神曲奏界ポリフォニカ サイレント・ブラック
大迫純一
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目次
序章
第一章 遺《のこ》された女
第二章 死の鎖
第三章 囁《ささや》く過去
第四章 復讐の果てに
終章
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カバー・口絵・本文イラスト
BUNBUN
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序章
可愛《かわい》いヴァリィ。
賢いヴァリィ。
優しいヴァリィ。
……可哀相《かわいそう》なヴァリエド。
ゴトウ・ヴァリエドが彼女の目の前に突き出して見せたのは、一枚の紙片だった。
「なに?」
キルアラはキッチン・カウンターの前で、彼を振り返る。その動きで、ゆったりとした部屋着の裾《すそ》が広がって、ヴァリエドの膝《ひざ》を撫《な》でた。
「これは何だい?」
そう言う夫は、紙片を突き出した姿勢のままだ。
彼の方は、もうパジャマに着替えている。ちいさなクマちゃんが一面にプリントされた、それはキルアラが結婚して最初の誕生日にプレゼントしたものだ。
特注のXLで、だからヴァリエドの大きなお腹《なか》もきちんと収まって、ボタンを弾《はじ》き飛ばしてしまうことはない。
「キルアラ……」
彼女の名を呼ぶ、その唇が震えている。
二重顎《あご》に埋もれかけた頬《ほお》が、真《ま》っ赤《か》だ。
「僕が出張している間、何をしてたんだい?」
それでも懸命に笑みを浮かべようとしているのは、つまり彼が妻を愛しているからだ。
だから、
「何のこと、ヴァリィ?」
キルアラも、笑みを返す。
「これだよ」
言って、ヴァリエドは再び彼女の前に突き出した紙片を、振って見せる。
レシートだ。
平面ではなく、何箇所も折れ曲がっている。どうやら無造作に握り潰《つぶ》したものを、もう一度開き直したものらしい。
「これは、キミのものだね?」
言われて、ソーセージみたいな指がつまんだレシートを、覗《のぞ》き込む。
そして、キルアラは理解した。
「ああ、これ……」
「そう。これだよ」
キルアラは、夫の指から紙片をつまみ上げる。
「ホロゼンへ行ったのかい?」
キルアラは、応《こた》えなかった。
ただ、真《ま》っ直《す》ぐに夫の顔を見つめただけだ。
結婚したのは、二年前である。
当時、ヴァリエドは四二歳、キルアラは二三歳になったばかりだった。
初めて彼の両親に紹介された時、ヴァリエドの父は心底から不思議そうに言ったものだ。
お嬢さん。うちの息子のような冴《さ》えない男の、いったいどこがいいのかね?
あるいはヴァリエドの父は、警戒していたのかも知れない。四二歳まで独身で、それどころか女性と交際した経験すらないような自分の息子が、いきなり一九も歳下《としした》の女性を連れてきたのだから。それも、美人の、だ。
ある意味で、その懸念《けねん》は外れてはいなかったと言えるだろう。
ただし、適中してもいない。
キルアラの目当ては、ヴァリエドの財産でもなければ名声でもなかった。
キルアラの目当ては、ゴトウ・ヴァリエド自身だったのだ。
「キルアラ」
引きつったような笑みを口元に浮かべて、
「ホロゼンで何をしてたんだい?」
どんぐり眼《まなこ》は不安でいっぱいに見開いて、
「誰と会ってたんだい?」
ヴァリエドは、質問を繰り返す。
キルアラは、覚悟を決めた。
その時が来たのだ。
「ヴァリィ」
手にしたレシートを、握り潰す。
「あなた、もう気づいてるのね?」
応えの代わりに、ヴァリエドの唇が、ひくひくと痙攣《けいれん》した。
「いつから? 二ヶ月前のニュース? オゾワールの訃報《ふほう》を聞いた時?」
一〇〇キロを超えるヴァリエドの躯《からだ》が、重そうに一歩、後退《あとずさ》る。
「それとも、たった今?」
「キルアラ……、キミは……」
ぽっかりと口を開いた、その顔は三年前、初めて出会った時に彼が見せた表情と同じだった。
大学前の、バス停だった。
キルアラが落としたハンカチを、拾ってくれたのだ。
手渡す指先が触れ合って、最初に目が合った時、彼は同じ表情を見せた。目を見開き、口をぽかんと開けたのだ。
なにか、というキルアラの問いに、彼は首を振ってから、こう言った。
いえ、ちょっと知ってる女性に似ていたもので。
その女性が誰なのか、彼はこの三年間、ついに告白しなかった。
だが、キルアラは知っている。
だから彼と結婚したのだ。
「そうよ」
キルアラがうなずくと、ヴァリエドはさらに後退った。
「偶然じゃないわ」
さらに、後退る。
その背後では、寝室のドアが開いたままだ。
「私は……」
その『名』を告げた途端、ヴァリエドの喉《のど》が、ひい、と鳴った。
キルアラが前へ出ると、ヴァリエドはさらに退った。ほとんど後ろ向きに歩いているようなものだ。
「あなたは最後にしようと思ってたのに」
それは、本心だ。
無論そこには、彼女の都合もあった。だが一方で、出会ってから結婚を経て今日までの三年間、ヴァリエドが彼女にしてくれたことへの恩返しのつもりでもあったのだ。
ゴトウ・ヴァリエドは、キルアラを愛していた。
それは彼女自身、一点の疑念もなく確信している。
だからこそ、彼は最後であるべきだった。
「残念だわ」
ヴァリエドは後退りのまま、寝室へと逃げ込んでいる。
キルアラは背中に腕を回して、器用にファスナーを下ろした。
部屋着が床に落ちると、その下は全裸である。
スリッパも脱いで裸足《はだし》になると、彼女は夫を追う格好で寝室に踏み込んだ。
後ろ手に、ドアを閉じる。
「や、やめなさい、キルアラ……」
ヴァリエドの声は、上擦っていた。
部屋の隅で、クズ籠《かご》が引っ繰り返っていることに、キルアラは気づいた。
そういうことか。
「あなたって……」
キルアラは、思わず苦笑を浮かべる。
「可哀相」
「ひぃ!」
何を誤解したのか、大きく後退ったヴァリエドは、膝の裏をベッドの端にぶつけて引っ繰り返った。
叩《たた》きつける勢いで、ベッドの上に仰向《あおむ》けになると、スプリングが軋《きし》みをあげる。
あわてて起き上がろうとするヴァリエドに、しかしキルアラはそうはさせなかった。
ベッドに駆け上がり、ヴァリエドの大きなお腹の上に跨《また》がる。
「キルア……」
もがく夫の両方の肩を、上から押さえつけた。
「よせ、キルアラ。やめなさい。誰にも言わないから」
それが本心であることは、キルアラにもよく判った。
「誰にも言わない。愛してるよ、キリィ」
だが。
「ありがとう」
キルアラは、微笑《ほほえ》んで見せる。
「気持ちは嬉《うれ》しいわ。でも、関係ないの」
「……なに?」
「単に順番が変わるだけなの。あなたも、数のうちに入ってたのよ、最初から」
ヴァリエドの顔に、みるみる広がってゆくのは、絶望だ。
それが現状にだけ向けられたものではないことを、キルアラは理解した。
「それじゃあ……」
「そう」
「三年前から」
出会った時から。
「いいえ」
キルアラは、訂正する。
「あの出会いだって、何ヶ月も前から準備したの」
ようやく、ヴァリエドにも理解出来たようだ。
「そんな」
「ごめんね」
それは、本心だった。
「ヴァリィ。私は、あなたを愛してないわ。愛してないけど、いっぱい姦らせてあげたの。だから、それで満足してちょうだい」
今朝は、いつもの朝だったのだ。
いつものように二人でベッドを抜け出し、二人で朝食を摂《と》り、キスで送り出した。彼が余計なものさえ見つけなければ、もう何週間かはそれが繰り返されたはずだ。
だが、彼は見つけてしまった。
そして、全てを理解してしまった。
だから今日の、この夜は、いつもの夜ではなくなってしまったのだ。
突然、ヴァリエドの目が涙を溢《あふ》れさせる。
「泣いてるの?」
ヴァリエドはうなずいた。
「可哀相ね」
両側の目尻《めじり》から流れ落ちる涙に、キルアラは順番にキスをした。
「キルアラ」
見上げる瞳《ひとみ》に、
「ヴァリエド」
彼女は心からの笑みで応える。
ヴァリエドも、泣きながら微笑んだ。
可愛いヴァリィ。
賢いヴァリィ。
優しいヴァリィ。
……可哀相なヴァリエド。
次の瞬間、ゴトウ・ヴァリエドの人生は終わった。
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第一章 遺《のこ》された女
奥に向かって細長い、殺風景な部屋である。
床も壁も天井も、打ちっぱなしのコンクリートが剥《む》き出《だ》しだ。
細長い会議用のテーブルが部屋の真ん中に置かれており、奥には一人の女が座ってこちらを見ていた。
安っぽいパイプ椅子《いす》に背をあずけ、白い両腕は乳房を持ち上げるように組み、長い脚《あし》もこれ見よがしに交差している。
美しい女である。
肌はどこまでも白く、長い髪はどこまでも黒い。その単色の美の前には、灰色《はいいろ》の囚人服さえも無粋なほどに派手派手しく見える。
ただ、唇だけが、紅《あか》い。
その紅が、ねっとりと笑みを浮かべた。
「答えられないわ」
質問に、である。
「判りました」
対するのは、少女だ。
小柄で、線が細い。長い黒髪の、こちらも色の白い少女である。ゆったりとした黒いケープを着込んで、その姿は黒い照る照る坊主が座っているようにも見える。
美少女である。
もっとも、笑みを浮かべた女とは対照的に、少女の表情は硬く、冷たい。
「あなたは、ご自分の名前以外、全ての質問に回答を拒否なさいました。この事実は記録され、裁判においてあなたに不利な証拠となる可能性があります。ご承知ですね?」
「もちろん」
女の黒い瞳は、まるで底無しの穴だ。
だが、少女はたじろがなかった。細く、乾いた声で、淡々と続ける。
「では、ヒューリエッタ・ミナ・ゼノサディスさん」
それが、女の名である。
「これが最後の質問です」
冷やかに告げる少女の、その瞳《ひとみ》は真《ま》っ直《す》ぐに相手を見据えていた。
「エンプティ・セットを、ご存知ですね?」
笑みを浮かべたヒューリエッタの、その唇の端が、ひくり、と動く。
「知らないわ」
「嘘《うそ》ですね」
少女は、容赦しない。
「知らない」
「嘘です」
「知らないってば、そんな男」
その言葉に、
「いやあ、ご存知のはずですよお」
応《こた》えるその声は、少女の背後からだった。
太く、低く、腹の底に響く声である。
黒衣の少女の背後に、巨漢がそびえ立っていた。身長は二メートル半、黒いコートを着込んだヒグマのような大男である。
その男が、
「あんた今、ご存知だってことを自分で証明しちゃったんですよ」
「なに?」
「私の相棒は、エンプティ・セットを知ってるか、と訊《き》いただけです。なのにあんたは、そんな男は知らない、と答えた」
ヒューリエッタの顔に貼《は》り付《つ》いていた笑みの、最後の一かけらが消え失せてゆく。
「いいですか? 相棒はそれが人の名前であるとさえ言っちゃいません。なのにあんた、それが人名で、しかも男の名前であることを認めちゃったんですよ」
女の目が、変わった。
「騙《だま》したな……」
血を塗りたくったような唇から漏《も》れる、それは呪詛《じゅそ》である。途端に部屋の空気が、いっぺんに二度ほど温度を下げた。
同時に、椅子を倒して立ち上がったヒューリエッタの背中に、四枚の羽根が展開する。
黒い燐光《りんこう》に縁《ふち》取られた、漆黒《しっこく》の羽根である。複雑に湾曲し、幾重《いくえ》にも折り重なり、しかしその羽根は物理的な実体ではない。
意志を持つエネルギー体である『精霊』の、その一部なのだ。
そう。この女……ヒューリエッタ・ミナ・ゼノサディスは、人間ではない。
精霊である。
「騙したな、小娘……!」
呻《うめ》くように呟《つぶや》くヒューリエッタの、その白い躯《からだ》を電光が舐《な》めてゆく。
黒い電光だ。
その電光が突然、四方へ枝を伸ばした。壁を叩き、テーブルを叩き、床を、そして天井を叩く。次の瞬間、黒い電光に打ち据えられた部分で、盛大な火花が散った。
精霊文字が、電光を無効化したのだ。
四角を基本とする複雑な図形の連続が、壁一面に、床一面に、天井一面に彫り込まれている。それは古代文字によって綴《つづ》られた、精霊言語だ。よく見るとテーブルの表面にも、それは薄く、一面に彫り込まれている。
『超越者《ちょうえつしゃ》』と呼ばれる一部の人間にのみ利用可能な、それは精霊の力を封じることの出来る数少ない方法の一つなのだ。
少女が席を立つと、それを庇《かば》うように、のっそりと巨漢が前へ出る。
「やめときなさいって」
言いながら、仁王立ちだ。
「暴れたって、逃げられやしないんだから」
「逃げるつもりなんて、ないわ」
ヒューリエッタが、唇を舐める。
「その娘を殺したいだけ」
「あいやあ」
巨漢の掌《てのひら》が、ぴしゃり、と音をたてて自分の額《ひたい》を叩いた。
「そいつぁ困る。そんなこと言われたら、私の方も黙ってられませんや」
「だったら、どうする?」
精霊文字によって閉じられた部屋に、音楽が流れ始めた。
ブルースだ。
切なげな、ブルースハープの音色だ。
「そりゃあ、決まってます」
巨漢は腕を回して、ごきり、と肩を鳴らした。
突然の振動が、ルシャゼリウス市警本部の建物を揺《ゆ》るがした。
その三〇分後、精霊課勤務の一人の精霊警官が、人事課で始末書の用紙を受け取った。
自分のことを、正義の味方だ、などと思ったことは一度もない。
とは言え、勤勉な警官だ、くらいは思わなくもない。
こんな日は特に、だ。
寝入りばなを、叩《たた》き起こされた。
それも、うとうとし始めた途端に、だ。
発電所事件が、昨日、ようやく彼の手を離れたばかりだった。後は舞台を裁判所に移すことになる。
当然、裁判は長引くだろう。
弁護団も検察も、クダラ・ジャントロープとヒューリエッタ・ミナ・ゼノサディスの行為の背後に隠された『真相』を解きほぐすために、何年も奮闘し続けることになるに違いない。だが、そんなのは知ったこっちゃない。
彼の仕事は、裁《さば》くことではないからだ。
だから、相棒とささやかな宴席を設けた。二人だけの、ちょっとばかり豪華な夕食だ。
精霊酒も、舐《な》めるていどに飲んだ。
ちゃんと、翌日に残らないように、だ。
問題は、それが抜けきらないうちに……正確に言えばベッドにもぐり込んで一時間もしないうちに、電話のベルが彼を叩き起こしてしまったという、その事実である。
受話器をとると、相手は申し訳なさそうなフリさえせずに、淡々と言ってのけたものだ。
事件です、と。
「ぐふぅう」
あくびを噛《か》み殺そうとしたら、喉《のど》の奥から奇っ怪な音が漏れてしまった。
「はい?」
先を歩いていたワツキ・フレジマイテが、怪訝《けげん》そうな顔で振り返る。
「ああ、いや、ごめんよ。あくびだ」
「時間が時間ですからね」
「仕方ないよ、仕事だからね」
午前四時を、少し回っている。マナガ警部補はまた、あくびを噛み殺した。
「そう言えば警部補、聞きましたよ」
「なに?」
「昨日の件。精霊文字で括《くく》られた取調室を、吹っ飛ばしたんですって?」
「いや、容疑者が暴れたんで、取り押さえただけだってば」
「でも、吹っ飛ばしたのは警部補なんでしょ」
「ああ、いやまあ……」
ぼりぼりと頭を掻《か》く。
「凄《すご》いですねえ。精霊文字を粉砕しちゃうなんて、聞いたことありませんよ」
「うちでも、いつぞや前例があったろう?」
「ありゃあ暴走状態だったじゃないですか」
「じゃ、老朽化して文字が欠けたところから壊れたんじゃないの?」
「もしそうだったとしても、それでも凄いですよ」
「ああ、えーと」
また、ぼりぼり、だ。
「そんで? 現場は?」
「あ、この先の角部屋です」
未明の、高級マンションである。
玄関ホールは当然オートロック、マンション全体だけでなく各戸ごとのセキュリティも完備、エレベーターの中も廊下も非常階段も警備員室でモニターされている。
「おっと」
ぼんやりと歩いていたマナガは、突然の障害物に首を引っ込めた。天井から突出していた防犯カメラに、頭をぶつけそうになったのである。
彼にしてみれば、それはよくあることだった。
身長が二メートル半もあるのだ。
それも、ただ背が高いだけではない。黒いコートは広い肩幅を押さえきれずに張り詰めているし、コートの前を留めていないのは胸板が分厚過ぎるせいだ。
ネクタイを締めていないのも、寝入りばなを叩き起こされたからではない。その頸《くび》が、無精髭《ひげ》の浮いた四角い顎《あご》とほとんど同じくらいに太いからだ。彼がネクタイを締めたら、それは胸の真ん中あたりでリボンみたいに揺れることになるだろう。
五体の全てが、オーバー・サイズなのである。
だから、
「こちらです」
ワツキ刑事が開いてくれたドアも、頭を下げてくぐらなければならなかった。
「ほう、ほう、ほう」
クセの強い髪をぼりぼり掻きながら、マナガ警部補は部屋の様子を見回した。
とんでもない広さである。
入るなりリビングルームと、奥はカウンター型のキッチンになっていたが、キッチンの突き当たりの棚に並べられた手鍋《てなべ》がスプーンくらいの大きさに見えるのだ。
「こりゃまた豪勢な部屋だねえ」
「五千万はしますね」
「分譲なの?」
「ええ。賃貸の部屋もあるそうですがね。でも、下の方のもっと狭い部屋だけですよ」
建物の外観は、近代的な鉄筋コンクリート製だった。窓が少ないことが気になったくらいで、それ以外はごく普通の高層マンションに見えた。加えて言えば、建物の玄関ホールもエレベーター施設も廊下も、飾り気のない質素なものだったのだ。
だが部屋の様子は、大きく印象が違う。
調度品はどれも一〇〇年ばかり昔のデザインで、金属やコンクリートは一切見えない。壁紙に覆われた壁ばかりか、木製の天井には太い木製の梁《はり》まで備えられている。無論、見た目だけを木造ふうに細工してあるのだろうが、その落ち着いた雰囲気からは二つの事実が読み取れた。
要するに、趣味の良さと裕福さ、である。
「大したもんでしょう」
見るとワツキ刑事は、こちらに背を向けたまま腰に手を当てて、悠然と部屋を見回している。まるでこの部屋の持ち主が、どうだ、とばかりに自慢しているみたいだった。
「なんでキミが、そんなに得意気なんだ? 別のキミの部屋でもないだろうに」
「そりゃまあ、そうなんですけどね」
振り返って、若い刑事は小犬を思わせる笑顔だ。着込んだスーツは小綺麗《こぎれい》ではあるが、それでも一目でツルシと判《わか》る代物である。警官の安月給では、五千万の部屋どころか、仕立てのスーツにだって手が届くものではない。
そしてそれは、彼だけではなかった。
部屋のあちこちで働く鑑識の連中もまた、似たようなものだ。カウンターの指紋を採取している男も、大型テレビの脇《わき》で写真を撮っている男も、手袋をはめた手で小さなビニール袋に何やら採取している男も、着ているのはツルシのスーツか、そうでなければ制服である。
「現場は、ここ?」
「いえ、寝室です」
ワツキが指すのは、向かって右手のドアだ。その向こうが、寝室らしい。反対に、向かって左側は奥へと続く廊下になっていて、いくつかのドアが並んでいるのが見えた。
「ご覧になりますか?」
現場を、である。
「当然でしょう。そのために叩き起こされたんだから」
「覚悟してくださいね」
にやり、とワツキ刑事が笑みを浮かべる。
「相当なもんですよ」
若き私服警官の、その言葉の意味するところは、明白だ。
「そんなに、ひどい?」
「ええ、もう」
「参ったなあ……」
ぼりぼりと頭を掻くマナガに、
「マナガ警部補」
横ざまからの、それは女性の声だった。
制服の、婦人警官である。まだあどけなさの残る顔で、頬《ほお》にはソバカスまである。
クスノメ・マニエティカ巡査だ。
「被害者のご家族を、お送りしたいんですが……」
その前に事情を聴取するか、と訊いているのである。見るとクスノメ婦警のすぐ後ろには、一人の女性が立っていた。
初対面である。その女性のもともとの人相を、マナガは知らない。だが一目で、彼女がやつれていることだけは判った。たった今、とんでもない重労働をこなしたばかりのように、疲れ切った様子が見えるのである。
しかも服装が、それに輪をかける。薄手のワンピースに毛皮のコートを羽織って、要するにコーディネートが、ばらばらなのだ。そのことが、その女性の今の心境を如実に表していた。
つまり、動転、である。
マナガは、太い眉《まゆ》を寄せた。岩を荒っぽく彫り出したような顔の中で、不似合いなくらいに小さい目が、今にも泣きそうなくらいに目尻《めじり》を下げる。
「このたびは、とんだことで。ルシャ市警のマナガ警部補です」
言いながら、巨大な右手を突き出す。握手に応《こた》える女性の手が、すっぽりと握り込まれてしまうほどだ。
「ゴトウ・キルアラです」
美しい女性だった。
年齢は二〇代半ば、といったところか。いささか乱れた黒い髪は、かろうじて耳を隠す程度だが、たっぷりとしていてウェーブも美しい。大きな瞳が聡明《そうめい》さを感じさせる一方で、やや厚めの唇は肉感的でさえある。
「ゴトウ・ヴァリエド氏の、ご夫人です」
クスノメ・マニエティカ婦警が補足する。その名前にマナガは、あっ、と声をあげた。
「ゴトウ・ヴァリエド? ゴトウ博士!? 生体工学の?」
ええ、とキルアラが応える。
「ゴトウ博士の奥さんでいらっしゃる!?」
「はい」
「いやあ、先月の論文、拝見しましたよ。たしか『ムシカ・ポカール』誌でしたよね」
ええ、とキルアラは苦笑気味だ。
「見事な論文でした。いやあ、神曲専門誌に生体工学の先生が論文を寄せてらっしゃるなんて、前代未聞の事態ですからねえ。だから憶《おぼ》えてたんですよ。そうですか、ゴトウ博士の……」
そこまで言って、はた、と気づいた。
「では、亡くなったのは……」
「ええ。主人です」
ゴトウ・ヴァリエド博士だ。
「そうですか。それは、とんだことで……」
みるみる萎《な》えしぼむようなマナガの声を、
「あなたは、楽士警官でいらっしゃるのね?」
すくい上げるように、キルアラは微笑《ほほえ》む。
力ない笑みである。その視線は、マナガの手元に投げられていた。
ごつい左手が掴《つか》んだ、銀色のトランクだ。
ただのトランクではない。単に荷物を持ち運ぶだけのものにしては、凹凸が多い。よく見れば、それが幾つものシャッターや開閉パネルであることが判るだろう。
「お躯《からだ》が大きいと、単身楽団《ワンマンオーケストラ》も大型ですのね」
だが、
「ああ、いえいえ。私ゃ違います。楽士は相棒の方なんで」
言いながら、マナガは背後を振り返る。
彼の視線を追ったキルアラは、
「まあ」
声をあげた。
銀色の大型トランクの陰から、一人の少女が前へ出たのだ。
小柄な少女だ。大柄なマナガの隣に立つと、その頭は彼の胸元にさえ届かない。
黒衣である。
身を包んだケープも、その下のワンピースも黒い。背中まで届く長い髪も、瞳も黒だ。
そんな中で、ケープから覗《のぞ》くワンピースの襟《えり》と、そして少女の顔だけが白い。
少女は手にした黒い手帳を開いて、金色のバッジを見せた。
「マチヤ・マティア警部です」
呆気《あっけ》にとられたようなキルアラの顔がバッジを見つめ、それからマナガに戻ってくる。
マナガは笑顔で、うなずいた。
「ええ。精霊は、私の方なんで。マナガリアスティノークル・ラグ・エデュライケリアス。精霊警官です」
「それじゃあ」
「はい、そうです」
太い、腹の底に響く声である。
「精霊課です」
精霊の関与する事件を専門に担当する『精霊課』の存在は、秘密ではないが知る者は多くはない。ましてや、その実態を正確に把握している市民は、少数派と言えるだろう。
理由は、二つある。
一つは、その設立からわずかに数年しか経《た》っていないという事実。
そしてもう一つは、そもそも精霊課なる捜査課が存在すること自体が、一般的な『精霊』に対する認識と一致しないことである。
精霊とは『人間の善き隣人』である、というのが通常の認識なのだ。
精霊が人間に対して積極的に危害を加えることなど、少なくとも普通の市民は考えてもいない。たしかに、稀《まれ》にそういった事件が報道されることがあっても、それは例外であるというのが一般的な認識なのである。
だが現実は、違う。
精霊による事件、あるいは精霊が関与する事件が、増加傾向にある。その中で、解決に辿《たど》り着き、なおかつ公に開示して問題なしとされた事件のみが、一般市民の耳目に届くのだ。精霊事件であることが明白であるにも拘《かかわ》らず解決を見ない事件、あるいは解決しても公表されない事件は、市民の想像以上に多いのである。
当初、そういった事件は市井《しせい》の神曲楽士に協力を求めることで捜査、解決されてきた。しかし近年、増加の一途を辿る精霊犯罪に対して、ついに精霊事件専門の捜査課が設立を余儀なくされたのだ。
精霊課の誕生である。
しかし精霊課の捜査官となるには、厳しい条件が規定されていた。
まず精霊警官の場合は、中級以上であることは当然として、人間の採用試験をはるかに超える厳重な試験に合格しなければならない。
一方で人間の警官の場合、試験そのものは通常の警官と大差ないが、さらに神曲楽士としての資格が問われる。すなわち、専属の契約精霊を持ち、さらにその契約精霊が精霊警官の資格を取得していなければならないのだ。
この結果、メニス帝国全署を見渡しても、精霊課に所属する楽士警官と精霊警官の単純な合計でさえ五〇名をわずかに超える程度、楽士警官と精霊警官のコンビとなると十数組しか存在しないのが現状なのである。
これは精霊課に要求される執務水準がそれだけ高いことを意味しており、そして一方で精霊課の捜査官が全国的にも少数であることの理由ともなっている。
マチヤ・マティア警部とその契約精霊マナガリアスティノークル・ラグ・エデュライケリアス警部補のコンビは、そういった数少ない精霊課チームの一つなのだ。
要するに……とゴトウ・キルアラは思う。
恐れていた事態が実現した、ということか……。
パトカーの、後部座席である。
運転しているのは、さっきの……たしかクスノメとかいう婦警だ。
キルアラは、突然の不幸に打ちひしがれた様子を崩さぬように注意しながら、窓の外に視線を投げる。
ダウンタウンの街が、群青《ぐんじょう》に染まり始めていた。
まずいか、と思う。
実のところ、精霊課が捜査に乗り出してくることは、予想していなかったわけではない。だからこそ、ヴァリエドは最後の一人でなければならなかった。
計画の途中でヴァリィを殺害してしまえば、その妻であるキルアラは確実に捜査の範囲内に入ってしまうからだ。
逮捕されることそのものは、怖くはない。
全てが終わった後なら、死んだってかまわない。
だが計画が途中で挫折《ざせつ》するのだけは、絶対に嫌だ。
キルアラは、深い溜《た》め息《いき》をついた。
「大丈夫ですか?」
運転席のクスノメ婦警がバックミラーごしに、心配そうな顔で覗き込む。
「ええ、ちょっと疲れただけですから」
「もうすぐですからね」
大丈夫だ。キルアラは、そう自分に言い聞かせた。
やれる。
私には、やれる。
最後まで。
「キルアラさん?」
婦警だ。
「この先の、六番でしたね?」
「はい」
出来るだけ小さな声で、キルアラは応えた。
あと三人。
そうだ。あと、たったの三人なのだ…………。
「うへぇ」
寝室に入るなり、マナガは声をあげた。
むっとする臭気に、思わず顔をしかめる。
「こりゃあ、ひどいな」
ゴトウ夫妻の寝室である。キルアラ夫人をクスノメ婦警に任せて送り出した後、やっとこさ腹を決めて現場確認することにしたのだ。
途端に、後悔した。
これで朝食のリストからは、いくつか外さなければならないものが出来た。残念ながら、チリなんかもっての外だ。
「鑑識も、手ぇつけてないの?」
「ええ。まずお二人にお見せしてから、と思いまして」
「賢明だね」
ワツキもマナガ同様、戸口のところから動こうとしない。当然、ハンカチで口元を押さえたマティアも、だ。
もっとも、部屋の様子に恐れをなしたわけではない。一歩でも踏み込めば、現場を荒らしてしまいそうだったからだ。
寝室の中は、文字どおり、足の踏み場がない。
寝室の突き当たり、壁に頭を向ける格好でダブル・ベッドが置かれている。そのベッドのほぼ中央から四方八方に、大量の鮮血が飛び散って……いや、撒《ま》き散らされているのである。
まるで赤いクモの巣を張り巡らせたようだ。床は当然として、壁にも天井にも、つい今しがた開いたドアの内側にもだ。
「それで? 何がどうなって、こんなことになっちゃってるの?」
「はい、ええとですね……」
応えて、ワツキは手にした手帳を確認する。
「午前一時ごろ、キルアラさんは入浴。その時には何の異状もなかったそうで、ヴァリエド氏はベッドで読書しておられたそうです。キルアラさんは三〇分ほどで入浴を終え、キッチンで軽い夜食を作ってから、それを持って寝室へ戻られました」
「そしたら、こうなってた?」
一面の、赤いクモの巣だ。
「はい。それからキルアラさんは警察に電話をなさって、所轄の警官が到着したのが午前二時前……」
「後はいいよ。だいたい判《わか》った」
現場を見た警官が市警本部に連絡、さらに現場に到着した本部の連中が精霊事件と判断、それでマナガとマティアは叩き起こされた、というわけだ。
「精霊事件と断定してもいいと思いますが」
ワツキの言葉に、マナガもうなずいた。
「まあ人間にゃ無理だろうな」
それはまさに、惨殺だった。
夫人の証言がなければ、ベッドの上の遺体が誰《だれ》であるかさえ、数時間は待たなければ判らなかっただろう。
残骸《ざんがい》なのだ。
人体の。
「事件当時、奥さんは風呂《ふろ》?」
「あ、はい、そうです。入浴中には、特に異状には気づかなかったそうです」
「つまり、三〇分そこそこの間に、こうなったと」
「証言では、そうですね」
ベッドの上は血の海……いや、血溜まりである。それ以上の詳細は、現状では判らない。確実なのは、遺体が信じられないほどに破壊されている、ということだけだ。
「足跡はないの?」
「ありません」
「こんだけの状況で?」
「ええ、寝室にも外にも、足跡はありませんでした」
ごつい顎《あご》を撫《な》でながら、ふうん、とマナガが唸《うな》る。じょりじょりと重なるのは、ハリガネみたいに硬い無精髭《ひげ》の音だ。
「風呂は、確認した?」
「ええ。たしかに、浴室を使った跡がありました」
「バスタブは?」
「湯は抜いてありましたが、濡《ぬ》れてました。床と壁もです」
「夜食、ってのは?」
「ええ、キッチンのカウンターに」
「まだ温かい?」
「いえ、クラッカーですから」
「なるほど」
ふいに、ワツキは眉《まゆ》を寄せる。叱《しか》られた小犬みたいな顔になった。
「まさか警部補、あの奥さんが?」
「いやぁ」
大げさに手を振って見せる。ぶんぶんと音がしそうなほど、巨大な肉厚の掌《てのひら》だ。
「証言と現状が一致するかどうか、確認してるだけだよ」
「それなら、問題ありませんよ」
「本当?」
「はい。少なくとも事件当時の行動については、お二人が来られるまでに全て裏はとってあります。矛盾はありません」
分厚い革張りの手帳を片手に、ワツキ・フレジマイテは胸を張る。
「そうか。その調子で、頑張んなさい」
「はいっ!」
それからマナガは、マティアを振り返った。
「何か確認しときたいこと、あるかい?」
少女は、首を振っただけだ。
「よし。んじゃ、鑑識を入れていいよ」
マナガとマティアが寝室を離れると、ワツキは鑑識に指示を出し始める。
二人は、鑑識の引き上げたキッチンに移動した。
マナガがマティアの腰に太い腕を回して抱き上げ、カウンターチェアに座らせる。マナガの方は、カウンターに肘《ひじ》を突いただけだ。彼が腰を下ろせば、年代もののカウンターチェアの支柱は、へし折れるだろう。
「大丈夫か?」
うなずくマティアの、その表情は前髪に隠れてよく見えない。それでも、いささか気分を悪くしていることは、すぐに判った。
「何か飲むか」
「ううん、いい」
声も、いつもより弱々しい。
「署に着いたら、仮眠しな。朝飯は、起きてからにしようや」
「うん」
応《こた》えて、前髪の下で視線が動く。
カウンターに置かれた、小さな陶器の皿である。チーズやキャビアやサラミをのせたクラッカーが何枚か、きれいな放射状に盛りつけられていた。
さっきの報告に出てきた、夜食だ。
マティアの視線は、じっと、皿の上に注がれている。
「どうした?」
「うん」
「喰《く》うかい?」
「ううん」
それでも、少女は皿の上から視線を外そうとはしなかった。
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それが何歳のころの記憶なのかは、定かではない。
ともかく、キルアラの最も古い記憶は、灰色の天井だった。
彼女にとっての人生は、そこから始まっている。
何もない部屋だった。窓もなかった。だが照明は充分で、暗いのは眠る時だけ。だからと言って、必要以上に明る過ぎると思ったこともない。
そういう意味では、快適と言えなくもなかった。
少なくとも、部屋そのものは。
だが、その部屋でキルアラは、常に苦痛とともにあった。
痛みか、痒《かゆ》みか、空腹か、あるいはそれ以外の何らかの苦痛や不快感が、いつも躯《からだ》のどこかに……あるいは躯全体にあったのだ。
だが、それを理不尽と感じたことはなかった。
それが当然だと思っていた。
苦痛も不快もない状態を知らなかったからだ。
苦痛と不快を間断なく与え続けられていたからだ。
だから……、
……だから今でも、見覚えのない場所で目覚めると、瞬間的に混乱する。
躯に苦痛がないことを確認し、それからでないと自分が今どこにいるのか、それさえ思い出すことが出来ないのである。
その日も、同じだった。
そこがどこだか把握するのに、数秒かかった。
窓には分厚いカーテンが閉じられ、隙間《すきま》から陽《ひ》の光が差し込んでいる。
見慣れない部屋だ。
かすみ草の模様を散らした薄い黄色の壁紙も、たくさんの写真が飾られたチェストも、ベッドサイドの電気スタンドも、天井の扇風機も、彼女のものではない。
枕《まくら》の感触もいつもと違うし、薄い毛布も知らない匂《にお》いがする。
ああ、そうか。思い出した。
コトナミ夫妻の家だ。
その客間である。
下着姿でベッドを抜け出したキルアラは、椅子《いす》の上にきちんとたたんでおいたワンピースを身に着けると、部屋を出た。髪はまだ少し、湿っている。
廊下を抜けて、キッチンへ出た。
庭に面した窓の外は、日差しが眩《まぶ》しいくらいだ。
六人掛けのテーブルに掛けられているクロスは、安っぽいチェックのビニール製だった。その真ん中に、切り取り式のメモ・パッドが置かれている。ボールペン立てとセットになった、これもドラッグ・ストアで買えそうな安物だ。
一番上には、書き置きが残されていた。
『キルアラへ
よく眠っているようなので、起こさないでおきました。
朝食はレンジの中です。飲み物は冷蔵庫から自由にとってね。
私は午後六時過ぎに、ペシアルも八時過ぎには帰宅出来ると思います。
もし出かけるか、私達を待たずに帰るなら、その時はカギを玄関脇《わき》のククトナの鉢植えの下に隠しておいてください(誰にもナイショよ)。
でも出来れば待ってて欲しいな。
お昼休みに、電話します。
元気を出してね。
ノジベル』
読み終えて、キルアラは苦笑する。
お人好《ひとよ》しのコトナミ夫妻。
殺されたゴトウ・ヴァリエドの旧《ふる》い友人。
未明の電話に叩き起こされても文句さえ言わず、客間を準備してキルアラを迎え、風呂に入らせてやった上にブランディまで舐《な》めさせ、着替えの下着を用意し、そして朝には彼女を起こしもしないで仕事に出かけたのだ。
自分達は寝不足だというのに、である。
おかげで、
「助かったわ、ノジベル」
電子レンジの中身は、スクランブル・エッグだった。
シンクの脇のバスケットから頂戴《ちょうだい》したガーリック・ブレッドといっしょに、冷蔵庫から出してきたミルクで胃袋に流し込む。
人心地《ひとごこち》ついてから、キルアラは食卓の椅子に背をあずけて、天井を眺める。それから目を閉じて、深い溜《た》め息《いき》をついた。
大丈夫。
ヴァリエドの件は、たしかに予定外だったけど、うん、順番が入れ違っただけだ。少し落ち着いたら、次の準備にかかればいい。
今朝、コトナミ家までパトカーで送ってくれた婦人警官は、今日の昼には『現場』を元通りにしておくと約束してくれた。要するに、業者に依頼して検証の済んだ現場を清掃しておいてくれる、という意味だ。
時間的に、もう済んだころだろう。
ということは、いつでも戻れるわけだ。
そこまで考えて、
「え……!?」
キルアラは、瞼《まぶた》を開いた。
まって。
……まってよ? 業者に依頼して、清掃?
