新潮文庫
野獣死すべし
[#地から2字上げ]大藪春彦
目次
野獣死すべし
野獣死すべし |復讐編《ふくしゅうへん》
野獣死すべし
深夜。しめやかな雨が、|濡《ぬ》れた暗い舗道を|叩《たた》いていた。
黒々とそびえる高い|塀《へい》にかこまれた|新井宿《あらいじゅく》の屋敷町。
青白い門灯が、あたりの|鬱《うっ》|蒼《そう》とした樹木に異様な影を投げ、その邸宅の前には通りすぎる人影もない。遠くから、寝もやらぬ街のダイナミックな|息《い》|吹《ぶ》きがかすかに伝わってくる。この雨に拾った客を乗せて、時々気違いじみたスピードでかすめ通った流しのタクシーも今はすでに途絶え、この一郭は静かに眠りをむさぼっていた。
黄色っぽい|豹《ひょう》の両眼がぐんぐん接近してくると、やがてそれは目も|眩《くら》むばかりの光で、ぼやけたスクリーンを貫くヘッド・ライトとかわった。
黒塗りのボデイを|滑《なめ》らかに光らせたビュイック・エイトは、水をはね返す音をかすかにたてて|滑《すべ》りこみ、その大邸宅の手前に止った。濡れたアスファルトに、車のシルエットが|鮮《あざ》やかに映る。
車の中の男は、ヘッド・ライトと車内灯のスイッチを切った。
クッションにもたれて、ラジオから流れる甘美な深夜の調べに、夢見るような|瞳《ひとみ》をあげて耳を傾けている。
ポマードをつけぬ|漆《しっ》|黒《こく》の髪はおのずから渦を巻き、彫った様に浅黒く端正な顔は若々しい。甘い|唇《くちびる》には孤独の影があるが、憂いを含んで深々と光る瞳には夢見る趣がある。
バックスキンのジャンパーに包んだ体は、|強靱《きょうじん》な|鞭《むち》を想わせてしなやかである。
ダッシュ・ボードの時計が一時二十五分を示した。
男の顔から夢見るような表情がかき消されると、目は冷やかに澄み、|頬《ほお》から|顎《あご》にかけて鋭い線が浮き出た。
くわえていたタバコを車の床に吹きとばし、スエードの手袋をぬいだ。
|拳《こぶし》の関節は何回も鈍器で|殴《なぐ》られたかの様に固く節くれだっている。
ジャンパーのジッパーを引きおろすと、|腋《わき》の下に肩から|吊《つる》したホルスターから、暗青色に冷たく光る銃身の長いコルト・ハンツマンを抜出した。
口径百分の二十二インチの|自動拳銃《オートマチック》は、ホルスターから素早く引抜ける様に|照星《しょうせい》を削り落してある。
|銃把《じゅうは》の下の|弾倉止め《マガジン・ストップ》を押すと、十発入りの|挿弾子《クリップ》を抜きとり、点検して再び|挿入《そうにゅう》した。
次いで安全装置を親指で下に押し、撃発装置に直した。
無骨な指に似ず、なめらかに素早く動く。
ハンカチをまいた左手をのばして、ドアについているハンドルを廻して窓を下げた。
細やかな雨がかすかに吹きこんで来て、柔らかに波うつ髪に可愛い水玉を光らせた。
一時三十五分。黒いソフトを|目《ま》|深《ぶか》にかむり、バーバリーのレイン・コートの|襟《えり》を立てた長身の男が、門灯に淡く照らされながら車の前方から近づき、足早に横を歩みすぎようとした。一日の勤務を終え、家路をたどる警視庁捜査一課の岡田良雄警部である。
車の中の男は警部に声をかけた。
振りむいて車へ顔を寄せる警部へ、男は拳銃をつきつけた。
警部はさざ波の様に腋の下へ手を伸ばしたが、一瞬早く車の中の男は引金をひいた。
掌から肩にかけてつっ走る軽い衝撃と共に発する銃声は、パッと鋭く小さい。
警部は|眉《み》|間《けん》に小さい穴をあけて、くずれ落ちた。流れ出る血は見る見る雨に|滲《にじ》んで、|濡《ぬ》れたペーブメントにとけていった。
男は銃に安全装置をかけると、ショルダー・ホルスターにつっこんだ。
発射の際、|遊《ゆう》|底《てい》からエジェクターではじきとばされた|空薬莢《からやっきょう》を靴で踏みにじって|潰《つぶ》し、拾ってポケットにしまった。
再び手袋をつけると、身軽に車から降りた。倒れた警部の手首を握って|脈搏《みゃくはく》をさぐる。
横なぐりに吹きつけて来た冷たい雨が、上向けに倒れた警部の|眼《がん》|窩《か》のくぼみに|溜《たま》って、血を吸ってこぼれ落ちる。
男は落着いた足どりで車の後ろに廻り、トランクの|蓋《ふた》を開けた。
死体の所に戻り、後ろから両腋に腕を差入れた。肩から腕にかけて強靱な筋肉がふくれ上がり、盛りあがるのが、ジャンパーを通して感じられる。死体の足をひきずってトランクの中に押込んだ。
手早く死体をさぐり、黒皮の警察手帳、肩から吊したホルスターに入った拳銃、弾入れのサック、手錠、財布その他、手がかりとなりそうなもの一切を自分のジャンパーの中に移した。
コートや背広、ソフトなどについているネームも鋭利な飛出しナイフを使って切り取った。トランクの蓋を閉ざすと男は差込んだままの|合《あい》|鍵《かぎ》でイグニッションをまわし、スターターをかけた。
アクセレーターを踏むと、ビュイックは軽いうなりと共に、Uターンしながら|滑《すべ》り出た。引金を引いてから一分とたっていない。|窓拭器《ワイパー》を動かしているにも|関《かか》わらず、なお曇る前窓のガラス越しに黒いアスファルトの道路が捨てられたタイプ・ライターのリボンのようにうねり、ヘッド・ライトに切断された雨が、まばゆい光の筋の中を小さな無数の銀の矢となって踊った。
ハンドルにかけた手を軽くすべらす男の瞳には、再び夢見るような表情が|甦《よみがえ》ったが、唇はかすかにひきつり、額には雨に湿った前髪が重くたれさがって、沈鬱の影をなげている。
今乗っているビュイックを盗んだ調布二丁目で車を止め、エンジンとライトを消すと車外に出た。
雨にうたれている緑色のダッジ・デ・ソートを見つけ、先端をつぶした針金で巧みにドアを開けた。
イグニッションに合鍵の束を一つ一つ|試《ため》してみた。合鍵が合った。
そのダッジを駆ってまだネオンの|褪《さ》めやらぬ渋谷を通って、千駄ヶ谷の|外《がい》|苑《えん》近くに廻った。唇のかすかなひきつりは消え、無心の表情で前方の|闇《やみ》を見つめている。
男はそこで、前日から一昼夜の契約で借りて|停《と》めてあったドライブ・クラブの五十六年型トヨペット・マスターに、さらに乗りかえた。
車の屋根には風と雨に落ちた黄や褐色の|銀杏《いちょう》の枯葉が点々とこびりついている。
廻り道をしながら車を進め、雑司ヶ谷のアパート「青葉荘」から百メートルばかり離れた空地で車を乗り捨てた。寒々としたコンクリートの建物には冷たい晩秋の雨が降りそそぎ、窓は一様に暗く、目覚めている人の気配は無い。
男は、かすかに|軋《きし》む火災用の非常|梯《ばし》|子《ご》から二階の自分の部屋に入り、濡れたラバー・ソールの靴をぬいだ。カーテンを閉じて灯をつけると、バスとキチネット付きの、|見《み》|馴《な》れた部屋が目に写る。皮のスリッパをはくと、ぐしょぐしょになった手袋をテーブルの上にほうり投げ、|本《ほん》|棚《だな》の下の|酒壜棚《セラレット》に歩み寄った。
その足どりはしなやかで、ほとんど音もたてない。
トリスの|大《おお》|瓶《びん》から大きなグラスに八分目ぐらいに満たし、目を|天井《てんじょう》に|挙《あ》げると、息をつかずに三杯たてつづけに飲み干した。
回転式のセラレットをもとに戻し、ソファーに近づくと、くずれる様に腰をおろし、高々と足を組んだ。湿った皮ジャンパーを開け、奪った品を前のテーブルの上に並べる。
ホルスターのフラップを開けて、奪った拳銃を抜いた。引金の|用心鉄《トリガー・ガード》が三角形をした、口径七・六五ミリのモーゼルのオートマチックHSCである。
冷たい|威《い》|嚇《かく》を秘める自動拳銃のメカニックな非情な輝きを見つめる男の目には、酔った様な光がある。
銃把の|弾倉止め《マガジン・ストップ》を押し、マガジンから|挿弾子《クリップ》をぬき出した。挿弾子の横にあいた小穴からのぞくと、鈍いギルテッド・メタルの|肌《はだ》を光らせた弾が五発つまっている。八連発だが、警官は五発以上詰めないのだ。
挿弾子の最上部に顔を|覗《のぞ》かせている弾を親指で前に押出し、バネの弾力で次々にせり上がって来る弾を皆抜出した。
銃の横側についている丸みを帯びた安全装置の弁を親指で|圧《お》しあげながら水平に廻し、撃発装置になおした。次いで遊底を引いて、薬室につまっている弾をはじき出し、銃をからにした。マガジン・セーフティなので空のクリップ弾倉を銃把の弾倉に叩きこみ、遊底を前に戻し、引金をひいてみる。
|乾《かわ》いた音をたてて、撃鉄は|虚《むな》しく空をうつが、ヘア・トリッガーに慣れた彼には引金が重すぎる。引金の前のあたり、三角形の用心鉄についたボタンを圧しながら、遊底を少し前に押戻した。続いて遊底を後ろに引き、|上手《じょうず》に銃から|外《はず》す。
ドライバーで銃を分解してみると、銃把の裏側にも登録番号が打ってある。
男は顔を曇らせ、小声で「畜生」と|呟《つぶや》く。サックには装填した予備の挿弾子とバラの弾が十発あった。
男は物憂げに立上がると、油をしませた布を持って戻り、分解した銃を包んだ。
それを手錠と共にベッドについている引出しの奥にしまった。
警察手帳と財布に目を通す。
神妙な顔の警部の写真が鋭い目付きで|睨《にら》む。財布には現金三千三百円と共に、幼児をかかえた二十七、八の女が、写真からあでやかに笑いかけた。
男は低く口笛を吹くと、甘い笑顔でその写真に投げキッスを与え、ビリビリに引き破った。
他に印鑑や警視庁関係の名刺が二十数枚入っていた。
男はそれらを肩から|外《はず》した自分のコルトと共に、ベッドのマットの下に押込んだ。
服を脱ぎすてると素裸になった。
裸になると意外に|逞《たくま》しく、鋳鉄の像をなしてひきしまった筋肉が浮き上がった。
灯を消すとベッドにもぐりこみ、|顎《あご》まで毛布をかぶったが、思いなおした様にカーテンを開き、窓を開けた。
雨は霧に変っていた。
ミルクをぶちまいた様な濃霧が渦をまいて流れこみ、熱い顔をやわらかく包んだ。
タバコをさぐって火をつけると、ぼおっと赤く火口の光るそれをくわえ、にぶい足どりで体中をめぐり始めたアルコールを意識しながら、男は身じろぎもせずに、じっと闇に目を凝らしていた。
|伊《だ》|達《て》|邦《くに》|彦《ひこ》はハルピンに生れた。ギリシャ正教寺院の|尖《せん》|塔《とう》に黄金色に燃える大陸の夕日が|映《は》え、アカシアの並木に駆けるトロイカの鈴が軽やかに響く夢の町。
そして又、あらゆる民族のはきだめ。
父は精油会社を経営していた。
雪が街を白い砂糖菓子と変え、二重ガラスの窓から薄れ日のもれる室内で、大きなペチカが生活の中心となる酷寒の冬ともなれば、腹をくり抜かれたキジや野鹿が足を|括《くく》られて吊され、台所へ続く長い廊下に並ぶ。
しかし、邦彦が幼い頃、父は会社を乗っ取られて建設関係の官吏となった。家族は父の任地につれて、|北京《ペキン》、|奉《ほう》|天《てん》、|新京《しんきょう》と移転し、戦争が始まった頃には北朝鮮の|平壌《へいじょう》にいた。大戦がおしつまってくると父までが兵士として南方の戦地へ狩り出された。
その日も雪だった。目の前が見えぬほど吹雪が荒れ狂っていた。父を駅まで見送って帰った母は、髪に|凍《い》てついた雪片に手を当てたまま玄関で気絶した。
授業は行われず、そろって山へ松根油を採りに出される。ガソリンの代用品である。
やがて死神は重々しい足並をそろえて行進して来た。毎日ずんぐりしたソ連機が|焼夷弾《しょういだん》や小型爆弾をばらまき、低空から機銃を掃射する。自分の身内に関せぬかぎり、死は日常茶飯事である。
朝鮮人の召使たちの態度が目に見えて横暴になっていく。
そして敗戦。退却する軍隊が爆破した火薬庫の飛火で街の一角は数日にわたり燃え続ける。この世の終りのような黒煙が頭上にただよい、その中を地響きをたててソヴィエトの誇る機動部隊が到着する。
それに続き、七十一連の巻取円盤の弾倉を持つ自動小銃バラライカを首から吊った|精《せい》|悍《かん》なコサック兵が、馬を駆って街に|雪崩《な だ》れ込む。
しばらくは略奪の銃声が後を絶たない。
泥酔した兵士が朝鮮人を案内にたてて侵入し、|狼《ろう》|藉《ぜき》のかぎりをつくす。
戒厳令がしかれ、夜十時以後外出する者にはずだ袋のように銃弾がぶち込まれる。街には|西瓜《すいか》の様にふくれて千切れた死体がごろごろ|転《ころ》がっている。だが、やがて士官等とロシア女の大量到着により治安が甦る。
広いベランダに藤と|菫《すみれ》の|匂《にお》う、|煉《れん》|瓦《が》作りの邦彦の家は|奇《き》|蹟《せき》的に接収をまぬがれ、戦災と接収で家を失った人々が入り込む。
混乱した日本人は売り食いの他に生きる|途《みち》は無い。|華《はな》やかな過去を物語る古代紫のお召、想い出を秘めたダイアは二束三文で叩かれてわずかの米と代る。
邦彦は街に出てロシア兵に食物をねだる。
「ワーニア・ハローシ・パコダー。ダワイ・ダワイ」
緑色の瞳の若いロシア兵が、|炒《い》ったヒマワリの殻を器用に吐き散らしながら、でっかい黒パンや分厚い|脂《あぶら》の層に木の葉の浮ぶスープをくれて、柔らかな黒髪が渦を巻いた邦彦の頭をなでてくれる。
母と共に豆腐や、|飴《あめ》やタバコを売って歩くが、もうけは少ない。妹の|晶《あき》|子《こ》は薄暗いタバコ工場で吸いがらほぐしの仕事をするが、ニコチンで顔色が変る。
邦彦は昼は青空市場で次々に味見したり、くすねたりして腹をみたす。
脂にとけて焦げるニンニクと、唐ガラシと様々な肉のむせる様な煙。
夜は軍の食糧倉庫に米や豆を盗みに行く。
銀砂をばらまいたような星空に向けて、衛兵が|威《い》|嚇《かく》射撃する自動小銃から発射された、緑や赤の|曳《えい》|光《こう》|弾《だん》のえがく弾道が、夜空にくっきりと映えて美しい。
ウオッカに酔った番兵が、袋を背おって腹ばいでにじり寄る日本人にむけて、低く腰にかまえた銃を切れ間なく盲射する。
邦彦は聞き覚えたロシア語と、|愛嬌《あいきょう》を頼りにハウス・ボーイになる。
サモワールを寝室にはこぶと、金色の|生《うぶ》|毛《げ》を光らせた二人が素裸で抱き合ってクチュクチュたてる音。
夕暮。邦彦はあざやかな手つきで、新聞紙に巻いたマホルカ・タバコの煙をなびかせながら、咲き匂うアカシアの街路を家へといそぐ。
ポケットには手の切れる様な|虹《にじ》|色《いろ》のルーブルがある。帰国船をよこさぬ政府にしびれを切らした日本人は、すべての品物を売って金を作り、グループになって、|鴨緑江《おうりょっこう》河口の|新義州《しんぎしゅう》に集まる。南朝鮮の|仁《じん》|川《せん》まで脱出するのだ。
夕焼けに黄土色の肌を血色に染めて、果しなく拡がる江に浮ぶ数隻の小さな機帆船につめこまれる。皆、日本に帰れば何とかなると思う。海は次第に暗緑色と変り、波は途方もなく荒く、ポンポン船はシーソーさながらに揺れる。夕暮にはサメが不気味な腹を見せて空中にとび上がり、追われた|飛《とび》|魚《うお》が船に飛込んでくれる。皆、|嘔《おう》|吐《と》を始めるが、横になる|隙《すき》も無い。
食糧は腐り、飲料水は足らなくなる。
岸に近づくと、機関銃の猛火にマストを射ち倒される。迫り来る死の足音に発狂した人々が絶叫しながら海中にとびこむ。
船長はたびたび船を停めて割増しを要求する。一週間後、まだ生きていた邦彦と母、妹晶子は、ぼんやりかすむ目で仁川の港町のまたたく灯火を|眺《なが》めている。
アメリカ軍のスピード・モーターが、くたびれきった船のまわりを水すましの様に舞い、巡洋艦の波で船はあやうく転覆しかける。
山奥のキャンプ場まで、口もきけぬほどへばった人々の死の行軍が続く。足を動かすのは唯、意志の力によってのみである。
|落《らく》|伍《ご》した者は|埃《ほこり》と泥にまみれて路端にへたばり、|虚《うつ》ろな目を青空に投げている。
DDTをぶっかけられ、馬にでも使う注射器を体じゅうにつっこまれ、邦彦はチクチクする毛布をしいた地面で久しぶりに横になる。しぶとい者、したたか者だけが生き残るのだ。
丸煮の小麦と|罐《かん》|詰《づめ》の食糧が続き、共同便所の前には慢性の下痢に悩まされる者の長い列が絶えない。
まだ乾いた|糞《ふん》の残っている家畜車で|釜《ふ》|山《ざん》に送りこまれ、リバティ船で|佐《さ》|世《せ》|保《ぼ》に着く。
初めて見る祖国の山の緑が目にしみる。
澄みきった内海は、群れ遊ぶ小魚やクラゲと共に底の砂つぶまで見とおせる。
しかし汽船が東上するにつれ、戦争の傷は破壊された都市の|残《ざん》|骸《がい》となって、醜いあざをさらけ出して来る。
故郷四国では、戦地から一足先に帰国した父が彼等をむかえてくれる。
久しく離れたまま、それぞれ己れの過去を持った父子の出会いは、何か旧友再会の感がする。父は県庁の土木課長の職についていた。
邦彦は中学一年のクラスに入るが、本を読むのは二年ぶりである。
他国者の邦彦が息をつけるまでには、一歩一歩を戦いとらねばならない。
自転車のチェーンで破れた皮膚がもとどおりになり、|悠長《ゆうちょう》な方言を|操《あやつ》り出した頃には、彼は、チンピラどもの一員として認められる。生徒の二割ぐらいはポン中であり、モクを吸わない|奴《やつ》はめずらしい。
学校をさぼっては皆で大阪まで、関西汽船で米や野菜を運び、金やヒロポンと代える。
久しぶりの書物からの知識は、熱砂に落ちた雨の様に邦彦の頭に吸いこまれる。
ツルゲーネフの「猟人日記」から、ロシア文学に入り、次々に古本屋で買い集めては読む。邦彦はロシア文学の中に、権力への反逆と地鳴りの様に巨大な民衆のエネルギーを見た。そして、イヴァン・カラマーゾフの大審問官に人類の意識の極致を見た邦彦は、神々の|黄《たそ》|昏《がれ》に思いをひそめ、大戦の惨害に人間性の根底まで|蹂躪《じゅうりん》され、しかも次の大戦の不可避を知る絶望は、「神は死んだ。人類への絶望のため……」という、ニーチェ流のニヒリズムを思想としてでなく、実感として受取る。
だが、邦彦はチェーンやドスを振りまわしての出入りには必ず加わる。
自分は選ばれた者だという盲信が、向う見ずな|糞度胸《くそどきょう》となり、闘争の際に彼が示す|狡《こう》|猾《かつ》さ、素早さ、冷静さは比類がない。
名門の高校を難なくパスするが、ここではポン中なぞ数えるぐらいしかいない。
「鋼鉄はいかにして鍛えられたか」のニコライ・オストロフスキーを知る。
宗教といえども、この様に美しい人間を作らなかった。
来世の償いが無かろうと、燃える様なコミュニズムとソヴィエトへの信念と、|厳《きび》しい義務を果したという満足の他何も無くとも……。歌う明日のために! コミュニズムは世界の青春である。
「流れよ、悲しい涙。泣け、ロシアの人々!」
ファシズムに反抗して散って行ったコミュニストの苦渋に満ちた魂につちかわれた、邦彦のくすぶりは火を吐く。
借り手の無い図書館のマル・エン全集をむさぼり読んでいく。
新聞部に入って激烈な調子で論説を書きなぐるが、原稿は検閲の教師によって赤線によごれて返ってくる。職員室に絶えず呼ばれておどかされるが、文化欄の文芸批評をかりて革命近しと呼びかける。
発行日近くなれば、検閲をのがれるために、鉛とベンジンの悪臭で頭がズキズキして来る印刷所にたてこもり、印刷寸前に原稿を活字に組んでもらう。
インクの|香《におい》のきつい刷りたての新聞を自転車で学校に運び、登校生に門口で手渡す。
天皇を|罵《ののし》った記事の出た新聞は没収され、ガソリンをぶっかけられて校庭で焼かれる。
燃え上がる炎を見つめて、|傲《ごう》|慢《まん》な|侮《ぶ》|蔑《べつ》と苦悩の表情を、|烈《はげ》しく迫った|眉《まゆ》に刻んで立ちつくす邦彦は、涙と共に自分の中にあったあらゆるセンチメンタルなもの、人間的なものを流し去り、鋼鉄のごとく|硬《かた》く非情な人間たらんと決意する。
一週間の停学を|喰《くら》うが、この頃父が|脳《のう》|溢《いっ》|血《けつ》で死ぬ。酸いも甘いもかみわけた、優しいオールド・リベラリストの父であった。
死後、金庫を開けると、親子が何年か食える金と、かなりの株券があった。
来る者は拒まずで、生前土建屋からまきあげた金であろう。
しばらくは失った夫への悲しみに沈んだ邦彦の母も、もともと楽天的な気性ゆえ、新しくやとった女中に家中をまかせ、華やかによそおって娘時代にもどったかのようである。
失意にさまよう邦彦に、若くして決闘で倒れたロシア悪魔派の天才、レールモントフの|毅《き》|然《ぜん》たる姿が圧倒的にのしかかってくる。
華やかに|雅《みやび》やかな挙措と、内に荒れ狂う暴君の血。
|己《おの》れの破滅にまでみちびく絶望につかれ、悪行の中にのみ生きがいを感ずるペチョーリンの姿は邦彦の偶像とまでなる。
人生は芝居だ。|幕《まく》|間《あい》喜劇にすぎないとふれまわって、芝居の方法論をまなぶ。
誰もがたどるスタニスラフスキーやダンチェンコやクレーグの演出手法の丸覚え。それは彼の頭の中で、一つの物へとすり変えられる。計算しつくされた自然さだ。
文芸部で知合った連中の紹介で演劇部にもぐり込む。
選ばれたる者の誇りと不安と|嫉《しっ》|妬《と》の交錯する|絢《けん》|爛《らん》たる世界。
夜は背広に着変え、顧問の教師や先輩たちと女をはり合って飲み歩く。|嘔《は》くごとに強くなる。
泥酔すると顔色は|蒼《あお》く、|愴《そう》|絶《ぜつ》になる。
部長の小林久美子と事毎に衝突する。
紫色に近い髪を思い切ってカットした火の様な女である。
かつて邦彦が文芸欄で彼女の小説を酷評して以来、彼には|執《しつ》|拗《よう》な関心をはらっている。
邦彦は用事で彼女の家、旅館「無月荘」をたずねる。観光客の途切れた初冬の屋島。
ケーブルで二人して展望台まで上がる。
眼下には内海がぼうっと|霞《かす》み、霧笛を鳴らして行き|交《か》う連絡船のデッキからもれる灯が静かな波にゆれてさざめき、無数の宝石をきらめかしている。
夜も|更《ふ》け、風も出て来た。
血がのぼって頭の中がジーンとしてくる。
|被《おお》ってくる銀線を張りつめた様な沈黙に堪えかね、ひまを告げようとベンチから腰を上げかけた邦彦は、いきなり抱きすくめられ、知らぬ間に二人の熱い唇は、からみ合っている。暗い青春に狂い咲いた不倫の花。
|抑《おさ》えられた激情の|怒《ど》|濤《とう》が|鎮《しず》まると、体をぴったりとあわせて、久美子は「あんた、どこかほかの人とちがうとこがあるんやわ……」と|囁《ささや》く。使い古された、そのくせいつも甘く心に|媚《こ》びる言葉。
その女の事も、女が卒業して大阪へ|嫁《とつ》ぎ、手紙の行き来だけになると忘れがちになる。
世の中にもっと|綺《き》|麗《れい》な女がいるから、と自分に弁解する。
外面の繊細さと内面のしぶとさ。
彼の年では冷酷さは誇りでさえある。
|真船豊《まふねゆたか》の「たつのおとしご」から本格的に演出をやる。舞台効果を計算しつくした、|洒《しゃ》|脱《だつ》で|虚《むな》しいファース。
脚本のプリントは書きこみで色が変る。
主役の|塙雅子《はなわまさこ》を口説いてみせると宣言する。それは彼女が他の男と恋仲であるからでもあるし、又、相手を屈服させずにはおかぬ邦彦の凶暴な支配欲と、破壊欲の現われでもある。無論、目的のためには手段を選ばない。
入神の演技でどんな役でもこなし、どの様な人間にだって化けてみせる。
夏、降る様な星の下。あたりに人気の無い河の土手、|草《くさ》|叢《むら》でキリギリスが鳴きやむ。
「久美さんに悪いわ」
雅子が目を閉じたままポツンと言う。
夜霧がおりて来て、邦彦は心まで冷える。
目的を追究している時に感ずる充実感は失われ、|虚《むな》しくなげやりな悲哀感に襲われる。
生命を|賭《か》けた恋もする。三島由紀夫の近代能楽集の一つ、「|卒《そ》|塔《と》|婆《ば》|小《こ》|町《まち》」の立ち|稽《げい》|古《こ》の時、舞台では、黒いトックリのセーターを典雅な身にまとった邦彦が瞳をキラキラ光らせ、左手に握った脚本をいらだたし気に動かし、熱演する役者たちに指示をあたえている。
適当にベンチをおいた公園の場。
詩人 不思議だ。二十歳あまりの涼しい目をした、いい匂いのする素敵な着物を着た……君は不思議だ!
老婆 ああ、言わないで。私を美しいと言えばあなたは死ぬ。
詩人 何かをきれいだと思ったら、きれいだと言うさ、例え死んでも。
邦彦、「待った! 今のセリフの時、そんな大げさな身振りで悲痛な声をふりしぼったりしたら、ブチこわしになるんだと何回教えたら解るんだ。こいつは努めてさり気なく、それでいて無類の想いをこめてしゃべってくれないと三島が泣くぜ。さあ、気をとり直して三番前の老婆のセリフからやりなおしだ!」
ホールの|隅《すみ》では、バンド・ネオンの|啜《すす》り泣くラ・クンパルシータのレコードに合わせて、ソロを踊っていた|新《にい》|納《のう》|千《ち》|佳《か》|子《こ》が、ダンス・シューズの|紐《ひも》を結びなおすふりをして立上がり、邦彦の熱した横顔を見つめている。
気配に振りむいた邦彦の視線と、彼女のそれが交わり、無言の契約が交わされた。
新納千佳子は、キャバレー「フラミンゴ」を経営する白系ロシアの血をひいた父と、日本人の妻との間に生れた。
しなやかにのびた豊満な|肢《し》|体《たい》を持ち、瞳は青みがかった|妖《あや》しい|翳《かげ》をおびて暗く美しい。
わずかにひらいて、軽くまくれあがった豊かな唇は好き心をそそってやまぬ。
ひたぶるにマノンを恋いしたって破壊の道をたどるシュバリエ・ド・グルーの役は、彼には目くるめくように新鮮である。
「ああ、マノン、マノン」と興奮にかすれた熱い声で|囁《ささや》きながら押しつけた彼の唇の下で、むせる様な芳香のしみ出る千佳子の乳房がふくれ上がる。
溶けるような肌の素晴しい体をそり返し、眉の下の目をあらぬ方に投げて、千佳子はまだ夢からさめない。
生命のありどころを知る幾夜。そして別れ。
「とうちゃんが絶対許さん言わはって、今度あんたと一しょにいるのを見つけたら、半殺しにするというのや……それにうち、あんたがほかの女の人と色々あったのを聞いてしもうたんや。もう何もかもわからんようになってしもうた。もうだめやわ。何も言わんと、うちの事わすれて……」
薄暗い喫茶店のボックス。けだるい音楽の流れる物静かさの中で、彼は放心した目で彼女の口もとを眺めている。
これとそっくりの場面が、今まで無限にくりかえされて来たような錯覚に陥る。
しばらくは指をからませたまま、無言で坐っている。
こらえきれなくなった女の|啜泣《すすりな》きと共に、電蓄からセントルイス・ブルースにのったルイのトランペットがけたたましく鳴り響き、はじかれたように席をたって、まばゆいほど明るい街に出る。
虚脱状態がすぎると、失った者の残した痛手は烈しいうずきをともなって彼を襲う。
それと共に、十九歳の彼の心の奥深く残っていた何物かが音をたてて|崩《くず》れ、死の|深《しん》|淵《えん》を|垣《かい》|間《ま》見た気がする。
二日後、彼女の服毒自殺を聞いた。
遺体は無かった。暗い、突詰めた目で、物陰から葬儀車を食い入るように凝視する邦彦は、この時初めて「野獣死すべし」の不気味な不協和音の幻聴をきいた。
邦彦の無頼の結果は、福田|恆《つね》|存《あり》の「竜をなでた男」を告別公演とし、学校当局による演劇部強制解散によって喜劇の幕を閉じた。
受験勉強の合間に、以前から心にあり、ノートをとっていたキリストの評伝を百枚にまとめて発表する。
イエスを、|虐《しいた》げられ苦しみ疲れたユダヤ民族が、「彼こそかくあれ」とした願望が生んだ革命家の、悲壮美の極と見た|冒《ぼう》|涜《とく》の書。
東大を受けるだけ受けて落ち、米人神学者を教授にかかえるプロテスタント系の神学校に入る。寮生活に入ってもチャペルに出ない。旧約も新約もやればやるほど解らなくなる。奇蹟が信仰を生むのでなくて、信仰が奇蹟を生むからだ。
「貧しき者に幸いあれ」と寮生にひどい物を食わせ、教授たちは快楽を求めて豪壮な住宅から夜の街に車を駆る。
邦彦はサッカーに熱中する。
広いキャンパスの緑の芝。
草を|噛《か》んで小きざみにバウンドしながら猛烈に襲ってくるボールに呼吸を合わせ、力一杯に|蹴《け》り込む。タイミングがきれいに合い、快音と共に弧をえがいてぐんぐんとのび、青空を真二つに区切るボールは、偽善のかたまりとも言える米人学長の赤ら顔であり、叩き潰すべき権威そのものである。
また彼一人で美術部を作り、ペインティング・ナイフでホルベインの絵具をキャンバスに叩きつける。
分厚くなすりつけた絵具を|乾《かわ》かしては削り、削りとっては塗りたくって何重にもかさねていくと、底光りする重厚なマチエルが出来る。紫色の河に映って炎上する家々、破壊された故国の焼野原を、プルシアン・ブルーとダーク・グリーンの重なった空を見上げて|昂《こう》|然《ぜん》と進む、白馬にまたがったジャンヌ・ダーク。
「笛吹けども、民踊らず」暗いクローム・イエローの斜陽と、波だつ|黒藍色《こくらんしょく》のゲネサレ湖を背にたたずむ物悲しい目のキリスト。
華やかな戦衣をまとって倒れた巨人ゴリアテの死体に|蹲《うずくま》る裸身の青年ダビデ。
その体からは、目的を達した者だけの知る虚脱感がにじみ、明るいレモン・イエローの太陽には死臭を|嗅《かぎ》|付《つ》けた|禿《はげ》|鷹《たか》の羽が懸っている。愛するシャガール、ブラマンク、ルオーの色調……中からゆらめく幽鬼の炎。
隣の部屋では、バルト、赤岩、ヤスパースと、いつ果てる事ない議論を蒸返している。プロテスタントのいやらしさに|嘔《はき》|気《け》を覚え、久美子にふっと会いたくなり、大阪に行く。
幸いに紙問屋の主人は出張中である。
腕をくんで、しばらくは物を言わずに歩く。
水堀にネオンが映って揺れてわびしい。
心斎橋筋を横に折れ、法善寺横丁で一息つく。人生の|黄《たそ》|昏《がれ》……鳥居の陰での長い口づけ。お好み焼屋の座敷で酌み交わす酒、情緒をそそって身にしみる。
髪をアップにし、玉虫色の和服がすっかり身についた久美子は、「初めはあんたを殺したかったんやけど、いそがしさにまぎれて……。それにうちの人、親切で優しゅうて、うち、ほんまに幸せやと思ってたのに……」と柔らかく|怨《えん》ずる。
酔いにポッと上気した目が成熟を感じさせる。弱い弱い男と女が一緒になって、|慎《つつ》ましい家庭の幸福を築く。これが人生の最高の逸楽であり、安らぎかも知れぬ。しかし今の彼には破壊者となれても建設者とはなれぬのだ。
少なくとも、これから先、己れの内部にくすぶる狂暴な自我にはけ口を見いだし、己れの才能と死を|賭《か》けて、現世の苦楽を味わいつくしてしまうまでは。
時が来たら、可愛い足の指を折らねば十から上を数えられぬほどの、|楚《そ》|々《そ》たる|無《む》|垢《く》の少女を妻として、そのあどけない海の|泡《あわ》を現世の女神、生きた美神にまで育てあげるのだ。
大阪には二日いた。
神学校は試験の時、割礼を科学的に説明した答案を書いて放校になるが、ここでレイモンド・チャンドラーを知り、又、留学生から手ほどきを受けてポーカーのインチキに熟達した。
翌年私立の大学に入る。
入学金受付場で、無造作に|行《こう》|李《り》に投込まれる札束を見ていると、|焦《あせ》りに体が熱くなる。入ってしばらくは波にまかせてすごす。
新宿西口を毎夜痛飲して廻る。
夜の早慶戦。酔っぱらった学生が、母校の勝利に狂喜乱舞し、ラジオ・カーのアンテナをへし折り、バーのガラスを叩き割る。まやかしの青春に幻滅を感じることの無い世代。戦いに傷つき、血みどろになって自己模索して来たアプレゲールの最後の生残りである邦彦との間に、越えがたい|溝《みぞ》を持つ戦争を知らぬ世代。
愚にもつかぬ講義を必死でノートに写し、試験の成績に一喜一憂するあわれっぽい飼い|鼠《ねずみ》ども。就職と、男は女、女は男をこしらえる事だけを目標とし、試験の頃には出来る|奴《やつ》のまわりに|街娼《がいしょう》のように群がる女学生。馬鹿おどりを踊り続ける仮面の下からのぞく、ひやりとする冷酷なエゴイズム、小ずるさ。みじめな頭には、けち臭い夢がふさわしい。邦彦は授業には何の興味も無い。
頭脳はまだ|把握力《はあくりょく》を失っていない。
試験など茶番劇に等しい。下宿で寝ころがってアメリカン・ハードボイルドの探偵小説にとっくむ。己れの苦痛を|他《ひ》|人《と》|事《ごと》として受取り、己れのみを頼みとするニヒルでタフな非情の男の群れ。耐えて耐えぬくストイシズムの生む非情の詩。
部屋には安っぽい表紙にかざられた二十五セント判のポケット・ブックがたちまちのうちに数百冊読みとばされ、うず高く積まれていく。
計算しつくされた冷たく美しい完全犯罪の夢が彼の頭中にくすぶり始め、やがて積りつもった彼の毒念はついにその吐け口を見いだし、次第にそれは|確《かっ》|乎《こ》たる目的の型をなした。失った己れを見いだした邦彦は、絶望の|淵《ふち》から死と破壊をもたらすために、苦々しく|蘇《そ》|生《せい》したのだ。
大学生活はその準備期間であった。
月曜と水曜の夕方から東洋拳のジムにかよい、汗にまみれて練習にはげむ。己れの中にある毒念を汗と共に叩き出そうとでもするかの様に、異様なほどの情熱を傾ける。
サッカーで鍛えた強靱でしなやかな脚は、バネの様なフット・ワークを見せ、冷徹な頭脳は相手の出方を正確に見抜き、素早く反応する。三年後、そのジムのウエルター級のうちで、彼の殺意を秘めたパンチの鋭さとスピードと絶妙のタイミングに匹敵出来る者は少なくなる。
一方、大学の射撃部に加わって銃に慣れる。
薄暗く、ひやっこいトンネルの中。
プローンの姿勢で、ヘンメリ小口径ライフルのピープ・サイトを通し、|蛍《けい》|光《こう》|灯《とう》に浮び出た五十メートル先の標的をじっと|狙《ねら》っていると、涙が上から下に筋を作って移動するのが解る。
ダブルにしたヘア・トリッガーの引金にかけていた人差指の第二関節を軽く絞ると、トンネル中に銃声が反響する。
発射の反動はほとんど感じられない。
ボルトを引いて遊底を開けると、|空薬莢《からやっきょう》がエジェクターではじき出され、スモークレス火薬の甘酸っぱい|臭《にお》いが鼻をうつ。
望遠鏡でのぞくと、標的の十点のセンターにポツンと白い穴があいている。邦彦は満足の吐息をもらし、ゴザを敷いた冷たいコンクリートの床に仰向けにひっくり返って目を休ませる。
この時だけは|疼《うず》く暗い怒りは|鎮《しず》まっている。
部をやめる前に、防衛大学からコルトの自動拳銃を盗み出している。これに合う二十二口径の弾はレミントン・ハイスピードのクリーン・ボアが、一箱五十発入り六百円で、いくらでも手に入る。
休暇には国に帰り、家庭の幸福を大事に守りぬく。己れを|虚《むな》しくして母や妹につくす事には自虐的なまでの幸福がある。
銃を買ったり、ジムに通ったり、自動車の免許をとったりするためには、疲れきった体に|鞭《むち》うってバイトでかせがねばならぬ。
バイトの帰り、電車の|吊《つり》|皮《かわ》にぶらさがった彼の耳には「野獣死すべし」の旋律が、発狂しそうになるほど繰返し繰返し|轟《ごう》|々《ごう》と鳴り響く。自動車のドアやイグニッションを合鍵や針金を使って開ける術にも上達した。
免許証も本物の他にいくつか偽造した。
深夜、道路に止めてある新型の外車にもぐり込んで、人気の無い道を百マイル近い速度でフッ飛ばし、追跡の白バイを|撒《ま》いて、車をもとの場所に返すスリルを好んだ。
そして女たち。
彼の女に対する態度は優しく快活だが、やはり投げやりな事は隠せない。
|美《び》|貌《ぼう》の女と金の有る女にしか関心が無い。
女に精神を求める様な間抜けには死んでもなりたくない。
関係が出来ても長続きしない。
もし本気で愛して、その愛情を女に利用されたらと思うと|虫《むし》|酸《ず》がはしってくるし、彼の心にある破壊欲は一つの所に止まるに耐えられない。|雌《め》|鹿《じか》を追いつめて、銃のサイトにぴたっと捕えたら、それでおさらばだ。
失った女への愛惜感なぞさらに無い。
孤独とは己れを失うことであるかぎり、己れのみ頼りとし、目的に向って突き進む彼には、青白い孤独感なぞ有り得ない。
教科書を買う金が無くなっても、|瀟洒《しょうしゃ》な外面だけはととのえずにいられない。
お前のようなナルシストは、潜在的ホモ・セクシャルかも知らんなと友人に指摘され、骨っぽく苦笑する。四年になってから、多産をもって鳴る翻訳業教授の口ききで、アメリカの小説の翻訳の下請けをやる。
卒論は「ハメット=チャンドラー=マクドナルド派に|於《お》けるストイシズムの研究」である。大学院に残り、アメリカ文学を専攻する。
休む事ない暗い怒りは、ますます烈しく彼を駆りたてる。何かを|憎《ぞう》|悪《お》していなければ生きていられなくなっていた。
犯罪、特に殺人には生命の昇華がある。
それを守るためには全力をおしまぬ人命を、あらゆる捜査の目をくらます巧みな方法で、冷静に奪いさる行為には一種の非情美がある。
物心ついた時には戦争の真只中にあり、自己を|掴《つか》む間も無く、慣れっこになるほど死人を見て来た彼には、他人の生命は少しも特別な価値を持たなかった。
彼には大戦によって失うべき自己の幻さえもほとんど持っていず、ただそれによって醜い傷だけを負った世代の最後の生残りなのだ。
それに無論、金の魅力がある。
自分以外に頼りになるのは、金と武器だけだ。金で買えない物に、ろくな物はない。
|稼《かせ》げるチャンスがある間に稼ぎまくるのだ。そのため誰が死のうと知った事でない。
アパートを借りる金は、家の金庫から株券を持出し、処理して作った。
歯車はきりきりと音をたてて廻り始め、加速度に乗って|轟《ごう》|々《ごう》と回転した。
それを止めるには死の|威《い》|嚇《かく》も非力である。
翌朝、日曜日。
邦彦はカーテンからもれる高い|陽《ひ》|射《ざ》しに目を覚ました。まばたきをしてから腕をのばし、時計をとって見る。もう十時を過ぎている。タバコに火を|点《つ》けて吸込むと、まるで|雑《ぞう》|巾《きん》を|銜《くわ》えている味がした。
シャワーを浴びてから|髭《ひげ》をあたり、ゆったりとした部屋着をつけた。
部屋を出ると、廊下のつきあたりの壁に開いている焼却器の穴に新聞紙に包んだ財布や印鑑や名刺などの昨夜の証拠物を投込んだ。廊下をぶらぶらしているアパートの住人と当りさわりの無い会話を交わす。
下に|降《お》りて朝刊を持って戻る。
|蒼《そう》|白《はく》になった顔をこわばらせて三面をはぐって見る。
その目は忙しく上下に動いたが、やがて顔面のこわばりはゆるみ、己れの醜態を恥じるかのように見る見る血がのぼり、唇は|自嘲《じちょう》的な冷笑にゆがんだ。
三面も、都内版のページも、昨夜の小さな出来事について何も伝えてなかった。
台所になるキチネットでベーコンとピーマンを|炒《いた》め、それとコーヒーで朝食をとった。タバコに火をつけ、コーヒーを|啜《すす》っては煙を吸込む。タバコをコーヒー皿において、わずかな微風に立ちのぼる煙がゆらめき、ぶつかりながら空に消えていくのを、ぼんやりと放心したような目で見ている。
コーヒー三杯とタバコ五本を灰にして朝食を終えた。食器を片づけるとベッドに近づき、分解して布に包んであったモーゼルとヤスリとドライバーを持ってテーブルに戻った。
銃把の裏に打ってあるナンバーをダイアモンド・ヤスリで根気よく削り取る。
黒い|燻《いぶ》しの仕上げが|剥《は》げ、鈍い銀色の地肌が現われた。職業的な正確さでヤスリを動かす彼の額には、汗が薄くにじみ出て、引締った男性的な|容《よう》|貌《ぼう》をくっきりと浮きたたした。
引金の内部のスプリングを調節し、|逆鉤《ぎゃっこう》の爪をダイアモンド・ヤスリとオイル・ストーンで削って、引金を軽くした。
ドライバーで銃を組立てて、引金をひいてみた。さしたる抵抗も無く引金はすべり、撃鉄は軽い乾いた音をたてて虚を撃った。
ショルダー・ホルスターのバンドを短く切って、右脚に|括《くく》り着けられるようにした。装弾した|挿弾子《クリップ》をマガジン・ハウジングに|嵌《は》め、薬室には弾頭をナイフで斜めに削ってダムダム弾にしたのを詰めた。これを人間の腹にブチ込むと、弾を|喰《くら》った個所は小さな穴があくだけだが、|臓《ぞう》|腑《ふ》をめちゃめちゃに引裂いて、背に|擂《すり》|鉢《ばち》状のでかい出口を残す。
仕事を終えて三時のニュースに耳を傾ける彼の|瞳《ひとみ》に星が宿りだし、その光はアナウンサーの声を追って絶えまなく変化して、心の明暗を|綴《つづ》った。
都内大田区田園調布二丁目五百九十番地に住む、|旭《あさひ》ゴム株式会社専務浅野五郎氏五十三歳の乗用車ビュイック・エイト五十六年型A―七二三一のトランクから今日午前十時頃、|眉《み》|間《けん》に穴のあいた身長五尺八寸体重十九貫ぐらい、推定年齢三十五歳の身元不明の男の、射殺死体が発見されました。
警察で発見者の浅野氏に事情を聴取したところ、氏は現在の住居に移って間もないため、ガレージは目下建築中であり、車は前夜路上に放置してあった事が判明しました。
浅野氏はこれまでに、死体の男を見たことはないと言っています。
当局は、手口から見て職業的な凶悪犯、あるいはヤクザ同士の出入りによる犯行と見て、車に残された二十数種の指紋をただちに鑑識課に送り、全都のヤクザ、前科者の指紋カードと照合中です……。
アナウンサーの声は淡々と流れ、ニュースは都議の汚職発展に変った。邦彦はスイッチを切ると深呼吸をし、部屋着を脱いで手と顔を洗った。
チャコール・グレーのズボンをはき、|裾《すそ》を|捲《まく》って脚にモーゼルをつけた。
黒いスポーツ・シャツの上に、ソフト・トーンのモヘアの上着をつけ、空色がかったスプリング・コートを羽織って部屋を出た。
スカーフの色は黒みがかった真紅と紫のミックスである。
玄関でアパートの管理人と立話した。
「日比谷でやっているロード・ショーをのぞいてみようと思ってね。たまの日曜というのに|独《ひと》り者はつらいよ」
「いやあ、若い人は気楽でうらやましいですな」
と、恐妻家の管理人はパイプの煙を天井に吹っかけて、遠くを見る目つきをする。しばらく歩いてから知人がいないのを見すまし、偽造免許証を使って借りた昨夜のトヨペットに乗込んだ。
三時間ほど当ても無く乗廻して、スピード・メーターの中についている走行距離計を廻し、新宿のドライブ・クラブに着けた。
三千円の代金を払いながら、箱根も昨夜はあいにくの雨でね、と受付の娘にぼやいてみせ、じゃあまた、と片目をつぶってウインクを送って街に出た。
その彼の後ろ姿を受付嬢は物思わし気な目つきで|頬《ほお》|杖《づえ》をついて見送っていたが、ふーっと鼻をふくらませて|溜《ため》|息《いき》をつき、やけに書類をひっくり返した。
東口のバー「サテイユロス」に入った邦彦は、止り木に腰をおろすと、|肘《ひじ》を、|研《みが》きあげたカウンターに乗せ、これでもかと飾りたてた色とりどりの洋酒の瓶を|眺《なが》めながらゆっくりと飲んだ。
まわりには三、四人ちらほらと客が見える。バーは孤独を楽しむもの。タバコの紫煙と静かに流れるムード音楽に包まれてゆったりと|寛《くつろ》ぐと、どっと疲れが出て、|瞼《まぶた》が重たく落ちてくる。思いだした様にグラスを口に運ぶ彼の横顔に、薄くルージュをぬり、重たいほどアイシャドウをまぶしたゲイ・ボーイが、|媚《こび》を含んだ視線を|蛾《が》のようにへばりつけていた。
客が騒々しくたて込んで来たので、邦彦は勘定を払って外に出た。
|雑《ざっ》|沓《とう》する街はすでに狂った|毒《どく》|蜘《ぐ》|蛛《も》のネオンに色どられ、襟をたてたスプリングを通して湿気を含んだ晩秋の夜気がしのびよった。
すでに酔客が千鳥足でそぞろ歩き、バーやアルサロの客引きやサンドイッチマンがうるさく寄りそう歌舞伎町で、つけて来たゲイ・ボーイを撒いた。新宿駅東口のスタンドで、四、五種類の夕刊を買って池袋まで乗った。
混んだ国電の中では、夕刊をコートのポケットにつっこんだままである。
池袋で降りると、西武デパート前の広場に帯状をなして続く車と人の波をくぐり、ラーメン屋に入って焼ソバを二人前注文した。
夕刊を開くと、三面のトップにある大見だしと、被害者及びその死体を|呑《の》んでいた車の写真が目を射た。
記事は、今朝十時頃、浅野五郎氏のビュイック・エイトのトランク内から発見された被害者の身元は警視庁捜査一課警部、岡山良雄氏と判明、慶大病院で解剖に付せられた結果、死因は眉間から入って大脳を貫き、|頭《ず》|蓋《がい》|骨《こつ》に当って止った短銃弾による即死と解った。弾丸は原形をとどめぬほどに潰れているが、二十二口径と推定される。
大森駅まで被害者と共に終電に乗車し、そこで別れた大木勝警部補の証言により、被害者は大森駅から自宅への帰途殺害され、自動車に詰込まれて運ばれたものらしい。
犯人は警部に遺恨を持つヤクザかと見られるが、被害者の所持していた短銃及び手帳などの奪われているところから見て、さらに深刻な動機を持つ知能犯も考えられる。
いずれにせよ、鮮やかな手口から見て、単独犯でなくして、経験を積んだ数名の共犯と考えられ、この凶悪な警官殺しに、捜査当局は全力をあげて捜査に乗出した。
以上の意味の記事に、同警部の略歴、遺族の事、関係者の談が付け加えられていた。
焼ソバを食いながら、すべての夕刊の記事に目を通した邦彦は、徒歩でアパートに戻り、早目にベッドに横になった。
目を閉じると|酔《よい》|醒《ざ》めの白々しい気分が襲いかかり、頭は痛く、胸の中がうつろになった。
素足でカーペットの上に降りたち、セラレットからラムの|大《おお》|瓶《びん》を取出した。
コップになみなみと注ぎ、目をつむって胃の中に流しこんだ。
|咳《せき》|込《こ》んで涙をぬぐうと、アルコールが体中を駆けめぐり、軽く血の昇った顔に安らぎの表情が|甦《よみがえ》った。
ベッドに戻って、両手を頭と枕の|隙《すき》|間《ま》に差入れ、タバコを口にくわえたまま吸っている。東京はどこかに火事がある。消防車がけたたましいサイレンや半鐘を乱打して通り過ぎた。その音が去ると、絶え間なく行き交う自動車のうなりと警笛、それに電車の|轟《ごう》|音《おん》が入交って都会の騒音を形づくり、暗い地霊の|咆《ほう》|哮《こう》となって窓ごしに伝わって来た。
スタンドの淡い桃色の灯に浮ぶ秀麗な顔は穏やかであるが、光線とタバコの陰になった|瞼《まぶた》と浮き出た|鼻梁《びりょう》は、暗く愁いを含んだ線を造っている。
こぼれ落ちて顔にかかった灰に気づき、枕もとの|卓子《テーブル》においた灰皿でタバコを|揉《も》み消した。
犯罪は引合う、と彼は考える。
しかし、それには大きな条件が|要《い》る。
組織の力を利用したビジネスか、徹底したローン・ウルフの単独犯かだ。
前者の|傭《やと》われ殺しでは、明白な動機が外部に見当がつかない。
殺人請負業だから動機は報酬の金だけだ。一面識のない被害者に二、三十発機銃弾をブチ込めば、逃げ道はちゃんと買収によって用意されている。
失敗して|喰《くら》い込んでも、アリバイはでっち上げる事が出来る。
法だって金と権力で買える。
大手を振って保釈で出て、ほとぼりのさめるまで遊ぶだけだ。
借りを踏倒して消えたバクチ打ちにもう仲間なぞ無く、見つけられ次第半殺しになるのと同様、組織を裏切った者は常に死と同居する。
後者にはチーム・ワークの摩擦からくる手違いが起らず、逃亡する際の足手まといも無い。
それよりも有利なのは、いざという時に|怖《おじ》|気《け》づく臆病者、逆上して無益の殺傷を重ねて自分の墓穴を掘るトリガー・ハッピー、仲間割れ、裏切者などの出る危険性が無い事だ。
しかし、いずれの場合にも、必ず事前に徹底的に計算しつくされなければならない。
練りに練った計画と、チャンスと、柔軟性を持った機敏な行動さえあり、|完《かん》|璧《ぺき》のチーム・ワークが加われば、ツーメン・ジョブやスリーメン・ジョブの場合、古典的ともいえる見事な完全犯罪が生れる。
この場合、一番成功率の多いのはチェスタートンのパラドックス、「一枚の木の葉を隠すには森の中へ、一つの石ころを隠すには砂浜へ」という人間の盲点をついた|緻《ち》|密《みつ》で大胆な犯罪であろう。
景色の一つにまでとけ込んだ犯行者が、待ちに待った時が来た時、機械の様に機敏、正確に行動を起し、捜査の裏をかいて、あっと言う間も無く姿を消す。
邦彦は目を開き、新しいタバコに火をつけて深々と吸込みながら、今まで計算しては消し、消しては計算しなおした入学金強奪計画を再び検討した。
締切直後の経理課事務所。
室外では掃除夫が熊手で散らかった紙くずを集めている。|傍《そば》のベンチでは二人の学生がタバコをふかしながら何やら話合っている。電話修理工の服装をした一人が、外部から電話線を切断した瞬間、事務所の両方の戸口には銃を手にした掃除夫と、学生服の一人が立ち、邦彦自身が課長に銃をつきつけて金庫を開かせる。奪った金は車に積む。
しかし、いつもどこかに人影のある大学のキャンパスから|易《やす》|々《やす》と逃亡出来るはずはない。数十人の職員が騒げば、始末がつかない。それに共犯者に、つまり他人に自分の生命を託す事は、己れのみを頼りとするローン・ウルフである邦彦にとって、自殺行為に等しい。邦彦は青ざめた額に玉の汗をにじませ、からからに|干《ひ》|上《あ》がった口を開けて重い呼吸を続けた。目は血走り、どうにもならぬ壁を模索する心を表わす顔には、苦痛と焦慮の影が濃い。
二カ月が走りすぎた。
新聞、ラジオは警官射殺事件の迷宮入りを伝え、急速に人々の心から忘れ去られた。
邦彦は昼は大学院に通い、ノーマン・メイラーに没頭し、帰宅後はジェームス・ケインの「ミルドレッド・ピアース」を毎日三十枚の機械的スピードで訳して行った。
人あたりが柔らかで快活な学徒に見えた。
肉体的トレーニングも怠らなかったが、その他の時間は次の犯行の準備や聞込み、現場の下調べに費やした。
銀座二丁目のナイトクラブ「マンドリン」。狂乱のクリスマス・イヴの翌朝。
|華《はな》やかに繰りひろげられた、恒例の仮面舞踏会と|博奕《ば く ち》祭りの興奮から醒めた午前三時半。
華麗な五色の水玉を|綾《あや》なして廻り狂ったミラー・ボールのライトも今は消え、金糸をちりばめた真紅の|緞帳《どんちょう》をバックに|漆《しっ》|黒《こく》のドーランに真白い歯を|煌《きら》めかしたバンド・メンのきらびやかな楽器から流れる狂熱のリズムに乗って、|絢《けん》|爛《らん》たる|扮《ふん》|装《そう》を凝らして熱帯魚の様に踊りぬいたあらゆる国籍の客も、飛魚のように|尻尾《しっぽ》を張った車で散っていった。
砕けたシャンペーンの泡はフロアにまで流れ、食い散らかされたオードブルはカクテル・グラスの中を泳ぎ、乱立したタバコの吸殻からはもう煙はたたない。
フロアの騒音を越えて、かすかに漏れて来た二階の秘密クラブでのカードやルーレットやダイスの響きも絶え、快楽の戦場跡はひっそりと静まりかえっていた。
|蘭《らん》と|檳《びん》|榔《ろう》|樹《じゅ》の|大《おお》|鉢《ばち》の陰、目だたぬ様にとりつけた|賭《と》|場《ば》へ続く階段の|手《て》|摺《すり》に背をもたせ、ピンクのシャツにクリーム色のメス・ジャケットをつけた、うんざり顔のボデイ・ガード「はじきの安」から|睡《ねむ》|気《け》が消え、身体をしゃんと起して廻し、|慇《いん》|懃《ぎん》な微笑を浮べて階上を見上げた。
左の胸元に、一目でわかる銃のふくらみを見せびらかし、大胆にカットした紫系統のタータン・チェックの背広に長身を包んで、物柔らかな、そのくせ|虚《うつ》ろな微笑を端麗な顔に刻んだ用心棒頭「レディ・キラー徹」こと、三田徹夫を右手に従えた、マネージャーのチャーリー|陳《ちん》が、階段をゆっくり降りて来た。
縁無し眼鏡の下の平べったい顔は|脂《あぶら》ぎってテカテカ光るが、さすがに疲労の色は隠せない。細い三白眼にはふだんの|傲《ごう》|慢《まん》の趣が|褪《あ》せ、肥満した|体《たい》|躯《く》にタキシードが窮屈である。
右手に|提《さ》げた水色のバッグには、イヴの稼ぎの四分の一に当る分厚い紙幣がつまっていた。徹はすでに人気の無くなったクロークに近づき、みずから毛皮の|襟《えり》のついた|豪《ごう》|奢《しゃ》なオーヴァーを二枚とると、一枚は腕を通さずに軽く自分の肩に羽織り、他の一枚を陳に着せた。
フィリッピン人のドア・マンに|顎《あご》をしゃくって石段を降り、酷寒の夜空を仰ぐと、先程まで天空を赤紫に染めていた歓楽街のネオンはあらかた消え、星影がしんしんと降っていた。徹と陳は肩を並べ、無言で白い息を吐きながら、クラブから五十メートルばかり先にある有料駐車場へ疲れた足をむけた。
クラブの斜め向いにあるスーヴェニールの店「オリエンタル」は、三時間ほど前からすでに|鎧戸《よろいど》を閉め、灯を消していた。
邦彦は先程からその円柱の陰の暗がりに立ったまま、タバコに火を|点《つ》けては捨て、捨てては点けていた。
街路を通る二人の影を認め、掌でおおって|銜《くわ》えていたタバコを強く吸込むと、指先で軽く背後に|弾《はじ》きとばし、灰色のオーヴァーのボタンをはずした。目は軽く細められ、|凄《すご》|味《み》をおびて、|碧《あお》く冷たく光っている。左腕につけたオメガのシー・マスターは三時三十四分を示している。
黒いソフトの|庇《ひさし》に手をやって|目《ま》|深《ぶか》にかぶり直し、二人から十歩ばかり離れて後を追った。徹を先にたてた陳は、まだ二十台ばかり残っている間を通り、群を抜いて豪華な緑色のリムジーンへあゆんだ。凍てついたコンクリートに二人の足音が鋭く響く。
