残る春の風が足元を流れていく。ほとんどだれもいない道を、三輪はなぜか足早に歩いた。
そのとき、携帯が鳴った。
だれからかかってきたかは、わかっている。おばに決まっている。きっとあの渥美清《あつみきよし》に似た眉間のほくろのあたりにしわをよせ、いらだたしげに電話しているに違いないのだ。
脳裏を葉桜がよぎる。
――いまならまだ間に合う。電車のつなぎが悪かったとでも、なんとでも言い訳がつくわ。
三輪は小さくため息をつき、携帯に出ようとした。そのとき、木立のむこうに薄紅色の群《むれ》を見つける。それはソメイヨシノではなく、八重《やえ》の桜だった。だれにも見られることもなく、しかし、それはいまを盛りと花をつけていた。それも薄い花ではなく、重たいほどの紅色の花を咲かせていた。
開きかけた携帯を閉じてポケットにしまうと、三輪は歩幅を大きく歩きはじめる。ポケットのなかでは携帯がいらついたように着メロをくりかえしていたが、そんなことは気にもとめなかった。
花の盛りはだれが決めるのでもない。その花が決めるのだ。
長い一日が終わろうとしていた。おばに断りの電話をいれ、ヒステリックな声がかえってくる前に切った。そして、新宿のデパートで服や小物を見てから官舎に戻ってみると、入り口に父親がまちかまえていた。有無をいわさず、彼女をタクシーに連れこむと家に連れて帰った。
「恥をかかされた」
家にはいるなり、父親は怒気もあらわにいった。見合いを断るのが恥だとしたら、結婚相手がなかなか見つからない娘に適当に男をあてがうのは恥ではないのだろうか。そう思ったが、忍はだまっていた。そこへおばも現れ、応接間でふたりがかりでさんざん文句をいわれた。いわく、あなたにはもったいない話だったのを先方に頭をさげてもってきてやったのに云々、これだからちかごろの娘は云々、自衛官としての自覚が云々、せっかく朝早くから美容院でセットしたであろう髪をふりみだしておばは彼女をなじった。忍はただだまってそれに耐えるしかなかった。
「だれか好きなやつでもいるのか」
「いえ、いません」
父の問いかけに即座にそう答えたが、はたして信じてもらえたかどうかは謎である。やがておばが、三輪の家とのつきあいも考えなくてはね、と捨てぜりふを残して帰り、父親も報告書に目を通すといって書斎にひきあげてしまうと、応接間には空虚な静けさが残った。
ひとり残った忍は応接間をあらためて見まわした。
祖父の代に建てられた古めかしい家だ。だいたい、いまどき応接間なんてものがあるのがめずらしい。壁もシックハウス問題など関係ない塗り壁だし、スイス製の鳩時計もむかしのまま、応接セットも祖父の代から張り替え、張り替え使いつづけている。古い家なのだ。だから、その家に長く住んでいる人たちも、彼女のように考えたり、感じたりすることはできないのだろう。話してもむだなのだ。
「帰ろっと」
一応、母親だけには挨拶しておこうと、姿を探すと居間で古いアルバムを見ていた。
「それ、わたしの?」
母親は無言でうなずいた。のぞきこむと、色あせかけた風景のなかで幼い自分が笑っていた。
「おとうさんがね、きのう、これを見ながらお酒を飲んでたわ」
母の言葉に胸がしくりと痛んだ。母親は小さな息をつくと、老眼鏡をはずし、アルバムをゆっくりと閉じる。
「あなたも知ってるでしょうけど、わたしとおとうさまはお見合いよ。去年なくなったおばあさまにもよくしていただいて、嫁姑《よめしゅうとめ》の問題なんか知らずにすんだ。兄さんとあなたにもめぐまれたし、ふたりともりっぱに育ったし、幸せな結婚だったわ」
母親は忍をじっと凝視めた。長いあいだ夫と生活をともにした苦労が、しわとなってその顔にきざまれている。
「でもね、たったひとつだけ心残りがあるの」
「え?」
「お見合いをする前にね、好きだった人がいたの。その人に自分の気持ちを伝えずに、お見合いをして、おとうさまと結婚してしまったわ。それだけが心残り」
「そんなんじゃないわ」
「そう。なら、いいのよ」
母親はなにもかもわかってます、というような目でうなずいた。
「これだけは信じていいことがあるわ。おとうさまもわたしも、おまえの幸せを願っているのよ」
忍は深くうなずいた。涙をこらえるしかなかった。そして、小さくごめんなさいというと、彼女は逃げるようにして家を出た。
外に出るとすぐに携帯をだした。が、かける決心はなかなかつかなかった。指がボタンの上を何度も何度もためらいがちに往復する。そして、ようやく発信ボタンを押した。
「功刀《くぬぎ》一尉ですか?」
自分でも声がおかしいのがわかる。声をはずませていいのか、沈ませていいのかわからなくなっていたからだ。
「三輪さん、どうしたんです? こんな時間に」
「べつに、ちょっといろいろあって……」
「いろいろって……声が少しヘンですよ」
「そうですか。ほんといろいろあったから……。功刀《くぬぎ》一尉、なんか楽しいことありませんか? そうしたら、少しは元気になれるかも」
三輪にできるせいいっぱいの甘えのせりふだった。
「楽しいことですか。楽しいこと……。楽しいこと……」
功刀《くぬぎ》はかれらしく、彼女の甘えの言葉にまじめに返答しようとしているようだった。それがおかしくて、三輪は少し笑った。
「そうだ。こんどの日曜、非番でしたよね」
「ええ」
「外出許可とれますかね。ピアノ・リサイタルがあるんですよ」
功刀《くぬぎ》は来日した有名なアーチストの名前をあげた。発売後五分で売り切れるといわれるリサイタルなのに、たまたまチケットがあまってしまったのだという。三輪はふたつ返事でいくと答えた。前から一度はいきたいと思っていたアーチストのリサイタル、くわえて功刀《くぬぎ》からの誘いである。
電話を切ったあとの三輪の表情はさっきとは打って変わって輝いていた。
そして、もっていたバックを放りあげた。バックがひとつ、うれしそうに夜空にあがっていった。
リサイタル当日、三輪はドレスで上から下まで決めた。場所は偶然にも功刀《くぬぎ》と出会った御茶ノ水のホールである。はやる気持ちを抑えていたつもりだったが、彼女は約束の三十分も前についてしまった。ホールの前で人を待つ。それがこんなにも心はずむことだとは思ってもいなかった。
人々は三々五々《さんさんごご》集まって来る。それぞれに着飾り、小さな至福のひとときを楽しむためにやって来る。勤め帰りのクラッシックファンらしいサラリーマン、あるいは妙齢のご婦人同士、音楽関係者らしい匂いを漂わせている中年、そうした人たちがつぎつぎと三輪のかたわらを通ってホールへ吸いこまれていった。
連れだったアベックや初老の夫婦がすれ違いざま、三輪に視線を投げかけていく。男の目は美しい異性を見る眼、女の目は小さな嫉妬の眼、自分にむけられた視線が彼女にはそう感じられた。客のなかには親子づれさえいた。親子づれなんて珍しいわね、とちらりと見てから視線をそらす。すると、父親のほうから声をかけられた。
「三輪さん?」
彼女は声もなく立ちつくした。
「いやあ、あんまりきれいなもんで、見違えちゃいましたよ。あ、いや、ふだんもお美しいですよ、もちろん」
そういって目の前で笑っているのは功刀《くぬぎ》だった。そして、そのとなりには小さな女の子がひとり、不安そうな目でこちらを見あげている。
「あ、ご紹介がおくれました。ほら、ご挨拶は」
功刀《くぬぎ》にうながされ、女の子がぎくしゃくとした動きで頭をさげる。
「功刀美智瑠《くぬぎみちる》です」
女の子はそれだけいうと、父親である功刀《くぬぎ》のうしろに隠れるようにまわりこんだ。
「功刀《くぬぎ》さん……ご結婚されてたんですか?」
そういうのがやっとだった。
「ええ、知りませんでした?」
功刀《くぬぎ》はくったくなく笑った。それから三輪の視線に気づき、自分の左手に目を落とした。
「指輪ですか。結婚してすぐ痩せて、ゆるんでしまったんで、なくすといけないからはずしたんですよ」
――そうだったんだ。わたしバカみたい、ひとりで……。
三輪は一息ついて、心をおちつけた。
――なんとか乗り切れる。もうおとなだもの。
そう思って美智瑠《みちる》に微笑みをむけた。
「わたし、三輪忍、よろしくね」
それから同じような微笑みを功刀《くぬぎ》にむける。
「すみませんでした。娘さんとの親子水いらずに関係ないのが首をつっこんだりして」
「いえ、謝るほうはこっちです。ほんとうは女房が来るはずだったんですけど、仕事がはいってしまって。あまったチケットを押しつけたみたいで、ほんとうに申し訳ない」
功刀《くぬぎ》はそういって笑った。屈託のない笑いだったが、三輪には残酷に響いた。
リサイタルはどんなだったか、三輪はよくおぼえていない。感動もなにもなく、音楽は時間とともに彼女の上をただ流れていっただけだった。
功刀《くぬぎ》は終始、男ではなく父親の顔をしていた。終わってから喉がかわいたという娘のために飲み物を買ってやり、ピアノ曲はどうだったかたずね、幼い娘のつたない感想にうなずく。これまで三輪が見たことのないかれの顔だった。
「いいおとうさんですね」
「いや、とんでもない。悪い父親です」
功刀《くぬぎ》はすまなそうに美智瑠《みちる》を見て、その小さな頭をなでた。美智瑠《みちる》はべつにどうといった風でもなく、オレンジジュースを飲みつづけている。
「妻にも悪い亭主だったと思っています。いま、この子と妻は実家がある仙台で暮らしてるんですよ。きょうはたまたまこのリサイタルがあるからって、わざわざ仙台から出てきて……」
三輪はその話をさえぎりたかった。そんな事情を知ったからといってどうなるわけでもない。だが、彼女がさえぎるよりも早く、美智瑠《みちる》のほうが話の腰を折った。
