神曲奏界ポリフォニカ プレイヤー・ブラック
大迫純一
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目次
序章
第一章 誘《いざな》うは白き山
第二章 捩《ね》じれる想い
第三章 鳴り響く心
終章
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カバー・口絵・本文イラスト
BUNBUN
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序章
合鍵《あいかぎ》でドアを開けた女は、そろり、と足音を忍ばせて部屋に入った。
いつものピンヒールではなくゴム底のローファーに履《は》き替えているのは、足音をたてないためだ。
タクティカル・ライトのレンズも、赤いフィルターに換えてある。不用意に窓の方を照らしさえしなければ、これで外からは見えないはずだ。
冷えきった空気が、吐く息を凍らせる。
紅《あか》く鈍い光の輪の中に浮かび上がるのは、見慣れた執務室の光景だ。
だが、その部屋の主は、もういない。
死んだのだ。
当然だ、と彼女は思う。
女としての縁《えん》を切られたことまでは、我慢してもよかった。
だが、仕事は別だ。
私の座っている席をあの小娘が欲しがった、そんな理由で仕事を奪われたことだけは、許す気になれなかった。何の才能もない小娘の股《また》ぐらと、自分の才能とを天秤《てんびん》にかけられたことだけは、絶対に許せなかった。
絶対に、だ。
だから、彼は死んだ。
当然の報いだ。
そう、当然のことなのだ。
なのに、なぜ?
なぜ、こんなことに?
女は赤い輪が照らし出す机に近づくと、安物のジャンパーのポケットからハンカチを取り出した。
拭《ぬぐ》ってしまえばいい。
それで、終わりだ。
あるいはハンカチの繊維《せんい》でも残してしまうかも知れないが、そのハンカチもここを出ればすぐに処分するつもりだから、問題ない。そのために、わざわざこんな小汚い恰好《かっこう》で来たのだ。
そうだ。
何の問題もない。
綿密に練り上げた計画なのだ。
たしかに些細《ささい》なミスは、あった。それを、あんな愚鈍《ぐどん》そうな刑事に付け込まれた。
しかし、それだけだ。
あの男は言うならば、酒樽《さかだる》に開いたほんの小さな隙間《すきま》から、したたる酒を舐《な》めているようなものだ。奴《やつ》には、酒樽そのものをこじ開けるだけの力など、ありはしない。
唇《くちびる》に、笑みが浮かんだ。
タクティカル・ライトの明かりを頼りに、机の下を覗《のぞ》き込む。
そして、天板の縁《ふち》をハンカチで拭った。
……終わった。
これで、全ての証拠は消えた。
女の美しい唇から、会心の溜《た》め息《いき》が漏《も》れた。
照明が点《つ》いたのは、その時だった。
「こんばんは……」
心臓が縮み上がった。
その声。
お腹《なか》の底に響《ひび》く、低くて太い、その、声!!
「やはり、おいでになりましたね。タダ・コリエットさん」
振り返るコリエットの頬《ほお》から、血の気が失せてゆく。
「そんな……」
嘘《うそ》だ。
こいつが、ここにいるはずがない。
「尾《つ》けたの……?」
「いいえぇ、とぉんでもない。そんな失礼な真似《まね》、しやしませんよ」
大袈裟《おおげさ》に両手を広げて見せる、男の身長はたっぷり二メートル半。
しかも、ただ背が高いだけではない。胸板は厚く、肩幅は広く、そして腕は太い。白いシャツも、さらにその上の上着も黒いコートも、激しく動けば裂けてしまうのではないかと思うくらいに張り詰めている。
シャツの首もとを開いてネクタイも締めていないのは、彼がだらしないせいではないだろう。どう考えても、その太い首に合うネクタイなど売っていそうもないからだ。
マナガ、というのが男の名である。
本名は、やたら長ったらしいので、結局コリエットはまだ憶《おぼ》えきれずにいた。
だが、それで充分だ。
マナガ警部補。
……敵だ!
「ここで、ずっとお待ちしてたんです。あなたが、ここへ来られることは、ハナッから承知してましたから」
「嘘……」
「嘘じゃありません」
クセの強い髪の下で、岩から無造作《むぞうさ》に彫《ほ》り出《だ》したようなごつい顔が、子供みたいな笑みを浮かべる。
「まあもっとも、断言したのは私じゃなくて、相棒の方なんですがね」
相棒。
そいつは、マナガのすぐ隣……大きな銀色のトランクに腰を下ろしている。
こちらは、正真正銘の、子供だ。
たしかに、トルバスの法律では成人として扱う年齢ではある。だが小柄であることを度外視しても、やはりその人物は『子供』だった。
少女である。
長い黒髪に、黒い瞳《ひとみ》。いつも黒いケープを羽織《はお》って、その裾《すそ》から覗くワンピースのスカートも黒い。
足元まで黒で覆《おお》うその姿は、白い肌と相まって、まるで生きた白黒写真だ。
マティア警部。
この歳で。
「実を言いますとね、この部屋の指紋は、もうとっくに採取してあるんです」
話し続ける巨漢《きょかん》の傍《かたわ》らで、少女は前髪の隙間から、真っ直ぐにコリエットを見据《みす》えている。まるで全裸を凝視《ぎょうし》されているような、いたたまれなさだ。
「実際のところ、山ほど残ってました。残り過ぎてて、お話にならなかったんです。五人や一〇人じゃない。何十人もの指紋が混じりあってて、どれが誰の指紋やら判《わか》ったもんじゃなかったんですよ」
「それじゃあ……」
「ええ。あなたの指紋らしきものも、何点か見つかってます。でも、それがいつ付いたものかなんて、特定は出来ません。だいいち、本当にあなたの指紋かどうかも判りゃしないような状態でしてね」
やっと判った。
ハメられたのだ。
「そうなんです……」
無精髭《ぶしょうひげ》の浮いた頬にかすかな苦笑を浮かべて、マナガ刑事がどこか寂《さび》しげに見えるのは、気のせいだろうか。
「問題は、指紋そのものじゃないんです。まあ鑑識《かんしき》の入るのが明日だなんて言ったのは私の嘘なんで、そいつぁ責められても仕方ありませんがね」
そうだ。
そう言われたから、来たのだ。
こんなところへ。
「本当の問題はね、私の話を聞いたあなたが、なぜ今夜、ここへ来られたかってことなんです」
そんなこと、
決まってる。
そこに指紋が残っていることを知っているからだ。
「よござんすか? この社長室は犯行現場じゃない、はず、なんです。誰《だれ》もが、そう思ってます。ここが本当の犯行現場だってことを知ってるのは、犯人が共犯として利用したボウライと、それから犯人だけなんですよ」
その言葉に、コリエットは笑みを浮かべる。
自嘲《じちょう》の笑みである。
「それと、そこのお嬢さんと、ね」
「はい、そのとおりで」
巨漢の方は誇らしげな笑みで、しかしどこにも勝ち誇ったところがない。その理由に気づいて、コリエットは溜め息をついた。
この男が誇りにしているのは、相棒だ。
傍らの小さな少女なのだ。
「驚かせるだけのつもりだったのよ」
口にしてしまってから、コリエットは驚いた。
「殺したいなんて、思ってなかったわ」
どんなことがあってもそれだけは言うまい、と思っていたことが、唇から漏れてゆく。
「私の気持ちを判らせてやるだけでよかったのに……」
だが、止められなかった。
「愛してたのよ」
「ええ、存じてます」
巨漢が、目を細める。
まるで、初孫を抱く老人のように。
「誰だって、罪を犯すことそのものを目的にする人はいません。愛情とか信頼とか誇りとか、大切なものを守るために、やっちまうもんなんです」
深く響くその声が、なんだか可笑《おか》しかった。
「この世に悪人なんていない、って口ぶりね」
「ええ。そう言ってるんですよ」
なんということか。
彼の言っていることが真実かどうかはともかく、彼の笑みには、嘘がなかった。
「どんな善人だって、罪は犯すもんです」
そして、コリエットは初めて気がついた。
この一二年間で、こんなに優《やさ》しい笑みを向けてくれたのは、この男だけではなかったか。
「自供《じきょう》していただけますか」
まるで、デートにでも誘われたような気分だった。
そう。ベッドではなく、デートに……。
ならば、答えは決まっている。
「ええ、いいわよ」
断る理由が、どこにある?
「あの爺《じじ》ぃがどれだけクソ野郎だったかも、きっちり喋《しゃべ》ってあげるわ」
「よござんすよ」
言ってから、彼は首をひねって奥のドアに声をかける。
「おおい。頼むよ」
ドアが開くと、数人の警官が姿を現した。
「丁重にエスコートして差し上げるんだよ? 手錠は要らないからね」
はい、と応えるのは、若い私服警官である。緊張した顔が、まるで小犬のようだ。
両脇《りょうわき》に制服の男達を従えて、コリエットは一二年間を勤め上げた部屋を、後にする。
廊下に出て、立ち止まった。
「刑事さん」
振り返ると、巨漢の刑事はまるで恋人を見送るみたいに、開かれたままの戸口に立っている。
「はい」
「あの爺ぃに出会う前に、あなたに会いたかったわ」
「私ゃ精霊ですよ」
「人間の男よりはマシよ」
黒衣の小さな少女が、マナガのコートの裾を握りしめる。
挑むようなその視線に、コリエットはかすかに笑みを返してから、両脇の男達に言った。
「さあ、行きましょう」
そうだ。
タダ・コリエットは、つねに男を従えて歩くのだ。
「だはぁ」
犯人が連行されてゆくのを見送ったマナガ警部補は、その姿が廊下の陰に見えなくなるや、腹の底から溜め息を吐き出した。
「お疲れさん」
そう言って、ごつい手を肩に置いてやる相手は、相棒である。
「マナガも」
見上げる少女の顔には、表情がない。
彼女が笑みを見せないのはいつものことだが、それでもマナガだけは例外だ。二人きりになれば、マティアはくるくると表情を変える。この年頃の女の子なら誰でもそうであるように、だ。
だが今夜は、表情が失せている。
疲れ切っているのだ。
それはしかし、マナガの方も同じだった。むしろ、この小さな少女がマナガと同じように活動しているということは、驚くべきことだ。たとえ、相棒の巨漢よりも三時間ばかり多く仮眠をとっているにしても、である。
「帰ろう」
細く透明な声で彼女が言うのは、しかし、家に、ではない。
市警本部に、だ。
これから署に戻って、報告書を作成しなければならない。
休めるのは、それが済んでからだ。
「そうだな」
大きな銀色のトランクを下げたのとは反対の手で、巨漢はマティアを抱き上げる。
胸の前で曲げた腕に、少女が座る恰好である。
マティアの顔が、ほとんどマナガの大きな顔と並んだ。
「んー?」
間近から横顔を見つめるマナガに、振り返った少女は距離をとろうともしない。
「なに?」
「お前さん、ちょいと背が伸びたか?」
よほど眠いのだろう。反応するまでに、二秒ばかりかかった。
「莫迦《ばか》」
ごとり、ごとり、とマナガの足音が暗い廊下に響く。
「そう言えば……」
ぽそり、とマティアが耳元で呟《つぶや》いた。
「ここんとこ、ちっとも休んでなかったね」
「まあな」
それはしかし単に、忙しい、というだけの話ではない。
二人が所属するのは、ルシャゼリウス市警察の精霊課である。
精霊の関与が予想される事件を専門に捜査する、特殊捜査課だ。
精霊とは『人間の善《よ》き隣人』である、というのが一般認識である。事実、人間と精霊とが互いに関《かか》わりを持つようになってから数百年とも数千年とも言われる歴史の中で、精霊はつねに人間を助け、支え、しかし驕《おご》ることなく共存してきた。人間よりも長命で、人間よりも頑強で、人間よりも優れた能力を持つ精霊達が、人間を対等の存在として……隣人としてきたのである。
ところが、その均衡《きんこう》が崩《くず》れ始めている。
ここ数年のことだと言う者もいれば、『嘆《なげ》きの異邦人』事件のころからその萌芽《ほうが》はあったと言う者もいる。しかしいずれにせよ、精霊が単なる『隣人』ではなくなりつつあるのは、たしかだった。
精霊犯罪、あるいは精霊事件と呼ばれる、ある種の事件の増加である。
人間には不可能に思える殺人、人間には不可能に思える窃盗、人間には不可能に思える傷害……、そういった事件が近年、増加傾向にあるのだ。
その事実を知らぬ人々は、多い。
それらの事件の多くが、迷宮入りするからだ。
しかも、数少ない解決事例の中でも、公表が不適切と判断された事例は、闇に葬《ほうむ》られる。人間よりもはるかに長命で強靱《きょうじん》で優れた存在である精霊が、精霊よりもはるかに短命で脆弱《ぜいじゃく》で能力に劣る人間という存在に対して、仮にその一部でも牙を剥《む》く場合のあることが公表されてしまったら…………。
この社会は、崩壊《ほうかい》する。
人間の社会とは……文明とは、精霊に助けられ精霊に支えられ、精霊とともに築き上げてきたものだからだ。
まるで、とマナガは思う。
その『崩壊』を望む者が闇の中に潜《ひそ》んででもいるかのようだ。
旧《ふる》い記憶が、むくりと動く。
思い出すのは、顔だ。
奴の。
あの日の、奴の、あの顔だ。
「マナガ?」
「おう?」
「違う。こっち」
マティアがマナガの肩ごしに、背後を指差す。
乗るべきエレベーターを、通り過ぎてしまっていたのだ。
「どしたの? 疲れた?」
「ああ、まあ、そんなとこだ」
苦笑して、スイッチを押すと、すぐにエレベーターのドアが開いた。先に降りたワツキ刑事が、気を利かせて上げておいてくれたのだろう。
かすかなモーターの唸《うな》りをたてて、エレベーターが降下してゆく。
一つずつ横へ移動してゆく階数表示の数字を見上げて、マティアがぽつりと言った。
「休暇、欲しいねえ」
「ああ。休暇、欲しいよなあ」
その呟きを聞いたのが奏世神《そうせいしん》であったのか、それとも魔であったのかは、定かではない。
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第一章 誘《いざな》うは白き山
1
翌日。
もっとも、ナダキ・エデルシオ殺害容疑でタダ・コリエットを逮捕した当の二人にとっては、まだ当日である。
署に戻ってきて、報告書を書き上げた時には、すでに朝だったからだ。
仮眠しよう、と部屋を出たところで、同僚のシャドアニに呼び止められた。
課長が呼んでいる、という。
そしてマナガとマティアの二人は、驚くべき通達を受けて、今、ここに立っている。
ルシャゼリウス市警察本部の正面、建物を背にして青空も眩《まぶ》しい空を見上げた二人は、ただ呆然《ぼうぜん》と立ち尽くしていた。
「嘘《うそ》みたい」
そう漏《も》らすのは、マティアである。
「ああ、嘘みたいだ」
その隣にそびえ立つマナガも、やはり阿呆《あほう》のように空を見ている。
朝の空だ。
冬の空はどこまでも青く、浮かぶ雲は白い。
「一週間?」
「一週間だ」
眠気は、吹っ飛んでいた。
歴史上、初めてこの地を踏《ふ》んだ古代の人々は、眼前に広がる全く手つかずの草原を見て、きっと今の二人と同じ気持ちだったに違いない。
何でも出来る。
何をしてもいい。
二人の刑事と古代人との違いと言えば、古代人の前に広がったのが『土地』であったのに対して、マナガとマティアの前にあるのが『時間』であるという違いだけだ。
そう。
一週間の。
「何する?」
「何しよう」
「いろいろ出来るよね」
「いろいろ出来るよな」
マナガは、相棒を振り返った。
マティアも、相棒を見上げていた。
「休暇だ」
「おう、休暇だ」
いつもは笑わないマティアの頬《ほお》が、みるみる緩《ゆる》んで、笑みになる。
一方のマナガの方だって、口元にだらしない笑みを浮かべている。
「とりあえず、帰ろうや」
「うん」
「ちょっと寝てから、飯だ」
「うん」
「それから」
「それから……?」
「それから、いろいろだな」
「そうかあ、いろいろかあ」
精霊課は、特殊捜査課である。
要求される任務は過酷であり、それゆえ採用基準も高い。この事実は、全国的に精霊課捜査官の不足を招く結果となっている。
現に、神曲の都と呼ばれる将都《しょうと》トルバスでさえ、全署の中で精霊課を設置することの出来た署は約半数。そのため精霊課の捜査官は、複数の市を管轄することを余儀《よぎ》なくされているのである。
通常シフト以外に休暇が取れるなど、奇跡に近い。
しかもそれが一週間ともなれば、立派な長期休暇だ。
無論、以前から休暇の申請を出してはいた。だがそれが、こんな形で目の前に転がって来るなど、予想もしなかったことだ。
ことによると、労働基準局の監査《かんさ》が近いことも、理由の一つかも知れない。あるいはまた、単に二人の功績が認められたボーナス休暇のようなものであるのかも知れない。
だが当の二人にとって、それはどうでもいいことだった。
現に、目の前に『一週間』がある。
その事実こそが、重要なのだ。
「よし」
マナガがその太く長い腕をマティアの背後に回すと、少女はその腕に背中をあずけてくる。慣れた動作で、そのままマナガは少女を胸の前に抱き上げた。
続くのは、宣言である。
「行くぞ」
「うん、行こう」
マナガが警官になったのは、マティアと出会って半年後の精暦一〇〇二年。
マティアが後を追うように警察官になったのは、その三年後の精暦一〇〇五年……一五歳の誕生日を迎えて成人した、その直後である。
この時点ですでに神曲楽士の資格を取得していたマティアは、ただちにその契約精霊であるマナガとコンビを組むこととなり、さらにたったの数ヶ月でマナガとともに精霊課に配属された。これにはハピリカとの国交に関わる大きな事件を解決したことが関《かか》わっているが、本人にはあまり実感はないようだ。
ともかくマナガに言えることは、彼女の現在の地位が決してお飾りではないという事実だ。実際のところ、精霊課勤務となって以降だけを見てみても、彼女の力で解決に導かれた事件は、一つや二つではないのである。
とは言え、だ。
それでもマチヤ・マティアは、まだ子供なのである。
この冬の間に、やっと一七歳だ。
トルバスの法律では、たしかに立派な成人だ。しかし社会的に見ても、その年齢ですでに就職している者は少数派だった。実際のところ、三国戦争時代の名残とも言えるこの年齢規定を改めようとする社会運動も起きているほどなのだ。
少なくともメニス帝国において、マティアの年頃は、まだまだ勉強と遊びに時間を費やすべき年齢なのである。
「なんか、逆に困っちゃうよね」
黒い四駆の助手席に乗り込んだマティアは、心なしか頬が紅《あか》い。
「なんか、こんなの考えてもみなかったもんね」
そのとおりだ。
考えてみればマティアはマナガと契約して以降、神曲楽士の資格の取得と警官になるための勉強に三年を費やし、楽士警官となってからはずっとマナガといっしょに犯罪を追っているのだ。
遊ばない、休まない、それがマティアにとっての日常になっていたのである。
一六歳の少女の、だ。
マナガの運転するクウォンタ・クルーガー4WDが、朝の大通りに滑り出してゆく。渋滞が始まるにはまだ早いので、流れはスムーズだ。
最初の信号で停止した時、前方のビルの屋上に、看板が見えた。
煙草《たばこ》の宣伝だ。
冠雪《かんせつ》した険《けわ》しい山を背景に、手前には雪原が広がっている。
そのど真ん中に煙草のパッケージが合成されていて、惹句《じゃっく》はこうだ。
『輝く雪の白さ。新パッケージのメルバイロ・シャイニング・ボックス』
煙草には興味がなかったが、しかしその背景にはマナガも心を惹《ひ》かれた。
「そう言や、雪は見たことがないな」
マティアは、応《こた》えなかった。
見ると、少女は助手席で寝息をたてていた。
ホルムッド通り一〇三四。似たような縦長の共同住宅が、肩を寄せ合うように並ぶ一角に、そのアパートはある。
名前はなく、単に『アパート』とか少し勿体《もったい》ぶって『アパートメント』とか呼ばれるのは、その建物の持ち主の性格を表しているとも言えた。
立地そのものは、決して悪くはない。市の中心部に近く、署までも車で三〇分ほどだし、徒歩圏内にコンビニエンス・ストアが二軒と、レンタル封像盤《ふうぞうばん》ショップもある。地下鉄の駅も、近いとは言えないが歩いても苦痛を感じるほどではない。
しかしマナガが何より気に入っているのは、そのアパートの持ち主兼管理人が、彼と同じ精霊であることだった。
もっとも、
「おやおや。朝帰りかい」
口うるさいのが珠《たま》に瑕《きず》ではあったが。
「本当に、あんたときたら、生活が乱れてるねえ」
建物の前の階段を上がってドアを開けると、薄暗い玄関には共同ポストと向き合う格好で管理人室がある。その窓口のガラスの向こうから、管理人がこちらを見据《みす》えていた。
カリナ・ウィン・チトクティルサ。
外見は太った中年女性に見える。丸顔で、たるんだ頬に挟まれた唇《くちびる》はいつも不機嫌そうに引き結ばれ、眼鏡の奥の目は肉食獣のように鋭い。精霊の容姿としてはマナガも標準的とは言えないが、カリナはそれ以上に精霊らしくない精霊だった。
「やだなあ、仕事ですよ」
こそり、とマナガの返事は囁《ささや》きである。胸に抱え上げたマティアが、まだ寝息をたてているからだ。
「やれまあ、可哀相《かわいそう》にねえ」
そう言いながら、カリナは煙草の煙を吐き出す。紫がかった煙は窓口のガラスにあたって、四方に広がった。
「あんたねえ、そのぶっとい腕に抱いてるのが人間の女の子だってことは、ちゃんと判《わか》ってるんだろうね」
「はあ……まあ」
「まあ、じゃないだろうよ。人間はね、あたしらに比べりゃ、ずっと脆弱《ぜいじゃく》なんだよ。昔っから言うだろ? 仕事ばかりで遊ばない、ジャックは今に気が狂う」
「ジャックってな、誰です?」
マナガの質問に、カリナは顔をしかめて、手で虫でも叩《たた》き落とすような仕種《しぐさ》をした。
「知るもんか。とにかく、人間はたまに遊ばなきゃ気が変になる、ってことさ」
「はあ」
そう応えて、マナガは、はた、と気がついた。
「いや、そう言えばですね……」
言いかけた巨漢の言葉を、
「知ってるよ」
カリナは、遮《さえぎ》る。
「だから、言ってるんだよ」
「あ……はあ」
マナガにも、カリナがどのくらい旧《ふる》い精霊なのかは判らない。それどころか、どの枝族《しぞく》に属するのかさえ、判然としないのだ。
しかし一つだけ言えることがある。
彼女は、只者《ただもの》ではない。
本人達がさっき知ったばかりの休暇のことについて彼女がすでに知っていたとしても、驚きはしても不思議だとは思わなかった。
「とっとと寝床に入れてやりな。計画だか何だかは、それからだね」
マナガは苦笑だけを返して、薄暗い階段を上がる。
部屋は、三階だ。
ドアのカギを開ける時、胸の底から欠伸《あくび》がこみあげてきた。
2
目覚ましは、大きな旧式のものだ。電池ではなくゼンマイ式で、セットした時刻になれば本体の上に取り付けられた鐘が、下品なまでの大きな音で鳴り響《ひび》く。
実は、四代めである。
その前の三つは、寝惚《ねぼ》けたマナガが叩き潰《つぶ》してしまった。
彼にしてみれば単に目覚ましを止めようとしただけだったのだが、まだ半《なか》ば眠っているも同然の頭で枕元《まくらもと》を手探りするものだから、力の加減など出来るものではない。どの時計も、朝が来るたびに巨大な掌《てのひら》に叩かれて、二ヶ月とはもたなかったのだ。
この四代めは、少なくとも今のところは無事である。と言っても、マナガに叩かれても潰れなかった、という意味ではない。この目覚まし時計は、マティアと暮らすようになってから買ったものだからだ。
おかげで毎朝、マナガの大きな手ではなく、マティアの小さな手でスイッチを切ってもらえるわけである。
その朝は、しかしいつもと少しばかり様子が違っていた。
マティアの方が目覚ましを止めるところまでは同じだったようだが、いつものように起こされなかったらしい。
「むう……」
マナガはベッドに身を起こして、ごつい顔の割りには可愛らしい目を、しぱしぱと瞬《まばた》いた。カーテンの隙間《すきま》から陽光が差し込んで、いささか眩《まぶ》しかったからだ。
昨日は、二人で夕方まで寝ていた。
夜になって目が覚めて、いっしょにティエントの店まで行って夕食を摂《と》り、帰宅してからまた眠ったのだ。
よくこれだけ眠れたものだ。だがおかげで、すっきりと爽快《そうかい》だった。
寝室には、ベッドが二つ。キング・サイズはマナガ用、マティアのベッドは子供用の小型である。
「むう?」
隣のベッドが、空になっていた。
毛布はちゃんとベッドの足元の方に畳《たた》んであるし、その上にはパジャマも一揃《ひとそろ》い、これもちゃんと畳んで置かれている。スリッパもベッドの下に揃えてあるのを見ると、マティアはちゃんと着替えて起き出した後のようだ。
「むう」
三度めに唸《うな》って、マナガは寝室を出る。
パジャマの模様は、クマちゃん柄《がら》だ。パジャマを買いに行った時、彼の躯《からだ》に合うサイズと言えば、これしかなかったのだ。
申し訳程度の短い廊下を抜けて、キッチンは玄関とリビングが兼用である。
カウンターの向こうで、髪を後ろでまとめた少女が、くるくると立ち働いていた。
振り返って、
「おはよう」
対するマナガの応えは、喉の奥の唸りである。
「むう」
「ごめんね。起こしちゃった?」
照れ臭そうに少女は笑う。だが中古のテレビの上の壁掛け時計によると、もう時刻は昼前である。
「いや、まあ。そろそろ起きなきゃな」
精霊にも、睡眠は必要だ。
本来は物理的な実体を持たない彼らも、物質化によって『肉体』を構築する際には、人間や動物のそれに準拠した構造を採《と》る。それが最も合理的だからだ。したがって、少なくとも物質化を続けている限り、その『肉体』は少しずつ消耗《しょうもう》する。人間や他の動物が眠らずにいると消耗するのと、何ら変わりはない。
食事についても、それは同じである。
物質化による消耗を補填《ほてん》するのに最も手軽な方法は、人間と同じように食事を摂ることだ。摂取した食物は精霊の体内で直接、エネルギーに転換される。
無論、この転換にも相応のエネルギーを消費するため、神曲のような爆発的な補充は望めないが、それでも普通に生活するだけならこれで充分だ。現に、物質化したままで神曲を得ることなく何年も過ごす精霊も、少なくはないのである。
ともあれ、精霊が人間と違うのは空腹を感じないことくらいだが、それでも食事によって得られるものもまた、原理は違えど本質は同じであると言える。
つまり、
「旨《うま》そうだな」
遅い朝食の匂いに、にんまりと笑みを浮かべることくらいは、するのである。
「もう出来るよ。着替えといでよ」
「おう、判った」
応えてから、気がついた。
マティアの服装が、いつもと違う。エプロンの下のワンピースが、黒ではなく薄い水色なのだ。
普段着である。そう言えば、しばらく見ていなかった。
マナガはこっそりと笑みを浮かべてから、寝室へ引き返す。
寝室の隅に置かれた衣装ダンスは、これもまた中古品である。マティアのベッドを今のものに換えた時に、空いたスペースに押し込んだのだ。
もっとも、中身は大して詰まっているわけではない。
精霊課勤務になる前に着ていた二人分の制服と、同じく仕事着が何着か吊《つ》られている。
後は、マナガの普段着だ。
ビニールに包まれたままのシャツとジーンズを手にして、マナガは苦笑した。考えてみれば、『普段着』のはずなのに着るのはこれが初めてだ。本部か現場にいる以外は家で寝るだけの生活が続いていたせいで、肝心の『普段』がなかったのである。
そして同時に、胸の奥が痛む。
そんな生活を、マティアにも強いていたのだ。
「水色か……」
それは、マナガがマティアと出会ったころに買ってやった、二着のうちの一方だ。
もう一着は今、別の少女の手元にある。
袋から出した新品のシャツとジーンズに着替える。どちらも、XLラージだ。ジーンズは何とか入ったが、紅いピン・ストライプのシャツのボタンは、やはり上まで留めることは出来なかった。上から三つは外したままで、それでもあまり力むと胸か背中が弾《はじ》けそうだ。袖《そで》の方も、注意して動く必要があるだろう。
タンスを閉める時、扉の内側の鏡に自分の姿が写った。
見慣れない格好《かっこう》に、いささかくすぐったい。
マティアが久しぶりに水色のワンピースを着ていたその理由を、マナガはキッチンに戻ってから、ようやく知ることになった。
一番奥の、壁際のカウンター・チェアに座る。それだけ支柱が金属製の、マナガ専用である。すでにカウンターには二つのシチュー皿が置かれて、熱いクリーム・シチューが湯気をたてていた。
「ほう。こりゃ昼間っから、ご馳走だな」
えへへ、と笑ってエプロンを外した少女は、マナガの隣に席に飛び乗る。
「ちょっと思い出しちゃって」
言いながら、マティアが塗装の剥《は》げかけたカウンターの上に滑らせるようにして寄越すのは、薄い黄色の封筒である。
見覚えのある文字で、ていねいに住所が書かれている。その下に並んでいるのは、マティアとマナガの名前である。
「シェリカか?」
「うん。今朝、ポストに入ってた」
手にとってみると、封は切られていなかった。
「なんだ、まだ開けてないのか」
「だって、宛《あ》て名《な》が『マティア様、マナガ様』だもん」
二人で開けねばならぬ、と言っているのだ。
用意周到にもマティアが手渡すペーパー・ナイフで、マナガは封を切る。中身を広げてカウンターに置くと、マティアも覗《のぞ》き込みにきた。
「大好きな、かわいいマティアと、でっかいマナガのおっちゃんへ」
くすくすと笑いながら少女が読み上げる、それが手紙の書き出しである。
差出人は、サジ・シェリカ。
マティアにとっては、おそらくただ一人の友人だ。
『大好きな、かわいいマティアと、でっかいマナガのおっちゃんへ。
元気ですか? あたしは元気。
学校の方は、やっぱり編入じゃなくて、春から一年生としての入学になりそう。
まあ、あんまり年齢の関係ない学校だから、平気っちゃあ平気だけど。
とにかく、いけるとこまで、いってみるつもり。その件については、がんばるから見ててね、としか言えないけどね、今のところは。
パパの仕事の方は、ようやく一息ついた感じで、こないだ一週間ほど旅行に行きました。
写真が入ってるから、見てちょ。
でも、真っ黒になってるからって笑ったらコロス(うそうそ)。
オミテックがまた新しい事業に進出するとかで、また忙しくなりそうらしいけど、あたしも忙しくなっちゃうから平気。
て言うか、自分の才能とか将来とかのこと考えられるようになる日がくるなんて思ってなかったよ。
二人には本当に感謝してる。マジで。
あー、こういうのは、ちゃんと顔見て口で言った方がいいね。
今度、言う。
その時は、照れ臭くても、ちゃんと聞け(命令)。
そんなとこかな?