リムジーンのドアに手をかけた徹が、くるりと体を廻して振向いた。冷たく整った顔からは微笑が消え、凍てついた様に頬をこわばらせている。
「動くな! 不法賭博容疑により逮捕する」
瞳を冷たく据えた邦彦の声は、|抑《おさ》えつけた様に|嗄《しゃが》れて夜のしじまを裂き、それと共に足早に二人に近寄った。左手に持った警察手帳を、振向いた鼻先に突付け、その手を返してポケットにおさめると見るや、陳の左手首を握って逆にねじ上げた。自分の右手で陳のそれを背後に廻し、素早く両手首に手錠をかけた。
ピーンという手錠の|噛《か》み合う音と、陳の手から落ちたバッグがコンクリートに当る鈍い音が入り交った。すでに縁無し眼鏡は下に落ちて|微《み》|塵《じん》に割れている。
陳の顔に現われた苦痛と|狼《ろう》|狽《ばい》は、毒々しい|嘲笑《ちょうしょう》に変った。
「徹、弁護士をたのむぞ。それよりもあんた、逮捕状を見せて|貰《もら》おう。何の事だか、さっぱり見当がつかないね」
と、ふてぶてしく白を切り、カーッと|痰《たん》を切って足もとに吐きつけ、さり気なく片目を細めた。
ぱっと羽織った|外《がい》|套《とう》を|撥《は》ねのけた徹が、ズボンのヒップ・ポケットに手をまわすと、いきなり邦彦に襲いかかってきた。
身を沈め、|片《かた》|膝《ひざ》をついてさっと右へよけた邦彦の左肩を|掠《かす》めて、殴打用の凶器ブラック・ジャックが、シュッと風を切って力一杯振りおろされた。
邦彦は身を低くしてとび込み、自分の力で前へよろける徹の|鳩《みぞ》|尾《おち》に、鈍い音を発して手首まで埋まるほどの左フックを|炸《さく》|裂《れつ》させた。
「グウッ」と|呻《うめ》いて|俯《うつむ》くところを、|渾《こん》|身《しん》の力をこめた右のストレートが|蛇《へび》の舌の様に素早く延び、|喉《のど》|笛《ぶえ》を正確にとらえた。
邦彦は腰の回転しきった瞬間、パッととびのき、為す事なくつっ立っている陳を、目の|隅《すみ》から盗み見た。
徹は一間ほど後方にすっとぶと、両手で胃の上を押え、半ば意識を失ったまま、不気味な音をたてて口から血と胃の内容物をコンクリートの上に|撒《ま》き散らしている。
吐くたびに、背中が大きく波うってひきつる。皮袋の中に砂と鉛を詰めた牛乳|瓶《びん》ほどのブラック・ジャックは、手首に巻きつけた|皮《かわ》|紐《ひも》のためまだ徹の右手から離れていない。その手は無意識のうちに、汚物でよごれた服の、腋の下につっこもうと|痙《けい》|攣《れん》している。つっと近寄った邦彦は、|狙《ねら》いすまして徹の顔面を靴先でもろに|蹴《け》|込《こ》んだ。
歯の砕ける音と共に、血みどろになった徹は完全に失神した。
くるりと振向きざま、邦彦は電光の素早さで腋の下からコルトを引抜き、夢から|醒《さ》めたように、手錠から背後の手をもがき抜こうとしている陳の背を銃口でこづいた。
「車まで歩くんだ」
と低い声で命じる。
陳の足は木造人形の様にギクシャク動き、目は恐怖にひきつり、口から垂れる|唾《だ》|液《えき》が堅く|糊《のり》づけした真白なシャツの|烏《い》|賊《か》|胸《むね》を|汚《よご》す。車の後部座席に、|崩《くず》れるように腰を下ろした陳の顔を、銃身で横なぐりにはらうと、ヒーッと喉の奥で奇声をあげて意識を失った。
邦彦は銃を仕舞うと車から降り、バッグを拾って車の前部座席に投げ込んだ。
足を返して倒れた徹に近づき、靴先で汚物と血にまみれた背広の胸を開くと、これ見よがしにショルダー・ホルスターに差した輪胴式リヴォルヴァーを自分のベルトに移した。
徹の体を、そばに落ちているオーヴァーでくるみ、腋の下に両手を差込んで|引《ひき》|摺《ず》り、陳の横に押込んだ。
徹の顔は、ほとんど原形をとどめていない。
その手からブラック・ジャックを外すと、力をこめてその頭部にはたきつけ、返す手で自分のオーヴァー・ポケットにおさめた。グシュッと|頭《ず》|蓋《がい》|骨《こつ》のひっこむ音が聞えた。
内ポケットをさぐると、皮のケースにつまった弾が三十発ほど見つかった。
邦彦がイグニッション・キーを探し当てて、フロント・シートにまわり、前席と後席を仕切るガラス戸に影をおとして、イグニッションに差込んだ時、騒ぎを聞きつけて|怖《こわ》|々《ごわ》顔を出した若いチケット・マンが、小さな悲鳴をあげた。
「騒ぐな! 手入れだ」
邦彦は警察手帳を開くと、おだやかに告げて彼を安心させ、ハンドルを握って未明の銀座へ抜けた。
動物的直感で、歳末警戒の出ている場所を巧みに避け、完全に人気のない|麹町清水谷《こうじまちしみずだに》公園でリムジーンをとめた。
陳と徹はまだ失神したままである。
後席にまわり、陳の顔を五、六回平手で張りとばすと、|朦《もう》|朧《ろう》とした目を開いたが、邦彦と横に倒れた血まみれの徹、それに廻りの不気味な森の黒い影を認め、悲鳴をあげようとした。邦彦はすっと左手をのばすと、|唾《つば》で|濡《ぬ》れた陳の|上《うわ》|頤《あご》と下頤の|蝶番《ちょうつがい》の部分を強く|挟《はさ》んで口を開かした。そのため、悲鳴は高い音とならない。
陳の顔色は紫に近くなり、|脂汗《あぶらあせ》が全身に|滲《にじ》み、漏らした尿の悪臭が車内にたちこもり、徹の体から発する血と汚物の|臭《にお》いと交って、耐えがたいほどである。
邦彦はそのままの姿勢で、ゆっくりと陳に話しかけた。その瞳からはすでに冷酷の輝きは消え、からかう様な色とユーモアが交る。
「いいか。よく自分に言いきかせるんだ。――俺はひどいヘマをやって|捕《つか》まった。しかし、俺をパクった刑事は|小遣銭《こづかいせん》を欲しがっている。俺さえ黙ってりゃあ、|博奕《ば く ち》|場《ば》の事は表ざたにしねえと言っている。俺だってテッド・リーガン親分の息がかかった身内のはしくれだ、これぐらいの|端《はし》た銭でじたばたしねえ。近づきのしるしに貸してやらあ。この|銭《ぜに》をおしんで密告でもしたら、この|若《わけ》えのは俺をバラすに|違《ちげ》えねえ。そう自分に言い聞かせるんだ。分ったか!」
邦彦の左手が陳の顎から外れると同時に、右手がなめらかに|閃《ひらめ》き、コルトを抜出した。それを陳の|眉《み》|間《けん》につきつけ、音をたててゆっくりと安全装置をはずした。
「うつ、射つな! 射たないでくれ、金をやる」
陳は腰を浮かし、切れぎれに|啜《すす》り泣きながら哀願した。目は今にも|眼《がん》|窩《か》から飛び出しそうになるほど、白眼をむいている。
不敵な笑みを浮べた邦彦は、陳の喉のあたりを、銃口で|愛《あい》|撫《ぶ》でもするようになでまわす。今度は血に飢えた様なしわがれ声で「分ったか?」と聞き返すと、陳は「オーケイ」と|呟《つぶや》くと共に、大きく身震いしてガックリ首をたれ、再び|昏《こん》|倒《とう》した。
邦彦は、陳の手首にかかっている手錠を外して自分のポケットに仕舞った。
ハンドルやドアのノブ等、手をふれたあらゆる場所をハンカチでぬぐい、バッグを持って、|停《と》めてあった旧式のフォードに移った。公園を出ると車はスピードを増し、テール・ライトは見る見る|闇《やみ》の中に消えていった。
半時間後、フォードは池袋の街外れで静かに停車した。道路にたまった水は硬く凍り、ピーンと張りつめた冷たい夜の静寂は、かすかに聞える犬の|遠《とお》|吠《ぼえ》によって、ますます強く深められた。
邦彦はクッションの下からドライバーを取り出し、それを持って車の後ろに廻った。
重ねたナンバー・プレートの、かすかな|隙《すき》|間《ま》にドライバーを差込み、力を入れてこじると上側のプレートは|外《はず》れ落ち、その下から接着セメントの跡をわずかに残して、正式のナンバー・プレートが現われた。
東京中に三十数万台も走っている自動車の前と後ろのナンバーの食違いに気付くだけの|炯《けい》|眼《がん》を持つ市民は絶無であろうし、被害者の認めるのは逃亡する車のバック・ナンバーのみであろう事は邦彦の計算ずみであった。
それを持って車に戻り、ドライバーと共にクッションの下に隠した。
アパートから数ブロック離れた角に車を廻し、グローヴ・コンパートメントからジンの小瓶を取出した。
胸に垂らしながら三分の一ぐらい飲込み、さらにシャツの胸にもたっぷりぶっかけて、アルコールの|匂《にお》いを発散させた。
瓶の|栓《せん》をしめてポケットに|捩《ねじ》|込《こ》み、バッグを提げて車外に降り、車のドアに|鍵《かぎ》をかけた。青灰色の空は東の方がほのかに白みかけ、|星《ほし》|屑《くず》が頼りな気にまたたき、|光《こう》|芒《ぼう》を失った弱々しい|鎌《かま》のような月には、流れる密雲がかかって、その色は緑から血の色にまで絶え間なく変化した。
夜の寒気がきびしく肌に食込み、邦彦はせかれる様に足を早めた。
寝静まったアパートに入ると、顔の筋肉をゆるめ、目を半眼に閉じて、酔払いの表情を作った。足音高く階段を踏みしめて登りながら、|呂《ろ》|律《れつ》の廻らぬ舌で騒々しくジングルベルを歌う。部屋の外でガチャガチャと大きな音をたてて鍵を|探《さが》す。勢いよく部屋に入ると、扉をバタンとしめ、電灯のスイッチを入れた。泥酔の表情は跡形もなく消え、|憔悴《しょうすい》した顔には、五時の影と呼ばれる|髭《ひげ》が薄黒い|隈《くま》をつくって沈痛な趣をあたえている。
バッグをベッドの上に投出すと、水道に近づき、|蛇《じゃ》|口《ぐち》からゴクゴク飲んだ。
満々と|注《つ》いだ水差しを持ってソファーの前のテーブルに置き、ガス・ストーブに点火した。オーヴァーはまだ脱いでいない。
水とジンを交互に飲み干すと、立ってベッドに近づき、バッグをとって戻った。
膝の上で開こうとしたが鍵がかかっているのを見て、ズボンのポケットから出したナイフで、スッと皮を断ち切った。
顔をのぞかしたズック・サックをひきずり出して紐をゆるめた。
新旧さまざまな千円札の他に、袋の底からは、細長い緑色のドルがころがり出た。邦彦の指は素早く動き、札を数える。
それは邦貨で二百五十万円、米貨で二千ドルの額にのぼった。口をすぼめ、|感《かん》|歎《たん》の口笛を吹くまねをして、ズックに札をもどし、ソファーに背をもたせたままじっと動かない。
甘美な|唇《くちびる》には明るい微笑がのぼり、虚空に高く|眉《まゆ》をあげ、|藍色《らんしょく》に近いほど黒い瞳には星がきらめいている。
時を刻む振子の音と、ガスの炎が、物憂い単調なリズムをかなでた。
想い出した様にコートの下に手をやり、ズボンのベルトに差した徹のリヴォルヴァーを抜出した。
かつて米陸軍のサービス銃であり、当時では国警の制式銃となっていたスミス・アンド・ウエッスン(S・W)の、|見《み》|馴《な》れた無骨な図体が、ずしりと掌に重い。
四十五口径の銃口がでかい死の穴をあけ、|頑丈《がんじょう》な骨組にシリンダー状の輪胴が鈍く光る。無論、撃鉄は倒してハーフ・コックにある。
|弾倉止め《マガジン・ストップ》を前に|圧《お》すと、輪胴になっている弾倉が左横にせり出してきた。
|薬莢《やっきょう》の尻に、センター・ファイアの印である円型の|雷《らい》|管《かん》を見せて、六発共つまっている。
開いたままの弾倉をねじって銃から抜きとり、|排莢子桿《エジェクチング・ロッド》を押してその弾倉から弾を抜いた。
銃の|骨組《フレーム》を調べたが、出所の怪しい銃と見え、銃身と|銃把《じゅうは》の下側のナンバーは消してあった。
|戸《と》|棚《だな》からマシーン・オイルをとって銃にさし、再び手早く組立てた。引金をひいてみると軽やかに動く。さすがに徹は腕に覚えがあったらしい。弾倉に弾をこめて、サックに入った弾と共に下着入れの奥にしまった。
ズック・サックをベッドの脚の下に置き、バッグを戸棚にしまった。
水差しに再び水を満たすと、ベッドの枕もとにある|卓子《テーブル》にのせて、着ているものを脱いだ。
肩から吊ったコルトと、脚につけたモーゼルのホルスターを外して、マットとふとんの間に押込んだ。
動くと酔いがまわって来たとみえ、目がかすかに血ばしり、顔色は反対に青くなった。
タバコを一本吸い終ると、電灯とガス・ストーブを消し、ベッドにひっくり返って、顔にカブサるぐらいに|蒲《ふ》|団《とん》をひっぱり上げた。
一時間程すると、苦し気な寝息をたて始めたが、その|翳《かげ》りには、思いなしか死の|臭《にお》いがある。
夢を見ていた。
裸身を|妖《あや》しく光らせた千佳子が、金ピカの服をダイアで飾りたてた、脂ぎった中年男に抱かれて、うっとりと目をつぶっている。
|殴《なぐ》りつけようとしても、腕は水の中で動かすように力が入らず、銃を乱射しても、弾は線香花火となって地面に落ちて砕ける。
体が硬直し、ぐんぐんと地面にひきずりこまれ、心臓は破れんばかりに苦しい。
自分の口から漏れる苦痛の|呻《うめ》きで、邦彦は目を覚ました。全身が脂汗にまみれている。
手を伸ばして、枕もとの|卓子《テーブル》にのせた水差しを取上げ、寝たままで飲込むと、喉笛が独立した生き物のように動く。
口から垂れた冷たい水が枕を|濡《ぬ》らし、邦彦ははっきりと目をあけた。もうとっくに|陽《ひ》はあがっている。
よろけながらベッドを離れたが、頭は打撲傷でも受けたかの様にズキズキ痛み、心臓の苦しさもまだ去っていない。
顔を洗ってから、新聞をとりに廊下に出ると、隣の部屋の住人と顔を会わした。
邦彦の血走った目を見て、
「昨夜は大分御機嫌だったようですな」
と苦笑する。
「いやあ、お恥ずかしい。とんだ醜態をお目にかけて……」
邦彦は|眩《まぶ》し気に面をふせ、はにかみの微笑を見せた。笑うと子供っぽいほど若々しい。
アスピリンを飲んでから、熱いシャワーを長い間浴び、念入りに|髭《ひげ》をあたると、頭痛は|拭《ぬぐ》われ、充血も去った。タルカム・パウダーを顔に|擦《すり》|込《こ》んでから鏡の前に立ち、髭の|剃《そり》|跡《あと》がつやつやと輝く、若々しい生気の|甦《よみがえ》った己れの容貌を、|暫《しば》し飽かずに見入っていた。
昨日の残りのでかいポーク・ステーキの|塊《かたまり》と二本のビールで朝食をすまし、タバコをくゆらしながらベッドに横になっていた。
ラジオは「シェエラザード」の幻想的なシンフォニーを終え、次いでオイストラッフの|弾《ひ》く、スラッブの憂愁を|湛《たた》えたチャイコフスキーのバイオリン・コンチェルトの|冴《さ》えた調べが鳴り響いた。この曲には想い出があった。
邦彦の瞳は、この曲にまつわる回想に静かに深く燃え、心は過去の世界へ手探りしながら|融《と》け込んでいた。
陳は十五分程してやっと正気にかえり、自分でリムジーンのハンドルを握ってクラブに引返した。徹はまだ昏倒したままである。睡気から覚めた守衛と居残りの用心棒「はじきの安」の手で、徹は事務室に運びこまれた。大きな金庫と事務机の前の|隙《すき》|間《ま》にソファーを置き、その上に動かぬ徹を寝かした。
開いた口は前歯が|失《う》せ、頭はフットボールの様にふくらみ、顔面には固まりきらぬ血がへばりついている。
陳は守衛と用心棒に固く口止めをしてから、用心棒の「はじきの安」に車の|鍵《かぎ》を手渡した。守衛にウイスキーと水を運ばせ、黙々としてあおり続ける。
しばしは居心地悪げに濡れたズボンの|股《また》のあたりを動かしていたが、酔いがまわるとその顔から屈辱と恐怖の表情が消え、血走った細い目には憤怒と|憎《ぞう》|悪《お》が凶暴な火を爆発した。
ダイアをちりばめた金のケースから、細身の葉巻を取出し、ライターの火を当てた時、外からタイアのきしむ音が聞えた。
お|抱《かか》えのもぐり医者、|薄田《すすきだ》正吉が「はじきの安」に黒皮の医療カバンを持たせて、ゆっくり歩み寄った。絹の様な髪を、わずかに残してぬけ上がった額に、麻薬中毒者独特の|瞳《どう》|孔《こう》の縮まった|掴《つか》み所の無い目を持っている。
六尺を越える長身だが、全身のたがが外れた様に、今にもばらばらになりそうである。
物も言わずに徹の|瞼《まぶた》をひっくり返し、瞳孔の拡がったうつろな目を見て「フン」と鼻をならした。
骨と皮ばかりの|痩《そう》|身《しん》を折ってカバンをひらくと、聴診器をとりだし、胸をはだけた徹にあてて目をつぶる。
カンフルのアンプルを切ると、注射器に吸込ませ、静脈にたっぷりぶちこんだ。
青ざめた徹の顔がわずかに生気をおび、見守る人々の口から|安《あん》|堵《ど》の吐息が漏れた。
医師は徹の体中を、細長い指先でまさぐっていたが、唇をゆがめてせせら笑い、大儀そうにその長身を起した。
傷口に応急手当をすると、カンフルのアンプルを数本と注射器をデスクに並べた。
「死ぬ事はない。頭の骨が割れて、歯が折れて、喉の気管がひしゃげただけだ。もしかしたら、胃が裂けているかも知れない。夜が明けたら俺の所に運んでくれ。手術して一月も寝てりゃあ元どおりになるさ。カンフルはここにおいとく。三時間おきでいい。目が覚めて痛がるようだったらモルヒネでも打ってやるんだな。ペーならおたくにあるだろう」
自分の知った事でないといった調子で淡々としゃべる。
陳が一万円の小切手を切ると、医師は無言でポケットに収めた。
クリーム色のメス・ジャケットの用心棒「はじきの安」にカバンを持たせ、医師は東方の白みかかった街を、車に納まって去った。
それを見送って事務室に戻った陳の顔は憎しみにゆがみ、上前をはねた若僧に対する|呪《のろ》いを、母国語ですさまじく吐き散らした。
顔色は赤紫に近くなり、鼻の穴は大きく開き、つばが四散する。銃身で殴られた跡からは、今にも血が吹き出しそうになった。
体は怒りに震え、喉はゼーゼーとなり、再び卒倒しそうな勢いであった。
徹が回復するには、義歯と二週間の流動食と一月半の静養を要した。
陳は警視庁に探りを入れた結果、上前をはねた若僧が偽刑事だと気づいた。それでマニラのリーガン親分に電話をかけ、隠語で話を交わし、指示を仰いだ。
「ねむらせろ」というのがリーガンの命令であった。
己れの|不《ふ》|手《て》|際《ぎわ》に恥入り、自分の事は自分で始末をつけんものと、日に日に青白い怒りの炎を燃やし続ける徹は、この命令を伝え聞いて、必殺の|復讐《ふくしゅう》に気おいたった。
一方、真相を知った「はじきの安」は、これこそ、のし上がる絶好のチャンスと心に決め、外出の折りはなるべく徹と行動を共にし、ひたすらに邦彦との出会いを待った。
銃は無論、弾もたっぷり、いつも肌身離さずに持ち歩いた。
年が改まり、暦の上では早春となった。
訳し終えた「ミルドレッド・ピアース」は原稿用紙で千枚を越えた。
下請翻訳者の稿料は安い。今でも|惚《ほ》れたはれたの|噂《うわさ》の絶えない精力的な教授から三万円を受けとった。次の仕事であるアメリカ・ユーモア文学選集の一つ、デモン・ラニヨンの短編集を|抱《かか》えて、邦彦は明るい|蛍《けい》|光《こう》|灯《とう》が白々とまたたく教授室を出た。
暗い仕事で荒稼ぎしたら、|暫《しばら》く国外に出て、ほとぼりの冷めるのを待つつもりだった。
それにはアメリカ留学が一番自然である。その目的のためには、この様な仕事で業績を作るのが確実な方法であった。
目だたぬ国産の中型車を、目白駅近くに|駐《と》め、和服の着流しに眼鏡をかけ、セパードをつれて散歩する邦彦の姿が、学習院の裏から高田馬場の中間に位置する工場地帯に見うけられ始めた。
高く陰気なコンクリート|塀《べい》で囲まれて、まがりくねった都会の谷間の様な道筋。両側を朝野セメントやライオン鉄工所などの大工場がえんえんと並ぶ。|澱《よど》んだ空気と、耳を|聾《ろう》する機械の|轟《ごう》|音《おん》が響き、巨大な|熔《よう》|鉱《こう》|炉《ろ》や煙突から噴出する|煤《ばい》|煙《えん》でくすんだガタガタ道。
朝夕、職場へ、家庭へといそぐ勤労者の群れをのぞけば、通りすぎるのは重役たちが納まり返った社の車と、重たく醜いトラックの列ぐらいであった。
この谷間を、会社名を横腹にぬたくった明治製薬の現金輸送用トラックが、毎月末に八百人の従業員の月給を積んで、日本橋の銀行からこの谷間の奥のはずれにある会社にむけて通り抜けた。
運転手の横には、|棍《こん》|棒《ぼう》を提げた屈強な警備員が、油断の無い目をあたりに走らせていた。
邦彦は、その車が大抵の場合、午後二時から二時半までの間にその谷間の入口に差しかかる事を知った。
彼は年の暮に、口実をもうけてアパートを出、|鷺《さぎ》ノ|宮《みや》にある|煉《れん》|瓦《が》作りの貸家に移っていた。この家は、ちょっとした小高い丘にあって隣家と離れていたし、二間の部屋と台所と風呂との他に、不釣合なほど広い物置がついて、月七千円は安かった。
彼はここに移るとすぐに、偽造免許証を使って、中古プリンスを安く買った。
所々青ぬりのラッカーが薄くなったボデイはそのままにして、エンジンやそれにつながるあらゆるシャシーを新品と取りかえた。
時間があいている時には、電気や機械に関した専門書にとっくみ始めた。
家主の許可を得てガレージに改造した物置の、仕切った一隅には様々の機械類が買いこまれた。難解と思われた電波学や機械工学も必要に迫られてやってみると、試験勉強と同じく、児戯に等しい事が分った。
パトカーの呼出しを盗聴するため、車のラジオは特別の超短波ラジオととりかえ、運転台の前の足の当る部分の、マットを敷いた床の下には、バネで|蓋《ふた》が開く様にした盗品入れを作った。その蓋は非常にピッチリと床と合っているため、彼以外にその存在は分らない。
同様なのをダッシュ・ボードの下にもつけ、拳銃入れとした。ナンバー・プレートも簡単に取り|外《はず》しがきく様に細工をした。
革のトランクの床にも隠し物入れを作り、数種類のナンバー・プレートをしまった。
寒気が身を刺す毎朝、彼は白いトレーニング・パンツと黒のポロシャツをじかに肌に着け、三キロばかり離れた|石神井《しゃくじい》公園まで、霜柱を砕きながら、なわ|跳《と》びで走った。
このあたりは、雑木林と農家の|藁《わら》|屋《や》|根《ね》と田畠が散在し、武蔵野の面影をとどめている。
廻りに薄く氷の張った三宝寺池の中島では、無数の野鳥がさえずりながら|飛《とび》|交《か》い、水面には波紋を残して魚が|跳《は》ね、たちこめた|朝霞《あさがすみ》を吸い込んだ。
大学院にはほとんど顔を出さず、日に二時間は家にこもって翻訳の筆を進めた。
寒々として平野に太陽が悲し気にひきずり込まれ、夕焼けに次いでネオンに空が燃える時刻ともなれば、疲れた体を休めに、ふらりと新宿や池袋に現われ、軽く飲む事もある。
月に数回は必ず銀座に出て、どっしりと底光りするチャイナ・ドレスの上に|豪《ごう》|奢《しゃ》なミンク・シールのコートを羽織って、新橋へぬける河っぷちに|佇《たたず》む|蝶《ちょう》を拾った。
しかし、いかに気に入った女が見つかっても、女の方からどんなに打込んで来ても、同じ女と三度とは遊ばなかった。
こうやって「マンドリン」の近くに立寄るだけでも十分危険なのに、痴話|喧《げん》|嘩《か》のあげく情婦に密告されて、後悔の念にほぞを|噛《か》む間抜けた色男役は邦彦の性分に合わなかった。
陳からまき上げた紙幣はナンバーがまちまちなので、安心して使えた。
毎日三十分は、|空《から》|射《う》ちによる射撃練習を怠らなかった。神奈川県の富岡射撃場に車をとばし、新しく買ったシュルツ・アンド・ラーセンの小口径ロング・ライフルの射撃練習をしながら、あたりに人の居ないのを見すまし、慎重にサイトを合わせながらモーゼルやS・Wから数発ずつ標的にブチ込み、弾着修正をすると同時に、銃の癖を覚えた。
セパードを飼ってジョニーと名づけた。
思案の時期は既にすぎ、手袋を投げた以上、命も安楽も野心も一しょくたに|賭《か》けた入学金強奪の実行は、今年も不可能と分った。だが、彼は決して敗北に甘んじなかった。己れの能力の最後の一しずくまで傾けて目的にかじりつき、それに執着させる屈することなき決意は、いささかもゆるがなかった。
好むなら、それを虚栄心とも、偏執狂とも、強烈な自我とも呼べ。彼はすでに、不吉な観念に生きる一個の|悪霊《あくりょう》と化していた。
しかしながら、運がむかない時には黙って待ち、それでも芽が出そうにない時には素早く降りて、悪あがきせずに次のテーブルに移る。それは、彼がポーカーで得た最大の教訓であった。
邦彦は来年に廻した入学金強奪を前にして、別のテーブルで大博奕を試みようとしていた。
二月二十八日。不吉な金曜日。
空は朝からどんよりと鉛色に曇り、湿気を|孕《はら》んだ寒気が吹きすさんで、今にも雪になりそうな気配を示していた。
平和タクシーの運転手西山明は、|頑丈《がんじょう》な|体《たい》|躯《く》を持つ赤ら顔の中年男であった。
彼の運転する黄色のトヨペット・クラウンは、池袋駅東口で邦彦を乗せた。
淡いコーデュロイのハンチングを目深にかぶり、白いマスクで口と鼻をおおって、時々軽い|咳《せき》をしている。
ぴっちり合った薄い手袋をつけた左手には、クリーム色の小型スーツ・ケースを提げ、右手には新聞紙で巻いた花束を持っている。
|燻《いぶ》し|銀《ぎん》の下地に、藤紫のチョーク・ストライプの入った絹のマフラーを、柴色をしたバックスキンの皮ジャンパーの開いた|襟《えり》のあたりからのぞかしている。プレスのきいたズボンは暖色である。
運転手の左後ろに坐り、スーツ・ケースを床に置き、花束をその上にのせた。
「雑司ヶ谷の墓地にやってくれ」
と命じ、軽く目を閉じた。
タクシーは三、四分すると、白い|塀《へい》に囲まれた墓地に着いた。無限に続くかと思われる、整然と延びた死者たちの家々を、落葉した巨木の群れが無言で見守り、今日は身を刺す寒風のため、墓石に花をたむける人影もない。
「ここらでいいですか?」
「真ん中辺でとめてくれ」
運転手がエンジンを止めてメーターを揚げた瞬間、ズボンのポケットからのびた邦彦の手に握られたブラック・ジャックが、その後頭部に鈍い音を発して命中した。
運転手は前にのめり、烈しい勢いでハンドルに額をぶっつけて|昏《こん》|倒《とう》した。
墓地の中央近く、物わびしい|芥《ごみ》|焼《やき》|場《ば》の横に、中が|空《くう》|洞《どう》となったセメント造りの大きな碑があった。空洞には鉄の扉がついて開閉出来るようになっている。
邦彦はブラック・ジャックをポケットにおさめると、倒れた男を座席の左側にまわし、自分でハンドルを握って碑に車をつけた。
鉄の扉を開けて、車からひきずり出した運転手をとじ込めた。中腰になってその手足を用意した|麻《あさ》|縄《なわ》でしばり、もう一度ブラック・ジャックで頭を|殴《なぐ》りつけた。
運転手のポケットを探って、財布と共にハンカチを奪った。財布は現金だけを抜出してもとに戻した。五千円とちょっとあった。
ハンカチを、気絶した男の|顎《あご》をこじって、口につめた。
鉄扉を閉めて車に戻り、運転手が倒れた時、その頭からころげ落ちた平和タクシーの制帽を頭にのせた。ハンチングはポケットにねじこみ、花束を持って車から降りると、それを分割して近くの墓にそなえた。
タクシーを墓地の反対側の出口に廻し、石畳の坂道をくだった。空車札は倒している。
手を振ってタクシーを止めようとするアベックを無視して車をとばし、例の谷間へ通ずる入口の前を走っている広いアスファルト車道の、歩道寄りに車を停めた。
二時十分前である。
エンジンをかけたまま、ゆったりとクッションにもたれかかり、スーツ・ケースから取出した週刊新潮を|眺《なが》めるが、目は活字を追っていない。白い息を吐き、背をまるめて足早に歩道を通る男女も、すべるように横をかすめる車も、彼のタクシーに注意をはらう者はない。
二十分後、カーキ色のボデイに緑色のエナメルで、明治製薬株式会社と|鮮《あざ》やかに記した目的の輸送車が、タクシーのバック・ミラーに映った。邦彦の右手がのび、スルスルと窓ガラスを降ろし、左手は白いマスクをもぎ取ってポケットにしまった。
輸送車が谷間に入ったのを見すまして、クラッチにかけていた足を外し、左手でハンドルを握ってカーブをきり、ゆっくりと追った。手袋を脱いで膝の上に置いた右手には、いつの間にかすらりと細長いコルト・ハンツマンが、安全装置を外して握られていた。
両側を灰色の塀で区切られ、延々とのびた谷間の道を、十五メートルばかり間隔をおいて輸送車に続いた。あたりは空気を震わす工場の|轟《ごう》|音《おん》に満ちている。
輸送車が曲り角で左へターンし、そのバック・ミラーからタクシーが死角に入った時、邦彦は足でブレーキを踏みながらハンドルを左にきり、右手を突出して、機関銃の早さで三発、輸送車の後輪に|射《うち》|込《こ》んだ。
掌の中で拳銃は小さな音をたてて軽やかに踊り、エジェクターで|弾《はじ》きとばされた|空薬莢《からやっきょう》が、薄い煙をはきながら弧を描いてタクシーのボデイに当り、かすかな金属音をたてた。発射音は、両側の工場の轟音と、自分のエンジンの音に紛れて、輸送車には聞えない。輸送車はタイアをブチ抜かれてパンクし、|軋《きし》りながらしばらく前進したが、ついに停車した。
邦彦はハンドルをたて直しながら拳銃をポケットにつっこみ、タクシーをエンコした輸送車の後ろに止めてクラクションを鳴らした。警備員は車の助手席からとび降り、|逞《たくま》しい体を折って、パンクした車輪にかがみこんだが、人の気配と近づく足音にはっと体を起し、黒いオーヴァーの上に締めたバンドから|吊《つ》った|樫《かし》の|棍《こん》|棒《ぼう》を握りしめた。
タクシー帽をかぶった邦彦が、すでに車から降りて背後に立っていた。
「パンクですね。手伝いましょうか?」
人なつっこく笑いながら、大声でたずねる。
タクシーの運ちゃんと見て、警備員は気を許し、
「すんません……」
といいながら、再びかがみこもうとした。
そのオーヴァーの左背に、邦彦は拳銃を押しつけて引金をひいた。
圧迫された音と共に、火薬はオーヴァーを|焦《こが》し、弾は|肩《けん》|胛《こう》|骨《こつ》の下から入って|肋《ろっ》|骨《こつ》の|隙《すき》|間《ま》をくぐり、心臓を貫いて肋骨をへし折った。警備員は、はじかれたようにトラックにもたれかかったが、ズルズルと地面に|崩《くず》れ落ちた。申し分ない即死である。
運転手は、かすかな銃声を聞きつけてハンドルを離し、左の窓から身を乗出したが、左眼を|滅《め》|茶《ちゃ》|滅《め》|茶《ちゃ》に|潰《つぶ》して大脳を引裂き、後部|頭《ず》|蓋《がい》|骨《こつ》を砕いて止った小さな鉛の弾を|喰《くら》って、運転台の内へふっとばされた。
邦彦はクリップを引抜くと、手早く五発あらたに|装《そう》|填《てん》し、マガジンに押込んだ。
その拳銃に安全装置をかけると、ジャンパーの胸元を左手で開き、肩から|腋《わき》の下に吊ったホルスターにしっかり納め、手袋をつけた。地面に落ちた二つの空薬莢を素早く踏みにじってつぶした。
|滲《にじ》み出る血に黒いオーヴァーの背を染めた警備員の服をあらためて|鍵《かぎ》|束《たば》を見つけ、その中で一番大きな鍵を、ワゴン型のトラックの後扉についた鍵穴に差して廻した。
扉を開いて跳び乗ると、大小さまざまのメイル・サックが十ばかり目についた。
スイッチ・ナイフの刃を起し、サックの上部を次々に断ち切って内部を調べ、五千円札と千円札のつまった二つの袋だけを持って、トラックから降りた。
サックを地面に降ろし、力を振り絞って重たい死体をトラックの中に押上げ、扉を閉めて鍵をかけた。
鍵束をポケットにおさめると、サックを両手に提げてタクシーに近寄ったが、前方の地面に落ちて鈍く光っている|真鍮《しんちゅう》の空薬莢を見つけ、車を通りこして三つとも踏み潰した。
車内に戻り、二つのサックをスーツ・ケースに入れ、それをクッションの下の隙間に押込んだ。三分ほどすると、タクシーは谷間を通り抜け、反対側の広い道路に出た。
|迂《う》|回《かい》しながら墓地に近づいた時、逃げまどう車を|蹴《け》|散《ち》らかしながら、派手にサイレンを鳴らしっ放して、さかりのついた雄牛のように|驀《ばく》|進《しん》してくるパトカーと|擦《す》れ違った。
夢見るようだった邦彦の|瞳《ひとみ》は冷やかに|冴《さ》え、唇は|挑《いど》むように不敵な微笑にゆがんだ。
都電|鬼《き》|子《し》|母《も》|神《じん》停留所を過ぎ、左へ曲って二分後、石畳の坂道を登って再び墓地へ着いた。
タクシーを運転手が停めた場所にもどし、帽子を脱ぎすてて自分のハンチングをかぶると、スーツ・ケースを持って立去りかけたが、|踵《きびす》を返して|碑廟《ひびょう》に歩み寄った。
右手を固く冷たい腋の下の銃把に当てたまま、左手で鉄扉をゆっくりと開けた。
腰を折って中に入り、ぴっちり合った左手の手袋をはずして、運転手の脈をとってみる。心臓はまだ活動している。
ぐらぐらする体を引張りあげて坐った姿勢にさせ、左手でささえておいて、右手に抜出したブラック・ジャックに|渾《こん》|身《しん》の力をこめ、その後頭部を|狙《ねら》って強振した。運転手は首の骨を折られて絶命した。
その鼻から|噴《ふ》き出る血の|匂《にお》いが、鋭く邦彦の鼻をうった。
鉄扉を閉め、スーツ・ケースを持って、邦彦は歩み出た。
穏やかな顔に緊張の色は少しも見られず、寒さで両耳はバラ色に染まり、無邪気といっていいほどの表情であった。
この冬の|名残《な ご》りの雪が降って来た。
重たく柔らかな|牡《ぼ》|丹《たん》|雪《ゆき》が大地に当っては溶け、乾いた土を黒っぽく湿らしていたが、やがて風が乾いた冷たい粉雪を吹きつけると、銀色の雪煙が音をたてて舞い狂った。
十五分ばかり歩いた時には、雪はもう屋根や樹の枝にだけでなく、歩道や車道にまで薄く積り、靴の下で心地よい軋みをたてた。
邦彦は、目白の学習院近くに停めてあった、自分のプリンスに乗込んだ。
ハンチングや肩や|眉《まゆ》についていた雪が溶け、水滴が美しい玉となってこぼれ落ちた。
マットをはぐってから、計器のボタンの一つを押すと、隠し戸が開いた。
その中にスーツ・ケースと拳銃、予備の弾などをしまって蓋を閉じた。
|煤《ばい》|煙《えん》に汚れた街をクリスマス・ケーキの様に塗りかえて、いよいよ|烈《はげ》しく降りしきる雪に包まれた銀世界を、スリップに気をつけながらライトをつけた車をゆっくり進めた。
超短波ラジオのダイヤルを合わせ、パトカーの呼出しを盗聴して捜査側の動静を探知しながら、警戒網をかいくぐって、一時間後には重たく雪をかぶった車をガレージに納めた。
主人の帰宅に狂喜して|尻尾《しっぽ》をふるジョニーの頭を優しくなでてやった。
スーツ・ケースや拳銃を部屋に運び入れ、ガス・ストーブに点火すると、身震いしながら|濡《ぬ》れた服装を変えた。
カーテンを開き、一面に霜のおりた窓ガラスの、眼前のあたりを指先で|擦《こす》った。
ジャニー・ギターの|悲《ひ》|愴《そう》な調べを口笛に吹きながら、外を舞う雪の描く幻想的な冬景色を眺めて、しばし立ちつくしていた。
やがてガス・ストーブがゴーゴー音をたてて熱気を運ぶと、ガラスに|凍《い》てついた霜の結晶はぼやけ始め、水滴となり、筋をなして流れ落ちた。
それにつれて、窓ガラスの外の風景は怪奇な形をなして|歪《ゆが》み、刻々と変化した。
窓を離れ、ストーブに手をかざしていると、凍えた体に血がめぐり始め、瞳にまで物憂い暖か味が|甦《よみがえ》ってきた。
奪った金を数えてみると、五千円札で千百枚、千円札で三千二百五十枚、つまり八百七十五万円の額にのぼった。
これらの紙幣は、銀行から直接送られたため、通しナンバーの札が多かった。
五千円の大部分は、一度ホンコン・ドルと交換してから、小額の日本紙幣になおす必要があった。その様な事を考慮に入れると、六百万円ほどが今日の邦彦の純利益であった。サックはすぐに焼却し、紙幣は分割してさまざまの場所に隠した。
死体が、社用の帰りの朝野セメント人事課長とその運転手によって発見された時には、すでに犯行から十数分が過ぎていた。
興奮したラジオ、新聞、それにテレビやニュース映画は、鳴物入りで、戦後屈指の凶悪かつ大胆不敵な殺人強盗事件を報じた。
捜査陣は、不眠不休の活動を続け、無数のデータが集められた。一瞬にして二つの貴い人命を奪った凶弾と、タイアを貫いた弾は鑑識課に廻され、弾道学のエキスパートの手によって、これまで犯罪に使われた二十二口径弾の顕微鏡写真と照合された。
特にチューブの中に留っていた弾はほとんど原形のままであり、ライフルの|溝《みぞ》がつけた条跡が鮮明に残っていたため、鑑識課は色めきたったが、その弾と合致する|肝《かん》|腎《じん》の他弾はフィルム・カードの中に発見出来なかった。
輸送車じゅうの指紋をとられ、全国前科者の指紋カードと照合されたが徒労に終った。犯行推定時間に谷間に入った中型タクシーがあった事もパン屋の証言によって判明した。そして犯行の翌日、現金を奪われて撲殺された平和タクシーの運転手が発見されるに及び、捜査陣はスワッとばかりに緊張したが、輸送車強盗事件とタクシー運転手殺しを結びつける決め手は、どうしても発見出来なかった。
邦彦は新聞、ラジオによって、タイアに射込んだ弾から完全に近い|螺《ら》|旋《せん》|痕《こん》|跡《せき》がとられたという事を知り、ここしばらくはこのコルト・ハンツマンを使わぬと決心した。
現金輸送車を襲った時も、スミス・アンド・ウエッスンを使って警部射殺事件と何の関連も無いように見せたかったのだが、でかい四十五口径のリヴォルヴァーから発する轟音は、工場のたてる音やエンジンの音とまぎれるには、あまりにも大きすぎた。
警部の脳を貫いた弾は頭蓋骨に当って、原形を留めぬほど完全に潰れていたため、輸送車のタイアから取出された弾丸との一致が確認されなかったのは幸運であった。
弾が発射される時、それは銃身の内側に彫られた螺旋状の溝、つまりライフル・クルーヴに沿って回転しながら銃口から離れる。したがって弾のまわりには、顕微鏡下では鮮明に浮ぶ螺旋状の|疵《きず》が、ライフルによって刻まれる。
銃のライフルは指紋と同じく、それぞれ個性を持っているため、同じ銃から発射された弾は皆同一の|疵《きず》が出来、口径は同じでも他の銃から発射された弾と区別される。
これは薬莢の場合でも同じで、薬莢の尻を撃鉄が叩いて内部の火薬を爆発させる時、銃の個性にしたがって、撃鉄によって|凹《へこ》む場所や形態が異なる。
火薬の爆発物は窒素酸化物の微粒子となって飛散り、皮膚や服についてかなり長いあいだ消えない。それはヨード|澱《でん》|粉《ぷん》反応によって検出される。邦彦の様に射撃競技用の小銃から絶えずその微粒子を浴びている者には弁明が出来るはずであった。
邦彦はすでに、来春実行する入学金強奪の目標を、地理的に有利な池袋の関東大学と決めていた。三月末の入学金受付の数日間、毎日新入生に紛れて、状況を調べぬいた。
一方では、輸送車破りのほとぼりが冷めかけた頃から身をいれて四十五口径S・W用の|消音器《サイレンサー》作成に着手した。
ほとんど毎夜、ガレージの|隅《すみ》の仕事場にこもって、ガン・ダイジェストに出ている分解図を参照し、旋盤と鋼鉄にとっくんだ。
幾たびかの失敗をなめた。
発射の圧力でサイレンサーが吹っ飛んだ時もあったし、銃に|物《もの》|凄《すご》い衝撃がきて、弾の威力が半減した時もあった。
しかし、関東大学経理課室の見取図をフィルムとスケッチ・ブックに納めるのに成功した邦彦は、夕食を終えると共に、ジーパンとジャンパーのいでたちで、屈する事なく再び仕事場にこもった。
三時間後には、長さ八センチ、ポツポツとガス穴のあいたチューブ状のサイレンサーが、|照星《しょうせい》を|削《けず》り落して銃身の外周に溝を彫った拳銃にキュッキュッと音をたてて|嵌《は》め込まれた。
五メートルばかり先の砂袋に立てた二寸角の板に銃口を向け、左の掌で撃鉄を押えて発射の反動を利用して撃鉄を起すファンニングで、続けざまに三発試射した。銃が生き物の様に|跳《は》ねると、銃声は圧迫されて、|籠《こも》った鈍い音と変り、銃弾はほとんど威力を|殺《そ》がれずに厚板を貫通した。
三つの弾痕は五ミリと位置を違えず、互いに重なって白い木肌を浮ばした。
大きなリヴォルヴァーの輪胴を開き、空薬莢をひっぱり出すと、新しい弾をこめ、カチッと音をたてて輪胴をもとにもどした。
手の中でずっしりと黒光りする銃器は、彼の心を|蝕《むしば》み|苛《さいな》む、暗い破壊欲の象徴であった。望むならば、生れ落ちたイエス一人をこの世から|抹《まっ》|殺《さつ》するため、ベツレヘムのすべての幼児を虐殺したヘロデに比べられる悪名を売る事も出来るのだ。
しかし、彼の野望は一般に「悪」とされている事をやってのけ、うまく逃げとおす事にあった。彼にとって、「悪」とは己れの行手をはばむ障害物でしかなかったし、「悪」を行う事は追い詰められた人間のとる必然の行為であった。
若いうちに死んで|綺《き》|麗《れい》な死体を残せ、というセンチメントは、彼の|硬《かた》く冷やかな心に忍びよる余地がなくなっていた。
|狡《こう》|智《ち》と度胸と、方法としての倫理によって、しぶとく生残り、「どぶ|鼠《ねずみ》ども」の世間を|密《ひそ》かに|嘲《あざけ》り笑ってやるのだ。
彼の中にあった一切の人間的なものを、無慈悲に奪いさった巨大な機構に対して、飽く事なき|執《しつ》|拗《よう》な反逆を企てるのだ。
現世の快楽を|極《きわ》めつくし、もうこの世に|生《いき》|甲《が》|斐《い》が|見《み》|出《いだ》せなくなった「時」が来たら、後はただ冷やかに人生の杯を唇から離し、心臓に一発射込んで、生れて来た虚無の中に帰っていくだけだ。
彼にとって、快楽とは何も酒池肉林のみを意味するもので無かった。キャンバスに絵具を叩きつけるのも肉体的快楽であり得たし、毛布と一握りの塩とタバコと銃だけを持って、狙った獲物を追って骨まで凍る荒野を、何カ月も|跋渉《ばっしょう》する事だって、彼には無上の快楽となり得た。
快楽とは、生命の充実感でなくして何であろうか。
四月四日。
孤独な倒錯者たちの狂気と錯乱の祭りの夜。
その夜、邦彦は誤算を犯し、悪運に見舞われた。彼はその夜遅く有楽町で降り、銀座四丁目の交差点を左へまがって、|御《み》|木《き》|本《もと》のショー・ウインドウを|覗《のぞ》き込んでいた。
グリーンと黒の混ったコートの下から、淡いトキ色|縞《じま》のワイシャツと、コートに合わせたダーク・グリーンのネクタイがのぞき、その上にはエメラルドのネクタイ・ピンが深々と燃えている。
飾窓の中の、大粒の真珠で出来たカフス・ボタンに目をとめ、よく見ようと体の角度を変えた時、二人の尾行者を目の|隅《すみ》に捕えた。徹と相棒らしき男である。
さり気なくウインドウを離れ、明るい所を|選《よ》って歩いた。いかに無謀な者でも、この人混みの中で|射《う》ちかけてはこないであろう。
その気さえあれば、執拗につけて来る二人を|撒《ま》く事は容易だった。しかし、|縺《もつ》れた結び目は必ず解かなければならなかったし、自分の暗い顔を覚えている者はどうしても死ななければならなかった。
松屋の横で右に折れて裏道に入った。
その顔にはいささかの表情の変化も現われぬが、腋の下には|薄《う》っすらと汗がにじんで来た。立て掛けてあるバーの広告板の陰に|屈《かが》み、|靴《くつ》|紐《ひも》を結び直すふりをして、右脚につけたモーゼルをコートの右ポケットに移した。
歩きながら、ごく薄い手袋をつける。
ゲイ・パーティからあぶれたゲイ・ボーイが次々にまつわりついて来た。
ルージュを塗った唇に、はにかむ様な微笑を|湛《たた》えた少年を拾って腕をくんだ。
紫色のダスターに包まれた繊細な体はすらりとのび、伏せた|睫毛《まつげ》は長く濃い。
邦彦の左腕は少年の右腕にしっかりと|絡《から》み、右手は手袋をとおしてなお冷たい、ポケットの中のモーゼルの銃把を握っていた。
肩を並べて歩きながら、少年に顔を寄せ、
「綺麗だね。アドニスやヒアシンスは君みたいだったろうね」
と甘く|囁《ささや》く。その目は、人混みの中を見え隠れしながら、二十メートルばかりの間隔をおいてつけて来る尾行者を盗み見ていた。
少年は睫毛をまたたかせ、|媚《こび》を含んだ瞳を|挙《あ》げて、
「お兄さまこそアポロン……」
と、|向日葵《ひまわり》のように輝いた美しい笑顔を見せた。
立並ぶバーやアルサロや飲屋のネオンやイルミネーションの光を頼りに、邦彦は到る処に置きっぱなしになっている自動車の内部を目の隅で覗き込んでいた。
若々しい、優しい笑顔に唇だけが動いて、少年と意味の無い会話を続ける。
歌舞伎座の裏をぬけた時、彼の目はイグニッション・キーを差し忘れたまま、乗り捨てられていた車をとらえた。ぐっとボデイが低く、尾翼の|尖《とが》った、黒塗りのキャデイラックである。
「お兄さんが、いい所につれてってやる」
無論、ドアに鍵はかかってなかった。
「すごい。お兄さま、すごいお金持ね!」
上ずった声ではしゃぐ少年を自分の右に坐らせて燃料計を見た。ガソリンは十分ある。キャデイは軽々と発車し、ごくゆっくりしたスピードで大通りに出、次から次に|行《ゆき》|交《か》う車をぬって、日本橋へむかった。
徹と連れの男がルノーのタクシーを呼び止め、転がるようにして乗込むのがバック・ミラーに映った。
キャデイはそれを見とどけると、ぐんぐんスピードをあげ、やがて八十キロ近くなった。かぶと虫の様なタクシーは、五十メートルばかり後からヨタヨタとくっついてくる。
手袋をつけた邦彦の左手はハンドルの上を滑り、右手はネクタイ・ピンを|外《はず》してポケットにしまうと、再び少年の肩にまわした。
うっとりと身をもたせかける少年の耳を軽く|噛《か》むと、強烈な香水の芳香が漂ってきた。
通行人でごった返す上野広小路をすぎ、公園の横を左に曲り、荒川へ車をむけた。
人影はぐんぐん|疎《まば》らになり、ライトで紫色の|霞《かすみ》を引裂いて行交う車も、数えるほどになった。空いっぱいに|被《おお》いかぶさった分厚い黒雲が月を隠し、星影一つない闇である。
人影もまったく見当らなくなった。前方に闇を通して、汚水処理場の輪郭がぼうっと浮ぶのが認められた。
邦彦はミッション・レバーをトップに入れ、力一杯アクセレーターを踏んだ。
キャデイは空中に浮ぶほどのスピードで|驀《ばく》|進《しん》した。風が鋭い音をたてて前窓を叩きながら後ろに逃げてゆく。
つけて来るルノーとの差はぐんぐん開いた。「しっかりつかまってなよ」と少年に言って、筋肉を|引《ひき》|緊《し》めて急ブレーキをかけながら次々とシフト・ダウンしていった。
車は金属のきしむ音をたて、大きく身震いしてスリップしながら急停車した。
タイアが砂を噛んで|擦《す》れるバリバリという音が伝わる。車内の二人はぐっと引張り込まれ、前につんのめったが、危うく身を立て直した。変速レバーをNにし、エンジンはかけっぱなしたまま、すべてのライトを消した。
夢からさめた様に|唖《あ》|然《ぜん》としている少年の手をひいて、闇の中を走った。
前方十メートルばかりの所に、ドアを横に立てたほどの高さと幅を持つ何重にも重なった|煉《れん》|瓦《が》の山が三つ四つ、闇の中になお一層暗い輪郭を浮ばしていた。
邦彦はその煉瓦山の一つの裏側に廻った。
背後には倉庫のコンクリート壁が続き、前方は広場、絶好の足場である。
盗んだキャデイからはエンジンの響きが伝わってくる。
「こわいっ! どうしたの?」
顔面を|蒼白《そうはく》にして|慌《あわ》ただしく尋ねる少年の|頸動脈《けいどうみゃく》を、手袋を脱いだ右の手刀で軽く殴りつけると、クラクラッと倒れかかってきた。
両手を逆にとって背後で|捩《ね》じ上げて膝をつかせ、その両手首を自分の右手で押え、左手で少年の口をしっかりと閉ざした。少年は恐怖に汗を流し、目は今にも飛出しそうに見開き、身をもがいたが、もがけばもがくほど強くなる痛みのためぐったりとなった。
片膝をついて少年の背後に身を重ねて|蹲《うずくま》っている邦彦にまでドッドッと早い音をたてて高鳴る少年の心臓の動きが伝わり、自分の心臓の鼓動と交った。
口の中が乾き、ねばねばして来て、邦彦は無性にタバコが吸いたくなった。
徹はキャデイラックが急にスピードをあげるのを認め、運転手をせきたてた。
「エンジンが焼ききれるまでブッとばせ!」
左手で眼前の運転手の肩を|掴《つか》み、右手にスマートなルーガーを抜出して、その背を小突く。
「ヒヤッ、無茶な。この車じゃあ無理ですぜ!」
大げさに叫びながら、運転手は防犯灯のボタンをそっと左手に押しかけた。
「ふざけるな」
徹のドスのきいた|罵《ば》|声《せい》が車を震わせ、運転手の背に銃口をぐりぐり|喰《くい》|込《こ》ますと、「ら、乱暴はよせっ!」と悲鳴をあげて手をひっこめ、力一杯アクセルを踏んだ。
冷たい徹の目は復讐の念に鬼火を発し、失った|面子《メンツ》と職を賭けた殺意が全身に燃える。無意識のうちに義歯がむき出され、鼻先には|縦《たて》|皺《じわ》が刻まれ、|硬《かた》く整った顔を|歪《ゆが》めている。いらだたしげに足をゆすり、左手は運転台の背を握り|潰《つぶ》しそうな力でひっつかんでいる。
その左に坐った「はじきの安」の右手にも|獅子鼻《スナッブ・ノーズ》とよばれる銃身の極端に短いリヴォルヴァーが握られていた。窓ガラスを降ろすと、派手な手つきで撃鉄を起し、目を細めて軽く腰を浮かしている。
もみあげを伸ばし、パーマで縮らしたカーチス刈りの頭はポマードで黒紫色に光り、オリーブ色の顔には、向う見ずの若者に特有な、あけっぴろげで不敵な輝きがある。
生来のバクチ打ちである彼にとっては、邦彦を仕止めるかどうかは問題でなく、うまく仕止めた暁にリーガン親分に認められて、意気揚々とマニラにもぐりこみ、殺し屋として名声を売るのが野望であった。
「兄貴、|奴《やつ》は消えちゃったぜ。感づきゃがったかな」
「心配するな。行きさきは汚水場に決ってら。今にあの野郎に地獄のおもいを味わわせてやるからな」
かつて邦彦に|喉《のど》|笛《ぶえ》が潰れるほど殴打されたため、徹の声はひしゃげたようにかすれている。
ルノーのヘッド・ライトは二分後、二百メートルばかり先のキャデイラックを浮び上がらせた。
「止れ。ゆっくりとだ。エンジンとライトをとめて、あの車の右に横づけするんだ」
ルノーは惰力で突進し、エンジンの活動音を発しているキャデイの五メートルほど横に止った。徹が運転手の頭にルーガーの銃身を力一杯振り下ろすと同時に、|逸《はや》りたった安はリヴォルヴァーの醜い鼻づらをキャデイにむけ、ファンニングで六発、続けざまに乱射した。
キャデイの窓ガラスは|微《み》|塵《じん》に散り、ボデイのクロームはメリメリと音をたててひっこみ、塗装のはげた地肌を点々とさらけ出した。すさまじい轟音の中で、安は己れの勇姿に酔ったかの様に、しかるべき表情を作っている。弾倉を射尽した安は、窓から身をひっこめると車の床に|屈《かが》み、銃を折って輪胴を開いた。|空薬莢《からやっきょう》を捨てると、左手にわしづかみにして、弾をあわただしい手付きで詰めかえた。
あせりと暗さで弾が二、三個床に転げ落ちる。その安の肩ごしに徹が安全装置を外したルーガーの銃口をキャデイに向けて構えている。ドイツで生れたこの自動拳銃は、スタイルといい、四十五口径に劣らぬ殺傷力を持つ性能といい、九ミリ口径中最高である。
「畜生、車の中にいねえのかな。安、お前、行って見てこい」
徹は失敗にこりて用心深く、かすれ声で囁く。
安は左手でドアを開くや、腰に拳銃を構え、身を低くして闇の中にとび出した。
キャデイに近づくと、砕けた窓ガラスから銃だけ差入れて二発盲射し、身を起して覗き込んだ。
「畜生、空っぽだ!」
うなり声を上げると、息をきらしてルノーに駆け戻った。
その声は、煉瓦山の後ろに隠れた邦彦に達した。少年の口に当てていた左手を離すと、自由になった口からは、肺が張り裂けんばかりの悲鳴がもれて闇を裂いた。
煉瓦山の|隅《すみ》から外をうかがうと、ルノーの扉がパッと開き、二つの黒い影が転げ出て車の両脇にうずくまるのが見えた。
二丁の銃からオレンジ色の|閃《せん》|光《こう》がパッパッと十数回ほとばしり、銃弾は邦彦の顔のすぐそばの煉瓦の角を削り取り、青白い火花を散らして縦横無尽に|跳《は》ねた。
砕けた煉瓦の破片が、邦彦や少年の頭から肩にかけて飛散り当って、目も開けられない。ふっとばされた煉瓦が少年の眼前を|掠《かす》めた。キューンという音を発して後ろにそれた弾は、コンクリートの倉庫に当って跳ねっかえり、轟音が耳を|聾《ろう》せんばかりに響き、大地をゆるがした。
何秒か死の沈黙が続いた。車の陰から弾をつめかえる金属のふれ合う音が聞えた。
少年の悲鳴は、とぎれとぎれの|啜《すす》り泣きに変っていた。犬の様にズボンを|濡《ぬ》らしている。
「じたばたするな。おとなしく手をあげて出て来い」
邦彦を追いつめた事を確信した徹の、勝ち誇った声が夜のしじまを破った。
「しっかりしろ。俺が先に逃げるから、後に続いてとび出すんだぞ。そら、一、二、三」
邦彦は小さな、しかし車の陰の二人には十分聞えるだけの声の高さで、少年に向って囁いた。三を数えると同時に少年を煉瓦山の左、徹から見て右方へ突きとばし、自分は素早く左方へ廻った。
血迷った少年は、犬に追われる傷ついた鳥さながらに走った。あまりの恐怖に喉がひきつって悲鳴は声とならない。
その黒いシルエットを|狙《ねら》って、閃光が夜の闇を切り刻み、続けざまに銃声がひびき、ついに一弾が少年の右こめかみを貫いた。
|独楽《こ ま》のように回転してぶっ倒れた少年を邦彦と勘違いした二人は、車の陰からとび出すと拳銃を乱射した。数発が小さな土煙をあげ、次いで少年の体にブスブスと食い込んだ。
発射の閃光に、ボッと浮び上がる安の右手首に、邦彦は慎重に狙いをつけて引金をひくと同時に、振向いた徹の下腹部に目にも止らぬ早さで三発ぶち込んだ。
