神曲奏界ポリフォニカ
レオン・ザ・レザレクター
大迫純一
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)権化《ごんげ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)封音盤|再生機《プレイヤー》
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〈カバー〉
「お願いです、妹を助けてください!」
任せときな、と調査に乗り出した俺だったが、少しばかり厄介なことになってきた。依頼人メイリンとともに出向いたコレアル神曲学院で、俺は事件が予想を超えて広がっていることを知らされたのだ。
連続誘拐事件? おまけに屍体まで!? おいおい、どうなってやがる! 若い女性、神曲楽士、そして契約精霊なし。この三つの共通点が意味するものは何か!? 事件の裏にある、歪んだ悲劇とは!
男には強いが女の涙にめっぽう弱い。ブラック・シリーズに登場した探偵レオン≠ェスピンオフしての新シリーズついにスタート!
著者 大迫純一(おおさこ じゅんいち)
1996年の作家デビュー以来、熱い物語を描き続ける、人呼んで「拳骨系作家」。ポリフォニカ・ワールドでは本作の他、ブラック・シリーズを担当する。
07年の夏は、合計外出時間が24時間を割るという、まさに不健康のきわみ。その原因の大半は、つまり本作である。
日本推理作家協会所属。親指シフター。
[#改ページ]
奏でよ
其は我等が盟約也
其は盟約
其は悦楽
其は威力
故に奏でよ汝が魂の形を
神曲奏界ポリフォニカ
LEON THE RESURRECTOR
レオン・ザ・レザレクター
――お前の描き出す魂の形を私だけのものに――
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神曲奏界ポリフォニカ
レオン・ザ・レザレクター
[#地から1字上げ]大迫純一
[#地から1字上げ]GA文庫
目次
序章
第一章 女の涙は禁忌を破る
第二章 盟約を奪うもの
第三章 歪められた絆
終章
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序章
俺を、トラブルメーカー、と呼ぶ連中がいる。
いいだろう。
たまには、やり過ぎることもある。
だが、俺がいつもトラブルを起こしてるように言われたり、トラブルに首を突っ込みたがっているように言われたり、それどころか俺そのものがトラブルの権化《ごんげ》みたいに言われるのは、いささか心外と言わざるを得ない。
例えば、だ。
厄介《やっかい》な一仕事を終えて、さてそれじゃあ行きつけの酒場で一杯ひっかけてから帰るか、なんて思って夜道を歩いている最中に、女の悲鳴が聴こえたら、どうする?
それも、亭主と掴《つか》み合《あ》いの大喧嘩《おおげんか》をしているような金切り声ではなく、今にも消え入りそうな哀《あわ》れな悲鳴だったとしたら?
放っておくのが賢明なのか?
耳を塞《ふさ》ぎ、聴こえなかったふりをして、一杯ひっかけるのも中止して、自宅に駆《か》け戻《もど》りベッドに潜《もぐ》り込《こ》んで頭から毛布をかぶって、何も聴かなかった何も聴かなかった何も聴かなかった、と自分自身に言い聞かせる。
そういうのが、賢いやり方、ってやつなのか?
どこの誰とも知らない女が殴《なぐ》られようが犯《おか》されようが殺されようが、関わり合いにならないのが正しい生き方ってやつなのか?
とんでもない。
それが許されるのは、そうする以外にどうすることも出来ない奴だけだ。
そして俺は、そうじゃない。
だったら、とりあえず悲鳴のした方へすっ飛んでくのが当然ってもんだろう。
別にトラブルを求めているわけじゃない。
トラブルが俺を呼びやがるんだ。
つまり、まあ、そういうわけで、俺はその夜、彼女に出逢《であ》った。
それはまさに、絵に描いたような絶体絶命だった。
寂《さび》れた裏町の、薄暗い路地の行き止まりに、女が追い詰められている。
若い女だ。
ひょっとしたら、少女、と呼んでやるべき年齢かも知れない。
どっちにしろ彼女は、いささか世間知らずに過ぎたようだ。そうでなければ、こんな町をうろついたりはしなかったはずだ。
とっくに日付も変わった、こんな時刻に。
女一人で。
それも、高そうな春物のコートなど着込んで。
結局、彼女という存在の全てが、連中を引き寄せた。オオカミの群れの中にウサギが一匹で飛び込んで行けば、どうなるかは考えてみるまでもない。
起きるべきことが、普通に起きている。それだけだ。
女は突き当たりの壁に行く手を阻《はば》まれ、せわしなく周囲を見回す。気の毒だが、逃げ道はどこにもない。
それから、背後を振り返った。
路地の入り口から彼女に向かって、迫る人影は二つ。どちらも、男だ。
ゆっくりと、女をなぶるように近づいてゆく。
一人は擦《す》り切《き》れた黒い革ジャンを着込み、髪はハリネズミのようにつんつんに立てている。もう一人はタンクトップで、剥《む》き出《だ》しの腕にはハートに噛《か》みつくドクロのイレズミときた。
俺はそれを、ほとんど真上から見下ろしていた。
上からなので、追われる女の方も追う男達の方も、顔は見えない。
だが少なくとも、二人の男が何を考えているかは、だいたい判った。
とりあえず、姦《や》る。
金目のものを持っていれば、奪う。
俺の見たところ、彼女はその欲望の両方を満たしてくれそうだった。
薄いベージュのコートの下で、女の胸元は立派に自己主張している。その一方でコートのベルトを巻いた腰は細く、足首も締まっているようだ。長い髪は色が薄く、赤みがかって、きっと白い肌に映《は》えるに違いない。
おまけに、手にしている銀色のケースも、彼らにとっては魅力的だろう。
ディパックくらいのサイズの、金属製である。スーツ・ケースのような把手《とって》とは別に、よく見ると背中に背負うためのストラップも二つ、折り込まれている。
単身楽団《ワンマンオーケストラ》だ。
「神曲楽士か……」
もし彼女のサイフの中身が空《から》だったとしても、手荷物の方を売れば、そこそこの金になる。
追い詰められた女が、ついに声をあげた。
「やめてください!」
さっきみたいな消え入りそうな悲鳴ではなく、しっかりと声に出して、それは彼女にしてみれば精一杯に振《ふ》り絞《しぼ》った勇気の一言だったはずだ。
だが、逆効果だった。おそらく二人の男は、奮《ふる》い立《た》ったに違いない。
どこか甘ったるい響《ひび》きのある、ベッドに連れ込んで喘《あえ》がせてみたくなっちまうような、そんな可愛《かわい》らしい声だったのだ。
二人の男は顔を見合せ、下卑《げび》た笑みを交わす。
ここまでだな。
そう思って、俺が立ち上がりかけた時だ。
「おろ?」
風向きが変わった。女が突然、単身楽団を背負ったのだ。
「ほほう、そうきますか」
無論、公社の認可を得ずに公共の場で神曲を奏《かな》でることは、基本的に禁じられている。例外となるのは、緊急対処の場合だけだ。
そしてこの場合、たしかに状況は彼女にとって『緊急』だ。
よし、やっちまえ嬢《じょう》ちゃん。
俺がそう思ったのと同時に、彼女の細い腕が背中に回って、金属ケースの側面を叩《たた》いた。
ばじゃり、と金属音をたてて単身楽団が展開する。
各所のシャッターや蓋《ふた》が開き、内部から何本もの金属アームが飛び出したのである。
それぞれのアームの先端には、表示装置や制御スイッチが並んでいる。それらの機器を金属アームが装着者の正面に配置してゆく様子は、まるで金属製のクモが背後から襲いかかる様子を連想させる。
本体から広がる扇型《おうぎがた》の黒い物体は、一組のスピーカーである。
変形の最後に、金属アームが、女の胸元に主制御楽器を滑り込ませた。
金色の、フルートだった。
二人の男が、わずかに後ずさる。
俺の方も、興味津々《きょうみしんしん》だ。
彼女の神曲に応じて姿を見せるのが、どんな精霊なのか。俺としては、美しい上級精霊の女闘士が現れて精霊雷で無法者を叩きのめす、なんて場面を希望しちまうね。
だが、
「あだ……」
女が大きく息を吸い込み、演奏を始めた途端、俺は思わず自分の目元を手で覆《おお》った。
「駄目だこりゃ」
無理もない、とは言える。
心底から怯《おび》えているのだ。
それが演奏にもはっきりと顕《あらわ》れていた。彼女の演奏は震《ふる》え、途切れ、しかも五音に一音の割で運指を間違えるときた日には、そんなもの神曲どころか音楽でさえない。
「ぐだぐだだな」
路地裏にはヘタクソなフルートの音色が流れるばかりだ。上級精霊の女闘士どころか、下級精霊の一体すら姿を見せない。
男達は、かまわず彼女に近づいてゆく。
後ずさりながらも演奏を続ける女の、しかしその曲はもう目茶苦茶に乱れまくって『ヘタクソ』さえ通り越してしまった。
もはやフルートは、ただ雑音を放っているだけだ。
それは彼女の、悲鳴に等しい。
「ま、よく頑張った方かな」
俺は女を見下ろし、溜め息をついた。彼女が背にしている建物の、その屋上だ。
転落防止用のフェンスの上に、両手をポケットに突っ込んだ格好で、しゃがみ込んでいる。金網の枠の厚みは二センチもないが、俺のバランス感覚には、それで充分だ。
ポケットから両手を出して、フェンスの上に立ち上がる。
「あらよっ」
無造作に、フェンスを蹴った。
引力に掴《つか》まれる瞬間、空中で一回転してから、落下する。
一五メートルの高さから、一直線に。
夜気が耳元を流れて、ごう、と音をたてる。冷たい、冴《さ》えた空気だ。
だが一瞬後には、俺は路地に溜《た》まった妙に酸《す》っぱい空気の中に、
「いよいしょっとお!」
着地していた。
二人の男の正面、泣きながらフルートを吹き続ける女の真ん前である。
両脚《りょうあし》を大きく左右に広げて踏《ふ》ん張《ば》り、その真ん中の地面に片手を突く。
着地の衝撃で俺の長い髪は乱れ、野獣《やじゅう》のタテガミのように広がった。
背後でフルートが、ぴょい、と甲高《かんだか》い音をたてて演奏を停止する。
止まったのは、演奏だけではなかった。二人の男もまた、その場に立ちすくむ。
きょろきょろと周囲を見回し、どうやら俺がどこから登場したのか判らないらしい。
鈍《にぶ》い奴らだなあ。
「へへぇ、驚《おどろ》いたか? ん?」
俺は、山吹色《やまぶきいろ》のスーツの裾《すそ》を直しながら、立ち上がった。
途端《とたん》に男達が、今度ははっきりと二歩ほど後ろへ退がった。
当然だ。
俺の身長は一メートル九〇センチ、しかも胸板も肩幅もちょっとしたもんだ。
さらに言うならタテガミのような髪も、太い眉《まゆ》も、耳が半《なか》ば隠《かく》れるほどのモミアゲも、きっちりと金色である。付き合った女の何人かは俺のことを、ライオンさん、なんて呼んでくれたりしたっけな。
肩ごしに、女を振り返る。
「大丈夫か?」
女はフルートを唇に当てたまま、呆然と俺を見上げていた。涙でぐじゃぐじゃだが、けっこう愛嬌《あいきょう》のある顔つきだ。
いいね。助《たす》け甲斐《がい》もある、てもんだ。
ただし、この匂いはいただけない。
走ったせいだけではなく、恐怖と緊張から一気に発汗したのだろう。乳酸と重炭酸イオンをたっぷり含んだ汗は、つまりまあ、要するに、可愛らしいその顔に似合わないくらいに刺激的だ。
よっぽど恐かったらしい。いやまあ、そりゃあ当然か。
だが、女の子は恐怖の匂いなんざ振《ふ》り撒《ま》くもんじゃない。もっと柔らかな、艶《つや》っぽい芳香《ほうこう》を漂《ただよ》わせるべきだ。
それも、出来れば、俺のために。
「お……おめぇ……」
つんつん頭の声は、強張《こわば》りきっている。
「おめぇ、まさか……」
「お!? やっと理解したか?」
俺が前へ出ると、二人は退がった。
「断っとくが、相手が人間だろうと俺は容赦《ようしゃ》しねぇぞお」
言うなり、俺の背中に音もなく、金色の光が閃《ひらめ》いた。
「ぅお……!」
男が驚愕《きょうがく》の声をあげる。
実体を持たない、それは光の羽根である。
湾曲《わんきょく》した光が複雑に交差し、見る者によってはそれは『旧《ふる》き紋章』に例えられ、また別の者には『迷路』に、あるいは『未知の文字』に例えられることもある。
人と変わらぬ外見を持つ俺達の、それこそが『人ではない証《あかし》』だ。
「さあて、状況が呑《の》み込《こ》めたところで、思案の時間なんだな、これが」
金色の、六枚の羽根を背に、俺は宣言した。
「二択! 逃げるか殴り合いか! 制限時間は五秒! 六秒めには、ぶん殴る!」
本気だ。
普通なら、人間を殴るなんて、そんなこと怖くて出来やしない。何しろ人間は、俺達に比べれば驚くくらいに壊《こわ》れ易《やす》いからだ。ちょっと撫《な》でたつもりで死なれでもしたら、いくら相手がゴロツキでも寝覚めが悪い。
だが、自分より弱い者を傷つけて平気な連中については、話が違う。容赦なくぶん殴るのが、俺の主義だ。
もっとも、骨折くらいで済むように手加減はしてやるが。
「いいな? いくぜ!? ひとぉつ!!」
五秒も待つ必要はなかった。
都合、三秒半。よっつ、と言う前に、二人の男の姿は路地から消えた。
残ったのは遠ざかる足音と、
「憶《おぼ》えてろよ!!」
情けなくも上擦《うわず》った捨《す》て台詞《ぜりふ》だけだ。
「やぁれやれ」
溜《た》め息《いき》しか出ない。
ぎゅるぎゅると下品なエンジン音が聞こえて、通りを大きな車が横切って行った。エンジン音に似合いの、これまた莫迦《ばか》デカくて下品な車だった。
羽根を仕舞《しま》うと、俺は背後の女を、今度は躯《からだ》ごと振り返る。
「終わったぜ。怪我《けが》ぁないか?」
相手はまだ、単身楽団を展開したままだった。それどころか主制御楽器のフルートも、まだ口元に構えている。
蒼《あお》い瞳《ひとみ》を、ぱちくり、とばかりに見開いて。
「おい。大丈夫か?」
それに応《こた》えたものかどうか、いきなり彼女が動いた。
背後のケースに手を回し、収納スイッチを叩く。がちゃがちゃと金属音をたてて全てのアームが引っ込み、展開した時よりも素早く収納完了である。
いつ見ても、見事な構造だ。こいつの基本構造を考えついた奴は、天才かイカレてるかの、どっちかに違いない。
彼女はと言えば、銀色のケースを背負ったままで、真っ直ぐに俺を見つめていた。
瞳が、まだ涙に潤《うる》んでいる。だがその目には、もう怯えは見えない。
その代わりに、別の輝きがあった。
これは、驚きか?
それとも……?
「……なんだ?」
「タテガミみたいな金髪……?」
呟《つぶや》くように。
「褐色《かっしょく》の瞳……?」
俺のことだ。
「あの……あなた……探偵?」
「は?」
自分でもマヌケな反応をしてしまった俺に、突然、彼女は叫ぶように言った。
「レオン!?」
ふいに伸ばした両手で俺の腕を握《にぎ》りしめて。
「お願い! 妹を助けてください!!」
俺をトラブルメーカーと呼ぶ連中がいる。
だが、俺がトラブルに関わるのは、トラブルが好きだからじゃない。
トラブルに巻き込まれた誰かと目が合っちまった時、どうしてもその目を逸《そ》らすことが出来なくなっちまうからだ。
そう。
俺の名はレオン。
レオンガーラ・ジェス・ボルウォーダン。
精霊探偵だ。
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第一章 女の涙は禁忌を破る
将都《しょうと》トルバス、ルシャゼリウス市の西のはずれ、カドナ区を表現する言葉は、いくつかある。
例えば、裏町。
例えば、吹《ふ》き溜《だ》まり。
例えば、犯罪地区。
いやまあ言いたい放題だが、しかし実際に風評《ふうひょう》ほどではないものの犯罪発生率が他の地区より高いのも事実だし、住んでる連中が決してリッチでないのも事実だ。
無論、風紀《ふうき》も乱れている。
道路に黒い染みが落ちていれば、それはたいてい誰かの血の跡《あと》だし、その脇に使用済みのコンドームが落ちていても誰も気にしない。
煙草《たばこ》よりも気軽にドラッグが手に入り、酒よりも気軽に銃が手に入る。
一時間に一回は誰かが殴《なぐ》られ、三日に一人は誰かがのたれ死に、土曜の夜がくるたびに一人は誰かが殺される。そんな町だ。
そんな町に俺達が事務所を構えたのには、理由がある。
いや、理由があった、と言うべきだろうか。
ゴールディは本気で、この町の人々の力になろうとしていた。警察でさえ引き受けてくれないような揉《も》め事《ごと》を解決し、一人でも多くの人々を救おうとしたのである。
貧《まず》しく、無教養で、育ちの悪い、しかし善良な人々を、だ。
「ここだ」
安っぽい雑居ビルである。
あちこちでコンクリートの剥《は》がれた歩道から、階段を七段ほど上がるとそこが玄関だ。階段の脇《わき》のシャッターの奥は店舗《てんぽ》になっているが、この三年ばかり開かれたことがない。
「ここ……ですか?」
俺の隣《となり》で不安げに見上げるのは、ついさっき出会ったばかりの神曲楽士である。
路地で、暴漢に襲われている女性を助けてみたら、なんと彼女は俺を探していたというわけだ。どこで聞いてきたのか、俺の名前と容姿だけを手掛かりに、この薄汚《うすよご》れた裏町を彷徨《さまよ》っていたのだ。
「来なよ」
俺が玄関の前で声をかけると、何かを振り切るようにして付いて来た。
軋《きし》みまくる玄関のドアを開けて、床板の擦《す》り切《き》れた狭い玄関ホールを抜け、今にも踏み板が抜けそうな階段を上がる。
天井の裸電球《はだかでんきゅう》は切れかけで明滅し、音のない雷《かみなり》みたいだ。
二階から三階へ上がるあたりで、ドアごしに、女の声が聴こえてきた。
「あっ、あっ、ああっ!」
悲鳴のようなその声に、俺の『客』が、びくり、と身をすくめる。そのまま、俺の腕にすがりついた。
「ああ、大丈夫。悲鳴じゃねえから」
「……え?」
俺の言葉に応じるように、
「あんっ! あっ、あああん!」
ドアの向こうの声が、一気に艶《なまめ》かしい色合いをおびる。
いささか鼻にかかったような、この声はロレッタだな。
「すごい。やだ、すごいよ。あっ、いい」
ようやく俺の『客』も理解したようだ。艶々《つやつや》した頬《ほ》っぺたが、ぼがん、と音でもたてそうな勢いで真っ赤になる。
俺の腕を解放すると、俯《うつむ》いてしまった。
「こ……この、これって……」
「あ、気にしないでくれ。夜はいつも、こんな感じだから」
このビルの住人は、俺を除いて五人。
そのうち四人は、夜になれば表通りに出て、客を拾う。そしてこのアパートに連れ込んで『商売』をするのだ。
二階は四部屋とも、そのための部屋だ。彼女達は四階に部屋を借りて、共同生活している。元締《もとじ》めのウルスラも、同じ四階だ。
俺の事務所は、三階である。
つまり俺は、四人の娼婦《しょうふ》とその元締めの真ん中へ割り込んで、商売しているわけだ。
「イっちゃう。ああ、イッ、あ、あああっ!!」
二階からさらに階段を上がる俺達の後ろから、ロレッタの声が追いすがってきた。
さらに階段を上がって三階に着くと、真正面のドアが俺の仕事場だ。
「どうぞ」
ドアの上半分はすりガラスで、文字が白くペイントされている。
『ゴールディ&レオンガーラ探偵事務所』。
その名称は、四〇年前から変わっていない。
名称変更の手続きが面倒だったわけじゃない。世の中には変えちゃいけないものもある、ということだ。
安っぽい真鍮製《しんちゅうせい》のカギで、安っぽいドアを開くと、壁際《かべぎわ》の安っぽいスイッチを入れる。
ばち、と派手な音がして、それからたっぷり二秒ほどしてから、天井の蛍光灯《けいこうとう》が灯った。
首を縮めて、周囲を警戒するように入ってきた『客』は、
「……わ」
かすかに溜《た》め息《いき》混じりの声を漏《も》らした。
それは驚愕《きょうがく》か落胆《らくたん》か、それとも賞賛だったか。いずれにせよ、これが俺の仕事場だ。
一言で言うなら、アンティーク、である。
部屋の中のものは、どれも、買った時にはただの中古品だった。それが今では、さらに四〇年分の年月が加算されて、値打ちが出てきちまったのだ。
突き当たりの窓を背にして置かれている机も、その向こうの椅子も木製だ。壁際には木製の書類棚があり、反対側の壁には木製の本棚がある。
ちょっと注意深ければ窓に下ろしたブラインドが木製であることにも、気づくかも知れない。だが天井にも木製の扇風機《せんぷうき》が据《す》えつけられていることには、気づかないだろう。
つまり、この空間そのものがアンティークなのだ。
「まあ、座ってくれ」
来客用の椅子は、俺の椅子と同じく木製で、しかし造りはこちらの方が上等だ。
「何か飲む?」
「いえ……」
応えて彼女は、そろり、と椅子に腰を下ろした。
「そうか」
俺の方も、それじゃあ、と机の向こう側に座る。ブラインドを背にした、それが俺の定位置だ。いつもならここに座り、正面のドアが開いて問題を抱えた依頼人が入って来るのを、真正面から迎えることになる。
壁の時計は、すでに午前一時に近い。
こんな時間に、ここで客と向き合うのは、初めてではないがそう何度も経験しているわけでもない。
特に相手が若い女性となると、なおさらだ。
俺は椅子の背を軋ませて、机ごしに女と向き合った。
肘掛《ひじか》けに肘を置いて、頬杖《ほおづえ》を突く。
「私は……」
セナ・メイリン。
ドアを背にして座る、それが俺の新しい『客』の名前だった。
現在、二一歳。
生まれは、将都セレンダ。現住所はエクンマ市の山沿いである。
一六歳で将都トルバスへ移り、コレアル神曲学院に入学した。
昨年、卒業とほぼ同時に神曲楽士の認可を受けている。
「仕事は?」
「就職浪人《しゅうしょくろうにん》なんです」
そう言って、メイリンは恥ずかしそうに笑った。
「派遣会社《はけんがいしゃ》に登録して、それで何とか生活してるんですけど」
「楽士なんだろ?」
「ええ。でも……腕が良くないんです。ボウライを何体か召喚《しょうかん》するのが、精一杯で……」
なるほど。
たしかに、ボウライの一体でも召喚することが出来るなら、神曲楽士の資格試験は受けられる。制度改正によって難度が跳《は》ね上《あ》がったとは言え、神曲公社の行う試験の趣旨《しゅし》そのものが変わったわけではないからだ。
すなわち、それは神曲の技量そのものを問うのではなく、神曲楽士に必要な膨大《ぼうだい》な知識と教養、そして柔軟な応用力と厳格《げんかく》な倫理基準《りんりきじゅん》を問うものなのである。
だが逆に、現場が要求するのは神曲楽士の技能……正確には、その技能によって協力を得ることの出来る精霊の『力』の方だ。
事実上、中級以上の精霊と契約関係にあるか、あるいは最低でも一度に一〇体以上の下級精霊を呼び出すことが出来なければ、神曲楽士として喰《く》っていくのは厳しいだろう。
ともかく、そんなメイリンには、
「妹がいるんです」
言いながら彼女が机の上に滑《すべ》らせた写真を、俺は受け取った。
背景は、ケセラテ自然公園あたりだろうか。緑を背景に、一人の少女がこちらを向いて笑っている。綺麗な歯並びを隠《かく》そうともしない、奔放《ほんぽう》な笑みだ。
髪はショートに切り揃え、着ているものもタンクトップで、快活な印象である。だが目元は、俺の目の前にいる女性にそっくりだった。
なるほどな。
問題を抱えてるのは、メイリンではない。こっちの妹の方だ。
「去年、私が卒業するのと入れ違いに、妹もコレアル神曲学院に入学しました」
姉と同じく、親元を離れてのことだ。
学生寮に入寮した妹は、週に一度は実家に電話をし、その倍の頻度で姉とも連絡を取っていた。勉強一筋で、両親や姉と電話で話すことだけが、唯一の楽しみのようだった。
ところが、
「その連絡が、途絶《とだ》えたんです」
「いつごろから?」
二週間前、とメイリンは応えた。
「最初は、病気でもしてるのかと思いました」
学院に電話をして、訊《たず》ねてみたのである。だが、回答は得られなかった。電話では本当の家族であることが証明出来ないため、個人情報は教えられないと言われたのだ。
そこで翌日、コレアル神曲学院まで足を運んだ。
身分証明の手続きの後、ようやく、妹が一週間も無断欠席をしていることを知らされた。
だが、本当に問題なのは、ここからだった。
「寮にも、いなかったんです」
事情を説明し、学院にも確認を取ってもらってから、ようやく管理人に妹の借りていた部屋を開けさせた。
長い間、部屋を留守にしているのは明らかだった。
「なぜ、そう思った?」
「冷蔵庫の中身です」
牛乳やヨーグルトなど、賞味期限の短い食品が、どれも期限切れになっていたのだ。
「逆算すると、どれも一週間以上は前に買ったものばかりでした」
つまり、この一週間以内に買ったものは冷蔵庫の中にはない……普通に考えれば、この一週間は自分の部屋に戻っていない、ということだ。
「それで、どうした? 警察には行ってみたか?」
「ええ。その翌日に」
ナイガル市警……コレアル神曲学院と、その学生寮の所轄《しょかつ》警察署である。何が起きているのか判らない以上、失踪者《しっそうしゃ》の居住地を管轄《かんかつ》する警察が、その担当となる。
だが、
「家出人《いえでにん》の名簿《めいぼ》には、載せてもらえることになったんですけど……」
「捜索《そうさく》は?」
メイリンは、首を振った。
彼女の妹の失踪に、少なくともナイガル市警は事件性を認めなかったということか。
「それで?」
俺の、それは彼女に対する最後の質問だ。
「キミはどう思ってる?」
セナ・メイリンは、机ごしに、じっと俺の瞳《ひとみ》を見つめる。
それから、言葉を選ぶように、ゆっくりと言った。
「何か……事件か事故に巻き込まれてるんだと思います」
だろうな。
「俺も、そう思う」
「本当ですか!?」
「ああ。勘《かん》だがね」
「……勘、ですか」
「そうだ。ただし、俺の勘はよく当たるぜ」
俺は立ち上がると、机を回り込んで、メイリンの傍《かたわ》らに立った。
見上げる彼女の目は、まるで泣きべそをかきながら父親を見上げる幼女のようだ。
「この一週間、キミは妹さんを捜《さが》すために手を尽くした。そうだろ?」
「はい」
「学生寮の、他の部屋の学生に話を聞いたり、学院の放課後あたりに講師や学生を捕まえて質問したり」
「はい、やりました」
「寮の周辺でも、近所の人やら通行人やらに質問したよな?」
「ええ! ええ! やりました!」
当然だ。
それが家族ってもんだ。
「どんなことでもいい、手掛かりになる話が聞けないか、そう思って走り回ったよな?」
メイリンの瞳に、みるみる涙が溜《た》まる。
何度も何度も頷《うなず》きながら、その一方で唇《くちびる》に浮かぶ笑みは抑えきれない歓喜《かんき》だ。
「誰にも相談出来ずに、実家の両親も適当な作り話で安心させておいて、自分は一人で走り回ったんだ」
「そうです。そう!」
「それでも、手掛かりなしだ。だから思い余って、うさんくさい探偵なんぞに最後の望みをかけたってわけだ」
「とんでもない!」
ふいに、メイリンが動いた。
華奢《きゃしゃ》な両手が俺の腕を掴《つか》み、真下から見上げる瞳は、もうはっきりと泣いていた。
「噂は知ってます! 楽士の女の人を麻薬組織から助けたとか! 警察に協力して武器密輸の犯人を捕まえたとか!」
おやおや、だ。
宣伝して回った憶《おぼ》えはないが、どうやら噂《うわさ》ってのは思った以上に有効な広告らしい。
「お願いです! 妹を……、妹を……!!」
それきり、言葉が続かない。
俺は、俺の腕を掴んだメイリンの手を優しく引き離してから、その手を両手で包み直してやった。
片膝《かたひざ》を突いて、彼女と視線の高さを合わせる。
そして、
「判った」
褐色《かっしょく》の瞳で、蒼《あお》い瞳を覗《のぞ》き込《こ》んだ。
「どこで聞いたか知らないが、俺を目指して飛んできたのは正解だ。キミがするべきことが残ってるとしたら、そいつぁ、俺を雇《やと》うことだけだ」
「……それじゃあ」
「ああ」
頷いて、それから、とっておきの笑みを見せた。
もっとも、犬歯は剥《む》き出《だ》しで凶暴そうに見えたかも知れないが。
「任《まか》せろ」
頭を引き寄せて、胸に抱いてやった。
下の階で、今度はシルヴィナが喘いでいる。
その声よりも、メイリンの嗚咽《おえつ》は小さくて、けれど俺の胸には深く突き刺さってきた。
俺の胸にすがって何分も経《た》たないうちに、気がついたらメイリンは寝息をたてていた。
実際それは、いきなり電池が切れたみたいなものだった。ひょっとしたら満足な睡眠も取らずに、何日も走り回っていたのかも知れない。危険な裏町に踏《ふ》み込《こ》んだのも、疲れ切って判断力が低下したためだったのだろうか。
とにかく、俺は彼女を起こさないように抱き上げた。目を覚ますどころか、むずかりもしなかった。
奥の部屋へ運んだ。
そこはちょっとした居住スペースで、狭いが風呂もトイレも洗面所もある。ベッドは一つしかないが、それで不自由したことはない。無論、オトナな意味も含めて、だ。
ともかくベッドに寝かせ、靴《くつ》を脱がせ、さらにタオルケットを掛けてやって、それでも彼女は目を覚ます気配さえ見せなかった。
安心しきった寝顔は無防備で、彼女が依頼人でなければキスの一つも盗みたいところだったが、なんとか我慢で部屋を出た。
足音を忍ばせて、机に戻る。
「さて、と」
引き出しから、地図を引っぱり出して、机の上に大きく広げる。
ひかえめなノックがしたのは、地図の一点を丸印で囲んだ時だった。
「おう」
声をひそめて返事をすると、かちり、と音をたててドアと壁の間に隙間《すきま》が出来た。
その隙間から顔を覗かせたのは、くるくるとした巻き毛の女である。
「はぁい」
こちらも声をひそめるのは、俺の返事に合わせたようだ。
「よう。久しぶりだな」
「そりゃ、こっちの台詞《せりふ》だってば」
ロレッタである。
この安アパートに暮らす五人の女の中の一人だ。
「出てったきり戻りゃしないんだから」
「仕事なんだよ」
「ふふん、だ」
鼻の頭にシワを寄せてから、大きな瞳を、きょろり、と動かして中の様子を窺う。
「入っていい?」
「ああ。でも静かにな」
言って、俺は唇の前に人差し指を立てつつ、目だけで奥のドアを指した。
「寝てるから」
メイリンが、だ。
「なに? 女の子?」
ロレッタは、くすくすと笑う。部屋に滑り込んできたのは、小柄だが見事に均整のとれた肢体《したい》である。
小さいわけではないが大き過ぎないバストも、細く締まってはいるが頼りなさを感じるほどではないウェストも、トップ・モデルなみのバランスだ。実際問題、彼女がモデルの道に進むことが出来ない理由は、たった一つしかない。
つまり、一六五センチにやや足りない身長、である。
あるいは、鼻の高さが審査対象《しんさたいしょう》になるなら、そこのところも問題かも知れないが。
「また、どっかで拾ってきた?」
爪先から床に下ろす気取った歩き方で、澄《す》まし顔《がお》のロレッタは机に近づいて来る。
肩や臍《へそ》を見せるミニ・ドレスではなく、赤いジャージの上下である。今日の仕事は、もう終わりらしい。
「違う。依頼人だ」
「あらぁん」
ロレッタは、眉《まゆ》を寄せて目尻《めじり》を下げる。気の毒を装《よそお》った、あからさまな作り顔である。
「ううん、レオンくん可哀相《かわいそう》に。手が出せないのねえ?」
そう。依頼人とは、絶対に寝ない。それが俺の信条である。
たとえ相手がどんなに魅力的でも、だ。こんちくしょう。
「んで? まだ仕事してるわけだ?」
「ああ、まあな」
机に広げてある地図は、中央街区周辺のものだ。
将都トルバスの中心、ニコン市を包囲するように走る環状《かんじょう》高速道路の、その内側の範囲をそう呼ぶ。高層ビルが林立し、繁華街《はんかがい》が点在し、一流企業の本社も少なくない。
「コレアル神曲学院か」
掴み心地のよさそうなお尻を机の角に引っかけて、ロレッタが地図を覗き込む。彼女の目は、地図に描き込まれた赤い丸印を見ていた。
ナイガル市が中央街区に喰《く》い込《こ》む一画である。
「あたしも行きたかったんだよね……」
ぽつり、と呟《つぶや》くロレッタの言葉には、憧憬《しょうけい》の響《ひび》きがあった。
「そりゃ知らなかった。楽士志望だったのか」
「まあね」
次世代の神曲楽士を育成する専門機関は、メニス帝国には数多く存在する。中でも将都トルバスには、名門・トルバス神曲学院を始めとして、おびただしい数の神曲関連学校が集中していた。
コレアル神曲学院は、そういった教育機関の一つだ。
学費はトルバス神曲学院ほど安くはないし、そのくせプロ楽士の輩出率《はいしゅつりつ》もトルバス神曲学院ほどではない。だがトルバス神曲学院が、事実上の無試験で志望者を受け入れながらも進級に失敗すれば即退学という厳《きび》しい教育姿勢であるのに対し、コレアル神曲学院は、通常の留年制度を含む柔軟なカリキュラムを売りにしている。
要するに、トルバス神曲学院を目指すほどの才に恵まれないことを自覚する者が、それでも最上級の教育を受けようとする場合に叩《たた》くのが、コレアル神曲学院の門なのだ。
「今からでも通えばいいじゃないか。年齢制限は、ないんだから」
だが、
「無理だよ」
ロレッタの指が、地図に落ちた。
「生活以外に、お金なんて出せないもん……」
その指が、地図の赤丸をなぞる。伸ばした爪は綺麗《きれい》に手入れされていて、けれど手の甲の肌は水けが不足しているのか、いささか荒れている。
その手が、つまり、現実というやつだ。
自らの才能を試す以前に、そのために必要な学費さえ払えぬ者が、こうして現実に存在する。マトモな職に就《つ》くことの出来ない理由を……自分には全く責任のない理由を抱えて、自らの肉体を売り物にする以外に生活の術《すべ》を持たない女達が、こうして存在するのだ。
彼女達だけじゃない。
トルバスという巨大な街の中で、ここはそういう一画なのである。
見捨てられた町。
人生という賭《か》けに敗れた者が……あるいは最初から賭けるものを持たぬ者が、顧《かえり》みられることのないゴミクズのように吹き溜まる、そういう町なのだ。
いつからそうなのかは、俺は知らないし、知りたいとも思わない。
だが、俺の事務所は、ここにある。
ゴールディが、ここに事務所を構えたのだ。
この町を選んで、だ。
「そんで?」
俺が声をかけると、ようやくロレッタは顔を上げた。
「何か用があったんじゃねぇの?」
「あ、そだ。忘れてたよ」
言いながら、ジャージのポケットから取り出すのは、小さく折りたたんだ書類らしきものである。
開くと、何やら細かい文字が、びっちり印刷されていた。
「レオンに客が来てたのよ、昼間」
「客?」
依頼人か、と思ったが、そうではなかった。
「監査官《かんさかん》」
「ああ、なるほどな」
それは、主に自由精霊の素行を監視・監督する、神曲公社の部課である。
精霊が市民権を得る方法は、大きく分けて三つある。
一つは、一定期間、定職に就くこと。必要な期間は職種によって異なるが、その期間を満了すれば市民権が与えられ、人間と等しい社会的な権利を得ることが出来る。
第二の方法は、警官や軍籍といった特定の職業に就くこと。この場合は、即座に市民権が交付される。
そして第三が、神曲楽士と精霊契約を結ぶこと、である。当然この場合、契約精霊を監督する義務は、神曲楽士が負うことになるわけだ。
だが、精霊契約が『契約』である以上、解除もあり得る。その場合、市民権を有する契約精霊が、再び自由精霊に戻ることになる。
しかし、契約解除に伴って市民権が剥奪《はくだつ》されることは、ない。つまり、市民権を持つ自由精霊、という存在になるのである。
そういった、神曲楽士の下を離れた自由精霊を監視・監督するのが、すなわち、各神曲公社の精霊監査課の監査官なのだ。
まあ人間の立場で考えれば、無理もないとは言える。
あくまで、人間の立場からだけ考えれば、だが。
「レオンは留守だって言ったらさ」
ロレッタは、顔をしかめっ放しだ。よっぽど、俺の担当監査官が嫌いらしい。
「いつ出かけたとか、どこへ行ったとか、いつ戻るとか、もう根掘《ねほ》り葉掘《はほ》りだよ」
「それで、こいつを置いてったわけか」
出頭命令書だった。
二ヶ月ばかり前の、公務執行妨害と道路交通法違反の件だ。
俺が監査課にマークされていたとしても、不思議はない。しかも、マークされているにも拘《かかわ》らず満足に監視下に置くことが出来ないとなると、そりゃあ出頭命令も突き付けてくるだろう。
「判った。さんきゅ」
俺は受け取った書類を、ぽい、と机の隅《すみ》に放り出した。
「なに? ブッチしちゃうわけ?」
「そんなに逢《あ》いたいなら、向こうからまた来るさ」
「あー、もう。あんまり危ないことしないでよね」
言いながらも、けれど苦笑で、机ごしにロレッタが身を乗り出す。
「ま、気ぃつけとこうかね」
俺は笑みを浮かべて、ロレッタのキスを受けた。唇に、だ。
まさに、その瞬間だった。
突然、奥の部屋へと続くドアが、叩きつける勢いで開いた。
「ごめんなさい! 寝ちゃいました!!」
メイリンだ。
髪は乱れ、丸めたコートをなぜか胸の前に抱きしめて、飛び出してきたのである。
その格好のまま、
「……あ」
メイリンが固まる。
そりゃそうだ。目が覚めて、眠ってしまっていたことに気づいて、言い訳しながら部屋を飛び出してきたら、なんとロレッタが俺に机ごしのキスをくれた瞬間だったわけで。
そりゃあ固まるわ。
「あ……えと……」
言いながら、そろり、と後ずさりする。
「いや、あの、メイリン? いやいやいや、あのな、そうじゃなくてな」
説明しようとする俺の方を、見ようともしない。顔を真っ赤にして、床を見つめて、そのまま後ずさり続行だ。
「お、お邪魔しました……」
後ろ向きに部屋へ戻りながらドアを閉じようとするメイリンを、
「ああ、いいからいいから」
呼び止めたのは、ロレッタだった。
「用事、済んだし。もう帰るから」
ぴょん、と机から飛び下りる。それからメイリンに、胸の前で小さく手を振り、さらに俺を振り返ってウィンクなど投げて。
「じゃね」
出て行った。
残された俺は苦笑しつつ、メイリンに肩をすくめて見せる。
まだ寝惚《ねぼ》けているのか、メイリンは状況が理解出来ていないらしい。
彼女はドア・ノブを握ったまま、あはは、と乾いた笑いを漏らした。
木製のブラインドの外では、裏町が藍色《あいいろ》に染まりつつあった。
レオナルド・バーガーで簡単な朝食を済ませた後、俺とメイリンはまず、失踪した本人の身の回りから洗ってみることにした。つまりはそれが、出発点、だ。
『コレアル神曲学院前』のバス停から、車で二分ばかり。徒歩なら一〇分圏内といったところだろうか。
住宅地の一画に、コレアル神曲学院の学生寮はあった。
かろうじて鉄筋、といった感じの建物だ。ぱっと見たところ、普通の安アパート、といった風情である。東棟と西棟に分かれているようで、そのうち西棟が女子学生の寮だ。
「でも……」
車を降りる時、メイリンは不安げに言った。
「入れてもらえないと思いますよ」
寮の、妹の部屋にである。
一週間前、実の姉であるメイリンでさえ、管理人に妹の部屋の鍵《かぎ》を開けさせるのに苦労したのだ。そこへ、精霊探偵なんぞがくっついて行ったら、また揉《も》めるに決まっている。
無論、結果的には開けさせることは出来るだろう。だがそのためには、身元確認やら何やらで時間を喰うことになる。
下手をすれば、神曲公社の監査官が出張《でば》って来る可能性だってある。そうなれば、レオンガーラの輝かしき罪状、てやつが調査をさらに厄介《やっかい》にしてくれるって寸法だ。
残念ながら、俺はそこまで莫迦正直《ばかしょうじき》じゃない。
だから俺は、可愛い依頼人に不敵に笑って見せた。
「入れてもらうつもりはないぜ」
にやり、だ。
「入っちまうのさ」
周囲に人影がないのを確認してから、俺は彼女の手を引いて建物の裏へ回る。
裏のコンクリート塀と建物の間は、湿《しめ》った土に雑草が伸び放題に伸びていた。そいつを踏《ふ》み分《わ》けつつ、俺は建物を見上げる。
「どこだ?」
妹の部屋が、である。
「あそこ……だと思います」
メイリンが指すのは、二階の真ん中あたりだ。
ガラスごしに透《す》けて見えるカーテンに憶えがある、と彼女は言った。
「よっしゃ」
俺はメイリンの腰を抱くと、そのまま土を蹴《け》った。
「ひゃっ!」
「おっとっと。静かにな」
垂直上昇だ。
俺は二階の窓の前に浮いたまま、左腕でメイリンを抱え、もう片方の腕を閉じた窓に向かって伸ばした。
ガラスに腕を突っ込む。
割ったわけじゃない。腕の部分の構造を希薄《きはく》にして、ガラスの分子の間に滑り込ませたのである。
いわゆる、壁抜けだ。
メイリンはその様子を、ぽかん、と口を開けて見つめていた。
「初めて見るか?」
「え、あ、はい」
「そりゃまあ、俺が公社の監視対象になっちまうのも、当然かもな」
ガラスに肘まで突っ込んで、内側から窓のロックを外しながら、俺は苦笑する。
そもそも精霊と人間との『力』の差は、桁違《けたちが》いなのだ。よほど不器用な精霊でない限り、空を飛ぶことだって岩を砕《くだ》くことだって出来る。理論的には、天体の運行に干渉《かんしょう》し得る精霊も、存在するはずだと言われているのだ。
そんな存在と、人間は共存しているのである。
少しくらい規則や法律が厳しくなっても、当然と言えば当然だろう。
精霊が人間の居住範囲内で空を飛ぶことについては、その基準が厳しく定められている。無論、壁抜けの能力を利用して不法侵入を働くなんてのは、完璧に犯罪行為だ。
知ったことか。
法律だのルールだの規則だのがどれだけ厳格かは知らないが、俺にとっては乙女《おとめ》の涙が最強なんでね。
「よっしゃ」
俺はガラスから腕を引き抜くと、そのまま窓を開けた。
神曲楽士という職業を、一言で説明するのは難しい。
語義どおりに理解するなら、それは神曲という特殊な音楽を奏でる音楽家、ということになる。作曲家としての側面も有してはいるが、大した違いはない。
だが、実際に『職業』として見た場合、そこには多くの他業種が混じり込む。
建設業や土木業、運送業に工業に商業、漁業や農業、果ては海洋開発や宇宙工学の分野にまで、その範囲は広がってゆくのである。
それはしかし、実際には神曲楽士の職域の広さを意味するものではない。
精霊の万能性にこそ、その事実は支えられていると言える。実際、人間の文化・文明は、精霊の存在なしにはあり得なかったとさえ言われているのだ。
もっとも、その考えそのものには俺は賛成はしない。
じゃ、なにか? 人間が精霊に出会わなかったら、いまだに蒸気機関車《じょうききかんしゃ》と気球で、街をメイル・マンが走り回って、印刷は手刷《てず》りで、医者は治療と称して患者の血を吸い出して、子供はテレビを観《み》る代わりに鉱石《こうせき》ラジオを聴いてたってか?