「駄目!」
お尻《しり》を蹴《け》り飛ばされた勢いで、キルアラは椅子から立ち上がった。
しまった。そんなことさせちゃ、駄目だ!!
キッチンを飛び出しかけて、あやうく踏みとどまった。少し考えて、コトナミ・ノジベルの書き置きを千切り、その下のメモ用紙にメッセージを残す。
『ノジベルとペシアルへ
今朝はありがとう。
家のことが心配なので帰ります。
連絡は、こちらからします。
キルアラ』
コトナミ夫妻の家は、ルシャゼリウス市の西の外れにある。ここよりさらに西はポリフォニカでも屈指の高級住宅街で、各界の有名人の邸宅も多い。
つまりこのセタワル界隈《かいわい》は、そういった上流社会と一般社会との、ちょうど境界線とも言える一帯なのだ。
道幅は広く、立ち並ぶ家々はどれも一戸建てで、あたりには集合住宅など一軒もない。しかし一方で、敷地はどの家も奥に長く、前庭の芝生《しばふ》も狭い。二階建て以上の住宅が多いのは、そうしなければ充分な居住面積が確保出来ないからだ。
ちょっと裕福な庶民の町、
セレブリティという言葉の手前で足踏《ぶ》みする町、
キルアラはセタワルの町をそう評価していた。
玄関に施錠してから、ノジベルの書き置きにあったように、鍵《かぎ》はククトナの鉢植えの下に隠す。
振り返ると、皮肉なくらいに日差しが眩しい。よく手入れの行き届いた芝生を横切って、キルアラは歩道へ出た。走り出したい気持ちを、懸命に押さえ込んで。
その真正面に、一台の車が滑り込んでくる。
一瞬、自分の目が信じられなかった。
パトカーだ。
「キルアラさん!?」
ドアを開けて降りてきた人物に、また驚いた。クスノメ・マニエティカ……昨夜の婦人警官なのだ。
「お早うございます。お休みになれましたか?」
笑みを浮かべるその目の下には、今はソバカスだけではなくクマも浮いている。その意味を考えて、キルアラは、ぞっとした。
眠っていないのだ。
「ずっと、見張ってらしたんですか?」
思わず、そう言ってしまう。だが、その言葉の不用意さに相手は気づかなかったようだ。
「あ、いえ。別に、あなたを見張っていたわけではないんです。警護するようにと命令を受けましたので……」
なるほど、そういうことか。
「それで?」
「はい?」
「わざわざ声をかけられたということは、何かご用なんでしょう?」
嫌な予感を腹の底に呑《の》み込みながら、キルアラは言った。とにかく、とっとと終わらせてしまいたかった。
「ええ。出来れば市警本部へご同行願いたいんですが」
「なんですって?」
「そんな大げさなものでもないはずなんですが、事情聴取を……」
「それは」
キルアラは婦警の言葉を遮った。
「昨夜のうちに済んだんじゃないんでしょうか」
「それが、まだ充分ではないんです。出来るだけ早いうちに……」
駄目だ。
今は、駄目だ!
「それは任意ですか? 強制ですか?」
腫れぼったくなった目を見開くクスノメ巡査に、キルアラはたたみかける。
「任意なら、一度、家に帰らせてもらえませんか? 近いうちに必ず、こちらから連絡差し上げますから」
「あ……ああ、そう、ですよね」
完全に俯いてしまった。これではまるで、叱《しか》られた子供だ。だが、それでも次の瞬間には顔を撥《は》ね上げた。あるいはそれは、職務上の義務感からだろう。
「それじゃあ、お送りします!」
その笑顔も、しかしたちまち残骸《ざんがい》となってソバカス顔に貼り付いた。
「けっこうです」
キルアラの柔らかな、しかし断固とした拒絶を真っ向から受けてしまったのだ。
「バスで帰りますから」
言うだけ言って、キルアラはさっさと背中を向けた。
追いかけて来るかと思ったが、それはなかった。
一〇〇メートルほど先の交差点まで歩くと、ちょうど目の前のバス停にバスが滑り込んでくるところだった。
バスに乗る時、一度だけ振り返ったキルアラは、安堵《あんど》の溜め息をついた。
ソバカスの婦人警官も、パトカーも、姿を消していた。
本来、その部屋の名称は『遺体安置室』である。
書類の上でもそうなっているし、受付の脇の壁にかけられた署内地図でもそう表記されている。無論、部屋のドアに書かれている文字も、そうだ。
しかし、署内でそう呼ぶ人間は、少数派である。つまり、実情を知らぬ連中、だ。
署員は地下のその一角を『モルグ』と呼ぶ。
屍体《したい》置き場である。
「どうぞ」
ノックの音に、声が応じる。ドアを開けると、相手は食事中だったようだ。
「へえ、珍しい。久しぶりじゃない」
口をもぐもぐさせながら椅子を回して振り返るのは、若い女性だ。書類の散らかったデスクの上には、ファストフードのテイクアウト・セットが置かれている。
イデ・ティグレア……ルシャゼリウス市警の検死官である。
「オゾネ事件以来かしら? マティアも、久しぶりね」
マナガのトランクの陰から出てきた黒衣の少女は、ぺこり、と頭を下げる。ティグレアのすすめてくれた椅子に、けれど二人とも座らなかった。
「ああ、いや。ちょっと覗《のぞ》いただけだから」
低く太い声が、だだっ広い部屋に響く。
床も壁もタイル張りで、部屋の隅に置かれたデスクの他には、その脇の壁に作り付けられた戸棚と、さらにドアの脇に洗面台である。突き当たりの壁は一面、ステンレス製の『引き出し』になっていた。 部屋のど真ん中に、寝台が置かれている。
もっとも、眠るためのベッドではない。
ステンレス製で、わずかに窪《くぼ》んでおり、窪みの中央には排水孔がある。寝台の真上にある照明は、病院の手術室でも見ることの出来る無影灯だ。
解剖台なのである。
この部屋に持ち込まれる遺体は、いったん全て壁の『引き出し』に収められる。縦に四段、横に五列、合計二〇体の遺体を収めることの出来る、それは遺体の保管庫なのだ。
やがてそれぞれの遺体は、順番にしたがってステンレス製の台に乗せられ、検死解剖を受けるのである。ただし、ごくまれに、その順番をすっ飛ばして最優先で検死に付される遺体もあった。
捜査の優先順位が高いものか、あるいは『引き出し』に収まらない遺体だ。
今、解剖台に横たわっているのは、後者だった。
「彼ね?」
マナガは、ちらり、とだけ視線を投げて、うなずいた。彼が見たのは、ほんの一瞬だ。
「ゴトウ・ヴァリエド博士。四四歳。勘弁して欲しいわ、あんな状態なのに『引き出し』に入んないんだもん」
それから、ちろり、とマナガに横目で微笑《ほほえ》む。ここがバーの片隅だったら、あらぬ勘違いをしてしまいそうな視線だ。
「どうして、ああいうややこしい遺体に限って、あなたの担当なのかしらね」
「そういじめなさんなって、担当を決めるのは私じゃないんだから」
「いいわ」
齧《かじ》りかけのチーズバーガーを紙ナプキンの上に置いて、ティグレアが立ち上がる。整った容貌《ようぼう》とアップにした赤毛は、一流企業の女性秘書のようだ。
もっとも、一流企業の女性秘書は、血で汚れた手術着など着てはいないが。
「来て」
先導するように、ティグレアは遺体に近づく。マティアがその後に続いたが、マナガはデスクの前から動かなかった。
そんな相棒を、マティアが振り返った。無言の要求である。彼女の身長では、ステンレス製の台の上がよく見えないのだ。
やれやれ。
溜め息をついて、マナガも遺体の側《そば》まで移動した。
「さっき、やっと『洗浄』と『組み立て』が終わったところよ」
「ほう」
出来るだけ台の上を見ないように注意しながら、マナガはマティアを抱き上げる。胸の前で曲げた太い腕に、少女が座る格好だ。
「てことは、検死はまだか」
「その前に、お昼を済ませちゃおうと思ったら、あなたが来たのよ」
「そうか、そりゃすまなかった。マティア、出直そう」
だが、
「まだ」
ぽそり、と応《こた》える少女は、冷たい台の上の冷たい屍体を覗き込んでいる。表情が変わらないのは、いつものことだ。
ティグレアの方も、すでに両手を薄いゴム手袋に包んでいた。どうやら、観念した方がよさそうだった。
「とりあえず、現段階で判《わか》ってることだけでも説明しとくわね」
うなずくのは、マティアである。ティグレアの方も、ハナッから彼女だけを相手にするつもりのようだ。さすがのマナガもここでは役に立たないことを、知っているからだ。
「見て判るように、相当な損壊ね。こういうのを見たことがないわけじゃないけど、少なくともマンションの寝室で見つかるようなものじゃないわ」
「どこで?」
マティアの言葉は、細く、小さく、そして短い。
「飛行機事故。高高度から墜落した飛行機の残骸から見つかる遺体は、こんな感じね」
その言葉につられて、マナガは、ちらり、と台の上を見てしまった。
途端に襲ってくるのは、
「うぉ……」
後悔だ。
トラックに轢《ひ》き潰《つぶ》されたアクション・フィギュアみたいに、ばらばらに引き裂かれた人体が、かろうじてヒトの体型に並べられていたのだ。全ての『パーツ』から血糊《ちのり》が洗い流されているせいで、よけいに人形のように見える。
かなりの肥満体だったようだ。
身長が一六〇センチ前後、体重は一〇〇キロ超というところか。ちらり、と見ただけなので正確には判らないが、気にすることはない。どうせ後で、解剖所見が届くのだ。
「ひどい臭いだな」
それだけ言うのが、やっとだった。
「戸棚にワセリンがあるわ。鼻の下に塗っといたら、少しはマシだけど?」
「あー、いや、いいよ。とっとと済ませよう」
「おっけー。じゃ、ここ見て」
二人の刑事はうなずき、しかし当然、ちゃんと見ているのはマティアだけだ。
「脂肪層が、かなり厚いでしょ? なのに傷は腹膜を裂いて内臓にまで届いてる。ほら、ここ。ね? こっちも……ほら。こっちなんか……ね? 肋骨《ろっこつ》まで達してるでしょ?」
聞いているだけで、気分が悪くなってくる。
「腕も、これ見て。断面。ね? 切断じゃなくて、捩《ね》じ切られてる。大腿骨《だいたいこつ》も、ほら、粉砕してるでしょ?」
マティアは黙ってティグレアの手元を覗き込んでは、時おり小さくうなずいている。マナガの方は、もう完全に視線を外してしまって、今はデスクの上のコーラの紙コップを睨《にら》んでいた。
「マナガ警部補」
検死官に呼びかけられても、振り返らない。
「んー?」
「これって、あなた達が担当してるってことは、精霊事件と認定されたの?」
「あー、まあ現時点では、その可能性が高い、ってくらいだけどね。でも、キミの見立て次第だねえ。精霊が関与している可能性がなければ、担当は移るだろうし」
そこまで答えて、マナガは気づいた。
「その遺体の傷は精霊の仕業じゃない、ってことかい?」
遺体を見てしまわないように注意して、ティグレアを振り返る。彼女は肩をすくめて、わずかに眉《まゆ》を寄せていた。
「んん……、どう言えばいいかな。つまりね、人間には不可能だけど、精霊にしては不自然……って感じかな。判る?」
「いいや」
「マナガ」
囁《ささや》くように、マティアが言う。
「見て」
「勘弁してくれよ」
苦笑だ。だが小さな楽士警官は、容赦しなかった。
「見て。見たら、判るから」
喉《のど》の奥で唸《うな》りながら、マナガは解剖台の上の屍体を見る。
無理やりに、見る。
「マナガ」
「ああ、見てる」
「判った?」
「ああ」
判った。
「ティグレア、キミの言うとおりだ」
マナガは懸命に吐き気をこらえて、言った。
「こいつぁマトモじゃない」
精霊という存在は、実のところ人間やそれ以外の生物と大きく異なるわけではない。特に知性をそなえた中級以上の精霊は、ただ一点を除けば人間と何ら変わらない存在であるとさえ言える。
すなわち、肉体を持つか否か、である。
かつてこの星に生命が発生した時、それは剥《む》き出《だ》しのエネルギーであったという。
それが伝説のとおり奏世神の奏でる神曲によるものであったのか、あるいは一部の科学者が提唱するような化学反応によるものであったのかは別にして、だ。
ともあれ、後に『精神』と呼ばれることになるそのエネルギーは、やがて二つの種に枝分かれした。
一方の枝は物質をまとい、肉体を持ち、人間を始めとする様々な生物の祖先となった。
もう一方の枝は、しかし肉体を持たなかった。同種のエネルギーどうし融合し、複雑化し、精神生命体へと進化したのである。
それこそが、高度なエネルギー生命体たる精霊の祖先であると言われている。
双方の相違は、ただ一点のみ。すなわち、肉体という物質の殻《から》を持つか否か、だ。
しかし同時に、その一点の相違が両者を大きく隔てているのも事実だった。
本来、人間には精霊を見ることも出来なければ触れることも出来ない。だが精霊達は、人間と関《かか》わることを選んだ。そして、人間が見ることの出来る、触れることの出来る『肉体』を作り上げた。
物質化である。
精霊の『肉体』は、厳密な意味では物質ではない。それは物質化するほど高密度に圧縮された、莫大な精神エネルギーに他ならないのだ。
「どういうことなんだ?」
マナガはデスクに肘《ひじ》をついて、溜《た》め息《いき》とともに吐き出した。
マナガとマティア、二人の執務室である。
と言っても、窓さえもない狭い部屋だ。置かれているのは安物の事務机が二つと、壁際に資料ファイルの詰まったラックがある他は、ドアの脇《わき》に立てられたコート・ハンガーがあるきりだ。
そのハンガーに、巨大な黒い革のコートと、小さな黒いケープが並んで掛けられている。
ちなみにハンガーの足が床にボルトで固定されているのは、そうしないとマナガのコートの重みで倒れてしまうからだ。
「どう考えたって、マトモじゃない……」
さっき見せられた遺体の状態が、である。
「うん、変だよ」
マティアの方は隣の席で、椅子《いす》に背中をあずけている。細い脚をぷらぷら揺らしているのは、床まで届かないからだ。
「あれって、精霊雷の跡じゃないよね」
精霊の放つ、熱量もベクトルも持たない、純粋エネルギーである。
通常、精霊はこのエネルギーに意志の力でベクトルを与え、放出する。人間の目には、これが横方向への落雷のように見えるのだ。
精霊雷、と呼ばれる所以《ゆえん》である。
精霊雷は精霊にとっての万能の道具であり、また武器であるとも言える。離れた場所にある物体を動かしたり、あるいは高圧で叩《たた》きつけることによって標的を攻撃するのである。
しかし。
「ああ、違うな」
ゴトウ・ヴァリエドの遺体に残された傷跡は、どれも精霊雷によるものではなかった。特徴的な『面における破壊』が見られなかったのだ。
無論、最初に現場を見た時点から、ただの殺人ではないことは明らかだった。だがその犯行が人間には不可能と思えるものである以上、精霊の犯行と考えるのが妥当だ。しかしそうすると今度は、精霊雷を用いることなく物理的に引き裂いている理由が判らない。
人間の犯行なのか精霊の犯行なのか、どちらにしても異常なのである。
「どうして精霊雷を使わなかったんだろ……」
「犯人は精霊じゃない、てのは?」
「人間?」
「人間」
「無理だよ」
応じるマティアは、さっきより……いや、いつもより饒舌《じょうぜつ》だ。
「傷口は、どれも乱れてたでしょ? 刃物で切ってるんじゃなくて、引き裂いてる。骨もあちこちで砕かれてるしさ。物凄《ものすご》い腕力が必要だったはずだよ」
「物凄い腕力の奴《やつ》だったら? それに、例えば金属製のフックが凶器だったとか……」
「そこんとこクリアしても、足跡の問題が残るじゃん。あれだけ大量の血が飛び散ってたのに、足跡は一つもなかったよ?」
それにさ、と少女は続ける。
「被害者の殺害も足跡の問題も、道具を使って何とかクリアしたとして、でもそれを一瞬でやってのけるなんて絶対に無理だってば」
「一瞬?」
「そうだよ。気づいてなかった?」
「あ? あー、うん。一瞬なのか?」
「一瞬だよ」
それから少女は、ぐるりと椅子を回して隣の席のマナガに向き合う。マナガも、上体をひねってそれを迎えた。
「いい? 例えば頸《くび》とか手首とか、太い血管を切ったら、どうなる?」
「噴水みたいに血が噴き出す」
「正解。じゃあ左右の手首を同時に切ったら?」
「両方から噴き出す」
「じゃあね、右の手首を切ってから左の手首を切るまでに、五分くらい間を空けたら?」
「そりゃあ……」
答えようとして、気づいた。
「判った?」
「判った。左の手首は、噴水にはならない」
「なぜ?」
「左を切る前に、ほとんどの血が右から出ちまうからだ」
「そゆこと」
「なるほど」
だから犯行は、一瞬だったはずだ。
全ての傷口から一斉に血液が噴出したのでなければ、あの現場状態にはならないのだ。
「じゃあ、やっぱり精霊なのか……」
「でも精霊だったら、精霊雷を使わないのは妙だよね」
「むう、って感じだな」
デスクに頬杖《ほおづえ》を突くマナガを真似《まね》て、
「むう、って感じだよね」
マティアも頬杖になる。
それから、
「お昼、食べない?」
唐突に、少女は言った。
「結局、食べそこねてるじゃん。そろそろ限界だよ」
空腹が、である。
朝、現場を離れて署に戻り、遺体の搬入に立ち会い、データベースで被害者についての情報を引き出し、それから開いたばかりの書店へ足を運んでゴトウ博士の研究について書かれた専門書を何冊か買い込んできた。
マナガのデスクの隅に積み上げてあるハードカバーが、それだ。
ぱらぱらと目を通しているうちに、昼食時になった。食事に出る前にモルグへ立ち寄ったのは、遺体搬入の際に、イデ・ティグレアが戻ったらすぐに始めさせる、と言われていたからだ。
もう済んだころだと思ったのである。
だが、そうではなかった。
おかげでマナガとマティアは、そのまま首をひねりつつ執務室に戻ってきてしまったというわけだ。
「そうだなあ」
マナガは壁の時計を見る。たしかに、昼食時と言うにはいささか遅いくらいだ。
実際のところ、精霊であるマナガリアスティノークルには、人間と同様の食事は必要なものではない。彼が人間と同じ食事を摂《と》るのは、だから二つの個人的な理由による。
一つは、その巨体を維持するための最も手軽な方法であるから。
そしてもう一つは、マティアに孤独な食事をさせたくないからである。
だが正直なところ、どちらの理由を挙げてみても、食事を摂りたい気分ではなかった。
無論、あんなものを見たせいだ。
そんな巨漢を、
「なに? キモチ悪くなっちゃってる?」
覗《のぞ》き込むマティアは、笑みを浮かべている。それも目を細め、眉を上げて、まるで夜道に尻込《しりご》みする小さな弟をからかう姉のような、そんな笑みなのだ。
マチヤ・マティアは、笑わない。
マチヤ・マティアは、誰《だれ》にも心を開かない。
その唯一の例外が、マナガリアスティノークル・ラグ・エデュライケリアスなのである。
「何だい、その笑い方」
「べ〜つに〜。強ぉい強ぉいマナガさんでも、スプラッタは駄目だったのかなあ、なんて思って〜」
「駄目なもんか。ちょっと苦手なだけだ」
マナガは席を立ち、ハンガーからコートを取る。ケープを手渡してやると、マティアは恐ろしいことを口にした。
「あたし、今日はチリにしようかな」
「チリ?」
「それとも、お腹《なか》ぺこぺこだからステーキにしようかな」
マナガの目が、ぐるり、と天井を見上げる。
「判った、降参だ。血だのハラワタだのは苦手だ。だからチリもステーキも勘弁」
「いいわ」
くすり、と少女が肩をすくめる。
「レオナルドの店にしましょ」
「感謝するよ」
苦笑とともに、部屋を出た。
マナガの愛車は黒のクウォンタ・クルーガー4WD、大型の四輪駆動車である。車高が高いだけではなく、特注で屋根も少し上げてある。
無論、マナガの巨体を収めるためだ。
初代は先のオゾネ・クデンダル事件の際に大破し、これは二代目である。
駐車スペースは市警本部の前、正面玄関へと続く階段の脇にある。コンクリート製の幅の広い階段の両脇に、ずらりと並んだパトカーに混じって駐車されているのだ。
声をかけられたのは、
「マナガ警部補!」
ちょうど、マティアのために助手席側のドアを開けてやった時だった。
「よかった。すれ違うところでしたね」
クスノメ・マニエティカ巡査である。三台分ほど隣に滑り込んだパトカーから、降りてきたところだ。クスノメはマナガの正面まで来ると、
「すみません。お連れ出来ませんでした」
頭を下げた。
ゴトウ・キルアラのことだ。
今日の未明、キルアラを彼女の友人宅まで送って行くと言うクスノメ婦警に、マナガはこっそりと指示を出した。友人宅を監視し、異状があればすぐに知らせるように。そして可能なら、夫人が出てきたらそのまま署に同行するように。
それがどうやら、巧《うま》くいかなかったらしい。
「いいよ。あくまで、可能だったら、ってだけだから」
目撃者はゼロ、遺留品と呼べるような物もなく、少なくとも現時点で事情聴取の対象となるのはゴトウ・キルアラだけだ。捜査の初動として、遺体の検死と同時に可能な限り早期の事情聴取を、と考えたのである。
「用事がある、って?」
「ええ。そう言ってました」
「真《ま》っ直《す》ぐ帰宅した?」
「はい。バスに乗られましたので、後を尾《つ》けました。マンションまで二〇〇メートルあたりのバス停で降りて、徒歩でマンションに到着。以降はクラタ巡査とナナキリ巡査が引き継いでます」
警護を、である。
「判った、ありがとう。後は、こっちからコンタクトするよ」
その言葉に、クスノメ巡査は敬礼を返す。それから彼女は、マティアに視線を投げて、笑みを浮かべた。
「では失礼します、警部」
そんなクスノメを、
「まって」
引き止めたのは、驚いたことにマティアだった。
「はい?」
「どうして、こんな時間なの?」
表情のない、淡々とした声だ。必要だから話している、出来れば話したくない、そんな感じだ。
「えと……、そのまま直行してきましたが?」
キルアラがマンションに入るのを見届け、彼女が無事に部屋に着いたことはナナキリ巡査からの無線で確認した。そして、五分ほどで署まで戻ってきたのだという。
「何か問題でも……?」
クスノメ巡査の問いには答えず、マティアはマナガを見上げる。
その目が、変だよ、と告げていた。
キルアラがバスでマンションに戻ると、部屋の前に若い制服警官が二人、立っていた。
清掃は終わっています、と彼らは言った。
そして、事件解決まで身辺を警護します、と。
必要ない、と言ったが警官は頑固だった。
押し問答の末、ついにキルアラの方が折れたが、部屋には一歩も入れる気はなかった。
部屋に入ると、キルアラはドアに施錠するなり、寝室のドアを開いた。
「……嘘《うそ》」
寝室は、綺麗《きれい》に掃除されていた。
いや、綺麗、という言葉以上だ。
空っぽになっていたのである。
血まみれになった家具は全て運び出され、あるいは参考物件として警察へ移送されたのかも知れないが、いずれにせよ全て持ち出されていた。
カーペットもなくなって板張りの床が剥《む》き出《だ》しだ。それでも洗剤の匂《にお》いに混じって、かすかに生臭い異臭が残っていた。
それ以外には、何もない。今夜はソファで眠るか、モーテルに部屋をとるか、あるいはもう一晩、コトナミ夫妻の家に転がり込むことになるかも知れない。
だがいずれにせよ、大した問題ではなかった。
「どうしよう」
キルアラは、ミスを犯したのだ。
問題は、そのミスに警察が気づいたかどうか、だ。
確かめなければならない。だが、どうやって?
かつて寝室であった部屋を出たキルアラは、壁際の電話線を引っこ抜いてから、リビングを横切る。奥へと続く廊下の手前がバスとトイレ、その奥に二つ並んでいるのは、手前がキルアラの、そして奥がヴァリエドの部屋だ。
自分の部屋に入って、照明を点《つ》ける。
テレビにも本棚にもデスクにも、うっすらと銀色の粉が残っていた。指紋採取に使ったものだ。今朝、鑑識の人間がハケのようなものでこの粉をカウンターやらシンクやらに叩《たた》き、息で吹き飛ばしてから透明のフィルムを貼《は》り付ける様子を見た。
指紋の脂で吹き飛ばされずに残った粉末を、フィルムに移し取っていたのだ。それと同じことが、今朝、キルアラが家を出た後で、ここでも行われたのだ。
キルアラは、デスクを回り込む。
昨日まで、ヴァリエドの仕事を手伝っていたデスクだ。資料書類の束がいくつか、いささか乱雑に投げ出されている。どの仕事も、もう続きをやる必要のなくなったものばかりだった。
夫は、もういないのだ。
デスクの上は昨夜、作業の手を止めた状態のままのように見える。
「落ち着け」
キルアラは、呟《つぶや》いた。
「落ち着け。大丈夫。やれる」
デスクの引き出しを開ける。一番下の、ファイル用の引き出しだ。ぎっちり詰まった数冊のファイルは、内容別に色分けされている。
名簿は、赤だ。
二冊とも取り出した。
それは、言わば『二つのカギ』の片方だった。
もしも警察がキルアラのミスに気づいたとしても、それだけでは何の意味も成さないだろう。一方で、この名簿だけを見ても、やはりそれは単なる名簿にしか見えないはずだ。
だが二つが揃《そろ》ってしまったら、あるいは、そこからキルアラの行動を読み取るかも知れない。
どうする?
名簿を処分するか?
いや、もし警察がこの名簿の存在を知っていたとしたら、今から処分するのはかえって危険だ。ならば、問題のありそうな箇所だけを、どうにかして削除するか? まて、その前に、警察が『あれ』に気づいたかどうかを確認するのが先じゃないのか?
二冊のファイルを手にしたまま、キルアラは懸命に考えを巡らせる。
突然、部屋のドアが開いたのは、その時だった。
「なにっ!?」
キルアラの心臓は跳ね上がり、彼女は反射的に名簿を胸に抱えた。
「あ、あ、こりゃすみません」
飛び込んできたのは、黒いコートの巨漢だった。
「ああ、ごめんなさい。脅かすつもりはなかったんです」
首をすくめて、大きな銀のトランクを掴《つか》んだのとは反対側の手を、顔の前でぶんぶんと左右に振る。岩を彫り抜いたようなその顔に、浮かんでいるのは驚愕《きょうがく》と困惑の表情である。
「いえ、電話してもお出にならないし、ノックしても外から声かけても返事がないんで、こりゃ何か起きたかと思って……」
「それで勝手に入って来られたんですか!?」
さっきの警官が合鍵《あいかぎ》でも都合していたのだろう。
「私に無断で?」
鋭いキルアラの言葉に、二メートルを超すマナガ刑事の巨体が、しゅるしゅると萎《しぼ》んでゆくように見える。
「ああ、はい。事件の直後なんで、もしやと思って」
実際、肩の間に太い首を引っ込めて、その様子は見ていて気の毒になるほどだ。
そうだ。まだ大丈夫だ。まだ警察は、何も掴んだわけではないのだ。
落ち着け。
落ち着け……。
キルアラは、苦笑を浮かべて見せた。
「ご心配くださったわけね?」
「はあ、いえ、面目ありません。とんだ早とちりで」
「いえ、こちらこそ怒鳴《どな》りつけたりして、すみません。驚いたものですから」
「謝っていただくなんて、とんでもない。こっちが悪いんですから」
言いながら頭を掻《か》く様子は、まさに大きいだけのヌイグルミのクマちゃんだ。キルアラは、ヴァリィのパジャマの柄を思い出した。
「そりゃ、こんなドデカいのが飛び込んできたら、誰だって驚きますよねえ」
「いいんですのよ」
キルアラは名簿をデスクの上に戻す。それから、マナガに歩み寄った。
「電話は、線を抜いてしまったんです」
言いながら近づくキルアラに、マナガは押し出されるように廊下へ出る。そのまま彼女が巨体の脇《わき》をすり抜けると、コートの巨漢はおとなしく後をついてきた。
「それで? 何かご用なんですの?」
言って、リビングに出たキルアラは、ぎょっ、と立ち尽くした。
リビングルームの真ん中に、黒い少女が立っていたのだ。
まるで幽霊のように。
リビングの奥、キッチンのカウンターの方を見ていた少女は、首だけで振り向く。前髪の隙間《すきま》からキルアラを見つめる瞳《ひとみ》は、冷やかなまでに黒い。
滑るように近づいてくる黒衣の少女に、キルアラは思わず横へ動いて道を空けた。
「ごいっしょだったのね」
思わず口をついて出るのも、意味のない言葉だ。少女は答えず、黒いコートに寄り添う。
「ええ、チームですから」
答えたのは、マナガの方だった。どこか照れ臭そうな笑みを浮かべて。
そうだった。この二人は精霊課の、楽士警官と精霊警官のコンビなのだ。
落ち着いたキルアラは、今度は思わず苦笑してしまいそうになるのを懸命にこらえなければならなかった。
精霊課というのは、よほど人員不足らしい。
一人は精霊のくせに優美さのカケラもない大男、もう一方はまだ十代の小娘ときた。
もっとも少女の方は、小柄ではあるが一五歳未満ということはあるまい。ならば、トルバスの法律上では立派に成人だ。警官であっても、不都合はない。
しかし階級が警部ときては、失笑するしかなかった。
おおかた、契約精霊を持つ楽士警官というだけで、階級は後付けなのだろう。その証拠に、少女は昨日……いや、今朝もマナガ警部補にくっついて歩くだけで、捜査の指揮をとっている様子もなかったではないか。
余裕を取り戻したキルアラは、二人にリビングの隅のソファを進めると、自分もその正面に腰を下ろした。
「それで? 何を話せばよろしいんです?」
「は? と、おっしゃいますと?」
「婦警さんから、お聞きしましたよ。事情聴取が残っているんでしょ?」
「あ、ああ、その件ですか」
「違うんですか?」
「いやまあ、それは必要なんですけどね」
普通の家庭用ソファに収まると、マナガの躯《からだ》は逆にその大きさを強調されるようだ。膝《ひざ》を揃え、猫背になって、まるで膝を抱えて床に座っているような姿勢なのだ。
そんな格好のまま、太い指が鼻の頭を掻く。
「あなたが警護を拒否なさったと聞いて、飛んできたんですよ。うちの若い者が失礼でもしたんじゃないかと思いましてね」
さっきの、玄関先での一悶着《ひともんちゃく》のこと言っているのだ。
「いやあ、しかしキルアラさん、肝《きも》が据わってらっしゃる」
「そうですか?」
キルアラは、曖昧《あいまい》な笑みを浮かべて見せるしかなかった。目の前の巨漢が何を言っているのか、判《わか》らなかったからだ。
「ええ。私だったら、絶対にそんなことしやしませんよ」
「何のことでしょう?」
「警護をお断りになった件ですよ」
それが、どうしたというのか?