二人は巨大なハンマーで殴られたかのように後方へふっとばされた。
ゴーッという発射音が消えると、|木《こ》|霊《だま》となった轟音と共に|呻《うめ》き声が聞えて来た。
邦彦は死体と化したアドニスには目もくれずに、引金の|用心鉄《トリガー・ガード》に指をかけたモーゼルをひっさげ、大またで倒れた二人に近づいた。月にかぶさっていた黒雲が切れ間を現わし、ぼやけた月光が地上に降ってきた。
徹はおびただしい血と内臓を地にばらまいてむこう側に倒れ、その下から赤黒く|濡《ぬ》れたルーガーが顔をのぞかしている。
射出口となった背は大きな穴をあけ、|柘榴《ざくろ》を踏みにじった様に、肉が滅茶滅茶に|爆《は》ぜている。
安は弾頭を斜めに削ったダムダム弾に右手を砕かれて千切られ、そこから血がどくどくと流れ落ちる。衝撃を喰って、肩の関節から外れた右腕は背に廻り、しびれて動かない。
|尻《しり》|餅《もち》をつき、|肘《ひじ》をまげた左手を|血《ち》|溜《だま》りの池について、かろうじて体を|支《ささ》えている。
近づいた邦彦の目は暗い。ビロードの様な眉の下に深い影を刻み、唇は怒りと|沈《ちん》|鬱《うつ》の影をとどめて、固く結ばれている。
モーゼルのクリップを引き抜いて補弾すると、撃鉄安全をかけてポケットに入れた。
ピースの箱を取出し、タバコを抜いて火を|点《つ》け、胸一杯に深く吸込んだ。
安の口からは|唾《だ》|液《えき》と胆汁がとめど無く垂れ、邦彦の顔を魅せられた様に上目づかいに見上げて動かない。その目に、火のついたマッチを|弾《はじ》きとばすと、声もたてずに気絶し、二度と目覚めなかった。
俺達は皆、同じ世界に生きているのだ。へまをやった者が死に、あくまでも冷静さを失わなかったタフな奴だけが生き残るのだ。遠くからパトカーのサイレンが近寄ってきた。邦彦は自分のモーゼルを脚につけたホルスターに突込み、まだ銃身の熱い安のリヴォルヴァーを拾った。
安のポケットにあるだけの弾を奪うと手早く装弾し、残りの弾は左ポケットへ、銃は右ポケットへ入れた。
キャデイへ跳び乗り、左手でルーム・ライトをつけた。バルブは割れてなかった。ガラスの破片が車中に散乱し、右側のドアは目も当てられぬ惨状を呈していたが、エンジンは滞りなく動いていた。
邦彦は右手にも手袋をつけると、運転席のガラス片をはらい、車内灯を消して発車させ、Uターンさせた。
車を停め、頭と背に三つばかり穴のあいた少年の血みどろな死体を引きずって運転台の右側の床に置き、自分のズボンの|裾《すそ》を|捲《まく》った。道路に出て三百メートルと行かぬうちに、赤いスポット・ライトをつけて|驀《ばく》|進《しん》する最初のパトカーとすれちがった。
それから半時間、彼はどぶ|鼠《ねずみ》のように追われ、秘術をつくして逃げ廻り、鼠は鼠なりに抵抗した。追跡のパトカーと白バイは続々数を増し、|気《き》|狂《ちが》いじみた熱意で射って来た。
まるで日頃の練習不足に対する不満が爆発したかの様に、無茶苦茶に掃射してきた。
キャデイはキンキンと音をたてて裂け、窓ガラスとライトは粉微塵に散り、銃弾は彼のまわりをピシピシと空気を|割《さ》いて掠め、計器もあらかた穴をあけたが、|奇《き》|蹟《せき》的にもタイアはまだ健在であった。背後から三台のパトカーに追われ、身をふせてハンドルを握りながら、前方の道をふさいでいるパトカーの横を間一髪すりぬけたが、その車の二丁の銃と追跡する三台の車から、物すごい猛射を浴びた。そのうちの幾弾かは、空中で衝突するのではないかとさえ思われた。
邦彦は左手でハンドルを握り、まったくの勘にたよって乱暴にジグザグを描きながら、窓からリヴォルヴァーを突き出し、正確な速射弾を浴びせて銃火を静まらせた。
後ろから追って来た車がよけそこねて、僚車同士衝突し、火を吹くのがバック・ミラーに映った。他の一台は横転し、残りの一台は歩道に乗り上げて、戸を閉めたタバコ屋に突入して、死傷者の数を増した。
ガラスの破片が邦彦の首筋から入り、下シャツを血に染めた。目を開けていられないほどの勢いで、ガラスの無くなった窓から冷風が吹込み、「野獣死すべし」の不気味な十二音R階を響かせた。どこをどう逃げ廻ったか見当がつかなかった。生涯でこれほど、自分がまだ生きていると感じた事はなかった。
彼の悪魔のような大胆で巧みな運転術と、正確な射撃術が命を保たせた。
少なくとも五台のパトカーと十台近い白バイが、運転手やタイアやシリンダーを射たれて、衝突したり、横転して戦闘力を失った。
最後まで喰いついて来る三台の白バイから浴びせかけられた銃弾がガソリン・タンクをぶち抜いたと見え、燃料計がぐんぐん下がった。後輪のタイアも射抜かれ、シューッと空気のもれる音がする。
邦彦は、ほとんどスピードをゆるめずに、傷だらけのキャデイを鋭くUターンさせた。
車体は今にも分解しそうに異様な音をたて、内側になったタイアはパンクし、続いて他の後輪もパンクした。キャデイの尻は振幅度の大きいバイブレーターのようにゆれ、少年の死体が邦彦の右足に烈しくぶつかった。
邦彦は、三本足をくじかれた犬のような|瀕《ひん》|死《し》の車を、あわてふためいた白バイの一つにぶつけた。
フェンダーは折れ、オートバイはグリルに当って跳ねとばされ、首を折られた警官の死体はキャデイの車輪の下で裂けた。
残る二人は、右手に持った安のリヴォルヴァーから最後の弾を続けざまに絞り出して、けりをつけた。
ヨタヨタするキャデイを後ろの方向に廻した。追跡のパトカーはちょっとの間とだえた。
三百メートルばかり進むうちに、異変を聞きつけた家々の灯がつき、数人の男が大声で叫びながら、五、六十メートルばかり後ろから追って来た。邦彦はリヴォルヴァーを床に捨てると、モーゼルを抜出し、先頭の男の胸を一発で射抜いた。人々は悲鳴をあげて道路に伏せ、ある者は四つんばいになって|這《は》いずりまわった。廻り角に高いコンクリート|塀《べい》で囲まれた大きな洋館があった。塀の外には柳の巨木が数本そびえて重苦しい影をつくっていた。
邦彦は車を廻して一本道に出し、クラッチを切った。
スピードの鈍ったキャデイは十メートルといかずに停車した。邦彦は血に染まった靴を、少年のダスターの乾いた場所でぬぐうと車から降りた。モーゼルをポケットに突込み、車の後ろに廻ってみると、タンクから流れたガソリンがトランクにたまり、|隙《すき》|間《ま》からもれて光っていた。マッチをすってそれに点火すると、素早く座席に戻り、少年の頭をアクセレーターの上に乗せ、グラグラと千切れそうな半開の扉から車外に飛出し、ズボンの裾をおろした。運転する者の無い車は、赤黒い炎を尻から吐きながら、暗闇を照らして危う気に走った。邦彦は落着いた足どりでさっきの邸宅へ歩んだ。幸いに人影はない。
柳の下で素早く靴を脱ぐとズボンの両ポケットにねじこみ、|栗鼠《り す》の様にその木に|攀《よ》じ登った。火に包まれたキャデイが、街灯柱をへし折った衝撃で、ガソリン・タンクに引火したとみえ、目も|眩《くら》む白銀色の火柱を天に吹上げ、一瞬樹木におおわれた庭園まで|幽《かす》かに照らした。塀にとび移ると内側にぶら下がり、足跡をつけぬように硬い場所を選んで、柔らかく飛びおり、|樹《こ》|陰《かげ》に隠れた。
二階の一室と階下に灯がつき、窓が開かれた。樹の陰で身をちぢめていた邦彦は拳銃を引き抜くと、銃身を握って待った。発見されたら、一撃のもとに殴り倒すつもりであった。
やがてパジャマの上にローブをひっかけた老夫婦と、寝巻の上にコートを羽織った女中らしき三人が、興奮した面持で|邸《やしき》の玄関から出て、門を開いて街路に走り去るのが見えた。緊張がゆるむと共に急に尿意を覚えた。ゆっくりと用を足すと、直ちに行動に移った。
洋館の屋根に大きな暖炉用の煙突が見えていた。邦彦は身を低くして邸に走り寄ると、|樋《とい》を伝って音もなく二階の屋根に登った。
スレート|瓦《がわら》に身を伏せ、煙突ににじり寄ってみると、それは現在使用されていないらしく、重いコンクリートの|蓋《ふた》がついていた。
音をたてずにそれをずらすには非常な力が|要《い》った。パトカーや消防車、それに救急車がサイレンを鳴らして過ぎ、野次馬の騒音と交って、夜の闇は生きかえった様にざわめいた。煙突の内部にもぐりこんだ。
|埃《ほこり》がもうもうと舞上がって烈しくむせ返った。三尺四方の真すぐな煙突には、煉瓦で出来た掃除用の足がかりが方々についていた。
それに両足をかけて上の蓋をしめたが、再び月が雲間を破ったとみえ、隙間から透明な月光がちらちらと斜めに射しこみ、下は地獄へ続くかの様な闇であった。しかしマントルピースの火口の上に、外気を|遮《しゃ》|断《だん》する鉄板が|嵌《は》め|込《こ》んであるはずだった。
手探り足探りで足場を求めながら、にじり降りた。大掃除の|煤《すす》はらいをしてから火を|焚《た》いた事がないとみえ、煤はほとんどなかった。ついに鉄板にたどり着いた。膝を立てて坐り、煉瓦にもたれて、しばらく目をつぶって息を整えた。
バンドをゆるめて背中に入ったガラス片を落した。埃も落着いて来た。
タバコに火をつけて、ジャリジャリする口にくわえて吸っていると、外から足音が伝わって来た。邦彦はタバコを|揉《も》み消し、壁に耳を当てて全神経をそこに集中させた。
暖炉は居間にくっついているはずだ。
この家の住人たちが戻って来たらしい。興奮した話声がかすかに伝わって来た。
「お前、あの滅茶滅茶に潰れて焼けた車の中を見たかい。黒焦げの死体があってな。わしは今まであんな胸くそ悪くなるようなひどいのを見た事ないわ。もっとも随分人を殺したり、傷つけたりしたそうじゃから当然の報いじゃけどのう」
「そうですよ。身から出た|錆《さび》ですよ。でもね、あなた、いくら悪人といっても、ああなってしまえば|可哀《かわい》そうなものね。思い出してもぞっとするわ。わたくし、今夜ねむれそうにないわ。おお、|怖《こわ》い」
「ねえ|旦《だん》|那《な》様、あの黒焦げの人、三発も射たれてたそうですわよ。よくここまで来られたもんだってお|巡《まわ》りさんが感心してましたわ」
会話はしばらく続き、「お休み」で切れた。
邦彦は翌朝の七時まで闇の中にいた。
空腹と喉の|渇《かわ》きは耐えがたい痛みで襲い、体は|硬《こわ》ばり感覚は失われ、下腹は石塊を飲んだ様になった。
その日の午後二時頃に、家宅捜査に来た警官隊が、女中や老夫婦に|訊《じん》|問《もん》するのが途切れ途切れに伝わって来た。邦彦の心臓は|鉄《てっ》|槌《つい》で乱打され、口から漏れた荒い呼吸を止めようと、握った|左拳《ひだりこぶし》を噛みしめた。銃を固く握りしめている右手は硬直を起して|痙《けい》|攣《れん》した。
しかし彼等も、煙突の中までは調べなかった。死の足音は急速に遠のいていった。
せきを切ったように全身から汗が噴出し、額から流れ落ちた。それは|睫毛《まつげ》を伝わって目にしみ、その痛みが邦彦を正気に戻らした。
|銃把《じゅうは》に巻きついた右指を外すには、左手の助けを借りねばならなかった。
恐らく死体はすでに解剖に付せられ、死体から摘出された弾は鑑識課に廻されて、真犯人である邦彦は必死に追及されているはずであった。何とかして、一刻も早くここから脱出しなければならなかった。
六時半頃、夕食を終えた老夫婦は外出した。
「じゃあ、いつもの能会に行くから留守をたのむぞ。帰りは十一時すぎじゃろう。片付けがすんだら、自分の部屋でゆっくり本でも読むなり、ここでテレビを見るなり勝手になさい」
出しなに女中に告げたこの言葉が彼女を一週間病院に送りこんだ。
女中は高くかけたラジオの歌謡曲に合わせて歌いながら、台所でガチャガチャと音高に食器を洗っていた。
邦彦は突出た煉瓦に足をかけ、弱った力を振絞って鉄板をずらして開き、大きな暖炉の中に降り立った。
食堂を隔てて台所へ続く居間の開けっぱなした扉の陰で、邦彦はモーゼルの銃身を握って待ちに待った。硬ばった体は頭をもたげるにも努力を要した。
パタパタと足音が近づき、鼻唄と共に香水の|匂《にお》いをまき散らして、ヘップバーン刈りにした可愛い女中が居間に入ってきた。
その後頭部に銃把がキーンと音を立ててめり込み、彼女は闇の中に|真《まっ》|逆《さか》|様《さま》に落ち込んでいった。邦彦も自分の勢いでよろよろっと倒れかかったが、気力を|奮《ふる》ってバスに駆込み、放尿した。たまりにたまった液体は、|泡《あわ》をたてて渦まいて下方へ吸い込まれた。
水道でガブガブ水を飲み、煤に|汚《よご》れた手袋を脱ぎ、よく血をふいて靴をはいた。
体を洗い、そこにかかっているブラッシをハンカチで握って服の煤や埃を落し、鏡の前で服装を整えた。ハンカチで|蛇口《じゃぐち》や、ノブの指紋をぬぐって居間に戻った。
女中は|股《もも》のあたりまでまくれ上がったレースのペチコートの下から、むき出しになった長く白い素脚を惜し気もなく投出して倒れていた。形のいい|唇《くちびる》がねむっているようにあどけなく開いている。
邦彦の視線は、その頭の先から足の先まで|嘗《な》める様にはいずりまわる。
乾いた唇をなめ、感にたえぬといった顔付きで低く口笛を吹くと、肩をすぼめて外に出た。
月光と街灯のもとに、ちらほら通行人が行き交っていた。
生きようが死のうが、人前で|毅《き》|然《ぜん》たる姿を|崩《くず》す気は無かった。
足どりはいつの間にかシャンとなり、頭は|昂《こう》|然《ぜん》と|挙《あ》がり、|瞳《ひとみ》には夢見るような涼し気な趣が|甦《よみがえ》ってきた。
人混みにまぎれてタクシーに乗りこみ、途中何回か乗り変えて家にたどりついた。
ベッドにぶっ倒れると、そのまま眠りに落ちた。
その年の初秋。
修士論文「ノーマン・メイラーにおけるヴィタ・セクシュアリティと宇宙的エナージーの研究」、タイプ用紙百枚を叩き終ってほっとした邦彦は、新宿のおでん兼焼鳥屋「お吉」で一人の男を待合わしていた。
焼鳥のタレが|熾《おこ》った炭火に落ちて香ばしい煙をあげ、銅の容器の中ではおでんが湯気をたてて食欲をそそっている。
邦彦のまわりは一日の疲れを|癒《いや》すあらゆる|風《ふう》|体《てい》の男がいっぱいである。二本目の|銚子《ちょうし》に手をつけた時、待っていた男がやってきた。深くくぼんだ目は知的だが、虚無の表情をたたえ、青ざめた唇は常に|自嘲《じちょう》的な苦笑に|歪《ゆが》んでいる。目で笑って邦彦の横に腰掛け、しばらく黙々として杯を交わしたが、
「|伊達《だ て》さん、すまんな。今日も駄目なんだ。今度こそ間にあわすから、ね、頼む……」
と、手を合わして懇願する。
「そうか、駄目か……駄目だったんだな。まあいい、こっちも頼んで待ってもらうから、さあ、|真《さな》|田《だ》君、元気をだして、グッと一杯あけて……」
頭を涼し気なクール・カットにした邦彦は、軽い失望の色を浮べながらも、勢いよく銚子を突き出した。
真田とは大学で初めの二年間同級だった。滅多に他人とは付合わず、いつも深刻な顔をして何か考えこんでいた。高校時代、何回か自殺を計った事があると言っていた。酔うと|太《だ》|宰《ざい》の文章を|暗誦《あんしょう》した。典型的な文学青年である。
卒論は確かオスカー・ワイルドだったはずだ。そのくせ自分の生活に関しては多くを語らなかった。邦彦は真田が秘密を守れる男だと目星をつけた。
邦彦は、六月に彼と偶然に会った。
全国的騒ぎを引起した火の車ドライブ事件の熱は、その時にはもう冷めかけていた。
何回か一緒に飲んだ。邦彦は相手の心を和らげ、解きほぐすには自信があった。
真田は金に困って競馬に凝っていた。
何ら定職につけぬ夢想家であったから、父の知らぬ間に岐阜の山を抵当に入れて金を借り出し、家からは勘当同然の身である事などが文学談の合間から聞き出せた。
三回目に会った時、邦彦は深い同情の念を現わして、ポツポツと自嘲的に語る真田の身上話を聞き、別れ|際《ぎわ》に五千円を貸した。
酔いに顔の輪郭をくずした真田は、涙に汚れた目を挙げて、必ず返すと約束した。
しかし、一度スランプに陥った|賭《と》|博《ばく》|師《し》が再び芽を吹くには、長い辛抱が|要《い》る。
すぐに返すはずであった五千円は決して返されず、次々に場所を変えて落合うたびに、五千円は一万円になり、五万円になり、今まで十万近くの金が真田の手に渡った。
それについて邦彦は、自分も人から借りた金だから決して口外してくれるなと、|釘《くぎ》をさしておいた。
真田は肺も悪化し、ヤケ|糞《くそ》になっていた。この泥沼から足を洗えるなら、身を売ってもいいとまで口走るほどになった。
二人で銚子を八本ほどあけ、邦彦が勘定を払って夜の街に出た。
|烟《けむり》っぽい濃霧に、ネオンや街灯が潤んでいた。しっとりと重い夜霧がたちまち体中を包み、背の中に秘めやかに忍び入った。
軽く酔った真田を、タクシーで代々木の木造アパートまで送っていった。
霧はますます深さを増した。
こうこうたるヘッド・ライトにも|関《かか》わらず、視界は狭く、思いがけぬ近さで前方から車が現われ、タクシーの|脇《わき》をのろのろと通りすぎていった。
酒屋の前でタクシーを止め、サントリーとコーンビーフを二|罐《かん》買って、赤鉛筆で汚れた競馬の予想新聞と、五百冊近い文学書が乱雑な調和を見せている真田の部屋に上がった。
一つの|煎《せん》|餅《べい》|蒲《ぶ》|団《とん》に並んで腹ばいになり、コーンビーフをつつきながらゆっくり飲んだ。邦彦は沈痛な表情で、実は今まで誰にも隠していたが、医者に|胃《い》|癌《がん》と宣告されてヤケ|糞《くそ》になっている。どうせ長くない命だから死ぬ前に何かでかい事をやってみたい、と口火を切った。真田は、自分もそうだと言った。
夜の白むまで二人はしんみりと語り合った。サントリーの|瓶《びん》が空になって転げた時、邦彦は入学金強奪を一場の座興のように持出し、一も二もなく賛成した真田を見て、冗談から|駒《こま》が出る様に話を持っていった。
翌朝早く真田と別れた時には、彼が加わってくれるなら今までの借金は帳消しにし、新たに月二万円ずつ貸し、それは収穫の山分けのうちから差引くという、現実的な話にまで進んだ。それから新年まで有料便所やニュース映画館の待合室、デパートの屋上などで落合うたびに進物用の包装紙でくるんだ金が、邦彦の手から真田の手に渡り、計画はさらに検討を加えられた。
年が明けると、初めて彼は真田に灰色に塗り変えた車と拳銃を見せ、二人して郊外に車を駆り、予備練習を何回も繰返した。
その間に、邦彦は事務所の|合《あい》|鍵《かぎ》を|蝋《ろう》でとり、また十一月には日光と中禅寺湖にかけて旅行し、|鬼《き》|怒《ぬ》|川《がわ》温泉でしばらく疲れをいやしたが、帰りのスーツ・ケースの中には、鉱山用のダイナマイトが十数本無造作につめこまれていた。
ある時は真田を酔い|潰《つぶ》しておき、彼のアパートに忍び込んで、日記その他の記録をつけてない事を確かめた。
近く|嫁《とつ》ぐ妹の晶子には株が大当りして雪だるま式に増えたと称して、三百万円を|手《た》|向《む》け、残りはドルに代えた。
大学院の修士課程を折紙付きで卒業し、そうそうたる面々の推薦状をそえて願書を出しておいたハーバードの大学院からは、九月の新学期から入学を許可する旨の通知が届いた。
関東大学は、さほど遠くない左手に立教大学を持ち、それに続いて池袋西口の繁華街を控えていたが、右手はポツンと取り残された様に地味な住宅街が軒を並べていた。
入学金受付最終日の経理課事務所。午後七時二十分。
|長蛇《ちょうだ》の列を作った新入生の姿は今は跡もなく、もうもうたるタバコの煙にかすむ|蛍《けい》|光《こう》|灯《とう》に照らされた屋内では、低く仕切った|木《もく》|柵《さく》の窓口の後ろで、二十人を越える職員が忙しく立働いていた。
束になってうず高く積まれた紙幣は、単位金額によって|選《よ》り分けられ、次々に巨大な金庫に納められていった。
夕食にとった|丼物《どんぶりもの》の残器が室の一隅におかれた机に山積みになり、構内を一巡して戻った守衛と、近くの交番から駆り出された警官が、さし向いで天ぷら|蕎麦《そ ば》をすすっていた。
校内の他の主要部にも明々と灯がつき、居残りの人々の影が、窓ガラスをとおしてぼんやりと漏れていた。
外は暗い空がのしかかり、数少ない星が自分のまわりだけを青灰色に染めて、弱々しくまたたいていた。校内の裏門近く、池袋署と事務所を結ぶ警報線を|支《ささ》えた電柱に、邦彦の黒い影がするするとよじ登った。
手袋をつけた手にもつ大きなニッパーをしばらく動かすと、警報線と電話線が切断され、空気を切裂く鋭い音をたててぶら下がった。ニッパーは、あるガレージからの盗品であった。
建物の陰から真田が事務所に向った。邦彦と秒針まで正確に合わした時計は七時二十一分を示している。
真田は学生服の上にチャンと|襟《えり》を折ったダブルのスプリングのバンドをしめ、浪人帽をかぶり、太縁の近眼鏡をかけている。
手にしたスーツ・ケースを左手に持ち変え、すでに締切った扉をドンドン|叩《たた》く。
内側から足音が近づき、ガラスごしに太った若い職員の顔が見えた。
「遅いなあ、もう締切りましたよ」
と、冷たく言いきる。
「すみません、開けて下さい。北海道の島から出て来たんですが、連絡船が故障して汽車に間に合わなかったんです。駅からタクシーで駆けつけたんです。お願いします」
慣れぬ標準語をむりやりに使う者のイントネーションで、真田は泣声に近い言葉を出した。
職員は奥にもどると、課長の意見をうかがっていたが、やがて|勿《もっ》|体《たい》ぶった足どりで戸口に帰り、
「気をつけなさい。何の場合でもギリギリは困る」
とブツブツ|呟《つぶや》きながら、守衛から借りた鍵で扉をあけた。
感謝しながら屋内に入った真田は、荒い|木《き》|枠《わく》の窓口に立ち、ポケットに手を入れた。
「あれ、たしか受験証をここに入れたはずだが……」
汗をかきながら、職員たちの冷たい視線を浴びてポケットをさぐる。
電柱から降り、ニッパーを捨てた邦彦は、コンクリートの新校舎二|棟《むね》に|挟《はさ》まれた二階建ての旧校舎に素早く走り寄っていた。
重たいほど腰にさげたダイナマイトの、導火線に一斉に火をつけると窓から投込み、真田が時を|稼《かせ》いでいる事務所に駆けより、壁にぴったりとへばりついた。
時計を盗み見た真田が「あった。ありました!」と喜色を|湛《たた》えて叫んだ瞬間、パッと目も|眩《くら》むばかりの|閃《せん》|光《こう》がひらめき、ガーンと|轟《ごう》|音《おん》がとどろき、校舎はグラグラと震動すると共に、ガラスは吹っとび、乾いた木は火を呼んで炎が走った。
事務所にも|物《もの》|凄《すご》い轟音と震動が伝わり、積上げた丼がコンクリートの床に崩れ落ちて粉々に割れた。爆風に叩きつけられたガラス戸は何枚か割れ、扉はまだふるえている。
職員たちと守衛は「何だ、何だ」と大声でわめきながら、我勝ちに裏口から走り出た。
あとは|茫《ぼう》|然《ぜん》と腰を浮かした課長と五人の事務員、それに警官が残った。
真田の右手がポケットから出ると、手の先にモーゼルが鈍く光った。
先ほど多量のトランキライザーを飲んだにもかかわらず、その手はブルブル震えている。砕けた丼に足をとられながらも、警官がスッと横に動き、腰の拳銃に手をやった。
戸口から|圧《おさ》えつけたような鈍い音が響くと、警官は苦痛の|呻《うめ》きを発して右肩に手を当てかけたが、四十五口径のでかい弾の衝撃に一たまりもなく後ろに吹っとぶと、机の角に頭を割られ、砕けた丼の上に音をたてて転がった。
胸からだけでなく、口と鼻からも吹出した血が断末魔の|痙《けい》|攣《れん》にひきつる黒い制服を見る見る赤黒く染めていく。
銃口につけたサイレンサーから薄く煙のもれるスミス・アンド・ウエッスンを握った邦彦が、いつの間にか戸口に立っていた。
茶色のソフトを|目《ま》|深《ぶか》にかむり、顔は白い覆面でおおい、極端に肩を怒らせたパットをつめた青いスプリングの襟をたてている。
「手をあげろ」
低い、|腸《はらわた》にしみ込むようにドスのきいた声で命じ、窓口に近づいた。課長は、映画もどきに高々と空に手を上げながらも、足はブザーを踏んでいた。無論、線を切断された警報が署に届くはずはない。奥の出口に一番近い職員が、くるりと背をむけざま前かがみに二、三歩走ったが、荒い木枠の間から差しのべられた邦彦の銃が|躍《おど》り、ブォンと鈍い音をたてると、銃弾に後頭部を|抉《えぐ》られて前につんのめった。
骨のそげた頭から血がサーッと吹出す。
邦彦は窓口の横手のくぐり戸を|蹴《け》り開けて内部に入った。カチッと音をたてて親指で撃鉄を起すと、事務員たちは顔をひきつらせてカタカタと歯を鳴らした。
「オーケイ。みんな立って向うの壁に並ぶんだ」
と、邦彦は銃口で金庫を示す。
彼等はガクガクする膝を踏みしめて、どうにか手をあげたまま、壁の前に向うむきに一列に並んだ。
衝撃にそなえて一様に壁に顔をへばりつけている。|啜《すす》り泣いていた一人は|遂《つい》に|脱《だっ》|糞《ぷん》した。
「けつの穴をしっかり閉じとくんだ」
言い捨てざま邦彦が振下ろした重い銃床が、左の端の男の頭を割り、その衝撃で引金がはずれ、発射された弾が壁に当って|漆《しっ》|喰《くい》が崩れ落ちてきた。
男達は悲鳴をあげて、揺らぐ壁にかじりつこうとしたが、次々に|頭《ず》|蓋《がい》|骨《こつ》を砕かれて、コンクリートの床に長々とのびた。
一人残され、マラリアにでもつかれたかの様に震えている課長の震える指先は仲々ダイヤルの文字板に入らず、やかましく鳴る歯の音が、外から聞える炎のゴーゴー吠えたてる音と人々の|罵《ののし》り騒ぐ声を圧して、高く響いた。
金庫のダイヤルがカチッと外れると同時に、課長は背から腹に抜け、握りこぶし大の射出孔を残した弾を|喰《くら》って、|蛙《かえる》のように床に叩きつけられた。
|蒼《そう》|白《はく》となった額に汗をたらして、それでも銃を離さずに|掩《えん》|護《ご》していた真田が走り寄ると、金庫にあるだけの五千円札をスーツ・ケースに移し、外に走り出た。爆発が起ってからわずか一分四十秒しかたっていない。
弾倉の六発のうち四発を射ち尽した邦彦は、その間に弾倉を開いて手早く弾をつめかえ、四個の|空薬莢《からやっきょう》はハンカチで包んでポケットにしまった。
「火事だ。火事だ。爆発したんだ!」
血相を変えて守衛を先頭に四、五人が一団となって、裏口から駆戻って来たが、屋内の光景を一目見て声を|呑《の》み、一斉に立ちすくんだ。邦彦は素早く撃鉄を起すと守衛の|鳩《みぞ》|尾《おち》を狙って射った。
守衛は両手を胃の上に当てて後ろに続く男にもたれかかったが、守衛の腹を引裂いて貫通した弾がその男にも命中したとみえ、|大《おお》|袈《げ》|裟《さ》な悲鳴をあげると勢いよく|尻《しり》|餅《もち》をつき、両手で血のしみ出る下腹をおおい、白眼をむいて気絶した。支える物のなくなった守衛もコンクリートの床に後頭部をブチ当てて動かなくなった。その下は見る見る|血《ち》|溜《だま》りと化していく。
残りの男達は腰を抜かしてその場にすわりこむと、耳をふさいで床に伏した。一人の男は四つんばいになって逃げかけたが、尻に一発射込まれて平たくなり、犬ころの様な泣き声をたてた。
外からクラクションの音が響いた。
邦彦は銃を構えたままあとずさりし、蹴開けた扉をしめて鍵をかけ、外でエンジンをかけて待っているプリンスに駆けこんだ。
車は炎の反射で|橙色《だいだいいろ》に染まっている。
真田が座席の左に寄ると、邦彦がハンドルを握り、火災の恐怖状態にある酷熱のキャンパスから抜け出た。スーツ・ケースはすでに、車の隠し穴の中にしまわれている。
運転しながら邦彦が、銃、残りの弾、ハンカチに包んだ空薬莢、覆面と次々に手渡すと、真田がダッシュ・ボードの出張りの下に仕込んだ隠し戸を開き、次々とその中に納めた。すでにモーゼルもその中に隠してあった。
超短波ラジオをつけっ放した車は、逆をついて池袋の繁華街にむかった。
続々と消防車とすれちがった。
下駄やサンダルを突っかけた野次馬が興奮した面持で駆けて来た。振りむいて見ると、大学校舎は巨大な熔鉱炉と化してすさまじく燃えていた。赤紫色の巨大な火が炎々と天を焦がし、黒い濃煙におおわれた暗い空にはオレンジ色の照り返しが躍っていた。
建物の一部が焼け崩れたと見え、黒や赤の燃えがらや灰がもうもうと舞上がった。
突然邦彦の内部を、白い炎を|閃《ひらめ》かせて敗戦の日の光景がかすめさった。夜空に舞い狂う火の粉は、絶え間なく轟発する無煙火薬の|臭《にお》い、炎になめつくされる街の身をふるわす臭い、焦げた人肉の臭いを鋭く|甦《よみがえ》らせて消えていった。
立教大学の裏手に、夜は人気のない草むらの広場があり、その中に空井戸があった。彼等は大通りから外れると、そこに車を|停《と》めた。邦彦はコートとソフトをぬぐと真田に渡し、ドライバーとスパナーで素早く後ろのナンバー・プレートを外すと、車のトランクの床に作った隠しにしまい、車頭についているナンバー・プレートと同じ奴をひっぱり出して付け変えた。
真田は、邦彦のコートとソフトを井戸に投込むと、自分の浪人帽、眼鏡、スプリングも投げこんだ。
それらの品々は、全部いたる所で他の品物にまぎれて買った大量生産の安物であり、メーカーの印や商標は切りとってあった。
スプリングを脱ぐと、胸から上だけの変てこな学生服が現われた。
彼はそれを脱ぎすてると、使う人もない空井戸の|蓋《ふた》をしめ車に戻った。
「今やっと署やパトカーに連絡がついたらしい。君はこれでも飲んで酔ったふりをしてくれ」
邦彦がいたずらっぽく笑いながら、グローヴ・コンパートメントから取出したウイスキーの小瓶を真田に手渡した。真田は額の汗をハンカチでぬぐうと、時々むせかえりながらもゴクゴク音をたてて飲込み、瓶を窓から捨てた。
蒼白な顔にたちまち血がのぼってきた。
邦彦はそのウイスキーに、粉末にしたイソミタールを多量にとかしこんであった。
立教大学の前で初めてパトカーとすれちがった。短波ラジオからは、さかんに逃げた車の型と、彼等の人相が流れてきた。邦彦のプリンスは橙色に塗った中型車と伝えられた。
ナンバーも正確に読みとった者は無かったが、幸いな事に取りかえる前のそれに近かった。真田の人相は、ぐっと若くなって二十歳ぐらいの浪人風、五尺五寸ぐらい、|飴《あめ》|色《いろ》の眼鏡をかけ、スプリングの下に学生服を着ている。スーツ・ケースは空色、言葉に|訛《なま》りがある。
邦彦は五尺七、八寸、非常にガッチリとした幅広の体つき、コートをつけ、その色は青。ソフトは黒、覆面をしている。
この風体の二人組を見つけしだい拘留せよ、と何回も何回も繰返し、「第何号了解」というパトカーからの合の手が入った。
池袋の街から出るすべての要所はかためられ、正に袋の|鼠《ねずみ》となった。しかし原色のネオンにぬりたくられた街に灰色の車を乗入れる邦彦の唇には、明るい微笑さえ浮んでいた。
自動車専用の踏切を渡って、東口へ出る所に、車の帯が立往生していた。
その先には勇みたった警官たちや、鉄かぶとに身を固めた白バイの連中が、カンテラを振りまわして車をせき止めていた。
随分待って、邦彦の車の順番になった。
真田は車を止められた時から目に見えてソワソワし、落着かすのに手間をとらせたが、薬の効果でうつらうつらし始めていた。
型どおり運転免許証とナンバー・プレートがチェックされ、|訊《じん》|問《もん》を受けた。巧妙に偽造した免許証がばれる気づかいは無かった。
邦彦は丁寧だが、少々うんざりした口調で訊問に答えた。目をこすりながら、真田も筋書どおりしゃべった。
藤色と濃紺が柔らかくミックスした渋い背広にすらりとした体を包み、輝く様に美しい笑顔を見せる邦彦と、地味な鉄色の背広にきちんと毛編のネクタイを結び、酔っているとはいえ知性の面影をとどめる真田が、凶悪な殺人強盗の二人組とは思えなかった。車の色もナンバーも違い、人相服装もちがった。警官たちはあっさりと通した。
東口に出て|千《ち》|登《と》|勢《せ》|橋《ばし》へ登る途中でも止められた。職務上がまんしてください、と言訳がましく呟きながら車の中まで調べた警官の目に、何もあやしい物が映るはずはなかった。
そこをパスすると真田は大きな吐息をついて本式に寝こんでしまった。千登勢橋から右へまがり、|椎《しい》|名《な》|町《まち》に抜け、|豊《と》|島《しま》|園《えん》のそばを左にまわって一時間半後には車をガレージに乗入れた。途中この様に長くかかったのは、超短波で盗聴したパトカーの配置所をさけて廻り道をとったり、その移動をやりすごそうと路地に車を停めたりしたからだ。
家の近くでは、ねむりこんでいる真田の体を座席に倒し、明るい所はさけて通った。裏口から家の中に入り、表のベルの間にはさんだ紙切れを見ると、つめてあったまま元の位置におさまっていた。|安《あん》|堵《ど》に全身の力が抜けていくようだった。
ガレージに戻って重い扉をぴっちり閉めて|閂《かんぬき》をおろした。こうすれば内部の音は外に漏れる気づかいは無かった。
前後不覚に眠っている真田の体をかついで車からおろし、薄いマットの上に寝かした。車に戻るとダッシュ・ボードの下から、サイレンサーのついた拳銃を取りだし、二発をつめかえた。
邦彦はそれを持って真田の近くに寄り、安らかな寝顔を見つめながら長い間立ちつくしていた。
邦彦は、もうこの男に用は済んだはずだった。一度|己《おの》れの秘密を分ち合った以上、真田はどんな事があっても死ななければならなかった。この男がいるかぎり、邦彦は罪の十字架を共に背おわなければならなかった。
邦彦は銃の撃鉄をあげ、狙いをつけた。しかし獲物に対し、一度も|慄《ふる》えた事のなかった手は大きくふるえ、銃口は縦横無尽にゆれた。顔色は蒼ざめ、黄色っぽくなり、暗い影に|翳《かげ》った目は充血してふくらんだ。あえぐように口から大きく呼吸するため、喉はからからに乾いてきた。
すべてを賭けた目的に成功し、こうして静かなガレージにいると、何だか|虚《むな》しさに胸の中がからっぽになり、張りつめていたものが音をたてて|崩《くず》れ、生死を共にした真田だけがこの世の|伴《はん》|侶《りょ》にさえ思われてきた。|煎《せん》|餅《べい》|蒲《ぶ》|団《とん》に並んで語り明かした一夜が、胸がうずくほどの生々しさで想い起された。
邦彦は銃を降ろすと目を閉じ、しばらく荒い息をついていたが、やがてそれも|鎮《しず》まった。今となっては唯一瞬も早く、なるべく苦痛のないように真田を永遠の眠りの国へ送りこんでやらなければならなかった。
夜の静寂が重苦しくのしかかってきた。邦彦は再び銃を持ち挙げると、慎重に心臓の中心を狙った。もうその手は震えず、暗い顔は静かだったが、|厳《きび》しい表情があった。
瞳は心臓の上の一点を見つめて澄み渡った。引金を絞る指先がかすかに白くなった。押えつけられた銃声がガレージにこもり、真田はピクリと|痙《けい》|攣《れん》したが、そのまま静かに横たわっていた。
初めの一発は、恥じらう処女から奪う最初の|接《せっ》|吻《ぷん》のようなものであった。邦彦は真田の顔に向けて、続けざまに発砲した。焼けて熱くなった銃身と、鼻を刺す|硝煙《しょうえん》の下で、肉と血と骨が四散し、人間の顔というよりは一個の|残骸《ざんがい》と変った。
顔を砕かれようと、セメント|樽《だる》につめこめられて海に投げこまれようと死人の知った事ではない。一度死んだ者はどんな事も苦にならず、どんな事にも|煩《わずら》わされずに、永遠の眠りをむさぼるだけだ。
弾倉を射ち尽した邦彦の瞳には、再びあの夢見るように物憂い趣が甦ってきた。
奪った金は千六百万円あった。
顔は銃弾で吹っとばされ、ほとんど白骨と化した死体を呑んだセメント樽が、東京湾の深みで朽ちている頃、ハーバードの食堂では、広重がフランス後期印象派、特にゴッホやルノアールに与えた影響について、邦彦は瞳をキラキラ輝かせながら、数人のフランス留学生と語り合っていた。
野獣死すべし |復讐編《ふくしゅうへん》
挑  戦
まだ残暑にうだるような羽田空港の国際線発着所は、歓迎の人波にごったがえしていた。
歓呼と万歳の声が空にひびき、テレビ・カメラの放列が来日の黒人歌手を追い、フラッシュがひらめき、マイクが外遊から帰った大臣をとりかこんだ。それぞれの旅客は、関係者にとりかこまれて|華《はな》やかな交歓に移っていった。
歓声と|嬌声《きょうせい》が一段落し、女優のささげた花束が群衆の足もとに散ったあと――ダグラスDC機から現われた長身の青年がタラップを踏んだ。青年は、洗練された|美《び》|貌《ぼう》に、バランスのとれたしなやかな体つきをしていた。|象《ぞう》|牙《げ》|色《いろ》の夏服をシャープに着こなし、左手に大きなスーツ・ケースを軽々と|提《さ》げている。
青年はタラップの途中で立ちどまり、誰にともなく優雅なポーズで右手をあげた。優雅だが、|嘲《あざけ》るような、皮肉な調子があった。にこやかな微笑を彫ったように形のいい|唇《くちびる》に刻んでいたが、その背から不吉な|翳《かげ》がたちのぼり、深い|瞳《ひとみ》の奥には挑むように不敵な光がきらめいていた。青年の名前は|伊《だ》|達《て》|邦《くに》|彦《ひこ》と言った。
三十分後、邦彦は疾走するハイヤーの座席に気だるげに身をなげだしていた。
二年ぶりの東京だった。車窓の外を、大森の街が流れていった。三年前、この大森の一郭で放った一弾によって、邦彦の心を|蝕《むしば》みさいなむ暗い怒りのくすぶりは火を吐いた。
国際|賭《と》|博《ばく》の胴元を襲い、製薬会社の給料を横取りし、大学の入学金を強奪した。まんまと捜査の目をあざむいた邦彦はハーバードに飛び、大学院の修士課程を終えて、コロンビアの博士課程に転じた。
そして――いま、邦彦は日本に帰ってきている。野心も命も一緒くたに|賭《か》けた完全犯罪の成功者として。しかし、邦彦の瞳は暗い。夜よりも暗く翳っている。
一年ほど前、邦彦は航空便で妹の|晶《あき》|子《こ》の手紙を受けとった。晶子は、いかなる運命のいたずらか、矢島|雅《まさ》|之《ゆき》との愛におちいったことを伝えていた。
雅之は、現代の怪物と言われる京急コンツェルンの大事業家矢島|裕《ゆう》|介《すけ》の|御《おん》|曹《ぞう》|司《し》だった。京急コンツェルンは、陸運、海運、サービス、商業、不動産、金融業など、あわせて百を越える企業を|傘《さん》|下《か》におさめている。
雅之は、コンツェルンの一環を占める京急デパートと京急観光の社長を務めていた。まだ三十前の若さで、政界とのつながりは深かった。父の裕介は、風雲児の例にもれず、正妻をめとるのが遅かったが、彼女は数代の首相を生んだ長州の佐藤家の出身だった。
晶子の手紙を受けとったとき、邦彦の暗い血は逆流した。
二十数年前、邦彦の父英彦はハルピンで、新満精油を経営していた。工場の従業員は千人近かった。シナ事変後、日産コンツェルンの満洲進出の波にくいつき、豊富な資源と安い満人の労働力によって、会社は見るまにふくれ上がったのだ。
長子邦彦をも得た英彦の得意の絶頂時代だった。そして、今をときめく矢島裕介は、得体の知れぬ三流会社を|大《だい》|連《れん》、|奉《ほう》|天《てん》、|新京《しんきょう》の三大都市に散らし、また満鉄院外団の黒幕として雌伏していた。
英彦の全盛時代は長く続かなかった。専務取締役の木村と経理部長の小川が共謀し、架空の仕入れ原料に対して会社の手形を乱発したのだ。当時の金で五百万。英彦が一週間ほど旅行している間の出来事だった。
手形の発行先は矢島が子分を使ってデッチ上げた幽霊会社、矢島は木村と小川を買収しておいたのだ。
英彦が旅行から帰ったとき、すでに手形は無数の裏書きがついて善意の第三者[#「善意の第三者」に傍点]に廻っていた。どんな事があっても落さねばならなかった。木村と小川は|莫《ばく》|大《だい》な金をつかまされて姿を消したあとだった。彼等はたとえ起訴されても、居坐り直ることが出来たろう。
こうやって巨額の金をパクった矢島は腹心の部下横田を表に立て、お手あげ寸前の新満精油の株を買い占めに廻った。
カラ売りカラ買いも、英彦側に資金が尽きると矢島側は現株の引き渡しを要求し、ついに逆日歩がつくようになった頃には、続々と満鉄院外団の部下を取締役、監査役に送りこんだ。
矢島の命を受けた横田は、もとからの重役や顧問弁護士たちをも買収し、社長英彦の退陣を要求した。
無論、矢島は絶対に表面に出なかった。それどころか、英彦の苦境に同情すると称して、次々に融資してきた。ただし、月二割、利子天引きだった。
あせりきって頭の混乱した英彦は、矢島にすがった。そして、一時しのぎに借りた金は高利においまくられ、利子は利子を呼び、悪夢から|醒《さ》めた英彦が矢島の陰謀のからくりに気づいた時には、会社は乗っとられ、動産不動産はきれいに奪われたあとだった。
矢島はこれを契機として大きく飛躍し、|追《お》い|剥《は》ぎ裕介の異名をほしいままにして中央経済界にのびていく。
打ちのめされた英彦が、虚脱状態から立ちなおるには長い年月がかかった。しかも、もう二度と実業界復帰の気力を失い、地味な官吏としてその生涯を終えた。
よほど|口惜《く や》しかったと見える。終戦後四国に引き揚げてからも、当時の事は滅多に語らず、世の中をシニカルな目で|眺《なが》めていた。
しかし、その英彦が死んだとき、邦彦にあてた遺書は、矢島に対する|呪《じゅ》|詛《そ》に満ちていた。邦彦はそのことを固く心に秘めて、復讐の機会を待っていた。
それが――計らずも晶子が矢島の長子雅之と恋におちた。邦彦の心は複雑だった。晶子を責める感情と共に、うまくいけば晶子を橋渡しとして矢島コンツェルンに入りこみ、内部から|攪《かく》|乱《らん》出来はしまいか、という冷たい計算がわいてくるのをとどめることが出来なかった。
矢島のおさまりかえる安住の王国を壊滅させ、じりじりと転落の恐怖を味わわせてやるのだ。横田や木村や小川は、いまは京急の最高ブレインの中心人物となっている。
矢島の王国は力と権威だ。それは邦彦の反逆精神と破壊欲を強烈にゆすぶった。無論――|徒《と》|手《しゅ》|空《くう》|拳《けん》に等しい今の邦彦にとって、千億円を単位とする京急コンツェルンには全然歯がたたぬことは知っている。膨大な資力が必要だ。
それを得るためには、冷徹な頭脳と使いなれた銃器がある。それに、若さが。邦彦はいま二十八歳だ。あせることはない。やってやってやりぬくのだ。やりがいのない仕事では無い。それに邦彦は、目的を追究する行為のなかにのみ生きがいを感じる青年だった。
コロンビアの大学院を中退した邦彦は、いつも使っていたキャデイラックを日本に送るとき、ラジエーターの中に分解した拳銃を五丁と|予備《スペア》の銃身と|挿弾子《クリップ》を十個ずつ隠した。ガソリン・タンクのなかには|短機関銃《グリースガン》や各種の弾薬などをたっぷりと詰めた。ライフルは堂々と手続きを踏んだ……。
空港のハイヤーは都心に入った。邦彦はそそりたつビルの群れを暗い瞳で見上げていた。
二カ月たった。
池袋西口。濃霧がビルの谷間を|這《は》い、点滅するネオンも霧にぼやけて|滲《にじ》んでいた。
霧に赤みがかったヘッド・ライトを弱めたプリンスが、|三《みつ》|菱《びし》銀行の横の通りに音もなく|滑《すべ》りこみ、バー“リリー”の近くに停車した。運転台には、ハンチングを|目《ま》|深《ぶか》にかむった邦彦が坐っていた。
潤んだネオンが車内にかすかに反射して、秀麗な顔に|鑿《のみ》で彫ったような影をあたえていた。深く澄んだ瞳は、水滴のこぼれ落ちる“リリー”の回転ガラスにむけられている。
薄いスエードの手袋をはめた手を軽くハンドルにかけている。セピア色の革ジャンパーの左の胸がかすかにふくらんでいる。
十二時五分。グレーのスプリングをまとった小柄な男が、“リリー”のドアを開いてよろめき出た。ひどく酔っている。
邦彦の|唇《くちびる》は微笑にほぐれた。瞳には夢みるような趣がひろがっていった。体をねじって後ろのドアを開く。
「|旦《だん》|那《な》いかがです? 安くしときますよ」
「白タクか。東長崎までいくらだ?」
小柄な男は、ふらふらする体を車に寄せた。
「百円でいいですよ」
「よし、先払いだ」
シートに身を投げた男は、百円玉をつかみだして大きなあくびをした。
「長崎四丁目のあたりで起してくれ。銀座から飲み続けで眠たくてかなわねえ。頼むぜ、運ちゃん」と、言い捨てて目を閉じた。
邦彦はえくぼをみせて笑った。イグニッション・キーをスターターにかかるまで廻す。エンジンは百八十キロまで出せる高性能のと取りかえてあるのだ。持ち帰ったキャデイラックを東洋系外国人に高く売りつけ、この車を買って改造する費用を浮かせた。
車は大通りに出た。歩道にはポン引きや|街娼《がいしょう》が五メートルおきに立っていた。
プリンスは|要町《かなめちょう》の交差点を左に曲った。広い道路だった。視界をさえぎる霧を物ともせずに、神風タクシーや砂利トラックが暴走していた。
邦彦は車のスピードを八十キロ近くにあげた。先行するタクシーをヘッド・ライトに捕えては追いぬいていく。三角窓の|隙《すき》|間《ま》からピーッと悲鳴をあげて風が吹きこみ、車輪の下をアスファルトの黒いリボンが目まぐるしく流れ去った。
邦彦はハンドルの下方に軽く左手だけをそえて運転していた。距離とスピードに対する正確なカンと、神風タクシーの横をすれすれに追いぬく絶妙のタイミングを楽しんでいた。|椎《しい》|名《な》|町《まち》駅近くにかかる陸橋に近づいた。邦彦は車のスピードを落した。両|脇《わき》にのびる鉄製の緩衝帯にぬった夜光塗料が、無数の|狼《おおかみ》の目のように赤く輝いた。
邦彦はクラッチを踏みこみ、左にハンドルを切った。惰力で進んだ車は、コの字型に左右に張りだした陸橋中央部の左寄りに静かに|停《とま》った。
イグニッションを切った邦彦は、ライトを消して車から降りた。コンクリートの欄干は胃のあたりまでしか届かなかった。
風はなかった。右手の駅前商店街はほとんど灯火を消していた。左後方の池袋の空はネオンに赤紫に燃えていた。
陸橋を震動させて、邦彦の真下を三両連結の西武電車が通りすぎた。赤い尾灯がレールに尾をひいて消えた。
邦彦はオメガの腕時計を|覗《のぞ》いていた。ジャンパーのジッパーをひきおろし、右手を|腋《わき》の下につっこみ、左手で客席のドアを開いた。
男の肩をつかんでゆすぶる。男は半身を起し、いぶかしげに目をこすった。
「ここはどこだい? 場所が違うぜ」
「ガソリンが切れちゃったもんで。料金はお返ししますから、ほかの車を拾ってください」
邦彦は頭をさげた。
その男はブツブツ|呟《つぶや》きながら車から|降《お》り立ってドアを閉める。
邦彦は腋の下からゆっくり右手を抜きだした。その|瞳《ひとみ》は冷やかに|冴《さ》え、薄い手袋の中で、ずっしりと重い|自動拳銃《オートマチック》が鈍く光っていた。口径〇・三八インチのコルト・スーパー九連発だ。
邦彦は親指で、カチッと安全止めを倒し、銃口を男の心臓にむけた。
男は化石したように立ちすくんだ。全身から見るまに酔いが消えさり、口は悲鳴をあげる|恰《かっ》|好《こう》に開かれた。|膝《ひざ》から小刻みな震えがきた。
「市村だな、新東商事の?」
邦彦は言った。
「ど、どうして知っている?」
市村は|喘《あえ》いだ。
「歩け、そこの欄干まで」
「一体、ど、どうしたわけだ!」
「言う通りにするんだ」
邦彦は低く冷たい声で言った。
市村は力のぬけた足を踏みしめ、よろめきながら欄干に歩いた。
「か、金ならあるだけ持っていけ」と、|呻《うめ》くように呟きながら、はるか下に不気味に光るレールから目をそらそうとあがいた。
邦彦の瞳に|碧《あお》い炎が走った。バネのようにしなやかな脚が後ろにバックステップした。|黒豹《くろひょう》の素早さだった。目にもとまらぬ早さで右手が|閃《ひらめ》いた。拳銃を振りおろしながら安全止めをかけていた。
鋼鉄の銃身がキューンと音をたてて市村の後頭部に|叩《たた》きこまれた。市村は物も言わずに|尻《しり》|餅《もち》をつこうとした。
邦彦はその背を左手でつきとばした。市村は砂袋のように陸橋の欄干にもたれかかった。
邦彦の右手が再び閃いた。拳銃は肩から腋の下に|吊《つ》った|革ケース《ホルスター》に突っこまれた。
気絶した市村の体を両手で|支《ささ》え、邦彦はじっと耳を澄ませて待った。額はしっとりと湿っている。
椎名町駅を出た上り電車が、警笛を断続的に鳴らしながら、スピードを増してガードの反対側にさしかかった。
電車のライトがレールを|薙《な》いだ。邦彦は市村の体を軽々と|抱《かか》えあげ、|狙《ねら》いをつけて突き落した。
足が架空線にふれた市村の体は、くるくる廻りながら落下し、レールの上に|蛙《かえる》のように叩きつけられた。その上を、ガードから抜けた電車が|轟《ごう》|々《ごう》と大地を震わせて、巨大なブルドーザーのように襲いかかった。
急ブレーキをかける鋭いきしみが聞えた。車輪から火花を散らした電車は、しばらく行きすぎてやっと停車した。
邦彦の鋭い目は、切断された市村の腕が|跳《は》ねとばされるのを、濃霧のヴェールを透して見きわめていた。
邦彦の瞳は一瞬曇ったが、強く|目《ま》ばたきしてそれをうち消した。身を翻し、車にとびのって、フルスピードで|遁《とん》|走《そう》した。赤いテール・ライトは、|闇《やみ》と霧に|滲《にじ》んで見る見る消えていった。
知らせを受けて、すぐ近くの交番から現場に駆けつけた巡査も、邦彦の車の存在なぞ知ってはいなかった。
翌朝――邦彦は|下《しも》|落《おち》|合《あい》に買った小さな家の寝室で、ベッドに腹ばいになっていた。舌が焦げるように熱いコーヒーを|啜《すす》りながら、数種類の新聞を読みちらしている。
無造作にまとったガウンの下の裸身は|逞《たくま》しかった。ブロンズの像をなしてもりあがった筋肉は、|鞭《むち》を|撚《よ》りあわせたように弾力がある。
すでに高く登った朝日が、カーテンの隙間から射しこみ、簡素な室内を明るく照らしていた。
|本《ほん》|棚《だな》には原書がびっしり並び、薄い茶色のガラス戸のついた湿りよけの銃器キャビネには、六丁のライフルと、四丁の散弾銃がたてかけてある。
邦彦は無表情な瞳で新聞を読み続けた。
昨夜の事件は、社会面や都内版の|片《かた》|隅《すみ》で小さく片づけられてあった。珍しくもない話だ。酔っぱらいがガードから落ちて|轢《ひ》き殺されたぐらいでは。
邦彦はコーヒーの残りを一飲みにして、目を求人欄に移した。求めているものは、まだ出てなかった。また、そう早く現われるものとも思えなかった。
邦彦は新聞を|卓子《テーブル》の上に重ね、その上にコーヒーのカップをおいた。タバコに火をつけ、くるっと仰向けになった。憂いをふくんだ瞳は、天井のしみを透して、協明ビルの内部を見つめている。
日本橋|本石町《ほんごくちょう》三丁目にそびえる六階建ての協明ビル。そこには十を越す商社が軒を借り、七百人近いサラリーマンが働いている。
主として医療機械や薬品原料を扱う新東商事はその一つだ。京急の城東進出の一環をうけたまわる新東商事の社長黒松は矢島裕介の又いとこに当る。そして市村は働き|蟻《あり》のような新東商事のサラリーマンの一人だった。しかも優秀な働き蟻だった。
新東商事はビルの四階と五階を占めている。市村が働いていた渉外部の部屋は、五階の東側にある。窓からは道一つへだてて王宮のような三星銀行の構内が一目で見おろせる。犠牲者として市村に白羽の矢をたて、毎日チャンスをうかがっていた|狙《ねら》いに狂いはないはずだ。
京急系のうちで一番弱体である新東商事にもぐりこみ、内部からの|攪《かく》|乱《らん》をもくろむ。それもある。しかし、それは邦彦が社での地位を固めてからでないと、うまくいかないだろう。
邦彦の真の狙いは、むしろ三星銀行の方にある。市村の死は、これから邦彦のくわだてる|大《おお》|博奕《ば く ち》の一枚の捨て札にすぎない。
京急は中心になる大銀行を持たない。しかし、京急は三星銀行の安定株主として一千万株を持ち、五十億の貸し出しを受けている。それに|一《ひと》|泡《あわ》ふかせてやっても面白くなくは無い。
その上、年間預金高四、五千億を越すほどの大銀行を襲う不敵な|目《もく》|論《ろ》みは、これまた邦彦の長年の夢であった。
至難の事業であることは知っている。それだけにやりがいがある。たとえ、五年、十年の年月と軍資金がかかっても、成功すれば十二分におつりがくる。その金で、矢島コンツェルンと一戦をまじえる事も出来るだろう――。
|茹卵《ゆでたまご》を十個とビールをおそい朝食にとった邦彦は、高い|襟《えり》のワイシャツに|蝶《ちょう》タイを結び、渋い|鉄《てつ》|錆《さび》|色《いろ》の背広に身を包んで、母校の大学院に車をむけた。
大学の大講堂の前には、赤い|鉢《はち》|巻《まき》をしめた歴研の連中が、石段に立って内閣打倒の演説に声をからしていた。その近くでは、羽織の背に校章を染めぬいた応援部のリーダーが、手拍子の練習を呼びかけていた。
校舎から吐きだされた男女学生で、ごったがえす構内では、音楽会やダンス・パーティや演劇発表会の切符を売る学生が机を並べていた。落語研究会もあった。
そのむかい側に張られたテントでは、授業料値上げ反対のハンストが行われ、その上をアコーディオンのロシア民謡が流れ、空に消えていった。
大学はいつ来ても変らない。ここにもかつて|己《おの》れの一つの青春があった。邦彦の|脳《のう》|裡《り》に白い炎を閃かせて、拳銃とダイナマイトを持って関東大学の経理課を襲った光景が|甦《よみがえ》った。