冗談言っちゃいけない。
もし精霊と出会うことがなかったとしても、人間は人間で立派にやっていったに違いない。むしろ、精霊の存在が人間にもたらした腐敗《ふはい》や後退も、決して少なくはないはずだ。
だが一方で、人間が精霊の力に大きく依存しているのも事実だ。
その事実を端的《たんてき》に証明するのが、つまり、神曲楽士という職業である。
精霊が人間に与えるのと同等の、いや、場合によってはそれ以上のものを精霊に与えることが出来るのは、彼ら神曲楽士だけだからだ。唯一、神曲楽士の存在こそが、およそ人間と精霊とを対等に結びつけているとも言える。
したがって神曲楽士とは、その意味において、現代社会を支える要《かなめ》であるとも言えなくもない。
だからこそ、
「なぁるほどなあ」
若者達は、辛く苦しい修練《しゅうれん》に耐えるのである。
「たしかに、家出なんかしそうな感じには、見えないな」
俺は、ぐるり、と部屋の様子を見回して、そう言った。
メイリンの、妹の部屋である。
その印象を一言で言うなら、狭苦しい、だ。
ワンルームという言葉が世辞《せじ》に聞こえてしまうほどの、あるいは質素という言葉が褒《ほ》め言葉《ことば》に聞こえないほどの、それは粗末《そまつ》な部屋だった。
「家賃が安いんです」
メイリンは、そう言った。
「そんな感じだな」
将都トルバスは、神曲の都である。当然、遠隔地《えんかくち》の学生をあてこんだ下宿やアパートなど、掃《は》いて捨《す》てるほどある。もっと上等な……いや、マシな施設はいくらでもあるだろう。
それでも、この古びた学生寮を選ぶとなれば、それは金銭的な理由に他ならない。
板張りの部屋には、小振りの学習机と、別に用意したらしい事務椅子が置かれ、他に調度《ちょうど》らしいものと言えば小さな本棚と小さなベッドだけだ。
それ以外には、テレビどころかコーヒー・テーブルさえない。壁を飾《かざ》るものも、カレンダーだけである。それも、枠線と数字だけのシンプルなやつだ。
机の隅にヘッド・ホンだけが転がっていて、封音盤|再生機《プレイヤー》は見当たらない。どうやら音楽を楽しむためのものではなく、この部屋で単身楽団を練習する時に使うものらしい。
部屋の隅には、段ボール箱が一つ。タンスやドレッサーがないところを見ると、着替えや洗濯物は、全てその中なのだろう。
年頃の娘の生活空間としては、いくら何でも味気ない。これじゃあ、カレシが出来ても部屋に呼べないだろうに。
だがそれは一方で、この部屋の主の興味は、神曲楽士になるための勉強ただそれだけに向けられていた、ということでもある。
つまり、
家出の理由があるようには見えないのだ。
机の上には教科書らしき本とノートが出しっ放しになっている。
手を伸ばして、教科書の方を開いてみた。
細かい文字で、ぎっしりと書き込みがある。おそらくこれが、メイリンの妹の字だ。
ノートも、似たようなものだった。まるで印刷したみたいに、整然と手書きの文字が並んでいる。
「すんげぇな、こりゃ」
取り上げてみると、ページの隙間からシャープ・ペンシルが転がった。
それを視線で追った俺は、机の上の電気スタンドの陰に、写真立てがあるのに気づいた。
写っていたのは二人の女性である。満面の笑みでこちらを向いて、互いに肩を寄せ合っている。
二人とも、すぐに誰だか判った。
片方は、メイリンだ。髪は今より短く、いくらか若いように思えるが、間違いない。
そしてもう一人は……、
いつの間にか隣《となり》に来ていたメイリンが、写真を覗き込んで呟いた。
「シャルミタ……」
それが、妹の名だった。
セナ・シャルミタ。
メイリンとは四つ違いの一七歳だ。
目鼻だちはメイリンに似ているが、しかしシャルミタの方が活発そうに見える。それは、短く切《き》り揃《そろ》えた髪のせいだろうか。
「どこ行っちゃったんだろ……」
「そいつを、これから調べんのさ」
俺はもう一度、ぐるり、と部屋を見回してみる。
「一つ、立ち入ったこと訊いてもいいか? 調査にゃ全っ然、関係ないんだけどな」
「はい」
「キミ達ゃ、貧乏なのか金持ちなのか、どっちよ?」
「え?」
「キミも、この寮にいたんだよな? こんな安っぽい寮にさ」
「ええ」
「ところが、キミが今、着てるそのコートは、けっこうな値打ちもんだ。その下のワンピだって、ブランド品だろ?」
しかも、就職浪人なのだ、と彼女は言った。どのていどの稼《かせ》ぎがあるのかは知らないが、分相応《ぶんそうおう》には見えない。
「ああ。親が、金持ちなんです」
メイリンの笑顔は、どこか照《て》れ臭《くさ》そうだった。
「あ、なるほど。親な」
「でも神曲楽士になることは反対されてて、だから頼れないんですよ」
「そりゃまあ、人生の大バクチだからなあ」
「ええ、親にも同じこと言われました。だからトルバスへ出てくる旅費も、貯金から出しました。後は四年間、学院とアルバイトと寮と、三角形で生活してました」
そして、コートの襟元《えりもと》を指で撫《な》でる。
「これは学院を卒業する時に、母が送ってくれたんです。卒業祝い。就職活動の時に着て行きなさい、って」
俺は思わず、苦笑した。
そんな上等なコートを着て就職活動なんかしたら、面接官の心証は最悪だろうに。
「着てったのか?」
いいえ、と苦笑するメイリンの意見も、つまり俺と同じだったようだ。
「あれ? じゃあ、ひょっとしてその単身楽団も?」
「ええ。これは父が……」
よくある話だ。
娘の夢みたいな話に最初は反対していた両親も、やがてその一生懸命な姿に心を動かされて、最後には積極的に援助してやるようになる……てな構図だ。
「じゃあ、ご両親も少しは態度が軟化したってことか」
「ええ。妹なんか、入学の時にはもう、単身楽団を買ってもらってました」
「なに?」
他にも何かないかと部屋を見回していた俺は、メイリンのその言葉に彼女を振り返った。
「単身楽団?」
「ええ。そんなに上等なモデルじゃないですけど、練習用に。私が在学当時、自分の単身楽団を持ってなくて、それで実習で苦労したのを妹から聞いてたみたいで……」
「いや、まった。ちょーっと待った」
「はい?」
俺はもう一度、部屋を見回した。
つられて、メイリンも頭を巡らせる。
「てぇことは、シャルミタは練習のために学院から借り出してたんじゃなくて、自前のを持ってたってことか」
「……はい」
「どこにあるんだ?」
「……あ!」
ない。
部屋に、ないのだ。
セナ・シャルミタは、忽然《こつぜん》とその姿を消した。
単身楽団とともに。
神曲楽士のデビューは、年間を通じて平均四〇人と言われている。
その中でも、五〇年の歴史を持つ名門・トルバス神曲学院は、基本的に最低でも年間二人、最高一五人の神曲楽士を輩出した記録を持つという。
その一方で、他の神曲関連の教育機関には、何年も新たな神曲楽士が出ていないところも珍しくはない。
神曲楽士を目指すということは、すなわち『人生の大バクチ』そのものなのだ。
そういう意味でコレアル神曲学院は、メイリンの言葉を借りれば、まだマシな方なのだそうだ。この一〇年間に、メイリンを含め合計八人もの神曲楽士を巣立たせているのだ。
「でも」
助手席で、メイリンは怪訝《けげん》そうだ。
「なぜ、学院なんですか?」
言いながらメイリンは、助手席側の窓越しに、通りの向こうを見ている。
コレアル神曲学院の、その校舎が見える。
ナイガル市の西、中央街区と重なるあたりだ。立ち並ぶビルの一軒、その屋上付近に、堂々たる金色の看板が掲《かか》げられている。
打ち抜いた金属をボルトで留めて、文言は当然、『コレアル神曲学院』だ。
俺は通りを挟《はさ》んだ向かい側に、車を停めた。
チボレット・キャバロ。
チボレット社製の、大型乗用車である。燃費は悪いが、速いし頑丈《がんじょう》、ちなみにハンドルは左側だ。
俺の愛車である。
と言っても、普段の移動はオートバイの方が多い。たいてい一人で行動するからだ。このメタリック・イエローの車を駐車場から出したのは、だから久しぶりだ。
「ま、勘だな」
それがメイリンの質問への答えである。
「勘……」
「ああ、勘だ」
見ると、メイリンは不安げな顔で、自分の足元に視線を落としてしまっている。
おいおい。
俺が見限られるのは別にかまわんが、俺のせいで女の子が落ち込んじまうってのは、勘弁してもらいたいな。
「いいかメイリン、勘とは言ったが、理由はあるんだ」
「理由、ですか?」
「ああ。俺達が抱えてる問題を突き詰めると……」
通りの向こうでは同じ制服を着た学生達が、ゆるゆるとした流れで学院へと向かう。
「……シャルミタが失踪した理由、あるいは原因は何なのか、てぇことだ」
俺の言葉に、メイリンがこちらを振り返った。
「例えば、こいつが家出だったと仮定すると、二週間の音信不通も、講義の無断欠席も説明がつく。単身楽団を抱えて、どこかへ行っちまったんだ」
「あり得ません」
即答である。
「そ。あり得ねえ」
「え?」
「熱心に神曲楽士を志望していたとか、黙《だま》っていなくなるはずがないとか、そういう検証不能な根拠《こんきょ》は抜きだ。だがそれでも、シャルミタが家出したと考えるのは不自然だ」
「なぜ、です?」
「机の上のノートだよ。筆記用具が挟んであった。そこんとこに書いてあったのは『封音盤《ふうおんばん》の活用』の『和音の構成』の項目の整理だった」
几帳面《きちょうめん》な小さい字で、少なくとも俺の目には、よくまとめられていたように思えた。
「で、教科書の方も、ちょうどそのあたりのページの角《かど》が折ってあった」
助手席のメイリンは、しかし小首をかしげて、俺の言うことがよく判《わか》らないらしい。
「戻って来るつもりだった、ってことさ」
「……あ」
そう。
何があったにせよ、シャルミタは最後に机を離れるまで、勉強をしていた。そして戻って来てから、その続きをするつもりだったのである。
「家出と考えるにゃあ、いささか不自然だわな」
「それじゃあ……」
「ああ。シャルミタは、寮の部屋に戻って来ないんじゃない。戻って来られないんだ」
「でも……」
なぜ、というメイリンの言葉は、ほとんど囁《ささや》きである。
「とすると、次の可能性。シャルミタは学校から戻って、復習だか予習だかをしていた。そこで何かの事情があって、単身楽団を手に外出、それきり戻らなかった」
それなら、教科書やノートが置きっ放しになってる理由は説明出来る。
「それも違うと思います。あれは、その日の講義では使わない教科書とノートだったから置いていっただけです。たぶん妹は、遅刻寸前の時刻ぎりぎりまで朝の勉強をしてたんです」
「ほう、いいね。なぜだ?」
メイリンは可愛らしい目で、真っ直ぐに俺を見つめる。
「通学鞄《つうがくかばん》がありませんでした」
「正解だ」
シャルミタの部屋には、通学鞄がなかった。
だが、もし帰宅してから失踪したのだとしたら、通学鞄は部屋にあるはずなのだ。
「じゃあ……」
「そこで、根本的な質問に戻るぞ」
「はい」
「シャルミタと最後に話したのは?」
メイリンが答えた日付は二週間前の、月曜の夜だった。
「お前さんとシャルミタは、三日に一度は連絡を取り合ってた。つまり普通なら木曜あたりに電話がくるはずだったわけだな?」
「はい」
その電話が、掛かって来なかった。
「お前さんの方からは、掛けなかったのか?」
「寮の電話は、呼び出し式なんです」
電話機は各部屋に据えつけられていて、それは俺も見た。入り口の脇の床の上に、直接、置かれていた。留守電機能さえない、旧いタイプのものだ。
だが、引き込まれている電話線は、一本なのだという。
「部屋から外へは、自由に掛けられます。でも外から掛かってきた電話は、管理人室の電話機に届くんです。そこから、各部屋へ回してもらう仕組みなんです」
だから、メイリンの方からは出来るだけ掛けないようにしていたのだという。
「六日めには、本当に心配で、掛けちゃいましたけどね」
しかし、シャルミタは留守だった。少なくとも、管理人室からの呼び出しには応じなかったのである。
実際のところ、メイリンが異常を感じ始めたのは、そこからだった。
そして都合二週間。
シャルミタは戻って来るどころか、連絡さえ寄越《よこ》さない。
「で、キミはそれだけの事実を全て、学院にも警察にも伝えたんだろ?」
「ええ」
なのに、学院も警察も、シャルミタの失踪に対して何ら積極的な動きは見せていない。
これだけあからさまな『失踪』なのに、だ。
「そこで、俺の勘が囁くわけさ。学院と警察は、なぜ動かないのか」
チャイムの音が聴こえてきた。
俺が車のドアを開けると、メイリンも慌《あわ》ててそれに倣《なら》う。
「あの、どこへ?」
困惑のメイリンに、俺は愛車の鼻面《はなづら》を回り込んで、助手席側のドアを開けてやる。
「言ったろ? 勘だって」
にんまりと、笑って見せた。
「本当に動いてないと思うか?」
学院と警察が、である。
「それって……」
メイリンは、愕然《がくぜん》と目を見開いた。
気づいたのだ。
「……何か隠《かく》してる?」
呟くメイリンに、俺は頷いた。
「ま、勘だけどな」
そう付け加えて。
玄関ホールは二階までの吹き抜けで、エレベーターが二基と、上へ続く階段だけだ。印象としては、学校と言うよりもオフィス・ビルに近い。
エレベーターで二階へ上がると、吹き抜けを回り込んだ廊下の先に、ガラス張りの事務所があった。
教務課だ。
「あの、すみません……」
メイリンがカウンターの前に立つと、妙に顎《あご》の尖《とが》った女事務員が、じろり、と顔を上げる。
「はい?」
バックレやがった。しかし度の強い眼鏡の奥から睨《にら》み据《す》えるような目は、相手が誰だかはっきりと認識しているのが判る。
「卒業生の、セナ・メイリンです」
「はい」
メイリンの方は、名を告げただけで話が通らないのが不思議らしい。そこで、口ごもってしまった。
おそらく前回、メイリンに応対したのも、この女だったのだろう。それも、妹と連絡が取れない、という重大な用件でだ。
だから今、相手が自分のことを知らないような素振りをする理由が理解出来ないのだ。
やれやれ。
嬢ちゃん、あんたやっぱり、もっと『世間』てものを判った方がいい。
俺は、メイリンの肩ごしに、後を引き継いだ。
「在校生の、セナ・シャルミタさんの件で来たんですがねえ!」
大声、というわけではない。だが、その気になって声を張れば、こんな中小企業なみの小さな事務室の、向こう側まで届かせることくらい何でもない。
「ほらあ、学校から行方不明になった女の子! この学校に来て、そのまま帰らなかった、この学校の生徒! 失踪しちゃった娘《こ》! この学校から帰って来ないセナ・シャルミタさん! 知らないの!? おーっかしいなあ!」
教務課にいわあせた全員が、こちらを振り返る。中には、講師に指導を受けに来たのか教材でも取りに来たのか、数人の生徒も混じっていた。
「あ、はい、はい! セナさんね。セナ・シャルミタさんの件ね、はい!」
大慌てで、女性事務員が立ち上がる。
「あの、はい、こちらへどうぞ。今、学院長をお呼びしますので」
ざまぁみろってんだ。これでシャルミタの件は、学院中の噂《うわさ》になるだろう。後の始末が大変だろうが、知ったことか。
相手が下手《したて》に出てるからって嘗《な》めてかかると、痛い目に遇《あ》うってことさ。
ぽかん、と俺を見上げるメイリンに、にっ、と笑いかけてやった。
通されたのは、教務課のさらに奥である。
二つ並んだドアの、一方が学院長室、もう一方が応接室だ。
「しばらくお待ちください」
俺達を座らせると、女事務員はそそくさと応接室を出て行った。
大きな窓にブラインド。観葉植物に封像盤再生機付きの大型テレビ。革張りのドデカいソファの前には、これまたドデカいテーブルが置かれ、テーブルの真ん中にはドデカいクリスタルの灰皿ときた。
そのくせ、あるべき卓上ライターが、ない。
つまり灰皿は、飾りってことだ。
「いいか?」
俺は上着の内ポケットからメルバイロの箱を取り出す。メイリンが頷くのを確認してから、一本だけくわえた。
指先に金色の光を灯《とも》して、火を点《つ》ける。
精霊雷《せいれいらい》、と呼ばれる、精霊の持つ『力』の一つだ。
出力を上げて投げつけ、武器にすることも出来る。この場合、人間の目には横方向への落雷に見えるのだそうだ。
精霊雷と呼ばれる所以《ゆえん》である。
今は、ライター代わりだ。
一呼吸だけ、胸いっぱいに煙を吸い込んでから、俺は残りを灰皿に押しつけた。ぴっかぴかに磨《みが》き上《あ》げられた灰皿の中で、煙草の吸殻《すいがら》は捩《ね》じくれた屍体《したい》みたいに転がった。
「失礼します」
さっきの女性事務員にドアを開けさせて、一人の男が入ってきた。
ほとんど反射的に立ち上がるメイリンを、
「ああ、うん」
それだけであしらいやがった、この男がコレアル神曲学院の学院長のようだ。
ぬるり。
それが俺の受けた印象だ。
きちんとスーツを着込み、髪も薄いがきちんと整えている。俺ほどではないが背も高いし、面長だが不細工と言うほどご面相が不自由なわけでもない。
だがそれでも、目の前のこの男の印象は、ぬるり、なのだ。体表に粘液《ねんえき》の層でもあるんじゃないかと思うくらいに、ぬるぬるした雰囲気の男だった。
「そちらは?」
俺の方へ、ちらり、と視線を投げて、男はそのまま俺達の正面に腰を下ろす。メイリンに、お座りなさい、とさえ言わない。
まあ俺の方も座ったままなのだから、礼儀については言えないが。
「こちらは……」
ようやく腰を下ろして、メイリンが言いかけたところを、俺は引ったくる。
「レオンガーラ・ジェス・ボルウォーダン」
俺の、それは牽制《けんせい》である。
「私立探偵でしてね」
威嚇《いかく》、と言ってもいい。案の定、ぬるり男の目が一瞬、泳いだ。
「探偵、さんね」
さっきの女事務員が戻ってきて、ティー・カップをテーブルに並べてゆく。彼女が退席するなり、学院長は早々とカップに手を伸ばした。
「それで?」
俺とメイリンへ、順番に視線を投げる。
「うちの在校生に、ご用だとか?」
ええ、と応《こた》えるのは俺の方だ。さっきのやりとりで、メイリンも、この場は俺に任せることにしたようだ。
「こちらのセナ・メイリンさんは、俺の依頼人でしてね。妹のシャルミタさんを捜して欲しい、ってご依頼でして」
「うちには関係ありませんよ」
学院長の、それは即答である。
タイミングは見事だったが、主張の中身はお粗末の極《きわ》みと言うべきだろう。
要するに、甘く見るんじゃねえよ、ってことだ。
「そいつぁ妙じゃねぇですか?」
俺は自分の膝に肘を突いて、前のめりになる。ついでに新しいメルバイロを一本、口にくわえた。
「学院長。あんた、警察にゃ届けを出しましたか?」
答えは、
「なぜです?」
ほれみろ。質問返しだ。
「二週間前、シャルミタさんは、この学院の講義に出席するため学生寮を出て、そのまま帰宅してねぇんです。つまり、彼女が最後に目撃されたのは、この学院内である可能性が高いってわけでね」
「ほう」
「ほう、じゃねえでしょうに。ちゃんとメイリンが、そう説明したはずですぜ。学院長のあんたが、それを知らないわけがねえ」
先週のことだ。
メイリンも、頷いた。
「学院長。警察には届けたんですか? 届けてねぇんですか!?」
膝に置いた俺の手から、煙草の先に向かって電光が飛んだ。親指で弾《はじ》き上《あ》げるコインのように、金色の精霊雷が空《くう》を切ったのである。
白い紙巻き煙草の先で一瞬、拳大《こぶしだい》ほどの炎があがり、それから消えて火種《ひだね》だけが残った。
人間は火を恐れる。
これは本能的なもので、抑制は出来ても消すことは出来ない。俺が紫煙《しえん》を吹きつけてやると、学院長はかなり素直になった。
「いいえ、届け出はしてませんね」
「なぜ」
「言ったでしょう? 学院《うち》には関係ありません」
「あんたのとこの生徒だ」
「プライベートにまで関与はしませんよ」
俺は、自分の目が無意識に細くなるのを感じていた。
「おい、そりゃねえだろ、おっさんよ」
上下の瞼《まぶた》の間隔が、ではない。
褐色の瞳の虹彩《こうさい》が、縦長に狭《せば》まったのだ。
「楽士志望のガキども集めて学校なんぞ開いてんだ、せめて施設にいる時の安全くらい保証してやるのが、筋ってもんじゃねぇのか?」
「学院を出てからいなくなってるんですよ!? 寮にも戻ってない! どちらも私どもの施設の外です」
俺は学院長の顔を見つめ、煙草の煙を吐き出す。
それから、にやり、と笑ってやった。
「ほれみろ。やっぱ、事情は把握《はあく》してるんだ」
学院長は眉間《みけん》にシワを寄せた。俺の言っていることの意味が、判らないのだ。
「あんた、当日のシャルミタの動きを把握してるってことだ。つまり、ヤバいと思ってんだろ? だから調べたんだろ? シャルミタの同級生から聞いたのかい?」
ようやく、理解したらしい。ぬるり、とした顔が、ほんのわずか、しかめっ面になる。
「判りました」
そして、いかにも悔《くや》しそうに、言った。
「間もなく、警察の方が来られます」
「あん!?」
「本当は、それまでにお帰りいただきたかったんですが、仕方ありません。ご同席ください。その方が、話が早い」
困惑を顔面に貼り付けるのは、今度は俺とメイリンの番だ。
思わず、顔を見合わせる。
絶妙のタイミングで、ドアがノックされた。
「どうぞ」
学院長が応えるのと、ドアが開くのとは、ほとんど同時である。
「失礼します!」
入って来たのは、女性だった。
タイトなスカートが裂《さ》けるんじゃないかと思うくらいの大股《おおまた》で、颯爽《さっそう》と部屋に入って来ると、スーツの胸元を張り詰めさせて見事な敬礼をきめた。
短く切り揃えた髪に、意思の強そうな眉と凛《りん》とした瞳の、それは私服警官である。
「ニコン市警から参りました。サムラ・アレクシア巡査部長です」
「ああ!?」
俺は思わず立ち上がり、
「ええ!?」
女性警官も素《す》っ頓狂《とんきょう》な声をあげた。
「アレクシア!?」
「レオンさん!?」
続く二人の言葉は、気恥ずかしいくらい綺麗に揃っちまう。
「なんでここに!?」
しまった、と思った時には、もう遅かった。
学院長はソファに腰を下ろしたまま、不機嫌《ふきげん》そうに俺を見上げていた。
要するに、こういうことだ。
彼女の管轄内で、事件が発生した。
その担当捜査官であるサムラ・アレクシア巡査部長は、捜査の過程でコレアル神曲学院の学院長と面会の段取りを付けた。
そして今日。
たった今。
約束どおりに学院長を訪ねたアレクシアは、思いがけない人物と再会してしまった、というわけである。
博物館で起きた殺人事件を担当した際に出会った、野性味あふれるナイス・ガイ。
つまり、この俺だ。
「どうぞ、ごいっしょに」
着席を勧められたサムラ・アレクシア刑事は、少しばかり逡巡《しゅんじゅん》してから、結局、俺の隣に腰を下ろした。結果、俺は二人の女性に両側から挟まれる格好になっちまった。
新しいティー・カップが一つ、追加されるまでに、学院長がここまでの経緯《けいい》を説明する。要するに、行方不明の妹を捜す卒業生を連れて私立探偵の精霊がやって来た、というところまでである。
アレクシアは、ちらりと俺の方を盗み見ると、こっそりと溜《た》め息《いき》をついた。
何だよ、そりゃあ。
「判りました。では、こちらのお二人にも、お話ししてかまいませんね?」
頷く学院長は、仏頂面《ぶっちょうづら》までが、ぬるり、のままだ。
「仕方ないでしょう」
「では」
言いながら、アレクシアは手にした書類鞄を開いた。
中に手を突っ込んでから、もう一度だけ、念を押す。
「いささか刺激が強いですが、本当に大丈夫ですね?」
確認する相手は、今度は俺を飛び越して、その隣のセナ・メイリンである。
メイリンが頷くと、アレクシアは大判の写真を取り出して、テーブルの上に置いた。
白黒写真である。
メイリンが喉《のど》の奥で、かすれるような音を漏らした。
「一昨日の早朝、ユドノマキ市とマナカダ市の境、ヨルドン川の河口付近で発見されました」
雑草の生《お》い茂《しげ》る河川敷《かせんじき》が写っている。
画面の手前が伸び放題の雑草、奥が川面《かわも》である。
その中ほど、ちょうど川岸と水面《みなも》との境に伸びる雑草に、何かが引っかかっていた。
一目で判った。
うつ伏《ぶ》せになった、人間だ。
「おい、こいつぁ……」
着ているのは、春物のセーターだろうか。髪が藻屑《もくず》のように、水面に浮き広がっている。
マジかよ。
洒落《しゃれ》になってねえぞ!
「嘘《うそ》……」
呻《うめ》くようにそう言ったメイリンに、アレクシアはすかさず声をかけた。
「違います」
顔を上げてアレクシアを振り返るメイリンの、その唇は震えている。
「妹さんではありません。安心してください。身元の照会は出来ています、セナ・シャルミタさんではありません」
震える唇から、溜め息が漏れた。
同時に俺に寄りかかってきたのは、瞬間的な緊張と、それに続く脱力だ。俺が手を握《にぎ》ってやると、無意識だろうか、すぐに握り返してきた。
思いがけないほどに、強く。
かすかに震えて。
「おい、頼むぜ。そういうことは、先に言っといてくんなきゃ」
「すみません」
それだけ言って、アレクシアは黒い手帳を開く。見事に『仕事モード』ってことかい。
「エーム神曲専門学校、二年のスドウ・イレーネさんです」
手帳を確認しながら彼女が口にする名前に、学院長は、ぬるり、と頷いた。少なくとも、先に事情だけは聞いていたようだ。
「四月一日、学校で目撃されたのを最後に、行方《ゆくえ》が判らなくなっていました」
ということは二週間前。シャルミタと、ほぼ同じころだ。
状況も、シャルミタと似たようなものだった。
自宅通学だったイレーネは、その日の朝、いつものように登校した。学校でも、特に変わった様子はなかったと、その友人達が証言している。
下校した時刻も、いつもと同じだったと見られていた。少なくとも、最後に彼女を見かけた友人は、そう言っている。
そしてそのまま、帰宅しなかった。
翌日の午後六時、イレーネの家族が警察に捜索《そうさく》願いを出す。依頼を受理したのはヘグタ市警である。彼女の自宅の、所轄《しょかつ》警察署だ。
だがこの時、その情報は将都トルバスの全市警察に伝達されていた。
「彼女が初めてではなかったからです」
「なに?」
「この二ヶ月ほど、奇妙な失踪事件が連続して発生しています」
なんだと?