「おとうさん、わたし、もう眠い」
「そうか。じゃあ、ホテルまで送っていこう」
「さようなら」
美智瑠《みちる》がそういって手をさしだしてきた。一瞬、なんの意味かわからなかったが、別れの握手だとわかってあわててその手を握った。
「きょうはありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとうね」
美智瑠《みちる》が手をひいたとき、右手に痛みが走った。あ、と声をあげてみると、手のひらに赤い小さなミミズばれが線になっていた。
「ごめんなさい」
少女はあわてて頭をさげた。
「どうしたんだい」
「あのね、わたしの爪がおねえさんの手にひっかかっちゃったの」
「だから爪を噛む癖をやめなさいっていつもいってるじゃないか。三輪さんだいじょうぶですか?」
「だいじょうぶです。べつにケガをしたわけじゃなくて、びっくりしただけですから」
「よかった。ほら、おまえもちゃんと謝りなさい」
ごめんなさいと小さくささやくようにいって、少女は頭をさげた。
「たいしたことじゃありませんから。それに、ほら、もう遅いし。美智瑠《みちる》ちゃんも眠いっていってるじゃないですか」
すまなそうに謝りつづける功刀《くぬぎ》をうながして外に出ると、三輪はやって来たタクシーをひろってふたりを押しこむようにして別れた。さっていくタクシーの後部の窓から少女の目がこちらにむけられている。
それを見て、三輪は確信した。あれはわざとだったのだ。
ミミズばれになるほどの傷がたしかな証拠だ。少女は、三輪が母親を排除する可能性がある存在だと、幼いながら女の勘で気づいたのだ。だから戦ったのだ。小さな家庭の幸せを守るために。
逆にいえば、三輪の気持ちは少女でさえ気づくほどはっきりしていたということだ。功刀《くぬぎ》も飄々《ひょうひょう》としてよくはわからないが、気づいていたのだろう。だから、こういう形で彼女にあきらめさせようとしたのだ。おそらくそういうことだ。
「とんだひとりずもうだったわけか」
三輪がつぶやいた言葉が夜空にむなしく登っていく。
――泣くもんか。
目頭が熱くなった。懸命に夜空を見あげた。
――泣くもんか。
言葉とは裏腹に、薄汚い東京の夜空がぐにゃりとゆがんだ。
翌日、上官の九鬼《くき》一佐に呼び止められた。
「どうかしたのかね」
ねっとりとした声が耳にまとわりついて来る。
「いえ、べつにどうもしていませんが」
そうはいったものの、朝、鏡でみた自分の顔は最悪だった。目ははれぼったいし、肌はぱさついていた。それをなんとか化粧でごまかしたのだが、やはり隠しきれるものではないらしい。
「そうか、ならいいんだ」
なにかいいかけたとき、九鬼の表情が凍りついた。かれの視線を追ってふりかえると、廊下のむこうを黒いコートを着た男が歩いていくのが見えた。片目には視力矯正装置をつけている。あきらかに民間人だった。
「なぜ、あの男がここに……」
九鬼がおびえたようにつぶやいた。
「一佐? どうなさいました?」
さっきの質問を上官にそのままかえす。九鬼はあわてて首をふった。
「いやいや、きみには関係ないことだよ」
そういって、なにごともなかったかのように、三輪に粘液質の笑みをむける。
「話のつづきだがね。以前からきみは優秀だと思っていたんだ。どうだろう、研究会に出てみないか?」
「研究会?」
いぶかしげにたずねかえす。
「いや、上もかかわっているが、三矢研究のようなものじゃない。もっと世界の大局を見すえたものだ」
「そういわれても、よくわからないのですが」
「これ以上はちょっとな」
九鬼は謎めいた言い方をして、唇の端をゆがめた。
「とりあえず一度顔をだしてみないか。はいるかはいらないかは、そのあと決めればいい」
さらに九鬼は綾莉の名前もだした。彼女が婚約者と出会った研究会というのは、そのことだったのだ。功刀《くぬぎ》とのことがあって、傷心の三輪は誘われるままその研究会に顔をだした。そして、そこである人物と出会った。
民間人なのに研究会の中心人物だという彼女の目をみたとたん、三輪は魂の奥底まで見透かされたような気持ちになった。
「そう。そうね。あなたの夢に形をあたえてあげる」
彼女はそういったのだ。三輪はその言葉に生涯をかけてもいいと瞬間的に思った。
三輪は自分の夢がだれにあたえられたのか忘れたわけではない。ただ功刀《くぬぎ》の夢は夢でしかなく、現実のものとする手段がなかった。たしかに研究会の手段は異論が多々あるだろう。だが、確実に実現可能のものに思えた。だから、三輪はためらうことなく研究会に参加することにした。自分に夢をあたえてくれた恩人に感謝しながら。
そして、十数年のち、功刀《くぬぎ》と三輪の運命はふたたび交差する。そのときにはすでに美智瑠《みちる》はこの世になく、功刀《くぬぎ》と三輪の立場はあまりにもわかれすぎていた。そのどちらも同じ夢から発していたというのに……。
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第五章 カトゥンの定め
綾人《あやと》は薮《やぶ》のなかを歩いていた。けもの道のようなたよりない道を歩きつづけていた。むきだしの腕はいつのまにか下ばえのトゲで切ったのだろう、痛がゆいかすかな傷がいくつもついている。
「そのうえ、この蚊だよ」
うるさそうに目の前の空を手ではらったが、蚊はそんなことは気にもとめずかれのまわりを飛びまわっている。
「なんだって、ぼくがこんなとこにいなきゃいけないんだ」
さっきから何度めかのグチがこぼれた。
かれは父親に誘われるまま、この根来《にらい》島に来た。考古学者である父親がこの島で発見された先史時代と思われる遺跡を調査するので、つきあえといわれたのだ。綾人としては遺跡調査なんて辛気くさいと思ったのだが、だからといって夏休みのあいだ家にいるのもうっとうしかった。だから来たのだが、なにもない島だった。
山が海際まで迫り、山と海にはさまれたわずかな砂浜に人々がへばりつくようにして田畑を作り、漁をして暮らしている。港にはみやげ物屋ひとつなく、漁を終えた漁船が三、四隻つまらなそうに波にゆれ、ねっとりとした南の陽の光に干された漁網が魚くさい臭《にお》いを漂わせている。東京からはもちろん、九州からも沖縄からも微妙に離れているため、ほとんど観光客も来ない。来るのは磯釣りのマニアか、へんな考古学者ぐらいである。そんな離島だった。
少なくとも少年がよろこびそうなものはなにもなかった。
父親としては自分の仕事ぶりを見せ、できるならばいっしょの夢を語りあえる仲になりたいと思ったのかもしれないが、綾人にとっては土まみれ、汗まみれの肉体労働にしか見えなかった。同僚の六道《りくどう》という人といっしょに、父親はほこりまみれになって遺跡を調査してはパソコンに数値を打ちこんでいく。いちおう、名目は手伝いということだったが、綾人はすることもなく、ただぼんやりと父親の仕事場のまわりを歩くだけしかなかった。しまいには父親にもけむたがられ、手を動かさないやつは海にでもいってろ、と追いやられてしまったのである。だから、こうやって海をめざして歩いていた。
暑い。
東京のようにねっとりと肌にへばりつくような暑さではないにしても、湿気をおびた暑い空気が息を吸うたびに肺を内側から熱くしていくようだった。綾人はあえぎながら薮を進んだ。
やがて磯臭くなってきたと思ったら、とつぜん薮がとぎれ、さわやかな風が胸元に吹きこんできた。綾人は感嘆の声をあげる。目の前には海があった。
関東ではお目にかからない、サンゴ礁がくだけてできたまっ白い砂浜がどこまでもつづき、南の島独特のコバルトブルーの海がそのむこうはるかまでつづく。
綾人はもって来たスケッチブックをさっそくとりだした。
かれには趣味といえるようなものはほとんどなかったが、唯一絵を描くことだけが趣味だった。将来は美大にいって、画家になろうとさえ思っている。
ただの海では絵になりにくい。なにかいい構図はないかと見わたすと、少し離れたところに岩場があり、そこにつきだした岩が見える。あれがいいや、と道路をわたり、堤防を越えた。近づいてみると、ななめにつきだした岩のうえにひとりの少女がいるのが見えた。砂浜からつきだした岩のうえに、黄色い服の少女が立ち、遠くの海を凝視《みつ》めている。
髪を風に梳《す》かせて、スカーフを風になびかせて。
絵になる。
直感的に綾人は思った。そして、気づかれないように背後に近づくと、小さな岩のひとつに腰をおろし、さっそくデッサンをとりはじめた。美大に行きたいと思うだけのことはあるデッサンだった。一本、一本の線が確実に少女の背中と岩と、そのむこうにひろがる海をとらえていた。綾人は絵を描くことに熱中した。波の音も風の音も聞こえなくなる。あるのはただ走らせる鉛筆の音と、確実に切り取られる風景だけになる。
その風景をもう一度脳裏に焼きつけようとして顔をあげたかれは、まともにひとつの視線とぶつかってしまった。少女がこちらをふりむいていた。
澄んだきれいな瞳だった。綾人の心臓は、大きく鼓動を打ちはじめ、かれは時間がたつのも忘れて、彼女を凝視めた。
少女はとがめるでもなく、いぶかしげな表情を作るでもなく、かれに微笑みをむけて来た。その笑みに、綾人は勝手にモデルにして絵を描いていたことが急に恥ずかしくなる。
「あ、ごめん。その、きみがあんまり絵になるものだから……」
「絵?」
興味をもったのか、少女は軽やかな足取りで岩からかけおりて来た。
「見せて」
まだできあがっていないから、というまえにのぞきこまれてしまった。なにか、心の奥底までのぞかれたような気がして、綾人は耳まで真っ赤になってしまう。
「き、きみ、ここの人?」