あの夜――大学校舎は巨大な熔鉱炉と化し、夜空を血の色に焦がして燃えていた。野望も命も一緒くたに|賭《か》けたあの入学金強奪の仕事には、邦彦の凶暴なエネルギーを支える命の綱のようなものがあった。
それが、目的の達成とともに、目的を追究していた時に感じていた生命の充実感はくずれ、邦彦の心は酔いざめのあとのように|虚《うつ》ろになった。砕けた苦い|酒《しゅ》|盃《はい》のかけらは、傷だらけの胸をさらに深く刺した。
だが、今は再び一つの目的がある。己れの凶暴なエネルギーをつぎこむすべがある。邦彦は|昂《こう》|然《ぜん》と頭をあげ、大学院の階段を登っていった。
事務所で修士課程の修了証明書と成績証明書を受けとった。白髪の事務員が、伊達さんが見えたらよこしてくれるように、と主任の若杉教授が言っていたと伝えてくれた。
船室の通路のような廊下を渡り、邦彦は若杉教授の研究室のドアをノックした。
「お入り」
教授の太い声がはねかえってきた。
部屋には、教授のほかに毛並みのよさそうな学生がいた。
「やあ、伊達君。よく来てくれたね。まあ掛けたまえ」
教授は|脂《あぶら》ぎった顔をほころばせた。学生の方をふりかえって、
「町田君、紹介しておこう。この方は伊達邦彦君。ここを二年前に出て、ハーバードとコロンビアに進まれたんだ。私の研究室の誇りと言ってもいいかな。
それがだよ。どういう風の吹きまわしか、突然帰国してね。就職したいなんて言って、私を困らせてるんだよ。
それから、伊達君。こちらは町田進君。今年入ったホープだよ。専門はメルヴィルでね」
「初めまして」
邦彦は典雅な身振りで一礼した。
「お|噂《うわさ》は、かねがね……こんごもよろしく」
町田は住所を刷りこんだ名刺をさしだした。邦彦もそれにならった。
「町田君のお父さんは大変な|偉《えら》|物《ぶつ》でね。ほら、ライトの後つぎといわれる町田博士さ」
教授が口をはさんだ。
「じゃあ、三星銀行を設計した?」
「いやあ、僕は鬼っ子ですよ。幸い兄がおやじの後をつぐから気楽ですが……じゃあ、これで失礼します。せっかくお目にかかれたのに、あいにくどうしてもぬけられない仕事を言いつかっていますので」
町田は残念そうにドアの方に後じさった。
「又、お会いしましょう」邦彦は声をかけた。
「推薦状は書いときましたよ。しかし、君、おしいね。せっかくあちらまでいって勉強してきたのに。研究室としては、どうしても君を欲しいんだよ」
町田が出ていくと、教授はまたこぼしはじめた。
「又、かならずここに戻ってきます。ただ、伊達の|奴《やつ》はちょっと世間の風に吹かれてみたくなっただけなんだ、と思っていてください」
邦彦は頭をたれた。三星銀行を設計したのが町田の父なら、青写真が彼の家に残っているはずだと、考えていた……。
邦彦の求めていた新東商事渉外部の社員募集広告は、翌々日の朝刊に出た。邦彦は低く口笛を吹いた。面接にそなえて、簿記や商業英語をスピードアップで学んでおいたのだ。頭脳の把握力はいささかも衰えてなかった。
邦彦の面接時間は十九日の午後二時からだった。グレーの背広に落ちついた色のネクタイをきちんと結んだ邦彦は、新東商事応接室のソファーに端座し、質問に明快に答えていった。
翌日、邦彦は電報で採用通知を受けた。
狙った女
新東商事渉外部での伊達邦彦の仕事は、外国からの発注書類やパンフレットを日本文に直したり、日本文を英文やスペイン語でタイプに|叩《たた》いたりする退屈な作業の連続だった。
デスクは五階の東側の窓ぎわにある。邦彦はビルに勤めるサラリーマンの一人として、道一つへだてた三星銀行の裏庭を、何の疑いももたれずに偵察出来る。
邦彦はいつも九時の出勤時間より大分前に出社した。その時刻には掃除が終ったばかりで三十数人の同僚はまだ誰も出てきてない。邦彦は朝のビル街でも|眺《なが》めるような様子で銀行の構内に目を注いでいた。
三星銀行の裏庭は五百坪ほどの広さをもち、それは高いコンクリート|塀《べい》にとりかこまれていた。
塀の上には有刺鉄線がはりめぐらされていた。鉄線には、高圧電流が通じている。
裏庭の中にはガレージが二|棟《むね》、防火用水の巨大なタンク、変圧トランスの鋼鉄の|櫓《やぐら》が立っていた。変電器は赤くぬった金網でかこまれていた。
コンクリート塀にひらいた唯一の広い裏門の両脇には、トーチカのような詰所がくっつき、門衛が出行してくる行員に鋭い目を光らせていた。
午前八時四十分ごろ、空色のクライスラーがガレージの一つに消え、ソフトに手をあてた島本頭取が車から降りて、ゆっくり銀行の建物の中に入っていく。
それを見とどけた門衛は、鉄の裏門を一時閉じる。鉄扉の中には小さな|潜《くぐ》り|戸《ど》までついている。
やがて、建物の地下室から、制帽をかむった運転手が二人現われる。門衛に手を振って別棟のガレージに歩み、二台の現金輸送車をバックさせて裏庭の中央に停める。
地下室から四人の警備員が出てくる。二人は|棍《こん》|棒《ぼう》を腰にさし、あとの二人は銃身の極端に短い|散弾銃《ショット・ガン》を|抱《かか》えている。
散弾銃の銃身の下に平行してついたチューブ弾倉には、遊底の下から十二番の散弾が六発つまる。近距離に迫った暴徒に向けてブッ放すための|騒徒鎮圧銃《ライアット・ガン》とよばれている。
輸送車のクラクションが鳴ると共に、上っぱりを着た行員が数人、地下室からズックのサックや革袋を積んだ手押し車をおして輸送車のうしろにつける。
棍棒を|吊《つ》った警備員が、それぞれ輸送車の後扉に大きな|鍵《かぎ》を差しこんで開く。ライアット・ガンを持った警備員は、荷室の中に|跳《と》びのって、行員の手渡すズック・サックや革袋を輸送車に積み替え、自分で内側からドアをしめる。
棍棒を持った警備員が後扉の鍵をかけ、自分達は運転手の横のシートにもぐりこむ。
再びクラクションが響くと、門衛の手で裏門の鉄扉が重苦しい|軋《きし》みを発してひらかれる。
二台の輸送車は裏門を通って道路に出て、角を廻って大通りに消える。時刻は大体八時四十五分から九時すこし前にかけてであった。
九時には銀行の表口の|鎧戸《よろいど》が|捲《ま》きあげられる。キリキリと歯ぎしりするような音は、街の騒音を越えて邦彦の耳に伝わってくる。
その頃には、社員が続々と出社し、単調な仕事の繰返しと上役の皮肉なお説教に終始する退屈な一日が始まる。
邦彦はインテリぶらないというので同僚の評判はよかった。命じられたことだけを、テキパキ片づけていき、出世に野心を示さないのも気に入られた。
十二時のサイレンが鳴ると、邦彦は机を並べる同僚たちと共に地下の食堂に降りた。邦彦の食欲は|旺《おう》|盛《せい》だった。気軽に冗談をとばして皆を笑わせながら、肉気の多いものばかりを食った。
同僚の話題は大体きまっていた。昨夜ひっかけそこなったバーの女の子。ついてなかったマージャン。安月給の愚痴。上役の陰口。胸がスッとした西部劇……それに、新聞や週刊誌から聞きかじりの受け売り。
邦彦はそれに調子をあわせているが、心は固く閉じている。群れを白眼視するローン・ウルフである邦彦は、内心から群れにとけこむことは出来ない。邦彦は容易に|他人《ひ と》を信じぬ青年だった。
昼食が終ると、社員は屋上の日だまりに集まったり、軽い運動をしたりする。
ここでもゴルフ熱はさかんだ。屋上の|隅《すみ》に張ったネットにむけて、いつも二十人以上の各社のサラリーマンがクラブを振っている。
邦彦はゴルフが|嫌《きら》いだった。血なまぐさい闘争的なスポーツ、孤独な忍耐の中に自分の若さと体力を確かめるスポーツを好んだ。
三時になると、銀行は表の鎧戸をしめる。行員は六時頃まで残務整理にいそがしくなる。輸送車は四時半頃銀行の裏庭に吸いこまれ、積みこみと反対の順序で、各支店から集めたズック・サックを積みおろす。その頃、頭取のクライスラーは街に消えていく。
邦彦は書類から目をあげ、肩を|揉《も》みながらごく自然な様子でそれを眺めていた。胸の中は煮えたぎっていたが、同僚から見れば執務に疲れた邦彦が一息入れているようだった。
新東商事の退社時間は五時だった。その時間がすぎると、部課長クラスや優秀なセールスマンは、社長や専務たちと高級バーやキャバレーに車を駆った。業者を接待するのだ。下級社員はトリス・バーやおでん屋に腰をすえる。
邦彦はくたびれきったサラリーマンに混って電車の|吊《つ》り|革《かわ》につかまる。新宿で降りて週に三回はジムにかよう。
汗と革と血とワセリンの|臭《にお》いの立ちこめたジムで、残忍なほどの威力を持つフックやストレートをサンド・バッグに|叩《たた》きこんでいると、昼間の|凝《こ》りが汗と共に流れ去るのを覚えた。体重がライト・ヘヴィーなので、相手はいない。
日曜日は|湘南《しょうなん》富岡の射場に車をとばす。〇・二二の小口径ライフルなら、地下鉄後楽園駅のすぐ横の小石川射場で射てるが、大口径は小石川のトンネル射場では無理なのだ。禁止されている。|物《もの》|凄《すご》い反響でトンネルの|煉《れん》|瓦《が》がゆるみ、天井からゴミが降りかかってくる。
バックスキンのジャンパーに長身を包んだ邦彦は、富岡のライフル射場のコンクリート床に敷いた|蓆《むしろ》の上で|膝《ひざ》|射《う》ちの姿勢をとる。
銃種は愛用のウインチェスター・モデル・88。〇・三〇八口径五連発のレバー・アクションだ。三百から六百メートルの遠距離射撃に適しているのだが、ここでも五十メートルの小口径用の距離しかない。
〇・三〇―三〇クラスの短い|薬莢《やっきょう》の長さで、しかも〇・三〇―〇六におとらぬ高性能の〇・三〇八ウインチェスター弾の鋭い発射音が、澄んだ大気を|微《み》|塵《じん》に引き裂き、まわりの山は震えて|吠《ほ》える。
銃床に当てた|頬《ほお》と肩から体中に衝撃が突き抜け、邦彦の胃のあたりに固まったしこりは急速に解けていく。
邦彦はレバーを開閉させながら薄煙のたつ空薬莢を|弾《はじ》きとばし、続けざまに五発クリーニング・ショットした。冷えた銃身をあたため、わずかなひずみを直すのだ。
四十倍の望遠鏡をのぞくと、標的の十点九時よりから十点センターのどまんなかにかけてギザギザになっていた。
邦彦の瞳に|憑《つ》かれたような光が宿りだした。ずっしり重たい愛銃は完全なバランスを保って邦彦の手に握られ、冷たく鈍い光をたたえていた。
凶暴な威力を秘めた愛銃を、邦彦は一個の物体としては感じない。それは意のままに確実な死を送る自分の肉体の一部なのだ。
|弾《たま》は一発百二十円。一万七千円の邦彦の月給は、一日の弾代にやっと足りた。
「伊達君、社長がお呼びだよ」
渉外部長の宇野が、内線の受話器をおいて意味ありげに笑った。三時すぎの、物憂い時刻だった。
社長はインター・ホーンを好まなかった。一度、スイッチを切るのを忘れたままで専用秘書とたわむれているのが社内につつぬけになって以来、その装置を使ったことがない。
「何の御用でしょうか?」
邦彦は立ち上がった。
「行けばわかるさ。社長は気短かだよ」
宇野はそっけなく答えた。
邦彦はタバコを丹念に灰皿で|揉《も》み消し、渋い毛編みのネクタイを結び直した。ロッカーからグリーンがかった黒の背広を羽織る。
流れるような達筆の発注書をタイピスト嬢に手渡し、「頼むよ」と、清潔な微笑に|唇《くちびる》をほころばす。タイピストは眼鏡の奥で、うっとりと目で笑った。
邦彦は出口近くのデスクを占めた宇野に目礼し、長い足を軽々と運んで廊下に出る。
トイレに入り、指先に水をつけて、柔らかに波うつ前髪をかきあげる。
鏡に写る卵形の顔は、光線の具合でかすかにレモン色を帯びて輝いていた。憂いを含んだ瞳は深い湖のように澄み、ひきしまった頬に小さな|笑靨《えくぼ》を宿す唇は、精巧な|鑿《のみ》で丹念に彫りあげたかのようだ。濃いビロードのような男性的な|眉《まゆ》がはげしく迫って、苦味ばしったアクセントを与えている。
邦彦は鏡の中の自分の顔に片目をつぶり、上着をきちんと直した。|着《き》|痩《や》せするたちだ。十九貫五百の体重が五尺八寸の体にぴったりひきしまって見える。
社長室は五階の左側の一番奥まったところにあった。ドアをノックすると、社長の個人秘書の若月貴美子が事務的な声で応じた。
邦彦はドアを開き、後ろ手でしめた。
「僕、渉外部の伊達と申しますが……社長がお呼びだそうで」
「どうぞ」
貴美子は薄紫の紙巻きタバコをさした長いホールダーで中仕切りのドアをさした。
すこしきつい感じだが、二十四、五の仲々の美人だ。|蒼《あお》ざめたような顔色は化粧のせいらしい。大柄な女だ。スーツの生地も仕立ても極上だった。二重になった真珠のネックレスも、そのまんなかに輝くダイアも本物だ。
貴美子は社長の愛人だ、と社で評判していた。月給だけでこれだけの身なりを整えることは出来ない。
貴美子は仕切りのドアを開き先にたって社長室に入った。事務をとる部屋とは思えぬほど|贅《ぜい》|沢《たく》な調度がそろっていた。
社長の黒松はマホガニーのデスクの後ろにゆったりと腰かけ、そ知らぬふりでブライヤーのパイプをみがいていた。五十をすこし越した肥り気味の男だった。突きだした分厚い唇が紫がかってねっとり光っていた。
貴美子はクッションのきいたソファーにドスンと腰をおろし、高々と足を組んだ。邦彦が困惑するのを期待するかのように、黒いレースのスリップの下から|脂《あぶら》の乗った|内《うち》|股《もも》をちらっとのぞかしている。|驕慢《きょうまん》なポーズでホールダーを口にはこぶ。
邦彦は気弱げな微笑をうかべて戸口にたたずんでいた。
社長はパイプをみがく|鹿《しか》|皮《がわ》を停めた。パイプを窓からの光に照らしてみた。まだしばらく|勿《もっ》|体《たい》をつけてから、
「君が、今度入った伊達君だな? どうだ、しっかりやっとるか?」
「はあ、はりきって働けるのも社長のお蔭だと感謝しています」
「よろしい。部長にきいたところでも、君は仲々|真《ま》|面《じ》|目《め》にやっとるらしい。いつまでも、その気持を忘れるんでないぞ」
「はっ」
「うん、では帰ってよろしい」
社長はそり返った。
「失礼させて頂きます」
邦彦は折目正しく一礼して仕切りのドアを開いた。貴美子は中に残った。ドアをしめた途端、邦彦の瞳は|凄《すご》|味《み》を帯びて暗く輝いた。唇は|嘲《あざけ》るようにまくれ上がった。その耳に貴美子の高笑いと、社長の悦にいった含み笑いがとびこんできた。
「ねえ、パパ。どうしても行かないといけないんなら、貴美子も連れていって」
三日後の土曜日の夜。専用秘書の若月貴美子は、社長の黒松のネクタイをまさぐった。
銀座三丁目のグランド・バー“シャネル”の二階のアベック・シートは、高いソファーの背にさえぎられて、一組一組が小さな個室のようになっている。会員制なので、ルックス制限なぞ無視している。階下からマラカスがひびいてくる。
「今度の出張だけは用心したほうがいいね。なにしろ奥方や子供たちがついてくるんだからね。それに、北海道開発の視察に一足先に行っている矢島のオヤジに久しぶりにお目通りを許されるんだから、うちの奥方も張りきってるよ」
黒松は、まんざらでもない笑いを浮べた。
「|嫌《いや》ね。あんな色気のぬけた奥さんのどこがいいの」貴美子はふくれた。
「それは君の方が何千倍もいいですよ。だけどね、貴美ちゃん。時には、うちの奥方の|御《ご》|機《き》|嫌《げん》をうかがっておかないと。一週間して帰って来たら、すぐに君のところにとんでいくからね」
「いいわよ。その間のおこづかいちょうだい」
「これは失敬。はい、これ」
黒松はかさばった財布から一万円札を五枚ひっぱりだした。貴美子はそれをハンドバッグの中に投げこんだ。黒松は腕時計に目を走らせた。
「私がいなくても、おとなしくしてるんだよ。会社では専務のいうことをよく聞いて……じゃあ、|一寸《ちょっと》の間のお別れだね。いや、送ってこなくてもいい。飛行場で皆が待っているから」
「どうぞごゆっくり」
「可愛い|娘《こ》だ。そう|拗《す》ねるんじゃない」
黒松は貴美子の髪に|濡《ぬ》れた唇をあてて立ち上がった。
坐ったまま黒松を見送った貴美子は、残りのギムレットを飲み干し、クッションに頭をもたれさせて、じっとしていた。ライターの火を高くかかげてボーイを呼び、勘定をすますと下に降りた。
ステージではトルコ女がアクロバットをやっていた。貴美子はそれに目もくれずにクロークに出た。軽い上等の生地のコートを受けとり、ボーイに案内されて|緋《ひ》のカーペットを敷きつめた通路を出口にいそぐ。
“シャネル”を出た貴美子は、四丁目の方に足をむけた。バーとバーの間の暗がりにたたずんでいた長身の男が、その人混みにまぎれてあとをひそかに追う。邦彦だった。
貴美子は美男のバーテンを|揃《そろ》えているので評判の“アポロン”に入った。長いカウンターに並んだ客は女が六分で、男が四分だ。
カウンターの奥の端についた貴美子は女王のような扱いを受けた。バーテンが次々に御機嫌うかがいに来た。貴美子はコニャックのチューリップ・グラスを|掌《てのひら》で暖めながら微笑を唇に漂わせていた。
ドアを押して邦彦が入ってきた。戸口で立ちどまり、タバコを唇にくわえる。濃い|睫毛《まつげ》が物悲しげな瞳に深い影を落したその|美《び》|貌《ぼう》に、鈴なりの女客の視線がへばりついた。
邦彦は貴美子を認めて驚いたように眉をつりあげた。タバコを捨てて大またに近づく。貴美子は視線をそらして冷たい横顔を見せた。
邦彦はその横の止り木に腰を|滑《すべ》らせた。
「会社ではどうも……」
「この前の人ね。伊達さん、って言ったかしら?」
貴美子は値ぶみでもするように、おとなしそうな微笑を浮べた邦彦を見つめた。
「覚えていただいて光栄です」
「そうでもないんでしょ」
貴美子の冷たい顔はすこしゆるんだ。この新米社員は一寸いける顔をしているわ。特に憂いをおびたような目は、知性と子供っぽさがまじりあって仲々イカすわ。あちらの大学院に行ったことがあるらしいから、一応エチケットも心得ている。害にはならないようだし、今夜のアクセサリーにうってつけかも知れない……それに、今夜の貴美子は退屈していた。
「とんでもない。ふらっとここに入って来てあなたにお会い出来るなんて夢のようです」
「生意気ね。しょっぱなから口説かれてるみたい……。バーテンさん、ちょっと、こっちきて。……あなたは何を召しあがる?」
「バランタインが好きです。ダブルのオン・ザ・ロックにして……」
そこで一時間ほど飲んだ。それから二軒はしごしてナイト・クラブ「黒い|蘭《らん》」に乗りこんだときには、貴美子は大分酔っていた。邦彦はよほど飲まないと酔わないたちだが、いかにもアルコールが廻ってきたふりをしていた。言葉つきも適度に甘ったれて、優しく貴美子の母性本能をくすぐった。身のこなしの一つ一つにも繊細な感受性があふれていた。
クラブのテーブルにつくと、貴美子は飲み物のこない間に、もう踊りにさそった。バンドは一流だった。曲はスローテンポのブルースだった。
二人は自然にチークの形をとった。邦彦の巧みなリードに身をまかせた貴美子は、官能と酔いの快感の中に目を閉じていた。その耳たぶに深い柔らかなハミングと熱い息を伝えながらも、邦彦の瞳は冷たく|冴《さ》えていた。
今夜はこの女を物にしないとならない。どの会社でも、叩けば|塵《ちり》も|埃《ほこり》も出るはずだ。社長秘書でおまけに情婦の貴美子なら、新東商事が表に出したくない事柄を知っていることだろう。まだ知ってないのなら、探り出さすのだ。
タクシーは四谷の高級アパートの前にとまった。先に車から降りた邦彦は、貴美子に手をさしだして降りるのを手伝った。
アメリカ式のアパートだった。地下は共同ガレージになっている。邦彦はふらふらする貴美子の|肘《ひじ》をささえて表玄関に近づいた。
貴美子がハンドバッグから|鍵《かぎ》|束《たば》をだした。邦彦はドアを開いて、無人のホールに足を踏みこんだ。目の前の自動式エレベーターの出入口が見えた。
「もういいわ。お帰りになって」
貴美子は急にしゃんとなった。もとのようによそよそしい顔付きが|甦《よみがえ》って来た。
「お部屋の前までお送りします」
「前までならいいわ。五Bよ」
貴美子の声までが命令調になった。酔いが吹きとんだのか、|生《うぶ》|毛《げ》が白々しくささくれだっている。
邦彦は無言でエレベーターのボタンを押した。降りて来たエレベーターに二人は乗りこんだ。邦彦は5のボタンを押した。五階で降りるとすぐ右側の部屋のドアに鍵をさしこんで廻した。
「帰って。そして今夜の事はみんな忘れてちょうだい」
貴美子は鍵をぬいて、ドアを背にした。
「…………」
邦彦はうなだれた。
「お休みなさい。これからは、もう二度と今夜のように二人っきりでは会わないようにするのね。お別れのしるしに、握手させてあげる」
貴美子は右手を差し出した。
邦彦は腰をかがめてその手を握った。その途端、物凄い力が貴美子を宙にうかせていた。邦彦が左腕で抱きあげたのだ。
邦彦は貴美子が|呆《ぼう》|然《ぜん》としている間に、右手でドアをひいた。貴美子を抱えたまま部屋の中に入り、素早く後ろ手でドアをしめる。貴美子から腕を外し、壁のスイッチをひねる。
「出、出ていって!」
貴美子は唇をわななかせた。
邦彦は物悲しげな顔付きを変えず、貴美子の頬を平手打ちした。
鋭い音をたてて頬がはじけた。貴美子はソファーに叩きつけられた。スカートがまくれ上がった。
邦彦はその髪をつかんでひきずり起し、もう一度正確に狙い定めて左の頬をひっぱたいた。貴美子はカーペットの上を|転《ころ》がった。頬に手形が赤く浮び、背を|痙攣《けいれん》が走った。
「立て」
邦彦の全身から、弱々しげな仮面が消えていった。声はふてぶてしく|喉《のど》の奥から響き、凄みを帯びて|蒼白《そうはく》にひきしまった額に、不敵な瞳が輝いた。
貴美子は長い間泣いていた。邦彦は転がったハンドバッグから鍵をだしてドアにかけた。タバコに火をつけ、部屋を見廻す。この居間の調度品は仲々金目がかかっていた。壁にかかったブラマンクの絵も本物だ。寝室のドアをあけると、まだかすかにボンド・ストリートのパイプタバコの香りが残っていた。邦彦は唇を|歪《ゆが》めてハンドバッグをダブル・ベッドに投げつけた。
「立てよ」
邦彦は貴美子のそばに立った。のろのろと立ち上がった貴美子の両頬に青いあざがついていた。もう、どこにも、|驕慢《きょうまん》な女の面影はなかった。急に背が小さく見えるのも、ハイヒールがとんだせいだけでない。
「バスを使って酔いをさませ。それから体を清めてな……ここで脱ぐんだ。裸では外に|跳《と》び出せまい」
邦彦は|乾《かわ》いた声で短く笑った。
貴美子は思いがけぬほど素直に命令にしたがった。タガが|外《はず》れてしまったようだ。貴美子の裸身は、乳房の谷やもものつけねが青黒い|翳《かげ》を帯びて妙に肉感的だった。邦彦は服をぬいでベッドにもぐりこみ、貴美子がバスを使っている間を待った。
バス・タオルをまとって寝室に現われた貴美子は、邦彦が毛布をずらすと、倒れるようにベッドに入ってきた。
「悪かったな。だけど、歯はすぐ直るよ。スープと卵でも食ってたらな」
邦彦は貴美子の両頬を軽く|撫《な》でた。
「参ったわ。もう怒る元気もない」
貴美子は目をとじた。
邦彦はスタンドの灯をつけたまま、時間をかけて貴美子を|愛《あい》|撫《ぶ》していった。しばらくするうちに貴美子は|嗚《お》|咽《えつ》に|堪《た》えきれずに邦彦の肩に|噛《か》みついてのたうち、夜が明けるまでに三回ほど失神した。
二人は日曜の一日中を部屋から出なかった。食料は冷蔵庫に十分につまっていた。貴美子は邦彦の強健な体力とテクニックに|溺《おぼ》れきった。
「ね、邦彦さん。会社なんかやめて、いつまでも貴美子と一緒にいて」
貴美子は汗ばんだ脚を邦彦にからませ、|隆《たか》い鼻すじに狂ったような|接《せっ》|吻《ぷん》の雨をあびせながら熱っぽく|囁《ささや》く。
「そうはいかないよ。俺はいつまでもこうしていたいけどな。……ところで、俺達の事はどんな事があっても人にしゃべるなよ。お前がちょっとでも口をすべらしたら、俺たちの関係はおしまいだぜ。……タバコをくれよ」
「約束するわ。ゲンマンして」
貴美子は小娘に戻ったようだ。火をつけたタバコを邦彦の唇に差してやりながら、
「だから、お願い。浮気しちゃいやよ」
「さあね。お前だって社長と遊んでるぜ」
「お金のためよ。そうでないと、あんなヒキ|蛙《がえる》なんか」
「ふだんは、週に何回ぐらいつきあってるんだ?」
「そんな……せいぜい二週間に一回だわ。あの人が来ないときは、いつでもここで泊って」
「俺はね、夜も働かないといけないんだ。ちょっとばかりデカい借金をこしらえてるんでな」
「お金なら貴美子のを使って。また、社長さんからもらうから」
「済まんな。だけどね、それぐらいでは追いつけないと思うな。まあ、その事は後まわしでいい。お前がいるだけで十分だよ」
邦彦は貴美子を強く抱きしめ、首筋から胸のあたりを唇で愛撫した。
「待って。いいものがあるわ。絶対に二人だけの秘密よ。うちの会社は去年だけでも三千万からの脱税があるの。会計監査官も税務署の人も買収してあるわ。
貴美子は会合のときも立会ったの。そのうちに社長が会合の場所や会談の様子や買収費をていねいにメモした手帳をここに忘れていったことがあったんだわ。貴美子はその手帳を一ページ、一ページ写真にとっておいたの。お金に困ったとき役にたつと思って……」
「証拠写真はどこにある?」
邦彦の瞳は|碧《あお》く輝いた。獲物はむこうから転がりこんできたのだ。
「銀行の貸し金庫にあずけてあるわ。それを使って社長をおどかしたら、社なんかやめたって二人で遊んで暮せるぐらいのお金にならないかしら」
貴美子は|呟《つぶや》いた。邦彦は貴美子の顔に手をかけ、じっとその瞳を|覗《のぞ》きこんだ。
とむらいうた
四谷に事務所を持つ弁護士の水野は、|麹町《こうじまち》六丁目の高級アパートに新しく囲った三谷重子に別れをつげた。自動式のエレベーターを使ってホールに降りてくる。午前零時をすぎている。霜降りの頭髪をチックで整えた|瀟洒《しょうしゃ》な男だ。イギリス製の背広に|痩《そう》|身《しん》をゆるやかに包んでいる。精力的な唇に軽く左手をあてて、ほのかにただよう重子の移り香を楽しんだ。
水野は気どった足どりでロビーを横ぎった。今日はすべてがうまくいった。部下を原告側につかせ、自分はトンネル会社側を弁護して|馴《な》れあいで争っていた民事は示談になって、ざっと百万がとこ転がりこんできた。
新橋のキャバレーから引き抜いて何人目かの|妾《めかけ》にした重子は、ういういしい体に似合わず意外なほどのテクニシャンだった。水野は久しぶりに快い疲れをおぼえた。重子の事はまだ誰も知ってないらしい。用心して、いつも連れ歩く護衛の山下も今日は早く帰らせてある。
それに――、あと十日もすれば、アジア電気の株主総会がある。水野はその会社でも顧問弁護士をしながら、経理の乱脈ぶりを示す証拠を集めてきた。知りあいの総会屋に証拠書類を売りつけ、自分は会社側の揉み消し役にまわったら二重|儲《もう》けが出来る。地検の検事正なぞやめてかえってよかった。やめる前には現職の大臣が名を連ねた帝電大疑獄の摘発に手ごころを加えてやって、政界とも密接なつながりが出来たし……。
水野は三階の窓から顔を出して手をふる重子に投げキッスをあたえ、口笛を吹きながらアパートの角をまがった。近くの空地に|自家用車《くるま》を|停《と》めてあるのだ。
その空地は無料駐車場の観があった。夜の間は十台近くの自家用車やオート三輪が置きっぱなしになっている。
水野のキャデイラックの左側に、菓子屋のステーション・ワゴンが並んでいた。ダットサンだ。二台とも車首を表通りにむけている。
ダットサンの陰に、邦彦の黒い影がひっそりと立っていた。黒ずくめだ。ソフトを|目《ま》|深《ぶか》にかむり、|暗《くら》|闇《やみ》に鋭い瞳の輝きだけが見える。足もとには踏みにじったタバコの吸い殻がちらばっている。
裏通りから空地の方に、軽快な足音が踏みこんできた。こおろぎがちょっと鳴りを静め、再びすだきはじめた。
邦彦はダットサンに身をへばりつけて足音の方向を|覗《のぞ》きみた。裏通りの街灯をかすかに背にうけて近づくのは水野だ。
邦彦はダットサンの陰に|蹲《うずくま》った。ジャンパーの裏の|腋《わき》の下に|吊《つ》ったホルスターに手をやり、|銃把《じゅうは》の冷たい感触を味わっている。
水野はダットサンの右側を通り、キャデイラックの左のドアにかがみこんだ。|鍵《かぎ》|束《たば》をとりだしてドアを開こうとする。
邦彦は素早く行動を起した。ラバー・ソールの靴はほとんど音をたてない。ダットサンのトランク側を廻って、水野の斜め後ろに立つ。
水野は気配を感じてふりむこうとした。
「動くな、水野!」
邦彦の声は、|圧《お》し殺したようにしゃがれていた。有無を言わさぬ冷酷なひびきがあった。
水野はビクッと肩を動かしたが、かろうじて振りかえるのを思いとどまった。口から心臓がとびだしそうになった。
邦彦はゆっくり拳銃を抜いた。九連発〇・三八口径のコルト・スーパー38、安全止めはかけたままだ。その|自動拳銃《オートマチック》の銃口を水野の背にくいこます。
水野は弓なりに|反《そ》った。|喉《のど》の奥から細い悲鳴を漏らしている。
「殺しはしない。ただし、こっちの言うことを聞いたらな」
邦彦は低く冷たい声で言った。水野は|痙《けい》|攣《れん》するようにうなずいた。
邦彦は息をとめた。左のポケットから金属のケースを出した。クロロホルムをひたしたガーゼをつめてある。ボタンを押してパチンと|蓋《ふた》を開き、ガーゼをひっぱりだして水野の鼻におしつける。
水野は|射《う》たれるよりも、クロロホルムを|嗅《か》いで気絶する方を|択《えら》んだ。
邦彦は拳銃とクロロホルムをしまった。|昏《こん》|倒《とう》した水野の両眼を黒い眼帯でおおう。目隠しだ。
鍵束は車のドアにささったままになっていた。邦彦は手に薄い手袋をつけ、キャデイのドアをあけた。
水野の体を軽々と|抱《かか》えてハンドルの右側の座席に放りこむ。水野はぐったりとしたまま動かない。
ガソリンは十分にあった。邦彦は慣れた手つきでキャデイラックを発車させた。唇には無邪気なほど明るい微笑が浮んでいる。表通りに出ると、行き先への道順を覚えられぬ用心に、しばらくのあいだ麹町|界隈《かいわい》をぐるぐる廻った。
水野は|呻《うめ》いた。下落合の邦彦の家のガレージの中だ。
水野の|脚《あし》と腹は固い椅子にくくりつけられている。眼帯は|外《はず》されていた。
「やっとお目覚めのようだな。先ほどはどうも失礼」
邦彦の声が背後から悪夢のように聞えてきた。
水野は意識をはっきりさせようと、ぐらぐらする頭を振った。瞳の焦点が定まってくると、目の前は一面の白壁だった。それに強烈なライトが反射して瞳を刺す。
「目を閉じるんじゃない」
邦彦は静かに言った。
水野はギラギラする壁を見つめているうちに、さきほどからの頭の痛みが耐えきれぬほど増してきた。
「ここは完全な防音装置になっている。銃声がしても外には漏れない」
邦彦は水野の後頭部に銃口をつきつけた。水野は身をちぢめ、必死に首をつきだして銃口からのがれようとした。歯がカタカタと鳴り、ズボンの前が湯気をたてはじめた。
「早まるな。射つとは言ってない――」
邦彦は|乾《かわ》いた声で短く笑い、拳銃を|革ケース《ホルスター》におさめた。
「商売の話だ」
と、穏やかに言う。
「あ、あんたは、だ、だれです!」
水野の口からやっと|潰《つぶ》れた声が出た。
「日本橋の新東商事を知ってるか?」
「は、はい……」
「俺の名前は言えない。ただ、新東商事の商売|敵《がたき》の会社に雇われている者と覚えておいていただきたい」
「こ、殺し屋!」
水野はもがいた。
「なるほど。あんたなら、殺し屋に|狙《ねら》われても文句のない事ばかりやってきている。法を悪用して|稼《かせ》ぎまくる悪徳弁護士だからな」
「それは……」
「俺は何もあんたが悪いとはいってない。大いに稼いでくれ。どうせ、法律なんか強者のためにあるのだ。俺は、あんたの|辣《らつ》|腕《わん》を見こんだ。一つおたがいの|儲《もう》けになる相談があるんだが……」
「そういった話なら、何もこんなやり方でやらなくとも……」
「俺は顔を見られたくない。俺の顔を見た時には、残念ながら死んでもらう」
「わ、わかりました」
「これが欲しくないか? 成功したら、その四、五倍の金があんたの|懐《ふとこ》ろに転がりこむ。いや、成功したらでなくて、必ず成功する」
邦彦は一枚の約束手形を水野の背後から放りつけた。それは水野の前の粗末な卓子の上に落ちた。額面二百万の手形だった。支払い人は佐々木二郎、伊達邦彦のふざけた偽名だった。実業家もよくこういった変名の小切手帳を持っている。
新東商事の社長黒松が北海道に出張している間、会社の重要な印鑑は専務取締役の多田にあずけられた。社長秘書の貴美子は、社長の留守のあいだ、多田のもとで働いた。
貴美子はすでに、邦彦の言うがままになっていた。多田の鼻の下をくすぐり、会社名義の手形を切って切って切りまくった。ばれる頃には邦彦と高飛びしている算段だった。貴美子はそう信じていた。
貴美子が切ったのは全部で千五百万、すべて百万以下の単位の六十日手形だった。千五百万以上切ると、早目に不渡りになる危険性があった。
邦彦はそれぞれの手形の受取人の架空名をゴム印で押しまくり、次の土曜の午後、市中の景気のよさそうな金融業者の間を一巡した。眼鏡で顔を変えておいた。急に金が入用になって、月曜に銀行が開くまで待てないと言った。
新東商事の手形なら信用がある。彼等は手数料を含めた日歩二十銭で喜んで割引いた。邦彦の手もとには一千万を軽く越す現金が入った。期日が来て手形が交換所に廻るころには、新東商事はどうなっているか分らない――。
「これは?」
水野は急にしゃんとなった。ただの|鼠《ねずみ》ではなかった。
「心配ない。不渡りなんか出すものか。心配なら、あとで銀行に問いあわせてみろ」
「で、相談とは?」
「これだ。新東商事の三千万に及ぶ脱税の証拠物件となるメモを複写してある」
邦彦は、貴美子がフィルムにとった社長の秘密メモを現像した束を、手形の上に投げた。
水野はそれを手にとり、一枚一枚熱心に調べていった。もう震えは消えている。
「どうだ? |恐喝《きょうかつ》はあんたのお手のものだろう? うまくいけば三千万、|下手《へ た》をしても一千万はくだらないぜ。金は山分けだ」
邦彦は言った。
「惜しい」水野は大きな吐息をついた。
「惜しい?」
「相手が悪い。新東商事には京急の息がかかっている。政治問題になったら、もとも子もないからな」
「今になって手を引こうと言うのかい? それでは、ちょっとばかり虫がよすぎやしませんかね。ここで文句なしに射ち殺されるのと、生きて帰って、ちょっとした|大《おお》|博奕《ば く ち》をうってみるのと、どっちの方を択びたい?」
邦彦は|嘲《あざ》|笑《わら》った。そっけない笑いかただった。水野は体を硬直させた。
「わかった。もう言ってくれるな。まだ死にたくはないし、金儲けはしたい」
「それでこそ俺が見込んだだけのことはある。手形と写真は持っていってくれ。社長に見せるときは、あそこの顧問弁護士の古沢から手に入れたと言うんだ」
邦彦はニヤリと笑った。
「連絡方法は?」
水野は積極的になった。
「用があるときは、こっちから電話する。どんな事があっても、佐々木だといえばあんたの居所がわかるようにしておいてくれ。そのための秘書を一人やとって、眠っている時間でないかぎり、一時間おきにあんたの居所を知らせればいい」
「分った」
「決して俺が誰かを知ろうとするな。山分けが終ったら赤の他人だ。それから、その手形だが、期日前に銀行で割ったり、金融業者に廻して金に変えたりして、肝心の新東との仕事の方を逃げだしたりしたら、即座に鉛の弾をブチこんで進ぜる。いくらあんたの用心棒の山下がボクサーのチャンピオン|崩《くず》れだといっても遠慮はしない。それに、新東から|恐《かつ》|喝《あげ》しそこなったとしたら、その手形は|不渡《と ば》すからな」
「承知した。私も裏通りの仁義は心得ている」
「じゃあ、話はきまった。済まないが、又ちょっとの間、おねんねしてもらうぜ」
邦彦は言った。
「こういう方が御面会なさりたいそうよ」
貴美子は受付から廻ってきた水野の名刺を社長に手渡した。唇がかすかにひきしまっている。
「うん? どれどれ」
新東商事社長の黒松は、気どった手つきで金縁の眼鏡をかけた。あるかなしかの|顎《あご》をひいて名刺に見入り、
「君、これは大変な|方《かた》だ。すぐ丁重にお通しするように。それから、食堂に連絡して大至急ウイスキー・コークを運ばせてね」
と、語尾を甘ったれる。
「私が行って持ってきますわ」
貴美子の胸は早鐘をうっていた。仕切りのむこうにさがって、受付に電話をかけ、吐き気がするほどの興奮をおさえながらエレベーターに入った。エレベーターの箱がさがっていくと、くらくらっと|眩暈《めまい》がした。膝から全身の力が脱けていくようだった。
地下でエレベーターから出た。食堂に入る前に、トイレの鏡に自分の顔を写してみた。ふだんから|蒼《あお》|白《じろ》い|化粧《メーキャップ》をしているから、そう目だたないものの、まるで死人の肌だった。
協明ビルの各社共同の食堂は、時間外ですいていた。貴美子は|隅《すみ》のスナック・バーで三杯のウイスキー・コークを注文した。一杯はダブルにしてもらった。
下手なバーテンがコカコーラのセンを開けているまに、貴美子はカウンターの端の受話器をとって、渉外部の邦彦のデスクへ直通電話をかけた。二人の関係は誰も知らない。
「来たわ」
貴美子の声はかすかに震えていた。
「はい、どうも。では……」
邦彦は平静な声で合図に応じた。
貴美子はゆっくり受話器をおいた。バーテンのさしだすチェックにサインし、ダブルのウイスキー・コークを一息に飲み干す。アルコールが急速に体中を駆けめぐり、だいぶ気分がよくなった。
二杯の飲み物を盆に乗せて出ていく。扁平な顔のバーテンは貴美子の腰の動きを熱っぽい目で見送っていた。
貴美子は社長室に戻った。ステッキの銀細工の握りの上で|洒《しゃ》|落《れ》た恰好に手を組んだ水野が、いんぎん無礼に一礼した。社長の顔は紫色にひきつっていた。飲み物をテーブルの上においた貴美子に、座を外すように目で合図する。その目は追いつめられた蛙のあがきを思わせた。
貴美子は仕切りのむこうのデスクに|崩《くず》れるように坐った。
「……と、まあ、そういったわけですよ。私が目にかけてやった顧問弁護士があなたの会社にも一人いましてね。いや、その人の名前は言えません。
いえ、馬鹿な奴ですよ。この写真をおたくのライバルのある会社に売りこもうとしてましてね。私はその事を耳にはさんだので、さっそく取り上げたわけです。こんなものが発表されたら政治問題になるかも知れませんからね。伏せておくのが社会のため、日本のためです。私は純粋の好意から、こう申しあげているんですよ。どうです、黒松さん?……」
|滑《なめ》らかな水野の弁舌が流れてきた。
…………
広間を閉めきって緊急重役会議が開かれている――という|噂《うわさ》が、風になびく枯草のように社員のあいだに伝わっていった。
邦彦は退社時間のくるのを、じりじりしながら待っていた。
午後四時、部長の宇野が額の汗をぬぐいながら部屋に戻り、デスクを手早く片付けて次長の宮本に耳うちし、再び足早に出ていった。社員たちは声を潜めて臆測を|交《か》わした。
五時――定刻に終業のベルが鳴った。邦彦は吐き出される人波に揉まれて階段を降りた。用事があると言って同僚と離れ、タクシーを拾って下落合の自宅に駆けつける。
寝室で手早くコートと背広をぬいだ。ワイシャツも黒いスポーツ・シャツと変えた。ズボンも|黒褐色《こっかっしょく》のをつける。
ベッドのそばの壁の羽目板をずらして、コルト・スーパー38のオートマチックをおさめたホルスターを取り出し、左肩から腋の下に吊り、ホックでとめた。自動拳銃の弾倉から|挿弾子《クリップ》を引きぬいて、横腹に二列にあいた小穴から弾薬が八発、鈍い肌を|覗《のぞ》かせているのを確かめる。
クリップを|銃把《じゅうは》の弾倉にカチンと戻し、拳銃をホルスターにつっこむ。黒革のジャンパーを着ると、拳銃のふくらみは全然目だたない。
|卓子《テーブル》の引出しから、薄いスエードの手袋、サングラスのケース、万年筆型の懐中電灯、鍵束などを出して、ポケットに移した。
電話が鳴った。邦彦はとびついた。
「俺だ……貴美子か……九時にか?……九時に奴等は渋谷円山町の料亭で会うんだな……“喜楽”といったな……オーケイ、貴美子は?……アパートに帰っているのか。部屋からかけてはまずい……よし、近くの公衆電話からだな。すぐに|支《し》|度《たく》しろ。証拠になるようなものは何でも焼きすてるんだ……俺がさわったコップもよく洗っておくんだ……うん、うちあわせしていた|根《ね》|府《ぶ》|川《がわ》の旅館に一足先にいって待っていろ。佐田という名前でな……俺は仕事をすませたら飛んでいく……元気を出せよ。これからは二人だけの生活が楽しめるんだ……バイ」
邦彦は受話器に音高く|接《せっ》|吻《ぷん》した。ガレージに入り、プリンスを夕闇の街に乗り出す。
公衆電話のボックスで、水野の秘書に電話した。すぐに水野につながった。水野は|上機嫌《じょうきげん》だった。金額は二千万、いまごろ新東の奴等は金策にかけずりまわっているだろう、と笑った。
邦彦は水野と落ちあって、金を山分けする場所を東海道線早川の近くと指定した。
「どうして、またそんな所で?」
水野はいぶかった。
「高飛びするんだ」
邦彦は不愛想に言った。唇の端は軽くつりあがり、瞳は暗く輝いている。
渋谷円山町の料亭“喜楽”。
奥まった座敷の床の間を背に、水野は長い脚をくんでいた。つやつやした顔色だ。
小料理の皿や|銚子《ちょうし》の乱立したテーブルをはさんで、新東商事の黒松社長がきちんと正座し、芸者のつぐ酒をぐいぐい|呷《あお》っていた。顔は黄色っぽく|蒼《あお》ざめ、赤い目が重く据わっている。膝の上にはふくれ上がったバッグがおいてあった。
水野は|女将《おかみ》に目くばせした。芸者たちは、ごく自然に一人一人と去っていった。|襖《ふすま》をしめた隣室では用心棒の山下が息をころしていた。
「用意してきてくれたそうだね」
水野は口火をきった。
「二千万、おっしゃられた通り、現金で……お調べになりますか?」
黒松はバッグを差しだした。水野は証拠写真の束をくるんだ包みを黒松の方に|滑《すべ》らせた。
「その必要はないでしょう。でも、よかったですな。お宅の会社もこれで御安泰。さあ、これをお返ししますよ」
「先生、お願いです。私を裏切った三百代言の名前を教えてください」黒松は頭をさげた。
「古沢君だよ」水野は邦彦の指示にしたがってあっさり言った。
「…………」
黒松の顔は怒りにどす黒くなった。
「さあ、黒松君、用件はこれぐらいにして愉快に飲み直しといこう」
「フ、フィルムはお返しして頂けないんですか?」黒松はつめよった。
「フィルム? そんなものは持っていませんね」
水野はニッコリ笑った。
社長は狂気の者の様な目で水野を|睨《にら》みつけていたが、「失礼」と|叩《たた》きつけるように言って席をたった。
廊下では、専務取締役の多田が待ちくたびれていた。黒松の耳にささやく。黒松は走るようにしてロビーの電話にとびついた。多田もそれに耳をつけた。
電話の向うの声は邦彦だった。ハンカチを受話器にかぶせて声を変えている。
「どうして水野がフィルムを渡さないか教えてやろうか? 水野はこれからも、あんたの骨の髄までしゃぶる気だ。倒産した大和工業の二の舞いになりますよ。私? 私は京急のオヤジさんに恩を受けたことのある第三者。一つ面白いことを教えてあげよう。水野はこれから、小田原の先の早川の|山《やま》|裾《すそ》だ――」邦彦は目じるしの巨岩のくわしい場所を言った。
「だまされたと思って行ってごらんなさい。何をしてもあまり人に知られない所だ。オヤジさんの耳に入らないうちに、この事件を片付けないと大変な事になりますよ」
電話は切れた。黒松と多田はたがいの目を見つめた。
「やってみよう。一かバチかだ。ほかに手はない。君の所で飼っている命知らずの若いのを至急呼びよせてくれ」
黒松は多田の耳もとで|囁《ささや》いた……。
邦彦は“喜楽”の裏手にある公衆電話ボックスから出た。むこうにブルーとグレーのツートーンのヒルマン・ミンクスが置きっぱなしになっていた。
邦彦は車の三角窓を叩き割って内側からドアを開いた。ボンネットのボタンを引き、フードをあけた。エンジン部分の右側の奥に、ガラス・チューブに入った、イグニッションのヒューズが二つ並んでいた。その左側のヒューズを真ん中の隙間にはめこみ、右側のヒューズとくっつけてエンジンを直結した。
スターターが|吠《ほ》えだした。フードをしめた邦彦は運転台にとびのり、盗んだ車を発車させた。
邦彦の運転するヒルマンは、闇をヘッド・ライトで貫いて深夜の東海道を|驀《ばく》|進《しん》した。
三時間後――早川の町はずれで車を捨てた邦彦は、水野と落ち合う約束の場所にたどりついていた。
山裾がそのまま海に続く荒涼とした草原だ。|怒《ど》|濤《とう》のひびきが|腸《はらわた》にひびく。沖を通る船の灯火が、非現実的な光を帯びていた。
邦彦は山裾の大きな岩陰にうずくまって待った。
タバコに火をつけ、掌でおおって吸っていた。強く吸いこむたびに、|掌《てのひら》や唇のあたりがぼうっと赤く輝く。
午前一時半ごろ――左側からヘッド・ライトの|光《こう》|芒《ぼう》が見る見る大きく広がってきた。車は水野のキャデイラックだ。ボクサー崩れの山下が運転している。
キャデイラックは邦彦が隠れている岩の三十メートルほど前に停った。車輪の下方は枯草にうまっている。
「おそいな。先に来ているはずだが」
バッグを抱えた水野が呟いた。
「奴がおかしな|真《ま》|似《ね》をしやがったら、これで一発でさあ」
山下はズボンのベルトに差した特大サイズの自動拳銃を|愛《あい》|撫《ぶ》した。ベルギー製ブローニング、口径九ミリの十四連発ハイ・パワーだ。
「奴は腕がたちそうだ。よくよくの事がないかぎり手荒な真似はするな」
水野はたしなめた。山下は鼻を鳴らせた。
海猫の鳴き声に似た汽笛が数度|遠《とお》|吠《ぼ》えした。
その時――、キャデイラックが来たのと同じコースをたどって自動車のヘッド・ライトが近づいてきた。
「やっとやって来た。ライトを点滅させて合図しろ」
水野は山下に命じて車から降りた。大声で叫びながら手を振った。
急スピードで近よった車は、新東側の暴力団を乗せたクライスラーだった。キャデイラックの後ろ二十メートルのあたりに急停車すると、両側のドアが開けはなたれて、四人の男が転がり出た。
一斉射撃の|轟《ごう》|音《おん》に山は震えた。水野は巨大なハンマーで|殴《なぐ》られたように、後ろにふっとんだ。胸に四発の弾を|喰《くら》って即死だ。
|罵《ば》|声《せい》を発した山下が車から跳びだした。喚声をあげ、拳銃を乱射しながら走り寄る男達にむかって、山下のブローニングが、間断なく毒々しい青紫の炎を舌なめずりした。遊底からはじきとばされた黄色い|空薬莢《からやっきょう》が雨の様に流れた。
男達は絶叫をあげて次々に倒れていった。しかし、最後の一人が心臓を射ちぬかれながら放った一弾が、山下の額から入り、上につきあがって|頭《ず》|蓋《がい》|骨《こつ》を吹っとばした。
邦彦は銃把に手をかけて、穴だらけのキャデイラックに近づいた。水野の財布から、自分の振りだした手形を奪った。手袋をつけている。車の中から二千万の現金のつまったバッグを持ちあげて|踵《きびす》をかえす。
…………
「ね、どこに行くの?」
旅館から呼び出され、邦彦の車に乗せられた貴美子は不安気に言った。
邦彦は無言でハンドルを握っていた。ヘッド・ライトの先で、無人のハイウエーが果てしなく続いていた。
邦彦はブレーキをかけた。道路の右側にのびたコンクリートの|柵《さく》の下は、ゆるい|勾《こう》|配《ばい》の土手になっていた。その下を線路が走り、トンネルが真ッ黒な口をあけていた。
「降りよう。話がある」
邦彦は優しく囁いた。貴美子はうなずいた。邦彦はコンクリートの柵をまたぎこした。貴美子はためらった。邦彦はその体を軽々と抱きあげて柵を越えさした。自分から先にたって勾配を降りていく。
トンネルの入り口の方に近づく。途中で貴美子を迎え、強く抱きしめて、長い熱い|接《せっ》|吻《ぷん》をあたえる。
「やっと、二人きりになれたのね。二人っきり……」
貴美子は|喘《あえ》いだ。邦彦はその体を離した。
「そう。そして君に今から死んでもらう」
深い悲しげな声だった。|瞳《ひとみ》を沈痛な|翳《かげ》がおおっていた。
「馬鹿ね。邦彦さん。冗談ばかり……やっとこれから二人だけの世界がひらけてくるっていうのに」
貴美子はほほえんだ。
「あと二分で永遠のお別れだ。貨車の汽笛が聞えてくる」邦彦は腕時計を|覗《のぞ》いた。声に物悲しげな趣が濃くなった。ホルスターから拳銃を抜いて遊底をひく。
「やめて! 気でも違ったの! 私はあなたを愛しているのよ!」
貴美子の顔色は変った。
「俺も君が好きだ。だが、もうどうにもならない。殺したくはない。だが、君が生きていたら、俺は必ずつかまる」
邦彦は物憂げに言った。その瞳に冷たい殺気がゆらめいた。トンネルに入った汽車の轟音が近づいてきた。
邦彦は射った。鋭い銃声と|閃《せん》|光《こう》が夜気を切りきざんだ。貴美子の足もとに土煙があがった。貴美子は悲鳴をあげて駆けおりた。その足もとすれすれをパパパッと土煙が舞う。貴美子は絶叫を残して頭から線路に墜落した。警笛がけたたましく鳴った。
邦彦は車に駆けもどった。スタートさせた。ヘッド・ライトの光芒の先を見つめる瞳から殺気が消え、|妖《あや》しいまでに無表情になっていた。唇からは沈痛なジョニーのマーチが口笛にのって流れ出た。
伏  兵
高名な弁護士水野と用心棒がヤクザと射ちあって即死していた事件は、マスコミによって大きく伝えられた。大きく伝えられたとはいえ、その真相は明らかにされなかった。
貴美子の|轢《れき》|死《し》は、その陰にかくれてか、ほんのおざなりにしか報道されなかった。水野の死と貴美子の死をむすびつける記事は一行も現われなかった。
理由は簡単だ。億を越す矢島の金がばらまかれたからだ。
事件があってから二時間後、水野を殺して、|喝《かっ》|取《しゅ》された金とフィルムを奪い返しにさしむけた飼い殺しの暴力団の帰りがおそいのに|業《ごう》を煮やした新東商事社長黒松は、残りの子分に様子を探りにやらせて惨劇を知った。
|躊躇《ちゅうちょ》している場合でなかった。矢島に隠しとおせるものでもない。黒松は矢島にすべてをうちあけ、|叱《しっ》|咤《た》と対策の指示を仰ぎに車を飛ばさせた。
京急コンツェルンの御大、矢島裕介は新宿に起点をおく京急線北沢近くに十万坪近くの居をかまえていた。
黒松の乗ったダッジは、雑木林を貫く長い専用道路を通り、矢島の住む本館に近づいていった。その間にも、何回か私設警備員に停車を命じられた。
最後の関門で車から降ろされた黒松の前に、大理石三階建ての|瀟洒《しょうしゃ》な本館が浮んでいた。黒松の体は|脂汗《あぶらあせ》でねとねとし、脚は高熱にうかされたように力が入らなかった。
矢島裕介は、ゆったりしたガウンをまとって、貴族のサロンのような応接間で待っていた。銀髪がふさふさとした桜色の|頬《ほお》の太った男だ。室内でも|燻《いぶ》し銀に素晴しい|猫《ねこ》|目《め》|石《いし》をうめこんだ握りのステッキを手放さない。
「会長、申しわけありません!」
黒松は、悲痛な声をふりしぼると共に、ペルシャ|絨毯《じゅうたん》の床に土下座して、土気色の額をこすりつけた。
「馬鹿もん! この夜中に一体、何事だ!」
矢島はゆっくり立ち上がって、ステッキをつきつけた。
「はっ、はいっ!」
黒松は頭をカーペットにこすりつけたまま、水野が新東商事の脱税をネタにゆすりに来た事からのことをしゃべった。
矢島はステッキを振り廻しながら、ぐるぐる応接間を歩きまわった。桜色の顔を紫色に染めて激怒した。だが打つべき手を素早く計算していた。
新東商事がカモにされた事が公表されたら、京急の信用にまで響いてくる。まして脱税だ。おまけに、新東のお抱えの暴力団の事も、あかるみに出たらまずい。大いにまずい。
矢島は、震えて涙をこぼしながら土下座を続ける黒松を|睨《にら》みすえておき、ただちに京急の最高|首脳部《ブレイン》を招集した。
かつて矢島が新満で伊達邦彦の父の経営する精油会社を乗っとるのに手を貸した横田や木村や小川は、ブレインの中心人物としてまっさきに駆けつけた。
矢島の命令は簡潔だった。現ナマをかかえた首脳部の者は、政府の主要大臣や法務省にとんだ。
結果は上乗だった。かつて水野が地検の検事正を務めたとき、帝電大疑獄の摘発に手心を加えてもらった彼等も、水野のやり方は仁義にはずれると見た。指揮権までは発動されなかったが、ジャーナリズムの|臆《おく》|測《そく》をよそに、事件は揉み消され、握りつぶされた。水野は暗黒街の争いに|捲《ま》きこまれたもの、と警視庁は発表した。水野の法律事務所にも口どめの金と圧力がかけられたのは|勿《もち》|論《ろん》である。発表はされなかったが、――黒松の専用秘書であり愛人である貴美子は、水野と通じ会社のボロをさぐって水野に売っていた。そして水野と落ちあうために|湘南《しょうなん》の海岸に出たのだ――と、当局は見ていた。
そこで、何かの邪魔が入ったのだ。水野が殺されるのを目撃して自殺する気になったのか? あるいは誰かの手によって殺され、偽装自殺に見せかけられたのか?