そんなとこだな。
そんじゃ、また手紙書くからね。
マティアもたまには、手紙よこしなよ。嫌われちゃったかと思って寂《さび》しいぞ。
うそうそ。信じてるよん。
またね。
ちゅっ。
マティアにはちょっと負けてるかも知んないけど、かわいいサジ・シェリカより
〈追伸〉
忘れてた。
マナガのおっちゃんが開けた大穴は、ちゃんと直りました』
ほとんど一気に読み終えて、それからマティアはもう一度、最初から黙読《もくどく》する。そしてマナガの方を振り向いて、にっ、と笑った。
「元気そうだ」
「ああ。相変わらずの、お元気娘だな」
「返事、書かなきゃ」
「おう。書いてやんな」
「今度はマナガも書くんだよ?」
「ええっ!?」
「こないだも、書かなかったでしょ? シェリカはちゃんと、あたしとマナガに書いてきてくれるのに」
「まいったなあ……」
正直言って、手紙は苦手だ。
もっと正直に言うと、マナガは手紙を書いたことがない。
本格的に人間との関《かか》わりを持つまで……正確にはマティアと出会うまで、マナガは手紙というものの存在さえ知らなかった。そんなものは必要がなかったのだ。
無論それ以降は、ちゃんと勉強もしたし人間の文字も読み書き出来る。とは言え、今までは仕事上の報告書だの始末書だの筆記試験の記入だの以外に、その技能は必要なかったのだ。
「この休暇の間に、ちゃんと書くんだよ?」
マティアの駄目押《だめお》しに、
「うぉい」
ほとんど唸りのような、それは返事である。
「んじゃ、食べよっか。冷《さ》めちゃう」
言いながら、少女は手紙をきれいに畳んで、ていねいに封筒に戻す。
その封筒から、光沢のある紙片がはみ出しているのが見えた。
「それ、写真じゃないのか?」
「……あ」
そう言えばシェリカの手紙には、写真が入ってる、と書いてあった。
抜き出してみる。
「わぁ……」
それは、一葉《いちよう》の記念写真だった。
写っているのはサジ・シェリカと、その父……サジ・デルウィッツである。
シェリカは鮮やかな黄色の髪の愛くるしい少女、デルウィッツの方は面長《おもなが》の誠実そうな中年男性だ。どちらも雪の斜面に立って、足にはスキー、手にはストックを持っている。スキー・ウェアはゴーグルまでお揃いだ。
「ほほう、これはこれは……」
思わず、マナガは苦笑する。
写真に写った二人は、目の周りだけを残して真っ黒に雪焼けしているのだ。マナガの笑みは、初めて出会った時のシェリカを思い出したからだった。
その笑みに、マティアがすかさず突っ込んだ。
「笑ったらコロス、って書いてあったよ」
「うそうそ、って書いてあったじゃないか」
「言ってやろ」
「すまん。悪かった」
そして、ふと思い出す。
「ツゲ事務所も、三日ほどスキー旅行に行くとか行ったとか、なんか言ってたな」
「ああ、うん。言ってたね」
「スキーか……」
「うん」
マティアが写真を封筒に戻し、二人は揃って手を合わせる。
「じゃ、いただきます」
「おう、いただきます」
シチューはちゃんと時間をかけて煮込まれていて、つまりマティアはけっこう早起きだったらしい。あるいは、マナガが昼まで起きてこないことを見越していたのかも知れない。
実際、今回はいささかハードだった。最後の三日間は、マナガは一睡《いっすい》もしていなかった。いくら精霊でも、物質化している以上、それはかなり消耗する状況だ。
一方のマティアは何度か限界がきて、数時間の仮眠をとっている。彼女にしてみれば、それは負い目だったのかも知れない。
気にするな、と言っても気にするのが、マティアなのだ。
もっとも、とマナガは思う。
それは私も同じことだがな……。
「お前さんは」
大きなジャガイモを口の中でもごもごやりながら、マナガは相棒に声をかける。
「スキーは、したことあるのかい?」
「ないよ」
応えるマティアも、もごもご。
「マナガは?」
「ないなあ」
「ふうん」
もごもご。
もごもご。
「行ってみるか」
それは、思いつきだった。
「ほんと?」
本当に、単なる思いつきだった。
「ああ。実はな、私ゃ雪原てやつさえ実物を見たことがないんだ」
「あたし、あるよ」
「ほう。どんなだい」
「綺麗《きれい》だよ。寒いけど」
「ほう」
「見たい?」
「うむ、見たいな」
「行く?」
「行こうか」
マティアが、にいっ、と笑う。
「休暇だもんね」
「ああ、休暇だ」
「一週間だもんね」
「ああ、一週間だ」
二人は笑みを交わして、遅い昼食を平らげた後、大急ぎで準備をして、アパートの部屋を出た。
3
ソルテム山は、ポリフォニカ大陸の南に位置する、メニス帝国最大の山系である。
将都トルバスに密接し、大陸の他の地域からトルバスを隔離《かくり》するかのように東西に横たわるため、その山もまたトルバスの一部であるかのように思われがちだが、実際にはそうではない。
将都トルバスのどの市もソルテム山の麓《ふもと》までで、それ以北は全て、どの将都にも属さない帝有地となっている。
これは、徹底した自然保護のためであるとも、次なる戦時に備えるためであるとも言われているが、実際の理由は定かではない。とは言え、必要な手続きによって有用性が帝国政府に認められた場合は、各自治体のみならず民間企業に対しても、土地開発の許可を含む一定地域の貸与《たいよ》が認められるのである。
東ソルテムのデラン高原スキー場も、そういった企業への土地貸与によって出来たスキー場だった。
トルバスから見れば、ソルテム山頂の向こう側である。そのため眼下には未開発の荒れ地が広がるだけなのだが、それでも人気のプレイ・スポットであることには違いない。
何しろ、地理的にはトルバスを挟んで対角線上に位置するユドノマキ市の南端からでも、高速を使えばその日のうちに到着出来るほどの、お手軽さなのだ。
トルバス都の庶民にとって、スキー場と言えば東ソルテムのデラン、なのである。
つまり、マナガとマティアにとっても、だ。
だから遊びに疎《うと》い二人でも、だいたいのところは事前に理解していた。スキー場周辺にはいくつもの宿泊施設があり、そこではスキー用具の貸し出しや、申し込めばインストラクターによるコーチも受けられるということ。最寄りの駅は山頂を隔《へだ》てているので送迎バスが出ていることや、どの施設にも広大な駐車場が完備しているということ。
それに、旨いシカ肉を喰《く》わせる店もあるということ……。
ただし。
一つだけ、誤算があった。
「あれぇ? この道じゃないのかなあ?」
ハンドルにのしかかるようにして前方を見ながら、マナガが漏らす。
その隣ではマティアが、前が見えなくなるほど大きな地図を広げて、前方を指差した。
「その先の三叉路《さんさろ》、道なりに直進」
「それって、さっきも言ってなかったかい?」
不審げに、マナガが地図を覗き込む。
「さっきのは、変則五叉路《ごさろ》だったでしょ? 次のは三叉路」
「むう」
迷っていた。
盛大に迷っていた。
それも、ただ道を見失っているだけではない。宿を求めて彷徨《さまよ》っているのだ。
山道である。
陽暮《ひぐ》れも近い。
たしかにスキー場周辺には、いくつもの宿泊施設があった。リーズナブルな庶民的ホテルからリッチな高級ホテルまで合計四軒、キャンプ形式のバンガローにウッド・ハウス、それに個人経営による貸し別荘まで、より取り見取りだ。
ただ問題は、どこも夏が終わるころには予約でいっぱいだった、ということだ。
そう。
二人の警官コンビは、予約も入れずに出てきてしまったのである。
迂闊《うかつ》だったね、とはマティアの言葉だ。
そして今、二人は陽暮れ前の山道を、黒い四駆車で走っているというわけだ。
うねうねと蛇行する道の、両側は針葉樹の林である。濃い緑色の葉にはどれもうっすらと白いものが乗っている。南方からの冷たい風がソルテムの斜面に沿って吹き上がり、そこで北からの風に押し戻される格好で冷気を高空に溜《た》め込《こ》んで、この北側斜面に雪を降らせるのだ。
「おっとっと。これか?」
突然、前方が開ける。
三叉路だ。
速度を落として停止すると、マティアは再び地図を確認して、頷《うなず》いた。
「うん。左が峠《とうげ》を越えてトルバスへ戻る道。右は麓へ下って、そのまま回り込んで、さっきの五叉路へ復帰」
「で、真ん中が別荘地か」
その中の何軒かは、貸し別荘である。スキー場から離れているため、言わば穴場であるらしく、ホテルで聞いた話ではシーズン中でも意外と空いていることがあるという。
ただ、問題が二つあった。
一つは、今度こそ予約を入れてから動こうと思ってホテルから管理事務所に電話を入れたら、誰も出なかったのである。
単に席を外していただけだろうが、空きがあるかどうかが確認出来なかった以上、これまでと同じく『行ってみるまで判らない』のである。
「よっしゃ、行くか」
発進する時、後輪がかすかに滑った。路面にも、薄く雪が積もっているのだ。
ドライブを四輪駆動に切り換える。
ヘッド・ライトに、雪に覆《おお》われた路面が照らし出された。
それが、第二の問題である。
前方の路面に、タイヤの跡がないのだ。
「借りられたらいいねえ」
何ともお気楽に、マティアが言う。しかし振り向くと、その笑みはどこかしら心細げだった。
マナガにしてみれば、痛恨《つうこん》のヘマである。
このまま宿が取れなければ、引き返すしかない。日帰りにするという手もあるが、どちらにしろいったんは帰宅する必要がある。
せっかく、遊ばせてやりたいと思ったのだ。車の中で夜明かしなんか、絶対にさせたくはなかった。
「そうだな。借りられたらいいなあ」
五分ほども走ると、林を抜けた。
陽は、もうすっかり落ちている。
前方に意外なものが現れたのは、その時だった。
「あん?」
暗い道路の脇に、何やら妙に明るいものがある。
建物だ。
地図を見ながら、マティアは首を振った。載っていない、ということだ。
近づくと、コンビニエンス・ストアほどの大きさの建物だった。バンガローふうの尖《とが》った屋根は、積雪に対する備えだろうか。
派手な照明が看板を照らし、どう見てもそれは商店だ。
ドラッグ・ストアである。
「電話……」
マティアの言葉に、マナガは、おう、と応えてハンドルを切った。
ここでなら、電話を借りられるだろう。もう一度、貸し別荘に電話を入れて確認してみればいい。
店の前には駐車場はなかったが、簡易舗装《ほそう》された店頭スペースは広めにとられている。薄汚れた軽トラックと、緑色に塗装された小型だが派手なバンとが停まっている。
マナガは、バンの横に黒い四駆車を滑り込ませた。
サイド・ブレーキを引く。
その手に、少女の小さな手が重なった。
「マナガ」
目が合うと少女は、にっ、と笑った。
「ありがとね」
「あ? ああ、いや。うん」
笑みを返して……そして、マナガは気づいた
今の今まで、自分が眉《まゆ》を吊り上げ、唇を引き結んで、とても楽しそうとは言えない顔をしていたことに。きっと今まで、ずっとそんな顔をしていたに違いない。
だからマティアは、こんなにも笑みを見せるのだ。
やれやれ。
大したもんだよ、お前さん。
マナガは今度こそ、思いっきりの笑顔を見せた。口が大きく横に広がって、大人の親指の爪《つめ》くらいある大きな歯が剥《む》き出《だ》しになった。
「行くか」
「うん」
笑みのまま、しかし祈るような思いで、マナガは車を降りた。
メイニアにしてみれば、それは不意を突かれた格好だった。
ちょうど、飲料水を陳列《ちんれつ》した冷蔵庫の前で、ガラスに写った自分の姿を眺めていたところだったのだ。もっとも、見とれていたわけではない。視界の隅《すみ》に入った自分の鏡像が、まるで見知らぬ誰かのように見えたのである。
すぐに、髪を切ったばかりだったことを思い出した。思い切ってショートにしたのだが、失敗しちゃったかなあ、などと思っていた、まさにその時だったのである。
最初、メイニアはそれを、ラジオか何かの音だと思った。
「あのう、すみません」
どこからか聞こえてきたその声が、彼女のお腹《なか》の底まで響いたのである。
ボリュームの設定を間違えて、スピーカーから大音量が飛び出したように感じたのだ。
だが、そうではないことは、すぐに判った。その声は、たしかにお腹の底に響いたが、しかし決して声そのものが大きいわけではなかったのだ。
低く、重く、普通に喋《しゃべ》っているだけで、その声は店中の空気を震わせたのである。
「うわ。何だ、ありゃ……」
信じられないものを見た、といった表情のオドマ・ウォンギルの視線を追って、メイニアも振り返る。店の、入り口だ。
そして、彼女も納得した。
なるほど。声の主があれならば、そりゃあ店の空気も震えるわ。
巨漢だった。
たっぷり二メートル半はありそうな身長で、しかもけっこうマッチョな体格である。黒いロングコートが、いささか場違いだ。その体格や服装からメイニアが連想したのは、ギャングの用心棒である。
もっとも、ギャングの用心棒なら、あんな優《やさ》しげな顔をしてはいないだろう。岩の塊を彫《ほ》り上《あ》げたような無骨な顔つきではあるが、しかし目だけが不似合いなくらいに小さくて、可愛らしいのだ。
愛嬌《あいきょう》のある大男、というのが、つまりツカサ・メイニアの第一印象だった。
店に入ってきた男は、ごとんごとんと重い足音をたてて、レジ・カウンターへ向かう。その様子を、メイニアは缶詰の棚ごしに盗み見ていた。
「ほれ、サボるなよ、ツカサ」
「あ、ごめん」
「なに見とれてんのさ」
「ああ、うん。デカいなあ……って」
「精霊じゃねえの? だったら別に珍しくないじゃん。ミノちんなんか、もっとデカいし」
ミノちん、というのは大学の、精霊警備員である。
ブルの枝族の精霊で、ごつい体格と巨大な角は威圧的だが、可愛らしい目元と愛嬌のある性格で学生達には人気がある。ミノちんという名も、ミノティアスという彼の本名をもじって学生達が呼ぶ愛称だ。
だが、
「精霊? まさか」
たしかに物質化した精霊の容姿は、千差万別である。
その性格や性質によって数多くの枝族に分けられる他、それぞれの枝族も複数の形質的特徴によって分類される。すなわち、完全に人型のフマヌビック、鳥獣に近い形態をとるベルスト、さらにその中間……ミノティアスのように半人半獣のリカントラだ。
しかしそういった様々な形態の精霊にも、一つだけ共通する特徴がある。
何らかの意味で、美しいのだ。
そういう意味で、店に入って来た巨漢は、どうしたって精霊には見えなかった。
たしかに、羽根《はね》を隠して生活する精霊も珍しくはない。
だが、
「無精髭《ぶしょうひげ》のある精霊なんて聞いたことないよ」
「はいはい。お勉強はいいから、これもね」
いきなり、手元が重くなる。メイニアの手にした買い物カゴに、オドマが缶詰を五つばかり放《ほう》り込んだのだ。それも、どれも業務用サイズのやつである。
「ま、胴回りだったら、俺といい勝負かもなあ」
言いながら、ゆっさゆっさと腹を揺すって、オドマは菓子コーナーの棚《たな》の方へ歩いて行った。尻の肉までもが、ズボンの中で一歩ごとに波うつのだ。
たしかに、筋肉と脂肪を同列に語っていいなら、彼の言うとおりだろう。なにしろこの寒さなのに、セーターではなくウールのベストだけで充分なくらいの脂肪を、全身に蓄《たくわ》えているのだ。しかも身長はメイニアよりも低いものだから、その体格が余計に強調されて見えるのである。
「はーい、次はこっちねー」
棚の向こうから、赤ちゃんみたいにぷくぷくした手が、手招きする。
ツカサ・メイニアは苦笑して、応えた。
「はいはい」
オドマ・ウォンギルは、はっきり言って人気者ではない。
本人はそれを、太っているからだ、と思っているようだが、そうではないことをメイニアは知っていた。彼はいわゆる、空気を読まない人物、なのだ。
平気で自分の言いたいことを言い、相手の気持ちなど忖度《そんたく》することなく否定したければ否定する。食べたければ食べ、寝たければ寝る。やりたいことしかやらず、やりたくないことは決してやらない。
メイニアが初めてオドマに会った時も、彼は孤立していた。
もっともメイニアは、そんな彼の性格が嫌いではなかった。たしかにメイニアが『かくあるべし』と思う男性像とは合致《がっち》しないが、決して他人に責任を押しつけることのないオドマの性格を見抜いていたからだ。
空気を読まないのも、そういった強い……あるいは強すぎる自我の発露《はつろ》なのである。
「なんだよ、おめぇ。まーたサボってやがんのかよ」
棚を回り込んで菓子コーナーに出ると、オドマが例によってマキハに文句を言っているところだった。
「いっしょに買い出しに来るって、自分で言ったんだろ? ちっとは手伝えよな」
腰に手をあてて、ぐい、と腹を突き出すオドマから、マキハはおどおどと視線を逸《そ》らす。いつものことではあるが、しかしこの二人がいつもいっしょにいるというのも、傍目《はため》には奇妙に見えるかも知れない。
でっぷりと肥えたオドマに対して、マキハ・クラムホンはひょろりとした痩《や》せっぽちである。しかも身長に恵まれないオドマよりも、マキハの方が頭二つ分は長身だ。
さらに、オドマがいかにも我の強そうな顔つきである一方で、マキハの方は色白で長髪、加えて分厚い眼鏡の奥では臆病そうな目がつねに周囲を窺《うかが》っている。
いじめっ子といじめられっ子、ガキ大将とその子分、典型的デブちんと典型的オタクくん、そんな感じなのだ。
「おめぇ、何読んでんだよ」
のしのしと近づいたオドマが、雑誌コーナーの前に立つマキハの手元を覗き込む。どうやらマキハ・クラムホンは、買い出しの途中で雑誌の立ち読みを始めてしまったらしい。
「なーんだよ、おい。まーた、こんなの読んでんのかよ」
「あ、いや、あの、僕……」
「あのぼく、じゃねーだろ、おい。ねーちゃんの裸が載ってない本なんかクズだって言ってるだろ?」
「でも、これは……今月のは、さ……」
「だーから、おめぇはオタクだって言われんだよ」
「でも……でも……」
そろそろタイミングかな。
メイニアは大股《おおまた》で二人に近づく。
「はいはあい、お店でモメなあい」
こちらを見るマキハの目は、まるで救助隊のヘリを見上げる遭難者《そうなんしゃ》みたいだ。
「マキハ、何読んでんの?」
「あ……あの、これ」
それでも視線を逸らして、マキハがこちらに向ける雑誌の表紙には、身なりのいい中年女性の写真が使われていた。
神曲専門誌『ムシカ・ポカール』である。
「あら、お母さんじゃない」
表紙の写真の人物が、だ。
「うん、そう。今日、発売日だったから……」
だがオドマは、容赦《ようしゃ》なかった。
「そんなもん、お袋さんの記事が載ってんだったら、おめぇん家《ち》にも見本誌が何冊も届いてるだろーがよ。おうちに帰るまで我慢しろよ」
「はいはい、いじめない、いじめない」
言って、メイニアはマキハの手から雑誌を取り上げる。
そして、買い物カゴに放り込んだ。
「いっしょに買っときゃいいじゃん。ね?」
「おめぇ、この分は割《わ》り勘《かん》じゃねーからな。おめぇが払えよな」
目を逸らしたまま頷《うなず》きつつ、けれどマキハ・クラムホンの口元にはかすかに笑みが浮かんだ。
それから、オドマが人数分のスナック菓子を選んでカゴに詰め込む。たちまち、いっぱいになってしまった。
「あと、水は俺とマキハで仕入れとくから、ツカサお前、それだけ先にレジっとけよ」
「うん、よろしく」
重い買い物カゴを、よいしょ、と持ち直してレジへ向かう。
レジの中は無人で、その代わりさっきの巨漢がレジ・カウンターの隅に立っていた。
「あー、判りました。どうも、すみません」
相変わらずお腹に響く声で、話しかける相手は手にした受話器である。公衆電話の受話器が、子供のオモチャみたいに見える。
受話器を戻す時、巨漢のついた溜《た》め息《いき》は、落胆のそれであるようにメイニアには思えた。
「部屋、ないってさ」
振り返った巨漢は、いかにも残念そうに言う。
その視線の先を追ったメイニアは、少しばかり驚いた。巨漢の足元……メイニアのすぐ側《そば》に、もう一人の人物が立っていたのである。巨漢の方ばかり見上げていたので、その小柄な人物の存在に気づかなかったのだ。
少女だった。
黒髪に、黒いケープである。メイニアに背を向けているせいで、後ろから見ると黒い照《て》る照《て》る坊主のようにも見える。
「そっか、残念」
ぽそり、と応えるその声は、か細いが、しかし聞《き》き惚《ほ》れてしまうくらいに透明だ。この声で愛の言葉でも囁かれてしまったら、相手が同性だろうと子供だろうと恋に堕《お》ちてしまうかも知れない。
「帰る?」
少女の言葉には、落胆よりも諦《あきら》めがある。自嘲的《じちょうてき》な笑みが、見えるようだ。
「あの……」
思わずメイニアが声をかけてしまったのは、想像してしまったその表情が、あまりにも哀《かな》しげだったからである。
あくまでも想像に過ぎないその表情にメイニアは、駄目だ、と思った。
思ってしまった。
こんな透明な声を持つ少女に、こんな哀しげな顔をさせちゃいけない。そう思ったのだ。
「どうかしました?」
メイニアを、まず巨漢が振り向き、そして少女が振り返る。
思わず、メイニアは息を呑《の》んだ。
黒衣の少女が、思ったとおりの美少女だったからだ。
背筋に電気が走るようだった。可愛い、という以外の言葉を思いつかない自分自身がもどかしいくらいだ。
だが、思わず抱きしめたくなるような可愛らしさ、ではない。不用意に触れることさえ禁じられたような、そんな神々しいまでの透明さが、少女にはあった。
「ああ、いやあ……」
ぼりぼりと、巨漢が頭を掻《か》く。
大失敗の現場を目撃されてしまった少年の顔だ。
「宿を取りそこねましてね」
短いその言葉だけで、だいたいの事情は理解出来た。
「予約、しなかったんですか?」
「はあ。みっともない話ですがね、どこも一杯だそうで」
「ああ……シーズンですから、当日では無理でしょうね」
「おーいおい。レジいねーのかよ」
背後からの声は、オドマである。水の入ったポリ・タンクを二つ、痩せっぽちのマキハに持たせて、近づいてくる。そのままレジ・カウンターに肘《ひじ》を突いて、奥に向かって叫ぶ。
「おーい、店員! 仕事しろ、仕事!!」
「ど……どしたの」
どすん、とポリ・タンクを床に置いて、メイニアに訊《たず》ねるのはマキハの方だ。
「ああ。この人達、宿を取りそこねたんだって」
照れ臭そうに肩をすくめる巨漢を、マキハは驚愕《きょうがく》の表情で見上げる。今まで気づいていなかったようで、いつも眠そうな彼の目が大きく見開かれていた。
「や……宿、ですか」
「ええ。仕方ないんで、いったん街に引き返そうって言ってたとこなんで」
「これから、ですか」
「ま、日付が変わるころにゃ帰り着きますから」
その言葉に、ふいにマキハはメイニアを振り返る。
「や、宿だったら……」
眼鏡ごしの視線に、はっ、とメイニアは思いついた。
「そうだ。うちに来ませんか?」
「は?」
今度は、巨漢が目を剥《む》く番だ。
もっとも、目いっぱい見開いても、足元の少女の愛くるしい瞳よりもまだ小さかったが。
「あたし達、この先の山荘に泊まるんです。大学の友達で」
「はあ」
「ね、いいよね?」
その問いに、不意打ちをくらったようにマキハも頷く。
「彼、マキハ・クラムホン。山荘は、彼の家のものなんです。だから、平気です」
「いやあ、そいつぁ申し訳ないです。お声をかけていただいただけで、もう充分です」
「かまいませんよ。本当は、来る予定だった仲間が一人、ドタキャンで来れなくなっちゃったんです。だから部屋も余ってますから」
「ほ……本当に、いいですよ」
驚いたことに、マキハだった。
「いつも、お、おんなじメンバーだから……。初めての人とかいると、た、楽しいし」
「ね? 宿の持ち主がこう言ってるんですから、行きましょうよ」
「あー、ちょうどいいや」
オドマである。相変わらずレジ・カウンターに肘を突いた偉そうな姿勢のままだ。
「おっちゃん、リキありそうだから、薪の準備とか手伝ってよ。まだ全部、小屋から移してねんだわ。運ぶの面倒くせーなーと思ってたんだ。そんで宿代、ちゃら。どうよ?」
困惑顔の少女が、困惑顔の巨漢を見上げる。
そこで、メイニアの駄目押しだ。
「ここで断っちゃったら、逆に失礼だと思うなー」
にんまり笑みを浮かべて、彼女がそう言う相手は少女の方である。首をすくめて上目づかいになる様子は、人見知りなのだろう。それがまた、愛くるしくて堪《たま》らない。
「そそ。空気、読まなくちゃなー」
それをお前が言うか、と言いたくなるようなオドマの言葉に、先に折れたのは少女の方だった。
巨漢のコートを、つん、と引っ張って相手を見上げる。
そして、かすかに頷いた。
それで、決まりだった。
「それじゃあ、お言葉に甘えさせていただけますか」
どこまでも深く響く声が、そう言って笑みを浮かべる。
その様子に、ふん、と鼻を鳴らして、オドマはレジの奥に向かって最後通牒《さいごつうちょう》を叩きつける。
「おーい。とっとと出て来ねーと、金払わないで行っちまうぞー」
店のロゴの入ったエプロンを着けて、店員は大あわてでトイレから飛び出してきた。
4
雪の積もった山道は蛇行していて、それでも一本道なので前方の赤いテール・ランプを見失う心配はない。
車間距離にだけ注意しながら、マナガは先を行くバンを追ってハンドルを握っていた。
ドラッグ・ストアを出る時、マナガは三人が荷物を積み込むのを手伝った。ポリ・タンクを軽々と運び込むマナガに、三人は驚嘆の声をあげたものだ。
マティアは、先に四駆の助手席に戻っていた。
それから、彼女は口を開いていない。
助手席で揺られながら、真っ直ぐに前を見ている少女の、しかしその目は前方の赤いライトを見ているわけではないようだ。
マチヤ・マティアは、笑わない。
あれほど仲の良かったシェリカにさえ、満足に笑いかけるところをマナガは見ていないのだ。マティアが本当に心を許す相手は、マナガだけであるようにさえ思えるほどだ。
そして、その理解が間違っていたとは、少なくとも今までのところ、マナガは思っていない。自惚《うぬぼ》れでも何でもなく、それだけの理由があるからだ。
その意味で、さっきのマティアの態度は、どうにも理解の枠を超えたものだった。
彼女の方から、見知らぬ人物の厚意に甘える意思表示をしたのである。
「あのさ……」
ぽつり、と呟《つぶや》く少女は そんなマナガの思いを読み取っていたのだろうか。
「前にも言ったじゃん? あたし、もっとちゃんとしなきゃ、って」
「ああ、そうだったっけな」
「うん、言った」
憶《おぼ》えている。
警官になって半年あたり……、他人と接する機会が増えてきたころだ。たしか、オゾネ・クデンダル事件のころだったろうか。
「あのね。マナガは特別なんだよ、あたしには」
「ほう。そりゃ嬉《うれ》しいな」
「茶化《ちゃか》さないで聞いて」
「すまん。どうぞ」
「マナガは特別なの」
もう一度、繰り返す。
「でもね、特別ってことと、マナガだけってこととは、やっぱ違う」
「そうか」
「うん、違う。あたし、人間だから。精霊は一人になっても生きていけるけど、人間は一人じゃ生きていけないもの。ちゃんと、判ってる」
「ふむ」
「心の強さとか、そういう問題じゃなくて」
「社会……か?」
「そう言ってもいいけど、もっと単純に、例えばお店の人が食べ物を売ってくれなかったら、もう生きられない。そのくらいのレベルで」
「ああ、判るよ」
「あたしは、マナガといっしょがいいの。でも、マナガにくっついて、マナガがいなきゃ生きられないのは、嫌なの。違うと思うの」
それは、自立ということだ。
互いに依存《いぞん》し合うのではなく、自立した二人が互いに支え合うということだ。
「だから、ちゃんとするって決めた」
だから、出会ったばかりの見知らぬ人間と、関わることにしたのだ。
「なるほどな」
よく判った。
「でも、無理はするなよ」
「うん、しない」
「駄目だと思ったら、いつでも言いな」
「うん、言う」
「よし」
前方のバンが、徐々に速度を落とす。
道は左へ大きくカーブしながら、どうやら坂を上り始めたようだ。それにつれて、道の両側の木々がまばらになってゆく。
やがて二台の車は、こんもりとした小山の上に出た。
雪に覆われた、ちょっとした丘である。暗くてよく見えないが、丘の周囲は林が囲み、さらに斜面となってせり上がりつつ、ソルテムの北壁へと繋《つな》がっているようだ。
丘の真ん中に、灯があった。
「ほう」
マナガが思わず、声を漏《も》らす。
「こいつぁ大した山荘じゃないか」
「うん、綺麗」
マティアの感嘆には、笑みが混じっていた。
ゴルフ場か何かのクラブ・ハウス、と言っても通用しそうな、立派な建物だった。
基本的には、丸太小屋《ウッド・ハウス》だ。
だがその規模は、下手な建て売り住宅よりも大きい。二階建て……あるいは屋根裏も含めて三階建てかも知れない。いずれにせよ、アパートのマナガの部屋くらいなら、一〇や二〇は余裕で入ってしまいそうだ。
山荘の前には、いくつものタイヤの跡が刻まれている。
その中の一つをなぞるように、バンは建物の前で停止した。
マナガも、その隣に車を付ける。
サイド・ブレーキを引き、エンジンを切ってキーを抜き、それをコートのポケットに仕舞《しま》う一方でシート・ベルトを外し、そしてドアを開ける。車から降りる際の、いつもの手順だ。
だがその手順の最後に、今日は聞き慣れない音と感触があった。
ぎゅっ、と固い皮でも擦《す》り合《あ》わせるような音。
そして、不思議に頼りない足元の感触。
見下ろすと、彼の足は足首近くまで、埋まっていた。
雪に、だ。
たしかに車の中からはずっと積雪が見えていたが、それはガラス越しだった。
たしかにドラッグ・ストアの前にも雪はあったが、それは溶けて汚れて泥水みたいだった。
だが、これは違う。
触れることの出来る距離に、白く積もっているのだ。
さらに、二歩ほど歩いてみた。
ぎゅっ、ぎゅっ、という音とともに、空気を含んで氷結した雨が彼の足を受け止める。身を捻《よじ》って背後を見ると、彼自身の大きな足跡が残っていた。
「おほ」
思わず、笑みが漏れる。
腰を曲げて、一握り、掴《つか》み上げてみた。
冷たい感触が、やがて鈍い痛みに変わってゆく、それさえも心地よい未知の感覚だ。
「ど?」
見ると黒い四駆車の鼻面を回り込む格好で、点々と小さな足跡が、彼のすぐ隣まで続いている。
足跡の終点で彼を見上げるのは、マティアである。
「雪だよ?」
「ああ、雪だ」
「ご感想は?」
マティアはかすかに、けれどどこか得意げな笑みを見せた。応えてマナガも、にいっ、と笑って見せる。
「悪くない」
それ以外に、彼は言葉を持たなかった。
クラクションを鳴らしたのは、バンを運転していたあの太った学生だろう。全員が雪の上に降り立ったころ、山荘の玄関から二人の人影が現れた。
男女である。
どちらも、若い。おそらく、店で会った三人と同じ大学生だ。
「お帰りなさぁい」
こちらは、女子学生の方だ。
「あれぇ? お客さんか?」
こちらは、その隣の男子学生である。
うん、と応えたのは、ドラッグ・ストアで最初に声をかけてきた女子学生だ。
「店で会ったんだ。宿を取りっぱぐれちゃったんだって」
その言葉に、男子学生はこちらを向いて手を挙げる。
「ようこそ、いらっしゃい!」
男性モデルみたいな笑みである。
その隣の女子学生も、同じように手を振った。
「歓迎しますよ! って、あたしの別荘じゃないけどぉ」
「いやぁ、どうも」
マナガが応えて手を挙げかけたところで、
「いいから、あと、あと」
そう言ったのは、例の太った学生である。
「とっとと荷物、運べって」
言いながら、バンの後部ドアを開く。都合五人の学生達が、買ってきたばかりの荷物を運び出し始めた。
「ああ、申し訳ない。私もやりましょう」
マナガは、最後に残ったポリ・タンクを手にする。
山荘の入り口の前は、七段ほどのコンクリート製の階段である。その一番上で、最初にマナガに声をかけてきた女子学生が手を振っていた。
「どうぞ!」
「おっとっと。すぐ行きます」
そう応えた。
その時だ。
ふいに何かが、ぞくり、と背中を這《は》い上《あ》がったのだ。
弾かれたように、マナガは振り返った。
山荘から漏れる明かりに、雪に覆われた丘の地面が白く輝いて見える。その先は薄闇《うすやみ》に覆われつつ、下り坂になっていた。さらにその向こうに黒々と見えるのは、林である。
明かりが届いていないのだ。
「なに?」
マティアである。
「ああ、いや……」
たしかに、何かを感じた。
誰かに突然、声をかけられたような、そんな感じだ。
あるいは、誰かの気配がすぐ後ろを通りすぎたような、首筋に誰かの息がかかったような、雑踏《ざっとう》の中で自分の名前を耳にしたような、そんな感じだ。
何だ……?
だが、
「気のせいだろ」
マナガは、そう言った。
それから二人は、山荘へと招き入れられた。
ダイニング・ルームの中央に据《す》えられているのは、たっぷり一〇人は着けそうな大きな木製のテーブルである。太い丸太を組んで造られたもので、天板はなく、その代わり天面は綺麗に磨き上げられている。
テーブルの周囲に並べられた椅子《いす》も、全て同じ木製だ。シートと背もたれが微妙な曲線に彫り込まれていて、だからクッションがなくても座っていて固さを感じない。
少なくとも、とマナガは思う。
そのはずだ。
いずれにせよ、マナガの体格には標準サイズでは小さすぎるのだ。
「ええと。それじゃ、自己紹介からいきましょうか?」
マナガとマティアは、並んでテーブルの奥、暖炉を背にした上座である。その向かい側で、長いテーブルの向こう側に立つのは、最初に店で声をかけてきた、あの女子学生だ。
髪は短く切り揃えていて、ジーンズと白いセーターが躯のラインを浮き立たせているのに、淫靡《いんび》さよりも健康的なものを感じさせる。それは、はっきりした目鼻だちが強い意志を伝えてくるせいかも知れない。
「あたし、ツカサ・メイニア。ノザムカスル大学で精霊学を専攻してます」
それだけ言って席に着こうとするメイニアを、
「もう終わり?」
座らせなかったのは、山荘で留守番をしていた男子学生だ。
短髪に日焼けした顔、太い眉を片方だけ上げて、こぼれる歯はどこまでも白い。体格もよく、クラブに所属しているならそれはスポーツ系に違いない。
「ええと……」
困ったような笑みを浮かべて、メイニアは一言だけ付け加えた。
「趣味は映画鑑賞です。以上!」
ぱちぱちと手を叩くのは、テーブルの角を挟んでメイニアの隣に座る、もう一人の女子学生である。メイニアと入れ違いに、するりと立ち上がった。
「ユリ・リリエナです」
メイニアと同い年だとすると、かなり童顔と言えるだろう。肩に垂らした長い髪も、くるくると巻いて少女のようだ。そのくせシャツもセーターも薄手で、胸元の自己主張はメイニア以上である。
「メイニアと同じ、精霊学専攻です。今日はみんなで遊びに来たんだけど、友達が一人、来れなくなっちゃって、ちょっと寂しいかなあとか思ってました。ゆっくりしていってくださいね」
にっこり、と微笑《ほほえ》むリリエナに、マナガは愛想笑いを返すのが精一杯である。
続いて立ち上がったのは、さっきのスポーツマンくんだ。
「コモデ・シャーヘイズです。俺《おれ》も皆と同じノザムカスル大の三年です。もっとも留年喰らって、歳は一つ上ですけど」
専攻は機械工学だ、とコモデは言った。
自己紹介は、テーブルの向かい側に移る。眼鏡をかけた長髪の学生は、マキハ・クラムホンと名乗った。母親はマキハ・シャレディソンだという。
「ひょっとして、神曲楽士のマキハ先生? そのご子息?」
マナガの問いに、マキハは控えめに、しかし得意そうな笑みとともに頷いた。
「なぁるほど、それで納得しました。どうりで、豪勢な山荘をお持ちなわけだ」
「そ、それほどでも……ない、ですけどね」
ぼそぼそと喋《しゃべ》って、腰を降ろす。
最後に立ったのは、運転担当の太った青年だ。
「俺はオドマ・ウォンギル。大学は同じ。専攻は美術ね。ちなみに、マキハとは中学時代からの腐《くさ》れ縁《えん》。俺が世話してやんなきゃ、こいつ何も出来ねーから」
こつん、と肘で頭を突つかれて、けれどマキハは文句も言わずに照れたような笑みを浮かべるだけだ。
「てなことで、今度は、そっちの番ね」
どっすん、と音をたてて腰を下ろしたオドマが、マナガを手で指した。
「ああ、はい」
マナガが、立ち上がる。
見上げる全員が、おお、と声をあげた。身長二メートル半、ただでさえ見上げるほどの大男を、座って見上げればその大きさはひとしおである。
マナガは身じろぎして、傍《かたわ》らのマティアに視線を投げてから、小さく咳払《せきばら》いをした。
「私ゃ、マナガと言います。こっちは相棒のマティア。突然お邪魔して、申し訳ありません。ご迷惑にならんように注意しますんで、どうか夜中に追い出すのだけは勘弁してください。なりはデカいですが、気が小さいもんで」
その冗談は、とりあえず一同を、くすくす、と小さく笑わせるくらいにはイケていたらしい。
だが、
「フル・ネームは?」
突っ込みが入った。オドマ・ウォンギルだ。
「それと、出来れば職業も知りたいっスねえ」
「ああ、同感だなあ」
コモデ・シャーヘイズが後を追う。
「特に、そちらの可愛いお嬢さんのことが、俺としては興味津々《きょうみしんしん》ですね」
マナガは苦笑で、マティアに視線を投げる。
少女は、かすかに頷いた。
「いや、失礼しました。相棒は、マチヤ・マティア。それから私ゃ……」
太い指で、ぽりぽりと頬の無精髭を掻く。
「マナガリアスティノークル・ラグ・エデュライケリアスといいます」
「マ、マナガリ、マナガリアスティ……なに?」
きょとん、とした顔で言うのは、リリエナだ。
「マナガリアスティノークルです。長ったらしいので、マナガでけっこうですよ」
「ええとマナガさん? じゃあ、お名前が三つ?」
「ええ。通り名と、柱名と、精名です」
素《す》っ頓狂《とんきょう》な声をあげて、メイニアが立ち上がった。
「じゃあ精霊さんだったの!?」
「はあ、まあ、そういうわけで」
「そっちの……ええと……、マティアちゃんも?」
「ああ、いえ。マティアは人間です」
「すっげえ!」
オドマだ。
「宿にはぐれた精霊を、ドラッグ・ストアで拾っちまったってか!?」
「オドマ」
たしなめるコモデに、オドマは首をすくめる。
「失礼ですが、それじゃあ……」
コモデの言葉に、マナガは頷いて見せた。
「ええ。私ゃ彼女の契約精霊です」
「神曲楽士さん!?」
リリエナの声は甲高くて、ほとんど裏返っている。
「すっごい。そんなにちっちゃいのに!? プロなの!?」
「ああ、まあライセンスは取ってます。それに彼女、こう見えても年明けにゃ一七です」
まあ、と声をあげるリリエナの、その驚きの表情の奥に何かが見えた。
「ええと、ごめんなさいね」
いいえ、とだけ応えるマティアは、口元にかすかな笑みを浮かべている。それが無理やりに作った笑みであることは、マナガには見え見えだったが。
「とにかく、意外なお客さんだ」
言って、コモデは席を立つ。それから、ぐるりとテーブルを回り込むと、マナガに握手の手を差し出した。けっこう大柄な青年だったが、それでも彼の手はマナガの巨大な手の中に隠れてしまった。
「歓迎しますよ、マナガさん」
それから、
「ようこそ、マティアさん」
握手と、それから白い歯の笑みに、マティアはほんの少し頬を赤らめた。
「よっしゃ、以上、終わり!」
オドマが立ち上がる。
「そんじゃ総員配置に付け! でなきゃ晩飯、喰うころにゃ日付が変わっちまうぞ!!」
その宣言に、全員が立ち上がった。もともと立っていたマナガを除くと、座ったままなのはマティアだけだ。
「それじゃ、薪運《まきはこ》びだ。おっちゃん、頼むな」
言い置いて、オドマが脇《わき》を通りすぎてゆく。
「マティアちゃんは食事の用意、手伝ってくれる?」
これはツカサ・メイニアである。
マナガが振り返ると、マティアは小さく、けれどしっかりと頷いて、席を立った。
「しっかりな」
口の中で小さく呟くマナガの声に、驚いたことにマティアは背を向けたままで、頷いて見せたのだった。
無理やりだったかな、とは思う。
けれど、薪運びを手伝ってもらうというオドマの提案は妥当《だとう》なように思えたし、だからと言ってマティアまで付き合わせるのもどうかと思えた。
要するにメイニアにしてみれば、マナガが薪を運んで往復している間、マティアの相手をする人間が必要だと考えたのだ。
そうなると、後は消去法である。
マキハ・クラムホンは、性格面のことを抜きにしても、彼の担当は地下室だから論外。
残る仕事は寝室の掃除だから妥当なようにも思えるが、しかし問題は、それを担当しているのがコモデとリリエナだという事実だ。別にあの二人が嫌いなわけではないが、初対面の一六歳の少女といっしょにしておくのは、いささか問題がある。
そういうわけでメイニアは、マティアに料理を手伝ってもらうことにしたのだ。
「あ、エプロンは、そこの使ってね」
外見や内装こそ丸太小屋だが、設備そのものは最新である。
建物の中は、全て床暖房だ。まだ少し効きが悪いが、マキハがボイラーの調子を見に行っているから、しばらくすればもっと温かくなるはずだった。ダイニング・ルームは広いので、さすがに暖炉に火を焚《た》く必要があるが、それもオドマとマナガが追加の薪を割ってくれているはずだから、安心だ。
そしてキッチンは、ちょっとしたレストランの厨房《ちゅうぼう》なみのシステム・キッチンである。
キッチンに入った時、マティアが小さな声で、わぁ、と声をあげたのが嬉しかった。
「なに?」
シンクの前に並んで立つ少女が口にするのは、献立《こんだて》についての質問のようだ。
「うん。どーしょっかなー、って思ってる。マティアちゃん、カレー好き?」
「……ちゃん、いらない」
「え?」
「マティア、でいい」
言いながら、少女の視線はシンクの脇に積み上げられた食材を見ている。それでも、ほんの少しだけ視線が動くのは、これは何を作ろうか考えているのではなく、目を逸らしているのだろう。
可愛い、と思う。
これでも、一生懸命なんだ。
「うん、ごめん。じゃマティア、あんた、カレーは好き?」
「嫌いじゃない」
「そっか。じゃあさ、この材料で、何しようか」
ジャガイモ、タマネギ、ニンジン、冷凍牛肉と、さっきドラッグ・ストアで買い込んできた業務用のカレーの缶もある。キッチンの奥の大型冷蔵庫には、さっきカモ肉と丸ごとのサーモンも放り込んで、ミックス・ベジタブルや豚肉もあったはずだ。
しばらく食材を見つめていた少女は、やおらこっちを振り返る。
「カレー?」
どこか、きょとん、としたその顔に、思わずメイニアは吹き出した。
「やっぱ、カレーになっちゃう?」
「だって」
マティアは怒りもしなかったが、釣られて笑いもしなかった。
「カレーの缶があるから」
「じゃあさ」
提案だ。
「カレー・シチューにしちゃうっての、どう?」
「それ、知らない」
「学校とかで食べなかった? 給食で」
「うん、でも……」
そしてマティアの表情に、メイニアは少しばかり驚くことになる。
「マナガはシチュー、好きだよ」
少女の唇にはかすかな、けれどたしかな笑みがあった。
「そっか」
「うん」
「じゃ、カレー・シチューにしちゃおう。牛乳と生クリームもあるし。コンソメもあったから、うん、大丈夫だね。それでいこう」
「うん」
それからマティアは、ぽそり、と付け加えた。
「それでいこう」
ああ、もう!