「最初の報告は、先々月の七日でした。マナカダ市警に出された、未成年の捜索願いです。その翌週、今度はナイガル市警に同様の捜索願いが出されました。別件です。さらにその五日後には、今度はアマツキ市でも失踪の届けがありました」
それから、次々と、だ。
最初、それらの届け出を関連付けて考えた者は、誰もいなかった。
妙だ、と言い出したのは、ルシャゼリウス市警察の人間だったという。それが誰だかは、聞かないでも判るような気がした。
ルシャ市警からの指摘を受けて、ニコン市警に対策本部が設けられた。これは、状況が将都トルバス全域に広がっているためだ。ニコン市は地理的に、トルバスの中心に位置するのである。
大規模な連続|誘拐《ゆうかい》事件の可能性を含《ふく》めて、秘密裏に捜査が進められた。
そして一昨日、ついに事件は最悪の展開を見せたのである。
スドウ・イレーネが、最初の犠牲者《ぎせいしゃ》として発見されたのだ。
ただちに、殺人課のサムラ・アレクシアが対策本部に召喚《しょうかん》された。
「てことは、殺されたのか?」
写真の少女が、である。
「いいえ。その可能性がある、というだけです。いずれにせよ、もう市民生活課の管轄ではありませんので」
そして殺人課が後を引き継ぎ、彼女が担当となった、というわけだ。
「いずれにせよ、うちには関係ありません」
ぬるり、と口を挟んだのは学院長である。
「もう届け出は済んでるんでしょう? いったいぜんたい、あなた方は何なんです? 探偵やら警察やら、まるでうちが何か事件と関係あるみたいに」
ぬるりぬるりと肩を揺《ゆ》らして、その様子にようやく俺も理解した。
このおっさん、怒《おこ》ってやがるらしい。
「警察は家出人として受け付けたんでしょう? それなら、もうそれでいいじゃないですか。何だって、わざわざうちに来るんですか!?」
「表向きは、そうです」
アレクシアの声は、冷淡なまでに静かだ。
「表向きは家出人として対応するように、全署に指示が出されてます」
「で? 実際には、どうなんだい」
アレクシアは腰をひねって、ほとんど俺に向き直る。
ストッキングだけの膝小僧《ひざこぞう》が、俺の脚《あし》に触れた。
「全力を挙げて捜査中です。現時点までに……スドウ・イレーネさんを含めて、一八人もの人達が行方不明になってるんです」
その中には、セナ・シャルミタもカウントされているのだ。
「そいつぁ妙だな」
「何がですか?」
「この街で、行方不明ってのは、そんなに珍しいもんなのか?」
「そうだ! そうですよ!」
学院長も、ようやく俺に賛成する気になったらしい。
「行方不明なんてトルバスだけでも、たしか年間で千人以上も出てるんでしょ!? うちは関係ない。ただの家出か何かだ!」
俺は、ぶん殴《なぐ》って黙らせてやりたい衝動を、何とか押し込めた。
それよりも、確認しなければならないことがあったからだ。
「なあ、アレクシア。このムカつく親父《おやじ》の言うとおりだぜ。こんだけの大都市なんだ、いきなり行方の判らなくなっちまうやつなんて、普通にいるはずだ。そうだろ?」
家族に無断で旅行に行っちまう不良少女から、空き地の隅っこで頭を撃ち抜かれて転がる奴まで、ごろごろいるはずなのだ。
「そん中で、その一八人だけをワン・セットにして考える理由が、何かあるのか?」
アレクシアは再び、正面に向き直ってしまう。
その視線は、テーブルの上の写真に落ちていた。
「共通点があるんだな?」
アレクシアは、答えない。
「俺が言っちまうぞ」
それでも彼女は、頷きさえしなかった。
俺にはそれが、言っちゃいなさい、という彼女の囁きに思えた。
だから、
「神曲だな?」
ついに、アレクシアは頷いた。
「そうです」
学院長にではなく、俺とメイリンに向かって、真っ直ぐに。
「開業している人もいます。まだ認可を受けていない学生もいます。中には独学の人も、一人だけいます。でも全員に共通しているのは、若い女性であること。そして」
そう。そして。
「まさか」
学院長の、それはほとんど呻きである。
「神曲楽士……」
セナ・メイリンは呟き、サムラ・アレクシア巡査部長は深く頷いた。
神曲とは、人間が精霊と交感するための唯一の方法である。
単身楽団と呼ばれる特殊な楽器を用いて、それは奏《かな》でられる。
しかしそこに必要なのは、単なる演奏技術ではない。精霊は、単身楽団によって表現される演奏者の『魂《たましい》の形』に惹《ひ》かれ、ここから『力』と『陶酔《とうすい》』を得るのである。
この現象は、精霊という存在そのものに深く関連している。
精霊とは、本来の意味での『生物』ではないのだ。
エネルギー生命体、あるいは思考するエネルギー、それが精霊である。本来、人間には見ることも触れることも出来ない、意思を持つ『空間』なのだ。
だが、人間と関わることを選択した時、精霊は自らを高密度に圧縮し『肉体』を構築した。後に『物質化』と呼ばれることになる現象である。
その起源がいつのことであったか、正式な記録はない。
しかし数百年前とも数千年前とも言われる過去のある時点で、精霊は『肉体』を得て、人間とともに歩むことを決めたのだ。
そして人間は、神曲を奏でる。
特殊な楽器で演奏される特定の曲が、その曲を奏でる演奏者の『魂の形』が、エネルギー生命体である精霊の固有振動数と共振し、精霊という存在そのものを増幅する。
……少なくとも、精霊学者が『解明』した原理は、そういうことだ。
神曲を奏でる者は、つまり一般の人間達よりも深く、精霊と関わることが許されるのである。
だからこそ、多くの者が神曲楽士を目指す。
そして、挫折《ざせつ》する。
数体の下級精霊しか召喚出来ないセナ・メイリンも、しかし相対的に見れば才能に恵まれているとさえ言える。志望者の大半は、神曲と呼べるものさえ奏でることが出来ずに、その道を諦《あきら》めるのだから。
「それにもう一つ、共通点があります」
ティー・カップは四つとも冷えてしまっていて、空《から》になっているのは学院長の前のカップだけだ。
ぬるり、とした印象は、消え失せていた。今は、まるで乾《かわ》ききったナメクジみたいに、身を縮めている。
「どの失踪者も、契約精霊がいないんです」
アレクシアの口にした、それは精霊と神曲楽士との間に交わされる、契約である。
神曲は、演奏者の『魂の形』であり、その意味において同一の神曲は二つと存在しない。
一方で精霊もまた、それぞれに異なる個性を持ち……精霊学的に言うなら異なる固有振動数を持っている。
すなわち、個々の精霊に対して効果を及ぼす神曲は、あるていどの幅を持ちつつも限られている、ということだ。
逆に言えば、ある特定の精霊に対してのみ壮絶《そうぜつ》な効果を及ぼす神曲も、理論上は存在するということになる。こういった神曲と出会った時、精霊はこの上ない『力』を獲得《かくとく》し、同時に信じられないほどの『陶酔』を得る。
そういった場合、精霊が考えることも人間が考えることも、大差はない。
独占だ。
精霊はその神曲を独占しようとする。その見返りとして、神曲楽士に忠誠《ちゅうせい》を誓《ちか》う。一方それは神曲楽士の立場にしてみても、その精霊を独占することになる。
これが、精霊契約である。
そして失踪者達は全員、その契約精霊を持っていなかったというのだ。
全員が例外なしに、だ。
無論、契約精霊を持つ神曲楽士は、少数派ではある。失踪した一八人の神曲楽士の全員が契約精霊を持っていなかったとしても、確率論の上ではあり得ることだ。
だが、そこに作為を感じたのは、どうやらアレクシアも同じだったようだ。
「この事件、精霊課は関わってるのか?」
「いいえ」
答えて、アレクシアは唇を噛む。
「たしかに、精霊が関与《かんよ》している可能性はあります。でも、その明確な根拠がない限り、これは単なる連続失踪事件です。いえ、本当に全ての事件に関連があるのかどうかさえ、判らないんですから」
「警察もしょせんは、お役所ってことか」
思わず口にしてから、言い過ぎた、と思った。俺の悪い癖《くせ》だ。
だがアレクシアは怒るどころか、俺のことを見もしなかった。
「ともかく」
彼女がそう続ける相手は、今度は学院長だ。
「学院側から届けを出されていないのは、あまり賢明なご判断だったとは言えません。今回は肉親の方から届けが出されていますが、学院側でフォローしていただければ、セナ・シャルミタさんも、もっと早く捜査対象になっていたはずです」
ぬるり男も、今度はさすがに反論しない。その代わりに、いきなり額《ひたい》を光らせ始めた。
汗を噴《ふ》き出《だ》したのだ。
事態の重大さを、ようやく理解したのである。
「在校生の安全管理の強化を、強く要望します」
「判りました……」
それだけ言うのが、やっとのようだった。
視線はテーブルの上の、大判《おおばん》の写真に落ちている。
死んだ少女。
神曲楽士となる夢を絶たれ、人生さえも奪われて、川面に浮かぶ少女。
俺はその視線の先から、写真を奪い取った。
スドウ・イレーネ。
彼女が消息を絶ってから遺体《いたい》となって発見されるまで、一二日。
そしてメイリンの妹……セナ・シャルミタが姿を消してから、一三日。
もしこれが一連の同じ事件であるなら、その二つの数字が意味するところは明白だ。
「遺体は?」
俺の質問に、
「今日、検死を行います」
アレクシアは即答する。
「結果は教えてもらえるもんかね?」
「いいえ」
ま、当然だろうな。
「これは警察の仕事です」
そう言って、彼女は俺の手から写真を奪うと、さっさと仕舞《しま》ってしまった。
バッグの中に消える瞬間、写真の中の少女がこちらを振り返ったような気がした。
無論、気のせいだ。
だから、声が聞こえたように思えたのも、きっと気のせいだ。
助けて、とイレーネは言った。
みんなを助けて、と。
俺達は早々に退散したが、アレクシアは残るようだった。
考えてみれば、写真を見せに来ただけ、なんてわけがない。おそらく、同様に失踪した生徒のいるコレアル神曲学院に対して、聞き込みでもするのだろう。
つまり、民間人も民間精霊も退去してください、てことだ。
あるいは、学院で聞かせてくれた話も、彼女にしてみれば大サービスだったのかも知れない。例えば、例の博物館の一件で俺が彼女にした忠告へのお返し、とか。
しかしいずれにせよ、彼女は金ぴかバッジの警官で、俺は裏道を嗅《か》ぎ回《まわ》る私立探偵だ。仲良くするには、ちょっとばかりお互いの仕事が噛み合わない。
チボレット・キャバロの車内に戻るや、それまで押し黙っていたメイリンが口を開いた。
「どういうことなんでしょう?」
それはおそらく、学院の応接室にいる時からずっと言いたかった一言に違いない。
「連続誘拐か?」
俺は意図的に、連続失踪、という言葉を使わなかった。
中途半端な憶測《おくそく》で依頼人を不安がらせるつもりはないが、自分の勘を疑うのも俺の主義じゃない。
そう、これは勘だ。
だがメイリンも、同じ思いだったようだ。
「はい」
「さあな。情報不足もいいとこだ。これじゃあマティアだって、何が起きてるか判りゃしないだろうさ」
「マティ……ア?」
「ああ、悪ぃ。俺の友達。優秀な警官だ」
そう。実に優秀だ。
こっちのオツムが中古車のエンジンみたいに青息吐息《あおいきといき》で回転してる時でも、彼女の頭脳は平気でマッハを超えてすっ飛んでっちまう。
だが、そんな彼女も万能ではない。
どんな事件の時でも、彼女が必要とするものが二つある。
その一つが、つまり、手掛《てが》かりだ。
「手掛かりがない、ってことですよね……」
助手席に沈《しず》み込《こ》むように、メイリンは吐息を漏らす。
「それが、そうでもないんだな」
俺は、あの写真のことを思い出していた。スドウ・イレーネの写真だ。
振り返って、メイリンの肩口に顔を寄せる。
「え? え? なに!?」
「あー、いいから。じっとして」
俺が見ているのは、彼女の顔ではない。
肩だ。
「やっぱりな。なあ、前にも訊いたけどこのコート、けっこう上物《じょうもの》だよな」
「え、あ。はい、たぶん」
「こいつを着たまま、単身楽団を背負うことって、よくあるか?」
「昨日……」
「ああ、いや、あれはナシ。あれ以外でだ」
「いいえ?」
その答えは語尾が上がっている。つまり、なぜそんなことを訊《き》くのか、だ。
「だよな。見てみな、跡《あと》が付いてる」
肩口の、エポレットのあたりを指して見せる。
通気性のよい薄い布地に、擦《こす》ったような跡があった。
「単身楽団の、それストラップの跡じゃないか?」
「あ、ほんと……」
言いながら、メイリンは後部座席を振り返る。彼女の単身楽団を、そこへ放り込んであるのだ。
「ええ、そうだと思います」
昨夜、暴漢に襲われそうになって、咄嗟《とっさ》に演奏した時のものだ。単身楽団のストラップが、コートの柔らかな布地を擦って、傷つけたのである。
「そこで、さっきの写真だ」
被害者が着用していたのは、春物のセーターだった。薄手の、柔らかい毛で編《あ》まれた、おそらくこれも上等なものだったに違いない。
そのセーターの、
「肩口がな、両方とも擦《す》り切《き》れてたのさ」
「そうなんですか?」
メイリンは気づかなかったらしい。だが少なくとも俺の見たところは、そうだ。
毛が水を吸って膨《ふく》らみきったセーターの、しかしその両方の肩だけが、膨らむことなく被害者の……スドウ・イレーネの肩のラインそのままだったのだ。
「まだ学生とは言え、神曲に携わる者が衣服の肩口を擦り切れさせちまうとしたら、その理由は一つしか考えられねえわな」
「単身楽団……」
「当たり。それしかない」
「可哀相《かわいそう》に……」
メイリンが、目を伏せる。
「そんなに一生懸命、練習してたのに……」
「いや、違う違う。そうじゃない」
「え?」
「ありゃあ練習で擦り切れちまったんじゃないって」
きょとん、とメイリンは俺の顔を見つめる。よく判らないのだ。
「いいか? キミは、そのコートを着たまま演奏の練習なんか、するか?」
いいえ、と言いかけて、
「あっ!」
理解した。
「しません」
「なぜ?」
「傷《いた》み易《やす》いからです」
「正解だ。だが写真の彼女は、あんな上等そうなセーターを着たままだった」
しかもその傷み具合は、ちょっとだけ背負ってみました、なんて程度ではない。
「じゃあ……」
「ああ。あの娘《こ》は死ぬまで、延々と単身楽団を演奏し続けてたんだ」
「どうして……」
「それが判りゃ苦労はしねぇんだけどな」
エンジンをかける。
どしん、と腹の底を震わせるような低いエンジン音は、チボレット独特のものだ。
「とにかく、今日はもう帰りな」
「……え?」
意外な反応に、見るとメイリンは、今にも泣きそうな目で俺を見ていた。
「うそ……やだ」
「いや、大丈夫、調査は続けるさ。だが、そりゃ俺の仕事だ。お前さんは、自分の生活に戻れ。何か判ったら、ちゃんと連絡するから」
「いや……」
「いや、ったって、あのなあ」
シフト・レバーに乗せていた手で、俺はサイド・ブレーキを引いた。
メイリンに向き直る。
「お前さんに同行してもらったのは、学生寮と学院に用があったからだ。そうでなきゃ、ハナッから俺一人で動いてる。判るか?」
足手まといだ、という言葉だけは、何とか言わずに呑《の》み込《こ》んだ。
なるほどここまでは、特に危険なことにも出くわさなかった。調査も、まだ始まったばかりだからだ。
だが、これからは違う。なにしろ誘拐殺人の可能性が浮上してきたのだ。
しかも、連続の、である。
そんな事件の調査に、彼女を連れ回すわけにはいかない。絶対にだ。
とは言え、それをそのまま説明するわけにいかないのが、辛いところだった。そんなことを言ってしまったら、妹の身を案じる彼女に追い打ちをかけるようなもんだ。
だから俺は、ことさらに溜め息をついて見せる。
迷惑そうに、だ。
「妹が心配なのは、判らんでもないさ。でもな、だからってシロウトのお前さんがウロウロしても、何にもなりゃしねぇんだわ」
メイリンは、ただ首を振る。その間も、すがるような目は俺に向けられたままだ。
「あのなあ」
もう一度、溜め息。
「いいか? 捜すフリだけして料金だけふんだくったり、そんなことしねぇから。な? ちゃんと全力で捜してやるから。だから、帰れ」
「恐いの」
やっとの思い、といった風情《ふぜい》で、メイリンはそれだけ言った。
「恐い?」
その後は、ただ頷くばかりだ。
見ると、膝の上で握りしめた手が、震えていた。
ああ。
そういうことか。
参った。どうやら俺は、どえらい失敗をやらかしちまったらしい。仕事の中身に踏み込ませ過ぎてしまったのだ。
あるいは、俺の周りにいる女どもが、揃いも揃って強過ぎるせいかも知れない。こういう『普通の女の子』の反応を、すっかり失念していたのである。
彼女は別に、俺に付いて来たがっているわけではない。
一人になるのを怖がっているのだ。
「じゃあよ、友達んとこへでも送ってやるか?」
メイリンは、ぷるぷると首を振る。
「じゃあ実家……」
ぷるぷる。
「……は、そうか。セレンダか」
送って行って、戻って来たら明日の朝になっちまう。やれやれ、こういう事態は想定してなかったぞ。
「仕方ねぇなあ」
俺は溜め息を隠しもせずに、エンジンを切った。
「ちょっと待ってな」
「え? やだ!」
慌てるメイリンを、しかし今度は強引に押しとどめる。
「いいから、座ってな。そこの公衆電話で一本、電話してくるだけだからさ」
メイリンは俺の顔を見て、それからすぐ一〇メートルばかり先の歩道にある電話ボックスを見てから、再び俺の顔に視線を戻して、ようやく頷いた。
それも、視線を戻してからたっぷり五秒ばかりも俺の顔を見つめてからだ。
やれやれ。
こんなにモテたのは久しぶりだ。もっとも、こういうモテ方はあんまり得意じゃないが。
電話をしている間中、俺はボックスのガラスごしに、メイリンに手を挙《あ》げて見せたり微笑《ほほえ》んで見せたり、大サービスだ。
おかげで、ヘマをやった。
そのヘマに気づいたのは、もっと後になってからのことだった。
俺のチボレット・キャバロは、デカい。
前後にも左右にも、乗用車としては最大級だ。なにしろ、居住スペースと同じだけの長さでボンネットが前方に突き出しているし、リアもその半分はある。これはウーザのメーカーが作る車の端的《たんてき》な特徴で、つまり、燃費は悪いがデカくて頑丈というわけだ。
そのせいで、駐車場で入場を拒否されることも少なくない。いつも車を出さずにバイクを使うのには、そういう事情もある。
だが、ここなら大丈夫だ。外車お断り、なんてショボい駐車場とはわけが違う。
地下へのスロープも、なめらかなもんである。腹を擦る心配もない。
湾曲《わんきょく》した下り坂を、メタリック・イエローの車体が、慣れた挙動で滑り降りてゆく。
「レオンガーラさん……?」
「んー?」
一気に地下三階まで降りる。斜路からフロアに出る時も、滑るような感触だ。
「あの、ここ……」
薄暗い地下駐車場を、俺の運転するキャバロが進む。
左右に並んでいる車は、どれも高級車ばかりだ。この中では俺の自慢のキャバロも、身なりだけ派手で実は育ちの悪い若造みたいなもんだ。
それでも俺には、定位置があった。
地下三階。
J−37。
そこが俺の駐車スペースだ。
一回の切り返しだけで、綺麗にケツから駐車した。俺の腕も悪くはないが、それよりも通路の幅が広いからでもある。一般的な地下駐車場の、倍ほどもあるのだ。
「ぃよっし。行くぜ」
車から降りると、正面の壁がガラス張りで区切られている。俺専用の駐車スペースは、エレベーター・ホールの真正面なのだ。
到着したエレベーターに乗った途端《とたん》、メイリンは感嘆《かんたん》の溜め息を漏らした。
そりゃそうだろう。内装が黒とワイン・レッドなんて、普通ならやらない。ところがそれが、陰鬱《いんうつ》にも嫌味《いやみ》にもならずに、すっきりとスタイリッシュにまとまっているのだから、こいつを担当したデザイナーは超一流ということだ。
しかも、デザインの要所を締《し》める配色が、金ときている。
まさに俺好みだ。
いやまあ、そいつが全て24金というのは、ちょっとやり過ぎな気もするが。
エレベーターが到着したのは、地上二階のホールである。
「……ホテル、ですよね?」
「そ。トルバス帝国ホテル」
その名のとおり、メニス帝国を代表する高級ホテルである。
エレベーターが着いたのは、そのロビーだ。
正面のチェックイン・カウンターまで、たっぷり二〇メートルはある。左右の広がりは当然、その倍以上だ。おかげで、充分に高いはずの天井も妙に低く見えるのが、難点と言えば難点か。
ワイン・レッドの絨毯《じゅうたん》に、壁も天井もカウンターも黒で統一され、そこに金の縁取《ふちど》りがされている。カウンターに乗っているペン立てだの呼び鈴だのも、金だ。
何人かの客の姿があったが、そのどれもがスーツかドレスである。
いや、違った。
一人だけ、そうじゃないのがいる。
「だぁから、なんべん同じこと言わせんのさ!!」
チェックイン・カウンターの前でわめいているのは、肩と脚を出した……と言うより、胸元と腰だけを隠した若い女である。
小柄だがスタイル抜群。鼻は低いがけっこう美人。そんな女性が、くるくるの巻き毛を振り乱す勢いで、カウンターの奥の若い男に喰ってかかっている。
「部屋で待ってろって言われたの! レオンに!!」
ホールを行き交う他の客は、ちらり、と視線を投げるだけで、無関心を装って通りすぎて行く。金持ちケンカせず、て言葉は、トラブルには関わらないのが富の第一歩、てのが本当の意味なのかも知れんな。
つまり、俺とは逆、ってことだ。
「とっととカギ寄越しなさいってば!」
「申し訳ございませんが、それは、いたしかねます」
取っ捕まったホテル・マンの方こそ、いい迷惑だった。額に汗を浮かせ、他の利用客を気にしつつも、強張《こわば》った頬にかろうじて笑みを浮かべている。
「規則でございますので」
「規則なんか知ったこっちゃねーっての! あたしゃ規則に護《まも》ってもらったことなんざ一度もないんだ、こっちだって規則守ってやる義理なんかねーよ!」
ああ、いつものやつが出たな。
これが出たらロレッタは、マジで暴れる五秒前、てことだ。
「ロリィ!」
彼女がキレまくる前に、カウンターで汗をかいている男を救ってやることにした。
「レオン!」
振り返ったロレッタは、途端に満面の笑みになる。そのまま、歩いて行く俺を迎撃する勢いで、こちらに突進してきた。
ロビーのど真ん中で、体当たりの勢いで抱きつかれた。
俺が精霊でなかったら、仰向《あおむ》けに引っ繰り返っていただろう。何しろ、首っ玉にしがみついただけではなく、彼女の両足は床を離れて、俺の脚に巻きついているのだ。
「遅い! 言われたとおりに、すっとんで来たのに!」
「ああ、悪ぃ。ちょいと道が混んでてな」
俺の言い訳を右の耳から左の耳へ素通りさせて、ロレッタはカウンターを指差す。無論、俺にぶら下がったままだ。
「あいつ、なんべん言っても判んねーんだぜ!」
「これか?」
ちゃらり、とロレッタの顔の前で振って見せるのは、ルーム・キーである。当然、俺の部屋のものだ。
「あのな、ロレッタ。俺は別に、部屋で待ってろなんて言ってないぞ」
「あ」
しまった、という顔で、ロレッタは床に飛び下りる。
当然だ。俺は電話で、ロビーで待て、と言ったのだ。
「聞いてた?」
「聞いてた」
「だって、ベッドで待ってたら喜ぶかなあ、って」
俺の部屋の、である。
唇を尖らせて下から見上げるその顔は、子供そのものだ。
「また今度な」
「マジ!?」
「ああ。その代わり、今日は頼みがある」
ロレッタは、勘のいい娘《こ》だ。ちらり、とメイリンに視線を投げてから、にんまりと笑った。
「いいよ」
「よし」
俺が手を挙げて合図をすると、カウンターの奥で汗を拭《ふ》き拭き、男が頭を下げた。
今度は、ロビーの奥のエレベーターに乗る。
「あの……」
かすかに聴こえるBGM以外は、エレベーターの中にはモーターの振動さえ伝わってこない。その静寂《せいじゃく》の中で、メイリンは囁くように言った。
「ここ……、妹のことと関係あるんですか?」
その肩に、俺は手をかけて。
「まあ、ちょっと落ち着け。な?」
「……はい」
到着したのは、最上階だ。
無論、こっちのエレベーターも着いた階の廊下も、黒とワイン・レッドと金である。
突き当たりのドアを開けると、そこが俺の『家』だ。
「うわぁ」
メイリンは、今度ははっきりと感嘆の声をあげた。
照明は暗く抑えて、部屋の中央にだけスポット照明を落としてある。そのせいで部屋の隅は全て闇《やみ》に溶けて、それでも広さだけははっきりと判るようだ。
「広いですねえ」
振り返ったメイリンは、驚きと好奇心に目を輝かせ、さっきまでの心配が吹き飛んじまったみたいだ。
とにかく、今のところは。
「まあな」
広さは、リビングだけでも、ちょっとした企業の会議室くらいはある。無論、奥に並んだ二つのドアの向こうには、水回りと、そして寝室だ。
驚くメイリンに、ロレッタは妙に得意気だ。さっさと歩いて行って、ソファに腰を下ろす。ほとんど寝そべるように、これじゃどっちがこの部屋の主《あるじ》か判ったもんじゃない。
「レオンて、けっこういい趣味してるんだよね」
「いや、別に俺の趣味ってわけじゃないんだけどな」
ホテルの、現オーナーの趣味だ。この部屋だけではない。全ての客室が、こんな感じなのである。
つまり、黒とワイン・レッド、そして金だ。
もっとも、余計な物を置かない、というあたりは俺の趣味だ。だだっ広いリビングには、部屋の隅にテレビも観られる大型のプロジェクターと、それに向き合った大型のソファがあるだけ。
それ以外には、酒の棚《たな》を奥に収めたホーム・バーのカウンターと、それにトルバスの街を見下ろせる大窓があるくらいだ。その大窓も、今はカーテンを閉じてある。
暗いのは、そのせいだ。
やたらに明るいのは、俺の趣味じゃない。
「ここって……」
メイリンに、
「ああ。俺の家だ」
正確には、そのうちの一つだ。
「でも、だって事務所は……」
「あれは仕事場。あそこに住んでるわけじゃないさ」
「違うよ」
割り込んでくるのは、ロレッタである。
「こんなリッチなホテル住まいのくせに、なんで事務所はあんなボロなところに間借りしてんのか、ってこと。そうでしょ?」
ああ、なるほど。
「ま、いろいろ事情はあるわけでな」
「へえ……」
判ったのか判らなかったのか、メイリンはただ、薄暗くも広いリビング・ルームを見回している。
その動きが、ふいに、止まった。
奥の壁を、見つめている。照明を向けていないので、よく見えないのだろう。
カウンターの、真正面の壁である。メイリンは薄暗がりの中で目を細める。
それは、通過儀礼《つうかぎれい》みたいなものだ。
この部屋に通した女は、メイリンが初めてではない。そしてその全員が、同じように奥の壁に目を引き寄せられるのである。
当時まだ五歳だったロレッタも、そうだった。
だから俺は、いつものセリフを口にする。
「いいぜ。見てきな」
言われて、近づいて行った彼女は、
「……あ」
壁の三メートルばかり手前で立ちすくんだ。
そこにあるものを、ようやくはっきりと見て取ったのだ。
とんでもないものを発見したような顔で、メイリンが振り返る。だが、俺が声をかける相手はロレッタの方だ。
「ロリィ」
「はいな」
応えるロレッタはソファに座って、お尻《しり》で弾《はず》んでいる。クッションの弾力が気に入ったらしい。
「よろしくな」
言って、放り投げてやるのは俺の車のキーだ。ロレッタはソファで飛《と》び跳《は》ねながら、器用に片手でキャッチした。
「あいよ、任しとき」
「仲良くしてろよ」
俺とロレッタの会話の意味に、ようやく気づいたのだろう。
「え?」
メイリンは暗い壁際から駆《か》け寄《よ》ってきた。
「レオンさん!?」
「キミは留守番だ。ロレッタといっしょにな」
「そんな……!」
彼女が口にしかけたのは、間違いなく抗議だ。だが俺も、今度はそれを許さなかった。
人差し指を立てて、メイリンの唇を押さえる。そのまま指がもぐり込んでいってしまいそうなほど柔らかな感触は、背筋が震えるくらいに誘惑的だ。
おかげで、その指を離すのにさえ、いささかの思い切りが必要だった。
「これが最大限の譲歩《じょうほ》だ。留守番してろ。ここなら警備は万全だ。警備員も電話一本ですっ跳んで来るし、ロレッタも頼りになる」
視線を投げてやると、ロレッタはソファに寝そべったような姿勢から床を蹴った。
一瞬で立ち上がった次の瞬間、さらに垂直に跳躍《ちょうやく》して身をひねる。空を薙《な》ぐのは、しなやかに伸びた右脚である。俺の頭にさえ届きそうなくらいの高さだ。
見事な、それは跳び後ろ回し蹴りである。
「殴り合いだったら負けないよん」
「まあ、お喋《しゃべ》りなのが問題だが、少なくとも退屈はしねぇだろ」
「なによぅ」
ロレッタが唇を尖らせる。メイリンが応えないのは、ロレッタの技に感動したせいではなさそうだ。
すがるような視線が戻ってきて、だから俺は真っ直ぐに見つめ返した。
「妹が心配なのは、判る。一人にされたら心細いってのも、判る。非常事態だからな」
俺は顔を近づけて、真正面から彼女の瞳を覗き込む。
「だから、妹は俺が捜してやる。ロレッタがいっしょだから、キミも一人にはならない。家に帰りたくなったら、いつでもロレッタが送ってくれる」
そのために、彼女にキーを預けたのだ。無論、彼女が無免許であることはナイショだ。
「いいかメイリン。俺は、依頼人とは一つしか約束を交わさないことにしてる。それはな、全力を尽くす、ってことだ。全力を尽くします、それしか約束しない」
メイリンは、小さく頷く。俺の言葉の意味を、しっかり理解しようとしているのだ。
「それ以上は約束出来ないからだ。判るな?」
精霊の中には、あるていど未来を見通すことの出来る連中も、いるとは聞いている。
だが、俺はそうじゃない。
「でもな」
そう。でも、だ。
「それでも俺は今、お前さんと約束したくて仕方がないのさ。無茶な約束を、したくてしたくて堪《たま》らなくなっちまってる」
「うん」
メイリンが、また、頷く。
「だからな、イイコで待ってろ」
「判った」
今度こそ、はっきりと、メイリンは言った。
「行ってらっしゃい」
「よし」
メイリンの頭に、ぽそん、と手を乗せる。
途端に、彼女は俺に抱きついた。細い腕を精一杯に伸ばして、俺の胸に抱きついたのだ。思いがけず小さな頭が、俺のすぐ目の前にあった。
「シャルミタを助けて」
それは、囁きだ。
「ああ」
俺は、その細い肩を抱きしめた。
「約束する」
禁を破っちまった。
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第二章 盟約を奪うもの
ヨルドン川は、将都《しょうと》トルバスを南北に縦断《じゅうだん》する三大河川のうちの一つだ。
北のソルテム山に源流《げんりゅう》を持ち、マルト川と並行する格好で南下する。そのまま、中央街区をかすめるように蛇行《だこう》し、ちょうどヘグタ市の南端で支流のキルズ川へと分岐《ぶんき》しつつ、クムリ港からアロニア海へと注いでいるのだ。
スドウ・イレーネの遺体《いたい》が発見されたのは、その二キロばかり手前、ユドノマキ市とマナカダ市の市境である。ちょうど将都高速道路の高架《こうか》が川を横切るあたりだ。
俺は橋の上で路肩に寄って、バイクを停止した。
大型の、ツーリング・タイプである。
スタンドを起こすと、傾き始めた夕陽が銀メッキのエンジンに、ぎらり、と反射した。
橋の上を走るのは、片側三車線の幹線道路だ。
頭上を高速道路が、さらに橋の下をヨルドン川が流れている。水質こそ悪くはないが、河口が近いこともあって、どんよりとした曇《くも》り空《ぞら》のような流れだ。
俺は手すりに寄りかかって、前方を見据《みす》えた。
川の両岸は雑草が生《お》い茂《しげ》り、幅もかなり広い。まるで横長の空き地のように、延々と続いている。その両側の土手は、歩行者の立ち入りを禁じているのか、人影はない。
まあ実際のところ、川の両側にあるのはほとんどが工場と倉庫で、こんなところまで散歩に来るような奴もいないのだろう。
スドウ・イレーネは、そんな場所に捨てられたのだ。
「一八人か……」
橋の手すりに肘《ひじ》を乗せて、俺は溜《た》め息《いき》をついた。
イレーネという前例が出来てしまった以上、残る一七人を待つ運命も同じだと考えた方がいいだろう。
そして遺体で発見されたイレーネの失踪《しっそう》は、一四日前。シャルミタの消息が途絶《とだ》えたのは、一三日前なのだ。
その差は、一日ほどしかない。
仮にシャルミタがイレーネと同じ目に遇《あ》っているとしたら……。
「冗談じゃねえぞ」
俺は、どんよりとした河口の流れを見下ろした。
近づいて来る車に気づいたのは、その時だ。
正確には、背後の通りで不自然に減速する車の音に、気づいたのである。
振り返ると、それは見覚えのある灰色の車だった。
大衆モデルの、ハッチバックだ。しかもダサいことに、車体の側面には角張った黒い文字が、でかでかと書き込まれているのである。
『第六神曲公社』
「やぁれやれ」
俺は思わず、溜め息をついた。
灰色の車が路上駐車したのは、俺のバイクのすぐ後ろである。すぐに運転席のドアが開いて、そいつが降りて来た。
「見覚えのあるオートバイだと思ったら、やはりキミでしたか、レオンガーラくん」
ねっちりした厭味《いやみ》なしゃべり方は、俺にとってはおなじみのものだ。
歩道を横切るように、こちらへ歩いて来るのは、信じられないくらいに痩身《そうしん》の男である。
身長は一七〇センチばかり、だが体重は五〇キロそこそこしかないのではないだろうか。
上等そうなスーツは、どう見てもオーダーメイドだが、袖口《そでぐち》がだぶだぶでサイズが合っていない。おそらく、スーツとしての形状を維持し得るぎりぎりの寸法よりも、男の躯《からだ》が痩《や》せ過《す》ぎているせいだろう。
「いやいや、逢《あ》おうと思ってもなかなか逢えないキミと、こうして逢えるとは」
男は筋《すじ》の浮き出した中指で、黒縁《くろぶち》の眼鏡《めがね》を押し上げる。
その上で、やたらに広い額《ひたい》が、てかてかと光っていた。髪の生《は》え際《ぎわ》から眼鏡までの距離と、眼鏡から顎《あご》までの距離が、ほとんど同じだ。
「僕もこれで、意外と運がいいということかな?」
マトリ・マタリスキ。
第六神曲公社の監査官《かんさかん》だ。
俺担当の、である。
「久しぶりだなあ、マトリの旦那《だんな》」
「ええ、本当に」
言いながら、分厚《ぶあつ》い眼鏡のレンズごしに、じろり、と俺を見上げる。それでいながら、薄い唇には笑みを貼り付けていやがるもんだから、キモチ悪いことこの上ない。
ロチ枝族の精霊だって、ここまで似てやしないだろう。
ヘビに。
「出頭要請の書類には、目をとおしていただいてますよね?」
マトリが言う、それは俺が昨夜、ロレッタから受け取ったやつだ。
「ああ、見た」
まったく、とマトリは溜め息をつく。
「ちゃんと僕の面会に応じてくれれば、そんな手間をかけないで済むんですよ。前科があることを、ちゃんと意識してもらわないと困りますね」
公務執行妨害と、道路交通法違反のことだ。正確には、俺にくっついている『前科』は、それだけではないのだが。
「人聞きの悪いこと言いなさんなよ。ちゃんと罰金《ばっきん》も賠償金《ばいしょうきん》も払ったろ?」
「でも、やったことに違いはないですよね」
また、じろり、である。
「罪を金銭で帳消《ちょうけ》しにしたわけではありませんよ。罪を犯したために金銭の支払いを求められ、キミはそれに応じた、それだけのことです」
「ああ、はいはい、了解了解」
要するに俺は、要注意の不良精霊、というわけだ。
「で? だから俺を尾《つ》けて来たのかい? 大したもんだ、気づかなかったぜ」
「とんでもない」
マトリが眼鏡の奥で、目玉をひん剥《む》く。一気に倍くらいの大きさになった。どんな構造してんだよ。
「誰がそんなことに時間など割《さ》くものですか」
言いながら、マトリ監査官は橋の手すりごしに、ヨルドンの川面を見下ろす。
「調査ですよ、別件の。全く、精霊ってやつは……」
ぶつぶつと、いつもの愚痴《ぐち》だか文句だか説教だかが始まった。
そう、この男の、いつものやつだ。
「夜の夜中に、ぎらぎら羽根を光らせて飛んだ馬鹿者がいるんですよ」
なに?
「このあたりをか?」
「そうですよ!」
振り返ったマトリは、額に汗を光らせて、興奮気味である。このあたりを精霊が飛ぶことは、どうやら彼の正義には大いに反するらしい。
「河川《かせん》の周辺も、市街地の一部です。そんなところを、許可もなく、規制高度以上の高さを精霊が無許可で飛ぶなんて、ルール無視もいいところです!」
つまり、そういう出来事があったらしい。
「いつだ?」
「一昨日ですよ。一昨日の未明。それで僕が、わざわざ現場調査をしなきゃならなくなったんですよ。まったく、精霊ってやつは……」
マトリの愚痴は、まだ続いている。
だが俺はもう、それどころじゃなかった。
一昨日の未明……この周辺を飛んだ精霊がいる。
そして一昨日の早朝、ここでスドウ・イレーネが遺体で発見された。
「そういうことかよ……」
最初、イレーネが他で殺害されて流されてきた可能性も、考えないではなかった。
だが、違う。
捨てられたのだ。
ここへ。
しかも、捨てたのは人間じゃない。
精霊だ。
「いったい、何をやってやがる……」
呟《つぶや》いてしまってから、
「あ?」
気がついた。
状況が変わったのだ。
これまでは、何が起きているのか判らなかった。同じ条件を持つ若い女性達が連続して失踪し、そのうちの一人が遺体で発見された……それだけだったのだ。
だが今、ほとんど確実と思える構図が、浮かび上がってきたことに気づいたのである。マトリ監査官の愚痴は、まだ続いている。
俺はバイクに飛び乗ると、エンジンをかけた。
「おい、レオンガーラくん! 待ちなさい!!」
ようやく愚痴を中断したマトリが叫んだが、待つつもりなんぞカケラもなかった。
「糞《くそ》っタレめ」
遠く、サイレンの音が長く尾《お》を曳《ひ》いて響《ひび》いた。どこかの工場だろう。
「犯人がいる、ってことじゃねえか」
それは、もはや確実だった。
メニス帝国に限らず、およそ精霊と人間を対等に扱う国家には、おおまかに分けて三つの法律が規定されている。
すなわち、民法、刑法、そして精霊法である。
特筆すべきは、精霊法が、人間のために制定された民法と刑法をともに含《ふく》むことだ。
とは言え実際の量的には、それは人間の法律よりもはるかに少ない。
例えば第一条は、
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第一条/精霊は人間を尊重すべし
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第一項/人間の自由を阻害《そがい》してはならない
第二項/人間に対して故意に危害を及ぼしてはならない
第三項/人間に損失を与える可能性を看過《かんか》してはならない
[#ここで字下げ終わり]
何とも曖昧《あいまい》きわまりないが、これに続く第二条も第三条も似たようなものだ。
これは、その起源が人間の法律と異なることに由来する、と言われている。
ある日、時の為政者《いせいしゃ》のもとに、代表者を名乗る精霊が持ち込んだというのだ。そして驚くべきことに全ての……文字どおり全ての精霊が、これに従ったのである。
現在にいたるまで。
少なくとも、表向きは。
それがいつのことだったのかさえ、判然としないというのに。
しかしいずれにせよ、この精霊法こそが精霊と人間との間の信頼関係を、ある意味では証明し、ある意味では支えてきたものであることに違いはない。
とは言え、だ。
「ぃよっと」
中には、これを破る者もいる。
例えば、俺のように。
分厚いコンクリートの壁を抜けた俺は、ざっと服装をチェックした。壁抜けとは、要するに物質化の局所的かつ一時的な解除だからだ。
すり抜ける対象物との接触面と、透過断面《とうかだんめん》でのみ物質化を解き、抜けた先で再構築する。その際、衣服の物質化が遅れるのは仕方ないにしても、再構築に失敗する場合があるのだ。
俺も一度、シャツとネクタイを混ぜちまったことがある。
ネクタイが、シャツに貼り付いたレリーフになっちまったのだ。それも、布製のだ。
今回は、そういう失敗はなかった。
壁を抜けて廊下に立ったのは、いつものクールでダンディなレオンくんだ。
「さてと」
俺は廊下の左右を見回した。閉ざされたドアだけが並ぶ、殺風景な廊下である。
警察署の、しかも市民の目に触れない裏側ってのは、どうしてどこも、こう似た様な感じになっちまうものかね。
くん、と鼻を鳴らす。
人間では感じ取れないだろうが、空気にかすかな異臭が混じっている。
「こっちか」
俺はポケットに両手を突っ込んで、悠然《ゆうぜん》と廊下を歩き始めた。
無人の廊下である。
どうやら、その突き当たりが、目指す部屋らしい。閉ざされたドアの前で、中の気配を窺《うかが》う。
誰もいないことを確認してから、俺はドアをすり抜けた。
「当たり」
出た場所は、タイル張りの部屋だった。
ぱっと見た印象は病院の手術室に似ているが、だが、違う。
そこは俺にとって、言わば馴染《なじ》みの空間だった。
検死室だ。
床と壁はタイル張り、突き当たりの壁に向かって事務机が一つ置かれていて、その上には書類が散らかっている。
俺の『面会』したい相手は、部屋の中央にいた。
クッションもシーツも枕もない寝台に、彼女は全裸《ぜんら》で横たわっている。
金属製の、解剖台《かいぼうだい》の上に。
写真で見たことはあったが、実際に『逢う』のはこれが初めてだ。足の親指に引っかけられたプレートで、名前を確認する。
スドウ・イレーネ。
俺は少女の顔を覗《のぞ》き込《こ》むと、
「やあ」
声をかけた。
うっすらと瞼《まぶた》が開いていて、まるで薄目《うすめ》を開けて俺の顔を見上げているようだ。だが彼女が何も見ていない証拠に、その眼球はふやけて白く濁《にご》っている。
肌も、真っ白だ。
唇《くちびる》にさえ、色彩がない。
俺は、彼女がどんな女性だったのかを知らない。
どんな声で、どんなふうに話し、どんな笑顔を見せるのかを知らない。どんな本を読み、どんな映画が好きで、どんな音楽を聴いていたのかも、俺は知らない。
髪の匂いも肌の匂いも、今の彼女からは感じとることは出来ない。だからこの先、俺がどれほどの時間を生きたとしても、俺が思い出すイレーネは冷たい屍体《したい》でしかない。
それでも、俺の胸の奥には鈍《にぶ》い痛みがあった。
本当の意味での『彼女』は、時の流れから切り離され、置き去りにされた。愛する人に別れを告げる機会さえ与えられずに、いきなり、未来を引《ひ》き千切《ちぎ》られたのだ。
そして今、こんな冷たい寝台に、たった独りで横たえられている。
やりきれねえ。
まったく、やりきれねえ。
それでも俺は、無理やりに笑みを浮かべた。
初対面の女性に微笑《ほほえ》まない男なんぞ、男でいる資格はない。
「ちょっと失礼するよ」
俺の笑みに、けれどイレーネが応えることはない。俺はポケットに手を突っ込んだまま、物言わぬイレーネの前で腰を折った。
顔を近づけて、観察する。
触れる気はない。
彼女に触れることを許されるのは、彼女を愛した者と彼女が愛した者、そして彼女の検死を正式に請け負う権利と義務を負った者だけだ。
そして俺は、そのどれでもないのだ。
「可哀相《かわいそう》に……」
左右の肩に、それと判《わか》る鬱血《うっけつ》があった。
単身楽団《ワンマンオーケストラ》の、ストラップの跡《あと》だ。
それも、ただの鬱血ではない。よく見ると皮膚が擦《す》り剥《む》け、出血していた痕跡《こんせき》もある。
たしかに単身楽団は、軽いとは言えない。だがそれでも、奏者の肉体にかかる負担は、可能な限り軽減するように設計されているはずだ。
いったい何時間……いや、何日演奏を続ければ、こんなになるんだ?