「だって昨夜、ご主人が殺害されたばかりなんですよ。それも、ご自宅で」
「それが?」
「犯人がどうやって侵入したかも判らない。犯行方法さえも判ってない。目的なんか皆目です。そんな状況なのに、殺人現場でたった一人になることを怖がってらっしゃらない」
いやあ、とマナガは溜《た》め息《いき》をつく。
「つくづく、肝が据わっておられるんですなあ」
そんなことが気になるのだろうか。
だからキルアラは、説明してやった。
「お忘れじゃありません? 犯人は私に気づかれないように犯行を済ませたんですよね」
「ええ。そうですが」
「ということは、私を殺したくなかったということでしょう?」
「そうなんですか?」
「だって、私も殺すつもりだったなら、わざわざ気づかれないようにする必要なんかないでしょう? 私に見つかったら殺せばいいんですから」
「はあ、言われてみれば、たしかに……」
「私に気づかれたくなかったのは、私を殺したくなかったからだとは思えません?」
「むう」
唸《うな》りつつ、マナガのごつい手が、ごつい顎《あご》を撫《な》でる。無精髭《ひげ》が浮いていて、これが精霊だとは今も信じられない。
彼が精霊である以上、この姿もある意味『擬態』に過ぎない。つまり、意図的なものだ。マナガの無精髭も、人間のように剃《そ》らずに放《ほう》っておいた結果ではなく、意図的なものだということだ。
そこにどんな意味があるのか、キルアラには想像もつかなかった。
「なぜでしょうなあ」
「何がです?」
「いえ、もしそうだとしたら、なぜ犯人は、あなたを殺したくなかったんでしょう」
ぞっ、とした。
目の前の精霊警官は、こちらが期待した以上に鈍感なのかも知れない。
普通なら、何らかの疑問が生じた場合には、誰《だれ》しも自分で考えて何とか折り合いを付けようとするものだ。そうでなければ、他人から愚鈍と見られてしまうからだ。ましてや人間よりはるかに長命な精霊ともなれば、なおさらだ。
だから、ほんの少しのヒントさえ投げ与えてやれば、後は相手が勝手に合理化して考え、決着してくれるものなのだ。
だが、この刑事は違う。
思い浮かんだ疑問を、全て口に出しているとしか思えない。そしてその疑問こそが、まさにキルアラの犯した『矛盾』を突いているのである。
「それは……」
キルアラは、慎重に言葉を選んだ。
「犯行の件数が増えれば、それだけ手掛かりの数が増えるからじゃありません?」
「ああ、なるほど」
「目的が主人だけだとしたら、無駄な犯行で危険を冒すことはしないでしょう」
「いやまあ、たしかに、おっしゃるとおりで」
「ですから、警護の方を撤収させていただけません?」
それこそが、重要なポイントなのだ。
「はあ、でも念のためにですね……」
「お願いします」
ぴしゃり、とキルアラは言い切った。
「はっきり申し上げますと、迷惑なんです」
二重の意味で、だ。
そのまま、じっと相手の顔を見つめた。いや、睨《にら》み据《す》えた、と言った方がいいだろう。
引き下がるつもりはなかった。『計画』は、まだ終わっていないのだ。
「判りました」
ついに折れたのは、マナガの方だ。
「すぐに引き上げさせます」
「そうしてください。それで……」
「はい?」
「それが、お訊《き》きになりたかったことですか?」
「あ? ああ、いえ。他にもあるんですが……と言うか、今のは別にお訊《たず》ねすべきことじゃなくて、単に私が感心しちまっただけのことでして……」
それから、マナガは咳払《せきばら》いをする。
「今、お訊きしてもよござんすか? 型通りの質問なんで、手短に済ませますんで」
「けっこうですよ。どうぞ」
「それじゃあ……」
言ってから、ちらり、と隣に視線を投げる。
マティア警部だ。
しかし黒衣の少女は、真《ま》っ直《す》ぐにキルアラを見つめるだけだった。
「ご主人の人間関係について、お訊ねしたかったんですよ。お友達とか、仕事仲間とか」
「どういう意味ですか?」
「いえ、本当にもう型通りの質問なんですがね。恨みを買った経験はおありか、とか、ご主人が亡くなることで得をする人物がいるか、とか、そういったことで」
「私には遺産が入るでしょうね。保険もかけていましたし」
「ええ。無論それも視野には入れます。ああ、いえ、あくまで型通りにね。でも、それ以外のところも調べておかないと、上司にどやされるんですよ」
実のところ、キルアラはいささか戸惑っていた。
こんな事態は想定していなかったからだ。
ヴァリエドは、最後の一人になるはずだった。そしてヴァリエドを殺害すれば、その後のことなどどうでもよかったのだ。
だが今、事情が変わってしまった。
まだ捕まるわけにはいかないのだ。
「さあ」
キルアラは、出来るだけよそよそしくならないように注意しながら、答える。
「主人の仕事の手伝いはしていましたが、実際に仕事関係の人にお会いしたことはありませんので」
「お一人も?」
「ええ」
「ご友人の方とも?」
「コトナミご夫妻は、よく存じあげてます。と言うか、私も友達づきあいをさせてもらってます。お二人とも、いい方ですよ」
「じゃ当然、恨みつらみなんてのは……」
「考えられません」
「それ以外のご友人は?」
「よくは知りません。挨拶《あいさつ》くらいは、した方もおられますけどね」
「そうですか」
ふいに、マナガはそわそわし始める。視線を彷徨《さまよ》わせ、何かを考えているようだ。
あるいはそれは、手詰まり、を意味しているのかも知れない。
だが、
「さっき、あっちの部屋で持っておられたのは、名簿か何かですよね?」
突然、彼は何をか思いついたように、言った。
「そうでしたか?」
「ええ。ちらっと見えました。『名簿』とラベルが貼《は》ってありましたよ」
「だったら、そうだったんでしょう」
「お貸しいただけませんか?」
「名簿を、ですか?」
また、予想外、だ。
「ええ。二〜三日でお返しします。こうなったら、片っ端から接触して裏をとっていく以外にないですから」
即答出来なかった。
そこを、突かれた。
「何か不都合でも?」
「あ、いえ……」
不都合だ。
だが、それは決して知られてはならない事実なのである。
キルアラは、愕然《がくぜん》となった。
気づいたのだ。
遅かった……!
目の前の二人がキルアラの機先を制したわけではない。だが結果的に、彼女は今、二人の刑事によって確実に追い詰められたのだ。
「かまいませんよ」
そう答えるしかなかった。
『カギ』の片方を渡すしかない。
キルアラは、相手の顔を盗み見た。
「すみませんねえ」
いかにも申し訳なさそうな笑みだ。
その笑みに、キルアラは滑り込んだ。
「いえ。こちらこそ、ありがとうございます」
「はい?」
「寝室」
「あ、ああ、いえいえ。業者任せですんで」
「中のものは、どうなさいました? 警察で引き取られたんですか?」
マナガの答えは、いいえ、だった。
「あの状態じゃ指紋も何も取れやしませんからね、業者で処分させました」
そう言った。
業者で処分させました。
マナガは、そう言ったのだ!
いける。
まだ、いける!
「すぐお持ちしますね」
部屋から二冊のファイルを手にして戻ってきた時には、彼女は決めていた。
今夜、次を、やる。
「どう思う?」
四駆車のハンドルを握って、マナガが声をかける相手は助手席のマティアである。
「うん。変だね」
少女の膝《ひざ》の上に乗せられているのは、借りてきたばかりの二冊のファイルだ。
「変か」
「うん、変だ」
ただし、何がどう変なのか、マナガには判らない。実際のところ、マティアも論理的な理由があって言っているのではないだろう。
いつものことだ。
だが、彼女の直感は、信頼に足る。
これまで、彼女が『変だ』と言ったことには、必ず何かの矛盾があった。単に、すぐにはその矛盾が何なのか判らないだけだ。全ての出来事が一本の糸で繋《つな》がれた時、それは必ず重大な意味を持っているのである。
少なくとも、これまでは、ずっとそうだったのだ。
「でもね」
少女はドアの窓枠に肘《ひじ》を乗せて、溜め息をつく。
「ピースが足りないや」
「そうか」
ならば、やるべきことは、一つしかない。
「署に戻るか」
「うん」
でも、と少女は言った。
「その前に、寄り道してってよ」
「ハンバーガー?」
「ハンバーガー」
そう言えば、まだ昼を食べていないのだ。
「判った」
マナガは劇場前の交差点で、ハンドルを左へ切った。
その日のうちに次の惨劇が起きることなど、この時、二人は考えもしなかった。
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第二章 死の鎖
三交替制で、合計九人。
つねに三人もの警備員が常駐しているのは、それだけの警備を要する重要施設だからではない。
単に、範囲が広いからだ。
ノザムカスル大学付属病院は、ルシャゼリウス市のみならず将都トルバスでも有数の大病院だ。
精霊科があるのは病院の規模からしても当然だが、精霊のための入院施設まで完備した病院は、帝都メイナードを含むメニスの全都を見ても数えるほどしかない。
むしろ、これだけの大病院をたった三人が警備しているという事実は、逆に徹底した機械化による人員削減の成果と考えた方がいいだろう。
病室を含む全ての部屋、全ての廊下、地下の駐車施設にもバックヤードにも監視カメラが設置され、赤外線センサーを含む監視システムが二四時間態勢で全施設を監視している。
それらの情報は警備員室に集められ、切り換え式の三七台のモニターに表示される仕組みだ。
おかげで三人は、一階奥の警備員室から出る必要もない。
駐車場の自動販売機までジュースや菓子を買いに出たり、見回りと称して病院内をぶらぶら散歩に出かける程度だ。
実際のところ、ここに勤務して二年になるハルサ・ダシラントも、勤務時間中には買い物と散歩以外に警備員室を出たことは一度もない。同じシフトで勤務五年めのダカチ・トーゲルと、八年になるというニトコマ・ドルメスタも、やはり同じだそうだ。
警備員室に持ち込んだ小型テレビで深夜番組を観《み》たり、雑誌や新聞を読んだり、時には三人で莫迦《ばか》話をしたりして、夜明けまで過ごす。そんな毎日なのだ。
だから、
突然のけたたましいベルの音に、三人は飛び上がった。
ハルサは飲みかけのコーヒーをこぼしそうになり、ダカチは椅子《いす》から転げ落ちるところだった。
反射的に立ち上がったのは、一番先輩のニトコマだ。
「な……何ですか?」
ハルサの言葉に、
「警報だ」
ニトコマが答える。
当直の看護師だろうか、すぐに廊下の方で人の声が聞え始める。ダカチはドアを開けて、叫んだ。
「どうした!?」
応《こた》えるのは、女性の声である。
「判《わか》りません。そっちで判らないんですか!?」
もっともだ。ハルサが振り返ると、ニトコマはすでにモニターに向かって、パネルに並んだスイッチを操作し始めている。
「火事だ」
彼は言った。
睨《にら》み付けているのは、ど真《ま》ん中《なか》のモニターである。五秒ごとに切り替わるはずの映像が固定されているのは、ニトコマが操作したからだろう。
「おかしい」
「どうした?」
「異状がない」
「カメラの死角なんじゃないか?」
「かもな……院長秘書室だ」
ニトコマを先頭にして、全員が飛び出した。
ノザムカスル大学付属病院は、大まかに五層に別れている。空調や電源などのバックヤードを含む最地下施設、霊安室や手術室を含む浅地下施設、一階と二階は診察施設、三階には事務施設があり、四階以上は全て入院施設だ。
階段を駆け上がる三人が目指すのは、三階の事務施設層である。
院長室は、その最奥《さいおう》だ。
非常ベルは、まだ鳴り続けている。三階の廊下に出ると、数人の人影があった。宿直で仮眠をとっていた医師や看護師だ。
「部屋に入ってて!」
指示を叫びながら、不安げな顔の前を三人は駆け抜ける。
突き当たりのドアが、開きっ放しだった。院長室の手前の、秘書室である。だがデスクには、誰《だれ》もいない。警備員室に伝えられた報告書には、院長だけが居残って何やら事務処理をしていることになっていたはずだ。
異状は、ない。
「火元は?」
「ない。どうなってんだ?」
デスクはきちんと整頓《せいとん》されているし、その奥の書類戸棚も乱れた様子はない。
けたたましいベルの中、三人の視線がゆっくりと奥のドアへ移動した。
閉ざされたままのドアには『院長室』と書かれたパネルが貼り付けられている。
ドアノブに手を伸ばすのは、ダカチである。
反対側の手で、彼は警棒を抜いた。
残る二人が、それに倣《なら》う。
それは、単なる勘だ。しかし考えてみれば、この状況下で、まだ居残り仕事をしている院長が姿を見せないという、そのことこそが異状なのではないか?
ドアの両側に、警棒を構えたニトコマとハルサが立つ。
目配せ。
うなずき。
そして叩《たた》きつけるようにドアが開かれ、三人は一斉に院長室に飛び込んだ。
何かに足を滑らせて、ニトコマが尻餅《しりもち》をつく。
ダカチは勢い余って前方へ滑って踏みとどまり、ハルサも何とか引っ繰り返らずに済んだ。
「きるるるるるるるるるるるる」
不気味な、音。
小さな生き物が喉《のど》を鳴らすような、そんな音。
いや……声だ。
院長室の奥、大きな執務デスクの上に、そいつは、いた。
ゆっくりと、こちらを振り返る。
「何だ、こりゃあ……」
ハルサが最後に聞いたのは、
「きゃらぁあ!!」
奇怪な、高音の咆哮《ほうこう》だった。
足の踏《ふ》み場もない、とはこのことだ。
シャドアニ・イーツ・アイロウは、腹の底からの溜《た》め息《いき》とともに、部屋を眺めた。
それ以外に、どうしようもなかったからだ。
腕時計を確認する。これ以上は待てなかった。
仕方がない。
「いいよ。片づけちゃって」
鑑識に指示を出して、シャドアニは部屋を出た。
ルシャゼリウス市北部の、総合病院である。
その院長室で、院長が殺害された。
何が警報を鳴らしたのか、誰が院長を殺害したのか、今となっては判らない。三人の警備員は院長室の前で全員、死亡していたからだ。
しかも警備員室が、荒らされていた。記録用に回されていた封像盤は全て録画機から引き出され、粉々に砕かれて床に散乱していたのだ。
時刻は、午後一〇時。
深夜と言うには、まだまだ早い時刻だ。
にも拘《かかわ》らず、犯人を目撃した者もいなければ、犯人らしき人物を目撃した者もいない。そして、おそらく犯人を目撃したはずの警備員は殺され、犯人の姿を捉えていた可能性のある記録は全て破壊されたのだ。
院長室の手前は、秘書のデスクがある受付になっている。鑑識官と入れ違いに廊下へ出たシャドアニは、スーツの内ポケットから取り出したサングラスで、両目を隠す。同業者以外の人間が彼の目を見て怯《おび》えないように、だ。
シャドアニの目には、瞳《ひとみ》はない。
その代わりに白目の真ん中に刻まれているのは、緑色の十字なのだ。
無論、人間ではない。
精霊警官だ。
したがって三〇歳そこそこに見える彼の容姿も、見かけだけのものだ。精霊としては若いと言えるシャドアニも、人間の年齢に当てはめれば一〇〇はとうに過ぎているのである。
実のところ、精霊事件を担当する精霊課の発足以前から、精霊警官そのものはそれほど珍しい存在ではなかった。人間社会において、基本的に人間と同等の権利を保証されている精霊達には、職業選択の自由もまた保証されているからだ。
それも、シャドアニやマナガのように人間と見分けのつかない者だけではなく、獣人のごとき異形の精霊が精霊警官として街角に立つことも、したがって決して珍しいことではないのである。
シャドアニ・イーツ・アイロウもまた、そうした精霊警官の一人だった。
所属は、精霊課である。
「ひでぇもんだわ……」
ぼそり、と彼が呟《つぶや》いた時、院長室の手前の秘書室から音楽が聴こえてきた。
警官の一人が、神曲の演奏を始めたのである。
背負っているのは、金属製のバックパックを思わせる道具だ。普段はただの箱に過ぎないその道具が、今は楽士警官の背中で展開している。シャッターやハッチが開き、何本もの金属アームを伸ばしているのだ。
全てのアームは楽士警官の正面に回り込んでいて、その様子は背中に張り付いた巨大なクモのようにも見える。だがそれぞれのアームの先端にあるのは、獲物を捕える爪《つめ》ではない。イクォライザーのスイッチが並んだ制御パネルや、演奏データを表示する空間投影装置、本体に内蔵された封音盤を操作する制御アーム……などなどだ。
その名を、単身楽団《ワンマンオーケストラ》。
一人でオーケストラ並の神曲演奏を可能とする、機械仕掛けの、文字通り『楽団』だ。
主制御楽器は、鍵盤《けんばん》である。
楽士警官がキーボードを叩くと、あらかじめ複数のフレーズを組み込んだ封音盤が再生を開始し、演奏に厚みと幅を与えてゆく。
シャドアニの目の前を、ふわり、と光の球が横切った。
一つではない。
二つ、三つと、それは空間から現れて、演奏中の楽士警官の周囲に集まってゆく。よく見ると、両手で抱えられるほどの光球には、丸い二つの『目』と波形の『口』があった。
ボウライ、と呼ばれる精霊である。
知能の低い下級種だ。内在する力も、大したものではない。ただし、それでも全ての精霊に共通する『光の羽根』はそなえていた。もっともそれは、申し訳程度の小さな小さな一対だけだが。
次々と飛来するボウライの、その数はざっと二〇匹ほど。
楽士警官の演奏に合わせて、ゆったりと波にたゆたうように集まり、そして院長室へと流れ込んでいった。
神曲に応じたのである。
それは、ただの楽曲ではない。人間が精霊と語り、時には操り、時には力を与え、互いに交感するための特別な音楽なのだ。
共振である、と解釈する専門家もいる。すなわち、純粋なエネルギー体である精霊の持つ固有振動数に、音楽が共振するのである。無論その振動数は精霊によって異なり、したがって仮に同じ神曲からでも、そこから得る効果は精霊によって違う。
そしてある程度以上の上級精霊は、自分にとって最も適した神曲と出会った時、これを演奏する楽士と契約しようとする。
精霊契約である。
マナガとマティアの関係が、これに該《あた》る。
無論この契約を成立させるには、神曲楽士の側に相応の技量が要求される。したがって契約を結んだ専属の精霊を持つ楽士は、決して多くはない。メニス帝国全土で三万人とも五万人とも言われる神曲楽士の中で、契約精霊を持つ楽士はほんの一握りなのだ。
今、神曲を演奏中の警官は、残念ながらその一握りの中には入っていないらしい。
実際のところ中級精霊のシャドアニにとっては、その演奏は『薄い』ものだ。しかしそれでも、下級精霊のボウライには充分だったようだ。
ボウライが五匹がかりで、黒い大きな袋を宙へと吊《つ》り上げる。分厚いビニール製の、それは遺体袋である。残る連中は、すでに部屋に入って行ってしまった。
ボウライに、遺体を搬出させるのだ。
通常ならば、やらないことだ。だが今回は、少しばかり事情が違った。
現場が、とんでもない有り様だったからだ。遺体や『残骸《ざんがい》』を、ボウライに任せて宙に吊り上げて回収しなければ、現場そのものを荒らしてしまいかねない状況なのである。
つまり、一面の血の海、だ。
「おうい」
腹の底に響く声は、振り返ると黒いコートの巨漢だった。
「マナガさん」
「ああ、遅くなってごめんよ」
言いながら、どたどたと、早足で廊下を歩いてくる。その向こうでは看護師や入院患者が、不安げな表情でこちらを見ていた。制服の警官が二人で通行止めをしているが、そんなことをしなくても誰もこちらには来そうにない。
「それで?」
腕に座らせるようにして抱いていたマティアを床に降ろし、マナガは息を切らしている。どうやら、駐車場から走ってきたらしい。
「今、運び出すところです。まあ、覗《のぞ》いてみてくださいよ」
言われたとおり秘書室に入ったマナガは、
「ちょいと、ごめんよ」
演奏を続ける楽士警官の頭ごしに、奥の院長室を覗き込む。
「うぅわ」
それが彼の感想だった。
すぐに廊下へ出てきた。太い眉《まゆ》が、くっつきそうなくらいに寄っている。
「どうです?」
「同じだねえ」
ゴトウ・ヴァリエドの事件と、である。違うのは、三つの遺体のオマケ付きである、という点だけだ。
「同じですか」
「ああ、全く同じだよ」
「どう思います?」
「どうもこうもないよ、こりゃあ……」
「六件めですからね」
シャドアニは、なにげなく呟く。
だがその言葉に、マナガは目を剥《む》いた。
「なに?」
その声は相変わらず、静かで、低い。しかし巨漢の顔は、今にも噛《か》みついてきそうなくらいに険しいものだった。
「今、何てった?」
「あ、いや。すみません、何か変なこと言いましたっけ?」
「違うよ。六件めだって言ったか?」
「ああ、はい」
「なにが?」
「ご存知ないんですか?」
この手口が、昨夜が初めてのものではないということを、だ。
「知らない。何だ、それ?」
「六件めなんですよ、同じ手口で。昨日のゴトウ博士殺害が五件めです」
「おい。おいおい、なんでそんな重要な情報が、私んとこに入って来てないんだ?」
「そりゃあ管轄外だからですよ」
二ヶ月前、ホルカンドの視察から戻ったばかりの外交官が、ニロックの自宅で殺害された。これが第一の事件となった。
第二の事件はその二週間後、犠牲《ぎせい》者はウリアンタ市にある製薬会社の社長だった。誰も出入りのなかったはずの社長室で、真っ昼間に惨殺《ざんさつ》された。
その次はさらに一週間後、ホロゼンの別荘地だった。殺害された設計技師は早朝、釣りに出かけたまま戻らなかった。捜索願が出されたが、三日後に湖畔《こはん》で発見された時には、その躯《からだ》は複数に分断されていた。
それから飛んで三週間前、一人の老人の遺体がカルムズの裏通りで発見されたのが、第四の事件である。ずたずたに引き裂かれたその遺体は、後《のち》に高名な作曲家であったことが判明した。
「全部、うちの管轄外なんです」
つまり、ルシャゼリウス市とその周辺以外、という意味だ。
「お前さんは、なんで知ってたんだい」
「知ってたんじゃありませんよ、気づいたんです。ついさっきね」
将都トルバスの全ての警察署では、所轄内で発生した事件の捜査内容をデータ化し、将都警察を通じて共有するシステムが確立している。しかしそれは、あくまでデータであり、誰かがとりまとめて内容を確認したり推論を提示してくれるわけではないのである。
つまり当該事件の担当者が、他に同様の事件が発生している可能性を考慮してデータを検索する機会がない限り、それを発見することは困難なのだ。
シャドアニが、事件の類似に気づいたのも、偶然だった。
たまたま別件でモルグを訪ねた際、イデ・ティグレア検死官が書き上げたばかりの解剖所見を目にしたのである。
「ウリアンタ署に、旧《ふる》い友人がいるんですよ。そいつから聞いた事件の遺体と、ティグの報告書の内容が似てることに気づいたんです」
もしや、とデータを調べてみたら、似たような状況の遺体が他に三つも見つかった。
マナガの担当事件とシャドアニが友人から聞いた事件を合わせて、合計五件。そして緊急出動で病院に来てみれば、そこにはさらに六件めの類似が横たわっていたというわけだ。
「それで、呼んでくれたのか」
「ええ。データベースの書類の表記だけじゃ、確信が持てなかったもんですから。すみません、もうお休みになってたんじゃないですか?」
「いや、本部で書類と睨《にら》めっこしてた。知らせてくれて、ありがとさん」
「ということは、お気づきじゃなかったんですか」
「ああ。そろそろ手詰《てづ》まりっぽいんで、書類の束を引っ繰り返してみなきゃいかんなあ、とは思ってたんだがね。でも、おかげで助かったよ」
そんな二人の前を、ボウライが五匹がかりで、黒い袋を吊り下げて現れた。
中身は、遺体である。
だが、どう見てもその中に収まっているはずの物体は、人間の形をしていない。
「一つ、聞きたいんだが」
廊下の奥へと吊り下げられてゆく遺体袋を目で追いながら、マナガが言う。
「どうぞ?」
「他の四件では、犠牲者は一人ずつなんだな?」
「ええ。マナガさんの担当事件と、同じです」
「じゃあ、これが初めて……ってことか」
二つめの遺体袋が、目の前を通り過ぎてゆく。
「あと、いくつ?」
出てくる遺体袋が、である。
「二つです」
「四人か……」
マナガは、ごつい手で顎《あご》を撫《な》でる。それから、
「妙だな」
呟くように、言いながら視線を投げる相手は、マティアである。
少女も、小さくうなずいた。
「何がですか?」
「なぜ四人も殺されたんだ?」
「そりゃあ……」
簡単なことだ。
「院長を殺害した後、逃げる前に警備員に見つかったからじゃないですか?」
シャドアニは、ノザムカスル大学付属病院の警備態勢について説明した。最先端の監視システムと、常駐する三人の警備員についてだ。
「ああ。私もそうだと思うよ」
言いながら、しかしマナガは、それが納得出来ない様子だった。
「だから、おかしいんだよ。ウリアンタじゃあ社長が社長室で殺されたんだろ?」
「そうですね」
「なんで、社長だけなんだい?」
「そりゃあ……調べてみないと判《わか》りませんが、警備態勢がここほどじゃなかったんじゃないですかね?」
「違う違う。いいかい? 警備員かどうかは関係ないんだ、目撃者の問題なんだよ」
言われて、ようやくシャドアニも理解した。
「そうか……。警備員も、要するに目撃者なんだ」
「そうだよ。そう考えるとウリアンタの製薬会社の方が、目撃者となる可能性のある人間は、はるかに多かったはずだろ?」
真っ昼間、大勢の社員がいる状況での犯行だったのだ。
「どうして誰も気づかなかったんでしょう……」
呟《つぶや》くシャドアニに、マナガは苦笑を浮かべた。
「違うよ。まだ判ってないな? 問題は、逆だ。なぜ今回に限って犯人は目撃を許しちまったのか、そっちの方が問題なんだ」
「……あ!」
そうだ。
そのとおりだ。
マナガの担当するゴトウ・ヴァリエド事件を含めて、もしもこの六件が同じ犯人による犯行だとしたら、今回の事件だけに目撃者が存在することになるのだ!
「判ったかい? 何かが違ったんだよ、今回だけな」
「だったら」
今度こそ、マナガはうなずいた。
「そういうこと」
そこに、解決の糸口があるということだ。
血なまぐさい空気の中、残り二つの遺体袋を、ボウライが運び出していった。
窓から部屋に滑り込むと、キルアラはすぐにバスルームに向かった。
冷やしてやらなければならないからだ。
夫を引き裂いたあの日は、いささかばかり焦《あせ》ったものだ。すぐに通報しなければ後になって疑われるに決まっている、だが冷やしてやらなければ彼女の『躯』は落ち着いてくれないのである。
夫の遺体を後に寝室を飛び出すと、すぐにバスタブに水を張り、冷蔵庫の氷を放《ほう》り込んでから、全身を沈めた。そして警察の到着を待ったのである。コトナミ夫妻の家に転がり込んでからは、浴槽には入らず冷たいシャワーを一時間ほども浴び続けた、そうしてようやく、落ち着いたのだ。
だが今夜は、ゆっくりと時間をかけて冷やしてやれる。
キルアラは浴槽に張った冷たい水に、その美しい裸身《らしん》をゆっくりと沈めた。
満足だった。
警備員の姿を見た時には、これまでか、と思った。だがそれも次の瞬間には、全て解決していた。
これで、六人。
あと二人。
もうすぐ終わるのだ。
バスタブに仰向《あおむ》けになって、ゆっくりと、頭を水の中に沈めてゆく。
鼻と、目と、そして額だけを水の外に出して、キルアラは瞼《まぶた》を閉じた。
真っ暗な闇《やみ》の中に、顔が浮かび上がってくる。
八つの顔。
八人の男の顔。
順番に追い詰められ、引き裂かれ、自身の鮮血にまみれてゆく……顔。
あと二人。
あと、たったの二人だ。
ホルムッド通り一〇三四、そこがマナガの棲家《すみか》である。
市の中心部に近く、署までも車で三〇分以内、徒歩圏内にコンビニエンス・ストアが二軒あり、レンタル封像盤ショップもある。地下鉄の駅も、近いとは言えないが歩いても苦痛を感じるほどではない。
しかしマナガがこのアパートに決めたのは、管理人が精霊だったからだ。
カリナ・ウィン・チトクティルサ。謎《なぞ》の多い人物で、どの枝族に属するのかさえ不明だったが、ともあれマナガと同じフマヌビックである。
見た目は、いささか太めの中年女性、といったところか。何かと口うるさい点が珠に瑕《きず》だが、管理人としては最高だった。何しろアパートに出入りするネズミの数まで、彼女は把握しているのである。
無論、その夜、マナガがすっかり眠り込んだマティアを抱えて帰宅したことも、彼女はきちんと気づいていた。
通りに面したドアを、出来るだけ静かに開ける。
夜も遅いからだ。
「お疲れさんだね」
途端に、玄関脇《わき》の管理人室から、しわがれた声がした。
カリナだ。
窓口のガラスごしに、頬《ほお》のたるんだ丸顔が覗いている。丸《まる》眼鏡《めがね》のフレームの上から、覗き込むような視線は、灰褐色《はいかっしょく》だ。
「やあ、こんばんはカリナさん」
応えるマナガは、腕の中のマティアを起こしてしまわないように、声をひそめて。
「マティアちゃんは人間なんだからね、あんまり夜中まで引っ張り回すんじゃないよ」
「すみません。これも仕事なもんで……」
「あんたがこんな時間までウロウロしてるってことは、また精霊かい?」
犯人が、である。
「ええ、たぶん」
「やな世の中になっちまったねえ」
言って、カリナは煙草《たばこ》をくわえると、火を点《つ》けた。
「あたしゃね、やっぱり精霊が人間に関《かか》わったのは間違いだったと思ってるよ」
言葉とともに吐き出す煙が、管理人室の窓口のガラスで、四方に広がる。
「人間にだって、精霊にない良いところが、たくさんありますよ」
「その代わり、精霊にない悪いところも、たくさんあるさね」
「欲望、ですか」
カリナはうなずいて、付け加える。
「欲望、憎《にく》しみ、妬《ねた》み、嫉《そね》み、恨《うら》み……」
付け加えられたものの方が、多かった。
「人間は、欲求を肥え太らせて欲望にしてしまう。怒りを肥え太らせて憎しみにしてしまう。称賛を妬みに、願いを嫉みに、悔いを恨みにしてしまう」
「マティアもですか?」
カリナの目が、目尻《めじり》のシワが伸びきってしまうほど見開かれた。
「その子は別だよ。でなきゃ、あたしのアパートに人間なんざ入れやしないさ。たとえ、ラグの柱のあんたの連れでもね」
マナガの応えは、苦笑である。
「感謝してますよ」
それだけ言って、マナガは共同ポストを覗《のぞ》き込んでから、暗い板張りの階段を登った。
部屋は三階の右側、エレベーターはない。
銀色のトランクを床に置いて、片手でポケットを探る。部屋のキーを探し当てる前に、かちり、と鍵《かぎ》が開いた。カリナが、下から開けてくれたのだ。
これだけの距離から、見えてもいない鍵を傷つけもせず精霊雷で開けることの出来る精霊は、カリナの他には、そうはいないだろう。
マナガは階段の下に笑顔を投げて『見せて』から、部屋に入った。
浴室を除けば、部屋は三つしかない。
玄関とキッチンを兼ねたリビングルーム、物置、マナガが向かうのは三つ目の部屋である。寝室だ。
暗闇の中で、大小二つのベッドだけが、白くシーツを浮かび上がらせている。
小さい方のベッドにマティア横たえて、ケープとワンピースを脱がせてやる。下着だけにされても、少女は目覚める気配も見せなかった。
毛布をかけてやってから、マナガもコートとジャケットを脱いだ。
隣のベッドに身を投げる。
やれやれ、といったところだ。
病院を出た後、署に戻って、シャドアニの言っていた資料に目を通した。帰宅することにしたのは、しかしマティアがデスクで眠ってしまったためだけではない。
何が何だか判らなかったからだ。
マナガはシャツの胸ポケットから、四つ折りにしたメモを取り出した。
枕元《まくらもと》の窓にはカーテンが引かれていたが、隙間《すきま》から光が差し込んでいる。すぐ隣の飲み屋の、ネオンサインだ。
断続的に色を変える光の中に、マナガはメモをかざした。
書かれているのは、彼自身の文字である。
●シバ・ニシェンダ……外交官。
ニロックの自宅で。
●クツギ・バダムータ……クツギ製薬社長。
ウリアンタ市の自社社長室で。
●アネオ・イギダイス……設計技師。
ホロゼンの別荘地で行方《ゆくえ》不明、後に遺体で発見。
●キダ・オゾワール……作曲家。
カルムズの裏通りで遺体発見、後に身元判明。
●ゴトウ・ヴァリエド……生体工学博士。
自宅で。
●ムタ・クトワルカ……ノザムカスル大学付属病院院長。
院長室で。補足/警備員三名も同時に。
署を出る前に、問題の資料から書き写したものだ。
シャドアニが確認したという過去四件、マナガの担当事件、そして昨夜の病院での事件の、被害者と職業と殺害場所についての抜粋である。
具体的な遺体の状況については、省いた。どれも同じだったからだ。
例外は、三人の警備員だった。引き裂かれていたのは同様だったが、三人とも致命傷となる一撃を受けていたのみだ。
ばらばらだな、と思う。
現場も、被害者の職業も、そして笑えないことに被害者の遺体も……だ。
殺害方法以外に、共通項が何もない。
少なくとも、そう見える。
だが、そうではないことは明らかだった。全ての事件は、目に見えない何かで繋《つな》がっている。それだけは確信があった。
だが、何だ……?
「んー……ん」
マティアだ。見ると、寝苦しそうに寝返りをうつところだった。
毛布から肩が出て、背中が見えた。
マナガが、眉《まゆ》をひそめる。
少女の白い背中にあるものを、見てしまったのだ。
傷だ。
古い傷跡だ。
右の肩甲骨のあたりから始まって、背骨を斜めに横切り、その傷が毛布に隠れた左の脇腹まで続いていることをマナガは知っている。
太い、ケロイド状に盛り上がった、無残《むざん》な傷跡だ。
腕を伸ばして、毛布をかけ直してやると、傷も見えなくなった。
それからマナガはメモをたたみ、元通り胸のポケットに仕舞う。
眠ることにした。
ドアに『遺体安置室』と書かれた部屋で、キルアラを待っていたのは白衣の女性だった。
「ゴトウ・キルアラさんですね?」
「はい」
会話らしい会話と言えば、それだけだ。
ストレッチャーに乗せられた遺体は、白いシーツで覆われていたが、それが誰《だれ》なのかは一目で判《わか》った。
白衣の女性が、シーツの端をめくる。
現れたのは、見慣れた顔である。
ゴトウ・ヴァリエドだ。
白衣の女性が見せないように注意しているらしく、遺体の首から下は全く見えない。そう言えば、シーツに隠れた大きなお腹《なか》は、微妙にその線が崩れているようにも思える。
おそらくシーツの下は、無残な縫合だらけなのだろう。
可愛《かわい》いヴァリィ。
賢《かしこ》いヴァリィ。
優《やさ》しいヴァリィ。
……可哀相《かわいそう》なヴァリエド。
余計なことに気づかなければ、もう少しは生きていられたのに。
うなずいて見せると、キルアラは別室へ通された。病院の待合室を狭くしたような、飾り気のない部屋だ。
出された書類を読んで、サインをした。
それだけだ。
後は全て、警察の方でやってくれるという。つまり遺体を運び出し、キルアラの指定した葬儀社へ運んで、引き渡し手続きも済ませてくれるというわけだ。
正直なところ、拍子抜けだった。
ルシャ市警本部へ来た時には、身構えていたものだったが。
しかし今となって思えば、それは拍子抜けではなく、油断だったのだろう。
「キルアラさん」
その笑顔を見た時に、彼女は思い知ったのだ。
「係の者に聞いたら、こっちでお待ちするのがいいだろうって言われましてね」
警察署の裏の、駐車場である。
フロント以外の全ての窓をスモーク・シールドで覆《おお》った黒塗りのライトバンは、霊柩《れいきゅう》車だ。その脇に、見覚えのある巨漢が立っていたのだ。
マナガ警部補だ。
無論その隣では小さな警部が、前髪の隙間からこちらを見据えている。
「どうも、朝早くからお疲れさまです」
無遠慮《ぶえんりょ》に差し出される巨大な手を、キルアラは笑顔で握り返す。彼女の手は、すっぽりとマナガの手の中に収まってしまった。
「遺体の引き取りに?」
「ええ、これでやっと葬ってやれます」
それはしかし、ある意味で本心だった。
「もしご迷惑でなければ、当日は私も……」
「判りました。決まり次第おしらせします。それで?」
「はい?」
「ご用がおありなんでしょう?」
ああ、と巨漢は手を打った。
「ええ、そうです。お返ししようと思って。ほら、一昨日《おととい》の」
マナガは、例の大きなトランクを足元に置いている。その陰に隠れるように立ったまま、マティアが二冊の赤いファイルを差し出す。
名簿だ。
受け取る時、少女の前髪ごしに、目が合った。
底の見えないような、冷たい瞳だった。
「よかった。これがないと、葬儀の段取りが大変なことになるところでしたわ」
「ええ、そう思って、大慌てでお持ちした次第でして」
「何か参考になりました?」
マナガの巨大な肩が、ぐい、と持ち上がる。首をすくめたのだ。
「それが、せっかくお借りしたのに、さっぱりで。二日がかりで目を通したんですがね」
当然だ、とキルアラは思う。
『計画』に直接つながる名前など、一つもないからだ。
あるいは、彼らがキルアラのミスに気づいていたら、名簿から有効な情報を拾えたかも知れない。だがそれも、もう不可能だ。
キルアラの犯した唯一のミスは、清掃業者が処分してしまったのだから。
「でもまあ、とにかく目を通しましたよ、って事実が必要なだけですから。そうでないと、うるさいんですよ」
「上司の方が?」
「そうなんですよ。ちょっとでも捜査に穴があると、たっぷり一時間は説教喰《く》らっちまうもんですからね」
「複写とかは、取ってらっしゃいます?」
「は? なぜ?」
「いえ、お返しいただくのは助かるんですが、手元に写しを置いておかれた方が。後々また必要になるんじゃないかと思って……」
「いやあ、その必要はありませんよ。手空きの連中にも手伝わせて、一通り連絡とってみたんですがね、みなさん、どの事件にも関与しておられる可能性はありませんでした」
その言葉に、引っかかった。
何かが、キルアラの胸に、嫌なものを残したのだ。
だが、判らない。
何がだ?