可愛いったら!!
裏口から出ると、背後はすぐに林だった。
雪をかぶった針葉樹が、斜めにせり上がってソルテムの峰へと続いている。
見上げるマナガに、オドマが背後から声をかけた。
「ほい、おっちゃん。こっちこっち」
林の手前に、小さな小屋がある。こちらは四角いコンクリート製で、金属製のシャッターが降ろされていた。
「こういうとこに手ぇ抜いてるんだよなあ」
ダウン・ジャケットの前を掻き合わせながら、オドマ・ウォンギルは息を白く凍らせる。どうやら、立派な山荘の裏側にコンクリート製の安っぽい物置があるのが、彼の感性では許せないらしい。
「いやあ、でも必要ないところには力を抜くのが、プロの仕事だとも言えませんかね?」
「そりゃあ、まあな。でもよ」
合鍵《あいかぎ》でシャッターを開けてから、オドマは後ろを振り返った。
「あの窓、な?」
山荘の、である。
「あれ今夜、俺が寝る部屋なんだわ。こいつが丸見えなのよね」
「ああ、なるほど」
「明日の朝、起きるだろ? カーテンを開けて、外を眺《なが》めるだろ? するってぇとさ、雪のソルテム山の手前に、この四角い灰色の箱が見えちまうわけよ。判る?」
「そいつぁ艶消《つやけ》しですなあ」
「艶消しも艶消し。どマットだよ」
がらがらとシャッターを開ける。
裸電球の照明を点《つ》けると、そこはちょっとした貯蔵庫だった。
「ほう。こいつぁ、すごい」
「まあ、天然の冷蔵庫、って感じかね。いや、天然じゃねーか」
シャッターの面を除く三面が、全て金属製の棚になっている。向かって右側には真新しい工具類、左側には大量の缶詰、そして奥には薪と缶入りのガソリンが収まっている。
倉庫の中央にあるのは、二台のスノー・モービルだ。どちらも新品で、よく見るとシートのビニールも剥《は》がされていない。
「金持ちの道楽、ってとこだな」
「神曲楽士ってのは、儲《もうか》かるもんなんですなあ」
ぼそり、と口にするマナガの言葉に、スノー・モービルを眺めていたオドマが振り返る。
「ですなあ、って、あんた、あの嬢ちゃんも楽士だろ?」
「いやあ、そうなんですがね。でも神曲楽士としての仕事は、してないんで」
「勿体ねえなあ。何やってんの」
「まあ、公務員……てとこですか」
ふうん、とオドマが目を細める。
抜け目のない、太った野ネズミのような顔になった。
「ま、あんまり訊《き》かないでおくわ」
「そうしてもらえると、ありがたいですな」
運び出しの方法は、オドマの提案でリレー式になった。
マナガが倉庫の奥に、オドマが倉庫の入り口に立つ。そしてハリガネで数本ずつまとめられた薪を、マナガが掴んでスノー・モービルの上を越え、待ち受けるオドマに放る。オドマはそれを意外な運動神経でキャッチすると、そのままの勢いでさらに後方へ投げて、倉庫のすぐ外へ放り出すのである。
「よっしゃ、もういい。もういいだろ、これで」
二〇個の束を放り出し、マナガが二一個めを手にしたところで、オドマが制止した。
汗だくだ。
「あんた、そのコート着てて、よく平気だなあ……」
ダウン・ジャケットを脱ぎながら、そう言ってから、オドマは苦笑いを浮かべた。
「あ、そうか。精霊か」
「おかげさんで、このくらいの運動じゃあね」
「じゃ精霊も、汗かくんだ」
「まあ、それなりに」
どっこいしょ、とスノー・モービルをまたぎ越える。
「そうか。俺、精霊とマトモに話すのって、初めてなんだよな」
「おや、そいつぁ珍しい」
「親父が差別主義者でよ」
吐き捨てるように言いながら、オドマは脱いだダウン・ジャケットを腰の後ろへ回す。袖はお腹の前まで回らなかったので、ズボンのベルトに突っ込んだ。
「精霊が人間の真似をしてるのが、気に入らないらしいや。そんで俺も、精霊とは付き合うなって言われて育った」
「それじゃ、私なんかと話してるのがバレたら、大事《おおごと》ですな」
「ああ、勘当もんだ。ま、親父は親父、俺は俺だけどな」
言って、オドマは薪を両手に一つずつ下げる。
「一個、訊いてもいいか?」
「どうぞ?」
「あんた、なんで敬語なんだ? 誰にでも、そうなのかい?」
「いやあ、そうでもないですよ」
「例外あり?」
「ええ。同僚《どうりょう》とかね」
「ふうん」
こちらに背を向けているので顔は見えないが、どうにも皮肉な響きがあった。
「ま、あんたにタメグチきいてもらえるようになりゃ一人前、ってことか」
「いやあ、そういうわけでもないんですがね」
その言葉に振り返ったオドマが、驚いたように目を見開いたのは、マナガが残りの薪を一人で全部抱えてしまっていたからだろうか。
一八個の薪の束を、太く長い両腕で抱き上げるように持っているのだ。
オドマは苦笑とともに、首を振った。
「ちょい待ち。もう戻って来なくていいなら、シャッター閉めとくわ」
がらがらと閉じるシャッターの音を聞きながら、マナガは夜空を見上げた。
星も月も、見えなかった。
しかし目を細めたのは、分厚い雪雲を通して星や月を見透《みす》かそうとしたのではない。
まただ……。
何かが、呼んでいる。
「よっしゃ、行くぜ」
オドマが声をかけると、その気配は、途端《とたん》に霧消《むしょう》した。
掃除と言っても、大してすることはない。
全ての家具には大きな布がかけられていたから、それを全て取って、まとめて山荘の中の物置に仕舞ってから、あとはホコリを払って床に掃除機をかけるだけだ。
手分けをすれば、一部屋一五分もあれば済む。他の皆には言っていないが、実は三人が戻って来るずいぶん前に、もう五部屋全ての掃除を終えていたのである。
無論、突然の珍客のためにもう一部屋、掃除しなければならなくなったのは事実だが、それもかえって好都合だった。
少なくとも、コモデ・シャーヘイズにとっては。
「やだ、駄目だったら」
身をよじるリリエナを、コモデは背後から抱きすくめる。
「ね、やめて、コモデくん……」
言いながら、しかしコモデはそれが心底からの拒絶でないことを知っている。
さっきは、かなりきわどいところまで、いけたのだ。連中が戻ってきてクラクションを鳴らすのが、もう三〇分も遅ければ、最後までいっていたかも知れない。
そう、さっきは、だ。
リリエナは、それを許したのだ。
六つ並んだ客間の最も奥、西側の端の部屋だ。今夜、あの巨漢と少女が寝ることになるはずの部屋である。
すでに掃除機もかけ終わって、あとは元通り施錠《せじょう》して部屋を出るだけだ。そこを、コモデは背後から抱きしめたのだ。
「ね、駄目。見つかっちゃうよ……」
それみろ、とコモデは思う。
つまりそれは、見つからなければいい、という意味じゃないか。
「今夜……」
コモデはリリエナの耳元で囁いた。
「今夜、部屋に行くから。カギは開けておいて……」
「どうしよっかな」
意味深な笑みで振り返るリリエナの、その首筋を手で押さえつけるようにして、コモデは唇を重ねにゆく。
「ん……」
思ったとおり、リリエナはかすかに鼻を鳴らしただけで、抵抗しなかった。
だが、許されたのは、そこまでだ。
柔らかな唇の隙間から舌を滑り込ませようとした途端、ユリ・リリエナはコモデの腕からすり抜けてしまった。
まさに、隙を突かれた格好だ。
「考えとくね」
そう言って、リリエナは部屋を出て行ってしまう。
一人、部屋に取り残されたコモデ・シャーヘイズは、唇の端を片方だけ吊り上げた。
不敵な笑みになった。
マキハ・クラムホンにとって、マキハ・シャレディソンという名には二つの意味があった。
一つは、母。
そしてもう一つは、越えるべき壁。
だが二つめの意味は、マキハにとってもはや意味のないものだった。
自分に神曲楽士としての才能がないことを、思い知らされてしまったからだ。
トルバス神曲学院への入学を希望したのは、九歳のころだった。
それからは母の知人の神曲楽士が、そして時には母自身が、彼を指導した。九歳から一五歳までの、六年間。
六年間もだ。
トルバス神曲学院に入学してからも、それは続いた。
だがやがて、破局が訪れた。
二年生の基礎課程から、三年生への専門課程への進級試験に、落ちたのである。現実問題として、それは神曲楽士となるための最初の実技試験でもあった。
だが彼の神曲は、ボウライの一体、ジムティルの一体すら、召喚することが出来なかったのである。
技術は、完璧だった。
それは自分でも自信がある。
だが試験の結果に驚いて学院を訪れたマキハ・シャディソンに、学院長は言った。
残念ですが、お宅のご子息が神曲の才能をお持ちであると考える理由が、私どもには見いだせませんでした。
つまり、あんたのところの息子には才能がないよ、ということだ。
失意のうちに、次の一年は無駄に過ごした。家に閉じこもるマキハに、母親は何も言わなかった。
それが余計に辛かった。
翌年、彼はノザムカスル大学を受験した。
なんと、トップから七番めの成績だった。
それでも、母は褒《ほ》めてはくれなかった。
トルバス神曲学院での失敗以来、彼女はマキハ・クラムホンに何も期待しなくなってしまっていたのである。
無論、彼にも言い分はある。
八年前の制度改正以降、神曲楽士の合格率がケタ違いに低下していることは、母だって知っていたはずだ。改正以前に楽士資格を取った者のうち、現在の資格試験に合格出来る実力の持ち主は一割にも満たないという説もある。
その一割の中に母が入っていなかった可能性だって、あるのだ。
だが、マキハ・シャレディソンは『ムシカ・ポカール』誌で特集が組まれるほどの神曲楽士であり、その息子は資格試験どころか神曲専門学校の進級試験にさえ合格出来なかった。
それが、事実なのである。
そんなものだ、とマキハは思う。
人生ってやつは、つまり、そういうもんだ。
地下の湿った空気の中で、マキハは階段に座って、地下室を眺めていた。
ごうごうと響くのは、ボイラーの音だ。
電灯は消してしまったので、ボイラーの窓から漏れる炎の色だけが、闇の中で光を放つ。
折った膝《ひざ》の上に肘をついて、掌に顎《あご》を乗せて、マキハは揺れる炎を見つめる。
神曲楽士か。
あんな女の子が。
制度改正以来、年間三千人から四〇人にまで落ち込んだという低い合格率の難関を、あの少女はクリアしたのだ。
マチヤ・マティア。
たったの一六歳。
マキハがなりたくて仕方なかった神曲楽士に、あの子はなっている。
マキハが欲しくて仕方のなかったものを、あの子は持っている。
羨《うらや》ましいわけでもなかったし、妬《ねた》ましいわけでもなかった。
ただ、自分にないものがあの少女にはある、というその事実だけが、重かった。
「マチヤ・マティア……」
口にしてみたその名前は、ずしり、とマキハの心を押さえつけた。
5
思えば、こんなに賑《にぎ》やかな食事は初めてではないだろうか。
たしかにティエントの店に行けば、これ以上の騒々《そうぞう》しさに迎えられる。たまたま居合わせた同僚に相席すれば、それなりに会話も弾《はず》む。
だがそれも、若さという力の前には、比較にならなかった。
しかもそれが、気心の知れた五人の若者によるものであるなら、なおさらだ。
食卓となったテーブルの、マナガとマティアは真ん中に座らされた。さらにその両側は、マティアの隣にツカサ・メイニアが、マナガの隣にはユリ・リリエナが座って、女の子に挟まれてしまった格好だ。
向かい側の席は、だから三人の男子学生である。
カレー・シチューは全員に好評で、二人で作ったんだよ、と言うメイニアの言葉にマティアはどこか照れ臭そうだった。
大鍋いっぱいに作られたシチューは、あっと言う間になくなった。オドマ・ウォンギルは、最後にはバゲットを鍋につっこんで残ったシチューをきれいに拭《ぬぐ》ってしまった。
食事が終わるころには、会話は弾むどころか、ぽんぽんと話題の跳躍《ちょうやく》を繰り返した。
単身楽団はどのメーカーがいいか。
精霊王と呼ばれる存在は実在するか否か。
落としそうな単位を回収する必殺技。
学生食堂を利用して一ヶ月の食費を五〇〇〇エンに抑える方法。
どれも、大して中身のない話題である。
だが、マティアがマナガ以外の人間とこれだけ喋るのを見るのは、久しぶりだった。相変わらず、一つ一つの言葉は短く細切れだが、それでも自分に向けられた質問にはきちんと答えている。時には、かすかに笑みまで浮かべて。
シェリカ以来だな、とマナガは思う。
サジ・シェリカといる時のマティアも、こうだった。口数こそ少ないものの、決して相手を拒絶しようとはしなかったのだ。
そこには、何かの共通項があるはずだった。
マティアの対人姿勢には、三つの段階がある。
マナガと二人だけの時には、くるくると表情も変わり、口数も多い。饒舌《じょうぜつ》、と言ってもいいくらいだ。
だが、それ以外の時にははっきりと壁を作ってしまう。表情が消え、言葉数が減り、返事をしないことも少なくない。相手と視線を合わせることも稀《まれ》である。
そして、その中間が、これだ。
単なる人見知りや自閉でないことは、マナガにも判っていた。ただ、それぞれに何か条件があるはずなのだが、それが判らないのである。
判りたい、と思う。
判るだろうか、とも思う。
「マナガさん?」
ふいに、リリエナに腕を突つかれた。
「あ? ああ、はい」
「聞いてなかったでしょ」
下から覗き込むようなその視線は、ねっとりと絡みつくようで、童顔には不似合いなほどに艶《なまめ》かしい。
「ああ、失敬。ちょっと、ぼーっとしちまって」
「お疲れなんだよ」
フォローを入れてくれるのは、メイニアだ。
「だって、さんざん走り回ってたんでしょ? 宿を探して」
「はあ、いや、面目ない」
頭を掻いて見せるマナガは、しかし一方で、それがあるていどは事実であることにも気づいていた。
奇妙な疲労が、じわじわと背中から広がりつつある。
こんなことは初めてだった。まるで、しこたま精霊雷を撃ちまくった後のような感覚だ。それも、神曲の支援なしに、である。
いつからだ?
そう考えて、しかしその思索は中断させられた。
「マナガさんは」
リリエナである。
「……て言うか、精霊の立場としては、幽霊って信じます?」
全員の会話が途切れて、こちらを見ていた。マナガが考え事をしている間に、話題はそういうことになっていたようだ。
つまり、幽霊は実在するや否や、である。
「幽霊?」
「そ、幽霊」
「マナガさんは精霊なわけですよね」
コモデ・シャーヘイズである。
「精霊と人間との相違は、つまり物質的な『肉体』を持つかどうか、という点だけだと習いました」
「ああ、うん。端的《たんてき》に言えば、そうなりますか」
「つまり精霊とは、我々人間で言うところの『精神』に相当するエネルギーが、剥き出しで存在しているようなものですよね」
「そうですね」
「その精神が、でも我々とは比較にならないほど強いもので、総量も大きいから、高密度に圧縮することで物質化して……まあつまり『肉体』を構築することも出来る」
「ほお。よく勉強しておいでだ」
「いえ、基礎ですから。で、それで問題になるのは、じゃあ幽霊と精霊とはどう違うのか、ってことなんですよ」
「んん、つまりそれは」
言ってからマナガは、ごきり、と首を回して、奇妙な疲労感を無理やり追い払う。
「私ら精霊に比べると、幽霊はそのエネルギー総量がケタ違いに低いだけで、結局は幽霊と精霊は本質的には同じ存在なんじゃないか、ってことで?」
「そうですね。ただし問題は、そう考えると幽霊なんか怖くない、ってことなんですけどね」
そう言ってコモデが笑うと、肌の浅黒さが歯の白さを引き立たせて、まるで歯磨《はみが》きのコマーシャルみたいになった。
「怖くないと困るんだよねえ」
リリエナの言葉に、
「コモデくんは、怪談が得意なんですよ」
メイニアが補足《ほそく》を入れる。
「そんで、女の子をキャーキャー言わせといて、お持ち帰りしちゃうんだよな」
辛辣《しんらつ》に突っ込むのは、オドマである。
「お前なあ」
コモデが苦笑し、全員が笑う。
マティア以外は。
「そいつぁ難しい問題ですなあ」
マナガは、ぼりぼりと頭を掻いて見せる。
「ただ、正直に言うとね。私も幽霊だの怪談だのは、あんまり平気じゃありませんな」
「マナガさん、幽霊が怖いの!?」
メイニアが目を剥く。
「いやあ、怖いってのかどうなのか、よく判らんのですが、なんか苦手で」
「よし!」
ぱちん、と手を打ってオドマが立ち上がる。
「じゃあ、コモデの怪談が精霊を怖がらせることが出来るかどうか、やってみようぜ!」
そういうことになってしまった。
テーブルの上が片づけられ、照明が消された。
暖炉の灯だけになった広いダイニング・ルームで、ひそひそと囁くように、コモデは怪談を語った。
時折、薪が爆《は》ぜて、そのたびに二人の女子学生は小さく悲鳴をあげた。
マティアはずっと、マナガにしがみついていた。
怪異の物語が三つほど済んだ時、マナガは言った。
「いやあ、おっかないですなあ」
ちっとも怖がっているようには見えなかったが、それでも結論は、精霊も幽霊を怖がるということになった。
6
「それじゃ」
「また明日」
「おやすみ」
「さあ、寝よ寝よ」
午前零時を、ほんの少し回った時刻である。
客間は一階の奥に、ちょうど六室、三室ずつ向き合う格好で並んでいる。コモデ・シャーヘイズとユリ・リリエナの二人は、それぞれ割り当てられた部屋へ入っていった。
オドマ・ウォンギルとマキハ・クラムホンは、ダイニング・ルームに残った。まだ話し足りないようだ。
この山荘はもともと、神曲楽士のマキハ・シャレディソンが休暇を楽しむために建てられたのだという。しかし本人は落成の直後に一度、訪れただけで、それ以降はずっと誰も利用することのないまま、放ったらかしだったのだそうだ。
息子のマキハ・クラムホンは、そんな山荘を友人達との旅行に貸し出したのである。
それも、前日に一人だけ先に来て、きちんと友人達を迎えられるように準備をしていたというのだから、何とも友達思いな話である。
おかげで、マナガとマティアも、こうして一夜の宿を借りることが出来たのだ。
「ここです」
六号室まで案内してくれたのは、ツカサ・メイニアだった。
「トイレは、廊下を出て真っ直ぐ、ダイニング・ルームの手前の左側のドアです。あと、もしお風呂に入りたかったら、トイレの向かい側がそうですから。もっとも、お湯が沸《わ》くまで時間かかりますけど」
立派な部屋だった。
マナガでも充分に横になれそうな大きなベッドが二つと、衣装ダンス、それに部屋の隅には小さなテーブルと椅子も二脚、用意されている。
その全てが、壁や天井と同じく重厚な木製なのだ。ダイニング・ルームの内装と同じである。
それに何より、部屋が広い。
アパートの寝室の、ざっと三倍というところか。
「何かあったら、声かけてくださいね。部屋は四番です」
そう言ってから、メイニアは苦笑とともに付け加える。
「でなきゃ、ダイニングにいますから」
つまり、オドマやマキハといっしょに宵《よい》っ張《ぱ》りである、という意味だ。
「いやあ、何から何まで、すみません本当に」
「いえ。それじゃあ」
ていねいに頭を下げて、それから部屋を出てドアを閉める前に、メイニアは小さく手を振った。
「おやすみね、マティア」
「おやすみ……」
応《こた》えるマティアも腰の脇で、ひらひらと手を振る。
満足げな笑みを残して、ぱたん、とメイニアはドアを閉じた。
「ふうん」
マナガを、マティアは見上げて振り返る。
「なに?」
「けっこう仲良くやってたんだ?」
マティアは一瞬、驚いたような顔を見せてから、頷いた。
「うん。あの人、いい人だよ」
そして、ぱたぱたとベッドに駆け寄ると、飛び乗る。
「あたし、こっちね」
それは窓に向かって左側のベッドである。
「ああ」
応えて、マナガは手にした荷物を置いた。
部屋に案内される前に車から持ってきたものだ。いつもの銀のトランクではなく、普通の旅行鞄《かばん》である。
それからコートを脱いで、洋服ダンスの中に仕舞う。大きすぎて、裾《すそ》をタンスの床に寝かせなければならなかった。
「あ、あたしのも」
「あいよ」
隣に吊るしたケープは、コートの胸元あたりまでしかない。
マティアの隣のベッドに腰を降ろすと、ぎしり、と軋《きし》んだ。
「明日はスキーだな」
マナガが、にい、と笑う。
だが、マティアは応えなかった。
俯《うつむ》いて、それはしかし視線を避けているのではなく、何かを考えているようだ。
「……どうした?」
「うん」
それから、顔を上げる。
「なんか、変だよね」
「何が?」
「みんな。五人とも」
「そうか?」
「うん。なんか、本当の友達なのかな」
驚いた。
少なくともマナガの目には、五人とも仲のいい友人達に見えたのだ。たしかにマキハ・クラムホンはマティア以上に無口なようだったが、それでも友達の冗談には笑い、周りの連中も特に彼を無視したり嫌ったりしている様子は見えなかった。
だが、
「お互いに、腹の探り合いしてるみたい……」
それが、マティアの感想なのである。
「そう見えるのか?」
「うん。そう見える」
「そりゃあ、あれじゃないか?」
言いながら、マナガは後ろに手を突いて背を伸ばした。また、ぎしり、と軋んだ。
「男三人に女の子が二人だ。誰かが抜け駆けしないように、とかさ」
「違うよ。そんなんじゃない」
「そうなのかい?」
「うん。皆、いい人達なんだけど……何かが狂ってるみたいな……」
「よく判らんなあ」
ついにマナガは、ごろり、とベッドに横になった。
「大丈夫?」
「何が?」
「ちょっと、なにか疲れてるのかなあ、って」
「あ?」
まいった。
お見通し、ということか。
「長い一日だったからなあ」
応えるマナガに、ふいに少女はベッドから降りる。
そしてそのまま、マナガに覆いかぶさるように、その太い首っ玉に抱きついた。
「お、おいおい」
「ありがとね」
マナガの耳元で、マティアのその言葉は、ほとんど囁きである。
「あ、ああ」
「変なこと言って、ごめん」
「いや、そりゃまあ、別にいいけど」
「感謝してるんだよ、あたし」
「そうか」
「うん」
マティアは、そのまま動こうとしない。
まいったなあ。
小さな背中に手を回して抱き留めてやると、首にしがみつく腕に、きゅっ、と力がこもった。
さてと。
困ったぞ。
苦笑しながら見上げると、窓のカーテンの隙間から夜空が見えた。
分厚い雲が、妙に白々と空を覆っていた。
目が覚めた。
ということは、眠っていたらしい。
「マナガ……」
マティアだった。
仰向けになったマナガの、その胸の上に、少女の小さな躯がある。抱き留めた格好のまま、寝入ってしまっていたようだ。
「マナガ、起きて」
囁きだ。
「マナガ」
「おう、起きた」
マティアの顔はすぐ目の前、ほんの5センチほどの距離にある。
だが彼女の黒い瞳は、マナガを見つめているわけではなかった。
右へ……、左へ……、何かを探るように動いている。
「聞こえる?」
問われて、気づいた。
「ああ……」
聞こえる。
そして同時に、全身にぴりぴりと電気に触れたような感触が走る。
「何だこりゃあ……」
理解した。
「マティア……」
「うん」
「全員、叩き起こせ!」
緊急事態だった。
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第二章 捩《ね》じれる想い
1
最初に気づいたのは、声だった。
どんどんとドアを叩《たた》く音の方が、声よりも大きい。
だがその声は、鼓膜《こまく》を震わせ、肌を震わせ、指先から躯《からだ》を震わせ、お腹《なか》の底まで入り込んできて躯の内側から震わせるのだ。
何か叫んでいる。
太い、声だ。
その声が誰のものだか理解した途端《とたん》、メイニアはいきなり現実に引き戻された。
「はい……」
反射的に、応《こた》えていた。
「メイニアさん!! ツカサ・メイニアさん!!」
巨漢の精霊だ。
マナガである。
ごつい手が、分厚い木製のドアを、どんどんと叩いている。半ば寝惚《ねぼ》けたメイニアの返事は、だから相手には届いていないようだ。
「はい!!」
今度は出来るだけ大声で応えて、同時にベッドを抜け出す。
ひんやりと冷たい空気が、パジャマの隙間《すきま》から忍び込んできて、背筋を撫《な》でた。
「部屋を出て! 早く!!」
「はい?」
何のことだかわけが判《わか》らないままに、とりあえずカギを開けた。
途端にドアが開いて、ノブを掴《つか》んだままのメイニアは前へつんのめる。
「ひゃっ!」
その腕を、グローブみたいに巨大な手が支えてくれた。
……と思ったら、廊下へ引っ張り出された。
「え? なに? なに!?」
思わず声をあげる。その言葉に応えたのは、マナガではなかった。
「知らねーよ。俺《おれ》らも起こされたんだよ」
オドマ・ウォンギルだ。身に着けているのはランニング・シャツと、信じられないくらいに横幅の広いトランクスだけである。
思い出した。
マナガとマティアを六号室に送り届けた後、メイニアはダイニング・ルームまで戻った。
徹夜も覚悟で、お喋《しゃべ》りするつもりだったのだ。
だが一時間もしないうちに、もう寝よう、と言い出したのはマキハだった。明日はスキーで朝早いし、それにマナガさん達より寝坊なんて失礼だ。それがマキハの言い分だった。
オドマが珍しく反対しなかったのは、運転で疲れていたせいかも知れない。
そして三人は、それぞれに部屋に入った。
メイニアも、ベッドに潜り込むなり、それからの記憶がない。
気がついたら、ドラムの連打みたいなノックに叩き起こされていたのだ。
「だ……駄目だ」
そう言うのは、マキハ・クラムホンである。
こちらは、寝る前と同じ服装だった。メイニアやマナガ達の部屋の向かい側、二号室のドアの前で、こちらを振り返る。
「だ……駄目。出てこない。起きない……」
「判った。私がやる!」
太いその声に、見るとマナガと、そしてマティアも同じように着替えて、きちんとコートとケープまで着込んでいた。
「あんた方《がた》は、ダイニングへ避難しててください」
避難?
どういうこと?
そう思った時だ。
めりっ、と何かが音をたてた。
太い生木を裂くような音だ。
「間に合わん! 伏せろ!!」
マナガが怒鳴《どな》る。
最初に反応したのは、オドマだった。大きく張り出したお腹を廊下に叩きつける勢いで、身を投げる。続いてマキハが、床に伏せた。
「え? なに?」
呆気《あっけ》にとられるメイニアに、何かがぶつかってきた。
マティアだった。
突然の勢いに、脚《あし》がもつれる。その上から、さらにマナガの腕が伸びてきて、廊下に押し倒される格好《かっこう》になった。
轟音《ごうおん》が、廊下を震わせた。
爆発したのだ。
ばらばらと続くのは、何かの破片が床に落ちてくる音だ。
「なに!? なに!?」
メイニアは小さな少女と、そして巨漢の腕に押さえつけられたまま、ただそれだけを口にしていた。
「なに!? なに!? なに!?」
何が何だか、さっぱり判らない。
しん、と静まり返った廊下に、ただメイニア自身の声だけが繰り返されていた。
「なに!? なに!?」
「もう平気」
耳元で、囁《ささや》くように。
その透明な声に、メイニアは我に返った。
「マティア……?」
「うん、もう終わり。たぶん」
太い腕の重圧が消える。
それからメイニアは、マティアに手を貸されて、立ち上がった。
ようやく事態を理解したのは、たっぷり五秒ほども経《た》ってからだった。
「……なに、これ」
廊下の左右には、客室が三つずつ、並んでいる。
奥に向かって左側の手前から一号、二号、三号室。同じく右側が四号、五号、六号室である。
その五号室が、なくなっていた。
ドアがあるはずの位置に、ぼっかりと穴が空いている。
ドアは粉砕《ふんさい》されて、廊下に撒《ま》き散《ち》らされていた。
「……爆発?」
「うん」
マティアだ。
「そんな」
思わず漏《も》れた呻《うめ》きに、オドマが追い打ちをかけた。
「コモデの奴《やつ》も、おだぶつかよ……」
そう。
五号室に泊まっていたのは、コモデ・シャーヘイズである。マナガとマティアを六号室に案内する時、その隣の五号室にコモデが入って行くところを、メイニアも見ている。
その五号室が……シャーヘイズの部屋が、内側から吹き飛んだのだ。
「なんで……?」
言いかけるメイニアを、しかしマナガが手で制した。
その目は真っ直ぐに、爆発した五号室を見つめている。
「やっぱり、そう?」
マナガを見上げて、マティアのその声は、冷たく、固い。
「ああ、もうちょっと調べてみないと判らんが、まず間違いないな」
それから、マナガが三人に向き直る。
「早く着替えて、ダイニングへ移動しなさい。それから、出来るだけ周囲の物に触らないように。いいですね?」
「やっぱりな」
そう言ったのは、オドマだった。
「あんた、公務員ってのは……」
応えて前に出たのは、マティアである。
ケープのアーム・スリットから出てきた細い手には、黒い手帳があった。
「ルシャゼリウス市警察、精霊課です」
精霊課?
警官?
二人とも?