「動くな!」
やべ。
その声とドアが開くのとは、ほとんど同時である。
咄嗟に、物質化を解いて逃げようかとも思ったが、その声には聞き覚えがあった。
「手を上げて! 早く!!」
女性の声だ。
自慢じゃないが、俺は女性の顔は一度見りゃ忘れないし、声も一度聞けば二度めには名前からスリー・サイズからホクロの位置まで思い出せる。
少なくとも、相手がスリー・サイズとホクロの位置を教えてくれたなら、だ。
それどころか、少しばかり緊張の顕《あらわ》れたこの匂いにも、憶《おぼ》えがあった。しかし残念ながら、彼女の方はそうではなかったらしい。
「早く!」
「おいおい、またかよ。勘弁してくれよ」
素直にポケットから手を出して、俺はホールド・アップしつつ振り返った。
「俺ってそんなに特徴ないか? 一目で判ってくれよ、頼むから」
開け放たれたドアの前で、愕然と目を剥くのは、サムラ・アレクシア巡査部長だった。両手でホールドした銃の、その銃口は真っ直ぐこちらを向いている。
彼女に銃を向けられるのは、思えばこれが二度めだ。
「レオンさん……!?」
「そ。俺」
「巡査部長……?」
おずおずと、彼女の後ろから顔を出すのは、眼鏡の男である。
白衣姿だ。検死官だろう。
アレクシアは銃を下ろして、それから白衣の男を振り返る。
「あ、ああ、えーと」
懸命《けんめい》にオツムを回転させているようだ。やがて彼女は、とんでもないことを口走った。
「こちら、レオンガーラさん。私の知り合いで、捜査に協力してくださることになってるの。どうやら行き違いになったみたいね」
「え? あ、はあ」
困惑気味の白衣男に、アレクシアはさらにたたみかけた。
「ごめんなさい、前もって言っておくのを忘れてたのよ」
俺は両手を下ろして、そのまま二人に近づいた。
「いやあ、早く着き過ぎちまったかなあ」
なんて、わざとらしく笑いながら。
「はじめまして。レオンガーラ・ジェス・ボルウォーダン。私立探偵です」
「あ、ども」
アレクシアの脇《わき》から手を突き出すように、白衣男が握手《あくしゅ》に応える。ムタ・クレイドと名乗った。やはり検死官だった。
「よろしくお願いね、レオンさん」
微笑むアレクシアの、しかしその目は笑っていない。
こんちくしょう後でその尻《しり》を蹴《け》っ飛《と》ばしてやるから。そんな目だ。俺は目を剥いて肩をすくめて見せたが、彼女はくすりとも笑わなかった。
検死が始まった。
アレクシアはスーツの上からスモック式の術衣を着込み、検死官と並んで解剖台の前に立つ。俺はその後ろで、二人の頭ごしに解剖の様子を見ていた。
「担当官、ムタ・クレイド」
日付とともに名乗る検死官の、その言葉はそのまま、解剖台の脇に置かれた録音機に記録されてゆく。
「スドウ・イレーネ。一七歳。女性」
そう。
一七歳。
たったの一七歳だ。
「左右の肩に鬱血と皮膚の剥離《はくり》。出血の痕跡あり。それ以外に目立った外傷なし」
俺の見たとおりだ。それ以外に、死因と思われるような傷は、どこにもない。
「右手、母指内転筋《ぼしないてんきん》および背側骨間筋《はいそくこっかんきん》の表皮に擦過傷《さっかしょう》。左手、母指を除く四指先端に同じく擦過傷」
演奏したのだ。
演奏し続けたのだ。
だがそれ以外は、
「首に軽度の擦過痕《さっかこん》。臀部《でんぶ》を中心とした下腹部の皮膚に炎症。その他には、拘束《こうそく》の形跡なし。格闘の形跡も同じくなし」
綺麗《きれい》な遺体だった。
血《ち》の気《け》が全くないことを除けば、まるで眠っているようだ。
しかし、違う。
「開胸《かいきょう》を行う」
淡々と告げ、ムタ検死官がメスを手にした。
「アレクシア……」
俺が声をかけたのは、別に少女の胸を切り開く様子を見ていたくなかったからではない。
時間のかかる作業であることを知っていたからだ。
「はい?」
彼女も同じだったようだ。すぐに、こちらを振り返った。
「身の回り品は、どこだ?」
「それを聞いて、どうするんです? また……」
そこまで言って、アレクシアは俺の胸元を押した。
「お、おいおい」
ずいずいと押しながら、そのまま前進して来る。押される俺は後ずさりだ。
ムタ検死官の背中からたっぷり五メートルばかりも離れたところで、彼女は声をひそめて俺を睨《にら》みつけた。
「また忍び込むの?」
「そーんなこと、しやしないさ。キミがちゃんと質問に答えてくれるならね」
アレクシアの応《こた》えは、まず溜《た》め息《いき》である。それから、
「保管庫よ。当然でしょ?」
「見せてもらいたいな」
アレクシアは、即答しなかった。真っ直ぐに、俺の顔を見つめる。
まるで、俺の褐色《かっしょく》の瞳の奥に、何かを探り出そうとするかのように。
彼女の背後ではムタ検死官が、開いたイレーネの胸部を牽引具《けんいんぐ》で固定し、銀色の植木バサミみたいな器具を手にしたところだった。
「なぜ?」
「見せてくれたら、説明する」
「断ったら?」
俺は肩をすくめた。
「仕方がないから、自分で見に行く」
「不法侵入を見逃してあげたのに?」
「いっぺん見逃してもらったんだ、もういっぺんくらい見逃してもらおうかな」
「やっぱり、また忍び込むんだ」
睨《にら》み据《す》えるアレクシアの背後では、胸骨の切断が始まっている。
「そうしないで済むように、頼んでる」
アレクシアの、今度の溜め息は、吐き捨てるように短かい。
「いいですか、レオンさん」
彼女が顔を近づけてくると、コロンの香りといっしょに届いたのは鋭い囁《ささや》きだった。
「ここは市警本部で、あなたは民間精霊なんです。あなたが今ここにいるだけでも、私にとっては充分に危険なんですよ?」
「そいつぁ違うなあ」
俺の応えも、囁きだ。
彼女の耳に、顔を寄せて。
「見逃してくれ、なんて俺は言わなかったぜ。キミが勝手に、作り話をしたんだ」
俺は、耳も鼻も敏感《びんかん》だ。アレクシアの吐息の、音と匂いだけで、彼女の心が身構えたのがはっきりと判る。
「だが、感謝してないわけじゃない。だから、こうやって頼んでるんだ。でなきゃ、勝手に探して勝手に確認して、勝手に出てくさ。判るだろ?」
アレクシアが、一歩、後退る。
それはおそらく、彼女が本当の意味で、俺という精霊を理解した瞬間だったろう。
「あなたって……」
その先を、彼女は口にしなかった。
だが、何を言いたいかは充分に判った。
つまり、俺は彼女に嫌われた、てことだ。それなら、もう一枚くらいカードを切ってやるのが筋ってもんだろう。
何しろ、彼女とこうやって話す機会も、これが最後になるかも知れないからだ。
「なあ刑事さん。失踪してるのは全員、若い女性の神曲楽士。しかも契約精霊を持ってない。そうだったよな?」
「ええ」
「でも、それだけじゃないだろ?」
「何を知ってるの?」
俺の切ったカードは、どんぴしゃ、彼女の欲しかった一枚らしい。
「言ったろ? 見せてくれたら説明する」
「いいわ」
微笑みもしないで。
肺の中身を確認したところで、アレクシアはムタ・クレイド検死官に後を任せて、俺といっしょに検死室を出た。
イレーネの肺に、水は溜まっていなかった。
「溺死《できし》じゃない、ってことか」
「いいえ。乾性溺死の可能性もあります」
廊下を先に行くのは、アレクシアだ。
「水が気道に浸入して、これが声門に達すると、喉頭痙攣《いんとうけいれん》が起きます」
判り易いところで言うなら咳がそうだ、と彼女は言った。
「肺に浸水するのを防ごうとする生理的反応で、普通は水面《すいめん》から顔が出れば痙攣は治まります。でも、痙攣が継続してしまう場合があります。そうなると空気を吸うことが出来なくなって、結果、窒息死《ちっそくし》するんです」
空気中で溺死するのである。
人間てのは……、
「脆《もろ》い」
思わず呟いた、それは俺にとって、どうしても受け入れたくない現実だった。
人間は、脆い。
「ええ、そうです」
アレクシアがどんな顔をしているのか、彼女の後に続く俺には判らない。
「それが人間です」
着いたのは、保管庫だった。
雑貨屋の倉庫みたいな部屋だ。いくつものスチール・ラックがドミノ倒しみたいに並んで、何本もの狭い通路を作っている。
ラックに並んでいるのは、まさに『雑貨』である。
ただし、どの『雑貨』も一つずつビニール袋に入れられているが。
アレクシアがその場で書類に書き込むと、すぐに目当てのものが用意される。係官の手で、保管庫の隅《すみ》に置かれた机に、いくつかのビニール袋が並べられた。
遺留品《いりゅうひん》、あるいは証拠品だ。
だが、もっと相応《ふさわ》しい言い方があった。
遺品《いひん》、である。
たった一七歳の少女の遺《のこ》したものを前に、アレクシアはこちらを振り返った。彼女はすでに、一通りの検分を済ませているのだろう。
「どうぞ」
「ああ」
大小サイズの異なる透明な袋に密封されて、そこに並んでいるのは発見当時、イレーネが……イレーネの遺体が身に着けていたものばかりだ。
袋は全て、湿気で内側が白く曇っている。どの遺品も、まだ濡《ぬ》れているのだ。
淡いピンクの春物のセーター。
パンプス。
ソックス。
ブラジャー。
シンプルな銀製の指輪。
「これだけか……」
「ええ」
「ショーツとパンツがないな」
発見された時に半裸《はんら》だったわけではない。それは、学院で見た写真で確認している。
「別に保管しています、汚れがひどかったので。必要ですか?」
「いや……いい」
だいたいのところは、想像がつく。
「発見された時、目立った着衣の乱れもありませんでした」
おそらく、とアレクシアは付け加えた。
「性的な暴行は、受けていないでしょう」
「だから、何だ」
俺の声は自分でも意外なくらいに、低く、重かった。
「犯《おか》されてなかったのが不幸中の幸い、とでも言いたいのかな?」
「いいえ」
その冷徹《れいてつ》なまでの声の響きに、俺は思わずアレクシアを振り返る。
彼女の薄い唇から出たのは、さらに冷淡な言葉だった。
「犯人の体液が残っていれば、手掛《てが》かりになりましたから」
思わず、その横顔を見つめちまう。
俺の視線に気づいたのか、アレクシアも振り返った。
「何か?」
「いや……えらくエグいことを、さらっと言うなと思ってさ」
「警官ですから」
そう応えるアレクシアの顔には、表情がない。それは、彼女と俺との間に張られた、透明な結界みたいなものだ。
結界の向こうで、彼女は言った。
「現場に落ちてる糞を喰って犯人が判るなら、喜んで喰いますよ」
「愛してたんだな」
思わず言ってしまってから、俺は、しまった、と思った。
無表情だったアレクシアの顔に、表情が乗った。驚《おどろ》きと、そしてかすかだが明確な、怒りだ。
「……どうして」
「いや、すまねえ」
それは俺の特技の一つだ。同じ精霊にだって、こんなことが出来る奴は見たことがない。
だが、俺には出来る。
それはたぶん、俺の生き方そのものと関係があるのだろう。
「見えちまうんだ」
ほんの一瞬、何かの拍子に。
実際にその光景が見えたわけでもなければ、声やら音やらが聞こえたわけでもない。ただ、彼女の『魂《たましい》の形』がその想いを刻みつけているのが、見えたのだ。
その言葉は……糞でも喜んで喰うという、その言葉は、かつて彼女の愛した『誰か』が口にしたものだ。アレクシアは、その言葉を背負って歩き続けているのだ。
ロマンのカケラもない、しかし底知れない決意を秘めた、その言葉を……。
「すまねえ」
「いえ。でも……」
視線を逸《そ》らすアレクシアの、その言葉の先は俺が引き取った。
「ああ。言わねえ」
約束だ。
だが、これだけは言っておきたかった。
「あんたが神曲楽士ならな」
「……え?」
「契約を申し込んでるとこだ」
彼女の魂が奏《かな》でる神曲は、きっと俺の心を……魂を……俺自身を、底の底から揺さぶってくれるはずだった。
アレクシアが、目を見開いた。
その瞳から透《す》けて見えるものは、今度は純粋に、驚きだけだった。
そして彼女は、視線を逸《そ》らす。
「それで?」
何かを抑《おさ》え込《こ》もうとするように。
「これで、あなたの望みは叶《かな》えたわけね。ご満足?」
「ああ」
もう用は済んだ。思ったとおりだったからだ。
「何が見たかったんです?」
「見たかったわけじゃない。見られないことを確認したかっただけだ」
「単身楽団ね?」
驚きに目を見開くのは、今度は俺の番だ。
「そのとおり。さすが」
「当然です。失踪者は全員、神曲楽士なんですから」
その全員が、単身楽団を持ったまま失踪した。つまりそれが、もう一つの共通点だ。
「しかし遺体の発見現場周辺からは、被害者の単身楽団は発見出来ませんでした。念のために川底も、神曲楽士を三人ほど雇《やと》って、ホウリン五〇体ほどで調査しました」
水中を主な活動圏とする下級精霊だ。知能は人間の幼児か賢い犬ていどだが、指示さえ間違えなければ、たしかにホウリンが水中の物体を見落とすとは考えられない。
「それでも、出なかったか……」
「ええ。何も見つかってません。単身楽団も」
「変だと思わねえか?」
「ええ、思いますよ」
俺を見つめるアレクシアの視線は、まるで睨みつけるみたいだ。
「消息を絶った時、スドウ・イレーネさんも単身楽団を持っていたはずです。遺体の肩にも、単身楽団を長時間演奏し続けたとおぼしき痕跡があります。それも、おそらく死亡する直前までです。でも遺体の発見現場からは、肝心の単身楽団が見つかっていません」
単身楽団だけが、依然《いぜん》として行方不明のままなのだ。
「レオンさん。あなた、何を知ってるんです?」
俺は、肩をすくめて見せた。
「キミだって、もう判ってるんだろ?」
アレクシアは応えない。
「こいつは連続|誘拐《ゆうかい》事件だ。偶然でも申し合わせでもない。犯人が存在する」
真っ直ぐに俺の目を見つめて、つまりそれが彼女の答えそのものだ。
「だがな、そいつは神曲楽士を狙《ねら》ってるわけじゃねえんだ……」
「え?」
「判らねえか? 神曲楽士はオマケだ。本当に消えてるのは、人間じゃねえんだよ」
俺を見上げるアレクシアの表情が、変わった。
怪訝《けげん》そうに眉《まゆ》を寄せ、
それから理解して目を見開き、
「……まさか!」
鋭く呟いた時には、彼女は頬《ほお》にトリハダを浮き立たせていた。
「そうさ。消えてるのはな……」
間違いない。
「……神曲だ」
自分でも、妙なことを口走っている自覚はある。
だが、そうとしか言いようがない。
犯人の目的は神曲楽士ではない。神曲そのものなのだ。
「それって……」
アレクシアが、親指の爪を噛《か》む。
その視線が机の上の遺品に落ちたのは、おそらく偶然だ。
だが、
「……あ」
彼女の目は、何かを捉《とら》えた。
驚くべき速さで手が伸びて、袋を一つ、取り上げる。その袋だけが曇っていない。
「これ……」
並べられた袋の中でも、特に小さいものだった。俺のメルバイロの箱くらいで、中に収まっているものは当然、もっと小さい。
「指輪……?」
そのようだ。
サイズは13号かそこら。ということは、イレーネの指なら中指か。
銀製のミニ・リングだが、細工は凝《こ》ったものだ。シンプルなリングの湾曲《わんきょく》にそって、寝そべるように彫刻されているのは、猫のようだ。
太った縞猫《しまねこ》である。
「この猫……」
俺は、アレクシアが手にした指輪入りのビニール袋に、顔を近づける。
「太ってるな」
「そうじゃなくて、猫の模様」
「あん?」
それは銀の猫に彫《ほ》り込《こ》まれた、細かい溝《みぞ》である。その溝が影になることで、単色の銀の表面が縞模様に見えるのだ。
「……お」
その、幅一ミリにも満たない溝の一本だけ、色が違う。
影の落ちた銀ではなく、もっと白い。
「何か溝に詰まってるな」
「やっぱり?」
「ああ。土か……」
「被害者は川に浸《つ》かってたのよ。土だったら、洗い流されちゃうわ」
「じゃあ、何だ?」
「コンクリートの、カケラ」
なるほど。たしかに、そう見える。
「擦《こす》ったんだわ……」
それがいつ、なぜなのかは判らない。
どこのコンクリートなのかも、不明だ。
だが、イレーネが指輪でコンクリート製の何かを擦り、削られたそのカケラが指輪の溝に喰い込んだことだけは間違いない。
「レオンさん」
「あいよ」
「忙しいので、これで失礼します」
スーツの胸元が張り詰めるほどの、見事な敬礼だ。
「お、おいおい」
俺を置いて、さっさとドアの方へ歩いて行こうとする。あわてて追いかけた俺は、ドアの前で彼女とぶつかりそうになった。
突然、アレクシアが振り返ったのだ。
「私は神曲楽士じゃありません。楽器なんて、小学校でリコーダーを奏《や》ったきりで、からきしです。だから神曲のことなんて、さっぱり判りません。でも……」
言いながら、真正面に突き出して見せるのは、指輪の入った袋である。
まるで俺に人差し指を突き付けて、挑戦するみたいに。
「でも、これなら判ります」
指輪に喰い込んだ、コンクリート粉。
「コンクリートは、メーカーや製造した工場や製造時期によって、微妙に成分が異なります。成分を分析すれば、いつ、どこで造られた、どのメーカーの製品かが判るんです」
「ほう!」
「それが判れば、出荷先が判ります。何件あるかは判りませんが、でも、これと同じコンクリートを使っている建築物はリスト・アップ出来るんです」
俺は、口元が緩《ゆる》むのを止められなかった。
なんとも嬉しくなってきちまったのだ。
「アレクシア」
「はい」
「結果が出たら教えてくれ」
「駄目です」
即答だった。
「あなたの『ご協力』には感謝します。しかし必要以上の特別扱いをする気はありません。うろうろしないで、お引き取りください」
俺の耳は敏感だ。
そっけない彼女の言葉の中に、しかし俺はさっきまでとは違う響《ひび》きを聴き取っていた。
「仕方ねえな」
俺は溜め息をついて、
「じゃ、せめて出口まで送ってくれないか?」
彼女の肩を抱いた。
その手も、あっさりと払いのけられる。
「遠慮します、お一人でどうぞ。出口は、その先です」
アレクシアが大股《おおまた》で歩いて行くのは、俺に指差して見せたのとは反対側だ。
俺は肩をすくめて、にんまりと笑みがこぼれるのを我慢しきれなかった。
「ま、そういうところが魅力と言えなくもないがね」
それから俺は、黒い手帳をポケットに突っ込んで、彼女に教えられたとおりに出口に向かった。
精霊、と一口に言っても、その種類は様々だ。
人間は、これを学術的に分類することで、俺達精霊の実態に迫ろうと試みている。
いわゆる、精霊学、だ。
精霊学者によると、精霊はその性格によって、物質化の際に採《と》る形態があるていど決定するのだという。
例えば、勇猛《ゆうもう》にして果敢《かかん》、加えて義を重んじる性格、なんて連中は、好んでトラに似た形態を選択する。
あるいは、義理堅く謹厳実直《きんげんじっちょく》、なんて連中は総じてオオカミに似た形態を採る傾向があるそうだ。
精霊学者は、こういった差異を『枝族』と呼ぶ。例えばトラに似たのは『ラマオ枝族』、オオカミに似たのは『セイロウ枝族』というわけだ。
名称の由来までは、知らないがね。
この他に、さらに別の分類もある。ごくごく簡単に言ってしまうと、どれだけ人間に似ているか、という分類だ。
いわく、ケモノそのものの姿をした『ベルスト』、羽根さえ隠《かく》せば人間と区別のつかない『フマヌビック』、そしてその中間……半人半獣《はんじんはんじゅう》の『リカントラ』である。
こういった分類で言うと、俺は『ジオウ枝族のフマヌビック』ということになる。
まあ、『人間の黒人』とか『猫の長毛』とか『犬の白タビ』なんていうのと大差はない。
つまり、ちっとも本質に迫っちゃいない、ということだ。
その意味において、要するに今の俺は精霊学者と何ら変わるところはない。
ホテルのエレベーターの、黒とワイン・レッドと金の壁にもたれて、俺は溜め息をついた。
ポケットから手帳を取り出し、開く。黒い革で装丁《そうてい》された、それは俺のものではない。
アレクシアのだ。
さっき、保管庫のドアの前で彼女の肩を抱いた時、払いのけられたのとは反対側の手が、彼女のスーツの胸元に滑り込んでいたのである。
彼女自身が自らの意思で動いた、そのタイミングに正確に合わせて。要するにそれは、スリの基本技術だ。
神曲学院の応接室で盗み見たとおり、その手帳には、捜査に関する情報がぎっしりと書き込まれていた。
[#ここから2字下げ]
ハチヤ・エレノア 22 マーズ神曲楽士事務所 出勤後帰宅せず
クマガイ・テレジア 18 ロドニ神曲専門学院 登校後帰宅せず
シギノ・モレアーノ 28 フリー神曲楽士 現場での目撃を最後に失踪
ヤシロ・メリベル 19 カザマ神曲スクール 放課後の目撃を最後に失踪
[#ここで字下げ終わり]
失踪した一八人の、リストである。
名前と、年齢と、神曲関連における所属。そして失踪に至る経緯《けいい》についての覚書だ。
無論、メイリンの妹の記録もあった。
[#ここから2字下げ]
セナ・シャルミタ 17 コレアル神曲学院 登校後帰宅せず
[#ここで字下げ終わり]
さらに、イレーネも。
[#ここから2字下げ]
スドウ・イレーネ 17 エーム神曲専門学校 放課後の目撃を最後に失踪
[#ここで字下げ終わり]
ただし彼女の場合には、続きがある。
すなわち、
[#ここから2字下げ]
4月13日06時 ヨルドン河畔《かはん》にて遺体で発見
[#ここで字下げ終わり]
神曲公社からは未承認の者もいるが、事実上、全員が神曲楽士だ。誰もが若い女性で、そして契約精霊はいない。
これが失踪者の共通項だということは、この条件が必要だったということだ。
犯人にとっては、である。
ぞくり、と背中に這《は》い上《あ》がるものがあった。
まてよ。
おい、まてよ。
それじゃあ、まるで………………、
「ぅお」
いきなり、目の前にドアが立ちはだかって、あやうく額をぶつけるところだった。あんまり考え込んでいたものだから、エレベーターが最上階に到着したことにも、だから降りて廊下に出たことにも、そして歩いて部屋の前に着いたことにも、気づかなかったのだ。
もっとも、このホテルの中なら、たいていの場所は目を閉じていても歩ける自信はある。
なにしろ、俺がこのホテルに最初にチェックインしたのがいつのことだったか、ホテル側の記録にも残っていないくらいなのだ。
だが、
「はあ!?」
ドアを開いた俺は、思わず声をあげた。この部屋がこんなに散らかっているのは、初めてだったからだ。
「おいおい、何だ、こりゃ」
たしかに、あるていどの予想はしていたし、電話で呼び出した時点で覚悟《かくご》も決めていた。
だが、どうやら俺はロレッタを甘く見ていたらしい。
「あ、お帰りなさい」
そう言ってソファを立つのは、メイリンだ。
「えらく派手にやったもんだな。え? おいよ」
部屋の様子を見回す俺に、近づいて来たメイリンは、困り果てたような笑みである。
「すみません。止めようとしたんですけど……」
「いや、まあ、そりゃ無理だわな」
ロレッタを止められるのは、俺だけだ。
そしてその俺が、ロレッタに『許可』を出してしまったのだから、こうなることは予想して然るべきだった。
さながらパーティ会場の様相だ。
ただし、全てが終わった後の、である。
ドアの脇に三つほど並んでいるワゴンは、ルーム・サービスのものだ。
さらに大型テレビとソファとの間に、見慣れないテーブルが増えている。ソファに腰を下ろしたまま使えるような、コーヒー・テーブルみたいに背の低いものだが、しかし、天板はやたらとデカい。キング・サイズのベッド並みだ。
そのテーブルの上に、ルーム・サービスで運ばれてきたものが、ぎっちりと並べられていた。
すなわち、飲み物と、喰い物である。
皿の数は、ざっと数えて一五枚ばかり。察《さっ》するところ、スモーク・サーモンに生ハム・メロン、車海老《くるまえび》のフライにポテト・サラダ、マッシュルームのソースが残っているのはハンバーグか、それともステーキか。さらには空になったワインのボトルが二本もある。
驚いたことに、そのほとんどが完食状態だった。皿に残っているのは、ソースやら付け合わせやらの他には、ロレッタの嫌いなトマトとアスパラガスくらいだ。
しかも、それを喰い尽くした本人は、ソファに引っ繰り返って爆睡《ばくすい》の最中である。さすがに苦しいのか、スカートのホックを外してファスナーも全開、パンツも半分がた見えているというあられもない姿だが、俺としてはちっとも嬉しくない。
見慣れているから、と言うよりも、何と言うか……無残なまでの寝乱れぶりなのだ。
俺に出来るのは、ぼりぼりと頭を掻《か》いて、
「参ったなあ」
そう呻《うめ》くことくらいだ。
「ちっこいくせに大喰《おおぐ》いだってこと、忘れてたぜ」
「すみません……」
「いや、いい。油断した俺が悪い。それより、キミもちょっとくらいは喰ったか?」
「あ、ええ、はい……ごめんなさい」
「いやいや、違う違う。ちゃんと喰ってるなら、いいんだ」
まさかロレッタが独り占めするとは思えなかったが、気押《けお》されて手が出せなかったかも知れないと思ったのだ。だが実際には、コレが旨《うま》いソレが美味《おい》しいと次々に勧《すす》められて、メイリンもずいぶん食べたのだそうだ。
「なら、よし、だ」
俺がホーム・バーへ移動すると、メイリンも付いてきた。
カウンターを挟んで、向き合う格好になる。俺が奥、メイリンはカウンター・チェアに腰を下ろして。
「飲むか?」
苦笑で首を振るメイリンの前に、俺はそれでも空のグラスを置いた。自分の分と合わせて、二つだ。ボトルから注《つ》ぐのは、バーボンである。
「あの、私、お酒はあんまり……」
「あんまり、てことは、ちょっとなら、って意味だよな?」
メイリンが微笑む。今度は、苦笑ではなかった。
互いにグラスをかざしてから、グラスを傾ける。メイリンは舐《な》めただけだったが、俺は一気に空にした。
「それで……」
自分で二杯めを注ぐ俺に、メイリンはグラスを両手で抱いたまま、窺うように言葉をかける。
「ああ」
俺は再びグラスを空にしてから、状況を説明した。
と言っても、指輪とコンクリートの件だけだ。検死結果も、監査官の話も伏《ふ》せておいた。少なくとも、メイリンに話すのはまだ早い。
「ま、結果待ち、てことだな」
とは言っても、別にアレクシアの気が変わって結果を報告してきてくれるのを期待しているわけではない。適当な頃合いを見計らって、また探りに行こうと思っているだけだ。
「そのコンクリートの場所に、シャルミタがいるんですか?」
前のめりのメイリンに、今度は俺が苦笑する番だ。
「そいつぁ焦《あせ》り過《す》ぎだ、メイリン」
三杯めを注ぐ。
「あくまで、被害者がどこにいたか、てのが判るだけだ。それに、判ってみたら実は被害者が自宅の壁を引っ掻いただけでした、なんてオチが付くかも知れない」
「そんな……」
俯《うつむ》く彼女の目の前に、
「メイリン」
俺は、バーボンのボトルを置いた。
「真実を知ろうとする時に、最大のタブーは何だと思う?」
「タブー……ですか?」
「焦ることさ」
メイリンの唇が、かすかに動く。
焦ること。
唇の中で呟き、考え、そして彼女は理解したらしい。
「判りました」
そう言って、メイリンはグラスを挙げる。
「ごめんなさい」
「気にすんなって。気持ちは判るさ」
俺も、グラスを挙げた。
どちらからともなく近づいて、二つのグラスが、かちん、と音をたてた。
「まあもっとも……」
飲み干して、俺は白状しておくことにした。
「受け売りなんだがね」
「受け売り?」
「ああ。焦るな、考えろ、そして行動しろ。よく言われたもんさ」
メイリンも、今度はグラスを空けてしまった。
たちまち、目の周りが赤くなる。その目で、彼女は背後を振り返った。
カウンターの向かい側。
光の届かない、薄い闇《やみ》に包まれた壁。
セナ・メイリンもまた、勘《かん》のいい娘だった。
「ああ、そうだ」
「どの人?」
思わず、にやり、と笑みが浮かんでしまう。俺はカウンターを出ると、そのままドアの脇のスイッチを一つ、入れた。
いつもは点《つ》けない照明の、電源である。
奥の壁際《かべぎわ》だ。
小振りなスポット照明が並んで、その全てが壁の方を向いている。ベビカと最初にデートした時、美術館で見た照明が洒落《しゃれ》ていたので、そいつを真似《まね》たものだ。
闇に沈《しず》んでいたものが、光に照らされた。
顔だ。
女の顔だ。
九〇七人の、女の顔だった。
全てが、掌《てのひら》サイズの額《がく》に収まっている。
大半が、写真だ。
多くの写真は色あせていて、白黒写真も少なくない。その白黒の中にも、驚くほどピントのボケたものが混じっている。
それどころか、ガラス板や銀板に焼き込まれた写真もある。写真機が発明された黎明期……ざっと五〇〇年ほど前のものだ。
それ以外は、肖像画《しょうぞうが》である。水彩に油絵、さらには銅版画まで。
全てが、女だった。
広い壁の端から端まで、高い壁の床から天井まで、ぎっしりと並んだ九〇七人の女。
その全員が、こちらを向いて微笑んでいた。
メイリンはカウンター・チェアを降りると、ゆっくりとリビング・ルームを横切る。妙にふわふわとした足取りで、彼女は壁の手前まで歩くと、振り返った。
女達が微笑む、その壁の前だ。
「最初に見た時は、びっくりしたよ」
そう言って、女達の笑みを背にしたメイリンは、九百と八つめの笑顔になる。
「全部、あなたの知ってる人なんだね?」
「ああ」
俺は、彼女が敬語でなくなっていることに気づいていた。どうやら、思ったよりも酒には弱かったらしい。
「どの人?」
俺の受け売りの、本当の発言者のことだ。俺はメイリンに近づくと、その肩を抱くようにして壁に向き直らせてから、三歩ばかり右側へ移動させた。
そして、真正面の一枚を指す。
額に入った、白黒写真。
だが俺には、俺に負けないくらいに鮮《あざ》やかな金髪と、そして血のように赤いルージュの『色』が、はっきりと見えた。
「この人?」
「ああ」
俺の受け売りの、その主である。
「ただし俺は、勘に頼っちまうところがあってな、よく怒られたもんさ。勘で動くのはバクチと同じだ、依頼人の人生をチップにカードを切るんじゃない、ってな」
「この人が……」
メイリンの細い指先が、写真を覆《おお》うガラスに滑る。
「聞いてもいい?」
名前だ。
「カナイ・ゴールディ」
「……あ、事務所の」
「そうだ。俺を探偵業に引っぱり込んだ女だ」
四〇年前。
ゴールディは、全国的にも珍しい楽士探偵だった。
契約精霊こそいなかったものの、ボウライやジムティル、ハムレンといった下級精霊を召喚し、実質上の探偵助手としていたのである。幼児ていどの知能しか持たない下級精霊を、である。
それはすなわち、そのていどの精霊でも充分に助手として扱えるほどに、彼女自身の素養が高かったということだ。
「あれ……?」
メイリンが顔を近づけるのは、ゴールディの隣の写真である。スニャータだ。
「この人……神曲楽士?」
たしかに写真の中のスニャータは、単身楽団を前に、その金属製のケースを抱くように肘《ひじ》を突いている。
「ああ、全部な」
「……え?」
「彼女だけじゃない。みんな、そうだった」
この壁で微笑む女達の、その全員がだ。
メイリンは、驚きを顔に貼り付けたまま、こちらを振り返る。
「ひょっとして、レオン……」
「ああ、そうだ」
頷いた。
「契約してた」
全員と。
この女達の、全てと。
メイリンは、ざっと暗算でもしたのだろう。眉を寄せて不思議そうな顔をする。
だから俺は、質問される前に、答えた。
「長くて四年ばかり、短い時には五ヶ月ほどかな」
契約期間が、である。
「それって……契約して、その契約を解除して、次の女性《ひと》とまた契約して……?」
「そういうことだ」
「これ、全部……」
メイリンは、呆然《ぼうぜん》と壁を見渡す。
九〇七個の小さな額と、その中で微笑む女達を。
「だって、でも、精霊契約って、神聖なものでしょ?」
メイリンの、それは質問ではない。
非難である。
「どっちかが死ぬとか、両方が死ぬとか、そうなるまで、ずっといっしょにいるもんでしょ? 私、それが契約だと思ってた……」
「いや、間違ってねえよ」
少なくとも、一般的には、そうだ。
特に精霊の側は、深刻だ。特定の神曲楽士と契約を結んだ精霊は、その神曲をより強く受け入れるため、自らの『肉体』を調律する。契約楽士の神曲に合わせて、自らを少しずつ構築し直すのである。
その結果、契約楽士から精霊が受ける『力』と『陶酔《とうすい》』は、倍加する。
しかしその一方で、他の楽士の神曲を受け付けなくなってゆく。
「精霊にとって契約ってのは、命懸《いのちが》けの誓《ちか》いだからな」
万が一、何らかの事情で……例えば契約楽士の急死などで神曲が断たれてしまった場合、それはまさに精霊の『存在』を脅《おびや》かすことになる。神曲が欠乏し、しかし他の楽士の神曲を受け入れることも出来ず、神曲に対する飢餓状態に陥るのである。
暴走、と呼ばれる状態だ。
理性を失い、無制限に『力』を撒《ま》き散《ち》らしながら、苦痛に暴れ狂う。その結果、やがて自らを構築するエネルギーを全て放散し尽くして、消滅するのである。
すなわち、死、だ。
無論、少しずつ調律をずらしてニュートラルな状態に戻すことに成功すれば、死はまぬがれる。だがそれは、長い時間と、そして自己に最適とは言わないまでも相応に適合する神曲楽士の助力を得て、初めて叶うのである。
つまり、信じられないほどの奇跡を立て続けに呼べるほど幸運ならば、ということだ。
「でも、レオンは……」
「ああ、そうだ」
契約とその解消を、次々と繰り返した。
おかげで、死ぬような思いをしたことも一度や二度じゃない。
「どうして……」
「俺は手が早くて尻軽だからな」
だがメイリンは、そうか、とは言わなかった。
「うそ……」
真っ直ぐに、俺の瞳を見つめて。
「それだったら、こんなふうに写真を残したりしないよ。こんなふうに、別れた女性《ひと》達の笑顔に見つめられて暮らしたりしないよ」
メイリンの目元が赤い。
その赤い目元に、光るものがあった。
「どうしてこんな哀《かな》しいことしてるの?」
涙だ。
「死んだ人もいるでしょ?」
「ああ」
実際、ここで微笑んでいる女達の大半は、もうこの世にはいない。
「でも、愛してるのね?」
自分でも驚いた。
即答出来なかったのだ。
なんだ、これは?
突然、胸の底から熱いものが駆《か》け上《あ》がってきたのである。
それは脳天の寸前まで来ると、目玉の奥で立ち止まりやがった。そのまま、そこに居座って、膨《ふく》れ上《あ》がり始めたのだ。
俺は、かろうじて声を絞《しぼ》り出《だ》した。
「ああ」
ほとんど呻きみたいなものだった。
「愛してる」
今でも。
一人一人を。
忘れることなく。
「レオン……」
「ああ」
「聴いて……」
そう言って、メイリンはレオンを置き去りにする格好で、ソファの方へ歩いて行く。ロレッタが寝こけている、そのソファの足元に、銀色のケースが立てかけられていた。
メイリンの、単身楽団だ。
軽やかなほどに慣れた動作でケースを背負うと、彼女は装置を展開した。
真上からのスポット照明に照らされて、光を反射する何本もの金属アームが、始祖精霊の羽根のきらめきのようだ。
金色のフルートに、メイリンの唇が触れた。
奏でられるのは、
神曲である。
あの時、裏町の路地裏で聴いたのと同じ曲だ。
だが、今度はちゃんと、音楽だった。
高く、澄《す》んだ、淀《よど》みのない音色が、散らかり放題の俺の部屋に流れてゆく。まるでメイリンの周囲に、音階が流れをつくり、音程がさざ波を起こすようだ。
単身楽団に内蔵された封音盤《ふうおんばん》が、あらかじめ記録されていたフレーズを、彼女の演奏に合わせて再生し始める。単音だったフルートの音色が、二重、三重に追奏を始め、その厚みを増してゆく。
そしてそれは、やがて顕現《けんげん》した。
光が、彼女の周りに現れ始めたのである。
五つばかり。
両手で支えられそうなほどの、光の球である。白、赤、青、緑、色は様々だ。
どの光球にも、よく見るとトンボか何かを思わせる小さな羽根が付いている。
光の羽根である。
ボウライ、と呼ばれる下級精霊だ。
咲き誇る花の周りを蝶《ちょう》が舞うように、ボウライの光がメイリンを囲む。彼女の神曲を『聴』きに集まって、そしてその『力』を得て実体化したのだ。
その様子は、出会った時のゴールディと同じだ。
もっとも、ゴールディの単身楽団はテナー・サックスだったが。
ロレッタが、目を覚ましていた。
だが、起こされたことに文句を言おうとはしなかった。乱舞する『生きた光』を見上げて、彼女は幸せそうな笑みを浮かべた。
神曲は、ただの音楽ではない。
それは、奏者の描き出す『魂の形』だ。
メイリンの神曲は、慰撫《いぶ》、であった。
俺の中で……いや、俺という存在そのものに、信じられないことが起きていた。
無論、俺はメイリンの契約精霊ではないし、メイリンは俺の契約楽士ではない。だから俺の『肉体』は、彼女の神曲に合わせて調律をしているわけでもない。
だいいち、彼女の神曲は俺には『合わない』ものだった。
なのに。
それでも彼女の神曲は、するり、と『俺』に触れてくるのである。
柔らかな掌のように、その音色は俺という『存在』そのものに触れてくるのである。
セリーネと別れてから、どのくらいになるだろう。
今のところ、彼女が俺にとって最後の契約者だ。
だから、俺のために奏でられる神曲に触れるのは……、
「ああ、そうか」
ふいに、気づいた。
「そういうことか」
神曲が合うとか合わないとか、そういう問題じゃない。
これは……メイリンの神曲は、俺のために、ただ俺のためだけに奏でられている。
だからだ。
だから、響くのだ。
俺の魂に。
俺という存在そのものに。
俺は、固く瞼を閉じた。
そうしないと、見られたくないものを見られてしまいそうだったからだ。
「メイリン……」
俺が、そう呟いた時だ。
突然、フルートの音色を真上から叩《たた》き潰《つぶ》したのは、けたたましいベルの音だった。
電話だ。
メイリンは驚いて演奏を中断し、
「あん」
ロレッタは抗議の声をあげる。
「ちっ」
カウンターの脇に向かって歩く、俺は舌打ちだ。
「誰だ」
壁に取り付けられた電話から受話器をむしり取ると、俺は電話線の向こう側に噛みつく勢いで応答した。
「せっかくのお楽しみを邪魔しやがって。もっとお楽しみな用件でなきゃあ、ただじゃおかねぇからな」
返ってきた声は、
「すぐに来て」
俺の剣幕《けんまく》を、あっさり受け流した。
女の声だ。
「二人めよ」
自慢じゃないが、俺は一度でも聴いたことのある女の声は、絶対に忘れない。
「生きてるわ」
それだけで充分だった。
目一杯車体を傾けたおかげで、コーナーは見事にクリアしたが、おかげでクランク・ケースの側面をアスファルトで擦った。
火花が散って、分厚い銀メッキが剥げる。
黒々としたタイヤ痕を刻んで、俺はバイクを駐車スペースに急停止させた。
ノザムカスル大学付属病院の、裏側である。
救急車が三台ほど並べて停めてあるのは、そこが救急救命センターの前だからだ。
「レオンさん!!」
ストレッチャーごと突っ込めるように両開きになっているドアの前で、サムラ・アレクシア巡査部長が俺を待っていた。
「おう!」
駆け寄ると、すでに彼女の顔には焦燥《しょうそう》が浮かんでいる。
「こっちよ。早く」
低く抑えた、その声は鋭い。俺が付いて来るかどうかを確かめもせずに、そのまま建物の中へ、そして廊下の奥へと足早に歩いて行く。
相変わらずの大股で、俺もその隣《となり》に並んだ。
「ナバリ・トリクシー」
振り向きもせずにアレクシアが口にするのは、神曲楽士の名だ。
「消息を絶った一八人のうちの一人です」
承知している。
スガナミ人材派遣株式会社に登録の、神曲楽士だ。年齢は一九歳。たしか、シャルミタと同じころに消息を絶っていたはずだ。
「イグロック市で発見されました。高速道路の橋架《きょうか》の根元で、倒れていたそうです」
言いながら、アレクシアは正面を向いたまま、俺の方に手を差し出した。
握手してくれ、というわけでもなさそうだ。俺は素直に、ポケットから取り出した手帳を彼女の手の上に乗せる。
「悪いな」
彼女から失敬した、あの手帳だ。
「役に立ちました?」
それは、半《なか》ば皮肉である。こんな状況でなければ、おそらく皮肉どころか大いに責められていたに違いない。
だが彼女は、何も言わなかった。ただ真っ直ぐに歩くだけだ。
大股で。
「集中治療室か」
行き先が、だ。
「そうです」
「いや。ついこないだも、来たばかりなんでな」
俺とアレクシアが出逢った、例の博物館事件の時だ。
何度来ても、気持ちのいいものじゃない。
照明の落とされた薄暗い部屋に、同じようなベッドが六つほど並んでいた。どのベッドの周囲にも、一目で医療用と判る機械が並べられている。
六つのベッドのうち、五つは空《から》だ。
だが中央の一つが、塞《ふさ》がっていた。
看護師が一人、ベッドの脇に立って、機械の数値をクリップ・ボードに書き写している。
アレクシアが近づくと、看護師は小さく首を振った。
「意識混濁《いしきこんだく》です」
「……え?」
アレクシアは愕然《がくぜん》とした顔で俺を振り返り、再び看護師に訊《たず》ねた。
「いつ?」
「刑事さんが部屋を出られて、すぐです」
俺に電話をしてきた、その時だろう。おそらくアレクシアは、そのまま俺がすっ飛んで来るのを待っていたに違いない。
その間に、証人は意識を失ってしまったのだ。
「話は……」
巡査部長の質問に、看護師は小さく首を振って応えた。
この部屋でのそのジェスチャーは、いい意味を持ってはいない。
廊下へ出て行く看護師の背中を見送って、アレクシアは呆然と呟いた。
「遅かった……」
立ち尽くす女刑事の脇をすり抜け、俺はベッドを覗き込む。
なんてこった。
イレーネと同じだ。まだ子供じゃないか。
メニス帝国における成人年齢は、一五歳。その時点で参政権も得られるし、結婚も就職も出来る。
しかし一方で、運転免許は自動二輪が一六歳、四輪は一八歳からで、喫煙《きつえん》と飲酒にいたっては二〇歳まで認められていない。
そう。一五歳での成人は、左翼の連中が『軍事政権下の悪習の名残』と揶揄《やゆ》するように、実際的な意味での成人を指すわけではないのだ。
一部の例外を除いて、である。
そして、ナバリ・トリクシーは、その例外には含まれていないようだった。
一九歳。
そのあどけない顔つきは、明らかに社会的な辛酸《しんさん》を舐めることなく、その歳まで育った証拠だった。
それを、軟弱だ、とは俺は思わない。
それが許される環境に育ったのなら、彼女はそのまま、ゆっくりと『大人』になるべきだったのだ。
「何があったんだ……」
「見て」
アレクシアが、トリクシーの寝間着の肩に手を伸ばす。入院患者のために病院が用意する、ゆったりとしたワンピース式のパジャマである。
その肩口を広げて、トリクシーの肌を露出させた。
肩に、見るも無残な鬱血があった。
アレクシアが開いて見せたのは左肩だけだったが、右も同じだろう。亡くなったスドウ・イレーネと同じく、明らかに単身楽団を長期間、背負い続けた痕《あと》だ。
「それに……」
言いながら、アレクシアはトリクシーの手を取る。全ての指に、包帯が巻かれていた。それも、ただ巻いてあるだけではない。何本かの指は包帯の下に、指といっしょに何かが巻き込まれているように太い。
「全ての爪が割れて、指の何本かは亀裂骨折《きれつこっせつ》していました」
太いのは、それを固定しておくためのギプスだ。
「鍵盤《けんばん》か」
呻く俺に、アレクシアが頷《うなず》く。
トリクシーの単身楽団は、鍵盤タイプの主制御楽器を持つモデルだったのだ。そして彼女は、全ての爪が割れ、骨が砕《くだ》けるまで、演奏し続けたのである。
「糞っタレ……」
イレーネは殺され、トリクシーはまだ生きている。
だが俺には、トリクシーの方が幸運だとは思えなかった。
同じだ。
何者かに自由を奪われ、おそらく無理やり神曲を演奏させられ続けて、そして、捨てられたのだ。
生ゴミみたいに。
「俺はな……」
呟いたその言葉がアレクシアに向けたものなのか、それともトリクシーに聞かせたかったのかは、自分でもよく判らない。
「正義の味方じゃねえ」
ただ、気づいたら、そう口にしていたのだ。
「だから法律だの規則だの、無意味だと思えば無視してきたし、邪魔《じゃま》だと思えば破ってきた。そのせいで誰から嫌われようと、誰に疎《うと》まれようと、知ったこっちゃない」
眠り続けるトリクシーの顔に、表情はない。
苦しそうですら、ない。
ただ唇だけが、ぽっかりと開いている。その口元を覆う透明なプラスチック製の酸素マスクは、まるで彼女の命が唇の隙間《すきま》から逃げてゆくのを抑え込むための蓋《ふた》みたいだ。
「でもな、こいつは間違ってる」
規則正しい電子音は、彼女の胸に繋《つな》がれた何本もの細いコードが検出する心臓の鼓動だ。
ぴっ…………、ぴっ…………、ぴっ…………、ぴっ……………………、
間隔は、広い。
弱った心臓が、やっとの思いで、血液を送り続けているのだ。
「力のある者が、弱い者を強引に捩《ね》じ伏《ふ》せて思い通りにするなんてのだけは、間違ってる。そいつだけは、どうしても許せねえ……」
握《にぎ》った拳《こぶし》に、ぱちん、と電光が疾って、俺はあわてて手を開いた。
精霊雷《せいれいらい》が、暴発しかけたのだ。
「ごめんなさい」
アレクシアだ。
「もっと早く連絡出来ればよかったんですけど」
「なぜ呼んだ?」
振り返らずに訊《き》く、俺のその問いの意味を、アレクシアは正確に理解したようだ。
彼女は、俺を拒《こば》んだのだ。ニコン市警の、保管庫でだ。
なのに彼女は、俺をトリクシーに逢《あ》わせようとした。
逢わせて、話をさせたかったのだ。
「私は……」
軋《きし》むような声で、そう応《こた》える彼女は、俺のすぐ後ろである。
歯を喰いしばっているように聴こえるのは、気のせいではないだろう。
「私は、警官です。その立場では、少なくとも他人《ひと》に恥じないだけの働きは、出来ていると思ってます。でも……」
口ごもった後、アレクシアは吐き出すように、言った。
「出来ないこともあります……」
それが、彼女が俺を呼んだ理由だった。
なんてこった。アレクシアは、俺に助けを求めたのだ。
同僚《どうりょう》ではなく、この俺に。
「俺なら、死にかけた女の子が相手でも平気で情報を引き出すと思ったかい?」
「そんな……!」
あわてるアレクシアに、俺は片手を挙《あ》げた。
「悪《わり》ぃ、冗談だ。忘れてくれ」
判ってる。
アレクシアがすがろうとしたのは、俺の経歴だ。
彼女なら、あの博物館の一件の後、俺について調べてみたはずだ。そして、俺の契約歴にも目を通しただろう。
そして、それが意味するところにも。
たしかに、俺は適任だ。
「レオンさん」
「ああ」
俺は、トリクシーの顔を見つめ、乱れて額にかかった髪を指でどけてやる。
「これは、連続誘拐事件です」
「ああ、そうだな」
「私がここへ駆けつけた時、彼女はまだ意識がありました。そして……」
「犯人は精霊、だろ?」
アレクシアの返事は、なかった。
俺が振り返って、目が合うと、我に返ったように彼女は頷いた。
「ええ、はい。そうです。そう言いました。なぜ……?」
「こっちもこっちで、調べは進んでる」
しかし、進展はない。今もトリクシーの証言で、俺の推測が……あるいは疑念が、肯定されただけのことだ。
「トリクシー……」
可哀相に。
このまま死ぬのか?