確かにその「誰か」はいたはずだ。水野のまきあげた金が消えているところをみれば。だがその「誰か」を見つけることは、事件の真相を公にすることになる。捜査はこれ以上深入りしないように命令をうけている。貴美子の死は、自殺とするのが一番あたりさわりがない。
したがって、貴美子は単に神経衰弱が|昂《こう》じて自殺したものと発表された。水野の死と、貴美子の死を結びつければ、京急コンツェルンの弱みをさらす事になる。
計算してあった通り、邦彦はまったく捜査圏外にあった。貴美子の足もとすれすれに射ちこんだ数発のハイ・スピード弾は、堤の地下深くくいこみ、地表には|痕《こん》|跡《せき》を残してない。
至近距離において厚さ一尺五寸以上の松材を貫通する高性能弾は、|凄《すさ》まじい速力と圧力のため、地表の射入口は虫めがねででもないと探せない。それに、貴美子と邦彦の関係は誰にも知られてない。そのために、用心に用心を重ねたのだ。
当局は、水野の上前をはね、貴美子を死に追いやったのは、新東商事の顧問弁護士の一人、古沢だと睨んでいた。黒松たちもそう思っていた。古沢は事件があってから|失《しっ》|踪《そう》したままだ。「誰か」は、古沢に違いない……。
その古沢は邦彦におびき出され、体中グシャグシャになるほど|拳銃弾《けんじゅうだん》を叩きこまれて、魚につつかれながら、太平洋の底のコンブの林の間をゆっくりと漂っていた。
そして――邦彦は、素知らぬ顔で新東商事に出勤を続けながら、偽造手形でパクった一千万と、水野の死体から奪った二千万の札束を抱えて、次の|復讐《ふくしゅう》の手段を考えめぐらしていた。
ペーブメントを|薙《な》いだヘッド・ライトの照り返しが、高級アパートの暗い天井に窓の影を投げて消えさった。
クッションのきいたベッドには、一組の男女が横たわっていた。|卓子《テーブル》の水さしの中味は、あらかたからっぽになっていた。
女は邦彦の妹の晶子だった。薄暗い部屋に大きな|瞳《ひとみ》がリンのように光っている。
「このごろ冷たいのね」
晶子は|溜《ため》|息《いき》をもらして、男の顔を自分のほうにむけた。男は、よく整ってはいたが、どこか生気のぬけた役者じみた顔をしていた。腕や胸の筋肉も割に貧弱なほうだった。ただ太い|眉《まゆ》とまっすぐな鼻が血統のよさを示していた。矢島裕介の|御《おん》|曹《ぞう》|司《し》雅之だ。
「まさか……気のせいだよ」
雅之は笑った。
「気のせい? じゃあ、わたしに気にかかることがあるっておっしゃるのね」
晶子の顔色は|蒼《あお》ざめ、息をつめるほど美しい。
「何だっていうんだね?」
雅之は|慌《あわ》てて視線をそらせた。
「知ってますわ……|典《のり》|子《こ》さんの事」
「馬鹿な、僕は君だけに……」
「|九篠《くじょう》典子さん、とおっしゃるのね?」
「…………」
「黙ってるのね。やっぱり本当なのね?」
晶子の|唇《くちびる》にわななきが走り、見開いた瞳から涙がこぼれ落ちた。
「許してくれ、晶子……そうなんだ。親同士が勝手にきめた事だが……」
雅之は晶子の裸の腕を|撫《な》でた。
「|嫌《いや》です! そんなおっしゃり方は|卑怯《ひきょう》だわ」
「卑怯と言われてもいい。な、晶子、聞いてくれ……」
雅之は熱っぽい口調で説明しだした。
京急デパートと京急観光の社長を務める二十九歳の雅之には、九篠財閥の|愛娘《まなむすめ》典子との縁談が進んでいた。
典子の老父であり、九篠財閥の会長である五平は、上野から|台《たい》|東《とう》、荒川にかけての大地主であり、上野を中心とする都内外の交通網、デパート、興行界を一手におさめていた。
雅之が典子と結婚すれば、矢島家と九篠家は結ばれ、新宿に本拠をおく京急コンツェルンは、上野を|要《かなめ》とする九篠財閥を|傘《さん》|下《か》におさめる事が出来る。池袋の西上コンツェルンを|挟《はさ》みうちにする独占王国の足固めがととのうのだ……。
「嫌、嫌よ。そんなの……あなたはそれではロボットと同じじゃないの」
晶子は雅之をゆすった。
「ロボット?――」雅之の額に、|疳《かん》の青筋がたった。ふてくされたように、「偉そうに言うなよ。どうしようと僕の勝手じゃないか。僕はその典子って人が好きになったんだ」
「|嘘《うそ》、嘘よ! あなたはお父様が|怖《こわ》いのよ」
「オヤジさんが?」
雅之は唇を|歪《ゆが》めた。
「わたしたち二人は離れられない。いやっ、晶子はあなたを離さないわ」
「そうかね?」
雅之はわざとふてぶてしく言ったが、急に晶子の体に愛着の念が、こみあげてくるのを覚えずにいられなかった。今まで数々女遊びはしつくしてきたが、晶子のように情熱的に、微妙に反応する腰を知らない。
「わたしの体の中に、あなたの赤ちゃんがいるのよ」
晶子の声は不気味なほど静かだった。
「何っ、どうしてそれを今まで黙っていた!」
雅之は大声をたてた。血走った瞳に|憎《ぞう》|悪《お》が走った。
「…………」
「頼む。僕を破滅させないでくれ。お願いだから……その子を……始末してきてくれ」
「…………」
晶子は|蒼《そう》|白《はく》な頬に|謎《なぞ》めいた微笑をたたえて首を横にふった。
「お願いだ。どんな事でも言う事を聞くから」
雅之の瞳は狂気じみてきた。
「結婚してください」
晶子は言った。
「君は僕を愛してないんだ。そうだ、そうとしか思えない。そうでないと、僕をこんなに苦しめるはずはないんだ。
典子のオヤジの九篠会長は、ものすごい|頑《がん》|固《こ》オヤジなんだ。自分が若い時の事なんか|棚《たな》にあげてしまって、ひどく道徳堅固になったんだ。自分が出来なくなってしまったもんで……そしてその道徳をほかの人間にもおしつけるんだ」
「それで?」
「もし、僕に君という恋人がいるということが分ったら、それだけで破談になりかねないんだ。それに、君が……なにしてるかがバレたりしたら……ね、晶子、このとおり手をあわせて頼む」
「嫌です、立派に生んでみせます」
「そうか、僕が憎いんだな? 僕を破滅さす気だな? 破談になったら、僕はオヤジさんに顔むけ出来なくなる。僕は愛想をつかされてオヤジの事業は弟の|義《よし》|之《ゆき》が受けつぐ事になるんだ。それでもいいんだな?」
「わたしが欲しいのはあなただけ……事業なんか、弟さんにくれてやったらいいわ」
「晶子……考え直してくれ。な、いいこだから、九篠の娘と結婚するのは、ただ便宜上、形式上だけなんだ。僕のいう事を聞いてくれたら、あとは何もかも元どおりになる。僕たちの仲は……ちょっとだけの辛抱だ……いや、元どおりどころか、もっともっとよくなるよ。
立派な家も買ってあげる。いくらでもお金はあげるよ。君にはお母さんと兄さんがいるそうだな、その人たちにも不自由させないだけの事はさせて頂く……」
雅之は晶子の体に|接《せっ》|吻《ぷん》の雨を降らせながら熱心に|囁《ささや》いた。雅之は、晶子の兄の邦彦が京急コンツェルンの一環をになう新東商事の一サラリーマンのはしくれである事は知らなかった。
晶子も、邦彦が矢島コンツェルンに対して、ひそかに手袋を投げた事を知らない。邦彦は妹の晶子にさえも、自分は帰国後の体を休めながら論文の執筆に従事しているといつわっているのだ。
「私は、あなたの二号さんではありません」
雅之に対する晶子の返事は|凜《りん》|然《ぜん》としていた。しかし、雅之はなおも説得をあきらめなかった。口調は脅迫に近くなってきた。
伊達邦彦にとって、表面上は退屈な会社勤めが続いていた。新東商事には、新たに京急からの監査役が続々と入りこみ、社の実権は彼等の手に握られていたが、それは下級サラリーマンにとっては関係のない事だった。
その夜――社がひけてから神田駅近くのバーで時間を殺した邦彦は、|廃《はい》|墟《きょ》のように静まりかえった三星銀行の|塀《へい》のまわりを歩いていた。
通りをへだてて銀行の裏門とむかいあった協明ビルは、すべての灯火を消していた。ただ、ビルの外側に沿って上にのびた非常階段の赤いバルブが、風船のように浮んでいた。
邦彦は、暗い瞳をあげてビルの五階の窓を見つめた。
入社してからすでに二カ月――銀行に関するデータは、ぽつぽつと邦彦に加えられ、犯行の計画はそのたびに検討を重ね、変更され、今は暗礁に乗りあげた形になっていた。
最大の致命傷は、日本橋という人目の多いビル街に銀行がある地理的条件と、輸送車に金が積み込まれるのが白昼である事であった。夜になれば、社員の帰宅したビル街はうって変って|淋《さび》しくなるのだが。
それと、さらに厄介なのは相手の武力だ。表口から襲うにしても、開店中は窓口に客の絶える間がない。二人の守衛が窓口の両|脇《わき》で目を光らせている。出納係のデスクの下についたブザーは、足で踏むとすぐに日本橋警察署と警視庁第一方面本部の機動部隊に通じるようになっている。
しかも、金庫が問題だ。たとえ地下の大金庫室までたどりつけたとしても、金庫のダイヤルの組みあわせナンバーは頭取しか知らぬだろう。|鍵《かぎ》との併用ならどうする?
邦彦は額を焦慮の|脂汗《あぶらあせ》ににじませながら、ぴったりと鉄扉をとじた銀行の裏門にさしかかった。
鉄扉についたくぐり戸の五十センチ四方ほどの|覗《のぞ》き穴があき、夜勤の門衛が出前もちから四つのラーメンを受けとっているところだった。
門の裏側の両脇についたトーチカのような詰所にがんばる二人の門衛と、金庫室の隣の部屋にこもる二人の守衛のためのものだ。
覗き穴はしまり、夜の銀行は外界とのつながりを絶った。自転車にまたがった出前もちは走り去った。
この厳重な警戒をどうしてくぐりぬけるか、邦彦は苦痛に沈んだ瞳で銀行の裏門を|睨《にら》みつけた。
タバコに火をつけ、上端に高圧電流を通した有刺鉄線のはりめぐらされたコンクリート塀にそって歩き出す。
くじけてはいない。|己《おの》れの心に決めた鉄の意思を曲げる事は出来ない。
邦彦は、一日会社をさぼって銀行から出た現金輸送車をつけたときの事を想いだしていた。
その日は早朝から黒雲がつっ走っていた。邦彦は台風の日をえらんだのだ。
ダスターの|襟《えり》をたて、鳥打帽を|目《ま》|深《ぶか》にかぶった邦彦は、三星銀行の近くのガソリン・スタンドに車を|停《と》めていた。車は偽造免許証を使い変名で借りたトヨペット・クラウンだった。
黒雲はますます厚さをまし、雨滴を振りまきはじめた。視界は薄暗く、朝だというのにビルの窓から|蛍《けい》|光《こう》|灯《とう》の輝きが|濡《ぬ》れていた。ガソリン・スタンドのネオンが点火され、長髪をなびかせたアポロのトレード・マークが真紅の標識灯と化していた。
霧灯をつけ、のろのろと横を行きすぎる車の列の中に、三星の現金輸送車が混っていた。
邦彦は、追跡に移った。クリーナーにはじきとばされた雨滴は、ウインド・シールドに筋をなした。
すぐに、横なぐりの雨に変り、機銃掃射を受けたように|飛《ひ》|沫《まつ》のはね上がる輸送車のボデイは、もうろうとかすみだした。
邦彦は交差点ごとに巧みに追いつき、輸送車の姿を見失わなかった。接近しすぎて疑いを持たれ、白バイを呼ばれる様なヘマはやらない。
輸送車は、雨に洗われる三星銀行お茶の水支店の前に停った。邦彦はその|白《はく》|堊《あ》の建物が視界に入ったときからクラッチを踏みこみ、歩道によせてトヨペットを停車させた。
現金輸送車の助手台から、|雨《あま》|合《がっ》|羽《ぱ》を黒々と光らせた警備員が地面に降り、銀行の中に入っていく。
しばらくすると、銀行の横門のくぐり戸が開く。輸送車の警備員と支店の守衛に守られて、メイル・サックを両側から持った二人の行員が出てくる。守衛も|棍《こん》|棒《ぼう》を|吊《つ》っている。
警備員が、輸送車のボデイの後扉に腰から吊った大きな鍵を差し入れて|外《はず》す。二、三歩さがってあたりに目をくばる。
ボデイの中にとじこもった、ライアット・ガンを持つ警備員が、内側から掛金を外してその扉を開く。行員の差し出すサックを受けとり、本店からのサックを手渡す。
ドアがしまり、見張りの警備員が鍵をかける。行員や守衛は横門の中に消える。輸送車が停ってから、約十分の間だった。
警備員は助手台に戻り、輸送車は出発した。九時半である。
飯田橋支店―大塚支店―池袋支店と廻り、前と同じような事をくり返した輸送車は、十二時少しすぎに富士銀行と反対側の三星銀行、目白支店に停った。
受け渡しを終った輸送車は、駅の方にバックし、学習院の前を通って、目白警察署の左側の道路に停車した。署とは三十メートルほどしか離れていない。
運転手と助手台の警備員は車から降りた。ボデイの後ろに廻って、扉の鍵を外す。短い銃身の散弾銃、ライアット・ガンを車中に残した警備員が地面に|跳《と》び降りる。再び後扉に鍵がかけられ、三人の男はすぐ前の軽飲食レストラン“ボニー”に入っていく。
邦彦はそのままトヨペットを“ボニー”から乗りすごし、路地に乗り入れて停めた。ハンチングとダスターをシートにおきざりにして“ボニー”にむけて歩きだす。
“ボニー”の表戸は内側からだけ外を見とおすことの出来るマジック・ミラーになっている。内側からは表に停めた現金輸送車を見張ることが出来る。署はすぐ手のとどきそうな近くにある。
警備員たちはランチを平らげ、コーヒーを|啜《すす》り、何本かのタバコを灰にして、やっと立ち上がった。入ってきてから、四十分以上たっている……。
そこまで想い出した邦彦は、突然|脳《のう》|裡《り》にひらめいた思いつきに、危うく死に生を拾ったあとのような|戦《せん》|慄《りつ》と、腰から首筋にかけて焦げるように熱く走るものを覚えた。
|迂《う》|濶《かつ》だった。銀行の本部に気をとられて、頭脳の柔軟性を失っていた。この盲点を利用しない手はない。
だが、輸送車に積まれた中味は、はたして集金した現金であろうか。手形や証券ではないのか。本店から積みこまれてきた金は、すべて通しナンバーの紙幣ではなかろうか……。
不吉な計算に没頭しながら、邦彦の足は三星銀行の横手から山口銀行の裏の方にぬける淋しい道をさまよっていた。
突然、邦彦は本能的に異変を感じてサッと身構えた、肩の筋肉がふくれ上がった。
灯火を消したビルに挟まれた狭い路地で、三、四人の黒い影がもみあっていた。一人は地べたに|転《ころ》がされ、悲鳴をあげぬように口をおさえられていた。
その上に、ヤクザ風の男が三人のしかかっていた。身構えた邦彦の体格を見て、彼等ははじかれたように犠牲者から離れた。捨てゼリフを残して路地の奥から反対側の通りに逃げていく。
転がっていた男は、低い|呻《うめ》き声をもらして路地から|這《は》いだしてきた。
「正田君!」
邦彦は軽い驚きの声を出した。
ペーブメントまでたどりついて半身を起した男は、大学時代同級生だった正田純一だった。ただし、そうとう|叩《たた》かれたと見えて、顔の形が変っている。東洋日報の社会部に入ったと聞いていた。
「伊達、伊達君じゃないか! まったくいい所に来てくれた。あやうく総入歯になるとこだったよ」
正田はよろよろと立ち上がった。
「大丈夫か? 一体、どうしたんだ?」
邦彦は走り寄って正田の体をささえ、服の土を払ってやった。まずいとこを見られたと思う|眉《まゆ》の|顰《しか》めを、正田の体を気づかう不安気な表情に変える事が出来た。
「なに、ヤクザのパンチぐらい……」
「病院に運ぼうかね?」
「ブン屋商売してたら、これぐらいの事は慣れてるよ。それよりか、奇遇だな。一杯つきあえよ。俺は今夜の事のなりゆきを誰かに聞いてもらわないと、腹の虫がおさまらないんだ」
「よかろう」
邦彦は覚悟をきめた。
京橋のバー“エルマ”、中ぐらいの店だ。女は五人いた。カウンターはすいていた。
「シーさん、お久しぶり……あらっ、どうなさったの、そのお顔?」
細面のマダムが大げさな声をたてた。
「何でもいい……女の子はいらんから、ウイスキーを|瓶《びん》ごと持ってこい」
正田は、|隅《すみ》のボックスに|崩《くず》れるように坐った。邦彦も、自分の端整な横顔にねばりつく女給の視線を、うとましく思いながら反対側に坐った。|美《び》|貌《ぼう》もよし|悪《あ》しだ。すぐに、顔を覚えられる危険がある。
アルコールで痛みを止めるのだ、と称して、正田はストレートのサントリーをたて続けに|呷《あお》った。たちまちきいてきたらしい。|饒舌《じょうぜつ》になった。しばらく旧友の消息をしゃべってから、
「君は帰国してから、商事会社に入ったそうだが?」
「うん、日本橋の新東商事さ。来年の大学院が始まるまでのつなぎにね。語学が役に立つし、食うためには仕方ないさ。さっきは、社の帰りに、近くの飲み屋で体をほぐして、ブラブラ駅に歩いてたんだ」
邦彦は先手をうった。
「新東? 新東か。こいつは、ますますもって因縁づきだな。実はな、俺は新東の内情を調べてるんだ。さっき襲いかかってきた|奴《やつ》|等《ら》も、きっと新東に関係のある暴力団の一味だと思うんだ。まったくいい所で会った。社の内部情報を教えてくれないかね?」
正田は声をひそめた。
「内部情報? 一体、うちの社に何かあったのかね? 僕は新米でさっぱり分らないが?」
邦彦の瞳に、一瞬|稲《いな》|妻《ずま》の早さで不安と動揺の色が走ったが、声は自然な驚きを表わしていた。
「いやあ、君だから話すがね。大変なんだよ。絶対に人にしゃべらないでくれ。うまく掘り当てたら、どうしてもスクープにしてみせる。もっとも本庁のキャップもデスクもどういうわけか笑ってとりあげてくれないんだが……。
実はね、このあいだ射殺された水野、あいつはどうも新東と関係があるらしいんだ」
「ほう、面白いね」
「射ちあった相手のヤクザを調べ上げてみたら、どうやら新東の息がかかっているらしい。水野は新東商事のアラを見つけだして鼻をつっこみすぎたのではないか? そういえば、前に死んだ社員の市村、あれだってはたして過失死かどうか分ったもんでない。水野に何かの情報を売っていて消されたという事も考えられない事でない」
「ほう、市村って人の事は、同僚の|噂《うわさ》だけでしか、知ってないが、そうだったのか?」
邦彦は正田の思い違いにひそかに微笑した。
「たまたま俺の親しい捜査一課の馬場さんも、市村は他殺でないか、と思っているのだ。自宅が|椎《しい》|名《な》|町《まち》なので、よくあのガードに寄ってみるそうだ。犯人は不安にかられて現場に舞い戻るっていう捜査の鉄則があるからな、それは無駄だったらしいけどな……」
「と、いうと?」
邦彦の|腋《わき》の下には、いつのまにか熱い汗が薄くにじんできていた。
「うん、水野の死と関係があるはずの若月貴美子の死体だよ。ぼくは、彼女も水野の情報提供者の一人と思っている。肉体関係もあったろう。その彼女の死に方が市村の死に方とよく似ていないか? 自殺とは思われない。他殺だよ」
「ほう、鋭いね」
「で、俺はその若月貴美子って女の過去を調べているんだ。新東の社長の二号みたいな関係がある事も分った。だが、あれほどの女だ。水野と社長のほかに、男がいないはずはない。彼女のアパートで聞いたら、確かにそれらしい者を、チラッと見た事があるというんだ。そいつに会えたら、いろいろ内幕が分ると思うんだが、正体不明だ。若い男らしい。社ででも、彼女とつきあっていたらしい男を知らないか」
「さあ、あの社長秘書は、何しろ社員にとっては|高《たか》|嶺《ね》の花みたいなものだったからな」
邦彦は言った。これから先、正田が知りすぎてしまったら、正田の死は確実なものになる。邦彦はそうはならないように願った。
ド ミ ノ
日曜日。
遅い朝食をとった邦彦は、ジーパンにジャンパーを羽織ってガレージに入った。ガレージは防音壁でかためられている。
電灯のスイッチをさらに右にひねると、コンクリート床がきしみ、四角い上げ|蓋《ぶた》となって開き、一メートル四方ほどの暗い穴をあけた。
邦彦は床に|膝《ひざ》をついた。ズックの袋をひっぱりあげる。ふくれ上がって重たい。スイッチをもとに戻すと、ジジッとかすかな音をたてて、コンクリートの上げ蓋はしまった。床と見分けがつかない。
カーテンを閉めた寝室で、テーブルの上に置いたズックのサックを開いた。壁ぎわの銃器キャビネの引出しから、さく|杖《じょう》、マシーン・オイル、クリーニング・オイル、ドライバー、|乾《かん》|布《ぷ》等を出す。
ズック・サックを開いて内容物をテーブルにぶちまけた。油布にくるんだ長い|箱弾倉《ボックス・マガジン》が五個と、銃身とレシーバーと遊底の三部分に分解した|短機関銃《サブ・マシーン・ガン》が出てきた。それと〇・四五ACPの拳銃弾が五十箱、二千五百発だ。
邦彦は銃をクリーニング・オイルで洗って|拭《ふ》きとり、再び連結部分に十分にマシーン・オイルをさした。目をつむって、その短機関銃を組みたてる練習をする。
その短機関銃は、米空軍用のM3A1“グリース・ガン”だ。円筒型の|遊底受け《レシーバー》の先に、短い銃身が突き出ている。弾倉は|把《は》|手《しゅ》と兼ねている。銃把の後ろにのびた金属棒の銃床は、レシーバーの中に仕舞える。|排莢子孔《エジェクチング・ポート》のフラップが安全装置を兼ねている。
|不《ぶ》|恰《かっ》|好《こう》だが、構造が簡単でタフな機銃だ。トミー・ガンのクリップ・マガジン・タイプM1A1と同じように、〇・四五ACP――オートマチック・センターファイア・ピストル――の拳銃[#「拳銃」に傍点]弾を一弾倉二十発ずつ射ち続ける。二十発の収容力のあるクリップを手早く弾倉につめかえれば、一分間に六、七百発連続して弾をはきちらす。弾は|G・I《ジー・アイ》コルト〇・四五|自動拳銃《オートマチック》と共通して使える。
邦彦は目をつむったまま、手さぐりでグリース・ガンを分解し、組みたてる練習をつんだ。早い。一分とかからぬ間に組みたてる。撃針バネや|薬莢抽子《エクストラクター》はいじくらない。今度は手さぐりで、細長い|弾倉《マガジン》の上端から、どん|栗《ぐり》のような弾薬を|装《そう》|填《てん》していく。
玄関のベルが鳴った。|執拗《しつよう》に鳴り続ける。
邦彦は道具類をキャビネの引出しに放りこみ、短機関銃とマガジンと弾箱をベッドにつっこんで、毛布をかぶせた。足早に玄関にむかう。
ドアを開いた邦彦の前に、しばらく会ってなかった妹の和服姿があった。
「何だ、晶子か。勝手に入ってくれたらよかったのに」
「日曜ですから、まだお目覚めでないのかと……お邪魔?」
晶子は邦彦を仰ぎ見た。|匂《にお》うような美貌が憂色に|翳《かげ》り、|瞼《まぶた》の下に薄いくまが出来ていた。和服のコートの|襟《えり》から|覗《のぞ》く真珠の|喉《のど》もとも、病的に白く|透《す》け、青い静脈が痛々しい。
「射場にでも出かけようかと思ったところだが、あとでもいいんだよ。どうした、元気ないぞ?」
「ううん」
「外は寒かったろう。早く上がれよ」
邦彦は、|陽《ひ》のあたる居間に晶子を招き入れた。
コートを脱いだ晶子は、台所に廻って紅茶をいれてきた。邦彦はそれにコニャックをそそいだ。
「何か心配事でもあるようだな?」
「ええ、実はその事でなの――」
晶子は邦彦にすがるような目をむけて話しはじめた。
愛人矢島雅之の冷えていく態度……雅之に九篠財閥の|愛娘《まなむすめ》典子との縁談が進み、雅之も乗り気になっていること……雅之の父、裕介の使いの弁護士がやってきて、雅之と手を切ってくれと札束をおしつけたが、拒んだ事……|相《あい》|槌《づち》をうち、優しく晶子の手の甲をさすってやりながらも、邦彦の瞳の奥で怒りと共に暗く危険な光が燃えだした。矢島コンツェルンと九篠財閥との結びつきが何を意味するかも、手にとるように分った。
「――それで、今度のクリスマスは、私を船のパーティに連れていけないって、雅之さんは言うのよ。知ってるわ、私。あの人、きっと典子さんていう九篠のお嬢さんをパートナーにするつもりなのね」
晶子の声はかすれていた。
「船のパーティ?」
「去年は私が連れていってもらったの。まだ学生のときだったわ。クリスマス・イヴの夜は、雅之さんが社長をやっている京急観光の“光洋丸”で、特別会員だけのパーティがあるの。一般客はボイコットして、政界や実業界などの一流人ばっかりが集まって、東京湾の出口でとめた船の上で翌日の朝方まで乱痴気騒ぎするのよ」
「と、言うと?」
「内緒の話よ。だけど、大がかりな|賭《か》け事もおこなわれるのよ。雅之さんが世話役なの。それに仮面舞踏会もひらかれるの。その仮面舞踏会がちょっと|凄《すご》いの。何しろ、年に一度のクリスマス・イヴですし、警察の目はとどかないでしょう」
「面白そうな話だな。ロマンチックだよ。“光洋丸”の発着所は確か|芝《しば》|浦《うら》だったな。もっと、くわしくその事を話してくれない?」
邦彦は笑った。頭は冷たく|冴《さ》えていた。
三時間後、晶子は邦彦にさよならを言った。妊娠している事はおろか、腹の子を始末するように迫られている事は、とうとう最後まで兄に言いだせなかった。
港を|夕闇《ゆうやみ》の|帷《とばり》が包む頃になると、油じみた作業衣をまとった邦彦の姿がしばしば芝浦の海岸に現われるようになった。
晶子から聞いた“光洋丸”の話は、邦彦の食指を動かすのに十分だった。矢島雅之にも、たっぷりお礼をしてやれる。
三星銀行の現金輸送車を襲うのは今でなくとも十分に間に合う。いや、歳末をひかえて人通りの多いこの頃は不利だ。
だが、“光洋丸”で行われる|博奕《ば く ち》大会は、イヴの夜、一晩きりだ。クリスマスまでには、二週間とちょっとの余裕しかない。それが、かえって邦彦の闘志をかきたてた。
会社での仕事が終ると、通勤電車に急ぐふりをして神田駅近くの横町に停めておいた自分の車に乗りこみ、大廻りして|御《み》|楯《たて》|橋《ばし》近くの水産大と芝浦自衛隊のむこうの|空《あ》き地に着ける……それが犯行下調べ期間中の邦彦のコースだった。
偽造ナンバーをつけた車のまわりは、うずたかく積まれたコンクリート・ブロックの山だ。邦彦は車内で手早く背広やワイシャツやズボンを脱ぎ、古着屋で手に入れたトックリのセーター、よれよれの古背広に膝のぬけた作業ズボン、軍手をつける。靴はゴム長にかえて、車から脱け出る。|汚《よご》れたタオルで頬かむりしている事もある。
積み荷を満載してつっ走るトラックの群れにゆれる|五《ご》|色《しき》|橋《ばし》に近づくと、潮風が鼻に痛い。重油の浮いたどぶ河の両岸には工場や倉庫がのしかかり、タールの|臭《にお》いを放つ|筏《いかだ》を波うたせて、おわい船やダルマ船を引いた機帆船が沖から戻ってくる。リズミカルな焼き玉エンジンがいたる所で輪唱し、港は活気に満ちている。
橋を渡ると、左側は長い倉庫の列だった。右側の海には赤さびた鉄くずやドラム|罐《かん》を腹一杯にのんだ小船がひしめきあい、夕食を作る七輪火が水面を照らしている。
そこをぬけると、芝浦桟橋の岸壁だ。高くそびえる船舶信号塔からスピーカーが指令を伝え、オート三輪が走りまわる。岸壁に横づけになった貨物船のウインチに|吊《つ》られた地方むけの自動車がゆれ、クレーンは巨大な鉄材を持ちあげている。
給油に寄港した英軍の駆逐艦は、砲口を|覆《おお》った高射砲やロケット砲を上空にむけ、キャビンでは退屈した水兵たちがポーカーのテーブルをかこんでいるのがみえる。
邦彦はポケットに手をつっこみ、セーターのトックリに首をうずめて、芝浦桟橋のはずれに歩いていく。誰も気にとめるものはいない。
桟橋のはずれは、木造船や|艀船《はしけ》で一杯だった。川をはさんだ対岸に目ざす日の出桟橋が見える。左のかなたには芝のタワーの灯火が天にむかって登っている。
水面も光にきらめいていた。標識灯の赤や緑にまじって、ロシア|飴《あめ》のセロファンのような紫色の光がチカチカする。ランチや水上署の快速艇が水すましのように舞い、沖合に|碇《てい》|泊《はく》した無数の貨物船のあいだに消えていく。
邦彦はコンクリートに放りだされた直径五メートルもある|錨《いかり》にもたれ、タバコに火をつける。鋭い目は対岸の日の出桟橋に明々と浮きあがる五千トンの“光洋丸”を見つめている。
明るいクリーム色に塗った観光船だ。こっちからは船首側が見える。東京を午前に出て、東京湾から|相模《さ が み》|灘《なだ》にぬけて夕刻に帰港する。夏は涼み客を乗せて夜も出港する。
邦彦は前の日曜日に、ナイト・クラブで知りあった行きずりの女と共にこの“光洋丸”の特別一等席におさまっていた。勘定は女が持った。
“光洋丸”の席は三階級に分けられる。船倉の大広間に青畳を敷き、卓と座ぶとんをおいてお座敷風にしたのが二等席だ。|鮨《すし》|屋《や》の出店もついている。
デッキの上の一階キャビンが一等席だ。柔らかいソファーやテーブルを並べたキャバレー式の構えだ。バーやステージやダンスのためのフロアがある。バンドはA級の下といったところだ。
その上の二階が特別一等席だ。それぞれ鍵のかかるコンパートメント式個室になっていて、ダブル・ベッドがそなえつけてある。情交を楽しみながら、窓外に広がる海の風物をめでる事も出来るわけだ。個室にとじこもるのが嫌なら、ガラスばりの展望台に登るなり、落ちついた|雰《ふん》|囲《い》|気《き》の豪華なサロンでコニャックの杯を傾けるのもいい。下の船室に降りるのも自由だ。
女は名の知れたファッション・モデルだった。二人とも名前は聞かない事にして、前夜の名残りを船に持ちこんだ、といった形になった。
女は船上での情事という新鮮な興奮に前夜にもまして燃えあがり、体力を使いきってバスも使わずに眠りにおちた。口をひらいて|鱶《ふか》のように寝くたれる女から体をはなし、邦彦は気ままな様子で船内を歩き廻った。
あらかじめ案内所で手に入れた船の内部の見取り図は、邦彦の頭の中に刻みこまれてあった。それを実地に確かめてチェックしていくのだ。
イヴの夜は船倉の二等船室は使われない。パーティのクライマックスは一階のフロアでの無礼講の仮面舞踏会と、平行して催される二階のサロンでの博奕祭りである事は、晶子から聞いて知っていた。選ばれる客は大体五十組、百人の予定らしかった……。
貨車芝浦駅近くに建設中のセメント工場の巨大な|櫓《やぐら》から発する|熔接《ようせつ》の炎が、青紫の火花を吹きあげて火事のように夜空を染めていた。その夜空をつんざいた救急車のサイレンの悲鳴は、数を増しながら遠ざかっていった。
邦彦は何本目かのタバコを捨てた。かすかな身震いを残して、もたれていた錨から背を離した。向いの|埠《ふ》|頭《とう》にむけて橋を渡っていく。
十二月二十四日、イヴをひかえた早朝の三時。さきほどまで活気の残っていた日の出桟橋も、さすがに無人に近くなった。骨を|噛《か》むような寒気だ。
防波堤の先の緑や青のランプがはるか遠くに感じられ、暗い水面を動くのは沖にむかって消えていく水難救済会のスマートなパイロット船だけだった。
屋台をはっていたおでん屋も姿を消した。マストから|吊《つる》した電灯を頼りに、ウインチととりくんでいた貨物船の乗組員もキャビンにひきこもった。給仕も見えない。
だが、すべての者が眠りをむさぼっているわけではない。埠頭のコンクリートに靴音を響かせて、二人づれの警官がパトロールしている。対岸の船舶信号所や水上署では、夜勤の男たちが無電に耳を澄ませている。
そして――埠頭に並ぶ倉庫の間に積まれたドラム罐と櫓形に重ねられた鉄材の|隙《すき》|間《ま》で、|蹲《うずくま》った男の影が動いた。
邦彦は黒革のジャンパーに、黒っぽい細身のズボンをはいていた。靴はバスケット・シューズだ。|矩《く》|形《けい》のリュック・サックを背負っている。
リュックの中には、銃身にレシーバーと遊底に分解したM3短機関銃“グリース・ガン”がひそめられていた。装弾した|弾倉《マガジン》が五個、さらに二百発の〇・四五弾も隠されている。
ジャンパーの内側に左肩から吊った|肩かけケース《ショルダー・ホルスター》には、全弾|装《そう》|填《てん》して安全止めをかけた四五口径七連発のコルト・コマンダー自動拳銃、内ポケットには予備のクリップが二個ぶちこんである。グリース・ガンと同じ弾が使えるので、〇・四五コルトを|択《えら》んだのだ。
邦彦の眼前三十メートルほどの所に、桟橋に横づけになったままの観光船“光洋丸”が|右《う》|舷《げん》を見せてそびえたっていた。
二本の煙突から煙はたたず、さきほどまで音をたてていた排水の流れはとまったが、船の|甲《かん》|板《ばん》に映る灯火は消えない。だが、人影は見当らない。しかも、灯火は桟橋側の右舷が明るく、海に面した左舷は暗い。“光洋丸”の上部甲板の前部は一段と高くなって操縦室、船長室、無線室に分れている。
その後ろの二本煙突をはさんで、左右五隻ずつの救命ボートがくくりつけられている。海につきだすようにして、二隻のモーター・ボートも湾曲した支柱に吊されている。ボートには、いずれもキャンバスの|覆《おお》いがかぶさり、ロープで留めてある。上部甲板の後端は展望台だ。
警官の足音が遠ざかっていった。邦彦は身を伏せるようにして倉庫の壁に走り寄った。壁にへばりついて、桟橋を見渡す。人影は絶えている。毛のぬけかかった捨て犬が、灯柱の下を|嗅《か》ぎまわっている。
邦彦は走った。バスケット・シューズは音をたてない。
“光洋丸”は、海に面した左舷だけの錨をおろしていた。桟橋のコンクリート製の繋留基には右舷からロープを渡してある。二隻の大型ランチが、“光洋丸”の|錨鎖《びょうさ》につながっていた。その針金をよじりあわせたロープは、海面から一メートル半ぐらいの高さでのびていた。ランチには誰も乗っていない。
走りながら薄いスエードの手袋をはめた邦彦は、“光洋丸”に一番近いランチの甲板に身を移した。へさきに|這《は》いより、ロープにぶらさがって足をかけた。
軽々とロープを伝って“光洋丸”の錨をつるしたチェーンにたどりつく。物音をたてずにチェーンをよじ登り、甲板の|手《て》|摺《すり》に手をかけた。
そろそろと体を持ちあげてみる。二階のキャビンより一段高いところについた操縦室も空っぽだ。|安《あん》|堵《ど》の息を吐いて、甲板に|転《ころ》がりこんだ。
這うようにしてキャビンの外壁に身をよせる。物陰を伝わり、|鉄《てつ》|梯《ばし》|子《ご》を登って上部甲板にあがった。二本の巨大な煙突の谷間の暗がりに腰をおろし、ライターでタバコに火をつけた。これから二十時間も、吸いたくても吸えないのだ。会社はクリスマス休暇をとってある。
掌でおおって吸っていたタバコは、|唇《くちびる》が焦げるほど短くなった。邦彦はタバコを|揉《も》み消し、巻き紙をほぐした。タバコの|残《ざん》|骸《がい》は、|塩《しょ》っぱい夜風に吹きとばされて跡かたもなくなった。
イヴの夜までの隠れ場所は、救命ボートの中ときめてあった。そのボートを雨から防ぐために覆ったキャンバスの|縁《ふち》は|麻《あさ》|縄《なわ》でV字の連続形にとめられていた。
邦彦は麻縄の二カ所を留め金から外した。リュックをおろし、キャンバスとボートのへりの隙間から中にもぐりこんだ。横になって、リュックを枕がわりにする。居心地はいい方ではなかった。右手に飛び出しナイフを握りしめた。発見されたら、声をたてる余裕を与えずに片をつける気だった。
一時間もすると、体中の筋肉が痛んできた。しかし、邦彦は苦痛に慣れていた。いや、苦痛を耐えぬく事に己れのくろがねの冷酷さを鍛えていく青年だった。
腕時計の夜光塗料が午前四時を示した頃から、埠頭は活気をとりもどした。
“光洋丸”も眠りから覚めた。
ボートの外に靴音が近づいた。薄笑いを浮べた邦彦は、飛び出しナイフのスイッチを押して長い刃を|閃《ひらめ》かせた。ボートに近よった船員は、ぶつぶつ|呟《つぶや》きながらキャンバスの麻縄をもとどおりに直して立ち去った。邦彦は苦笑してナイフの刃を倒した。小便は用意してきたビニール袋にとった。
矢島雅之と秘書は、その日の昼すぎ、京急観光の重役五名をともなって“光洋丸”の船長室に現われた。雅之はあらためて船長の森下に細かい注意をあたえ、重役たちとの打ちあわせを終えて船から降りた。
重役たちを乗せた“光洋丸”は桟橋を離れた。乗組員やサービス従業員たちは、まだ船内の飾りつけにいそがしかった。
船が品川沖にかかったとき、一目で高級ヤクザと見当のつく、なげやりな身振りの男達を満載した軽便ランチが近づいてきた。
“光洋丸”はスピードを極端に落した。その舷側に平行したランチから、鉄梯子をよじのぼって男達が乗船してきた。二十人近い。
京急観光の重役等と|挨《あい》|拶《さつ》を|交《か》わして、特別一等席のサロンにくつろぐ。矢島裕介の京急電鉄が|抱《かか》えている花井組の幹部連中だ。今夜のパーティの博奕場でオケラになった客がもし|暴《あば》れたら取り|鎮《しず》める。
万が一、不粋な官憲の手入れがあったなら、京急観光に代って自分たちが罪をひっかぶる。京急のオヤジさんに認められるためなら、警官の五人や六人射殺するぐらい何とも思っていない様な連中だった。
午後四時、船は|木《き》|更《さら》|津《づ》と横須賀を結ぶ点上に停り、チェーンを長くのばして錨をおろした。邦彦は救命ボートの中で、胃を焼く空腹感とニコチンの不足が加わって、耐えがたい|喉《のど》の|渇《かわ》きをこらえていた。
午後六時半――|晴《はる》|海《み》埠頭から出発した二隻の大型ランチが、すでに|眩《まば》ゆく灯火を照らした“光洋丸”の船腹に横づけになった。
初めのランチには、今夜のパーティの特別会員約百名が乗っていた。男はタキシードや上質の背広に身を固め、女はイヴニングやカクテル・ドレスの上に毛皮のコートを羽織っていた。なかでも人目をひくのは、矢島雅之によりそった九篠典子のういういしい姿だった。
あとのランチには、彼等の荷物と、バンド・メンやモニターやショーの踊り子たちが乗っていた。
“光洋丸”からタラップが降ろされた。ランチの会員たちからさきに母船に乗り移った。
風になぶられるスカートをおさえてタラップを登る踊り子たちの|嬌声《きょうせい》が消えると、すでに準備を整えおえた“光洋丸”の船員やサービス従業員たちは、二隻のランチに分乗した。母船で働いている者のうち、職場に残ったのは船長と一等運転士、無線長、機関長以下最小限の機関士だけだった。ランチは港にむかった。
真ッ白な給仕服に着替え|蝶《ちょう》ネクタイを結んだ花井組の連中が、特別会員たちを一組ずつ二階キャビンのコンパートメント式個室に案内していった。ボーイに早がわりしたとはいえ、尻のポケットはしのばせた小型の拳銃でふくらんでいる。
矢島雅之は九篠典子の腕をとって、自分の持ち船の各所を案内して歩いた。
典子は、いくぶん重たげな|二重瞼《ふたえまぶた》を持った、豪華な感じの顔だちをしていた。|完《かん》|璧《ぺき》のスタイルを持った小柄な姿態が、実際より大柄にみえた。ロディエのカクテル・ドレスの胸もとに光る三十カラットのダイアの色が、動きとともに光線を微妙に反射して五彩に変化する。
「明日の朝までパーティは続くわけですが、典子さんはどうなさいます? お父様が御心配なされるのでは? あなたには最高のお部屋を用意してはありますが……」
雅之は期待にほぐれる唇の動きを|慇《いん》|懃《ぎん》な微笑にかえて、典子の顔色をうかがった。
「品川の|伯父《お じ》も参ってますから、父も|厳《きび》しくは申さないでしょう。それに、羽目を外す事が出来るのも、年に何度とあるものでもございませんもの。でも……あのー……いいえ、あたくし雅之様を御信頼してますわ。していい事、よくない事はわきまえていらっしゃるお方だと……父があの通り頑固者ですし、もしも……」
典子は真ッ赤に頬をそめて、しどろもどろに呟いた。ダイアが血の色に燃えた。
「御心配なく。結婚式をあげるまであなたに指一本触れませんから。さあ、あなたの個室の|鍵《かぎ》をお渡ししておきます。いつでも御自由に部屋にひきこもってください。もし……もしも、僕が酔っぱらって理性のブレーキがきかずに、あなたのお休みになっている部屋のドアを叩くような事がありましたら、遠慮なく大声をあげて頂いて結構ですよ」
雅之は苦笑して、典子に鍵を手渡した。
やがて、宴席の用意の出来た事をスピーカーが伝えた。化粧を直した女性のパートナーをともなった男等は、バンドが景気よくジングル・ベルを演奏する一階キャビンに降りていった。
山盛りの豪華料理や世界各国の古酒の林立するテーブルの照明は、百目|蝋《ろう》|燭《そく》の柔らかな光に包まれていた。ボーイ姿の花井組の連中が、分厚いカーテンを張りめぐらした壁ぎわに立って給仕した。真紅の|絨毯《じゅうたん》が深く沈む室内は十分に暖房がきいていた。
「メリー・クリスマス!」
「ハッピー・クリスマス!」
シャンペーンが抜かれ、パーティは幕を切っておとされた。舞台も|華《はな》やかだった。船長や機関長たちも宴席に加わった。
待ちわびた仮面舞踏は、十時から始まった。用意してきたさまざまの|仮面《ドミノ》をつけた会員たちは薄暗い照明のもとで、たがいに連れあって来たパートナーを自由にかえて、熱っぽい踊りに熱中しはじめた。ショーの踊り子たちもとび入りした。気にいった相手がいれば、踊りながら愛を|囁《ささや》き、一夜の情事を持つことも、とめだてせぬのが会のルールだった。一人で幾人も相手にしても構わないのも魅力だ。
ちょっぴり麻薬を仕込んだ美酒に酔い、|仮面《ドミノ》に素顔をカムフラージュした各界の名士たちは、日頃の威厳を忘れさった。典子は部屋にさがった。
さまざまな仮面も、すべて両眼と唇のあたりだけには穴があけられていた。フロアのいたる所で快感にしびれた|呻《うめ》き声やしのび笑いがあがり、暗い光線の陰になったボックスのシートでは、もつれあった男女がうごめいていた。脱ぎすてられたズボンやパンティーがシートから|滑《すべ》り落ちた。音楽はむせび泣くような調べに変った。
二階キャビンのサロンでは、ルーレットや花札のテーブルが用意されていた。ボーイ姿からクリーム色のメス・ジャケットに着がえた花井組の連中が、胴元をつとめた。壁ぎわにはボーイ服が五、六人警備している。
舞踏場の興奮をそのまま持ちこんだ会員たちが、入れかわりたちかわりサロンに移動してきた。大ていのものが仮面をつけたままだ。勝負で新しい興奮をかきたてられては、下のパーティに戻っていった。ルーレットが廻り、カードが|乾《かわ》いた音をたてた。一ト勝負に十万近くの金を|賭《か》けては、次々にそれを失っていく大臣もいた。素顔に戻った雅之は洪水のように流れこむテラ銭を、無造作に金属の箱に投げこんでいった。すべて五千円札か一万円札だった。その背後の階段は、二階の展望台に続いている。
邦彦は、救命ボートの中でリュックを開いた。暗闇の中で、短機関銃を手さぐりで組みたてた。弾倉に|挿弾子《クリップ》をはめこみ、予備の四つのクリップをポケットにつっこんだ。ズボンのポケットから、両眼の所だけくりぬいた黒い仮面を出して、頭からかぶる。ナイフで覆いのキャンバスを切りさき、右手に短機関銃、肩にリュックを背負って暗い甲板に|跳《と》びだした。ビニールの小便袋は海に捨てる。
メイン・マストの陰から、ボーイ姿の用心棒が不審気な顔を|覗《のぞ》かせた。暗がりを透かし見て、
「お客さん、出歩かれては困り……」
と言いかけ、邦彦の様子に気づいた。ハッと息をのんで尻の拳銃に手を廻す。
邦彦は右手に握った短機関銃の銃口で、その男の頬を一撃した。低い悲鳴をあげて煙突に倒れかかるのを、靴先で力一杯、胃のあたりを|蹴《け》りあげた。男は身を折って|崩《くず》れ落ちた。今度は|顎《あご》を蹴り砕く。
邦彦はその男の尻ポケットからベレッタ〇・二五口径七連発の小さな自動拳銃を奪って、自分のズボンのポケットに落した。
上部甲板には、ほかに人影はなかった。邦彦は這うようにして、前部の操縦室に近づいた。船長も、運転士もいなかったが、無線長だけが残って、いまいましげにウイスキーを|呷《あお》っていた。ぐでんぐでんに酔っている。
邦彦の一撃で、無線長は急速に闇の中におちていった。邦彦は奥の無線室に入り、計器や電線をズタズタに破壊した。
短機関銃、“グリース・ガン”の|排莢子孔《エジェクチング・ポート》の|蓋《ふた》をはね開け、コックを引いて弾倉の弾を薬室に送りこんだ。
一歩、一歩に目をくばって、上部甲板を船尾のほうにむかう。展望台のガラス戸を静かに開き、中に入ってリュックを左肩からさげる。左手で|把《は》|手《しゅ》を持ち、右手で銃把を握った短機関銃を構え、足音をしのばせて階段を降りていく。中段までくると、下のサロンの博奕場は丸見えだった。十数人の姿が見える。
矢島雅之は、気配を感じて振り向いた。邦彦は素早く階段の下段まで駆けおりた。雅之の顔が恐怖に凍りついた。
正面のボーイ姿の用心棒が三人、サッと手が尻ポケットに走ろうとした。
ガーッ、ガガガガッ、と、不気味な連続音をたてて邦彦の軽機が|吠《ほ》えた。左の端の用心棒と真ン中の用心棒は、肩のつけねから右腕を銃弾に千切られて|悶《もん》|絶《ぜつ》した。右端の用心棒の手首が、抜きだした拳銃と共に吹っとんだ。|凄《すさ》まじい血しぶきだ。
雅之が|啜《すす》り泣きながらくたくたっと膝をついた。邦彦は素早く左右に目を配った。残り二人の用心棒は、ひきつるように両手をあげた。
「みんな、財布をこっちに投げろ。壁に両手をついて足を広げるんだ」
邦彦の声はかすれて、しわがれていた。
十人近くの客と、二人の用心棒は動かない。動きたくても、動けないのかも知れぬ。
邦彦は床の絨毯を扇形に掃射した。続けざまの発射の反動に銃口が|躍《おど》りあがり、遊底からはじきとばされた熱い|空薬莢《からやっきょう》の落ちた場所の絨毯がちぢれた。白熱の銃弾がくいこんだ絨毯の穴から火の粉がたった。焦げてくすぶっている。邦彦は素早くクリップを|填《つ》めかえた。
男たちは、|喘《あえ》ぎながら命令にしたがった。邦彦は、金属箱に入ったテラ銭と投げ出された分厚い財布を自分のリュックにつめて背中にせおった。千万近い。
雅之の髪をつかんでひっぱり起し、ホルスターから抜出したコルト・コマンダーを左手に握ってその背におしつけた。右手に短機関銃を構え、雅之を|楯《たて》として静々とサロンから出ていく。雅之は、あやつり人形のように足を運んだ。
邦彦は軽機を盲射ちに点射しながら、雅之を連れて階段をおりた。下部甲板に出ても、抵抗する者はいなかった。邦彦を射てば、着弾のショックで左手の拳銃が火を吹き雅之の死を呼ぶ。
