神曲奏界ポリフォニカ インスペクター・ブラック
大迫純一
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目次
序章
第一章 死せる至宝
第二章 幻の弾丸
第三章 叫ぶ女
第四章 限られた時間
第五章 追い詰められた男
第六章 黒き涙
終章
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カバー・口絵・本文イラスト
BUNBUN
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序章
準備には、二週間かかった。
だが実行は、一瞬だった。
コヅカ・ケイズニーは、分厚い絨毯《じゅうたん》の上に横たわる老人の顔を見下ろした。ぼっかりと開いた瞼《まぶた》の奥で、老人の目は濁ったガラス玉のようだ。
これが、とコヅカは思う。
これが、死か。
ほんの何秒か前まで、老人は生きていた。
生きて、動いて、喋《しゃべ》っていた。
つまり、コヅカが計画を実行する寸前までは、だ。
今は、屍体《したい》である。
不自然に身をよじり、かろうじて仰向《あおむけ》けと言える姿勢で、天井を見上げている。だがその目に入った光を、老人の脳は認識してはいないはずだ。
あるいは、まだ大部分の脳細胞は生きているだろう。しかし本来の接続はずたずたに寸断し、発生した電気信号は行き着くべきところへ行き着くことなく、灰色の脳細胞の中を虚《むな》しく駆けめぐっているに違いない。
ほとんど頭髪の残っていない老人の、その頭の下に広がってゆくのは、血溜《ちだ》まりだ。足首まで埋まりそうな毛足の深い絨毯が、それでも大量の出血を吸収しきれずに、赤黒い染みを広げてゆくのである。
終わった。
これで、終わった。
今や一個の屍体となり果てた老人を見下ろして、コヅカ・ケイズニーは溜め息をつく。深く、長い溜め息である。
じっとりと額に噴き出す汗を、手にしたハンカチで無意識に拭《ぬぐ》いかけて、手を止めた。かすかに、しかし鼻の奥に刺さるような臭《にお》いのせいだ。
ベルベットを思わせる赤紫の布の真ん中に、直径二センチほどの穴が開いている。穴の周辺には薬品の粒子が焦げて付着しており、それが臭いを放っているのだ。
丸めて、上着のポケットに突っ込む。
それから少し考えて、上着の袖口《そでぐち》で汗を拭った。
後はもう、やるべきことは何もない。
ただ、待つだけだ。
事態は勝手に動き、やがて目の前に望むべき結果を運んできてくれるだろう。
無論、最後のひと仕事を終える必要はあったが、これまでやったことに比べれば大したことではない。一本の電話を受け、一本の電話をかける。それだけだ。
「気の毒したな、ご老体」
コヅカは呟《つぶや》いてから、部屋を出る。
ノブの下のロックを半分ほど回してから、廊下に出て、慎重に、ゆっくりとドアを閉じてゆく。ドアがドア枠と重なったのを確認してから、勢いよくドアを手前に引いた。
かすかに、かちり、とロックのかかる手応《てごた》えがあった。
再びノブを回してみたが、半分しか回らない。施錠されたのである。
お手軽な密室の出来上がりだ。
無論、こんなものは計画の中心ではない。単に、これから来るはずの愚鈍な連中のための置き土産《みやげ》だ。あるいは、相手がこちらの期待する以上に愚鈍なら、期待以上の効果を上げてくれるかも知れないが。
あてにはしない。
だが打てる手は全て打っておく。
それがコヅカ・ケイズニー流・成功の秘訣《ひけつ》、であった。そうやって彼は、まだ三四歳という若さで、現在の位置まで昇り詰めたのだ。
屋敷を出ると、彼はそのまま自分の車に乗り、帰宅した。
シャワーを浴び、寝酒をやって、ベッドに入った。
電話で叩《たた》き起《お》こされたのは、それから五時間後のことだった。
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第一章 死せる至宝
1
高さ三メートルほどもある大きな門扉が、軋《きし》みもせずに開いてゆく。
奥の前庭には手入れの行き届いた木々が何層にも重なって、ここからでは屋敷の屋根が見えるだけだ。
コヅカ・ケイズニーは愛車を敷地内へと滑り込ませながら、ハンドルを握ったのとは反対側の手で頬《ほお》を撫《な》でた。かすかに残る無精髭《ひげ》の感触に、彼は満足する。
失念していたわけではない。
意図的に、剃《そ》らずに家を出たのだ。
被害者は雇い主であると同時に、長年の友人でもある。その友人の訃報《ふほう》に叩き起こされた男が、きっちり髭をあたってきたとあっては、ミステリー・ドラマの名探偵でなくても不自然に思うだろう。
いつから疑ってたんだね、実は初対面からですよ、ってやつだ。
そうはいくか。
無論、髪も手ぐしで撫でつけただけだし、ネクタイの結び目も左側に傾いている。ただでさえ起き抜けで、しかも突然の知らせに動転し、それでもなんとか身支度を整えて現場に駆けつけてきた、というわけだ。
いささか演出過剰か、と思わないでもない。
だが、足りないよりはいい。気弱で善良で、しかも友人思いの若手弁護士を演出するには、充分だろう。
気に入らないのは、頭痛である。
睡眠サイクルを狂わされたおかげで、古傷が痛む。それも、奥の方からだ。
コヅカの運転するケルセラー・ベルツが太い常緑樹を回り込むと、ようやく前方が開けて、屋敷が見えた。
壁面はツタで覆われ、いくつもの尖《とが》った屋根が青空を背景にして、レリーフのようだ。
玄関前には、パトカーが三台ほど停車していた。サイレンは鳴らしていないが、屋根の赤い回転灯は点灯している。
その奥に、見覚えのない車が停車していた。黒い大型の四輪駆動車のようだ。昨夜は気づかなかったが、あるいは屋敷の主《あるじ》の新たな趣味だろうか。
どちらにせよ、コヅカが屋敷を訪れる時にいつも車を停《と》めておく位置は、完全に塞《ふさ》がれてしまっている。まるで自分の領域を侵されたような不快感が、ふいに湧き上がった。
愛車のメタリック・グレーの鼻面がパトカーのテールに追突する寸前まで一気に距離を詰めてから、彼は乱暴に車を停めた。
制服姿の警官が一人、足早に歩いてくる。まだ若い。
「失礼ですが……」
運転席を覗《のぞ》き込《こ》もうとする警官を押し退《の》けるように、
「コヅカ・ケイズニーだ」
彼はドアを開ける。
警官は小さくうなずいてから、どうぞ、と道を譲った。
屋敷の広さに比べて、玄関ホールはいくらか小振りである。二階までの吹き抜けで、真正面には広い階段があり二階へと続いている。
玄関の両脇《りょうわき》に警官が二人、ホール突き当たりの階段の手前にもさらに二人、立っていた。
それ以外は全員が私服で、ざっと見渡したところ六人ほどが玄関ホールを、あちらへこちらへと小走りに行き交っている。
そのど真ん中を突っ切って、コヅカは階段を上がった。
背中に感じるのは、いくつもの視線だ。
ホールの全員が手を止め、足を止めて、こちらを振り返って観察している。
……いや、錯覚だ。
そんなわけがない。
コヅカは奥歯を噛《か》みしめ、かろうじて振り返るのをこらえた。
階段を上りきると、廊下は左右に伸びている。
暗い赤紫の絨毯が、薄暗い廊下を奥へと続く。廊下の左右には分厚い木製のドアが並び、問題はその突き当たり、両開きのドアの部屋である。
書斎だ。
この屋敷の持ち主の。
ドアは片方だけ開け放たれていて、近づくにつれて中の様子が見えてきた。
数人の、スーツ姿の男達である。それが玄関ホールの連中と同じように、部屋中を歩き回っているのだ。
鑑識作業だろう。
ある者は部屋の隅々にまでカメラを向け、ある者は筆かハケのようなものでデスクや電気スタンドやタイプライターに粉を叩きつけ、ある者はメモ帳に何やら記入するのに忙しいらしく、見ると部屋の隅の裸婦像の前で話し込んでいる二人組もいる。
書斎に入ると、またしてもドアの脇の男に制止された。今度は私服の男だ。
だが今度は名乗る必要はなかった。
「先生!」
コヅカの姿を見るなり、ソファの女性が立ち上がったのである。
金髪の、若い女性だ。落ち着いたベージュ色のスーツを身にまとい、いくらか大股《おおまた》で歩いてくる姿は挑戦的でさえある。
「顧問弁護士のコヅカ先生です」
私服警官が退ると、コヅカは彼女の手をとった。
「ニウレ」
かすかに震えていた。
「大丈夫かい?」
頷くニウレの、よく見ると鼻の頭が真《ま》っ赤《か》になっている。それでも唇に笑みを浮かべて、
「ええ」
彼女は微笑《ほほえ》んだ。
「どういうことだい、これは」
答える代わりに、ニウレは背後を振り返る。
広い書斎である。
コヅカの事務所の、少なくとも半分ほどはすっぽり入ってしまいそうなくらいだ。
天井まで届く書架は壁の大半を占領し、分厚いファイルや古い書物がぎっちりと詰まっている。部屋の隅にはブロンズ製の楽聖像が置かれ、それと向き合う壁にかけられた肖像画はダンテ・イブハンブラを描いた本物だ。
木製の重厚なデスクの上に並べられた四つの奏世《そうせい》楽器のミニチュアは、一○○年以上も前の骨董品《こっとうひん》だという。
そのデスクの前の床に、奇妙な人型が描かれていた。
部屋の、ほぼ真ん中だ。絨毯の上に、細い粘着テープで、大雑把な人体の輪郭が縁取られているのである。
手足を投げ出し、身をよじり、それは奇怪なダンスのようだ。ちょうど頭のあたりの絨毯が、黒々とした染みになっている。
その意味するところを、コヅカ・ケイズニーは正確に理解していた。
理解していながら、訊《たず》ねた。
「あれが……?」
ニウレが、ただ黙って頷く。唇を噛みしめて。
「失礼」
彼を制止したのとは別の刑事が、声をかけてきた。さっきまで部屋の隅で、同僚と何やら話していたのの片方だ。
「コヅカ先生? オゾネ・クデンダルさんの顧問弁護士の……」
「ええ」
「私、ルシャ市警のワツキ・フレジマイテといいます」
まだ若い。三○そこそこ、といったところだろうか。どちらにしろ、コヅカよりも五つは歳下《としした》のようだ。
こちらを覗き込むように神妙な顔つきで近づいてきたワツキ刑事に対して、しかしコヅカは握手を省略した。その手は、ニウレの手を握ってやっていたからだ。
「このたびは……」
言いかけるワツキの言葉を、
「いったい何が起きたんだね?」
コヅカは遮る。
「まだ判《わか》りません。ご遺体も、つい先ほど移送したばかりですので」
つまり、検死解剖もまだ、ということだ。
だが彼らは、その結果に驚き、そして結論するだろう。
コヅカの望むとおりに……いや、仕組んだとおりにだ。
「私が……」
ニウレである。
「今朝、私が来たら、オゾネ先生が倒れてらしたんです。それで救急車を呼んで、警察に連絡して、それから」
顔を上げた彼女の、青い瞳《ひとみ》は涙に潤んでいたが、しかしそれが頬にこぼれることはなかった。
「コヅカ先生にお電話しました」
そうだ。
彼女は震える声で、しかしはっきりと、こう言ったのだ。
朝早くからおそれいります、オゾネ先生がご自宅で亡くなられました、申し訳ございませんが出来るだけ早急においでいただけないでしょうか。
お見事、である。
お見事なほどの有能ぶりだ。
そのおかげで、今朝のコヅカはいささか睡眠不足というわけだ。
たしかに彼は、オゾネ・クデンダルの顧問弁護士だ。雇い主が急死したとあれば、呼び出されるのも当然である。だがそれは早くても、せいぜい警察が引き上げて落ち着いてからだろうと予想していたのだ。
まだ鑑識官が残っている間に呼び出されるとは、思ってもみなかった。
「ともかく」
ワツキ刑事が、肩をすくめる。よく見ると、小犬を思わせる人懐っこい顔つきだった。
「ニウレさんからお聞きしたところでは、オゾネ氏には身寄りがないそうで。おそらく以降の連絡は、ニウレさんとあなたに、お伝えすることになると思います」
「ええ、お願いします」
そしてコヅカは、付け加えた。
「一刻も早く、犯人を捕まえていただきたい」
だが、
「ああ、いえ」
ワツキ刑事は苦笑とともに、顔の前で手を振った。
「私じゃないんです」
「え?」
「私の担当じゃありません。私は鑑識の現場を指揮してるだけでして……」
まさに、その時だ。
「あれえ?」
突然、真後ろから声が響いた。
大声ではない。
だがその声は、低く、重く、腹の底に響いたのである。まるで、演奏中のコントラバスに耳を押しつけたみたいな、全身を震わせる振動だったのだ。
「こんなところに、いらしたんですか」
振り返ったコヅカ弁護士は、思わず息を呑《の》んだ。
巨大な人影が戸口に……コヅカのすぐ真後ろに立っていたのである。
「参ったなあ。すみませんねえ」
言いながら、ばつの悪そうな照れ笑いでコヅカを見下ろすのは、中年の男性である。
身長は、ゆうに二メートル半はあるだろう。
ただ背が高いだけではない。着込んだ黒いコートは、広い肩幅を押さえきれずに張り詰めているし、前を留めていないのは胸板が分厚過ぎるせいかも知れない。ネクタイを締めていないのも、きっと首が太過ぎるせいだ。無精髭の浮いた四角い顎《あご》とほとんど同じ太さの首が、窮屈そうにシャツに潜り込んでいるのである。
思わず後退《あとずさ》ったコヅカに、巨漢は右手を差し出す。
「マナガ警部補です」
その手はグローブみたいに巨大で、コヅカの手はすっぽり握り込まれてしまった。
「いえね、寝室でお待ちしてたんですけどね。まさか、こっちに直接おいでになるとは思わなかったもんで」
癖の強い前髪の下で、太い眉《まゆ》が真ん中に寄ったのは苦笑である。岩の塊を荒っぽく削ったような無骨な顔なのに、目だけが可愛《かわい》らしいくらいに小さい。その目が、しぱしぱと瞬《まばた》きした。
「寝室?」
聞き返すコヅカに、ええと応《こた》えて、マナガはぼりぼりと頭を掻《か》く。
「ああ、いえ。まあ、サボッてたわけじゃないんですよ」
ごめんなさい、と助け船を出したのは、ニウレである。
「寝室でお待ちだって、私、お伝えするの忘れてたんです。コヅカ先生のお顔を拝見したら、いっぺんに気が緩《ゆる》んじゃって……」
「いえいえ、私の部下がお伝えするべきなんです。あなたのせいじゃありません」
小さな瞳が、じろり、と動く先にいるのは、さっきのワツキとかいう刑事である。ワツキ刑事は肩をすくめて、指紋を採取している鑑識官の方へと逃げて行ってしまった。
「ともかく、この事件は私達が担当します」
私達……?
その疑問を口にする前に、
「よろしくお願いします」
小さな、細い声がした。
下からだ。
巨大なマナガ刑事の前に、もう一人の人物が立っていた。ずっとマナガの顔を見上げていたので、気づかなかったのだ。
「ああ。相棒の、マティアです」
マナガがそう紹介するのは、小柄な少女である。
一六か一七、ひょっとすると一五歳くらいかも知れない。長い黒髪の、色の白い少女である。ゆったりとした黒いケープを着込んで、その姿は黒い照る照る坊主のようにも見える。
美少女、と言ってもいいだろう。
もっとも、その表情は固く、冷たい。
ケープのアーム・スリットから、少女の細い腕が出てきた。手にしているのは、縦長の黒い手帳である。開くと、そこには金色のバッジが輝いていた。
「ルシャゼリウス市警察のマティア警部です」
警部?
警部だって?
この少女が!?
まだ子供なのだ。たった今、名乗った言葉も舌足らずで、『マティア』ではなく『マチヤ』と聞えたほどだ。
それが、警部!?
マナガ刑事の手にしているものにコヅカが気づいたのは、その時だった。
ひと抱えほどもある、銀色の物体である。
旅行用の、大型のトランクのようにも見える。もしそうなら、目の前の少女くらいなら二人や三人は余裕で入ってしまうだろう。
だが、トランクではない。
銀色の表面には複雑な凹凸や溝が刻まれ、何枚もの蓋《ふた》やシャッターが複雑に重なり合っているのだ。
単身楽団《ワンマン・オーケストラ》だ。
マナガと名乗ったこの巨漢は、神曲楽士なのだ。
だとしたら、マティアというこの少女は……、
「精霊……」
思わず漏らしたその言葉に、ええ、と応えたのはマナガだった。
「そうです」
「それじゃあ」
「はい」
マナガ刑事が、にんまりと笑う。
「ルシャ市警、精霊課です」
親指ほどもありそうな、白い歯が並んでいた。
2
人間と精霊との関《かか》わりについて、その起源は定かではない。
無論、それなりの説はいくつか存在するが、いずれも神話の域を出ていないのが実情で、それぞれに物証とされるものも信憑性《しんぴょうせい》の面で決定的と言えるものは世に出ていない。
しかし現実に精霊は存在し、人間と精霊はともに共存を選択した。
人間は精霊を、精霊は人間を、互いに尊重し、そして場合によっては導き、護《まも》り、あるいは助け合ってきたのである。
少なくとも、基本的には、だ。
だが、時として道を外れる者が現れるのは、人間も精霊も同じだった。
そして、三つの『法』が組まれた。
人間のために二つ、そして精霊のために一つ。
民法。
刑法。
そして精霊法である。
「どうぞ」
ニウレに招き入れられたのは、応接室である。マナガ刑事が、どこかゆっくり話が出来る部屋へ、と言ったからだ。
部屋のつくりや雰囲気は書斎に似ているが、こちらの方がいくらか華やかだった。
絨毯《じゅうたん》は落ち着いた色合いだが花模様だし、部屋の中央で向き合ったソファにも奏世《そうせい》神話をモチーフにした神々の姿が織り込まれている。ソファの間にあるテーブルは真鍮《しんちゅう》製で、脚や縁取りの彫刻は楽譜がモチーフだ。
分厚い執務デスクも、ここにはない。本棚の代わりにあるのはガラス戸の付いた飾り棚で、中身は数十もの金色のトロフィである。
最初に部屋に入ったコヅカ・ケイズニーは、躊躇《ちゅうちょ》なく奥のソファに陣取る。
向かいに二人の刑事が座ると、
「すぐに戻ります」
ニウレは部屋を出て行った。
見送って、ぼそりと呟《つぶや》くのは、マナガ警部補である。
「いやあ、出来た方ですなあ」
コートを着たままで、かなり窮屈そうに背を丸めている。隣に座る少女がこんなに小柄でなければ、あるいはソファから押し出されていたかも知れない。
無論、少女の方が、だ。
マティア、と名乗った少女は、脱いだケープをたたんで膝《ひざ》に乗せている。ケープの下は、同じく黒いワンピースだ。襟にだけ、白いレースの縁取りがあった。
「それで?」
最初に口を開くのは、コヅカである。
「何を話しましょうか?」
「えっ?」
慌てた様子で、マナガが振り返る。まだニウレが出て行ったドアの方を見ていたのだ。
「ああ、いえ。まあ、型通りの質問なんですけどね」
応えてから、もぞりと身じろぎする。
「あの方、精霊ですね?」
「ニウレくん?」
「ええ」
「そうですよ。本人からも、お聞きになってるんでしょ?」
「ええ、まあ」
ニウレキナ・ウク・シェラリエーテ。五○年来、オゾネ・クデンダルの秘書を勤めている。オゾネの契約精霊であり、ある意味では彼が現在の……いや、昨日までの地位を得ることになった、そのきっかけでもある『人物』なのだ。
「ニウレくんが、何か?」
「いえ、しっかりしてらっしゃるなあ、と思いまして」
言いながらマナガは、ちらり、とマティアに視線を投げる。なるほど、自分の契約精霊と見比べてしまったわけか。
たしかにマティアと名乗る小さな精霊は、ただマナガの隣に座っているだけだ。そう言えば、さっき書斎で名乗って以来、一言も口を開いてはいない。
だが階級は、彼女の方が上なのだ。
マナガは警部補、そしてマティアは警部である。
精霊の年齢は外見から測れない、とは言うものの、これほど珍妙な契約関係をコヅカは見たことがなかった。
「先生のことも、あの人、ご自分でお呼びになったんですってね」
「ええ」
「ご存知でした? オゾネ氏の遺体を発見なさった直後、まず病院、それから警察、その後すぐにコヅカ先生のところへお電話なさってるんです」
「そのようですね」
「私だったら、とてもそんなこと出来ゃしません。慌てちゃってね」
「はあ」
マナガは背中を丸めて、膝の上に肘を置き、両脚の間で両手の指を組んでいる。その姿勢で、にこにこと微笑《ほほえ》むものだから、まるでヌイグルミのクマちゃんだ。
ただし、超特大の、だが。
「私だけじゃありませんよ。我々が殺人の第一報を受ける時てぇのは、たいていそうです。第一発見者は動転して、いきなり家族や友達に電話しちゃったりしてね」
「そうですか」
「そうですよ。すぐに警察に電話する人なんてマシな方です。ましてや、その前に病院に連絡する人なんて、私、初めてですよ」
それは、とコヅカは巨漢の言葉を受ける。
「まだ助かるかも知れない、と考えたんじゃないですか? 死んだと思われた人物が奇跡的に息を吹き返した例は、私も何件か知ってますしね。その可能性があるなら、一刻でも早く医師を呼ぶべきだ。警察よりも先にね」
言いながらコヅカは、一方で懸命に笑みを噛《か》み殺していた。
なんてこった。
この男、もうニウレを疑ってやがる。
この分なら、あとは検死報告さえ出れば……。
「でもねえ」
マナガである。
「コヅカ先生、あなたも大したもんです」
心底から敬服したような、半ば尊敬の眼差《まなざ》しだ。
「え?」
「あなたも、人並み外れてらっしゃる」
「どういうことでしょう?」
「だって先生、早朝に電話を受けられたんでしょ? ニウレさんから」
「ええ」
「朝お屋敷に来てみたらオゾネ先生が亡くなってた、って」
こいつ、何が言いたいんだ?
「私だったら、寝てる間に何かあったんだろう、って思い込んじゃいますよ。だから寝室でお待ちしてたんです。でもコヅカ先生、まっすぐ書斎においでになった」
コヅカ・ケイズニーは、真正面からマナガの顔を見据えていた。
目尻《めじり》に皺《しわ》を刻んで、巨漢の警部補はにこにこと、にまにまと笑みを浮かべている。その小さな瞳《ひとみ》の奥の真意を透かして見ることは出来なかった。
「いやあ、凄《すご》いですよ。凄い人ばっかりだ」
コヅカは、言葉を返すことが出来なかった。
だから、
「そう言えば」
話題を逸《そ》らした。
「どうして精霊課の方が?」
精霊課の担当は、精霊が関与する事件だけのはずだ。
無論、コヅカも結果的にそうなるように仕組んだ。だが、それはまだ先のことなのだ。
なぜ今、なのだ?
「ああ、それ。はい」
もぞり、と大きな躯《からだ》が座り直す。ソファのクッションが大きく沈んで、マティア警部の小さな躯が傾いた。
「密室だったんだそうです」
「密室? 書斎が?」
「ええ。ニウレさんが来られた時、書斎に鍵《かぎ》がかかってたんだそうで。でもあの部屋の鍵は、キーを差し込まないと、かけられないんで。外からも中からも」
「それで……」
「はい。精霊事件である可能性もありますからね」
なるほど。
そういうことか。
つまり、しかけたコヅカ本人でさえ忘れていたようなトリックに、警察は初動の段階から、見事に引っかかってくれていたというわけだ。
「おかげで、朝っぱらから叩《たた》き起こされちまいましたよ」
コヅカの知る限り、帝警が精霊課を設置してから、まだ三年にしかなっていない。
無論、それ以前にも精霊の関与する事件がなかったわけではないが、その頻度は決して高いものではなかったのである。そのため警察は、必要に応じて神曲楽士やその契約精霊に捜査協力を要請していたのだ。
だが近年、少しずつその様相が変化していた。
人間が精霊の持つ力を悪用したり、あるいは精霊自身が起こす、いわゆる『精霊事件』が増加傾向にある。これに対して帝都警察は、将都警察を含む各警察署内に特殊捜査班として、精霊事件専門の捜査課を置く必要に迫られたのだ。
すなわち、精霊課である。
楽士警官と、その契約精霊による捜査チームだ。
「でもねぇ、うちの署も精霊警官は何人もいるのに、精霊課は私らと、あともう一組だけでしてねえ。まあ、どこも似たようなもんらしいですが……」
マナガのぼやきは、事実である。
神曲楽士の技能を持ち、なおかつ相応に高位の精霊と専属契約を結んだ警官の数は、圧倒的に少ない。そのため、全署を通じても精霊課の捜査官は二○チームにも満たないのだ。複数の精霊とチームを組む者もいるし、単独行動の精霊警官もいるが、それでも楽士警官と精霊警官を合わせて総勢五○名をわずかに超える程度だと言われている。
しかし一方で、その担当範囲は、およそ精霊の関与が疑われる限りにおいて、無制限だ。また、基本的に早急な対応が必要な精霊事件における迅速な対応を実現すべく、各警察署は同課を指令系統の上位に置いている。
重責にして重労働、異例中の異例、それが精霊課なのである。
「実を言いますとね、まだコーヒーだって飲んじゃいないんです」
マナガの愚痴は、まだ続いていた。
「そんで住所だけ聞いて現場に来てみたら、なんとまあ、オゾネ・クデンダルさんのお屋敷だったんで、驚いちゃった次第でして」
コヅカは肩をすくめて見せる。
「担当を変えて欲しいくらいですよ。私じゃあ荷が重いです」
「いやいや、マナガさん」
コヅカの頬《ほほ》に浮かぶ笑みは、心からのものだった。
「頑張ってください。必ず犯人を捕まえてくださると信じてますから」
もっとも、その意味は、
「いやあ、恐縮です」
マナガには判《わか》らなかっただろうが。
やがてニウレが紅茶を運んできて、それから事情聴取が始まった。
質問は、名前と住所と電話番号に始まり、被害者との関係、その期間、被害者と最後に会ったのはいつで何を話したか、昨夜はどこにいたか、被害者が恨みを買っていた可能性はあるか、交遊関係はどうだったか、あれやこれや……。
マナガ警部補のいったとおり、それはまさに形式的な質問ばかりだった。
そして黒衣の少女は、最後まで口を開かなかった。
3
銀色のトランクを後部座席に放《ほう》り込むと、四駆車の黒い車体が揺れる。
クウォンタ・クルーガー4WD、マナガの愛車である。
「やれやれ。済んだ、済んだ」
マナガが乗り込むと、さらにサスペンションが沈んだ。
オゾネ邸の正面だ。
パトカーは一台を残して全て帰した。コヅカ弁護士もニウレキナを自分の車に乗せて、つい五分ほど前に屋敷を出たところだ。
残るのはマナガとマティア、そして屋敷に残った数人の警官だけである。
「さてと、だ」
するり、と滑り込むように助手席に乗り込んできた相棒に、マナガは声をかける。応《こた》えるマティアは身を乗り出すように腕を伸ばして、
「うん」
ドアを閉じた。
「どうする?」
「お腹空《なかす》いたね」
言いながら、マティアは早々とシートベルトを締める。
「とりあえず、喰《く》うか?」
「うん。食べないと、頭、回んないもん」
笑みである。
この美しい少女の笑みを見ることが出来るのは、契約者たるマナガだけなのだ。
「ティエントの店でも行くか?」
「やだ。昼間っから重過ぎ」
「じゃあ、どこがいい?」
「レオナルド」
「またハンバーガーかい?」
「だって、まだポイント溜《た》まってないんだもん」
「紙コップのクイズ?」
「違うよ。クロスワード・パズル。あと二問正解で、マグカップだ」
「はいはい。んじゃあパズル喰いに行くか」
「ハンバーガー」
「はい、ハンバーガーね」
エンジンをかけると、黒塗りの角張った車体が、ぶるん、と胴震いする。
それから太いタイヤで小砂利《こじゃり》を巻き上げて、黒い四輪駆動車は発進した。
後に『オゾネ・クデンダル事件』として精霊犯罪史上に記録されることになる殺人事件の、それが幕開けだった。
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第二章 幻の弾丸
1
オゾネ・クデンダルを語る時、人々はその名に様々な修辞を冠する。
いわく、不世出の天才。
いわく、楽聖の再来。
いわく、希代《きだい》の神曲楽士。
そのいずれもが間違いではなかったが、しかしどれも正解ではないことを、ニウレは知っていた。
ニウレキナ・ウク・シェラリエーテが、オゾネ・クデンダルと契約を結んだのは、オゾネがまだ二一歳のころだ。
それから、五二年である。
彼は、いつもニウレに言ってくれた。
お前と出会えた私は幸運だった、と。
でも。
本当にそうだろうか。
二人掛けの小さなソファに沈み込んで、ニウレキナは思う。
本当にそうだったのだろうか。
私と出会っていなければ、たしかに昨日までの彼はいなかっただろう。
彼は一介の、平凡な神曲楽士でいたに違いない。
そしてきっと、彼は今日も、そして明日も、どこかで元気に生きていられたに違いないのだ。
人間の女性と結婚して、たぶん今ごろは何人もの孫に囲まれて、それは神曲楽士としての成功には遠いかも知れないけれど、でも平和な日々だったに違いない。
暗闇《くらやみ》の中、たった一人で座り、ニウレキナはヤーディオの言葉を思い出した。
古い……本当に古い、精霊の友人だ。
ヤーディオは口元に皮肉な笑みを浮かべて、こう言ったのだ。
なぁ可愛《かわい》いニウレちゃんよ、悪いこた言わねぇから、ほどほどにしときな。人間は精霊の愛を正面から受け止められるほど、頑丈にゃ出来てねぇんだぜ。
あるいは、それは真実だったのだろう。
ニウレキナの注いだ愛が、彼を頂点まで押し上げ、そして殺したのだ。
犯人が誰《だれ》だかは、知らない。
何のための犯行なのかも、判《わか》らない。
しかし一つだけ、ニウレキナは確信していた。
彼が殺されたのは、彼がオゾネ・クデンダルだったからだ。
彼が不世出の天才であり、楽聖の再来であり、希代の神曲楽士だったからなのだ。
チャイムが鳴った。
ソファを立ち、明かりを消したままの部屋を横切って、部屋のドアの前に辿り着くまでにハンカチで目元を拭《ぬぐ》った。
「どなた」
ドアごしに、声をかける。
応える声は、
「マナガです」
それほどの大声でもないのに、分厚い玄関ドアを震わせた。
ドアを開けると、黒いコートが壁のようにそびえていた。すみません、と恐縮する太い声は、ほとんど真上からだ。
「ちょっと面倒なことになりまして」
たしかに、ごついが妙に愛嬌《あいきょう》のあるその顔に、あからさまな困惑が浮かんでいる。イタズラを告白する子供のような、あるいは密《ひそ》かな恋を打ち明けねばならない少年のような、そんな何とも複雑な苦笑なのだ。
「なんでしょう?」
「あの、入ってもかまいませんか?」
言いながら、マナガ警部補はニウレの頭ごしに、部屋を覗《のぞ》き込《こ》む。
ニウレキナは、溜《た》め息《いき》をついた。たしかに、この男がこのまま廊下で喋《しゃべ》れば、他の部屋の住人に迷惑だろう。いかに防音完備の高級マンションでも、低く響くマナガの声は、ドアくらいなら易々《やすやす》と貫通しそうだ。
そう言えば、彼は今、自分の名しか名乗らなかった。所属を口にしなかったのは、彼なりの気遣いだったのだろう。
ならば、それには応えなければならない。それが精霊の流儀なのだ。
「どうぞ」
「恐れ入ります」
そう言ったのはマナガ警部補だったが、先に部屋に滑り込んできたのが黒衣の少女だったので、いささか驚いた。実のところ、マナガの顔を見上げていたニウレは、マティア警部が視界に入っていなかったのである。
続いてマナガの巨体が、ドアをくぐるように入ってくる。
ドアを閉じると、いっぺんに部屋は暗くなった。
「なぁんだ、真っ暗ですな」
応えず、ニウレはドアの脇《わき》のスイッチを入れる。
途端に、奥の壁一面にかかったブラインドが開く。広いガラス窓の向こうにルシャゼリウスの街が広がり、たっぷりとした陽光が部屋に満ちた。
ほう、とマナガが声をあげる。色白の少女は、眩《まぶ》しそうに目を細めただけだ。
「絶景ですなあ」
ルシャゼリウス市のほぼ中央、ヘルッド通りに面したマンションの最上階なのだ。天気がよければ、遠くソルテムの稜線《りょうせん》も見ることが出来る。
「いやあ、モダンなお部屋だ。それに品がある」
「どうも」
大した広さではない。オゾネ邸の書斎の方が、ひょっとしたら広いだろう。それでも手狭さを感じさせないのは、ニウレが可能な限り無駄を省くことを旨《むね》としてきたからだ。
余計な家具は置かない。
余計な内装もしない。
部屋の色調は深いムラサキで統一し、照明は全て間接照明だ。
その中で、部屋の真ん中で窓に向けて置かれたソファだけが、真紅である。
二人掛けの、小さなソファだ。
まるで、ベルベットの上に落ちた、小さな血の滴《しずく》のようだ。
「お一人でお住まいで?」
太い声に、ニウレは我に返る。それから、苦笑した。
「ええ。精霊ですから」
精霊には『家族』はない。ただ『同族』と、そして『仲間』が存在するだけだ。
「あ、いえ。でもオゾネさんと契約なさってたんでしょ?」
神曲楽士と契約を結んだ精霊は、楽士に侍《はべ》るものだ。
姿が見えないことはあっても、離れることはない。つねに付き従い、ともに暮らし、ともに生きるべきものなのである。
例えば、目の前の二人のように。
「ええ」
ちくり、と胸の奥が痛む。
小さな、真紅のソファ。
「孤独を好む人でしたから……」
痛みの理由は、彼のことを過去形で語らねばならない理由と同じだ。
「じゃあ、契約してからこっち、いっしょにお住まいだったことはない?」
「ええ」
「オゾネ先生の私生活についても……」
「お互い、相手のプライバシーに必要以上に立ち入らないことが、契約の条件でした」
「珍しいケースですなあ」
「実際、彼の仕事の内容も、彼の趣味のコレクションも、彼の交遊関係も、私はほとんど把握しておりませんでしたわ」
今にして思えば、それが悔やまれた。
もっと立ち入っておけばよかった。
もっと彼のことを知っておきたかった。
もっと彼といっしょにいたかった……。
「失礼ですが」
その唐突な質問の意味を、
「羽根は六枚お持ちじゃないですか?」
ニウレキナは即座に理解出来なかった。
「はい?」
顔を上げ、その時初めて自分が俯《うつむ》いてしまっていたことに気づいた。
「羽根です」
精霊だけが持つ、力場の発生器官である。その位置や形状は枝族によって、その枚数は等級によって異なるが、精霊は必ず偶数枚の羽根を持っている。
普段は隠してはいるが、ニウレキナもまた、同様なのだ。
「六枚お持ちじゃないですか?」
照れ臭そうに、マナガは質問を繰り返す。そこには、ある種の憧憬《どうけい》が見えた。
「いえ、四枚です」
「あいやっ」
奇妙な声をあげて、マナガの分厚い掌《てのひら》が、自身の岩盤のような額を叩《たた》く。意外なことに額がたてた音は、ごつん、ではなく、ぴしゃり、だった。
「私も目利きが悪くなりました。てっきり上級精霊でいらっしゃるかと思ってました」
「刑事さん」
「いやあ、中級あたりの精霊では、やっぱり物腰に雑なところが目立つもんなんですが、あなたのような優麗な方が……」
「刑事さん!」
思わず一歩、詰め寄ってしまってから、ニウレはたちまち後悔した。こんなに近づいてしまっては、また真上を見上げなければならない。
「お話があるんじゃなかったんですか? 私、ご覧のとおり上着を脱いだだけで、着替えてもいませんの」
つまり、ついさっき帰ってきたばかり、ということだ。
だが、
「あ、ああー、重ね重ねすみません。いえね、お屋敷でお別れしてから三時間ほど経《た》ちますんで、もうお邪魔しても平気かと……」
恐縮したように肩をすくめるマナガの顔を、ニウレはしかし呆然《ぼうぜん》と見上げた。
三時間?