「ううん、東京から」
「ぼくも東京から。おやじの遺跡調査の手伝いで」
「おじもそうよ」
「もしかして、六道さんの姪ごさんてきみ?」
「ええ」
そういいながら、声にはどうして知っているのかしらといいたげな響きがあった。綾人は自分がまだ名乗ってもいなかったことに気づいた。
「あ、ぼく、神名……神名綾人です」
神名という名前を聞いて納得したのか、少女はにっこりと微笑んだ。
「わたし、美嶋……美嶋遙です」
打ち寄せる波のそばでふたりは出会った。
「明日来るんじゃなかったの? 六道さんはそういってたと思ってたけど」
「きょうよ。きっとおじさんの勘違いだわ。むかしっから、おじさん、人との約束とかいいかげんだから」
六道は、遙のいうようにそういう感じの男だった。興味のある土器などには細心の注意をはらうのに、人との約束などにはずぼらな男だった。
「それに、きょうはお祭なんだって」
「そうなんだ」
そういえば……綾人は村のほうから祭囃《まつりばやし》のような音がかすかに聞こえていたことを思いだした。
「あなたもいく?」
「どうしようかな」
綾人はためらった。どうせこんな小さな島の祭など、たいしたことがないだろうと思ったからだ。
「行きましょうよ、いっしょに」
「いっしょに?」
「ええ」
この子といっしょならいってもいいかな、と綾人はうなずいてみせた。
「じゃあ、六時に観音さまの鳥居の前で」
「わかった。六時だね」
約束をしたあと、遙は用事があるからといってしまった。見送ってから、なんでもうちょっと話さなかったのかと綾人はくやんだ。あと少しでデッサンはできあがるのに、そのあいだだけでもいてもらいたかった。
――まあ、いいや。どうせまたあとで会えるんだ。
そう思うと自然と頬がゆるんでくる。足どりも軽くなる。いまのいままでは、こんなつまらない島に連れてきて、と父親をうらんでいたが、案外いい島かもと思いなおしていた。父に感謝したい、とさえ思っていた。現金なものである。
祭はかれが想像していた以上ににぎやかだった。こんな離島のどこにこんな人がいるのかと思うほどの人々が集まっている。崖のうえの本殿のほうからは祭囃がさかんに聞こえて来るし、階段下の鳥居の両脇にまで夜店が出ている。そして子どもたちは親にもらった金を手に、どれを楽しもうかと目をきらきらさせながら夜店をのぞいている。そんな平和な光景を見ながら、綾人は鳥居の前で遙を待っていた。
「おそくなってごめんなさい」
やって来た遙を見て、綾人はおどろきに目を丸くした。浴衣《ゆかた》を着ていたのだ。黄色に赤い線がはいった浴衣に浅葱《あさぎ》色の帯を文庫結びにしている。そして紫の鼻緒の下駄に、花柄の巾着袋までもっている。綾人は、昼間と同じ格好で来てしまった自分が恥ずかしかった。
「ひさしぶりに袖をとおしたら、ゆきもたけも合ってなくて、あわてて糸とったりしてたら……」
「いいよ、ぼくもいまさっき来たところだから」
「そう。よかった」
遙がにっこりと微笑むと、その微笑みをじっと凝視めてしまいそうで、綾人はとまどった。
「なにからする? 金魚すくいが基本かな」
「最初はお参りよ。さ、行きましょ」
そういうと遙は綾人の手をとって階段を登りはじめた。綾人の心臓がどきどきしたのは、急な階段をあがったからだけではなく、女の子と手を握っているからだった。生まれてはじめてのことだった。
百段近くあるのではないかと思われる階段をあがると、ようやく本殿までの参道に出る。両側には下よりもさらににぎやかに夜店がたちならび、暗くなりかけた空の下、裸電球が安っぽいが魅力的な光をはなっている。
そして、ふたりはお賽銭をあげ、手をあわせる。綾人がちらりと見ると、遙は熱心になにごとかお祈りをしている。
――なにをお願いしてるのかな。
そう思ったら、彼女がきゅうに顔をあげてこちらを見たので、綾人はどぎまぎしてしまった。
「なにをお願いしたの?」
「え、あ、その……」
実際、綾人はなにを願っていいのかわからなかった。ひとつだけあったのだが、それは神さまにお願いするにはあまりなので心の底に押しこめたのだった。
「家内安全、商売繁盛」
思わずいってしまって、彼女に笑われる。
「商売繁盛って、おとうさんは考古学者でしょ」
「あ、そうか」
綾人は自分のまぬけぶりに、それこそ穴があったらはいりたかった。
「わたしは家族がいつまでも平和でいますように、引っ越ししませんようにって」
「引っ越し?」
「うん、おとうさんの仕事の都合でよく引っ越すの。おぼえているだけでも、もう四回」
「四回も」
かれは生まれてからずうっと石神井《しゃくじい》の家で暮らしていた。だから、引っ越しをするという感覚がよくわからなかった。
「じゃあ、綾人くんご所望の金魚すくいっ!」
遙は笑いながら、また綾人の手をひいて夜店の列にはいりこんでいった。
あんず飴、ちょぼ焼き、射的、かき氷、金魚すくいにワタ飴屋、綾人が子どものころ目を輝かせていたのと同じような店がずらりとならんでいる。ふたりは金魚すくいをして歓声をあげたり、人工着色料のかき氷に舌を真っ赤や真っ青にして笑いあった。楽しかった。時間がたつのがあっというまだった。
「あ、もうこんな時間」
時計を見て遙が声をあげたとたん、綾人の表情が曇った。
「もう帰らなきゃならないの?」
「いいことがあるの。こっち来て」
とまた遙に連れられて、今度は神社の裏山に登りはじめた。明かりもない木のあいだを月明かりだけをたよりに登っていくのは、最初はおもしろかったが、だんだんと疲れてくる。何度か足をすべらせて、綾人は不満を口にした。
「まだなの?」
「もう少しよ」
そういって遙はどんどん登っていく。綾人はついていくのがやっとだった。
とうとう彼女が立ちどまった。あとから登って来た綾人は、彼女が見ている方向を見て、あっと声をあげる。
銀色の海があった。
無数の波が月明かりに照らされて、銀色に照り輝いている。風力発電の風車が、静かに夜を刻んでいる。ふたりがいる場所はちょうど開けたところで、そこからは海がとてもよく見えたのだ。これを見せたかったのか、と綾人が納得しかけたとき、遙が声をあげて指さした。
音もなく火の玉が夜空にむかってのびていく。
そして、発射音がとどろく。
花火だ。と思う間もなく、それは月の夜空に大輪の花を咲かせた。
「特等席でしょ」
「うん」
ふたりはしばし花火に見とれる。赤や青や緑や橙《だいだい》の花火がつぎからつぎへと空にひろがっていく。そのたびに、木立のあいだに立つふたりは赤や青や緑や橙に染められていく。たしかにテレビ中継をされるような大きな花火大会にくらべれば、見おとりするようなものだっただろう。それに見るなら、もっと海のそばで見たほうがよかっただろう。だけど、綾人にとっては、たったふたりで見ているという感覚のほうが大きかった。ほかにはだれもいない場所で、まるでふたりの秘密であるかのように見る花火は、それまでの花火より一段と美しかった。
綾人は花火に照らされる遙の横顔を見て、きれいだと思った。
ふと視線に気づいた遙もこちらを見て、こぼれるような笑みを浮かべた。
心臓がどきどきした。
もしもこのとき、ふたりのうちのどちらかにほんの一握りの勇気があったら、口づけをしていたかもしれない。だが、ふたりはどちらもそんな勇気をふりしぼるには、あまりに初心《うぶ》だった。ただ、花火を見るだけで満足しきっていた。
それからふたりは綾人の父が調査をつづけているあいだじゅう、会いつづけた。海で泳いだり、綾人のデッサンにつきあったり、あるいは静かに浜辺の波打ち際で波の音に耳をかたむけたりしているうちに、日はあっというまにすぎさり、とうとう綾人が東京に帰る日になってしまった。
「じゃあ、元気でね」
「わたしも一週間ぐらいしたら東京に帰るから、そのとき会いましょ」
「うん、連絡するよ」
「わたしの住所とかわかる?」
綾人はあわててスケッチブックの端をちぎると、鉛筆とともにわたした。遙はそこに住所を走り書きした。電話番号を書こうとしたところで、綾人の父が船が出るぞと息子をせかせた。
「ごめん。かならず手紙書くから」
綾人はひったくるように紙を受けとると、父親の許へかけよっていった。そして、ふたりは船に乗る。
「かならずちょうだいね」
「ぜったいするよ」
そういってふたりは手をふりあった。汽笛の音がして、船はゆっくりと岸壁を離れていく。
「さようなら」
「また東京で会おうね」
遙も綾人もたがいの姿が見えなくなるまで長いあいだ手をふりつづけた。船が岬のはなを曲がり、港が見えなくなると綾人はようやくあきらめて手をおろした。
「船の別れはつらいな」
父親がやさしく声をかけて来る。
「うん」
「姪ごさんは東京の人だったな」
「うん」
「じゃあ、また東京で会えるさ」
「うん」
「おまえ、うん、しかいわないのか」
「……」
綾人はなにもいわず、島が小さく水平線のむこうに消えるまでデッキに立ちつづけた。そして、その手はいつまでも紙片がはいっている胸ポケットにおかれていた。
「ない! ない!」
綾人は朝からなにかを懸命に探している。ちょうど部屋の前を通りかかった母親が、不思議そうにのぞきこんだ。
「なにがないの?」
「これくらいの紙っきれ」
綾人は指で大きさをしめした。
「島で会った子の住所が書いてあるんだ。かあさん、知らない?」
「よく思いだしてごらんなさい」
「思いだしてみたよ。だけど、わかんないんだ」
「あなたがわからないんじゃあ、わからないわ。わたしはあなたの持ち物係じゃないし」
小さなころからものをどこかに忘れて、泣きついてくる息子に、母親はいつもこのせりふで返していた。
