ウリエルの娘 ゾアハンター
大迫純一
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)埠頭《ふとう》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)結城|音緒《ねお》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地付き]−了−
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大迫純一《Osako Juniti》
1984年、徳間書店ハイパーゾーンで漫画家デビュー。96年、青心社『バビロン・ゲート』にて小説家となる。その他、子供向け変身番組の怪人デザインやCMキャラクター・デザイン、ガレージ・キット原型の制作など、職歴は多岐にわたる。フリーのアクション・タレントとしてキャラクター・ショウにも出演中。
著者のことば
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未来とは、あらかじめ準備されているものではない。
運命とは、抗い得ぬ流れではない。
希望とは、遥けき彼方に輝く星ではない。
これは、そういう物語である。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]装画●小島文美
[#地付き]装偵●伸童舎
平凡な日々を送っていた女子高生「結城|音緒《ねお》」は、ある才能を持っていた。彼女は高い確率で『予知』ができるのだ。ある日、親友の関根杏子が失踪した。音緒はこのことが予知できなかった。その頃街では謎の失踪事件や、正体不明の焼死体が発見される事件が頻発していた。事件に巻き込まれたことを予知した音緒は、『才能』を使って杏子を探し、彼女を見つけることに成功する。だが、その場には杏子が大ファンだといつも語っていた、あの失踪した伝説のバトルホイールレーサー「サムライ・ジョウ」が現れ、『何か』に変貌してしまった杏子を銃で撃ったのだ……大歓声を持って迎えられたスーパーアクションヒーロー伝、疾風怒涛の第二弾!
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ウリエルの娘 ゾアハンター
[#地から1字上げ]著/大迫純一
[#地から1字上げ]イラスト/小島文美
目 次
[#ここから2字下げ]
第一章 ゾアハンター
第二章 アビリティ
第三章 アソシエイト
第四章 プロフェシー
第五章 ブレイクダウン
終 章
あとがき
[#ここで字下げ終わり]
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第一章 ゾアハソター
1
それは奇怪な行進だった。
十以上もの人影が、一列になって夜の埠頭《ふとう》を歩いている。
服装も背格好も、ばらばらだ。
スーツ、トレーナー、作業服、コート、ブルゾン、エプロンドレス……。
中肉中背、肥満体、痩身《そうしん》、筋肉質……。
背の高い者もいれば低い者もいる。ほとんどが男だが女もいるし、子供らしき小さな人影も混じっている。
およそ統一感とは無縁の集団だったが、しかし共通点もあった。
まず一つは、揃《そろ》って妙に姿勢が悪いこと。
背筋を伸ばして真《ま》っ直《す》ぐに歩いている者は一人もいない。ある者は背中を丸め、ある者は傾き、ある者は滑稽《こっけい》なほどに反り、ある者は片方の脚を引きずり、ある者は膝《ひざ》の関節が動かないようで、そうかと思えば両脚に余分な関節があるように見える者もいる。両腕を拡《ひろ》げて平衡をとりながら、かろうじて歩いている者もいた。
そしてもう一つの共通点は、どの人影も、そのシルエットが微妙に歪《ゆが》んでいるということだ。
それも、怪我《けが》や疾病で、ではない。ヒトとは別のバランスの上に成り立つシルエットなのである。歩き方も姿そのものも、人間ではない何か別のモノが無理やりにヒトの形をとっているような、そんな印象なのである。
そして、その印象は、まさに正鵠《せいこく》を射ているのだ。
束《つか》の間《ま》の飛翔《ひしょう》感の中、黒川丈《くろかわじょう》は唇を舐《な》めた。
荷揚げ用のクレーンの、先端からの跳躍である。彼の描いた放物線の頂点は、たっぷり二〇メートル以上の高度にある。普通ならほぼ即死、運が良くても半身不随は免れない高さだ。だが上昇が下降へと移行するその瞬間、彼の目は夜空の高みから、まっすぐに獲物の行進を捉《とら》えていた。
獲物だけを。
貨物船ヒタカ丸の異常は、半月ばかり前に始まった。
貨物の積み込み作業中、四人の作業員が行方不明になったのが皮切りだった。
現場検証にやって来た警官も、そのうちの一人が船から降りて来なかった。それでも何とか積み込みを終え、いざ出航の前日という段になって、出航準備を進めていた船員がさらに二人、姿を消した。
出航は延期となったが、船を隅から隅まで調べても行方不明者の姿はおろか、何の不審な点も発見出来ず、捜査は打ち切られた。
そのうちヒタカ丸が繋《つな》がれた埠頭を中心に、奇妙な噂《うわさ》がたち始めた。
あの船は幽霊船だ。
甲板をゾンビが歩いている。
目撃者は事情を知っている関係者だけではなく、中には何も知らずにデートに来たアベックも含まれていた。
丈は断定した。
奴らだ。
そして、その勘は的中した。延期されていた出航を明後日にひかえた今夜、人けのなくなった埠頭に歪《いびつ》な人影が、ぞろりぞろりと姿を現し行進を開始したのである。
貨物船に向かって。
「行くぜ!」
「はい!」
丈とその相棒は、クレーンから夜の空へと身を踊らせた。
高度二〇メートルからの落下である。着地の瞬間、その速度は垂直落下でも時速一〇〇キロに達する。
しかも今、丈の躯《からだ》は跳躍によって斜めに落下している。着地の瞬間の衝撃は垂直落下以上のものになる計算だ。
だが、
「うっしゃあ!」
彼は恐怖に目を閉じることさえせず、迫る地面に向かって躊躇《ちゅうちょ》なく両脚を踏ん張る。
黒川丈の脚は、砕けはしなかった。
内蔵されたダンパーが脚、腰、背骨、頸椎《けいつい》の順に開放して衝撃を吸収した。同時に人工頭骨の内部で瞬間的に緩衝液の濃度が高まり、彼の生身の脳を保護する。ブーツが足首近くまでめり込み、コンクリートの地面が放射状に粉砕されて、どん、と腹に響く音をたてたが、それだけだった。
丈は獲物の行列の前に、真っ直ぐに立っていた。
その後ろでもう一つ、どん、と音が響く。
「ゾーン確認。クラスA四体、クラスB八体、クラスC一体。平均危険度レベルB+」
背後からの報告は、女の声だ。
獲物の列が乱れた。
逃げようとしているのではない。その逆だ。
動くものは何でも襲い、喰らう。それが奴らの習性なのだ。
ゾーンの。
「ダリア、焼却準備で待機!」
丈の指示に、
「了解」
ダリア、と呼ばれた女は退《さ》がる。
前へ出た丈は、列を崩して左右に展開するゾーンの群の前で、唇を笑みに歪めた。右の額から頬《ほお》にかけて顔を縦断する傷痕《きずあと》が引きつる。右目を覆った黒いアイパッチが、磨き込まれたその表面に、うごめく群を映す。
群との距離は、一〇メートルもない。この距離になると、群の歪さがよく見えた。十数人の……いや、十数匹のどれもが、衣服の下に人間の四肢ではない何らかの器官を隠している。手足はおろか、顔さえも軟体動物の触手でデッチ上げた奴までいる始末だ。
アザエルと呼ばれる人工ウィルスによって誕生した、それは異形の捕食獣の群だ。絶えず形質を変化し、単世代での進化を繰り返しつつ、喰らい続ける地獄の獣なのだ。
「さあ」
丈が、さらに前へ出る。
「始めようか」
応《こた》えるように真っ先に動いたのは、群の真ん中の『男』だ。膝を後ろ側に折り曲げ、一気に間合いを詰めてくる。同時に作業服の胸の辺りが内側から押し広げられ、生地を破って何対もの湾曲した爪《つめ》が飛び出した。
ジャア!
咆哮《ほうこう》をあげて顎《あご》が外れたみたいに開く口の中には、ぎっしりと牙《きば》が密生している。
迎えて、
「おぅら!」
丈も跳んだ。
武器は手にしていない。身につけているわけでもない。しかも、黒い革のジャケットは右腕の袖《そで》を肘《ひじ》までまくり上げ、左腕にいたっては肩口から袖がなく剥《む》き出しだ。そんな無防備な姿で、哮《たけ》る獣を真っ正面から迎えに出たのである。
丈と『男』は、上下に交差して行き違った。丈が上、『男』が下だ。
着地の音は、三つ。
一つは、丈。
残る二つは『男』だ。交差しざま『抜刀』した丈が、その勢いにのせて『男』を縦に断ち割ったのである。
出血は、ない。斬撃《ざんげき》の一瞬に刀身から放たれるマイクロ波が、切断面を焼灼《しょうしゃく》してしまうのだ。
分断されて転がった『男』は、それでも生きていた。たとえ細胞レベルに分断したとしても、ゾーンを死滅させることは不可能なのだ。
だが、それで逃げおおせるかと言えば、話は別だ。
左右に分断された『男』は、それぞれ一本ずつの腕と一本ずつの脚を地面に叩《たた》きつけるだけで、立ち上がることすら出来ないのである。新たな器官を形成するしかないが、それだけの時間は残されていなかった。
決定的な死は、女の姿をしていた。
長く黒い髪。長い真紅のコート。完璧《かんぺき》な均整を備えた美しい顔は、しかし何の表情も浮かべることなく『男』を見下ろした。
ゲジャ!
ショガ!
半分ずつの顔が、女の右側と左側で吠《ほ》える。
威嚇だ。
女は表情を変えない。
次の瞬間、女が手にした銀色のノズルから炎が吹き出し、『男』を包んだ。炎と一緒に容赦なく浴びせられるのは、ナフサネートとパーム油を主剤とする高温高速の燃焼剤だ。その燃焼温度は二千度に達し、燃焼剤が燃え尽きるまで決して消すことは出来ない。
ギョアアアアア!
『男』の断末魔に、
ゲヴ!
ギョオルルルル!
ヴリャ! ヴリュ!
群が吠える。
一斉に衣服を引き裂き、変形してゆく。
もはやヒトの姿を留《とど》めているものはいない。それどころか、同じ姿をしているものが二匹といないのである。
爬虫《はちゅう》類、昆虫、魚類、鳥類、植物、藻類、菌類……、考えつく限りのあらゆる生き物を手当たり次第にくっつけ、捩《よ》じり、こねまわして作り上げたような、それらは無神論者でさえ神に許しを乞《こ》いたくなるような冒涜《ぼうとく》的な姿だった。
丈は、その叫喚の真《ま》っ直中《ただなか》に立っていた。さっきまで『男』のいた位置だ。薄い笑みを浮かべ、自分を取り囲んだ獣の群を眺める。
「ほら、次は誰だ?」
排水口に吸い込まれる水のように、群全体が一つの流れとなった。丈に向かって、異形が雪崩をうつ。
丈の手にした太刀の表面を、青白い電光が疾《はし》った。
「先着順だ! きちんと並べや!」
彼の動きは、獣の群よりも速かった。
右手の剣の、銀色のひらめきと青白い電光が、宵闇《よいやみ》の中で舞い踊った。
斬《き》り上げ、斬り下ろす動きを、そのまま曲線運動で次の攻撃へと繋いでゆく。切れ目のないその動きは、中国剣法のそれに酷似している。
身を沈め、伸び上がり、反り返り、反転し、跳び、ひるがえり、剣と一体となった丈の動きは、濁流のごとく押し寄せる敵の直中《ただなか》にあって、流されるのではなく、自ら自在に流れてゆく。縦横に螺旋《らせん》を描く銀色の軌跡が、途切れることなく捕食獣の群を斬り裂き続けた。
異形の腕が宙を飛んだ。
異形の脚が宙を飛んだ。
異形の首が宙を飛んだ。
襲い来る獣はことごとく切断され、斬り飛ばされていった。血飛沫《ちしぶき》の代わりに、汚染された肉の焼ける白い煙が、夜気に異臭を撒《ま》き散らした。
ほんの数十秒間のことだった。
気が狂ったような混戦状態の末に、立っていたのは黒川丈だけだった。
大小いくつもの歪んだ肉の部品が、その足元でのたうち、断面から煙をあげて痙攣《けいれん》していた。
しかも、それだけの惨状を作り出しておきながら、丈は呼吸ひとつ乱していない。ただ額にうっすらと、汗を浮かべているだけだ。脳を含めた残り少ない生体器官に対して、高効率の人工肺が供給する酸素は、なお余りあるのだ。
刀身を電光が舐めて、ぱりっ、と乾いた音をたてると、刃にこびりついた肉片が黒コゲの炭になって落ちる。
「下がって、ジョウ」
見ると、こちらへ歩いて来る女の向こうで、かりかりに炭化した塊が二つ、こちらも白い煙をあげていた。
「焼くわ」
「おう」
肉片をまたいで距離をとった黒川丈は、指だけで器用に這《は》って逃げようとする手首を蹴《け》り戻し、
「いいぜ」
女に合図した。
ぼん、と低い音とともに吹き出した二千度の炎が、転がる肉片を舐めてゆく。その様子を眺めながら、上着のポケットから取り出した煙草《タバコ》をくわえた丈は、呟《つぶや》いた。
「腹減ったなあ」
燃え盛るナパームの炎に照らされて、ヒタカ丸の船腹がオレンジ色に見えた。
2
帰途、いつもの地下道で、何台ものパトカーや消防車とすれ違った。
火災や事件、事故に対応するため、常に過密状態の一般道を避けて地下に設けられた、それは緊急地下道路である。通行が許可されているのはパトカーや消防車、一部の救急指定病院に向かう救急車などに限られており、無論、一般車両の通行は許されていない。
おそらく警官や消防隊員の中には、緊急車両ではない車とすれ違ったのを、いぶかしんでいる者もいるだろう。
なにしろ、黒い塗装のセダンなのだ。
もしも、運転しているのが長い髪の美人であることに気づいたなら、なおさらだ。そして彼らは、車載コンピュータがそれを緊急車両として認識している事実に、また首をひねることになる。
だが首をひねるのは、それだけではない。
現場に着けば、そこに残っているのは正体不明の、いくつもの炭の塊なのだ。もう風に飛ばされて、コンクリートに焼け焦げが残っているだけかも知れないが、ヒタカ丸の船内も調べられれば、こちらからは間違いなく炭化した屍体《したい》が発見されるはずだ。
鑑識か、あるいは研究施設に持ち込まれるだろう。
しかし、その正体は決して誰にも判《わか》らない。複数の生物が焼かれたもの、という結論が出れば、それが最も真実に近いというわけだ。
何を意味するのかは不明であっても、だ。
そして最後に、操舵《そうだ》室や超伝導エンジンが破壊されているのを発見する。そうなると、もう何が何だか意味不明だ。
そして彼らは、きっと思うのだ。
またか、と。
似たような事件は、ここ数ヶ月で何件か起きている。空港で個人所有のジェット機が破壊される、高速道路で何台ものキャンピング・カーが炎上する、マリーナに係留中のクルーザーが爆散する。そのいずれにも共通しているのが、この、炭化した残骸《ざんがい》だ。
だが彼らが、もう一つの共通点に気づくことは、ない。
全《すべ》ての事件に共通して関与する一人の男がいる事実を知ることは、ない。
誰も知らない。
誰も。
黒川丈はシートを倒した助手席で仰向《あおむ》けになり、地下道路のオレンジ色の照明が流れてゆくのを眺めていた。
ハンドルを握るダリアの、白い肌も今はオレンジ色だ。
見慣れた顔。
見慣れた光景。
同じことの繰り返し。
最初の三年間よりも、その後の九ヶ月の方が長く思えるのは、なぜだ。
かすかに溜《た》め息《いき》をついた。
ダリアは、
「なに?」
聞き逃さなかった。
「いや。何でもない」
「そう?」
彼女は、振り向きもしない。真っ直ぐに前を見たまま、それでも、
「そうは聞こえなかったけど」
付け加えた。
アンドロイドは、必要のないことは一切しない。
しないはずだった。
だが、ダリアの言動には少しずつ、しかし確実に無駄が増えてきている。その理由を思って、また丈は溜め息をつきそうになった。
「ちょっとな、考え事だ」
「重要なこと?」
丈には、すぐに判った。その質問の意味は、私が計算しましょうか、だ。
故人のパーソナリティに少なからぬ影響を受けているとは言え、彼女がアンドロイドであることに変わりはない。だから、重要な懸案ならば正確に計算して公正な判断のもとに結論してあげましょうか、と言っているのである。
「いや、いい」
「そうね」
ダリアは笑わない。
だがその横顔が、かすかに笑ったように見えた。
「あなた、そういう人だものね」
ああ、そうだよ。
あいつも、そう言ったよ。
オレンジ色の光が、下から上へと流れてゆく。
誰も知らない。
けれど、約束した。だから、前に進むのだ。
黒川丈。
もとバトル・ホイール・ライダー。
現ゾアハンター。
サイボーグ。
3
それを『運命』とか『宿命』とか呼んで、あたかも現状が不可避な力の結果であるように振る舞うのは、彼のスタイルではない。全ての局面において自分は自分の責任のもとに決断を下し、その結果が現在の有り様であるというのが彼の信念だ。
とは言え、溜め息が出ないわけではない。
だから、気晴らしは必要だ。
この部屋に入る時、丈は必ず右腕の関節を確認することにしている。ダンパーの緩衝システムを解除して、衝撃がかかっても生身と同様に反射するように設定するのだ。そうしないと彼のサイバネティクスの腕は、発射の衝撃を完璧に吸収してしまう。
それじゃあ意味がない、と丈は考えていた。
射撃ってのは轟音《ごうおん》と反動と、それから硝煙の匂《にお》い、これだよ。
解除の手順は簡単だ。頭の中で、右腕肘関節緩衝システム解除命令発令、と考えるだけで済む。雑念を交えず、かつ明確な言語思考でなければならないが、慣れれば大したことではない。大したことではないからこそ、わざわざ長ったらしい指令コードになっているのだとも言える。
肘の奥で独特の、かちん、という感触があれば、それが命令の実行された合図だ。本体が耐えられない加重に対しては命令を無視してシステムが再作動するので、新たに復旧を命じる必要もない。
かちん、を確認してからイヤー・パッドを着けて、丈は床のラインの上に立った。
部屋は奥に長い。床も壁も天井も、打ちっ放しのコンクリートが剥き出しだが、その内側は最新の防音素材の三重構造だ。
正面奥に、天井に這わせたレールから、人物のシルエットをかたどったマン・ターゲットが下がっている。
距離は一〇〇ヤード。
標的に向かって、右腕を伸ばす。
武装ポッドの開放には、言語思考による指令すら必要ない。ただ明確に、撃つ、と意識するだけでいい。
トレーナーの袖をまくった右腕が、開く。肘から手首までが、肘を中心として四方に開花するように。次の瞬間には腕は元に戻り、代わりに丈の手には銃が握られている。
リボルバーだ。
だが回転式のその弾倉は、フレームの中心軸上からずれて銃の右側に突出している。ちょうど普通のリボルバーの銃身と弾倉をセットで本体から切り離し、九〇度横倒しにしてから再びグリップ側に戻したような形状だ。
その特異なパーツ配置は、電子ブレットを発射するためのものだ。
電子ブレットは、常に蓄電しているわけではない。引鉄《ひきがね》を引いてから撃鉄が炸薬《さくやく》を叩くまでの一瞬に、銃の左側面にセットされたバッテリーから瞬間的に充電されるのだ。発射された特殊な弾丸は、命中と同時に標的にマイクロ波を叩き込む。標的の分子は極超短波に高速で揺さぶられ、その摩擦熱で内側から焼けるのだ。
電子レンジの原理である。ただし、はるかに強力だ。
そしてそれは、切断面を焼灼する電子ブレードと同じく、対ゾーン用兵器には不可欠の要素なのだ。
今カウンターの上に用意された弾丸は、しかし通常の競技用ワッド・カッターだ。射撃を楽しむだけならば、それで充分だからだ。シリンダーを振り出し、常に装填《そうてん》されているヒュドラショック・タイプの電子ブレットをイジェクトしてから、ワッド・カッターを装填し直す。
照準する。
轟音。
反動。
匂い。
黒川丈のサイバネティクスの指は、一弾倉分六発の弾丸を一秒フラットで連射する。六つの銃声は一つに繋がり、シューティング・レンジの壁に残響する。
シリンダーを開いて次の六発を装填する。
轟音。
反動。
匂い。
装填。
繰り返すうちに、頭の芯《しん》が白く澄んでゆく。
轟音。
反動。
匂い。
装填。
それは一つの儀式だ。
轟音。
反動。
匂い。
装填。
忘れるための。
轟音。
反動。
匂い。
次を装填しようとした丈は、消えてゆく残響に混じって、壁の管理モニターが電子音をたてているのに気づいた。銃をカウンターに置いてイヤー・パッドを外すと、とたんに音が大きくなる。
モニターのスイッチを押すとスピーカーから聞こえてくるのは、
「ジョウ、悪いけど、こっちへ来てくれる?」
ダリアの声だ。
「緊急か?」
「八〇%以上の確率で、緊急事態になるわ」
「わかった」
応えてから、置きっ放しの銃を手に取る。再び前腕が開き、リボルバーは一瞬で元通りに収納された。
ダリアはドアの前で待っていた。そのまま廊下を歩いて丈の部屋へと入ってゆく。
彼の机の上では、既に端末が起動していた。丈を呼ぶ前に、ダリアは必要な情報を自分の『脳』から、こちらへ転送しておいたのだ。
「これよ」
丈が座ると、ダリアはそのすぐ後ろに立つ。いつものポジションだ。彼女が何をもって『緊急事態』と言ったのかは、すぐに判った。
「妙だな」
「ええ」
表示されているのは、地図である。エリアは関東全域だ。
地図上に散らばる無数の赤い光点は、行方不明や失踪《しっそう》が届け出られた人物の住所か、あるいは最後に目撃された地点である。ゾアハンター黒川丈は、主にこれらの情報をもとに『標的』の所在を推理し、狩り出し続けている。失踪者が平均以上の集中を見せる地域を絞り込み、その元凶を叩き潰《つぶ》すのだ。
だが今回モニターに表示された情報は、これまでとは微妙にパターンが異なっている。それは丈が初めて見るパターンだった。
「設定は?」
「時間軸を無視して、ここ半年のデータを重ねてみたの」
思わず振り返った。ダリアは相変わらずの無表情で、モニターを見ている。
驚いたな。
重ねてみたの、だって?
特に指示したわけでもない作業を、自発的に行ったってことか。
彼女はアンドロイドだ。アンドロイドは、あらかじめプログラムされていない限り、指示された以外の行動をとることはないはずだ。
原則的には。
だが、丈は口にしなかった。それくらいの『変化』は、これから少しずつ増えてゆくだろうから。
それよりも今は、こっちの方が重要だ。
「処理済みの分もか?」
「例外なく」
「最初の三年分を出してくれ」
「二〇六五年のゾアハント開始当時から、ということね?」
ほら。
こういう部分は、きっちり機械じゃないか。
「そうだ」
「了解」
ダリアが丈の肩ごしに手を伸ばし、キー・ボードを叩く。
表示が変わった。
地図は同じだが、光点の密度は、はるかに高い。先の表示が半年単位であったのに対して、現在の表示が三年分だからだ。
だが、もう一つ、相違点があった。
光点の配置が、全く違うパターンであるように思えるのだ。
丈はしばらく表示を見つめてから、
「時間ごとに表示出来るか?」
「どういうこと?」
「累積ではなく、一日を一秒とした単位で日付ごとに表示だ。それと、ゾーンを処理したポイントも、同じ条件で」
つまり、失踪や行方不明、変死事件の発生あるいは届け出の時刻と、ゾアハントとの関係を、時間軸に沿って表示しろと言っているのである。
「了解。調査対象を赤、ゾアハントを緑に設定します」
表示が切り替わり、地図の上から光点が消えた。やがて現れた赤い光点は、一秒でまた消え、代わりに別の光点が別の場所に現れる。
光の明滅は、関東一円のあちこちでランダムに発生している。そして、その明滅がある程度以上の頻度になった地区に、突然、緑色の光点が出現する。
ゾアハントだ。
失踪や行方不明あるいは変死を、ゾーンの捕食行動による被害と断定して出動、現場に潜伏していたゾーンを始末したことを表しているのである。
緑の光点が消えると、その周辺で赤い光が点灯する頻度は激減する。ゾーンが処理されて、通常の失踪・行方不明・変死だけが残るからだ。
やがて別の地区で赤い光が密度を増すと、ほどなく緑が点灯し、その地区も同じように鎮静化する。
そのサイクルが、モニター上で数回、繰り返された。
「よし、もういい」
表示が消え、再び光点のない地図に戻る。
「それじゃあな……」
少し考えて、彼は次の指示を出した。
「今度は、最初のやつだ。ここ半年の分を、同じパターンで」
「了解」
ダリアがキー・ボードを叩く。表示が変わった。
光の明滅が再開する。今度の光点は数も少なく、それも一秒で消えて次の光点が現れる。
思ったとおりだった。
時間が進むごとに明滅する光点の数が増え、それにつれて少しずつ密度を増してゆくのは、さっきと同じだ。
だが今度は、赤い光点が高密度に出現する位置が、移動しているではないか。
迷走と言ってもいいだろう。
都心部を中心に、ランダムに明滅する光点の群は、何かを求めるかのように彷徨《さまよ》っているように見える。
突然、緑の光点が現れた。その日時に、その場所でゾアハントが行われたことを示すものだ。
だが、
「くそ」
丈の声は、かすれている。
「遅れてやがる」
そう。
移動する赤い明滅に対して、緑の光点は明らかに遅れているのだ。既に赤の密集が移動した後になって、ようやく緑が点灯するのである。しかも、先程のように緑の光が消えても、同地区の赤い光は鎮静化しない。
「そういうことか、緊急事態ってのは」
「ええ」
丈は椅子《いす》を回して、ダリアを振り返った。見上げる恰好《かっこう》になった。
「これまでも決して高効率とは言えなかったけど……」
アンドロイドの美女は、いつものように淡々と、その顔にも声にも表情はない。
「これで決定的ね。これではゾーンを殲滅《せんめつ》することは不可能だわ」
いまいましいが、それが事実だった。
[#改ページ]
第二章 アビリティ
1
別に文学少女というわけではないけれど、それでも『赤毛のアン』くらいは中学生の頃に読んでいる。
だから自分の容姿にコンプレックスを抱くことが、どれだけ意味のないことかは知っているつもりだ。
意味がないどころか、胡散《うさん》臭《くさ》い行商人から喜々として染め粉を買ってしまうような愚かな真似《まね》まで、してしまいかねない。
けれど、とは思う。
もうちょっと鼻が高くてもイイんじゃない?
もうちょっと素直な髪でもイイんじゃない?
普段から思い悩むことはなくても、一人で鏡を見ていると、彼女はそう思うのだ。
低い鼻は、鼻の穴が前を向いていないだけ幸運といった感じだし、癖の強い髪はヘアスタイルを限定し、肩の線より伸ばせば途端に絡まって、ぐちゃぐちゃになるのである。
遺伝という現象が非情なまでに公平であることの、それは証明だった。
子は父親の方からも母親の方からも、均等に半分ずつ遺伝子を受け継ぐ。問題は、そのうちのどの部分を受け継ぐかは運任せである、という点だ。彼女の場合は母方の大きな眼《め》と器用な指先を受け継ぎ、父方の低い鼻と硬い髪質を受け継いだというわけだ。
これが逆だったら、高い鼻と流れる黒髪が手に入ったのに。
もっとも、父親にもらった形の良い唇と白い歯を諦《あきら》めて母親の冷え性を受け継いだ方が良かったかどうかについては、また別問題だが。
けれど、どちらにしろ親を恨む気にはならなかった。遺伝に両親の責任はないのだし、その代わりというわけではないだろうけれど、父と母は、ちゃんと彼女に素敵な名前をつけてくれたのだから。
音緒《ねお》。
それが彼女の名だ。
音を紡ぐ糸という意味よ、と母は言った。新しいっていう意味もあるんだよ、と父は言った。それ以上の説明はしてくれなかったが、けれど当時小学生だった音緒にも、その直接的な説明の奥にこめられた願いは、何となく理解出来た。
だから音緒は、今朝も鏡の中の自分に、鼻の頭に皺《しわ》を寄せて、イーッ、と笑いかけてから、
「行ってきまぁす!」
家を出る。
通学|鞄《かばん》と一緒に、頼まれ物の入った紙バッグも忘れずに。
学校までは、バスで十五分。
マンションの庭を横切って敷地の前へ出ると、ちょうどバスが来るところだった。乗降口のスリットに乗車力――ドを滑らせてから、吊《つ》り革を掴《つか》む。満員というほどではないが、この時間、空席はない。誘導帯に載ったバスの、ゆったりとした揺れに身を任せながら、音緒はぼんやりと車窓の外を眺めていた。
坂を下りきってマンション群が途切れると、途端に視界が開ける。ちょっとしたビルも無くはないが、一戸建てや小さな店舗の方が多い。
六年前に引っ越して来た頃には空き地だった場所が、ここ数年で、どんどん埋まってゆく。誘導帯ではなく一般車道を走れば、都心まで二時間もかかるほど郊外なのに。
一番のお気に入りだった空き地は、二年前にファストフード店になってしまった。黄色や紫の花をつける草が沢山生えていたのだが、それも今では、店の前の歩道の隙間《すきま》から何本か顔を出している程度だ。
空き地だけじゃない。大好きだった古書店は駐車場になってしまったし、上品な木造の喫茶店は改装してステンレス張りのショット・バーに変わってしまった。
こんなふうに、どんどん変わっていくんだろうなあ。
誰かが言っていた。新しいものを手に入れるということは、それまで持っていた何かを捨てるということだ、と。
そうなんだろうか。
それほど、器は小さいのだろうか。
「あ」
音緒は思わず、声をあげた。反対車線側の歩道を、一人の男が歩いている。
まただ、と思った。
また、見た。
緑色のシャツにジーンズの若者だ。首をひねって目で追ったが、バスが交差点を曲がったので、すぐに見えなくなってしまった。
また、見ちゃった。
同一人物を繰り返し目撃してしまった、というのではない。彼女が『また』と思う相手は、もっと年配である場合もあったし、女性であったこともある。
明らかに別人だ。けれど音緒は、彼らを同じ『もの』であると感じていた。
何となく、妙なのだ。
何が、と問われれば、答えることは出来ない。自分でも彼らの何が妙なのか、理解していないからだ。歩き方でもない、視線の配り方でもない、顔や背格好でもない。けれど、彼らの持っている『何か』が、彼女に違和感を与えるのである。
半年ほど前からだった。
街の人込みで見かけることが多い。最初に見たのも、友達と街で買い物をしている時だった。初老の女性だった。
サイボーグか、と思った。事故や病気で手や足を機械に取り替えた人は、その動きが健常者と微妙に異なって見えることは知っていたからだ。例えば片方の腕が機械の場合、観察力の優れた人なら、それがどちらの腕かを言い当てることも出来るだろう。
だが、すぐに否定した。
違う。そんな単純な違和感じゃない。
でも、じゃあ何なのか、と考えると、判《わか》らないのだ。
それから、特に注意しているわけでもないのに、たまに目にするようになった。それほど頻繁ではないが、月に最低でも一人は、必ず見かける。
あれ、何なんだろう。
ひょっとすると、と音緒は思う。
これも、あたしの『才能』の、別の側面なんだろうか。
あの、ちょっとは便利と言えなくもないけど、大抵は嬉《うれ》しくない結果を引っ張ってきてしまう『才能』の……。
気がつくと、無意識に制服のブレザーの裾《すそ》を握りしめていた。あわてて掌《てのひら》で叩《たた》いて伸ばしたので、皺にならずに済んだ。
風紀ロボットに捕まっている男子生徒を横目に見ながら、校門をくぐる。どうやら服装違反らしい。少年は首筋を掴まれて文句を言いたてていたが、ごついマニピュレーターはびくともしない。
あんなプラスチックのクズカゴみたいな奴に説教されるのに比べれば、制服くらいきちんと着た方がマシだとは思わないんだろうか。
なにしろ、その場で服装を規定どおりに直すまで、放してはくれないのだ。だが本格的に制服改造などしてしまっていたら、直しようがない。そうなると、風紀担当の教師が来るまで待たなくてはならない。
登校してくる生徒達に、くすくす笑われながら。
そしてその間ロボットはずっと、服装が校則に反しています服装が校則に反しています服装が校則に反しています、と繰り返すのだ。
音緒は、笑わなかった。その代わり、莫迦《ばか》じゃん、と呟《つぶや》いた。もっとも、彼女の紙バッグの中身をロボットに見つけられたら、彼女も莫迦の仲間入りだが。
校舎に入って右側のエスカレーターに乗る。それからまた廊下を右へ進むと、そこが彼女の教室である。
3年C組。
始業前なので、入口は開けっ放しだ。
「おッはよう!」
「遅ぉいッ!」
応《こた》えて駆け寄ってくるのは、隣の席の関根杏子《せきねきょうこ》だ。音緒が憧《あこが》れてやまない長い黒髪の持ち主である。もっとも杏子は杏子で、音緒の名前を羨《うらや》ましがる。杏子という名前は平凡すぎるのだそうだ。
「今日は早めに来るって言ってたじゃない。待ってたんだからね」
唇をとがらせて頬《ほお》を膨らませる杏子に、音緒は荷物を持ったままの手を、ごめんよお、と拝み合わせる。
「ヘアスタイルが、きまンなかったさ」
言いながら音緒は頭を振って、本当はどんなスタイリングも受け付けない髪を広げて見せた。
膨れっ面の親友が笑顔に戻ったのを確認してから、紙バッグを手渡す。
受け取った杏子が、きゃあ、と奇声をあげ、クラス中が彼女を振り返ったが、それも一瞬のことだ。中身を取り出して再び、きゃあ、と声をあげても、もう誰も振り返らなかった。
「すッごい、すッごい! 嘘《うそ》みたい! ありがとー!!」
礼を言いながら、けれど杏子の目は手にしたブリスター・パックに釘付《くぎづ》けだ。透明のビニール製パッケージの内側には、サーキットをモチーフにしたデザインの台紙に固定されて、十五センチくらいの人形が入っている。黒いレーシング・スーツに身を包んだ、精悍《せいかん》な印象の青年だ。目は垂れ気味で小鼻は丸いが、太い眉《まゆ》と引き締まった唇が、まあ音緒の基準でも『イイ男』だと言える。
人形の横には、奇妙な形状のマシンがセットされていた。基本的にはフル・カウルのオートバイなのだが、車輪が一つしかない。トラックのタイヤに、バイクのカウルが載っかっているようなものだ。
モノサイクルである。
それはバトル・ホイールの人気ライダーと、その愛車をセットにしたアクション・フィギュアなのだ。人形とマシンの他にヘルメットやトロフィー、それに剣みたいな小物がセットされていた。
幻の逸品なのよ、と杏子は言っていた。先おとついの金曜日のことだ。あまりの人気に一瞬で完売してしまい、買い逃した彼女がその後、どれだけショップをハシゴしても見つけられなかったのだと言う。
今では五倍ほどのプレミアが付いている、とも言っていた。そして杏子は、それでも欲しがったのだ。
なんたって伝説のライダーなんだもん、というのが彼女の言い分である。
デビュー戦で他の走者を全滅させ、ゴールしたのはただ一人だったそうだ。そんな勝ち方をしたライダーは彼の前にも後にもいないそうで、しかも優勝当日、祝勝パーティの会場から忽然《こつぜん》と姿を消し、それきり行方不明なのだ。暴漢に襲われて死んだとか、女優を殺害して逃走中だとかいう噂《うわさ》もある。彼の幽霊がビル街の夜空を飛びまわるという意味不明の噂などは、もはや『生きているエルヴィス』なみの都市伝説だ。
謎《なぞ》の人物なのだ。
胡散臭い、とさえ音緒には思える。
けれど、素晴らしいヒトよ、と語る杏子の瞳《ひとみ》は、想《おも》い人について語る乙女そのものだ。まるで、そのライダーに恋しているようにも見えた。おそらく、実際にそうなのだろう。
そして実際に目の前で小躍りして喜ぶ親友を見ていると、音緒としても、よかった、くらいは思うのだった。
「ありがとー、ねお、本当にありがとーね!」
ついに杏子は、片手に紙バッグもう片手にブリスターを持ったまま、音緒に抱きついてきた。音緒は苦笑して抱き返しながらも、
「袋に領収書、入ってるからね」
立て替えた分の請求は忘れない。
「判ってる。幾ら?」
言いながら紙バッグをさぐり、領収書を確認した親友は、いつもは伏目がちな瞳を大きくまん丸に見開いて、音緒を見つめた。
「凄《すご》い、定価じゃない」
「そだよ」
ちょっと得意になってしまう。
でも『才能』のことは、秘密。
秘密にしておくのは、正解だ。怖がられたり嫌われたりイジメられたりしないで済むだけじゃない。
大好きな杏子の、こんな顔だって見られるのだ。
「ねえ、ちょっと訊《き》いていい?」
財布を開いた杏子は、金額を確認しようとしたのか再び領収書を見て、綺麗《きれい》に形を整えた眉をひそめた。
「なに?」
「なんで靴屋なの?」
困惑しきったその顔に、音緒は思わず吹き出した。
始業のチャイムが鳴った。
『才能』のことは、音緒の唯一の、そして最大の秘密だった。
誰にも。
少なくとも、こっちに越して来てからは、誰にも話してはいない。
親友の杏子にも、だ。
それは、彼女にとってみれば簡単なごく当たり前の『才能』が、彼女以外の者にとっては、そうではなかったからだ。
最初は幼稚園の頃。先生が、オートバイの免許を取ったのよ、と言った時だった。音緒は彼女に言った。怪我《けが》するから乗らない方がいいよ。先生は笑っただけだったが、その翌日、彼女は交差点で無理な右折をしようとした乗用車にぶつけられた。全治一ヶ月で、先生はしばらく脚に治療用の外骨格を着けていた。
その次は、小学校に入って最初の夏休みだ。伊勢《いせ》へ帰省するという級友に、行っちゃ駄目だよ、と言ったのだ。行ったら、もう学校に来れなくなるから。その言葉どおり、少年は夏休みが明けても登校して来なかった。海で溺死《できし》していた。
二つの出来事は、噂になって町中に広まった。音緒には噂の内容までは届かなかったけれど、周囲の人々の視線が好意的でないことだけは判った。
両親は彼女を諭した。もうあんなこと言っちゃいけません。
その時、音緒は初めて、それが異常なことであると知った。父と母の表情に、彼女は困惑とともに脅《おび》えを見てとったのだ。
そうだったんだ。他の人は、先のことが判ったりしないんだ。お父さんもお母さんも、明日のことさえ知らないでいるんだ。
あたしだけなんだ!
そこで彼女は、ようやく自分の『才能』を意識した。意識して、口を閉ざした。それで両親が安心するなら、と幼いながらも音緒は思ったのである。
おそらく父も母も、彼女の『才能』に気づいたわけではなかったのだろう。ただ単に、不吉なことを口にしてはいけない、と叱《しか》ったのだ。だがおかげで音緒は、自分の持つ『才能』に気づいた。そして、それを露《あらわ》にして生きることは出来ない、ということにも。
振り返ってみれば、わざわざ口にした以外にも、先のことが判ってしまうことは頻繁にあったのだ。
誰もが同じだと思っていたので口にしなかっただけで、実際には些細《ささい》な予知は、日常茶飯事だったのである。
そう。
予知だ。
それが音緒の『才能』だった。
天気予報よりも正確に、翌日の天気が判った。玄関のチャイムが鳴った瞬間に、来訪者が誰であるのかが判った。飛行機事故のニュースが流れれば、死傷者の数が発表よりも前に判った。誘拐事件のニュースでは、被害者がどこで保護され、犯人がいつ捕まるのか判った。
そして昨日の日曜日は、親友の欲しがっているフィギュアが、どこに行けば定価で買えるのかが判った。思ったとおり、駅前の商店街の片隅の靴屋で、スニーカーの棚の奥にひっそりと作られた玩具《がんぐ》コーナーに、それはあった。
簡単なことだ。
ある出来事について考えると、その将来の結果が瞬間的にひらめくのだ。
金曜日、杏子が一生懸命になって説明しているのを聞いているうち、中年の男の姿が見えた。問題のフィギュアを手に、棚に並んだスニーカーを背景にして微笑《ほほえ》んでいた。その玩具コーナーが彼の趣味で設置されたものであり、フィギュア・マニアにとっては穴場であることも判った。
買ってきてあげよう、と音緒は思った。
でも、秘密は秘密だ。だから、あたしに任せな、とだけ伝えたのだ。
そして今日、杏子は飛び上がって喜び、音緒はちょっと嬉しかった。
下校時、音緒と杏子は校門前のバス停で別れる。それぞれ反対方向行きのバスに乗るからだ。杏子はJRへ乗り継ぎ、音緒は自宅近くの商店街で降りる。本当はもう一つ向こうの停留所で降りた方が家には近いのだが、商店街の入口にある大型書店に寄り道するのが日課なのである。
別に文学少女というわけではないけれど。
この時刻、店内はまだ空《す》いている。もう三〇分も後になると、国道に面した駐車場は仕事帰りの車で一杯になる。そうなる前に、ゆっくりと雑誌や小説やマンガ本を物色するのが音緒の日課だった。
本を読むのは好きだ。小説でもコミックでもいい。
映画を観《み》るのもオッケーだ。つまり音緒は、物語、とか、創作された世界、とかいうやつが大好きなのだ。
身近な現実世界と違って、なぜか物語世界には、音緒の予知は働かない。
だから、楽しい。
わくわくする。
どきどきする。
現実世界がつまらないなどと言う気はないが、それでも時々うんざりするのだ。
特に、男の子との付き合いにおいて、その憂鬱《ゆううつ》は最大になる。
相手がコクってくるその場所から時間から告白の言葉から相手の表情から、全《すべ》てが前もって判っているのだからシラケることおびただしい。交際を始めても、わずか数日で、いつ手を握ってくるのか、いつ肩を抱かれるのか、いつ最初のキスをされるのか、そして、いつ肉体を求めてくるのか、全て判ってしまうのである。
いつ別れてしまうのか、も。
結局、中学二年で初めて男の子に告白されてから、付き合った男の子は三人。みんな例外なく彼女が予知したとおりに行動し、予知したとおりに疎遠になってゆき、やがて自然消滅してしまった。男の子の方にしてみれば、無理もないのかも知れない。何しろ、どんなにデートを演出し、どんなにプレゼントに趣向をこらしても、相手の少女は全て予習済みなのだから。
男の子なんて、と彼女が友達に漏らす言葉は、だから実はとても痛切な思いから出るものなのだった。
見え透いてて、つまンないよ。
それが彼女の、十七歳にして得た男性観だった。
入口の雑誌コーナーを抜け、その奥が新書。次が文庫本。平積みの本ではなく、棚に並んだ背表紙の方を、順番に眺めてゆく。タイトルに惹《ひ》かれて衝動買いしてしまうこともあるが、今日はそのつもりはない。今月のお小遣いが残り少ないからだ。
次の土曜日に杏子を問題の靴屋に連れてゆく約束をしてしまった。
例の、趣味の玩具コーナーがある、あの靴屋だ。
だから、お茶代くらいは残しておかないと。
ちらり、と杏子の笑顔が見えた。一週間後、音緒は同じ笑顔を見るのだ。
思えば、音緒が本当の意味で心を開いた相手は、関根杏子が初めてだった。理由は不明だが、杏子には予知が働きにくいのである。次に何をするのか、次に何を言うのか、ほとんど判らない。それがこんなに気持ちのいいことだと、音緒はそれまで知らなかったのである。
今回のように『見える』こともあるが、それも断片的で、しかも頻度は他の人に比べて格段に少ない。
例のフィギュアにしたって、手に入れる方法は『見え』ても、それを手にして喜ぶ杏子を『見た』わけではないのだ。
なぜだろう。
ひょっとすると、物語の結末が予知出来ないのと、何か共通点があるのだろうか。
考えているうちに、文庫の棚を最後まで眺め終えてしまった。
エスカレーターの前で立ち止まる。二階はコミックとゲーム攻略本の売り場だ。少し考えてから、今日は二階には上がらないことにした。その代わり、一階の棚をもう一度、ゆっくりと眺め直す。今度は考え事をしないで、背表紙だけに集中して。
あ、藤谷美和《ふじたにみわ》の新刊が出てるや。
結局、藤谷美和の新刊は諦めた。ベストセラー作家だから、来月まで買えなくても店頭からなくなる心配はない。初版は無理だろうけど。
宿題を済ませてスタンドの照明を消した音緒は、椅子《いす》の上で大きく伸びをしてから、窓の外を眺めた。
音緒と両親が住む17棟は、丘の中腹にある。
七夕山《たなばたやま》ロイヤル・タウン。小高い丘を、三〇棟を超えるマンション群が覆っている。音緒の勉強部屋の窓からは、麓《ふもと》の街まで何の障害物もなく見渡せた。
はるか遠く、横長の光が滑ってゆくのは、JRの列車だ。駅ビルは別のマンションの陰になって見えないが、駅周辺の繁華街は見える。街灯と建物の照明と看板の灯と、動いているのは自動車だ。商店街のアーケードも、内側からぼんやりと光っている。
その手前に、少しずつ間隔を空けた灯の集団は、七夕山住宅地だ。今から四十年ほど前の七夕山の開発初期に作られた住宅地で、こちらはロイヤル・タウンと違って一戸建てばかりだ。父によると、まだ現在のように住宅難が真剣に考えられていなかった時代の名残なのだそうだ。今となっては一戸建てなんて、夢のまた夢のまた夢のまた夢。かつては郊外なら千万単位の金額で家が買えたというのだから、嘘のようだ。
窓際のベッドに、ごろん、と横になる。
服装は、帰って来た時に上着を脱いでハンガーに掛けただけ。ブラウスもスカートも制服のままで、胸のリボンさえ解いてはいない。
ちゃんと着替えないと、またお母さんに叱られちゃうなあ。
夕食の時、ちゃんと着替えなさいね、と言われた。その時は見逃してくれたが、制服のままでベッドに横になったなんてバレたら、お小言は確実だ。
お尻の下に手を入れて、スカートを皺にしないように伸ばす。けれど着替える気にならない。
なぁんか面倒臭い。
これだな、と音緒は思った。
みんなこうやって、しなきゃならないと思いながらも面倒臭くて、それが積み重なって積み重なって積み重なって、結局、今の社会があるんだ。バイオとかサイバネティクスとか医療技術がどんどん進歩して、寿命がどんどん伸びて、そしたら人が溢《あふ》れるに決まってるのに、誰も人口爆発のことなんか真剣に考えなくて……。
これから先、地球はどうなるんだろう。
そう思った途端に、見えた。
今よりもギチギチと立ち並ぶ建物。限られた土地に拡《ひろ》がり尽くして、上と下に空間を求めて伸びてゆく住居。
でも、それだけ。
それ以外のところは、何も変わらない。
問題を把握しているほんの一握りの人々と、それを解決しようと汗を流すもっと少数の人々と、それから問題に気がつかない人々と、気づいていても無視し続ける人々と、いろんな人々が混じり合って、とにかく世界は破滅するでもなく大きく発展するでもなく、何となく面倒臭そうに存続してゆく。
大きな問題は小さな問題に細分化され、少しずつだが確実に解決されてゆく。旧《ふる》い問題が解決すると新たな問題が発生し、それもまた細分化されて少しずつ解決されて……。
その繰り返し。
相変わらず、のたのたとした世界。
じゃ、あたしは?