そんなに?
認めざるを得なかった。誰か助けが必要なのだ。
ニウレキナも、肩をすくめて見せる。同じく、恐縮の意思表示だ。
「とにかく、奥へどうぞ。お茶でもお出ししますから」
部屋の奥を指すニウレに、しかしマナガは首を振る。
「それとも、コーヒーの方が、およろしい?」
「いえ、ご一緒していただきたいんです」
大柄な刑事は、また、あの顔に戻っていた。
怯《おび》えたような、バツの悪いような。
大きな肩をすくめて、背中を丸め、けれどその小さな目は真《ま》っ直《す》ぐにニウレキナを見据えている。
「え?」
「署までご同行いただきます」
ぞくり、と背筋に悪寒が這《は》い上《あ》がった。
「なぜ?」
「ニウレキナ・ウク・シェラリエーテさん」
細い声は、マナガではない。
マティアである。
「精霊法・第二条第二項に従って、あなたの身柄を拘束します」
認めざるを得なかった。
誰か助けが必要だ。
でも、誰が?
クデンダルのいない今、いったい誰が?
少なくとも、とニウレは思う。
目の前の二人は、違う。
2
何かがしてやれるわけでもない。
つまりそれは、何もしてやらなくていい、という意味でもある。
法とはつまり、そういうものだ。
オゾネ邸を出たコヅカは、ニウレキナを自宅マンションまで送り、その足で自分の事務所に向かった。そして細々《こまごま》した仕事を二つほど片づけたころに、連絡が入ったのである。
オゾネ邸にいたのが小一時間、ニウレのマンションを経由して事務所に着くまでに三○分。さらに事務所に着いてから二時間ほどである。コヅカが今朝、遺体と入れ違いにオゾネ邸に着いたのだとしたら、検死解剖は驚くほど速やかに行われたと言えるだろう。
当然だ。
オゾネ・クデンダルが何者かに殺害されたのだ。中央神曲公社が黙っているわけがない。
電話を切るなり、秘書に今日の仕事を全てキャンセルするように伝えた。無論、クリーニング屋にスーツを引き取りに来るよう電話することも、忘れずに言いつけた。それから車に飛び乗って、向かう先はルシャゼリウス市警察本部である。
渋滞気味の昼下がりの街を、西へ向かって飛ばす。
やがて前方の交差点に、映画のスクリーンを思わせる横長の建物が見えてきた。
市警本部だ。
正面の駐車場に車を突っ込んだ。パトカーと安っぽい大衆車ばかりの中で、コヅカのケルセラー・ベルツは、まるでジャリ石の中に投げ込んだ宝石のようだ。
入り口を入って正面の受付で、婦人警官に名前を告げる。
コヅカ・ケイズニー。亡くなったオゾネ・クデンダル氏の顧問弁護士です。
若い警官がやって来て、こちらです、とコヅカを廊下の奥へと誘導した。
通された部屋で待っていたのは、
「ああ、先生。こちらへどうぞ」
ワツキ・フレジマイテ刑事だった。
奥に向かって細長い、殺風景な部屋である。
妙に薄暗い。
一方の壁からカウンターのように横長のテーブルが突き出していて、床にはパイプ椅子《いす》が三つほどあるだけだ。それ以外には、何もない。
テーブルのある壁には、横長のガラスが嵌《は》め込《こ》まれており、隣の部屋が見えていた。向こう側には充分な照明があることから、コヅカはようやく、二つの部屋を隔てるこのガラスがマジック・ミラーであることを理解した。
こちらからは素通しのガラスだが、向こう側からは鏡に見えるのである。
普段は『面通し』にでも用いられているのだろう。事件の目撃者に、容疑者の容姿を確認させるのだ。
その場合、目撃者からは素通しに見えるこのガラスも、向こう側の容疑者からは鏡にしか見えない。つまり、目撃者は容疑者に顔を見られる心配もなく、安全かつ充分に観察が出来るというわけだ。
「どうぞ。今、取り調べ中です」
言いながら、ワツキ刑事はコヅカに椅子を勧める。
誰《だれ》の、とは訊《き》かなかった。
見れば判《わか》る。
いや。
見る前から、判っている。
「いいんですか?」
「どうぞ」
奥の部屋は、こちらよりいくらか広いが、似たようなものだった。床も壁も天井もコンクリートの打ちっぱなしで、中央にはテーブルが置かれている。
ドアを背に座っているのは、マティアという少女だ。その背後にはマナガと、ドアの脇には制服の警官が立っていた。
「では、昨夜のあなたの行動について、証明出来る人物はいないんですね?」
静かな細い声は、マティア警部である。
「人間でなくても、かまわないんですよ? 中級以上なら、精霊も証人として認められます。それでも、証人はおられませんか?」
その正面、テーブルの向こう側で壁を背にしているのは、
「はい」
ニウレキナ・ウク・シェラリエーテである。
今朝、屋敷で見た時の服装のままだ。だが、美しい金髪がいくらか乱れていることが、ここからでも見てとれた。
疲れ切っているのだ。
事件が発覚したのは、今日の早朝である。そしてその日のうちに彼女は容疑者として拘束され、取り調べが始まっているのだ。
人間が相手では、考えられない事態である。
そしてそれが、精霊法なのだ。
ニウレキナを見下ろすように、その背後には異様な『人物』が、腕を組んで立ちはだかっていた。
警官の制服を身に着けている。
だが、人間ではない。
身長も、肩幅も、胸板の厚さもマナガ以上だ。そして何よりも異様なのは、制服の上に乗っている頭部が、どう見てもトラのようにしか見えないという事実である。
精霊なのだ。
精霊には、持てる『力』の強さに応じた等級だけではなく、いくつかの『種類』が存在する。基本的には全ての精霊が全く同一の存在である一方で、環境や才能、あるいは自身の嗜好など様々な『要求』にしたがって、その姿を自ら決定するのである。
無論、とり得る形態は等級によって制約を受けるし、全く無駄な形態も過去には存在したという。すなわち現在、精霊達に見られるいくつかの『種類』は、長い歴史の中で淘汰《とうた》され、最終的に残ったものなのだ。
この『種類』の区別を、一般に『枝族』という。
共通する形質的な特性を持つ精霊群の総称であり、その名称は奏世神話に由来する。すなわち、始祖精霊から派生した『枝』であるという考え方だ。
ニウレの背後に立つ精霊警官は、ラマオ、と呼ばれる枝族である。
総じて、勇猛にして果敢、加えて義を重んじる性格の精霊が、好んでこの形態を選択すると言われている。
すなわち、まさに警官向きなのである。
実のところ、精霊事件を担当する精霊課の発足以前から、精霊警官そのものはそれほど珍しい存在ではなかった。人間社会において、基本的に人間と同等の権利を保証されている精霊達には、職業選択の自由もまた保証されているからだ。
警官だけではない。その絶対数こそ決して多くはないものの、精霊歌手や精霊小説家、精霊ドライバーや精霊兵さえ実在するのだ。
だから、ごく稀《まれ》にだが異形の警官が街角に立つ姿を見ることも、なくはないのである。
もっとも精霊の多くは、ニウレキナのように完全に人間と見分けがつかない。精霊のみが持つ『羽根』を展開しなければ、よほど精霊の生態に精通した人物でない限り見分けることは不可能だろう。
それぞれの『枝族』の中でも、こうしたヒト型の一群は、学術的には『フマヌビック』と呼ばれている。
「ニウレキナさん。あなたの年齢は、さきほどお聞きしたとおりですね?」
マティアである。
冷たい、人形のように動かない表情の中で、薄い唇だけが言葉を紡いでゆく。
「はい」
「三一九歳」
「そうです」
「発生証明の出来る方はおられますか?」
「セイロウのウォーファイド・ギャロ・ロビソーメか、ヤーディオ・ウォダ・ムナグールが」
「ご友人?」
「ええ。でもウォーフは、もう二○○年ほど会っていませんし、自由精霊ですので居場所も判りません。ヤーディの方は楽士と契約していますので、連絡がつくと思います」
「そのヤーディオさんですが……」
ふいに、マティア警部の目が細められたように見えたのは、コヅカの気のせいだろうか。
「精霊弾をお使いになりますね」
「ええ」
問われたニウレキナの顔に浮かぶのは、困惑である。
だがその意味を、コヅカ・ケイズニーは理解していた。
「ニウレキナさん。あなたは、ヤーディオさんから精霊弾を習いましたね?」
ニウレは、答えない。
質問の意味を、ようやく理解したのだ。
テーブルの上で握った小さな拳《こぶし》が、震えている。
いや、拳だけではない。テーブル全体が、小刻みに振動している。
「私じゃない……」
ニウレキナは呟《つぶや》き、テーブルの振動は大きくなる。四本の脚が、リノリウムの床に叩《たた》きつけられて、がたがたと耳障りな音をたてた。
最初に動いたのは、マナガである。例の銀色のトランクを、胸の前に構えたのだ。
そのマナガを、マティアは制止する。彼のトランクの前に細い右手を伸ばし、しかし目は真っ直ぐにニウレを見据えたままだ。
「質問に答えてください、ニウレキナさん」
「私じゃない!」
「質問を理解していますか? ヤーディオさんから精霊弾を習いましたね?」
「私じゃない!!」
突然、ニウレキナ・ウク・シェラリエーテの背中が、金色の閃光《せんこう》を発した。
羽根だ。
テーブルの上で拳を握り、粗末なパイプ椅子に座ったまま、その背中に四枚の羽根が展開したのである。
実体のない、光の羽根だ。四枚とも緩やかな曲線を持ち、それは巨大な花弁にも見える。
これこそが、彼女が精霊である証《あかし》なのだ。
「おとなしくしなさい!」
野獣の唸《うな》りのような声で、ラマオの精霊警官が、背後から彼女の肩に手をかけようとする。獣毛に覆われた、ごつい手だ。
その手が肩に触れる前に、ばしん、という音をたてて、
「おぅ!」
獣頭の巨体が弾《はじ》き飛ばされた。
背後の壁に激突し、壁には放射状の亀裂《きれつ》が走る。
「私じゃない! どうして!? 私がクディを殺すわけない!!」
ニウレキナが立ち上がると、テーブルが真ん中から二つに裂けて、左右に飛んだ。そのうち一方は、コヅカが覗《のぞ》き込《こ》んでいたマジックミラーに激突し、一直線の亀裂を残した。
ニウレの躯《からだ》に、金色の光の帯がまとわりついている。風にゆらめくリボンのように、ゆったりと、しかし凶暴なまでの『力』を秘めて。
正面のマティアは、椅子に座ったままだ。真っ直ぐに、ニウレキナを見据えている。
「ここまでにしましょう」
黒衣の少女がそう言った時だ。
「おう」
「はい」
二つの声が、ほぼ同時に応《こた》えた。
ラマオの精霊警官と、そしてドアの前に立っていた人間の警官である。コヅカは、人間の警官が銀色のトランクのようなものを背負っていたことに、この時、初めて気づいた。
そのトランクが突然、ばしゃり、と金属音をたてて展開する。
いくつもの蓋《ふた》が開き、シャッターがスライドし、中から飛び出したのは分厚いスピーカーと、何本もの金属製のアームである。アームの先には、一本を除いてそれぞれ薄いモニターが取り付けられており、全てのモニターがトランクを背負った警官の方を向いている。
残る一本のアームは、ぐるりと背中から警官の正面に回り込んだ。
先端に取り付けられているのは、ベースである。
単身楽団《ワンマン・オーケストラ》だ。
ただの警官ではなかったのだ。
楽士警官だったのである。
警官がベースの演奏を開始する。ずむ、ずずむ、と低い音が連続すると、ラマオの精霊警官に異変が生じた。
めりめりと、制服が裂けてゆく。
半人半獣の肉体が、その筋肉が、瞬時に成長して体積を増してゆくのだ。
音楽に、反応している。
支援楽曲なのだ。
「すまんが、お嬢さん。おとなしくしてください」
精霊警官の地鳴りのような声に、ニウレキナが振り返る。その目は、もはや金色の炎だ。
二人の間に、黄金の爆炎が炸裂《さくれつ》した。
大気が振動し、二つの部屋を隔てるマジックミラーに何本もの亀裂が走り、しかしニウレの至近距離で精霊警官はびくとも動かない。
獣毛に覆われた上半身をあらわにして、精霊警官の背中に四本の羽根が展開する。ニウレキナの優美な羽根とは異なり、それは緩やかに湾曲した四本の長い爪《つめ》に似ていた。
「これが最後の警告です。無視なさると、実力で拘束します」
ニウレと精霊警官、双方の羽根の枚数は同じである。つまりそれは、二人の精霊が同じ中級精霊であることを意味している。等級に差がない以上、神曲楽士の支援を受けている精霊警官の方が、圧倒的に有利なのだ。
だがニウレは、警告を無視した。
二度めの爆炎が、金色の閃光を放つ。
ついにマジックミラーが砕け散り、二つの部屋が繋《つな》がった。
「ニウレ!」
叫んだのは、
「やめなさい!!」
コヅカ・ケイズニーである。
弾かれたように振り返ったニウレキナは、驚きに目を見開いた。
その目から、瞬時に炎が消える。
「コヅカ先生……」
その呟《つぶや》きが、最後だった。
金色の花弁が消え、宙をのたうつ金色のリボンが消える。気を失って崩れるニウレを、あやういところで精霊警官が抱き止めた。
「ふう」
溜《た》め息《いき》をつくのは、マナガ警部補だ。
連れてってよ、と精霊警官に指示を出す。
意識を失ったままのニウレを抱いた精霊警官は、単身楽団を収納状態に戻した楽士警官といっしょに、部屋を出ていった。
それから、マナガは割れたマジックミラーごしに、コヅカを振り返る。
「先生、こちらへおいでください」
例の、あの笑みで。
黒衣の少女はまだ座ったまま、しかし顔だけで振り返り、こちらを見ていた。
冷たい、凍るような視線だった。
3
「お怪我《けが》はありませんでしたか?」
少女の後ろで、マナガは立ったままだ。椅子《いす》が足りないせいもあるだろうが、この巨体がパイプ椅子に収まるとも思えなかった。
「精霊専用の取調室が塞《ふさ》がってて、使えなかったんです。申し訳ありません」
マジックミラーが粉砕された件を言っているのだ。
ついさっきまで、ニウレキナが取り調べを受けていた、その部屋である。
二つに割れたテーブルも、そのまま部屋の両側に転がっている。コヅカは、さっきまでニウレが使っていたその椅子に座って、二人の精霊課刑事と向き合っていた。
マナガの言葉どおり、たしかにこの部屋は対精霊のためのものではないようだ。そうでなければ、精霊雷の発動でテーブルが粉砕したりマジックミラーが割れたりするわけがない。考えてみれば、そんな状況下で、面通し用の別室にコヅカを招き入れたのは、警察側の失態であると言える。
だがコヅカは、
「いえ、大丈夫です」
取り繕った笑みで、そう応えた。警察を糾弾するよりも先に、するべきことがあったからだ。
「あなたがたのせいじゃ、ありませんよ」
つまり、最後の一押し、である。
「私も、彼女があんなに取り乱すとは、思いませんでした。いつも冷静で、論理的なんですが……」
「いやあ、そう言っていただけると助かります」
ごつい肩をすくめて、ぼりぼりと頭を掻《か》く巨漢に、コヅカは眉《まゆ》をひそめて見せる。
「実際、助かりました。ティガムは……ああ、さっきの精霊警官ですが、彼は契約精霊じゃないもんでね。契約精霊なら精霊課を手伝ってもらえるんですが……」
神曲楽士との契約を結んでいない、自由精霊ということだ。その場合、契約精霊に比較して、神曲による『力』の増幅には限界があるのだ。
「……いやまあ、そりゃ置いとくとして、本当のところ、どうなることかと思いましたよ。ニウレキナさんが、あそこまでの『力』をお持ちだとは予想外でしたからねえ」
マナガのその言葉を、
「まるで何か、訊《き》かれたくないことでも訊かれたみたいな、そんな感じでしたね」
コヅカは誘導にかかる。
「そう見えましたか?」
「ええ。それに質問の内容と無関係に、自分がやったんじゃない、と繰り返していたのも、彼女らしくないですね」
「いつもは、そうじゃない?」
「無論です。論理的な人でしたからね」
「そうかあ。先生がそうおっしゃるんなら、そうなんでしょうかねえ」
妙に引っかかる物言いである。
「何か?」
「いえ。おっしゃるとおりなのかも知れませんが、それよりも、あの人、暴走状態に入りかけてるんじゃないかと思うんですよ」
「暴走……」
暴走とは、精霊にとって一種の禁断症状を指す。
そもそも精霊が神曲楽士と契約を交わすのは、その楽士が奏でる神曲を独占するためだ。
人間と精霊との交感を可能とする楽曲……すなわち神曲は、当然のことながら、これを演奏する神曲楽士の力量や感性によって、その質を大きく異《こと》にする。そして一方で精霊の側も、それぞれの精霊にとって最も『波長』の合う神曲は、それぞれに異なるのだ。
無論さっきの精霊警官のように、楽士の奏でる神曲は、単純に精霊の『力』を強化する。しかし自分に適した神曲を得た精霊は、それによって比較にならないほど強大な『力』を得ることが出来るのである。
そのため、最も自分に適した神曲と出会った精霊は、その神曲を奏で得る能力を持つ楽士を独占しようとする。そして無論それは、楽士にとっても自分だけの……しかも強力な精霊を持つことを意味するのだ。
ここに成立するのが、精霊契約《せいれいけいやく》である。
この傾向は精霊の等級が上がるにつれて顕著となり、等級が下がるにつれて希薄となる。
実際問題、ボウライやジムティルに代表される下級精霊は、神曲さえ奏でてやれば、その場限りの使役にも嬉々《きき》として応じる。当然、精霊契約など成立しないが、質的な力量に劣る言わば『量産』的な楽士の神曲でも、容易に使役が可能なのだ。
言ってみれば、専属の精霊と契約を交わすことは、神曲楽士にとってステイタスとも言えるのである。
しかし。
この契約には、重大なデメリットも存在する。
契約を成立させた精霊は、つねに神曲楽士の側《そば》に侍《はべ》り、その命令に従うが、一定期間毎《ごと》に神曲を聴かせなければ衰弱してゆくのである。
契約によって特化した精霊は、自分の契約した楽士の神曲の支援を受ければ通常に倍する『力』を発揮し得る。だがそれは、すなわち人間が麻薬の摂取によって精神を高揚させるのにも似た状態なのだ。
しかも。
いったん契約を成立させた精霊は、契約楽士の神曲に対して、徐々に自分自身を調律してゆく。これによって、より効率的に神曲に共振し、支援に対して発揮する『力』はさらに倍加してゆく一方で、他の楽士の神曲に対する反応は鈍化し、やがては無反応になってしまうことになる。
おそらく、さっきのティガムという精霊警官は、調律を行っていないのだろう。そのため、たいていの神曲楽士の演奏によって『力』を得ることが出来る反面、それには限界があった。だからこそ契約楽士の支援を受けないニウレキナにさえ、圧倒されてしまったのである。
だが彼には、暴走の心配は、ない。
一方でニウレキナは、今、暴走状態に入りつつあるのだ。
「それは……」
コヅカは、呻《うめ》くような声で言った。
「オゾネ先生が亡くなったから……」
うなずくマナガ警部補の、粗削りな彫像のような顔には、悲痛な表情が浮かぶ。
「よほど惚《ほ》れ込《こ》んでおられたんでしょうなあ」
契約楽士の突然の死は、契約精霊にとっても、まさに危機的状況であると言える。
契約した楽士からの神曲の供給を突然に断たれ、しかも調律の進んだ段階であれば他の楽士の神曲で補うことも出来ないのだ。
待っているのは、暴走である。
極度の飢餓状態から精神の不均衡を引き起し、神曲を求めて荒れ狂うことになる。
無論、調律を変更することも可能だが、それには時間がかかる。相応の力量を持つ楽士の援助を受けながらでも、二ヶ月から三ヶ月というのが定説だ。
しかも変更が完了する前に暴走が始まれば、契約楽士の神曲を与える以外に、まず打つ手はないのだ。
神曲を求めて荒れ狂い、目につくもの手に触れるものをことごとく破壊し、彷徨《さまよ》うことになる。そして知性を持つエネルギー体である精霊にとって、それは身を削り続けるに等しい状態なのである。
つまり、
「このままでは……」
「ええ。暴走が始まれば重隔離になりますから、外部に被害が及ぶことは避けられますが……、ニウレさんは……」
遅かれ早かれ、消滅する。
しかも、暴走が始まれば取り調べどころか、まともな会話さえ成立しない。
よし、とコヅカは思った。
よし。
これで、よし!
ならば、後は印象操作をさせてもらうだけだ。
「ところでマナガさん」
ふいに思いついたように、コヅカは声をかける。
「さっきの、セイレイダン、というのは何なんですか?」
「おや。ご存知ない?」
「ええ」
嘘《うそ》だ。
だが、この二人の刑事に『印象』を刷り込むには、知らないふりをした方がいい。彼らに説明させることで、彼らの確信を強めてやるのだ。
「私は、精霊事件は専門じゃないんですよ」
ああ、とマナガが手を打つ。あの手でひっぱたかれたら、頬骨《ほおぼね》が砕けるのではなかろうか。
「たしか、権利関係や経済的な面での顧問をしてらっしゃったんですよね」
よござんす、とマナガの声は、部屋に響く。
「実際に、お見せしましょう」
精霊弾を、だ。
部屋を出て、長い廊下を歩き、何度も角を曲がってから、階段を地下へと降りる。案内されたのは、射撃訓練施設だった。
横幅と奥行きが広く、そのため天井が低いように感じる。周囲は床までコンクリートが剥《む》き出《だ》しで、部屋に入ってすぐ目の前には木製のカウンターがあった。これも、横に長い。
正面のカウンターとは別に、右側の奥には別の、受付のような小さなカウンターがある。座っているのは、警官の制服を来た壮年の男だ。
「すまないけど、シャドアニ呼んでくれない?」
壮年の警官にそれだけ告げて、マナガが戻ってくる。
しばらくすると、スーツ姿の若い男が射撃場にやって来た。
シャドアニ・イーツ・アイロウと名乗った。精霊刑事である。
「こちらの先生に、精霊弾を見せて差し上げて欲しいんだけど、いいかい?」
いくらか丸顔の、しかし精悍《せいかん》な顔つきの精霊は、色の濃いサングラスの奥で眉をひそめたようだ。
「そりゃマズいですよ。ここでやったら、また課長に怒られちまう」
「黙ってりゃバレないって」
「チクったりすんの、ナシですよ?」
「判《わか》ってる判ってる」
交渉は、成立したらしい。シャドアニはサングラスに手をかけて、それから思い出したようにコヅカを振り返った。
「ええと、驚かないでくださいね」
言いながら、サングラスを外す。
白い眼球には瞳《ひとみ》がなく、代わりに緑色の十字が刻まれていた。
「たいていの人は怖がるんで、いつもは隠してるんですよ」
それからシャドアニが、スーツの下のホルスターから銃を抜き出す。大型の、オートマチックだ。
衝立《ついたて》でいくつかに仕切られたカウンターの、そのうち一つに滑り込む。マナガに手渡されたのは、大振りのヘッドホンのようなものだった。イヤー・ガードである。
一方で、シャドアニは銃のグリップから弾倉を抜き出し、装填《そうてん》されていた弾丸を一つずつ抜いてはカウンターに並べていた。
「弾を抜いてるんですか?」
コヅカの問いに、マナガは肩をすくめて笑っただけだ。見ると彼の横では、すでにイヤー・ガードを着けたマティアが、壁の方を向いてこちらに背中を見せている。
「いいですか?」
すっかり空になった弾倉を銃に戻し、シャドアニが振り返る。
「音がけっこう凄《すご》いですから」
コヅカがイヤー・ガードを着けるのを確認してから、シャドアニはカウンターに向き直った。
真《ま》っ直《す》ぐに、銃を上げる。
銃口の先、射撃場の奥には、人の上半身を象《かたど》ったマン・ターゲットがぶら下がっている。
「いきます」
宣言の直後、それは始まった。
射撃である。
だが、それは通常の銃撃ではなかった。
轟音《ごうおん》とともに、銃口では通常の何倍もの大きさの閃光《せんこう》が炸裂《さくれつ》し、長い光の尾を曳《ひ》きながらターゲットに向かって延びるのである。連射される光弾をよく見ると、かすかに青白い電光をまとっていた。
一方で、一発ごとに銃の遊底《スライド》が後退し、瞬時に前進する。だが普通なら空中に弾《はじ》き出されてくるはずの空薬莢《やっきょう》は、ない。その代わり、遊底が後退して薬室が開放されるたびに、まばゆいばかりの閃光が噴き出すのだ。
精霊雷だ。
精霊の放つ、熱量もベクトルも持たない、純粋エネルギーである。さっき、ニウレキナが取調室で放ったものも、それだ。
通常、精霊はこのエネルギーに意志の力でベクトルを与え、『腕』あるいは『前肢』に相当する器官から……どちらも持たない者は口吻《こうふん》や角などから放出する。人間の目には、これが横方向への落雷のように見えるのだ。
精霊雷、と呼ばれる所以《ゆえん》である。
精霊雷は精霊にとっての万能の道具であり、また武器であるとも言える。離れた場所にある物体を動かしたり、あるいは高圧で叩《たた》きつけることによって標的を攻撃するのである。
しかし、その精度については、かなり低いと言わざるを得ない。
狭い範囲に高圧をかけることが、出来ないのである。
例えば、出力を落として絞り込んだ精霊雷を用いれば1エンのコインくらいなら宙に浮かせることが出来る。しかしコインを破壊することは出来ない。コインを破壊し得るだけの出力を精霊雷に与えれば、その効果範囲も同時に拡大してしまい、コインの乗ったテーブルごと粉砕してしまう結果となるのだ。
これを解消する技術が、すなわち精霊弾である。
銃の構造を利用して、精霊雷を高出力のまま、ピンポイントに絞り込む技術だ。
手にした銃の薬室内に精霊雷を発生させて瞬時に圧力を高め、引き金を絞るという動作を文字通りの『引き金』として解放、銃身を通過して発射することによって効果範囲を絞り込んだまま、精霊雷を拡散させることなく標的に向かって発射するのである。
原則としては単純な、しかし習得困難な高等技術なのだ。
その意味で、このシャドアニという精霊は、けっこうな使い手のようだ。大型のオートマチックを用いるのも、銃の内部に高出力の精霊雷を発生させている証拠である。一発ごとに後退する重くて頑丈な遊底《スライド》が、精霊雷の余分な力を逃がしているのだ。
彼がリヴォルバーで同じことをやれば、おそらく銃そのものを破壊してしまうだろう。
「ありがと、ありがと。もういいよ」
轟音に抗してマナガが叫んだのは、シャドアニが百発ほども精霊弾を連射した後だった。
「もういいよ、ありがと。充分だ」
轟音が途絶えると、きりきりと音をたてて、吊《つ》り下げられたターゲットが天井のレールに沿って迫ってくる。
見ると、ターゲットの胸のあたりに、直径5センチほどの穴が開いていた。
発射した数を考えると、驚くべき集弾率である。
「相変わらず、いい腕してるねえ」
「精霊弾なら誰《だれ》だって、こんなもんですよ」
あっさりと言ってのけるシャドアニ刑事は、さっき抜き出した弾丸をさっさと弾倉に戻してゆく。
「本当に、課長にはナイショですよ」
言いながら、弾倉を銃に戻した時だ。
「シャドアニ巡査部長」
さっき彼を呼び出した壮年の警官が、カウンターごしに声をかけた。
苦笑気味に見えるのは、コヅカの気のせいだろうか。
「課長がお呼びだよ」
直後、シャドアニの動きは、素早かった。片手で銃をホルスターに戻し、片手でサングラスをかけつつ、
「ああ、もう! マナガさん! これ、貸しですからね!!」
言い終えた時には、もう防音ドアを開けて飛び出してゆくところだった。
懸命に笑いをこらえるマナガ警部補の、大きな肩が上下に揺れる。
黒衣の少女は、ようやくこちらを向いて、けれど冷たい表情のままだ。
やがて、
「それでですね……」
ぼそり、と重い声で、マナガが言った。
「こいつらしいんですよ」
「なにが、ですか?」
言いながら、しかしコヅカは理解していた。
全ては、彼が仕組んだことだからだ。
「死因です」
「死因……?」
そう。
そうだぞ。
「オゾネ先生は、精霊弾で殺害されたらしいんです」
お見事!
コヅカ・ケイズニーは、笑みが浮かびそうになるのを、懸命にこらえなければならなかった。
4
脊椎《せきつい》および脳髄の損傷。
それが希代の神曲楽士オゾネ・クデンダルの死因である。
もっとも、とマナガ警部補は補足した。
実際には呼吸中枢の損壊による呼吸停止が先なのか、それともショック症状による心停止が先か、あるいは直接の死因は失血にあるのか、判りゃしませんがね。
いずれにせよ、頭部への銃撃、それがオゾネ・クデンダルの輝かしい人生に幕を下ろしたのである。
だが問題は、犯行に用いられた銃……正確にはその銃から発射された弾丸だった。
凶器の銃は、発見されていない。
そして弾丸も。
そう、弾丸が、ないのだ!