綾人は泣きたい気分だった。あんなに約束をしたのに、まさか住所を書いただいじな紙をなくしてしまうとは思わなかった。これでは連絡することもできない。相手ははるか遠く根来《にらい》島にいるのだ。それに東京に家があるといっても東京はひろすぎる。
たったひとつだけ調べる方法があった。六道にたずねるのだが、それはためらいがあった。姪の住所を教えろといわれて、素直に応じてくれるかどうかわからない。やさしいおじさんだったが、意外とそういうところがきびしい人かもしれなかった。それに六道に連絡をとるためには、まず父親に連絡先をたずねねばならない。なぜ知りたいのか父は訊いてくるだろう。もしあれだけの別れを目の前で見せたあげく、紙をなくしましたと知ったら、父はくだくだと長々しい説教をするに違いない。それもイヤだった。
そうやって六道に連絡を取れない理由を数えあげるうちに、時間がすぎていった。きょうは父にいおう、きょうはいおうとするうちに日がすぎてしまった。
そして、根来《にらい》島での遙とのことも夏のいい思い出になってしまった。やがて夏休みがあけた。学校がはじまった。
夏のあいだは眠っていたように静かだった学校が活気づき、生徒たちの声であふれていく。
「おはよー」
「元気だったかよ」
「焼けたな、おまえ」
ひさしぶりに会う友だち同士、声をかけ、たがいに夏休みのあいだになにをしたかを自慢しあう。綾人もそうした生徒のひとりになっていた。
「神名くん、ちったあ焼けたじゃない」
クラスは違うが、小学校からずっといっしょだった朝比奈浩子《あさひなひろこ》が声をかけてきた。
「ああ、おやじにつきあって南の島にいってたから」
「南の島? いいなあ」
「つったって、根来《にらい》島っていう小さな島だよ。リゾートなんてなんにもない」
そういいながら、心の片隅がちくりと痛んだ。結局、六道に連絡をとらないまま夏休みが終わってしまったからだ。
「おやじが遺跡の調査でさ、それ手伝えって」
「そっか、神名くんのおとうさん、学者さんだったもんね」
「ただの墓あばきだよ」
そんなことをいいながら綾人と浩子がならんで校舎にはいっていくと、心ない男子生徒がひやかしの言葉をかけて来た。
「よう、ご両人。同伴出勤かい」
「んなわけないでしょ!」
浩子が怒ってどなりつけた。怒るとよけいおもしろがって、男子生徒は笑いながら逃げていった。
「あんたもなんかいいなさいよ。同伴出勤なんていわれたのよ」
「同伴出勤って?」
まじめな顔をして問いかえされて、浩子は顔を真っ赤にして答えにつまった。
「知らない。バカ!」
浩子にカバンで背中をばしんとたたかれた。そして、浩子は怒ったようにいってしまい、残された綾人はなんで彼女があそこまで怒るのかさっぱりわからないでいた。
「いつまでも夏休み気分でいるんじゃない」
教師のどなり声が響いた。
「早く教室にいってカバンをおいてこい。始業式がはじまるぞ」
綾人はあわてて自分の教室にかけこんでいった。
夏休みが終わってひさしぶりに会ったという感覚は一日でなくなった。翌日からはいつもと変わらない授業、いつもと変わらない休み時間、いつもと変わらない生活がはじまった。そして、日がすぎていく。
日々の生活のなかで、綾人が根来《にらい》島でのことを思い出す回数も少なくなっていった。
「えー、また引っ越し?」
遙はおどろきの声をあげて、母親を見た。
「しかたないわよ。おとうさんの仕事の都合なんだから。でも、こんどは同じ都内よ」
「都内なら、いまの家でいいじゃない」
住み慣れてきたマンションの部屋を遙は見まわした。ようやく思い出がしみつきはじめたというのに、もうここから引っ越さなければならないのか。
「お勤めは国分寺の先なのよ。それを遙が都内で勉強をつづけられるようにって、わざわざ都内に家を探したのに」
「家?」
「そう。こんどは借家とはいえ、一軒家よ」
一軒家という響きは魅力的だ。マンション住まいの人間はどこかしら、一軒家住まいの人間に羨望の思いをいだく。遙もやはりそうだった。それでも、彼女は首をふった。
「でもやっぱり、イヤよ。わたし、ここが気にいってるの」
「わがままをいうんじゃありません」
母親は、おとなが自分たちのわがままを通すときのセリフを口にした。
「だって」
「だってじゃないの。もう手続きをしちゃったんだから」
「そんなの勝手すぎる」
遙は怒って自分の部屋に閉じこもってしまった。彼女は引っ越したくなかった。住所を変えたくなかったのだ。まだ綾人から手紙が来るものと信じていた。こんなことなら、メルアドか電話番号を書いておけばと後悔したが、いまさらおそかった。
根来《にらい》島から帰って来たとき、当然、自分あてに手紙が来ているものだと思っていた。ところが来てはいなかった。一週間ぐらいして帰るといっていたからそのころを見はからって出すんだと待ってみたが、一日待っても、二日たっても手紙は来なかった。それからずうっと待ちつづけているというのに、手紙はいっこうに来ない。
――あれだけ約束をしたのに、忘れるはずがないわ。きっとおとうさんの仕事の都合で南米とかそっちのほうにいってしまったのだろうか。六道のおじさんもときどき、南米からハガキをよこすじゃないの。
そう自分にいいきかせたが、不安はつのるばかりである。そして、この引っ越しである。綾人とのつながりが切れてしまうような気がしてしかたがなかった。しかし、そんな彼女の気持ちをよそに引っ越しは決まり、とうとうその日になってしまった。
最後の最後にもう一度だけ郵便受けをのぞいたが、やはり綾人からの手紙は来ていなかった。
「ほら、車がでちゃうわよ」
母親が引っ越し車から声をかける。
「いまいく」
名残おしそうに郵便受けを一瞥してから、遙は母親のとなりに座りこんだ。すぐに車は走りはじめた。
「ねえ、転送手続きはしたの?」
「何度もあなたにいわれたから、ちゃんとやっといたわよ」
「六道のおじさんには?」
「むこうにもちゃんと伝えておきました」
遙もまた六道にたずねればいいことはわかっていたのに、それができないでいた。なんといっても十代の女の子だ。気やすいおじとはいえ、親戚に知られるのが、気恥ずかしいのである。それに、最後の最後まで彼女は綾人のことを信じていた。いつかぜったい手紙をくれると。
風景がうしろに流れていく。バックミラーをのぞくと、住んでいたマンションがどんどん小さくなっていく。綾人とはなれていくような気がして、遙は沈んだ気分になっていった。
ある日のこと、浩子のクラスに転校生がやって来た。その子が教室にはいって来ると、一瞬、空気がざわっとうごめいた。それほどの美少女だった。美少女はしかし、ていねいに頭をさげて、自己紹介をした。
美少女の転校生がやって来たという噂はまたたくまに学年じゅうに知れわたった。綾人のクラスでも物見高い男子たちがまっさきに見に行き、興奮した面持ちで帰ってきた。そして、ふつうの男子どももわれもわれもと見にいくのだった。ただ綾人だけは見にいかなかった。遙との思い出がまだかれの心には大きく残っていたからである。
浩子と転校生は席がとなり同士になり、すぐに仲良くなった。好きなグループもいっしょだったし、ドラマの趣味も似ていたので、話がはずんだのである。そして、授業が終わるころには、ふたりはまるで以前から友だちであったかのようになっていた。
「いっしょに帰ろ。方角同じだよね」
「ええ」
転校生と浩子は連れだって、教室から出た。そこで浩子は綾人を見かけた。
「神名くん!」
かれがふりかえる。なんだ、おまえかよといいかけていた口が凍りついたように動きをとめ、目が大きく見開かれた。え? と思うと、その視線は転校生にむけられていた。転校生のほうも目を大きく見開いて、凍りついてしまっている。どういうこと? 浩子の頭は混乱してきた。
綾人にとってはそれどころではない。もう遠くにいってしまったと思っていた美嶋が目の前にいたのである。混乱を通り越してしまうほどおどろいていた。頭のなかにあるのは、約束を守れなかったということだけである。かれはすぐさま頭をさげた。
「ごめん。住所書いた紙をなくしちゃったんだ」
それを聞いて、凍りついていた彼女の肩がわずかにゆれた。
「ウソをつくなら、もっとましなウソにして」
遙は少し視線をそらし、さびしそうにいった。
「ほんとうだよ。信じてよ」
「ねえ、ちょっと、どういうこと?」
浩子が横から口をはさんだが、ふたりとも彼女のことなど眼中になかった。
「たいせつにしまっといたのに、どっかいっちゃったんだ。だから、連絡できなかった。ほんとなんだ。ずっと気にしてたんだけど、どうしようもなかったんだよ。ほんとウソだったら、もっとましなウソつくさ。信じてよ」
「わかったわ。そういうことにしてあげる」
遙はちょっと冷たい言い方をして、浩子の腕をつかんだ。
「朝比奈さん、帰りましょ」
綾人はただ彼女たちを見送るしかなかった。そして、こんなかたちで再会するまでほっておいた自分のまぬけさをくやんだ。くやんだところで、どうにもならなかった。
「聞いたわよ」
その晩、浩子から電話がかかってきた。
「どこまで聞いたんだよ」
ひやかされると思った綾人はいらついた声で応えた。
「根来《にらい》島とかいうところで会ったんだって? そんで別れるとき、連絡をするってさんざん約束してたのに、ちっとも連絡してこないひどいやつだっていってたわよ」
言葉がぐさりと胸に来る。綾人は小さくため息をついた。
「あ、ひどいやつってのはわたしの感想ね。彼女、そんなこといわなかったから、安心して。それと、綾人は、見かけのまんまボーッとしてるから、ウソなんてつける性分じゃない。なくしたんならほんとになくしたんだっていっといたわよ。小学校のころから、よくものをなくすまぬけだって」