また見えた。
平凡な男性と結婚して、子供をあやしながら家事をこなして、旦那《だんな》の行動は先の先まで読めてて、子供の行動も先の先まで読めてて、ご近所さんの行動も先の先まで読めてて、両親や親戚《しんせき》や旦那の方の親の行動も先の先の先の先の………………。
溜《た》め息《いき》が出た。
2
気がついた時には、朝だった。そのまま眠ってしまったのだ。スカートは脚の付け根までまくれ上がって、皺だらけになっていた。
クローゼットから替えのスカートを出して、履き替える。皺のよったスカートは、クローゼットの隅に隠しておいた。学校から帰ったら、お母さんに見つかる前にアイロンかけておかないと。
洟《はな》をすすりあげる。
風邪ひいたかも知ンない。
ダイニングでは、
「おう、お早う」
父が新聞を拡げてコーヒーを飲んでいた。きちんとネクタイまで締めているが、ぽこんと出っ張ったお腹《なか》は、くつろぎきっている。
「おはよー」
「音緒、あなた夕べ、お風呂《ふろ》入らなかったの?」
シンクに向かって背中を見せたまま、母が言う。
腰まで届く黒髪は、今朝も艶《つや》やかで光の輪を載せていた。
「うん、ごめん。宿題してたら眠くなっちゃって」
テーブルに着いて、既に用意されている紅茶をすする。お風呂どころかパジャマに着替えさえしなかったことは、絶対に内緒だ。
「駄目よ、女の子は清潔にしなきゃ」
基本的に放任主義の両親だったが、母は、だらしない行為だけは許してくれないのだ。だから出来るだけ素直かつ快活に聞こえるような声音で、
「はあい」
返事をしつつ音緒は、ちらり、と父親に視線を投げた。一瞬だけ目が合い、すぐさま父は新聞に目を戻して、おうおうおう、と声をあげる。
「まただよ、音緒」
助け船のつもりなのだ。
「なになに?」
もちろん、乗っかった。母親お手製のフレンチ・トーストを齧《かじ》りながら、父の方へ身を乗り出す。母がかすかに肩をすくめるのが、目の端に入った。
「知ってるか? 有明《ありあけ》の貨物船の話」
助け船は、幽霊船だった。
「ああ、うん」
詳しくは知らないが、学校でも噂になっていた。
たしか……、
「幽霊が出るんでしょ。……あれ? ゾンビだっけか?」
「その船で、また正体不明の生き物の焼死体が見つかったってよ」
「うわ、また?」
また、だ。
杏子に聞いたところによると、最初それも空飛ぶ幽霊ライダーと同じく、単なる都市伝説とでも言うべきものだったそうだ。繁華街の路地裏や地下道、廃ビルや廃屋に、何だか判らないイキモノの焼死体が捨てられていることがある、というのだ。警察や科学者が調べても何のイキモノだか判らない、というのが物語のキモの部分である。
それは道ならぬ科学実験の産物であるかも知れないし、未確認の野性動物なのかも知れない。別に宇宙人でも妖怪変化《ようかいへんげ》でもかまわないが、それらが何であれ、必ず焼死体として発見されるところが、このオハナシの不気味なところだった。
ところが、それがここ一年ほどの間に、単なる伝説ではなくなってきている。それほど頻繁ではないが、関東一円を中心に目撃され、テレビや新聞で正式に報道までされるようになってきたのだ。
少なくとも音緒の家に配達される新聞には、これまでに二度、関連記事が掲載されている。もっとも、『夏の夜のミステリー』だとか『現代の怪奇』だとかの惹句《じゃっく》とともに、キワモノ的な扱いで、ではあったが。
多分、今朝の三度目の報道も、似たようなものだろう。
「ほおお、『専門家は宇宙生物の可能性を指摘している』だってさ」
やっぱりね。いったい何の専門家ですかね。
「朝から嫌ですよ、お父さん」
母のクレームも、やっぱりね、だ。首だけ振り返った母は、眉を寄せていても、やっぱり美しい。
鼻も高いし。
肩をすくめた父は、新聞で母に見えないように隠れてから、音緒にウィンクをよこして見せた。音緒も、返した。
どっちにしても、とフレンチ・トーストを齧りながら音緒は思う。
こんなの、ただの噂。きっとすぐに、とんでもなく莫迦莫迦しい正体が判明して、みんな忘れてしまう。その証拠に、いくらこの『謎のイキモノ』の未来を予知しようとしてみても、何も浮かんでこないンだもん。
だから結論。
謎のイキモノなんて、存在しない。
そのことを、確実な証拠とともに確信しているのは、たぶんあたしだけだろうけど。
フレンチ・トーストは美味《おい》しくて紅茶もいい香りだったが、時間は決して待ってはくれない。登校する時刻になり、父に五分遅れて音緒も家を出た。
鏡に、イーッ、と笑ってから。
学校に着くと、杏子はまだ来ていなかった。
一時間目が終わっても、まだ来なかったので、風邪でもひいたかと思った。
電話を入れてみた。杏子の家の電話にではなく、携帯へだ。
出なかったので留守番メッセージを入れて、念のためにEメールも打っておいた。
〈欠席の理由を述べよ。風邪?ちょっと心配してるぜ。b〜yねお(はーと)〉
放課後になっても、返事はなかった。
ようやく音緒は、変だ、と思い始めた。彼女が打ったメッセージが、こんなに長いこと放《ほ》ったらかしにされたのは初めてのことだ。
最後の手段として、杏子の自宅に電話をかけた。
杏子の母親が出た。
音緒の親友は、今朝、いつものように家を出ていた。
関根杏子は、こうして失踪《しっそう》した。
3
翌日も、杏子は登校してこなかった。
終業前のホーム・ルームで、杏子の両親によって捜索願いが出されたことを担任が報告した。心当たりのある者は申し出るように、という意味だったのだろうが、クラス中をちょっとした騒ぎにしてしまっただけだった。
音緒は騒がなかった。
硬直してしまっていた。
その翌日になっても、さらに翌日になっても音緒の隣の席は空いたままで、杏子が保護されたという報告を聞くことは出来なかった。その頃には、音緒の中で育ち始めていた不安はどんどん大きくなって、ついには食事も満足に喉《のど》を通ってくれなくなっていた。睡眠は、最初の夜からとっくに三時間を切っていた。
金曜日の昼休みに、校長室に呼び出された。そこには担任と校長の他に二人の私服警官が来ていて、失踪前の杏子の言動に不審な点はなかったか、とか、家出を匂《にお》わせるようなことは言っていなかったか、とか、どこか行き先に心当たりはないか、などと訊いて行った。音緒と杏子の仲が良いことは、誰もが知っていたからだ。だが音緒は、何も判りません、と答えた。だけどあたしに黙って家出するなんて考えられないから事件か事故に違いありません、とも。
一週間が経《た》って土曜日がきても、事態に変化はなかった。杏子の携帯電話は応答せず、その間に音緒が打ったメールは、五〇通を超えた頃から受信されなくなった。杏子の携帯電話のメモリが一杯になったからで、つまり杏子はメールを読んでいないのだ。
あるいは、読むことが出来ないのか。
学校が休みのその日、音緒は朝から一歩も部屋を出なかった。それどころか、一日をベッドで過ごした。
毛布にくるまって。
愛用のパール・ピンクの携帯電話を両手で握りしめた音緒は、ただじっと杏子からの連絡を待っていた。父も母も、彼女の部屋をノックすることはなかった。
胃が痛み、額の奥が痛んだ。しかしその痛みよりも、何も考えないように努力することの方が苦痛だった。頭に、ちらりとでも杏子の顔が浮かぶと、その意味を意識が読み取る前に必死で振り払った。
最悪の事態を予知してしまうことが怖かったからだ。
杏子のことが心配で心配で、なのに杏子のことを考えないようにしようとする。胃の痛みも額の奥の痛みも、どんどん強く深くなっていった。
実際のところ、音緒は冷静ではなくなっていたようだ。
その証拠に、彼女はこの時点に至ってさえ、重大な事実に気づいていなかった。親友の失踪という事件に目の前を覆われて、自分自身の身に起きている異変に、全く気づかずにいたのである。
音緒がそれに気づいたのは、窓から入ってくる光が紅《あか》みがかってきた頃だった。
毛布にくるまったまま膝《ひざ》を抱えてベッドに座り、落ちてゆく夕日をぼんやりと見ていた時、土曜日が終わってしまう、と思った。
そして、
「……あ」
思わず声が出た。
鳥肌がたった。
これまでの経験上、絶対にあるはずのない事が起きているのに気づいたのだ。
「忘れてた」
そして今、思い出したのである。
音緒は先週、土曜日の杏子を予知しているのだ。
自分に向かって微笑む杏子の姿を、音緒は『見て』いるのである。それは今日、音緒が目にするべき光景、必ず目にしていなければならない光景だったはずだ。
なのに今日、杏子には逢《あ》えなかった。彼女は行方不明だ。
「……うそ」
予知が外れたのだ!
なぜ?
こんなことは、今まで一度もなかった。
あり得ないことだ。背後から肩を叩かれて振り返ったら誰もいないのと同じくらい、それは異常な事態だった。
背中が震えた。
肩甲骨の辺りに、冷たいものが貼《は》りつく感じだった。
音緒は確信した。
杏子は、ただいなくなったわけじゃない。誘拐だとか家出だとか事故だとか、そんな単純なことじゃない。
もっと異常な何かが起きている。杏子の失踪は、その一部に過ぎないんだ。
そして、と音緒は思う。
それは、あたしも巻き込んでるんだ!
4
日曜日は朝から雨だった。
両親は心配そうだったが、気分転換に遊んでくる、と言うと、無理に止めたりはしなかった。
音緒はお気に入りの花柄の傘を手に、まずバスに乗り、それからJR線に乗って杏子の家へ向かった。隣町の住宅地である。音緒の家と同じような、大型マンションだ。
玄関ホールのオート・ロックは、ロイヤル・タウンのテン・キーによる手動操作と違って、人工網膜による画像認識タイプだ。音緒はカメラの範囲に入らないように注意した。管理ロボットを作動させてしまうと、杏子の家の呼び出しが鳴ってしまうからだ。
今日は、杏子の家に用があるわけではない。マンションの入口は、今日の捜索のスタート・ラインなのである。
音緒はマンションに背を向け、傘を差して雨の中へと踏み出した。
ちょっと甘く見てたかな、と思う。スタートする前から、白いスニーカーは中まで雨水が染みているし、ジーンズの裾も濡《ぬ》れて足首に貼り付いている。納まりの悪い癖っ毛まで、湿気を吸ったのかいつもよりまとまらない感じだ。
それでも音緒は、前へ出た。
ばたばたと傘が鳴る音を聞きながら、大通りへ出る。雨足はかなり強くて、行き交う自動車はどれもワイパーを狂ったように動かしている。路面の誘導帯と車体の間で、時折かすかに白い電光が散っていた。
駅へ向かう道だ。
あの朝、杏子もここを歩いたのだ。
腕時計を確認する。時刻も、たぶん同じはず。
でも杏子は、学校に来なかった。ここから学校までの間に、何かあったのだ。
おそらく警察も、それに杏子の家族も、今の音緒と同じことをしたに違いない。だが、彼らには音緒のような『才能』はないのだ。
未来を知ることの出来る力が、過去にも同じように働くものかどうかは、音緒にも判らない。
でも、と思う。
何もしないよりマシだ。
人通りは、ほとんどない。みんな雨の休日を家の中で過ごしているのか、それとも出掛けているのか。反対側の歩道を、お婆さんが、小さな傘をさした孫と手をつないで歩いてゆく。背後から駆け足の足音が聞こえてきて、ビニールのレイン・ウェアを着込んだジョギング青年が追い抜いてゆく。向こう側から歩いてきた中年の女性は、すれ違う前にマンションの敷地に入っていってしまった。
目をひく物もない。目をひく人もいない。雨のせいかも知れないが、日曜日の朝がこんなに閑散としているとは思わなかった。
平日にするべきだったろうか。そうすればもっと人通りもあって、何か手掛かりが見つけやすかっただろうか。
駄目だ。許してもらえるわけがない。だからって無断で学校を休んだら、お父さんとお母さん、心配するに決まってる。
今日だけなんだ、チャンスは。
人通りが多くなってきた、と思ったら、もう駅前だった。音緒が歩いて来た大通りと交差して、もっと大きな通りの向こうにステーション・デパートが見える。
周囲を見回した。駅前はロータリーになっていて、バスが一台と、何台かのタクシーが列をつくっている。音緒の立っているのは喫茶店の前で、その両脇を手芸屋と時計屋が挟んでいる。車道の向かい側は行き交う車と雨とでよく見えないが、こっち側と似たようなものだ。
ここじゃない、と音緒は思った。
杏子の身に何が起こったにせよ、現時点まで手掛かりがないということは、それが起きたのは人込みの中ではないはずだ。
もっと手前だ。
その場でUターンしようとした音緒は、後ろから歩いて来ていた営業マン風の男とぶつかりそうになって、
「あ、ごめんなさい」
その時だった。
呼ばれたのだ。
名前を。
ねお、と。
「え?」
太ったスーツの男は、一瞬、怪訝《けげん》そうな視線を投げただけで行ってしまった。音緒は周囲を見回した。
駅前である。人通りは、少ないとは言えない。けれど誰一人として声をかけてくるどころか、音緒の方を見ている者さえいないのだ。
だいいち、
………………ねお。
まただ。
音緒の名を呼んでいるのだ。知っている相手なのだ。
「どこ?」
………………ねお。
やっと判った。その声は、目の前の喫茶店と、その隣の時計屋との間の路地から聞こえてくるのだ。
………………ねお、遅かったじゃん。
聞いたことのある声。聞き覚えのある声。聞き慣れた声。
まさか。
でも。
「杏子?」
杏子の声だ。
姿は見えない。路地は音緒の肩幅より少し広い程度で、雨で陽《ひ》が射《さ》さないせいか、ほんの数メートルより奥は真っ暗だ。そしてその声は、
………………ねお、待ってたんだよ。
確かに路地の闇《やみ》の奥から聞こえてくるのである。
「杏子」
路地の闇が、じわり、とにじんだ。低い鼻の奥が、つん、と痛んだ。
生きてたんだ。
そう思った途端、自分が心のどこかで親友の死を意識していたことに気づいて、また別の涙が溢れそうになった。
「迎えに来たんだよ」
………………うん、信じてた。
「出ておいでよ」
………………ねおが来て。
「わかった」
即答した。
たたんだ傘を路地の入口に立てかけて、音緒は闇の中へと入っていった。
すぐに何も見えなくなった。
「どこ、杏子」
………………もっと奥。ずうっと、ずうっと奥。
「わかった」
予知は、外れてなんかいなかった。土曜日だと思ってたけど、本当は今日のことだったんだ。この後、杏子と一緒にあの店に行くんだ。
そして杏子は笑うんだ。
あたしも笑うんだ。
「杏子」
………………ねお。
「杏子」
………………ねお。
「杏…………!」
突然、足の下から地面が失《う》せた。悲鳴をあげる暇もなかった。音緒の躯《からだ》は、垂直に落下した。
少女を迎えたのは、まず衝撃。次に悪臭だった。
したたかに打ちつけた尾てい骨の痛みは、最後に、じんわりとやってきた。
闇だった。
何も見えなかった。
どろりと流れる液体の中に胸の辺りまで漬かった状態で座り込んでいることだけは、感触で判った。
「う……!」
立ち上がると、空気が動いて臭気が強まり、音緒は吐きそうになって呻《うめ》いた。
「杏子、どこ?」
声が妙に響く。トンネルみたい、という連想から、自分の居場所が判った。
下水道だ。
「杏子!」
叫びに、
「ここにいるよ」
応えはすぐに返ってきた。
近い。
近すぎる。
すぐ後ろだ。
振り返った。
真っ暗で見えないけれど、目の前に確かに気配があった。
「杏子?」
「うん」
「良かった」
手を伸ばした。
「一緒に……」
………帰ろう、と言いかけて、けれど最後まで言えなかった。
音緒の指先に触れたものは『杏子』ではなかった。
反射的に、手を引っ込めた。指先に、異様な感触が残った。小石をいっぱい詰め込んだ生き物の生皮に触れたような感じだった。それも、その生皮は裏表が逆で、ぬるぬるの脂肪層を表向きにしていて、でもその表面には細かい刺《とげ》みたいな毛がいっぱい生えてて、それが内側からグリグリ動いてて………………。
「杏子」
「ねお」
「やぁっと見つけたぜ」
三つ目の声は、男の声だった。
「下水道だけは勘弁してもらいたかったな」
ざぶ、ざぶと水を分ける音が、音緒の背後から近づいてくる。反響で、どっちから聞こえるのか判らない。周りを見回しても、闇ばかりだ。
「お嬢ちゃん」
あたしのこと?
「目ぇつむってな」
え?
遅かった。
突然、暗闇が真っ白になった。
そして、見てしまった。
杏子を。
杏子の顔を。
顔だけを!
ギィイィイイイィイィイイイィィィイイイ!
ハサミの先端でガラスを引《ひ》っ掻《か》くようなその音は、杏子が発していた。歯を食いしばって固く目を閉じた杏子の顔が、音緒のすぐ目の前にあった。
それを、まだ『関根杏子』と呼べるならば、だが。
「ひ!」
音緒は、喉の奥で声を詰まらせた。小石を詰めた裏返しの生皮の、その正体が今、目の前でのたうっているのだ。
怪物だ。
バケモノだ。
妖怪だ。
『杏子』なのは、頭だけだった。胴体の代わりに何十本もの節くれだった触手が、タコかイカみたいに波打っていた。音緒が触れてしまったのは、そのうちの一本だ。しかも、どれもが途中で枝分かれして、何百本もの肉の鞭《むち》となって汚物の浮いた水面を叩いているではないか。
すぐ側《そば》の、湾曲した下水管の内壁に、細長い筒が突き刺さって、短いけれど明るい炎を吹き出している。その光の中で、
ギィィィィィイイイィィイイ!
『杏子』が呻く。
苦痛なのだ。
光が。
突然、背後から腕を掴まれた。
引っ張られた。
あわててバランスを取る。そのわずかな間に、『杏子』と音緒との間に割り込む恰好《かっこう》で男の背中が立っていた。
「お嬢ちゃん」
革の上着の男は背中を向けたまま、その手には黒く大きな拳銃《けんじゅう》が握られている。
「はい」
「おめぇ、こいつの知り合いか?」
この男、誰なの? 杏子は、どうなったの?
いったい、何が起きてるの?
音緒は、かろうじて、はい、とだけ応えた。
「そうか」
男は振り向きもしない。
「じゃあ祈ってやってくれ」
次の瞬間、『杏子』の触手が全部、一斉に広がった。男を包み込むように。
だが男の動きの方が速かった。続く轟音《ごうおん》が銃声だと気づいた時には、全ては終わっていた。大きな水音をたてて『杏子』が仰向《あおむ》けに倒れた。『杏子』の額に大きな穴が開いているのが、ちらりとだけ見えた。汚水が大きな波になって、音緒は足元をすくわれて引っ繰り返りそうになった。
その躯を、
「大丈夫?」
横から伸びてきた腕に支えられた。
女性だ。
音緒の母親の、その百倍くらい美しい。
「ジョウ、この子お願い」
「おう」
男が振り返った。
海賊みたいな顔だった。
顎《あご》は不精髭《ぶしょうひげ》に覆われ、右目にはアイパッチを着け、その下には額から頬にかけて一直線に傷痕《きずあと》がある。
この顔………………。
いきなり、男が音緒の腰を抱いた。そして、
「きゃ!」
突然の浮遊感に悲鳴をあげた次の瞬間には、彼女は再び暗闇の中に立っていた。
何が起きたの?
いったい、何がどうなったの?
突然、足元からの赤い閃光《せんこう》が、路地を照らしだした。見ると、すぐそばの地面に丸い穴が開いている。
マンホールだ。
たった一瞬で、男は音緒を抱えたまま、もとの路地まで飛び上がったのだ。
そこから光とともに、悪臭のする蒸気が吹き上げてくる。吐きそうになって、音緒は顔をそむけた。
男と目が合った。
男の顔はマンホールからの光に照らされて、ハイ・コントラストになっている。磨き込まれたプラスチックのような黒いアイパッチに音緒自身の顔が映っていて、彼女の顔もハイ・コントラストだった。
「災難だったな」
そう言って、唇をゆがめる。
その顔。
見覚えのある顔。
右目は見えないが、左目はちょっと垂れ気味。小鼻も丸い。でも眉は太く、唇は引き締まっていて、音緒の基準でも『イイ男』な……、この顔。
まさか。
けれど。
なんてこと。
音緒は、ブリスター・パックの台紙に印刷されていたロゴを思い出した。
「サムライ・ジョウ……!」
杏子を撃ったのは、杏子の憧れのライダーだった。
5
ダリアがレーザーによる処理を終えたようだ。路地は暗闇になった。
少女は両手で丈の腕を掴んで、放そうとしない。振りほどくのは簡単だったが、丈には出来なかった。
マンホールから出てきたダリアは、汚水まみれの少女を腕にぶら下げた丈に、どうする気なの、と言った。
「どうするッたってなあ」
早く撤収するべきなのは判っている。おそらく付近の住人は、この蒸気の悪臭をもう警察か保健所に通報しているだろう。何しろ、糞便《ふんべん》と生ゴミの溶けた汚水の蒸気なのだ。もっと盛大に雨が叩いてくれれば随分とマシだろうが、この路地ではそれも望めない。
いずれ、誰かが来る。
ダリアと二人なら、何とでもなる。問題は、この子なのだ。
見られること、そのものは問題ではない。これまでにも、あわやゾーンの餌《えさ》になる寸前の一般市民を助けたことはあった。地下鉄の一件では、一度に何十人もの乗客に目撃されている。だが助けた相手にしがみつかれたのは初めてだ。
それに、
「この子、俺が誰だか知ってンだよな」
「そう。それは問題ね」
この子を放《ほう》って、撤収する。警察か保健所か付近の住民かが、汚水まみれの少女を保護する。事情を訊く。下水道が調べられる。ハントの痕跡《こんせき》が確認されて、少女の証言は一気に信憑《しんぴょう》性をおびる。そして少女の口から、黒川丈の名前が出る。
最悪だ、と丈は思った。
ことの真偽は二の次で、マスコミは飛びつくだろう。死んだはずの男が生きていることが知れ渡れば、確実に行動は制限されてしまう。それが伝説のバトル・ホイール選手とくれば、なおさらだ。しかもこの少女が、状況を理解しているとは思えない。
「あんた達……」
両腕でしっかり丈の腕を捕まえたまま、その腕に顔をうずめるようにして、少女の声音は震えている。震えて、重く、硬い。
「……誰よ。あんた達、杏子に何をしたのよ」
案の定だ。
「お嬢ちゃんよぉ」
空いた方の手で、丈は思わず頭を掻《か》いた。
「俺はこれでも、あんたの知り合いを助けたつもりなんだぜ」
「殺した」
「ああなったら、他に助ける方法がないんだよ」
「ああなったらって、どうなったらよ。判ンないわよ」
「だからさ……」
思わず丈は、ダリアを見る。だがダリアは、表情も変えずに肩をすくめるだけだ。
仕方ねえなあ。
「知りたいのか」
それしかないのか。
「知りたい」
丈は少女の肩を掴んで、腕から引き離した。少女は抵抗しなかった。正面から向き合うと、少女は丈の胸ほどの身長だった。暗くて見えないのだろう、少女の視線は不安定に彷徨《さまよ》い、けれどその表情には明らかな敵意があった。
「俺がこのまま行っちまったら、どうする?」
少女は即答する。
「皆に言うわ。サムライ・ジョウが実は生きてて、あたしの親友を殺したって」
やっぱりな。
「説明したら、黙ってるか?」
「黙ってるかも知ンないし、喋《しゃべ》るかも知ンない」
「聞いてから決めるか」
「そうよ」
溜め息、だ。
「知っちまったら、もう以前の生活には戻れねえぞ」
「いいわよ」
即答。
小振りな唇は血の気を失って、小刻みに震えている。低い鼻を、ぐすん、とすすりあげてから、少女は言った。
「もう手遅れだもん」
それもそうだ。
「ダリア」
「はい」
「連れて帰る。路地の正面に、車、回してくれ」
「意図的に民間人を巻き込むのは、感心しないけど」
「おめえ、忘れてねえか? 俺も民間人だぞ」
「了解」
車に乗るまで、少女は丈の顔がある方を睨《にら》み続けていた。
たとえ現状が後手に回った状況であったとしても、それ以外のやり方がない以上、今までと同じ方法を続けるしかなかった。
情報を収集し、統計をとり、推理を重ねて最後は勘に頼る。ダリアは与えられた情報を正確に処理する以上の能力を持ってはいないし、丈の方も闘いにこそ自信はあったが、際限なく進化を続ける異種生命体の裏をかく方法など考えも及ばなかった。
あるいは美咲《みさき》だったら、と思わなくもなかった。
だが死んだ人間を頼るほど無駄なことはない。理想に届かないからと言って何もしないよりは、届かないことを承知しながら前に進む方が百倍はマシなのだ。
そして今日とりあえず一匹、なんとか片づけた。人目につく危険はあったが、ゾアハントを夜間に限定しないようにしたのが、あるいは功を奏したのかも知れない。その結果、事態の展開には遠く追いつかないことも事実だが、現に一人の少女の命を救ったのも、また事実だった。
無論、救った相手が別の問題を持ち込んできたとしても、である。
丈がシャワー・ルームから出てきた時、先に躯を洗い終えた少女は、リビングのソファに座っていた。
くつろいでいるわけではない。
揃《そろ》えた膝の上に両手を置いて、まっすぐに正面を見ている。まるでダリアだ。そのダリアは少女のために着替えを出してやったあと、専用の洗浄ポッドに入っているはずだ。
少女は、上半身裸のままで湯気をたてている丈に、ちらり、と視線を投げただけで、また正面を向いてしまう。
やれやれ、だ。
ガラス・テーブルを挟んで、向かい側に座る。少女は薄い紫のスウェットである。それが本来は誰のものであったかは、言わないでおこうと決めた。
「待たせたな」
「待ったわよ」
言って、まっすぐに丈を見据えてくる。いや、睨み付けている、と言った方が正確だろう。少女は小さな躯に、不信と怒りをみなぎらせていた。すっかり乾いて扇形に広がった癖のある髪が、今にも立ち上がって文字どおりの怒髪天、となりそうな様子だ。
「お茶も出ないのね、ここ」
ありゃ。
「そりゃ失礼。持って来させよう」
「いいわよ、もう」
それより、と少女は言った。まるで凍りついたみたいに姿勢を崩さずに。
「あんた、誰」
「キミが言ったとおりだ。サムライ・ジョウ」
「それは商品名。本名は?」
なるほど、と丈は思った。
そういうことか。この少女は、俺のことを知ってるわけじゃない。どこかで例のアクション・フィギュアを見たんだ。よっぽどフィギュアの出来がよかったか、あるいはパッケージに俺の登録時の写真でも載っていたのかも知れない。
だが、
「黒川丈」
名乗ることにした。それが礼というものだ。目の前の少女と、そして、もう一人の少女への。
「お前さんは?」
「結城《ゆうき》音緒」
「ねお?」
突然、少女は背を伸ばし、薄い胸を張った。
「音楽の音に、糸偏に者の緒。音を紡ぐ糸っていう意味」
「わかった。それで……」
丈は膝に肘《ひじ》を突き、少女を追うように前へ出る。
「何が知りたいんだ、音緒ちゃん」
「全部よ」
「順番にいこうや」
「いいわ。じゃあ杏子はどうなったの」
「死んだ」
音緒の瞳は大きい。その眼が、きゅう、と細くなる。
「怒らせたいわけね?」
やれやれ、おっかねえ。
「そうじゃない。ただな、知らない方が幸せってことは、本当にあるもんだぜ。これ以上を知るとマジで後戻り出来なくなる。平穏な生活は、二度と戻っちゃ来ない。だが、このまま何も聞かなけりゃ、何ヶ月か悪夢にうなされて何年か怒りと憎しみを抱えることになるだろうが、それだけで済む」
「どっちか選べ、ってこと?」
「おめぇ、幾つだ?」
「十七」
「もうオトナだな。じゃ、イエス、だ。自分で選んで自分で決めな」
「決めたわ」
即答。
「全部、話して」
「だろうな」
丈は溜め息とともに立ち上がり、
「来な」
少女をプライベート・ルームへと招いた。
怒ってはいた。
どんな姿に変わっていようと、杏子は杏子だったはずだ。なのに、この男は躊躇《ちゅうちょ》なく撃った。それは絶対に許してはいけない。それでも言われるままに付いて来たのは、親友の身に起きたことが本当は何なのか、それを知りたかったからだ。
けれど同時に、正直なところ怖くもあった。
だから相手に悟られないように、出来るだけ表情を固く固く保っていたのだ。だが彼女のその努力も、招き入れられた部屋の様子を見た途端、一瞬で無駄になった。
開いた口が塞《ふさ》がらない、とはこのことだ。
何なの、この部屋。
音緒は思わず部屋中を見回した。どっちを見ても、それがこの凶悪で冷酷で残忍な男の私室だとは、とても思えなかった。
突き当たりの奥にコンピュータの端末を載せた大型の机、その隣にベッド。まともな調度品はそれだけだ。それ以外は壁の全面をスチール製のラックが占めており、並んでいるのは無数のアクション・フィギュアだったのだ。
特撮ドラマや3Dアニメやコミック・ブックに登場する、ヒーローやモンスターやロボットの人形だ。子供のオモチャだ。それが、ぎっちりとラックに並んでいるのだ。
いや、ラックだけではない。ベッド・サイドにも机の上にも、端末のモニターにも、部屋中に並べられているのである。
音緒の口から、思わず嘲笑《ちょうしょう》混じりに漏れた言葉は、
「莫ッ迦みたい」
振り返った男は、笑っていた。
「そうか?」
あわてて、怖い顔をつくる。
「あんたが莫迦なのは判ったから、早く説明してよ」
「ああ。まあ座れや」
男はベッドに、音緒は机の前の椅子に腰を下ろした。少し考えているような様子をしてから、男は言った。
「まずは、ゾーンとアザエル、この二つの名前を覚えてくれ」
「ゾーンとアダエル」
「アザエル」
「アザエル。覚えた」
「よし、じゃあ始めよう」
それは信じがたい物語だった。
二〇六〇年ごろ。環境の悪化に対し、人類の適応能力を高めることで対応しようという計画があった。アザエル計画は、そのための様々な試案の中の一つだった。
アザエルと名付けられた人工ウィルスによって、人為的な、しかも単世代における劇的な進化を実現しようとしたのである。
「そんな計画、聞いたこともないわ」
「まあ国家的秘密計画ってヤツだな」
「何よ、それ」
「まあ黙って聞けって」
結果は失敗だった。アザエルは、感染した生物に驚異的な環境適応能力を与える反面、ジャンク遺伝子を含む全ての遺伝情報をデタラメに発現させてしまうという副作用を持っていたのである。
「ジャンク?」
「例えば魚が両生類に進化した時、ヒレがなくなって代わりに脚になった」
「知ってる」
「でも両生類の遺伝子の中には、ヒレの情報は捨てられずに残ってる。使われなくなっただけだ。判るか?」
「判る」
「そんなふうに進化の過程で捨てられた不要な形質が、俺やお前さんの遺伝子の中にも残ってるんだ。両生類のも魚のも、もっと前の原生動物のもだ」
「それがジャンクね。判った、続き」
誤算は、他にもあった。アザエルに感染した生物は、肉体の激烈な変化によって消費されるカロリーを補うため、例外なく捕食生物となってしまうのである。
喰い続けなければ、生命を維持出来ないのだ。
つまりアザエルに感染すれば、その姿は異形となり、しかも生きている物なら何でも襲って喰らう、文字通りの怪物と化してしまうのである。
それが、ゾーンだ。
「じゃあ、杏子は」
「まあ最後まで聞け」
アザエル計画は凍結された。
だが何らかの事故で、アザエルが漏洩《ろうえい》したのである。二〇六二年のことだ。その施設がどこにあったのかは不明だが、当然、周辺の調査が行われた。だがアザエルの感染によってゾーン化した生物も、捕食された犠牲者の残骸《ざんがい》も、発見されなかった。
関係者は、胸を撫《な》で下ろした。
ゾーンは、肉体の急激な変化を支えるだけの餌が捕れなかった場合、二〇時間ほどで活動不能となり、最終的には死亡してしまうのである。つまりアザエルの漏洩によってゾーンは発生しなかったか、あるいは発生したとしても捕食行動に失敗して死滅したものとされた。
だがそれは早計だった。ゾーンは生き延び、姿を隠しただけだったのだ。
「嘘だ」
「嘘じゃないさ」
「嘘だ。だって、そんなバケモノが野放しになってたら、誰かが気がつく」
「俺も、そう思ったさ。だがな」
それには理由があった。誰もそれに思い至らなかったのが信じられないほどの、単純な理屈だ。
痕跡が残らないのである。
ゾーンは凶暴な捕食生物だ。襲われれば、必ず喰われる。だから目撃者が存在しない。そして残った屍体《したい》は、アザエルの感染によって新たなゾーンとなり、現場から去ってしまうのである。理論的に、一切の痕跡が残らないということなのだ。
やがて三年が経ち二〇六五年、一匹のゾーンが捕獲された。
「実を言うと、俺は、そいつの犠牲者なんだ」
「あんた生きてるじゃん」
「まあな」
黒川丈は、ゾーンに襲われて生き延びた唯一の例だった。彼はその卓抜した格闘センスを買われて防衛庁付属生化学研究所においてサイボーグ手術を受け、ゾーンを狩る者、ゾアハンターとなったのである。情報を収集し、調査し、そしてゾーンと闘い、処理する。丈は三年間、それを繰り返してきた。
ところが、やがて彼は、策略にかけられていたことを知る。
たしかにアザエル計画は当初、人類の存続を目的として進められていた。しかし同時にそれは、生物兵器への応用の可能性をも意味していたのである。
凍結されたはずのアザエル計画は、実は秘密|裡《り》に続行されていた。しかもゾアハンターは野放しとなったゾーンへの対応であると同時に、ゾーンとサイボーグのどちらがより兵器として適しているかをテストする比較対象でもあったのだ。
丈がゾーンに襲われたのも、サイボーグにされたのも、全ては最初から計画されたものだったのである。
「それに気づいちまった俺の相棒は、殺された」
「防衛ナントカに?」
「ああ」
「それで、どうしたの?」
「決まってる。ツケを払わせたさ」
防衛庁付属生化学研究所に乗り込んだ丈は、飼育されていた研究用のゾーンを殲滅《せんめつ》し、彼の相棒を暗殺した男を殺した。その男はアザエル研究の中核を成す人物だった。
「ひょっとしたら、アザエルが漏洩したのも、そいつが意図的にやったことだったのかも知れん、と俺は思ってるがね。まあ今となっては謎だ」
「それで?」
「それで終わりだ。後は、お前さんが見たようなことを、ずっと続けてる」
「じゃゾーンは、まだ野放しのままなんだ」
「ああ。始末しても始末しても追いつかん。見な」
男は端末に手を伸ばして、モニターに地図を表示した。点滅する光点の意味を説明されて、音緒は思わず身震いした。
失踪。行方不明。変死。
こんなに多いの? 杏子も、こんなに沢山の赤い光点のうちの一つに過ぎないっていうこと? 何度も何度も緑の点が光るってことは、こいつの言うみたいなバケモノが、そんなにたくさんいるってこと?
あたし達が知らないだけで………………。
表示が消えた。
音緒は出来るだけ気のないふうを装って、ふうん、と応えた。顎の付け根が震えているわりには、巧くいった。
「信じられないか」
「られない」
ほとんど信じかけてはいたが。
「そうか」
「証拠、見せてよ」
そうだ、証拠だ。証拠がないと信じられない。
「見たじゃないか」
「あんたの方よ」
ゾーンとかアザエルとかの方は、もう判った。ひととおり筋は通っている。だが問題なのは、目の前のこの男だ。
サイボーグ?
それも戦闘用の?
冗談じゃない。
「俺の?」
「そうよ。戦闘用のサイボーグは条約で禁止されてるって学校で習った」
人工器官……特に義手や義足には、厳重な製造基準が設定され、国際法で規制されているのだ。簡単に言えば、生身の人間に出来ないことが出来てはいけない決まりだ。戦闘用サイボーグなんて、存在するわけがないのである。
「あんたがマジで戦闘サイボーグなら、信じたげるよ」
男は、応えなかった。
ただじっと音緒を見つめていた。
片方だけの目で。
そして、
「わかった」
右腕を、彼女に向かって突き出した。
「ゆっくり、やるからな」
言うなり突然、男の腕が開いた。肘から手首まで、四方へ花びらのように。
「うわ」
音緒は思わず声をあげた。
それは確かに、機械の腕だった。しかし、何という精巧な義手だろうか。開いた腕の外装は、内側こそ鈍い銀色で明らかに金属だが、外側は生身の皮膚と変わらないのだ。ほんの何秒か前、彼女の目の前に突き出された腕には、確かに毛穴や産毛や、小さなホクロまであったのに!
だがもっと異様なのは、今まで外装が隠していた物の方だ。
保健体育の教科書に載っている義手の内部構造とは、全く違っているのだ。メーカーによって様々な機構があるのだろうが、しかし、これはどう考えても変だ。人工筋肉も人工神経も見当たらないのである。その代わりに、何か黒光りする鋼鉄の部品が、ぎっちりと詰まっているのだ。
「なに……これ」
恐る恐る手を伸ばそうとした瞬間、それが外へと飛び出してきた。関節のある何本もの細いアームが、黒光りする部品の一つ一つを、外へと押し出したのである。
開いた前腕部からだけではない。上腕の内側からも、同じような部品がアームに接続されて出てくるではないか。
「見てろよ」
黒い部品は、アームによって男の掌《てのひら》へと集結してゆく。
やっと判った。
これは拳銃の部品だ。あの時、彼が手にしていたのは、これだったのだ。
掌の中央に握りが、その上に引鉄《ひきがね》が、銃身が、何か知らないけど円筒形の部品が、がちゃがちゃと音をたてながら組み立てられてゆく。
やがて一丁の銃が完成した。アームは、するすると腕の中に引っ込んで行く。よく見ると男の腕の内側には、細い金属製の人工骨格しか残っていない。つまり腕の中身は全て拳銃の部品と折りたたまれたアームで、動力は骨格と外装だけから得ていることになる。それがどれだけ高度な技術であるかは、音緒にも判った。
ばくん、と外装が閉じると、男の腕は以前と同様、生身と見分けがつかなくなる。よく見ると、かすかに古い引っ掻き傷のような接合線があるだけだ。
「信じたか?」
男が言った。
音緒は、たった今組み立てられたばかりの拳銃を見ながら、ただ無言で頷《うなず》くことしか出来なかった。
「こんなことを公表したら、えらい騒ぎになる。俺の正体がバレたら、もっと動きにくくなる。はばかりながら、有名人だったんでな。判るな?」
そりゃそうだ、と音緒は思った。
確かにゾーンだのアザエルだのの話は、よく判らない。あの下水道での異常な経験の後でさえ、それはにわかに信じがたい話だ。
けれど、目の前のこの男は別だ。
彼が戦闘用のサイボーグでないとしたら、いったい何だというのか。そして、この男が本当に戦闘用サイボーグだということは、アザエルやゾーンの話も本当だということで、だったら公表すれば大騒ぎになって、しかもそれが伝説のライダーだとしたらなおさらで、だから、ええと……。
結局、音緒に出来るのは阿呆《あほう》のように頷きを繰り返すことだけだ。
「じゃ約束だ。内緒にしててくれや」
頷く。
「そいつは良かった」
にやり、と男が笑う。銃の収納は一瞬だった。男がさっき、ゆっくりやる、と言ったのは、つまりそういうことだ。これが本来の速度なのだろう。その仕組みを見たばかりの音緒にも、何が起きたのか、よく判らなかった。
さて、と男が立ち上がる。
「じゃあ、送らせよう」
音緒は、やはり呆然と頷くだけだった。
やられた、と音緒が思ったのは、随分と経ってからだった。
いつの間にか洗濯されていた自分の服に着替えたことも、来た時と同じ格納庫みたいな駐車場で車に乗せられたことも、遠い昔のことを思い出そうとするみたいに記憶が断続的で曖昧《あいまい》だ。
何が何だか判らないうちに、追い出されてしまったのだ。
そもそも、と音緒は思う。
なぜ、そうなったのか、よく判らない。気がついたら約束させられていたのだ。
それでも約束は約束だ。
つまり音緒は、見事にハメられてしまったのである。
溜め息が出た。
「どうかした?」
運転席の女だ。音緒を車に乗せてから彼女が口を開いたのは、これが初めてだった。
「何でもない」
不貞腐《ふてくさ》れたように、音緒は後部座席に埋もれる。
窓の外の景色は、駅前の繁華街だ。そろそろ陽が暮れようとしている。
雨は、あがっていた。
「ねえ、あんた」
「なに?」
「あいつ、いつも、あんななわけ?」
「ジョウのこと?」
「うん」
「どういう意味かしら」
「だぁから、あの、人を莫迦にしたみたいな態度とか……」
「そうね」
彼女の反応には、考える時間、というものがないようだ。すぐに反応が返ってきて、せわしないくらいだ。
「少なくとも、そういうふうに見える対応ではあったわ」
「過去形?」
「ええ。彼もう何ヶ月も、誰とも言葉を交わしていないから。あなたが初めてよ」
嘘ばっかり。
「あんたと喋ってたじゃん」
「人間と、という意味よ」
「は?」
「じゃあ彼、説明しなかったのね? 私は人間じゃないわ、アンドロイド」
え?
ええ?
ええええええ?
「嘘!」
「本当」
信じられない! 人間と見分けがつかないほどの高品位のアンドロイドなんて、完成どころか研究されているって話さえ聞かないのに!!
「証拠、見る?」
音緒は、う〜、と唸《うな》ってから、結局、
「ううん。いい」
ずるずるとシートに沈み込んだ。
あいつの言ったとおりだ。前と同じ生活に戻ることなんて、出来ない。平和だ平和だと思っていた生活が、実は無知の上に成り立っていたことを知ってしまったのだ。
生き物を変えてしまうウィルス。
闇に潜んで人間を喰らう怪物。
生身と見分けのつかないサイボーグと、人間そっくりのアンドロイド。
確かに杏子のことを考えると、胸が痛い。あんな姿になった杏子をためらいもなく撃ち殺した黒川丈のことも、許せるわけじゃない。
それは変わらない。
けれど、その裏ではもっと大きな、もっと異常な事態が進行していて、黒川丈がそんな異常事態を解決するために闘い続けているというのも事実なのだ。
誰も知らないうちに。
あたしの知らないうちに。
「でもね」
いつの間にか俯《うつむ》いてしまっていた音緒は、女の声に顔をあげた。ベルベットが指の間を滑るような、優しい声だった。
たとえそれが、プログラムによって機械が発するものであったとしても。
「これだけは信じていて欲しいの。ジョウは闘いを楽しんでいるわけじゃないし、望んで今の境遇にいるわけでもない。ゾーンを殺すことにさえ、心の底では痛みを抱えてる。彼は、そういう人なの」
だから、と言葉を継ぐ時、バックミラーごしに目が合った。
その目は、どこか哀しげにも見えた。
アンドロイドなのに。
「あなたを連れて来たのだし、きちんと説明もしたのよ。これ、どういうことだか判るかしら?」
「自分のことを黙ってるように約束させたかったから」
「それは否定しないわ。でも、それよりも前に」
初めて、彼女の言葉が途切れた。ほんのコンマ何秒かだったが、それはとても長い間のように、音緒には思えた。
「あそこであのまま、あなたを放り出すことが出来なかったのよ」
「は?」
「汚水まみれで震えてる女の子を放り出して帰ってしまうことが、どうしても出来なかったの」
「まさか」
あいつが?
あの凶悪で冷酷で残忍で、しかもあんな莫迦みたいな部屋に暮らしてる、あいつが?
「本当よ。もっとも本人も気づいてるかどうかは怪しいけど、でもね」
彼女の声は、
「あの人、そういう人よ」
本当に優しい。
帰宅した音緒を、両親は満面の笑みで迎えてくれた。
本当に心配していたようだ。
けれど音緒は、食事の間も二人とまともに視線を合わせられなかった。何事もなかったかのように笑顔で話しかける両親に、音緒は愛想笑いを浮かべつつ適当な返事をすることしか出来なかった。
入浴した後、おやすみ、とだけ言って部屋に戻った。
その夜、悪夢を見た。
杏子の額には、穴が開いていた。
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第三章 アソシエイト
1
朝。目が覚めると、丈は自室の隅に設置されたポッドで、機能チェックする。
本来なら、それは就寝前にすべきことだった。
最初に朝の機能チェックを行ったのは、美咲が死んだ日のことだ。研究所から戻った丈は、ダリアに命じてテラスの焼け焦げを始末させてから、部屋に戻った。そのままベッドに座った。考えても仕方のないことばかり考えてしまい、思い出しても辛《つら》いだけなのに思い出さずにはいられなかった。
機能チェック・ポッドが目に入った。美咲のいつものお小言が聞こえるようだった。
立ち上がり、服を脱ぎ、円筒形のポッドのスライド・ハッチを開けて内側に立った。
ほんの数秒で、チェックは終了する。
出てきた丈は、とっくに夜が明けていたことに初めて気がついた。
朝の機能チェックが習慣になったのは、それからだった。
その日も全裸でシーツにくるまっていた丈は、だから衣服を脱ぐ必要はない。まだ寝惚《ねぼ》けた頭のままで、ポッドに入る。リング状のスキャナーが上から下へとスライドして、彼の頭から爪先《つまさき》までをスキャンする。それだけのことだ。ごく稀《まれ》に補修が必要な箇所が発見されれば、充填《じゅうてん》物質を抱えたナノ・マシンが、左右どちらかの武装ポッドに内蔵されたコネクタを介して注入される。幸いなことに、部品そのものの交換が必要なほどの劣化は、まだない。
再びハッチが開いた時、ようやくまともな活動を始めた頭で、丈は昨日の少女のことを考えていた。
音緒、といったっけ。
汚いテを使っちまったな、とは思う。
子供じみたコレクションを見せて怒りの感情を逸らせるのは、ハナっからの作戦だ。緊張している人間は、笑いの発作を誘発しやすいからだ。案の定、少女は笑いだしてしまう寸前だった。
それから、ゾーンとアザエルという二つの名前を覚えさせたのも、耳慣れない言葉に意識を集中させる算段だったし、続く説明は次から次へと未知の情報を与えて、それを頭の中で整理するだけで手一杯の状態にさせるのが狙《ねら》いだった。
最後に武装ポッドを展開して見せたのは、言い出しっぺこそ彼女の方だったものの、かなり効果的だったようだ。おかげで彼女の頭はオーバー・フローを起こして、ほとんど何も考える余裕なく、約束を取り付けることに成功したのだ。
音緒が約束を破る心配だけは、ない。
恐怖と闘いながらも真相を知ろうとしたのは、彼女が嘘《うそ》の許せない性格だからだ。
つまり残る問題は、
「俺の罪悪感だけってことだな」
そう。罪悪感だ。
結局、彼のしたことは、心に傷を負った、たかだか十七歳の少女に、恐ろしい現実を突きつけただけなのだ。真相を知らなければ、あるいは、いつか忘れることが出来たかも知れない。自分の体験を自分に理解の出来る方法で解釈し、決着出来たかも知れない。人間の精神は、もともとそのように出来ているのだ。
だが彼女は知ってしまった。
知らされてしまった。
この先、彼女に出来るのは怯《おび》えて暮らすことだけだ。自分や自分の愛する人が、いつゾーンに襲われるかも知れない。いつ何の拍子にアザエルに感染して、怪物化するかも知れない。
誰にも打ち明けられず、孤独のうちに怯え続けるしかない。そして彼女には、闘うことすら出来ないのだ。それがたとえどんなに先の見えない闘いであっても、丈は闘えるだけ幸運とさえ言えるのではないか。
昨夜は、ほとんど眠れなかった。
ずっと音緒のことを考えていた。
罪悪感とともに。
俺は間違っていなかったか。
俺のしたことは、間違いだったのではないか。
ダリアの言うとおり、俺はただの民間人を、たった十七の少女を巻き込んでしまっただけなのではないか。
「こン畜生が」
丈は部屋を出ると、廊下の一角に設置されたダリアのハンガーを開けた。クローゼットみたいな四角く狭い空間に、いつものように直立の姿勢で、彼女は立っていた。ここでボディを休眠状態にしたまま『脳』をオン・ラインし、情報を収集・整理するのが彼女の役目なのだ。
ハンガーのドアが開くと同時に、ボディが覚醒《かくせい》状態に入る。切れ長の瞼《まぶた》が開く時、かすかに、ブ、とハム音をたてた。
「なにか?」
「お前、あの子の住所、判《わか》るか」
「誰?」
「音緒に決まってるだろう」
「追い出す前に訊《き》いておかなかったの?」
ああ、くそ。ダリアの人間臭さは日に日にその度合いを増すような気がする。それも、こちらが気を抜いて、いつもの機械的な反応を予測している時に限って、だ。
「そうだよ」
「あなたって、本当にアナだらけの人ね」
「いいから、どうなんだよ」
「判るわよ。誰が、どうやって送って行ったと思ってるの。洗濯したジーンズのポケットにIDカードが……」
「判った、わかった!」
最後まで言わせるもんか。俺は、寝起きは機嫌が悪いんだ。
「俺の端末に転送しろ」
「了解」
それだけ聞いてハンガーを閉じようとした丈は、
「ジョウ」
開閉スイッチの寸前で、手を止めた。
「なんだ」
「裸のままでウロウロするのは、あんまり感心しないわ」
閉じた。
余計なお世話だ。
いつもの黒いやつではなく、赤のスポーツ・タイプで出掛けることにした。ブラックの方が使い勝手はいいのだが、車内の洗浄が済んでいないのだ。いつもなら格納庫に戻って真先に済ませるはずが、昨日は少女のことで忘れてしまっていたのである。
まあ、いいか。別にハントに出るわけじゃないから、ブラックの充電装置も装弾も必要ない。
音緒の住所と学校の位置は、丈の部屋の端末から、さらにカー・ナヴィゲーターに再転送してある。だが丈は誘導帯に乗らずに、自分で運転して目的地に向かった。
音緒の通う高校だ。
緊急地下道路を通らずに来たので、JRたなばたやま駅前のロータリーを回る頃には、時刻は既に正午近かった。ここで方向転換して、坂栄《さかえ》町へと向かう。繁華街から二キロほど離れたそこに、目指す坂栄第一高等学校はあった。
新設校なのか、それともここ数年の間に建て替えられたのか、光沢のあるベージュの新素材に覆われた校舎が眩《まぶ》しいほどだ。通りを隔てて、丈は決して広くはない校庭が見通せる位置に車を停《と》めた。
少しだけ倒したシートに背をあずけて、首をひねって校舎を眺める。
音緒は休まず登校して来ているだろうか。
あんなことのあった翌日に。
根拠もなく、けれど、来ているだろう、と思った。
あの時の、下水道から助け出した直後の少女の顔が浮かんだ。唇を震わせて、暗闇《くらやみ》で相手の姿も見えずに、けれど必死で睨《にら》みつけてきた、あの顔。ゾーン化した友人の姿と、それを射殺した男に脅《おび》え、それでも座り込みもせず、パニックに逃げ込もうともせず、必死になって闘おうとしていた、あの時の音緒の姿。
苦笑が漏れた。
俺は、何だってこんなに、あの娘《こ》のことが気になるんだ?