「とにかく、助かりましたよ」
「いえ、お役に立てたなら、こちらも嬉《うれ》しいです」
それから、
「早く犯人を捕まえてくださいね」
「頑張ります」
言いながら、マナガのごつい手が霊柩車のドアを開ける。キルアラは笑みを返して、助手席に滑り込んだ。
これから葬儀社にヴァリエドの遺体を預け、葬儀の段取りを始めなければならないし、そう言えば大学からも連絡があった。夫の仕事の件では、弁護士も交えて相談する必要があるだろう。
やるべきことが、山のようにあるのだ。
キルアラを乗せた霊柩車は、喪服姿のドライバーの運転で、駐車場を出てゆく。
バックミラーごしに、二人の刑事の姿が見えた。
通りへ出てゆく霊柩車のテールを見送りながら、
「さてと」
マナガは言った。
「決まり、だな」
「うん」
応《こた》えるのは、マティアである。
「あの人だね」
犯人が、だ。
それも、ゴトウ・ヴァリエド博士の殺害だけではない。シャドアニの言う『同じ事件』全ての、である。
「あの人がなあ」
「美人に弱いのは人間も精霊も同じ、ってことなんじゃないの?」
「神曲楽士か」
「うん。精霊じゃないんでしょ?」
「ああ、違うな」
それは、間違いない。
精霊とは、エネルギー体である。物質化した姿は、つまりある意味において擬態に過ぎない。そして、この際にどのような姿をとるかは、それぞれの精霊の性格と等級によって決定する。
これを分類して、精霊学者らは『枝族』と呼んでいる。すなわち精霊の性質を、その形状から逆算的に総括する、言わば便宜上の総称である。
例えばラマオの枝族は虎に似ているし、セイロウは狼に似ている。そしてそれぞれの枝族の中でも、特に人間に酷似した形状を選択する一群は、フヌマビックと総称されている。
その姿は、羽根さえ展開していなければ人間と全く同じだ。
しかしそれは、あくまで『人間の目から見れば』である。同じ精霊どうしなら、どんな姿をしていても絶対に判るのだ。
ゴトウ・キルアラは、精霊ではない。
だが、
「精霊の『匂《にお》い』は、するんだがな……」
それは、嗅覚《きゅうかく》によって得る感覚を指してはいない。精霊どうしが互いに感じる、言わばエネルギーの共振とも言える感覚だ。
「でも、精霊じゃないんだよね?」
「ああ。精霊だとしたら、弱過ぎる」
だったら、とマティアは言った。
「神曲楽士だろうね」
精霊と人間との相違は、肉体を持つか否かである。そのため、精霊に長時間、あるいは頻繁《ひんぱん》に接する人間が、その肉体に精霊から受けたエネルギーの共振を残す場合があるのだ。
言わば、残留エネルギーである。
キルアラが精霊の『匂い』を纏《まと》いながら、しかし精霊ではないとすれば、彼女が神曲楽士であると考えるのが最《もっと》も妥当《だとう》なのだ。
そしてそれは、なぜ精霊雷を用いなかったか、という疑問への回答でもあった。明確な意図を持った殺人である以上それは中級以上の精霊の犯行だ、と思い込んでいたのだ。
しかし真犯人は神曲楽士で、精霊はその『凶器』として用いられただけだとしたら、話は違ってくる。もしもそれがボウライやジムティルのような下級精霊ならば、人体を破壊し得るほどの精霊雷を放つことは出来ないからだ。そしてそれでも、数さえ揃《そろ》えれば人間を引き裂くことくらいは不可能ではない。
あるいは中級以上の精霊であっても、それが契約精霊ならば『精霊雷を用いずに引き裂いてしまえ』と神曲楽士に命じられれば、従うだろう。
いずれにせよ。
キルアラは神曲楽士であると考えて間違いないだろう。
「家捜しするか」
「令状が下りないよ」
二人は並んで、霊柩車の消えた通りを見つめたまま、言葉を交わす。
まるで、そこに残った目に見えない痕跡《こんせき》を探すかのように。
「彼女がやった、ってことだけは間違いないんだがなあ」
「でも、起訴は無理だね」
「動機が判らない」
「方法もね」
「ああ」
逮捕どころか、家宅捜索の要件さえ満たしていないのだ。
通常、特定の人物を容疑者として扱うには、三つの要件を満たす必要がある。
第一に、犯行の動機があること。
第二に、犯行が可能な技術あるいは能力を有すること。
そして第三に、アリバイを持たないこと。
動機を持ちアリバイのない人物でも、犯行そのものが不可能ならば容疑者にはなり得ない。動機があり犯行が可能でも、アリバイが成立すれば容疑者からは外される。犯行が可能でアリバイのない人物でも、被害者を殺す理由がなければ容疑者ではない。
そういうことだ。
そして現在、ゴトウ・キルアラには、まず動機がない。夫の死亡保険金は、調査の結果、わずか数年分の生活費にも満たないことが判明している。それならば、夫が存命でバリバリ働いてくれた方が、はるかにマシだ。
不倫が動機である可能性も考慮したが、男の影は見えなかった。
そして問題なのは、動機以前に犯行方法が判らない以上、それが可能であったかどうかも不明なのである。
ただ一つ満たしているのは第三の条件……アリバイがない、という点だけだ。
犯行が行われた当時、同じマンションにいたことは彼女自身が認めている。つまり、犯行現場の目と鼻の先にいたのだ。
「どうする?」
巨漢のマナガは、溜《た》め息《いき》まで太い。
「他の五件のアリバイ、あたってみるべきだと思うか?」
「意味ないと思う」
「同感だな」
あるいは事件当日、現場に近い場所にいた、という事実は掘り出せるかも知れない。だがその程度では、アリバイがないという事実を補強するだけなのだ。
それに、
「管轄外だしな」
「病院の方、もっぺん調べてみる?」
マティアの言うのは一昨日、三人の警備員とともに院長が惨殺された、ノザムカスル大学付属病院だ。
全部で六件の……言わば連続殺人の中で、この一件だけが二人以上の犠牲者を出している。しかも、殺害方法が他の事件と一致する遺体は一つだけで、それ以外の三人は略式とも言える殺され方をしているのだ。
なぜ、一昨日の事件だけが、他とは違うのか。
一つだけ、符合がある。
一昨日の病院の事件だけが、他の五件にない条件を含んでいるのである。
最初の五件では、警察にとってゴトウ・キルアラの存在は捜査の範囲外だったのだ。
「マナガ……」
少女はマナガを振り返る。
ほとんど真下から見上げるような格好だ。
「根拠ないんだけどさ」
前置きしてから、マティアは一瞬だけ視線を逸《そ》らす。戻ってきた黒い瞳には、かすかに怯《おび》えが見えた。
「まだ終わりじゃない気がするんだ、あたし」
なにが?
決まっている。
連続殺人が、だ。
院長室は、綺麗《きれい》に掃除されていた。
ゴトウ家のマンションのように運び出されてしまったものもあったようだが、執務デスクや椅子《いす》、書架など大半のものは、綺麗に血糊《ちのり》を拭《ぬぐ》われて、残されている。
重い靴音が、ごとん、と響いた。
板張りの床が、剥《む》き出《だ》しなのだ。さすがに絨毯《じゅうたん》は、処分するしかなかったようだ。
「運び出した物は、もう処分しちゃいましたか?」
マナガの問いに、いいえ、と答えるのはクリーム色のスーツの女性だ。
「明日、業者が回収してくれることになってます」
院長秘書である。
一昨日の夜、院長から帰宅を許されて難を逃れたのだ。
「必要なら、ご案内しますが」
「あ、今はいいです。必要になったら、その時はお願いします」
マティアの方は、さっきから院長室をあちらへ、こちらへと歩き回っている。口元をハンカチで覆っているのは、まだ血の臭《にお》いと洗剤の匂いが混じって、かなりの刺激臭になっているからだろう。
デスクの下を覗《のぞ》き込み、書架を眺め、壁沿いに歩いては天井を見上げる。やがて彼女は、壁にかけられた額に目を留めた。
七つほどの額が、天井に近いあたりに横一列で並んでいる。
左側の一枚は老人の写真、それから五枚ほど賞状が並んで、右端の一枚も写真だった。ゆっくりと歩きながら順番に眺めていたマティアの足が、ぱた、と止まった。
見上げているのは右端の、集合写真である。
女性も男性もいる。全員が白衣を身に着けているが、どの顔も若い。マティアは、その写真を見上げているのだ。
「あれは?」
マナガの質問に、院長秘書は首を伸ばして確認してから、ああ、と言った。
「院長の、学生時代の写真です」
「学生時代……」
「ええ。ノザムカスル大学の医学部です」
「ほお」
そう言われて見れば、背景となっているのは学舎のようだ。学舎を背景に、若き医者の卵が十数人、並んでいるのである。
マナガもマティアの後ろに並んで、写真を見上げる。そのすぐ後ろに、院長秘書もついてきた。
「あれが、院長先生です」
ムタ・クトワルカだ。
真ん中の、やや左。細面で、精悍《せいかん》な印象である。
だが、
「失礼ですが、お若いとは言えませんね」
「ええ。たしか三五だか六だかのころだったとお聞きしていました」
シャドアニから回してもらった資料では、亡くなったムタ・クトワルカ院長は、享年六〇歳である。
「すると……ええと、二〇年ほど前ですか」
「二十四年ですね」
「こんな若い連中に混じって……。苦労人だったんですなあ」
「どうでしょうか。あまり昔のことはお話にならない方でしたから……」
その時だ。
ふいにマティアが、細い腕を上げたのである。ケープのアームスリットから伸びた腕の先で、人差し指が真《ま》っ直《す》ぐに写真を指している。
「あの人……」
ぽそり、とマティアは言った。
「……誰《だれ》?」
「なに?」
「院長の右側」
人のよさそうな青年だった。
年齢は見たところ二〇歳そこそこ。銀縁《ぎんぶち》眼鏡《めがね》をかけて、華奢《きゃしゃ》と言うほどではないが、線は細い。目尻《めじり》を下げて、にこにこと微笑《ほほえ》んでいる。
よく見ると、肩の上に隣の人物の手が置かれていた。
ムタ院長の手だ。
「お友達だったんでしょうかね」
「さあ。少なくとも私は、面識がありませんが……」
「判《わか》らないってよ」
マティアは腕を下ろし、しかしその写真をじっと見つめたままだ。
「どうした?」
小さく首を振る。
それからマナガを振り返って、囁《ささや》くように言った。
「もういい」
「そうか」
それから、院長秘書の案内で、警備員室へ移動した。
一階の奥、救急救命センターの脇《わき》である。
三人の警備員は当然、事件の事情は伝聞でしか知らない様子だった。しかもシャドアニの話にあったとおり、当夜の封像盤は全て破壊されていたため、何があったのかを正確に再現することも出来ないという。
「ああ、でもね」
そう言って、中年の警備員が何やらプリントされた紙を引っ張りだしてきた。
「こんだけは、判ってるんですよ。ほら、ここ」
「どれ」
マナガは覗き込んだ。
ぎっちりと数字が並んでいる。どうやら、何かの記録らしい。
「何だい、これ」
「事件の夜の、感知装置の記録」
受け取ってみたが、やはり何が何だかさっぱり判らない。
「悪いけど、説明してよ」
「よござんすよ」
それは全館を監視する警備システムの、レポートだった。
一行にまとめられた記録の、左端が日付、その隣が曜日、さらに四桁《けた》の数字は時刻である。その右側は、大きな余白だ。
「この右っ側に何も書いてないのは、つまり何の異状もないってことです」
ところが、と警備員の指が、レポートの下の方へと滑ってゆく。
「ほら、ここ。『温感・+250/・03・08/警報』ってあるでしょ?」
「ああ、あるね」
その一行だけが、日時の右側にも記入があるのだ。
「温感ってのは、すでに施錠されて人がいないはずの部屋に、体温以上の熱が感知されたってこと。+250だから、約二五〇度の熱源を感知したわけね」
「体温じゃないね」
「そうね。で、03っていうのは、三階フロア。08っていうのは、院長秘書室のこと」
ということは、
「誰もいないはずの秘書室で、いきなり熱が発生したってことかい?」
二五〇度と言えば、乾燥した紙ならば自然発火する温度だ。
「そ。警備の機械は、火事だと判断したみたいですな。なもんだから、警報が作動した」
なるほど。行の右端にある『警報』とは、そういう意味か。
「なるほどねえ。それで、夜勤の警備員が三人、院長室に駆けつけた……」
「そういう規則になってますからね」
そして、殺害されたのだ。
「映像記録は残ってない?」
「ええ。現場周辺には三つのカメラがあったんですが、そこからの映像を記録してたはずの封像盤は三枚とも粉々《こなごな》になってたそうで……」
シャドアニも、たしかにそう言っていた。
「他には何も残ってないの?」
警備員は、三人揃《そろ》って首をすくめる。つまり、なし、である。
マナガは、相棒を振り返る。戸口のマティアは、小さくうなずいただけだ。
「ありがとう。参考になったよ」
つまり、ここにも手掛かりはない、ということが明確になったわけだ。
ゆるやかな丘の斜面には、低い墓標が立ち並んでいる。
冬に向けて木々は枯れ、緑の色を失い始めた芝生《しばふ》のそこここで、枯れ葉が吹き溜まっていた。
「……その肉体が生命のしらべを終えたる後《のち》も、魂のしらべは絶えることなし。灰は灰に、塵《ちり》は塵に還りしも、母なる神のしらべは絶えることなし……」
黒いガウンに身を包んだ司祭の朗読は、詩篇第七章……『ティサマル人《びと》への手紙』の一節だ。
ゴトウ・キルアラは無神論者である。
少なくとも、聞えの良くない表現を避けるならば、だが。
それでも亡夫の葬儀をカレスタ式にしたのは、ヴァリエドがカレスタ教徒だったからだ。
参列者は、一〇〇人以上にも及んだ。
分厚いオーク材の柩《ひつぎ》の周囲には、黒い喪服が肩を寄せ合うようにして人垣をなしている。
ヴァリエドが勤めた大学の研究室の面々を始め、学会で知り合った同業者や、古い友人も混じっている。若者の姿が目立つのは、彼の講義を履修していた学生達だろう。
誰もが沈痛な面持ちで、すすり泣く者も少なくはなかった。
人気者だったのね、とキルアラは思う。
そうね。
私も、嫌いじゃなかったわ。
ベッドの中でさえね。
そのベッドでヴァリエドが死んでから、五日めの夕刻である。
間もなく司祭の朗読も終わる。
そうすれば柩は長方形の穴に下ろされ、土がかけられ、その上から今朝出来上がってきたばかりの墓標が乗せられることになる。
それで、終わりだ。
とりあえず、この件は。
さようならヴァリィ。神話が本当なら、また会いましょう。
「……世のしらべたるしらべは、限りなく汝《なんじ》のものなればなり。エイメン」
司祭の言葉に、
「エイメン」
参列者が唱和する。
それから、手回しのクレーンで柩が下ろされ、シャベルで最初の土をかけるのが未亡人となったキルアラの最後の仕事だった。
喪服の人垣は崩れ、駐車場へと移動してゆく。
「気を落とさないでね」
そう言い残して背を向けるのは、たしかヴァリエドの弟だ。
「何かあったら、いつでも言ってきてください」
これは、たしかヴァリィの義理の妹だったか。
「落ち着いたころに、連絡してきてください」
ヴァリィの研究室の、主任である。
それぞれが、それぞれにキルアラを気遣い、言葉をかけては去ってゆく。ヴァリエドの老いた両親は、互いに肩を抱き合って、義父の方が会釈を残しただけだった。義理の娘を気遣っている余裕などない、ということだろう。
徐々に人の姿が減ってゆく墓地を眺めて、キルアラはふいに気がついた。
そう言えば、あの刑事が来ていない。
マナガ警部補と、マティア警部だ。
通知は、書面で出しておいた。本当に来ると思ってはいなかったが、しかし来ていないとなると何とも肩すかしを喰《く》らった気分だった。
まあいい。
これで一段落ついた。
あの二人が来なかったということは、あるいはキルアラが容疑者から外されたということかも知れない。ならば、残る二人については、これまでのように、じっくりと準備してから事に当たるべきだろう。
焦《あせ》れば、ミスを犯す。
六人めのように。
あんな失敗は、二度と繰り返す気にはなれなかった。
「キルアラ」
散ってゆく人々に逆らうように、一人の女性が近づいてくる。同じような黒い服装の中で、しかし彼女だけは一目で誰だか判った。
「キルアラ、キルアラ」
駆け寄って、抱きついてくる。太い腰回りと競うように大きな乳房が、激突の勢いで押しつけられた。むっ、と立ち上がってくる熱気は、相手の体温だ。
「気を落とさないでね。可哀相にね」
言いながら、化粧をぐちゃぐちゃにして泣いているのは、キルアラを抱きしめた彼女の方である。
コトナミ・ノジベル。ヴァリィの友人、コトナミ・ペシアルの妻だ。
「ずっと心配だったのよ、平気だった?」
そう言えばあの日、メモを残して彼女の家を出てから、連絡していなかったことを思い出した。
「ありがとう。私は平気よ、ノジベル」
ノジベルの背後から斜面を歩いてくるのは、ペシアルだ。肥満ぎみのノジベルに対して、ペシアルの方は眼鏡の痩身《そうしん》、いかにも学者タイプである。
かすかな笑みでうなずいて見せる、たったそれだけの仕種にさえ知性が透けて見えた。
「来てくれてありがとう、ペシアル」
「とんでもない」
応えるペシアルは、辛そうな苦笑だ。
「月並みなことしか言えないけど、何かあったら力になるからね」
「ありがとう」
キルアラも、笑みを見せる。
だが、車で送る、というコトナミ夫妻の申し出は、断った。葬儀社の車を待たせてあるし、それに考えたいことが山ほどあったからだ。
あと二人。
そう……あと二人なのだ。
葬儀社の車が、ゆったりとカーブした道を去ってゆく。
見送るコトナミ・ノジベルは、黒い車が丘の向こうに見えなくなってしまってから、深い溜め息をついた。
その肩を、ペシアルが抱いてくれる。
「僕らも行こうか」
うなずいてから、ノジベルは洟《はな》をすすり上げた。
「キルアラも気の毒にね……」
そう言った時だ。
「あのお」
いきなり背後から、声をかけられた。低いが、腹の底に響く声だった。
振り返ってみて、驚いた。見上げんばかりの大男が、ぼそりと立っていたのである。
それも、すぐ後ろにだ。
「コトナミご夫妻ですね?」
黒いコートの男である。右手には、子供くらいならすっぽり入ってしまいそうな銀色のトランクを下げている。
参列者ではない。もしこんな人物が混じっていれば、誰よりも目についたはずだ。
「どなたでしょう」
応えるペシアルの声も、緊張にこわばっている。その言葉を予想していたかのように、男は慣れた手つきで手帳を見せた。
ぱたり、と開くと中には金色の大きなバッジが光っている。
「ルシャ市警のマナガ警部補です」
その言葉に続いて、男の背後に隠れるように立っていた少女が、するりと前へ出る。
同じように、手帳を開いた。
「マチヤ警部です」
刑事?
この二人が?
だがノジベルが目の前の二人に驚いている一方で、ペシアルの方はそれに惑わされることなく事態を正確に把握していた。
「ヴァリィの件ですね?」
そうです、と応えるマナガ刑事の声は、まるで天から降ってくるようだ。
「なぜ僕達に? そりゃあ協力は惜しみませんが、でも何も知りませんよ」
「だけど、亡くなったゴトウ博士とは、ご友人だったんでしょ?」
「ええ、まあ……」
「キルアラさんとも?」
その言葉に、今度はノジベルの方が敏感に反応した。
「あの子は関係ありませんよ!」
思わず、そう言い放ってしまう。だが困惑したのは、巨漢の方だった。
「あ、いや、ごめんなさい。そんなつもりじゃあ……」
言い淀《よど》んで頭を掻《か》く。困ったような笑みを浮かべて、顔の造作《ぞうさく》の割に可愛《かわい》らしい目が、しぱしぱと瞬《まばた》きを繰り返した。
「いわゆる型通りの捜査、ってやつなんですよ。でもねぇ、ご亭主を亡くされたばかりのキルアラさんを、質問責めにするわけにはいきませんから」
それじゃあ、とペシアルが助け船を出す。
「キルアラが容疑者、というわけではないんですね?」
「ええ、いやまあ、こういうややこしい事件の場合は、誰もが容疑者になり得るんですけどね。でも、少なくともキルアラさんは、まだ容疑者とは言えません」
まだ、という一言が気にかかったが、それでもマナガ刑事の言いたいことは判った。それはペシアルも同様だったようだ。
「判りました。それで刑事さん、僕らに何を?」
「ええ。事件前後のキルアラさんの行動の、裏付けを取らなきゃいかんのです。いえ、疑ってるとかそういうんじゃなくて、あくまで形式としてね」
それからマナガは、巨大な肩をすくめて見せた。
「私の上司が、とにかくうるさ型でしてね。裏の取れない証言で書類を埋めても、認めてくれないんですよ」
「どこも同じですね」
ペシアルの、それは苦笑である。
「で? キルアラの行動ですね?」
「はい」
「事件前は、二週間ほど会っていませんでしたね。当日のことは……」
とつとつとペシアルが語る内容は、ノジベルの記憶とも一致していた。
明け方に、相変わらず一方的な電話で起こされ、迎える準備をした。婦人警官に付き添《そ》われてやって来たキルアラは憔悴《しょうすい》しきった様子で、夫妻が用意したアルコールを少しだけ飲み、風呂《ふろ》に入り、それからほとんど会話もせずに寝ついた。
「すぐにお休みになられました?」
マナガの質問に、ペシアルがこちらを振り返る。だからノジベルは、大きくうなずいて見せた。
「ええ。ベッドに入れてあげて、そしたら電気を消してドアを閉じるころには、もう寝息をたててましたから。よほど疲れてたんだと思います」
そして翌朝、夫妻はキルアラを起こさずに家を出た。
帰宅したら、メモだけが残っていたというわけだ。
「何か、奇妙に思われたことなどは?」
「いいえ、別に」
その言葉を、ノジベルが補足した。
「お風呂が長いな、とは思いましたけど」
ああ、と夫も同意の声をあげる。
「一時間ほども入ってましたか」
「いつもは、もっと早いんですか?」
「それは知りません」
「ああ、なるほど」
大柄な刑事の、それは苦笑である。
「それから今日まで、連絡はとっておられない?」
ええ、とペシアルが応える。
「電話も?」
「ええ。かかってきませんでした」
「お宅の方からは、おかけにならなかったんですか?」
「なぜです?」
「いえ、だって、ご心配だったんでしょう?」
「ヴァリィがいないのに、出られるわけがないじゃないですか」
夫の言葉を聞いて、ふいにノジベルは気がついた。
「あなた。ひょっとして刑事さん、ご存知ないのよ」
「え? ああ」
「何がです?」
太い首をかしげる巨漢に、ノジベルは言った。
「キルアラは、耳が聴《き》こえないんですよ」
「は?」
「聴こえないんです。子供のころからだそうですよ」
マナガ刑事は、心底から驚いた様子だった。小さな少女と顔を見合せ、再びノジベルに戻ってきた二つの目は、いっぱいに見開かれていた。
「聴こえないんですか!?」
「ええ」
「そんなこと一言も……」
「そうでしょうね。訊《き》かれるまでは、言わないと思いますよ」
「でも、普通に会話してましたよ」
「唇を読むんですよ。でも電話では唇が見えないから、だから彼女からの電話はつねに一方的です」
「そんな……」
「イエスとノーだけは、応えられますけどね。あの家の電話機、ご覧になりました? ランプが付いてましたでしょ?」
「あ、ええっと……」
再び巨大な顔が、相棒の小さな刑事を振り返る。マティアは小さくうなずいた。
「あったみたいですね」
「あるんです。こっちの電話機で通話中にトーン・キーを押しますとね、キルアラの方の電話で、ランプが光るんです。一回でイエス、二回でノーと決めてます。それで、簡単な会話が出来るんですよ」
「それじゃあ、あの日も……」
「ええ。電話を取ったら、もしもしキルアラです、って。だから私は、キーを一回押しました。キルアラは、主人が殺されたの、今からそっちへ行っていい? 私、びっくりしちゃったけど、とにかくまたキーを一回、押しました。詳しいことは着いてから話すわ。キーを一回。それじゃあ。キーを一回。それで電話は切れました」
「そう、だったんですか……」
岩から彫り出したようなマナガの顔に浮かぶのは、落胆《らくたん》だ。
すぐに笑みが戻ってきたが、それは明らかに作り笑いだった。
「ありがとうございます。非常に参考になりました」
言い置いて、巨漢の方が退《さ》がる。
小柄な少女の方も、頭を下げた。
背後から呼び止めるのは、今度はノジベルの番だった。
「あの」
マティアは、振り返らない。マナガだけが、のっそりと首だけで振り返る。
「やっぱりキルアラが疑われてるんですか!?」
巨漢は背中を向ける前に、小さく肩をすくめて見せただけだった。
マナガの声は、
「どういうことだ?」
囁《ささや》きでも、腹に響く。
「耳の聴こえない神曲楽士なんて、あり得るのか」
「無理だよ……」
芝を踏む二人の足音は、奥歯で砂を噛《か》む音に似ている。
じゃり。
じゃり。
じゃり。
「ということは…………違う、のか」
キルアラが犯人である、という読みが、だ。
「判《わか》んない」
マティアである。
「判らんな」
「判んないよ」
突風が吹いて、二人の目の前で枯れ葉の渦が立ち上がった。
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第三章 囁《ささや》く過去
大通りに面したガラス張りの扉には、白い塗料で三行の文字が横書きされている。
『第三神曲公社公認』
『認可番号066249』
そして一番下には、他よりも大きく太い文字で、
『ツゲ神曲楽士派遣事務所』
専属の契約楽士を持たない企業あるいは個人に対して、要請に応じて所属の神曲楽士を派遣する、要するに神曲楽士のレンタル業である。
この『ツゲ神曲楽士派遣事務所』も、そういった派遣業の一つである。
ただし、業界の中でもかなり特異な存在であることは否めない。
所長をはじめ、所員は全員、二〇代。
しかも人数はたったの三人、マネージャーやアルバイトを含めても六人しかいない。
業務内容も土木工事から失《う》せ物探し、果ては商店街の害虫駆除や大企業への人材派遣まで、およそ神曲楽士の手を必要とするあらゆる要請に対応するのである。
しかしその名は、所在地のイガナ区どころかトルバス全域、さらには帝都メイナードまで轟《とどろ》いている。
いくつかの精霊事件に関《かか》わり、それらを解決に導いた実績があるのだ。
『精霊発電所事件』や、新しいところでは『謎の連続物損事件』にも協力しているという。マナガの担当した『オゾネ・クデンダル事件』も、この事務所の協力が得られなければ悲劇的な結末を迎えていたに違いない。
そういうわけでマナガは、三行の白い文字が書かれたガラス戸を開ける。
マティアを除けば、彼が最も信頼する神曲楽士が、そこにいるからだ。墓地から、その足でやって来たのである。
「おじゃまします」
太く響くマナガの声に、
「いらっしゃいませ」
高く澄んだ声が応《こた》える。それも、ユニゾンである。
カウンターの奥で彼を迎えるのは、二人の少女だ。金髪のツインテールと銀髪のストレート、しかし対照的な髪型に反して、顔だちは二人ともよく似ている。初めて見る顔だったが、いつぞや所長が言っていたアルバイトの『双子ちゃん』だろう。
もっとも、顔だちは似ているのに雰囲気は全く違う。特に銀髪の少女の方は、どこか浮世《うきよ》離れした儚《はかな》さを感じさせた。
「あのぉ、ルシャ市警の者なんだけどね。所長さん……」
そこまで言った時だ。カウンターのさらに奥から、さらに別の声が飛んできた。歯切れのいい、これも女性の声だ。
「あ、マナガさん、どうぞ」
カウンターの奥には六つの事務用デスクが並んでいる。その奥、突き当たりの壁際のデスクで、一人の若い女性が立ち上がって手を挙げていた。
ぱりっとスーツを着こなし、短く切り揃《そろ》えられた髪型も快活そのものだ。
ツゲ神曲楽士派遣事務所の若き所長、ツゲ・ユフィンリーである。
「ペルセ、お茶お願い。プリネは、ミゾロギさんから電話あると思うから、こっちからかけ直すって言っといて」
はい、と応える二人の少女の、それが名前であるようだ。
奥の応接室に通される。
「ほう」
思わず、マナガは声をあげた。
隠れるように後ろをついて来ていたマティアも、惹《ひ》かれるように前へ出る。
壮観だった。
部屋の中央に低いコーヒーテーブルが置かれ、それをソファと二脚のボックスチェアが挟んでいるのは、よくある配置だ。部屋の隅の観葉植物も、壁に並んだいくつもの賞状も、応接室なら定番の装飾である。
だが問題は、奥の壁際に据えられた大型のスチールラックだった。
単身楽団《ワンマン・オーケストラ》が七つか八つ、ずらりと並べられている。しかも、その全てが一目で一級品と判るシロモノなのだ。
大半がリーランド以前のモデルで、ラディバリーの初期モデルなどマナガでも目にするのは久しぶりだ。これほどの物が並ぶ光景は、ここ以外では神曲博物館にでも行かなければ見ることは出来ないだろう。
マティアはラックの前に呆然《ぼうぜん》と立ちすくんで、舐《な》めるように眺めている。
「ああ、それねえ」
言いながら、ユフィンリーの笑みは苦笑気味だ。
「成り金趣味みたいで、あんまりやりたくないんだけどさ」
「いやあ、とんでもない。見事なもんですよ」
「半分は税金対策、半分は安心を売るため、ってとこで勘弁してね」
「安心?」
「そ」
それからユフィンリー所長は、肩をすくめる。
「楽士派遣を訪ねる人の中には、おおっぴらに言えないような問題を抱えてる人もいてね、そういう人は、この部屋に通して話を聞くわけ。こっそりとね。そういう人がさ、こうやって単身楽団が並んでるのを見ると、安心するわけね」
「ああ、なるほど」
賞状もいっぱいある、調度品にも金がかかっている、しかも高価なアンティークの単身楽団までコレクションしている。自分の相談相手は、やり手の神曲楽士なのだ。……そう思わせてやることが出来るというわけだ。
ユフィンリーがボックスチェアに、その向かい側にマナガが座る。
「警察官が格好イイ制服を着てるのと、同じことね」
マニア垂涎《すいぜん》のコレクションからようやくのことで視線を引っぺがしたマティアも、マナガの隣に滑り込んだ。
「それで?」
運ばれてきたのは、コーヒーが二つとオレンジジュースが一つ。ペルセ、と呼ばれた少女がトレイを手に部屋を出てから、ユフィンリーは口を開いた。
「電話で、相談がある、って言ってたよね? なに?」
「はあ。ちょっとお訊きしたいことがありましてね」
大柄なマナガは、ソファに座っていても、膝《ひざ》の位置が高い。その膝に、指を組んだ腕を置いて、そうすると必然的に前のめりになる。
「私らみたいな精霊は、自分の契約者以外の神曲楽士には意外と興味がないものでしてね、そのせいで逆に、神曲楽士の実体ってのは知らなかったりするもんなんです」
「うん」
「でもツゲ先生ならですね……」
そこまで言って、遮られた。
「あー、その『ツゲ先生』っての、なし。約束したでしょ?」
「あいや、失礼」
「また呼んだら、マナガリアスティノークル、って呼んじゃうぞ」
にんまりと、ユフィンリーが笑う。
そう言えば、マナガリアスティノークルという彼の名前を一度で憶《おぼ》えたのも、少なくとも人間では彼女が初めてだったのだ。
「そいつぁ勘弁してください。今さら照れ臭くって……」
「あんなこと言ってるし」
くすくすと笑うユフィンリーの視線は、マティアに向けられている。マティアの方も、かすかな笑みを返していた。
考えてみれば、マティアを最初から『マチヤ警部』と呼んだのも、彼女だけだ。みんなが彼女を『マティア』と呼び、彼女自身の自己紹介も舌足らずなせいで、誰もが彼女を『マティア警部』と呼ぶのである。
無論《むろん》それは、今となっては仲間うちの愛称ではある。だが、それが愛称であることを一度で聴き分けたのだから、さすがは神曲楽士、と言うべきだろう。
だからこそ、
「ユフィンリーさんなら、あるいは何かご存知かと思いましたものでね」
二人はこの事務所に足を運んだのだ。
「いいよ。なに?」
「あのですね……」
マナガは、さらに前のめりになる。
「耳の聴こえない神曲楽士……なんてのは、あり得るんでしょうかね」
「無理」
即答だった。
「無理ですか?」
「無理。耳が聴こえなければ、神曲楽士は絶対に無理」
「でも、ベートーヴェンみたいな例もありますよ」
「作曲家ならね。それに通常の音楽なら、耳が聴こえなくても演奏は出来ると思うよ。でも神曲だけは、絶対に無理だよ」
「絶対に、ですか」
「技術的な話が聞きたい?」
「あ、いえ。それはマティアの方から聞きました」
神曲とは特異な言語である、というのがマティアの説明だった。
そもそも言語とは『音』の組み合わせであり、その意味では音楽と……ひいては神曲と何ら相違はない。しかし言語が、マティアの表現では『音のカタチ』によって成立しているのに対し、神曲は『流れ』によって形成されているのだという。
通常の言語は、波長とも周波数とも関係なく成立する。しかし神曲は、波長と周波数による言語なのだ。そして何より問題なのは、そこには一切の『定型』がない、ということだ。
全く同じ演奏が、精霊にとっては異なる『意味』を持ち得るのである。無論、逆に全く異なる演奏が、精霊にとっては同じ『意味』を持ち得るのだ。
神曲楽士は、それを自身の『耳』によって識別する。あるいは、そういった識別能力を持つことこそが、演奏技術よりも神曲楽士に求められる才能であると言えるかも知れない。
なぜなら、そもそも精霊と心を通わせることが出来なければ、識別そのものが不可能だからだ。そして一方で、精霊と心を通わせる技術が神曲なのである。
必要条件が、相互にループするのだ。
マナガの説明を黙って聞いていたユフィンリーは、小さくうなずいてから、言った。
「さすがマティアね、独学だけでそこまで辿《たど》り着くなんて、私じゃ無理だわ」
「そうなんですか?」
思わず、マナガは隣の相棒を振り返ってしまう。膝を揃えてマティアが俯《うつむ》いてしまうのは、照れだ。
「うん。それって学院じゃ専門課程でも後期にならないと教えないような、専門理論だもん。なるほど、そりゃあ単身楽団も必要ないはずだわ」
黒いワンピースから伸びたマティアの白い膝が、もじもじと動く。
だが、ここへはマティアの天才ぶりを褒めてもらいに来たわけではないのだ。
「じゃあ、耳の聴こえない神曲楽士は絶対にあり得ない、ということですね」
「そうね。少なくとも理論的には、あり得ないわ」
それから、少し考えるような素振りを見せて、ツゲ・ユフィンリーは付け加えた。
「視力が低ければ飛行機のパイロットにはなれないし、太っていたらファッション・モデルにはなれない。鍛えても筋肉のつかない人はレスラーになるのは無理」
そりゃそうだ。
「それと同じことよ。才能と努力が充分なら、例えば脚《あし》が不自由でも神曲楽士にはなれる。両手が不自由でも主制御楽器さえ選べば不可能じゃないし、目の見えない楽士だって何人もいる。でも耳が聴こえないのだけは、無理」
「例外は考えられませんか?」
「現時点では、無理ね。あと何年かしたら、耳が不自由でも神曲を演奏可能にする単身楽団が開発されるかも知れないけど、でも今の時点では例外はないわ」
業界そのものと深く関わるユフィンリーの言葉である。その断言を疑う理由は、マナガにはなかった。
「そうですか」
太い指先でつまむように、コーヒーカップを口元へ運ぶ。
「あり得ませんか……」
それは絶望的な断言だった。
キルアラの耳が聴こえないことは、事実だ。少なくとも、これを覆すだけの根拠は存在しない。
クスノメ・マニエティカ婦警も、コトナミ夫妻の家から出てきたキルアラを署へ連れて行こうとした日、去ってゆく彼女に背後から声をかけても相手は振り返らなかったと証言した。今にして思えば無視していたと言うより聴こえなかったみたいです、というのがクスノメの言い分である。
それにパトカーに乗せた時にも、つねにバックミラーには後部座席のキルアラが映っていたという。彼女がクスノメ婦警の唇を読んでいたのだとしたら、必然的に、そうなったはずだ。
いや、それどころかマナガ自身が、キルアラの耳が不自由である傍証《ぼうしょう》を体験しているのである。名簿のファイルを借り受けた日、キルアラはマナガがドアをノックする音にも、呼びかける声にも、一切反応しなかった。マナガが部屋に飛び込んできて、初めて驚いて見せたのだ。
無論、芝居と考えることも出来なくはない。
自分が神曲楽士であることを隠すために、だ。
だがそれなら、耳が不自由であることは自分から言い出すはずだ。無論、自分ではない第三者の口から告げた方が、説得力はある。しかし、その偶然を待っている間に捜査が進めば、あるいは決定的な証拠の方を先に発見されてしまう危険性が増すだけなのである。
リスクが大き過ぎる。
では、キルアラは犯人ではないということなのか?