まぬけはよけいだったが、浩子の心づかいがうれしかった。
「悪いな」
「うん、うん、もっと感謝しなさいな」
「悪い。悪い。悪い。悪い。悪い。悪い……」
「しつこいって。悪いを連発したら、あたしが悪いことしたみたいじゃないかあ」
口ではそういっていたが、声は楽しそうに笑う響きがあった。
「だけどさ、ちゃんと手紙書いといたほうがいいよ、絶対。美嶋さんの住所聞いといたから。いい?」
綾人はあわててメモした。
「ほんとありがとう」
「いいって。小学校以来の腐れ縁だしね」
浩子は軽くいうと、じゃあ、また明日学校でと電話を切った。それからすぐに手紙を書いた。考えてみれば、ひとに手紙を出すなんてひさしぶりのことだ。メールではなくて、手紙という形式が新鮮だった。何度も何度も書き直し、ようやく封を閉じることができた。手紙のなかで、綾人はほんとうに悪かったと心から謝った。そして、楽しかった根来《にらい》島での思い出を書きつづり、最後にせっかく同じ中学校になれたのだから、仲良くしたいです、と書きそえる。
明日、登校するときにポストにいれようかとも思ったが、そのまま出しにいくことにした。綾人は少し秋の気配が漂いはじめた夜の街に出ていった。ポストは百メートルほどいった角にある。投函すると、ことりと小さな音がした。
見あげると、空には月がある。
綾人はようやく約束がはたせるという安心感で胸をいっぱいにしていた。長いあいだ連絡しなかったことで遙が怒っていないことを祈るばかりだ。そして、月を見ながら、あの祭の晩のことを思いだしていた。ふたりっきりで花火を見た夜のことを。
同じ月を遙もまた見あげていた。遙の胸は期待と不安がなかばしていた。浩子のいうとおり、ほんとうになくしてしまったのだろう。でも、なくしたなんて、せいぜいその程度にしか思われていないからではないだろうか。そして、月を見ながら、あの祭の晩のことを思いだしていた。ふたりっきりで花火を見た夜のことを。
翌日、浩子が教室にはいると遙に声をかけられた。
「きのうはありがとう」
「いいってば。あいつから電話あった?」
「ないわ」
「えー、信じらんない」
浩子はまるでわがことのように声をあげる。
「遙がいいっていったから、あなたの住所と電話番号教えてやったのに。電話一本かけてこないの?」
「うん、なにも」
「ほんとにバカなんだから。あとでとっちめなきゃ」
「あ、もしかしたら約束どおり、手紙にしたのかもしれないわ」
「そんなやさしくするから、つけあがるのよ。まかせといて。あいつのことならあなたより知ってるから」
無意識にはなった浩子の矢が、遙の胸につきささる。
――あいつのことならあなたより知ってるから。
その言葉が遙の耳の奥にかすかな痛みをもたらす。それは苦い苦い血を流した。
浩子はその日のうちに綾人に手紙をだしたのか確かめた。ちゃんとだしたと聞いて、安心していたが、何日たっても綾人と遙のあいだは進展しないようだった。廊下であっても、たがいにちらりと目を見かわすぐらいで、声もかけない。いったいどうなっているのか、浩子にはわからなかった。
「いったい、どうなってんの?」
とうとうある日、浩子は遙を自分の家に呼んで問いつめた。
「どうって、なにが?」
遙はとぼけてみせる。彼女にも浩子がなにをいいたいかはよくわかっていた。
「あなたたちふたりのこと。綾人から手紙は来たんでしょ」
「ちゃんと来たわ」
「じゃあ、いいじゃない」
「そうね……」
遙の表情が曇った。まず最初のまちがいは綾人が住所を書いた紙をなくしたことだ。そして、つぎのまちがいは遙が転校してきてしまったことだ。劇的な再会ではあったが、そのことが彼女をとまどわせていた。急に近くなりすぎて、どうしていいのかわからない。どう言葉をかけていいのかもわからない。言葉をかけてくれることを期待もするが、いつもそれは裏切られる。
「あいつ、ほら、あんなじゃない。だから女の子の友だち少なくてさ。あたしひとりだと、まわりに誤解されて、ひやかされてばっかいるのよ」
苦笑いする浩子に、遙は胸がささくれだってくるのがわかった。
「だからさ、あたしも応援するから」
浩子はがんばってね、と笑顔をむけてきた。遙の気持ちにはなにも気づいていないようだった。そして、彼女もまた浩子のほんとうの気持ちには気づいていなかった。
日曜日、綾人は上野にいた。浩子からの誘いで「ルネ・マグリット展」を見に行かないかと誘われたのだ。鳥の形に切りとられた青空の絵などを見ていると、不思議な気分になって、いつまでも絵の前からはなれられなくなる。綾人にとって、マグリットにはそういう魅力があった。
約束の美術館前には浩子がもう来ていた。
「じゃ、はいろうか」
といっても、浩子はぐずぐずいってはいろうとしない。
「なに、どうしたの」
浩子は口のなかでもごもごいいながら、綾人の肩越しに駅の方角を見るばかりだった。
「だれかもうひとりと約束したの?」
そういったとき、浩子がうれしそうに手をふりながら、こっちこっちとさけんだ。つられてふりかえると、そこに遙がいた。むこうも綾人がいることにおどろいている。
「朝比奈《あさひな》っ!」
思わずとがめるような口調でいってしまう。
「なによ。あなたたちが、どうしようもないから、こうするしかなかったんでしょ。ほら、はいろ。はいろ」
ふたりの背中を押すように美術館にはいる。館内ではふたりとも絵どころではないらしい。暖炉から汽車が飛びだして来るへんてこりんな絵の前で感心したように立ちどまりはするけど、目はたがいに意識しあっている。ごくふつうに会話しているようでも、その奥にはおたがいへの意識が見え隠れする。ふたりがちゃんと絵を見ているかどうかもわからない。はたから見れば、これほどおもしろいものはなかった。浩子は笑ってしまいそうだった。
「ちゃんと話しなさいよ」
美術館から出てから、浩子はふたりにそういった。
「ちょっとした誤解からすれちがってるだけなんだから」
遙と綾人はちらりと目を見かわした。
「ゆっくり話せば誤解も解けるわよ。……じゃあ、あとは若い者同士ってね」
浩子はふざけて、一むかし前のドラマでもいいそうにないセリフを残してさっていった。彼女がいなくなってから、しばらくふたりとも無言だったが、やがて綾人がゆっくりと息をはいた。
「ほんとごめんね。あいつ、ああいうおせっかいなところあるから」
「朝比奈さんを悪くいわないで。ほんとにわたしたち、よく話す必要があるんじゃないかしら」
綾人はそうだねとうなずいたが、また気まずい沈黙がおとずれる。それをふりはらうように遙はぽつりぽつりと島での思い出を話しはじめた。
「島ではあんなに仲良くなれたのに、東京に来てからヘンになったみたい」
「きみだってそうだろ。手紙をだしそびれたことをいつまでも怒ってる」
「怒ってなんかいないわ。あなただって、学校で話しかけてもくれないでしょ」
「あれはきみが許してくれたのかどうかわからないから……」
ふたりはハッと顔を見あわせた。浩子のいうとおり、ほんとうにささいなすれ違いだったのだ。ほんの一言綾人が声をかけていれば、ほんの一言遙が声をかけていれば、こんな気まずい思いをおたがいせずにすんだのかと思うと、おかしくなってしまった。
遙がくすりと笑った。綾人もつられて笑った。
「ほんと朝比奈のいうとおりだ」
「ほんとね」
遙もそう答えながら、さりぎわの浩子の目が気になってならなかった。あれは……哀しく笑う目だった。
浩子は上野の山を歩いていた。
胸の内がじんわりと痛い。やきもちだった。でも、なぜ嫉妬するのか自分でもわからなかった。
「いいカップルじゃない」
そう口にしてみたけど、どこかむなしい。なぜか目頭が熱くなり、鼻の奥がツンと痛くなってくる。
浩子は足をとめ、鼻をすすり、空を見あげた。
西郷さんがいた。瞬間、西郷さんの銅像の前で泣くなんて、なんてみっともない女の子だろうと思った。笑ってしまった。笑ったら、歯止めがきかなくなって、思わず涙があふれた。
遙と綾人は、それから学校でもふつうに話せるようになった。根来《にらい》島にいたときのようにいつもいっしょというわけではなかった。それぞれの友だちがあり、それぞれの生活があったからだ。ふたりは秋の静けさのなかで語りあうことで満足していた。
ただ、おたがいの想いを口にはしていなかった。
「好きだ」とは言葉で伝えていなかった。
伝えないぶん、それはそれぞれの胸のなかでふくらんでいった。綾人は自分の部屋で絵を描いていても遙のことを想った。彼女のことを想いながら絵を描いた。それは崖の上にたつ黄色い服を着た少女、遙のイメージだった。
「あなた、気がついて?」
綾人の母親が遅くに帰ってきた夫にたずねた。
「なにをだね」
「あの子の絵、少しかわったわ。前は風景とか静物《せいぶつ》ばかり描いていたのに、いまは人物を描いている」
「そういう時期もあるさ」
興味なげに答えると、夫はテーブルの上に書類をひろげ目を通しはじめた。
それを見ながら、母親は夫とはじめて会ったときのことを思いだした。あれは老人のところだったろうか、それとも根来《にらい》島だったろうか。いや、たしか根来《にらい》島だ。六道の父の後輩だったはずだ。あれからずいぶんと時間がたった。あのころ十代だった彼女は十代の息子をもつようになった。
「あの子も大きくなっていくのね」
「あたりまえだろ」
夫は書類をチェックしながら、こともなげに答えた。
――あたりまえかしら。
母親は眠りつづけている姉のことを思った。あたりまえのことが、姉にはおこらず、自分にだけおこったから、事態がここまでねじれてしまったのだ。
――姉さん、あなたとわたしの息子はずいぶんと大きくなったわ。あなたが大きくならないうちに。……姉さんはどんな夢を見ているの?