キミは、このまま死んじまうのか?
俺の腹の底で、ぎりっ、と何かが動いた。
「アレクシア」
「はい?」
「キミの考えてるとおりだ。俺は今まで、何人もの人間の死に際に立ち会ってきた」
女達の。
愛した女達の。
だからこそアレクシアは、俺を呼んだのだ。
被害者から情報を引き出すためではなく、死に怯《おび》える少女の手を握ってやるために。
だが、
「こいつばっかりは、何度経験しても、慣れるってことがない」
「……ええ」
「病気で死んだ女もいた。事故もいた。老衰《ろうすい》ってのもあった。俺は、その一人一人を見送ってきた」
トリクシー。
哀《あわ》れなトリクシー。
「そのうちにな、ひょっとしたら、なんて思い始めたんだ」
「……はい?」
「俺達精霊は、エネルギーの塊《かたまり》だ。だが一部の精霊学者は、人間や他の生き物も俺達と同じだ、なんて言いやがる」
アレクシアは、ただ黙って俺の横顔を見つめている。
俺の言っていることが判らないのだ。
「俺達と人間との違いは、ただ物理的な『肉体』を持っているかどうかの違いだけだ。言わば、精霊が『肉体』を着込んで生まれてくるのが人間で、『肉体』なしの剥《む》き出《だ》しのまま発生するのが精霊なんだ。つまり連中が言ってるのは、そういうことだ」
俺は、アレクシアを振り返る。
案《あん》の定《じょう》、ぽかん、と口を開けていた。
「何度も何度も女達が死ぬところを見てるうちにな、俺も、もしかしたら、なんて思い始めてな」
「何を、ですか?」
「だが、病気を治すのは、無理だった。怪我《けが》もだ。寿命《じゅみょう》が尽きるのを邪魔《じゃま》することも、やっぱり出来なかった」
そして、トリクシー。
哀れなトリクシー。
「でもな、こういうのは、試したことがない」
衰弱《すいじゃく》、である。
彼女が何を経験したのかは、判らない。だが、今の状態だけは、一目で判った。
激しい衰弱が、彼女から生命を毟《むし》り取《と》ろうとしているのだ。
俺はトリクシーの白い顔を見つめながら、ネクタイの結び目に指を突っ込んだ。そのまま何度か揺《ゆ》すってから、結び目を緩《ゆる》める。
「今からやることは、反則だ」
俺のその言葉は、アレクシアに聞かせるためではなく、自分自身への言葉だった。
「それに、巧《うま》くいくかどうかも判らねえし、巧くいったとしても全部の精霊にこんなことが出来るのかどうかも俺は知らねえ」
あるいは、それは許されざる一線を超える行為かも知れないのだ。
だが、迷いはなかった。
もう決めたのだ。
腹の底でのたうつものに……怒りに、応えてやらなければならない。
「いいかアレクシア。今から俺のやることを、一生黙ってる自信がないなら、見るな」
アレクシアは、応えなかった。
だが、目を逸《そ》らすこともなければ、部屋を出て行こうともしなかった。
俺は、トリクシーに向き直ると、
酸素マスクを外した。
「レオンさん!?」
「黙ってろ」
途端に、トリクシーの胸の上下が、激しくなる。
電子音の間隔が狭《せば》まった。
ぴっぴっぴっぴっぴっぴっぴっぴっ!
まるで駆け足だ。
「誰も近づけるな」
そして俺は、トリクシーに顔を寄せる。
片方の手で髪を撫《な》でるように支え、片方の手を彼女の頬に添え、
そして、唇を重ねた。
ばたばたと、小走りの足音が近づいて来る。
「来ないでください!」
鋭い制止は、サムラ・アレクシア巡査部長だ。
「何をしてるんですか!」
「いいから、退《さ》がって!」
揉《も》み合《あ》う気配がする。
ありがとうよ、嬢《じょう》ちゃん。
だが、おかげで、見逃しちまったな。
俺の唇と、トリクシーの唇が、重なるその隙間《すきま》から、光が漏《も》れている。
金色の光だ。
『俺』の……『レオンガーラ・ジェス・ボルウォーダンと呼ばれる精霊』の……知性を持つエネルギーの、その一部だ。あるいは、思考する生命力、と言ってもいい。
もしも、精霊学者の言うことが正しいとしたら。
もしも、精霊と人間との違いが本当に『肉体』を有するか否かの違いでしかないとしたら。
もしも、その解釈《かいしゃく》が本当に正しいのだとしたら。
出来ない理由がない。
その『肉体』がまだ生きているなら。
病に犯され変質しているのでなければ。
怪我で壊れているのでなければ。
使い古されて機能を停止しようとしているのでなければ。
俺は、唇を離した。
金色の光が消える。
そして、
「ぅおっ、と!」
突然の目眩《めまい》に、俺はその場に崩《くず》れて、尻から床に座り込んだ。
「レオンさん!」
揉み合っていた二人の女が、離れる。
アレクシアは俺に、そして看護師はベッドの上のトリクシーに駆け寄った。
「大丈夫ですか!?」
「ああ、まあな」
半分は、嘘《うそ》だ。
気分が悪いわけでもないし苦しいわけでもい。
しかし、立てなかった。
どうしても、自分で立ち上がることが出来ないのだ。
「何をしたんです?」
心配そうに、アレクシアが覗き込む。その美しい眉《まゆ》は、泣き出しそうなくらいに形を崩していた。
「聴けよ」
「え?」
「音さ」
電子音である。
この部屋に着いた時から聴こえていた心電モニターの音だ。
ぴっ……ぴっ……ぴっ……ぴっ……ぴっ……、
さっきのように駆け足ではない。しかし同時に、ここに来た時のように弱々しいものでもない。
早くもなく、
遅くもなく、
ほぼ一秒に一回のペースだ。
「まさか……」
呻くようにそう言ったのは、トリクシーの上にかがみ込んだ看護師だった。
「なあ、キミ」
俺は、愕然《がくぜん》と患者を見つめる白衣の女性に、声をかけた。
「このあたりで、今から食事の出来る店はないか?」
深夜零時《しんやれいじ》を回った、この時刻にだ。
「私が知ってます」
そう言って、アレクシアは俺の腕の下へ、頭を突っ込んだ。
「奢《おご》りますよ」
歯を喰いしばって、やっとの思いで俺を立たせてくれる。
「わりぃな」
「いえ」
その代わり、と彼女は言った。
「事情聴取は、私の仕事ですからね」
看護師が、集中治療室を走って出て行く。主治医を呼びに行ったのだろう。
「面倒臭いことになる前に、早く行きましょう」
「賛成だな」
アレクシアが連れて行ってくれたのは、終夜営業の安っぽいバーだった。
喰うものと言えば、これまた安っぽいサンドイッチと、チーズやらサラミやらのツマミだけで、だから俺は大量に注文しまくった。
最後にはアレクシアも音《ね》を上げて、だから結局、俺がカードで支払った。
「今度、ちゃんと奢りますから、本当に」
アレクシアは、どこか不満そうに、そう言った。
夜明け前になって、ようやく自分で歩けるようになった俺は、その足でアレクシアとともに病院に戻った。
案の定、ちょっとした騒《さわ》ぎになっていた。
トリクシーはまだ集中治療室から移されてはいなかったが、心電モニターだの酸素吸入器だの点滴静注《てんてきじょうちゅう》だのは全て外されていた。
それどころか、ベッドに躯を起こして座っているのだ。
ベッドの周囲には、二人の人物がいた。
医者でも看護師でもない。
俺とアレクシアが近づいて行くと、二人が立ち上がって、ほぼ同時に頭を下げた。中年の男女だった。
どちらも、人間である。
報せを聞いて駆けつけてきた、ナバリ・トリクシーの両親だった。
俺が名乗ると、両親もトリクシーも、いささか身構えたようだ。どうやら、私立探偵という肩書が、そうさせるらしい。
それとも、このタテガミみたいな金髪とケダモノじみた風貌《ふうぼう》のせいか? 俺としては、野性味あふれるナイス・ガイ、だと思ってるんだが。
ともかく、アレクシアはトリクシーの両親を退室させた。両親は心配そうに何度も娘を振り返り、トリクシー本人も心細げにそれを見送ったが、ここは辛抱してもらうしかない。
第三者が、特に肉親が側《そば》にいた場合、その不用意な言葉が情報を曲げたり欠落させたりしてしまう場合が、ままあるからだ。
「さて、ナバリさん」
アレクシアが、付き添い用の丸椅子に腰を下ろす。
俺は立って、その後ろだ。
「辛いとは思いますが、出来るだけ正確に思い出してくださいね」
「はい」
首をすくめるみたいにして、トリクシーはしかし、目の前のアレクシアではなく俺の方が気になるみたいだ。おそるおそる、こちらを盗み見ている。
第一印象のとおり、あどけない少女である。最初に見た時より血色も良くなって、だから余計に幼く見えるのかも知れない。
あるいは、長い髪を頭の両脇で二つにまとめてあるせいかも知れない。賭《か》けてもいい。こいつをやったのは、母親だ。
「ナバリ・トリクシーさん。一九歳。フリーの神曲楽士で、スガナミ人材派遣株式会社に登録。間違いありませんね?」
「はい」
不安げな、その声には緊張が見える。
で、またしても俺に、一瞬だけ視線を投げるのだ。
アレクシアも、今度は気づいたようだ。
「ああ、彼ね」
苦笑である。
「大丈夫。私立探偵よ……っていうのは、さっき聞いたわよね?」
「はい」
ちらり。
俺が、にいっ、と笑って見せると、トリクシーは慌《あわ》てて視線を逸らした。
「すんごい髪形でしょ。私も最初に逢った時は、びっくりしたんだけど……」
アレクシアは笑顔で話しかける。
その時、ふいに俺は、気がついた。
膝《ひざ》の上で、トリクシーの手が、震《ふる》えている。
「……彼はね」
そうか、まずい!
「アレクス!」
俺の制止と、
「精霊だから」
アレクシアの言葉は、ほとんど同時だった。
「……精霊」
弾かれたように俺を振り返った、そのトリクシーの目は、大きく見開かれている。
瞳《ひとみ》にみるみる広がってゆくのは、恐怖だ。
「精霊!!」
大声でこそないが、喉《のど》の奥が軋むような、それは明らかに悲鳴である。
「精霊! 嫌! やだ!!」
暴れ始めた。俺から少しでも離れて、ベッドから逃れようとしているのだ。それなのに四肢《しし》が巧く動かせない、そんな感じである。
恐慌《きょうこう》状態だ。
「ナバリさん!」
素早く立ち上がったアレクシアが、半ばベッドに乗り上げる格好で、それを押さえ付ける。
「精霊! 精霊!!」
きいきいと甲高《かんだか》い、ガラスを擦《す》り合《あ》わせるみたいな悲鳴である。
「ナバリさん!」
ベッドの上を這《は》いずって、向こう側へ逃げようとするトリクシーの背後から、アレクシアは覆《おお》い被《かぶ》さって、彼女の両手首をシーツに押しつける。
「落ち着いて、ナバリさん! トリクシー!!」
肩ごしに、彼女の耳元に唇を寄せて、アレクスのその声は鋭い、しかし囁きである。
「トリクシー! 聞いて!! 彼はあなたを助けたの! いい精霊なの!」
あーあ、言っちめぇやんの。
あんだけ、黙ってろって言ったのによ。
「やだ! やだ!!」
「聞きなさい、トリクシー! あなたの命を助けたのよ! 生き返らせたの! あなたを助けて、お父さんとお母さんに逢わせてくれたのよ、彼は!」
たしかに、そう言えなくもないが、そりゃ詭弁《きべん》ってもんだろう。
だが、効果はあった。
トリクシーの動きが、止まった。
「判る、トリクシー? あなたはお父さんやお母さんといっしょに、家に帰れるの。お友達にもまた逢えるの。それは全部、彼があなたを助けてくれたからよ」
聞こえるのはトリクシーと、そしてアレクシアの荒い息づかいだけだ。
「判った? 彼は、いい精霊なの。とっても、いい精霊なの。正義の味方なの」
「おいおい、やめろよ照れ臭いなあ」
アレクシアが、乱れた髪のまま振り返る。
俺はと言えば、同じ場所に立ったままで、両手はポケットの中だ。
「トリクシー」
ナバリ・トリクシーが、ゆっくりと顔を起こす。こちらも、髪は乱れてぐちゃぐちゃだ。せっかく二つにまとまってた髪も、片方ほどけてしまっている。
アレクシアが離れると、彼女もベッドに起き上がった。
寝間着も乱れて、姿勢も崩れた横座りである。
それでも、
「助けてくれたの……?」
その瞳には、わずかな猜疑《さいぎ》こそ残しているものの、恐怖の影は薄らいでいた。
「ああ、まあな」
そして、
「でもまあ、恐いなら出て行くよ。その刑事さんの質問に、ちゃんと答えてくれりゃあ、それでいいからさ」
「質問……」
「ああ、そうだ」
俺は、懸命《けんめい》に笑みを浮かべようとした。
だが、巧くいかなかった。
「キミは、助かった。次は、まだ助かってない娘達《こたち》を助けなきゃならん」
そう言った途端《とたん》である。
トリクシーが、動いた。今度は、こちらに向かって。
噛みつかれるかと思ったが、そうではなかった。ベッドから転げ落ちそうになるのを、アレクシアが支えた。
「助けて」
どうやら、回復が不充分で巧く動けないらしい。
「みんなを助けて。助けてあげて」
俺を見上げる、その目には明らかな恐怖が舞い戻っていた。
だが、それは俺に対するものではなくなっている。
自分が見たものに、体験したことに、そして、今もどこかで続いているはずの出来事に向けられた、それは底知れない恐怖だった。
「みんなを助けて!!」
俺は、初めて前へ出た。
ベッドの端に腰を下ろし、トリクシーを抱き留めたアレクシアと入れ替わる。
そして、少女を胸に抱いてやった。
その細い手が、無事な指だけで、俺のスーツの胸元を鷲掴《わしづか》みにする。
震えていた。
「助けてあげて。お願い、みんなを助けてあげて」
「ああ。そのために、俺は来たんだ」
「本当?」
「ああ」
トリクシーが顔を上げると、俺達は鼻っ先で見つめ合う格好になった。
「彼女が言っただろ?」
俺は、精一杯の努力で、優しげな笑みを浮かべて見せる。
「俺は女の子の味方なんでね」
だが俺のその努力は、報《むく》われたようには思えなかった。
ちゃんと笑みになっている自信がない。
その時、俺はハラワタの底から煮えくり返っていたからだ。
「ナバリ・トリクシーさん」
アレクシアだ。
「話してもらえますね?」
トリクシーは、頷いた。
それは、おぞましい証言だった。
トリクシー本人は、すでにその日が何月の何日だったか、憶えてはいないと言った。
ただ、派遣会社《はけんがいしゃ》から紹介された仕事を一件、無事に終わらせた帰りだったという。
マナカダ市の現場から、ロナージの派遣会社の事務所に戻り、報告手続きを終えて、帰途についたのが午後九時を回っていた。ちょうど事務所のテレビで九時のニュースが始まったところだった、とトリクシーは言った。
事務所が入っているのは、駅前の雑居ビルである。
ビルの裏の駐車場へ向かった。
愛用のスクーターの前まで来たところで、意識が途切れた。
「気がついたら、知らないところにいたんです」
そう言ってトリクシーは、ぞくり、と身震いする。
ベッドに横たわったまま、そのギプスだらけの手は俺が握っている。……いや、俺の手を彼女が握りしめている、と言った方が正しいだろうか。
横になることを承知したトリクシーは、しかし俺の手だけは離そうとしないのだ。
「どんな場所でした?」
アレクシアの質問に、トリクシーは小さく首を振る。そこがどんな場所だったか、彼女はそれを正確に表現する言葉を持たなかった。
「暗かった」
彼女は、そう言った。
「全く見えないわけじゃないけど、でも、いつまで経っても目が慣れなかった」
唇を震わせて、そう言った。
周囲の物も、側にいる人物も、その輪郭《りんかく》だけがぼんやりと判るだけの、闇だったと。
「他の人も、いっしょだったんですね?」
アレクシアが念を押す。
「はい」
「人数は?」
「判りません……憶えてません」
「名前は聞きましたか?」
「ええ」
「憶えてますか?」
「何人かは……」
互いに名乗り合ったのである。だが、その全部を憶えてはいられなくて、だから人数も憶えていないのだ。
「テレジア……、エレノア……、モレアーノ……、ミラルカ……」
トリクシーは、憶えている名前を並べてゆく。
失踪者である。
「でも、いつもだいたい、五人とか一〇人とか、そのくらいだったと思います」
「怪我をしている人や、病気の人は、その中にいましたか?」
「途中で一人、メリベルって人が……」
言いかけたトリクシーを、しかしアレクシアは柔らかく制した。
「先のことは、今はいいです。目が覚めた時のことだけ、話してください」
「はい。えと……、怪我も病気も気がつきませんでした」
アレクシアが執拗に、細かい部分にまで質問を重ねてゆくのには、二つの理由がある。
一つは、トリクシーが記憶を手繰《たぐ》り寄《よ》せるための手助けとして。
体験者本人がその記憶を辿る時、往々にして自分に都合の悪いこと、思い出したくないことを避ける傾向にある。これは人間でも精霊でも、そして性別や年齢がどんなに違っても、同じことが言える。
それを可能な限り回避するには、体験者本人が記憶を整理するのではなく、外部の第三者が誘導することによって、強制的に『時系列に沿った記憶の再生』に引き戻す必要がある。
とまあ、これは専門書の受け売りだ。
だがもう一つの理由は、受け売りなしで俺にも理解出来た。
つまり、トリクシーの体験がもうすでに過去のこと……もう終わったことであるという事実を補強してやるためなのだ。
「あなたは、そういう場所で目が覚めたんですね」
「はい」
硬《かた》い、おそらくコンクリートが剥き出しの床に、そのまま寝かされていた。
躯を起こし、周囲を見回す。もぞもぞと動く人影に怯えるトリクシーに、一人の人物が声をかけてきた。
「女の人でした。あたしと同じくらいの歳かも知れないけど……」
「名前は聞きましたか?」
はい、とトリクシーは答えた。
「シャルミタ」
俺は、勝手に動こうとする表情を、懸命に押さえつけた。
「シャルミタさんは、何と言いました?」
大丈夫よ、とセナ・メイリンの妹はトリクシーに言った。ここはどこ、というトリクシーの質問に、シャルミタは、判らない、と答えた。
「それから……」
「それから?」
「ちょっとだけ、吐きました」
「吐いた? シャルミタさんが?」
「いいえ、あたしが」
吐き気を感じた、と思った瞬間、嘔吐《おうと》したという。
それが恐怖のためであることを、吐いてしまった後になってトリクシーは理解した。
「躯《からだ》、あんまり丈夫じゃないんです。ストレスがあると、すぐ吐いちゃって……」
吐瀉物《としゃぶつ》はシャルミタと、それからもう一人別の誰かが片づけてくれて、その時になって始めて、その『闇』の中には生活に必要な設備が一通り揃《そろ》っていることに気づいた。
トイレ、洗面所、寝床、そして後になってから浴室があることも知った。
それは言わば、大がかりな雑居房のようなものだったのだ。
「食事は、眠って目が覚めるたびに、部屋の真ん中に人数分だけ用意されてました。誰かが一人でも起きていると、いつまで経っても現れませんけど」
そして食べ終えた食器は、新しい食事と入れ違いに姿を消すのである。
「人間も、そうでした」
「人間……?」
「目が覚めたら、誰かがいなくなってるんです。そして、その代わりに、別の新しい誰かが『闇』の中に来てるんです」
トリクシーがそうだったように。
「一人ずつ?」
「いえ。二人とか三人のこともあります、消えるのも来るのも」
「毎朝?」
アレクシアの質問に、トリクシーは首を振る。
「判らないんです」
時刻が、だ。
「時計は、誰も持ってなかったの?」
「部屋に『入る』時に、取られちゃうんです。あたしも、取られました」
誰の仕業《しわざ》なのか、なぜ連れて来られたのか、何のために監禁《かんきん》されているのか、誰もそれに明確な答えを出せる者はいなかった。
「取られなかったのは、着てるものと、それから単身楽団だけでした」
やっぱりだ。
『犯人』の求めるのは、やはり神曲楽士ではなく、彼女達の奏でる神曲そのものなのだ。
ぞくり、と背中を何かが這い上がる。
さっき、ホテルのエレベーターで感じたのと、同じやつだ。
俺はそいつを、懸命に押さえ込んだ。
「何日も何日も、そこで暮らしました」
トリクシーが、呟くように言う。
『闇』の中に囚われて、その間に次々と人が消え、新しい人が現れる。
消えた者達は戻っては来ない……。
「そして、あたしの番が来たんです」
それが何度めの睡眠だったか、トリクシーはもう憶えていなかった。
「目が覚めたら、そこは地獄《じごく》でした」
最初に気づいたのは、音楽だった。
次に、自分がどこかに座っていることに気がついた。
そして最後に気づいたのは、目の前の光だった。
胸の前には、見慣れた四角い表示パネル。
緑色のグラフ表示に、円形のメーター。
右腕の前のあたりにはスライド・スイッチが並び、その根元には赤いパイロット・ランプが整列して点灯している。
左腕の前に揃っているのは一二個の撥《は》ね上《あ》げ式スイッチで、こちらのパイロット・ランプは緑色だ。
そして目の前に、キーボードがあった。
単身楽団の、主制御楽器だ。
弾いて!
鋭い声に、トリクシーは顔を上げた。
暗闇の中に、顔が浮かび上がっていた。
見知らぬ女性の顔だ。
それも、一つや二つではない。見回すと、一〇ばかりの女性の顔が、こちらを見ている。ぼんやりと、光に照らされて、闇に浮かび上がっているのだ。
その中の一人が、
弾いて! 早く!
そう言った。
疲れ切った顔だった。
手にしたバイオリンを……いや、バイオリン型の主制御楽器を演奏している。彼女の顔を闇に浮かび上がらせる光は、トリクシーの顔を照らすのと同じ、単身楽団の制御パネルのバック・ライトなのだ。
血の滲《にじ》む手で弓を操り、血の滲む指で弦《げん》を押さえながら、その女性は言った。
早くして!
目が覚める時から聞こえていた音楽の、それが正体だった。
闇の中で、一〇人ばかりの女性達は全員、単身楽団を演奏していたのだ。
バイオリン型だけではない。トリクシーと同じ鍵盤型を演奏中の者もいれば、ビオラやマリンバもいる。サックスやトランペットも混じっている。パーカッションの者もいた。
その全員が、一つの同じ曲を演奏しているのだ。
セッションである。
だが、その全員が憔悴《しょうすい》しきった顔で……、
「演奏を止めれば死んでしまう、そんな顔でした」
そしてそれは、まさにそのとおりだった。
思わず立ち上がろうとしたトリクシーは、それが出来ないことを知った。彼女は展開した単身楽団を背負わされた状態で、椅子に座らされ、首輪と鎖で床に繋がれていたのだ。
その時、トリクシーは気がついたのである。
なぜみんなが、演奏を続けていたのか……続けるしかなかったのか。
「椅子が、ごわごわになってました」
血で。
乾き、固まった、大量の血液で。
「全部の椅子がそうなのかどうか、見えなかったから判りませんけど」
だがトリクシーの座らされた椅子は、そうだった。そしてそれは、逆らった者の運命を想像させるには、充分だったのだ。
「ひでぇ……」
思わず漏らした俺の言葉に、トリクシーはその手を握りしめることで応えた。
「暗いし、時計もないので、時間は判りません。でも、きっと何日も何日も演奏し続けたんだと思います」
飲まず喰わずで、眠ることはおろか、横になることさえ許されずに、神曲を演奏し続けることを強要されたのだ。
体力は削《けず》られ、躯は傷ついてゆく。トリクシーが生爪《なまづめ》を剥がし、指を骨折し、衰弱して死の淵《ふち》を彷徨《さまよ》ったように……。
「演奏が出来なくなると」
アレクシアの声も、こわばっている。
「どうなるの?」
トリクシーの応えは、簡潔《かんけつ》にして明瞭《めいりょう》だった。
「捨てられます」
それは異様な光景だった。
疲れ果て、演奏をやめて動かなくなってしまった者は、ふいに闇に包まれる。
その人物のいた場所が、闇に溶けてしまうのだ。
そしてしばらくすると、その場所に、別の誰かが座らされるのである。
捨てられる、という事実を、トリクシーが知っていたわけではないだろう。だが彼女は、出来事を正確に言い当てていた。
スドウ・イレーネが、どうなったかを……。
「それからのことは、よく憶えてません」
やがてトリクシーの体力も、尽きた。
指が満足に動かなくなり、意識が朦朧《もうろう》としてきた。
起きているのか眠っているのか、それさえ判らなくなった。
痛みを感じなかったことだけが、幸いだった。叩きつける鍵盤に爪が剥がれ指の骨が亀裂を生じるころには、彼女の神経は正常に機能しなくなっていたのだ。
意識が途切《とぎ》れ、
気がついたら病院にいたのである。
「ありがとう……」
呟くトリクシーの、その瞳が見つめるのは、俺だ。
「どういたしまして、だ」
俺はウィンクを一発、キメる。
それから、
「一つ、訊いていいかな」
俺はもう一方の手も添えて、トリクシーのギプスだらけの手を包み、彼女の瞳を見つめた。
「はい」
「精霊が、いたんだな?」
俺の手の中で、トリクシーの手がこわばった。
そして、頷く。
「見たのか?」
「羽根、だけ……」
闇の中に、ぼんやりと、光の羽根だけが……。
「それと、声」
「声!?」
頷くトリクシーは、すがるような目で、俺の視線を鷲掴みにした。
「あたし達の演奏に混じって……神曲に重なって、時々、声がしました」
男の声であった、という。
その声は、こう言っていた。
「奏でよ……」
なに?
「そは我らが盟約なり」
なんだと……!?
「そは盟約。そは悦楽。そは威力。ゆえに奏でよ……」
最後の一節は、
「汝《な》が魂の形を」
俺の暗唱に、トリクシーは頷いた。
「なんてこった」
その言葉が何に由来するのかは、明らかではない。
しかしそれは、こと神曲に携《たずさ》わるものならば、誰もが暗唱しているべき言葉ではあった。
奏でよ
其は我等が盟約也
其は盟約
其は悦楽
其は威力
故に奏でよ汝が魂の形を
忘れられた戯曲の一節であるとも言われているし、精霊王と呼ばれる存在が人類初の神曲楽士に対して述べた言わば祝辞であるとも言われている。
しかしその来歴が定かではない一方で、精霊と神曲楽士との関係を最も端的に、そして同時に最も美しく表した言葉でもあった。
だが。
その言葉のもとに、拉致された女達は、強制的に神曲を奏でさせられた。
単身楽団の、単なる動力として扱われたのだ。
「気に入らねえ」
俺はメルバイロの紫煙《しえん》を、遠慮なく吐き出した。
「どこの糞野郎だ……」
病院の、喫煙コーナーである。
と言っても、その実態は、一階裏手の駐車場の手前、廊下の片隅にある物置のような狭い部屋だ。
部屋のど真ん中に大型の空気清浄機と、その脇には安物のプラスチック製ベンチが置かれているだけである。
トリクシーへの事情聴取は、三〇分ほどで切り上げられた。
彼女の両親と入れ違いに部屋を出る時、トリクシーはベッドに起き上がって、小さく手を振って見せてくれた。
「あんな、いい娘《こ》に、ひでえことしやがる」
俺は空気清浄機をカウンター代わりに、肘を突く格好でもたれて、
「まさかとは思ってたけど……」
呟くサムラ・アレクシア巡査部長は、ベンチに腰を下ろして眉間《みけん》を指で揉んでいる。
「これは、精霊課の仕事かも知れないわね……」
独り言である。
あるいは、泣き言かも知れない。
精霊課とは、精霊が起こした事件、あるいは精霊の関与が予想される事件を専門に担当する、特別捜査課である。
精霊警官と楽士警官のコンビか、あるいは精霊警官が単独で捜査の任にあたる。容疑者が精霊であった場合、そしてその容疑者が抵抗を見せた場合、人間の警官では太刀打《たちう》ち出来ないからだ。
「早々と降参か? やっと事件の全貌《ぜんぼう》が見えかけてきたとこだぜ?」
アレクシアは、恨《うら》めしげな視線で俺を見上げて、
「だからですよ」
苦笑を浮かべて、そう言った。
「被害者の証言は得られましたが、手掛かりとしては何ら有効な情報はありませんでした。その上で、さらに犯人が精霊である可能性が高いんです。て言うか、ほぼ決まりでしょう。だとしたら、私達人間の手には負えません」
「んじゃ、それはどうなんだ?」
俺がメルバイロのフィルターの方で指して見せるのは、彼女の手にした手帳である。俺がさっき、返したやつだ。
「そいつは、手掛かりじゃないのか?」
「ああ、これ」
アレクシアが手帳を開く。
そこには、奇妙な図形が描かれていた。
トリクシーが、そう言えば、と思い出したものだ。
それを、いつ見たのか、どこで見たのかは判らない。だが記憶の隅に、その奇妙な図形が引っかかっていたのだという。
手帳に描き込まれている図形は、トリクシー自身の手によるものだ。ギプスだらけの不自由な手で、えっちらおっちら描いたものである。
だから、線は不安定で、ぐじゃぐじゃだ。
それでも、形状は判った。
縦長の、楕円形《だえんけい》である。
その内側にもう一つ、似たような形状の線が二重に描かれている。
描き上げたトリクシーは、よく憶えてないんですけど、と付け加えた。何かこんな感じのものを見た、というのである。
「何の図形なんでしょうね、これ」
「本人も正確には憶えてなかったんだろ?」
「ええ。でも、看板とか道路標識とか、そういうものだったら」
「ただし、いつ見たのか、が問題だわな」
描いた本人も、それは判らない、と言った。
朦朧とした意識の中で、目にしたのだという。だから実際のところ、それが誘拐される際に見たものなのか、それとも捨てられる際なのかも判らない。
最悪の場合、捨てられた場所で発見されてから病院へ搬送《はんそう》されるまでの、その間に見たものなのかも知れないのだ。
もしそうなら、手掛かりとしては全く無意味だ。
俺はメルバイロを思いっ切り吸い込んで、溜め息とともに煙を吐き出す。
「で? どうするよ。やっぱ、精霊課にバトン・タッチか?」
アレクシアは振り返ることなく、メモ帳の奇妙な図形を睨んだまま、首を振る。
「報告はします。しかし現段階では、精霊課は動かせないでしょうね」
「俺も同感だな」
ただ現場で精霊を見たというだけでは、精霊課は動かせない。その精霊が積極的に犯罪に関与していると判断するだけの理由が必要なのである。
まあこれが、殺害された遺体を精霊が覗き込んでいた、なんてことになれば話は別なんだろうけどな。
「でも、こうしている間にも……」
「そう。そいつが泣きどころ、ってね」
「とにかく」
アレクシアは立ち上がった。
「署に戻って、鑑識に見せてみます。意匠《いしょう》関係に詳しいのが一人、いるんです」
「そのついでに、ちょいと仮眠でもしな」
「いえ」
「いえ、じゃねえの」
俺は、最後の一息を吸ってから、短くなったメルバイロを灰皿に押しつけた。
「このまま捜査を続けても、ミスや見落としが増えるだけだ」
「でも」
「でも言うな」
内ポケットから取り出すのは、二本めだ。
「たしかに、時間は惜しい。正直、俺だって、じりじりしてんだ。だが今、実質的に出来ることって言やあ、例のコンクリの分析と、トリクシーの描いた図形の同定作業だけだろ? どっちも、キミでなくても出来ることじゃないか」
ライターは、ない。
指先に灯した小さな精霊雷が、金色に輝いて煙草《たばこ》に点火する。
「この先、キミでなきゃ対処出来ないことが、必ず起きる。そん時のために、ちょっとでも疲れを抜いて備えとくのが、プロってもんじゃないの?」
「でも本件は、私の担当なんです」
「俺がいるじゃねえか」
にやり、だ。
「……え?」
「俺は精霊だ。二日や三日、寝なかったからって、どうってこたぁない。キミがおねんねしてる間に、ちったぁオツム絞《しぼ》ってみるさ」
アレクシアは俺の顔を見つめると、ふいに背筋を伸ばした。
「いけません」
ぴん、と胸を張る。突然に、警官としてのサムラ・アレクシア巡査部長が戻ってきた。
「あなたは、民間精霊です。ご協力には感謝しますが、捜査《そうさ》に立ち入っていただくわけにはいきません」
そんなアレクシアも、恰好よくて俺は嫌いじゃない。
だが、今に限って言えば、俺の口から漏れるのは溜め息だ。
「そいつは賢明じゃないぜ、アレクス」
煙草の煙を吸い込んで、吐き出す。
「恩を着せるわけじゃないが、現に俺が来なきゃトリクシーは死んでた。彼女から事情聴取が出来たのは、俺が来たからだ」
アレクシアは唇を噛みしめる。
判る。よほど悔しいのだろう。だがそれよりも問題なのは、彼女がそれを隠そうとしなかったことだ。
だから俺は、見なかったことにした。
「でもな、俺がここに来れたのは、キミのおかげだ」
「……え?」
「キミが連絡してくれたから、俺はここに来れた。だから、トリクシーは助かった。キミと俺とで、彼女を助けたんだ。キミだけでも、俺だけでも、無理だったことだ」
睨みつけんばかりだったアレクシアの瞳が、ふいに柔《やわ》らかくなる。
笑みこそ浮かべなかったものの、そこにあるものの意味は、充分に理解出来た。
ふいに、彼女が手を伸ばす。
そして俺のくわえた煙草を、つまんで取り上げた。
「もう手遅れ、ってことですね」
言ってから、煙草をくわえて、一息に吸い込む。タイトなスーツの下で、胸が一回りばかり大きくなった。
「判りました」
言いながら、俺の唇に煙草を戻す。
「起きたら、また連絡します」
仮眠から、である。
敬礼を残して喫煙室を出ようとするアレクシアを、俺は引き止めた。
「まあ、そこまでいっしょに行こうや」
「今度は何をスリ取るつもりなんです?」
「勘弁してくれ」
煙草を、灰皿でもみ消す。
吸殻《すいがら》のフィルターには、ルージュが移っていた。
控えめな、薄いオレンジ色だった。
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第三章 歪められた絆
アレクシアの可愛らしい軽自動車が走り去るのを見届けてから、俺もバイクに跨《また》がって病院を後にした。
ホテルには、午前中のうちに戻って来られた。地下駐車場にバイクを滑り込ませ、停車位置は俺専用のスペースだ。
タンクに掛けていたサドル・バッグを下ろす。
把手《とって》のない革製のバッグを二つ、幅の広い革の帯で繋《つな》いだような構造だ。これを、タンクやサドルに帯部分を乗せてバッグ部分を左右に振り分けることによって、オートバイに車載するのである。
本来は、馬のサドルに引っかけて用いるためのものだ。そのため名称も、サドル・バッグ、という。
荷物がある時の、俺の愛用品だ。鞄《かばん》として用いる際には、帯を肩に担《かつ》いでバッグを胸と背中に振り分けて使う。
エレベーターに乗り込み、向かうのは最上階だ。
ポケットから、二つ折りにした小さな紙片を抜き出す。
例の妙な図形が描かれている。病院の前で別れる時、アレクシアがメモ帳の別のページに描き写し、破って手渡してくれたものだ。
ごちゃごちゃと入り組んだ、楕円形《だえんけい》だった。
やはり、意味不明である。
だがそれ以上に問題なのは、俺もどこかで見たような気がする、という事実だ。
被害者だけが知っているのではなく、事件の当事者ではない俺まで知っている。つまり、非常にありふれた図形なのかも知れない、ということではないか。
例えばレオナルド・バーガーの、あのマークみたいに、だ。
監禁《かんきん》されていた現場の近くで『パフィ・レオナルド』を見た、なんて証言があったとしても、それは手掛かりにはならない。なぜなら、レオナルド・バーガーなんてどこにでもあるし、街を歩いていて『パフィ・レオナルド』の顔を見ない日なんてないのだから。
「大した手掛《てが》かりだぜ」
ちん、という上品な音色は、目的階への到着を告げるベルである。
廊下を歩いて、ルーム・キーを握った手をドアに向かって伸ばす。
そこで、俺は硬直した。
おい。
何だ、この匂いは!?