「今の爆発は、精霊犯罪の可能性が高いと思われます。二次的被害を防ぐために、民間の方は我々の指示にしたがってください」
思えば、彼女の目を真《ま》っ直《す》ぐに見るのは、これが初めてだった。
冷たい、けれど強い意志が押し寄せてくるような瞳《ひとみ》だった。
「おっけー」
オドマが、とっとと部屋へ引き返す。彼の部屋は爆発した五号室の向かい側の列、その最奥《さいおう》の三号室だ。
「じゃ……僕、僕は、リリエナを起こすよ」
すでに着替えを済ませているマキハは、自分の一号室ではなく、隣の二号室に向かう。
だがマキハがノックする前に、二号室のドアが開いた。
中から出てきたのは、
「なに?」
ユリ・リリエナと、
「おい、どうなってんだ?」
そしてコモデ・シャーヘイズだった。
2
全員が着替えて、ダイニング・ルームに向かうのを見届けてから、マナガは五号室に向き直る。
廊下の向かって右側、四号室のドアと六号室のドアの間の壁に、大穴が開いているのだ。
のっそりと、中を覗《のぞ》き込んだ。
ぱたぱたと、マティアが続く。
「こいつぁ、ひどいな……」
思わず漏れる呟《つぶや》きに、マティアが彼のコートの裾《すそ》を掴んだ。
惨状だった。
おそらく、マナガとマティアが借りた隣の六号室と、造りは同じだったらしい。二つのベッドと洋服ダンス、それに椅子とテーブルである。
そのどれもが、無残にも破壊されていた。
瞬間的な圧力に押し潰《つぶ》され、引き裂かれたのだ。
何かが爆発したことは、間違いない。
ドアだけではなく、奥の壁は窓を中心にして、やはり大きな穴が開いている。
さらに、床も壁も天井も、そして引き裂かれた家具の残骸《ざんがい》も、その全てが真っ黒に焼けただれていた。壁紙は全て焼け落ち、天井も焼け剥《は》がれて黒く焦げた梁《はり》が剥《む》き出《だ》しだ。
火災現場を思わせる状況だったが、しかし不思議なことに炎も残り火も見えない。
瞬間的な高圧と、瞬間的な高熱が、一瞬で部屋を破壊したのである。
しかも問題は、その発生位置だ。
押しつぶされた家具の様子から、高圧と高熱は部屋の中央……それも床ではなく、部屋という直方体空間の中心で発生しているとしか思えない。全てが均等に、外側に向かって圧壊《あっかい》しているのである。
もしこれが通常の爆発物による破壊であるなら、それは部屋の中央に天井から吊《つ》るされた状態で爆発したことになる。
だが二人には、それよりも妥当《だとう》な解釈があった。
「精霊爆発……」
マティアの呟きに、マナガは頷《うなず》く。
「たぶんな……」
ゆっくりと、部屋に入る。
圧力と熱で脆《もろ》くなった床が、マナガの体重に、めりっ、と音をたてる。
「証拠も何も、あったもんじゃないな」
部屋を見まわして、マナガが呻いた。
ほぼ完璧な破壊だった。
もしここにコモデが寝ていたら……ユリ・リリエナの部屋へ移動していなければ、マナガは彼にとって最も苦手なものを見なければならなくなっていただろう。
壁の大穴の向こうには、白と黒があった。
雪の白が、夜の黒に沈んでいる。
マナガは顔を突き出して、外を見渡した。
足跡は、ない。壁際の雪が熱で溶け、溶けた水が瞬間的な圧力で吹き飛ばされて、放射状に地面が露出している。地面を覆《おお》った薄い氷は、溶けた雪が再び凍結したものだろう。
その向こうには、白い雪の上に点々と、黒いものが散乱していた。
吹き飛ばされた、壁の破片だ。
「指紋も取れない。足跡もなし。そして鑑識《かんしき》もいない、ときた」
自嘲的《じちょうてき》な笑みで、マナガはマティアを振り返る。
「えらい休暇もあったもんだな」
だが、少女は振り返ることなく、足元を見ていた。
「マナガ……」
「どうした?」
壁の大穴のすぐ下に、やはり黒こげになった破片が、いくつか落ちている。吹き飛ばされずに、部屋に残ったものだ。
そのうちの一つ……掌《てのひら》ほどの大きさの木片を、マティアは見下ろしているのである。
「どうかしたか?」
拾い上げようと、マナガが腰を折る。
伸びたその手を、マティアが押さえた。
「駄目」
「あ?」
そして、気がついた。
「おいおい。マジか?」
マティアは、無言で頷く。
「当たりだよ、マナガ」
そして、少女はこちらを向いて、言った。
「これ、精霊犯罪だ」
二人の休暇は、この瞬間、終わった。
時刻は、午前二時に近い。
ダイニング・ルームは、コモデの怪談を聞き終えて部屋に戻った時の状況、そのままだった。
ただ、全員の座る位置だけが違う。
正確に言うなら、もうマナガとマティアはテーブルに着いてはいなかった。
「とりあえず全員無事、ってことですな」
ほっとした様子で全員を見まわすマナガは、テーブルの前に立っている。
マティアは、その隣である。
「まあ今のところは、よござんした、と申し上げときましょう」
「いったい何がどうなったんです?」
コモデの問いに、マナガはぼりぼりと頭を掻《か》いてから、言った。
「こいつぁ可能性の問題なんですがね」
それからもう一度、全員を見まわす。
「誰《だれ》かが、この中の誰かを殺そうとした、って解釈が最も合理的ですな」
「誰か誰かじゃ、判んねーよ」
オドマに、マナガは苦笑を投げる。
「そりゃそうだ。でもね、そうとしか言えんのですよ、今の段階じゃあね」
「じゃあ、どの段階になったら、誰が誰を殺そうとしたのか、言えるわけよ?」
「そいつぁ、これからの捜査次第です」
「事情聴取ってか?」
「そう。まずは、それからです」
「その前に」
口を挟んだのは、リリエナである。コモデの隣で、椅子を近づけて寄り添うように。
「何が起きたのか、それだけでも教えてもらえません?」
その目は、明らかに怯《おび》えていた。
少し考えるそぶりを見せてから、マナガは頷いた。
「よござんしょ。動かしようのない事実、って部分だけね」
つまり、こういうことだった。
先に気づいたのは、マティアの方だった。
何かが、みしみしと軋《きし》んでいる。その音で、目が覚めたのだという。
最初はマナガの体重にベッドが悲鳴をあげているのかと思ったが、そうではなかった。
音は、壁の向こうから聞こえてくるのだ。
隣室……つまり五号室である。
マティアに起こされたマナガは、すぐに異変を察知した。
「精霊圧が、隣の部屋で異様に高まってたんですよ」
「精霊圧……」
メイニアには、馴染《なじ》みのある言葉である。同じ精霊学専攻のリリエナも、同様のようだ。
だが残る三人には、説明が必要だった。
「何よ、それ」
オドマに、メイニアが補足《ほそく》する。
「大雑把《おおざっぱ》に言うと、精霊のエネルギー密度のこと。例えば、同じ精霊が物質化してない時と物質化してる時とを比較すると、物質化してる時の方が精霊圧が高い。それに、物質化した時のサイズが同じでも、力の大きな精霊の方が精霊圧が高い。判る?」
「だいたいな」
「ピストンの中の空気みたいなもんか?」
機械工学科らしいコモデの確認に、メイニアは頷いた。
「ちょっと違うけど、考え方は同じでいいと思う。ですよね?」
振られて、マナガも頷く。
「ええ、よござんすよ」
二つのピストンの中に違う量の空気を入れて、それぞれを同じ体積にまで押し縮めようと思ったら、量の多いピストンの方に大きな力をかける必要がある。つまり、それだけ空気の圧力が高い、ということだ。
同様の状況で、体積を全く縮めようとしなければ、ピストンに力を加える必要もない。すなわち、圧力はゼロである。
それと同じなのだ。
「その精霊圧が、隣の部屋で高まってたってことですか? 五号室で」
「そう。もう、無精髭《ぶしょうひげ》まで逆立っちまうほどにね。私も、あんなに爆睡《ばくすい》してなきゃ、もっと早く気づいたんですがね」
何でも、せっかく荷物を持ち込んだのに寝間着に着替える前に眠ってしまったのだという。逆に言えば、そのおかげで彼らは、いち早く部屋を飛び出すことが出来たのだ。
「それで、爆発した……」
「そうです。そういうのを、精霊爆発、と呼んでるんですがね」
「精霊が爆発したんですか?」
リリエナの声は、ほとんど裏返っている。それを、マナガは苦笑で否定した。
「いえいえ。そういう場合もあり得ますが、普通はそうじゃありません。大量の精霊雷を一ヶ所に集中させても、同じことは起きます」
精霊雷とは、言わば精霊の『道具』であり、また時には『武器』でもある。
一般的には、精霊の放つ純粋エネルギー、として認識されている。熱量もベクトルも持たない、それは精霊自身の『一部』であるとも言える。
通常、精霊はこのエネルギーに意志の力でベクトルを与え、『腕』あるいは『前肢《まえあし》』に相当する器官から放出する。人間の目には、これが横方向への落雷のように見えるため、精霊雷、と呼ばれるのだ。
精霊はこれによって離れた場所にある物体を動かしたり、あるいは高圧で叩きつけることによって標的を攻撃するのである。
例えばね、とマナガは言った。
「たまぁに事故があるらしいんですがね。蓄雷筒《ちくらいとう》に精霊雷を溜《た》めてる時に、安全弁が巧《うま》く働いていないと、許容量以上の精霊雷を溜め込んぢまって破裂するんです。容量の大きい蓄雷筒の事故だと、建物一軒、吹っ飛ぶそうですよ」
それと同じことが起きたのかも知れない、とマナガは言っているのだ。
「でも、客室は蓄雷筒じゃないぜ」
オドマである。
「俺みてーなシロウトでも判らあな。蓄雷筒ってのは、あれだろ? 内側に精霊文字のコーティングがしてあって、精霊雷が外に漏れないようにしてあるんじゃんか」
そのとおりだ。
古代の精霊言語に由来すると言われる精霊文字は、その組み合わせによって、精霊や精霊雷に対するシールドとなる。ある種の精霊文字に対しては、精霊は直接それに触れることさえ出来ないともいう。
「どっかから精霊雷が叩き込まれたとしてもさ、部屋を壊すだけで、爆発するまで溜め込むなんて無理じゃんか」
「そう。そいつがポイントなんです」
そして、マティアが動いた。
ケープの下から何かを取り出して、テーブルの上に置いたのである。
全員が立ち上がり、身を乗り出した。
掌ほどの大きさの、引き裂かれた木片だった。
「さっき、五号室で見つけたんですがね」
マナガが、木片に手を伸ばす。
「見ててくださいよ」
ゆっくりと指を近づけるその様子は、この大きな精霊には似合わないほどに臆病な動きだった。
ばちん、ムチで空を叩くような音とともに、火花が散った。
マナガの指が木片に触れた、その瞬間にだ。
「おう! いってぇ」
お湯の沸《わ》いたヤカンでも触ってしまったみたいに手を引っ込めると、その手をぷるぷると振った。
「ね? こういうわけで」
「精霊文字……」
「そうです」
よく見ると、たしかに木片には、マジックか何かで文字らしきものが書き込まれていた。四角い、迷路のような複雑な文字の連続だ。
「でもマナガさん、精霊文字は、超越者《ちょうえつしゃ》でなければ扱えないはずでしょ?」
少なくともメイニアは、そう習った。
人間を超えた思考力を持つとも、狂人と紙一重とも言われる、特殊な人々だ。
「ええ、たしかに。でもね、彼らの作った配列を単純に引き写すだけなら、五歳の子供にだって出来るでしょうな」
コモデが、なるほど、と唸《うな》る。
「例えば、蓄雷筒を手に入れて、そいつを分解して……」
「シロウトが勝手に精霊文字を扱うのは、違法行為だよ?」
だがメイニアの主張は、オドマの嘲笑《ちょうしょう》を誘っただけだった。
「山荘を吹っ飛ばすのだって、違法行為だっての」
ともかく、とマナガが先を続ける。
「今回の爆発が、意図的なものであることだけは間違いありません。誰かが意図的に、五号室を蓄雷筒と同じ状態にしちまったんです。爆発させるためにね」
「でも、誰が……」
リリエナに、マナガは微笑《ほほえ》んだ。
「だから、皆さんからお話を聞きたいわけで」
全員が、自分以外の全員の顔を見渡した。
メイニアもだ。
やっと状況を理解したのである。
「まさか、この中に……」
「ええ。その可能性もある、と私ゃ思ってますよ?」
「冗談じゃない!」
コモデが立ち上がる。
「俺達は大学に入ってから、ずっと仲間なんです。そんな……誰かを殺そうとする奴がいるなんて、信じられません!」
「そうですか?」
「そうです。いくら何でも失礼ですよ!」
「そんなこた、私の知ったこっちゃない」
全員が、凍りついた。
その声は、それまでのマナガの声とは全く異質なものだったからだ。
彼のよく響く声は、どこか温かく、柔らかいものだった。さっきの爆発の前後でさえ、そこには鋭さとともに頼もしさがあったのだ。
だが、今は違う。
そこには、さらに残酷なまでの冷淡さがあった。
「いいかい坊や、私ゃね、罪を犯さない人間なんて存在しないと思ってる。いや、精霊もだ。誰だって、必ず一つや二つの罪を背負ってるもんだし、生きてる限りは必ず次の罪を犯す。違うのは、その罪の大きさと深さだけなんだよ」
「でも……」
「今、私ゃキミの心を傷つけたよね? こいつも、罪だ。でもな坊や、そいつを避けようとすると、私ゃ捕まえられるかも知れない犯罪者を逃がすことになる。そいつは、もっと大きな罪だ。判るかい?」
「……はい」
「私ゃ警官だ。犯罪者を追い詰めて、取っ捕まえるのが仕事だ。キミらがどれだけ気分を悪くしようが、私ゃ必ず犯人を捕まえる。そうさせたくなきゃ、今すぐに私を追い出すことだ。今ならそれが出来る。ここは本来、私の管轄《かんかつ》じゃないからね」
そして、オドマがその後を引き受ける。
「そんで、追い出したら別の警官が来る、ってこったな?」
「当然だよ。私ゃもう知ってしまったからね」
「いいじゃん」
力なく腰を落としたコモデに代わって、次はオドマが立ち上がる。
「調べてもらおうや。俺はもともと、この関係がどうにも胡散臭《うさんくさ》いと思ってたんでね」
「オドマくん!」
リリエナが抗議の声をあげても、オドマは止まらなかった。
「皆、判ってたんだろ? どうしてコモデが俺やマキハみてーなのとツルんでるか」
「オドマくん、やめてよ」
「そうだよ。オドマ、やめな」
「おっとっと。ツカサ、お前もだぜ? なんで、リリエナなんかと、くっついてんだ?」
「それは……」
……高校時代からの友達だから、と言いかけて、気がついた。
そんなこと、説明したって意味がない。
問題は、なぜ友達なのか、ということだからだ。
「ほぉら、な? さすが精霊警官、ちゃんとお見通しってわけだ」
だが、その言葉に異《い》を唱《とな》えたのは、他ならぬマナガだった。
「そいつぁ違いますなあ」
声が、もとに戻っていた。
温かく、柔らかい。その顔には、笑みまで浮かべている。
だがメイニアには、その笑みがどこか哀《かな》しげなものに見えた。
「私ゃ諸君の友情そのものを疑ってるわけじゃありません。ただね、人間でも精霊でも、時には相手を想う気持ちそのものが、でっかい罪を引きずり出しちまうことがある、ってのを知ってるんですよ」
そして、ゆっくりと全員を見まわす。
「私ゃね、警官になってからまだ五年にもなってない。相棒といっしょに精霊課勤務になってからだと、たったの二年足らずです」
マティアが、仰《あお》ぐようにマナガを振り返る。
マナガも、マティアと視線を交わす。
「たくさんの事件に関わって、多くの犯罪者に会いましたよ。人間にも、精霊にもね。そんな中で判ったことがあるんですよ」
そこでマナガは、言葉を切る。
言葉を選んでいるように、メイニアには思えた。
そして、彼は言った。
「どんな善人でも、罪は犯すもんです」
オドマは、もう何も言わなかった。
マキハはついに一言も発することなく、俯《うつむ》いた。
コモデはリリエナを振り返り、リリエナはコモデの手を握りしめた。
そしてメイニアは、ただ真っ直ぐにマティアの顔を見つめていた。
「では……」
細い、透明な声で、マチヤ・マティア警部が宣言する。
「皆さん、ここから動かないでください。出来るだけ周囲のものに手を触れないで。それから、順番にお呼びしますので、我々がいいと言うまでは、お互いに出来るだけ言葉を交わさないようにしてください。特に事件についての情報は共有しないでください」
人が変わってしまったのは、マナガだけではなかったようだ。
驚くほど大人びてしまったマティアの言葉に、オドマが手を挙げる。
「どうぞ?」
「トイレに行きたくなっちまってんだけど、どうしたらいい?」
「かまいません。しかし、必ず誰かと二人で行動して、済んだら可能な限り速《すみ》やかに、この部屋に戻ってください。単独行動は、なさらないように」
「ちょっと待った!」
ふいに、コモデが立ち上がった。
「そうだ……、なんで気がつかなかったんだ!? そんなことする前に、しなきゃならないことがあるじゃないか」
「なんでしょう?」
「電話だよ、電話! とっとと所轄《しょかつ》の警察に連絡しなきゃ!!」
だが、マティアは冷やかに言った。
「それが可能なら、我々もこんなことはしていません」
「……なに?」
マティアが振り返り、マナガが頷く。
巨漢は、肩をすくめて、言った。
「まあ、ご自分で試してごらんなさいな」
言われて、コモデが席を離れる。
電話は、山荘の中に四ヶ所。そのうちの一つは、ダイニング・ルームから客室へと続く廊下の手前だ。
柱に取り付けられた電話の、受話器をコモデが耳にあてる。
ダイヤルを回し、それからフック・スイッチをがちゃがちゃと押した。
「切れてる……」
呆然《ぼうぜん》と呟くコモデの言葉に、追い打ちをかけたのはオドマである。
「おい、マジかよ!!」
彼はカーテンを開けて、窓の外を見ていた。
山荘の正面だ。
「いつからだ? 全然、気づかなかった……」
雪だ。
真っ暗な山の中、降りしきる雪がダイニング・ルームから漏れる光に浮かび上がる。
それは無数の、斜めの白線だ。
しかも、窓の桟《さん》にまで張り付いて、窓ガラスの下半分ほどは白く染まって外が見えなくなっているのだ。
「電話線が切れたんでしょうな」
マナガの声が、メイニアには死刑の宣告のように思えた。
「カンヅメ、ってやつです」
そして、七人は孤立した。
3
最初にマナガとマティアの部屋に呼ばれたのは、オドマ・ウォンギルだった。
椅子は、六号室のドアを背にする格好で置かれている。マナガとマティアは、その向かい側だ。通常の取調室と配置が逆なのは、必要以上の威圧感《いあつかん》を与えないようにという、マティアの発案である。
「そんで」
どっかりと座るなり、オドマは正面の二人を交互に見る。マティアは椅子に、マナガはその奥のベッドに腰を降ろす格好である。
「何が訊《き》きたい? とりあえず何でも喋るぜ、俺は犯人じゃないからね」
「今まで私が落としてきた連中も、みんなそう言いましたよ」
皮肉るマナガに、オドマは苦笑で応えた。
「ちげぇねえや」
「そこで、まず訊きたいんですがね」
「おう、なんですか刑事さん」
「部屋割りってのは、どうやって決めたんです?」
二番めは、マキハ・クラムホンである。
「前日から今日の準備をしたって?」
「は……はい」
「なぜ?」
「ボイラーが……点《つ》けるの初めてだったし……」
「業者に任せなかったのは、なぜ?」
「母が、遊びに使うんだったら、自分でしろって……」
「厳《きび》しいお母さんなんだ」
「……はい」
おどおどと泳ぐ視線に、突然、マティアが口を開く。
「マキハさん」
「……はい」
「ご不快なら、お答えいただかなくてもけっこうです。あなたは、ユリ・リリエナさんに好意を抱いておられますね?」
眼鏡の奥で落ち着きなく動いていた瞳が、マティアを見据《みす》えた。ほんの一秒ほどのことだったが、それは紛《まぎ》れもない凝視《ぎょうし》だった。
「はい……」
そして、
「コモデくんも、オドマくんも、そうです」
三番めは、ツカサ・メイニアだ。
「どうぞ」
マティアが椅子《いす》を勧《すす》めるのは、これが初めてだった。
「マナガさん」
先にメイニアの方から切り出した。
「本当に、私達の中に犯人がいるとお考えなんですか?」
「いいえぇ、そこまで断定的じゃありません。どんな可能性も否定するにはまだ早い、てぇだけのことです」
「それは、警察官としての姿勢でしょ?」
「ええ、まあ」
「マナガさん個人としては、どうなんです?」
「そいつぁ、まだ何とも……」
「じゃあ、マティアは?」
少女は真っ直ぐに、メイニアを見つめ返す。
「判らない」
でも、とマチヤ・マティア警部は付け加える。
「今のところ、誰にも除外する理由はないから」
それから、マナガの方を振り返った。
「つまりですね」
巨漢が、後を引き継ぐ。
「犯人は五号室の中に精霊文字を書き込んでます。つまり、山荘の中には入れたわけです。しかし実際には、部屋を破壊しただけで終わっちまいました。これは、五号室が無人だとは知らなかったと考えるのが自然です」
あるいは、五号室に誰かがいると思い込んでいた、とも言える。
「オドマくんの話では、部屋割りはそれぞれ自分で選んだってことですから、狙《ねら》われたのがコモデくんであるという確証は、まだありません。でも一つだけ確実なのは、犯人は無駄骨《むだぼね》を折っちまったってことです」
つまり犯人は、山荘に立ち入って五号室に精霊文字を書き込める立場であった、ということだ。しかしその人物は、爆発の時点で五号室が無人になっても、それを知ることが出来ない立場であった、ということにもなる。
つまり、
「あたし達、全員……」
「はい、そうです。コモデくん本人を除いて、全員が条件に該当します」
「でも、外部の人間が入ってきて、精霊文字を書いてから、逃げたのかも知れないじゃないですか」
「そうなると、また別のところが引っかかるんですよ」
「何ですか?」
「だったら、なぜ夜になるまで潜んでいて、直接被害者を殺害しなかったんでしょう。なんで、精霊爆発なんて回りくどい手を使ったんでしょうね。二階だの地下だの、姿を隠せる場所は山ほどあるのに」
「まさか……」
「いえ、さっき調べました。この山荘には、私達だけです。そいつは安心してもらって、よござんすよ」
「じゃあ、犯行の後、逃げたんじゃ……」
そこまで言って、メイニアも気づいたようだ。
「あ、そか。それだったら……」
「そうです。誰にも気づかれずに逃げる方法を持ってるなら、やっぱり直接殺害してたはずです。どう考えたって、外部の人間の犯行と考えるのは不自然なんですよ」
「だから……?」
「そうです」
マナガは頷いた。
「少なくとも現時点では、皆さんの中の誰かが犯人、と考えるのが最も妥当なんです」
「でも、誰も神曲楽士じゃないですよ?」
「そいつぁ証明不能ですな。技能を持っていても秘密にすることは出来ますからね。それに、必要なら神曲楽士を雇《やと》うことだって出来る。騙《だま》して雇うことも可能でしょうし、それに楽士だからって善人とは限りませんしね」
つまり、神曲楽士であるか否かに拘らず、精霊爆発を発生させることは全員に可能であると言える。
だとしたら、依然として残る問題は、二つである。
誰が犯人か。
そして、誰を殺害しようとしたか。
「判りました……」
メイニアの声は、奥歯を噛《か》みしめるようだ。
「それで? 私は何を話せばいいの?」
いくらか投げやりに、彼女がそう言った時だ。
突然、ノックもなしにメイニアの背後のドアが開かれた。
「た、大変だ!」
マキハの大声に、びくり、とメイニアが立ち上がる。
「コ、コ、コモデが! に、逃げた!!」
4
夜明けには、まだ二時間ほどある。
だが夜が明けても、朝焼けを見ることは出来そうになかったし、青空も期待出来そうにはなかった。
風が強まり、吹きつける雪は横殴《よこなぐ》りになっていて、吹雪が近いことは明らかだ。
「駄目だ! 開かねえや!!」
玄関ホールは二階へ続く階段を左右に備えた、広い吹き抜けである。正面のドアは大きな両開きで、オドマはその片方を両手で押している。
「一人になるなって言ったでしょうに!?」
言いながら、マナガは大股《おおまた》で近づく。
「それどこじゃねーだろがよ!!」
応えるオドマは、今度は肩を押しつけて、全体重をかけた。
だが、開かないのだ。
「雪ですか?」
「いや。凍りついたみたいだ」
吹きつける雪が、伝わってくる室内の温度に溶けてドアや蝶番《ちょうつがい》の隙間に入り込んだのだ。その水が、吹雪による急速な気温の低下で、一気に凍りついてしまったのである。
ドアの氷漬けだ。
「手を貸しましょう」
マナガが、その背後から覆いかぶさるように、手をかける。
「よござんすか?」
「あいよぅ!」
「せぇのっ!!」
押した。
「何だよ、もっと莫迦力《ばかぢから》、出せよな!」
「これでも精一杯なんですがね」
言ってから、マナガは慄然《りつぜん》とした。
おかしい。
普段なら、神曲の支援なしにドアのノブを片手で捩《ね》じ切《き》り、本気になれば車のドアだって素手で引き千切ることさえ出来るはずなのに。
なんてこった。
ずっしりとした疲労が全身に広がっていることに、この時、初めて気づいた。マティアを抱き留めたまま眠ってしまう前よりも、ひどい。
まともに力が出せなくなっているのだ。これでは、人間並みだ。
ドアは、びくともしなかった。
「ここから出たんじゃねーのかよ!」
「二階にもいません!」
階段を駆け降りてくるのはツカサ・メイニアとマキハ・クラムホン、そしてマティアである。マキハが両手でバールを握りしめているのは、万が一の用心だ。
「ちっくしょう! どこ行きやがったんだ!!」
オドマがわめく。
それは、わずかに数分のことだったという。
事情聴取の済んだマキハと入れ違いにメイニアがダイニング・ルームを出た直後、オドマはマキハを連れてトイレに立った。マナガの言いつけを守ったのだ。
だがダイニングに戻ってくると、無人になっていた。
コモデ・シャーヘイズとユリ・リリエナの姿が消えていたのである。
その間、わずかに数分だ。
「マナガ」
駆け寄るマティアが、建物の奥を指差した。
「判った。あっちだ」
指差す方向にはダイニング・ルームと、さらに奥にはマナガ達が泊まった六つの部屋が並んでいる。
「なるほど、そういうことか」
マナガはマティアを抱き上げる。
いつもは羽毛のように軽いはずのマティアの体重が、今はずっしりと重い。
それでも彼は、大股で歩き始めた。緊急事態なのだ。
その後を、三人の学生達が続く。マナガに追いつくために、こちらは小走りだ。
「あ、そうか」
廊下を進むにつれて、空気が冷えてゆく。
白く凍り始めた息に、最初に理解したのはメイニアだった。
「五号室だ!」
破壊された五号室には、今、ドアもなければ壁もないのだ。
マティアの言うとおりだった。今や横殴りの雪が叩きつける白い雪面に、二人分の足跡が蛇行《だこう》しながら続いている。壁の穴から外へ出て、しかし吹きすさぶ雪のためにほんの五メートルばかり先までしか見えない。
「マティア、皆と待ってろ」
マティアが頷くのを確認してから、マナガは外へ出た。
途端に、叩きつける風が髪を乱し、コートの裾を巻き上げる。
見通しがきかない。
精霊の中には、十数キロ先まで見通したりミクロ単位の細かい物まで識別したりする視力の持ち主がいるが、マナガはそうではない。せいぜい人間より少しばかり目がいい程度の彼にとって、この吹き降りの雪は目隠しも同然だ。
だがそれでも、二人の足跡が山荘を回り込んで、その裏手へと続いていることだけは判った。
「倉庫か……」
吹きすさぶ風に混じって、別の音が聞こえてきた。
エンジン音だ。
「おい……冗談じゃないぞ」
スノー・モービルの、だ!
上下に開く倉庫のシャッターなら、少しばかり雪をどければ開くことが出来るだろう。その際、倉庫の中に雪が雪崩《なだれ》込むことにことになるだろうが、逆にその斜面はスノー・モービルを外へ出すのに都合がいいかも知れない。
だが問題は、その後だ。
この視界でスノー・モービルを走らせるなど、自殺行為だ。
マナガは、雪を蹴《け》った。
大股で走るマナガの脚《あし》を、柔らかい新雪は脛《すね》の半ばまで呑《の》み込《こ》む。それを強引に引き抜いて、マナガは走った。
なるほどな。
こいつが、雪、ってやつだ。
初めての『出会い』としては、いささか趣《おもむき》に欠けるが……。
山荘の脇《わき》へ飛び出したところで、真正面からライトの光を受けた。
思ったとおりだ。
「どけ!!」
叫ぶ声は、コモデである。
だが、真正面から照らされるライトの光で、その姿は見えない。ただエンジン音だけが、急速に接近してくる。
「どけ!」
「そいつぁ聞けませんなあ」
「どかないと、轢《ひ》くぞ!!」
「私ゃ警官なんでね」
マナガは腰を落とす。
ふいに頭をよぎるのは、何時間か前……ベッドに横になって寝入ってしまう前の、マティアとの会話だ。
あの時、異様なくらいの疲労を感じていた。
さっき、オドマといっしょに正面のドアを押した時も、そうだった。
いけるか?
だが、他に選択肢はなかった。
「ま、バクチだな」
唇《くちびる》を笑みに歪《ゆが》めた直後、スノー・モービルが真正面から激突してきた。
故意ではなかろう、とは思う。この柔らかい新雪の上で、機敏《きびん》な回避が出来なかったに違いない。
だがそれでも、激突は激突だ。
「むうっ!!」
それをマナガは、正面に伸ばした両腕で、受け止めた。
ライトが腹の下に潜り込んだ格好になり、そのおかげで二人の姿が見えた。
ハンドルを握るコモデ・シャーヘイズと、彼の腰に両腕を回して後部座席に座ったユリ・リリエナだ。
どちらも顔を引きつらせているのは、恐怖のせいばかりではないだろう。二人ともセーターだけで、上着を着ていないのである。
「どけ!」
わめくコモデの声に応じるように、エンジンが回転数を上げる。
分厚いゴム製のキャタピラが、大量の雪を後方に巻き上げつつ空転した。
マナガが押さえ込んでいるからだ。
「死にたいのかい、坊や!」
マナガが叫ぶ。
「俺を殺そうとした奴がいるんだぞ!!」
「そうだ! だが、失敗した!」
「またやるかも知れないじゃないか!」
「もうやらないかも知れん! でもな坊や! 今ここで出て行ったら、お前さん、確実に死ぬぞ! その娘も巻き添えにしてな!!」
「うるさい!」
「せめて朝まで待て! たったの二時間かそこらだ!」
「うるさい! どけ!!」
「まだ判らんのか!」
答えの変わりに、コモデはアクセルを開けた。
マナガの脚がさらに雪にめり込みながら、ずるり、と退《さ》がる。
「そうか。判った」
言うなり、マナガは右手を離した。
「弁償しろって言われたら、半分はお前さんらで持ってくれよ」
黒いコートの巨体が、さらに後退する。
だが、そこまでだった。
「ふんっ!」
気合とともに、スノー・モービルの鼻面に叩き込まれるのは、マナガの巨大な拳《こぶし》である。
鈍い、しかし大きな音をたてて、大人の頭部ほどもありそうな拳骨《げんこつ》が、スノー・モービルのライトごと、前部フェアリングを貫通する。
がくん、という振動が、スノー・モービルの最後の一呼吸だった。
エンジンを、叩き潰したのだ。
「いててて……」
背中を伸ばした巨漢の精霊は、呆然と見上げる二人に苦笑して見せた。スノー・モービルの車体から引き抜いた右手は、黒い脂《あぶら》にまみれている。
「やっぱりマティアのブルース抜きだと……」
……きついな、と言いかけた。
その時だ。
マナガの背筋を、冷たい何かが一気に駆け上がった。
弾かれたように、振り返る。
強烈な気配だった。
すぐ真後ろで、牙の並んだ顎《あぎと》が開いたような、首筋に血なまぐさい息を吹きつけられたような、そんな圧倒的な気配だった。
だが、
「むう」
マナガは、唸《うな》った。
もし振り返ったその目の前に巨大な肉食獣が立ち上がって、今まさに彼の頭を喰い千切ろうとしていたとしても、これほど驚きはしなかっただろう。
そう。
何か禍々《まがまが》しいものが、そこにいるべきだったのだ。
それほどまでの、濃厚な気配なのである。
だが、何もいない。
見えるのは、ただ吹きつける雪の白と、そしてその向こうの闇の黒だけだ。
だが、間違いない。
何かがいる。
「坊や……」
マナガは暗い吹雪の向こうを見透かしながら、背後のコモデに声をかける。
「山荘に戻れ。こいつぁ、思ってた以上にマズいぞ」
「……なにが?」
「いいから、早く戻れ」
ばさばさと雪を踏んで遠ざかる足音に、マナガは振り返らなかった。二人が山荘へ戻ることを確信していたからだ。
これだけの気配である。人間である彼らでも、感じずに済むわけがない。
山荘に着いた時に感じた気配は、気のせいではなかったようだ。
だが、あの時のそれは、こんな禍々しいものではなかった。
ただの存在感、それだけだったのである。
今は違う。
ぎりぎりと大気を軋ませるようにして伝わってくるのは、憎しみなのだ。
いや、殺意と言った方が適切かも知れない。
冷たい空気の向こう側から、さらに冷たく鋭い何かが、じわじわと迫ってきている。
マナガは、目を細めた。
「林か……」
山荘は山の斜面を背にして建ち、その前には伐《き》り拓《ひら》かれた広場がある。その広場を鬱蒼《うっそう》とした針葉樹の林が取り囲んでいる。
気配は、その林からくる。
「……いや、違うな」
林から、ではない。
林そのものが……眼前に広がるソルテムの夜そのものが、どっぷりとした血糊《ちのり》のような気配を放っているのである。
「いったい何をやりやがったんだ……」
呟いて、マナガは、むんず、と壊れたスノー・モービルを掴む。
そのまま雪の上を引きずって、彼もまた山荘へ移動を開始した。
林の方を睨《にら》んだまま、後ずさりで、だ。
何も見えない。
ただ夜の闇と、視界を覆って叩きつけてくる降雪だけだ。雪面にはコモデとリリエナの足跡に続いて、彼自身の足跡が残っている。茶色く尾を引くのは、スノー・モービルから漏れ出した大量の燃料だ。
「マナガ!」
壁に開いた大穴の際で、待っていたのはマティアである。
「おう。そこ、ちょいとどきな」
引きずって来たスノー・モービルを、垂直に立てる。後部を下に、前部を上に、それは極端なウィリーの態勢だ。
そのまま、マナガは車体が倒れないように支えながら、後ずさりで穴へと入る。五号室に入りきったところで、彼はゆっくりと腕の力を抜いた。
スノー・モービルの鼻面が、穴の外側の壁に引っかかる。山荘の外からもたれかかって、穴を半分ほど塞《ふさ》いだ格好だ。
「なに?」
マティアの質問に、
「バリケード」
マナガの答えはそれだけだったが、マティアには充分だったようだ。彼女もまた、ひたひたと迫る異様な気配に気づいているのだろう。
「足りる?」
「全然」
もっと厳重に塞ぐ必要がある。
今すぐに、それも山荘の窓という窓、ドアというドア、全てをだ。
だが、マナガは溜《た》め息《いき》をついて、その場に立ち尽くした。
ずっしりと、疲労がのしかかる。
「大丈夫?」
マティアが、心配そうに真下から覗き込んだ。
「疲れてる?」
「ああ、ちょっとな」
応えて、マティアの手がケープの下へ消える。何を取り出そうとしているのかは、明らかだった。
「いや、後でいい」
今は、することがある。
しかし吹き飛ばされたドアから廊下へ出たマナガには、その前にさらに別の雑用が用意されていた。
「おい、おいおい。何やってんだい」
マナガは、思わず声をあげる。廊下のど真ん中で、オドマとコモデが睨《にら》み合っているのだ。
無言で、しかし真っ向から。
「おい、二人とも」
「うっせえよ」
オドマの声は、ほとんど獣の唸りである。
「こいつ、前っから気に入らなかったんだよ、俺は」
「それは、こっちのセリフだ。このチビデブ」
コモデも、やたらに白い歯を剥き出しだ。
「てめぇ!!」
殴りかかろうとするオドマを、後ろからしがみつくように引き止めるのは、メイニアである。メイニアに制止されながら、オドマはなおも虚《むな》しく拳を振り回した。
そこへ、コモデが追い打ちをかける。
「お前じゃないのか? え? お前だろ、犯人は」
「てめぇみてーな上っ面だけの野郎なんぞ、誰が殺すかよ」
「ああ、そうだろうな。それだけの根性なんざ、ないだろうよな」
「殺されるほど憎んでもらえると思ってんのか、自意識過剰なんだよ、てめぇは」
「おいおい。やめなさいって」
マナガの制止も、だが二人には聞こえていないようだ。
「ふん。リリエナを取られたのが、そんなに悔しいか」
「こいつが誰とだって寝るのは、皆知ってるっての」
ひっ、とリリエナが息を飲む。
マナガは、オドマとコモデの肩を、そのごつい手で掴んだ。
「よぉし、そこまでだ!」
太い声は、廊下の天井までびりびりと振動させる。
今さらのように、二人は巨漢を振り返った。巻き添えで、メイニアまで引っ繰り返りそうになる。
マナガは二人を見下ろして、宣言した。
「喧嘩《けんか》は後にしてもらいましょう。もっとも、後で喧嘩が出来るだけの余裕も、あるかどうか判りませんがね」
「どうしたんですか?」
メイニアである。
「何かが来ます」
「何か……って?」
「そいつが皆目でね」
「何だよ、それ」
オドマだ。
ウールのベストの首回りが少し伸びてしまっているのは、メイニアが彼を止めようと懸命《けんめい》に組み付いていた跡である。
「わけ判んねーよ」
ええ、とマナガは頷いて見せる。
「私もです。だが、一つだけ断言出来る。こいつぁ、かなりヤバいもんですよ」
「本当だぜ」
言い添えたのは、意外なことにコモデだった。
「マジで、何か来る」
「ああん?」
顔をしかめるオドマの、それは半ば挑発だ。だがコモデも、今度は乗らなかった。分別をわきまえた、と言うよりは、思い出した、と言った方が正解だっただろう。
ついさっき、マナガに追い立てられた時に感じたものを、だ。
「皆……」
言いながら、彼は全員を見まわした。
「今、俺とオドマがやり合ってるの見てて、どんな気分だった?」
ふん、とオドマが鼻を鳴らす。
「愉快で堪《たま》んなかったんじゃねーのか?」
「ああ、そうだろうよ。腹の底に冷たいものが広がって、手が震えて、心臓がどきどきしちまうくらいに愉快だったろうよ」
悪意だ。
敵対心とか、憎しみとか、あるいは殺意とか、そういった悪意に触れた時に感じる、それは自然の反応だ。
「嘘だと思うなら、一歩でも外へ出てみろ。何も見えないのに、そうなるぜ」
「出てもらっちゃあ困るんですがね」
マナガが、続きを引き受ける。
「でも、彼の言うとおりです。何かが、外にいます。そして問題なのは、どうやらそいつは私達のことを快《こころよ》く思っちゃいないらしい、って点でしてね」
「犯人……」
メイニアの呟きに、マナガは肩をすくめる。
「そいつぁ、まだ判りません。でも、いっしょにカレー・シチューを喰いたがってるわけじゃないのは、間違いありませんな」
「ど、どうすれば……」
マキハは、眼鏡をしきりに指で押し上げている。吹き出す汗に、滑るのだ。
「緊急事態、ってやつですな。悪いが、山荘中のドアとテーブルを壊させてもらいますよ。補償は、署の方に必ずさせますから」
「い、いいです、けど、なんで?」
「全部のドアと窓を塞ぐんです。一階も二階も、あと屋根裏部屋があるなら、それもです」
全員が、マナガに注目していた。
ようやく事態の深刻さを理解したのだ。
「で、でも……クギとか工具は、倉庫に……」
「そうか……。そいつぁ、私が取って来ましょう。私が戻るまでに、皆は私物を部屋から出して、ダイニング・ルームに集まっておくように。それから……」
マナガは、ことさらな苦笑を浮かべて見せた。
「もう誰も脱走しないでください。今度ばかりは、私もちょいと自信がないんでね」
言い残して、マナガは再び五号室へ取って返した。
せっかく立てかけたスノー・モービルを横へずらして、身をよじって隙間から外へ出る。
その後ろから、ぱたぱたと足音が近づいてきた。
「マティア?」
「いっしょに行く」
「判った。寒いぞ」
「うん」
抱き上げた。
一歩、外へ出たマナガは、思わず声をあげた。
「なんてこった……」
「なに?」
少女の声は顔のすぐ横で、早くも寒さに震えている。
「さっきの足跡が、もう消えかけてやがる」
そして雪の勢いは、まだ弱まりそうにないのだ。
マティアを抱いたまま、マナガは再び大股で山荘を回り込む。
気配は、さっきよりも近い。
消えかけたスノー・モービルの跡をたどるように走ると、思ったとおりそれは開いたままの倉庫にまで続いていた。
「ねえ。ちょっと訊きたい」
倉庫の床に下ろしてやると、マティアはそう言った。ついて来たのは、そのためだったのだ。
「おう。何だい」
その間にも、マナガは棚から工具を下ろす。
カナヅチの他に大槌《スレッジ・ハンマー》があったのは収穫だったが、ノコギリは一本だけで、チェイン・ソーはなかった。他にはナタと枝打ち用のマチェット、ペンチやドライバーは金属製の工具箱に入っている。さらに少し考えて、溶接用のトーチも棚から下ろした。
「犯人、誰だと思う?」
「珍しいな。お前さんでも目星が付かないかい」
「うん」
そして、少女は付け加えた。
「皆に動機があって、皆に可能だから」
「ほう」
「オドマさんの言ったとおりなんだよ」
リリエナのことだ。
「リリエナさんは、今はコモデさんとくっついてるけど、あの人、誰でもいいんだよ」
「こりゃ生臭《なまぐさ》いなあ」
「ごめん。でも本当。ちやほやしてくれる男の人なら、誰でもいいの。だからマキハさんにもオドマさんにも、気を持たせてる。コモデさんの次は自分の番じゃないか、って思わせてる」
「ふむ」
マナガはコートを脱ぐと、その上に棚から下ろした荷物を放《ほう》り込んでゆく。
「メイニアは?」
「メイニアさんは、昔からリリエナさんと友達だけど、ただの友達じゃないと思う」
「てぇと?」
「……あの人、あたしのことも好きだよ、きっと」
「はあ!?」
思わず、マナガの手が停まる。
「それって、ええと……そういうことか?」
うん、と頷くマティアの頬《ほお》が紅《あか》いのは、寒さのせいだけではなさそうだ。
「てぇことは、あれか? 全員、コモデくんが邪魔なわけか?」
「そうとは言わないけど、でも、いなくなったら都合がいい立場ではあると思う」
「まいったなあ……」
溜め息混じりにそう言って、マナガは巾着《きんちゃく》みたいにコートでまとめた荷物を手に下げる。
「だからね、方法が判んないと、誰だか判んないんだよ」
「……神曲か」
そう。
それが問題なのだ。
この犯行には、精霊の協力が必要だ。しかし、下級精霊を呼び集めるには神曲が必要だし、中級以上の精霊の精霊雷を用いたのだとしても神曲の支援は必要だ。支援楽曲なしに精霊爆発で部屋を吹き飛ばせるほどの精霊雷を放ち続けるなど、始祖精霊クラスででもなければ不可能だからだ。
爆発のあった時、誰かが神曲を奏《かな》でていた。
それだけは間違いない。
だが、マナガは精霊だ。彼に気づかれることなく神曲を奏でることなど、どう考えても無理なのだ。
だとしたら、
どうやって?