「あなた」と呼ばれる男が、調子が悪いのかいらついたように視力矯正装置を調節している。好きではないしぐさだが、それが気になるのもいまのうちだろう。
この男との家庭も計算と打算でいままでつづいている。それもあと少しのことだ。近いうちにそのときがやって来る。あの老人はさもしく策略をめぐらせているだろうが、そのときが来るまで綾人には好きにさせてやりたかった。もし好きな子ができたのなら、思いっきり好きになればいい。どうせ、あと少しのことなのだから。
秋は深まっていった。遙と綾人の想いも深まっていく。
ある放課後、綾人は廊下を歩いていた。美術部の片づけが長びき、もう校舎に残っている生徒はほとんどいなかった。だれもいない感じの廊下を歩く。いつもは生徒たちでうるさい校舎も、いまはひっそりと秋の底の静けさになっていた。
どこからかピアノの音が聞こえて来る。
音楽室からだった。のぞいてみると、遙がひとりピアノを弾いていた。遙もかれの姿に気づいたが、曲を弾くのをやめなかった。
西日のあたる音楽室だった。窓からの秋色の風に、色あせたカーテンがゆれる。陽がななめにさしこみ、床にピアノと遙の長い影を落としていた。
綾人はゆっくりと遙に近づいていった。
「いまの曲……なんだったっけ」
「『カトゥンの定め』よ」
遙は弾きながら静かに答えた。聞いたことのある旋律が耳から、そして記憶のなかから響いてくる。綾人はピアノを弾く彼女のかたわらで静かに目を閉じた。
ふと、小学校のころはやった「マヤ滅亡の予言」という本のことを思いだした。マヤでは一年を三六〇日として一トゥンという。それが二十年でカトゥン、二十カトゥンでバトゥン、そして十三バトゥンで大きな周期が終わる。その周期の終わりに「大いなる清めの日」がやってきて、人類は滅亡するというのだ。小学生のあいだでははやったが、前世紀、あれだけ騒がれたノストラダムスの予言がもののみごとにはずれたことをおぼえているおとなたちは相手にもしなかった。綾人も予言なんてそんなものだと思いはじめ、やがて忘れていった。
――たしか、あの滅亡の日は今年じゃなかったっけ?
そう思ったとき、曲が終わった。
最後の音が、ひいやりとした夕方の風に消えていく。
目を開けると、そこに遙がいた。西日の照りかえしが、まるで光の輪のように彼女の栗色の髪を明るく輝かせている。綾人が目をしばたたいたのは西日がまぶしかったからか、彼女がまぶしかったからか……。
遙はゆっくりと立ちあがった。
ふわりと長い髪がゆれ、なんともいえない香りが綾人の記憶を呼び覚ます。そう、あのとき、根来《にらい》島の海岸でもこの香りを嗅《か》いだ。ふたりが出会った、あのときだった。
ふと気づくと、逆光のなかで遙が微笑んでいた。
綾人の心臓が大きな音をたてる。
遙の心臓も大きな音をたてる。
ふたりの距離が自然に近づいていた。綾人の指が遙の手にふれた。ふたりとも小さくふるえている。寒いわけではない。しいていうなら、自分たちのなかに湧きあがってくる感情が怖かった。どうしていいのか、とまどっていた。
ふたりは手をふれあったまま、頬を染め、視線をあわせないようにしていた。視線をあわせたら、どうなってしまうか自分たちにもわからなかったからだ。
西日がふたりを照らしている。
そして、遙が顔をあげた。すぐ目の前に綾人の顔があった。
心臓の音が大きくなる。遙はその苦しさに耐えきれず、また視線をそらした。ごめん、と綾人も目をふせる。一瞬、離れそうになったかれの手を、こんどは遙がそっとつかんだ。そして、小さくうなずいた。
ふたりの手のあいだを想いが流れていく。
ふたりの瞳が凝視めあう。綾人の目には彼女しか映っていない。遙の目にはかれしか映っていない。瞳と瞳のあいだを想いが流れていく。
ためらいはその流れに消えていき、いつのまにかふたりは抱きあっていた。
日が短くなって影が長くなるように、浩子も想いをうしろに長くひきずっていた。
お人好しにも綾人と遙の関係を修復してやったが、そのことがいつまでも癒えない傷となって胸の奥底にある。
彼女は、自分が綾人を好きだったと気づいたのだ。
人は失ってはじめてその大切さに気づくことがある。失わないと気づかないことがある。しかし、もう遅い。指先からこぼれ落ちていったものをなげくしかないのだ。
――しかたないのよ。もう、これでいいの。
と何度も自分にいい聞かせる。恋は残酷にも勝者と敗者を作り、敗者にはなにものもあたえられない。敗者はただみじめに破れさるのみだ。甘かった恋の味は、苦い失恋の味になり、しかもそれは澱《おり》のようにいつまでも舌先に残っている。
――こんなに傷つくなんて。こんなに苦しいなんて。
吐息とともに想いをはきだせたのなら、どんなにか楽だったろう。詩《うた》にあるように、恋の墓を作れば忘れられるというのなら、いくらでも墓を建てたことだろう。彼女は、いつまでも綾人のことが忘れられなかった。気がつけば、校庭で友だちと遊んでいるかれを目で追っていた。かれの教室の前を通りかかれば、かならずかれに目をやった。廊下でもかれを探した。そして、遙とふたりでいるのを見つけて、傷ついた。傷つくのがわかっていながら、かれの姿を探すのをやめられなかった。そして、それがやめられないかぎり、彼女の心の傷はいつまでも癒えることはなかった。いつまでも傷口を開き、苦い血を流しつづけるのだった。
未練。
だということはわかっている。だけど、やめられない。機械じゃないのだから、スイッチを切ったからといって想いはとまらなかった。
浩子は陽がかげり、冷えてきた廊下をゆっくりと歩いている。もう校舎にはだれもいないようだ。彼女ひとり、ただ破れた恋とともに歩いている。
ふと廊下に西日がのびていた。見ると音楽室のドアが少し開いていて、窓からの西日がこぼれている。
なにげに音楽室をのぞきこんだ。
そして、浩子は見てしまった。
ピアノのそばにひとつの影とふたりの姿があった。綾人と遙だった。ふたりはまるでひとつに溶けあうように抱きあい、口づけをしている。ひとつになった影が浩子の足元近くまでのびていた。
悲鳴もでなかった。
それは美しいとさえ思える光景だった。そこには彼女がはいりこむスキはどこにもない。
ゆっくりと静かに、浩子は教室から離れた。
静かに歩く彼女の足元に涙がひろがっていく。泣きはしなかった。ただ胸のなかで涙を流しつづけた。
いつのまにか浩子は校庭に出ていた。
足元に枯れたイチョウの葉が舞っている。
かさかさと音をたてて舞っている。
残酷な秋が静かに、傷ついた女の子を冷えた手で抱きしめてくれた。
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最終章 プレリュード――そして、はじまりと終わり
「目が覚めたかね、久遠《くおん》」
彼女が最初に見たのは老いたナーカルの兄弟の顔だった。
まだ焦点の定まらない彼女の目が、室内を走査するようにながめまわす。歴史を感じさせるようなおちついた調度品がおかれた部屋である。このあいだまで見ていた大聖堂のような場所ではない。
「ヨ・レハナ・ウク・ナーカル」
久遠《くおん》の口から異語がもれる。
「ヨ・レハナ・ロック・エパソ。ニ・クール・ケフト・クカッハザル」
老人も異語で答える。その答えに満足した久遠《くおん》は静かにうなずく。そして、目を転じると、そこにはいつか見た少年が立っていた。いや、もう少年とはいえない。りっぱな青年だった。そこには双子の兄弟の面影がある。
「わたし、夢を見たわ」
久遠《くおん》は青年にもわかる言葉で話しかけた。あのときから変わらぬ幼いままの姿なのに、口調はおとなびている。それはかれがはじめて聞く彼女の言葉、そして想像したとおりの声だった。
「いくつもの夢を見たわ。いくつもの出会いを見たわ。いくつもの別れを見たわ。あなたの夢も見たわ」
「それは夢だよ」
「いいえ、夢はすべてにつながるの。おきたこと、これからおこること、おきるかもしれないこと、おきないかもしれないこと、そうしたものがたゆたう夢に現れては消えていく」