モーター・ボートを降ろさぬと矢島を射つと言われれば、船長は命令にしたがわぬわけにはいかなかった。
横須賀の海岸でモーター・ボートを捨てた邦彦は、市中で一台のクライスラーを盗んだ。|肋《ろっ》|骨《こつ》を三本へし折られて気絶したままの雅之を海岸ぞいの|麦畠《むぎばたけ》の中で拾い、車の後部座席に投げこんだ。
邦彦はその車を駆って都内に戻り、北沢の矢島家の専用道路に乗り捨てた。近くの公衆電話で矢島裕介の秘書を呼びだし、雅之の後始末を頼むのを忘れなかった。
現金輸送車
目白署のすぐ近くの軽飲食レストラン“ボニー”は、コックを兼ねたマスターの白木とウエイトレスの|城真紀子《じょうまきこ》の二人が働いていた。
奥に細長い店だ。入って右側が五つのテーブル、左側がカウンターになっている。カウンターの中で三十五、六のむっつりしたマスターがフライパンの肉を|炙《あぶ》ったり、サンドイッチを作ったりする。
背後の飾り|棚《だな》の洋酒の瓶は薄く|埃《ほこり》をかむり、中の液体は量が減っていたためしがない。酔客は署が近すぎるので遠慮するし、署員は署員で勤めが終れば新宿や池袋か自宅の近所の飲み屋で一杯やる方が気楽なので、“ボニー”の前を素通りする。
したがって、“ボニー”に来る客は夕方までで大抵おしまいだ。マスターの白木は五時半になるとそそくさと店をしまい、碁会所やジャン荘に顔をだす。もともと無口で人づきあいの悪い男だが、パイや碁石をにぎっているときだけは|機《き》|嫌《げん》がいい。
ウエイトレスの真紀子は白木の遠縁にあたる。髪を|栗《くり》|色《いろ》にそめた平凡な娘だ。つぶらな|瞳《ひとみ》が大きく、受け口の上唇が可愛くまくれているので、十九歳の年より若く見える。
真紀子は碁会所に|踵《きびす》を廻す白木に手を振り、|夕《ゆう》|闇《やみ》の道を横切った。まだ正月の門松が残っている家がある。真紀子は学習院の長い長い石垣にそって駅の方に歩いていく。左側の|銀杏《いちょう》の並木はすでに葉を落し、|襟《えり》をたてたコートの|隙《すき》|間《ま》から忍びよる夜気は|厳《きび》しかったが、真紀子は石畳に響くハイヒールの一歩一歩をふみしめるようにゆっくり歩いた。
夜は|角《つの》|筈《はず》の洋裁学院にかよう真紀子にとって、毛並みがよく金もある学習院の学生をフレンドに持ちたいのが理想のようなものになっていた。友達に自慢出来る。
しかし、“ボニー”に来る学習院の学生は、アベックか夢を破る貧相な連中が多かった。何人か見てくれのいい学生とデートしたが、せっかちすぎる要求から逃げようとするのを、しめし合せていたらしい仲間に取りかこまれて、危うく|輪姦《ま わ》されそうになったこともある。それも、金のかからぬ公園の木陰でだ。
それからは、学習院の制服をみても、馬丁のお仕着せのように思えた。だが、ショックの|癒《い》えるのは早かった。それに、彼女のクラス・メートたちが三田や|早《わ》|稲《せ》|田《だ》のボーイ・フレンドを得々と見せびらかすのに、負けてはいられない。
サークル活動を終えたらしい男女学生たちが、足早に真紀子をおいぬいていった。街灯が離れ離れについているので、自動車のヘッド・ライトの照り返しがないと、たがいの顔はよく分らない。真紀子はこの道を秀麗な坊っちゃん学生の恋人と腕をくんでそぞろ歩く自分の姿を想像してみた。
真紀子の横を通りこそうとした長身の青年が、二、三歩いきすぎて立ちどまった。くるっと振りむき、はにかむ様な微笑を浮べて頭をさげた。風に|煽《あお》られたダスターの下のスポーティな背広の襟に、|燻《いぶ》し銀のバッジが光った。
真紀子も立ちどまった。ヘッド・ライトの|光《こう》|芒《ぼう》が近づき青年の若々しく秀麗な顔を浮びあがらせて去っていった。学習院のバッジをつけた学生は邦彦だった。
真紀子は邦彦をまばゆいものでも見るように見上げ、素早く瞳をそらせた。心臓の鳴る音が自分でもわかった。
「御免、びっくりさせちゃって。君、“ボニー”の真紀子さんでしょう? 学校の友達から名前を聞いちゃった」
邦彦は真紀子と並んで歩きだした。
「…………」
真紀子は口の中で呟いた。この学生を店で二度ほど見た事がある。いつも|隅《すみ》のテーブルで一人ぼっちで食事をとり、コーヒーのカップを前にして、分厚い原書に書きこみをしていた。
「今、研究会の帰りなんだ。まっすぐ家に直行するのもつまらないし……どう、君は?」
「でも、洋裁の学校があるの。冬休みも大学のように長くないから……」
「さぼっちゃえよ。一回ぐらいいいだろう?」
邦彦は快活に言った。真紀子はつられて口が軽くなってきた。
「そうね。見たい映画があるわ」
「じゃあ、映画にするか。帰りは責任もって送ってあげるよ。どの映画がいい?」
「ミラノ座でやってるのよ――」真紀子はある恋愛映画の名前をあげた。
「それがいい。新聞でほめてたよ」
邦彦は明るく笑った。真紀子は横目で邦彦のプロフィールを盗み見た。この人なら、誰に紹介しても恥ずかしくない、と思った。
駅の近くで、邦彦は左に折れた。真紀子はとまどった顔つきをした。
邦彦は学校の森の下の道路の端においたオースチンのドアを鍵で開いた。偵察用に新しく買った車だ。ナンバー・プレートと車体検査証は偽造品をつけ替えてある。
「おやじが誕生祝いに買ってくれたんだ」
ハンドルの後ろに坐った邦彦は事もなげに言った。その左側のクッションに腰をおろした真紀子は、突然、長い間夢見ていたものは、この人に違いないと思いこんだ。
邦彦は車をスタートさせた。カー・ラジオのボタンを押して、ムード音楽を流した。クッションは柔らかく、その背から香り高いタバコの移り香が漂った。ヒーターが暖かい空気を送ってきた。
新宿までの車中で、二人は、とりとめのない会話を|交《か》わした。邦彦は自分の名前は田代信夫だと偽った。
スケートリンクの前の広場に車をとめた。真紀子は窓外を歩き流れるアベックの|羨《せん》|望《ぼう》の視線を意識して胸をそらせた。
映画館で真紀子は生れて初めて指定席に坐った。映画も満足すべき出来ばえだった。ほかの男と違って、邦彦が手や体をさぐりかけないのが、かえって物たりないほどだった。
邦彦は、スクリーンに写し出される|和《なご》やかで調和のとれた白々しい家庭や、甘ったるいサッカリンづけのラヴ・シーンにうんざりしていた。ステージに駆けよって、客席にむかって自動小銃でもブッぱなしたら胸がすっとするだろうと思っていた。
やっとメロドラマは終った。照明がついた。真紀子は感動に瞳を輝かせていた。
邦彦は近くの|鮟《あん》|鱇《こう》|鍋《なべ》の店にさそった。清潔な座敷で、二人はコンロをかこんだ。真紀子が火の具合をみた。柔らかい湯気のむこうで、邦彦の瞳はいたずらっぽく優しかった。真紀子に酒の無理じいをするような事はなかった。真紀子を約束どおり東中野の家の近くまで送った。邦彦は初めて真紀子の握手を求めた。
「楽しかったわ。とっても」
真紀子は邦彦の手を強く握り返し、|弾《はず》んだ声で|囁《ささや》いた。
「僕も。御縁があったら、また会いましょう」
「いや、そんな冷たい言い方。今度の日曜はどう? お暇?」
真紀子は邦彦の手を離さなかった。
次の日曜日、二人は伊豆にドライブした。休憩に入ったホテルの一室で、真紀子は自ら体を投げだしてきた。二人が立ち去ったあと部屋を片づけに入った女中は、鮮血に染まったシーツを見て肩をすくめた。
|肋《ろっ》|骨《こつ》を折られて意識不明のまま邸内にかつぎこまれた矢島雅之は、主治医の手当てによって|昏《こん》|睡《すい》から覚めた。しかし、神経の乱れがひどくて、言うことがはっきりしなかった。本館の寝室で二人の|愛妾《あいしょう》に|夜《よ》|伽《とぎ》をさせていた父の裕介は、雅之が乗せられてきた車が神奈川ナンバーのものであるのを聞いて、すぐに始末するように命令した。雅之の|唇《くちびる》から漏れる断片的な言葉から、“光洋丸”が何者かによって襲われた事を直感した。|度《たび》かさなる失態に、太い|眉《まゆ》がビリビリ震えてきた。
玉砂利を|弾《はじ》きとばすタイアのうなり、エンジンの|轟《ごう》|音《おん》と私設警備員の制止の声を残して、一台のクライスラーが本館の前で急停車した。
車から|跳《と》び降りたのは、京急観光の重役たちだった。玄関のドアを開けた執事をおしのけて応接室に進んでいく。皆、興奮に気違いじみている。
「控えろ、騒々しい!」
腕ききの護衛を両脇にはべらせた矢島裕介は、声を震わせて|一《いっ》|喝《かつ》した。こめかみの血管は、破れそうなほどふくれ上がっている。
「会長!」
「御前様!」
重役たちは口々に、“光洋丸”で催された|博奕《ば く ち》祭りが短機関銃を持った暴漢に襲われた|顛《てん》|末《まつ》をわめいた。
「だらしがない! その男が誰だか見当はつかんか?」
矢島は重役たちを|睨《にら》みすえた。
「船の仮面舞踏会の|扮《ふん》|装《そう》とまぎらわしい覆面をつけてましたので……」
「客の怪我は?」
「不幸中の幸い、お客には射たれた者はいません、金を奪われた客がいるわけですが……」
「すぐにこっちから、返却するのだ。それに、客の一人一人に見舞い金をだして、口止めさせろ。客も|藪《やぶ》|蛇《へび》になるから、警察に届け出はしないだろうが……」
「全力をあげて」
「九篠会長の娘さんの典子嬢も乗っていたはずだが?」
矢島はさらに額をしかめた。こんな事で雅之と典子の婚約が破れたら大変だ。
「はい、船室でお休みになっておられましたので、かすり傷一つも負われずに」
「そうか、それはよかった。本当によかった。九篠家には、|儂《わし》から特におわびに行く」
矢島は太い|溜《ため》|息《いき》をついた。
矢島裕介の揉み消し運動にかかわらず、事件の概略は実業家仲間のあいだに知れわたっていった。さすがの矢島も|舐《な》められたか、と日頃の京急コンツェルンの圧力に|喘《あえ》いでいる連中は|溜飲《りゅういん》が下がった思いで|噂《うわさ》しあった。無論、表ざたにはならなかったが。
雅之の肋骨は|絆《ばん》|創《そう》|膏《こう》で固められた。世間には風呂のタイルに|滑《すべ》って湯ぶねにぶつかったためと発表した。全治三週間の見込みだった。典子が一日に一回ずつ訪れるときのほか、雅之は笑顔を見せなかった。父の裕介は、調査網を駆使して犯人の割り出しを試みたが、結果は骨折り損と分った。船上のパーティに集まった客のうちで、犯人と内通したと思われる者も見当らなかった。
つまり、矢島家は近年に無い|憂《ゆう》|鬱《うつ》な正月を迎えたわけだ。|面子《メンツ》がつぶれただけではない。先の新東商事の不祥事と今度の“光洋丸”事件の揉み消しに使った金だけでも、コンツェルン|傘《さん》|下《か》の小企業体の年間利潤を優に上廻る額になっていた。矢島にとっても決して小さな金でない。
晶子は必死に雅之と連絡をとろうとした。しかし、裕介の命を受けた女中は、晶子の電話や手紙を雅之に取りつがず、邸宅に訪れても私設警備員につまみ出された。一度だけ、ことづかった手紙と生活費を持って雅之の執事が晶子のアパートを訪れた。雅之の手紙は、会いに来れぬ事情の言いわけと、本当に自分を愛しているのなら、胎児を早く始末してくれぬと手おくれになるという要求だった。晶子は目の前が暗くなった。
一方――邦彦は“光洋丸”を襲った余勢を駆って、三星銀行現金輸送車強奪の計画を進めていた。真紀子を手に入れたのは、そのための布石だった。
邦彦は決して真紀子を自宅に近づけなかった。家庭が|厳《きび》しくて、自分に恋人がいるのが分ったら、勘当されるかも知れない、あと一年して自分が卒業したときには、真紀子を正式に両親に紹介すると言っておいた。
真紀子は、まだ結婚を|真《ま》|面《じ》|目《め》に考える年でなかったし、勘当なんて古風でロマンチックだわ、というぐらいのところだったから都合がよかった。
邦彦は、真紀子の口を通じて“ボニー”に関するあらゆる情報を得た。真紀子はよくしゃべった。ただし、自分の家族のことは、父が商売をしてて絶えず外泊をすること、継母と連れ子の弟は彼女をいつまでも他人の目で見ていることなどしか話さなかった。真紀子も継母とは打ちあけた話は交わさないし、継母も真紀子がどこで泊って来ようと気にかけない様子だった。
このことも邦彦にとって好都合の条件の一つだった。邦彦と真紀子がちょっとした口争いの|真《ま》|似《ね》|事《ごと》をするのは、真紀子が邦彦を友人に紹介したがるのに邦彦がのらりくらりと言い逃げする時と、一緒に並んで写真をとりたがらぬ場合だけだった。それに、邦彦は“ボニー”にプッツリ通わなくなった。
一月も半ば以上過ぎたある夜、邦彦は|牛《うし》|込《ごめ》の都立高校の構内にいた。宿直の教員の目をのがれることぐらい簡単だった。
宿直員や小使が眠りこんだ午前三時、邦彦は化学の実験室の|鍵《かぎ》をピンセットで外して静かにドアを開いた。
窓にはカーテンが降りていた。邦彦は懐中電灯の光を頼りに、実験準備室にもぐりこんだ。
ストーブをはさんだ机の上はきちんと整理されていた。壁ぎわの|棚《たな》には、無数の|薬瓶《くすりびん》が鈍く光っていた。
赤地に黒のされこうべを描いた毒薬のキャビネは、右側の|隅《すみ》にあった。鍵を外すのに一分とかからなかった。
目ざす|褐色《かっしょく》の瓶はすぐに見つかった。Chroral Hydrate―|抱《ほう》|水《すい》クロラールだ。インチキ・バーでノック・アウトと呼んでいる麻酔剤だ。
その無色の液体を、邦彦は用意のスポイトで吸いあげ、ポケットから出した小瓶に移した。大瓶の指紋をハンカチでぬぐいさり、キャビネに鍵を掛け戻して部屋から出た。
邦彦は犯行の日を次の月曜日に決めていた。日曜日から待ちくたびれた銀行利用者が朝からおしかけて預金の出し入れの動きが活発になると見込んだからだ。そのためには、会社を休まないといけないが仕方がない。邦彦は土曜の午後から月曜にかけて山に登るということで、前もって課長に月曜日の有給休暇を願いでて、簡単に許可された。新東商事はこの頃は不景気で、大した仕事がないのだ。
月曜日の朝、邦彦はオースチンを飛ばして群馬県の沼田に着いた。そこに住んでいる“ボニー”のマスター白木の父のくわしい住所は、真紀子から聞いて知っている。川に|挟《はさ》まれた小都市だが、外来者を一目で見分けるほど狭くはない。邦彦は毛の耳かくしをおろしたスキー帽を目深にかむり、マフラーで鼻のあたりまでおおっていた。
市の中央郵便局は、かなり人の出入りが|烈《はげ》しかった。古着屋で買った厚手のオーヴァーを着こんで野暮ったい|恰《かっ》|好《こう》をした邦彦は、電報の頼信紙に左手で書きこんだ。
電話電報にした。その方が時間があう。宛名は“ボニー”の白木、発信人はこの沼田に住む白木の|伯父《お じ》にした。電文は「チチキトク スグ カエレ」と簡潔だった。
料金を払って外に出ると、|凍《い》てついた地面に粉雪が降り落ちていた。邦彦は車にとびのって、東京にむけて疾走させた。|硬《かた》く細かな粉雪が、ウインド・シールドに群れをなして叩きつけられ、急速にとけて流れた。
浦和のあたりで雪は消えた。下落合の家に着いた邦彦はオースチンをガレージに納め、手早くオーヴァーを脱いだ。軽いトレンチ・コートと替える。尻のポケットに、ベレッタ〇・二五口径の七連発自動拳銃を隠す。“光洋丸”で花井組の用心棒から奪った小さく平べったい拳銃だ。二十五口径弾を一箱、背広の内ポケットにしのばす。短機関銃グリース・ガンは、予備の弾倉や実包と共に、オースチンの横に並んだヒルマンの床についた隠しポケットの中に仕舞ってあるのだ。
邦彦は高性能のエンジンを付け替えたヒルマンを発車させた。すでに午前十一時十五分である……。
“ボニー”のマスター白木は、折りたたみ椅子に腰をおろして、カウンターのむこうで新聞を読んでいた。今日は朝からはやっていたのだが、やっと客足が落ちて、テーブルには四、五人の学生しか残っていない。
真紀子はカウンターに|肘《ひじ》をついて、内側からだけ見とおすことの出来るマジック・ミラーの表戸に視線を放っていた。薄ら寒い道路を疾走する自動車を見るともなく|眺《なが》めながら、ぼんやりと物思いにふけっていた。きのう、あの人と会ったとき、今日はこの店に顔を出してくれると言っていたが、本当かしら。
気だるい空気を破って電話が鳴った。真紀子は反射的に受話器をとりあげた。
「|一寸《ちょっと》、お待ちください」と言って、白木の方に受話器を差しだし、
「マスター、電報局からよ」
「電報? 何だろうな?」
白木は受話器を耳にあてた。受け答えする口調に元気がなく、むっつりした顔が|歪《ゆが》んできた。電話を切り、
「おやじが危篤だそうだ。あとを頼むよ」と、店の鍵を真紀子に渡す。調理服を脱いで、奥の部屋に入る。
残っていた四、五人の学生は、そろって帰っていった。
旧式の背広をつけ、スーツ・ケースをさげた白木がレジの金を持って店を出たのが、午前十一時四十分だった。真紀子一人が、がらんとした店に残った。ガス・ストーブの炎の音が耳についた。
裏戸のかすかに|軋《きし》む音に、真紀子は硬直した。果物ナイフに手をのばしたい誘惑にかられた。
錯覚ではなかった。裏から足音が近づいてきた。真紀子は果物ナイフを握りしめた。
姿を現わした男は邦彦だった。いたずらっぽく笑っていた。
「ああ、びっくりした。強盗かと思ったの」
真紀子は果物ナイフを捨てて、邦彦の胸に顔を埋めた。
「おどかしてやろうと思ってたけど、こっちの方がびっくりしたよ。マスターは?」
邦彦は優しく真紀子の背を|撫《な》でた。
「お父さんが危篤なんですって。|田舎《いなか》に帰ったわ」
「それは気の毒だな。それで真紀ちゃんが一人ぼっちでお店番か。どれ、僕が手伝ってやろう。サンドイッチぐらい作れるよ」
「本当?」
「まあ、腕前を見ていただくんだな」
邦彦は真紀子の体を柔らかく離した。トレンチ・コートと上着を脱ぎ、カウンターの裏側の棚につっこむ。マスターの調理服をつけて、腕まくりしてみせた。
「ぐっと似合うわ」
真紀子はケラケラ笑った。邦彦は真紀子が背を見せているまに、“本日休業”の木札をスポーツ・シャツと左胸のあいだに突っこんだ。ひどく冷たかった。
十二時二十分、三星銀行の現金輸送車が表の車道の|縁《ふち》に停車した。邦彦の瞳は暗く輝いた。
運転手と助手台の警備員が輸送車から降りた。運転台のドアの鍵をかけ、ボデイの後ろに廻って扉を開ける。ライアット・ガンを車中に残した警備員が地面に|跳《と》び降りる。再び後扉に鍵をかける。いつものとおりだ。
「おお、寒い寒い。やっぱり火のある所はなつかしいや」
三人の男は、ガス・ストーブのそばのテーブルについた。
「いらっしゃいませ」
「いらっしゃい」
邦彦と真紀子は愛想笑いした。
「マスターは変ったの?」
輸送車の運転手が邦彦を見上げた。
「ううん、マスターはお父さんが急に危なくなったので里帰りしちゃったのよ。この人は臨時にやってもらっているの」
「へえー、あのむっつりマスターも人の子だな」
「何になさるの?」
「ホットドッグといこう。ソーセージを分厚く頼むぜ。マスターがいないんだから、勉強しろよな。それとビール」
「俺もだ。火のそばでビールを一杯か、乙なもんだ」
邦彦は器用な手つきでフライパンを扱った。真紀子が驚いたほどだった。そして、肉と|脂《あぶら》をふんだんに使った。
「こいつは|凄《すげ》えボリュームだ。気に入ったぜ」
真紀子の手で運ばれたホットドッグを見て、彼等は大喜びした。
「どうもお|褒《ほ》めに預かりまして恐縮です……サービスしついでに、カクテルを一杯おごらせて頂きましょうか。皆様、お見受けしたところ、勤務中のようですが、カクテルぐらいでお仕事にさしつかえるわけはないでしょう。アルコールも棚で眠ってばかりいるのも本望でないでしょうから」
邦彦は、困るわと言いたげな真紀子の視線を無視して、ジンの瓶を棚から降ろす。
「話せるねえ」
ホットドッグを頬ばり、ビールで胃に流しこみながら、輸送車の連中は|喝《かっ》|采《さい》した。
邦彦はシェーカーにジンをたっぷり注いだ。ビターと共に、そっと抱水クロラールをたらす。オレンジ・ジュースを入れて、手早くシェークする。
彼等はそのノック・アウト・ジンフィズを一息に飲み干した。
邦彦は真紀子に、ちょっと、と声をかけて表に出た。“本日休業”の木札をショー・ウインドウの上に立て、カウンターに戻る。
「どうしたの?」
「なに、友人が通ったのかと思ったら、違ってたんだ」
邦彦は笑った。
一番陽気な運転手が、まずガックリ首をたれ、テーブルにおいた腕の上に顔をふせて|鼾《いびき》をかきはじめた。
「どうした。だらしがない。しっかりしろよ」
運転手をゆすぶっていた二人の警備員も、コトンと音がしそうな様子で|昏《こん》|睡《すい》状態におちた。
邦彦は薄い手袋をつけて、表戸の鍵を廻した。カーテンもひく。このガラスは、内側から外側は見透せても、外から内側は|覗《のぞ》けないわけだが、そのままでは心理的に安心ならない。
「一体、どうしたの?」
真紀子は困惑に泣き顔になった。邦彦は優しく微笑して、彼女の体を背後から柔らかく抱きしめた。その髪に顔を埋めながらも、右手は彼等の飲み干したビール瓶をさぐった。
右手が瓶の首を握った。弧を描いた瓶は、凄まじい音をたてて真紀子の頭にめりこみ、|微《み》|塵《じん》に砕けた。真紀子は、邦彦を疑う間もあらずに即死した。髪の間から血を吹いてブッ倒れる。
邦彦は血しぶきをよけて、サッと跳びしさっていた。
真紀子の死体のそばに|蹲《うずくま》り、脈をとる。その瞳は苦痛と悔恨に曇っている。黄色っぽく|蒼《あお》ざめた額は脂汗でぬるぬるしている。
真紀子の手を自分の頬にあてて|瞑《めい》|目《もく》した。その|瞼《まぶた》がピクピクひきつる。自分の暗い顔を覚えている者は消さねばならぬのだ。自分を信じてくれた者にも、目的のためには死と破壊の使者としての己れを崩す事は許されぬのだ。ただ――ただ、真紀子が自分を疑わないまま、ほとんど苦痛なしに昇天したことだけが、慰めのようなものかも知れない。
邦彦は冷えていく真紀子の手をその胸の上で組み合せてやった。
運転手からイグニッション・キーと帽子とジャンパー、警備員から、車のボデイの後扉の鍵のついた鍵束を奪った。
カウンターの後ろの自分の上着から、麻縄を三本出した。運転手や警備員たちを|縊《くび》り殺していく。もうその瞳には感傷は無く、くろがねの冷酷を帯びて|乾《かわ》いている。彼等が断末魔にのたうっている間に、邦彦は自分が素手で触れた物から指紋を消していく。
その作業を終えたとき、犠牲者たちは耳からも血をたらし、紫色にはれ上がった舌をつきだして絶命していた。
邦彦は運転手の服と着替えた。制帽もかむった。自分の服を新聞包みにした。照明を消し、裏口から出た。路地を通って表通りに抜け、落ちついた足どりで現金輸送車に近づく。運転台のドアをあけて中に乗りこみ、|悠《ゆう》|々《ゆう》と発車さす。
横を通る車も、運転手の制服制帽をつけた邦彦を怪しむ者はなかった。
二十分後、人気のない|石神井《しゃくじい》の林のはずれにとめておいた自分のヒルマンの後ろに邦彦は現金輸送車をつけた。
運転台から降り、後扉を大きな鍵で開いてボデイのなかに跳び乗る。メイル・サックが十ほど目についた。
ふくらんだサックの|紐《ひも》をほどくのはもどかしかった。邦彦は飛び出しナイフの刃を起し、手近なサックの口を断ちきった。書類だった。邦彦は次のサックを試みた。証券だ。カッと頭に血が登るのを、大きく深呼吸しておしとどめた。
現金は五つの小型な革袋に入っていた。その三つは案じたとおり通しナンバーの真新しい紙幣、二つがナンバーがバラバラの紙幣だった。硬貨の袋は放棄した。
邦彦はそれらの革袋から出した紙幣をヒルマンのトランクの中の隠し物入れにつめこんだ。あまった紙幣は前部座席の前のフロアの隠しポケットに入れた。
全部で五千万は越えるだろう。いずれラジオが正確な数字を教えてくれる。
邦彦は空にした革袋と運転手の制服制帽を輸送車のボデイに戻した。自分の服に着替えて、後扉をきちんと閉じる。ヒルマンにとびのってエンジンをかける。クラッチを踏んでギアを入れかえる。
邦彦がそのヒルマンを自宅のガレージに戻してしばらくして、大通りはフルスピードで現場に飛ばすパトカーのサイレンで充満しはじめた。
暗 い 春
ラテン音楽を流したラジオにチャイムの音が入り、興奮したアナウンサーの声が臨時ニュースを伝えだした。
寝室でそれに聞きいる邦彦の顔は、ダイヤルの淡い光を受けて、獲物を|狙《ねら》う若い獣のように緊張している。
一発の銃声も鳴らさずに三星銀行の現金輸送車から奪った金は、邦彦の予想を上廻って、八千二百万円の巨額にのぼった。少なくとも銀行側はそう発表していた。ただちに目白署に大がかりな捜査本部がおかれた。三人の輸送車乗員と真紀子の死体は解剖に付されることになった。
奪われた金の三分の二近くが通しナンバーの紙幣である事を、銀行側は公表しなかった。
邦彦は白い歯をきらめかせた。相手の手のうちが読めた。犯人は数人の小人数グループの共犯と見て、そのうちの幾人かが不用意に通しナンバーの紙幣を使うのを待っているらしい。
奪われた紙幣の|通し《シリアル》ナンバーが銀行側に分っているとき、犯人捜査の手段として大体次の様な方法をとる。邦彦はそれを知っていた。
一――直ちにすべての通しナンバーの番号をラジオ、新聞、テレビ、週刊誌等のマスコミ機関に発表して、一枚でも現われればすぐに警察に届けるように要請する。
これは、奪われた金を凍結させ、犯人をじらしてヤケクソにさせる。その間にじわじわと聞き込み捜査を進める。
二――マスコミには発表せず、各銀行や大口商店等にだけひそかに通告する。こうすれば、思慮に欠けた犯人は、通しナンバーのリストが銀行側に無かったのだと思って大っぴらに使う。そのため、簡単に銀行の窓口や店頭で|捕《つか》まることがある。
三――もし、銀行員のなかに共謀者がいると見たら、通しナンバーのリストはある事情でとってなかった、そのため発表したくても出来ないのだと、すべての銀行の窓口に一時的に通告する。
銀行員と内通した犯人は、その情報を得てそれならば安全だと思い、使用したり他の紙幣と交換したりする。
この場合、犯人は自分の住んでいる場所の近くでは用心して使わない。奪われた紙幣は犯人の住居を中心にして点々と現われ、台風の眼のように犯人の居住地がポッカリと残る。あとは刑事の足が網の目をせばめていく。
四――通しナンバーのリストの一部だけを発表し、残りは銀行側にひかえてなかったという事にする。これを知った犯人は、一部の金だけは凍結を余儀なくされるが、未発表の紙幣は安心して使う。その一連のナンバーは、銀行、大口商店、金融機関等と警視庁だけには知らされているから、犯人を|罠《わな》にかけられる……。
犯罪者が通しナンバーの紙幣をサソリのように忌み|嫌《きら》うのは、それがすぐにも自分の命とりともなりかねない、“熱い”紙切れだからだ。
邦彦は車から運びこんだ紙幣の山を寝室の床に積みあげ、手早く|択《よ》りわけて数えていった。
銀行側の発表した数字は正確だった。そして、八千二百万のうちの五千万が本店から支店に送られる数連の通しナンバーの紙幣、残り三千二百万が各支店から回収されたごっちゃまぜの紙幣だった。
長い間かかって略奪金を数え終った邦彦は、通しナンバーの金とそうでないのとを別々のズック袋におさめた。それをベッドの下に|蹴《け》っとばす。ラジオはディスク・ジョッキーの番組に変っていた。
尻のポケットにベレッタ自動拳銃を入れたままなのに気づいて取り出す。|銃把《じゅうは》の弾倉から|挿弾子《クリップ》を抜き、銃の安全止めを外しスライドを引いて薬室の弾を抜く。それらをベッドの枕の下につっこむ。
興奮が|醒《さ》めてくると、急に寒気を覚えた。毛布を頭からかむり、ガス・ストーブに火をつけて、その前で膝を|抱《かか》えこむ。放心したように桜色の火を見つめている。
こうして毛布にくるまっていると想いだす。ハーバードから車で近いボストン湾のシティー・ポイントを。銀色の砂浜で|渚《なぎさ》に打ちよせられた流木を拾ってステーキを焼き、チクチクする毛布をかぶって交わった緑色の瞳のデパート・ガールを。
コロンビアに転校してからは、ほとんど授業に出なかった。グリニッジ・ヴィレージに入りびたり、失った物悲しい青春を再び|噛《か》みしめていた。
プラチナ・ブロンドの女の胸に顔をうずめて、霧雨に乗って漂ってくる港のざわめきに耳を傾け、泥酔しては凍てついた天使の涙のように降りおちる雪片を口に受けた。
冬休みにはアラスカに飛び、トナカイの群れを追って、銃身に皮膚がへばりつく酷寒の荒野をさまよった。朝、目を覚ますと寝袋の上にうず高く雪が吹きよせられ、銃のオイルまでが凍てついて遊底や撃針がうまく動かなかった。
コンチネンタル・タンゴが物憂くラジオから流れる室中に、ガス・ストーブの暖気がまわっていった。
自分には明るく|健《すこ》やかな青春はあっただろうか。心のなかにポッカリと空白な部分が出来て、そこは死んでいた。これは戦争の子だけのもつ|哀《かな》しみか。ただ誇れるのは、ギリギリの青春を血みどろに生きぬいてきたことだけだ。
邦彦は毛布をベッドに戻し、ブライヤーのパイプに桃山をつめた。揺り椅子に腰を落ちつけ、パッパッとブドウの香りのする煙を吐きながら、危険な通しナンバーの紙幣をどう処理しようかと考えこんだ。
どうしても京急がそれを受けとらねばならぬような状況に追いこむのだ。しかも、相手が邦彦だと感づかれずに。
それは、京急は“熱い”|札《さつ》を|掴《つか》まされたと分っても、公表したらかえって京急自身の身を縛るような結果になるようにすればなお面白い。
だが、そのような状況を作るには、今すぐというわけにはいかない。まだ先の事だ。自分が実業界に進出するまで待たねば。それに、“熱い”札には冷却期間が必要だ。
警視庁目白警察署の二階に設けられた現金輸送車強盗殺人事件の特別捜査本部。桜田門の本庁から繰りこんだ捜査一課のベテランのうちに、馬場警部補もいた。
会見室に殺到した記者団を前に、フラッシュの|閃《せん》|光《こう》を浴びた馬場はポケットからハンカチを出して顔を|一《ひと》|撫《な》でした。四十五、六の|飄々《ひょうひょう》とした|風《ふう》|貌《ぼう》だ。
「えー、ただいま解剖の結果が入りましたので発表いたします」
「早くしろよ」
記者の一人が怒鳴った。
「被害者大西良雄運転手二十九歳、同じく警備員荒川澄夫三十歳、ならびに川崎米夫二十八歳の死因は、抱水クロラールで|昏《こん》|睡《すい》させられ、|麻《あさ》|紐《ひも》で絞殺されたものであります。推定死亡時間は午後十二時半から一時までの間……」
「大体その抱水クロラールって何です?」
東洋日報の正田が尋ねた。
「君ならよく知ってるはずだがね。クロラール・ハイドレート、女の子を酔いつぶさせて物にしようとするとき、カクテルに落すあれさ。ノック・アウトだよ。スクリュー・ドライバーよりずっとよくきくって言ってたじゃないか?」
馬場はくだけた口調でニヤニヤした。
「|厭《いや》ですよ、大人をからかっちゃあ。それで、殺された女の子もやっぱり?」
「それで暴行でもされてたら君等はよろこぶところだが……、被害者城真紀子ウエイトレス十九歳は、一服盛られてはいないんだ。ビール瓶で|頭《ず》|蓋《がい》の頭頂部を見事に割られている。瓶のかけらは骨膜を通りこして脳の中にくいこんでいるから、|物《もの》|凄《すご》い力で|殴《なぐ》られたもんだな。即死に近かったようだ。割れた瓶にも指紋は残ってない」
「ひでえ事をしやがる奴がいるもんだな。あああ、生きてたら俺が可愛がってやれたのに」
|不精髭《ぶしょうひげ》の記者が大げさな|溜《ため》|息《いき》をついた。みんな笑った。
「“ボニー”のマスターは、何と言ってますか? アリバイがないんでしょう?」
正田の前の記者が尋ねた。
「いま事情を聴取中でね」馬場は言った。
「会わせてくださいよ」
「何をしゃべったか教えてくれたっていいでしょう?」
記者達は口々に頼んだ。
「いずれ発表しますから……では諸君、どうぞごゆるりと」
馬場警部補は手早くノートをしまい、武装警官に守られて会見室から出ていった。
「待ってくれ、待ってくださいよったら!」
「こら、馬場、待てっ! チェッ馬場のおとぼけ野郎が!」
記者たちは毒づいた。
正田は社に電話を入れて畳敷きの控え室に戻った。タバコの煙で夕暮の部屋はかすんでいた。各社の記者たちが、幾つもの|火《ひ》|鉢《ばち》をかこんで犯人の予想をやっていた。
犯人は大がかりなギャング団で、マスターの白木も一役買っているのでないか、という説が多かった。正田は壁にもたれてじっと考えこんでいた。
記者たちは、大体署のすぐ近くでこれほどの犯罪が行われたのに署の連中がそれに気付かなかったとは、警察はたるんでいるのもいいところだ、と憤慨しはじめた。犯行現場はビールやジュースの空き瓶を回収に裏口から入って来た酒屋の小僧が見つけたもので、その偶然がなかったら発見はもっと遅れたかも知れなかったのだ。ほぼ同じ時刻に、石神井の森はずれに放置されている現金輸送車を怪しんだ中年の夫人が近所の交番に知らせて大騒ぎになったのだ。
正田はタバコをさぐった。袋は空っぽだった。急に空腹を覚えて立ち上がった。そういえば、今朝から何も食ってない。きれいな空気も吸いたい。
写真と取材を兼ねる同僚の藤本に、ちょっと出るから頼む、と声をかけて下に降りた。車道の端には社旗を垂らした車の列が長くのびていた。
トレンチ・コートの|襟《えり》をたてた正田は、目白の駅の方に歩いていった。わざわざ車を使うほどの事もない。空気は冷たく澄み、のぼせた額に気持よかった。|陽《ひ》は急速に傾き、あたりを包んだ青い|夕《ゆう》|闇《やみ》を、学習院の森が黒々と切りとっていた。
正田は学習院の正門と車道をへだてたあたりに近づいた。
一台のタクシーが大学の構内に吸いこまれていった。次は理事でも乗っているらしいダッジ・コロネット、一寸間をおいてブルーバードのタクシーが続いた。
正田のカンにピーンとくるものがあった。通りを横切って大学側に渡った。正門の右側には門衛が|頑《がん》|張《ば》っているので、石垣の|塀《へい》をよじ登り、その上の|生《いけ》|垣《がき》を越えて構内に|跳《と》び降りる。
広い構内は、建物に比べてキャンパスや樹木が多かった。ガス灯のような灯が点在して、樹の枝を交錯したレース模様に浮ばしていた。
本館は奥の方にあった。正田は木陰を|択《よ》って進んでいった。ひきかえしてくる空車のタクシーのライトが、常緑樹の葉を光らせた。
正門の方から|鶯色《うぐいすいろ》のシボレーが近よってきた。ひき返すタクシーのライトを浴びて車内の人影が、はっきり見えた。
助手席には、私服の署長が坐っていた。後ろの座席にはこれも私服の馬場がいた。オーヴァーの襟で顔を隠すようにしていた。その左側は写真で見覚えのある“ボニー”のマスターだ。|蒼《そう》|白《はく》というより黄色くしなびてしまった顔に、熱病やみのような様子を帯びた目が落ち着かなく動いた。写真の印象と大分かわっている。
警部補たちは報道陣をまいて、署の裏口から抜け出たらしい。正田はタクシーを拾ってシボレーのあとをつけた。
その夜十時、社で宿をとってくれた川村女学院裏の旅館に帰った正田は、晩酌の用意を言いつけてからザラ紙に猛烈な勢いで原稿を書きはじめた。
|膳《ぜん》と|銚子《ちょうし》を運んできた女中が、馬場さんと|仰《おつ》|言《しゃ》る方がおみえになりましたが、と言った。
正田はすぐお通しするように言い、酒と|肴《さかな》の追加を頼んだ。原稿を片づける。朝刊の締切りまでにまだ時間はある。
「よう、お邪魔でないかね」
私服の馬場がとぼけた顔で入りこんできた。
「とんでもない。さっきはブン屋を逃げまわっていた馬場さんが、わざわざ来てくれるのは光栄のいたり。ささ、ずうっと楽に楽に」
正田はテーブルのむこうの|座《ざ》|蒲《ぶ》|団《とん》をすすめた。馬場は、どっこいしょ、と坐りこみ、火鉢の炭火でタバコに火をつけた。
女中がお酌をした。肴は中トロの刺身と粒うにだった。女中が二本目の銚子をとりあげたとき、馬場が素早く正田に目くばせした。
「あ、ちょっと男同士で話をすることがあるから、席を外してくれない?」
正田は女中に言った。女中は退った。
「正田君、あんたさっき学習院まで私をつけてきたって話だな?」馬場は苦笑した。
「誰がそんな事言ってた?」
「あんたと私の仲だ。隠す事はないだろう」
「ばれたか。お蔭様で色んな事を知ったよ」
「どうだかな? 学校側のしゃべっただけの話では片よりすぎはしないかい? 記事に書くからには、正確な事を知った方がいいんじゃないかね?」
「ところが、それを馬場さんの方で教えてくれないんだから困るのさ」
「言いますよ。だけど、書くのは一寸待ってくれないかね」
馬場は手酌で飲んだ。
「そりゃ、むごいよ、馬場さん」
「だからさ、時間の問題だよ。特にさっきのように、学習院の生徒が殺されたウエイトレスの恋人だったなんて事は、書かれるとまずいよ」
「だって、あの田代信夫という学生は、きっとその男が自分の名前を|騙《かた》ったに違いないと言ってるんだし、マスターも本物の田代は店に顔を出した事はないって言ってるんだから問題ないじゃないの?」
「マスターの言う事を信用すればね」
馬場は意味ありげに笑った。
「分った。そうか、やっぱりサツはマスターが共犯と|睨《にら》んでるんですね? 書かないよ。書かないから、初めっからの筋書きを語ってくださいよ」
「さあ、共犯かどうかはまだ捜査中だから分らないがね。初めっから言うとだね、マスターは電報を受けとって十二時前に店を出た。電報電話でマスターの郷里の|伯父《お じ》からだ。父親が危篤だからすぐ帰れっていう電報だ」
「電報局で確かめてみましたか?」
「間違いなかった。ところがその電報はニセなのだ。マスターの父っちゃんはピンピンしてるよ」
「じゃあ、誰がそのニセ電報を打ったんでしょう?」
「受けつけた沼田中央郵便局の窓口では、よく覚えてないというんだ。寒い所だから顔はおおっているしな。ただ、言葉に土地の|訛《なま》りがなかったのと、背の高い男だぐらいしか覚えていないらしい」
「頼信紙の筆跡は?」
「左手で書いたらしい、|下手《へ た》くそな字だよ」
「ノコノコ、出かけていったマスターは?」
「沼田の駅を出て|市《まち》のはずれにある自分の生家にむかって歩いていると、ラジオ屋から事件の臨時ニュースが聞えてきた。“ボニー”で四人が殺されているのが発見されたというのを聞いて、カーッと頭にきて、すぐに駅に引っ返して上りの汽車に乗ったそうだ」
「自分の父親が死にかけている、と電報はいうのにですか?」
「それが|奴《やっこ》さんの言う事には、初めっから電報はインチキくさかったそうだ。おやじさんは|叩《たた》き殺しても死にそうにないのに、急に危篤になるのなら病名ぐらい一緒に知らせてくれてもいいはずだ、と思ったという」
「マスターが沼田の|市《まち》で降りたのを目撃した人はいますか? 切符なんか他人の使ったものでも証拠として通用しますからね」
「残念ながら目撃者はいないよ。今のところはね。何しろ自分の生れた市とは言っても、駅のあたりとは大分離れているし」
馬場は言った。
「もし、マスターにアリバイがたたなくなったら面白くなりそうだぞ。みんなは今度の犯行はギャングの仕わざだと言っとるが、僕は反対だ。
ウエイトレスの真紀子の手首かどこかにか|革《かく》|皮《ひ》|様《よう》|化《か》はありましたか?」
「変な事を知ってるね。つまり、殺される前に手首を縄でしばられるとか、頭を割られる前にほかの場所を殴られてなかったかと言いたいんだろう? カスリ傷や殴打のあとがあるとその個所の皮膚が死体では黒っぽく|乾《かわ》いて靴の裏みたいになるからな。無かったよ、革皮様化は。あの|娘《こ》は無抵抗のまま殺されたようだな」
「じゃあ、犯人と深い知りあいだったんだな。あるいはあの娘自身も共犯者だったかも知れない。あの真紀子は処女でしたか?」
「立派な女になってたようですな」
「じゃあ、やっぱり男がいたんだ。マスターかも知れない、田代という学生かも知れない、あるいは田代の名を騙った男。僕は真紀子の女友達の間を聞いてまわってその男をつきとめる。その男がもし犯人でなくとも、真紀子から色んな事を聞いているに違いないんだ」
「まあ、あんたも若いんだ。張りきってくれよ。もっともあんまり色んな事を疑りすぎると頭がおかしくなってくるよ。
こんな場合も考えられる。たとえば、現金輸送車の連中も共犯だったとする、ノック・アウト入りのカクテルを飲んで眠っている間に、どうぞ車を奪ってちょうだいね、という事にしておく。ところが仲間が裏切った。眠ってるまに首は絞められ金は取られっぱなし、どうだいこの話は?」
馬場警部補はとぼけた顔で笑った。
翌朝の新聞は、夕刊に輪をかけてセンセーショナルに輸送車殺人強奪事件をとりあげていた。推理小説界の巨匠たちまでが紙面に駆り出され、事件の推理なるものを書いていた。
邦彦の会社でも、話題は事件のことでもちきりだった。邦彦もしゃべりの群れに加わって、たわいのない事を言っておいた。
実のところ、邦彦にとって、この新東商事に出勤することは、いささか苦痛に変っていた。時間の制約が痛かった。
ここを舞台にしてすでに京急に一億を越す損失をあたえてやった。新東自体としても二千万を|喝《かっ》|取《しゅ》され、邦彦の命令で社長秘書だった貴美子が|密《ひそ》かに切りまくった千五百万の手形は、邦彦から金融業者に渡り、金融業者から会社に廻ってきた。
青息吐息の新東にとって合計千五百万の手形をおとすのは苦しい事に違いなかった。普通ならば事故手形であるから支払いを拒否して、民事でだらだらひきのばすとか、サルベージに廻すとか色々な手が打てるのだが、手形振り出しの事情が事情だけに京急の子会社新東の名にかけても引きとらねばならなかった。すでに社長の実権を失い、京急から送りこまれた監査役たちの意のままになっていた黒松社長は、全財産を投げうって手形の支払いにあて、なかば|癈《はい》|人《じん》のようになってしまった。貴美子が手形を切ったのは立証されてなかったし、立証されればされたで、貴美子は黒松の二号であったから、責任者である黒松は特別背任罪で訴えられても文句がないところであった。無論訴えれば今までやっととじこめてきた臭いものの|蓋《ふた》をとる結果になるから、そんな馬鹿な事はしなかったが。
邦彦はやはり大学院に戻る事を考えていた。講師として学校に出るならば、時間の自由にめぐまれる。そのうちに有能な人物を見つけて自分のデッチあげる会社の社長にすえる。自分は陰であやつる。
窓からは、いつものように三星銀行の構内が見下ろせた。昨日輸送車が襲われてからというもの増員された門衛たちは極度に緊張していた。あの調子では同士打ちでも起しかねない。
夢にまで見た銀行の地下室の大金庫よ。待つのだ、ほとぼりがさめたら必ず開いてやる。昨日、輸送車から奪った金額の何十倍、何百倍をごっそり頂いてやる。待つのだ、ほとぼりが冷め用意がととのうまで。さすがローン・ウルフの邦彦もこの銀行の地下大金庫だけはどう考えあぐねても一人きりで破りきれそうもない。
会社から帰っても、いらいらして心が落ちつかなかった。肉と卵と生野菜の夕食を終えて時計を見ると六時半すぎだった。
車を駆って新宿に出た。〇・二二口径弾のストックが少なくなっているのを想い出したからだ。
新宿に入ると、車の横を、ぞろぞろと無数のアベックが歩いていた。みじめな男とみじめったらしい女が愛しあい、憎みあい、結局は連れこみ宿か安アパートで慰めあう|鼠《ねずみ》の幸福か。幸福とは変な言葉だ。男には幸福なんかなかったはずだ。少なくとも自分のような男には闘いあるのみだ。
二丁目の銃砲店には、一人だけ先客がいた。飾り|棚《だな》のガラス戸をあけて、重いレミントン40Xの小口径射撃専用銃のボルトを動かしていた。
その横顔に見覚えがあった。若杉教授の研究室で紹介された事のある大学院学生の町田だった。ひきしまった|眉《まゆ》には、数年前の邦彦もこうあったかと思われるあどけなさがある。
町田は残念そうに銃を棚にもどした。その棚のスチーブンス小口径自動|装《そう》|填《てん》式のコッキング・ボルトをひこうとしても動かない。いくら安全装置をカチカチ掛けたり外したりしても、ボルトの先のボタンを引いておかねば動かない。
邦彦は町田に近寄り、町田の手にした銃のボルト・ボタンをひいてから撃発装置にしてやった。
「今晩は、町田君」
「今晩は、伊達さん。よくここにいらっしゃるんですか?」
「ああ、……君は? 初めてじゃないでしょう?」
「ええ、でも手にとってみるだけで買えないから、店の人も寄りつきませんよ」
「気楽でいいでしょう。銃は好きそうですね」
「いいですね。機能と形態がこれほどマッチしているものは日本刀と銃器以外にないでしょうね」
町田は目をつむり、|恍《こう》|惚《こつ》とした表情で引金をカチッと落した。邦彦と並ぶと二寸ほど低いから五尺六寸ぐらいだ。若々しい顔は清潔だ。
「買いたいんだが、僕、おやじの家を出ているんでゲルの方が弱いんでね」
「家を出た?」
「アパート暮しなんです。ぼくだけ文科系の劣等生なんで家にいづらくて、生活費だけは|捲《ま》きあげに帰りますが」
町田は白い歯を見せた。
邦彦は、レミントン・マッチの弾を十箱買い、一杯やらないかと、町田をさそった。
二人して車に乗りこみ、東宝裏のバーに入った。町田は悪びれずにとまり木に腰をおろした。女給が、あら、この|方《かた》は弟さん、と言った。町田の飲みっぷりもよかった。
「ぼくは戦争に希望をかけて生きているんです」
何かの拍子に町田は言った。
「分るな、君の気持。つまり現在の生ぬるい退屈な現実にうんざりしてるんだろう?」
邦彦は言った。
「そうなんだ。しかし、こんなみじめな時代がいつまで続くもんか。入社した時から退職金の計算でもしてないと生きがいのないこんな馬鹿げた時代が。今に僕等の時代が来る。青年の時代が。それは戦争か革命だ。どっちでもいい。僕たち青年のエネルギーを爆発さすにはそれ以上素晴しいものはない」
町田の頬はひきしまり、首筋の髪がたってきた。