銃創は、弾丸が標的の肉体を突き抜ける貫通銃創ではない。盲貫《もうかん》銃創である。射入孔はあるが、射出孔がないのだ。
したがって、頭部にはまだ弾丸が残されていなければならない。
それが、ないのである。
回旋《かいせん》銃創である可能性も考慮したんですがね、とマナガは言った。
頭部に発射された銃弾は、頭蓋骨《ずがいこつ》の内側を、その湾曲に沿って回旋することがある。円形のコースを走るレースカーのように、だ。
そしてごく稀《まれ》にだが、回旋した弾丸が、頭蓋骨を砕いて内部に飛び込んだのと同じ孔《あな》から飛び出してしまうことがある。そうなると当然、射出孔がないにも拘《かかわ》らず頭蓋骨の内部には弾丸がない、という不可思議な状況になるのである。
しかしその場合、貫通銃創と同様に、やはり弾丸は発砲現場に残されることになる。
それも、ない。
つまり、である。
発射された弾丸は、頭蓋骨を粉砕し、無数の骨片を撒《ま》き散《ち》らして脳髄を引き裂いた。だがその後、忽然《こつぜん》と姿を消してしまったことになる。
ルシャ市警が早くもニウレキナを拘束したのは、このためだ。
弾丸なき発砲……すなわち精霊弾による犯行である可能性が最も高いのである。
そして警察は、コヅカ・ケイズニーが踏んだ手順を逆に辿《たど》った。
精霊弾の技能を持ち、そして被害者と二人きりになることが出来る精霊。
その条件を満たすのは、たった一人。
すなわち、ニウレキナ・ウク・シェラリエーテである。
市警察署を出たコヅカ弁護士は、愛車の運転席に収まってドアを閉じると、ついにこらえきれずに笑みを浮かべた。
やった。
ついに、やった。
あまりに上首尾で、気味が悪くなるくらいだ。
検死解剖が異例の早さで行われたのは、被害者がオゾネ・クデンダルだったからだ。それどころか、近日中に国葬が執り行われるであろうことは、ほぼ間違いない。そうなれば市警察としては、それまでに犯人を逮捕することは出来なくても、少なくとも有力な手がかりを得たことだけでも発表しなければならないはずだ。
そして彼らは、有力な容疑者を拘束した。
おめでとう。
キーを回すと、エンジンが唸《うな》りを上げる。
クラッチを踏み、シフトをローに押し込んだ。
太い声がドアのウィンドウに響いたのは、
「コヅカ先生!」
その時だった。
バックミラーに、黒いコートの巨体が市警の玄関から走って来るのが見えた。
「先生!! すいません、先生!」
歩幅のせいもあるのだろうが、驚くべき勢いである。重そうな銀色のトランクを手にしたまま、両開きのドアから飛び出てきたと思った次の瞬間には、エントランス前の階段を一気に飛び下りる。建物正面の駐車スペースまで、たったの四歩だった。
「すみません、忘れてました」
運転席側の窓枠を鷲掴《わしづか》みにして荒い息をつくマナガのために、コヅカはウィンドウを下ろしてやる。
「どうしました?」
振り返ると、マティア警部が黒いケープをひるがえして、ぱたぱたと階段を駆け降りて来るところだった。
「いえ、肝心な、ことを、お伝えするのを、忘れて、ました」
片手を胸元にあてて、その言葉は切れ切れである。ようやく追いついた少女は、そんな相棒の様子を理解したようだ。
「コヅカ・ケイズニーさん」
表情のない美しい顔が、マナガと車体との間に滑り込んでくる。
「恐れ入りますが、遺言状の件で、ご相談があります」
「遺言状?」
オゾネ・クデンダルの、だ。
最近になって、オゾネ楽士は自身の健康について不安を口にするようになった。実際のところ彼は、頑健であるとは言えなかったし、過度の喫煙が健康を害し始めてもいたのだ。
そして、遺言状が作成されたのである。
「ニウレキナさんから、あなたが保管しておられると聞きました」
マティアの言葉に、ええ、と応《こた》えて、コヅカはこの時、初めて気がついた。
二人の精霊警官の、役割が見事に分担されているのだ。
通常、捜査の先頭に立つのは、マナガ警部補の方だ。参考人と話すのも、現場で指示を出すのも、この大柄な楽士警官である。
だが容疑者の取り調べは、マティア警部が行う。この小さな精霊の方が、人間であるマナガよりも階級が上だからだろう。
つまり、どれだけ見た目の貫祿《かんろく》があろうともマナガはマティアの使い走りであり、彼が正面に立つのは単に彼女の手間を省いているだけのことなのだ。
そう考えると、コヅカは可笑《おか》しくてたまらなくなった。
実際、気づいた瞬間には、あやうく吹き出すところだったのだ。
なんてこった。
要するに俺の相手は、このオチビちゃんというわけなのか!?
「恐れ入りますが」
そんなコヅカの思いに気づくこともなく、マティア警部は淡々と続ける。
「後ほど部下を一人、そちらへ伺わせますので、オゾネ・クデンダルさんの遺言状をお預けいただけませんでしょうか?」
「いいですよ。証拠品ですね」
「いえ、単なる参考です。しかし、あるいは犯人の動機が明らかとなる可能性もあります」
上出来だ。
オゾネ・クデンダルが死亡した場合、その財産の全てはニウレキナに相続されることになる。無論、いずれその事実は市警察の知るところとなったはずだが、このタイミングで、しかも相手の方から要求してくるなら、さらに都合がいい。
有力容疑者を拘束。犯行は可能、アリバイはなし、そして今ここに動機も明確化する。
おめでとう、ルシャ市警。
さらば、ニウレキナ。
「判《わか》りました。事務所に戻ったら、いつでもお渡し出来るように準備しておきます」
よろしく、と言ったのは、マナガの方だった。
まだ息が乱れているらしく、かろうじて、といったありさまだ。
「では」
片手を挙げて見せてから、ウィンドウを戻し、車を発進させる。
道路に出る時、何気なくバックミラーで背後を確認した。
黒い人影が二つ、市警の建物の前に立っている。
白い顔の少女が、じっとこちらを見つめていた。
5
市警本部は、眠らない。
無人になることは、絶対にない。
だがそれでも、夜勤の警官は日勤のそれよりも、はるかに少人数だ。したがって、署内の不要な照明は落とされ、特に二階以上はその大半を暗闇《くらやみ》が支配する。
そんな中に、
「参ったなあ……」
ぼそり、と響くのは、マナガ警部補の呟《つぶや》きだ。
彼の執務室である。
とは言っても、昼間の取調室よりも狭い。安物の事務机が二つと、壁際に資料ファイルの詰まったラックがある他は、ドアの脇《わき》に立てられたコート・ハンガーだけだ。
窓さえも、ない。
そんな部屋で、天井の照明も点《つ》けずにデスクの電気スタンドだけを灯《とも》しているものだから、まるで穴蔵のようだ。
案の定、戻ってきたマティアは抗議の声をあげた。
「電気くらい点けたら?」
「ああ、うん」
生返事をしながら、マティアが投げてよこした缶を受け止める。
「あぢ」
缶コーヒーだ。
続いてデスクに置かれるのは、ファストフード店の大きな紙袋である。
「何か判った?」
言いながら、少女はドアの脇のスイッチで明かりを点ける。それからマナガの隣のデスクに回り込んで、椅子《いす》に飛び乗った。目一杯の高さまで上げてあるからだ。そうしないと、デスクに手が届かないのである。
「んー、何とも言えんなあ」
マナガがデスクに広げているのは、全て捜査資料の束である。十数枚ずつ大型のクリップで留められて、そんなものが二○束ほども乱雑に投げ出されているのだ。
手にしているのは、検死報告書だ。
「どう考えたって、普通じゃない」
「弾?」
「そう。弾」
応えて、太い指でプルを開けた缶コーヒーを、マナガは喉《のど》に流し込む。
「弾だよ」
消え失せた弾頭である。
基本的に、銃弾は薬莢《やっきょう》と弾頭の二つのパーツによって成り立っている。薬莢は金属製の筒で、内部に火薬を詰め込み、その一方を弾丸で塞《ふさ》ぐ。筒のもう一方には雷管が詰められ、こちらは強く叩《たた》くことで火花を散らし、その火花が薬莢内部の火薬を破裂させるのだ。
弾丸を銃に装填《そうてん》し、引き金を引くと撃鉄が雷管を叩く。雷管の火花が薬莢の中の火薬を破裂させ、その瞬間的な圧力で弾頭が飛び出す。これが、全ての銃に共通する基本構造だ。
普通、弾丸あるいは銃弾と言えば、この弾頭部分を指す。
発射された弾頭は標的に命中した瞬間、マッシュルーム状に変形する。つまり、一般に考えられているようなドリルのごとく穿孔《せんこう》するイメージは、実は誤解なのである。むしろ、回転ノコギリのように標的を切り裂き抉《えぐ》りながら潜り込んでゆくのだ。
しかしいずれにせよ、これによって生じる銃創は、大きく分けて二種類である。
すなわち、銃弾が標的を突き抜ける貫通銃創と、同じく標的内部に残る盲貫銃創だ。
そして今回の場合、銃創は明らかに盲貫なのである。
なのに、体内に弾頭が残っていない。
「ねえ」
書類を覗《のぞ》き込《こ》んで、マティアがストローをくわえるのは、紙袋から取り出した紙コップ入りのコーラだ。
「マナガは、どう思う?」
彼と二人きりの時、マティアは饒舌《じょうぜつ》である。
「どうって?」
「やっぱり精霊弾だと思う?」
「そっちは、どうなんだい」
「質問に質問で返すのは失礼だよ」
「そうか」
ぐい、と缶コーヒーを傾ける。たったの三口で、もうなくなってしまった。
「今な、遺言状を確認してたんだ」
マティアが買い出しに出かけるのと入れ違いに、新人警官が運んで来たものだ。
『コヅカ法律事務所』と印刷された大判の封筒に、さらにきちんと封蝋《ふうろう》で閉じられた封筒が入っていた。
小さなメモがクリップで添えられている。手書きの文字は、コヅカ弁護士のものだろうか。
……内容、当方にて確認済み。開封は随意になされたし。コヅカ……。
そしてマナガは、封を切った。
記されていたのは、主に死後の財産分与についての取り決めだった。
「オゾネ・クデンダル氏の財産だがな、やっぱり全てニウレキナ嬢が相続することになってる」
「本人は、知ってたと思う?」
「知ってただろうな」
マナガが背をあずけると、椅子が軋《きし》む。署長クラスが座るような大型の椅子で、背もたれも肘掛《ひじかけ》けも苦笑したくなるほどに分厚く、大きい。
そしてそれでも、マナガの巨体を受け止めるだけで精一杯なのだ。
「と言うより、他の可能性なんか考えられなかったんじゃないか?」
「そうね……」
「オゾネ氏には、身寄りがない。結婚もしなかったし、兄弟もいない。以前、ダンテ賞を受賞した時に血縁を名乗る奴《やつ》らが何人も現れたが、調べてみたら結局はどれもニセモノの詐欺師連中だった」
「うん」
「だとしたら、オゾネ氏に最も近い存在で、彼にとって家族同然だったのは、精霊のニウレキナ嬢だけだ。彼女本人にも、そのくらいの自覚は当然あったろうさ」
「そうだね」
「つまり、これは充分に動機になり得る、ってことだ」
「うん」
「だがなあ……」
釈然としない。
それはマティアも同じだったようだ。いつもは半ば閉じられて、冷やかとも思える視線を放つ瞳《ひとみ》が、今はぱっちりと見開いてマナガのデスクの上の書類を覗き込んでいる。
薄い唇が引き結ばれているのは、彼女が考え事をしている証拠だ。
「オゾネ先生が亡くなったら自分がどうなるか、判ってないはずがないものね」
「そうさ」
つまり、暴走だ。
ニウレキナが財産目当てでオゾネ氏を殺害したと仮定するには、その部分で無理が生じる。なぜなら、オゾネ氏がいなくなればニウレキナ自身の存在も危うくなるからだ。
「でも、弾頭は出てないんだよね」
「ああ。弾頭は出てない」
それが問題なのだ。
あるべき弾頭が存在しない以上、精霊弾による犯行と考えるしかない。そして精霊弾による犯行ならば、それを行う動機と技術を持ち合わせているのは、ニウレキナだけなのである。
しかも昼間の聴取で、昨夜の彼女は一人で自宅マンションにいたと主張していること、さらに来訪者もなければ誰《だれ》かと電話をしたわけでもなく、他者とは一切の交渉がなかったことが確認されている。
アリバイがないのだ。
無論それが昨夜に限ったことではなく、よほどの事情がない限り彼女がオゾネ以外の誰とも関《かか》わろうとしないことなど、何の救いにもなりはしない。
このままでは……、というマナガの思いを読んだかのように、
「彼女が犯人、てことになっちゃうね」
マティアは呟く。
溜《た》め息《いき》をついてから、少女はファストフードの紙袋に手を伸ばした。
「食べよ?」
「ああ」
質素な食事になった。
静かな食事になった。
二人は、ただもくもくと、安物のハンバーガーを頬張《ほおば》った。
マナガは片手に検死報告書を持ったまま。
マティアが遺言状をデスクに置いているのは、ハンバーガーとコーラで両手が塞がっているからだ。
コーラが入った紙コップには、赤いロゴマークの他に、格子模様が描かれている。ところどころマス目が赤く潰《つぶ》されていて、格子の枠の隣には細かい文字がびっしりと並んでいるのが見えた。
クロスワード・パズルだ。
正解を記入して店のカウンターに提出すると、ポイント・カードにスタンプを一つ押してもらえる。それがいくつか溜まったら賞品がもらえる、というキャンペーンなのだ。
たしか、あとスタンプ二つだ、とマティアは言っていた。
要するに、あと二回このハンバーガーに付き合えば、次のキャンペーンまではマトモな夕食が摂《と》れるというわけだ。
旨《うま》くも不味《まず》くもないハンバーガーを、あらかた食べ終えた時、少女のくわえたストローが、ずずずずと品のない音をたてた。
「失礼」
マティアが肩をすくめて、ちらり、とこちらを見る。
視線が、合った。
「何?」
「いや、ちょっとな」
あわてて、話題を探す。ハンバーガーに文句など言ったりしたら、レオナルド・バーガーのキャンペーン賞品がどれだけ素晴らしいものか、延々と講義されるに決まっているからだ。
「ちょっと考え方を変えた方がいいかな、と思ってな」
それはしかし、本当のことだ。
たしかに二人とも、ニウレキナが犯人であるとは思えない。だが、それが単なる勘のようなものでしかないのも事実だ。その一方で、全ての状況はニウレキナが犯人であると示唆している。
引っかかっているのは、それがニウレキナ本人にとっても非常にリスクが高い……いや、高過ぎるという点だけなのである。
「仮にだよ」
マナガはデスクに肘をついて、ぐい、とマティアの方に身を乗り出す。
「ニウレキナ嬢が、とっくに調律を開始してるとしたら? それどころか、もう調律が済んでるとしたら、どうだ?」
「んー、続けて」
「つまりな、もう何ヶ月も前から殺害を計画してて、そのためにオゾネ氏の神曲から少しずつ調律をずらしてたとしたら?」
「他の楽士の曲に?」
「そうかも知れんし、そうじゃないかも知れん」
実際、時間さえかければ、神曲楽士の助けなしでも自力で調律の変更は可能なのだ。
「じゃあ、昼間のは暴走じゃない?」
「こっちにそう思わせるための芝居だったかも知れん、てことさ」
もしそうなら、オゾネ氏を殺害しても暴走の心配はない。ひとしきり暴走の芝居をして見せた後、それを克服したように演技して遺産を受け取ればいいことになる。
「犯人は、どこの誰とも知れない精霊。そして事件は迷宮入りだ」
ニウレキナがそのように計画したかも知れない、という意味である。
だが、
「私だったら……」
マティアは紙コップをデスクに置いた。すっかりコーラを飲み干してしまったようだ。
「そんな面倒臭いこと、しないよ。精霊弾なんか使わずに普通に銃で撃って、指紋を拭《ふ》き取《と》って、普通に部屋を出る。そしたら人間の犯行に見えるもん」
「でもな、それだと人間にも精霊にも可能な犯行、ってことになる。そうなると、どうせニウレキナは疑われる」
「動機があるものね」
「そうだ。だったら、明らかに精霊が犯人であると判るように殺害し、誰かが彼女に濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》を着せようとしていると見せかけて、実は彼女本人が犯人だったって方が……」
「ごめん。意味判《わか》んない」
「いや、その方が劇的じゃないかと思って」
「莫迦《ばか》みたい」
「そうだよな」
マナガの言葉は、溜め息混じりである。
犯行が可能で動機も持っている反面、やはりニウレキナ・ウク・シェラリエーテが犯人であると考えるには、無理があるのだ。
だとしたら……、
「やっぱり」
マナガの呟きに、
「うん」
マティアがうなずく。
そうだ。
やはり、そこへ戻ってくるのだ。
マナガは席を立つと、マティアに声をかけた。
「今日はもう帰るか」
「うん」
部屋を出る前に、留置施設に連絡を入れた。
ニウレキナの意識は、まだ戻っていなかった。
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第三章 叫ぶ女
1
仕事が一段落した。
コヅカ・ケイズニーは、背もたれに上着を引っかけた椅子《いす》に座り、ネクタイを緩めてから大きく息を吐く。
それから、目の前を行き交う人々を、彼はぼんやりと眺めた。
第三神曲公社の、会議室である。
だから、決して狭いわけでない。
だが集められた事務員やボランティア学生は、ともすれば互いに肩をぶつけ、デスクの角に腰をぶつけて、右へ左へと歩き回っている。その慌ただしさは、まるで投票前日の選挙事務所だ。
なにしろ、時間がない。
今日を入れても、あと四日。そしてその今日は、もう半分がた過ぎてしまった。
内側に開くドアは開放されたままで、ど真ん中に貼《は》り付《つ》けられた縦長の紙が見えている。
紙には大きく、黒々とした文字が書かれていた。
『オゾネ・クデンダル楽士/国葬実行委員会』
始まりは、昨日である。
ルシャ市警でニウレキナの取り調べと精霊弾の実演を見た後、事務所に戻ったコヅカは、車を降りるなりカメラとマイクに囲まれたのだ。向けられたTVカメラは六台、スナップ・カメラはそれ以上、マイクも三○本かそこらはあっただろうか。
オゾネ・クデンダル殺害のニュースは、その日のうちに、少なくとも神曲を禁じていない全国家、全世界を駆けめぐった。
その中心にいたのが、すなわち、コヅカ・ケイズニー顧問弁護士だったというわけだ。
オゾネ・クデンダルには、家族はない。
兄弟もいなければ、親類縁者も存在しないと言われている。
唯一の身内であるニウレキナ・ウク・シェラリエーテが市警察の拘束下にある現在、コヅカこそが最もオゾネ楽士に近い人物なのだ。
炸裂《さくれつ》するフラッシュの中、コヅカは声を張り上げた。
今は何も申し上げられません! 市警察の発表を待ってください!!
カメラもマイクも引き下がらなかったが、コヅカは相手にしなかった。もみくちゃにされながら事務所のあるビルに飛び込み、すでに事態を予測していた警備員が報道陣を通せん坊するのを尻目《しりめ》にエレベーターに乗り込んだのである。
だが、そこからがまた大変だった。
留守中に、中央神曲公社と将都庁、さらには帝都メイナードの帝都庁からも連絡が入っていたのだ。あるいは報道の連中は、警察ではなく、こちらの動きから事態を知ったのかも知れない。
ともかく、夜遅くまで何本もの電話をかけ、何人もの来客の相手をした。
そして、オゾネ・クデンダルの国葬が決定した。
コヅカ・ケイズニーは、実行委員会の責任者に抜擢《ばってき》された。中央神曲公社から直々に、である。
たった一晩で、全てが決定した。
葬儀の、ではない。
コヅカ・ケイズニーの、だ。
九年前、ちょっとしたきっかけでオゾネの顧問弁護士となった時も、それだけのことで他の仕事の依頼が倍増したものだ。オゾネ・クデンダルという存在は、それほどまでの影響力を持っていたのである。
そんなオゾネの葬儀について、全てを任されたとなれば、そのことが今後どれだけのものをもたらすのか、コヅカには想像もつかなかった。
知らぬ間に、口元が笑みに緩む。
「コヅカ先生」
ふいに声をかけられて、あわてて口元を引き締めた。
「あの、お客様がお見えです」
彼のデスクの傍《かたわ》らに立って、そう告げるのはまだ十代の少女である。落ち着いた色の制服を着ている。今回の件で近場の神曲学院から派遣されてきた、ボランティア学生の一人だ。
オゾネ・クデンダルの国葬には、ありとあらゆる神曲関連機関が全面協力を申し出ていた。この実行委員会も、第三神曲公社の大会議室を借り切っている。
「どこの人?」
コヅカが問うのは、客とやらの素性である。だが少女は、すみません、と応《こた》えた。
「マナガと言えば判るから、とおっしゃって……」
あいつか。
「ああ、いいよ。知り合いだ」
席を立つコヅカの笑みに、少女も安心したようだ。頭を下げて、持ち場に戻ってゆく。
見ると、岩の塊みたいな顔が、開け放たれたドアからこちらを覗《のぞ》き込《こ》んでいた。天井すれすれである。人込みを縫うようにして近づいてゆくコヅカに、すんませんねえ、とばかりに巨大な顔が苦笑した。
「やあ、マナガさん」
「ああ、すみません。こっちの所属は伏せといた方が、ご都合がいいかと思いまして」
コヅカのような職業の人間には意外なことではあるが、市民の中には『精霊課』の存在を知らない者も少なくない。
精霊は『人間の善き隣人』であるというのが一般の認識であり、精霊が犯罪に関与したり、あるいは積極的に自ら犯罪を犯すなどと考える市民は少数派なのである。精霊と警察の関《かか》わりは、あくまで市民を護《まも》る精霊警官であり、精霊刑事であるというのが一般認識なのだ。
精霊事件専門の捜査官の存在は、だから言わば、この社会の闇《やみ》の部分であるとも言える。
あるいは、真実の、と言った方が的確かも知れないが。
「お気遣いに感謝しますよ」
恐縮そうに巨躯《きょく》を縮めるマナガの、その足元にはマティアが立っている。相変わらずの冷やかな視線にも、そろそろコヅカは慣れ始めていた。
「いやあ、お忙しそうですね」
「ええ。オゾネ先生の国葬が決まりましたんでね」
「そうなんですってねえ。秘書さんから聞きましたよ。全権を任されたとか?」
「ええ、まあ」
「ご立派ですなあ」
「は?」
「これじゃあ、本来のお仕事にも支障をきたすでしょうに」
そうとも。
現に、今夜は事務所に戻れば徹夜仕事が待っている。だが、それでもこの国葬だけは、何としても成功させる必要があるのだ。
何しろ予想外の、降って湧《わ》いた幸運なのだから。
だが、それは口にしなかった。
「いえ。オゾネ先生は個人的にも尊敬すべき人物でしたし、何より彼は、神曲にたずさわる者、全ての宝でしたからね」
「そうらしいですなあ」
「おや。ご存知ないんですか?」
「いえ、知ってはいますけど。でも、拝見したことは、ちょっと……」
なんてことだ。
コヅカは思わず、今日もマナガが持ち歩いている大きな銀色のトランクに、視線を向けた。莫迦デカい単身楽団《ワンマン・オーケストラ》をぶら下げているくせに、オゾネ・クデンダルの芸術を見たことがないのか、この男は。
そう。オゾネの演奏する神曲は、単に精霊と交感するためだけの手段ではなかった。それは音楽としても一級品の芸術だったのである。近年では回数も減ったが、まだ若いころには年に何度もコンサート・ツアーが企画されたものだ。
それを、神曲楽士であるはずのマナガが、見たことがない?
いや、まあ楽士警官など、そんなものかも知れないが。
「そりゃ勿体《もったい》ない。ああ、そうだ。今回の国葬のために、封像盤《ふうぞうばん》を用意してますので、その中から適当なのを見繕って差し上げますよ」
「いいんですか? そりゃあ、ありがたい」
実はですねえ……、と続けようとするマナガを、
「ところで」
しかしコヅカは遮った。
「今日は、どんなご用件で?」
長々と相手をしているつもりは、毛頭ない。
いくら嗅《か》ぎまわったところで、真相が知れることはあり得ないからだ。この男が時間を無駄にするのは一向にかまわないが、こちらがそれに巻き込まれるのだけは御免だ。
「ああ、すみません」
癖の強い髪をぼりぼりと掻《か》いて、マナガ警部補が覗き込むのは事務所の混雑である。
「どっか移動しませんか? ここで話してちゃ、みなさんのご迷惑だろうし……」
「そうお思いなら、この場で速やかに用件を済ませていただけると助かるんですがね。私も、まだやることが残っていますので」
「いやあ。こりゃ失礼を」
大きな肩に太い首をすくめて、まるでイタズラを見とがめられた子供だ。それどころか、傍らの小さな少女に救いを求めて視線を向ける始末である。
少女の方は、しかしマナガを振り返りもしなかった。俯《うつむ》き加減で、前髪が垂れているのでコヅカからは彼女の表情が見えない。
ぞくり、とした。
まるで前髪の隙間《すきま》から、冷たい視線がこちらを見据えているように思えたのだ。
これだから精霊ってやつは……。
「実は、ニウレキナさんなんですが」
コヅカの思いにも気づかぬふうに、マナガが続ける。いくらか声をひそめているつもりなのだろうが、太い声は腹の底に響いた。
「まだ意識が戻りませんでね……」
当然だ。
「暴走、ですか」
「その可能性は、大きいです」
「それじゃあ……」
「ええ。こちらも取り調べが出来なくて、困ってるとこなんです」
おそらく、とコヅカは思う。
彼女が取り調べに応じることなど、二度と不可能だろう。
「このまま暴走状態に入ってしまったら…………」
マナガが曖昧《あいまい》に語尾をにごす、その意味はコヅカにも理解出来た。
充分以上に、だ。
「ご健闘をお祈りしますよ。あなた方も、ニウレくんにもね」
言うだけ言って、それだけですか、とコヅカは付け加えた。
「いえ。ニウレキナさんが、そんな状況なので、ちょっと先生にお知恵を拝借しようと思ったんですが……。でも、お忙しそうですから、またにします」
どうしたものか、ほんの一秒ほど考えてから、
「かまいませんよ。どうぞ」
コヅカは鷹揚になることにした。
どちらにせよ、もう警察がニウレキナから情報を得ることは出来ないのだ。ならば少しくらい、こいつらの間抜けな右往左往を覗き見してみるのも、悪くはない。
「ただの質問ならともかく、知恵をお貸しすることで捜査が進展するなら、話が違いますからね」
「そゃあ助かります。なにしろオゾネ氏と親しかった方の中で、現時点でお話をうかがえるのはコヅカ先生だけですから」
そうとも、とコヅカは腹の底でほくそえんだ。
そして俺《おれ》こそが、真犯人だ。
「お気になさらずに。で? どういったことで?」
「ええ。いえ、お屋敷の書斎の、ドアの件なんですが……」
「ほう」
「あれって、鍵《かぎ》を差し込む以外に施錠する方法は、ないもんでしょうかね」
「ありませんね」
即答だ。
「断言出来ますか?」
「ええ。五年ほど前に、オゾネ氏に屋敷のセキュリティについて相談を受けたことがあるんです。その時に、確認したと記憶してます」
「そうなんですか」
「もっとも、何か巧妙に細工すれば、話は別なんでしょうけどね。でも、そこまでは私にも判《わか》りませんよ」
「ああ、そうでしょうなあ」
ぼりぼりと頭を掻きながら、その時、コヅカはマナガの新しい顔を見たような気がした。
ふいに、目つきが鋭くなったような気がしたのである。
そう。気がした、のだ。
「でもねえ」
再び話し始めたマナガ警部補は、おなじみの困惑したような表情に戻っていた。
「そう考えると、妙なんですよ」
「何が?」
「なんで犯人は、そんなことをしたんでしょうなあ」
「刑事さん。相手は精霊ですよ」
「はい?」
「ドアはずっと施錠されたままだった。そこへ壁をすり抜けて侵入し、コトを済ませ、また壁をすり抜けて出て行った」
「ニウレキナさんが、ですか?」
きたな、とコヅカは相手の顔を見つめた。
今のマナガの表情は、やはり気のせいではなかったのだ。
これは、
「いえ、そうは言ってません」
罠だ。
「個人的意見ですが、ニウレくんは無実だと思ってます。長年、お二人の関係を見てきましたからね。しかし精霊が犯人であることには違いないでしょう」
「ええ、まあ。たしかに、そう見えます」
まだ、ねばるつもりか。
いや……違う。この男は、ニウレキナに罪を着せたがっているかどうかを確認したかっただけだ。それを否定したのだから、他に何を疑うことがあるというのか。
「精霊の犯行じゃないんですか?」
完璧《かんぺき》なはずなのだ。
射殺に用いた弾丸は発見されず、部屋も密室状態だった。精霊弾なら弾丸は残らなくて当然だし、精霊は物質をすり抜けることも出来るのだから密室からの脱出も可能だ。
これ以上、何が必要だと言うのか。
「それが判らないんですがね……」
巨漢は相棒に目配せすると、それからコヅカに視線を戻す。
「もし精霊が、壁のすり抜けで出入りしたんだとしたら、どうやって銃を持ち込んで、犯行後また持ち出したんでしょう」
「銃?」
「ええ。精霊弾を発射するための銃です」
思わず、あっ、と声をあげてしまうところだった。
ようやく、コヅカも理解したのだ。
なんてこった。
舌打ちしたい気分だった。
たしかに、マナガの言うとおりだった。精霊弾を発射するには銃が必要だが、しかし銃は精霊とは違い、壁をすり抜けるわけではないのである。
「でもマナガさん、離れた場所に物体を瞬間移動させられる精霊もいると聞きますよ」
「知ってます。でも、だとしたら今度は、殺害方法が引っかかるんです」
「なぜ」
「だって、そうでしょう? そんな能力を持ってるんだったら、なぜわざわざ精霊弾なんか使ったんでしょう? 瞬間移動で被害者の内臓でも血液でも、躯《からだ》の外へ取り出しちまえば銃なんか必要ないんです」
なんてこった。この男は、
「そんなことが気になるんですか?」
「ええ。説明がつきませんしねえ」
「じゃあ、こういうのはどうです? 銃を持って部屋を出てから、力の弱い精霊雷でカギをかけた。弱い精霊雷なら、細かな作業も可能でしょう」
「それでも同じです。それほどデリケートに精霊雷を操れる精霊なら、強い精霊雷を被害者だけに叩《たた》きつけることも出来るはずです。精霊弾なんか使う必要もない」
コヅカは、ようやく認める気になった。
これは大きなミスだ。そして目の前のこの巨漢は、そのミスに気づいてしまったのだ。
だが、まだだ。
奴《やつ》はまだ、確信などしていない。
「それなら説明がつくじゃないですか」
コヅカの言葉に、マナガの困惑の表情が途端に笑みになる。親指ほどもありそうな歯が、あいかわらず噛《か》みつかれそうだ。
「そうなんですか!?」
「犯罪者の心理状態を考えれば、簡単なことですよ」
「ほう」
「まず、書斎のドアは最初、開いていた。おそらくオゾネ氏は、所用で部屋を出ておられたんでしょう。その間に精霊が侵入し、戻って来たオゾネ氏と鉢合わせになった。精霊はあわてて、精霊弾でオゾネ氏を射殺した」
「ドアは?」
「犯人が閉じたんですよ。少しでも発見を遅らせようとして、まず銃を部屋の外へ出し、書斎の中から施錠して、自分は精霊の能力で外へ出る」
「少しでも発見を遅らせようとして?」
「ええ」
マナガは腕組みだ。片方の手で無精髭《ひげ》だらけの顎《あご》を撫《な》でる。じょりじょりという音が聞えてきそうだ。
「でも、あの書斎の鍵は、毎朝ニウレさんが開けてらっしゃるんです。つまり密室状態だったのは事実ですが、ちっとも発見を遅らせてなんかいないんです」
「そんなこと、犯人が知るはずないじゃないですか」
みろ! 綺麗《きれい》に説明がついたぞ!
思惑どおり、マナガの小さな目が、めいっぱいに大きく見開かれる。
「あ、なるほど」
ようやく、納得したらしい。
「そりゃそうだ。ええ、スジは通りますね」
単純にも、感心しきった顔でしきりにうなずいているではないか。
その顔が、ふいに笑みになる。
「いや、先生に相談してみて、やっぱり正解でした。これで、すっきりです」
「お役に立てて何よりです。では、仕事に戻ってかまいませんか」
「ええ、どうぞどうぞ。どうもお邪魔しました」
では、とコヅカは背を向ける。
その背中に、
「これでニウレキナさんの容疑も晴れましたしね」
マナガの声が叩きつけられた。
「え?」
思わず立ち止まり、コヅカは振り返る。
「ニウレくんの容疑が?」
しまった。
そうか。
そうだ!
コヅカの立てた説を採用するなら、犯人はニウレキナ以外の精霊ということになってしまう!!
マナガは満面の笑みで手を挙げると、
「じゃあ」
背を向けた。
駄目だ。
まだ行かせるわけにはいかない!