「ありがとうございます」
マナガは、暗澹《あんたん》たる気分でソファを立つ。
それはユフィンリーにも伝わったようだ。
「ねえ。困ってるんだったら、詳しく話してくれない? 守秘義務は守るからさ」
ありがたい申し出だった。
だが、
「すみません。そいつは出来ないんです」
なぜなら、
マナガとマティアは、警官なのだ。
「そっか。でも、解決したら話してよね」
「ええ、そりゃもちろん」
マナガの言葉に、マティアが付け加えた。
「でも、二番めね」
少女の瞳《ひとみ》には、決意があった。
連続殺人事件の謎《なぞ》を解いた時、最初にそれを突き付ける相手は、他にいる。
そう。
犯人だ。
狭い上に、窓もない。
まるで、穴蔵だ。
そんな部屋に閉じこもって、二人はしかし部屋を出たいとも思わなかったし、そもそも苦痛にさえ感じてはいなかった。
快適、という意味ではない。
苦痛を感じる余裕もない、という意味だ。
ルシャ市警精霊課、マナガとマティアの執務室である。二つのデスクには書類が積み重ねられ、空いたスペースには開かれたファイルや書類が、これまたいくつも重なっている。
マティアのデスクの方は書類が少ないが、そこにはレオナルド・バーガーのテイクアウトが二つ、置かれているからだ。
どちらも、袋に入ったままだ。
ツゲ神曲楽士派遣事務所から戻る途中で買ってきて、そのままなのである。
壁の時計は、すでに午前一時に近い。
「むう」
マナガの呻《うめ》きは、ほとんど獣の唸《うな》りだ。コートだけでなく上着も脱いで、シャツの袖《そで》は肘《ひじ》までまくっている。その鉄槌《てっつい》みたいな肘をデスクについて、ごつい顎《あご》をごつい手で支えた頬杖《ほおづえ》の状態で、反対の手に持った書類を睨《にら》みつけているのだ。
「何も出ない?」
マティアの問いに、
「出ない」
応《こた》える声は、いつにも増して腹の底に響く。
被害者の共通点が、である。
二つのデスクに積み上げられた書類は、これまでの六件の殺人に関する資料である。事件そのものの鑑識報告や検死報告、被害者自身についての資料を始め、その周辺人物に対する事情聴取や現場周辺の聞き込み調査まで、ありとあらゆる資料が揃《そろ》えられていた。
だが、それでも『出ない』のだ。
「可能性は、二つだな」
「なに?」
問うマティアの方も、視線は資料書類に据えたままだ。
「可能性イチ、通り魔殺人」
「却下」
「理由は?」
「通り魔だったら、わざわざ困難な犯行は犯さないから」
クツギ製薬の本社ビルで殺害されたクツギ・バダムータや、ノザムカスル大学付属病院のムタ・クトワルカの件だ。特にクツギ社長が殺害されたのは昼間、大勢の社員がいる間の出来事なのだ。
「同感だな」
「もう一つは?」
「記録にない共通点がある」
「それね」
「だよな」
ということは……、
「こんなもん見てても仕方ない、ってことか」
ばさり、と資料の束をデスクに叩きつける。
だが、マティアはそうは思っていないようだった。
「でも手掛かりは、必ずここにあるんだよ」
「それも勘か?」
「違う、必然」
それから少女は、椅子《いす》ごとマナガに向き直る。
「精霊は、人間とも他の精霊とも一切の関《かか》わりを断って『存在』し続けることが出来るけど、人間はそうじゃないんだよ。生きている限り、必ず誰《だれ》かの記憶に残るし、必ず何かの記録を残してしまうの。いったん存在したら、その存在を消すことは出来ても、存在しなかったことにすることは出来ないんだよ」
「ふむ」
「だから、誰かが何かをしたら、その何かは必ず痕跡《こんせき》を残す。複数の人間が共通の何かをしたら、その人達は必ず共通の痕跡を持ってる」
その言葉に、
「むう?」
マナガは引っかかった。
「共通の何か?」
「なに?」
「いや、お前、今そう言ったぞ?」
「あたし?」
「ああ、言った。共通の何かをしたら共通の痕跡を持ってる、ってな」
「そう」
つい数秒前の発言なのに、憶《おぼ》えていないのだ。ということは、その言葉を選んだのは無意識だったということだ。
そしてマティアの無意識には、意味がある。
「まてよ……?」
マナガはシャツのポケットから例のメモを取り出すと、ボールペンを手に取った。
●シバ・ニシェンダ……外交官。
ニロックの自宅で。
●クツギ・バダムータ……クツギ製薬社長。
ウリアンタ市の自社社長室で。
●アネオ・イギダイス……設計技師。
ホロゼンの別荘地で行方不明、後に遺体で発見。
●キダ・オゾワール……作曲家。
カルムズの裏通りで遺体発見、後に身元判明。
●ゴトウ・ヴァリエド……生体工学博士。
自宅で。
●ムタ・クトワルカ……ノザムカスル大学付属病院院長。
院長室で。補足/警備員三名も同時に。
そこに、ボールペンで書き込んでゆく。いくつかの文字を、楕円《だえん》形で囲み始めたのだ。
マティアが椅子を降りて、マナガの懐に滑り込むようにして、その作業を見つめる。
「外交、製薬、設計、作曲、生体工学、病院院長」
マティアの呟《つぶや》く、それが、マナガが楕円形で囲んだ文字である。
「ばらばら、だね」
どの被害者も、その職業には何の共通点もない。かろうじて『製薬』と『生体工学』と『病院院長』とが繋《つな》がるが、そこに『外交』『設計』『作曲』が入り込んでくると、一気に意味を成さなくなるのだ。
だが、
「これで出来ることって、何だ?」
「あ、そういうことか」
誰かが何かをしたら、その何かは必ず痕跡を残す。複数の人間が共通の何かをしたら、その人達は必ず共通の痕跡を持ってる。
ならば、
人間の『現在』には『過去』の『痕跡』が含まれているはずだ。
「逆算、だね」
「そうだ。現在じゃなくて『過去』へ遡《さかのぼ》れば、共通点があるかも知れない」
「その取っかかりとして、職業を『入り口』に出来ないかってことか」
すなわち、『過去』への『入り口』だ。
「誰からいく?」
「そりゃあ、ゴトウ博士だろう」
「だね」
応えて、マティアはぱたぱたと自分の席にとって返すと、レオナルド・バーガーの包みを二つ抱えて戻ってきた。
片方を、マナガに差し出す。
「食べよ」
「ああ」
ハンバーガーは冷えきっていて、コーラは氷が溶けて水割り状態な上に、すっかり気が抜けている。
二人で、黙って食べた。
ノザムカスル大学は、ソルテムの丘陵地帯に位置する都立大学である。
法学部、医学部、工学部、理学部を始めとする一二の学部の他、一五の研究科、一一の付属研究所、二一のセンターを有する。
しかも、その大半が丘陵の斜面に集中しているのだから壮観だ。
学生数は三〇〇〇人超。さらに研究生や院生、他国からの留学生を含めると、その数は万単位のオーダーにまで跳ね上がるという。
それは一つの小都市ほどの規模を持つ、巨大な学習機構なのである。
だから、
「いやあ、迷っちまいましてね」
そういうわけである。
マナガが電話で指定されたのは、来客用の駐車場だった。無論、七つあるうちの『最寄《もよ》りの』駐車場である。
ところが、そこから歩いて目的の部屋に到着したのは、たっぷり三〇分後、約束の午前一〇時を二〇分以上も過ぎてからだった。
迷ったからだ。
似たような学舎は番号だけで区別されており、しかもキャンパスを行き来する学生達に訊いても、彼らは彼らで自分と関係のある棟しか判《わか》っていなかったりしたのである。
目的の第二七号棟を発見した時には、遭難した雪山で山小屋を発見したような気分だった。
「ややこしいですからねえ」
そう言って、ヤモト教授はにこにこと微笑《ほほえ》む。
痩《や》せた、長身の人物である。白衣の前は開けたままで、両手もポケットに突っ込んだ彼の格好がだらしなく見えないのは、その清潔そうな印象のおかげだろう。実際、白衣もその下に覗《のぞ》くシャツも、シワだらけでアイロンさえあてていないように見える反面、シミ一つ残っていない。
黒縁眼鏡《めがね》のレンズなど、拭《ふ》いたばかりのように透明だ。
みすぼらしい研究室である。
狭い上に、デスクも書棚も古びていて、窓の両側に寄せられたカーテンも日に焼けて黄色くなっている。
応接用の部屋もないらしい。マナガとマティアがすすめられた椅子は、書類が山積みになった事務用デスクの前の、これまた事務用の椅子だ。
マナガが、そろり、と腰を下ろすと、椅子の脚《あし》が軋《きし》みをあげた。
マティアも、隣の椅子に座る。
ヤモト教授は、並んだ事務デスクの前で、つまりそこが彼の席であるらしい。
「それで? ゴトウくんの件だそうですね」
人の良さそうなヤモト教授の顔が、わずかにくもる。
「残念ですよ、実際」
そして教授は、深い溜《た》め息《いき》をついた。
ヤモト・シェネティは、医学部の教授である。
大脳生理学の分野で三つの博士号を持ち、ノザムカスル大学の研究室ではゴトウ・ヴァリエド博士と共同研究を進めていたという。
「『神曲が人体に及ぼす影響およびその深度ならびに範囲』でしたっけ?」
神曲専門雑誌『ムシカ・ポカール』誌の先月号に掲載された、ゴトウ博士の論文だ。
「共同研究だったんですか」
「ええ。もっとも僕の方は、もっぱら検証と再現の方が主で、研究そのものは彼の主導で行われてました」
だから雑誌には、ヤモト教授の名は掲載されていなかったのだ。
「それに、掲載されたのは研究の一部……と言うか、余剰部分でしてね」
「ほお?」
神曲は精霊だけでなく、奏者自身にも影響を及ぼしている、という主旨《しゅし》の論文だった。
例えば、奏者が精神的にダウンな傾向にある場合、それは演奏する神曲にも反映される。すなわち神曲そのものがダウン傾向に入るのだ。ところが問題は、ダウン傾向となった神曲はさらに奏者本人に物理的にフィードバックし、奏者の精神的ダウン傾向を助長するというのである。
その結果、ダウン傾向は奏者と神曲との間でループし、ますますダウン傾向を深めてゆくという。
これを、雑誌に掲載された論文は『精神のハウリング』と名付けていた。
マイクをスピーカーに向けると、きーん、という高音が発せられることがある。これはマイクの拾った雑音をスピーカーが拡大し、拡大した雑音をマイクが拾うことで再びスピーカーから拡大放射され、それをまたマイクが拾い……といった循環が瞬間的に発生することで起きる。これを、ハウリングという。
それと同じことが、神曲を通じて奏者の精神にも発生し得る、というのだ。
だから、神曲を奏でる際には奏者の精神状態にも注意が必要である、と論文は結んでいた。
「余剰部分、ですか」
「ええ。実際のところ『精神のハウリング』は、よほどの技量を持つ奏者が、よほどの激情を抱え込んだまま演奏しない限り、顕著な影響の出るものではないですからね」
「事実上は無視出来る、ということで?」
「そうですね。だから今まで誰も気づかなかったわけですし」
そうでもない、とマナガは思う。
それは、隣で話を訊いているマティアも同じだったようだ。
悪意を以《もっ》て奏でられた神曲は、演奏とともにその悪意を増す。そしてこれに耳を傾ける精霊のみならず、奏者そのものをも悪意で染めてゆくのだ。
例えば、クダラとヒューリエッタのように……。
「それじゃあ」
マナガである。
「実際の……と言うか、本筋の研究ってのは、どんなものだったんです?」
途端に、ヤモト教授は得意気な笑みを浮かべた。
そして、前に乗り出して声をひそめる。
「守秘義務は守っていただけますよね?」
「ええ。無論です」
どうやら、外部の人間にそれを話すのは初めてのようだった。周囲に視線を投げてから、教授は嬉《うれ》しそうに言った。
「神曲を歌うことって、出来ると思いますか?」
「歌、ですか?」
「ええ、歌です。それも、一人で」
「それは……」
無理でしょう、とマナガは答えた。
「複数の人間による合唱なら、それが神曲として作用したという記録はあるそうです。でも一人の人間が神曲を『歌う』ってのは、どうも」
人間の声帯が、神曲を構成するだけの『音』を出せるように出来ていないからだ。
「無理ですか?」
「ええ」
「ところが、それが可能である、というのがゴトウの主張でした」
そこまで言ってから、ヤモトはしかし身を退《ひ》いた。椅子の背もたれに、身をあずける。
「いや、別にそれが研究の中心だったわけじゃありませんがね。要するに、神曲はどこまで単純化が可能か、ってことです」
「生体工学の博士が?」
「だから、生体工学の側面から、ですよ。人間に可能な範囲の中で、どれだけの単純化が可能か。現に、単身楽団なしで神曲を奏でる楽士もいるそうじゃないですか」
もぞり、とマティアが身じろぎする。
マナガはそれを、言わないでね、という意味だと解釈した。
「そうですね。私も何人か、知ってますよ」
「でしょう? 単身楽団ではなく単一の楽器だけで神曲を奏でることが可能ならば、少なくとも単身楽団は限界ラインじゃないということです」
言ってから、ヤモトは説明を付け加えた。
「例えばですね、人間が一〇〇メートルを走る場合、二〇年ほど前までは、一〇秒台が限界だと思われていました。ところが、九秒台で走る陸上選手が現れた」
「ええ、知ってます」
「ところが、まさか一〇〇メートルを二秒で走る選手なんて、いるわけありませんよね」
「そうですね」
「たぶん三秒台も無理でしょう。五秒台も無理っぽい。でも、八秒台なら? 九秒の壁を破ることは、可能だと思いますか? それとも不可能ですか?」
「それは……」
答えかけて、しかしマナガは言葉に詰まった。
たしかに三秒や五秒では、無理だとしか思えない。しかし一〇秒の壁が破れたことを考えると、九秒の壁は破れるようにも思えるし、やはり無理のようにも思えるのだ。
「ね? つまり、限界ラインはどこにあるか判らない。けれど一〇秒から五秒の間のどこかにあることだけは、間違いないんですよ」
やっと判った。
単身楽団を用いることなく、単一の通常楽器で神曲を奏でる奏者が存在する以上、単身楽団と単一の通常楽器との間には『限界ライン』は存在しない。
そして、単一の通常楽器と肉声による合唱との間にも、同じく『限界ライン』は存在しないのである。
だとしたら、
「いったい、どこまで単純化が可能なんでしょうね」
挑戦的とも言える表情のヤモトに、マナガは言った。
「それが、ゴトウ博士の研究だったんですか?」
「そうです。神曲を歌曲にまで落し込むことが出来れば、人間と精霊との距離は、もっと近づくんですよ。素晴らしいと思いませんか」
思う。
それは、本心だ。
だが同時に、それは危険なことでもあった。
神曲は、相応の才能の必要な特殊技能である。それに、よほどの天才でもなければ通常の楽器で神曲を演奏することは不可能だ。そして単身楽団は、決して安価な道具とは言えない。
つまり、神曲は奏者を選ぶ、というのが現状なのだ。
才能と財力、どちらが欠けても神曲楽士となることは出来ない。だが財力という枷《かせ》が外されるなら、神曲楽士は一気に増加することになるだろう。
そしてそれらの人々は、決して善意の人ばかりではないのである。
「もっとも」
ヤモト教授は、溜め息混じりだった。
「目指すのは単純化であっても、研究そのものは単純じゃありませんでね」
「そうでしょうなあ」
「通常の神曲演奏に単身楽団を要するのは、楽士……と言うか人間の耳が感知し得る『音』の幅が狭いためなんですな。つまり、扱える音そのものが単純なんですよ。だからこの単純さをカバーするために、『組み合わせ』の方を複雑化することで対応しているわけです」
「ふむ」
「しかしこれを逆に考えれば、『音』の方の幅を広げてやれば『組み合わせ』は単純化していけるはずなんです」
なるほど。
「てことはですよ教授、ひょっとしたら、限界まで幅を持たせた『音』と、限界まで単純化した『組み合わせ』との間のどこかに、限界ラインがあるってことですかね?」
ヤモト教授は、ぽん、と手を打った。
「ずばり、そのとおりです」
心底、嬉しそうな笑みだ。
「そしてその限界ラインに、生体工学を対応することが出来れば、神曲を『歌う』ことだって可能なわけです」
精霊であるマナガも、実際のところ神曲の原理を理解しているわけではない。それは、人間が必ずしも栄養学に通じているわけではないのと同じことだ。
それでも、少なくとも理屈の上ではヤモト教授の話は……ゴトウ博士の研究は、理に適《かな》ったものであるように思える。
そう。理屈の上では、である。
そして科学とは、つまり理屈の追究なのだ。
「それがゴトウ博士の、ご研究だったわけですな?」
内緒ですよ、と念を押しつつも、ヤモト教授はうなずく。
「しかも、どうも五年や一〇年の話じゃないらしいですね」
「はい?」
「研究がです。この大学の医学部に在籍していたころから、そういったことを考えていたらしいですな」
その時である。
今まで俯《うつむ》いて話を聞いていたマティアが、ふいに顔を上げたのだ。
そして、
「写真……」
呟いた。
「あの写真……」
小さく、細く、囁《ささや》くようなその声が、しかし次の瞬間、はっきりと強いものに変わる。
「ヤモト先生」
真《ま》っ直《す》ぐにヤモト教授を見つめて、それはマチヤ・マティア警部としての声だ。
「一つ、お訊《たず》ねします。先生は、医学生当時のゴトウ氏について、ご存知ですか?」
これには、かなり面食らったようだ。黒縁眼鏡の奥で、きょとん、と目を剥《む》く。
「え? あ、ええ、はい。まあ、あるていどは」
「当時のゴトウ氏の容貌《ようぼう》については?」
「ええ、いえ。知り合ったのは、ここで講師業を始めてからなので……」
続けようとするヤモト教授の言葉を、
「では、質問を変えます」
あっさりとマティアは遮る。
「ゴトウ氏は、学生時代から太っておられましたか?」
「あっ!」
声をあげたのは、マナガだった。
そうか。
そういうことか!
「ああ、いえ」
それがヤモト教授の答えだった。
「一〇年ほど前になりますが、ここで初めて会った時には、あんなじゃなかったですね。太り始めたのは、カノジョが出来てからです」
キルアラのことだ。
「幸せ太りだ、なんて冷やかされてましたよ」
ノザムカスル大学付属病院で見た写真。
院長室の壁に掛けられていた、あの集合写真。
二四年前の院長と、肩を組んでいた若者。
あの顔。
見覚えのある、あの顔!
「繋がった」
マティアの言葉は、再び囁きに戻っていた。
薄暗い部屋の質素な寝台に横たわったまま、老人はいつの頃からか、来客を心待ちにするようになった。
それが金銭を無心に来る親戚《しんせき》であっても、かまわなかった。金で孤独が紛れるなら、それが一時的なものであってもよかったのだ。
ナダユラ・トゾカリッシの人生は、望みもしない成功の連続だったと言える。
いささかばかりの才能が、莫大《ばくだい》な金を産んだ。普通なら珍奇な新説として葬られたであろう彼の理論は、他の似たような理論と手を組むことで巨大な実利へと変貌したのである。
金銭的には豊かになった。
二四年前までの貧困生活のことなど、思い出そうとしても思い出せないほどだ。
しかし充実していたのは、次の五年間だけだった。
一九年前、全てが終わった。
凄惨な事故とともに、プロジェクトは解散した。
プロジェクトで得た莫大な報酬は、『株』という名のゲームでさらに膨れ上がった。金を捨てるつもりで……捨てたくて買い漁《あさ》った株券が、次から次へと急騰したのである。
それは運命の、まさに悪意ある悪戯《いたずら》だった。
残されたのは一生かかっても遣いきれないだけの金と、誰《だれ》もが羨《うらや》むほどの財産と、そして孤独だけだ。
思えば、そんな隙《すき》を衝《つ》かれたのかも知れない。
部屋に現れた女を目にした瞬間、ナダユラは確信した。
「お久しぶりね」
死に神だ、と。
美しい女だった。タイトな黒いスーツに身を包み、豊かな髪は黒い炎のようだ。
白い肌に映える切れ長の眼が、うっすらと笑みを浮かべている。
「おお……」
ナダユラの口元から漏れるのは、感嘆の声である。
ぜいぜいと喉《のど》が鳴り、老い萎《しな》びた手が震えながら、女の方へと伸びる。
「お前は……お前は……」
知っている顔ではなかった。
だが、一九年前の彼女の顔なら、ナダユラは知っていた。
「六号か……」
「ええ。あなた達は、そう呼んだわね」
美しい、とナダユラは思う。
そうだ。一九年前から彼女は……六号は美しい少女だったのだ。
するすると滑るように近づいてきた女は、老人の震える手を取った。
優しく両手で包む。
微笑《ほほえ》んで。
「会いたかったわ」
「わしもだよ……」
そう口にしてしまってから、ナダユラは驚いた。
それが自分の本心であったことに気づいてしまったからだ。
愛していたのだ。
愛していたのに。
………………愛していたから……。
おぞましいほどに美しい女の顔が、ゆっくりと近づいてくる。
ナダユラは染みだらけの萎びた手を、包み込む女の指から抜き出すと、懸命の努力で人差し指を立てた。
指し示す先は、女の背後である。
薄闇《うすやみ》だ。
女が気づいて、振り返る。
闇の中に、二つの影があった。
一つは、黒いケープの少女。
そしてもう一つは、黒いコートの巨漢。
「やあ、どうも」
深く低い声が、老いた男の腹の底に響いた。
ナダユラ・トゾカリッシは、成功者だった。
ベレアの高級住宅街の、さらにその最奥に大邸宅を構え、資産は五〇億を超えるとも言われていた。
だが一方で、彼は謎《なぞ》の人物でもあった。
その富がいつ、どこからもたらされたものなのか、一切が不明なのだ。
無論、国税庁を含む複数の監査機関が、これを追及した。だが追跡が出来たのは、一九年前までだった。それ以前の彼の資産は、まるで空中から降って湧《わ》いたかのように、その経路の痕跡《こんせき》を一切残していなかったのである。
後ろ暗い財産である、と言う者もいる。
公に知られていない重大な特許の持ち主である、とする説もある。
しかしいずれにせよ、彼が成功者であったことだけは間違いなかった。
ただし、それも過去のことだ。
数年前、ナダユラ・トゾカリッシは健康を損ねた。それが引き金であったかのように、彼の抱え込んだ株式が次々と暴落した。
次々と財産を手放し、ついには屋敷も競売にかけられた。
今やナダユラは、介護施設の一室で孤独な日々を送る一人の老人に過ぎない。
もっとも、同じベレアの最高の施設ではある。
そしてその中でも、彼の部屋は最高級の個室だ。
豪華な調度品があるわけではないが、別室には専属の介護士が二四時間態勢で控えているし、火急の場合には施設の医師が駆けつけ、最高の医療を受ける権利も有している。
手元のリモコン装置はベッドの角度からテレビの操作、さらには空調設備から窓の開閉、カーテンの開け閉めまで、全て手元で扱えるようになっているのだ。
そのカーテンが、揺れていた。
窓が、開け放たれているのだ。
開けたのは、ナダユラではない。
侵入者である。
キルアラだ。
「やあ、どうも」
振り返った彼女に、マナガ警部補は笑みを浮かべてみせた。
「お待ちしてました。やっぱり、あなただったんですね」
寝台とは反対側の突き当たり、壁際に置かれた小型の冷蔵庫に、彼は尻《しり》を引っかける格好で座っていた。いささか前かがみで、膝《ひざ》のあたりに置かれた両手は指を組んでいる。
「灯《あか》りを点《つ》けましょうか? 私の唇が、見えます?」
ゆっくりと寝台を離れたキルアラは、
「ええ、お気遣《きづか》いなく」
真っ直ぐに、マナガに向き直った。
「お二人とも、ちゃんと見えてますよ」
マティアの方は、マナガの傍《かたわ》らに置かれた銀色のトランクに、腰掛けている。
二人で、ずっとそうして待っていたのである。
キルアラが来るのを、だ。
「いい月が出てますからねえ」
言いながら、マナガは開きっ放しの窓を振り返る。
満月である。
「いや、苦労しましたよ。一時は、あなたは犯人じゃないかも知れない、なんて思ったほどでしてね」
「では、最初から疑ってらした?」
「ええ。いやまあ、私じゃなくて相棒が、なんですけどね」
マチヤ・マティア警部が、である。
「最初に妙だなと思ったのは、夜食だったそうで」
あら、とキルアラが笑う。楽しげな笑みだ。
「私、何かやらかしました?」
「いいえ、逆です。やらかさなかったから、変だったんですよ」
キルアラ自身の証言によれば、彼女はバスルームを出てから夜食を作り、寝室へ持って行くところだった。そこでゴトウ博士の惨殺屍体《したい》を発見したのである。
「それが何か変かしら?」
「変ですよ。だって、カウンターの上に置きっ放しになってたクラッカーは、綺麗《きれい》に盛りつけられたまんま、乱れてもいなかったんですから」
ああ、とキルアラの声は溜《た》め息《いき》混じりだ。
ようやく、気づいたのである。
「その場に取り落しておけばよかったのね」
「あるいは、せめてカウンターの上に乱暴に放《ほう》りだしたみたいに細工する、とかね」
だが実際には、どちらでもなかった。まるでたった今、盛りつけを終えたかのように、クラッカーは皿の上で綺麗な放射状に並べられていたのだ。
皿を手にしたまま夫の惨死を目撃し、大慌てで警察に連絡してきた……そんなふうには見えなかったのである。
それに、とマナガは続ける。
「コトナミ夫妻の家でも、あなたの行動は妙でした。ご主人が殺されて友人宅へ転がり込んだ人間が、まあすぐに眠ってしまったのは見逃すとしても、そのまま昼まで寝こけちまうってのは、どう考えたって変でしょう」
「そう?」
「ええ。普通だったら、神経が昂《たかぶ》ってて、すぐに目が覚めちまいますよ」
「それだけ?」
キルアラの問いの意味を、マナガはちゃんと理解していた。たしかに、それだけでは犯行そものの根拠とはならない。単なる無神経、犯行には及ばなかったが夫の死を歓迎している、といった解釈だって成立するからだ。
だからマナガの回答は当然、いいえ、である。
「まだまだありますよ」
「まあ」
キルアラは、何とも楽しそうに目を見開く。
「それは、どんな?」
「名簿のファイルをお返しした時に、私、名簿の全員に連絡をとった、と言いました。憶えてらっしゃいます?」
「ええ」
「その時、私、こう言ったんですよ。みなさん、どの事件にも関与しておられる可能性はありませんでした」
「ああ」
ぽん、とキルアラが手を打った。まるで、解けなかったクイズの正解に納得したみたいな、そんな仕種《しぐさ》だ。
「どの事件にも、という部分が問題なのね?」
「ええ。あなたは、ゴトウ博士の殺害が連続殺人の一部であることを、なぜか、あの時点でご存知だったんです」
「新聞やニュースで知っていた、という説明はつかない?」
「そりゃ無理です。どの事件も、殺害状況までは報道されてません。報道管制ってやつでしてね、捜査上の重要な手掛かりになり得ますんで。つまりゴトウ博士の事件を他の事件と関連づけられるのは、警察と一部の報道関係者を除けば、犯人だけなんですよ」
「なるほど……ね」
するり、と滑るように女は前へ出る。
「でも、それだけじゃ裁判では通用しないでしょ? 言った言わないの水掛け論になるだけだもの。私、そんな言葉『聞いて』ないって証言するわ」
「でしょうな」
そしてマナガは、真正面からキルアラを見据えた。
「でも、こいつはどう説明します?」
言いながら、マナガがコートのポケットから出して見せたのは、小さなビニールの袋だった。煙草《たばこ》の箱ほどのサイズで、口をパウチで留められるようになっている。
中に入っているのは、赤黒い染みで汚れた、一枚の紙片だった。
キルアラは、応えない。
だが、その表情が瞬時に凍《こお》るのを、マナガは見逃さなかった。
「はい、そうです。レシートです」
ビニール越しに、マナガの太い指が印刷された文字を指す。
「近くでご覧になります? ほら、ここんとこ。ホロゼン・ヒル・バンガロー。ね?」
ホロゼンの別荘地の、貸しバンガローのものだ。
「ご主人が殺害された、寝室から出たものです。例の名簿をお借りした後、清掃業者に人をやって、押さえたんですよ」
「私のせい?」
「ええ。あなたが、寝室のものがどうなったかお訊《き》きになられたんで、もしやと思いましてね。そしたら、ほら、他のレシートは近所の店のものばかりなのに、この一枚だけがホロゼンのものだったんですなあ」
しかも、とマナガは続ける。
「日付が、ね? アネオ・イギダイスさんが別荘に行かれた同じ日にバンガローを借りて、行方《ゆくえ》不明になられた翌朝に支払いを済ませて出て行っておられる」
「偶然、と言ったら?」
「では、何をしにいらしてたんで? ご主人の出張中に、お一人で」
「浮気相手といたのかもよ?」
「おられたんですか?」
「まさか」
「でしょうな」
「それで? そのレシートが何かを証明してくれるわけ?」
「ええ。少なくとも、全く同じ手口による連続殺人のうち、あなたは二つの事件についてアリバイをお持ちでないことになりますね」
「それだけ?」
「ええ」
マナガは微笑んで、証拠品をポケットに戻す。
「それだけです。だから、ここでお待ちしてたんですよ」
キルアラを。
犯人を。
「こいつも相棒のお蔭《かげ》でね。解けてみれば、実に単純なハナシだったんですがね」
全ては『過去』にあった。
『現在』において何の繋《つな》がりもなかった被害者は、しかし『過去』で繋がっていたのだ。
そのカギとなったのが、若き日のゴトウ・ヴァリエドだったのである。
「二四年前の段階で、ムタ院長とゴトウ博士が……当時はお二人とも学生だったわけですが、お知り合いだったことが判《わか》りましてね」
ヤモト教授の研究室を出たあと、すぐに学生課で当時の名簿を借り出した。
一方で市警本部に連絡し、ゴトウ博士以外の被害者の、これも当時の交遊関係の洗い出しにかからせたのである。
「大仕事でしたがね、人出をかき集めて、何とか」
そして浮かび上がってきたのは、奇妙な事実であった。
「被害者の全員が、二四年前から五年間ほど、サマリーノにある研究施設に関《かか》わっていたらしいんですなあ」
キルアラの目が、きゅう、と細くなる。
それを、
「方々へ人をやらせて、ありとあらゆる記録を調べさせましたよ。無論、私も書類の山と格闘せにゃなりませんでしたがね」
マナガは無視して言葉を続けた。
「運良く当時の税務書類を残していた人は、サマリーノまでの遠距離定期券についての記録がありました。自家用車で移動してた人もいましたが、これも当時の燃料代を日割り計算してみたら、自宅から毎日サマリーノまで往復していたのと一致する数字が出ました。サマリーノ支局の消印が付いた封筒を残していた人もいましたしね」
一日がかりの、大仕事だった。
だが、それだけの成果はあった。
「その中で二人ほど、署名入りの通達書らしきものを保管していた方がおられました。ところがこれが、被害者の誰《だれ》の名前でもないんですな。つまり、被害者に共通の『過去』と関わりがある一方で、まだ被害に遇《あ》われていない方がおられたんですよ」
そこに書かれていた署名こそが、
「ナダユラ・トゾカリッシさんです」
キルアラの後ろに横たわる、哀れな老人だ。
「そして私は、ここに来た」
「はい。そしてそれを、私に見られてしまった」
「そう。お見事ね……」
言いながら、キルアラはさらに前へ出てくる。もうほとんど部屋の中央で、二人の刑事と背後の老人との中央に立った格好だ。
「それで、どうなさるつもり?」
「そりゃあ、あなたを逮捕しますよ。とりあえずは不法侵入でね」
「別件逮捕、ということね」
「ええ、まあ。あんまりスマートじゃありませんがね。でも、あなたを拘束さえ出来ればナダユラ氏は護《まも》れますし、もしあなたが次の犯行も計画しているなら、それも未然に防げます。背に腹は代えられませんや」
マナガは立ち上がる。
「ご同行願いますよ」
言いながら、彼は傍らの銀のトランクに手を伸ばした。応えるように、ぴょん、とマティアがトランクから飛び下りる。
その隙《すき》を、キルアラは狙《ねら》っていたのだ。
弾《はじ》かれたように背後を……寝台に横たわる老人を振り返る。
だが、
「くっ!」
喉の奥に声をつまらせて、キルアラはその場に立ちすくんだ。
老人は、もはや孤独ではなかった。
八人ほどの警官が、寝台を護るように取り囲んでいたのである。
「ほら、ね? 病院でも、これと同じだったんですよ」
振り返ったキルアラに、マナガは言った。
「院長を殺害に来た犯人は、警報装置のベルが、じゃんじゃか鳴ってることに気づかなかった。だから、警備員まで殺さなきゃならなくなった」
そして今、マナガとの『会話』の隙に、これだけ大勢の警官が彼女の背後から部屋に入って来たことにさえ、気づかなかったのである。
「ゴトウ博士の殺害は予定外だったか、それとも、もっと後になさるおつもりだったんでしょう? あるいは、あのレシートをゴトウ博士が見つけてしまわれたとかね。いずれにせよ、あなたは彼を殺害せざるを得なくなった」
そして、それが誤算の始まりだった。
「その結果、あなたは我々の捜査対象の一人となってしまった。護衛の警官を追っ払っても、以前のような綿密な下準備が出来なくなってしまったんですなあ」
だから、またしてもミスを犯した。
「クツギ製薬本社では、昼間なら警報装置を切ってあります。あなたはそれを確認したからこそ、白昼堂々と犯行に及んだ。あそこは、昼間の方が逆に警戒が薄いことをご存知だったからだ。でも病院の時は……」
すでに捜査対象となってしまっていたため、それだけの下調べをする余裕がなかった。
「防犯装置は確認なさってたんでしょうが、火災報知器にまでは注意が回らなかったんですな」
そう。
ヴァリエドの件を差し引いても、病院での犯行は他の犯行と条件が異《こと》なったのである。
「状況証拠ばかりですけどね」
マナガは肩をすくめて苦笑する。
「でも、犯人は耳が聴こえない、これは確実です。そしてあなたが不法侵入なさったのはナダユラ氏の介護ホームで、ナダユラ氏は少なくとも何人かの被害者と何らかの関わりをお持ちだ。さらにあなたは、連続殺人の中の二件についてアリバイをお持ちでない」
初めて、キルアラの顔から挑発的な笑みが消えた。
「もっと調べが進めば……いやまあ現実に今も署の方では作業が進行中なんですが、そうなればもっと有効な証拠が発見されると、私ゃ踏《ふ》んでます。探すべき場所さえ判れば、うちの連中はみんな優秀なんでね」
探すべき『場所』とは、空間的な『場所』ではない。
時間的な、である。
二四年前から一九年前まで、その五年間だ。
キルアラは、真《ま》っ直《す》ぐにマナガを睨《にら》みつける。ぎりぎりと歯ぎしりの音まで聞えてきそうだった。
だが、容赦はしない。
「お断りしておきますが、全員、精霊警官です。あなたがどんな方法で、どんな精霊を呼び出すのかは知りませんがね。でも、これだけの人数を突破出来るとは考えない方がいいですよ、みんなプロですから」
あるいは、それがボウライのような下級精霊なら、呼び出す前に押さえることも可能だろう。無論、上級精霊なら自発的に契約楽士を護ろうとするだろうが、それならマナガが相手になるだけのことだ。
「逃げ場なし、って言いたいわけね」
「お気の毒ですが」
「じゃあ、教えてあげる」
美しいその顔に、再び笑みが戻っていた。
「あなた、一つだけ勘違いしてるわ」
「そうですか?」
「ええ」
キルアラは、笑う。
おぞましいほどに、美しい顔で。
「私、精霊を呼び出したりなんて、しないわ」
変貌《へんぼう》が始まったのは、次の瞬間だった。
「きるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるる!!」
甲高い奇怪な『声』とともに、薄い闇《やみ》の中で、キルアラの姿が歪《ゆが》んだ。
ぐうっ、と膨《ふく》れ上がったのである。
「なに!?」
一瞬の出来事だった。
マナガは身構え、マティアはマナガの背後へ隠れる。
八人の精霊警官は一斉に、その手に精霊雷の光を灯した。
「まて! まだ撃つな!」
叫ぶのは、マナガである。彼自身も、両方の拳《こぶし》を精霊雷の青白い光に包んでいる。
攻撃を制止したのは、彼の警官としての責任だった。
市民を護《まも》り、同僚を護り、自身を護り、そして法を守るという、彼の責務が、咄嗟《とっさ》の攻撃を制止したのである。
しかし、それは裏目に出た。
「ぎらぁああぁあぁぁああぁああぁぁぁああぁあっ!!」
倍ほどに膨《ふく》れ上がったキルアラの……キルアラだったものの輪郭が、ふいに、崩《くず》れたのである。
一瞬で溶解したようにも見えた。
闇の中とは言え、九人の精霊の精霊雷に照らされながら、しかし影のように黒い塊だったものが、瞬時に輪郭をなくし、重い大量の流動物へと変じたのである。
次の瞬間、
「しまった!」
『それ』は、逃走に転じた。
黒い奔流となって垂直に噴き上がり、どん、と天井を叩いたかと思うと、一直線に開いたままの窓へと宙を流れたのである。
「むう!」
後を追うように、マナガが精霊雷を放つ。
遅かった。
空間を真横に割いた精神エネルギーの落雷は、上等なカーテンの手編みのレースを引き裂き、左右に開かれた窓の片方を木《こ》っ端微塵《ぱみじん》に粉砕《ふんさい》して、さらに庭に植えられたパラムの木の幹を大きく抉《えぐ》った。
だが、逃げる『キルアラ』には、かすりもしなかったのだ。
「ぎるるるるるるるるるる」
異様な『声』が、長く尾を曳《ひ》きながら遠ざかってゆく。
「しまったなあ……」
ぼそり、と呟くマナガの言葉は、
「医者を! 早く!!」
一人の警官の叫びに遮《さえぎ》られた。
「すまんねえ」
ぼりぼりと頭を掻くマナガに、
「いえ、お互い様ですって」
シャドアニは応える。
ベレア介護ホームの、玄関ホールである。
受付窓口と、ソファの並んだホールは病院の待合室に似ているが、隅の掲示板にはダンス・パーティの告知や慰問上映の映画のポスターが張られて、どことなく華やかな雰囲気が演出されている。