罪悪感か?
それも、ある。
だが、そんなことは今に始まったことじゃない。
とっくのとうに覚悟を決めたはずのことだ。それに、何をしたって埋め合わせがきくことじゃない。むしろ、このまま放《ほう》っておいてやる方がいいに決まってる。悪夢の一端であるこの俺が彼女の身の回りをウロウロすることの方が、彼女にとっては迷惑なんじゃないのか。
それでも丈は、車を動かさなかった。
頭の下で組んだ腕を枕《まくら》に、じっと校舎を見つめていた。
両親とは、いつもと同じように朝の挨拶《あいさつ》を交わした。
朝食を食べ、父の方が少し先に家を出て、それから音緒も家を出た。
鏡に、イー、はしなかった。
いつもと同じバスに乗って、いつもと同じように風紀ロボットの前を通って、いつもと同じエスカレーターに乗っていつもと同じ教室に入った。
いつもと同じクラス・メイト達がいた。
杏子はいなかった。
これからも、ずっと、いない。
そのことを知っているのは、音緒だけだ。
授業の内容は、ひとつも頭に入らなかった。机のモニターも、ただ点《つ》けているだけで見てはいない。窓際の席で、音緒はただぼんやりと空を見ている。
けれど教師に注意されることはなかった。
特別扱いか、と思った。
そうだよ、あたしは特別だ。
誰も知らないことを知ってるんだもん。
足元の下水道には、人を喰《く》う怪物がいる。路地の隅っこや、空きビルの中や、ひょっとしたら校舎の裏の倉庫にもいるかも知れない。そいつらの体内には生き物を変えてしまうウィルスがうようよ蠢《うごめ》いていて、それに感染すればどんな美人もどんな二枚目も、おぞましいバケモノにされてしまう。
杏子みたいに。
ああ。
駄目だ。
考えないようにしよう考えないようにしようと思っても、ついつい考えちゃう。
音緒は視線を下ろした。
校庭の向こうに正門が見える。正面の道路には、赤いスポーツ・タイプの車が路上駐車している。
「あ」
思わず、腰が浮いた。
あいつだ。
車の運転席に、あいつがいる!
視力に自信のある方ではないが、片目にアイパッチを着けたあの顔は、絶対に見間違えるはずがない。
あいつだ。
黒川丈だ。
「あの野郎…………何でこんなとこまで来るんだよ……」
食いしばった歯の隙間《すきま》から、言葉が漏れた。前の席に座った少年が振り返ったが、教師に注意されたのは少年の方だった。
あたしが約束を破らないように見張ってるんだろうか。
あんな話、誰が信じてくれるってのよ。言わないわよ。言うもんですか。だから放っておいてよ。なんで付きまとうのよ!!
机の下で握りしめた指が、力を入れすぎて、ぱきっ、と鳴った。
「先生」
手を挙げた。
正面の大型モニターに板書しようとしていた若い教師が振り返った。
「結城さん?」
「すみません、気分が悪いので早退したいんですが」
ざわり、と教室がざわめいた。教師も、その理由を勝手に想像したようだ。
「ああ。一人で大丈夫?」
言いつつ、教卓のキー・ボードを叩《たた》く。音緒は自分のモニターに早退許可≠フ文字が出るのを待って、IDカードをスリットに通してから席を立った。
教室を出る時、ひそひそと交わされる私語が背中を撫《な》でた。
校門の風紀ロボットは、許可を受けたIDさえ提示すれば通してくれる。音緒はそのまま道路を横切り、赤い車に向かった。運転席では黒川丈が、阿呆《あほう》みたいに口を開けて、こっちを見ていた。
そのまま助手席側に回ると、ドアが開く。
滑り込んで、
「早く出してよ。誰かに見られたら、どうすんのさ」
「あ、ああ。おうおう」
発進。
赤い車体は、驚くほど滑らかに前へ出た。
「驚いたな。まさか授業の途中で出てくるとは思わなかった」
こいつ、ホントに莫迦《ばか》。
「それはこっちのセリフよ」
自分でも声が震えているのが判る。
怖いのではない。
腹が立って仕方ないのだ。
「なんで来るかな。信用出来ないわけ? 黙ってるって約束したじゃない」
「ああ、そりゃまあ」
「それとも、なに? お詫《わ》びに食事でも、とか言いだす?」
「いや、それでもいいけど」
「お断りよ。まだ判ンないの? あたし、あんたになんか、もう逢《あ》いたくないの」
「乗ってきたのは、お前さんの方だぜ」
「あんたがドアを開《ひら》いたからよ」
「お前さんが助手席の方に回ったからさ」
「もういい!」
やっぱり駄目だ。我慢出来ない。
あのアンドロイドの言葉を忘れたわけではなかったが、でも、信じられない。あの時こいつが、あたしを心配してたなんて、そんなの、どうしたって信じられない。
「降ろして。停めてよ、早く!」
「まだ学校から見えるぜ」
「じゃ、早く見えないところまで行ってよ」
「へえへえ」
助手席の音緒からは、男の顔の左側しか見えないけれど彼女には、丈が右側の唇だけで笑っているように思えて、また腹が立った。
なんで、こいつは、こうなの?
こいつのせいなのに。
そうよ。もとはと言えば、こいつのせいだ。
こいつが喋《しゃべ》らなきゃ、あたしは何も知らずに済んだ。あそこで放っておいてくれれば一人で帰れたのに、こいつが連れて帰って余計なことを喋ったからだ。
それだけじゃない。
あたしの目の前で杏子を殺す必要なんてなかったのに、わざわざ殺すところを見せた。ううん、それより何より、こいつがもっと頑張ってゾーンだか何だかを全滅させてれば、杏子があんなになることだってなかったのに。
こいつだ。
みんな、こいつのせいだ!
たった一人で闘ってるような顔して、いい気になってるんだ。あの部屋にあった人形みたいなヒーローの気分なんだ。こんな奴に任せておいたら、みんな死んじゃう。街中の人が、いいえ、世界中の人が杏子みたいに………………………………、
「あッ!」
見えた。
「どうした?」
「あ、ああ……ああああ!」
見えた。
見えてしまった。
ああ、なんてこと。
これ、なに? これ、何なの? なぜ、こんなのが見えるの?
こんなになっちゃうの?
こんなひどいことになっちゃうの!?
「おい、真っ青だぞ。大丈夫か?」
答えられない。
答えることさえ出来ない。
丈が車を停めた。
音緒は悲鳴をあげた。
意識が途切れた。
『基地』に連れて戻ろうかとも思ったが、やめた。
何があったのかは知らないが、パニックに陥ったのは確かだ。ヒステリー状態で失神したのである。目が覚めた時に自分の部屋だった方が、安心だろう。それに、この時刻なら家族の誰かが付いていてくれるかも知れない。
マンションの来客用駐車場に滑り込んだ丈は、ナヴィで音緒の自宅の部屋番号を覚え込んでから、車を降りた。
少女を抱えて玄関ホールに着くまで、誰にも見られなかったのは不幸中の幸いだ。
音緒を抱いたまま苦労してガラス戸の前のテン・キーを押すと、女性の声が答えた。
「はい」
母親だろう。
「結城さんですね?」
「そうですが」
そこまで言って、インターホンの向こうで息を呑《の》む気配があった。カメラに映った不審な男が何を抱いているのか気づいたのだろう。
「大丈夫です。気を失ってるだけですから」
丈は早口でまくしたてた。警察に通報でもされたら、面倒臭いことになる。
「いきなり失神されたので、お連れしたんです! 早く寝かせてあげてください!」
躊躇《ちゅうちょ》は、ほんの数秒だった。寝かせてあげて、という言葉が効いたようだ。玄関ホールのガラス戸は、かすかなモーター音だけで左右に開いた。
すぐにお連れします、とだけ伝えて、丈は中に飛び込んだ。
エレベーターを下りると、既に母親らしき女性が、引きつった顔で待っていた。エプロンを着けたままで、おろおろと娘の名を呼ぶ。
「どちらです?」
丈の問いに、女性は震える手で自宅の方を指さした。少女を抱いた丈の後を、乱れた呼吸のまま付いてくる。丈がブーツのまま上がり込んでも、文句も言わなかった。いや、気づいてさえいないのだろう。
「お嬢さんの部屋は」
言われて、彼女は廊下の途中にあるドアを開ける。ねおのへや≠ニ書かれた手作りのドア・プレートが下げられていた。
ベッド・カバーは、壁紙と同じ薄いピンクだ。その上に少女を寝かせると、丈は溜《た》め息《いき》を一つついて、母親を振り返った。
「すぐに気がつくと思います。それじゃあ」
そのまま立ち去ろうとする丈に、
「あ、あの」
母親が追いすがろうとする。丈は無視した。長居すべきではない。
だが、
「待って」
音緒だ。
見ると、ベッドに躯《からだ》を起こして、こちらを見ていた。
真《ま》っ直《す》ぐに。
「待ってよ、話があるから」
そして、気の毒なくらいうろたえている母に、
「お母さん、もう大丈夫だから。ちょっと気分が悪かっただけ」
笑みを見せる。
「でも、音緒……」
「友達のお兄さんなの。気分が悪くなって早退したんだけど、でも途中で我慢出来なくなって、そしたら彼が通りかかって助けてくれたの。そうだよね?」
どういうことだ? 丈には音緒の真意が判らない。なぜ今になって、引き止めようとするのだろうか。それも、母親に嘘をついてまで。
それでも頷《うなず》いて見せる丈に、母親が向ける視線からは、不信感はまだ消えない。
「でもねえ……」
「平気だってば」
笑みだ。
その笑みの中に、けれど何やら悲壮な決意のようなものが見えることに、母親は気づいているだろうか。
「いいでしょ、赤井さん」
驚いた。偽名ときたか。
なるほど、約束だからな。
赤井、と呼ばれた丈も、さもそう呼ばれることが当然のように、母親に向かって、
「かまいませんか?」
せいいっぱいの紳士を演じて見せる。彼女が丈を信用していないのは、最初から判っていた。それでなくても片方の目をアイパッチで隠した胡散《うさん》臭《くさ》い風貌《ふうぼう》なのだし、そんな男が失神した我が子を抱き上げていたとなれば、なおさらだ。
しかし、それでも娘のことは信用しているようだ。
「いいわ」
母親は頷いた。
「少しだけ、二人だけで話してもいい?」
少し考えてから、これにも、いいわ、と答えた。
「ただし、少しだけよ。それから、後でちゃんと説明してもらいますからね」
「はい」
母親は出て行った。
丈と音緒の溜め息は、同時だった。
「いつから目が覚めてた?」
「寝かされた時。あんた、乱暴すぎ」
「悪かったな」
「座ンなよ」
言われて、丈は勉強机から椅子《いす》をベッドの横まで引っ張って、腰を降ろした。ついでに脱いだブーツは、足元に転がしておく。
音緒の方は、また横になる。やはり、まだショックが残っているようだ。
それが何のショックなのかは判らないが。
丈は黙って、少女を見ていた。
少女も黙って、目を閉じている。
やがて、
「見たさ」
少女は言った。
「見た?」
「うん、見た。未来が見えた」
何だ、そりゃ。
「まだ言ってなかったね。今度は、あたしが説明したげるよ」
そうして少女は、目を閉じたまま話し始めた。
奇妙な『才能』について。
少女は、ゆっくりゆっくり、言葉を選んで話した。
時々ドアの外で、母親が様子をうかがう気配があったが、音緒は話を中断さえしなかった。
幼稚園でのこと、小学校でのこと、男の子との交際のこと、それ以外の些細《ささい》な予知のことと、それから、親友の笑顔のこと。
話し終えた少女は、深い溜め息を一つついて、瞼を開けた。
「信じる?」
天井を見つめている。
「まだだ」
丈の答えに、視線が動く。見つめてくる瞳《ひとみ》を、丈も真っ直ぐに捕らえた。
「お前さんが嘘をつく理由があるかどうかは判らんが、それが真実だと考える根拠もないんでな」
くすくす、と少女は笑った。
「いいよ、それで。まだ全部は喋ってないもん。あんなものさえ見なきゃ、あんたなんかに話す気なんて、なかったしね」
「あんなもの?」
「そうよ」
言いながら身を起こそうとする少女に手を貸そうとして、しかし丈は手を払われた。
「触ンないでよ。あたし、別にあんたと仲良くしたいわけじゃないんだから」
「へえへえ」
そのままベッドの脇の壁に背をあずけて、少女は言った。
「地球が破滅するところを、見ちゃったの」
「なに?」
「あんたが頑張っても、無駄だってこと。地球は破滅する」
「聞き捨てならねえな。どういう意味だ。何を見た」
「ゾーンよ」
「そりゃそうだろう。じゃ何か? 地上がゾーンで一杯になるってか?」
「そんなんじゃない」
ぐび、と鳴ったのは、音緒が乾ききった唇を舐《な》めてから唾《つば》を飲む音だ。
「地球がゾーンになるのよ」
「なに?」
「地球全体が、ゾーンになるんだよ。地球そのものがゾーンになる。ゾーンは進化するんでしょ? もっともっと進化するよ。そして地球を呑み込んでしまう。人間も動物も植物も……ううん、生き物だけじゃない、ビルも道路も自動車も土も岩も、何もかもゾーンになって、地球全体がゾーンになる」
肉の大地。
それが少女の見たものだった。
建物や道路や乗物の、その形状の痕跡《こんせき》をかろうじてとどめながら、しかしそれは震え、脈打ち、蠕動《ぜんどう》する広大な肉の大地だった。
地球上の全ての有機物と無機物を、無差別に取り込み、融合し、宇宙に浮かぶ巨大な天体生物となったゾーンの姿だったのだ。
「あり得ないね」
丈は言った。
「どうしてさ」
「ゾーンだって生物だ。無機物と同化するわけがない」
「莫っ迦みたい。知らないの? 生き物はみんな、無機物を取り込んで生きてるんだよ。鉄とか銅とか、人間だってそうじゃん」
「それは人間が生きていくために必要だからだ」
「ゾーンが生きていくのに何が必要かなんて、あんた知ってるわけ?」
「それは……」
知らない。
いや、知っても無駄だ。なぜならゾーンは、異常な進化を繰り返す怪物なのだ。
「知らないでしょ? ほれ見なさい。だったらどうして否定出来るのよ」
「じゃあ訊くがな、お前さんの、その……何だ、予知か? 予知があてになるという保証は?」
「外れたことなんて、ない」
「あるって言ったじゃないか」
今度は音緒が言葉に詰まる番だった。
杏子の笑顔だ。
外れたことのないはずの予知が、外れたのだ。そして地球の破滅は、その後に彼女が予知したものだ。音緒の予知に対する信頼度が疑わしくなった、その後にだ。
「それは……、たまたま外れただけじゃない」
……まてよ?
「それに、それ以外は全部当たってるんだよ」
問題は、そこじゃない。
「今度のも外れてて欲しいとは思うけど、でも」
問題は、なぜ外れたかじゃない。
「もし当たったら、大変なことなんだし」
「まて……」
「あんたには責任があるんだよ」
「まて、音緒」
「だから信じてよ。何か手を打たないと」
「待てったら!」
思わず、声が大きくなった。
音緒は、怯えたような目で固まっている。
幸いにも母親が、何事か、とドアをノックするようなことはなかった。
「なによ」
音緒の声は、低く、小さい。
「悪かった。でも、待て」
「待ってるじゃない」
「よし。あのな」
丈は身を乗り出した。音緒は、投げ出したままの脚を折って胸に抱き込んだ。
「お前さん、明日、学校が終わってから時間あるか?」
「……え?」
「俺んとこ、来い」
「やだよ。なんでさ」
「大事なことなんだ。何が何でも来てくれ。いいな」
丈は立ち上がると、机の上にあったノートを開いて『基地』の住所と、入室に必要な暗号を書き込んだ。
「いいな。必ず来いよ」
言い置いてブーツを手に、そのまま部屋を出ようとする丈を、
「待ってよ! 説明しないと行かないよ!!」
少女の声が追いかける。
丈はノブに手をかけたまま振り返った。
「調べるのさ」
「なにを」
「お前さんの『才能』の秘密を、だ」
「え?」
「いいか。俺はまだお前さんの『才能』とやらを信じたわけじゃない。だがそれが本物なら、たしかにヤバい。だからな、お前さんの予知が外れた理由じゃなくて、なぜ今まで的中していたのか、そいつを探るべきだ。つまり、お前さんの『才能』ってのが、本当のところは何なのか、それを考えようってのさ」
ドアの前とベッドの上とで、二人は視線を交わし合っていた。
睨み合っていた、と言った方が正確かも知れない。
だがそれも、ほんの数秒のことだった。
音緒はベッドから飛び下りた。
「やだね」
そして、
「今すぐ行く」
駐車場に戻った丈は、音緒が母親を説得するまで、たっぷり三〇分待たされた。
2
音緒の話を聞き終えたダリアは、ほんの数秒、目を閉じていた。
ゾアハンター『基地』のリビングである。音緒はクラブチェアに、ガラス・テーブルを挟んで向かいのソファには丈とダリアが並ぶ。
「可能性はいくつかあるけど」
そう言って、ダリアは席を立った。戻って来た時、彼女は小さなプラスチックのケースを手にしていた。
「何だ、そりゃ」
「トランプ」
「トランプ? お前、そんなもん持ってたのか?」
「まさか。ミサキさんの部屋からよ」
ああ、なるほどな。
見ていると、ダリアは二枚のジョーカーを抜き出し、残ったカードをテーブルの上に広げ始めた。全て、裏向きに伏せてある。
「いい?」
音緒に視線を投げる。
少女が頷くのを確認したダリアは、再びカードを揃《そろ》えてから、少女の前に置いた。
「さあネオ、直感で答えて。一番上のカードは、なに?」
「は?」
「一番上のカード。何だと思う?」
「判るわけ、ないじゃん」
「いいから言ってみて」
何をやろうとしているのかは、丈にも判らなかった。ただ、これが音緒の『才能』の正体を明らかにするためのテストであることだけは確かだ。
少女はしばらく考えてから、ハートの6、と言った。
ダリアが開いたカードは、スペードの3だった。
「ほら、当たるわけないじゃん!」
同感だ。彼女は自分の『才能』を、予知だと主張しているのだ。透視ではない。
しかしダリアは、またカードを広げ始める。今度は、全てが表向きだ。
「いい?」
「いいけど、何度やっても同じだってば」
「そう?」
言いながら、揃える。揃えたカードを裏向きに伏せて、音緒の前に置く。
「今度は?」
音緒の答えは即答だった。
「ダイヤの2」
いかにも投げやりな様子で。
だが、ダリアが引っ繰り返したそのカードは、
「おう!」
「嘘」
ダイヤの2だった。
「音緒、お前さん、今……」
「ううん、当てずっぽう」
「偶然じゃねえのか、ダリア」
「今の段階では、その可能性も否定しないわ。じゃあネオ」
言いながら、裏向きに伏せたままのカードを広げ、混ぜ、揃える。
「今度は?」
「ええっと、クラブの5」
クラブの5だった。
「これで否定しにくくなったわね」
「驚いた。音緒、お前さん、透視もアリなのか?」
「そんな、あたし知らない」
ダリアがカードを広げ、混ぜ、揃える。
「もう一度。ネオ、これは?」
「スペードのキング」
外れた。
一番上のカードは、クラブの8だった。
なあんだ。丈は息を吐き出した。知らぬ間に息を詰めてしまっていたのだ。音緒も、そうだったようだ。
そんな二人を交互に見てから、
「問題は、この次よ」
言って、ダリアは、その下のカードをオープンした。
スペードのキングだった。
「なんだよ、どうなってんだ? おい」
「これで確実ね。ネオの『才能』の正体が判ったわ」
アンドロイドの正確な指が、表に向けたカードをテーブルの上に、完璧《かんぺき》な等間隔で扇型に開いて見せる。その中からダリアが抜き出したカードを見て、
「あ」
丈と音緒は、同時に声をあげた。彼女の指が摘《つま》んでいるのは、さっき抜いたはずのジョーカーのうちの一枚だった。
「嘘……さっき抜いたじゃん」
手渡されたジョーカーを、音緒は丸い瞳をもっとまん丸にして見つめている。
「手品じゃないわ。四回目の直前に、こっそり戻しただけ」
「どういうことだ?」
「そうよ、説明してよ」
身を乗り出す二人に、けれどダリアはあくまで涼しげだ。
「彼女の『才能』は、正確には予知とは呼べないかも知れないわね。彼女の認識は、あくまで三次元的なものよ。別に、時間を越えて未来を見ていたわけじゃないわ」
アンドロイドは言った。
「瞬間的で高確率の演繹《えんえき》能力よ」
「えんえき?」
聞き慣れない言葉に首をひねる音緒に、ダリアは頷いて見せる。
「演繹とは物事の因果関係を考察する場合に用いる考え方で、帰納と対をなすものよ。何か一つの出来事を出発点にして、その出来事がこの先どのように発展してゆくか、どのような事態を生むのか、それを順番に考えてゆくことを演繹というの」
帰納とは、それとは反対に、ある出来事が生じたのはどのような原因でどのような経緯によるものか、と時間軸を逆に辿《たど》る考え方だ。
「それが、なに?」
丈も、おう、と音緒に同意した。それだけの説明では、よく判らない。
「二人とも、バタフライ効果、って言葉は知ってる?」
音緒は首を横に振ったが、丈は頷いた。
「あれだろ? 気象学者だか何だかが、ある地域の天気をコンピュータ上でシミュレーションしてみたやつ」
「ええ」
「一回目のシミュレーションが終了して、二回目に追試験をする時、データの数字を変更したんだ。確か、小数点以下を切り上げるか切り捨てるかして……」
「切り捨てたの。数字の上では無視出来るような、些細な変化よ。でもその結果、二回目のシミュレーションは、一回目とは全く違った結果を出した」
そういうことか。
だが音緒は、まだよく判っていない様子だ。
「つまりね、蝶《ちょう》の羽ばたきみたいな無いに等しい空気の流れでも、それがドミノ倒しみたいに周囲に影響を拡大していって、やがては目に見えるような大きな空気の流れに影響を与えることもある、という考え方」
「だから、バタフライ効果なわけ?」
「そう。あなたのやっていることも、それに似てる」
「そうなの?」
「ネオは身の回りの、それこそ蝶の羽ばたきみたいに些細な情報を手掛かりに、瞬間的に様々な可能性を計算して、その中から最も確率の高い結論を、これも瞬間的に選択しているの。本人も気づかないうちにね」
その『情報』の中には、現状から帰納によって過去に遡《さかのぼ》ったものも含まれている可能性を、ダリアは示唆した。それらを組み合わせて未来を『予測』するのが、つまり音緒の持つ『才能』の正体だ、とダリアは言っているのである。
「超演繹能力、ってとこだな」
「そうね。最初のテストでカードを当てられなかったのは、情報が少なすぎたせいよ」
確かに一回目は、広げられたカードは全て伏せたままだった。この時、音緒は、どの位置にどのカードがあるのかを、全く知らされていないことになる。
だが二回目は、カードは表を向けたままでテーブルに広げられ、そのまま揃えられた。全てのカードの動きを把握することは不可能な筈だが、音緒には可能だったのだ。
「てことは、全てのカードの配置を数秒で記憶したってことか?」
「あたし、そんなこと、してない」
「言ったでしょ? あなたは気づいてないだけで、脳は記憶してたの」
そして記憶した配置と、一回目で見たダリアの手の動きから、音緒は瞬間的に、カードが揃えられる順番を推測したのである。
「三回目はカードを伏せたままだったけど、私の手の動きという情報は一回目と二回目の両方で見てる。それに、二回目のカードの順番もネオの頭の中では既に決定しているわけだから、崩すところを見ていれば、それも有力な情報になるわね。結果、伏せたままのカードでも、あなたは当てられたの」
「ちょっと待ってよ。じゃ四度目にジョーカーが入って失敗したのは?」
「その説明の前に、一つ補足するわね。厳密には、ネオは一番上のカードではなく、下から五二枚目のカードが何かを計算していたらしいわ」
「……どういうこと?」
「二回目に全てのカードをオープンのまま広げて見せた、あの時の情報が基準になってるから。カードを揃えた時に最後まで見えていたカードは、伏せた時には一番下になるでしょ。ネオが一番上のカードについて考えた時、実際には、最後に見た一番下のカードから五二枚目を逆算していたわけ」
「おうおう、そうか。ジョーカーが間に挟まれば、下から五二枚目は一番上じゃなくて、上から二枚目になっちまうわな」
「理解した?」
「ああ」
「ネオは?」
「うん、した」
「あなたはジョーカーが入ってるという情報を持っていなかった。ネオにだけは絶対に見られないように注意したもの。結果として、欠けていた情報の分だけ計算が狂った。つまり、ジョーカー一枚分だけ、結果がずれたのよ」
「なるほどなあ」
丈は頭の後ろで腕を組み、ソファに背をあずける。
そういうことなら、説明はつく。普通の人間が演繹で先を読むよりも、彼女の能力は鋭敏で正確なのだ。ほんの些細な情報からでも、彼女は後々の展開を演繹してしまうのである。自分でも意識しないうちに。
音緒が幼稚園の頃、先生の事故を予知したのは、つまり先生の性格や運動神経を日常的に観察していた結果だ。小学生時代の件も、そうだ。ニュース番組からの予知は、報道される内容から情報を得ていたということか。靴屋でフィギュアを買えたのも、自分では気づかないうちに情報を得ていたのだろう。
「思い出してみて、ネオ。あなた、全く未知の対象を予知した経験は、ないわね?」
「どういうこと?」
「そうね、例えば、外国の震災を予知したとか、名前を聞いたこともないような国の政変を予知したとか」
「うん、ない」
「それから、物語の結末も予知出来ないでしょう?」
「うん! 出来ない。それ、不思議だった!」
「知らないことは予知出来ないし、意図的に情報を操作されている場合も予知が働かないのよ。どらちの場合も、情報の欠落が演繹を阻害しているわけ」
「じゃあ……」
突然、少女の顔に陰がよぎった。
「杏子の予知が外れたのは……」
音緒は、気づいてしまったのだ。
重大な事実に。
「そういうこと?」
ダリアは頷いた。
音緒が親友の笑顔を見てしまったのは、彼女がジョーカーの存在を知らなかったからなのだ。ゾーンという名のジョーカーの存在を。
「じゃあ、ゾーンのことを知ってれば、予知出来たってこと?」
「その可能性は、あったでしょうね」
音緒はまだ、ジョーカーのカードを手にしていた。制服のスカートの上に置いた手に、持ったままだ。そのカードが、ぱたり、と音をたてた。
涙だった。
ダリアが立ち上がる。
そのままテーブルを回り込んで、音緒の座ったクラブチェアの肘掛《ひじか》けに腰を降ろし、少女の頭を胸に抱き込んだ。
ああ、そうだろうとも。
美咲だったら、そうしただろうな。
少女はダリアにすがるでもなく、けれど振り払うでもなく、俯《うつむ》いたままで透明な涙を落とし続けた。
声もあげずに。
丈は席を立った。
そのままリビングを出る。
自室のドアを開ける時、かすかに嗚咽《おえつ》が聞こえてきた。
ベッドに転がって、丈の胸にあるのは後悔だった。
またやっちまった。
なぜだ?
なぜあの子を、また連れて来ちまったんだ?
たしかに、来ると言いだしたのは音緒の方だ。だがそれは、俺が余計なことをしたからだ。彼女の側《そば》をウロついたからだ。俺が、音緒の予知だか演繹だかに、最後のきっかけを与えちまったんだ。
だから見てしまった。
ホロコーストを。
しかも、それにまた余計なことを言ったのは、俺だ。
だから少女は来た。
そして、もう一つの真相を知ってしまった。
同じことの繰り返しだ。なぜ俺は、あの子をそっとしておけないんだ。
自己嫌悪で、枕に顔を伏せる。かすかに、本当にかすかに、美咲の匂《にお》いが残っているような気がした。
その香りが、丈の心の隅の何かを引《ひ》っ掻《か》く。
だが追求は出来なかった。
その代わりに、ドアがノックされた。
「開いてるぜ」
いつものように応《こた》えたが、しかしドアを開けたのはダリアではなかった。
「入るよ」
音緒だ。
瞼が腫《は》れて、目が赤い。低い鼻も、真っ赤だ。
「ダリアは?」
躯を起こす。音緒の部屋の時とは、立場が逆になった。
「後は丈に任せるって、なんかクローゼットみたいなのに入っちゃった。彼女、本当にアンドロイドなんだね」
「ああ」
「座っていい?」
「おう」
少女は、椅子ではなくベッドに腰を降ろした。丈には背中を向けたままだったが、それでも、二人の間にあった何かが、跡形もなく消え失《う》せているのが判った。
「あのさ、あたし、何ていうか、判った」
彼女の、こんな柔らかな声を聞くのは初めてだ。ほんの十数分の間に、何かがあったのだ。
「あんたには悪いことしたと思う。やっと整理出来たよ」
音緒は本当に回転の早い娘だった。
「あんたとあたしは、似てるよ」
丈よりも、だ。
だから丈の罪悪感の理由にも、後悔の理由にも、自己嫌悪の理由にも、たったの二日で答えを見つけてしまったのだ。
「お前さんと俺がか?」
「うん、似てる。そっくりだ」
「そうか?」
「やだ、まだ気づいてなかったわけ? 気づいてるから学校まで来たんだと思った」
「判らん」
「そっか。ダリアの言うとおりだ」
「何と言ってた」
「丈に通ってる神経は全部、運動神経だって。手術の時に頭を開けたら、脳が筋肉で出来てたってさ」
ダリアが?
こいつは恐れ入った。冗談まで言えるようになったのか。
「あたし、それで笑っちゃって、そしたらその瞬間に、判っちゃったんだ」
「ほお」
「あたしも、そうなんだ」
「脳ミソが筋肉なのか?」
違うよ、という音緒の声は、なんてこった、笑っている。肩を小刻みに上下させて。
「あんたはサイボーグだ。普通の人には出来ないことが出来る。そうでしょ?」
「ああ」
「あたしは『才能』を持ってる。何だっけ……超……超演繹能力だ。それがある」
「だから似てるってか?」
「ううん、まだ。でね、あんたは誰にも知られずにゾーンと闘う。あたしは未来のことが判っても誰にも言えない」
「ああ」
「恰好《かっこう》イイ言い方しちゃうけどさ、孤独なんだよ、あんたも、あたしも。誰も味方になってくれない、誰にも話せない、誰にも泣きごと言えない。一人で抱えて、一人で歩いてかなきゃなんない。そこンとこ、似てるっていうのは」
「似てるか」
「うん、似てる」
「そうか」
「でもね!」
突然、少女は振り返った。
口許《くちもと》が、笑みを浮かべている。だがその瞳は、何か得体の知れない力に内側からきらきらと輝いて見えた。
「もう孤独じゃないんだよ!」
「なに?」
「判ンない? あたしとあんたが組んだら、最強のコンビになるって思わない?」
何を言いだすんだ、こいつ!
冗談じゃないぞ。これ以上、何の関係もない娘を巻き込むわけにはいかない。
「おい、何を……」
「いいから、考えてみてよ。何も一緒になってバケモノと闘おうなんて思っちゃいないわよ。じゃなくって、こないだ見せてくれたヤツ、あの赤と緑の光が点いたり消えたりする地図。あれ、あたしに、もっとちゃんと見せてよ。そしたら、どうなる?」
あのデータを? 音緒に見せる?
「ほら、ちゃんと考えなさいよ脳ミソ筋肉! あたしに情報をちょうだいって言ってンのよ!」
「あ!」
やっと判った。畜生、脳ミソ筋肉だって? そうさ、俺は世界最悪の鈍チンだ。
「判った? そうだよ。先回り出来るんだよ、あのバケモノの!!」
「ああ、出来る」
それなら、追いつける!!
「あたしもオン・ラインしてるから、毎日ちゃんと新しいの送ってきてよ。ダリアの言うとおりだとしたら、どんどん新しい情報を入れれば、どんどん先が読めるじゃん」
まくしたてるように喋りながら、音緒は片方の膝をベッドに載せ、もう一方も載せ、両手と膝で歩きながら丈ににじり寄ってくる。
「ダリアも言ってたでしょ。ジョーカーだよ。あたし、地球が滅亡するって言ったけど、その時にはまだ、あたしがあんたに協力するって可能性はなかった。これもジョーカーだよ。二枚目のジョーカーだ。判る? 滅亡が防げるかも知ンないじゃない!」
「ああ、でも」
口ごもる丈に、にじり寄った音緒は、ついに両手を掴《つか》んできた。
「なぁに考えてンのさ。あたし、普通に生活するだけさ。今までと同じに。ただ、今までよりも宿題が一つだけ増えるようなもんだよ。その他は何も変わンない。でも、あんたの方は? ゾーンを先回り出来るンだよ」
音緒は、伸ばした丈の膝に跨《また》がって、ほとんど押し倒さんばかりに迫っている。
「ねえ、考えてみてよ」
その音緒の顔から突然、高揚しきった笑みが消えた。
「どれだけの人の命が助かると思う?」
真っ直ぐに、丈を見つめて。
「あたし、あんたのために言ってるんじゃないよ。仇《かたき》を討ちたいんだよ」
誰の?
決まってる。
音緒は丈の手を握ったまま、俯いてしまった。
「お願いだからさあ……」
絞り出す声も、震えている。
「やらせてよ……。何でもするから、だから、あんたのチームに入れてよ」
わかった。
もう、わかった。
丈は少女の顎《あご》に指をかけて、顔を挙げさせた。音緒は、なんとか涙をこぼすのだけは踏みとどまって、瞳を揺らめかせている。
出来るだけ優しく微笑《ほほえ》みかけたつもりだったが、傷とアイパッチと不精髭《ぶしょうひげ》のせいで、それが成功しているかどうか、丈には自信がなかった。
「何でもするって言ったな」
「うん」
「じゃあ、条件は三つだ」
「なに?」
「まず一つ。このことは誰にも言うな。親にも友達にも、誰にもだ」
「判ってるよ」
「よし。それから、二つ目」
「うん」
「危険なことに首を突っ込まないこと。連中とやり合うのは、俺の仕事だ。いいな」
「判った」
「そして三つ目は、これが一番重要なことだ」
丈が指を放すと、音緒は丈の膝から降りて、ベッドに正座する。丈はあぐらになって、二人は膝を突き合わす恰好になった。
「いいか、よく聞けよ」
「はい」
「俺に惚《ほ》れるな」
呆気《あっけ》にとられて目を見開き、ぽかん、と口を開けると唇の間から前歯が見えた。ウサギかハムスターみたいな表情になった。
それから二人は目を見合わせて、笑った。
肩を震わせて、指で涙を拭《ぬぐ》いながら、音緒は、はい、と言った。
3
まさか、と思った。
相手も同じ『道』を使っているとは、考えてもみなかったのだ。
もっとも、普通に考えれば、の話だ。
音緒は考えない。ただ、感じるだけだ。余計な計算も先入観も、彼女には、ない。
些細だが厳然たる事実のみを積み重ね、そこに織りなされる模様の中から、必要な部分だけを拡大して見ることが出来るのだ。
いや、見てしまう、と言った方が正確だろうか。
「プロポーズを受けて正解だった、ってことか」
言葉と一緒に、丈は煙を吐き出す。照明のせいで、オレンジ色の煙だ。
「少なくとも今までのところはね」
応えるダリアの横顔も、オレンジ色。
緊急地下道路である。本線に合流する手前の退避エリアにバンを停車させて、丈とダリアは時間を待っていた。
「あと何分だ」
「二一分と三六秒」
ダリアは真っ直ぐ前を向いたままだ。
音緒の超演繹能力は、ゾアハントの効率を飛躍的に向上させた。関係省庁からダリアの脳に集められた情報は、今では丈の端末ではなく音緒の自宅の、彼女の勉強部屋の、机の上に置かれた家庭用の個人端末に転送されている。
時刻は毎日、午後九時。彼女が宿題にかかる時刻だ。
返信は早ければ数分、遅くとも一時間以内に、今度は丈の端末に送られてくる。単に一言「はずれ」とか「ごめん」とか「なし」などのメッセージが戻ってくる場合も少なくはなかったが、何回かに一回は送信したのと同じ地図が戻ってくる。そこには『×』印が加えられ日時が添えられており、その日その時その場所が、つまり次に丈が向かうべき場所というわけだ。
この奇妙なチームが成立して、そろそろ一ヶ月ほどになる。その間の成果は、それ以前の苦労が莫迦莫迦しく思えるほどだった。
ゾーンは、恐ろしい勢いで増殖していた。これまでに存在を確認し、殲滅《せんめつ》したゾーンは基本的に一匹の単独行動だった。群を形成していた例もあったが、その頻度は決して高くはなかったのである。
だがこの一ヶ月で、すでに四つもの群を処理している。先週など、新都市計画で閉鎖された地下倉庫に四十匹近い小型ゾーンが群をなし、アリのような社会構造の巣を形成していたのだ。
ゾーンは極端な生物だ、と言ったのは、たしか村瀬《むらせ》だったろうか。
喰い続けなければ死んでしまう。だがそのハードルを越えて生き延びたものは、より狡猾《こうかつ》に、より凶暴に進化してゆく。ゾアハンターというハードルを越えた群は、規模を拡大し、複雑化してゆくというわけだ。
だが、連中は知らない。
越えたはずのハードルは、より高さを増して、連中を先回りしようとしているのだ。
「あと二分。ジョウ、スタンバイよろしく」
ダリアに言われて、
「おう」
丈は助手席から後部へと移動する。爆砕ワイヤーに固定されているのは、黒いモノサイクルだ。
美咲から丈へのプレゼント。
本当のヒーローになってください。
ゾーンの移動が『予知』されたのは、今回が初めてだ。
ダリアは以前から、ゾーンの移動の理由は飽和状態にある、と予測していた。群を形成しての組織的な行動は、捕食の効率を上げる反面、それによって得る食料の配分という問題をかかえている。群の規模が拡大すればするほど、それは深刻だ。
ゾーンは群や個体を分離しつつ新しい餌場を求めて移動している、というのがダリアの見解なのである。
丈も同感だ。それなら、地図上における光点の不規則な移動も説明がつくし、いくらゾーンを始末しても状況が劇的に変化しない事実も説明がつく。そうやってゾーンの群は、種の存続を図っているのだ。
これまでに遠隔地への移動を画策し、ゾアハンターによって阻止されてきた群も、全てそういった試みの一つだったのだろう。連中にとっての問題は、移動が速やかに完了しなければ、群そのものが壊滅するということだ。喰い続けなければ死滅するという条件は、群単位であっても変わらないのだから。
「来たわ」
ヘルメットを被《かぶ》った丈は、首をひねってフロント・グラスごしに合流点を見た。目の前の地下道路が、一〇〇メートルほど前方で、さらに太い本線と合流している。
ダリアの言うとおりだった。
あの日、夜の港で見たのと同じ光景だった。歪《ゆが》んだヒト型の群が、列をなして行進している。いや、ヒトの姿をしていないものも少なくない。それは、これまで丈が目にしてきたゾーンどもの、まるでカタログだった。
しかも、おびただしい数だ。
丈は口笛を吹いた。
「すげえな。音緒の言うとおりだ、百は軽く超えてるぜ」
「緊急車両以外使用禁止が聞いて呆《あき》れるわね」
日本の危機管理の甘さは、何も今に始まったことではない。緊急地下道路も、常に監視状態にあるわけではないのである。
無断侵入者が感知された場合のみ、所轄の警察で警報装置が作動する仕組みなのだ。しかも感知対象は、時速三〇キロ以上で移動している物体に限られている。つまり、一般車両の不法使用を対象としているに過ぎない。百を超える異形の群が徒歩で通り抜けたとしても、それは決して感知されないのである。
連中は、こうやって移動を繰り返してきたのだ。
地下に張りめぐらされた緊急地下道路を使って。
「よっしゃ、じゃあ最終確認、よろしく」
フルフェイスのヘルメットを被る。
「了解。あなたの合図でドアを開放。発進を確認してから、車載火器の始動準備。あなたは群の最後尾から攻撃を開始。次の合図で、こちらも発進。行動不能になったゾーンを焼却しつつ前進。作業の段階を問わず、三つ目の合図で、あなたを収容する。全ゾーンの壊死を確認した後、最寄りの出口より撤収。以上」
「おし、完璧だ」
「一つ、質問してもいい?」
エンジン始動。
「何だ?」
「これが本体だと思う?」
本体とは、つまり、小さな群を切り離しつつ移動を続ける、中心群のことだ。
少し考えてから、
「そうあって欲しいね」
丈は答えた。
確かに、規模はこれまでで最大だ。いや、この半分の規模の群さえ例がない。奇怪な行進は、まだ途切れずに続いているのだ。
「私もよ」
アンドロイドの声音に不安の色を感じ取るのは、過剰な期待というものだろうか。
ひしめき合うほど密度の高かった行進が、少しずつ、まばらになってきている。やがて数匹ずつの小グループになり、そして、途切れた。
「最後尾、確認」
「おっしゃあ! GO!」
「了解」
爆砕ボルトの破裂で固定ワイヤーが切り離されると同時に、ドアが開いた。
入浴を済ませてパジャマに着替え、壁の時計を見ると、時刻は一〇時を五分ほど回ったところだった。
そろそろかな、と音緒は思う。
昨日、いつものように宿題にかかる前に、ダリアから送られてきた地図を端末に表示した瞬間、見えたのだ。
オレンジ色の照明を浴びて、ぞろぞろと移動する、ものすごい数のゾーンの群が。これまでに予知した中では、最大の群のようだった。
非常用の緊急地下道路であることは、すぐに判った。初めて丈に逢った日、『基地』までの移動で使ったからだ。それから、群が通過する詳細な地点も、それがどの時刻なのかも判った。
だから、すぐに転送した。いつものように地図に『×』印を描き込み、時刻を書き込んで、それから今回はメッセージも添えて。
〈圧倒的な大軍団! 百匹以上! 完全武装で叩きつぶせ!! b〜yねお(はーと)〉
数分後の丈からの返信は、ただ一言、了解。
彼女は言わば、チームのレーダーだった。それも、時間という次元の制約を受けない、高感度のレーダーだ。
ベッドに腰をおろす。
そのレーダーが今回キャッチしたのは、ものすごい数の敵影だ。
勝てるんだろうか。
ううん、勝たなきゃいけないのよ。
いけ、ゾアハンター。
ゾーンなんかグッチャグチャに全滅させちゃえ。
お願いだから。
飛び出した瞬間、両|股《また》で挟んだ車体を、サイボーグにだけ可能な強引きで一八〇度反転させる。加速を始めた途端、両側の壁に等間隔に設置されたバト・ランプが作動し、赤い光条を回転させ始めた。
「あ、しまった」
女性の声で警告アナウンスが流れる。
緊急地下道路の使用は緊急車両に限定されています、許可を受けない一般車両の通行は認められていません、すみやかに最寄りの出口より退去してください。
バンには識別信号の発信装置があるが、モノサイクルには、ない。時速三〇キロ以上で移動する車両である以上、それは違法侵入車両として感知されてしまうのだ。
「まずッたなあ」
合流点に向かって一気に加速しつつ、丈はヘルメットの内蔵マイクに声をかけた。
「ダリア!」
はい、と応えるアンドロイドの声は、冷静そのものだ。
「警察が邪魔しに来るまでの推定時間は?」
「約七分。警報が作動してから三分以内に退去しない場合、警察が出動します。最も近いのが南署だから、最大でも猶予は九分が限度よ」
「しゃあねえなあ。監視カメラが作動する。妨害かけといてくれ」
「もうやってるわ。でも別回線への切替えに先回り出来るのは二七〇回が限度だから、これも十分はもたないわね」
「わかった。つまり七分ってのは動かないと考えた方がいいな」
「了解、七分以内に全作業を完了、撤収。それでいい?」
「おう。それでいこう! 残り時間をカウント、最後の一分は十秒ごとに」
「了解。残り六分二五秒」
本線に飛び込むと、行進の最後尾が見えた。
電子ブレードを引き抜いた瞬間、デジャ・ヴがあった。
なんだ、おンなじじゃねえか。
デビュー戦の再現だ。
最後尾から追い上げ、背後から攻撃する。走者を全滅させれば、ゴールするのはただ一人。単純な理屈だ。
「ぉおおぉおらあ!」
一気に接近し、振り返ったゾーンの胴を上下に分断する。シフト・ダウンしてエンジン・ブレーキをかけつつ、さらに二匹を斬《き》り倒した。
単純計算で、一匹のゾーンに三秒以上を費やせば、タイム・アウト確実だ。
「こンの、くそ!」
最後尾のグループ七匹を逃走不能にしてから、アクセルを踏みこむ。
「残り六分」
いける!