「マナガさん!」
今度はコヅカが呼び止める番だ。
「はい」
「本当は密室じゃなかった、という可能性もありますよ」
「は?」
巨漢は振り返ると、きょとん、と首をかしげる。
そして少し考えて、ああ、と手を打った。
「なるほど。考えてみます」
そしてマナガ警部補とマティア警部は、今度こそ本当に背中を向け、それきり振り返らなかった。
危ないところだった。
たしかにあの男の言うとおりなのだ。
あのドアは、たしかに余計だった。打てる手を全て打ったつもりで、それはしかし余計な一手だったのである。
だが、
まだだ。
奴は何も掴んじゃいない。それどころか、こちらの思惑どおり、まだ犯人は精霊という前提に立って考えているのだ。
そうだ……。
今のだって、犯人が精霊であると考えるからこそ生じた矛盾なのだ。そして奴は、その矛盾を解消したくてたまらなかったのだ。
デスクに戻ったコヅカ弁護士は、椅子《いす》に背をあずけて、溜《た》め息《いき》をついた。
今度は、安堵《あんど》の溜め息だった。
矛盾は解消した。
コヅカが解消してやったのだ。
そしてマナガの疑問も消えた。
オゾネ・クデンダルの葬儀まで、あと四日である。
2
第三神曲公社の建物は、円筒形の六層構造である。
最も平らな円筒を最外周に、内側になるほど高い円筒がそびえ、中央の円筒は一七階建てとなっている。
アレッツァの奏世《そうせい》神殿を模したと言われるその形状は、しかし一般には『ウェディング・ケーキ』と呼ばれていた。
マナガとマティアが歩くのは、その最も外周の廊下である。第四層めの大会議室を出て、中央の円筒から放射状に延びる直線の廊下で第三と第二の二つの層を突き抜けてから、外周に沿って正面玄関ロビーへと向かっているところだ。
無論、これで仕事が済んだわけではない。
だが、
「これからどうする?」
マティアの言葉は、二人の置かれた状況を端的に表していた。
「そうだなあ……」
すなわち、行き詰まり、である。
関係者、と呼べる人間が、極端に少ないのだ。
無論、被害者と少しでも関連のあった人物を片っ端から調べ上げるのも、一つの手順である。しかしその場合、当然それなりの時間と手間が消費される。
そしてニウレキナ・ウク・シェラリエーテには、その『時間』が、もう残されていないかも知れないのだ。
すぐにも調律を開始する必要がある。
だが精霊法が、それを阻むのだ。
実際のところ、精霊法については不明な点が多い。その最たるものが、いつ誰《だれ》の手によって定められたのか、という点だ。
ある日、人間の為政者《いせいしゃ》のもとに、精霊達の手によって持ち込まれたのである。
当初はその実効性を疑問視する声もあった。これは無理からぬ話で、そもそも精霊と呼ばれる存在じたい、人間のような社会を持っているかどうかも不明なのだ。
『精霊王』と呼ばれる絶対的な権力の存在も、単にそのような風説がある、というだけのことだったからだ。
すなわち、規律や罰則が規定されたとしても、彼らがそれに従う保証などどこにもなかったのである。
しかし人間としては、それを受け入れざるを得なかった。精霊が人間の社会に存在する以上、それを括《くく》る法が必要であることは明白である一方、非力な人間が精霊に対する強制力を持つことなど不可能に近いと思われたからだ。
しかし驚くべきことに、精霊法が施行されると同時に、精霊達はこれに従った。
現在では人間のために刑法と民法が、そして精霊のために精霊法がある。
刑法にかかる犯罪に関与したと思われる精霊は、ただちに拘束される。以降の審判は人間に対するものと同じだが、精霊の場合は嫌疑が完全に晴れるまで、解放されることは絶対にない。精霊達が自ら制定した法が、そのように定めているのである。
そしてニウレキナは、拘束された。
今は、市警の地下留置施設にいる。
暴走の始まる瞬間を待ちながら……。
「とりあえず、署に戻ってみるか」
「それしかない、よね」
ゆったりと湾曲した廊下は、やがて広大な空間へと続いていた。
玄関ホールである。
ちょっとした体育館ほどの広さがあり、天井は三階までの吹き抜けである。中央にそびえる高さ六メートルの銅像は、四つの楽器を持つ八本の腕と四つの顔、さらに八枚の羽根を広げた神像だ。奏世神である。
像を囲むように円形のベンチが置かれ、はるか左右の壁には奏世神話をモチーフにしたレリーフが、さらに天井からは四つの奏世楽器を模した巨大な照明が吊《つ》り下《さ》げられていた。
いずれも、神曲公社のシンボルだ。
神曲公社は、国内に三万人とも五万人とも言われる神曲楽士達を、総括的に管理する。
楽士の中には、少数ではあるが天体の運行にさえ干渉し得る強大な精霊と契約を結ぶ者もおり、それらを特異例としても神曲楽士や精霊の存在なくしては立ち行かない産業も少なくない。
このため、楽士や精霊を商業的に利用する際の価格統制や需給管理、ひいては治安の維持や国家間の武力の均衡といった問題までを監視する意味合いも含めて、政府は直轄組織として神曲公社を置いている。無論、神曲楽士ならびにその契約精霊を管理し、確保するためだ。
歴史的な経緯から管轄が微妙に異なる複数の神曲公社が存在し、場合によっては公社間の軋轢《あつれき》もあると言われているが、ともあれ神曲公社は神曲楽士を管理する一方で、神曲楽士に対して物的な、あるいは情報面でのサポートを行う、言わば統制機関なのである。
玄関正面は、巨大なガラス張りだ。
その向こうには片側三車線の大通りと、建ち並ぶビルが見える。
だが出入り口そのものは横長の自動ドアと、その両脇《りょうわき》の回転ドアだけだ。
だからマナガは、入ってきた二人連れに声をかけることが出来た。
「ああ、失礼」
同じ自動ドアを、マナガとマティアは出ようとし、相手は入ろうとしていた。その擦れ違いざまに、大柄な刑事は声をかけたのである。
「ひょっとして、中央公社の方ですよね?」
腹の底に響くマナガの声に、振り返った二人の男は、どちらも白髪である。ともに、もう五年もすれば『老人』と呼ばれるに相応《ふさわ》しい年齢になるだろう。
二人とも、紺のケープをマントのように羽織っていた。
それぞれの公社によって細かいデザインこそ異なるものの、そのケープは神曲公社に共通の制服である。
「そうだが、キミは?」
「ああ、失礼」
言いながらマナガはポケットを探る。先に手帳を見せたのは、マティアの方だ。
「警察かね」
ようやくマナガも、手帳を提示した。
「はい、ルシャゼリウス市警察、精霊課です」
「精霊課?」
ふん、と胡散臭《うさんくさ》げに鼻を鳴らすのは、マナガに近い方の男だ。もう一人の男は、懐中時計を取り出して時間を確認している。
「で? 何の用かね」
「こちらへは、オゾネ先生の葬儀の件で?」
だが相手は、質問で応《こた》えた。
「これは任意かね? それとも強制かね?」
「いやあ、任意ですよ、無論」
「では失礼する。質問は書面で、中央公社資料室のクロトまで提出してくれたまえ」
「はあ」
それきり、二つのケープはあっさりと背を向け、真《ま》っ直《す》ぐ壁際の受付に向かう。
「なにあれ、感じ悪ぅい」
マティアだ。
「ちょっとくらい、いいじゃんねえ?」
「いやあ、忙しいんだろうさ」
よほど時間が気になるようだったし、待ち合わせでもしていたのだろう。
それに、精霊課の警官が好きな神曲楽士は、そうはいない。神曲楽士にとって精霊とは、あくまでも『人間の善き隣人』なのである。
それでもぶつぶつと文句を呟《つぶや》き続けるマティアに苦笑しながら、マナガはケープの二人を目で追っていた。
「やっぱりな」
「なに?」
「見てみな」
受付嬢の動作である。
薄い緑色の制服に包まれた細い腕が、ゆるやかな曲線を描き、続いて真っ直ぐに延びる。
「ほら、な?」
中央公社から来た二人の男のうち、時間を気にしていた方が、受付嬢の動きを真似《まね》た。
「行き先は、大会議室だ」
「さっきの部屋? 国葬の準備してた……」
「そうだ」
問題は、
「でもさっき、公社資料室、って言ってたよ?」
「言ってたな」
「なんでお葬式の準備に、資料室の人が来るのさ」
そう。
それが問題なのだ。
「マティア。レオナルド・バーガーに行くぞ」
「うっそ! 嬉《うれ》しい! でも、なんで?」
「弁当だよ」
マナガが笑うと、噛《か》みつかれそうなくらいに巨大な歯が並ぶ。
「ちょいと遠出するからな」
3
帝都メイナードの周囲には、一定の距離を置いて、複数の衛星都市が配置されている。
将都である。
はるか高みから見下ろせば、ほぼ円形の巨大な帝都と、その周囲の将都がそれぞれ道路で連結され、さながら巨大な観覧車のように見えるだろう。
ルシャゼリウス市のあるトルバスは、そんな将都の一つである。
ポリフォニカ大陸の南端に位置し、四季の変化はあるが基本的に気候は温暖で、年に約二週間のイテルク風の時期を除けば雪が降ることも珍しい。
北側にはソルテム山、南側をアロニア海に挟まれたトルバスは、人口二○○万を超える大都市なのである。
だが。
全長二キロのトンネルでソルテム山を抜けて北上すると、様相は一変する。
一直線に延びる国道の両側には、荒涼たる荒れ地が広がるのだ。
禁制地帯と呼ばれる、それは先の戦争の名残《なごり》である。
ここだけではない。中央の帝都とその周囲の将都、それ以外はポリフォニカ大陸の半分ほどが、似たような荒れ地なのだ。すなわち、土と、砂と、岩と、そしてわずかばかりの灌木《かんぼく》だ。
マナガはハンドルを握ったまま、ハンバーガーに齧《かじ》りつく。
助手席ではマティアが、コーラのストローをすすりながら、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
延々と続く一直線の道路には、マナガの運転する四駆車の他は、走る車の姿がない。早朝と深夜、輸送トラックが行き来する以外に、この道路を利用する者はほとんどないのだ。
これが、とマナガは思う。
精霊の『力』と人間の『心』が産み出すものの、一つの方向だ。
オゾネ・クデンダルのように神曲を芸術として扱う人間もいる一方で、そこから得られる『力』をもって敵対者を叩《たた》き潰《つぶ》そうとする者もいる。
精霊の『力』がなければ、この光景は、なかった。
そして人間の『心』がなければ、この光景は、なかった。
どちらのせい、というわけでもない。
そして同時に、どちらのせいでもある。
だからこそ、マナガはマティアと組み、マティアはマナガと組むのだ。
「あと、どのくらい?」
バックミラーに『ようこそトルバスへ』という看板が遠ざかるのを見送ってから、もう四時間ほどにもなる。
「あと一時間、かな。飛ばせば三○分てとこだ」
「飛ばしてよ」
「そうだな」
マナガはアクセルを踏み込んだ。
「飛ばそう」
帝将連絡道路の速度制限は、最低時速の表示しかない。
やがてマティアが助手席でうとうとし始めたころ、
「おい」
黒い四駆車は、メイナード南端のディワクス市に入った。
「うわあ」
窓に貼《は》り付《つ》いて、マティアが声をあげる。
トルバスが大都市ならば、帝都メイナードはさながら未来都市である。
主要道路は地上のみならず、架橋によって空中でも幾重にも交差し、まるで血管のように街中に伸びている。そしてその隙間《すきま》を縫うように、最低でも三○階を超えるようなビルが林立しているのだ。
無論これも、戦後の姿である。
大戦中のメイナードは要塞《ようさい》都市であり、低く堅牢《けんろう》な建物が現在のグンズやアルムズあたりまで広がっていたという。無論その周囲は、分厚く高い防壁だ。
今でもその防壁は、部分的にではあるが、都市のあちこちで見ることが出来る。歴史遺産として、そして観光資源として保存されているのである。
人口は八千万。トルバスの三倍の面積しかない街に、約四○倍の人々がひしめきあっていることになる。
まさに、
「すごい」
マティアの言うとおりだ。
「初めてだったか?」
「うん」
「そうか」
マナガは、高速道路に車を乗り入れる。
「仕事じゃなくて旅行で連れて来てやりゃよかったかな」
「ううん。こんなとこ遊びで来たら、どうしたらいいか判《わか》んなくてパニクっちゃうよ」
そうかも知れない。
それでなくても、彼女は遊ぶのがヘタなのだ。
しかし、だからこそ彼女は今、警部という地位にいるとも言える。仕事以外の生活をほとんど知らず、そのおかげで次々と功績を上げ、ついに将警は彼女を警部以下の地位でいさせることが出来なくなってしまったのだ。
しかも、半《なか》ば強制的に受けさせられた昇進試験にも次々と合格してしまっては、周囲の人間も異を唱えることが出来なかったのである。
「あ、あれ?」
もっとも本人は、呑気《のんき》なものだ。
まるでクリマナ祭の朝、枕元《まくらもと》にプレゼントを発見した子供みたいな笑顔で、前方を指差す。ゆったりとカーブした高速道路の前方に、ビルの影から巨大な『ウェディング・ケーキ』が姿を現し始めていたのだ。
トルバスの公社ビルの、五倍はあるだろうか。無論、高さも広さもだ。
「そうだ、あれだ」
道路の分岐に四駆車の巨体を滑り込ませると、行く先はそのまま建物の中へと繋《つな》がっていた。
中央神曲公社の、駐車場である。
駐車スペースに四駆車を停《と》めてから、見渡す限り車の列が続く広大な駐車場を徒歩で横切る間、マティアは目を見開いて周囲を見回し、うわあ、うわあと声をあげる。
だがエレベーター・ホールに着いた途端、彼女は口を閉じてしまった。
他にも、人がいたからだ。
エレベーターで一階に降りて、第三神曲公社のそれを三倍ほどに巨大化したようなホールで受付を済ませる。
当然、アポイントはない。
しかも、一般受付の閉まる寸前に滑り込んだのだ。
資料課の職員はすでに退社した後だったが、それでも広報課の人間を捕まえることに成功したのは幸運だった。無論、山ほどの書類に細々と記入させられることになったとしても、だ。
マティアはその間、他人の視線を避けるように俯《うつむ》いたまま、一言も喋《しゃべ》らなかった。
通されたのは、第六層一階の応接室である。建物の規模に対していささか手狭なのは、あまり歓迎されていない証拠だろう。
ともあれ五分ほど待たされて、マナガとマティアは広報課の人間に会うことが出来た。
「中央神曲公社、広報課のミトシ・トイヤックです」
スーツもぱりぱりの、若い男だった。茶色っぽい髪は綺麗《きれい》に七:三に分けられ、首筋も刈り上げている。ミトシは名刺を二枚、差し出し、二人の刑事は警察手帳を提示した。
途端にミトシは、心底から恐縮した顔になる。
「トルバスから、わざわざ? お電話でも丁寧にご対応いたしますのに」
芝居のようには見えなかった。どうやら、芯《しん》から底《そこ》からの善人なのだろう。
「いやあ、仕事ですからね。ちゃんと相手にお会いするのが、私らのやり方なもんで」
「それで?」
テーブルを挟んだ三人が向き合って座ると、ミトシの方から口を開いた。
「どんなご用件でしょう?」
「オゾネ先生の件なんですがね」
ああ、とミトシは眉《まゆ》を寄せる。
「残念などという言葉では足りないくらいに残念です。世界の損失です」
「ええ、まあ」
「ひょっとして、あの事件を担当なさってらっしゃる?」
「ええ」
「必ず犯人を捕まえて、しかるべき制裁を与えてくださいね」
制裁するのは俺《おれ》の仕事じゃない……と言いかけて、やめておいた。
「ともかく、それでお訊《き》きしたいことがありましてね」
「どうぞ! どうぞどうぞ! 何でもお訊《たず》ねください! 全面的にご協力しますから!」
その勢いに、はあ、と生返事をしてから、マナガは続ける。隣のマティアは、いつも以上に小さくなってしまったようだ。
「オゾネ先生の、その、遺産と言うか、身の回りの物品の件なんですがね」
「ええ。あの方は、コレクターとしても有名でしたからね」
「コレクター……」
「ええ。公社直営の博物館にも、何点か寄贈していただいておりますよ。単身楽団《ワンマン・オーケストラ》の最初期モデルやドボルザークの単身楽団などは、特に人気の展示です」
「ほう」
「噂《うわさ》ではダンテ・イブハンブラの楽譜さえお持ちであるとも言われておりますが、なにしろダンテその人じたいが実在を疑問視されている楽士ですので、そもそも我々は……」
放《ほう》っておけば、いくらでも喋り続けそうだ。
「それでですねえ」
相手が息継ぎをした瞬間を見計らって、マナガは口を挟む。
「お訊きしたいのはコレクションの内容じゃなくて、管理についてなんですよ」
「はい。どのようなことでしょう?」
「金銭的な相続については、まあ私の口からは言えませんが、きちんと扱いが決まってます。でもコレクションはどうなるんでしょうねえ。やはり、しかるべき機関で保存すべきじゃないかと思うんですよ、例えば博物館とか、あるいは……」
「公社とか?」
「ええ」
「では、ご存知ない?」
「書類で確認出来ること以外は」
「そうですか」
言ってから、ミトシは背筋を伸ばし、得意気に口を開いた。
「オゾネ先生のコレクションは、私ども中央神曲公社の管理下に移されることになっています。無論、メイナード神曲博物館での公開も含めて、です」
「ほう。それは生前からの取り決めで?」
「ええ。あくまで口頭によるものでしたが、実効力はあります」
「承知してます」
公的な証人がいれば、の話だが、その点に問題はないだろう。あるいはちょっとした民事訴訟が起こされる可能性もあるが、それは精霊課の管轄ではない。
「じゃあ、全てがこちらに移されるわけですか?」
「と、おっしゃいますと?」
「いえ。あのお屋敷の中の全てを、かなあと思いましてね」
「いえいえ、まさか。そうではありません」
マティアの視線が、動く。
前髪の隙間から、目の前の男の顔を、見据えたのだ。
そのことを、マナガは敏感に感じ取っていた。
「当然、後世に残すべきもの、その価値のあるものだけです」
「その選別を行うべき人物を、オゾネ氏は指名されましたか?」
「ええ、もちろん」
「どなたです?」
「契約精霊の、ニウレキナ・ウク・シェラリエーテさんです」
またか。
マナガは落胆した。いつも、そこで行き詰まるのだ。
だが、その大きな肩が落ちる前に、
「ただしニウレキナさんが何らかの事情で選別を行えない場合は……」
若き広報員は、続けた。
「顧問弁護士の方が担当なさることになっています」
「顧問弁護士……」
「はい。コヅカ・ケイズニー氏です」
マティアの呟《つぶや》きは、マナガの耳にだけ届いた。
少女は、こう言ったのだ。
繋《つな》がった、と。
4
往路に四時間半かかれば、復路にも四時間半かかる。
トルバスに戻った時にはすっかり陽《ひ》が暮れていて、ルシャゼリウス市警の駐車場に滑り込む四駆車の助手席で、マティアは眠りこけていた。
車を降りたマナガは、右手にトランクを下げ、左腕で彼女を抱き上げる。胸の前で曲げた太い腕に少女を座らせ、肩に顔をもたれさせる格好だ。
途端にケープのアーム・スリットから細い腕が伸びてきて、マナガの太い首を抱く。
「おい。起きてんなら、降りろよ」
返事はない。
代わりに聞えるのは、寝息である。だからマナガの溜《た》め息《いき》は、苦笑混じりだ。
少女を抱き上げたままの彼が受付の前を通ると、カウンターの奥で夜勤の婦警が、唇に人差し指をあてて肩をすくめて見せた。
よせやい。
マナガとマティアの部屋は、二階の奥にある。少女を起こさないようにこっそりと階段を上がり、こっそりと廊下を歩く。仮眠室に行く前に、目を通しておくべき資料を取ってくるためだ。
マティアを仮眠室に一人で残したくなかったのである。
だが、
「ありがと」
部屋に着くなり、彼女は自分でマナガの腕から滑り降りた。
ぱちん、と照明を点《つ》けて、目を瞬《またた》くのは眩《まぶ》しかったのだろう。
「資料、取りに来ただけなんだけどな」
「いいよ。暗いとこで読んだら、目ぇ悪くなっちゃうよ」
眠っているマティアの横で資料に目を通すつもりだったことを、彼女は理解しているようだ。
「いや、俺は……」
「いいから。車でもほとんど寝てたから、もうすっきりだよ」
ケープを脱いでハンガーにかけ、ぱたぱたと自分のデスクに着いてしまう。
「そうか」
「せっかく、つながったんだもん。ちょっと整理して考えてみようよ」
「そうだな」
要するに、これが二人の階級差の理由、というわけだ。
マナガはデスクを回り込んで、巨大な椅子《いす》に腰を下ろす。ドアがノックされたのは、ちょうどその時だった。
「どうぞ」
顔を覗《のぞ》かせるのは、
「お邪魔じゃないかしら?」
クスノメ・マニエティカ、さっき受付にいた婦人警官である。決して美人ではないが、愛嬌《あいきょう》のある笑顔で署内のちょっとした人気者だ。
それでもマティアの顔からは、笑みが消える。クスノメ巡査が気分を害した様子を見せないのは、署の誰《だれ》もがマティアの『性格』をよく知っているからだ。
「なにか?」
マナガの問いに、クスノメ巡査は戸口から覗き込んだ格好のまま、紙袋を見せる。おなじみの、ファストフード店のものだ。
「私、これでアガリなんですけど、交替のフレニタが買ってきてくれたんです。でも私は、これから旦那《だんな》と外食だから……」
つまりは、差し入れというわけだ。
「一人分しかないんですけど、食べていただけません?」
その途端、ぐう、と鳴ったのはマティアのお腹《なか》である。見ると、顔を真《ま》っ赤《か》にして俯いてしまっている。マナガは苦笑して、席を立った。
「もらうよ。ありがとう」
「いえ、こっちも助かりました」
言って、顔を引っ込めようとする婦人警官に、
「ありがとうございます」
ぽそぽそと、小さな声でマティアが言う。
「どういたしまして」
去り際のクスノメ巡査の笑顔に、マナガは彼女が人気者である理由を理解した。
「ほいよ」
おなじみレオナルド・バーガーの袋を受け取って、
「ごめんね」
マティアは肩をすくめる。
「あたし、もっとちゃんとしないと駄目だ」
「まあ、焦らずやんな」
「うん」
ごそごそと取り出したハンバーガーからは、まだ湯気がたっている。紙コップの方は当然、コーラである。無論、紙コップにはクロスワード・パズル付きだ。
「マグカップ、ゲットか?」
「ううん。これ、こないだやったのと同じ問題だ」
なるほど、そういう仕組みなのか。
「ナンバー6だもん。ほら。横のカギのヒントAが、神曲『禿《は》げ山《やま》の一夜』でソルテムの闘いを勝利に導いた神曲楽士。この問題、憶《おぼ》えてる」
「誰だっけ?」
「ムソルグスキー」
「ああ」
「ああ、って、知ってるの?」
「知ってるさ」
「じゃ他の代表作は?」
「んー……、『悲壮《ひそう》』とか……」
「それチャイコフスキー」
「ああ」
「ああ、って……」
くすくすと笑う。それから少女は、ストローでコーラを一口、飲んだ。
からり、と小さな音がする。
「あ、嬉《うれ》しい。まだ氷、溶けてない」
なに?
「おい」
「ん?」
「今、何てった?」
「え?」
「氷?」
「うん、氷」
まて。
まてよ……。
おい! まてよ!?
突然の電話のベルに、マナガの思索は中断させられ、マティアは跳び上がって紙コップの底に残ったクラッシュ・アイスを撒《ま》き散《ち》らしそうになった。
マナガのデスクの、内線電話である。
「はい、精霊課、マナガ」
受話器を引ったくり、自分でも驚くほどの早口で応《こた》える。
留置施設からだった。
受話器の向こうから、身の毛もよだつような絶叫が聞えてきた。マティアが呆然《ぼうぜん》とこちらを見ているのは、彼女にもその声が届いているからだ。
こんちくしょう。
ついに始まりやがった!
「判《わか》った! すぐ行く!」
叩《たた》きつけるように受話器を戻すなり、暗い廊下に飛び出す。
「そこにいろ!」
叫ぶ相手は、まだ呆然としているマティアだ。
二メートルを超える大股《おおまた》で、マナガは廊下を駆け抜け、突き当たりの階段を四段ごとに駆け降りてゆく。向かう先は署内の地下、射撃訓練場のさらに下にある留置施設である。
精霊の拘束は、各警察署の留置施設か、精霊拘置所で行われる。
将都トルバスの拘置所は、ルシャゼリウス市から東へ八○キロ、リチアル郊外にある。だがニウレキナの場合、精霊法に従って拘束されてはいるが、人間で言えばまだ重要参考人のレベルである。そのため、署内の留置施設に留め置かれることになったのだ。
マナガが部屋で受けた内線電話は、その留置施設からだった。
地下二階である。
階段から廊下に出ると、すぐに行く手を鉄格子に阻まれる。格子の一本一本に、複雑に入り組む角張った文字が、無数に刻み込まれていた。
精霊文字だ。
特定の文字の組み合わせによって精霊の持つ『力』を無効化する、それが唯一の方法なのである。
「ワディエ!」
鉄格子の奥から駆け寄って来る小太りの男は、ワディエケーニ・エッツ・ホラディアスカイだ。留置施設担当の、精霊警官である。
「ああ、助かったよマナガ」
キーを山ほどぶら下げたキー・リングを制服のベルトから外して、格子戸を開ける。
「いやもう、ひでぇもんだ。聞えるか?」
「ああ、聞えるよ」
それも、ずっと前から。
廊下の突き当たりのドアを開けて、階段を駆け降り始めた時から、聞えていたのだ。
絶叫である。
「暴走か?」
「ああ、そうだ。つい五分ほど前に、いきなりだ」
マナガを招き入れて格子を施錠しなおすワディエケーニを置き去りに、マナガは長い廊下を歩きだした。
右側は壁、左側には鉄格子のはまった個室が並んでいる。どれも、無人だ。
署内の留置施設が利用されることは、あまり多くない。たいていの精霊犯罪は迷宮入りするか、あるいは逮捕の時点ですでに容疑が明確なため、ただちに精霊拘置所送りとなるからだ。
この留置施設が埋まるのは、せいぜい精霊祭の夜くらいだ。精霊酒を飲み過ぎて酔っぱらった連中を、酔いが醒《さ》めて深酒を後悔出来るようになるまで泊まらせるのである。
だから、いつもは閑散としている。
その地下留置施設に、絶叫が轟《とどろ》きわたっているのだ。
「マナガ!」
追って来ようとするワディエケーニを、マナガは手で制してから、さらに進んだ。
突き当たりだ。
最奥の個室から、閃光《せんこう》が漏れている。周囲の壁も床も天井も、断続的な照り返しを受けているのだ。
稲妻だ、とマナガは思う。
金色の。
鉄格子の正面に立ったマナガは、
「むう」
思わず、呻《うめ》いた。
無残な光景だった。
剥《む》き出《だ》しのコンクリートの部屋の、その真ん中に、ニウレキナがいる。
浮いているのだ。
四肢を突っ張り、美しい顔をのけ反らせて、空中に浮いたまま痙攣《けいれん》している。絶え間ない絶叫は、開いたままの彼女の口からほとばしり続けているのだ。
全裸である。
金色に輝く裸体だ。
足元には、ずたずたに引き裂かれ焼け焦げた衣服が、まだ白い煙をあげている。文字どおりの輝く裸身からは、何十本もの光のリボンが伸びて、床を、天井を、壁面を、鉄格子を撫でまわす。そのたびに、刻まれた精霊文字が『力』と干渉し、青白い火花と電光を散らしていた。
暴走だ。
「なんてこった……」
こうなったら、もう止めることは出来ない。
このまま少しずつ身を削り、やがては『死』を迎えることになる。
「気の毒になあ……」
マナガの制止を無視して、いつの間にか隣にワディエケーニが立っていた。
「どうにかならないのか」
唸るようなマナガの言葉に、精霊警官は首を振った。
「とりあえず、手空きの楽士警官が何人か、こっちへ向かってる。楽士派遣や学院にも、公社の方から連絡させてるところだ」
片っ端から、可能な限りの神曲をぶつけてみる、ということだ。
精霊法の定めるところによって、犯罪の容疑者となった精霊には、神曲を得ることは許されていない。しかしその『存在』が危機に瀕した場合……すなわち精霊の『死』によって捜査に支障をきたすと判断された場合に限り、例外が認められるのである。
「望み薄だがな」
ワディエケーニが呟くのを、しかしマナガは咎《とが》めなかった。
同感だからだ。
彼女の前に、やがて入れ代わり立ち代わり、神曲楽士が現れて演奏を開始することになる。運がよければ、その中にいくらか波長の合う楽士がいて、正常な意識を取り戻すことは出来るだろう。もっと運がよければ、その状況下で調律を開始することも出来るかも知れない。さらに運がよければ、『死』の前に調律を完了することは不可能ではないだろう。
だが、そこまでの幸運を、人は『幸運』とは呼ばない。
『奇跡』だ。
「マナガ……」
巨漢は、ただうなずいた。
絶叫に背中を叩かれながら廊下を戻ると、閉ざされた鉄格子の向こうに、小さな人影があった。
マティアだ。
その澄んだ目は見開かれ、唇を結んでいる。
躯《からだ》の脇《わき》で、小さな拳《こぶし》が震えていた。
怯《おび》えているのではないことは、マナガには一目で判った。
それは、怒りだった。
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第四章 限られた時間
1
ジオロナ通りは、別名『法曹通り』とも呼ばれる。
裁判所にほど近く、ありとあらゆる法曹関係の事務所が集中しているからだ。
対面通行の細い道路の両側は、全て四階建て以上のビルである。その大半は雑居ビルで、上から下まで個人経営の法律事務所が詰まっているのだ。
コヅカ・ケイズニー法律事務所も、そんな中の一つである。
ただし、規模は大きい。
ジオロナ通りのど真ん中に建つ、ひときわ大きなビルの最上階を、占領しているのだ。
エレベーターは、地下駐車場から直通だ。しかもドアが開くと、そこはもう事務所の受付の中なのである。
まるで見知らぬ異国の地に放《ほう》りだされたみたいに、
「ええと……」
マナガはきょろきょろと見回した。
やたらと広く感じるのは、彼とマティア以外に客がいないせいだけではない。質素で、清潔で、ここに比べれば警察の受付などゴミタメみたいなものだ。
目の前に、やたらと背の高いカウンターがある。マティアの身長では、跳び上がっても中を覗《のぞ》き込《こ》むことは出来ないだろう。
カウンターの奥には事務机がいくつか並んでいたが、誰《だれ》も座ってはいなかった。
「あ、恐れ入ります」
そう言って、カウンターの脇の廊下から姿を現したのは、一人の女性だった。
「恐れ入りますが、本日の業務は終了しております」
まだ若い。
長い黒髪を後ろにまとめ、スーツの色も地味だったが、それでも艶《つや》やかな頬《ほお》がはちきれんばかりの生命力を隠しきれずにいた。
「ああ。あのですね」
マナガはカウンターごしに、警察手帳を提示して見せる。
「ルシャ市警の者です。精霊課の……」
言いながら、マナガは銀色のトランクを下ろして、マティアの腰を抱える。カウンターごしに顔が見えるまで抱き上げてやると、彼女は、いささかむっとした表情で手帳を提示した。
「コヅカ先生、いらっしゃるかな?」
言いながらマティアを床に下ろすと、小さな相棒の躯《からだ》はカウンターに隠れて、相手からは見えなくなってしまう。マナガは向《む》こう脛《ずね》を、ぽこん、と蹴《け》られた。
相手の女性は、呆気《あっけ》にとられたような表情を見せてから、我に返ったようだ。
「あ、ああ、はい。あの、いえ、コヅカは外出中で、間もなく戻ると思いますが……」
言いながら、彼女は壁の時計に視線を投げる。
午後八時を過ぎようとしていた。
「ひょっとして、例の国葬の?」
「ええ、はい」
「待たせてもらって、かまいませんか?」
「それは……」
言いよどむのは、瞬間の迷いだろう。
これが依頼者やコヅカの顔見知りであったなら、その対応はマニュアル化されていたに違いない。おそらく、コヅカの不在に警察官が、それも名指しでやって来ることなど想定していなかったのだろう。
つまり、コヅカでさえ、である。
「お邪魔ですか? だったら外で待ってますが」
「あ、いえ」
あるいは、こんな巨漢に事務所の前でうろうろされては敵《かな》わない、と思ったのかも知れない。彼女はカウンターから出てくると、右手を差し伸べてきた。
「ヤガワ・ソルジーナです」
握手を交わしてから、二人を奥へと招き入れようとするソルジーナに、
「ああ、お嬢さんだったら、お判りになるかなあ」
マナガは呼び止めるように声をかけた。
「はい?」
「こういう事務所って、けっこう維持が大変なんじゃないですか?」
「ええ、まあ。そう思いますけど……」
「どのくらい、かかるんでしょうねえ」
「さあ、私からは何とも……」
マナガは、ぼりぼりと髪を掻《か》く。無精髭《ひげ》の浮いた頬には、苦笑である。
「いえね、仕事仲間が退職して、私立探偵やるって言うんですよ。ところがこいつが、一点豪華主義でしてねえ。とにかく、事務所だけは立派にしたい、てわけで」
「……はあ」
きょとん、と見上げるソルジーナの眉《まゆ》も、寄り気味である。もっとも、こちらは困惑の表情だ。
「それでですね、今この事務所を拝見して、ここの事務所で月に幾らくらい家賃払ってらっしゃるのか言ってやれば、そいつも諦《あき》めるんじゃないかと思いまして」
「あの、こちらは賃貸ではありませんが」
その言葉に、マナガは目を剥いた。
「賃貸じゃない?」
「はい」
「貸し事務所じゃないんですか?」
「ええ」
ついにソルジーナも、苦笑である。
「以前は、この通りの外れで事務所を借りていたそうですが」
だが、コヅカはこのビルの最上階を買い取ったのだ。
「それって、何年くらい前です?」
「さあ……、たしか八年か九年になると聞いてますけど」
九年。
マナガは思わず、相棒を振り返った。
少女も、真《ま》っ直《す》ぐにマナガを見上げている。
「お幾らくらいだったんでしょうなあ」
「さあ。私は存じあげておりません」
「でしょうなあ。あの先生、そんなことを、ぺらぺら喋《しゃべ》る人には見えませんからねえ」
ええ、と微笑《ほほえ》むヤガワ・ソルジーナは、どこか誇らしげである。
おそらく、彼のもとで修行中なのだろう。たしかに、オゾネ・クデンダルの顧問弁護士のもとで修行を積んだとなれば、独立してからもいっそう箔がつくに違いない。
カウンターの中には、事務用デスクが五つある。そのうち最奥のものは大振りで、これはコヅカ自身のものだろう。
ということは、同じようにコヅカ弁護士の下で働く人間が、あと三人はいるということになる。
やり手なのである。
いろんな意味で、だ。
「戻りました」
ふいにそう言うソルジーナにマナガが振り返ると、エレベーターが、ちん、と音をたてる。
出てきたのは、
「おやぁ?」
コヅカ・ケイズニーだ。
「マナガさん。どうしたんですか?」
言いながらも、二人の刑事の前を素通りして、カウンターの奥へと入ってゆく。案の定、彼がブリーフケースを置いたのは、最奥のデスクだった。
「いやあ、国葬委員会の方に行ってみたら、もう事務所に戻られたと言われたもんで」
「また何か、ご質問ですか?」
言いながら、しかしその目はマナガを見てはいない。デスクの上に置かれた何枚かのメモ書きに、目を通しているのだ。
「ああ、いえ。お誘いに来たんですよ」
「ほう」
「お見せしたいものがありますんで、署までごいっしょいただけないかと」
「警察署?」
ようやく、顔を上げる。
「ええ。市警本部まで」
だが、その視線がマナガの方を見ていたのは、ほんの一瞬だった。
「ヤガワくん。午後の分の資料は入ったかね?」
「あ、はい。まとめて2番にファイルしてあります」
「保険会社からの分も?」
「それは6番です」
「明日の予定は? 相手は時刻を指定してきた?」
「いえ、まだです」
「しょうがないな。こっちから、かけてみてくれ」
「はい」
「あのお、いかがでしょうかねえ」
やっとの思いで、マナガは口を挟む。
「行き帰りはお送りしますし、お見せするものは用意してますから五分で済みます」
「申し訳ないですが」
それがコヅカの答えである。
「これから、人と会う約束があってね」
だが、そこへ口を出したのは、ソルジーナだった。
「あ、その件ですが、先ほど先方からお電話で、申し訳ないがキャンセルして欲しいと。明日の朝にでも、またご連絡いただけるそうです」
マナガが、ぱちん、と手を打つ。
「やあ、先生。これぞ天の配剤、ってやつじゃないですか」
「いや、しかし」
言いよどむコヅカに、しかしマナガは退《ひ》かなかった。
「どうぞ、お願いしますよ」
そして、
「ひょっとしたら、これで事件は解決なんですから」
「解決?」
「ええ。ですから、ぜひ先生にご覧いただきたいんですよ」
コヅカの目が、真っ直ぐにマナガを捉えていた。
カウンターと、二列に並んだ四つのデスクごしに、真正面から。
「いいでしょう」
応《こた》えて、コヅカ・ケイズニーがこちらへ歩いてくる。
「ヤガワくん、キミも電話だけ済んだら、今日は上がってくれ。戸締り、頼むね」
「はい。あ、そうだ先生」
言いながら、彼女は廊下へ引っ込むと、すぐにスーツを手にして戻ってきた。ズボンといっしょにハリガネのハンガーにかけられて、その上から大きな透明のビニール袋で覆われている。
「戻ってきてるんですけど……」
「ああ、ありがとう」
受け取ろうと手を伸ばすコヅカに、けれどソルジーナは顔をしかめて見せた。
「ハンカチが破れてた、って言うんです。最初から破れてたって」
伸ばしたコヅカの手が、びくり、と動いた。
「ハンカチが?」
「ええ。ポケットに、破れたまま入ってたって。それで……」
「いっしょに入ってるの?」
「いえ。こっちに」
マナガは、彼女がスーツとは別に、小さなビニール袋を手にしていることに気づいた。おそらく、そちらが問題のハンカチなのだろう。
「判《わか》った。ありがとう。僕の方から電話しとくから、仕舞っといて」
二人の刑事を振り返った時、コヅカ・ケイズニーは不自然なくらいに愛想よく笑った。
「さ、行きましょう」
背中を押し出される勢いで、事務所を出る。
エレベーターのドアが閉まる寸前、ソルジーナの姿が見えた。
首をひねりつつ、ビニールに覆われたままのスーツを持って、廊下へと戻ってゆくところだった。
2
有能であることと成功することとは、残念ながら直接には結びつかない。
さらにもう一つ、運が必要だ。
コヅカ・ケイズニーがその事実を知ったのは、開業してすぐだった。
大学は法学部を卒業、ストレートで司法試験に合格した。司法修習を終えて開業したのは、二四歳のころだった。
順風満帆《じゅんぷうまんぱん》、と誰《だれ》もが思った。
当然、コヅカ本人もだ。
そして彼は、独立した。
他人の法律事務所で下働きをする気はなかった。
自分以外の誰もが、莫迦《ばか》に見えたからだ。そしてそう感じても仕方がないくらいに、コヅカ・ケイズニーは優秀だったのである。
ジオロナ通りの外れに、小さな法律事務所を開いた。
学生時代からこつこつと溜《た》めた金と、亡父から受け継いだ遺産の全てを注《つ》ぎ込んだ。ジオロナ通りは大小の法律事務所が集中する通りで、だから通りの外れであったとしても立地としては決して悪くはない。
だが、そこでつまずいた。
そのことに気づいたのは、開業から一ヶ月ほども経《た》ったころだった。
依頼が、ない。
客が来ないのだ。
皆無というわけではなかった。だがコヅカ・ケイズニー法律事務所を訪れる数少ない依頼人は、例外なくコヅカの知人からの紹介だったのである。
二ヶ月めには、ぱったりと依頼者が途絶えた。ようやくコヅカが、信用、という言葉を意識し始めたのは、そのころだ。
業界における信用が、確立していないのである。
だが信用を確立するためには実績を積まねばならず、実績を積むためには依頼を受けねばならない。そして依頼を受けるためには、信用を確立する必要があるのだ。
悪循環だった。
せめて、とコヅカは思った。
もっと金があれば……。
法曹通りの外れの小汚い事務所ではなく、俺の実力に見合うだけの立派な事務所を構えることが出来れば……。
彼の人生において、それは初めての挫折《ざせつ》だった。初めての挫折を、親に泣きつくことも周囲にあたり散らすことも出来ない年齢になってから、経験してしまったのである。
逃げる先は、酒しかなかった。
借金に借金を重ねる泥沼状態の一年から抜け出したのは、一つの偶然からだった。
この偶然がなければ、彼は破滅していただろう。たまたま転がり込んだバーで、隣の席の二人連れの会話を盗み聞きしてしまったのだ。
あるいは、カウンターにつっぷしたコヅカを泥酔して眠っていると思ったのだろう、二人の男は特に声をひそめることもなく、よからぬ計画を語り合っていた。
ある神曲楽士の、権利問題についてだった。
契約書類に、巧妙に不備な記述を紛れ込ませて、一財産を巻き上げようというのだ。
その標的がオゾネ・クデンダルであることは、コヅカにはすぐに判った。ルシャゼリウスの郊外に大きな屋敷をかまえる楽士と言えば、彼以外には考えられなかったからだ。
これだ、とコヅカは思った。
自分に欠けていたのは、これだったのだ。
運だ。
そしてついに、運を掴《つか》んだのだ。
翌朝、コヅカがすぐにオゾネ邸を訪ねたのは、しかし正義感からではない。
だから自分の耳にした悪巧みについて知らせずに、顧問弁護士として雇って欲しいという非常識な申し出で上がり込み、問題の二人連れが来るまで居すわったのだ。
その後は当然、何のかんのと理由をつけて契約の席に入り込み、さも今まさに気づいたかのように書類の不備を指摘して見せたのである。
オゾネ・クデンダルは、コヅカを信用した。
秘書のニウレキナは不審げな素振りを見せたが、それも三日間だけのことだった。
四日めの夜、コヅカは路上で二人組の男に襲われ、鈍器で頭部を殴打された。
頭蓋骨《ずがいこつ》陥没骨折で、死にかけたのだ。
例の二人組だった。手配中の詐欺師だったのである。
災難ではあったが、結果としては、それが幸運を呼んだ。ニウレキナの疑念は晴れ、オゾネ氏はコヅカを顧問弁護士として雇い入れたのだ。
それから、九年になる。
あるいはコヅカがオゾネ・クデンダルの思惑に気づきさえしなければ、その関係はもっと続いていただろう。
だが、その九年間は、無駄ではなかった。
そして、もう必要ないのだ。
「実はですねえ」
マナガの声がいつもより響くように思えるのは、そこが車の中だからだろうか。
ルシャゼリウス市警に向かう、マナガの黒い四駆車である。
バックミラーごしに、後部座席のコヅカと視線を合わせるように、彼は言った。
「昨日、葬儀委員会の方にお邪魔した後、メイナードの中央公社まで行って来たんですよ」
なに?