そんな中でサングラスにスーツを着込んだシャドアニと、その背後の五人の制服警官は、いかにも場違いだった。
マナガの要請を受けて、急行してきたのである。
全員が、精霊警官だ。交通課や警邏《けいら》課の連中まで動員したのだ、とシャドアニは言った。
無論、ナダユラ・トゾカリッシの警護のためだ。
「病院の件をマナガさんに担当してもらったおかげで、割と今、気楽ですから」
そう言ってサングラスごしに笑うシャドアニが、けれど口で言うほど暇ではないことはマナガも承知していた。このところ頻発する『謎の物損事件』を担当しているのだ。
自動車からゴミ箱まで、ありとあらゆる物が人間業とは思えない奇怪な方法で損壊されるのである。人的被害が出ていないことから、捜査の優先順位は低く設定されているが、それでもその捜査が安楽なものでないことくらい、マナガにも判る。
そんな中で、シャドアニ・イーツ・アイロウはマナガの要請に応えてくれたのだ。
「それに、マナガさんには恩もありますしね」
「よせやい」
マナガの傍《かたわ》らで、ふいにマティアが振り返った。
見ると、薄暗い廊下を小走りに、白衣の男性がやって来るところだった。ナダユラ氏専属の、介護士だ。
「落ち着かれました」
ナダユラが、である。
キルアラを取り逃がした直後、ナダユラは発作を起こした。心筋梗塞《こうそく》だ。
幸いにも数分で医者が駆けつけ、対処した。マナガの要請に応えたシャドアニが到着する今までかかったわけだから、かなりの時間を要したことになる。
それでも介護士が呼びにきたということは、話が出来るていどには回復した、ということだ。
もっとも、
「あまり長時間は話せませんよ」
若い介護士は、そう念を押した。
二階の個室へ戻ると、ドアの両脇《りょうわき》に一人ずつ、さらに部屋には四人の精霊警官が警護を固めていた。窓のすぐ外にも、二人いるはずだ。
痩《や》せた中年の医師は、医療道具を鞄《かばん》に仕舞って、ベッドの脇を立つところだった。
「五分が限度ですよ」
それが、すれ違いざまの医師の言葉である。
寝入ったばかりの子供のベッドに近づくように、マナガは足音をしのばせる。
その前に、ついと枕元《まくらもと》に寄ったのは、マティアの方だった。
途端に、ベッドに寝ついた老人が相好《そうごう》を崩した。
「おう、これは可愛《かわい》い刑事さんだ」
「ルシャゼリウス市警察、精霊課のマチヤ・マティアです」
応えてバッジを見せるマティアの方は、例によって微笑《ほほえ》んでさえ見せないものの、いくらか言葉が柔らかいように思える。
「お話をお聞かせいただけませんか」
ナダユラがうなずくと、かすかにベッドが軋《きし》む。毛布から伸びてきたのは、骨に渋皮を貼《は》り付けたような痩《や》せさらばえた手だ。
その手を、マティアは優しく受け取った。
まるで死の床に就いた老人と、その孫娘といった光景だ。
ただし、
「あなた方は、サマリーノで何をなさっていたんですか?」
質問には、一片の容赦もない。
「あなた方は、キルアラさんに何をしたんですか?」
少女の言葉に、老人の顔がくもる。
その瞳《ひとみ》の奥にあるものを、マナガは見逃さなかった。
逡巡《しゅんじゅん》ではない。
保身でもない。
そこにあるものは後悔と、そして深い悲哀だった。
「あれは……」
ぼそぼそと呟くようなナダユラの声は、まるで古い皮紙がこすれあう音のようだ。
「あれは、悲劇だった……」
二四年前の。
二四年前、ナダユラ・トゾカリッシは神曲学者だった。
ただし、異端の。
彼の提唱したのは『神曲の単純化による再構築』である。
神曲を単純化し、一方で人間の肉体を神曲に適応させれば、肉声による神曲が成立し得る、というのが彼の理論だった。
画期的ではあったが、それだけだった。
そして彼の失敗は、それを学会で発表したことだった。
待っていたのは、嘲笑《ちょうしょう》と侮蔑《ぶべつ》だった。
翌年には、教鞭《きょうべん》をとっていた大学からも解雇通告を受けた。
そんな彼を拾い上げたのが、一人の大富豪だったのである。
それは非公式の一大プロジェクトだった。
サマリーノの施設で、ナダユラは五人の人物と引き合わされた。
薬理、生体工学、そして生理学の分野からは、三人の学生が秘密裏にスカウトされていた。いずれも、単に成績優秀なだけでなく、その飛躍的とも呼べる理論が学会では注目されながらも、しかしある意味においては珍奇な異説として扱われてきた者達ばかりだった。
そして、機械工学を学ぶ学生、新人の神曲楽士である。
富豪は、ナダユラを含めて集められた六人の前に、札束を積み上げた。
驚くべきことに、それは手付金に過ぎない、と言う。
そして富豪は、要請したのだ。
「神曲歌手の創造……ですね」
マティアの言葉に、マナガは驚嘆したが、しかし老人は静かにうなずいた。
「そうだ。もっとも我々は、歌姫、と呼んだがね……」
被験者は、六人の赤ん坊だった。
あるいは集められた研究者達は、その事実を知って躊躇《ちゅうちょ》したのかも知れない。だが彼らは、誰《だれ》一人として辞退しなかった。
神曲を歌唱する言わば『超人』の誕生に関わるという野心のためか、それとも純粋な科学的興味のためか、それはナダユラの知るところではない。ともかく彼を含めた六人の研究者は、六人の赤ん坊を『歌姫』とすべく『研究』を開始したのである。
「いったい何をやったんですか……」
マティアの声は、硬い。
老人は、弱々しく首を振っただけだった。
「間違いを犯したのだ……」
だがマナガには、おおかたの想像はついた。
これで何が出来る?
生理学に従って薬品を与え、生体工学に従って機械を操り、その肉体から神曲たり得る『音』を出させるために、生まれて間もない六人の赤ん坊に対して、いったい何が出来るというのか!?
悪魔の所業である。
改造だ!
「二号と三号は、半年のうちに死んだ。一号と五号は三年めを迎えられなかった。四号と六号だけが、生き延びた……」
ナダユラ老人の顔から、血の気が失せてゆくのが判《わか》る。
呼吸も、いくらか荒い。
だがマティアは、容赦しなかった。
「けれど、プロジェクトは五年で解散していますね?」
「そうだ。ああ、そうだ……」
ある夏の夜、それは起こった。
突然の出来事だった。
五歳になったばかりの、それが四号だったのか六号だったのかは判らない。
だが、どちらかが突然、神曲を得たのだ。
深夜、宿舎という名の牢獄《ろうごく》の中で。
「地獄だった……」
老人の声はもはや、かろうじて言語の体をなしているだけだった。
ぜいぜいと喉が鳴り、顔ばかりか手までが土気色に変じている。
「最後の質問です」
マティアの言葉は、冷たく、固い。
その理由を、マナガはいあわせる誰よりも理解していた。
おそらく、マティア本人よりも。
「あなた方を雇った富豪とは、誰ですか」
応えて、水気の失せた唇が、かすかに動く。
もはや声とは言えない音が、古木の裂け目のような口から、漏れた。
「……ラト……ヴィ……」
マティアが、振り返る。
マナガは、うなずいた。
充分だ。
老人が動かなくなった時、マナガはさっきの医師の言葉を思い出した。
……五分が限度ですよ。
誤解していた。
あれは、五分で話を切り上げてくれ、という意味ではなかったのだ。
警官の一人が、医師を呼びに行った。
戻ってきた医師はナダユラの脈をとり、毛布をはぎ寝間着を開いて萎《しな》びた胸に聴診器を当て、瞼を指でこじ明けてペンライトで眼球を照らし、それから腕時計を確認した。
マナガはシャドアニに言いつけて、合計一三人の精霊警官による警護を解かせた。その必要がなくなったからだ。
医師の予告したとおり、ナダユラ・トゾカリッシの命は、五分が限度だった。
ロディウェイは、芸術の聖地である。
高級ブティックや高級レストランに混じって、建物そのものが歴史的価値を持つ大劇場や、世界的な芸術家による個展を切れ目なく開催し続ける画廊がある。大通りを行き交うのは大半が高級車であり、それらが停車すればドアボーイが駆け寄る。
だがそれも、表通りに限ったことだ。
ぴかぴかに磨き上げられた建物と建物の間、細い路地を抜けて一本、裏道へ入るだけで、その様相は一変する。
狭い道路は舗装がヒビ割れ、剥《は》がれ、抉れ、左右からのしかかるように並んだ建物はどれもススけている。道の脇には汚物が堆積《たいせき》し、立ち並ぶ商店で売られているのは偽物と紛《まが》い物と安物だ。
裏町である。
あるいはもっと直截《ちょくさい》に、貧民街、と呼ぶべきだろうか。
そこに住む人々の年収は、表のロディウェイ大通りで売られているキーホルダーの値段よりも、さらに低いのだ。
その一角に、ハサレナ・ホテルは、あった。
安宿である。
レオナルド・バーガーのチーズバーガー・セットほどの値段で、一夜の寝床と風呂《ふろ》が確保出来る。
だがキルアラがそこを選んだのは、安いからではなかった。
人目につかないからだ。
カウンターでは、前金を払うだけで部屋のキーを渡された。擦り切れた宿帳には偽名を記入したが、カウンターの奥に座った下着姿の中年女はキルアラの顔さえ見ようとしなかった。
三階の部屋に入ったキルアラは、すぐに風呂に水を張った。浴槽の縁はヒビ割れて何ヶ所も欠けていたし、床からは剥《む》き出《だ》しの水道管が伸びているだけで、しかもパイプは錆《さ》びていたが、気にしなかった。
気にする余裕がなかったからだ。
これまでは、すぐに飛んで返って、風呂に飛び込むことが出来た。
だが今夜は、無理やり『ヒトのカタチ』に戻って、宿を探さなければならなかったのである。マンションには警察の連中が押しかけているに決まっているからだ。
両手で陶器の浴槽の縁を掴《つか》み、キルアラは揺《ゆ》れる水面を睨《にら》み据《す》えている。
タイトな黒いスーツが、するすると溶けて、彼女は全裸になった。
途端に、ぼこり、と皮膚が動く。
背中が、腕が、腿《もも》が盛り上がり、のたうつように蠢《うごめ》いた。
「待って……」
歯を喰《く》いしばって、キルアラは呻《うめ》く。
「すぐに冷してあげるから、もう少し待って」
そして、
「きるるるるるるる」
細く白い喉の奥が、音をたてる。
男性の喉仏のように首の皮膚が突出し、信じられないほどの速度で振動する。
「きるるるるるるるるるるるる」
キルアラの耳は、聴こえない。
だが、その振動だけは、感じる。
「きるるるるるるるるるるるるるるるるる」
あの日。
自由と引き換えに引き裂かれ、生まれ変わったあの日。
あの日から、彼女は『音』のない世界に生きている。
あの日以来、キルアラは一切の『音』を奪われた。
残ったのは、ただ振動だけだ。
自分の喉が、自分の躯《からだ》を震《ふる》わせる、その振動だけだ。
きるる。
きるる。
きるるるるるるるるるるる。
それは、彼女の『歌』だ。
あの日、突然、彼女の喉から噴き出した『魂の悲鳴』だ。
絶え間ない苦痛の中で、ついに噴き出した『心の絶叫』だ。
その声に、地の底から呼び覚まされた者達は、全てを砕き、全てを引き裂いたのだ。
キルアラ自身さえも。
そして彼女は、自由になった。
そして彼女は、『音』を失った。
そして彼女は、『力』を得た。
復讐《ふくしゅう》のための『力』を。
バスタブに溜《た》まってゆく水が、キルアラの顔を映す。
美しいその顔が、ゆらぎ、歪《ゆが》み、崩れて映る。
きるる。
きるる。
きるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるる。
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第四章 復讐の果てに
マチヤ・マティアは、笑わない。
マチヤ・マティアは、喋《しゃべ》らない。
彼女に初めて会った者は、まず彼女が不機嫌なのではないかと思う。
それから、人見知りが激し過ぎるのではないかと思う。
その次に、ようやく気づく。
それが、壁なのだということに。
だが、それさえも正確ではないことに気づく者は、ごく稀《まれ》だ。
だからマチヤ・マティアの笑顔を見る者は、つまり、ごく稀なのだ。
「助けるの?」
助手席で、ぽつり、と少女は呟《つぶや》く。
「ああ、仕事だからな」
運転席で、巨漢は応《こた》える。
クウォンタ・クルーガー4WDの車内には、かすかなアイドリングの振動と、空調装置の音があるだけだった。
「あたし、あの人の気持ち、判るよ」
キルアラのことだ。
「復讐したくなる気持ち、判る……」
ゴトウ・キルアラについての記録は、遡《さかのぼ》ることが出来なかった。
三年前……キルアラがゴトウ・ヴァリエドと出会う寸前で、途切れているのだ。
それ以前の記録は、全てが嘘《うそ》だった。
住所も、出生地も、経歴も。
彼女が通ったとする学校には在籍した事実は確認されなかったし、彼女が勤めたとする複数の勤務先も同様だった。何より、彼女の生家があるとされていた住所そのものが、存在しなかった。
彼女は三年前、忽然《こつぜん》とゴトウ博士の前に姿を現したのだ。
あるいは、それがキルアラにとって、最初の手掛かりを得た瞬間だったのかも知れない。そして一年かけてゴトウ博士と結婚し、次の二年で準備を整えたのである。
復讐の、だ。
夫の『過去』をたぐり、一人ずつ、一人ずつ、標的を探り出したのだろう。そしてその痕跡《こんせき》は、例の赤いファイルにあったのだ。
ベレア介護ホームを引き上げた後、マナガとマティアはその足でキルアラのマンションに向かった。思ったとおりキルアラは帰宅していなかったが、しかしマナガ達より先に到着していた警官が部屋を確保していた。
ファイルは二冊とも、キルアラの部屋に置かれたままだった。
そして、二人は絶句した。
ファイルには、シバ・ニシェンダの名はなかったが、彼の顧問弁護士の名は記載されていた。クツギ・バダムータの名はなかったが、副社長の妻の名はあった。アネオ・イギダイスの名はなかったが、彼の行きつけのバーは記されていた。
全て、その調子だった。
一見、事件とは無関係の名簿ファイルには、その被害者の寸前まで迫る人物の名がいくつも記録されていたのである。
執念だ。
「あの人……」
マティアの言葉は、一つ一つの思いを噛《か》みしめるようだ。
「あたしと同じだもん」
「違うな」
「同じだよ」
「違う。マティアは、誰《だれ》も殺さないだろ?」
「それは、マナガがいてくれたからだよ」
「そうか?」
「そうだよ」
「でも俺《おれ》に会う前は?」
「その前は……力がなかったから」
「今は俺がいる、か」
「うん」
少女は、相棒を振り返った。
「でもマナガがいるから、あたしは誰も殺さないんだよ」
だが。
「やっぱり、違うな」
「なんで?」
「俺はお前さんに、殺すな、なんて言ったことはないぞ」
「そう、だっけ?」
「ああ、ない」
「そうだっけ……」
マナガも、相棒に向き直った。
「これだけは言っとく。俺は、お前さんの契約精霊だ。お前さんが、殺せ、と言うなら、誰だって殺す。それが契約ってもんだ」
マティアは目を見開いて、それは驚きの表情だ。
それから少し考えて、
「判《わか》った」
それきり、少女は口を開かなかった。
未明《みめい》の空港は閑散としていて、広大な駐車場には数えるほどの車しか停《と》まっていない。
そのど真ん中に停められた黒い四駆車の中で、二人はじっと待った。
夜明けを。
第一便の到着を。
一人の老人を。
ダイナーを利用するのは久しぶりだった。
ヴァリィと結婚してからは、一度もない。
だがそれ以前は外食と言えばダイナーか、もっと困窮《こんきゅう》すればファストフードで何週間もしのいだものだ。
懐かしい、と思う。
そして同時に、またあの生活に戻るのか、とも思った。
運が良ければ、だが。
もっとも、それ以前の生活は懐かしいとは思わなかったし、そもそも思い出したくもなかった。盗み、奪い、路地裏の闇《やみ》に身をひそめる生活だったからだ。
カウンターに着くと、キルアラはコーヒーとサニーサイドアップを注文する。ピンクの制服を着たウェイトレスは朝から生活に疲れきった様子で、奥の厨房《ちゅうぼう》では固太りの中年男がランニングシャツにエプロンを着けた格好で食用油にまみれている。
カウンターの上のテレビは、どこがどう故障すればこうなるのか、画面が紫色だ。どちらにせよ、客は誰もテレビなど観《み》てはいなかった。
眺めているだけだ。
あるいは、故障しているのは画面だけでなく音声も出ていないのかも知れない。そうでなければ、ニュース番組など誰も喜びはしないだろう。
もっとも、それはキルアラも同じだった。
考えなければならないことが、山ほどあった。
まず一つは、順番だ。
ナダユラ・トゾカリッシを、やりそこねた。
病院でやらかしたヘマも痛恨だったが、今回はそれ以上だ。何しろ、ただしくじっただけではなく、警察に警戒させてしまったのだ。
今後は厳重な警備がつくだろう。
それも精霊警官のだ。
順番を入れ換えるのは不本意だが、仮にそこを曲げてナダユラを後回しにしたとしても、最後にはやらなければならないのだ。
そうしなければ、終わらない。
運ばれてきたコーヒーは泥水のようで、サニーサイドアップは火が通り過ぎていた。
懐かしい味だった。
覚悟していた味だった。
だから文句を言う気にもならず、他の客と同じように紫色のテレビを眺めながら、キルアラは硬過ぎる目玉焼きを泥水で流し込んだ。
そう言えば……。
ヴァリィは、サニーサイドアップが大好きだったっけ。
可哀相《かわいそう》なヴァリィ。
本当ならまだ生きていられたはずのヴァリィ。
それはキルアラのミスだった。
あるいは、ヴァリエドが聡明《そうめい》に過ぎたのかも知れない。
しかしいずれにせよ、偶然の連続がゴトウ・ヴァリエドの命を縮めたのだ。
きっかけは、一枚のレシートだった。
ホロゼンの別荘地でバンガローを借りた時、宿帳には名前も住所も架空のものを記入しておきながら、キルアラは支払いの時に釣り銭といっしょに受け取ったレシートを迂闊《うかつ》にもサイフに入れっ放しにしてしまったのだ。
あるいは、ヴァリィが出張中だったので油断していたのかも知れない。帰宅してからも、すぐに処分せずに、寝室のクズ籠《かご》に放《ほう》り込んでしまった。
次の偶然は、キルアラが入浴中に起きた。
寝床に入ろうとしていたヴァリエドが、クズ籠を蹴倒《けたお》したのだ。
彼は、レシートを発見した。
あるいは、彼は妻の不貞を疑ったのかも知れない。
だがキルアラの部屋に駆け込み、名簿のファイルを見た瞬間、彼は全てを理解してしまったのだ。
二つの『カギ』が揃《そろ》ってしまったのである。
可哀相なヴァリィ。
それほど明晰《めいせき》な頭脳を持っていなければ……せめて人並みだったなら、あと何日かは長生きして、あと何回かは抱かせてあげられたのに。
嫌いじゃなかった。
いい人だったから。
きちんと話して、それで理解してくれれば、許してあげてもいいかとさえ思っていた。
でも、もう遅い。
ヴァリエドは死んだ。
キルアラが殺したのだ。
カップ入りの泥水の、最後の一口をすすってから、顔を上げる。
その目に、知った顔が飛び込んできた。
紫色だったが、それが誰だかは一目で判った。
「……うそ……」
思わず、カウンターチェアから腰を浮かせてしまう。隣の席で、無精髭《ひげ》だらけの老人が迷惑そうに、こちらを睨《にら》む。
知ったことか。
キルアラは、紫色の画面に映ったニュースキャスターの口元を凝視した。若いキャスターの後ろには、なんということか、昨夜会ったばかりの老人の顔が、合成で映っている。
ナダユラ・トゾカリッシだ。
「うそよ……」
死んだ。
「うそ」
ナダユラが。
「うそ……そんな……」
心臓発作で。
「うそ、うそ、うそ!」
キルアラの手にかかるのではなく、勝手に!
「うそ!!」
突然、腕を掴《つか》まれた。隣の老人だった。
「おい、座れ。テレビが見えねえ」
そのさらに隣の男が、真《ま》っ赤《か》に酒焼けした顔で怒鳴る。
「朝っぱらからイッちまってんじゃねえのか、嬢ちゃんよう」
向こうの席でも浮浪者みたいな男が何か言っているが、よく見えない。
その隣ではヤク中女が顔を歪《ゆが》めて何か言っているが、唇を歪めているので読み取れない。
見たくないので後ろを向くと、禿《は》げ頭のマッチョが何か言った。
後ろから小突かれた。振り返るとウェイトレスだった。何か言った。
厨房から固太りの男が顔を出した。顔をしかめて何か言った。
キルアラの周囲で、全員がキルアラの方を見て、何か言っている。
顔を歪め、
唾《つば》を飛ばし、
嘲笑《ちょうしょう》し、
怒鳴り、
喚《わめ》き、
何か言っている。
いくつもの顔が、キルアラの周囲で歪む。
歪んだ顔が、キルアラを包囲する。
ナダユラが死んだ。
キルアラを置いて、一人で勝手に死んだ。
もう手が届かない。
もう引き裂いてやれない。
殺せない。
殺せない。
復讐《ふくしゅう》出来なくなってしまった!!
「きゃるぁあぁぁあぁあああぁぁあぁああぁあ!!」
キルアラの喉が、『音』を発した。
トルバス国際空港の到着ロビーは人影もまばらで、その大半が空港職員だった。国際線のカウンターに何人かの利用客が見えるだけで、出迎えらしき人々は見えない。
第一便が、チャーター便だからだ。
だから発着スケジュールを表示する電光掲示板にも、その機の到着は表示されない。マナガとマティアがここにいるのは、つまり警察権力を駆使した調査の結果なのだ。
到着ロビーへと続くエスカレーターの前に、二人は立っていた。
三〇分ほどもそうしていただろうか、やがていくつもの足音が、エスカレーターの上から聞えてきた。
ゆったりとした歩みの、しかし複数の足音は、どれも重量級だ。
下りてきたのは、四人の男達だった。
どの人物も、大柄である。マナガほどではないにしろ、身長は高く肩幅は広い。
横幅の広いエスカレーターに、不思議な配置で立っている。真ん中に一人、その一段上の両端に一人ずつ、そして一段空けて、もう一つ上の段の中央に一人……である。
奇妙なことに、全員が同じ服装だった。
黒いスーツに、サングラスである。よく見ると、短く刈り込んだ髪形までが同じだ。
そしてもう一つ、共通点があった。
全員が、金属製で薄手のアタッシュ・ケースを所持しているのだ。
四人とも、大きさもデザインも同じだ。まるで単身楽団《ワンマン・オーケストラ》のように、大小さまざまのカバーに覆われているのである。
それはどことなく、マナガのトランクと似た構造だった。
四人の男達がフロアに下りると同時に、マナガはその前へ出た。
「あのぉ、すみません」
だが、四人はエスカレーターで見せた『フォーメーション』を崩さぬまま、歩調さえ緩めることなく、真《ま》っ直《す》ぐに歩いてくる。
その行く手を、マナガが遮《さえぎ》る格好になってしまった。
手帳を見せる。
「ルシャ市警のマナガと言います」
言えたのは、そこまでだった。正面中央の男が腕を伸ばして、ぐい、とマナガを押し退《の》けたのだ。
よろけるマナガに、マティアは跳ぶように後ろに退《さ》がる。同時に少女の手が黒いケープの下へと滑り込んだが、巨漢はそれを手で制した。
男達の歩調は、しかしゆったりと、急いでいるようには見えない。その正面に、マナガは再び回り込んだ。
今度は、脚を肩幅に開いた仁王立ちである。
先頭の男が、ついで左右と背後の男達が立ち止まった。黒いコートの刑事に、正面から対峙する格好だ。
「片づけろ」
そう言ったのは、四人の誰《だれ》でもなかった。しわがれ、乾ききった、五人めの声だ。
その言葉に、正面の男が応じた。
黒い革靴を履いた右足が、マナガの腹部を狙《ねら》って蹴り上げられたのである。
何の予備動作もなしに、しかしそれは神速の蹴りだった。
その蹴りが、標的に叩《たた》き込まれる寸前で、停止する。マナガの大きな手が、カウンターを叩きつける勢いで、その足首を掴んだのである。
「勘弁してくださいよ」
にぃっ、とマナガが笑う。苦笑である。
親指の爪《つめ》ほどもある大きな歯が、白々と並ぶ。
「弱い者いじめは趣味じゃないんですよ」
言いながら、マナガは男の足首を掴んだまま、その腕を横ざまに振った。
ぶん、と音をたてて正面の男が水平に宙を飛ぶ。鍛え上げられた大柄な肉体がソファに激突し、その音で空港職員がこちらを振り返った。
「なるほど」
しわがれ、乾ききった声。
「精霊か」
正面の護衛がいなくなったおかげで、ようやく声の主が姿を見せていた。四人の男達は、その人物を取り囲み、護《まも》っていたのである。
小さな男だった。
いや、単に背が低いだけではない。
骸骨《がいこつ》に渋皮を張り付けたように、痩《や》せさらばえていた。身に着けているのは上等なスーツだが、まるで借り物のように余ってる。
髪もほとんど残っておらず、まるでミイラが生きて動いているような印象なのだ。
腰こそ曲がってはいないが、どうやら手にした黒檀《こくたん》の杖《つえ》なしでは歩くことも不自由なようだ。だがその眼球だけは、ぎろぎろと異様なまでの光を放っている。
その目に、あからさまな嫌悪があるように見えるのは、気のせいだろうか。
「精霊ごときが、この私に何の用だ」
気のせいではなさそうだ。
マナガは、ぼりぼりと頭を掻《か》いて苦笑する。
それから、口を開いた。
「シバ・ニシェンダ、クツギ・バダムータ、アネオ・イギダイス、キダ・オゾワール……」
一つ一つ並べてゆくその名前に、老人の長い眉《まゆ》が、ひくり、と動く。
「それにゴトウ・ヴァリエド博士とムタ・クトワルカ院長。皆さん、ご存知ですよね?」
応《こた》えは、ない。
「ああ、そうそう、忘れてました。ナダユラ・トゾカリッシさんも昨夜」
「何が言いたいのだ、小僧」
じろり、と老人が睨《にら》む。
「私は容疑者なのかね?」
「いいえぇ、とんでもない」
マナガは肩をすくめて見せる。
「他の用です。お判《わか》りになりませんか?」
「判らんな」
「おやぁ? この七人の名前を聞いただけで、すぐに『容疑者』なんて言葉が出てくるような方なら、もうお判りかと思うんですがね」
その言葉に、驚いたことに老人の表情が変わった。唇の端が片方、吊《つ》り上がったのだ。
笑みだった。
「なるほど、しくじったわ」
「はい、口が滑りましたな」
それから、老人の視線が動く。
応えるように、つい、と前に出てきたのは、マティアである。
「ルシャゼリウス市警察精霊課の、マチヤ・マティア警部です」
「ほう」
値踏みするように、老人の視線がマティアの頭から爪先《つまさき》まで、往復する。
「楽士さんかね」
「はい」
「どちらで学ばれた? 察するに、トルバスか」
「いいえ、独学です」
「ほほう」
シワだらけの老人の手が伸びる。マティアもケープから腕を伸ばし、握手に応えた。
「少々お時間をちょうだい出来ませんか、クラト・ロヴィアッド卿《きょう》」
「いいとも」
おい、とクラト卿が声をかける相手は、右側の黒服である。
「空港ホテルに部屋を取れ。クラクモには一時間遅らせろと伝えろ」
「はい」
応えて背を向けようとした男を、
「まて」
クラトは、さらに呼び止める。
「それと、シキタはクビだ」
シキタ、というのは、クラトの秘書である。マナガが、クラト・ロヴィアッドの居所を聞き出した人物だ。
「それだけだ。行け」
「はい」
男が走り去る方向は、空港に隣接した高級ホテルの方向である。
「では、行こうか」
歩き始めた時、ソファに叩きつけられた男が、呻《うめ》きとともに起き上がった。
クラト・ロヴィアッドは振り返って、言った。
「お前もクビだ」
騒ぎを知って駆けつけた空港警備員は、クラトの姿を見るなり、一礼して道を空けた。
奇跡の大富豪、と呼ばれる男がいる。
クラト・ロヴィアッドその人である。
その富は主に単身楽団製造メーカー・クラト工業によってもたらされたと言われている。
表向きは、だ。
無論その業績は華々しいものではあったが、同時に後ろ暗い噂の絶《た》えない人物でもあった。あるいは、後ろ暗い噂にも拘《かかわ》らず彼を支持する者もまた断えなかった、と言った方が実情に沿うかも知れない。
麻薬や機械部品など輸出入の禁じられた商品を密売しているという噂の一方で神曲公社や神曲教育機関への莫大《ばくだい》な寄付を行い、強引な企業買収で悪名を轟《とどろ》かせる一方で、画期的な小型単身楽団の開発で勇名を馳《は》せる、そういった人物なのだ。
いや、そういった人物だった……と言うべきだろうか。
今年の春、クラト工業は突然、解散した。
全ての権利と資産を売却し、事実上、消滅してしまったのである。そのニュースは世界中を駆けめぐり、経済界に少なからぬ波紋を広げたものだ。
その後、彼は社会の表舞台からは姿を消した。
だが少なくとも、社会情勢に完全に無関心でない限り、誰もが知っている人物と言える。
だからマナガも、ナダユラが最期に残した囁《ささや》きの断片から、それが誰を指すのかすぐに見当がついたというわけだ。
クラト・ロヴィアッド。
奇跡の大富豪。
「それで」
老人は口を開いた。
「何を聞きたいのかね」
トルバス国際空港ホテルのスイートである。
無論、最上階だ。
マナガが思い出したのは、つい先日目にしたばかりのゴトウ家のリビングだ。あの部屋をそっくり切り取って、ホテルの建物にはめ込んだような印象なのである。
年代物のテーブルを挟んで年代物のボックスチェアに座り、二人の刑事は老人と向き合った。
黒服の護衛は三人に減ったが、一人はリビングの窓際に、一人はドアの脇《わき》に、そして残る一人はクラト老人のすぐ背後に立っている。
「答えられる範囲でなら、お答えするよ」
言われて、マティアはマナガを振り返る。隣の席の、ほとんど真上を仰ぎ見る格好だ。
相棒がうなずくと、少女は老人に向き直った。
「では、お訊《たず》ねします」
滑らかだが、固い声である。彼女が『警官』として振る舞う時の、それは厚い鎧《よろい》をまとった声だ。
「二四年前からの五年間、あなたが『六号』と呼ばれる幼児に対して行ったことの詳細を、話してください」
ほう、とクラトは目を剥《む》いた。
続いて、くつくつと喉の奥が鳴ったのは、どうやら笑っているようだ。
「誰から聞いたね」
「それは申し上げられません」
「おおかた想像はつく。すくたれ者のナダユラであろうよ」
「お答え出来ません」
「では」
老人の目が、きゅう、と細くなる。あるいは、これが彼の本性なのだろう。
「私も答えられんな」
「実験ですね?」
「さあのう」
「複数の幼児に対して、生まれて間もない段階から薬学的に、あるいは外科的に改造を加えて、単独で神曲を歌唱し得る肉体を造ろうとしましたね?」
「憶《おぼ》えておらんのう」
「四人は早期に死亡し、残る二人のうちどちらか一方が、五歳の時に神曲たる『音』の『発生』に成功した。そうですね?」
「何のことかのう」
老人は、笑っている。
にやにやと。
だが、その目は笑っていなかった。真っ正面から、黒衣の少女を見据えているのだ。
「そして、その一人は、逃げた」
老人は、応えなかった。
にやにや笑いを口元に張り付けたまま、じっと少女を見つめ返すだけだ。
「逃げた一人が、すなわち、あなた方が『六号』と呼んでいた人物です」
マティアの、それはすでに質問ではなくなっていた。
断定だ。
「彼女は逃亡に際して、施設を破壊しました。おそらく意図的なものではなかったと思われますが、その時もう一人……『四号』と呼ばれた幼児も犠牲になっています」
つまり、
「あなた方の『研究』は、その時点で放棄せざるを得なくなったのです」
「面白い」
そう言いながら、クラトの口元からも、最後の笑みのカケラが消える。
「続きは、どうなるね?」
マティアは、小さく首を振った。
「判りません。けれど確実なのは、彼女が生き延びたということです。あるいは彼女の『神曲』が彼女自身を救ったのかも知れません。やがて彼女は成人し、そして結婚します」
ゴトウ・ヴァリエドと、だ。
「彼女は、ゴトウ博士がかつて自分を実験台にした人々の中の一人であることを、知っていました。知っていたからこそ近づき、結婚したのです。そして彼女は二年間の結婚生活の中で、少しずつ情報を集めました」
おそらく最初の手掛かりは、外交官となったシバ・ニシェンダだったろうとマナガは踏んでいた。クラトを除けば、関係者の中で最も顔の売れている人物だからだ。
実際、マナガがシバ外交官の経歴を逆に辿《たど》ってみると、謎《なぞ》の五年間に行き当たった。そしてそこから当時のシバを知る者にまで調査を広げると、クツギ社長とキダ楽士に行き着いたのである。
無論《むろん》、キルアラには警官のような捜査能力はなかったはずだ。だが逆に言えば、そのために二年間を費やしたと考えられるのである。
「ほう」
「人間は、生きている限り『痕跡《こんせき》』を残します。その『痕跡』をたどって行けば、いずれ『過去』に辿り着きます。切り捨てたつもりでも『過去』は消えません。帳尻《ちょうじり》を合わせて『現在』との折り合いをつけない限り、『過去』はいずれ逆襲してくるんです」
マティアは膝《ひざ》を揃《そろ》えて、
「クラト・ロヴィアッドさん」
背筋を伸ばす。
「あなたが、最後の一人です。彼女は必ず、あなたを殺しに来ます」
それは、厳然たる事実だ。
「あなた方は、彼女に何をしたんですか? 彼女の、あれは神曲などではありません。彼女は人間でさえなくなっています。いったい何をしたら、ああなるんですか!?」
クラト・ロヴィアッドは、じっとマティアを見つめる。
だが、彼女には応えなかった。
ひらり、と片手を挙げて見せる相手は、三人の護衛である。
「帰ってもらえ」
すぐさま、三人が動く。
一人はドアを開け、窓際の一人は二人の刑事のすぐ側《そば》に立った。
すがるようなマティアの視線に、マナガはうなずいて、しかしあっさりと立ち上がる。
「私ゃね」
低く太い、腹の底に響く声で、マナガは言った。
「これでも、真面目《まじめ》な警官のつもりです。ですから、あんたがどれほどの糞《くそ》野郎でも、護らにゃならんのですよ」
それから、太い腕でマティアを抱き上げた。
おとなしくドアまで歩き、しかし彼は立ち止まる。
「ああ、そうそう。一つ、忘れてました」
広い背中を向けたまま、
「彼女、私も入れて九人の精霊警官の前から、見事に脱出しましたよ」
一人の老人と、三人の護衛に向けて。
「あなたが精霊をお好きじゃないことは承知してますがね。いやまあ彼女を返り討ちにしようと思ったら、いったい何百人の護衛が必要なんでしょうなあ」
廊下に出ると、背後で静かにドアが閉じられた。
キルアラは、ぼんやりと自分の顔を見つめていた。
暗い窓ガラスに映る、見慣れた横顔だ。
ヴァリィは、この横顔が好きだった。
並んで歩く時も、いっしょにテレビを観《み》ている時も、ベッドでおやすみを言う時も、キルアラの横顔を盗み見ては幸せそうな笑みを浮かべたものだ。
だがキルアラは、嫌いだった。
あの狭く白い部屋で、ずっとこうして窓際に座り、暗い窓ガラスに映る自分の横顔だけを眺めていたことを思い出すのだ。
子供のころのことだ。
『六号』と呼ばれていたころのことだ。
来る日も来る日も、幼い肉体に注ぎ込まれる苦痛と不快に耐え続けていた、あのころのことだ。
話し相手は四号だけだった。
そして四号も、友達ではなかった。
どちらかが先に歌うことが出来れば、もう片方が要らなくなることを知っていたからだ。
お互いに。
先に歌ったのはキルアラの……いや、六号の方だった。
応えたのは、黒い奔流だった。
床が陥没し、壁が崩れ、そして四号は砕け散った。
六号も。
彼女は悲鳴の代わりに、歌った。
彼女は嗚咽《おえつ》の代わりに、歌った。
そして、応えるものがあった。
だから今、彼女は、ここにいる。
列車がトンネルを抜けた。
途端にキルアラの横顔は消え失せて、窓の外に広がるのは田園風景である。
広い耕作地帯の向こうには、シラトバ山が遠ざかる。
レールはゆったりと湾曲し、徐々にソルテム山に迫りながら、田園地帯を抜けてシノザカへと向かう。
ひょっとしたら、警察は先回りしているかも知れない。
けれどキルアラには、躊躇《ためら》いはなかった。
正面から行くだけだ。
そして必ず、殺すのだ。
最後の一人を。
黒塗りのケルセラー・ベルツは、高速道路をシノザカへと向かっている。
後方にぴったりと尾けたマナガの四駆車には、とっくに気づいているはずだ。それでも振り切ろうとしないのは、しかし決して警察の追従を許したからではないだろう。
尾行する以上のことが出来ないのを、知っているからだ。
いかに警察機構と言えども、本人の同意なしに強制的に護衛することは法的に不可能だ。そんなことをすれば、たちまち人権侵害で訴えられる。
「警官だからな」
ぼそり、と漏らしたマナガの言葉に、
「正義の味方じゃないもんね」
助手席のマティアが応じる。
警察官は、ヒーローではない。
ただの公務員だ。
人々の財産を護《まも》り、命を救ったとしても、それは職務に過ぎないのだ。
だが、そのためには最大限の力を尽くすつもりだった。
あるいは、それ以上の。
黒塗りの高級車が、車線を左へ移動する。出口が近いのだ。
その先には、シノザカ駅がある。
メドン線やテオウ線、さらには帝鉄セガシナ線や、国境越えの国際線も乗り入れている、ハブ駅である。
クラト・ロヴィアッドは、ここで一〇時二七分発のノモロン行き臨時急行に乗り、ハピリカへ行く予定なのである。無論これも、シキタ秘書から聞き出した情報だ。
なぜ飛行機を使わないのか、というマナガの問いに、シキタは苦笑で応えたものだ。
あの国は今、情勢不安で航空管制がしかれてるんですよ。
そんな国に、とマナガは思う。
いったい何の用だ?