マナガはマティアを抱き上げて、倉庫を出た。
気配は、さっきよりも迫っている。
「急いだ方が良さそうだな」
夜明けは、まだ先だ。
5
戻ってきた二人を迎えたのは、意外なことにコモデとオドマの二人だった。
仲直りしたようには見えなかったが、少なくとも協力する必要があることだけは理解したらしい。二人で力を合わせて、ずらしたスノー・モービルをもとの位置まで戻してくれた。
「ここは任しとけや。済んだら行くからよ」
言いながら、オドマはもう焼け焦げた洋服ダンスを動かそうとしている。すぐにコモデが駆け寄って、反対側を持ち上げた。
「バリケード組んどきゃいいんだろ?」
「ああ……。じゃあ、よろしく」
ダイニング・ルームには、すでに残る三人が移動を済ませていた。ツカサ・メイニア、ユリ・リリエナ、そしてマキハ・クラムホンである。
部屋の隅には、それぞれの荷物も全員分、集められているようだ。見ると、マナガの旅行鞄《かばん》も置かれていた。
「マナガさん!」
メイニアが駆け寄って来て、マキハも席を立つ。
問題は、リリエナだった。彼女はテーブルにも着かず、床に座っているのだ。それも、部屋の隅《すみ》に集められた荷物のところで、まるで自分もその荷物の中の一つになってしまおうとしているかのように、膝《ひざ》を抱《かか》えているのである。
近づいて、
「大丈夫かい?」
声をかけたが、顔を上げようとさえしなかった。
「よし、それじゃあ……」
床に下ろしたコートを、ごろり、と開く。リリエナには気の毒だが、今はケアしているだけの余裕もない。
マナガは、残る二人に向かって言った。
「ドアを外して、そいつを、それぞれの部屋の窓に打ちつけて。足りなきゃ、タンスやベッドを壊せばいい。全ての部屋の、全ての窓にです」
「うん」
「でも、いいですか? 絶対に一人きりにならないように」
「何が来るのか知らないけど……」
メイニアは、もうその手にカナヅチを握っている。
「その何かが入って来ちゃったら?」
「とにかく、大声をあげてください。悲鳴でも何でもいい」
「聴《き》こえなかったら?」
「私ゃともかく、相棒が必ず気づきます」
「マティアが?」
その視線を、少女は真っ直ぐに受け止めている。
そして、マティアは頷いた。
「大丈夫だよ」
「ほんと?」
「うん。安心して」
「……判った」
それから、
「マキハ、クギいっぱい持って来て!」
「あ、うん」
さて、とマナガは大槌に手を伸ばす。
正面玄関のドアを塞ぐには、この大きなテーブルを使うしかなさそうだ。脚を外して、天板だけにすればいい。
「退がってなよ」
言うより先に、マティアはもう部屋の隅へ移動している。
「せぇのっ!」
横様に、すぐ目の前の脚を殴りつけた。
ごすん、と鈍い音が響く。
だが、脚は折れなかった。
「マナガ……?」
「ああ、ちょっとな」
思いっきり叩きつけたつもりだった。しかも、素手ではなく大槌でだ。
なのに木製の太い脚は、わずかに削《けず》れて木《こ》っ端《ぱ》を撒き散らしただけだったのだ。
「大丈夫?」
「ああ。ちょいと疲れが溜まってきてるかな」
「待って……」
するり、と少女の手がケープの中に滑り込む。
出てきた時、その手の中には小さな銀色があった。
「その方が良さそうだな……」
マティアは銀色を包み込んだ手を、口元に寄せる。
黒い大きな瞳に、瞼《まぶた》が閉じる。
マナガも大槌を床に下ろして、目を閉じた。
だが。
始まらない。
「マティア……?」
目を開いたマナガに、
「しっ」
マティアは、鋭く前歯の間から息を吐いた。
耳を澄《す》ましている。
何かを、聴いているのだ。
「……神曲」
ぽつり、と少女は言った。
「神曲だ」
「なに?」
「神曲」
マナガも、耳を澄ます。
「聴こえないぞ」
「あたしも」
「あん?」
「あたしも、聴こえない。でも、判る。神曲だよ」
そしてマティアは、真っ直ぐにマナガを見つめる。その目には、困惑があった。
「ずっと気になってたけど、間違いない。ここ、神曲が鳴ってるんだよ、ずっと」
「ずっと……って」
「あたし達が来た時から」
「何だと……!?」
「さっき外から戻ってきた時に、そうじゃないかって思った。それで今、自分も奏《や》ろうとして、判った」
それは彼女の、神曲楽士としての感覚だ。
自ら神曲を奏でるために神経を研ぎ澄ました瞬間、別の神曲がすでに演奏中であることを感じとったのだ。
「なんてこった……」
ならば、他に神曲楽士がいるということなのか?
「肌が、逆撫《さかな》でされてるみたいな感じ……。これ、良くない曲だよ」
「てことは……」
マティアは、頷いた。
「うん、ごめん。これに重ねたら、何が起きるか判らない」
神曲を、である。
支援は期待出来ない、ということだ。
「判った」
そう応えた時だ。
「おっしゃ、終わったぜ、刑事さんよ!!」
オドマとコモデが戻ってきた。
「そこで、メイニアとマキハに会いました。段取りは聞いてます」
そう言うコモデに、マナガは大槌を任せる。
「じゃあ、こいつでテーブルの脚を、取っ払ってくれますか?」
「何だよ、リリエナ。おめぇも手伝えよ」
オドマである。
「その娘は、しばらくそっとしといてやってください。かなり参ってるみたいだ」
コモデの方は、ちらり、とリリエナの方を見ただけだった。
すぐに、ごすん、ごすん、と重い音が連続する。
客室のある廊下の方でも、がんがんとドアを外す音が響き始めた。
「後は、よろしく。正面玄関の方にいるから、終わったら声かけてください」
「判りました!」
早くも汗だくで応えるコモデを背に、マナガはダイニングを出る。
「あ、俺も行くわ」
追いかけて来たのは、オドマだった。
「いいよ。様子を見て、準備するだけですから」
「まあ、そう言いなさんなって」
玄関ホールへと続く廊下の途中で、オドマが追いついてくる。
そしていきなり、横から握った手を突き出した。
「何です?」
「こんなもん、見つけた」
ぷくぷくの、赤ちゃんみたいに太った指が、勿体《もったい》ぶって開く。
掌の上には、むしられたモヤシみたいなものがのっていた。
「何です、こりゃ」
「手にとって、よく見てみなよ」
言われたとおり、つまみ上げる。マナガの太い指には、いささか相手が小さすぎるが、それでも何とか顔の前まで持ってきた。
「はあ?」
玄関ホールの入り口である。
マナガは立ち止まって、天井の照明にかざして見た。
直径五ミリほどの、丸い物体だった。一方が偏平《へんぺい》で、反対側からは妙につるつるしたヒモが四本ほど伸びている。どのヒモも五センチばかりで途切れていて、断面からはさらに細い糸のような束《たば》が覗いていた。
全体的に、焼け焦げて真っ黒だ。だが丸い部分の、さらに偏平に潰れた部分は透明のようだ。
「超ミニのレンズとコード……みたいに見えるね」
「当たり」
「こいつを、どこで?」
答える前に、オドマは得意げに鼻をすすってから、周囲を見まわす。
そして声をひそめた。
「五号室」
「ほう」
「なあ、これ何だと思う?」
「さっぱりですよ。もらっといて、よござんすか?」
オドマは気取った笑みで、どうぞ、とマナガに掌を見せる。
そして、ふいに険《けわ》しい表情になって、彼は付け加えた。
「とにかくなあ刑事さん、無事にここを出るまでは、誰も信じない方がいいぜ」
「その中には、あんたも含まれてるんで?」
オドマは、目を剥いた。
それから、にいっ、と笑う。
意外なくらいに、それは理知的な笑みだった。
「そういうこったな」
背を向けて戻って行くオドマの尻の肉が、一歩ごとに大きく揺れていた。
五号室を除く全ての窓を塞いでメイニア達がダイニング・ルームに戻って来るのと、マナガが玄関ホールの方から姿を表すのとは、ほとんど同時だった。
どすん、と響くのは、重いテーブルの天板が床に落ちた音だ。
汗まみれのコモデが、大槌を床に突いて、満足げな笑みを浮かべている。テーブルの脚を、折っていたのだ。
「これでいいですか!?」
その清々しいまでの様子は、まさにスポーツ青年である。
「おう、上等です。じゃあ玄関に運ぶから、手伝ってくれますか?」
男ばかり四人がかりの、大移動である。
玄関ホールは、観葉植物や木製のベンチが全て隅へ移動させられ、テーブルを運び込むためのルートが出来上がっていた。
メイニアとマキハは、そのままキッチンへ移動して、客室と同じようにドアを外して、窓に打ちつけた。途中でドアが足りなくなったので、玄関ホールへ戻って、木製のベンチを大槌で叩き壊す。
裏口のドアも、ベンチの残骸を打ちつけて塞いだ。
もう一度、玄関ホールへ戻って来ると、玄関のドアにテーブルを打ちつけているところだった。四人がかりでテーブルの天板を横倒しにして、打ち込むのはログ・ハウス建築用の、長くて太いクギである。
これで、向こう側へ開くには雪が邪魔になり、こちら側へ無理やり開こうにも打ちつけたテーブルに阻《はば》まれるというわけだ。
「そっちは、どんなだ!?」
オドマが、汗びっしょりの顔で振り返る。
「客室とキッチンが終わったとこ。あと、二階だけ」
よし、と腰を伸ばすのはマナガである。
「全員で手分けして、やっちまいましょう」
その『全員』の中に含まれていない二人がいることに、メイニアは気づいていた。
遠くで、ごんごんと音がする。
それに重なって聴こえるのは、さらに遠くで風の鳴る音だ。
へし折られて横倒しになったテーブルの脚に腰を下ろして、マチヤ・マティアは目の前の女子学生を見つめていた。
大学の三年生。
マティアよりも、四つか五つほど歳上のはずだ。
だがユリ・リリエナは床に座り込み、膝を抱え、抱えた膝に顔の下半分を埋めて、ただ虚《うつ》ろな目で床を見つめるだけだ。
だらしない、とか、格好悪い、とかは思わない。
判るからだ。
彼女の心の中で、今、何が起きているのか。
怖くて、逃げたくて、そして逃げようとしても無駄であることを知った時、心の中で何が起きるのかを、マティアは知っているからだ。
そして、壊れたものが二度ともとに戻らないことも。
もとどおりになったように見えても、それは厳然《げんぜん》と以前とは違うものになってしまうということも……。
マティアは、自分の手に視線を落とす。
年齢の割りには小さなその手の中にあるのは、さっき、マナガから手渡された物だ。
手渡す時、マナガは小さな声で、言った。
手掛かりかも知れん。
真っ黒に焦げたそれが、どこで見つかった物かは一目瞭然だ。
小さなレンズ。
それに、コード。
これ……なに?
考えようと目を閉じると、途端に肌が逆撫でされるような感触が戻ってくる。
瞼《まぶた》を開いている時には感じないのに、集中しようとすると襲ってくるのだ。
神曲だ。
精霊と交感するための……押さえ込むのでも拒絶するのでもなく、精霊と心を通わせるための、人間にとって唯一の手段だ。
だが神曲が成すのは、文字どおり『心を通わせる』ことであって、そこに善悪の区別はない。歪んだ魂が奏でる神曲は、心を通わせた精霊さえをも歪ませるのだ。
黒いボウライを、見たことがある。
キルアラを蝕《むしば》んだものも、見た。
ヒューリエッタはその心を冷たい刃にしてしまい、タダ・コリエットは無辜《むこ》の精霊を殺人の道具にした。
同じだ、とマティアは思う。
人間がどれだけ神曲を研究しようと、人間がどれだけ精霊に近寄ろうと、その根本にあるものはとても単純で、そして決して動かすことの出来ないものなのだ。
「……あ」
ふいに、気づいた。
視界の隅で、それが突然、大声をあげて手を振ったのだ。
部屋の隅に集められた、皆の荷物。
その中の一つ。
ディパックからはみ出した、カラフルな写真。
マティアは立ち上がると、荷物に近づいて、それを取り上げた。
雑誌だった。
『ムシカ・ポカール』。
神曲専門誌である。
「……この人」
マキハの母親だ。ドラッグ・ストアで、オドマ・ウォンギルがそう言っていた。
上等そうなドレスに身を包み、こちらを向いて笑みを浮かべている。
その胸元に、文字が踊っていた。
『特集/新たな局面へ。神曲の次なる可能性』
何か嫌なものが、背筋を這《は》い上《あ》がってくる。
二ヶ月ほど前……ゴトウ・ヴァリエド殺害事件を捜査中に、ノザムカスル大学に出向いた。そしてそこで、奇妙な研究の一端を垣間見《かいまみ》たのを思い出したのだ。
キルアラの悲劇に繋《つな》がった、あの研究を……。
「これって……」
マティアは、ページを開いた。
その足元ではリリエナが、膝を抱えてうずくまっている。
読み進むにつれて、背筋に張り付いた嫌な感じは、ますます膨《ふく》れ上《あ》がる。
まさか……。
そういうこと……?
マティアは雑誌を閉じると、再び手の中の物に視線を落とした。
小さなレンズ。
伸びるコード。
「赤外線……」
目を閉じた。
神曲が、聴こえる。
聴こえないのに、聴こえる。
ここは、マキハ・シャレディソンの山荘だ。
そして、神曲楽士マキハ・シャレディソンは…………。
マティアの心は、静かだった。
波のない湖のように、鏡のごとく平静だった。
その水面から、何かが浮かび上がって来ようとしている。
真実が、だ。
だが、掴めなかった。
どすん、と山荘が揺れた。
「何だ、ありゃあ……!」
声を上げたのは、オドマである。
手分けをして窓を塞いでいる時だった。マナガが引っぺがしたドアを打ちつけるために、二階の部屋の窓に引かれたカーテンを開けたのである。
山荘の正面に面した窓だ。
そして、見た。
「おい……刑事さん」
呼ばれて、マナガは外したばかりのドアを脇に置く。オドマの声に、向かいの部屋のドアを外していたメイニアとマキハも、やって来た。
「何です?」
マナガに、オドマは応えない。
ただ、窓の外を指差すだけだ。
覗き込んだマナガは、
「……なんてこった」
思わず、呻いた。
予想していなかったわけではない。
だが、これほどとは思わなかったのだ。
山荘はソルテム山の中腹の、小高い丘の上に建っている。
建物の正面は木が伐り払われた、ちょっとした駐車場ほどの平坦な土地だ。山荘の正面には照明が焚《た》かれて、吹きすさぶ雪を通して雪面が光って見える。
その向こうは、べったりと暗い林である。
そこから、何かが出てくるところだった。
黒い、影だ。
あるいは、黒い霧《きり》の塊《かたまり》、と言ってもいい。
不定形な、形のない、しかし確固とした何らかの存在が、じわりと湧《わ》き出《で》るように、林からこちらへと染み出て来るのである。
見たことのあるものだった。
二ヶ月前、ノモロン行き臨時列車の中で見た、あれだ。
だが、その数は……いや、量はケタ違いだった。まるで林全体が、黒い液体を吐き出しているかのような、そんな圧倒的な量なのである。
「急げ……」
マナガの、その声はほとんど呻きに近い。
「急いで塞ぐんだ」
そして、それでも無駄かも知れない、と彼は思った。
「なに!?」
メイニアが、悲鳴をあげる。
ゆったりと滲《にじ》み出《だ》して来ていた黒いものが、突然、急速な動きを見せたのだ。
一ヶ所が急激に尖《とが》り、濁流のごとき流れとなって、猛烈な勢いで伸びて来たのである。
山荘に向かって、だ。
どすん、と建物が揺れた。
壁に掛けられた風景画が、金具から外れて床に落ちる。
額縁《がくぶち》のガラスが割れる音に混じって、ぱらぱらと天井から落ちてくるのは、ホコリだ。
その天井では、吊り下げられた大きな照明器具が、ぎしぎしと音をたてて揺れている。
「なんてこった……」
桁違《けたちが》いなのは、量だけではなかった。
その力も、二ヶ月前の連中とは桁違いだ!
「早く塞いで! 全部!!」
言い置いて、マナガは部屋を飛び出す。
そのまま廊下を駆け抜け、階段を降りる途中でまた、どすん、ときた。
さっきの、黒い濁流だ。
建物の壁面に、激突してくるのである。
「マナガ!」
彼に言われたとおり、マティアはそこにいた。ダイニング・ルームで、動かないリリエナを護っていたのだ。
「お願い!」
言われるまでもなく、マナガは駆け寄る。マティアはリリエナの腕を引っ張って、何とか立たせようとしているところだった。
黒い霧が叩きつけているのは、ちょうどリリエナのいるすぐ後ろの壁面なのだ!
「ほい、失礼」
強引に腰を抱き上げる。
そのまま放り出すように、ダイニング・ルームの反対側の壁に座らせた。
どすん、とまた揺れる。
「なに、これ!?」
「攻撃だ」
マティアに応えて、マナガは壁に向かって立つ。
アパートに置いてきた銀色のトランクが、懐《なつ》かしかった。
「どうするの?」
「これしかないだろ……」
拳に、力を込めた。
その拳が、青白い光に包まれる。
精霊雷だ。
「無理だよ!」
「ああ。私もそう思う」
だが、これしか手段はない。
「いったん牽制《けんせい》かけときゃあ、しばらくは時間が稼《かせ》げるだろう」
マナガは右の拳に集中しながら、マティアを振り返った。
「その間に、何とか謎《なぞ》、解いてくれ」
どすん、という振動に、めりっ、と木材の裂ける音が加わった。
「おい、ヤバいぞ!!」
階段の上から叫ぶのは、オドマだろう。
「来ないで!」
マティアだ。
「そこにいて!」
その間にも、振動は繰り返し、めりめりという音とともに壁の一部が、こちらに向かって脹《ふく》らんでくる。
壁紙が裂け、その下で薄い板がたわんで、ヒビ割れのようなささくれを見せ始める。
建物の外壁に貼られた太い木材と、断熱材や防音材を挟み込んだ壁と、さらに内装の薄い合板とが、もろともに歪み、裂け始めているのだ。
マナガは光に包まれた右腕を引いた。
腰を落とし、顔のすぐ後ろに拳を構える。
ストレート・パンチの予備動作である。標的は、依然として歪みつづける壁面だ。
間合いは、遠い。マナガの巨体をもってしても、いかに大きく踏み込んだところで、その拳が壁面を打つことはあり得ない。
だがそれだけの距離を、彼の拳が纏《まと》う光は事実上、無効化するのだ。
「マティア……」
喰《く》い縛《しば》った奥歯の隙間から、マナガの声は漏れる。
「うん!」
「頼むぜ」
「うん!!」
ばきん、と木片が飛んだ。
壁面が、直径二メートルほども、こちら側に向かって裂ける。
その爆裂《ばくれつ》のような崩壊《ほうかい》に向かって、
「ぅおら!!」
マナガは大きく踏み込んだ。
噴出してくる黒い塊に向かって、拳を叩き込む。
「せいっ!」
同時に、マナガの右手で閃光が炸裂《さくれつ》した。
「ぎじゃっ!!」
あがるのは、異様な悲鳴である。
叩き込む拳に乗せて放たれた精霊雷が、黒い霧の塊を粉砕《ふんさい》し、さらに外の闇へと伸びる。
次の瞬間、花火のように四方に拡散した。
いや……破裂したのだ。
「じゃっ!!」
「ぎゃらあっ!!」
「じぎぇっ!!」
異様な悲鳴が、立て続けに湧き上がる。
無数にだ。
「逃げるぞ!」
オドマよりも、さらに遠くからコモデが叫ぶ。二階の窓から、見ていたのだ。
「林の方へ退がってく!!」
その言葉が、マナガの気力の限界となった。
「だはあ」
拳を前に突き出した格好のまま、マナガの膝が折れる。床に両方の膝を叩きつけた時、さっきまでの攻撃に負けないくらいの振動が、どすん、と起きた。
「マナガ!」
駆け寄るマティアに、
「よう」
かろうじて唇の端を片方、吊り上げて見せるのが精一杯だ。
「大丈夫?」
「まあな」
応えるその首っ玉に、少女はしがみついた。
「良かった……」
「すげえ……」
オドマだ。近づいてくる。
「初めてみたぜ。あれ、精霊雷だろ? やるじゃん!」
興奮気味のその言葉に、しかしマティアは鋭く返した。
「来ないで、って言いましたよ!」
マナガの首に抱きついたままで、だからマナガは思わず、片目をつむった。耳元で叫ばれてしまったのだ。
それから、驚いた。
叫ぶ?
マティアが!?
「戻って、自分の任された仕事をしてください! マナガは今、それをやったんです!」
オドマは、言い返さなかった。
ただ肩をすくめて、しかしその笑みには皮肉なところはどこにもなかった。
それどころか、同じように階段から顔を出していたメイニアやアキハを追い立てる。
「よおし、作業再開だあ! ほれ、戻って戻って」
それを見届けてから、マティアはマナガの首を解放し、正面に回った。
ごつい顔を両手で挟んで、巨漢の顔を覗き込む。
「立てる?」
「ああ、ちょっと休みゃ平気だと思う」
「食べた方がいいね」
「そうだな……」
たしかに、そうすれば少しはマシになるはずだった。
だが、精霊雷を放ったのである。それも、ただでさえ消耗《しょうもう》している状態で、だ。本来ならば、早急に別の手を打つべき状況だった。
「本当は、お前さんのブルースが第一希望なんだがね」
マティアは、首を振った。
「ごめん」
「いいさ。ここを出たら、たっぷり奏ってもらうからよ」
「……うん」
やがて、二階の窓を全て塞いだ四人は、戻ってくるとトイレと風呂のドアを剥がしてきて、壁の大穴を塞いだ。
やっとのことでキッチンへ移動したマナガは、冷蔵庫から引っ張り出した生ハムを二本、丸のまま齧《かじ》って、それでようやくマトモに歩けるまでに回復した。
夜明けには、まだ一時間以上あった。
6
マティアがマナガといっしょに戻ってきた時には、作業を終えた全員がダイニング・ルームに揃《そろ》っていた。
話す者は、誰もいない。
膝を抱えて床にうずくまっているのはユリ・リリエナだけだったが、他の四人も似たようなものだった。
マキハ・クラムホンは、さっきマティアがしていたように、テーブルの脚に座っている。
残された椅子に浅く座って、だらしなく投げ出した脚を向かい合わせに置いた椅子に投げ出しているのは、オドマ・ウォンギルだ。
コモデ・シャーヘイズは椅子に後ろ前に掛けて、腕を背もたれに乗せている。
ツカサ・メイニアはリリエナに寄り添うように、その脇の壁にもたれて立っていた。
誰も、何も言わない。
ただ、ぼんやりと前方を、床を、あるいは天井に視線を投げているだけだ。
ようやく、全員が事態を理解したのだ。
マナガの言う『何か』がこれほどのものだとは、思わなかったのだろう。あるいは、状況に追い立てられるばかりで実感が湧かなかったのかも知れない。
だが、いずれにせよ同じことだ。
五人はこの時、おそらく生まれて初めて、自身に向けられる剥き出しの悪意と対峙《たいじ》したのである。
そして、彼らは理解しているのだ。
まだ終わったわけではない、という事実を。
マナガは暖炉の脇に、どさりと腰を降ろす。
マティアも、その隣に座った。
あるいは彼らの沈黙は、二人を待っていたからだったのかも知れない。
「刑事さんよ」
ふいに、オドマが口を開いたのだ。
「それで? このまま朝を待つのかい?」
「ええ。当面は、そうなるでしょうな……」
その声に、マティアは驚いた。
いつものように、お腹の底に響かないのである。
声量は、ある。だが、こんなに弱々しいマナガの声を聴いたのは、初めてだった。
「朝になったら、助けが来るのか?」
その問いへの答えは、
「……いや」
否定である。
「それは、ないでしょうな。皆さん、一泊旅行のつもりじゃなかったんでしょう?」
「ああ」
「でしょうな。荷物と食料の量を見れば、一週間かそこらは、こっちにいるつもりだったようで……」
「スキーにな」
「スキーか。……いいね。私達もですよ」
「それで? その一週間が過ぎなきゃ、誰も助けに来ねえってか?」
「判りませんな……」
しばらく考えるような素振《そぶ》りを見せて、マナガは続ける。
「あるいは今夜、誰かがここへ電話してきたかも知れません。それで、電話が通じないのを不審に思ったかも知れません。天気予報か何かを調べて、吹雪になってることに気づいたかも知れません。そして、電話も不通で閉じ込められている、と考えてくれるかも知れません」
「そういうことか」
「そういうことです」
つまり、あてには出来ない、ということだ。
「さっきの、あれは何なんです?」
コモデである。
「精霊ですよ」
「まさか」
これは、メイニアだ。
「あんなの……、あんな精霊なんて、聞いたことありません」
「でも、精霊なんですよ」
マナガの笑みは、どこか哀しげだ。
「私ゃ以前にも、同じものを見たことがある。相棒もです。肉体を持つ生物だって、人間もいれば犬や猫もいるし、魚や鳥もいる。虫だってバクテリアだって、肉体を持ってる。精霊も、同じことです」
「原始的な精霊だ、ってことですか?」
「かも知れん、てとこですな。私だって、そんなに詳しく知ってるわけじゃない。でも連中には、ボウライていどの知能もない。人間で言うなら細胞レベルの精霊が、寄り集まって群体みたいになってるんですよ」
「そんなものが、なぜ……」
コモデの言葉に、マナガの応えは現状の本質を突いていた。
「そいつぁ、この中の誰かが知ってます」
犯人だ……。
全員の目が、マキハ・クラムホンに集中する。
だが誰も、何も言わない。
マキハも、ただ視線を逸《そ》らしただけだ。
「マナガ……」
マティアは、囁くように言った。
「ちょっと、外してもいい?」
マナガの大きな顔が、振り返る。
その小さな瞳の無言の問いに、マティアは頷きで応えた。
「気をつけるんだぞ」
「うん」
そして、立ち上がる。
ダイニング・ルームを出ようとする背中に声をかけてきたのは、メイニアだった。
「待って」
言うが早いか、追ってきた。
「いっしょに行きましょう。いいでしょ?」
問う相手は、マナガである。
マナガが苦笑で頷くと、メイニアはマティアの肩を抱いた。
「行こ」
「……ありがと」
客室の廊下が、初めて来た時と全く違う印象に見えてしまうのは、ただ五号室が破壊されてしまったせいだけではないだろう。
今、まるで湿った空気がまとわりつくように、妙な違和感が肌に生じているのだ。
神曲だ。
最初に山荘に着いた時から、感じてはいた。
それが何なのか、判らなかっただけだ。
だが今は、それが耳に聴こえない神曲のせいであることを知っている。
そして、その神曲が、違うものに変わってしまっていることも。
そうなのだ。
最初から今のような感じだったなら、もっと早くに気づいていたはずだ。だがこの山荘に着いた時点では、こうではなかったのである。
山荘に着いた時、そこにあったのは楽しげな、あるいは期待に満ちた『空気』だった。それが『聴こえない神曲』の奏でるものだったのだ。
だが今は、違う。
正確には、あの爆発以降、変わってしまった。
暗い、冷たい、胸の底に氷塊《ひょうかい》でも突っ込んでくるみたいな、けれどどこかに凶暴な熱を秘めた、不快なものに変わってしまっているのだ。
見極《みきわ》める必要があった。
その変化の意味を。
そのために、来たのだ。
「大丈夫?」
「うん」
五号室に。
照明は破壊されているので、灯は廊下から届いてくるものだけだ。懐中電灯でも持ってくれば良かった、と思ったが、取りに戻る気にはなれない。
薄暗がりの中で目をこらしていると、ふいに背後から明るくなった。
メイニアだ。
その手の中で、金属製のライターが炎をゆらめかせている。
「ナイショだよ」
そう言って、にっ、と笑った。
喫煙《きつえん》の習慣があるのだ。
「うん。言わない」
揺らめく炎の中で、マティアが確認するのは、手の中の謎の物体だ。
小さなレンズと、そしてコード。
それから、周囲を見まわした。
この物体が、どこにあったのか。それが判れば、謎が解ける。
それは、勘《かん》でしかない。
だがマティアは、その勘を信じた。
「……なに?」
「うん。ちょっと……」
判らない。
たしかに、広い部屋ではある。だが、探そうとしているものが何なのか判らない今の状況では、焼けただれたその部屋は無限の荒野にも等しい。
けれどマティアは、確信していた。
ここに、ある。
必ず、ヒントがある。
根拠は『ムシカ・ポカール』の記事だ。
マキハ・シャレディソンは、この山荘を、ただの山荘として建てたわけではなかった。
どんな仕組みかは判らないが、この山荘は彼女にとって、新たな芸術の域に踏み込むための、言わば実験……あるいはデモンストレーションの場であったはずだ。
その仕組みさえ判れば、あるいは、何が起きているのかが判る。
そして何が起きているのかが判れば……マナガはきっと何とかしてくれる!