「いやあ、往復だけで九時間もかかっちまいましてね、大変でした」
中央神曲公社に?
「おや。なぜ、また?」
「いえ、まあ、野暮用《やぼよう》です。型通りの捜査、ってやつでして」
嘘《うそ》だ、とコヅカは思う。
だが、ほう、と応えた。
「それで、何か進展はありましたか?」
「ええ、おかげさまで」
嫌な予感が、またせりあがってくる。
腹の底に、何か冷たいものが広がってゆくようだ。
「しかもその後、実験の準備にかかったら、これがまた大仕事で」
「実験ですか」
「ええ。本当は、もっと早くお見せしたかったんですけど、頭蓋骨の調達に手間取っちまいましてねえ」
「頭蓋骨?」
「最初は、警察病院から借りようと思ってたんですがね。でも銃で撃つんだって言ったら、貸してくれませんでね。買い取ってくれ、って言うんですよ。それで、朝から上司に事情を説明したり書類を持って署内のあちこち走り回らされたり。結局、こんな時間になっちまいました」
銃で撃つ?
頭蓋骨を銃で撃つ、だと!?
……まさか!
「どんな実験なんです?」
「そいつは見てのお楽しみです」
マナガの運転する黒い四輪駆動車が、警察署の駐車場に滑り込む。
コヅカが案内されたのは、地下の射撃訓練場だった。二日前、精霊弾の実演を見せられた、あの射撃場だ。
射撃カウンターの向こうに、それは立てられていた。
マイクスタンドのような台座から屹立《きつりつ》する、一本の金属製のパイプである。その先端には針金で、異様な物体が固定してある。
頭蓋骨だ。
「どうぞ」
先に行くのは、マナガとマティアである。コヅカも後に続いた。
「こんなもんでいいですか?」
マナガに問うのは、例の小犬みたいな顔つきの男だ。たしか、ワツキ・フレジマイテとかいう私服警官である。
「もっと綺麗《きれい》に出来なかったの?」
太いハリガネでぐるぐる巻きにされた頭蓋骨が、マナガ警部補はご不満のようだ。だがワツキは、例によって肩をすくめて見せる。
「相手が丸いですからねえ」
「撃った途端に、飛んでっちゃわない?」
「それは保証しますよ」
「だったら、いいけどさあ」
「マナガさん」
コヅカが口を挟んだのは、耐えきれなくなったからだ。
腹の底に広がる冷たいものに、である。
「これが、実験ですか?」
「ええ。実験の標的です」
標的……。
「実はですねえ、私ゃ、今回の事件は精霊の犯行じゃないと思ってるんです」
「まさか」
苦笑して見せるのが、精一杯だった。
「冗談だろう?」
「いいえ、私ゃ大真面目《おおまじめ》です。精霊が犯人だと考えるより、人間が精霊に罪を着せようとしてると考えた方が、よっぽど合理的ですから」
密室状態と、銃のことだ。
「だが現に、凶器は精霊弾じゃないか」
「いいえ」
マナガは、言い切った。
いつもの笑みを浮かべたままなのが、かえって不気味だった。
「弾丸が発見出来ないだけです」
「充分じゃないか」
「とんでもない。通常の銃だと断定出来ないことと、精霊弾だと断定することとでは、大きな違いです。奏世《そうせい》神殿とマッチ箱くらい違います」
「それじゃあ……」
そうです、とマナガはうなずいた。
「実を言いますとね、ニウレキナさん以外にオゾネ氏を殺害する動機を持つ精霊がいるんじゃないかと思って、調べてみたんですよ」
「で、結果は?」
「いません。全く、誰一人としてです。でもね、それが人間なら、何人かいるんですよ」
「ほう。誰かね」
「いやあ、そいつぁ言えませんよ、いくらコヅカ先生でも」
膝《ひざ》が震え始めるのを、コヅカは懸命に押さえ込んだ。
その中の一人に自分が入っていないことなど、今さら祈る気にもなれなかった。
「それで、です。もしも、通常の銃を使って発射した弾丸を、被害者の体内から綺麗さっぱり消してしまうことが人間にも可能だと証明出来れば、この事件、一気に解決に近づくと思ったんです」
「そうか」
なんてこった。声まで震えてきている。
「でも証明出来ますか?」
「それを、今からやるんですよ」
実験を、だ。
「ワツキ、持ってきてくれる?」
はい、と応《こた》えて若い刑事はカウンターへと歩いて行く。戻って来た彼は右手に人数分のイヤー・ガードと、左手には小振りなアイス・ボックスを下げていた。
「苦労したんですよ」
受け取ったアイス・ボックスを床に置いて、マナガが蓋《ふた》を開く。中には一丁のリヴォルバーが、ビニール袋に詰められた大量の氷といっしょに収まっていた。
「装填《そうてん》してある?」
「はい」
ワツキに確認してから、マナガは銃を取り出した。
短銃身で、口径は大きい。
メーカーこそ異なるものの、コヅカにとっては見覚えのあるタイプである。
「実はですね……」
銃を手にしたまま、パイプに固定された頭蓋骨に向かって、マナガは言う。
「警察の発表ってのは……要するに報道用の発表ってのは、けっこう重要な事実を伏せてたりするんです。無論、参考人としてお話をうかがう相手にもね」
当然だ。
特に、犯人しか知らないはずの事実は、伏せられるものだ。それによって、第三者による狂言の自供を見抜いたり、あるいは逆に真犯人を突き止めたりするのである。
「先生だからお話ししちまうんですけど、今回の射殺は、ちょっと妙なところがあるんですよ」
言いながら頭蓋骨に近づくマナガを見て、コヅカはふいに理解した。
頭蓋骨を固定するポールの高さが、被害者の……オゾネ・クデンダルの身長と一致するのだ。
「実は弾道検査の結果、妙なことが判明してましてね。弾丸は……」
言いながら、マナガは自分の首の後ろを指差した。ちょうど、後頭部が首へとつながるあたりである。
「ここんとこから入って、額の方へ向かってます。つまり、立っている被害者に対して、斜め下から斜め上へ向かって撃ってるんです」
「オゾネ先生は……」
コヅカは懸命に、腹の底から声を絞り出した。
「撃たれた時、すでに倒れておられたのではないかね?」
「そりゃあ、あり得ません。ご遺体には動かした跡はありませんでしたからね」
何を言っているかは、すぐに判った。
射殺されたオゾネ・クデンダルは、仰向けに倒れたのだ。無論、発見された時も、である。
「これを説明する状況は、一つだけです。つまり犯人は、こんなふうに……」
言いながら、マナガは膝を折っている。ちょうどコヅカの身長と合わせるように。
「真後ろから、かなり接近して撃ってることになります」
その姿勢で、マナガは標的に近づく。銃を突き付けた腕は、標的が近過ぎるために肘《ひじ》を曲げている。その結果、銃口は上を向いて、下から銃を押しつける格好になった。
「ほおら。ね? これなら理屈に合う」
「硝煙反応は? 銃口を押しつけて撃てば、銃創の周辺に燃焼した火薬の粒子が付着するはずだがね」
「ああ、忘れてました。こうです」
言いながら、マナガは尻《しり》のポケットからシワだらけのハンカチを取り出すと、銃口と頭蓋骨の間に滑り込ませる。
「これで撃てば、火薬の燃えカスはハンカチの方にくっついて、被害者の躯《からだ》には残りゃしません」
「だが、傷の中には火薬が飛び散るだろう? あるいは、ハンカチの繊維も巻き込んで体内に残るだろうしね。見つかったかい?」
「いやあ、中は崩れた組織と体液でぐずぐずになってましてね。それに公社が急《せ》かすもんだから、弾丸が残っていないのを確認した時点で、精霊弾による犯行と断定せざるを得なかったようですな」
「賢明な判断だ」
「とぉんでもない!」
マナガは目を剥《む》いた。銃を手にしたまま、両腕を広げる。
「精霊弾を使ったなら、近づく必要もなければ銃を押しつける必要もなかったはずです。精霊弾に偽装しようとしたからこそ、こんな不自然な状況になってるんですよ」
マナガは自信まんまんである。
なんてこった。
コヅカは必死になって言葉を探した。
「でもマナガさん、オゾネ氏は、ほとんど部屋の中央で倒れておられた。犯人がどこに隠れていたにしろ、気づかれずに真後ろまで近づいて撃つのは、不可能だと思うがね」
「隠れていなかったとしたら? 普通に近づいて、しかも被害者が何の警戒もせず背を向けるような相手が犯人だったとしたら?」
「つまりマナガさん、あなたは、顔見知りの犯行だと言いたいのかね?」
「ずばりです。そのとおり」
喜色満面でマナガが脚を伸ばす。途端に、倍ほども膨れ上がったように見えた。
もはや巨漢どころではない。
巨人だ。
「でもね、実はそれでも不自然なんです。なぜそんなに近づく必要があったのか。顔見知りなら、単純に相手が背を向けた瞬間に撃てば済みます。それどころか、背を向けるまで待つ必要すらないんです。でも犯人は相手が背を向けるのを待って、背後から撃った」
「警部補」
ワツキが口を挟んだ。
「早くしないと……」
「ああ、そうね、うん。実際に見てもらおう」
そして全員がイヤー・ガードを装着する。
マティア警部が背中を向けて、ぱたぱたと走って距離をとった。
マナガは再び膝を折ると、
「いきますよ」
ハリガネで固定された頭蓋骨の後頭部に、さっきと同じように銃口を押しつけ、
そして、
引き金を引いた。
大口径の拳銃《けんじゅう》から銃声が轟《とどろ》き、射撃場に残響する。
銃のシリンダーの隙間《すきま》から、白い煙がゆっくりと立ちのぼった。
マナガが、ゆっくりと銃を引いてゆく。
銃口が離れる。
そして、
「あれえ!?」
マナガは、素っ頓狂な声をあげた。
銃口の下から現れた頭蓋骨の表面には、銃創どころか、亀裂さえ入ってはいなかった。
「なんで……」
愕然と、マナガが呟く。銃口を離すと、間に挟まれていたハンカチが落ちた。その真ん中には銃口とほぼ同じ大きさで、火薬の粒子がこびりついている。
だが、穴は開いていない。
マナガの手にした銃の、銃口から何かがこぼれ落ちた。
コンクリートの床に、ぱらぱらと硬い音をたてたのは、無数の氷の破片だった。
氷。
氷だって!?
コヅカは、ついに我慢しきれなくなって、
「氷!?」
爆笑する。
「氷? 氷の弾丸!?」
笑いの発作の合間に、とりあえずそれだけ言った。
言って、笑い続けた。
「キミは、オゾネ先生を殺害した凶器は氷の弾丸だったと思ったのかい!?」
発想そのものは、コヅカにも理解出来た。
固く凍りついた氷を削って弾丸に加工し、実包に詰めて発射する。被害者の頭蓋骨を砕き脳髄を引き裂いた弾丸は、しかし遺体が発見されるまでに溶けてしまう。
後には当然、水が残るが、そんなもの体液と混じってしまえば判《わか》らない。
そう考えたのだ。
だが、実際には、そうではなかった。
人間の骨は、意外なほどに強靱《きょうじん》なのである。
あるいは発射の際の熱が氷を劣化させたのかも知れないが、どちらにしろ同じことだ。氷の弾丸で頭蓋骨を撃ち抜くことなど、不可能なのだ。
コヅカ・ケイズニーが笑い続けている間、マナガは困惑した顔で銃のシリンダーを開いて異状がないか確認し、頭蓋骨を検分しては亀裂くらい入っていないかと目をこらした。
だが、どちらも徒労に終わったようだ。
巨大な肩を、がっくりと落して、彼は苦笑していた。
「これだと思ったんですがねえ」
「氷じゃあ、脆《もろ》過ぎますな」
「だから、密着して撃ったんだと思ったんですよ」
「残念でしたね」
応えて、コヅカは腹の底の冷たいものが消え失せているのを感じていた。
膝も声も、もう震えてはいない。
「これで、実験は終わりですか?」
「ええ、まあ」
「ということは、やはり人間には不可能な犯行、ということですかな」
「はあ、そう見えますねえ……」
相変わらず、巨漢は苦笑を浮かべたままだ。
「ここはやはり、精霊の犯行、という線に絞って考えた方がいいんじゃないですか?」
「はあ、そうでしょうか」
いや、苦笑ではない。
口元をだらしなく緩め、眉《まゆ》をひそめながら、しかしその目は少しも笑っていないではないか。
「マナガさん」
腹が立ってきた。
「はい」
「今の実験で、消え失せる弾丸なんてものが不可能だと判ったんでしょう?」
だから、言ってやった。
「しかし精霊弾なら、矛盾なく説明が可能なんだ。そうでしょ」
「そうですかねえ」
「では、人間にも可能だと証明が出来るかね?」
「いいえ」
「精霊になら可能なんだね?」
「はい」
「そしてオゾネ氏を殺害する動機を持つ精霊は、ニウレだけだ。そうだね?」
「はい、ニウレキナさんだけです」
「では、くだらない実験に時間を浪費するよりも、ニウレキナを徹底的に洗うのが先じゃないのかね」
「いいえ」
なに?
なんだって?
「ニウレキナさんを調べる必要は、もうありません」
「何を言ってるんだ……?」
「あの人はシロです」
「おい、キミは何を……」
「あの人はシロですよ、コヅカ先生。あの人じゃありません」
「ほう」
コヅカ・ケイズニーは、真正面からマナガ警部補に向き合った。
「断言するね?」
マナガは銃を持っていない方の手で、ぼりぼりと頭を掻《か》く。
「だってリスクが大き過ぎます」
「暴走かね?」
「はい」
「自分も『死』ぬ危険を冒してまで、オゾネ先生を殺すはずがないと?」
「そのとおりです」
「第三者と共謀して、すでに調律を開始しているかも知れないじゃないか」
「ええ。その可能性は、たしかに考えました」
「だったら……」
言いかけた言葉を、
「でもですね」
マナガは遮る。
「それだと、動機がなくなっちまうんですよ」
「なに?」
「オゾネ氏の遺言状です」
「遺言状……」
「オゾネ先生、ここのところ、お躯の調子がすぐれなかったようですなあ」
たしかに、そのとおりだ。
若いころからの喫煙が祟《たた》った、と本人はよく口にしていた。そして実際、ここ何年かは、演奏後にはかなり疲れた様子を見せるようにもなっていたのだ。
そしてついに先月、最初の発作を起こした。
心臓である。
「おそらく、そのせいで、遺言状を作る気になられたんでしょうな」
「だから?」
「ご相談を受けられましたね?」
「ああ」
「書式やら何やらの、決まり事について」
「そうだ」
「二週間前に」
「違う。それは遺言状の書き上がった日だ」
マナガの太い眉が、きゅう、と真ん中に寄る。
どデカい手が、どデカい額を押さえた。
「だから、ニウレキナさんはシロなんですよ」
なに?
「つまり、ニウレキナさんが遺言状の内容を知ったのも、二週間前ということです。その時点からすぐに計画を開始したとしても、まず調律を済ませなきゃいけません。だって留置されちゃったら、調律なんて出来ませんからね」
二週間……。
「時間が足りない、ということか」
「足りないどころじゃありません。神曲楽士の助けを借りても、たっぷり二ヶ月はかかります」
「書いているところを見たのかも知れない」
「それでも、とても足りません。発作は先月なんですから」
「それ以前に、オゾネ氏と約束を交わしていたかも知れないだろう?」
「オゾネ先生が遺言状を書く気になる以前に?」
「ああ。亡くなったら財産を譲る、という約束だけは交わしていたかも知れんだろう」
マナガの応えは、まさか、であった。
「明文化もされていないような曖昧《あいまい》な口約束だけで、あの人が、そんなことを始めるわけがない」
「言い切れるのかね?」
「言い切れます」
「なぜ」
「犯行そのものの綿密さと、噛《か》み合わないからです」
なんだって?
「判らんな」
「いいですか? 具体的な手がかりを、何も残してないんですよ? どちらにせよ凶器には銃が使われているはずなのに、それも見つからない」
あたりまえだ、とコヅカは思う。
あんなものは、とっくに処分した。今ごろはどこかの故買屋の店先にでも並んでいるか、あるいはパーツごとに分解されて中古販売の銃の一部になっているだろう。
だがそのことが今、逆に捜査の視点を、コヅカの思惑から逸《そ》らせつつあるのだ。
「もし仮に、これがニウレキナさんの犯行だとしたら、彼女はそれだけ周到に痕跡《こんせき》を消したということです。そんな人が口約束だけで、犯罪に手を染めるとは思えません。まず、オゾネ氏が遺言状を作成するのを待って、その内容を確認するはずです」
「だがそれでは……」
時間がかかる、と言いかけて、コヅカは口を閉じた。
そうだ。
相手は数百年を生きることの出来る精霊なのだ。計画の実行が二年や三年、遅れたからと言って、どうということはない。
「そうです」
マナガの目が、真《ま》っ直《す》ぐにコヅカを見下ろしている。
「ニウレキナさんの犯行だと仮定するには、理屈に合わない点が多過ぎるんです」
それでは、とコヅカの言葉は重い。
「あくまで、犯人は人間だ、と言うのかね?」
「そうです」
「そうか」
だが、
「それだけかね?」
「はい」
当然だ。
相手は、コヅカにも動機があることに気づいたかも知れない。だが、弾丸なき殺人が人間にも可能だと証明しない限り、警察はコヅカに手を触れることさえ出来ないのだ。
そしてニウレキナは、いずれ『消滅』する。
同じことだ。
そうだ。どちらに転んでも、警察に勝ち目などないのだ。
「だったら」
コヅカは、ようやく笑みを浮かべる気になった。
「もう失礼していいかな?」
「けっこうです。ワツキに送らせます」
「いや」
若い刑事にイヤー・ガードを返してから、
「タクシーでも拾うよ」
言い残して、コヅカ・ケイズニーは背中を向ける。
歩き出すと、背中に視線を感じた。恨みがましい、負けイヌの視線だ。
だがな、とコヅカは笑みを浮かべる。
相手がたとえ負けイヌでも、油断もしなければ手も抜かないぞ。
射撃場の防音ドアは重く、ノブは固い。
力を込めて引っ張った。
途端に、絶叫が轟いた。
3
ワディエケーニ・エッツ・ホラディアスカイは、ルシャ市警が現在の位置に移転したころからの、契約精霊である。
今年で、二七年めになる。
ただし、特定の神曲楽士と契約しているわけではない。彼の契約相手はルシャ市警本部であり、その意味では人間で言うところの就職に近い。そういった精霊警官が他にいないわけではないが、しかしそう多いものでもなかった。
だから、よく訊《き》かれる。
なぜ警官になったのか、と。
その時、彼がシラフであれば答えは、まあちょっとな、である。
だが質問の前にしこたま精霊酒を飲ませ、さらにたっぷり一時間は彼の武勇伝に付き合っていれば、別の答えを聞くことが出来る。つまり、一○○年前に彼が契約していた楽士の正義感と、その勇敢な死にざまについての物語である。
そして無論、それに続くのは暴走状態の苦痛の思い出だ。
七○年かかったよ、という言葉がワディエの口から漏れたら、それで昔話は終わりである。
もっとも、その時にこう質問すれば、もう少し先のことまで聞けるかも知れない。
なぜ現場に出ないんだい?
そうすれば質問者は、苦痛の七○年間と、彼を救った緋色《ひいろ》の髪の精霊について聞くことが出来るはずだ。
運が良ければ、の話だが。
いずれにせよ以降二七年間、ワディエケーニはルシャ市警留置施設の管理責任者として、暗い地下室に座り続けている。
契約成立以降、持ち場を離れたことは一度もないとさえ言う。
太った小男にしか見えない彼は、しかし数百年の経験と思い出を胸に秘めて、じっとパイプ椅子《いす》に座っているのだ。ある時は無人の地下施設で瞑目《めいもく》し、ある時は収監された精霊の罵声《ばせい》を聞き、ある時は罪を悔いる者のすすり泣きに耳を傾け、そうやって二七年を過ごしている。
だがそんなワディエケーニにとっても、これは初めての事態だった。
地下留置施設に、神曲が流れている。
それも、かなり高等な。
一○○年前の出来事以来、ワディエは楽士との契約をしていないし、今後もする気はない。だがそのワディエが、心を動かされそうになるのだ。
美しい音色だった。
清流を思わせるストリングの響きが、ゆったりとした複音を絡みつかせながら、薄暗い廊下を流れてくる。単なる大気の疎密波でしかないものが、精神生命体としての精霊の『肉体』と共振し、ポテンシャルを増幅してゆくのである。
今なら始祖精霊なみの精霊雷が撃てそうな、そんな気分だ。
熱いスープを入れたカップを手に、ワディエケーニは出来るだけ足音をたてないように、留置施設の廊下を歩く。
廊下の突き当たりにいるのは、一人の女性である。
紺色のスーツに身を包み、短く切った髪は意志の強さを思わせる。パイプ椅子に浅く腰を下ろして、背負っているのは薄く小振りな銀色のトランクだ。
単身楽団《ワンマン・オーケストラ》である。
スピーカーや表示装置を展開させ、バイオリン型の主制御楽器を、静かに、ただ淡々と演奏し続けている。
早朝から、切れ目なく、だ。
すぐ側《そば》で立ち止まったワディエに気づいて、女性は視線だけを彼に向ける。演奏は、続けたままだ。
ワディエが湯気のたつカップを掲げると、女性はかすかにうなずいたようだ。
ゆるやかに弦の上を往復する弓に触れないように注意しながら、ワディエケーニがカップを女性の口元へ運ぶ。
三口ほどすすったところで、女性は小さくうなずいた。
声をたてずに唇だけが、ありがとう、と動く。
とんでもない、と精霊警官は思う。
感謝しなきゃならんのは、こっちの方だ。
昨夜、ルシャ市警には、信じられないほどの数の神曲楽士が呼び集められた。
ベテランも新人もいた。男も女もいた。条件は、オゾネ・クデンダルと同じ弦楽奏者であること、それだけだ。
無論、暴走状態の精霊を鎮めることが出来るのは契約楽士の神曲だけ、とするのが定説である。だがごく稀に、契約楽士以外の演奏が精霊に影響を与えることがある。少なくとも、そういう記録が残されているのだ。
ただし、なぜそういうことが起きるのかは、判っていない。
説は、いろいろとある。
何らかの要素が本来の契約楽士に酷似していたから、という説……。
本来の契約楽士をはるかに凌駕する技術であったから、という説……。
そして、技術ではない強い『何か』が働いた、という説……。
どの説が正解であるにせよ、それは奇跡であると言える。
つまりその時、ニウレキナを救うためには奇跡に頼るしかなかった、ということだ。
集められた楽士達は、順に地下へ降りて来て、暴走状態にある精霊の前で神曲を奏でた。
渾身《こんしん》の一曲を奏でる者もいれば、亡きオゾネ・クデンダルの演奏を真似《まね》る者もいた。六人で一斉に単身楽団を鳴らしたバンドもあったし、弦楽を伴奏とする神曲オペラで挑む者もあった。
最初はワディエケーニも人数をカウントしていたが、三○人を超えたあたりで莫迦《ばか》らしくなってやめてしまったほどだ。それは、事態の深刻さに比べれば皮肉なくらいに滑稽な、奇妙なオーディションさながらだったのだ。
しかし誰《だれ》一人として、ニウレキナ・ウク・シェラリエーテの暴走を止められる神曲楽士はいなかった。奇跡は、ついに起きなかったのだ。
だが。
朝がきて、ついに最後の楽士が首をうなだれて署を出て行き、誰もが諦《あきら》めかけた時、彼女が来たのである。
ツゲ・ユフィンリー、と女性は名乗った。
『第三神曲公社公認・ツゲ神曲楽士派遣事務所』の所長だという。
精霊の力を必要とするあらゆる依頼に対して神曲楽士を派遣する、いわゆる仲介業者である。朝のニュースで事態を知って、駆けつけてきたのだ。
彼女は、言った。
あたしにやらせてみてくれる?
そして、やってのけたのである。
どうせ駄目だろう、と思っていたワディエケーニは、彼女の奏でる最初の一音に、耳を疑ったほどだ。その演奏が、オゾネ・クデンダルの独奏曲に驚くほど酷似していたからだ。
今、独房の鉄格子の中に、荒れ狂う精霊はいない。
奥のベッドで、いくらか苦しそうではあるものの、それでも一人の精霊が眠っているだけだ。
引き裂かれ焼けただれた衣服の残骸《ざんがい》も、今は掃除されている。横たわった躯《からだ》には、ワディエケーニが毛布をかけてやることさえ出来た。
だが、問題が一つあった。
ツゲ・ユフィンリーの疲労である。
いくら正確なコピーであるとは言え、しかし彼女の演奏はあくまで物真似である。ニウレキナの暴走を解消するどころか、こうやって演奏し続けることで鎮静させておくだけで精一杯なのだ。
だがそれも、時間の問題だろう。
もっともルシャ市警も、ただ彼女に任せきりにするつもりでいるわけではなかった。現に手空きの人間が、各地の神曲公社に連絡をとり続けているのだ。
無論、交替の神曲楽士を調達するために、である。
だが、少なくとも現時点まで、どこも返事は同じだった。
協力的な対応を見せる公社も、今、演奏中の楽士がツゲ・ユフィンリーであることを告げると、途端に尻込《しりご》みするのである。
ツゲ・ユフィンリーは天才だ。彼女ほどの技量を持つ楽士は、残念ながら他には見当がつかない、というわけだ。
かくして彼女の演奏は、延々と続いている。
かれこれ一三時間は経《た》っているだろうか。
二時間ほど前から、ビブラートが甘くなってきていることには、ワディエも気づいていた。フラジオレットも浅い。
見ると彼女の左手の指先は皮が剥《む》けて赤くなっているし、右手も同様なのはピチカートのせいだ。
いつ倒れてもおかしくない、とワディエケーニは思った。
だが、彼女は倒れなかった。
倒れる前に、破局がやってきたのだ。
ぱん、という、それは乾いた音だった。
「うっ!」
短くも鋭い呻《うめ》きは、ユフィンリーである。
弦が切れた。
最も細い、E弦だ。
奏者よりも先に、楽器が音《ね》をあげたのだ。
演奏が停止したのは、しかし一瞬だけだった。なんとユフィンリーは、残る三本の弦を巧みに操って、演奏を続行したのである。
今度は、ワディエケーニが声をあげる番だった。
「むう」
恐るべき技術だった。
各地の公社が、尻込みするはずだ。
ユフィンリーの演奏は、弦が切れる前とほとんど変わりないのである。
だが、
「先生」
ほとんど、では駄目なのだ。
「お疲れさん。もう休んでくださいよ」
独房の中で、ニウレキナに異変が生じ始めていた。
毛布の下で、小さく痙攣《けいれん》している。
暴走が、再び始まるのだ。
「駄目!」
言いながら、ユフィンリーはなおも演奏を続ける。だが、もう限界であることは明らかだった。和音は欠落し、リズムは乱れ、音は不鮮明になってゆく。
「これ、ただの暴走じゃない!」
「なんだって?」
「演奏してみて、判《わか》った。彼女は、単なる飢餓状態なわけじゃないんだ! 絶望してるんだ!!」
なんてこった。
ツゲ・ユフィンリー。
各地の公社が、天才と認める神曲楽士。
たった一三時間かそこらの演奏で、彼女は初めて出会った精霊の身に起きていることを見抜いて……いや、感じ取っていたのか!?