ゾーンの群の背後から追い上げ、旋回し、時には瞬間的な停止と発進を繰り返して、丈は電子ブレードを振るい続けた。
反撃してくるゾーンも少なくない。腕を引き裂こうとするものも、脚に齧《かじ》りつこうとするものもいる。
「残り五分」
その全てを、モノサイクルの機動力と自身の運動神経とで避け、叩き落とし、蹴《け》り飛ばしてはブレードを叩きつけた。
丈の動きが止まることはない。
一匹に斬撃《ざんげき》を加えつつ次の一匹の攻撃をかわし、さらに別の一匹を牽制《けんせい》しながら違う一匹に斬りつける。はるかに高速で、はるかに高密度ではあったが、それはまさに彼のデビュー戦の再演そのものだった。
違うのは、相手が人間ではないこと、それだけだ。
オレンジと赤の照明の中、ゾーンの行進は今や大混乱となっていた。
襲い来るハンターから逃げるために、ではない。
喰い千切ろうとして、だ。
だが異形の獣の群は次々と肢を、触手を、翼を切断され、身動きとれずに路面に転がってゆく。今や群の後ろ半分は、路面にうごめく長々とした肉の帯になっていた。
「残り四分」
「おぉし、GO!」
第二の合図。
焼却開始。
無塗装の銀色のバンは、シルバーと呼ばれるゾアハントの移動前線基地である。モノサイクルを搭載可能な貨物台とサイボーグ対応の医療機器を備え、車体前部と後部にナパームを燃料とする火炎放射器を装備、さらに車体底面には高熱のレーザー照射レンズが並んでいる。後続のダリアは、動けなくなったゾーンを轢《ひ》き潰《つぶ》しつつレーザーで焼き、後方への火炎放射で後始末しながら最前線の丈を追う段取りなのだ。
狂ったようにブレードを振り回し続ける丈を、背後から真紅の光が照らした。
ダリアがレーザーによる焼却を開始したのだ。
続いて、ぼん、という低い破裂音は、火炎放射だ。
天井のスプリンクラーが作動して、一斉に水が噴き出した。だがナパームの炎を消すことは不可能だ。一瞬で蒸発した水分が蒸気となり、さらに落ちてくる大量の水に叩き落とされてゆく。
「残り三分」
襲撃してくるゾーンの間隔が徐々に開いてくるのを、丈は敏感に感じ取っていた。
先頭が近いのだ。
もう何匹、斬ったろうか。八〇か。九〇か。
斬っても斬っても、後から後から襲いかかってくる。それでも、一匹にかけられる時間は三秒以内。ゾーンは、それぞれが全く異なった形体をもっている。そいつらを行動不能に陥らせる箇所を、彼は瞬間的に判断し、一撃で仕留めなければならないのだ。
闘いに疲れを感じたのは、サイボーグになってから初めてだった。肉体を持っていた時と同じ疲労感が、じわじわと高まってきている。
本当の意味での『疲労』ではない。
それは、サイバネティクスの部品の安全保証限界が迫りつつあることを知らせる、言わば警告なのだ。
「こン畜生が!」
正面から飛び掛かってくるのは、骨格と筋肉の配置が入れ替わったニワトリみたいなやつだ。そいつを、真横になぎ払う。上下に分断された上半分は、そのまま宙を飛んで、丈の左肩にしがみついた。
「くそッたれ!」
左手で掴んで引き剥《は》がし、頸椎《けいつい》を握りつぶす。
少しずつ、効率が落ちてきているのだ。
「残り二分」
わかってらぁ、くそ!
次の一匹は接近され過ぎていたので、ブレードの柄で殴って動きを止めてから斬った。その次は攻撃箇所を間違えたのか、一撃で動きを止められなかった。敵の攻撃間隔は確実にひろがっていたが、丈の動きも確実に鈍ってきていた。
「残り一分」
ゾーンの肉の焼ける臭《にお》いが、ヘルメットのフィルターごしに背後から迫ってくる。時間だけではなく、銀色のバンまでが、彼を追い立てるようだ。
「残り五〇秒」
このまま時間切れになれば、駆けつけてくる連中と鉢合わせすることになる。ゾアハンターやゾーンの存在が露顕する危険性だけではなく、下手をすれば警察や消防の連中を、生き残ったゾーンの前に誘い出す恰好になってしまうのだ。
それだけは、避けなければ。
絶対に。
「残り四〇秒」
右の肘の内側で、がきっ、という硬質の衝撃が走った。
小さなショックだったが、しかし、その意味するところは深刻だ。
何かの部品が限界を超えて、ついに故障したのだ。その証拠に、右手の握力が一気に落ちる。
咄嗟《とっさ》にブレードを、左手に持ち替えた。
「残り三〇秒」
効率は、さらに落ちた。躯は正確無比な機械でも、彼の生身の脳は厳然と『右利き』なのだ。たった二匹を斬り倒した時点で、
「残り二〇秒」
駄目か!
そう思った瞬間、突然、前方の視界が開けた。残っているのは、わずかに三匹。
先頭に出たのだ。
「ダリアァ! 前方にナパーム放射ぁあ!」
「了解!」
応答と同時に、丈は腰をひねってモノサイクルを横っ飛びさせた。刹那《せつな》、たった今まで丈のいた空間を貫くように、炎の帯がうねりながら最後の三匹へと延びる。
ジャエ!
ヴァグ!
ガガ、ガ、ガ!
奇声をあげて炎に包まれてゆくゾーンに向かって、
「逝ってこいやあ!」
丈はモノサイクルを突進させた。三匹を繋《つな》ぐ湾曲した軌道で、ブレードを振りかざして一気に走り抜ける。三つの異形は、炎をあげたまま、六つになった。
「一〇秒前」
「回収!」
「了解。七、六……」
後部ドアが開き、バンが速度を上げる。回り込んで追いついたモノサイクルが、降ろされたスロープを駆け上がる。カウント・ダウンは続いている。
「……三、二、一」
愛車を停止させた丈の背後で、ドアが閉じた。
「ゼロ。作戦終了。撤収」
振り返ると、地下道路いっぱいに炎が拡《ひろ》がっているのが見えた。まるで炎の壁だ。あれでは、駆けつけた連中も近づくことなど出来まい。炎が消えた時、彼らが目撃するのは、噴き出し続けるスプリンクラーに流されてゆく大量の黒い灰だけだ。
火焔《かえん》地獄のようなその光景も、みるみる遠ざかってゆく。
ヘルメットを脱いだ丈に、
「お疲れ様」
ダリアが声をかける。
「ああ、お互いにな」
かすかに、パトカーのサイレンが聞こえた。
ベッドに入って、眠くなるまで読みかけの本を開くのが、音緒の日課だ。
でも、今日はなかなか眠くならなかった。
丈が実際に闘うところを、音緒が目にすることはない。ただ彼女が指定した時刻から数時間後、あるいは翌朝、端末に処理終了の報告が届いているだけだ。
考えてみれば、一ヶ月ほど前に逢ったきり、丈ともダリアとも逢ってはいないのだ。
けれど今回の闘いが、少なくともこの一ヶ月間のどの闘いよりもハードなものになるだろうということは、音緒にも容易に推測出来た。
なにしろ、数が違う。
百匹以上だ。
本を閉じた。目が字面を追っているだけで、ちっとも頭に入らないのだ。せっかくの藤谷美和の新刊なのに。
時計は、午前一時をさしている。
そろそろ寝ないと、明日辛いんだけどなあ。
ああ、もう今日か。
欠伸《あくび》だけが、何度も出る。けれどちっとも眠くない。
諦《あきら》めて、ベッド・サイドのスタンドに手を伸ばす。
クラクションが聞こえたのは、その時だった。
短く、二回。
ベッドを抜け出した音緒は、カーテンを開いて窓を開けた。
どこだろう。
この窓は遠くまで見える代わりに、近くは他の棟が邪魔になって、表通りさえ見えないのだ。わずかに、駐車場の入口付近が見える程度だ。
「あ」
それで充分だった。駐車場の入口に、銀色のバンが停まっていた。ここからはライターほどの大きさにしか見えないが、けれど、それが誰の車なのかは一目で判った。
助手席の窓から、男が身を乗り出している。
音緒は男に向かって手を振った。
男も、手を振り返す。やがて男が引っ込むとバンは後退し、すぐに見えなくなった。
ベッドに戻った音緒は、ふう、と息をつく。
よかった。
やっつけたんだ。
すぐに眠くなった。
4
それが何の音なのか、最初は判らなかった。何度か聞いた記憶はあるのだが、それがいつのことなのかさえ思い出せない。
音は鳴りやまなかった。繰り返し繰り返し鳴り続けた。
甲高い、神経に触る音だ。
「ダァアアリアァ!」
リビングのソファに寝そべってテレビを眺めたまま、丈は大声で呼んだ。K1の世界チャンピオン戦が始まるところなのだ、中断するわけにはいかない。
ハンガーの開く、ぷしゅっ、という気の抜けたような音がした時、ようやくその音が玄関のチャイムであることに気がついた。
「はい」
ダリアが廊下の陰から姿を現す。
「来客だ。見てきてくれ」
「それは変よ」
音は、まだ続いている。
「外からの客が、いきなり玄関に来ることはないわ」
言われてみれば、そうだ。
建物の玄関ホールはオート・ロックだから、そこからインターホンで部屋を呼び出して住人に開錠してもらわなければ入れないはずだ。
「じゃ音緒か?」
考えられるのは、彼女だけだ。
「学校でしょ?」
ああそうか。つまり現時点で、いきなり丈の部屋の玄関でチャイムが鳴ることなど、ないはずなのである。
「いいから、とにかく見て来い。セールスマンだったら尻を蹴飛ばせ」
チャンピオンと挑戦者が睨み合い、今にもゴングが鳴ろうとしているのだ。
「了解」
引っ込んだダリアは、すぐに戻ってきた。
「セールスマンじゃないわ」
おそらく、廊下に設置された管理モニターの一つを確認したのだろう。
「そうか」
「米沢《よねざわ》医師よ」
「ふうん」
そんなやつ知らんぞ、と言いかけた丈は、次の瞬間、
「米沢あ?」
初めてテレビから視線を引き離して振り返った。
「米沢って、あの米沢か!」
「ええ」
なんてこった。
丈の執刀医だった。
チャンピオン決定戦は、録画しておいて後で観《み》ることにした。
なにしろ、客が客だ。ことと次第では、丈自身が自慢のストレート・パンチを見せることになるかも知れないのだ。
ダリアに連れられて入って来た米沢を見て、丈は思わず唇の端を歪めた。
苦笑に、だ。
米沢の頭髪が増えていた。人工頭髪だろう、きっちり七三に分けてある。おまけに今日は白衣ではなく、群青色のスーツだ。おかげで安っぽいサラリーマンみたいだ。
「ご無沙汰《ぶさた》だなあ、先生」
米沢の荷物だろうか、ダリアは大型のトランクを抱えている。床に置くと、ごとん、と重そうな音をたてた。
「ハンガーに戻っていい?」
「ああ、ご苦労さん」
入れ替わるように歩いて来た米沢は、すすめられもしないのに勝手に丈の向かい側に腰をおろした。
「久しぶりだねえ、黒川くん」
「その次は、元気だったかなあ、か?」
「いいやあ、あんたが元気なのは、ちゃんと知ってるよお」
相変わらず、ねっちりした喋り方だ。おまけに、黒縁眼鏡も健在ときた。
「最初は心配してたんだよねえ、あの後、あんたがゾアハントを辞めちゃうんじゃないかってさあ」
連中はその後も丈の行動を、ある程度は把握していたということだ。つまり委員会とダリアとのオン・ラインは、まだ存続しているのだ。
「委員会は、どうなってる? アトガマが座ってるのか?」
「ん〜、詳しくは言えないけどね、でも、ゾーン対策委員会という名前は残ってる、とだけ言っとくよ」
ふん、そんなとこだろうさ。
一度確立したシステムは、そう簡単には消滅しないものだ。
良くも悪くも。
「でもねえ、正直なところ、驚いたんだよねえ。あんなことの翌日から、もう調査を再開してるんだから。しかも、ここ一ヶ月ほどで飛躍的に効率が向上してるじゃない」
「まあな」
「何か、連中の行動パターンでも掴んだのかな? だったら教えて欲しいなあ」
「やなこった」
「だよねえ」
肩をすくめて、くすくすと笑う。オカマか、こいつは。
「何の用だ、用件を言えよ。近くまで来たから寄ってみたんだよお、なんて言うんじゃねえだろ?」
「ああ、そう。そうそう」
立ち上がり、米沢は例のトランクを引きずって戻って来た。
テーブルの脇に置いて、開いて見せる。
中には、ぎっちりと機械部品が詰まっていた。全て磨き上げられたようにピカピカで、一つずつ丁寧に透明のビニールに包まれている。
「何だ、こりゃ」
「あんたの部品だよ。交換に来たに決まってるじゃないかあ」
「なに?」
「今朝、あんたの機能チェック・ポッドから送信されてきたデータを見たんだよねえ。右肘部のマイクロ・アクチュエーターがさ、限界を超えてるって。作動不良があると思うんだけどさあ、心当たりあるよねえ」
ある。
昨夜、あやうくタイム・アウトになりかけた、あの小さな衝撃だ。あれ以来、右手の握力は格段に落ちている。コーヒー・カップさえ持てやしないのだ。
今朝のチェックでも、確かにハッチ内側のモニターに警告表示が出ていた。
至急部品交換の必要あり。
つまり、あのポッドも幽霊委員会とオン・ラインされたままだということだ。そしておそらく、その端末は米沢のデスクにあるのだろう。
「早いとこ交換しないと、他のとこにまでガタがくるしねえ」
言いながら、米沢はビニールに張りつけられたラベルの、細かい数字やアルファベットを確認しつつ、あれよあれよと言うまに、テーブルを部品でいっぱいにしてしまった。
「うん、うん。よし、じゃあ始めるよ。ソファを寄せて、その上に寝てちょうだい」
「おい、ここでやる気か?」
「ただの部品交換だもんねえ。それに、男の寝室になんか入りたくないよ。それとも、ウチの研究室まで来る?」
おことわりだ。
言われたとおりにソファに横になる。
「外装を開いてテーブルに載せて。ああ、銃は出して中を空っぽにしといてね」
これも、指示どおりに。ただし銃は、そこら辺に置かずに左手に持った。
「僕って信用されてないんだねえ」
「まあな」
本当のところ、そうでもないのだが。
確かに、どうしても好きにはなれないタイプではある。丈が肉体を失うことになったのは、この男が丈を推薦したからだ。加えて、ゾーンとサイボーグのどちらが兵器として優れているか、なんてくだらないコンペに参加させられたのも、こいつらのせいだ。
しかし同時に、この男にそれ以外の選択肢があったとも思えない。
この貧相な男もまた、巨大なシステムの犠牲者には違いないのだ。
ぱっくりと開いた丈の腕を覗《のぞ》き込みながら、米沢が手を突っ込む。問題の部品は、呆気ないくらい簡単に取り出された。子供の小指ほどのサイズの、油圧シリンダーのようだ。表面は銀色ではなく、焼けて青くなっている。
代わりに米沢はビニール・パックから、同じ形の部品を取り出した。
「あんたの機体はねえ、基本的に全身がユニット構造なんだよねえ。生体組織は無理だけどね、大抵の部品はあんたが自分で交換出来るくらい、扱いが簡単なんだよお。厚生省と運輸省の認可が下りれば、実用化するんだ」
忘れてた。
この男、放っておけばいつまででも喋ってるんだっけ。
「兵器としての必要条件か?」
サイボーグ外科医が再び手を突っ込むと、丈の手首から先に軽いショックがあった。
「ああ、うん、それもあるねえ。あ、ちょっと中指を動かしてみてくんない? あ、そうそう、うん、もういいよ」
米沢は、さらに別の部品を抜き取り、新しいビニール・パックを開ける。
「ええっとお? 何の話だっけ?」
「兵器としての必要条件」
「ああ、そうね。でもさあ、それより、そうなってた方が生活が楽でしょ?」
作業の速度は、思ったよりも早い。次々と部品が外され、新しいものと交換される。そのたびに、指や手首の感覚が失せては戻ってくる。
「楽? 兵隊は商売だ。楽させる必要なんか、ないだろうさ」
「違うよ、患者の話よ」
なに?
「腕だの脚だのがサイバネティクスになるだけでも大変なのに、部品が傷むたびにエス外科通いじゃ大変じゃない。ご家庭で交換出来るのが理想だと思わない?」
なんだって?
「それじゃあ」
「ああ、勘違いしない。そりゃ当然、兵器として使用する構想もあるよ。いつ条約が無効になるような事態になるか判らないものね。どっかの国が条約を無視してサイボーグ兵士で攻めて来たら、こっちだってサイボーグ兵士で立ち向かうしかないじゃん。でも基本は違うよ。サイバネティクスは医療技術なんだよねえ、厳然とさあ」
「そうか」
「うん。あのさあ、ちょっとだけ言い訳するけどねえ」
言いながら、米沢は黒縁眼鏡を指で押し上げる。だが、あくまで視線は、丈の肘の内側に据えられていた。
「あんたを推薦したのは僕だから、だからあんたが僕を恨むのは当然だけど、でも本当のところ、ボクがあんたを推薦したのは、自衛隊員を助けたかったからなんだよねえ」
「どういう意味だ?」
「自衛隊員のリストを見た時にさあ、これじゃ確実に死ぬと思ったの。全員ね。でも、その日たまたまバトル・ホイールの中継を見て、あんたなら生き残るかも知れないと思ったわけ。で、あんたを推薦した」
「それで俺は、このざまだ」
「うん、そう。でもねえ、あんたをリストに加えることは許可されたけど、代わりに自衛隊員を外すことは許可されなかったんだ。おまけに村瀬くんは、ゾーンに傷つけられると高確率でゾーン化することを黙ってたんだよね。だから、あんたがどんなに傷ついていても、サイバネティクスと器官培養で必ず助けられると思っちゃったんだなあ」
「するとナニか? 生き残った人間をフル・サイボーグにするつもりはなかった、と言いたいのか」
「そのはずだよ。少なくとも僕は、そういう計画としては知らされなかった。確かに人道的とは言いがたいけど、でもあれば、あくまでゾーンと互角に渡り合える人材を選出するためのもので、現に僕は戦闘用防護服の開発主任として参加してたんだよね」
そうだったのか。
村瀬は、すでにその段階から米沢を蹴落とそうとしていたわけだ。初めて逢った時、真摯《しんし》に見えた彼の態度は、ただ単に、おもしろくないので固くなっていただけだったということか。
だが、
「おめぇよお」
思わず、左手の銃の撃鉄に指がかかった。
「僕チンは悪くないです許してちょうだい、って言ってんのか?」
「ううん、そうじゃないよお」
米沢は、銃の方を見もしない。ひたすら作業に没頭している。少なくとも、丈にはそう見えた。
「ただねえ、いくら守秘義務に反するとはいえ、これを言わないで死ぬだけの思い切りも僕にはないからねえ」
「死ぬ?」
「うん。ああ、でも待っててね。これが終わるまで、撃っちゃ駄目だよ。最後の仕事なんだからさあ、きちんとやらせてよね」
「死ぬ気で来たわけか」
「殺したいでしょ? あんたにとっては、僕も村瀬くんと同じ立場なわけだし」
「ああ」
殺したい、と思っていた。
村瀬を殺した後、本当ならこいつも殺しておくべきだった。だが、出来なかった。疲労のピークに達して、立ち上がる気力を絞り出すだけで精一杯だったからだ。
けれど、今は違う。
部品の交換が終われば、また引鉄《ひきがね》を引けるのだ。
米沢の言ったとおり、作業はすぐに終わった。右腕を閉じると、握力も戻っていた。
「トランクの中に、左腕と両脚の部品が入ってるからね。マニュアルCDもあるから、次からは自分で出来るよ。それから、来る前にホンダのサイボーグ技研の連絡先をメールしておいたから確認しといて。新しい部品が必要になったら、そこから買える。支払いは委員会の方に回せばいいしね」
「ああ、判った」
応える丈は、右手に銃を握っている。
「さてと、風呂場はどこかな、黒川くん」
「風呂場?」
「やだなあ、リビングで撃ったら、始末が大変だよ」
「気にすんな。血は出ない」
立ち上がった。
「あ、そうか。電子ブレットだ」
米沢も立ち上がる。にやけた顔は相変わらずだが、その目はどこか寂しげだ。
「おっさんよ、一つだけ答えろや」
「何かなあ?」
「美咲のことだ。どう思ってる」
「ああ、あの子ねえ」
遠くを見る目になった。
「哀しいねえ」
「哀しい?」
「うん。あんなイイ子が、なんで死ななきゃならなかったかねえ。あの日、僕も遅番だったら、村瀬くんを止められたかも知れないと思うとねえ、哀しいよねえ」
「哀しいか」
「うん、哀しいねえ」
「そうか」
右手の銃は一瞬で分解され、修理されたばかりの右腕に収納された。
そして、サイボーグは、言った。
「俺は、もっと哀しいよ」
米沢は、歩いて帰った。
生身の、二本の脚で。
5
別に文学少女というわけではないけれど、それでも『赤毛のアン』くらいは中学生の頃に読んでいる。だから自分の容姿にコンプレックスを抱くことが、どれだけ意味のないことかは知っているつもりだ。
問題なのは容姿ではない。
何が出来るのか、ということ。
何をするのか、ということ。
どう生きるのか、ということ。それが人間の価値を決める。
だから、鏡に向かってイーッ、はもうやらない。
その代わり、鏡に映った自分に向かって、こう言うのだ。
いくよ、と。
マンションの庭を横切って敷地の前へ出ると、ちょうどバスが来る。乗降口のスリットに乗車カードを滑らせてから、吊《つ》り革を掴む。
誘導帯に載ったバスの、ゆったりとした揺れに身を任せながら、音緒はぼんやりと車窓の外を眺めていた。
やっと判った。
時々見かけた、あの『違和感』を持った者の正体だ。
若者の時も老人の時も、男だったことも女だったこともあったが、みんな共通した奇妙な『違和感』を感じさせた者達だ。
今なら、その正体が判る。
ゾーンだ。
あれは、人間に化けたゾーンだったに違いない。いや、ヒトに進化したゾーン、と言うべきだろうか。普通は気づかないような些細な相違を、音緒の『才能』は敏感に感じ取っていたのだ。
その証拠に、あれだけ頻繁に見ていた『違和感』の連中を、ここしばらく見ない。もう二ヶ月ほどになるだろうか。ゾアハンターが緊急地下道路で、百匹以上のゾーンを始末してから、ぱったりと見なくなってしまったのだ。
それだけではない。
メールされてくる地図の赤い点が、激減しているのだ。一日に、ほんの数個。新しい赤が全くない日も多い。だから『×』印を付けての返信は、ずっと途絶えている。
「今回はナシ」「ありません」「ないよン」「残念賞」「ないンだなコレが」
レパートリーはとっくに尽きて、今では毎日「なし」とだけ返信している。
地球がゾーン化する予知も、あれ以来見ていない。
未来は決まっていない、ということだ。
たった一枚のジョーカーがカードの順番を狂わせるように、たった一匹の蝶の羽ばたきがハリケーンを起こすように、ほんの些細な出来事が結果を大きく左右するのだ。
いつもと違う道を歩くだけで、人生が変わってしまうかも知れない。ちょっと振り向いてみるだけで、誰かの人生を変えてしまうかも知れない。小石をひとつ蹴飛ばすだけで、世界の運命を左右してしまうかも知れない。
いや、一人の人間が生きて存在しているということ、それだけで周囲の人間に影響を与え、与えられた人々もやはり周囲の人間に影響を与えているのだ。人間は、社会は、世界は、互いに影響し合い絡み合っているのだ。
可能性は、無限にある。
それはとても素敵なことのようにも思えるし、とても恐ろしいことのようにも思える。けれどそういう仕組みであるなら、人間に出来るのは、その事実を認識した上で生きてゆくことだけだ。
考え、そして行動する。
それだけ。
あたしは、と音緒は思う。
行動した。
行動してる。
だから、ちょっとくらいご褒美があってもイイと思う。
学校が終わってから、ちょっとだけ。
デートだ。
ダリアの反応は、いつもと変わらない。
「何か?」
これだ。
ハンガーの中では、彼女の体機能は停止状態にある。覚醒しているのは『脳』だけで、それもネットとリンクしているため、彼女そのものの『思考』は休眠状態だ。スペックの全てを、送られてくる情報の処理に振り分けているためである。
情報処理をダリアの『脳』が担当する唯一にして最大の理由は、保安だ。情報を抱えた端末そのものが、デジタル的にもアナログ的にも自分自身を護《まも》る能力を有しているというわけだ。仮にハッキングを仕掛けられても、物理的に断線することさえ、ダリアには可能なのである。
特別な指示がない限り、ハンガーの扉の開閉により、ダリアのボディのオンとオフは行われる。開けば始動し、閉じれば停止だ。ハンガーを開くと同時にオン・ラインのコネクタが外れ、眠っていたボディは瞬時に覚醒し、そして、応じる。
何か?
対する丈の答えは、
「いや、ちょっとな」
答えになっていない。
これまでにも、用もないのに丈がダリアのハンガーを開けることは、よくあった。本当に何となく、ということも少なくないが、多くは退屈のせいだ。
そんな時、丈は一言だけ、情報は、とか、変化はないか、とか訊《たず》ねる。
ダリアの答えも、ありません、と一言だけだ。
だが、今日は違った。
いや、ちょっとな。
その言葉に、ダリアは敏感に反応した。ダリアには、ごく簡単な読心能力がある。と言っても、超能力ではない。相手の表情や仕種、声の高低や強弱から、その心理状態を計算するのである。彼女が音緒の『才能』を分析し得たのは、それがこの機能と共通する部分を持っていたからかも知れない。
「話したいことが、あるんじゃない?」
ダリアの言葉が疑問形なのは、緊急事態ではないと判断したからに過ぎない。おそらく彼女は、相手が会話を求めている、と断定しているはずだ。
「ああ、まあな」
「了解」
丈はハンガーを出たダリアとともにリビングまで移動すると、向き合って座った。いつものように上半身裸でソファに躯を投げ出すような恰好の丈に対して、ダリアは背筋を伸ばし、両手は揃えた脚の上に置いた姿勢だ。
「それで?」
「ああ、ちょっと意見を訊きたいと思ってな」
「どうぞ」
「ここんとこゾーンが出ない理由だよ」
「可能性は三つ」
ダリアの答えは、即答だ。
「ソノイチ。あなたが全てのゾーンを処理してしまった」
その可能性はないな、と丈は思う。
なぜなら、まだ『奴』を始末していないからだ。
だが、それは黙っていた。
「ソノニ。ネオの予知が機能していない」
「だが、それはないと思ってるだろ?」
「ええ。現に調査が必要となるような失踪《しっそう》も行方不明も変死も、激減してるわ。ただし、可能性としては否定しません」
「判った。じゃ、可能性ソノサンは?」
「ゾーンが潜伏活動に入った、あるいは、以前から潜伏していたものだけが残った。結果的には同じことだけどね」
「具体的には」
「それは情報が不足だわ。でも何らかの方法で、表立った行動を起こさずに繁殖している可能性は、充分に考えられるわね」
「質問」
「はい」
「もしそうだとしたら、音緒がそれを予知していないのは?」
「彼女の予知が働いているという前提でなら、情報の欠如以外に考えられないわね」
「潜伏している可能性がある、と教えたら?」
「変わらないわね、多分。あの子の能力は、そういう性質のものじゃないわ。もっと感覚的というか、直観的なものだから。ゾーンの潜伏という状況を実感出来るような出来事に遭遇すれば、変わるでしょうけど」
「なるほど」
「それだけ?」
「ああ、まあな」
結局、丈の考えを肯定してもらっただけだったが。
「じゃあ、戻るわ」
「ああ」
ハンガーへ戻ってゆくダリアの背中を見ながら、丈は音緒のことを考えていた。
彼女のおかげで、少なくとも事態は鎮静化している。ゾーンの繁殖に決して追いつけないと判ったあの日の、あの絶望的な思いが嘘のようだ。
あの子のおかげだ。
チームに入れてくれと言ったのは、確かに彼女の方だ。だが彼女は、親友の仇を討ちたいという思い以上に協力してくれているのではないか。
思えば、あれから一度も逢っていないのだ。それ以降は緊急地下道路でのハントの帰りに、遠くで手を振る彼女を見ただけだ。
「ふん」
鼻で笑うのは、丈の悪い癖だ。
ソファを跳ね起きた丈は、再びダリアのハンガーを開く。
「何か?」
「出掛けてくる」
応えは当然、
「了解」
たった一言。
だがハンガーを閉じようとした丈に、ダリアはもう一つ付け加えた。
「逢うのなら、渡しておいてあげてね」
やれやれ。
見透かされてる。
授業が終わるなり、音緒は鞄《かばん》を手に教室を飛び出した。下りのエスカレーターを駆け降り、校庭を駆け抜ける。正門ではなく裏門へ。教職員用の駐車場を横切り、学校の敷地を塀伝いに回り込むと、正門向かい側の路肩に、赤い車のテールが見えた。
気づかれないように、こっそりと近づく。
助手席側の窓をノックすると、運転席で正門を眺めていた男が振り返った。
「おっす、ゾアハンター」
驚いた男の顔が苦笑に変わり、ドアが開く。滑り込んで、音緒は、へへん、と得意そうに笑って見せた。
「元気してたッ?」
「やれやれ、だ。つまり、予知してたわけだな?」
「そ。久しぶりに見えたと思ったら、丈の顔だったんで笑っちゃったさ」
「おい、呼び捨てか? 幾つ歳上《としうえ》だと思ってやがんだ」
文句を言いながら、けれど海賊みたいな顔で、丈は笑う。笑うと目尻が下がって、右側と左側では別の顔みたいだ。
「まあまあ、細かいこと気にすると、もっとフケるよ」
それで、と音緒は訊いた。
「何か用?」
「ああ、いや一緒に……」
「一緒にメシでも喰うかと思ってッ!」
先回りだ。
「なるほど、これも見たのか」
「うん。だから親にも、今夜は友達と食べて帰るって言ってある」
「やれやれだ。どこまで見た?」
「さっきンとこまで。だから、どこ連れてってくれンのかは知ンない」
それに相手は、彼女の『才能』について知りもしなかった幼稚園の先生や、小学校の同級生とは違うのだ。今、彼が言うべき言葉を先回りしてしまったことで、一枚のジョーカーが滑り込んだはずだ。もしも昨夜、音緒がこの先を見ていたとしても、その予知はきっと外れただろう。
「あのなあ、ちょっと訊きたいんだが」
「なに?」
「俺のことも、そんなふうに先が全部、見えてるのか?」
「今日のは見えた。でも全部じゃない」
言おうかどうしようか、ちょっと迷って、
「杏子と同じ、かな」
「杏子? あの、例の?」
「うん。あの子もそうだった。ほとんど見えない。たンま〜に、ちらっと判るだけ」
「ほお」
「丈もだ。なんでかは知らないけど」
でも、何となくは、判る。
杏子はともかく、丈の場合は、いくら情報があっても無駄なタイプなんだ。
次の瞬間、何をするか判らない。
カッコ良く言えば、型にはまらない。カッコ悪く言えば、むちゃくちゃ。
「何、喰いたい」
ほら。
会話の脈絡すらないんだもの。
「あたし、けっこう喰《た》べるよ」
「心配すんな。ハードな仕事は、ギャラもいい」
「丈は外食する方?」
「ああ、相棒が死んでからは、ほとんどな」
「じゃあ、丈が今までで一番|美味《おい》しいと思ったとこに行こう」
「なるほど、合理的だ」
丈が車を急発進させたので、音緒はシートに押しつけられて、声をあげた。
少し考えたが、結局、ハンバーグ・レストランにした。だが、ファミリー・レストランみたいな安っぽいチェーン店ではない。注文を受けてから肉を挽《ひ》き、焼き加減まで注文出来る本格派だ。時間はかかるが、その分、旨《うま》い。
それは音緒も同意見だった。ナプキンで唇をぬぐってから椅子に背をあずけ、美味しかったあ、と言った。丈は、だろ、と笑ってみせた。
それからウェイターが、下げた皿と入れ違いに食後のコーヒーを持ってくる。
音緒はクリーム・ソーダだ。
アイスクリームをすくって口に入れた少女は、盗み見るような視線を丈に向けると、肩をすくめて、くすくすと笑った。洋風木造建築を模した落ち着いた雰囲気の店内に、ブレザーの制服が場違いなくらいにみずみずしい。この時間、まだ客は少なく、だから音緒は声を殺して、肩を震わせる。
「どうした?」
「だって、丈とハンバーグって、笑える取り合わせだからさ」
「似合わんか?」
「似合いすぎなの。ハンバーグの起源て知ってる?」
「いや」
「タタール人がヨーロッパに遠征したときにさ、ハードな長旅で馬が死んだりするわけ。そんで、その肉を食料にするんだけど、それが固くて食べらンないさ」
「だろうな」
「で、どうしたかって言うと、まだ元気な馬の鞍《くら》の下に肉を敷いて、そこに乗ると、馬が歩く振動と乗ってる人の体重とでミンチになっちゃうのね」
「荒っぽいなあ」
だが理屈は、固い肉を叩くのと同じだ。
「柔らかくなったら、香辛料かけて焼いて食べた。それがハンバーグの起源」
「へえ」
丈は改めて店内を見回した。なるほど、だから装飾品の中に馬の鞍だの鞭《むち》だのが並べてあるのか。
「つまり俺が、そういうこと、しそうだってか?」
「よく言えばワイルドね」
「悪く言えば、荒っぽいか」
丈の苦笑に音緒は、否定しないけどね、と笑う。
「ねえ、一つ訊いてもいい?」
「おう」
「なんでアイパッチなの? 他はサイバネティクスなのに」
「ああ、これか」
指で、アイパッチの表面を撫でる。凹凸《おうとつ》のない、つるりとした感触だ。
「隠してるんだ」
「傷を?」
「違う。目だ」
「だから、なんで機械にしないで隠してるのか、って訊いてるわけ」
「してるさ。この下は、機械の目だ」
「そうなの?」
「ああ。もともと、そうだった。だが前のが壊れてな。距離感が掴めないと、殴り合いの時に不利なもんだからよ」
かと言って委員会に、また作ってください、なんて言いたくもない。
「だから自分で作って、目玉の入ってた穴ボコに突っ込んだ」
「作ったの? 目を!?」
「カメラ屋でロボット用の小型カメラを買ってきて、ちょこっと改造しただけだ」
視神経に接続されたコネクタは無事だったので、作業そのものは簡単だった。
「そんなことして、ちゃんと見えるの?」
無論、丈自身そんなやり方で視力が戻るとは、本気で考えてはいなかった。今にして思えば、あるいは内罰的な行動だったのかも知れない。だから音緒の質問は、実に的を射ているわけだ。
「見えなかった」
「やっぱり」
「糞《くそ》ッたれ、と思ったさ。で、そのままフテ寝さ。疲れ果てて眠っちまった。自作の目玉を入れたまま、次の朝まで爆睡さ」
ところが翌朝、目が覚めてみて驚いた。
見えるのだ。
右目が。
「ぼんやりと、だけどな。まるで焦点が合ってなくて、色だけがチラチラ動くみたいな感じだったが、見えた」
「なんで? 最初は見えなかったんでしょ?」
「ダリアの意見では、俺の脳が対応したんだとよ」
自作のカメラは、きちんと作動していたのだ。光を電気信号に変換し、視神経を通じて脳に伝達していたのである。問題は、脳がその信号の意味を理解しなかったことだ。だが彼の脳は、諦めなかった。一晩の間に、何とか解読しようと、文字どおり脳細胞をフル回転させたのだ。あるいは、補助脳の存在がそれを可能にしたのかも知れない。
「そのまま入れといたら、夕方には、かなり焦点が合ってきた。結局、三日目の昼ごろにはもとどおり見えるようになっちまってたよ」
「すッごい」
音緒は音をたてずに小さく拍手してくれた。
「でもな、すッげえ不格好なんだ」
「そうなの?」
「目玉にカメラを突っ込んだだけだからな。で、防弾樹脂製のスモーク・グラスで隠してるわけだ。こいつを外すと、海賊どころの騒ぎじゃない」
「じゃ、アイパッチごしに見えてるんだ」
「見えてる。暗闇でも見えるし、サーモ・グラフにもなる。便利だぜ」
「でも不格好なんだ」
「ああ。女の子には見せられんね」
「ねえ」
「おう」
「そんなにしてまで闘うのは、なんで?」
音緒は、手を小さな拍手の形のままでテーブルに肘をついて、クリーム・ソーダのグラスごしに、こちらを下から見上げてくるような恰好だ。唇を少し尖《とが》らせているのは、どういう意思表示なのだろうか。
単純な疑問?
それとも、何かが不服なのか。
「一言で言うなら、人間だから、かな」
「判ンない」
「例えば、お前さんが街を歩いていて、お婆さんが座り込んでたら、どうする?」
「思わず声をかけるだろ、ってこと?」
「かけるのか?」
「かけない、多分。そのお婆さんを、病気で苦しんでる善人だって決めつけるのは、危ないと思う。強盗かも知ンないもん。それが確かめられないなら、声かけない」
「正直で結構だ。でもな」
料理は旨いが、コーヒーはイマイチだ。
「他に誰も歩いてないとしたら? 通りかかったのはお前さんだけだったら?」
「やな質問だなあ」
「まあな。その婆さんが善人か強盗かは判らない、でも、その婆さんに声をかけられる人間が自分しかいないというのは確実なんだ。どうする?」
音緒の瞳が、少しの間、天井を向く。
やがて戻ってきた瞳は、上目遣いではあったが、真っ直ぐに丈の視線を捉《とら》えた。
「それが、理由なの?」
「そういうことだ」
「声、かけちゃったのね?」
「ああ」
「罪悪感の方が怖かった」
「気が小さいもんでね」
視線を伏せた音緒は、ふうん、と言ったきり、クリーム・ソーダを飲み終えるまで何も言わなかった。
やがて再び顔をあげた少女は、産毛の光る頬《ほお》いっぱいに笑みを浮かべて、言った。
「あんた、恰好イイよ」
丈は、よせやい、としか言えなかった。
マンションの駐車場の正面に、車を横付けしてもらう。
「ここで、いいや」
建物の入口までは少し距離があるが、ここから先の敷地内は防犯カメラが設置されているので安心だ。
「気ぃつけてな」
そう言う丈の顔は、ちょうど街灯の明かりが届かない位置なので真っ黒だ。よく見ると右目のアイパッチの辺りで、スモーク・グラスごしに小さな赤いランプが点滅しているのが判った。
「うん、今日はありがと。ごちそーさまでした」
「おう」
「じゃあね」
「またな」
音緒が駐車場を半分ほど横切った頃、ようやく背後で、車の発進する音が聞こえた。
ちょっとお腹《なか》が苦しい。
食べすぎたか。
歩きながら、腕時計を見る。七時過ぎ。ちょっと引っ張り過ぎたかな? だって久しぶりに、遊んでるう、っていう実感があったから、仕方ないよね。
顔を挙げる。
玄関ホールの前に、誰かが立っていた。
二人。
駐車場の街灯よりも、ホールの照明の方が明るくて、逆光気味だ。
一人は音緒と同じくらいの背格好の女性、もう一人は長身の男性、それ以外のことはシルエットになっているので判らない。
音緒は、足を停めた。
変だ。
だって、住人なら建物に入ればいいんだし、来客なら訪問先の誰かが入口を開けてくれる。相手が留守ならすぐ帰るはずだ。一緒に出掛ける誰かを待っているなら、ホールの中にいればいい。
なのにこの二人はホールの外で、建物の中じゃなくて外を向いて立っているのだ。
このマンションに住む誰かが帰ってくるのを待ってるんだ。
そして、でも建物に入ることが出来ないんだ。
あからさまに、不審。
これが、しかし男性だけなら、音緒はとっとと背中を向けて逃げだしていただろう。
だが音緒は、逃げなかった。
問題は、女性の方なのだ。
どこかで見たことがある。
この感じ、知ってる。
「お帰り、ねお」
女性が言った。
一気に鳥肌がたった。お尻から背中から首筋から、頬っぺたまで。
「待ってたんだよ」
うそ。
嘘だ。
そんなこと、あり得ない。
音緒は弱々しくかぶりを振りながら、後ずさった。
女性は両手を差し伸べて、前へ出た。
「嘘だ」
「嘘じゃないわ」
「杏子は死んだ」
だが、杏子だった。
「死んでないってば」
音緒を抱き込もうとするかのように両手を広げ、優しげな笑みで近づいてくるのは、ゾーン化して死んだはずの関根杏子なのだ。
「あんたは杏子じゃない」
「そりゃ可哀相《かわいそう》だぜ、お嬢ちゃん」
言いながら、男も前へ出てくる。
「杏子がどれだけ、お前さんに逢いたがってたと思う?」
男の顔が見えた。
思わず、息が止まった。
そんな。
まさか。
「俺としても、感動的な抱擁シーンってのを期待してたんだけどなあ」
男が微笑む。
膝が震えた。
鳥肌はおさまってくれない。
お願い。
誰か教えて。
いったい何が起きてるっていうの!?
しまった、と思ったのは、国道に出る寸前だった。
マンション群の間を蛇行した長い坂が終わる、そのほんの少し手前である。
「やべぇやべぇ」
丈はシフトを落とした。
凄《すご》いでしょ、と杏子は言った。
その肩を、男が抱いた。
「私だって、嘘じゃないかって思った。でも、本当だったのよ」
本当に嬉《うれ》しそうな、その笑み。音緒は膝の力が抜けて、座り込んでしまいそうだ。
「喜んでくれないの?」
喜んであげたい。
どんなに憧《あこが》れていたか、知ってるから。
でも、駄目だ。
そんなことあり得ないって、知ってるから。
「なんだ杏子。お前さんの親友は、意外と薄情じゃねえか」
「そんなことないよ。びっくりしてるだけだよ。だよね、ねお」
「へえへえ」
どっちも本物だ。
外見だけじゃない。喋り方も、仕種も、表情も、ちょっとした癖も、あたしの知ってる二人だ。
あたしの知ってる関根杏子と、あたしの知ってる黒川丈だ。
そう。
黒川丈なのだ!
でも、それはあり得ない。
絶対に、ない。
杏子はアザエルに冒されて、ゾーンになって、死んだ。
丈は、たった今一緒に食事して、別れたところだ。
それに、
「あんた、目、どうしたのさ」
自分でも、声が震えているのが判る。
「あん?」
『黒川丈』が、眉《まゆ》を寄せる。
「目よ。右目。なんで二つとも揃ってンのよ」
今、目の前で笑う『黒川丈』は、アイパッチを着けていなかった。それどころか、傷もない。着ている服も、袖《そで》を片方千切った革のジャケットなんて粗野なものではなく、真っ白な洒落《しゃれ》たスーツだ。
だが、やはり丈なのだ。それ以外の何者にも見えはしない。
「おや」
苦笑とともに肩をすくめる、そんな仕種までそっくりだ。
「あんた、誰よ」
「黒川丈」
「嘘だ!」
「ということは、だ、お嬢ちゃん」
『黒川丈』が、杏子を抱いていた手を放して、さらに前へ出てくる。
「あんたは、俺の他に、黒川丈と名乗る男を知ってる、ってことだな?」
後ろへ退《さ》がった音緒は、駐車してある車にお尻をぶつけた。
「その男は、片方の目がないんだ。そうだな?」
横へ逃げた。脚が震えて、走れない。
男が、ゆっくりと近づいてくる。
杏子はただ黙って笑みを浮かべ、それを見ている。
「俺も知ってるぜ、そいつを、よ」
男が笑った。
にたり、と歪んだ唇が、耳元まで裂けたように見えた。
「そうか、奴の知り合いだったのか、あんた」
「来ないで」
駄目だ。
限界だ。立ってられない。膝が、抜ける。
座り込んでしまう瞬間、男の手が延びて、音緒の腕を掴んだ。
「ま、話は後だ。とにかく一緒に来な」
知っている顔が、知らない表情で、間近にあった。
「杏子が、お前に来て欲しがってるんだ」
「ところが」
割り込んできたのは、同じ男だった。
「俺としちゃあ、連れてって欲しかねぇんだよな」
携帯電話にかけて、部屋の窓を開けさせるつもりだった。サイバネティクスの腕なら、正確に投げ入れることが出来そうだったからだ。
出掛ける時、ダリアに念を押されたのだ。もし渡さずに帰ったと知れたら、辛辣《しんらつ》な皮肉の一言も言われるに違いない。
だから、車をUターンさせて戻ってきた。
車を降りて駐車場に入った時、声が聞こえた。
音緒だ。
嘘だ、というその声は、半ば悲鳴に近い。
ナニゴトか、と駆けつけてみれば、オオゴトだったというわけだ。
「俺としちゃあ、連れてって欲しかねえんだよな」
「丈!」
男に腕を掴まれた音緒は、腰が抜けてしまったのか、膝をついている。助けを求めるその目に、丈は軽く手を挙げて応えた。
大丈夫だ。
じっとしてろ。
振り返った男は、よお、と言った。
「また逢ったな」
「おう。約束どおりだな」
「この子と知り合いだったのか」
「ああ。俺の相棒だ」
「ふん」
鼻で笑う癖も、まさに丈のコピーそのものだ。
マンション入口の前に、一人の少女が立っている。
歳の頃は音緒と同じだろうか。もっとも、いかにも活発そうな音緒と違って、清楚《せいそ》とでも言うべき雰囲気がある。長い黒髪のせいだろうか。
「おめえこそ、あの子は何だよ」
出来るだけ皮肉に聞こえるように言いながら、しかし、何かが引っ掛かっていた。
どこかで見たような気がするのだ。
「彼女か?」
もう一人の『黒川丈』は、音緒の腕を掴んだまま放さない。
「俺の恋人さ」
鼻で笑うのは、
「ふん」
今度は丈の番だ。
「じゃあ、俺のオンナは返してくれや」
「そりゃ困る。この子を欲しがってるのは俺じゃない、俺の恋人の方なんでね」
「そうか」
丈は右腕を伸ばした。
まっすぐ、もう一人の『黒川丈』に向かって。
「じゃあ実力行使だ!」
銃が飛び出す。『黒川丈』が、音緒を自分の躯の前に引きずり上げる。
楯《たて》だ。
だが丈の狙いは『黒川丈』ではなかった。銃口はわずかに逸れ、轟音《ごうおん》とともに発射された電子ブレットは長い髪の少女をかすめた。少女の背後の壁が、青白い電光を走らせて砕けた。
少女の短い悲鳴に、『黒川丈』の視線が動く。丈の狙いは、この瞬間だった。『黒川丈』の体格は、つまり丈と変わらない。丈の胸までしかない音緒の躯では、楯にしたところで全身を隠すことは不可能なのだ。
二発目の電子ブレットは、少女に気をとられた『黒川丈』の、首筋に命中した。着弾の衝撃で弾《はじ》けた肉片は弾頭が放出するマイクロ波に焼かれ、瞬時に炭化して飛び散った。
「ぐ!」
引鉄を引くと同時に駆け出した丈は、『黒川丈』が視線を戻すより早く、助走と跳躍を終えている。
「ぅううらあ!」
渾身《こんしん》の足刀蹴りを、音緒の躯からはみ出た頭部に叩き込む。同時に、サイボーグにだけ可能な身のこなしで、音緒を掴んだ腕に左の手刀を打ち込んだ。さらに着地と同時に音緒の腰を抱き、地面を蹴る。
転がった『黒川丈』が身を起こした時、丈は左腕で音緒を抱き、充分な間合いで敵に対峙《たいじ》していた。
しかも、銃口は標的を照準している。
「さあ、どうする!」
まずい状況なのはお互いさまなのだが。
「人が来るぜ! ずらかった方がいいんじゃねえのか?」
首筋を押さえて立ち上がった『黒川丈』は、
「そうらしいな」
しかし笑みを浮かべていた。
そして、
「また逢おう」
少女を抱き上げ、跳躍した。その姿は暗視機能を備えた丈の右目にさえ、ほんの数秒で見えなくなった。
「自分で立てるか?」
震える音緒は、ただ首を横に振るだけだ。
「仕方ない。とりあえず、避難するぜ」
頷く。
音緒を抱いて、丈は車に戻った。
背もたれをフラットにした助手席のシートに寝かせてもらうと、少しは落ちついた。
車は、自宅から少し離れた公園の脇に停められている。パトカーのサイレンが近づいて来たので、移動したのだ。銃声に驚いた住民が通報したに違いない。
悪いな、と丈が言う。
「やっぱ入口まででも送るべきだった。銃声にも作動しない防犯装置なんぞ、糞の役にも立ちゃしねえ」
優しい人なんだ、と思う。
「大丈夫か?」
「うん。怖かっただけ」
言葉づかいは汚いし、態度も粗野で、やることも乱暴だ。でもそれが自分自身に対するポーズであったり不器用さの表れであったり、あるいは直線的なまでの正直さゆえのことであると見抜けないようじゃ、オンナやってる資格はない。
でも、と音緒は思う。
それを言うなら、さっきの男も同じだ。
あの男。『黒川丈』と名乗った男。
もう一人の『黒川丈』。
あいつだって、そうだ。丈の音緒に対する態度は、そのまま『黒川丈』の杏子に対する態度と同じだ。
「ねえ」
仰向《あおむ》けのまま、顔を隠すように、片方の腕を両目の上に載せる。
「おう」
応える声は、ずいぶんと近い。覗き込むように、身を乗り出しているらしい。泣いてなんかないってば。
「なんだ?」
「あれ、誰」
「あれか?」
ほんの少しの空白。それは、躊躇なのか。
「あれは、俺だ」
「それは判るよ。キス出来るくらい近くで見たから」
「そうか」
そうよ。
だから、
「ちゃんと答えてよ。あんた、信頼を失いかけてンのよ」
大きな問題が、三つ。
一つは、あれは誰なのか、ということ。
一つは、なぜ丈は奴の存在を黙っていたのか、ということ。
そして最後の一つは………………。
「最初に、言い訳させてくれ」
「どうぞ」
「俺はお前さんのことが好きだ、失いたくないと思ってる」
「どさくさ紛れに、なにコクってんのよ」
「違う。相棒のことだ。前に、相棒が殺されたっつったよな」
「うん」
「あれはな、俺のミスだ。俺が余計なことを喋っちまったせいで、彼女は消されちまったんだ」
彼女?