「そうだな。もっとも僕等のエネルギーを利用して|儲《もう》けるのは大資本なんだ。そのためにも彼等は僕たち若者を、あっさり戦死した方がもっと男らしい事だと思いこますほどに追いつめたわけだが」邦彦は言った。
「誰が儲けようとそんな事は僕に関係ない。僕は僕自身のために機銃の雨の中で死んでいきたい。一瞬間でも自分は力一杯生きたいという実感を味わうために。それで運よく生き残ったら、闇トラックでも動かして盛大に儲けて盛大にばらまいて自滅しますよ」
町田は|昂《こう》|然《ぜん》と|瞳《ひとみ》を輝かせていた。邦彦はこの男はうまくやればこれから先自分の仕事に使えそうだと思った。それで、別れるとき射撃競技銃を貸してやるから、次の日曜に小石川射場で会おうと言った。町田は承知した。
目には目を
月日はゆるやかに歩をすすめていった。
邦彦は新東商事を円満に退社し、四月の新学期から母校大学院の講師として最近の米文学の傾向を教えていた。
講義は週に二時間、|給料《ペ イ》の安さは初めから問題にしてなかった。自分の暗い素顔をカムフラージュするためには適当な職業であるし、時間の余裕が十分にあるのが便利だった。
町田とは、あれからたえず密接な連絡をとり、弟のように目をかけた。邦彦が漂わす危険な毒は町田の内部から徐々に、しかも間断なく|腐蝕《ふしょく》させていった。
町田は邦彦に心酔した。邦彦はときどき町田のなかに、かつての|己《おの》れの姿を見ることがある。妹の晶子の危篤を知らす電話を受けとったのは、五月にしては薄ら寒い夕暮だった。電話はお茶の水の産婦人科医院からであった。
邦彦は読んでいた手形法の判例集をそのままにして、ガレージに走った。頭の|隅《すみ》から血が遠のいていくようだった。
車のラッシュ・アワーなので、予想外に時間をくわれた。邦彦は何度か交通法規を無視した。
医院の名前は水原といった。明るいクリーム色の建物を持つ個人病院だった。
看護婦に案内され、|磨《みが》きあげた階段を登り、二階の病室に着いた。
病室にはベッドが二つあった。右側のベッドのそばに立った若い医者と看護婦が、沈痛な面持ちで邦彦に頭をさげ、足音を忍ばせて病室から去った。
晶子は顔の上に白布をかけられ、静かに横たわっていた。病室の壁も白、シーツも白だった。
邦彦は床に膝まずいて白布をとった。晶子の死に顔は美しかった。死が命とともに苦悩を遠くに運びさったのか、晶子は安らかにまどろんでいるようにみえた。かすかにむくんだ唇が見果てぬ夢をいとおしむように開かれていた。
邦彦は冷たいむくろの手を己れの掌で包み、その上に額をおしつけた。目を閉じた。
つきあげるような|哀《かな》しみが邦彦をとらえた。血を分けた二人きりのうちの一つの生命が、ここに|空《むな》しく消えたのだ。邦彦の中で、再び何物かが音をたてて|崩《くず》れた。
|虚《むな》しさのあとに、|烈《はげ》しい怒りが渦まいてこみあげてきた。邦彦は乾いた瞳をあげ、白々しくたちふさがる分厚い壁を凝視した。
晶子が妊娠している事は気づいていた。矢島雅之が出産を望まぬ事は察しがつく。近頃の晶子の心と体のやつれは目にあまった。
晶子を合法的に殺したのは雅之だ。邦彦の瞳は凶暴な光を帯びて、|復讐《ふくしゅう》に|硬《かた》く|渇《かわ》いてきた。
院長の水原はしなびたような小男だった。|毅《き》|然《ぜん》とした態度をとろうとしてはいたが、眼鏡の奥の瞳が動揺していた。
「妹さんでしたか? いや、何ですねえ。手術する前に、もしもの場合の連絡先を書きこんで頂いたんですが、あなたのお名前をお書きになりまして、その名前の方が御主人だと申されましたので……。まったくお気の毒なことでした。
ええ、七カ月でした。母体が衰弱しきってましたので、あのままだと胎児と共倒れになる可能性が十分でした。|勿《もち》|論《ろん》、手術は妹さんの御希望でした。私たちとしましても拒む理由はなかったのでお引き受けしたのですが、あんな結果になろうとは……」
「妹は一人でここに?」
邦彦は尋ねた。表面は落ちついている。
「女中さんか、派出婦のような人と御一緒でしたが、その人は手続きを終えると帰ってしまいましたよ」
院長は目を伏せた。
雅之は、スキャンダルと|九篠《くじょう》典子との婚約の解消をおそれて、あくまでも表面に出ないように用心したのだ。そっちがその気なら、こっちはその上をいってやる。邦彦は心に誓った。
晶子のアパートで行われた|淋《さび》しい|通《つ》|夜《や》の席にも、雅之は現われなかった。かわりに、|滑《なめ》らかな口調の執事が|嵩《かさ》ばった香典を持って訪れた。
「折角ですが、頂くわけにはまいりません」
邦彦は冷たく言った。
「それはまた、どうした御事情で?」
執事は|呆《あっ》|気《け》にとられた。
「あなたの御主人の矢島雅之氏は、死んだ妹と深い関係があったはず。妹の遺体に線香の一本もたむけてくださってこそ、妹が喜びますでしょうに」
「そう意地をはらずに、そこを何とか……」
「黙って受けとれと|仰《おつ》しゃる?」
「正直に言いましょう。この香典は五百万です。これだけあれば、あなたにとっても一財産。ここは素直に若様のお志をお受けになったほうが身のためじゃあございませんか?」
執事は|狡《こう》|猾《かつ》に笑った。
「僕は五百万で妹の|生命《いのち》を売るほど落ちぶれてないはずだ。そんな端た金は納めてお早くお帰り願います。僕はただ雅之氏に男らしく責任をとってもらいたいだけだ。済まなかったと、世間に|詫《わ》びてもらいたいだけです」
邦彦の瞳は|碧《あお》みを帯びて細められ、|喉《のど》の奥から|凄《すご》|味《み》のきいた声が出た。
執事の顔色が変った。
「一寸お待ちください。すぐに出直して参りますから。決して新聞に発表するような早まった事をなさらずに」
と、卑屈に頭をさげて出ていった。
再び執事が現われたとき、彼は矢島家の顧問弁護士を連れていた。
三者の間で、一語も|恐喝《きょうかつ》という言葉は使われなかった。しかし、執事と弁護士が去ったあと、邦彦の手もとには五千万円の小切手が残った。
一週間後、矢島雅之と九篠典子の結婚式が帝国ホテルで|華《はな》|々《ばな》しくおこなわれた。
邦彦は四千万円で日本橋江戸橋にがっしりした土地つきのビルを買った。
そして、資本金五千万円で株式会社南北商事をでっちあげた。社長は町田にし、重役陣は|傭《やと》った。自分は陰に廻って非公式の顧問になった。
ビルは町田の名義にしたが、三階は期間十年間賃料前払い済みという名目で、こっそり邦彦の賃借権の登記をしておいた。これならば、町田が裏切ってビルを売りとばそうとしてもうまくいかない。
会社を作るときには、原則として資本金を規定額に達するまで銀行に供託して、法務局で設立登記をしてもらわなければならない。
しかし、資金の回転に血の汗をしぼる実業界だ。取引銀行に利子を払って預金以上の預金証明をしてもらって供託金の代りにする。幽霊会社を作るには、よそから会社設立の手続きに必要な二日か三日間だけ金融を受けて見せ金の資本金として払いこみ、登記終了と同時に引きだして返済したり、色々な手で回転資金を浮かそうとする。
一番悪質なのは、不渡り手形を二束三文で集めてきて銀行に利子を払って澄ましている。
邦彦は町田に資本金を渡し、一方では公正証書つきで町田からその借用証をとっておいた。金の出所は、晶子の死に関して矢島家からごっそり頂いた金額を誇大に伝えておいた。町田だけにはある程度の秘密を打ちあけておかねばこれからの仕事にならないし、町田は町田で邦彦の暗い素顔を知って感嘆こそすれ尻ごみするようなことは絶対にないようになっていた。
こうして、従業員二十七名の南北商事は発足した。主に化学甘味料を扱った。
大学院を中退し、家族と縁を切った町田は、青年実業家としての地位にいたく満足した。邦彦の指令どおりに動くロボット社長ではあったが、|小《こ》|遣《づか》いはふんだんに使えた。連夜盛大に豪遊したが、陰であやつっているのが邦彦であることは口外しなかった。
傭った三人の重役たちは、毒にも薬にもならぬ連中ばかりだった。月給さえもらえれば、あと考えるのは商用にかこつけてバーやキャバレーのツケをいかにうまく会社に廻すかということぐらいだった。
邦彦は大学院の講師と南北商事の黒幕の両方を、超人的なエネルギーで続けてきた。町田は若僧と甘く見られてたびたびインチキ会社に手形をパクられたが、そのサルベージを引き受けるのも邦彦の役目だった。
十一月に入った頃、会社は合計千三百万ほどの赤字になっていた。その赤字とひきかえに、南北商事の手形は堅い、という信用を各メーカーからかち得ることが出来た。
邦彦はこの信用の出来るのを待っていた。
十一月十四日、南北商事はずっと取引のあった新日本化成から大量の甘味料を仕入れ、二億六千万の手形を切った。新日本化成は京急コンツェルンの子会社だった。
当然の事ながら、新日本化成は南北商事の手形に社長町田個人の個人保証をとり、債権質として南北ビルを担保にとった。町田の個人保証をとっておかないと、会社の借金は個人の借金でないから、南北商事がお手あげして、再び新会社をでっちあげたところで、町田に旧南北商事の旧債を払わすことが出来ないからだ。
南北商事は、新日本化成のほかの二十五社からもそれぞれ一千万程度の少額の手形を切り、商品を仕入れた。その程度の額なら、今までの信用で無担保で済んだ。
そして――翌年一月の中頃、仕入れた商品をほとんど原価で問屋に廻して換金し終ると共に、計画どおり倒産した。バンザイをする前に、架空の債務をでっちあげておいた。
もし、担保の四千万のビルを取りあげられたとしても、新日本化成から二億六千万、各社から約二億五千万パクったわけだから、差しひき四億七千万が儲けになった。
町田に五千万円の報酬をあたえたところで、邦彦の純益は四億を上廻る。それに、ビルにしても、誰の所有になろうと、三階は十年間は邦彦がただで使う事が出来る。賃借権の登記がしてあるからだ。これでは、南北商事がビルを競売にかけても仲々買い手がつきそうにない。
倒産した南北商事には町田一人が残っていた。押しかけてくる債権者を前に、薄ら笑いを浮べた町田は、|揉《も》み手をしながらバッタのように頭をさげ、
「不肖私、力のかぎり努力いたしましたが、残念ながら力たりず、こと志とことなって、このような事態にたちいたりましたことは、まったく私の責任でございまして、何ともおわびのしようもございません。
しかしながら、詐欺やカラスでない証拠に逃げも隠れもいたしません。誠心誠意たとえ月賦ででもお支払いしていきたいと考えていますので、どうか皆様お情けをもちまして不肖私に立ち直る機会をお与え下さりまするように切にお願いいたします……」
と、こわれたレコードのようにくりかえしていた。
債務者である町田に財産はないし、ビルは新日本化成に優先弁済されているのでは、各社の債権者たちが取り立てる事の出来るのはわずかに南北商事の事務机と計算器とルーム・クーラーだけであった。これでは分配したところで債権者は何も得るところはない。
つまり、南北商事を破産させるのは債権者たちにとってまったく都合が悪かった。和議を成立させて町田に事業を続けさせ、時間をかけて不渡りになった手形の金を回収する方がまだましだと、債権者の意見が一致した。
南北商事は人員をわずか五名に縮小し、三階の一室で申しわけ程度に細々と事業を再開しはじめた。そして、月わずか二、三万ずつ各債権者に払っていった。
破産宣告をうまうまとのがれた町田は、邦彦からもらった五千万の報酬を前に痛飲した。このように男らしくデカい仕事をやりとげたあとの気分は|爽《そう》|快《かい》だった。それとともに、これだけの大仕事を演出した邦彦に絶対的な信頼感と底知れぬ|畏《い》|敬《けい》の念を感じた。邦彦さえついていてくれれば、どんな事でも出来そうな気がしてきた。
その邦彦は……矢島雅之の妻となった典子と接近するチャンスをうかがっていた。典子に何の恨みもあるわけでない。しかし、晶子が雅之の愛人であった以上、典子の心と肉体を我が物にし、しかもそのことを夫の雅之に知らしてやるのが、最も冷酷な|復讐《ふくしゅう》の方法だと思っていた。
雑誌や週刊誌のグラビアには、仲よく寄りそった雅之と典子の写真がよくでていた。編集者が創作したらしい二人の|睦《むつ》|言《ごと》ものっていた。時には腰かけた若夫婦の後ろに矢島裕介が立ち、泰然と笑っている写真があった。
それを暗く燃える瞳で見つめながら、邦彦はキリキリと歯ぎしりした。いまに見るがよい。彼等を|陽《ひ》のあたる安住の場からひきずりおろし、死にまさる苦しみを与えてやる、時がきたら。邦彦は目だたぬように京急電鉄の株を買いに廻っていた。
十二月のある日、料金前払いでひそかに依頼してあった興信所から矢島典子に関する調査報告書が、邦彦が下落合局に設置しておいた|私《し》|信《しん》|函《ばこ》にとどいた。
お尋ねの矢島典子の件について御報告申しあげます……に始まる報告書は、和文タイプで十数枚もある詳細なものだった。典子と雅之の仲は、各誌上に伝えられているほど睦まじいものでなかった。雅之は連夜待合づきあいで、夜の帰りがおそい。典子にはまだ懐妊の気配はない。
典子は普通週に三度、運転手つきのキャデイラックで外出する。月曜と金曜が銀座の美容院行きだ。美容院で全身マッサージを受け、髪を調えてもらい、日比谷に車を廻してロード・ショーを|覗《のぞ》いたり、音楽会を聞いたりする。高級洋装店にも週に一度はかならず寄り、高名なデザイナーの手によってパリ直輸入の服地で新調してもらう。六時までには帰宅する。
あとの一日は、文豪衣川幸夫の広いサロンで行われる火曜会に出席する。典子が娘時代から続けている習慣だ。
火曜会は派手で世話好きの衣川夫人が主催する上流階級の文学愛好者の交遊の場だ。週に一度火曜日の夜、作家や批評家を招いてワインやコニャックのグラスを傾けながら楽しく語りあうのだ。若い作家にとって火曜会のサロンに招かれるのは芥川賞を受賞したときに劣らぬ感激である。
会員は男女だいたい十五人ずつ。会費は月五千円。主催者の衣川夫人は四十歳、涙もろく、まだジミー・ディーンの死を認めない。子供は三年前に死んだ。
会はときとすると深夜の一時二時まで続くことがある。中座は自由だが、典子はこの|雰《ふん》|囲《い》|気《き》がよほど気に入っているのか、大てい最後まで残る。矢島家でもこれだけは大目にみているらしい……。
邦彦は笑った。瞳は文面にくぎづけになっている。
翌日、セーターにコーデュロイのコートをひっかけた邦彦は、田園調布の衣川邸に車を駆った。衣川邸は、欧州の古城を模した建物だった。つたがまつわりついていた。
玉石を踏んで透かし彫りのはいった玄関のノッカーを鳴らした。右手のガレージにスポーツ・カーが見える。
二十歳前の女中が出てきた。
「どなた様で? 先生はお仕事中ですから、どなたにもお会いになりませんけど……」
「いえ、奥様にお目にかかりたいのです。僕はこういう者です。お願いがあって参りました」
邦彦は清潔な微笑を浮べて、大学院講師の肩がきの入った名刺をさしだした。
「そこでお待ちになっていてください」
女中は玄関ホールの古風なソファーを指さした。邦彦は十五分以上待たされた。
二階から|螺《ら》|旋《せん》階段を伝わって、外出着をきてハンドバッグを|抱《かか》えた衣川夫人が降りてきた。黒いスリップだ。脚はまだ娘のように若いが、丹念に手入れした顔はさすがに年を隠しきれない。その顔がこぼれるような笑顔をつくっている。この女は|面《めん》|喰《く》いだと、邦彦は直感した。
「まあ、すっかり待たしちゃったわね。ごめんなさい」
その視線は、恥じらいを含んで目をふせる邦彦の顔の上を|舐《な》めるようにはいずる。
「いいんです」
邦彦はわざと世慣れぬ青年が照れかくしに言うように、ぶっきらぼうに|呟《つぶや》いた。
「お話なら、車の中で伺うわね。銀座まで御一緒じゃあおいや?」
夫人は言った。
「僕も車に乗ってきている。運転なら奥さんより|上手《う ま》いと思う」
邦彦はディーンばりの上目づかいをした。
「大変な大学の先生ね。乗せてくださるのなら、いやとはいわないわよ」
夫人はねっとりと言った。邦彦の身振り口ぶりのなかに、夫人の母性本能をこころよくくすぐるものがあった。
邦彦は黙りこんだまま車を乱暴に運転した。左側に坐った夫人は大げさな悲鳴をあげて邦彦にすがりつき、硬くしなやかにふくれあがった邦彦の筋肉の手ざわりを楽しんだ。
邦彦が火曜会の会員にしてくれと申しこんだとき、夫人は即座に承知した。そのかわり、夫人は言った、お買いものにつきあってね。
夫人は適当にすねてみせる邦彦をひきつれて、|雌《めん》|鳥《どり》のようにアクセサリーの店や名店街を歩きまわった。邦彦にも、スポーツ・シャツを買ってくれた。
一休みに入った茶房で、邦彦はどもるような口調で唐突に言った。
「奥さんは、僕のおかあさんのようだ。ぼくのお母さんは奥さんのように若くてきれいで優しかった」
「私もあなたを死んだ息子の生れかわりのように思ってるの。いつでも遊びに来てよ」
夫人はまるで喉を鳴らす猫のようだった。
こうして邦彦は、夫人を通じて典子とまみえる機会を持つことになった。
次週の火曜会の夜、新会員である邦彦は今までの会員に紹介された。
典子は邦彦と目が会ったとき、邦彦の暗い瞳の奥から放たれる磁力にひきずりこまれそうになり、|慌《あわ》てて視線をそらした。
それから何度か、二人は衣川家のサロンで会った。
邦彦は大ていの場合、傍若無人にふるまった。しかし、その彫ったように若々しい面だちにふっとうかぶ憂愁と、身のまわりに漂う、あきらめを帯びてすねたような趣には、典子の警戒心を解かせ、体のなかにじかに迫ってくるものがあった。
二人は親しく話を|交《か》わすようになった。邦彦は、まわりに透明なとばりをおろし、二人だけの世界を作ることにかけては|凄《すご》|腕《うで》だった。それに女に夢を見させる何物かがあった。
典子は邦彦のような男を今までに見たことがなかった。
ある夜、典子の運転手が病気になったので、典子がハイヤーで衣川家の火曜会に来た。その夜の会は早く終った。
邦彦は典子を自分の車で送った。
ヘッド・ライトの|光《こう》|芒《ぼう》を見つめながら、ハンドルを握った邦彦はポツンと言った。
「僕の妹は、君の主人に捨てられて死んだ。妊娠していた」
さり気なく呟いたこの言葉が典子の人生を狂わした。心のなかに残る最後の抵抗をくじいた。典子は邦彦がハンドルを切って彼の家の方に車をむけるのを、白昼夢のように意識しながらそっと目を閉じた。こうなるのが前からの|運命《さだめ》なのだという思いが、一瞬、典子の|脳《のう》|裡《り》をかすめた。
「邦彦さん、典子の涙ふいて」
外はいつのまにか雨になっていた。柔らかい三月の雨が、弱々しい指さきでカーテンをとざした窓ガラスを|叩《たた》いていた。
暗い部屋にベッドのスプリングがきしんだ。邦彦は汗ばんだ典子の胸にのせていた顔をあげた。
スリーピー・ラグーンの曲が流れ、ラジオのダイヤルの|幽《かす》かな光のなかに、|生《いけ》|贄《にえ》はけむるような|翳《かげ》をなした|瞼《まぶた》をとじていた。
邦彦は小さく短い音をたてて、典子の涙を|接《せっ》|吻《ぷん》でぬぐった。耳たぶに沿って|唇《くちびる》を走らす。おくれ毛に息がかかってかすかに波だった。
典子の腕がのびて、柔らかな髪が波うつ邦彦の頭をかかえ、その唇を自分の乳房におしあてた。邦彦は舌を動かせながら、軽く歯をたてた。
典子の呼吸は再び早まり、心臓の鼓動が部屋にひびいた。
邦彦は長い|溜《ため》|息《いき》をつき、からみあった脚をほどいた。手をのばして卓子のタバコをさぐり、唇にくわえてライターの火を移した。タバコを強く吸いこむごとに、浅黒くひきしまった邦彦の顔と|逞《たくま》しい裸の胸が鈍いオレンジ色に輝く。
闇の中に煙を吹きつけた邦彦は、火のついたタバコを宙の中に動かした。
ボウッとオレンジ色に光る火口は、弧を描き、直線となって闇を切断し、円形をなして流れ、縦横無尽にひらめいた。
「I can give you nothing but love」
典子が声をだして闇にかかれた火文字を読んだ。
「そう、僕が君にあげる事の出来るのは愛だけしかないんだ」
邦彦は答えた。あたたかで、よく透る物憂げな声だった。
「こわいわ。もしこの事が主人に知れたら……放さないで。しっかりつかまえていて」
典子は夢をはなすまいとするかのように邦彦の背に爪をたてた。二人の熱い息は再び交わり、二人のシルエットは重なった。
十二時すぎに、典子は邦彦の家を出た。大通りまで出てタクシーを拾う典子を見送る邦彦の瞳は、複雑な感情をたたえて沈んでいた。
二人は人目をしのんで|度《たび》|々《たび》会った。邦彦は寝室にこっそりテープ・レコーダーをしかけて典子の|喘《あえ》ぎ声と|囁《ささや》きを録音し、十六ミリのフィルムで典子の体のうねりを撮影しておいた。
初夏のある夜、邦彦の|愛《あい》|撫《ぶ》はどこかうわのそらだった。
「どうしたの? 何か考えてるのね?」
典子は不安にかげる瞳をあげた。
「…………」
邦彦は枕に顔を埋めた。
「言ってちょうだい」
「何でもないんだ」
「ね、私に出来ることなら何でもするわ」
「ジャガーのスポーツ・カーに恋をしてしまったんだ。喉から手が出るほど欲しいんだが、五百万では今のとこ手も足も出ないよ。もっともしばらく待てば、|郷里《く に》の山の木が売れるから何とかメドがつきそうだが、それまで待ってたら売り切れてしまう。今、買いそこなったら、今度はいつ日本に入ってくるか分らない凄い車なんだ」
「まあ、そんな事で悩んでいたの。早く典子にうちあけてくださったら、五百万ぐらいなら主人の目をごまかしてどうにか都合出来るのに、……おバカちゃんね」
典子は真珠の歯をきらめかせた。
邦彦はそっと笑った。金だけが目的でない。
雅之の日を盗んで典子を犯し、さらにその典子を通じて雅之の金を出さす。邦彦の暗い復讐の血はさわいだ。
「二カ月したらかならず払うから心配しないでくれ」
邦彦は喜びをむきだしにして典子を抱きしめた。
翌朝、明るい|陽《ひ》のさす矢島家の食堂で、典子は雅之に甘えた。
「また、何かおねだりかね?」
雅之は苦笑した。
「今日は私の事でないの。言っていいかしら。言いにくいわ。いいわ、思いきって言うわね。うちの母の実家で急に|入《もの》|費《いり》があったの。急ばらいでしょう。うちの父に言えばすぐにも都合出来るでしょうけど、母の実家では父にそのことを知られたくないらしいの。困ったわ」
「いくらだ?」
「五百万。二カ月もすれば、かならず返せるそうよ」
「しかたがないな。典子、ちょっと二階にあがって、カバンと印鑑をもっておいで」
「|嬉《うれ》しい! やっぱりうちの|旦《だん》|那《な》さんね」
典子は雅之の首筋にチュッと唇をあてて、パタパタと走っていった。
雅之はサイト九十日、受取人名ブランクで額面五百万の融通手形を切った。手形は邦彦の手に渡り、邦彦の中田一郎という偽名を作って口座を持っている銀行から、雅之に対して手形発行確認の問いあわせがあった。
雅之は確認した。中田一郎という偽名も、典子の母の実家の者が、世間体をおもんぱかって使っている名前と思った。邦彦は日歩二銭六厘で融通手形を銀行で割り引いてもらった。
次の火曜日、邦彦は典子とあったとき、自分の身ぜにを加えた五百万を先づけ小切手で返した。残念ながら、スポーツ・カーは売れてしまっていたと言った。
それからたびたび、邦彦は口実をもうけ、典子を通じて雅之から融手を発行してもらった。
いつも十日か二十日さきの先づけ小切手で返済した。五百万が一千万になり、千五百万になってくると、雅之はまたかという気持で気軽に融手を切った。
邦彦が返済する五千万円の先づけ小切手の決算日がきたとき、邦彦はパカッとそれを不渡りにした。
斜  面
邦彦の偽名の一つ中田一郎振りだしの五千万円の小切手は、預金不足の|付《ふ》|箋《せん》がついて銀行から矢島雅之の|手《て》|許《もと》に戻ってきた。
冷房のきいた京急デパートの社長室で、雅之は|不《ふ》|機《き》|嫌《げん》に唇を|噛《か》んだ。何かの間違いだろうが、一応は妻の典子に知らせて、相手方に注意をうながしてもらわねば。
雅之はインター・ホーンのスイッチを起した。専務取締役の佐藤に、急用で早退するからあとをよろしく頼む、と言いおいて席をたった。二時すこしすぎだ。
秘書の泉川が社長専用車の運転手を呼び出し、雅之のカバンを持った。
エレベーターから出た雅之に従業員たちは最敬礼した。秘書をしたがえてカー・クーラーが涼風を送るクライスラー・インペリアルのクッションに腰をうずめた雅之は、暑苦しい新宿の街をせせこましい足どりで行き交う人々の群れを無表情に|眺《なが》めていた。屋根は直射日光に白金のようにきらめき、化粧|煉《れん》|瓦《が》の歩道には短く真黒な人影がくいこんでいた。
ここに、五千万円の不渡り小切手を無造作にカバンにつっこんだ自分と、自分の一日のポケット・マネーの何分の一かを得るために、連日自由と労力と時間を安売りしなければならぬ庶民がいる。
現代は階級制度が史上でもっとも確立してきた時代だ、雅之は冷たく穏やかな微笑をうかべた。
階級といっても、資本家と労働者というような簡単なものではない。毛並みだ。個人のうしろにひかえるバックだ。それと横のつながりだ。
おやじの代、さらに戦後の混乱時代は違った。運と度胸と腕が一致すれば、下積みだった者が見るまに雲を呼んで巨億の富を築きあげ、支配する側へのしあがる事が出来た。おやじがそうだし、新興の一流会社はすべてその基礎を戦後の|混《こん》|沌《とん》のなかにきずきあげている。
しかし、社会機構、経済組織ががんじがらめに個人の能力をしめつける今の世では、成り上がり者が芽をのばす|隙《すき》|間《ま》はない。野球選手が何千万かの契約金をとり、映画俳優が一本何百万かのギャラをもらい、流行作家が一枚何万円かの稿料を|稼《かせ》いだところで、彼等を使用している側の利益から見れば|雀《すずめ》の涙だ。もっとも、野球や映画の企業や出版業などは中小企業にすぎないが。
たとえ、経済機構の隙間をかいくぐってもぐりこもうとする者がいても、一致協力してそれを締め出すのが我々支配階級の義務である。そして毛並みのいい仲間うちでは、持てる者同士が互いの尻おしをして富と権力を増大していく……。雅之は|燻《いぶ》し銀のシガレット・ケースを開いてスリー・キャッスルを唇にくわえた。前部座席で腰を浮かした秘書が、点火したライターをうやうやしくさしだした。
クライスラーは甲州街道を|笹《ささ》|塚《づか》で左に折れ、北沢の雑木林を貫く矢島家の長い専用道路に入った。専用道路の脇に建った詰め所から制服の私設警備員がとびだして挙手の礼をした。
大理石三階建ての本館のずっと右手に、明るいクリーム色に塗った雅之と典子の若夫婦用の別館があった。ガラスの多い近代的な二階建てだ。
車から降りた雅之は、秘書を応接間に残して典子の居間に進んだ。女中から雅之の突然の帰宅の知らせを受けた典子が、|午《ご》|睡《すい》に乱れた髪を整えながら寝室から出てくるのに出くわした。
典子の|頬《ほお》は桜色にほてり、髪は背後からの光を受けて輪郭が黄金色に燃えていた。
「お帰り遊ばせ……どうなさったの、今時分?」
「うん? ちょっと困った事がおきたんだ。話しあいたいことがあるから書斎に入ろうか」
雅之は女中の目を無視して唇をさしだす典子を義務的に抱擁し、その背にまわした腕に力を加えて書斎のなかにおしいれた。書斎は薄暗く、ひんやりとするほど涼しかった。壁にそって高い|本《ほん》|棚《だな》がとりまき無数の蔵書がおさまっていたが、目を通した本は少ない。
女中が冷たいおしぼりとジュースを置いて去っていった。典子の瞳は、不安と|猜《さい》|疑《ぎ》の色を浮べて動揺していた。邦彦との|情事《こ と》がばれたのかしら。
「これだよ。きのう銀行に振りこんでおいたんだが――」
雅之は五千万円の不渡り小切手をカバンから出してみせた。典子は、まあっ、と驚きの声をあげた。
「この通り|不渡《と ば》されてしまったよ。|親《しん》|戚《せき》同士の貸し借りだから利子もつけないぐらい私の方で心くばりしてあげていたのに」
「済みません、ほんとに」
「君があやまることはないよ。しかしだね、典子、この小切手を振りだした責任者は一体だれなんだ? 君の母の実家のうちの誰なのかね? おじさんかね? おばさんかね?
無論、この中田というのは架空の名前だろう。ちょうど私がいくつもの名前の小切手帳を持っていて、場合に応じて使いわけるように。実業家なら誰でもやっていることだが……」
「…………」
典子は痛々しいほど|蒼《あお》ざめていた。
「だから私は知りたいのだ。今までは君の母の実家の体面を考慮して問いあわせもしなかったが、こういう目にあわされると、礼儀にかまっていられない。責任をとってくれるのは誰なんだ!」
雅之の声は荒くなってきた。
「それは……」
「千万や二千万の金なら私は黙って待つ。しかし典子、五千万だよ。一万円の五倍は五万円だ。しかし一千万の五倍が五千万ではない。金はまとまればまとまるほど効力が幾何級数的に増してくるのだ。
いま催告して小切手の書きかえを請求しなければ、私は債権者としての権利を放棄したと見られても仕方がない。何しろ小切手の時効は六カ月だからね。
それは私も事を荒立てたくはない。しかし、支払い拒絶を伝えに来た銀行の支店長の話では、中田一郎名義の口座に預金はわずか数万しか残っていないというのだ。これではいくら親戚でも誠意を|疑《うたぐ》りたくなるじゃないか?」
「わかりましたわ。何かの手違いかと存じますが、私が参りまして催促してきますわ」
事の重大さに動転した典子はやっと声を出した。
「そうか、君が行ってくれるのか。それは有難い。君だったら事を荒立てずに済むだろう」
雅之は瞳の色を柔らげた。
典子は|伯父《お じ》九篠光夫の経営する上野国際ホテルの車寄せにキャデイラックをとめた。
上野国際ホテルは広小路の繁華街のどまんなかにある。地上七階、地下三階のスマートなビルだ。三階から一階までは各商社に部屋を貸し、地下は名店街と広大なガレージになっている。
典子は千円札を運転手に渡した。
「伯父さんに会ってくるわ。時間がかかるかも知れないから、食堂でテレビでも見ててちょうだい」
「いつもどうも」
髪の薄くなった運転手は恐縮した。典子をおろして、地下のガレージに車をむける。
典子はロビーに足を踏みいれた。白服のボーイがあちこちにたむろし、サリーをまとったインドの女やアロハ姿の米人の相手をしていた。
典子はロビーを右に折れ、商社の並ぶ廊下を通ってビルの横手の通用口から外に出た。緑色のタクシーを呼びとめて乗りこむ。
「下落合まで急いで、これチップよ、とっておいてちょうだい」
と、千円札を二、三枚握らす。感激した若い運転手は乱暴にギアを入れかえて、アクセレーターにかける右足をふんばった。タクシーは先行する車を追い抜いた。下落合の家では、|腋《わき》の下の|革ケース《ホルスター》にルーガー自動拳銃をひそめた邦彦が、水色がかった夏服に身をかためて待っていた。ベッドの上には事務カバンまである。そのなかには典子の夜の|嬌態《きょうたい》をおさめたテープとフィルムの複製が入っていた。
車のブレーキが表できしむ音がした。息をきらした典子が駆けこんできた。
「邦彦さん、大変よ!」
「どうした?」
邦彦は驚いたような表情をした。
典子は口早に事態を説明した。興奮のあまり舌がもつれて、邦彦が水をくんできてやらねばならぬほどであった。
「……馬鹿、邦彦のばか、どうしてあんな事をしたの? おかげで典子は絶体絶命のピンチにおいこまれたのよ」
典子は邦彦の厚い胸に顔をうずめて、小さなこぶしでその肩を乱打した。
「心配しないでいいんだ。やむを得ない事情で支払いがのびてしまったが、僕が一緒にいって御主人に弁明する」
邦彦は優しく言った。
「駄目よ。そんな事をしたら、私とあなたの関係があの人に知れてしまうわ!」
「知れたら|怖《こわ》いかい?」
「怖いわ! あなたは怖くないの? 典子は怖いわ。それに、あのお金は母の実家のつなぎ資金にするってことで、あの人から出してもらっていたのよ。それをあなたに渡していたことが分ったら……」
「だから、僕が君の母の実家の代理人になるんだ。そして御主人に会ってしばらく支払いをのばしてもらえるようにおねがいする」
「大丈夫かしら。あぶないわ。それより、どうしてあなたはあのお金を払えないようになったの? ね、言って! 典子にだけでも」
「株を買ったんだが、ジリ貧に値下がりしているんだ。しかし、十日以内に急に暴騰するという情報を手に入れた。もう少しだけ待ってくれたら、利子をつけて返すよ」
邦彦は白い歯を|閃《ひらめ》かせて笑った。株を買ったというのは事実だった。しかも――京急電鉄の株だ。毎日邦彦は散乱している群小株主の間を廻って、プレミアつきで千株、二千株と少しずつ買い集めていっていた。
|躊躇《ちゅうちょ》する典子をせきたてて、カバンをさげた邦彦は、待っているタクシーに乗りこんだ。シートにもたれてしばらく目を閉じていた典子が、決心したように運転手に行きさきを告げた。
二人は上野国際ホテルの裏口でタクシーを捨てた。ホテルの中に入り、ロビーに出て食堂で待っている典子のキャデイラックの運転手をボーイに呼びにいかせた。
|漆《しっ》|黒《こく》のキャデイラックが北沢のあたりにきたときは、すでに夕暮近かった。死に|瀕《ひん》した太陽が身ぶるいしながら林のかなたにひきずりこまれていった。
矢島家の別館の書斎で雅之はいらいらしながら待っていた。典子にともなわれて姿を現わした邦彦と雅之の視線は、空間で見えない火花を散らした。
「この方が代理人の中田さん。こちらが矢島です」
典子が紹介した。
雅之は視線をぴたっと邦彦の目にむけながら、猜疑のいろをみせて瞳をすっと細めた。
「奥さんは何か間違えていらっしゃる。私の名前は|伊達《だ て》。伊達邦彦と申します。どこかで聞いた事がございませんか?」
言葉はていねいだが、邦彦の瞳は隠しきれぬ感情に|凄《すご》|味《み》を帯びて底光りしていた。唇のまわりが白っぽくひきしまっていた。
「何っ! 君が晶子の!」
「さよう。確かに私はあなたに捨てられて死んだ晶子の兄。そして、あなたの奥様とも特に深くおつきあいをさせて頂いています。共にベッドで罪深い夢をむすぶほど」
仮面をぬいだ邦彦は、|乾《かわ》いた声で笑った。刃物で切断できるほど緊張した書斎の空気のなかを、|虚《うつ》ろな笑声が消えていった。
「|嘘《うそ》! 邦彦さん、そんなことを言っては|嫌《いや》!」
典子が発作的に叫んだ。
雅之は、ギクッと典子に視線を走らせた。苦痛と屈辱に醜くゆがんだ顔がピクピクひきつってきた。
「ここに証拠の録音テープと十六ミリのフィルムがある。複製だから、今夜にでもゆっくりと見るがいい。ただし、忠告しておくがこの種は僕の家にはない。よそに隠してあるから、家捜しして見つけだそうとしても無駄だ」
邦彦はカバンの中身をテーブルにぶちまけ、狂気じみた目つきになってきた雅之を冷やかに見下ろした。典子はソファーの背をかきむしって|啜《すす》り泣いていた。
邦彦の瞳は夢見るように宙に放たれた。気だるげな微笑の浮んだ唇から、単調なモノローグが流れでた。
「僕は典子を愛してはいない。僕には地上で愛する者は誰もいないのだ。晶子だって僕は心から愛することは出来なかった。
しかし、晶子は僕の妹だ。この世で血を分けあった唯一人の妹だった。その妹が君のような男の|嬲《なぶ》り物にされてむなしく死んでいったのだ。確かに僕は晶子の死にたいして君からかなりの額の|追《つい》|悼《とう》|金《きん》を頂いた。だが、僕にもまだ人間の心はちょっぴり残っている。君がいくら金を積もうと、晶子の死との差し引き勘定はゼロにならないのだ。君も晶子と同じように苦しまねばならぬのだ」
邦彦は言葉を切った。長い沈黙が続いた。典子はうつろな瞳を放心したようにあらぬ方にむけ、雅之は大きく肩で呼吸していた。
「晶子は……死んでしまった。悪かったと思っている。だが、死んでしまった今となっては……私としては……金で誠意をしめすほかない。いくら……欲しい?」
雅之は|喘《あえ》いだ。
「晶子の死は金ではつぐないはつかない。だが僕と典子の関係を世間に口を|噤《つぐ》んでおく代償として、融資を受けた五千万はしばらく借りておく。
安心するのはまだ早いよ。それどころか、君たちの運命は僕の手中にあるんだ。僕がその気にさえなれば、君たち夫婦の恥はまたたくまに知れわたるのだ。僕の気分次第でね」
邦彦は唇から微笑を消さなかった。
その夜、邦彦の家を襲った矢島家の子飼いの殺し屋三人は、手足を|薪《まき》のようにへし折られて路上に放置された。
一週間後、不安と焦慮にたえかねた典子は、雅之のコーヒーに毒物を入れて無理心中を計った。
翌日、夫婦の寝室のドアがいつまでも開かれないのを不審に思った女中頭は、執事と相談の上、|合《あい》|鍵《かぎ》を使ってなかに踏みこんだ。典子はすでに冷たくなっていた。遺書はなかった。飾り暖炉のなかで、セルロイドで出来たものを燃やした形跡があった。
雅之は汚物にまみれて死に|瀕《ひん》していた。父の裕介が呼んだ名医の手当てもかいなく、雅之は一昼夜|凄《せい》|惨《さん》な苦痛を示したのち絶命した。
口止め料を握らされた名医は、かたずをのむ黒山の新聞記者を前にして、二人の死因は睡眠薬の量をあやまったための過失死だと発表した。
裕介は急に老いこんだ。雅之が社長をしていた京急デパートや観光会社は、大学を出たばかりの弟|義《よし》|之《ゆき》が名目だけをひきついだ。
邦彦は京急電鉄の分散株を着々と買い占めていった。
タカをくくっていた京急ブレインも、年があける頃には邦彦の持株がいつのまにか四十万株に近くなっているのを知って肝を冷やした。資本金三十五億の京急電鉄七千万株のうちで、個人株主として第一位の矢島父子の持株数は百五十万株なのだ。
京急株の単価は百円前後から百二十円近くにじりじり上がってきていた。邦彦がこの様な場合の常識であるカラ買いでなくて、現ナマで現株を手中におさめていることは、京急ブレインにとって不気味きわまることだった。邦彦の背後にとてつもない大物がひかえているという|噂《うわさ》がとんだ。邦彦がそれだけ大きな株数を持ちながら、経営陣への参加を要求しないのも不気味さを深めた。
一月になって邦彦の買いはピッタリとまった。軍資金が乏しくなったのが理由の一つだが、京急側は邦彦が大攻勢に転ずる前の、|嵐《あらし》の前の静けさと思って連日の会議を重ねた。
その予想は、ある面では当っていた。邦彦は最後の大バクチになるかも知れぬ三星銀行日本橋本店の襲撃計画を強引におしすすめようとしていた。
京急は三星銀行の安定株主として一千万株を持ち、五十億からの貸し出しを受けている。その三星銀行を徹底的に打ちのめして、取り付け騒ぎを起さすのだ。破産に瀕した銀行側は、殺到する預金払い戻しの請求者に応じるため、京急に貸し出した融資金の回収を急ぐだろう。
当然、京急は窮地におちいる。回転資金はストップし、株価は下落して争って売りに出る者が続出するだろう。
そこを、三星銀行から奪った金で一気|呵《か》|成《せい》に勝負をきめていく。無論、|狙《ねら》いは矢島裕介の失脚。死よりもつらい絶望状態に追いこむのだ……。
邦彦は熟慮のすえ、町田に自分の計画をうちあけた。
渇望していたとおり、自分も銃火のなかで死に直面出来るのだ。たとえ失敗してあらゆるものを失ってもどうせもともとだ、町田は興奮に酔った。
町田は父の家に忍びこんで、三星銀行の設計図と地下大金庫室の金属製外扉や大金庫のダイヤルの構造を説明したノートを写してきた。大金庫室の外扉は重さ二十トン、電気モーターで動く。大金庫のダイヤルは二万三千のギアの組みあわせで、しかも、|鍵《かぎ》との併用になっている。
頭取だけがダイヤルの組みあわせ番号を知っているが、鍵は守衛長が持っている。
頭取がダイヤルを正しい番号に廻しても、守衛長のつけている主鍵がないと、金庫の扉は開かない。同様に、守衛長が鍵穴に鍵を入れて廻しても、ダイヤルの組みあわせ番号を知らないから開かない。このようにして、金庫の金の横領を防いでいるのだ。
町田は南北商事の仕事を社員にまかせ、夕刻四時半頃、銀行から出たあとの島本頭取の空色のクライスラーを、自分のオースチンで尾行する日が続いた。
頭取のクライスラーは、きまって銀座か赤坂にむかう。融資の廻ってくるのを切望する業者たちや裏金利で|稼《かせ》いでいる資産家の供応にあずかるためだ。帰宅は大てい十二時、一時をすぎる。そのうえ、業者に家つきで世話してもらった芸者あがりの二号を四谷に囲っている。週に二度ほど|妾宅《しょうたく》にとまる。
クライスラーの運転手は十二時をすぎると帰ってもいいことになっている。運転手は車を原宿の自宅のガレージに入れ、翌朝頭取の電話に応じて四谷の妾宅なり、渋谷にある頭取の邸宅にむかえにいく。
邦彦はガレージにこもって旋盤やふいごと取りくみ、拳銃の|消音器《サイレンサー》の製作に熱中した。四、五年前、|S&W《スミス・アンド・ウェッスン》のリヴォルヴァーの銃身に消音器をとりつけるのに成功した経験があるので、その時の苦労を想い出しながらコツコツと作りあげていった。原理はオートバイのマフラーと同じだ。ただし、銃は発射のガス圧が|凄《すさ》まじいので、|下手《へ た》な細工だと、|消音器《サイレンサー》が吹っとんだり、銃の遊底がブッこわれたりする。サイレンサーと形は似ているが、全然用途の違うマズル・ブレーキのように、かえって発射音を耳をつんざくような|轟《ごう》|音《おん》に変えてしまう。
邦彦が消音器装置をとりつけるために選んだ拳銃は二丁だった。〇・二二口径のコルト・ウッズマン十連発と、ワルサーP38九ミリ八連発だった。
この二つの自動拳銃に共通しているのは、|輪胴式《リヴォルヴァー》のように銃身が露出していることである。|遊底被《スライド》が銃身の上にまでかぶさっているスタンダードな型の自動拳銃では、銃身の外円に|溝《みぞ》を切ってサイレンサーをつけることは至難である。
三週間後、試射を終えた二丁の長いサイレンサーは、ガス穴のあいた不気味な姿でガレージの工作台の上に横たわっていた。
邦彦は〇・二二口径用のサイレンサーを取りあげ、町田は〇・三八―九ミリ―口径用を手にもった。|照星《しょうせい》を削り落して溝を彫った銃身にまきつけていく。
〇・二二口径のリム・ファイア弾は、サイレンサーをつけなくても音はごく小さい。特にマッチ・カートリッジと呼ばれる試合用の弾は、風のある広々としたところではほとんど無音に近い。だが、こんな小さな弾でも、急所に当てれば人間は即死する。五メートルぐらいの至近距離では四寸角の柱は軽く貫通するのだ。邦彦はこの〇・二二口径のウッズマンを使って三十メートル以内でなら一発で相手を即死さす自信があった。
しかし、町田となるとそうはいかない。やはり腕が段違いだ。だから、火力の大きい大口径の拳銃を持たしておけば、たとえ弾が相手の急所に当らなくても戦闘力を失わすことができる。ましてワルサーP38はドイツの生んだ最高性能銃の一つだ。使用する九ミリ・ルーガー弾が高速すぎるのと被甲弾頭の先が|尖《とが》っているため、往々にして|四《し》|肢《し》や肩に射入した弾が骨の間の柔らかい肉の組織を縫って表皮から逃げる事があるが、その問題は弾頭を削ってダムダムにすれば解決出来る。
二人は、ガレージの奥に積んだ砂袋の前に立てた二枚の標的にむかって、弾倉のつきるまで速射した。ワルサーのサイレンサーは鈍いこもった音をたてたが、邦彦の持つ小口径拳銃の発射音はサイレンサーに吸いとられて無音といってもいいほどだった。カンで射ったのにもかかわらず、十発の弾はすべてセンターの、どまんなかを貫いて五ミリの狂いもなかった。町田が感嘆の口笛を吹きならした。
二人の次の仕事は、中古のトラックを買ってその横腹に東洋運送KK……とペンキでぬり、ナンバー・プレートを偽造した営業用の黄色ナンバーとつけかえることだった。作業はガレージの中で行われた。車体検査証や営業許可証をでっちあげることなんか、運転免許証の偽造にくらべたら児戯のようなものだった。
邦彦たちはトラックの荷台の中央に、岩乗な|檻《おり》の木箱を固定した。ベビー|箪《だん》|笥《す》を横に寝かして二つ重ねたほどの大きさだった。
木箱の|蓋《ふた》には所々、息ぬきの穴があいていた。その気になるなら、この中に隠れる事も出来る。
それを固定し終った夜、二人はトラックをガレージから出して多摩川に向けた。朝方までかかってトラックに砂利を満載した。木箱は砂利の山の中にかくれた。二人の筋肉は痛んだが、気分は|爽《そう》|快《かい》だった。
…………
東洋日報の正田はブルドッグのように、目白で起った三星銀行現金輸送車事件にくいついていた。とっくに特捜本部の解散してしまったこの頃でも事件の真相を探りかえしたい焦燥感にかられる。
あの時殺された城真紀子というウエイトレスの洋裁学校の女友達に一人一人あたってみた。色々な男が浮んだが、洗ってみると、どれもこれもチンピラ学生であった。
そして、ただ一人、車を持ち、背の高い端正な|美《び》|貌《ぼう》に物憂げな物腰を持った田代と名のる学生だけが、疑惑の影を色濃く残して正田の頭脳に刻みこまれた。
正田は新東商事の社長秘書、若月貴美子の死因を調べているとき、彼女のアパートの住人がちらっと見たという連れの男の特徴が田代という男と一致するのに気づいた。その時、正田の脳裏に、三星銀行と新東商事が道一つしかへだたってないという事実が|閃《ひらめ》いた。
現金輸送車が目白で襲われた事にこだわりすぎていた。なぜ三星銀行と新東商事の距離に気づかなかったか。あのビルからは銀行の裏庭が丸見えだ。正田の|瞼《まぶた》はおのずと、彼の知るかぎりでは唯一人の、端正な容貌に物憂げな物腰の男を写しだしていた。
あの男は確かに新東商事に勤めていた。俺はあの男に貴美子のことを聞いた事がある。あの男はとぼけていたが。
あれだけの学歴を持ち、食う心配もなさそうなのに、大学院の職をふりきって、新東商事でタイプを|叩《たた》いていたのもおかしい。
いや、あれからあの男は新東をやめて大学院の講師になったそうだ。疑って悪かった。いや待て、あの男は新東商事を利用し終ったから大学院に戻っていったのではないか?
