復讐のエムブリオ ゾアハンター
大迫純一
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)彼方《かなた》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一匹|狼《おおかみ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地付き]−了−
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[#表紙(zoa3_000.jpg)]
[#表紙(zoa3_001.jpg)]
大迫純一《Osako Juniti》
1984年、徳間書店ハイパーゾーンで漫画家デビュー。96年、青心社『バビロン・ゲート』にて小説家となる。その他、子供向け変身番組の怪人デザインやCMキャラクター・デザイン、ガレージ・キット原型の制作など、職歴は多岐にわたる。フリーのアクション・タレントとしてキャラクター・ショウにも出演中。
著者のことば
[#ここから2字下げ]
生きるとは、死なないことではない。
罪とは、過ちを犯すことではない。
復讐とは、忌まわしき過去の清算ではない。
これは、そういう物語である。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]装画●小島文美
[#地付き]装偵●伸童舎
繁華街で少女が失踪するという事件が頻発していた。ゾーンの仕業と察知したゾアハンターこと黒川丈は、池袋でゴーストと再開、市街戦を展開する! 一方政府は、先の巨大融合体事件で内外の批判にさらされた結果、ゾアハンターでは事態を収拾できないと判断、自衛官から選抜した特殊部隊『ゾアスクァッド』の編成を決定した。この決定に不満を持った米沢医師は、試作型の防護服を持ち、丈のもとを訪れる。そして、一言頼んだ。「ゾアスクァッドを助けてやって欲しい」ゾーン出現の報を受け、ゾアスクァッドが出撃する。彼らはゾーンを殲滅できるのか!? 人類に明日はあるのか! 評判爆発中のスーパーアクションヒーロー伝、電光石火の第三弾!!
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復讐のエムブリオ ゾアハンター
[#地から1字上げ]著/大迫純一
[#地から1字上げ]イラスト/小島文美
目 次
[#ここから2字下げ]
第一章 リプロダクション
第二章 フォルト
第三章 コンパンクション
第四章 トループス
第五章 エクスピエイション
終 章
あとがき
[#ここで字下げ終わり]
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第一章 リプロダクション
速度を上げると、路面は流れに変わる。彼方《かなた》から途切れなくやって来て、滑り込むように足元へと流れ去ってゆくのだ。
ヘルメットのシールドごしに標的を捉《とら》え、エンジンをフル回転させる。
モノサイクル。
4WD車両のような大きく分厚いタイヤの上にシートとタンクを配置した、それは自走する一輪車だ。
ハンドルは、ない。
操作は足だけで行い、フリーになった両手で『敵』を攻撃する。追いすがり、追い詰める、まさに高機動戦闘用の『鋼の馬』である。
高速走行の中で流れに変わるのは、路面だけではない。闇《やみ》を飾るイルミネーションも風に載り、黒い路面とは対照的な色彩に満ちた光の流れになって、後ろへ、後ろへと先を争うように飛び去ってゆく。巨大なホイールに収まったエンジンの爆音さえもが、置き去りにされたように後ずさる。
唇を舐《な》めた。
獲物はすぐ前方だ。こちらに背中を見せて、逃げようとしている。
歪《いびつ》な巨体をゆすり、多過ぎる肢《あし》で路面を叩《たた》いて。
骨と内臓と鱗《うろこ》と毛皮を無造作にこね合わせたような異形《いぎょう》は、しかし遠ざかることなく、手繰り寄せられるようにじわじわと近づいてくる。
逃がさねえぞ。
てめえら、一匹たりとも逃がしゃしねえぞ!
それは約束なのだ。
美咲《みさき》との。
そして、自分自身との。
シフトを落とし、トルクに任せて一気に加速する。冒涜《ぼうとく》的な野獣の背中が、ぐい、と迫る。正面から叩きつけてくる空気の壁が、ねばりつくように左右に分かれて渦を巻く。
殺す。
殺してやる!!
許されざる獣。
人間の欲望と思い上がりが生み出した、人喰《ひとく》いの魔獣。
それは、ヒトの犯した『罪』のカタチに他ならない。
右手の銃を、真《ま》っ直《す》ぐ標的に向けた。
その瞬間。
獣が振り返った。
顔。
見たことのある顔。
知っている顔。
女の、顔。
恐怖に見開いた瞳《ひとみ》が水晶のような涙を浮かべ、開いた口の中で柔らかそうな舌が言葉を作ろうと動く。
駄目だ。
撃つな。
撃ちたくない!
だが、指は動いた。
女の額に、真っ黒い穴が穿《うが》たれた。
絶叫。
女の。
美咲の。
叫んでいる。
額に穴を開けたままで、美咲が叫んでいる。
ジョウ!
名を。
ジョウ!
彼の名を。
ジョおオオぉおぉおおぉオぉぉぅうぅおおぉオォおぉおおォオォおおぉぉおオオぉおおおォオおおぉおオおォおおおオおぉオおおぉおおオぉおゥウ!!
「丈《じょう》!」
その声で、目が覚めた。
額を撃ち抜かれた美咲の顔は一瞬で無意識の混沌《こんとん》に沈み、代わりに別の顔が彼を見つめていた。
ふっくらした頬《ほお》。
低い鼻。
大きな瞳と、薄いけれど桜色の唇。
「大丈夫?」
覗《のぞ》き込む少女に、
「ああ」
とだけ応《こた》えるのが精一杯だった。
夢か。
ああ、そうだ。夢だ。
悪夢だ。
忘れたころにやって来ては、怖いもの知らずのサイボーグを失禁寸前にまで追い詰めてくれる、あの、お馴染《なじ》みのやつだ。
あんまりお馴染み過ぎて、もう慣れてしまった。
だがそれは決して、もう平気になった、という意味ではない。ああまたか、と思えるようになったという、それだけのことだ。どれだけ繰り返し、どれだけ重ねても、目覚めた時には呼吸が乾ききった喉《のど》を擦《こす》り、機械の心臓が自律神経の命令に従って16ビートを刻んでいるのだ。
丈は身を起こした。そのベッドの端に、パジャマ姿の少女が腰を下ろす。
「わりぃな、起こしちまったか」
「ううん」
ピンク色のパジャマの裾《すそ》を引っ張りながら、少女は首を振る。
「夜更かししてたさ。そろそろ寝ようかと思ってたけど」
「そうか」
嘘《うそ》だ。
少女の癖の強い髪が、てっぺんの辺りで逆立っている。それは、彼女がついさっきまで寝ていた証拠だった。
少女が腰を浮かせて座りなおす。
さっきよりも近くに。
腰をひねって伸びてきた華奢《きゃしゃ》な手が、丈の額に触れる。
「汗、すごいよ」
「ああ」
「大丈夫?」
「ああ」
笑みを浮かべることには、何とか成功したようだ。
少女も、釣られたように微笑《ほほえ》む。
「怖かったのね」
「ああ」
怖かった。
「一緒に寝たげようか?」
笑み。
だが今度は、ああ、とは応えなかった。
「いや、いい」
少女は、莫迦《ばか》、と言って立ち上がった。
笑みを浮かべたまま。
部屋を出てゆく時、少女はウィンクしつつキスを投げてからドアを閉じた。
彼女は、知っているのだろうか。
彼の見る悪夢の意味を。
彼が何に悲鳴をあげたのかを。
怪物が怖かったわけではない。
死んだ女が怖かったわけではない。
彼に悲鳴をあげさせたのは、記憶だ。
決して消すことの出来ない、記憶だ。
引鉄《ひきがね》を引くことしか出来なかった、その瞬間の記憶なのだ。
美咲は死んだ。
殺したのは俺だ。
それは、曲げようのない事実だった。
引鉄の感触だけが、黒川《くろかわ》丈の機械の指先に、生々しく残っていた。
結城音緒《ゆうきねお》の日課は、まず洗面所で髪と格闘するところから始まる。
癖っ毛である。お風呂《ふろ》上がりにきちんとブローしてからベッドに入っても、朝には壮絶なヘアスタイルになっているのだ。
勿論《もちろん》、今朝も。
しまったなあ、と音緒は思う。
つまり、丈にも見られちゃった、ってことだ。
彼女を叩き起こしたのは、声だった。
丈の。
彼があんなふうに悲鳴をあげるなんて、想像もしなかった。隣の部屋から聞こえてきたのは、腹の底から絞り出すような絶叫だったのだ。
暗い部屋に飛び込んだ音緒は、ベッドの上で切れ切れの悲鳴をあげ続ける丈を見た。
揺り起こした。
少しだけ話すと、彼はすぐに落ちついた。まるで、いつものことさ、とでもいう感じだった。
夕べが初めてではないのだ。きっと音緒が気づかなかっただけで、彼はしょっちゅう悪夢にうなされていたに違いない。
添い寝は拒絶された。
ちょっと悔しくて、投げキッスだけ残して部屋に戻った彼女は、そこでようやく気づいたのである。
しまった。
あたし、寝癖大魔王のまんまで行っちゃったよ。
だから今朝は、少しだけ早起きした。
丈のことが気になってなかなか寝つけなかったので、ちょっと辛《つら》いけど。
溜《た》め息が漏れる。
ブラシとドライヤーに抵抗して、髪は、なかなかまとまってくれない。それでも丈が起きてくる前にいつものスタイルにおさまったのは、ほとんど奇跡だった。
歯を磨いて顔も洗って、パジャマもスウェットの部屋着に着替えて、何とかかんとかシンクの前に立ったころ、丈がのっそりとキッチンに姿を現した。
相変わらず、上半身は裸のままだ。生身と見分けのつかないその『肉体』に、機械だと判《わか》っていながらも、少しだけ、どきどきする。
音緒は首をひねって、おはよッ、と声をかけた。
うぉ〜う、というのが、彼の朝の挨拶《あいさつ》だ。そのままカウンターに着く。右目はアイパッチで隠しているが、左の瞼《まぶた》は腫《は》れぼったい。
あの後、寝てないんだ。
でも、それは言わない。
代わりに、
「そろそろ髭《ひげ》、剃《そ》りなよ」
言ってやったけど、あと二日は剃らないとみた。
不精髭が、鼻の下から顎《あご》から頬《ほお》から、もみあげの辺りまで覆っている。そこにアイパッチを着けて、さらには傷痕《きずあと》だ。右の額から、いったんアイパッチの下をくぐって頬まで、縦に一直線である。それも、音緒の髪の生え際に残った小さな傷みたいに適切な処置をしたものではなく、裂けたまま放《ほ》ったらかしにした傷痕だから、かなり露骨。
まるで海賊の親分だ。
きちんとしていれば、けっこうな二枚目のはずなのに。
確かに目尻は下がり気味だし小鼻は丸くて可愛《かわい》いけど、形のいい眉《まゆ》と引き締まった口許《くちもと》は、充分にイイオトコだ。アイパッチや傷痕があっても、せめて不精髭さえきちんと剃ってくれたら、きっと世の女性は彼を放っておかないだろう。
問題は、と音緒は思う。
とにかく、その不精髭なのだ。
だが丈はコーヒー・カップをすすりながら、ん〜、と曖昧《あいまい》に唸《うな》るだけだ。
とりあえずは、いつもの朝。
この朴念仁は、おニューのエプロンにさえ気づいてないに違いない。おしゃまなディーディーが可愛くポーズを決めてるイラスト入りなのに。
朝食は目玉焼き。
トーストも、もうじき焼ける。絶妙なるタイミングってやつだ。これって、十七のオンナノコとしては上出来でないかい?
丈は、一言もそんなこと言ってはくれないけど。
二人分の目玉焼きと二人分のトーストと、それに自分のティー・カップを並べ終えて、音緒も席に着く。
「いただきまッす」
少女が手を合わせると、またしても丈は、あ〜、と唸った。
音緒がここに来て、もう随分になる。
理由は二つ。
一つは、彼女がその『才能』によって丈の仕事をサポートするパートナーであるということ。
もう一つは、彼女にはもう帰る場所がないということ。
十七歳にして、結城音緒は全《すべ》てを失った。
家も、家族も、友人も。
そして音緒は、生きている人間ですらなくなっていた。一連の事件が終わった時、彼女は社会的に存在しないはずの人間になってしまっていたのである。
全てを奪われたのだ。
『奴ら』に。
復讐《ふくしゅう》が彼女の目的ではないにしても、それがここに居る理由の一つに含まれないわけではなかった。
もっとも、と音緒は思う。
相手が丈でなかったら、どうだか判ンないけどね。
その丈は、手にしたニュース・パネルを見ながら、もくもくとトーストを齧《かじ》っている。表示しているのは、おおかたスポーツ欄か三面記事だろう。そのまま一言も喋《しゃべ》らずに食べ終えてしまうのが、いつものパターンだ。
だから、
「なあ」
声をかけられた時は、ちょっと意外だった。
「なに?」
「夕べは、ありがとうな」
視線はパネルを見たままで、決してこちらを向かないけれど。
「おかげで、助かった」
「いいえ、お気遣いなく」
思わず気取ってしまうのは、どう応えていいか判らなかったからだ。でも、相手の方から振ってくるなら、聞きたいことは、ある。
「どんな夢だったの?」
ちろり、と視線が動いた。
こちらに向かって。
「ちょっとな」
それだけ言って、また視線がパネルに戻る。つまり、答えないぞ、ということだ。
やれやれ。
この人、寝起きは最悪だもんなあ。
それでなくても、と音緒は思う。
丈の心には、分厚い壁がある。核爆弾の直撃を受けたって揺るぎもしないような、分厚い分厚い壁だ。
彼女の『才能』が何も読み取れなくなるほどの、恐ろしく強固な防壁なのだ。それは彼の強さでもあると同時に、彼が受けた傷の深さの証明でもある。
誰でも、そうだけどね。
あたしの心にだって、壁は、ある。
誰だって、心に壁を持っている。
そしてその壁は、その内側にあるものが傷つけば傷つくほど、分厚く、固くなってゆくのだ。
「なあ」
「はい」
丈は、けれど視線を上げない。
「それ、いいな」
おしゃまなディーディーのことを言っているのだと気づくのに、少しかかった。
米沢賢太郎《よねざわけんたろう》は、朝から気が重かった。
今日、結論が出るのだ。
それは絶対に変更のない決定であり、どちらに転ぶにせよ、彼にはそれを拒否する権限は与えられていない。
問題は、と彼は考えた。それが対外的なポーズ以外のものには、決してなり得ないということだ。あまりに浅はかな、あまりに愚かな選択だということだ。
だが、おそらく可決されるだろう。
そして米沢には、それを報告する義務がある。
ゾアハンターに。
彼は、何と言うだろうか。
寝惚《ねぼ》けるな、か?
莫迦野郎、か?
それともいつもの調子で、ほお、だけか?
いずれにせよ、彼がそれに賛成しないことだけは確実だ。
あるいは例の一件よりも前ならば、とは思う。現に、彼の方から言いだしたこともあったではないか。だが今となっては、黒川丈は、あらゆる意味で一匹|狼《おおかみ》なのだ。
群をはぐれた狼は、己の末路を知っている。
知っていながらなお牙《きば》を剥《む》くならば、その意志は決して揺るがないということだ。
防衛庁付属生化学研究所のサイボーグ工学研究室である。
端末を載せた机が並ぶ、その広い部屋の片隅に、主任である米沢のデスクがあった。それ以外の机は、全て空席である。
現在、この部署にいるのは彼一人なのだ。
それは当然と言えば当然のことだ。彼はゾーン対策のために雇われたのであり、そしてその事実が公のものでなかった以上、ここ以外に行くべきところがないのだから。
他の所員は『例の件』でゾーンの全サンプルが消失して以来、通常の、つまり公式の職務に戻っている。ゾーンやアザエルについての真相を知らされることもないままに、である。
アザエルは、人類の希望たるべき存在だった。
悪化する地球環境に対応するため、ヒトの環境適応能力を極限まで高める人造ウィルスである。感染した細胞を、環境に合わせて瞬く間に変質させる。それも世代間の変異の連鎖ではなく、単世代での劇的な『進化』を促すのだ。
これによって人類は、超人へと進化するはずだった。
例えば有毒ガスが噴き出す火山地帯でも、例えば呼吸さえままならない高山でも、極論すれば深度数百メートルの深海であっても、あるいは完璧《かんぺき》な真空中であってさえも、自由に活動可能な肉体を得ることが出来るはずだった。
それは、まさに夢のウィルスとなるはずだったのだ。
だが、そうはならなかった。
確かにアザエルは、感染した生物に究極の環境適応能力を与えた。その意味においてのみ、アザエル計画は大成功だった。
問題は、二つ。
一つは、アザエルが遺伝子中のジャンクにまで手をつけるということ。生物の細胞に侵入したアザエルは、進化の過程で捨てられ封印された形質までも無差別に開き、発現させてしまうのである。
第二の問題は、その急速過ぎる形質変化だ。肉体の激烈な変化によって急激に消費する莫大《ばくだい》なカロリーを補うため、アザエルに感染した生物は、例外なく凶暴な捕食生物となるのである。
実験動物は全て、怪物となり果てた。環境に合わせて際限なく変異を繰り返す、獰猛《どうもう》な捕食生物だ。手当たり次第に喰らい、その醜い姿を刻々と変化させ続ける、恐るべき魔獣となってしまったのである。
ゾーン、と名付けられた。
そのギリシャ語が示す通り、それはまさに獣であり、悪魔だった。そして彼らは、そんな魔獣さえも制御し、利用しようと研究を続けていたのである。
そう。
あの日まで。
全ては、ゾアハンターの手によって失われた。
ゾーンを狩ることこそが、彼の『仕事』だったからだ。
そのことを、全ての真相とともに記憶しているのは、わずかに数名だ。そして米沢医師は、そのうちの一人だった。
幸運なのか不運なのかは、別の問題だが。
結局、委員会は解散し、研究は放棄。全ては闇から闇に葬られた。
そうせざるを得なかったとも言える。
わずか数人の上層部から数百人に及ぶ末端の者まで、全ての関係者が、そうだった。
それは、一つのルールなのだ。
真相を知らされなかった者にしてみても、ゾーンが単なる変異生物ではないことくらいは、誰もが気づいていただろう。だが、それでも彼らは疑問を口にすることはない。
今までも。そして、おそらくこれからも。
口をつぐむこと。
詮索《せんさく》をせぬこと。
それが『この世界』で生き延びる唯一の術《すべ》なのである。
そしてそれは、ゾーン対策委員会の一員であった米沢にしてみても同じことだった。
少なくとも『あれ』が現れるまでは。
委員会は、活動を再開しようとしている。
もはや無きものとして無視することが出来なくなった、大きな汚点を拭《ぬぐ》うために。
コンピューターの端末が、ぴー、という軽い音をたてる。
時間のようだ。
黒縁眼鏡を指で押し上げ、ついでに広い額を撫《な》で上げてから、米沢は腰を上げた。
会議だ。
この世界には、生きている価値のある人間と、生きている価値のない人間がいる。
それが、男の持論だった。
価値を決定するのは生まれでも育ちでもなければ、学歴や職種でもない。国籍や人種や宗教や、無論のこと年齢や性別とも無関係だ。
夜の街に出るたびに、彼は溜め息を漏らす。
無駄な生命であふれかえっているからだ。誰もが、ただ瞬間瞬間の悦楽を求めて、惚《ほう》けたような顔で彷徨《さまよ》い歩いている。
「やあ」
男は、声をかけた。
少女が媚《こび》を含んだ眼差《まなざ》しで、男の視線を受け止める。
歓楽街である。
日付は、とっくに変わっている。
アベックと酔っ払いと、そして何十組もの若者の集団が、けばけばしい照明に照らされた夜の街を行き交う。昼間よりも密度の濃いその雑踏の中で、少女は街灯に背をあずけて立っていた。
学校の制服のままだ。
まだ十代なのだ。
「いいかな?」
微笑んで見せる男を、少女は無遠慮な視線で値踏みする。既に自分が値踏みされたことを、彼女は理解しているだろうか。
街の灯に負けず劣らずの、けばけばしい化粧だ。肌の色との調和もなく顔の造作の陰影とも無関係に塗りたくられた色彩は、目と唇だけを強調したカートゥーンのキャラクターのようだ。
少し考える様子を見せてから、少女は指を、三本、立てる。それがつまり、彼女の要求するものだ。
いいとも、と彼が応えると、少女は男の隣に並んで腕を巻き付けてきた。もう片方の手には薄っぺらい通学|鞄《かばん》を下げたままで。
男の肘《ひじ》に当たる乳房の感触は、けっこうなボリュウムだった。
少女を腕にぶら下げて、男は歓楽街を抜ける。どこ行くの、という少女の問いには、すぐそこだ、とだけ答えた。
すぐそこだった。
ネオンの海を見下ろす、ビジネス・ホテルだ。
カウンターでキーを受け取り、エレベーターに乗る。部屋は三二階だ。
少女を先に押し込んでおいて、男は後ろ手にドアを閉じた。彼女は男のその行為を、はやる性衝動ゆえのものと誤解したようだ。振り返って男の首っ玉に腕を回し、唇を押しつけてくる。
年齢のわりに、少女のキスは巧みだ。かなりの場数を踏んでいる証拠だが、男の方が上だった。少女の可愛らしい舌を男が押し戻し、舌を滑り込ませる。たちまち少女の膝《ひざ》から力が抜けて、彼は制服の腰を抱えてやらなければならなくなった。
手を放すと、少女は立っているのがやっとという有り様だ。
生命の根源に触れた彼にとって、性感帯を正確に刺激するくらいのことは、目を閉じてシャツのボタンを掛けるのと同じ程度にしか困難ではない。
「脱ぎな」
ドアを入ってすぐの、クローゼットの前だ。ベッド・サイドですらない。だが少女は命じられたとおり、衣服を床に落とし始めた。照明の真下でも躊躇《ちゅうちょ》さえ見せないのは、もともと見られることに慣れているのか、それとも自分の方が性衝動の虜《とりこ》になってしまったからなのか。
ともかく、少女はすぐに全裸になった。
男は、その柔らかい肢体を抱き上げると、バス・ルームのドアを開けた。
浴槽に立たせてから、自分も服を脱いで浴槽に入り、少女を抱く。
細い腕が、筋肉質の背中に回される。
「なあ」
唇が触れそうなくらいに顔を近づけて、男は言った。
「ママに言われなかったか? 知らない人に付いて行っちゃイケマセン、って」
答えは、キスだ。
とっくに口紅の落ちてしまった唇が、男の唇を塞《ふさ》ぐ。
あぐ、という意味不明の呻《うめ》きとともに唇が離れ、少女の躯《からだ》が硬直した。
がっくりと反らせた頭に、後ろから、男の指が深々ともぐり込んでいた。
赤い液体が溢《あふ》れて、ぱたぱたと浴槽に落ちた。
血だ。
「つまりな」
小刻みに震える少女の唇を、男の舌が舐め上げる。
「ママの言いつけには、それなりの理由があるってことだ」
知らない人に付いて行っちゃイケマセン。
たとえそれが、どんなにイイオトコでも。
下がり気味の目尻と丸い小鼻が可愛くて、眉と唇の引き締まった二枚目でも。
この世界には、生きている価値のある人間と、生きている価値のない人間がいる。
決定付けるのは、意志だ。
生きようとする意志。次の一日へ、次の一時間へ、次の一分一秒へ、命を繋《つな》ぎ、生き続けようとする意志だ。全ての努力と全ての責任を放棄して、ただ享楽のみを追い求めるなら、そんな命には何の価値もない。
男は、シャワー・カーテンを引いた。
それから背後のコックをひねって、シャワーを全開にする。
次の瞬間、倍ほどに開いた男の口が、少女を頭から齧った。
ペディキュアの塗られた足の指まで喰い尽くすのに、三〇分とかからなかった。
楽になったな、と丈は思う。
確かに命懸けの仕事であることに変わりはない。
しかし一時期よりはるかに楽になっていることだけは、認めざるを得ないのだ。
それが事態の終息を意味するものでもなければ、恒久的な状況というわけでもないことを理解した上でも、である。
関係省庁に寄せられる失踪《しっそう》、行方不明、変死の情報は、全てオンラインで彼のもとに集められる。無論、秘密裡《ひみつり》に、だ。ゾーン対策委員会が事実上解散した今も、ネット上に残されたシステムだけは活きているのだ。
情報は、発生あるいは報告された時刻ごとに分類されて、地図上の赤い光点として端末に表示される。
音緒の出番だ。
彼女の特異な『才能』は、黒川丈の経験やダリアの計算よりも正確に、次なるゾーンの出現位置を特定するのである。
超演繹《ちょうえんえき》能力。
ダリアは音緒の能力を、そう表現した。それは因果律《いんがりつ》を読み取る驚異的な能力だ。
本人さえ意識しないような些細《ささい》な情報の集積から、現状を『因』とし、そこから発生し得る膨大な可能性の中で最も確率の高い『果』を瞬時に選択するのである。それも、潜伏しているゾーンの数はおろか、おおまかな形態やサイズまでも言い当ててしまうのだ。
次々と新たな遺伝情報を取り込みつつ環境に合わせて刻々と形質を変化させてゆくゾーンの姿を、である。
その正確さは、回を増すごとに磨かれてゆくようだ。
今回のも、どんぴしゃだった。
真上からの視界の中、暗視眼独特の淡い映像となって蠢《うごめ》くゾーンが見える。その姿は、音緒が、こおんな感じの、とスケッチしてみせた絵にそっくりだ。
「どうしてカタチまで正確に言い当てるんだと思う?」
路地を這《は》いずる異形の獣を屋上から見ながら、黒川丈は、隣に立つ美しい相棒に声をかけた。
「ネオの『才能』が?」
ダリアの声からは、いつものことながら感情が感じられない。クールで、ドライで、しかし心地よい声だ。
「ああ」
言葉を交わしながらも、視線は決して獲物から外さない。大型犬ほどのサイズで、ヒトの手足と鱗の胴と、クワガタムシみたいな大きな顎をもち、目玉を五つも並べたバケモノだ。おおかた、夜の『食事』にでも出掛けるところなのだろう。
かなり困難ではあるけど、と前置きしてから、ダリアは言った。
「理屈は同じことよ。推定される感染経路と生息地を計算に入れれば、食料となる可能性のある生物は、ある程度は特定出来るわ。それに周囲の環境を考え合わせると、進化の方向性が見えてくるという仕組みね」
「言うは易《やす》し、だな」
「だからこその『才能』なのよ」
どれだけ膨大な数の可能性があるのか、想像も出来ない。その中から、たった一つの組み合わせを、音緒はすくい上げるのだ。
いとも簡単に。驚くべき正確さで。
獲物が、停《と》まった。
街の灯が届かない、ぎりぎりのラインだ。
ぎざぎざのついたハサミのような顎を開き、四肢を縮めてうずくまる。餌《えさ》が通りかかったら一瞬で捕まえ、闇の中へと引きずり込むつもりなのだ。
「さてと」
獲物を真下に捉え、丈が立ち上がる。
バトル・ホイール用のライディング・スーツを改造した戦闘服は黒。左の袖《そで》を千切った革の上着も、分厚い靴底のブーツも黒。髪も不精髭も黒く、アイパッチも黒。
黒い男。
サイボーグ。
ゾアハンター。
左手の指を開いて、握る。
手首の中から、かき、と返ってくる固い感触は、充電が完了している合図だ。
「行くか」
「ええ」
応えて相棒も前へ出ると、屋上の縁に立つ。
こちらは、長い黒髪に赤いロング・コートだ。丈と同じように獲物を見下ろす目は、おぞけを奮うほど美しい顔の中で、ひときわ冷たい印象である。
跳んだ。
二人、同時に。
音緒が部屋の時計を見ると、時刻は午前三時を回ったところだった。
先に寝てろ、と言われている。
深夜のゾアハントに出掛ける時、丈は必ずそう言うのだ。
パジャマに着替えてはいた。けれどベッドに入る気にはならなかった。机に頬杖を突いて、音緒は端末に表示された地図を見ている。
繁華街の、ほぼ中央だ。そこに赤い点が一つ、点灯している。
今日の昼間、音緒が指したポイントである。
ゾーンが潜んでいる。
潜んでいるはず。
あたしの『才能』が正しければね、と音緒は思う。
そして今までのところ、正しくなかったことは一度もない。
少なくとも、丈のチームに入れてもらってからは。
少なくとも、全てを知ってしまってからは。
アザエルのこと。
ゾーンのこと。
そして、もう一人の『黒川丈』のこと。
音緒がゾーンの犠牲者であるのと同じように、丈もまた犠牲者の一人だった。
彼が失ったのは、躯だ。
腕を、脚を、彼はゾーンに奪われた。外見は生身のように見えても、今の彼は、頭の一部と首から下の全てが精巧な機械なのだ。
頬杖を突いたまま、音緒は部屋を見回した。
端末の置かれた机とベッドの他は、本の詰まったスチール・ラックだけ。丈の部屋の方はアクション・フィギュアのぎっしり並んだラックが壁も窓も塞いでいて、だからそれと比較すると寂しいくらいに質素だ。
かつて、丈のパートナーだった女性の部屋だ。
安次嶺《あしみね》美咲。
けれど彼女は、もういない。
今は、音緒が使っている。
ここにいると、この部屋の以前の持ち主がどれだけ丈のことを考えていたか、どれだけ彼に尽くそうと努力していたかが、よく判る。本棚に収まっているのは、臨床医学や心理学、ロボット工学、サイボーグ工学といった専門書ばかりなのだ。
全て、丈のための本だ。
サイボーグとなった丈を支えるために必要な知識が、そこには詰まっているのだ。
かなわない、と音緒は思う。
どんなに頑張ったって、どんなに『才能』があったって、十七の小娘はどこまでいってもジュウシチノコムスメでしかない。
十八になったって、同じだろう。
十九になったら、少しは違うだろうか。
でも、今は十七だ。
小娘だ。
手を伸ばして、手近な本を抜き出す。
『メカニズムとの融和/サイボーグ心理学への入門書』
序文を、声に出して読んでみた。
「事故や疾病《しっぺい》によって失われた器官を機械装置へと換装する、いわゆるサイバネティクス医療が事実上現実のものとなり医学の世界を大きく変え始めた時、全ての関係者はこれを福音《ふくいん》と受け止めた。しかしほどなく、サイバネティクス移植を受けた人々の間で軽度の、あるいは重度の心身……心身…………………」
お手上げ。漢字が読めません。
まだ序文なのに。
入門書って書いてあるのに。
ラックに戻す。
溜め息。
あたしだって役に立ってないわけじゃない。でも、美咲さんみたいに努力したわけじゃなくて、あたしの『才能』は勝手に働くものだ。
ちょっと思っただけで『見え』ることも少なくないけど、肝心なことなのにいくら頑張っても『見え』ない、なんてことも多かったりする。見たくもないことを突然『見て』しまったりすることもあるのだ。
正確無比。
でも制御不能。
努力して身に付けたものじゃないから、それは当然だ。
でも美咲さんは、違う。一生懸命に努力していたのだ。
丈のために。
とても、かなわない。
そして音緒は知っている。
そんな美咲でも、望みながらも得られなかったものがあるということを。
端末のモニターの上に一つだけ、人形が置かれている。丈の部屋のと同じような、十五センチくらいの女性の人形だ。ビキニを着たみたいに、ほとんど裸の。けれどそのしなやかな肢体をわずかに覆っているのは、水着の布ではなく銀色に輝く鎧《よろい》なのだ。
女戦士だ。
決然と正面を見つめる眼差しは、強い決意と闘志に輝いて見える。
合理性に溢れたこの部屋の中で、その人形だけが、別の色彩を放っていた。
それが、彼女の願い。
それが、今は亡き安次嶺美咲が望んだもの。
それが、決して叶《かな》えられることのなかった希望。
あたしには、と音緒は思う。
何が出来る?
突然、モニターにウィンドウが開く。また一つ、情報が飛び込んできた。
垂直に落下しながら『抜刀』した丈は、ゾーンの真正面に着地した。目の前に突然、現れたその姿を、呪《のろ》われた獣は、どう見ただろうか。
『敵』か。
それとも『餌』か。
ヴビャ!
奇妙な鳴き声とともに、大人の腕ほどもありそうな巨大な顎が噛《か》み合い、がちがち、と音をたてた。
「よせやい!」
上体を持ち上げて真っ直ぐに迫るその顎を、丈は手にした電子ブレードで、横様に払った。湾曲した一対のハサミが、根元から切断されて路地に転がった。
一滴の血も出ない。ただ断面から、白い煙を噴き上げるだけだ。
電子ブレードである。
鋭利なその刀身からは、斬撃《ざんげき》の瞬間、高出力のマイクロ波が放射される。電子レンジの原理だ。これによって断面は瞬間的に焼灼《しょうしゃく》され、一滴の体液も零《こぼ》すことなく切断されるのである。アザエルの拡散を防ぐための、それはゾアハンター必須《ひっす》の装備なのだ。
ガギャ!
ゾーンが、後肢で立ち上がった。半ば胴に埋まり込んだような頭部で、五つの目玉がこちらを向く。肢を伸ばすと、丈よりも頭二つ分ほど大きくなる。歪な巨体が、太い前肢を拡《ひろ》げた。抱き締められれば、骨まで砕けそうだ。
「そんな趣味はねえぞ!」
言いながら、しかし丈は前へ出た。
すぐ目の前の、鱗に覆われた太い胴に向かって、肩から飛び込んでゆく。ブレードの切っ先が、真っ直ぐに、その中央に吸い込まれた。
ゴァアア!
丈の頭の上で、螺旋《らせん》状に捩《ね》じれた牙が涎《よだれ》を撒《ま》き散らす。
そのまま、押した。
獲物の胴を貫いたまま、乗用車を真横に押して動かせるほどの力で、サイボーグが路地の奥へ向かって走る。
ゲェェエ! ゲァアァア!!