「彼女って言った?」
「ああ」
「女の人だったんだ、相棒」
「ああ。美咲ってんだ」
安次嶺《あしみね》美咲。それが丈の言う「相棒」の名前だ。
美咲は、丈が口にした言葉をヒントに、委員会の陰謀を見抜いてしまった。だが丈の右目は、本人さえ知らないままに、カメラとマイクを内蔵した義眼と取り替えられていたのだ。
安次嶺美咲は、アザエル計画の首謀者である村瀬によって抹殺された。
そういうことか。
「それで、やっと判ったよ」
「ああ?」
「あんたの右目。なんでアイパッチなのか。なんで傷をそのままにしてあるのか。なんで専門医に相談しないでカメラ突っ込んだりしたのか」
丈は応えない。
だから、言ってやった。
「そんなことしたって、誰も可哀相だなんて思っちゃくれないよ」
応えは、ない。
「言い訳は、そんだけ?」
「ああ」
「じゃ話してよ。あいつ、誰?」
「ゾーンだ」
思わず、腕を離して目を開けた。思ったとおり、丈はこちらを覗き込む恰好だ。
「あれが?」
でも、音緒の顔を見てはいない。だから視線は合わなかった。
「ああ、ゾーンだ。金色の腕時計、してたろ」
「うん。してた」
その腕に捕まえられたのは、ついさっきのことなのだ。
「あれは、俺のだ」
「どういう意味?」
「あいつの腕は、俺の腕だ。あいつの脚は、俺の脚だ。そういうことだ」
「ちょっと待ってよ」
思わず、身を起こした。
「あんた、ゾーンに襲われて生還した唯一の人間だ、って言ってたよね!」
「ああ、言った」
「じゃ、その時に」
「ああ。俺もアザエルに感染したんだ」
丈が全身を機械に換装したフル・サイボーグになったのは、高い戦闘能力を得るためだけではなかったのだ。首から下の肉体を、全て失ってしまったからなのだ。彼の肉体は、進行するゾーン化から脳を護るために切断されたのである。
「俺の手足は、完全にゾーン化してた。研究所の連中、ご丁寧にも見せてくれたよ」
「でも、研究所のゾーンは全部始末したって言ってたじゃん」
「ああ、始末はした。だが奴は」
生き延びたのだ。
丈が倒したゾーンに強制的に融合し、その体組織を奪って、自己の肉体を再構築して立ち上がったのだ。
「だから、あれは俺だ。『黒川丈』だ。アザエルが俺の遺伝子から再生した、いわばゾーン細胞によるクローンだ」
気づかないうちに、息を詰めてしまっていた。胸に溜まった空気を吐き出して、音緒はシートに仰向けになった。
そういうことか。
丈……あんた、
「怖かったんだ」
「ああ、怖かった」
「言わなかったんじゃなくて、言えなかったんだ」
「ああ、言えなかった」
そんなとこね。
男って本当、見え透いてる。可愛《かわい》くなっちゃうくらいに。
「丈。あんた莫迦だ」
「そうか」
きちんと座りなおす。それから躯をひねって、丈と向き合う。
「ずっと黙ってたら、あたしは安全だって思った?」
応えは、ない。
「どうせ、ダリアも知らないんでしょ」
応えは、ない。
「でも奴は、あたしンとこに来ちゃったよ」
応えは、ない。
「あのさあ、あんた一人で抱え込んでたら、あたし、ぜんぜんチームじゃないじゃん。ダリアだって、そうだよ。可哀相じゃん」
「ダリアは機械だ」
「ほら、やっぱり言うか。だから、あんた莫迦だって言うの」
両手で、ぺたん、と相手の頬を挟み込んだ。掌に不精髭がチクチクして、丈は驚いた顔になったけれど、ようやく視線を合わせてきた。
「あんた、誰も信じてないじゃん。自分のことだって信じてない。美咲さんのことで自信喪失しちゃうのは判ンなくもないけど、でも、それとこれとは別だよ。自分さえ信じられない人に、他人を護ることなんて出来ると思うかい? あたしは出来ないと思うね」
応えは、ない。
「どうせ、あんた美咲さんにも、似たようなこと言われたでしょ」
「ああ」
「でしょうね。ずばり言っちゃうけどさ、あんたみたいなタイプって、外に向かってだけじゃなくて自分に向かってまでポーズとっちゃってるんだよ。だから自分のことさえ信じらンなくて、一人で抱えてオロオロしちゃうんだ。最ッ低だよ、そういうの」
「最低か」
「うん、最低」
「そうか……」
「納得したところで」
不精髭から手を放して、シートを起こす。
「行こう」
「あ?」
「あんたンとこ。あたし、今夜は泊まってくから。親には後で電話するし」
「おい、そりゃまずいだろ」
「だって、あたし、あんたが奴を何とかしてくれるまで帰れないんだよ。家族を巻き込むわけには、いかないもん」
「それは大丈夫だ。見たろ? 連中は人目につきたくないんだ、セキュリティは突破出来ないさ。学校には俺かダリアが送り迎えすりゃ済むことだし……」
「突破する必要なんてないんだよ、普通に入れるんだもん」
「まさか」
「判ンなかった?」
音緒も、さっきまでは判らなかった。
けれど、今なら判る。
「あの女の子」
あれは、
「杏子だよ」
「なに?」
丈の表情は、驚いた、と言うよりも、やっと思い出した、という感じだった。
「そうか、どこかで見たことがあると思ったぜ」
「そうだよ。あの子、何度も遊びに来てるから、オート・ロックの暗証番号だって知ってるの。だから……」
そこまで自分で言ってしまってから、音緒はそのことの意味に気がついた。
杏子が遊びに来る時、彼女はいつも玄関のチャイムを鳴らす。オート・ロックのモニターではなく、いきなり音緒の家の……結城家の玄関チャイムを鳴らすのだ。
玄関チャイムを!!
「やだ……!」
音緒は鞄を引っ掴んで、中を探った。携帯電話はすぐに見つかったが、自宅の電話番号を何番に登録したのかが思い出せなかった。
「ああ、もう!」
ドアを開けて飛び出した。
走る。
家族のもとへ。
「おい、どうした!」
後ろから追いかけてくる丈の声。
振り返らずに応えた。
「家よ! あたしの家!」
入れなくて外にいたんじゃない。
あたしを出迎えてただけなんだ!!
「なにぃ?」
「あいつら、あたしの家に来たんだ!」
背後から一気に追いついた丈の腕が、音緒の腰に回った。
ふわり、と抱き上げられた。叩きつける風圧で、息が出来なくなった。車で数分かかった道のりが、わずかに数十秒だった。
「非常階段は!」
「あっち」
指さすと同時に、加速度でまた息が詰まった。
黒川丈はサイボーグなのだ。
非常階段のドアを蹴破り、音緒を抱いたまま階段を跳び上がってゆく。駆け上がるのではなく、踊り場から踊り場へと一足で跳躍してゆくのだ。
音緒は目を閉じ、右へ、左へと振り回される不快感に耐えた。ドアを蹴破ったせいだろうか、警報装置のブザーが、断続的に鳴り響いている。
再びドアを蹴破る、がん、という音。
気がつくと、音緒は自宅前の廊下に立たされていた。
ドアのノブを掴む。
ロックが開いている。
「お母さん!」
ドアを開くと、異臭が鼻をついた。
「ただいま!! お父さん! お母さん!」
中に入ろうとして、丈に肩を引き戻された。
「なに!?」
「行くな」
「だから、なに!?」
「手遅れだ」
認めたくなかった。
でも、本当だ。
ドアを開けた時から、もう判っていたのだ。
この臭い。
凄く生臭い。
「音緒」
応えられない。
声が出ない。
喉《のど》の奥で、吐きそうで吐けない汚物みたいに、言葉が塊になっている。
丈が土足のまま廊下に上がり、音緒の部屋のドアを開けて、覗き込む。横断歩道を渡る小学生みたいに左右を見てから、
「よし。どうしても持って行きたいものだけ、取ってこい」
なぜ?
どういう意味?
「靴は脱ぐな。そのまま行け」
でも、言われたとおりにした。
部屋に入ると、丈のブーツが廊下を歩く音が、ごとん、ごとん、と通りすぎた。
そうなんだ。
そういうことなんだ。
どうしても持って行きたいもの。
入口に立って、ぼんやりと部屋を眺めた。
いつもの部屋。
あたしの部屋。
お父さんとお母さんがあたしにくれたあたしの部屋。
ここで寝て、ここで起きて、ここで勉強して、ここで悩んで、ここで喜んで。
ダイニングの方で、何かが倒れる音がした。
獣の鳴き声みたいなものが聞こえた。
ほら。
やっぱり。
どうしても持って行きたいもの。
ないや。
そんなもの。
本当に持って行きたいものは、持って行けないから。
廊下に出ると、奥から丈が戻って来るところだった。右手に、身長の半分くらいありそうな長い剣を下げていた。銀色の刀身に青白い電光が走って、こびりついていた何か黒い塊が廊下に落ちた。
「いいのか?」
頷いた。
丈は、そうか、とだけ言うと、ベルトのポーチから金属製の玉を出して、音緒の部屋に投げ込んだ。
他のポーチも、空っぽだった。
「行くぞ」
玄関を出る。
ドアを閉める。丈がきちんと操作してから閉めたので、がちゃん、と内部でロックのかかる音がした。
非常階段に出た時、遠くで、ぼん、という、くぐもった破裂音が聞こえた。
「さよなら」
小さな声で、口に出して言った途端に、涙が出た。
6
泣きわめく女も苦手だが、静かに泣く女はもっと苦手だ。何と言葉をかけていいのか見当もつかないからだ。
キッチンのカウンターに肘をついて、丈はグラスを弄《もてあそ》んだ。
アルコールを飲む習慣は、ない。よほど気が滅入《めい》った時に、ブランデーを二杯ほど引っかけるくらいだ。
音緒のことは、ダリアに任せた。今、音緒と一緒に美咲の部屋だ。手短に経緯《けいい》を伝えただけだが、彼女ならうまくやってくれるだろう。
少なくとも、と丈は思う。
俺よりは。
そのまま泣き疲れて眠ってくれれば、とさえ思った。一晩眠れば何とかなる、それは経験的に知っていた。愛する者を突然に失って、その理不尽を呪《のろ》い、永遠の闇に閉ざされたような絶望が背中を押さえつけていても、それでも朝はくる。
そして目が覚めれば、また日々の繰り返しだ。やがてある日突然、あれほど大きかった絶望を完璧に忘れている自分に気づく瞬間がくる。その後は、罪悪感と安堵《あんど》を同時に胸に抱えて、そうやって人間は生きてゆくのだ。
それも一つの理不尽には違いないが。
問題は、どうやって眠るか。
それだけだ。
だが、丈が抱いている罪悪感は、また別のものだ。
それが可能性の問題でしかないにしても。
ダリアがすぐ側に立っていることに、気づかなかった。
速度は大幅に犠牲になるが、彼女は完璧に気配を殺して行動することが出来る。この時も、そうだった。
「眠ったわ」
それが、彼女の気配を感じなかった理由だ。声のトーンも、いつもより微妙に低い。ほんの少し距離をとれば、話し声には聞こえないだろう。
「現場の詳細は?」
丈も、声をひそめる。現場とは、音緒の自宅のことだ。ダリアに音緒を任せる前に、被害状況をオン・ラインで確認させたのである。ダリアはその時、問題なし、と答えただけだった。
「現場は全焼。隣室および上下の階には、類焼その他の被害なし」
防火壁は完璧だったようだ。
「ゾーンの残骸《ざんがい》は?」
「もう一度オン・ラインしないと確認出来ないけど、状況から判断して、スプリンクラーと消火活動とで流れてしまっているはずよ」
「そうか」
「ネオの報告も必要?」
聞きたくなかった。
だが、それは義務だ。
「ああ」
「安定剤を二錠、飲ませたわ。精神的外傷は残るでしょうけど、さしあたって錯乱や鬱《うつ》状態に陥る心配はないわね。ただし『才能』の件があるから、同年代の普通の子供とは異なった精神構造をしている可能性が高いわ。長期の観察が必要になると思うけど、記録した方がいい?」
「ああ、頼む」
「了解」
「何か言ってたか?」
「いいえ」
「そうか」
やりきれん。
「ちょっと意見が聞きたいんだがな」
「どうぞ」
「まあ座れや」
無論、何時間立ちつづけたとしても、アンドロイドは文句を言わない。自動車が、駐車しっ放しでも文句を言わないのと同じだ。だが丈は、カウンターの向かい側の席にダリアを座らせた。
グラスを口に運ぶ。
「俺のせいだと思うか」
アルコールが喉を焼いたが、胸に広がる熱はなかった。
「ネオのご両親のこと?」
「ああ」
丈はダリアに話した。
関根杏子のことを。
そして、もう一人の『黒川丈』のことを。
「あなたのクローンが存在するの?」
「ああ」
説明した。
なるほど、とダリアは言った。
「02以降の姿がなかったのは、そういうことなのね?」
それは、ゾーン化した丈の手足に付けられた識別コードだ。右腕がゾーン02、左腕がゾーン03、右足が04、そして左足が05。あの日、研究所の冷凍保管室で行動不能に陥ったゾーンを焼却しに向かったダリアは、ゾーン化した丈の四肢が姿を消していることに気づいていたのだ。
「ああ」
「質問は、彼女が今回の出来事を予知しなかったのは、あなたがクローンの存在を彼女に黙っていたからではないか、ということ?」
「ああ」
グラスを口に運ぶ。
「可能性としては五分五分ね」
「説明しろ」
「ネオの能力は、情報さえ揃えば必ず予知出来る、という性質のものじゃないわ。もしそうなら、彼女は常に何らかの未来を予知し続けることになる。でも実際には、予知する頻度にも予知内容の重要性にも、一切の基準がない」
「そうか?」
「伏せたカードを的中させる一方で、関根杏子との再会は予知してないでしょう?」
「アザエルがクローンを作ることは、音緒は知らなかった」
どちらの杏子がクローンだったのか、という問題は別にして。
「でもアザエルが遺伝情報の複製を行うという情報はあったんだから、彼女の超演繹能力なら予測可能範囲よ。ゲノム理論は、高校で習うもの」
確かに丈も高校時代、苦労した記憶がある。
だが、
「あいつ、ジャンクすら知らなかったぞ」
「本人が覚えていようがいまいが、関係ないの。表層的な記憶になくても、例えば教科書でクローン技術の項目を一度でも目にしたことがあれば、あの子の『才能』は、それを情報として蓄積するわ。現に、五二枚のカードの配列を一瞬で記憶したのよ」
「あいつの両親を殺したのが、関根杏子ではなく俺のクローンだったら?」
「それは別の問題よ。今、問題にしてるのは、あなたが黙したという事実が彼女の予知に影響を与えたかどうか、ということだわ」
「だから、五分五分か」
「そう。あなたが全てを話していたとしても、彼女が予知出来たとは限らない。これが回答よ」
「予知しなかったとも限らない」
「そういうことね」
つまり、自分に罪があったかどうかさえ判らない、ということだ。
「判った。ありがとう」
丈がそう言った時、廊下の奥でドアが開いた。
音緒だった。ダリアが着替えさせたのか、美咲のパジャマを着ている。
裸足《はだし》で、ぺた、ぺた、と歩いてくる。
「見ちゃった」
その声は、足取りと同じように、ふらふらと頼り無い。
ダリアの方が、先に動いた。
駆け寄り、少女を支える。
「どうしたの?」
「見ちゃった」
呆然《ぼうぜん》と、視線は宙を彷徨《さまよ》うばかりだ。丈が近づくと、その瞳が定まった。
真っ直ぐに、丈を見つめていた。
なんてこった。
そこにあるのは肉親を失った絶望でも悲哀でもなかった。
恐怖だ。
「助けて」
少女は言った。
「あたし死ぬ」
抑揚のない声で。
「死なせるもんか」
すぐ目の前に、丈の顔があった。アイパッチと、傷痕《きずあと》と、不精髭の丈の顔が。
丈のこんな顔を見るのは、初めてだった。
焦り。
怒り。
決意。
「死なせやしねえ。絶対にだ」
でも、音緒はかぶりを振った。
無理だ。
だって、実感がある。それとも、手応えと言うべきか。
見たことが本当になる、という確信があった。
突然、丈に抱き上げられた。
そのまま、もとの部屋まで運ばれた。
今度は、前の時より少しは優しく横たえられた。
丈はベッドの端に座り、腰をひねって、ベッドに手をついて上から覗き込んでくる。
「言ってみろや。何を見た?」
笑みだ。
不精髭の。
「あたしが死ぬとこ」
「それは聞いた。詳しく喋るのは、怖いか?」
怖い。
でも、
「場所は判らないけど」
一人で抱え込むのは、もっと怖い。
「杏子と、それから、もう一人の丈がいた」
杏子も『黒川丈』も、笑っていた。心底嬉しそうな笑みだった。
特に杏子の方は、今にも泣きださんばかりの、歓喜の笑みだ。
二人が近づいて来ても、音緒は逃げられなかった。
衝撃を感じた。
「お腹に、大きな穴が開いてた。そこから中身がはみ出て」
ばたばたと音をたてて地面に落ちた。
そこで、目が覚めた。
「あたし、死ぬんだ」
「みんな死ぬさ。俺も死ぬ。死ぬ時と、死ぬ場所と、死に方が違うだけだ」
「でも、あたしは、もうすぐだ」
「それは、ないな」
「なくないよ」
恐ろしいくらいに生々しかったのだ。これまで見たのとは、ぜんぜん違っていた。
でも丈は、首を振った。目を閉じて、唇は笑みの形のままで。
「ないさ。絶対に、ない」
「なんでさ」
「俺はジョーカーだ。お前がそれを見た時、俺は何も知らなかった。俺が知らないままだったら、きっとお前は死んでた。でも今、お前は見たものを俺に喋ったから、俺は今、知ってる。だから俺はお前を護る。だからお前は死なない」
なに、それ。
「よく判ンない。説明、下手過ぎ」
「そうか」
丈は本気で笑ってるみたいに見えた。犬歯まで覗かせて、油断したら頭から齧られそうな笑みだった。
「判らねえなら、せめて、信じろや」
「信じるの?」
「ああ。俺を信じろ。俺が護る」
「信じたら助けてくれる?」
「信じなくても助けてやる」
「判った」
音緒は手を伸ばして、丈の、ベッドについていない方の手を握った。
「信じる」
ごつい、分厚い手が握り返してくれる。
それが機械だなんて思えないくらい、温かい手が。
ごりごりに固まっていた気持ちが、信じられないくらいの速度で解けてゆく。強張《こわば》っていた背中が緩んで、頭が枕に沈み込んでゆく。
いつの間にか目を閉じてしまったことにさえ、音緒は気づかなかった。
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第四章 プロフェシー
1
突き詰めて言えば、丈のやっている事も、音緒の『才能』と変わらないのだ。情報を収集し、取捨選択した上で整理し、考え、結論を出す。ただ音緒は、それを本能的に、瞬間的にやってしまえるだけだ。
たったそれだけの相違なのだ。
もっとも、かなり決定的な相違ではあるが。
だが逆に、丈の方にも長所がある。それは、音緒の『才能』と違って収集する情報を意図的に選択出来る、という点だ。
つまり今朝、丈がダリアに指示したのは、そういうことだ。
いつもなら、まだ眠っている時刻である。
夢と覚醒《かくせい》との狭間《はざま》で、丈は突然、思いついてしまった。思いついてしまったら、それを確認せずにはいられなかったのだ。
ベッドを抜け出し、隣の部屋の音緒を起こしてしまわないように足音を忍ばせて、丈はダリアのハンガーを開けた。
「何か?」
「情報収集だ。関根杏子の自宅近辺で、他の地域とは異なるデータを拾え」
「指示が曖昧《あいまい》過ぎます」
「曖昧でいいんだよ。どんなことでもいい。トイレット・ペーパーの消費量が他よりも多いとか、その周辺だけゴキブリが少ないとか、子供の数が多いとか、集中的に視聴率の高いチャンネルがあるとか、何でもだ」
「調査対象が広範なので時間がかかりますが」
「かまわん。すぐやれ」
「了解」
確かに、時間がかかった。
たっぷり、一分だ。
「ありました」
ダリアの報告を聞いて、
「やっぱりか!」
思わず、大声をあげてしまった。
音緒は起きて来なかった。
「よし、出ばってみる。起動条件変更、音緒が俺を呼んだら覚醒。戻るまで面倒見てやってくれ」
「了解」
そして今、丈は関根杏子の自宅に向かって、赤いマシンを飛ばしている。
音緒は、杏子には『才能』がほとんど通用しなかった、と言った。たまに、ちらっと判《わか》るだけで、ほとんど見えない、と。その理由を突然、思いついたのだ。
まさか、とは思う。
だが、絶対にあり得ない話でもない。
しかもその仮説は、ダリアの調査によって補強されてしまった。
後は、この目で確かめるしかない。
だが、もしも仮説が正しいとしたら、ゾーンは丈の考えていた以上の速度で進化していることになる。そしてゾーンが、絶滅どころか、さらに勢力を拡大していることの証明でもあるのだ。
それは本能による捕食行動などではない。
れっきとした侵略だ。
ステーション・デパートの前のロータリーで、住宅地方面へとハンドルを切る。ちょうど、音緒と初めて出会った辺りだ。一直線の道路の向こうに、大型マンションが十棟ほど見えている。
そのうちの一つが、関根杏子の自宅だ。
この周辺で、奇妙な事態が進行している。
ダリアによれば、マンション周辺の食料品店に納入される肉類の量が、全国平均を大きく上回っているというのである。
それも、加工食品ではない。
生肉が、だ。
ステーキ用、しゃぶしゃぶ用、すき焼き用、商品そのものは様々だが、共通して生の肉が異常な勢いで売れてゆくのだ。
周辺の飲食店では、もっと異様なデータが出た。こちらも食肉の仕入れが通常の倍以上にもなるのに、しかし売上そのものは平均並みで、特に肉料理が大量に消費されているわけではない。つまり、大量の食肉が調理もされずに消えているということだ。
それらの奇妙なデータに、ゾーンという存在を代入すれば、公式がはじき出す結論は一つしかない。
住宅地に入る。
音緒の自宅付近と似た風景だが、しかし、雰囲気がまるで違った。
人通りが、極端に少ないのだ。JRの駅から徒歩圏内であり、商店街やデパートも近いことを考えると、これは妙だ。
まるで閑散としている。
これは、と丈は思った。
「アタリかも知れんな」
関根杏子の住所は、音緒から聞いたものではなく、オン・ラインで音緒の通う高校の名簿から引っ張ってきたものだ。ダッシュ・ボードに設置されたナヴィが、地図の上に点滅する光点として表示しているのが、そこだ。
地図上で点滅する光点、それはゾアハンターにとって特別な意味を持つ。
おそらくは、今回も。
駐車場に滑り込んだ丈は、来客用スペースに、鼻面を出口に向けて停車した。
後部のトランクから『道具』の入ったスポーツ・バッグを取り出し、肩に下げる。手に下げたフル・フェイスのヘルメットに顔を寄せて、
「ダリア」
呼びかけると、内蔵した無線機がダリアの声で応《こた》えた。
「はい」
ヘルメットを装着していないので、やや声が遠い。
「着いた。セキュリティに侵入して開錠」
了解、という声は、しかしダリアが無線機を手に応答しているわけではない。無線装置に直結したダリアの脳の言語中枢から、直接に飛ばされてきたものだ。つまり丈の手にした無線機が、そのままダリアの発声器官となっているのである。
わずか二秒で、マンション正面入口のロックは解除された。
「そのままシステム侵入状態で待機」
「了解」
ダリアが調査対象を問わず、無制限に情報を引き出せる秘密が、ここにある。通称スレイヴ・プログラムと呼ばれる特殊プログラムが、あらゆる情報防壁を無効化するのだ。事実上、オン・ラインされているコンピュータは、彼女の命令に逆らうことは出来ないのである。
大きなガラス戸が、左右に開く。管理ロボットが丈に向かって、お帰りなさい、と言ったのは、ダリアの悪戯《いたずら》だろうか。
「空調管理施設は?」
「地下一階。侵入経路は現在地から西へ五メートル」
閉じられたドアがあった。
「開錠」
「了解」
地下へと続く薄暗い階段を見下ろしながら、丈は呟《つぶや》いた。
「趣味じゃねえンだけどなあ」
しかし手段を選べないのも事実だった。
もしも彼の思ったとおりならば。
とっくに目が覚めていた。
丈が、やっぱりか、と大きな声をあげる、ずっと前から。
最初は、自分がどこにいるのか判らなかった。それから、眠ってしまう寸前のことを思い出した。大きな手の感触がまだ残っていて、そして音緒は、全《すべ》てを一瞬で思い出してしまった。
ブラインドから差し込む光はまだ群青色だったが、もう一度|瞼《まぶた》を閉じることは、どうしても出来なかった。
思い出しても仕方のないことを思い出し、考えても仕方のないことを考えた。今、自分がここにいることは、どうしようもないことだ。もう過ぎてしまって、絶対に取り返しのつかないことだ。
歴史にもしも≠ヘない、と言ったのは、誰だったろうか。
もしもあの時、ああしていれば。もしもこの時、こうしていれば。過ぎてしまえば、どうとでも言えることだ。けれど、もしも、は絶対にあり得ない。
現に、なかったから、今の有り様があるのだ。
因果律は、絶対不変の法則だ。原因があって、結果がある。けれど人は、原因が生じた瞬間に結果を知ることは出来ない。結果を見てから、その原因を探り、あの時のあれが原因だったのか、と理解するのだ。音緒の『才能』にしたところで、大差ない。ただ他の人より敏感で、他の人より確実性が高いというだけのことなのだ。
だから、丈が悪いわけじゃない。
だから、あたしが悪いわけじゃない。
けれど、考えてしまうのだ。
もしも、と。
それが人間なのだ。その愚かさこそが、人間の証拠なのだ。
もう何時間、こうしているだろう。
ブラインドからの光は、ほとんど垂直になっている。
あたし、いつまで、こうしているんだろう。
携帯電話が鳴った。
呼び鈴を押すと、すぐにドアが開いた。出てきた女性は、丈の顔を見て、驚いた表情を隠さなかった。
髪をひっつめにした、三十代後半の女だ。エプロン姿だったが、そこには赤黒い血の染みが、べったりとこびりついている。
「あら、あなた」
やっぱりな、と丈は思う。
知ってやがる。
「ああ。ゾアハンターだ」
「まあ、本当にそっくりだわ」
つまり、もう一人の『黒川丈』に、だ。
丈の予感は、的中していたということだ。
どうぞ、と女は言った。
ヘルメット片手に、丈は土足のまま上がり込んだ。
通されたのは、キッチンだった。テーブルの上に、大きな生肉の塊が載っている。むっとする血の臭《にお》いが、ぶんぶんと回り続ける換気扇に抵抗して、たちこめていた。
「あなた、ゾアハンターが来たわ」
呼ばれて、おや、と奥の部屋から出てきたのは、ステテコ一丁の男だ。こっちは、でっぷりと太った中年男だった。
「いや、まさか、へえ」
こちらも、裸の腹が血にまみれている。
「まあ、どうぞお座りください」
勧められるままに、丈はキッチンのテーブルに着いた。その向かいに女、丈の左側に男が座る。まるで、よそ様の食事時にお邪魔したような恰好《かっこう》だ。
料理は、一抱えほどもありそうな肉塊だ。
「昼飯の分かい?」
丈が肉塊を顎《あご》で指す。血まみれの男は、声をあげて笑った。
「いえいえ、これで親子三人、三日分です。そんなに大喰《おおぐ》いじゃありませんよ」
なあ、と言われて、女も笑う。血まみれの手で、口許《くちもと》を隠して。
やれやれ、だ。
事態がここまで深刻だとは、夢にも思わなかったぜ。
親子三人。
そういうことだったのだ。
「娘はどこだ」
「出掛けてます。ここんとこ、ずっと留守ですよ」
「知ってるさ。捜索願いが出てるもんな」
あれね、と杏子の父親が笑う。
「学校から連絡がありましてね。娘の友達に、うっかり、もう出掛けた、なんて言っちゃったものですから、家内が。家出じゃないかって学校側が大騒ぎして、警察に報告しなきゃいけなくなっちゃったんですよ」
娘の友達とは、つまり音緒のことだ。
こいつらは、ハナっから娘を捜索する気などなかったわけだ。
人間じゃないからな。
まあいい。娘がいないならいないで、始末出来る分だけ始末していくだけだ。
「俺のニセモノと一緒か」
「おや、何でもご存知なわけだ。でも、あの人はニセモノじゃない」
「そうかい。じゃ何にもご存知ないわけだ」
皮肉は通じなかったようだ。男は、相変わらず愛想笑いを浮かべている。
「で? 今日は何の御用で?」
「決まってる。俺はハンターで、お前らは獲物だ」
「それはそれは。でも、無駄ですよ」
「そうかい?」
「ええ。私らを始末したところで、何も変わりません」
「マンション全部が、ゾーンだからか?」
瞬間、男の目が、きゅう、と細くなった。瞼を細めたのではない。瞳《ひとみ》そのものが、縦に狭まったのだ。
だが、すぐにもとに戻った。
腹に響く笑いとともに。
「よくご存知で。でも、全部じゃありません。まだ何軒か、仲間になっていないご家庭がありましてね。生活の時間帯が合わなくて、なかなかお邪魔出来ないもので」
「何軒か? 覚えてないわけか」
いいえ、と口を挟んだのは、女の方だ。
「あと残ってるのは二階の植木さんと、六階の倉田さんと佐竹さん、それから一二階の吉沢さんだけよ」
なるほど、母親の方は、本当に軽率なようだ。
「四世帯か」
「ええ」
それだけ聞くと、丈はヘルメットに向かって、
「ダリア、聞こえたか」
「はい」
「よし。始めろ」
「了解」
男が、椅子《いす》を蹴《け》って立ち上がった。
「貴様、何をした」
「だから言ったろう?」
にやり。
「狩りさ」
立ち上がる。
「お前らのことを、いささか甘く見てたらしい。ここまで完璧《かんぺき》に人間のフリをしてる連中がいるとは思わなかったぜ。いつからだい、え?」
「何がいけないの!」
女も立ち上がった。声を荒らげるその口許から、牙《きば》がはみ出ていた。
「私達に、どうしろって言うの! ひっそり暮らしてるじゃないの!!」
「なぁにが、ひっそりだ、この糞《くそ》ッタレが! これが、ひっそりか!」
丈はテーブルを蹴り倒した。飛びすさった夫婦の足元に、ごろり、と肉塊が転がる。
「ひっそり、が通用するのは最初のうちだけだ。店で買ってくる肉だけじゃ、すぐに足りなくなっちまう。人間に混じって働いても、資金が追っつかねえ。結局は、これだ」
ほとんど皮を剥《は》がれたその肉塊には、人間の腕が一本、くっついていた。
「こいつは何て肉だ? え? しゃぶしゃぶ用ホームレスか? ステーキ用サラリーマンか? どこで売ってたか訊《き》きてえな!」
「貴様……」
唸《うな》るような男の声は、ぎざば、と濁っている。口が耳元まで裂けたからだ。
「最初に感染したのは誰だ? 娘か? なあ関根さんよ、お気の毒だったとは思うがよ、だからって人間を喰って生き延びるってえのは、了見が違うぜ。しかもよお、他人にまで感染を広げようとしてるようじゃ、情状酌量の余地ナシだぜ」
「言いたいことは、それだけか、このガキ」
たっぷりと脂肪のついた腹が、縦に破れた。内側には、びっちりと刺《とげ》が生えていた。
「貴様に何が判る。機械の躯《からだ》になってまで、進化から逃げようとした貴様に」
「それの、どこが進化だ」
女の方は、ぎちぎちと横に広がってゆく。破れたエプロンの下から、節くれだった腕が二本、余分に伸び始めている。
やっぱり、と女が言った。
「ゴーストさんの言うとおりよ。こいつは、莫迦《ばか》なのよ」
ゴースト?
何だそりゃ。
だが、それを質問する暇はなかった。男が、次いで女が跳躍した。
「おっと」
丈は、廊下の入口まで跳んだだけだった。
二匹のゾーンは、蹴り倒されたテーブルを飛び越えたところで、床に落ちた。獣の唸りを発しながら、痙攣《けいれん》を始める。
「貴様……何をした!」
「まだ判らんか。じゃあヒントだ。換気扇が止まってるだろ? それと、さっきから俺の体内プラントが作動して、せっせと有毒物質を分解してる」
「まさ、か」
「そう。毒ガスだ。神経ガスってえ奴でね。今ごろマンション中の巣で、同じことが起きてるってわけさ。それだけじゃねえぞ」
突然、空調装置から熱風が吹き出した。足元の壁や天井の隅、そこごこに配置された空調ダクトから、一斉に。
丈は死刑を宣告した。
「お前ら、このまま蒸し焼きだ」
「莫迦な! 貴様、同じ人間も……」
「だぁから、さっき確認したのさ。ええと? 倉田さんに佐竹さんに?」
見下ろす丈の額に、汗が玉を結ぶ。室温が、みるみる上昇してゆく。
「そこンとこの部屋は、空調をブロックしてる。ゾーンの巣だけを狙《ねら》って、それ以外の部屋は、ちょっとばかり暑いだけさ。ガスも一ミリグラムだって漏らさねえから、余計な心配すんな」
応えは、もうなかった。
ただ、泡立つような不明瞭《ふめいりょう》な唸りが返ってくるだけだ。
丈は、手にしたヘルメットを被《かぶ》った。断熱材が熱波を遮断し、内蔵されたエア・コンに汗が退《ひ》いてゆく。
シールドに、外気温が表示された。既に摂氏四五度を超えている。
加えて、コンロが炎を吹き上げた。奥の部屋では、壁面の埋め込み式ストーブが点火した。床暖房も全開になっている。ダリアの命令によってリミッターを解除された全ての器具が、一斉に熱を放ち始めていた。窓の偏光ガラスまでが、黒く変色して太陽熱を吸収し始める。
いかにゾーンが環境適応に優れているとは言え、その組成が基本的にタンパク質であることに変わりはない。そしてタンパク質は、摂氏六〇度を超える高温下では生命活動を維持することが出来ないのである。熱せられた卵が白濁し固まってゆくように、細胞ひとつひとつが、じわじわと死んでゆく。それはゾーンであっても同じことだ。
床の上では二匹のゾーンが、目まぐるしく姿を変えはじめた。
いきなり突出した器官が次の瞬間には壊死《えし》して剥落《はくらく》し、また別の場所に別の器官を構成する。口から内臓が吐き出され、その表面が硬化しつつ触手を延ばし、しかし諦《あきら》めたかのように力尽きる。
これこそが、アザエルの本領だ。有毒ガスと高温、二つの不適合環境に対応しようとして、急激な進化を繰り返しているのだ。だがそれは同時に、蓄えたカロリーを急速に消耗することになる。二匹のゾーンの躯は変化を繰り返しながら、みるみる縮んでゆく。
二匹が、吠《ほ》えた。
悲鳴だった。
急速な消耗に耐えきれないのだ。だがゾーン細胞は、環境適応への変化を止めようとしない。自らの能力が、自らを自滅に導こうとしていた。細胞単位が生存しようともがくほど、個体の死は加速度を増して近づいてくるのだ。
玄関のドアを開ける時、丈は、膨張しきった部屋の空気に背中を押された。
悲鳴は、もう聞こえない。
「ダリア」
「はい」
「動体反応確認」
「了解。反応なし、二六パーセント。反応微弱、七四パーセント」
死んでるゾーンが二六パーセント、死にかけが七四パーセント。
この建物は、ゾーンの巣だった。
今は、ゾーンの巨大な棺桶《かんおけ》だ。
ヘルメットを脱いで、やっぱり、と丈は呟いた。
「趣味じゃねえなあ」
2
方向感覚が目茶苦茶だ。このマンションの、きちんとした位置を把握していなかったからだ。
最初に連れて来られた時は緊急地下道路を通ったし、しかも精神状態はマトモじゃなかった。ダリアに送ってもらったのも、陽《ひ》が暮れてからなので、周囲の景色はよく判らなかった。二度目の行き帰りで、ようやく少しだけ位置が把握出来た。考えてみれば、まともに周囲を見たのは、その一往復だけなのだ。今回、ここに連れて来られた時には、車に乗せられたことくらいしか覚えていなかった。
だから建物を出てみたものの、すぐに自分の位置を見失ってしまった。方向感覚には自信があったのに、これではまるで方向音痴の気分だ。
ゾアハンターの『基地』は、高層マンションの最上階だった。多分ワン・フロアの全部が、そうだったのだろう。
気づかれないように、こっそりと玄関を出ると、すぐエレベーター・ホールになっていた。エレベーターは一つしかなかったが、一階で降りると、そこにはエレベーターが四つも並んでいた。
玄関ホールは黒大理石の床で、まるでホテルみたいに広くて清潔だった。ホテルと違うのはカウンターがないことと、人影が全くなかったことだ。
いったい他には、どんな人が住んでるんだろう。
ガラス張りの人ロドアは、音もなく左右に開いた。大きな庇《ひさし》の下へ出た。ドア・ボーイがいないのが不思議なくらいだ。
引き込み道路を渡り、大きな生け垣を回り込んで、ようやく正面の大通りへ出た。敷地が広く、余裕を持った空間構成になっているので閉塞《へいそく》感はなかったが、しかしマンションの周囲も、やはり高層ビルが立ち並んでいた。
都心なのだ。
かなりの交通量なのに、徒歩で行き交う人影がない。基本的に、この周辺は生活圏ではないらしい。仕方なく道路沿いに歩いた。
早足で。
腕時計を見る。時間にはまだ余裕があるが、制限時間がないわけではないのだ。
携帯電話が鳴ったのである。
ベッドから出られないでいる時に。
相手は言った。
今日は休むの?
返事が出来なかった。相手はかまわず続けた。
駄目だよ来ないと、私あなたのために来たのに。
そして、待ってるからね、と。
鳥肌がたった。
あたしのこと、まだ諦めてないんだ。
行かなきゃ。
でも、丈は出掛けてしまっている。
どうしよう。
どうしよう。
丈と一緒でなきゃ、とても行けない。
そう思った瞬間、見えた。
丈の顔が。
苦痛に歪《ゆが》んだ、ゾアハンターの顔が。
片方の腕が、なかった。途中で千切れた腕を押さえて、苦痛に顔を歪めているのだ。
駄目だ、と思った。
一緒に行ったら、丈が死んでしまう。
あたしのせいで。
それは、嫌だ。
絶対に。
音緒はベッドを抜け出した。
一人で、学校に行くために。
丈の思いつきは、見事に的中した。
音緒の『才能』が関根杏子に働かなかった理由は、つまり、これだったのだ。
ゾーンだったからだ。
ゾーンの存在を知らなかった音緒にとって、杏子から得られる情報は、処理不可能なものだったのである。そして、もしそうなら、関根杏子は音緒と初めて出会った時点で既にゾーン化していたことになる。
一年ほども前から。
それほど長期間、ゾーンと人間が同居することなど可能だろうか。
無理に決まってる。
ゾーンと暮らせるのは、ゾーンだけだ。
丈の思いつきは、見事に的中した。
動体反応なし、の報告を受けてから、地下空調設備の仕掛けを回収する。神経ガスのタンクだ。
ダクトから吹き出した熱風は、丈が仕掛けたものではない。ダリアが空調設備の温度設定を操作したに過ぎないのだ。快適な生活を約束する空調施設に、室内を焦熱地獄に変えてしまうほどの出力があると知ったら、きっと住民運動が起きることだろう。
もっとも、通常の設定をはるかに超える高温で長時間稼働し続けた設備は、二度と使い物にはならないだろうが。
回収した『道具』を車に積んで、運転席に滑り込んだ丈は、溜《た》め息《いき》をついた。
後味の悪いやり方だ。
決して、ハンターのやり方ではない。
進化したゾーンが人間に混じって生活している可能性は、これまでにも考えてみなかったわけではないのだ。なのに、何の準備もしていなかった。その結果が、これだ。こんな方法でしか、対処出来なかったのだ。
それが正面きった闘いならば、こちらも自分の生命を賭《か》ける分、まだ気が楽だ。だが一方的な殺戮《さつりく》は、どうにも、
「趣味じゃねえなあ」
丈は車を発進させた。
バス停を探す。
どこかにあるはずだ。
それとも、駅でもいい。
ビルに挟まれた片側二車線の道路沿いを、音緒は交通標識に注意しながら歩いた。だが地名だけでは、よく判らない。せめてバスか電車に乗れれば、何とかなるのに。
今、どっちに向いて歩いてるんだろう。影の方向で、方角だけは判る。でも、その方角に何があるのかが判らない。ビルが邪魔で見通しも効かない。
まるで、ゴースト・タウンに迷い込んでしまったみたいだ。
いや、ゴースト・シティか。
通行人に訊こうにも、誰も歩いていないのである。音緒は、そびえ立つビルを恨めしい思いで眺めた。
中にはいっぱい、人がいるのに。
そして、
「あ、そうか」
気がついた。
中にはいっぱい、人がいるのだ。
ダッシュ・ボードの時計は、そろそろ正午が近いことを告げている。
腹が減った、と丈は思った。
帰ったら音緒を連れ出して、外で飯でも喰うか。
もっとも、彼女が外を出歩けるような精神状態ならば、だが。
「ダリア」
その呼びかけに、まるで待っていたかのように、アンドロイドの声が応える。
「はい」
「音緒はまだ寝てるか?」
「そのようね」
出掛ける時、音緒が俺の名を呼んだら起動しろ、と命じておいたのには理由がある。ダリアの起動条件を、音緒が起きたら、としておくと、彼女のプライバシーを侵すことになる。部屋を出てきたら、としておくと、トイレに行くだけでもダリアが覚醒することになってしまう。
結論として音緒が丈を捜す状況、つまり、とっくに目が覚めて服も着替えて部屋の主に用がある時に、と限定したのだ。
つまりダリアが今、そのようね、と応えたのは、まだ音緒がその状況にはなっていないということだ。
だが、もう昼前だ。
「様子を見てやってくれ。十五分くらいでそっちに着く」
「了解」
渋滞気味の高層ビルの間を、丈は『基地』に向かって走る。
ダリアの方から通信が入ったのは、三〇秒後だった。
「丈、異常事態発生」
「どうした」
「ネオがいないわ」
それが何の会社なのかは判らなかったが、ともかく受付嬢は親切だった。丁寧にバス停までの道のりを教えてくれた。言われたとおりに二分ほど歩くと、言われたとおりにバス停があった。バスを待っている人は、誰もいなかった。
乗り継ぎが一回あるが、目的地まで三〇分はかからないだろう。
バスが来て乗り込む時、見覚えのある赤い車が追い越して行くのが見えた。
運転席の丈は、音緒には気づかない様子だった。
ダリアはアンドロイドだ。
機械である。
無論、それなりの学習能力は備えているし、それによる『経験』をもとに事態に柔軟に対応する能力もある。今は亡き村瀬|友則《とものり》の言葉を借りるなら、現時点で最も優れた人工知能、と言える。
しかしそれは、人間と同じ、という意味ではない。いかに優れた機能を備えていようとも、機械は機械である。
だから、気がつかなかったのか、という丈の叱責《しっせき》は、意味のないものだ。
「休眠状態でしたので、視聴覚センサーは機能していませんでした」
ダリアがハンガーでオンライン状態にある時、活動しているのは脳だけだ。しかもそれは、あくまでネットの端末として、なのである。
美咲の部屋は、空だった。
ベッドの上には音緒の鞄《かばん》が置かれ、その上に書き置きがあった。
――ごめん。出掛けてきます。ちゃんと帰ってくるつもり。byねお
今回は、ハート・マークがなかった。
「糞ッたれ」
リビングのソファに座って、丈は頭を抱えた。
出掛けてきます、だと? どこへだ。遊びに出るわけがない。
自宅へ向かったのか。いや、違う。あの子は、それほど莫迦じゃない。
待て。待て、考えろ。
何かが、あったんだ。
必ず手掛かりがあるはずだ。
「ダリア」
はい、と応えるダリアは、丈の後ろに立っている。
彼女の、いつものポジションだ。
「音緒は、お前に黙って出掛けたんだな」
「判りません」
そりゃそうだ。ダリアに声をかけることは起動条件には入っていない。
「それ以前に、何か異常はあったか」
「どの時点まで遡《さかのぼ》りますか?」
「昨夜、ここへ来てからだ」
「ありません」
異常なし。
いや、まて、質問の仕方が悪いんだ。
「その間、音緒が外部と接触をもった形跡は?」
「あります」
それみろ!
ダリアは決して無能ではない。必要性の考えられる情報を先回りして収集しておくことくらいは、やってのける。問題は、それをどうやって引き出すか、なのだ。
「それは何だ」
「ネオの携帯電話が受信しています。時刻は午前十一時〇八分」
ちょうど丈が、空調設備の仕掛けを回収していた頃だ。
「相手は」
「それは不明ですが、発信は同じく携帯電話です。番号は……」
「番号なんぞ聞いても無駄だ。その携帯の所有者は」
「名義は関根杏子、住所は……」
「関根杏子?」
「そうです」
それだ。
あの少女だ!
もう一人の『黒川丈』と一緒にいた奴だ!
ついさっき処分したゾーンの、その娘だ!!
音緒は呼び出されたのだ。
だが、どこへ。
「どこへ、だ」
「音緒の行き先ですか?」
「ああ」
くそ。
またしても、と丈は思った。己をくびり殺したいような気分だった。
結局、まだ渡していないのだ。
あれを渡してさえいれば……。
「行き先は不明ですが」
ダリアの声は、平静そのものだ。
「現在地なら判ります」
何だって?