「今、演奏をやめてしまったら……」
そこまで言った時、さらに一本、弦が切れた。
地下留置施設に、絶叫が轟いた。
4
防音ドアは、中の音を外に漏らさない。
つまりそれは、外の音を中に入れないという意味でもある。
コヅカ弁護士が防音ドアを開いた途端、鋭い絶叫が射撃場に響きわたったのだ。
マナガは、反射的に動いていた。
考えて行動したわけではない。事態を理解したのは、コヅカを押し退《の》けるようにして廊下に飛び出してからだった。
地下三階の奥にいるはずのニウレキナの叫びが、地下二階の射撃訓練場にまで届くわけがない。少なくとも、彼女が留置施設にいれば、だ。
「何だってんだ……」
その答えは、廊下の床に、壁に、そして天井に刻まれている。
深く、長い裂け目だ。
鋭利なナイフで粘土を切り裂いたみたいな鮮やかな切り口が、無数に刻まれているのである。見ると、地下三階へと続く階段の、普段は閉じられているドアが開いていた。
……いや、違う。
ずたずたに切断されて、何枚もの三角形の金属板になって床に転がっているのだ。
そのドアの向こうから、見慣れた男が顔を出した。
「マナガ!」
ワディエケーニだ。彼が『上』に出てくるなど、何年ぶりだろうか。
上等のハムみたいな太い腕に、スーツ姿の女性を抱えている。ぐったりと、意識がないようだ。
「ワディエ! 何があった!?」
「嬢ちゃんが暴走した! こっちは大丈夫だから、追ってくれ!!」
「判《わか》った! ワツキ!!」
遅れて飛び出てきた若い刑事に、
「はい!」
「二人を頼むぞ!」
マナガは言い置いて、駆けだした。
非常警報の耳障りなブザーが鳴り響いている。
ニウレキナが暴走し、地下留置施設を脱走した。それはつまり、鉄格子や壁に彫り込まれた対精霊文字を突破するほどの、ケタ違いの暴走を起こしているということなのだ。
無数の傷跡が、行く手に続いている。
両側のドアの中には、半分に切断されたものが、いくつもあった。
角を曲がったところで、制服の警官が一人、うずくまっている。上へと続く階段の、その手前である。
「大丈夫か!?」
駆け寄りながら叫ぶ。警官は、腕の出血を手で押さえているようだ。
「大丈夫です! 上へ移動しました!!」
「了解!」
駆け抜けた。
彼女を外へ出してしまったら、全てがおしまいだ。場合によっては、精霊警官を総動員してでも封殺をかけなければならなくなる。
つまり、永久封印だ。
「たまるかよ!」
階段を駆け上がっている最中に、銃声が聞えた。
一階からだ。ニウレキナが外へ出るのを阻止するために、発砲許可が下りたのだ。独特の甲高い音が混じっているのは、誰かが精霊弾を発射しているのだろう。
まさに、雨のような銃撃だ。
だが、その銃撃音が、止まらない。
それはつまり、ニウレキナを阻止し得ていないということなのだ。
「ちっ!」
一階の廊下へ飛び出すと、
「伏せて!」
誰のものとも知れない声にしたがって、マナガは頭から床に滑り込んだ。
なんてこった。
標的の真後ろに出てしまったのだ。
ニウレキナは、廊下の先、約五メートルばかり前方だ。さらにその向こうでは、廊下いっぱいに広がった警官達が、こちらに向かって銃をかまえている。
ど真ん中に陣取っているのは、サングラスの精霊刑事だ。
シャドアニ・イーツ・アイロウである。マナガに叫んだのは、彼のようだ。
ニウレキナの裸身は、金色に輝いていた。
表面が光っているわけでも、内側から光を放っているわけでもない。全身が、金色の光そのものに変じてしまっているのだ。
その周囲を、例の金色のリボンがのたうっている。リボンに触れた壁が、床が、天井が、ざくり、ざくりと、あちこちで裂け目をつくった。
「マナガさん!」
シャドアニだ。
「デカいの撃ちます! 引っ込んで!!」
「おう!」
ずるずると床を這《は》いずり、階段へと無様に後退してゆく途中で、マナガは見た。
シャドアニが両手で構えた大型拳銃《けんじゅう》の、その周囲の空間に光の粒子が発生する。粒子は銃に吸い込まれ、一方で銃はぼんやりと輝き始めた。
精霊弾だ。
それも、特大の。
閃光《せんこう》と衝撃に備えてマナガが下りの階段に身を隠した時、マティアが追いついてきた。
「デカいのが来る! 引っ込んでろ!!」
「絶望なの!!」
マティアの叫びを、マナガは理解出来なかった。
「ああ!?」
「神曲楽士が言ってた。さっきの女の人。ニウレキナさんの暴走は、ただの飢餓じゃない! 絶望なの!!」
その瞬間、
「あ……!」
思い出した。
ニウレキナの言葉だ。
「そうか。そういうことか」
マナガは階段を駆け上がる。
「まて!」
遅かった。
シャドアニの銃が、精霊弾を発射した。轟音《ごうおん》とともに巨大な閃光が炸裂し、撃った本人が後ろへ引っ繰り返るほどの、特大の精霊弾だ。
だが、
「嘘《うそ》だろ……」
シャドアニ・イーツ・アイロウが、仰向《あおむ》けに引っ繰り返った格好のまま、呻《うめ》く。
直径がマティアの身長ほどもありそうな巨大な精霊弾が、ニウレキナに命中する寸前で無数の光粒となって爆散したのだ。
光のリボンに、迎撃されたのである。
砕け散った精霊弾は四方の壁を貫通し、拳《こぶし》ほどの大きさの穴を無数に穿《うが》った。
「きぁああぁああぁぁああぁぁぁあああぁぁぁあああぁああああぁぁああ!!」
絶叫とともに、光のリボンが狂ったように壁を、床を、天井を切り裂く。
宙に浮いたままのニウレキナが、じわり、と前進した。
だが、警官達は、退《ひ》かない。
そこを突破されれば玄関ホール、その向こうは、彼らが護《まも》るべき街なのだ。
「まて!」
叫んで、
「ニウレキナ!!」
マナガ警部補は飛び出した。
ニウレキナの後方、ほんの五メートルほどの背後へ。
ゆっくりと、金色の精霊が振り返る。
金色に輝くその顔に、表情はない。ただ、目だけが轟々と音をたてんばかりに燃えている。背中の四枚の羽根も、噴き狂う劫火《ごうか》のようだ。
「警部補! 逃げてください!!」
警官達の叫びを、マナガは手で制する。
「ニウレキナさん」
じわり、とニウレキナがマナガに近づく。
黒いコートのすぐ側《そば》を、金色に光るリボンが、撫《な》でた。
触れれば、ざっくりだ。
「やったのは、あなたじゃありません」
ふいに、リボンの動きが止まる。
「ちゃんと判ってます。あなたが、どれだけオゾネ・クデンダルさんを愛していたか」
ニウレキナは、動かない。
「あなたはオゾネ氏を殺してない。あなたに出来るわけがないんです」
金色の光が、少しずつその光量を落とし始めているように思えるのは、気のせいだろうか。
「犯人は、他にいます。あなたじゃない」
気のせいではなかった。
四枚の羽根が薄れて、消えてゆく。
光のリボンもだ。
「誰が何と言おうと、状況がどれだけあなたに不利だろうと、私ゃ信じてます」
「私も」
そう言って、いつの間にかマナガの隣に、マティアが寄り添っていた。
ふいに、あたりが暗くなった。
ニウレキナの放つ光が、突然、消えたのだ。
マナガは腕を伸ばして、崩れ落ちる彼女を抱きとめてやらなければならなかった。
溜《た》め息《いき》とともに、夜勤の警官達は銃を収める。それでもさすがに数秒は、次にすべきことにまで頭が回らないようだ。誰《だれ》もが互いに顔を見合せるだけだ。
「シャドアニ」
「はい」
「精霊医を呼んでくれ」
「はい」
「それから被害状況を把握して……」
「判ってます。あとは任せて」
言ってから、
「ほらほら、ぼーっとしてないでくれよ!!」
シャドアニ刑事は仕事仲間達にハッパをかけはじめた。
苦笑を浮かべて、マティアと顔を見合わせてから、マナガは踵《きびす》を返した。気の毒だが、ニウレキナにはまた独房に戻ってもらわなければならないからだ。
そこに、
「愛、ときましたか」
コヅカ・ケイズニーが立っていた。
「それが、彼女が犯人でないという確信の、根拠ですか?」
「ええ」
マナガの答えに、コヅカは冷笑を浮かべた。
挑戦的な冷笑だった。
「でも、それでは誰を逮捕することも出来ませんよ」
「もちろん、知ってます」
「犯行の動機の立証、犯行方法の立証、そしてそれが可能であることの立証」
コヅカが並べ立てる、それは三つの壁だった。
三つの立証、どれか一つが欠けても、絶対に逮捕状は出ない。いくら状況証拠を積み上げても、無駄なのだ。
それが、とマナガは思う。
法というやつだ。
「ま、頑張ってください」
それが、その夜、最後のコヅカの言葉だった。
見送るマナガのコートの裾《すそ》を、マティアが掴《つか》む。
その手が、小さく震えていた。
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第五章 追い詰められた男
1
かつて、この星に生命が発生した時、それは剥《む》き出《だ》しのエネルギーであったという。
それが伝説のとおり奏世神《そうせいしん》の奏でる神曲によるものであったのか、あるいは一部の科学者が提唱するような化学反応によるものであったのかは別にして、だ。
ともあれ、後に『精神』と呼ばれることになるそのエネルギーは、やがて二つの種に別れた。
一つは物質をまとい、肉体を持つ生命体へ。
もう一つは、同種のエネルギーどうし融合し、複雑化し、精神生命体へ。
すなわちそれが人間をはじめとする様々な生物の祖先であり、そして高度なエネルギー生命体たる精霊の祖先であると言われている。
その意味において、精霊とそれ以外の生物との相違は、単に肉体を持つか否かという問題に過ぎない。
だから。
人間が精神を病《や》み心が傷つくことがあるのと同様、精霊も病み、傷つくのである。
人間も精霊も、それ以外の生物も、つまり突き詰めれば『同じもの』なのだ。
ただ、その『有《あ》り様《よう》』が異なるだけなのである。
マナガは読みかけの本を閉じる。
彼の隣では同じソファに座って、マティアがうたた寝していた。もたれかかった小さな躯《からだ》が、寝息をたてている。
「あの……」
ひそめた声に顔を上げると、ベッドの上のツゲ・ユフィンリーと目が合った。
「やあ。目が醒《さ》めました?」
マナガの声は、ひそめていても、腹に響く。
「ええと、誰《だれ》……?」
「ルシャ市警のマナガ警部補。こっちはマティア警部」
ああ、とユフィンリー楽士は声をあげた。
「その子、憶《おぼ》えてる。あの時、伝言してくれた子ね?」
マティアのことだ。
「ひょっとして、ずっと付き添ってくれた、とか?」
精霊病院の、病室である。
と言っても、精霊専門の病院、というわけではない。精霊を診察、治療する施設のある病院を、習慣的に『精霊病院』と呼ぶのだ。
「いやまあ。署に残ったら、後始末の手伝いをさせられそうでしたから」
マナガの、それは半ば本音である。
くすり、と笑ったユフィンリーは、しかしすぐに顔をしかめた。
額には、分厚く包帯が巻かれている。
「三針ほど、縫ったそうですよ」
「そっか……」
「無論、訴えていただいてもかまいません。これは我々の失態ですから」
「傷、残るかな?」
「ある程度は残るでしょうね。でも髪の生え際よりも中なので、目立たないとは言ってました」
「お医者の先生が?」
「ええ」
だったら、とユフィは笑みを浮かべる。思ったより若いのだ、ということに、マナガはこの時初めて気がついた。
「すみません」
「いいよ。他には?」
「脳にも異状はないから、歩けるようになったら帰っていいそうです」
「そか。どうもありがとう」
その笑顔に、
「いや、なに」
思わずマナガは視線を逸《そ》らして、鼻の頭を掻《か》いた。
「こっちこそ、礼を言わなきゃいけません」
ニウレキナのことだ。
「あなたが教えてくれたおかげで、助かったんですから」
ニウレキナの暴走は、単なる暴走ではなかった。そのことに気づかせてくれたのが、この若き神曲楽士の言葉だったのだ。
考えてみれば、取調室で最初に暴走の兆候を見せた時、ニウレキナ自身が、それを口にしていたのである。
私じゃない。どうして? 私がクディを殺すわけない。
神曲を断たれた飢餓よりも、オゾネ・クデンダルを失ったことが……そして、その殺害に自分が関《かか》わったと疑いをかけられることの方が、耐えられなかったのだ。
「あ、それで彼女は……」
「ここに運び込んだんですがね、気の毒ですが、さっきまた留置施設に戻しました。もっとも、精霊医がついてますけど」
昏睡《こんすい》状態なのである。
暴走は停止したものの、膨大なエネルギーの放出で、衰弱しきっているのだ。ユフィンリーの費やした一三時間がなければ、おそらく、暴走中に『存在』そのものが消滅していたに違いない。
「誰が信じてようと、法的に疑いが晴れるまでは、ね」
「そっか」
ユフィンリーは天井を見上げ、そして囁《ささ》くように、言った。
「刑事さん」
「はい」
「オゾネ・クデンダル氏の葬儀って、いつなのかな?」
「三日……、ああ、いや。あと二日ですね」
「その日までに、犯人、捕まえられる?」
「どういうことで?」
「おそらく、あの人……ニウレキナさん、その時、いっしょに『死』ぬと思う」
なんてこった。
「なぜ?」
「同じ。絶望。オゾネ先生が『奏《そう》の世』に旅立たれる時に、いっしょに消えてしまおうとしてる、たぶん」
「そんなこと」
細い、高い声は、マティアだった。
マナガの巨体にもたれたまま、ついさっきまで眠っていたのと同じ姿勢で。
「させません」
白い枕《まくら》の上で、ゆっくりと、ユフィンリーが振り返る。
「約束してくれる?」
ええ、とマティアは立ち上がった。
「それが私とマナガの仕事ですから」
毛布の下から女楽士の手が伸びる。
マティアの小さな細い手が、それを受け止めた。
「お願いね、小さな刑事さん」
「はい」
それからユフィンリーは、もう大丈夫、と言った。
お仕事に戻ってください。
そして。
犯人を捕まえて。
廊下へ出ると、マナガは右手に銀色のトランクを下げ、左の腕でマティアを抱き上げる。
「行くか」
「うん」
マナガの重い足音は、出陣のドラムである。
2
朝がきて、昼になる。
あと二日。
今日と、そして明日だ。
明後日の朝には、最後の歯車が回りだすのだ。
国葬実行委員長としてのコヅカ・ケイズニーにとって、最後の難関は式場の決定だった。
しかしそれも今朝一番の連絡で、トルバス神曲ホールに決定した。ツアー中だった『メタル・バレル』が、一日だけ公演を中止することに同意したのだ。
回答は引き延ばされたが、最終的に断れるわけがないことを、コヅカは見越していた。そんなことをすれば、たとえ世界ナンバー・ワンのロック・バンドと言えども、その人気が地に落ちるのは目に見えていたからだ。
なにしろ相手は、あのオゾネ・クデンダルなのだ。
無論、ステージの緊急撤収と式場の設営、さらに事後の撤収からステージの再設営、加えて公演の中止によって生じる損害は、全て国葬実行委員会が補償することになっている。だがそこで支払われる金は、どうせ世界中からの寄付によるものなのだ。
もう止められない。
誰《だれ》にも、だ。
実際のところ、もう大した仕事は残っていなかった。全ての手配を済ませた今、後は手配した作業が一つずつ済んでゆくのを確認し、書類に確認のサインを書き込んでゆくだけだ。
午前中は現に、そうやって過ぎていった。
最初の二日間に比べれば、退屈なくらいだった。
だから、昼にはデスクを離れることにした。ここ二日間、食事は全てデリバリーで済ませていたからだ。
「食事に出てくる。一時間で戻るよ」
例の女子学生に言い置いて、コヅカは委員会に貸し与えられた大会議室を出る。
真《ま》っ直《す》ぐな廊下を歩いて、最外周の棟へ出ると、玄関ホールへと続く湾曲した廊下だ。
そこに、
「コヅカ先生」
奴《やつ》が、いた。
黒いコートの巨漢。
ねちねちと、しつこい刑事。
図体《ずうたい》ばかりデカいくせに、細かいことにばかり拘《こだわ》る男。
マナガだ。
その傍《かたわ》らには、あのチビの精霊もいっしょだ。
「やあ、マナガさん」
それでもコヅカ弁護士は、笑みを浮かべて手を挙げた。
「ご用なら呼び出してくれればいいのに」
実際のところ、いささか敬意を払ってもいい気分になっていた。なにしろ、昨夜は実験の失敗に続いて、留置施設から暴走した精霊に脱走されるという失態を演じ、それでもまだ、こうしてのこのこと顔を出せるのだから、大したものだ。
奴の躯がデカいのは、分厚い毛皮に覆われた心臓と鋼で出来た神経が詰まっているせいに違いない。
「いえ、オゾネ先生の国葬も間近なんで、お忙しいかと思いましてね。でもお食事には、おいでになるんじゃないかと思いまして」
「昨日まではデリバリーで済ませてましたがね」
「おや。じゃあ私は、運がいいんだ」
そうとも。
少なくとも、その程度にはね。
だがマナガは、幸運はまだ続くと思っていたようだ。
「よければ、ご一緒させていただけませんかね?」
「それはご遠慮いただきたい。第三公社の連中と摂《と》る約束をしているものでね」
それでも、警部補は引き下がらなかった。
歩き始めたコヅカに、ぴったりとついてくる。
「じゃあ、駐車場までご一緒しましょう。私達も、引き上げますんで」
「けっこうですよ」
ほんの数分なら、相手をしてやらないこともない。それに、何のために待っていたのか、興味もあった。
今さら、どんな手札を持っているというのか。
「で、どんなご用件なんですか?」
「ええ。まず昨日のお詫《わ》びにと」
「どちらのです?」
「両方ですよ。あんな実験にお付き合いいただいたことと、その後の騒ぎにです」
「大変でしたね」
「ええ、もう。でも幸い、誰も大した怪我《けが》じゃなかったですから」
ああそうそう、と巨漢は言葉を繋《つな》ぐ。
「あの神曲楽士さん。例の、ほら、女性の」
憶えている。おそらく彼女が、留置施設でニウレキナの暴走を押さえ込んでいたのだろう。
「ええ。お怪我なさってましたね」
「そうなんですよ。まあ大した傷も残らずに済みそうで、ほっとしてます。なにしろ、若い女性のお顔に傷跡なんて残しちまっちゃあ、ねえ」
ぞくり、とした。
「幸いにも、骨にも異状なかったそうですよ。頭蓋骨《ずがいこつ》ね」
なんだ、この感じは。
腹の底に冷たいものが広がってゆく、あの感じだ。
「ああ、そう言えば」
その予感は、
「コヅカ先生も昔、入院が必要なくらい殴られた経験がおありだそうですねえ」
確信に変わった。
「ほら、オゾネ先生とお会いになったころに。二人組の詐欺師に襲われて」
思わず、足が止まりそうになる。
腹の底に力を込めて、強引に前へ出た。
「それが、何か?」
「いえ、別に。大変だったでしょうなあ。どんなお怪我だったんです?」
この男。
まさか。
「なに、大した怪我じゃなかった」
「でもそれが人生の転機になるんだから、判《わか》らんもんですよねえ」
「ああ。お蔭様《かげさま》でね」
「あんな立派な事務所も構えることも出来て」
「オゾネ先生のお蔭ですよ」
「でもねえ、そこんところが、ちょっと引っかかるんですよ」
「何がかね?」
「私、今朝、コエイ興産まで行って話を聞いてきたんです」
今度こそ、足が止まった。
行き過ぎかけて、マナガが振り返る。
マティアもだ。
「コエイ興産……?」
「そうです。あなたがあの事務所を購入なさる際、仲介させた業者です」
間違いない。
この男は……。
「当時の価格で、六千万だそうですね」
「憶《おぼ》えてないな」
「六千万です。資料も残ってます」
「それが、どうしたのかね」
「でもオゾネ先生があなたに六千万を支払ったという記録は、ありません。無論、当時のあなたでは、弁護料だけで六千万なんて叩《たた》き出《だ》せるわけもないですしね」
「キミは……!」
「いえ、税務署で調べたんです。オゾネ先生の、九年前の財務記録です」
なんてことだ。
こいつ、じわりじわりとだが、核心に近づいてるんじゃないか!!
「何が言いたいんだ」
声の震えを押さえ込もうとすると、それは低い怒声となった。
「は?」
「とぼけるな。なぜ私の過去をほじくり返そうとしてるんだ?」
「ほじくるなんて、とんでもない。ただ、ちょっと興味が……」
「何の興味だね!」
ふいに、コヅカは気づいた。
いくつもの顔が振り返り、視線が集中する。
いつの間にか、玄関ホールのすぐ手前まで来ていたのだ。
ホールに反響する声に、マナガは肩をすくめる。だがその様子に、コヅカはもう一片の愛嬌《あいきょう》も感じることが出来なくなっていた。
「お気に障ったなら謝ります」
だが、コヅカの勢いは、もう止まらない。
「キミは、つまり、私が犯人だと思っているのかね」
マナガの顔から、恐縮しきった笑みが消えた。
初めて見る表情だった。
上から、小さな目が、真っ直ぐにコヅカを捉えている。
ゆっくりと動く口が、巨大な墓穴のように見えた。
「はい」
マナガ警部補は、そう言った。
「なんだと?」
「あなたが犯人だと、確信してます」
「キミは……」
「私だけじゃありません。私の相棒もです」
コヅカがマティアの目を正面から見たのは、これが初めてだった。小さな精霊の凍るような視線が、真っ直ぐに彼の目を射貫《いぬ》いていた。
「私にはオゾネ氏を殺す理由などない」
「あります」
「なに?」
「オゾネ先生のコレクションです」
なんてこった……。
「ニウレキナさんが遺産を相続出来ない場合、全ての財産は神曲公社に寄付され、コレクションも寄贈される段取りだそうですね」
「そうだ。だから私の手元には何も残らない」
「それは問題じゃないんです。その点についての犯行は、もう九年前に済んでますから」
膝《ひざ》が震えた。
核心に近づいてるって?
違う!
こいつ、知ってやがるんだ!!
「九年前、オゾネ氏の懐に潜り込んだあなたは、彼のコレクションから何かを盗んだ。そして、そいつを金に換えた」
六千万エン、だ。
「おそらく、噂《うわさ》になってる奏始《そうし》曲の楽譜なんじゃないか、と私ゃ踏んでます。なにしろ、膨大な数の楽譜をコレクションしておられたそうですから、ちょいとニセモノを偽造して入れ換えておけば、そうそうバレるもんでもないでしょうしな」
ところが、とマナガは続ける。
「二週間前、あなたはオゾネ先生の遺言状を読んで、驚いた。金銭はともかく、コレクションはそのまま公社に寄贈されるものと思い込んでいたのに、コレクションまでニウレキナさんが相続することになってたんですから」
そうだ。
オゾネ氏のコレクションには全く興味がなかったはずのニウレキナに、だ。
「全てのコレクションをニウレキナさんが相続してしまったら、いずれ彼女は気づきます。彼女、精霊ですからね。楽譜の真贋《しんがん》くらい見抜くでしょう。そうなるとコヅカさん、あなたがやったことも露顕するわけです」
そしてそれはコヅカにとって、身の破滅を意味する。
無論、今となっては立証も不可能だ。彼が楽譜を持ち込んだ故買屋さえ、見つけ出すことは不可能だろう。
だが、たとえ立証が不可能でも、そんな風評が立つことそのものが命取りなのである。
「あなたは、過去の罪がバレることを恐れて、オゾネ先生を殺害したんだ。それも、オゾネ先生を殺すためではなく、ニウレキナさんを『消滅』させるためにね」
しかしそれでも、
「それは……」
コヅカ・ケイズニーは踏みとどまった。
「憶測に過ぎない。違うか?」
「ええ、憶測です」
「だいいち、犯行そのものが不可能では、起訴は出来ない」
「おっしゃるとおりです」
それみろ!
全ては、憶測に過ぎないのだ。
では、とコヅカは巨漢に背を向ける。
「失礼するよ」
だが、まだ終わりではなかった。
コヅカの背中に、いまいましいくらいに響くマナガの声が叩きつけられたのだ。
「私、これから署に戻って、検死解剖の申請を出すつもりです」
振り返るコヅカの唇は、
「なに?」
震えている。
「今、何と言った」
「検死解剖です。もう一度、遺体を調べてみます」
「そんな申請が……」
「通りますよ。それなりの理由があればね」
「葬儀は明後日なんだぞ!」
「それまでには確実にお返しします」
マナガ警部補は、笑っていた。
満面の笑みを浮かべていた。
それは、つい数分前にコヅカ自身が浮かべていたのと、同じ笑みだ。
「公社が許すものか!」
去って行く二つの背中に向かって、コヅカは怒鳴った。
「そうだ、そんなこと公社が許すものか!! そんな、そんなことを!!」
二人の刑事は、応《こた》えなかった。
立ち止まりもしなかった。
マティアが、ちらり、と振り返り、マナガは背中を向けたまま片手を挙げただけだ。
電話だ、とコヅカは思った。
電話はどこだ。
電話をしなければ。
早く。
一刻も早く!
足早にホールを横切るコヅカに、いあわせた全ての視線が集中していた。
3
三日前、自宅で発見されたオゾネ・クデンダルの遺体は、異例の早さで検死解剖に伏《ふ》された。
無論、様々な政治的な理由があってのことだ。実際のところ、検死解剖が開始される前には中央神曲公社が、すでに捜査手順そのものに口を挟み始めていたのだという。
問題は、公社が一刻も早くオゾネ氏の遺体を引き取りたがったことだ。
型通りの検死の後、遺体はすぐさま第三神曲公社の手によってトルバス総合病院の遺体保管施設に移送されてしまったのである。
そして遺体は、今も、そこにある。
つまり、明後日の国葬当日の朝まで、だ。
マナガとマティアの手元には、不可解な検死報告書だけが残された。
だが、そこにはコヅカ・ケイズニーを犯行と結びつける記述は、一切ないのである。
追い詰めるには、もう一度、遺体を確認する必要がある。
「ニウレキナさんの意識があればなあ」
ハンドルを握って、マナガはぶつぶつと呟《つぶや》く。
「そうすりゃあ、こんな面倒な手順を踏まなくても済むんだが」
だが、その口元に笑みが浮かんでいることを、助手席の少女は見逃しはしない。
「文句の割りには、楽しそうだけど?」
「とぉんでもない!」
にやにや笑いのままだ。
「最後の大勝負なんだ。緊張して、引きつりまくってるんだよ」
「どうだか」
マティアの、それは溜《た》め息《いき》だ。
第三神曲公社の、駐車場である。
建物を出てゆくコヅカの背中を見送った後、二人で黒い四輪駆動車に乗り込み、それから三○分ほども経《た》ったろうか。広い野外駐車場の隅に停車して、マナガの愛車はまだエンジンもかかっていない。
「そもそも、マナガが早く教えてくれてれば、こんな危ないカケに出なくてもよかったんだよ?」
「そう苛《いじ》めなさんな。こっちだって、ツゲ先生の怪我を見てて思い出したんだから」
いつものことだけどさ、とマティアは呟いた。
「それで? 自信は?」
マナガの問いに、
「あるよ」
少女は、正面を見据える。
こちらの切れるカードは、全て切り終えている。
もしも相手が、こちらの考えている以上に切れ者なら、この時点ですでに、こちらは負けたことになる。
だがマティアには、確信があるようだった。
「マナガはさ」
唐突に少女が始める、それは一つのたとえ話だ。
「飛行機と自動車と、どっちに乗るのが怖い?」
「どっちも怖くない」
「そりゃそうだろうけど、じゃあさ、どっちが危険か、と訊《き》かれたら?」
んー、と鼻を鳴らして考えてから、マナガは答えた。
「飛行機だろ?」
「どうして」
「落ちたら死ぬ」
「自動車事故でだって、場合によっては死ぬじゃん」
「飛行機事故の場合は、ほとんど確実に全員死亡だ」
「その事故の発生確率は?」
マティアの質問の意図を、マナガもようやく理解した。
「ああ、そうか」
統計によると、飛行機事故が発生する確率は自動車事故の数百分の一である。
たしかに、一度の事故で犠牲となる人数はケタ違いだし、死亡確率も一○○パーセントに近い。だがそれでも、ある特定の人物が飛行機事故で死亡する確率は、自動車事故のそれとは比べ物にならないくらいに低いのである。
それでも人は、自動車よりも飛行機の方を『怖い』と感じるのだ。
「飛行機の方が安全なはずなのに、飛行機の方が怖いわけだ」
「そう」
「自動車の方が危険なはずなのに、自動車の方が怖くない」
「そういうこと」
「そうか。それと同じなんだ」
「そう。それと同じ」
つまり、それがマティアの『勝算』なのだ。
彼女はケープのアーム・スリットから腕を出して、時計を確認する。
「そろそろ、いいかな」
「よっしゃ」
マナガが、太い指先でつまむように、キーを回す。ぶるん、と一つ胴震いして、黒いクウォンタ・クルーガーは駐車場から滑り出た。
そのまま大通りに入る。
道路は、空《す》いていた。ちょうどエア・ポケットのような時間帯なのだ。
昼休みである。
路上から、業務用の車両が姿を消す、ほんの三○分ほどの『時間的な隙間《すきま》』だ。
勝負、である。
この三○分の間に相手が動きを見せなければ、それで終わりだ。
コヅカ・ケイズニーは逃げきり、ニウレキナ・ウク・シェラリエーテは最有力容疑者のまま『消滅』し、そして事件は迷宮入りする。
出来るだけ交通量の少ない道を選んで、マナガはハンドルを操る。
向かう先は、ルシャゼリウス市警察署だ。
いささかの不安材料と言えば、昼間であるということだった。つまり、相手が諦《あきら》めてしまう可能性も考えられるのである。
しかし残されたタイミングは、今しかない。
マナガは周囲に気を配りながら、出来るだけゆっくりと、慎重に、黒い四駆車を走らせた。
前方に、見慣れた建物が見えてくる。
市警察署である。
助手席のマティアが、しきりに周囲を見回すのは、さすがに焦りを感じ始めたからだろうか。
「マティア」
「うん」
生返事である。
「着いたぞ」
「うん」
建物の正面脇《わき》、西側の左から二番めが定位置だ。白いラインで区切られた駐車スペースに、慣れた挙動で、大柄な車体をあっさりと収める。
エンジンを切った時、マティアは大きく溜め息をついた。
落胆だ。
「ごめん」
うなだれる少女の頭にマナガが手を置くと、ほとんど握り込んでしまいそうなくらいに小さい。
「気にすんな。次の手を考えようや」
次の手があるとは、とても思えなかったが。
うん、と応えて、マティアはシートベルトを外す……いや、外そうとする。
その手が、止まった。
「マナガ」
「あ?」
「見て!」
彼女が指すのは、窓の外のバックミラーである。マナガの位置からは、背後の路面が見えるだけだ。
マティアと頬《ほお》が触れ合うくらいに、顔を寄せる。
見えた。
道路の向こう側の歩道から、合計六つの車線を横切って、何かが急速に接近してくる。
小さい。
ハードカバーの書籍くらいの大きさだ。
真《ま》っ赤《か》な、玩具《おもちゃ》のスポーツカーである。
「ラジコン……」
マティアの呟きに、
「そうきたか」
マナガが呻く。
小さな赤い車体が見えなくなったのは、二人の乗った四駆車の真下に滑り込んだからだ。
「マティア!」
「うんっ!」
次の瞬間、
轟音《ごうおん》とともに、
黒いクウォンタ・クルーガーは爆炎に包まれた。
4
食事を終え、第三神曲公社の大会議室に戻ったコヅカ弁護士は、実行委員長のデスクで報告を受けた。
一本の、電話であった。
相手の男は、済んだぜ、とだけ言った。
コヅカは、判《わか》った、とだけ応えた。
受話器を戻したコヅカ・ケイズニーの顔に、ゆっくりと、笑みが広がった。
終わった。
これで本当に、終わった。
終わったのだ。
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第六章 黒き涙
1
こんな顔だったか?