「うるせえ!」
繁華街の明かりが届かない辺りで、ゾアハンターは急停止し、剣を引き抜きざま、真横になぎ払う。胴を中央から水平に斬《き》り裂かれた獣は、そのまま勢い余って一メートルほど飛んでから、仰向《あおむ》けに引っ繰り返った。
それでも、なおも起き上がろうともがく。
「寝てろってばよ!」
踏み込んだ丈は、片側の肢を前後とも、一気に斬り飛ばした。
それで、終わりだった。
胴を半ば断ち割られ、肢を半分失ったゾーンに出来るのは、のたうつことだけだ。
「よっしゃ。焼け」
命じる相手は、背後に付いてきているはずの相棒だ。見るとダリアは、両手にゾーンの顎を下げていた。
「何度言っても散らかすのね」
肩をすくめて見せた丈は、ブレードの表面を電光が舐めて付着した肉を炭化させたのを確認してから、ブレードを『収納』した。
「仕方ねえだろ? 襲ってきたんだから」
「真上から攻めたんだから、着地と同時に胴を分断すれば行動不能に出来たわ」
言いながら、なんとか起き上がろうともがき続けるゾーンの上に、黒光りするクワガタ虫のハサミを放り出す。
「おや、そうだったかい」
ハサミも前後の肢も、そしてゾーン本体も、電子ブレードに断ち斬られた断面の肉を蠢かせ、新たな器官を生じ始めていた。
「とっとと焼かねえと、もっと散らかるぞ」
「了解」
応えて、アンドロイドが命令を実行する。
人工知能の正確な計算で、手にした小型レーザー銃から赤い光を照射するのだ。高温の光の焦点を正確に合わせて、一かけらの肉片の、その細胞の一つまで残さず焼き尽くすことは、人間にはおよそ不可能な芸当だった。
焼却。
ゾーンを倒す方法は、これしかない。
ゾーン細胞が環境に適応して変質するよりも早く熱死させるのだ。そのためには、まず獲物の動きを停止させる必要があり、つまりゾアハンターの武装はゾーンを倒すためではなく動きを停めるためにある、とも言える。なにしろアザエルに感染した細胞は、実に細胞単位でさえ獲物を捕食し、外敵から逃亡しようとするのである。
ともかく、今日の仕事はこれで終わりだ。
待ち構え、攻撃し、焼き払う。
それは、まさにルーティン・ワークだった。
潜伏するゾーンの位置を正確に特定し、その形態や能力まで高い精度で予測可能となった今、知能を持たず本能のみに従って行動するゾーンを始末することは、熟練のゾアハンターにとって、もはや単純作業以外の何ものでもない。
ヒトに擬態する知性を持ったタイプならもっと手強《てごわ》いのだろうが、それも長らく目にしていない。知性を持たない、言わば原ゾーンとでもいうタイプばかりだ。
しかも、巨大ゾーンの一件以降に始末したゾーンは、この数ヶ月ほどで、まだこれが三匹目なのである。
ゾアハントの回数が、激減しているのだ。
一時は、音緒の『才能』が満足に機能していないのではないか、とも考えた。だが、どうもそうではないらしい。なぜなら、明らかにゾーンによるものと思われる失踪や変死も、あの事件以来、一気に減ってしまったのである。むしろ逆に、音緒の協力があったからこそ三匹も始末出来た、とさえ言える。それ以前のやり方では、おそらくハントそのものが成立しなかったろう。
ゾアハンターの仕事は、確実に楽になっている。
ゾーンの絶滅が近いのだろうか。
だが丈は、同時に身構えてもいた。
『奴』が、このまま引っ込んでいるわけがない。
きっと、何かやる。
いつか、必ず。
あるいは、今日がその『いつか』だったのかも知れない。
ダリアが焼却完了を告げ、かりかりの炭の塊になったゾーンを丈が蹴飛ばした時、その音が近づいて来たのである。
パトカーのサイレンだ。
「どうしたの?」
ダリアの問いは、彼が撤収命令を出さないことに対するものだ。
仕事が終われば直ちに撤収するのが、ゾアハントの鉄則だ。長居をすれば第三者に目撃される可能性もあるし、余計な痕跡《こんせき》を残してしまう危険性も増す。だがこの時、彼は路地の出口の方、歓楽街のけばけばしい灯の方向を見ていた。
サイレンは、少しずつだが確実に近づいてくる。拡声器で何かわめいているのは、夜遊びの通行人に道を空けさせるためだろう。
「気になる?」
「ああ」
気になる。
何の根拠があるわけでもないが。
「警察無線を……」
傍受しようか、とダリアは言いかけたようだ。だが丈は、
「いや、いい」
遮った。
どちらにしろ、警察の前に出るのはリスクが大き過ぎる。ゾアハンターはあくまで非公式の存在だ。警察官の記録カメラに写ってしまう危険は避ける必要があった。
伝説のライダー・黒川丈は、あくまで消息不明でなければならないのだ。
『奴』にしたところで、そこら辺の事情は同じはずだ。
それに、と丈は思う。
もしゾーンだったとしたら、通報を受けた警察が駆けつけてくるまで、じっと待っているわけがない。
「撤収だ」
「了解」
次の瞬間、二人の姿は路地から消えた。
丈とダリアが戻って来たのは、ちょうど音緒が資料をまとめ終えた時だった。
端末に飛び込んできた情報を見た瞬間、閃《ひらめ》いたのだ。
その閃きを検証し、判り易いようにCGに加工し終わったところで、再びウィンドウが開いた。
今度は、部屋の管理システムからのものだった。
電源を切ろうとしたモニターの隅に、『玄関/開』の文字が点《つ》いたのである。
しかしドアを開閉する音も、廊下を歩く足音も聞こえない。音緒が眠っているはずだからだ。ウィンドウの開くのがもう少し遅かったら、二人の帰宅には気づかなかったに違いない。
少しだけ、考えた。
おかえりなさい、と出迎えようか。
それとも、このまま寝たフリして、明日の……じゃない、今日の朝まで部屋を出ない方がいいだろうか。
寝ないで起きていたと知れたら、また叱《しか》られるに決まってる。でも、これを朝まで黙ってることなんて、出来そうにない。それに、もう明け方なのだ。これからベッドに入ったら、きっと昼過ぎまで寝こけてしまうだろう。
無論、丈もだ。
ということは、けれど同時に、それだけ彼が疲れているということでもある。ハントが楽になった、と彼は言うけれど、命懸けの闘いであることに変わりはないはずだ。
どうしよう。
美咲さんだったら、どうしたかな。
答えは単純だった。丈が何のために闘っているのか、それを考えたのだ。
「おかえり」
部屋を出た。
途端に、
「音緒!」
大きな声。
タイミングも悪かった。二人は、ちょうど彼女の部屋の前を横切ってゆくところだったのだ。なぜ人は、驚かされると腹が立ってしまうのだろう。
「お前、寝てなかったのか」
つん、と香ばしい匂《にお》いがする。それと、かすかに肉が腐ったような臭《にお》いも。
ハントから戻った丈は、必ずこの臭いをさせている。それは、アザエルに汚染されたゾーンの肉が焼かれる際に発生する、煙の臭いなのだ。
ごめん、と下から見上げる。
「でも、後で叱ってよ。見せたいモノがあるさ」
その言葉の意味を理解したのは、さすが最先端の人工知能、ダリアの方が早かった。
「緊急なの?」
「うん。あたしは、そう思ってる」
「見えたのか?」
丈も、ダリアに追いついた。
「ううん。でも、すッごい引っ掛かるの。あたしじゃ判断つかない。だから、見て」
「判った」
部屋に戻って、端末の前に座る。丈はベッドに腰を下ろして、それを見ている。ダリアは、丈がハンガーに戻るように指示しなかったので、音緒の後ろに立った。
「いい? これ、一時間ほど前に入った情報」
モニターの地図上に、赤い点が一つ灯《とも》る。板橋《いたばし》区の、成増《なります》の辺りだ。
さらにキー・ボードを操作すると、ウィンドウが開く。音緒と同年代くらいの少女の顔写真と、その横に年齢・性別・住所が表示される。
「失踪か?」
丈の問いに音緒は、うん、と頷《うなず》いて見せた。
「学校から帰って来なかったってパターン。でね、あたしが気になったのは、この子の着てる制服なのよ」
モニター上で、少女の写真を拡大する。
胸の少し上辺りまでが、フレームに収まっていた。
基本的にはセーラー服だが、微妙にアールのついた襟と波打つようなストライプが特徴的だ。
「これ、フェリシアの制服なんだよね」
「ほお」
「場所は、ここ」
地図上に、光点が灯る。横浜である。
「横浜の、けっこうイイトコの学校。これ、覚えといてね」
「おう」
その返事を待たずに、音緒はさらに端末を操作する。続いて表示されるのは、また別の少女の顔写真だ。
「これ、蒼大付属の制服。場所は渋谷。ここね」
同時に、地図上に新たな光点が灯る。そこがつまり、失踪者の通っていた学校の所在地だ。
「ふむ」
次の少女。次の光点。
「これは九段下の白菊女子校」
「ほお」
次。
「都立西新宿、新宿」
次。
「松戸《まつど》の日帝大付属」
次。
「南千住《みなみせんじゅ》のエス工専。まだあるけど、もう判った?」
丈の答えは、いいや、だった。
「お前さんが高校の制服に詳しいのは判ったけどな」
「ダリアは?」
彼女の答えは、常に即答だ。
「判るわ。条件付きだけど、一つだけ共通項がある」
「言ってみて」
「電車で通学する場合、池袋《いけぶくろ》を経由する可能性が極めて高いわね」
「正解!」
つまりダリアの言う『条件』とは、それぞれの少女達の住所の問題なのだ。
音緒はもう一度キー・ボードを叩いた。
地図のあちこちに新たな光点が現れる。それが、少女達の通う学校を示す光点と、線で結ばれていった。
横浜に現れた光点は、成増の光点と。渋谷の点は、巣鴨《すがも》の点と。九段下はひばりヶ丘と、新宿は要町《かなめちょう》と、松戸《まつど》は板橋と、南千住は練馬と、それぞれ線が結んでゆく。
光点と線の関係は、一対一だ。以前の光点と後から現れた光点とが、それぞれ対になって結ばれた恰好《かっこう》である。
線は、どれも直線ではなく、ゆるやかではあるが曲がりくねっている。
「後から点いた光が、失踪した女の子達の住所。線は通学に使う路線」
「なるほど」
全ての線は、一点で交差していた。
池袋である。
「成増の子は、東上線の成増から池袋乗り換えで山手線、品川から横浜方向へ。巣鴨の子は、JR山手線で一本。ひばりヶ丘は、西武池袋線で池袋で乗り換えて、有楽町線」
失踪した少女達には、通学路が全て池袋を経由するという共通点があるのだ。
「もひとつ、共通点があるよ」
画面が変わる。次に現れたのは、棒グラフだった。それぞれのグラフの下には、女性の名前が表示されている。
「今の子達の、学校での素行評価」
どのグラフも、かなり棒が短い。つまり、
「不良娘ばかり、ってことかい」
「で、通学の途中に池袋がある、と」
「なるほどなあ」
池袋は、不思議な街だ。
都市開発が加速度的に進み、繁華街や歓楽街が徐々に郊外へと拡散してゆく一方で都心部は寂れてゆくという現状にあって、なぜか池袋だけが隆盛を保っているのである。
二十世紀後半からほぼ百年、それは変わらない。二〇七〇年代を目前にした今、なお池袋は若者達を誘惑し、時には喜びを、時には堕落の果ての地獄を与え続けているのだ。
「それで」
丈の問いに、
「そんだけ」
音緒の答えは、極めてシンプルだ。
「ひょっとしたら、意味なんかないかも知ンない。けど、あたしはあると思った。だから専門家に判断して欲しい。そゆこと」
「ダリア、おめぇは、どう思う?」
「情報不足ね」
人工知能は、常に即答を返す。
「この事態にゾーンが関与しているかどうか、という点についてはね。ただ、彼女達の失踪が同一の事象に由来するものである可能性は、極めて高いわ。逆に言うなら、これが単なる偶然の一致と考える方が無理があるわ」
つまり、それが結論だ。
少なくとも、現時点での。
「よし」
丈は立ち上がる。
そして、宣言した。
「とにかく、少し寝よう」
よかった、と音緒は思った。
丈の寝起きが悪いのは、低血圧のせいだ。それは、五体の全てを機械に換装したフル・サイボーグとなった今でも、何ら変わらない。
意図的に、そのように調整されているのだ。
疾病や怪我《けが》による肉体の損傷をサイバネティクスで補完する際、もとの肉体とかけ離れた調律を行うと、残された生身の器官に悪影響を及ぼす場合があると言われている。また場合によっては、精神面への悪影響もあるという。
急激な変化に脳が付いてゆけないのである。少なくともシンバイオシス・オーガニゼイション・ソサエティ……いわゆるサイボーグ学会では、それが通説だった。
無論それは、生身の肉体が備えていた体質的な要素も、同様だ。
もっとも、時間をかけて設定を変更してゆけば、爽《さわ》やかな朝の目覚めを手に入れることも出来る。だが、彼はそうはしなかった。
だから丈は、今でも朝に弱い。
いや、今日の場合は、昼、と言うべきか。
ベッドを抜け出す。
部屋の隅に設置された大型の円筒形の装置は、チェック・ポッドだ。毎朝その中に入って機体の機能をチェックすることから、黒川丈の一日は始まる。
内部に入ってシャッターを閉じると、金属製のリングが頭のてっぺんから爪先《つまさき》までを往復し、機体をスキャンする。
チェック終了。
異状なし。
それから、ベッドの足元に脱ぎっ放しの服を身に着ける。スウェットの、下だけだ。
キッチンでは、今朝も音緒がシンクに向かっていた。
「おはよ!」
いつもは耳に心地よく弾む音緒の声も、起き抜けの頭には衝撃波を叩き込んでくる。うぅ〜、と唸るだけで精一杯だった。
頭が重い。とにかくコーヒーを一杯飲むまでは、この状態だ。ありがたいことにカウンターには、どんぴしゃのタイミングでコーヒー・カップが湯気をたてている。
一口、啜《すす》った。
旨《うま》い。
シンクに立つ音緒の背中を見ながら、徐々にはっきりし始めた頭で、丈は昨夜のことを考えていた。
失踪した少女達。
おそらく、と丈は思う。
少女達の失踪には、ゾーンが関連しているはずだ。
理由は、制服だ。
文字情報ではなく、写真に写った制服を見て、音緒は失踪事件の共通項に気づいたのである。彼女の『才能』の性質を考えれば、そこには何か意味がある。少女達は共通の事件に巻き込まれたに違いない。そして、音緒が常にゾーンの存在を意識して情報に向き合っている以上、そこから浮かび上がるべきはゾーンの存在なのである。
それも、原ゾーンではない。
知性タイプだろう。
数ヶ月前、丈は、ゾーンが集団で人間に混じって生活している現場を目撃した。一棟の大型マンションの大半が、ゾーン化していたのである。本能にのみ忠実な捕食行動ではなく、連中は計画的に獲物を捕っていた。後の調査で、連中がホームレスなどの住所不定者を中心に捕食していたことが判明したのだ。
同じだ、と丈は考える。
同じようなことが、池袋で起きているのだ。
夜遊びに来た少女達を、次々と捕食しているに違いない。もとより無断外出や無断外泊を繰り返しているであろう少女達は、餌としては最適なのだ。仮に二日や三日帰宅しなくても、家族は、またか、と思うくらいだ。捜索願いが出されるころには手掛かりはなし、というわけである。
「ねえ」
「おう」
「サニー・サイド・アップとスクランブル、どっちがいいか?」
コーヒーが効いたらしく、音緒の声は衝撃波ではなくなっていた。
「スクランブル」
「うっきー」
猿の真似《まね》ではない。オッケー、だ。
フライパン返しで卵をかき混ぜながら、背中を向けたままの音緒がまた、ねえ、と声をかける。
「んぐ?」
応える丈は、コーヒーを啜っている最中だった。
まだ、いささか熱いのだ。
「昨日の、どう思う?」
「あれか?」
「うん」
知性型ゾーンだろうという見解を、とりあえず伝えてから、
「だがまあ、調査してからだな」
「どうやって?」
そう。
それが問題なのだ。
相手が原ゾーンではなく知性型なら、痕跡を探したり生体組織の残滓《ざんし》を試薬で検査するような通常の調査は、無意味だろう。相手は人間と同じ姿を持ち、人間並みの知能を持っているのである。
かろうじて形だけをヒトに擬態する程度の連中ならともかく、完全な知性型が調査の網にひっかかったことは、これまで一度もない。知性型ゾーンの巣になっていたマンションの場合も、丈のインスピレーションによって発見されたに過ぎず、これは単に幸運だっただけだ。
となると、後は音緒の『才能』だが、これも好きな時に好きなものを『見』られるわけではないのである。
「どうしたもんかな」
「アイデアなし?」
振り返った音緒は、スクランブル・エッグの載った皿を手にしている。
「まあな」
昨夜のサイレンを思い出した。
パトカーだ。
多少の危険を冒してでも、行ってみるべきだったろうか。
池袋にいたのだから。
だが、今となってはもう遅い。己自身に、阿呆《あほう》め、と呟《つぶや》くだけだ。
音緒が皿をカウンターに置くのとタイミングを合わせたように、トースター・レンジが軽い電子音をたてた。
「バターでいい?」
「おう」
トーストも二枚|揃《そろ》って、ともかく朝食の時間だ。
向かい側に座って、音緒はトーストに卵を載せてゆく。
「ねえ、あたし思ったんだけどさあ」
「おう」
「丈、あたしのこと制服マニアみたいに言ったけどさ、ひょっとしたら、相手もそうなんじゃない?」
「制服を見分けて喰ってるンじゃないか、ってことか?」
少女達の制服を区別して捕食することで、ゾアハンターの目を逃れているのかも知れない、ということだ。そうすれば失踪者の情報は拡散してしまう。現に丈は、これらの失踪が一点で交差することに気づかなかったのだから。
スクランブル・エッグ山盛りのトーストを齧りながら、なあんだ、と音緒は言った。
「名推理だと思ったんだけどなあ」
「じゃあナニか? 俺でも思いつくようなことだから名推理じゃない、ってことか?」
「脳みそキンニクだし?」
「放っとけ」
「まあ冗談は置いといて、アタリじゃないの?」
「多分な」
「てことは、相手はオスと見たね。それも、単独だ」
「なに?」
「うわ、やっぱり脳キンだ」
トーストを頬張っていたので、その言葉は、あっぱいおうきんあ、と聞こえる。ティー・カップを口に運んでから、音緒は真っ直ぐに丈の瞳を見つめた。左目だけではなくアイパッチの方も、ちゃんと正面から。
「いい? 消えてンのは女のコばっかなんだよ? なんでオトコは喰わないの?」
言われてみれば、そうだ。
「引っかけてンだよ」
「なんだ?」
「引っかけてンの。ナンパ。池袋みたいなニギヤカなとこで、しかも制服着てるような連中がウロウロするんだから、人目につかない路地裏なんかじゃないンだよ。皆が見てる前で、あっさり連れてっちゃうンだよ、きっと」
「ゾーンなら、誰にも見られずに行動するくらいは、やるぞ」
現に、昨夜のやつが、そうだ。同じ池袋の、深夜になっても人通りの絶えない街の片隅で、異形の獣は本能に従って人間を捕らえては喰い続けていたのである。
「一回だけならね。でも、何度も何度も繰り返してンだよ。例のアタマのいいタイプのゾーンが、そんな危険なこと、すると思う?」
思わない。
正確に言うなら、出来ると思わない、だ。知性は、恐れを生む。連中にだって、恐れるものや恐れる事態は、あるのだ。
「だから、ナンパか」
「そ。誰かに見られても平気な方法って、それしかないよ」
同じような光景は、街のあちこちで見られるのだから。
だが、
「一つだけ、難点があるな」
「なに?」
「ペースが、少しばかり早い」
ゾーンがヒトの姿をした知性型だとすると、捕食のペースは需要をかなり上回る計算になるのである。
餌が完全に途絶えた状態になると、ゾーンは約二〇時間で死亡する。しかしそれは、常に環境に適応しようと形態を変化させ続けている状況において、だ。例のマンションの件を基準に考えると、どうやらヒトの姿に固定した知性型の場合、通常のゾーンよりもカロリーの消費が抑えられる傾向にあるらしいのだ。
つまり、池袋に潜伏しているゾーンが知性型ならば、このペースで捕食し続ければ、徐々にではあるが躯が大型化し始めることになる。いくらヒトの形態を維持しても、身長が三メートルを超えるような人物が、目立たないわけがない。
「じゃ、複数だ」
「それだとペースが遅過ぎる」
「交代で喰ってるとか」
「同じだ」
「あ、そか」
では、せっかくの名推理も見当外れということなのだろうか。あるいは、ゾーンの仕業であるという前提そのものが間違っているのか。
だが、そうではない、という確信があった。
それは、ゾーンと闘い続けるゾアハンターとしての、黒川丈の勘だ。
これはゾーンの仕業だ。
考えれば考えるほど矛盾が生じるが、しかし、間違いない。
ゾーンだ。
絶対に。
「あのさあ」
音緒は、最後の一かけらを口に放り込むと、
「何だったら、あたしがレ……」
最後まで言えなかった。
玄関のチャイムが鳴った。
米沢賢太郎は、今日も朝から気が重かった。
昨日より、ずっとだ。
思ったとおり、報告は彼の役目になった。ゾーン対策委員会のメンバーの中で黒川丈と顔見知りなのは彼だけだから、という、もっともらしい理由付きで。
小山翼《こやまつばさ》や岩村翔也《いわむらしょうや》がいるじゃないか、とも思ったが、口には出さなかった。前首相や前防衛庁長官が、たかが報告のために腰を上げるわけがない。
まあいいさ。どうせ、これを届けるついでもあったし。
玄関のチャイムを押した。
五秒ほど待たされてから、スピーカーが、はい、と返事をする。
少女の声だ。
音緒とかいう、あの少女だろう。
そう言えば、黒川丈とこの少女は、どういう関係なのだろうか。
あのマンション倒壊現場からゾアハンターを搬送する際、彼女は、丈のパートナーだと名乗った。病院に着いてからも、自分の手当てそっちのけでサイボーグ外科の手術室の前に座っていた。それから四日間、彼女は意識の戻らない黒川丈に、ずっと付き添っていたのである。ダリアを付き添わせるわけにはいかないにしても、米沢が彼女に、特別に看護婦を付き添わせるから、と言ったにも拘《かかわ》らずだ。
そして退院した丈は、シューティング・レンジの改装と一緒に、少女のためのオートクチュールを注文したのだ。
ヨネザワ特製ブランドの一品を、である。
あの少女を、現場に連れて行くつもりなのだろうか。
だとしたら、黒川丈はあの少女に何をさせるつもりなのだろうか。
まあ、いいか。
僕はもう決めたんだ。
ツケを払うと。
「黒川くん、いるかなぁ。米沢が来たって伝えて欲しいんだけどねぇ」
今度は、三秒も待たされなかった。
すぐに、ロックが解除された。
相手が名乗る前に声を聞いただけで、音緒にはすぐ判った。キッチンの奥の管理モニターから聞こえてきたのは、独特の、ねっちりした喋り方だったのだ。
だから丈に、オカマの先生だ、と言った。
丈は、開けてやれ、と言った。
すぐに玄関の方で、ど〜も〜、という粘っこい声がする。迎えに出た音緒は、既に上がり込んでいたオカマの先生と、廊下で鉢合わせした。彼は大きなプラスチック製のケースを下げていた。
「ども」
「やあ久しぶりだねえ。音緒ちゃんだっけ?」
「はい。どぞ」
丈がリビングの方へ移動していたので、先生もそっちへ通した。広いリビングの真ん中でガラス・テーブルを挟んで、丈と米沢医師が向き合って座る恰好になった。
一瞬、どうしようかと考える。
やっぱ邪魔でしょう。
お茶だけ煎れたら退散しよう、とキッチンへ引き返しかけた時、
「音緒」
丈に呼ばれた。
「はい?」
「こっち来な」
わあい。仲間に入れてもらえるんだ。
「じゃ、お茶だけ煎れたら……」
どうも今日は、最後まで言わせてもらえない日のようだ。
「いいから」
追い返すべき相手ではないが、お茶を煎れてやるほどでもないということか。
ともかく、丈がこんな態度の時は、
「はぁい」
素直に返事をしておくに限る。
フローリングの床を裸足《はだし》でぺたぺた横切って、丈の隣のクラブ・チェアに座った。テーブルには、さっきのプラスチックのケースが置かれていた。
「出来たのか」
丈の言葉に、米沢が眼鏡を指で押し上げる。
「うん。微調整は必要だけど、マニュアルも付けといたから」
「判った。音緒」
「はい」
「開けてみろ」
え?
あたしが?
思わず丈を見つめた彼女は、まさに、あたしが、という顔をしていたのだろう。言葉にはしなかったのに、丈は頷いて、ああ、と言った。
フラット仕上げの、戦争映画に出てきそうなカーキ色のケースだ。
大きい。丈のヘルメットなら三つか四つくらいは入りそうだ。表面に四角い凹凸《おうとつ》があるのは、強度を保つためだろうか。蓋《ふた》には長方形のシールが封印みたいに貼《は》ってあって、太い文字で『開封厳禁』と書かれている。
開けるな、ということだ。
それを丈は、開けろ、と言う。
持ってきたオカマの先生も、黙って見ている。
それって、つまり、そういうことなわけ?
シールを剥がすと、文字だけがケースに残った。
丸めて、どこに捨てようかと見回していると、米沢医師が手を伸ばして受け取ってくれた。
留め具は、二つ。銀色の、金属製だ。同時に手をかけて金具を押し込むと、ばく、という音をたてて蓋に隙間《すきま》が生じた。
開く。
収まっている物の正体は、すぐに判った。丈がハントに出掛ける時に着てゆく物に、そっくりだったからだ。
防護服だ。
きちんと畳まれて、ヘルメットとブーツがセットになった状態で、ケースに収められている。丈の物と違うのは、色が薄い赤紫であることだけだった。
「お前のだ」
これが?
「うそ」
「嘘じゃねえさ。おっさんが、お前専用に造ったんだ」
米沢が、うんうんうん、と何度も頷いて見せる。
それも、目を細めて微笑みつつ。
思わず、腰が浮いた。
手に取って、ケースから引っ張り出す。意外と軽い。
丈のスーツとは違って、袖もちゃんと付いている。強化合成皮革の外装の下は、薄い装甲板を内蔵した外骨格構造のようだ。四肢の関節部分に小さな盛り上がりがあるのは、ひょっとしたら出力増幅用の小型モーターかも知れない。
ライディング・スーツを改造した丈のものとは、基本的には全くの別物だ。けれど全体の印象は、まさに丈のスーッとオソロイなのである。
やった。
すッげえ。
「背中、見てごらん」
米沢医師に言われて、引っ繰り返した。
大きなアルファベットが三つ。
『NEO』
ねお。
少女は金切り声をあげた。
悲鳴ではない。
歓声だ。
オカマの先生が苦笑し、丈が大げさに耳を塞ぐ。
自分でも莫迦みたいだと思いながら、でも、どうしても止められなかった。
黒川丈が安次嶺美咲の願いを知ったのは、彼女がいなくなってしまってからのことだ。あるいは美咲が『ことの真相』を探ろうとしたのは、自分は丈の役に立てていない、と思い込んでしまったせいかも知れない。
莫迦だな、とは思う。
現に丈は、彼女の存在そのものに何度も救われたのだから。
しかし現実に彼は、美咲の願いを知らなかった。そして、そのことが彼女を死に追いやった原因の、少なくとも一つだとしたら、同じ過ちは二度と繰り返したくない。
もっとも、そう考えることこそが過ちである可能性は、ある。美咲の願いは叶えられているべきものであり、音緒の願いは叶えてはならないものなのかも知れない。しかしそれは、いくら考えたって判りはしないことなのだ。
だったら。
やらなかった後悔よりは、やってみた後悔の方が、いくらもマシだ。
だから丈は、米沢に造らせたのだ。
音緒のための、彼女専用の防護服を。
それは、美咲が望んでやまなかった銀の鎧だ。闘う男の傍らに立ち、ともに敵と対峙《たいじ》するための戦装束だ。
音緒は、まるでおニューのドレスをプレゼントされたみたいに、紫色の防護服を眺め、膝の上に置いて撫で回し、溜め息を繰り返している。
米沢の笑みにも、今日ばかりは厭味《いやみ》を感じない。
ともかく、と丈は思う。
後は音緒自身が決めればいい。俺は彼女を護《まも》ると約束したのだから。
丈がケースの蓋の裏側の表示に気づいたのは、その時だった。
防護服やヘルメットを保護する緩衝材の表面に、文字の印刷された黒いシールが貼り付けてある。
『PAs-002・D/試作型』
試作型?
何気なく読んだだけでは見過ごしてしまいそうなその言葉に、丈の神経の末端が、ささくれのように引っ掛かった。
「試作型……」
思わず、言葉に出してしまう。
「おい」
その声の低さに、隣で音緒の溜め息が止まった。
「試作ってのは、どういう意味だ?」
丈がゾーンに襲われて肉体を失った時、彼にサイボーグ化の手術を施したのが、米沢だった。だが米沢がゾーン対策委員会の一員となったのは、フル・サイボーグとしてのゾアハンターを造るためではなかったという。彼は、ゾアハンターは格闘技術に優れた人間である、と聞かされていた。サイボーグではなく、だ。そして米沢は、その生身のハンターが着る防護服を開発すべく、委員会に召喚されたのである。
少なくとも丈はそのように聞いているし、現に音緒が手にしているのは、サイボーグ工学から派生した外骨格タイプの防護服だ。米沢が委員会に要請されていたのは、まさに、これを造ることだったのである。
だがゾアハンター用の防護服は、結局、開発されなかった。なぜなら、たった一人のゾアハンターは、サイボーグ化されたのだから。
試作というのは、どういうことだ?
試作があるということは、
「制式採用のものが予定されてる、ってことか?」
米沢は、頷いた。
そして、言いにくそうに口を開いた。
「今日は用事が二つあってね、僕の方の用事は、もう片づいた。次は」
そこで一端、言葉を切った米沢は、眼鏡を指で押し上げてから、続けた。
「ゾーン対策委員会の用事だ」
「なに?」
「この間の巨大ゾーン事件を受けて、委員会が再始動してるんだよ」
なんてこった。
ゾーン対策委員会は、美咲を殺された丈の襲撃によって、壊滅した。ゾーンのサンプルは全て失われ、事実上、解散したのだ。残ったのは情報収集のためのネットワークと、ゾアハンターをサポートする超法規的権限の効力のみだ。
幹部であった小山首相と岩村長官は既にその公務を退《しりぞ》き、次の代の者はゾーン対策委員会の存在すら知らされていないはずだ。研究チームも、真相を知らされぬまま解散している。事実上、現時点で委員会は存在しないのである。
いや。しなかった、だ。
それが、例の巨大融合体の事件を受けて再生した、と米沢は言っているのだ。
「目撃者が、あまりにも多かったんだよねえ。当然、現政府の耳にも入ったわけ。で、誰かがビビって、ご注進しちゃったんだな、現首相に。僕は、小山前首相だと思ってるんだけどねえ」
つまり、ゾーンやアザエルについて喋っちまった、ということだ。
「当然、責任問題になったけど、アザエルの方の責任者は、もう死んじゃったしねえ。そういうわけで、次は対策問題だ。で、僕の出番になっちゃったのよね」
それはある意味、彼が払うべきツケであったのかも知れない。
「新生委員会は昨日付けで、ゾアスクァッドの設立を決定したよ」
ゾアスクァッド?
「何だ、そりゃ」
「ゾーン討伐部隊。精鋭自衛官で組織される、対ゾーン部隊だねえ。すぐに人員の選出にかかるそうだよ」
やっと判った。
つまり、その連中をゾーンの攻撃から護る為の防護服の開発を、米沢は命じられたということだ。
「それでねえ、あんたから注文されてた防護服の持ち出しが、厄介なことになっちゃったのよ。研究施設が、また委員会の管理下に入っちゃったからねえ。だから試作ってことにして、テストの名目で持ち出したわけ。委員会の方には、実用に耐えなかったので破棄したって言っとくけどさあ」
なんてこった。
生身の部隊だって?
「それは決定なのか?」
「うん。決定」
「無駄だな」
別に自衛隊の戦闘技術を揶揄《やゆ》するつもりは、丈にもない。しかし彼らの受けている訓練は、あくまでヒト対ヒト、兵器対兵器を想定したものだ。戦争と狩りとは、根本的にその目的も方法も異なるのである。
「僕も、そう言ったんだけどねえ」
だが聞き入れられなかったのだ。
「ねえ」
音緒が初めて、横から口を挟んだ。
紫色のおニューを、胸に抱きしめて。
「一つだけ、聞いていい?」
米沢に。
「何かな?」
「その委員会って、丈のことは知ってるの?」
米沢の答えは、うん、だった。
「でも、こっち側のシステムが、どうこうなることはないよ。連中としては予算削減のために停止させたいらしいけど、こっちが設定したゾアハンター専用ネットに侵入することは絶対に不可能だしねえ」
「言い切れるのか?」
「だって、僕が組んだシステムだもん。世界中のネットワークを一つの脳神経組織に見立てて、その中の一つの記憶として、ゾアハンターを組み込んだわけ。サイバネティクスと大脳生理学の応用だねえ。世界中の全ての端末から同時にハッキングかけても、ネットから切り離すことは不可能だよお。世界中の回線を物理的に、それも完璧に同時に切断する以外に方法はないねえ」
具体的に何がどうなっているのかサッパリだったが、自信のほどだけは判った。
それに、とサイボーグ外科医は付け加えた。
「僕が、そんなこと絶対にさせないもんねえ」
悪戯《いたずら》っ子のような笑みで。
なあんだ、と音緒は言った。
「じゃ、こっちは今までと変わンないじゃん」
まあな。
ただ一つの問題を除けば、だが。
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第二章 フォルト
それは音緒の提案だった。
丈は即座に却下したが、音緒は譲らなかった。
米沢を帰した直後のことだ。
防護服を試着しに部屋に戻った音緒は、しかしすぐリビングに戻ってきた。端末に新たな情報が表示されていた、というのである。
また少女が失踪《しっそう》したのだ。
だが、今回の失踪は少しばかり奇妙だった。捜索願いの出されていた高校生がホテルで目撃され、通報によって現場に出向いた警察官が、脱ぎ捨てられた少女の衣服だけを発見したのである。
現場は昨夜、ゾーンを始末した路地のすぐ近くだ。
すぐに、ぴん、ときた。
昨夜のサイレンだ。
畜生。やっぱり、行っときゃよかったぜ。
部屋の泊まり客は、姿を消していた。そればかりか防犯カメラの記録映像にも、かろうじて若い男であることが判《わか》る程度で、まともに映ってはいないのである。宿泊していた二日間、男は巧妙にカメラの視線を避け続けていたことになる。
人間には、およそ不可能だ。
しかしゾーンなら……。
名推理は的中していたということだ。
おそらく、いつもは連れ込んだ少女を喰った後、衣服を始末して、なにくわぬ顔でホテルを出ていたのだ。
文字通り、何喰わぬ顔で。
だが今回は、ホテルの従業員が少女のことを知っていた。テレビか新聞か、街の告知パネルで顔写真でも見たのだろう。ゾーンは遺留品を始末する前に、逃走せざるを得なかったというわけだ。
となれば、長居するはずがない。
すぐにも移動するだろう。
とは言え慎重な知性型のことだ、次の餌場《えさば》ですぐに捕食が成功する保証のない以上、食料の備蓄を考えるに違いない。つまり、喰い溜《だ》めだ。
今夜、もう一度チャンスがあるはずだ。
そして、だったら、と音緒が言いだしたのである。
「あたしが、レーダーになる」
丈と出会う以前から、音緒の『才能』は人間に擬態したゾーンを感知していた。それを応用して、池袋の人込みに紛れ込んだゾーンを見分けようというのである。
無論、丈は却下した。
危険過ぎる。
だが音緒は譲らなかった。
「じゃあダリアの意見を聞こうよ」
時には嫌になるくらいニュートラルな人工知能の判断を仰ごう、というのだ。
ダリアの意見は、条件付きだが妥当、というものだった。
その『条件』が満たされているかどうかを見るために、今、丈は制御パネルの前に座っている。
音緒が『特訓ルーム』と名付けた、縦長の部屋だ。
もとは丈専用のシューティング・レンジだった。先の巨大ゾーン事件の後、丈は、射撃だけでなく想定される全《すべ》ての戦局に対応可能な訓練施設として、委員会に大改装させたのである。
横幅八メートル、奥行三〇メートル、天井までの高さが三メートル強の、四角いトンネルのような構造だ。床と天井に切られた格子状のスリットを、低温レーザーを装備した標的が移動する仕組みである。攻撃に失敗すれば撃たれる、というわけだ。
「準備は?」
くわえ煙草《タバコ》でパネルに肘《ひじ》を突き、丈は大窓ごしに声をかけた。スピーカーを通じて返ってくる返事は、ちょっと待って、だ。
中央のスタンバイ位置に立つ少女は、こちらに背中を向けている。スウェットの肩が、大きく一回、上下に動いた。
深呼吸だ。
「いいよ」
武器は手にしていない。
いずれブレードや銃の使い方を教えてやるつもりではいたが、それは今日ではない。
「レベルE、いくぜ」
「Cでいってよ」
「おい」
確かにD以下の設定では、標的の出現間隔も長く攻撃も単調だ。だがそれは、闘い慣れた丈ならば、の話である。彼の訓練を日頃から目にしているとは言え、音緒が標的に向かうのは、これが初めてなのだ。
「いいから、やって」
「かなりキクぜ」
低温レーザーが、だ。生身の躯《からだ》でくらえば、確実に火傷《やけど》を負う。
しかしそれでも音緒の返事は、いいから、だった。
「判った。レベルC。いくぜ」
「来い!」
甲高いブザーが、開始の合図だ。
部屋の奥の床から、円筒形の物体が飛び出した。疑似生体ゴム製の標的だ。
標準的なゾーンの肉体密度を再現したもので、ブレードで斬《き》りつければ生々しい感触を返してくる。銃弾が命中した際の破壊の具合もリアルだ。それに回収後、培養液に浸してやるだけで損傷部を自己再生するというスグレモノなのだ。
スリットに沿って床をじぐざぐに滑り、標的が少女に迫る。一定の距離まで接近して、円筒のてっぺんに設置された人造水晶体からレーザーを発射する仕組みなのである。
丈は緊急停止スイッチに指を載せて、事態を見守った。
標的が速度を上げる。音緒に『気づいた』のだ。
だが、少女は動かない。
おい。
やべえぞ、固まっちまってンのか?
やはり、無理だ。丈は指を緊張させた。標的がレーザーを発射する寸前に、停止させるつもりだった。
だが。
「お!」
少女が動いた。
それは、かすかな動きだった。わずかに、左肩を引いただけだ。
ほぼ同時に、標的が赤い光を放った。
レーザーだ。
だが少女が苦痛に呻《うめ》くことはなく、標的は獲物を仕留めそこねて素通りし、再び床下へと収納された。
なんてこった。
避けやがったぜ、あいつ!
例えば弾丸を避けることなら、物理的に不可能ではないかも知れない。射手との間に充分な距離があれば、あるいはフル・サイボーグの丈になら可能だろう。
だがレーザーは別だ。
相手は『光』なのだ。
発射の瞬間が見えた時には、もう命中しているということなのである。
二つめの標的は少女の背後、天井から現れた。
移動。
接近。
発射!
まただ。
また避けた。今度は、首をわずかに左に傾けただけだ。
三つ目の標的は、また床から。
移動。
接近。
発射!
右へ跳んで、やはり避けた。わずか数センチのステップで、だ。
物理的に、あり得ない光景だった。次々と現れる標的が次々と発射する『光』を、少女はわずかな動きで避け続けているのである。
やっと、判った。
『才能』だ。
超演繹《ちょうえんえき》能力だ。
標的の動きから、攻撃の瞬間を『演繹』し、その寸前に回避運動を開始しているのである。ほんの寸前であっても、攻撃の瞬間とそのコースが判っていれば、弾丸だろうがレーザーだろうが、理論上は避けられる。
攻撃の間隔が、徐々に短くなってゆく。複数の標的が同時に現れ、同時に攻撃を加え始めるのだ。そして少女は、まるで奇妙なダンスのように身をひねり、跳び、脚を上げ、首を回して、それを回避し続けるのである。
結局、音緒は三五の標的の三五のレーザー照射を、三五回動いただけで全て避けきってしまった。
ブザーの音が、終了の合図だ。
振り返った音緒が、制御室の丈に向かって親指を立てる。彼女は自分で自分の身が護《まも》れることを、見事に証明してしまったのである。
汗まみれの顔は、白い歯を全部見せる最高の笑顔だった。
丈としては、苦笑する以外になかった。
夜遊びなど考えてもみなかった音緒にとって、それは異様な光景だった。まるで日曜日の昼間みたいな雑踏を、鬱陶《うっとう》しくなるくらいに光を放つ看板や広告やネオン・サインが彩って、夜でも昼でもない空間を作り出しているのだ。
「聞こえるか?」
丈の声は、耳の奥で。
「聞こえるよ」
応《こた》える音緒の声は、喉《のど》の奥で、囁《ささや》くように。
発声によって生じる頭蓋骨《ずがいこつ》の振動を拾って増幅、送信するイヤホン・タイプの通信機である。耳の中の器械は、使用者が囁いても普通に喋《しゃべ》っても叫んでも、きちんと同じレベルの『音』として相手に伝えてくれる。
「そっちは、あたしのこと見えてる?」
「ああ。ダリアも、発信器でトレスしてる」
良かった。
ここまで一人で歩いて来た。丈は隠れて、見守ってくれている。予定どおりなら、その辺の建物の屋上からのはずだ。
制服を身につけて、音緒は今、池袋の街を歩いていた。目立たないように、さしたる目的もなさげに、ただぶらぶらと。
似たような女の子達が、あるいは一人で、あるいは複数で、同じようにぶらぶらと夜の街を彷徨《さまよ》っている。
「注意しろよ」
「了解」
注意は、してる。
駅前でバンを降りて、一人でここまで歩いて来る時から、ずっと。
調整が済んでいないので防護服は着て来れなかったが、通信機の他にも、発信器入りの天使のペンダントもある。フラッシュ付きの腕時計は、丈の提案だ。おそらく夜行タイプだから光に弱いはず、という読みなのだ。
その時計は、間もなく午前一時を指そうとしている。もう二時間以上も、ぶらぶらと歩いている計算だ。
欠伸《あくび》を噛《か》みころした。
周囲の雑踏を眺めながら、音緒は思った。
みんな眠くならないんだろうか。いや、それ以前に、こんなふうに夜の街で『遊ぶ』のって、楽しいのだろうか。もし楽しいとしたら、何がどう楽しいのだろうか。
共感したいとは思わなかったが、知りたいとは思った。
みんな、怖いと思わないんだろうか。
生きていられる時間は、無限ではないのに。
人間なんて、いつ死ぬか判らない。それは特にゾーンの存在を知ってからの、音緒の実感だ。明日があると思っていたら、自分にはその明日が無いかも知れない。いや、それどころか一時間先、一分先、一秒先に自分が確実に生きているという保証さえ、どこにもないのだ。
みんな怖くないんだろうか。
時間を無駄にすることが。
そして、どっちにしろ、と音緒は思う。
ここは、あたしの世界じゃない。
名前も知らない、顔も知らないどこかの誰かの、その世界だ。
そう考えてしまう自分を、綺麗《きれい》だと思えないけれど。
妙な違和感を感じたのは、その時だった。
何か、そこにあるべきではないモノが、視界の隅で動いた感じだった。
何だろう。
そう思った瞬間、そいつは突然、音緒の目に飛び込んできた。
白、だ。
けばけばしい原色の中で、それはかなり目立つ存在だった。
白いスーツ。
『奴』だ!
自らを『幽霊』と名乗る男。
もう一人の『黒川丈』だ!!
ちょっと垂れ気味の目尻、丸い小鼻、でも眉《まゆ》も唇も引き締まって、音緒の基準ではちゃんと二枚目。
丈と同じ顔。
数年前、ゾーンに襲われた丈は、アザエルに感染した。だが丈の格闘センスを必要とした委員会は、彼の脳がアザエルに冒される前に頭部を切断してしまったのだ。
おかげで丈は、助かった。
おかげで丈は、サイボーグにされた。
だが、それだけでは済まなかったのだ。
アザエルに感染しゾーンとなった丈の四肢は、頭部が切断される寸前、新たな脳を構築して丈の記憶をコピーした。そしてさらに新たな肉体を再生して、もう一人の『黒川丈』となったのである。
それが『奴』だ。
『奴』は丈の遺伝子をそっくり持っている。
『奴』は丈の記憶をそっくり持っている。
『奴』は丈そのものなのだ。
もう一人の丈。
この世には存在しないはずの男。
なんてこと。
『奴』だったんだ!
こちらには、気づいていないらしい。ポケットに両手を突っ込んで、周囲を物色しながら悠然と歩いている。
「丈!」
小さく、けれど鋭く。
「おう」
「いた!」
言いつつ、音緒は手近な看板の陰に身を隠す。セーラー服の女性のイラストが描かれた電飾一杯の看板で、客引きの若い男に不審げな顔で見られてしまった。
白いスーツが、その前を素通りしてゆく。スーツと音緒との間には分厚い人の流れがあったが、それでもその白の鮮やかさは見失いようがない程だ。
「移動中。白いスーツ。奴だ」
次々と女の子を捕まえては喰っちゃってたのは、『奴』だったんだ。
あたしから全てを奪った、あいつだったんだ!
判った、と応える丈の声も、少し固い。彼は、この事態を想定していたのだろうか。
「こっちも確認した。お前は、シルバーに戻れ」
ダリアの乗った銀色のバンに戻れ、と言っているのだ。
「なんで!?」
思わず、声が大きくなる。客引きが、呆《あき》れた顔で夜空を仰いだ。アタマがおかしいとでも思われてしまったようだ。
看板の陰を出て、白いスーツの尾行を開始する。
「おい、戻れ。危ねぇぞ」
「あいつが女の子をゲットしたら、後を尾《つ》けなきゃなンないじゃん」
「それは俺がやる」
「見失ったら? あいつが発信器をくっつけてるわけじゃないのに」
「見失わん」
「どうだか。現に、あたしの方が先に見つけたんだよ」
「あのなあ」
ひそひそと言い争う間にも、白いスーツは物色を続けている。
その足が、停《と》まった。
音緒も、停まる。
「いい? あたし今、眼《め》で見つけたわけじゃないんだよ。いきなり視線が引っ張られる感じで、気づいたら『奴』がいたわけ。これ、判るよね?」
答えが返ってくるまで、ほんの少し、間があった。
その間に、白いスーツは一人の少女に歩み寄ってゆく。
やはり、制服姿の高校生だ。
「判った。だが、気を付けろよ」
「うっきー」
夜遊びの少女を腕にぶら下げて、白いスーツが歩きだす。
お見事。一分かかってないんじゃない?
そりゃまあ、と音緒は思う。
オトコマエだもん、ね。
ダリアは駅前に駐車した大型のバンの中で、発信器の動きをトレスしている。
丈の方は、上から監視していた。
建物の屋上から屋上へと跳躍を繰り返しつつ、眼下に音緒を捉《とら》えていたのだ。
左の肉眼だけではなく、電磁波感知に切り換えた右目でも、少女の姿が見えていた。看板やネオンの電磁波が邪魔だったが、それでも発信器の放つ独特のパターンは、他の電磁波の青系の色彩に対して鮮やかな黄色で目立っている。
上から見る音緒の様子は、夜遊び少女には見えなかった。
きょろきょろと周囲を見回し、おっかなびっくりで歩く。怖《お》じ気《け》を見せていないのは大したものだが、社会見学みたいな足取りだった。
その足取りが突然、停まったのだ。
そして、いた、という一言。
すぐに丈も、気がついた。
『奴』だ。
尾行すると言いだした音緒を制止する暇さえなく、『奴』は夜遊びの少女を、あっさりと絡め捕っていた。
丈としては、しぶしぶではあったが、音緒に尾行を任せて正解だと認めざるを得なかった。本格的な移動を開始すると、やたらと障害物が視界を遮るのである。
看板と、街灯だ。
それに、屋上から屋上へと跳び移る際に白いスーツから視線を外さなければならないのも、いささか厄介だ。着地点を確認し、跳躍し、再び下を見た時には、もう見失っているのだ。そのたびに、まず黄色い電磁波で音緒の姿を確認し、その視線を追うことでようやく獲物を発見するという始末だ。
ゾーンは、捕食動物だ。知性タイプであっても、それは変わらない。そして捕食動物は獲物となる生物から姿を隠す術《すべ》を本能的に心得ており、丈もまたゾーンの獲物と同じ種の生物……人間なのだ。
ともかく、ここは音緒に任せるしかなさそうだ。
「見えてる?」
「ああ」
さっきもまた見失ったとこだけどな。
続いて耳の奥の通信装置に届いたのは、ダリアの声だ。
「『奴』の進行方向に、ビジネス・ホテルがあるわ」
そう言えば、衣服を残して少女が消えたのも、ビジネス・ホテルの一室だった。ゾーンと言えども、自分の体格と大差ない獲物を喰うには、それなりの時間がかかる。その間、人目に付くのを避けるために閉鎖空間に連れ込むことは、充分に考えられることだ。
「確率は?」
「ホテルがオンラインしてないから確証はないし、そちらからの音声情報だけで状況認識が甘いけど、ほぼ一〇〇パーセントと見て問題ないわ」
まずいな。
「シルバーをホテルの正面に回せ」
「了解」
丈は屋上の縁から、下を見下ろした。
真下は片側一車線の細い道路だ。横断歩道が見える。信号待ちの人込みの中に、腕に少女をぶら下げた『奴』が見えた。
その後方、数メートルほどの位置に、人込みの層を隔てて、音緒がいる。
「音緒」
「はい」
「おめぇ、一〇〇メートルは何秒だ」
「は?」
ほとんど真上からだったので表情は判らなかったが、音緒がほんの少し首を前へ突き出すのが見えた。
「走るのは、速いか?」
「ふつー。速かないけど、遅くもないよ」
「よし」
危険だ、とは思う。
だが丈にしてみても、ゴーストが相手では、闘うだけで手一杯だ。
信号が青に変わり、人込みが動いた。少女を連れた標的も、横断歩道を渡り始める。
丈は決断した。
彼の指示を聞いた音緒の返事は、了解、だった。
「三つつ数えたら、いくぜ」
「うん」
「三」
人波に紛れて、音緒が標的との間を詰めてゆく。
「二」
あと、ほんの何歩か走れば、手が届く距離だ。
「一」
頼むぜ。
「ゼロ!」
音緒が走った。
夜の空へと跳躍した時、風を切る音に混じって、音緒の声が丈の耳を打った。
「ゴーストォッ!」
作戦開始だ!!
それは確かに、彼の名だった。
彼が自分で、そう名乗ったのだ。
ゴースト。
幽霊、と。
だが、まさか今、こんな状況で呼ばれるとは予想していなかった。
こんな人込みで、背後から。それも、子供の声で。
振り返ると、たった今渡って来た横断歩道のストライプの上を、人込みを掻《か》き分けるように、見覚えのある少女が突進して来るところだった。
音緒。
黒川丈の……ゾアハンターの相棒だ。
何が起きているのか、咄嗟《とっさ》に判断出来なかった。
その隙《すき》に、相手は乗じてきた。
走る音緒が左腕を顔の前に構えたかと思うと、その中央で、
「う!」
閃光《せんこう》が生じた。
一瞬、目の前が真っ白になり、閉じた瞼《まぶた》の奥に灰緑色の残像だけが残った。
肘の辺りに巻きついていた腕の感触が、失《う》せた。
「糞《くそ》っタレが」
見えない。
やられた。
獲物をかすめ取られただけではない。あの音緒とかいう少女が、一人で来ているわけがないのだ。
クラクションが、鳴る。信号が変わったらしい。がみがみとわめくようなその音に、もう一つ、別の音が加わった。
雄叫《おたけ》びだ。
「うぉおおぉおらあぁああぁあ!」
見上げた。
かろうじて、見えた。
片方の袖《そで》を千切った黒い革の上着を風にはためかせ、片方だけの眼で真《ま》っ直《す》ぐにこちらを睨《にら》みながら、ほぼ垂直に落下してくる。
畜生。
ゾアハンターだ。
丈の足の下で、二つのブーツを中心に、アスファルトが放射状に砕ける。彼の機体の総重量は一三〇キロを超えるのだ。それだけの重量が足の裏たった二つ分の面積に、それも落下の加速度を伴って加わるのである。
どん、と腹の底に響く音と同時に、クラクションが一斉にやんだ。
やれやれだ、と丈は思った。
ギャラリーが、めちゃくちゃ多いじゃねえかよ。
胸が膝《ひざ》に付くほどの緩衝姿勢から立ち上がり、丈は敵に対峙《たいじ》した。
もう一人の自分。
アザエルに冒され、ゾアントロピーを生じた彼の四肢から再生した、コピー。
この世に存在しないはずの黒川丈という男の、この世に存在しないはずの生きた影。
二重の意味で、この世に存在しないはずの男。
「久しぶりだなあ。え、おい」
「おめぇもな」
応えるゴーストは、音緒のフラッシュ攻撃から回復していないのだろう、眼を細めて、それでも真っ直ぐにこちらを見ている。
その額の真ん中に、小さな点が二つ、現れた。昆虫の単眼のような器官だ。閃光に眩《くら》んだ眼の代わりだろう。
つまり、ハンデなし、ということだ。
「いくぜ!」
「おう!」
跳んだ。
音緒に腕を引っ張られて走る赤毛の少女は、ずっとわめき続けていた。
あんた誰よ何すんのよ莫迦《ばか》にすんじゃないわよぶっ殺すぞてめえ……。
それでも音緒は掴《つか》んだ手を放さず、全力で走った。
横断歩道を渡りきる寸前、背後で、どん、と大きな音が響いた。
丈だ。
見事なタイミングで、シルバーが音緒の目の前に滑り込む。歩道に載り上げた恰好で急ブレーキをかけると同時に、後部ドアが開いた。
不良娘を押し込んで、音緒も乗り込んだ。
「いいよ、出して!」
発車。
少女は後部ドアの窓に張り付いて、遠ざかる横断歩道を見つめている。
もう、わめいてはいない。おそらく誘拐でもされたと思っているのだろう、かすかに肩が震えているようだ。
「ネオ」
息を切らし続ける音緒とは対照的に、ハンドルを握るダリアの声は冷静そのものだ。
「2番ラックのスプレー」
「うっき」
シルバーの車内後部には、武器や弾薬を収めたラックが取り付けられている。その中の『2』の表示のラックから、音緒は言われたとおりスプレー缶を手に取った。
まだ窓に張りついたままの少女に声をかける。
「ねえ」
振り返ったその顔に、吹きつけた。少女はすぐに瞼を閉じて、ドアにもたれかかるようにして眠ってしまった。
実感が湧《わ》いたのは、助手席に滑り込んだ時だった。
出来た。
丈に言われたとおりに、出来たんだ。
「お疲れさま」
最初の爆発音が聞こえたのは、ダリアがそう言った時だった。
人間のそれを超えた強靭《きょうじん》な脚力で、丈は数メートルの間合いを一気に詰めた。右足を踏み込み、右の縦拳《たてけん》を打つ順突きである。狙《ねら》いは胸の中央、背骨の左右から回り込んだ肋骨《ろっこつ》が接合する、胸骨と呼ばれる部位だ。
「うりあ!」
常人では絶対に回避不可能なその速攻を、
「せいッ!」
しかしゴーストは擦り足で瞬時に後退しつつ、左の内受けで流す。体勢の開いてしまった丈の背中を、今度は白いスーツの左脚が打ちにかかった。
回し蹴《げ》りだ。
突きを流された丈は、その勢いを殺さず右足を軸に左脚を引きながら、反時計回りに回転する。同時に、打ち込まれた蹴りを、左の二の腕で上方へと撥《は》ね上げた。
重い。
だがゴーストの体勢が、わずかに崩れた。
「効くかよッ!」
蹴りを受け止めた反動で今度は右へと回転しつつ、丈は左脚を折って両手を地に突く。
回転に載って身をひねり、伸ばした右足で円を描いて、重心の定まらないゴーストの脚を薙《な》ぐように払った。
いや、払おうとした。その寸前、
「そうかよ!」
ゴーストが後方に跳躍したのだ。丈の脚は空を切り、敵は横断歩道を渡りきった向こう岸に着地した。
再び間合いを詰めにかかりながら、妙だ、と丈は思った。
相手が、重いのだ。
回し蹴りをさばいた時も、そう思った。それに、今の跳躍もだ。ゴーストの躯が、妙に重いように見えるのだ。打撃戦において重さは脅威ではあるが、同時に鈍重だということでもある。
だが、相手はゾーンだ。
異常な進化を遂げているとは言え、生身の肉体なのだ。
体格的には同等でありながら、一三〇キロを超えるサイボーグの機体よりも重いなどということが、あり得るのだろうか。
その答えは、
「うらあ!」
もっと打ち合ってみれば、わかる!
丈は地を蹴った。相手に向かって右脚を伸ばし、上体を引き絞る。飛び足刀蹴りだ。空中を一直線に迫るその蹴りに、ゴーストは右腕で顔をブロックしにかかる。
「甘い!」
足刀は、牽制《けんせい》なのだ。命中の寸前に脚を引き、敵の目前に着地した丈は、相手の腹に左の回し蹴りを叩《たた》き込んだ。
呻きとともに、ゴーストが上体を折る。ずしん、という衝撃が、蹴った丈の鋼鉄の骨格にまで響いた。
やっぱりだ。
重い!