正田はわきおこる疑問に頭がくらくらしてきた。あの男の過去を徹底的に洗ってみる価値がある。正田は唯一人でひそかに行動を開始した。
だがその男は、仲々|尻《し》っぽをつかませるような男ではなかった。正田の調査は遅々として進まなかった。
その矢先、その男の名は京急電鉄の株の買い占めによって経済界で|囁《ささや》きはじめられた。その金はどこから出たのか。正田はその男、邦彦こそは現金輸送車事件の犯人だと確信した。正田はねばり強く歩きまわった。ついに、邦彦がパクリ会社南北商事をでっちあげ、荒仕事をやったのちに、つぶしてしまったところまで知る事が出来た。
火制地帯
夜になって風が出た。しめやかに降りつづいていた|霙《みぞれ》まじりの雨が、横なぐりにタクシーの車窓に吹きつけてきた。
こういう夜は|稼《かせ》ぎどきだ。東都タクシー運転手の久保は空色のクラウンを|独楽鼠《こまねずみ》のように走らせた。制限距離はまだ十分に残っている。
久保はまだ若い。身だしなみのいい、苦みばしった青年だ。千駄ヶ谷のホテルにアベックを送りつけ、新宿方面に空車を戻しかけた。
車待ちの客が群がる代々木駅の手前で、久保のタクシーは|鳩《はと》|色《いろ》のソフトを|目《ま》|深《ぶか》にかむった若い男に呼びとめられた。
レイン・コートの|襟《えり》を深くたてて顔を隠すようにしているその男を|一《いち》|瞥《べつ》して、久保は本能的に不吉な|匂《にお》いを|嗅《か》ぎとった。しかし、タクシーの運転手としての習性が足にブレーキを踏ませた。
「どちらまで?」
久保はあまり近距離や郊外なら断わろうと思った。
ソフトの男は、黙って後ろのドアをあけて乗りこんできた。久保は露骨に|不《ふ》|機《き》|嫌《げん》な色を示した。
「戸山ハイツ」
低い声で|呟《つぶや》いた乗客は町田であった。シートに腰をおろしても、雨滴の光るソフトを脱がない。ポケットに両手をつっこんでいる。
久保はむっつりしたままトヨペットを発車させた。代々木……新宿三光町と通りぬけていく。前をいく車の赤いテール・ライトが、|濡《ぬ》れたペーブメントに|映《は》えて揺れている。
西大久保をすぎると、車の数はぐんと少なくなり、坂をあがって戸山ハイツに入ると、ほかの車のヘッド・ライトはまったく見えなくなった。
「何号地ですか?」
久保は尋ねた。あたりは森が深くなった。
「八号地のすこし先だ」
町田はレイン・コートのボタンを外した。
団地の灯火をくぐりぬけると、再び|闇《やみ》が濃度をました。左手から学習院女子短大の森と台地がのしかかってきた。
「オーケイ、ストップ」
町田は静かに言った。いつのまにか薄いスエードの手袋をはめた右手は、消音装置のついたワルサー|自動拳銃《オートマチック》P38を抜きだして、運転台の背の陰にかくしていた。
「こんなところでいいんですか?」
久保はタクシーを|停《と》め、メーターのあかりをつけた。
町田は中腰になった。右手に握ったワルサーの安全止めを親指でカチッと外した。その右手が|蛇《へび》の舌のように閃き、ワルサーの銃口に|嵌《は》めこんだ|消音器《サイレンサー》を斜め下にむけて、久保の首筋におしつけた。|憑《つ》かれたような動作だった。
久保は意味のわからぬ叫び声をあげた。首をすくめ、体をはじかれたように前に倒しかけた。手はクラクションにのびた。
ここまできたら引っこみはっかない。町田は引金を絞った。目をつむって発射させた。
銃は反動で|蹴《け》っとばされたようにそりかえったが、サイレンサーにこもった銃声は鈍かった。
久保はグウッと肺中の空気を絞りだしてとびあがった。帽子が床に転げ落ちた。弾は背骨の第一|胸椎《きょうつい》を砕き、心臓を貫き、肺を引き裂き、左の|肋《ろっ》|骨《こつ》をつき破って車の床に当り、火花を散らした。久保は文句なく即死していた。
町田は遊底からはじき出された熱い|空薬莢《からやっきょう》を拾った。運転台の背を乗り越えて前のシートに移った。拳銃に安全止めをかけてズボンのバンドに差した。万年筆型の懐中電灯をつけて、車の床を探した。|海星《ひとで》のように|潰《つぶ》れた弾をさがしあてて|溜《ため》|息《いき》をついた。それをポケットにしまう。
久保は折れた首をたれ、ハンドルに半身をかがみこむようにして動かなかった。射出口となった胸の下から、あぶくのまじった血がゆっくり服地に広がっていった。
血の|匂《にお》いを|嗅《か》いだとき、町田は初めて恐怖を感じた。心臓がちぢみあがり、吐き気がしてきた。背筋がカアッと熱くなってきた。
町田は無意識にタバコをさぐった。震える手でライターをつけた。
道のむこうから、車のヘッド・ライトが近づいてきた。町田はライターを落した。車のすべてのライトを消し、久保の死体を|抱《かか》えてシートに倒した。
ヘッド・ライトは強さを増した。町田は久保の死体の背に顔をうずめた。心臓のなかを|鉄《てっ》|槌《つい》で乱打されているようだった。
ヘッド・ライトの光線は、タクシーの天井を強烈に照らし、何事もなく消えていった。町田はしばらくの間、顔もあげずに荒い息をついていた。
|動《どう》|悸《き》が|鎮《しず》まると、死体の血臭と火薬に焦げた皮膚の匂いが鼻を刺した。町田は気をとりなおして行動に移った。
死体を運び出して車の|荷入れ《トランク》に移した。シートの血のりを用意してきた安物のタオルでぬぐった。走行距離、経路、運賃等をメモした日報板を破棄した。
自分のレイン・コートとソフトをぬぎ、畳んでグローヴ・コンパートメントに入れた。バックスキンのジャンパー姿となった町田は、運転手の帽子をかぶり、タクシーを発車させた。空車札は倒したままだ。風下の車窓を開いて空気の流通をよくしてある。時刻は午後八時四十分であった。
三星銀行島本頭取の長女佐和子は、半月ほど前からお茶の水のフランス語学校で知りあった邦彦に誘われて、日比谷のロード・ショー劇場に行った。
佐和子は去年女子大を出た大柄な娘だった。|顎《あご》のはった高い鼻をもつ顔は、いかにも人を見くだしているような印象をあたえた。本心でも、男なんか、と思っていた。降るような縁談も断わり続けてきた。邦彦とつきあうのも、邦彦がインテリゲンチャと思いこんだからだ。佐和子は男の肉体を極端に|軽《けい》|蔑《べつ》していた。
映画は実験的なフランス映画だった。最終上映時刻のせいもあってか、客はまばらだった。
劇場の出口に降りると、冷たい雨が吹きつけてきた。
「この雨では、タクシーもすぐには拾えないでしょう。お茶でも飲んで暖まって帰りませんか。いいレコードを聞かせる店を知ってるんですが」
邦彦はコートの襟をたてた。
「ええ、いいわ」
佐和子は同意した。どの男も同じような誘い文句を言う。もうすこし気のきいたセリフはないのかしら。
「すぐそこです。走りましょう」
邦彦は白い歯を見せて手をさしのべた。佐和子は|躊躇《ちゅうちょ》したのち手をつないだ。
ネオンを写したアスファルトに、二人の靴音が鳴った。
二人が入った店は“バルトーク”という名曲喫茶だった。広く奥深かった。ラフマニノフのピアノ・コンチェルトが鳴っていた。
二階の端の、入ってきた客を一目で見下ろせる席に、バックスキンのジャンパー姿の町田が坐っていた。タクシー帽は車に置いてきてある。
邦彦と佐和子は二階に上がってきた。町田は顔をそらした。いささかの変化もあらわさぬ邦彦の表情を盗み見て、たかが人間を一人殺しただけで動揺しきった自分が恥ずかしくなった。
邦彦は二階の奥に佐和子を導いた。町田はコカコーラの伝票をつかんでレジに降りていった。
「お帰りになりたいときは、いつでもおっしゃってください。何でしたら電話でタクシーを呼びますから」
運ばれたコーヒーにミルクを注ぎながら、邦彦は礼儀正しく言った。
「あら、そんな……父の車を廻してもらいますから」
「でも、お誘いしたエチケットですから、お宅の近所まで送らせて頂きます」
邦彦は微笑した。
二人が店を出たとき、時計は十時を大分まわっていた。メーターを倒したタクシーが待っていた。町田が、スエードの手袋をはめた手でハンドルを握っていた。邦彦は後ろのシートで佐和子の左に並んだ。
「あなたは渋谷……でしたね?」
「ええ。運転手さん、渋谷の緑岡までお願いするわ」
佐和子は両膝をそろえた。
タクシーは動きだした。二人は適当な距離をおいて話を交わした。
「死は美しいものだわ。死んでしまって初めて人間から生臭さがとれて重みが出てくるの。はじめて本当の人間になれるんだわ」
佐和子は言った。
「そうでしょうかね? まあ、あっさり死ぬのなら楽でしょう。しかし、僕はそんな人はよほど運がいいと思いますね。顔が半分吹っとんだり、傷口から|腸《はらわた》がはみだしたりして、なおも何日か生きて苦しんだ者を知ってますので。障害者になって生きのびたらなおつらい」
邦彦は淡々としゃべった。
「よしてください!」
「済みません」
「いいえ、それが本当かも知れないわ」
しばらく二人は黙りこんだ。車窓の外を、九段の夜景が流れていった。
「道が違うわ。運転手さん、この道は反対よ!」
佐和子は窓ガラスに鼻をくっつけるようにして叫んだ。
町田はがっちりした肩に何の反応も示さず、黙々とハンドルにかけた手を|滑《すべ》らせていた。
「|停《と》めて! とめさせてよ!」
佐和子は|喘《あえ》ぐように言って、邦彦に目をむけた。
「お静かに。|跳《と》びおりたりなさったら、せっかくのお顔がグシャグシャになりますよ」
邦彦はゆっくり佐和子に目をむけた。
二人の瞳は合った。恐怖に|麻《ま》|痺《ひ》したような佐和子の瞳と、不気味な静けさをたたえて澄んだ邦彦の瞳が。邦彦の右手には、消音器をつけた細長いスマートな拳銃が、鈍く光ってピタリ佐和子の顔を|狙《ねら》っていた。
タクシーは四谷荒木町の島本の|妾宅《しょうたく》の近くにある、電話ボックスの近くにとまった。
「降りるんです」
邦彦は静かに言った。
体を硬直させた佐和子は、|操《あやつ》り人形のように命令にしたがった。
邦彦は薄い手袋をつけた左手で公衆電話ボックスの扉を開いた。狭いボックスの中に二人が入ると、体が触れあった。外から見ると恋人どうしに思えるかもしれない。しかし、邦彦の拳銃は、佐和子の下腹部に強くつきつけられていた。
「あなたは、これから僕の言うとおりに電話で言うのだ。障害者になって長生きしようと思いたくないならばね。
お父さん……いや、君はパパと呼ぶんだったな……パパにこう言うんだ。急な用事でどうしても会いたい。友人とタクシーで電話ボックスのところまで来ている。お|妾《めかけ》さんには顔をあわせたくないから|一寸《ちょっと》出てきて欲しい、とね。分りました?」
邦彦は拳銃をぐりぐり佐和子にくいこませた。佐和子は|喘《あえ》ぐようにうなずいた。邦彦は左の指で島本の妾宅の電話番号を廻した。島本は妾宅に泊る夜だけは、接待を受けた宴席から早くぬけだすのだ。
邦彦は受話器を佐和子に手渡した。佐和子は若い妾に、父を呼び出してくれるように言った。
|狼《ろう》|狽《ばい》と、照れかくしの怒号のまじった島本の声は邦彦の耳にまでビンビン聞えてきた。佐和子は舌がもつれながらも、邦彦に言われた事をくりかえした。
二人はタクシーの中に戻った。
十分ほどたった。|蝶《ちょう》ネクタイの襟もとを直しながら、島本がでっぷりした|体《たい》|躯《く》を重そうに運んできた。
町田は室内灯をつけた。邦彦は拳銃で佐和子の腰をつついた。
「パパ!」
佐和子は震え声をあげた。町田は室内灯を消した。
「何だね、今時分?」
|覗《のぞ》きこんだ島本は威厳をつくろおうとした。
「まず中に入って」
佐和子は拳銃でつつかれ、あわてて言った。町田が助手台の横のドアをあけた。島本がソフトをぬぎ、口の中で|不《ふ》|機《き》|嫌《げん》に|呟《つぶや》きながら乗りこんできた。
邦彦のコルト・ウッズマンが閃き、島本の白髪の頭に銃身が叩きこまれた。島本は両手で頭をおさえてとびあがり、ずるずるっとシートに崩れ落ちた。町田がイグニッションのキーを廻した。
島本は、完全防音になっている邦彦の家のガレージで目を覚ました。後頭部に|瘤《こぶ》ができ、頭の|芯《しん》も首筋もズキズキ痛んだ。
|霞《かす》む瞳に、服をはぎとられ、レースのスリップから肉体の線を|露《あら》わに見せた佐和子が、天井からロープで吊りさげられているのが写った。佐和子の裸の足先はわずかに床にとどいていた。
島本はのびていたマットの上に|跳《は》ね起きた。背骨にそって激痛が走った。
「落ち着くんだ」
邦彦の冷たい声がかかった。革ジャンパーに着替えた邦彦は、砂利トラックのそばに置いた椅子に坐っていた。膝の上に〇・二二のウッズマンを寝かしている。
町田の姿は見えなかった。トランクに久保運転手の死体を|呑《の》んだタクシーを捨てに行ったのだ。
「いくら欲しい? 身代金なら届けさせる。乱暴だけはやめてくれっ!」
島本はマットに手をついた。佐和子は屈辱と苦痛に失神寸前であった。深い胸の谷間に|脂汗《あぶらあせ》がたまって青黒く光っていた。
「幾ら出す積りだ?」
邦彦はからかうように尋ねた。
「百万……いや、二百万出す。それで足りないなら、ギリギリのところ三百万だ。頼む、手荒な事はしてくれるな、娘をおろしてやってくれ」
「三百万? ケタが三つばかり違うようだな」
「三十億? 馬鹿な! そんな大金はありゃせん」
「ある。銀行の大金庫のなかに。もっと、もっと大きな金が」
「正気のさたでない」
「正気であろうと狂気であろうと、俺は一度心に決めたことはやりぬく主義だ。ついては、大金庫のダイヤルの組み合せ番号を知っているあなたに協力をお願いする。頭をさげてお願いする」
邦彦の瞳は殺気を帯びて暗く燃えてきた。島本頭取は生命の危険を直感した。
「協力したくないのなら、それもよかろう。一晩中かかっても、あんたの目の前で娘をなぶり殺しにしてやる。次はあんたの息子、最後にあんた自身をな、よく目を開いて見ていろ? 消音装置だから耳をふさぐ必要はない」
邦彦は薄笑いを浮べてコルト・ウッズマンの安全止めを外した。ゆっくり立ちあがり、拳銃を持った右腕をのばした。
佐和子も島本も息をのんで目をひきつらせた。口が悲鳴をあげる|恰《かっ》|好《こう》に開かれた。
邦彦は射った。圧迫された銃声は鈍く小さかった。銃の衝撃とピーンと舞い上がる小さな空薬莢が発射を示した。
佐和子の肩にかかったスリップの、左の|吊《つ》り|紐《ひも》の上端がはじけ切れた。佐和子は表皮を削りとばした弾の残した激痛と|灼熱《しゃくねつ》感に、けもののような絶叫をあげ、|狼《おおかみ》のように傷口に|噛《か》みついて暴れ狂った。両足は床から浮いて宙を蹴った。
邦彦は呼吸をとめて再び射った。佐和子のスリップの吊り紐は右側もはじけ切れた。スリップはずるずると滑り落ち、ブラジャーとパンティーだけの佐和子が|痙《けい》|攣《れん》していた。パンティーは、恐怖のあまり漏らした小水にぐしょぐしょに|濡《ぬ》れて透けていた。
「やめろ! やめてくれ! 何でも君の言うことを聞くから」
島本は悲痛な声を振り絞った。邦彦は白い歯を見せて笑い、銃把から|挿弾子《クリップ》を抜きだして、ウインチェスター・カッパー・クラッドのハイ・スピード被銅弾を二発補弾した。タクシーを捨てに行っていた町田が戻ってきた。邦彦は目で結果をききただした。
佐和子はそのままにしておいた。町田がトラックのハンドルを握った。島本をサンドイッチにしてシートの左端に邦彦が坐った。
シャベルをつったてたトラックの荷台の砂利の山に隠された大きな木箱の底には、いくつもの麻袋、ガソリンをつめたビニール袋、ニッパー、電気ドリル、金ノコ、ダイナマイト、目覚し時計に細工した簡単な時限発火装置などが入っていた。最悪の場合を考えて、|装《そう》|填《てん》した短機関銃グリース・ガンと予備のクリップ四個、さらに弾薬千発もしまってある。
砂利トラックは地響きをたてて|驀《ばく》|進《しん》した。誰にも怪しまれずに日本橋に着いたのが、零時三十分前ぐらいであった。
公衆電話で島本に、三星銀行の夜勤守衛長を呼び出させてしゃべらせた。
「接待の客と会っていて思いだしたんだが、大変な物を事務室に忘れて来たのに気づいた……実印だよ。客が待ってるんだ……いや、私でないとあのデスクは開かない……うん、自分で行くから裏門の戸をあけてくれ……うん、御苦労……あと十分ぐらいしたらそっちに着く。夜分迷惑をかけるが、よろしく頼む」
電話をかけ終った島本の額から、まだ冬だというのに、もうもうと白い湯気がたっていた。
銀行から日本橋警察署と警視庁第一方面本部機動部隊に直通する二本の警報線は、|廃《はい》|墟《きょ》のようなビル街の天空を通っていた。
邦彦は町田のワルサーを借りた。祈るような|眼《まな》|差《ざ》しで警報線に|狙《ねら》いをつける。警報線は風に小さくゆれている。
何度か邦彦は拳銃を降ろした。精神を安定させようと目をつむった。心臓のかすかな|動《どう》|悸《き》でも腕から拳銃に伝わると着弾が狂うのだ。
風と警報線のブレにタイミングをあわせ、高さを十分に計算に入れて邦彦は引金を静かに絞っていった。霜の降るように引金が落ちた。
ワルサーはサイレンサーに消された鈍い銃声と共に|躍《おど》った。一本の警報線が真ん中から切断された。邦彦は間髪を入れずに射ちついだ。もう一本の警報線もヒューッと風を切って垂れさがった。
町田にワルサーを返した邦彦は、肩で大きく息をついてその場に|蹲《うずくま》った。汗が吹きでた。町田は電話線の鉛管と電線束を金ノコで|挽《ひ》き切るのに五分以上かかった。
三星銀行の裏門の両|脇《わき》で、常夜灯がギラギラする光をふりまいていた。
島本は鉄の裏門の左についたベルを|圧《お》した。安全装置を外した拳銃を腰のあたりに構えた邦彦と町田は、島本の左右のコンクリート塀に密着している。四つ|辻《つじ》近くにトラックが見える。
鉄門のくぐり戸の|覗《のぞ》き穴があいた。
「わ、わたしだ」
島本頭取は|唇《くちびる》をひきつらせた。
「お待ちしてました。どうも、どうも恐縮のいたりです――」
上ずった門衛の声が聞えた。愛想笑いをして、
「ちょっとお待ちください。すぐにくぐり戸を開きますから」
鉄門のなかのくぐり戸が|軋《きし》みだした。
くぐり戸は開ききった。
頭取は震える足を踏みしめて構内に入った。
邦彦は町田に、握りしめた拳銃で合図し、|黒豹《くろひょう》のように塀ぎわから|跳《と》びだした。頭取に体当りして突き倒す。自分も|転《ころ》がるように構内にとびこんだ。
二人の門衛は、|慌《あわ》てて銃身の短い散弾銃ライアット・ガンのポンプを動かして、チューブ弾倉につまった十二番三号弾を薬室に送りこもうとした。
邦彦の自動拳銃は二度軽やかに躍った。
二人の門衛は、心臓を射ちぬかれて物もいわずに空中にはねあがった。|騒徒鎮圧銃《ライアット・ガン》の方が先に落ちた。邦彦はその二人の|眉《み》|間《けん》に一発ずつとどめをさした。二個の重い死体はライアット・ガンの上に地ひびきたてて転がった。
町田が後ろ手で重い鉄のくぐり戸をしめた。
脳天にあいた大きな射出口から血と脳髄を吹きだす二人の門衛の死体を見て、島本は地べたに坐りこんだまま立ち上がろうとしなかった。町田はくぐり戸にピーンと|閂《かんぬき》をおろした。建物の入口がパッと開き、サーッと明るい光線が流れ出た。
「君も援護を頼む! 死体の陰に伏せて射つんだ」
町田にむかって早口に|囁《ささや》いた邦彦は頭取を|掩《えん》|護《ご》|体《たい》として蹲り、光の出口に拳銃を向けた。町田は門衛の死体の陰に腹ばいになり、ワルサーを握った右腕をのばした。
これもライアット・ガンを|掴《つか》んだ二人の守衛が裏庭に走り出た。右側の中年男が守衛長だ。一目で退職警官とわかる体と顔つきをしていた。
守衛長と部下は、裏庭の光景を見て電流にうたれたように立ちすくんだ。
邦彦は射った。一瞬おくれて町田も射った。邦彦の弾は守衛長の眉間を貫き、町田の弾はその部下の右肺をメチャメチャにした。邦彦はあと一発心臓にとどめを射っただけだったが、町田は死体がズタズタになるまで射ちまくった。射っている当人のほうが|怖《こわ》いのだ。
頭取は両手で目をふさいで|啜《すす》り泣いていた。邦彦は左手でその白髪をつかんでひきずり起した。町田は弾倉からクリップを抜いて弾をつめていた。弱まっていた雨足が、いつのまにか早まり、地表には|飛《ひ》|沫《まつ》がはねた。足跡が残っても靴はあとで焼きすてるから心配ない。
「歩け」
邦彦は頭取の耳に|圧《お》し殺したような声で言った。島本はギクシャクと歩きだした。
守衛長の腰に、大きな|鍵《かぎ》|束《たば》がついていた。邦彦はそれを奪った。
「君はトラックを裏門の所まで運んでくれ。そして麻袋とガソリンとダイナマイトなどをこっちに運び込む」
「オーケイ」
町田は拳銃をしまって裏門にむかった。
頭取の背をサイレンサーのついた銃口でこづきながら、邦彦は地下室の階段をおりた。頭取の啜り泣きと二人の足音が大きく反響した。
二十トンもあるシリンダー形の大金庫室の外扉は、高圧電気で動かすようになっていた。
|腑《ふ》|抜《ぬ》けとなった頭取は壁の複雑なスイッチを、夢遊病者のように操作した。
モーターが|唸《うな》り、巨大な扉は横に回転して開いた。冷気が大金庫室から吹きあげてきた。
夢にまで見た大金庫室は、いま邦彦の前に恥じらう鉄のヴェールを脱いだ。邦彦の心臓は裂けんばかりに脈うち、カーッと頭が熱くなってきた。
大金庫は細長くした四畳半の部屋が、すっぽり入るほどの大きさだった。その左右に大金庫の半分ほどの金庫が並んでいた。麻袋を何枚もかついで駆けつけた町田が、音をたてて生つばを飲みこんだ。
邦彦は放心したような頭取に、守衛長から奪った鍵束を手渡した。頭取は反応を示さなかった。
邦彦は頭取の目の前の扉の金属にむけて、突然|威《い》|嚇《かく》射撃した。異様な|炸《さく》|裂《れつ》|音《おん》とともに、二十二口径弾は火花と化して粉散した。
「金庫を開け!」
邦彦は叫んだ。叫んだのは何年ぶりかのことだ。|裂《れっ》|帛《ぱく》の気合がこもっていた。
頭取は大きなダイヤルの中心に鍵をさして廻すと、|憑《つ》かれたようにダイヤルを合わせはじめた。
耐えがたいほど緊張した部屋で、ジーッ、ジーッと廻るダイヤルの歯車の噛みあう音が耳を刺した。
カチッと錠の外れる音がした。巨大な金庫の扉は、電気装置で自動的にゆっくり開いていく。
頭取の体がグラッとゆらいだ。両膝をついた。そのまま転がった。顔色は蒼白となり、呼吸は深く不規則になった。邦彦は脈をさぐってみた。おそく強くうっていた。まぶたをひっくりかえしてみると、左右の|瞳《どう》|孔《こう》の大きさが違っていた。いまいましげに呟く。
「ショックと|脳《のう》|溢《いっ》|血《けつ》が重なった。もう使いものにならない」
だが邦彦の瞳は、扉の開かれた大金庫の内部を見つめてランプのように輝いてきた。町田は興奮のあまり震えだした。
金庫の内部は岩乗な鉄板で縦に三つに仕切られていた。一つの仕切りの中に十以上の|鉄《てつ》|棚《だな》がついていた。
右の仕切りに積まれているのは、有価証券の束だった。真ん中にはまだ真新しい通しナンバーの紙幣の山、左端には現に流通している紙幣が日本中の|金《かね》を集めたのかと思うほど山積みになっていた。
目ばかり光らせた二人は、千円札以上の流通紙幣を、まず一万円札から麻袋につめていった。十貫目を越す紙幣を|孕《はら》んだ麻袋が九つ出来た。十億を単位とする金額であろう。
二人は袋を部屋の外に運び出した。大金庫のなかに残っている真新しい紙幣や有価証券にガソリンをぶっかけた。ダイナマイトを五本金庫の中に分散させ、長い導火線の先を一つにまとめてくくった。時限発火装置は、目覚し時計のベルが鳴るとき、ネジも一緒に廻るのを利用した簡単なものだった。ネジにつけた小さなハンマーが水のアンプルを割り、|濃硫酸《のうりゅうさん》と混ざるようにしたものだ。その高熱が先端に|黄《おう》|燐《りん》をぬった導火線に火をつけるのだ。
邦彦は目覚し時計を四十分後に、あわせた。頭取の心臓に、とどめの一発を与えた。
重い麻袋をトラックの砂利山の中の木箱に運びこむのに、大分手間がかかった。
ハンドルは町田が握った。邦彦は、大きな木箱のなかで、|莫《ばく》|大《だい》な紙幣のつまった麻袋の上に腰をおろし、短機関銃を両膝の間に抱いて、じっと闇を見つめていた。
まだ興奮は|醒《さ》めていなかった。まだ当面の仕事は終ってないのだ……早く佐和子を楽にさせてやる仕事が。しかし、それもたった一回引金を絞れば済む事だ。
野獣は死なず
三星銀行から邦彦が奪った金額は約八十七億、日本犯罪史上に類を見ない|荒《あら》|稼《かせ》ぎであった。
その上、大金庫内に残してガソリンとダイナマイトで焼却した通しナンバーの紙幣は二十数億、有価証券の総額は天文学的な数字にのぼって、銀行側としても正確な発表は不可能であった。
三星銀行が完膚なきまでに|叩《たた》きのめされた――この事件は冬枯れのマスコミを狂喜させ、預金者を不安と焦慮の極に追いこんだ。
降り続く|氷《ひ》|雨《さめ》をついて、まだ夜が明けぬ前から、血相変えた預金払い戻し請求者の群れが銀行に殺到した。
分厚いオーヴァーや毛布にくるまって震える長い列は、ガラスの吹っとんだ銀行の前庭を埋めつくし、日本橋から神田駅のあたりまでのびた。
交通整理の巡査の数も多かった。少しでも列の前にもぐりこもうとする預金者を制止する役もつとめていた。
午前九時――定刻になっても、銀行の|鎧戸《よろいど》は開かなかった。
「何をぐずぐずしてる、早く開けろ!」
「金を返してくれ! あれがないと一家心中しないといけないんだ」
不満の声はしだいに津波のように高まり、
「金を返せ、金を返してくれ」
という、|呪《じゅ》|文《もん》のようなコーラスは、|罵《ば》|声《せい》と叫喚に変っていった。
列が崩れた。暴徒と化した集団は、制止の警官隊をおしのけ、つき倒し、銀行の鎧戸に|怒《ど》|濤《とう》のように体当りした。警官のなかにも三星銀行の預金者が多かったので、あまり制止に熱が入らなかった。
鎧戸は音をたてて|軋《きし》んだが、たちまち苦痛の悲鳴と押しつぶされた女性の絶叫が耳を|聾《ろう》した。
その悲鳴と、マイクを通じて繰りかえされ始めた銀行側の必死の嘆願は、血まよった群集心理にさらにガソリンをふりかける作用をした。
|凄《すさ》まじい瞬間エネルギーを発揮する群衆の圧力を加えられた鎧戸は、ついに断末魔の軋みに|呻《うめ》いてひんまがり、大音響をたてて内側に倒れた。
暴徒は、|肋《ろっ》|骨《こつ》を|潰《つぶ》されて倒れた人々や、窒息死した|屍《しかばね》を踏んづけて銀行の中になだれこんだ。
カウンターの後ろで、十数名の日本橋署員が警備していた。凄まじい勢いでなだれこむ暴徒の奔流に浮き足立った。まごまごしていると踏み殺される。
恐怖にかられた指揮者の松島警部は、部下に発砲を命じた。
|腸《はらわた》を震わす|轟《ごう》|音《おん》とともに一斉に発射された四十五口径拳銃弾は、天井にくいこんで|漆《しっ》|喰《くい》の雨を降らせた。警官たちは狂気のように射ちまくった。
奔流は渦をまいて停止しようとし、背後からの圧力に耐えかねて前向きに倒れた、あとは阿鼻叫喚の地獄図が再現した。銀行の一階は荒れ狂った群衆に占領され、破壊のかぎりをつくされた。
その日の騒ぎで、死者六人、重傷者二十数人を出した。
邦彦に射殺され黒焦げにされた島本にかわって、副頭取の野村が銀行側の責任者としてメッセージを発表した。残った動産、さらに必要とあれば不動産まで投げ出して預金者の払い戻し要求に応じる用意があるから、あまり一どきに騒いでくれるなという意味のものだった。取りつけ騒ぎがこれ以上大きくなると破産する。
銀行側は、五十億にのぼる貸し出し金の返済をせまった。矢島裕介は首を左右にしてそれに応じなかった。
しかし、事態を憂慮した政府がついに動きだした。さすがの矢島も圧力に屈した。
京急は三星銀行の株一千万株を二束三文で叩き売り、自分の身を削って借金を払わなければならぬ羽目に陥った。
金繰りのためにコンツェルン直系の工場三つを売りとばした京急電鉄株は暴落をはじめた。そうなると、よその銀行からの融資も思うようにいかなくなった。矢島雅之と妻の典子が死んでしまった今となっては、つながりの切れた九篠財閥から金は出なかった。京急側は買いに廻って株価を|支《ささ》えようとしたが、事業の手を拡げすぎていたため回転資金にも窮してサイト二百十日の台風手形を乱発する現状では、日に日にさがっていく株価を歯ぎしり噛んで|眺《なが》めるほかなかった。一般株主に売り手が続出した。
一時は百二十円までしていた京急電鉄株は、額面を割るところまで落ちた。さがるだけさがるのを待っていた邦彦は、町田とともに矢つぎばやに現ナマを張った。一般株主から買い集めた巨額の株を、幾つかの変名で京急の株主名簿に登録しておいた。
二月一日――二千七百万株にのぼるそれらは、突如として伊達邦彦名義に書きかえが請求された。
伊達邦彦……その名前を聞いただけで矢島裕介の老いた背筋に|戦《せん》|慄《りつ》が走った。矢島はすでに、邦彦がどのような理由と意図で自分に挑戦してきているかを知っていた。
邦彦の買いは続いた。狼狽した京急側は、法人株のカラ売りで邦彦の資金を切り崩しにかかった。邦彦はここに到って初めてカラ買いに転じた。
株価は再びうなぎ昇りに|跳《は》ね上がり、二百円台を突破したが、邦彦は追撃の手をゆるめなかった。
三月に入ると、両者の間のカラ売りカラ買いの出来高は七百万株に達し、ニッチもサッチも動きがとれなくなった。
邦彦は現株の引き渡しを|烈《はげ》しく迫り、京急側の和解提案を拒否した。
京急側は完全に動転した。ついに三月十五日から一株あたりの逆日歩五十銭、毎日三百万を越す日ゼニが邦彦のふところに転がりこんでくるようになった。かつて矢島裕介が邦彦の父英彦に対して行なった事を、邦彦は意識的に矢島に対してやったのだ。
憔悴した矢島裕介を中心にして、京急|首脳部《ブレイン》は必死の対策を練った。京急七千万株のうちで邦彦の持株は、カラ買いのを合わせると、もう少しで過半数に達するところまで迫ってきているので、株主総会で大暴れをされるのは、火をみるよりあきらかだった。
のしかかってくる邦彦の黒い影を振りはらうため、京急電鉄の資本金三十五億を、一挙に百億に引きあげる案が出された。
しかし矢島はそれに反対した。
かつて京急が東海精化を乗っとったとき、防衛策として五億から十億の増資に踏みきった東海精化から新株数百万株をタダ同然で入手し、しかも新株のうちの公募株の大半を取得して大攻勢に転じた経験をおもいだしたのだ。今度は自分のところが東海精化の身になるかも知れない。
三月三十一日、京急電鉄は決算期に入った。
その翌日から二カ月後の定時株主総会が終る日まで、株主の名義書きかえは出来ない定時閉鎖の規則があるので、京急側は苦しいなかにも一息ついた。
五月二十七日、新宿京急会館の大広間を二つぶちぬいて恒例の定時株主総会が開かれた。
議長席には、代表取締役社長の横田が金縁の眼鏡を光らせていた。その背後で木村や小川などのブレインを従えた矢島裕介が居眠りしているように目を半眼に開いて|貫《かん》|禄《ろく》をつけていた。入口から、漆黒の背広に身を固めた邦彦が不敵な微笑を唇に漂わせて登場した。町田を連れていた。矢島の眠ったような瞳がギラッと輝いた。邦彦は|慇《いん》|懃《ぎん》無礼に一礼した。ケタ違いの金をはずんで買収し、委任状も持たせてあった名うての総会屋たちの拍手が、広いホールをゆるがし、しばし鳴りもやまなかった。邦彦は遠くから矢島の瞳を覗きこんだまま、背を矢のように真っすぐに立てて会場の前部に歩みよった。
議場は荒れに荒れた。しかし、京急電鉄株の半数近くを持つ邦彦が、買収した総会屋の助けをかりて、町田を京急電鉄の常務取締役に送りこむのは時間の問題にしかすぎなかった。常務取締役であった木村は、取締役総務部長に格さげになった。
実業界、ジャーナリズムの騒ぎをよそに、町田を京急内部に打ちこんだクサビとした邦彦は、徐々にしかも確実に、狙いをつけた京急重役陣を|莫《ばく》|大《だい》な金と心理的な威圧によって、次々に自分のペースにひきずりこみ、京急の内部崩壊をたくらんだ。
横田、木村、小川は抱きこみのリストから除外した。
彼等はかつて新満で、矢島が邦彦の父英彦を実業界から蹴落したときに片棒をかついだのだ。矢島とともに実業界から消さねばならぬ。
邦彦側に協力する事を誓約した取締役は十五人中十人を突破した。その間にも、邦彦の他人名義による株の買い占めは続けられ、ついに合計持株は全京急電鉄株の過半数をオーヴァーした。
邦彦は重役陣だけを手なずけたのではなかった。京急の顧問弁護士や監査役にも黒い手はのびていた。
アスファルトが強烈な太陽熱にとける七月のある日、邦彦は、“京急電鉄の経営内容に疑義あり”との理由で、臨時株主総会開催の要請文を、内容証明郵便で送った。
ただちに京急電鉄取締役会が招集された。矢島裕介代表取締役会長の怒号と|威《い》|嚇《かく》を無視して、常務取締役である町田や邦彦に買収されて忠誠を誓った取締役たちは、臨時株主総会の招集に応じることを決議した。
今まで自分の言うなりになってきた、取締役会の急角度の転換を、|目《ま》のあたりに見せつけられた矢島は、邦彦が黒い大きな翼をひろげてのしかかってくる幻覚を見た。
もし、取締役会が邦彦の要請を拒否し、東京地裁に申し立てたところで、地裁から調査に来た検査官は、邦彦に買収された顧問弁護士や監査役から、会社の経営の乱脈ぶりを示されて矢島側を敗訴にして臨時総会の招集を命令したことであろう。かつて、京急の子会社新東商事の脱税が明るみに出るのを隠すために、矢島が億を越す京急の金をばらまいた事だって、背任罪になりかねない。
邦彦は臨時総会にそなえて、活発に動きだした。買収した重役陣にも金を十分に持たせて京急電鉄の大口の個人株主や法人から白紙委任状を集めさせた。
矢島は初め重役陣の動きを、邦彦が総会に提出するであろう現重役不信任案に対抗するためのものであろうと思っていた。しかし、彼等の裏切りを明確に知るにおよんで、|腸《はらわた》が煮えたぎった。恩知らずめ、|儂《わし》が営々と築きあげてきたこの会社を誰にも渡すものか。
矢島側も委任状集めに狂奔した。両派ははげしくせりあったが、金に物を言わせた邦彦側の集りの方が圧倒的に多かった。総会屋も無論、金次第だった。
臨時株主総会は、前と同じく京急会館の大広間で行われた。
出席者は千人を越え、その人いきれと体温に、ルーム・クーラーも天井の扇風機も大して役にたたなかった。扇子が絶え間なく閃いていた。
|開《かい》|襟《きん》シャツやカッター・シャツの波のなかで、銀色に輝くほど真白なオランダ製のワイシャツに濃いダーク・グリーンのネクタイを細身に結び、プレスのきいた淡いクリーム色の背広を着こなした邦彦の|美《び》|貌《ぼう》は一段と人目をひいた。邦彦を中心にして、会場の最前列から真ん中の列までは、すべて邦彦の雇った総会屋だ。トップ・クラスから中堅までの連中を|択《よ》りすぐってある。
その後ろの数列が矢島側の総会屋、一般株主、銀行や証券会社からの偵察員、形式上幾株かの京急株を持たされた報道陣がひしめいていた。
十時きっちり――唇の端をかすかにひきつらせた取締役社長の横田が議壇の議長席についた。
額の汗をぬぐいながら、額に|癇《かん》の青筋をたてた矢島取締役会長が席につき、町田を含めた残り十三名の役員がそれに続いた。
「……招集を請求された株主の方から御提案をお聞きしたい」
議長の横田は、臨時株主総会招集の事情と経過をのべてから、つっかかるように言った。
殺気だった空気が広間にあふれた。
「私は代表取締役社長、つまりあなたの|罷《ひ》|免《めん》を要求する。そして、代表取締役の町田進氏を社長に就任させることだ」
立ち上がった邦彦は力のこもった声をだした。
「異議なし!」
「異議なし!」
邦彦のまわりは一斉に叫んだ。
横田の顔は一瞬凶暴に|歪《ゆが》み、再び能面のような無表情に戻った。
矢島側の総会屋たちの怒号の|嵐《あらし》のなかを、邦彦はよく透る落ち着いた声で、顧問弁護士を買収して調べあげていった会社の金の用途不明な消えっぷりを並べていった。
白紙委任状をふくめた保有株数でも、出席株主数でも邦彦側が三分の二を越えた。
町田は京急電鉄代表取締役社長となり、矢島会長と同等の代表権限をもって会社運営にあたることになった。
数えきれない人々の血を絞り、陰謀と背信と金力をもって築きあげてきた自分の|牙城《がじょう》が、自分よりさらに|悪《あく》|辣《らつ》冷酷な邦彦の手によって|脆《もろ》くも崩れ落ちるのを見た矢島は、ショックと悲憤のあまり|脳《のう》|溢《いっ》|血《けつ》の発作を起した。右半身不随で命だけはとりとめたが、病床に寝たっきりになってしまった。
矢島が頼りにするのは横田をはじめとする昔からの彼の部下だけだった。しかし彼等はすでに邦彦が主導権を奪った京急の組織から浮きあがっており、保身のために|汲々《きゅうきゅう》として町田や邦彦の顔色を|覗《うかが》う腰抜け重役にすぎなかった。
自分の手のとどかぬところで、ついさっきまで自分のものであった京急が、乗っ取り屋の意のままに動かされている。三本足をくじかれた負け犬のような姿で病床についた半身不随の自分は、邦彦が自分の育ててきた王国をどう動かそうと、異議をとなえることが出来ないところにまで追いやられてしまった……心臓を巨大な手で絶えず絞られ続けているような焦燥感に責めさいなまれる矢島の病状は、日々に悪化の途をたどっていた。
実業家である矢島にとって、自分の無力感を素直に認めることは、死にもまさる苦痛であった。こうまで落ちぶれてもおめおめと生きていられるのは、まだ自分が京急会長としての印鑑を握っているという慰めによってのみだった。
邦彦は町田に指令を発し、経理部長も金の力で自分の陣営に加えた。
会社がどうなろうと邦彦たちは自分の私腹を肥やすのに専念した。無論、味方についたものに分け前をバラまいた。
邦彦の凶暴な破壊への意思はとどまることを知らなかった。
九月三十日の二回目の決算期を前にして招集した臨時株主総会の席上、矢島裕介は病気と老衰のため執務能力が無いとの理由で、邦彦は矢島の取締役会長罷免の動議を出した。
動議は可決された。京急からの完全な引退を迫られた矢島の会長印鑑は取りあげられた。
これは矢島にとって死の宣告に等しかった。|昏《こん》|迷《めい》していく|脳《のう》|裡《り》のなかに崩れ落ちる空中楼閣の|嘲笑《ちょうしょう》を聞きながら、憤怒と失望に狂った矢島は|悶《もん》|死《し》した。
捜査陣は三星銀行事件に対して、指をくわえて黙っていたわけではなかった。
それどころか帝銀、下山事件をしのぐ|未《み》|曽《ぞ》|有《う》の大捜査網を張りめぐらして犯人を追っていた。
二人の門衛と守衛長、島本頭取、それに後ほど東京湾外で漁船が拾いあげた頭取令嬢佐和子の命を奪った拳銃弾は、顕微鏡検査の結果重量四十グレインのウインチェスター社製の〇・二二口径ロングライフル・カッパー・クラッド・ハイ・スピード弾であり、コルト自動拳銃から発射されたものと判明した。もう一人の守衛の体をズタズタにしたのは、重量百二十四グレインのレミントン社製九ミリ・ルーガー・メタルケースド・オイルタイト弾であり、これはワルサー自動拳銃から発射されていた。誰も現場付近で銃声を聞いた者はいなかったから、消音装置をつけたものと推定された。
九ミリ・ルーガー弾はともかくとして、〇・二二カッパー・クラッド被銅弾は小口径|小銃《ライフル》用として市販されているため、全銃砲火薬店に刑事がとんだ。
散弾は販売しているがライフル弾はおいてない店が多いため、捜査網はせばまった。しかも〇・二二カッパー・クラッド弾をおいてある店は東京にもごく少なかった。この弾種は実猟に使うほか、射撃競技で何百発も鉛弾を射ったあとで一発これを射っておけば、銃身|内《ない》|腔《こう》のライフルについた鉛の破片を|抉《えぐ》り飛ばすので洗浄の必要がない。
刑事たちは、いよいよ獲物を追いつめたと勇みたった。銃砲火薬店で弾薬を売った際に記入するリストを見れば、誰が〇・二二のカッパー・クラッド弾を購入したかが分るだろう。
ところが、その甘い希望は無残に砕かれた。
記入はどの弾種であっても、〇・二二口径であれば、ただ二二実包としかしるしてなかった。
その上、米軍のPXから安いヤミの弾が銃砲店に流れこんでくるので、正式に売買されるよりもはるかに多量の品が動いていることが分った。客としても正式に関税を通ってきた弾よりもヤミの方が安いし、許量わずか千発の火薬類譲受許可証に書きこまれる必要がないので、ヤミの弾の方を喜ぶのだ。
警視庁科学検査所の弾道学のエキスパートの手によって、凶弾は比較顕微鏡にかけられた。これまで犯罪に使われた〇・二二ロングライフル弾および九ミリ・ルーガー弾のスライド写真と照合されたが、凶弾と合致する他弾はスライド・カードの中に発見されなかった。
練馬で発見されたトランクづめのタクシーの久保運転手の射殺死体から弾は出なかったが、三星銀行事件と関係があると見られた。タクシーに残された指紋は全国前科者の指紋台帳と照合され徒労に終った。久保の身元や交友関係が洗われた。久保の同僚であった東都タクシーの運転手某が、久保のクラウンが久保自身の推定死亡より大分すぎたころ日比谷のロード・ショー劇場の近くに停車していたのを|一《いち》|瞥《べつ》したと証言した。そのとき、久保の車のなかに誰もいなかった。
捜査陣は、この重大証言に色めきたった。たちまち劇場近くの店々に刑事がとんだ。
ある班は、銀行構内に残された二人組の犯人のものと思われる靴跡の写真や|石《せっ》|膏《こう》の靴型を持って問屋街を尋ね歩いていた。
三星銀行の近くのビルの夜警で、事件の起った時刻に重いトラックの車体の震動とエンジンの|唸《うな》りを聞いた者があった。しかしながら、舗道に残ったタイヤの跡は、|霙《みぞれ》まじりの雨がきれいに流しさったあとだった。
捜査は休みなく|執《しつ》|拗《よう》に続けられた。事件から優に半年以上たったのに、特別捜査本部は解散しなかった。細かなデータが無数に集められ、徐々にではあるが犯人はおぼろげな輪郭を現わしだした。
九月に入ったある日、特捜本部に加わっている警視庁捜査第一課の馬場警部補は、聞き込みに廻ったお茶の水のフランス語学校で、思いがけなく東洋日報の正田と顔をあわせた。その学校で、殺された島本佐和子が邦彦と知りあったのだ。
「よう、これはこれは、お珍しい、相かわらずお元気だね。また今度ゆっくり一杯やろうよ」
私服の馬場は、例によってとぼけた顔で正田の肩を叩き、ぶらぶらと歩み去ろうとした。
「馬場さん、ちょっと待ってくれ」
正田の瞳は異様に光っていた。
馬場は足をとめた。
「馬場さん、重大な話があるんだ。前の三星銀行の|犯人《ホ シ》を、俺はもしかしたら知っているかも知れないんだ」
「そうかい。私もあんたに話がある。どう、ビールでも一杯キューッとひっかけながらでは?」
|睡《ねむ》たげな馬場の瞳が輝いてきた。
邦彦は芝|白《しろ》|銀《がね》|台《だい》|町《まち》の聖心女学院の近くに、高い石垣で囲まれた広壮な邸宅を買って移り住んでいた。建物は|煉《れん》|瓦《が》造りの二階建て、三千五百坪の庭には樹木が生い|繁《しげ》り、朝は鳥の声が満ちあふれた。三人の通い女中が一日に三時間だけ働いた。
春の終り頃から帝国ホテルに住みついている町田が、邦彦の邸宅によく訪れてきて、夜が白むまで様々な事態に対する指示を仰いだ。
その夜――池上本門寺で行われた矢島裕介の告別式から帰宅した邦彦は、これもモーニング姿の町田と連れだっていた。
邦彦は飾り暖炉の前の|肘《ひじ》|掛《か》け椅子に、崩れるように腰をおろした。男らしく秀麗な|美《び》|貌《ぼう》は沈痛な|翳《かげ》をたたえていた。
目をとじた邦彦は、首相を初めとする閣僚も葬儀委員に名を連ねた、矢島裕介の盛大な告別式の光景を想いうかべていた。
邦彦の唇に、苦みばしった微笑が浮んで消えた。
矢島一族は、これで滅んだのも同然だ。京急コンツェルンにも解体の前夜がきている。
目的は遂行された。|復讐《ふくしゅう》の誓いは果されたのだ。邦彦は服を着替える気力もないほど疲れきった自分を意識していた。
町田が立ち上がって、部屋の|隅《すみ》のバーからブランデー・グラスと|菰《こも》かぶりのブドウ酒の|甕《かめ》を持って戻ってきた。
邦彦はグラスを手に持った。町田の手はかすかに震えていたが、一滴もこぼさずにグラスを満たした。邦彦が町田のグラスに注いだ。
「チェリオ!」
町田はグラスをあげた。
「チェリオ! 滅びし者のために」
邦彦は夢見るように瞳をあげた。
二人のグラスは、涼しい音をたてて鳴った。二人は一息にグラスを干した。
邦彦の鋭い耳は、玄関に近づく靴音を聞きつけた。|訝《いぶか》しげな表情が顔をかすめた。
果してベルが鳴った。邦彦はクッションの下につっこんであったベルギー製ベアード六連発をポケットに移した。〇・三八口径自動拳銃のうちで最も小さい。部屋を出ていった町田が、東洋日報の正田を連れて戻ってきた。
「しばらく、正田君」
|謎《なぞ》めいた微笑を浮べた邦彦は、そばの椅子を示した。正田はそれに腰をおろすと、ピタッと邦彦に瞳を据え、
「伊達君、今夜の俺はブン屋の正田でない。ただ君の友人として自首を|勧《すす》めに来たんだ」
「御親切なことだが、僕には君の言うことがさっぱりわからないね」
邦彦は静かに言って、目の隅でそっと町田に合図した。町田は顔色を|硬《こわ》ばらせて椅子から立ちあがり、静かに部屋から消えていった。
「伊達、君はそんなに往生ぎわの悪い男だったのか? 矢島を倒して君も宿望をとげたろう。俺は今日まで待ってやってたんだ。いさぎよく自首して出て、三星銀行をはじめ、一連の犯行を自白しろよ」
「君は酔っているのではないかね」
邦彦は謎めいた微笑を深めた。
「馬鹿! 君はもう逃げようたって逃げられるもんでない。捜査二課も君の持っている莫大な金の出所を追っている。税務署もだ。ただ、君が築きあげた権力を考慮して、確証があがるまで逮捕をさしひかえているのにすぎないんだ!」
「もし仮に僕が犯人だとしても、確証はどこにある? 説教師づらはやめてもらおう」
「悪あがきはよせ。俺は警察の知らないことでも知っている。殺された女たちの知人たちに俺は君の写真を見せて歩いた。警察はまだ知らないが、矢島典子がなぜ死ななければならなかったかも俺は調べあげた」
「どうも御苦労でしたね」
「その君の度胸も、いままでの残忍な犯罪の証拠だ。いや、そこまでいくと度胸といったものではない。君の神経は狂っているんだ!」
「この家は静かだから、どならなくても話は聞えるよ。君はちょっと酔っているんだ。海の水で頭でも冷やさないかね?」
穏やかな邦彦の口調は変らなかったが、右手が閃くと、黒光りする小さなベアードが魔術のように正田の胸を|狙《ねら》っていた。
拳銃を見て、正田は椅子からとびあがった。口ほどでもなく、恐怖に顔をひきつらせて後じさりに戸口の方にさがりながら、子供が|厭《いや》|々《いや》をするような手つきをした。
戸口では、いつのまにか軽快な背広に着替えた町田が立ちふさがっていた。消音装置のついたワルサーを構えていた。
邦彦は不敵に笑って拳銃をポケットにしまった。正田は叫び声をあげてくるっとむこうむきに身を翻した。その目に町田のワルサー拳銃がとびこんできた。正田は|喘《あえ》いだ。
「あんたは|警察《サ ツ》の犬だけあって、犬のように|涎《よだれ》をたらすんだね」
町田が冷たく言った。
正田を町田にまかせておいて、邦彦は寝室で服を替えた。スポーツ・シャツの肩からホルスターを|吊《つ》り、ルーガー拳銃をブチこんだ。用心して、装弾した予備の|挿弾子《クリップ》と、三十発入りの|薬莢《やっきょう》ケースも身につけた。チャコール・グレイの背広を羽織って寝室から出た。
ガレージに並んだ車のうちから、特製の高性能エンジンを秘めたヒルマンを|択《えら》んだ。町田が運転し、後ろのシートで邦彦は正田の脇腹を拳銃で|愛《あい》|撫《ぶ》していた。
マラリアにとりつかれたように震える正田を乗せたヒルマン・ミンクス・スーパー・デラックスは、滑るように夜の街に走り出た。
そのヒルマンのあとから――尾行用の警察シボレーが、適当な間隔をおいてくっついていった。運転する刑事の横で、マイクを握った馬場警部補が|符牒《ふちょう》でパトカーと連絡をとっていた。
ヒルマンは|勝《かち》|鬨《どき》|橋《ばし》を渡った。月島を通り、|晴《はる》|海《み》に入ると、車のスピード・メーターはぐんぐんはねあがり、百キロを越えた。
|豊《とよ》|洲《す》の重工業地帯をすぎて|東《しの》|雲《のめ》の埋立地に出た。車窓の外を吹きちぎられるように飛び去る道の両脇の灯火が、急激に数を減じていた。サイレンを殺したパトカーの群れが忍び寄ってくるのを邦彦は知らなかった。
ヒルマンは草ぼうぼうの東京航空飛行場の右をすぎ、埋立地のはずれの|埠《ふ》|頭《とう》で|停《とま》った。この埠頭には昼間もほとんど人影を見ない。右側は船舶解体現場、船の墓場だ。巨大なスクリューや竜骨が高く積まれていた。
「降りろ」
邦彦は哀願する正田を車から突き出した。ルーガーを構えた自分も車から降りる。町田もその横に並んで消音装置のついたワルサーを抜きだした。
邦彦は自分のルーガーを左手に持ちかえ、町田のワルサーを右手に握って安全止めを外した。
ワルサーは三度短く|咳《せ》きこんだ。正田は弓なりになって即死した。弾をくらった背中に、チョロチョロと炎が走った。
エンジンの|唸《うな》りと共に|驀《ばく》|走《そう》してきて急停車した数台のパトカーから、真赤なスポット・ライトが目をむいた。
一瞬立ちすくむ邦彦と町田に、埠頭に沿って疾走してきたパトカーのスポット・ライトが浴びせかけられた。
目くるめく光の渦のなかで、邦彦は町田にワルサーを手渡し、車の陰に逃げこんだ。町田もそれにならった。
「武器を捨てろ! 包囲されている!」
パトカーからスピーカーが叫んだ。
邦彦は苦い笑いを浮べて、ルーガーを続けざまに速射した。正面の数台のパトカーのスポット・ライトが、悲鳴をあげて割れ砕けた。町田が右側のパトカーのライトを割った。
再び闇がのしかかってきた。邦彦はルーガーの|挿弾子《クリップ》を素早くつめかえた。
最後通告とともに、警官隊は一斉に射ってきた。
ヒルマンのボデイは着弾の衝撃に震え、ガラスは飛散した。額に弾をくらった町田が後ろにフッとばされた。
邦彦はフードの陰から顔と右腕をつきだし、次々と正確な命中弾を浴びせて、警官の命を奪っていった。しかし、サイレンを唸らせたパトカーが続々と駆けつけてきた。
自分も死ぬかも知れない。だが、たとえ身は土に帰っても、暗い野獣の悪霊は、人々の心の|傷《きず》|痕《あと》から消えることはない……邦彦は標的でも狙うような沈着さで警官隊を射殺していった。
邦彦のまわりに着弾が集中し、フードを削った弾は青白い火花を発して縦横無尽に|跳《は》ねた。
この作品は昭和四十七年八月新潮文庫版が刊行された。
Shincho Online Books for T-Time
野獣死すべし
発行  2001年2月2日
著者  大藪 春彦
発行者 佐藤隆信
発行所 株式会社新潮社
〒162-8711 東京都新宿区矢来町71
e-mail: olb-info@shinchosha.co.jp
URL: http://www.webshincho.com
ISBN4-10-861054-7 C0893
(C)OYABU ・ R.T.K. 1972, Corded in Japan