「俺としたことが……」
思わず喰《く》い縛《しば》った奥歯が、めりっ、と音をたてた。
手にしたキーを使わなかったことに思い至ったのは、ドアを蝶番《ちょうつがい》ごと壁から引《ひ》き剥《は》がしてしまった後になってからだ。
「ロレッタ!!」
飛び込んで、叫ぶ。
「メイリン!!」
返事はない。
だが、応《こた》えはあった。
呻《うめ》きだ。
すぐに判った。ロレッタの声だ。
「どこだ!?」
部屋は、惨憺《さんたん》たるありさまだった。ロレッタが喰い散らかしたことなんか、これに比べれば可愛いものだ。
ルームサービスのワゴンは、全て引っ繰り返っている。
壁の額《がく》は何枚か床に落ちているし、よく見ると天井の照明も光軸が傾いている。
だがそれより問題なのは、匂いだ。
血の臭いである。
「ロレッタ!」
応える呻きは、引っ繰り返ったソファの向こう側だ。
跳《と》び越《こ》えると、そこに、彼女はいた。
「ロリィ!!」
ねじくれたような姿勢で、床に転がっていたのだ。
何が起きたのかは、それでだいたい判った。彼女は、ソファに叩《たた》きつけられたのだ。
だが、そうなるまでに何が起きたのかは、想像したくもなかった。
「しっかりしろ、おい!」
抱き上げると、俺の腕の中でロレッタは瞼《まぶた》を開く。
片方だけだ。
左の瞼は青黒く腫《は》れ上《あ》がって、開いても見えるのは白目だけだった。おまけに自慢の巻き毛は、べったりと血で汚れて頬《ほお》に貼り付いている。
「レオ……ン」
「何があった、おい!?」
「……ご、めん」
「メイリンは!?」
「メイ……」
その先は、聞き取れなかった。
言葉を押《お》し退《の》けて、赤黒い血がロレッタの唇《くちびる》から溢《あふ》れて、頬から顎《あご》へと垂れた。
「判った。もう喋《しゃべ》るな!」
「レオン様!!」
背後で、その上擦《うわず》った声の主は振り返らなくても判る。俺がドアを引《ひ》き千切《ちぎ》っちまったせいで、警報装置が作動して、飛んで来たのだ。
「病院へ連絡しろ!」
言うより前に、俺はロレッタを抱き上げていた。
「ノザムカスル大学付属病院の救急救命センターだ! 患者を運んで行く! 打撲《だぼく》多数、胸骨骨折の可能性あり!!」
「はい!!」
戸口に呆然《ぼうぜん》と立ち尽くし、それでも何とか返事をするのは、制服姿の二人の警備員だ。
「それから、警察も呼んどけ! いいな!!」
「はい!!」
俺は、寝室に飛び込んだ。
そのままテラスへ出て、ロレッタを抱えたまま、跳んだ。
俺が本気で走れば、そこらの半端《はんぱ》な自動車よりも速い。
ロレッタは死なずに済んだ。
メイリンは、消えた。
思えば人間というやつは、不思議なもんだ。
例えば、こいつだ。
煙草《たばこ》。
俺達なら、肺にタールが溜《た》まっちまったら、いったん物質化を解除してエネルギー体に戻ればいい。それだけで、精霊の『肉体』を構築していたもの以外の物質は、全てその場に取り残される。
平たく言えば、その場に落ちるのだ。
再び『肉体』を構築すれば、綺麗《きれい》さっぱりというわけだ。
ところが人間は違う。
大切な呼吸器に、ガス交換を阻害《そがい》する異物が付着し続け、蓄積《ちくせき》する。しかも単に呼吸を阻害するだけでなく、致命的な発癌性物質《はつがんせいぶっしつ》まで含んだ異物がだ。
それでも、愛煙家《あいえんか》と呼ばれる人間は、喫煙をやめようとはしない。
おまけに、人間の健康を護るべき病院にさえ、喫煙室《きつえんしつ》が設置されているという、この矛盾《むじゅん》はどうだ?
俺はメルバイロの煙を見送って、思わず苦笑する。
自嘲《じちょう》である。
依頼人を連れ去られ、友達を半殺しの目に遇《あ》わされたってえのに、俺ときたらヤニまみれの部屋で煙草の煙を眺《なが》めてる以外に出来ることがない。
今この瞬間にも、目の前のものを手当たり次第に破壊したい衝動を、俺は何とか抑《おさ》え込《こ》んだ。
奥歯が、みしり、と音をたてた。
不健康な空気の中に彼女が入ってきたのは、まさにその時だった。
振り返った俺と目が合うと、彼女はそのまま俺の隣《となり》にならんで、俺と同じように空気清浄機に肘《ひじ》を突いた。
メルバイロの箱を差し出すと、躊躇《ちゅうちょ》も見せずにその中の一本を抜き取る。
指先の精霊雷で、火を点《つ》けてやった。
「で?」
俺の質問は、彼女が最初の煙を吐き出してから。
「なんでキミが来るわけ?」
アレクシアは、立ち上る煙をぼんやりと見送って。
「ホテルの部屋に電話したら、ルシャ市警の警官が出たの」
その警官から、俺がここにいることを聞いたのだ。
「なるほどな」
言いながら、俺は壁の時計に目を向ける。
午後五時過ぎ。さっき彼女と別れてから、六時間といったところか。
「それで? ちょっとは休めたか?」
「ええ、おかげで。助言、感謝します」
「そいつは、よかった」
「あなたの方は、お疲れみたいね」
「ああ、まあな」
ロレッタを抱えて、走って来たのだ。
精霊にとって、疲労は確実に『身』を削《けず》る。出来るだけ早いとこ、何か喰うべきだろう。
オレンジ色のルージュの隙間《すきま》から煙を吐き出し、次の質問はアレクシアの番だ。
「お友達は?」
ロレッタのことだ。
「ああ。命に別状はないとさ」
五時間ほどにも及ぶ外科手術の末に、である。それを聞いて、やっと俺は手術室の前を離れる気になったというわけだ。
術後の処置が済めば、ロレッタは集中治療室へ移されることになっている。
やれやれ。
先日から、集中治療室に通い詰めだ。こうなりゃあ俺専用のベッドを一つ、用意しといてもらいたいくらいだ。
「何があったんです?」
見つめるアレクシアの目は、ひょっとして、と言っている。
いい勘《かん》してるぜ、アレクス。
「依頼人が消えた」
「え?」
「消えた。忽然《こつぜん》と、てやつだ」
「セナ・メイリンさん!?」
「ああ」
何が起きたかは、だいたい想像がついた。俺がロレッタを抱いてテラスに飛び出した時、テラスに面した寝室の窓は、最初から開いていたのだ。
そこから、何者かが侵入した。
そして、ロレッタの抵抗に遇った。
どこの誰だかは知らないが、そいつはロレッタを叩きのめし、メイリンを連れ去った。裏町のゴロツキを平気で三人いっぺんに相手にするロレッタを、だ。
「人間技じゃねぇよ」
その呟《つぶや》きを、
「人間じゃない……」
アレクシアは正確に言い直してくれた。
そうだ。
やったのは人間じゃない。
精霊だ。
「でも、どうして?」
「問題は、そこさ」
「ひょっとして、妹さんからメイリンさんのことを……」
「んなこたぁ、問題じゃねえんだ」
言った瞬間、手の中のメルバイロが、弾《はじ》け飛《と》んだ。文字通り粉々になって、飛び散ったのである。
煙草をつまんだ恰好のまま、俺の指の間に金色の電光が走った。
精霊雷だ。
「悪《わり》ぃ」
「いえ」
俺は新しいメルバイロをくわえて、だが火は点けずにアレクシアに向き直る。
「いいか? もし犯人が妹からメイリンのことを聞いたんだとしても、そいつは、どうやってメイリンの居場所を知ったんだ?」
「……あ」
そう。どう考えても、それはあり得ないことなのだ。
「例えばシャルミタの持ち物からメイリンのことを知って、それで彼女も誘拐《ゆうかい》することに決めたんだとしようや。だが、その後は? シャルミタは、メイリンが帝国ホテルにいることを知らないんだぜ。それどころか、俺と関わってることさえ知らねえだろ」
「そう言えば、そうですね」
なのに『敵』は、ホテルに来た。
なぜだ?
「なぜ知ってやがったんだ……」
嫌な予感がする。
ヘマの予感だ。
それも、特大の。
「それで……」
アレクシアが、煙草を消す。
「どうするんです?」
「さあな」
俺も、火を点けないままくわえていた煙草を、ケースに戻した。
「そいつを悩んでるとこでね……」
手掛かりらしきものは、山ほどある。
だが、それが何にどう結びつくのやら、皆目見当もつかない。俺の勘も、からっきしだ。そしてそんな状況下で、依頼主が消えた。
「どうすりゃいいのか、さっぱり判らねえ」
「それじゃあ……」
突然、アレクシアがセカンド・バッグの中を探る。そして何かを抜いて、こちらに差し出した。
「あん?」
「差し上げます。もちろん原本じゃありませんけど、扱いは慎重に願いますね」
四つ折りにした、レポート用紙ほどの紙だ。
広げてみると、手書きのリストだった。
「なんだよ、字ぃヘタだなあ」
「余計なお世話です」
そこには、いくつかの住所と、そしてその住所に存在する建築物の名称が書かれていた。
「途中は、省《はぶ》いてあります」
やっと判った。例のコンクリートだ。
同じ成分のコンクリートが用いられている建築物が、列記されているのである。省いてある、と彼女が言ったのは、つまり調査結果からメーカーを特定し、流通ルートを割り出してその建築物リストに至るまでの途中経過のことだ。
「早いな。もっとかかるかと思ってた」
「私もです」
「つまり、こいつを見せてくれるってことは、やっと俺と組む気になったわけかな?」
にやり、と笑って見せた俺の顔から、その笑みはすぐに消える。
アレクシアが、なんとも言えない重苦しい顔つきで、真っ直ぐに俺を見つめているのだ。
「何だよ、おい。どうした?」
「実は……」
いきなり唇《くちびる》の重さが五〇キロくらいになったんじゃないかと思うくらいに、重苦しく口を開いた。
「イレーネさんは最初の犠牲者《ぎせいしゃ》ではありません」
「なに?」
「一八人じゃなかったんです」
おい。
ちょっとまて。そいつは何の冗談だ?
「イレーネさんの遺体の特徴と一致する変死体が、他にも発見されていたんです」
「何人だ……」
「私もさっき聞いたばかりで、詳しくは知りません。調査も継続中ですが……」
俺の質問に答えるアレクシアの声には、まるで質量があるみたいだ。
「二〇人以上」
「……なんだと?」
気がついたら、俺は受け取ったばかりのリストを握《にぎ》り潰《つぶ》していた。
「言い訳はしません。でも、これが警察という組織の限界です」
つまり、イレーネ以外に発見された遺体は、それぞれの所轄《しょかつ》の警察署で、単なる変死体として処理されていたということだ。
中には捜索《そうさく》願いの出されていた例もあるだろうし、しょっちゅう行方《ゆくえ》をくらます放蕩娘《ほうとうむすめ》も混じっていたのかも知れない。だがいずれにせよ、それらの遺体《いたい》が失踪《しっそう》した一八人の神曲楽士と関連付けられることは、これまでになかったということだ。
関連付けたのは、一人の女性警官だった。
サムラ・アレクシアだ。
「身元不明のものも含めて、遺体の損傷状態を基準に、ここ二ヶ月の記録を精査させてみてたんです。そうしたら……」
同じ犯人によるものと思われる被害者が、続々と浮上してきたのである。
「私は……警官であることを誇りに思っています。それは今でも変わりません。でも、警察という組織に限界があることだけは、思い知りました」
「だから?」
俺のその質問に、けれどアレクシアは答えなかった。
その代わり、ビニール袋に入った細長い物体を空気清浄機の上に置いた。
「来る途中で買って来ました」
地図だった。
ビニールのラッピングを切り、今やテーブル代わりとなった空気清浄機の上に広げる。
吸気ダクトに、ぺたり、と地図が貼り付いた。
呆気《あっけ》にとられて見ているうちに、アレクシアはサインペンのキャップを噛んで外すと、俺の受け取ったリストを引ったくる。
くしゃくしゃになったリストを丁寧に広げて、それを見ながらペンで地図に印を描き込み始めた。
「リストで見てるより判《わか》り易《やす》いですから……」
そう言うアレクシアは、まだ俺の質問には答えていない。
だが、答えを聞く必要は、もうなかった。
「そうだな」
俺は彼女の隣に並んで、地図を覗《のぞ》き込《こ》む。小さな『|×《バツ》』印が、地図の上に散らばってゆく。
三七個めを描き終えたところで、アレクシアはキャップをペンに戻した。
「……以上です」
将都《しょうと》トルバス全域の地図である。南はアロニア海から、北はソルテム山の山頂あたりまで、ばっちり収まっている。
その中に、点々と黒い『×』が描かれているのだ。
「散らばってやがるな」
密度の高い区域もあれば、まばらな区域もある。だが三七個の『×』印は、トルバス全域に拡散していた。
「ええ。でも、指輪のコンクリート粉は、この三七ヶ所のうちの、どこかから削り取られたものであると考えて、まず間違いありません」
「片《かた》っ端《ぱし》から当たるか?」
「その手続きは、すでに始めています」
だが俺は、彼女の声の固さから、その言葉の裏を読み取った。
「時間がかかる、か」
アレクシアは、頷いた。
他の所轄警察の協力が必要なのだ。そしてそれには、相応の数の書類と、そして相応な時間が消費される。
「これも、もらっていいか?」
「どうぞ」
俺は地図を元通りたたんで、スーツの内ポケットに仕舞《しま》う。
「ロレッタの様子、見てくるよ」
「ごいっしょしても、いいですか?」
「いいとも」
それから少し考えて、付け加えた。
「行こうぜ、相棒」
助けを求める瞳《ひとみ》を見なかったことに出来ないのが、俺の性分だ。
俺達が集中治療室に着いた時、すでにロレッタは移されてきていた。
ひどいありさまだった。
まだホテルの部屋に転がっていた時の方が、マシだったようにさえ思える。
顔の左半分はガーゼで覆《おお》われ、唇は何ヶ所も切れて赤黒く固まった血が貼り付いている。
シーツの下は裸のようだが、胸元は分厚いギプスで固定されているため、ご自慢の可愛らしい乳房《ちぶさ》は両方とも見えない。右腕は肘から先がギプスに包まれている。
左腕は、右腕と同じような状態で、しかも天井から細いワイヤーで吊り下げられていた。
低い鼻には、透明なチューブが突っ込まれている。
眠っていた。
まだ麻酔が効いているようだ。
それが切れる前に、退散したかった。彼女が苦しむところは、見たくない。
「ロレッタはな……」
それが、俺の口から無意識に出た言葉だった。
「依頼人の娘だった」
一六年前。
俺の薄汚《うすぎたな》い事務所のドアをノックした、それは若い女性だった。
いや、若い母親、と言った方がいいだろう。
シングル・マザー、というやつだ。
彼女は幼い娘を連れて、俺のもとに助けを求めて来たのである。
だが、
「助けてやれなかった……」
母親を。
つまり、母娘を。
「母親は殺され、ロレッタだけが残った。そういうことさ」
アレクシアは、何も言わない。ただ黙って、俺の横顔を見つめている。
「ロレッタには、俺が喋ったなんてナイショだぜ」
眠り続けるロレッタを残して、集中治療室を出る。
ずしり、と背中に何かがのしかかってくるような気分だ。廊下の隅《すみ》のソファに、俺は身を投げるようにして座り込んでしまった。
その隣に、アレクシアが座る。
彼女は何も言わなかった。
俺は上着の内ポケットを探って、けれどすぐにここが病院であることを思い出して、やめた。喫煙室まで歩くだけの元気は、どうしても絞《しぼ》り出《だ》せそうになかった。
「どこのどいつだ……」
ロレッタを、あんなにしやがったのは。
「精霊……ですよね」
アレクシアの、それは確認である。
「ああ。犯人は精霊だ。そいつは間違いねえ」
その精霊が、神曲楽士を次々と誘拐し、拘束《こうそく》して無理やり神曲を奏《かな》でさせている。そして、力尽きた者からゴミのように捨てていやがるのだ。
三〇人以上も、だ!
だが、何のために?
そんなことをして、いったい何になる?
ぞくり、と背中に冷たいものが這《は》い上《あ》がった。
まただ。
何なんだ、この感じ?
まるで、俺自身の腹の底から、何か得体の知れないどす黒いものが、心をこじ開けて這い上がって来るような……。
「レオンさん?」
振り向くと、アレクシアが俺を見つめていた。
心配そうな、けれど柔らかな瞳で。
「大丈夫ですか?」
その手が、俺の手に重なる。その瞬間まで、俺は自分の膝《ひざ》の上で拳《こぶし》を握《にぎ》りしめていたことに気づいていなかった。
「ああ」
そう応えるのが精一杯だ。
「一つだけ、お節介《せっかい》なこと言わせてください」
「言ってみな」
彼女は、ソファの上で腰をずらして、真っ直ぐに俺の方を向いた。
意外なくらいに温かな、その手を重ねたまま。
「あなたのせいじゃないわ」
かすかに、けれどしっかりと微笑《ほほえ》んで。
俺はと言えば、そんな彼女の笑みに、少しばかり驚いた。
まいったな、こんちくしょう。
そうか。キミは、そんなに優しく微笑む女性《ひと》だったのか。
「出し惜しみすんなよ」
「はい?」
「なんでもねえ」
立ち上がった。
立つことが出来た。
なるほど。俺という奴は、つくづく単純に出来てやがるらしい。
ぽかんと見つめるアレクシアに、俺は肩をすくめて見せた。
「飯《めし》でも喰わねえか?」
「はい」
二人で並んで、向かうのは正面玄関である。今日は、バイクがないからだ。
「さっきの、二〇人以上、のやつな」
はい、と応えるアレクシアの声は硬い。
「資料か何か、見られるか?」
「私が戻るまでには、まとめておくように言ってありますけど……」
それから、少し考えて。
「後でいっしょに来てください。さすがに署内で見せるわけにはいきませんけど、持ち出しますから」
少し前までの彼女からは考えられないような提案だ。
誘拐どころか殺人までが連続的に発生していたという事実は、それほど彼女にとって衝撃だったのだ。あるいはそれ以上に、その事実を把握し得なかった警察組織への落胆の方が大きいのかも知れないが。
いずれにせよ、もはや手段を選んでいる余裕はない。
こうしている間にも、捕えられた女の子達は、爪を割り、骨を砕《くだ》き、身を削って衰弱《すいじゃく》しながら、無理やりに神曲を奏でさせられている。
そして、それをやらせているのは……女の子を使い捨てにして二〇人以上も殺しやがったのは、まず間違いなく、ロレッタをあんなにしたのと同じ奴だ。
「糞《くそ》っタレ」
並んで歩くアレクシアは、ちらり、と俺の方を盗み見て、けれど聞こえないフリをしてくれた。
声をかけられたのは、
「レオンさん!?」
正面玄関の大きなガラス戸を抜けようとした、その時だった。
「レオンさん! 刑事さんも!」
声とともに近づいて来るのは、しかし足音ではない。からからと車輪の回る音だ。
ナバリ・トリクシーだった。
「ああ、逢《あ》えてよかった」
車椅子である。母親に押されて、他の外来患者の間を縫《ぬ》うように近づいて来る。
その後を小走りで追うのは、父親だ。お尻のポケットにサイフを仕舞いながら、おおかた治療費を払い終えたところなのだろう。
俺とアレクシアの目の前で止まると、車椅子の上でトリクシーは頭を下げた。
昨夜の様子からは想像もつかないほど、晴々《はればれ》とした笑顔である。髪もちゃんと、頭の両側でまとめてある。
「退院か? よかったじゃないか」
「はい。ちゃんとお礼を言いたかったのに、両親がすぐに退院しろって、きかなくて」
娘の言葉に、中年夫婦が照れ臭そうに笑う。
「礼なら、もう言ってもらったぜ」
それに、と後を続けるのは、アレクシアだ。
「捜査にも協力してもらいましたよ。また後日、お話をお聞きすることになるかも知れませんけど」
「えっ? まだ何か……」
言いかける母親を、
「はい!」
トリクシーは、快活な返事で容赦《ようしゃ》なく抑え込んだ。
「いつでも、何でも、おっしゃってください」
言いながら、しかし彼女の目は……おいおい、俺に釘付《くぎづ》けなわけ?
こうなると、ちょいとサービスしなきゃいられないのが、俺の性分だ。スーツのポケットから名刺を取り出すと、トリクシーに手渡した。
「何かあったら、いつでも電話してくれ。深夜でも早朝でも、いつでもだ」
はい、と頷《うなず》くトリクシーは、まるでラブレターを受け取る少女みたいに、頬《ほお》を赤らめている。血の気の失せたロレッタの顔が頭をよぎって、あわてて胸の痛みを抑え込む。
「あの……これからまだ、捜査《そうさ》なんですか?」
「まあな。その前に、ちょいと飯でも喰おうかと思ってるが……」
そこまで言った時だ。
「ごいっしょしませんか!?」
トリクシーの勢いは、まるで今にも立ち上がらんばかりだ。思わずアレクシアの方を見ると、彼女は苦笑しただけで助けようともしてくれない。
「ああ、いや、俺もそうしたいとこなんだがね……」
「そうですよ! まだ治りきってないんだから」
母親が、堪《たま》りかねたように、後ろから娘の顔を覗き込む。
あるいは、この過保護なまでの心配ぶりは、トリクシーが自分で言っていたように、彼女が肉体的にあまり丈夫でないせいだろうか。
おそらく、小さなころから病気ばかりしていたに違いない。
だが、それが今回、逆に幸運を呼んだのだ。
彼女は、誘拐された他の楽士達よりも、早く体力が尽きた。しかしそのおかげで、本当の限界まで肉体を酷使することなく、実際にはまだ余力のあるうちに捨てられたのだろう。
そして、生き延びた。
しかしそんなことは、母親にとっては関係ないらしい。
「早く帰って、寝なきゃ駄目ですからね」
「だって、お腹すいちゃったもん」
「調子にのって食べたら、また吐いちゃうわよ」
「やだ、そんなこと言わないでよ」
なに?
「すみません。いつまでも子供扱いなんです」
いや、トリクシー。
まて。
今、キミのママさん、なんて言った?
「吐いた……?」
「やだ、もう。レオンさんまで」
「いや、まて。違う。そうじゃない」
何だ、この感覚。
何がこんなに、引っ掛かりやがるんだ?
そうか。
判った。
こいつは、勘《かん》だ!
俺は床に片膝を突いて、真正面からトリクシーを見つめた。
「吐いた、て言ったな」
「そうなんですよ」
母親だ。
「治ったつもりになって、調子に乗っちゃったもんですから」
「黙《だま》って!」
俺が話してる相手は、トリクシーだ。
それに、
「そのことじゃない」
「はい」
「トリクシー。お前さん、目が覚めた時に吐いた、って言ったよな」
「え、あ、はい。言いました」
何者かに誘拐され、暗闇の中で目覚めた、その時だ。
「仕事帰りに、拉致《らち》られたんだったよな」
「はい」
「飯は喰ったか?」
「え?」
「事件の当日だ。晩飯は、いつ喰った?」
「あの、事務所に戻る前に……」
派遣先の会社で夕食をご馳走《ちそう》になった、とトリクシーは言った。遅くまで頑張ってくれたお礼に、ということだったそうだ。
「何、喰った」
「あの……ハンバーグ」
「ハンバーグだけか?」
「いえ、サラダとライスと、スープが付いてて……」
「それから事務所に戻ったんだな?」
「はい」
「飯喰ってから事務所まで、どのくらいかかった?」
「電車の乗り継ぎがタイミング悪くて……たぶん一時間、くらい」
「それから事務所を出るまでには?」
「三〇分か、そこら、です」
合計で、約一時間半。
そして事務所の裏の駐車場で、トリクシーは何者かに誘拐された。
「トリクシー」
「はい」
「よく思い出せ。どんなものを吐いた?」
「えっ!?」
声をあげたのは、トリクシーだけではなかった。俺の後ろのアレクシアも、トリクシーの後ろで車椅子のハンドルを握《にぎ》る母親もだ。
「それが何か、関係あるんですか?」
「ある!」
俺には確信があった。
「だから思い出せ。吐いたものは、まだハンバーグの匂いがしたか? 原型のまま出てきたものはなかったか? 例えば、齧《かじ》った形のままニンジンが出てきたりしなかったか!?」
トリクシーの顔が、みるみる赤らんでゆく。
そりゃそうだ。年頃の娘に、どんなゲロを吐いたか言わせようとしてるんだから。
端《はた》から見りゃあ、俺は立派な変態精霊ってとこだ。
だが、重要なことなのだ。
「しました」
「なに?」
「匂い……しました」
「形は!?」
「暗くてよく判らなかったし、あんまり見てませんけど……」
そこまで言って、トリクシーは言葉を詰まらせる。
記憶が蘇《よみがえ》ってきて、恥ずかしさよりも、気持ち悪くなってしまったのだ。
「トリクシー」
車椅子の肘掛けに、ギプスだらけの手がある。
その手に、俺は自分の手を重ねた。
「頼む。思い出してくれ。大切なことなんだ」
トリクシーは頷《うなず》くと、生唾《なまつば》を呑《の》み込《こ》んで、やっとの思いで言った。
「喉《のど》を通る時に、ごろごろした感じがしました」
「よし!」
俺は思わず前へ出て、
「えらいぞ!!」
彼女の唇にキスをした。断っておくが、一瞬だ。
それでも、
「レオン!」
アレクシアと、
「まあっ!!」
母親と、
「おいっ!!」
今まで黙っていた父親までが、声をあげる。
だが、そんなことはどうでもよかった。訴《うった》えてくれてもかまわない。
俺としては、それどころじゃなかったのだ。
「ありがとうよ、トリクシー! お前さんのおかげで、みんな助かるかも知れねえ!!」
俺は病院を飛び出した。
「ちょ、ちょっと待って!!」
後を追って、アレクシアが駆《か》けて来る。
振り返った時、女刑事の肩ごしに、車椅子の上で幸せそうな笑みを浮かべるトリクシーが見えた。
目が完全に、イッちまってた。
人間が食物を消化するのに要する時間は、だいたい決まっている。
その過程の中でも、特に食べたものが胃の中にある時間は、通常二時間から五時間と言われている。
つまり、早い場合で二時間後、遅い場合でも五時間後には、胃の中のものは完全に分解されて腸へと送られているということだ。
「いいか? よく聞けよ」
俺は、アレクシアの可愛い軽自動車の、そのボンネットの上に地図を開いて見せた。
「トリクシーは、喰ってから一時間半あたりで拉致られた。そして目が覚めた時点で、吐いたんだ」
そしてその時、吐瀉物《としゃぶつ》はまだ食べたものの匂いをさせていたし、あるていどまで原型も留めていたのである。
「つまりな、拉致られてから目が覚めるまで、大した時間は経《た》っちゃいなかったってことだ!」
「移動距離が絞《しぼ》られる……」
呟くアレクシアの鼻っ面に、俺は人差し指を突き付けた。
「そのとおり!」
そしてその指を、地図へ戻す。
「あの娘《こ》が拉致られた現場が、ここだ」
ロナージ南部の、人材派遣事務所である。
「喰ってから二時間以上、経ってたとは思えない。てことは、あの娘が連れ込まれた場所は、ここから三〇分圏内てぇことだ」
俺は親指を、地図の上の『出発点』に置き、大雑把に開いた中指で、コンパスみたいに弧を描いて見せた。
「こんな感じか?」
地図上の『×』印の数は、全部で三七。だが俺が描いた弧の中に収まる『×』印の数は、驚くほどに少なかった。
ざっと数えて、五つかそこらだ。
「それって、車の速度を基準にしてませんか? 精霊だったら、もっと遠くまで移動出来ると思うんですけど」
アレクシアの言うことは、半分、正解だ。物質化した状態の精霊なら、中にはトルバスの端から端まで三秒で横断する奴だっているだろう。
だが、
「それは、ない」
「なぜ?」
「拉致られた女の子が死ぬって」
「あ、そうか」
精霊が人間とともに移動する場合、そこには大きな制約がつきまとう。人間は、精霊の移動能力に追随《ついずい》可能なほどには、頑丈ではないのだ。
風圧による呼吸困難、慣性による生体への過負荷、あらゆる条件が人体を痛めつける。
「精霊雷《せいれいらい》で包む、て方法もあるが、それだと目立ち過ぎるしな」
発光するからだ。
「たぶん直線移動だろうから、車よりは速いだろうがね」
「だとしたら……ええ、そんなものだと思い……」
そこまで言ったアレクシアが、
「……あれ?」
突然、地図に顔を寄せた。
「これって……」
自分で『×』印を付けた、そのうちの一ヶ所を睨《にら》みつけている。
「あっ!!」
声をあげて、突然、セカンド・バッグの中を探り始めた。
出てきたのは、メモ帳だ。
「判《わか》った!!」
「あん!?」
そして、ページを開いて、俺の顔の前に突き付ける。
「判った! 判りました、これ!!」
言いながら、もう一方の手が指差すのは、地図である。
「ここです!」
なに?
「なんで、これが……」
「違うんです! 文字でも図形でもないんです!!」
「あ!!」
「ね!?」
「そうか、そういうことか!!」
俺とアレクシアは互いに見つめ合い、
頷いて、
そして彼女の車に飛び乗った。
真実が見える瞬間というのは、いつも突然だ。
一瞬前まで無関係に並べられていただけの情報が、次の瞬間、全てが固く結びついて一つの大きな構図を描き出すのである。
必要なピースは、たったの三つだった。
指輪に詰まったコンクリート粉。
意味不明の図形。
そして移動範囲。
その三つのピースが全て当てはまるのが、
「ここよ」
アレクシアは、軽自動車を駐車場へと滑り込ませる。
すでに陽《ひ》は落ちて、周囲は真っ暗だ。
広々とした屋外駐車場には、しかし外灯が一つも灯《とも》されていないのである。
ユドノマキ市の西の端、キルズ川に面した、そこは遊園地の駐車場だ。
いや……元遊園地、と言うべきだろう。
そこは三年前、経営不振から閉鎖されて、そのまま放置されているのだ。
『トルバス夢王国』という、今となってはそれも皮肉な名称だ。今、その廃墟はまさに、夢の後そのものだ。
駐車場は、白線の引かれたアスファルト張りの、ただの空き地になってしまっている。車を停めるためにその片隅へと近づくと、駐車場を囲む植え込みの根元には、大量のゴミが吹き溜まっていた。
無論、植え込みの方も長らく剪定もされず、伸び放題である。
「ほら、あれ」
エンジンを切ったアレクシアは、ハンドルに覆いかぶさるようにして、下から覗き込む姿勢でフロント・グラスの向こうを指す。
上だ。
灯の点いていない外灯が、夜空を背景に黒々とした影になって伸びている。
その、先。
煤煙《ばいえん》にまみれた支柱と、もう透明でなくなってしまったランプとの、連結部分。
そこに、金属製のエンブレムがあった。
空中に絵を描いたような、あるいは針金細工のような、太い金属製の線だけで表現されている、それは『トルバス夢王国』のマークだ。
極端に図案化された音符を、『トルバス夢王国』の頭文字と重ねて、変形させてある。
テレビのコマーシャルでも、最後に画面に大写しになるのは、このマークだった。
「ああ、あれだな」
俺は、助手席の窓から外を見た。
月明かりに照らされて、ヒビ割れたアスファルトの上に、外灯の影が落ちている。
斜めからの月光で、影も斜めに傾いていた。
マークも、である。
円形のマークが、楕円形に見える。
「トリクシーは、あれを見たんだ……」
外灯の、そこに取り付けられたマークの、変形した影だ。朦朧《もうろう》とした意識の中で、黒いアスファルトに落ちた黒い影を見て、それだけが記憶に残ったのである。
本人にもその正体が判らなかった理由が、これだ。
「間違いないですね」
アレクシアがそう言った時、俺の見ていた影が、消えた。
横ざまに、光が照らしたのだ。
「あん?」
自動車の、前照灯《ぜんしょうとう》だ。こちらに近づいて来る。
「何だよ。カップルか?」
考えてみれば、ここは将都のはずれである。遊園地を越えてキルズ川の向こうは、もうトルバスの外……未開発の荒れ地だ。
そんなところに、こんな広大な空き地がある。そりゃあ、カップルが車で乗り付けていちゃいちゃするには、もってこいだ。
だが、
「違います」
アレクシアは、スーツの下へ手を滑らせている。
「奥から来ました」
駐車場の、だ。
なるほど。それに前照灯の光でよくは見えないが、車体は下品なくらいに大柄だ。しかも、真っ直ぐこちらに向かって近づいて来る。
「あん……?」
俺は、ぎらつく光の向こうの車体に、目をこらした。
見覚えがあるのだ。
次の瞬間、
「……なんだと」
全身の体毛が、一斉に逆立《さかだ》った。
瞬間的に、全身の血が沸騰《ふっとう》する。
なんてこった!
「レオン……?」
「ああ」
応えて、俺はアレクシアの腰のあたりを手で押さえた。案《あん》の定《じょう》、彼女はスーツの下で、銃のホルスターに手を添えていた。
「俺に任《まか》せろ」
そうだ。
これは、他の誰にも任せるわけにはいかない。
俺は、自分のヘマに気づいたのだ。
メイリンを奪われたばかりか、ロレッタに重傷まで負わせた、その理由に!
近づいて来た車は俺の方……助手席側に停止した。それでも照明を消すどころか、ハイビームに切り換えやがる。
「おい!」
降りて来たのは、二人の男だ。
「ここは立ち入り禁止なんだよ。とっとと出てけ、おら!!」
言いながら、車内を覗き込む。逆光になって顔は見えないが、しかしそのヘアスタイルには、思ったとおり、見覚えがあった。
「よう。また逢ったな」
「あ! おま!!」
そいつが俺に気づいた時には、もう遅かった。
俺の左腕は、サイド・ウィンドウの強化ガラスを突き抜けて、男の喉を鷲掴《わしづか》みにしていたのだ。
だが、ガラスにはヒビ一つ入ってはいない。俺の腕だけが、ガラスを突き抜けている。
「なるほどなあ、そういう仕組みだったのか」
俺は立ち上がった。
男の喉を掴んだまま、俺の躯《からだ》は軽自動車の車体をすり抜けて、外へ出た。
物質透過《ぶっしっとうか》……壁抜けだ。
「お、お前……!」
呻《うめ》くのは、もう一人の男である。
「お前って言うな。レオンさんと言え。ちゃんと、さん付けでな」
「レ、レオン、さん」
「よろしい」
俺に喉を掴まれている方は、うぐうぐともがくばかりだ。ハリネズミみたいに髪を突き立てた頭を、苦しげに振りたくっている。
じゃらじゃら鋲《びょう》だらけの革ジャンも、下品この上ない。
「いくらもらった? あん?」
俺は、男の顔に顔を近づける。
無論、目一杯に犬歯を剥《む》き出《だ》して。
「お前らの小遣《こづか》い稼《かせ》ぎのおかげでな、俺のだいじな友達が半殺しの目に遇ったぜ」
ロレッタ。
依頼人を護《まも》ろうとして必死で闘った、勇敢《ゆうかん》なロレッタ。
「とりあえず、ロレッタの分だけは返しとくわ」
ちゃんと前もって言ってやるのは、俺のせめてもの親切だ。何しろ相手は、ゴロツキとは言えただの人間だからな。
喉を解放してから、
「受け取れ」
男の手首を、左右同時に、打った。
めりっ、という湿《しめ》った音がして、男は呆然と俺の顔を見つめる。
そして、
「ぎゃあ!!」
悲鳴をあげた。
手首が両方とも、あらぬ方向に捩《ね》じれていた。
「レオンさん!」
遅れて飛び出して来たアレクシアだ。
「邪魔《じゃま》すんな!」
俺は、地面に転がってのたうち回る男を見ながら、怒鳴《どな》り返した。
「俺を逮捕《たいほ》するか? 傷害罪で? けっこう、それがあんたの仕事だからな。後で手錠《てじょう》かけられてやるさ。だが今は邪魔《じゃま》するな! 邪魔すれば……」
俺は、女刑事を振り返る。
俺の瞳の底にあるものを、彼女は正確に理解しただろうか。
「……たとえあんたでも、潰《つぶ》す」
アレクシアの顔に、明らかな恐怖が浮かんだ。
その隙《すき》に、足元の男がかろうじて立ち上がる。
両手をぶらぶら揺らしながら、逃げようとして俺に背中を向けた。
その背中に、
「まだだ、こら!」
俺は蹴《け》りを叩《たた》き込《こ》む。
「あぎぃ!!」
右の肩甲骨《けんこうこつ》が砕け、男は真っ向から倒れて、アスファルトに顔面を強打した。
「ひっ!!」
タンクトップの男が、喉の奥で悲鳴をあげて後退《あとずさ》る。そいつの腕のイレズミにも、俺は見覚えがあった。ドクロがハートに噛《か》みついている。
「よう。お前もいたんだっけな」
逃がすかよ。
一瞬で間合いを詰めて、俺が鷲掴みにするのは、今度は男の睾丸《こうがん》だ。
銃声が轟《とどろ》いた。
アレクシアが、手にした銃を夜空に向けていた。
回転式の、小型拳銃だ。
「その手を離しなさい、レオン!」
「俺の言ったことが聞こえなかったのか?」
「聞こえたわ!」
38口径の銃口が、するりと降りて来る。
夜空の次に照準されたのは、俺だ。
「でも暴行の現行犯を見逃すわけにはいかないの! 彼を解放しなさい!!」
「やなこった」
「レオンガーラ!!」
ふいに、俺は気づいた。
だが、なぜだ?
なぜ彼女は、こんなに哀《かな》しそうなんだ?