「何か探してるの?」
「……うん」
応えた、その時だ。
背後でメイニアも周りを見まわしたのか、ゆらり、と炎が揺れた。
「……あ」
壁だ。
焼けただれた、壁面だ。そこで、炎のゆらめきに何かが光ったのである。
駆け寄って、顔を近づける。
「……やっぱり」
踵《きびす》を返したマティアは、そのまま五号室を飛び出す。すぐ後ろに立っていたメイニアを、押し退《の》ける格好になってしまった。
「ごめん」
駆け込むのは、隣の六号室である。
壁に顔を近づけて、壁紙を撫でた。
「……ある」
六号室を飛び出す時、またメイニアとぶつかりそうになった。
三号室。
その壁。
「ここにも……」
二号室。
「ある」
一号室と四号室。
「……やっぱり」
廊下に出ると、呆然とした表情で、メイニアが立っていた。
「マティア?」
その正面に、マティアは立つ。
そして、言った。
「繋がった」
7
マチヤ・マティアの足音なら、マナガはどれだけ離れていても判る自信があった。
ぱたぱたと、いつもどこか小走りで、彼女が半年間も歩けなかったなどとは、とても思えない。
だが今、近づいてくるその足音は、いつもと少しばかり違っていた。
颯爽《さっそう》と、大股なのだ。
ツカサ・メイニアとともにダイニング・ルームに戻ってきたマティアは、まるで従者を従えた戦士の面持《おもも》ちだった。
壁にもたれて座り込んだままのマナガに、自信たっぷりに頷いて見せる。
「繋がったか」
応えは、もう一度、頷きだ。
そして少女は、するり、と暖炉の前に立った。
「みなさん」
その声は、細く、透明で、けれどそこには強い意思の響きがある。
「今から、事件の背景をご説明します」
それは、警官としてのマティアの声だった。
「その前に、一つだけお願いします。全ての説明を終えるまで、どうかお静かに。動揺なさるとは思いますが、静粛《せいしゅく》にお願いします」
それだけを、一気に言い切った。
異論を唱える者は、誰もいない。
それを確認してから、マチヤ・マティアは、ゆっくりと話し始めた。
マナガに、その背中を見守られながら。
「まず、この山荘について説明します。この山荘は、おそらく持ち主であるマキハ・シャレディソン楽士の注文によるものと思われますが、特殊な構造で建てられています」
そう言って、少女はケープの中から、小さな物体を取り出して見せた。
レンズと、コードである。
「あ、俺が見つけたやつだ」
オドマの言葉に、マティアは頷いて見せる。
「そうです。これを、どこで発見されましたか?」
「五号室」
「五号室の?」
「床だよ。壁際の」
「ありがとうございます。おかげで、謎が解けました」
「へえ!」
「これは、おそらく赤外線レンズです。それも発信側ではなく、受容側だと思われます。無論、対になる発信側のレンズも存在します」
マキハが、居心地悪そうに身じろぎする。
「これは、寝室の壁に埋め込まれていたものです」
ざわり、と一同がどよめいた。
「何のために?」
オドマの質問に、マティアは説明を続けることで答えた。
「これらのレンズは、一つの壁に約七組から八組、向き合うように埋め込まれています。五号室だけでなく、全ての寝室で確認しました。壁紙の模様に紛《まぎ》れて、小さな穴が開けられており、そこから発信した赤外線を対面側の壁の受容レンズで受け取る仕組みです」
無論それは、照明ではない。
赤外線は、人間には見えないからだ。無論、精霊でもそれが見える者は決して多数派ではないはずだ。マナガにも、やはり赤外線は見えない。
「これによって、寝室内にいる人物の動きが、大まかに感知出来ます。あるいは、体温を読み取ることも可能でしょう」
「あの。ちょっと、いい……?」
メイニアの発言を、マティアは許した。
「どうぞ」
「あのさ」
そう言いながら、ツカサ・メイニアが見ているのは、マティアではない。自分がもたれていた、背後の壁だ。
「ここにも、穴が開いてるみたいなんだけど……」
「ええ、そうでしょうね」
マティアは、言ってのけた。
「おそらく、この仕掛けは山荘の全ての部屋に埋設《まいせつ》されているはずです。そうでなければ、意味を成しません」
「すまないが」
コモデである。
「いったい何がどうなってるんだ?」
「それを今から、説明します」
言いながら、マティアは部屋の隅に集められた荷物の方へと歩いて行く。
抜き出したのは、一冊の雑誌だった。
『ムシカ・ポカール』だ。
「この記事が、謎を解くカギになりました。今月号の、マキハ・シャレディソン楽士の特集記事です」
表紙の顔写真その人。
マキハ・クラムホンの母。
この山荘の持ち主……。
「ここでマキハ楽士は、雑誌のインタヴューに答える形で、こう述べておられます。近く、今まで誰もが思いもしなかった神曲の新しい形を提示します。それは、今よりいっそう人に密着し、人が生きて暮らすことそのものを精霊との交感に変える素晴らしいものです」
人が生きて暮らすこと……。
生活そのものだ。
「なるほど」
マナガの声は、かすれている。
「そういうことか……」
マティアが振り返り、小さく頷く。
「この山荘そのものが、単身《ワンマン・》楽団《オーケストラ》なんだ」
全員が、互いに顔を見合わせる。意味が判っていないのだ。
「聴こえないでしょうがね……いや、私にも聴こえないんですがね。昨夜からずっと、神曲が鳴りっ放しなんですよ」
どより、と再びどよめく五人に、しかしマティアはきっぱりと言った。
「彼の言うとおりです。この山荘は人の動きや体温を感知し、それらの変化を神曲に変換します。あるいは状況から考えて、床面やベッドに感圧装置が埋設されているかも知れませんし、音声や大気成分を感知する装置もあるかも知れません」
つまり、そこに人間が……極論すれば何らかの生き物が存在することを感知する仕掛けが施されている、ということだ。山荘そのものが、巨大な主制御楽器なのだ。
「演奏機構そのものが、どこにあるのかは知りません。しかし、おそらくこの推測に大きな誤りはないはずです。この山荘は、中に誰かがいるだけで、神曲を演奏するんです」
「ちょっと待って」
メイニアが喰い下がる。
「聴こえない神曲なんて、そんなの、あり?」
「ありです」
マティアが応じる。
「通常の神曲が人間の可聴域に収まっているのは、奏者が人間であるからに過ぎません」
「でも……そんなこと、出来るの? だって、神曲を封音盤に録音して再生しても、精霊には響かないんだよ? 機械が演奏する神曲なんて、神曲として機能するとは思えない」
「機械が演奏しているわけじゃないんです、メイニアさん」
「だって……」
「山荘という単身楽団を、私達という奏者が演奏しているんです。それと知らずに、無意識に」
「神曲楽士じゃないのに?」
「神曲楽士とは、『魂の形』を単身楽団によって表現する技術を持った人々の総称に過ぎません。突き詰めて言えば、私達が身の内に秘めた『魂の形』を何らかの『波』に変換することさえ出来れば、精霊は感応《かんのう》してくれるんです」
マナガは、頷いた。
まさに、そのとおりだ。
「その意味で、この山荘のシステムは単身楽団よりも優《すぐ》れていると言えます。演奏という意識的な行為が必要な分だけ、単身《ワンマン・》楽団《オーケストラ》は奏者を限定します。しかしこの山荘は、無意識の行動を『表現』として拾うため、その障害が存在しないんです」
その目は、真っ直ぐにマキハ・クラムホンを見据えていた。
「そうですね、マキハさん」
「ぼ……僕は」
「お前……マキハ!」
立ち上がったのは、コモデ・シャーヘイズだ。
「お前、俺を殺そうとしたのか!」
「ち、ちがっ! ぼ、僕はただ……」
あわてて腰を浮かせるマキハに、
「そうです。違います」
マティアが割って入る。
「ただのイタズラです」
「爆発したんだぞ!?」
やっと、マナガにも判った。
「爆発させる気はなかったんです」
その言葉に、全員がマナガを振り返る。
「相棒の言うとおりです。こいつぁ、ただのイタズラだったんですよ」
他愛のないイタズラだ。
成功していれば、コモデ本人は少しばかり不満だろうが、けれど全員が大笑いして、そしてその後には良い思い出になるような、そんなイタズラだったのだ。
「マナガさん……?」
「ええ。私にも、やっと判りましたよ」
その言葉に、マティアは振り返る。
ほっとしたような顔で、そのまま歩いてくると、マナガの隣に立った。
つまり、後はお願い、ということだ。
ありがとうよ、マティア。お前さん、やっぱり大したもんだ。
マナガは、ゆっくりと全員を見まわしてから、コモデに視線を戻す。
「こいつぁね、言わばマキハくんから皆への、プレゼントだったんです」
頷く者は、誰もいない。
少なくとも、まだ……。
「問題はねコモデくん、お前さんがリリエナの部屋にシケ込んぢまったことなんです」
「……え?」
「まさかマキハくんも、皆がいっしょに泊まってる山荘で、そんなことをする仲間がいるとは思っていなかったんですな」
つまり、こうだ。
山荘は、神曲を奏でる。
その神曲に引かれて、周辺の精霊達が集まってくる。
おそらく、ボウライあたりだろう。あるいは運が良ければ、中級以上の精霊の訪問もあったかも知れない。
だがとにかく、マキハはそれを利用してイタズラを思いついた。誰にもバレない、しかし愉快なイタズラになるはずだったのだ。
「マキハくんは皆が来る前夜、五号室に精霊文字を書き込んだ。そして当日、全員が揃《そろ》ったところで装置を作動させた。皆の体温や動きが演奏に変換され、山荘が神曲を奏で始めた……」
それは無論、明確な方向性を持って演奏されているわけではない。だからこそ、その神曲はすぐに精霊達を呼び集めることは出来なかった。
あるいは、演奏開始から実際に精霊達が集まってくるまでに要する時間を、マキハはちゃんと計算していたのかも知れない。
「そう言えば……」
オドマが、呻くように言った。
「もう寝よう、って言い出したのは、マキハだったよな……」
「まあ、いずれにせよ」
マナガは、言った。
「神曲に誘われた精霊は、全て五号室の窓へ誘導されて、その中に溜まる……」
その圧倒的な気配に、五号室で眠っていた人間は目が覚めるだろう。
あるいは、寝ようとしているところへ精霊が山ほど入ってきて、驚くのかも知れない。
だがとにかく、その人物は事態に気づいて、大あわてで部屋を飛び出すはずだった。
「ドアを開ければ、精霊文字の封印が解ける。封印が解ければ、部屋に溜まっていた大量の精霊が山荘中を乱舞したでしょう。色とりどりのボウライが、ですよ? そりゃあ綺麗《きれい》な光景になったでしょうなあ」
だが、そうはならなかった。
無人となった五号室に呼び集められた精霊は、溜まる一方で解放されなかった。
そして、爆発したのだ。
「だって……俺は……」
「別に責めちゃいませんよ、コモデくん。言ってみれば、お前さんが五号室を選んぢまったことが、全員にとって不運だったわけです」
一同に、沈黙が降りた。
マナガの大きな肩に、マティアの小さな手が触れる。
振り返ると、少女の大きな目には、どこか哀しげな光があった。
「一つ、訊いてもいいかな」
マナガが声をかける相手は、マキハ・クラムホンだ。
「ドラッグ・ストアで私達に、山荘へ来るように言ってくれましたよね? そいつも、やっぱりこのイタズラに関係があったんですか?」
マキハは首をすくめたままで、しかし、しっかりと頷いた。
「部屋が……む、六つとも埋まってないと、うま、巧く作動しない、から……」
「なるほどね」
そして、マナガとマティアも巻き込まれた。
だが一方で、二人が山荘に来なければ、イタズラは実行出来なかったはずだ。
だとしたら、これもまた…………。
「でも……」
オドマが立ち上がる。
「それじゃあ、外の連中は、ありゃあ、何だ? あれも、その、何だ、俺達の『魂の形』が呼んじまってるもんなのか?」
「そういうことになりますな」
それが、最大の問題なのだ。
マティアの言ったとおり、この山荘は中にいる者の無意識を『表現』として拾い、『波』に……神曲に変換してしまうのである。
「単なるイタズラが、爆発事故につながった。それでマキハくんは、真相を話す機会を失っちまった。怖くて言い出せなくなったんでしょうな。おかげで皆、てっきり殺人未遂だと思い込んぢまった」
言ってから、マナガは苦笑する。
「そう言う私も、今の今まで、そう思い込んでたんですがね」
「だから?」
「皆の『魂の形』が変わっちまったんですよ」
あっ、と声をメイニアが声を上げる。
「疑心暗鬼《ぎしんあんき》……」
「そう。それに、怒りと憎しみ」
「嫉妬《しっと》も噴《ふ》き出《だ》したよな」
そう言って、じろり、と睨《にら》むコモデに、オドマは肩をすくめて見せた。
「どちらにしろ」
マナガは言った。
「そういうこってす。それに、爆発させられちまったボウライの『気持ち』もある」
「と言うと?」
メイニアだ。
「連中にしてみりゃ、甘い音楽で呼び集められて、いそいそと来てみたら、閉じ込められて苦しい思いをさせられた上に、最後は爆発だ。そんなことで精霊は死にゃしませんが、けれど苦痛の悲鳴は周囲に響きわたったでしょうな」
そして、それに反応したのだ。
この一帯に生息していた、無数の原始的精霊の群が。
「山荘から神曲が聞こえてきて、連中は様子を窺《うかが》ってたんでしょう。そしたら物凄《ものすご》い数の悲鳴が『聴こえ』てきて、その後は悪意ばりばりの神曲が、山荘から四方に撒き散らされ始めたってわけですよ。これで私達を敵だと見なさないわけがない」
だから、襲ってきた。
「じゃあ、あれは……」
呻くようなメイニアの言葉に、応えたのはマティアだった。
「私達の心です」
それが真相だった。
殺されかけたことに怒り、犯人を憎み、そして互いに疑う心だ。
「だから言ったでしょ? 最初から罪を犯すことそのものを目的にする人なんて、いやしないんです。何か大切なもののために、やっちまうもんなんですよ」
そしてそれは、真理だった。
「どんな善人でも、罪は犯すもんなんです」
「よっしゃ、判った!」
ぱん、と手を打ったのは、オドマである。
「そんで? どーすんだ?」
これから、である。
「敵の正体は、判った。なんでこうなったかも、判った。そんで、どーする? どうやったら俺達は無事にここを抜け出して、くっだらねえ日常に戻れるんだ」
「問題は、そいつでね」
言いながら、マナガは立ち上がる。
足元がふらついて、しかし何とか踏ん張った。
なぜこれだけ消耗してしまうのか、その理由も、やっと判ったのだ。
マティアも、理解しているに違いない。
だとしたら、まずしなければならないのは、この消耗状態から抜け出すことだ。
皆を助けるために。
「まず、装置を停《と》めるこってすな」
全員の動きを神曲に変換する、その仕掛けを。
「うん」
マキハも、立ち上がる。
「装置は……」
マキハ・クラムホンが言えたのは、そこまでだった。
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第三章 鳴り響く心
1
最初にその事実を指摘したのは、シマキ・シュペルデンという精霊学者だった。
精暦九一七年のことであると言われている。
それまで当然のように考えられていた精霊と神曲との関係に、異を唱えたのだ。
すなわち、精霊の生命体としての不自然さを主張したのである。
精霊にとって神曲とは、絶対に必要なものではない。
彼らは、ただ存在するだけで周囲から必要なエネルギーを得ることが出来る。物質化している場合でさえ、充分な睡眠と食料の摂取《せっしゅ》によって、その『肉体』の維持は可能だ。
しかし、いったん自分に合った神曲と出会ってしまった精霊は、その枝族《しぞく》や等級に拘《かか》わらず、これを独占しようとする。そして、自らの持てる『力』の全てと引き換えてまで、その神曲を独占するための契約を結ぶのだ。
いや、それだけではない。
万が一の場合の暴走という危険を冒《おか》してまで、自らを契約楽士の神曲に合わせて『調律』しさえするのである。
この依存性《いぞんせい》は精霊の、生命体としての完成度の高さに対して、あまりに不自然だというのがシマキ・シュペルデンの主張だった。
その理由を人間は、今もって解明していない。
精霊島の落下という、言わば伝説に近い記録に、その原因を求める者もいる。
しかしいずれにせよ、精霊とはそういう存在なのだ。
すなわち『不完全な完璧』である。
今のマナガが、まさに、それだった。
客室の方で、音がしたのだ。
積み上げられた重い、固いものが、がらがらと押《お》し崩《くず》される音だ。
五号室のバリケードだ、と誰もが理解した。押し崩されたのである。
だが、問題はその次だった。
あわてて立ち上がった一同を、マナガは手で制してしまったのだ。
「まて!」
いつもの彼ならば、誰よりも先に動いただろう。あるいは、そこにマティアの適切な判断が加わったかも知れない。
だが今マナガは、あろうことか先に動いた全員を制止し、さらにマティアもそんな彼に驚いて反応が遅れたのである。
痛恨《つうこん》の一瞬だった。
板で塞《ふさ》いだ壁の穴が、炸裂《さくれつ》した。
打ちつけられていた分厚い板が破れ、四方に飛散したのだ。
「うわ!」
「きゃ!」
「ひっ!!」
いくつもの声があがったが、それは反射的なものだ。
問題は、声をあげなかった人物である。
ごとん、と倒れた。
マキハ・クラムホンだ。
「マキハ!!」
オドマが駆け寄る。
「ぎぃいいぃいいいぃいいいぃいいいぃいい」
異様な声は、再び開けられた大穴からだった。
黒い霧《きり》が、立体の影が、どろりとした粘液《ねんえき》のようにダイニング・ルームに流れ込んでくる。不規則に捩《ねじ》れ、波うちながら、ふいに盛り上がったその頂点が、ぼっかりと裂けた。
口だ。
「じゃぁあぁああぁああぁあっ!!」
「むう!」
その正面へ、マナガが動く。
「マナガ!」
叫びと同時に、マティアが投げて寄越《よこ》したのは、暖炉で燃えていた薪《まき》の一本である。
真っ黒に炭化してはいるが、一方の端にはまだ炎をまとっている。
松明《たいまつ》のようなものだ。
かろうじて空中で受け止めると、マナガはそれを真正面に構えた。
「逃げろ!」
怒鳴《どな》るのが精一杯だった。
「やっちまえよ!!」
オドマが、マキハを背中に担《かつ》ぎ上げながら、わめく。マキハの額は血で濡《ぬ》れて、どうやら破片を頭に受けて意識を失っているようだ。
「さっきみたいに、ぶっ放せよ!!」
精霊雷のことだ。
「いいから、早く逃げて!!」
マナガの脇《わき》に、同じように火の点いた松明を構えて、マティアが叫ぶ。
彼女は、マナガの身に起きていることを理解しているのだ。
精霊雷を撃つどころか、手にした薪を振り回すことさえ満足に出来るかどうか判《わか》らない。
消耗《しょうもう》しきっているのである。
「オドマ!」
「オドマくん!!」
コモデが抱き上げているのは、この状況になっても動こうとしないリリエナである。
メイニアは、すでに階段の下まで移動していた。
「こっちよ! 早く!!」
懸命な判断とは言えない。二階へ逃げれば、つまりそれは自ら袋小路に入り込むようなものだからだ。
「待って! キッチンへ……!!」
そう叫んだのは、マティアである。
だが次に、ばきん、と木材の砕《くだ》ける音が響《ひび》いてきたのは、そのキッチンの方からだった。
「いいわ! 上がって!!」
階段を、足音が駆け上がってゆく。
それを背後に聞きながら、マナガとマティアは、じりっと後退した。
「じゅううぅうぅううぅう!!」
黒い霧が、のったりと身を起こす。
それは不定形の、まさに直立する影だ。
どろどろと穴から流れ込み、床に広がりつつ、次々と立ち上がる。ここにいれば、包囲されるのも時間の問題だ。
「マナガ」
「おう……」
「走れる?」
「判らん」
「でも、走って」
「ああ」
そして二人は、ほぼ同時に、手にした薪を投げつけた。
「じゃぎぃいぃいいぃいい!!」
真正面から炎を叩《たた》きつけられた影が悲鳴をあげ、床に落ちた薪を避けるように弧を描いて後退する。
掛け声をかけるでもなく、二人は同時に身をひるがえしていた。
背後の階段に向かって。
駆け上がる速度は、マナガの方が遅い。先に二階のフロアに到達したマティアは、振り返って手を伸ばした。
その手を、精霊警官のごつい手が掴《つか》む。
渾身《こんしん》の力で引っ張り上げようとする相棒に、マナガは膝《ひざ》を掴んで下に押し込む。
ようやく階段を上がりきった時、マナガは背後を振り返るのがやっとだった。
一階の床が、真っ黒だ。
床一面に、広がったのだ。
奴《やつ》らが。
「上がって、来ない、のか……」
息が切れて、言葉も途切れる。
「ううん、上がってくるよ」
「じゃあ……」
「うん。ごめん」
マティアは、唇《くちびる》を噛《か》みしめる。
「もっと早く気づけばよかった……」
それは、心底から悔《くや》しげな声だ。
気づいてさえいれば、今この瞬間にも事態は解決していたはずだ。いや、少なくとも解決に向かって動き始めていただろう。
そのことを、彼女はこの時、ふいに理解したのだ。
「下だ……」
マナガを振り返った時、マティアの小さな下唇に、かすかに血が滲《にじ》んでいた。
山荘の二階には、大きめの客室が三つあるだけだ。
どの部屋も一階のそれの三倍以上で、それぞれに浴室と洗面所、トイレも備わっている。
最奥《さいおう》の部屋に逃げ込んだのは、あるいは脅威《きょうい》から可能な限り遠ざかろうとする本能だったのかも知れない。
部屋に飛び込むと、オドマはすぐにマキハをベッドに寝かせ、メイニアが傷の様子を確かめにかかった。リリエナは部屋の隅に降ろされた途端《とたん》、また膝を抱える。コモデはその脇に、彼女を護《まも》るように立っていた。
窓に打ちつけたドアと窓枠の隙間《すきま》から、オドマが外の様子を確認する。
林の方からは、ずるずると何本もの黒い河が山荘に向かって流れているように見えた。
マナガとマティアが転がり込むように部屋に入ってきたのは、メイニアが自分のハンカチでマキハの額《ひたい》の血を拭《ぬぐ》い終えた時だった。
「どんな様子です?」
やたらと大きなベッドに寝かされたマキハを見て、マナガが問う。
「それより、そっちはどうなんだよ」
思わず、オドマは問い返していた。
「奴らは?」
「下です」
応えて、よく見るとマナガはドアの脇の壁にもたれて、かろうじて立っている有り様だ。
「だが、じきに上がって来るでしょうな」
「じきにって……おい、どうすんだよ!」
その言葉は、しかしメイニアに制止されてしまう。
「大丈夫だと思います」
マキハのことだ。
「額を、ほんの少し切っただけです。あたし見てましたけど、それほど強く頭を打ったようでもなかったですから」
「そうか……」
そして巨漢は、ついに、ずるずると座り込んでしまった。
「それじゃあ、後は停めるだけか……」
単身楽団を、である。
この屋敷が巨大な単身《ワンマン・》楽団《オーケストラ》であり、建物内部がその主制御楽器に相当するなら、本体が山荘のどこかにあるはずだ。
それを停止すれば、少なくとも下の『奴ら』を刺激している神曲は消える。
「停めれば、奴らは消えるのか?」
オドマの言葉に、しかし首を振って見せたのはマティアだった。
「いいえ。でも、マナガが何とかしてくれます」
「おい。おいおい。マナガがって、ぐっだぐだじゃねえか」
「神曲が停止すれば、回復します」
「……あ!」
声をあげたのは、メイニアだ。
「精霊が、神曲を……!」
「そうです」
マティアの頷きも、しかしオドマには理解出来ない。振り返ると、コモデも肩をすくめて見せただけだ。
だがメイニアは、全てを理解したようだった。
「マナガさんも、奏者になっちゃってるんだ」
「はい」
精霊は、神曲に強く惹《ひ》かれる一方で、しかし自ら神曲を奏でることは出来ない。
なぜなら、神曲とはすなわち、奏者の『魂の形』そのものだからだ。
人間は、肉体の内側に魂を持つ。それゆえ、魂が肉体を支える一方で肉体が魂を支え、それは強固な一つの『個』として成立する。
だが精霊は、精神だけで『個』を成立している。
言わば『魂だけ』の存在なのだ。
精霊が単身楽団を演奏した場合、精霊自身の存在そのものが『神曲』に変換され、放たれることになる。文字どおり自らの『身』を削《けず》って解き放ってしまうことになるのだ。
それはまさに、緩慢《かんまん》な自殺である。
そして今、マナガはその状態に置かれているのだ。
山荘の外で、彼はスノー・モービルを素手で停止させる腕力を見せた。さらには、それを山荘まで引きずりもした。
だが山荘の中では、彼はたった一発の精霊雷を撃っただけで、立って歩くことさえ満足に出来ない状態に陥《おちい》っている。
「もっと早く気づいていれば、彼が外部から何とかしてくれたかも知れませんが、もう手遅れです。現状から脱出するには、まず神曲を停止し、マナガを通常の状態に戻す以外にありません」
同感だった。
だが、どうやって?
「問題の装置ってのは、どこなんだよ」
それを知っているマキハは、今、意識不明なのだ。
「下です」
マティアは、あっさりと言ってのけた。
「は?」
「すみません。ついさっき、気づいたんです。単身楽団の本体は、地下にあります」
今、山荘に雪崩込《なだれこ》んできた『奴ら』は、一階のフロアいっぱいに広がっている。二階に上がって来ようとしないのは、神曲そのものが地下から発生しているからだ。
「しかし地下の単身楽団本体に到達すれば、彼らは上がって来て、私達を攻撃するでしょう」
「なんでだよ! 機械を壊しゃいいじゃねえか!」
「彼らが敵と認識したのは、単身楽団ではありません。その奏者である私達です。今は神曲の発生源に引きつけられていますが、単身楽団そのものに『魂』はありません。それに気づけば、彼らは必ず、こちらへ来ます」
「そうか……」
呟《つぶや》くように、言ったのはオドマだ。
「だから、リリエナを……」
最初にダイニング・ルームの壁が破られた時、その壁の正面に座っていたのは、ユリ・リリエナだった。
「俺《おれ》達が言い合いをした時、オドマお前、言ったよな。リリエナのこと」
「あ……ああ」
リリエナは誰とだって寝る。
それは皆が知っている。
たしかに彼は、そう言った。
「リリエナは、自分を責めてるんだ。俺達が疑心暗鬼《ぎしんあんき》になって、憎しみだの怒りだのに心を奪われてる時に、彼女は自分を責め始めてたんだよ」
「それは……」
マティアが、ぽつりと呟いた。
「自分を憎むことは、最も強い憎悪です……」
そしてその憎悪を……誰よりも強い憎悪を、リリエナは神曲に換えて撒《ま》き散《ち》らしたのだ。
「俺の、せいか……」
オドマが、肩を落とす。
声をかけたのは、マナガだった。
「やめときなさいな、オドマくんよ」
完全に呼吸が乱れているのが、ここからでも判る。
「別に、お前さんを、慰《なぐ》めようって、わけじゃ、ないですがね」
その言葉も、途切《とぎ》れがちだ。
「この事態を、お前さん一人で、起こせると思ったら、そいつぁ、大した、自惚《うぬぼ》れってもんです」
「そうだな」
コモデが、前へ出る。
「お前みたいなデブに、俺達全員が酷《ひど》いめに遇《あ》わされてるなんて、俺は認めないね」
「うっせぇや。歯磨《はみが》きの宣伝でもしてろ」
だが、交わす視線は、笑みである。
そして、オドマはマナガに向き直った。
「んで? 要するに地下へ行って、機械を停めりゃいいんだな?」
「いや、私が……」
そう言って、マナガが立ち上がりかける。
オドマは溜《た》め息《いき》をついて、大股《おおまた》で近づくと、その大きな額を指で押した。
どすん、と響いたのは、マナガが尻餅《しりもち》をついた音だった。
「あのなあ。俺みてぇなデブに、指一本で押し戻されてるくせに、何が出来るってんだよ」
そして、
「俺が行く」
「私ゃ、警官だ。そいつぁ、許可出来ません」
「別に許可なんざ要らねっつーの。俺が勝手にやるんだ」
オドマ・ウォンギルは、胸を張った。
もっとも、前に突き出したのは大きな腹の方だったが。
「断っとくぜ、刑事さんよ。俺はな、デブと言われても怒らねえ。デブったのは、俺自身の責任だからだ。でもな、チビ呼ばわりする奴はぶん殴《なぐ》る。チビなのは遺伝で、俺のせいじゃねぇからだ。判るか?」
そして、オドマは座り込む巨漢に背を向けた。
「俺は、俺がやることは自分で決める」
「初めて気が合ったな、デブちん」
言いながら、コモデはすでに窓に打ちつけたドアを剥《は》がし始めている。
「俺も、自分のやることは自分で決める主義でね」
「何だよ。俺の真似《まね》かよ。おめぇは、ここでカノジョ護ってろよ」
「機械を壊しそこねたら、どっちにしろ全員助からねえんだろ? だったら機械をぶっ壊す方に保険かけるべきだ。お前が死んでも、俺が機械を壊す」
「ふん……、マッチョのくせに頭は悪くねえんだな」
「お前もデブのくせに、格好イイこと言うじゃないか」
そして二人は、力を合わせてドアを引っぺがした。
「気をつけてね」
メイニアだ。
口元には、強張《こわば》った笑みがあった。
「先に戻って来た方に、キスしたげる」
「遠慮しとくわ」
ウィンクで応えて、オドマは窓を開ける。
下まで、たっぷり四メートル。
だが、積雪も深い。
「脚《あし》なんか折っても助けないからな」
言って、先に窓枠に足をかけたのはコモデの方だ。
「先に跳《と》べよ。上に落ちてやる」
オドマも、自分の腹に苦労しながら、窓枠に足をかける。
「二人とも……」
マナガが言った。
「頼むぞ」
オドマ・ウォンギルとコモデ・シャーヘイズは、ただ頷《うなず》いた。
そして、跳んだ。
浮遊感《ふゆうかん》は、残念ながら一瞬だった。
たちまち真下への加速に掴《つか》まって、次の瞬間には、雪面に叩きつけられていた。
「どふ!」
目を開けると真っ暗な夜空と、そしてこちらへ向かって降りしきる雪が見える。視界の周囲には、雪の壁が立ち上がっていた。
「なに埋まってんだよ」
差し伸べられる手は、コモデ・シャーヘイズだ。
掴むと、引っ張り起こされた。
「お前、やっぱり減量しろよ」
「おめぇが、片っ端からオンナ喰《く》っちまうのをやめたらな」
見上げると、四メートルの高さに、窓がある。
メイニアとマティアが、こちらを見下ろしていた。
にっ、と笑って親指を立てて見せたが、
「おい!」
そのままコモデに引きずられた。
着いたのは山荘の裏側、そのほぼ中央である。玄関ホールの、その真裏あたりだ。
マキハがボイラーを点検に行く時、玄関ホールの奥へと入って行ったのを、オドマもコモデも目にしている。つまり、その下に地下室があるということだ。
壁面の足元の雪を掘り返すと、思ったとおりのものが出てきた。
壁が地面から五〇センチばかりの高さで、四角く切り取られている。ガラスが嵌《は》め込《こ》まれて、それは地下室の明かり取りの窓になっていた。
幅は、一メートルそこそこ。
「無理じゃないのか?」
そう言って苦笑するコモデの視線の先は、オドマの腹である。
「うっせえ」
「先に行くからな。つっかえられちゃ、たまらん」
「黙って行けってんだよ」
コモデが、窓ガラスを蹴《け》り破《やぶ》る。
さらに残った破片を慎重に蹴り落としてから、彼は壁に手を突いて、四角い穴になってしまった窓に両脚を突っ込んだ。
「んじゃ、お先に」
そのまま、鉄棒のスウィングみたいに勢いをつけて、滑り込む。
一瞬遅れて暗い地下室から、じゃり、という着地音がした。
「……おい」
オドマは、顔だけを突っ込んで声をかける。
「おう」
「暗いぞ」
「中に入りゃ見えるよ。ボイラーの火がある」
「明かり、点《つ》けろよ」
「何だよ。怖いのか?」
むっ、としたオドマは、それには応えず無造作《むぞうさ》に両脚を突っ込んだ。
「……あ」
つっかえた。
当然、腹が。
「おい、何やってんだよ」
「つっかえた」
「見りゃ判るよ、そんなことは」
溜め息とともに、足音が近づいてくる。
むんず、と足首を掴まれた。
「引っ張るからな。ちっとは腹、引っ込めろ」
だが、
「離せ」
「え?」
「手ぇ離せ」
オドマは、言った。
「はあ? いいから……」
言いかけるその言葉を、オドマは遮《さえぎ》った。
「いいから、離せ! とっとと機械、見つけろ!」
「……オドマ?」
来たのだ。
『奴ら』が。
建物の側面から回り込んで、山荘の裏側に黒い霧が姿を現したのである。
一部が、にゅう、と突出して、周囲を見まわすように動く。
ひくひくと動いているのは、空気の匂いを嗅《か》いでいるようにも見える。
だが、一つだけ確実なことがあった。
見ているのであれ嗅いでいるのであれ、『奴ら』は探しているのだ。
奏者を!