しかも今朝、クラトはハピリカと冷戦状態にあるキダリオから戻ったばかりなのだ。
「ねえ」
どうやらマティアも、同じことを考えていたようだ。
「噂《うわさ》って、本当なんじゃないかな、って思う」
「爺《じい》さんのか?」
「うん」
それはクラト・ロヴィアッドにまつわる噂のうち、最も荒唐無稽《こうとうむけい》なものだ。
だが、ナダユラが死の間際に語った内容を思い返すと、一気に信憑性《しんぴょうせい》が増すのである。
ナダユラは、集められた研究者について、自分を含めて六人、と言った。
しかし殺害されたのは、ショックで死亡したナダユラ自身を含めて、七人。
そう。一人、足りないのだ。
欠けていたのは、シバ・ニシェンダ。外交官だ。
それを考えると、荒唐無稽なはずの噂が、現実味を帯びてくる。
いわく、神曲を軍事利用しようとしている、である。
無論、神曲が軍事利用された事実があることは、歴史にも記されている。しかしそれはあくまで、人間に協力する精霊兵に与えるためのもだった。つまり、兵士に対する補給物資として、なのだ。
だが噂の語るところによると、クラト・ロヴィアッドの開発しようとしているのは、そういうものではないという。
例えば、敵の精霊兵を錯乱状態に陥《おとしい》れる侵蝕《しんしょく》楽曲。
例えば、精霊を強制的に闘わせるための支配楽曲。
例えば、精霊の力を奪い生命をも削る逆神曲。
そういったものだ。
これに付随するのが、クラトはそれらの神曲をダンテの楽譜を原型として開発中である、といった噂である。これによって、噂は一気に根拠のない妄想となるのだ。
しかし一方で、この噂を補強する事実もある。
六〇年前の、神曲暴発事故だ。
クラト・ロヴィアッドが、まだ先代のクラト・ヴァルアッテから社長の座を譲り受ける前、彼の指揮していたプロジェクト・チームが大惨事を引き起こしたのである。
その詳細は謎に包まれ、公にはされていない部分も多い。しかし、試験に協力した精霊が突発的な暴走状態に陥《おちい》ったことだけは間違いなかった。
そして、あろうことかクラトの妻と娘、そして娘婿が死亡したのである。
「まだ恨んでるのかな」
「そうらしいな」
それ以来、クラト卿《きょう》は精霊を憎み、これを支配することに傾注《けいちゅう》し始めたという。
無論、噂である。
だが今、決して友好な関係にあるとは言えない二つの国家を渡り歩く老人の姿を目の当たりにすると、あながちそれが単なる噂でもないように思えるのだ。
ケルセラー・ベルツは高速道路を下りると、そのまま駅前の繁華街を迂回《うかい》する。
やがて前方の建物の向こうに、大きな駅ビルの姿が見え始めた。
ざっ、と電子的な雑音が車内に響いたのは、その時だった。
ホームに降りたキルアラは、周囲を見回した。
そう言えば、電車に乗るのも結婚以来のことだ。
キルアラはいつも、ヴァリィの運転する車の助手席にいた。
出かける時には、必ず彼がいっしょだったからだ。
シノザカ駅は、メニスの鉄道網の約半分が集中するハブ駅である。
敷地は広大で、東西に長い駅ビルには二〇〇を超えるテナントが入っている。東端の高層ビルは帝鉄ホテルだ。
毎日、十数万人の人々がこの駅に降り立ち、この駅を通り過ぎ、この駅から発《た》ってゆく。
ホームの天井は高く、複雑なアーチ構造の鉄骨は有名な建築デザイナーの手によるものだという。これを支える柱にまで奏世神話をモチーフとした彫刻が施され、まさに神曲の都・トルバスへの入り口にふさわしい。
キルアラの唇に浮かぶのは、嘲笑《ちょうしょう》である。
それから彼女は、雑踏を縫うように歩き始めた。
最後の闘いに向けて。
駅の駐車場に黒い四駆車を割り込ませたマナガは、
「それで? キルアラは?」
まだ無線を受けていた。
警察無線である。それも、二つの報告が立て続けに入ってきたのだ。
ざっ、という雑音に続いて、応えるのは事務的な女性の声だ。
「不明です。周辺を捜索しましたが、現時点で確保あるいは捕捉《ほそく》されていません」
「判《わか》った」
「以上」
「なに?」
マティアである。
「まずいな。バレてる」
キルアラに、クラト・ロヴィアッドの行動が、である。
マナガとマティアが空港でクラト卿と話している、まさにその同じころ、ゴトウ・キルアラらしき人物がクラトの屋敷に現れたというのだ。
アポイントはなかったが、六号と言えば判る、という彼女の言葉に、シキタ・ネフェクシスが応対に出た。クラト卿の秘書だ。
シキタはキルアラを応接室へ通した。
彼はまだ、自分が解雇されたことを知らなかった。そして、その事実を知る機会を永遠に失った。
殺害されたのだ。
邸内に設置された数十台の防犯カメラは、どれ一つとして、応接室を出るキルアラの姿を捉《とら》えてはいなかった。
「来る、かな?」
「来るに決まってるさ」
マナガがクウォンタ・クルーガー4WDを停車した位置からは、クラトの車は見えない。
見える位置に、駐車スペースの空きがなかったのだ。
「行くぞ」
飛び下りるように車を出た二人を、しかし意外な人物が迎えた。
クラトを護衛していた黒服のうちの、一人だ。
「刑事さん」
ぼそり、と呟《つぶや》くようなその声は、怒鳴り散らした後のように荒れている。
「これ以上はご遠慮いただけますか。私の雇い主は、プライバシーを侵されることを極端に嫌う方ですので」
「いやあ、そうは言ってもですねえ」
言いながら頭を掻《か》くマナガの、もう一方の手は大きなトランクで塞《ふさ》がっている。
「今しがた本部から連絡がありましてね、あんたの雇い主を殺そうとしてる人物が、こっちへ向かってるらしいんですなあ」
「ご心配なく。雇い主を護るのが、我々の仕事です」
一方で黒服の方も、その手には銀色のアタッシュ・ケースを下げている。
「お引き取りいただきたい」
「いやあ、それを言うなら私の方も、一般市民を護るのが仕事でしてねえ。犯罪者に命を狙《ねら》われてる人物が他の乗客といっしょに列車に乗る、なんてのを黙って見てるわけにゃいかないんですよ」
「一つ、申し上げておく」
「何でしょう?」
「雇い主からは、おとなしく言うことを聞かないようなら叩《たた》きのめしていい、と言いつかってます」
「警官に対する暴行は、ちと厄介ですよ」
「その責任も、雇い主がとるそうです」
「なぁるほど、そういうことなら仕方ないですなあ」
応じたのはマナガが先だったが、動いたのは黒服の方が速かった。
胸元に構《かま》えたアタッシュ・ケースが、瞬時に変形した。
ネックが伸長し、ヘッドから飛び出した金具がボディへとスライドしつつ六本の弦を張る。ボディはさらに変形してトレモロアームを突出し、さらには三つのスピーカーを展開した。
単身楽団《ワンマン・オーケストラ》だ!
だが、それは見たこともないタイプだった。
本来、単身楽団は背中に背負う本体と、各種データを表示する表示システム、音響を拡大するスピーカー、そして演奏の入力装置となる主制御楽器とで成り立っている。
ところが目の前の男が抱えているのは、どう見てもギターだ。
本体が、ない。
その代わり、ギターそのものからスピーカーが展開し、ネックやボディから伸びた金属アームが表示装置となっているのである。
主制御楽器の内部に、全てのシステムを組み込んであるのだ。
黒服の男が六つの弦を掻き鳴らすと、その音は内蔵されたアンプリファイヤで増幅され、駐車場に鳴り響いた。
「おや。ニューモデル、ですか」
マナガがそう言った瞬間、男の前方に、
「おう!!」
雷鳴のように轟《とどろ》く声とともに、巨体が実体化した。
精霊だ。
二メートル半を超えるマナガよりも、さらに頭二つぶんほど背が高い。
横幅になると、倍ほどもある。
「呼んだか!?」
どう、と大気を震わせるその声に、駐車場にいあわせた人々が一斉に振り返り、そして後退《あとずさ》った。
マティアも、するりとマナガの背後に隠れる。
現れた精霊は、ゴバリの枝族《しぞく》だ。しかもマナガと同じ、フマヌビックである。だがその姿は、驚くべき威容だった。
ぎらぎらと殺気だつ眼球《がんきゅう》が、つるりとした禿頭《はげあたま》の下で燐光《りんこう》を放っている。上半身は裸で、筋肉の束は筋繊維の一本一本まで指でたどれそうなほどに太い。腕にも胸にも、古い儀礼用の文様を思わせるイレズミが走り、申し訳ていどに腰に巻きついた布にも同じ文様が描かれている。
握るだけで、ごりっ、と音がしそうなほどの拳《こぶし》は、マナガの頭部よりも大きい。
巨漢、という言葉では足りないほどの巨漢なのだ。
その背中には、太陽のように眩《まぶ》しい四枚の光の羽根《はね》が、誇らしげに反り返っていた。
「我こそは!」
羽根に負けないくらいに胸を逸らして、召喚された精霊が轟き叫ぶ。
「グロン・ドルク・ガルダンカス! 召喚に応じて参…………」
朗々《ろうろう》としたその名乗りに、
「ぃよう」
マナガが、割って入った。
「お前さん、こんなところで何してる?」
「なに?」
グロンと名乗った精霊の、その目がようやく、思い出したように目の前の黒いコートを見下ろした。
途端にその目から、殺気が消える。
「あ、あんた……」
いや、殺気が消えただけではない。
それが別のものと入れ代わったのだ。
「まさか、嘘《うそ》だろ……」
驚きに。
そして、怯《おび》えに。
グロンは頬《ほお》をぶん殴られた勢いで、背後の黒服を振り返る。
「おい、マジかよ! あんた、この人に何したんだ!?」
慌《あわ》てたのは黒服の男である。自分の契約精霊を呆然《ぼうぜん》と見上げて、ぽかんと口を開けるばかりだ。
「まさか、この人と、やれってのか!?」
「あ、ああ……」
「冗談じゃない!」
それは、半ば悲鳴である。
「判ってんのか!? マナガリアスティノークルだぞ!? 俺《おれ》もあんたも、殺されるぞ!」
「ああ、いや」
取りなすように片手を挙げて、マナガは苦笑である。
「そんなことしないってば。いや、あの、ここ通して欲しいだけなんだわ」
「駄目だ!」
黒服が叫ぶ。
「あいつを止めろ! 倒せ!」
明らかに、狼狽《ろうばい》していた。
当然だ。
神曲楽士と精霊との契約は、神聖なものだ。楽士は精霊に神曲を与え、精霊はその見返りに楽士に忠誠を誓う。精霊は楽士のいかなる命令にも従い、そして楽士はいかなる場合にも精霊の求めに応じて神曲を奏でる。それが、契約なのだ。
精霊が楽士の命令に背くことなど、あり得ない。
あってはならない、のではなく、あり得ない、のである。
そう。
本来ならば。
だが、例外があった。
命令に従うことで神曲楽士の生命を危険にさらす結果になると判っている場合のみ、精霊はその命令に背く。
今、マナガとマティアの眼前で繰り広げられているのが、つまり、それだ。
「応じられん」
グロンは、そう言った。
黒服の男も、ようやくその意味を理解したようだ。サングラスごしに問いかけるようなその表情に、グロンはうなずいた。
「そうだ」
そして、再びマナガに向き直る。
「俺など、とても敵《かな》う相手ではない」
「そいつぁ買いかぶりだと思うけどなあ」
その言葉にグロンは、にぃ、と笑った。意外なくらいに人懐っこい笑みになった。
「あんたが楽士と契約したとは聞いてたが、そうかい、その嬢ちゃんが」
「ああ」
マナガのコートの陰から、マティアが顔を出す。
顔だけだ。
「こんにちは、嬢ちゃん。グロン・ドルク・ガルダンカス、マナガリアスティノークルの旧い知り合いだ」
「マチヤ・マティアです」
「こんにちは、マチヤ……」
言いかけて、グロンの顔がふいに、くもった。
それから、
「そうか。あんた、そういうことか」
そして、再び笑みだ。
「しっかりな」
それが、最後の言葉だった。
次の瞬間、グロンの巨体は音もなく消え失せた。
「じゃあ、失礼しますよ」
言い置いて前を横切る二人の刑事を、黒服の男は止めなかった。
声をかけようともしなかった。
ただ呆然《ぼうぜん》と見送り、
展開したままだった単身楽団を仕舞い、
それから次の職を探すことを考え始めた。
テガン線は、トルバスとハピリカを繋ぐ国際鉄道である。
中でもライトニング号は、トルバスのシノザキとハピリカのノモロンを二一時間で結ぶ超特急だ。
途中、国境の駅で約三〇分の停車がある以外は、ノンストップである。乗客定員は一三〇〇人、さらに三二人の乗務員を乗せて、最高時速二七〇キロで突っ走るのだ。
二人の護衛とともに最後尾の車両に乗り込んだクラト・ロヴィアッドは、ようやく人心地《ひとごこち》ついたところだった。
この車両には、しかし一般的な意味での客席はない。
特別仕様の、いわゆる『お召し列車』なのである。
内装も調度品も、古風な邸宅を思わせるデザインで統一されている。絨毯《じゅうたん》と壁紙は深みのある紺《こん》に小さな黄色い花模様が散らされており、支柱や天井にほどこされた植物モチーフの彫刻は金箔《きんぱく》張りだが渋めの色調で品位をたもっている。
床にボルト留めされた丸いテーブルも深い肘掛《ひじか》け椅子《いす》も木製で、窓のカーテンは分厚いベルベットだ。いずれも、目の利《き》く骨董《こっとう》屋ならば数十万単位の値を付けるだろう。
部屋が奥に細長いことと窓が多いことを除けば、それは立派な居間だった。
突き当たりは列車の最後尾である。
一面が大きな展望窓になっていて、そのすぐ下はゆるやかに湾曲した革張りのソファだった。
展望窓を背にして、クラト・ロヴィアッドはソファに腰を下ろす。
ふう、と溜《た》め息《いき》が漏れるのは、さすがに歳のせいだろう。
実際のところ、これから二一時間に及ぶ移動は、いささか気が乗らなかった。とは言え、さすがのクラト卿も一国の内政を動かすほどの力を持っているわけではない。
飛行機が飛ばない以上、車で移動するよりははるかに楽だ。
だからこその、臨時列車である。
この一〇時二七分発ノモロン行きは、クラト・ロヴィアッドのために走る。
それ以外の一般乗客は、単なる付け足しでしかない。
だからこそ帝鉄総帥のクラクモ・ドリダシオレは、大幅なダイヤの乱れと引き換えにしてまで、クラトのために発車を一時間も遅らせたのだ。
「シガラ」
呼び寄せるのは、黒服の一人である。もう一人はドアの向こう、車両の連結部にいるはずだ。
「はい」
「イガトはどうした」
「まだ戻りません」
「クビだ」
「はい」
「それから、葡萄《ぶどう》酒を持って来させろ。シニアル・ロペロスを入れさせてある」
「はい」
クロトが虫でも追い払うように手を振ると、シガラと呼ばれた男は一礼して退く。その背中が部屋を出て行った時、ゆらり、と車体が揺れた。
続いて、ごん、と床の下から振動が響く。
窓の外で、ホームが少しずつ横へと滑り始めた。
懐中時計で時刻を確認する。
定刻どおりだった。
二一時間後には、列車はハピリカに着く。
そこには遣いの者が待っていて、さらに二時間後には契約を締結している予定だ。
あるいは、と老人は思う。
もう少し『実力』を見せつけてやる必要があるかも知れない。
それとも『コマーシャル』と言った方が適切だろうか。ともかくあの国の連中は、トルバスの奴《やつ》らほどではないにせよ、まだ精霊を神聖視し過ぎるきらいがある。
だが、クラト・ロヴィアッドは違う。
彼は、精霊が単なる『生物』であることを知っている。
ただその有り様が、人間とは異なっているだけのことだ。
彼は、そのことを知っていた。
彼だけが、そのことを知っていた。
だから思い知らせてやろうとした。彼の六〇年は、そのために費やされたのだ。
妻と娘、そして娘婿を精霊に殺された、あの日から。
ノックの音がした。
シガラにしては、戻って来るのが早すぎる。だとすると、ドアの外で見張りをしているタイクの方だろうか。
「何だ」
応じると、ゆっくりとドアが開いた。
にゅっ、と顔を出すのは、サングラスの護衛ではなかった。
「おじゃまします」
岩を無造作に彫ったような、無骨な顔。
マナガである。
「すみません、強引に押しかけちゃって」
言いながら入ってくる、その背後には黒衣の少女が続く。少女の後ろには、連結器の前で仰向《あおむ》けになって伸びているタイク・クワリゲイの姿が見えた。
「きちんと閉めておけ。見苦しいものは見たくない」
「はい、そりゃもう」
言いながら後ろ手にドアを閉じると、巨漢は無遠慮に歩いて来る。いくらか背を丸めているのは、天井に頭をぶつけない用心だろう。
クラト・ロヴィアッドの手前で、マナガは立ち止まった。
「しつこいな、お前も」
老人は、見上げる格好になる。そのせいでマナガの顔の後ろには、天井が見えた。
「ええ、まあ。これが仕事なもんでしてね」
応《こた》える巨漢は、苦笑である。
「では好きにしろ。そのあたりで、おとなしくしておれ」
折れたつもりだった。
だが、
「いえ、降りていただきたいんで」
「なに?」
「犯人が、この列車のことを突き止めました。間違いなく、ここへ来ます」
「誰が漏《も》らした。シキタか」
「ええ、おそらく」
「クビにして正解だったな」
「いえ、その前に亡くなりました」
「何だと?」
犯人に殺害されたのだ、と巨漢の刑事は言った。
「でも問題は、その連絡の前に受けた別件の連絡でしてね」
今朝の、それも早朝のことだ。
「ロディウェイの裏町のダイナーで、事件がありました。殺人です」
「それが私と、何の関係がある」
「客と従業員、合わせて一三人が殺害されました。同じ手口です。何があったのかは知りませんが、犯人はそこで一三人を殺し、その後であなたのお宅へ行って、秘書からあなたの行方《ゆくえ》を聞き出して殺害したんです」
「イカレとる」
「その表現には同意しかねますが、まあ相手が論理的な思考をしていない可能性については同意します。でもそれより問題なのは、相手があなたの居場所を把握しているという事実です」
「だから」
マナガの言葉を受けたのは、マティアだった。
「勧告に来ました。すぐに列車を降りてください」
「もう走っとる」
「ご同意さえ頂戴《ちょうだい》出来れば、後は我々が何とかします」
なるほど、とクラトは思う。
つまり、彼らは断定的に話しているものの、法的にはまだ『可能性』の問題でしかないということだ。この段階では、まだクラトを強制的に保護することは出来ないのだ。
「つまりお前達は、犯人がこの列車に乗っているかどうか、確認しておらんのかね」
「確認しました」
その言葉を、巨漢が補足する。
「飛び乗って、真っ先にね。先頭車両から、ここまで。乗客の中には、いませんでした」
ならば答えは当然、一つだ。
「悪いが断るよ、警部」
少女の瞳《ひとみ》に、瞬間、非難の色が浮かぶのが見えた。
「危険なのは、あなただけではありません。他の乗客にまで危険が及びます」
その言葉にクラトは、あからさまな嘲笑《ちょうしょう》で応じる。
肩書が警部であっても、しょせんは子供ということか。
「乗っておらんのだろう?」
「ええ、現時点では」
「では、どうやって襲って来るのかね。まさか、走って追いつくとでも言うのか?」
「追いつきますよ」
少女の表情は、全く変わらなかった。
「彼女は……あなたが『六号』と呼んだ少女は、もう人間ではありませんから」
「意味が判《わか》らんな」
「そいつは……」
マナガである。
「六号なんぞ知らん、という意味ですか? それとも、人間ではない、という部分がお判りにならんのですか?」
「両方だよ」
半分は当然、嘘《うそ》だ。
それはマナガも判っているようだ。彼は後半の説明しかしなかった。
「私達にも、何が起きているのかさっぱり判りません。でもね、彼女の肉体そのものに変異が生じてるのは確かです」
莫迦《ばか》な。
被験者に対する処置の対象部位は、発声器官と言語中枢、そして聴覚器官だけだ。それで、どうして肉体が変異したりするものか。
「信じられんな」
「そうですか?」
言いながら、マナガが太い腕を上げる。
「じゃあお訊《き》きしますが……実は、さっきから気になってたんですがね」
ほぼ水平になったその腕の先で、人差し指が展望窓の向こうを指している。
「あいつぁ、何だと思います?」
「なに?」
言われて、クラトはソファの上で腰をひねり、展望窓から背後を見た。
最初に目に飛び込んできたのは、レールである。コンクリート製の枕木《まくらぎ》が、次々と視界の下から現れては、奥へと遠ざかってゆく。かなりの速度だ。
線路の両側には、沿線の町並みが見える。このあたりは住宅街のようだ。
さらに向こうに見えるのは、トルバスの街である。立ち並ぶビルが静かに右側へと滑るように見えるのは、線路がわずかにカーブを描いているせいだ。
「見えますか?」
マナガの言葉に老人は、ああ、と答えた。
最初に連想したのは、猫だ。
線路の上を、猫が一匹、こちら向かって走ってくる。
身を伸ばして前方に飛び込むように踏み込み、前肢《まえあし》の着地と同時に今度は身を縮めて後肢を引きつける。伸び、縮み、伸び、縮み、躍動的に全身を波うたせて、走って来る。
違う、と思ったのは、次の瞬間だ。
大きい。
大き過ぎる。
レールの幅と比較する限り、それは猫の大きさではない。正面から見ているので正確には判らないが、しかしその全長は一メートル半か、それ以上はありそうだ。
しかも、枕木を蹴《け》っているのは、肢ではない。
黒い液体のような、何だか判らない流動的な物体なのだ。
前肢を踏み出すのではなく粘液を前方に噴き出すように、後肢を引きつけるのではなく粘液を吸い込むように、全身を波うたせるのではなくぶよぶよの軟体が蠕動《ぜんどう》するように、しかし信じがたいほどの速さで追いすがって来るのである。
「なんだ、あれは……」
我ながら愚問だった。
その顔には、見覚えがある。
そう。『それ』には顔があった。猛烈な勢いで弾《はじ》けるように蠢《うごめ》く黒い『もの』の真ん中あたりに、人間の顔があったのだ!
「まさか」
女だ。
黒い髪の。
美しい。
「六号……」
歯を喰《く》いしばったクラトの口元から、言葉が漏れた。
彼が知っているのは、五歳のころまでだ。
だが、間違いない。
あれは……六号の顔だ!
目が合った。
五〇メートルほどの距離があったが、それははっきりと判った。
その瞬間、女が目を見開き、ぼっかりと口を開けた。
「どうやら、あっちも、あんたを見つけたみたいですな」
マナガの声は、腹の底に響く。
「こうなる前に降りて欲しかったんですがねぇ」
突然、六号が跳んだ。
視界の真上に消えて、見えなくなった。
思わず見上げた天井が、どん、と音をたてた。
自己犠牲、という言葉に対するマナガの思いは、一つだ。
胡散臭《うさんくさ》い、である。
少なくともマナガがその『人生』で見てきた限りにおいて、自ら『自己犠牲』を口にする者が実際に身を捨てて他者を護ったことなど、一度もなかった。そういうセリフを吐く奴に限って、自分一人で逃げようとしたり、逃げきれないと判ると他人まで巻き添えにしようとしたりしたものだ。
だから彼は、警官になった。
自己犠牲は胡散臭い、だが職務の遂行は単なる義務だ。
「なんだ……どうなった……!?」
ようやく事態を把握したクラト・ロヴィアッドが、ソファから立ち上がる。
きょろきょろと視線を天井にさまよわせて、さっきまでの偉そうな態度はカケラも残っていない。
だが、もう遅い。
敵は、真上まで迫ったのだ。
「マティア」
がつんがつん、と移動する固い音を追って、マナガの目もまた天井を移動してゆく。
「支援よりも、市民の安全を優先しろよ」
「判ってる」
小さな警部の方は四方へ視線を投げて、それは退避経路と退避場所を模索しているのだろう。
「いいか?」
「うん」
「よっしゃ。じゃあ、始めるぞ!」
言うなり、マナガは手にした銀色のトランクを、床に叩《たた》きつけた。
旧式の単身楽団《ワンマン・オーケストラ》の外装を利用した、しかしそれは単身楽団ではない。内部にはアンプもイクォライザーも、主制御楽器すら内蔵していない。
詰まっているのは、武器だ。
タテに置かれたトランクの、その上面でシャッターが開く。
本来ならばスピーカーを展開するはずの、その開口部から垂直に飛び出すのは、二つの黒い鋼鉄だ。
銃である。
二連弾倉を収めたグリップに、バラストを内蔵した長いブル・バレル、角張った銃身とは対照的に丸みを帯びた機関部の後端は、ボルト式の遊底だ。
しかもサイズは、通常の大型拳銃《けんじゅう》の、さらに倍はある。普通の体格の人間では、満足に握ることさえ出来ないだろう。
そんな巨大な銃が二丁、トランクに仕込まれたバネによって、空中に射出されたのだ。
空中で、マナガの両手がキャッチする。
ぶん、と風を切る勢いで、彼は右手のそれを天井に向けた。
銃声は、轟音《ごうおん》だ。
天井に貼《は》られた本物の木の板が爆裂し、その奥にあった金属製の外装が八方に裂けて向こう側へめくれ上がる。ぼっかりと開くのは、拳《こぶし》大の大穴だ。
慌てたように、天井の向こうで音が移動する。
がつんがつんがつんがつん、固い爪《つめ》を金属に喰い込ませる、それは『足音』である。
その音を追って、マナガは一発、もう一発、さらに一発、と発砲する。
『足音』は、止まらない。
「どこを狙《ねら》っとるんだ!」
叫ぶ老人を、
「黙って」
制したのはマティアの方だ。
「判ってやってます」
そのとおりだ。
マナガの狙いは天井の奥から手前へ……進行方向側から後ろへ向かって……、音を先回りするのではなくその後を追って、連射している。拳大の穴は、じぐざぐに、けれど確実に向こうからこちらへと開いてゆくのだ。
最後の一発は、ほぼ真上への発砲だった。マナガの身長と腕の長さと、そして銃の大きさのせいで、肘《ひじ》を曲げた上に銃口を天井に押しつけての発砲となった。
「ぎゃるあ!!」
穴の向こうで、奇怪な声があがる。
そして、どすん、と何かのぶつかる音。
背後から。
マナガもマティアも、そしてクラト老人も振り返った。
そして、目撃した。
分厚い強化ガラスごしに、彼女の姿を。
ゴトウ・キルアラ。
六号と呼ばれた女。
マナガの連射に追い立てられ、ついに行き場を失って、展望窓に張り付いたのだ。
逆《さか》さまに。
「……なんと」
呻《うめ》くのは、大富豪である。
キルアラは、人間でありながら、人間でなくなっていた。
信じられないほど目を見開き、大きく口を開いて、こちらを覗《のぞ》き込んでいる。両手で、べったりとガラスに張りつき、衣服は身に着けていない。
全裸で、豊かな乳房をガラスに押しつけた格好だ。
だが、少しも煽情《せんじょう》的ではなかった。
肌の色が、目まぐるしく変化している。黒の、赤の、緑の、蒼《あお》の、斑《まだら》模様が現れては広がり、にじみ、捩《ねじ》れては消えて、また別の場所に現れる。まるで色胞《しきほう》を活性化させる頭足動物だ。
しかもその肌が、皮膚が、てんで勝手に蠢いているのである。
盛り上がり、窪《くぼ》み、ミミズ腫《ば》れのように盛り上がったかと思うと、そのまま移動しては埋もれて、別の場所で巨大な隆起となっては陥没するのだ。
マナガが、前へ出る。
入れ違いに、
「こっちへ!」
少女が老人の腕を掴《つか》んで、巨漢の後ろへと回り込んだ。
ぎしり、と何かが軋《きし》むような音がしたのは、その時だった。
「なんてこった……」
食いしばった歯の奥で、マナガが呻く。それは、信じられない光景だった。
全裸のキルアラが、その肌に異様な色彩の明滅をまといながら、ガラスのこちら側へ突き抜けてきたのである。
逆さまのままで、まず頭部が、肩が、そして胸がガラスを貫通する。
分厚い強化ガラスを、まるでそれが水面でもあるかのように。
あり得ない光景だった。
無論、精霊ならば、物質を透過することも可能だ。だがキルアラは人間なのだ。
腰まで貫通したあたりで、キルアラの躯《からだ》が、ぐりん、と捩《よ》じれた。まだガラスの向こう側にある脚は膝《ひざ》をこちらに向けたままで、上半身が床と向き合ったのである。
しかし本当に異様なのは、その後だった。
展望ガラスから脚を引き抜き、真下のソファに落ちた瞬間、キルアラの全身で輪郭が歪んだのだ。
「むう」
マナガが、唸《うな》る。
それは介護ホームで見たものと、同じだった。
違うのは、今は真昼で、しかも車内には煌々《こうこう》と照明が灯っているということだ。
全てが、見えた。
その異様な姿の、全てが。
キルアラの肉体が、崩れてゆく。
崩壊ではない。解《ほど》けてゆくのだ。
全身がヒビ割れに覆われた、と思った次の瞬間、ヒビ割れた断片の一つ一つが丸みを帯び、それぞれに脹《ふく》らんで、一個の人体が無数の小さな生物へと変じたのである。
「そういうことだったのか……」
精霊と、他の生物との相違は、ただ一点。肉体を持つか否か、それだけだ。
そして、その性格や等級に応じて、さまざまな枝族へと分かれ、それぞれに進化した。
しかし、肉体を持つ生物にも進化から取り残された『種』が存在するように、精霊にもまた、同様に進化から取り残された『枝族』が存在する。
それらは明確な意志を持たず、複雑化することも大型化することもなく、名付けられる機会さえなく、誰《だれ》の目にも触れずにただ営々と、黙々と『存在』し続けてきたのだ。
それが、キルアラの肉体の、その正体だった。
群だ。
通常の意味では精霊とは呼べないほどに原始的な、精霊の群だ。
その群れが、キルアラという一人の人間の肉体を構成していたのである。
一匹の大きさは、二センチほどだろうか。
ほぼ球形の、霧か毛球のように輪郭の不明瞭《ふめいりょう》な、ただの塊だ。物質化していながら、しかし明確な形状を持っていない。
羽根さえも、持っていない。
だが間違いなく、それは肉体を持たないエネルギー体……精霊そのものだ。
それぞれに違うのは、色彩である。
黒いもの、白いもの、黄色、赤、青、緑……さまざまな色の塊が、互いに絡み合い、もつれ合い、重なり、離れ、一つの群となって蠢いているのである。
キルアラが、どんな場所にも侵入することの出来た理由が、これだ。
瞬間的な空間の転移や物体のすり抜けさえやってのける精霊にも、生命のない物体を移動させることは不可能だ。また、生物の体内から内臓や血液を瞬時に抜き出すことは可能でも、肉体そのものを移動させることは出来ない。
だが、もしも。
その肉体が精霊の一部だったら。
物質化した精霊と融合した肉体だったなら……!?