「あなた、同じことをしてるのよ。犯人の精霊がロレッタさんにやったのと同じことを、今、あなたはしてるのよ!」
「あたりめぇだ。だから、お返しってんだよ」
「同じところまで堕《お》ちて、どうするの!?」
ああ。
なるほど。
それがキミの言いたいことか。
だからそんなに哀しげなのか。
「アレクシア……」
俺は、溜《た》め息《いき》をついた。
「堕ちてなんざ、いねえさ」
銃を構えた女刑事に向かって、右手を伸ばす。
「俺の立ってる場所は、最初から、ここなんだよ」
そして、空中で指を弾《はじ》いた。
「……あっ!」
アレクシアは、それが精霊雷だと理解しただろうか。俺の指先から放たれた金色の光球はマッチ棒の先ほどの大きさで、それは彼女の目の前で閃光《せんこう》を発した。
どん、という音は、精霊雷に跳《は》ね飛《と》ばされたアレクシアが、自分の車に背中をぶつける音だ。
そのまま、彼女はピンクの車体に背中をこするようにして、崩《くず》れ落《お》ちた。
「悪ぃな」
今さら正義の味方になんざ、なれやしないんでね。
男を振り返ると、奴は声を裏返して、ひいひい悲鳴をあげる。
「ゆ、許して、許して」
俺と目が合った途端《とたん》、男は泣き出した。
奴のキンタマを握りしめる俺の手に、じんわりと暖かい感触が伝わってくる。
チビリやがった。相手の穿《は》いているのが革パンツでなかったら、俺の手まで小便まみれになるところだ。
「名前は?」
「ひい!?」
「ひー、じゃねえよ。名前だ、名前」
「く、く、クド! クド・ダズレイ!!」
裏返った大声に、俺は思わず顔をしかめた。
「うるせえよ、静かに喋れ。んで? 何をすればいいか、判ってるな?」
俺は顔を近づける。
こんなことなら、ニンニク山盛りのラーメンでも喰ってきてやればよかった。
「ちゃんと役目が果たせたら、片方だけで勘弁してやる。いいな?」
無論、俺が握り込んでいる二つのタマのことだ。
ダズレイがかくかくと頷くのを確認してから、俺は言った。
「よし」
行け、と言いかけて、俺はアレクシアを振り返る。
少し考えてから、
「やれやれ」
俺は歩いて行って、彼女を抱き上げた。
仕方ないだろう。あんな哀しげな顔で、あんなことを言われちまったら、放っておけるわけがないじゃないか。
車の運転席に放り込んでやった。
俺が戻るまで、ダズレイは逃げもせずに、つっ立っていた。
「よぅし、逃げなかったな、おりこうだ。さ、行こうぜ」
背中を突ついてやると、よたよたと歩き始める。一歩ごとにブーツが、ぐじゅぐじゅと音をたてた。
地面で顔を強打したつんつん頭の方は、ひくひくと痙攣《けいれん》しながら、アスファルトの上にゆっくりと血溜まりを広げていた。
メイリンが最初から狙《ねら》われていたのか、それとも逆恨《さかうら》みで付け狙っていやがったのか、それは判らないし、興味もない。
彼女がシャルミタの姉であるという事実も、単なる偶然なのだろう。
だが問題は、俺がヘマをやった、ということだ。
あの時……コレアル神曲学院の前で、メイリンを車に残して電話ボックスからロレッタに連絡した時、俺は通りの向こうに見ていたのだ。
見覚えのある車を。
あの、下品なデカい車を。
だが、気づかなかった。
こいつらが俺達を……いや、メイリンを尾行していたことに、これっぽっちも気づきやしなかったのだ。
ヘマだ。
特大のヘマだ。
「条件は、若い女ってことだった」
ブーツをぐじゅぐじゅ鳴らしながら、先を歩くダズレイの声は、腹の底から震えている。
「そんで、契約精霊がいないこと。実際の技量は関係ない。とにかく、そういうのを俺達は探して歩いた」
条件は、俺やアレクシアの見たとおりだったわけだ。
「探して、見つけたら、報告するんだ」
駐車場を囲む植え込みをかき分け、フェンスの破れ目をくぐる。
出た先は、『トルバス夢王国』の中だ。
メリー・ゴー・ラウンドの裏だった。目の前に、ホコリとクモの巣に覆われた合成樹脂製《ごうせいじゅしせい》の馬が、うつろな目で小さな馬車を牽《ひ》いている。
「俺達は金を受け取って、その後どうなるかは知らない」
「嘘《うそ》つきやがれ」
俺は後ろから、奴の腕を殴《なぐ》った。ハートに噛みついたドクロが、筋肉ごとひしゃげた。
「ひいい! ごめんなさい、ごめんなさい!」
「こんなとこウロついてるくらいだ、他にも世話してたんだろうがよ」
「そうです、そうです。殴らないで!」
大袈裟《おおげさ》な……と思ったが、そうでもなかった。イレズミのあたりが、みるみる赤黒く腫《は》れ上《あ》がってゆく。
どうやら自分で思っている以上に、抑制《よくせい》が利かなくなっているらしい。
「言います、本当のこと言います。だから、殺さないで」
俺は相手に聞こえないように、溜め息をついた。
「最初は……」
腫れ上がったイレズミをさすりながら、ダズレイは言った。
「俺らの友達が死んだことだった……」
ツドイ・ハイデッシュという女である。
人格的には、かなり問題のある女だった。享楽主義者で、金遣いが荒く、しかもその金は当然、自分で稼いだものではなかった。
要するに性別こそ違えど、同じゴロツキだったということだ。
だが音楽の才能だけは、ずば抜けていた。
ハイデッシュは無認可の、しかし神曲楽士だったのだ。
彼女の魂《たましい》は歪《ゆが》んでいたが、補《おぎな》って精霊を惹《ひ》きつけるほどの技量を持っていた。それがつまり、このイカレた悲劇の始まりだったのである。
ハイデッシュには、契約を結んだ精霊がいた。しかし彼もまた、ハイデッシュの神曲を……彼女の『魂の形』の影響を受け、歪んでいったのだ。
「でも、ハイデッシュは死んだ……」
薬物中毒だった。
「当ててやろうか。二ヶ月と半ほど前だな?」
「あ……ああ、そうです」
巨大な観覧車の脇《わき》を抜け、シャッターの降りた売店の前を横切ってゆく。
来園客のものだったのだろうか、子供用の小さな帽子が、風雨にさらされて布の塊になり、緑色に塗装された地面に貼り付いている。
「葬式《そうしき》の直後くらいから、ハイデッシュの精霊は姿を見せなくなったんですけどね……」
それが、半月ばかり過ぎるころ、再び舞い戻ってきた。
そして、奇妙なことを言い出したのである。
神曲楽士を探せ、と。
一人でもたくさん、若い、女性の神曲楽士を探せ、と。
「暴走か」
「そうです」
契約楽士の神曲に合わせて自らを『調律』した精霊は、他の楽士の神曲を事実上、受け付けなくなる。その状況下で契約楽士が急死すれば、待っているのは深刻な飢餓《きが》状態だ。
そしてやがて、暴走に至る。
その果てにあるものは、死だ。
これを回避するためには、相応の力量を持った楽士の神曲で支援を受けつつ、少しずつ自力で『調律』をずらし、言わばニュートラルな状態へ戻してゆくしかない。神曲公社に申請すれば、適切と思われる神曲楽士への仲介《ちゅうかい》も受けられる。
人間の闘病《とうびょう》にも似たその対処を、しかしハイデッシュを失った精霊は、実行しようとしなかった。
その代わり、彼らに命じたのである。
神曲楽士を探せ、と。
「ここにか」
「……はい」
夜空を背景に黒々と横たわるジェットコースターの軌道《きどう》は、苦しみのたうつ竜の亡骸《なきがら》だ。
スリラー・ハウスの異容は、怨念《おんねん》を詰め込んだ幽霊屋敷《ゆうれいやしき》だ。
無人の……しかも夜の遊園地は、まるで賑《にぎ》やかな墓場のようだった。
「世話してたのも、俺らです。喰うものとか。入れ換えとか……」
「入れ換え?」
「『新人』を連れてきた時とか、『楽団』を補充する時とか……」
つまり、誘拐して来た者を雑居房……つまりトリクシーが『闇《やみ》』と表現した部屋に入れる時と、そこから単身楽団《ワンマンオーケストラ》を強制演奏させる場所へ移動させる時、だ。
「ガスか」
俺の質問の意味を、ダズレイは正確に理解した。
「そうです。あと、食事に入れる時も……」
睡眠薬だ。
それで全員が、ほぼ同時に眠ってしまう。その間に『入れ換え』を行うのだ。
理由は、考えなくても判った。
要するに、それだけのことをやっておきながら、なお自分の身が可愛かったのだ。
「最低だな、てめぇら」
クド・ダズレイは、応えない。
「金かよ」
「それも、ありますけど」
「じゃあ、何だ」
ダズレイは立ち止まり、そして、振り返った。
ブーツが、ぐじゅ、と音をたてた。
「俺だって、命は惜しいです」
彼の顔には、表情がなかった。
「演奏出来なくなった神曲楽士を、奴は捨てに行くんです。そんで……そんで……」
表情の削り落とされたダズレイの顔に、一瞬、よぎるものがあった。
恐怖だ。
絶大な恐怖だ。
「そんで、戻ってきたら、あいつ、笑ってるんです! 拉致って来る時も嬉しそうだけど、捨てて来た後はもっと嬉しそうなんです! 羽根をやたら光らせて、嬉しそうに、にたにた笑って帰って来やがるんです!!」
知らないのか。
こいつ……いや、こいつら、さらわれて来た者が最後にどうなるのか、知らずにやってやがったのか!?
「何人だ……」
自分の声が、地鳴りのように聞こえた。
「捨てられたのは、何人だ」
「判りません」
その即答が、俺には許せなかった。
「もう、ずっと前からやらされてるんです。人数なんて、いちいち憶《おぼ》えてられま……」
気がついた時には、俺は目の前の男の顔面を鷲掴みにしていた。
「い! いで! いでででで!!」
ダズレイが俺の腕を掴む。全力で引き剥がそうとしているのだろう。
だが、そんなことで俺の手は、びくとも動きはしない。
五本の指の全てに、めりめりと骨の軋む感触が伝わってきた。
「し、死ぬ! 死ぬ!!」
「まだだ」
俺は言った。
「まだ殺しゃしねえ」
殺したくて堪らないが。
「お前らのせいで何人死んだか、はっきりしてからだ」
俺は、ダズレイを解放した。
地面に座り込んだダズレイは、ほとんど失神寸前だった。
「何人だか判ったら、その人数分だけ、ぶん殴ってやる」
つまり、
死ぬまで。
「立て」
腕を掴んで、引きずり上げる。
「行け」
恨めしげな視線を投げてから、ダズレイはまた歩き始めた。
ハイデッシュの契約精霊が何をしようとしたのか……そして現に何をしているのかは、だいたい想像がつく。
暴走を抑制しようとしたのだ。
だが、それならなぜ神曲公社に助けを求めない?
これまでにも、契約楽士の急死で暴走の危機に直面した精霊は、何人も見てきた。たいていは公社の斡旋《あっせん》した神曲楽士の支援を受けつつ、精霊医のリハビリテーションとカウンセリングも並行して、これを乗り切っていた。
無論、暴走の果てに消滅する者もいた。
神曲公社の設立以前は、それは珍しいことでも何でもなかったし、中には自ら消滅の道を選ぶ者も少なくなかった。他者に被害が及ばぬように、人里離れた荒野へと一人で出て行く者も、実際に何人か見たものだ。
だが。
こんなのは聞いたこともない。
次々と神曲楽士を誘拐して、無理やり演奏させるなどというのは……。
神曲に必要なのは、量ではない。
質なのだ。
「ここです……」
自由落下型の絶叫マシンを回り込み、モノレール乗り場を通り過ぎたところで、ダズレイは立ち止まった。
「ここに、います」
さらわれた神曲楽士達が?
それとも、イカレた精霊が?
質問するまでもなく、答えは判っていた。
両方だ。
「開けろ」
「……そんな」
判っている。裏切ったことが判れば、命が危ないのだ。
だからこそ、
「開けろ」
俺はもう一度、命令した。
「何のために、お前の両手を折らずにいてやったと思ってるんだ」
石造りの、古城である。
ただし、かなり小さい。城の背後には広大な建物が見えるが、城そのものは二階建て住宅くらいだろうか。
ライド型のアトラクションの、どうやらそれは入り口のようだ。
城の入り口はアーチ型で、シャッターが降りている。その上にはおどろおどろしい赤い文字が『悪魔城の秘宝』と大書きされていた。
ダズレイは、小便の匂いのするパンツのポケットから、カギを取り出す。歩いて行くのはシャッターではなく、その脇の白い石積み……に見える合成樹脂製の壁だ。
よく見ると、小さな鍵穴がある。
ダズレイがカギを差し込んでひねると、二メートルばかりの高さで、石垣が四角く開いた。
雰囲気《ふんいき》を壊さないように隠されていた、それは従業員専用のドアである。
「出来すぎだな、こいつぁ」
中は、薄闇だった。
すかさずダズレイが、尻ポケットから取り出したタクティカル・ライトを灯す。俺には不要だったが、人間はこれがなければ歩けないだろう。
目の前の床に、うねうねと蛇行《だこう》して金属製のレールが伸びている。両側はトンネル状で、造り物の洞窟《どうくつ》らしい。いくつもの白骨が、剣で壁面に縫《ぬ》い留《と》められているが、骨も剣も当然、本物ではない。
照明はレールの両脇、洞窟状の壁面の低い位置に並んでいる。
その淡い光が、不気味な造形物をぼんやりと闇の中に浮かび上がらせていた。
「こっちです」
レール沿いに歩き、前方が開けた。天井が高くなり、ツララ状の岩が下っている。
鍾乳洞《しょうにゅうどう》だ。
「おいおい。悪魔城じゃなかったのかよ」
「あ、そこ。気をつけてください」
ダズレイが指す方向を見ると、俺のすぐ足元に宝箱が口を開いていた。大量の金貨が、カップに入れすぎたミルクみたいにあふれている。
よく見ると、金貨は全て繋《つな》がっていた。一体成形の、これも合成樹脂だ。見事な塗装の陰影で、無数の金貨に見えたのである。
「よく出来てやがんな」
視線を戻したら、ダズレイは消えていた。
「あん!?」
見回したが、どうやら単にはぐれただけではなさそうだ。
「やれやれ。ナメられたもんだ」
くん、と鼻を鳴らした。
アンモニア臭が、空気中に矢印でも浮かんでるみたいに、奴の消えた先を指し示している。
「ここか」
俺は、さっきまでダズレイが立っていたあたりの壁面に近づくと、合成樹脂製の岩に五本の指を突きたてた。
内側に隠されていた、金属製の板ごとだ。
この程度のドアなど、本気になれば引き千切るくらい何ということもない。
俺は精霊なのだ。
ぽっかりと開いた隠し通路の奥は、意外なことに下へと続く階段だった。
「何だこりゃ」
たいていの連中と同じく、俺も遊園地について詳しいわけじゃない。どこの遊園地も同じような構造なのか、それともここだけが妙なのか、それさえ判らない。
だがとにかく、この遊園地はアトラクションの地下に何やら施設を埋設《まいせつ》しているらしい。
従業員のための施設なのか、それとも機械関係を詰め込んだのか、あるいは倉庫か何かなのか。
光の届かない真っ暗な階段が、下へと伸びているのだ。
途中に踊り場があって、階段が切り返しているらしい。その踊り場で、ふらふらと漏れ届く光が揺れながら薄れてゆく。
ダズレイの手にしていたライトの灯だ。
足音も聴こえる。
「ふん」
俺は鼻で笑って、階段を降り始める。
踊り場に着く前に、下の方で三つの音が連続した。
がちゃがちゃとカギを使う音。
重そうな金属製のドアが開く音。
そして、それが閉じる音。
その三つの音に混じって、さらに別の音があった。
声だ。
何人もの人間が同時に、一斉に息を飲むようなかすかな音が、ドアが開いてから閉じるまでの間の一瞬に、届いてきたのである。
「意外と呆気《あっけ》なかったな」
階段を降りきると、目の前に鉄のドアが立ちふさがっている。つい今しがた、ばたばたと開閉された、あのドアだ。
ゴツいドア・ノブを回してみると、案の定、施錠されているらしい。
「ぃよいしょっと!」
精霊雷に包んだ拳を、目の前の鉄板に叩き込む。
右腕の大半を貫通させてから、肘を曲げて、
「ぅおら!!」
強引に引っ張った。
コンクリートの壁面に埋め込まれた太いボルトが破裂する勢いで弾け、蝶番《ちょうつがい》が分厚い金属製のドアごと引き千切れた。
があん、と派手な音といっしょに、押し殺した悲鳴があがる。
女の、だ。
一〇人以上の、女の悲鳴だ。
今やただの鉄板と化したドアを、壁に立てかけて、俺は四角い穴だけになった戸口をくぐる。
なるほど、薄暗い。
だが、広さは充分だ。
ホテルの、俺の部屋のリビング・ルームほどはある。ベッドが二〇ばかり、ぐるりと壁に沿って並べられ、奥の方の壁にはドアが二つほど並んでいる。おそらくトイレと浴室だ。
トリクシーの証言どおりの部屋が、そこにはあった。
不健康きわまりないが、たしかに生活そのものに不自由はないだろう。
無論、監禁という絶大な不自由を別にすれば、の話だが。
「よう」
俺は、笑みを浮かべて見せる。
それも、女の子を口説《くど》く時のための、とっときの笑みだ。
「みんな元気か?」
応えは、ない。
薄闇の中で、ざっと二〇人分の目が、こちらをただ見つめている。
ベッドの上から、部屋の片隅から、床に座って、壁に張り付いて、怯えた瞳が俺に集中しているのだ。
その中から、
「レオン!?」
聞き覚えのある声とともに、一人の女が飛び出してきた。
「レオン!」
一直線に走ってきて、
「レオン!!」
俺の首っ玉にしがみつく。
「ぃよう、メイリン。元気だったか?」
「レオン! 来てくれると思ってた! 絶対に来てくれると思ってた!!」
「そりゃまあ、仕事だからな」
メイリンは、たっぷり五秒ばかりも俺に頬ずりして、つまり俺をたっぷり照れ臭がらせてから、床に飛び下りる。
そして部屋の全員に、叫んだ。
「レオンよ! 私の言ってた人!! 助けに来てくれたの!!」
静寂《せいじゃく》。
そして、歓声。
参った。全員が、こちらに向かって走って来る。女の子とは、どっちかってぇと二人っきりでイチャイチャする方が得意なんだけどな。
たちまち、囲まれた。
向けられる視線は全部、歓喜《かんき》に変わっている。
あと、ラブラブ光線も混じってるか?
「おっけー、よしよし、サインは後だ。メイリン」
「はい!」
俺は、肩ごしに親指で、背後の戸口を指す。俺がドアを引き千切っちまったところだ。
「階段を上がれ。上がったら左、それで外へ出られる。暗いから、気ぃつけろよ」
「でも、妹が……」
メイリンがここに放り込まれた時、すでにシャルミタは、移された後だったという。何日か前に、この部屋からいなくなったのだそうだ。
「心配すんな」
俺はメイリンの両方の肩に、両方の手を置いて、そして彼女の目を見つめた。
「連れて戻る。約束だ」
応えは、真っ直ぐに返ってきた。
「はい」
「よし。みんなを連れて、ここを出ろ。出たら、出来るだけ広い場所で、全員かたまってるんだ。うろうろすると迷子になるからな」
「はい!」
「行きな」
はい、と頷くメイリンは、踵を鳴らす勢いで振り返った。
「みんな、荷物持って! ここから出ましょう!!」
メイレンの号令に、全員が俺から離れて移動を開始する。荷物というのは、つまり、単身楽団のことだ。
全員が自分の単身楽団を手に、部屋を出て行く。
先頭は、メイリンである。
最後の一人は、短い髪のボーイッシュな少女だった。いきなり振り返って俺に駆け寄ると、ぴょんと飛び上がって、頬にキスをくれた。
「ありがとう」
「早く行きな」
「うん」
そして俺は、階段を駆け上がって行く足音を聞きながら、無人となった部屋に向き直る。
「とりあえず、半分は終了だ」
ゆっくりと、前へ出た。
この地下施設は従業員のための、いわゆるバックヤードだったようだ。通常は地上に建設すべき従業員施設を、地下に埋設することで、地上に『舞台裏』を露出《ろしゅつ》させない演出だったのだろう。
なるほど、夢王国、か。
その『夢』を『悪夢』に塗り替えた奴が、この先にいる。
コンリートが剥き出しになった床を、俺はさらに部屋の向こう側へと歩く。彼女達がこんなところに何日も……何週間も閉じ込められていたのかと思うと、胸が痛む。
だが、
この先には、もっと無残な現実が潜《ひそ》んでいるはずなのだ。
トリクシーの証言どおりなら。
そして、その証言を疑う理由は、ない。
突き当たりに、もう一つ、ドアがあった。トイレや浴室のドアとは違う、俺が引き千切った入り口のドアと同じものだ。
「ここか」
向こう側には誰もいない。だから今度は、無造作に蹴飛ばした。
蝶番が壁のコンクリートごと砕けて千切れ、鉄製のドアは俺の足型に窪《くぼ》んで歪み、もろともに吹っ飛んだ。
奥へと続く通路に落ちて、派手な音をたてる。
打ちっ放しの、コンクリートの通路だ。
「何なんだこりゃあ、まったく」
通路の天井には、何本もの配管が、奥へと向かって走っている。まるで、スパイ映画か何かに出てくる地下秘密基地の様相だ。
「まんまじゃねえか」
踏み出す足に、精霊雷の金色が閃《ひらめ》いた。
煙草をくわえ、火を点ける。
ポケットに両手を突っ込んで、俺は通路を奥へと歩き始めた。
すでに、気配を感じていた。
俺とは別の、他の精霊の気配である。
俺達精霊は、それぞれの力量や性格によって差はあるものの、総じて他の精霊の存在を感知することが出来る。物質化していても、精霊がエネルギー生命体であることに違いはないからだ。
共振が起きるのである。
距離が近ければ近いほど、相手のエネルギー総量が大きければ大きいほど、共振は大きくなり、感じる気配も濃密なものになってゆく。あるていどの抑制は不可能ではないが、それでも全く感知されないことは、まずないと言っていい。
つまり、
相手も俺の接近に気づいているだろう、ということだ。
それとも、その前にあの小便小僧が、ご注進に及んでいるだろうか。
いずれにせよ俺は今、一歩一歩、近づいている。
真相に向けて。
あるいは、最後の一暴《ひとあば》れに向けて、と言った方が正解か。
通路は直線で、二〇メートルばかり先で分岐《ぶんき》していた。前方は、さらに下へと続く階段に繋がっているが、そのすぐ手前の壁面に、ドアがあるのだ。
これまで見たのとは違って、合板を張っただけの、おそらく木製だ。
それが、開いていた。
「なるほどな」
ロビーだった。
暗く、閑散《かんさん》とした、それは映画館だかコンサート・ホールだかのエントランス・ロビーだったのである。
向かって右側は壁がなく、上へと続く階段だ。横幅は、たっぷり一〇メートルはあるだろう。その奥には、階段に寄り添うように、二本のエスカレーターが設置されている。
ロビーへの、それが入り口だ。
来園客は、あの階段かエスカレーターで、このロビーへ降りて来ていたのだろう。見ると、ちゃんと受付カウンターもある。チケットを、もぎってもらうところだ。
その正面……向かって左側の壁面には、ドアが二つ。一目で、防音ドアと判る。
俺の開けたのは、そんなロビーの片隅の、いわゆる『関係者以外立ち入り禁止』のドアだったようだ。
ドアを開けたせいで空気が流れたのか、かさり、と俺の足元で紙切れが動く。
ポスターだった。
子供向けのアニメ作品のようだ。赤い髪の上級精霊が、黒い巨大な怪物と闘っている絵である。精霊は派手なアクション・ポーズで、なぜか顔が笑っている。
黄色で縁取《ふちど》りされた真っ赤なロゴは、『緋色《ひいろ》の姫の大冒険』となっていた。
「ふん」
通路に戻ると、俺は階段を降り始める。
ポケットに両手を突っ込んだまま、ゆっくりと、コンクリート製の階段を一段ずつ踏みしめながら、俺は腹の底から噴《ふ》き上《あ》がろうとするものを懸命《けんめい》に抑え込んでいた。
熱だ。
一気に噴き出し、爆裂《ばくれつ》しようと膨《ふく》れ上《あ》がり続ける、熱だ。
だが、まだだ。
まだ早い。
ここが遊園地の中に建設された地下劇場だとしたら、この階段の先にあるのは、おそらく舞台だろう。
さっきの雑居房みたいな部屋は、楽屋か何かだ。かつて、この劇場の出演者は、この通路を通って、舞台と楽屋とを行き来したのだ。
「いや、そうじゃねえな」
かつて、ではない。
今でも、だ。
さっきから、聴こえてきているのだ。
曲が。
音楽が。
だが、何なんだ、この演奏は!?
単身楽団の演奏だ。それは間違いない。
奏者は、ざっと一五人前後といったところか。その全員が、懸命に一つの楽曲を組み立てようとしている。
そう。組み立てようとしている、のである。
ばらばらなのだ。
比較的安定した演奏を続けているのは、まだ元気な者だろう。だが、それもわずかに数人である。それ以外の演奏は、かろうじて特定の旋律《せんりつ》を奏でながら、しかしもう他者の演奏に合わせようとさえしていない。
出来ないのだ。
元気な者達が、その乱れた演奏に合わせようとして、自らの旋律さえも危うくしている。
さらに、楽器が単身楽団であることが、逆に乱れを増幅していた。
単身楽団とは、文字どおり『奏者が単独で楽団に匹敵《ひってき》する演奏を可能にする機械』である。内蔵された封音盤に、あらかじめ記録しておいた旋律を、演奏に合わせて適宜《てきぎ》再生して重ねてゆくのである。
つまり、奏者の演奏が乱れれば、再生も乱れてしまう。メイリンに逢った時、彼女が必死に奏でようとしていた曲が、まさにその状態だった。
そして今、聴こえてくる曲の乱れは、それ以上だ。乱れに乱れが重なり、奏でられる楽曲の狂いは増幅されてゆく。
「狂ってやがる……」
だが、その狂った演奏には、それ以上におぞましい事実が隠されていた。
魂だ。
奏者の『魂の形』だ。
俺の耳には……この『肉体』には、奏者一人一人の『魂の形』が感じられる。
その魂が、歪んでいるのだ。
苦痛と、絶望に。
階段を降りると、再びドアだ。
開けると、神曲は大音声《だいおんじょう》となった。
狂ったままで。
真っ暗だ。人間の目には、真の闇にしか見えないだろう。
だが、俺には見えた。
天井が突然、高くなる。はるかに見上げると、真上からは何十本ものロープが垂れ下がり、吊り橋のような木製の通路の底が見えた。
金属製の長い棒に、無数の照明も吊り下げられている。
舞台の『袖《そで》』である。
舞台と地続きの、けれど観客からは決して見ることの出来ない、舞台裏だ。
すぐ目の前に、黒く分厚い布が何枚も天井から吊り下げられ、客席からの視線を遮《さえぎ》っている。それは『袖幕』という名で呼ばれる、言わば目隠しのカーテンである。
袖幕の間を抜けた。
舞台へ出た。
狂演《きょうえん》が繰り広げられていた。
「ひでぇ……」
一五人ばかりの奏者が、扇形《おうぎがた》を描くように、舞台に配置されている。
全員が単身楽団を展開した状態で椅子に座らされ、一心不乱に演奏を続けているのだ。
身なりには、統一がない。
学校の制服らしきものも着ている娘《こ》もいれば、私服も少なくない。スーツ姿の女性も何人かいる。公社の認可を受けた、正式な神曲楽士だろう。
年齢も、十代半ばから二十代後半まで、様々だ。
俺は、ゆっくりと彼女達の顔を眺めながら、舞台の中央へと進んだ。
誰も俺を振り返ろうとしないのは、暗くて見えないからだろうか。
それとも……、
俺は舞台のど真ん中で立ち止まった。
いた。
依頼主……セナ・メイリンの妹。
捜してくれと、見つけてくれと、救ってくれと頼まれた、その、本人。
セナ・シャルミタ!
「シャルミタ」
近づきながら、声をかける。
返事はない。
コレアル神曲学院の制服を着ている。展開した単身楽団は、鍵盤を主制御楽器とする標準的なモデルだ。
だがシャルミタの目は、どこも見てはいない。
虚ろな視線を前方に据《す》えて、それはまるで生きた屍《しかばね》だ。
彼女の目の前に右手を伸ばし、二度ほど指を鳴らした。鼻先でだ。
それでもセナ・シャルミタの目は、瞬《まばた》きさえしなかった。
「なんてこった……」
全員が、似たような状態だった。
わずかに、スーツ姿の女性が、俺と目を合わせてかすかに首を振った。クロマハープを抱えた彼女の指は、真っ赤に引き裂かれていた。
傷ついているのは、彼女だけではない。
管楽器を吹き続ける少女は、その唇から顎《あご》へ、そして膝の上へと血をしたたらせている。
マリンバを叩き続ける女性は、一打ごとに血の飛沫《しぶき》を飛ばしている。
バイオリンを奏で続ける女の子は、手だけでなく首筋まで擦《す》りむけている。
そして、臭いだ。
この、ひどい臭い。
当然だ。
彼女達は演奏を強要され、席を立って逃げ出すことさえ出来ないのである。首に巻かれた革製の首輪には、小さな錠前が取り付けられ、しかも金属製の鎖《くさり》で床に打ち留められているのである。
タレ流しなのだ。
何もかも。
「女の扱いも知らねえのかよ」
俺は唇から煙草をむしり取ると、そのまま握り潰す。
「女ってのはな、綺麗に磨《みが》いて、お花で飾《かざ》って、清潔なシーツに横たえて愛《め》でるもんだ」
それは俺の手の中で、灰になった。
「それで?」
俺は客席に背中を向けたまま、背筋を伸ばす。
「何だって、こんなイカレたことを続けてるんだ?」
応えは、
「その前に」
背後からだった。
「お前、誰だよ」
異様な声だった。
子供のようでもあり、老人のようでもある。
男のようでもあり、女のようでもある。
軋み、
かすれ、
耳の奥に絡《から》みつくような不快感を残す、
そんな声だ。
「レオン」
応えて、俺は客席に向き直る。
「レオンガーラ・ジェス・ボルウォーダン」
「精霊だな」
「探偵さ」
客席のど真ん中に、そいつがいた。
傲然《ごうぜん》と、王者のように、座っていた。
精霊だ。
それは判っている。
だが俺は、そいつが俺と同じ精霊だとは、どうしても信じられなかった。
精霊学者なら、それをフマヌビックであると分類しただろう。
あるいは相応に経験を積んだ者なら、センリメ枝族であることも言い当てたかも知れない。
だが、こいつに相応しいのは、別の名前だ。
「バケモノ」
「失礼な奴だな、お前」
「バケモノで失礼なら」
俺は、舞台の端《ツラ》まで歩いて行くと、その中央《センター》で、そいつと対峙《たいじ》した。
「……ガキ」
そう。
その姿はまさに、子供《ガキ》だ。
そいつの座っている席の周囲には、単身楽団が山のように積み上げられていた。
数えなくても、いくつあるのかは見当がつく。
ざっと二〇台、だ。
どれもこれも展開した状態のままで、おかげで金属製のアームやらスピーカーやら主制御楽器やらが互いに絡み合い、引っ繰り返したオモチャ箱の様相である。
いや、よく見ると単身楽団だけではない。
鞄。コート。自転車。ブランド店の商品袋に、帽子やサングラスまである。さらわれた女性楽士達が、単身楽団以外に身に着けていたものだ。
いや……ゴミのように捨てられた女達、と言った方が正しいだろう。
その中に埋もれるように、そいつは座っているのだ。
太った、
全裸《ぜんら》の精霊である。
青白い肉が、折り重なった汚泥《おでい》のように、だぶりと堆積《たいせき》している。物質化の基本を考えれば、それが何を意味するのかは明白だった。
普通ではあり得ないような、何か『余計なもの』を身に取り込み続けた結果だ。
「肥え太った醜《みにく》いガキだ」
「ガキって言うな」
癇癪《かんしゃく》でも起こしたみたいに、そいつが何かを投げつけてきた。
俺まで届かず、舞台の角に、どん、とぶつかったのは、人間の頭部だった。
捩じ切られた、
ダズレイの。
「お前も殺すぞ」
ぶよぶよとした唇を不機嫌そうに歪めて、そいつは言った。
「殺してみろよ、ガキ」
「お前なんか、まだ千年も生きてないだろ。判るぞ」
「だったら何だ、ガキ」
「僕はもう二千五〇〇年も生きてる。お前よりずっと旧《ふる》い」
「だから何だって訊いてんだろ、ガキ」
俺は、前へ出た。
足の下に、舞台は、もうない。
だが、関係ない。俺はそのまま宙を歩いて、客席通路の真上を横切り、最前列の席の背もたれの上に立った。
腹の底で、熱が膨れ上がる。
駄目だ。
まだ早い。
俺が全力で抑え込むと、熱はそのまま言葉になって、
「千年生きようが一万年生きようが、ガキはガキだ、こら」
地鳴りのように唇から漏れた。
「てめぇの考えてることなんざ、お見通しなんだよ、ガキ」
「ガキじゃない」
そいつは、言った。
「偉大なる精霊、コディーン・レジ・シャーウィックだ!!」
ぶくぶくに肥え太った巨体が立ち上がると、二〇ばかりの単身楽団の山が、がらりと崩れた。
「じゃあコディーンちゃんよ、言ってみろよ。人間の神曲楽士に支えてもらわなきゃ生きていけない哀れなコディーンちゃんよ」
俺はさらに、一歩、前へ出る。
次の座席の背もたれの上へ。
「契約楽士に先に死なれて、そんなに哀しかったか? ああ? おいおい泣いちゃったか? ああ? 泣くのに忙しくて、てめぇのケツも拭《ふ》けなくなって、助けて助けてって泣《な》き喚《わめ》きながら、手当たり次第に神曲楽士をさらって来たか? ああ!?」
それが、こいつのやっていたことだ。
「暴走が怖くて、誰でもいいから契約してもらおうとしたのかよ? 数を揃《そろ》えて無理やり演奏させて、それで暴走を喰い止めてもらってたのかよ?」
コディーンは、応えない。
応えられるわけがない。
「おかげで、そんなになっちまったわけだ」
神曲とは、演奏する神曲楽士の、魂の形の具現化である。
精霊がこれに共振するということは、楽士の魂と精霊の魂とが共振するということだ。
調律とは、すなわち精霊の魂の純化に他ならない。
コディーンは気づいたのだ。
契約楽士を失い、暴走寸前の状態の中で、気づいてしまったのだ。
暴走を恐れ、消滅の予兆に絶望した、自分自身の『魂の形』に。
「てめぇの恐怖と絶望を膨れ上がらせて、自分の魂を……自分自身の存在を腐《くさ》らせちまったんだよ、コディーンちゃんよ」
神曲楽士の魂が恐怖と絶望に押しつぶされていたなら、その魂が奏でる神曲は、恐怖と絶望に凝り固まった精霊と共振する。
暴走は抑制され、精霊が消滅することはない。
だがその一方で、恐怖と絶望に歪められた神曲は、恐怖と絶望で歪んだコディーンの魂を、さらに歪ませていったのである。
「その挙《あ》げ句《く》が、それか……」
山と積み上げられた、単身楽団。
主を失った、哀れな楽器。
それは、この歪《いびつ》な精霊に魂を喰い潰された女達の、墓標に他ならない。
「女の子達の思い出にひたって、いい気分かよ、ガキ」
その言葉に、
「お前だって同じじゃないか」
コディーンは、笑った。
張り詰めた顔面が引きつるような、異様な笑みだった。
「なに……?」
「見たぜ」
コディーンは、そう言った。
「お前の部屋、見たぞ。何だよ、あの写真」
俺の腹の底で、熱が膨れ上がる。
まて。
やめろ。
まだ駄目だ。
「僕と同じじゃないか。え? 何が違う?」
「黙れ」
そう応えるのが精一杯だった。
「女の子達を返してもらうぜ」
「駄目だ!」
コディーンが、舞い上がる。
その背中に、ぎらぎらと輝く羽根が展開した。
日光を反射する廃油のような、濁りきった輝きだ。マトリ監査官《かんさかん》を現場に引きずり出した、それがこいつだ。
六枚。
そう、六枚だ!
この腐り果てた野郎は、俺と同じ上級精霊なのだ!!
「僕のもんだ!」
肉の風船となって宙に浮くコディーンの、それは絶叫である。
「死ぬまで、みんな僕のもんだ!!」
だが、それでも狂った神曲の演奏は停まらない。
「僕のために神曲を奏でて、僕のために死んでいくんだ! 僕のためだけにだ!!」
なるほどな。
だからこいつは、屍体《したい》は自分で捨てに行くのだ。
だからこいつは、屍体を捨てて戻って来た時、嬉しそうににたにた笑うのだ。
「この子達の魂は、全部、全部、僕のもんだ!! 二度と他の精霊のために演奏なんかさせないんだ!!」
俺は、コディーンを見上げた。
「そうは、いかねえんだ、な」
俺のその言葉は、宣言になった。
「動くな!!」
鋭い女性の声が、暗い劇場に響き渡った。
交錯《こうさく》する十数本の光条は、タクティカル・ライトだ。
「ニコン市警です! 全員、動かないで!!」
「いよう、アレクス。絶妙のタイミングだなあ」
客席の周囲の、全てのドアが開け放たれていた。
雪崩《なだれ》を打って突入してくるのは、警官隊である。突撃銃を構え、防弾シールドの付いたヘルメットと防弾チョッキで武装している。
スーツ姿なのは、アレクシアだけだ。
舞台の両側からも、数人ずつの警官が走り込み、囚《とら》われの楽士達を庇《かば》うように並んだ。
「キミなら気づくと思ってたぜ」
ダズレイの足跡に、だ。
もっとも、その足跡の正体が小便だとは、アレクシアも気づかなかっただろうが。
「降りなさい!」
コディーンに向かって、アレクシアが叫ぶ。
「連続誘拐の現行犯として、逮捕します! 投降しなさい!!」
「なんだ。……何なんだ、お前ら」
「気づかなかったのかあ?」
俺はコディーンを見上げて、めいっぱいに得意気な笑みを浮かべてやった。
「お前、見かけどおり鈍いんだなあ、おい」
神曲の演奏が、一つずつ途絶えてゆく。
警官隊が、拘束された女性達を一人ずつ、解放してゆくのだ。
誰もが満足に立つことも出来ず、だから警官に支えられて、それでも次々と自由になる。
「やめろ!」
喚くのは、コディーンだ。
「僕のだ! 僕のだぞ!!」
ぶっくぶくの腕を振り回すと、舞台に向かって閃光が飛んだ。
精霊雷だ。
だが、
「おっとぉ!!」
俺は垂直上昇で、そいつを迎撃した。舞台に向かって飛ぶ稲妻《いなずま》のような光球を、拳骨《げんこつ》でぶん殴ってやったのだ。
軌道を鋭角に逸らされたコディーンの精霊雷は、劇場の壁面に激突して、大穴を開けた。
「判んねぇ奴だな、こら」
空中で対峙したまま、俺は背中の羽根を展開する。
複雑に絡み合う、紋章のごとき光の羽根。
六枚!
「俺が何のために今の今まで、手ぇ出さずに我慢してやったと思ってんだ!? ああ!?」
警官隊が突入して女の子達を救出するまで、だ。
「てめぇを遠慮なく、ぶん殴るためにだよ!!」
「やめなさい! レオン!!」
断っておくが、アレクシアの叫びを無視したのは、俺じゃない。
コディーンの方だ。
「ぐぁああぁあぁああぁあ!!」
怒り狂った巨体が、こちらに向かって突進して来たのである。
「っしゃあ!!」
掴《つか》みかかってきた腕を取り、相手の勢いのまま、俺は自分の躯《からだ》を中心に回転する。
「飛んでけ!!」
一回転の後、コディーンの巨体を放り出す先は、客席の後方である。膨れ上がった巨体は、一直線に客席の上を横切って、防音扉に激突した。
周囲の壁を巻き込んで、扉ごとロビーへ飛び出してしまう。
轟音《ごうおん》が雷鳴《らいめい》のように、観客のいない劇場に反響した。
「おらおらおらおら!!」
追撃だ!