「早くしろ、莫迦《ばか》!!」
だが、コモデの手は足首を放さなかった。
それどころか、さらに強く握りしめたのである。
「コモデ!」
その叫びに、返ってきた声には苦笑が混じっていた。
「デブの踊り喰いなんざ、見たくねえよ」
コモデ・シャーヘイズは、宣言どおりの男だった。
自分のやることは自分で決めるのだ。
「皆、判ってたんだと思う」
そう言って、ツカサ・メイニアは話し始めた。
「判ってて、知ってて……」
うずくまったリリエナの隣に、同じように膝を抱えて。
「それでも皆、ずっといっしょだった」
それは、彼女の告白だった。
「リリエナは、この娘、いつも誰かに、ちやほやされてないと我慢出来ない娘でね。いい娘なのに、それだけが悪いクセなんだ」
笑みである。
「でも、あたしが普通と違うって打ち明けても気持ち悪がったりしないで、それまでどおり付き合ってくれたのは、この娘だけだったの」
マティアから前もって聞いていなかったら、マナガには何のことだか判らなかっただろう。正直、判った上でも、実感の出来ないことではあった。
だが、それがどれだけメイニアにとって重大なことだったかは、判る。
だから、
「友達か」
「違うよ。親友だよ」
そして二人は同じ大学に合格し、そこで三人に会った。
コモデ・シャーヘイズ、
マキハ・クラムホン、
そして、オドマ・ウォンギルである。
「びっくりしたよ。オドマとは中学時代までは、よくいっしょに遊んでたから。仲のいいグループの、遊び仲間だったんだ」
だが、そこで少し雲行きが怪しくなってくる。
コモデがリリエナに接近し、しかしリリエナはこれに応じなかったのだ。
「気を惹いたつもりなんだよね。でも、それがまずかったんだ」
コモデのプライドが、傷ついたのだ。
そこで彼は、オドマに近づいた。オドマがメイニアの旧《ふる》い友人であることを知ったからだ。
「オドマ、あたし、リリエナ……。回りくどいけど、これでオドマと前からの友達だったマキハくんを合わせて、五人組が出来ちゃったわけ」
「六人……て言ったよ?」
マティアだ。
その言葉にメイニアは、くすくすと笑う。
「そう。それもね、今にして思えばマキハのイタズラのスタート地点だったのよ」
マキハが、僕の友達も参加していいか、と言い出したのだ。
意外に思ったのは、メイニアだけではなかったはずだ。マキハ・クラムホンに自分達の知らない友達がいることなど、考えてもみなかったのだ。
それもしかし、あるいは満足に交遊関係を広げられない彼が、イタズラのためだけに誰かに声をかけたのかも知れない。
そして出発当日の土壇場《どたんば》になって、キャンセルを喰らった。
「あたし達、まだその人の名前も知らないんだよね」
でもね、とメイニアは言った。
「代わりに来てくれたのが、マティアやマナガさんでよかったと思ってる。そうでなかったら、あたし達とっくに仲間割れして、それで、あの黒いのに殺されちゃってたよ」
「そいつぁ、判りませんよ」
マナガは言った。
もう喋《しゃべ》るだけでも、体力が削られてゆくのが判る。
それでも、これだけは言っておきたかった。
「私が、コモデくんを止めなきゃ、今ごろ彼が、助けを連れて来て、くれたかも知れない」
「でも彼が残ってくれたから、オドマが一人で機械を壊しに行かないで済んでる」
「そういう、ことです。存在するのは、今、だけだ。もしもの世界なんて、どこにも、存在しやしないんですよ」
メイニアは、大きく目を見開いてマナガを見つめる。
よく判らない、という顔だ。
そんな彼女に補足《ほそく》を加えたのは、マナガの隣に座ったマティアだった。
「失敗したら取り返せばいい、ってこと」
ひくり、と肩を動かしたのは、しかしメイニアではなかった。
その隣の、リリエナだ。
「きっかけが間違いでも、今の皆は、ちゃんと……」
マティアが言ったのは、そこまでだった。
ふいに言葉を切って、
視線を泳がせ、
そして立ち上がった。
「来た!」
奴らが。
ばりん、と派手な音をたてて、窓枠が砕けた。
オドマの腹の圧力で、だ。
「だーっ!」
素《す》っ頓狂《とんきょう》な声をあげて、一〇〇キロを超えるオドマの躯《からだ》が、浮遊感に掴まれる。
だがそれは、さっきより短かった。
衝撃は、仰向けになった背中からだ。
「どうっ!」
オドマ自身の声に、
「ぉぐ!」
押しつぶされたようなコモデの声が重なる。
いや、……ような、ではなかった。
下でオドマの脚を引っ張っていたコモデは、地下室に転がり込んだオドマの下敷きになってしまったのである。
オドマの言ったとおりに、だ。
「だから引っ張るな、つったろうがよ」
躯を起こすと、分厚い尻肉の下でコモデが呻《うめ》いた。体重一〇〇キロ超が、胸の上に座り込んだ格好なのだ。
「ぐううぅう……どいて、くれ……」
オドマが跳《は》ね起《お》きたのは、しかし相手が気の毒だったからではない。
我に返って、弾《はじ》かれたように明かり取りの窓を振り返る。
さっきまで窓だったところは、今は窓ガラスどころか窓枠まで引きむしられて、ただの四角い穴である。その窓枠の残骸《ざんがい》は、まだオドマのウールのベストに引っかかっていた。
「おい」
やっとのことで立ち上がったコモデに、
「大丈夫だ」
オドマは応える。
四角い穴の向こうに、まだ奴らの姿は見えない。
「今のうちだ」
振り返ったオドマは、しかし絶望の声をあげた。
「何が、下に降りたら見える、だよ。真っ暗じゃねえか」
「おかしいな。いや、さっきまでは……」
コモデの方は、手探りだ。ついさっきまで、薄明かりながらも、地下室の様子がぼんやりと見えていたのである。
それが今では、三メートル先も見えないほどの暗闇なのだ。
たしかに、片隅のボイラーの丸い窓からは、中の炎が見える。ボイラー周辺の床も、剥《む》き出《だ》しの土が赤く照らされている。
だが、見えているのはその周辺だけなのである。
「とにかく、明かりを点けよう」
そう言って、コモデが闇の中に手を伸ばす。
次の瞬間、
「あづっ!!」
引っ込めた。
手の甲に、今までなかったはずの傷が、ぱっくりと開いている。
それが、みるみる血を溢《あふ》れさせ始めた。
「……嘘《うそ》だろ」
呻いたのは、オドマである。
闇が、動く。
渦《うず》を巻くように。
光の届かない暗闇ではなかった。
目の前にあるのは地下室の床から天井にまで届くほどの、原始的精霊の群だったのだ!
「……マジかよ」
遅かったのだ。
こいつらが地下まで溢れるほどに山荘に入り込んでいるとしたら、とっくに二階にも到達しているはずだ。そして今、二階の部屋には満足に闘える者など一人も残っていないのだ。
……いや、それはこちらも同じことだった。
「マズいな、こいつは」
そう言って不敵に笑って見せるのが精一杯だ。
武器になるようなものは、何もない。
見えないのだ。
見えるのは、ただ炎を抱え込んだボイラーと、そしてその周囲の生きた影だけだ。
二人は、じわり、とボイラーの方へ回り込む。
そこだけが、闇に覆《おお》われていないのだ。
「どうする?」
コモデは、引き裂かれた手の甲を押さえている。
「どうもこうも、よ」
オドマはまだ無傷だったが、それも時間の問題だろう。
「ぎぃいいぃいいぃいいぃ」
「るるるるるる」
「しゃあぁああぁああぁあ」
薄気味の悪い音が……いや、声が、周囲を蠢《うごめ》いている。
二人は顔を見合せ、そして、同時に気がついた。
ゆっくりと振り返るのは、背後のボイラーである。
「おい」
オドマに、
「ああ」
コモデが頷いた。
「上の連中、逃げられると思うか?」
「神曲さえ止めれば、マナガさんが何とかしてくれるんだろ?」
「そういうこったな」
「よし」
「よし」
頷いた。
そして、動いた!
ボイラーに取りついたのは、オドマの方だ。
その前に、庇《かば》うようにコモデが立ちふさがる。
「じぎゃあぁぁあぁぁああぁああ!!」
黒い塊《かたまり》が、一斉に渦を巻き、威嚇《いかく》した。
「おうりゃああぁああぁあ!!」
オドマは大声でわめきながら、手にしたバルブを回した。
渾身《こんしん》の力を込めて。
可能な限り速く。
ボイラーの丸窓の中で、みるみる炎が育ってゆく。
「いっしょに、吹っ飛べ!!」
急激な加圧で、ボイラーを爆発させるつもりだった。ついさっき、原始的精霊の群が炎を嫌う様子を、彼らはしっかりと見ていたのだ。
たしかに、相手は精霊である。
ボイラーが爆発しても、それで死ぬわけではないだろう。
だが、同じ地下室にある単身《ワンマン・》楽団《オーケストラ》は、確実に破壊出来る!!
「オドマぁ!!」
背を向けて、生きた闇に対峙《たいじ》したまま、コモデが叫ぶ。
「なんだよう、こっちゃあ忙しいんだ!!」
「お前、デブだけど、いい奴だったぞ!!」
「うるせえ! そんなこた知ってらあ!!」
がぁん、と大きな金属音が響いた。
二人は思わず、目を閉じた。
だが。
爆発は起きなかった。
代わりに耳に届いたのは、二つの音だ。
「じぎゃぁあっ!!」
生きた闇のあげる悲鳴と、
そして、気体の噴出《ふんしゅつ》する音だ。
「おい!!」
コモデの声に、オドマは瞼《まぶた》を開いた。
蒸気だ!
急激な圧力の上昇に、蒸気を地上へ送るための導管が、その接続部から裂けたのである。
そこから、大量の蒸気が噴出している。
二人の頭上から、目の前の群に向かって!
「見ろ!」
「ああ、見てる!!」
オドマは呻いた。
「効《き》いてるぜ!!」
「違う、こっちだ!!」
コモデが血まみれの手で、指差すのは斜め前方だ。
高熱の蒸気にあおられて、生きた闇が後退してゆく。
その向こうに、
「あった!」
単身《ワンマン・》楽団《オーケストラ》だ!!
それは、想像以上に巨大な装置だった。
高さは約二メートル、地下室の天井にまで届いている。だがそれよりも驚きだったのは、横幅だ。五メートル以上にわたって、巨大な機械装置が横たわっているのである。
鍵盤《けんばん》のないパイプオルガンのように、オドマには見えた。何百本もの真鍮製《しんちゅうせい》のパイプが絡《から》み合い、天井へ……地上の山荘へと続いている。制御卓らしき装置には鍵盤こそなかったが、その代わりに無数のランプが点滅して、作動状態であることを示していた。
さらに、天井から本体の背後へ回り込むのは、無数の太いケーブルだ。あれが山荘内の人間の情報を取り込み、本体に送り込んでいたのだろう。
自動単身楽団……それが今、二人の目の前にあった。
「うおっ!!」
短く声をあげて、コモデが飛び出す。
「コモデ!!」
その背中が、たちまち黒い霧に包まれた。
奥の壁に背中を押しつけて、メイニアはリリエナを抱きしめる。マナガを立たせるのに手を貸した後、そこでじっとしているように言われたのだ。
そのマナガは今、ドアに背中を押しつけて、かろうじて立っている。
マティアは二歩ほど下がって、巨漢を見つめていた。
「マナガ……」
気づかわしげな少女の言葉に、マナガはもうかすかに笑みを浮かべるだけだ。
精霊は、死なない。
メイニアは大学で、そう習った。
だがそれは、人間の死とは違う、というだけの話だ。
実際には、精霊には二つの死がある。
一つは、精神生命体としての構造が何らかの理由で破壊された時。
そしてもう一つは、何らかの理由で生きる気力そのものを失った時。
今のマナガは、前者である。
知らないうちに神曲の奏者となっていたことで……神曲を演奏し続けていたことで、そのエネルギー総量をごっそりと削られているのだ。それはつまり、精神生命体としての構造の弱体化を意味する。
この状態が続けば、彼は最後の結合を解《と》かれてしまうだろう。そうなれば、もとのマナガとして再構築されることは、永遠になくなってしまうのだ。
だが、それでも彼は立った。
三人の民間人と、そして自分自身の相棒を護るために。
どすん、とドアが揺れた。
マナガの巨体ごとだ。
おそらく、もう彼には見た目ほどの体重はなくなっているに違いない。
どすん、とまた揺れる。
もう一度、
さらにもう一度、
どすん、
どすん!!
「マナガ!」
巨漢は、もう笑みを浮かべさえしなかった。
ただ歯を喰《く》い縛《しば》り、目を閉じて、その大きな背中を分厚いドアに押しつけるだけだ。
しかしそれも、限界だった。
どすん、とドアが揺れた。
ずるり、と巨漢の足が前へ滑った。
弾かれたように動いたのは、黒いケープの少女だった。
「マティア!!」
メイニアの叫びにも、彼女は振り返らない。
ただマナガの脇に飛び込み、その小さな両手をドアに押しつけて、そして彼を見上げるだけだ。
マナガは、瞼を開く。
逃げろ、とその唇が動く。
「嫌だ」
それが、マティアの応《こた》えだった。
「本当なら、あたし、あの時に死んでた。あたしの命は、マナガのものだ」
だから、少女は分厚いドアに……その向こうで群れるものに立ち向かう。
一秒でも長く、一瞬でも長く、大切な相手といっしょにいるために。
どすん、と揺れる。
気づいた時には、メイニアはドアを押さえていた。
マティアの背後から、覆いかぶさるように。
「メイニアさん!」
非難の混じったマティアの視線に、しかしメイニアは首を振る。
「あたしは、信じてるから!」
言いながら、涙が溢れるのを止められなかった。
「マティアがマナガさんを信じるみたいに、あたしだって仲間を信じてるから! きっと機械を止めてくれるって信じてるから!! だから、だから……」
それまで持ちこたえるんだ。
そう言いたかった。
でも、言えなかった。
代わりに言ったのは、
「それまで、持ちこたえなきゃ」
リリエナだった。
マナガの隣で、ドアを押し戻すみたいに両手を突いて。
「リリエナ……」
「メイニア……」
ふいに、気がついた。
リリエナの顔を、こんなふうに正面から見るのって、久しぶりだ。
あたし、とリリエナは言った。
「メイニアのこと、好きだよ」
笑みだ。
「誰より大事《だいじ》だって思ってるよ。最初はびっくりしたけど、でも、メイニアが望むんだったらエッチしてもいいくらい好きだよ」
「リリ……」
マナガの手が、動いた。
太く長い腕が。
そして、抱いた。
メイニアを、
リリエナを、
マティアを。
信じられないくらいに軽い腕だった。こんなに大きいのに、こんなにごついのに、なのに子供の手みたいに軽い軽い腕だった。
どすん、とドアが揺れた。
ばきん、と音をたてて蝶番《ちょうつがい》が弾けた。
「消えた!」
それは、マティアの声だ。
そして、物凄《ものすご》い勢いに押されて弾き飛ばされる時、メイニアは見た。
宙に撥《は》ね上《あ》げられたマティアが、その手の中に銀色を握りしめていた。
2
ツカサ・メイニアが、自分が他の少女達とは違うことに気づいたのは、一二歳のころだった。
初めて好きになった相手が、同じクラスの女の子だったのである。
それが普通ではないことは、すでに知っていた。
だから、黙っていた。
それから好きになる相手は、必ず同性だった。
中学生のころ、初めて相手に告白した。
翌日には、その噂は学校中に知れ渡り、メイニアには二種類の視線が向けられた。
嫌悪《けんお》と、嘲笑《ちょうしょう》である。
不登校になり、やがて中退した。
一年を無駄にした後、両親の計らいでシノザカへ転居した。
そして、そこの高校で出会ったのが、ユリ・リリエナだった。
初めて会った時から、リリエナの笑顔はメイニアの心に根を下ろしてしまった。
忘れようと思った。
無理だった。
そして、ついに告白したのだ。
リリエナも、受け入れてはくれなかった。
だが、それだけだったのだ。
翌日からも、リリエナはそれまでと変わらなかった。メイニアを嫌悪もしなかったし、嘲笑もしなかった。彼女に告白したことも、他の誰にも知られてはいなかった。
そして、
今。
リリエナはメイニアを、好きだ、と言ってくれた。
充分だった。
それだけで、もう充分だった。
叩きつける衝撃を遠くに感じながら、ツカサ・メイニアは、これでいい、と思った。
これが死というものなら、それも悪くない。
なぜなら、
最期の瞬間に、彼女は大切な人に想いを受け入れてもらったのだから。
それが人生で最後の出来事であるなら、これ以上の幸福はない。そう思った。
しかし。
「よう。しっかりしろ」
まだ、終わってはいなかった。
「大丈夫か?」
その、声。
お腹《なか》の底に響く、重くて、太くて、けれど優《やさ》しい、その声。
瞼を開いた。
「よし、生きてるな」
そこに、黒いコートの巨漢がいた。
立っている。
太い、長い、二本の脚で。
「メイニア」
助け起こしてくれたのは、リリエナだ。
そのすぐ脇には、マティアもいる。
部屋の外に群れた原始精霊に、ドアが破壊されたのだ。四人は宙に飛ばされ、正面の壁に……そして吹き飛んできたドアに叩きつけられるはずだったのだ。
しかし、そうはならなかった。
「マナガさん……!?」
大きな精霊は、わずかに腰を曲げて両脚を踏ん張り、その片方の膝に右腕の肘《ひじ》を乗せる格好《かっこう》で、こちらを見ている。
彼の背中には、分厚く重いドアが壁から引き剥《は》がされて、もたれかかっていた。
だが、巨漢は笑みを浮かべている。
優しげな笑みを。
まるで、ドアの重さなど感じてさえいないように。
「危機一髪、ってぇとこだな」
応えて、マティアが立ち上がる。
両手を口元に揃えて、その指の隙間から除くのは、銀色だ。
ようやく、メイニアは気づいた。
音楽が、聴《き》こえる。
長く、細く、ゆったりとうねるリードの音だ。
ハーモニカ……?
いや、違う。
ブルース・ハープだ。
「マティア……」
マチヤ・マティアは、警官である。
そして同時に、彼女は神曲楽士だった。
それも、単身《ワンマン・》楽団《オーケストラ》を必要としない、天才なのだ!
マナガは背筋を伸ばすと、肩ごしに手を伸ばしてドアを掴み、無造作に脇へ放り投げた。
窓の脇の壁に、ドアはナイフのように突き刺さって、そして二度と落ちてはこなかった。
マナガの背後に、四角い穴が見える。ドアを失った、入り口だ。
その向こうで、黒々と渦を巻くのは、原始精霊の群である。
……入って来ない。
その理由を、メイニアは正確に理解していた。
恐れているのだ。
マナガを!
マティアの奏でる神曲が、部屋中に広がり、満ちてゆく。
ゆったりと気だるい、それはブルースだった。
静かな、哀しい、ブルースだ。
無頼《ぶらい》の男が酒場の隅《すみ》で、歯を喰いしばり、喉の奥に号泣《ごうきゅう》を呑《の》み込《こ》みながら、それでも肩の震えを隠しきれずにむせび泣いているような、そんなブルースだ。
「こいつを……」
マナガは、目を閉じる。
「待ってたぜ」
山荘の神曲が、消えたのだ。
そして今、身を削り消耗しきったマナガに、その契約楽士の神曲が注がれてゆく。
彼にとって、この地上で唯一無二《ゆいいつむに》の『魂の形』が……!
閉じた瞼の隙間から、涙がこぼれた。
右目から。
黒い涙だった。
再び開いた左目はそのままに、右目だけが変わっていた。
真っ黒だ。
まるで眼窩《がんか》にインクを流したように、一面が黒い。その黒い目から流れた黒い涙が、彼の右の頬《ほお》に一筋の黒い跡を残している。
だが、もっと驚くべき変化は、その次に起きた。
巨漢の背中から、羽根《はね》が展開したのだ。
左の背中に二枚、右に一枚。
三枚の羽根は、しかし光を纏《まと》ってはいない。長いマフラーのように、ゆったりと宙で波うつその羽根は、夜の闇よりもなお黒いのである。
大きな足の下で、床板が、ぎしり、と軋《きし》んだ。
見上げる巨体が、みるみる質量を増してゆくのが判る。
「黒の……精霊」
ぽつりと呟くリリエナの言葉に、マナガは笑みを見せた。
野獣のような笑みだった。
「そいつぁ、いいな」
「じゃぁあぁぁあぁぁあぁあっ!!」
ドアを失った戸口の外で、黒い塊が渦を巻き始める。
「ふん」
鼻で笑って、マナガリアスティノークルが群に対峙する。
次の瞬間、ついに黒い群が部屋になだれ込んだ。
進化という道に背を向けた精霊の群体。
知性さえ持たず、ただ本能にのみしたがって蠢くエネルギー生命。
それが、真っ黒な濁流《だくりゅう》となって叩きつけてきたのである。
「はっ!」
マナガの、それは気合ではなく嘲笑のように、メイニアには聞こえた。
続くのは、閃光《せんこう》である。
精霊雷だ。
「……凄い!」
メイニアは、思わず声をあげた。
瞬時に発生した巨大な精霊雷が部屋いっぱいに広がり、メイニアとリリエナを、マキハの横たわるベッドを、マティアを、そしてマナガ自身を包み込んだのだ!
ばぎん、と金属がへし折れるような音をたてて、
「ぎじゃ!」
「がぎゃ!」
「じゃおっ!」
無数の悲鳴とともに、黒い濁流が炸裂《さくれつ》するように四方に弾かれた。
それはまさに、黒い爆発だ。
だが、
「きゃっ!」
それだけでは、済まなかった。精霊雷が展開すると同時に、床が砕け散ったのである。
そのまま、落下した。
「きゃぁああぁああぁああぁあっ!!」
抱き合うメイニアとリリエナの悲鳴の中、粉砕《ふんさい》した床から全員が真下へと落下してゆく。一階の玄関ホールに叩きつけられる……と思った瞬間、さらに次の床板が粉砕された。
続くのは、どん、と真下から突き上げる衝撃だ。
メイニアとリリエナが、絡み合うように引っ繰り返る。
立っているのはマナガと、そのコートにしがみついたマティアだけだった。
「わりぃ……」
ぼそり、と腹に響く声が呟く。
「床まで抜いちまった」
「マジかよ! 殺す気かよ!!」
わめく声に、見るとそれはオドマだった。腰が抜けたように床に座り込む彼の、すぐ脇にはマキハを乗せたままのベッドがある。あと五〇センチもズレていたら、彼はぺしゃんこになっていただろう。
周囲には瓦礫《がれき》が散乱していて、しかし二階にいた五人の周囲にだけそれがないのは、精霊雷のバリヤーが弾いてくれたからだ。
「ちょいと苦手なもんでな」
その言葉の意味は、すぐに判った。
精霊雷だ。
バリアーのように全員を包むつもりで、そのまま床を粉砕して地下室まで落ちてきたのだ!
「ぎじぃいいぃいいぃいいいぃぃぃいい!!」
異様な声をあげて、地下室を埋めつくさんばかりに群れていた原始精霊が、後退してゆく。
「コモデは?」
「ここです!」
応《こた》えるコモデ・シャーヘイズの背後に、異様な機械があった。
もっとも、もとがどんな形状だったのかは、判らない。コモデが、手にした金属パイプで目茶苦茶《めちゃくちゃ》に壊してしまった後だったからだ。
「助かったぜ」
マナガである。
「お前さん達、全員を救ったんだ」
だがコモデは、呆然《ぼうぜん》とマナガを見つめるだけだ。
「うわ……」
三枚の黒い羽根と、そして黒い涙を流す黒い眼。精霊としての、マナガの本当の姿に、彼は驚嘆《きょうたん》の声をあげる。
「そんなに見るなよ、照れるじゃねえか」
マナガの言葉に、ようやく我に返ったようだ。
「それで……」
こちらへ歩いて来るコモデの右手は、血で汚れている。
「どうします?」
「決まってらあ」
マナガの回答は、簡潔《かんけつ》にして明瞭《めいりょう》だった。
「逃げるのさ」
異論を唱える者は、誰もいなかった。
3
大股で歩くマナガが近づくと、黒い霧が退いてゆく。
逃げるわけではない。遠巻きに、様子を窺っているのだ。
マティアを腕に抱き上げて、地下室を出たマナガは真っ直ぐに玄関ホールへ向かう。
後ろに続くのはメイニアとリリエナ、そしてマキハを背負ったオドマと、その手にメイニアのハンカチを巻いたコモデである。
マナガが右手に精霊雷を纏わせるや、全員がしゃがんで頭を下げたので、思わず苦笑してしまった。
そのまま、正面のドアに叩きつける。
精霊雷が接触した瞬間、分厚いテーブルを打ちつけた分厚いドアが、轟音《ごうおん》とともに向こう側に向かって爆裂した。
いや、ドアだけではない。
周囲の壁ごと、玄関ホールの壁面を、ほとんど抉《えぐ》りとってしまったのだ。
「わりぃ」
その謝罪に、溜《た》め息《いき》のような笑いが漏《も》れる。
だが彼らの周囲には、まだ三メートルばかりの距離を置いているとは言え、生きた影が群を成して蠢いているのである。
「行くぞ」
外は、本格的な吹雪だった。
だが、他に道はない。
やがては原始精霊の群も、一斉に襲いかかってくるだろう。これだけの量の敵から全員を護って闘うことがマナガにも困難であることを、連中もじきに見抜くはずだからだ。
オドマのバンは、半ば雪に埋もれていた。
「くそっ! これじゃドアも開きゃしねえ!!」
わめくオドマに、マナガが訊《たず》ねる。
「そいつぁ、四駆か?」
「あッたりめーだろ!?」
「よし。退《さ》がってな」
言うなりマティアを降ろすと、黒の精霊はバンの後部に回って、その車体に手をかけた。
両腕で、テールを抱え込んだのだ。
そして、
「そうら、よっと!!」
持ち上げた。
いや、雪から車体を無造作に引き抜いたのである。
誰も、驚きの声一つあげない。
自分達の見ているものが信じられないのだ。
その間にも、バンの鼻面を夜空に向ける格好で持ち上げたマナガは、そのまま身をひねり、傍《かたわ》らの雪の上に車を降ろす。
四輪とも半ばまで雪に埋まったが、車体の上には一辺の雪も残らなかった。
「よっしゃ、乗りな」
「あんたは?」
バンは、ざっと見て六人乗り。空席はあるが、マティアはともかくマナガまで詰め込むのは、どう見ても無理だ。荷物スペースにだって、収まりそうにない。
マナガは、にやりと笑った。
「屋根が空いてるじゃねえか」
「はあ!?」
「見ろ」
全員が、マナガの指差す方向を振り返る。
山荘だ。
そして、息を呑んだ。
黒い粘液のような物体が……原始精霊の群が、破れた窓から、戸口から、ずるずると這《は》い出《だ》して来るのである。
「判ったな?」
判ったらしい。
「みんな、乗れ!!」
全員が、動いた。
コモデが側面のスライド・ドアを開けると、オドマが未だに意識の戻らないマキハを放《ほう》り込む。さらにメイニアとリリエナが後部座席に乗り込み、運転席にはオドマ、助手席にはコモデが飛び乗った。
「マティア!!」
メイニアの声は、ほとんど悲鳴である。黒い影が、すぐそこまで迫っているのだ。
だがマティアは、巨漢を振り仰《あお》ぐ。
「邪魔?」
返すマナガの、それは笑みだ。
「寒いぜ?」
「いいよ」
「よし」
そして、マナガはメイニアに言った。
「いいから、とっとと出せ!」
「でも!!」
「マティアなら、いい!」
そして、付け加えた。
「俺達ゃ、警官だ!!」
三つのドアが、ほとんど同時に閉じる。
続くのは、エンジン始動の胴震いだ。
マナガはマティアを抱き上げる。分厚い胸の前で曲げた左腕に、マティアが座る。
「出すぞおっ!!」
窓を開けて、オドマが怒鳴る。
マナガは、雪を蹴った。
三枚の長く黒い羽根をゆらめかせて、少女を抱いたまま、巨体が宙を舞う。
どん、と車体を揺らして、マナガはバンの屋根に片膝を突く格好で舞い降りた。
「出せ!」
「おう!!」
クラッチを繋《つな》いでアクセルを開くと、四つのタイヤが大量の雪を巻き上げて空転する。
途端に、生きた黒い霧が、ざわめいた。
嵐の海のように真っ黒な表面が波立ち、そして、立ち上がる。
気づいたのだ。
こちらが、彼らを恐れていることに!
「ちくしょう!! 動かねえ!!」
オドマがわめく。深い雪を巻き込んで、四輪とも空転しているのだ。
マナガはバンの天井に手を突いて、
「よいしょっ、と」
全体重をかけて、揺すった。
瞬間、後輪の摩擦係数《まさつけいすう》が上昇し、降り積もった雪に抵抗する。
ずるり、とバンの車体が前へ出る。
殺到する原始精霊の群は、今や黒い津波だ。マナガの身長を超えて、こちらに向かって押し寄せてくる。
バンの中で悲鳴をあげるのは、メイニアとリリエナだ。
「まだか」
さらに、揺すった。
突然、バンの後輪が地面を噛んで、車体が弾かれるように前へ出た。
黒い津波が、ほんの数秒前までバンのあった位置に叩きつけて、四方に黒い霧を散らす。
「いゃっほう!!」
オドマの、それは快哉《かいさい》だ。
後輪から雪を撒《ま》き散《ち》らし、いくらか蛇行しながら、しかし4WDのバンは確実に前進してゆく。
山荘が、みるみる遠ざかる。
「ぎるるるるるるるるるるるるるるるる!!」
のたうつ黒い群が、どこか悔しげに見えるのは、気のせいだろうか。
「来ないね」
マティアが呟《つぶや》く。
「ああ。来ねぇな」
あるいは、とマナガは思う。
連中には、殺意があったわけではなかったのかも知れない。
ただ、追い出したかっただけなのかも知れない。
あの原始的な精霊達は、この山で、ただ営々と存在し続けてきただけだ。人と関《かか》わることもなく、ただ存在し続けていただけなのである。
そこに人間がやってきて、山を伐《き》り拓《ひら》き、大はしゃぎで山荘なんぞをおっ建てた。そして挙げ句の果てには、彼らと同じ精霊を騙《だま》して、苦痛を与えたのだ。
我慢の限界を超えたとしても、不思議はない。
だがそれでも、彼らは人間を殺そうとはしなかったのだ。
楽観かも知れない。
甘い考えかも知れない。
だが現に、彼らは追っては来ない。人間達が逃げ出したのを、ただ見送るだけだ。
「そういうことかもな」
マナガの言葉に、
「うん」
マティアが、かすかな笑みで応える。
その時だ。
突然、轟音が夜の山を鳴動させた。
山荘が爆裂し、巨大な炎の球体が雪の丘を覆ったのである。
屋根の大半が真上へ吹き飛び、炎を噴き出した。壁面が柱を残して四散し、残った柱も猛《たけ》り狂う火炎に呑み込まれた。燃え盛る破片が宙を舞い、突き刺さるように叩きつけて周囲の雪面にいくつもの穴を穿《うが》った。
爆発だ。
山荘が、爆発したのだ。
「やべえ!」
オドマの声。
「ボイラーか!!」
そして、コモデの声。
なんてこった。
地下の機械を止めに行った二人が、そこで何をしたのかは知らない。
だがマナガは、別に知りたいとも思わなかった。
問題は、結果だ。
林を抜ける道にバンが滑り込むと、燃え盛る山荘は見えなくなる。ぐい、とバンの速度が上がったのは、積雪が減ったからだ。林の木々が傘になって、路面への降雪を減少させていたのだろう。
だが、吹き上げる黒い煙と、そして炎に照らされて真っ赤になった降雪はまだ見える。
その前に、
「……まずいぞ」
信じられない光景が展開していた。
黒い霧が、生きた影が、知性を持たない原始的な精霊の群が、上空へと舞い上がってゆく。いくつもの塊に分かれ、長く尾を曳《ひ》きながら、互いに絡み合い、もつれ合いつつ、炎に照らされた未明の空へと広がってゆくのだ。
聴こえてくるのは、
「ぎぃいいぃいいいぃいいいぃぃいいぃ!!」
「じゃらぁぁああぁああぁああぁ!!」
「うぉおおぉおぉおおぉおおぉぉおおおぉおお!!」
軋るような絶叫だ。
「怒ってる……」
マティアの、それは感想ではない。
事実だ。
あれは、怒りだ。
仲間に苦痛を与え、さらには悪意の『波』を撒き散らし、それでも傷つけずに逃がしてやろうとしたら最後に不相応な攻撃を残していった、あまりにも傲慢《ごうまん》な人間どもに対する、煮えたぎるほどの怒りなのだ。
その怒りが、今、ぎりぎりと巻き上げられてゆく。
ささくれた荒縄《あらなわ》のように、捩《ね》じれ、凝り固まって、一つの形を成そうとしているのだ。
怒りの形だ!
「くそおおっ!!」
オドマが声をあげ、バンは蛇行する。
山荘周辺よりも少ないとは言え、しかし路面が雪で覆われていることに違いはない。エンジンの回転をダイレクトに受けた四つの駆動輪も、かろうじて車体を前進させるのが精一杯なのだ。
直進することすら困難なのである。
それも、両側を木々に挟まれた、この狭い山道でだ。
「襲ってくるよ……」
「たぶんな」
「どうするの?」
マティアが問うには、理由がある。
どう考えても、こちらには理がないからだ。
彼らを傷つけたのは、こちらだ。
彼らが怒り狂うのは、当然なのだ。
だが、
「マティア」
「うん」
「俺は、精霊だ」
「うん」
「彼らの同族だ」
「うん」
「でもな」
そう。
いかに理不尽であっても。
「俺は、警官だ」
マティアは、じっとマナガの横顔を見つめる。
それから、捩じくれた黒い塊へと、視線を戻した。
「判った」
路面が大きくカーブして、絡み合う原始精霊の群が全く見えなくなる。
だが、それも一瞬だった。
次の瞬間、
「ごぁああぁああぁああぁぁあああぁぁああ!!」
轟《とどろ》く咆哮《ほうこう》とともに、そいつが姿を現した。
木々をへし折り、地響きをたてて、闇色の巨体が追いすがってきたのだ。
バンの中で、いくつもの悲鳴があがる。
背後から迫る、それはすでに黒い霧でも生きた影でもなくなっていた。
獣だ。
巨大な、獣だ。
単なる威嚇ではなく、明確に人間どもを引き裂くことを決めた時、それが彼らの選択した『形』なのだ!
「何てぇ格好だい……」
思わず漏れたマナガの言葉は、しかしそれを揶揄《やゆ》しているわけではない。
あまりにも哀《かな》しかったからだ。
無残な姿だった。
全長六メートルはあろうかという巨体である。
怒濤《どとう》の勢いで追いすがってくる、その姿勢は四つ足の肉食獣に近い。
だが。
頭部にあるのは、ぞろりと牙を並べた顎《あぎと》だけだ。それが三つも四つも突出して、がちがちと空を噛んでは巨体に埋没《まいぼつ》し、また別のところから突き出してくる。
肢も、同じだ。クレーンのアームほどもありそうな太い肢が何本も生え、雪に覆われた地べたを叩いて本体を前進させては、体内に融《と》けるように埋もれる。
巨大な黒い塊から、何本もの肢が生えては埋もれ、いくつもの顎が突き出しては埋没し、逃走を図《はか》る人間どもを追ってくるのである。
しかも、黒々とした巨体で蠢くのは、肢や顎だけではない。
長いカギヅメを持った猛禽《もうきん》のような腕が伸びて、路肩から飛び出た木の枝をへし折る。
巨大な魚のヒレのようなものが現れて、無意味に羽ばたいてから消える。
二本の太い尻尾《しっぽ》が背面から伸びたかと思うと、絡み合って、融《と》ける。
そして、顔だ。
いくつもの、顔だ。
黒い巨体の表面に……その皮膚に、無数の顔が現れ、流れ、渦巻いては分解してゆくのだ。
獣の顔が現れる。
鳥の顔が融ける。
異様に巨大な昆虫の顔が横切ったかと思うと、草食動物の無数の顔に分裂する。
その正体を、マナガは一目で理解した。
それは、彼のよく知っているものだった。
怨念《おんねん》だ。
これは、怨念だ。
山に込められた、怨念の塊だ!
「ソルテムの、北壁か……」
その山は、ずっと、禁制地帯の荒野を見下ろし続けてきたのだ……。
「厄介《やっかい》なことだな」
右へ左へと揺れる車体のその上で、マナガは立ち上がる。
追いすがる怨念の獣に向かって。
マティアの手が、唇へ銀色を運ぶ。
流れるのは、ブルースである。
「ごぁああぁああぁぁぁああぁぁあああぁぁああああぁあああああぁああぁああ!!」
漆黒《しっこく》の獣が吠える。
「わりぃな」
マナガの右の拳《こぶし》が、精霊雷を纏う。
球状の燐光《りんこう》が拳を包み、その表面に走る電光はプラズマ化した大気だ。
「手加減は、出来ねぇぜ」
どん、と雪の飛沫《しぶき》を白煙のごとく巻き上げて、黒い異形《いぎょう》の凶獣が跳んだ。
二メートル半のマナガの体躯《たいく》も、その巨体に比べればあまりに小さい。
だが、
「精霊雷は苦手なんでね!!」
巨大な五つの顎がマナガを、そしてバンの車体を噛み砕く寸前、さらに巨大な閃光が炸裂した。
マナガが、今まさに閉じようとする顎のど真ん中に、精霊雷を叩き込んだのだ。
『質量』を持たないエネルギーが、そのポテンシャルの全てを『速度』へと変換し、四方へ、無差別に拡散したのである。
突出した複数の顎が、ことごとく引き裂かれた。
しかし撒き散らされるのは肉片でも血飛沫でもない。引き裂かれた黒い霧が、融けるように空中に消えてゆく。
「ごがぁあぁぁああぁああぁああぁあ!!」
巨体の前半分が、ごっそりと抉られた。
苦痛を表すその咆哮は、いったいどこから噴き出してくるのか。
巨大な前肢《まえあし》が木々をへし折り、大地を叩くのは苦悶《くもん》である。
苦し紛れに振り回す前肢が、傍らの木々を五本ほど、根こそぎに地面からもぎ取った。
「しまった!」
そのうちの一本が、大きく弧を描いて宙を飛ぶ。
バンの進行方向へ!!