思わず、丈は立ち上がった。
「判るって?」
「はい。現在、ここから南南西に六キロの地点を南下中です」
「お前……じゃあ」
「ええ」
突然、ダリアが『機械』でなくなった。
「あなたが忘れているみたいなので、私が渡しておいたわ」
ああ。
美咲。
胸に手を当てると、ブラウスごしに硬い感触がある。
昨夜、ダリアがくれた物だ。
発作のような涙と震えが止まるまで、彼女は音緒を抱きしめてくれた。そしてようやく涙腺が涸《か》れる頃、ダリアは言った。
私は機械だから、あなたの気持ちは判らない。だから、こんなことしかしてあげられないけど。
そして音緒の頸《くび》に、かけてくれた。それは細い銀の鎖がついた、小さなペンダントだった。音緒の人指し指の爪《つめ》ほどの銀のペンダント・トップには、小さな小さな天使の姿が彫刻されていた。
音緒は神様を信じない。
だから天使に願いごとをしたことも、ない。
それでも今、バスのシートに揺られながら、音緒は思った。
もしも本当にいるのなら、お願い。
護《まも》って。
音緒を呼び出したのが関根杏子なら、そこには『奴』もいるはずだ。
もう一人の『黒川丈』。
黒川丈のクローン。
単に肉体的な複製であるだけではない。丈がアザエルに感染してから切断手術を受けるまでの間に、奴は丈の記憶をコピーしているのだ。そこには肉体的な記憶も含まれるはずで、つまり、丈と同等の格闘センスを持っていることになる。
しかも、奴はゾーンなのだ。
高度な知性を持ち、しかもゾーンやアザエルについての知識も持っている。事情も判らず感染し、躯ばかりか頭の中までケダモノに成り果てて本能のままに行動する連中とは、根本的にわけが違うのだ。
あるいは、と丈は思う。
ゾーンが群を分離しつつ移動を繰り返していたのは、奴の入れ知恵かも知れない。マンションの住民をゾーン化していったのも、おそらくは奴だ。
思い出した。
あの時、言ってやがったじゃねえか。
人はゾーンになる。ゾーンは人になる。それがアザエルの意志だ。
まったく、糞ッたれめ。
地下の格納庫に着くと、丈は迷わず銀色のバンに乗り込もうとした。
「待って」
制止するダリアは、赤い車のドアを開けようとしている。
「レッドでないと間に合わないわ」
「行き先が判ったのか?」
音緒に持たせたペンダントから発信される電波は、『基地』の端末を経由してダリアに転送されている。今、この瞬間にも、彼女は刻々と変化する音緒の現在位置をトレスし続けているのだ。そしてその進行方向から、音緒の目的地を計算していたのである。
「ええ、坂栄第一高等学校。確率は九八・九七三パーセント」
なるほど。相手を考えれば、もっともな意見だ。
だが、
「教師や生徒もいるんだろ?」
そんな状況下で、昼日中にゾーンが事を起こすようなことが、あり得るだろうか。
「でも、確率は最も高いわ」
「判った。そっちで行こう」
だがそれは、勇断でもあった。レッドと呼ばれる赤い車は、基本的に追跡用だ。車載武装は一切ない。しかも時間的な余裕がない以上、戦略を練ったり武器を積み込んでいる暇さえない。
武器は丈の両腕の武装ポッドと、ベルト・ポーチの装備、そしてダリアの携帯武装のみだ。
「シケてやがンなあ」
ドアを閉じながら。
「何か?」
「いや、いい。出せ」
「了解」
ダリアの試算では、それでも現場到着時刻は音緒に十五分は遅れるのだ。
乗り継いだのは、いつもと同じバス。
走るのは、いつもと同じ道。
着いたのは、いつもと同じ学校。
けれど、今日はどこか雰囲気が違っていた。
昼休みになる時刻だ。
でも、いつものあの賑《にぎ》やかさが、ない。
校庭にも、誰もいない。
見ると校門の両脇で、風紀ロボットが、ひん曲がって壊れていた。
静かだ。
休校日に図書室を利用するために来たことが、何度かある。あの時も静かだと思ったけれど、でも、今はそんな感じじゃない。
死んでいるのだ。
校舎が。
逃げたい、と音緒は思った。
逃げよう、と音緒は思った。
心配だったのは、『あいつら』が先生やクラス・メイト達に何かするんじゃないか、ということだった。
言われたとおりにしなければ皆がひどい目に遇《あ》う、そう思ったからだ。
自分のせいで。
丈の言っていたことが、今なら判る。リスクを承知で、それでも声をかけてしまうことって……声をかけるしかないことって、確かに、ある。
でも、この感じ。
この静けさ。
もう遅いんだ。
もう何かやった後なんだ。
逃げよう。
遅かった。
敷地に一歩、踏み込んだ途端、背後で鉄扉が音をたてて閉じた。
「やだ!」
叩《たた》いてみたが、無駄だった。こじ開けようとしたが、無駄だった。
閉じ込められた、と思った時、上着のポケットで携帯電話が鳴って、音緒は飛び上がった。
「もしもし、ねお?」
いつもの声。
「遅いよお」
杏子の声。
「待ってたんだからね」
音緒の知っている、杏子の声。
電話の主は、正面の校舎の窓から手を振っている。
いつもの教室の、いつもの窓から。
よく見ると、校舎中の窓の大半が割れていた。
「早く来てね、待ってるから」
切れた。
杏子も、窓の奥へ消えた。
音緒はブラウスの上から、天使を握りしめた。
お願い。
お願い。
あたしを護って。
もしも本当にいるなら。
ダリアの予想したとおりだった。音緒の現在地を示す光の点は、モニターの地図上で停止している。
そこがつまり、彼女が呼び出された場所なのだ。
坂栄第一高等学校。
二重の意味で、どんぴしゃ、だ。
緊急地下道路に制限速度はない。レッドは性能限界の速度で、オレンジ色の照明の中を駆け抜けた。時折リアの方から聞こえる、きゅ、きゅ、という音は、車体の振動や空気の流れに対応して、ウィングが角度を変える音だ。発生したダウン・フォースによって押しつけられたタイヤが、摩擦熱で少しずつ溶けながら路面を掴《つか》み、真紅の車体を前へと弾《はじ》き続ける。
「まだか」
「出口まで、後三八〇秒」
「急げ」
「了解」
丈は両手の指を開き、そして握った。
血だらけだった。
遊園地の安っぽいホラー・ハウスみたいに、べたべたと。でも、これは蛍光塗料ではない。本物の血だ。
壁には、こすりつけたみたいな血の手形があった。
床の血は、引きずったみたいに長く長く伸びていた。
エスカレーターが、次から次から新しい血痕《けっこん》をくっつけてステップを吐き出してくるので、音緒は踏まないように気をつけた。
二階も三階も同じだった。
きっと四階も同じだし五階も六階も同じだろう。
杏子は、いつもの席に座っていた。
この三ヶ月間、ずっと空いていた席に。
「おいでよ」
いつもの笑みで、杏子は隣の席の椅子を、ぽんぽんと叩く。他には誰もいない教室に、その音が反響して、音緒は思わず身を縮めた。楽しげな笑みを浮かべた杏子は、べったりと血で汚れているのだ。
ブレザーもブラウスもスカートもソックスも靴も、噴き出す血飛沫《ちしぶき》の中で踊ったみたいに赤黒く汚れていて、なのに親友は笑っているのだ。
「おいで」
前へ出る。
迎えるのは、杏子の笑みだ。
音緒が大好きだった、あの微笑《ほほえ》みだ。
足が滑って、引っ繰り返りそうになった。見ると、踏んづけたのは分厚い血糊《ちのり》だった。床だけではない。壁にも、天井にも、机にも、赤黒い血が飛び散っている。
「ほら、滑るから気をつけてね」
杏子は、くすくす笑ってる。
言われたとおり、自分の席に座った。机の上には、点々と血が飛んでいる。
椅子を真横に向けて、隣の杏子と向き合った。杏子も、音緒に向き合う。休み時間に、お喋《しゃべ》りする時のように。
ただ、音緒の頬《ほお》が強張《こわば》っていることだけが、以前と違っていた。
「逢《あ》いたかったよ」
杏子が言った。
「そう」
音緒には、そう応えるだけで精一杯だ。口の中が渇いて、舌が顎の内側に貼《は》りつきそうだった。
「ねおにだけは、ちゃんと話しておきたかったの」
「なに」
杏子の笑みは、本当に愛らしい。
「私の秘密」
予定の三八〇秒になる前に、ダリアが口を開いた。
「進路変更を進言」
「なに?」
「出口付近で渋滞が発生中、予定時刻での到着は不可能。迂回《うかい》の検討を進言します。約一六〇秒の遅延で到着可能なルートを確保しました」
三分弱のロスだと?
「渋滞に突っ込んだ場合は?」
「予測不能」
「迂回だ」
「了解」
この糞ッたれが!
「三年になる前の春休みだったから、もう一年ほどになるけど」
杏子は、本当に楽しそうに言った。
「丈に逢ったの。知ってるでしょ? ねおが買ってきてくれたじゃん、あれ、サムライ・ジョウ。実はさ、本人には、ずっと前に逢ってたの。音緒と友達になる前から」
友達と映画を観《み》に行った帰りだったという。帰りが遅くなった言い訳を考えながら夜の駅前を歩いていた杏子は、正面から歩いてくる人物を見て、息を詰まらせた。
黒川丈だ。
あの伝説のライダー、サムライ・ジョウその人だ!!
脚がすくんだ。まさか、と思った。だが、呆然《ぼうぜん》と立ち尽くす彼女の横を通りすぎる男性は、間違いない、黒川丈なのだ。
杏子は、彼の後を追った。
「思い切って、声、かけたの。すみません黒川丈さんですか、って」
振り返った男は、ああ、と答えた。
やっぱり!
私あなたのファンなんです!
杏子が彼の奇妙な服装に気づいたのは、その時だ。
彼は全裸の上に、白衣を纏《まと》っているだけだったのだ。
どうかしたんですか?
いや、ちょっとな。
少し恥ずかしそうな笑みで『黒川丈』はそう言った。
「きっと何かトラブルに巻き込まれたんだって、直感したの。だから」
うち、近所なんです。よかったら、着る物を何とかします。
「それがね、彼との出会いだったわけ」
娘がバトル・ホイールのファンであることを知っていた両親は、突然の来訪者に驚きつつも、歓待してくれた。母は彼のために服を用意し、父は自分が若いころに着ていたジャケットを譲った。それどころか、泊まってゆけ、とまで言った。
そういうことになった。
「そして、その夜よ」
杏子の瞳は、きらきらと光っていた。
「私、丈と同じになったの」
異様なくらいに。
緊急地下道路の出口は、多くの場合、幹線道路の脇に作られている。一般道との合流点には信号機が設置されており、緊急車両の合流に際しては、一般車両は一時的に通行を規制される仕組みだ。
レッドが飛び出したのは、山の斜面に沿った住宅地の外れだった。減速せず、そのまま一般道に進入する。
「あと何分だ」
「約二分半」
斜面の木々が、後方へ飛ぶように流れてゆく。その間から、下方に町が見えた。
坂栄第一高等学校も。
ようやく、音緒にも判った。
杏子に対して予知が働かなかった、その理由が。
簡単な話だ。
杏子は人間ではなかったのだ。三年生になって、この教室で初めて逢ったその時、すでに関根杏子は人間ではなくなっていたのだ。
「ゾーンだったんだ……」
「やだ、はしょらないでよ」
杏子は苦笑した。まるで、冗談のオチを先に言われでもしたみたいに。
「これから、イイとこなんだからさ」
深夜、杏子の部屋に丈がやってきた。パジャマに着替えた後だったので、少しどきどきしながらも、彼女は迎え入れた。
キミに頼みがある、と彼は言った。
俺を助けてくれ。
そして、太い腕で少女を抱きしめた。
キスされた。
裸でベッドに横たえられるまで、何が起きたのか判らなかった。
お前は俺のものだ、と『丈』は言った。
杏子は頷《うなず》いた。
次の瞬間、少女の乳房は『丈』に喰い千切られていた。
「それで私、丈と同じになったわ」
ゾーンに。
『丈』と同じ超人類に。
進化の行き詰まりにあえぐ人類を、さらなる進化に導く存在に。
乳房を喰われた痛みは、すぐに消えた。変わりに全身を熱が包んだ。
肉体が変貌《へんぼう》した。
急激な飢餓に襲われた。
彼女が我に返ったのは、両親に襲いかかり、自分がそうされたように、その肉を喰い千切っている最中だった。
快感だった。
悦楽だった。
その余韻と、自らの行為とに呆然となっている杏子に、『丈』は言った。
大丈夫だ。
ご両親も、すぐに生き返る。
お前さんと同じ、超人類となって。
それから杏子は、肉体の変質とともに再び動き始めた両親の横で、『丈』に抱かれた。想像もしなかったような喜悦を送り込まれ、少女は泣き喘《あえ》いだ。
「丈は私に言ったの。俺のパートナーになれ、って。私、すごく感動して、泣いちゃったわ」
『丈』は杏子に言った。
未来を生き延びるために、人間はゾーンへと進化しなければならない。
杏子は、その計画を手伝った。
少しずつ時間をかけて、何も知らない旧人類の人達を怯《おび》えさせないように、少しずつ少しずつ仲間を増やしていった。
「私、本当は、ねおも早く仲間になって欲しかった。でも丈が、駄目だって。学校の友達を仲間にするのは、もっと計画が進んでからだ、って。だから、我慢してたの」
つまり、そういうことだ。
計画は、そこまで進んだのだ。
ああ。
お願い。
本当にいるのなら。
ゾアハンターの使用する三つの車両には、全てにカー・ナヴィゲーション・システムが搭載されている。いずれも、目的地までの最短経路と、現時点での交通渋滞状況などの道路状況を表示するという、ごく一般的なものだ。無論、地図の縮尺は無段階で自在に変更出来るし平面図と3Dとの切替えも可能で、一切の入力は音声による。必要になればフロント・ウィンドへの投影も出来るが、これも上位機種になれば当然の機能だ。
だが、それだけでは役に立たない場合もある。
例えば今のような場合だ。
次の交差点に向かって来る車が、あるかないか。
あるとすれば何台なのか。車種は何なのか。それぞれ、どのくらいの速度で接近していて、どちらへ向かっているのか。それらの情報を瞬時に得られなければ、時には交通信号にすら従っていられないような緊急時に対応することは不可能だ。
そしてダリアは、それら全ての問題をクリアにする、優秀な『端末』だった。車載の無線装置を経由して、軍事衛星を含むあらゆる衛星から、放送局の交通管制センター、果ては草の根ネットによる交通情報まで、あらゆる情報を収集し、瞬時に処理しているのである。
信号は、全て無視した。
一方通行を逆走した。
信号のない交差点も、一気に走り抜けた。
「目標視認。到着まで二七秒」
「よし。到着と同時に付いて来い。作戦は、ない」
「了解」
「天井を開け」
「了解。到着まで二〇秒」
赤いサン・ルーフが、静かに展開した。
どうして来てしまったんだろう、と音緒は思った。
学校の皆が心配だったのは、事実だ。でも、自分が来たところで何も出来ないのも事実なのだ。それでも来たのは、それが自分の責任だと思ったからだ。
考えが甘かった、ということだ。
自分が行けば皆を無事に放免してくれるものと思い込んでいた。まさか、もう全てが終わった後だなんて、考えもしなかった。
どんなことをしても、もう責任を取ることは不可能なのだ。
杏子に腕を引っ張られて、音緒は抵抗も出来ずに歩いていた。時々、振り返る杏子は本当に嬉《うれ》しそうだ。
あんまり痛くしないから、と言った。
「皆みたいに逃げ回ったりしないで、じっとしてたら一瞬だからね」
その光景を思い浮かべて、音緒は背中に氷を突っ込まれたような気がした。
皆、逃げ回ったのだ。
それを追いかけ回したのだ。
そして一人ずつ捕まえて、喰い千切ったのだ。
血液中にアザエルが侵入すれば、その人間はゾーンになる。急速に肉体が変貌し、怪物になって、追われる側から追う側になる。
どんどん増えてゆく。
ゾーンとなって犠牲者を喰らった者もいるだろう。跡形もなく喰われてしまった者もいるだろう。喰われた残骸《ざんがい》がゾーンと化した者もいるだろう。
だが、どちらにせよ逃げられなかった。
誰も逃げられなかったのだ。
誰一人として。
杏子に連れて来られたのは、東校舎の一階だった。
様子が他とは違うことに、音緒は気づいていた。
血痕だ。
床や壁の血痕が、入口から教室までに見たものとも、教室から東校舎までの間に見たものとも、様子が違うのである。
まず、量が圧倒的に多い。
特に床のそれは、踏まないで歩くことが不可能なくらいだ。沸騰したみたいに泡立っているのは、血液中でアザエルが増殖しているからだろうか。
そして第二に、足跡。
何十人だか何百人だかの足跡が、床にぶち撒《ま》けられた血糊の上に、べたべたと模様のようについている。ここへ来るまでにも、足跡は、見た。だがその数が、はるかに多いのである。中には裸足《はだし》の足跡もあったし、人間の足の形ではないものも少なくない。
しかも他の場所で見た足跡のように、混乱状態の名残ではない。全ての足跡が、同じ方向に向かっている。
音緒を引っ張って歩く杏子が、向かっている方向だ。
振り返った杏子は、音緒の視線に気がついたようだ。
「凄《すご》いでしょ?」
にこやかに。
「丈の言うとおりだったわ。あれだけ準備しても、ちょっと大変だった」
目的地が、どこだか判った。
廊下の向こう側からも同じような足跡の列が来て、こちら側のものと合流している。
講堂だ。
全部の足跡が、講堂の中へと続いている。
集まってるんだ。
講堂に。
この足跡の分だけ!
脚がすくんだが、杏子は容赦しなかった。引きずられるように、音緒は歩き続けるしかなかった。
「ねおが最後だから」
杏子は言った。
「みんなでお祝いしてあげる」
3
原因が生じた瞬間、けれど人間はそれに気づかない。
結果が出てしまってから、その出来事を逆に辿《たど》って、そしてようやく気づくのだ。あの時の出来事が原因であったか、と。
では、この出来事の原因は何なのだろう、と音緒は思う。
どんな原因があれば、こんなことが起きるのだろう。
丈が、もう一人の『黒川丈』のことを知らせてくれなかったから?
違う。杏子はもう一年も前から……音緒と出会う前からゾーンだった。
じゃあ、丈が『黒川丈』を逃がしてしまったから?
違う。そもそもアザエルが存在しなければ『黒川丈』も存在しなかったはずだ。
それならアザエルの誕生まで遡れば、それが原因と言えるだろうか。
いや、まだだ。ウィルスによる人体改造なんてことを思いつく者がいなければ、アザエルは誕生しなかった。
その人物が、そんなことを考えついた理由は?
地球環境が、どんどん汚染されてゆくからだ。
なぜ汚染される?
自動車に乗るから。化学製品を使うから。食べ物を粗末にするから。分別しないでゴミを捨てる人がいるから。子供をちゃんと躾《しつ》けないから。産児制限のない国があるから。政治家が私腹を肥やすから。エネルギー問題を真剣に考えないから。みんなが自分のことだけ考えて自分勝手に生きているから。
じゃあ自動車に乗る理由は? 化学製品を使う理由は? 食べ物を粗末にする理由は? 分別しないでゴミを捨てる人がいる理由は? 子供をちゃんと躾けない理由は? 産児制限のない国がある理由は? 政治家が私腹を肥やす理由は? エネルギー問題を真剣に考えない理由は? みんなが自分のことだけ考えて自分勝手に生きている理由は?
きりがない。
どこまでいっても、きりがない。
誰のせいでもない。
誰のせいでもある。
ずっとずっと遡ってゆけば、結局、最後に行き着くところは、地上にイキモノが生まれた瞬間。メタンとアンモニアと水素と二酸化炭素から、この地球で最初のアミノ酸が生成された瞬間。そして、それさえも、地球という惑星がなければ起きない出来事。
宇宙が生まれた瞬間にまで遡っても、ビッグバンにさえ、何か理由がある。
つまり。
原因なんて、ない。
ただ結果があるだけ。
そして、と音緒は思った。
これも、そのうちの一つなんだ。
それは異様な光景だった。丈と出会い、ゾーンという怪物の存在を知ってからでさえ、こんな光景は想像さえしなかった。
講堂いっぱいに、異形が群れていた。
考え得る限りの様々な生物を、部品に分解して無作為に繋《つな》ぎ直したような、奇怪なイキモノの群だ。
百匹じゃきかない。
二百?
三百?
もっと?
そのどれもが、全く異なった姿をしている。
大半は何らかの衣服を、あるいは衣服の残骸を身に着けていた。
ジャージ。
スーツ。
下着だけのものもいる。
しかし、ほとんどは制服だ。そして身に着けているものが何であれ、それは裂け、千切れ、破れ、裸のものと同様に乾いた血で汚れている。
いつもと同じように登校してきた生徒や教師の、それは変わり果てた姿だった。
そいつらが、喰っている。
人間の残骸を。
逃げることも出来ず、怪物となることも出来なかった哀れな者達を。
まだゾーン化していないものもあったし、半ば変質を始めているものもある。だがゾーンの群は、おかまいなしに千切っては口に運び、かぶりつき、血だらけになって引き裂いているのだ。
「凄いでしょ?」
開け放った防音扉の前である。音緒と並んでその光景を見ながら、杏子は誇らしげに胸を反らす。
その時、音緒はとんでもないものを見てしまった。
「……うそ」
今度こそ完全に、脚がすくんだ。
地獄の底を切り取って持ってきたような、その光景にではない。恐ろしくなかったわけではないが、しかし、理解は出来たのだ。
だが、これは違う。
思わず、杏子の顔を見た。
それから、異形の群に視線を戻した。
間違いない。
同じだ。
同じ顔だ。
群の中に、杏子がいる!
一人や二人……いや、一匹や二匹ではない。
あそこにも、ここにも、杏子の顔をくっつけた怪物が、何匹も何匹も、群に混じって蠢《うごめ》いているのだ!
「ああ、あれ?」
音緒と並んだ杏子が、楽しげに笑う。
「あれも私」
え?
「準備に時間がかかった、って言ったでしょ? 私一人だけじゃあ、学校の皆をいっぺんに仲間にすることなんて、出来ないもの」
ああ、そうか。
そういうことか。
そして同時に、音緒は理解した。
三ヶ月の失踪《しっそう》。
その間に、杏子が何をしていたのか。
あの時、下水道で見たものも、これと同じものだったんだ。ゾーンとなった杏子は、自ら分裂したのだ。分裂を続けて、増えて、そして襲ったのだ。
あたしを。
みんなを。
「さあ」
また、腕を引っ張られた。
「こっちよ」
杏子が近づくと、群が左右に割れた。血糊と内臓と体液でヌルヌルする床を、腕を引っ張られながら音緒は歩いた。いくつもの物欲しそうな視線を感じた。
喰いたがっているのだ。
音緒を。
左右に分かれた、それはゾーンの垣根だ。その中を、真《ま》っ直《す》ぐ奥へと進む。
突き当たりの演壇の上に、そいつはいた。
「よお、遅かったな」
『丈』だ。
もう一人の『黒川丈』だ。
なんて奴、と音緒は思った。
あの日と同じ白いスーツには、血の一滴すらくっついていないのだ。
全部、やらせたんだ。
杏子に。
腕を組み、仁王立ちになった『丈』が、二人の少女を見下ろしていた。
「そいつで終わりだな、杏子」
「はい」
血まみれの顔で『丈』を見上げる杏子の顔は、歓喜に輝いている。
音緒は叫んだ。『丈』に向かって。
「あたしを、どうする気よ!」
応えたのは、皮肉な笑みだ。
丈にそっくりの。
「俺じゃない。お前さんを望んでンのは、杏子だ」
え?
「杏子が、お前さんを仲間にしたがってンだ。まあ、よく働いてくれたからな、ご褒美ってとこだ」
やだ、と杏子が笑う。
「ちゃんと説明したじゃん。聞いてなかった?」
掴まれた腕は、振りほどけない。
「私、ねおと一緒に、やりたいんだよ。親友だもん」
違う。
ちがう、違う!
「あんたなんか、親友じゃない!」
「ねお?」
「あんた莫迦だ、杏子。まだ判ンないの? あいつ、ホンモノじゃないんだよ。本物の黒川丈じゃないんだよ。ゾーンなんだよ、人喰いのバケモノなんだよ!」
「ねお」
「よく見てよ。周りを見てよ。こんなの人間じゃない! あんたは学校の友達も先生も、みんな人間じゃなくしちゃったんだよ! あたしまで人間じゃなくなれって言うの? あたしも、こんなバケモノになれって言うの? そんな奴、親友なもんか!」
「大丈夫だよ。ちゃんと私みたいになれるようにしてあげるから」
「いらないわよッ!」
「ねお……」
音緒を見つめる杏子の、それは哀《かな》しげな、本当に哀しげな瞳だった。
涙を浮かべていた。
「どうして、そんなこと言うの? どうして判ってくれないの?」
みるみる膨れ上がった涙は、頬にこばれて血に混じった。
「私、音緒と初めて逢った時から、何も変わってないんだよ。ずっと前から人間じゃなかったんだよ。でも仲良くしてくれたじゃない」
そうだ。
そうなのだ。
「知らなかっただけだ!」
そうだろうか。
知っていたとしたら、逃げだしただろうか。
「私、ねおと一緒にいたいの。ずっとずっと、一緒にいたいんだよ」
「なあ、お嬢ちゃん」
『丈』が、口を挟む。
「考えてみろや。このままだと人類は滅びるだけなんだぜ。だからアザエル計画なんてもんが、あったわけだろ? 杏子は、親友のお前さんを助けたがってるんだ。その気持ちを理解してやっても、いいんじゃねえか?」
やっと判った。
杏子の嬉しそうな、誇らしげな態度の意味が。
達成感なのだ。
彼女は学校の友人を、先生を、破滅の危機から救った達成感に酔っていたのだ。
「ねお」
杏子の手が離れたが、解放されたわけではなかった。正面から両方の肩を掴まれた。こびりついた血で汚れていても、杏子の顔は愛らしかった。
「私、ねおに生き残って欲しいんだよ」
それは、確かに一つの事実だ。ゾーンの持つ驚異的な環境適応能力ならば、この先どんなに環境が悪化しようと、充分に生き延びられるだろう。
杏子が望んでいるのは、親友を怪物にすることではない。
生き残らせることなのだ。
自分と一緒に。
それじゃあ、と音緒は思った。
考えたくないことだった。
杏子があたしの両親を殺したのは、殺したんじゃなくって、あたしのために……。
「お願い。ねお、私と一緒に生きて」
杏子の両手が、音緒の制服を左右に引き裂いた。
ひんやりとした掌《てのひら》が、剥《む》き出しになった音緒のお腹《なか》に触れた。
杏子は笑っている。
『丈』は笑っている。
ああ、これだ。
これを見たんだ。
次に来るべき痛みに、音緒は瞼を閉じて身構えた。
けれど、痛みは来なかった。
代わりに、長く尾をひく銃声が轟《とどろ》いた。
正確さと俊敏さ、これこそ生身の肉体と引換えに手に入れた最強の武器だ。黒川丈は、そう考えていた。それに比べれば、数十メートルにも及ぶ跳躍力も、コンクリートを砕く腕力も、大したものではない。敵を上回る速度で的確な攻撃を加えることこそ、必勝のための唯一の手段なのだ。
体育館の天井に近い窓である。左手で窓枠を掴み、わずか数センチのフレームに足を乗せた不安定な姿勢から、しかも片腕での長距離射撃を、丈は見事に命中させた。
関根杏子の右腕は、454口径の銃弾のインパクトに砕かれて、肘《ひじ》から千切れ飛んだ。双方の断面が白い煙をあげるのは、弾頭が放ったマイクロ波に焼かれたためだ。
「ィギ!」
関根杏子が千切れた腕を掴んで、よろめく。床を埋め尽くしたゾーンの群が、ざわり、と後退した。
間髪入れずに壁を蹴って跳ぶ丈よりも一瞬早く、
「ネオ!」
宙を斜めに横切るのは、隣の窓から跳んだダリアだ。着地と同時に音緒に向かって突進したダリアは、彼女の腰に腕を回すと、それをそのまま助走にして、反対側の窓に向かって跳んだ。
ダリアが音緒をかばいながら窓を破って外へ飛び出すのと、
「おっとっと」
着地に勢い余った丈が、たたらを踏むのとは、ほぼ同時だった。
銃声からわずか数秒で、二人は入れ替わっていた。
音緒は群の外へ。
丈は群の真《ま》っ只中《ただなか》へ。
「来たか、ゾアハンター!」
吠える男は白く、
「来たぜ、ゾーン!」
応える男は黒い。
同じ顔。
同じ身長。
同じ体格。
だが、一人は完全無欠の肉体を純白のスーツで包み、もう一人は機械でつなぎ止めた生命を漆黒の戦闘服に包んでいる。
白い男が言った。
「俺の恋人を傷つけた貸しは、高くつくぞ」
黒い男が応える。
「俺の相棒を泣かせたツケは、もっと高いぜ」
地鳴りのような唸りが、広い体育館に響いている。
飛び込んで来た獲物を、歪《いびつ》な野獣が取り囲み、隙《すき》あらば爪をたて、牙を喰い込ませようと狙っているのだ。
あるいは、命令を待っているのか。
支配者の。
「殺して」
呻《うめ》く関根杏子は、腕の断面から瘤《こぶ》だらけの触手を伸ばしていた。
「殺して、丈! こいつ、殺して!!」
叫びながら、ブレザーの肩口が奇妙な形に盛り上がった。損傷の修復を急ぐあまり、不必要な器官を生じているのだ。
その足元では、千切れた腕が変形を開始していた。
五本の指がほぼ円形に開き、手の甲に突き出た一対の目で、周囲をうかがっている。
「あさましいよなあ」
丈は銃を収納すると、左腕から電子ブレードを引き抜いた。
「そんなになってまで、生き延びたいかねえ」
「その言葉は、そのまま返すぜ、サイボーグ」
「まあな」
少なくとも、と黒川丈は笑った。
「おめぇらを全滅させるまでは、生き延びるつもりだぜ」
「出来るか?」
「おう、やってやらぁ」
「ならよ」
と笑うのは、もう一人の『黒川丈』の方だ。
「まずは、この連中を全滅させてみろ」
こいつは、と丈は思った。
よく判ってやがるぜ。
いくら俺が暴れまわったところで、こいつらは斬《き》ったり撃ったりするだけじゃ、絶対に殺せねえ。動きを止めた後、可能な限り短時間で焼却する必要がある。だが、それを同時に行うのは不可能だし、ダリアは音緒を安全圏まで逃がすのに手一杯だ。
勝ち目なし、ってとこかい。
「出来るかよ、ゾアハンター」
ああ、こン畜生。
俺の顔は、こんなに相手の神経を逆撫《さかな》でする顔だったのかよ。
結構だ。
じゃあ、てめぇの神経も逆撫でさせてもらうぜ。
「阿呆《あほ》か、おめぇは。同じことを何度訊きゃ理解するんだ」
にやり。
「やると言ったら、やってやらぁ!」
群が、動いた。
いくらもがいても、アンドロイドの腕は、びくともしなかった。あっという間に、裏の教職員専用駐車場まで連れて来られてしまった。
そのまま、赤い車の助手席に押し込まれてしまう。
「ダリア! ダリアってば!!」
「何か?」
運転席に滑り込んだダリアは冷やかに応えて、始動キーに手を伸ばす。一瞬早く、音緒は手を伸ばしてキーを引っこ抜いた。
「返して。それがないとエンジンがかからないわ」
「知ってるわよ! あんた、逃げる気なの!?」
「可能な限り迅速に退避します」
「丈が残ってンのよ!」
いくら丈でも、たった一人であれだけのゾーンと闘って、無事なわけがない。
そんなの、いやだ。
絶対にいやだ。
これ以上、好きな人がいなくなっちゃうなんて、絶対に嫌だ!!
「これは丈の命令です。現在、あなたの安全を確保することが最優先なの」
ダリアの手が伸びて、キーを握り込んだ音緒の手を掴む。
「やだ! やめて!」
「ごめんなさい。でも、あなたを護るためよ」
あっさりと指をこじ開けられ、キーを奪われた。
エンジンが始動する。
「あんた、丈が心配じゃないの? 気にならないの?」
「そういう機能は、私にはないわ」
機能?
機能って言った?
オッケー、わかった。そっちがあくまで『機械』でくるなら、こっちにも考えがあるからね!!
「ダリア」
「はい?」
「あたし、死ぬわよ」
駐車場を滑り出ようとしていた赤い車体が、急停車した。
「どういう意味?」
それでもダリアは、振り返らない。真っ直ぐにハンドルを握り、正面を向いたまま、それでも音緒はアンドロイドの整った横顔に、当惑を見てとった。
希望ゆえの錯覚なのかも知れないけれど。
「このまま逃げたら、あたし、自殺しちゃうわよ」
瞬間、ダリアは沈黙した。
人間の思考よりもはるかに短いが、しかし、それは明らかに逡巡《しゅんじゅん》だった。
「いい? あんたがこのまま、あたしを連れてっちゃったら、あたしは自殺する」
「それは、丈が無事に戻るかどうかとは無関係に?」
「そうよ。助けに来てくれた丈を見捨てて逃げる罪悪感に耐えきれずに、あたしは自殺する。これは宣言よ」
「理論的ではないわ」
「理論じゃなくて感情で行動するのが人間なのよ」
「私が、させないわ」
「判ってないわね。あなたの返事によっては、今すぐに実行するんだよ。自殺を阻止しようと思ったら、あんたは車を運転してる場合じゃなくなるから逃げられない。車を運転して逃げるなら、自殺は阻止出来ない。あたしが自殺を宣言した以上、どっちにしたって、その命令は実行出来ないの。判る?」
「ええ」
「実行不可能な命令は、最優先事項には置いておけないわね?」
「ええ」
「じゃあ、戻って」
「それは駄目」
「なんでさ! 今、あんたは何の命令も受けてない状況なんでしょ?」
「危険を看過することによって人間を傷つけることは出来ないわ」
「アジモフ・コードくらい小学校で習ったわよ! 判った。設定拡大。あたしと丈だけじゃなくて、全人類規模で考えて。丈にもしものことがあったら、いったい何人の人間が傷つくことになる?」
「了解。必要性を認めます」
よっしゃあ!
「それじゃダリア。こんな場合、丈なら、どうする?」
次は即答だった。
「決まってるわ」
シフトをローに叩き込んで、ダリアは言った。
「突入よ」
丈にとって、勝算のない闘いは、実にこれが初めてだ。
勝ち目のない闘いはしない。それはゾアハンターとなる以前からの、黒川丈の信条だった。勝てる闘いしかしない、という意味ではない。勝てないかも知れない敵に立ち向かうのは勇気だが、勝てないと判っている敵に挑むのは単なる莫迦だ、ということだ。
つまり、と丈は思った。
信条って奴は、そう易々《やすやす》と曲げるべきじゃねえってことだな。
波状攻撃、という言葉がある。
寄せては返す波のように、間断なく次々と攻撃を加えることだ。
今、丈の受けているのが、まさにそれだった。
切れ目がないのである。
絶え間ない攻防を交わすのは、丈の得意とするところでもあった。だがそれは、こちらのペースで動いているならば、という条件付きでのことだ。敵の懐に飛び込み、あるいは相手の虚を突いて一気に攻め抜くのが、丈のスタイルなのだ。敵に充分な余裕を与えてしまって間合いもタイミングも自由にならない状態では、攻防どころか、敵の攻撃を受けないだけで精一杯だった。
いくら払っても、きりがなかった。
何匹の胴をなぎ、何匹の脚を斬り飛ばし、何匹の腕を切断しても、それを乗り越え、踏みつけて、次の攻撃が来る。サイバネティクスの跳躍力を活かして距離を取ることも試みたが、天井があるために充分な大きさの放物線が確保出来なかった。
しかも、斬撃《ざんげき》によって動けなくなったゾーンを、焼却する暇がない。その結果、切断されたゾーンの部品が別々の個体に再生するだけではなく、傷ついたゾーンを別のゾーンが喰い、ひとまわり大型化して襲ってくるのだ。
共喰いによって、確かにその絶対数は減りつつある。
だがそれは、それだけ大型で凶暴なゾーンが増えるということでもあるのだ。
加えて、同じ『顔』をしたゾーンが何匹も混じっていることが、丈を混乱させた。
関根杏子の分身だ。
視界を移動させた時、さっきと同じ顔がまた現れる。それだけで、瞬間的にではあるが方向感覚と距離感が狂わされてしまうのである。繰り返される攻撃は、その一瞬の隙さえ突いてくる。
寄せつけないだけで精一杯という有り様だった。どれだけ斬りつけられ、腕や脚を斬り飛ばされても、丈に集中する波は決して引くことがない。
状況は、不利だった。
圧倒的に不利だった。
緊急地下道路での闘いは、一方通行の闘いだった。敵の列の後方から斬り込むため、後方から襲われることだけは、なかった。だが今は違う。捕食獣の群は、前後左右上下、あらゆる方向から飛び掛かってくるのである。
爪が、牙が、刺《とげ》が、触手が、丈の五体を容赦なく切り裂いた。バトル・ホイール用の防護服を改造した戦闘服だったが、それもあちこちで金属繊維のインナーごと引き裂かれ、人工皮膚が破れて人工筋肉や金属フレームが剥き出しになっている。もし生身なら、とっくにゾーン化していただろう。かろうじて無傷なのは、頭部だけだった。
演壇の上では、『黒川丈』がにやにや笑っている。
その頭上の時計が、視界に入った。
講堂に飛び込んでから、五分ほどが経過していた。
もうちょいだな。
あと五分ほども引きつけておけば、音緒はダリアが安全圏まで運んでくれるだろう。
問題は、それまでもつかどうか、だ。
死ぬわけにはいかない。
だが、死ぬ時は死ぬ。
それが現実だ。
ベルトのポーチを探った。ナパーム弾は、三つ。小型だが三つを一遍にばら撒けば、この講堂を消えない炎で包むことくらいは出来るだろう。何匹かは逃げ延びるだろうが、ほとんどは焼き払えるはずだ。
無論、投げた本人も巻き添えにして、ではあるが。
「それしかねえか!」
電磁ブレードを横ざまになぎ払いながら、一回転した。最前列の何匹かが両断され、何匹かが腹を大きく斬り裂かれ、無事だったものが後ずさって背後の仲間にぶつかった。丈を中心に、半径一メートルほどの空間が生じた。
今だ。
こン畜生。
丈はポーチから、金属製の球を取り出した。
覚悟はすでに決まっていた。
甲高いクラクションが聞こえたのは、その時だった。
聞き覚えのある音。
レッドだ。
「まさか」
振り返ったのは、丈だけではない。その周囲を幾重にも取り囲んだ異形の群も、一斉に振り返った。
校庭の方からだ。
近づいてくる!
「ダリア! あンの莫迦!!」
丈の悪態は、途中で遮られた。轟音《ごうおん》とともに体育館の壁が、内側に向かって炸裂《さくれつ》したのである。
すぐに判った。
ダリアが携帯していた手榴弾《しゅりゅうだん》だ。
その爆煙が消えないうちに、真っ赤な車体が飛び込んできた。壁を破った爆発の破片を浴びたのだろう、ボンネットは何箇所もへこんで地金が剥き出しになり、フロント・グラスにはひびが入っている。
「丈!」
叫ぶ声は、音緒だ。
シフト・ダウンした太いエンジン音をたてて、レッドはゾーンを撥《は》ね飛ばし、轢《ひ》き潰《つぶ》しながら、一直線に丈に向かってくる。
運転席のダリアと、目が合った。
丈は、ナパームを手にした親指で真上を指さしてから、跳躍した。
レッドが見事なスピン・ターンを決めたのは、まさに丈が立っていた、その場所だ。タイヤと床の間で擦り潰されたゾーンが、ギガ、と吠える。次の瞬間、垂直の跳躍から車の屋根に丈が着地し、その衝撃で、踏みつけられたゾーンは歪んだ嘴《くちばし》の間から大量の鮮血を噴いた。
サンルーフも、窪《くぼ》んだ。
「出せ!」
屋根を叩く。
ゾーンの肉塊を巻き込みながら、レッドがホイールをスピンさせる。屋根に膝《ひざ》をつき、内耳に内蔵された平衡装置できわどいバランスをとりながら、丈は手にしたナパームを群に向かって投げた。
さらに、ポーチに残った二つも。
炎が炸裂した。
壁の穴から外へ飛び出す時、助手席の窓からさらに二つ、音緒が金属球を投げるのが見えた。
丈を屋根に乗せたまま校庭に飛び出した赤い車は、砂塵《さじん》を巻いて急停車した。爆発的な燃焼が、その後を追った。開いた助手席の窓から、熱い風が吹き込んだ。
振り返った音緒は、講堂の全ての窓が炎を吐き出しているのを見た。
いくつもの異形の影が、その奥で蠢いている。
逃げ場を求めて。
丈は屋根を降りると、
「タイヤに巻き込んだ分、焼いとけ」
言い置いて、炎をあげる校舎へと戻ってゆく。
「丈!」
音緒の声に、彼は片手を挙げただけだ。
心配するな、という意味? それとも、邪魔するな?
一つだけ、確かなことがある。
彼は、怒っている。
壁の穴から、炎にまかれたゾーンが飛び出してきた。炎の噴き出す窓からも、ぼろり、ぼろりと落ちてくる。
何匹も。
もがき、咆哮《ほうこう》しながら。
その一つ一つを、丈が電子ブレードで両断してゆく。
すぐ背後で、赤い閃光《せんこう》が輝いた。いつの間にかダリアが降りて、銀色のピストルみたいな物を構えている。ノズルが赤く光って、タイヤの周辺から白い煙があがっていた。
レーザーだ。
タイヤは焼けないんだろうか、と音緒は思った。
焼けていなかった。
音緒が重大な事実に気づいたのは、その時だ。
私、死ななかった。
お腹に穴も開けられなかったし、内臓がこぼれ落ちもしなかった。
生きてる。
あたし、死んでない!
「変えられるんだ……」
運命は。
たった今、丈が変えた。変わるのではなく、変えたのだ。
予知が実現してしまう瞬間に、変えてくれた。それはジョーカーだとか一匹の蝶《ちょう》だとかいう結果論ではなく、厳然たる意思のもとに起きたことだ。
いや、起こした、だ。
強引に。
「丈……」
傷だらけの丈が、こちらに戻ってくる。
全てを終えて。
外へ逃げだしてきたゾーンは、わずかに数匹だけだった。反対側に逃げた奴もいるかも知れないが、残りは全部、講堂の中だ。
つまり、炎の。
今、杏子も焼かれているんだろうか。何匹もの分身と一緒に。
それから、もう一人の『黒川丈』も。
音緒は窓から顔を出して待っていたが、丈はそれを素通りして、作業を続けるダリアに向かって言った。
「なぜ戻ってきた」
言いながら、彼は電子ブレードを収納せずに、地面に垂直に突き刺す。やっぱり、怒ってる。
「ネオに、戻らなければ自殺すると言われました」
告げ口でも何でもない。報告だ。だがアンドロイドの口から音緒の名が出ても、丈は少女の方を見ようともしなかった。
「脅しだと思わなかったのか」
「アジモフ・コードに抵触する発言は、無視出来ないようプログラムされています」
アジモフ・コードとは、人工知能の行動についての規制プログラムである。もともとSF小説に登場した同様の設定が原型になっていると言われている。
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第一条、人工知能は人間に危害を及ぼしてはならない。
第二条、人工知能は人間に危害が及ぶ可能性を看過してはならない。
第三条、人工知能は前二条に反しない限り自己を護らねばならない。
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音緒の発言が第二条に触れたため、ダリアは丈の命令を遂行することが出来なかったのである。
「バケモノの群に突っ込む分には、アジモフ博士は文句を言わねえのか」
「より生存確率の高い選択を優先した結果です」
顔をそむけた丈が小さな声で、しょせんは機械か、と吐き捨てるように言うのが、音緒には聞こえてしまった。そんな酷《ひど》いことを言えるほど、彼は怒っているのだ。
だから、脅しじゃない、とは言えなかった。
言えば、もっと怒らせると判っていたから。
本気だったけど。
代わりに音緒は車を降りた。
裂かれた制服の胸元を手で合わせて、丈の前に立つ。
「ごめんなさい」
頭を下げた。膝につくくらいに。
「そうだ、お前さんが悪い」
丈の声は、けれど、怒っていない。
びっくりして顔を挙げると、彼は唇の端で笑っていた。
「怒ってないの?」
「怒ってたさ」
そうか、と音緒は思った。突然に、理解してしまった。
丈が怒ったのは、ダリアが言いつけを守らなかったからでも、あたしがダリアに無茶を言ったからでもないんだ。もっと根本的なことだったんだ。
「なんで、一人で来た」
それこそが、彼を怒らせたのだ。
「一緒に来たら、丈が死ぬと思ったから」
「俺が?」
「見たの。丈の腕が千切れるところ」
ふん、と鼻を鳴らすのは、彼の癖だ。
「あたし、もう、やだから。好きな人がいなくなっちゃうの、もう、やだから」
泣くつもりなんか、なかった。
けれど涙は、勝手に出てきた。
「お父さん死んで、お母さん死んで、ウチもなくなって、部屋もなくなって、杏子も杏子じゃなくなって、そういうの、もう、やだから」
胸が熱い。
お気に入りの空き地がなくなるのも、大好きな花が見られなくなるのも我慢する。古本屋さんがなくなるのも上品な喫茶店がステンレス張りになっちゃうのも、本当は嫌だけど我慢する。
でも、これは我慢出来ない。
絶対に。
「腕が千切れたくらいじゃ、俺は死なん」
「うん」
「約束だからな」
にやり、だ。
そう。丈は約束を守ってくれた。
あたしが学校にいることを、丈がどうやって知ったのかは判らない。でも、こうして来てくれた。そして、約束どおりに助けてくれた。
なのに、あたしは丈に、約束を破らせてしまうところだったんだ。
「ごめん」
今度は、頭を下げずに。ちゃんと相手の目を見つめて。
しかし丈は、応えなかった。
音緒を見てもいなかった。
視線だけを上に向けて。
人指し指が、唇の前で立っていた。
静かに、の合図。
すぐに判った。
音だ。
低く、腹の底に響く音だ。
打ちつけるように、繰り返し、繰り返し、それは炎を噴き上げる講堂の方から響いてくる。
人指し指の向こうで丈の唇が、くそったれめ、と動いてから、
「音緒」
視線が戻ってきた。
涙を拭《ぬぐ》って、
「はい」
音緒はその視線を正面から受け止める。
「これから、ちょいとヤバいことになる」
丈は、唇の端で笑っている。でも、目は笑っていない。
音緒は、胃の底が硬くなるのを感じた。
「俺も、こんな状況でやるのは初めてなんでな、あんまり自信がねえんだ」
「うん」
音は、続いている。
「だからよ」
片目の丈がウィンクすると、大げさなまばたきみたいになった。
「いざという時ゃ、助けてくれや」
え?
今、助けてくれ、って言った?
あたしに?
杏子の気持ちが、ほんの少しだけ判ったような気がした。
「ダリア!」
「はい」
応えるダリアは、既に作業を終えている。
「音緒を乗せて一時退避。安全の確保と同時に、バイクを一台、調達しといてくれ」
「了解」
ダリアが乗り込む。
続いて乗り込もうとした音緒は、
「音緒」
呼び止められた。
「なに?」
振り返った時には丈はすぐ後ろまで来ていて、その手が音緒の首筋に触れるところだった。分厚い掌が、頸の後ろに回り込んだ。
音緒の心臓が、跳ねた。
思わず、瞼を閉じた。
やっぱり、この人、違う。
他のオトコどもみたいに先が読めない。
「借りるぜ」
「え?」
見ると、丈は天使のペンダントを手にして笑っていた。
「あ……、うん」
がっかりした。
ほっとした。
だから次の瞬間、いきなり引き寄せられて頬にキスされた音緒は、口をぱくぱくさせて金魚になった。
駐車場を出てゆくレッドを見送った丈は、
「ちっ」
それと入れ違いに校庭に入ってくる数人の人影に、舌打ちした。様子を見に来たと言うより、好奇心剥き出しといった感じだ。本人は親切心か正義感か、あるいは市民の義務か何かのつもりだろうが、迷惑この上ない。
どおん、どおん、とゾーンがたてる音は、まだ続いている。事態が次の局面に入るのは時間の問題なのだ。
小走りの集団の先頭を切るのは、ポロシャツの親父だった。
「なんだ? 火事か?」
見れば判ることを、わざわざ質問する。額が脂ぎって光っているのは、校舎から噴き出す熱風のせいだけではないだろう。
「うわぁ、ひどいわ」
どこか嬉しそうに声をあげるのは、親父の後ろの中年女だ。頭にカーラーを山ほどくっつけている。おおかた亭主を送り出しもせずに、昼まで寝ていたのだろう。その他の連中も、似たようなものだった。
「あの音、なに?」
「何か爆発してるんじゃない?」
「薬品とか?」
「ひや、危ないわあ」
大半が主婦だ。通りすがりだろうか、若いのも何人か混じっている。学校の火事を遠巻きに眺めていた連中が、意を決したポロシャツ親父に続いて、我も我もと来たわけだ。
どいつも、ひや、ひや、と素《す》っ頓狂《とんきょう》な声をあげていた。
「うせろ」
ようやく絞り出した丈の声は、あからさまに不機嫌だ。
「ここにいると死ぬぞ」
それも、運が良ければ、の話である。
「死ぬぞって、あんた……」
言いかけて、男はようやく、丈が手にしている物に気づいたようだ。大あわてで後ずさる。その背後から頭を出した女が、またしても、ひや、と声をあげた。
「それ、刀と違うん!」
どうやら関西出身らしい。
「ああ、刀だ刀!」
丈は電子ブレードを頭上へ振り上げた。
「とっとと行かねえと斬るぞ、こら!」
ひやひや、が、ひえー、になった。背中を見せて、ばらばらと走り始めた。
だが、もう遅かった。
ひときわ大きな破砕音とともに、校舎の外壁が砕け散ったのである。
ゴァアアァアァアアァアアアァア!