開かれた柩《ひつぎ》の小窓を覗《のぞ》き込《こ》んで、コヅカ・ケイズニーは思った。
柩の中は、おびただしい量の献花である。まるで花だけが詰め込まれているようにさえ見える。その中から、かろうじてオゾネ・クデンダルの顔だけが、ぽっかりと覗いているのである。
死化粧されて、皺《しわ》だらけの顔が妙に生々しい。秀でた額も、鷲鼻《わしばな》も、薄い唇もたしかに生前のオゾネ氏のものだ。だが同時に、それは初めて見る顔のように、よそよそしい。
これが、とコヅカは思う。
これが、死か。
人間と精霊との違いは、肉体を持つか否かという一点でしかない、と言う者達がいる。だとすれば、肉体こそは人間を精霊と隔てるものであると同時に、単なる器《うつわ》に過ぎないということでもある。
ここにあるのは、つまり、それだ。
「それでは」
声をかけるのは、黒い喪服の係員である。
「これより、オゾネ・クデンダル神曲楽士は、『奏《そう》の世』へ旅立たれます」
係員が分厚い柩の小窓を閉じると、いあわせた全員が後ろへ下った。
わずかに、五名である。
ケープ姿の男達は、二人が中央神曲公社の、もう二人は第三神曲公社の人間だ。そして国葬実行委員の委員長たるコヅカ・ケイズニーは、係員と同様、黒い喪服である。
それ以外の関係者は、斎場の待合室に押し込められていた。市長はおろか将都長や帝都長でさえ、神曲公社の面々に追い出された格好なのである。
係員が、焼却炉の扉を開いた。
分厚く、黒い、金属製の扉だ。
その脇のスイッチを押し込むと、レールに乗せられた柩が、ごろりごろりと音をたてて、炉の中へと移動してゆく。扉を閉じ、係員の目配せと同時に前へ出るのは、コヅカである。
「どうぞ」
言われて、彼はもう一つのスイッチを押した。
鉄の扉の奥で、何かが破裂するような、くぐもった音が響いた。
「故人は、旅立たれました。待合室にて、しばらくお待ちください」
一同は、係員に追い立てられるようにして、焼き場を後にした。
終わった。
オゾネ・クデンダル楽士の国葬は、過去に例のないほど盛大でもあり、かつ荘厳でもあった。
トルバス神曲ホールに設けられた祭壇は、高さ四メートル幅一二メートルにもおよぶ巨大な献花台だった。その中央には故人の巨大な遺影が飾られ、それに比べればオゾネ・クデンダル本人の収まる柩など豆粒に等しかった。
参列者は五万人とも八万人とも言われているが、現時点では最終的な集計はまだ出ていない。あるいは、一○万人規模だったかも知れない。なにしろ、キャパシティ一万三千人のメイン・ホールに入りきれなかった人々が、ホール内部だけでなく、外周に沿って列を作り、さらには地下鉄の駅を越えてなお伸びていたというのである。
結局、ホール側の『厚意』で、遺体が運び出された今も葬儀は続いているという。
だが、とコヅカは思った。
こっちは、これで終わりだ。
二重の意味で。
斎場を出て、コヅカは目立たぬように伸びをした。
ルシャゼリウス市郊外の、ソルテム山に近い丘陵地帯である。周囲に建物はなく、斎場だけがぽつんと建ち、その背後には広大な墓地が広がっている。
神曲公社の四人が棟続きの待合施設へ移動するのに背を向けて、コヅカ・ケイズニーは緑の斜面を見下ろし、胸ポケットから煙草《たばこ》を取り出した。
火を点《つ》けて、煙を肺いっぱいに吸い込む。
そこへ、
「コヅカ先生」
いきなり声をかけられて、むせそうになった。
低い声。
聞き覚えのある、低い、声!
弾《はじ》かれたように振り返った。
「お疲れさまでした」
ワツキ・フレジマイテ刑事だった。
「あ、ああ、どうも」
神妙な顔つきで、ワツキ刑事はコヅカの隣に立つ。どうやら、ひそめた彼の声が、たまたまマナガ警部補の声のように聞えただけだったようだ。あるいは、建物に反響したせいかも知れない。
「終わりましたね」
若い刑事に、
「ええ、おかげさまで」
コヅカは笑みを浮かべて見せる。
「そちらも大変らしいですな」
弁護士の言葉に、ワツキ刑事は暗い顔でうなずいた。
「ええ、まあ」
「ご容体は、どうなんです?」
「本当はお話し出来ない決まりなんですが……」
ワツキは前置きする。
「……よくありません。二人とも」
マナガと、そしてマティアのことだ。
強力な爆薬で、乗っていた車ごと爆破されたのだという。警察は、それ以上の詳細はまだ話せない、と言っていたが、コヅカにはそれだけで充分だった。
阻止したのだ。
解剖を。
殺す気は、最初からなかった。ただ二度めの検死解剖の申請を出させなければ、それでよかったのである。あるいは、いまいましい楽士警官の方が死亡する可能性は考えないでもなかったが、まさかあのチビの精霊までがダメージを受けてくれることは期待していなかったのだ。
それが、これだ。
二人とも、肝心の国葬にすら姿を見せなかった。代わりに来たのが、この若い刑事だ。
遺体は、あと数時間で火葬が終了する。いや、今この瞬間にだって、とても検死解剖が出来る状態ではなくなっているはずだ。
そして今夜中には祭事が行われ、遺骨は中央神曲公社を含め各地の公社に分骨される。
無論、それを決定したのは、コヅカである。
最後の証拠は、消えたのだ。
ワツキ刑事が背後を振り返り、空を見上げた。視線を追うと、斎場の太い煙突から、白い煙が青空に向かって吹き上げている。
「マナガは、何を掴《つか》んでたんでしょうね……」
ぼそり、と呟《つぶや》いてから、若い刑事はコヅカに視線を投げてきた。
あからさまに裏に何かを隠した、疑わしげな目だ。
「さあ」
コヅカは、しかし、もう動じはしない。
「私には、二人が犯人のすぐ背後まで迫っていたように思えるんですよ」
「そうですか」
「ええ」
そうだよ、と言ってやりたかった。
言って、笑いのめしてやりたかった。
かろうじて、こらえる。
そして、言った。
「残念ですな」
まだ半分以上も残っている煙草を、コヅカは足元に落とすと、踏みにじった。
それから待合室に戻って、時間を潰《つぶ》した。
公社の連中や、都や市の職員連中と、今後の打ち合わせをした。
オゾネ楽士の遺品についての打ち合わせが、ほとんどだった。
三時間ほどが経《た》ったころ、係員が呼びにきた。
公社の四人とともに、遺体を骨揚《こつあ》げした。
かりかりに炭化して原型も判らぬほどに砕けた、それは骨格の残骸《ざんがい》でしかなくなっていた。
2
『奏の世送りの儀』に続いて、『骸《むくろ》分けの儀』は夜遅くまで続いた。
もっとも、斎場の広間を借りて行える程度のものであったし、参列したのはコヅカを除けば各公社の遣いの者だけで、総勢二十数人、そして何より、すでに場の仕切りがコヅカの手を離れていたのが救いだった。
コヅカ・ケイズニーは故人の顧問弁護士として、その進行を見届けるだけの役目だったのである。
それでも、車に乗り込んで帰途についた時には、ぐったりと疲れていたのも事実だ。
だが、行かねばならない。
ああいう『連中』は、相応の報酬さえ支払えば何でもやってのける一方で、報酬の支払いが滞れば、てきめんに牙《きば》を剥《む》いてくるからだ。
ハンドルを握って、コヅカは腕時計を確認する。
すでに、約束の時刻から三○分は遅れている。到着するころには、一時間を超えるだろう。
電話してから斎場を出るべきだったろうか。誰かに会話の内容を聞かれる危険があったため、連絡が出来なかったのだ。
「糞《くそ》っタレ」
悪態を奥歯で噛《か》みしめながら、コヅカはアクセルを踏み込んだ。
夜空に浮かぶ黒いソルテムの稜線《りょうせん》を右手に見ながら、車を飛ばす。ルシャゼリウス市内を、東から西へ横切る格好だ。
アムルサの町外れに着いたのは、深夜零時の数分前だった。
さびれた町だ。
スラム化こそしていないものの、低所得者層の町である。建物はどれも背が低く、立ち並ぶ街灯も大半が消えている。道路脇《わき》の消火栓は故障しているのか、じくじくと水を吹き出して、ひび割れだらけの舗装道路に大きな水たまりを広げていた。
目指す店に、駐車場はない。
路肩に車を停《と》めると、コヅカ・ケイズニーは水たまりを踏まないように注意しながら、大股《おおまた》で歩道に下りた。
目の前に、下品な看板の電飾がまたたいている。電飾効果ではなく、これも故障しているらしい。不規則に点滅を繰り返す電光管の文字は、『人生の処方箋《しょほうせん》』と読めた。
正面のドアは分厚い木製だが、あちこちで塗装が剥《は》げて反り返っている。それでも真鍮《しんちゅう》製のノブだけが輝いているのは、客足だけはあるということだろう。
顔をしかめてドアを開けると、途端に安っぽい流行歌が耳を打った。
薄暗い店内には奥へと続くカウンターと、円形のテーブルが六脚ほど。その大半が、埋まっている。
意外だった。
もっと、生活に疲れたような連中が愚痴と溜《た》め息《いき》にまみれて肩を寄せ合っているような、気だるげな店内を予想していたのだ。
そうではなかった。
三○人はいるだろうか、席を占めているのは、どいつもガラの悪そうな連中ばかりだったのだ。
どの顔も、若い。銀色の鋲《びょう》を大量に打ち込んだ革ジャンや、ドクロだのドラゴンだの血みどろの拳《こぶし》だのをプリントしたTシャツ姿が、ほとんどだ。素肌にそのまま革のベストを着込んだ男や、中には上半身裸でマッチョを見せびらかしている奴《やつ》もいる。
ごろつきの溜まり場なのだ。
黒いスーツ姿のコヅカは、店中の注目を集めた。会話とも呼べないような喧騒《けんそう》が途絶え、耳障りな流行歌だけが残る。
本能的に店を出ようとしたコヅカを、
「いよう、先生!」
しかし、聞き覚えのある声が引き止めた。
「こっちだよ、こっち! ここ!!」
奥の方で、ひらひらと掌《てのひら》が舞っている。店の奥の、カウンター席だ。
すり切れたジャンパーの男が、手を振っていた。
途端に、コヅカに集中していた視線が散って、喧騒が戻る。全員が、彼に興味を失ったようだった。
隣の席に着くと、ジャンパーの男はにやにやした笑みで彼を迎えた。
「遅かったじゃないか、先生」
「すまない。葬儀が長引いたもんでね」
「いいってことよ」
骸骨に安物のブタ革でも貼《は》り付《つ》けたような、痩《や》せた男である。だらしない笑みを浮かべる口には、数本おきにしか歯が生えていない。
タメギ・チョラーカウ、というのが男の名である。
「たっぷり飲ませてもらってるからよ。当然ここも、先生のおごりだよな?」
「ああ。そのつもりだ」
ゴバリの枝族の精霊か、と思うようなバーテンが、これ見よがしにコヅカの前に立つ。ビールを注文すると、奥へと引っ込んだ。
「それで」
歯抜けのタメギが、身を乗り出す。
「金はどこだい」
コヅカは、上着をめくって見せた。内ポケットには、いささか分厚い封筒が収まっている。たった今まで腐り果てた魚のようだったタメギの目が、いきなり輝いた。
「おっと」
だが、コヅカはすぐに上着を閉じる。
「その前に、確認したい」
「なんだよ。焦《じ》らすなよ先生」
「誰にも見られなかったろうな」
「あたりめぇだろ? 俺《おれ》はプロだぜ。これまでだって何十人も、これで『奏の世』送りにしてきてんだ」
「一度、逮捕されてるじゃないか」
その情報から、コヅカはタメギのことを知ったのだ。
「証拠不充分で釈放されてるっつの」
そのとおりだ。
それによ、とタメギは続ける。
「あん時ゃ、商売敵が密告しやがったからだ。いいかい、先生よ。そんでも証拠不充分なんだぜ? 信用しろってばよ」
無論、信用はしている。
そもそも、コヅカがタメギに接触したのは二週間前、この計画の準備にかかった最初の段階でのことだ。前金を渡して、ラジコン爆弾の準備にかからせたのである。
銃による偽装殺人が計画どおりに運びそうにない場合の、代替案としてだ。
結局、タメギには違約金を支払い、それっきりになるはずだったのである。
あの精霊課の二人が現れなければ、だ。
しかし今、こうして全てが納まるところに納まった。コヅカはオゾネ・クデンダルの殺害をなし遂げ、ニウレキナは留置施設で『消滅』の危機にあり、そしてタメギはせっかく用意した爆弾を無駄にすることなく報酬を受け取るのだ。
「判《わか》った。そうだったな」
コヅカ・ケイズニーは、タメギ・チョラーカウに封筒を手渡した。
何の汚れだか判らないもので黒く染まったタメギの指が、封筒を引っ掴んで、ジャンパーのポケットに仕舞う。
「数えなくていいのか?」
「俺を騙《だま》して生きてられるとは、先生だって思っちゃいねえだろ?」
「そのとおりだ」
コヅカは、笑みを浮かべる。
タメギが、自分のグラスを掲げた。
「じゃあ、乾杯だ。こいつを飲み干したら、俺と先生はアカの他人てわけ」
気がつくと、コヅカの注文したグラスもカウンターに置かれていた。
手にとり、掲げる。
「乾杯だ、先生」
「ああ、乾杯だ」
「けっこうですなあ」
太い、腹の底に響く声が、店内に響いた。
まさか。
まさか!
「私もお仲間に入りたいとこですが、あいにくと勤務中でしてね」
カウンターに向かった二人の背後に、そいつが、いた。
巨漢である。
身長は、ゆうに二メートル半。
大きな銀色のトランクに、黒いコート。
異様なまでに広い肩幅と分厚い胸、太い首と無精髭《ひげ》の浮いた四角い顎《あご》。
荒っぽく彫り込まれた彫像のような、その顔。
「お前……」
それだけではない。
巨漢の傍らには、黒いケープの少女が寄り添うように立って、こちらを見据えているではないか。
マナガ警部補。
マティア警部。
殺したはずの二人!
「いつの間に……」
思わず呟いたコヅカの言葉は、いあわせた店内の全員の思いを代表するものだったようだ。ざわり、と沸き起こるざわめきとともに、全員が席から尻《しり》を浮かせたのだ。
「ああ、諸君!」
マナガはコヅカを見下ろしたまま、しかしその言葉は店内の全員に向けられている。
「私ゃルシャ市警のマナガ警部補! あんたらを取り締まりに来たんじゃない! この先生に用があるだけだ!」
その宣言を、全員が信じたかどうか。
だが少なくとも、ブーツやベルトからナイフや銃を抜き出しかけていた連中は、その手を止めている。
「店が暗いんで、あんたらの顔だって見ちゃいない。今だって、こうして背中を向けてる。だから今のうちに店を出てくれても、私ゃなんにも困らない。判るかい?」
それから、付け加えた。
「店ぇ出る時には、ちゃんと支払い済ませていきなよ」
それが、合図になった。
テーブルに小銭を投げ出す音と、ばたばたと店を出てゆく足音が続いた。
たったの三○秒で、店内には四人の人間と一人の精霊だけが残された。バーテンと、コヅカとタメギ、そしてマナガとマティアである。
「さてタメギ」
じろり、とまず最初にマナガが見下ろすのは、タメギ・チョラーカウである。
「お前さん、今、この先生から何を受け取った?」
「別に。貸してた金を返してもらっただけさ」
「苦しい嘘《うそ》だね」
「ああ。でも、今のあんたにゃ何も立証出来ねえだろ?」
「そのとおりだ。だから、お前さんも行っていいよ」
タメギは、へへっ、と笑って椅子《いす》を滑りおりる。それから、
「じゃあ、先生」
言い残して、店を出ていった。
苦笑で見送るマナガの顔が、再び、動いた。
今度は、コヅカに向かって。
「さて、コヅカ・ケイズニー先生」
彼が腰を下ろすのは、カウンター・チェアではない。床の、丸いテーブルの方だ。
飲みさしのグラスが残された分厚い木製のテーブルが、ぎしり、と軋《きし》んだ。
「とりあえずは、お見事でした、と言っときましょう」
そのマナガの隣に、マティアが立つ。立っている彼女の頭が、座っているマナガの肩よりもまだ低いのは、マナガが巨大過ぎるのか、それともマティアが小柄過ぎるのか。
「でも最後の爆弾は、余計でしたね」
「何のことだ」
たったそれだけの言葉に、舌が貼り付いてしまう。
ビールを喉《のど》に流し込むと、小便みたいな味がした。
「あの男を雇って、やらせたんでしょう」
「否認する」
「でしょうなあ」
当然だ、とばかりに、岩の彫刻みたいな顔が何度もうなずく。
そして、言った。
「先生は、飛行機に乗るのと自動車を運転するのと、どっちが怖いですか?」
「なんだって?」
「飛行機と自動車、どっちが怖いですか?」
意味が判らない。
だがコヅカが応《こた》える前に、巨漢は勝手に先を続ける。
「たいていの人は、飛行機の方が怖い、って答えるんですよ。どうも、人間の本能に関係があるらしいですね」
つまり、こういうことだ。
飛行機は、統計の上では自動車より安全だが、しかし自分で操縦するわけではない。一方で自動車は、飛行機よりも危険な乗り物のはずだが、しかし自分で運転が出来る。
「人間ってやつは、安全が保証されている代わりに自由にならない状況よりも、危険であっても自分で自由に状況に干渉出来る方が安心するらしいですなあ」
「何が言いたいのかね?」
さっぱり判らない。
だが、ぞくり、と悪寒が走ったのは事実だ。
「いえね。安全なことが保証されてるって頭では判ってても、手放しじゃ不安になっちまうのが人間だって話ですよ。自分で手を出した方が安全な気がしちまうもんだってね」
マナガの小さな目が、下から覗《のぞ》き込《こ》むように動く。
「先生のおかげで、申請が通ったんです」
「なに?」
「二度めの検死解剖の申請。実はね、申請を出したのは一昨日、第三神曲公社のビルで先生にお会いするよりも、前だったんです」
なんだと?
「でもねえ、公社が許可してくれませんでね」
だからカケに出たんですよ、とマナガは言った。
「公社にかけあったんです。犯人に二度めの検死解剖について知らせる、ってね。もし犯人がそれを妨害しようとするなら、それは遺体を再確認されたくない証拠だって」
そしてコヅカは、まさに妨害してしまったのだ。
「まさか、爆殺しようとするとは、こっちも思いませんでしたがね」
「だが、いや、まさか……」
「攻撃の来ることが前もって判ってれば、何とでも防御は出来ます」
そうか。
精霊雷だ。
不意を突けば、精霊でも傷つけることが出来る。そもそもコヅカは、タメギの爆弾が必要になるのはオゾネとニウレキナを一度に始末する必要が生じた場合だと考えていた。だからこそ、そのままマナガとマティアにも通用すると考えたのだ。
だが、事前に攻撃を察知されれば、精霊雷で防御されたとしても不思議はない。
しかし、
「だから、何だね?」
まだ、状況証拠だ。
「それを聞いて私が、おっしゃるとおりタメギにあなた達を殺させようとしました、と自供するとでも思うのかね?」
コヅカとタメギが口を割らない限り、何も立証出来ないのだ。
だが、マナガは目を閉じて、首を振った。
「いいえ。あんた、そんなにヤワじゃない」
「だったら」
「それにね」
マナガの小さな目が、じろり、と動く。
自分に対する呼び方が変わっていることに、コヅカは気づいていた。
「この件で、あんたを逮捕しようなんて思っちゃいません。二度めの検死解剖の許可が下りるように、あんたに動いて欲しかったんですよ。その意味では、やってくれて感謝したいくらいです」
やっと、判った。
飛行機と自動車だ。
放《ほう》っておけば、公社は二度めの検死解剖などさせなかったに違いないのだ。
「思ったとおりのモノが出ましたよ」
証拠が、である。
「コヅカ先生。最初の朝、オゾネ先生が殺されたことを中央神曲公社に連絡したのは、あなたですね?」
マナガの、それが質問ではないことは明らかだった。
「おかげで、公社の連中から矢の催促だったそうですよ。急げ急げ、早く遺体を引き渡せってね。検死解剖の始まる前からです」
それでね、とマナガの目が細くなる。
「ぴん、ときたわけで。あんたが公社を通じて圧力をかけてきたとすると、それはつまり、遺体をじっくり調べられると困る理由があるからじゃないか、ってね」
マナガが内ポケットから取り出すのは、拳銃《けんじゅう》だ。
大口径、短銃身の、リヴォルバーである。例の実験に使ったやつだ。
「そうです。弾丸は消えちゃいなかった。まだ遺体に残ってたんです。ただ検死官は、そのことに気づくだけの時間がなかったんですよ。公社から急《せ》かされたおかげでね」
マナガが銃を手に立ち上がると、なりゆきを見守っていたバーテンが、あわててカウンターの下に身を伏せる。ほとんど同時に、マナガは身をひねると、たった今まで座っていたテーブルの天板に向けて、発砲した。
銃声。
そして硝煙の匂《にお》い。
だが、テーブルに弾痕《だんこん》は残らなかった。
「あんた、こうやったんだ」
よく見てみるまでもなかった。
どうなるかは、判っていたからだ。
テーブルの分厚い天板が、ほぼ円形に、ささくれている。
「実を言うとね、私じゃない。これに気づいたのは、相棒なんですよ」
この、小さな精霊が。
何の役にも立ちそうにない、この小娘が。
「彼女、パズルが好きでしてね。今ハマッてんのは、もっぱらクロスワード・パズルなんですがね」
なんてこった。
ちくしょう、なんてこった!
「弾丸がまだ遺体に残ってるとして、そしてその事実に検死官が気づかないとしたら、それは弾丸のカタチをしてなかったからじゃないか、パズルみたいにバラバラになって……それも、そこにあって当然のカタチをしてたんじゃないか、ってね」
「それで……」
「そうです。だから二度めの検死解剖が必要だったんです」
マナガは銃のシリンダーを振り出すと、まだ発射していない弾丸を一つ抜き出して、コヅカに向かってかざして見せた。
弾頭が、白い。
一方でマナガの太い指が、テーブルのささくれをほじくった。指先につまんで引き抜いたのは、割れた陶器を思わせる一センチほどの白いカケラである。
マナガの指が、白いカケラと白い弾頭とを、並べた。
「骨の弾頭です」
正確には、骨片の、だ。
「うちのワツキに作らせたんです。ほら、あの実験に使った頭蓋骨《ずがいこつ》でね。おかげで今度、晩飯を奢《おご》る約束をさせられちまいましたがね」
無数の骨のカケラを、大口径の薬莢《やっきょう》に詰め込んだ、それは言わば骨片の散弾だ。
鉛の弾頭を抜き、代わりに小さな無数の骨片を詰め込んである。銃に込めて引き金を引けば、散弾銃が無数の金属球を撃ち出すのと同様、無数の骨片が発射されるのだ。
「私も勉強しましたよ。弾道学ってやつをね。おおかたはチンプンカンプンだったんですが、肝心なところは判《わか》りました。運動エネルギー、てやつです」
物体の持つ運動エネルギーは、重さが二倍になれば二倍に、速度が二倍になれば四倍になる。すなわち、全く同じ物質が衝突した場合、一方の速度が他方よりも充分に大きければ、相手を破壊し得るのである。
骨と骨との激突でも、同じことだ。
ましてや標的は、老人の、年老いて脆《もろ》くなった頭蓋骨なのである。
「おそらく、これと同じ大口径で銃身の短い拳銃だったんでしょ? 弾丸には高品位の火薬を詰め込んで。しかも銃口を押しつけるみたいにして発射した」
骨の散弾は、オゾネ・クデンダルの頭蓋骨を粉砕した。
そして、脳内に撒《ま》き散《ち》らされた。
被害者自身の、砕かれた頭蓋骨の破片と混じり合って。
「それじゃあ……」
「ええ、そうです。パズルですよ。一つ一つ骨片を取り出して、銃創に当てはめさせたんです。骨に開いた穴にね。検死の連中、ぶうぶう文句タレてましたがね」
でもね、とマナガは銃と銃弾をポケットに仕舞い込む。
「おかげで、出ましたよ。どう頑張っても射入孔に当てはまらない骨片が、ぞろぞろ出てきました」
パズルの、合わないピースが。
「当然、硝煙反応も出ましたよ。体組織の方からは、もう検出不能でしたがね。でも問題の骨片は、どれも火薬によって発射されたものであることが確認されたわけです」
「いや、だが、それは」
「ああ、そうそう。あんたの言ったとおり、布の繊維も見つかりました。今度は公社にも急かされてませんでしたのでね。それでも、ハナッからその気で探さなきゃ見落とすくらい、小さなものだったそうですが」
「いや、まて……。それは……」
そうだ。
「それは殺害方法を解いただけだ! 私と結びつける確たる証拠など……」
その言葉は、
「あるんですよ」
遮られた。
「私、こんな図体《ずうたい》ですんでね、他人の頭のてっぺんが丸見えなんですよ。コヅカさん、あんた、髪の分け目で上手に隠してるが、頭に大きな傷がありますね」
やはりか。
やはり、こいつは……。
「そうです。ちゃんと、当時あんたが治療を受けた病院にも行ってみました。カルテの保存期間は過ぎてましたが、担当医はちゃんと憶《おぼ》えてましたよ」
コヅカ・ケイズニーが二人の詐欺師によって受けた、頭蓋骨陥没の重傷だ。
「その傷の下の頭蓋骨には、ちょっとした穴が開いてる。そいつを金属プレートで塞《ふさ》いであるんですってね」
「そうか」
そこまで判っているなら、
「鑑定は、済んだのかね」
「ついさっき、DNA鑑定に出したとこです。でもね、犠牲者のものとは違う若い骨であることだけは、検死官の連中も太鼓判を押しました」
取り出した頭蓋骨の破片は、ちょっとした記念品だったのだ。
「ここで言い逃れても、すぐに結論は出るということか」
「ええ。鑑識の連中も、大車輪で働いてくれてますんで」
コヅカ・ケイズニーは、深い溜《た》め息《いき》をついた。
運が、尽きたのだ。
「一つ、訊《き》いていいか?」
「なんです?」
「いつから疑ってた? まさか、初対面でオツムのてっぺんを見た時から、なんて言わないだろうな」
「ええ、違います。でも、初対面からなんです」
「ああ、なるほど。真《ま》っ直《す》ぐ書斎に向かったから、か」
「いえ、そうじゃありません」
「なに?」
「あんた、うちのワツキに、言ってたでしょ? 早く犯人を捕まえてくれ、って」
「立ち聞きしてたのか」
「いいえぇ! たまたま書斎を覗き込んだら、そうおっしゃってるところだったんです。でもね、妙だな、ってね。後でワツキに訊いたら、その時点では誰《だれ》もあんたに、これは殺人だとは言ってなかったって」
なんてこった。
「ニウレキナさんが警察と救急に電話なさった時も、殺人とはおっしゃってません。これは録音が残ってますから、確かです。だから、その直後にあんたのとこに連絡した際にも、あんたにだけ『殺人だ』なんて言うとは考えられないんです」
ところが、コヅカ・ケイズニーだけは、殺人であると知っていた。
「そういうことか」
コヅカは、半ば尊敬のまなざしで、目の前の巨漢を見上げた。
だが当の本人は、照れ臭そうに鼻の頭を掻《か》くばかりだ。
「実を言うとですね、これも私じゃないんで」
「なにが?」
「あんたが犯人だと最初に言い出したのは、相棒の方なんです」
なんだって?
「骨のパズルは難関でしたがね。でも、あんたの頭の傷のことを教えてやったら、なんでもっと早く言わなかった、って怒られたくらいで」
恐れ入った。
なるほど、思ったとおりだった。本当の敵は、この小さな精霊の方だったのだ。
「自供していただけますか」
無論、と応えるつもりだった。
そうする以外に、道はないからだ。
だが、
「そりゃ勘弁してもらいてえな!」
野卑な声とともに、店のドアが乱暴に開いた。
どかどかと床を踏みならして雪崩《なだれ》込んで来るのは、さっきまで店でたむろしていた三○人ほどのごろつき連中だ。
その真ん中を割るように、タメギ・チョラーカウは仁王立ちである。
その手には、銃が握られている。
タメギだけではない、全員が、手にしたご自慢の銃を、こちらに向けているのだ。
運だ、と思った。
これが、運というやつだ。
肩にのしかかっていた落胆が、蒸発するように消えてゆく。
コヅカは笑みを浮かべて、
「助かったよ」
タメギに歩み寄ると、その隣に立った。
「なあに。先生が捕まっちまっちゃあ、こっちまで分が悪くなるんでね」
巨大な銀のトランクを手に、ゆっくりと、マナガがこちらに向き直る。マティアの方は首だけをこちらに向けて、その視線は全員を射抜かんばかりだ。
「楽士の方を狙《ねら》えよ」
その言葉に、全ての銃口が、トランク型の単身楽団を手にしたマナガに向けられる。
誰もが、理解しているのだ。
精霊の『力』は、神曲楽士の支援楽曲によって増大する。
言い換えれば、神曲楽士のマナガを先に射殺してしまえば、その契約精霊であるマティアの『力』を押さえ込むことになるのだ。
「コヅカさん」
マナガの声は、低く、腹の底に響く。
「警官殺しは、重罪ですよ」
だがコヅカには、もう怖くも何ともなかった。
「私の専門を何だと思ってるんだね、マナガくん」
そして、言った。
「告発する者がいなければ、どうにもなるまい」
それが、合図になった。
最初に引き金を引いたのは、タメギである。
何十もの銃声が、一続きの轟音《ごうおん》となって店を震わせる。
バーテンがあわてて頭を引っ込めたカウンターが、ばりばりと抉《えぐ》られる。
ほんの数秒。
そして静寂。
残る音は、安っぽい流行歌だ。
だが、
「おい」
誰かが、呻《うめ》いた。
「嘘だろ」
恐怖の声だ。
そして、何か小さな固い物が、ぱらぱらと音をたてて床に落下した。
マナガが、立っている。
ゆらぎもしないで、立っている!
片手に銀のトランクを下げ、もう片方の手を前方に伸ばして。
開いた五本の指は、太く、大きい。
「そんなもん」
マナガが笑うと、巨大な歯並びが覗いた。
「通じるかよ」
銃弾は全て、叩き落とされていた。
マナガの手に。
その手から放たれた、精霊雷に!
「そんな……まさか!!」
下手《へた》くそな歌手の下手くそな歌に混じって、別の音があった。
静かな、リードの震える音。
ハーモニカ……、いや、違う。
ブルースハープだ。
マティアが、黒いケープのアーム・スリットから伸ばした手を、口元に揃《そろ》えている。細い指の隙間《すきま》から、ちらり、と銀色が見えた。
曲は、そこから聞えているのだ。
なんてこった。
なんてこった!!
神曲楽士は、マナガじゃない。
マティアだ。
マティアの方が、楽士警官なのだ!
それも、単身楽団《ワンマン・オーケストラ》を必要としない、天才級の!!
そして、
マナガは……!
黒いコートの巨漢は、目を閉じていた。
呆然《ぼうぜん》と立ち尽くすゴロツキどもを前に、頭を垂れ、目を閉じて、小さな契約楽士の奏でる神曲に聴き入っているのだ。
静かな曲だった。
哀《かな》しい曲だった。
無頼の男が酒場の隅で、歯を食いしばり、喉《のど》の奥に号泣を呑《の》み込《こ》みながら、それでも肩の震えを隠しきれずにむせび泣いているような、そんな音楽だった。
「罪ってぇのはよ……」
静かに、巨漢が口を開く。
「償い時ってものがあるんだ」
閉じた瞼《まぶた》の隙間から、
「そいつを逃《のが》しちまうとな」
一筋の涙がこぼれた。
「待ってるのは永遠の後悔だ」
黒い……夜の闇《やみ》のように黒い涙だった。
「償わせてやるぜ!!」
マナガが瞼《まぶた》を開いた。
涙を流す右目だけが白目を失い、一面、真っ黒に染まっている。
コートの背中に、黒い羽根が展開した。
三枚だった。
3
マナガの黒い右目は、罪の証《あかし》である。
マナガの黒い涙は、罪の証である。
マナガリアスティノークル・ラグ・エデュライケリアスの黒い羽根は、罪の証である。
古い古い罪の、拭《ぬぐ》いきれぬ証である。
だからこそ、彼はマティアと契約を結んだ。
明晰《めいせき》な頭脳と、たぐい稀《まれ》な才能と、そして孤独の少女と契約を結んだ。
当時、たった一二歳だった少女と。
マチヤ・マティアと。
「おうらあ!!」
叫びとともに、マナガは銀のトランクを振り上げる。
叩きつけるのは、マティアの目の前の床だ。
旧式の単身楽団の外装を利用した、しかしそれは単身楽団ではない。マティアの小さな躯《からだ》を銃弾から護《まも》るようにタテに置かれたトランクの、その上面でシャッターが開く。
垂直に飛び出すのは、二丁の拳銃《けんじゅう》である。
大型にして大口径、長大なブル・バレルと二列装弾《ダブル・カアラム》の弾倉、ボルト・タイプの遊底《スライド》を持つオートマチックだ。
黒い凶器がまだ宙にあるうちに、ダンサーさながらのスピンで、マナガは斜め前方へと回転する。ずたずたに裂けた三本のマフラーのような羽根が、左の背中に二枚、右の背中に一枚、彼の動きにしたがって螺旋《らせん》を描く。
その動きの中で、トランクから跳ね上がった銃をマナガの太い腕が、空中から引ったくった。
どん、と響くのは、彼が床を踏む音である。
竜巻のような一瞬の回転運動が停止した時、マナガは銃を手に、マティアとトランクの前に立っていた。
神速である。
二メートル半を超える巨体の、それは重力と慣性と大気の抵抗を無視した動きだ。
マナガリアスティノークル・ラグ・エデュライケリアスは、古き精霊なのだ!