青年はなんと答えていいのかわからず、かたわらの老人を見る。老人はなにもかもわかっているよ、といいたげに久遠《くおん》にむかって深くうなずいてみせた。
「イシュトリにも会ったわ」
「イシュトリ?」
老人が不思議そうに首をかしげる。
「イシュトリは想いの形、定かなる姿なきもの。それをどうやって」
「イシュトリ、想いの器に姿を流しこむもの、奏者の想いのままに姿を織りあげるもの。奏者の奏者たるゆえん。おぎなうものにして、王を祭壇《さいだん》に祭りあげるもの。王の血を世界のために捧げるもの。残酷にして慈愛に満ちたる影」
久遠《くおん》は言葉を切り、青年に目をむけた。
「わたし会ったわ。イシュトリの形となるべき、美嶋遙《みしまはるか》に」
その名前を耳にしたとき、メガネの奥で青年の目が鋭く光った。
「もうしゃべるのはおやめ」
老人がやさしく声をかけた。
「これからいくらでも、おまえが話せる時間はある。なぜなら、おまえは時を旅するのだからな。疲れるだろう。もう休んだほうがいい」
「わかったわ、ナーカルの兄弟」
そういうと久遠《くおん》は目を閉じた。閉じたと思ったら、もう寝息をたてていた。
「また昏睡したのですか?」
青年がたずねると、老人は笑って答えた。
「いや、そんなことはない。もう完全に覚醒したといっていいよ。これはただの眠りだ。夢のない眠り、ドリームタイムのない眠りにすぎん」
老人はそういいながら、歳のために節くれだった指で久遠《くおん》の髪をやさしくなでた。
「まだまだこの子には眠っていてもらわんとな。時はいまだ満ちていない。バトゥンはめぐっていない。……そうだ。それまでかりそめの記憶をあたえておこう。おまえの妹というのはどうだね? 如月久遠《きさらぎくおん》だよ」
老人はそういうと、やさしげな、しかし、底意地の悪い目で青年を見る。
「おまえの母親でもあることだし」
青年は目を見開いた。そして、声がもれそうになる口に手をあてる。それでも、久遠《くおん》が自分の母親とはじめて知ったおどろきには見えなかったのか、老人の目が糸のように細くなった。
「ほう、さほどおどろかないか。知っていたのかね」
「いえ、薄々と……そうではないかと」
「そうか。おまえはむかしからカンのいい子だったからね」
そういいながら、老人は細めた目で青年を見すえた。心の底を読まれまいと、かれは視線をそらす。かれは知っていた。目の前で眠っている久遠《くおん》が自分の母親であることを。さかしらなあの男が、ある日そっと教えてくれたのだ。
「そうか、彼女が目覚めたか」
樹《いつき》の話を聞いて、その男は静かにうなずいた。
「では、すべての準備はととのったか」
「そういうことになりますね」
男は小さくため息をついた。とうとう来てしまった日をなげくようなため息だった。
「彼女が目覚めたのなら、もうぼくがスパイをする必要もありませんね」
「ご老人は知っているよ」
「はい?」
「おまえがご老人のことをわたしに報告している、ということを知っている」
樹《いつき》はおどろいて視線を目の前の地面に落とした。だったら、なんのためにいままでひそかに隠れてこいつと会わねばならなかったのだ。いまもこうやって、まるで映画かなにかのように公園のベンチで背中あわせに会話しているじゃないか。
「すまんな。あのご老人が、それをどこまで許すか見てみたかったのだ」
それだけのために……。樹《いつき》の胸に苦い思いがこみあげてくる。
「わたしが断れないのを知っていながら、スパイすることをもちかけて、そのうえそんな……。あなたはずるい人だ」
「そうだな」
男が小さくうなずく気配が背中であった。
「しかし、それは、おまえたちに命をあたえた瞬間からはっきりしていることじゃないか」
男はベンチから立ちあがった。
「うちの研究所に来たまえ。いつでも歓迎するよ」
男はそういって一度だけ樹《いつき》をふりかえった。が、その右目には視力矯正装置がはいっているため、その表情はまったくわからなかった。
男がさったあと、樹《いつき》は手の中に顔をうずめ、涙を流した。自分の運命をなげいた。
初夏の陽がかれの背中を照らしだしていた。
まどろむ久遠《くおん》は夢を見る。
はじまりは終わりの、終わりははじまりのために。そして、世界は調律される。
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巻末特別対談 出渕裕×大野木寛
大野木:ブッちゃんと知り合ったのって若い時でしょ? 20歳ぐらい?
出渕:そのぐらい。大野木センセは、まだ大学生だったよね。
―――一つ違いですか?
出渕:学年で一つ違い。「ガンサイト(注1)」の頃、河森に紹介されて、それ以来の飲み友だち(笑)。でもアニメの仕事を一緒にしたのって実は今回が初めてなんですよ。CDドラマ(注2)やゲームシナリオ(注3)だとあったんだけど。
大野木:ほんと、なんだかんだで仕事をしたのは今回が初めてだよねー(笑)。
出渕:『ラーゼフォン』が始まる前に飲みながら「今度監督やるんで、もしかしたら助っ人に入ってもらうかもしれないけど、どう?」って話をしてたんですよ。で、実際に入ってもらって。
大野木:14話「鏡の中の少年」から。ライターは足りてるっていうからもう来ない、と思ってたら突然(笑)。
出渕:そう、ホント助っ人みたいなかんじでスンマソン。でも頼れるの君だけだったんだよー(笑)。
大野木:とんでもないです。仕事があるならどこへでも(笑)。
―――ノベライズの話も飲んでいる時に出たのですか?
出渕:それはないですね。ずいぶんあとです。
大野木:お話をいただいてのは、TVシリーズのシナリオがそろそろ終わる頃ですね。これで『ラーゼフォン』から離れられるなって時でした。
出渕:ノベライズはスケジュールがタイトだったけど、しっかり〆切り守ったよね。
大野木:いや〜。最初一ヶ月に一冊書いて欲しいって言われてたけど、「いやあちょっと、それだけはかんべん」って(笑)。
―――最初の話から、ノベライズまでだと二年くらいのつきあいになりますよね。
出渕:最初の話では(TVシリーズの)各ライターにそれぞれ短編をって話だったような(笑)。
大野木:それはいいねって思っていたら、いつのまにか「全部おまえ書け」「ええ!?」ってなことに。
―――しかも全編一人称で行きます、と自分の首を締めるような提案を……。
出渕:聞いた瞬間に「おもしろいけど大変じゃない」って思ったんですが、大野木くんが「ん〜そうやってみたいんだよ」って言うもんだから。本人がいいっていうならいいか、と(笑)。
―――結果として、立派なものを書いていただけました。
大野木:なんとかなったかな、と。
出渕:あと「墓穴掘ったな」って思ったのが、久遠《くおん》の章を読んだ時ね。そんなに(久遠《くおん》を)出さないつもりでも、あの文体で続けるのがいかに大変で、いかに自分の首をしめるかってことを、このヒトはわかってないなー、と(笑)。
大野木:いやー、久遠《くおん》に関しては、自分でもやめておけばよかったと思いました(笑)。
出渕:小説(TVシリーズノベライズ)に関してはあんまり注文つけなかった。ただゲラチェックさせてもらって、如月樹《きさらぎいつき》のところで1つだけ。
大野木:あー、それかー。
出渕:「樹《いつき》が大学生の時にMU出現を体験してるって書いてあるんですケド……何故?」って突っ込んだら心外そうなカオして「いやだって、樹《いつき》って若い頃のイメージが大学の院生みたいなかんじじゃん」っていうんですよ(笑)。
大野木:許して〜。
出渕:「一応樹《いつき》って、綾人と双児って設定だし遙とも同い年だから、中学生の筈なんだけど? それもしかして中学生だけど特待生扱いで大学院までいっちゃてるって設定?」って言ったら「あっ……」だって(笑)。
大野木:だってさぁ、どうしても樹《いつき》って年上のイメージがついてまわるからさぁ。
出渕:あれ、俺チェックしなかったらあのまま通ってたの、もしかして?