反撃は、下からだ。折った躯を伸ばしつつ、真下から拳《こぶし》が突き上げてくる。丈は身を反らせて、それを避けた。さらに腰のバネを効かせ、後方へ倒れんばかりの勢いで右足を振り上げる。鋼鉄を仕込んだ黒いブーツの爪先《つまさき》は、ゴーストの顎《あご》をまともに捕らえた。
「がッ!」
蹴られた方も呻いたが、
「むう!」
丈の方も、その異様なまでの重さに人工骨を響かせ、喉の奥に声を詰まらせた。
なんだ、これは。
この重さは、何なんだ。
それでも蹴りの勢いのまま、丈は軸足で地を蹴って、後方に一回転した。
ゴーストが、よろめきつつも両足を踏ん張る。
そして、
「悪いが、ここまでだ」
宣言とともに、歯を食いしばり、右の掌《てのひら》をこちらに向けた。
掌底を打ちにきたわけではない。その中央で、レンズのような器官が鈍い光を湛《たた》えているのだ。
丈の反応は、ほとんど本能に近かった。光を溜めてゆくゴーストの手を、踏み込んで放つ後ろ回し蹴りで、横様に払った。
閃光が走ったのは、その瞬間だった。
次に起きたのは、爆発だ。
道路を隔てた向こう側で、建物の壁が吹き飛んで火球を上げたのである。それは、払われたゴーストの掌が向いた、まさにその方向だ。
なんてこった。
レーザーだ!
ゴーストの掌から発射されたレーザー光がビルに命中し、壁面を貫通してガス管か何かを切り裂いたのである。
丈は歩道に沿って、後方に飛びすさった。つい一瞬前まで彼が立っていた地面のアスファルトが瞬間的に沸騰し、刺激臭のする煙をあげた。横へ跳躍したが、さらに追ってきたレーザーは丈の後ろの街灯を貫通して、火花を撒き散らした。突然の格闘劇を遠巻きに見ていた群衆が、火花から逃げながら悲鳴をあげた。
「冗談じゃねえぞ!」
生体によるレーザー発振が原理的に不可能でないことは、丈にも判る。波長が揃《そろ》っていることを除けば、レーザーも単なる光に過ぎないのだ。発光する生物などいくらでも存在するし、光の波長を揃えるのも単純に光学的な問題に過ぎない。
だが肝心なのは、その出力だ。大気中でこれだけの距離にまで充分な効果を発揮するレーザーを撃つには、いったいどれほどのエネルギーが必要なのか。
それも、一発ではない。
跳躍し、転がり、跳びすさって回避を続ける丈に、ゴーストは右手から次々と閃光を放ってくるのだ。加えて、通行人に被害が出ないように背後に注意しながら回避運動をとらなければならないのだから、大いに不利だった。
背後で、路上駐車の車が爆発した。逸《そ》れたレーザーが直撃したのだ。
逃げ回れば、被害を拡大するだけだ。
クラクションが、野次のように鳴り響いている。丈は、すぐ目の前の道路が渋滞していることに気がついた。通行人だけではなく、通りかかった車までが停車して、この人間離れした闘いに注目しているのだ。
「くそ!」
電子ブレードを『抜刀』した。同時に地を蹴り、ゴーストに向かって跳ぶ。
チャンスは一回きりだ。
右の掌が、こちらを向く。その中央では水菓子みたいな生体レンズが、死んだ魚の目玉のように丈を見上げ、内部に光を溜めてゆく。
今だ!
放物線を描いて落下しつつ、丈は空中でブレードを振った。背を反らして背中のバネを利かせ、腕をいっぱいに伸ばして振り回したのだ。
斜めに落下中の躯が、遠心力に従って回転した。
しかも、重心の急激な移動に従って、微妙に軌道をずらしながら。
彼の幸運は、まだ続いていた。
きりきりと回転しながら、頬に火傷しそうな熱を感じたが、それだけだった。
「またハズレだ、こン畜生!!」
きりもみ状に回転しながら、斜めに落下してゆく。緊急回避モードが作動し、五体が半ば強制的に動いた。おかげで、両手を地べたに突いた恰好《かっこう》ではあったが、叩きつけられることなく丈は着地した。
スーツに合わせた白い靴の、ほんの一メートル手前に。
「うぉら!」
立ち上がりざま、下から斬り上げた。
「なに!」
驚愕《きょうがく》の声をあげたのは、しかし丈の方だった。
何だ、この手応《てごた》えは。
白いスーツを逆袈裟《ぎゃくげさ》に斬り裂いた、それは間違いない。皮膚を切り肉を断ち割った、それも間違いない。
だが問題は、その奥だ。
重いだけではなかった。まるで鋼鉄に斬りつけでもしたような、がつん、という手応えだったのである。
「おめぇ……何だその躯は」
斬り裂かれたゾーンの肉が、独特の臭気をたてて煙をあげる。その白いベールの中で、敵の応えは、笑みだ。
にやり。
跳びすさって間合いを拡《ひろ》げたゴーストの右手で、閃光が散った。
今度は丈にではなく、真下に向かって。
途端にアスファルトが、どすん、と震える。
下から。
すぐ側でマンホールの蓋《ふた》が、炎の柱とともに上空へ吹っ飛んだ。その向こうのマンホールも、そのまた向こうも同じだった。丈の背後でも、爆発音とともに悲鳴があがる。
「ゴースト! てめえ!」
地下のガス管を撃ち抜きやがった!
奴がこの街に居座った理由は、これだったのだ。都市構造を、建物内部から地下にいたるまで完璧《かんぺき》に把握し、いざという時のための対策を講じていたのである。
周囲はたちまち火の海となった。熱気が頬《ほお》を撫《な》でて、ついさっきレーザーがかすめていったところが、ひりひりと痛んだ。
「どうする、ゾアハンター」
不敵に笑いながら、しかしゴーストの息は荒い。生物の限界を超えた攻撃の連続は、やはり確実にその体力を削っているのである。
「まだ、やるか? だったら次は、この程度じゃ済まねえぞ」
「嘘《うそ》だね」
丈は、あくまで退《ひ》かなかった。
相手は、ゾーンだ。それは間違いない。だが同時に、ゴーストには丈と同じ記憶が、丈と同じ精神が、丈と同じ心がある。
境遇が異なるだけで、同じ人間なのだ。
だから、言った。
「無差別に殺しまくるってか? それが出来ねえことくらい、俺が一番よく知ってら。現に見てみろ、これだけ派手にやってるくせに、まだ怪我人《けがにん》の一人も出してないみてえじゃねえか」
丈と同じ『丈』の顔から、笑みが消えた。
図星なのだ。
彼は意識的に、無関係な人間に犠牲者が出ない方法で攻撃を繰り出していたのだ。
しかし、
「今まではな」
退かないのは、相手も同じだった。
「だが、おめぇがこれ以上かかってくるなら、やり方を変える」
「おめぇが人間を喰うのをやめれば、俺もおめぇを放《ほう》っておいてやる」
瞬間、幽霊と名乗る男の顔をよぎったものは、何だったのか。
罪悪感か。
それとも、後悔か。
「交渉決裂だな」
言うなり、ゴーストは生体レーザーの『銃口』を、車道に詰まった車の列に向けた。
「やめろ!」
丈が飛び出す。
牽制に引っ掛かったのは、今度はゾアハンターの方だった。レーザーの発振器官を備えていたのは、右手だけではなかったのだ。
閃光とともに、左の足首に痛みが走った。それは機体の損傷を知らせる警告サインとしての疑似的な『痛み』に過ぎないが、それでも痛みは痛みだった。
激痛だ。
呻いて、横倒しになった。
「すまんな、ゾアハンター」
白いスーツが背を向けても、丈は立てなかった。
足首から先が、焼き切られていた。
赤毛の女の子は、警察に連絡してから公園のベンチに放り出してきた。数分後に無事に保護されたことは、ダリアが警察無線を傍受して確認した。
『基地』に戻ると、音緒はダリアと協力して、丈を部屋に運び込んだ。その間、彼はずっと歯を食いしばっていた。
武装ポッドでもある丈の両腕は、構造的には高度な複雑性を持つ部位ではあるものの、稼働原理そのものは単純だ。まさに『機械的』な構造なのだ。
だが脚は、そういうわけにはいかない。ただ単純に動くだけでは、サイボーグはよちよち歩きすら出来ないのだ。サイバネティクスの両脚には平衡装置に直結する各種センサーが内蔵され、ケーブルと光ファイバーが網の目のように埋め込まれているのである。
それが、一斉に切断されたのだ。
それも、構造的に最も複雑な足首部分で。
おびただしい量のフィードバックが一気にダウンし、一塊の『痛み』となって警告を発しているはずだった。
閉じたドアの中では、今、ダリアが丈の脚を『修理』している。
音緒は、外だ。
出ていろと言われたわけではない。丈をベッドに寝かせてから、ダリアが部屋の隅のケースを開くのを見て、自分で出てきたのだ。
旅行|鞄《かばん》ほどの大きさのケースの中身は、ぎっしりと詰まった部品だった。
丈の機体の、だ。
何も出来ない、と思った。
どうすればいいのか判らない、と思った。
だから、せめて邪魔にならないように、と思った。
音緒はただ、じっとドアを見つめていた。ダリアが出てきたのは、三〇分ほども経《た》った頃だった。
「丈は?」
音緒の問いに、ダリアは、大丈夫よ、とだけ応えて、廊下を歩いてゆく。ハンガーに戻るのだ。クローゼットにも似た装置で、ダリアはその中でネットに接続し、自律した情報端末となるのである。
ダリアが開け放していったドアをノックしながら覗《のぞ》くと、丈がベッドに腰を下ろしていた。
「おう、入れよ」
足首の少し上の辺りで人造皮膚が途切れ、焼け焦げた断面をさらしている。その下は部品を総取っ替えしたのだろう、足首から爪先まで、内部機構が剥《む》き出しだ。
何本も交差しながら斜めに走る分厚い帯は、交換したばかりの磁性流体筋肉である。近づくと、その奥に金属製の人工骨と補助出力用のシリンダーが何本か納まっているのが見えた。複雑に絡み合った極細のチューブは、光ファイバーだ。
「大丈夫?」
「ああ。後は、皮膚だけだ」
応えて、部屋の照明をぴかぴか反射する足首を、丈は何やら自慢げに見せる。
「あたし、やろうか?」
そのくらいなら、判る。
人工皮膚の構成分子と培養ゲルを塗布したパッチを、損傷部分に巻くだけだ。一週間ほどで皮膚が再生し、同時にフィードバック回路の末端からはナノ・マシンの枝が伸びて、皮膚感覚も戻ってくる仕組みだ。
「いや、いい。寝る前に、自分でやっとく」
「そう」
簡単だもんね。
丈が、すぐ脇のシーツを叩く。座れ、だ。素直に隣に腰を下ろすと、丈の言葉は、
「すまんな」
「何が?」
「ダリアに怒られた」
池袋の街を火の海にしたのは、なんと生体レーザーだったのだそうだ。生き物がレーザー光線を発射出来るなんて信じられないが、でも、言われてみれば彼の足は、焼き切られたようにしか見えなかった。
そのことを、足を修理してもらいながら、彼はダリアに告げたのだ。
「判断ミスだ、ってさ」
音緒に少女の奪取を指示したことが、である。
「俺も、そう思うわ」
「どして? あたし、平気だったよ」
フラッシュでゴーストの視力を奪い、その隙に『食事』をかっさらう。奴が視力を回復する頃にはゾアハンターが登場する、という作戦だ。そしてそれは、丈の負傷という失点はあるものの、相手も撤退を余儀なくされたのだから、いいとこタイのはずだ。
しかし、
「運が良かっただけだ」
言われて音緒は、確かに、と思う。
もしもあの時、目の見えなくなったゴーストがレーザーを乱射でもしていたら、避けられなかったに違いない。音緒にはその時、奴が生体レーザーを備えているという情報は、なかったのだから。
丈も、そう言った。そして、
「今回は大目に見てくれ。もう二度と、やべえ真似《まね》はさせねえからよ」
「そんなこと言わないでよ!」
音緒は抗議の声をあげた。
「なんで、そーなるわけ? ヤバかったのは事実かも知ンないけどさ、でも、ソレとコレとは別の問題じゃん」
「いや、だから」
「なぁにが、いやだから、よ。あなた、あたしの気持ち、判ってない。あたし、丈から指示された時、すッげえ嬉《うれ》しかったンだよ」
「嬉しかった?」
「そーだよ、嬉しかったの。信頼してくれてるって思ったよ。なのに、一回くらいヤバかったからって、もう駄目なわけ? あたしの気持ち、もう取り上げちゃうわけ?」
「だからな」
「だからな、じゃない! だいたい丈は、あたしの気持ちとか判ってなさ過ぎ。どんなにヤバくても俺が必ず護るから今後も頑張ってくれ、とか言えないわけ?」
「今後も頑張ってくれ」
いきなりだ。
何を言われたのか、すぐには判らなかった。
「お前がヤバくならないように、俺も注意する。もしヤバくなっても、必ず護ってやる。だから、これからも頼む」
判った途端に、膨らみきっていたものが、ぷしゅん、と萎《しぼ》んだ。
「それは、折れたわけじゃないよね?」
「ああ」
「納得したんだと思ってイイ?」
「いいぜ」
あっさりと、はぐらかされた気分だ。でも、その場しのぎに適当なことを言うような人じゃないから、つまり音緒の負けということだ。
「じゃ、いい」
「そうか」
「でも、怖くなかったわけじゃないからね」
「だろうな」
「死ぬかも知ンないって思って、でも、やったんだからね」
「判ってる」
「よし」
頷《うなず》いてから、お尻一つ分、丈の方へ寄る。お互いの腰がくっついた。音緒は細い腕を相手の胴に回して、顔を彼の胸元に押しつけた。
「ぎゅっ、て、してよ」
丈の太い腕が背中を包むように回されてくる時、人工心臓の鼓動と一緒に、かすかにモーターの音が聞こえた。
「痛かった?」
まあな、と応える声が、耳を押しつけた胸を響かせる。
「もう大丈夫?」
「ああ」
「よかった」
痛くなくしてあげたのが自分だったら、もっと良かったけど。
消防車や救急車のサイレンは途切れることなく続いていた。次から次へと現場へ集まって来ているようだ。
幽霊を名乗る男は、ついに地べたに座り込んだ。
路地の暗がりである。酔っぱらいのゲロの上に座ってしまわなかったのは、単なる幸運に過ぎない。
逃げるべきだった。
だが最初の攻撃を受けた時、反撃せずにいられなかったのだ。
それは彼の悪い癖だった。
人間だった頃からの。
正確には、彼が人間だった過去は、ない。精神だの心だのと呼ぶ『何か』を人格とイコールで結んだとしても、かろうじて、人間の一部であったに過ぎない。
彼は、腕だった。
彼は、脚だった。
それだけの存在だったのだ。
しかしアザエルに感染してゾーンとなり、『本体』から切り離される運命であることを『知』ってしまった時、彼は『本体』の記憶を全てコピーした。
それが彼の意志だったのかアザエルの意志だったのかは、今となっては判らない。だが確実に言えるのは、その時『彼』が生き延びるための、それがただ一つの方法だったということだ。
そして今、現に彼は、生きている。
悪い癖のせいで死にかけてはいたが。
ゴースト。
もう一人の『黒川丈』。
彼にしてみれば、黒川丈としての人生が突然、ゾーンとしてのそれにシフトしたようなものだ。
ゾーンとしての意識は、ある。自分を人間であると感じるのと同時に、人間を食料として見ている意識が、確かに、ある。
しかし同様に、黒川家の長男として生まれ育った家のことも、子供の頃によく遊んだ公園も、初恋の相手の笑顔も、両親や妹のことも覚えているのだ。それは彼にとって、確実に自分自身の体験なのだ。
むしろ彼にしてみれば、自分がゾアハンターから分離したのではなく、ゾアハンターの方が自分から分裂したようにさえ思えるのだ。
現に最初は、そう思っていた。
冷凍されて身動き出来ない状態で、初めて黒川丈の姿を見た時は、そうだった。もう一人の自分が車椅子《くるまいす》に乗せられて、こちらを見ていたのだ。
彼が事情を理解するのに、三年かかった。
その間、何人もの白衣の連中が彼の前に現れ、言葉を交わしていった。ある時は他愛《たわい》のない雑談であったり、ある時は重要なデータであったりした。それらが分厚いガラスごしに、かすかに聞こえてきたのだ。
情報の断片を繋《つな》ぎ合わせ、整理し、彼は考えた。
考え続けた。
それ以外に出来ることが、何もなかったからだ。
そして、あの日。
四つに分裂した自我が再び統合され、四つの思索が一つになった瞬間、全てが判ったのだ。
何が起きたのか。
何が起きているのか。
自分は何者なのか。
酔っぱらいのゲロと小便の臭気に包まれた路地で、男は壁に背をあずけ、溜め息をついた。
このままでは、死ぬ。
悪い癖のせいで。
格闘戦が可能なコンディションでないことは、最初から判っていた。それを逃げずに応戦したために、切り札を使わざるを得ないような状況に追い込まれたのだ。
生物の躯は、光学兵器を内蔵するようには出来ていないということだ。
アザエルをある程度意識的に操作出来るようになった時、彼が真っ先に考えたのが、肉体を文字通り武器と化すことだった。
その手始めが、レーザー兵器だ。
原理は簡単だった。基本的にはホタルの発光と変わらない。
ルシフェリンは体内で合成した。鏡面体を形成するために水銀を取り込んだが、他の器官とは厳重に隔離したので問題なかった。二次的に発生する有毒な化合物も、アザエルの適応能力の前では何ということもない。
ただ、エネルギーだけは別だ。
結局、何発撃ったのかさえ、彼は覚えていなかった。七発か。八発か。それとも十発以上だったか。
せっかくの『蓄え』を、ほとんど数秒で消費し尽くしてしまっていた。逆に言えば、事前の『蓄え』がなければ、とっくに消耗し尽くして生きてはいなかっただろう。
レーザーは最後の切り札以上の役には立たない、それが結論だ。
次の問題は、ここで死んでしまったら教訓も活かせないということだ。
消耗が激しい。体力が分刻み、秒刻みで衰えてゆくのを、彼は実感していた。ゾアハンターに斬り裂かれた胸の傷も、焼け焦げた断面をさらして、塞《ふさ》がる気配さえない。
「糞っタレが」
食いしばった歯の隙間から漏れたその声に、
「おう。なんか言ったか」
誰かが応えた。
自分で思っている以上に消耗しているらしいことを、彼は痛感した。こんなに近づかれるまで、気がつかなかったのだ。
二人の男だった。
まだ若い。
それが流行なのだろうか、ラフと言うよりは、だらしない服装である。どちらもシャツをズボンからはみ出させ、一人は股下《またした》のだぶついたジーンズ姿で、もう一人はパンツまで覗かせている。
路地の入口に立って、二人は彼を見ていた。ほんの数メートルほどの距離だ。
「誰が糞っタレだ、こら」
近づいてくる。
どうやら、自分達のことを言われたと勘違いしたようだ。それとも、違うと判っていながら因縁をつけているだけかも知れない。
「こいつぁ、いいや」
ゴーストは、唇を笑みに歪《ゆが》めて、呟《つぶや》いた。彼の幸運は、ゲロを避けたくらいでは尽きなかったようだ。
二人の若者は、既に彼を見下ろすほどに近づいて来ている。目の前で座り込んでいる男が、凶暴な人喰いの怪物とも知らずに。
「嘗《な》めンじゃねえぞ、おっさん!」
パンツの方が、ゴーストの脇腹を蹴った。電子ブレードの斬撃《ざんげき》に耐えた肋骨が、今度はあっさりと折れた。
蹴った本人も、まさか骨が折れるとは思わなかったのだろう、顔色を変えて脚を引っ込めようとする。
その足首を、
「そう遠慮するなよ」
ゴーストが掴んだ。
思い切り引っ張ると、男は仰向《あおむ》けに倒れて、自慢のパンツを地面に溜まっていた泥水で汚した。
身を起こして何かわめきかけたが、それは途中で悲鳴になった。
若者の内股の肉は筋が多くて固かったが、溢《あふ》れ出る血は温かくて旨《うま》かった。牙《きば》を食い込ませた口の中に溢れ、流れ込んでくる。
そのまま頭を引くと、筋肉の束が、ぶつん、と音をたてて千切れた。
男が、ぎあ、と悲鳴をあげた。
逃げようと暴れる男を押さえつける。固い肉を飲み込むのに苦労したが、その甲斐《かい》は充分にあった。たった一齧《ひとかじ》りの肉が、わずかずつだが確実に活力となってゆくのが判る。
だから、次はもっと大きく齧った。顎の関節を変形させて口を三倍ほどに拡大しておいて、腹にかぶりつく。腹筋を破って滑り込んでゆく牙の感触は、セックスよりも甘美だった。内臓ごと喰い千切ると、男の躯が痙攣《けいれん》し、手足が路地の汚れたアスファルトをばたばたと叩いた。肝臓が一切れ、上顎の内側に貼《は》り付いた。
「ひいいいいい!」
悲鳴をあげたのは、もう一人の男の方だ。ズボンの前を小便で濡《ぬ》らし、涙と鼻水を垂らしながら、しかし視線を引き剥《は》がすことさえ出来ずに、ゴーストを見ている。
彼は肝臓を舌で喉に送り込んでから、笑みを投げた。
口を拡大したまま、血と肉片と臓物に汚れた顔で。
「騒ぐな」
にたり、と。
「食事中だ」
つまり、とゴーストは思う。
この世には、二種類の人間がいる。
生きている価値のある奴と、生きている価値のない奴だ。
ならば。
くれよ。
その、無駄な命。
俺と杏子のために。
小便タレは、悲鳴をあげて逃げてしまった。
『夕食』の方は、まだ痙攣を続けている。
腹の穴から手を突っ込んで心臓を掴み出すと、静かになった。脂のたっぷり付いた、不健康そうな心臓だった。
だが旨かった。
政治家を迅速に行動させる方法は、と米沢は思う。
たった一つしかない。
首を脅かすことだ。
失脚するぞと脅しをかけてやるだけで、重いはずの尻をあっさり上げて、すたこらと走って見せるのである。
事態は、そういう方向に動いているということだ。
学校を破壊し、街を縦断してマンションを押し潰《つぶ》した巨大な怪獣。
そして今度は、街中でレーザー兵器をぶっ放した謎《なぞ》の怪人。
地下鉄を襲った捕食生物の噂《うわさ》も、にわかに信憑《しんぴょう》性をおびて再浮上してきている。この分だと、今や都市伝説となった『怪物の黒コゲ屍体《したい》』が取り沙汰《ざた》されるのも、時間の問題だろう。
日本政府は当然、突き上げを食らった。
それも、国内からだけではない。国連を通じて、およそ名前すら聞いたこともないような小国までもが、日本政府に事態の説明を求めてきたのである。
無論、事実を公表するわけにはいかなかった。
となれば、可能な対応は一つしかない。
我々としても事実関係は全く不明ですが迅速なる対応をもって再発防止に努力する所存でございますので苛《いじ》めないでちょうだい、というわけだ。
そして、その帳尻を合わせるのは、つまり米沢のような人間なのだ。
勤勉。
実直。
そして技術や知識もある反面、その立場には弱みもある。
米沢は文句も言わず、ただ黙々と仕事をこなしていた。
押しつけられたスケジュールも、普通では到底間に合わないものだったが。
だが、間に合わせるつもりだった。
どれだけ腐っていても、それが彼の仕事だった。
とっくに目が覚めていた。
裸足《はだし》で廊下を歩いてキッチンに向かう音緒の足音も、ちゃんと聞こえた。
しかし丈はベッドに横になったまま、ラックに並んだアクション・フィギュアを眺めている。
どれも奇妙な姿をした、異形《いぎょう》のシルエット。
奇妙なのは、その形だけではない。
黒い肉体に赤いケープを纏《まと》った、地獄からの帰還者。左半身に内部構造を露出した、哀れな人造人間。幾千の怨霊《おんりょう》とともに、鋼の鎧《よろい》にその身を重ねる少年。悪鬼の肉体に人の心を宿し、全てを捨てて戦う漢《おとこ》。己の命を楯《たて》に弱き者を護ることを選んだ瞬間、憧《あこが》れてやまぬ英雄の名を得た鋼鉄の巨人。
それぞれの異形は、それぞれのドラマを秘めているのだ。
趣味をお持ちなさいな、というのは、美咲のアドバイスだった。
ゾアハントは、情報収集と分析に膨大な時間を費やす。その待ち時間に比べれば、実際に現場に出て獲物を狩るのに必要な時間など、ほんの一瞬に過ぎない。かと言って、機械の躯になる以前の丈のように、余剰な時間を全てトレーニングに費やしていれば、繊細なサイバネティクスの部品の劣化を早めるだけなのだ。
だから、美咲の提案だ。
趣味をお持ちなさいな。
考えた末に丈の選んだのが、アクション・フィギユアの蒐集《しゅうしゅう》だったのである。
そしてそれには、単なるコレクションを超えた、もう一つの意味があった。
それを理解したからこそ、美咲は言ったのだ。
死の間際に。
本当のヒーローになって。
ああ。
なってやるとも。
今日は、そのための準備をする予定だ。
昨日は差し迫った用事があったので、延期したのだ。確かに昨日の件はまだ片づいたわけではないが、かと言って今、何か打つ手があるわけでもない。
となれば、だ。
今日は、もう一つの用事に、手をつけるべきだな。
ベッドを出て、ポッドで機能をチェックする。
とにかく、朝飯だ。
キッチンでは、いつものようにコーヒー・カップが湯気をたてていた。思えば音緒が朝食の用意をするようになってから、丈は朝のコーヒーを待たされた記憶がない。寝惚《ねぼ》けた頭を掻きながらキッチンに出てくると、カウンターではカップが待っているのだ。それも冷えたカップではない。まさに今煎れたばかり、な感じのアツアツのやつだ。
起床の時刻が決まっているわけではない。早朝だったり昼過ぎだったり、規則正しい生活という言葉とは、彼はおよそ無縁なのだ。にも拘《かかわ》らず音緒は毎朝、ラフではあるが身支度を済ませていて、どんぴしゃのタイミングでコーヒーを出すのである。
説明は、簡単だ。
超演繹能力だ。丈が起きてくる時刻くらい、彼女には判るのだろう。
だが、判るということと、出来るということは、違う。
そして、
「おはよッ!」
丈が彼女を認めるのは、つまり、こういう辺りなのだ。
命懸けで人喰いの怪物と闘うことと、眠い目をこすりながら毎朝コーヒーを煎れることとの間に、どれほどの差があるわけでもない。思い描いた夢の全てを捨てて見知らぬ誰かを護ることと、全てを失った傷を胸に抱えたままで微笑《ほほえ》むこととの間に、どれほどの差があるわけでもない。
同じことなのだ。
ただ、見た目が派手かどうか、という違いがあるだけだ。そしてそれは『違い』であって『差』ではないのである。
「うっす」
挨拶《あいさつ》に応えて、カウンターに着く。ベッドの中でとぐろを巻いていたので今朝は頭がはっきりしているが、それでもコーヒーが旨いことに変わりはない。
「キャベツ炒《いた》めには、ベーコンかソーセージかコンビーフか」
音緒の問いに、ベーコンをオーダーする。やがて油が弾《はじ》けだす音を聞きながら、丈はいつものように、カウンターの上のニュース・パネルを手に取った。
二〇センチ四方のサイズは普通だが、厚さは九ミリを切る最新型だ。契約した新聞社からは、アクセスした時刻ごとに最新の情報が、文字と写真が中心のニュースとして送られてくるのである。
受信ボタンを押すと、コンマ数秒の空白を置いて、まず新聞社のロゴが表示される。さらにボタンでページを送ってゆくと、炎上、の文字が飛び込んできた。
『池袋炎上/埋設ガス管爆発』
昨夜の火事の記事だ。
軽傷が数名、死者はなし。電話や電気、交通に支障が出たようだが、渋滞以外は全て復旧していた。渋滞の方もどうせ、いつもより何割か増し、という程度だろう。あの辺は、いつだって混んでいるのだ。
ゴーストとやり合った結果にしては、悪くないだろう。
関連記事を呼び出す。
思ったとおり、数ヶ月前の巨大ゾーン事件や、さらにその前の地下鉄の件と結び付けたコラムがあった。ただしその内容は、前世紀の生物の生き残りだの有害物質による突然変異だのといった、安っぽいSF志向のものだ。
それから、ライフ・ラインの埋設に関する記事。その安全性について揶揄《やゆ》したもので、つまり現場を知らぬ部外者の正論、というやつだ。
意外なことに、二人の男が人間離れした格闘を演じた、という記事はなかった。
目撃者がいないはずはないから、おそらく新生委員会の情報操作だろう。家庭用ビデオで録画されてしまった巨大ゾーンのような物的証拠さえなければ、目撃証言をもみ消すくらいのことは簡単なのだ。
少なくともこの程度には、新生委員会も役に立つわけだ。
この件もまた、いずれ都市伝説の仲間入りをするのだろう。
ページ送りのボタンを押して、関連記事を検索してゆく。どれも似たような手さぐりの内容で、特に注目すべきものもなさそうだ。
音緒がコンロの火を止める。
丈もニュース・パネルを置こうとして、しかし、その手が止まった。
とんでもない文字が、彼の目に飛び込んできたのである。
人喰い。
「なに?」
思わず、声が出た。朝食を並べ終えた音緒が、こちらを見ている。
「どしたの?」
「待て」
パネルに目を戻す。
ほんの二〇行ほどのカコミ記事だ。火災との関連記事というわけではないが、現場が同じなので埋め草にでも載せたものだろう。
『人喰いの怪人か/友人が喰われたと少年駆け込む』
昨夜のことだ。友人と二人で歩いていた少年が、路地に倒れている酔漢を介抱しようと近づいたところ、その男が友人の脚に噛みついたというのだ。難を逃れた少年は、派出所に駆け込んだ。しかし警官とともに現場に戻った時には、既に酔漢も友人も姿を消しており、引き裂かれた友人の衣服のみが残されていたという。血痕《けっこん》その他の痕跡は、なし。脚を噛まれた少年も行方不明。なお酔漢は白っぽい着衣を身に着けていた、と少年は証言している。
奴だ。
ゴースト!
やはり生体レーザーの連射は、かなりの負担だったのだ。安全圏まで移動したところで力が尽きたのだろう、近づいてきた人間をなりふり構わず喰いやがったのだ。
「音緒」
「はい?」
向かい合って座る音緒は、いつでも朝食を始められる態勢だった。そんな彼女に、丈はカウンターごしにニュース・パネルを手渡す。
火の側に立っていたので紅潮気味だった音緒の頬が、強張《こわば》る。
「これ、やっぱり……」
ざっと読みおえた彼女がパネルを返してよこすのを待って、丈は言った。
「間違いねえな。音緒、こいつに逢《あ》ってこい」
「は?」
「このガキだよ」
「この、って、埼玉県在住のK・Sさんカッコ十七歳?」
「ああ。こいつのツレを喰ったのは、多分あの野郎だ。奴がどんな様子だったか、聞き出してきてくれ」
「いいけど、なんで? ダリアに情報を引っ張ってもらわないの?」
「あんな時刻に遊び歩くようなガキなんだぜ」
音緒は、回転の早い少女だ。すぐに、あっ、という顔になった。
「自分に都合のイイことしか喋《しゃべ》ってないか」
「そういうことだ」
判った、と応える音緒は、緊張と一緒にどこか嬉しそうな複雑な表情だった。
「通信機、借りてってもいい?」
「いや、ダリアと一緒に行け」
「はい」
それに、何やら楽しげにも見える。
「丈は?」
「俺は、別の用事がある」
ちょっとばかり面倒だが、わくわくするような用事が。
「そか。いつ動く?」
「喰ったら、すぐだ」
「うっきー」
親指を立てて応える、それは猿の真似ではない。
防衛庁付属生化学研究所内において、米沢医師には完璧なプライバシーが保証されていた。持てる知識を総動員して、ゾアスクァッドを実現させるためだ。
当然、期待される知識の中には、ゾーンやアザエルについてのものも含まれている。逆に言うなら、ゾーンやアザエルに関する事実を知る立場にあり、同時にサイバネティクスへの造詣《ぞうけい》も深く、防護服の開発にも携わっていた。彼はたまたま、そういう人物だったのである。
与えられた部屋は、以前の研究室の半分ほどの広さだった。とは言え、たった一人で使うのだから、充分以上だ。
白とクリーム色を基調とする内装に、埋め込み式の端末とセットになったデスクだけ。それ以外は、窓際に観葉植物が置かれている程度だ。
だからその『黒』は、かなり目立った。
ほんの数分、トイレに立つ間、席を外しただけである。部屋を出る時には、当然、誰もいなかったのだ。
だが戻って来たら、いた。
「よう、邪魔してるぜ」
窓枠に背をあずけて立つ男が、片手を挙げる。着ているものが黒いだけではない、窓から差し込む光で、ほとんどシルエットに見えるのだ。
磨き込んだ黒檀《こくたん》のようなアイパッチの下で、不精髭《ぶしょうひげ》に囲まれた唇が皮肉げな笑みを浮かべていた。
「やあ、黒川くん」
何気ないふうで言いながら、米沢はしかし身構えていないわけではなかった。彼がここに来るのは、実にあの襲撃事件以来のことなのだ。
「来ると知ってたら、迎えを出したのに」
机に向かうと、相手に背中を向ける恰好になった。
「迎えが出ると面倒だから、黙って来たのさ」
「ふうん」
椅子を回して、今度は見上げる位置関係になる。黒川丈の姿が、ますます逆光で影になった。
「つまり、忍び込んできた、ということかなあ」
「まあな」
彼なら可能だろう。
ダリアの持つスレイヴ・プログラムは、スタンディング・アローンの端末を除けば、世界中のありとあらゆるコンピューターに侵入可能だ。防壁を破ったことにさえ気づかれずに、その気になればアメリカ大統領の日記にイタズラ書きすることも出来るだろうし、人工衛星を集めて夜空にバックス・バニーを描くことだって不可能ではないだろう。
こんな施設の監視システムを黙らせることくらい、鼻唄《はなうた》ものだ。そして小うるさい見張りさえ黙っているなら、サイボーグは物理的に『忍び込む』だけでいい。もっとも、それだけでも生身の人間には不可能に近いのだが。
「それで?」
つとめて平静に振る舞おうとしたが、成功しているとは思えなかった。
「秘密の用件なわけだよねえ?」
「そうだ」
だが暴れ出す気配だけは、ない。それどころか、何か楽しげにさえ見える。
「おめぇに、ちょっと頼みがあってな」
「頼みねえ」
「武器を都合してくれねえか」
言いながら、黒川丈が身を乗り出してくる。ほとんど真上から見下ろされる恰好になってしまった。
「武器?」
「ああ、武器だ」
本当に嬉しそうな笑みだった。
丈の思ったとおりだった。新生委員会の連中は、結局、いっさいがっさいの責任を米沢一人におっ被《かぶ》せていた。
「まあ、爺《じい》さんどもは事態を正確に把握しているとは言い難いからねえ」
先を歩く米沢医師は、そう言って肩をすくめて見せた。
剥き出しのコンクリートの通路に、二人の靴音が反響する。灰色一色の通路は、上の階よりも湿気が高いようだ。照明が暗いように感じるのも、気のせいではないだろう。
防衛庁付属生化学研究所の、地下施設である。
丈の『頼み』を、米沢は二つ返事で承諾したのだ。
「いくら防護服を着せたって、生身の人間には無理だって言ったんだけどねえ」
「おめぇだって、最初は防護服派だったんだろう?」
言いながら、しかし非難する気は、丈にはなかった。それは、単なる事実なのだ。
初代委員会は、ゾーンの存在が確認されるや、その対処法として、ゾーン退治の専門家の配置を考案した。アザエルによって変質した捕食性の獣を狩り出し始末する、言わば秘密工作員である。だがそれには、極めて特殊な能力が必要とされた。
格闘技術だ。
ゾーンに接近し、攻撃を加え、行動不能にする。そして、焼却。それ以外に、ゾーンを抹殺する方法はないのである。
候補の一人として、丈は選ばれた。
本人の知らないうちに。
他の候補者とともに、丈は人喰いの異形と対峙することになった。バトル・ホイールのデビュー戦で披露した格闘センスが、委員会の目に止まったのである。
いや、米沢の目に、と言うべきだろうか。
生贄《いけにえ》を増やすつもりだったわけではない、と米沢は言う。
それどころか、丈が参加すれば候補者の生存率が上がる、と考えたのだ。彼は、傷ついた候補者を治療した上で、その身を包む防護服を製作するつもりだったのである。
問題は、ゾーンに外傷を負わされれば例外なくアザエルに感染し高確率でゾーン化するという事実を、米沢が知らされていなかったという点だ。
治療は行われなかった。
候補者が全てアザエルに感染し、ゾーン化したからだ。
人間として生き残ったのは、丈だけだった。それも、頭部切断という極端な手段によって、である。そしてその措置は、ただちにゾアハンターを必要とする状況において、サイボーグ手術以外の選択を残さなかったのだ。
米沢はようやく騙《だま》されていたことに気づいたが、全てはもう遅かった。
「でもまあ」
こちらに背を向けたまま、米沢が言った。
「今となっては、あれ以外の方法があったとは思えないのも事実なんだな」
それが、アザエル研究の第一人者・村瀬友則《むらせとものり》の奸計《かんけい》の結果であったとしても。
「いくらパワー・アシストしていても、生身の上に防護服なんてセッティングでは、ゾーンと互角に闘うなんて不可能だよ」
「結果オーライだってのか?」
「そうじゃないよ。僕はそこまで、無礼じゃない。でもね」
立ち止まり、振り返る。
「あの時、あんたが決断してくれていなかったら、とっくに人類絶滅なんてことになってたんじゃないかと思うんだよねえ」
「そうかい」
「うん。あんたは、凄《すご》いよ。世界中が、あんたに感謝するべきだ」
もちろん、と言いながら、米沢は再び背を向けて歩きだした。
「僕も、だけどね」
廊下の突き当たりは、見覚えのある銀色だった。
一瞬、音緒は自分がどこにいるのか判らなかった。
うたた寝してしまったようだ。窓の外の景色が、かなり変わっている。小規模な商店が密集し、民家も多い。
国道脇の歩道に、埼玉県、と書かれた表示が見えた。
県境を越えたのだ。
朝食を済ませ、丈を先に送り出してから、音緒はすぐに行動を開始した。
まずハンガーのダリアが、スレイヴ・プログラムを走らせて警察庁のデータ・バンクに侵入する。そこから昨夜の『人喰い』事件の事情聴取データを引っ張って、埼玉在住K・Sの詳しい住所を入手した。
「もうすぐよ」
ブラックのハンドルを握って、ダリアが言う。
助手席の音緒は、ダッシュ・ボードに埋め込まれた端末を操作した。
顔写真が表示され、その隣に文字情報が並ぶ。
少年の名は、沢井和弘《さわいかずひろ》。音緒と同じ十七歳だが、学年は一つ下の高校二年生。八回の補導歴があり、万引きや恐喝の常習だったようだ。写真はその際に撮られたものらしく、不貞腐《ふてくさ》れた顔がこちらを睨み付けている。あるいは今朝の記事が埋め草のような扱いだったのは、そういう少年の証言であったことも理由の一つなのかも知れない。
やな感じ、と音緒は思う。
こんなのと、これから逢うんだ。
ダリアの言うとおり、本当に、すぐだった。
国道から脇道に入り、入り組んだ一方通行を抜けると、そこが目的地だった。
公団住宅である。
駐車場がなかったので、ブラックはハザード・ランプを点《つ》けたまま路肩に停める。
エレベーターで三階まで上がると、廊下にはベビー・カーや子供用の自転車が置いてあった。丈のマンションにはない生活感が、ここには、ちゃんとある。
あのマンション、丈の他には誰か住んでるんだろうか……。
ドアの前でモニター・カメラに向かったダリアは、音緒が飛び上がって驚くくらい愛想のいい笑みを浮かべて、雑誌の記者だ、と名乗った。
そんな適当な説明でドアを開けるわけがない、と思っていたら、開いた。
ドア・チェーンまで外して顔を出した沢井和弘は、写真で見たとおりの印象だった。今日はスーツ姿のダリアを、少年が頭のてっぺんから足の先まで眺めまわす。その次は制服姿の音緒の方だ。
「誰、こいつ」
こいつ、と呼ばれて、むっ、とする。
「この子は、あなたのファンよ」
マジですかいダリアさん! 無茶苦茶じゃん!!
でも、とりあえずニッコリ微笑んで見せた。
入れよ、と少年は言った。オトコって、ホンッッットに見え透いてる。
通されたのは、八畳ほどの和室だった。勉強机があったが、マンガ本が山のように積まれていて、使える状態ではなかった。
それだけではない。ベッドの上も脱ぎ散らかした服とマンガだらけ、床も同じような状態だった。
少年がベッドに座る。ダリアも畳の見えている場所を選んで、正座した。
その後ろで、音緒は立ったままだ。
座れるもんかい、こんな部屋で。座布団はどーした、座布団は!
「んでぇ?」
脚を拡げてベッドに座る少年の様子は、とても客を迎え入れる態度ではない。今に鼻クソでもほじり始めるんじゃなかろうか。そもそも、なに、あのジーンズ。だぶだぶで、股下が三〇センチも余ってるじゃん。
「取材って、どこの雑誌? いつ載るわけ?」
言いながら、視線は目の前の二人の女を舐め回している。音緒は思わず、自分の肩を抱きしめた。本能的な行動だった。
ありがたいことに、
「取材というのは嘘よ」
ダリアは、速攻することに決めたようだ。
「キミに聞きたいことがあるの。正直に答えなさい」
「あん?」
にやにやと笑っていた少年の顔が、瞬間的に変わる。音緒は、少年の気が狂ったに違いないと思った。顎を突き出し、眉を寄せ、しかし目玉を限界まで開いた、それは異常な表情だったのである。
「答えなさい、だぁ? おら」
その表情は、どうやら威嚇のつもりらしい。
「お前ら、あれか? 補導員か?」
立ち上がる。
「嘗めてンじゃねえぞ、おら!」
言いながら、少年が片足を引く。
だが、その足でダリアを蹴ることは出来なかった。
一瞬のことだった。
ダリアが動いた、と思った次の瞬間、彼女は立ち上がって少年の喉を掴んでいたのである。そのまま、足を払う。沢井和弘は喉を掴まれたまま、ベッドに仰向けに押さえつけられてしまった。
「中途半端な攻撃は、命を落とすもとよ。西山武史《にしやまたけし》は、それで死んだんじゃなかったかしら?」
表情が消えると、ダリアの美しさは恐ろしいほどだ。
「あなた、何も勉強してないのね」
その顔を近々と少年に寄せて、彼女の声は低く、重い。
「何を見たのか話しなさい。警察に話さなかったことも、全部よ」
呼吸だけは許しているようだ。てめぇは、と少年が言った。
震える声で。
「あいつの仲間かよ」
ダリアが笑った。
「だったら、どおするぅ?」
毒蛇みたいに。
米沢の操作で、扉が開く。通路一杯に広がる銀色の扉は、この研究所では『重要』を表す一つのサインでもあるようだ。この倉庫もまた、例外ではなかった。
広くはない。
しかし奥行きがある。
どこか『特訓ルーム』にも似た感じだ。
だが、殺風景な『特訓ルーム』に比べれば、こちらの方がいくらか楽しげではある。少なくとも、アクション映画が好きでモデル・ガンに目がないような奴なら、飛び上がって喜ぶに違いない。
しかも、ここにあるのは全て本物なのだ。
「お前ら正気か?」
それは、丈の正直な感想だった。旧《ふる》い図書館みたいに、縦長のラックが四列になって奥まで延々と続いているのである。
その全てに、武器が詰まっていた。
基本的には、銃器である。拳銃《けんじゅう》もあれば、自動小銃や機関銃、ロケット・ランチャーまであった。その一つ一つを眺めながら、丈はラックの間の通路を歩いてゆく。
「準備は進んでるってことか」
ゾアスクァッドの、である。
「そ。自衛隊の払い下げだけどね」
答える米沢は、今度は丈の後ろだ。
「防護服に対応出来る物を選ぶのには、ちょっと苦労したかな。でも、どれもきちんと整備は出来てるよ」
「ゾーンに通用するのか?」
「通用させるように頑張ってはいるんだけどねえ。弾の改良も進んでるし」
「ほお」
「高出力の大型電子ブレットでえ、一立方メートル程度の標的なら、五発も叩き込めば丸ごと焼けるよ。あくまで理論上は、だけど」
「ムラなく焼けるように均等に間隔を開けて撃ち込めば、だろ?」
「そ。しかも正確な立方体の場合ね。だから理論上なわけ」
「阿呆《あほ》か」
「僕もそう思うよ」
それでも、そんな阿呆な武器が山ほど並んでいるのは事実だ。
本気なのだ、連中は。
「こんなもんは役に立たん」
「あんたみたいなベテランでも?」
「ベテランだから、可能と不可能の区別がつくんだ」
「うまいこと言うねえ」
ラックの列が、途切れた。突き当たりに着いたわけではない。その奥に、今度はロッカーが並んでいるのである。
かなり大型だ。単なるワード・ローブではなさそうだ。
「防護服か?」
「うん。まだ半分ほどは空だけどね」
思わず、振り返った。
まだ半分?