「ぎゃああぁあぁああぁあああぁあ!」
似たような声あげやがって、と丈は思った。
ダリアが車を停《と》めるのと、どぉん、という大きな音がするのとは、ほぼ同時だった。
「なに、あの音!」
音緒の問いに、
「ゾーンよ」
答えるダリアは、もう車を降りている。
学校から数百メートル離れた住宅地である。車を路肩に停めたダリアが、交通標識の下に停めてあったオートバイの、ハンドルの辺りを覗《のぞ》き込んでいる。
大型のアメリカン・タイプだ。
ハンドルの、ちょうど付け根の辺りをダリアは探っている。その手元が、ぱちっ、と光った。と思った途端、オートバイがエンジン音をたて始めた。
背筋を伸ばしたダリアが路上に捨てたのは、イグニション・キーの部品だろうか。音緒は思わず、周囲を見回してしまった。通行人は皆、学校の方を見ていた。
黒く太い煙が、のったりと空に伸びている。
ダリアは、
「ここで待ってて」
言ってから、標識のポールと前輪をつないであった防犯ロックを無造作に引き千切り、そのままバイクに跨《またが》ってしまった。
「待って!」
音緒は車を飛び出した。途端に引き裂かれたブラウスの前が開いて、あわてて両手で隠す。無事だったブレザーのボタンを留めると、何とか見られる恰好になった。
「あたし、運転出来る。あたしが届ける」
「駄目よ」
「大丈夫、免許持ってる」
五〇ccだけど、とは言わなかった。でも、ミッションの五〇が運転出来るんだから、中型だろうが大型だろうが限定解除だろうが運転出来るはず。
だがどちらにしろ、ダリアは許可しなかった。
「駄目。あの音、聞いたでしょ?」
「聞いたからだよ! 判ンない? あなたが一人で行って、バイクを届けて、その後どうするの? 走って丈のサポート出来る? 車とバイク、同時の方がいいに決まってるじゃんか!」
ダリアは、機械だ。だから融通もきかないし、頑固でもある。
でも、きちんと説明すれば、そしてそれが妥当な意見なら、ちゃんと聴いてくれる。
「判ったわ。あなたが乗りなさい」
「了解」
「ただし、危険なことはしないで。それと、現場まで私の後ろを走ること」
「判った!」
応えて、ダリアの手からハンドルを受け取った途端に、音緒は少しだけ後悔した。
重い。
大きい。
何とか跨った。爪先立ちになっても、片方の足しか地面に着かない。
クラッチが固くて、すぐに指が痛くなった。
「行くわよ!」
さっさと車に戻ったダリアが、声をかけてくる。
「了解!」
クラッチを繋《つな》いだ。
もっと後悔した。
想定しなかったわけではない。だが現実に目の当たりにすると、さすがの丈も絶望的な溜め息を漏らさずにはいられなかった。
「やっぱ、こうなるか」
校舎の下半分を粉砕しながら地響きをたてて姿を現したのは、巨大なケシズミだ。炎をまといつかせ、躯のあちこちに赤い熄火《おきび》を輝かせながら、身をよじり、ずるずると校庭に這《は》いずってくる。
遠くから見れば、それは信じられないくらい大きなヒルにでも見えるだろうか。だが、その表面を覆うのは粘膜ではない。
群だ。
異形の。
それは、ある意味、即席の緊急避難形態とでも呼ぶべきものだ。
無論、ゾーンの、である。二千度の炎に焼かれながら、逃げ場を失ったゾーンの群は、生き延びるための唯一の手段を採ったのだ。
ゾーンの個体を構成する細胞は、個体の一部であると同時に、一個の単細胞生物としても機能する。切断された器官が独自の活動を示すのも、このためだ。極端に言えば、例え細胞一個であろうとも、それはゾーンなのである。
ゾーン細胞だ。
つまりゾーンとは、一匹の捕食動物であると同時に、ゾーン細胞という微小な単細胞生物が結合した群体生物であるとも言えるのだ。
無論、ゾーン個体としての行動は、その脳によって支配されている。しかし同時に、ゾーン細胞間では伝達物質の交換による情報伝達が行われており、個体意識と並行した、言わばゾーン意識とでも呼ぶべき第二の思考が存在するのである。
そして今、本能と区別がつかないほど潜在的な第二の思考が、決定を下したのだ。ゾーン細胞が結合してゾーン個体という群体を成すように、ゾーン個体が互いに結合して巨大な群体を形成したのである。
それは融合体であると同時に、一匹のゾーンなのだ。
ゴォオオォオォォオオォォオオォオォォオオオォオォオオォオオ!
苦痛の咆哮だ。
他の『仲間』を護るために犠牲となった最外部のゾーンの、その苦痛が、結合した神経を通して全てのゾーンに伝播《でんぱ》しているのである。
大きく仰《の》け反《ぞ》った融合体が、どん、と地を打った。校庭が揺れて、割れ残っていた校舎の窓ガラスが落ちた。
丈は、ちらり、と背後を確認する。
ひいひい言いながら、ヤジ馬どもが逃げてゆく。
これだけ距離があれば、大丈夫か。
「うっしゃ」
丈は、銀の天使を左手に握りしめた。
「ほんじゃ、始めますか」
跳躍。
ごめんなさいごめんなさい。
歯を食いしばった音緒は、口の中で繰り返した。
バイクの神様ごめんなさい。もう嘗《な》めたこと言いません。だから、とにかくコケさせないでください。丈のところに着くまでコケさせないでください!
四〇〇ccの馬力は、五〇ccの比ではなかった。発進の瞬間には、あやうくハンドルから手をもぎとられて後ろに転げ落ちるところだった。
とにかく重い。
とにかく固い。
おまけに持ち主の趣味なのか、アクセルが恐ろしくピーキーなのだ。一定まで回すと、次の瞬間、突然に加速を始めるのである。だが微妙な操作をするには、アクセル・グリップが固すぎる。怖くてギアがシフト出来なかった。ロー・ギアのままで耳障りな音をたてながら、音緒は必死にアクセルを調節した。
前を走るダリアが、時々、振り返る。
たった数百メートルの距離が、数千メートルくらいに思えた。
だが、時間にすれば二分もかかっていなかったのだろう。赤い車のテールだけを必死に睨《にら》んでいたので気づかなかったが、いつの間にか、もとの学校の駐車場だった。
先に校庭に入ったダリアが、車を大きく左へ滑らせる。
音緒のバイクは右へ。
その瞬間、突然に開けた前方視界に、異様な光景が飛び込んできた。恐ろしく巨大な何かが、校庭で暴れているのだ。
最初に連想したのは、恐竜だった。
カタチが、ではない。
大きさだ。
博物館で見たクビナガ竜の骨格標本を連想してしまったのだ。だが目の前で、ぶんぶんと空気を切りながらのたうつ、こいつは、恐竜みたいに優雅でも神秘的でもなかった。
形状そのものは、太すぎるミミズか、長すぎるナメクジだ。しかも真っ黒で、あちこち燃えていて、煙も出ていて、なんだか焼きすぎた焼肉みたいにも見える。
その印象が、音緒の頭の中で一本に繋がった。
ゾーンだ。
これ、ゾーンだ!
講堂にいた奴だ。
講堂にいた奴、全部だ。
何がどうなったのかは知らないけど、一つに合体して出てきたんだ。あの音は、それだったんだ!!
「ネオ!」
ダリアの叫びで、音緒は我に返った。
巨大な肉の塊を呆然と見上げながら、ブレーキをかけもせずに、その側面にまで回り込んでしまっていたことに、ようやく気づいたのである。
「やば!」
あわててアクセルを戻し、ブレーキをかけた。
バランスが崩れた。
横滑りに転倒した音緒は、いきなり視界に飛び込んで来た空を背景に、一人の男が宙を舞う姿を見た。
剣を手に、真っ直ぐ、巨大な怪物に向かって。
4
それが望んで手に入れたものではなく、他の全てのものと引換えに強引に押しつけられたものだったとしても、しかしその力を行使するのが心地よくないわけではない。
特に、この脚力だ。
急激な加速度に生身の脳が瞬間的な貧血を起こす不快感を計算に入れても、十数メートルを一気に跳躍する際に得られる飛翔《ひしょう》感は、単純ではあるが、やはり爽快《そうかい》だ。
問題はそれが、命懸けの闘いの最中だ、ということだけだ。
ほぼ垂直に落下した丈は、焼け焦げた肉の上に着地する瞬間、右手のブレードを足元に突き立てた。この距離で見ると、無数のゾーンがパズルのように複雑に絡み合い、肉を溶け合わせて一個の巨体を作り上げていることが実感出来た。
次の動作は、一挙動だ。
ブレードを引き抜くと同時に、銀の刃が開けた垂直の穴に、左手の拳《こぶし》を叩き込む。炭化したゾーンの表皮が、ひらひらと舞い上がった。
ゴァア!
肉の大地が揺れたのは、その直後だ。
苦痛を感じたわけではあるまい。その巨体に比べれば、ブレードによる損傷は微々たるものだ。それに、全身がすでに大|火傷《やけど》の状態なのである。
逃げようとしているのだ。
安全な場所へ。
案の定、巨大な肉塊が移動を開始した。足元をとられた丈は、本格的にバランスを崩す前に、再び跳躍する。着地するのは、校庭の隅に転がった音緒の、すぐ側《そば》だ。
「大丈夫か?」
車とバイクが校庭に入ってくるところも音緒が転倒するところも、彼はゾーンに向かって跳躍しながら見ていたのだ。
うん、と応える音緒は、膝小僧をすりむいている。
「逃げちゃうよ」
少女は、地面を小刻みに振動させながら蠢く巨大な肉塊を見ていた。
「ああ、判ってる」
彼女の言うとおり、ゾーンは明らかに逃走を図っていた。校庭の突き当たりの、壁に向かっている。思ったより、速度が早い。たちまち校庭の壁を突き破り、その破砕音と一緒に、いくつもの悲鳴が聞こえた。ヤジ馬どもだ。
ゾーンがどこに向かっているにせよ、被害はさらに拡大するだろう。場合によっては、ゾーン化する被害者も出るに違いない。それに、ゾーンの存在も、ついに否定不可能な事実として公に認知されることになる。たとえアザエル計画の詳細が露顕することはないにしても、だ。
ともかく、と丈は思った。
これで二度とヤジ馬しようなんて気は起きなくなったろう。
「立てるか?」
座り込んだままの少女に手を伸ばす。だが丈は、自分の左腕に厄介なものがくっついていることに気づいて、
「ちっ」
その手を引っ込めた。
「丈、それ」
言われるまでもない。彼の左腕は、肘までべったりと血で汚れていたのである。
ゾーンの体液だ。見ると、右手の電子ブレードも同様の有り様だった。
「だって、その剣って……」
「ああ。充電が切れた」
そのために、マイクロ波による焼灼《しょうしゃく》が行われなかったのだ。そうなると電子ブレードも、ただの鋭利な長剣に過ぎない。刃を手で拭ってから、収納した。
「大丈夫なの?」
言いながら、音緒は自分で立ち上がる。ゾーンの体液が付着して害にならないか、と訊いているのだ。
「俺はサイボーグだぜ」
それに、アザエルの生存可能域そのものは極めて狭い。生物の血液中に侵入した場合の爆発的な増殖に比べて、大気中に露出した血液が皮膚などに接触した場合、感染の可能性は実に小数点以下七|桁《けた》を下回るのだ。
「それより問題は」
奴だ。
地鳴りのような音が、徐々に遠ざかりつつある。校庭が溝のように抉《えぐ》られていることから考えても、かなりの破壊をともなって移動しているようだ。
二人の前に、するり、とレッドが滑り込んだ。傷だらけの外観からは想像も出来ないような滑らかさだ。
窓から顔を出したダリアに、
「音緒を連れて、すぐ格納庫に戻れ」
丈が指示を出す。
「シルバーは、出せる状態だな?」
「ええ」
「よし。俺はこのままゾーンを追う。発信器は生きてるな?」
「はい」
「逐一、報告しろ。戻ったら、お前もすぐにシルバーでトンボ返りだ」
「装備は?」
「時間がない、積んである分だけでいい。後は現場で考える。以上だ」
「もう一つ。ネオは? 残して来る?」
音緒か?
少し、考えた。
本人は、すがるような目でこちらを見ている。
溜め息は、苦笑しながらだ。
「連れて来い」
了解、の応えは、二人同時だった。
あの銀の天使の中に発信器が内蔵されていることを、音緒はダリアから聞いた。
とは言っても、何も今回のような事態を想定したわけではないし、常に彼女を監視するつもりだったわけでもない。あくまでも、緊急時に彼女の所在を掴むためのものだった。
だが今、天使は大活躍中だ。
それも発案者が考えもしなかった形で。
ダリアの前のモニターで点滅している光点は、逃走中のゾーンの現在地だ。丈のさっきの攻撃は、あのペンダントをゾーンの躯に押し込むためだったのである。
緊急地下道路を『基地』に向かって走る。
シルバー、というのが、あの銀色のバンであることは、音緒にも判った。大量の武器や弾薬が積んであるやつだ。丈は、あれで一気にゾーンを叩き潰すつもりなのだ。
ダリアはさっきから、無線でゾーンの位置を伝えている。丈はオートバイで追跡しているはずだ。
あたしの持ってったオートバイで。
「正解だったわね」
突然、ダリアが話しかけてきた。
「はい?」
「あなたの判断。時間的なロスが、少なくとも十数分は回避出来たわ」
あの時、ダリアがオートバイを届けていれば、指示を受けた彼女はまた車のところまで戻って来なければならなかったわけだ。丈の指示を即座に実行に移せるのは音緒の提案があったからだ、と言っているのである。
「まあね」
ちょっとだけ得意になる。
「それも『才能』かしら?」
これが?
そんなふうに考えてみたことはなかった。けれど言われてみれば、咄嗟《とっさ》の判断が好結果を生んだのも事実だ。これも、超|演繹《えんえき》能力の一つの現れなのだろうか。
だとしたら。
うん、やっぱり。
あたしと丈とダリアが組めば、最強のチームになる!
ダリアがハンドルの下で何か操作すると、前方の壁面が開いた。
そこが、入口だ。
巨大だが、しかし這いずって移動するゾーンには、高さがない。そのくせ、異様に速度が速い。時速で六〇キロは超えているだろう。かと言って、ダリアがおらずナヴィ・システムもない現状では、いつものような無茶な走りも出来ない。道路状況は自分で判断するしかないからだ。大きなゾーンの姿も、すぐに建物に遮られて見えなくなる。とは言えゾーンの後を莫迦正直に付いて行けば、その『被害』に巻き込まれて立ち往生するのは目に見えているのだ。
ダリアの誘導がなければ、とっくに見失っていただろう。
そのたびにバイクを停め、音を頼りに方向を探らなければならないところだ。
咆哮しつつ、巨体を揺すって道路を驀進《ばくしん》するゾーンは、さながら怪獣だ。接触した建物の外壁を削り、電柱や道路標識をへし折り、路上駐車の車を押し潰して前進を続ける。その巨体を避けようとして、何台もの車が事故を起こした。建物に突っ込む車や、対向車線に逃げて正面衝突する車を、丈は何台も目撃した。時には、コントロールを失ったまま丈に向かって突っ込んでくるものまで。
間一髪でかわしながら、ハンドルが邪魔だ、と丈は思った。彼にとって、腰のひねりと体重の移動だけで自在に操れるモノサイクルに比べると、オートバイは何とも不自由な乗物なのだ。
ゾーンの移動は、不規則にその方向を変えている。
思ったとおり、単なる逃走ではない。
何かを捜しているのだ。方向転換が頻繁なのは、融合した数百のゾーンの思考が、まだ一つに統合されていないせいだろう。
だが、何を?
奴は、何を求めている?
どちらにせよ、
「面倒臭くなりそうだぜ」
電子ブレードは、充電が切れた。再充電している時間的な余裕はないだろう。となるとダリアが到着するまで、武器は右腕に内蔵した拳銃《けんじゅう》しかない。電子ブレットは、装填《そうてん》してある分と合わせても、合計二四発。
「あとは勇気だけだ、ってな」
口に出してみて、丈は苦笑した。
それで恐れ入ってくれるほど、相手は甘くないのだ。
言われたとおりバンの助手席に乗り込もうとしていた音緒は、耳に飛び込んできた地名に、思わず振り返った。
まだ赤い方の車に残っているダリアが、丈にゾーンの位置を伝えている。その言葉の中に、聞き覚えのある地名が混じっていたのだ。
「単純な確率としては六〇パーセントを割りますが、既にゾーンの巣であったことを考慮するなら、目的地は、ほぼそこに間違いないはずです」
判った、と応える丈の声は、かなりノイズが多い。
「バクチだが、まず外れんだろう。直行しろ。俺も先回りする」
「了解」
なに?
どういうこと?
なんでゾーンが、そんなとこに向かってるわけ?
運転席に乗り込んだダリアが、今度はこっちの車の無線装置のスイッチを入れる。
「こちらシルバー。乗車完了、移動開始します」
「おう」
丈が応える。
「マンションの管理システムに侵入して、警報を流させろ。火事でも何でもいい、残った住民を全部、外へ出すんだ」
「了解」
そこに、
「丈!」
音緒は割り込んだ。
「なんで? そこ、そのマンション」
「ああ、そうだ」
丈は知っていた。
「関根杏子の自宅だ」
ノイズ混じりで。
ヘルメットを持ってくるべきだった、と丈は思った。
耳に突っ込んでいるのは、イヤホン・タイプの通信機である。耳の中に突っ込んだ小さなイヤホンが向こうからの声を再生すると同時に、こちらの声を骨振動から拾って送信する仕組みだ。感度はいいが、小型な分だけ出力が低い。これだけ距離が離れると、かなりノイズが混じる。
向こうの声がこれだけノイズ混じりだということは、こちらの声も同様だろう。
だが、互いに意思の疎通は完了したようだ。
丈は絶句する音緒に、詳細はダリアに訊け、とだけ言った。
音緒は、判った、と応えた。
そう。
ゾーンは、丈が関根杏子の両親とゾーン化した住民を始末した、あのマンションに向かっているのだ。
考えてみれば、当然の話だ。
校舎にいたゾーンは、全て別々の人間がアザエルに感染し、変質したものだ。だがその中に、同一人物から分化したゾーンが複数、存在していたではないか。
多数決みたいなものだ。
各人が全く異なった意見を持つ集団の中で、同一の意見を持つ人間が最低二人いれば、その二人の意見が通る。それと同じだ。
「関根杏子か」
それが今、丈の目の前でのたくる巨大なゾーンの、その意識を統括する存在だった。『家』に戻ろうとしているのだ。
それが明確な意思によるものか、それとも本能なのかは判らない。しかし一つだけ明言出来ることがあった。『家』に戻っても、もう誰もいないのだ。
一匹も。
信じられないような話だった。
杏子の家には、何度も遊びに行った。杏子の両親も知っている。夕飯を御馳走《ごちそう》になったこともあるし、二回だけだが、泊まっていったこともある。
そこで?
丈が?
音緒には、とても信じられなかった。
だが、ダリアは機械だ。嘘《うそ》はつかない。丈が彼女に嘘を報告したのでない限り、それは事実なのだ。
杏子の両親も、ゾーンだった。いや、関根家だけではない、マンション住民のほとんどが、アザエルに感染してゾーンとなっていたのだ。
そして、丈がそれを処理した。
どんなふうだったのかは、訊かなかった。丈が自分の両親をどうしたのか訊かなかったのと、それは同じだ。
もういない、ということに違いはないからだ。
杏子の両親も、そして、音緒の両親も。
音緒は首をひねって、助手席のシートごしに背後を見た。モノサイクルが一台と、その左右に武器のラックがある。ラックに収められているものが、どういった武器なのかは音緒には判らない。けれど、とにかく物凄い量だ、ということだけは確かだ。
だから、そう言った。
「それでも万全とは言えないわ」
というのが、ダリアの回答だった。
「こんなに沢山あるのに?」
「量は問題ではないのよ」
オレンジ色の照明に照らされた通路を、ダリアは真っ直ぐに見つめている。
「きちんと作戦を立てて、それに沿った武装を準備しないと意味がないの。今回の相手は偶発的に生じたタイプだから行動パターンが読めないし、何よりサイズが大きすぎて今までの方法では対処出来るかどうか判らないもの」
つまり、何らかの方法で動きを止めておいて焼却する、という方法だ。それが、今回は通用しないかも知れないのだ。
「焼却そのものは、時間をかければ不可能ではないわ。でも、足止めの方法が……」
そこまで聞いた時だ。
「あ!」
突然に、見えた。
目の前の景色とは別の光景が、突然、音緒の頭に飛び込んできたのである。
映像は、いつものように瞬間的だ。だがそれは、肉眼で見えるものを圧倒してしまうほど鮮明で、かつ強烈なイメージだった。
「ダリア」
「見えたの?」
「見えた! 丈に連絡して!!」
聞こえてるぜ、という丈の声は、やはりノイズがひどかった。
大型オートバイが、もたもたと渋滞する車の間をすり抜けてゆく。車間に滑り込み、車と車の間を数センチの余裕で潜《くぐ》り抜けるのだ。その軽快な挙動は、とてもアメリカン・タイプのものとは見えないだろう。
たとえ過去形で語らねばならないとしても、黒川丈がプロ・ライダーとしての技術を持っていたことに違いはない。それは格闘技術と同様、彼の補助脳にきちんと保存されているものだ。機械の手足は、補助脳からの反射的な信号に、ナノ秒単位で反応する。そこにサイボーグとしての体力が加われば、重く大きな車体が、まるでオフロード車のように軽々と舞うのである。
ゾーンの姿は、しばらく前から見えなくなっている。
見失ったのではない。
追い抜いたのだ。
行き先の見当さえつけば、時速せいぜい六〇キロのゾーンの後を、もたもた追跡する必要はない。横道にそれた丈は、ゾーンのルートと並行する道路を走っていた。少し遠回りして緊急地下道路を抜けた方が早いのは判っていたが、識別信号を発信しないオートバイでは、また警報を作動させてしまう。そうなると時間差で追いついてくるはずのダリアと音緒が、検問に引っ掛かってしまうだろう。
ひょっとしたら、と丈は思った。
到着は、ほぼ同時かも知れない。もしそうなら、こっちもハナっから武装して敵を待ち受けることは諦めた方がいいだろう。
音緒の素っ頓狂な声が飛び込んできたのは、そう考えた時だった。
「見えた! 丈に連絡して!!」
「聞こえてるぜ」
次に聞こえてきた、ごそごそいう音は、音緒が少しでもマイクに近づこうとしている音らしい。おかげで続く言葉は、いきなりボリュウムが大きかった。
「床が落ちるわ!」
「なに?」
「底が抜けるの! 杏子ンとこのマンションって、地下室ある?」
「あるぞ」
「やっぱり! それ、底が抜けるわ! あのデッカイ奴ごと、地下へ落ちる!」
なるほど、と丈は思った。
彼が見たのは空調施設だけだったが、それでも、かなり大規模なものだった。だからこそマンション中のゾーンの巣を、根こそぎ焦熱地獄に叩き込めたわけだが、それ以外の管理施設も全て地下に設置されていた可能性は、充分にある。
そこへ、あれだけ巨大なゾーンの体重が加われば、確かに底が抜けるかも知れない。
いや、かも知れない、ではない。
音緒はあの巨大ゾーンも見ているし、関根杏子の住むマンションも知っている。その上で超演繹能力が働いたとすれば、そうなる可能性は限りなく一〇〇パーセントに近いはずだ。
「ダリア、聞いてるな?」
「はい」
「ロケット・ランチャーは積んであるな」
「はい」
「到着と同時に、稼動状態にしとけ。それから音緒!」
「聞いてるよ!」
「助かった。勝てるぞ」
ほんの少し、間があった。
「はいッ!」
返ってきた返事は、丈の鼓膜を突っ張らせた。
残る問題は、時間的な余裕だけだ。
「ダリア、そっちの現場到着は!?」
「推定、一七分後」
「標的の方は!?」
「推定、一六分後」
一人でやれ、ってかい。
待てよ。て、ことは?
道路の行き先表示に目を走らせた丈は、現在地から目的地までを逆算した。
「やれやれ、だ」
猶予された時間は、六分を切る計算だった。
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第五章 ブレイクダウン
1
十人ほどの男女が、通りを隔てた反対側の歩道からマンションの建物を見上げている。ほとんどが主婦と老人だ。中年の男も一人だけ混じっている。不安げな、あるいは不審げな表情だ。その前を走り抜けた丈は、膝《ひざ》を擦る寸前まで車体を傾けて、敷地内へと滑り込んだ。
「ダリア。避難は?」
「完了。マンションは無人です」
なるほど、警報装置が、びーびー鳴っている。さっきの連中が、つまり残りの住人全部というわけだ。
玄関ホールの前にバイクを停《と》めると、丈はエントランスの強化ガラスを一撃で蹴破《けやぶ》った。
「カウント・ダウンだ。奴の到着時刻までを分単位で」
「了解。残り五分四〇秒」
急げ、ってことだ。
地下への入口は、覚えている。鉄製のドアを、これも引っぺがした。修理の費用を心配してやる必要はない。どうせ底が抜けて倒壊するのだ。
照明は点《つ》けずに、薄暗く長い階段を、右目の暗視装置を作動させて降りてゆく。後味の悪い思いを抱えてこの階段を登ったのは、つい何時間か前のことなのだ。
「残り五分」
ダリアの声が告げる。
地下施設は、丈が撤収した時のままだった。
確かに、広い。よく見ると空調施設の奥に、何か別の機械が設置されていた。さらにその奥にも。どれもが薄いモス・グリーンに塗装され、それぞれが一抱えほどもある太いパイプに接続されて、唸《うな》りをたてている。パイプは全《すべ》て、天井や壁へと続いていた。
空調や電気、ガス、上下水道などを別々に管理する、旧《ふる》いタイプなのだ。だからこその作戦であるとも言える。
だが、問題があった。
「まずいな」
広さは充分なのに、思ったより天井が低いのだ。
つまり、それだけこの地下施設が浅いということだ。一階フロアの厚みを入れても、せいぜい地下五メートルかそこらだろう。
おかしい。
融合したゾーンの総数から目算すると、巨大ゾーンの体重は大雑把に考えても一万七千キロ前後。一〇トンをはるかに超える加重が建物に対して一気にかかれば、確かに底くらいは抜けるかも知れない。
だが、それだけだ。
落とし穴が浅ければ、すぐに這《は》い上がってくる。
しかも崩れる建物の瓦礫《がれき》と一緒に落ちてくるのだから、容積の何割かは崩落した瓦礫で埋まることになる。下手をすれば全く効果がないかも知れないのだ。
「ああ、そうか」
音緒は、底が抜ける、と言っただけだ。
丈は、それを勝手に拡大解釈してしまったのである。
「しゃあねえなあ」
それでも、手を打たないよりは、いくらもマシだ。
「全管理システム停止」
「了解」
途端に、地下室の唸りが消えた。
右目を熱感知に切り換えた。機械の表示をいちいち確かめるより、この方が目的の物を捜すには早い。
だが目的の物より先に、
「あん?」
丈は別のことに気がついた。
視界の隅に、奇妙なものが見えたのである。
左ではない。
右の目だ。
熱感知に切り換えた右目に、奇妙な放熱パターンが映っている。
機械が発するものではない。
奥の方の壁面の、床と接する辺りに、そこだけ黄色い陽炎《かげろう》のようなものが、ゆらゆらと動いている。地下室のさらに地下に、何か熱源が存在するのだ。
暗視眼に切り換えた。
ズームする。
それは何の変哲もない、ただのひび割れだ。気温の変化か、あるいは軽度の地盤沈下によって生じたもののように見える。幅は決して細いとは言えないが、何ら不審な点があるようにも思えない。
だが再び熱感知に切り換えると、やはり、そのひび割れから、かすかな熱が立ち昇っているではないか。
「ゾーン到着まで残り四分」
ダリアが告げる。
時間がない。とっとと作業にかかるべきなのは判《わか》っている。だがハンターとしての彼の勘が囁《ささや》くのだ。
何かある。
ひび割れを覗《のぞ》き込もうと、丈は壁に近づいた。
すぐに、気がついた。ひび割れではない。
継ぎ目だ。
周囲のコンクリートと色も質感も揃《そろ》えられているが、よく見ると、それは何か樹脂のような別の素材なのである。継ぎ目は、ぎざぎざとした線を描いてはいたが、全体的にはアーチ型だ。壁に開けられた穴を、応急的に『蓋《ふた》』をして塞《ふさ》いであるようだ。
「何だ、こりゃ」
その『蓋』の一部が、床の辺りで欠けてしまっていたのである。
丈は床に這いつくばるようにして、欠けた部分を覗き込んだ。
奥は意外に深い。壁の厚みの向こう側に、さらに空洞が拡《ひろ》がっているようだ。
熱は、下からだった。
「何だこりゃあ……!」
もう一つ、巣があった。
命懸けの闘いに、ふわふわと浮っついたものを持ち込む気は、ない。けれど音緒は、この時、どうしても口にしないではいられなかった。
「ねえ」
ハンドルを握って前を向いたまま、何か、と応《こた》えるダリアの声は、やっぱり固い。
それでも、
「あたし、嬉《うれ》しいや」
言ってしまった。
「何が?」
「丈が、助かった、って言ってくれたこと」
「勝てる、とも言ったわね」
「うん」
そうなのだ。
今まで、自分の『才能』を嬉しいと思ったことは、なかった。
丈に出会うまでは。
それが今では、ちゃんと嬉しい。
誇りに思える。
自分の中の嫌いなものが消えてしまうということが、これほど大きな意味を持っているとは、音緒は知らなかった。秘密にしておかないでも受け入れてくれる人がいるということが、これほど大きな意味を持っているとは、音緒は知らなかった。
「ネオ」
「はい?」
「私も、感謝してるわ」
感謝?
ダリアが?
アンドロイドなのに?
ダリアは、こちらを見ていた。
「あなたのこと、好きよ」
音緒は、そのダリアの表情に、言葉を失った。
ああ、なんてこと。
ダリア、あなた、そんな顔も出来るんじゃないの!
それは、一瞬のことだった。
次の瞬間には、ダリアはまた、もとのダリアだった。
「残り三分」
丈からの応えは、なかった。
代わりに、聞き覚えのある少女の声が叫んだ。
「おまえッ!」
背後からの叫びは、女の声だ。振り返った丈が見たのは、一人の少女だった。
ほとんど裸だ。可愛《かわ》いらしいデザインの制服は、あちこちが焼け焦げ、破れて、肩や太股《ふともも》や乳房が覗いている。
「お前か! お前がやったのか!」
関根杏子だ。
脱出したのだ。
あの状況から。
丈が撃ち飛ばしたはずの腕は、既に再生を終えている。剥《む》き出しの肌にも、火傷《やけど》の痕跡《こんせき》すらない。
「わた、私のパ、パパとママを、殺したのか!」
ぎりぎりと、文字どおり顔を歪《ゆが》ませながら叫ぶ杏子は、一人だけだ。もう一人の『黒川丈』の姿は、見えない。
炎の中から、一人で逃げ出してきたのだ。
そして巨大ゾーンと同じように、『家』へと逃げ帰った。
だが出迎えてくれるはずの家族は、既にいなかったのである。
「答えろ!」
少女の怒声に、
「ああ」
応えて、丈は立ち上がる。
「俺がやった」
少女の目が、信じられない角度で吊《つ》り上がった。
瞳《ひとみ》は、針で突いたような点だ。
その目に、みるみる涙が浮かぶ。
「あんなに小さくなって……、あんなに萎《しな》びて……」
神経ガスと高熱、二つの不適合環境に抵抗して急激な単世代進化を繰り返した結果、車体を燃やして暴走する機関車のように、燃え尽きてしまったのだ。
「気の毒だったな」
その言葉は、心底からのものだった。
関根杏子が流す涙と、音緒が流した涙の間に、何の違いがあろうか。
「あんたを殺すわ」
杏子は言った。
「あの人と同じ顔してるだけで、許せないのよ!」
「わりぃな、版元は俺の方なんでね」
ギア!
杏子が跳んだ。
丈の反応は、一瞬、遅れた。
不覚だった。相手が『知能』ではなく『知性』を持っているという事実を、甘く見てしまったのである。
そして、ゾーンの腕力も。
丈にとって初めての衝撃が、右の腕から肩へと抜けた。どす、という重い音は、サイバネティクスの右腕が床に落ちる音だ。
右腕の、肘《ひじ》から先が失われていた。床に転がった腕は、中途半端に展開したまま停止している。何本ものスライド・アームが銃の部品を、今まさに掌《てのひら》の中で組み立てようとする寸前の状態である。武装ポッドの展開という、機構的に最も脆弱《ぜいじゃく》にならざるを得ない瞬間を狙《ねら》われたのだ。
音緒の予知は的中した。
丈は一瞬にして、右腕を失った。
腕が千切れたぐらいじゃ死なん、と彼は音緒に言った。だがこの状況では、いささか話が違ってくる。補助脳で『激痛』に変換された異常信号に丈が腕を押さえるよりも早く、彼は関根杏子の突進を真っ正面から受けてしまっていた。
脚がもつれ、後方に倒れ込んだ。
あの、ひび割れの壁に向かって。
背中が衝突を感じたのは、ほんの一瞬だった。得体の知れない『蓋』が砕けた。
丈と杏子はもつれ合ったまま、闇《やみ》の中へと落ちて行った。
杏子の声だ。確かに今、無線機のスピーカーから杏子の声が聞こえたのだ!
ダッシュ・ボードに埋め込まれたマイクに向かって思わず乗り出した音緒に、
「駄目よ」
ダリアが言った。
「なんで! だって杏子が! 杏子が丈を……」
「判ってるわ」
静かに、しかしはっきりと。
「だから、邪魔しないであげて」
邪魔、という言葉に傷つきはしたけれど、しかし音緒は、ようやく理解した。
耳元でわめかれたって、意味がないどころか、邪魔なのだ。
丈の邪魔はしたくない。
どんなに心配でも。
その代わり、音緒はダリアに言った。
「急いで」
「ええ」
銀色のバンは、地下通路を出た。
一般道への合流は、驚くほど簡単だった。他に一台の車も走っていなかったからだ。
その理由は、音緒にもすぐ判った。
路上駐車の車が、みんなぺしゃんこに潰《つぶ》れている。歩道に乗り上げてボンネットから煙をあげている車もある。正面衝突したらしい車もあった。
その周囲では不安げな、あるいは恐怖に怯《おび》えた表情の人々が、これから音緒達が向かおうとする方向を見ている。
ゾーンだ。
巨大なゾーンの姿が、ほんの百メートルほど前方にあった。
炎はもう消えているし、煙もあげていない。黒こげの表皮が剥《は》がれ落ちて、下から紫色の肉が見えている部分もあった。
「追いついた」
ダリアの言葉に、もっと急いで、と言おうとして、あやうく音緒は舌を噛《か》むところだった。ダリアが突然、左へとカーブを切ったからだ。
「なに?」
「追い抜くのよ」
加速しながら、ダリアがマイクに向かって、残り時間を告げる。
「残り二分」
返事は、やはりなかった。
後頭部を、したたかに打ちつけた。頭蓋《ずがい》の後ろ半分が人工物でなかったら、そして緩衝液が瞬間的に濃度を高めて脳を保護してくれなかったら、確実に失神していただろう。
「う……!」
丈が呻《うめ》くのは、機械の躯《からだ》が受けたダメージを補助脳が変換して伝えてくる『痛み』のせいだけではなかった。馬乗りになった少女の顔が、見下ろしていた。
その向こうに、光が見える。
たった今、二人が落ちてきた穴だ。おそらくゾーンの分泌《ぶんぴつ》物を硬めたものだったのだろう。『蓋』は跡形もなく砕け散って、ぎざぎざのアーチ型の穴が、ぽっかりと開いているのだ。丈はアザエルに感染した少女の下敷きになった恰好《かっこう》で、たっぷり四メートル以上を落下したのである。
そこは、広大な空間だった。
おそらく、マンションの地下施設と同じものが、そっくり入るだろう。それだけの空間が、地下室のさらに下に広がっていたのだ。土を掘り、地面を抉《えぐ》って作られた、それは地下空洞だった。
丈は仰向《あおむ》けになって、関根杏子に組み敷かれていた。
少女の細い指が、喉元《のどもと》に食い込んでいる。
「殺してやる」
関根杏子は宣言した。
「私の子供たちに喰わせてやるわ。食べられるのはアタマだけだから、すぐに喰い尽くされちゃうわよね」
「子供だと」
応える丈の声は、かすれている。喉を締めつけられ、空気が満足に通らないのだ。高効率の人工肺でなかったら、とっくに窒息《ちっそく》しているだろう。
杏子の言う『子供たち』が、二人を囲むように闇の中で蠢《うごめ》いている。
「これが、かよ」
「そうよ」
上から覗いた時、それは無数の熱源体だった。赤の周囲にオレンジ色をにじませた、無数の光の点として見えただけだった。
だが今、その姿が、はっきりと見える。
Eクラス。
子犬ほどのサイズの、小型のゾーンだ。
どれも同じ形をしている。それはゾーンを生み出すアザエルの特性上、本来ならば考えられないことだ。だが現に、そいつらは存在するのだ。
クモか、あるいはダニのような姿だ。しかしその手足は人間の形をしており、その顔は扁平《へんぺい》に潰れてはいるが人間の赤ん坊に酷似している。
そんな連中が……関根杏子の『子供たち』が、二人を遠巻きにしているのだ。
うじゃうじゃと。
無数に。
数えきれないほど。
「私が産んだのよ。苦しい思いして産んだの」
それは、あり得ないことだった。
ゾーンに生殖能力はないのだ。
いや、ないはず、だ。
また、進化したのか。
それとも、何か別の手段なのか。
どちらにせよ、そこにあの『黒川丈』が関与していることは、絶対に間違いない。
「皆、私の言うこと、よく聞くのよ。今あんたを襲わないのは、私が襲えって言わないからよ」
少女の口が倍ほどの大きさになった。
「だって、お前は私が殺したいんだもの」
丸見えの乳房に、ぼこぼこと太い血管が浮き出た。
「さあ、どうやって殺して欲しい、ゾアハンター」
喉を締め上げてくる杏子の手首を掴《つか》んだが、びくともしなかった。馬乗りになって体重を乗せているとは言え、か細い少女の腕力がサイボーグのそれを上回っているのだ。
やったな、村瀬友則。
あんたのアザエルは、こんな怪物を作ったんだ。
ダリアの声が、残り二分を告げてきた。
冗談じゃねえ。早くデートを切り上げないと、潰されちまうぜ。
「このまま首を引っこ抜いて欲しい? それとも喰いちぎってあげようか?」
言いながら、あんぐりと口を開く少女の顔には、あの清楚《せいそ》とも思えた面影は微塵《みじん》も残ってはいない。吊り上がった眼を剥き、牙《きば》の並んだ口を開けて涎《よだれ》を垂らした、それは歪《いびつ》な肉食獣の顔だ。
知ってるんだよ、と少女は言った。
「お前の銃は右手から出る。お前の剣も右手で抜く。右手がなければ、お前は何も出来ないんだ」
そうだ、と応える丈は、唇に笑みを浮かべていた。
「ただし、そこンとこまではな」
言うなり、丈は少女の手首を掴んでいた手を放す。そして肘を直角に曲げると、自分と杏子の躯の間に、一気に滑り込ませた。
「ぎあ!」
悲鳴。
丈の、ではない。
杏子の、だ。
首を掴む力が失《う》せ、腹にのしかかっていた体重が失せる。腰を浮かせた杏子の両脚の間に、丈は膝を割り込ませて、押し戻した。
仰向けに引っ繰り返った関根杏子の右脇腹が、ざっくりと裂けていた。あるいは、割れていた、と言うべきかも知れない。腹の真ん中から、脇を回って背中の真ん中まで、ぱっくりと開いているのだ。
仰向けのまま、杏子の脇腹からは、どくどくと体液が溢《あふ》れ出ている。電子ブレードの充電が切れているため、焼灼《しょうしゃく》が行われなかったのだ。はみ出た内臓が、早くも脈打ちながら、別の形をとり始めていた。
「そんな!」
その声は、悲鳴というより非難の声に近い。
「丈が言ったのにぃい!」
「そりゃあ、おめえよ」
立ち上がった片腕の男の姿を見て、野獣の顔に驚愕《きょうがく》が広がる。
「おめえにオトコを見る目がなかった、ってこった」
丈はブレードを抜いてはいなかった。
刃は、直角に曲げた彼の肘から伸びているのだ。
電子ブレードを『抜刀』する際、まず上腕背面のスリットが開き、折り畳まれていたブレードが展開する。この時点でブレードは左腕の前腕部を鞘《さや》にする恰好になり、これを引き抜くことで使用状態となるのだ。丈は今、左の拳《こぶし》を開いてブレードを抜くという通常の手順の、その手前の段階で武装ポッドを固定したのである。
関根杏子が、起きあがろうともがく。
だが、駄目だった。左体側の筋肉が切断されているのだ。
周囲で、ざわり、と蠢くものがあった。
杏子の『子供たち』だ。
腹を裂かれた『母親』に、じわじわと迫っている。
ひい、と杏子が悲鳴をあげた。
「やだ! 来ないで! 来るな!」
無駄だ。『知性』を持たないゾーンは、確実に、その本能に支配されているのだ。負傷し、身動きもままならない相手を放《ほう》っておくようでは、ゾーンではない。
たとえそれが同属でも。
『母親』でも。
ゾーンの世界に『愛』などない。あるのは、限りない食欲を満たそうとする渇望だけなのだ。
「助けて! たすけてぇええ!」
わりいな。
それは出来ねえ。
たとえ、あの涙を見た後でも、だ。
関根杏子の『子供たち』は、餓鬼のように『母親』に群がった。
絶叫が、地下空洞にこだました。
一般道に出てからのダリアの運転は、信じられないものだった。信号も一時停止も進入禁止も、一切おかまいなしだ。何台もの車に急ブレーキを踏ませ、何人もの通行人に間一髪の悲鳴をあげさせる。助手席の音緒はドアの補助グリップを掴み、反対側の手をダッシュ・ボードに突っ張り、両足を床に踏ん張って、それでも右に左にと振り回された。
だが音緒は、悲鳴もあげなかったし目も閉じなかった。
しっかりと前を見据えていた。
駅前のロータリーを回る時には片輪が浮いてるんじゃないかとさえ思ったし、後輪が横滑りしてダリアがカウンターを当てるのを見た時は転倒するとさえ思った。
それでも、停めてくれとは言わなかった。
見えてきた。
横に長い長方形のマンションが、通りを挟んで行儀よく二列に並んでいる。左側の手前から五つ目が、目指す建物だ。
早く。
速く。
もっと急いで!
だがついに、
「あっ!」
音緒が声をあげた。
「違うダリア、こっち!」
素通りしてしまったのである。
振り返って指さすのは、マンションの駐車場への進入口だ。みるみる遠ざかってゆく。そこからでなければ、車で敷地に入ることは出来ないのに。
だが、
「いいのよ」
ダリアは隣の棟の手前まで行ってから、ようやくバンを停めた。助手席の窓から振り返ると、手前の植え込みの向こうに問題の棟が見えていた。
「現場に到着。ロケット・ランチャー稼動準備を始めます」
ダリアの報告に、
「おう」
今度は返事があった! 背中を弾《はじ》かれた音緒は、シート・ベルトに胸を詰まらせた。
「丈! 無事?」
「ああ、心配すんな。そこで待機してろ」
「はいッ!」
見るとダリアの方は、とっくに作業を始めている。
ラックから何やら大きな大砲みたいな物を降ろしながら、アンドロイドは音緒に言った。
「ジョウに伝えて。残り一分」
残り一分。
時間がない、と丈は思った。
一分というのは、あくまで予測に過ぎないのだ。
実際には一分もないかも知れない。
地下空洞から、もとの地下施設まで戻る。
跳躍、一回。
丈は感覚的に、やはり深さは四メートルほどと踏んだ。床の厚みを考慮すれば、つまりこのマンションは地下一〇メートルほどの落とし穴の上に建っていることになる。
これなら、いける。
ただし罠《わな》の設置が間に合えば、の話だ。
丈は右目の視界を、暗視から再び熱感知に切り換えた。
時間が経《た》ってしまったので反応が弱まっているが、それでも、目指すパイプはすぐに判った。他のパイプより、明らかに温度が低い。
連結部分を狙って、足を振り上げ、踵《かかと》から叩《たた》きつけた。
がん、という硬い音とともに連結部が外れ、パイプ内部に残っていた大量の水が溢れ出て床を濡《ぬ》らした。
もう一本。
さらに、もう一本。
「残り三〇秒!」
音緒の報告は、つまり、早くしろ、ということだ。
四本目と五本目も、一気に蹴り壊した。どうも、この施設に付近一体の配管が集中しているようだ。あるいは、マンション群の全ての棟を、ここで集中管理しているのかも知れない。
「残り二〇秒!」
「判った。ダリア、上水道を再始動」
了解、という声は、音緒がダリアの返事を中継して戻ってきた。
加えて、
「残り一〇秒! ロケット・ランチャー準備完了!!」
はいはい、だ。
こっちも早いとこ済ませますよ。
丈が壊したパイプから、大量の水が噴出し始めた。
一抱えほどもあるパイプの太さいっぱいに、圧倒的な圧力で、ほぼ水平のゆるやかな放物線を描く。吹き出した透明な水は、向かい側の壁面や機械に叩きつけられ、床に溜《た》まってみるみる厚みを増してゆく。その一部は、壁に開いた穴へと流れ込んでいた。壁の穴がなければ、数分で地下施設を水没させそうな勢いだ。
よし。
時間いっぱいで、何とか間に合う。
だが、そうはいかなかった。
丈は同時に、二人の女に呼ばれた。
一人は、音緒。
もう一人は、杏子。
地響きが少しずつ近づいていることには、音緒も気づいていた。
だが、姿は見えなかった。
だから突然、あまりにも近距離でそれを見てしまった音緒は、自分の見ている物が信じられなかった。
てっきり、後方から来ると思っていたのだ。だがそいつは、路肩に停車した銀色のバンの前方、道路を隔てた向かい側のマンションの陰から姿を現したのである。
ゾーンだ。
巨大な。
さっき見た時は、焼け焦げの間から紫色が見えていた。
今は、逆だ。紫色の皮膚の、ところどころに炭化した皮膚が、孵《かえ》ったばかりのヒナにくっついた卵のカラみたいに、貼《は》り付いている。
再生しているのだ。
驚くべき速度で。
そして、ということは、こいつは今、猛烈に腹が減っているということだ。
マンションの前で遠巻きに状況を見ていた人々が、声もあげずに顔をひきつらせて逃げだした。
あわてて立ち上がろうとした音緒は、シート・ベルトに遮られた。あわててキャッチ金具を手でさぐる。視線はフロント・グラスごしの巨大な異形に張りついて離れない。ようやく探りあてたが、今度は解除スイッチが判らない。
手が震える。
巨獣が、まっすぐにこちらに向かってくる。
「ダリア!」
はい、と応えるアンドロイドは、なんでなのよ、こんな時でさえ冷静だ。
「潰される!」
「いいえ」
そのとおりだった。
振動で上下に揺さぶられながら、しかし音緒もダリアも、二人の乗ったバンも、潰されはしなかった。紫色の巨体は直撃コースをわずかに逸《そ》れ、バンの後部を撥《は》ね飛ばしそうなくらいに接近しながらも、しかし触れもせずに通りすぎてゆく。
ダリアがバンをこの場所に停めた理由が、やっと判った。彼女は、ゾーンの現れる位置も、そしてコースも、全てを計算していたのだ。
だが、
「丈!」
思わず、音緒は叫んだ。
ゾーンはコンクリートの枠ごと生け垣を踏み潰し、駐車場の乗用車を踏み潰し、街灯をへし折って驀進《ばくしん》してゆく。
彼の邪魔をするつもりはない。
彼の邪魔はしたくない。
けれど、叫ばずにはいられなかった。
「丈! ゾーンが来た!」
そして真《ま》っ直《す》ぐに、丈のいる建物に向かっているのだ。
「逃げて!」
丈、と音緒は叫んだ。
まてぇ、と関根杏子は呻いた。
その両方に、丈は応えなかった。
「殺す。殺す。殺す」
歯を食いしばって呻くように呪《のろ》いの言葉を吐く少女は、喰われていた。
自分の『子供たち』に。
壁に開いた穴の縁に手をかけ、流れ込む水に逆らって立ち、関根杏子は丈を睨《にら》みつけてくる。その姿は、ゾアハンターでさえ目をそむけたくなるほどのものだった。
丈に断ち割られた脇腹から、千切れた臓物がぶら下がっている。太股には齧《かじ》り取られた跡がいくつも残り、乳房も肩も頬《ほお》も抉られている。衣服はほとんど残っておらず、その裸体はクレーターだらけの月面みたいだ。
全ての傷口が、ぶくぶくと泡立ち、蠢いていた。
再生が追いつかないのだ。
「やめとけ」
それでも俺は、ここで死ぬわけにはいかないのだ。
ゾーンが来た、と音緒が叫んでいる。
逃げて、と。
すぐに、どん、と揺れた。
天井から埃《ほこり》が舞い落ちた。
来やがった。
天井が、壁が、ぎしぎしと軋《きし》んでいる。ゾーンの重量に、建物が必死で抵抗しているのだ。だがどんな強固な建造物でも、一〇トン以上もの重さを、しかも外側から加えられる事態を想定して建てられているわけではない。まして、その質量が自分の意思で動くとなれば、建造物に加わる力は不規則に変化するのだ。
「丈、早く逃げて!」
音緒の声は、完全に悲鳴だ。
「底が抜けちゃうよおッ!!」
判ってるさ。
だが、逃げるわけにはいかない。まだ一つ、作業が残っているのだ。
それに、目の前に敵もいる。
哀れな敵が。
「殺してやる」
この子も、犠牲者だ。
「ぶち殺してやる!」
言い訳は、いくらでも出来る。だが、あの時、丈が『奴』を見逃した、その結果の一つが今のこの少女の姿である事実は、決して動きはしないのだ。
よろり、と動いた。
もう跳びかかっては来なかった。
少女は泣いていた。
大きすぎる瞳から、ぼろぼろと涙を流していた。
怒りのあまり?