彼に向けられていた全ての銃口は、標的を逸れている。
しかしマナガは、その隙を狙ったりはしなかった。
「こっちだ、おら!!」
三○ほどの銃口が、一斉に動いた。
「痛ぇぞ! 覚悟しろよ!!」
迎えるのは、たった二つの銃口である。
無数の銃声は、連続する音ではなく、一つに融合した轟音となる。発射された高温・高速の弾丸は、すえた臭《にお》いの大気を切り裂き、テーブルを抉り、カウンターに食い込み、グラスを断ち割り、酒瓶を粉砕する。
全ての銃弾が、マナガの巨体を逸れた。
精霊雷による防御ではない。
マナガを狙う銃口が、発砲の寸前に、ことごとく標的を逸れるのである。
それは、神曲の戦闘支援を受けた精霊にのみ可能な、神業であった。マナガの黒い眼《め》は、三○人に及ぶ敵の、三○に及ぶ銃から弾丸が発射される瞬間を、コンマ・ゼロ秒以下の精度で見極めているのである。
そして相手が引き金を引く寸前、その腕を、肩を、あるいは銃そのものを狙い撃つのだ。
もしも彼と同じ『目』を持つ精霊がこの場にいあわせたなら、その驚くべき光景を目撃することが出来ただろう。マナガの銃は、銃口から飛び出した弾丸がまだ標的に到着する前に排莢と遊底の封鎖を完了し、次の標的に向かって次の弾丸を発射しているのである。
たった数秒の出来事だった。
銃声が、途絶えた。
下品なBGMを奏でていたスピーカーも、流れ弾で破壊されたらしい。
マティアのブルースハープも、演奏を終えている。
そこに、
「いで! いでで!」
「なんだ! なんだこれ!!」
「うわああ! 手が! 手が!」
ようやく自分が撃たれていることに気づいた連中が、腕を、肩をおさえて悲鳴をあげる。それ以外の男達は、手にした銃がひん曲がっているのを見て目を剥《む》いた。大口径の弾丸の、直撃を受けたのだ。
そして、全員が、見た。
「どうだい」
黒いコートの巨漢を。
「ちょっとしたもんだろ。え? おい」
黒い右目と、黒い涙と、そしてゆったりと宙でうねる三枚の黒い羽根を。
「精霊弾は苦手だがよ、こっちは得意でね」
白い煙をまといつかせた、巨大な二丁の銃を。
「さて、どうするね?」
古き精霊、マナガリアスティノークル・ラグ・エデュライケリアスの姿を!
「まだ遊び足りねえなら、相手するぜ」
遊び足りない者は、一人もいなかった。
傷を押さえて呻いていた者も、お気に入りの銃を壊されて呆然としていた者も、マナガのその言葉に我に返った。
そして、悲鳴をあげた。
黒い巨漢に背を向けて、小汚い店の小汚い入り口に殺到し、押し合い、罵《ののし》り合いながら、店の外へと逃げ出してゆく。カウンターを飛び越えたバーテンまでが、自分の店を見捨てて、見苦しい遁走《とんそう》劇に加わった。
ただ一人、コヅカ・ケイズニーだけが、呆然と立ち尽くしてこちらを見ていた。
マナガが口を開いたのは、
「そういうわけだ、先生」
コヅカを除く全員が、恐怖に喚《わめ》き散らしながら夜の通りへと飛び出して行った後だった。
「俺《おれ》は、こう見えてもスジは通すタチでね」
黒い右目で、見据えながら。
「あんたが自分のやったことに責任を果たすんなら、別に殴りゃしねえ。だが逆ギレして攻撃してくるなら、やり返す。ケツまくって逃げる気なら、地の果てまで追いかける。絶対に逃がしゃしねえ」
それは、最終通告だった。
「どうするか、決めな。今、ここでな」
ゆっくりと、銀のトランクを回り込んで、マティアが姿を見せる。小さな手が、肩の上のホコリを払った。
もう一方の手が握っているのは、小さな銀のブルースハープだ。
「コヅカ・ケイズニーさん」
その声は、高く澄んでいる。
「あなたを、オゾネ・クデンダル氏殺害容疑で、逮捕します」
無論それは、現時点で立件可能な容疑だけを述べたに過ぎない。
当然、タメギに対するマナガとマティアの殺害教唆、さらには未遂であるものの中央神曲公社に対する詐欺行為ならびに業務上横領も付け加えられることになるだろうし、ニウレキナが彼を名誉毀損《きそん》と精霊殺害未遂で訴えることも可能だ。
無論、弁護士資格は剥奪《はくだつ》される。
もっとも、死刑を免れたとしても刑務所から出る日は来ないかも知れないが。
そして、コヅカ・ケイズニーがそのことを理解していないわけがない。
あるいは、自分が背負うべき責任の潜在を、マナガやマティアよりも詳細に理解しているかも知れない。なぜなら皮肉にも、彼は法の専門家なのだ。
「嫌だ……」
それが、コヅカの回答だった。
「嫌だ!!」
いきなり身をひるがえして、店の外に飛び出した。
「やれやれ」
マナガの、それは溜《た》め息《いき》である。
銃を両方、肩ごしに背後に投げる。口を開いたままのトランクに、二丁の銃がすっぽりと収まると、ばちん、と音をたててシャッターが閉じた。
「逃がしゃしねえ、つってんのに」
トランクを手にしたマナガが通りに出ると、まさに目の前でコヅカの運転する車が急発進するところだった。
遠ざかるテールランプを睨《にら》み付《つ》けて、マナガはトランクを歩道に下ろす。銀色の側面を踵《かかと》で軽く蹴《け》ると、跳ね橋が倒れるようにトランクが開いた。
何本ものベルトに固定されて収まっているのは、分解された大口径ライフルである。
だが。
「マナガ!」
遅れて出てきたマティアの叫びに、ライフルに手を伸ばしかけたマナガが顔を上げる。
甲高いブレーキ音とともに、はるか一○○メートル以上かなたで、コヅカの車がスピンターンをかけていた。
「ほお」
車体のノーズが、完全にこちらを向く。
二つの前照灯が、夜行性の捕食獣の眼のように、ぎらり、と輝いた。
コヅカ・ケイズニーは、マナガの言葉を正確に理解していたのだ。
逃がしゃしねえ。
ならば。
「真っ向勝負、ってことか」
不敵な笑みで、マナガは車道に出る。
コヅカの車は空吹かしを繰り返し、そのたびに大きく胴震いする。
「マティア」
「うん」
「一曲、頼まあ」
返事はない。
その代わり、薄暗い通りにブルースハープの音色が流れた。
静かな、
哀しい、
ブルースである。
真《ま》っ直《す》ぐに正面を見据えるマナガリアスティノークル・ラグ・エデュライケリアスの、黒い右目から黒い涙が溢《あふ》れた。それは右の頬《ほお》を縦に流れて、一本の黒い筋を残す。
三年前、そのブルースが、マナガを救った。
黒い巨躯《きょく》を蝕む『罪』から。
だが、犯した『罪』が消えることはない。
だから彼は、血の涙を流す。
黒い、血の、涙を。
コヅカ・ケイズニーの車が、タイヤを焦がす白い煙を噴き散らしながら急発進する。
両脚を左右に開いて立つマナガは、奇妙な構えで応じた。
右手を斜め上に、左手を斜め下に、掌《てのひら》は前方に向けて、太い指は全てカギヅメのように曲げられている。
「言ったはずだぜ、先生」
突進してくる標的に向かって突き出す、それは両腕で作った巨大な獣の顎《あぎと》だ。
「逆ギレして攻撃してくるなら……」
一○○メートルの隔たりを、鋼鉄の凶器と化した車は、一気に消費した。
「やり返す!」
激突の寸前、マナガは動いた。
さらに開脚して腰の位置を一気に落としつつ、右手がボンネットを叩《たた》き、左手はシャーシの下へと滑り込んだのである。
ごん、という重い音とともに、電柱にでも激突したかのような勢いで、メタリック・グレーのケルセラー・ベルツが急停止した。
ブレーキを踏んだわけではない。その証拠に、後輪はアスファルトの上で空転し、白い煙をあげているのだ。
マナガが、停《と》めたのである。
ボンネットが大きく窪《くぼ》み、マナガの右手はほとんど手首まで鉄板に埋まっている。左手の方は車体の下で、五本の指が鋼鉄を貫通していた。
「むううう!!」
腹の底からの唸《うな》りとともに、マナガが顔をあげる。
フロント・ガラスごしに、コヅカと目が合った。驚愕《きょうがく》に目を見開いて、弁護士の額から血が流れているのは、激突の瞬間にハンドルにでも強打したのだろう。
その顔が、変わった。
見開いた目が血走り、喰《く》いしばって剥きだした歯は狂気の形相だ。
ふいに、マナガの両腕にかかる圧力が増した。コヅカが、アクセルを踏み込んだのだ。
ケルセラーの後輪が激しく空転し、路面との摩擦で焼けてゆく。
だが、マナガは退《ひ》かない。
腰を落とし、メタリック・シルバーの鼻面を両腕で上下から挟み込んで、押し戻す。後輪が横滑りを始めると、吹き出した白い煙が高価な車体を包み隠し始めた。
その白煙ごしに、わななくコヅカの唇が動くのが見える。
フル回転するエンジンの唸りと、グラインダーのようにアスファルトに擦りつけられるタイヤの悲鳴とで、その声は聞こえない。
だが、意味は通じた。
バケモノ……!
「失礼だな。え、おい」
マチヤ・マティアのブルースハープが、マナガリアスティノークル・ラグ・エデュライケリアスに『力』を与える。
古き精霊の腕の筋肉が……物質化した彼の精神が、二倍ほどにも膨れ上がった。
「俺は、バケモノじゃねえ」
なんとか逃れようと身震いを続ける車体の中で、金属の折れる音が続く。
「俺は、警官だ!!」
獲物を掴《つか》んだまま、マナガの両腕が、真上へ跳ね上がった。
ケルセラー・ベルツの車体も、大きく鼻面を跳ね上げる。
後輪から突き出したテールがアスファルトに激突して、火花を散らす。
それから、ゆっくりと傾いて、前輪が地面に叩きつけられた。
サスペンションのおかげで派手にバウンドして、そのあまりの衝撃に全てのウィンドウが割れる。
音が、途絶えた。
大型車のエンジン音が、ぶつりと断ち切られている。
「どうだい、先生」
にんまりと笑みを浮かべるマナガを、
「まだ逃げてみるかい?」
血まみれの顔のまま、コヅカ・ケイズニーは恐怖の眼差《まなざ》しで見つめていた。
逃げることは不可能だと、ようやく悟ったのだ。
マナガが信じられない物体を肩にかついでいるのを、見てしまったからだ。
それは、ケルセラー・ベルツの車体からもぎ取られた、オイルまみれのエンジンだった。
4
床も壁も天井も、剥き出しのコンクリートである。
その長い通路に、分厚いブーツの足音が響いた。
走っているのだ。
信じられないくらいの大股《おおまた》で。
巨漢は右手に銀のトランクを下げ、左腕には黒いケープの少女を抱えて、ルシャ市警察地下留置施設の通路を駆け抜けた。
マナガが、彼を呼ぶ声に気づいたのは、『人生の処方箋《しょほうせん》』と看板を掲げた店の前でだった。到着した警察病院の救急車にコヅカ容疑者を引き渡し、やれやれと一息ついた時である。
すぐ側《そば》に停めたパトカーの車載無線が、呼び出しをかけ続けていたのだ。
応答すると、オペレーターは、ワディエケーニからの伝言を彼に伝えた。
すぐに戻れ。
ついに始まった。
マナガとマティアはパトカーを飛ばし、深夜の市警察署に到着した。
そして、まだ補修が始まったばかりの廊下を駆け抜け、地下への階段を駆け降りたのである。
留置施設に、光が満ちている。
『精神』と呼ばれる、それはエネルギーの粒子だ。
ワディエケーニ・エッツ・ホラディアスカイが、暗い面持ちで巨漢を迎えた。
「ワディエ」
静かに、しかし昔なじみの名を呼ぶその声は鋭い。
ワディエケーニは、静かに首を振った。
そのすぐ側には、知らせを聞いて駆けつけたのだろう、ツゲ・ユフィンリー神曲楽士が呆然《ぼうぜん》と立ち尽くしていた。
ニウレキナの収監された、独房である。
コンクリートの部屋いっぱいに光を撒《ま》き散《ち》らしているのは、奥のベッドに横たわったままのニウレキナだ。
その躯《からだ》は、半分ほどになっている。
毛布の下に、脚が、ない。
いや、脚ばかりか、外に出ている両腕も、はっきりと物質化しているのは肘《ひじ》のあたりまで、先の方へゆくにしたがって色が薄れ、手首から先は薄氷のように透明だ。
光の粒子となって、散りつつある。
精霊の『死』だ。
『消滅』が始まっているのである。
精霊には、肉体を持つ生物のような意味での『死』は、存在しない。精霊という存在を構成するのが、純粋なエネルギーだからだ。
それは、あらゆる空間に偏在する、言わば『場』のポテンシャルそのものである。そこには方向性もなければ力の強弱もない。
だが、それが集まれば意志を持つ。
精霊の誕生である。
長く生きた精霊は、存在し続けることで少しずつ『場』からエネルギーを得て、成長する。ある者は大型化し、ある者は複雑化し、そしてある者はその双方を行う。すなわちそれが精霊の枝族を分け、等級を分けるのだ。
精霊は、死なない。
傷つき、病むことはある。だがそれでも、人間が言うような意味で『死ぬ』ことはない。
しかしその一方で、人間よりも遥かに脆弱であるとも言える。
精霊は、絶望によって『死ぬ』のである。
肉体を持つものは……人は、絶望によって気力を奪われても、死にはしない。
しかし精霊とは、すなわち剥《む》き出《だ》しの『精神』そのものだ。大きな絶望が精霊に与えるダメージは、人間にとって肉体を抉《えぐ》られるのと大差ないのである。
精霊が気力を失うことは、すなわち『存在』そのものの危機を意味する。
ニウレキナの身に起きていることが、つまり、それだ。
ニウレキナをニウレキナたらしめていた『精神』そのものが、崩壊を始めている。『場』のポテンシャルそのものへと還元し、ニウレキナは『消滅』しようとしているのだ。
散っていった光の粒子は、やがてあらゆる空間へと拡散してゆくだろう。
人間の肉体を細胞単位に分解するのと、同じことだ。
ニウレキナを構成していたエネルギーそのものは、決して消えはしない。
しかし、ニウレキナ・ウク・シェラリエーテと呼ばれた精霊は、消える。
消えてしまうのだ。
「ごめん」
ユフィンリーである。
「私の力じゃ、もう、どうにも出来なくて……」
「謝るなんて、とんでもない」
言って、マナガは笑みを見せる。
「威張りかえっても、いいくらいだ。あんたの演奏がなきゃあ、ニウレキナさんも、ここまで頑張れなかったでしょうよ」
それは慰めでも何でもない。
単なる事実だ。
「でもね。この人を本当に救えるのは、世界にただ一人だけなんです。残念ながら、それは、あんたじゃなかった。私でもない。他の誰《だれ》にも、出来ない相談なんです」
それから、
「ニウレキナさん」
ベッドの傍らに立ったマナガは、腰を折り、消え逝《い》こうとする精霊の顔を覗《のぞ》き込《こ》む。
「ニウレキナさん。まだ、駄目だ」
静かに。
微笑《ほほえ》んで。
「仕事が残ってるんですよ」
ニウレキナは、応《こた》えない。
目を閉じたまま、まるで眠っているようだ。
「あなた、オゾネ・クデンダル先生を愛してらしたんでしょ?」
マティアは、いつもマナガの側にいる。
小さな手が、巨漢のコートの裾《すそ》を握りしめていた。
「オゾネ先生は、まだ旅立ってらっしゃいません」
えっ、と声をあげたのは、ユフィンリーである。
「聞えますか? オゾネ先生は、まだ『奏の世』に旅立っておられないんです。こちらで、あなたに見送ってもらうのを待ってらっしゃるんです」
ニウレキナの瞼が、かすかに震える。
「そうです。国葬は、もう済みました。でもご遺体は、まだこちらにあります」
ニウレキナの唇が、かすかに震える。
「本当の葬儀は、まだ始まってもいません」
ゆっくりと、ニウレキナが瞼《まぶた》を開く。
マナガが微笑むと、噛《か》みつかれそうなくらい大きな歯が覗いた。
「あなた抜きで、そんなこと出来やしませんよ、ニウレキナさん」
国葬の後、斎場で、火入れと同時にコヅカ弁護士や神曲公社の連中が追い出された理由が、これだ。
中央神曲公社は、たしかに二度めの検死解剖に対しては許可を出した。だがコヅカの言うとおり、国葬の前に遺体を動かすことだけは、頑として拒んだのである。
事実上、それは二度めの検死解剖が不能であることを意味する。
その意味では、コヅカの勝利だったと言えるだろう。
だが、抜け道があった。
中央神曲公社が拘《こだわ》ったのは、あくまで国葬まで遺体を動かさないこと、予定どおり国葬を行うこと、そしてオゾネ氏の遺骨を分骨すること……それだけだったのである。
点火の直後、すぐに火は消され、遺体は取り出された。柩《ひつぎ》は無残な状態だったが、遺体は全く損傷のない状態で引き出され、検死解剖に回されたのである。
コヅカ・ケイズニーや公社の人間が骨揚げしたのは、身元不明で埋葬されるはずの別の遺体だったのだ。
「マナガさん……」
囁《ささや》くようなニウレキナの言葉に、マナガはうなずく。
「たしかにオゾネ先生は、全ての神曲楽士にとって、宝です。でもねニウレキナさん、その宝は、あなたに独占されることを望んでると、私ゃ思います」
微笑むニウレキナの目から、涙がこぼれた。
透明な、限りなく透明な、澄んだ涙だった。
そして、それは始まった。
ワディエケーニは、
「おう」
と声をあげ、
ユフィンリーは、
「凄《すご》い」
と息を呑んだ。
ゆったりと微笑んだまま、横たわるニウレキナが光に変わる。
暴走ではない。
だが、『消滅』でもない。
再生だ。
いや、誕生と言った方が正確かも知れない。
みるみる姿を変えてゆく一人の精霊の姿は、まさに精霊としての……『精神』としての『死』を超えた再誕だった。
金色の光が、あたりに満ちた。
それはおそらく、この世の始まりの時、最初の『精神』が生れた瞬間の再現だ。
マティアの小さな手が、コートの裾から離れて、マナガの巨大な手の中に滑り込む。
「綺麗《きれい》」
少女は言った。
「ああ」
そうだ。
綺麗だ。
それは、この世に生きる全てのものが持つ、こころ、の光だった。
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終章
手続きとか手順とかいうものは、実際のところ『人間』そのものとは直接、関係があるわけではない。
必要な手続きを必要な手順で終えさえすれば、後は本人の手を離れて、勝手に機能する。
それは人間が作り出し、そして精霊と手を携えることで完成させてきた、『社会』と呼ばれる巨大な構造の一側面であり、そして全てであると言える。
要するに、コヅカの約束はコヅカがいなくても果たされた、ということだ。
おかげでマナガは今日、初めてオゾネ・クデンダルの『芸術』を鑑賞している。
いささか旧式の封像盤《ふうぞうばん》再生機は、しかし彼の巨大な掌《てのひら》にすっぽり収まって、そのモニターに映像を映し出していた。
コヅカがマナガに約束した、封像盤である。市警察にマナガ宛《あ》ての小包が届いたのは、コヅカが逮捕された翌日のことだった。
収録されていたのは、オゾネ・クデンダル神曲楽士の最後の公演だ。
中央神曲ホールの巨大な舞台、その中央に立ったオゾネ楽士は、最新式の単身楽団《ワンマン・オーケストラ》を背負っている。展開した主制御楽器は、バイオリン型だ。
マナガの知らない、生命に溢《あふ》れる老楽士の姿が、そこにはあった。
禿《は》げ上《あ》がった頭を汗に光らせ、シワに覆われた頬《ほお》を紅潮させて、骨張った指が弦の上で踊り弓を操る。紡ぎ出された音は増幅され、単身楽団のアレンジを纏《まと》い、まるで噴出するマグマの勢いでホールを満たしてゆく。
その音が、安っぽい封像盤再生機の小さなスピーカーからでさえ、轟《とどろ》きわたるようだ。
だが真に驚嘆すべきは、その技術ではない。
神曲を奏でるオゾネ・クデンダル楽士の周囲を、無数の光が乱舞しているのである。
精霊だ。
数十の……いや、数百の精霊だ。
しかも、その枝族もさまざまだ。
羽虫のように飛び交う光の球は、ボウライだろう。
神曲に遠吠《とおぼ》えで応える何匹もの巨大な狼《おおかみ》は、セイロウだ。
画面の隅に、ちらりと映ったのはラマオの枝族だったろうか。
ルカナの群が頭上で円を描き、クレットの一団は光の帯を残す。
そして、フマヌビックだ。
人間と変わらぬ姿の、しかし光の羽根を広げた何十人もの、様々な枝族のフマヌビックが、オゾネ楽士を讃《たた》えるように囲み、歌い、微笑んでいるのである。
これこそが、彼が希代の神曲楽士と呼ばれる所以《ゆえん》であった。
あらゆる精霊と心を繋《つな》ぎ、あらゆる精霊と交感し、ともに歌い、奏で、心を繋ぐことの出来る天才の、これがその天才たる姿なのだ。
演奏が、終わる。
爆裂のような拍手が沸き起こる。
舞台が、そして客席が精霊の光に満ちる。
拍手の余韻の中、画面が暗く消えてゆく前に、マナガはスイッチを切った。
「惜しい人を亡くしたもんだ」
オゾネ・クデンダルは、まさに至宝だったのだ。
マナガ警部補は、待合ロビーのベンチで、腰を伸ばした。すり切れた合成皮革の上っ張りが、ぎしりと音をたてる。
町外れの、小さな葬儀社である。背もたれのない、安っぽいベンチが三脚あるきりで、後は廊下へと繋がる角にあまり手入れのされていない観葉植物があるだけだ。
受付窓口には、誰も座っていない。職員は、おおかた奥の部屋でテレビでも見ているのだろう。つまり、少なくとも今日、他の葬儀が行われる予定はないということだ。
あるいは、今日はこの一件だけなのかも知れない。
モニターをたたんだ再生機をコートのポケットに仕舞いながら、マナガは苦笑する。
まさかその一件があのオゾネ・クデンダルの告別式だとは、職員の誰一人として想像もしていないに違いない。
ぱたぱたと、聞き慣れた足音が近づいてくる。
奥の告別式場へと続く廊下から、歩いて来るのはマチヤ・マティアだ。
いつもの黒いケープに、その下も黒いワンピースだが、今日は襟もリボンも黒いものを着てきている。
喪服である。
「済んだか?」
うん、と応えて少女はマナガの隣に腰を下ろす。
「とりあえず、お祈りして、お花だけあげてきたよ」
予定の時刻には、まだ早い。とは言え、二人が早々と告別式場に着いたのは、暇だからというわけでもなかった。
いつ呼び出しがかかってもいいように、だ。
勤務中なのである。
「まだ誰も来てない?」
「ああ。まだ……」
言いかけた、その背中に、
「マナガリアスティノークル刑事」
突然、それも正式名で声をかけられて、マナガは驚いた。
振り返ると、立っていたのは、
「あぁ、ツゲ先生」
ツゲ・ユフィンリーである。
「その、先生ってのはやめてよ」
照れ臭そうに笑う、彼女も黒のワンピースだ。だが、ゆったりとしたマティアのそれとは対照的に、躯《からだ》の線を強調するタイトなもので、スカート丈も膝上《ひざうえ》である。
額の包帯は取れたが、まだ小さな絆創膏《ばんそうこう》が貼《は》られていて、その白が黒いドレスと奇妙なコントラストを描いていた。
「照れ臭いってば」
「じゃあ私も、マナガで結構ですよ。みんな、そう呼びますから」
長過ぎて憶《おぼ》えられないからだ。
オッケー、と微笑む神曲楽士の背後に、もう一人、見覚えのない人物が立っていた。
蒼銀の長髪をオールバックに流し、薄手の黒い上下を着込んでいる。人間離れした端正な顔だちは女性的ですらあったが、その体格は細身ながら筋肉質で、明らかに男性のそれである。
精霊なのだ。
マナガの視線に気づいたのか、
「ああ、これ、私の契約精霊」
「これ、って言うな」
その精霊の声は、深いバリトンだった。
「ヤーディオ・ウォダ・ムナグール」
面倒臭げなその名乗りに、あっ、と声をあげるのはマティアである。
「なに? マチヤ警部」
ユフィンリーの問いかけにマチヤ・マティアは、ぷるぷると首を振った。
なるほど。世間は思ったより狭い、ってことか。
ヤーディオは苦笑を浮かべて、どうやらその事実を肯定しているらしい。そんな精霊の脇腹《わきばら》を、ユフィンリーが肘《ひじ》で突つく。
「もっと早く出るつもりだったんだけどさ、こいつが行かないとか言い出すもんだから」
「こいつ、って言うな」
「薄情なんだから。昔馴染《むかしなじ》みなんでしょ?」
ニウレキナ・ウク・シェラリエーテと、だ。
どの程度の付き合いがあったのかは、マナガも知らない。だがニウレキナがこの世に誕生してくる現場にいあわせ、彼女に精霊弾を手ほどきしたのは、彼なのだ。
「そんなに言うほど深い付き合いじゃねえや」
その言葉にユフィンリーは苦笑してから、腰を折ってマティアに耳打ちする。それから今度はマティアが、
「照れてるんだって」
満面の笑みで、マナガにそう告げた。
ヤーディオは腕を組んで、そっぽを向いてしまう。ヘソを曲げたのは明らかだったが、ツゲ・ユフィンリーは放《ほう》っておくことにしたらしい。
「ところで」
ふいに、その顔から笑みが消える。
「何か判《わか》った?」
彼女が訊《たず》ねるのは、コヅカ・ケイズニーのことだ。
オゾネ氏の殺害については認めたものの、その動機……つまり九年前に盗んだものについて、である。
専門家に依頼してオゾネ氏の遺品を一品ずつ検査したところ、やはり贋作《がんさく》が混じっていた。それもマナガの思ったとおり、奏始《そうし》曲の楽譜である。
ダンテ・イブハンブラの、だ。
ところが、それだけの事実を突き付けても、コヅカはそれを誰《だれ》に売り払ったのか、頑として口を割らないのである。
マナガとしても、だから肩をすくめて見せるしかない。
「判りません。おそらく、絶対に喋《しゃべ》らんでしょうなあ」
「なぜ?」
「あれは」
たぶん、と付け加えた上で、
「身の危険を感じてるんじゃないでしょうかね」
「身の危険……」
「なんだか、喋れば殺される、ってふうに見えるんですよ」
コヅカが。
何者かに。
ツゲ・ユフィンリーの唇が、まさか、と動くのをマナガは見逃さない。
「何か、お心当たりでも?」
「ええ」
見ると、そっぽを向いていたはずのヤーディオまでが、頭だけ振り返ってこちらを見ている。
「ひょっとしたら、何年か前に関《かか》わった件と関係があるも知れない」
「それは、どんな?」
だが、それ以上の会話は続けられなかった。
「来たぞ」
ヤーディオだ。
ガラス張りのドアを開けて、一人の少女が狭い待合ホールに入ってくる。
「改めて連絡するね」
そう言って、ユフィンリーは少女を笑顔で迎えた。
小柄な少女である。
豊かな金髪で、一見したところマティアと同年代くらいに見える。
だが、彼女の年齢は三一九歳なのだ。
ニウレキナ・ウク・シェラリエーテ。
それが、少女の名である。
それは、まさに奇跡とも言える再生だった。
いや、復活と呼ぶべきかも知れない。
精霊の『肉体』は、純然たるエネルギー体である。どんな場所にも普遍的に存在し、しかし人間には見ることも触れることも出来ないのが、本来の精霊の姿なのだ。
だが精霊は、人間と関わることを決断した時、人間の目に見え、手で触れることの出来る『肉体』を作ることを憶えた。いわゆる、物質化である。
無論、それは少なからぬエネルギーを消費する行為ではあったが、それは神曲を与えられることでバランス可能な問題だった。
だからこそ、精霊にとって『絶望』は『死』にいたる病なのだ。
精霊の本質たる『精神』が傷つき、その『力』を失えば、精霊の『精神』は『肉体』を道連れにして崩壊するのである。
ニウレキナ・ウク・シェラリエーテの陥った状態が、それだった。
だが彼女は、寸前で踏みとどまった。
愛する者を送るために。
オゾネ・クデンダルの『奏《そう》の世』への旅立ちを見送る、ただそれだけのために。
そして、欠損した『肉体』を放棄し、自らの『精神』を組み換え、新たな精霊として生まれ変わった。
思い出は、そのままに。
再び、ニウレキナとして。
小さな小さな、ニウレキナ・ウク・シェラリエーテとして。
「ニウレ」
笑顔のユフィンリーに、
「ユフィさん」
小さなニウレキナは、笑顔で応《こた》える。
「来てくださったんですね? お仕事、いいんですか?」
「いいの、いいの。若いのが頑張ってるからさ」
「ありがとうございます」
それから、マナガを、マティアを、そしてヤーディオを見る。
「みなさん、本当にありがとうございました」
「やれやれ」
ヤーディオである。
「せっかく三○○年もかけて、けっこうイイ女になってきたと思ったら、まぁた逆戻りだな、おい」
そんな憎まれ口にも、
「ヤーディ」
ニウレキナは、こぼれそうな笑顔だ。
「だから言ったろ? 人間はやめとけ、ってよ」
応えるように、ニウレキナは小走りでヤーディオに近寄ると、ふわり、と舞い上がった。
ヤーディオ・ウォダ・ムナグールの頬《ほお》に触れるのは、キスだ。
ほんの一瞬。
だが、蒼銀の髪の精霊を真《ま》っ赤《か》にするには、充分だった。
「皆さん、お揃《そろ》いでしょうか」
言いながら姿を見せたのは、喪服を着込んだ葬儀場の職員である。
「そろそろ、お時間でございますので……」
オゾネ・クデンダルの……希代の神曲楽士の、本当の葬儀のだ。
「じゃあ、行こうか」
ユフィンリーが、ぱちん、と手を叩《たた》く。
はい、と応えるのはマティアと、そしてニウレキナである。
ヤーディオも、ぶつぶつと何やら文句を言いながら、三人の後に続く。
マナガだけが動かなかった。
廊下の途中で振り返るマティアに、マナガは唇の動きだけで、行ってこい、と言った。
マティアは肩をすくめ、瞳《ひとみ》だけで天井を見上げる。
そして一同は、廊下の奥の両開きの扉へ、消えた。
マナガリアスティノークル・ラグ・エデュライケリアスは、こっそりと溜《た》め息《いき》をつく。
終わったのだ。
とりあえず、一つの事件が。
だが彼は同時に、理解していた。
これは、単なる殺人事件ではない。
その背後には、行方《ゆくえ》の知れない楽譜の存在があるのだ。
奏始曲の。
裏に、何かある。
この事件だけではなく、精霊事件の増加という好ましからざる傾向そのものが、何か大きな動きの一部のような気がしてならないのだ。
それは、勘である。
刑事としての勘だけではない。
古き精霊としての、そして罪を背負う者としての、忌まわしい勘なのだ。
もしも、そうなら……。
「仕事するしかねえわな」
ぼそり、と呟《つぶや》くその言葉は、腹の底に響く太い声だった。
突然、告別式場のドアが開いた。
そしてマチヤ・マティアが走り出てきて、
マナガを式場に引きずり込んだ。
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あとがき
最初は、単なる思いつきだった。
ちょっとした縁で榊一郎先生の『神曲奏界ポリフォニカ ウェイワード・クリムゾン』の仕事を少しだけ手伝うことになった私は、その「厳密なルールによって構築された世界」に強く興味を惹かれた。物語の背後に、広大な可能性を感じたのである。
そして、ぽろりと言っちまった。
「これ、別キャラ立てて別シリーズって、いくらでも出来そうですね」
「ほう、例えば、どんな?」
「そうですねー。例えば、精霊の関与する事件を専門に扱う精霊刑事とか」
そこで私は、その場で設定を組み立てた。まあ、口から出まかせ、と言ってもいい。
精霊警官のこと、市警察精霊課のこと、精霊法のこと……、要するに本作で描かれている設定の大半は、この時に出来たものだ。
ひととおり聞き終えた榊先生は、にこにこ笑いながら、こう言った。
「面白い! それ、書いてくださいよ」
「ええっ!?」
そんなわけで、『神曲奏界ポリフォニカ』シェアード・ワールド展開の第一弾を、ここにお届けする。気軽に『ポリ黒』とお呼びいただきたい。
特にこの『ポリ黒』は、榊先生の『ポリ赤』と密接にリンクしており、あっちの事件がこっちの事件に絡んでいたり、こっちのレギュラーが一足早くあっちで顔見せしたりもしているので、併せてお読みになれば一層お楽しみいただけることだろう。
無論、どちらの物語もこれから、ぐいぐいと面白くなってゆく。そして、さらなる新シリーズ『ポリ白』も登場を控えているのだ。
そう。諸君は今、壮大な『ポリフォニカ』ワールドの開闢を目撃しておられるのである。
ゆめゆめ、お乗り遅れなきように。
にやり。