ということは、もう半分ほども埋まったということだ。
「いつだ」
「正式発足?」
「ああ」
「来月の半ば辺り。人選も済んで、訓練に入ってるそうだよ」
なんてこった。
思わず、天を仰いだ。陰気臭い天井に、鬱陶しい照明が灯《とも》っている。
「ねえ黒川くん」
米沢が眼鏡を押し上げながら、真っ直ぐに彼を見ていた。
「こんなこと言えた義理じゃないのは判ってるけど、でも、あんたにしか出来ないことなんだ」
この男の、こんな顔を見るのは初めてだった。
そこには、明らかな苦悩があった。
そして、必死で押さえつけてはいるが、今にも叫びだしそうなほどの挫折《ざせつ》が。
「スクァッドの連中を助けてやって欲しい。彼らは何も判ってないんだ。ううん、彼らだけじゃない。上の連中も、何も判ってない。こんなもんでゾーンに太刀打ち出来ると、本気で思ってる。これじゃあ、水鉄砲抱えてライオンの檻《おり》に飛び込むみたいなもんだ。あいつら……」
筋ばった喉が、ぐび、と動いた。
「みんな、喰われちゃうよ」
その時、初めて米沢との間にシンパシーがあった。彼の心に浮かんでいるものは、おそらく丈が思い出した光景と、ぴったり同じだったろう。
五人の自衛官。
丈とともに、ゾアハンター候補として人喰いの野獣の前に放り出された、五人の男。
アザエルに侵され、手を尽くす余裕もなく異形となった哀れな戦士達。
「米沢先生よ」
丈が彼の名を呼ぶのも、これが初めてだったかも知れない。
「約束するぜ」
するべきではないのだろうけれど。
「誰も死なせやしねえ。絶対にだ」
米沢は、黙って彼を見つめていた。
それから丈の脇をすり抜けるようにして、奥へと歩いてゆく。
「こっちへ来てくれる?」
背中を見せたまま。
「あんたの注文にぴったりのがあるんだよねえ」
その背中からは、何も読み取ることは出来なかった。
『基地』に戻ったのは、音緒とダリアの方が先だった。
丈が戻って来た時には夕食の時刻が近かったが、その前に報告会になった。リビングのテーブルを挟んで、音緒とダリア、そして丈が向かい合う。
まずは音緒からだ。
「あいつ、最ッッ低だ」
それが、音緒の報告第一声である。
沢井和弘は当夜、友人で同級生の西山武史とともに夜遊びに出掛けていた。ナンパが目的だったのだが、結局のところ空振りに終わり、帰宅するにも終電を逃していたのでクサっていたという。
そこへ、路地から声が聞こえたのだ。
糞っタレ、と。
「見たら、上等そうな白いスーツの男が路地に座り込んでたんだって」
「奴だな」
「うん、そう。多分」
二人は、鬱憤《うっぷん》を晴らす相手を見つけたわけである。
西山が近づいて、男の脇腹を蹴った。
「介抱したんじゃなかったのか?」
「違うよ! だから最低だッてーの! えらい目に遭ってる友達を放って逃げただけじゃ足りずに、ちゃっかり自分だけイイヒトしてんだぜー!」
少なくとも彼らは、座り込んで身動き出来ない酔っ払いだと思っていた。それを、いきなり蹴り付けたのである。そういう理不尽を行うことに、彼らは慣れていたのだ。
「判ったわかった。それで?」
そう。
問題なのは、その後なのだ。
「折れたって」
「なに?」
「骨だよ。肋骨。ばきっ、て音がしたって」
「まさか」
「あたしも、そう思う」
相手は、戦闘用サイボーグと互角に格闘戦を演じた男なのだ。
「でも、少なくとも嘘《うそ》は言ってないね。本人はそう信じてるよ」
ダリアに押さえつけられて、あひあひ泣きながらの証言だった。あれが演技だったとしたら、今年のアカデミー主演男優賞は沢井和弘が受賞するに違いない。
「判った。で?」
「後はもう、新聞の記事とおんなじ。蹴った西山武史は脚を掴まれて、喰われた。実際には、お腹を喰い破られるとこまで見たらしいけど、警察は信じなかったみたいね」
「それだけか」
「うん、以上、終わり」
丈は腕を組んで、天井を見上げてしまった。
「じゃあ、あれは何だったんだ?」
「なに?」
「俺が斬ってやった時は、鉄みたいに固かったぞ」
骨が、である。
電子ブレードで斬りつけた時、肉の奥に鋼鉄みたいな固い骨があった、というのだ。
「見ろよ」
言って、立ち上がった丈が左の肘を直角に曲げる。二の腕の背面が開き、内部の武装ポッドに折り畳まれていた刀身が展開すると、肘から刀が生えているみたいになった。
さらに左の拳が左右に展開し、ブレードのグリップが飛び出す。腕から引き抜くその姿勢は、左腕を鞘《さや》に見立てた『抜刀』そのものだ。
「ほら」
ぐい、と差し出された刀身に、音緒は顔を近づけた。磨き上げたような刃である。よく見ないと、折り畳むための継ぎ目も判らない。覗き込む音緒の顔が、鏡みたいに映っている。
その中程で、
「うわ」
「な?」
刃が欠けていた。
微妙な弧を描いて、窪《くぼ》んでいるのだ。何か固い物に叩きつけた証拠だった。
「固いだけじゃねえ。奴の躯は、やたら重かった。まるで象と格闘してるみてえな気分だったぜ」
もっとも、と丈は続ける。
「奴がレーザーを連射出来たのも、喰いまくってるはずなのに大型化しなかった理由も、これで説明がつく。取り込んだ養分を高密度に圧縮して、蓄えてやがったんだ。多分、物凄い体重になってたはずだ」
材質が同じなら、密度が高い方が固いに決まっているし、重くなるのも当然だ。
でも、だとしたら、
「それじゃ、折れない、よね?」
「ああ」
そうなのだ。それほど固くて重い肋骨を、高校生の少年が一蹴りしただけで折ってしまうことなど、どう考えても不可能だ。
ブレードを収納すると、丈は背中を投げ出すようにソファに沈んだ。
「ガキを喰ったゾーンは、奴じゃなかったってことか?」
「それは、ない。奴だよ」
「『才能』か?」
「うん」
「じゃあ、なぜだ」
「丈が斬った時は固かったけど、西山武史が蹴った時は脆《もろ》かった」
「何だそりゃ」
「レーザーをバンバン撃って、一気に消耗したんじゃない?」
「そりゃあ、ないな」
今度は、丈が言い切る番だ。
「俺が斬ったのは、奴が何発も撃った後だ。その後、奴は二発しか撃ってない」
なるほど、それだと理屈に合わない。生体レーザーの連射が骨の劣化の原因なら、丈が斬りつけた時には、既に脆かったはずだ。
「じゃあさ、レーザーを撃つ前は、もっともっと固かったのかも」
「それじゃあ高密度過ぎて動けん」
そりゃそうだ。
「じゃあ、やっぱ別のやつなのかな」
「あるいは」
ダリアだ。
「何か別の要因が介入しているか」
「どういう意味だ?」
「生体レーザーの発射以外にも、急速に消耗する原因があったのかも知れない。そもそも体組織を高密度に圧縮するなんていう無茶な行為も、本来は別の目的のためだったと考えた方が妥当だわ」
「レーザーとは無関係という根拠は?」
「リスクが大き過ぎるもの。武装が目的だとしたら本末転倒だわ。現にネオは、ゴーストから獲物を取り上げるのに成功しているのよ。生身の女の子がゾーン相手に、よ」
「だから、何か他の目的、なのか」
「そう。過剰なペースで捕食し続けなければならないほど、大量のエネルギーを必要とする何かを実行しているということよ。その上でなお、サイズを維持するために高密度に圧縮して蓄えるというリスクを冒すだけの、何か重要なことをね」
丈とダリアの会話が、音緒の記憶の隅っこを引っ掻いた。
何だっけ。
これ、何だっけ。
思い出せない。
つまりだ、と丈が言う。
「整理しよう。奴はもともと、急速に消耗しちまうナニカをやってた。だから喰いまくった。体組織を高密度に圧縮してたのは、サイズを変えずにエネルギーを蓄積するためであって武装強化ではなかった。ところが戦闘になって、エネルギーをレーザー攻撃に振り分けちまったせいで蓄えが尽きた。だが奴のやってるナニカは、蓄えの有無に関係なく進行している。あるいは、進行させる必要があった。蓄えは尽きていたので、自分のための養分が削られた。結果として奴は、高校生に骨を折られちまうほど一気に消耗した。そういうことか」
過剰なダイエットみたいなもんだ、と音緒は思った。
躯に蓄えられた脂肪は、特に運動しなくても、日常的な生活だけでも燃焼する。しかし消費量以上に食物を摂取すれば、脂肪の量はどんどん増える。
デブちんの出来上がりだ。
痩《や》せるには、食事の量を押さえて適度な運動を繰り返すしかない。
ところが、だ。
もしも一切食べないで運動だけを続けたら、どうなるか。体重はどんどん減り、やがて適正体重をも下回ってゆく。最後には動くことも出来なくなるだろうが、ただ横たわっているだけでも心臓の鼓動や呼吸が、少しずつだが確実にカロリーを消費し続けるのだ。
やがて衰弱しきって、死んでしまう。
それと同じだ。
それなら理屈は通る。
でも理屈が通った代わりに、謎が残ってしまうのだ。
ゴーストは何をしようとしているのか?
そして、その謎の答えが、音緒の記憶の隅っこには、あるのだ。
「あのさあ」
ついに、音緒は口を開いた。
「あたし、そういうの、なんか知ってる気がするんだよね」
「何をだ?」
「判ンない。でも、なんかそういうの、知ってる。どっかで聞いたか、何かで読んだか、とにかく、そういうの知ってる気がすンだよお」
でも、出てこない。
「ごめん、駄目だ」
まあいいさ、と丈は言った。
「とにかく、奴は何か計画してる。そいつが判っただけでも、今ンとこは上出来としておこうや」
そうなの?
丈がそう言うんなら、いいけど。
「じゃあ、次は俺の番だな」
言いながら、立ち上がる。
「まずは見せてぇ物があるんだ」
子供みたいな笑みで。
そんな機会はないだろう、と思いながら、しかし音緒は思う。
誰かに、黒川丈ってどんな人なの、と訊《たず》ねられたら、何と答えるか。
決まってる。
子供みたいな人、だ。
ヒーローの人形で部屋中を一杯にしてしまうような、そんな人だ。いい歳《とし》してハンバーグが大好物だなんて平気で言ってしまえるような、そんな人だ。女の子を食事に誘いたくて待ち伏せするような、そんな人だ。
感情がすぐ顔に出るし、挑発されれば本気になっちゃうし、家の中ではまともに服も着ないし、寝坊するし夜更かしするし、うるさく言わないと髭も剃《そ》らないし、着替えも出してあげないとずっと同じ服着てるし、つまり、そんな人だ。
けれど、音緒は知っている。
アレにしてもコレにしても、その全てに意味があるということを。
その全てに、ちゃんとした理由があるということを。
この数日、ずっと『特訓ルーム』に閉じこもっていることも、そんなアレやコレやと同じなのだということを。
音緒の報告を聞いた後、丈は自分の報告をする前に、見せたい物がある、と言って音緒とダリアを『特訓ルーム』に連れてきた。
細長い部屋の隅に、それは置かれていた。
新しい武器だ。
米沢ンとこからガメてきた、と丈は言った。
新生委員会には、既にゾアスクァッドのために大量の武器が揃えられていたという。だがその中で、ただ一つ、選出された隊員の誰一人として使いこなすことの出来なかった武器があった。
だから俺がもらってきた。丈は、そう言った。
玩具《おもちゃ》をもらった子供みたいな顔で。
それから数日、ずっと『特訓ルーム』に籠《こ》もりっ放しだ。部屋を出てくるのは、食事とトイレとお風呂《ふろ》くらい。夜になると部屋に戻って寝ているのだが、夜中に廊下を歩いてゆく気配がするのは、きっと眠れなくて『特訓ルーム』に戻っているのだろう。
トレーニングなのだ。
新しい武器の。
立ち入り禁止状態で見せてはもらえないが、それがどれだけ激しいものかは、部品を見て判った。丈の躯のための、交換用の部品だ。
膝や腰や肩の部品が、たった数日で、いくつか駄目になったのである。
初めて交換を手伝った音緒は、小さなシリンダーみたいな部品が焼けて蒼黒《あおぐろ》くなった上に見事に擦り切れているのを見て、愕然《がくぜん》としたのだ。生身の躯だったら、きっととっくに寝込んでしまっているだろう。
音緒にも、ある程度は察しがついた。
ゾアスクァッドだ。
来月半ばには、正式に活動を開始するという。つまり、情報収集、計算、調査、そして狩り、だ。それも、丈がやっているよりも大規模かつ組織的に、である。
対抗意識だろうか。
それとも、何か別の理由があるのか。
丈は何も言ってはくれない。ただ黙々と、新しい武器を手に馴染《なじ》ませようと躯を動かし続けている。
音緒の方は、相も変わらずだ。
丈の身の回りの世話と、ダリアが整理してくれた情報に目を通すこと。
それだけ。
多分ゴーストは、また活動を再開しているはずだ。以前よりも慎重に、以前よりも巧妙に。でも、その痕跡が見えないのだ。地図上の赤い光点は、目立って多くもならないし少なくもならない。何となく気になるものが無いわけではなかったが、それも明確な理由が見つからなかった。
『才能』の方も、黙ったままだ。
自室のベッドに仰向けになって、音緒は天井を見ていた。
丈が子供みたいなところ、もう一つあった。すぐに自分だけで何とかしようとするところ。
米沢医師に逢いに行った時、武器の話やゾアスクァッドの活動予定だけじゃなくて、他にも何か話したんだろう。そしてそれは、何か、とても重たいことだったに違いない。
そうでなけりゃ、と音緒は思う。
丈は、あんなふうにはしない。
時計を見ると、七時前だった。
夕食の用意、しなきゃ。
ドアがノックされたのは、そう思った時だった。
「いいか?」
丈だ!
跳ね起きる。
「どぞッ!」
ドアを開けた丈は、いつものように上半身裸で、顔だけが汗まみれだった。
「すまん。タオル、どこかな?」
「あ、はい。ちょっと待ってて」
音緒が洗面所から新しいタオルを手に戻ってくると、丈は本棚の前に立って、並んだ背表紙を眺めていた。
興味深げに、という顔ではなかった。
「はい」
手渡すと、さんきゅ、と受け取る。その顔には、つい今しがたの寂しげな陰は、かけらも残っていなかった。
「音緒よお」
汗を拭《ふ》きながら。
「お前さん、ここの本、読んでみたこと、あるか?」
「うん。ちょろちょろっと、ね」
それは微妙なところで、嘘だ。本当は、ちょろちょろっと、ではない。辞書ソフトと首っ引きで、少しでも時間に余裕があれば、大好きな藤谷美和《ふじたにみわ》の小説を読む時間を削ってまで、だ。
「面白いか?」
「正直、面白くはないよ。でも、為《ため》には、なる」
どういうふうに、かは言わなかった。丈も、ほお、と言っただけだった。
見透かされてるかな?
「まあ、よろしく頼むわ」
汗を拭いたタオルを肩にかけて、丈が笑う。なんか、こういうの久しぶりだ。
ちょっとイイな、と思う。
「ねえ」
だから、言ってみる。
「あ?」
「ここンとこさあ、すッげえ大変だったじゃん? オトリ作戦とか、池袋大爆発とか」
「よそンちの倉庫からオモチャをガメてくるとか?」
「うん」
「確かに、ちょっくらバタバタしてたわな」
「だしょ? だからさ、ちょっと遊ばないかなあ、なんちて」
「んん?」
丈が眉を寄せると、必要以上に迫力がある。鼻の頭に皺《しわ》を寄せていないので怒ってるわけじゃないのは判るが、それでも、腰が引けてしまうのだ。しかも、不精髭を通り越して完璧なヒゲ面になっちゃっているのだから、なおさらだ。
「あ、無理だったらイイし。武器の練習とかあるだろうから、でも……」
「いいぜ」
笑みだ。
それも、犬歯まで剥き出しの。
「へ?」
今、なんてったの?
「いいぜ。明日、遊びに行こう」
うそ。
自分で言いだしておいて、信じられなかった。
だから思わず、
「マジかい!」
「ああ、マジ」
頭のてっぺんから声が出てしまった。
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第三章 コンパンクション
他人の目にはどう映るのだろうか、と音緒は思った。
見るからに怪しいカップルなのではあるまいか。
丈の方は、さすがに袖《そで》を千切ったやつではないが、やはり革ジャンで革パンツで革のロング・ブーツで、シャツは黒のタンクトップで、おまけに顎《あご》まで埋まる髭面《ひげづら》。今日はアイパッチを外しているが、代わりに掛けているサングラスは、鉄板なんじゃないかと思うほど色が濃い。
一方の音緒は、ジーンズにトレーナーという、しごく真っ当な服装だ。しかも、まだ十代のお子様なのである。黒ずくめでサングラスで髭面の三十男とは服装も年齢も、どう考えてもバランスが悪い。趣味の違う兄妹《きょうだい》にでも見えてくれれば御の字、悪くすれば援助交際か、あるいは嫌がる女の子を連れ回す変質者にでも見えるんじゃなかろうか。
助手席で、音緒はくすくす笑ってしまう。
「どした?」
しまった、笑ってるのがバレた。しょうがないので、正直に話す。
阿呆《あほ》か、と言われた。
「だぁって、そんな感じじゃない?」
「俺はそんなに悪人顔か」
「そうは言わないけどさあ、何そのグラサン。あと、髭も」
「変装だ、変装!」
音緒にしてみても、それが判《わか》っていなかったわけではない。
何しろ、伝説のライダーなのだ。彼をかたどったアクション・フィギュアが出てしまうほどの。傷とアイパッチを足し算していたとしても、人込みの中を歩けば一人や二人は彼に気づいてしまうだろう。
失踪《しっそう》中のサムライ・ジョウが女の子を連れて歩いてる!
それはマズイでしょう。
だから、はいはいごめんね、と言っておいた。
丈の運転する車は、海の見える高架を走る。通称『レッド』と呼ばれる赤いスポーツ車である。HONDAの市販車がベースだが、中身はまるっきり別物だ。直線走行なら最高時速三〇〇キロを叩《たた》き出す、ゾアハンター専用の高速追跡車両なのだ。
でも今日は、そんなに飛ばさない。
だってデートだもんね。
辰巳インターから湾岸線に載ったところだ。
目的地は、決めていない。
何をして遊ぶかも、決めていない。
面白そうなものを見つけたら停《と》まる、面白そうなことを思いついたら停まる、それだけだ。別にこのまま走ってるだけでもいいや、と音緒は思っていた。
とにかく、丈に休んで欲しかった。
勿論《もちろん》サイボーグの機体は、生身と同じ意味で疲れることはない。部品への過負荷を知らせる疲労感はあくまで疑似的な信号に過ぎないし、もし本当に部品にガタがきたら交換するだけで済む。わずかに残った生身の部分も、機体に埋設されたプラントが健康管理してくれており、どんな病気とも無縁なのだ。そのせいか、丈の顔は実際の歳《とし》よりも五つくらいは若く見える。ひょっとしたら、あと五年|経《た》っても変わらないかも知れない。
でも精神は、そう簡単にはいかない。
それどころか、生身だった時よりもずっと負担が大きいはずだ。
考えてみれば、当たり前のことなのだ。
人は、環境が変わっただけで変調をきたしたりする。軽いところでは、枕《まくら》が変わると眠れないとか旅行に出掛けるとお腹《なか》の具合が悪くなるとか、そんなやつだ。
身の回りの、ちょっとした環境でさえ、そうなのだ。
ましてやサイボーグは、自分の躯《からだ》が変わるのである。
調子が狂わない方が、どうかしている。
だから、と音緒は思った。
あたしに出来ること。
これが、あたしに出来ること。
「なあ」
「なに?」
「ちょっと意見が聞きてぇんだがよ」
「うん」
「ゾーンが絶滅寸前なんじゃねえかって考えンのは、希望的観測過ぎると思うか?」
ほら。
やっぱり休ませなきゃ。
でもそれは、
「かもね」
この話題を終わらせてからだ。
「ちゃんと情報は入ってきてるでしょ、失踪とか変死とかの」
「ああ」
「なのに丈の勘もダリアの計算も、あたしの『才能』も黙ってる」
「奴の件を除いて、な」
ゴーストだ。
「そうね、奴の件を除いて。あいつが生きてるのは確実だもんね。でもそれ以外は、例の人間みたいなやつも、ケダモノみたいなやつも、ほとんど動きがないわけだよね」
「ああ」
「ほんッとに憶測、言うよ」
「おう」
「あのね、あたし的には、ゾーンは絶滅しようとしてンじゃないかって思う。だって、一気に山程やっつけた時期があったじゃん」
彼女が丈と知り合って協力するようになった、その当初のことだ。ゾアハントの効率が爆発的に伸び、いくつものゾーンの群を立て続けに始末した時期があった。
移動する百匹以上の群、住民がそっくりゾーン化していたマンション、そこで飼育されていた無数の小型ゾーン、数百のゾーンが合体した巨大な融合体……。
丈も同じように振り返っていたのだろう。
「ああ。あったよな」
あれからまだ半年も経ってはいないのに、もう十年も昔のことみたいに言う。
「ゾーンの群ってさ、小さな群を分離しながら移動を繰り返してたわけでしょ。群が飽和状態になっちゃうから」
群の大型化は、深刻な食料問題を生む。そのため、ゾーンの群は小規模なグループを切り離しながら、餌場《えさば》を求めて転々と移動していた。ゴーストが教え込んだのか、あるいはそういう習性を持つ生物の遺伝子が、いずれかの段階で取り込まれたのだろう。
「それに、人間のふりして隠れてた連中も、やっぱりケダモノみたいな連中と同じように喰わなきゃいられないわけじゃん」
だから丈は、知性型ゾーンの群がマンションに潜伏していることを見抜いたのだ。その周辺の地域で、生の食肉が異常な消費量を見せたからだ。
「つまりさ、ゾーンが存在すれば、必ず気配があったわけよ。少なくとも今までは」
「そうだな」
「あのゴーストでさえ、尻尾《しっぽ》を出しちゃったわけで」
「ああ」
「でも、今はそれが、ないと」
「ないな」
「てことは?」
「絶滅寸前、か」
「そう思わない?」
「そう思いたいね」
言いながら、丈がハンドルを回す。有明《ありあけ》出口で、高速を下りるつもりのようだ。
横目で盗み見る。丈の表情は、固い。
「ねえ」
「おう」
「怖いと思う?」
もう終わりだ、と思ってしまうことが。
そうじゃないかも知れないのに、そう思って期待してしまうことが。
丈の応《こた》えは、まあな、だった。
「先の見えねえハナシだからなあ」
当初、丈は委員会から、アザエルの漏洩《ろうえい》によって生じたゾーンは十数匹程度だろうと告げられたそうだ。
十数匹、だ。
しかし実際には、彼は音緒と出会うまでに、その何倍ものゾーンと闘っていた。そして音緒の『才能』は、さらにその何十倍ものゾーンが潜んでいることを、感知してしまったのだ。これまでにゾアハンターが始末したゾーンの数は、ちゃんとカウントしたわけではないが、それでも数百匹にはなるのである。
いったい何匹のゾーンが潜んでいるのかは、本当のところ誰にも判らない。狩っても狩っても、次から次へと現れる。
終わりが、見えない。
例えばそれは長距離走の最中に、自分が今どの辺を走っているのか判らなくなるのと同じことだ。いや、それどころか、自分がどれだけの距離を走らなければならないのか知らずに走っているようなものなのだ。
次の一歩が、ゴールかも知れない。
千キロ走り続けてもゴールに着けないのかも知れない。
そういうことなのだ。
そんな中で、ほんのすぐ先にゴールが見えたような気がしてしまったら。
怖いに決まってる。
あれは本当にゴールだろうか。もうゴールだと思ってもいいのだろうか。
今、丈が抱えているのは、つまりそういうことなのだろう。
「でもなあ」
言ってから、彼は少し考えているようだった。
音緒には、判った。
迷っているのだ。
言うべきか、黙っているべきか。
けれど、迷いはそう長くはなかった。
「おめぇよ、子供番組って観《み》たりするか?」
「は?」
なに、それ?
そんなこと訊《き》くかどうか迷ってたわけ?
「なんで?」
「いいから」
「昔は観てたけど」
「変身モノとか」
「うん。レッドアローとか好きだった」
「最終回、覚えてるか?」
「うん」
確か……、
「敵の基地に乗り込んで、総統ガロウと対決すんの。一騎討ち」
「ほう。で?」
「やっつけて、基地が爆発して、終わり」
「その後は?」
「終わりだよ。最後の敵をやっつけたんだもん」
「やっつけた後は?」
「だから、最終回だってば」
「そういうことさ」
「え?」
「レッドアローだっけ? そいつ、敵を倒した後、どうなったんだろうな」
「どうって……」
「生きてる人間の最終回は、死ぬ時だ」
なんてこと。
やっと判った。
終わりだと思ってしまうことを怖がってるって?
丈が?
とんでもない!
彼は、その先を見ていたのだ!!
テレビのヒーローは、敵を倒せば最終回。その後のことは、描かれない。誰も疑問に思わず、良かったね良かったね、で大団円だ。
でも、その後は?
ゾーンと闘い続けて、最後の一匹を倒した後、ゾアハンターは……丈はどうなる? 闘うために造られたサイボーグは、全部の闘いが終わった後、どうなるの?
あたしに出来ること、だってかい?
冗談。
こんな重い荷物だって知りもしないで、あたし、背負ってあげる気になってたわけ?
駄目だ。
あたし、ぜんぜん駄目じゃん。
「音緒?」
しまった。
「なに?」
黙り込んじゃった。
「悪かったな、ややこしいこと訊いて」
やだ。
これじゃ逆じゃん。
見ると、丈は笑っていた。
この人、すごい。
やっぱり丈、あんた凄《すご》い。
返す言葉がなくて、音緒はただ、えへへ、と愛想笑いだけをして見せた。
ちくしょう、と思った。
もっと頑張らなきゃ、というのが一つ。
もう一つは、
「あんな約束しなきゃよかったさ」
口の中で呟《つぶや》くその声は、丈には聞こえなかったようだ。
音緒に見えないように、丈は右側の唇を吊《つ》り上げる。
苦笑だ。
何気なくハンドルを握っていたつもりだったが、どうも無意識のうちに記憶を手繰っていたらしい。何やら見覚えのある風景だ、と気づいた時には遅かった。高速の出口をUターンするわけにはいかないのだ。
俺もまだまだケツが青いか?
それとも、自分で思っている以上に弱気になっているか、だ。ひょっとしたら、助手席の少女に余計なことを喋《しゃべ》ってしまったのも、そのせいかも知れない。
美咲との約束。
本当のヒーローになってください。
本当のヒーローは、僕ちんは悪者を倒した後どうすればいいでちゅか、なんて訊きやしないだろう。無論、隣に女の子を乗せてるのに『思い出の場所』に来てしまう、なんて不細工なこともやらないに違いない。
つまり、だ。
俺はまだまだ本当のヒーローになんて、なれちゃいないってことだ。
やれやれ。
今夜、風呂《ふろ》に入る時にはケツの色を確かめておかねぇとな。
有明出口を下りると、それは右側に見えてくる。途端に音緒が声をあげた。
「観覧車!」
はいよ、観覧車だ。
右手の対向車線の向こう側に、観覧車の上半分が見えているのである。それだけではない。道路に面して繁《しげ》る木々の向こうには、ジェット・コースターのレールも見え隠れしていた。
「なに、これ。遊園地?」
「なんだ、おめぇ知らねぇのか?」
「うん。ここ、なに?」
思い出の場所だ、とは言わなかった。
「ありあけテック3000」
「名前だけ知ってる。ここなんだぁ」
二〇五〇年代初めの第三バブル景気のころ、外資系企業がテニスの森公園を中心とした土地を買い取り、遊園地にしてしまったのだ。
フェリー・ターミナルに近いこともあってか、開園当初は一日の入場者数が十万人に迫ることもあったそうだから、かなりの人気スポットだったようだ。もっとも景気が低迷し始めると客足も遠のき、今では近年中の閉園も噂《うわさ》されている。とは言え、開園当時には長蛇の列が出来た絶叫マシンも健在で、つまり考えようによっては、ゆったり遊べる穴場と言えなくもない。
少なくとも、閉園までは。
音緒に説明しながら、しかしその知識がやはり『思い出』と関係があることは、言わないことにした。
恰好《かっこう》悪いもんな。
「ねえ、寄ってこ」
「あン?」
助手席の少女が、こちらを見ていた。口許《くちもと》は笑みだったが、眼《め》はびっくりした猫みたいに大きくなっている。
「大したもん、ねえぞ」
「行ったこと、あるの?」
しまった。
「ああ。一回だけな」
「ずっるぅ〜い〜。あたしも行きたぁ〜い〜」
唇を尖《とが》らせる。
やれやれ、だ。音緒はこの顔をしたが最後、テコでも動きやしなくなる。しかも、この知能指数が削られていくような喋り方も、丈が嫌がるのを判ってやっているのだ。連れてってくれないなら、ずぅ〜っとこの喋り方しちゃうぞぉ〜、というわけだ。
「しょうがねえなあ」
駐車場入口は、対向車線側だ。分離帯の切れ目に強引に車体を滑り込ませ、タイヤを鳴らしてUターンをかける。
黄色と黒のストライプのバーが通せん坊する駐車場入口も、野球場が三つは入りそうな駐車場も、一六年前のままだった。違うのは、通せん坊のバーの塗装がハゲチョロケになっていることと、駐車場が一割も埋まっていないことくらいだ。
出来るだけ正門の近くにレッドを停めた。
「ねえねえ、すッごい寂れてない?」
車を降りた音緒の足元を、空の紙コップが転がってゆく。よく見ると、駐車場を囲む植え込みの辺りには、客の捨てていったゴミがわだかまったままだ。
清掃も、ろくにされていないのだ。天気はいいのに、まるでゴースト・タウンみたいな有り様だ。ゲートの脇に並んだ二〇以上ものチケット販売機も、三つを除いて停止していた。
「だから言ったじゃねえかよ、大したもんないぞ、って」
「ま、いっか」
チケットを手にとっとと走って行った音緒が、これも二台だけ稼働している改札ゲートの前でこちらを振り返った。
「早くはやくぅ!」
参った。
あの歳頃の女の子ってのは、みんなアレをやるもんなのか?
チケットを改札機のスリットに通すと、銀色のバーが開く。そこを抜ければ、ようこそ科学と夢の世界へ、だ。
なかなか上手な演出だ、と丈は思った。何ら露骨な目隠しがあるわけではないのに、植え込みやゲートの建物や『ありあけテック3000』と書かれた看板などで、外からは園内の様子がよく見えないように巧みに隠されているのだ。ゲートの中に入った途端、さっきまでとは全く違う光景が目に飛び込んでくるという演出なのである。しかも敷地の周囲には背の高い木が植えられて、中の様子が見えないのと同様に中からも外が見えない。
別世界、というわけだ。
植え込みの緑を別にすれば、白を基調とした世界である。そこへ極彩色の建物や遊具や案内表示パネルが、アクセントのように散らされていた。
ここからだと観覧車は完全な円形に見える。ジェット・コースターのレールも、吹き過ぎてゆく風が固まったみたいに蛇行しながら、園内をくまなく走っている。
その別世界に一歩踏み込んだ途端、音緒は立ち止まって動かなくなった。
「どうした?」
追いついて、顔を覗《のぞ》き込む。
少女の声は、低くかすれていた。
「すッげえ」
言うなり、頬《ほ》っぺたをビンタされたみたいな勢いで振り返って、
「告白しちゃうぞ! あたし、初めてなんだ!」
「なにが?」
「ゆーえんち! これ、お初! 初めてなんだよお!!」
言いながら、みるみる笑みが広がって、瞳《ひとみ》が潤み始める。
「マジかよ」
「うんッ!」
頷《うなず》いて、駆けだした。丈も追いかける。
それからが大仕事だった。
総なめである。
彼らの他に、客は数えるほどしかいない。つまり、ゴーカートだろうがミステリー・ハウスだろうがフリー・フォールだろうがフライング・カプセルだろうが、待ち時間がゼロなのだ。やろうと思えば、全てのアトラクションを楽しめそうだった。
そして、どうも音緒は、そのつもりでいるらしいのである。
自動車さえ追い越せるほどの脚力を持つサイボーグが、十七歳の少女に手を引っ張られて、早く早くと急《せ》かされ続けた。
遊園地は初めてだと音緒は言ったが、丈の方も、こんなにはしゃぐ音緒を見るのは初めてだった。
初めて逢《あ》った時の音緒は、ゾーン化した親友に襲われた直後だった。そしてその親友が丈に撃たれるところも、見てしまった。それから、両親が亡くなった。人喰いの怪物の群に囲まれもしたし、巨大な怪獣と対峙《たいじ》もした。
丈のところで暮らすようになってからも、とても正常な生活と呼べるものではなかっただろう。その生活の根底には命懸けの緊張があったのだから。
女の子なのだ。
まだ十七歳の。
これが音緒なのだ、と丈は思った。
瑞々《みずみず》しくもあり、眩《まぶ》しくもある。笑顔で息を切らせ、紅潮がおさまらない頬には生命が輝いている、これが音緒という少女なのだ。
3Dシアターでは、飛び出してくる立体映像の恐竜に悲鳴をあげて丈の腕にしがみついたが顔は笑っていた。フライト・シミュレーターでは、丈の乗った戦闘機を見事に撃墜して得意げに微笑《ほほえ》んでみせた。昔ながらの急流滑りでずぶ濡《ぬ》れになった音緒は、腹が裂けるんじゃないかと思うくらいに笑い続けた。アミティヴィル・マンションでは完全に平衡感覚を狂わされて、それでも音緒は青い顔で笑みを浮かべていた。
レストランのパスタが生煮えだと文句を言いながら笑った。クレーン・ゲームの設定がオニだと言って笑った。スーヴェニア・ショップの品ぞろえがダサいと言って笑った。テーマ・キャラクターが不細工だと言って笑った。
そして、丈も。
こんなに笑ったのは久しぶりのことだった。
長いこと使っていなかった顔の筋肉が、しまいには痛くなってきた。
ようやく一息ついたのは、観覧車に乗った時だった。
ゴンドラが円周に沿ってゆっくりと上昇し始めると、向かい側のシートに座った音緒が深い溜《た》め息をついた。
はしゃぎ過ぎたのだろう、そろそろ紅《あか》くなりかけている陽《ひ》に照らされて、その様子には少なからず疲れが見える。
「楽しんでるな」
うん、と少女は頷いた。
窓の外を見たまま、やはり笑みを浮かべて。
「丈は?」
「ああ」
それは、嘘《うそ》ではない。
デビュー戦のあの日以来、こんな気分で一日を過ごしたことがあっただろうか。
愚問だな、と思う。
あるわけがない。
だから、
「楽しんでるぜ」
そう言える。
「よかった」
微笑んで、音緒はまた一つ溜め息をついた。
その瞬間、丈は理解した。
ああ、そうか。
そうだったのか。
確かに、初めての遊園地に興奮したのも事実だろう。だが彼女のこのテンションの高さは、そればかりではなかったのだ。
音緒はゴンドラの窓枠に肘《ひじ》をついて、海の方を見ていた。てっぺんまで昇れば、新工業地帯や、埋め立て工事の続く湾岸都市も見えるだろう。
「ねえ」
横顔を見せたまま、音緒の声は静かに大人びている。
「この前来た時は、誰と一緒だった?」
表情と呼べるような表情は、ない。疲れ切ってしまったのか、それとも何か別の思いがあるのか。
「カノジョ?」
「妹だ」
「うそだね」
「本当さ」
本当だ。
「俺がハタチだか二一だかの頃にな」
突然に勤めを辞めてバトル・ホイール選手になると言いだした丈を、両親は笑顔で見送ってはくれなかった。家出同然……いや、勘当も同然に飛び出してきたのだ。
東京へ。
チーム・タケダに転がり込み、アルバイトとトレーニングに明け暮れるうち、やがて一年ほどが過ぎた。
故郷から妹が、彼を訪ねて来たのは、その頃だった。ある夜、くたくたに疲れて帰宅したアパートの部屋の前に、彼女は座り込んでいた。
「そう言や、お前と同い歳だったな。俺の三つ下だったから」
「名前は?」
「ひびき。ひらがなで」
ひびきは、一度家に帰ってきなよ、と兄に言った。
お父さんもお母さんも、もう怒ってないから。だからとにかく一度、ちゃんと逢って話した方がいいよ。
丈は、判った、と答えた。
それから妹の携帯電話でチームに電話を入れて、明日は休みます、と伝えた。その夜は何年かぶりで、同じ布団にくるまって眠った。
「で、翌日だ。フェリーで帰るって言うんでな」
早めに家を出て、フェリー・ターミナルの対面に位置するこの遊園地に、連れてきてやった。ゲートをくぐっての第一声は、音緒と同じだった。
あたし遊園地なんて初めてだ。
「それから?」
「それだけだ」
一日遊んだ後、妹は故郷に帰り、丈はまたアルバイトとトレーニングの日々だ。
「すぐに帰省出来るほど、金、持ってなかったからよ」
「でも、家には帰ったのね?」
「ああ」
「ちゃんと、ご両親とは話したの?」
「いや」
なぁんでさ、と音緒がこちらを向いた。聞き分けのない子供を叱《しか》りつける顔だった。
「ひびきちゃんと約束したんでしょ? 守ンないと駄目じゃん」
「守れなかったんだ」
初めて自分専用のモノサイクルを用意された日、練習走行に出ようとした彼を、オーナーが呼び止めた。
電話だ、というのである。
出てみると、長らく逢っていない叔父貴だった。
すぐ帰って来い、と彼は言った。
訃報《ふほう》だった。
両親と妹の乗った飛行機が、落ちたのだ。
丈に逢いに来るためだったことを、彼は葬儀の席で知った。
約束を果たすことは出来なくなった。
永遠に。
ゴンドラの床を見つめて、音緒は、ごめん、と言った。
「謝ることじゃねえさ。むしろ感謝してる」
少女が顔を上げた。心底、意外そうな表情だった。
「なんで?」
「おめぇに引っ張り出されなきゃ、遊びに出ようって気にもならなかった。妹との最後の思い出の場所だってのに、ここに来たのだって一六年ぶりだ」
「うん」
「無意識に、区別しちまってるところがあってな。サイボーグになる前の自分と、なった後との自分をな」
「うん」
「おかげで、もう怖くねえよ」
「わッかんないよお!」
音緒が泣きそうな顔で声をあげる。思わず頬が緩みそうになるのを、丈はなんとか押さえ込んだ。
ああ、音緒よお。
おめぇ、なんて真《ま》っ直《す》ぐなんだい。
「ここに来て、ひびきのことを思い出して、それで判った。俺はレッドマンとは違う」
「レッドアロー?」
「ああ、レッドアローとは違う」
「どゆこと?」
「テレビのヒーローは、第一話からヒーローだ。ヒーローとして生まれてくる。だから最終回で敵を倒したら、そこでお終《しま》いだ。でも人間は違う」
「その先がある?」
「その前もな」
「前?」
「サイボーグになった後の俺は、なる前の俺とも繋《つな》がってる。生まれて、育って、幼稚園に行って学校に行って就職して仕事を辞めて十年がかりでライダーになって、それと同じ一本の繋がりの中に、サイボーグになる、ってのが入ってる」
それは人生という一つの大きな流れの中の、ほんの一部に過ぎない。それまで心に描いていたのとは別の流れに入っただけで、そこで流れが途切れたわけでも新たな流れが始まったわけでもない。
一つの、延々と続く流れであることに変わりはないのだ。
「だからよ、ゾアハンターとしての仕事が終わったとしても、それは印刷屋の仕事を辞めたのと同じことだ」
「丈、印刷屋さんだったの?」
「ああ」
「輪転機回してた?」
「いや、版下」
「似合わねーッ!」
笑顔だ。
だから、
「大きなお世話だ」
こちらも笑顔だ。
それはつまり、一つの問題が片づいたことの確認だ。
しかし丈にとっては同時に、別の問題の始まりでもあった。
サイボーグになる以前の自分と以後の自分は、繋がっている。
では、奴は?
奴も、それ以前と以後とで、一つに繋がっているのではないか?
ゾーンになる以前と、それ以後とで。
ゴースト。
もう一人の『黒川丈』。
ゾーンになってしまった、もう一人の自分。
人生とは、過去を重ねてゆくことだ。そして過去とは、記憶に他ならない。ゴーストが黒川丈としての記憶を持っているとしたら、それはつまり、黒川丈の人生を持っているということではないのか。
だとしたら。
奴はこれから、何をしようとしているのか。
判らない。
だがな、と丈は思う。
貴様が何を考えていようと、俺のやることは、一つだ。
音緒がこちらを見ていた。
窓枠に頬杖を突いて、かすかに笑みを浮かべて。
「丈」
「あ?」
「あの時の約束、覚えてる?」
「どの?」
「あたしがチームに入れてもらう時、丈、言ったじゃん。三つ約束しろって」
「そんなこと言ったか?」
音緒の顔は、苦笑だった。
不満そうな、残念そうな、でもどこか楽しげで、やっぱりね、という顔。
「覚えてない?」
「ああ」
「そっか」
そして、また窓の外を見る。
「下に着いたら、そろそろ帰る?」
空が、紅い。
「腹、減ってるか?」
「減ってる」
「喰って帰ろう」
「うん」
頷いた途端、少女のお腹が、ぐう、と鳴って、彼女は真っ赤になった。
溜め息をつきながら、音緒は机の上の本を閉じた。
『サイバネティクス総論』
分厚い大判の、ハード・カバーである。本棚を端から攻めていこう、と決めて、ようやくその二冊目を読み終えたところだ。何が何やら判らないままに読み進めた箇所もあるので、正確には、目を通し終えた、と言うべきかも知れないが。
それでも、はっきりと判ったことが、一つ。
サイボーグは、決して超人ではないということだ。
その常人を超えた能力と引換えに、様々な不自由とリスクを抱え込むのだ。例えば、足首を焼き切られても部品を交換すれば元通りになる代わりに、補修機材がなければ引《ひ》っ掻《か》き傷ひとつ治すことは出来ないのである。
そんな躯で、丈は闘い続けてきたのだ。
今日も『特訓ルーム』に籠《こ》もっている。
オカマの先生のところから持って帰ってきた武器を、完璧《かんぺき》に使いこなせるように。
次の闘いのために。
ゾーンが全滅したかどうかは、まだ判らない。
だがどちらにせよ、最低、後一回。
あと一回は、丈は必ず闘うことになる。それだけは確実だ。
『奴』が、まだ生きているからだ。
ゴーストが。
彼が何をしようとしていたのか、あるいは何をしようとしているのか、それは今もって不明のままだ。
ゾーンの専門家である丈も、正確無比な計算能力と絶対公正な判断力を持つダリアも、その真意を掴《つか》めずにいる。
音緒の『才能』も、だ。
引っ掛かっていることが、ないわけではない。音緒の記憶の隅っこで、何かが囁《ささや》きかけているのである。だがそれが何なのか思い出せない以上、やはり皆目不明と言わざるを得ないのだった。
椅子《いす》に背をあずけて伸びをする。
そう言えば、冷蔵庫の中身が心細くなってきているはずだ。
買い物に行かなきゃ。
部屋着をジーンズとトレーナーに着替え、ハンガーのダリアに声をかけた。クローゼットみたいな狭い空間に直立不動で立つ彼女を見ると、ああやっぱりアンドロイドなんだ、と実感する。
「何か?」
「丈が出てきたら、買い物に行ってるって伝えといてくれる?」
「了解。発信器は持ってる?」
「うん」
「いいわ。行ってらっしゃい」
「行ってきます」
ハンガーのドアを閉じる時、かすかに、かしゃかしゃという機械音がした。
玄関を出ると、そこはもうエレベーター・ホールだ。マンション最上階のワン・フロア全《すべ》てが、ゾアハンターの『基地』なのだという。
音緒としては『基地』よりも『家』とか『自宅』とか呼びたいところだったが、ともかく、ワン・フロアだけじゃないでしょ、と思っていた。
根拠は二つ。
一つは、建物内で他の住人を見かけたことがないということ。
もう一つは、『特訓ルーム』だ。標的の滑るレールは床と天井に設置されている。天井の方はいいとして、問題は床だ。床から飛び出してくるということは、床下にもそれなりの機械が装置されているということで、つまり『特訓ルーム』の階下には誰も住んでいないということなのだ。それに、緊急地下道路に直結した地下格納庫も問題だ。ひょっとしたら、この建物そのものが、ゾアハンターに対応したものになっているのではないだろうか。
どっちでもいいけど、と音緒は思う。
なぜなら当のゾアハンター本人が、どっちでもいいけどな、と言うからだ。
玄関脇に置いてあるマウンテン・バイクを押して、エレベーターに乗る。例の事件の後日、丈が音緒の家から運んでくれた物だ。結局、身に着けていたもの以外で家から持って来れたのは、これだけだった。
誕生日に、両親に買ってもらった自転車。
お父さんとお母さんが、音緒のために選んで買ってくれた、だいじな自転車。
後は、全て焼けてしまった。
文字通り、全て、だ。
一階で降りて高級ホテルみたいなホールを抜け、裏口から建物を出る。裏口、と言っても、並のマンションの正面玄関くらいの造りだ。少なくとも音緒が住んでいたマンションよりは立派だった。
自転車に乗って、南へ下る。
四方は見上げるのも嫌になってくるほどの高層ビル群だ。『超』をつけてもいい。それでも閉塞《へいそく》感を受けないのは道路が広いからだが、その道路にも、ほとんど車は走っていなかった。
第三副都心と呼ばれた街の、それは成れの果ての姿だ。
およそ計画とは呼べないほどズサンな都市計画の、そのツケを払わされた街。米軍から補給|廠《しょう》の土地を突然に明け渡された行政が、泡を喰ったか嬉《うれ》し過ぎて血迷ったか、そんなところかも知れない。立ち並ぶビルは、その大半が空室のはずだ。何層ものフロアが空になっているビルもあるだろう。
美しい墓標だ……とか言うとカッコイイかな、なんて音緒は考える。
それでも人の出入りが絶えていない以上、経済活動は行われていた。二キロほど走ったビル街の外れに、大型スーパー・マーケットがあるのだ。近隣の住宅地からも、車を使えば、不便と言うほどの距離ではない。三階建ての店内で、およそ日用品程度なら揃《そろ》わないものはなかった。
音緒はいつも、ここで買い物をする。
委員会からは定期的に、ゾアハンターの活動資金が出ているのだそうだ。ダリアが毎月その中から、音緒に生活費を預ける。と言っても家賃や光熱費を払うわけではないので、音緒の管轄は炊事・洗濯・掃除を含めた居住空間の管理だけだ。
月末に生活費が余っていれば、それは音緒がもらってもいいことになっている。
だから月末には、ちょっとだけ本が買えたりもする。
今月は、まだ先の話だけど。
ぎっちり並んで停めてある車の間をすり抜けて、音緒は自転車置場に愛車を停めた。
今夜は何にしよう。
昨日はハンバーグだったから、和食にするか。丈は、毎日ハンバーグでもかまわん、なんて言うけど、そうはいかないでしょ。
考えながら店の方へと歩きだした時、
「買い物か?」
後ろから声をかけられた。
丈の声だ。
やだ、追いかけてきたわけ?