ロビーに飛び出した俺は、ひん曲がった扉とコンクリートの破片に埋もれて身を起こそうともがくコディーンに、突進の勢いに乗せた蹴りをくれてやる。
「ごヴ!!」
爆裂の勢いで、コディーンがさらに吹っ飛び、ロビーの壁に激突する。
壁紙を千切りながらコンクリートの壁面に亀裂が走り、貼りっ放しのポスターが剥がれて落ちた。
ゆっくりと近づく俺に、コディーンは背中を壁に押しつけて、悲鳴をあげる。
「やめっ、やめ! やめて!! もう判った! 判ったから!!」
「ほほぉう」
俺の唇が笑みに歪むのは、きっと俺の性根が捩じくれているからだ。
「お前が拉致った女の子達も、そう言ったんだろうなあ、きっと」
やめて、と。
助けて、と。
うちに帰して、と。
「やめるか、このボケ!」
「ひい!!」
瞬間、コディーンの姿が消えた。
物質化を解いたのだ。
「嘗《な》めんじゃねえ!!」
俺の背中で、六枚の羽根が金色の光を炸裂《さくれつ》させる。
爆炎のごとく噴き出すのは、精霊雷だ。
「ぎゃん!!」
空間が……物質としての構成を解き、エネルギー体となって空間に拡散しようとしていたコディーンが、絶叫した。
光学的に不可視なエネルギー体となっても、それが精霊の『個』としての構造を維持していることに変わりはない。単に、物質化している状態よりも希薄なだけだ。
俺はその希薄な構造体の隙間《すきま》という隙間に、精霊雷を捩じ込んでやったのだ。
「ぎひいいいいいい」
奇怪な呻きとともに、コディーンは空中で再び実体化すると、ずどん、と床に落ちた。
全身を、激痛が駆けめぐっているのだ。
そのまま、ひいひい泣きながら、地上へと続く階段に向かって這いずってゆく。
その足首を、
「どこ行くんだよ」
俺は片腕で鷲掴みにした。
そして、振り回す。
「おぅらよ!!」
「ひいいい!!」
片腕でだ。
コディーン自身の体重を遠心力に変えて、そのまま階段に叩きつけた。
重く湿った音をたてて、コディーンの巨体が階段に激突し、破片と悲鳴を撒き散らす。
「あうう、あううう」
粉々に砕けて鉄筋を剥き出しにした階段の上で、自称・偉大なる精霊は、それでも何とか逃げようとしてもがいた。
「あひ! あひ!」
デカいケツを揺すって、階段を這《は》い上《あ》がり始める。背中の羽根は、相変わらず汚らしい光のまま、しかし明滅を始めているのはダメージの大きい証拠だ。
俺は、ゆっくりと近づいた。
「何だよ、おい。逃げるのか? もっと遊ぼうぜ」
容赦《ようしゃ》する気など、なかった。
赦《ゆる》すつもりなど、カケラもなかった。
「レオン!」
背後から追いすがるのは、アレクシアの声だ。
「やめなさい! すぐに精霊課の応援が来ます!」
俺は振り返らない。
「レオン!!」
「止めてみろ」
女刑事に背を向けたまま、それが俺の答えだ。
「止められるもんなら、止めてみろ」
そして、振り返る。
「俺を止められるなら、止めて見せろ。止められねぇなら、黙ってろ」
「レオン……」
彼女の手には、銃がある。
だがその銃口は、もう俺には向けられていなかった。
両手で握られたまま、その凶器は力なくうなだれている。
「あなた……」
そして彼女の目には、……ああ、なんてこった……哀れみがあった。
「止めて欲しい、のね?」
俺は、応えない。
「何を抱えてるの?」
それは、俺が応えるべき質問じゃない。
「あなた、何を抱えて生きてるの?」
「それが判れば」
そうだ。
「俺は、こんな生き方は、してねぇさ」
悲鳴があがった。
女の悲鳴。
上からだ。
コディーンの姿が、消えていた。俺がアレクシアの相手をしている間に、隙を見て上へ……地上へ飛び出したのだ。
「しまった!」
反射的に駆け出そうとするアレクシアを、
「やめとけ」
俺は手で制した。
「人間にゃ無理だ」
古来、精霊は人間の『善《よ》き隣人』であると言われている。
精霊は人間と手を携え、多くの文化を、そして文明を築《きず》いてきたと言われている。
精霊は人間のように汚れた欲望を持たない高潔《こうけつ》な存在であると、人々の多くはそう信じている。
ある意味において、それは正しい。
そして別の意味において、それは大きな誤りだ。
例えば、今のような状況では。
「離して! 離してよ!!」
悲鳴は続いている。
俺は肩をすくめて、ポケットに両手を突っ込み、そしてヒビ割れだらけの階段を上る。
地上へ。
「ぃよう」
地上へ出た俺の頭上には、金属製のアーチが掛けられていた。
金属を打ち抜いた文字が、『ドリーム・シアター』と並んでいる。振り返ると、ずんぐりと盛り上がったドーム状の、それはイベント・ホールである。
隣には、悪魔城がそびえていた。
俺が小便小僧に連れられて入ったのは、つまり劇場から悪魔城へと抜ける非常通路だったらしい。
「で? またキミなわけか」
それは、なんとも滑稽《こっけい》な、なんとも醜い光景だった。
単身楽団を手にした大勢の女の子達が、シアター前の広場に集まっている。俺が言ったとおり、広い所に避難してきていたのだ。
その女の子達を護るように、警官が銃を抜いている。
銃口を向ける相手は、広場のど真ん中だ。
全裸の、
ぶよぶよに太った、
醜い精霊だ。
その腕に、首根っこを抱えられる格好で、一人の女性が捕えられていた。
「レオン!」
こちらに向かって手を差し伸べる、それはセナ・メイリンだ。
「いいか、メイリン。最初に言っとく」
膠着状態に、俺は遠慮なく近づいて行く。
「これでキミを助けるのは三回目だ。だからって、俺に惚《ほ》れたりするんじゃねえぞ」
応えたのは、メイリンではない。
「止まれ!!」
彼女を抱え込んだ、コディーンだ。
「来るな! 来たら、こいつ殺すぞ!!」
つまり、だから警官隊は、どうすることも出来ないのである。
まあ人質がいなくても、人間では精霊に太刀打《たちう》ち出来やしないが。
「来るな!」
「うるせぇな、行かなきゃいいんだろ」
俺は、その場に立ち止まった。
「そんでコディーンちゃんよ、どうするんだい」
内ポケットからメルバイロを取り出し、指先の精霊雷で火を点ける。
最初の一呼吸が、胸に染みる。
「いつまで、そうやって女にすがってるんだ? ああ?」
吐き出す言葉は、紫煙《しえん》といっしょにだ。
「とっとと続き、やろうぜ。仕掛けたのは、てめぇの方なんだからよ」
「ひっ……!」
コディーンは、俺が前へ出てもいないのに、後退った。
気づいたのだ。
俺がまだ、腹の底に抱えているものがあるということに。
それが噴き出したら、もうおしまいだということに。
「お、お前ら!」
コディーンが声を裏返して叫ぶ相手は……、恥知らずめ、女の子達だ。
単身楽団を手に、警官達に護られた女の子達に、喚き始めたのである。
「奏《や》れ! 神曲だ!! 早く!! 僕のために神曲を奏でろ!!」
彼に返されるのは、冷たい嫌悪と憎悪の視線だけだ。
そりゃそうだ。
女を束縛《そくばく》する男は、嫌われるに決まってる。
「……奏でよ、そは我らが盟約なり、か」
俺は、そう呟いて、吸いかけの煙草を捨てた。
「てめぇが奏でるのは、悲鳴だ、コディーン!」
「ひいいっ!!」
コディーンが、飛んだ。
後ろへ。
メイリンを抱いたままだ。
「レオン!!」
遠ざかるメイリンの声に、
「おう!」
俺は応える。
姿勢を低くして、全てを感情に乗せてゆく。
「覚悟しやがれ……」
今まで抑えに抑えていたものが、身の内で渦《うず》を巻く。
「こうなっちまったら、誰にも俺は止められねえ」
次の瞬間、それは俺の『肉体』を削りながら外へと噴き出して、『カタチ』になった。
地面を蹴って跳躍《ちょうやく》する。
「レオン!!」
アレクシアの叫びが、背後に小さくなっていった。
古来より、
たしかに精霊と人間とは、ともに手を携《たずさ》えて歩いてきた。
互いに支え合い、文明を、文化を、社会を築いてきた。
だが一方で、互いが相手に与える影響には、決して美しいと言えないものもあったのだ。
人間は、決して純粋で無垢《むく》な存在ではない。
精霊は、決して高潔で無欲な存在ではない。
あるいは、それこそが互いに与え合った結果なのかも知れないが、今となっては真相を知ることさえ不可能だ。
俺達の前に横たわるのは、ただ、今という現実だけだ。
コディーン・レジ・シャーウィックとハイデッシュの契約関係がどんなものだったのか、それは知らない。だが人間にとってはともかく、精霊にとっては……コディーンにとっては、それは命懸《いのちが》けの選択であったはずだ。
高潔だったかどうかは知ったこっちゃないが、しかし、自分という存在の全てを賭《か》けた命懸けの選択であったこと、それだけは紛れもない事実なのだ。
だとしたら。
奴に欠けていたものは、覚悟だ。
人間という、精霊に比べてはるかに短命ではるかに脆弱《ぜいじゃく》な存在に自分の存在を賭けるという、そのことの本当の意味を奴は……コディーンは理解していなかったのだ。
それとも、
甘く見ていたか。
その結果が、これだ。
奴はその醜く膨れ上がった躯で、メイリンを抱いて空を飛ぶ。
廃油のような汚らしい羽根を広げて。
己の犯した罪から逃げるために。
だが。
ここまでだ。
真下から猛烈な勢いで垂直上昇してくる黄金の光に気づいた時、コディーンはそれが何なのか理解しただろうか。
俺だ。
走って追いつき、真下から奴を撃墜《げきつい》したのだ。
「ぎゃ!」
抱え込まれているメイリンの細い躯に比べれば、コディーンの躯は大き過ぎた。おかげで俺は、メイリンを傷つけるどころか触れることさえせずに、奴の脇腹を抉《えぐ》ってやれた。
空中に撒《ま》き散《ち》らされるのは、大量の赤黒い液体である。
奴の、血液だ。
無論それは、人間や他の動物の血液とは組成も違うし、働きも違う。
だが出血の時に感じるものは、精霊も人間も同じだ。
つまり、苦痛である。
「ひぎうぅう!!」
情けない苦鳴をあげて、コディーンは空中で身をよじり、抉られた脇腹を両手で押さえた。
「きゃあっ!!」
メイリンの躯が、宙に放り出される。
攻撃の余力で奴の真上へ飛び出していた俺は、そのまま宙を蹴って鋭角に方向転換した。
落下してゆくメイリンの、その真下へ滑り込む。
彼女を受け止めるのは、俺の腕ではなく、背中だ。
「……えっ!?」
背中にメイリンを乗せて、観覧車の足元に着地。
「降りろ」
その言葉に、背中にまたがった格好のメイリンが、
「レオン?」
困惑の声をあげる。
だが、説明をしてやる暇《ひま》はない。
「早く降りろ」
メイリンが、やっとのことで言われたとおりにする。愕然《がくぜん》と俺を見つめる彼女の視線と、『今の俺』の視線とは高さが同じだった。
「どうしたの、それ……」
彼女が震えているのは、墜落死《ついらくし》するところだったから、というだけでもなさそうだ。
あるいは、怯えているのか……。
「怒ってるのさ」
そして俺は、地を蹴った。
「そこにいろ!」
四肢《しし》で。
追跡を再開する。
四本の脚で大地を蹴り、見上げるとコディーンは体液を撒き散らしながら、みるみる高度を落としてゆく。必死で身を反《そ》らせ、かろうじて上昇したかと思えば、次の瞬間には墜落寸前の勢いで降下する。
自身の体重さえ満足に制御しきれていないのだ。
やがて、限界を超えた。
糸が切れたかのように、垂直に落下した。
アトラクションの建物の、その屋根を粉砕《ふんさい》して、大量のホコリを夜空に吹き上げた。
固体化した雲のよう建物だ。ところどころ、虹の七色に塗り分けられている。
アーチ状の入り口の上には、何とも皮肉な文字があった。
『みんなの世界』。
入り口のプラットホームには、何台ものカートが連なって停止している。もう何年も、そうやって置き去りになっているのだ。
風雨にさらされ、へばりついたホコリが涎《よだれ》の跡みたいに垂れてマダラ模様を塗り込んでいる。
飛び越えて、俺は通路へ入った。
構造は、例の悪魔城と似たようなものだ。狭い通路に、金属製のレールである。
だが、装飾の雰囲気は大きく異なっていた。
夢と、
希望と、
そしてたぶん、音楽だ。
通路の両側は、造り物の雲と、造り物の虹で飾られ、造り物の花が咲き乱れている。
そして、その隙間を埋めるように配置されているのは、何体もの人形である。
どれも五頭身ほどにデフォルメされ、顔や手足の造形はマンガみたいに単純だ。表情は笑顔で、それ以外の感情は表現されていない。
人間の人形と精霊の人形とが、ほぼ同じ割合で混じっている。
あらゆる人種の人間、あらゆる枝族の精霊が、みな、単純な造形の顔に笑みを貼り付けて、停止した時間の中で凍《こお》りついているのだ。
三年前までは、おそらく光と音楽とに満ちて、人形達が踊っていたに違いない。
だが今や、それは打ち捨てられた遺跡《いせき》も同然だ。
俺は、その遺跡の中を進む。
前方から聞こえてくる呻き声に向かって。
「ちくしょう。ちくしょう。ちくしょう」
弱々しい、それは呪詛《じゅそ》の呻きである。
「ちくしょう。ちくしょう。ちくしょう」
通路の先が、開けた。
広いホールのようだった。
人形達がいた。
奥へと続いてゆく金属のレールの方を向いて、広い通路の両側から、一〇〇体以上の人形達が、こちらを見ているのである。
精霊と、人間が。
互いに手を取り合って。
「理想か」
まさに。
「精霊と人間の……」
理想そのものだ。
世界中の人間が手を繋ぎ、世界中の精霊が手を繋ぎ、歌と音楽と神曲で世界を満たせば、そこにあるのは永遠の平和、永遠の幸せ、みんなの世界、みんな仲良く生きてゆこう。
勘弁してくれ。
悪い冗談もいいとこだ。
その冗談の真っ只中に、
「ちくしょう。ちくしょう。ちくしょう」
そいつが、いた。
天井をぶち抜き、人形を何十体か押し潰して、そいつは無様に横たわっていた。
仰向けになって、身を起こすことも出来ないのは、俺が腹を抉ってやったせいだけではなさそうだ。
「なんでだよ」
血で汚れた手足を振り回して、じたばたと、もがいている。
「なんでなんだよ! なんでなんだよ!!」
すぐに判った。
物質化を解くことが出来ないのだ。
傷ついた精霊が、物質化を解いて衰弱を喰い止めるのは、通常の対応の一つだ。まず第一に、物質化という行為そのものがエネルギーを消費するからだ。
また、傷によるエネルギーの消失は、物質化しているからこそ生じるとも言える。物質化を解けば、そもそも『傷』そのものがなくなるのである。
だが今、コディーンには、それが出来ないのだ。
「なんでだよう、ちくしょう!」
「壊れちまったんだよ、ガキ」
俺の接近にも、気づいていなかったようだ。
弾かれたように振り返る、その濁《にご》った目が驚愕に見開かれた。
「お前……何だ、それ」
俺の姿のことだ。
俺の『カタチ』のことだ。
「変身……じゃない。違う。え? うそ」
理解したのだ。
「まさか。そんなの、ありか?」
「ありなんだよ」
俺は、のしり、とコディーンに近づく。
その姿は、『山吹《やまぶ》き色《いろ》のスーツの男』ではない。
獣《けもの》だ。
太い四肢と、太い牙《きば》と、雄々《おお》しいタテガミを持つ、肉食獣《にくしょくじゅう》の姿だ。
獅子《しし》である。
黄金色の光で出来た、巨大な獅子である。
「精霊……雷……」
そうさ。
俺の『肉体』が『変身』したわけじゃない。
この『カタチ』は、俺から噴き出す精霊雷だ。
なぜそうなるのかは、俺にもよく判らない。だが感情が昂《たかぶ》りきった時、その感情に身を任せるだけで、こうなってしまう。
身を削り、命を削って噴き出す精霊雷が、こんな『カタチ』になってしまうのだ。
哮《たけ》る野獣。
金色の獅子。
ケダモノだ。
「てめぇはな、喰い過ぎたのさ、コディーン。恐怖や絶望なんてぇもんは、精霊が喰っていいもんじゃねえ。ましてや、てめぇの喰った恐怖や絶望には、てめぇに対する憎悪が混じってた。そんなもの喰い続けりゃあ、マトモな精霊でいられるわけがねえ」
歪むのだ。
姿も。
力も。
あるいは、エネルギー状態のコディーンに精霊雷を捩じ込んでやったことも、何らかの関係があるのだろう。だが、それは単なる引鉄《ひきがね》に過ぎない。
そんなことくらいで、精霊は『壊』れはしない。
精霊を『壊』すことの出来るものがあるとすれば、それはただ『魂』そのものだけだ。
「てめぇはなコディーン、もう精霊じゃねえんだ」
俺が近づくと、コディーンは醜い尻を揺すって、人形の上を後退った。
「バケモノだ」
「仕方ないじゃないか!!」
それは、半ば絶叫だった。
「辛かったんだ! 苦しかったんだ!」
涙と鼻水と、そして噴き出した血とで、その顔はぐじゃぐじゃだ。
「哀しかったんだ! 寂《さび》しかったんだ! 仕方ないじゃないか!!」
俺はさらに踏み込んで、
「代わりが欲しかっただけだ!!」
そこから進めなくなった。
「なに……?」
「ハイデッシュだよ! 僕を置いて先に逝っちゃったハイデッシュだよ!!」
なんだと?
「ハイデッシュ! ハイディ!! 逢いたいよう!!」
ぼろぼろと涙をこぼしながら、コディーンは手足を振り回して喚く。
暴れる巨体の周囲で、人形の頭が割れ、胴が砕け、腕が千切れて脚が折れた。
「誰もハイディの代わりになってくれなかったんだ! だから仕方ないじゃないか! そうしないと仕方ないじゃないかあっ!!」
「黙れ」
俺のタテガミが、逆立った。
「黙れ、ガキ」
ぎりぎりと爪が伸び、牙が伸びた。
「人間に、代わりなんざ、ねえんだよ!!」
俺の声は咆哮《ほうこう》となって、ごう、と轟いた。
「ひいいい!」
コディーンは、精霊雷の光を炸裂させながら、ぶっ飛んだ。
逃げたのだ。
通路の向かい側の人形達に激突し、天井まで跳ね上がって通電していない照明を三つばかり粉砕してから、さらに急降下して床に叩きつけられ、そのまま通路の奥へと弾丸の勢いで飛んで行く。
殺虫剤を吹っかけられて暴れ狂うハエみたいなもんだ。
「逃がすか!」
金色の光で出来た四肢で、俺は床を蹴る。
がじゃがじゃと何枚ものガラスが砕けるような音がしたのは、その時だった。
通路の奥……コディーンの逃げ去った方向だ。
「何やってやがる」
造花で埋めつくされた造り物の花壇《かだん》を回り込む。
「ぅおぉぉおぉぉおおぉお。ぉおおぉおおぉお。ぁおぉおぉぉおおぉ」
声だ。
奴の。
泣き声だ。
カートのレールに沿って、合成樹脂製のお城のミニチュアを回り込んだ先は、またホール状の空間だった。
「なに……?」
踏み込んだ途端に、肢《あし》がすくんだ。
そう。すくんだのだ。
同時に、俺の背骨を冷たいものが駆け上がった。
腹の底から、心をこじ開けて、そいつがついに姿を見せたのだ。
「……なんだこりゃ」
このアトラクションが、もとはどういう内容だったのか、俺は知らない。
だが、明言出来る。
ここは……少なくともこの周辺だけは、最初はこうじゃなかったはずだ。
手が加えられていた。
間違いなく、コディーンによって。
「ぉおおぉおおぉおおおぉおおぉう。おおぉおおぉおおおぉおおぉおう」
泣いてやがる。
その周りに、ぎっしりと人形が並べられているのは、他と同じだ。
その半数が人間で、残る半数が精霊の人形なのも、これも同じだ。
だが、一つだけ違う点があった。
人形の全てが、額を手にしている。
両手で、胸の前で捧《ささ》げるように。
何体かは倒れて、踏みつぶされている。額《がく》を抱えた何十体という人形の、そのど真ん中にコディーンが突っ込んだのだ。
血まみれで、悲鳴をあげながら。
そして、泣いている。
祭壇《さいだん》の真ん中で。
そう。
それはまさに、祭壇だ。
何十体もの人形が抱えた、何十枚もの写真で作られた、祭壇だ。
だが、そこに奉られているものは、神ではない。
女だ。
「コディーン……、お前……」
どの写真にも、女が写っている。
二つとして同じ写真はないのに、写っているのはどれも同じ女だ。
ボリュウムのある髪は、しかし脱色のせいか痛んでいて、枝毛も多そうだ。
それほどの歳でもなさそうなのに、肌も荒れている。
そこへ厚い化粧《けしょう》を塗りたくっているものだから、素顔が判らないくらいだ。
だが、それでも。
どの写真も、笑みだった。
幸せそうな……心の底からの笑みだった。
「ハイデッシュ……」
コディーンの契約楽士。
薬物中毒で死んだ女。
歪んだ魂で、歪んだ神曲を奏で、自分の契約精霊をも歪ませてしまった女。
哀れな女。
なのに。
なんだ?
この幸せそうな笑みは、いったい何なんだ!?
「ハイディいいいい」
コディーンが泣きじゃくる。
「助けてぇ。助けてハイディいぃぃいいぃいい」
写真にすがって。
膨れ上がった精霊がすがるのは、ひときわ大きな一枚だ。高さが二メートルほどもありそうな、大きな額に収まった大判の写真である。
その写真だけが、ツー・ショットだった。
ツドイ・ハイデッシュが、小柄な少年を抱きしめている。
小柄な、
貧弱な、
痩《や》せっぽちの男の子だ。
「ぅおおぉおぉおおぉおぉおおう。おぁあぁああぁああぁああぁああん」
なんてこった。
糞っタレ。
こんちくしょう。
そんなの、ありか?
今になって、ここまできて、そんなのありかよ!?
「ふざけンじゃねえ……」
写真の中のツドイ・ハイデッシュは、抱きしめた少年に頬ずりする恰好《かっこう》で、こちらを見て笑っている。
ぽっかり口を開けて、薬物に侵されてぼろぼろになった歯を見せながら、しかし幸福の絶頂の中でしか決して浮かべることの出来ない笑みで、こちらを見ているのだ。
契約精霊を抱いて。
コディーン・レジ・シャーウィックを抱いて。
それは、真っ直ぐな笑みだった。
それは、一点の曇《くも》りもない笑みだった。
「ふざけンじゃねえぞ……」
呻くように呟いた瞬間、獅子のカタチを成していた精霊雷が、崩れた。
絡まり縺《もつ》れた糸が瞬時に解けるように、金色に輝く無数の光の帯となって拡散する。
俺は、立ち上がっていた。
二本の脚で。
「ハイディ……。ハイデッシュ……」
泣きながら写真にすがりつく、いびつに膨れた精霊を見つめて。
「逢いたいよう。ハイディに逢いたいよう」
「コディーン」
俺は、ゆっくりと近づいた。
「コディーン・レジ・シャーウィック」
涙と鼻水でぐじゃぐじゃになった顔を、コディーンはこちらに向ける。
だが、俺と目が合っても、もう逃げなかった。
ほんの数秒、目を合わせただけで、彼はすぐに興味を失ったかのように、写真に戻る。
その頬を、ぺったりと、冷たいはずの額縁《がくぶち》のガラスに押しつける。
「逢いてえか」
その問いに、彼は頷いた。
「そうか」
そうだろうさ。
何度も何度も俺の背中に這い上がった冷たいものの、これがその正体だ。
結局は、同じことなのだ。
何も違いやしない。
あの時……クレハを失った、あの時……俺にも誰かがそう訊ねてくれたら……クレハに逢いたいかと訊ねてくれたら……。
俺は頷いただろう。
そうさ。
この糞ガキと俺との違いは、それだけだ。
俺は、頷きはしなかった。
だがそれは、俺が強かったからじゃねえ。
俺には訊ねてくれる誰かがいなかったという、たったそれだけのことだ。
ならば。
「来いよ」
俺に出来ることなんざ、一つしかない。
コディーンは、重たそうに振り返ると、今度は目を逸らさなかった。
のっそりと、立ち上がる。
真っ直ぐに、俺の目を見つめて。
そして、
「ああぁああぁあぁああぁああぁあああぁああぁああぁあ!!」
絶叫した。
突進してくる巨大な質量に向かって、俺は身構えた。
俺の拳は、金色の精霊雷に包まれていた。
「レオン!」
息を切らして駆け込んできたサムラ・アレクシア巡査部長は、タクティカル・ライトの光の中に、俺の姿を発見した。
疲れ果てて、無数の人形の中に座り込んだ、山吹き色のスーツの男を。
他に、人影はなかった。
「奴は?」
俺の方を、ちらりと見ただけで、アレクシアはライトの光を周囲に投げる。
コディーンの姿を捜しているのだ。
「いったよ」
俺のその言葉は、嘘ではない。
「逝《い》っちまった」
精霊は、人間に比べてはるかに長命で、はるかに頑強《がんきょう》だ。
だが、死なないわけではない。
自身を構築するエネルギーを、構造体として繋ぎ止めておくことが出来なくなった時、精霊は『拡散』し、『消滅』する。
すなわち、『死』ぬのだ。
構造体を破壊するに足る衝撃を受けた時に。
構造全体を維持することが不可能なほどの欠損が生じた時に。
そして……構造を維持するための精神力が、『絶望』によって奪われた時に……。
コディーンは、死んだ。
拳を叩き込まれて。
渾身の精霊雷をまとった俺の右ストレートを、胸のど真ん中に叩き込まれて。
「レオン……」
アレクシアが、こちらを振り返っていた。
座り込んだ俺の周囲を、彼女の手にしたライトの光が撫《な》で回《まわ》してゆく。
ようやく、気づいたのだ。
「これ……」
俺が座っているのは、コディーンが『消滅』した場所だ。
胸にドデカい穴を開けて、奴は吹っ飛んだ。背中から、祭壇に叩きつけられたのだ。
奴の激突に耐えきれずに、祭壇は崩壊した。
土台が陥没《かんぼつ》するように崩れ、写真入りの額縁を抱えた人形の大半が、その陥没に向かって傾いたのである。
俺の座っているのは、その時、奴が叩きつけられた場所だ。
そこら中に飛び散っていた大量の血液も、今はもう、ない。
分解して、エネルギーの粒子となって、消えてしまったのだ。
自らを『偉大な精霊』と名乗った、勘違いのガキといっしょに。
「なに、これ」
呆然とするアレクシアに、
「祭壇さ」
コディーンは、その真っ只中で微笑んだ。
胸のど真ん中に穴を開けられて、けれどそれは心の底からの、幸せそうな笑みだった。
そして、消えた。
永久に。
「殺したの?」
「さあな」
今ここに、他の精霊が来れば、事実はすぐに判明しただろう。ほんの数分前までコディーンだったものが……そのエネルギーが、まだあたりに存在している。
だが、それはすでに個としての意識を失った、ただのエネルギーだ。やがて空間に拡散し、世界中に広がってゆくだろう。
それが、精霊の『死』なのだ。
だが、アレクシアには、それは見えない。
「レオン」
「ああ?」
「駐車場の男、死んだわ」
例の、つんつん頭のことだ。
打ち所でも悪かったのだろう。
「あなたが殺したのよ」
「言われなくても知ってるさ」
「私、見たわよ」
「そうだな」
大勢の足音が近づいて来る。助けた女の子達なら嬉しいところだが、たぶん、俺はそれほどの幸運の持ち主じゃなさそうだ。
おおかた、警官達だろう。
「面倒くせぇなあ」
俺は、その場に仰向けになった。
どうせ、すぐに警官が来て、無理やりにでも立たされることになる。
それまでは、休ませてもらうことにしよう。
自分の両腕を枕に、見上げると、周りの人形は全てこちらを向いていた。
おそらく人形を固定していた軸は、それぞれ一本ずつだったのだろう。土台が陥没した時、土台が傾いて、大半の人形が横を向いてしまったのだ。
これは、偶然だ。
単なる偶然に決まっている。
人形の抱えた写真入りの額縁が、全て俺の方を向いているのである。
周り中、全部が笑みだった。
ツドイ・ハイデッシュの。
心の底からの、幸せそうな笑みだった。
「けっ」
俺も、笑みを返す。
だがそれは、苦笑にさえならなかった。
吐き捨てるような、困り果てたような、情けない笑みにしかならなかった。
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終章
ニコン市警は、署内に精霊課を持っていない。
そのため、捜査段階《そうさだんかい》だけでなく、容疑者が精霊であった場合の留置にも、他の市警本部の精霊課施設を借用することになる。
俺がトルバス市警の精霊留置場《せいれいりゅうちじょう》に放り込まれたのは、そういうわけだ。
床にも壁にも天井にも、おまけに鉄格子《てつごうし》にまで精霊文字の刻まれた留置施設である。
留置期間は、一週間だった。
その間、何度か取り調べを受けたが、しかし一週間めの朝、鉄格子の向こうへ俺を迎えに来たのは、いつもの警官だけではなかった。
二人の人物が、余分にくっついている。
「おはよう」
艶然《えんぜん》と微笑《ほほえ》むのは、スーツの女性である。
「少しは懲《こ》りたかしら、金髪くん?」
人間の男ならイッパツで参っちまいそうな美貌《びぼう》で、俺の顧問弁護士は苦笑する。
豊かな水色の髪も、今日はアップにまとめている。白いうなじが、ぐっとくる。
「ま、ちょいとな」
俺は鉄格子ごしに、彼女にウィンクを投げて見せた。
そいつを見とがめるのは、もう一人の人物だ。
「なにをお気楽な。いったい何度、檻《おり》に放り込まれれば理解するんですか?」
眼鏡の奥でしかめっ面の気の毒な男、マトリ・マタリスキ監査官《かんさかん》である。
「キミの担当になってから、どれだけ私の勤務評価が下がったことか」
そりゃま、そうだろう。
マトリ監査官が俺の担当になったのはクレメントの一件の時。それ以来、彼は俺の素行《そこう》を監視・監督し、場合によっては指導すべき立場にありながら、しかし当の俺はそれまでと何も変わらないわけで。
「そいつぁ、すまんねえ」
警官の開けてくれた鉄格子をくぐって、俺は監査官にもウィンクをサービスする。
「あくまで保釈《ほしゃく》に過ぎないんですからね、勘違いしないように」
トルバス市警本部の長い廊下を三人で歩きながら、マトリ監査官はそう言った。
「誘拐事件は犯人が行方不明だから開廷すら出来ませんがね、キミのやったことについては、審議《しんぎ》はこれからなんですから。無罪放免になったわけじゃないんですからね」
あのつんつん頭をぶん殴って、殺しちまった件だ。
「現行犯だものね」
水色の髪の美人は、苦笑と溜《た》め息《いき》だ。
「言っとくけどレオン、これは奇跡みたいなものよ」
「てぇことは、アレクシアは俺がやったことを、ちゃんと報告してるわけだ」
「ええ、そうね」
「安心した」
「そう?」
「ああ」
もし俺のやったことを誰にも言わずに黙《だま》ってたのなら、そっちの方が失望しただろう。
だが、彼女は真実を覆《くつがえ》しはしなかった。
それでこそアレクシアだ。
「てぇことは、キミには礼をしないとな」
「とんでもない。私はただ、普通に仕事をしただけよ」
「じゃ、あんたの方か?」
だがマトリ監査官は、俺を恨《うら》めしげに睨《にら》みつける。
「冗談でしょう」
市警本部の受付ロビーで、女弁護士は立ち止まって俺に向き直った。
「あなた、本当に法律ってものが判ってないのね」
「だからキミを雇《やと》ってるんだけどな」
その言葉に、美貌の弁護士はまたしても深い溜め息をついた。
「マジで、手こずりそうね、これは」
それから彼女は肩をすくめて、手で俺の背後を指す。
トルバス市警の、玄関口である。広い両開きのドアは開け放たれていて、その向こうにドアの幅と同じだけの広い階段が見える。
階段の下に、見覚えのある人物がいた。
三人だ。
「あの娘《こ》たちが証言してくれたのよ」
依頼主の、セナ・メイリン。
その妹、セナ・シャルミタ。
そして、ナバリ・トリクシー。
「あなたが躊躇《ちゅうちょ》してたら犠牲者《ぎせいしゃ》が増えたはずだ、あなたの行動はやむを得ない緊急措置《きんきゅうそち》だ、って。現に、助けられた娘の中には、衰弱死《すいじゃくし》一歩手前って娘が二人もいたしね。あなたの決断のおかげで全員が助かったんだって、主張してくれたの」
それが誰の入《い》れ知恵《ぢえ》なのか、考えてみなくても判る。
俺は苦笑しながら、建物の外へ出た。
それに気づいて、三人が階段を駆《か》け上《あ》がって来る。
「安心して」
俺の背後から、肩ごしに、優秀な女弁護士は囁《ささや》いた。
「あなたを有罪になんか、しやしないから」
「感謝」
俺は、囁きを返す。
最初に俺の真正面に辿《たど》り着《つ》いたのは、メイリンだった。
「レオンさん!」
続いてシャルミタが、深々と頭を下げる。
「ありがとうございました」
最後は、トリクシーだ。
「レオン!」
「ああ」
俺は三人の顔を見回して、それから、言った。
「俺の方こそ、ありがとうな」
そして、伸びだ。
「一週間ぶりの娑婆《しゃば》だぜ。お陽様が眩《まぶ》しくっていけねえや」
三人は顔を見合せ、そして、笑みを交わす。
俺だって、三人に負けないくらいの、にやにや笑いだ。
結局のところ、俺は暴れるだけ暴れて、最後の最後で彼女達に助けられたってわけだ。
まあ、俺らしいと言えば言える。
だとしたら、
「なあ」
とりあえず、感謝の意だけは伝えとかないとな。
「みんな、腹ぁ減ってないか?」
その言葉にトリクシーが、するり、とすり寄る。ポケットに突っ込んだ俺の左腕に、両手で絡みついた。指のギプスはそのままだが、包帯はいくらか減っている。
「いいですよ。今度こそ、ごいっしょします」
反対側は、なんとシャルミタだ。
「奢《おご》らせてください」
驚《おどろ》いた。この娘、そういう性格だったのか。
メイリンは、ただ苦笑して、それでも控えめに提案した。
「この先に、ちょっと美味《おい》しいところ知ってるんです」
なるほどな。だが、
「そいつぁ嬉しいが、今日は駄目だ」
「え?」
「今日はな、レオナルド・バーガーに行く」
「ファスト・フードですか!?」
意外そうなメイリンに、俺は、にっ、と笑って見せた。
「ああ。ロレッタが好きなんだよ、ハンバーガー」
かなりの重傷ではあったが、ロレッタのことだ、そろそろ病院の食事に文句を言い始めるころだ。
「山ほどハンバーガー抱えて、みんなでロレッタの見舞いに行く」
「はい」
メイリンに、
「賛成」
「いいですね」
トリクシーとシャルミタも同意する。
「さて。そうと決まったら……」
さっさと先に階段を降りて行くのは、俺の優秀なる顧問弁護士である。
「早く行きましょ。警察って、どうも好きになれないわ」
「賛成だな」
それから俺は肩ごしに、背後のマトリ・マタリスキ監査官を振り返る。
「あんたも、どうだい?」
監査官は一瞬、驚いたように目を剥《む》いてから、虫でも追い払うみたいにその手を振って、背を向けた。署内に戻ってしまうのは、きっとまだ手続きやら何やらが残っているのだろう。
その疲れ切った背中に、俺はほんの少し同情しちまった。
あくまで、ほんの少しだけ。
それから、
「行くか」
はい、と女の子達が応える。
俺は両側から女の子に絡みつかれて、だから階段を降りるのも、ちょっとばかり慎重にしなければならない。
その様子に、アップの髪を解いたリジェーナ・リン・ニヴァーホルト弁護士は、あからさまな溜め息をついた。
夏がきて、俺は何度か裁判所に足を運んだが、年が明ける前に無罪が確定した。
その間にロレッタは退院して、自慢の回《まわ》し蹴《げ》りも打てるようになった。
トリクシーは親の目が厳《きび》しくなって夜遊びが出来なくなったと文句を言い、メイリンは事件が報道されて有名になったせいか神曲楽士派遣事務所への就職が決まった。
シャルミタはその後も、元気でコレアル神曲学院に通っている。
俺の無罪判決が出たその日、アレクシアから電話があった。
おめでとう、と彼女は言った。
[#改ページ]
あとがき
「レオンが主役の物語が読みたいですねえ」
と言い出したのは、実は編集長である。
『ポリ黒』こと『神曲奏界ポリフォニカ』ブラック・シリーズの第四作め、『トライアングル・ブラック』の脱稿直後のことである。
ここで初登場したレオンガーラのことを、いたく気に入ってくださったらしい。
「彼は主役が張れるキャラですよ!」
そうなのか?
しばらく考えてみたのだが、たしか一ヶ月ほども経ったころだろうか、突然、レオンというキャラクターが「理解」出来た。サブ・キャラクターとしての彼ではなく、主役としてのレオンが「見えた」のである。
「こないだの話ですけど、あれ、書けますね。書き方が判りました」
「お!? じゃあ、枠を一つ空けます」
「は?」
「やっちゃいましょう! レオンの話!!」
「やっちゃいましょうって、誰が書くんですか、誰が!?」
「あれっ? やだなあ、あぁたに決まってるじゃないですか」
時に西暦二〇〇七年一月。
そう。GA文庫の編集長とは、そういうノリの人物なのである。
そんなわけで、ここに、『ポリ黒』の外伝でもない、しかし『ポリ金』とでも呼ぶべき独立シリーズでもない、何とも奇妙な一冊が出来上がってしまった。
これは「レオンの物語」である。
それ以外に、説明のしようがない。
だからタイトルも『レオン・ザ・レザレクター』とした。タイトルに必ず色の名前が入る、という固定パターンを外したのは、そういう理由である。
『ポリ黒』と時間線を並行しながら、『ポリ黒』では描かれることのないレオンの活躍を、どうかお楽しみいただければ幸いである。
そして、あなたがもし、本作で初めて彼に出会ったのなら、どうか『ポリ黒』でのレオンの活躍もご確認いただきたい。
ついでなので、宣伝気味に少しだけ解説しておこう。
この物語は、『ポリ黒』第五巻『神曲奏界ポリフォニカ レゾリューション・ブラック』と、同じく第六巻『〜ペイシェント・ブラック』との間に起きた事件を描いている。
レオンが、本作に登場のアレクシア刑事と出会ったのは『〜レゾリューション・ブラック』の事件である。そして本作の事件との絡みで、レオンはこの後、『〜ペイシェント・ブラック』に登場することになる。つまり、彼があそこにいたのは、そういうわけなのだ。
もともとシェアード・ワールドとは、複数の作品が一つの世界を補完し合う、という側面を持っている。『ポリ黒』シリーズと本作との関係は、特にその傾向が強いと言えるだろう。
ところで。
実はイラストを担当してくださる方を選定する際に、編集長が面白いことを言い出した。
「『ポリ黒』のBUNBUNさんとは全く方向性の違う人にお願いしたいですね」
これには、ちょっと驚いた。
なにしろ、すでにレオンは『ポリ黒』において、それなりの活躍を見せている。イメージだって、固まってきている。それを崩してしまおう、というのだ。
そして編集部がブッキングしてくださったのが、忍青龍さんである。
いやもう、引っ繰り返ったよ。
BUNBUNさんのレオンが「外見から内面に切り込んでゆく」ためのデザインであるのに対して、忍青龍さんのレオンは「内面から外見が構築されてゆく」描き方なのである。
お判りだろうか? この相違は、彼がゲストとして登場する『ポリ黒』と、ハナッから主役として登場する本作との、本質的な相違そのものなのだ。
お見事!
申し上げることなど何もございません!!
ただただ、感謝である。ありがとうございました。
さて、こうなってくると気になるのは「レオンの次の活躍は描かれるのか」ということではなかろうかと思う。
とりあえず、これだけは明言しておこう。
予定は、ある。
しかし、次に彼が主役を張るのが、いつ、どんな事件になるのかは、まだ私も知らない。
首を長くしてお待ちいただきたい。
にやり。
[#改ページ]
底本
GA文庫
神曲奏界《しんきょくそうかい》ポリフォニカ レオン・ザ・レザレクター
著 者――大迫純一
2007年11月30日  初版第一刷発行
発行者――新田光敏
発行所――ソフトバンク クリエイティブ株式会社
[#地付き]2008年7月1日作成 hj
[#改ページ]
修正
薄汚《うすぎた》い→ 薄汚《うすぎたな》い
上《あが》がって来る→ 上《あ》がって来る
置き換え文字
頬《※》 ※[#「夾+頁」、第3水準1-93-90]「夾+頁」、第3水準1-93-90
噛《※》 ※[#「口+齒」、第3水準1-15-26]「口+齒」、第3水準1-15-26
掴《※》 ※[#「てへん+國」、第3水準1-84-89]「てへん+國」、第3水準1-84-89
躯《※》 ※[#「身+區」、第3水準1-92-42]「身+區」、第3水準1-92-42
ヴ《※》 ※[#濁点付き平仮名う、1-4-84]濁点付き平仮名う、1-4-84