それとも、運命に?
「すまん」
言うなり、丈は床を蹴った。
杏子に向かって。
一時的にであれ、ゾーンの動きを停止する方法は、二つある。
一つは、肢《あし》あるいは肢に相当する移動器官を切断、または破壊すること。
もう一つは、個体の運動を統括する脳を破壊、あるいは本体から離断すること。
今度は、丈の動きの方が、はるかに速かった。杏子が突き出す両腕の、その間に、彼は一直線に飛び込んだ。
サイバネティクスの拳が、少女の眉間《みけん》を打った。
たとえ脳を破壊しても、ゾーンは殺せない。
けれど関根杏子の記憶は、意思は、精神は、心は、この瞬間に死んだ。
一直線にマンションに突進したゾーンは、まるでサナギになろうとしているイモムシのように反らせた巨体を、そのまま建物に叩きつけた。横に長いマンションの、ちょうど真ん中辺りである。のしかかるゾーンを中心として外壁に亀裂《きれつ》が走り、窓ガラスが一斉に割れた。
だが、建物を壊そうとしているわけではない。
音緒には、すぐに判った。
家を見ているのだ。
自分の部屋を、覗いているのだ。
ゾーンの巨体の、その先端部は、音緒も知っているあの部屋の窓の辺りにある。『家』に逃げ戻ったゾーンが、『家族』に助けを求めているのである。
だが、音緒は見てしまった。
ゾーンの顔を。
その巨大な体躯《たいく》に不釣り合いなほど、小さな小さな顔を。
我が家を覗き込んだ関根杏子の顔が、驚愕に歪んでいた。
泣いていた。
杏子が。
音緒の知っている杏子ではない杏子が、ぶよぶよと膨らんだ躯を反り返らせ、場違いなほど青々とした空に向かって泣いていた。
ああ、ああ、と声をあげて。
しかしその声は、家族を失った少女の涕泣《ていきゅう》ではない。質の悪いスピーカーの最大音量で再生されるように、ささくれ、けばだった耳障りな轟音《ごうおん》だ。
声ばかりではない。
その姿は、紫色の巨大なイモムシだ。
あるいは、巨大なヒルか。
これだ、と音緒は思った。
彼女が見たのは、まさにこの光景なのだ。
つまり、
「丈、早く逃げて! 底が抜けちゃうよおッ!!」
だが、やはり返事はない。
お願い。
丈、お願い。
返事して!
建物が軋む。窓のガラスがラメをまき散らすみたいに光を反射しながら降り注ぎ、砕けて半分になったバルコニーから砂の滝みたいに埃が落ちてくる。
早く逃げないと、崩れちゃうよ!!
「丈!」
「おう」
応えた!
「大丈夫だ。上の様子は」
「こっちは」
音緒が応えようとしたその時だった。何かが爆発したみたいな、腹の底に響く大音声が轟《とどろ》いた。追突でもされたように車体が揺れ、ドアの窓が震えた。
「丈!」
音緒の、それは悲鳴だった。
ゾーンの巨体が建物にめり込むように、ゆっくりと倒れ込んでゆく。
倒壊が始まった。
2
バンの窓越しに見えるその光景に、音緒は言葉を失っていた。
ゾーンが沈んでゆく。
壁の中へ。
のしかかる圧倒的な重量に耐えきれず、外壁が、ついに砕けたのだ。
壁の奥へと沈んでゆくゾーンの周囲から、嘘《うそ》みたいにゆっくりとした速度で埃が沸き上がり、紫色の巨体を覆い隠してしまいそうな密度で盛り上がってゆく。分断された恰好の建物の両側も、ゾーンの重みに巻き込まれるように内側に倒壊し始めた。
ゆっくりと。
信じられないくらい、ゆっくりと。
コンクリートが砕け、鉄骨のひん曲がる音が、ひと続きの轟音となって響く。空気が振動し、地面が揺れる。
崩れてゆく。
その下に、丈がいるのに!
「丈!」
地鳴りの音が、窓の外とスピーカーから、同時に聞こえてくる。
「返事して! 丈! 丈ってば!!」
返事の代わりに、どすん、どすん、と何か重い物が落ちる音だけが返ってきた。
「丈!」
聞こえた。
丈の声だ。
だがそれは、返事ではなかった。
「おぉぉおぉおおおぉおおおぉぉお!」
雄叫《おたけ》びだ。
音は遠かったが、振動は近い。縦に一回だけ、しかし大きく揺さぶられた。膝まで溜まった水が、嵐《あらし》の海のように波うった。
天井を端から端まで、一瞬で亀裂が横断する。
まだ底が抜けたわけではない。
だが地震のような揺れは続いているし、そのたびに腹の底に応える低音が響く。見れば天井の亀裂も徐々に幅を広げていた。それも、こちら側に向かって盛り上がろうとしているのだ。
丈は、すぐに事情を呑《の》み込んだ。
上では建物の倒壊が始まっているのだ。
さっきから耳元で叫んでいる音緒の声は、逃げて、と繰り返す。
判ってる。
逃げるべきだ。底が抜ける時は一瞬なのだ。それが始まってからでは、きっと脱出は間に合わないだろう。
だが、
「糞《くそ》ったれが!」
まだだ。
今ここで始末をつけなければ、確実に被害は拡大する。たとえ瓦礫に押し潰されても、ゾーンは決して死にはしないのだ。
身を焦がす炎から逃れるために、強引な融合を果たす連中なのだ、いくらか時間はかかるだろうが、分離して脱出するくらいのことは、やってのけるだろう。それに『関根杏子』も一時的に制御を失っているだけだし、その『子供たち』も瓦礫の隙間《すきま》から逃げ出して散ってしまうに違いない。
そうはいくか、と丈は思った。
俺は逃げない。
貴様らも逃がさない。
殺す。
どうしても、今ここで。
次のパイプは、他のものより温度が高いはずだ。時間が経っているのと、噴き出す水をかぶっているのとで、見つけるのに少し時間がかかった。
よし、あれだ。
一抱えほどの太い金属パイプが壁から伸びて制御装置に繋《つな》がり、制御装置からはさらに数本の細いパイプが伸びて天井の何箇所かに接続されている。
太いほうのパイプが機械に接続される部分に近づくと、丈は左手の指を突き立て、チョコレートの銀紙を剥くみたいに一気に引き裂いた。中に納まっているのは黒い絶縁ゴムに包まれた極太のケーブルだ。
裂けたパイプに腕を突っ込み、中のケーブルを抱える。
そのすぐ側《そば》に、頭ほどの大きさのコンクリートが落ちてきて、埃を舞い上げた。
ケーブルを引っ張った。
出力が思うように上がらない。
おそらく、右腕を失ったせいだろう。右腕からのフィードバックを失ったシステムが、全身のバランスを統括しきれないのだ。生身の肉体と同じく、彼のサイバネティクスの躯もまた、精妙なバランスの上に成立しているのだ。
ケーブルを抱えて、丈は床に右足を、制御装置に左足をかけて全身の力を込めた。ブレードが使えれば問題はないが、抜くことが出来なければ硬いケーブルを切断するのは不可能だ。引き千切るしかないのだ。
叫んだ。
「おぉぉおぉおおおぉおおおぉぉお!」
腹の底から雄叫びをあげた。
こいつを済ませない限り、逃げるわけにはいかない。これで奴が倒せるかどうかは判らないが、だが、やらなければ確実に逃げられるのだ。
どすん、どすん、という音とともに、振動は続いている。天井のコンクリートも、次々と剥落《はくらく》してくる。
本格的に倒壊するのは時間の問題だ。床にまで亀裂が走った。
死ぬわけにはいかない、と思った。
こんなところで死ぬわけにはいかない。
ほんの何十分か前には、彼は死を覚悟してナパーム弾を手に取った。
だが今は、何があっても死ねないと思っている。
突然、丈はその意味に気がついてしまった。
なぜさっきは、死を覚悟することが出来たのか。
なぜ今は、死を覚悟することが出来ないのか。
おいおい、マジかい。
相手はまだ高校生だぜ。
歯を食いしばったまま、苦笑した。
その途端、ふいに抵抗がなくなり、丈はまともに引っ繰り返って、すでに腰の辺りまで溜まっていた水の中に、仰向けに倒れ込んだ。
仰向けになった丈の目に、ついに亀裂が大きく口を開くのが見えた。
音緒は今、自分自身の言葉が現実となる瞬間を目撃していた。
不意打ちのように、それは突然だった。
分厚い埃の向こうにかろうじて見えていたゾーンの巨体が、ゆっくりと動いたのだ。
垂直に。
下へ。
あっという間だった。
ほんの数秒で、身を反らせて立ち上がった巨大なイモムシは、半分ほどが地面の下へ見えなくなった。同時にゾーンの両側に残っていた建物の残骸《ざんがい》が、ゆっくりとゾーンに向かって倒れ始める。
瀑布《ばくふ》を思わせる轟音に大気を震わせ。
地震を思わせる振動に大地を揺らし。
音緒がその光景を見るのは、二度目だった。
ついに、底が抜けた。
水中に沈んだ状態のままで丈が真横に転がるのと、天井からコンクリート塊が突き出して床を打つのと、その差はほんのコンマ数秒のことだ。続いて床に大きな亀裂が生じ、水を吸い込みながら、さらに下の地下空洞に向かって陥没し始める。それもまた、水飛沫を撥ねて立ち上がった丈が、壁際へと跳びすさった直後だった。
目の前に落ちてきたコンクリート塊を、間一髪で避ける。床の突然の陥没に足をとられそうになるのを、跳躍でかわす。
わずか数秒のことである。
全ての出来事、全ての動きが、一瞬一瞬の連続だ。
何かを考えて行動しているわけではない。全てが反射的なものだ。これこそゾーン対策委員会が欲しがった、黒川丈の『才能』なのだ。彼の本能は、次々と連続して襲いかかる危機の瞬間、瞬間に、彼の命を先へ、そのまた先へと延ばしてゆくのである。
地上へと続く階段に飛び込んだのも、だから意識しての行動ではなかった。
だが、そのコンマ何秒かの瞬間、視界の隅に飛び込んできた『もの』だけは、確実に彼の意識に残った。
関根杏子だ。
一人や二人ではない。何人もの関根杏子が、驚愕に眼《め》を剥き、悲鳴に口を開いて、大量の瓦礫や土砂とともに落下してゆくのが見えたのだ。
それは、垂直に暴走する紫色の肉列車だった。ゾーンの巨体が床を抜き、地下空洞へと一直線に落下してゆく。その紫色の巨体の表面に、いくつもの関根杏子の顔がレリーフとなって浮かび上がり、落下の恐怖に叫んでいるのである。
見たのは、ほんの一瞬。
視界の隅に、ちらりと。
だから、崩壊してゆく階段を駆け上がる丈の記憶に残ったのは、時間を切り取ったような静止映像だった。
サイボーグにだけ可能な速度で一気に階段を駆け上がった時、スローモーションに引き延ばされたような時間の流れの中で、建物の倒壊はまだ続いていた。
玄関ホールの床が、ゾーンの巨体に巻き込まれた恰好で、あらかた消失している。もうもうたる砂埃の向こうに、粉砕された壁と天井に挟まれて青空が見えた。全てが崩れ、地下へと雪崩込んでゆく、まさに今その最中なのだ。
建物の外へと跳躍しかけた丈の、その視界に巨大な物体が迫ってきた。丈にはそれが、そそり立つ崖《がけ》に見えた。
崖ではなかった。
半分に切り分けた建築模型のように、そこにはそれぞれのフロアの廊下が、部屋が、途中で切断された形で露出しているのである。
建物だ。
倒壊しつつある建物の、それは断面だった。建物中央部がゾーンの巨体に押し砕かれて崩壊し、その倒壊と陥没に巻き込まれて、左右に分断されて残った建物までが、両側から倒れ込んで来ようとしているのである。
両側から迫る巨大なドミノ倒しだ。そして丈は、その真ん中にいるのである。
放物線を描いて跳躍すれば、途中で叩き落とされる。かと言って水平に跳べば飛距離が足りず、走る速度では脱出する前に潰される。
丈の判断は、瞬間的だった。
いや、それを判断と呼ぶのは適当ではないかも知れない。表層意識が現状を認識するより早く、彼は跳躍していたのだ。
倒れ込んでくるドミノに向かって。
引出しを全て抜き取った収納家具のように、廊下の断面が縦に重なっている。丈の跳躍は、一直線に、そのうちの一つを狙う。
飛び込んだ。
床に着地すると同時に、跳躍の勢いのまま前方に向かって走る。
廊下の奥へ。
走る丈と競うように、両脇の壁に亀裂が走る。床が崩れ、天井が崩れてゆく。水平であるべき廊下は、倒壊に合わせてみるみる立ち上がり、急斜面に変わってゆく。コンクリートが砕け、鉄骨の曲がる音が、丈の背後から追い上げてくる。
廊下の突き当たりを目指して、丈は廊下を駆け上がった。建物は、自重に負けて崩壊を続けながら、横倒しになりつつある。
目指すのは、廊下の突き当たり。
非常口のドアだ。
非常の際には非常口から脱出すべし、簡単な理屈だ。
だが問題は、ほんの数秒で廊下がほぼ垂直に立ち上がり、さらに建物全体が地下へ向かって崩れようとしているという事実だった。
「こンの、糞!」
ついに、ブーツの底が滑った。
もう走ることは不可能だった。垂直の斜面を滑り落ちる寸前、彼は手を伸ばして、壁に並んだドアのノブを掴んだ。それは今や、ロック・クライマーが手掛かりとするハーケンに等しい存在だ。
毎度のことながら、と丈は思った。
時間がねえぞ。
あと三秒か?
それとも一秒か?
真横に倒れた建物は、さらに地下へと落ちる。そして地の底に叩きつけられれば、その衝撃で、全体が一瞬で崩壊するだろう。降り注ぐ何百トンもの瓦轢から逃れる術《すべ》など、たとえサイボーグであっても、ありはしないのだ。
左腕一本で一〇〇キロを超える体重を引き上げた丈は、ノブに足をかけ、跳んだ。
真上に向かって。
次のノブを掴み、反動で躯を引き上げ、足をかける。
残り数メートル。
いけるか!
ついに廊下が垂直になった。
激突する!!
「でゃ!」
ノブを蹴って、跳んだ。
同時に、閉じた非常ドアに向かって拳を叩き込む。
それは単純な算数の問題だった。跳躍と打撃の仕事量の合計から、非常ドアを固定する力を引き算するのだ。残った数値が、もしもゼロ以下であったなら、たった今駆け登って来たコースを、彼は引力に引き戻されることになるのだ。
まさに、バクチだった。
これも毎度のことではあったが。
殴りつけたドアが、蝶番《ちょうつがい》から千切れてふっ飛んだ。
そこまでだった。
ゼロ以下だったのだ。
丈の躯は、それ以上は飛べなかった。
引力が、彼を鷲掴《わしづか》みにした。
震えを止めることが、音緒にはどうしても出来なかった。右手を拳にして、握った人指し指を前歯で噛んでいた。さらにその拳を左手で押さえつけているのに、それでも震えは肩から背骨から膝まで、少女の全身を冒し尽くしている。
終わってしまったのだ。
左右から倒れ込んだ建物の残骸が、ついに完全に倒壊し、砕け、崩れた。全ての建物が形を失う瞬間、瓦礫の隙間から何本もの水柱が立つのが見えた。
後には、雷鳴のように尾をひく地鳴りだけが残り、そして静寂が戻った。
「丈……」
音緒には信じられなかった。
全てが終わったのだ。
丈は、ついに戻って来なかったのだ。
だがアンドロイドは冷静だった。助手席に沈み込んだ音緒の肩に、シートの後ろから手をかけた。
「逃げるわよ」
言いながら、器用に滑り込んできて運転席に納まってしまう。
逃げる?
逃げるって言ったの?
丈がやられたのに!?
「駄目だ! なんで逃げるさ!」
「丈からの通信が途絶えたわ」
「だから!」
「ゾアハントの継続が不可能である以上、民間人であるあなたを安全に避難させる義務があるの」
「莫迦《ばか》言わないでよ!」
シート・ベルトを外して、助手席の背もたれを倒す。
「ネオ?」
「ひとりで逃げなさいよ!」
そのまま、這うようにして後部へ移動する。さっきまでダリアが調整していた四角い大砲みたいな武器を引っ掴んだ。
「ネオ! 駄目よ!」
「うるさい!」
肩に担いで、後部ドアを開ける。
「待ちなさい!」
待つもんか!
音緒はそのまま、壁のように分厚く舞い上がる砂埃の中へと飛び込んだ。植え込みを回り込むと、紗幕《しゃまく》を張ったみたいな埃の向こうに、標的が見えた。
瓦礫の山に、肉の塔のようにそびえ立っている。
ゾーンだ。
下半分は、瓦礫に埋まってしまって見えない。そこから何とか抜け出ようと、見えている分だけでも十メートル以上はありそうな巨体を、右へ左へと振りたくっているのだ。
畜生。
逃がすもんか!!
瓦礫をよじ登った。足が滑る。瓦礫の隙間から水が溢れ出して、瓦礫を濡らしているのだ。肩にかついだ武器が、思ったより軽いのが救いだった。
「ネオ!」
後ろから、ダリアの声が近づいてくる。
早く。
早くやっつけないと、連れ戻されちゃう!
撃たなきゃ。
玩具《おもちゃ》の鉄砲すら、音緒は撃ったことがない。けれど、撃ち方くらいは、わかる。この望遠鏡みたいなのを覗けば、ほら、これで狙いをつけるんだ。それから、人指し指のところの、これを引けば弾が出るんだ。握りのところにあったリング付きのピンも、ちゃんと引き抜いた。消火器と同じだ。
弾を外さないように、動きの少ない根元に狙いをつける。
「あ!」
丈がいた。
のたくるゾーンの、その根元のすぐ側に、丈がうつ伏せになって倒れている!
「丈!」
丈が危ない!!
音緒は引鉄《ひきがね》を引いた。
気を失っていたらしい。
小型ロケット兵器特有の、空気を裂くような甲高い発射音で、丈は気がついた。
「音緒!」
まさか。
いや、間違いない。
仁王立ちになった少女が、ロケット・ランチャーを構えているではないか!
スカートの余裕いっぱいに開いた脚を踏ん張り、砂ぼこりで真っ白になった髪を風に乱しながら、泣きだしそうなのを必死で我慢しているみたいに唇を噛みしめて。
ゴォオオォオォオォオォオオオオォオオ!
轟く咆哮《ほうこう》は、背後からだ。
腹の真ん中に大型電子ブレットを撃ち込まれたゾーンが、苦痛に身をよじっている。拳銃用の電子ブレットと原理は同じだが、対大型ゾーン戦を想定して作られたものだ。はるかに大型ではるかに広範囲をカバーする。標的に叩き込まれると、爆発せずに高出力のマイクロ波を発振し、標的を内側から高温で焼き尽くすのである。
体内から焼かれているのだから、苦しみもがくに決まっている。
「ネオ!」
少女の背後からは、ダリアが瓦礫を登ってくる。
伸ばした手が少女を捕まえる前に、二発目が発射された。偶然か、それともこれも『才能』なのか、苦し紛れに空を切るゾーンの首に命中する。
グォオォオオオオォオォオォオォオォ!
無茶苦茶だぜ、お嬢ちゃん!
立ち上がると、限界を超えつつある膝の内側で、ぱちん、と嫌な音がした。
「丈!」
砂埃で汚れた少女の顔に浮かぶのは、笑みだ。
だが、それに応えている暇は、まだない。
「ダリア!」
叫んだ。
大詰めだ。
「通電再開! 足元の水に触れるな!!」
「了解!」
丈の命令を受けたダリアは、スレイヴ・プログラムを始動する。ダリアからシルバーを経由して発せられた命令は、遮断されていた建物への送電を再開するのだ。
ゾーンの下半分は、水に漬かった状態のはずだ。
そこへ、電流を流すのである。送られて来た電気は、丈が引き千切ったケーブルから水中へ放電され、ゾーンの巨大な肉体を回路の一部と化すのだ。
異常なほどの環境適応能力を持つゾーンも、瞬間的な環境変化に即座に対応出来るわけではない。関根杏子の『子供たち』のような小型ゾーンなら、過酷な環境と、それに対応しようとする自らの肉体の激変との板挟みとなり、死滅する。そして紫色の巨大イモムシの方も、電流に対応する肉体を構成する前に、シビれて硬直したまま電子ブレットに焼かれてしまうというわけだ。
だが、丈の指示は一瞬、遅かった。
高圧電流がゾーンの動きを封じる寸前、最期のあがきが紫色の一撃となって、瓦礫の山を打ちすえたのだ。
地響きとともに、きわどいバランスで山を成していた瓦礫の一部が、さらに下へと陥没した。
丈が飛び出したのは、計算があってのことではない。
約束を守ろうとしたわけでもない。
ただ、反射的な行動だったのだ。
丈が最後に意識したのは、腕に抱き込んだ少女の躯の、その柔らかさだった。
3
奇妙な既視感があった。
この感じは、初めてではない。
ゆっくりと、深い意識の底から浮上してくる感覚。
精神の内と外とを隔てる何かが、薄膜を一枚ずつ剥いでゆくように、少しずつ透明度を増してゆく感覚。
少女がこちらを見ている。
誰かの名前を呼んでいる。
見たことのある顔。
聞いたことのある名前。
ゆったりとした時間感覚の中で、世界がこちらに引き戻されてくる。
いや。
違う。
こちらが世界に近づいてゆくのだ。
何もない世界から。
全てがある世界へ。
ああ。
思い出した。
あの時だ。
あの時と同じだ。
だが一つだけ、大きな違いがある。
あの時は、見知らぬ顔ばかりだった。
今は、知っている顔が待っている。
世界へは、近づいてゆくのではなかった。
それは帰ってゆく場所なのだ。
音緒。
「丈!」
とりあえず、おう、とだけ応えた。
何がどうなっているのか、さっぱり判らない。とにかく把握出来たのは、自分がベッドに寝かされていることと、顔を覗き込まれているということだけだ。
音緒に。
少女は大きな目を見開き、眉《まゆ》を眉間の真ん中に寄せて、唇を噛みしめている。
「お前、それ、どうした?」
音緒が左のおでこの生え際あたりに、大きな絆創膏《ばんそうこう》を貼り付けているのだ。
だが、答えてはもらえなかった。
音緒の唇の端が痙攣《けいれん》するように震え、頬っぺたがみるみる真っ赤になり、下|瞼《まぶた》がぴくぴく動いたかと思うと、
「じょ〜お〜!」
泣きだした。
丈の胸に突っ伏して。
「おいおい、なんだなんだ」
思わず、しがみつく少女の肩を抱いた。
右腕で。
「あ?」
もぎ取られたはずの腕が、元通り、そこにあった。
左腕も、シーツから出してみる。人工皮膚には、傷一つない。あれだけ切り裂かれて、銀色の内装まで剥き出しになっていたのに。
思い出した。
ゾーンの、最期の一撃だ。
積み上がった瓦礫が振動で崩れたのだ。
音緒の足元が陥没した。それは覚えている。そこから先の記憶が曖昧《あいまい》だ。
確か、跳びだしたはずだ。彼女が瓦礫のクレバスに落ち込む寸前に、なんとか抱きとめたことも、間違いない。
問題は、その後だ。
背中に、強い衝撃を受けた。
後頭部にもだ。
それから後のことは、さっぱり判らない。気がついたら、これだ。
音緒がシーツに顔をうずめて、もがもが言っている。
「何だ? 聞こえねえぞ」
がば、と顔を上げるなり、少女は、
「莫迦!」
声を裏返らせて怒鳴った。
「心配させやがってえ! どんだけ寝てりゃ気が済むかな! 四日だぞ、四日!」
「なんだ?」
あれから、そんなに経ったのか? ほんの何分か前みたいな気がする。
音緒が涙と鼻水で、ぐずぐずになりながら説明するところによると、事情はこうだ。
間一髪で音緒を滑落から救った丈だったが、そこまでがサイバネティクスの機体の限界だった。過負荷に耐えきれずに、全システムが一斉にダウンした。それは異常なフィードバックから生身の脳を護《まも》るための緊急措置だとかで、ともかく丈は音緒を抱いたまま、全ての機能を停止したのである。
弾丸みたいに跳びだした、その勢いの最中に。
当然、瓦礫の山からダイビングする恰好になった。
丈は背中と後頭部を強打して、完璧《かんぺき》に意識を失った。
音緒はおでこを切って、二針縫った。それがつまり、絆創膏だ。
丈を助けたのは、音緒いわく、オカマの先生。
米沢だ。
彼がエンジニア・チームを引き連れて現場に到着したのは、その直後だったそうだ。巨大生物の出現報告を受けて、最悪の場合、サイボーグの『遺体』を収容するためだ。
だが、丈は生きていた。
収容先は、防衛医科大学付属病院サイボーグ外科。そこで米沢は、再び丈の執刀医となったのである。
そして今、丈はエス外科病棟にいる。
つきっきりで看病していた音緒は、ここで涙と鼻水だらけになっている。
ハンカチで涙を拭《ふ》いて、ついでに鼻をかんでから、音緒は言った。
「意識が戻ったらリハビリだって言ってた」
「そうか」
「戻らなかったら、駄目だって言われた」
「ああ」
「無茶するからだよ」
丈の手を握る。
「わりぃ」
その指が柔らかく華奢《きゃしゃ》だったことに、丈は初めて気がついた。
「やだ、って言ったじゃん」
「なにが?」
「いなくなったら、やだって」
「ここにいるぜ」
「死ぬとこだったんだからね」
「死ななかった」
「あたしのために、命張る必要なんて、なかったのに」
「そうはいかん」
「なんでさ」
約束だから、とは言わなかった。
気恥ずかしくて、言えなかった。
だから、
「ヒーローってのは、そういうもんだ」
手の甲を、思いっきりつねられた。
ちゃんと『痛み』があった。
「ねえ」
「おう」
「あんた、あたしのこと好きでしょ」
目は真っ赤だが、けれど、音緒は笑っていた。
「まあな」
だから丈も、笑みを返す。
「娘みたい?」
「俺はそんなに歳《とし》じゃない」
「じゃ妹?」
「その辺なら手を打つ」
立ち上がった音緒は、そのまま上体を伸ばして、丈を押さえつけるみたいに上から覗き込んできた。
「目、そんなだったんだ」
言われて触れてみる。アイパッチは外されていた。
「ひでぇもんだろ」
なにしろ、大小五つのカメラを、無造作に組み立てて突っ込んであるだけだ。そのうち二つは、眼窩《がんか》に納まってさえいない。
音緒は首を振って見せる。
笑みを浮かべて。
「ねえ」
ふいに、少女は目を伏せる。
そして、
「コイビトじゃ、駄目かい?」
「駄目だ」
「意地悪」
「最初に約束したからな。俺に……」
「惚《ほ》れるな、でしょ?」
「ああ」
判った、と音緒は言った。
目を閉じて、顔を重ねてくる。
「惚れないよ」
しがみついてくる腕も、柔らかな唇も、丈はそのまま受け止めた。
4
連絡を受けてわざわざ防大付属病院に出向いて来た米沢が、リハビリテーション・ルームで待っていた。もっともリハビリと言っても、新規に接続された『部品』からの情報に対して、補助脳を調整するためだけの簡単なものだ。
丈の生身の肌と人工皮膚の境目にある首筋のリングには、スライド・カバーが付いている。それを開いて内側のジャックに、何本もの細いケーブルを接続された。ケーブルは計測装置に繋がっている。その状態で、丈は小学生みたいな体操をさせられ、歩き、走り、階段を昇り、降り、反復横飛びをし、冷やされ、温められた。すぐに飽きて文句を言ったが、オカマの米沢は容赦しなかった。視聴覚と味覚は、あまりの不快感で、もっと文句を言ったが、米沢はやっぱり、我慢してねえ、と言っただけだった。だから米沢が右目の交換を進言した時には、やなこった、と言ってやった。
丈はすぐに以前の身体感覚を取り戻した。明日には、ダリアが迎えに来る手筈《てはず》になっている。
二時間のリハビリが済む頃には、音緒は欠伸《あくび》をかみ殺していた。病室に戻ると、ごめん疲れちゃった、と補助ベッドに横になって、すぐに寝息をたて始めた。
丈は、こっそりと病室を抜け出した。
屋上に向かったのは、単なる気まぐれのつもりだった。
だが、
「そろそろ来る頃だと思ってたぜ」
そう言われると、何か予感めいたものがあったのかも知れない。
あっても不思議ではないだろう。
なぜなら相手は、彼自身なのだから。
山が、かなり近い。反対側は、市街地を越えて遠く景色が霞《かす》む辺りまで見通せる。もう一人の『黒川丈』は屋上の手すりによりかかって、山の端に沈む夕日を眺めていた。
「無事で良かったな。え、おい」
薄汚れてはいるが、スーツは白だ。
丈の方はリハビリ用のトレーニング・ウェアだったが、色は黒だった。
「おかげさんでな」
『黒川丈』の隣に、同じ姿勢で並ぶ。
「何しに来た」
「お前に伝言を頼みたくてな」
「言ってみろよ」
「あのお嬢ちゃん……ねお、とか言ったな。あの子に、すまなかった、と伝えてくれ」
お前は莫迦だ、と丈は言った。
まあな、と『丈』は笑った。
「だが、俺にはこの道しかねえんだ。間違ってるのか正しいのかも判らんし、間違ってるとしても、俺には止められん」
「俺が止めるさ」
「出来るかよ」
その言葉は、お前に俺が止められるか、とは聞こえなかった。
お前は俺を止めてくれるのか、と聞こえた。
「だから俺を助けたのか」
その言葉に初めて、もう一人の『黒川丈』が、こちらを見た。
視線だけで、ほんの一瞬だけだが。
「ノーコメントだな」
それは、つまり答えそのものだ。
自嘲《じちょう》的に、ふん、と鼻を鳴らしてから、もう一人の『黒川丈』は言った。
「とにかく伝えてくれや。それで俺の気は済む」
「ああ。伝えとこう」
丈が頷《うなず》く。
「なあ、黒川丈」
「おう」
「おめぇ、あの嬢ちゃんが好きか?」
「まあな」
やっぱりなあ、と『黒川丈』が笑う。
「オンナの趣味も同じか」
「そんなんじゃねえ」
「まあ、いいさ。だいじにしてやれ」
冷やかすような笑い。しかしそれは、すぐに消えた。
「俺はな」
絞り出すような声で、
「杏子を愛していた」
もう一人の『黒川丈』は、目を閉じる。
「ああ、知ってるさ」
「あいつを人間でなくしたのは、俺だ。理由はあるが、言い訳は出来ん。だからあいつの望むことなら、なんでも実現してやろうと思った」
「悪かったな、やっちまって」
「別に悪かねえさ。あいつが莫迦だったんだ」
もっとも、と『丈』は付け加えた。
「それでお前を許せるってもんでも、ねえがよ」
「ああ」
「まさかあいつが、俺を振り切って、怒りに任せて暴走するとは思わなかった。そこまで追い詰めちまってたのかと思うとな、やりきれんよ」
判る。
だが、それは言わなかった。
思いが同じでも進む方向が違うということは、そういうことなのだ。
「一つ、教えろよ」
丈は姿勢を変えて、まっすぐ相手に向かった。
相手も姿勢を変えて、まっすぐにこちらを向いた。
「なんで、ゴーストなんだ?」
もう一人の『黒川丈』は、両方の眉毛を、くい、と吊り上げる。
そして、唇の端だけで笑った。
どこか哀しげな笑みになった。
「そのまんまだ」
答えて、背を向けた『黒川丈』は、しかしすぐに立ち止まった。
「ああ、そうだ。忘れるとこだ」
ポケットを探って、背を向けたまま、肩ごしに何かを投げて寄越《よこ》す。
受け取ると、それは小さなペンダントだった。
「見つけた。あの子のだろ? 返しといてやれ」
それは、精一杯の謝罪であったのかも知れない。
癪《しゃく》にさわるような白いスーツが汚れている理由が、そこにあった。
だが彼は、これを捜すために瓦礫を掘り返したのだろうか。それとも、別の『なにか』を捜しているうちに見つけただけなのだろうか。
もっと大切な『なにか』を。
「おい」
声をかけられて、もう一人の『黒川丈』は振り返る。
「またな、ゴースト」
にやり、と返す笑みの、その意味を丈は理解した。
ああ、そうだ。
俺は、そういう男だ。
だからお前も、そういう男だ。
「また逢《あ》おう、ゾアハンター」
それは、約束だ。
邪であるということは、純粋でないということではない。
純粋であるということは、邪でないということではない。
だから、二人の男は約束を交わすのだ。
またな、と。
また逢おう、と。
幽霊は宙に舞い、そして見えなくなった。
銀色の天使は、夕映えに輝いていた。
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終章
甲高いブザーの音が、開始の合図だ。丈は、構えに入った。
腰を落とし、上体を左へひねって、左の腰に添えた拳《こぶし》に右手を近づける。
最初の標的は、右後方から。
一瞬で『抜刀』し、振り向きざまに標的を横なぎにする。円筒形の疑似生態ゴムが、上下に分断される。
次の標的が突出するのは、真後ろだ。その頭頂部に設置された人造水晶体が、低温レーザーを発射する。身をそらして避けながら、不安定な姿勢から左手に移したブレードで逆袈裟《ぎゃくげさ》に斬《き》り上げる。
三つ目の標的が真正面に出現したが、ブレードを右手に移動する際、ひらりと一回転させる余裕さえあった。真っ向に両断する。
ほんの数秒。
終了のブザーが響くと、全《すべ》ての標的は床に収納された。
レベルE、終了。
「悪くねえ」
ブレードを仕舞い、丈が口許《くちもと》に笑みを浮かべる。
「初めてにしては上出来ね」
制御室のガラスごしに言うダリアに、丈は、違う、と応《こた》えた。
「俺が、じゃねえよ。この部屋が、だ」
黒川丈ご愛用のシューティング・レンジは、この二週間ですっかり模様替えを済ませていた。退院して戻ってくるなり、丈が『委員会』に要請を出したのだ。
射撃のみでなく想定し得る全ての戦況に対応したシミュレーション・ルームの設置を、である。
認可は、すぐに下りた。翌日には、またしても米沢が、数台の作業ロボットを引き連れて現れた。オカマの先生大活躍だが、つまり形骸《けいがい》化したとは言え、いまだ『委員会』の権限は健在だということでもある。
打ちっぱなしのコンクリートの床を、ぺたぺたと裸足《はだし》でやって来るのは、音緒だ。身に着けている部屋着のトレーナーは、美咲のものである。彼女の身の回りの物は全て、かつての丈の相棒が遺《のこ》したものだ。
これでいいの、というのが音緒の意見だ。
丈には判《わか》らなかったが、何か彼女なりの考えがあるようだ。例えば、今ここに彼女がいることと同じように。
それを決めたのも、音緒自身だった。
乱暴な主張ではあったが、理屈は通っていた。
音緒の自宅はナパームによって通常では考えられない火災で焼失しているし、両親はゾーン化していたので『遺体』と呼べるものは残っていない。つまりそれは謎《なぞ》の放火事件であり、住人である結城一家も音緒を含めて行方不明ということになる。
しかも音緒の通っていた高校も謎の火災を起こし、そこでは問題の巨大生物が目撃されているのに加えて、生徒や教師は全員|揃《そろ》ってやはり行方不明。
さらに音緒の親友である関根杏子も社会的には依然|失踪《しっそう》中で、関根一家の住んでいたマンションは高校から現れた巨大生物に破壊されているのである。なおかつ、そのマンションの住人も大半が行方不明なのだ。
全ての『怪事件』を俯瞰《ふかん》して眺めれば、やがてそれは一本に繋《つな》がり、二人の少女の存在が浮かび上がってきてしまうのである。
一人は、関根杏子。
一人は、結城音緒。
そりゃ身元を引き受けてくれる親戚《しんせき》くらいいるけどさ、と音緒は言った。
こんな状況で、生きてました、とか言って出てってみなさいよ。あたし、めッちゃめちゃ怪しいじゃんか。
一連の出来事は、ついに『委員会』の報道管制を無効化してしまっているのだ。
目撃者の数が多すぎるのである。
学校とマンションの二ヶ所で現場封鎖を行い、証拠品の持ち出しを規制するのが精一杯だったようだ。それだけでも、かなり迅速な対応であるとは言えるのだが。
ニュース番組は連日、市民がホーム・ビデオで撮影した巨大生物の映像を流し続け、雑誌は写真を掲載し、学者や芸能人が的外れな見解を得意気に喋《しゃべ》りまくり、書きまくっている。今やそれは、立派な社会現象だった。
それも、世界規模の。
この時点で音緒が登場すれば、彼女は『スター』になってしまうだろう。それも、かなり有り難くない『スター』に。
ならば、彼女が身を寄せるべきところは、一つしかない。
ダリアも異論を唱えなかった。
つまり、極めて論理的、ということだ。
そういうわけで、音緒は今、ここにいる。
丈と同じ、この世には存在しないはずの人間として。
「はい」
少女が分厚いタオルを差し出す。
おう、と受け取ったものの、額にうっすらと浮かぶだけの汗を拭《ぬぐ》うには、いささか大きすぎた。
「ジョウ」
スピーカーから、ガラスの向こうのダリアの声。
「今のを基準値にして、いいのね?」
シミュレーション・ルームでの最初のテストであり、丈の新しい機体の最初の戦闘モードによる稼動でもある。ダリアがその記録を、オン・ラインではなく直《じか》に『見て』おきたいと言いだした時にも、もう丈は驚かなかった。
「おう」
「了解。じゃあ、ハンガーに戻るわね」
言うだけ言うと、制御室の奥へと見えなくなってしまう。
ダリアの変化は加速度的だ。
そしてその理由が、美咲の遺産だけではないことにも、丈は薄々だが気づいていた。
それだけで変わるものではない。
全ての出来事は、互いに影を落とし合い、響き合っているのだ。布に織り込まれた模様の、その繊維の一本一本を眇《すが》めて見るように、人は原因をより分け、結果を探り出そうとする。けれど結局は、その一本は果てし無く続く広大な織物の一部でしかないということに、いつか気づいてしまうだけなのだ。
ならば。
人間に出来ることなど、そう多くはない。
「ねえ」
丈からタオルを受け取って、音緒は彼を見上げている。
「おう」
「いっこだけ、訊《き》いてもいい?」
「言ってみな」
「また仕事、再開するわけでしょ?」
「当然な」
明日にでも。
今この瞬間にでも。
敵を見つけたなら、いつでも。
「その時ってさあ」
音緒の表情は正直だ。外れた視線は、床を彷徨《さまよ》う。
「あたし、留守番だよね?」
確認ではない。
おねだりだ。
「そうだ」
そのとおりだ。
「やっぱ危ないもんね」
「ああ危ない」
危ないから。
だから、しばらくの間は、留守番だ。
米沢の仕事が済むまでは。
彼には、ダリアの視覚記録からダウンロードした音緒の身体データを渡してある。本当なら四年前に彼が担当するはずだった仕事を、やってもらうために。
その選択が正しいのかどうか、丈にも判らない。
音緒にまだ伝えていないのは、そのためだ。
だが彼は、かつて美咲が何に憧《あこが》れたのかを、ちゃんと知っている。
確かに、その願いが叶《かな》っていれば、とも言えるし、その願いがあったがゆえに、とも言える。だが彼女に選択の余地がなかったのは、厳然たる事実なのだ。
人間は、誰でも死ぬ。
いつ死ぬか、どこで死ぬか、なぜ死ぬか、それが違うだけだ。
そして、それは運命によって決定されるものではない。
それを決めるのは、自分自身だ。
積み重ねてゆく行為、積み重ねてゆく言葉、積み重ねてゆく思い、積み重ねてゆく時間そのものが、少しずつ少しずつ、その日その場所へと導いてゆくのだ。
だったら。
銀色の鎧《よろい》も、打っておくべきなのだろう。
「だよねッ!」
顔を挙げて微笑《ほほえ》むのも、だから音緒自身の選択だ。
少女の頭に手をのせて、丈はその髪を、くしゃ、と撫《な》でる。
「もう一回だ」
「うん!」
ぺたぺたと足音をたてて、音緒が制御室に戻ってゆく。
「今度は、レベルAで」
「いきなり? 大丈夫? 失敗したら、かなり痛いよ多分」
「いいから」
ガラスの向こうで、はいはい、と肩をすくめる音緒は、それでもどこか楽しそうだ。
甲高いブザー。
丈は身構える。
闘うために。
闘い続けるために。
約束を守るために。
[#地付き]-了-
[#改ページ]
あとがき
二一世紀になってしまった。
漠然とした『未来』を表す符号に過ぎなかった『二一世紀』という言葉が、じわじわとにじり寄ってきて、ついに『現在』になってしまったのだ。
アポロ計画を思い出したよ。
月を見上げ、月に憧《あこが》れ続けた人類が、ついにその灰色の大地に立った、あの瞬間だ。
その感動を少年時代に『実感』し得たことは、幸運であると思う。それは、例えば陳腐な言い方かも知れないが「少しずつでも前進を続けていれば、いつか必ず目的地に立つことが出来る」ということの証明でもあったからだ。
そして今、我々は『二一世紀』に生きている。
なんか、すげぇよなあ。
カレンダーをめくったら、そこに『2001』と書いてあるんだものなあ。
これは、ただ時間が過ぎただけ、という意味ではないぞ。まあ確かに、二〇〇〇の次は二〇〇一に決まっているのだけれど。
前作『ゾアハンター』の作者紹介の為に自分の略歴を整理していて、気がついた。小説家になって五年目なのだ。二〇〇一年の九月で、まる五年になる。さらに数えてみると、今回の『ウリエルの娘』が私の十冊目の本だった。
おやまあ、である。
もう五年ですか。
もう十冊ですか。
途中一年以上のブランクがあったことを計算に入れても、確かに早いペースとは言えないかも知れない。
しかし、だ。
実は私は、小説家になりたくてなった人間ではないのである。いわゆる『作家志望』の時期が、ないのだ。
ちょっとしたナリユキで、あれよと言う間にデビューしてしまっていた。
どのくらい「あれよ」だったかと言うと、出版社に紹介(売り込みではない)された二週間後には、発売予定日が決定していたという有り様だ。
そんな私が、である。
たわむれに書いたものを、周囲の『作家志望』の連中に寄ってたかって酷評された経験を持つ、この私が、である。
振り返ってみれば、もう五年で、もう十冊なのだ。
世の中、何が起きるか判《わか》らんのお。
出版社を換えて、新シリーズなんぞ始めてやがるぜ、俺。しかも一冊目が発売される前から、三冊目までのスケジュールが組まれてるじゃねえかよ、俺。
そうなのだ。
実はこのあとがきの原稿を書いているのは、二〇〇〇年十一月中旬。まだシリーズ第一作『ゾアハンター』は書店に並んではいない。おそらく今頃、印刷中のはずだ。
にも拘《かかわ》らず、このあとがきを書き終えたら、すぐにシリーズ第三作のプロットにかかるのである。締切りは二〇〇〇年十二月末日(!)だ。つまり、第一作のあとがきに、二作目を執筆中、と書いたが、実はあなたがそれを読まれた時点では、既に三作目が進行中だったのである。
何なのだ、これは?
それほどの作家ではないはずだぞ、わしは。デビュー当時の出版社とは、よほど売れなかったのか、めっきり疎遠になっているような作家なんだぞ、わしは。シリーズが中断したまま続きを書かせてもらえないような作家なんだぞ、わしは。
いったい何が起きているのだ?
ようやく私に、一人前の作家としての実力が備わってきたということか?
それとも今、たまたま偶然に、悪くないモノが書けているだけなのか?
あるいは単に出版社が酔狂なだけ(失礼)なのか?
はたまた、これはショッカーか何かの罠《わな》なのか?
正直なところ、戸惑っているのである。
わけが判らん。
判らんが、こういう状況でモノカキに出来ることは一つだけだ。
書くこと、である。
ひたすらに書き続けること、である。
それしかないのだ。
だから、書くぞ。
新作の構想は、漠然とではあるが、着々とオツムの中に固まりつつある。
それとも、ムネの中に、か?
今度も、燃えるオハナシだぜ。
今度も、泣けるオハナシだぜ。
楽しみにお待ちいただきたい。
今回も言わせてもらおう。
失望はさせない。
少しだけ謝辞を。
実は昨日、つまりこの『ウリエルの娘』のあとがきを書き始める前日、ようやくシリーズ第一作『ゾアハンター』のイラストを拝見した。FAXで送られてきたカバー・イラストと挿絵は、私が期待していた以上のものであったよ。
小島先生、ありがとうございます。
わしはホンマに嬉《うれ》しいです。
いつか、イッパイ奢《おご》らせてください。
こんなふうに『大迫の黒川丈』と『小島先生の黒川丈』が一つになって、『みんなの黒川丈』になってゆくのだなあ。モノカキをやっていて、よかったと思うのは、実にこういう瞬間なのであった。
そうそう、最後にひとつ。
主人公・黒川丈のモデルである俳優の渡洋史氏の監督作品が、DVDで発売されるそうである。タイトルは『時空警察ヴェッカー』。渡氏は出演もなさっているとかで、今から非常に楽しみである。
では、また。
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次回予告
ゾアの跳梁跋扈に対抗するため、ゾアスクアッド≠ェ編成された。
新部隊は人類を護ることができるのか!?
そして、われらがゾアハンター『黒川丈』の運命やいかに!!
時代が呼ぶヒーロー伝第三弾!
復讐のエムブリオ
これは闘う男の物語である!!
[#地付き]2001年3月刊行予定
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底本
ウリエルの娘《むすめ》 ゾアハンター
著 者 大迫純一〈おおさこじゅんいち〉
発 行 二〇〇一年二月一八日第一刷発行
発行者 大杉明彦
発行所 株式会社角川春樹事務所
[#地付き]校正M 2007.11.15