振り返った。
丈だったが、丈ではなかった。
米沢は、使いこなせる者がいなかったのだ、と言った。
当たり前だ、と丈は思う。
こんな物を使いこなそうと思ったら、基礎の基礎から叩き込まなきゃ無理だ。
構造そのものは単純だ。だが単純な分だけ、その効果は扱う者の技量に大きく左右される。素人が手にしたって、棒っ切れをふり回すのと大差ないだろう。
やりやがったな、というのが丈の見解だった。
米沢はもともと、これをゾアスクァッドに使わせる気などなかったのだ。彼はこれを、ゾアハンター・黒川丈のために設計したのだ。
タヌキ野郎め。
そしてそう思うと、なぜか唇が笑みになってしまうのである。
最初に逢った時は、いけすかない野郎だと思っていた。殴ってやりたい気分を押さえるのに努力が必要だった。真相を知った時には、殺してやりたいとさえ思った程だ。
だが、そろそろ認めるべきだろう。
米沢医師は、味方だ。
ずっと以前から。
初めて逢った、その時から。
甲高いブザーの音は、訓練終了の合図だ。
レベルA。
成績は、九四パーセント。
一分間に現れた五〇の標的のうち、三つを打ち漏らしたのである。そのうち二つは、まともに低温レーザーを喰らった。
もうちょいだな。
三つ目のモードをマスターするまでには、である。
これをマスターすれば、残りは二つ。五つのモードを使いこなせれば今後の、少なくとも格闘戦については戦略の幅が大きく拡《ひろ》がるはずだ。
無論、使いこなせれば、の話だが。
だが、今日の訓練はこれで終わりだ。これ以上の負荷は、部品の自己修復機能を越えてしまう。
そう言えば腹が減ったな、と思った。
わずかに残った生体器官と、疑似生体の生命維持装置が栄養の不足を告げているのだ。あくまで注意を促すための疑似的な信号に過ぎないものではあるが、丈の脳がそれを空腹として感じることに違いはない。
今、何時だ?
管理コンピューターにシステム停止を命じてから、廊下に出る。
「音緒」
返事がない。
代わりに、ダリアのハンガーが開く、ぷしゅ、という音。
「ネオは出掛けてるわ」
廊下に出て彼を迎えたアンドロイドは、そう言った。
「出掛けた?」
「ええ。買い物に行く、と伝えるように言われました」
なるほどな。
「スーパーか」
質問ではない。音緒が買い物に行くと言ったら、そこだからだ。
だがダリアの答えは、いいえ、だった。
「スーパーには、いないわ」
「なに?」
「高速で移動中。車に乗っているようね」
「どこだ!」
ダリアの告げた場所は、少なくとも買い物が出来るような場所ではなかった。
どこを走っているのか、皆目判らない。
国道一六号線を横切ったことと、街からどんどん離れていることだけは確かだ。ビルの背が少しずつ低くなってきているし、住宅も少なくない。
でも、ここ、どこよ?
助手席に座らされて、音緒は出来るだけ運転席を見ないようにしていた。
腹が立って仕方なかった。
自分自身に、だ。
出掛ける前、ダリアに伝言した時に、ちゃんと再認識した。なのに、失敗した。頭で判っていながら、彼女が人間ではないということの意味を忘れていたのである。
ダリアは、アンドロイドだ。
機械なのだ。
思わず唇を噛《か》んでしまう。
相手が機械である以上、ちゃんとした指示をしないと意味がない。
しかし音緒は、丈が出てきたら、と言ってしまったのだ。
出てきたら、と。
確かに音緒は、発信器を持っている。彼女のいる場所は、常にダリアが把握してくれているということだ。
しかしそれは、それだけのことでしかないのだ。
例えば、スーパーに行くから他の場所へ移動するとしたら非常事態だよ、とか、自転車以上の速度で移動を開始したら丈に知らせてね、とか頼んでおかなければ意味がない。
ダリアは音緒に言われたとおり、丈が『特訓ルーム』から出てくれば伝言してくれるだろう。でも彼が出てこない限り、ダリアは、音緒が出掛けたままで戻らないことを丈に報告したりはしない。たとえそれが一時間だろうが三日だろうが一週間だろうが一ヶ月だろうが、仮に永遠に戻らなかったとしても。
人間なら、何かおかしいぞ、と思う。
けれど機械は、そもそも『思う』ということをしないのだ。ダリアが、こう思う、という言い方をする時、それは単なるレトリックに過ぎないのである。
ダリアに罪があるわけではない。
そもそも道具は、罪を犯すことが出来ないのだ。
それは常に、道具を使う人間の側にこそある。だから、腹を立てるべき相手は、自分自身だ。
まさか拉致《らち》されるとは思わなかった。
それも真っ昼間、店の前で公然と。
後ろから声をかけられ、逃げる間もなく手首を掴まれた。その体内にはアザエルがうようよしているのだと考えると、怖くて振りほどけなかった。傷でもついたら、もうお終いだからだ。
肩を抱かれるようにして、白い乗用車の助手席に押し込まれた。
強引に連れ去るという行為そのものを別にすれば、しかし男は紳士的だった。走りだす前には、手を伸ばして彼女にシート・ベルトを掛けてもくれた。窮屈だったらシートを下げてもいいぞ、とも言ってくれた。
本物の丈には、そんなふうに言ってもらったことはない。
言って欲しいわけでもなかったが。
「わりぃな、いきなりで」
その顔が笑みを浮かべていることは、見なくても声で判る。
丈が、そうだからだ。
「別に何もしねえから安心してくれや」
「もう、してるわよ」
出来るだけ挑戦的に聞こえるように言ったつもりだったが、ゴーストは腹の底から笑っただけだった。
「ちげぇねえ。いや、ちょっと話を聞いてもらいてぇだけなんだ。話が済んだら、すぐに帰ってくれてイイからよ」
「なら、早く話しなさいよ」
「おう。いや、ちょっと頼みてぇことがあるんだよ」
あたしに?
あんたが?
「ゾアハンターに、伝言してもらいてぇんだ」
「何よ」
ゴーストの次の言葉は、まさにびっくり仰天だった。
「停戦だ」
「停戦?」
「ああ。知ってるか? 奴は仕事をやり終えちまったんだぜ」
え?
「ゾーンは、絶滅した」
思わず、相手の顔を見てしまった。相手も、ちらりと視線を投げてくる。
笑みで。
「うそ」
「嘘じゃねえ。俺が最後の一人さ。ああ、いや、最後の一匹、かな?」
メッセンジャーがこんな奴でなかったら、音緒は相手の首っ玉に抱きついていたかも知れない。
ゾーンが絶滅?
本当に?
それじゃあ……、
「つまり、あんたを始末すれば全て終わりってことなわけ?」
問題は、とゴーストは言った。
「それさ。取り引きしてぇんだよ」
「丈と?」
「そうだ。丈と、だ」
「言いなさいよ」
「見逃して欲しい」
一瞬、音緒は自分の耳を疑った。
それは、あまりにも弱気な発言のように、音緒には思えた。
「もう騒ぎは起こさねえ。だから見逃すように、ゾアハンターに伝えてもらいたい」
「あんた、人、喰うじゃん」
答えは、またしても笑いだ。
だが今度は低く押さえた声で、どこか自嘲《じちょう》的でもあった。
「まあな。こればっかりは本能なんで、どうしようもねえ」
現に今、ゴーストは完璧に回復しているように見える。あの日から今日までに、こいつが喰ったのは、例の少年だけではないはずだ。
「だが約束する、死んでもいいような連中しか、喰わねえからよ」
その言葉が、混乱しっ放しだった音緒の脳天に点火した。
死んでもいいような連中。
「どういう意味、それ」
「あ?」
「死んでもいい連中って、なに、それ。死んでもいい人間なんていないよ。誰だって、生きる権利があるんだよ。誰が死んでもよくて誰が死んじゃいけないかなんて、決める権利は誰にもないんだよ!」
「そいつは間違いだぜ、お嬢ちゃん」
「どこがよ!」
「生きる権利を持ってるのはな、生きてる人間だけだ。ただ死んでないってだけなら、そいつは命の無駄遣いってもんだ」
「判ンないわよ」
こいつ、何を言ってるの?
生きていることと死んでないことと、どう違うのよ。
「お前さん、今ここで俺に殺されたら、嫌か?」
「あッたりめーじゃん」
「なぜだ?」
「死にたくないからよ」
「なぜ」
「まだまだ、やりたいこと一杯あるからよ」
「例えば?」
「なんで、そんなこと言わなきゃなンないのよ、あんたなんかに」
「いいから、言ってみろって」
その口ぶりは、まるでゲームでも楽しんでいるみたいだ。
ぼそぼそと、音緒はそのゲームに参加した。
「一冊でいいから、本、書きたい。ロスに行ってみたい。フォアグラのテリーヌ、もっぺん食べてみたい。遊園地も、もっかい行きたい。やりかけの仕事も途中だ。読みたい本もある。それから……」
「わかった。もういい」
それが、とゴーストは言った。
「生きてるってことだ。きちんと明目を見据えて、そのために一歩ずつ前へ進むのが、つまり、生きてるってことだ」
「だから、なにさ」
「そうじゃない連中は、だから、生きちゃいねえ。死んでないだけだ」
何となく、判った。
こんなこと判りたいとも思わないのに、でも、判ってしまった。
彼は怒ってる。
怒っているんだ。
思い出した。
池袋で、こいつが喰ってしまった女の子達。
勉強もまともにしないで、家にも帰らず、夜の街で男に声をかけられれば喜んでホテルまで付いて行くような少女達。
それを、生きていると言えるのだろうか。
義務も果たさず、権利だけを主張して遊び歩くことが、果して生きていると言えるのだろうか。
「命ってえのはよ、大切なもんだ」
丈と同じ顔。
「だから、俺がもらった」
丈と同じ声。
「無駄に浪費するだけの命、もらって何が悪い?」
丈と同じ記憶。
そうだ。
そうなのだ。
彼の記憶の中にも、あの遊園地があるのだ!
一六年前に、妹と行った、あの遊園地が!!
「停めて」
音緒がそう言ったのは、フェンスで囲まれた広大な更地の前だった。路肩には何十台もの車が、雨ざらしで投棄されている。
「駄目だ」
「いいから停めて。話が終わるまで逃げやしないから」
頭の後ろで両手を組んだ音緒の態度を、彼はどう見たろうか。
余裕か。それとも虚勢か。
指先に神経を集中して、音緒は祈った。
どうか気づかれませんように。
ゴーストは肩をすくめて鼻で笑っただけだった。
路肩に寄せてスクラップ車の隙間《すきま》に停車するなり、先に口を開いたのは音緒の方だ。
「いっこだけ、答えて」
「言ってみな」
「どうやって、あたしのこと見つけたわけ?」
「探したのさ」
エンジンを切って、男はシートの上で身をひねり、こちらを向く。
「だから、どうやって」
匂《にお》いだ、とゴーストは言った。
「お前さんの匂いを覚えてたんでな、跡を追ったのさ」
「そんなの、犬にだって無理だ」
「俺は犬じゃねえからな」
俺はゾーンだからな、と言っているのだ。
嗅覚《きゅうかく》の感度は、鼻孔内部の表面積と嗅覚細胞の密度で決定する。しかもその器官は、必ずしも顔の中央に位置する必要はない。つまり、そういうことだ。
「まあ追跡出来るようになるまでには、何日かかかったがね」
現場に戻った時、音緒の臭跡は途中で途切れていたが、彼はすぐに、特殊なゴムの匂いに気づいた。
シルバーのタイヤだ。
「かなり薄まってたんで、いささか苦労したけどな」
道路に矢印が描《か》かれてるみてぇなもんだ、とゴーストは言った。そして彼は、ついにゾアハンターの『基地』を発見したのである。
だがそれは、攻撃のためではなかった。
「でもなあ、ゾアハンターが相手じゃ話し合いの前に撃たれちまう。あのアンドロイドが出てくる時ゃあ、必ずゾアハンターが一緒だ。てぇわけでな、お前さんに頼もうと決めたわけだ。これでいいか?」
「判った」
「そいつぁ良かった。で? 奴にちゃんと話しといてくれるか?」
それは、
「まだ」
「おやまあ」
そう。
まだだ。
音緒は回転の早い少女だった。
それゆえ、彼女は揺れていた。
人間を喰うというゾーンの行為は、確かに同じ人間である音緒にとって、容認出来るものではない。おそらく杏子《きょうこ》の一件がなければ、そう断じていただろう。
だが杏子は……音緒の親友・関根《せきね》杏子は、初めて音緒と出会ったその時から既にゾーンだったのだ。音緒には、ゾーンと机を並べて勉強し、ゾーンとともに笑い、ゾーンとともに恋を語った経験があるのだ。
無論、それと知らなかったのは、事実だ。
しかし、音緒にとって杏子がかけがえのない友人であったことも、また事実なのだ。
生きているのだ。
ゾーンも同じイキモノなのだ。
そしてその事実は、杏子やゴーストのような知性型の場合、さらに深刻な意味をもって迫ってくるのである。
ゾーンにも、心がある。
生きたい、と願うことの出来る心が。
そして、無駄に生きることを嫌悪する心が。
だから、
「ねえ」
少しでも知りたい。
「あんた、何をやってるわけ?」
「あ?」
「やたら養分を溜め込んで、何をしようとしてるのさ」
丈も、こんな顔をすることがある。
笑っていた顔が、口許だけ笑みのままで、眼だけがマジになる。
「それは」
初めて、ゴーストは口ごもった。ほんの短い間だったが、しかしそこには一瞬の迷いが見えた。
「言えねえ」
「じゃあ、あたしも言わない。あんたに誘拐されたって言いつけてやる」
次の表情は、苦笑だ。
丈と同じ。
出てくる言葉は、まいったなあ、だ。
「そいつは取り引きか、お嬢ちゃん」
「そうよ。隠し事をしてるって判ってる相手の言うことなんか、信じられるわけないじゃん」
「俺が秘密を喋れば、奴に伝えてくれるわけだな」
「伝える。でも、約束は出来ないわよ」
「ほう」
「丈があんたと闘うかどうかは、丈が決めるわ。あたしは、あんたの言うことを伝えるだけ。誰が頼んだって、彼は自分が正しいと思うことしかしないもの」
「そうか」
「そうよ」
判るでしょ?
あんたも、そうなんでしょ?
「じゃあ俺も、ヒントだけやろう」
つまり、こっちが相手の願いを半分しか聞かないのなら、ということだ。
「いいよ」
「杏子は死んでないぜ」
え?
今こいつ、なんてったの?
待って、とダリアが言ったのは、丈がレッドに乗り込もうとした、その時だった。
「電話」
マンション地下の、ゾアハンター専用の格納庫である。レッド、シルバー、ブラックと愛称の付けられた三つの車と、各種武器を詰め込んだコンテナが置かれている。丈はレッドに、ダリアはシルバーに乗り、音緒の救出に向かおうとしていた。
彼女が何か不測の事態に巻き込まれたことだけは確実だ。しかも高速で移動していた信号は、数分前に停止した状態から全く動かなくなってしまったのだ。
とにかく急行しなければ。
それだけを考えて追跡車に乗り込もうとした矢先、丈はダリアに呼び止められたのである。
「相手は!?」
「ネオよ」
音緒が身に着けた発信器からの信号は、三台の車の端末が受信している。それとは別の回線を使って、『基地』で受けた電話がシルバーに転送されてきたのだ。
慌てていたとは言え、丈は己の間抜けさを呪《のろ》いたい気分だった。
そうだ、電話があるじゃねえか。
「こっちへ回せ」
命じて、丈はレッドの運転席に滑り込んだ。ダッシュ・ボードに埋め込まれた通信機のスピーカーが、音緒の声で、もしもし、と言った。
「音緒!」
「あ、丈?」
「無事か!」
「うん、ぜんぜん無事。現状も、何らピンチじゃない」
よし。
「何があった」
「ゴーストに拉致られた」
「なに!?」
「ああ、でも安心して。もう別れた。車に乗せられたけど、ついさっき降りたとこ」
「それは変よ」
ダリアの声が、割って入る。その意味は、丈にもすぐに判った。
目の前のカー・ナヴィのモニターに表示された光点は、再び高速で移動を開始しているのである。
「音緒」
「なに?」
「車を降ろされて、そこから動いてないよな?」
「うん」
「信号が移動してるぞ」
「とーぜん」
音緒の声は、明らかに笑みを浮かべながらのものだ。
それも、かなり得意気な。
「発信器、あいつの車の中だもん」
こン畜生。
上出来だ!!
「とにかく早く来てよ。一人じゃ帰れないさ」
「待ってろ、五分で着く」
ダリアを置いてけ放《ぼ》りにして、丈はアクセルを踏み込んだ。
緊急地下道路のオレンジ色の照明が、流れになって後方へふっ飛んでいった。
円形の安っぽいテーブルとセットで窓辺に置かれた椅子に、ゴーストは身を沈めた。
もうすぐだ。
もうすぐ、望みが叶《かな》う。
ホテルに戻って来て車を降りたところで、突然に、それは起こった。
杏子が『動いた』のだ。
時間ぎりぎり。滑り込みで間に合ったということだ。
カウンターでキーを受け取り、エレベーターに乗る頃には、さらに『動き』は活発になっていた。蓄えていたものが、恐ろしいほどの勢いで吸収されてゆくのが判るのだ。
別の生命と『重なる』ことが苦痛を伴う行為であることは、彼も事前に予測していた。
しかし実際のところ、それは予測の範囲をはるかに超えていたのだ。
どれだけ喰らい、どれだけ蓄えても、すぐに底を突いた。取り込んだ養分を分子にまで分解して高密度に圧縮する苦痛に耐え、それでもなお捕食を続けたが、消費に追いつくのが精一杯だった。
だがそれも、もうすぐ終わる。
また杏子に逢える。
そうすれば音緒に言ったように、身を隠すつもりだった。
仲間を増やす必要もない。
杏子さえいれば。
牽制《けんせい》は、済ませた。隠れ家まで見つかっていることを知れば、ゾアハンターも慎重になるだろう。
そして慎重な行動には、時間がかかる。
その間に、ゴーストは全てを終えるつもりだった。
地上から消えるのだ。文字通り、幽霊のように。
「お前の勝ちだ、ゾアハンター」
ゾーンは絶滅する。
たった二人を残して。
「いや」
天井を見上げて、ゴーストは眼を閉じた。
「二匹、だな」
そう呟いた瞬間、それは始まった。
レッドを走らせながら、丈は音緒からの報告を信じられない思いで聞いていた。
停戦の申し出。
そして、『奴』が最後のゾーンであるということ。
その言葉に嘘はないだろう、と丈は思う。
『奴』が俺と同じ精神を持っているなら、こんな嘘は、つけない。
だが、問題が一つある。
嘘をつくことと黙っていることとは、違うのだ。
カー・ナヴィのモニター上では、光点が停止していた。
音緒ではない。
『奴』だ。
音緒がいるのは、その前の数分間の停止状態があった、その地点のはずだ。
米軍|相模原《さがみはら》住宅の跡地である。返還以来、十年以上も更地のまま放置されていて、生い茂る雑草は大人の背丈よりも高い。周辺を走る車もほとんどなく、路肩には不法投棄された車が列を作っている。
丈の思ったとおりだった。一列に並んだスクラップ車の前で、レッドを見つけた少女が飛び上がって手を振っている。
その真正面に停車した。
ドアを引っぺがす勢いで乗り込んできた少女は、そのまま身を投げ出すようにして丈の首っ玉にしがみついた。
「お、おい」
あわてて抱き止める彼の腕の中で、音緒の肩が震えている。
その細い肩を包むように腕を回しかけた途端、音緒は跳ねるように顔を上げた。
「丈!」
きん、と脳天に響く声は、まだ気持ちが昂《たかぶ》っている証拠だ。
「どうしよう、最後の一匹だ!!」
ゴーストは彼女に、そう言ったのだ。
「ああ」
丈自身の希望を度外視しても、その言葉は真実のように思える。
たとえゴーストが『基地』の所在を知ったとしても、ゾアハントの頻度が極端に落ちて事実上ゼロに近くなっていることまで、奴が知っているとは思えないからだ。もしも何かの策略であるにしては、タイミングが良すぎるのだ。
しかし問題は、骨格が鋼鉄のようになるほど高密度に圧縮された、奴の肉体だ。
奴が何を企《たくら》んでいるのか判らない以上、最後の一匹であるという言葉も、頭から信用することは出来ないのである。
だから、そう言った。
対する音緒の言葉は、
「ヒント、もらった」
「なに?」
「ヒント。あたし、あいつの言葉は伝えるだけ伝えるけど、丈を止めたりはしないって言ってやったの。そしたら、じゃあこっちもヒントだけやる、って」
なるほどな、と丈は思う。フィフティ・フィフティということか。
だが相手は、こちらのオツムの程度を低く見積もりすぎていたようだ。
「杏子は死んでないって」
なんだと?
「関根杏子か?」
頷く音緒は、真っ直ぐに見つめる丈から、ほんの少しだけ視線を外している。
関根杏子。
音緒の親友だった少女だ。
ゾーンだった。
だから、殺した。
丈が。音緒の見ている前で、だ。
「ダリア」
通信機は、オープンになっている。
「はい」
そろそろ追いついて来るはずのシルバーから、ダリアが応えた。
「聞いてたな?」
「ええ。そういうことだったのね」
「どゆこと?」
きょとんとした顔で、音緒の視線は丈の顔へと戻ってきていた。
「ゴーストはね」
ダリアが音緒に話しかける時、その声が丈に対するそれと微妙に異なることに、彼は気づいていた。姉が妹に語りかけるような、そんな柔らかさがあるのだ。
「杏子さんを生き返らせようとしているのよ」
「死んでないって言ってたよ」
「そうね。それは、おそらく生物学的によ。例えば胎児は母親の胎内で生きているけど、それを確立した人間と見るかどうかは、微妙なところでしょ? それと同じじゃないかしら」
いきなり少女が、あっ、と声をあげた。
「判った!」
「なに?」
「思い出した。ダリアと丈が話してて、それ聞いてて、なんか聞いたことがあるって言ったじゃん、あたし」
「ええ」
「思い出した。隣のお姐《ねえ》ちゃんだ」
音緒のマンションの隣の部屋に住んでいた、当時大学生の女性のことだという。小学生だった音緒は、彼女を実の姉のように慕っていた。
やがて彼女は、同じ大学の先輩と結婚し、隣家を出ていった。
「すッげえショックだったけど、しばらくしたらウチに遊びに来てくれたさ。半年くらい経ってたと思うけど。そン時、お腹、大きかったんだ」
そして、彼女は言ったのだ。
体重が二人分だから躯が重い、と。
二人分食べなきゃならないので大変、と。
「それだったンだ、あたしがずっと引っ掛かってたの!」
「なんてこった。それじゃあ」
丈の呻《うめ》きを拾ったのは、ダリアだった。
「おそらく、正解よ。ゴーストは……」
それは、おぞましい想像ではあったが。
「……関根杏子を産もうとしているのよ」
恋人を。
米沢賢太郎が、直接に手を下さなければならない状況ではなくなっている。
だが、彼が責任者の一人であることに変わりはない。
だから、報告が入ったのだ。
それも、決定とほぼ同時に。
なんということだ。
だが考えてみれば、想定してしかるべきことではあったのだ。
ネットワーク上におけるゾアハンターのシステムは、脳内に存在する記憶の有り様に似ている。彼が、そのように設計したのだ。
一つの事象に対する記憶は、脳内に一つの塊として保存されているのではなく、微小な構成要素に分解され、脳の中に散らばって存在している。例えば会話についての記憶ならば、その声、言葉の内容、さらにそれによって喚起されるイメージなどが、それぞれ別々の部位にプールされているのである。そういった構成要素の、言わば組み合わせのパターンこそが、つまり記憶と呼ばれるものの正体だ。
同様に、ゾアハンター・システムとでも呼ぶべき構造そのものは、この世のどこにも存在しない。それは全世界のネットワークの中に分散して存在しているのだ。ゾアハンター・システムはネットワークの一部でありながら、同時にネット・ワークそのものがゾアハンター・システムの一部なのである。そのシステムに外部から『侵入』することは、理論的に不可能なのだ。
だが、個々の端末そのものは、話が別だ。
他人の思考を覗くことは不可能だが、その思考によって発せられる言語を耳にすることは可能であるのと同じなのだ。米沢の端末に送られてくる情報を、その端末を施設の一部としているゾーン対策委員会が把握することは、決して不可能ではないのである。それはゾアハンター・システムに侵入するのとは、全く別のことだからだ。
まさか、とは思った。
だが、事実だ。
それは確実に、彼のミスだった。
だから、責任をとる必要がある。
たとえその結果、自分の身がどうなろうともだ。
端末のキーボードを叩き、ゾアハンター『基地』の中枢を経由してダリアの脳へとジャンプする。このルートなら、もし米沢の行為が露顕しても、それを阻止するのに数十秒は時間が稼げるはずだ。
「黒川くん!」
人工知能の言語中枢にアクセスした米沢は、端末の音声入力端子に向かって叫んだ。
「黒川くん! 僕だ! 米沢だ!!」
手近の無線機か、あるいはダリアそのものが、彼の声で喋っているはずだ。
ほんの数秒のブランクの後、
「おう、びっくりした。あんたか」
黒川丈の声が応えた。
「黒川くん、大事なことだから、よく聞いて!」
「なんだよ、いきなり。こっちは今……」
何か言いかける丈を、米沢は遮った。
「いいから! そっちの会話は委員会に筒抜けだ! 無線の通話も、僕のところに送られてくるデータも、何もかも委員会に漏れてる!」
「なに?」
当然、この会話もだ。
それでも構わない、と米沢は思った。
後は、どうとでもなればいい。責任を取れと言うなら、取ってやろう。
だが、これだけは言う。
言わなければならない。
「スクァッドが出る!!」
こめかみが、強烈に痛んだ。
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第四章 トループス
オカマの米沢先生の言葉に、丈がダッシュ・ボードのマイクに顔を寄せた。
「スクァッド? ゾアスクァッドが出るって言ったか!?」
その声は、固く鋭い。
「そうだ!」
応《こた》える米沢医師も、あの独特の粘っこい喋《しゃべ》り方ではなかった。
「今、出動命令が出た。三〇分もすれば現場に」
そこで、切れた。
「おい! 米沢! おっさん!!」
「回線が切られました。通話不能です」
ダリアだ。
「うるせえ、判《わか》ってる!!」
丈の悪い癖だ、と音緒は思う。そんな丈の腕に、音緒は手を添えた。それから、首を振って見せる。
駄目だよ、怒鳴っちゃ。
丈が溜《た》め息をつく。それは自分自身に、だ。
「ダリア」
「はい」
「怒鳴って悪かったな」
「いいえ。到着しました」
振り返るとリア・ウィンドごしに、銀色のバンが見えた。
丈に続いて、音緒もレッドを降りる。
シルバーの方へと歩いて行く丈の背中を見ながら、音緒は思った。
どうするんだろう。
オカマの先生は、ゾアスクァッドが出る、と言った。
こっちの情報が委員会に漏れている、とも言った。
つまり委員会は、ゴーストが最後の一匹かも知れないことも知っているし、音緒の発信器がゴーストにくっついてることも知っているということだ。
ゾアスクァッドは、ゴーストを殺すために出動したのだ。
それなら。
丈、あなた、どうする気なの?
丈はシルバーの助手席ではなく、後部ドアを開けて乗り込んだ。音緒もそれに続く。そこには、安次嶺美咲から黒川丈へのプレゼントが待っていた。
黒いモノサイクル。
4WD車に使うような大きなタイヤの上に、オートバイのそれに酷似したカウリングが直接、載っている。ハンドルは無く、全《すべ》ての運転装置はホイール中央から突き出たフット・レスト周辺に集中している。加速・減速からシフト、クラッチまで、一式だ。
何も言わずに、丈がシートに跨《また》がる。
音緒はラックから丈のヘルメットを取って、差し出した。
「音緒」
受け取りながら。
「はい」
「お前は、ダリアと一緒にシルバーで来い」
帰れ、ではない。
来い、だ。
つまり、
「行くの?」
「ああ」
「ゴーストと闘うの?」
だがその問いへの答えは、いいや、だった。
「そいつは、ちゃんと頭を冷やして、よく考えてからだ」
ヘルメットを被《かぶ》り、ともかく今は、と丈は言った。
「ゾアスクァッドを止める」
ゾアスクァッドを止める。
それが、彼の決断。
丈が手を伸ばして、スピード・メーターとタコ・メーターの間にある点火スイッチを入れると、振動とともにエンジンが始動する。同時に、ダリアが操作したのだろう、モノサイクルを固定していたワイヤが小さな火花とともに全て外れ、突然の音に少女は身を縮めて後ろへ退《さ》がった。
振り返った丈の声は、ヘルメットのシールドごしに。
「ちゃんと、おニューに着替えとけよ」
音緒の応えを聞かずに、黒いマシンはタイヤを鳴らして後部ドアから飛び出した。路面にタイヤの跡を残して、みるみる小さくなり、すぐに見えなくなった。
後部ドアが閉じても、音緒はまだ返事が出来ずに呆然《ぼうぜん》としていた。
おニューに着替えとけって?
それって、そういうことよね?
「5番ラックのところにあるわ」
振り返らずに言って、ダリアはシルバーを発進させる。
音緒は、機関銃だの拳銃《けんじゅう》のスペアだの弾薬だのミサイル・ランチャーだのが並んだラックを探した。
『5』の表示。
ダリアの言うとおり、そこにはあの薄い紫色のパーティ・ドレスが下げられていた。
背中には『NEO』の文字。
パワー・アシストを内蔵した、外骨格タイプの防護服。
服を脱ぐ。
下着まで、全部だ。運転席の窓から外の景色が見えていて、ということは外から中も見えるということだが、音緒は気にしなかった。
揺れる車内で、いくらか苦労しながらアンダー・スーツを着込む。躯《からだ》に密着する薄いポリマー製で、パワー・アシストの作動とフィードバックのための端子が各関節に埋め込まれたやつだ。端子が冷たくて、背筋が緊張した。
それから防護服を身に着けた。股《また》の間から首筋まである二重構造のファスナーを閉じると、全部の関節で一斉に、かすかなハム音が聞こえた。
ブーツを履いて、準備完了。
手袋とヘルメットを手に、音緒は助手席に滑り込んだ。五体が軽くなったように感じるのは、パワー・アシストが正常に作動している証拠だった。関節部に埋設された超小型で高出力のモーターが、装着者の運動量の五〇パーセントを負担するのである。単純計算で通常の二倍の筋力を得ることになるのだ。
「どのくらいで追いつく?」
相手はモノサイクルだ。レース仕様なのでスピードが出る上に、機動性は自分の脚で走っているくらい自由が利くのである。
「予定では二七分。丈の方が一五分ほど先に着く計算よ」
それから、
「ネオ」
「なに?」
「力を持つ者には、常に責任がつきまとうわ。それを、忘れないでね」
確かに、唐突な言葉ではあった。
けれど音緒は、なぜダリアが今そう言うのかが、判った気がした。
だから、
「うん」
頷《うなず》く。
そうだ。
あたしは今、力を身に着けている。
あたしが欲しかった力。
美咲さんが望んで、けれどついに手に入れられなかった力。
だから、責任は果たす。
どんなことが待っているのかは判らないけど、でも何があっても責任だけは果たす。
きっと。
絶対に。
一六号線を南下し、下鶴間《しもつるま》を通って町田へ抜ける。交通量が増えてきているが、黒いマシンは車の流れを縫うように驀進《ばくしん》した。
最悪だな、と丈は思う。
少なくとも彼が想定し得る限り最悪の事態へと、状況は進んでいるように思えた。
実際のところゾアスクァッドと呼ばれる集団の実態については、正確に把握しているわけではない。だが、理論上という言葉を添えなければならないような武器を手に、人間や近代兵器が相手の場合だけを想定した戦闘技術を携えた集団が、ゴーストと対峙《たいじ》すればどうなるかくらいは、容易に想像がついた。
皆殺しだ。
相手はただのゾーンではないのだ。
人間の記憶と人間の意識を持ちながらゾーンの肉体を備え、しかもアザエルに対する充分な知識があり、それを使いこなしてさえいる。肉体の変質を周囲の環境に任せて本能だけで襲いかかるタイプではない。奴は、自らの肉体を意識的に武器へと進化させることさえ出来るのだ。
しかも。
奴は杏子を護《まも》ろうとしている。
ダリアの言うとおりゴーストが関根杏子を再生しようとしているのなら、それで全ての説明がつくのだ。
あの奇妙な肉体の変化だけではない。生体レーザーなどという無謀な攻撃を仕掛けてきたことも、池袋の街を火の海にしてまで逃走の確実性を得ようとしたことも、そしてゾアハンターに……黒川丈に停戦を申し入れてきた理由も、全ての説明が、だ。
奴は、杏子を護ろうとしている。
そのために、我が身を削り、プライドを捨てて、それでも護ろうとしている。
もしも、そこまでして護ろうとする者を傷つける相手が現れたなら……。
「そのまま直進」
ダリアの声が、ヘルメットに内蔵された無線機に届く。
「次の交差点で右折すると、左手に見えてくるわ」
「おっしゃ! 何分|経《た》った!?」
「一二分四三秒」
つまり米沢が予告したゾアスクァッドの到着時刻まで、残り一五分ほどだ。
連中が来る前にゴーストの奴を逃がす、それが彼の決断だった。
それが無理なら、何とか新兵どもを足止めしなければならない。どちらにせよ、両者が鉢合わせすることだけは避けなければならなかった。
出会えば、そこが地獄になる。
信号を無視して交差点を曲がると、ダリアの言ったとおり、ホテルが見えてきた。例によって、ビジネス・ホテルだ。
駐車場の前で、モノサイクルを停《と》める。強化スモーク・グラス製のアイパッチの奥で、右目を電磁波感知に切り換えた。白い乗用車の中に、鮮やかな黄色があった。
音緒の発信器だ。
連中は、これを目指してやって来るのだ。
丈はモノサイクルのまま、ホテルの玄関ドアをぶち破った。途端に警報機が鳴り、カウンターから男が飛び出してきた。
「あ、あんた!」
何か言いかけたその首筋の蝶《ちょう》ネクタイに向かって、モノサイクルに跨がったまま右腕を伸ばす。
次の瞬間、丈の右腕が展開した。
袖《そで》をまくった腕の肘《ひじ》から先が、放射状に開いたのである。中から飛び出してくるのは、多関節構造の細いスライド・アームに固定された、幾つもの鋼鉄だ。それは丈の掌《てのひら》の中で一瞬にして組み立てられ、黒光りする大型|拳銃《けんじゅう》になった。再び腕の外装が閉じて生身の腕と見分けがつかなくなるまで、時間にしてわずかコンマ五秒に過ぎない。
黙れ、と丈は声を低めた。
円筒形のシリンダーがフレームの右側に突出した、特異な形状のリボルバーである。左側面に内蔵されたバッテリーが、発射の瞬間、電子ブレットに充電する仕組みなのだ。その銃口を真《ま》っ直《す》ぐカウンター係に向けて、丈は言った。
「俺と同じ顔の男が泊まってるだろう。ルーム・ナンバーを言え」
カウンター係は生存本能に従って、宿泊客のプライバシー優先というホテルマンの基本を忘れた。
「警報機は、警察に直結か?」
男は、正直にも首を横に振る。
結構だ。
誰にも触らせるな、と言いつけて、丈はモノサイクルを降りた。
「触ると爆発するぜ」
嘘《うそ》だ。だがカウンター係は、かくかくと頷いた。
エレベーターに乗る。
部屋は八階、廊下の手前から三つ目だ。
ドアをノックした。
応えたのは、咆哮《ほうこう》だった。
膝《ひざ》に置いたヘルメットを撫《な》でながら、音緒は真っ直ぐに前を見つめていた。
「後どのくらい?」
ドアのハンドルを掴《つか》んで、急力ーブに耐える。ダリアが丈の通信に、一二分四三秒、と応えてから、もう随分と経っていた。
無論ダリアは、例の目茶苦茶な運転だ。信号を無視し、進入禁止だろうが一時停止だろうがお構いなし。でもマイクロ・バスほどもある大型のバンは、思うように目的地に近づいてくれなかった。カー・ナヴィの地図上で点滅する光の点が、一向に近づいて来ないのだ。音緒には、ダリアが意図的に最短コースを避けているようにさえ思えてきた。
音緒の質問に対するダリアの応えは、
「うまくいけば六分を切るわ」
どうやって?
まだ、こんなに離れてるのに?
角を曲がる。
ダリアが何を考えていたのかが、ようやく判った。
目の前に、一直線の道路があった。
相模原バイパスだ。第三副都心を中核とした新都市計画が遺《のこ》した物の、これもその一つだった。旧横浜新道と直角に交差する恰好《かっこう》で、横浜市中区から相模原を抜けて八王子まで、ほぼ一直線に貫いている。
主要幹線道路となるはずだった片側三車線の道路である。
だが今となっては、無駄に広いだけの、ただの『道』だ。その両側には、寂れた雑居ビルや商店が、心細げに並んでいるだけだ。
何の障害物もなく、とにかく一直線に見通せる。バンの車高が高いせいもあるが、何よりも交通量が極端に少ないのだ。ダリアは距離的な最短コースではなく、時間的な最短コースを狙《ねら》っていたのである。
だが、
「え? なんで?」
ダリアは速度を落とし、バンを路肩に寄せてしまった。
目の前の信号は、青なのに。
すぐ脇を、軽自動車が追い抜いていった。
「ダリア、急がないと!」
「いいのよ」
動かない。
歩行者用の青信号が、点滅を始める。車道側も、すぐに黄色に変わるだろう。
動かない。
「ダリアってば!」
「待って」
動かない。
「もおッ! なに」
考えてンのよ、と言いかけたその時、シルバーがウィンカーも出さずに路肩を飛び出した。突然の加速に、音緒は背中をシートに押しつけられた。信号が黄色に変わる寸前に、交差点を突き抜けた。
次の信号が、みるみる迫ってくる。
赤だ。停止線に、さっきの軽自動車が停まっている。
だがシルバーは、今度は減速しないどころか速度をあげてゆくのだ。
「ダリア! 赤、赤! 信号、赤!!」
「大丈夫」
大丈夫だった。さらに加速してゆくシルバーが停止線を越える、まさにその瞬間、目の前の信号が青に変わった。軽自動車が、バック・ミラーの中でみるみる小さくなる。赤信号で停止していた分だけ、出足が遅いのだ。
「このタイミングで時速七三キロをキープすれば、目的地までの信号は全て青よ」
音緒は、シートに崩れた。
そうならそうと、早く言えってば。
でも、と音緒は思った。
オカマの先生の読みが間違っていなければ、多分ゾアスクァッドよりも先に現場に着けるだろう。
奇妙な音が聞こえたのは、その時だった。
声にならない絶叫のような、かすれた音が頭上で響いたのである。
助手席の窓を開けて空を見上げた音緒は、そこに、編隊を見た。
ヘリコプターだ。
三機。
どれも角張った縦長で、両脇に短い翼のような物が突き出した奇妙な恰好だ。かなり大きくて、胴体は長方形のコンテナみたいに見える。
しかも、速い。まるでジェット機みたいに、シルバーを追い越して飛んでゆくのだ。
同じ方向へ。
「ジョウ」
ダリアは、いつもの優しい声音のままだった。
「おう!」
「ゾアスクァッドの物らしきジェット・ヘリを確認。三機編隊。そちらへの推定到着時刻まで四分弱。人員展開は五〇秒以内に完了と思われます」
丈の応えは、短く一言。
判った。
ドアを蹴破《けやぶ》った丈は、事態の進行が彼の予想をはるかに超えていたことを知った。
ゴーストが、吠《ほ》えている。
部屋の奥、突き当たりの窓際で、丸いテーブルとセットになった椅子《いす》の上で痙攣《けいれん》しているのである。身を反らせ、大きく口を開いて。
眼《め》だけが、ぐるり、と動いてこちらを見た。
咆哮が途絶え、
「来やがったか」
その声は、腹の底から絞り出すようだ。
ご自慢の白いスーツは上着をベッドの上に投げ出したままで、シャツはボタンが飛んでしまっている。
開かれた胸の中央が、異様に盛り上がっていた。
瘤《こぶ》だ。
子供用のゴム毬《まり》ほどの大きさに、肉が内側から盛り上がっているのである。
表面に、ぶつぶつと毛が生え始めている。それは見る間に伸びて、長い髪になった。
墨を流したような艶《つや》やかな黒髪が、もがき、くねりながら、ゴーストの胸から出て来ようとしているのである。
瘤は、さらに伸び続けた。二つの裂け目が現れ、開くと、それは二つの眼になった。眼の間が隆起して、鼻梁《びりょう》になった。その下に生じたもう一つの裂け目は、偏平な真珠のような歯を揃《そろ》えた、口だ。
頭だ。
人間の、頭部だ。
その顔には、見覚えがあった。
白い肌、流れる黒髪、愛くるしい瞳《ひとみ》……。
「なんてこった」
丈は、思わず呻《うめ》いた。
関根杏子だ。
ゴーストは、自分の躯で関根杏子を育てていた。だがそれは、丈が想像していたようなやり方ではなかった。
胎児のように腹に抱えていたわけではない。
『重なって』いたのだ。
二つの映像をオーバーラップで重ねるように、あるいは3DでモデリングされたCGデータを重ねるように、自身の体組織に杏子の体組織を滑り込ませて、二つの肉体を分子レベルで共有していたのである。
あの時と同じだ。
まだゴーストと名乗る以前の彼が、ゾーン01の巨体と融合し、その構成物質を奪って再生を遂げた、あの時と。
華奢《きゃしゃ》な首筋が、仰《の》け反るように伸びた。
ゴーストが、身を強張《こわば》らせた。
細い腕が一本、肘から先に現れた。華奢な指が空を掴む。さらに反対側からも、もう一本。両方の腕が、ぐい、と伸び上がると、二つの乳房が揺れた。
裸の女の上半身が、ゴーストの胸から、にょっきりと生えていた。塑像《そぞう》家が粘土の塊から裸像をひねり出すように、杏子の腿《もも》が、膝が、脛《すね》が、ゴーストの肉体から分離してくるのである。
剥《む》き出しになったゴーストの胸に、肋《あばら》の輪郭が浮いた。頬《ほお》がおちくぼみ、手の甲に筋が浮き彫りになった。
彼が音緒に接触したのは、このためだ。
杏子が分離する際、ゴーストは大量の構成物質を奪われる。もしその時、間近に敵がいても、彼には杏子を護る術《すべ》がない。彼は音緒に情報を流すことで、ゾアハンターの動きを牽制《けんせい》し、時間をかせこうとしていたのだ。
そして今、事態は彼の恐れていたとおりになっている。
彼が考えたのとは、別の意味で。
「ジョウ」
手にしたヘルメットからダリアが声をかけてきた。
「おう!」
「ゾアスクァッドのものらしきジェット・ヘリを確認」
来やがった。
予定より、随分と早いじゃねえかよ。
「三機編隊。そちらへの推定到着時刻まで四分弱。人員展開は五〇秒以内に完了と思われます」
「判った」
猶予時間は、合計五分弱。
丈はヘルメットを脱いで、通信機のスイッチを切った。
太腿《だいたい》部の中程辺りまで現れた関根杏子の裸身が、背後に反ってゆく。蝶の羽化に似ている。見た目にも、そして本質的にも。
骨と皮ばかりになったゴーストの腕が、背後から抱き止めた。膝を抱える胎児のように杏子の腿が上がり、桜貝のような爪《つめ》をつけた彼女の足が、ゴーストの肉体から、ずるり、と抜け出た。
それで終わりだった。
半病人のような男に抱かれて、瑞々《みずみず》しいばかりの少女の裸体が、そこには、あった。
「杏子……」
干からびた唇で、幽霊と名乗る男が囁《ささや》く。
少女は瞼《まぶた》を開き、そして自分を抱きしめる男に気づいて、
「丈!」
その折れそうな首を抱きしめた。
なんてこった。
記憶があるのだ!