その答えが今、目の前にあるのだ。
今や群れは、ほとんど円錐《えんすい》形の黒い堆積《たいせき》だった。
その黒い小山のてっぺんに、人の顔がある。
見慣れた、美しい顔だ。
「見つけた……」
キルアラの顔だ。
「お前で最後だ」
その視線はマナガの傍らを素通りして、その背後を真《ま》っ直《す》ぐに見つめている。
クラト・ロヴィアッドを。
「六号か……」
老人が呻く。
その問いへの答えは、
「そうよ」
背筋の凍るような笑みだった。
「また会えて嬉《うれ》しいわ」
その言葉に、
「きるるるるるるるるるるるるるるる!」
別の『音』が重なる。
甲高い、異様な音だ。
途端に、蠢《うごめ》く堆積が円錐形を保ったまま、奔流《ほんりゅう》のように渦巻いた。
……『歌』だ。
マナガは、ついに理解した。
これは『神曲』なのだ!!
これが『歌姫』の『歌』なのだ!
ゴトウ・ヴァリエドの論文の本当の意味を、マナガは理解した。
神曲の単純化とは、つまり、神曲の『純化』ということだったのだ。
神曲は、必ずしも『音楽』である必要はないのだ。
適切な『音』が、適切な『組み合わせ』で、適切な『流れ』を構成していれば、それは神曲として作用する。いや、それが精霊と『共振』するための手段である以上、『音』である必要さえないのだ!
これこそが、キルアラの身に起こったことだったのだ。
一九年前、彼女がサマリーノの『施設』から逃げ出した時、彼女の肉体もまた傷ついていたに違いない。
あるいは、傷ついた、などという言葉では足りないくらいに損壊していたのかも知れない。建物が崩壊するほどの『何か』が起きたのだから。
そして、こうなった。
そして彼女は、『歌』ったのだ。
意味も判《わか》らず、ただ生き延びたいという思いの中で、幼いキルアラはひたすら『歌』ったのだ。
そしてその『神曲』に、名もなき地虫のような原始的な精霊が群がった。
神曲を貪るためだけに。
「私は……」
化け物となり果てたキルアラの、その声は呪詛《じゅそ》に満ちている。
「何も知らなかった。生まれた時から、お前達のオモチャだった。苦い薬を飲まされ、痛い注射で刺され、躯中の穴という穴に器具を突っ込まれて、ひねくりまわされた。でも、それが異常なことだなんて知らなかった」
地獄だ。
「お前達は私から……私達から全てを奪っておきながら、知らん顔だった。全てを奪っておきながら、全てを与えているような顔をしていた」
彼女は、生まれた時から地獄にいたのだ。
「逃げ出して、世界の存在を知った時には、手遅れだった。私は、もう人間じゃなくなっていた……」
そうか。
そうだったのか。
これは、復讐《ふくしゅう》じゃない。
儀式だ。
地獄を終わらせるための……!
「だから私は……」
キルアラは、言った。
「お前を殺す」
「キルアラさん」
応《こた》えたのは、マナガだ。
銃をズボンのベルトに突っ込んで、両腕を開く。
「あなたの気持ちが判るとは言いません。でも、殺しはいけません」
キルアラの目が、ぎろり、と動いた。
マナガに向けられたその目は、瞬《まばた》きをしない。
「被害者だったからって、加害者の側に回っていいことには、ならんのですよ」
言いながら、しかしマナガには判っていた。
虚《むな》しい言葉だ。
だが彼は、警官なのだ。
「キルアラさん、あなたを逮捕します。抵抗なさると精霊法第二条・第二項に対する違反となり、あなたは一切の権利を失効します。私の言ってることが、判りますね?」
「きるるるるるるるるるるるるるるるるるる」
ゆっくりと、黒い塊となり果てたキルアラが、盛り上がる。
立ち上がったのだ。
どろどろと渦を巻くように蠢く無数の群のてっぺんで、見慣れた顔がこちらを見下ろしていた。
狂気の視線だ。
「私だって本当は、こんなこと言いたかないんです。この糞《くそ》野郎を……」
言いながら、マナガは親指で背後の老人を指した。
「……叩《たた》き殺してやりてぇと思ってます。でもね、私ゃ警官なんです。法に反した復讐を、黙って見てるわけにはいかんのですよ」
キルアラは、応えない。
ただじっと、マナガを見据えるだけだ。
「あなたにその気があるなら、裁判に持ち込むことは出来ます。優秀な弁護士もご紹介します。あなたの罰を軽減するためじゃありません、罰を受けるべき人物を罰するためにです。言ってることが判りますよね?」
通じている。それは確信があった。
「あなたが殺害した人々は、みんな被害者として葬られました。世の中の人達は、誰一人として彼らの犯した罪を知りません。それでいいんですか?」
「きるるるるるるるる」
「あなたが、この糞野郎を殺せば、それでおしまいです。こいつがあなたに何をしたのか誰も知らないままで、こいつは気の毒な被害者になっちまいます。誰も知らないままで、です。あなた、それでいいんですか?」
「おい! お前、何を……」
背後でそう言いかけたクラト老人が、ぐう、と呻いたのは、おおかたマティアの肘鉄《ひじてつ》でも喰《く》らったのだろう。
「キルアラさん」
マナガは、続ける。
「罪は罪として、残ってくもんです。あなたの場合、今が償い時だと私ゃ思いますよ」
マナガは、笑みを浮かべた。
「大丈夫、いっしょに来ると約束してくれるなら、手錠だって掛けやしませんから」
本心だった。
無意味だからではなく、その必要があるとは思えなかったからだ。
キルアラの目が、閉じる。
再び瞼《まぶた》が開いた時、それはマナガのよく知っている『あのキルアラ』の顔になった。
かすかな、どこか哀《かな》しげな笑みだった。
キルアラが、うなずいた。
いや……うなずきかけた。
その時だ。
ふいに、ぎゃりぎゃりと、けたたましいギターの音が掻き鳴らされたのだ。
ただの演奏ではない。
スピーカーに増幅されたその音には、単なる音楽にはない演奏者の『心』が刻まれている。
神曲だ!
弾《はじ》かれたように振り返ったマナガは、歯噛みする思いだった。
特別車両のドアが開かれ、いつの間に戻って来ていたのか、もう一人の黒服がギター型の単身楽団を展開していたのだ。
瞬間、大気を歪めて精霊が出現した。
無数の、ボウライだ。
だが何ということか、それはマナガの知っている、あの愛嬌のあるボウライの姿ではなかった。
黒いのだ。
歪《ゆが》んでいるのだ。
光の球ではなく、禍々《まがまが》しくも黒い霧の塊のようだ。小さく愛くるしいはずの『眼』は爛々《らんらん》と輝き、しかも羽根は黒く捩《よ》じれ、尖《とが》っている。
変異種なのだ。
精霊とは、与えられる神曲によって、ここまで影響を受けてしまうものなのだ!
無数の黒いボウライが、横殴りの雨のように、どう、と殺到する。奔流となった群が狙うのは、ただ一つ……キルアラだ。マティアとクラト、そしてマナガを避けるように流れを湾曲させて、ボウライの群はキルアラに襲いかかった。
まるで獲物に襲いかかる肉食魚の群だ。
「ぎゃらぁああぁあ!!」
キルアラの躯《からだ》が、黒いボウライの群に呑《の》み込まれる。
「莫迦《ばか》が!」
マナガは腰のベルトから銃を引き抜くと、発砲した。
50口径の弾丸が、ギターのネックを叩き砕く。六本の弦が一斉に弾け、演奏は停止した。
だが、
「ぎゃるるるるるるるる!!」
黒いボウライの攻撃は、止まらない。
精霊雷でボウライを弾くか。そう思ってマナガが前へ出ようとする。
突然、
「ぎゃん!」
尻尾《しっぽ》を踏まれた小犬のような悲鳴をあげて、ボウライの群が四方へ散った。
いや、弾かれたのだ。
四方の壁に激突するより早く、弾かれたボウライは空中で次々と消滅する。何か強烈な『打撃』を受けて、エネルギー体そのものの構造が破壊されたのだ。
それは、精霊にとっての『死』だ。
「きるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるる」
キルアラの姿が、再び変貌《へんぼう》を始めていた。
無数の精霊の群が、彼女の美しい肢体を形作っていたのと同じように重なり合い、結合し合って、しかし今、そこに現れようとしているのは奇怪な異形だった。
「なんだ、こりゃあ……」
これこそ、連続殺人事件の『犯人』だ。
美しい女性の顔のすぐ下に、巨大な筋肉の塊が形成されている。一見すると人間の大胸筋にも似て、しかし筋肉の束の数も太さも、ケタ違いである。しかもその両側から伸びる腕は、一対ではないのだ。
左右に四本ずつ、合計八本、どれもボディビルダーを思わせる異様な太さだ。
それだけではない。それぞれの腕の先端には、三本の太い指と、ほぼ同じ太さの湾曲したカギ爪《づめ》が備わっているのである。
だが真に驚くべきは、そのことではない。
胸から下が、ないのだ。
浮いているのである。
「キルアラさん……」
おぞましい姿だった。
「あんたは……」
哀しい姿だった。
「きるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるる!!」
絶叫するように『歌』いながら、異形となったキルアラが突進する。
「やめなさい!!」
迎えて、マナガが前に出た。
筋肉の束に向かって叩きつけるように両腕を伸ばし、それは激突の勢いだ。
「どけ!!」
叫ぶキルアラの顔は、マナガの真正面である。
「殺させろ!」
渾身《こんしん》の力で押し戻そうとするマナガの脚が、絨毯《じゅうたん》の上で滑る。
後方へだ。
異形を構成する名もなき精霊の、一匹一匹は取るに足らない存在だ。だがそれが群体となって結合し、しかも『歌』の支援を受けているのである。
「あつっ!!」
思わず、マナガは声をあげた。
直接、相手に触れている掌《てのひら》に、猛烈な熱が伝わってくるのである。ノザムカスル大学付属病院で、警報器を作動させた謎の二五〇度の、それが正体だ。神曲の支援を受けた無数の精霊が群体となっているのである、熱量の放散が累乗しているのだ。
「キルアラさん!!」
ずるり、と押し戻されながら、マナガは叫ぶ。
「きるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるる」
「これが最後です! 自首してください!! でなきゃ私ゃ、あんたをぶん殴ってでも止めなきゃなりません!!」
応えは、なかった。
ただ憎悪に狂った両眼だけが、マナガを睨《にら》み据《す》えていた。
マナガは、目を閉じる。
そして、
「マティア!」
「うん」
応えて前へ出たマティアは、その手に小さな銀色を握りしめていた。
ブルースハープだ。
少女の両手が、慈しむように、抱きしめるように、銀色の楽器を包み込む。
そして、音楽。
ゆったりと気だるい、それはブルースだ。
静かな、哀しい、ブルースだ。
無頼の男が酒場の隅で、歯を喰いしばり、喉の奥に号泣を呑み込みながら、それでも肩の震えを隠しきれずにむせび泣いているような、そんなブルースだ。
マナガは渾身の力でキルアラを押しとどめながら、しかし目を閉じ、それを聴いていた。
神曲だ。
マティアは、神曲の演奏に単身楽団を必要としない。
天才なのである。
マナガの背から、羽根が展開した。
左の背中に二枚、右に一枚。
三枚の羽根は、しかし光を纏《まと》ってはいない。長いマフラーのように、ゆったりと宙で波うつその羽根は、夜の闇《やみ》よりもなお黒い。
巨漢の、閉じた瞼《まぶた》から涙が流れた。
右側の瞼から、一筋の、黒い涙が。
マナガが瞼を開きながら、
「一つ、言っとくぞ」
そう言う相手は、背後で呆然《ぼうぜん》と立ち尽くす老人と、その護衛である。
「これは、てめぇらのためじゃねえ」
瞼を開いたマナガの、その右目が変貌していた。
「俺《おれ》は今、この手を放したくてうずうずしてるんだからな」
白目を失い、穴が空いたように一面が黒く変わっているのだ。
その目から流れた黒い涙が、頬《ほお》に一筋の黒い線を残している。
「マティア」
腹に響くその声に、マティアはブルースハープを奏でながら、小さくうなずく。
そしてマナガは右手を引くと、
拳《こぶし》を握り、
キルアラの異形をぶん殴った。
一九年前。
五歳のころ。
あの日。
朝から、とても蒸し暑かった。
夜になっても、気温は下がらなかった。
彼女が四号といっしょに押し込められた部屋には、空調装置はなかった。
いや、何もなかったのだ。
あったのは視聴時間を決められたテレビと、教科書だけが並んだ小さな本棚と、それから二つのベッドと剥《む》き出《だ》しのトイレだけだった。
だから、熱かった。暑かったのではない。熱かったのだ。
苦しくて、何度も何度も目が覚めた。
躯《からだ》の痛みには、慣れていた。だから、痛みだけなら耐えられた。
けれども、悪夢に慣れることは出来なかった。
痛くて、熱くて、悪夢を見て、呻《うめ》いて。
そして突然……本当に突然、音が出た。
喉の奥から、今まで知らなかった音が、出た。
きるる。
きるるるる。
きるるるるるるるる。
そして『あの子達』が、床から現れたのだ。
分厚い床のコンクリートをすり抜けて、一斉に、無数に、大量に。
部屋はみるみる『あの子達』で埋まった。
何年も二人を閉じ込めていたドアは、圧力に負けて歪《ゆが》んだ。
何年も二人を閉じ込めていた壁は、圧力に負けて砕けた。
そして、四号は悲鳴をあげ、引き裂かれた。
六号も。
だが六号は、歌い続けていた。
呼吸のたびに喉が震え、『歌』が漏れた。
きるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるる……。
気がついた時、六号と呼ばれた少女は、施設から七キロも離れた山中にいた。
引き裂かれたはずの躯は、もとどおりになっていた。
少なくとも、その時は、そう思った。
生き延びた。
盗んで、奪って、隠れて、生き延びた。
何年もかかって、少しずつ少しずつ、普通の生活に入り込んだ。
けれど、あの五年間のことだけは、決して忘れなかった。
来る日も来る日も彼女の躯を弄《もてあそ》び続けた六人、そして彼女を売ろうとした男。
その顔だけは。
だから『彼』と偶然、出会った時も、すぐに判《わか》ったのだ。
近づいた。
結婚した。
そしてさらに、もう一人の関係者がいることも知った。
何年もかけて、準備をした。
復讐《ふくしゅう》のために。
殺すために。
でも、とキルアラは思う。
その結果が、これだ。
殺して。
お願い。
私を殺して。
その願いは、届いた。
唸《うな》りをあげて、巨大な拳《こぶし》が迫る。
精霊雷の輝きをまとった、それはキルアラを地獄から救い出す一撃だった。
宙を飛び、キルアラはソファに激突する。
ゆっくりと近づいて来るのは、黒いコートの巨漢だ。
握りしめた拳を閃光《せんこう》に包み、三枚の黒い羽根をゆらめかせて、けれどその瞳《ひとみ》には怒りも嫌悪も殺意もない。
笑ってはいない。
けれど優しげな瞳が、真《ま》っ直《す》ぐにキルアラを見据えている。
キルアラ、と彼は言った。
聴こえはしない。
でも、彼の唇が、そう動く。
キルアラ。
終わりにしよう。
太い腕が伸びてきて、彼女を抱きしめる。
キルアラは、目を閉じた。
閉じた瞼《まぶた》に浮かんだのは、ヴァリエドの笑顔だった。
可愛《かわい》いヴァリィ。
賢いヴァリィ。
優しいヴァリィ。
……可哀相《かわいそう》なヴァリエド。
何も知らずに三年もの間、彼はキルアラを愛した。
そして全てを理解した瞬間、それでもなお、彼はキルアラを愛していると言った。
命乞《いのちご》いだったとは思えない。
そしてキルアラは、ようやく気づいた。
ああ。
そうか。
私も同じだったんだ。
私も、愛していたのか。
キルアラの唇に、笑みが浮かんだ。
そして、全てが終わった。
精霊雷を叩き込んでやっただけだ。
それだけで、全てが終わった。
無数の精霊が弾《はじ》け飛び、悲鳴をあげつつ物質化を解《ほど》いて、空中に消える。
ばらばらと解けて、床に落ちる前に消えてゆく。
マナガの腕の中で、キルアラの躯《からだ》が解けてゆく。
キルアラは、耳が聴こえない。
彼女はずっと、『音』のない世界にいた。
だからその『歌』は外ではなく、自らの内側に向かうものだったのだ。
どんな経緯があったのかは、判らない。しかしその結果、彼女の『歌』に惹《ひ》かれてきた最下級の精霊の群は、『歌』の誘うとおり彼女の中に群れた。
欠損したキルアラの肉体に同化し、彼女の肉体そのものとなっていたのだ。
精霊と人間との差異は、肉体を持つか持たないか、その一点だけだ。
精霊と人間とは、その一点を除けば何の違いもない。
その極北が、今、マナガの腕の中にある。
最後の精霊が落ちた時、静かに目を閉じたキルアラは、微笑《ほほえ》んでいた。
だがその胸から下には、何もなかった。
全てが終わってから、列車を停止させたのはマティアだった。運転席へ行って、警察手帳を見せたのだ。
トルバスの外れ、テガン高原で列車は停止し、一時間ほどで所轄の警察が到着した。
ストレッチャーで救急車に乗せられるのは、マナガのコートに包まれたままのキルアラだ。客車の窓からは何十人もの乗客が、収容の様子を眺めている。だが最後尾の特別車両にいた四人以外、それが遺体であることを知っている者はいなかっただろう。
停止した列車の周囲には、何もない。ただ荒れ地が広がるばかりだ。ちょうど最後尾の車両を、数台のパトカーが取り囲むように停車している。特別車両の中では、何人かの鑑識官が作業中だ。
パトカーのボンネットに腰を下ろして、マナガはぼんやりと前を見ていた。
視線の先では老人が、警官を相手に何やら喚《わめ》き散らしている。その背後に立つ二人の護衛は、どうやら今すぐクビにはならなかったようだ。
警官は、何度も何度も頭を下げる。会話の内容までは聞こえないが、だいたい想像はつくし、その想像はおそらく外れてはいないだろう。
深い溜め息をつくマナガの袖《そで》が、つん、と引っ張られた。
隣に座るマティアだった。
「元気出しな」
囁《ささや》くようなその声に、
「ああ」
マナガは生返事で応《こた》える。
敗北だった。
復讐を遂げさせてやるべきだったかも知れない、とさえ思った。
連続殺人の犯人は死亡し、その犯行の原因となった違法行為も闇《やみ》に葬られる。唯一の証人がいなくなった今、クラト・ロヴィアッドの罪を追求することは不可能だ。
ふつふつと怒りだけが込み上げてきて、しかし警官である彼にはそれを叩きつける相手が存在しないのである。
いや……一人だけ、いる。
自分自身だ。
老人の相手をしていた警官が、深々と一礼してから、パトカーへ向かって走ってゆく。
当の老人は、ふん、と鼻息を噴いてから、スーツの襟を正し、こちらを振り返った。
乾いた地面に土埃《つちぼこり》をあげながら、二人の黒服を従えて、歩いてくる。
そして、
「マナガくん」
言った。
「キミに対しては、いずれ訴訟を起こすつもりだ」
胸を反らし、得意満面の顔でだ。
「今は別のプロジェクトで忙しいが、半年以内には訴状が届くだろう。覚悟しておきたまえ」
返事をする気にもならない。
マナガは、にやり、と笑って見せた。
代わりに、少女が応えた。
「クラト卿《きょう》」
するり、とパトカーのボンネットから滑り降りる。
真っ直ぐに歩いて、老人のすぐ手前で止まった。
「あなたこそ、覚悟しておいてください」
「なに?」
老人は驚いて目を剥いたが、もっと驚いたのはマナガの方だった。
マティアは腰に手を当て、老人を睨《にら》み上げて、こう言ったのだ。
「我々は、必ずあなたを逮捕します。私やマナガでなくても、我々の誰《だれ》かが必ず、あなたに手錠を掛けるでしょう」
老人は、何も応えなかった。
ただ、嘲笑《ちょうしょう》の笑みを浮かべただけだ。
それからマナガを一瞥《いちべつ》し、さっき頭を下げまくっていた警官の運転するパトカーで、現場を去って行った。どうやらハピリカ行きは中止する気のようだ。おそらく、その分の損害だか何だかも、マナガが受け取る訴状とやらに記載されているに違いない。
マティアは、土煙をあげて走り去るパトカーを見送ると、やがてこちらへ戻ってきた。
似合わない大股《おおまた》の歩きで、顔が真《ま》っ赤《か》なのは興奮しているせいだろう。
見上げる少女を、マナガは抱き上げて、隣に座りなおさせてやる。
「言うねえ」
苦笑する相棒に、
「言っちゃった」
少女も苦笑で応えた。
「ありがとうな」
「なんで? あたしもムカついたもん」
「そうか」
「そうだよ」
「でも、ありがとうな」
マティアの小さな手が、マナガの大きな手の中に滑り込む。
そして少女は、
「うん」
小さくうなずいた。
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終章
ゆっくりと、車を路肩《ろかた》に寄せる。
陽《ひ》が暮れていたので、マナガの運転する四駆車の前照灯が、事務所の前に立つ三人の姿を横様から照らす格好になった。
双子の少女が二人がかりで、事務所のシャッターを降ろしているところだった。まぶしそうに顔の前に手をかざして、むっとした顔でこちらを振り返るのは、所長のツゲ・ユフィンリーである。
マナガはサイド・ブレーキを引いてから、ライトを切った。
そろり、と車を降りる。
「いや、すみません」
言いながら近づくと、ようやく相手もこちらを認識したようだ。
「なんだ、マナガさん」
苦笑するユフィンリーの後ろで、金髪と銀髪が、ぺこり、とおじぎする。
「あれ? マティアちゃんは?」
その言葉に、マナガは苦笑して車を指した。
ユフィンリーが黒い四駆車の窓を覗《のぞ》き込み、それから首をすくめて、そろりそろりと戻ってくる。助手席では、マティアが眠っているのだ。
「お疲れだったみたいね」
声をひそめて言ってから、ユフィンリーの顔が、ふいにくもった。
「なに? どしたの? なんか、ぼろぼろじゃない」
マナガを見上げて、しかし彼女の言葉が彼の身なりを指しているのではないことは、マナガも理解していた。言われたとおり、心の底から疲れきっていたのだ。
「ヘルプが要る?」
「ああ、いえ。お約束の報告をね」
「約束?」
おうむ返しをしてから、彼女も思い出したようだ。
「ああ、あれ。じゃ解決したんだ?」
「ええ、まあ。ご相談にあがった事件そのものはね」
それから、マナガは事件の顛末《てんまつ》を語り始めた。
無論、全てを話せるわけではない。関係者の実名は伏せたし、現場となった場所についても伏せた。列車の件は明日のニュースででも流れるだろうが、その列車に乗っていた有名な人物についても伏せた。
無論、その人物の違法な行為についても、だ。
だからキルアラの身に起きたことについても、語らなかった。
幼いころに犯罪行為に巻き込まれた女性が、その復讐《ふくしゅう》のために、精霊の力を借りて連続殺人を犯した……、マナガが語ったのは結局、それだけだった。
それでもユフィンリーは、おおかたの出来事を理解したようだ。特に質問を挟むこともなく、三分間ほどの独演を聞き終えてから、むう、と唸《うな》った。
「じゃあ死んぢゃったんだ、犯人の人」
「ええ、まあ」
「残念だったねえ」
逮捕に失敗したことが、ではない。
「ちゃんと手続き踏めばよかったのに……」
おそらく彼女なら、その手続きの相手がクラト・ロヴィアッドであったと知っても、同じ言葉を口にしただろう。
それが正しいからだ。
だが。
「ユフィンリーさん。私ゃね、こういう仕事やってると、つくづく思うんですよ。精霊ってのは、ひょっとしたら人間にとって『危険な隣人』なんじゃないか、ってね」
「どゆこと?」
「あ、いえ。他意はないんですがね」
それから少しだけ考えて、マナガは続けた。
「私なんぞが言うまでもないとは思いますが、精霊ってのは、けっこう人間の『心』だか『魂』だか『精神』だか、そういうものに敏感に反応するもんです。誰でも神曲楽士になれるわけじゃない、ってのも、そういうのが理由です」
「そうだね」
「しかも精霊には、人間みたいな意味では『死』がありません。だから考え方も、人間と似てる部分もありますが、でも、やっぱり違うんですよ」
「ええ。知ってる」
「契約者が望めば、よくないことにでも平気で手ぇ貸しちまったりするんですな」
そして、人間だけでは出来ないような犯罪も可能にしてしまうのである。
「ああ、やっと判《わか》った」
ユフィンリーはうなずく。
「精霊にとって、契約者の言葉は絶対だもんね」
「それなんです。ひょっとしたら、精霊は人間に関《かか》わるべきじゃなかったのかも知れない、なんて思うこともあるんですよ」
ふうん、と鼻を鳴らしてから、突然、ユフィンリーの拳《こぶし》が飛んできた。
マナガの分厚い腹筋に、どすん、と命中する。
「なぁに言ってんだか、このオッサンは」
笑みだ。
それから、にぃっ、と笑うと、言った。
「いいこと教えたげようか、マナガさん」
そして後ろを振り返ると、双子の片方の腕をとった。
引っ張って、前に押し出す。銀髪の、たしかプリネと呼ばれていた方だ。
「ユギリ・プリネシカ。うちのアルバイト」
「あ、ええ」
今さら改めて紹介される、その意味がマナガには判らなかった。だがユフィンリーの次の質問は、もっと謎《なぞ》だった。
「さて、この子は人間でしょうか、それとも精霊でしょうか?」
「え?」
「どっち」
ユフィンリーの得意気な笑みとはうらはらに、プリネシカの方はどうにも照れ臭そうに、もじもじと手を揉《も》んだりしている。
「この子が、ですか?」
「そ」
「そりゃあ……」
人間、と答えかけて、マナガは躊躇《ちゅうちょ》した。
そう断言しきれないものを感じるのだ。彼が自分と同じ精霊に感じる『匂い』、あるいは『気配』のようなものを、かすかに受けるのである。
その奇妙な感覚をたぐっているうちに、ふいにマナガは思い出した。
知っている感覚なのだ。
……まさか。
「判った?」
「ええと、まさかとは思いますが…………半々?」
「さぁすが旧き精霊。あたり」
ユフィンリーは再び、にぃ、と笑う。
「この子はね、半分人間、半分精霊なんだ」
この子が?
キルアラと同じ!?
当のプリネシカはうつむいて、まるで『この子にカレシが出来ました!』と公開されてしまったみたいな照れようだ。
「本当なんです」
肯定したのは、金髪のペルセの方だった。つい、と双子の姉妹に並ぶと、その腕に自分の腕をからませる。
「子供のころ、死にかけたプリネのために、一人の精霊が身を捨てて助けてくれたんですよね」
自慢げな笑みだ。
「そんな関係もあるんです、マナガさん」
ああ、そうか。
そういうことなのか。
「判りました」
マナガが笑うと、親指ほどもある白い歯が、ずらりと並ぶ。
「判った?」
「ええ、ありがとうございます」
ユフィンリーには、キルアラが精霊と融合してしまっていたことを、話してはいない。
だが、そんな彼女が明かしたプリネシカの秘密は、精霊との融合だった。
人間と精霊との関係を突き詰めれば、結局、そこに行き着くということなのだ。
ならば、キルアラとプリネシカとの違いこそ、人間と精霊がともに選んで進むべき道を、指し示してはいまいか。
二人の違いは、何だったのか。
簡単なことだ。
キルアラは、自ら生き延びるために、精霊を利用した。理由はどうあれ、それが事実だ。
だがプリネシカと、彼女を救った精霊とは、違ったのだ。
「マナガぁ」
振り返ると、マティアが助手席側の窓を降ろして、顔を出していた。
「お腹《なか》すいたぁ」
言ってから、ツゲ事務所の三人に気づいたのか、ぱっと顔を赤らめる。
ユフィンリーが、よっ、と手を振った。
「ねぇマナガさん、この後って、予定あるの?」
「あ? ああ、いえ。せいぜい署に戻って報告書を書くくらいで」
「それって、二時間ばかり先延ばしにしたら、キツい?」
「いえ、平気ですよ?」
ついさっきまでは、気が重くて仕方なかった。
だが今なら、平気だ。
『判った』からだ。
「じゃあさ」
にんまり、とユフィンリーは笑う。
「いっしょに飯でも喰《く》ってかない?」
その言葉に、マナガは車を振り返る。窓の内側に引っ込んだまま、けれどマティアは、小さくうなずいた。
「よござんすよ。ごいっしょしましょう」
「ねえねえ、じゃあ、フォロン先輩も呼んだげていいですか?」
金髪の、ペルセの方だ。その腕は、まだプリネシカの腕を抱いている。
「いいよ、電話しといで。あと、レンバルトにも声かけてやりな」
はい、ときれいに声を揃《そろ》えて、双子は歩道脇《わき》の公衆電話に走ってゆく。
それを見送ってから、ユフィンリーは、ぽそりと言った。
「いい子達だろ?」
「ですね」
「おかげで、いろいろ大変な目にも遇《あ》ってるけどね」
ユフィンリーが?
彼女達が?
おそらく、両方なのだろう。異質な存在どうしが関わりを持つということは、そもそも、そういうことなのだ。
「一つ、訊いてもいい?」
「どうぞ」
「マナガさんて、かなり旧い精霊だよね」
「ええ、まあ」
「例のさ、ほら、ニウレキナさんの例って、特異だと思う?」
「人間と精霊の……って意味ですか?」
「そう」
「あまり聞く話じゃありませんが……」
少し考えて、しかし答えは最初から出ているようなものだった。
「あり、でしょうな」
「うん」
ユフィンリーは、うなずく。
「あたしも、そう思うよ」
それから双子が戻ってきて、
みんなでマナガの車に詰め込むように乗り込んだ。
クラト・ロヴィアッドが別件で逮捕されたのは、その翌々月のことだった。
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あとがき
そりゃっ、とお届けする『ポリ黒』第二弾である。
今回は、裏話をしよう。
複数の作家が共通の世界設定で独自の物語を展開する「シェアード・ワールド」ものの場合、避けては通れない問題が「設定の錯綜」である。
ちょっとした油断が作品間の矛盾を産んだりもするから、油断がならない。
そこで、この『神曲奏界ポリフォニカ』シリーズでは、ちょっと変わったシステムを採用している。「ポリフォニカ校閲」である。シリーズ全作品の初稿から最終稿まで全てに目を通し、相互の矛盾点を洗い出して指摘する、それ専門の人物が一人、据えられているのだ。
新人作家の日高真紅、その人である。
しかも日高は、全ての作品に書かれた設定をまとめた「ポリフォニカ辞典」も作成してくれた。そのデータ量は、現時点ですでに文庫本二冊分を超える膨大なものだ。
『神曲奏界ポリフォニカ』シリーズは、そうした綿密な設計の上に成立しているのだった。
いや、その設計を私が活かしきれているかどうかは、また別問題なのだが。
そして裏話と言えば忘れてならないのが、この人。
イラストを担当してくださったBUNBUN先生である。
驚くべきことに、先生は全てのキャラクターを、ほぼ一発で私のイメージどおりにデザインしてくださっている。リテイクを出したキャラクターも皆無ではないが、そんな場合にも私のちょっとした注文だけで、見事にイメージどおりに描き直してくださるのである。
キャラクターだけではない。今回のカバー・イラストなど、ラフを拝見した私が「これ、雨が降ってたら面白そうですね」なんて思いつきで口走ったのを受けて、こんな見事な絵に仕上げてくださった。私ゃ先生のお描きになるマティアに萌え萌えだよ。
そんなこんなで、多くの人々のお力添えで、今回も無事に新作をお届けすることが出来た。
次回も楽しみにお待ちいただきたい。
にやり。