大野木:……そう。
出渕:おそろしい(笑)。
大野木:まあ、これは巨大なケアレスミスという。小さいケアレスミスなら多々あります(笑)。
出渕:今回ダイアログ(台詞)自分なりに変えてもっと大野木オリジナルにしてもいいんだよって言ったら「ダイアログまで変えて、オレ的ラーゼフォンにしてたらスケジュール通りにあがらないよ!」って(笑)。
大野木:できあがったものは、たぶん、みなさんに満足していただけたのではないかと、私は思っているんですが。いや、思っていないとやってられないんですが(笑)。
―――読者のみなさんの反応は?
大野木:一人称で書いてあったので、、その時その時のキャラクターがどういう風になにを思っていたかがよくわかる、という感想が多かったですね。
出渕:おれはねぇ、セリフでなんでも説明しちゃうアニメって多いでしょ、あれはどうかと思うんだ。自分ではやりたくない、っていうかキライ(笑)。
大野木:それはわかるけれども。ここは声を大にして言いたい。説明するのが常に正しいことじゃないし、だけども、説明されないとわかりにくいところもあるわけ。におわせて終わるっていうのも手だと思うけれども、テレビアニメから小説という、メディアを変えた発表媒体を考えた時に、そこを補完してあげるというのも手かな。そうすると、小説を読んでアニメーションを見ると「あ、そういうことか」って改めて気がつくところが増えるんじゃないかなという考えがあったの。
出渕:それは正しいと思うよ。それぞれの特性があるから。メディアが違うって、そういう事でしょ?
―――いろいろと違う楽しみ方ができますよね。DVD見てもいいし、その箇所を小説で読んでもいいし、その逆もまたできるので、ファンとしての楽しみ方は広がっておもしろかったと思います。
出渕:小説だと、各キャラクターが考えてる事をね、ストレートに内面描写が可能ですから。こういう風に(そのキャラクターを)解釈もできるよね、っていうことができる。あくまでも大野木流解釈だけど(笑)。でもスタッフとして参加してくれてるし、こちらとの付き合いも含め、可能性として理解できるかんじでしたね。
―――そうですね。ところでラーゼフォンには独特のネーミングが多用されてましたよね。小説でもいろいろと……。
大野木:いろいろ勝手に作ってしまいました。
出渕:「なんでこうしたの?」って訊いても、「なんとなくかっこいいから」って言うんだもん(笑)。そこまで言うならば、通そうって。まァ、自分もそういうところ、あるし(笑)。
大野木:基本的には、聞いてカッコよく思える語感を優先してましたね。
出渕:今回はムーリアン語も出てきたよね、バーベムが出る話で。
大野木:ブッちゃんからムーリアン語でやってよって言われて「え〜、ムーリアン語で?できねえよ〜」って思ったけれど、「ヨ・レハナ・ウク・ナーカル」って語感主体で作っちゃった。
出渕:TV本編での麻弥と久遠《くおん》の喋るムーリアン語も語感でしたね。『宇宙戦艦ヤマト』のガミラス語「ルマク・カン・サツバ(注4)」みたいなもん(笑)。
―――書きやすいキャラクターを、強いてあげるとしたら誰ですか?
大野木:エルフィですかね。
出渕:TVシリーズではエルフィのキャラ作りがオトコオンナにならないように気を使いましたね。エルフィは軍人なんだ、って。よくあるアニメーションものだと、キャラクターを作り易いんで、安易にオトコオンナになっていくじゃないですか。自分としてはそれがイヤで。軍人としてのきちっとした言葉使いをちゃんとさせようと。そうしたら崩れた時とのギャップが逆に魅力的になると思うんですよね。
―――そういうの、いいですよね。他にアニメとノベライズとでキャラクターが違っていると感じられることはありますか?
出渕:そうですね、う〜ん。ノベライズの弐神、おれの弐神とは違いました。なんか、こういうやつじゃないんだけどなぁって……。
大野木:あ、すいません。
―――小説だけ読んでいくと、弐神ってものすごく強そうなイメージがあるのですが。
出渕:かなり乱暴なかんじ(笑)。
大野木:弐神は財団内偵係みたいな。
出渕:弐神のイメージって「独立愚連隊」の佐藤充(注4)なんですよ。情報部員だから、設定を自然に喋らせられて便利なんだ。
大野木:ラーゼフォンの説明係(笑)。弐神はピンでやってもおもしろいキャラクターだよね。
―――まだネタはありそうですね。
出渕:ありますね(笑)。今回の短編集ではその一部を出させてもらった。大野木とこれとこれがこれでこういうのって話したり、ガーって書いてわたしたりしてね。
大野木:そうですね。
出渕:ギャグっぽいのもあったんですけどね。でも映像のギャグネタって、たぶん小説にしてもおもしろくない。というか、うまくいかない。久遠《くおん》が眠ってる間に見てる予知夢みたいな形でキャラクターの過去話を描く構成ならいけるかな、と。
大野木:一応、最初と最後は樹《いつき》のモノローグで。
出渕:また一人称でやるのかと思った。眠ってる久遠《くおん》の(笑)。
大野木:いやだー(笑)。いやぁ考えに考えて、結局三人称で。
出渕:本人としては自分の中で今回短編やっててどれが一番気に入ってるの?
大野木:個人的にはね、三輪と功刀《くぬぎ》の「夜のピアノ」だね。
出渕:あれ、ホントはやりたかったんだよねー、アニメ本編で。シリーズ構成上余裕がなくて断念したネタなんでやれて良かった(笑)。
大野木:三輪と功刀《くぬぎ》がアニメにはない味を出せたかなって。
出渕:ゲームで、三輪と九鬼《くき》がくっつくのを見て、ゲームの方はそういうシステムに組まれちゃったから仕方ないか、って思ったけど、やっぱ違うよねー、と。だからこれは個人的なリベンジ(笑)。だってテレビの一話からね、三輪は九鬼のことは嫌いっていうか、ある種見下してるっていう感じで演出してたつもりなんで……。小説版ではもっと見下してたしねぇ。
大野木:もっとね(笑)。
―――監督にとって、理想とする、あるいはお好きな形態のノベライズはありますか?
出渕:僕は今回の短編集っていうスタイルは好みですね。
―――テレビでは描けなかったことを表現できますしね。
出渕:『ラーゼフォン』のノベライズは、いろいろなことを試させてもらえて、個人的には楽しかったですね。あの神林《かんばやし》さん(注6)に、タイトルと基本設定の考え方の部分だけを継いであとは別物としてやってもらったり、今回の短編集のように外伝、っていうかOVA的アプローチもさせてもらえたりね。あ、今回の短編集はノベライズ版の外伝ではなくあくまでTV版準拠の外伝ですからお間違えのないように(笑)。
―――同じ話を大野木さんにも。大野木さんにとってのノベライズとは。
大野木:神話に出てくる、大きな岩をがーって押して、終わってはーって思って……。
出渕:何の神話?
大野木:ギリシャ神話にあるじゃん。延々《えんえん》と大きな岩をずっとあげて、一番上までいくと岩は一番下まで降りていく。それの連続のような。
出渕:それは苦行だったって。
大野木:いえいえ(笑)。苦行っていうわけじゃないけども、楽しく岩を押しつつ、頂上に着いて、気がつくと元の場所にいる。カケル6回。
―――ほんとお疲れさまでした。最後に、この小説を買ってくれた人たちに何か。
大野木:短編集で各キャラクターのいろいろな出会いに触れているので、読む人が楽しんでくれればいいなと思っています。よくあるコメントですみません。
出渕:まだ続けられるんじゃないの?
大野木:ええ〜。
―――いいですね、ぜひお二人の組み合わせで続巻の発売を!
出渕:ほら、続巻だって。じゃ、よろしくね(笑)。
大野木:ええっ!?
出渕:あ、ボクの方なら大丈夫だよ。ネタ的にはまだあるから。あとは、大野木センセ次第(笑)。
大野木:……まあ、この短編集が売れれば。
出渕:ホラ、苦労はするもんでしょ。
大野木:オレは見てた方がいいなー。
注釈
1:「ガンダムセンチュリー」のベースとなった同人誌。ちなみにメンバーの河森正治氏・美樹本晴彦氏・大野木寛氏は高校時代からの同級生。
2:OVA化に合わせて出された「鉄腕バーディー」のCDドラマ。
3:第2次世界大戦の戦車ゲーム「パンツァーフロント」の事。大野木氏はCG映像のシナリオ部分、出渕氏はキャラクターデザインとスーパーバイザーを務めた。監督はラーゼフォンにデザイン部門でも参加した石津泰志氏。
4:ガミラス人「ヤレタラ」の台詞。AR台本の「×・△・○」を逆読みしたもので「あちらの戦車へ乗れ」という意味。ちなみに「ヤレタラ」は「やられた」をもじった名前。
5:岡本喜八映画などの常連。ワイルドさとトボけた感じを合わせ持つ貴重な俳優である。
6:『戦闘妖精雪風』で知られる日本屈指のSF作家。
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書名:ラーゼフォン 夢みる卵
著者名:大野木寛
初版発行:2003年11月30日
発行所:株式会社メディアファクトリー
住所:東京都中央区銀座8-4-17
電話:(0570)002-001/(03)5469-3460(編集)