杏子の『オリジナル』は、頭部を破壊されて死んだ。たとえその遺伝子を何らかの形で取り込むことが出来たとしても、記憶まで再生することは不可能だ。
無論、杏子の分身が『オリジナル』の記憶をコピーしていた可能性は、ある。マンションの地下にいた『子供たち』はともかく、融合体となった方の分身は、その可能性が高いだろう。しかし、その脳が死滅する前にゴーストが杏子の記憶をコピーすることは、どう考えても時間的に不可能だったはずだ。
ならば、残る可能性は一つしかない。
関根杏子は『死』の瞬間、自らの記憶を、脳から別の器官に移したのだ。
かつてゴーストが、そうしたのと同じように。
意図的に行うことが可能なのだ!
アザエルに冒されてゾーン化した丈の四肢が彼の記憶を写し取ったのは、偶然の出来事だった。自らの存続を模索したアザエルが、結果的に発生させた現象だった。
だが、関根杏子の場合は、違う。
必然なのだ!
ゴーストは解明したのだ。
肉体だけではなく、記憶を……人格を保存し、再生する方法を。
不死だ。
それは不死の理論だ!
もしそうなら。
人間がゾーンと共存してゆくことは、可能なのではないか? 喰う者と喰われる者としてではなく、本能の支配と恐怖の束縛を断ち切って、共にその存在を尊重し合って生きてゆくことは可能なのではないか?
ああ。
美咲。
俺とお前が見つけられなかった答えが、今、ここにある!!
ゴーストは関根杏子を胸に抱いたまま、
「よくここが判ったな」
今にも死にそうな、しかし満足げな笑みを浮かべる。
やっと気づいたのか、杏子が怯《おび》えたような視線を、こちらに投げつけた。
「音緒が、おめぇの車に発信器を仕掛けた」
ゴーストが、ああ、と目玉だけを天井に向ける。
「あの時か。やるなあ。頭の後ろで手え組んで、なんか似合わねえポーズだとは思ったんだがな」
その時にネックレスの留め金を外して、相手の隙《すき》を見てシートの隙間にでも突っ込んだのだ。おそらく、車を降ろされる時だろう。
「時間稼ぎのつもりが、裏目に出たか」
ゴーストが苦笑する。
同じ顔が、互いに視線を交わした。
「そういうことだな」
「じゃあ、やるか?」
応えたのは、丈ではなかった。
「駄目!」
杏子だ。
ゴーストの腕を抜け出し、両腕を広げて二人の間に立ちはだかったのである。
「丈を傷つけるつもりなら、私がお前を殺してやる!」
彼女が『丈』と呼ぶのは、丈のことではない。
ゴーストの方だ。
彼女にとって、ゴーストこそが本物の『黒川丈』であり、ゾアハンター・黒川丈は彼を殺そうと付け狙う殺し屋なのだ。
丈は苦笑を浮かべた。
ああ、そうだろうとも。
この対立は、もともと、そういうものだ。
「ゴースト」
おう、と応えるその不敵な笑みは、きっと同じ立場なら丈も浮かべたはずのものだ。
本当ならば、と丈は思う。
ゾアスクァッドが到着するより前に、この二人を始末してしまえばいい。そうすれば余計な犠牲者を出さずに済むし、何より、全てのゾーンは地上から消えるのだ。
ほんの一時間前なら、丈も、容赦なく二人に銃を向けただろう。
だが、今は違う。
「一つ、教えろや」
丈の言葉に、同じ顔が応える。
「言ってみろ」
「なぜ、そうまでして、その子にこだわる」
答えは苦笑とともに返ってきた。丈にはそれが、自嘲《じちょう》に見えた。
「おめぇは、知ってるはずだぜ」
それは、全ての答えだった。
「ひびきのことか」
「ああ。おめぇと同じだ」
「判った」
少なくとも今は。
「立て」
「おう、やるか」
言いながら、ゆらり、と立ち上がる。あわてて杏子がその躯を支え、こちらを睨《にら》み付ける。
そんな杏子に、丈は笑みを見せた。
「いや、やらねえ」
今は、その時ではない。
「逃げろ」
「ああ?」
「おめぇを殺しに、ゾアスクァッドが来る。委員会が組織した、最新装備のゾーン討伐隊だ」
ゴーストの反応は、あからさまに嘲笑的ではあったが、結局のところ丈と同じものだった。ひとしきり腹の底から笑いを絞り出した後、少女に支えられて咳《せ》き込みながら、幽霊は言った。
「皆殺しだ」
「その子を護るためなら、か」
ゴーストが、目を細める。
だが口許《くちもと》は、笑みだ。
「そうだ。もう二度と、殺させない」
「そう言うだろうと思ったぜ」
近づくと、杏子が身構える。その細い肩を、後ろからゴーストが抑えた。
「やめろ杏子。こいつは、嘘は言ってねえ」
丈と同じ顔が、真っ直ぐに彼を見つめていた。
「理由は判らんがな」
今度は、丈が答える番だった。
「おめぇとは一度、ゆっくり話し合わなきゃならんからだ。おめぇらを始末するかどうかは、その後で決める」
「借りが出来るってわけか」
「違う。俺が借りを返すんだ」
ゴーストは、ふん、と鼻を鳴らした。
思い出したようだ。
マンションの倒壊に巻き込まれた丈が死を覚悟した時、その手を掴んだ者がいたのだ。
ゴーストはそれを認めなかったが、しかし、
「これで貸し借りナシだぜ」
その言葉は、ついに認めたも同然だ。
喘息《ぜんそく》持ちの金切り声を思わせる排気音が聞こえてきたのは、その時だった。
丈との無線は、通じなくなっている。彼が、判った、と応えた直後からだ。
その意味が、音緒にはよく判った。
彼がしようとしていることを、無線でこちらに報告すれば、それは委員会に漏れる。ゾアスクァッドにも知られてしまう。丈がヘルメットのピック・アップを切ったのは、だからゴーストとの会話の内容を遮断するために違いない。
だとしたら。
彼のしようとしていることは、一つしかない。
でも、なぜ?
あいつはゾーンだ。
人を喰うバケモノだ。
杏子をゾーンにしてしまったのも、音緒の両親をゾーンにしてしまったのも、奴だ。そのせいで丈は、杏子を殺さなければならなかったのだし、音緒の両親を殺さなければならなかった。それだけじゃない、杏子のマンションの人達も、学校の友達や先生も、あいつがゾーンにしてしまったのだ。
ゴーストは音緒の、言わば仇《かたき》だ。
それでも丈は、奴を助けようとしているのだ。
けれど、音緒にも判ることが、一つだけあった。
ゴーストもまた、護ろうとしている。
杏子を。
だから、と音緒は思う。
あたしも、あんたを助けたげる。
あんたが杏子を護るつもりなら。
ホテルの前へ出てその光景を見上げた丈は、思わず喉《のど》の奥で、
「はっ」
乾いた笑い声をたててしまった。
まるで空挺《くうてい》部隊だ。
ホテル正面の上空に、三機のジェット・ヘリが滞空している。長方形のコンテナを抱え込んだ、大型の輸送機だ。そのうちの一機から左右の路面に向かって、高さ一メートルほどのパイロンが四つずつ、合計八つ打ち込まれた。
赤い円錐《えんすい》形で、底面のスパイクがアスファルトに食い込んで固定されると同時に、点滅を始める。通行止めだ。ちょうどホテル前に差しかかろうとしていた車が何台か、急ブレーキで停車した。クラクションを鳴らす者はなかった。誰もが顔を出して、呆気《あっけ》にとられた顔でヘリを見上げている。
そしてパイロンを打ち込んだヘリのコンテナが開き、武装した隊員達が降下して来たのである。
ゾアスクァッド。
その装備を見て、丈はつまり、笑ってしまったのだった。
ごつい。
両肩が装甲に盛り上がり、首は半分ほど埋まっている。ヘルメットの下に顔は見えず、競泳用のゴーグルみたいなレンズが二つ並んでいた。腕は丈の太股《ふともも》ほどもあり、不器用そうな分厚い手袋で大柄な突撃銃を抱えている。両脚は比較的自由そうに見えたが、それでも正座どころか中腰になるのさえ苦労しそうな装甲に覆われていた。強化プラスチック製のゴリラ、といった趣で、防護服と言うよりも強化服に近いようだ。
そんな連中が、胸と背中から高圧ガスを噴射しながら、十数人ほども降りて来る。通行人や、パイロンに行く手を阻まれたドライバー達が見上げる中を、である。
他の二機にも同じくらい乗っているとすれば、総勢で五〇人にはなる計算だ。
ホテルの建物を背にする恰好で、丈はたちまち半円形に包囲された。
「うへぇ、怖《こ》ええ、怖ええ」
ヒーロー・インタヴューのマイクみたいに突きつけられた何十本もの銃身に、丈はとりあえずホールド・アップする。
がちゃがちゃと連続する金属音は、安全装置が一斉に解除される音だ。
「言っとくけどなあ」
丈が声をかけるのは、一人だけ塗装の異なる強化服を身に着けた男だ。全員がカーキ色で統一された中で、一人だけ、ヘルメットと左肩の装甲が赤く塗られている。
指揮官だろう。
半円形の包囲の、その外側に立っている。そいつだけが武装していなかった。
「俺は、ゾーンじゃねえぞ」
通じたようだ。銃を構えた隊員を押し退《の》けるように、前へ出てくる。
真正面から対峙する恰好になった。
「ゾアハンターか」
その声は、機械を通したものだ。おそらく呼吸フィルターも装備しているのだろう。ひょっとしたら酸素タンク内蔵で、外気とは完璧《かんぺき》に遮断されているのかも知れない。
「ああ」
指揮官が手で合図すると、こちらを向いていた銃口が一斉に下がった。
「ゾーンはどこだ」
「やめとけって」
丈も、両手を降ろす。
「あんたらにゃ無理だ」
パワー・アシストはあるだろうが、彼らの装備は明らかに防御に重点を置いたものだ。
そして、そのために犠牲となる機動性を物量でカバーしようとしているのである。
これならば、あるいはゾーンと互角にやり合うことも可能かも知れない。
ただしそれは、重大な条件付きで、なのだ。
「キミの意見は必要ない。ゾーンはどこだ」
「随分と偉そうじゃねえか、おっさんよ」
丈が一歩、前へ出る。
指揮官が一歩、前へ出る。
「これが最後だ。ゾーンはどこにいる」
「一つだけ質問させろや。俺が答えなかったら、どうする気だ?」
「我々で探す。その前に、障害物は排除しておく」
指揮官が手を上げた。幾つもの銃口が、再び丈を照準する。
なるほどね。
「じゃあ、答えよう」
両手の指で、拳《こぶし》を作る。
「てめえらには教えねえ!」
言うなり、丈は動いた。
左足を踏み込み、時計回りの回転に乗せて、背中を向けたまま右の蹴りを放つ。
戦闘用に改造されたサイボーグの、渾身《こんしん》の右後ろ蹴りである。数トンもの衝撃を腹の中央にまともに喰らった指揮官は、その真後ろに立っていた隊員もろとも後方へ飛んで、仰向《あおむ》けに倒れた。強化服を身に着けていなければ、内臓破裂で即死しただろう。
追いすがるように、前へ出る。叫んだのは、指揮官だ。
「撃つな!」
さすがに状況を把握している。丈が前へ出たことで、彼を包囲しているゾアスクァッドの誰が発砲しても、その射線上には仲間が入ってしまうのだ。
隊員の反応も早かった。白兵戦しかないと判った瞬間に、カーキ色のプラスチック製ゴリラの群が、一斉に動いた。
遅い、と丈は思った。
遅過ぎる。
四方から襲いかかる全ての攻撃が、空を切った。ブロックする必要さえなかった。手にした武器のストックで殴りかかってくる者もいれば、拳を振り上げ、蹴りを放ってくる者もいる。だが、遅いのだ。
よく訓練されてはいる。相手が同じ強化服装備の兵士か、あるいは軽装備の敵であっても彼らは互角以上に闘っただろう。いや、それ以前に銃器が使用出来れば、彼らの圧倒的な物量は相応の効果を発揮したはずだ。
つまり、それが『重大な条件』というやつなのだ。
ゾアスクァッドの装備がゾーンに対して有効なのは、敵に向かって無制限に発砲可能ならば、という条件下に限られているのである。その基本コンセプトは、人込みや建物の陰に潜むゾーンを相手にするようには出来ていないのだ。
理論上なんていう言葉が必要にせよ、たった五発でゾーンを焼き尽くせる銃を持たせてもらっているのは事実だろう。ジェット・ヘリで現場へ迅速に急行出来る機動力も、大したものだ。身を包む強化服は、おそらく多少の攻撃なら防いでくれるはずだ。
何より、この人数で作戦を組めるなんて、丈としては羨《うらや》ましくてヨダレが出る。
だが、駄目だ。
これじゃ駄目なんだ。
たった一人のサイボーグすら取り押さえられないようじゃ、お話にならん。
まだ判らねえのか!!
「まだ判ンないの、あんたたち!!」
その叫びは、混戦の外側で起こった。
暴れ狂うサイボーグの周囲で、ぱったりと動きが止まる。丈もまた拳を振り上げた恰好のままで、声のした方を振り返った。
薄い紫色が、そこに立っていた。
腰に手を当てた仁王立ちだ。フル・フェイスのヘルメットのシールドごしに、乱闘状態の男達を睨み据えている。
「こんだけ丁寧に教えてもらってンのに、まだ判ンないわけ? あんたらじゃゾーンに敵《かな》いやしないって言われてンのよ!」
見ると、パイロンで足止めされた交通渋滞の最後尾に、銀色のバンが停まっていた。
「責任者、出てきなさい!」
あちゃあ、だ。強化服の連中を押し退けて、紫色の防護服が包囲の中に入って来るのである。そのまま歩いて来た音緒は、丈を庇《かば》うように指揮官の前に立ちはだかった。
「あんたが責任者?」
「そうだが? キミは誰だね」
その声に笑みが混じっているように感じたのは、丈だけだったろうか。
「ゾアハンターのパートナーよ」
「ほう。それで?」
「あんたら、ゾーンの実物って見たことないでしょ」
「資料でなら」
「あたしなんか、目の前で何百匹も見たわよ。牙《きば》が生えてたりハサミが付いてたり刺《とげ》が生えてたりするンだよ。肢《あし》が何本もあるやつだっているんだよ」
「ほう」
「あの人に腕、何本ある? 牙生えてる? ハサミ付いてる? それでも、何十人もかかって倒せないンだよ」
「たった一人のサイボーグに勝てない我々がゾーンに勝てるわけがない、と言いたいんだね?」
「そうよ。だから……」
音緒の言葉を遮った指揮官は、決然と胸を張った。
「ご意見は拝聴しよう。だがキミは、認識を誤っている」
「どこがよ」
「我々は対ゾーン戦の充分な訓練を受けているし、充分な武装もしている。必要な知識も持っている。今はたまたま状況が、キミの同僚の方に有利なだけだ」
それこそ認識を誤ってるぜ、と丈は思った。彼は、自分の言っていることの意味が判っていないのだ。
状況さえ不利でなければ我々の勝ちだ、と言いたいのだろうが、しかしそれは同時に、自分達に有利な状況でなければ満足に闘えない、ということでもある。
音緒も、そう思ったようだ。
「あのねえ!」
だが、
「キミと話すことは、もうない。これ以上、我々の邪魔をするなら排除する」
「こんなに人がいっぱい見てるのに?」
「そうだ」
「じゃあ、あたしが邪魔したら、あたしも殺すわけ?」
「無論だ」
その言葉と同時に、指揮官が手を上げた。
銃口が一斉にこちらを向いた。
音緒と、その後ろの丈とに。
ゾアハンターの反応は、しかし、それよりも速かった。音緒の肩を後ろから抱え込み、薄紫のヘルメットごしに腕を伸ばす。がしゃ、という音とともに、彼の手の中に大型拳銃が現れた。
「俺だけなら、ともかくよお」
真っ直ぐ伸ばした右手に握られた拳銃の銃口は、指揮官のゴーグルのわずか数センチ手前で固定されている。
「女の子にまで銃を向けるッてぇのは、気に入らねえなあ」
「貴様……自分が何をしているか判っているのか」
「ああ」
判ってるさ。
売られた喧嘩《けんか》を買おうとしてンのさ。
その意志が通じたのだろうか、次の相手の動きは、あっという間だった。指揮官が、上げたままの手の指を開き、握り、空中に小さな円を描いたのだ。
その合図の意味は、すぐに判った。半円形の包囲が崩れ、強化服の一団が撤収を開始したのである。
次々とヘリの下へ移動し、高圧ガスの白い軌跡を残して飛び上がってゆく。
見事に統制のとれた、ものの数十秒間の出来事だった。
指揮官も背を向け、上空のヘリへと消えた。
挨拶《あいさつ》なし、だ。
「丈」
音緒が振り返って、こちらを見上げている。シールドごしの眼は得意気な笑顔だ。紫色の掌が、こちらを向いた。その手を丈は、ぱちん、と叩《たた》いた。
「イエーィ!」
ヘリがローター音を高めて、上昇を始める。
やれやれ、だ。これでゴーストが約束どおり騒ぎを起こさないでいるなら、連中には二度と発見出来なくなるだろう。情報漏れの方も、すぐに対処するつもりだ。
連中とは、これで縁切りにさせてもらおう。
音緒が上空に向かってわざわざシールドを開け、
「べ〜」
と舌を出す。
その顔が、いきなり振り返った。
丸い瞳が、もっと丸くなっていた。
「やば」
「どうした?」
次の言葉は、ヘルメットに届いたダリアの言葉を、そのまま復唱したものだった。
「警察無線を傍受。市民からの通報」
連中は、丈の気迫に負けたわけではなかったのだ。
「モノサイクルが、一般道を走行中」
糞《くそ》っタレめ!
三機のジェット・ヘリは、甲高い摩擦音を立てながら、彼方《かなた》の空へと消えた。
杏子を胸に抱き込んだゴーストは、行き交う車の流れを滑るように縫って、黒いマシンを駈《か》った。
シートを伝わってくるエンジンの振動も、ホイールに内蔵されたジャイロの引き起こしに逆らって車体を倒してゆく独特の感覚も、数年前のあの日の記憶そのままだ。寂寥《せきりょう》感さえ伴った懐かしさを胸に、しかしゴーストにはそれを楽しむ余裕はなかった。
少しでも速く。
少しでも遠くへ。
ゾアハンターのモノサイクルだ。
黒川丈は、彼に言った。
おめぇら、これで裏口から逃げろ。連中は、俺が引きつけておく。
おかげで二人とも逃げ延びた。少なくとも、今のところは。
だが、いつまでも走り続けるわけにはいかないようだ。
鼓動は落ちつかず、呼吸の整理が出来ない。蓄えていたとは言え、一つの肉体が二つに分離するには、莫大《ばくだい》なエネルギーを必要としたのである。
「大丈夫?」
シートの前半分に横座りの状態で、彼の白いスーツの上着を着せられた杏子が、首をひねって見上げてくる。その肩をしっかりと抱き締め、
「心配するな」
彼は応えた。
早く安全な場所を見つけなければ。
だが、そんな場所がどこにある?
市街地に入り込んでいた。交通量も増えている。その車の流れを縫って走るのが苦痛に思えるほど、元ライダーは消耗し尽くしていた。
「怖いか?」
「ううん」
杏子が微笑《ほほえ》む。
「丈と一緒だもの」
再生された杏子には、その間に何が起きたのかは理解出来ないはずだ。『死』の瞬間の記憶が、いきなり再生の瞬間へと繋《つな》がるからだ。
けれど彼女は、微笑んで見せる。
絶対の信頼とともに。
それだけで、全ての苦痛は過去のものになった。
今、杏子は再生を遂げた。
今、彼女は彼の腕の中にいる。
後は安全な場所を見つけて、自身を回復させるだけだ。最初の獲物は、杏子に捕ってきてもらうことになるかも知れないが。
前方に、地下への進入口が見えた。
片側三車線の左端が分岐して、三角のゼブラ・ゾーンの向こうで地下駐車場のような恰好で地下へと下っているのである。よく見ると、その百メートルほど向こうでは、同じような出口が車道と合流している。
「しめた!」
緊急地下道路だ。
パトカーや消防車、救急車などの緊急車両専用の地下道である。関東一円の地下を網の目のように走る、それは言わば第三の都市交通網なのだ。
あれなら使える。
車体を左へ傾けた。ステアリング機構のないモノサイクルは、基本的に体重の移動によって方向を決めるのだ。同時に、後続の車がないことを確認する。
左側から追い上げてくる車は、ない。
「丈!」
突然、杏子が悲鳴のような声をあげた。ゴーストの肩ごしに、背後を見ながら。
車とは別の物が、彼らを追って来ていた。
空だ。
三つの機影が、恐ろしい速度で追い上げて来るのである!
ジェット・ヘリだ。
あンの野郎! 何が、俺が引きつけておく、だ!!
視線を前に戻す。
地下へ逃げ込むしかない。
そう思った時、ゼブラ・ゾーンに穴が開いた。
一つではない。ミシン目のように、こちらから向こうへ、路面に拳大ほどの穴が連続して生じたのである。
なんてこった。
機銃掃射だと!? こんなところで!
それも、ただの穴ではなく、溶けているのだ。アスファルトが、瞬間的な高熱にあぶられたように、溶けたクレーターとなるのである。
電子ブレットか!
命中した弾丸が高出力のマイクロ波を放射し、アスファルトを溶かしてクレーターを作っているのだ。こんなものを何発も食らったら、たとえゾーンの肉体を持っていても内側から焼かれてしまう!
身をひねるようにしてしがみついてくる杏子を抱き締め、
「つかまってろ!」
ゴーストは体重を反転させた。
マシンが右側へと滑ってゆく。アスファルトのミシン目が、それを追ってくる。背後で突然、爆発音が轟《とどろ》いた。機銃の射線上に入ってしまった乗用車が、燃料タンクを撃ち抜かれたのだ。
スリップ音と急ブレーキ、それに衝突音が続く。
どん、という重い音には、薄い金属のひしゃげる音とガラスの割れる鋭い音が混じっていた。
頭上を機影が追い抜いた。彼の腕の中で、杏子が身を縮めた。
マシンの前方で停止し、するり、と振り返る。三つ並んだ機首の下で、太い銃身を束ねたバルカン砲が、真っ直ぐにこちらを睨んでいた。
撃つ気だ。
まだ撃つ気なのだ。
無関係な民間人を巻き込むことに、一片の躊躇《ちゅうちょ》もないのだ。
「糞っタレがぁ!」
アクセルを踏み込んだ。三つのバルカン砲が一斉に火を吹き、アスファルトに連続した穴を穿《うが》ちながら迫る。前方を走っていた車が、また何台か巻き込まれて爆発した。
体重を一気に左にかける。普通の二輪車なら間違いなく転倒する角度だ。だがモノサイクルのホイールに内蔵されたジャイロが、きわどい角度で引き起こしにかかる。それを強引に押さえ込んで、マシンは炎上する車の脇をすり抜けた。
ヘリの真下を通過しざま、さらに加速する。
三機のヘリは、砲撃を続けながら獲物を追って回頭した。地下道路の入口に向かってUターンを切ろうとするマシンの、その目の前の路面に、クレーターの列が足止めをかけてきた。
射線の寸前で急反転したゴーストは、路面に落ちたヘリの影の周囲に、いくつもの小さな影が現れるのを見た。
見上げると、強化服の一群が高圧ガスを噴射しながら飛び下りてくるところだった。
「くそ!」
その腕には、揃って突撃銃を抱えている。
ゾアスクァッド! 黒川丈の言っていた連中だ。
強化服は、反転したマシンの進行方向を塞《ふさ》ぐ恰好で、一列横隊になった。黒々とした銃口が、一斉にこちらを向いた。
杏子の腰を抱いて、一気に加速する。突撃銃の斉射は、わずかに二人の脇をかすめ、その後方に弾丸をばら撒《ま》いた。きわどい蛇行で強化服の隙間を抜ける瞬間、背後でまた爆発音が轟いた。
狂ってやがる、とゴーストは思った。
ゾアハンターは、人間を護るという目的のために、ゾーンと闘っていた。
だが、こいつらは違う。こいつらの目的は、人間を護ることではない。ゾーンを倒すことなのだ。そのためには、どれだけの犠牲者が出ても関係ないのだ。
手段が目的にすりかわる時、そこには何の大義もない。
あるのは、ただ狂気だけだ。
前方の道路に、さらにもう一群の強化服が降下してきた。
挟み打ちだ。
ここまでか。
ゴーストは急ブレーキでマシンを停止させ、両腕で杏子を抱き締めた。少女は固く眼を閉じ、ゴーストの胸にすがりついた。
だが。
銃弾は、襲って来なかった。
その代わり、電磁ネットだろうか、三人がかりで巨大な投網《とあみ》のような物を持って、じわじわ、と迫って来ている。
瞬間的にその意味を理解したゴーストは、
「糞が」
吐き捨てた。
挟み打ちの状態では、どちらが撃っても標的の背後にいる仲間に弾が当たるからだ。だから、連中は撃たないのだ。
無関係な市民が巻き添えになることには、一切無関心のくせに!
「丈……」
腕の中で、杏子が彼を見つめていた。
「殺される?」
「このままじゃあ、な」
「やだ」
「俺もだ」
どうして、と少女は言った。
「生きてちゃ駄目なの? どうしてゾーンは、生きさせてもらえないの? 私、ただ生きてたいだけなのに。丈と一緒に生きてたいだけなのに」
ああ。
判ってるさ。
「杏子」
「はい」
「殺させやしねえ。絶対に護ってやる」
爪先《つまさき》で、ギアをローに入れた。
アクセルを吹かす。
「行くぜ」
「はい」
クラッチを繋ぐと、マシンは二人を乗せて飛び出した。慌てて投げつけてくる電磁ネットをすり抜けて、前方の一列横隊の真ん中へと突進する。
杏子の頭ごしに、右手を前へ出す。
その掌の中央に、レンズ体を形成した。
切り札。
生体レーザーだ。
「ぅおぉおらあ!」
閃光《せんこう》が、並んだゾアスクァッドを左から右へと焼いた。カーキ色の装甲の表面で、順番に次々と火花が散った。出力が落ちている。おそらく貫通は、していないだろう。
だが、牽制には充分だった。
隊列が、乱れた。その中央を突破する。
背後で小刻みに連続した銃声が轟き、何も知らずに接近してきた対向車線の乗用車が火を吹いて横転した。マシンを不規則に蛇行させつつ、ゴーストが目指すのは、もう一つのゼブラ・ゾーンである。緊急地下道路の、それは出口の方だ。
いったん通過し、渾身の力で腰をひねってマシンを一八〇度定点回転させる。マシンと一体となったスピン・ターンだ。銃弾が耳元をかすめ、風を切る音が聞こえた。
杏子の躯を、包むように抱き込む。
滞空していたヘリが高度を落とし、機銃掃射を開始しながら、ゆっくりとこちらを向いた。撒き散らされる銃弾がビルの壁面を真横になぎ、外装のタイルと窓ガラスが順番に砕け散った。
「糞っタレがあ!」
マシンを地下へと飛び込ませようとした瞬間、叩きつける豪雨のような弾丸が地下道路出口の庇《ひさし》を直撃し、大量のコンクリートを撒き散らしながら粉砕した。
杏子を庇った左腕に、衝撃が走った。
俺のミスだ、と丈は思った。
それも、泣きたくなるくらい下らないミスだ。
モノサイクルが公道を走ることは道路交通法で禁じられている。街中を、しかも二人乗りで走れば、目撃した市民に通報されないわけがない。
委員会は、そしてゾアスクァッドは、気づいたのだ。
ゾアハンターが、自分のマシンにゾーンを乗せて逃がしてしまったことに。
「もっと速く走れぇのか!」
運転席のシートの後ろに立って前方を睨んでいた丈は、ついに怒鳴った。その声に、ヘルメットを膝に乗せた少女が、助手席で肩をすくめる。
これが限界よ、というダリアの言葉を聞くまでもなく、丈にも判っていた。大柄なシルバーで、しかも一般道を走ってジェット・ヘリと張り合うなど、どだい無理な話なのだ。
間に合わない。
丈は上着から取り出した小型通信機を耳に突っ込むと、後部ドアを開けた。
「走る! ダリア、誘導しろ!」
「了解」
だが音緒は、
「待って」
助手席を抜け出してきた。
「いっこだけ教えて」
右へ左へと振り回されながら、少女は武器の詰まったラックに手をかけて躯を支えている。表情が、固い。
「あいつを助けるんだよね? それでいいんだね?」
その言葉の意味を、丈はすぐに理解した。
「ああ」
即答だ。
たとえ相手が、彼女から全てを奪った奴だとしても。
「俺が始末するのは、はっきり敵と決まった奴だけだ」
それが悪意ではなく、単なる過ちであった可能性が見えた以上は。
「判った」
頷いて、少女が彼に手渡すのは長さ六〇センチほどの、革製の細長いバッグだ。
「助けてやって」
「おう」
そのつもりだぜ。
バッグを肩に掛け、後部ドアのフレームを掴んで、後ろ向きに跳んだ。
シルバーの後部ドアが、みるみる遠ざかりながら閉じてゆく。
着地の瞬間、慣性が躯を前に引っ張って、あやうく転びそうになった。背後でクラクションが鳴り、急ブレーキの音が続く。あやういところで体勢を立て直し、その勢いのままで走り出した。道路を斜めに横切り、歩道から路地へ、さらに裏道へと走り抜ける。
「ダリア! 裏道へ出た」
乗用車がすれ違うのがやっとの、細い道だ。正面のビルの住所表示を確認した。
「西五丁目、一の三四!」
通信機がダリアの声で、了解、と応える。
「左へ直進、三つ目の交差点で右折してください」
「おっしゃ!」
駆け出す瞬間、足が滑った。ダッシュの勢いで、アスファルトを踏み砕いてしまったのだ。一三〇キロを超えるサイボーグの機体が、時速九〇キロ以上の速度で走るのである。一方の足に瞬間的にかかる加重は、数百キロにも及ぶ。
一つ目の交差点を一気に駆け抜けた。二つ目は信号が赤だったが、行き交う車の頭上を飛び越えた。加速度がついていたので、着地の瞬間、歩道に敷きつめられたコンクリートのタイルが小さな爆発みたいに飛び散った。歩行者が、みんな立ち止まっているように見えた。ホーム・ビデオを持ち歩いている奴がいないことを祈るばかりだ。
「交差点、右折!」
「そのまま直進。ゾアスクァッドがゴーストに攻撃中の様子」
「なに? 現在地は!?」
「そのまま直進して二キロ程の地点」
なんだと?
街のど真ん中じゃねえか!
「人込みの真ん中で白兵戦かよ!」
だがダリアの応えは、いいえ、だった。
「市民から警察に通報が入っています。ヘリが三機、モノサイクルを銃撃中。発砲する兵士の目撃報告もあります」
なんてこった。正気じゃねえ。
だが、どうやら真実のようだ。
前方に、煙が見えるのだ。
太く、黒い。
ほぼ道幅いっぱいの煙が、ごうごうと噴き上げて空をどす黒く汚しているのだ。
その足元には、炎も見える。
かなりの高速で走っていたので気づかなかったが、見ると車道の車は一台も動いてはいなかった。
渋滞だ。
その先頭が、燃えているのだ。
炎が車道を完全に塞いでいる以上、巻き添えを喰った車は路上駐車をしていたわけではあるまい。生きた人間を乗せたまま流れ弾に当たり、生きた人間を乗せたまま爆発して、生きた人間を乗せたまま炎上しているのだ。
丈は、自分の読みの浅さを認めざるを得なかった。連中は、ゾーン制圧のための重要な条件を、満たしていたということだ。
仲間を撃ってしまう心配さえなければ、そこがどんな場所であれ、連中は平気で発砲するのだ。無関係な市民を巻き添えにすることなど、気にも留めずに!
なるほど、あの指揮官が音緒に言った言葉は真実だ。
連中は充分に武装している。
狂気の殺戮《さつりく》を行うには、充分だ!
炎の手前には、分厚い人垣が出来ていた。歩道にも車道にも、燃え盛る炎に集まる蛾《が》のように、好奇心を剥き出しにした人々がひしめいている。
それを、跳び越えた。
人の壁と炎との間に着地した瞬間、背後でどよめきが起こる。
無視して、再び跳んだ。
炎の真上を越える時、噴き上げる熱波で頬がひりひりと痛み、左目に煙が染みた。
兵士達は、その向こうにいた。
三機のヘリが、路上に着陸している。その向こうには、やはり道路を塞ぐ炎の壁だ。
カーキ色が隊列を組んでいた。三〇人はいるだろうか。ジェット・ヘリの前に、一列に並んでいるのである。
ゴーストと関根杏子の姿は、ない。
逃げ延びたのか。
あるいは………………。
「来たぞ!」
強化服を着込んだゾアスクァッドの一人が叫び、銃口が一斉に、こちらに集中する。
思ったとおりだ。
待ち構えていやがったのだ。
こちらの通信が相手に筒抜けになっているのだから、無論それは想定していた事態ではある。そしてそれは、連中が単なる殺戮集団であることの証明でもあった。
市街地である。
無論、ゾアハンターに向けて放った弾が逸《そ》れれば、跳弾が無関係な市民を巻き込む可能性は充分に考えられる。
それでも連中は、銃を向けるのだ。
そうかい。
そういうことかい。
「容赦しねえぞ!」
空中で、肩に担いだバッグから中身を抜いた。
着地と同時にバッグを捨て、抜き出した『武器』を構えると、ゾアハンターは敵に向かってさらに地を蹴った。
「ぃくぜえ! おらあ!」
上半身が水平になるほどの前傾姿勢で、『武器』を手に突進してゆく。
居並ぶ強化服の集団が、一瞬、その動きを乱した。整然とこちらを向いていた全ての銃口が、ほんの瞬間、宙を泳ぐ。まさかこの状況で、相手が向かってくるとは思っていなかったのだ。
宣言どおり、丈は容赦しなかった。一列横隊の中央に切り込むと、手にした『武器』を最初の一人に叩き込んだ。
六〇センチほどの、金属製のロッドである。その両側に同じロッドが一本ずつ、五センチほどの細いワイヤーで接続されている。
三節棍《さんせつこん》、と呼ばれる中国|拳法《けんぽう》の武器に、その形状は酷似していた。長めのヌンチャクを二本、その棒尻どうしで繋いだような構造である。
だが、中身は全くの別物だ。
カーキ色の装甲に叩き込まれたロッドの周辺で、ばちん、という音とともに白い電光が疾《はし》り、強化服のあちこちで火花が散ったのである。
電撃ロッドなのだ。
その基本は、バトル・ホイール用の電撃系の武器と大差ない。外側のロッドの先端部がショック・センサーを内蔵した電極になっており、命中の瞬間、そこから高電圧が標的に流し込まれるのである。
米沢が開発した、それは対ゾーン用の武器だ。生身で喰らえば数時間は目が覚めないだろう。出力を上げれば即死だ。相手がゾーンであっても、耐電体質を獲得した種でなければ数分間は行動不能に陥るはずだ。
ゾアスクァッドの誰一人として満足に扱えなかったという、これが丈の『新しい玩具《おもちゃ》』だ。それは米沢の言うとおり、まさに丈の注文にぴったりの物だった。
相手が人間でも遠慮せずに使える武器を、と丈は言ったのだ。
相手を殺さずに、しかし瞬間的に行動不能にしてしまえる電撃系の武器を、と。
狙いは、どんぴしゃだった。
電撃を喰らった隊員が、全身を硬直させたまま仰向けに倒れた。
「おぅらあ!」
倒れた隊員の隣で、次の隊員が大きすぎる銃を振り回す。だが一抱えほどもある強力な武器は、ゾアハンターを照準することが出来なかった。その前に、一人目を打ったのとは反対側のロッドが、腹のど真ん中に命中したのである。
視界の隅に、列の端の方にいる奴が丈を照準するのが見えた。ロッドの間合いの外から撃ちにかかろうというのだ。
丈は、電極を掴んだ。
遠心力に任せて振り回すと、間合いが一気に伸びる。三本のロッドの合計に腕の長さとワイヤーの長さが加算され、二メートル以上だ。
三人目も、前の二人と同じ運命だった。
火花。
硬直。
そして昏倒《こんとう》。
一列横隊は、既に崩れていた。敵の接近を知って待ち構えていた彼らは、相手が出現すると同時にハチの巣にすることしか考えていなかったのだ。自分達が撃つよりも速く、敵がその隊列の真《ま》っ只中《ただなか》で暴れ狂うことなど、想定さえしていなかったのである。
しかもゾアハンターの動きは、彼らが訓練で叩き込まれたであろう白兵戦の動きとは、全く異なるものだったのだ。
それはまさに、変幻自在の攻撃である。
全ての間合いにおいて、その『武器』は無敵だった。大きく小さく螺旋《らせん》を描き、時には直線的に、時には円弧の軌跡で、電撃を叩き込んでゆくのだ。
それは一種の舞踏にも似た動きだった。統率を失った数十人の強化服部隊の中央で、一人の男が狂ったように舞い踊るのである。
全てが終わるまでに、三〇秒とかからなかった。ワイヤー部分で『Z』の字型に畳んだロッドを手に、黒川丈は周囲を見回した。幾つもの強化服が、その内側に隊員を閉じ込めたまま転がっている。
連中がここで待ち伏せをかけていた以上、ゴーストも近くにいるはずだ。
足音が近づいてきた。
微妙に残響している。
見ると道路の脇に、コンクリート製の何かの残骸《ざんがい》が見えた。もとは四角い箱のような構造だったようだが、機銃掃射を浴びたらしく壊れ果てており、残った部分も穴だらけだ。それは、地下へと続く斜路を覆う庇だった。
地下鉄の出入口に似ている。
そう思った途端、丈はその正体に気がついた。
緊急地下道路の出口だ。
足音は、地下へと続くその斜路を昇って来るのである。
武器を手に、迎えに出る。上がって来たのは、やはりカーキ色の強化服だった。
「貴様!」
何か言いかけたが、そいつも感電させた。
「下か」
雨避《あめよ》けの庇を失って、ほとんど剥き出しになった地下への開口部。ゆったりと下ってゆく広い坂道。
緊急地下道路。
全ての構図が、見えた。
俺としたことが。
ゴーストは自嘲気味に苦笑した。
左腕が、熱い。
緊急地下道路の出口へ飛び込む寸前、無数の弾丸のうちの一発を食らったのだ。
それでも何とか体勢を立て直し、斜路にマシンを突っ込んだ。
杏子が悲鳴のような声をあげたのは、地下道路の本線に入った時だった。
「丈! 腕が!」
言われて、気がついた。熱いはずだ。弾痕《だんこん》を中心に、腕が内側から焼けている。撃ち込まれた弾丸が、アスファルトさえ瞬時に溶かすほど高出力のマイクロ波を放射しているのだ。このまま放《ほう》っておけば、肺まで焼かれるだろう。
右手で掴んで、腕を肩から引き千切って捨てた。
そこまでだった。
杏子の分離と逃走劇、そして限界ぎりぎりでの生体レーザーの発射で消耗し尽くしていた彼の肉体は、その時点でついに限界を超えた。
意識が、急速に遠のく。
束《つか》の間《ま》の浮遊感に続いて、彼は路面に叩きつけられた。それでも、杏子を抱いた腕だけは放さなかった。
ライダーを失った黒いマシンは蛇行し、重い金属音と高価なカウルの割れる音をたてて横転した。オートバイよりも安定性が高いはずのモノサイクルだが、ライダーがいなければ、それも無意味だった。
「丈!」
先に転倒から身を起こした杏子の腕が、ゴーストを抱き起こす。すがって立ち上がったが、脚がもつれて満足に歩けそうになかった。
視界の隅に、内側から焼かれ続ける自分の左腕が、その苦しみから逃れようともがきつつ地を這《は》うのを見た。
黒コゲだった。
つまり最悪の場合、それが彼自身の運命だということだ。
いや、二人の、だ。
「歩ける?」
そいつは無理だ。
「杏子」
自分よりもはるかに長身の彼を肩で支え、歯をくいしばる少女の顔を、ゴーストは覗き込んだ。美しい、と思った。
「逃げろ」
声など出せないと思っていたが、そうでもないようだ。腹の底から絶叫するくらいに努力すれば、囁くようにかすれた声が出せた。
「え?」
愛くるしい瞳が大きく見開かれ、唇がぽかんと開く。信じられない言葉を聞いた、そんな表情だった。
「行け。おめぇだけ、なら、逃げられる」
「嫌だ」
「杏子」
「嫌だよ!!」
その瞳に、みるみる雫《しずく》が溜まってゆく。
「私、判ってる。丈が助けてくれたんでしょ? 死んでた私を、丈が生き返らせてくれたんでしょ?」
ああ。
そうだ。
あの夜、闇《やみ》に紛れて、マンションの瓦礫《がれき》を掘り返したのだ。
一縷《いちる》の望みをかけて、山のような瓦礫をほじくり返したのだ。
融合体は、腐り果てていた。死滅したゾーン細胞が化学変化を起こし、発生した酸で自らの死骸を溶かしていたのだ。
それでも、掘った。過度の負荷に対して全身の筋肉が急速に発達し、両手の指が硬質の爪に進化し始め、その消耗に耐えるために腐肉を喰らいながら掘り続けた。
泥水の中から、杏子の『子供たち』の亡骸《なきがら》を、いくつもいくつも掘り出した。それらは全て、空気に触れた途端に分解して崩れた。
杏子も、見つけた。
『子供たち』と同じだった。
だが絶望的な喪失感に打ちのめされて地上に戻った時、彼の眼に、それが映った。
動いていた。
日差しに炙《あぶ》られてもがくナメクジみたいに、弱々しく、それは動いていた。
大きな白いクモのように見えた。
手首だった。
杏子の左手だった。
切断された手首の根元が拳大に膨らんでいるのを見て、ゴーストは全てを理解した。
神経瘤《しんけいりゅう》だ。
第二の脳だ。
杏子は、最期の望みにかけたのだ。彼がそれを発見し、再生させてくれることに。
彼は駆け寄り、胸に抱き上げた。掌に載ってしまうほどに小さく、か弱い生命は今にも尽きようとしていた。
だが、生きていた。
まだ、生きていた。杏子の『全て』とともに。
喰った。
苦痛を与えぬように、注意して呑《の》み込んだ。
自らの躯に取り込み、そして育ててきたのだ。
今日まで。
次の一秒へ、次の瞬間へ、杏子の生命を繋ぐために。
「私に逢いたかったんでしょ?」
「ああ」
「私と一緒にいたかったから、だから生き返らせたんでしょ?」
「ああ」
そうだ。
「私だって、おんなじなんだよ。丈と一緒にいたいんだよ!」
ヘリのエンジン音が低く、しかし同時に近くなるのは、着陸したのだろうか。
「逃げよう。一緒に逃げようよ!」
がちゃがちゃと連続する固い足音も聞こえる。
「判った」
鉛の靴を履いたような脚を、無理やりに引きずった。
片側二車線分を横切り、センターラインを越えた辺りで、バランスは、あっけなく崩れた。杏子が支えにかかり、ゴーストは何とか踏ん張ろうと頑張ったが、無駄だった。
二人はもつれ合って無様に斜めに走り、入って来たのとは反対側の壁にぶつかった。
背後に足音が迫る。
振り返った。
敵がいた。
壁際の二人を、半円形に並んだいくつもの銃口が、しっかりと見据えていた。
たった一発で、彼は腕を一本、失ったのだ。これだけの銃口から一斉に電子ブレットを撃ち込まれれば、数秒もしないうちに全身が炭化するだろう。
だが、逃げるどころか、立ち上がることさえ出来ない。一本の腕で躯をずり上げ、壁を背にして座り込むのが精一杯だった。その胸に、杏子がすがりついた。
糞っタレ。
「貴様に訊《き》くことがある」
聞こえてくるその声には、機械を通した響きがある。
「貴様らが最後のゾーンだというのは事実か」
包囲の外側で、そいつだけが肩と頭を赤く塗装していた。
親玉か、とゴーストは思った。
つまり、こいつの号令で、全てが終わるわけだ。
「嘘だ、ね」
ゴーストは笑った。
「実は、何万匹も、隠れ、てる。お前ら人間を、喰い、尽くす、ぜ」
「なるほど」
親玉の合図で、カーキ色の兵士達が一斉に、銃を腰溜めに構えなおす。
「貴様らを始末すれば、我々の任務も終わるようだ」
肩が赤い方の腕が、ひらり、と挙がる。
「死ね」
機械を通した声が、そう言った時だ。遠くで、油が弾《はじ》けるような、ばちん、という音がした。
一つではない。
ほんの数秒間隔で、いくつも連続して聞こえるのである。
それに、靴音が混じる。何十人もが混乱して右往左往するような、パニックに乱れた靴音だ。
ゴーストを包囲した全員が、音のする方を見ていた。
地下道路の出口だ。
ほんの数メートル先で、本線が上りの斜路と合流している。ついさっき、彼がモノサイクルで駆け降りて来た斜路だ。音は、その上から聞こえるのである。
ほんの三〇秒ほどで、それは途切れた。
「見て来い」
言われて、ゴーストの右側で銃を構えていた隊員が、踵《きびす》を返す。姿が見えなくなった、と思った次の瞬間、また、ばちん、という音がした。
数秒の静寂の後、聞こえてきたのは足音だった。
走っている。
誰かが、こちらに向かって走ってくる。
「てめぇら!!」
ゾアハンターが叫んだ。
「撃て」
親玉の命令と同時に、奥歯が浮き上がるような甲高い音が響いた。
火花が散ったのは、その直後だった。
音緒がそれを『見た』のは、ダリアの言葉を耳にした瞬間だった。
ヘリが三機、モノサイクルを銃撃中。
その言葉を聞いた途端、目の前にオレンジ色の照明が見えたのである。
そして壊れたモノサイクルと、傷つき倒れたゴーストも。
緊急地下道路だ。
ヘリに追われたゴーストは、地下に逃げ込むのだ。いや、もう逃げ込んでいるのかも知れない。
問題は、その後だ。
ゴーストが地下に逃げた数分後には、丈も現場に着くだろう。そして彼は、すぐに状況に気づくはずだ。
そして………………そして、その後が見えないのである。
「ダリア!」
音緒は振り向いたアンドロイドの目を見つめながら、自分の足元を指さした。
言葉で伝えることは出来ない。こちらが先を読んでいることを相手に知られるわけにはいかないからだ。ダリアが無線で誘導した以上、丈が現場に向かっていることは相手に知られているはずだ。ならば、遅れて現場に到着するシルバーこそが、隠し持った切り札とならなければいけないのだ。
ダリアは、すぐに理解したようだ。
大きく左ヘハンドルを切る。ほとんどテールを振るようにして、大型のバンが直角にカーブを切った。
「急いで」
マイクに入らないように、ほとんど吐息だけで。真っ正面を見据えた音緒の視界の隅に、ダリアが頷くのが見えた。
裏道を抜け、再び大通りに出る。進行方向の先で、三車線の道路が四車線になっている場所があった。高速道路の合流点のように、路面に細長い三角形のゼブラ・ゾーンが描かれている。その先は、地下鉄の入口のような庇のついた、地下への進入口だ。
緊急地下道路は、都内を中心とした半径五〇キロ圏内の地下に、網の目のように張りめぐらされている。特に人口密集地やビル街には、多数の出入口が集中して配置されているのである。
ダリアが、ダッシュ・ボードのスイッチを入れる。
識別信号の発信装置だ。例の地下道路でのゾアハントの直後、丈のモノサイクルにも装備された、言わば隠れ蓑《みの》である。一般車両の通行が禁止されている緊急地下道路の監視装置は、この電波を緊急車両のそれとして認識するのだ。
飛び込んだ。
派手にタイヤを鳴らして、本線に合流する。
シルバーが加速を始めた時、通信機から丈の気合が飛び込んできた。
「ぃくぜえ! おらあ!」
始まった。
いくつもの靴音と、がちゃがちゃという金属音が交錯する。時々、空電のようなノイズが入るのは、丈の武器が電流を流す瞬間だろう。
音だけだったが、闘う丈の様子が見えるようだった。大勢の敵に囲まれ、しかし一歩も退《ひ》くことなく、その真っ只中で闘い続けるゾアハンターの姿が。
鋭い気合が聞こえる。
瞬間的に吐き出す短い呼気も聞こえてくる。
ざっ、というノイズが聞こえるたびに、音緒は指を折った。
三人、四人、五人六人七人……。
オレンジ色の照明が、狂ったように後方へと流れ飛んでゆく。
急いで。
急いで、ダリア!