どすん、と道路を塞いだ。
「うぉっ、と!」
車体が揺れる。オドマが急ブレーキを踏んだのだ。
後輪が横滑りし、さらに体勢を立て直そうとして当てたカウンター操作が、車体を反対側へ引きずり倒してゆく。
「むう!」
マナガは、バンの屋根から飛び下りた。
だが右手は、屋根に突いたままだ。
指を曲げて、金属製の屋根に、がつん、と突き立てる。
着地した両足は、そのまま雪の大地に突き刺すように踏ん張った。
「むううううっ!!」
悲鳴をあげる五人を乗せたまま、バンはさらに横滑りしてゆく。
引きずられてゆくマナガの首に、マティアはしがみついた。
「糞《クソ》ッタレがあっ!!」
マナガは右肢を上げ、そして、地面を蹴った。
引きずられるマナガの躯が、急停止する。
ばぎん、と音をたてて、バンの屋根の一部が剥がれた。マナガの握力に耐えかねた金属板が、衝撃でむしり取られてしまったのだ。
バンの車体は、停止した。
右側の二輪だけを接地して、左側の二輪を宙に浮かせて、こちらに車体の底を見せているのだ。
そのまま、ゆっくりと雪の中に倒れた。
「大丈夫か!?」
駆け寄るマナガに、
「だああっ! くそ!!」
悪態をつくのは、オドマである。
「どけ、こら!!」
助手席に座っていたコモデが、オドマの上に乗っかっているのだ。
「大丈夫です!」
後部座席から応えるのは、メイニアだ。
「よし、全員、生きてるな」
その時だ。
「マナガ!!」
マティアが、悲痛な叫びを上げる。
振り返ったマナガは、見た。
そして、悟った。
ついにソルテムの山そのものを敵に回してしまったことを……。
「こりゃあ、しくじったかな?」
周囲の木々から、地面から、枝から、雪の隙間から、じわりじわりと染み出して来るものがあるのだ。
黒だ。
黒い、霧だ。
黒い、影だ。
黒い、粘液だ。
「驚きだな……」
精霊は、どこにでもいる。
それは、常識だ。
本来、精神生命体である精霊は、事実上、ありとあらゆる空間に存在し得る。物質化の際にその位置が固定されるだけで、ある意味において精霊を『意思を持つ空間そのもの』と定義する精霊学者もいる。
だが、その事実をこういう形で目にすることになるとは、精霊たるマナガでさえ想像もしなかった。
地中に、木々に、雪の中に、空気中に、あらゆる場所に存在した原始的な精霊が、物質化して姿を現してきているのだ。
山そのものから!
それらは怨念の巨獣と融合し、合体してゆく。
マナガの精霊雷に砕かれた穴がみるみる埋まり、巨体はさらに膨《ふく》れ上《あ》がる。無意味な器官があちこちに突出しては消え、また現れる。
「まいったな……」
マナガは、その様子を呆然と見上げていた。
「ソルテムの魔女が実在するとは思わなかったぜ」
「ごおおおおぁおぉおぉぉおぉおぉあぁあぁぁああぁぁああぁああぁあぁぁぁああぁ!!」
応えるように、巨獣が吠える。
その巨体は七メートルを超え、八メートルを超え、一〇メートルを超えてそびえた。
「マティア」
「なに?」
「どうする?」
「決まってるじゃん」
「そうか」
「うん」
二人は、真っ直ぐに『敵』を見上げる。
マナガは拳を握り、
マティアは唇で銀色に触れる。
「行くぜ」
少女が頷いた。
「うわぁあぁぁああぁああぁあああぁああぁああぁああぁあっ!」
叫んだのは、マキハ・クラムホンだった。
4
物心ついたころから、彼の母は神曲楽士だった。
ただの会社員の父よりも、母は輝いていた。
マキハ・クラムホンにとって、母は母であると同時に、崇拝《すうはい》の対象だった。
そして神曲楽士こそが、彼自身の将来において、あるべき姿だった。
彼は神曲楽士になるはずだった。
なりたかったのではない。
なるはずだったのだ。
そこには一点の疑念の余地もなかった。なりたいと希望することさえ考えつかないくらいに、それは自然なことだったのである。
だが、そうではなかった。
トルバス神曲学院は、彼を認めなかった。
才能がない、と言った。
神曲楽士にはなれない、と言った。
そう言ったのだ。
あり得ないことだった。
どうしろというのか?
神曲楽士になる、それ以外の将来など考えたこともなかったのに。
理不尽だ、と思った。
だが、思ったところで、どうにもならなかった。
マキハ・クラムホンは、神曲楽士にはなれなかった。そのための学舎《まなびや》に籍《せき》を置いていることさえ、認められなかったのだ。
でも、と思う。
だから、とも思う。
ノザムカスル大学で出会った仲間達が、大切だった。
たとえ自分が、その裕福な家庭環境を利用されているだけだとしても、大切だったのだ。
喜んでもらいたかった。
マキハのおかげで楽しかったよ、と言ってもらいたかった。
だから、利用しようとしたのだ。
精霊を。
その挙《あ》げ句《く》が、これだ。
「なんだよ、あれ!!」
気がついた時、わめいていたのはオドマ・ウォンギルだった。
「もっとスピード出せ!!」
これは、コモデ・シャーヘイズの声だ。
「追いつかれちゃうよ!! 追いつかれちゃうよう!!」
ユリ・リリエナの悲鳴が間近で聞こえて、だからマキハは目を開けた。
「大丈夫だから! マナガさんが付いてるから!! マティアが付いてるから!!」
叫ぶツカサ・メイニアの膝の上に、マキハは抱きしめるように膝枕《ひざまくら》されていたことに気がついた。
そして、見た。
オドマとコモデの頭の向こう、運転席のルーム・ミラーで。
背後に迫る、巨大な黒い影を。
それが何なのか、一目で判った。
何が起きているのか、一瞬で理解した。
リア・ウィンドウから閃光が差し込んで、この世のものとも思えない絶叫《ぜっきょう》が轟いて、やっつけたかと思った次の瞬間、オドマが大きくハンドルを回した。
車体が揺れて、何度も何度も揺さぶられて、そして、横転した。
メイニアの膝の上から放り出されて、座席からも放り出されて、マキハ・クラムホンは荷物スペースに転がった。
そして彼の上に、それが、落ちてきたのだ。
固い、金属の箱だった。
こっそりとバンに積み込む時、オドマに見つかってしまって、けれど彼は苦笑しただけで何も言わなかった。
マキハがそんなものを持って来ていることを、オドマは誰にも言わないでいてくれた。
大切な、マキハにとっては大切な宝物だった。
捨てきれない夢の、それは証《あかし》だった。
それが今、彼の胸の中に、抱き留めてくれと言わんばかりに落ちてきたのだ。
思い出したのは、マナガの言葉だ。
どんな善人でも、罪は犯す。
もしそうなら。
それが本当なら。
犯した罪は、償《つぐな》わなければならない……!
マキハは、それを抱えて、バンの後部ドアを開ける。
そして、飛び出した。
「うわぁあぁぁああぁああぁあああぁああぁああぁああぁあっ!」
叫びながら。
振り返ったマナガが見たのは、こちらへ向かって転げるように走ってくるマキハ・クラムホンの姿だった。
「何だ何だ、おい……!?」
奇妙な走り方は、走りながら何かを背負おうとしているからだ。
マナガの脇をすり抜け、前へ出る。
タイヤの跡が刻まれた雪の路面に崩れるように両膝を突いた時、マキハ・クラムホンはその背中に、箱を背負い終えていた。
ディパックほどの大きさの、金属製の箱である。
「うわぁああぁあ!!」
マキハが声をあげる。
同時に、彼の背負った箱が、展開した。
あちこちで蓋《ふた》が開き、シャッターが開き、内蔵されていた構造物が使用位置へと移動してゆく。内側に折り畳《たた》まれていた何本もの金属製のアームが展張して、マキハの躯を包み込んでゆくのだ。
まるで、背中に張り付いた金属製の巨大なクモだ。
だがクモの肢に相当するそれぞれのアームの先端にあるのは、獲物を襲うカギヅメではない。表示パネルや制御盤、モニター・スピーカーや制御レバーだ。
さらに本体からは一組の薄型スピーカーが突出し、最後のアームがマキハの正面に突き出したのは、一組の鍵盤である。
「単身《ワンマン・》楽団《オーケストラ》……!?」
マナガが思わず漏らした、それがこの機械の名称だった。
複数の奏者の複数の楽器によってのみ、かろうじて構築可能な複雑な楽曲を、たった一人で演奏するための特殊楽器である。
そう。
神曲を、だ!
「莫迦な!」
神曲で止めるつもりなのか?
この怨念の塊を!?
「ごおおおおぉおぉおぉぉおぉぉおぉぉおぉぉおぉおおぉおぉおぉおお!!」
今や夜空を覆い隠さんばかりに巨大化した獣が、吠《ほ》え哮《たけ》る。
ぐじゃり、と嫌な音をたてて、その巨体のど真ん中が開いた。
中から現れたのは、家一軒ほどもありそうな巨大な眼球だ。
その眼球が、ぐりっ、とマキハを見下ろした。
「無茶だ!」
思わず前へ出ようとするマナガを、
「待って……」
しかし、マティアが制止した。
「なに!?」
「見て……」
最初の一音が鳴り響いたのは、その時だった。
こぉぉん、と一つ。
ただの、『ラ』の音。
「がぁぁああぁあああぁぁぁああぁぁあああぁあっ!!」
巨大な眼球の真下から、漆黒の奔流《ほんりゅう》が噴出した。
一直線に、マキハに迫る。
だが、マキハは逃げなかった。
第二の音が、冷たい空気を震わせた。
かぁぁあん。
ただの、『ソ』の音。
そして、
「ごめんよお!!」
マキハの、声。
見えない壁に叩きつけられたように、マキハに向かって押し寄せる黒い奔流が、四方へ飛び散った。
「まさか……」
低く構え、今にも前に出ようとするその姿勢のまま、マナガは呻いた。
演奏が始まった。
マキハ・クラムホンが、演奏を開始した。
「ごめんよ。ごめんよ。ごめんなさい。ごめんなさい」
泣きながら、ぱたぱたと涙を落としながら、マキハは鍵盤を叩き続ける。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
稚拙《ちせつ》な演奏だった。
和音は外れ、運指《うんし》はもつれ、モチーフはテーマを追いきれていない。
だがそれは、美しい曲だった。
哀しい曲だった。
そしてマナガは、確信した。
「驚いたな」
こいつぁ……、
「神曲じゃねえか」
神曲とは、芸術ではない。
それは、魂の形である。
神曲に必要なものは、たった二つしかない。
一つは、己の魂の形を表すための演奏技術。
そしてもう一つは、己の魂の形をさらけ出すことを一片《いっぺん》たりとも恐れない心……。
「ごめんなさい。ごめんなさい。誰も傷つけたくなんてなかった。本当です。誰も犠牲《ぎせい》になんてしたくなかった。僕は皆が好きだっただけです。皆に笑って欲しかっただけです。皆に綺麗《きれい》なものを見せたかっただけです。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、何でもします何でもします、だから皆は助けて! 皆を許して! 僕だけにして!!」
ゆらり、と黒い巨体が動く。
「殺すなら僕だけ殺して!!」
「がぁああぁああぁああぁああぁああああぁぁああぁああぁぁああぁあぁあぁあぁあ!!」
マキハの言葉に、巨体が吠えた。
マナガが咄嗟《とっさ》に身構える。
その襟元を、抱き上げられたままのマティアが掴んだ。
少女の目は真っ直ぐに、捩じくれた異形を見上げている。
そして、
「……聴いてる」
神曲を、だ。
そびえ立つ異形の、その動きが、停《と》まっている。
「ぐるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるる」
低く重い唸りをたてて、かすかに身を震わせるだけだ。
「助けて。助けて。助けて」
かろうじて音楽の体裁をしているだけの、その神曲に、今の今まで猛り狂っていた原始精霊の群体が、聴き入っているのだ。
「皆を助けて。皆を助けて。皆を助けて」
ゆっくりと、巨大な眼球が閉じてゆく。
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」
巨大な異形が、ずるり、と崩《くず》れた。
結合を解かれたように、黒い巨体が解けてゆく。
溶けてゆくのではない。
解けてゆくのである。
それは、ずるずると崩れると、マキハに向かって流れ始める。だが、雪に膝をついて単身楽団を演奏し続けるマキハ・クラムホンは、その流れに呑み込まれはしなかった。
黒い流れが、ゆっくりと宙に舞い上がり、渦を巻くようにマキハの周囲を流れてゆくのである。
マキハは、かろうじて演奏を続けながら、その光景を呆然と眺めていた。
太い糸のような、細いロープのような、真っ黒な渦がマキハを包んでゆく。
しかもそれは、ただ流れているだけではなかった。マキハの神曲に応えるように、波うち、膨張《ぼうちょう》し、収縮《しゅうしゅく》し、速度を変えながら、互いに絡み合うようにマキハを包み込んでゆくのである。
そして突然、
炸裂した。
「むう!」
黒い渦が、空中に四散したのだ。
音もなく。
一瞬で。
砕け散った巨体は、無数の破片を撒き散らし、そして破片は空中でさらに分解した。
光を放ちながら。
「うわあ……」
声をあげたのは、横転したバンから這《は》い出《で》て来たツカサ・メイニアだ。
「なんだこりゃ……」
真上を向いて開いた助手席のドアから出て来たコモデ・シャーヘイズが呟く。
その後ろから顔を出すのは、オドマ・ウォンギルだ。
「すげえ」
メイニアに手を引かれて、ユリ・リリエナは溜め息を漏らす。
「綺麗……」
それは、光の乱舞《らんぶ》だった。
砕け、飛び散り、粒子となった原始精霊が、光を放っているのだ。
赤
黄
緑
青
紫
およそ思いつく限りの色彩が……いや、それ以上の光が、あたりに満ちていた。
呆然と見上げるマキハ・クラムホンの顔は、涙と鼻水でぐちゃぐちゃだ。
その頬を、ひときわ大きな白い光が、撫《な》でるように通りすぎた。
驚いて目で追う、そのマキハの前に、また別の光が躍り出て、飛び去った。
さらに別の光が、マキハの真正面で、くるりと円を描いて、飛び去った。
さらに次の光が。
さらに次の光が。
そして次の光が。
「やれやれ……」
マナガの背中から、三枚の羽根が消える。
「そういうことか」
目を閉じて、ぐい、と右の頬を拭《ぬぐ》うと、黒い涙の痕跡《こんせき》とともに右の瞳がもとに戻った。
「要するに、あれか」
マナガの、その言葉は溜め息混じりである。
「うん」
マティアは、頷く。
そして、マナガを真似た無理やりに低い声で、こう言った。
「罪ってぇのはよぅ、償い時ってぇもんがぁ、あるんだぁ」
どんな善人でも、罪を犯す。
たとえ仲間を楽しませるためであったとしても、たとえ思ってもみなかった結果を引き起こしてしまっただけだとしても、罪であることに違いはない。
マキハ・クラムホンのやったことは、それだ。
だが、彼は償った。
償うべき、その時に。
だから、許されたのだ。
精霊に。
山に。
いや……あるいは、
罪そのものに…………。
マナガは苦笑して、マティアに訊《たず》ねる。
「私の喋り方って、そんなかい?」
「うん」
くすり、とマティアが笑う。
そして、乱舞する光を見上げた。
「綺麗」
「ああ」
座り込んで、まだ泣き続けているマキハの周りに、仲間達が集まってくる。
彼の両脇に膝を突くのは、メイニアとリリエナだ。二人はマキハを囲む単身楽団のアームを、邪魔くさそうに押しのけると、両側から彼の首に抱きついた。
そして、左右の頬に、キス。
オドマが、ひええ、と声をあげ、コモデは甲高い口笛を吹いた。
乱舞する光はやがて消える。
そして、朝陽がそれにとって代わった。
雪は、いつの間にかやんでいた。
5
ツカサ・メイニアは、ノザムカスル大学で精霊学を専攻している。
実際に、精霊の友人も何人かいる。
だから精霊については、ちゃんと理解しているつもりだった。
だが、彼はケタ外れだった。
マナガリアスティノークル・ラグ・エデュライケリアス。
マナガ警部補。
彼は神曲の支援もなしに、道を塞いだ倒木を持ち上げて、林の方に投げ返した。それを見た後でも、横転したバンをあっさり起こしてしまうのには驚いた。
しかもそのまま、マティアを抱き上げて、のっしのっしと山荘の方へ戻って行ったかと思うと、三〇分もしないうちに自分の黒い四駆車でまた戻って来たのである。
メイニアを含む五人は、べこべこに車体のへこんだバンで、マナガの車の後を付いて山を下った。
途中で一回、道に迷ったのは、彼が先導していたせいだが、全員それで大笑いだった。
そして今、六人は喫茶店のテーブルを囲んでいる。
メイニアとリリエナ、オドマ、コモデ、マキハ、そしてマチヤ・マティア警部。
東ソルテム、デラン高原スキー場の、ホテルの一階である。チェックイン・カウンターの見える開放型の喫茶店で、丸いテーブルが一見無造作《むぞうさ》に、けれど絶妙のバランスで配置されている。
電話を終えたマナガ警部補が、ごとんごとんと重い足音をたてて、カウンターからこちらに戻って来る。すれ違う利用客の誰もが驚嘆の目で彼を振り返るのが、可笑《おか》しかった。
「一時間ほどで来てくれるそうです」
そう言って彼が席に着くと、重厚な作りの椅子が軋みをたてる。
「現場が帝有地なもんで、帝警の所轄《しょかつ》になるのが、ちとややこしいですがね。でも、大した時間は取られないと思いますよ」
こちらへ向かっているのは、エクンマ市警察の人間だそうだ。その後は、必要ならば帝都警察から担当官が派遣されてくるはずだが、しかし今回はそうはならないだろうというのが彼の読みだった。
「あくまで、事故ですからね。犯罪じゃありませんから」
その言葉に、ちらり、とマナガの顔を盗み見るマキハの眼鏡は、両方ともヒビが入っている。マナガと視線が合うと、目を逸らしてしまった。
だが、
「あの……」
コーヒーと紅茶とオレンジ・ジュースの並んだテーブルに視線を落としたまま、マキハは呟くように言った。
「み、みんな、……ごめん」
「はあ?」
引っ繰り返った声は、オドマだ。
「まぁだ、そんなこと言ってんのか? 最後に俺らを助けて、そんでチャラだろ?」
「でも、でも……」
「そんなこと言ったら……」
リリエナも、テーブルに視線を落とす。
「あたしだって、そうだよ」
「リリエナ……」
メイニアは彼女の肩にそっと手を置いて、しかしマナガは溜め息混じりに追い打ちをかけてきた。
「そのとおりですな」
「マナガさん?」
メイニアの抗議を、巨大な掌が遮る。
「償ったからとか、帳尻《ちょうじり》を合わせたからとか、そんなことでチャラになるほど、世の中は甘かぁありませんよ」
「でも」
「それじゃあ訊きますが」
巨大な手が降りると、巨大な顔が真っ直ぐにメイニアを見ていた。
「あなたは今回の件で、心に重いものを抱えちまったでしょ? そいつは、もう済んだんだからチャラにしていい、って言われたところで、忘れることが出来るもんですか?」
「それは……」
言葉に詰まる。
そんなこと無理だ、と判っているからだ。
巨漢は、ゆっくりと全員を見まわした。
「いいかい、皆」
その目には、しかし笑みが浮かんでいる。
「お前さん方《がた》は、それぞれに間違いを犯した。私やマティアもだ。それは、どれも小さな間違いで、しかしその小さな間違いが積み重なって、絡み合って、どえらい事態を引き起しちまった。今回の一件は、そういうことなんだ」
マナガがマキハの母について言及しなかったのは、彼の気遣いだったのだろう。
あるいは、もう誰もが理解していることなので、単に省《はぶ》いただけなのか。
どちらにせよ、しかしそれは決して動くことのない事実だ。
「私とマティアの関わってきた事件も、みんなそうだった。根っからの大悪人が邪悪な企みで事件を起こす、なんてことは、まずない。皆、それぞれに正しいと信じて行動し、そいつに混じり込んだ小さな間違いが悲劇を引き起しちまうもんなのさ」
オドマも、コモデも、何も言わなかった。
彼らもまた、気づいたからだ。
彼らもまた、間違いを積み上げたことを思い出したのだ。
マナガは、にいっ、と笑った。
親指ほどもありそうな大きな歯が、ずらりと並んだ。
「間違いの記憶を抱えて、生きることだ。忘れたり誤魔化したりしないで、痛みといっしょに生きることだ。その痛みは必ず、次の、もっと大きな間違いを止めてくれる」
そして、彼は言う。
「そいつが、罪を償うってぇことだ」
全員が、真っ直ぐにマナガを見つめている。
そして、頷いた。
唇を笑みに歪《ゆが》めるのは、オドマである。
「タメグチでやんの」
どこか嬉《うれ》しそうなその言葉の意味は、メイニアには判らない。
だがマナガは、照れ臭そうに笑みで応えた。
「さてと」
突然、その口調が変わる。マナガの巨体に張り詰めていた何かが、ふいに抜け落ちたみたいな感じだった。
「そこで相談なんですがね」
巨漢が、ぐい、と前へ乗り出した。
「実はですね、この状況下で、私らルシャ市警の人間が関係してるとなると、ちと面倒臭いことになるんですよ」
にやり、と浮かぶ、それはイタズラ小僧のような笑みだ。
「お判りでしょ? 専門家ってぇのは、同じ専門家には容赦がないもんでね。連中に取っ捕まっちまったら、下手すりゃ何日も潰《つぶ》すことになっちまう。やれ事情聴取だ、やれ現場検証だってね。せっかくの休暇が、なくなっちまいます」
それからマナガは、ナイショ話でもするみたいに、声をひそめた。
「さっき所轄の警察に電話する時にですね、私、オドマ・ウォンギル、と名乗っちゃったんですなあ」
「はあ!?」
オドマの声が、またしても裏返る。
ぽかん、と口を開けて彼の顔を見つめているのは、マティアである。
それから、目を大きく見開いたまま、少女は口を閉ざした。
その唇の端が、小さく震えている。
メイニアには、信じられなかった。
笑いをこらえているのだ!
そんな相棒に目配《めくば》せしてから、マナガはとんでもないことを言い出した。
「刑事なんて現場にいなかった、ってぇ筋書きはどうです?」
「ふうん」
オドマである。
「刑事ともあろうもんが、不正をやらかすってかい?」
にやり、と笑みを浮かべて。
その問いにマナガは、しれっ、と応えた。
「はい」
そして、
「どんな善人だって、罪は犯すもんです」
全員が声をあげて笑ったので、店中が振り返った。
マティアが小さく吹き出すところをメイニアは見逃さなかった。
でも、黙っていた。
全員が二人の刑事と、電話番号を交換した。
そしてマナガとマティアが立ち去ってから、作戦を練った。
マキハは、イタズラについてはちゃんと告白する、と宣言した。地下室に突入したオドマとコモデの武勇伝《ぶゆうでん》も、そのまま残された。
しかしそれ以外は、よく判らない、ちゃんと見ていない、何があったか知らない、という三つの言葉で押し通すことを、全員が確認し合った。
最後の『解決編』にだけは、ヒーローが必要だった。
その役は当然、マキハ・クラムホンに振られて、本人は顔を真っ赤にして辞退しようとしたが、残る全員がそれを許さなかった。
一時間後、二人の制服警官がホテルに到着して、それから四時間後には五人は解放された。後日、何度かエクンマ署に呼び出されたが、現場に戻ることは一度もなかった。
さらに一週間後、マキハはちょっとした有名人になってしまうのだが、それはまた別の話である。
黒の精霊と小さな神曲楽士には、それ以降、会っていない。
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終章
高速道路の入り口は近かったが、ゆっくりと一般道で帰ることにした。
マティアが口を開いたのは、最初の信号待ちの時だった。
と言っても、デラン高原スキー場のデラン・ヒルサイド・ホテルを出てから、すでに三〇分ほどが経過している。それまではずっと山道で、ようやく国道との交差点で初めての信号機に当たったのである。
「スキー……」
ぽつり、とマティアが助手席で呟《つぶや》いたのだ。
「出来なかったね」
しかしその声には、笑みがある。
見ると、彼女は運転席のマナガを見上げて、思ったとおり笑みだった。
「ああ、残念だったな」
「うん、残念だったね」
言いながら、しかしマティアはどうにも笑いをこらえているように見えるのだ。
「なんだよ」
「なにが」
「お前さん、何か気づいてるだろ」
それも、何か可笑《おか》しな事実に。
うん、と頷《うなず》いたマティアは、心底から楽しげだった。
「マナガ、まだ気づいてないでしょ。あたしも今、気づいたんだけど」
「だから、何だよ」
「あのさあ」
「ああ」
「もし、あの事故がなかったとするじゃん?」
「ああ」
「普通に朝になって、普通にお礼を言って山荘を出て、普通にスキー場に行ったとするじゃん?」
「ああ」
「スキー、借りるじゃん」
「ああ」
「借りるよね?」
「ああ、借りるな」
「サイズは」
「あ?」
「マナガのサイズのスキー道具って、ないと思う」
「……あ」
そして顔を見合わせて、
「ないわなあ!」
「ないよねえ!」
吹き出した。
信号が青に変わる。
黒いクウォンタ・クルーガー4WDは、大笑いで発進した。
「造る?」
マティアは、まだくすくす笑っている。
だが、マナガは気づいていた。
ホテルを出てから今まで、マティアはずっと黙って座っていた。
きっと、本当なら今ごろ楽しんでいるはずだった初めてのスキーを、想像していたに違いない。つまり、朝になって、皆で食事をして、お礼を言って山荘を出て、スキー場に着いて…………、実現しなかった一日を朝から『体験』していたのだ。
そして、気づいたのである。
マナガのサイズのスキー、という素《す》っ頓狂《とんきょう》な要求について。
「あのなあ」
だから、マナガも応じた。
「物質の構築は精霊雷の応用なんだぜ? 自分自身の物質化ならともかく、スキー道具なんて複雑な物を、私が造れるわけないじゃないか」
「だよねえ」
「となると、特注かあ」
「特注だねえ」
「間に合わんなあ」
「間に合わないねえ」
少なくとも今回の休暇の間には、である。
また、赤信号だ。
エクンマ市を抜けるだけで、たっぷり一時間はかかりそうだ。
いささか長い信号で、再び青に変わるまでに、マティアのくすくす笑いは途絶えてしまった。
そして、
「ありがとうね」
彼女は言った。
「楽しかったよ」
「そうか?」
「うん。あたし、あんな大勢で食事したのなんて、初めてだった」
「そうか」
「あんな大勢のために食事作ったのも、初めてだったよ」
「そうか」
たったの五人、である。
たったの五人が、彼女にとっては、大勢なのだ。
「綺麗《きれい》なものも見られたし、友達も出来たし」
「そうだな」
そして、少女は言った。
「マナガとも、いっしょだったからね」
「仕事でも、ずっといっしょじゃないか」
「うん」
黒い四駆車は、渋滞の最後尾で停止した。
「でもね、違うんだよ。仕事でいっしょなのと、オフでいっしょなのとではさ」
「そういうもんか?」
「そういうもんだよ」
マティアは、ほっ、と息をついてシートに背中をあずけた。
ケープの中から出てきた手には、薄い黄色の封筒があった。
「なんだ? お前さん、ずっと持ってたのか」
「うん。荷物の中に入れとかないで、よかったよ」
それは、シェリカからの手紙だ。
旅行鞄《かばん》の中に仕舞《しま》っていたら、山荘といっしょに吹っ飛ばされていたところだ。
小さな手が、大切そうに封筒をさぐる。
取り出すのは、写真である。
「あ」
マティアは鋭い観察力と鋭い直感の持ち主だったが、今回、気づいたのはマナガの方だった。
「それ、何だ?」
「え?」
マティアが写真を取り出す時、その裏側に何かが書いてあるのが見えたのである。
言われて、マティアは写真を裏返す。
「ああっ!」
そして、半ば悲鳴みたいな声をあげた。
「なんで写真の裏に追伸なんか書くかなあ!?」
「どうした?」
「マナガ! 今日、何曜日!?」
「え? ああ、ええと……」
「追伸」
マティアが、写真の裏の文面を読み上げる。
「今度の土日、そっちに行きます。学校の下見。突然だから、別に留守でも気ぃ遣《つか》わないでいいよ。会えたら僥倖《ぎょうこう》ってことで。そんじゃ」
「土日って……」
渋滞である。
車は全く動かない。
通勤ラッシュでもなさそうだ。よく見ると路肩《ろかた》には雪が残っていて、どうやらここらあたりも前夜は大雪だったようだ。
そのせいで、こんな時刻、こんな場所から渋滞が発生しているのである。
だがこの先、エクンマ市を抜けてスロンカット市を抜けて、さらにイグロック市を抜けて、ようやくルシャゼリウス市に入るのである。こんなところから車が詰まっていたら、いつ帰り着くか判ったものではない。
なのに。
「今日だ!」
二人は、顔を見合わせた。
「ど、ど、どうするよ!?」
「とにかく路肩に停めて! 公衆電話!!」
「カリナに引き止めといてもらうか!?」
「そう! 急いで!!」
マナガはあわててウィンカーを出す。後続の車にクラクションを鳴らされながら、やっとの思いで四駆を路肩に寄せた。
マナガがシート・ベルトを外す間に、マティアはもう歩道に飛び出している。
車を降りようとドアを開けかけたマナガは、またしてもクラクションに怒鳴りつけられた。
周囲は背の低い工場と倉庫ばかりで、空き地も多い。将都《しょうと》トルバスの、外《はず》れなのだ。だだっ広いばかりの歩道に立ち尽くして、マティアは左右を見まわしていた。
「公衆電話……ないよ」
その顔には、はっきりと焦りがある。
いや、今にも泣きそう、と言ってもいい。
「もちっと都内に入らないとなあ」
「移動する?」
車に戻って、だ。
だが、すでに渋滞は、はるか前方にまで続いているのである。
「マティア……」
マナガは、少女に手を差し伸べる。
反射的にその手をとったマティアは、そのまま太い腕に抱き上げられた。
「きゃっ!」
黒の精霊の、太い首に抱きつく。
マナガは、宣言した。
「走るぞ」
「……え?」
「このまま、ルシャまで走る」
「え!? そんな、あの。車は?」
「後で取りに来る」
「でも、あの」
「マティアっ!!」
「はいっ!?」
「シェリカに会いたいだろ?」
見つめ合う、二つの顔は近い。ものの三〇センチも離れていない。だからマティアが思いっきり頷くと、その前髪はマナガの鼻の頭を叩《たた》いた。
「会いたい」
「よおし。そんじゃ、しっかり掴《つか》まってな!」
「うん!」
マナガの大きな足が、地面を蹴《け》った。
大股《おおまた》で、空を飛ぶように、その巨体が前へ出る。
コートの裾《すそ》をひるがえし、マティアのケープと黒髪を風に乱して、黒の精霊は朝の街を駆け抜けた。
動かない車の列を横目に。
疾風《しっぷう》のごとき黒い巨体に目を剥《む》く通行人を置き去りに。
くすくすと、耳元で少女が笑う。
「マナガぁ!」
「おう!」
「すっごい楽しい!!」
「そうか!!」
「うん!!」
巨体が、走る。
少女を抱えて。
家に向かって。
二人の、他にはどこにもない、安らぐべき場所に向かって。
アパートの玄関で二人の少女は抱き合い、座り込んだマナガはカリナに叱られた。
[#改ページ]
あとがき
『ポリ黒』こと黒のポリフォニカ第三弾、『神曲奏界ポリフォニカ プレイヤー・ブラック』をお届けする。
とは言っても、実は書いている私にとっては、これは「第三弾」ではない。
ヒのフのミィの……ええと、第五弾くらい? 六弾めだっけ?
まあ要するに、まだ読者諸氏のお目に触れていない『ポリ黒』が、何本か存在するのである。
それがいつ、どのような形で公開されるかは、まだ明かすわけにはいかない。とりあえず現時点で言えるのは「お楽しみに」の一言のみである。
で、ここで肝心なのは、今回の原稿を書く以前に何本もの『ポリ黒』を書いた、という事実である。つまり読者諸氏がまだご覧になっていないところで、マナガもマティアも大忙しであったということなのだ。
さて、そんな状況下で、「そろそろ『ポリ黒3』の内容を決めないとなあ」なんて時期が来たわけだ。
そうしたら担当編集者が、こんなことを言うではないか。
「そろそろマナガとマティアにも休暇をやりたいですねえ」
いえ、あの。
書いてる私の休暇は、いつなんでしょうか……(半泣き)。
冗談はともかく。
そういうわけで今回はマナガとマティアの休暇のオハナシである。
雪山である。
山荘である。
実を言うと、最初は温泉にしようかとも考えた。
浴衣のマティアは可愛いだろうし、マナガにも似合いそうだ。温泉卓球の勝負になったら、意外とマティアの方が強いんじゃないか、なんて考えたりもした。
ただ、それだとどう考えても『ポリ黒二時間スペシャル/湯煙叙情 美人おかみ殺人事件/秘められた愛と憎悪 出生の謎に秘められた怨念』みたいになっちまいそうだ。
いや、それはそれで面白そうなんだが。
まあしかし、どちらにしろ、この二人が普通に休暇を過ごせるわけがないのであった。
詳しいところは、本編をお読みいただくことにしよう。
ところで。
今回、見慣れない少女が初登場を果たしている。
口絵にもカラーで登場しているこの少女、「誰やねん?」とお思いの方もおられるだろう。
すでに本編を読了なさった方なら、だいたいのところはお察しいただいたこととは思うが、それでもまだ全てをご理解いただいたわけではないはずだ。
そう。
あなたがご存知ないだけで、マナガにもマティアにも『過去』はある、ということだ。ただ、それがまだ明確に語られていないだけなのである。
実際のところ『ポリ黒』には、まだ語られていない設定が、いくつか存在する。
マナガの『罪』とは何なのか、なぜ黒い涙を流すのか。
マティアはなぜ単身楽団ではなくブルース・ハープを用いるのか。
トルバスにおける成人年齢一五歳で警官になったばかりのマティアが、どうやって半年で警部にまで昇進し得たのか。一方で、なぜマナガは警部補止まりなのか。
署内でも妙に親しげなクスノメ婦警やイデ検死官とはどんな関係なのか。
『〜サイレント・ブラック』で登場した精霊グロン・ドルク・ガルダンカスは、なぜマナガをあそこまで恐れたのか。
そして、そもそもマナガとマティアは、いつ、どこで、どうやって出会い、契約したのか。
ご心配なく。
全てに、ちゃんと設定が存在し、ドラマが用意されている。
問題は、それらがどのタイミングで語られるか、という、その一点のみだ。
この『ポリ黒』シリーズに最後までお付き合いいただければ、きっとあなたの疑問は、全て解消されるはずだ。
そして『ポリ赤』ことクリムゾン・シリーズをはじめとする他のシェアード・ワールド作品も併せてお読みいただければ、その理解はさらに深くなるに違いない。
じっくり、ゆっくり、お楽しみいただきたい。
さて。
ついでに一つ、驚きのご報告をしておこう。
キネティック・ノベル『神曲奏界ポリフォニカ・ブラック(仮)』の発売が決定した。
キネティック・ノベルとは「パソコン画面でプレイする、映画と小説の高度な融合体(資料より)」である。要するに、『ポリ黒』の物語に映画的な演出による絵と音がついたもの、とお考えいただいて間違いないだろう。
この意味するところが、お判りだろうか?
音がついちゃうんですぜ?
てことは、マナガの「腹の底に響く声」やマティアのブルースが聴けるのである!
うひゃあ!!
いや、ひょっとしたら、この世で一番喜んぢゃってるのは、この私かも知れないが。
そうそう、それと。
察しの良い方なら、ここまで読まれた時点で、あるいは「ははあん、ひょっとして……」とお思いかも知れない。
あなたのご推察は、たぶん正解である。
いやいや、私の口からは、これ以上は申し上げられませんがね。
てなことで、もろもろお楽しみに。
にやり。