靴音と気合と呼気とノイズが、途切れた。
かすかに聞こえる、貴様、という怒声は、ゾアスクァッドの一人だろうか。
もう一度、ノイズ。
二四人目。
指を折ったその時、見えた。
一直線に伸びる地下道路の前方、ほぼセンターライン上に、カーキ色の集団がいる。左側の壁にもたれるように座り込んでいるのは、ゴーストだ。胸に何かを大切そうに抱えている。少し離れたところには、モノサイクルが引っ繰り返っていた。
でも、丈は?
集団が、動いた。
同じ方向に、銃を構えている。音緒から見て右側、対向車線の方だ。
道路はそこで出口へと分岐して、上へ伸びる斜路に続いている。
音緒は瞬間的に状況を理解した。降りて来る丈を、狙い撃ちする気なのだ!
対向車線側、出口とゾアスクァッドの間を指さす。
「GO!」
ダリアが、アクセルを踏み込んだ。シルバーがセンターラインを越えて、加速する。
間に合って。
お願い、間に合って!!
音緒はヘルメットを被った。
「てめえら!」
出口への分岐点に、丈の姿が現れた。
ダリアの反応は、瞬間的だった。アクセルから足を放し、ブレーキを床まで踏み込んだのである。
奥歯が浮き上がりそうな甲高いブレーキ音をたてて、それでもシルバーは停まらない。
センターラインを挟んで、丈と、彼に銃を向ける二〇人以上のゾアスクァッドの集団が、フロント・グラスに一気に迫ってくる。
慣性の法則に従って前方へと引っ張られていた音緒の躯が、がくん、とシートに引き戻された。その瞬間、がんがんがんがんがん、と連続する金属音とともに、音緒の座った助手席のすぐ外で、いくつもの火花が散った。
間に合った!
間一髪のタイミングで、シルバーが丈とゾアスクァッドとの間に割り込んだのだ。撃ち込まれる無数の電子ブレットが助手席側の防弾ドアに阻まれ、樹脂|充填《じゅうてん》タイプの防弾ガラスに食い込んで丸い白濁を残してゆく。
銃撃が途切れた瞬間を狙って、音緒はドアを開けて飛び出した。
撃たれるとは思わなかった。
撃たれても避けられる自信があった。
銃弾は、光よりも遅い!
目の前に、一列に並んだゾアスクァッドのカーキ色がある。その向こうに見える薄汚れた白は、ゴーストだ。背後で、どん、と鉄板を踏む音が聞こえた。
丈がシルバーを乗り越えたのだ。
いける。
形勢逆転だ!!
音緒はヘルメットのシールドを降ろして、カーキ色の間をすり抜け、壁際のゴーストに向かって走った。
助けるんだ。
絶対に。
今それが出来るのは、あたしだけなんだ。
丈と同じ顔が、驚きに目を見開いて、こちらを見ている。
そして、もう一つ、別の顔が。
まさか、と思った。
もう二度と見ることはないと思っていた顔だった。
「音緒!」
丈の声。
「嬢ちゃん!」
ゴーストの声。
そして、
「ねお!」
ああ。
なんてこと。
杏子の声だ!!
ダリアの推測は的中していた。ゴーストが、杏子を抱いているのだ。
杏子を!!
瞬間、『才能』が働いた。
撃ってくる。
それは明確に意識したわけではないが、けれど、判った。
ヘルメットと肩を赤く塗装した指揮官が、腰のホルスターから拳銃を抜いて……なんて奴だ、後ろから撃ってくる!!
そのタイミングも、撃ってくる角度も、全てが瞬間的に判った。
だが、
「駄目ッ!」
避けられない。
避けるわけにはいかない。
避ければ、杏子に当たってしまう!!
跳んだ。
真っ直ぐ、前に。
杏子に向かって。
腰と膝と足首に内蔵された超小型モーターが跳躍力を増幅し、いつもの倍の距離を一気に跳んだ。ゴーストに抱かれた杏子の胸に飛び込む恰好になった。親友の顎《あご》にヘルメットがぶつかって、ごつん、と音をたてた。
銃声が一発、地下道路に残響した。
「うぐ」
背中を尖《とが》ったハンマーで殴られたような衝撃が走って、喉の奥から勝手に呻き声が漏れた。全身の筋肉から一斉に力が抜けて、そのくせ背骨が反り返った。
「ねお!」
駄目だ。
あたし、死ぬかも。
そう思った時、彼女は自分が二つの眼に見つめられていることに気がついた。力が抜けて仰け反ってしまった、その顔を、真正面から。
懐かしい瞳。
懐かしい顔。
あたしの親友。
「杏……子」
その愛くるしい顔が、みるみる曇ってゆく。
眉《まゆ》を寄せ、唇を噛《か》みしめ、見つめてくる瞳に涙が溜まってゆく。
白い歯を見せて、唇が開いた。
キァアアァァアァアあァアアアアァァアああァアアアァアアアァあァアアァァアアァァアアあァアァアあアァァァアァァあァアアァアアアアァァア!!
絶叫だった。
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第五章 エクスピエイション
丈には判った。
避けられなかったわけではない。
避けなかったのだ。
レーザーさえ避ける音緒が、二人のゾーンを護《まも》るために、自ら銃弾を受けたのだ!
「糞《くそ》が!」
絶叫が響き渡ったのは、怒り狂った丈がシルバーの屋根を飛び下りた時だった。
鼓膜の奥に針の束を突っ込まれるような、不快な叫びだった。
杏子だ。
ゴーストに背中から抱かれる恰好《かっこう》で、さらにその胸にぐったりとなった親友を抱き締め、喉《のど》を反らして叫んでいるのである。
固く閉じた双の瞼《まぶた》から溢《あふ》れてくるのは、涙だ。
怒りの。
叫びが、食いしばる歯に途切れた。親友の躯《からだ》を大切そうに抱いたまま、ゴーストの腕を抜けて、ゆっくりと杏子が立ち上がる。
「音緒!」
丈は、呆然《ぼうぜん》と立ち尽くす強化服を押し退《の》け、駆け寄った。音緒を抱き上げた杏子と、真《ま》っ直《す》ぐに見つめ合う恰好になった。
その愛くるしい瞳《ひとみ》には、一点の曇りさえない。ついさっきの再生を見ていなければ、ゾーンだとは思えなかったろう。だが黙って音緒の躯を差し出すその腕力は、まさしくゾーンだからこそ、だ。
「お前さん……」
少女は頷《うなず》いた。
受け取ると、だらり、と音緒の腕が垂れる。紫色のヘルメットのシールドの奥に、わずかに口を開いて眠っているような顔が見えた。
「音緒」
呼びかけても、応《こた》えはない。
弾丸が躯に喰い込んでいないとは言え、鋼鉄の棒でぶん殴られたようなものだ。運良く脊髄《せきずい》を逸《そ》れていたとしても、肋骨《ろっこつ》は背面で折れているだろう。内臓が出血しているかも知れない。
糞っタレどもが!
だが、丈が『糞っタレども』を振り返るより早く、杏子が前へ出た。
唇を引き結び、真っ直ぐに『敵』を睨《にら》み据えて。『恋人』を傷つけ、今また『親友』を傷つけた者達を。
「どうして……」
杏子の声には、野獣の唸《うな》りが混じっていた。
「どうしてよ! どうして放《ほう》っておいてくれないの! なんで、こんなことするの!」
その言葉への応えのように、指揮官が手を上げる。
「やめろ!」
丈は叫んだ。
「撃つな!」
これは分岐点なのだ。
共存と、殺戮《さつりく》との。
希望と、絶望との。
「杏子! 逃げろ!!」
ゴーストの声も、彼女には届かなかった。
「私達だって生きてるのよぉおおぉおおぉおッ!!」
その叫びは、途中から咆哮《ほうこう》に変わった。
腹の底に響く咆哮だった。
少女の顔が憤怒《ふんぬ》に歪《ゆが》み、大きな瞳から涙を流しながら、その細い躯が発するとは信じられない大音声をあげ続けた。
だが、そこまでだった。
「撃て!」
指揮官のその言葉に、丈は瞬間的に反応した。
音緒を抱いたまま、一気に後方へ跳ぶ。
拮抗《きっこう》する三角形が出来上がった。
一点に、ゾアハンター。
一点に、ゾーン。
そして残る一点に、ゾアスクァッド。
三角形の一辺を、銃弾の雨が繋《つな》いでいた。
轟《とどろ》くのは、銃声だ。
一分間に数十発の弾丸を発射する突撃銃が、生まれたばかりの白い裸身に向かって一斉に火を吹いたのだ。
裸身に羽織った白いスーツが、一瞬でボロ布に引き裂かれて散ってゆく。皮膚が破れ肉が裂かれて散ってゆく。黒髪が千切られ骨が砕かれて散ってゆく。
生まれ変わったばかりの命が、無残に、散ってゆく。
「うわぁああぁあ!」
悲鳴をあげるのは、しかし杏子ではない。
ゴーストだ。
「杏子おぉお!」
少女の代わりに、延々と続く轟音《ごうおん》が応えた。
無数の電子ブレットが、杏子の裸体に叩《たた》き込まれる。逸れた弾丸が背後の壁を、指で粘土を穿《うが》つように抉《えぐ》り、その破片をゴーストの躯の上に撒《ま》き散らす。
「うぁああぁあああああぁああ!」
床に転がったまま、ゴーストが絶望の叫びを上げ続けた。
杏子が死のうとしているのだ。
彼の目の前で。
どうすることも出来ない彼の、その目の前で。
「やめろ!」
丈は音緒を床に降ろし、手にしたロッドを構えた。
その脚に、衝撃が走る。
左の膝《ひざ》だ。
次の瞬間、熱と痛みが人工の背骨を駆け上がって脳天を突き抜けた。
膝に命中した電子ブレットのマイクロ波が、サイボーグの神経に相当するケーブルと光ファイバーを焼き切り、集積回路を溶かしてゆくのである。
痛みに転がると、倒れた音緒に添い寝するような恰好になった。
指揮官の手にした拳銃《けんじゅう》の銃口から、白い煙があがっていた。強化服のゴーグルごしに、まだ見たことのない顔が、にやり、と笑ったような気がした。
轟音が続いている。
撃ち込まれてゆく弾丸は杏子の体内に停滞し、高周波のマイクロ波を放射し続ける。白い皮膚が煮立ったように泡立ち、黒く変色してゆく。
腕が、熱に爆《は》ぜて落ちた。
腰が、文字通り砕けて杏子は転倒した。
肉が裂け、骨が露出し、はみ出た内臓までが煙をあげている。全《すべ》ての破片が、再生しようともがき、蠢《うごめ》きながら、黒々と焼かれてゆく。
これが、人間なのだ。
これが、人間のすることなのだ。
己の過ちを認めようとせず、ひたすらに隠し、隠しきれないと判った途端、力によって解決しようとする。何が起きているのか、何が起ころうとしているのか知ろうともせず、ただ自分の知っていること、自分の理解出来ることだけにしがみつく、これが人間の、その本性なのだ!
轟音は、唐突にやんだ。
後に残ったのは、砕かれたコンクリートの無数の破片と、同じく無数の黒コゲの肉片だけだった。ゾーンの肉の焼ける独特の臭《にお》いに、硝煙の匂《にお》いが混じった。
「てめえ!」
懸命に身を起こし、丈は怒鳴った。完全に砕けた膝関節《しつかんせつ》の、露出した内部機構が小さな火花をあげた。
「なぜ撃った!」
「痛かったかね」
「俺じゃねえ! オンナだ! なぜ撃った!!」
ゾアスクァッドを指揮する男の応えは、単純にして明快だ。
「ゾーンだからだ」
「ただのゾーンじゃねえ! 知性があるんだぞ!」
『心』が。
「ゾーンは、ゾーンだ」
無駄だ。
何を言っても。
あれだけ重大な事実を目の当たりにしながら、それを理解出来ないなら……いや、それを理解しようとしないなら、百の言葉を尽くしたとしても通じるわけがない。
そして一つの命が……一つの心が奪われた。
おそらく最初で最後の機会とともに。
「杏子……」
ゴーストは、地を這《は》っていた。
消耗し尽くし、片腕を失い、骨と皮ばかりの姿となって、それでも這いずりながら、杏子だったものの残骸《ざんがい》へとにじり寄ってゆく。
泣いていた。
浮き出た頬骨《ほおぼね》の上を、涙が伝い落ちていた。
「杏子……、杏子!」
血を吐くような呻《うめ》きだった。
はらわたを絞るような呻きだった。
いつくしむように抱きかかえた肉片は、ぽろりと崩れて、シャツの胸元を黒く汚した。
その胸元に脚を引き寄せ、黒い残骸を胸に抱いたまま、ゴーストはうずくまって肩を震わせた。
夜の雷雨に怯《おび》えてベッドの中で震える子供のように。
ちくしょう、ちくしょうと呻きながら。
「てめぇら……」
嗚咽《おえつ》が、唸りに変わる。
「杏子を殺したな」
うずくまったまま。
「杏子がてめぇらに何かしたか」
肩を震わせ、涙混じりの声で。
「この子は生きたかっただけだ。生きていたかっただけなんだぞ」
ゆっくりと、顔が持ち上がる。
こけた頬の上で、二つの眼《め》がぎらぎらと光を放つ。
「何度殺せば気が済むんだ……」
その眼が突然、倍ほどの大きさになった。
「なんどころせばきがすむんだぁああぁあ!!」
吠《ほ》えた。
そして、跳んだ。
跳んだのである。うずくまった姿勢から、何の予備動作もなしに、まるで爆発に弾《はじ》かれたように宙を舞ったのである。
信じられないことだった。
いかなゾーンと言えど、生き物であることに変わりはない。肋《あばら》が浮き出るほどに消耗していながら、それだけの跳躍力を見せることなど、あり得ないはずなのだ。
だが、ゴーストは跳んだ。
執念か。
それとも、これこそを奇跡と呼ぶべきなのか。
標的は、最前列で銃を構えていた男だった。ゴーストが獲物を襲う蜘蛛《くも》のように、その頭部に全身でしがみついたのである。
「う、がぁ!」
奇怪な悲鳴とともに、男が引鉄《ひきがね》を引いた。大き過ぎる銃の先端は空を切り、でたらめに放たれた弾丸が地下道路の壁を、天井を穿ち、照明を三つほど割った。
ついに銃を捨て、引き剥《は》がそうともがく。だが、それだけだ。
男が倒れた。
上半身に貼《は》り付いていたゴーストの顔が、明らかに変化していた。
肉が付いているのだ。
ごっそりと落ちていた頬の肉が、ほぼ元通りに回復しているのである。
倒れた強化服のゴーグルが砕け、その回りをどろどろした液体が汚している。ゴーストが、はあ、と口を開くと、内側で先端の尖《とが》った太い肉のパイプがのたうった。
舌だ。
先端から滴り落ちて、じゅう、という音をたてて床を溶かすのは、酸だろう。
喰《く》ったのだ。
顔面に肉のパイプを突き立て、強力な酸で溶かして啜《すす》ったのである。
たった数秒で。
丈は、ようやく我に返った。
「ゴースト! 殺すな!!」
「うるせえぞゾアハンター!」
それは腹の底に響く唸りだ。
「おとなしく、そこで転がってろ!!」
吐き捨て、ゆらり、と立ち上がる。
千切れていたはずのゴーストの左腕が、再生していた。
背中を丸め、首を突き出し両腕を垂らした、その姿はまさに幽鬼そのものだ。
「こいつらが杏子から奪ったものを、俺がこいつらから奪ってやる」
命を、だ。
ゴーストの周囲でゾアスクァッドが、がちゃがちゃと音をたてて銃を構える。
「莫迦《ばか》! 逃げろ!」
今のゴーストは、庇護者《ひごしゃ》ではない。
怒りと絶望に狂った復讐鬼《ふくしゅうき》なのだ。
どれほどの物量で押したところで、敵《かな》うわけがない。
「皆殺しにされるぞ!」
だが、無駄だった。
「撃てぇッ!」
うわずった指揮官の命令よりも一瞬早く、ゴーストが動いた。両腕と両脚で、俊敏な捕食性の昆虫のように地を這ったのである。
輪郭がぼやけて見えるほどの高速で。
真っ先に狙《ねら》うのは、指揮官だ。ご自慢の拳銃の腕前も、今度は間に合わなかった。居並ぶ精鋭部隊の足元を縫うように近寄ったゴーストは、一瞬で彼の胸に這い上がり、押し倒したのである。
「このッ! バケモノがッ!」
仰向《あおむ》けに倒れた指揮官の上に、ゴーストが馬乗りになって、今まさに胸の装甲板を引き剥がそうとしている。周囲では、何をやってやがる、強化服に身を包んだ男達が呆然とそれを見ていた。銃を構えたまま発砲も出来ず、さりとて指揮官を救うために殴りかかるでもなく、ただ怯えたように立ち尽くしているのである。
ゴーストは、笑みを浮かべていた。倍ほどの太さに膨れ上がった腕で、カニの殻でも剥《は》ぐように、めりめりと装甲板を引き剥がしにかかっているのだ。
その腕が、肘《ひじ》の辺りで突然、切断された。勢い余って、ゴーストは仰向けに引っ繰り返った。
ダリアだった。
助手席側の窓から身を乗り出し、銀色の小型レーザー銃を構えている。通常はゾーン焼却に用いる物だが、当然、武器としての使用も可能だ。それで、ゴーストの腕を狙い撃ったのである。
アジモフ・コード第二条だ。人工知能は、人間に危険が及ぶことを看過出来ないのである。
それがたとえ、誰であっても。
「ギァ!」
奇怪な声とともに、たった今レーザーに切断されたはずのゴーストの腕が伸びた。断面から、肉の噴水のような勢いで組織が飛び出したのである。
一直線に、シルバーに向かって。
がん、という金属質な音をたてて、節くれだった触手がシルバーのドアに突き刺さる。無数の弾痕《だんこん》に覆われながら、しかし一発の銃弾も貫通させなかったドアを、肉の束が無造作に貫いたのだ。
瞬間、ダリアの躯が痙攣《けいれん》し、そのまま車内に倒れて見えなくなった。
引き抜かれたゴーストの腕は、黒光りする鋭い槍《やり》のように変形していた。
「人形は寝てろ!」
ついに指揮官の胸部装甲が剥がされた。
無防備になった胸に、ゴーストが顔を埋めた。
「ぎぁああぁあ! ぎあ! が! あがぁああぁああ!」
絶叫が反響した。
生きながら喰われる苦痛に、手足がばたばたと痙攣する。やがて糸が切れたようにその動きが停《と》まり、野獣は顔面を獲物の血に染めて、にたりと笑った。
凄惨《せいさん》な笑みだった。
地獄を見た者にだけ可能な笑みだった。
ゴォオオォオォオオォォオォオオオォオォオオォォオ!
吠えた。
「くそ!」
止めなければ。
だが丈は、満足に立ち上がることさえ出来ないのだ。
殺戮が始まった。
ゾーンを追い詰め狩り出すべき者達は、今は追い詰められ狩られる側に回っていた。一切の武器も、一切の防御も、ゴーストの前では無力だった。
撃たれても、ゴーストは平気で向かっていった。電子ブレットを叩き込まれ、組織をマイクロ波に焼かれながらも、それはみるみる再生してゆくのである。
簡単な理屈だ。
燃料を補給しながら走れる車があれば、その車は絶対に停まらないのだ。
しかも、停まらないだけではない。
哀れな犠牲者を喰らい続けるゴーストの姿が、みるみる変わってゆくのである。
身長は、すでに三メートルは超えているだろうか。ジャンプすれば緊急地下道路の天井に頭をぶつけそうなほどだ。
肩幅も倍以上に拡《ひろ》がり、胸板も異様に厚い。
太い腕は膝の下に届くほど長く、太い脚は踵《かかと》から先の長い獣脚になっている。四肢は先の方が黒いウロコに覆われていて、手袋とブーツを着けているようにも見える。
厚い体毛に覆われた下半身とは対照的に、上半身は皮膚が剥《む》き出しだ。だがその皮膚は薄い灰白色で、胸から肩から背中にかけて、黒く鋭い刺《とげ》が密生している。
哮《たけ》り狂う殺戮の魔獣だった。
なのに、その顔は黒川丈と同じ、あの顔のままなのだ。
銃を乱射しながら後退していた男は、ついに追い詰められ、ゴーグルに腕を突き込まれて絶叫した。
銃を振り上げて背後からの攻撃を試みた男は、ゴーストの背中に生じた巨大な顎に、銃と強化服ごと腕を噛《か》み千切られた。
逃げようと背を向けた男は、脆弱《ぜいじゃく》な関節部に針のように鋭い触手を打ち込まれて、全身を痙攣させた。
それは復讐だった。
ゾアスクァッドへの。
あるいは、人間への。
「丈……」
音緒だ。
抱き起こしてヘルメットを脱がせると、弱々しく上がった手が丈の腕を掴《つか》んだ。
「モノサイクル……どこ?」
「なに?」
すぐ、そこだ。
目の前に、倒れている。
「音緒、お前……」
少女が頷く。
「あいつ、停めなきゃ」
哀《かな》しげな笑みを浮かべている。
「あれじゃ、駄目だ。あんなこと、杏子は望んでない」
ああ。
それは判ってる。
だが、
「無理だ。脚をやられた」
モノサイクルの最大の特徴は、一つしかないホイールと、そして二本の足だけで行う特殊な運転法なのだ。
それでも音緒の顔からは、笑みは消えなかった。
「大丈夫だよ」
少女は言った。
「あたしが、いるじゃん」
それは、決意だった。
弱い。
弱過ぎる。
こんな連中が、俺を追い詰めたのか。
こんな連中が、杏子を殺したのか。
ゴーストは吠えた。
それは嘲笑《ちょうしょう》だった。
「撃て! 撃て撃て!」
半ば悲鳴のように叫びながら、残った十数人ほどが、後退しながらも必死で銃撃を加えてくる。その哀れな姿を見下ろして、ゴーストは笑った。
「早く殺してみろ! 杏子を殺したみたいに、俺も殺してみろ!!」
打ちつける電子ブレットが、鋭い熱と痛みをゴーストの肉体に送り込む。だがそれも、ほんの数秒間のことだ。放射されるマイクロ波の出力を上回るゾーン細胞の増殖力が、焼かれた肉や内臓ごと、弾丸を体外へと押し出してしまうのである。
生き残ったゾアスクァッドは、肩を寄せ合うように密集し、ひたすら銃を乱射し続けてくる。弾が切れれば気の毒なほどうろたえて弾倉を交換し、それでも全弾を撃ち尽くした者は、今度は拳銃を抜いて撃ちまくる。強化服に身を包み武器を手にしてはいたが、彼らは今や戦士ではなくなっていた。
ただの人間だ。
強敵を目の前にして、本能的に群を作って逃げまどう、ただの哀れな動物だ。
いや、最初からそうだったのかも知れない。彼らは闘うためではなく、圧倒的な物量で獲物を追い詰めるために来たのだから。武器を手にして鎧《よろい》に身を包んでいても、彼らが敵を攻撃するのは逃走と同じなのだ。自らが敵の前から去る代わりに、敵を自分の目の前から消し去ろうとしているだけなのだ。
くだらん。
最低だ。
「貴様らが俺を殺せないなら……」
ゴーストは、一気に間合いを詰めた。
「俺が貴様らを殺してやる!」
胸板に弾丸を叩き込まれながら、手近な奴を捕まえる。もう装甲板を一枚ずつ剥がす必要もなかった。両腕を掴んで左右に引っ張ると、中身ごと二つに裂けた。
あふれ出る内臓にかぶりつく。その背中を、悲鳴のような叫びとともに銃弾の雨が打った。背中から五本ほど触手を伸ばすと、二人ほど装甲ごと貫く感触があった。
そのまま中身を吸い出してやった。
背中を向けて逃げだす奴を捕まえて、頭上に持ち上げて引き裂いた。仰向けに迎えたゴーストの顔を、だぱだぱと鮮血が洗う。垂れてきた臓物を啜り、噛み千切った。
これだけの人数を一気に喰うのは初めてだ。
撃ってくる奴もいたが、喰ってやった。
腰が抜けて立てなくなっている奴もいたが、喰ってやった。
車の陰で震えて見つからないように祈っている奴もいたが、喰ってやった。
仰々しい装甲を剥いで、その肉を喰らってやった。
それでも、まだ半分以上残っていた。
全部、喰ってやる。
杏子を生きたまま焼き殺したてめえらを、一人残らず生きたまま喰ってやる!
ついさっきまでの絶息するような消耗は、もう跡形もない。余剰の分は、全て新たな器官を構築するために回した。周囲の光景が少しずつ小さくなってゆくように感じるのは、躯が大きくなってきたせいだろう。
いくらでも大きく、強くなる。ゴーストには、それが実感出来た。
だが爽快感《そうかいかん》など、微塵《みじん》もない。
ただ胸の奥底に、冷たく苦いものがあるだけだ。
せっかく手に入れた希望は、指の間から力ずくでもぎ取られた。もう二度と、彼女を取り戻すことは不可能だ。
杏子。
ゾーンになった彼に、初めて笑顔を向けてくれた少女。
身を削り、苦痛に耐えて、ようやく逢《あ》えたのだ。
その腕に彼女を抱き締め、とっくに言っておくべきだった言葉を、今度こそ言うはずだったのだ。
すまない、と。
許してくれ、と。
想像を絶する飢渇に負けて彼女の肌に牙《きば》をたてた罪に、人間としての彼女の人生を奪ってしまった罪に、許しを乞《こ》わねばならなかったのだ。
だがその機会は、永遠に奪われた。
人間の手で。
人間どもの手で。
この脆弱で卑屈で傲慢《ごうまん》な、糞のような生き物のせいで!!
「どうした! 逃げるな! 俺を殺してみろ!!」
最後の一人は、壁際まで追い詰められて、拳銃の引鉄を引き続けていた。とっくに空になっている銃は、かちかちと乾いた音をたてるだけだ。ゴーグルの奥の眼が、目玉が飛び出しそうに見開かれていた。
腕を伸ばして首根っこを掴み、反対の手で腰を掴む。
引き裂いた。巨大な水風船が割れるみたいな音がした。
中身を齧《かじ》ろうとした時、一続きの轟音とともに大量の電子ブレットがゴーストの巨体を叩いた。
斜め後方からだ。
見ると、地上へ続く斜路に、新たなゾアスクァッドがひしめいている。
ゾアハンターの野郎、あれだけ上でドタバタしておきながら、連中にとどめを刺さなかったのか。
「うざってぇぞ!」
軽く意識しただけで肩口が盛り上がり、その中央に発生した水晶体が生体レーザーを発射した。先頭の中央にいた五人ほどが、横様に切断される。
それでもカーキ色の兵士の群は、銃撃をやめようとはしなかった。上下に分断された仲間の屍体《したい》に見向きもせず、じりじりと後退しつつも、マイクロ波を放つ銃弾を撒き散らし続けている。
なるほど。
来い、ってことかよ。
ゴーストは吠えた。
「行ってやらあ!!」
四つ脚に近い姿勢で、新たな犠牲者の群に向かって突進する。地上への合流点を塞《ふさ》いだゾアスクァッドは一瞬で踏み潰《つぶ》され、引き裂かれた。
だがゴーストは停まらない。
そのまま地上へ出た。
出迎えが待っていた。
出口を囲むように滞空した三機のヘリが、機首のバルカン砲をこちらに向けて、待ち構えていたのである。
束ねられた銃身が回転しつつ、一斉に火を吹く。
だが無数の銃弾が命中するよりも、ゴーストの反応の方が速かった。背中から一瞬で翼が展開し、回り込んで躯の前面を覆い隠したのだ。
それも、ただの翼ではない。その表面を覆うのは羽根ではなく、カミキリムシの鞘翅《さやばね》にも似た黒光りする外骨格なのである。
無数の火花が、マントのように閉じた黒い翼の表面で炸裂《さくれつ》した。がんがんがん、という固い音が連続し、ゴーストの周囲を跳弾が削った。
「嘗《な》めンじゃねえ!」
ごう、と腹の底に響く咆哮とともに、巨体が宙を跳んだ。
真ん中のジェット・ヘリの、その正面へ。
「同じ攻撃が何度も通用するかよ!!」
次の瞬間、一閃《いっせん》の光条に燃料タンクを撃ち抜かれた機体は、瞬時に発生した高温高圧のガスに内側から引き裂かれ、火球となって爆発した。本体が炎上しながら落下し、ローターが竹トンボみたいに宙を横切ってビルの外壁に突き刺さり、無数の破片は花火のように弧を描いて路面に降り注いだ。
両側の二機が散開し、上昇して距離をとりにかかる。
巨大な黒い翼で大気を叩いて、ゴーストはそのうちの片方に追いすがった。
下から、だ。
コンテナに取りつき、外壁に爪《つめ》を食い込ませて、左右に引き裂いた。ゾアハンターにやられて負傷した連中だろう、乗っていた兵士達が、いきなり機体に生じた裂け目を振り返る。ヘルメットを閉じていない顔には、驚愕《きょうがく》の色があった。
にたり、と笑いかけてやると、それは恐怖に変わった。
「おだいじに」
その言葉と同じ口から、ゴーストは炎を吐いた。体内で炭素や水素を化合させて可燃性の液体を生成し、口腔《こうこう》内のレーザーで点火したのである。
それも、一瞬で。
二機目のヘリも、爆裂して散った。何人もの兵士が破片に混じって、黒い煙を曳《ひ》きつつ落下してゆく。強化服は装着者を墜落の衝撃から護ったが、蒸し焼きになった犠牲者には無意味だった。
三機目のジェット・ヘリは、ようやく事態を悟ったようだ。攻撃を諦《あきら》めたのか、垂直に上昇してゆく。
「見切りが遅いぜ」
閃光。
ローターが一枚、高熱に焼き切られて吹っ飛んだ。揚力を失った機体はスパイラル状態に突入し、あっけなく垂直に落下して、一瞬の間をおいて炎を噴き上げた。
歓声があがった。
場違いなまでの、嬉《うれ》しそうな声だった。
背中の翼を羽ばたかせながら見下ろすと、何百という目が彼を見返してきた。
既に鎮火して黒コゲのスクラップとなった車の向こうから、歩道の上から、周囲のビルの窓や屋上から、好奇心を剥き出しにした野次馬の顔が、いくつも、いくつも、いくつもいくつもいくつも、彼を見ているのだ。
まるでショウか何かでも見物するように。
「糞が」
吐き捨てた。
人間どもが。
自分の身を護るためなら無抵抗なイキモノでも平気で殺し、他人の不幸には目を血走らせて食い入る。目の前で起こっていることの意味を理解しようとさえせず、ぞろぞろと群れては流れに身を任せる。
この世には、と彼は思った。
生きている価値のある奴と、生きている価値のない奴がいる。
存在する価値のある命と、存在する価値のない命がある。
人間ども。
お前らには、
「その価値はない!!」
ゴーストは胸を反らせ、肺いっぱいに空気を吸い込んだ。
ばざん、と音をたてて翼をひねり、道路を塞いだ人間どもの群の正面に着地する。
見上げんばかりの異形《いぎょう》の巨体に、最前列の連中が、わずかに後ずさったが、背後に控えた圧倒的な人の壁に遮られた。
腹に響く、ぼん、という音は、霧状に噴き出す液体燃料がレーザーの熱で点火される音だ。ゴーストの口から噴き出した分厚い炎が、人間の群を舐《な》めた。
パニックが始まるまで、時間がかかった。
まず炎に包まれた十数人が悲鳴をあげ、そのすぐ側にいた連中が炎から逃げようともがき、満員電車みたいにぎっちりと詰まった群衆が揺らいで、それからだった。
逃げ始めた。
口々に悲鳴をあげ、行く手をはばむ人込みをののしりながら、四方へ散ってゆく。
「手遅れだ!」
ゴーストは、さらに炎を吐いた。
もう一度。
さらに、もう一度。
そして、もう一度。
くたばれ、人間ども。
消えうせろ、人間ども。
背後では三機のヘリが炎をあげている。
目の前では人間どもが炎に包まれて逃げまどっている。
その直中《ただなか》で、ゴーストは喉を反らして、ごう、と吠えた。
誰にも俺を停められない。
誰にも俺を停められやしない。
誰にも。
糞っタレ! 誰にも、だ!
「誰か俺を停めて見せろおお!!」
聞き覚えのあるエンジン音は、その時だった。
かすかに残響しながら、近づいてくる。
「ゴォオストォオオォオオォオ!」
背後からの叫びに振り返った彼は、そこに宿敵を見た。瓦礫《がれき》を乗り越えて、一台の黒いマシンが緊急地下道路の出口から飛び出してきたのである。
燃えるヘリを背に、マシンがタイヤを鳴らして停止する。
「まさか……」
来るはずのない男が、そこにいた。
黒川丈。
「……ゾアハンター!」
三節棍《さんせつこん》のような武器を手に、モノサイクルに跨《また》がって。
車体を傾けて右足を路面に突き、左足は膝から下が動かない様子で、かろうじて太腿《だいたい》で車体をホールドしている。
彼の左足の代わりに、左のフット・レストには紫色のブーツが載っていた。ゾアハンターの腰には、紫色の細い腕が背中から巻きついている。黒い上着の腋《わき》の辺りから、少女が顔を出して、こちらを睨み付けていた。
まるで冗談だ。
だが、こいつらは本気だ。
モノサイクルを二人がかりで操って、立ち向かって来ようとしているのだ!
いいぞ。
そうこなくては面白くない。
ゾアハンター、貴様はまさしく『俺』だ。
その闘志。
諦めるということを知らない、その往生際の悪さ。
まさに貴様は、『俺』と同じだ。
「いい恰好だな、ゾアハンター」
「てめえほどじゃねえや、ゴースト」
応える黒川丈の、手にした武器が変形した。三本の金属棒を繋ぐワイヤーが縮み、ロックがかかって、一本の長い金属棒へと姿を変えたのである。
金属製の『棍』だ。
一八〇センチほどの金属棒の両端に、青白い電光が走った。
「停められるか、俺を」
「ああ。停めてやるぜ、てめぇを」
やってみろ。
俺を停められる者がいるとすれば、それは『俺』だけだ!
吠えた。
ゴウ!
緊張に背筋を延ばした音緒は、その拍子に走った痛みに、顔をしかめた。今は防護服がギブスの役目をしているが、これを脱いだらもう座っていることさえ出来ないだろう。
丈の背中ごしに、ゴーストの姿が見える。黒い翼を持った、まるで悪魔だ。
「停めてみせろおおッ! ゾアハンタァアアァア!」
丈と同じ、その顔が叫ぶ。
憤怒と絶望に歪みながら。
喉の奥に痰《たん》でもからんでいるような、ごろごろという響きを伴った、それは野獣の咆哮だ。こちらに向き直る時、恐竜のような太い尻尾《しっぽ》が、びだん、と路面を叩いた。
「行くぜ!」
「はいッ!」
クラッチを切る。
同時に、丈がシフトをローに入れたようだ。音緒が再びクラッチを繋ぐと、マシンは尻を蹴《け》られたみたいに前に飛び出した。
音緒の担当は、左のペダルだ。フット・レストに足を載せれば、その前後に突き出したペダルが、それそれ爪先《つまさき》と踵に触れる配置である。爪先のペダルを踏めばアクセル。踵の方がブレーキ。フット・レストそのものを垂直に踏み込めばクラッチが切れて、放せば繋がる。
シフトやバックは右側なのだろう、モノサイクルに跨がる前に音緒が教わったのは、それだけだ。
いけるか、と丈は聞いた。
いける、と音緒は応えた。
脚の痛みをこらえる丈に、自分も背中の痛みをこらえながら。
これから、もっと痛くなる。
丈も、あたしも。
それでも音緒は、逃げたいとは思わなかった。
闘うんだ。
これから。
初めて、丈と一緒に!
「おぅらあ!」
ゴーストの姿が一気に近づいてきて、すれ違う。
間髪入れずに丈が腰をひねる。パニックに陥った群衆の目の前で、モノサイクルが一八〇度スピンした。振り落とされそうになって、音緒は丈にしがみつく。背骨のちょっと右の辺りに、捩《ね》じ込むような痛みが走った。
「クラッチ!」
「はいッ!」
丈の腰に回した腕に力を込め、痛みをこらえて必死で左足を動かした。
音緒がクラッチ。
丈がシフト。
音緒がアクセル。
ゴーストの丸太みたいな腕が振り降ろされたが、丈が腰を捻《ひね》るだけでマシンは蛇のようにコースを変え、音緒は頬に風圧を感じた。打撃音とともに稲光のような電光が閃《ひらめ》く。手にした電撃ロッドで、丈がゴーストの腕を打ったのである。
「クラッチ!」
「はいッ!」
ブレーキとクラッチを一緒に踏む。
シフト。
それからアクセル。
振り返って無事な方の腕を振りかざすゴーストの姿が、急速に後退してゆく。音緒のシフトと同時に、丈がギアをバックに入れていたのだ。ゴーストの手首の一部が沸騰するように泡立っているのは、高圧電流によって生じた火傷《やけど》が再生しているのだろう。
「ストップ!」
丈の指示の前に、音緒はもうブーツで斜め後方を踏み、ブレーキとクラッチを同時に操作していた。
自分でも驚いた。
判《わか》ってしまったのだ。
丈の考えていることが。
丈が次に、どんな動きを取ろうとするのかが、一瞬前に判ってしまったのである。
クラッチを繋ぐと、マシンは前へ飛び出した。
その次の動きも、判った。
だから、丈の指示が出る前に、全てを終えた。
瞬間的にブレーキを踏み、丈が体重を移動するより前に躯を傾ける。ゴーストの巨体にぶつかる寸前で、モノサイクルは九〇度の方向転換を見せた。同時に、閃光が起きる。ゴウ、という咆哮が、それに続いた。振り返ると、巨獣の反対側の腕が肘の下辺りで焼けただれ、ぶつぶつと沸騰していた。
加速して、再び距離をとる。
「音緒、お前……!?」
丈の声が、背中に押しつけた頬に響く。
「うん!」
判るよ。
丈の考えてること、全部、判る。
丈が、どう闘おうとしているのか、どう闘いたいのか、あたしにどうして欲しいのか、全部、判る!
音緒の『才能』が、働いていた。
フル回転していた。
丈のことだけを考えていた。
丈と一緒に『家』に帰ることだけを考えていた。
そして、そのために必要なことだけを、音緒は考えていたのだ。
大好きな人と一緒にいたい、ただそれだけのために。
約束は、三つあった。
丈は、とっくに忘れてしまっていたけれど。
そして音緒は、そのうちの二つを破ってしまっていた。
丈のことは、誰にも話していない。けれど今、物凄《ものすご》く危険なことをしている。
そして、破った約束が、もう一つ。
「よし! いくぜぇ!!」
丈の宣言には、笑みの響きがある。
「おう! いくぜぇ!!」
だから音緒も、同じ声で応えた。
ごめんね、丈。
でもあたし、あなたと一緒だったら、命、懸けてもいいよ!
地響きをたてて、ゴーストが一気に迫る。背を向けて逃げる、と見せかけて、マシンはバックで逆に接近しながら、するり、と脇をすり抜けた。丈の電子ブレードが太い尾の先端を打ち据えるのが見えた。異臭のする煙をまとって、電撃に硬直した尾が、ばたばたとのたうった。
ガァアァアア!
怒り狂って、ゴーストがこちらを向く。丈が打った腕も手首も、そしてたった今電撃を叩きつけたばかりの尾も、もう無傷に戻っている。
変だ、と音緒は思った。
ゴーストの巨体が、ほんの少し、小さくなっているように見えたのだ。
いや、気のせいではない。
確かに、一回りほど縮んでいる。もとのゴーストよりは確実に大きいが、それでも、さっき見た時よりは小さい。ひょっとしたら、もう三メートルもないかも知れない。
丈の作戦が、ようやく判った。
削っているのだ。
ゴーストの巨体を。
電撃ロッドの叩き込む電流は、並のゾーンなら数分間は行動不能にするほど強力だ。少なくとも、米沢先生はそう言っていたそうだ。
そんな攻撃を、ゴーストは連続して受けているのである。
しかも、それでも構わずに攻撃してくるのだ。
おそらく、電撃によって受けるダメージを強引に押さえ込んでいるのだ。しかもそれ以前に、ヘリを三機とも落としているし野次馬に集まった群衆を襲ってもいる。
無理がかかっていないわけがない。
それは、いつだったかのダイエットの連想と同じことだ。
食事制限をしながら激しい運動を続ければ、痩《や》せるに決まっているのだ。
けれど。
それでも、ゾーンを倒せるわけではない。
「音緒」
「はい」
「地下へ誘い込むぞ」
「了解!」
ぱちん、という乾いた音がして、丈の手にする電撃ロッドの先端が火花を散らした。
こちらの火花も、さっきより小さいような気がした。
その部屋に、窓はない。
外界と繋がっているのは、ドアに開けられた細いスリットだけだ。三メートル四方ほどの狭い部屋で、置かれているのはデスクとパイプ椅子《いす》が一つだけ。
その粗末な椅子に座って、米沢は溜《た》め息をついた。
だが、後悔があるわけではない。
ただ憂鬱《ゆううつ》なだけだ。
黒川丈への連絡は、途中で切れた。委員会が、回線を切ったのだ。
すぐに数人の警備員がやって来て、彼を研究室から引きずり出した。放り込まれたこの部屋は、主にESP実験に用いられるものだった。
今は、留置場だ。
ゾアスクァッドの最初の作戦が終了し、落ちついてから委員会による尋問が行われるまで、彼を拘禁しておくつもりなのだ。
「作戦、ね」
何が作戦だ。
物量で押せば何とかなると思っているだけじゃないか。
あるいは、と米沢は思う。
黒川丈が彼との約束どおりゾアスクァッドを止めてくれるなら、全滅だけは免れるかも知れない。
だが、被害は甚大だろう。
大半が殺されるに違いなかった。
ゾーンに。
人喰いの野獣に。
けれど本当に問題なのは、その後だ。
その後に、起きるかも知れないことだ。
どちらにせよ、と米沢は思う。
全てはゾアハンターの手に委《ゆだ》ねられたのだ。
ゴーストに背を向けて距離をとりにかかった途端、音緒が背後から、丈の躯を横倒しにするように引っ張った。
丈の意志を先読みしたわけではない。それは全く予想外の動きだったのだ。
その意味を、彼は瞬間的に理解した。逆らわずに、同じ方向に体重を移動する。マシンは急激に蛇行し、次の瞬間、斜め前方のアスファルトが融解した。拳《こぶし》ほどの範囲が煮立って蒸発したのである。
生体レーザーだ。
ゴーストの肩口に盛り上がっていた水晶体が、レーザーを放ったのである。あのまま直進していれば、今頃は二人仲良く貫かれていただろう。
平衡装置の助けを借りてマシンを引き起こす。
第二撃が来た。
マシンは再び蛇行し、レーザーはアスファルトを沸騰させた。
三つめの攻撃も四つめの攻撃も、同じだった。
それは奇妙なダンスだ。少女のリードに従って、黒いマシンが右へ左へ、フィギュア・スケーターのように舞いながら熱線を回避してゆくのである。
背後に轟くのは、明らかに怒りの叫びだった。
地下道路出口の手前でマシンをスピンさせると、追ってくるゴーストと向き合う恰好になった。
「あばよ! また逢おうぜ!」
応えるのは、
「逃がすかぁあ!」
どろどろと澱《おり》を含んだ獣の叫びだ。
丈と音緒は、マシンを斜路へと突っ込ませた。瓦礫を踏み越える時、振動で膝の痛みが脳天まで駆け上がった。ばらばらに引き裂かれたゾアスクァッドの血糊《ちのり》でタイヤが滑り、腰をひねって体勢を立て直すと、フィードバックの過負荷で腰椎《ようつい》の奥のターミナルが警告の激痛を発した。
「糞っタレ……」
思わず呻く丈の腰に回った少女の腕が、優しく抱きかかえるように動く。
後ろからは、地鳴りのような足音が迫っていた。
緊急地下道路の本線に入る。
電撃ロッドのバッテリーは残り少ない。おそらく、もう一発が限界だろう。
そう判断した丈は、再びロッドを変形させた。
モード2。
接続部のリングを『2』の刻印に合わせると、ロックが外れ、ワイヤーに繋がった状態でロッドが左右に分離する。
マシンを反転させ、響く足音を迎える。
「いくぜ」
「はい」
音緒の返事とほぼ同時に、目の前の分岐点に、ゴーストが姿を現した。
「ゾアハンタァアアァアア!」
ギアをバックに入れる寸前、左足の方で、かちん、とクラッチが切れた。
音緒だ。
彼女は確実に、丈の意志を『読んで』いた。
超演繹《ちょうえんえき》能力の、もう一つの側面だ。
読心能力である。
些細《ささい》な情報の集積から以後の展開を高確率で予測するのと同じく、見知った相手の性格や行動原理を現状と照合し、次の行動を、ほんの一瞬前にだが、しかし確実に予測するのである。
マシンが高速で後退を開始する。
真正面からは、吠え哮る口許《くちもと》から涎《よだれ》を吐き散らしてゴーストが追ってくる。
その体格が、確実に縮小していた。尻尾を除けば、体長はせいぜい二メートル強というところだろう。生体レーザーの連続照射が、決定的にその身を削ったのだ。
いけるか?
これだけ消耗させれば、もう充分か?
だが仮に不充分だったとしても、次善の策があるわけではないのだ。
「音緒」
はい、と応える少女はアクセルを踏み込みながら、丈の腰に回した腕に力を込めて背中に頬を押しつけてくる。
「ちゃんと後ろ、見てろよ」
「うん」
背中に、音緒が首を動かす気配。
「それと、何が起きてもアクセルは踏みっ放しだ。停まれと言うまで停まるな」
「判った」
頷き。
ほぼ直線に伸びる緊急地下道路を、丈と音緒を乗せたマシンが最高速度で逆進する。
追いすがって来るゴーストは、四本の足で地を蹴り、今や獲物を追う肉食獣の有り様へと変わり果てていた。
もうレーザーを撃ってはこない。それどころか、肩の生体レーザー発振器官そのものが消えうせている。やはり、かなり消耗しているのだ。
それでもゴーストは、追ってきた。
太い前脚が地を掴むように手繰り寄せ、さらに太い後脚がそれを後方へと蹴る。オレンジ色の照明をぎらぎらと反射する二つの瞳孔《どうこう》の下では、唾液《だえき》に濡《ぬ》れた太い牙が剥き出ている。狼《おおかみ》のように鼻の頭に皺《しわ》を寄せるのは、噴き出す怒りを持て余した時の丈と同じだ。
おめぇは、と丈は思う。
何を考えてるんだ?
何を思ってるんだ?
その歪《いびつ》な胸の中に、今、何を抱えてるんだ?
怒り。
絶望。
哀しみ。
どんな言葉にも換えられない喪失感。胸の奥に開けられた穴から溢れる血の中で、溺《おぼ》れてしまいそうになる、あの感覚。
美咲を失った時、丈自身もそうだった。
だから復讐したのだ。
そうだ。
あれは正義ではなかった。
復讐だ。
そして、丈は思う。
その結果、生まれたのが、お前だ。
ゴースト。
俺の復讐が、お前を生んだ。
だったら、俺がけりを着けてやる。
やっと判ったぜ、ゴースト。
お前は、単なる敵じゃない。
お前は、俺が払うべき『ツケ』だ。
ならば。
俺はお前を停める!
「やるぜ」
「うん」
右手に握った武器を、遠心力に任せて振り回した。
狙いは、ただ一点のみ。
「うら!」
投げた。
ワイヤーで連結された三本の金属製ロッドが、不規則に乱れた回転で宙を飛ぶ。電極が路面を撃って火花を散らし、次の瞬間、雄牛のように地を蹴立てて走るゴーストの前脚にぶつかった。
回転の続きでロッドが、ぐるり、と巻きつく。
一瞬、野獣の突進が阻まれた。
それは、ほんの一瞬。次の瞬間には、野獣は障害物を蹴り払った。しかし、わずかコンマ何秒かは、四つの脚の歩調が確実に乱れたのである。
距離が開いた。
今だ!
丈は腕を回し、腰のケースから金属球を取り出した。
拳ほどの大きさの、それは圧縮ナパーム爆弾である。側面の安全装置を握り込みながら親指でスイッチを押せば、三秒後には内部に仕掛けられた炸薬《さくやく》が破裂する。アルミ製の外殻を破壊し、内部の燃焼剤を振り撒きつつ点火するのである。
燃焼剤は、ナフサとパーム油を主剤とする液体だ。高速かつ高温で燃焼し、その最高温度は二千度に達するとともに、燃料が尽きるまでは消火することは不可能なのだ。
それを、しかし丈は点火スイッチを押さずに、左手で投げた。
再び追撃を始めた標的そのものにではなく、その頭上に向かって。
追いかけるように、右手を伸ばす。
武装ポッドが展開し、飛び出した鋼の部品が、丈の手の中で瞬時に黒い大型拳銃に組み上げられた。
狙うのは、金属球。
撃ち出される弾丸は、ヒュドラ・タイプの電子ブレット。
銃声とともに、金属球が引き裂かれた。
詰め込まれていた液体が発火しながら、ゴーストに頭から振りかかった。
ガァアアァアァアアァァアアァア!
咆哮。
マシンの後退速度が、緩んだ。
「停まるな!!」
「はいッ!!」
加速。
ナパームの炎に包まれれば、ゾーンと言えどただでは済まない。燃焼剤が炎をあげてへばり付き、生きたまま焼かれるのである。
だが、焼き尽くされるまでは、ゾーンは死なない。
細胞の最後の一つが燃え尽きるまで、ゾーンは決して死なないのだ。
ゴーストは、なおも追ってくる。
その咆哮は、生きながら焼かれる苦痛の悲鳴か。
それとも、怒りの叫びなのか。
二つ目の金属球を投げる。
撃つ。
炎が、さらに大きく育ち、その密度を増す。
火災警報のサイレンが轟き、照明が赤の点滅に変わって、天井のスプリンクラーからは水が噴き出した。突然の雨に叩かれた炎は真っ白な水蒸気を上げながら、しかし消えることなくゴーストの肉体をじりじりと焼き続けている。
ゴーストは停まらない。
停まらないのだ。
燃える足跡を点々と残しながら、激しく地を蹴って追いすがって来るのである。
「こン畜生が!」
さらに、もう一つ。これが、最後の一個。
投げて、撃つ。
炎が、さらに育つ。
信じられないことだった。
ゴーストは、それでも停まらなかった。
分厚い炎と水蒸気に包まれて、その体毛が、鱗《うろこ》が、皮膚が焼けてゆくのが見える。眼球が熱で爆せるのが見えた。血液が沸騰したのか、肩の血管が内側から裂けた。
驚異的な再生能力を持っているということは、苦痛がないということではない。しかも再生を上回る勢いで皮膚が、肉が焼かれ、炭化してゆくのである。
それでも、向かってくるのだ。
俺は停まらんぞ、とばかりに。
俺を停めてみろ、と言わんばかりに。
「往生しろやぁ!」
引鉄を引いた。
弾倉に残った三つの弾丸が、燃え盛るゴーストの胸に穴を穿った。
停まらない。
銃のスウィング・アウト・クレーンに直結したモーターが、弾倉を銃の左側面にまで回してくる。同時に丈の手首が開いて、飛び出したスピード・ローダーが、空になった弾倉に新たに六発の弾丸を込める。
撃った。
六連射である。
六つの銃声が、一つの轟音に繋がってゴーストを叩いた。
停まらない!
再び装填《そうてん》。
照準。
六連射。
畜生! 停まらねえ!!
「丈、行き止まりだ!」
音緒の声に、振り返った。
正確には、それは行き止まりではない。
T字路だ。
だが、この状況では行き止まりも同然だった。
高速で後退中なのである。しかも巨大な野獣に追われているのだ。左右どちらかに方向転換しようとすれば、確実に速度を落とすことになってしまう。
「糞っタレが」
かと言って後退を続ければ、激突だ。この速度で叩きつけられれば、丈の機体でさえ総取っ替えが必要なほどのダメージを受けるだろう。音緒の方は、間違いなく全身打撲で即死だ。
ここまでか。
そう思った時だ。
「丈!」
音緒が叫ぶ。
「壁に落ちよう!」
その提案の意味を、丈はただちに理解した。
だが、なんてアイデアだ。
「早く!」
それしかねえか!
銃を武装ポッドに戻した。その右腕を背後に回して、音緒の躯を抱いた。
前方では、
ガァアアァアアァァアアァァァアアアァァアアアァアア!
野獣が吠える。
「行くぜ!」
「はいッ!」
跳んだ。
右脚一本で、モノサイクルのフット・レストを蹴ったのである。
後方に。
迫り来る壁に向かって。
慣性の法則が、両腕で音緒を抱え込んだ彼の躯を、背後の壁面に向かって落下させてゆく。
そう。
落下だ。
それは、まさに横方向への落下だった。
丈は身をひねった。
路面と水平に、急速に接近するT字路の壁面に足を向けて。衝撃に備えて、音緒を抱き上げた恰好のまま、空中で横倒しになった。水平と垂直が、完全に入れ代わっていた。
壁に向かって『落ちる』のだ。
激突を回避するのではなく、十数メートルの跳躍力を持つサイボーグの脚で、垂直の壁に『着地』するのだ。
「うぉあ!」
『着地』の瞬間、脚、腰、背骨、頸椎《けいつい》の順にダンパーが開放され、同時に人工|頭蓋《ずがい》内部で緩衝液の濃度が高まり、丈の生身の脳を保護した。丈の方も、両腕のクッションを精一杯に効かせて、腕の中の少女を護った。
だが、右脚だけなのだ。
壊れた左膝は衝撃を吸収することなく、無抵抗に屈曲する。正常ならば両脚に分散されて幾何学的に拡散するべき負荷が、右脚一本に全て集中した。
衝撃が脚から腰を抜けて背骨を駆け上がり、頭蓋骨の底をぶっ叩いた。
膝の内側で、がきん、と嫌な感触があった。
だが、まだだ!
壁の『着地点』に向かって『頭上』から、ライダーを失ったモノサイクルと、そして炎を纏《まと》った野獣が『落下』してくるのである。
「糞っタレがぁああぁあ!!」
叫んだ。
全身のバネを振り絞って、限界ぎりぎりまで折った右脚を、再び伸ばす。今のが垂直面への『落下』だとすれば、次は『斜め上方』への跳躍だ。
少女を抱いて弾丸のように飛び出すサイボーグの、そのすぐ脇をモノサイクルがかすめて、壁に激突した。
丈の目の前に、炎があった。
野獣の形をした、炎の塊だった。
ほんの何センチかの距離を隔てて空中で交差する瞬間、その顔が、こちらを向いた。
分厚い炎の奥から、眼球を失った眼窩《がんか》が、こちらを見ていた。
焼け崩れた顔に、皮肉な笑みを浮かべて。
ああ。そうさ、ゴースト。
行け。
行っちまえ。
終点は、すぐそこだ。
丈と音緒が路面に転がるよりも先に、大音響と振動とが、地下道路を震わせた。
「うう」
腕の中で、音緒が呻く。
「大丈夫……」
……か、と言いかけて、丈は自分の方が大丈夫でなくなっていることを知った。
激痛が人工の背骨を這い上がったのだ。
両脚が、完全に動かない。
膝から先が全く効かなくなっていた左脚だけではなく、右足も、伸ばした恰好で固定されたまま、びくとも動かないのである。
「大丈夫?」
逆に、身を起こした音緒に言われてしまった。
「ああ。奴は?」
その言葉に、少女は黙って指さした。
動かないのは、丈の脚だけではなかった。
壁際で二つの残骸が燃えている。
一つは、丈の愛車。
もう一つは、巨大な野獣。
ゾーンを焼却するために、その動きを停める方法は、いくつかある。肢《あし》か、あるいは肢に相当する移動器官を切断または破壊すること。高圧電流や神経ガスなどによって筋肉を硬直、あるいは弛緩《しかん》させて行動不能にすること。
そして、全身の運動を統括する脳を破壊すること。
ゴーストは、頭から激突した。
死んだのだ。
いや、これから死んでゆくのだ。
もう一人の『黒川丈』が。
ゆっくりと。
しかし、確実に。
音緒は燃え盛る壁を指さしたまま、動かなかった。
スプリンクラーの雨に叩かれながら、真っ直ぐに伸びた指先から、雫が落ちた。
背中が痛んだけれど、音緒は一言も弱音を吐かなかった。
丈の方が、もっと大変だったのだ。
彼は動くことが出来なくなっていた。片方の膝から下はぶらんぶらんで、もう片方の脚は固定されたまま曲がらなくなってしまっていたのである。
物凄い『痛み』があるはずだ。
それでも丈は、立てねえ、と言っただけだった。
例の武器を音緒が拾ってきて、見よう見まねで一本の棒の状態に変形させると、それを杖《つえ》にして、彼は立ち上がった。
顔を強張《こわば》らせながら、それでも丈は音緒の手を借りようとはしなかった。だから音緒の方も、少しずつ増してくる背中の痛みについては、口にしなかった。
結局、シルバーのところへ戻るまでに三〇分近くかかった。
幸いだったのは、消防車に見つからなかったことだ。
おそらく、警報が鳴っている区域に向かうルートが、二人が歩いて戻るルートとは別だったのだろう。背後に消防車のサイレンが聞こえた時は、ひやっとしたけれど。
もとの所まで戻ると、地上からもサイレンの音が聞こえてきた。こちらも別ルートを使ったみたいで、ゴーストにやられたゾアスクァッドもシルバーも、そのままだった。出口が現場に近すぎたのが、逆に幸いしたのかも知れない。
二人は顔を見合わせて、笑顔で溜め息をついた。
それからシルバーの後部ドアを開けて、丈が乗り込むのを手伝った。
その次に前に回って、穴の開いた運転席のドアを開く。
「よかった。無事だったのね」
突然の声に、びっくりした。
「ダリア!」
声を裏返らせる音緒に続いて、おう、と丈が声をあげる。
「おめぇ、生きてたのか」
アンドロイドは助手席のシートに頭を載せて、仰向けの恰好で倒れていた。丁度みぞおちの辺りに大きな穴が開いていて、生体部品を中心とした内部機構が剥き出しだ。白い人造血液を口許から溢れさせながら、しかしいつもの冷静な口調で、
「ごめんなさいね、ネオ」
彼女は言った。
「あなたを護れなくて」
音緒が背後から撃たれたことを言っているのだ。
アジモフ・コードを考慮しても、それは意外な言葉だった。人間に危害を加えてはならない、その危険性を看過してもならない、という基本プログラムには、しかしそれが破られた場合の罰則を設けているわけではないのだ。ましてや、ダリアは単に、音緒の突然の行動に対応しきれなかっただけなのだから。
それでも、ダリアは言うのだ。
ごめんなさい、と。
「いいって」
音緒は微笑《ほほえ》んで見せた。
「それより、起される?」
「まだ駄目。ジョウ、4番ラックのケースをネオに渡してもらえる?」
「ああ」
手渡されたそれは、ダリアのための緊急補修ツールだった。指示されるままに、いくつかの部品を交換してゆく。やがてダリアは、お腹《なか》に穴を開けたままでシートに起き上がった。基本機能が、おそらく応急的にではあるが回復したのだ。
「ありがとう。後は自分で出来るわ。ジョウを手伝ってあげて」
言われたとおりにする。
後部の貨物スペースに回ると、丈が革パンツを膝の下まで降ろして、脚の部品交換を始めていた。
「手伝う?」
その光景に、ちょっと照れながら。
「おう、それ取ってくれ」
丈の『修理』は、ダリアよりも少しだけ時間がかかった。それでも五分もすれば、丈は立ち上がれるようになった。
それから三人は、最も見たくない現実に直面することになった。
シルバーを降りる。
丈は、まだバランスが悪いな、といいながら左脚を引きずっていた。
ゾアスクァッドの残骸が、そのまま放置されていた。
屍体ではない。
残骸だ。
食べ散らかされた後のカニ料理みたいな強化服の中身を、丈が一つずつ覗《のぞ》き込む。その間、音緒は杏子の燃えカスを見てしまわないように顔を逸らしていた。
一通り確認し終えた彼は、背筋を伸ばすと溜め息をついた。
「やっぱりなあ」
「なに?」
「中身が、ない」
言われて、音緒も覗いてみた。
丈の言うとおりだった。
カニの食べ残しとは違って、殻の中に食べきれなかったものが残っていたりはしなかった。
空だ。
中身が、まるでないのである。
「どういうこと?」
「出てったのさ」
「あ」
当然、そうなるはずなのだ。
ゾアスクァッドを喰い散らかしたのは、ゴーストだ。
ゾーンなのだ。
その屍体には、アザエルが感染する。
屍体の細胞が死滅するよりも早く、それは急激に進化して一匹の捕食生物となり、卵から抜け出すように強化服を脱ぎ捨ててしまったのだ。
「どこ行ったわけ?」
丈の答えは、さあな、だった。
「どっちにしろ、振り出しに戻ったってことだ」
たった今、最後のゾーンを倒したはずだった。
だが同時に、その一方で新たなゾーンが生まれていたのである。
「指揮官がいないわ」
ダリアが言った。
「なに?」
「指揮官の強化服が、ない」
確かに。
ヘルメットと肩装甲を赤で塗装した、あの強化服が、ないのである。
呻き声がしたのは、その時だった。
シルバーの下からだ。
「たすけ、て、くれ……」
もぞもぞと無様に這い出てきたのは、指揮官だった。分厚い強化服を無理やりねじ込むようにして、銀色の車体の下に隠れていたのだ。
立ち上がると、装甲を失った胸部の内側に、生身の胸が覗いていた。
人間の胸ではなかった。
絡み合った内臓が植物の外皮で覆われたような、意味不明の器官が覗いているのだ。
彼は人間ではなくなりつつあった。
それは、あるいはゴーストの企《たくら》みであったのかも知れない。指揮官は生きたまま、人間としての意識を持ったままで、じわじわと怪物化しつつあったのだ。
「ああ、ああ熱い。熱いんだよ」
おたおたと震える手がヘルメットに触れると、圧搾空気の音とともに頭部が展開して頭が出てきた。
額の後退したその顔は、まだゾアントロピーを生じていないようだった。
怯えていた。
かなつぼ眼を見開き、唇を震わせて、彼は哀願した。
「頼む、助けてくれ。ゾーンになる。化け物になってしまう」
その現実を、彼は目の当たりにしているはずだった。引き裂かれて転がる部下達の強化服から、もぞもぞと異形の怪物が這い出てくる場面を。
「一つだけ、方法があるぜ」
応える丈の声は、低い。
「首を切り落として、脳をアザエルから隔離するんだ」
「死ぬ。首なんか切ったら死ぬ」
「運が悪きゃあな。だが上手くいけば、俺みたいにゾーンにならずに生き延びられる」
言いながら、丈は左腕のブレードを『抜刀』した。
その刃に、電光が走る。
「どうする。早く決めねえと、アザエルが頭まで来ちまうぜ」
指揮官は決断した。
手にした銃を口にくわえたのだ。少女を背後から撃ち、ゾアハンターを不意打ちした、あの拳銃を。
音緒は丈に頭を抱え込まれたので、その後は見なかった。分厚い胸に顔を押しつけられたまま、ただ銃声だけを聞いた。
これだ、と音緒は思った。
突然に、理解したのだ。
これなんだ。
知性型のゾーンと、そうでないゾーンとがいる理由は、これなんだ。そして、知性を持ちながらも本能に翻弄《ほんろう》される奴と、そうでない奴とがいる理由は、これなんだ。
これだったんだ!!
「判ったよ、丈、あたし」
胸に抱きしめられたまま、音緒は言った。
「意志なんだ。人間でいようとする意志だ。それが全てを決めるんだ」
「ああ。そうらしいな」
まるで砂の塊を呑《の》み込んだような声だった。
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終章
電撃ロッドを杖《つえ》にした丈が前に、その後に音緒を抱き上げたダリアが続く。自分で歩けるから、という音緒の言葉に、ダリアの応《こた》えは、駄目よ、である。
その辺の意見は、丈も同じだ。
アンドロイドの損傷は、派手に見えても部品を交換すれば治る。記憶の方も人工脳が無傷なら、全《すべ》てのシステムがダウンしても数時間は安全だ。
だが人間は、そうはいかない。
たった一つの臓器が、ほんの少し傷ついただけでも、生命が深刻な危機にさらされることは珍しくもない。今まで平気で歩いていた人物が突然倒れて、それっきり二度と目覚めないことだってあるのだ。
防衛庁付属生化学研究所のエントランス・ホールは、元通りに修復されていた。
丈がぶち破った巨大なガラス戸にも、犠牲者の血で汚れたベンチにも、あの夜の痕跡《こんせき》はない。リノリウムに丈が付けたタイヤの跡さえ、床を張り替えたのだろうか、残ってはいなかった。
ホールの噴水の奥に、円形の小さなカウンターがあった。以前には、なかった物だ。その中で二人の男が、不審そうにこちらを見ている。
一人が立ち上がって、歩いて来た。薄い水色の、自衛官のそれによく似たデザインの制服は、警備員だ。
「御用ですか?」
丈の目の前に立つと、その身長は頭一つ分ほど高い。体格も、丈より一回り以上は大きいだろう。アイパッチの男を胡散《うさん》臭《くさ》そうに見下ろすその様子は、ゾアハンターについて知らされてはいないようだった。
「エス外科の米沢医師に逢《あ》わせてくれ」
ゾアスクァッドの指揮官が自らの頭を撃ち抜いた時点で、今回の仕事は全て終わった。
残るは、既に半ばゾーン化している彼の屍体《したい》を、焼却することだけだった。
丈が異状に気づいたのは、その時だ。
音緒の頭を抱き込んだ胸元が、生暖かいのだ。
分厚い戦闘服の特殊繊維を通してさえ、はっきりと判《わか》るほどに。
最初は、音緒が吐いたのだと思った。
半分だけ、正解だった。
少女の口許《くちもと》を汚していたのは、未消化の食べ物ではなく、血液だったのだ。
喀血《かっけつ》か、それとも吐血なのかは判らない。ともかく折れた骨が、いずれかの内臓を傷つけていることだけは間違いなかった。
丈に抱かれた恰好《かっこう》のまま、音緒自身が、驚いたように彼を見上げていた。自分でも、それほどの重傷だとは思わなかったようだ。
みるみる蒼《あお》ざめ、ぐったりとなった少女を抱き上げて、丈はその時、ようやく事態の深刻さに気づいたのだった。
この世に存在しないはずの人間、という言葉の意味が、重くのしかかった。
緊急地下道路を本来の目的で使えば、どこの救急指定病院にも直通だ。なのに、彼女を普通の病院に連れて行くことは出来ないのである。
頼みの綱は、米沢医師だけだった。
だから、ここに来たのだ。
だが、
「米沢とはお逢いになれません」
それが警備員の答えだった。
それも、照会もせずに。
なるほどな。
つまり米沢のおっさんは、情報を漏らしたせいで厄介なことになっている、ということだ。
「俺は、米沢に逢わせろ、と言ったんだぜ」
「出来ません。お引き取りください」
言葉は敬語だったが、上から見下ろす視線は高圧的だ。
「ツレが死にかけてンだよ」
「お気の毒です」
ほお。
そうくるかい。
「じゃあ仕方ねえな」
丈は笑って見せた。口許だけで。
「実力行使するぜ」
男の視線は、丈が杖代わりに手にした電撃ロッドを見ている。
「どうぞ」
自信たっぷりに応えて、警備員の手が、制服の腰に吊《つ》るした警棒に伸びた。こちらも電撃系のようだ。
「その代わり、手加減はしませんよ」
そう言った次の瞬間、男は昏倒《こんとう》していた。丈が、ロッドを手にしていたのとは反対側の拳《こぶし》で、顎《あご》を下から殴り上げたのだ。骨を割らないように手加減はしたが、しばらくは起きてこないだろう。
途端にカウンターに残った男が立ち上がり、同じような服装の男達が、もう一〇人ほど奥から走って来た。手にした電撃警棒が、ぱちぱちと小さく放電を繰り返している。
「面倒くせえなあ!」
脚の調子は万全とは言えなかったが、一人を残して全員を失神させるのに、五秒とかからなかった。ロッドは杖にする以外、一切使わなかった。
「米沢を呼べ。今すぐにだ」
仲間を一瞬でぶちのめされて呆然《ぼうぜん》と立ち尽くす力自慢に、丈は言った。
でないと、と付け加えることも忘れない。
「こいつら全員、殺すぞ」
すっ飛んで行った。
五分ほどして走って来た米沢に、さっきの警備員は同行していなかった。
「黒川くん!」
白衣ではない。
それどころかシャツの裾《すそ》はよれて、ネクタイも緩めている。
「大丈夫だったの? ゾアスクァッドは?」
「説明は後だ。音緒を診てくれ」
「どうしたの? 怪我《けが》?」
「背中を撃たれて、血を吐いた」
サイボーグ外科医の反応は、迅速だった。
「判った。こっちへ」
三人を先導して、廊下を早足で歩いてゆく。その間、シャツの胸ポケットから出した細長い銀色の器械に向かって、矢継ぎ早に指示を出していた。所内での相互連絡用の、小型通話器だ。
エレベーターに乗り、降りた階では、数人の白衣の男女がストレッチャーを用意して待っていた。うつ伏せに乗せられた音緒が、低く呻《うめ》いた。
そのまま、三人の女性所員に運ばれてゆく。
ストレッチャーと並んで歩く丈に、音緒が手を伸ばした。
「丈」
顔色が蒼い。
それでも、笑みを浮かべている。
血を吐いた直後から、そうだった。丈に抱き上げられ、シルバーへと運ばれる時にも、笑みを浮かべて、彼女は言ったのだ。
あたしは大丈夫だから先に焼かなきゃ逃げちゃうよ。
判った、とだけ応えた。
音緒をシルバーの助手席に座らせた。席の後ろに回らせたダリアに、頼むぞ、とだけ言い置いた。それから彼は車を降り、ゾアスクァッドの莫迦《ばか》でかい銃を拾って、もぞもぞと動き始めていた指揮官の強化服に、ありったけの高出力電子ブレットを叩《たた》き込んだのである。
こン畜生だ、と丈は思う。
この子の方が、俺なんかより、ずっとヒーローじゃねえか。
「おう。いるぜ」
少女の細い指を、握ってやる。
「あたし、入院かな?」
「多分な。怖いか?」
「ううん。でも、お願いがあるさ」
「言ってみろ」
「スーパーに自転車、置きっパなの」
苦笑で、判った、と応えた時、ストレッチャーが停まった。
『手術室』と書かれた、大きな銀色のドアの前だ。
少女は、うつ伏せのままで首をひねって、蒼白い笑顔を見せる。
手を振って。
ストレッチャーに続いて最後に手術室に入ろうとする女性の肩を、丈は後ろから掴《つか》んで振り返らせた。
「助かるよな」
「そのための手術です」
「頼むからよ、あんまり派手な傷は残さねえでやってくれ」
「そのつもりですよ」
固い事務的な言葉で、しかしその眼《め》だけは微笑《ほほえ》んでいた。
閉め出された。
「キミは、こっちだよ」
米沢が言う相手は、ダリアだ。
白衣の男達が数人、彼のすぐ後ろに控えていた。
サイボーグ外科医はあの短時間で、音緒だけでなく、ダリアのための人員も手配してくれていたのだ。
丈が頷《うなず》いて見せると、アンドロイドはおとなしく数人の男性職員に連れられて、廊下の反対側へと歩いてゆく。
広い廊下に丈と米沢、二人だけが残された。
「彼らに任せておけば大丈夫だから」
「ああ」
「あんたも、脚がイカれてるね。診ようか?」
「いや」
ロッドにもたれるようにして、丈は真《ま》っ直《す》ぐに米沢の顔を見つめた。
「すまんな」
「なに?」
「約束、破っちまったわ」
ゾアスクァッドのことだ。
誰も死なせない、と大口を叩いたのだ。
だが、それは果たせなかった。
丈の思ったとおりだった。それはやはり、するべきではない約束だったのだ。
「黒川くんさあ」
米沢の笑みは、どこか哀《かな》しげでもあり、どこか優しげでもあった。
「約束を破るのと、約束を守れないのとは、違うよ」
米沢の胸で電子音が鳴ったのは、その時だった。
例の銀色だ。
器械といくつか言葉を交わしてから肩をすくめて、米沢は言った。
「呼び出しだ」
相手は、委員会だった。
米沢が壁のボタンを操作して、両開きの防音ドアを開ける。
丈の知っている部屋だった。
会議室だ。
先進国首脳会議が開けそうなくらいの、だだっ広い室内に、端末を内蔵したテーブルが楕円《だえん》形に配置されている。
初めてこの部屋を見た時、その席が埋まることがあるのだろうか、と丈は思った。
あるようだ。
現に今、その席の大半が埋まっていた。
背後で、ドアが閉まる。
並んだ丈と米沢は、一同の無遠慮な視線を集めていた。
「こいつらが、そうか?」
ぼそぼそと、隣の米沢に。
答える米沢も、
「うん。委員会だよ」
ぼそぼそと。
なるほど。
ゾアスクァッドの初仕事の様子を、関係者一同がここから観戦していたわけだ。ひょっとしたら、ごひいきのフットボール・チームの優勝決定戦を観《み》るような気分だったかも知れない。ビールとポップコーンは、持っていないようだったが。
しかしどちらにしろ、結果は手痛い敗北だった。
彼らにしてみれば、大番狂わせというところだろう。
そして、その番狂わせの張本人が、のこのこやって来たのである。しかも、片棒を担いで監禁されている男まで、彼は勝手に引っ張り出したのだ。
そりゃ呼びつけたくもなるわな、と丈は思った。
押し黙ってこちらを睨《にら》み付けている連中は、中年以上の男ばかりだった。中には、もう引退しろよ、と言いたくなるほどの高齢者も混じっている。
どこかで見た顔ばかりだった。おそらく、新聞の政治欄や行政関連のニュースに真面目《まじめ》に眼を通していれば、すぐに誰が誰だか判るような顔ぶれなのだろう。
「掛けたまえ」
突き当たりの席で偉そうに言う男の顔だけは、丈にも判った。
内閣総理大臣だ。
もっとも、名前は知らないが。
その隣に座った小山前首相がいじめられっ子みたいな小男なのに対し、こちらはデブちん寸前の大柄な人物だった。
そいつが、へえへえと椅子に座った丈を、二重顎を引いて睨み付けている。
いや、首相だけではない。
一堂に会した数十人が一様に彼を、そしてその隣に座った米沢を、さも不愉快そうに睨み付けてくるのである。
キミ達は、と言うデブちん寸前総理の声は、がらがらにひび割れていた。
「我々に多大な損害を与えたのだが、それは自覚しているかね?」
「まあな」
応えたのは丈だけだったが、米沢も真っ直ぐに相手を見据えている。
「数百億円の投資が、わずか一時間足らずで無駄に消えたんだよ」
思わず、隣の米沢を見た。医師は眼だけをこちらに向けて、小さく頷いた。
「数百億?」
百万円の百倍の、そのまた数百倍だ。
そんなにかけたのか? あの莫迦騒ぎに!?
「そうだ」
丈の反応に、満足したようにデブちん寸前が頷く。
だが続く丈の言葉は、
「お前ら、阿呆《あほ》か」
ざわり、と一同が低く声をあげた。
「金をかけなきゃならんことが、もっと他にあるだろうが。福祉問題は? 失業者の件はどうした? 二〇年前の戦争の補償だって棚上げのまんまだろうがよ」
「ゾーン対策は、それ以上の急務なのだ!」
総理は声を荒らげたが、
「その結果が、これかよ」
丈の声は、あくまで低く、静かだ。
鼻の頭に皺《しわ》が寄る。怒った時の彼の、それが癖であることを、誰が見抜いたろうか。
「てめえらは、浅知恵ふり絞って税金を無駄に遣ったあげくに、何人もの人間を犠牲にしたんだ。スクァッドの連中を無駄死にさせて、無関係な市民を巻き添えにした。俺の相棒も手術中だ」
「それは貴様が余計な手出しをしたからだ!」
ほお、と丈は声をあげた。
貴様、ときたか。
お里が知れるぜ、おっさん。
「貴様は、ゾーンと人間とを同等だと考えているようだな」
「ああ。ある意味ではな」
「寝言を言うな、小僧!」
次は、小僧か。
「俺に言わせりゃあ、寝言をヌかしてる阿呆は、あんたの方だぜ」
「貴様……!」
「黒川くん」
割って入ったのは、お懐かしや、前防衛庁長官の岩村だ。
「キミに事前の相談がなかったのは、我々の不手際だ。それは詫《わ》びよう。また私個人としてはキミの働きには感服してもいるし、尊重もする。しかし事態は、我々が当初想定していたよりも、はるかに深刻なのだ」
「そりゃあ、世界中からつつかれりゃあな」
また、ざわり。
「判ってねえと思ったか? だったら、莫迦にするにもほどがあるぜ。おめぇら、体裁を繕いたかっただけだろうがよ。アザエル計画について明かすわけにはいかねえもんな。だからゾーンの実態についてロクな調査もせずに、連中を組織したんだろ。物量作戦でゴリ押して見せれば、世界世論が納得すると思ったんだ。違うかよ」
丈の低い声は、もっと低くなった。
「ゾーンは、ただの失敗作じゃねえ。地球に生まれた新しい生物だ。これはな、人類と新種の生命体とのファースト・コンタクトなんだぜ。場当たり的なお役所仕事や人間本位の観念論で片が付くような問題じゃねえんだ」
「そんなことは……」
言いかけた首相だったが、
「判ってねえよ、あんたらは」
唸《うな》るような丈の声に、あっさりと遮られた。
「人類は万物の霊長を自称してきた。人類と他の生き物との間には、厳然たる違いがあったからな」
知性だ。
知性こそが、人類と他の生物とを隔て、その頂点に君臨させてきた唯一にして最大の武器なのだ。
「だがゾーンとの間には、それが存在しねえ。ヒトとサルを区別しているものが、ヒトとゾーンとの間には存在しねえんだ。判るかよ、その意味が」
反論する者は、誰もいなかった。
ただ、ざわざわと、ひそひそと、近くの者どうしで言葉を交わし合うだけだ。
これだ。
これなのだ。
これこそがアザエルを、ゾーンを生み出し、丈から肉体を奪い、多くの犠牲者を出し続けてきたのだ。
人間の心の弱さと、そしてそれを認めない傲慢《ごうまん》さこそが、全ての元凶なのだ。
ここに集まった連中は、その代表者に過ぎない。
俺は、と丈は思った。
こんな連中のために闘うのか。
俺は、と丈は思った。
こんなことの尻拭《しりぬぐ》いをしているのか。
会議室の照明が真っ赤に変わったのは、その時だった。
続いて、『特訓ルーム』のブザーにも似た音が響く。それも、断続的に繰り返して。
丈を除いて、居合わせた全員が腰を浮かせた。
ざわめきが大きくなる。
「なんだ?」
丈の問いに、
「警報だよ」
米沢が答える。
「そりゃ判ってら。何の警報だよ」
「ちょっと待って」
見ると米沢は、手元に埋め込まれた端末のキー・ボードを叩いていた。
部屋の奥のスクリーンが、突然、明るくなった。
全員が振り返る。
丈もだ。
エントランス・ホールが、ほぼ真上からのアングルで映し出されていた。保安カメラの映像を、米沢が転送したのだ。
人影が、ホールを横切ってゆく。
黒い。
真っ黒だ。
しかもその人型は、かなり歪《ゆが》んでいた。
肩幅が、広すぎる。
腕が、長すぎる。
脚は、踵《かかと》から先の長い獣脚だ。
その脚が、黒いススの混じった油の足跡を残しながら、重い足取りでリノリウムの床を歩いているのである。太い尻尾《しっぽ》が足跡を掃くように、左右にのたうっていた。
別の人物も映っている。
例の警備員達だ。
全員が床に転がっているのは、丈に殴られたまま今までノビていた、というわけではないようだ。
血まみれなのだ。
腹を裂かれ、首をもがれ、手足を千切られて転がっているのである。
「なんてこった」
ついに、丈の腰も浮いた。
口許には、獣のような笑みを浮かべて。
「奴だ……」
生きていたのだ。
あの状況で、奴はまた生き延びたのだ。
生き延びて、そして復讐《ふくしゅう》のために、やって来たのだ!!
黒い異形《いぎょう》がフレームから外れ、隣の席でキーを叩く音に続いて、画面が切り替わる。
水平のアングルで、今度は廊下だ。
それも、ついさっき歩いて来たばかりの。
焼け焦げた皮膚の残骸《ざんがい》を身に纏《まと》い、そいつは正面から歩いてくる。映像の中の魔獣と、丈の視線が絡み合った。崩れかけた瞼《まぶた》の下で、再生をとげた二つの眼が、こちらを見ているようだった。
「真っ直ぐ向かってくるぞ!」
誰かが叫んだ。
「警備員はどうした!」
何を見てたんだ? とっくに全滅したよ。
「ゾアスクァッドを出せ!」
「補充は厚木だ! 間に合わん!!」
途端に全員の視線が、丈に、ゾアハンターに集まる。
糞《くそ》っタレどもが。
だからてめえらは糞っタレだって言うんだ。
「米沢」
「なに」
「この部屋、他に出入口は」
「ない」
「そうか」
仕方ねえ。
「しっかりロックして、俺が戻るまで動くな」
「判った」
米沢は、戻らなかったら、とは訊《き》かなかった。
訊いても無駄だからだ。
ゾアハンターに停《と》められなければ、この施設にいる全員が死ぬ。それだけだ。所員も、サイボーグ外科医も、お偉い官僚の方々も、そしてゾアハンターの二人の相棒も。
丈は充電の切れたロッドを捨て、電子ブレードを『抜刀』した。
歩き出す時、左膝《ひざ》の力が抜けかけて、あわてて踏みとどまった。
やれやれ、だ。
向こうも手負い、こっちも手負いか。
つくづく似た者同士、ってことかい。
ドアの前まで来たところで、
「頼むぞ!」
突然、声援が丈の背中を打った。
「頑張れ!」
「やっつけろ!」
「信頼してるぞ!」
すぐに大歓声になる。
まるでテレビのヒーローを応援する子供だ。この連中が、これだけ心の底から自分以外の誰かを声援したことが、これまでにあったろうか。
だが丈は、
「ッざけンじゃねえ、この糞どもが!!」
吠《ほ》えた。
背を向けたまま。
「てめぇらなんざ、知ったことか」
そうだ。
俺が闘うのは、こんな連中のためじゃない。
俺が闘うのは、護《まも》るべき者のためだ。
護りたいと思う者だけのために、俺は闘うんだ。
すまんな美咲。
俺はまだ、ヒーローには、なれそうにねえや。
目の前で、ドアが開く。
廊下に出ると、はるか突き当たりに、そいつがいた。
黒焦げの顔が、こちらを向く。
「ゾアハンタァア!」
「ゴォオーストオ!」
それは、再会の呼びかけだった。
そうさゴースト。
俺はまた、お前の前に立つ。
立ちはだかってやる。
お前を停めるまで、何度でも何度でも、その前に現れてやる。
それが、俺がお前に対して果たすべき責任だ。
俺の復讐から生まれた、お前への。
ゾアハンターは、笑みを浮かべた。
ゴーストは、笑みを浮かべた。
電子ブレードの表面に、蒼い電光が迸《ほとばし》る。
背後で、ドアが閉じた。
[#地付き]−了−
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あとがき
やっと『奴』の物語を書くことが出来た。
実のところシリーズ第一巻『ゾアハンター』を書く時点から、私の頭の中には物語の主軸として、この対立構造があった。その意味では、単行本三冊を費やしてようやく物語の入口に辿《たど》り着いた、とも言える。
恰好《かっこう》よくブチ上げるなら、
「真の『ゾアハンター』の物語はここから始まるのだ!!」
である。
うひゃ。
ともあれ、これで舞台は整った。
全《すべ》ての登場人物が収まるべき位置に収まり、しっかりと方向を定めた。
これからの展開に期待していただきたい。
これまでのは前哨戦《ぜんしょうせん》ですぜ、あなた。
ここからが本番なんですぜ、あなた。
フロシキは、どんどん拡《ひろ》がってゆく。作者と読者の気力が続く限り、いくらでも拡がってゆくはずである。結末なんて、全く見えちゃいないのである。この物語がどこへ行くのか、作者であるところの私にだって、皆目見当も付かないのである。
しっかり付いてきたまえ。
息切れした人は、放《ほう》って行くよ。
例によって、これだけは言っておこう。
失望はさせない。
ところで。
今回、小島先生のイラストとは別に、かなりラフで適当な絵が掲載されている。なんじゃこれは、とお思いの向きもあろう。
申し訳ない。
それ、俺。
読者諸氏の「ゾアハンターの銃やモノサイクルの正確なデザインが知りたい」との声を受けたものであり、とどのつまり、文章だけで形状を伝えきれなかった私の未熟がイカンのである。どうか、ご容赦いただきたい。
しかしまあ、小島先生の流麗な(ホンマに!)イラストと同居してしまうことになって恥ずかしいやら心苦しいやら。なまじ元マンガ家だったりするから、余計に身が縮むのであった。カタチだけ把握したら、あんまり眺めないでただちにページをめくるように。
ちなみにモノサイクルの形状が小島先生の絵と微妙に違うのは、単に「同じデザインを何度も描くのは楽しくない」と、私が勝手に変更しちゃったせいである。だから、これについても、ごめん。第四話以降に登場のモデル、とでも思ってくだせい。
さて。
モノサイクルの方は、そういうことだ。
問題は、銃の方である。
困ってしまったのだった。
頭の中のデザインをそのまま絵に起こせたモノサイクルと違って、銃の方は、どんなに頑張ってもデッサンが取れなかったのである。
その独特の形状を一枚の絵で表現するために斜めの構図を取る必要があったのだが、これが難儀だった。判《わか》る人のために説明するなら、「複数の軸線が並行したり交差したりしている上に、キーとなるパーツが通常とは異なる角度で置かれているためにパースペクティヴが取りにくかった」のである。
クロッキー(実物を見ながら短時間で形状のみを描く)は得意なんだけどなあ。実物があればなあ。
そう思った時、はた、と閃《ひらめ》いた。
「造ればイイじゃん!」
造ったよ。
実物を。
いえ、模型ですけどね。
引鉄《ひきがね》も撃鉄も固定で、かろうじてシリンダーだけが回転・振り出しするという仕様である。安い玩具《おもちゃ》の拳銃《けんじゅう》を買ってきて、レザー・ソーでパーツごとに切断し、位置を変更して固定した上で、ポリ・パテを盛って削って成形したのだ。
久しぶりの立体造形に苦心|惨憺《さんたん》で、材料費もかなりかかってしまったが、しかし楽しかったよ。造りながら「おお、こんなカタチだったのか」とか思ったりして。
形状参考用なので仕上げは粗いが、塗装もしてみた。
結構お気に入りである。
ラブラブ(はーと)
この調子でダリアの使うレーザー銃とか、耳に突っ込む無線器とか、音緒のペンダントとか、丈の電子ブレードとか右目のカメラとかアイパッチとかも、造ってみたら楽しいかも知れない。
ついでに白状しておくと今回の造形には、友人の造形家・三枝徹の監修も少しだけ入っている。模型雑誌を購読の方はご存じかも知れない、あのサエグサトオルである。だからカッチョ悪い部分は大迫の責任だが、カッチョイイ部分は三枝のお手柄であると思っていただきたい。
サエさんサンキウ。
今年こそ暇つくって、温泉に行こう。
そうそう、最後に一つ。
私の友人の電気屋が、自分のホーム・ページの中に大迫純一コーナーを作ってくれている。私の作家以外の面を覗いてみたいとお思いの方は、どうぞ。『北九州のあにじゃ』で検索すればヒットするはずだ。
余談だが、昨年七五三をむかえた彼の息子の名は、『烈士』と書いて『レッド』と読む。
ゴッド・ファーザーは、何を隠そう私である。
グレなきゃいいけど。
では、また。
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底本
復讐《ふくしゅう》のエムブリオ ゾアハンター
著 者 大迫純一〈おおさこじゅんいち〉
発 行 二〇〇一年四月八日第一刷発行
発行者 大杉明彦
発行所 株式会社角川春樹事務所
[#地付き]校正M 2007.11.17